北条の野望 ~織田信奈の野望 The if story~ (tanuu)
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参考文献

本作を執筆するにあたり使用した参考文献・論文・サイトです。一部不正確ですが、ある程度は論文を書く際の書式に則っています。随時更新します。


凡例

本)著者『書籍名』(出版社<シリーズ名>、〇〇年)
  編者『書籍名』(出版社、〇〇年)
論文)著者「論文名」(『雑誌名』〇号、〇〇年)

一部を除き敬称略
大半が自宅にあるものを手当たり次第に掲載しているので基本順適当


<原作>

 

・春日みかげ『織田信奈の野望』(KADOKAWA<富士見ファンタジア文庫>、2009年~2019年)

本編22巻+外伝6巻+短編3巻+特別編1巻

 

 

<辞書類>

 

・ブリタニカ国際大百科事典

・日本大百科全書(ニッポニカ)

・デジタル版 日本人名大辞典+Plus

・『角川日本地名大辞典』(角川書店、1988年)

・『群馬県姓氏家系大辞典』(角川書店、1994年)

・久保田順一『戦国上野国衆辞典』(戎光祥出版、2021年)

・国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』(吉川弘文館、1989年)

・浜島書店編集部編『新詳日本史』(浜島書店、2020年)

・日本史用語研究会編『五訂 必携日本史用語』(実教出版、2015年)

・旺文社編『旺文社日本史辞典 三訂版』(旺文社、2000年)

・竹内誠編『徳川幕府事典』(東京堂出版、2003年)

・八幡和郎『江戸三〇〇藩 読む辞典』(講談社+α文庫、2015年)

・『別冊歴史読本四三 徳川将軍家歴史事典』(新人物往来社、2000年)

・工藤寛正『徳川・松平一族の辞典』(東京堂出版、2009年)

・煎本増夫『徳川家康家臣団の辞典』(東京堂出版、2015年)

・國學院大學日本文化研究所編『神道辞典』(弘文堂、1999年)

・水野大樹『室町時代人物事典』(新紀元社、2014年)

・小和田泰経編『世界帝王事典』(新紀元社、2015年)

・京大東洋史事典編纂会『新編 東洋史事典』(東京創元社、1980年)

・池上岑夫『スペイン・ポルトガルを知る事典』(平凡社、2001年)

・谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第二版』(吉川弘文館、2010年)

・黒田基樹『戦国北条家一族事典』(戎光祥出版、2018年)

・小和田哲男監修、鈴木正人編『戦国古文書用語辞典』(東京堂出版、2019年)

・諸橋轍次『中国古典名言事典』(講談社、1979年)

・阿部猛、西村圭子編『戦国人名辞典』(新人物往来社、1990年)

・柴辻俊六編『武田氏家臣団人名辞典』(東京堂出版、2015年)

・日本城址研究会編『日本の城辞典』(新星出版社、2021年)

・阿部猛、西村圭子編『戦国人名事典』(新人物往来社、1987年)

・児玉幸多、北島正元監修『藩史総覧』(新人物往来社、1977年)

・峰岸純夫、片桐昭彦編『戦国武将・合戦事典』(吉川弘文館、2005年)

・山本大、小和田哲男編『戦国大名系譜人名事典 東国編』(新人物往来社、1985年)

・有坂純『武器と戦術事典』(徳間書店、2020年)

・三浦正幸『城のつくり方図典』(小学館、2016年)

 

 

<参考文献>

 

・大石泰史編『今川義元』(戎光祥出版、2019年)

・大石泰史編『今川氏年表 氏親・氏輝・義元・氏真』(高志書院、2017年)

・大石泰史編『全国国衆ガイド』(星海社、2015年)

・黒田基樹編『徳川家康とその時代』(戎光祥出版、2023年)

・黒田基樹編『長尾景春』(戎光祥出版<シリーズ・中世関東武士の研究 第1巻>、2010年)

・黒田基樹編『北条氏康』(戎光祥出版<シリーズ・中世関東武士の研究 第23巻>2018年)

・黒田基樹『戦国期山内上杉氏の研究』(岩田書店、2013年)

・黒田基樹『戦国大名と外様国衆』(文献出版、1997年)

・黒田基樹『戦国北条氏五代』(戎光祥出版、2012年)

・黒田基樹『戦国大名の危機管理』(角川ソフィア文庫、2017年)

・黒田基樹『戦国大名―政策・統治・戦争』(平凡社新書、2014年)

・黒田基樹『伊勢宗瑞』(戎光祥出版、2013年)

・黒田基樹『戦国大名・伊勢宗瑞』(KADOKAWA、2019年)

・黒田基樹『中近世移行期の大名権力と村落』(校倉書房、2003年)

・黒田基樹『図説戦国北条市と合戦』(戎光祥出版、2018年)

・黒田基樹『戦国関東覇権史―北条氏康の家臣団』(角川ソフィア文庫、2020年)

・黒田基樹『戦国大名北条氏の領国支配』(岩田書院、1995年)

・黒田基樹『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書、2006年)

・黒田基樹『戦国北条家の判子行政』(平凡社新書、2020年)

・黒田基樹『北条氏綱』(ミネルヴァ書房、2020年)

・黒田基樹『戦国関東の覇権戦争』(洋泉社歴史新書y、2011年)

・小林清治『戦国大名伊達氏の領国支配』(岩田書院、2017年)

・栗原修『戦国期上杉・武田氏の上野支配』(文献出版、2010年)

・佐藤博信『中世東国の支配構造』(思文閣史学叢書、1986年)

・佐藤博信『中世東国足利・北条氏の研究』(岩田書院、2006年)

・斎藤慎一『戦国時代の終焉―「北条の夢」と秀吉の天下統一―』(中公新書、2005年)

・山田邦明編『関東戦国全史』(洋泉社歴史新書、2018年)

・矢部健太郎『関ヶ原合戦と石田三成』(吉川弘文館<敗者の日本史⑫>、2014年)

・矢部健太郎『関白秀次の切腹』(KADOKAWA、2014年)

・矢部健太郎『豊臣政権の支配秩序と朝廷』(吉川弘文館、2011年)

・栗野俊之『織豊政権と東国大名』(吉川弘文館、2001年)

・笠谷和比古『関ヶ原合戦と近世の国制』(思文閣出版、2000年)

・二木謙一『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館、1985年)

・二木謙一『武家儀礼格式の研究』(吉川弘文館、2003年)

・斎木一馬『徳川諸家系譜』(続群書類従完成会、1979年)

・八幡和郎『江戸三〇〇藩 最後の藩主~うちの殿さまは何をした?~』(光文社知恵の森文庫、2011年)

・西川広祥、市川宏訳『韓非子』(徳間書店<中国の思想①>、1996年)

・村山孚訳『孫子・呉子』(徳間書店<『中国の思想』⑩>、2013年)

・和田武司、市川宏編『中国の固辞名言』(徳間書店<中国の思想[別巻]>、1997年)

・渡辺大門『関ヶ原合戦全史』(草思社、2021年)

・渡辺大門『関ヶ原合戦における軍法について』(『十六世紀史論叢』11号、2019年)

・渡辺大門『地域から見た戦国150年 7 山陰・山陽の戦国史』(ミネルヴァ書房、2019年)

・芥川龍男『豊後 大友一族』(新人物往来社、1990年)

・石津朋之『総力戦としての第二次世界大戦―勝敗を決めた西部戦線の激闘を分析』(中央公論新社、2020年)

・マーティーン・ギルバート著、岩崎俊夫訳『第二次世界大戦』(心交社、1994年)

・菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社、2003年) 

・江村洋『ハプスブルク家』(講談社、1990年)

・ジャレド・ダイアモンド著、倉骨彰訳『昨日までの世界 上下』(日本経済新聞出版社、2013年)

・ジャレド・ダイアモンド著、小川敏子・川上純子訳『危機と人類 上下』(日本経済新聞出版社、2019年)

・柴田雅裕『海政戦論』(作品社、2022年)

・ウィリアム・H・マクニール著、佐々木昭夫訳『疫病と世界史 上下』(中央公論新社、2007年)

・川戸貴史『戦国大名の経済学』(講談社、2020年)

・川戸貴史『中近世日本の貨幣流通秩序』(勉誠出版、2017年)

・川戸貴史『戦国期の貨幣と経済』(吉川弘文館、2008年)

・小和田哲男『後北条氏研究』(吉川弘文館、1983年)

・小和田哲男『駿河今川氏十代―戦国大名への発展の軌跡』(戎光祥出版、2015年) 

・小和田哲男監修『図説 駿河・伊豆の城』(郷土出版、1992年)

・小和田哲男監修『図説 遠江の城』(郷土出版、1994年)

・勝俣鎮夫『戦国法成立論』(東京大学出版会、1977年)

・伊藤俊一『室町期荘園制の研究』(塙書房、2010年)

・久保健一郎『戦国時代戦争経済論』(校倉書房、2015年)

・久保健一郎『戦国大名の兵粮事情』(吉川弘文館、2015年)

・佐藤栄智『後北条氏の基礎研究』(吉川弘文館、1976年)

・佐藤栄智『後北条氏と領国経営』(吉川弘文館、1997年)

・柴裕之編『尾張織田氏』(岩田書院、2011年)

・盛本昌広『軍需物資から見た戦国合戦』(吉川弘文館、2020年)

・脇田修『織田政権の基礎構造』(東京大学出版会、1975年)

・和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』(中央公論新社、2017年)

・マーチン・ファン・クレフェルト著、佐藤佐三郎訳『補給線―何が勝敗を決定するのか』(中央公論新社、2006年)

・丸山和洋『戦国大名武田氏の権力構造』(思文閣出版、2011年)

・守屋洋訳『貞観政要』(ちくま学芸文庫、2015年)

・戦国の忍びを考える実行委員会、埼玉県立嵐山史跡の博物館編『戦国の城攻めと忍び 北条・上杉・豊臣の攻防』(吉川弘文館、2023年)

・水野茂『今川氏の城郭と合戦』(戎光祥出版<図説 日本の城郭シリーズ⑪>、2019年)

・茂在寅男『古代日本の航海術』(小学館、1992年)

・天野忠幸『三好一族―戦国最初の「天下人」』(中央公論新社、2021年)

・天野忠幸『三好一族と織田信長』(戎光祥出版、2016年)

・水野嶺『戦国末期の足利権力』(吉川弘文館、2020年)

・山田康弘『戦国時代の足利将軍』(吉川弘文館、2011年)

・弓倉弘年『中世後期畿内近国守護の研究』(清文堂出版、2006年)

・川岡勉『室町幕府と守護権力』(吉川弘文館、2002年)

・谷口研語『流浪の戦国貴族 近衛前久』(中央公論新社、1994年)

・長江正一『三好長慶』(吉川弘文館、1968年)

・中西裕樹『戦国摂津の下克上』(戎光祥出版、2019年)

・秋永政孝『三好長慶』(人物往来社、1968年)

・今谷明『戦国三好一族』(新人物往来社、1985年)

・中川太古『地図と読む 現代語訳信長公記』(KADOKAWA、2019年)

・平川新『戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略』(中央公論新社、2018年)

・乃至政彦『謙信越山』(JBpress・ワニブックス、2019年)

・平山優『武田氏滅亡』(KADOKAWA、2017年)

・下山治久『小田原合戦』(角川書店、1996年)

・峰岸純夫『中世の合戦と城郭』(高志書院、2009年)

・白石元昭『関東武士・上野国小幡氏の研究』(群馬文化の会、1981年)

・近藤義雄『箕輪城と長野氏』(上毛新聞社、1985年)

・盛本昌広『松平家忠日記』(角川選書、1999年)

・三上隆三『江戸の貨幣物語』(東洋経済新報社、1996年)

・菊池浩之『織田家臣団の謎』(KADOKAWA、2018年)

・蒲生猛『戦国の情報ネットワーク』(コモンズ、2015年)

・小川雄『水軍と海賊の戦国史』(平凡社、2020年)

・網野善彦『中世的世界とは何だろうか』(朝日新聞出版、2014年)

・島田裕巳『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』(幻冬舎新書、2012年)

・鈴木眞哉『〈負け組〉の戦国史』(平凡社新書、2007年)

・鈴木眞哉『戦国合戦のリアル』(PHP研究所、2021年)

・半藤一利、保阪正康『昭和の名将と愚将』(文藝春秋、2008年)

・佐々木倫朗、千葉篤志編『戦国佐竹氏研究の最前線』(山川出版社、2021年)

・川北稔『砂糖の世界史』(岩波書店、1996年)

・梅原猛『梅原猛、日本仏教をゆく』(朝日新聞出版、2009年)

・橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』(講談社、2011年)

・賀来弓月『インド現代史 独立五〇年を検証する』(中央公論社、1998年)

・吉村武彦『ヤマト王権』(岩波書店<シリーズ日本古代史②>、2010年)

・武井彩佳『歴史修正主義 ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで』(中央公論新社、2022年)

・戸髙一成『日本海軍戦史』(KADOKAWA、2021年)

・柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』(岩波書店、1996年)

・呉座勇一『応仁の乱』(中央公論新社、2016年)

・豊田有恒『世界史の中の石見銀山』(祥伝社、2010年)

・小笠原弘幸『オスマン帝国』(中央公論新社、2018年)

・クラウゼヴィッツ著、清水多吉訳『戦争論 上下』(中央公論新社、2001年)

・山内昌之『帝国とナショナリズム』(岩波書店、2012年)

・漆原徹『中世軍忠状とその世界』(吉川弘文館、1998年)

・佐藤堅司『世界兵法史・西洋篇』(大東出版社、1942年)

・高田祐彦訳註『古今和歌集』(KADOKAWA、2009年)

・久保田淳訳註『新古今和歌集 上下』(KADOKAWA、2007年)

 

 

<参考論文>

 

・家永遵嗣「北条早雲研究の最前線」(北条早雲史跡活用研究会編『奔る雲のごとく 今よみがえる北条早雲』北条早雲フォーラム実行委員会、2000年)

・家永遵嗣「明応二年の政変と伊勢宗瑞の人脈」(『成城大学短期大学部紀要』27号、1996年)

・家永遵嗣「伊勢盛時の父盛定について」(『学習院史学』38号、2000年)

・菊池浩幸「戦国大名毛利氏と兵糧―戦国大名領国の財政構造の特質」(『一橋論叢』123-6、2000年)

・中島圭一「撰銭再考」(小野正敏・五味文彦・萩原三雄編『モノとココロの資料学』高志書院、2005年)

・黒田基樹「下野国衆と小田原北条氏」(栃木県立文書館編『戦国期下野の地域権力』岩田書院、2010年)

・黒田基樹「小田原城主大森氏」(小田原市編『おだわらの歴史』、2007年)

・黒田基樹「古河・小弓両公方家と千葉氏」(『佐倉市史研究』24号、2011年)

・黒田基樹「関東動乱と三浦氏」(新横須賀市編『新横須賀市史編自然・原始・古代・中世』、2012年)

・黒田基樹「小田原北条家の相模経略」(関幸彦編『相模武士団』吉川弘文館、2017年)

・黒田基樹「戦争史料からみる戦国大名の軍隊」(小林一岳・則竹雄一編『戦争Ⅰ 中世戦争論の現在』、青木書店、2004年)

・清水淳郎「清水氏とその系譜」(清水信雄『回顧の記』私家版、1991年)

・下山治久「後北条氏の重臣垪和氏の動向」(『綾瀬市史研究』創刊号、1994年)

・下山治久「中郡郡代大藤氏とその文書」(『秦野市史研究』6号、1986年)

・下山治久「北条早雲の臣、山中氏について」(『不冷座』創刊号、1986年)

・山下知之「阿波国守護細川氏の動向と守護権力」(『四国中世史研究』15号、2019年)

・阿部匡伯「十河一存の畿内活動と三好権力」(『龍谷大学大学院文学研究科紀要』41号、2019年)

・市村正男「後北条氏の武蔵支配の終焉」(『埼玉県史』、1990年)

・加藤哲「八王子築城をめぐって」(『駒沢史学』39・40併号、1988年)

・倉員保海「滝山城について」(八王子市教育委員会編『八王子城』、1983年)

・佐藤博信「北条氏照に関する考察―古河公方足利義氏との関係を中心として―」(校倉書房『古河公方足利氏の研究』、1989年)

・佐藤博信「武州河越合戦に関する一試論」(『三浦古文化』34号、1983年)

・柴辻俊六「武田信玄の関東経略と西上野支配」(名著出版『戦国大名武田氏の支配構造』、1991年)

・宮田毅「東上野境目の城」(埼玉県立嵐山史跡の博物館編『後北条氏の城』、2008年)

・佐藤栄智「後北条氏の軍役」(『日本歴史』第393号、1981年)

・大向義明「武田”騎馬隊”像の形成史を遡る」(『武田氏研究』第21号、1999年)

・久保田正志「騎馬の士の確保施策としての役馬改制度の実態」(『法制史論』第42号、2015年)

・上野晴朗「武田信玄の領国経営」(磯貝正義編『武田信玄のすべて』、新人物往来社、1978年)

・則竹雄一「戦国大名北条氏の軍隊構成と兵農分離」(木村茂光編『日本中世の権力と地域社会』、吉川弘文館、2007年)

・則竹雄一「戦国大名北条氏の着到状と軍隊構成」(『独協中学・高等学校研究紀要』第23号、2009年)

・則竹雄一「戦国大名武田氏の軍役定書。軍法と軍隊構成」(『独協中学・高等学校研究紀要』第24号、2010年)

・則竹雄一「戦国大名上杉氏の軍役帳・軍役覚と軍隊構成」(『独協中学・高等学校研究紀要』第25号、2011年)

・平山優「最大五万の動員兵力を誇った最強軍団の実態」(『闘神 武田信玄』学習研究社、2006年)

・平山優「武田氏の知行役と軍制」(平山優・丸山和洋編『戦国大名武田氏の権力と支配』、岩田書店、2008年)

・藤本正行「戦国期武装要語解―後北条氏の著到書出を中心に―」(中世東国史研究会編『中世東国史の研究』東京大学出版会、1988年)

 

 

<参考小説・作品等>

 

・Fateシリーズ

・信長の野望シリーズ

 

・山岡荘八『徳川家康』全26巻(大日本雄弁会講談社、1953~67年)

・阿川弘之『井上成美』(新潮文庫、1992年)

・宮下英樹『センゴク』(講談社、2004~2022年)

・山北篤『軍事強国チートマニュアル』(新紀元社、2018年)

・羽生道英『長宗我部三代記』(PHP文庫、2008年)

・安部龍太郎『宗麟の海』(NHK出版、2017年)

・安部龍太郎『薩摩燃ゆ』(小学館、2004年)

・安部龍太郎『信長燃ゆ』(日本経済新聞社、2001年)

・安部龍太郎『レオン氏郷』(PHP研究所、2012年)

・天野純希『燕雀の夢』(角川書店、2017年)

・司馬遼太郎『梟の城』(講談社、1980年)

・司馬遼太郎『戦雲の夢』(講談社、1961年)

・司馬遼太郎『風神の門』(新潮社、1962年)

・司馬遼太郎『尻啖え孫市』(講談社、1964年)

・司馬遼太郎『功名が辻』(文藝春秋新社、1965年)

・司馬遼太郎『国盗り物語』(新潮社、1965年)

・司馬遼太郎『関ヶ原』(新潮社、1966年)

・司馬遼太郎『夏草の賦』(文藝春秋、1968年)

・司馬遼太郎『新史太閤記』(新潮社、1968年)

・司馬遼太郎『城塞』(新潮社、1971年)

・司馬遼太郎『覇王の家』(新潮社、1973年)

・司馬遼太郎『播磨灘物語』(講談社、1975年)

・司馬遼太郎『項羽と劉邦』(新潮社、1980年)

・司馬遼太郎『箱根の坂』(講談社、1984年)

・司馬遼太郎『豊臣家の人々』(中央公論社、1967年)

・司馬遼太郎『馬上少年過ぐ』(新潮社、1970年)

・尾崎士郎『伊勢新九郎』(大日本雄弁会講談社、1954年)

・尾崎士郎『北条早雲』(東方社、1955年)

・早乙女貢『北条早雲』(文藝春秋、1976年)

・浜野卓也『北条早雲―理想郷を夢見た風雲児』(東洋経済新報社、2001年)

・高野澄『北条早雲』(学習研究社、2002年)

・火坂雅志、伊東潤『北条五代』(朝日新聞出版、2020年)

・火坂雅志『臥竜の天』(祥伝社、2007年)

・火坂雅志『軒猿の月』(PHP研究所、2007年)

・火坂雅志『軍師の門』(角川学芸出版、2008年)

・火坂雅志『墨染の鎧』(文藝春秋、2009年)

・火坂雅志『業政駈ける』(角川学芸出版、2010年)

・火坂雅志『真田三代』(NHK出版、2011年)

・伊東潤『虚けの舞 織田信雄と北条氏規』(彩流社、2006年)

・伊東潤『武田家滅亡』(KADOKAWA、2007年)

・伊東潤『疾き雲のごとく』(講談社、2008年)

・伊東潤『戦国奇譚 首』(講談社、2009年)

・伊東潤『北条氏照 秀吉に挑んだ義将』(PHP研究所、2009年)

・海道龍一朗『北条早雲』(角川書店、2011年)

・富樫倫太郎『北条早雲 青雲飛翔篇』(中央公論新社、2013年)

・富樫倫太郎『北条早雲 悪人覚醒篇』(中央公論新社、2014年)

・富樫倫太郎『北条早雲 相模侵攻篇』(中央公論新社、2016年)

・富樫倫太郎『北条早雲 明鏡止水篇』(中央公論新社、2017年)

・富樫倫太郎『北条早雲 疾風怒濤篇』(中央公論新社、2018年)

・富樫倫太郎『北条氏康 二世継承篇』(中央公論新社、2020年)

・富樫倫太郎『北条氏康 大願成就編』(中央公論新社、2021年)

・富樫倫太郎『早雲の軍配者』(中央公論新社、2010年)

・ゆうきまさみ『新九郎、奔る!』(小学館、2018年~)

・安里アサト『86―エイティシックス―』(KADOKAWA<電撃文庫>、2017年~、既刊13巻)

・伊東潤ほか『決戦!関ヶ原』(講談社、2014年)

・伊東潤ほか『決戦!大阪城』(講談社、2015年)

・伊東潤ほか『決戦!本能寺』(講談社、2015年)

・冲方丁ほか『決戦!川中島』(講談社、2016年)

・冲方丁ほか『決戦!桶狭間』(講談社、2016年)

・冲方丁ほか『決戦!関ヶ原2』(講談社、2017年)

・乾緑郎ほか『決戦!賤ケ岳』(講談社、2017年)

・赤神諒ほか『決戦!設楽原 武田軍vs織田・徳川軍』(講談社、2018年)

・塩野七生『わが友マキアヴェリ1~3』(新潮社、2010年)

・児島襄『満州帝国Ⅰ~Ⅲ』(文春文庫、1983年)

・アンドレア・ホプキンズ著、山本史郎訳『アーサー王物語』(原書房、1995年)

・ジョージ・オーウェル著、高橋和久訳『1984年』(早川書房、2009年)

・武内涼『謀聖 尼子経久伝 青雲の章』(講談社、2022年)

・アドルフ・ヒトラー著、平野一郎・将積茂訳『わが闘争 上下』(KADOKAWA、1973年)

 

・大河ドラマ「独眼竜政宗」(1987年)

・大河ドラマ「武田信玄」(1988年)

・大河ドラマ「毛利元就」(1997年)

・大河ドラマ「葵 徳川三代」(2000年)

・大河ドラマ「利家とまつ ~加賀百万石物語~」(2002年)

・大河ドラマ「風林火山」(2007年)

・大河ドラマ「天地人」(2009年)

・大河ドラマ「江 ~姫たちの戦国~」(2011年)

・大河ドラマ「軍師官兵衛」(2014年)

・大河ドラマ「真田丸」(2016年)

・大河ドラマ「おんな城主直虎」(2017年)

・大河ドラマ「麒麟がくる」(2020年)

・大河ドラマ「鎌倉殿の十三人 THE 13 LORDS OF THE SHOGUN」(2022年)

・大河ドラマ「どうする家康」(2023年)

・ドラマ「坂の上の雲」(2009~2011年)

 

・YUKIMURA CHANNEL 様

・浸透襲撃 様

・よしふじ歴史チャンネル様

・非株式会社いつかやる 様

・五回目は正直【ゆっくり解説】 様

・アルノ 様

 

 

<自治体史>

 

・『小田原市史』

・『神奈川県史』

・『群馬県史』

・『埼玉県史』

・『栃木県史』

・『茨城県史』

・『千葉県史』

・『川越市史』

・『愛知県史』

・『和歌山市史』

・『大分県史料』

・『福井県史』

・『三重県史』

・『山梨県史』

 

 

<その他>

 

・『寛永諸家系図伝』

・『寛政重修諸家譜』

・『史料綜攬』

・『公卿補任』(『国史大系』所収)

・『言継卿日記』

・『言経卿記』

・『甲陽軍鑑』

・『信長公記』

・『太閤記』

・『徳川実紀』

・『藩翰譜』

・『毛利家文書』

・『上杉家文書』

・『小早川家文書』

・杉山博・下山治久編『戦国遺文 後北条氏編』(東京堂出版)

・萩原龍夫校注『北条史料集』(人物往来社)

・『浅井家家譜大成』

・『浅野家諸士伝』

・『安土日記』

・『池田氏家譜集成』

・『伊丹家系図』

・『稲葉家譜』

・『織田系図』

・『織田北条豊臣系図』

・『北畠物語』

・『黒田家文書』

・『津田家系譜』

・『君主論』

・『リヴァイアサン』

・『統治二論』

・『資本論』

・『法の精神』

・『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

・『国家論』

・『南総里見八犬伝』

・『イエズス会日本年報』(雄松堂書店)

・『小早川家文書』

・『駿府記』

・『日本戦史』(陸軍参謀本部)

 

 

<スペシャルサンクス>

情報提供・アイデア提供等に感謝申し上げます。

 

yatagesi 氏

名前#任意の文字列 氏

一介の読書好き 氏

信濃は武州ら十国の隣 氏

H2O(hojo) 氏

ことと 氏

ファブニル 氏

黒騎兵 氏

赤谷ニ四三 氏

夕音 氏

イーシ 氏

とよまつ 氏

モニ男 氏

 

その他多くの感想・評価を下さった方々に御礼申し上げます。



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第1章 戦国乱世
第1話 プロローグ


織田信奈の野望は外伝含めてしっかり全巻読破してるので設定とかは大丈夫だと思います。まぁ、変えるところもあると思いますが。

主人公の設定とかはオリキャラ集みたいなのを後で作るので、そこに書きます。

若干北条氏康のキャラが原作と違うかもしれませんが、許してくださるとありがたいです。


ここはどこだ?

 

頭の中は大混乱だった。

 

私こと一条兼音(かねなり)は困惑していた。それもそのはず、さっきまで箱根を観光していたにも関わらず、急に意識が遠のいて気付いたらこんな所にいたのだ。周りは森。人影も見当たらない。夢ではないだろう。夢にしては周りがリアルすぎる。土も木も草も本物と同じだ。次に考えられるのは誘拐だが、一介の高校生たる自分を誘拐するのに何のメリットがあるのだろうか。実は大富豪の遺産相続人だった…!という訳でも無いだろうし。

 

現代の舗装された道とは打って変わって砂利だらけの道。考えていても埒があかない。道があるのだし、歩いていれば誰かに出会えるだろう。ここがどこかの確認はしたかった。植物を見た感じ東洋だろうとは思うけれど。

 

 

 

 

しばらく歩くと視界が開けてきた。そして唖然とした。

 

水田が広がっていた。別に水田なんて現代でも普通に目にするが、異常なのは農作業をしている人達の姿だ。

 

「おいおい…」

 

口からため息が出るが仕方ない。彼らは皆、現代では目にしない格好をしていたのだ。明らかにあれは中世、近世の日本の農民の格好だ。中国とか朝鮮の農民の格好を知らないから確証は持てないものの、恐らく日本人だと思う。見た感じ大河ドラマのセットでも無さそうだ。

 

頭を抱えたくなるがそんな事をしている場合ではない。もし、ここが本当に遥か昔の日本ならば、せめて今がいつなのかは特定しなくてはいけない。あとここはどこなのかも。農民より詳しいだろうと思う知識人に聞きたいが…。この時代の知識人なら寺社の人か?村に一つくらい寺があるだろう。

 

そう思って歩いていると、寺らしき建物が見えてきた。私服とはいえ、この格好はかなり不審がられてるし、早く情報を集めたい。えらく立派なので、何か聞けるだろう。

 

 

 

 

石段を登ると、見回りをしていたらしい初老のお坊さんがいたので声をかける。

 

「あの…すみません。旅の者で道に迷ってしまいまして。ここがどこなのかお教え願えないでしょうか」

 

「おお、そうですか、それは災難でしたな。ここは早雲庵宗瑞様の菩提寺、早雲寺でございます」

 

早雲寺…?箱根湯本にある早雲寺か?なら良かった。元々いた場所からはそんなに離れていないようだ。

 

「かたじけない。ここが早雲寺ですと小田原城下は近くでしょうか」

 

「左様。ここからあちらに数里ですぞ。旅のお方、お疲れでしたら茶でもいかがですかな」

 

「ありがとうございます。お言葉に甘えて」

 

ここの住職が優しい方で良かった。何人か若い僧を見かける。早雲の菩提寺ともなれば、そこそこの規模のようだ。

 

「旅のお方はお侍ですかな。小田原に仕官を求めておられる」

 

「えぇ、まぁ、そんなところです」

 

「この乱世、仕官先は多くありましょうが、北条家は良いですぞ。家臣をしっかり大切にしておりますからなぁ」

 

「えぇ、その噂は遠国でも耳にしました」

 

「去年は公方様がやっと都にお戻りになられたのも束の間、前の古河公方の足利高基様はお亡くなりになられましたし…。世はどうなるのか…」

 

将軍が都に戻った…?と言うことは流浪将軍足利義晴だろうか。歴史的には花倉の乱や第一次国府台合戦の前か。

 

日本史含め色々とキチンと勉強していて良かった。日本史含む史学は一番の得意分野だ。

 

となると、北条は2代目氏綱の頃だ。まだ黎明期の北条。潜り込むのなら有りかもしれない。いずれにせよ、何らかの方法で金銭を獲得しないと野垂れ死にだ。ここが本当に戦国の世なら、帰る方法も無いのだし。元々もし戦国に行って仕えるなら北条とかがいいなと思っていたのだ。問題は果たしてどうやって仕官するか…。

 

 

 

 

住職の話す仏教の話に耳を傾けつつ、思考を巡らせていると、にわかに境内が騒がしくなる。

 

「どうしたのですか?」

 

その問いにはやって来た若い僧が答えてくれた。

 

「ご歓談中失礼致します。北条氏康様がご参拝です」

 

「おお、そうか。では迎えねば。旅のお方、絶好の機会ですぞ。ここで北条家の次期当主のお眼鏡にかなえば、取り立てて下さるかもしれません」

 

なんという幸運だろうか。仕官する方法を考えていたら仕えようとしてる家の次期当主に会えるのだから。

「それは願ってもない機会。是非お会いしたい」

 

「うむうむ。何かの縁じゃ。それに、わしの話をよく聴いておられた様子。信心も深そうじゃ。紹介だけはして差し上げましょうぞ。そこからは上手くやりなされ」

 

「かたじけない。感謝致します」

 

住職の後ろを着いて歩く。そして、今日一番の衝撃が走る。住職が恭しく接する北条氏康と思われる人物は、薄紫色の髪に割りとスレンダーな体型の控え目に言って美少女だった。あんまり顔色は良くないし、どことなく暗い雰囲気があるが。

 

「これはこれはようこそいらっしゃいました。して、他のお方が見えないようですが…?」

 

「今日は、私個人として参ったわ」

 

「そうでしたか。しかし、近頃は何かと物騒です。お気をつけ下され」

 

「分かっているわよ」

 

ポケッと立っていてもどうしようもない。目上に接する完璧な礼儀は分からないが、膝をつき頭を下げて敬意を表す。頭の中は滅茶苦茶混乱していた。

 

戦国に飛ばされたと思えば、超有名武将は女の子だし。これまた流行りの女体化…?となると人間関係が変わってる可能性もあるのか…。例えば織田信長が女の子だったら帰蝶と結婚できないし。

 

「で、和尚。そこの妙な服の男は誰?見ない顔だし、寺の者でも無いようだけれど」

 

「はい。この方は諸国を流浪されておられるようで、元は遠国の出らしいのですが、小田原城下の繁栄と北条家の徳政をきいて仕官せんと来られたようです。今の世に珍しく、信心もありそうでかつ知性もある方です」

 

お、和尚…!紹介を大分盛ってくれた。そんなに気に入ってくれたのか。ありがたい!!

 

「……そこの、面を上げなさい」

 

「はっ!」

 

指示に従い、顔をあげる。すごい不審者を見る目で見られていた。

 

「当家に仕官したいの?」

 

「はっ、願わくばご家中の末席に加えて頂ければと思っております」

 

「名は?それと、遠国って、どこの生まれなのかしら。」

 

「名は一条兼音。生まれは土佐でございます」

 

嘘ではない。出身は高知だ。今は既に亡くなった両親は四国の人だ。自分の普段の家は大阪だし、高校もそこの学校だったけれど。土佐で一条なら、勝手に土佐一条家の傍系と勘違いしてくれるだろうという打算込みだ。

 

「その服は何?見たことのない服だけど」

 

「南蛮の服でございます。堺で手に入れました。思いの外使い勝手がよく、常用しております」

 

むちゃくちゃだが、これで誤魔化すしかない。未来から来たなんて言ってみろ。頭がおかしいと思われる。あんまり信じては貰えないかもしれないが、一応中国製だし南蛮とも言えなくない。強引だが、仕方ない。

 

「ふぅん。それで、何で当家なの。畿内や四国にも名のある家は多いでしょうに」

 

「北条は民を重んじると聞きました。この乱世、願わくばそのような家に仕えたいと思った次第でございます。また、評定を重んじると聞きます。家臣の言葉に耳を傾けるのは名君の証。仕えるならば暗君より名君ですから」

 

北条家の善政は後世でも評価されている。その為民はよく懐き、後任の徳川家康が統治に苦労したらしい。評定はまぁ…その性で最後はアレだったけれども。

 

「そう。…肝心な所だけれど、何が出来るのかしら?」

 

「生憎と刀や槍は不得手でございます。弓は覚えがありますが…。代わりに内政や謀略、戦略築城物資の輸送、金子の調達など何でもやりましょう」

 

「大きく出たわね。その自信の根拠は何かしら」

 

「幼少より孫子始めとし、多くの漢学、兵法書や本朝(この王朝。日本のこと)の歴史書、各種思想等について学んで参りました」

 

これも一応本当。文系の中でも多分かなりの変人であろうが、これでもこういったものには詳しいつもりだ。

ガチ勢と呼ばれたその名は伊達じゃない。

 

「知識はあるようね。…今雇うか雇わないかで揺れているわ。幾つか質問するから答えなさい」

 

「はっ。何なりと」

 

「戦において最も重んずるべきは?」

 

「情報です。敵将は誰か。兵数は。補給はどうか。士気は高いか否か。味方にも同じことが言えますが。また戦場や外交的な情報も必要でしょう」

 

「戦とは最上の手段かしら」

 

「最後の手段です。戦わずして勝つことこそ上策。外交謀略交渉…。時には暗殺謀殺も躊躇うべきでは無いでしょう」

 

「裏切らない保証はあるかしら。雇った後に間者だと困るのだけれど」

 

「ご懸念はごもっともにございます。証しは何もありませぬ。弁舌をもって誓うは容易いですが、働きをもって証明するのが手早いかと存じます。それでも何か言えとおっしゃるなら…このまま行く宛も無いこの身です。路銀は尽き、刀剣もなく、このままでは野垂れ死ぬだけでしょう。そんなこの身をお救いくださったのなら平伏し感謝こそすれ、裏切るなどあり得ません」

 

「種子島という新しい武器が近頃堺で見られるようね。この武器は当家にも一挺だけあるのだけれど…。どう思うかしら」

 

鉄砲の伝来ってもう少し後だった気がするが、北条氏康が女の子の世界だ。多少変化があるのだろう。

 

「戦場の在り方は大きく変わるでしょう。今まで遠距離より攻撃出来るのは弓と投石でした。しかし、これを使えば、弓より強い威力の攻撃が行え、確実に敵を屠れます。また、轟音による混乱やまだそこまで一般的でない事から量産できれば他家に対する優位性も持てるでしょう。戦場の在り方も城の在り方もこれから変わっていくのではないでしょうか。勝利の為の決定的な力にはなれずとも、一定以上の効果は手に入るかと思われます。また、農民でも長期の訓練なく使えることからこれまで以上に農民に気を配る必要が生まれます」

 

さぁ、どうだ。出来る限りの解答はしたはず。

 

「…」

 

頼みますよ神様仏様氏康様。その美しいお姿なので心もさぞ美しいのでしょう(知らないけど)。是非お情けを…!

 

「まぁ、良いでしょう。最後の答えは私もあそこまでは考えていなかった。その思考、在り方も私と合っているように思う。良いわ。文官として雇ってあげます。私直属の配下にしてあげるから精々励みなさい。そして、その命を私に捧げることね」

 

「ありがたき幸せ。必ずやご期待に添うよう努めます」

 

「その代わり、何か少しでも不審な事をしたら斬るわ。良いわね?それと、他の私の近習ときちんと仲良くすること。向こうの方が先に仕官してたのだから、年下でも序列は理解しなさい。それと、序列は文官でも一番下よ。父上ではなく私の直臣だけれど調子にのらないように」

 

「こころえております」

 

「和尚、紙を」

 

「これに」

 

住職が紙と筆を差し出す。さらさらと何事か書いている。チラッと見たが身分を保証してくれているようだ。行書が読めて助かった。

 

「これを持って後で小田原まで来なさい。門で見せれば入れるわ」

 

「ははっ!」

 

「そうそう、最後に聞くわ。夢はある?当家に仕えてどうなりたいという望みはある?」

 

「願わくば、戦国乱世の日ノ本において、北条のお家に魂を捧げる今世の張子房とならん、と」

 

張子房とは、張良のことだ。今孔明も今鳳雛もいるので、それより前の偉大な軍師にあやかりたいと思った。

 

「そう。私が高祖となれる日を楽しみにしてるわ。励みなさい」

 

そう言って紙を渡すと我が新しき主は馬に乗って帰っていった。

 

「やりましたな。あのお方は気位が高く、そうそう他人をお認めにはなりませぬ。そんなお方の目にとまりあまつさえ直臣とは…。幸運ですな。旅のお方、いや一条殿」

 

「和尚もお口添え頂きありがとうございました。心より御礼申し上げます」

 

「うむうむ。励んでくだされ。ささ、早く行かれよ。小田原城下が貴殿を待っておられますぞ」

 

和尚に見送られ、私も寺を後にする。何から何までお世話になった。いつか恩返しをしたいものだ。

 

取り敢えず、何とか生きていく為の術は見つかった。北条家中がどんななのかは分からないが、必死にやっていこう。生き残る為に。そして出来るならば北条家を滅びの運命から…。そう決意した。

 

 

 

 

 

 

 

帰り道の馬上で北条氏康は先ほど会った浪人について考えていた。この前、一族の長老、北条幻庵の夢によると、氏康は近日中にこの早雲寺で運命と出会うらしい。その者は北条に繁栄をもたらし、滅びから救い、天命を変えると言うのだ。半信半疑だが、祖父、早雲が夢でネズミとなり二本の杉(北条の敵の二つの上杉家の暗示)をかじり倒したという話も聞いていた。

 

その話もあり、無視するのは気が引けたがそんな夢の話に家臣を付き合わせるのもあれなので、一応一人で行ってみたのだ。何も無ければ帰ろうと思ったが、人がいた。

 

まさか!と思って驚いたが、仕官を望んでいたため、一応幾つか質問をしてみた。すると、帰ってきたのは明晰かつ論拠のある解答だった。知は申し分ない。暗殺や謀略を疎まない点も自分に近く合っていると感じた。最後の大言壮語ともとれる発言も嫌いではない。

 

知性の無い人間をあまり好まない彼女にとっては好ましい相手だった。

 

この男なら或いは。もし、本当に北条に繁栄をもたらしてくれるなら、悲願の関東統一も叶うかもしれない。そう思って、またそうならば手元に置いておきたくなり、雇うことにしたのだ。

 

その心の中に、北条の悲願に押し潰されそうな未来の自分の心を支えてくれる存在を欲していた、もっと言えば恋できる存在になってほしいという思いがあることを彼女はまだ知らない。




ちなみに、自分は北条家は史実でも好きです。

多少ご都合主義的なのはお許し下さい。


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第2話 小田原城

史実で氏康の頃に居なかった人がいたり、逆にもういい年なのにまだ若かったり、赤ちゃんだった人が大人なのは見逃して下さい。ほら、伊達政宗がもう既にいたりする世界なので…ね?


寺の人々に見送られてからテクテクと歩くこと数十分。山が多かった景色が一気に開ける。鼻には海の香りが入り込む。

 

目の前には大きな城下町が広がっていた。その中心にはこれまた大規模な城郭が広がっている。あれが北条五代の本拠地。武田信玄や上杉謙信など名ただる名将も攻めあぐねた難攻不落の巨城だ。今はまだ豊臣秀吉来襲に備えて造られたとされる全長9キロの総構はないものの、その片鱗は見てとれる。

 

多くの船や人の姿が小さく見える。あそこが新しい居場所になると考えるとワクワクしてきた。今まで訳分からない事ばかりで混乱してたけど、いつまでも悩んでも仕方ない。

 

では、早速行くとしよう。スタスタと歩を軽やかに進めた。

 

街の中は活気で溢れていた。多くの人が行き来している。乱世では無いかのようなこの光景に、北条家の善政を見てとれる。

 

しかし、広い…。城は街のど真ん中にあるし、見えるのだが、全然たどり着けない。人が多すぎる…。

 

押し潰されそうになったりしつつも何とか城門近くまでこれた。まぁ、城門まで来れたからと言って入れる訳ではない。当然詰所があり、番兵に止められる。逆に止められなかったらヤバイ。

 

「止まれ!ここから先は家中の者でなければ通せぬ!」

 

「名と用向きを告げよ!」

 

「私は一条兼音。北条氏康様がこちらへ来るように仰せられ参った次第。こちらがその事をお書き下さった書状なり」

 

懐から先ほどもらった紙を出して渡す。しばらく目を通している。

 

「よし。確認出来た。通るが良い」

 

「ありがとうございます」

 

ただ一つ問題がある。

 

「どうした?入らぬのか?」

 

「あの…私は何処に行けば良いのでしょうか?」

 

「知らぬのに来たのか?うーむ我らもここを離れられぬし、どうしたものか…」

 

「どうした」

 

番兵たちと一緒に悩んでいると涼やかな声が響いた。目をやれば、馬上にこれまた本日二人目の美少女。何だこの城は。六条院(光源氏の邸宅。妻たちが住んでいた。)か何かか?

 

まぁ想像するに多分彼女も北条の武将なのだろう。

 

「あ、これはこれは元忠様。お帰りですか」

 

「ああ。それよりも何かあったか?そこの男は誰だ」

 

「はい、何でも氏康様に呼ばれたとか…。直筆らしき書状もありましたし、通しはしたのですがどこへ行けば良いのか分からないとのことで…」

 

状況説明をしてくれてる間に、この女性の身元の割り出しに入る。見た目は黒髪で長い一つ結び。いかにも武人といった雰囲気の知性のある感じだ。見た目はあてにならないけれど。先ほどの番兵の言葉から推察するに、元忠…多米(多目)元忠か?北条氏康、氏政の代の宿将だ。今はまだそこまでの地位は無いかもしれないが。

 

「そうか。ならば、私が連れていこう。丁度この後姫様のところへ向かうつもりだったからな」

 

「そうですか。おーい、お主。元忠様が案内してくれるそうだ。付いて行け」

 

「はい。承知しました。よろしくお願いします」

 

「こっちだ。遅れるなよ」

 

馬は預けるようだ。スッタスッタ歩いていってしまうので、何とか着いていく。

 

「お前は何をしに来た」

 

「仕官をしに参りました」

 

「…そうか。死なぬように励め」

 

「はっ」

 

会話する気はあまり無さそうだ。もっともそれが初対面の相手だからなのかは分からないけれど。

 

「着いたぞ。そこで待て。姫様。元忠、参りました」

 

「来たわね」

 

襖が開く。中には氏康様ともう一人知らない亜麻色の髪の穏やかな雰囲気の少女がお茶を飲んでいる。

 

「あら、一緒に来たのね。手間が省けて良いわね。元忠、盛昌、紹介するわ。私の三人目の直臣となる一条兼音よ。ほら、挨拶なさい」

 

促され、二人の方を向き頭を下げる。

 

「ご紹介にあずかりました一条兼音と申します。浅学非才の身かつ右も左も分かりませぬ。ご家中の事、ご指導ご鞭撻よろしくお願い致します」

 

そしてもう一度頭を下げる。

 

「多米元忠だ。よろしく」

 

「ちょっと、それだけじゃダメですよ…。私は大道寺盛昌です。普段は文官として主に台帳関連に携わっています。こっちの元忠さんは普段武器庫の管理をしてますよ。よろしくお願いします」

 

「ご丁寧にありがとうございます」

 

その様子を見て私の主は頷く。

 

「ま、見ての通り私の今の直臣はこれだけよ。他の家臣は皆、父の臣。今のうちから信のおける家臣が欲しかったのだけれど…。あまり見込みのある者がいなくて困っていたのよ。さて、あなたの処遇だけれど、盛昌の下で働きなさい。文官志望なのだし、その方が合っているでしょう?」

 

「ご配慮感謝します」

 

「それじゃあ私は父上に呼ばれているからもう行くわ。住まいはただの足軽より少し上の長屋に空きがあったからそこへ行きなさい。後は盛昌に聞いてちょうだい」

 

「承知しました」

 

氏康様が去った後、微妙な沈黙が続く。

 

「お前は、何か武芸は出来るのか?」

 

「弓は少々腕に覚えがありますが、それ以外は…」

 

「そうか。では、私が教えよう。盛昌、仕事はいつ終わる」

 

「昼下がりには、終わりに出来るけど」

 

「では、仕事終わりに来い」

 

「それは構わないのですが、よろしいのですか?そのような事をしていただいて」

 

「構わない。いざという時姫様を、守れないようでは話にならない。文官であろうとも、弓馬の道を怠けてはならない」

 

「もっともです。お言葉に甘えさせていただきます」

 

うん。というように頷いた元忠の顔はどこか満足そうだった。

 

「それでは、参りましょうか。城内と住まいまでの道を案内します。元忠さんは屋敷に戻りますか?」

 

「ああ」

 

「ありがとうございます。盛昌様」

 

「いえいえ。それと、様は結構ですよ。同輩となったのですから。それと、なるべく名で呼んで下さい。姓の同じ者が幾人か城内にいますので」

 

「分かりました盛昌殿」

 

その返事に満足した彼女はゆっくりと歩き始めたのだった。

 

 

 

 

つ、疲れた。

 

城中を歩き回って疲れた。今は用意された住まいで寝転んでいる。一応布団は一式あるようだ。城内の郭の一角にある少し大きめの長屋だ。現代で住んでた家よりは当然劣るが、住んで都にするしか無いだろう。

 

禄ことお給料はそんなに多くは無いものの、直臣の為足軽よりかは全然あるようだ。何の功績もないのでこれだが、功をあげれば増えるだろう。

 

案内されている最中、何人か武将クラスの人と遭遇した。中には北条一族の人や、重臣のおじ様方も多くいた。めちゃくちゃ緊張したのもあって、疲労がすごい。

 

明日からは早速仕事のようだし、しっかり寝なくちゃ。そう思いながら意識は暗転していった。

 

 

 

 

 

 

目覚めたら現代…!なんて事もなく、無事戦国時代二日目の朝を迎えた。

 

仕事自体は筆でやること以外はそんなに難しくはなかった。行書も書けるし、元々こういう事務作業は苦手じゃない。エクセルがあればもっと楽なんだけど…。無い物ねだりしても仕方ない。

 

キチンと仕事は出来ていたようで、しかもノルマを予定より早く終わらせられたので褒められた。少しだけ見やすく分かりやすい表の作り方(現代式)を提案したら驚かれたものの、他の部署とも相談してみるそうだ。

 

鍛練の方は鬼のように厳しかった。刀剣と槍を教えてくれるようだ。あと馬術も。ただ、教え方は凄く分かりやすくて、やりやすかった。曰く基礎代謝と筋肉はあるので後はそれを上手く使うだけらしい。筋は良いからすぐに覚えられるそうだ。肺活量も問題ないらしい。弓は教えることが無いので免除だ。

 

ありがとう弓道部。君のお陰で生きられます。全国大会まで行ったのだ。そこら辺の人には負けたくない。

 

兎に角このまま何とか習得して討ち死にする確率を減らしたい。

 

同時平行で情報収集も進めている。あまり進まないが。他国の事を知るのは特に大変だ。風魔とかを使えたら楽なんだろうけど、今は地道にやるしかない。

 

女中さんたちとはそこそこ仲良くなれたので、城内や家中の事は大分分かってきた。どうやら氏康様の直臣が少ないのは信のおける云々以前に譜代の家臣が少ないことが原因らしい。加えて、氏綱様が娘を慈しむ為、あまり戦場に出ないのでそんなに直臣がいる必要も無いのだと言う。

 

関東統一という夢をいつか背負うことになるのだ。今くらいは自由に、という親心もあるのだろう。親の心子知らずと言った雰囲気だが。

 

元忠殿や盛昌殿とも少しずつ親密になれている気がする。数少ない同僚だし、是非とも仲良くして頂きたい。

 

 

 

 

 

 

 

そんなこんなで年も明けた。ここに来てから数ヶ月が立つ。

 

この世界はどうやら年号通りには進んでいないようだ。出来事の時系列は守られているようだが、間隔は狭い気がする。もう鉄砲が伝来しているのもその証拠だ。

 

年号が役に立たなくても、時系列が分かるのならある程度は大丈夫だろう。次に北条が関係ある大きな事象は…花倉の乱、か。

 

今川の内乱。北条家は今川義元側で参戦する。今川家の情報はすぐ手に入った。今の当主、今川氏輝は先代今川氏親ほどの才は無いようだ。家中には不穏な動きがあるらしい。氏輝の死因は現代でも不明だが、多分暗殺だろう。

 

これはある種のチャンスだ。ここで何らかの爪痕を残せれば、出世の道も見えてくる。もう少し良い家で暮らしたいし、非常時の為に金も貯めたいし。武具も必要だろう。

 

何か良い策は無いものか…と頭を廻らせながら今日も仕事を始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうかしら。兼音の様子は?」

 

「悪くありません。むしろ良い」

 

「はい。城内での評判も悪くありません。人当たりは良く、仕事には真面目に取り組んでいます。頭もキレるようです。重臣の方も何人か目をかけておいでのようで。女中衆にも好意的に見られているようです」

 

「そう。それは良いわね。鍛練はどうかしら」

 

「弓は完璧です。剣も槍も大分形になってきました。筋はかなり良いです。いずれ一人前の武将になれましょう。やや攻撃時に甘さがあるのは気になりますけれど」

 

「それはおいおい直るでしょう。戦場に出れば、ね」

 

「はい。その通りかと」

 

「まぁ、良いわ。楽しく見守りましょう。幻庵のおばば曰く、北条を救う者らしいのだし。それに、英雄とは人材集めに注力するものでしょう?」

 

そう笑う氏康の声に二人の臣下は顔を見合わせるのだった。




順調に北条家中で居場所を掴んでいます。

次は物語に動きがあります。花倉の乱中心に数話進める予定です。この乱は原作における桶狭間ポジションかな?

テンポよく行きたいですね。なにしろ原作前ですし。まだ川越夜戦も起きてないのですから。ただ、描写するべき所は省かないようにしたいと思います。


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第3話 乱世に生きる

一応ある程度史実は調べてます。

それと、主人公がチートになりすぎないようにしたいところ。匙加減が難しいですが、頑張ります。


もうすぐ隣国で大きな戦がある。これはほぼ確定事項だろう。調べた事によると、隣国今川家の現状は概ね現代で語られている状況と相違ない。玄広恵探と梅岳承芳(後の今川義元)が女性な事以外は。

 

相変わらず女性が多いが、そこはもう慣れつつある。小田原城内も姫武将が多い。そして、姫武将に関する幾つかの事を学べた。姫武将でも普通に当主になれること。ただ、その場合だと結婚相手に苦労することが多いこと。戦場ではなるべく討ち取らず、降伏したら仏門にぶちこむ事が多いこと。等々だ。

 

最後に関しては例外もあるらしく油断は出来ない。それと九州は討ち死に多発らしい。それを聞いたときには流石に震えた。

 

ともかく、私は男。バリバリ討ち取られる危険性がある。そうならないためにも、より一層訓練しなくては。

 

自分の存在が歴史に介入することの問題も考えたが、そもそもこんなめちゃくちゃな世界で今さら感があったので、特に考えないことにした。考えると頭がパンクしそうなのもあるが。

 

 

 

今日も今日とて仕事に励んでいる。最近、前に提案した台帳の効率化の案が通ったようで、少し給料が増えた。盛昌はキチンと部下の提案だと報告してくれたようだ。理想的な上司じゃないか。現代社会のブラッククソ上司たちは見習え。

 

「兼音」

 

声をかけられ振り向く。

 

「元忠殿。どうかしましたか?」

「姫様がお呼びだ。至急参上するようにと」

 

「はて。何でしょうかね。分かりました。今参ります」

 

盛昌にアイコンタクトをして、詰所を離れる。氏康様の部屋はここからそこそこ距離がある。みっともなくない程度にちょっと小走りで向かう。

 

「ただいま参りました」

 

「入りなさい」

 

「失礼致します」

 

襖を開けて、中に入る。今日も今日とて少し疲れた顔をしている。現在でこれなら、当主になったらどうするのか。良い薬を今から探しておくかと思った。

 

「小田原には慣れたかしら」

 

「はい。皆様よくしていただいてるお陰で」

 

「時々耳にするわ。女中や重臣からも。父上の耳にも名が届いたようね。台帳の件、少し興味を持たれたようで、覚えておくと言っていたわ」

 

「ありがたい事です」

 

まさか氏綱まで話が回っているとか思わなかった。これはこれからも真面目にやっていこう。主の顔を潰さない為にも。

 

「さて、軍師を目指しているのよね」

 

「はい」

 

「願わくば、百万の軍勢を操りたいと」

 

「…はい」

 

百万は流石にまだまだ無理だが、否定するのも癪なので、肯定する。

 

「早速献策なさい」

 

「はっ。して、何についてでしょうか」

 

「先頃今川から使者が来たわ。当主氏輝とその弟彦五郎が死んだそうよ。風魔の情報では既に乱が起き始めていると」

 

「当主の二人の姉妹の間でですね?」

 

「ええ。後継者候補の姉だけれど庶子の玄広恵探と妹だけれど嫡流の梅岳承芳はそれぞれ名を今川良真(ながさね)と今川義元を名乗ったそうよ。その上で乱になったら北条はどうするべきだと思う?あなたの考えを述べなさい」

 

これはチャンスだ。多分今チャンスが与えられている。これを逃す手は無い。

 

「今川義元に味方すべきかと存じます」

 

「その心は?」

 

「今川義元に付くべき理由は主に五つあります。まず、嫡流たること。血は重く見られます。先権大納言中御門宣胤の血を引くのも大切な点でしょう。 二つ目に拠点が駿河で北条と接している事です。今川良真は擁立している福島(くしま)一族の拠点が遠江よりなので、補給の面で不便があります。三つ目に、家中の中でおそらく有力な朝比奈や岡部などの諸氏は今川義元につくと思われるからです。福島一族特に福島越前守正成は家中で専横が目立ち、人望が薄いです。遠江は福島につくかもしれませんが、その辺りは太原雪斎が対策を立てていないはずがありません。四つ目に武田が福島には味方しないということです。福島は幾度となく武田領内に侵入して狼藉を行いました。武田信虎が怨恨を無視してまで福島に味方する利点は無いかと。五つ目に、義元の名の義は将軍義晴の名を貰った物である事です。正統性の主張には十分過ぎるほどです。他にも叡智で知られる太原雪斎が義元側なことや、発言力のある寿桂尼は実子の義元側に立つことが予測される事も、あげられます。加えて、参戦しないという選択はあり得ません。万が一そうすると今川家内での当家の影響力は低下します。それを喜ぶのは……」

 

「武田信虎ということね」

 

「左様です」

 

「よく考えられてるわね……。幾つかは私と同じ意見よ」

 

 それはそうだろう。理由は後付けだけれど、経過やある程度の人となりは知っているのだから。完全に後だしだ。まぁ、それでも頑張って理由は捻り出したので、許して欲しい。

 

「しかし、悔やまれるのはこちらが乱を主導出来なかった事。氏輝を亡きものにして、乱を人為的に起こし、いち早く介入すれば……」

 

自分でもクソ外道な事を言ってる自覚はあるものの、これも御家の為。

 

「駿河での領土も増えたかも知れないわね。ま、過ぎた事だけれど。惜しかったわね。いずれにせよ、この後その件に関して評定があるからその時に述べてみるわ。ご苦労、下がって良いわよ」

 

「はっ。お役に立てたのならば幸いです」

 

礼をして部屋を退出する。これでどう転ぶかは分からないが、チャンスはいかせたと思う。おそらく参戦しないという事は無いだろう。氏綱は影が薄いものの、戦国黎明期の傑物であることに変わりはない。必ず賢明な判断をするだろう。

 

分かっていたことではあるが、我らの主は謀略を疎まず、世間から見れば悪辣な手を使ってでも勝利を求めている。外から見れば非道かつ卑怯かもしれないが、中から見ると、それは自分達を守るためだということがよく分かる。

 

ただ、根本は決して悪人などでは無いのは、ここ数ヵ月で判明している。本人の元来持っていた気性と周囲の環境、求められてきたそしてこの先求められているものが、今の性格を作り上げて来たのだと思う。その重圧を代わる事は出来ないが、支えることは出来る。戦う理由はそれで十分だ。

 

手段を選んでいてはいけない。自分にも他人にも厳しくしなければ。それこそが生き残る術だろう。

 

修羅にはなりたくないものだが、そうは言ってられない。この世界は、今まで自分がのうのうと過ごしてきた穏やかなぬるま湯のような世界とは違うのだ。戦いは身近であり、死はいつでも背後にいる。

 

 

 

 

国境地帯で時々起こる紛争を見た。戦場では無いが雰囲気は知った方が良いと、元忠に連れられた。数は多くはないが、何人も死んでいた。初めて見る死体に吐き気をこらえた。

 

腐臭と物言わぬ死体。その上空を飛ぶ烏。死に満ちていた。

 

戦場ではこの光景の何倍もの数が死んでいる。そう考えると恐ろしかった。自分の手で、或いは自分の策で多くが死ぬのかと思うと震えた。

 

吐き気に口を押さえる私に、元忠は厳しい顔で

 

「戦場はこれより悲惨だ。どうだ。侍を辞めるなら今だぞ。続けるならばお前はいつか、その手で誰かを殺めねばならない。どうする」

 

と言った。

 

考えた。期待してくれた主の顔が浮かんだ。同僚や城の人、城下の人たちの顔が浮かんだ。自分に出来ることがちっぽけでも、これがエゴでも良い。それでも…

 

「戦い、ます。たとえ、誰かをこの手で殺しても。守りたいものが、あるから」

 

その答えに彼女は満足そうに頷く。

 

「それが言えれば上出来だ」

 

 

甘さと優しさは違うのだ。だから自分に守れる物を守る。それが一番大事な事。全てを救うことは、私には出来ない。出来るやつがいたらそれは神か、真の英雄だろう。誰かを助けることは誰かを助けないことだと、誰かが言っていた。自分が守るべきもの、守れるようになりたいものはもう、分かっている。

 

助けられるのなら、助けたいとは当然思うけれど。全ては時と場合によるだろう。

 

助けたいものを助けられる、守りたいものを守れる為には、武芸を磨くことや内政をより知ることも大切だろう。自分の唯一の強み、未来の知識を生かすためにも、そこそこの発言権は必要だ。この先は多くの戦が北条を待っている。川越夜戦、小田原籠城、三船山に三増峠。そこで生き残る、或いは勝って、必ずや北条を関東の覇者に。覚悟はもう、出来た。

 

 

 

 

 

 

 献策は受け入れられたようだ。どうやら我が主は、評定で話題が出た時にすかさず進言したらしい。現当主氏綱はこれを聞いて大いに納得した模様である。

 

 評定の場で献策者の名前として、私の名を話してくれたようで、今度こそ本格的に氏綱に覚えられたようだ。現在、その当主の呼び出しで同僚二人と共に広間に向かっている。

 

元忠と盛昌の二人は多少は場に慣れているのだが、私は、そういった場は正真正銘これが初めて。めちゃくちゃ緊張している。慣れていると言ってもやはり緊張はするようで、二人も表情が硬い。

 

「多米権兵衛元忠以下二名、只今参りました」

 

「入れ」

 

「はっ」

 

すっーと襖が開き、中へ入る。多くの人の気配がある。視線が注がれるのを感じた。

 

「面を上げよ」

 

その言葉にゆっくりと頭を上げる。前には多くの諸将。顔と名前は何とか最近覚えきった。真ん前の上座には、中年の将が一人。あれが北条氏綱。戦国黎明期の名将である。

 

「多米権兵衛(元忠のこと)と大道寺太郎(盛昌)はよく参った。それと……その方、知らぬ顔だな。名を申せ」

 

「はっ。某は、ご息女氏康様が臣。一条兼音と申します」

 

「ほほう。お主が一条か。話は娘や諸将より聞いておる。知に優れた名将の器とな」

 

「若輩の身にもったいなきお言葉であります。今はただ、宿将の皆様に一歩でも近付くため研鑽するのみでございます」

 

「うむ。そうか。謙虚な在り方、先程の献策も含め気に入った。励むがよい」

 

「ありがたきお言葉。感銘の至り」

 

「さて、その方達を呼んだのは他でもない。今川の事よ。つい前に今川の太原雪斎より文が参った。我らに助力を求めている。先程の一条の献策も相まって我ら北条は出兵を決めた。数は1500。大将は氏康に。補佐は間宮豊前守が務める。後詰には氏広(葛山氏広)や富士信盛も出る。おばば(幻庵)の支援も見込めよう」

 

 間宮豊前守とは間宮康俊の事だ。史実では73歳の高齢にも関わらず、秀吉の小田原攻めに対して山中城の救援に向かう。一柳直末等を討ち取るなど奮戦するが、大軍には勝てず、「白髪首を敵に供するのは恥」と墨汁で髪を染め、敵中に突撃して戦死した猛将である。

 

正直敵に対してオーバーキルな気もするが、本気度を見せつける為にも妥当な人選と言えるかもしれない。

 

「そこで、氏康と、その直臣たるお主ら三人に豊前の寄騎として参陣を命じる。行ってくれるな?」

 

三人で目配せする。そして揃って頭を下げる。

 

「「「承りましてございます。必ずやご期待に添うよう奮闘致します」」」

 

「うむ。よいだろう。豊前もそれで良いな」

 

「はっ。氏康様に加えて、若い力が三つも加わるとは、百人力でございます。よろしくお頼み申す」

 

最後の台詞はこちらに向かってのものだろう。三人で一礼をする。若者と侮らない辺り、その人柄が見える。

 

氏綱は当主の継承を考えているらしいと小耳に挟んだ。その為の功績作りに、今回の乱を利用しようと考えているのだろう。それで宿将かつ経験豊富な間宮康俊を事実上の大将にして、名目上の大将を氏康様にすることで確実に勝てるものにしようとしているのだろう。

 

部下の手柄は必然的に主の名をも高める。これは、より一層頑張らなくてはならない。

 

そうだ。私は誓ったのだ。乱世で生きると。誰かを守れるようになると。

 

キュッと拳を握りしめる。

 

戦いの足音はすぐそこまで来ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は少し前に行われた武田家との戦いに戻る。この戦いでは北条家の加勢もあり、結果的に駿河に侵攻してきた武田信虎の撃退には成功する。だが、その代償として有力家臣でもある福島氏は次代当主となるはずの助春を失う結果になってしまった。また、この時に敢行した突撃が軍規違反とされた福島越前守正成は謹慎を命じられた挙句、所領没収もありえるとの風説だった。

 

 しかし、彼から言わせればむしろ陣替えをして敗戦の原因を産み出した朝比奈や富樫、関口らの重臣には一切の御咎めが無く、理不尽な事であった。ただ、一応関口などは取りなしてくれているのだが、当主・氏輝の母である寿桂尼が頑なにこれを許さず、今川館への登城を禁じていた。彼の娘は先代今川氏親の側室。正室である寿桂尼からすれば言わば政敵なのである。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 取り成しも虚しく、父祖伝来の地である久能まで奪われようとしていた。遂に我慢の限界に達した正成は、孫娘である玄広恵探の名を使って本人には知らせずに彼女の兄である氏輝と彦五郎を彼女のいる寺に呼び寄せる。孫娘にして妹である彼女に取り成しをさせることで事態の解決を図ったのだった。

 

「どうか、どうかご容赦を頂けないでしょうか!我ら福島家は先祖代々今川家に奉仕してまいりました。どうか、此度の件にも温情ある措置を頂きたく!」

 

「しかしな……軍規違反は重罪。それは其方も理解していよう」

 

「無論、承知でございます。されど、我が子も討ち死にし、既に福島家の命運は風前の灯。助春が2人の子のみが残された最後の血縁になってしまい申した。このままでは申し訳が立ちませぬ」

 

「だが、もう決めてしまったのだ。今更撤回も出来まい」

 

「恐れながら!その決定は御屋形様御自らのものでござりましょうや!寿桂尼様のものではござらぬか!?」

 

「正成、無礼であろう!」

 

 度を超えた発言に彦五郎が激昂する。己の母親を罵られて許せるはずも無かった。氏輝の顔も険しい。

 

「正成、聞かなかったことにしておく。取り潰しにならないだけでもまだマシと思って欲しい。此度の事はそれほどまでに重かったのだ」

 

「…………承知仕りました」

 

 しばしの沈黙の後、沈んだ声で正成は答えた。老将の丸まった背中に哀愁を感じ、さしもの氏輝や彦五郎もきまりの悪い顔になる。

 

「このような地まで御足労頂き申し訳ございませんでした。せめてものお詫びといたしまして、こちらを……」

 

 差し出したのは獲れた魚を煮干しにした肴だった。酒宴という事で疑いもなく彼らは飲み、食う。その様子を恐ろしいほど感情のない目で正成は見ていた。

 

 そして二人が今川館に帰ったその翌日の朝。冷たくなっている二人の死体を侍女が見つける事となる。正成の動きは早かった。久能の城に船で向かい、同地に籠城態勢を築く。同時に今川館に向けて進軍。真相究明と称して軍勢を中に入れる事を求める。正成にとっては不幸な事に、運よく館の守護をしていた岡部親綱がこれを跳ねのける事に成功する。少数で行軍を急いだため、正成の配下は少なかったことが災いした。

 

 思うように事が進まない事、担ぎ上げた孫娘が全く役に立たないことに憤慨しながらも、正成は各地に文を飛ばしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 一方この報せは太原雪斎と栴岳承芳、後の今川義元の元へも届けられる。呆然としている彼女を他所に、これを聞いた雪斎は己と主の道が開けたことを確信した。

 

「兄上たちが……そんな……」

 

「承芳様、これより我らは動かねばなりませぬ。さもなくば、次にやられるのは我ら。そして大御台様にございましょう」

 

「動く……何をするつもりでして?」

 

「此度の下手人、十中八九福島越前守正成に相違なし。彼の者の企みは御義姉上の玄広恵探殿を担ぎ今川を乗っ取る事でございましょう。これを討つのでございます」

 

「討つ……?姫武将は出家ではないんですの?」

 

「一度出家したものを還俗させたのでございます。もう一度の出家など、生ぬるいと言われましょうぞ」

 

「……」

 

「幸いこの辺りはお味方が多くおりまする。蒲原城の蒲原氏徳殿、権山城の興津清房殿、宇津ノ谷の岡部親綱殿などでございます。彼らと連携を密にし、その後に遠江の者どもを味方に入れます。遠江の旧国府・見付端城の堀越貞延殿は越前守と親密。自身も今川の血を引くことから、第二の小鹿範満とならんと欲しておるでしょう。彼らを防ぐべく、掛川城の朝比奈泰能殿、久野城の久野忠宗殿、同地近くの富樫氏賢殿、高天神城の小笠原春義殿を味方に引き入れる事が肝要。さもなくば遠江は戦乱の大地と化しましょうぞ」

 

「妾は何をすれば」

 

「ひとまずは書状をお書きくだされ。数はざっと数百」

 

「すうひゃく?何かの聞き間違いでは無くて?右筆はおりませんの?」

 

「そのような者を持てるのは遠き先にございます。ひとまず拙僧は富士城の富士信盛殿、葛山城の葛山氏広殿の元へ向かいます。彼らは北条の被官。彼らを通じて小田原に働きかけ、援軍を乞いまする。同時に富士殿は甲斐にも顔が広い御方。甲斐の信虎に背後を突かれぬよう、説得していただく」

 

 富士氏は駿河国富士郡富士上方の領主で、富士山本宮浅間大社の大宮司を継承する社家である。現代にいたるまで脈々と血を受け継ぐ名家であり、この頃は北条と今川の間で上手く立ち回ってはいるが、基本は北条優位とあり、そちらに付いていた。

 

 そして雪斎の説得は功を奏し、承芳改め今川義元の勢力は駿河の大半を占め、遠江にも広がるようになっていた。北条家と武田家も義元の支援を決定する。しかし、遠江では朝比奈・小笠原のみが義元方であり、久野・富樫・松田などの有力国衆は堀越貞延の調略により恵探改め良真の側に付いていた。

 

 かくして花倉の乱の幕開けと相成ったのである。




私、戦国もの書くのは始めてなんですよね。なので、何かおかしな所とか、変な所とか違和感とかあれば教えて下さい。後は、倫理的な話とかも。例えば主人公の戦う理由とかですね。

あと、感想とか意見、戦国の話とかがあればこっちも教えて下さい。内政の色々とかも…。よろしくお願いします。


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第4話 花倉の乱・前

部隊編成とかは細かいのは見逃して下さい。そもそも、原作がわりとその辺ガバい気がしたので…。


現在、馬に乗り、行軍中である。場所は現代の富士市の辺り。もう少し行けば、駿府へ到着するだろう。

 

富士川以東は現在北条領である。この地、所謂駿東郡には、かの北条早雲の居城だったという興国寺城もある。駿東は戦略的にも要地であり、ここを押さえれば、甲斐や駿西への出兵も可能である。余談だが、駿河と遠江の境は大井川である。天竜川や富士川では無い。史実においてはここはまだ今川領のはずだが、どうもこの世界では第一次河東騒乱の前に既に北条領のようだ。恐らくだが、早雲公が伊豆や相模と同様に今川からの切り離し政策を行ったのだろう。

 

馬というのは慣れないと腰がヤバい。訓練はしたけれど、こんな長時間の行軍は初めてだ。まぁ、徒歩よりはマシだと思いたい。あんな重い装備をつけて行軍とかしたら流石に体力が尽きる。今は軽い装備だから良いけれど。

 

戦国時代の馬は現代の競走馬みたいなサラブレッドとかじゃなく、ポニーみたいな物だという学説を聴いていたが、全然違う。普通に大きい馬だ。武田とかはこれをたくさん使ってるのか……。三増峠が大丈夫かと不安を覚える。あれは北条の敗戦なのだし、対策が必要だ。

 

今回の編成は1500人。通常の戦闘ではこれが大体一つの集団だと言う話を聴いたことがある。ただ、私の読んだ本は戦国末期なので、鉄砲組がいるが、当然今はいない。伝来してるのと量産かつ保持してるのとは違う。昔の主武器は弓とか鉄砲とか刀ではなく、もっぱら槍と石である。石といって侮ってはいけない。石だって当たれば痛いし普通に死ぬこともある。

 

それに、昔の戦は現代の戦争とは違い、殺さずとも戦闘不能に追い込めれば割とOKである。殺す必要があるのは、一部の指揮官だけ。そうは言っても殺される確率の方が高いが。そういう意味でもやはり、戦争とは狂気だ。

 

 今回は主力の騎馬部隊もいるし、かつ北条家きっての精鋭部隊なのでそう苦戦はしないだろう。それに、太原雪斎の事だ。我々は端か後方だろう。北条に戦功を材料に大きい顔をされたくは無いだろうからな。

 だが、それでは困る。ここでは多少なりとも、我々が武功をあげなくては。今川良真と福島正成には悪いが、踏み台になってもらおう。そして、ここで駿東問題にこちらの有利となる状態を作りたい。後々ここは火種となる。そのときの戦いを少しでも楽にするために、布石は打ちたい。

 

「いやいや、初陣だというのに堂々たる姿。良いですぞ。某など、初陣では小便漏らして震えておりましたわ」

 

不意に間宮康俊が話し掛けてきた。

 

「いやいや、私などまだまだ。間宮殿と比べれば月とすっぽんでございます」

 

「ガハハハ、そう謙遜なさるな。若い男武者は少ない。こんな爺ばかりよ。この先もよしなに頼む」

 

「なんの、まだまだお若いではありませぬか。こちらこそ、伝え聞いたる武勇をこの目で見られると思うと、感動でございます」

 

「ハハハハ。そうか。そうか」

 

「ところで、間宮殿は敵将、福島越前守と会ったことがあるとか」

 

「おお、そうよ。武田信虎との戦の援軍に行った時に共に戦ったのぅ」

 

「いかなる人でしたか、越前守は」

 

「ふーむ、良くは知らぬが横柄さはあったな。しかし、実力は真のものぞ。将としても、武人としてもな。侮れる相手ではない。今までの相手が悪すぎたが、並みの将ならまず勝てん。今川最強の名を自他共に名乗っておったその力は伊達ではない」

 

「なるほど。易々と勝たせてはくれないようですね」

 

敵将を知るものに話を聞くのは大切なことだ。敵を知り、己を知れば百戦危うからず。その言葉通りだ。今回の戦、一筋縄ではいかないかもしれない。

 

「なーに、そう暗い顔をなさるな。此度は姫様も、お主のような若武者もおる。多米の娘も、大道寺の娘も、お主も死なせはせん。この間宮豊前守が必ずや小田原に連れ帰ってみせるわ!ハハハハ」

 

我々を不安にさせないためにこのように明るく振る舞っているのだろう。もちろん、経験からくる自信もあるのだろうけれど。少なくとも、この人はいい人だ。

 

「おお!見えて参ったぞ。あれが駿府よ。いや、戦の前というのに相変わらず賑わっとるな」

 

指の指された方には街とそこを行き交う人が見える。あれが駿府。今川の本拠地である。

 

 

 

 

 

 

今川館の前に着くと、黒衣の僧形の男が出迎えてくれた。あの人が太原雪斎だろう。鋭い眼光、叡知を感じる雰囲気。戦国軍師の中でも五本の指に入る名将の貫禄だった。

 

「よくぞ参られた。此度は参陣感謝致します。某は太原 崇孚。義元様の宰相でございます」

 

「私は北条左京大夫氏綱が名代、北条新九郎氏康でございます。1500の兵と共に助力せんと参りました」

 

ややこしい話だが、この時の今川は共通認識として、北条を下に見ている。元々早雲が今川の下にいたからだと思うが、これも後々問題になる。反対に北条は今川を対等な相手として見ているから厄介だ。

 

「ありがたきかな。ささ、中へ。間も無く評定が始まります。後ろの方々も」

 

我々もお呼びのようだ。中へ入るとしよう。

 

 

 

中には多くの将がいる。誰が誰かは分からないが、恐らくこの中のどこかにこの後有名になる名将たちがいるだろう。

 

主は割と上座にいるが、我々は末席だ。仕方ない。

 

「それでは、お揃いになった事ですし、始めさせて頂きます」

 

雪斎の合図に一斉に頭を下げる。

 

「まずは、主、義元様よりのお言葉です」

 

上座の一番上。当主の座る席に堂々と現れたのは十二単に長い黒髪の少女。よく分からない龍の髪飾りをつけて扇を持っている。典型的な平安貴族風の格好だ。

 

「よく来ましたわね。わ・た・く・しが今川家の正当なる当主、今川義元ですわよ!おーほほほほ」

 

 ……帰って良いだろうか。ここまでどこかに帰りたくなったのは初めてだ。これの為に戦いたくは無いですね。元忠も盛昌も顔が死んでる。いい人の間宮康俊も微妙な表情。氏康様はこめかみに青筋が出てる。

 

 これは死ぬほど気性が合わないタイプみたいだ。御愁傷様である。というか、これと本当に三国同盟結べるのだろうか。海道一の弓取りとか言われてるけど、弓どころか刀も持てなそうだが。

 

「それでは雪斎さん、後はよきにはからえですわ~」

 

「はっ」

 

 今川の人たちは慣れているのか、無表情。諦めてるのかもしれないけど。動揺してるのは我々と……もう一組いる。あれはどこの家だろうか。

 

「此度の戦では北条左京大夫殿の名代、氏康殿以下の武将の方々と武田陸奥守(信虎)殿の名代、信繁殿以下の武将の方々が参陣下さりました。代表し、御礼申し上げます」

 

あれは武田家の人たちか。代表の信繁は……信玄の妹か。信玄(今は晴信)と信繁は姉妹らしい。普通、こういう時は武勲を作るためにも跡継ぎを行かせるものでは……と思ったがそこで気づく。信玄と信虎は仲が悪い。そうしている間にもどんどん話は進んでいく。

 

「それでは手筈通りに」

 

布陣を見ると、まずはメイン目標として、方上城を落とすらしい。その前に小城の制圧はあるが。

 

 盤面だけ見ると義元側は後手に回っている。福島は既に花倉、方上の両城を占領。対して今川館は平城かつ無防備。戦闘用の造りをしていないので、すぐ突破されるだろう。しかし、味方の数ではこちらの方が多い。電撃戦で叩くようだ。幸い、方上城の近くはこちら側の岡部一族の地盤。勝てないことは無いだろう。

 

「お待ち下さい」

 

ここで手筈通りに主は異を唱える。

 

「我ら北条は何処に布陣すればよろしいか」

 

「ふむ…北条殿は後軍にて不測の事態に備えて頂きたく」

 

「これは崇孚殿とは思えぬ言い様。我ら北条が福島に劣るとでも?」

 

「いえいえ、そうは申しておりませぬ。ただ、御身に万が一のことがありましたら左京大夫殿に申し訳が立ちませぬ。北条が参陣したというだけで、敵は恐れをなしましょう」

 

流石に簡単には許してはくれないか。

 

「武門の家に産まれたからは戦場にて果てるは本望!福島越前ごときに関東にて戦い抜きたる我らが精鋭1500は破れはしません。わが祖父早雲の受けたる恩を我らは忘れてなどおりませぬ。今こそ報恩の時。元より逆賊福島に鉄槌を下したく思い馳せ参じましたのです!」

 

「うむむ、左様までに仰られるなら……花倉城を囲む際には、戦列に加わって頂きたく。恐らく福島越前は決戦を挑むでしょう。その報恩の志の慰めになるはずです」

 

「ありがたきかな。必ずや福島越前の首を献上致しましょう」

 

 ふぅ、という顔になる氏康様。キャラじゃない事をやらせてしまったが、これで無事爪痕は残せそうだ。太原雪斎が一瞬だけ苦々しい顔になったのを見逃してはいない。こちらの読みは当たっていたな。そちらの良いように使われてたまるか。

 

「あ、あの!それでしたら武田も最前線の戦列に加えて下さいませんか?福島には幾度となく煮え湯を飲まされて参りました。ここで退くわけにはいきません!」

 

武田信繁が立ち上がり参陣を願う。おお、雪斎の目が笑ってない。怖い。

 

「分かりました。武田の方々には石脇城の攻略をお願いしたい」

 

「必ずや」

 

武田にも同じような事をさせてしまったのは予想外だったがまぁ、概ね予定通りだ。後は兵を損なわずに花倉城の戦いに参加するのみ。三河やそれより西への援軍要請とかはシャットアウトされてるはずだから、孤立無援。朝比奈が街道を抑えているのが大きい。彼らに勝機は乏しいだろう。

 

 

 

 

 

 

凄まじい勢いの電撃戦で方上城は陥落した。岡部一族や朝比奈一族の猛攻により戦闘開始から僅か二時間で降伏した。

 

見ているだけだったが、凄いスピードなのは伝わった。流石は岡部元信や朝比奈泰朝を擁する家だ。他の将も名将揃いである。石脇城もすぐに陥落した。武田の攻勢に敵うことはなく、結局城を明け渡した。城将は切腹し、兵の助命を乞うたらしい。こちらも電撃的である。石脇城は僅かな城兵を残し、武田の兵もこちらに集まった。

 

 今川家の本隊も遊んでいた訳ではなく、久能城を陥落させた。ここは福島氏の本拠地。ここが落ちたことでいよいよ退路の無くなった福島正成は玄広恵探の本拠地花倉城へ落ち延びる。再起を図ろうとした彼らを追い、いよいよ明日は花倉城攻めである。この間僅か一週間。速すぎる。ドイツ軍もかくやだ。

 

 そして、正真正銘初めての戦いだ。北条は陣形の右翼の方に配置された。何としてでも生きて帰る。

 

 

 

 

 

 

 

 夜、武田の姫と遭遇した。あまりに突然でビックリしたが、どうやら夜風にあたりに来ていた所に同じ目的で来た私と偶然鉢合わせしたらしい。

 

「えーと、お名前は何でしたっけ…北条の…確かえー…」

 

「あー大丈夫です。武田様ほどのお方が覚えておられぬのも無理はありません。私は、北条氏康様が臣下、一条兼音と申します」

 

「あ、そうそう。一条さんでした。私の妹にも、同じ姓を持つ子がいます」

 

「信龍殿ですか?」

 

「よくご存じですね。その通りです」

 

「少し小耳に挟みまして、偶然」

 

「……一条さんは、戦は初めてでしょうか」

 

「はい」

 

「私も、そうなんです。武芸の鍛練はしてきましたが、実戦は初めてで…。本当はこの戦も姉上が出るべきなんです。でも、父上は軟弱な姉上には務まらないと、私を……。一体私はどうしたら……。このままでは姉上との関係も壊れてしまうのではと苦しくて、たまらないんです。……あ、今のは無しで!その忘れてください。こんな事他の家の人に言ったら怒られてしまいます」

 

「ご安心下さい。私の胸のうちに留めておきます。それと…差し出がましいかもしれませんが、大丈夫だと思いますよ」

 

「え?」

 

「今の武田様がご自身のままであられたなら、いつかまたお姉さまと元の関係に戻ることも出来ましょう。それまでの辛抱です。心を強くもって、寄り添ってあげれば、必ずその思いは届くものです」

 

私は知っている。間も無く武田信虎は追放される。信繁は信玄に従い、共に父親を追いやった。その後も不仲になったという話は聞かないので、ずっと仲良くやれていたのだろう。

 

「そう、ですね。ありがとうございます」

 

「いえ、礼には及びません。この身が武田様のお役に立てたのなら幸いです」

 

「そんな、謙遜しなくても。もう少し頑張ってみようと思えました。それと、私のことは信繁で良いです。武田様とは呼ばれ慣れていなくて。…あぁ、そろそろ戻らなくては。それでは、またいつか。それと、先程の話はくれぐれも内密に」

 

「ええ、承知しておりますとも。またいつかお会いできる事を楽しみにしております。願わくば、良き間柄として」

 

「ご武運を祈っていますよ」

 

「っ!……信繁様もお気を付けて」

 

去り行く彼女を見送る。最後の笑顔に一瞬だけ言葉がつまった。あんな優しい顔の少女もいつか…。

 

そう、私は知っていた。武田信繁は第四次川中島の戦いで、上杉軍によって、その命を……。その残酷な運命から目をそらしたくて、唇を噛み締めた。血の味が逃れられない残酷な乱世の宿業を告げていた。その運命に少しくらいは抗いたかった。




信繁ってこんなキャラで合ってたかな…。その辺は二次創作だからで押し通ります。ごめんなさい。私の世界ではこうなんだ!


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第5話 花倉の乱・後

 花倉城の夜が明ける。朝日は、戦場を煌々と照りつける。敵は城に籠らず、出撃することを選んだようだ。こちらの軍勢は8000。うち武田北条合わせて2500ほどである。

 

対する敵軍は限界までかき集めて4800。数の差はあれど、作戦次第では敵も巻き返しは可能であった。世界の中には11000で80000を撃破した戦闘も存在する。河越夜戦というのだが。もれなく主家、北条家の戦である。

 

とは言いつつ、太原雪斎以下今川の名将たち、武田信繁、北条氏康という面子を相手に状況をひっくり返せるほどの大勝利を掴むのは不可能に近いだろう。

 

現在の陣形は通常よく使われるスタンダードな横陣である。こちらの配置は大分中央よりの右翼。中央と言っても良かった。対する福島軍は偃月陣。大将が切り込み役を務める超絶攻撃的な戦法である。士気は上がりやすいものの、討ち死にの危険性がはね上がる。死を覚悟した陣だった。

 

今回は献策も特にない。何故ならば、そのまま流れに任せていればなんとかなるだろうからだ。太原雪斎が無策で挑む筈がない。氏康様も、私も参謀タイプだが、その頭脳も今日はお休みだ。

 

 

 

 

 

 

 

 夜の城に老将が一人、苦々しい顔で思案していた。周りには悲壮な顔の将たち。福島越前守に味方した自分達の先見性の無さを恨んでいた。

 

「どうされるおつもりか!もはや城はここしかない。ここが落ちれば、すなわち死ですぞ!」

ヒステリックにわめく堀越貞延に舌打ちしたい気分を抑えながら福島越前守正成は策を考え続けていた。

 

「北条、北条が来れば或いは……。もしくは三河衆が……」

 

 本心から言えば福島正成とて三河の田舎者どもに頼みたくはない。しかし、状況はそんな事を言っている場合ではなかった。北条が敵方な事も、雪斎の徹底的な情報封鎖のせいで今は知らない。

 

「申し上げます!」

 

「何か!」

 

「城を囲む敵に新手の軍勢が加わりました!」

 

「どこの手の者か!」

 

「旗は三つ鱗。北条家の軍勢でございます」

 

「なんと…」

 

 最早望みは断たれた。こうなっては勝ち目はほぼ零に等しい。金山の金も、我々の河東における領土請求の放棄も、北条を動かすには足らなかった。唇を噛み締める。堀越貞延の顔は真っ青である。それを冷めた目で見る遠江の諸将。彼らは次々と退席し、最後の夜を過ごそうとしていた。

 

「出る他に道はない。是非もなしか…」

 

今川最強と謳われたその実力を以てしても、覆すのは難しい。人生の終わりが戦場とは何とも自分らしかった。

 

 思えば、長く生きた。この乱世では十分生きたと言えるだろう。かつては伊勢新九郎盛時に憧れを抱き、かのごとき下剋上はまさに乱世の習い、あっぱれと思った時もあった。いずれ我も男ならばかのような鮮烈な輝きを放ちたいと思った時もあった。若気の至りと思っていたが、この年になってくすぶっていた思いが形になってしまった。その結果、かつての憧れの子孫たる北条にまで狙われるとは皮肉だ。

 

「お祖父様、わたくし達は勝てるのですわよね?死にはしませんわよね?」

 

おろおろしながら聞いてくる小娘に視線を向ける。その顔は今川義元と良く似ていた。黒く長い髪、豪華な着物、そして尊大な態度と口調、箸より重いものなど持ったことの無さそうな雰囲気。

 

かつて軟弱と切り捨て、邪魔者扱いした敵の大将とそっくりである。両方に会ったものは、母は違えど同じ血が流れているのが分かるだろう。憎んだ義元とは違い不思議と孫娘には憎悪の感情は浮かばない。

 

「すまない」

 

その言葉が何に対する謝罪なのかは分からなかった。自分が祖父で無かったら、この子は…。そう思う自分に老いを感じた。今まで栄達のために傀儡の道具としてしか見てこなかった自分にそんな感傷に浸る資格はなかった。

 

「お祖父様?」

 

「万一敗れる事があれば、お前は逃げよ」

 

「そんな…」

 

「けして祖父の仇を討とうなどとは思うな。どんな形でも良い。逃げ延びよ。逃げる先は……北条にせよ。あそこなら、或いは匿ってくれるだろう。西国に逃げるのでも良い。生きよ。そして、乱世を見届けろ。良いな」

 

「ですが…お祖父様は…」

 

「良いな!」

 

聞き分けのない孫娘に怒鳴る。

 

「ひ、ひぃぃぃぃ。わ、分かりましたわ……」

 

情けない姿だ。だがそれを見ても苛立ちはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

決戦の火蓋は割とあっさりと切られた。法螺貝の音と共に敵軍が一斉に突撃を開始する。騎馬も歩兵も問わずに。

 

「凄まじい気迫だ…」

 

「はい…。死兵となっています」

 

元忠も盛昌もあまりの敵の気迫に気持ちは後ろ向きになりつつある。かくいう私も、帰れるものなら帰りたい。が、そうはいかないと分かっている。勇気を奮い立たせて戦場を見つめる。

 

折角戦場のど真ん中を勝ち取ったんだ。派手に活躍しなくては。

 

「気後れしてはなりませぬ。我らが堂々としていなくては」

 

「そうだな」

 

「ええ、はい。そうでした」

 

「しかし、初陣のお前に言われるとはな」

 

「はい。随分と武者姿が板についてきましたね」

 

「二人の教えのお陰です」

 

敵は弓の射程圏内に入った。

 

「射かけよ!!」

 

号令を下す。100を超える弓が一斉に放たれた。同時に人力の投石も始まる。敵軍の中には倒れる者もいる。それでも進撃は止まらない。他家も同じように遠距離攻撃が行われている。敵はもう間も無く我々などのいる中央部と接触する。全軍により一層の緊張感が走った。

 

 そこに我々ではない軍団が敵と当たり始めた。おそらく朝比奈家の軍勢。ただし、朝比奈は朝比奈でも駿河朝比奈だ。参陣が遅れたため、手柄を立てようと必死なのだろう。敵の勢いが弱まる。しかし、敵も必死だ。しかも、突破部隊は精鋭のようで、朝比奈隊からは時々血煙が見える。

 

朝比奈隊は突破され、こちらを目指してくる。しかし、ここで状況は大きく変わる。

 

敵軍の横っ腹を突くように岡部隊と武田隊が出現した。なるほど、わざと敵軍から遠めの所に布陣したのは長細くするための場所がいるから。敵を追い詰めたのは乾坤一擲の攻撃に出させるため。

 

うっすらと後方で指揮を執っている信繁の姿も見える。流石は信玄の妹。才能はしっかりあるようだ。しかし、太原雪斎恐るべし。猛将福島正成を掌の上で転がしている。このままでは何も出来ないまま終わってしまう。そろそろ動かなくては。

 

「武田今川なにするものぞ!我ら北条の戦を見せてやれぇ!」

声帯を盛大に震わせ、間宮康俊が叫ぶ。

 

「「「「「おおおおおおあお!」」」」」

 

「突撃ぃぃぃぃ!」

 

叫び声と共に精鋭騎馬部隊は突撃を開始する。混乱している敵軍には効果覿面だったようだ。次々と撃破し快進撃である。

 

「我々も出る。お前はどうする」

 

「ここで弓で援護しつつ、姫様を守ります。ある程度方がつきましたら加勢します」

 

「分かった!」

 

「お気を付けて」

 

「ええ、お二人も」

 

二人を見送る。まぁ、二人とも強いし大丈夫だと思うが。こちらはこちらで出来ることをしよう。

 

「弓の装填を速く!味方には当てないようより戦場後方を目指せ!」

 

少しずつ、だが確実に敵兵は数を減らしている。もはや我々の勝利は確定に近かった。もう頃合いだろう。そろそろ加勢に行くとするか。

 

氏康様の近衛部隊に後を託し、戦場の中央、死体の山の中を進む。どこもかしこも喧騒が聞こえる。間宮康俊や元忠、盛昌などと合流したいが、乱戦になっているこの状況では厳しいかもしれない。戦場を更に進むと、同じように戦場の中を単騎駆ける老将がいた。様子を見ると、我が方の兵を殺して回っている。弓を構え、狙いを定める。誰かを意図して射つのは初めてだ。手が震える。だが、決めたのだ。もう、迷わない。

 

ヒュッ

 

風を切る音を鳴らし、放った矢は老将の左肩に当たる。思わず姿勢を崩した彼は落馬した。近づき人相を確認する。その鎧に彫られた紋所。まさかとは思うが……。

 

「福島越前守正成殿とお見受けいたすがいかがか」

 

「いかにも、わしこそが福島越前守正成よ。先程の弓はお主が射たのか」

 

「左様」

 

「見事な手前よ。味方であればどれだけ良かったか……。名を聞こう」

 

「北条左京大夫が嫡女、氏康様が臣、一条兼音なり」

 

「その名、冥府にて広めよう。もはやわしは戦えぬ。この腹切って死ぬとしよう。辞世の句は要らぬ。情けは無用。介錯を頼む」

 

「……承知」

 

「若いな。戦に出たならば躊躇うな。命取りぞ」

 

「ご忠告痛み入ります」

 

「我が首は汝が討ち取った事にせよ」

 

「しかしそれでは……」

 

「良い。その弓の腕へのせめてもの餞よ」

 

「はっ。ありがたく。……何か言い残す事はあり申すか」

 

「……我が一族の者が北条に行くやもしれぬ。その時は、守ってやってくれ。この大刀も渡してくれ」

 

身に付けていた刀を渡される。

 

「必ず」

 

「お主は、北条家中の者か……。もし、お主が花倉城を落としたならば、我が孫娘を救ってはくれぬか。あれはまだ世を知らぬ。我が欲のための傀儡として、しかもこのような形で生を終わらせるのは、あまりにも惨い」

 

「……」

 

「わしも老いたな。このような感傷を抱くなど」

 

その老人の目は死を前にした者でも、戦場に生きた将でもなく孫娘を思う一人の祖父だった。

 

「お約束は出来かねますが、善処しましょう」

 

出来るかは分からない。だが、この老将が思い残す事なく逝くためには、こう答えるしかなかった。

 

「それで良い。軽々しく確約するような者信じられぬわ」

 

短刀が抜かれる。私も刀を構える。

 

そして、諸肌を出し、刀を突き立て、ゆっくりと腹を切っていく。汗が流れ、血が迸る。

 

「御免っ!」

 

スッと刀を振り下ろし、確かな手応えがあった。綺麗に下ろすことの出来た刀は、猛将、福島正成の首をしっかりと落としていた。

 

最後は一思いに出来ただろうか。初めて、人を殺めた。その人が彼で良かったかもしれない。この人は最後の最後に私を戦国の人間にしてくれたのだ。福島越前守正成。私は生涯、その名を忘れないだろう。

 

「おおい!大丈夫かー!」

 

元忠が馬を走らせながらこちらに来る。

 

「どうした?……この首は、福島正成か!」

 

「その通りです。私が介錯を。見事な最期でした」

 

「そうか……これ、どうする気だ?」

 

「どうすれば?越前守は私が討った事にせよ、と」

 

「ならばそうしてやるのが弔いだろう」

 

「そう、ですね」

 

「やり方は分かるな?」

 

「ええ、勿論」

 

息を吸い込み、ありったけの声量で叫ぶ。戦場全てに届くように。

 

「敵大将、福島越前守正成、北条氏康が臣一条兼音が討ち取った!!」

 

喧騒が止む。そして、

 

「「「「うおおおおおおおお!」」」」

 

戦場のあちこちから叫びが聞こえる。味方の雄叫びだ。一方敵兵は我先にと城への撤退を開始していた。

 

この戦いの敵軍の死者、4800人中2750人。完勝に近い。残存兵は城へ逃げ込んだ。これから熾烈な最後の城攻めが行われようとしていた。




敵将であっても無条件で悪者にしてはいけないと思ってます。この時代は尚更ですよね。どちらにもどちらの正義や信じるものがある。

上杉なんかの何度も戦う敵でない敵についてもキチンと描写していけたらと思います。


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第6話 花倉城、落城

 野戦は終わった。どこか夢見心地のまま、ひとまず本陣に帰還する。もう日暮れだ。これから攻城戦をしても今日中に落とせるかは定かではない。敗走した兵は半分近くが城に籠った。あとの半分は逃亡したようだ。順当に行けば、明日に本格的な城攻めとなるだろう。

 

城主かつ大将の福島正成が死んだことで、今の指揮官は名目上堀越貞延らしい。と言うのも、他の名だたる武将は大半が討ち死にか降伏してしまったからだそうだ。まだ一応少しはいるようだが。

 

 花倉城は近世の平城ではなく、典型的な中世の山城だ。山城はこの時代はまだまだスタンダードな城で、例えば毛利の居城の吉田郡山城や尼子の居城、月山富田城なんかも山城である。ちなみに、小田原城は平城に近い。と言うよりかは西洋の要塞都市のような感じで街ごと城なのである。

 

 

 

 

 

 我が北条家の陣に戻ると、他の将は戻ってきているようだった。

 

「ただいま戻りました」

 

「お帰りなさい。あなたが最後よ。皆、無事に戻ってこれたようね」

 

「フハハハ。この程度でくたばるわしらではありませんぞ!」

 

こんな時でも豪快な間宮康俊。歴戦の武将だけあって傷は無さそうだ。鎧は返り血で染まっている。

 

「さて、此度の戦での勲功一等は一条兼音、あなたよ。私の見込みは間違って無かったわね」

 

「ありがとうございます」

 

「よくぞ、見事に福島越前守を討ち取りました。これで今川に大きい顔が出来る。岡部家の娘なんか歯ぎしりしながら悔しがっていたそうよ。鼻が高いわ」

 

「勿体なきお言葉」

 

「お主、初陣で大将首とはようやったぞ!わしの目も狂っとらんかったようだわ!見込みのあるものと思っとったんじゃ」

 

口々に称えられる。キチンとこの手で戦いの末に討ち取った訳ではないため、罪悪感はあるが、故人の頼みであるし、一応弓で倒した訳だしと言い訳する。あの後連射すれば息の根は止められたと思うし。

 

だけれども、いまいち自分の中で納得できていない所がある。もっとしっかりと自分の力で勝ち取ったもので評価されたいという思いがくすぶっていた。

 

そこで、福島正成の最後の頼みを思い出す。"孫娘を助けてくれ"と確かに彼はそう言った。しかし、無理してまで助ける義理は普通ならない。もし、本当にやるなら今川より先に見つけ出して、バレないように連れて行かねばならない。

 

そんな事何のためにしなくてはならないのだろうか。敗走寸前でボロボロとは言えまだ多くの兵が籠った城なのだ。密かに救援など、通常の手段ではまず無理だ。助ける理由付けなら無理矢理作れるが。

 

それでも諦めきれないのはまだ非情になりきれていないからか。死ぬ間際の老将の顔が脳裏にこびりついて離れない。私もまだまだ甘いことを痛感した。

 

とは言っても、物理的な面はいかんともしがたい……が。

 

ピンと頭の中で策が閃く。そうだ。通常の手段では無理、ならば通常やらない事ならば…。これなら行けるやも知れぬ。あくまでも目的は別にあるが、ついでに連れてくるならば可能なのではないか?よし、やるしかない。

 

「それでは、恩賞を与えなくては。何か望みはあるかしら?」

 

「……あいやお待ちくだされ」

 

「どうしたのかしら。何か問題でもあった?」

 

「いえ、恩賞の前に一つお聞きしたいのですが」

 

「?何かしら」

 

「今、姫様の周りに風魔の方々は何人おられるので?」

 

「幻庵のおばばが35人付けてくれたはずだけど。それがどうかした?」

 

よし。我が策が実現できる可能性が高まった。

 

「それでは、ひとまずの恩賞として、風魔の方々30人の指揮権を一時的に頂戴したく存じます」

 

「風魔を?何をする気?」

 

訝しげに見つめる主や他の将の目に見られる。疑問を抱えた目だ。そりゃそうだろう。恩賞に忍の一時的な指揮権など常識はずれにも程がある。

 

「花倉城を落とします」

 

 

 

 

 

 

 

 

 良かった。なんとか借りれた。氏康様は滅茶苦茶必死に止めてきたが、間宮康俊が助け船を出してくれた。お陰さまで作戦が可能である。盛昌も氏康様も、太原雪斎の所へ行かねばならないらしいので、誰も他に来てくれない。悲しい。

 

別に無意味にとか感傷や優しさでこの作戦を思いついた訳ではない。臣下の功績は主の功績。成功すれば氏康様の功績にもなるだろう。無論、私も出世への糸口を掴み、今後訪れるだろう苦難への対処がしやすくなる。今川に大きい貸しも作れる。今川良真がいれば、良い駒ができる。

 

と言うのも、嫡流ではないとは言え、今川の血を引く人間がいるのといないのとじゃ使えるカードの数が変わる。もし、歴史がある程度流れに沿うなら、しばらく後に今川義元は死ぬ。桶狭間で織田に負ける。そうなったときに、本来後を継ぐ氏真は、今現在まだ赤ちゃんらしいので、その時が来てもまだ幼少。家中をまとめるのは無理だろう。そこを武田に取られてはたまらない。血を引く傀儡を使って正統性を主張できるだろう。

 

 正直無茶苦茶かつ厳しいことをやろうとしてる自信はある。生きて帰れると良いが。目の前には集められた風魔が30人、無言で立っている。戦国有数の暗殺者たちだけあり、怖い。かなり。

 

「お主らには、今から花倉城を落城させる手伝いをしてもらいたい。まずは誰か、侵入できそうな所を探ってきてくれ。その後、全員でそこから侵入する。部隊を三つに分ける。12人の部隊を二つ。6人の部隊を一つ。12人の方にはそれぞれ二の丸と三の丸に行ってもらう。6人の方は私と本丸だ。そこでは放火と適度に城兵を殺害してくれ。三の丸勢は出来れば城門解放を頼む。何か、あるか」

 

「引き際はいつ頃にすればよろしいか」

 

「鏑矢で合図する。そうしたら、北条の旗を目立つように掲げて撤退しよう」

 

「承知」

 

「正直かなり滅茶苦茶な任務だ。だから、何も死をかけてやる必要はない。君たちならば撤退も可能だろう。最悪は私を置いてでも逃げろ」

 

「良いのですか」

 

「良い。君たちの役目は姫様を筆頭に北条一族の守護。私の守護ではないだろう?…さて、他に何かあるか。何もなければ、早速偵察に行ってほしい」

 

「分かりました」

何人かの忍が音もなく消える。うーん怖い。怖い上に物理法則無視してる気がするんだが。気にしないようにしよう。

 

「私を忘れてもらっては困るな」

 

「へ、元忠殿?何故ここに?」

 

「いては悪いのか?流石に少なすぎる。加勢する。死なせたら姫様が悲しむからな」

 

「姫様が悲しむかはさておき、加勢はありがとうございます。助かります。本当に」

 

 

 

 

 

 

 行かせた忍は30分くらいで戻ってきた。速いな。やっぱり物理法則無視してるだろ。

 

「警備の薄く、近くまで馬で行ける所がありました」

 

「よし。では、出撃だ。もし成功すれば我ら32人の働き、北条の歴史に刻まれるぞ」

 

「我ら忍は名を出さぬが使命。それ故目立たず影となるが道理なれど…今宵のみは派手に行きましょうぞ」

 

「多米家に元忠ありと知らしめてやる。お前ばかりに良い顔をさせられん」

 

頷き馬に乗り駆け出す。目標は前方黒い影を作る花倉城。付き従うは剛毅の侍たちではなく、名もなき忍たち。将は二人。奇妙な軍勢は密やかに城へ近づく。

 

馬を繋いで、何とか忍び込み、中へ入れた。幸い誰も気付いていない。

 

「では、手筈通りに」

 

全員が頷き、ほうぼうへ散る。すぐ後に爆発音と共に火の手が見えた。にわかに二の丸や三の丸が騒がしくなる。火を消そうと集まった者たちを殺害して回っているようだ。

 

「さ、我らも」

 

6人の風魔と二人の将が動き出す。まずは風魔たちが姿を消して、本丸の一部でも火災を発生させる。それを陽動としつつ、私と元忠の二人で城将を討ち取っていく予定だ。

 

元忠は手前の館を攻撃するらしい。私は奥の館を捜索する。何となく、ここにいそうだった。慎重に中に入る。いつ襲われるかは分からない。全神経を張りつめる。わぁわぁと外が騒がしくなる。あちらこちらに火が付き、まだそこまででは無いがこの奥の館も燃え始めた。熱気を感じながら進む。

 

 

 

 

 

 

 

一際豪華そうな部屋の入口についた。おそらく元々は城主の部屋。そして、今はおそらく真の大将のそれ。バッ!と扉を開け放つ。

 

「ヒッ!誰ですの!」

 

中には着物の少女が一人。そして後ろには侍女が一人。侍女は短刀を抜き放ち、殺気を出しながら虎視眈々と狙っているのが分かる。

 

「お前が今川良真か」

 

「い、いかにもわたくしが今川良真ですわ。そういうお前は何者!」

 

「北条氏康様が家臣、一条兼音」

 

「わ、わたくしを殺しに来たんですの!」

 

「さぁな、それはお前次第だ」

 

「……どういう事ですの」

 

「お前の祖父、福島越前守正成の遺言により参った。孫娘を助けてくれとな。ご立派な最期であった。が、お前が死を望むなら止めはしない。城を落とせただけでも十分な戦果。お前を助ける得などありはせん。それでも遺言は遺言よ。我が手にかけた将ともなれば聞こうと思うのが人情だ」

 

「お祖父様が……」

 

「さぁ、どうする。選ぶがよい。誉れある死を望むなら叶えよう。降伏は許されない。降伏した姫は仏門に入れるが習いなれど、お前は一度還俗した身。同じ事をされたらたまったものではない。太原雪斎は必ずお前を殺すだろう。将来の禍根を絶つために。敵や命を惜しんだ味方の手にかかるくらいなら、或いは辱しめを受けるなら、死を求めるならそれもよいと私は思う」

 

「それとも、生を望むか?生まれの誇りも、血の高貴さも、名も名誉も全てを捨てて、泥をすすり地に這いつくばり我らに頭を垂れながら顎で使われてでも、生を欲するなら…叶えよう。その願いを」

 

「わ、わたくしは……生きろと命じられました!生きなくては、いけないのです!」

 

「よろしい。ならば、手を取れ。その着物を最低限のもの以外全部脱いで、足元を動きやすくしろ」

 

「わ、分かりましたわ」

 

「急げ。火の手はまわり始めてる。急がねば丸焦げだ。それと、我が主に会って少しでも失礼な事をしたら叩き切るからな。心せよ」

 

「分かっておりますわ。……あ、あの動きやすくとはどうすれば……?」

 

これだから世間知らずのお嬢様は困る。

 

「こうするんだ!あと、これをかぶれ」

 

思いっきり着物の足の部分を引きちぎる。そして、顔を隠せるように頭巾を渡す。ついでに分かるが、こいつはおそらく絶対に足が遅い。仕方ないので手を引っ張る事にした。

 

「お春、貴女も早く行きますわよ」 

 

「……どうぞ、お行き下さいませ。私はこれにておさらばでございます」

 

「ど、どういう……」

 

「遺体が無ければ不自然でございましょう。総大将は炎に焼かれて死んだ。そうするのが良いと存じます。さもなくば、追っ手は方々に差し向けられましょう。それでは折角お助け頂いた一条殿にもご迷惑をおかけすることになります」

 

「そんな!貴女とわたくしは姉妹同然に育ってきたではありませんの。貴女を置き捨てて逃げるのは!」

 

「姫様!……正直今までお仕えしていて腹立たしい事も多々ございましたが、それでもお側に侍れましたこと、幸せであったと思っております。私は今まで姫様の多くの我が儘を聞いて参りました。どうか、今日今限りは今生最後の私の我が儘をお聞き届け下さいませ」

 

 脱ぎ捨てられた着物を着る侍女。良真はその姿を目に涙を浮かべながら見ていた。

 

「さ、早くお行きください。一条殿、後はお頼み申し上げます」

 

「……承知。貴殿の名、我が胸に刻もう」

 

二人で部屋を出る。

 

「姫、お達者で」

 

「っ!」

 

隣のお嬢の声にならない声を無視して館を走る。

 

「来たからには身も心も私に、引いては北条に捧げて貰うぞ。良いな」

 

「は、はい」

 

 

 

 

 

 これは二人の知らない物語。青年武者と己の仕えた姫を見送った侍女は火の手が周り燃える部屋の中にいた。熱気が周りを支配する。その短い生涯を閉じる前にも拘わらず、彼女は落ち着き払っていた。

 

 一生着る事などないと思っていた豪奢な着物を身にまとう。着てみたいと思ったことはあるが、こんな風にして着たいと思ったわけでは無かった。主は無事に落ち延びられたのだろうか。遠くから喧騒に混じり、微かに落城を告げる声がする。ああ、これなら大丈夫だろうと思い、剣を抜く。切っ先が炎に照らされ怪しく輝く。

 

 思い返すのは最後に手を引かれこの部屋を去る主の姿。

 

「いいなぁ、私もあんな風に」

 

 救い出してくれる人がいたのなら。そう呟かずにはいられない。細い涙が頬を伝う。うざったい上に馬鹿な主だったが、それでも根は優しい人だった。そんな姉妹のような人が助かるのならと己を奮い立たせる。

 

「どうかお元気で。どうかお幸せに」

 

 ドスっと鈍い音がして、肺を貫いたまま彼女は息絶えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

館を出るべく進む。どんどん炎は強くなる。風も強かったし、良く燃えるのだろう。

 

「クソっ!とんだ貧乏くじだ。かくなるうえは、あの阿呆姫を差し出して助命を願うか……!儂も今川一族。命は助けられるだろうよ」

 

ぶつぶつ呟きながら小走りに近付く音が曲がり角の向こうから聞こえる。一度止まらせ、下がらせる。内容からして声の主は良真を狙っている。このままでは危険だ。

 

「誰か分かるか?」

 

「この声は……堀越貞延だった筈ですわ。裏切ろうとするなんて……」

 

「人なんてそんなもんだ」

 

刀の鯉口を切る。

 

「うわっ!何だ貴様らは!」

 

「我が名は一条兼音。北条が臣なり」

 

刀を抜いて、構える。

 

「くそ、仕方ない、その姫を渡せ。その首を持って今から降伏するのだ」

 

「あいにくとそういう訳にはいかない。福島越前殿の頼みなのでな」

 

「あの男!裏切ったのかっ?ま、待て、金ならやる、だから命ばかりは……!」

 

「福島越前殿は立派な最期であった。貴様は違うようだがな。武士の風上にも置けぬ」

 

刀を振りかざす。抜きもせず、貴族風の格好の堀越貞延はへたりこむ。

 

「ひっ!死にたくない!」

 

「お命頂戴」

 

「我は、堀越、貞延な、るぞ…こんな、所で…」

 

断末魔を残して果てた。誰も、死にたくなんか無かったさ。ああ、刃傷沙汰に腰を抜かしている姫を助けねば。あぁ、つくづく手がかかる。

 

「血を見るのは初めてか?何人も死んだ。お前のためにな。先程の侍女も、お前の祖父も。それを忘れるな」

 

彼女は何も言わない。この残酷な世界を恨んでも、結局はこの乱世に産まれた自らを恨むしかないのだから。館を出ると、城のあちこちから火柱が立っている。燃え盛る建物が眩しく目に映る。麓からは炎上する城がよく見えるはずだ。旗を立てていたら、それも炎に照らされてよく見えるはずだ。背負った弓を構えて宙へ鏑矢を撃つ。集合の合図だ。

 

 

 

 

直ぐに風魔たちが来る。少し遅れて元忠もやって来た。腰に首が三つくらい付いてるんだが…。

 

「この城の諸将の首だ。そっちのは?」

 

「堀越貞延のだ」

 

「ちっ、こっちは外れか。またお前に取られたな」

 

「そう言うな」

 

「で、肝心な話だが、その女は誰だ」

 

「後で話す。今は取り敢えず帰還するぞ。門は開けたか?旗は?欠員はいるか?」

 

「全て手筈通りに行いました。欠員もおりません。この程度でやられる我ら風魔ではないので」

 

欠員がいないのは良かった。

 

「よし!作戦は大成功だ。最後に仕上げを……」

 

北条の三つ鱗が書かれた一際大きな旗を掲げる。さながらベルリンにソ連旗を掲げるソ連兵のような気分だ。そして、またしても息を吸い込む。麓に、そして城兵に聞こえるように叫ぶ。

 

「花倉城の主将堀越貞延以下、北条氏康が臣下、一条兼音と多米元忠が討ち取ったり!総大将・今川良真殿も自らお命を絶たれた。もはや抵抗は無意味!直ちに降伏せよ!」

 

それだけの声で叫ぶと喉が枯れそう。ともかく、これでやるべき事はやった。後は抜け道から帰還だ。

 

運動してなさそうなお姫様は足手まといも良いところだ。先に皆を行かせる。仕方ないので、いわゆるお姫様抱っこで抱えて獣道を下りる。

 

「危険だ。しっかり掴まれ」

 

「は、はいぃ」

 

何とか無事に下に降りて来られた。今一度いるかを確認して、繋いでいた馬を連れてくる。

 

「おい、乗馬は出来るのか?」

 

「乗ったことありませんの…」

 

「あー使えない。良いか、私の手に掴まれ!」

 

無理矢理引き上げて自分の前に座らせる。

 

「狭いが我慢しろ。それでは我らが主の元へ、堂々たる凱旋と行こう!」

 

「「「「おう!」」」」

 

馬の走らせる。朝日が登り始めた戦場を武者二人と姫一人と数十人の忍が走っていた。

 

数時間後、城兵全てが降伏を申し出てきた。太原雪斎と今川義元はこれを認める。花倉の乱はこれをもって終了したのだった。

 

本来、炎の城で死ぬはずの今川良真を救った事で、この後の歴史がとんでもないことになるのをまだ誰も知らなかった。

 

加えて"身も心も捧げよ"の台詞における肝心な部分"北条に"が聴こえておらず、一波乱あるとは誰も予想していなかった。




乱自体は終わりましたが、次回もその話を引っ張ります。

今川良真のイメージは劣化バージョンの義元ちゃん。蹴鞠もあそこまで上手くはなく、和歌くらいしか勝る所が無い。ただし、真っ白な紙みたいな状態なので今からいかようにも出来るというキャラです。

当初は死ぬ予定でしたが、一条殿に家臣が欲しかったので、こうしました。これから馬車馬のように働いて貰います。つまり、レギュラーメンバー入りです。おめでとう。


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キャラ集①

時々間に挟んで出します。オリキャラはそこそこいる予定。一話で退場の可能性もありますが、レギュラーメンバーになる場合もあります。




<主人公>

 

名前:一条兼音(かねなり)

 

性別:男

 

年齢:17

 

身長/体重:179センチ/71キロ。筋肉はキチンと付いている。

 

容姿:現代日本人のイメージする普通の高校生の男子。顔は美形とまではいかないものの、普通よりは少し良いくらい。黒髪。

 

以下、信長の野望風ステータス

 

統率:90 武力:85 知力:95 内政:90 外政:80

 

くらいと優秀。ただし、知力以外のステータスは北条氏康より下である。プロローグ時点では武力ステータスは73くらいだったが、半年近く死ぬもの狂いで習得して上げた。

 

個性は、家宰、教養人、国材運用、攻城心得、鉄砲知見といった所。

 

 

文系分野の知識が広く、歴史や文学に異常なくらい詳しい。また、社会学や法学などにも知識を持っている。数学や理科も多少は出来る。

 

原作主人公、相良良晴とは異なり、ハーレムの夢は抱いていない。ちゃんと女の子が好きだが、恋愛経験は皆無。また、主には敬語を崩さず、身分制度はきちんと遵守する。貴族や姫巫女にも敬意を持っている。

 

 

両親は既に死亡。高知県出身で、今は大阪在住。関東は箱根に観光に来ていたら戦国に飛ばされた。現代への未練はあまりない。

 

弓道部に所属。成績は全国大会優勝記録を持っている。鍛えている為、剣や槍も習得のスピードが速い。

 

 

 

 

<6話までの周囲の評価やカットされた裏話>

 

《第1話》

いきなり戦国に飛ばされてかなーり混乱している。飛ばされたのが関東で良かったと考えており、間違っても戦場のど真ん中とかでは無かった事に感謝している。

 

寺では、乱世における仏教のあり方を和尚から聞いていた。(勝手に話し出した和尚に相づちをしながら会話していた。)

 

氏康の事は超美人で綺麗だなぁとは考えているが、感覚的にアイドルとか国民的女優を見ている感覚。恋愛感情ではなく、美しいものを見た時の感嘆に近い。普通に現代の高校生よりバリバリ美人だと思っていた。

 

内政派を謳ったのはまだ武具を使えないのを理解しており、このまま戦場に送られても死ぬだけと分かっていたから。決してひ弱な文官ではない。

 

 

《第2話》

 

今のこじんまりとした小田原城ではなく、昔の総構持ちの巨大城塞を見れて若干感動している。

 

城下では、ただ物珍しい感じで見ているだけでなく、城下の様子や何が売られているのかとかを観察している。歴史に詳しくても、戦国時代の民衆の暮らしについて素晴らしく知っている訳ではないので、知識の補完をしたかったためである。

 

多米元忠や大道寺盛昌(今後もよく出てくる同期の仲間)に初めて会う。さっきの氏康と同じように、恋愛対象だとは思ってもいない。

 

結構な待遇で雇ってくれた主に感謝しており、忠誠心というものが芽生えている。今の住まいは1LDKくらいの長屋。これでも大分待遇は良い。また、武芸を教えてくれている元忠には特に感謝しており、いつかお礼をしたいと思っている。鍛練では、馬術、槍、短刀、剣術を教えて貰っていた。剣術は一番呑み込みが良いため、早くに教えられる段階を卒業した。

 

いざという時に使えるように、情報を集めている。お休みの日には、城下に出て商人に話を聞いたり、女中たちに他国の話や噂話を聞いている。何とか関東と駿河甲斐信濃くらいの範囲の情報は手に入った。

 

 

さらっと流したが、台帳の管理はかなり画期的な方法を伝授しており、他にも農業技術に関してや商業に関しての提案をいくつもしており、全て大道寺盛昌経由で評定衆こと宿老たちに伝えられている。幾つかは採用され、残りは精査して改良中である。その為、宿老からも認識されるようになってきた。

 

実は一番の功績はそれではなく、地図作成のノウハウを教えた事であった。伊能忠敬のパクりをしただけだが、戦国時代からしたら画期的な技術である。何しろ二百年近く後の技術なのだから当然なのだが。これにより

正確な検地や街道整備、建築築城が可能になり、土木工学や税収面で大きく進歩することとなる。が、まだ実用には今少し時間がかかりそうなので評価は保留となっている。

 

 

この頃からちょくちょく鍛練中や仕事中に小田原にいる宿老に声をかけられるようになる。彼らの主な目的はどんな人間か見定める為だが、きちんとした応対や上を立てる態度を取っており、また戦国武将に対して尊敬の念を持っているためそれが現れ、割と気に入られている。上記の理由により新参者だが、受け入れられている。

 

 

《第3話》

 

戦う理由と覚悟を見つける。本格的な戦国武将となるスタートを切った。

 

 

《第4話》

 

間宮康俊とはお互いに好感を持っている。今川義元は近年の評価で見直されてきているのを知っているが、本当にこれで大丈夫なのか不安になっている。これはむしろ今までの学説や評価で良いのでは?と考えていた。

 

太原雪斎に対してはいつか越えなくてはならないと考えている。

 

武田信繁に対しては、自分のような一武将の名前を覚えようとしていた事に嬉しさを感じている。北条の未来には障害にならないと考えて、アドバイスを行う。このような少女がいつか死ぬであろう運命があると考えて、悲しみや無情さを味わっていた。

 

 

《第5話》

 

福島正成とは完全な遭遇戦である。この手で直接死に至らしめた事で、自分でももう戻れない事を再確認した。

 

 

《第6話》

 

基本は後方に徹して突撃とかは止めたいと考えているが、この次の戦争の国府台合戦や河東争乱、川越夜戦に介入できるように一刻も早くなりたいという思いが功を焦らせ、普段はやらないような行動に出た。自分の為というよりあくまでも北条家の為である事は明記する。

 

とんでもない事をやってのけた訳だが、元忠もいたこともあり、戦功は分散しているものの、発案者を隠すわけにもいかず、この後北条家に激震をもって伝えられる。

 

実力主義と年功序列を良い感じに組み合わせられている北条家でも、半年前に来たばかりの新参がここまでの大功を立てることを想定しておらず、驚いていると共に混乱しかけている。

 

が、本人は多少お給料が上がるだけだと考えており、周囲の認識と本人の自己評価に差がある。詳しくは、次の話に描写されている。

 

 

 

 

 

 

<北条家>

 

北条氏康…本作の多分メインヒロイン。薄紫の髪の美人。顔は素晴らしく美形だが、スタイルの方は…。本人はお子さま体型な事を気にしている。原作では謀略を得意とし、有事の際は小田原に引きこもる戦法を取っていた。激務とストレスで胃を痛めていたが、今はまだそこまでではない。今作では、上杉謙信や武田信玄などと互角或いはあしらえるだけの能力を保持する主人公に支えられ、関東の覇王へと登り詰めていく。

 

ちなみに、顔は主人公のストライクゾーンど真ん中である。原作では相良良晴にお子さま体型を指摘され半ギレしたが…。

 

 

 

多米元忠…主人公の同僚。ステータスは92/87/87/66/77くらい。黒髪ポニーテールの和風美人。言葉少なな武人気質である。最初は主人公の事を訝しく思っていたが、主が認めるので、取り敢えず評価を保留にした。鍛練をつける時に死ぬもの狂いでやっている主人公を見て評価していく。

 

大道寺盛昌…主人公の同僚(上司)。普段の詰所のリーダー。課長的ポジション。ステータスは85/75/88/92/90と内政タイプより。亜麻色の髪をした優しげな美人。主人公の真面目に仕事をする姿勢や丁寧な態度を気に入った。また優秀な仕事姿とアイデアを好ましく思っている。

 

間宮康俊…主人公の上官。ステータスは85/88/62/75/72である。歴戦の武将で、経験豊富。普段は豪快な気の良いおじさんである。

 

北条氏綱…北条家の二代目。娘を溺愛しており、目に入れても痛くはない。早雲と氏康の陰になりがちだが、家を良く守って領土を広げた戦国黎明期の名将。主人公の事は優秀な新参と頭の中に入れている。娘に変なことしたら殺すとも思っているが、大丈夫そうで安心している。

 

北条幻庵…北条氏綱の妹とも、早雲の妹或いは母ではないかとも言われる年齢不詳の武将。確実に50年以上は生きているが、容姿は若かりし頃のままの若作り。風魔の統率を行っている。現在は名前だけ登場。主人公の存在を予言した。

 

 

<今川家>

 

太原雪斎…今川家の黒衣の宰相。僧形をしており、仏門に入っている。今川義元の補佐を行い、また幼い頃に今川家に人質としていた徳川家康にも多大なる影響を与えた。東国有数の切れ者であり、今川義元の全盛期を作り出した。桶狭間の前に急死。京に戻ることを夢に見ていた。

 

今川義元…原作&アニメ通り

 

今川良真…旧名は玄広恵探。寺にぶちこまれていた今川氏親の側室の娘。福島正成の孫娘。箱入りのため戦場や世間の常識を知らない。史実では花倉の乱で命を落とすが、福島正成との約束を重んじる主人公に城攻めのついでに助けられるが、それ以降こき使われる羽目になる。初期ステータスは35/20/55/50/70とお世辞にも名将とは言えなかったが……。

 

福島正成…今川家の武将。幾度となく武田信虎と対峙した今川きっての名将。かつて若い頃は北条早雲に憧れていた。花倉の乱を引き起こすも太原雪斎の戦略により追い詰められていく。最後は決戦を挑み、主人公によって介錯される。孫娘の無事を祈っていた。

 

堀越貞延…今川家の武将。今川本家と血が繋がっている事をアイデンティティーとする小心者。権謀術数は得意だが、戦は二流三流。欲望に流され福島正成に味方するも、敗戦直前に今川良真の首を持って助命を願いに行こうとしていた所を討ち取られる。

 

 

<武田家>

 

武田信繁…武田信玄の妹。父親の信虎からは姉よりも可愛がられていたが、本人は姉を尊敬しており、父の意向には従う気はなかった。家族のあり方と歪みそうになる姉との関係に悩んでいたが、自分のありのまま姉と接すれば良いとのアドバイスを受けて、少し気が楽になる。史実では第四次川中島の戦いで激戦の末討ち死にしたが…。

 

 

 

オリキャラはこの後もまだまだ登場する予定です。関東は武将が多いのに、原作だとほとんど出てきませんから。男も結構います。個人的なイメージですが、関東と四国、東北、北陸は姫武将がそこまでメジャーではなく、東海や甲信、近畿、中国、九州なんかはメジャーだと思ってます。理由は多分単純に都からの距離かなぁと。

 

北条に姫武将が多いのは、元々が京の伊勢家の出だからと理由づけをしてます。

 

この後も、黄地八幡こと北条綱成や北条シスターズ、北条家臣団、のぼうの城で有名になった成田一族。房総の反北条の代表格里見家、常陸の鬼の佐竹家、不死鳥こと小田家、権謀術数の名門古河公方足利家、関東の旧覇者山内上杉家と扇ヶ谷上杉家、上野の猛虎長野家なんかが登場します。他にも千葉家、結城家、大掾家、下総相馬家、上総武田家、小山家、佐野家、宇都宮家、那須家、上総土岐家、江戸家、多賀谷家等々メジャーな勢力からマイナーな国衆まで登場する予定です。

 

お楽しみに。




解説は今後は多分ないと思います。今回は自分で、説明が足りなかった部分があると反省したので付け足しました。

今後は大丈夫だと思いますが、もし何か分からないことや変だなと思ったら感想で教えて下さい。


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第7話 帰還

今回で花倉の乱関連は終わりです。


乱は終わった。正確には終わらせた。城は落ちたのである。

 

馬上の人となって、昨日は多くが殺しあった戦場の中央を突っ走っている。朝日に照らされて眩しい。前方には、自陣が見えてきた。そのまま陣中に駆け込み、馬を降りる。

 

「ひぇぇぇ乱暴ですわ~もうちょっと穏やかになりませんの~」

 

と騒ぐ姫はガン無視して陣の中央に向かう。

 

「ただ今戻りました。一条兼音と」

 

「多米元忠帰還いたしました」

 

「お約束通りに、花倉城は落として参りました。此度の争乱は終わりましてございます」

 

「……」

 

「氏康様?」

 

「本当に落としてくるなんて…いや、でも良くやったわ。元忠もお疲れ様。ゆっくり休みなさい。後はこちらが上手くやっておくわ」

 

「「はっ」」

 

「こんなに鮮やかに城が落ちるのは初めて見たわい。こりゃあ氏綱様にも報告せねばならんの」

 

「そうね。二人の軍功はきちんと父上に報告します。それ相応の恩賞が出ると思うから楽しみにしておきなさい。…それと、兼音」

 

「はっ」

 

「……そこの女は誰?」

 

「あ、これはその、福島越前守の遺言にて、出来れば孫娘を助けて欲しいと……」

 

「それで連れてきたと。何してるのよ……」

 

「あいや待たれよ。左様に思い悩むことはございませんぞ。今川とは此度は手を組みましたが、いつ敵になるやも分かりませぬ。今川の血を引く今川義元にとっての不安材料を我らが持つのはそう悪いことではないかと。特に義元が世嗣ぎを残さず死んだ場合は特に」

 

「……分かったわ。でも、それまでただ飯食らいを置いておく訳にもいかないわよ。ましてや箱入りの姫で武勇もない。知力も無さそうとくればますます気が乗らないのだけれど」

 

「それについてはご安心を。助けたのは私の一存。誠に不本意なれど、これを何とかして養っていきます。有事まで。まぁ、ただ飯を食わせる気はないので、最低でも仕事はこなせるように指導しますが」

 

「ならばよろしい。内緒にしておくくらいはやっておくから」

 

「ありがとうございます。ほれ、お前からも何か言わんか」

 

「ありがとうですわ」

 

「話し方から改善ね」

 

「……はい」

先は長そうだ。

 

「それでは私は先に休ませて頂きます」

 

と大あくびをしながら元忠は戻っていった。私はこれから氏康様、間宮康俊と共に今川義元と太原雪斎の所へ向かわねばならない。今回は元忠も盛昌のお休みらしい。あれ、これ私は睡眠出来ない感じ?

 

 

 

 

乱が始まった時に集められたように、参加武将一同が集結している。

 

武田信繁や誰が誰か教えてもらったので判別出来るようになった岡部元信や朝比奈泰朝なんかもいる。信繁はこちらに気付いたようで、少し笑いながら軽く手を振ってきた。こちらも礼で返す。

 

あくまでもまだ無位無官なので、末席に座り、謁見を待っている。あの義元の事だ。時間通りに来るわけがないのだが、もう結構またされている気がする。主がキレそうなので早く来てくれ。

 

「あいや待たせた。すまぬ。お揃いですな。それでは始めましょう。まずは義元様よりお言葉を」

 

「皆さま、わたくしの為にお疲れ様でしたわ。……それでは雪斎さん、後はよきにはからえですわ~」

 

「はっ」

 

またか。またこのパターンか。もう何も思わなくなってきた。これと良く似た人物がうちの陣内にいると考えると萎える。 

 

「まずは各々方の奮闘感謝いたします。無事、乱は終了いたしました。特に援軍の武田北条両家には厚く御礼申し上げます。今川良真は花倉城内で自決して果てたようであります故、今後今川の御家も安泰でありましょう」

 

良かった。バレてない。あの侍女の人はちゃんと役目を果たしてくれたのか。帰ったらあの姫に侍女さんの事を忘れないようにきつく言っておくとしよう。

 

「さて、今回の勲功一等は当家の……と言いたい所ではありますが、我らの不甲斐なさ故に北条殿の家中の将に取られてしまいました」

 

芝居がかった声の態度に軽く笑いが起きる。

 

「北条氏康殿の家臣、一条兼音、前へ」

「はっ」

 

名前を呼ばれ、前に出る。諸将の目線が刺さる。特に岡部元信からは殺気を感じる。

 

「此度の働き誠に見事であった。敵将福島越前守と堀越貞延を討ち取り、花倉城を陥落させたるその武功、誠に称賛すべきなり。故に、ここに義元様よりの感状と太刀を贈る」

 

「ありがたき幸せ」

 

感状は普通は主より家臣に与えるものだが、稀に主と同等あるいはそれより上の相手よりもらえることもある。内容は武功を証明しており、履歴書に近い。効果は半永久的に保証され、例え主家が滅んでも新たな仕官先に役立つ。

 

「太刀は備州長船倫光の大太刀なり。これに」

 

「はっ」

 

「かつて富士の御山に降り来た隕鉄より造りし剣なり。姉妹剣は将軍家にも献上させれておる」

 

差し出された大太刀を受け取る。普通の刀よりは大きい。大きいというより"長い"が表現的に正しいのだろうが。これを使いこなせるように修練しなくては。今の剣はそんなに良いものではない。剣の良し悪しだけで勝敗が決まるわけではないが、悪いものよりは良いものだ。こんな良さげなものを貰える程の事なのかは今一つ分からない。戦国における手柄の評価基準と報酬の基準が分からない。

 

その後も、順調に進んだ。参戦のお礼は金らしい。そう言えば、甲斐や佐渡ほどではないが、今川領内にも金山があった事を思い出す。なるほど、資金源はそれと海運貿易か。塩の専売もある。今川が石高よりも多く兵を出せる理由がそれだ。

 

太原雪斎には警戒を含んだ目線で見つめられていた。どうやら黒衣の宰相の脳裏に名前が刻まれたようだ。これが果たして良いことなのか悪いことなのかは分からないが、いつか越えていきたい壁であることは間違いない。いつかまた会うこともあるだろう。そのときは果たして敵か味方か。それは分からないが、このままでは終わらない気がした。

 

 

 

 

 

 

全てが終われば、後は撤収のみ。陣は片付け終わりそうなので、そろそろ出発である。ここから2日ほどかけてまた北条領に戻る。

 

いやー、やっと帰れる。疲れた。色々濃すぎた。

 

「ちょっと良いかしら」

 

「あ、氏康様どうされましたか」

 

「兼音。あなたにお客よ」

 

「へ?あ、はい。誰だろう」

 

「あっちで待ってるわ。まったく、何をしたら武田の姫と縁が出来るのだか…」

 

「あはは、すみません。少し抜けます」

 

「分かっているとは思うけれど、武田は仮想敵よ。馴れ合わないでとは言わないけれど、余計な事は言わないように」

 

「心得ております」

撤収準備をしている陣の中を抜けて、外に出る。遠くにはいまだに黒い煙の立ち昇る花倉城が見える。隣の陣にいた今川の将は既に撤収したようで、その跡地に武田菱の旗が見える。この頃はまだ有名な風林火山ではない。

 

軍勢の中には、こちらに気付いて手を振る姫武将が一人。

 

「一条さん。まずはこんにちはです」

 

「こんにちは、信繁様。何か用がおありとか…?」

 

「はい。お礼を言おうと思いまして。姉上とのこともそうですが、何より私の目標となってくれた事をです」

 

「自分など、無位無官の弱将。信繁様は、私ごときよりももっと憧れるべき存在が多くいるのでありませんか?」

 

「そう、かもしれません。でも、私も決めたのです。あなたと同じように文武の道に優れ、その力を以て姉上をお支えしたいと」

 

「私が文武両道かはさておき、良き志と思います。となると、いつか戦場にて会うことになるやもしれませんな」

 

「はい。未来の武田と北条が末永く手を結んでいることを願います。…もう行かねば。また今度文を送ります。氏康様にお聞きしましたよ、様々な事にお詳しいとか。色々教えて下さいね。お返事待ってますから」

 

「私などで良ければ喜んで」

 

「それでは、またいつか」

 

「はい。またどこかで」

 

それだけ言うとお互いに馬の向きをくるりと変えて戻る。未来の武田家の中枢部、しかもNo.2の武田信繁と繋がりが出来たのは大きいことだと思う。まだ価値はあまりないが、甲相駿三国同盟が締結されれば、大いに使えるだろう。お互いに。

 

史実では、彼女は川中島で散る。この世界での運命がどのようなものかは分からないが、もしある程度流れに沿って進むなら、彼女もまた…。彼女が死んだことにより、武田信玄はより攻撃的になり、No.2を失った武田家もまた斜陽への第一歩を踏み出す。もし彼女が生きていたら、駿河を獲得するか否かで武田義信を切腹に追い込むことは無かったと言われている。

 

川中島の時は三国同盟はまだ生きている。それを口実に援軍を送るのもありだと思った。もし歴史がどう進むのか分からない以上、生き残る確率もあるのだろうけれど、介入してしまった方が確実だ。

 

まぁ、それはその時になってみないと分からない。援軍を出せる状況にない場合も考えられる。私自身が出陣出来ない場合も。まだ未来の話だと思って思考からは追い出した。むざむざ死なせるのに悲しみを覚えるほどには、関わってしまったのだと思った。

 

 

 

 

 

 

 

箱根の山を越えて、小田原が見えてきた。あんまり月日は経っていないのに、久々に感じる。駿河とは微妙に違う相模湾からの海風の匂いが鼻を満たす。

 

帰ってきたのだな。もはや、すっかりここが私の家となっている。

 

城に戻ると家の中が少し埃っぽい。こういうのがあるから誰か家政婦的なのが欲しい。誰もいないとあっという間に埃っぽくなるからなぁ。まぁいい、掃除は後回しだ。評定に出なくてはならない。報告会である。

 

 

 

 

「……以上、此度の戦の顛末でございます。花倉城は落城し、今川義元が後を継ぎ太原雪斎が補佐しております」

 

間宮康俊が代表して氏綱に報告している。我々はあくまで付属の与力なので、ここではその報告を黙って聞いている。

 

「うむ。委細良く分かった。北条の存在を今川に再認識させることができたようだな」

 

「はっ、それに関しては存分に。我らの名は深く刻まれたでしょう。若い者たちも大活躍でございました」

 

「話は娘より聞いておる。凄まじい活躍をしたものがいたようだな。こちらでも称さねばなるまい。一条兼音前へ」

 

「はっ」

 

諸将がガン見してきているのが伝わる。ちょっと緊張するからやめて欲しい。

 

「そう緊張するな。注目しておるのだ。何せ、お主の働きが知らされた時は皆驚愕のあまり腰を抜かしかけておったわ。小田原城内は大騒ぎだったのだ。甘んじて受け入れてくれ。さて、此度の戦の働き、大儀であった。大将首に城落とし、いずれも若年の者にそうそう成し遂げられる事に非ず。故に、褒美を出すが何か望みはあるか」

 

そう言えば、立身出世をせねばならんと思ってはいたけれど、具体的に何がどうなれば良いのか良く分かってない事に気付いた。

 

「…俸祿を上げて頂けると幸いです」

 

「それだけで良いのか?もっと他に要求しても良いのだぞ」

 

「でしたら、そのもう少し広い家を下さい。不本意ながら同居人が増えまして…」

 

「同居人のう。まぁ良い。その程度ならいくらでも与えようぞ。ううむ謙虚なのは良いがこれでは儂が吝嗇しとるみたいであるな…」

 

「申し訳ございません。このような事に慣れておりませんで…。何をお願いしたら良いか分からず」

 

「謝る事ではないがの。しかし、そうか……ならば、二つから選ぶが良い。一つは小田原からは離れるが武蔵のどこかの城の城代、二つ目は小田原で普請方の奉行が異動で今空席故、その職に就く。いずれが良いか?」

 

どちらも魅力的ではあるが、今はまだ小田原から離れたくない。城持ちも悪くはないが…普請方となれば江戸時代だと城などに代表される土木系の統率を行っている役職のはず。こっちの方が良さそうだ。城造りのノウハウを実践する機会にもなる。

 

「後者を所望致します」

 

「うむ。そうか。では、励んでくれ。元忠には、加増を行う。良いな」

 

「はっ」

 

あ、そうかそうですよね。元忠は多米家の次期当主。知行持ちなのは当然か。

 

「万事片付いたようだな。これにて評定を終わりとする」

 

「「「「ははぁ」」」」

 

全員で頭を下げて、氏綱退出を待つ。いやはや仕事が変わるものの俸祿も増えるし、家も広くなるし良いことですね。頑張っていきましょう。

 

あ、あの姫を放置したまま来てしまった。やべぇ。回収しにいかないと何をしでかすか分かったものじゃない。

 

 

 

 

 

 

 

「えー、ここが新しい屋敷らしい」

 

「まぁ、前の屋敷よりはこじんまりとしてますけれど、悪くは無いですわね」

 

「こじんまりは余計だこじんまりは」

いくつか紹介してくれたが、そんなに広い必要は無いと告げるとここが用意された。現代の普通の家4つ分くらいの敷地だ。広いと思うかもしれないが、昔の建物はまず第一に基本平屋なので縦に積んでいた分が横になっている。あと、現代より設備をコンパクトに出来ない。

よって必然的に少し広めになるのだ。

 

中は普通の武家屋敷といった感じだ。女中を雇えるかはまだ不明だが、部屋はそんなに多くないので二人で掃除すれば意外となんとかなるかもしれない。ホワイト企業(殉職あり)の北条家は基本現代換算で午後6時退勤だ。

 

「助けた責任を取って仕方ないので、ここでお前と暮らす事になる。変な事したら追い出すが、普通に暮らしているのなら咎めはしない。あと、暇なときはこれを読んでいろ。ただ飯食らいをいつまでも置いておくほど物好きじゃない。城で働けるくらいは知識をつけろ。良いな」

 

「これ、全部ですの……?」

 

「そうだ。全部だ。肉体労働よりましだろう?試験もやるのできちんと学ぶように。唐天竺の書物や本朝の書物だ。全部揃えるのに結構な金が掛かったのだからものにしてくれ」

 

「うぅ……」

 

「あと、服とか寝具とかも買ったから感謝してくれ。寝る部屋はこればかりは申し訳ないが部屋が無いので同室だ。良いな?」

 

「え、え、殿方と同室ですの……」

 

「悪いがこうでもしないと私が廊下で寝るはめになる」

 

「あ、わたくしが廊下という選択肢は無いのですね」

 

 ……考えてもなかった。

 

「こほん。多少は家事もできて欲しいが、まぁ多くは望まない。取り敢えず、お互いに日々を普通に過ごせるように努めていこう」

 

「はい。分かりましたわ」

 

「ま、もし私が出世した暁には、お前は副将になれるやもしれん。頑張れ。あと、名前をなんとかせねばならん。今川良真のままでいるわけにもいかない。新たな名を考えてくれ」

 

「新たな名……」

 

「真剣に考えろよ。未来に名が知れ渡るやも分からぬしな」

 

「……」

 

真剣に考えている。名前とは自分を指し示す一番メジャーで重要なもの。現代人には想像しにくいが、この時代は名前を変えるのはわりと良くある。とはいっても真剣に考えないかと言われればノーだろうし。

 

「決めましたわ」

 

「ほう、そうか。何にした」

 

「花倉越前守兼成(かねしげ)はいかがでしょう。兼の字はあなた様から貰いまして、成と官位はお祖父様から貰いました」

 

「名字はそれで良いのか」

 

「はい。わたくしはあの城で一度死に、そして生まれ変わりましたわ。故にこの名なのでございます」

 

「分かった。主にはそう報告しておく」

 

「不束者ですが、これから何卒よしなに」

 

「こちらこそよろしく頼む」

 

笑顔だけは一級品だ、と思った。これからしばらく奇妙な二人組の奇々怪々な生活が始まると思うと疲れるが、ま、そう悪いものではあるまい。

 

そう思ったそばから早速障子を破った姿をみて、ため息しか出てこなかった。ここに飛ばされて早くも半年以上が経った。ここでの暮らしは退屈することは無さそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<未来における姫武将情報>

 

花倉越前守兼成。一条兼音に仕えた一条家の筆頭家老にして副将。一条家の最古参の武将である。一条兼音の出陣したほぼ全ての戦闘に参加している。仕えた時期は大体花倉の乱前後と考えられる。知勇兼備の名将と謳われ、北条家の直臣にもなれると言われたが、頑として兼音の家臣であり続けた。

 

ルーツは全く分かっていない。本人も黙して語らなかったと言うが、文献によれば今川義元の庶子の姉、今川良真ではないかと言われている。




次回以降は、河越城攻略戦と主人公のお仕事のフェーズです。(注意:河越夜戦ではありません。)



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第2章 勇往邁進
第8話 新任務


河越は表記間違いではなく、戦国ではこう呼ばれていたそうなので名前をそちらに統一しました。

北条綱成はもう少し後に登場します。


花倉の乱が終わった今、次なる北条家の戦は河越城攻略戦である。河越城と言っても、後世に有名な河越夜戦ではない。あの戦いでは河越城は既に北条家のものとなっている。

 

現在の河越城は扇谷上杉家の本拠地だ。上杉朝定が城主である。この人物は史実だと河越夜戦で討ち取られる。その結果扇谷上杉は滅亡。武蔵は北条家の手に渡る事となる。その前哨戦が河越城攻略戦なのだ。上杉朝定を武蔵松山城へ追い出して、北条家のものとする。

 

そしてここには北条家きっての勇将、北条綱成が…ってあれ?いないんだが…。え、ちょっとまずいですよ。何で北条綱成いないんですか?まだ来てないのかな。

 

北条綱成は元々北条一族の人間ではない。史実だと氏綱の娘を妻として、氏康の義弟であった。この世界では男か女かまだ分からないけど。そんな綱成の出自は福島家。花倉の乱で福島正成が殺られ逃げてきたと言う。正成との関係性は子とも親戚とも言われている。ってあー!福島正成討ち取ったの私じゃないか。

 

顔面蒼白になる。まずいまずい。このまま来なかったら当家は滅亡ぞ。頼むからやって来てくれ。ひたすら祈りを捧げる。来たら福島越前守から預かってた太刀を返さなくてはいけないし。

 

 

 

 

 

 

「一条様。こちら勘定方より返されました書類でございます」

 

「ああ、はい。受けとります」

 

思考を止め、現実に意識を向ける。短い休憩は終わりのようだ。

 

「橋の普請はこの通りの計画で予算を組めるとの事です」

 

「そのようですね…よろしい。では、そのまま作業に入るよう指示をお願いします」

 

「はっ」

 

普請方の仕事は多岐に渡る。街道や橋等のインフラ面の整備。村や街などの整備。寺社の整備。そして城の建築や補強、整備などである。インフラと言っても鉄道も水道も電気もネット回線もないのでその点現代よりは楽だが、反面重機が使えないので大変だ。

 

築城は基本我々ではない他の武将が縄張り(設計図)を作り、我々が実行する流れだ。

 

日々多くの普請依頼や命令が来る。鶴岡八幡宮や鎌倉五山の寺からも建て直しの依頼が来る。鶴岡八幡宮は数年前に再建しただろ。もう壊れたのか?腹立たしい。

 

「一条様…その、私の書類が勘定方から突っ返されてしまいまして…」

 

「どれ、少し見せて下さい」

 

「こちらです」

 

「どれどれ…あー、これはですね。曖昧だから突っ返されましたね。この内容は何をするかとだから金をくれの二つしか書いていません。これでは予算は出せません。工期や雇う職人の数、材料費や運送費なども考えなくては。金は無限に湧いてくる訳ではありませんよ」

 

「しかし、そのような事を精査していては仕事量が」

 

「皆、やっていますが?それに、きちんと真面目に勤務していれば終わる量を渡しているはずです。譜代の宿老の子弟だからと言って特別扱いは致しません。あなたの勤務態度は前任から聞いております。あまり、真面目とは言えないようでしたが?…それと、よもや、民から搾り取ろう、さすれば金などいくらでも湧いてくると思ってる訳ではありませんよね」

 

「それは…」

 

「馬鹿者。民あっての我らです。民が背けば、我らは生きていく事すら出来ないのですよ?民を蔑ろにした加賀はもはや百姓の持ちたる国となりました。武士は怒れる民の前では数に押されてあっという間に負けてしまいますよ。彼らの血税を無駄にすることは許しません。不服と思うなら、ご一族の笠原康勝殿に訴えて下さい。もしくは氏綱様ないし氏康様にでもよろしい。もっとも、皆さま我が考えにご同意下さると思いますが」

 

「申し訳ありませんでした。それがしが間違っておりました」

 

「分かればよろしい。仕事に励むように」

 

「はっ!」

 

ふぅ。官僚って大変だったんだなぁ。つくづくそう思う。

 

「一条様、こちらの書類が…。各地よりの陳情です」

 

「……精査します。置いておいて下さい」

 

「分かりました。よろしくお願いします」

 

またドサドサと…。仕方ないやるとしますか。ため息を尽きたくなるが堪えて紙に手を伸ばした。

 

 

 

 

 

特別賞与が出た。いや、正しい名前は違うが、本質は特別賞与、すなわちボーナスである。というのも、割りと真面目に働いていたら、素早い普請に感謝する者たちから城へ礼状が来たようで、それによる特別賞与である。

 

なんの事はない。重機が使えないのならプレハブに頼るのだ。現代でも使われている技術で、部品をいくつか作り、組み合わせて完成とする建築方法だ。スピードが必要な建築は基本これでいく。ただ、橋とかは安全性の為にもう少し時間をかけるが。城とかはこれで割となんとかなる。

 

さて、金はあっても使い道のない悲しい独身男性だ。恋人や家族でもいれば話は別なのだろうが、如何せん私はこの世界へ飛ばされた身。近親者などいようはずがない。同居人が約一名いるがあれは果たして家族枠なのか。まぁでもお互いにもう頼る相手がいないのは事実。向こうは向こうで両親も祖父も死去し、孤独なまま。私は私で一人。案外お似合いというか似た者同士だ。

 

ふーむ仕方ない。最近頑張っているようだし、何か買っていくか。服か装飾品か…。ま、街に行けば何かあるだろう。小田原の街ならな。これからの予定は決まった。

 

 

 

 

「ただいまー。おーい」

 

家に帰ったのに誰も返事しない。出かけてるのか?

 

屋敷の中を探すと、部屋の中で思いっきり寝てた。しかも座りながら。足痛くならないのだろうか。人が労働して帰ってくるとこれだ。頭を抱えたくなる。

 

が、周りをよく見ると、兵法書や歴史書が開かれている。注釈書も一緒にあるし、頑張って勉強していたのは伺える。最近は乗馬も習いに行ってるらしい。らしいというのは人に聞いた話で見たわけではないからだ。不器用なりに努力していると言う話だった。

 

ふぅと息をついて苦笑する。まぁ、努力は認めよう。起こさないように本を片付けた後、布団へ運ぶ。そのまま寝かせてふすまを閉める。さて、夜飯でも作るか。コキコキと肩を鳴らして作業に取りかかった。

 

 

 

 

 

 

「いにしえのいわゆる善く兵を用うる者はいかにするか?」

 

「えーと、あーよく敵人をして前後あい及ばず、集寡あい恃まず、貴賤あい救わず、上下あい扶(たす)けず、卒離れて集まらず……えー、兵合して斉(ひとし)からざしむ。利に合して動き、利に合せずして止まる。ですわ」

 

「その通り。してその意味は分かるか」

 

「要するに敵を烏合の衆とする。そして、有利なら戦い。不利ならば退く。ですわね」

 

「正解だ。よく出来たな。文字を覚えるだけではなく、意味を理解し叩き込む。これが大切だ」

 

「ですが、覚えても実際の戦で役立つのか分からないのですわ」

 

「いや、はっきり言うと使えないと思う」

 

「ええっ、ならわたくしの努力は何のために…」

 

「孫子呉子の兵法書はあくまでも一般論だ。当てはまらない事もある。心構えであり、ある種の常識であり、それを理解した上で戦を進めるのだ。故に無駄ではないがそれさえあれば百戦百勝ではない。まぁ、知らないより知ってる方が良いのだ。さて、次は…」

 

玄関が叩かれる音がした。

 

「ご免!一条殿は居られるか」

 

私を呼んでいるようだ。

 

「はい、ただいま!取り敢えず今日はここまでだ」

 

「はい」

 

片付け始めるのを見てから玄関へと向かう。

 

「いかがされたか?」

 

「伝令でございます。一条殿、至急参れと氏綱様の仰せでございます」

 

「承知した。直ちに登城する」

 

「よろしくお頼み申す。それでは拙者はこれで」

 

「ご苦労様です」

 

伝令を見送ってため息を一つ。今日は休みのはずだったのに…。しかし、呼ばれたなら仕方ない。とっとと行くとしますか。不満気な顔の姫に見送られながら気は乗らないながらに登城していった。

 

 

 

 

 

 

 

「すまぬな。休みだったと聞く前に伝令を出してしもうた」

 

「いえ、お気になさらずともよろしゅうございます。呼ばれたら何時であろうと駆けつける。それが武士でございます故」

 

「うむ。良き心がけよ。さて、お主に命じた普請方奉行の職はどうじゃ。捗っておるか?」

 

「はっ。今のところさしたる問題もなく過ごせております」

 

「そうかそうか。他の文官からも普請方の書類は素晴らしいと報告が来ておるぞ。さて、此度お主に新たなる役目を命じる為に呼んだ。我ら北条は関東八州制覇の野望を持っておるのは知っておるな?その大望成就の為、北武蔵への侵攻を開始することとなった。目標は扇谷上杉の本拠地、河越城である。しかし、河越城の前にはいくつか城がある。大抵は小城故、そこまで恐れることは無いが…」

 

「深大寺城でございますね」

 

「左様。深大寺城が厄介じゃ。そこで我らは深大寺城を迂回して攻める事とする。だが、後詰めを出されたり行軍中に横っ腹を突かれるのも困る。やつらを足止めするためには付城が必要であるとの結論になった」

 

付城とは、攻撃目標の敵城に対して築かれる最前線の基地のことである。

 

「お主にはその縄張りと普請共にやってもらいたい。場所は関戸じゃ」

 

「関戸…分倍河原の近くでございますね」

 

「その通り。やってくれるか」

 

「はっ。お任せ下さい」

 

「そうかそうか。使える資金についてはこちらに書いてある。よく読んで、取りかかるように」

 

「はっ。少し拝見致します」

 

「うむ。お主の提案した測量方法はかなり役立っておるぞ。その紙にも、関戸周辺の地形を正確かつ細かく書けておる」

 

「それはそれは。役にたっているならば幸いです」

 

関戸。現代ではその近くには京王線の聖蹟桜ヶ丘駅がある。小高い丘になっている箇所があり、その周りは平野がある。乞田川と大栗川に挟まれた地域であり、1キロ程先には多摩川が流れている。築城には問題無さそうだ。予算も十分にある。

 

「何か問題はあったか」

 

「いえ。素早く取りかかれるかと」

 

「よし。では励むがよい」

 

「ははぁ」

 

これはまた大きな仕事だ。ともかく、縄張りから始めなくては。

 

 

 

 

 

 

 

 

「という訳で、しばらく出張に行く。後はよろしく」

 

「えぇー困りますわ」

 

「何が」

 

「自慢ではありませんが、わたくし一人では確実に生きていけない自信がありますの。三日で飢え死にですわ」

 

「そんな事言われてもなぁ。連れてった所で何をするのさ」

 

「むぅ……あ、そこ数字間違ってますわ」

 

「え、嘘、そんなはずは……あ、ホントだ」

 

ドヤァァァという顔がウザい。しかし、計算は出来るのか?私より早くて正確で驚いたと同時に何か悔しい。

ちょっとテストしてみよう。

 

「7587×6829は何?」

 

「51811623ですわね」

 

問題だしておいて分からないからクズ紙に計算する。

 

「正解…だと…」

 

「そんなに難しい問題ではありませんわ。…なるほど、ここに川があるから守りやすいと。深大寺への抑えですわね…。あー、こっちと連携して動きを封じて迂回して河越が最終目標かしら」

 

何やら地図を見つつ自分なりに考察を始めた。頭の回転は悪くない。性格はアレだが、才能は秘めている。これはとんだ拾い物かもしれない。兵法書も無駄にはならなそうだ。河越が最終目標だということにも気付いている。

 

これは意外と役に立つかもしれない。

 

「あー、仕事はしてもらうが、着いてくるか?」

 

「はいですわ!」

 

まぁ、良いだろう。私の部下ということで連れていくか。所属は北条家なのだし、一応部下として北条家の武士の名を記した台帳には記載させてある。問題は無いだろう。

 

一応念のため、氏綱様に一名部下を同行させる旨を伝えると割とあっさり許された。出張にもう一人追加が決定した瞬間だった。

 

あいつ、馬ちゃんと乗れるのか…?不安だ。




めちゃくちゃ伸びててビックリしてます。ランキングにも載ってたし、腰を抜かしてます。皆さんの期待に応えられる作品となるよう精進して参りますので、応援よろしくお願いします。

何か感想とか意見、戦国の話とかがあればこっちも教えて下さい。内政の色々とかも…。まだまだ時系列的には原作開始の大分前なので、大事なところを守りつつ読みやすく進めて行こうと思います。


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第9話 築城

城の見取り図はあんまり詳しくなくてごめんなさい。頭の中でのイメージの助けになれば幸いです。


馬に乗りながら街道を北へ進んでいく。今までいた小田原や伊豆は北条領内でも安全な土地だ。しかし、今いる武蔵はそうではない。対上杉戦の最前線なのだ。

 

北条家と扇谷上杉&山内上杉との確執は深く長い。初代早雲の頃から争っている。それもそのはず、実力はともかく権威はある関東管領家の上杉とその領土を奪い、関東管領以前の権力者である北条の名を名乗る勢力の仲が良い訳ない。

 

そんな最前線なのだが…緊張感の無い奴が一名。あーもう締まらない。馬の乗り方が危なっかしい。そのせいでコントみたいになって緊張感が緩んでいく。まぁ、乗れなかった頃に比べれば大分マシだ。

 

武蔵、特にこの辺(海沿いでない)の地域は武蔵野と呼ばれるように、原野が殆どで、城や街道の周りだけに田畑がある。武蔵野の開拓は政情が安定した江戸時代以降の話らしい。ここを開拓できればかなりの収穫が見込めるだろう。武蔵の領有が完了したら進言するのも良いかもしれない。

 

ともかく、謙信が来るまでがタイムリミットだろう。そこまでに確実に武蔵、下総は抑えたい。武蔵と上野の国境と利根川辺りを防衛ラインにして踏みとどまるのが理想だ。生産体制の強化、ひいては富国強兵…やることは多い。

 

要するに、今は景色も何にも無い原野の中にある道を進んでいるのだ。結構暇である。

 

「暇ですわ。何かお話しましょう」

 

「あー、別に良いけど。何について?」

 

「では、上杉家についてお願いしますわ。わたくし、今一つ上杉家について理解できてませんし…これから敵対する家について無知なのはいかがなものかと思いましたの」

 

「明日は雨か雪か強風か…」

 

「ちょっとぉぉぉ!ひどいですわ…」

 

涙目になっているのを見て笑いをこらえる。まぁ、良いだろう。暇なのは事実だし。向学精神があるのは素晴らしい事だ。

 

「上杉家は祖先を遡ると公家に行き着く。鎌倉将軍宗尊親王に従って関東にやって来たらしい。足利尊氏の生母が上杉の娘だった事から栄光が始まった。かつては関東管領であると共に、越後、上野、武蔵、相模の守護で伊豆や下総、下野にも影響力を持つ関東の名門だったが、今はもはや没落寸前だ。越後は守護代の長尾家が牛耳ってる。相模は奪われ、南武蔵も失陥した。残るは北武蔵と上野だけ。しかし、権威は残っている上に一族を結集させれば侮れない敵となる」

 

「公家の武家化なんですのね。質問なのですけれど、山内上杉と扇谷上杉ってどちらが本流として正統性があるのか教えて下さいませ」

 

「ふむ、良い質問だ。どちらも権勢を争っていたが、本筋は上野が本拠地の山内上杉だろう。現在の関東管領も名目上はこの一族だ。昔は別の系統の犬懸上杉が権力を持っていたが…」

 

「上杉禅秀の乱ですわね」

 

「その通り。それで、没落した。他にも色々いるぞ。山内上杉に吸収されかかっている上に、他の一族と異なり我ら北条に仕えている宅間上杉。山内上杉の分家の深谷上杉。越後守護家に、かなり傍流の千秋上杉と山浦上杉。かなりの数が根深く関東と越後に根付いている。こいつら全てを排除するのは不可能だ。そこで、主な勢力の扇谷上杉と山内上杉に狙いを絞っているのさ。同じ一族だが、この二つの系統は不倶戴天の敵同士。今のところは各個撃破が可能だ。故に、今回は河越を落として、扇谷に王手をかけるという訳だ」

 

「そんなに上手くいくか分かりませんわよ?足元を掬われるやも…」

 

「まぁ、その危険性は大いにある。過去の遺恨も全て投げ捨て打倒北条で来られると厳しい」

 

実際そうなったのが河越夜戦だ。両上杉家に加え足利公方まで参戦した関東武将オールスターVS北条家というとんでもない戦いだ。史実では大勝利となるが、この世界ではどうなるかまだ分かったものではない。油断する訳にはいかない。

 

「そうならないようにするのが外交だろう…見えてきたぞ。おそらく、あそこが関戸だ」

 

「小田原よりかなり小さいですわ」

 

「あれと比べて勝てる町は日ノ本に無いだろう。普段いるところが規格外なだけだ」

 

関戸は街道沿いの宿場町として栄えている。元々、鎌倉時代末期に幕府によって造られた凄い古い城があったらしいが、もうその遺構は殆どない。僅かに石垣が旧関戸城の中央部分にあるだけ。その石は後で使おう。

 

相模から職人を引き連れて来ている。また、現地の人々も少しは労働力として加えられるようだ。元々整地が少しでもされているのはありがたい。スピーディーにやらなければ近くの深大寺城から兵を出されかねない。一応その対策のため、厚木や座間の方の城から兵が出ている。築城期間中の深大寺城の兵を引き付けてくれている。

 

また、近隣の土豪の佐伯一族も兵と労働力を連れてきてくれている。自分たちの城になるのだから張りきっているようで、労働力としては大いに期待出来るだろう。

 

潤沢な予算。十分な資材と立地と労働力。これは少し大がかりな工事でも大丈夫そうだ。

 

 

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

「この図面の通りにやろうと思う。出来そうか?」

 

「拝見します。…これはまた大がかりなものですな。ふむ、工期は二ヶ月以内。人数は予定よりも多くおりますので、問題ないかと」

 

「それは良かった。では、早速取りかかってほしい」

 

「はい、お任せあれ」

 

大工の頭に図面を見せても問題無さそうで良かった。急ぎの仕事のため通常より給金が高めなので頑張ってもらいたい。

 

郭の構成はこんな形になっている。一番大切なのは堅牢さではなく、兵が入り、最低限の防衛が出来ること。幸い地形は盛り上がった丘だったので、後は所々削って斜面を急にし、堀を掘った後、余裕があれば門や櫓、木の防壁や竹の柵を付け足す。

 

規模はそこそこだが、様式はまだまだ中世城郭である。近世城郭は建設に時間もコストもかかるので、流石にここでは使えない。もっと金と時間を使える時に披露するとするか。取り敢えず今はこの城を完成させねば。さぁ、取りかかって行こう。

 

 

 

 

 

城も半分くらいまで完成してきた。このまま行けば順調に…。

 

「申し上げます!」

 

「どうしました」

 

「大栗川の対岸に敵兵を確認。数は300ほど」

 

「なんと。直ちに工事は中止。戦闘に入る。厚木・座間両城の兵と佐伯の兵を合流。そうすれば250くらいにはなるはずだ。この城で防衛体勢に入る」

「それが…花倉様がまだ多摩川を渡河中の敵兵を見つけるや否や両城の兵を率いて大栗川側の郭に行きました」

 

え、マジか。不安だ。

 

「様子を見に行く」

 

「はっ」

 

作業中の天幕から出て城外に目をこらす。旗は…難波田か。深大寺の兵だな。川を越えると堀なので接近するか迷っているのだろう。

 

さて、どう対処する…おお!全員弓兵で揃えたか。良い判断だ。和弓の射程距離はおよそ400メートル。余裕で届く。

 

郭から矢が放たれる。敵部隊は撤退を始めた。力攻めには兵力が足りないと判断したのだろう。防衛成功だ。急いで郭へ向かう。そこでは兼成が果敢に指揮を執っていた。

「良くやった。素早く正しい判断だ」

 

「ふ、ふへぇ…。緊張で、腰が抜けましたわ」

 

「……」

最後まで締まらなかったが成長は感じられた。太原雪斎は擁するべき主を間違えたかもしれないぞ。これは可能性の塊だ。稀代の名将になれる要素を持っている。教え続ければ、きっと。やがては北条を支える将となってくれるだろう。

 

その後も工事の途中で何度か上杉方と思われる偵察隊が来ていたが、こちらの兵の数を見て撤退していった。

 

 

 

 

 

分かっていた事ではあるが、重機はやはり偉大だった。工事は人力だと凄い時間がかかる。今回は建造物は既に別の場所で形を作ってもらい、組み立てるのみにしているが、それでも土地の整備に時間を費やす事となる。それでも徐々に完成が見えてきて、先日やっと完成した。

 

石垣はそのまま整備して上にプレハブの櫓を乗っけた。他にも深大寺城に対抗するために施設を付けたので、そこそこの規模になった。

 

兼成はずっと書類作成と計算に追われていた。職人よりも圧倒的な速さで暗算を叩き出すせいで重宝されている。三角関数でも教えるか…。今後の建築の仕事でも役に立ちそうな予感。

 

 

 

 

 

一月くらい居た関戸の町ともお別れである。職人たちは別ルートで彼らの本拠地の小机城下に戻るので、また二人旅だ。馬なので数日で着くので、その点は楽だが。

そんなこんなで小田原へ帰還した。これから報告へ行かねばならない。旅帰りで疲れたので明日以降にしてほしいが、そうも言ってられないのが辛いところ。社畜根性で登城する。労基も労働組合もない戦国はある意味真のブラック企業だろう…。

 

「ただいま参上致しました」

 

「うむ。よく戻ってきた。首尾はいかがじゃ」

 

「はっ。一度敵の攻勢に逢いましたが、これは私の部下が撃退。城は完成致しました。図面はこれに」

 

「見よう。…よしよし。問題ない。これならば深大寺城の抑えとして大いに役立つだろう」

 

「ありがたきお言葉」

 

「褒賞は追って出す。お主の部下にもな」

 

「ありがとうございます」

 

「聞くところによると、その部下とやらは若き姫であり、お主と一つ屋根の下におるとか。なんじゃ、将来を誓いあった仲なのか?」

 

予期せぬ質問に驚いた。確かに世間的に見ればそう思われても仕方ない事してるなぁ…。あれが嫁とか疲れそうだが。決して悪い選択肢では無いが、そういう関係になるつもりはない。しかし、氏綱様め…完全に興味本位で聴いてきてるな。

 

「いえ、そのような事はございません。私は祝言など毛頭頭にございません。北条のお家が関東の王となるその日まで私にそのような出来事は起こらないでしょう」

 

「堅いのぅ。さて、ここからは真面目な話じゃ。お主が関戸に城を建てた事でいよいよ河越城を攻める事となった」

 

「左様にございますか」

 

「それで、お主にも仕事を与える。戻ってきたばかりですまぬが、出陣せよ」

 

「承知致しました」

 

「お主はわしではなく氏康の直臣。氏康指揮下の将として参戦せよ。面子はこの前、花倉の乱と同じだ。よいな」

 

「はっ」

 

「よし。それでは頼むぞ」

 

「御意」

 

退室する。また出陣か。今度は河越城攻略戦。この前の花倉の乱と比べると軍の規模も将の数も違う。そんなにすることは無いかもしれないが、主のために力を尽くすのみ。上杉家の小城を落とすときに武将としての仕事もあるかもしれないし、戦場で工事をせねばならないときもある。忙しくなりそうだ。

 

 

 

 

 

私を見送る北条氏綱の顔色が僅かに悪いことにこのときはまだ気付かなかった。

 

そして、関東全てを巻き込んだ大乱の足音はこの時より聴こえ始めていた。




河越城が落ちたら第一次国府台合戦か…。色々と調べなくては…。


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第10話 河越城陥落・大乱の予兆

ちなみに、この辺の時系列は原作には全く登場しないんですよね。なので、武将たちの自由度は滅茶苦茶高いです。勝手に何人か姫武将にしてます。まぁ、それでも男率は高いです。初期の上杉謙信の家臣団よりはマシですが…。


北条氏綱はかねてより敵対関係にあった扇谷上杉の本拠地、河越城攻略のため、軍を起こした。その数約三万。北条家の全力を注いだ行軍であった。

 

氏綱は既に武蔵の要衝、江戸城と岩槻城を陥落させており、残された扇谷上杉家の城は河越、松山、深大寺などに減少してしまった。ここで河越城を失えば、滅亡までの道を突き進むことになるのは目に見えていた。

 

現在は相も変わらず、長く多い行軍中の兵たちの中でも最後尾、氏康様の隊にいる。氏康様を戦闘の最前線に出す気は毛頭無いようで、氏綱様の可愛がりようが窺える。万が一にも娘が討たれる事など無いように万全の配慮を行っている。

 

「今回は出番が無いようだ。残念だったな」

 

「あのですね、元忠殿。それだとまるで私が血と戦に飢えた狂戦士みたいになってしまうではありませんか」

 

「実際そうだろう?でなくば、少数で城に潜入したりはしない」

 

「それは、まぁ…そうですが。しかし戦狂いと思われるは心外ですな」

 

「まぁまぁ元忠もからかうのはその辺で」

 

「盛昌が言うなら仕方ない。今日はこのくらいで勘弁してやる」

 

「それはどうも…。所で、先ほどから氏康様が憂鬱そうなのはなぜでしょうか」

 

「あー、それはだな…」

 

「姫様は小田原から出るのをあまり好まないのです。城の一室から相模の海を眺めているのがお好きな方で…。氏綱様の教育方針も相まってあのように戦場を厭う方になってしまわれたと言う訳です」

 

なるほど。そんな事情があるわけか。確かに、あの小田原城に居ればそんな考えになるというもの。あそこに籠れば基本的に誰も落とせない。武田も上杉も撤退した。最後は落城したが、あれは降伏開城であって激しい攻城戦に及んだ訳ではない。

 

だが、それでは困る。小田原に籠るのは最終手段だ。上杉が来たときにそれに立ち向かえないと彼らが小田原まで来る道中の武蔵や下総等の国人勢力は上杉に靡いてしまう。それは防がなくては。

 

「花倉の時はそのような顔は見せておられなかったですが何か理由がおありで?」

 

「あ、それは簡単だ。新参のお前に少しは威厳のある主君たる姿を見せようと努めて普通に過ごすようにしていた」

 

「あぁ見えて姫様は気位が高いですから、新参の方からも尊敬を得ようとしていたみたいですね。まぁ、もうそこそこ月日がたって兼音殿が自分を信頼し忠誠心を持っている様子を見て、本当の自分を見せても大丈夫と思われたみたいで、取り繕うのは止めたようですけれど。前は私たち二人や一族の方々以外にそのような姿を見せることはあまり無かったので、少なくとも私たちと同じくらいには信頼されていると思ってよろしいですよ」

 

「それは嬉しいですね」

 

信頼されていると考えれば嬉しいものだ。まさか向こうもこちらから戦国武将"北条氏康である"という理由で最初から一定数の信頼というか尊敬を向けられているとは思ってないだろうけど。

 

「こちらからすれば、お前に姫様を取られたような気もしないでは無いがな」

 

「それは違いますよ、元忠殿。私は取ったりなどしません。何より、私が仕えるより前から共にいらっしゃった三人には、私には入り込めぬ強い絆と深い思い出がありますでしょうに」

 

「確かに、その通りですね…。さて、話は変わりますが、あの拐ってきたお姫様は壮健ですか?姫様も少し気にしておりましたが」

 

「拐ってきた訳ではないのですけどね…。意外にも計算能力があることと、寺に居たためか知りませんが事務作業に少しは覚えがあるようなので、勘定方に臨時で雇って下さるようお願いしました。今も補給担当でここよりも後方にいるはずです」

 

寺で真面目に修行してた訳では無さそうだがな。

 

「最近ではやっと自炊も出来るようになってきましたし。生活力を身につけてもらわねば困るのでね」

 

「お、お前たち二人は、その、同じ家に住んでると聞くが実際どうなのだ…?」

 

「あ、それは私も気になります。普段二人で何してるんですか?」

 

そんな事言われても困るのだが。何をしてるのかと改まって聞かれても上手く表現できないものだな。

 

「何と言われましても…普通に暮らしております。飯を食べ、掃除をして、風呂に入り、寝てます。あぁ、空き時間は兵法軍学に古典教養、有職故実を叩き込んでいます。部屋の都合上同室で寝ておりますけど、特に何もありません」

 

「拍子抜けだな」

 

「もう少し色気のある話があると思ってましたが」

 

自分が誰かに恋い焦がれてる姿はあまり想像できない。

 

「そんなものは無いです。今はまだ色恋沙汰などにかまけている時間はありません」

 

「くそ真面目だな」

 

「お堅いですね」

 

「氏綱様も、同じ事を言っておられました」

 

他愛もない話。陣中であることを忘れそうだ。

 

「申し上げます!北条氏綱様、河越城を攻略なされました!現在城には臨時で弟君の氏時様が入城されております。故に、氏康様以下の隊は周辺諸城の接収を。拒否するならば攻め落とせとの伝令です!なお、氏綱様はこの後葛西城へ転戦するとの事です」

 

「委細承知しました」

 

「それでは、ご免」

 

戦闘は我々の関知していない所であっさりと終わった。この結末は史実通りとは言え、あまりのあっさりとした結果に拍子抜けしたのも事実。こうして北条家は悲願の武蔵統一に王手をかけたのだ。

 

だが、やはりこの世界は流れが早い。本来は葛西城攻略戦は河越城落城の数ヶ月後。こんな早くに始まらない。史実ではこの二城が落ちた事で、第一次国府台合戦の戦因が作られた。

 

第一次国府台合戦の原因は複雑だ。事の始まりは古河公方足利政氏の息子である足利義明が政氏と兄の高基と対立することからである。義明は真里谷信清の保護を受けて小弓城を攻略。ここを領土として小弓公方を名乗った。が、その後信清と対立する。信清が死ぬと真里谷家の内紛に介入して、信隆を追放。信応(のぶまさ)を当主とした。

 

しかし、追放されて大人しくしている信隆ではなかった。信隆は足利高基とその子・晴氏、そして北条氏綱と結び義明と敵対する。そして、義明は軍を起こして下総国国府台に出陣し、北条氏綱と決戦を行った。

 

加えて言えば、河越城が陥落すると、義明としても北条氏の脅威を感じるようになる。下総の千葉昌胤が義明から離反し、氏綱が武蔵・下総の国境にあった葛西城を攻めると義明が守勢の扇谷上杉家を支援したことから、氏綱と義明の対立は必至となった。更に足利晴氏も義明や山内上杉家との対抗上、氏綱と同盟を結び、この動きに千葉氏も合流した。一方、里見義堯がこれを機に氏綱と決別して義明方についた。以後里見とは敵対が続く。

 

そして鎌倉を目指す義明&里見連合軍とそれを防ぐ北条軍は下総の国府台(現在の千葉県市川市)で激突する。

 

これは少し警戒が必要かもしれない。まだ見ぬ下総の戦場に思いを馳せながら、そう考えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同じ頃の武蔵松山城。ここでは命からがら逃げ延びた上杉朝定以下、斜陽の扇谷上杉家の家臣団が揃っていた。目立つのは三人。元々のこの松山城の城主の難波田弾正憲重、その甥の上田能登守朝直、そして難波田憲重の娘婿の太田美濃守資正。いずれも譜代の将であった。

 

「美濃守殿、河越が落ちた失態どうつけるのだ!もはや我らに残されたは松山と深大寺の他数城になってしまったのだぞ!」

 

「お言葉だが、ここ松山で傍観しておった能登守殿には言われとうない!我らとて必死に防戦した。力及ばぬは認めるが、今はそれを論じる時では無かろう!」

 

「今論じずしていつ論じるのだ。この先の進退を城に籠り、主の援軍にも来ぬような臆病者に任せるわけにはいかぬ!」

 

「二人ともその辺にせぬか。主前であるぞ」

 

難波田憲重の制止に言い争いは止まった。

 

「朝直、何か策はあるか?」

 

「はっ。もはやこれ以上退くことは出来ませぬ。もしそうしたならば当方滅亡は必至。かくなるうえは仇敵山内上杉と足利公方、ひいては関東諸将へと呼び掛け、全力をもって北条を潰すより他ありますまい」

 

「能登守貴様、山内上杉等と手を組むと申すか!」

 

ざわめきが起こる。仇敵と組むという発想は、衝撃的であった。しかも公方まで巻き込むとは…。スケールの大きさに評定にいる上杉家臣団は呆気に取られたり、想像できずにいたりした。

 

「美濃守殿。気持ちは痛いほど分かるが、今一番の敵は北条でござろう!」

 

「うぬぬぬ…」

 

長年争い続けた山内上杉と組むことに難色を示す太田資正。しかし、上田朝直の言うことも理解できていた。北条を潰すにはもうこれしか道はない。それは自明であった。

 

「叔父上、いかがでしょうか。時はしばらくかかるやも知れませぬが、機を見て攻め入りましょう。幸い北条は敵が多い。我ら両上杉や公方のみならず、今川とも争いの火種を持つとか。その火種が弾けた時こそ、その時でござろう」

 

「うーむ、もはや是非もなし、か。致し方無いであろう」

 

その言葉に、他の将も頷く。皆、歴戦の将にして扇谷上杉最後の支柱、難波田憲重の意見ならば、と納得していた。

 

「朝定様、よろしゅうございますな?」

 

「………好きにしなさい」

 

「御意」

 

上杉朝定は何の情感もない声で答える。仰々しく礼をした難波田憲重は退席する。他の将も次々と評定の間を出ていった。

 

「ふぅ」

 

小さい体で小さくため息を吐いたのが、かつての大国扇谷上杉の当主、上杉朝定である。父、朝興が急死してしまった為、急遽当主となった年若い少女である。関東には姫武将の風習は一般的ではなく、北条家は例外であった。最近は少しずつ増えつつあるものの、西国に比べると数は少なかった。扇谷上杉家でも本来は男が当主を継ぐはずだったが、朝興に子供が一人しかいなかったため、仕方なく朝定を当主としたのである。

 

年齢はまだ9歳。当然まともに指揮や領国経営ができるはずもなく、難波田憲重が全てを取り仕切っていた。彼女は籠の中の鳥であり、難波田憲重や太田資正、上田朝直ら家臣の傀儡であった。

 

彼らに北条家のように下剋上を果たす勇気はなかったが、何の権限も与える気は無かった。ただ彼らの言うことに首を縦に振ることのみを求められていた。そして、朝定自身もそれに窮屈さや少しの鬱屈は感じつつも、自分は無力である事を知っていたため、諦めを以てその感情を閉じ込めていた。

 

それこそ、河越であのまま死ぬか、捕らえられても良かったと思うほどに。いっそそうなれば自由になれるだろうに。

 

大乱の予感が首筋にえもいわれぬ冷たさ、それこそ刃物を突き付けられたような感じをさせている事を知りつつ、人形のような幼き当主は館の奥へ消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

所は変わって房総は上総になる。この地には、かつて関東に大乱をもたらした元凶の足利公方の当主、足利晴氏の叔父にあたる小弓公方足利義明がいた。彼は荒ぶっていた。北条が勢力を伸ばし、旧秩序を破壊していたからである。旧秩序の破壊はそれすなわち自らの権威の否定である。そこへ河越城陥落、葛西城も陥落寸前の報が飛び込む。

 

そして足利義明は激怒した。必ずかの暴虐邪知な北条家を滅さねばならないと思った。

 

「信応、信応は何処だ!」

 

「ここにございます。義明様」

 

「おお、貴様そこにおったか。お主を呼ぶは他でもない、軍を興すからだ」

 

「はて、何処を討伐なさるので?」

 

「決まっておろう!あの忌々しき北条よ。余の支援する扇谷上杉を滅ぼそうとしている」

 

「はぁ」

 

「そこで、関東に平和をもたらすため、かの暴虐な北条は必ず滅ぼす事を望む。目指すは鎌倉!そこで鎌倉公方になり、これまた忌々しい古河公方に引導を渡せるわ!ハハハハ」

 

乱してるのはお前だろと真里谷信応は心のなかで思ったが、黙っておくこととした。流石に鎌倉までは無理でも、下総に進出してきている北条に対処するべきなのは事実だった。小弓公方方であった千葉家は今にも北条家になびきそうな有り様であった。

 

義明にくっついていけば利用価値はある。普段は脳筋の義明だが、大義名分は得やすい上に無駄に家の格が高いから弓引けるものは少なかった。下総へ権力拡大というのもありだなと納得し、戦支度を始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

安房では一人の男がほくそ笑んでいた。手に持つのは真里谷家ひいては足利義明からの文である。共に北条を討とうという文だった。北条氏綱には家督相続の際に後押しをしてもらった恩はあった。けれど、野望が、戦国武将としての野望がこの手紙を無視することを許さなかったのだ。

 

大した能も無いくせに名門意識は高く、猪武者のように突撃しかしない脳筋の義明には興味は無かったが、下総や上総の利権には興味が向いた。奴を奉じる姿勢を見せれば房総統一も夢ではないと笑いだしたい気分になる。

 

それにもし、小弓公方が死んだなら…。上総にいた自分を押さえつける存在が消える。それは自らの飛躍を意味していた。そして、安房でも戦支度が始まる。

 

中国の伝説上の皇帝、堯の名を持ち、安房の国主となった通称「万年君」、その名を里見義堯と言う。第一次国府台合戦の下地は着々と出来上がりつつあったのである。

 

 

 

 

 

 

そして、北条家でも一人の英雄の命の炎が消えかけていた。その事に気付いた者はまだ誰もいない。




国府台合戦もそこそこ話数が必要そう。資料漁りは終わったので、重厚な内容に出来るように頑張ります。

あ、それと何かリクエストあったら言ってください(メッセージとかで)。主に武将に関してですが。関東勢は大体出てくるかつ設定も固まってるので、それ以外の原作に出てこない越後、奥羽、甲信、東海、畿内、九州四国中国、琉球、南蛮、明や朝鮮等々ですね。この人出してほしいみたいなので本編に出せそうだったら設定考えて出します。よろしければどうぞ。


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第11話 新たな名将

小弓公方、兵を集める。その報告は直ちに小田原城に届けられた。河越、葛西の二城を落とし、遠山綱景を葛西城の城主とし、河越城に取り敢えず弟の北条氏時を置いた北条氏綱以下の軍勢が意気揚々と小田原へ帰還した三週間後の事であった。

 

風魔よりその報を受けた北条氏綱は評定衆を召集。これに対抗するべく対策を始めたのだった。この規模の戦闘を行うには評定衆全てをなるべく集める必要があった。河越城にて周辺の処理を行っている北条氏時と葛西城で最前線にいる遠山直景を除く主要な城主や小田原にて役に就いている者(奉行など)が集められた。

 

次期当主氏康様を筆頭に、多米元忠の父、多米元興や大道寺盛昌の父、大道寺重時を始めとして笠原信為、間宮信元、息子の間宮康俊、狩野泰光、清水康英、石巻家貞、松田頼秀、娘の松田盛秀、一門の北条為昌、氏照、氏邦、氏尭、氏房、直重(全て氏康様の妹)、北条幻庵(妖怪若作り)、葛山氏広(氏康様の叔父)等そうそうたるメンバーである。

 

他にも数人奉行衆がいる。つまり、私も出席している。もっとも席順は末席だが。居れるだけありがたい北条家の最高意思決定機関である。ここでは身分によって席順はあるものの、発言権は平等に与えられている。また、目上の者に意見する事も許される。当主の判断にも異を唱えられるという訳だ。採用されるかは別として。

 

「これより、評定を始める」

 

氏綱様の号令にドミノ倒しのようにパタパタと頭が下げられていく。自分もタイミングを合わせる。

 

「知っての通り、小弓公方足利義明が我らを討たんと兵を集めている。いかなる策を用いるべきか述べよ。」

 

家中の勢力は一応二つ。籠城派(極少数)と出陣派(圧倒的多数)である。籠城派も心の底から言っている訳ではなく、一応こういう策もあるぞという案を出しているだけである。

 

正直、ここは出た方が良いというか出ないとダメだ。里見はここである程度勢力を削りたいし、小弓公方に至っては邪魔でしかない。早く退場してほしいものだ。

 

「申し上げます!里見刑部少輔義堯が小弓公方に付くと宣言しました。公方方と馬を揃え北上の構え!」

 

「里見め!」

 

「誰のお陰で当主になれたと思っておる!」

 

「不義理忘恩の塊よ!」

 

怒りを露にする皆様には申し訳ないが、ここまでは予定通りと言わざるをえない。房総統一を目論む里見は北条の軍門に下ることを許さない。だが、史実ではこの戦いは里見もある種の勝者と言えてしまう。戦では北条が勝ったのにだ。その理由は戦の首謀者、小弓公方が戦死したことにある。

 

武勇に優れていたが激情しやすく、プライドの高い足利義明は息子が討たれた事に激怒して総大将にあるまじき突撃を敢行する。その結果北条方の兵に弓で射られて戦死した。これにより、上総には空白が生じる。真里谷信応は追放した信隆が北条の手によって当主になったことで里見へ亡命。里見は上総へ勢力を拡張する。

 

この里見の勢力拡張が後に北条を苦しめる。苦しめる要因なら取り除かないといけない。里見に上総へ行く余裕があったのは、小弓公方に最前線に行かせ、自軍は割りと後ろの方にいて、公方敗死を聞いてとっとと撤退したからである。つまり、ここで里見を逃がさない事が今回のキーポイントだ。

 

そう誘導する方法を考えなくてはいけない。確か里見軍は主戦場の松戸市周辺ではなく、市川市周辺に陣を敷いていたはず。そこを奇襲するか…逃げられる前に。取り敢えずこの評定が終わらねば何にもできないが。

 

「ふぉっふぉっふぉ。白熱しとるのぉ」

 

ここまで沈黙を保ってきた北条一族の最長老、北条幻庵が突如として笑いだした。見た目こそ20代前半だが、その実年齢は60とも70とも言われている。まさしく妖怪ばばぁである。こんなこと言った日には死ぬから言わないが。風魔の統率も行っているらしい。

 

「たった今、足利義明の城に入れさせた風魔より報せがあった。義明は姫武将などが幅をきかせる北条など許さん。必ず攻め滅ぼし、その暁には氏康を我が側室にせんと息巻いとるそうな」

 

その瞬間、評定の間に殺気が満ちる。戦国の武者たちの本気の殺気が放たれている。当主が率先して目を修羅にしてるし。かくいう私も、そのような事を許すわけにはいかない。潰さなくてはならない理由がもう一つ増えたな。この際、里見より小弓公方を必ず抹殺しよう。

 

「ハハハ、姫様をのぅ」

 

「面白い事を言う敵じゃなぁ」

 

「そのような者が居ろうとはな」

 

「「「「…殺す」」」」

 

勝手にこちらの戦意をマックスにしてくれた足利義明が今回の最大の功労者かもしれない。余計な事を言って敵を利するとか…どうしようもないな。

 

「よし、皆心は決まったな!我が娘の貞節を守るため…ではなく我ら北条の野望の為、小弓公方とそれに与する里見を滅しようぞ!!」

 

「「「「「おう!」」」」」

 

「よし!それでは取り掛かろうぞ。おお、そうだ忘れるところであった。此度の戦より、我ら北条に新たなる戦力が加わる」

 

「一条殿のように新たなる家臣ですかな?」

 

「否、新参という点では同じだが対応は一条とは異なる。武勇をもって知られるも、駿河より流れ、我らに仕官せんと欲していた者じゃ。入るがよい」

 

「はっ」

 

襖の奥より声が聞こえる。開かれた襖では、一人の少女が頭を下げていた。黒髪にサイドポニーの少女。身長はそんなに高くなく、氏康様と同じくらい。年齢も同じくらいだろう。何となく誰か想像がつく。

 

「皆に名を伝えよ」

 

「福島改め北条孫九郎綱成でございます。この度は妹たち共々、氏綱様に召し抱えていただきました」

 

ざわめく一同。明らかに改名された名字に戸惑っている。

 

「殿、北条とは一体…」

 

「うむ。この者は、駿河今川の家臣福島越前守正成の孫で、後継者だったようだが先の乱の折りに越前守の命令により北条を頼り落ち延びて参ったのよ。わしが偶然外出より戻るとき直談判され大いに気に入ったので召し抱える事とした。わし亡き後、氏康の義妹として支えてやって欲しいと思えるほどの逸材である。故に、北条の姓を与えた。氏康に足りぬ純然たる武を担ってくれよう」

 

「よろしくお願い致します。先輩方」

 

戸惑いつつも、皆は頭を下げていく。私は顔面蒼白。こうなることは分かっていたのに、上手い対策を思い付く前に来てしまった。まぁ、その、関わりが無ければ大丈夫。刀は匿名で返せば…。

 

「よし、では綱成はこれよりしばらくは氏康の部隊に組み込まれる。なお、有望株とは言え、まだ新参。これから我が家に慣れるまでしばらくは直接氏康の配下ではなく、一条の部下とする。一条兼音」

 

「はっ!ここに」

 

「お主は同じ氏康の配下にして、先に召し抱えられしと言えどもこの家に来て日の浅い者よ。先達として諸々教えよ。よいな」

 

「…はっ。全て承知いたしました」

 

おおおおおい!このクソ主…。よりにもよって私に預けるとか何考えてるのだ。普通やらないだろ。我、死ぞ?流石に北条の武を担い続けた北条綱成には勝てない。どうしよう。努めてポーカーフェイスを貫くしか無いだろう。

 

「それでは此度の評定は終わりだ。さぁ、皆で北条の為に戦おうではないか!」

 

「「「「「おう!!!」」」」」

 

頭を抱えたいくらいの感情が渦巻いている。悩んでいたら皆それぞれ散ってしまったようだ。氏康様は氏綱様に話があるようでいない。

 

「一条先輩、私はどうすれば…」

 

「あ、はい。すみません。こちらです。着いてきて下さい」

 

案内するのは、最初に小田原に来たときに案内された部屋。その後も氏康様のお呼びだしがあると我々直臣三人衆はその部屋へ向かう。途中ですれ違った女中に仕事の詰め所に置いてある刀を持ってくるように頼んだ。城は広いからどれくらい時間がかかるか分からないが。

 

「ここでしばし待っていて下さい。間も無く、氏康様と他の直臣といっても私を除いて二名ですが、参りますので」

 

「はい。ありがとうございます」

 

会話が続かねぇ。向こうの思惑はよく分からないが、こちらは乱世故に仕方ないとは言え、祖父を討った引け目を感じている。乱の後苦労もしただろう。今気付いたが、我が家の兼成と綱成は従姉妹どうしか。綱成の方が下だけど。

 

「失礼致します。一条様、頼まれました物をお届けに参りました」

 

「ありがとうございます」

 

黒々とした鞘に包まれた立派な剣。自分の今川義元から貰ったやつと勝るとも劣らない。

 

「先輩、それは…!」

 

「お主の祖父、越前守正成殿の刀だ。最期の遺言に一族の者が北条を訪れたら渡して欲しいと頼まれていた。故に今渡す」

 

「遺言…それを聞いたと言うことは、先輩が…」

 

「いかにも。私が越前守殿を討った。花倉城を落としたのも私だ。……恨まれても仕方なかろうとは思っている」

 

「いえ…気にしてないと言えば嘘になりますが、先輩が正直にそれを話して下さり、かつ黙って懐へ納められた刀をきちんと下さったので、いいです。乱世故仕方ないのです。祖父も、先輩のような方に討たれて満足であったと思います」

 

「そうか…それは、良かった」

 

許された、のだろうか。責められてもおかしくは無かった。が、責めないでくれたのは彼女なりの優しさなのだろうか。後輩から信頼されるように努めなくては。

 

ふぅと一息ついているとドタドタ走る音が聞こえてくる。

 

「わたくし追い出されるんですのーーーっ?」

 

「へ、どうしたお前いきなり。やめろよ。今新しく来た後輩を接待してたのに」

 

「聞きましたわよ!新しい子と親密そうにしていたと!あの家は大人三人は狭い。つまり邪魔なわたくしは追い出されてあそこは二人の愛の巣に…」

 

「そんな訳あるか。綱成は綱成で屋敷はあるはずだ。第一追い出す理由もない。しかも、我々二人はそんな関係じゃない。失礼だろう」

 

「…あ、あぁなら良かったですわ。本当にどうなる事かと。女中さんたちが口々に言うのですから」

 

あの女中たちめ。

 

「あ、貴女は、貴女様は…!」

 

そうだ!黙るように言わなくては。

 

「今川良真様…」

 

「違いますわ」

 

思いがけない答えに驚く。まさか自分で言うとは。

 

「今川良真は死にましたわ。燃え盛る炎の城の中で。わたくしは一条兼音の臣下、花倉越前守兼成。それ以上でもそれ以下でもありませんわ」

 

「…………はい。以後お見知りおきを」

 

かなりの葛藤や迷いの末、旧主筋の従姉の事を受け入れる事にしたらしい。本当に出来た人間だ。納得した兼成はバイト中の勘定方へ帰っていった。

 

 

 

 

「そうだ。武勇に優れていると氏綱様が仰っていましたが?」

 

「お恥ずかしい事ですが従軍経験は少ないのです。野盗山賊の討伐が主な戦果です。武田や松平との戦には行ったことがありますが手柄は立てられず…。一騎討ちはしたこともあるのですが、ことごとく逃げられて首は取れませんでした。道場武術は得意なので氏綱様はそれを評価してくださったと思っています」

 

「なるほど…」

 

焦ることはない。この後ものすごい戦果を出していくから。

 

「まぁ、焦ることはありません。里見と小弓公方の勇士達が、貴女を待っています。此度、その武名が轟くでしょう」

 

「だと良いのですが。早く義姉上や義父上の期待に沿って活躍したいので」

 

 

 

 

綱成はしばらく私が面倒を見ることになっている。つまり臨時で私の部下だ。これで取れる戦略の幅が広がる。北条最強の強力な戦力を手に入れ、第一次国府台合戦が始まる。




北条綱成のキャラデザは何となくですが、『寄宿学校のジュリエット』の"狛井蓮季"です。

次回から戦闘が始まります。


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第12話 第一次国府台合戦・前

小弓公方、足利義明とそれを擁立する真里谷信応、そして里見義堯を討つべく、北条軍は二万の大軍を以て北上。江戸城を経由して下総に入ろうとしていた。対する反北条連合軍も国府台城に入城。江戸川を挟んで両軍は睨み合う事となる。

 

 

 

「江戸川を渡河する北条軍を討つべし」

 

国府台城にて行われた軍議はその方向で一応の合意を得ていた。川というのはなかなかに厄介で、足場も悪く、騎馬兵も歩兵もすべからく戦いづらい。濡れれば鎧は重くなるし体力も奪われる。また、進軍速度や襲われた際の対応スピードも減少する。

 

このように戦場において厄介な地形である川をわざわざ渡って行くよりは渡ってくるのを待った方が良いという結論になるのは当然の事であった。

 

だが、連合軍はこの後の細かい戦闘方法において揉める事となる。

 

「ですから、何回も申しました通り、敵軍が渡河中に攻撃を仕掛ければ、いかに大軍であろうとも殲滅は容易きこと!全軍をもって渡河中に攻撃するべきは必定かと!」

 

「否、否。刑部小輔(里見義堯のこと)よ、余は足利義明ぞ?かの足利尊氏公の血を引く日ノ本有数の高貴なる一族の余に、流れ者で血筋も不確かな下民の出たる北条ごときが真に弓引けると思うてか?余の家柄と武勇を以てすれば、渡河後に殲滅も容易かろう。それに、渡河中に攻撃するなど王の戦ではない。その様な振る舞い、どうして出来ようか」

 

「王の戦など、この戦いに勝って後好きなだけおやりになれば宜しい!此度は決戦。いかなる手を用いても勝つべしと心得まする!」

 

「なに、そう心配するな。余が出陣したともあれば勝利は疑いようもない。のう、信応」

 

「はっ。恐らくは」

 

「であろうであろう」

 

「ぐぎぎぎ…」

 

ダメだ。この戦い、負ける。歴戦の名将、里見義堯はこう悟っていた。もはや勝利は難しい。北条は決して馬鹿の集まりでも、弱兵の軍勢でもない。王の戦とかいうよく分からないものを戦場に持ち込むな。そう叫びたかった。

 

公方に至ってはもう勝った気なのか、とっとと酒宴を始めようとしている。既に酒も女も用意されている。この色ボケめ!悪態を押さえながら心で舌打ちする。多くの女を食い散らかしながらなお飽き足らぬか。しかも、北条氏康を側室になどと放言し、北条軍の士気を無駄に上げたという報告も入っている。

 

戦に勝つ者の共通点や特徴等はこの年でも未だに分からないが、負ける者の陣にはいつも同じ匂いがする。歴戦の勘がそう告げていた。

 

真里谷信応も役に立たない。こやつは当主にして貰った恩から足利義明の言うことに頷くばかり。しかも将としても平凡以外の何でもない。凡庸な男と傲慢な男。こんな奴等と組んだのは間違いだったやも知れぬ。歯ぎしりしながら義堯は考えていた。

 

しかし、こんな所で死ぬ気はない。武門に産まれ、下剋上で叔父と従兄弟を追い払い、当主についた。その日より死は覚悟しているが、こんな奴らの為に死ぬのは絶対嫌だった。かくなる上は自軍の損害を最小限に抑えよう。北条の相手は突撃馬鹿の公方に任せれば良い。自分たちは別の所へ行こう。公方を見殺しにして、その空白域を掠め取ってやる。主戦場は国府台の北、松戸と呼ばれる地域ではなく…

 

「分かり申した。これ以上は言いませぬ。されどお願いがございます」

 

「何か」

 

「北条は公方様と異なり王の戦を知らぬ野蛮かつ粗暴な田舎者。いかなる卑怯な手を用いて公方様を害さんと欲するか、分かったものではございません。つきましては、それがし率いる里見軍は主戦場ではないこの国府台城の南方、市川方面に陣を構える事をお許しください」

 

「良い。許す。務めを果たし北条の奇襲あらば必ず対処せよ」

 

「はっ」

 

馬鹿め、巻き添えを食らわないためにわざと陣を遠ざけている事に気付かないとは。これは房総制覇もあながち夢ではないな。安房の名将は暗い笑みを浮かべるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「里見軍が南方へ移動した?確かなのか、それは」

 

「はっ。確実かと」

偵察兵に確認をとる。これは史実通りに進行していると思ってよさそうだ。現在は江戸川を目の前にして横一列に陣を張っている。

その一番下流側の陣、六千の兵を擁する氏康様の指揮下の部隊だ。

 

隣には氏綱様以下の八千、その更に隣には北条幻庵四千、一番上流には遠山直景以下二千がそれぞれ待機している。明朝、一斉に渡河し、敵軍を叩くつもりである。

 

基本方針はそれだが、後の細かい所はどうなるか分からない。氏綱様の部隊は一番最後に来るので、先鋒は必然的に我々である。ただし、氏綱様の意向としては氏康様を前に出したくないようで、実際の前線指揮は家臣団に任されていると言っても過言ではない。

 

評定に出ていた有力な武将全員が出撃するわけではなく、間宮康俊や笠原信隆、清水康英、葛山氏広なんかは参加しているものの、他の将はそれぞれおいそれと居城を離れられない。加えて彼らは本陣にいる。ここは我々で支えなくてはならない。

 

里見ならともかく、足利義明なら大丈夫だろうと思うが、どうだろうか。おそらく、何の指示も来ないのは、我々で大丈夫だと思われているからだろう。いざというときは本隊が出てくるだろうし。北条綱成もいるから問題ないとも思われてそうだが。

 

こちらの将は私、盛昌、元忠、綱成そして何故か付いてきた兼成の五人。最後のはあんまり戦闘で役に立たなそうだが、一応人数にはカウントできる。多分後方で留守番だが。

 

綱成はあまり実戦での自信が持てていないようなので、今回は活躍の場を作ってあげたいものだ。祖父の仇である私とも仲良くしようとしてくれているのは好感だし、良い後輩であるから何かしら礼をしたい。それに、北条家にとっても彼女の覚醒はプラスだろうし。

 

さてさて、これらを盛り込んで、とるべき行動は…

 

 

 

 

 

 

「渡河が終了し次第、全軍による攻勢で敵軍を誘い出し、足利義明を討つべきかと。義明は短気で激昂しやすい性分と聞きます。臣下や一族を討ち取られれば、必ず誘いにのって出てきましょう」

 

「その作戦そのものは問題無いわね。認可します。では、突撃役は誰が?」

 

「はっ。ここは発案者たる私が…と思ったのですが、此度は綱成に行ってもらうのがよろしいかと存じます」

 

「ええっ?先輩、流石にそれは無理ですって…」

 

「不安ですか?家中でその才を示す良い機会かと。氏康様の義妹に相応しき技量の持ち主と知らしめる絶好の場です。それに、貴女なら出来ると思いますけど…。とは言っても流石に貴女一人に行かせるのも問題なので、私と元忠殿も付いていくことになるかと」

 

「あぁ、まぁ、それなら安心です」

 

「…つなに行かせるのは不安もあるけれど、信じるわ。兼音、元忠、つなを、私の妹を守ってね」

氏康様と綱成はかなり打ち解けて姉妹としての信頼関係も出来てきているようだ。良いこと良いこと。この関係が河越夜戦に活かされる。

 

「勿論でございます。私も数少ない後輩ですから、このような所で失う気は毛頭ございません」

 

「必ずや、綱成殿をお守りします」

 

我々二人でサポートすれば大丈夫だ。後に北条最強と謳われる武将だ。すぐにその才覚を見せるだろう。我々の支えもそのうちいらなくなるさ。

 

「先輩方、よろしくお願いします」

 

その言葉に頷く。さて、後は何かあったかな。

 

「あ、それと申し訳ないですが、盛昌殿はうちの兼成と一緒に氏康様の護衛をお願いします」

 

「了解しました。私にはそちらの方が向いてますから、戦場の中心で暴れるのは、そちらのお三方にお任せします」

 

「では、皆様、明日は手筈通りに」

 

全員が頷き、この場は解散となった。

 

 

 

 

 

 

 

夜更けに陣を尋ねて来た綱成と会った。

 

「どうしました。こんな夜更けに。明日はいよいよ戦です。しっかり休めるうちに休まないと」

 

「それは分かっているのです…。でも…」

 

「やはり不安ですか」

 

「…はい。戦場が怖いとか、そういうのでは無いんです。ただ、私に期待されるだけの価値があるのか分からないんです。北条の名を貰い、姉上のお役に立ちました北条家の皆様と共に戦い、先輩によくして頂くだけの資格があるのかと悩んでしまって」

 

「…資格、ですか」

 

北条の名を背負うのはかなりの重圧だったのかもしれない。しかも、いきなり。本人は、北条家中で武功を上げたわけでもないのにこの待遇であることを不安に思っているようだった。気付いてあげられなかったのは、私の落ち度だろう。

 

私とはスタートが違う。一族と共に逃げて、祖父の言いつけに従って北条家当主に声をかけたらいきなり次期当主の義妹になれと言われて。

 

とてもじゃないが、軽く流せるものでは無いだろう。故にスタートが違う。私は、背負っていたものは、無いわけでは無いけれど、彼女よりずっと少なかったから。

 

「貴女にはもう、あると思いますけど。その資格は」

 

「え」

 

「だって、氏康様が貴女を必要としてるじゃないですか。でなければ、貴女を妹として慈しみません。臣下たるもの、妹たるものそれだけでここにいる資格としては十分だと思いますけどね。私は。皆に対して何か思うところがあるのなら、それこそ手柄をとるしかありません。そして自らの存在が有益たることを示すのです。先程も言いましたが、今回は良い機会ですよ。これで良いと思います。貴女はもしかしたらそれじゃ納得出来ないかもしれませんが」

 

「分かり、ました。あ、でも先輩は?先輩へのお礼はどうしたら…」

 

思わず苦笑しそうになる。いい人なんだろうなと思う。お人好しと言い換えるべきか。根本に素直さがある。

 

「私はお礼されるような事なんて何もしてないです」

 

そうだ、私は何もしてない。貴女に親切にすれば、感じている流浪させてしまった事に対する罪悪感を払拭できると思ったから。それに、後輩に優しくするのは先輩として当然だと思っていたから。

 

「いいえ、先輩は、よくしてくれました。右も左も分からなかった私に、仕事や家中の事を教えてくれて…。不安に潰されそうだったのが、楽になったんです」

 

「私が、そうして貰ったというだけです。…まぁ、何かお礼をしたいというのなら、そうですね。私の夢を一緒に追いかける仲間になって欲しいですね」

 

「夢、ですか」

 

「野望と言うのが正しいかもしれませんね。私は貴女と同じような仕官方法なんですよ。相手が氏康様か氏綱様かの違いです。それで、その時にですね、"願わくば戦国乱世の日ノ本において、北条のお家に魂を捧げる今世の張子房とならん"と言ったんですよ」

 

「張子房…」

 

「ご存知ですか?漢の高祖の軍師、張良です」

 

「それは知ってます。でも、すごい夢ですね」

 

「まぁ、とんでもないことを言ってる自覚はあります。…それでですが、張良一人いても漢は天下を取れなかったでしょう。戦に勝つには軍師のみではなく、最強の武に補給を支える名官吏、忠義に満ちた近衛役が必要です。そこで我らの陣を見てください。良い感じにいるじゃないですか。張良が私だとするなら、蕭何は盛昌殿、夏侯嬰は元忠殿。そして、貴女は最強の武、国士無双の韓信だ。あぁ、誤解しないで下さいね。褒めてますから。あいつは晩年はアレでしたが、壮年は紛れもない名将だったのは事実ですし。貴女は絶対韓信本人より人柄が良いので、あんな末路は迎えないでしょうから」

「そ、そんな才は私には…」

 

「あります。私が保証します。…何の証明にもなりませんが。さて、韓信の武があればこそ、張良はその知恵を十分に使える。貴女は北条家最強になって下さい。韓信が嫌なら他の誰でも良いと思います。ともあれ貴女がそうなってくれれば、私は十分に頭を働かせられる。数多の戦術を駆使できる。もし、私に感謝してくれるのだったらこの夢を一緒に追いかけてくれると嬉しいです」

 

言っておいてあれだがなかなかに恥ずかしいことを言ってるものだ。真剣に考えてくれるのが救いだけど。

 

「…分かりました。浅学非才の身ですけれど、先輩の夢、一緒に見させて下さい!それがせめてもの恩返しです」

 

「ええ、よろしくお願いします。共に我らの主を関東の王へと導きましょう」

 

にこりと笑う姿はやっと心の底から安心出来たような、そんな顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

かくして後に北条家が誇る武と智の最強は真の意味で手を取り合った。共に夢を見る。それはその言葉を放った本人の意図以上に綱成の心に響いていた。そして、自分を肯定してくれる言葉は、自分を必要としてくれるのは、とても嬉しかった。見知らぬ地、見知らぬ人、背負う重圧…不安に満ちていた彼女は安心できる場所と人を見つけて心の枷の最後の鍵が開けられた。もはや縛るものは何もない。そして、その名を轟かせる事となる。

 

その最初の戦までにあと僅か。




最後の所が私の出せる恋愛(姫武将との交流)パートの限界です。一応原作リスペクトなんで、恋愛要素も必要だと思うので存在してます。


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第13話 第一次国府台合戦・中

夜が明ける。川の水面を朝日が照らす。対岸には、敵軍の旗が翻っている。

 

 

【挿絵表示】

 

 

昨夜のうちにある程度判明している布陣はこんな感じだ。兵数は大体ではあるが概ね合っているはず。数の面では向こうが一万二千に対してこちらは二万。数的有利はあるが、数だけが戦の行方を決めるわけではない。油断は禁物だ。

 

「先輩、準備完了しました」

 

「こちらも完了だ」

 

綱成と元忠より報告が来る。渡河の用意は出来たようだ。報告とほぼ同時に本陣から法螺貝の音が聞こえる。戦闘開始の合図だ。

 

「全軍、直ちに渡河を開始!」

 

こちらの号令と共にこちらの兵六千が渡河を始める。今は水量も少なく渡りやすい。敵軍は不気味なくらい静かだ。史実通り渡河が完了した我々を叩く気だろう。ここで敵軍がやって来て攻撃にさらされていたら、また結末も変わっただろうが…。

 

「申し上げます!部隊の先頭が渡河を終了し始めました」

 

「あぁ、そのようだな。よし!我らも渡河を始めるぞ。総員続け!」

 

「「「「「応!」」」」」

 

最初に渡河したのは歩兵の部隊だ。主力の騎兵隊はここから渡河を始める。

 

隣の氏綱様やよりその奥にある部隊も渡河を始めている。一斉に来るこちらに対してやはり敵軍は何のアクションもない。足利義明は戦術の初心者なのだろうか。個人の武勇の優劣と指揮官としての優劣は異なる。里見がいたら十中八九襲いかかられていただろう。つくづく運のない男だ、足利義明は。

 

馬上ならば水に浸かりはしないが、川底は滑りやすいので、馬の操縦は最大限の注意を払う必要があった。転倒したら洒落にならない。慎重に渡河を終える。全軍が渡河を終えた頃、やっと敵軍が動き始めた。

 

「敵が来るぞ!最初は防衛だ。守りを固めて付け入る隙を与えるな!敵を消耗させろ!」

 

「「「おう!」」」

 

数はこちらが上。とは言え、損害が多くならないように努めるのが大切だ。今当たっている敵は足利義明の弟足利基頼と息子の足利義純の二千だ。兵数差は圧倒的だが、何度も言うように損害は軽微に。こちらは前哨戦にすぎず、本命は里見だ。

 

「先輩、突撃するのでは…?」

 

「敵は勢いづいているもののその勢いは長続きしないでしょう。守りを固めて疲れと消耗を誘います。そうすると敵の攻めに突撃出来る隙が生まれる。それが見え次第、一気呵成に騎馬で攻勢します。」

 

「なるほど。がむしゃらに攻めるのではなく、穴を見つけると…」

 

「その通り」

 

敵の勢いは削がれている。我々に攻めかかって来た奴等は攻めあぐねているようだ。周りに数千もいると他の部隊が見えないが、撤退命令がないということは、概ね問題ないという事だろう。

 

数はいるのだ。敵の勢いを削げば反撃は容易い。元より北条家の軍勢は守りを得意としている。武田や上杉が攻めならば、北条は守りである。方針として力攻めより兵を損なわない戦いを好む。故に小田原に籠るのだろうな。そんなこんなで守りに重きをおく事に慣れたこの軍団なら、この程度の攻めなど大した事はない。現に敵の勢いを削ぎ、疲弊させつつある。

 

敵の中に手薄になりつつあるポイントが出来始めた。確実に攻勢にムラが出来ている。今がチャンスだ。

 

「綱成!あそこの隙から突破だ!」

 

「分かりました!者共、私に続けっ!」

 

五百の騎馬が一斉に突撃し始める。疲弊していた敵はその攻勢に驚きおののき、隙間が広がっていく。

 

…凄まじいな。先頭と思われる辺りから時々宙を舞う敵兵の姿が見えるのだが…。その姿、無人の野を行くが如し。こうしてはいられない。援護しなくては。

 

「防戦は終わりだ!綱成の開けた穴から一気に雪崩れ込め!」

 

「「「「応!」」」」

 

「元忠殿も突入をお願いしたい」

 

「任された。行くぞ!」

 

突撃していく兵と元忠の勢いに敵は押されている。

 

「敵を高地へ逃がすな!今ここで息の根を止めろ!」

 

彼らの背後には矢切台と言う台地がある。高いところを取られ、体勢を立て直されると不利だ。ここで殲滅しなくては。

 

崩壊した戦線を建て直すのはいつの時代でも難しい。開かれた突破口からこちらの兵が次々と侵入する。たちまち逃走を始める敵軍。すると、にわかに逃走の勢いが強まる。我先にと逃げ出す兵士。何があったのだろうか。そこへ遠くから喧騒の中を切り裂くように声が聞こえる。

 

「北条氏康が義妹、北条綱成、小弓公方が弟君の足利基頼とご子息足利義純を討ち取ったり!」

 

「北条家が臣、多米元忠、小弓公方が家臣の印東内記並びに土屋織部を討ち取ったり!」

 

これらの声によって敵兵は壊走を始めた。前線の小弓公方方の士気はがた落ち。指揮官の多くを失った彼らは軍隊としての形を保つことも難しいだろう。

 

「一条様、我ら弓兵隊はいかがしますか」

 

私には現在指揮下に自分の部隊として騎馬二百と弓兵七百が預けられている。

 

「よし、全員弓の先を国府台城の方へ向け、隊列を組み揃って待機。いつでも射てるようにしておくのだぞ。間も無く、敵総大将がおいでなさるからな」

 

「はっ!」

 

足利義明、待っていろ。必ずお前を蜂の巣にしてくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北条軍が動き始めた頃、国府台城の近くでは、足利義明が北条の渡河を待っていた。

 

「しかし、義明様、本当に宜しいので?今ならば…」

 

「くどいぞ信応。お主も里見と同じ事を申すか。余は高貴なる足利の者。我が軍勢は足利の軍ぞ。渡河した北条が対するは余の弟と息子の軍、すなわち足利の軍である。いかに北条が成り上がりの者共であろうとも、真に余に弓引くなど不可能であろう。フハハハハ」

 

真里谷信応は足利義明のイエスマンであったし凡庸としか言えない武将だったが、それでも一応戦国の世で今まで城を保ってきた。真に無能なら既に滅びている。定石とは言えないが、今まで義明の言うとおりにしてきたら割りと何とかなっていたのだし大丈夫だろうと思っていた。

 

「見よ信応、我らの勇士が北条を攻め立てているぞ!」

 

遠くでよく見えないが、確かに土煙が昇っている。戦闘は思いの外激しいようだ。

 

今回も勝てるかもしれん。下総の何処を自らの所領とすべきか…。里見にはなるべく土地をやりたくない。とらぬ狸の皮算用を始めていた。

 

足利義明は義明で"これは勝っただろう。これが王の戦よ。刑部少輔め、心配性な男よ。最後に余が出れば敵はたちまち壊滅するであろう。鎌倉へ行く日も近いな。そして小田原を落とし、美しいと噂の北条の姫を我が手に…。"等と調子に乗っていたまさにその時である。

 

「も、申し上げます!北条幻庵並びに遠山直景の軍勢により、一色刑部様、椎津隼人佑様がお討死!また、北条本隊により高修理亮様、逸見三郎様、後藤内蔵助様がお討死!」

 

 ここで氏綱の部隊が動いたのである。今まで不気味に渡河をしなかった本隊が一気呵成に攻めてきたのだ。一瞬で渡河し、足利軍を急襲する。この際、部隊を二つに分け、臨機応変に動けるようにしていた。

 

「な、何だと!あり得ぬ。北条の者共め、ま、まさかまことに我らに弓引くと申すのか!ええい北条め、許しておくべきか…!余も出る。馬を持てっ!」

 

「義明様、どうかご自重下さい。里見殿を呼び寄せればまだ勝機はございます。義明様は総大将。万が一にも御身に何かあれば、その時点で我らの敗けでございます。どうか、今しばらくの辛抱を」

 

「うむむ…すまぬな、信応」

 

「いえ、礼には及びませぬ。里見殿に使いを。一刻も早く救援に来られたしと」

 

「はっ!」

真里谷信応は配下に指示を出し、里見義堯の所へと行かせた。が、悪い報せとは重なるもので…

 

「も、も、申し上げます!弟君の基頼様並びにご子息の義純様、揃ってお討死!」

 

この時、足利義明の理性は完全に崩壊した。

 

「な、な、何だとぉ!!基頼が、義純が死んだと申すか貴様!!」

 

「北条氏康の義妹を名乗る北条綱成なる将によって瞬く間に…。そのすぐ後に印東内記様と土屋織部様も北条の多米元忠なる姫武将によって討ち取られたと…!」

 

「うぬぬぬ!おのれおのれおのれぇ!北条の成り上がり者め、姫武将め!もはや許さぬ。泣いて命乞いをしようとも姫不殺の慣例を叫ぼうとも知らぬ!必ず奴等を捕らえ、辱しめ、殺してやる!!我が弟と息子そして多くの家臣を殺した恨み、必ず晴らしてやる!」

 

足利義明の心の中には憎悪以外の何物もなかった。最早彼の頭には北条綱成と多米元忠を殺すことしかなかった。

 

この状況に一番焦ったのは、真里谷信応である。先程までは何とか止める事に成功していたが、今の報せで一気に総て無駄になった。こうなると手がつけられない。兎にも角にも早く里見に来てもらうしかなかった。

 

「今度こそ馬を持て‼️突撃する!」

 

もう、真里谷信応に足利義明を止めることは不可能だった。武を以て知られる足利義明は怒りに満ちたまま北条軍その最も近い位置にいた氏康隊に突撃を行った。その先に大量の弓が待ち構えているとは知らずに。

 

 

 

「…で、あるからして我らは苦戦しております。里見様の四千五百の勇士がいれば戦況は覆ると義明様は仰せです。直ちに救援に来られたしとの事であります」

 

「承知した。あいにくとこちらの予想は外れた模様。こちらには一兵たりとも向かい来る様子なし。刑部少輔一生の不覚よ。かくなる上は少しでもお役に立つのみ。直ちに向かうと言っていたとお伝え下され」

 

「はっ!くれぐれもお頼み致します」

 

去り行く伝令に冷たい表情を向ける里見義堯。

 

「誠に行くので?」

 

問うのは里見家随一の猛将、正木時茂。槍大膳の異名を持つ房総でも有数の武辺者である。

 

「まさか。誰が公方ごときのために骨を折るか。どうみても敗戦であろうに。何を血迷って勝てるなどと言うのやら。揃いも揃って無能の集まりよ」

 

「では、ここに留まると?」

 

「否否。流石に格好はつけねばなるまい。ゆるゆると行くぞ。あくまでゆるゆると、な」

 

「はっ」

 

そこへ足利義明が突撃を行おうとしているとの報が入る。

 

「殿。これは…」

 

「小弓公方め、死んだな。自害志願者とは知らなんだ。そんなに死にたいなら昨日殺してやったものを。そうすれば今頃敗走しておったのは北条であったろうに」

 

「いかがしますか」

 

「撤退準備を始めよ。義明敗死の報が入り次第、直ちに撤退する」

 

これはいよいよ我が野望、まことの物となるやもしれぬ。房総は我が手に納めてやる。北条なんぞにくれてはやらぬわ。笑いだすのを抑えながら、里見義堯は黒い陰謀を巡らせるのだった。

 

 

 

あちこちで策謀陰謀思惑が交差する。国府台の戦いはまだ、終わらない。




いよいよ本格的な戦闘です。見にくい鳥瞰図でごめんなさい。


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第14話 第一次国府台合戦・後

弟と息子を討たれた足利義明は、もはや誰の制止も意味をなさない状態であった。完全に逆上したまま、百騎あまりの手勢を率いて突撃を開始した。その目に映されているのは、遠くに見える北条家の旗印のみ。が、憎悪と憤怒に満ちた彼の脳は正常な判断力を失っていた。そして、怒りのあまり人生最大の失策を犯す。

 

 

 

 

 

「来たぞ。構えろ!」

弓兵隊に指揮を出す。遠くに土煙が見える。騎馬が向かってきてるようだ。徐々にその姿が鮮明になっていく。隊の中央を突き進むのは他とは少し違う装いの男。あれがおそらく足利義明だ。

 

怒りに任せて突撃など、大将にあるまじき行為だ。そうなるように誘導したとは言え、ここまで引っかかるのは流石にどうかと思う。器の問題なのだろうか。考える内にもどんどん近づいてくる。その顔も見えてきた。

 

「まだですか?」

 

「まだだ。もっと引き付ける」

 

あと少し。もう少し。敵が馬に乗っていると動いているため当てづらいと思われるかもしれないが、そんな事はない。特に、こちらに向かって縦に移動している場合は、真っ直ぐに射れば距離が近付いても当たる。横向きに移動されると、移動先を考えて射たねばならないが。

 

的は大きい。外すなどあり得ない。自分も弓を構える。弦を引き狙いを定めた。

 

「よし!今だ、放てぇ!!」

 

号令と共に数百の矢が一斉に突撃してくる敵に向かって放たれた。次々と落馬していく敵将たち。だがあいにくと本命は悪運強く未だ駆け続けている。

 

「うぉぉぉぉ!北条許すまじぃ!!」

 

その叫び声に兵が動揺する。修羅になった男は剣を抜き放ち、こちらへ迫り来る。その距離は益々近付く。

 

「狼狽えるな!第二射、放て!」

 

動揺が少し収まり、再び一斉に矢が放たれた。狙いは定まった。ふぅと息を吐き、一点を見つめ…その一射を放った。風切り音と共にその矢は真っ直ぐに進む。足利義明の額へと吸い寄せられるように飛んだ矢は、狙い通りの場所に深々と刺さった。

 

そして、一瞬動きが止まり、勢いそのまま後ろへ倒れ、落馬した。それを目の当たりにした敵兵の勢いが衰える。

 

「敵総大将、足利義明討ち取ったり!」

 

「「「「「おおおおお!!」」」」」

 

兵たちの勝鬨が天へ木霊する。あちらこちらで敵兵の投降や逃亡が始まった。足利義明は討ち取った。この手で。今度こそ、自分の力で。緊張が少し解け、肩の力が抜ける。ひとまず、目的は達した。史実ではここでこの場所での戦闘は終わる。が、今回はそうはいかない。里見を叩きに行かねば。その過程で途中にいるであろう真里谷信応や足利義明の残存兵を倒すこともしなくては。

 

味方が集まってきたようだ。先輩~と手を降りながらやってくる綱成。その後ろには元忠の姿も見える。

 

「先輩!お見事でした。この後は、どうしますか?」

 

「直ちに兵力を結集。最悪騎馬だけでも構いません。まずは南下して国府台城前の真里谷本陣を落とします。話はそれから」

 

「了解しました。騎馬衆集まれ!」

 

「私はどうする。着いていくか?」

 

「いえ、元忠殿はこれより姫様の元へ行って状況の報告をお願いしたいです。その後出来るなら氏綱様やその他の方にも早急に後に続いて欲しいですね。」

 

「よし分かった。伝令役受けよう。終わり次第合流する。先に行っててくれ!」

 

「お願いします!」

 

これで後詰めも来るだろう。里見は無傷。こちらの戦力では力不足だ。しかも指揮するのは並みの将では無いときた。備えあれば憂いなしだ。

 

「先輩、騎馬衆六百ほど集まりました」

 

「よし、これより我らは疾風となり、真里谷が本陣と足利義明の残党を片付ける。ここで逃がしては後々の憂いとなろう!続け!!」

 

「「「「「応!!」」」」

 

北条氏康隊の精鋭騎馬衆が突撃を開始した。目指すは国府台城。そこに陣を構える者たちである。

 

 

 

 

 

 

 

 

「なん、だと…。それは真か?」

 

「はっ!小弓公方足利義明様お討死!」

 

真里谷信応は息荒く帰って来た者の報告に愕然としていた。自分達の制止も聞かずに飛び出て行った時より嫌な予感はしていた。しかし、武勇には優れていたはず。並みの将では討ち取るどころか返り討ちにあうだろう。

 

「ど、どのような戦死を遂げられたか」

 

「騎馬にて突撃していらっしゃりましたところを北条方の矢が雨の如く降り注ぎ、味方が倒れて行きました。なおも義明様は馬を走らせ剣を抜いておりましたが、敵の大将の一人と思われる者の一矢が額へと当たりそのまま落馬され…乱戦のため遺体の回収はままならず…」

 

「そうか…」

 

ずいぶんと振り回されてきたが、そこそこ長い付き合いだった。思うところは多くある。だが、感傷に浸っている時間はなかった。この報せが入った時、既に兵をまとめた騎馬部隊が猛然と進撃してきていたのだ。

 

「申し上げます!北条方の騎馬兵多数こちらへ進軍して参ります!その勢い凄まじく兵は逃亡し始めております!!」

 

「殿、もはや負け戦です。お早く撤退を」

 

「う、うむ。ただちに退くぞ」

 

ここで真里谷信応に不幸があったとすれば北条軍は稀に見る勝ち戦の勢いに乗っていたこと。そして、その向かい来る騎馬兵は精鋭であり、かつその先頭を突っ走るのは後の地黄八幡、北条綱成であったこと。そして史実にはいないはずの人間がこの突撃を指揮しており、その上彼はここで逃がすつもりなど毛頭なかった事である。

 

史実では、真里谷信応はこの後勢いに乗る北条軍に城を追われ里見家へ逃げ込むものの、最後は里見義堯によって自刃に追い込まれる。最大の失策は、足利義明に逆らってでも里見義堯に同心し、渡河中の北条軍を奇襲しなかった事であるが、全ては後の祭り、覆水盆に返らずである。

 

逃走を図る本陣の外から馬の蹄の音が聞こえ始めた。同時に喧騒がにわかに大きくなる。真里谷信応は間に合わなかった。

 

「殿をお守りしろ!」

 

「決して討たせるな!」

 

兵たちが槍を構える。最早これまでか。敵に生かして帰すつもりはないらしい。真里谷信応は凡庸と言えども戦国武将。唇を噛みしめ、覚悟を決めた。どんどんと喧騒は近付き、陣を囲う幕が地に落ちる。

 

「真里谷信応殿とお見受けする」

 

「如何にも」

 

「言い残す事は」

 

「ない。敗軍の将なれど、せめて関東武士らしく討死するのみ」

 

「あい分かった。お覚悟」

 

最期に見たのは騎馬に乗り大太刀を振りかざす若武者の姿だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

敵兵は浮き足だっているようだった。足利義明敗死の報はもう伝わっているらしく、退却を始めようとしていた。逃がしてはならない。

 

「全軍、あれが真里谷本陣だ!かかれ!」

 

「「「「うおおおおおお!」」」」

 

戦意のない敵を倒す事ほど容易い事はない。そもそも立ち向かう意志がないし、勝手に逃げてくれる。攻撃も精度を欠く。

 

「ひ、怯むな!立ち向かえ!」

敵将たちは必死に鼓舞するも無駄のようだ。士気を立て直すのは容易ではない。とは言っても兵はこの有り様でも将は存在するわけで。

 

「貴様がここの大将だな!我が名は真里谷源三郎信常なりぃ!討ち取ってくれる!!」

 

敵将はこのように突撃してくる。実際問題、敵の将を討ち取るのは士気を立て直す数少ない手段である。直接的かつ誰でも見えわかるシンプルな方法故に、効果は大きい。

 

馬上で刀を抜く。日本刀の独特の反りは元々騎馬上で敵を切り裂く為に根元が反っていた。時代と共に馬上で敵を切り裂く事が減ったため中反り(刀身の真ん中が反っている)になり、そして先反り(先端が反っている)になっていく。この刀は中反りだ。南北朝時代に作られた名刀備州長船倫光、その力を見せてくれ。

 

馬上で使うことは減ったが使わない訳ではない。相手は騎馬で突撃してくる。こちらも騎乗し相手へ突撃で立ち向かう。綱成が来るまでは若い武闘派と言えば多米元忠だった。その元忠からみっちり稽古をつけられた。その腕はけっして劣らないと自負している。

 

「はぁぁぁぁ!」

 

迫り来る敵将。その剣が振り下ろされるより速く、こちらの剣で切り裂く。一瞬視線が交わり、馬がすれ違う。こちらの剣には確かに手応えがあった。傷を負っていないことから、敵の攻撃は宙を切ったらしい。

 

振り向けば、胴体から真っ二つの敵将であった亡骸があった。あまりの光景に自分の手を見る。刃こぼれ一つない刀身が血に濡れながらもそこにはあった。今川義元、何てものを渡してくれたんだ。鎧を貫き綺麗に胴体を切り裂く大太刀。凄まじい逸品だ。感謝するとしよう。使い方を誤ると自分が真っ二つになりそうだが。

 

あまりの切れ味に少し引いていたが、そんな事してる場合ではない。敵はまだ残っている。

 

敵本陣まであと少し。その前方では相変わらず敵兵が宙を舞っている。恐ろしい。

「貴様が北条綱成だな!小弓公方が臣武田一郎右衛門推参!!」

 

「義明様の仇、ここで取る!足利が臣鴻野修理である。その首貰うぞ!」

 

「信応様をやらせはせぬ。西弾正参る!」

 

敵将三人が一気に躍りかかる。一対三なら勝てると踏んだのだろう。だが、認識が甘かったな。相手は北条最強。関東でも五本の指に入るだろう武勇の持ち主。その辺の者では何人でかかろうと…

 

槍の一閃でことごとく首を切り落とされるだろう。現に、先程まで勢いよく名乗りをあげていた敵将三人は物言わぬ骸になっている。一呼吸の間に、何の声を出すこともなく討ち取った。流石と言わざるをえない。

 

敵はもう壊滅寸前だ。最後のだめ押しに本陣へ突っ込む。中にはもう殆ど人はいない。皆逃げ出したようだ。本陣中枢の大将がいるであろう場所へ向かう。幕を蹴散らし中に入れば、敵大将と思われる人物が床几に座っていた。とっくに逃げていた可能性もあったためいささか驚く。

 

助命嘆願でもするかと思ったが、その目は覚悟が出来ていた。

 

「真里谷信応殿とお見受けする」

 

「如何にも」

 

「言い残す事は」

 

「ない。敗軍の将なれど、せめて関東武士らしく討死するのみ」

 

「あい分かった。お覚悟」

刀を振りかざし、そして勢いよく下ろす。上総の名族は叫び声も苦悶ももらさず果てた。戦略はお粗末だし、決して名将とは言えないかもしれない。それでも立派な最期であった。彼らは生きていた。後世を生きる我々はそれを色々と論じるが、彼らはそれでも生きていた。必死に、この乱世を。改めてそれを感じる。

 

いつまでも無情を感じている訳にもいかない。大本命里見は無傷の軍を残したまま、まだ健在である。これを逃しては禍根になる。取り敢えず、一度部隊を整理しなくては。

 

 

 

 

「おおーい!」

 

伝令に出していた元忠が帰還してきたようだ。

 

「もう終わってしまったのか。早いな」

 

「綱成が蹴散らしてまして…。そのおかげで予想よりも手こずらずすみました」

 

「急いできたんだがなぁ。やれやれ。それでだ、氏綱様が全軍を急行させてお前たちの横を通り抜けて国府台城を落とした」

 

全く気付かなかったが、氏綱様以下の一万五千近い部隊が城を落としてくれたらしい。。

 

「一瞬で落城したぞ。今幻庵様を城に置いて氏綱様がこっちへ向かっている」

 

「遠山殿の部隊は?」

 

「そっちは北方の相模台城と根元城の確保に向かった」

 

「なるほど。ではこちらの残存は一万を超えると…」

 

「そうみたいだな。お、いらしたぞ」

 

土煙が見える。多くの騎馬がやって来る。氏綱様自らお越しのようだ。隣には氏康様も見える。安全の為に渡河すらさせず後方に置いてきて安全確保が出来たら渡河して下さいと頼んでいたが、無事合流できたようだ。

 

ちょっと過保護な気がするが、誰も何も言わないので通常運転なのだろう。万が一の事があってはどうしようもないのだし。北条家家臣団は基本的に氏康様に甘い上に過保護だから、その身は安全だ。今回の戦も足利義明が愚かな発言をしたため宿老達を本気モードにさせてしまったという面もあるし。

 

おおっとこのままでは馬上で挨拶になってしまう。失礼過ぎるし普通に打ち首なのでとっとと下馬する。

 

「よくやった。氏康の隊が此度の勲功一等であろう。皆よく戦ったが、この隊の者には特に目覚ましいものがある。まず綱成」

 

「はっ」

 

「我が目は誤っておらなんだな。足利義明の一族二人に加え、多くの大将、雑兵に至っては数えるに両手両足の指では足らぬ。氏康の義妹としてよく働いた。北条の名に恥じぬ働きであったぞ」

 

「ありがとうございます!」

 

他の将からも拍手がおこる。

 

「次に兼音」

 

「はっ」

 

「渡河の指揮、防戦からの反転攻撃そして敵の穴を突く戦術。見事であった。足利義明やその他にも幾人か討ち取ったと聞く。お主もよく働いた。特にこちらの被害を抑えたのは良き策である」

 

「ありがたきお言葉」

 

「そして元忠。お主も足利義明が配下の将を多く討ち取った。また、素早い伝令大儀である」

 

「ははぁ」

 

「三人には追って褒美を出す。それと盛昌もよく我が娘を守った」

 

「当然の事にございます」

 

「この部隊こそ北条の未来を担う若武者の集まりよ!皆も見習うが良い!!」

 

「「「「ありがたきお言葉。感謝の極みにございます」」」」

 

「うむうむ。これより城に入りて直景を待つ」

 

あ、待て待て。これで終わりの雰囲気だがそれはいささか不味い。

 

「あいやお待ち下され」

 

「む、いかがした」

 

「まだ敵は残っております」

 

「里見か…しかし奴等は少数ぞ。今更何が出来ようか」

 

「ここで戦局を覆すのは不可能でしょう。されど、無傷で里見を帰せば当家の災いとなるは必定。小弓公方ならびに真里谷が討たれたことにより上総には空白が生まれました。その隙を火事場泥棒出来るのは無傷の里見でございます」

 

「ふむ。一理ある。しかし、四千で上総の空白地帯すべての占領は不可能であろう」

 

「もし、その四千が総兵力で無かったとしたらいかがでございましょう。国許にまだ兵を隠しておるやもしれませぬ」

 

「…よし、分かった。お主らの三千に(笠原)信隆、(清水)康英の四千を合力させよう。指揮は言い出したお主がとるのだ。良いな」

 

「はっ!」

 

「皆も良いな!」

 

「「「「ははっ!」」」」

 

「深追いだけはするな。圧しきれぬなら直ぐに戻って参れ」

 

「はっ。承知しました」

 

逃げようと言ってもそうはいかない。里見義堯、首を洗って待っていろ。




次回、いよいよ里見との戦闘です。ある意味この戦いの本番かもしれない。


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第15話 第一次国府台合戦・終

「ふはははは」

 

行軍中の馬上にて、里見義堯は哄笑していた。

 

「その報、まことであろうな?」

 

「はっ。確かにこの目で見ました。小弓公方足利義明公はお討死。また、真里谷信応殿も同様と。真里谷並びに足利両家の将兵たちも多数討死。名だたる将がその首を地に落とされました」

 

「よしよし、ご苦労であった。下がってよいぞ」

 

「はっ!」

 

里見義堯は笑うしかなかった。遂に運が廻ってきたらしい。素晴らしい結末だ。彼の脳内には上総の地図が浮かんでいた。真里谷と足利の押さえていた土地は空白となる。奪うは容易い。この戦に参陣していない国人土豪もいるが、大した敵ではないし、恭順する可能性が高い。

 

房総は我が物となる。その日は近い。そうすれば、自分の夢は叶う。あわよくば、関東の覇者も見えてくる。そう考えていた。

 

実際、この考えは正解であり、史実では上総の国人はことごとく里見へ靡いていく。これは里見の勢力圏を拡大させ、北条家を苦しめる。今まで安房の小勢力だった里見家に飛翔のチャンスが来ていた。

 

「殿、お下知を」

 

「うむ。これより我らは全速力で安房へ帰還する。進路反転。急げ!」

 

「はっ!全軍、直ちに撤退だ!」

 

見事と言うべきは里見軍の統率で、急な反転命令であったが誰一人混乱することなく粛々とその命令に従っていた。

 

「良いぞ良いぞ。これで我らは房総の覇者よ」

 

「しかし、そう上手く行くでしょうか。北条軍が追撃してくるやもしれませぬぞ」

 

「であるからこのように急いでおる。兵を損なわぬ為に援軍にも行かなかったのだ。撤退途中に惨敗など、後世の笑い者よ。それに、氏綱は来ぬだろう。あれはそういう男だ。血気盛んな若武者が来るやもしれぬが…その時は返り討ちにしてくれようぞ」

 

若輩には負けはせぬわ、と口角を上げながら馬を走らせる。里見の家の家督を下克上で奪い取ってからもう何年にもなる。あの時より戦場を駆け巡って来た。その戦に彩られた生涯が生半可な若造には負けないという確固たる自信を作り上げていた。

 

 

 

 

余談ではあるが、上総の国は現在の千葉県中部に位置している。現在の東京湾側は市原市、君津市、木更津市、富津市、袖ヶ浦市などが領域であり、太平洋側は鴨川市、勝浦市、いすみ市、茂原市、東金市、山武市などを領域としている。千葉県民或いは千葉県を訪れた経験者ならわかるかと思うが、縦に長いこの地域は山岳が多いものの、結構な広さを持つ。

 

広さに反して先述したように山岳が多いので、石高にして42万石ほど。史実においては戦国時代は強大な勢力が出現せず、それに近かった小弓公方が討たれた後は北条と里見が争った。

 

現在では、酒井氏や土岐氏、武田氏などの国人が割拠している。彼らは今のところ大半が小弓公方に従っていたが、つい先ほど足利義明が戦死したため、実質上独立勢力と化していた。里見義堯の目的は個々の勢力となっているこれらを臣従させ、更に領地を北上させることである。南上総の正木氏は既に臣従しているので、後は残りを片付けるのみであったのだ。

 

 

閑話休題

 

 

 

 

 

 

「殿!後方に土煙が見えます!北条の追っ手かと」

 

「ほぅ?来るとはな」

 

北条軍は慎重な用兵と大胆な奇策を以て戦に挑む。これが里見義堯の北条の戦への評価であった。それの良し悪しについて彼は特に意見は無かったが、そういった評価を下している為にこの追っ手の存在は意外だった。若輩が来るだろうとは言ったが、心の中では北条氏綱はそれを許可しないだろうと思っていた。

 

「誰が大将かのぅ。間宮康俊か、笠原信隆か…」

 

三代目の小娘…はないな。と呟きながら髭を撫でる。自らの叔父と従兄弟を排斥する為に北条家に一時期身を寄せていた里見義堯からすれば、内部事情はある程度把握していた。攻めを主張しそうな将の名も、北条氏康の引きこもり癖も知っていた。

 

「ここまで執拗に追われるか。儂も、偉くなったものだな」

 

「殿!そのような事を仰っている場合ではありませぬぞ。逃走を続けるか、反撃するかしなくては」

 

「分かっておるわ。さて、どうしたものか」

 

答えながらも思考はフルスピードで回転していた。反撃することも出来なくは無いが、なるべく兵を損ないたくない。撃退不可能では無いだろうが、追っ手の数が分からない。ともすれば、迎え撃つのは少々危険だった。しかし、このまま逃げ切れるとは限らない。追い付かれる可能性もある。

 

「時茂。頼みがある」

 

「はっ。何なりと」

 

敵が知恵者か臆病なら退くであろうし、勇猛な者や脳筋なら突撃してきてかつそれを殲滅できる作戦を伝えた。正木時茂は一瞬驚いたが、直ぐにその首を縦に振る。北条よ、かかってくるが良い。貴様らの機嫌を取り助力を乞い媚を売り続けたかつての自分とは違う。一泡吹かせてやりたいものだ。そう思い、また笑うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

里見軍の追撃を続ける。向こうも必死に逃げているようでなかなか追い付かない。向こうは四千五百。こちらは八千。通常なら負けるはずは無かった。

 

「一条殿!敵はもう遠くへ逃げてしまったのではござらぬか?影も形も見えませぬぞ」

 

「あいや、清水殿。まだ遠くへは行っておらぬと思われます。足利、真里谷敗れるの報を聞いてから逃げ出したのでしょうが、だとしたら我らが追撃を始めた時とそこまで時は離れていません。まだ近くにいるはずです」

 

「しかし、そう遠くへは追えませぬぞ」

 

「ある程度行っても追い付けなかったら諦めましょう」

 

「ですな…。む!あれは!里見の軍勢では?」

 

清水康英の指す先に目をやる。確かに里見軍らしき軍勢が見える。

 

「者共かかれ!」

 

本陣で暇していたという清水隊が突撃していく。他の部隊も前進を開始した。小勢の敵だ。余裕で撃破してくれるだろう。だが、どうも嫌な予感がしてならない。

 

「里見軍恐るるに足らず!」

 

兵たちの戦意は高まっている。その為か、一気呵成に突撃していく。このまま押しきれるか…。そう思ったが、そう単純には行かなかった。

 

「押しきれない、か…」

 

のらりくらりとした用兵。押せているようで、その実敵の損害は少ないように見える。それどころか場所によっては苦戦し始めている。敵の倍近くの戦力を擁しているにも関わらず、この結果。苦しいかもしれない。

 

が、ある時を境に突如敵の勢いが弱まる。ともすれば、こちらは数がいる。瞬く間に押し始めた。敵は敗走していく。

だが、勝っているのは事実だが、どうもこの状況に作為的な何かを感じる。と言うのも、敵は敗走していると言いながら、武器はしっかり持っている上に隊列もそこまで乱れていない。

 

罠を疑うが、この短時間での設置は不可能だろう。伏兵が隠れられる場所も平野故に少ない。考えすぎだろうか。いや、疑わないのは危険か…。いずれにせよ、そろそろ潮時である。深追いは危険だ。目的の兵の損失を生むには少しだが成功している。ノーダメージで帰還とはいかないだろう。

 

 

 

 

 

遠くに橋が見えてきた。川があるのか。頭の中の地図を思い出す。確か、真間川。そこまで大きい河川では無かった気がする。この辺は現代だと京成中山駅か下総中山駅の近くだ。

 

敗走する敵の兵たちは次々と橋を渡っていく。

 

「む」

 

橋の上に誰か見える。逃げるでもなく、馬上に居てよく目立つ黒く大きな槍を持っている。敵兵はその横を通り抜け、橋の奥へと消えていく。

 

「なんと!あれは槍大膳!」

清水康英の声で敵将の正体が分かった。槍大膳、正木時茂に遭遇するとは運がない。正木時茂は畿内にまでその名を轟かせる勇者。かの朝倉宗滴の言行録に同時代の優れた武将の名前として織田信長や今川義元、毛利元就等と同列に語られているのだ。

 

そして、この状況は既視感があった。少し考え、既視感の正体に気が付く。橋。それを塞ぐ一人の豪傑。確認すると後方には雑木林。

 

「三國志かよ…」

 

思わず言葉がもれる。三國志で語られる張飛の名場面だ。荊州を曹操に追われる劉備の殿として橋の前に立ち一喝して曹操軍を震えさせ、幾人か挑むも誰も勝てず、また、橋の奥の林に伏兵のあることを恐れた曹操は遂に自らが撤退を開始。その後に張飛が橋を燃やしたので伏兵が無いことはバレるが、劉備は逃げ切った。この戦いは橋の名前を取って長坂橋の戦いと言う。

 

この戦いに良く似たこの地形。偶然では生まれないであろうし、意図的か。

 

「全軍止まれ!止まれ!!」

 

今にも橋にいる正木時茂に襲い係ろうとしていた兵たちを止める。正木時茂一人に多くの犠牲を出すのは割りに合わないし、そもそも損害を抑えろとの命を受けている。後ろの林も怪しい。槍大膳無双により、兵が恐慌状態になり収拾がつかなくなる前に止められたのは幸いだ。

 

正木時茂は進軍の止まった我々を見ても動こうとしない。それがますます計略のあるのではないかと疑う要因になっていた。里見義堯は三國志を知っていてこの状況を作り出したのだろう。いやはや性格の悪い奴だ。後ろの林に伏兵がいるか否か分からない以上、迂闊に突破はできない。居たら我々は大打撃だし、居なくても迷っている間に時間は稼がれる。

 

舌打ちしたいがそうもいかない。仕方ない。こちらも無駄に兵を損なうわけにはいかない。撤退の潮時か。

 

「全軍、撤退だ。直ちに撤退する」

 

「一条殿、臆されたか!敵は一人。かの槍大膳であろうともこの数ならば…!」

 

「いや、笠原殿。私の恐れるは後ろの林。この状況、古の三國志に記された長坂橋の戦いに酷似しております。三國志では伏兵はおらず、時間稼ぎでしたが、今回はどうか分かりませぬ。伏兵がいて、本隊も戻ってきたら袋叩きに合います。加えて、もし正木時茂を突破できてもそれに兵を多く損なうでしょう。氏綱様より深追い厳禁と仰せつかっております。撤退しましょう」

 

この戦術。まさかとは思ったが、島津の釣り野伏に似ている。名将ともなれば、考えることは同じか…。だが、引っ掛かってやる訳にもいかない。そう容易く騙されるものか。

 

「ううむ。仕方なしか…」

 

「先輩!ここは私が行きます。そうすれば、正木時茂に兵を損なう事にはなりません!」

 

最初はそう考えたが、敵の実力が未知数なのと、万が一の事があっては困る。綱成は伝家の宝刀。抜くタイミングは今じゃない。

 

「敵の実力が未知数な上、もし同格であっても経験は向こうの方が上。貴女に万が一があっては私の首は氏康様に撥ね飛ばされてしまいます。ここは自重して下さい」

 

「むぅ…。そう言うなら仕方ないです」

 

「清水殿にも撤退指示を。全軍後方に注意を払いつつ、後退!」

 

逆に向こうから追撃されたら笑えない事態になりかねない。そうなってもらっては困る。ここまで意気揚々と進軍してきた為か不満気な顔ではあるものの、全軍は撤退を開始した。振り返ると、橋の上で正木時茂はこちらを見つめていた。

 

次こそはもっと確実に追い詰めてやる。そう決意する。だが、同時に一筋縄ではいかないだろうという予感も存在していた。長いこと争う事になりそうだ。そう思うとため息が出てくる。史実から逸れた行動をすれば、知識通りとはいかない。分かっていた事ではあるが、改めてそれを痛感した。里見義堯。房総の覇者。そう簡単には勝たせてくれないようだ。

 

だが彼には悪いが、里見に翻弄されていたり苦戦しているようでは上杉謙信や佐竹義重、武田信玄なんかには敵わない。精進しなくてはいけない。

 

「この借り、いずれ必ず返す!それまで首を洗って待っていろ、里見刑部少輔義堯!!」

 

負け惜しみだが、これがせめてもの抵抗だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「帰ったか」

 

里見義堯は去り行く北条軍の背中を見つめていた。

 

「そう易々とは釣れぬか。難儀な事よ」

 

伏兵は無駄になってしまった。おそらく、敵もこちらの意図を、参考にした戦いを知っていたと見える。そこまでは想定通りだが、もっと悩むかと思っていた。が、予想に反してあっさりと撤退を決めたのはある意味拍子抜けであった。

 

それと同時にほっとしている自分もいた。突撃されれば、時茂のみでの防衛は不可能。伏兵を発動し、本隊も反転して袋叩きにするつもりだったが…。それでは上総攻略の兵が圧倒的に足りなくなる。それでは困るのだ。

 

「少なくとも、敵は愚将に非ず、か…」

 

即断即決は戦場でかなり大切な事だ。それにこちらの戦術を見破った上での退却。古典にも詳しいときた。これは厳しい戦いが続くかもしれぬ。彼の顔は渋かった。しかし諦める訳にもいかない。野望の火は未だ燃え尽きてはいなかった。

 

「殿。ただいま戻りました」

 

「おお、時茂。よくぞ戻った。此度は武を示させてやれなんだな。すまぬ」

 

「はっ。お気にならず。武士たるもの、いずれ機会は訪れましょうぞ。そう言えば敵将が捨て台詞を吐いておりましたぞ」

 

「ほほう。なんと申しておった」

 

「"この借り、いずれ必ず返す!それまで首を洗って待っていろ、里見刑部少輔義堯"と」

 

「ふはははは。随分嫌われたものよの。誰が吐いた文言か?」

 

「名は分かりませぬが、若くまだ十七、八歳と思われる男武者でございました」

 

「おそらく其奴が此度の追っ手の指揮官であろう。ふむ。面白い。我が首取れるものなら取ってみるが良いわ!」

 

高らかに笑いながら、好敵手となりうる将との次の邂逅に思いを馳せていた。まずは房総を抑え次こそは。その為にも中部上総を抑える。兵が足りぬ故、北上総は諦めねばならぬとは。残念だ。そう思いながら、彼は全軍に号令する。

 

「全軍、直ちに進撃を再開。上総の城を一つでも多く我らの手に納めようぞ!!」

 

「「「「応!!」」」」

 

源氏の子孫たる証を示す二つ引両の旗をはためかせ、里見軍は南下を開始した。

 

 

後世、一条兼音の伝記を読めば、またこいつかというレベルで登場して幾度も争い、上杉や佐竹よりも一条兼音の真のライバルは彼だったとまで呼ばれる万年君里見義堯との最初の対決はこうして幕を閉じた。

 

また、これを以て第一次国府台合戦は終了したのである。戦勝に湧く北条軍であったが、出る杭は打たれると言うように、飛ぶ鳥を落とす勢いの彼らに関東を揺るがす大嵐が訪れようとしていた。それに気付いた者は、まだいない。

 

そして、一人の英雄の命の灯火は消えようとしていた。かの灯火が消えた日こそ、北条を暗い陰が覆うのだが、その日は刻一刻と迫っていた。




結構登場人物が出てきましたが、キャラ集第二段は河越夜戦が終わった辺りに配置します。

どこかで時系列的に原作開始前の時に原作メインヒロインの織田信奈を出したいなと悩んでおります。

さて、匂わせていましたが、いよいよある人物の死が迫っています。誰かはもうお分かりの方が多いと思いますが。

次回、巨星墜つ。お楽しみに。


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第16話 巨星墜つ

完全勝利とは言えないまでも、里見軍を追いやり、真里谷&小弓公方連合軍を撃破した北条軍は意気揚々と凱旋をする。小田原に戻る道中で兵も将も皆顔は晴れ晴れしていた。誰もが勝利の歓喜に湧き、お祝いムードが流れていた。そんな時だった。

 

北条氏綱倒れる。

 

この報はたちまち北条家中ひいては関東全土に広まることとなる。馬上にて意識を失い、落馬しかけ、一命はとりとめ意識は回復したが依然として危険な状態にあると医者が宣告した。今まで北条家を導いてきた英傑の突然の病に家中にはお通夜のような雰囲気漂っていた。論功行賞は全て後回しになり、家臣一同の意識は当主の安否にあった。

 

自分が文系だった事が悔やまれる。多少は病について分かるし、戦国より医療の進んだ現代から来たんだからして病名くらいはわかる。ただ、治療法も薬もあまり詳しくはない。

 

思い返せばそれらしき兆候はあった。声の覇気が薄れ、顔色があまりよくない日があった。あの時休むように言えば或いは…。いや、それでも出陣しただろう。気づけなかった事は本当に忸怩たる思いだ。

 

病状は中風(脳内出血に伴う麻痺等を起こす病。脳卒中の類似)だろう。化学薬もないこの時代は例えばインフルエンザとかでも悪化して死に至る可能性がある。それが中風とか癌とか肺炎とかになればなおのことだ。内科は特に解剖や麻酔も無いのだ。ろくな診察は出来ない。血管とか心臓の病だともうおしまいだ。大人しく死を待つしかない。

 

 

 

 

「これからどうなってしまうのでしょうか。不安ですわ」

 

屋敷の囲炉裏で鍋を食べている時に兼成が呟いた。その気持ちは北条家中の全員が抱いているものだろう。回復するのか、もしくは…。

 

「祈るしか無いだろうが…いずれにせよ氏綱様はご老体。そろそろご隠居頂く時期なのかもしれないな」

 

「となると次代の当主は…」

 

「氏康様だ。まぁ、若いが問題は無いだろうさ。若さならお前の異母妹の方が若い。それに人望能力共にある。北条の三代目としては申し分無いだろう」

 

「それは重々承知しておりますわ。心配なのはそこではなくて…」

 

「外交か」

 

頷く姿を見つつ、同様の感想を抱く。対上杉の武蔵、対古河公方の北下総、対里見の南下総に加えて最近は今川が駿東の返還を要求しており、きな臭い。前々から火種になりつつあった所ではあるが、そろそろ危ないか。下総は今小康を得ている。里見は上総の安定に尽力したいらしく、こちらには大規模に手を出してこない。

 

「古来より、当主の代替わりは敵勢力を勢いづかせる事が多いと相場が決まっておりますわ。ここもそうならないと良いですけれど」

 

「そう上手く行かないのが悲しいところだ」

 

話を聞くところによると氏綱様はここ数年、つまり私がここに仕官する前から既に急に老け始めていたという。長年戦場を東奔西走した疲労がつもり積もった結果だろうか。

 

「或いは、氏綱様は自らの老いを予感していたのかもしれないな。だから氏康様の元服を早めた。それもかなり」

 

通常ならもう一、二年遅い元服を昨年の春頃に終わらせているのはそういう事なのかもしれない。ちなみに、氏康様の幼名は伊豆千代丸らしい。可愛い。

 

「他の妹たちも随時元服させて一門衆に加えたり、家臣の娘や息子を早くから登用してるのもこのような時の為の布石だったという事になりますわね。それはまた随分と壮大な計画ですけれど」

 

それからは二人で憂い気に火を見つめていた。未知数すぎる未来がどうなるのかは、まだ分からない事だらけだった。

 

 

 

 

 

重苦しい雰囲気に包まれた小田原城へ登城する。例え当主が病でも仕事は変わらずある。詰所の空気も暗いが。心のどこかで誰しもが不安を感じている。食も細くなり日に日に衰え痩せていく姿を見ては、そうなるのも無理はなかった。城下の賑わいも心なしか常より無いように見えた。

 

「一条様、よろしいでしょうか」

 

廊下を歩いていると、女中に声をかけられる。

 

「はて、どうされたか?」

 

「氏綱様がお会いしたいと、馬屋にてお待ちです」

 

「馬屋?何故そのようなところに…」

 

「それは私も伺っておりませんので分かりかねます」

 

「そうですか、伝令ありがとうございます」

 

礼をして足早に向かう。何の用かは分からないが、あまり良い内容の用事では無さそうな事は分かった。病人は大人しく寝ていて欲しい。何してるんだか。

 

5分くらい歩いて馬屋に着くと、既に馬に乗った氏綱様がいた。ここ最近では珍しくシャキッとしており、目も壮年の輝きを取り戻しているように思えた。

 

「おお、来たな」

 

「ただいま参りました。何用でござりましょうか。御体はもうよろしいのですか」

 

「うむ。今日はいささか気分が良い。少し出かける。着いて参れ」

 

「は、はぁ。仰せとあらば喜んで」

 

何処へ行く気なのだろうか。さっさと馬を進ませる主に置いていかれないように急いで馬上の人となるのだった。

 

街中を進んでいく。城下では病床に臥せっていると噂の城主の姿にあちらこちらから歓喜の声が聞こえる。それに応えながらゆっくりと南下していく。小田原城の南は海であるが、そこから更に南西つまり伊豆の方へ向かい始めた。小田原城近くの海岸は砂浜だが、少し伊豆に近付くと断崖絶壁が増える。

 

 

 

 

 

氏綱様は崖の上で馬を降り、海を見つめていた。

 

「綺麗な海だ。儂が幼き頃、亡き父上に連れられて見た伊豆の海と何一つ変わっておらぬ」

 

その目は目の前の海ではなく、どこか遠い追憶の彼方にある光景を見ていた。

 

「…のう」

 

「はっ」

 

「何故お主を連れ出したか疑問に思っとるだろうな」

 

「…はい」

 

「お主と話しておきたかったのはあるな。儂の家臣たちは昔から知っておる。そのあり方もな。お主とは巡りあってよりあまり時が経っておらぬからの。だが、本当はな、聞きたかったのよ、お主が何処から来たのか」

 

「それがしは土佐より…」

 

「取り繕わんでも良い。娘は気付いておらなんだが、儂は気付いておるぞ」

 

その言葉にハッとして顔を見る。その言葉に咎めるような気配はなく、静かにこちらを見ていた。

 

「何故、そう思われたのですか」

 

「勘じゃ。勘。長年生きとると不思議と勘が生まれる。それで、お主は誰だ。何処より来た。答え次第によっては斬らねばならぬ。間者であったら困るからな。なに、偽っておった事を咎める気はない。正直に申してくれ」

 

「…遥か彼方の遠い場所より」

 

「詳しくは言えぬか」

 

「…申し訳ございません。北条のお家に害とならない所であるとは誓いますが」

 

「その言葉、信じるぞ。我が娘の信じたお主の言葉をな」

 

「ありがとうございます」

 

「まぁ、儂には言わんでも良い。だが、いつか娘には、話してやってくれ」

 

「はい」

 

「お主には期待しておるぞ。きっと、娘を導いてくれるとな。確固たる理由無き勘だがな」

 

波が岩を打つ。その音だけがやけに大きく聞こえる。

 

「もし、万が一の事があれば北条の夢も、何もかも捨てて良い。ただ、娘達を守ってくれ。若き才ある者よ。その才に溺れてはならぬぞ。驕らずおれば必ずそれを生かせる」

 

「ご忠告、しかと受け止めましてございます」

 

「精進せよ」

 

そう言うと、崖の一番先まで歩んでいく。

 

「…のう」

 

「はっ」

 

「儂は何かを為せたのか。この世に残る何かを。武士として産まれたからには、何かを成したいという野望の炎が心を燃やすのよ。死に際してそれが一番気になっておった」

 

「死に際す等…滅多な事を申されてはなりませぬ」

 

「良い良い。自らの肉体の事は自分が一番よく分かっておるわ。我が命の灯火、そう長くはないであろう。…まぁ、よい。死に行く老人の独り言よ。忘れてくれ」

 

決して忘れられる筈など無かった。自分は北条氏綱のことを、英傑だと思ってきた。今川氏親や武田信虎、強大な上杉一族相手に戦い抜いてきた英雄だと思っていた。それは間違ってはいないかもしれないが、何処かで等身大の人物として見れていなかったのではないかと思った。文献や小説に書かれた人物として心の何処かで見ていたのではないかと。

 

当然の事なのだ。人は生きていれば悩むし、苦しむし、後悔もする。そんな当たり前の事を忘れかけていたのかもしれない。だからこそ、その悩みには真摯に答えるべきだと、そう思った。

 

「氏綱様の名は、永久に語り継がれるでしょう。初代関東王、北条氏康の父にして、その躍進の礎を築き上げ、民を重んじる心を教えた偉大なる英雄として、久遠に。世が変わり、人が変わり、時代が変わろうとも」

 

彼は、その言葉に驚いたように目を丸くしてこちらを振り返った。しばらくこちらを見つめていたが、ふっと小さく笑い腰の刀を取った。そしてそれを躊躇いもなく、海へ投げ入れる。その行いの意味を簡単にこれだと断言することは出来なくて、ただひたすらにその光景を見ていた。

 

「そうか……それは、良かった」

帰るか。そう言って笑いながら、馬へと戻っていく。慌ててそれを追いかけるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その晩、北条氏綱の容態は急変した。

 

 

 

 

 

 

 

 

夜間は静まっている城は煌々と明かりが灯り、慌ただしく女中たちが走り回る。一門衆や家臣団は大広間に集められた。誰もが身動きをとらない。まばたきの音さえ聞こえてきそうな静寂の中、上座に敷かれた布団に伏している氏綱様の荒い息が聞こえる。

 

城に戻って半刻もしないうちに再び倒れそれよりかれこれ半日近く意識を失ったままだ。このまま目覚めないのではないか。誰もが、その最悪の想定を行っていた。

 

あの時、こうなることを察していたから、私を連れ出したのかもしれない。己の最期に、まだ関わりの少なかった家臣と会い、その性根を確かめたかっただろうか。己の娘の為に。

 

 

「ここは…城か」

 

息苦しそうな声が聞こえる。その場にいる全員が顔を上げる。

 

「殿!」

 

「お目覚めですか!」

 

「良かった。良かったですぞ!」

 

「お主ら、うるさいわ。最期くらい静かにさせてくれ」

 

ゆっくりと言う声はどうしようもないほど衰えてが感じられて、否応なしに全員に終わりを実感させた。

 

「父上!お目覚めしたばかりです。あまりお話にならないで下さい。今医者を…」

 

「よい」

 

「でも、父上!」

 

「氏康…いや、伊豆千代…。もっと近くへ来てくれ。もう、目も霞んできた」

 

「はい…はい。私は、ここにおります」

 

「彦九(為昌)、菊王(氏尭)、松千代(氏政)、藤菊(氏照)、助五(氏規)、乙千代(氏邦)、三郎(後の上杉景虎)…。お主らで、ここにはおらぬ他の小さな妹たちと共に、北条の家を…伊豆千代を守ってくれ。よいな」

 

布団の周りに集められた氏康様の妹様たちが頷きながら涙を流している。

 

「父上、お願い。逝かないで。私には当主はまだ早すぎる」

 

「お主はもう、十分に当主になれる。優秀な家臣も多くおる。彼らを頼り、信じ、いつの日か北条の旗を、関東の大地全てに…。誰も苦しまぬ世を…必ず…」

 

「必ず、必ず成し遂げるから、生きてその日を見て!」

 

「すまんが、それはできぬ。…おばばも良いな、娘を頼む。儂は一足先に父上にお会いする」

 

「任せるがよい。おばばはまだ死ぬ気は毛頭ない」

 

「我が、家臣たちよ。我が亡きあとの家を頼む」

 

「「「「「「この命捧げましょう!」」」」」」

 

みんな泣いている。私も泣いている。

 

「ああ、安心した。儂は少し疲れた。眠る事とする」

 

その眠りはきっと…。誰もがそれを理解して、震えている。

 

「すまぬな…お主に、辛い重荷を背負わせた。父として、当主として残してやれる物は多くない。なおも二つの戦線で小競り合いが、続く。この乱世の宿業を押し付けてしまったな…。すまない…。お前たちには、姫としての幸せを掴んで欲しかった…。もし、夢叶わぬ時は…必ず生きて、幸せを掴め。北条の夢も捨てて良い。ただ生きて、幸せを…」

 

「父上!」

 

ゆっくりと痩せ細った手で、氏康様の頬に触れる。

 

「あぁ、儂はこの乱世一の果報者よ。愛する娘に囲まれて逝けるのだ。これ以上の幸せはない」

 

「お願い、お願い、死なないで!父上…」

 

「氏康…伊豆千代…私の、娘。私の、た、から…」

 

「父上!父上!!」

 

氏康様はゆっくりと力を失うその手を抱き締める。自分が流した涙を拭って見ると、そこには穏やかな笑みを浮かべて、生きているかのように眠る氏綱様の姿があった。

 

乱世の男たちは、姫を置いて、逝ってしまう。慟哭の満ちる大広間で、そう思った。偉大なる相模の英雄は家族を愛し、去っていった。

 

「お主には期待しておるぞ。必ず娘を導いてくれる」

 

その言葉が耳の中で響く。必ず、その期待に応えてみせる。娘を思う父親の自分に向けられた最後の言葉を無視など出来るはずもない。あらゆる手を使って、血も涙も無くしても、北条三代の夢を成し遂げるのだ。

 

だけれど、今日この時だけは、その死を悼んで涙を流させて欲しい。この悲しみの感情は消えてはいけないのかもしれないと、そう思った。

 

 

 

 

 

戦国関東の英傑、北条氏綱死去。戦に明け暮れた生涯だったが、その終わりは家族に囲まれた穏やかな死であった。享年54。

 

そして、時代は動き出す。



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第3章 暁の勝利
第17話 月下の誓い


ここより新章スタートです。


北条氏綱は死んだ。その事実は、北条家中全てに暗い影を落とす。城内も城下も領内全てに悲しみが溢れる。民に死を悼まれるのは紛れもなく名君の証。小田原城下に涙を溢さぬ者はいないとまで言われ、まるで親兄弟の死に際したように喪に服した。

 

だが、いつまでも悲嘆にくれている訳にはいかない。当主亡き北条家を放置してくれるほど、この戦国の世は優しくない。早く葬儀を行い、当主交代をしなくてはいけない。

 

葬儀はすぐに執り行われる事となる。現代とは違い、遺体の腐乱を止める術は無いので、早く葬儀を行う必要があった。初代北条早雲の菩提寺の早雲寺で葬儀は行われる事となった。遺骨は父親と同じ場所に葬られるだろう。喪主は亡き氏綱様の長女、氏康様。参列者は主要な家臣と一門衆、領内の有力者(商人など)、弔問の使者である。

 

戦国時代で葬儀と言えば、織田信長の父信秀の葬儀で信長が灰を撒き散らしたのは有名な話だが、我らが主はそんな事はしない。お願いなのでそのままでいて欲しい。織田信長は別に嫌いではないけれど、あんなホウレンソウ(報告連絡相談)の出来ない上司は勘弁して欲しい。あと、人使い荒いし…

 

 

 

葬式会場の早雲寺で弔問の使者を接待する仕事を任された。完全に業務外だが、手が空いていたのが少なかった事が原因だろう。それに、その辺の適当な人材にやらせるわけにはいかないのが現実だ。弔問外交という言葉があるように、葬式も決して無駄には出来ない。自惚れる気は無いが、任せるに相応しいと思われたが故の配置だろう。

 

「我が主、今川治部大輔義元の名代として参りました。この度はお悔やみ申し上げます」

 

「わざわざ駿河よりご参列感謝申し上げます。主がお待ちしております。あちらへどうぞ」

 

「かたじけない」

 

使者と言っても、今川と北条に従属してる国人土豪などからしか来ないのでそんなに数はいない。上杉から来るわけもなく、また幾度となく刃を交えたという武田家からも来ない。そんなに大変な仕事でもなかった。そろそろ終わるかと思っていると、新たに使者が来た。

 

「北条左京大夫殿の葬儀はこちらか?」

 

「はい。ようこそ遠路遥々お越しくださいました。何処のご家中の方でございますか」

 

「それがしは、里見刑部少輔義堯の名代です」

 

その言葉に周りが一気に殺気を放つ。私も刀の鯉口を切る。何をしに来たのか知らないが、主を殺される訳にはいかない。だが、普通は暗殺者なら出身を名乗らないが…?

 

「あいや、待たれよ。主義堯は害意あって葬列に参加し、弔意を示すに非ず。不幸なる行き違いと乱世の習い故先頃は刃を交える事となりけれど、優れたる名将の死を悼むは敵味方関係無き事なり。他意無く故人の死を悼みたい。と申しておりました。何とぞ、ご理解下さいませ」

 

…そういう事なら仕方ない。この使者もなかなかのメンタルの持ち主だが、里見義堯も半端ないな。ま、これだけ手練れの武将に囲まれては下手なことも出来ないだろうし。

 

「そのお申し出承った。あちらへどうぞ」

 

「おお、有り難きかな」

 

警戒されつつも、去っていく使者の人。周りからの目線が厳しめだが、何も気にしてなさそうなのは図太いのか無神経なのか…。

 

 

 

 

 

 

そんな騒動もありつつも、葬儀自体は粛々と行われた。多くの僧と参列者に見送られ、出棺していく。昔の光景が思い出された。自分の人生における二年前の自分の両親の葬式で見た光景と重なって見える。あの時は、どうしようもなく悲しくて、呆然としてて、脱け殻のようになっていた。葬式にくる人に気丈に対応しつつも、終わった後誰もいない会場で泣いていた。

 

かつて私が座っていた喪主席には、あの時の、15の私と同じ年の主のが座っている。その心境は共感できる気がした。家臣のみではなく、客の前で必死に涙を堪えているのだろう。手は固く握られ、目は赤かった。愛を注がれてきた故の悲しみ。それは、とてもとても痛ましい。

 

あぁ、我が主に幸福を。しかし、どうしたら良いのでしょう。娘の幸せを願い逝った氏綱様の棺を見て、その幸せとは何かを問いたくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初春の月はまだ光に冷たさを含んでいる。桜も咲かぬうちに逝ってしまわれた。花も月も、まだこれからなのに。もっと、話をしてみたかった。空から注がれる冷涼な月光がセンチメンタルな気分を起こさせていた。

 

接待は終わり、もう夜も更けてきた。つつがなく終わった事を報告しに、使者の宿所から城へ戻ってきた。明日でも良かったのだが、起きているなら今日中に済ませたかった。済ませたかったのだが…。先ほどからずっと探しているが、何時もの場所やいそうな所にもいない。こういう時に限って女中とも会わない。

 

出直すか…。そう考えながらも城を歩き回る。活気もなく寝静まった沈黙の城は別の世界のようだった。廊下を巡り、ある縁側に来て、庭を見ると探していた後ろ姿に出会った。

 

「氏康様、そのような薄着では御体に障りますよ」

 

彼女は私のかけた言葉に、まるで現世に魂を呼び戻されたかのようにピクリと体を震わせ、ゆっくりと振り返った。その目に光が宿っておらず、ギョッとした。

 

「あぁ、どうしたの。こんな夜更けに」

私の言葉には全く答えず、心ここに在らずというかのごとくポツリと返事が返ってきた。

 

「使者の接待が無事終わりましたので、ご報告に」

 

「そう…ご苦労様」

 

ここで帰るべきなのだろう。だが、どうもこのまま放置しては置けなかった。

 

「……大丈夫ですか」

 

「大丈夫に見える?」

 

「見えないからお聞きしたのです」

 

「…」

 

沈黙が返ってくる。視線を周りに向ければ、縁側の奥の座敷が誰の部屋かやっと分かった。そこは、亡き氏綱様の部屋。

 

「ここは…」

 

「そうよ。父上の部屋。小さい頃によくここに来て遊んでいた。懐かしい、思い出」

 

その目に少しだが光が戻り、月光は光るものを照らし出していた。

 

「泣いて良いと思いますよ。私も、二年前、両親を亡くしました。辛くて、悲しかったけれど泣けない方が辛いです。我慢する必要はありません。私は、今すぐ消えますし、誰にも言いませんから」

 

ハッとしたようにこちらを見上げてくる。頭の良い我が主の考えていることは普段は分からないこともあるが、今日だけは手に取るように分かった。

 

「私だけではありません。乱世で多くの者が愛する人を亡くしました。けれど、それは今は関係無いのです。貴女様が亡くしたのは、見ず知らずの名も無き死者ではなく、貴女様の愛した方なのですから。貴女様は氏綱様を想って涙を流す権利があると思いますよ」

 

そう言って優しく微笑みかける。普段は偉大なる三代目、北条氏康。けれど今は、まるで町娘のような気配さえ感じるほどに、普通の美しい少女だった。

 

堪えきれなくなったように、その目から涙が溢れる。突然、お腹に向かって突撃され、抱きつかれて焦る。いつもの調子が狂わされた。

 

「えっ、ちょっ」

 

「父上…父上…!」

 

嗚咽の混じる声で、私のお腹に顔をうずめながら、泣き続けている。それは、氏綱様の死からこれまで気丈に振る舞ってきた彼女の始めての涙だった。

 

その体は普段の気迫や雰囲気からは想像も出来ないほどに華奢で、弱々しくて、握ったら折れてしまいそうだった。まるで妹のようなその姿をそのままにも出来ず、ゆっくりと右手を頭に乗っけて、左手で背中をさする。

 

しばらく、その姿勢のまま、二人で月下の庭に立っていた。

 

 

 

 

「私は、怖い。自分がもう二度と心の底から笑うことが出来ないんじゃないかと思うと、とても怖い。北条の家は、その夢は綺麗事じゃ守れないわ。私は、心を殺して、痛みに耐えて、必ず家を守らなくてはいけない。覚悟は出来ていた筈なのに…駄目ね。いざそうなってみると、覚悟なんて露のように消えてしまったわ。心の中の自分が冷酷無比な鉄面皮になんてなりたくないって叫んでる。それがずっと私の中で木霊するの。私は、私は」

 

涙混じりの本音が吐露される。それは紛れもなく、彼女の本当の姿だった。

 

「貴女様がすべて背負い込む必要はありませんよ。我々は、その為におるのですから。貴女様の家臣はすべて、ね。確かに、戦国大名北条氏康としては、冷酷にならざるを得ないかもしれません。ですが、公でないなら、話は別。その時は、我々にまた笑顔を向けて下さい。そうできるように、万難を排しましょう」

 

「皆が…」

 

「ええそうですとも。私を含めた皆が、貴女様をお守りします。もし、辛くなったら、またいくらでも胸をお貸ししますよ」

 

ふっと空気が緩む。少しだけでも悩みは、苦しみは晴れたのだろうか。

 

「貴方はどうしてそこまでして私に…」

 

「最初に申し上げたではありませんか。願わくば日ノ本の張子房にならんと。貴女様はその願いを叶えるために、必要な覇者の素質をお持ちだからです」

 

「そうね、そう言っていたわね」

 

「それに…」

 

「それに?」

 

「貴女様の人柄そのものに惚れ込んだというのもあるかもしれませんけど」

 

一瞬の間。そしてボンっと顔が赤くなったのが暗い夜でも見えた。

 

「な、ななな何を言ってるの!…その、気持ちは嬉しいけれど、姫大名は臣下との間に恋情を通わせる仲にはなれないのよ」

 

「存じておりますとも。ですから、これは恋情ではなく忠誠です。それなら、問題無いでしょう?」

 

「それは、その、そうだけど…」

 

「さて、悲しみは少しは癒えましたか。私が、そして他の皆様が貴女様を関東王への道を支えます。我々を信じて、明日から当主として振る舞って下さいませ」

 

「分かった、分かったから、約束して。私が夢を叶えるまで、死なないって」

 

真剣にこちらを見上げる目に見つめられる。中途半端には出来ない。私が何故この時代に来たのかは分からないままだ。もしかしたら、永遠に分からないのかもしれない。けれど、やるべきことはもう、わかっている。

 

「誓いましょう。この命の炎燃え尽きる時は即ち我が主の大願が成就する時である。そして、我が主は生涯ただ一人であり、私は貴女の剣である!」

 

そう言って深々と頭を下げる。そして、やっと、笑ってくれた。

 

 

そうこれは、月の下の誰も知らない二人だけの誓い。そして、北条氏康の胸は確かにこの時、ドクンと激しく、大きく鼓動を鳴らした。自分を見下ろす優しい瞳に心が揺さぶられた。その気持ちに蓋をして、彼女は歩きだした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明くる朝、早速家臣が集められた。普段は小田原にいないような人も集められている。一門衆も勢揃いしている。これが北条家オールスターだった。その中に自分がいると思うと、感慨深いと同時に若干恐ろしくもある。

 

「皆、待たせたわね!」

 

そう言いながら、先日まで氏綱様のいた席へと座る。家臣団はいつものごとく、綺麗に礼をする。昨夜のような迷いはもうないようだった。

「父上の大願は私が継ぐ。私がこれより、相模の国主、北条の当主そして未来の関東王、北条氏康よ!異論あるものは直ちに申し出なさい」

 

誰一人として声をあげるものなどいない。いるはずがなかった。ここにいるのは皆、北条に忠誠を誓い、生涯を捧げると決めた者たちであるのだから。

 

「異論無くば、早速初仕事よ。先の国府台における戦いの論功行賞を行うわ。まずは遠山直景」

 

「はっ」

 

「これより下総方面を担うために、国府台城の城主に任じます。先頃臣従した千葉一族と協力して里見の侵攻を食い止めなさい」

 

「ははぁ。大任、必ずや果たしてみせましょう!」

 

「他の者たちも、随時加増や俸祿の増加を行うわ。それと、叔父上、河越城の預りご苦労様でした。もう自分の城に戻って良いわよ」

 

「おお、それは助かるな。長らく城を留守にするわけにもいかぬ。ありがたく戻らせてもらう。だが…儂の後は誰が入るのか?」

 

「それが悩み所だったのだけれど、決めたわ」

 

良かった良かった。ちゃんとここまでは史実通りに動いている。氏時様とて氏綱様の弟君。能力不足とは言わないし、無能なら一族でもそんな要所を任せない。とは言っても、流石に関東諸将の連合軍相手は荷が重いと思われる。そんなに若くないし、後方で頑張って貰おう。

 

ここで北条綱成を河越城主にすることで、北条家は河越夜戦を乗り切り関東に覇を唱えるのだ。彼女が一番相応しいと言えるだろう。十分に活躍していた。まだ来てから日が浅いが城を与えるには功績十分だろう。血は繋がって無いが、一族だし。河越城主は北条綱成で安泰…

 

「これまでの功績を鑑みて、一条兼音を新たに河越城主として任じます」

 

「はい…?」

 

え、ちょっと待て。これは予想外。

 

「あら、どうしたの?不服かしら?もっと寄越せって言いたいの?だとしたら贅沢ねぇ」

 

「いえ、まさかそのような滅相もない。しかし、それがしは若輩の新参。かような大任を担うにはまだ早いかと。それこそ、義妹にして暫定的に現在私の部下の綱成の方が…」

 

「綱成は貴方より若輩かつ新参よ」

 

「あ…」

 

「それに、評定衆の中で城持ちでないのは貴方だけだったの。流石にそれはどうかと言う意見が出たわ。足利義明に真里谷信応を討ち取り、作戦を立案し、里見に傷を負わせた。これは十分な戦果と考えるわ」

 

「一条殿、お受けなせれよ。我ら北条家臣に、妬み嫉むような愚か者はおりはせん。皆、大任を任せられると思うとる」

 

「間宮殿…。承知いたしました。必ずやその役目成し遂げましょう」

 

「北条家の武蔵領は貴方の双肩にかかっているわ。必ず、守り抜いて」

 

「はっ!」

 

仕方ない。なるようにしかならないだろう。城主というのは城代よりも権限が上。実質的にその地の支配者と言っても過言ではない。兵権も領内のある程度の統治権もある。それゆえに大任であり、特に河越城は上杉に対する備えとして一番大切な地。緊張で震えてきた。

 

「普請方の方はどうしたいかしら。後任が欲しければ手配するけれど」

 

「いえ、まぁ、大丈夫かと。私がいなくても職務を遂行できるような仕組みは作りましたので、小田原と河越の往復を繰り返せば問題無いでしょう」

 

「そう…負担が重ければすぐに言いなさい」

 

「ご配慮感謝します」

 

ああ、まぁ、何とかなる。仕事は増えるだろうが城主とて何でも一人でやるわけではないし。大丈夫だろう。

 

「綱成、貴女はどうする?」

 

「私は…先輩に着いて行きたいと思います」

 

「なるべく手元においておきたかったけれど…上杉への備えには強力な武が必要ね。よろしい。兼音に従い、河越城へ向かいなさい」

 

「はい!」

 

元気のよい返事を聞きながら、河越の地に思いを馳せる。どのような地かは分からないが、どうにも自分と縁深くなりそうな気がした。取り敢えず、帰って兼成に報告だな。喜ぶかは分からないが今よりは楽な暮らしになるだろう。そう思い、重圧を感じている己の思考を振り払った。

 

 

 

 

迫りくる大嵐。北条家の物語には欠かせない"二大"決戦のうちの一つ、河越夜戦はもう間も無く訪れる。




氏康様のヒロインムーブが始まります…!

二大決戦。一つは河越夜戦。さて、もう一つは…?三船山?三増峠?神流川?唐沢山城包囲戦?それとも……。何がもう一つの戦いなのかは大分後のお楽しみ。


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第18話 居城

税に関する話などは諸説あり、また内容も複雑なので、このお話ではかなり簡略化・単純化したり、俗説を採用して分かりやすくしています。その為、多少史実と合わないこともありますが、これはあくまでも"織田信奈の野望"の世界におけるお話であることをご理解の上、お読みくだされば幸いです。


「という訳で引っ越しだ」

 

「ちょっと何を仰ってるのかわかりませんわ。何が"という訳で"ですの。前後の脈絡なくよく分からないことを仰るのは止めて下さいますこと」

 

「本日の評定にて、任地が決まった。武蔵河越城へ行けとの仰せであった。こちらのこの屋敷はそのままだが、我々は普段住まいをあちらへ移す事になる」

 

「最初からそう言ってくださればよろしいのに…」

「ま、それはさておきだ。いつまでも空き城にするわけにもいかん。早速明日出立だ」

 

「持っていくものなどほとんどありませんが、かしこまりました」

 

「よろしい。では、とっとと寝て明日に備える。まぁ、数日で着くだろ」

 

このままとっとと寝てしまった為、

 

「河越ってそんなに近かったかしら…?」

という兼成の呟きを聞いていなかった。思えば、河越城落城の報せは江戸の辺りで聞いたため、現地に行った事がなく、この時はいまいち距離感を掴めていなかった。

 

 

 

 

 

「遠い。遠いなぁ…」

 

現在は街道を北上中。綱成は二日後に遅れて来るらしい。小田原を出発してはや七日。何度も思ったが遠いなぁ…。進む速度がそんなに速くないというのもあるけれど、意外と遠かった。

 

「だから申しあげましたのに」

 

「聞いてなかった。すまん」

 

「普段は頭脳明晰ですのに、こういうところは詰めが甘いですわね」

 

「面目ない…」

 

小田原から河越までは現代の単位で直線距離約75キロメートルほどある事が発覚した。そりゃ時間かかるわな。馬をかっ飛ばしてる訳でもないし。知らず知らずに現代の感覚で測っていたようだ。反省しかない。早く脳内をこっち側にしなくては…。

 

「小田原との往復は無理ですわね」

 

「はい…そうですね…。氏康様に謝って普請方には後任を入れてもらいます。本当に何をやってるんだか…」

 

「それがよろしいかと思いますわ」

 

完全に普段との立場が逆転してる。悔しいが、今回は自分のミスなので仕方ない。素直に過ちを認めよう。次から気を付ければ良いのだ。戦においてこんなとんでもないミスをしなかったことを幸運に思うべきか。

 

「大体新たな事を始めるのに既存のものと二つ同時平行など不可能か出来ても心労で倒れることになるということがちょっと考えればお分かりになるかと…」

 

これは少し長くなりそうだ。このお叱りを甘んじて受け入れるとしよう。格好がつかない…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ですから、次からよく分からない安請け合いをしない事です。お分かりですの?」

 

「はい…。よく骨身に染みて分かりました」

 

かれこれ一時間以上ずっと怒られていた。辛い。周りからの目線が痛い。

 

「まったく、貴方様に居なくなられたらわたくしはどうすればよろしいんですの。そこの辺りも考えて頂きたいですわ!以上です!」

 

「お話大変ありがとうございました。以後、気を付けます」

 

はぁ…。疲れた。でも、まぁ、悪気があってずーっと怒ってた訳ではないのだし。それに、注意してくれる人がいなくなったら終わりだ。イエスマンしかいない組織は腐敗する。それは歴史的事実だ。ここはむしろ感謝するべきだろう。

 

「ありがとう」

 

「へ?何を言ってらっしゃるの?色々言い過ぎておかしくなってしまわれたのかしら…」

 

普通に引かれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

それから三日後、やっと河越の町についた。向こうに見えるのが河越城だろう。なんというか大きいな。小田原にいると感覚が狂うが、あれは十分巨大と言うにふさわしい大きさだろう。流石は武蔵の要衝にして扇谷上杉の元居城だ。町も大きいし、これはかなり良い領地なのではないだろうか。

 

城の縄張り自体も、渡された図面によれば複数の郭に大きな水堀。櫓や門、土塀もしっかりと存在しており、この城の昔の主の権勢や栄華が伝わってくる造りだ。上杉朝定以下扇谷上杉家の勢力は碌に戦わず城を捨てて逃げたらしいが、この城に籠られたら厄介だった。とっとと逃げてくれたのは運が良かったというべきだろう。

 

やることは多そうだ。大変だが、一つ一つ着実にこなしていくしかないだろう。先は長そうだ。

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

河越城縄張り図

 

 

 

 

今、目の前にいるのはそこそこの数の配下たち。彼らは普段は城勤めの武士であり、非常時は農兵を指揮したりする侍大将である。

 

「私がこの度城主を拝命した一条兼音だ。よろしく頼む」

 

「「「「ははぁ」」」」

 

「こっちは勘定方並びに兵糧等蔵の物の取り締まり役、花倉兼成だ。もう一人、城代の北条綱成はもう数日したら来る。私の基本方針は氏康様と同じである。要衝、河越をまとめ、当家の発展の礎としようぞ」

 

「「「「はっ!」」」」

 

 

 

 

 

さて、挨拶も早々に何からやるべきか。というより、住む場所が広すぎて落ち着かない。河越城の本丸屋敷は普段住んでいる屋敷の何倍も広いんだが…如何せん今までこじんまりとした家だったのが急にこんな広さになっても困る。

 

元々敵の領地だったので、人(城勤めの武士)がいないため、小田原から何十人も連れてきている。そうしないと普通に仕事が終わらない。敵の領地だったからこそ、民衆の心を掴まねばならない。取り敢えず、民と武士お互いの生活に欠かせない食料について何とかせねばならない。この時代では食料とはつまりイコール税の事である。米が代表だが、米以外にも種類はある。例えば酒や木材、魚や特産品等だ。メインが米なのは疑いようもないが。

 

生産量並びに生産力を調べ、北条家全体の税の基準と合わせなくてはならない。北条家と言えば四公六民つまり四割を武士、六割を農民(この際の農民とは、各個人ではなく村単位)とするというものが一般的だが、おおむねその認識で正しい。

 

現代で聞きかじった話によれば、その概念は江戸以降の創作で、そもそも何割という概念が出来たのは太閤検地からだというが、どうやらこの世界はそうではないようだ。その方が楽だから良いけれど。

 

氏康様以前から税率はキチッと決められている。ちなみにこれは破格の安さのようで、他国ではもっと公の割合が高かったり、そもそもそんなきっちり決めないでガバガバに必要な分だけ持っていくというとんでもない所まであるらしい。酷いもんだ。ちなみに、不作だと税率が減ることもあるらしい。加えて、基本米を主な作物としている所は米しか回収しないので、税率のない副業がし放題のようだ。その為か北条家は領内の農民から絶大な支持を誇る。

 

また、中間搾取や二重搾取を無くすため、一度一括で税を回収した後、回収した分の税を更に半分に分けて小田原と各地の城や館に運ばれる。領主国人土豪の二重徴税は厳禁である。この農民に優しい政策にもキチンと飴と鞭の鞭に相当する部分があり、隠し田や税逃れ、それに伴う賄賂などは厳禁で、厳罰に処される。また、たまに追加で特殊な税が課されるが、別にそれもそんなに重くはない。

 

民こそ国家安泰の資本であり、彼らの安寧を妨げる不正は断固糾弾。それが統治の根本にある思想らしい。北条家の当主印の"禄寿応穏"はそれを上手く表した四字熟語だろう。意味は禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし。というものらしい。

 

 

何はともあれ、回収できる税の基本の量を出すためにも統計平均とかとらなくてはいけない。台帳があれば楽なのだが、残っているだろうか。普通は城を捨てる時に燃やすとかするのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

「あああああああああああ」

 

廊下から悲痛なというよりかは発狂した声が聴こえてくる。声の主は近付いてきている。来るぞ来るぞ。そして襖が開け放たれた。

 

「落ち着け」

 

「これが!落ち着いて!いられますかぁぁ!」

 

「どうした」

 

「これをご覧になって下さいまし!」

 

叩きつけられたのは古ぼけた台帳。どうやら残っていたらしい。これが発狂の原因か。そんなにヤバイのか?

 

「…おお、なんというか、酷いな」

 

虫食いや破れはまだ許せる。ただ、どう考えてもそうはならんやろという数値やガバガバさの分かる測定方法。加えて、年代が古すぎる。これ、十数年前のだぞ。

 

農民だって人だ。有事は兵ともなるが、普通に病気や老衰でお亡くなりになる。十年やそこらが過ぎていたら世代交代が起こっている可能性も大だ。つまり、ここに書かれているデータは殆どあてにならない。こんなの残していきやがって上杉め。嫌がらせか?もし、このボロいのが現役だったのなら相当まずい気がするが…。データの修正からか。疲れるな。

 

「こんなのでどうしろと言うんですのぉーー!」

 

「分かった。分かったから落ち着け。早急に何とかする。近日中に検地を行うから鎮まれ」

 

「はぁはぁ…。あと、一つだけありまして。実は米蔵に上杉が持っていけなかったと思われる大量の米がありますの」

 

「…使い道は検討し次第伝える」

 

「お願い致します。それでは、先程は粗相をしました。申し訳ありません。わたくしは引き続き色々見て廻ります」

 

「頼む」

 

部屋を出て行くのを見送りつつ、対応を考える。前の君主の負の遺産オンパレードだ。勘弁してくれ。

 

「失礼致します」

 

「何か」

「近隣の幾つかの村の名主がお目通りを願っております」

 

「分かった。すぐ行く」

 

何しに来たのだろうか。ただの挨拶なら別に構わないが、そうじゃないと困るなぁ。まだ、領内の事を把握しきれてないからして、土地関連の争いとかだとどうしようもない。近日中に視察に行かないとまずいか。

 

 

 

 

 

 

そういう訳で、会いたいと行ってきた客人と対面している。眼前に平伏しているのは初老の男性が三人。取り次ぎの話では、近くの村の名主だと言うが。

 

「私が城主、一条兼音である。してお主らは何者か」

 

「ははぁ。まずはご就任おめでとうございます。我々は城近くの村の名主共でございます。他の村とも協議の上、代表として我ら三名が参りましてございます」

 

「そなた達の事は分かった。して用向きは何か」

 

「はい…まずはこちらを…」

 

代表の一人が黒い大きめの箱を差し出す。

 

「これは…何だ?」

 

「我々の誠意でございます。これで、何とぞ、お慈悲を下さいます用、お願い申し上げます。我らは旧領主の上杉家に食うものを持っていかれ困窮しております。何とかかき集めたそちらで、どうか…」

 

なるほど。有り体に言えば賄賂か。つまり、これを送るから何とかしてほしいという事だろう。

 

「前の領主にもこのようにしておったのか」

 

「以前は代官様に…」

 

上の思惑は分からないが、上杉家の組織の下の方は真っ黒だった訳だ。報告の蔵の米も無理矢理持っていったのだろう。滅茶苦茶な徴税に合っていたら賄賂の一つも送って見逃して欲しくもなるか。それに、こんな状態が何年、下手したら何十年も続いていたのか…。

 

「それは受け取る訳にはいかぬ」

 

「な、何ゆえでございますか!額面が足りぬと仰せであれば、何とか致します!」

 

「どうか…お願い申し上げます!」

 

「何とぞ。何とぞ。」

 

ふぅ、とため息をつく。どうしたものか。取り敢えず、こちらの意図として、領民が苦しむのは歓迎しない。税は正しく取らないと小田原から怒られる。怒られるで済めば良いが、最悪刑場の露だ。やりたいことは検地。しかし、検地は歓迎されない傾向がある。領民の協力がないとスムーズな実施は難しい。隠し田等は許されていないが、この様子だとおそらくあるな。それを申告してもらうには、対価が必要だろう。

 

ちょうど良い。さっきの話だと、他の村の名主とも相談して三人で来ているのだという。なら、ここにいない村の名主を集めることもできるだろう。そこで一気に説明会をするか。よし、それで行こう。

 

「そう怯えるな。別に額面が足りぬという訳ではない。それは如何様にして集めた金であるか」

 

「村々の残された蓄えを何とか集めたものでございます」

 

「ならば尚更だ。困窮した者より金など貰えぬ。それに、貰ってみろ、私の首が無くなる。本来なら送った者も斬首だが、村の者の為に行ったことである上に、この前まで北条の領地ではなかった事を鑑みて此度は不問とする」

 

「な、何と」

 

「代わりと言っては何だが、ここにおらぬ他の村の名主を集めることは可能か」

 

「勿論でございます」

 

「その程度ならば」

 

「三日以内に行えます」

 

「そうか。では、四日後に、ここに集めてくれ。頼むぞ」

 

「「「ははぁ」」」

 

戸惑いながらも帰って行った。その後蔵の米の在庫を見たが、大量にあった。これは小田原に早馬を送らねば。これの処遇に関しては思うところがあるのでその許可を貰いたい。

 

早馬は乗り継ぎをするので、一日以内につくだろう。後は許可を貰うのに二日。帰ってくるのに一日。大丈夫のはずだ。

 

 

 

 

 

 

期日は来た。返事も返ってきたし、万全である。眼前には前よりももっと沢山の人の姿がある。見事に集めてきてくれた。こちらが座ると一斉に頭を下げてくる。

 

「よく集まってくれた。まずは感謝する」

 

「もったいないお言葉でございます。して、我々は一体どういったご用件で呼ばれたのでございましょうか」

 

「今日呼んだのは他でもない。年貢の事である」

 

その言葉に、彼らの顔に緊張の表情が浮かぶ。この問題は日々の暮らしに直結しているのだからして、当然だ。

 

「さて、何から話すか…。まずは、今年の秋の分だが、全て免除となった」

 

「「「はっ…?」」」

 

「何か聴こえなかったか?全て免除だ。払わんでよい。上杉がお主らよりぶん取った米が大量に残っておる。見たところ、使われておらぬようだ。故に、それで払ったものとみなす」

 

「あ、ありがとうございます」

 

「二つ目だが、検地を予定している。故に、それに協力してほしい。己の村にそれを伝え、検地の迅速な実施に手を貸して貰いたい。ただ、隠し田や不正があれば容赦なく裁くのでそれは覚悟せよ。三つ目、賄賂等はこれより一切禁止とする。我々は受け取らないし、お主らも贈ってはならぬ。私腹を肥やし、民を虐げ不正を行っておれば、問答無用で死罪だ。それはお主らも、例外では無いぞ。逆に、代官等から要求してきたのならば、速やかに申せ。事実ならば、即刻処罰する」

 

隠し田のところでは渋い顔をされたが、代官の不正を訴えられる制度は問題なさそうだ。と言っても、別に新しいことは言っておらず、全て相模や伊豆では行われていることである。

 

「検地を行い、翌年以降の年貢の量を定める。割合は総量の四分を我らに、六分をそちらにとなる。基本これで、未曾有の災害による不作・飢饉などの時は、減額される。この制度は北条がこの地を治める限り永久に変わることはない。たとい、私がこの城の主でなくなってもだ」

 

彼らの顔に喜色が浮かぶ。戦国時代ではやはりこの税制度はかなりの好条件なのだろう。

 

「それと、だ。上杉によって無理矢理集められた分は既に城内にあるが、検地を終え、払うべき量が定められて後、取りすぎている分を返却する。これは滅多に例なき事なれど、既に小田原より許しを得た決定事項である。各村で分けるように」

 

ざわめきが起こった。普通税金は返ってこない。それを返すと言い始めたのだから、インパクトはでかいだろう。勿論善意で言っているわけではなく、思惑もある。ここでインパクトのある善政と言える政策を示し、民心を掴み、要衝を完全に掌握するのだ。

 

「以上である。何か意見のある者は?」

 

「おろう筈がございません。これまでとは大違いの破格の待遇。感謝の極みでございます」

 

「そうか。では、これで話は終わりである。己の村に伝えよ」

 

「「「「「「ははぁ!」」」」」」

 

これでひとまずは大丈夫なのだろうか。これから検地を行って台帳の作成。それが完成し次第色々と出来るようになるだろう。商業についてもやらなくてはいけないし、城の増築や兵の募兵もしなくてはいけない。しばらくは休めなそうだ。小さくため息をついて、次の仕事について考え始めた。

 

 

 

 

 

領内の農村の代表者たちと会ってより数日、小田原よりようやく綱成がやって来た。

 

「や、やっと着きました…」

 

「氏康様は何か仰っていましたか。普請方の件はご迷惑をおかけしましたが…」

 

「まぁ、そうなるわよねと笑っておりました。これからは気を付けるように言っておきなさいと」

 

「あぁ、怒ってらっしゃらなくて良かった。年貢の件は」

 

「こちらも少し考えた後、仕方ないと承認されてました」

 

「こちらも問題無さそうですね。良かった良かった」

 

あぁ、これで私の首は繋がった。

 

「あー!それより先輩、今小田原城は大混乱でして!」

 

大混乱?何があったのか。頭をフル回転させるが、この時期に北条家に何らかの災害や問題は降り注がないはずなのだが。

 

「何があったか聞いても?」

 

「隣国、甲斐で政変です!」

 

…なるほど。納得した。

 

「陸奥守信虎が追放でもされましたか?」

 

「先輩?な、何でそれを知ってるんです?」

 

「いえ、以前武田家の方と少しお話を。予兆は感じてましたが、今ですか…。なるほど。それは大変だ」

 

「ともかく未曾有の事態に外交が動くと小田原はてんやわんやで…」

 

はぁとやっと一息つけた綱成を横目に、これからの展開を想像する。史実では、この後諏訪家の領土並びに高遠家の領土に侵攻する。その後は…。

 

意外と夜戦まで時がない。この世界では時の流れが速い。出来事と出来事との間はかなり短くなっている。猶予は後半年か、一年か…。そう考えた焦りからポタリと汗が一滴畳に落ちた。支配体制の確立を急がねば。甲斐の方角へ頭を向け、そう思った。




しばらく内政フェーズ&他国の視点です。


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第19話 臆病な虎児 甲

今回は武田家メインのお話です。ちょっと長め。

タイトルの横の"甲"は甲斐つまり武田家の話であることを指します。従って、今後この文字がタイトルの横にあったら、武田家メインのお話になります。

甲は武田、越は上杉(長尾)、駿は今川、尾は織田って感じですかね。

多分この話から数回は武田家の話になります。


ちなみに、今回の話の時系列の勢力概略図です。大まかなものですが、参考までに。

【挿絵表示】



時を一条兼音の河越城城主就任の少し前、時系列的には国府台の戦いの後、氏綱が死去する前に巻き戻す。

 

甲斐武田家。古くより続く名門である。彼らの本拠地、甲斐府中では、婚姻の宴が開かれていた。参加者は当主の信虎、娘の勝千代、次郎信繁、太郎義信、孫六(後の信廉)、いるんだかいないんだかよく分からないが武田一族の一条家の名を継いだ一条信龍、諏訪頼重である。

 

婚姻の相手は信州の名門にして、諏訪大社の神氏である諏訪家の当主、諏訪頼重であった。武田家当主、武田信虎は信濃制覇の野望を燃やし、幾度となく侵略を続けるも、諏訪の民の抵抗は激しくついに攻略は不可能と諦めた。そこで、娘の禰々を嫁がせ、一族に取り込もうと考えていた。事実、この同盟は一応成功であり、連合を組んで長年の敵であった佐久郡と小県郡の豪族たちを駆逐していた。

 

婚姻とは言っても、暗殺の危険などがあるため、普通大名の結婚は嫁の実家に顔を出して挨拶などはしない。にも関わらず、諏訪頼重がこうして甲斐にいるのには訳があった。縁戚として取り込めば害をなさない。一族は傷つけない。これが信虎の方針であった。身内に甘く、敵に厳しく。それが基本である。それは頼重も知っており、故に縁戚となることにしたのだが…その嫡女であり、順番的には次の当主候補の武田勝千代ー後の晴信であるーは違うらしい。また、彼女と父信虎は不仲と聞く。その実情を確かめるため、危険を承知で甲斐へ来たのだ。

 

 

 

 

 

 

 

宴は順調に進んでいるかに見えた。が、酔いの回った信虎が理性を失いつつあった。年齢のせいもあるだろうが、元来彼は酒乱の気がある。人見知りしている娘に我慢できなくなったため、その怒りを爆発させた。

 

「勝千代!お主は何を怯えとるか!頼重殿はお主の妹の夫、すなわち義弟ぞ!」

 

「ご、ごめんなさい、父上」

 

「本来なら、諏訪へはお主を嫁がせるはずだったものを…。それをなんだ、甲斐を出て他国で生きるのは怖いなどと言いおって!戦が怖いなら姫武将になんぞなるな!武田の家督は勇猛かつ冷静、まさに当主にふさわしい次郎が継ぐべきなのだ!惰弱なお主では到底つとまらん!」

 

「ひぃ…ごめんなさいごめんなさい…」

 

勝千代は幼い頃より父親に嫌われてきた。勝千代はいまだに幼名なのにも関わらず、次郎は信繁を名乗っていることからも、それはうかがえる。信虎は勝千代に厳しいぶん、次郎には甘かった。信虎が荒ぶっても顔色を変えない次郎に比べ常に怯えている勝千代の臆病さは鼻についてならなかった。

 

「父上。姉上の慎重さこそ、乱世では武器となります。それに、姉上の優しさは家臣に慕われております。姉上こそが、これからの武田家を支えてくださるでしょう」

 

勝千代が信虎と比べて圧倒的に家臣に慕われているのは事実だった。信虎は平然と家臣を手打ちにする。この日も宴に遅刻した家臣を一人斬っている。貧しい甲斐の農民たちも、貧しさに加えて相次ぐ戦によって疲弊していた。領民も家臣もとっとと信虎に隠居して、優しさを持つ勝千代に当主になって欲しいのだが、そんな事を言おうものなら即刻首が胴体に別れを告げるだろう。唯一勝千代への期待を述べられるのは信繁だけだった。

 

「次郎。お主は不徳の姉に対してまことに優しい。それにひきかえお前は何だ!妹の背に隠れ震えるだけとは何たる女々しさ。女であろうと武将たらんと志したのであれば、そのように振る舞わぬか!」

 

当たり散らす信虎の癇癪で座は完全に白けていた。

 

「信虎殿。宴の席です。今日はただ祝おうではありませぬか。」

 

諏訪頼重が取り成すが、当然勝千代への善意などはその行動の理由にはない。むしろ、武田はやはり噂通り父娘仲が不仲!これならばいずれ…。と心の中で暗い笑みを浮かべていた。

 

「いーやまだあるぞ。お前は家臣の教来石景政に勝手に甲斐の名門馬場家を継がせ、我が名から一字を与えて信房と改名させたではないか。自分の取り巻きを作り家中を二分させる気か⁉️」

 

「信房は、その、将来の武田家を担える若き逸材ですから…。武田の重臣になれるふさわしい家格を与えたくて…」

 

「馬場家は他ならぬ儂が断絶させたのだ!お前も覚えておろう!馬場虎貞、内藤虎資、山県虎清、工藤虎豊の四人は儂に対して無謀な戦は止めよなどと言いおった。故に切腹を命じたのだ!それを勝手に再興など…儂への当て付けか!」

 

由緒ある武田家は、戦は男のものという考えがまだ残っていた。そのためか現在の武田家の重鎮、通称四天王は三人が男である。唯一の例外は引退した小山田虎満からその地位を受け継いだ飯富兵部虎昌のみであり、その彼女も幼い頃から太郎義信の小姓をしており、いわば幼なじみであったため、実力を認められたという経緯を持っている。だが、そういった背景のない教来石景政は後ろ楯なく、やりづらそうにしていた。それをほうってはおけず、勝千代は名を与えたのだった。

 

「ち、父上。これからは男女区別なく人材を集める時代です。そのような武田家にしてこそ、その、戦国の世を生き残れると…」

 

理論的にはこの意見が正しい。これに近い考え方を持つ北条氏康に認められたからこそ、一条兼音は仕官できた。だがしかし、これで納得するようならこの親子関係はここまで拗れていない。娘婿の前で面目を潰されたと思った信虎は激怒した。

 

 

 

 

 

 

「黙れっ!賢しいわ!お主は既に当主を継いだ気でおる。故に増長しておるのだ!抜け。その刀を抜け!儂を斬ってみよ。それも出来ぬのに侍を名乗るでないわ!」

 

抜いたところで無礼討ちされることは明白であった。初老とは言え、信虎はまだまだ衰えてはいない。勝千代では勝ち目などなかった。

 

「なんで親父殿はそう姉上に厳しいんだ。さすがに無茶苦茶だぜ!」

と太郎は半ぎれ気味にがなりたてるが、

 

「武田家はそこいらの出来星大名ではない、甲斐源氏の嫡流ぞ!器量なくば当主はつとまらぬ!」

 

と怒声をあげ威圧する。

 

「お止めください父上。父上が姉上を無礼討ちにするとあれば、私も抜かなければなりませぬ」

 

次郎が勝千代を庇いつつ、殺気を放ちながら自らの太刀に手をかけた。その姿を見て、これこそが本物の武将だ、と信虎は勝手に納得している。一応信虎にも言い分はあり、今までの成果は信繁の方が顕著である。他の子供は皆当主には不向きだ。太郎義信は当主にするには知恵が足りない猪武者気質だし、孫六は風流人で武将には向かない。信龍は自己主張がなくぽーっと生きているため、もっと向いてない。その他にも子供はいるが、皆幼かったり武将の道を選ばなかった。文学に傾倒する勝千代も彼の中では失格だった。

 

とまあれ、今までも対立してきた二人が、馬場家の一件で完全に袂を別った。諏訪頼重になめられては今後向こうに強気に出られる。それをわかっているが故に信虎も強情だった。

 

今回ばかりは、次郎も薄氷を踏む思いだった。頭を抱えたくなりながらも解決策を模索していた。

 

ふと、彼女の頭にはあの花倉城で会った人ならば、どうするだろうという考えが浮かんだ。自分の信じる通りに自らの姉と率直に接することを推奨した彼ならばこの状況の打開策を思い付いたかもしれないと思った。花倉城を三十数名で落とし、先頃も国府台で足利義明を一射で撃ち殺したと聞いている。なんで北条家に行ってしまったのか…と嘆きたくなっていた。

 

もっとも、この宴会が行われるずっと前、まだ国府台の戦いが起こる前に氏康が冗談で『武田家に仕える気は無かったの?』と聞いた際には憮然とした顔で『あんな暴君に仕えるなど死んでも嫌です』と返しているためどのみち勧誘の成功は望み薄である。

 

まぁ、万が一勧誘に成功しても、信虎が追放された後の武田家の躍進を知っている彼は追放ではなく勝千代や次郎を唆し、事故に見せかけて暗殺するだろうが。戦国では他殺かどうか分からない殺し方は現代に溢れている。それを躊躇なく実行するだろう。さすがに父殺しは彼女たちの望むところではないので、いずれにせよろくな結末ではない。

 

ちなみに、『長女の方ならばまぁ、考えるかもしれませんね』と続け、『惰弱な文学の輩と聞くわよ?』と返されたのに対して『三年鳴かず飛ばず、と申しましょう』と言って『そんなに評価するのならそっちに行けば良いじゃない』と拗ねられていた。機嫌を直してもらうのに数日かかった。

 

 

 

「よいか次郎。勝千代は一門と家臣との間に境目を設けておらぬ。これは間違っておる。一門には崇高な血の絆があるが、家臣はどこまで行っても家臣。その道理もわからぬとは!こやつは伝統を壊す者ぞ!」

 

「う…うう……」

 

「ええい、何を怯えておるか。己が意見を妹に言わせる気か?」

 

「姉上、父上はかなりお酒を召しておられる様子。ここは一度引きましょう」

 

「……ううん。こういう機会は滅多にないし、あ、あたしの考えてることを父上に言ってみるわ。」

 

怯えながらも、その意志を伝えた。

 

「父上、甲斐は貧しい国です。米も塩も取れず、港も巨城もない甲斐の唯一の財産は人です。家臣団も領民も武田家という大きな家の一員であると考えています。あたしが国主となったあかつきには、生まれによる差も男女の区別もつけません。能力のある者はみな引き立て武田家の財産とします。馬場信房を取り立てたのはその決意を示すためです。」

 

彼女は血を重んじる信虎が一門とその他の人間を病的に差別する態度に疑問を感じていた。それは生来の優しさか、それとも己が一門であるにも関わらずそのように扱われず罵倒されてきたからか…。

 

だが、この思想は決して信虎に受け入れられる事はなかった。

 

「か、勝千代、貴様…神聖な武田の血を水呑百姓と同じと申すか!!」

 

「は、はい。武田も人なら領民も人。武田の血だけが赤いわけではありません…」

 

「き、貴様ぁぁ!!」

 

激昂した信虎を次郎が懸命に止める。

 

「勝千代よ!本来ならば切り捨てるところだが、今日は祝いの席。去れ!儂の前に顔を見せるな!儂が許すまで蟄居を命じる!」

 

「ち、蟄居…」

 

「それが嫌なら明日甲斐を発て。駿河に挨拶回りをしてこい。今川殿には既に話はつけておる。駿河におる妹の定もこの場に来れず残念に思っておるだろう。明日、迎えが来る」

 

 

勝千代と次郎はこの時、信虎は絡み酒をしていただけでなく、勝千代を駿河へ追いやるという策を巡らせ、完成させるつもりだったことに気付いた。勝千代はもっと父と話をしたかったが、これ以上祝いの席を乱しては妹の禰々が不憫であると思って泣く泣く退出した。

 

 

 

 

 

 

諏訪頼重は恐怖していた。

 

武田勝千代は気が弱い臆病者等ではない。恐ろしいほどの才人だ。まるで、虎だ。もしも奴が家督を継げば、信濃も諏訪も必ず滅ぼされる。武田勝千代は血というものを全く崇拝していない。血筋も家格も身分も『力』という機能的なものとして見ている。神仏も恐れてはいないだろう。ならば、「神氏」という血の力で生き延びてきた我ら諏訪家は…。奴の見る未来に、我らの居場所はない…。

 

 

 

 

勝千代が退出したあと、信虎は次郎を賞した。

 

「次郎よ。よくぞ父を制し姉を守った。今日そなたの見せた気概は武田家当主にふさわしい。決めたぞ。勝千代は廃嫡する。大方、板垣と甘利は反対するだろうが、そんなものは知らぬ。」

 

「父上、姉上は大変優秀なお方なの。私とは頭の出来が違う。もっと話し合ってくだされば、姉上を理解していただけるはず。」

 

「もう言うな。そなたと禰々に免じて無礼討ちだけは勘弁してやる。まずは板垣と甘利をうなずかせねばな。」

 

流石の信虎も板垣信方と甘利虎泰の二人を切腹させるわけにはいかなかった。板垣は政務を、甘利は軍務を司っている。二人とも信虎が若き頃より戦場を駆け巡ってきた宿将だった。だから信虎は勝千代の駿河出向の意思は伝えているが、そのまま追放する考えは打ち明けていない。駿河へ追いやれば何とでもなるのだ。

 

 

 

 

「姉上もああ言われて引っ込まねぇで一発かましてやれば良いのによ。なぁ、親父殿?」

 

いささか頭の残念な太郎は信虎の陰謀にまったくもって気付いていない。いつもの親子喧嘩だと思っている。流石の信虎も呆れ気味である。

 

「太郎、お主はそういうところがいかんのじゃ。本来ならば男であるお前に継がせたかったが、お前はつくづく儂の悪いところのみ継いでおる」

 

「そっか?一回斬ったくらいじゃ死なねぇだろ、親父殿は。二人で刀と刀で語り合えば親子の情もわくだろうよ」

 

「やはり、お主に当主は無理だな…」

 

「なんでだよ。拳の勝負なら兄弟で一番強いぜ」

 

「さすが太郎。拳と刀が同列なんだね。あーあ父上のせいで座が白けたよ。いじめってよくないね」

 

退屈そうにあくびをする孫六を信虎は睨み付ける。信龍は半分寝ている。完全に空気だった。

 

「これ次郎。板垣と甘利を今すぐ呼べ」

 

「ち、父上、まさか本当に姉上を廃嫡に?」

 

「既に今川方の迎えは国境へ来ている。明日駿河へ行かぬのなら廃す。儂は決めておるのだ。酒の席の戯れではない!おう、頼重殿はどう思われる?」

 

「何事も当主の信虎殿がお決めになることでしょう」

 

尋ねられた頼重は静かに頷く。

 

「今の当主は信虎殿です。さぁ、もう一献」

 

策士の頼重は、禰々を娶るだけでは安泰ではない。侵略者の素質を持っている勝千代を廃さなくては。会ってみてその思いは固まった。信虎は脳筋に近い故に、与しやすい。が、異端の勝千代は必ず我々を滅ぼそうとしてくる。駿河追放や廃嫡では生ぬるい。今だ!今こそが最大の好機。暗殺だ。今日決行しよう。もし失敗しても刺客を恐れて、駿河行きの決意を固める結果となるだろう。首謀者さえ発覚しなければ。いっそ父親からの刺客と誤解させれば良い。今なら騙せる!と考えていた。

 

次郎は、諏訪頼重が何かしらを企んでおり目的は最愛の姉、勝千代の排除であると気づいていた。

 

 

 

 

 

 

「父上。姉上に害をなさばたとえ父上であろうとも黙ってはおりません」

 

「おうおう。姉思いのそなたが勝千代を慕っておるのはわかっておる。命だけは奪わずに済ませてやろう。だがあれは臆病者故、多少渋るかもしれぬ。その時はこらしめてやらねばな」

 

「父上!武田一門を大切にすると言いながら何故姉上だけにはかように辛く当たるのです!」

 

「次郎よ、あれがおとなしく何処かに嫁いでおれば辛く当たることもなかった。器も気概もなく当主になろうとするから排除するのだ。戦乱の世であんな惰弱な当主では家を保てぬ。駿河の今川、小田原の北条、いずれも勝千代が家督を継げばあなどり甲斐へ攻めてくるだろう。甲斐は小国。戦もかけひきもできる有能なものでなくては保てぬ。…それがそなただ、次郎。すべては武田家を滅ぼさぬため」

 

その有能な人こそが姉上なのに、どうして父上は理解してくれないのか。次郎は恨めしかった。私は姉上がいるから一人前のように振る舞えるだけ。姉上がいなければ私など甘やかされた姫にすぎない、と。

 

「信虎殿、勝千代殿のことは一度忘れて、今宵は朝まで飲み明かしませぬか。お近づきの印に」

 

その時諏訪頼重が見せた狡猾な視線を次郎は敏感に感じていた。

 

横で今まで一言も喋らずあれだけの騒ぎの中寝ているかに見えた信龍が次郎にしか聞こえない声で小さく呟いた。

 

「死の匂い。暗い死の匂い。誰かが誰かを暗殺しようとしてる。殺すのはだぁれ?死ぬのは、だぁれ?」

 

目を鋭く細く開き、どこかこの世のものでは無いかのような低い声で話す妹に、次郎はぎょっとして顔を二度見する。そこにいたのはいつもと変わらぬ雰囲気をまとい、寝ている信龍だった。

 

顔を強ばらせた次郎は、状況の打開を図るため、ゆっくりと退出した。

 

 

 

 

 

 

この一連のやり取りを聞いていた者がいる。信虎は叫んでるし、次郎も大声を出しているしで会話の内容は筒抜けに近かった。"彼女"は武田家の祝宴の前段階たる婚礼の儀式の参加者として来ていた。

 

「これはこれは、ついに信虎のおじさんは勝千代さんの追放を決めましたか。もし、成功したら動きますねぇ。甲斐は。そしたら私にも…ふふ」

 

信虎はその昔叔父と争った事がある。その時は信虎の勝利だったが、甲斐は分断された。面従腹背の一門にとっては、本家にとって変わる大チャンスだったのだ。

 

私の領地は駿河に隣接してますしね。上手くすれば繋がりのある今川からの援護を得られるかもしれません。或いは北条からも…。そうなればガタガタの武田本家がどうなるかは、一目瞭然。

 

「でも、このまま勝千代さんが追放というのも面白くはありませんねぇ。私の台頭には理想的ですけど…能力を示せれば今以上に領地を得られる可能性もあるんですよねぇ。恩を売れれば…という可能性もあるわけで。悩ましいなぁ」

 

彼女は、信虎の企みが上手くいくのも面白くないと感じていた。胡散臭い笑みを浮かべて彼女は考える。

 

諏訪頼重は暗殺する気まんまんですねぇ。もし、勝千代さんが上手く逃げられて当主になれたら、従うのもやぶさかでは無いですねぇ、一応幼い頃よりの知り合いですし。少くとも、彼女が死ぬまでは、ね?

 

あーどうなるんだろう楽しみだなぁ。と愉快そうに唇を歪めながら、彼女はこぼす。

 

 

 

 

 

 

彼女の名は様々。彦六とも、信君とも呼ばれる。武田信玄に「欲深く血気の勇あり。果ては当家の怨となるべし」と評されることとなる武田家最悪の裏切り者。後世の人々は彼女をこう呼んだ。

 

 

 

穴山梅雪、と。




すっごいどうでも良いかもしれませんが、作者は思ったんです。原作(本編&外伝『天と地と姫と』)の武田家の面子増やしてくれないかなぁと。出てきたのは旧四天王の板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌、横田高松と、新四天王の馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、高坂昌信に山本勘助、武田信繁、武田義信、武田信廉、武田(諏訪)勝頼、諸角虎貞、真田幸隆くらい。

一条信龍、穴山信君、木曾義昌、小山田信茂、三枝昌貞、多田満頼、土屋昌次、原虎胤、小幡昌盛、秋山信友、松尾信是、武田信基、河窪信実、浅利信種、跡部勝資くらいは登場してほしいなぁと思った訳で。まぁ、あくまでも原作は織田家メインの話かつ司馬遼太郎みたいな歴史小説ではないんで、流れのためには仕方ないとはわかっていますが。

そういう経緯もあって、これからもちょくちょく武田家の話になると、上記のメンバーが結構出てくるかと。武田、上杉は北条と絡む上でかなり重要な家なので、しっかり描写します。お楽しみに。


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第20話 運命の出会い 甲

傷心の勝千代は、一人狭い山道を武田家の本拠地躑躅ヶ崎館の北にある積水寺温泉へと向かっていた。勝千代はここで産湯につかった。幼い頃から体調を崩したときはよくこの山の麓の温泉に入っていた。それに加え、誰にも会わずに長考するには便利だったのだ。

 

駿河に出向すれば、おそらく二度と甲斐の土は踏めない。せめて思い出深い積水寺温泉で最後の一夜を過ごしたかった。しかし、護衛も付けず単騎なのが災いする。諏訪頼重より放たれた刺客がその命を虎視眈々と狙っていた。

 

山道をのぼる途上でいきなり一人の忍が来襲する。

 

「武田勝千代どの、お命ちょうだい致すっ!」

 

忍の声は陽気そうな少女のもの。しかし、その体より放たれる殺気はただ者ではない。間違いなく強者の気配であった。勝千代も武家の娘。武芸は取得している。しかし、この忍はまるで猿のごとき身のこなしで直上より迫り来る。騎馬武者の剣術は馬上攻撃並びに敵は同じ騎馬武者であることを想定しているので頭上よりの攻撃は想定外であった。

 

「な、何者?どうして?」

 

「これから死に行く者に教える義理は無いでござる!」

 

忍が容赦なく手裏剣を放つ。逃れようのない死が迫る。

 

 

 

 

だが、この時。勝千代の瞳の奥に猛然と燃え上がる何かがあった。瞳がまるで別人のように獰猛に光る。それは何なのか。あるいは、恐れている父信虎より受け継いだ血の持つ闘争本能なのかもしれない。『愚か者!死の意味もわからぬまま、死ぬな!抗え、戦え!』

 

彼女の耳には確かにその言葉が聞こえていた。

 

「あああああっ!」

叫び声をあげ、空を舞う忍から放たれた手裏剣を太刀で凪ぎ払う。そして、いささかも躊躇わず頭上から落ちてくる忍を殺すべくもう一閃。凄まじい太刀捌きだった。

 

「う、うわぁぁぁぁぁ!並々ならぬ殺気!危ないでござるっ⁉️」

 

真っ直ぐに落下していたはずの忍は冷や汗をかきながらふわりと浮き上がりその太刀をかわした。

 

気がつくと忍は勝千代のまたがった馬の首の上に立っている。そんなところに立てば馬の首がやられるのだが、まるで重力などそこには無いかのようにすらりと佇んでいた。

 

「あなたは、な、何者っ!」

 

「ふっふっふっ。忍は雇い主の名を明かさぬでござる。拙者、猿飛佐助はちと仕事にあぶれておりましてな。たまたま甲斐で宴の用心棒に雇われただけでござる。さんざん飲み食いして信濃に戻るつもりが、いきなりお主を殺せと言われたでござる。奴は最初から刺客として拙者を雇ったのでござるな。暗殺仕事は苦手なれど、前賃は貰ってしまったのでござる。不運と思い諦めるのでござるな。」

 

「猿飛?」

 

信濃の真田の里の忍がそのような技を用いると聞いたことがある。それがこれか、と勝千代は気づいた。太刀を放った瞬間にこの忍びはあたしの頭上から移動した。ただの体術じゃない、もっと不可思議な何かだわ…と震えた。

 

「しまったぁ!うっかり名乗ってしまったでござる!い、一体いつの間に拙者に秘密を暴露させる術を⁉️」

 

「あ、あなたが勝手に喋ったのよ?」

 

「うぬぅ。誤解しないで欲しいでござる。拙者は真田の庄を根城としておりますが、今回の仕事は主の真田幸隆殿とは無関係でござる。そもそも幸隆殿は現在城を奪われ、上野に落ち延びているでござる」

 

「あなたを雇ったのは真田じゃない…なら首謀者は北信の村上義清?でも村上義清は常に戦で勝敗を決する人間。ということは…もしかして、諏訪頼重があたしを暗殺しようと?禰々との祝言の日なのに、そんな…」

 

「うわぁ!な、なぜ拙者の雇い主を⁉️」

 

どうやらこの忍は身のこなしだけでなく、口も軽いようだ。技は超人的だけど、忍としてはどうなのかしら…と勝千代は首をかしげた。

 

「泣き虫と聞いていたのに意外にも聡い奴でござる。万が一殺し損ねた場合はお父上の仕業に見せよとの命でござったが…かくなる上は、今度こそお命きっちり頂くでござる!」

 

しかし、黙ってやられる勝千代ではない。

 

「でも、この距離なら…!猿飛の技は使えない!」

 

目の前の忍の急所を狙い短刀を真っ直ぐに突き立てる。普段の文弱な少女とはまるで別人のような眼光で。

 

「ふん!この程度!」

 

突き立てたはずの短刀は空を切る。

 

「嘘っ⁉️」

 

気づけば、短刀の上に佐助が乗っていた。こんな技は人間のものではない。まるで手品だ。その不可思議さ故に勝千代は思わず野獣の闘志を忘れて、猿飛の術のからくりを暴こうと頭を動かしてしまった。だが、理性を取り戻すと恐怖心が突如として湧いてきて、それが勝千代の心を怯ませた。

 

「あれま。元の気弱な姫に戻ってしまったでござる?」

 

その隙をつかれた。佐助は再び宙へ舞い、白い粉を投げつける。

 

「けほっ、けほっ、けほっ!ひ、卑怯な…」

 

「忍の術は武士の剣法とは違うでござる。まさに外道!」

 

視界を塞がれた。

 

「卑怯卑劣でも勝てればよかろうでござる。お命頂戴!」

 

「けほっ、けほっ」

 

一度気弱な姫に戻ってしまった勝千代はもう抵抗できなかった。このまま死んじゃった方が良いんじゃないかしら…父上には厄介払いが出来たと喜ばれるだろうし…次郎ちゃんが、後を継いだ方が…。

 

心は折れかけていたが、体が生きることを欲していた。無意識のうちに、クナイを避けるため咄嗟に手綱から手を放して馬を飛び降りていた。

 

「なかなかの執念、落馬を恐れぬ英断!だが、拙者の前には無力っ…!」

 

クナイを振りかざし仕留めにかかる。刃が迫る。が、その時。

 

 

 

 

「だ、だめ~っ!姫様、逃げて~!」

 

その声と共に佐助の背後より小刀が飛んできた。恐るべき正確性のある投擲は見事に佐助のクナイを割っていた。

 

「む、拙者ともあろうものが!」

 

慌てながらもなおも勝千代を仕留めんとその身体を追うが、今度は真正面から巨大な鎚が振り下ろされてきた。あの宴会の後、次郎より『姉上を守って』と命じられた馬場信房が間に合ったのである。

 

「……やらせない」

 

無表情なまま阿修羅のごとき殺気を放つ信房。片手で勝千代を抱えながらもう片方の手で鎚を操る剛力は姫武将のものとは思えなかった。

 

更に、後ろからはなおも小刀が飛んで来る。片方だけならまだしも、両方を相手にして戦うのは流石の佐助であろうとも不可能に近かった。加えて、これは雇われの仕事。諏訪頼重のために命を張る義理など毛頭ない。

 

初手で殺れなかった時点で拙者の負けか…と悟った佐助は離脱を決め、広範囲に白い粉塵を巻き上げる。

 

「今宵はこれにて御免!」

 

「むっ、目眩まし…」

 

「今です!逃げましょう!」

 

佐助は僅かな隙に完全に姿を消し去っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「二人とも、命を助けてくれてありがとう。ここは密談には丁度良い場所。殿方は入ってこれないし」

 

積水寺温泉に浸かり、城下を見ながら勝千代は二人に告げた。右隣には馬場信房。左隣には小刀投げの術で勝千代の命を救った少女。

 

「あ、でも…百姓娘の私が武田の姫様と一緒に温泉に入って良いのでしょうか?」

 

あどけない笑顔が妹の禰々に似ていた。

 

「いいのよ。あなたはあたしを救ってくれたんだから」

 

「小刀を手裏剣のように…正確に投げていた…立派な武術」

 

少女は照れ臭そうに鼻まで湯に浸かる。

 

「ええっと、あなたのお名前は…?」

 

「か、春日村の百姓で源五郎と言います。狩りをしていたところ、憧れの姫様が忍に襲われているところに出くわしまして…い、いつもなら逃げてるところですけど、憧れの人を助けるためなので頑張りました!いやー、食い扶持が足りなくて野山を駆け巡ってきた成果が出せて嬉しいです」

 

さらりと告げられた食い扶持が足りないという言葉で、勝千代は改めて甲斐の現状を突き付けられた。

 

「…ごめんなさい。連年、武田が無茶な戦を続けて、その度に村から強引に食糧を巻き上げているからなのね」

 

「いえっ、姫様のせいではありません!」

 

「それにしても、見事な技。春日源五郎…あー、今より…姫の小姓として、その、姫様をお守りするように」

 

「ええっ!わかりましたっ!あぁ、憧れの姫様と共に居られるなんて、夢のよう!」

 

食い気味に答え舞い上がる源五郎。この少女、いわゆる百合の気があるのだが、その単語を知るのは現状この世界にただ一人である。

 

「この者の姫様への想いは…ある意味本物。…信用できる」

 

「信房がそういうなら安心ね。でも、あたしといると危険が多いわよ?」

 

「…その件について、次郎様よりお伝えすべきお話が」

 

馬場信房がゆっくりと語りだす。諏訪頼重が勝千代暗殺の刺客を放ったこと。次郎がこれを防ぎ、姉を守るように信房に命じたこと。次郎は打開策を練るため、板垣、甘利らの四天王を召集したこと。

 

「婚儀の日に…これじゃああんまりにも禰々が可哀想だから内密にね?」

 

「…承知。次郎様よりも同じお言葉を」

 

「頼重は最初からあたしを暗殺するために甲斐へ来たのかしら」

 

「準備だけはしてきたはず…おそらく姫様と大殿の抜き差しならぬ対立を見ていけると判断したのかと。失敗しても…姫様は駿河へ逃げるだろうと…。あれは、策士」

 

「血筋を重んじない考えが警戒されたのね…」

 

「難を逃れるには駿河に逃げるしか無いです!最近の大殿様は滅茶苦茶です。実の娘でも廃嫡…最悪は切り捨てもありえますっ!逃げましょう!」

 

「諏訪頼重に報復すれば、今度は禰々様が悲しむ……。八方塞がり…」

 

勝千代の命運はもはや尽きかけていた。

 

「ごめんなさい。信房、源五郎。あたしは決断力に欠ける性格だから…どうすれば良いか一晩じっくり考えさせて。明日の朝までには必ず答えを出すわ。だから今だけ一人にさせてちょうだい」

 

「…承知」

 

「私たちはお側に宿を取りますので、何かあったら直ぐにお知らせ下さい!あのお猿もまだこの辺を彷徨いていると思うので」

 

「……長考の時間は少ないです」

 

「わかってるわ。朝までには必ず」

 

勝千代は頭を下げながら、何故自らが怯えているのか、その答えを得るため、自らと向き合おうとした。

 

 

 

 

 

 

 

一人きりで湯に浸かり、自分との対話を続ける。父上が怖い。己の無力が怖い。合戦も、人が死ぬのも、諏訪頼重の悪意も、忍に狙われるのも、何もかもが怖い。しかし、死か廃嫡かの瀬戸際だからこそ、見えるものがあった。

 

 

 

…甲斐は四方を山に囲まれた山国。米は取れず、国力は弱く、土地もない。海も港も産業もない。人が生きるために必要な塩もない。こんな片田舎から京に上洛して、あまねく天下に号令するのは不可能。足掛かりになれそうな信濃は、諏訪家との同盟のせいで侵入路が閉ざされた…。武田家の天下への道は詰んだ。あたしは……

 

 

 

ここまで考え、勝千代は愕然とする。

 

 

 

天下?天下ってなに?もしかして、あたしは、天下を欲してるの?父上以上の悪業を背負ってでも戦国最強の武将になりたいの?そんな野望があたしの胸のなかにいるなら…あたしは自分が恐ろしい。

 

佐助を斬ろうとしたあの時、あたしは確かに生きていると実感できた。もう一人のあたしが内側に巣食っている。それは、父上にそっくりで、野望に満ちていて、命を屁とも思わぬ残虐な武士で、もしかしたら父上以上に…。

 

「無理よ。何もない甲斐から始めて、他国を奪い上洛して天下に号令するなんて。できっこない。沢山の人の血が流れるだけ。父上だって戦い続けて多くの民を苦しめて結局信濃さえ取れなかった。こんな野望を抱いてる私より真っ当な次郎ちゃんが、甲斐の平和を守る。それでいいはず。いいはずなのに…」

 

 

それでも、心のどこかで逃げることを、駿河へ去ることを拒否する感情があった。そして、野望の根底にも気付きつつあった。

 

 

そうか、あたしは父上に認めて貰いたいのね。信濃を奪ってもっと先へ行ったら、父上にも認めてもらえるかもしれない。褒めてもらえるのかもしれない。それなのに、現実は非情。上洛なんて、現実味のないあたし個人の憐れな妄想。心が弱いあたしじゃ、足掻く内に命が尽きる。だから、いつまでも認められない。無能な臆病者のまま。知恵を言い訳にして勇気を出せない。だから愛されない。せめて、駿河の今川義元のような生まれだったら…。

 

 

 

 

それは、産まれてこのかた父親に愛された記憶のない一人の少女の悲しき夢だった。父親に愛されたい。そんな肉親からの愛を欲するのに一体何の罪があろうか。これが現代なら努力でどうにかなったかもしれない。現代なら、勉学もスポーツも努力すればそのリターンはある。だが、ここは乱世。平和な現代とは求められるものが違かった。これもまた、乱世が生んだ悲しき運命だった。

 

賢い勝千代には、儚いこの夢が叶うわけもないことをわかってしまっていた。湯気に混じってハラハラと涙が零れる。彼女は野望を夢見るには利発すぎる。その上、多くの命を奪うことをひどく恐れていた。一国の主になるには優しすぎたのだ。

 

父親に認められたいという気持ち。そして、残忍な獣のような生き方はしたくないという気持ち。相反する気持ちがせめぎあっていた。そして、それが終わらない恐怖心の原因でもあった。

 

やっぱり駿河へ去ろう。それが、多くの幸福のためだ。これ以上、武田家の和を乱してはならない。勝千代が決断しかけたその時。

 

一人の男のしわがれた声が、勝千代の運命を変えた。

 

 

 

 

 

「あいや待たれい、娘よ。お前に天下を盗らせてやろう」

 

 

 

 

かくして運命は変わりゆく。




武田家のお話は予定では後二話くらいで終わります。そうしたらまた北条家(河越城)に戻ります。

この小説はIfストーリーな訳ですが、無事完結出来たらIfストーリーのIfストーリーを書いてみたい気もする。北条じゃなくて他の家に仕えた場合の話も面白そう。武田家の瀬田に武田菱をはためかせるルート、上杉家の軍神の望む静謐を目指す血塗られたルート、伊達家の奥州覇王への道を突き進むルート、毛利家の中国地方制圧RTAルート、大友家の宗麟にかけられた弟殺しの呪いを解く修羅ルート、島津四姉妹の野望・九州制覇ルートとか。尼子に仕えて毛利と死闘とか、松平清康と打倒今川とか、三好長慶と行く天下の副将軍ルートとかも悪くない…妄想のみが膨らむ。


まずは本編完結出来るように頑張ります。……何時になることやら。


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第21話 嵐吹く 甲

今回はかなり長いです。短く過ぎると話数が増えるので…。武田家メインの小説ではないですからね。次回で一旦武田家の視点は終わりです。


この人里離れた温泉に、突如として侵入者が現れた。年齢不詳、ぼさぼさの髪、薄汚れた衣服、片目には眼帯。輝いている片方の目は餓狼のごとき光を放っていた。口元には不適な笑みを浮かべ片足を引きずりながら歩いている。

 

「きゃっ!な、何奴⁉️」

 

突然現れた得体のしれない男に勝千代は驚く。

 

「あ、あたしを武田勝千代と知っての狼藉っ?」

 

勝千代は思わず湯船に身を沈める。現代だろうと戦国だろうと、男の行動は普通にアウトなので、当然と言えば当然の行動である。しかしながら、男は困ったように首を横に振った。

 

「あいや、それがしは刺客ではござらん。この足ゆえに満足に槍も扱えませぬ。そなたは、先程既に刺客に襲われておったようでござるが」

 

「そ、それもそうね。あなたは刺客には見えないわね。と言うことは……あ、あたしの身体を覗きに来たのね!」

 

「かーっ!それがし、年頃の娘の裸体になど興味はなーい!」

 

「……え?」

 

「それがしは全人生を軍師としての知略を積み上げることに費やしてきた、天下一の大軍師・山本勘助晴幸にござりまする!月のものがある乙女などにはこれっぽっちも惹かれ申さぬ!」

 

「じゃあ…衆道の者?」

 

「そうでもなーい!」

 

「で、でもあなたはどう見ても欲望にぎらぎらとまみれている。鬱積した初老男だわ!全身から煮えたぎる黒いなにかを発してるもの」

 

「まったくその通りではあるが、それがしの欲望は天下人の軍師として兵を動かし、戦に勝つことのみ!俗な欲望への執着など既に長年の暮らしで解脱いたしたっ!」

 

勝千代の身体には微塵の興味もない様子で、あぁ、またこの面妖な容貌故に信用されぬ!今川義元に続いて武田勝千代にも相手にされぬかっ!と浪人男は地団駄を踏む。

 

「それがしは足の古傷を癒すために温泉をさがしておった。決して覗きではない」

 

「それじゃ偶然ここに?都合が良すぎるわ」

 

「偶然ではない。それがしは天下を担う器を持つ者を探して諸国を流浪していたが、甲斐の武田勝千代にその才気ありと見て機会をうかがっておった。しかし、それがしは宴の席などには顔を出せぬ下郎。故に、そなたが一人きりになるのを待っておった」

 

変態じみているが、これも仕方のないことなのかもしれない。新参者や仕官希望者が己の力を示すのは戦場が多い。しかし、文官肌の人間や軍師志望者はそれが難しい。それゆえにこのような突飛な行動に出ざるを得ないという面もあった。

 

そう考えれば、一条兼音の仕官はかなりの綱渡りかつ幸運によるものであった。北条氏康の人物鑑定眼が良かった事と、本人の頭の回転の素早さによる勝利だった。

 

「とは言え、そなたは廃嫡寸前。それゆえにそれがしも駿河へ行ったが、この醜悪な面相と身分の低さゆえに相手にされなんだ」

 

と言いながら、悔しげに泣き始めた。

 

「諸国の情勢に通じているのね」

 

「左様。若い頃は忍まがいの真似もしておりましてな。信濃の真田などにもツテがございます。治水・築城から忍術・金山掘りまでなんでもごされ。更には天の星から人の運命を読む『宿曜道』なる秘術も修めてございます。自分の運命は読めぬ故に仕官には苦労しておりますが」

 

宿曜道などと怪しげな、と思われがちだし、現代では星占いでは?と言われそうなものだが、この時代の軍師の役目にはそういった吉凶を占うという儀式も含まれていた。

 

「運命が読めるなら、あたしの命運が尽きかけていることもわかるでしょう」

 

「このままでは、そうでしょうな」

 

「あたしは廃嫡を待つ身。駿河行きを命じられ、行けば二度と甲斐へは戻れない。あなたを雇うのは無理よ」

 

「それより、勝千代様はそれがしの容貌を気にかけませぬか」

 

「え?醜いも美しいもないわ。男はみな同じよ。人間の美醜など、皮一枚だけのこと。人間にとって大事なのは、心根であり頭脳であり能力」

 

「なんと!男の美醜など皮一枚のことに過ぎぬとっ!」

 

それがしの見立てよりもずっと聡明なお方だ!と勘助は感激していた。

「それがしをお雇いくだされ!それがしは古今東西あらゆる兵法書に通じ、それを縦横無尽に戦場にて駆使できます!にも関わらず何処にも仕官できぬまま、はや初老の身。このまま朽ち果てたくはないのです。どうか我が才をお使いくだされ!」

 

鼻水と涙にまみれながら必死に叫ぶ。おおよそ、大名家に仕官を許されるような男ではなかった。非礼にもほどがあった。頭のネジが幾つか外れているらしい。並みの姫武将なら貞操の危機を感じて逃げ出すだろう。どこの馬の骨とも知れぬ男だった。

 

だが、勝千代はこの山本勘助というおかしな男にどこか親近感を覚えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「そう…天下人の軍師になりたいの。なら、父上の軍師になりなさい」

 

「あいや。信虎殿は軍師を必要とされぬお方。すべて己の心の中で下した決断で動かれます。器も足りませぬ。器があれば、勝千代様を廃嫡になどいたしませぬ。それに」

 

「それに?」

 

「信虎殿は悪名を背負いすぎました。その残忍さは他国にも知れ渡っております。天下取りのためには悪事も必要ではありますが…それを全て自分でやってはならないのです。多くの人を殺し、謀を巡らせ、義理人情を踏みにじらねばなりませぬ。これを信虎殿は一人でやった。生け贄となる家臣を用意しなかったがため…天下人とはあくまでも民に崇拝されなくてはならないのです。徳なくば民を治められぬは必定。ですから、悪事を背負いこむそれがしのような軍師が必要なのです!」

 

凄まじい形相で勘助はまくしたてる。

 

「おそれながら、それがしが勝千代様を天下人に育てまする!」

 

この男には、天下人の軍師として死ぬ覚悟がある。勝千代はこの時そう悟った。この者は余りある才能の行き場を見出だせず、何十年も悶々としてきたのだ。それ故に狂人に見えるが…しかし、その実狂ってはいない。むしろ正気すぎる。速すぎる頭の回転についていけていないだけだ、と勘助の本質を理解した。慎重派の自分とは好対照だった。

 

「でも勘助。甲斐は山国。海は今川義元に押さえられ東の関東には北条がいる。唯一の侵攻先たりえる信濃も海はない。その上信濃は広大かつ高い山々に分断され統一は困難。現に信濃には多くの国人が割拠してる。天下を目指すにはもう遅いのよ。しかも信濃の中央の要地、諏訪には禰々が嫁に行ってしまった。諏訪頼重はあたしを殺そうとしている。どうしようもないのよ」

 

「あいや。たとえ地の利がなくてもあなた様は人の和を得られる天性の持ち主。お父上さえどうにか出来れば優秀な次郎さまをはじめとする一族、そして有能な家臣団がその力を発揮しましょう。国外へ追放となった優秀な者も続々戻って参りましょう。人を育てなされ。あとは天の時をそれがしが読みまする」

 

「では、地の利はどう補うの?」

 

「まず駿河の今川義元は足利将軍の分家。必ずや東海道を進んで上洛し、幕府の実権を握り天下へ号令しようとしまする。東海道の三河、尾張、北伊勢を下せばあとは近江の六角のみ。六角も名門故に歩調を合わせましょう。あとは織田信秀のいる尾張を併吞すれば、京まで直ぐです。今川は上洛と無縁の山国に関わりたくない。故に義妹を迎え同盟したのです」

 

と勘助。朗々と告げられる言葉はまるで頭の中に地図が暗記されているかのようにスラスラと話されていた。

 

「ですが、今川義元にも問題があります。相模の北条です。北条と今川は近頃駿河東部をめぐって不仲。今川義元にとってすれば、家臣筋の伊勢新九郎が伊豆を乗っ取った結果出来た家。下郎とでも思っているのでしょう」

 

「そうね。そもそも『北条』を名乗ったのも今はなき鎌倉幕府の執権、北条家の威光を借りるためと言われているわね」

 

「本来、今川は西の都へ。北条は東の関東へ。争う理由は無いのです。故に両者に同盟を結ばせまする」

 

「けれど、今川義元と北条はどんどんと険悪な仲になっているわ。今川義元は北条氏綱を家臣と見下し、北条氏綱は今川義元を京かぶれと嘲笑っているわ。花倉の折りに誰のお陰で当主になれたと思っているのだと公言していると聞くけれど。手を取り合う可能性はないわ」

 

「同盟を監視し機能させる立会人を入れまする。三国同盟です。武田の家督を継がれた勝千代様が両者の仲をとりもち、不可侵の三国同盟を締結するのです。さすれば今川は西に。北条は東に。武田は信濃に。三者それぞれに得がございます。故に、同盟は成るでしょう」

 

「三国同盟!」

 

勝千代はあまりの壮大さに身が震える思いがした。

 

「ただ、このままでは今川・北条とは対等に振る舞えませぬ。故に力を示さねばなりませぬ。そこで、諏訪を滅ぼします」

 

「…えっ、婚姻同盟は?禰々は?」

 

「大事の前の小事。諏訪を取らねば、信濃侵攻は不可能。信濃の中央を押さえれば諸地方…伊那、佐久、小県、木曾、そして北信濃をことごとく呑み込めます。ですが、信濃も山国。各地域を素早く移動するため、街道の整備をするのがよろしいかと。孫子曰く、疾きこと風の如く。戦の勝敗は速度で決まります。諏訪頼重を殺さねば信濃は奪えませぬ。なに、神氏としての諏訪家は残し、丁重に扱えばよいだけのこと。」

 

涼しい顔でとんでもないことを言い始める勘助を勝千代はまじまじと見つめていた。街道の整備をせよという献策は、常識はずれだった。山国で『行軍速度』を重んじるのも、また常識と逆だった。

 

 

 

 

 

 

 

この思考に賛同するのは現世においてたった一人。その者は今小田原にいる。機動力は重要であると理解している。最も、兼音の場合は数千年分の歴史がそれの裏付けであるため、純粋な思いつきではない。そう考えれば、自分でこの策にたどり着いた勘助はやはり異常と言えた。

 

山本勘助と一条兼音の軍師としての違いは何かと言われれば色々あるが、根本の目的が違う。勘助は天下人の兵を動かすという根っからの戦場思考だったが、兼音は今張良になりたいという願いの根底には戦場ではなく内政を重んじたいという考えがあった。

 

ただ一つ言えることがあるならば、一条兼音は武田の騎馬隊には対処可能な手段があると思っている。その機動力を封じる手段を知っていた。答えは簡単。文字通りの人海戦術である。関東は日本唯一の超大型の平野。人口が多い。その人的資源をいかせば騎馬隊の圧倒的機動力を理論上封じられると思っていた。やるつもりは無いが。彼は知っている。1940年代に北の雪原で行われた地獄のような戦いを。その結末も。未来の戦術が過去のものを参考にしたならばその逆もまた可能だと考えていた。

 

良くも悪くも常識はずれと括られるこの二人が激突するのはまだ先の未来の話である。なおこの後の未来で常識はずれな内政術に外交・軍事の施策を提出され、あまりのとんでもなさに北条氏康が卒倒しぶっ倒れたのは別の話。

 

 

 

閑話休題

 

 

 

「勝千代様。いえ、御屋形様。戦法とは総じて逆張りです。他人がやらぬことをやるのです。人間の縛られている常識やしきたり。その裏をつけば勝てます。孫子曰く、兵は詭道なり、と。」

勘助が仕官できない訳だ。戦での常識をことごとく裏返して勝つことのみに執着してるもの。きっと、今まで本当に誰にも理解されなかったのね、と勝千代は勘助の心情を察して顔を伏せた。

 

「わかったわ、勘助。でも、禰々は?父上は?」

 

「禰々様にはお痛わしいですが新たな良縁をあてがえばよろしい」

 

「…勘助は乙女心がわからないのね。」

 

「それがしにそのようなものは不要。御屋形様がその器でもってお慰めすれば結構でしょう。全てはこの勘助のやられたことになさいませ。」

 

勝千代は、「その件は後で考えましょう」と話題を逸らす。先に手を出したのは向こうだ。正当性はこちらにあった。それでも、勝千代は妹のことを考えると簡単には決断できなかった。

 

「……父上は」

 

「罠に乗ったふりをなさいませ。そして、刺客の件を告げ、今生の別れとばかりに信虎殿と重臣に見送らせるのです。そして、今川の使者とは国境で落ち合います」

 

「見送らせて…まさか!」

 

勝千代は己の考えたシナリオに冷や汗をかいた。

 

「左様。その場で駿河に引き渡すのです」

 

ニタリと勘助は犬歯を剥き出しにして笑う。

 

「武田の重臣は御屋形様と次郎様が説得し、今川義元にはこちらから使者を送って話をつければよろしい。今川義元からすれば父親まで預かれば武田は今川に逆らえないと考え、この誘いを受け入れましょう。むろん、三国同盟の話をちらつかせ、武田勝千代が当主となれば上洛を実現可能と煽るのです。武田勝千代は臆病者。三国同盟にすがり付き戦を避けたがっているとでも吹き込めばあの世間知らずのお姫様は騙せましょう」

 

同じだった。勝千代がひらめいた策と寸分違わない。

 

「……悪人ね、勘助は」

 

「御屋形様のお心も同じでございます。北条の方は簡単には騙せませぬ故、諏訪を滅ぼし武威を見せつけてから同盟を切り出します。武田が関東に出てくれば厄介になると怯えさせるのです。」

 

勝千代は迷った。実行すれば武田家の和は壊れる。父親を追放すれば武田勝千代は悪名を背負う。いくら勘助が肩代わりすると言ってもやるのは勝千代なのだ。

 

「こうして信濃を押さえれば国力ははね上がります。そして満を持して駿河を奪います。三国同盟を成立させ、今川が上洛した時こそ好機。空っぽの駿河を掠めとるのです。そうすれば駿河の海と港が御屋形様の手に。駿河を平定すれば後は西進するのみ。北条には関東管領の地位でも与えて関東に閉じ込めればよろしい。北条は決して関東から出ませぬ。無限に終わらぬ改築を続ける小田原城が何よりの証拠。東海道と将軍を押さえれば東国はどうとでもなります。かくして御屋形様は天下人に…」

 

勘助の策は何から何まで欺きであり、偽りであり騙しであった。

 

「無論、このような真似はやらぬにこしたことはありませぬが…おそれながら詭道なくして天下を奪うは難しいかと。それほど甲斐は天下を争うのに不利でございます」

 

「でも、同盟を二度も破棄すれば諸国の信頼を失うわ」

 

「いえ、勝者のみが歴史を語る資格を持つのでござる。天下を奪えば誰も何も言えませぬ」

 

「武田家の掟は一門を守る、よ。父上は言うまでもなく、諏訪に嫁いだ禰々も、駿河にいる定も、裏切ることに」

 

「あいや。御屋形様にとって武田家とは血を引く者のみではないはず。むろん一門を犠牲にするのはお辛いでしょうが、殺さなければ良いのです。後々まで礼を尽くせばよろしい。これも武田家存続のため。宿老たちにはこの勘助を恨ませればよいのです。このままでは甲斐は未曾有の混乱が起こるでしょう。次郎様は決して国主にはなりませぬ。老いた者は去るのみなのです」

 

どうして、こんなにも父上との仲はこじれてしまったのか。勝千代は心の中で涙を流した。

 

「おそれながら、御屋形様は涙を流された。それは自らを不幸とお思いだからです。何故不幸なのか。天下を奪えるだけの才を持ちながら、その才を認めてもらえず、機会を与えられず終わろうとしているからです。並みの人間でもその境遇は不幸なれど、万人分にも匹敵する才をお持ちの御屋形様にとってすれば、それは万人分の不幸!諦めてはなりませぬ!」

 

「…勘助」

 

「最後に死ぬからこそ、生きねばならぬのです。この現世に産まれたからには己の才能と野望の炎を燃やし尽くし、生き尽くさねばならないのです!野望を恐れるならば、我が身を燃やされませ。悪鬼になりたくないのなら、我が身を身代わりになさいませ。前へ進むのです!」

 

勘助の前では、もう今までのような泣き虫ではいられなかった。勝千代は勘助のささくれだった手を握り「お願いするわね」と頭を下げた。それを受け勘助はまたしても涙を混じりの鼻水を吹き出す。

 

「お、御屋形様!我が策をお認めいただき感謝いたします。それがしは御屋形様が真の天下人となるその日まで決して死にません。いかなる悪名を背負おうとも、必ずやその身を京へ!」

 

勝千代は決断した。己の運命を変える、この陰謀に乗ることを。

 

「皆を説得するわ。幸いにも次郎が一同を集めてくれている」

 

「おそらく、御屋形様を追放するという策は漏れていないはず。そこに乗じます。自ら顔を出さずとも、大物らしくただ座って吉報を待つのです。会議の席で頃合いをはかり『勝千代様にお味方いたす!』と誰かに叫ばせれば勝ちです。それで流れを決めてしまうのです」

 

「次郎ね。辛い役目だけれど……」

 

無言で頷く勘助に、勝千代はまるで霊媒師のようだと感じた。己の封じ込めた着想を解き放ってくれる、と。

 

「勘助。今川からの使者は明日、国境に到着するわ。今から間に合うかしら」

 

「ただ者では無理でしょう。ですが、幸運にも近くには間に合う者がおりまする。奇怪なる忍術を用い神速で駈ける者が」

 

猿飛佐助を雇えという提案だった。元々勝千代暗殺に乗り気ではない彼女ならば、報酬次第では仕事をするだろう。

 

「いるわね。一人」

 

「これも天の時でございましょう」

 

二人は頷き合う。

この時こそが甲斐の虎が長き眠りより覚めた瞬間だった。




遅くなりました。恨むべきはテストです。ホントに。ちなみにどうでもいいですが、私はバリバリ日本史の話を投稿してるにも関わらず、世界史選択です。皆さんはどっちが好きなんですかね?

この戦国時代の世界史は大航海時代やらエリザベス女王やらの辺りなので、面白いです。世界史は中世の真ん中くらいから面白くなる印象です。


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第22話 訣別の時 甲

今回で武田家編は一旦終わりです。次回から、川越に視点が戻ります。


この間、次郎は武田家の重臣たち、通称四天王を密かに召集していた。武田家の家臣団の頂点に君臨するのが彼らであった。本当は一門も呼びたいが、甲斐の各地の守りで不在である。次郎から勝千代の駿河出向は事実上の追放であると聞かされた四天王は悩んでいた。何分寝耳に水であったため、驚きもそれなりのものである。

 

「よもやそこまで溝が…大殿も水くさい」

 

信虎股肱の臣の一人、板垣信方は勝千代の守役として今まで懸命に両者を取り持ってきただけあって苦り切っていた。

 

「儂と板垣は大殿とは兄弟同然の長い長い腐れ縁。勝千代様がお産まれになった日は大殿も大喜びであったのに…」

 

猛将甘利虎泰は酒が回ったのか昔を懐かしみながら男泣きしている。

 

「…俺たちが仕えるのはただ一人。大殿に従うのみ」

 

こちらも命知らずの猛将である横田高松は、ぶっきらぼうに盃を傾けながら呟いた。

 

「なんじゃと。横田、お主はあのお優しいお方を駿河へ追いやると言うのか!」

 

「感情でものを言うな。家臣など所詮は主君の犬よ」

 

横田高松は感情よりもしきたりを優先するようで、態度を変えることはなかった。一対二で勝千代が優勢だが、次郎は今晩のうちに全員を説得しなくてはいけなかった。

 

「飯富、あなたはどう?」

 

次郎は四天王最年少にしてただ一人の姫武将、飯富虎昌に問う。飯富兵部虎昌は姫武将に懐疑的な信虎がその腕前を認める程の卓越した槍術と馬術の腕を持っていた。戦場では自らの徒党の鎧を赤く染め、中央を突破していく。「血で染まる鎧だ。始めから染めておけば手間が省ける」と語り、その色について問うた信虎を沈黙させたと言う。

 

「あたしゃ興味ないね。誰が親分だろうと、あたしの役目は変わらないさ。なんなら、親子で合戦するかい?太郎はどっちにつくね?」

 

戦闘狂ならではの鋭い笑みを浮かべ、楽しそうに太郎に聞く。

 

「え、そんなの決められるかよ。親父殿は俺の親父で、姉上は俺の姉さんだぞ?どっちも裏切れるかよ」

 

「…聞いたあたしが馬鹿だったよ」

 

優柔不断な解答に呆れたように飯富兵部は頭を振った。

 

「だがよぅ、諏訪頼重は許せねぇ!禰々を嫁にしておきながら姉上を殺そうと企むなんて一門とは認めねぇ!今からぶっ殺しに行きてぇ‼️」

 

「あんたはもう黙ってな。会議が終わらなくなる」

 

飯富兵部は中立を選んだ。このままでは説得は難しい。皆、一人一人考えや性格、立場が違いすぎる。信虎がこの面子を使いこなせていたのは意見を求めなかったからと言う面もあるのかもしれなかった。家臣団同士で大事を話し合うという行為自体に彼らは慣れていないのである。

 

次郎が頭を抱えていると、席を外していた孫六が室内に入り、何事かを囁く。その言葉を聞いた途端、次郎の表情は一変した。

 

そして、四天王に向かって言い放つ。

 

「私の、武田次郎信繁の心は決まっている。私は誰が何と言おうと姉上に自分の命を託す!武田の当主は姉上しかいないと信じている!明日、駿河より来る使者には父上を引き取らせる。そして、そのまま甲斐には帰さない。これは、決定事項よ!」

 

既に勝千代が今川と接触していると、次郎は宣言していた。そして、さらりとだが、この時元服していても自らの名を次郎で通してきた彼女が、最初に信繁を自ら公的な場で名乗った瞬間だった。彼女は彼女なりに、様々な物との訣別を果たそうとしていたのである。

 

「今、孫六から姉上よりの伝言をいただいたの。『父上は甲斐の統一という偉業を成し遂げられたが信濃攻略で行き詰まられた。この戦乱の世で武田家の甲斐の民が生き延びるためには、父上の古いやり方を改め甲斐を生まれ変わらせなくてはならない。これより、この武田勝千代が甲斐の守護となり、身命を賭してこの仕事をやり遂げる』と。明日より、武田家の当主は姉上よ!」

 

四天王は、信繁の熱く激しい熱意と、勝千代の素早い行動に驚いていた。

 

「何ですと、あの勝千代様が既に動いたと」

 

「慎重なお方だと思っていたが、いざとなれば神速じゃな」

 

「ふ、だとすれば宴での泣き虫ぶりは演技か。実は食えないお人のようだ」

 

「うわ、信じられねぇ。謀ってるんじゃないのか?あたしたちを」

 

四天王は四者それぞれの驚きをする。話に付いていけてない太郎は頭を抱えていた。

 

「偽りではないわ。姉上は忍の者を用いて甲斐へ向かっている今川の使者と交渉して内諾を得たの」

 

そう説明する信繁だが、流石の彼女も真田幸隆と知り合いの山本勘助が猿飛佐助を逆に雇い返したとは知るよしもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時は少し戻り、温泉での邂逅のやや後になる。勘助は佐助を雇うべく昔の忍仕事をしていた要領で佐助を発見した。

 

「見つけたぞ、佐助」

 

「ぬ?山本勘助殿ではござらぬか。拙者に何用にござるか」

 

「お主は武田勝千代様を暗殺しようとしてしくじったな。それがしはその勝千代様の軍師として雇われたのだ」

 

「まさか、拙者を成敗に?まだ死にたくはないでござるからなぁ。猿飛の術で逃げさせてもらうでござる」

 

「それよ、お主の術に銭を払いたい!諏訪頼重の倍の銭を払おうぞ」

 

主君を暗殺しようとしていた忍を雇い返すなど、まっとうな武士のやることではない。が、勘助は駿河からの使者に勝千代の書状を渡すのにその術が必要だとわかっていた。

 

「勝千代様からの念書を預かっておる。これを上野に落ち延びている真田幸隆殿に。勝千代様が信濃に進出されたあかつきには必ずや真田の旧領を約束しようぞ」

 

「ふーむ、勘助殿はあの姫の器にすっかり参ったようでござるな。確かに面白い姫でござる」

 

面白そうだと佐助はこの仕事を受けることにした。去り際にふと、真田幸隆の言葉を思い出す。

 

「そうそう、勘助殿を見いだせる者が『人の王』だと幸隆殿が言っていたでござるよ」

 

そう言って笑いながら人ならざる技で空を駆けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「四天王!今すぐどちらに付くか、答えなさい!」

 

凄まじい気迫をもって信繁が毅然と言葉を発する。例え四天王であろうとも、味方しないならこの屋敷より出さないという覚悟が滲み出ていた。

 

意外にも、最初に頷いたのは横田だった。

 

「承知した。俺は勝千代の姫様に仕える。策略に策略で返す。一晩で大逆転とは大したタマだ。優秀な軍師でもついてるのかもしれんな。何にせよ、大殿の敗けだ」

横田高松は傭兵だったこともあり、見切りが速いのだ。元々勝千代を推していた板垣信方は断腸の思いで

 

「拙者も勝千代様にお味方いたそう。次郎様が付いた以上、最早大殿は甲斐を保てぬ。これも安寧のため」

 

と涙目で頷いた。甘利虎泰も、

 

「姫様は今宵勇気を振り絞って甲斐の若虎となられた。大殿もいつかわかってくれるはずじゃぁ!」

 

と叫ぶ。飯富兵部は何かを口にはしないが、その目はぎらりと輝き、その意思がどうなったかは明白だった。太郎も、何とかやっと飲み込んだようだった。

 

「父上には駿河で何不自由ない隠居生活を過ごしていただくわ。姉上曰く、武田家が上洛したあかつきには都に邸宅を建ててお出迎えすると」

 

「「「「上洛…!」」」」

 

四天王は目を丸くしている。だが、決してそこに不満の色はなかった。むしろ、諏訪家との同盟に不満を募らせていたのだ。この上洛という途方もない目標は彼らの心に火をつけるには十分だった。

 

板垣と甘利は信濃攻略に人生を捧げていた。諦めきれないものがそこにはあった。横田と飯富はそこまでの感慨はないが、戦闘狂の性質を持つ彼らは、甲斐に籠るよりは暴れられそうだ、と息巻いていた。停滞していた武田家に光が差すと、皆が信じていた。

 

信繁は姉の命運を託されたことでその重さに震えると共に、信頼されていることへの感激から長い迷いから覚めた。かつて言われた言葉がよみがえる。

 

「自身のままであられたなら、いつかまたお姉さまと元の関係に戻ることも出来ましょう。それまでの辛抱です。心を強くもって、寄り添ってあげれば、必ずその思いは届くものです。」

 

その時は来ましたよ。彼女は小田原の方角を向きながら、涙をこらえていた。

 

「私は信じる。家臣が皆で姉上を支えれば、可能よ。明日から武田家に一門と家臣団との区別は消える。皆が武田家の家族となるのよ」

 

「ははっ!拙者たち老骨には過分なお言葉」

 

「時代は変わっていくのじゃのう」

 

板垣と甘利は長年の主・信虎を追放する罪滅ぼしとして人生の最期は戦場で散ることを誓った。

 

 

 

 

 

 

この会話の全てを盗み聞く者が一人。穴山信君である。

 

「勝千代さんは暗殺から逃れましたか。加えてこの四天王たちの反応。信虎様の敗けですね」

 

ふぅ、とため息をつきながら考える。上洛など微塵の興味もないが、退屈な日々よりは面白そうだ。それに、負け馬に賭けるほど愚かじゃない。彼女はそう思った。一門の中では一条信龍に続いて上位にいる彼女なら、他の一門への影響力もあった。

 

「ここで、恩を売っておきますか」

 

そう呟き、彼女は会議の場へと躍り出る。

 

 

 

 

 

 

パチパチパチと拍手の音が突如として響いた。

 

「いやはやお見事なお手並み。感服しました」

 

「……信君」

 

「はい、信繁さん。お久しぶりですねぇ。ご壮健そうで何より」

 

「ご託は良いわ。聞いていたのね?貴女も去就を明らかにしなさい。もし、姉上に敵対するのなら貴女でも…」

 

今にも刀を抜こうとする信繁に対し信君はちろりと赤い舌を覗かせ酷薄に笑う。

 

「いえいーえ敵対するなど滅相もない。信虎様の敗けは確定です。ただご提案に参ったのですよ」

 

「提案ね」

 

「ええ、ええ!私は一門の中でも上位。一門や武田家にあまり協力的でない豪族国人にも顔が利きます。根回しをしようかと思いまして」

 

胡散臭い笑みで彼女は答える。信繁は本能で、この女は信用ならないと感じとっていた。

 

「見返りは?」

 

「海」

 

間髪入れずに信君は答える。聡明な彼女はその知謀から上洛には海が不可欠。海とは駿河のこと。いつか必ず武田は駿河を奪うと確信していた。逆にそうしなくては上洛など夢のまた夢であるとも。

 

「その日が来たなら、必ず」

 

「その言葉、お忘れなきように。フフフフ」

 

これは楽しくなりそうだ、と信君は頬を染め嬉しそうに笑う。それは美形の武田家の血筋であるとわかる美しさだが、信繁はとても恐ろしかった。

 

「賽は投げられた。刀は抜かれ、弓は放たれた。覆水二度と盆には返らず。それでもやる?」

 

存在感を消していた信龍が問う。全員の視線は信繁に集まった。

 

「もう、後戻りは出来ないわ」

 

「そう。死の匂いは今はしない。これが正しい選択なのかもしれないね」

 

信龍はそう言いながら立ち上がる。

 

「おや、どちらに?」

 

「貴女に関係ある?貴女からは熟しすぎた果実のような匂いがする。裏切りの匂い」

 

「まぁ、酷い。いつ私がそのような事を?」

 

「まだ。でもこれからする。必ず。私は貴女を信用しない。例え姉上たちが信用しても」

 

「あらあら嫌われたものですねぇ」

 

それには答えず信龍は普段の眠そうな雰囲気など消し飛んだ冷たい目のまま、信君の横を通り抜けていった。

信龍の勘は鋭い。あの子の"匂い"は正確だ。信君には注意が必要なのかもしれない、と信繁は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

信虎追放の陰謀は周到に進められた。成功の要因は四つ。一つは山本勘助と猿飛佐助が旧知の仲だったこと。二つ目は信繁が四天王を説得できたこと。三つ目は信虎が諏訪頼重に引き留められ飲み続けていたこと。これはかなり大きな原因で、飲み続けていたため二人は張り巡らされている陰謀に気付かなかった。そして、四つ目。最後の要因は、太原雪斎と今川義元のところへギリギリで書状が届いた事であった。

 

雪斎は男に乱世は任せられない。可憐で雅な姫こそが、天下を治めるには相応しいと考え、姫武将に泰平の望みをかけていた。そして、それに相応しいと見出だされたのが今川義元だったのである。能力の不足は自分が補えばいいと自信家の彼は割りきっている。

 

「これは親子喧嘩ですなぁ」

 

大酒飲みの雪斎はこの日も遅くまで飲んでいた。

 

「あらあら、でも勝千代さんは気弱な女の子なのでしょう?やられたらやり返すなんて、らしくありませんわね」

 

「窮鼠かえって、とも言います。父娘いずれかを選ばざるをえなくなった家臣団が勝千代殿を選んだのでしょう」

 

「どこの大名家も家督を巡って争うのね。けれど、妾が目指すは京!甲斐などに興味はないですわ。どうしましょう」

 

「信虎殿を引き取れば、武田はこちらへは攻めてこないでしょう。父親と妹を預けた家を攻めるなど、あってはならないこと」

 

「じゃあ、信虎さんを引き取りましょう」

 

「ただ、勝千代殿の急変ぷりがいささか気がかりですが」

 

「いえいえ、あの子は追い詰められて切れただけですわ。甘くて気弱だからこそここまで追い詰められたのですもの」

 

確かにそうだが…と雪斎はいぶかしむ。勝千代が化ければ上洛は厳しくなる。そもそも、これほどの献策ができる者が甲斐にいたのか?信虎殿を除いて。と雪斎は不安を感じないでもなかったが、信虎が自らを犠牲にした罠を張るとも考えにくかった。彼の警戒はむしろ北条に向いている。

 

「ふうむ。甲斐の若虎を野放しにするよりも駿河で猫にしてしまいたかったのですが…。だがあの才を腐らせるのは惜しい。武人になりきれぬ拙僧は迷いますな」

 

「簡単なことですわ。考えてもごらんなさい。信虎さんは初老。娘の勝千代さんの方が長生きするでしょう?長生きする方に恩を売った方が得ではなくて?」

 

必ずしもそうとは限らないが、確かに常識的に考えれば信虎の寿命の方が先に尽きるはずだった。

 

「勝千代殿が駿河に目を向ける余裕ができる前に上洛してしまえばこちらのもの。拙僧もキリキリ働かねば」

 

雪斎は、危険でも天下を治めるには賭けも必要だ、と頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜は明けた。すべての準備は整った。甲斐と駿河を繋ぐ中道往還の右左口峠にて、両家の手勢は接触する。

 

武田方には勝千代を始め、信繁・太郎・孫六・信龍、そして四天王と穴山信君が勢揃いしている。その一行の中には不機嫌そうな顔の信虎も混ざっていた。

 

信繁から「姉上は駿河行きを承諾され、私に家督を譲る決心をなさいました。これが今生の別れ。どうか、共に見送っては下さりませんか。もし叶わぬのなら、私も共に駿河に参ります。」 とまで言われればさしもの信虎も断ることは出来なかった。勝千代に厳しい分、信繁には甘かった。

 

だが、用心深い信虎は勝千代が何事か企んでいた時の対策と、当主が出る事への警備の意味を兼ねて四天王にも出馬を命じていた。信君はどこからか情報を聞きつけ勝手に付いてきたが、大方自分に媚を売るためだろうと考えていた。

 

よもや、四天王も子供たちも勝千代を支持しており、自らを追放する陰謀を巡らせているなど、毛頭考えていなかった。しかも、黒幕とも言える勘助は諏訪頼重を送り返す任務についており、いない。怪しげな新参がいれば信虎も警戒したが、そうでない以上気付ける筈がなかった。暗殺失敗を知った諏訪頼重は慌てて甲斐を出発した。

 

「だが……よくぞ決心した。勝千代よ。しばらく駿河の海を楽しんでくるとよい」

 

自分の娘を見つめる瞳には、意外にも瞳を潤ませている。娘を殺さずに済んだと安堵しているのだろうか、と勝千代は思った。一門は殺さない。それが武田家の掟である。

 

「父上。あたしは駿河の太原雪斎殿のもとでまつりごとについて学んで参ります」

 

「そうするがよい。あれは酔狂な坊主で姫武将の育成を己の生き甲斐としておる」

 

「海を堪能してきます。海とは風光明媚なものだとか」

 

「うむ、好きにせよ。心身をすり減らす武将稼業などやめて、定と共に駿河にてのんびりと過ごすがよい。お主の好きな読書も好きなだけせよ。それがお主の為だ」

 

「父上……?」

 

「儂にはわかっておる。戦とは狂わねば出来ぬ。狂い続ければ、お主は心を蝕まれ命を縮める。息災に生きたければ、戦の事など忘れよ。」

 

初めて聞く父親からの優しい言葉だった。だが、もう迷ってはいけない。引き返せないところまで来てしまったのだ。父上は感傷的になってるだけだと勝千代は自らに言い聞かせた。

 

「……父上。あたしは」

 

「もうよい。行け」

 

信虎が目を伏せたその時だった。

 

 

 

 

「武田陸奥守信虎殿。これより駿河に来ていただく」

 

 

今川方の侍は信虎の乗った馬を囲んでいた。信虎は訳がわからず思考が停止していた。

 

「これは、どういう事だ?約束が違うぞ。駿河へ参るは儂ではなく勝千代のはず」

 

「主命は、信虎殿を迎えよとのことでございました」

 

「次郎?勝千代?これはいかなることぞ?」

 

勝千代は胸に込み上げる様々な感情が邪魔をして言葉が出ない。察した信繁が「父上には隠居していただきます」と告げた。

 

「何だと、どういう事だ太郎?」

 

「親父殿、すまねぇ。駿河には俺も遊びに行くからよ。しばらく定のところで遊んでてくれや」

 

太郎は手を合わせて信虎を拝む。

 

「姉上とよりが戻るまで駿河で頭を冷やしてくれや」

 

「な、なんたること!孫六っお主はどうした!」

 

「えーと、ごめんね。姉上が毎月銭を送るからさ。駿河で後妻でも見つけたらどうかな」

 

信虎は、この二人では話にならないと憤る。最後の望みを賭けて信龍に目をやる。

 

「父上。さようなら。いつか、優しさを取り戻せたら、また会いましょう」

 

「ええいっ!勝千代よ、どういう事だこれは!このような真似…ただで済むと思っとるのかっ?」

 

「これより武田家は私が守ります。家臣を次々粛清し、信濃一国も切り取れなかった父上には隠居していただきます。」

 

勝千代は意を決した。信繁ではなく、勝千代自身がはっきりと口にした。その視線の猛々しさに、信虎は震えた。

 

「四天王!そなたたちは何をぼんやりしておる!これは謀反ぞ、勝千代の乱心ぞ!」

 

最後の頼みの四天王に声をかけるも、全員が勝千代を支持していると知った。娘の手際のよさに信虎は唖然とするしかなかった。

 

「大殿。我ら四人は皆、武田家と勝千代様のため戦場で死ぬ所存。どうか、お許し下さい」

 

「儂が不甲斐ないばかりにこんなことになってしもうた。かくなる上は百まで生きて下され!」

 

「子供はいつまでも子供ではないと言うことだ」

 

「あんたは殺し過ぎたのさ。ごめんな」

 

秘密主義がここで仇をなしたことを信虎は思いしらされた。諏訪頼重がいなければ気付けたものを!儂の最大の過ちはあのような輩を一族に引き入れたことよ。あやつは討たねばならなかった、と信虎は歯軋りした。

 

「穴山、お主は…!」

 

「私も死にたくはないのです。生き残るため最良の道を選んだまで」

 

腕に覚えはある。しかし、一門不殺の掟は破れなかった。

 

「諫言した家臣を殺す悪習は今日で終わりです。いずれ内藤や山県も復活させます」

 

「勝千代よ!何が望みか。父を追放してまで何を成すのか!」

 

勝千代は答えなかった。だが、その目には確かな炎を見た。まさか、今川に聞かれたくないような大望を持っているのか。こやつ、上洛を…考えているのか。いつの間に我が子はここまで成長した?儂の叱咤のせいか?

 

それに信繁も…。無欲な娘だった。親孝行な子だった。それがどうして…

 

「出来ることならもっと姉上と話し合っていただきたかった。そうすれば姉上の器を理解していただけたはず。おさらばです」

 

次郎よ、それは違う。こやつは合戦の地獄のような有り様に耐えられぬ。臆病者とはそういう意味だっ!と信虎は叫びたかった。今川方の侍が馬をせき立てる。最早甲斐へは戻れないのだろうか。

 

「おさらばです。父上。これからあたしは武田晴信と名乗ります」

 

「ええいっ!儂を追放したからには必ずその野望を成し遂げよ。死ぬなど許さぬ。お主より生きて、その帰結を見てやるわっ!四天王、お主らは武田家の為に死ね。よいなぁっ!」

 

信虎最後の咆哮だった。武田勝千代改めて晴信。策略と人望。相反するとも言えるこの二つを一度に示していた。

 

次は頼重ね…と晴信は呟く。禰々を泣かせるが、自分を殺そうとした男を放置は出来ない。

 

自らの重石だった信虎は去った。だが、晴信の心には寂寞たる風が吹いていた。この悪行は千年先まで伝わるだろう。果たして武田家は団結を保てるのか?あたしは大切な何かを失ったのではないだろうか?

 

爽快感ではなく、喪失感のみが残った。

 

「これで、本当に良かったの?」

 

空を見上げて呟く。答えは返ってこない。だが、時は戻せない。信虎が自分を認めるその日まで走り続けるしかないのだ。己の野望で自らを焼きながら。信繁が寄り添うように馬を進める。ずっと隣にいてくれた出来すぎた妹だった。

 

「姉上。私は自分の意思で姉上を選んだの。姉上は臆病者なんかじゃない。私には、後悔はないわ」

 

この追放劇を成功させた功労者は、家督を望まなかった信繁であることは明白だった。これから二人で天下への道を歩むのね。そう考えると心に温かい光が差し込むようだった。

 

もう、二人を引き裂く信虎はいない。やっと、姉妹が共に歩める時が来たのだと思うと、もう何もかもどうでもよかった。

 

「次郎にはこれからも苦労をかけるわ」

 

「四天王と同じよ。私も姉上のために戦場で散る覚悟はできているわ」

 

「……あなたはだめ。死なないで」

 

「依怙贔屓よ、姉上」

 

「贔屓するわ。あなたが死んでしまったら、こうして父上を追放した意味がなくなる。死なないと、約束して」

 

「はいはい」

 

もう泣き虫はやめましょうね、と信繁は姉小路手を握りながら、涙交じりの笑顔を浮かべた。空は晴れ渡っていた。




いつか信虎視点の物語も書いてみたいですね。


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第23話 忍

今回からまた北条視点に戻ります。
キャラの姿やイメージにクロスオーバー要素があるので一応タグを追加しました。


小田原は大混乱だという。それもそのはず、隣国は甲斐で政変が起こり、国主武田陸奥守信虎が娘の武田勝千代改め武田晴信によって追放されたと言うのだ。

 

父親と子供が争うという例は戦国の世でとてつもなく珍しい訳ではないが、それでも突然起これば他国も国内も動揺はする。そして、大抵は悪名を背負うものだ。親子の対立と言えば、斎藤道三と息子の義龍の対立や伊達天文の乱、最上義光も父親と仲が悪かったと聞く。今回は無血クーデターなのが救いだろうか。大方の争いでは敗れた方は死んでいる。

 

武田のこれからの方針が読めない以上、小田原が混乱するのは仕方のないことだった。未来知識がある自分だからこそ動揺せずにいられるのだから。もし、武田晴信が関東に野心を見せたら?義妹同盟を結んだ今川と共に攻めてきたら?そういう想定は容易にできる。直接的に手を下して来なくても、上杉や古河公方等の関東諸将と組まれたら厄介だ。史実では信濃、具体的には諏訪・高遠へ進出するのだが、この世界ではどうなるかわからない。

 

そして、今回の件を受けて思ったが、諜報網が欲しい。確かに、北条家には戦国トップクラスの忍集団の風魔がいる。しかし、彼らは北条幻庵と当主氏康様の直属部隊だ。こちらに情報が回ってくるのはどうしても遅くなる。

 

だが、それでは困るのだ。ここは対上杉のいわば最前線基地。それが万が一起こった不足の事態に際して、情報を知りませんでしたではお話にならない。それに、今後ここが最前線として機能していくうちに自由に使える忍が欲しいとなるのは必定だった。個人的にも、越後や甲斐信濃、北関東などの情勢は知りたかった。小田原に引きこもる前にここら辺で足止めするためにも、諜報要員は必要だ。

 

しかし、小田原から風魔の人員を割いて貰うのも厳しいだろう。それとなく打診してみたが、人数をフルで使用していると言われた。氏康様の護衛役にも人員をかなり使っている。一人でも良いから欲しいんだがなぁ。こちらだけに特別に戦力を回せるほど余裕があるわけでも無いようだ。風魔も大概ブラックだな。

 

 

 

 

こうなっては仕方ない。雇うか、忍。一応この城の人事権は私にあるのだ。流石に小田原には報告するけれど。問題はどこから呼び寄せるかという事だ。おそらく今後の侵入先は高度な防諜能力を持つ武田や長尾等になるだろう。その際にキチンと任務を果たせそうな人材は…そもそも忍は表舞台に出てこないからな…。

 

だが一応一つだけ心当たりがあるのでそれに賭けるとした。彼もしくは彼女ならば十分に役目を果たしてくれるだろう。仕えてくれるかは"神のみぞ知る"だが。風魔よりの情報で所在地だけは掴んでいる。

 

 

 

 

 

 

「貴殿には伝令を頼みたい」

 

呼んだ若武者にそう告げる。

 

「承りました。して、それがしは何処へ参れば良いのでしょうか」

 

「信濃は戸隠に行って、この文の宛名に書かれた人物に会い、文を渡してきて欲しいのです。くれぐれも、無礼な態度をとらぬようにして、丁寧な対応を心がけて下さい」

 

「はっ。して、このご仁はどのようなお方で?」

 

「忍です。それも腕利きの」

 

「なるほど忍…わかり申した。早速出立致します」

 

「頼みました」

 

さて、手紙は送ったから後は向こうから何かしらのアクションがあるまで待つとするか。それまで遊んでいるわけにもいかない。さぁ、早速今日の仕事に取り掛かろうか。

 

 

 

 

 

 

 

使者を送って二週間近く過ぎた。ここに来てから一月が経過しようとしている。これまで当然遊んでいた訳ではなく、城下の商人等と会合を開いたり周辺の元々いた小領主たちと会ったりもしていた。

 

河越城主の支配領域は広い。前線基地という危険を伴う事のリターンとも言うべきか、管理区域の面積はそこそこの広さを誇っている。所沢や飯能の辺りも一部支配地域であるということからも、それが伺える。

 

前領主、上杉家は土地開発にはあまり熱心で無かったようで、余らせている土地は一定数存在する。こちらとしてはとっとと開墾したいのだが、余剰人員が少ない現状ではそれは厳しい。何処かから持ってきたいが難しいだろう。

 

農業改革をしたくても、搾取が続き困窮していた農民に改革は早急すぎるだろう。お気軽に内政チート…等とは当然いかないのである。とは言え、やれることはやらなくてはいけない。取り敢えず、現状の確認からやるとしよう。自分の目で見てこそ、気付ける事があるというものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「これはこれは城主様が自らいらっしゃるとは。大したおもてなしも出来ませんで、申し訳ございません」

 

「気にするな。はじめより、そのような目的で参ったのではない。皆にも、気にせず作業を続けるよう言ってくれ。邪魔しては意味が無いからな」

 

「はっ、そう仰せであれば、そのように」

 

季節は春。農作業の始まりの時期である。この時代の田んぼは大きさが不揃いだ。重機が無いのだから、現代のようにピシッと四角い水田になるわけがないのは重々承知している。それに、今の形を変えるには手間がかかりすぎる。仕方ない。せめて、新しく開墾するのなら綺麗な形にしよう。その方が検知や作業も楽だろう。

 

「村長。何か困った事はないか」

 

「おかげさまで特にはございません。女子供も飢えることなく元気に過ごしております」

 

「そうか。それは良かった」

 

そこで、ふと直ぐに何とか実行出来そうな改革を思い出した。

 

「田に流す水を水路から汲み上げる作業はどのように行っている?」

 

「水でございますか?それはまぁ、人力で色々と…」

 

「ふむ。では、それが楽になれば作業も捗るか」

 

「まぁ、そうでございましょうなぁ」

 

村長は生返事である。そんなものあったらとっくにやっとるがなと言いたげだ。城下の職人に作って貰うとしよう。まずは図面を何とか書かねばならないが。

 

「村長。汲み上げる道具を近日中に持ってくる。この村で試してもよいか」

 

「構いませぬが…」

 

疑われているのは仕方ない。まだまだ信頼してもらうには実績が足りない。ここから少しずつ積み重ねていくしかないだろう。

 

「あぁ、そうそう。隣のそのまた隣の村の者から聞いたのですが…その…」

 

「何だ。はっきり言ってくれ」

 

「恐れながら申し上げると、野盗が出たようでございます」

 

「野盗、か」

 

それで"恐れながら"か。野盗が出るということは、領主の取り締まりが緩いということに他ならない。場合によっては領主への政治批判ともとられる可能性がある。故に、恐る恐る言ったのだろう。しかし、これは盲点だった。至急対策に乗り出さねば。

 

「事実ならば一大事だ。早急に対策を打つ。何か情報があれば報せてくれ」

 

「は、はい。わかりました」

 

まずは情報収集から。根城を見つけて一網打尽にしたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

城に戻り次第、手の空いている者を何人か召集して、根城の調査に向かわせた。この広い領内から見つけられるだろうか。北条家の領内ならともかく、他家の領地だと厄介だ。上杉が雇った連中だという可能性もある。私掠船みたいな公認盗賊だったら困るのだが。

 

流石に一日での発見は不可能だったようで、夜になって皆戻ってきた。少なくとも城の近くにはそれらしき場所は無かったという事だ。人数を増やすことを考えた方が良いかもしれない。

 

 

 

夜更けに城内の自室にて、チリリと首筋に何かが焼きつくような感覚を覚えた。これは戦場で感じるもの。殺気。ただ、本気の殺気では無いな。気配は後ろから。不気味なのは事実だ。放置は出来ない。振り向きざまに太刀を抜き放つ。

 

「何奴っ!」

 

放った太刀の刃は殺気を放つ何者かの手にあるクナイで止められた。金属の擦れる音が響く。太刀の勢いから生じた風で灯火が消える。窓から差し込む月明かりが刺客の顔を照らす。

 

金色の目に黒い髪。黒と赤、それも血のように濃い赤を基調とした服に身を包み、長い髪は赤いリボンで一つに括られている。その美しい姿とは裏腹に表情と手にあるものは物騒だ。服や武器から察するに普通の武将ではなく忍に相違ないだろう。

 

「私の気配に気付き、攻撃してくるとはおやりになる」

 

「よく言う。殺す気など無かった癖に」

 

「そこまで見抜いて、それでも太刀を抜いたのか」

 

「そのような舐めた真似をされるのはいささか癪だ。武士らしからぬ思考の我が身ではあるが、誇りを失くした訳ではない。…それで貴様は誰だ。答えぬとあらば、残念だが斬らねばならぬ。」

 

「当ててみろ。知恵者を名乗るならな」

 

ふむ…。外見からは忍ということしかわからない。となればその他の要素から見抜くしかないだろう。

 

「刺客…にしては殺す気がないのはおかしいな」

 

「さてどうかな?風魔の手の者でお前を監視していたかもしれないぞ。事実、私は風魔の技を使える。或いは場合によっては殺せ、と北条氏康に命令されていたかもしれない」

 

「それはない」

 

「ほぅ?なぜそう言いきれる」

 

「あのお方は敵にはともかく味方には決してそのような事はなさらない。それは、家中の誰もが知っていることだ。我が主を愚弄するのはやめて貰おう」

 

「……良い信頼関係だな」

 

「それはどうも。そして今のでわかった。お前は風魔ではないな。技を使えるということは、もしや、私の招いた…」

 

ふぅ、とため息を吐き出し、女忍は武器をしまう。

 

「いかにも。私が貴殿、河越城主一条兼音殿に招かれた忍、加藤段蔵だ」

 

やっぱり。加藤段蔵には風魔の元で忍術を習ったという説がある。しかしとなると、先程のやり取りは試されていたと考えるのが自然か。こちらも武器を収める。

 

「これはこれは遠路遥々ようこそ。随分なご挨拶でしたが。それと、貴女に会ったはずの使者はまだ帰ってこないのですが」

 

「途中で追い越した。試したのは悪かったと思っている。が、忍と言えど未熟な主に仕えるのは嫌なのでな。一つやらせてもらった」

 

「まぁ、それは良いでしょう。こちらが招いた身だ。ご足労いただいたのだからそれくらいは見逃すというものです」

 

「ふん。そうか。では、問おう。貴殿が私を雇う訳は何か」

 

「我が主のため。ひいては、主の望む関東静謐のため」

 

「はっ!どうだかな。侍は口だけは達者な者が多い。そのように貴殿と同じ事を言いながら反故にした者を私は多く知っている。静謐を謳いながら人を殺す」

 

「自らも人を殺す忍でありながらそれを言うのか?」

 

「矛盾している事は受け入れよう。だが私はそれでもこの乱世を憎んでいる。殺さねば生きられぬ世の中を。それを終わらせられない、侍たちを」

 

彼女は鋭い眼差しでこちらを睨んでいる。お前もそうだろう?と言うように。彼女の話しは確かに矛盾している。だが、その気持ちも理解できる気がした。誰かを守るためには誰かを殺さなくてはいけない。今の世界はそんな不条理に満ちている。平和を作るためには多くの屍を作らなくてはならない。その事実に対する憎しみや怒りは全うなものだと感じた。

 

「死にたくなくて、戦っていた。風魔の技にも手を出した。いつしか戸隠忍の頭目になった。殺しの果てに平和があると信じていた。だがどうだ。結局何一つ変わりはしない。今日も何処かで戦だ。平和は、泰平は訪れる気配などない。何もすべてを救えとは言わない。だからせめて、戸隠にだけでも何者にも理不尽な死を与えられぬ隠れ里を作ろうと思った。その為にまた殺した。私は、そんな自分が、大嫌いだ。それでも止められない。私は理想のために生きると決めたのだ。両親を目の前で殺された、あの日から」

 

そこで彼女は一旦言葉を切る。

 

「貴殿に、北条家に作れるのか。私の望む泰平を」

 

その覚悟の籠った目にこちらも覚悟で返す。生憎と、ここで引き下がる訳にはいかない。これは彼女の問いに答えると共に、自分達のあり方を見直す場だ。

 

「掌よりこぼれ落ちる水を無くすことは出来ないでしょうが、少なくともその水を減らすために努め成し遂げる事が出来るのは日ノ本広しと言えど、ここだけでしょう。それは自信をもって言えます。税は安く、民は安らぎを得ている。民に寄り添い、共に生きる。それが北条の、私のあり方です。我々の目指す世界と貴女の目指す理想が完璧に同じかはわかりません。ですが、我々は流した血の果てに望む世界があると信じています。日ノ本全ての民を救えなくても、せめて関東の民は救える世界があると。信じろとは言いません。言葉で言うより、見てもらった方が早いでしょう?」

 

「…………承知した。見極めさせてもらう。北条の、貴殿のあり方を。」

 

「それでは早速一つお願いが」

 

「…貴殿、相当にあれだな」

 

「はい?まぁ、それは良いとして、野盗が領内に出るとの報告を受けました。根城を一網打尽にしたいのですが、肝心の場所が不明です。探してきて頂きたい」

 

「了解。数刻後に戻る」

 

そう言って彼女は音もなく消えた。相変わらずこの世界の忍は物理法則をガン無視している。何はともあれ、問題だった野盗は対処できそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明け方に戻ってきた彼女から報告を聞く。何でも、城から馬で二時間ほどの所にある古城跡に根城があるらしい。巧妙に擬態していて、分かりにくくなっていたそうだ。しかし、場所が特定できれば話は早い。城の武士を四十人ほど引き連れ、朝方に出立する。

 

道を駆け、少しずつ目的地に近付く。段蔵も姿は見えないが付いてきているようだ。

 

「申し上げます!前方の村が襲われている模様。おそらく例の野盗かと!」

 

先に偵察に行かせた者からの報告にざわめく。

 

「わかった。直ちに救援に向かう。続けっ!」

 

「「「はっ!」」」

 

全員騎馬で構成してきたのが幸いした。あっという間に襲われているという村に着く。抵抗を選んだらしいこの村からは争う声が聞こえる。

 

「遠慮はいらない。全員抜刀。敵を殲滅せよ!」

 

「「「「応っ!」」」」

 

野盗が掛け声に気付く。侍の登場にやや狼狽えているようだ。

 

「狼狽えるな!俺は元上杉家足軽大将だ!恐れるな、北条の武士ごとき一捻りだ。俺より強いのは頭だけよ!」

 

叫びながら統率をとっている男がこの襲撃の主犯だろう。話の中身からするに野盗全体のリーダーでは無いようだが。

しかし、舐められたものだ。よろしい。その北条の武士の武威、しかと見せてやろう。狙いやすい的だ。弓を構える。

 

一射。我ながら見事に命中し、男は地に倒れ伏した。途端に恐慌状態になる野盗たち。こうなってしまえば歴戦の武士たちには敵わない。次々討ち取られていった。私も弓による遠距離射撃で援護する。

 

その時だった。突如として聞こえた悲鳴に振り返れば、女性が襲われかけている。人質を取ろうとしたのだろう。そこへ彼女の子供らしき少年が、野盗の前に立ち塞がる。男は焦りと苛立ちから今にも太刀を振り下ろそうとしている。

 

慌てて馬から飛び降り全速力で駆け寄る。間に合えっ!刀を抜きそれで相手の刀を抑え、片膝をつきながら何とか防いだ。

 

ギリギリ間に合ったようだ。雄叫びをあげながら再度襲い掛かる男。が、次の瞬間首元に無数のクナイが刺さり、声をあげる暇もなく絶命した。どうやら段蔵が始末してくれたようだ。助太刀感謝の念を送る。

 

「あ、ありがとうございました!この子を助けて頂き、なんと感謝申し上げればよいか…」

 

女性が子供を抱き締めながらそう言う。勇敢な少年は気が抜けたようで放心している。

 

「気にするな。むしろ、あのような輩、もっと早く退治すべきだったのだ」

 

それでもペコペコお辞儀をする女性に苦笑しながら、やっと意識が帰って来た少年に声をかける。

 

「素晴らしい勇気だった。武士もかくやという気迫だったぞ。そのあり方を損なわぬようにな」

 

私の言葉に、彼は少年らしい笑みを返した。

 

 

 

 

 

「被害はどうか」

 

「軽微でございます。問題ありません」

 

「よし、このような者達を放置するわけにはいかん!早急に片をつけるぞ!」

 

「「「応っ!」」」

 

村の被害の確認や後始末をした後、再び馬に乗り、村人に見送られながら先を急いだ。とっとと始末してやる。覚悟を決めるがいい。

 

 

 

 

「ここか、確かに一目見ただけでは気付かぬな…」

 

誰も欠けること無くここまで来た。このまま一気に落としてやる。色々とゴタゴタしていたら既に日も暮れてしまった。まだほのかに明るいがそれも時間の問題だろう。丁度いいので夜襲をかけて混乱した所を叩くつもりだった。が、ここで思わぬ展開となる。

 

「私が敵をこちらへ来させよう」

 

突然現れそんなことを言う段蔵に、皆が驚く。

 

「このお方は一体…?」

 

「こちらへ来させるとは…?」

 

北条は風魔の影響で忍への偏見はない。段蔵はそれにやや戸惑ったようだった。

 

「私の招いた忍だ。それでこちらへ来させるとは?」

 

「見ていろ。こうする」

 

その言葉と共にどこからともなく霧が出始める。それも、古城を囲むように。そして、何事かを唱えると手の平からガラスの破片のような物を吹き飛ばす。何が起こるのかと一同固唾を飲んで見る。

 

すると、突然轟音がなり、古城のど真ん中に背の丈十メートルはあろうかという巨大な鬼が現れた。勇敢な武士たちも一瞬唖然として、その後現実を認識して後ずさっている。逃げ出さないのは流石か。さしもの私も、驚きのあまり声も出ない。一体どういう技を用いればこうなるのだ。

 

「これが私の幻術だ。そら、来るぞ」

 

そう言われて見れば、古城からわらわらと野盗らしき者たちが裸に近い格好で武器も持たず飛び出してくる。そうだ、ここで呆けている訳にもいかない。

 

「全員引っ捕らえろ!」

 

ハッとした様子で皆が野盗を捕らえ、縛っていく。野盗退治は思わぬ形で幕を閉じた。

 

 

 

 

 

「貴殿は幻術が恐ろしくないのか?これのせいで私は生き長らえたが、どんな大名にも信頼されなかった。危険視され恐れられた」

 

「驚きはしましたが、恐れるほどのものでもないですし、信頼しない要素とはなり得ないのでは?それは貴女の出会った大名たちの器が小さいだけのこと。気にしなくても良いと思いますが。私は使えるものは何でも使う主義なので」

 

「…何故、あの少年を助けた。城主ともあろうものが、己の身を危険にさらしてまで」

 

「何故って、そこに守るべき者がいて、それを助ける力を持っていたからですよ。それ以上でも、それ以下でもありません。言ったでしょう?これが私のあり方。ここにいる私の部下も、民のために命をかけている。それが北条のあり方です」

 

取り繕っても意味はないだろう。ならば本音で返すだけのこと。

 

「…………」

 

長い沈黙。その後に彼女はこう言った。

 

「わかった。信じよう。あの動きは打算で出来るものではない。貴殿の家臣の表情も、嘘偽り無いものだ。この関東に泰平をもたらす為に、私の力が必要だと言うならそれに応えよう。血塗られた道でも、貴殿たちならば必ず静謐をもたらせると信じて戦うと決めた。私の率いる忍衆が二十人程いる。いずれも手練れだ。彼らと共に、貴殿に仕えよう」

 

認めてくれたという事だろうか。それにほっとしつつ、答えを返す。

 

「必ず成し遂げよう。その為に力を貸してくれ。共にこの地に泰平を。北条に繁栄と栄光をもたらそう」

 

「承知いたしました、我が主。私は鳶加藤こと加藤段蔵。貴殿を主とし、いかなる命令にも従いましょう」

 

そう言いながら、彼女は頭を垂れた。

 

かくして、史実ではその幻術により上杉謙信にも武田信玄にも危険視され信玄によって討たれた忍、加藤段蔵が河越城の家臣団に加わる。これがいかなる影響をもたらすか、それはまだこの先のお話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ところで、家臣に丁寧語はお止めになった方がよろしいかと。主たるもの、威厳は必要です」

 

「そういうものですか…いやものか。わかった。そうしよう」

 

元々この時代の者でなかったための遠慮か、今までは家臣に対しては丁寧語、同僚と主筋には敬語、敵と民には普通にという話し方をしてきた。流石に民に丁寧語は武士としていかがなものかという話をこの世界に来たばかりの頃に言われたからだ。

 

が、確かに家臣に必要以上に丁寧にするのはかえって逆効果かもしれない。その助言はもっともだ。今度からそうしよう。

 

「これからそうするとしよう」

 

「ええ、その方が仕え甲斐があるというもの」

 

そう言いながら彼女は小さく笑った。




新たな仲間の加入です。これも夜戦への布石です。具体的にどうなるのかはお楽しみに。

原作主人公における蜂須賀五右衛門ポジションのキャラが欲しかったのです。

加藤段蔵のキャラデザはFate/Grand Orderの加藤段蔵です。あのキャラは個人的に好きなので、そうしました。リクエストもありましたし。ゲームやってる方はご存じかもしれませんが、あの世界だと段蔵はオートマタですがこの世界では普通の人間なので悪しからず。

ふと思ったんですが、この世界が進んだ先の未来に放映されてるであろう大河ドラマってどんな感じなんですかね。撮影現場の女優率がとんでもないことになってそう。

絶対北条家の大河ドラマとかある。葵三代ならぬ鱗三代みたいな感じで。そんな妄想です。


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第24話 蠢動

領内を荒らし回っていた賊は拍子抜けするほどあっという間に捕らえられた。頭目以下百人弱の集団である。その場でどうこうするわけにもいかず、連行することとなった。彼らは段蔵の妖術にすっかり魂を抜かれたようで、抵抗することなく大人しく連れていけた。

 

裁判権はこちらが握っている。有り体に言えば生殺与奪は思いのままという事だ。ここに中世ならではの怖さを感じる。戦場で人を殺めるのと同じくらいには、緊張していた。

 

「引っ捕らえたこの者たちはいかが致しますか」

 

「通常ならどうなる」

 

「全員死罪が妥当かと」

 

そうだろうとは思った。ただ、死罪はメリットが少ない。苦労して捕まえたのに易々と死なせては割りに合わない。さて、どうするか。折角百人近くいるんだ、これだけ人数がいれば労働力としては十分だろう。

 

「頭目は死罪。残りは殺さぬ」

 

「しかし、それでは…」

 

現金なものだ、自分達が死なないとわかった途端に元気になっている者が大勢いる。

 

「まぁ、待て。誰が無罪放免と言った?そのままお咎めなしな訳ないだろう」

 

「では、この者たちは何を?」

 

「幸いこの地にはまだまだ開墾できそうな土地が余っている。加えて城の改修もせねばなるまい。よい労働力になるとは思わないか?」

 

「なるほど!それは妙案ですな」

 

そんなに絶望した顔をしないでくれ。なに、シベリアよりは快適だろうよ。

 

「いつか罪の清算が終われば許される日も来るだろう。連れていけ!」

 

「はっ!」

 

連行されていく。これは存外いいシステムなのではないだろうか。逃亡したら待っているのは確実な死だ。しかし、少なくとも働いている間は死なない。加えて、いつか罪が許させるかもしれない。そうなったら多少はまともに働くだろう。現代における犯罪者(収監者)は労働に従事している。彼らの食事は国民の税金なのだから当然と言えば当然ではあるが。働かざる者食うべからず、だ。税をただ飯ぐらいの囚人に使う余裕はない。働いて役にたってくれ。兎に角、取り敢えずこの件はこれで一件落着だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

台帳が完成したとの報告を受ける。分厚い冊子だ。薄っぺらい上杉時代のものと比べると大分差がある。しかし、この短期間でよくやってくれたものだ。兼成は燃え尽きているらしい。後で休暇でも出しておこう。

 

中身を見ていくと、やはりというべきかかなりの生産力があることがわかる。武蔵は原野というイメージを持たれがちだが、その実そうではない。勿論、武蔵野と言うように草原もある。だが、町は発展しているし、田畑も広がっている。徳川家康のせいで江戸ド田舎説がまことしなやかに話されていたが、江戸は港町としてこの時代では十分な発展ぶりだった。絶対話を盛ったに違いない。あの狸め。

 

ここからは生産力の底上げだな。農法改革が必要だろう。まずはこの前持っていくと言った用水路の設備からだ。農業。取り敢えず農業である。林業ができるほどの山はないし、海がないので漁業もできない。ともなれば優先は農業だ。工業も大事だが、工業の発展には農業が上手く回っており、人々の生活が安定しているというのが条件になる。食えなければ何もできないからな。

 

 

 

 

 

 

 

城下の木工職人のもとを訪れ、自作の設計図を渡す。

 

「こういう形のものだが作れるか?」

 

「ふーむむむ、なるほど…ここに人が乗るので?」

 

「左様」

 

「まぁ、作れないってこたぁ無いと思います。しかし、何分初めてなもので、少しお時間頂くかと」

 

「構わない。出来たら報せてくれ」

 

「はい」

 

頼んだものは『踏車(ふみぐるま、とうしゃ)』である。これは簡単に言えば水車で、日本において江戸時代中期以降に普及した足踏み揚水機だ。人が車の羽根の上に乗り、羽根の角を歩くことで車を回し、水を押し上げるというシステムになっている。

 

これは江戸時代に農業が発展した時に誕生した製品である。他にもいくつか江戸時代に考案された農業器具はあるが、取り敢えずこれが一番手っ取り早く作れて特にリスクもない。脱穀に使う千歯こきとかは有名だが、あれは夫に先立たれた後家さんたちの仕事を奪うという欠点がある。失われた雇用の補填先を見つけられない以上、広めるべきではないだろう。

 

あと、千歯こきは鉄を使うが、そんなものに鉄を使ってるくらいなら鍬や鋤に使った方がよっぽど効率的に生産率を上げられる。鎌に使えば収穫スピードを上げられて、労働力の効率的な使用が可能だ。脱穀は結局頑張れば人力でなんとかなるものなのだ。

 

まずはここから。ここから一歩一歩着実に進んでいこう。速すぎる変革は反発を産む。無用な軋轢は避けて、円滑な領国経営を心掛けるべきだろう。

 

さて、続いては鍛治屋かな。

 

 

 

 

続いて注文するのは備中鍬だ。これは鉄製の刃先が3~4本に分かれた鍬である。田畑の荒起こしや深耕に適していて、中世の平鍬(平らな鉄刃を木台にはめこんだ鍬)とは異なり、堅くしまった土を細かく砕き、しかも深く耕すことができるようになって、土中に十分な空気・水・肥料などをとどめることができるようになっている。また、大根や蕪(かぶ)などの根菜類が、深く根を成長させることができるようになる。

 

この道具も量産できれば生産能力の向上が見込めるだろう。鉄を使うためお値段はそこそこするから、最初はこちら側からの貸与がいいだろう。いずれは購入してもらうとして、その為には商品作物が必要である。

 

どういうメカニズムかというと、そんなに難しい話ではなく、農民は農具を自作できない。ので、買う必要があるが、それには貨幣が必要である。貨幣を手に入れるためには、商品作物を栽培してこれを売る必要があった。代表的な商品作物に「四木三草」がある。

 

 「四木」とは桑(蚕の飼料)、楮(こうぞ。和紙の原材料)、漆(蝋や塗料として使用)、茶であり、「三草」は麻(衣料の原料)、藍(染料。藍玉にして出荷)、紅花(口紅・染料などの原料。紅餅にして出荷)をいう。

 

 このほかにも、衣料原料としての木綿、燈火用の菜種・蝋、嗜好品としての煙草などの栽培がある。これらを推奨して、彼らの生活にゆとりを持たせる。貨幣経済の浸透にも役立つだろう。

 

取り敢えずやってみよう。江戸時代には成功してるから、歴史的にみて不可能な行為ではないはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

一週間後、出来上がった試作品たちを持って、この前持っていくと言った村へきた。

 

「これはこれは城主様。賊を退治してくださったとか。ありがとうございます」

 

「気にすることではない。至極当然のことだ。それよりもだ、本日来たのは他でもない前に申した農具が出来たのだ」

 

「はぁ、それはようございましたな。ここでお試しを?」

 

あんまり乗り気ではないな。それもそうか。信憑性にかけるのは事実だろう。

 

「あぁ、手の空いてるものはおるか」

 

「幾人かおります。ただいま呼んで参ります」

 

呼ばれてやって来た男たちに、幾つか指示を出す。まずは踏車のセットから。いつしか村の人々が遠巻きに見つめていた。

 

「よし、これで動くはずだ。そこの上に乗って…そうそう。その通りだ。さぁ、動いてみてくれ」

 

その指示に従って、踏車の上にいた一人がゆっくりと歩き出す。すると、水車は回転して揚水されていく。実験は大成功だ。壊れそうな雰囲気もない。

 

「おおおっ!」

 

「すげぇなぁ…」

 

「こりゃ大分楽になんぞぉ」

 

周りからそんな声が聞こえてくる。だがまだこれで終わりではない。

 

「次はこれだ。この鍬を使って適当にその辺を耕してみてくれ」

 

鍬を渡す。こちらも問題なく使えてるようだ。

 

「どんな感じだ。使ってみて」

 

「はい。とっても深く耕せます。これは使い勝手がいいや」

 

「そうかそうか。よしわかった。ありがとう。これで改革にも着手できそうだ」

 

「これを、普及させるので?」

 

「そうだ、村長。この領内、ひいては北条家全体にな」

 

「これらがあれば農作業は格段に進化しましょう。ありがたいことでございます」

 

民が豊かになれば武士も豊かになれる。上手く行けば生産力が爆発的に上がる可能性もある。期待大だ。予算をこれに割くとしよう。足りなければ小田原に泣きついてみる。ここが瀬戸際かもしれない。資本金を確保して、普及させなくては。

 

 

 

 

 

城に戻り、担当官に指令を出す。農政改革を行い、さしあたっては、踏車と備中鍬の普及、商品作物の生産強化の二本柱とする、という旨を伝えた。予算は見積りを見てから決定するがよっぽど非常識な額でなければ基本的に承認する旨も。

 

まずはこちらから大量注文をして、一定量を生産させる。それを村ごとに分配。これは配布としよう。これでは配ったリターンは無いが、初期投資だ。惜しむわけにはいかない。後は商品作物を売った金で農具が壊れたら買って貰おう。これで何とかなるはずだ。

 

経理担当や城下の管理の担当官にも連絡する。これでひとまずこちらからの働きかけは終わりだ。後は吉報を待とう。上手く行けば、今後の戦闘を優位に進められる可能性が高いしな。

 

農業面ではまだまだやることはある。農具の開発や肥料の改良の他にも、新田開発に治水工事もしなくてはいけない。火薬なんかも生産したいし、特産品も欲しい。やるべき事は盛りだくさんだ。一歩一歩やっていこう。そう思って、ひとまず目の前の書類の山を片付ける事にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

農政改革の評判は悪くない。と言うより、むしろ称賛を浴びているようだ。無料配布が良かったのかとも思ったが、その他にも楽になった等の意見が多いという。成功にホッとしつつ、次の問題に着手する。

 

それはこの城の本来の役目、最前線基地としてのものだった。そろそろ河越夜戦に備えなくてはいけない。その為の話をするために、城の幹部二人を呼んだ。イコールこちらの直属の部下兼もっとも親しいものたちである。

 

二人とは、軍事担当の城代:北条綱成と、内政担当の副将:花倉兼成の事である。加えて今は段蔵もいる。

 

内政が一段落したら、次は前々から計画していた事を実行に移す。忍が必要不可欠な計画だったが、幸いにもこちらには史実において武田上杉両家に恐れられた関東有数の手練れな忍、加藤段蔵が仕えてくれた。その配下たちも少数ながら精鋭と言うし、これは諜報網に関しては他をリードできるかもしれない。風魔との合同作戦も視野に入れている。

 

「段蔵、どうだ、城には慣れたか」

 

「はい。皆様良くして下さっております」

 

「そうか。早速だが、少し調べてきて欲しい。場所は信州諏訪並びに甲州躑躅ヶ崎館」

 

「承知。されど、具体的には何を調べればよろしいでしょうか」

 

「諏訪と武田の現状における関係と、武田の今後の動きが知りたい。これらに類似するものは何でも構わない。教えてくれ。」

 

「わかりました。早速行って参ります」

 

「頼むぞ」

 

「はっ!」

 

音もなく消える。残された二人は訝しげな目でこちらを見てきた。

 

「次は信州で事が起こるぞ。それが波及して今川や関東管領等が動きだすやもわからん。情報は命だ」

 

「それはわかってます。しかし先輩。武田は本当に諏訪へ行くでしょうか?」

 

「行かないと?」

 

「諏訪頼重は武田晴信の義弟では?」

 

「そんな事に配慮するような者はもとより父親を追放しない」

 

「確かにそうですね…」

 

史実では武田家は諏訪へ侵攻する。その後に今川が駿東へ進軍してくる。そちらに主力を張り付けたタイミングで関東管領率いる大軍がやってくる。一連の流れはこうなので、最初の武田家諏訪侵攻がいつなのかで大分こちらの予定は変わってくる。未来知識があるが故にできる行動だが、諸刃の剣でもある。取り扱いは細心の注意を払わなくてはいけない。

 

加えて、今後武田家との関係性を考える上で、向こうの方針を知ることは大切になるだろう。人となりがわからなければ、策もたてられないと言うもの。小田原でも何かしらアクションを起こしているだろうが、こちらでも知りたい。職務違反ではないので大丈夫だろう。

 

「さて、小田原から伝達が来た。今川に不審な動きあり、だそうだ」

 

その言葉に、二人は少し表情を歪める。今川に多少なりとも含むところがあるのだ。当然と言えよう。

 

「事と次第によっては一度小田原へ出向かねばならないかもしれない」

 

「何故ですの?河越城主が今川との戦に何の関係が?」

 

「そうです。先輩が行く必要があるのですか?」

 

「良くも悪くも、これが北条家の性質だ。どうしようもない。評定が無くては動けないのだ」

 

本当は行きたくないが、そういう訳にもいかないだろう。理由もなく拒否できない。軍が実際に来たなら話は別だろうけれど…。このまま史実通りに進めば、必ず今川は攻めてくる。関東管領より先に。その時には小田原へ出向かねばならない。河越に二人を残して、な。綱成なら守りきれると信じているし、民衆に離反されないようにもしてきた。出来ることはしてきたつもりだ。

 

最近は練兵と新規募兵も行っている。周囲の領主の兵も含めれば四千は捻出出来るだろう。史実では三千で籠っていたはずなので、大分楽になるはずだ。兵糧も準備している。上杉はよっぽど大量に取っていったようで、蔵の米を税分だけ取っても四千が半年は籠れる量はあった。城に少しだけ改修も施した。これだけすればいけるはずだ。

 

一応、管領家や古河公方家、扇谷上杉にも忍を放っているがあまり意味はない。と言うのも、如何せん防諜の精度が高い。段蔵ならいけるだろうが、直近に起こるだろう出来事を優先して武田家に送っている。流石に、戦支度を始めればわかるだろうが、それではやや遅い。まぁ来るのは確定事項だ。過剰に情報収集する必要性は感じなかった。タイミングくらいは掴みたいが。

 

「もし、私が不在の折りに一大事があれば、二人だけが頼りだ。この城を守り抜いてくれ。必ず戻ってくる。何があってもだ。頼むぞ。」

 

「お任せ下さいまし。全部綱成さんがやってくださいます。わたくしは兵糧の管理でもしておりますから」

 

「自信満々に言っておいて結局丸投げじゃないですか…。まぁ、それはともかく承知しております」

 

「すまない…。周辺の領主たちには自分の城を放棄して一番堅固なこの城に籠るように伝えてある。万が一の際には、赤い狼煙が上がる。それを見たら直ちに城に籠れ。良いな?」

 

「「はっ!」」

 

その返事に頷きながら、運命の分かれ道が近いことを知って少し震えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上野、平井城にて貴公子のような出で立ちの男が不機嫌そうに座っていた。彼の名前は上杉憲政。関東管領である。幼くしてその地位を譲り受け、それ以来権謀術数に手腕を発揮し、関東の伏魔殿で生き延びてきた。関東最大にして最後の旧世界の権力者である。侍るのは彼の忠臣、長野業政。斜陽の管領家に仕える名将だった。

 

「管領様、松山城から書状が参りました」

 

「松山城?あの小娘が僕に何の用があるというのさ」

 

「それは中身を見てみないことにはわかりかねます」

 

「仕方ないね。読んでやるとするか」

 

「いかがでしたか?」

 

「……送り主は小娘じゃないな。難波多弾正だろう。」

 

「して、なんと」

 

「北条を征伐するため、過去の遺恨を流して管領様が関東に号令をかけてくれ、だそうだ」

 

「なんと…関東中にですか!」

 

「発想は悪くない。僕に相応しい戦だね。…あの姫武将どもに一泡ふかせてやる。業政、準備をするよ」

 

「…はっ!」

 

誇り高い彼は関東管領の自分がこんな上野なんかにひっそりとしているのが許せなかった。そして、その原因たる北条家を嫌悪していた。また、姫武将の制度も嫌っていた。姫が当主の北条家は、彼の憎むものの集合体であった。

 

この日を境に、関東中に密書が飛び回る。古河へ、下野へ、常陸へ、安房へ、下総へ、北武蔵へ。決戦の日はすぐそこまで来ていた。




遂に河越夜戦がやって来ました。北条家きっての大舞台。怒濤の展開です。こう御期待。


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第25話 運命の刻来たれり

いよいよ始まります。運命の戦いが。


駿河今川館。ここでは太原雪斎主導で対北条家の軍議が開かれていた。先に挙兵して駿河戦線に北条家主力を引き付ける事を関東管領上杉憲政より要請され、これを受諾するか否かの会議だった。

 

「受諾一択でしょう。何処に断る理由があると言うのか、逆にお聞かせいただきたいぐらいです」

 

激しく主張するのは岡部元信。史実においては桶狭間の戦いの際、鳴海城に籠り、他の今川軍が敗走するなか踏みとどまって主君義元の首を交渉によって奪い返した。最期は武田家に仕え、高天神城に籠り徳川家康相手に善戦するも討死した。今川家きっての名将である。

 

「それがしも同意ですな。とっとと我らの領土を取り返さねば」

こちらは朝比奈泰朝。名門朝比奈家の生まれであり、史実では斜陽の今川氏真を最後まで見限ることなく、氏真が小田原へ逃げる時も同行した忠臣である。

 

花倉の乱以後、この二人の姫は新たな今川家の重鎮として大きな発言権を持っていた。この場には他にも朝比奈元長、朝比奈泰長、朝比奈元智、安部元真、庵原元政、鵜殿長照、孕石元泰、久能宗能、関口親永、松井宗信など今川家のそうそうたる武将が勢揃いしている。

 

「そう焦らずとも。関東管領の申し出では、彼らはほぼ空き城同然の城を攻め落とすのだろう?それでは北条家の主力と戦う我らが損ではござらぬか」

 

「しかし、いつまでも河東を北条に占拠されているというのもいかがなものかと」

 

「左様左様。御屋形様は当主になられて日が浅い。ここで武威を示さねば遠江、三河の豪族どもがまた暴れだすやもしれませぬぞ」

 

「しかしなぁ、花倉の折りに味方してもろうた恩は返さねばなるまい」

 

「そんなものとっくに払ったわ!」

 

「その通り。河東占拠は受けた恩と比べても重い咎ぞ!」

 

今のところ会議は賛成多数であった。当主の今川義元は相変わらず『よきにはからえ』と言って興味なさげに眺めるだけである。

 

「どうあれ、河東は取り戻さねばならない。管領の申し出を受ける方針としたい」

 

「兵の損失はいかに抑えますかな」

 

「武田を使う。陸奥守殿を引き取ってやった恩を返して貰おうではないか」

 

太原雪斎は盛っていた扇をパチリと鳴らし、諸将を見つめる。脳内には花倉の乱における北条家の姿が浮かんでいた。氏綱が残した軍団に精強な家臣。恐れるべき存在だった。

 

特に…と雪斎は回想する。知謀に優れた当代の当主、氏康。とんでもない奇策で城を落とした男、一条兼音。聞けば後者は関東の要衝、河越城に配置されたという。氏康の並々ならぬ信頼がうかがえた。このまま放置してはまずい。長年の経験による危険信号が脳内でけたたましく音を鳴らしていた。

 

「戦支度を。北条の娘をここで叩く」

 

諸将は頭を垂れる。雪斎の命令は最早義元の命令と同じだった。

 

完全に潰すのはいささか気が引けるが、これも主のため。此方は適当な所で講和してしまえばよいのだ。後は関東管領が勝手にやってくれるだろう。それで損失は減らせる。

 

真の目的は西の都。東国に興味などない。武田はいい駒だ。せいぜい利用させて貰うとするか。

 

黒衣の宰相は、その目を光らせ立ち上がる。海道の名門が牙を剥こうとしていた。

 

 

 

 

 

 今川家の戦支度の少し前、武田晴信は信州諏訪に侵攻。これに大勝し、諏訪領一帯を支配下に置いていた。この勝利の原因には山本勘助の高遠家調略並びに軍事改革によってより統率の執れるようになった軍団の存在、そして諏訪頼重の”たとえ敗北しても一門であるから殺されはしないだろう”という認識による早期降伏があった。

 

 これにより武田家の信濃における勢力は拡大することとなるが、それは同時に他家からの反発と敵視を買うことになる。加えて諏訪の民も信虎時代の甲斐の暴政を知っているため、容易には心服しなかった。

 

 そしてこの侵攻は同時に、武田家内においてある不和を生む原因ともなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 関東中に密書は飛び回る。北条家の日本随一と言える諜報網を潜り抜けて、諸将の元へ届いていた。中でも大身と言えるのは、衰えたとはいえ古河城にて未だ一定の権威を持っていた古河公方足利晴氏である。彼は北条家の人間を妻としており、半分北条家の傀儡状態であった。先の第一次国府台の戦いでは北条氏綱を支援し、自らに敵対する縁戚の足利義明を討たせた。

 

 古河城は関東管領上杉憲政の暗躍を知っていたが、縁戚であるため、親北条の立場をとっていた。関東管領は元々古河公方ひいてはその本来の地位である鎌倉公方の補佐役であった。しかし室町幕府の政権下で幾度となく対立。その仲は決して良好とはいえないというのも理由にあった。

 

 とはいえ彼も戦国の雄の一角。北条家にわざわざ教えてあげるほど親切ではなかったが。そこへ飛び込んできた一枚の書状。差出人は関東管領上杉憲政。曰く、

 

『伊勢の流れ者、ふてぶてしくもかつての執権北条の名を名乗る。かのごとき成り上がり物はいずれ、関東全土の支配を目指すに相違なし。ともなれば、権勢亡き公方様はいかなる憂き目にあうか、賢明なる公方様は容易くご理解いただける筈に候。我ら管領家の衰勢がその証。我らが滅ぶ日が公方様の滅ぶ日。唇死すれば歯寒しと申します。もし公方様が当方にお味方下さるならば、御所を鎌倉に移して、以前のような権威を復活させましょうぞ。関東静謐は御身の手によって実現されるのです。』

 

 これは足利晴氏の心を動かすには十分だった。特に心を惹いたのは「鎌倉」の文字。戦乱によってかつての本拠地鎌倉を追われて幾星霜。そこに戻れるのではないかという希望は、北条家を裏切るに足る理由なのである。古河城はひっそりと臨戦態勢になっていった。

 

 

 

 

 

 

 所は変わって上総は久留里城。上総にて房総切り取りに躍起になっている里見義堯の元にも密書は届いていた。前線に出ている正木時茂に代替で、現在義堯の相談には安西実元が担っていた。

 

「殿、書状にはなんと」

 

「管領は関東全土を巻き込んで北条征伐を始めるらしい。我らにもその戦列に加われだそうだ」

 

「で、いかがするのです」

 

「悩みどころよな。管領は上総支配の容認と引き換えに参陣を要請してきておる」

 

「いかなる勢力が加わるのでしょうか」

 

「書状を持って参った使者の話では、管領山内上杉、扇谷上杉、下野の佐野・小山・宇都宮・壬生・那須、常陸の江戸、小田・土岐・結城・大掾・鹿島、下総の相馬、梁田…あとは古河公方」

 

「足利晴氏様が参陣するのでございますか。しかし、古河公方と北条は縁戚ではございませんでしたかな?」

 

「大方鎌倉に戻してやるとでも言われたのであろうよ。馬鹿め、若年でありながら関東管領の座にとどまり続けておるあの権謀術数の化け物が容易く約定を守ると思うか?そんな体たらくだからいつまでたっても北条の傀儡から逃れられぬのよ」

 

「とはいえ、それだけの数の将が参陣するとなれば、数は五万六万では収まらぬでしょう。七万、八万は集まるかと。これだけの数に攻められては流石の北条もひとたまりもありますまい。古の項羽、韓世中でもおれば話は別でしょうが」

 

「さてどうであろうなぁ…」

 

 己の見解に疑問を示す義堯に安西実元はムッとしたような視線を向ける。

 

「窮鼠猫を噛むとも言うぞ?管領軍は力攻めはできまい。諸将の間に手柄の差などでもめ事が起きても困るしのう。それに熱心なのは管領や扇谷上杉など今日明日にも北条に押されて滅亡するやもしれぬという家だけよ。その他は烏合の衆。容易に分断できよう」

 

「それは確かに一理ございますなぁ」

 

「……半年だな。半年持ちこたえられれば北条の小娘の勝ちよ」

 

「持ちこたえられるでしょうか」

 

「河越城。ここが落ちるか否かが運命の分かれ目であろうな…」

 

 我が野望、房総制圧には古き権威は邪魔だ。これを除いてくれるなら北条に援軍さえ出してやっても良いかもしれない。義堯はそう考えていた。両上杉が敗走すれば、北条はその残党狩りに北武蔵そして上野へ向かうだろう。その間に下総へ進出できるやもしれぬ…。思考は巡り、回る。

 

「賭けてみるか。北条に」

 

「は?恐れながら申し上げると気でも触れましたか?」

 

「お主も歯に衣着せず言うな…。だがもし管領方が敗れればどうなる。時には賭けも必要よ。かなり分の悪い大博打だがな…」

 

 決して里見義堯も無謀な賭けに出た訳ではなかった。両上杉に比べ、北条の国は富んでおり、民は安寧を享受している。万年君と呼ばれた義堯は北条家をライバル視しながらもその内政を高く評価していた。国が富んでいる家は強い。それが彼の持論であり、経験だった。入ってくる河越城下の農政改革の情報。彼は知らないが、小田原城にまだいた時代に一条兼音が提案した測量法の改善によって建設されている街道網。そこを使い活発化し始めている商業。着実になされている史実よりもハイペースでの内政革命は里見家を史実とは全く異なる道へと歩ませていた。

 

 加えて言えば、現在は管領を始め、諸将は北条に危機感を抱いている。しかしもし北条が滅べば次に打たれる出る杭は里見家なのは目に見えて明らかであった。

 

「北条に有事があれば、千葉利胤と真里谷信隆に伝令を送れ。あそこは古河公方よりも北条に縁が深い。最早その版図に組み込まれるのも時間の問題だ。必ずや北条につくだろうよ。共に下総にて共同戦線を張る。少しくらいは、兵をこちらに引き付けてやろう。そこから立ち直れるかは小娘次第よ。実元、兵は幾ら出せる」

 

「千葉、真里谷と併せて、約一万強かと」

 

「それだけあれば十分だろう。あくまで本来の戦場は河越であろうしな」

 

「…承知しました。危険な賭けではございますが、殿の仰せとあれば従いましょうぞ」

 

 危険な賭けに出る主君を通常の大名家であればもっと強く諫めるが、里見家家臣団は義堯の事を信頼していた。こうして、房総半島の雄・里見義堯と真里谷、千葉の連合軍が下総に共同戦線を張ることとなる。必然的にそこに兵を張らねばならないため、将来的に河越城を囲む兵は減ることとなる。これがいかなる未来を招くのかはまだ誰にも分らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今川家からの最後通牒が相模小田原城へと届いた。これを受けた北条氏康は、領内の有力家臣を招集。臨時の評定を開いた。多米元興、大道寺重時を始めとして笠原信隆、笠原康勝、間宮信元、間宮康俊、狩野泰光、清水康英、石巻家貞、松田盛秀、一門の北条為昌、氏照、氏邦、氏尭、氏房、直重、そして一条兼音である。本来は評定のメンバーである北条幻庵と葛山氏広はそれぞれ長久保城と吉原城に籠り今川の動きを見張っている。

 

「遂にこの時が来た。今川家が動いたために私は小田原へ向かう。その間の城はお前たち二人が頼りだ。くれぐれもよろしく頼む。赤い狼煙が見えた時は…」

 

「全軍で城に籠る、でございますわね」

 

「左様。応戦してはならぬぞ。必ず私は戻ってくる」

 

「信じて待っております」

 

「わたくしもです」

 

 いつか来ると分かっていたこの時のために様々な準備をしてきた。十分に耐えられると思っている。

 

「では私は出立する。生きてまた会おう」

 

「「ご武運を」」

 

 見送られ、城門を出る。運命が我々に味方する事を祈ろう。人事を尽くして天命を待つばかりだ。

 

 

 

「主様。ただいま帰還しました。何とかご出立に間に合いましたな」

 

「段蔵か。どうであった」

 

「は。武田晴信は諏訪へ侵攻。これを既に攻略しております。武田家内においては、夫を殺されることを恐れる諏訪頼重に嫁した晴信の妹、禰々殿と当主晴信との姉妹関係に亀裂が走っておりました。他の一門衆や家臣団もこれに苦慮しておるようです。諏訪頼重と禰々殿、そして頼重の妹の諏訪四郎は甲斐躑躅ヶ崎へ護送されました」

 

「ふむ……武田も一枚岩ではない、か」

 

 この後、諏訪頼重は殺される。禰々御寮人も亡くなるはずだ。四郎、おそらくは勝頼が既に誕生しているのは想定外だが、彼女は生き残れるだろう。諏訪の血を根絶やしにしては、武田家による諏訪支配は不可能になるだろうからな。

 

「よしご苦労。これより城に戻り、城に一大事が起こった時は私の元へ駆けてくれ。お前の神速ならば、馬より早く小田原へたどり着けるだろう。」

 

「承知しました。ご無事を祈っております」

 

「ああ、ありがとう」

 

 武田が既に動いていたか…。諏訪の生き残り、そして妹たるその妻と武田晴信との不和は何かにつけるかもしれない。覚えておこう。しかし、今は今川だ。これを処理して一刻も早く城に戻らねば。そう思い馬を走らせる。曇天の空さえも、不吉に見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 居城を出立して二週間が過ぎた。評定の場に来るのは河越赴任以来だ。何人かいない面子は、駿東にて今川の備えに当たっているのだろう。氏康様の顔色はお世辞にもいいとは言えない。元々のメンタルが強いお方ではない。心労が降りかかってきた為こうなっておられるのだろう。精一杯の虚勢からくる仮面も今は張り切れていなかった。

 

「知っての通り、今川から最後通牒が来たわ。内容は駿東、つまり富士郡と駿東郡の引き渡し。従わない場合は武力を以て頂戴しに参る、と。諸将の意見を聞きたい。単刀直入に聞きましょう。戦闘か、受諾か」

 

 ここまでは史実通りの展開だ。確か、今川軍には武田晴信本人が率いる武田軍が参陣していたはず。厳しい戦いになるだろう。

 

「姉上、易々引き渡すなどという屈辱に甘んじてよいはずがありません!北条はもう今川の家臣筋ではないことを示しましょう!」

 

 北条氏邦のこの発言に多くの将が頷く。北条氏邦か…主筋に文句は言いたくないがお前が短慮でキレやすいから名胡桃城を攻めて北条家滅亡の原因を作ったためあんまり好印象ではない。

 

「富士川で防衛線を張れば負けることはありますまい!」

 

「北条家の力を見せてやりましょうぞ!」

 

 多くの将が今川との開戦に賛成のようだ。こちらは1万弱は出せる。向こうが幾ら出せるかは知らないが、立ち向かえない兵力差ではないだろう。長期で陣を張れば、まだ十分に心服していない遠江、三河の豪族が反乱し始めるだろう。加えて尾張から織田信秀が攻めてくる可能性が高い。

 

「よろしい、では賛成多数とみなし、今川家の最後通牒に対し断固拒否を示すとします。それでは、陣触れを…!」

 

氏康様が青白い顔で号令をかけようとしたその時だった。

 

「申し上げます!」

 

評定の場に声が響く。

 

「誰かしら」

 

「河越城主、一条兼音様の臣下、加藤段蔵にございます」

 

「段蔵…鳶加藤ね」

 

「段蔵殿、お久しぶりでございます!それがしの事を覚えてございますか、最後にお会いしたときはまだそれがしは幼少でございました…」

 

「ええ、覚えておりますとも、三代目風魔小太郎。しかし今は昔を懐かしむ暇はありません。評定の場に押し入る無礼は重々承知なれど、火急の事で伝令がありこうした次第!」

 

「一条殿、貴殿の家臣であろう。報告させよ」

 

「狩野殿、仰せはもっともでございます。段蔵、皆様にも伝えよ」

 

「はっ!申し上げます。主様が発たれてより数日後、今日から数えて三日前に関東管領率いる八万の軍勢が、河越城を包囲しましてございます!」

 

告げられた運命の戦の始まり。歴史を左右する重大局面に唇を噛みしめ、身震いする。

 

前を見れば、より一層顔面蒼白となった氏康様が、ポトリと手にしていた扇を落とした。今にも倒れそうな様子でふらつき、腕を力なく落とす。

 

「そんな…」

 

虚ろな目で何とか絞り出されたその声がこの場の全員の声を代弁していた。



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第26話 興国寺城の戦い・前

 評定の場は大荒れだった。ざわめく者、嘆く者、失神しそうな者様々だ。私も史実を知らなかったら果たして全く動揺せずにいられたかは分からない。多分不可能だろう。しかし、気になるのは八万もの大軍がポンと出現するのだろうか。

 

「段蔵」

 

「は」

 

「八万もの大軍、いずこから出で来たのか。そうそう容易く短時間で揃えられる数ではないぞ」

 

「私が城を出ました時は先鋒の扇谷上杉軍一万五千ほどが接近しておりました。我が配下に周囲を調べさせましたところ、後方に山内上杉軍三万、足利晴氏軍二万五千、その他諸将も数千から数百の手勢を率いてゆっくりではありましたが城を目標に進軍しておりました。故に、それら全てを集計し八万と計上した次第」

 

「なるほど」

 

「赤の狼煙が上げられし後、兼成様並びに綱成様の両名が陣頭指揮を執り籠城を開始。周辺の土豪の兵力もかき集め戦闘要員四千ほどで籠っております。城下の民も収容しており、こちらも入れると五千ほど。城の兵糧は半年ほどは何とかなると、兼成様が…」

 

「ひとまず最悪の事態は避けられたか…それだけでも僥倖だ」

 

 まったく戦えないという状況は避けられた。状況は限りなく最悪に近いが、まだ救いはある。

 

「み、皆の者、静まりなさい!」

 

 何とか現実を受け止め回復した氏康様の号令により恐慌状態になっていた場は一旦静まる。

 

「嘆いていても現実は変わらない。絶望的な状況を変える策を出す方が賢明よ。こうしている間にも河越は囲まれ、駿河には今川が迫っている。早急に対応策を出しなさい」

 

「駿東を捨ててでも河越の救援に行くべきだ!」

 

「では貴殿は、今川が折角集めた軍勢をむざむざ一戦もせず解散させるという確信がどこにあるのか。我らが武蔵に注力する間に箱根を越えて小田原を囲まれればその時点で我らの滅亡は必定!」

 

「では、お主、河越に籠る四千を見捨てるおつもりか。城主の一条殿の前でよくぞ申せたものよなぁ!」

 

「そうは言うておらん!しかし一戦もせずに河東を捨てては我らの威信に関わるぞ」

 

「威信云々は今後がある前提の話でござろう!我らは今この時も滅亡の憂き目にあっておるのだ!」

 

 二正面作戦は厳しいことが多い。勝てる例もあるが、勝てないパターンも多い。結局は条件次第なのだが、今回が我々に有利な二正面作戦であるとは言い難い。どちらかの戦線を何らかの形で放棄せざるをえない。

 

「一条殿にお聞きしたい。城主なき城ではあるが貴殿の居城はいったいどれほどの期間戦えるのか」

 

「力攻めされなければ、兵糧の続く限りは」

 

「されないという根拠はおありか」

 

「我が城は囮でしょう。氏康様旗下の精鋭をおびき出し殲滅するための。本隊が来るまで強攻しないでしょう。諸将の手柄争いもありますので管領としては面倒を避けるためにもやらないかと」

 

 強攻されても多少は持ちこたえられるように改修をしてきたつもりだ。もっともその場合勝利は難しいだろうが。

 

「兼成様も、綱成様も信じて待つと。たとえいかなることがあろうとも絶対に降伏はせず、お戻りになるまでたとえ一年でも十年でもお待ち申し上げると仰っておりました」

 

「そうか……」

 

 段蔵の補足によってもたらされた城の悲壮な覚悟に場が沈む。信頼されていることに安堵しつつ、すぐに向かえないのがもどかしかった。

 

「こう揉めていても埒があかない。どちらを先に片付けるか、決めねばな」

 

 評定ではまだ若手のため黙っていることが多かった元忠が口を開く。誰もが沈黙している今、それはありがたかった。が、それでも誰もが重苦しい表情を浮かべ押し黙る。どちらを選んでも片方を捨て置く非情な決断。そんなことを誰も言いたくはない。だからこそ、当事者が言わねばならないだろう。城に置いてきた者たちの顔が頭をよぎる。今すぐにでも救援を!と叫びたい気持ちを押し殺して、口を開く。

 

「申し上げます」

 

「何か」

 

「僭越ながら提案させていただきますと、直ちに全軍を駿河に差し向けるべきかと存じます」

 

 正気を疑うような視線がこちらに突き刺さる。段蔵からも厳しい目線が飛んでくるのが伝わった。

 

「お前、ふざけてるのか!囲まれてるのはお前の兵と将だろ!そんなお前が、何で…」

 

「氏邦様、恐れながら申し上げる!私が心の底から駿河を優先するべきと考えているとお思いか!」

 

 胸倉を掴まれながら怒鳴られる。本当はこんな事言いたくなんかない。だが、私情を優先させてはいけない。私の悲しさによる怒りをこめた視線に、氏邦様は手を離す。

 

「すまない…。悪かった」

 

「いえ、お気になさらず」

 

 そう返し、軽く心の中でため息をつく。義妹を捨て置けと言われあまり気分のよろしく無いであろう氏康様が軽く嫌味をこめた口調で問いかける。

 

「そこまで言うという事は何か明確な根拠があって河越を後回しにするという事ね」

 

「勿論でございます。無策でこのようなことは申しません」

 

「では聞きましょう」

 

「単純に敵方のやる気の問題にございます。今川方は当方の滅亡までは求めていないでしょう。最後通牒を突き付けてきたのがその証。交渉の余地はあるという事です。しかし管領方はそうはいかぬでしょう。彼らの最終的な目的地はここ小田原。目指すは勿論、当方の滅亡。ともなれば交渉の余地がある方を相手にするのが先でございましょう。先ほど申しました理由により管領方は力攻めはしてこない筈ですので」

 

「…河東を捨てるのね」

 

「そうならないのが最上ですが…最悪はそれも致し方ないでしょう」

 

「……」

 

 河東は広く、経済的・農業的にも大切な土地だ。易々とは捨てられないだろう。しかし、ここで耐えなくてはこの先生き残れない。

 

「よろしい。苦渋の決断だけれど最悪河東は放棄。けれど、そうならないためにも駿河へ全軍を差し向ける。異存あるものは!」

 

「一番心苦しいはずの一条殿がわざわざ我らの代わりに提言してくださったのです。反対の者はいますまい」

 

 大道寺重時の言葉に一同が頷く。

 

「しかし、長期の滞陣はこちらに不利。今川が兵を引き返さなくてはいけない状況を作りましょう」

 

「引き返す…という事は三河で蜂起を起こさせるのかしら。あそこはまだ義元に、というより今川に忠誠を誓ってはいないでしょうし。隙あれば独立の機会を窺っているはず」

 

「それもありますがもう一つ、尾張へ」

 

「尾張…隆盛の織田弾正忠信秀ね」

 

「その通りでございます」

 

「早速使者を向かわせるわ。では陣触れを。直ちに駿河へ向かう!」

 

 評定の間の全員が頭を垂れる。苦しい戦いが始まろうとしていた。

 

「氏康様、この後少々お時間よろしいでしょうか」

 

こちらも考え出した策を、使うときが来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「北条軍は戦うことを選んだようです。先鋒が既に箱根を越え、興国寺城付近に陣を張っております」

 

「数は」

 

「約三千」

 

 少ないな、と報告を大石寺(富士宮市に存在する寺院。日蓮宗)で聞いた雪斎は考えた。北条家の国力的にはもう少し出せるはずであるからだ。先鋒なのか、それとも捨て石か。判断しかねる所だった。判断しかねる理由はもう一つあり、北条家の防諜能力の高さにあった。北条幻庵の必死の働きにより、今川方の諜報網は機能不全の状態であった。もっとも、そちらに全振りした結果上杉軍の集結を許してしまったが。

 

 いずれにしろ前衛部隊であることは明白だ。ここまでの北条方の城に一兵も籠っていなかったことを鑑みても、かき集めて三千なのだろう。本隊の損耗を抑え、自らの主君に万が一が無いようにするためにもこの場にとどまってよかろう、と雪斎は判断する。派遣する部隊の大将は朝比奈泰朝。まだ頑強に抵抗する吉原城には岡部元信を当てることとした。二人とも発言力はあるものの、具体的な武功はまだ足りなかった。ここで稼いでもらうつもりである。将来の義元を支えるためにも必要なことだった。

 

 ただ、氏康の本隊が出てこなければ意味はない。前衛に消耗して、本隊にやられては元も子もない。本隊が出てくるまで待つ。もし三か月以内に出てこなければ前衛に総攻撃だ。そうすれば氏康も重い腰を上げるだろう。半年が滞陣の限界。それを見越して動かねばならない。とは言え、負けはしないだろうさ。本隊が出てきても。

 

雪斎は全軍に配置命令を出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

河東騒乱、概略図

 

 

【挿絵表示】

 

興国寺城の戦い布陣図

 

 

 箱根を越え、興国寺城の前に布陣した。まもなく敵が来るだろう。

 

「三千で勝てる訳がないぞ。どうする気だ。進言したのだからして策くらいあるのだろう?」

 

「我々に必要なのは耐えることです。今川勢が撤退しなくてはならない状況に追い込まれるまで」

 

「だがなあ…」

 

 元忠の疑問ももっともだった。言いだしっぺだから今この前衛部隊三千の指揮をやらされているが、実際は誰も志願しなかったからお鉢が回ってきたとしか言いようがない。でなければこんな若造に指揮官の座は回ってこない。とりあえず、吉原城に松田盛秀殿を急行させたが、本当に申し訳ないことをした。理由があってあそこに送ったが、死地に近い。感謝以外の感情がない。

 

 あそこ以外はほぼ空き城だ。今手元にいる兵力は、籠城するはずだった河東の兵をかき集めている。本当だったら私の手勢は三千近くいるのだが、全員もれなく河越に封じ込められている。

 

 こちらの読みが正しければ、今川軍も力攻めはしてこない筈だ。彼らは三河に行きたがっている。正確には太原雪斎が、だが。河東を奪うのに大きな損害を負っては困るのだ。彼らが総攻撃をするなら、もっと時期が過ぎてから。読みが外れたら破綻する戦略なのでかなりの綱渡りだ。

 

情報戦では勝っているのがこちらの強みだ。それを活かせるかが命運の分かれ目だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 布陣してから一月近くが経過した。いまだに今川軍に動きはない。小競り合いは何度も発生しているが、本格的戦闘に発展したことはついぞなかった。まだか。まだ尾張は動かないか。風魔と一緒に段蔵も派遣している。動きがあれば戻ってくるはずだ。一方で作戦発動に必要な道具の数揃えもあまり上手くいかない。

 

「船の数が足りない…」

 

「駿東だけでは限度がありましょうな。北条家中の軍船をかき集めて、兵糧輸送船に偽装し沼津城に送っておりますが輸送も大変なようで。なにせ一番小型の小早とは言え、そこそこの大きさはありますからな。夜間の作業故いまのところ今川の軍船には見つかっておらぬのが幸いですが」

 

「漁師の小舟でもいいので一艘でも多く船が欲しいのですがね…」

 

「申し上げます。長久保城より書状です」

 

 清水康英殿との会話を切り上げ書状に目を通す。中身はかなり予想外の内容だった。

 

「なんと書かれておりましたかな」 

 

「里見が援軍を申し出てきたと」

 

「…それがしも老いましたかな。もう一度お願いいたす」

 

「里見が我らに与すると」

 

「そんな馬鹿な」

 

「私も同感ですが、確かのようです。里見軍は真里谷並びに千葉と合流し、一万二千で下総関宿城を包囲したと。古河公方はそちらに兵を割くために河越から撤退したようです」

 

「そんなことが…」

 

 もはや知識は完全に頼りにならなくなりつつある。こんな展開は全く予想してなかった。だが、光明も一つ見えた。里見家はかなりの水軍力を持つ。吹っ掛けられるだろうがこの際仕方ない。急いで書状を送り返し、里見家から軍船の借り入れを行うように頼む。勝てる見込みが見えてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 里見家に関する書状を受け取って更に一か月。いまだ両軍睨み合ったまま。

 

「ただいま戻りました」

 

「おお、どうだった」

 

「は、織田信秀の説得に成功。直ちに軍を起こし、三河へ侵入しています。これに感化された三河の国衆が蜂起しております」

 

「よし、この情報は…」

 

「小太郎が氏康様に。敵陣にはまだ伝わっていないかと」

 

「段蔵、一刻後、敵陣に侵入し朝比奈泰朝に意図的に情報を流せ。こちらは長久保城に早馬を送る」

 

「承知」

 

来た。遂に作戦の発動タイミングが。雪斎がいればともかく、いないなら成功の可能性は高い。武田の援軍は怖いが、信濃攻めに注力したい彼らは損耗を押さえるため全力では戦わないだろう。時期も最高。間も無く新月の今日は十分暗い。行けるはずだ。

 

成功を祈りつつ、命令を下す。

 

「全軍に告ぐ。時は来たれり。これより作戦を開始する。全軍直ちに、突撃!」

 

 

 

 

 

 

朝比奈泰朝は少し焦っていた。まったく出てくる気配のない氏康本隊。動きのないことに、陣中にも不満が溜まっていた。雪斎に書状を送っても、本隊が来るまで待てとしか返ってこない。同僚の岡部元信は今にも吉原城に攻撃を仕掛けそうな雰囲気だ。悩みの種は尽きない。

 

不気味に沈黙する北条軍の前衛を見ながら、何度目ともわからないため息を吐き出す。そこへある報が飛び込む。

 

「申し上げます!火急ゆえ伝令のみですが、大石寺の雪斎様よりでございます」

 

「何か!」

 

「尾張の織田信秀が攻撃を開始。合わせて三河の国衆が蜂起。河東攻略は中止し、直ちに撤退する。夜闇に紛れ、ひそかに撤退せよ、との仰せでございます」

 

泰朝の顔は真っ青になる。それが本当なら今川家は大変な事になるのは明白だった。

 

「し、承知しました。全軍に撤退命令を出します」

 

「ありがとうございます。それがしはこれより戻ります」

 

「ご苦労です」

 

朝比奈泰朝も凡庸な武将ではない。だが、まだ若かった。実戦経験の少なさともたらされた情報の重大さが、情報の裏付けをしないという致命的なミスを犯す要因となった。段蔵の演技もまったく自然である。今川軍の鎧を奪取し、完全に今川軍の将に扮していた。

 

今川軍はひそかに撤退を開始する。だが、虎視眈々と狙っている軍勢があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝比奈泰朝に情報がもたらされる少し前、早馬が長久保城と沼津城に着く。それを受け、北条軍の本隊六千が沼津を一斉に

 

『出港』

 

した。

 

そう、これこそが一条兼音が捻り出した起死回生の博打に近い策。情報戦で圧倒している為、今川軍の諜報網が機能していない事により意図的に織田軍が来ること並びに三河蜂起の情報をこちらに都合のいいタイミングで敵へ与えられる。

 

それを受け、ひっそりと撤退するはずの今川軍を前衛が強襲。戦闘せざるをえない今川軍のその背後の海岸線に夜間に本隊が強襲上陸をかける。そこでこちらの元忠隊(騎馬を全て預けてある)が敵を突破。岡部元信は吉原城の隊が懸命にしがみつき動けなくする。そして、本隊が敵の背後に陣取り包囲殲滅する。これが作戦だった。

 

情報戦に勝っている事と、水軍に一定以上の練度があることがこの作戦に踏み切った要因である。氏康も、状況打開のため、このある意味無茶苦茶な奇襲策に乗った。逆包囲の危険性もあるが、夜間ならば混乱に乗じられるだろうというのが北条軍の見解だった。

 

さながら東洋のノルマンディー上陸作戦。軍船はおろか、漁師の船まで徴収した一大作戦。劣勢下からの逆転を狙った状況的には仁川上陸作戦だろうか。いずれにせよ、失敗すれば北条家の命運は尽きる。まさに乾坤一擲。

 

更に、水軍にかなりの戦力を持つ里見家の軍船を借りられたことも北条家にとっていい状況だった。かくして、北条軍は渡海を試みる。新月に近く、月の光りも僅か。夜襲にはもってこい。反面、渡海には確実に向いてないが、今まで兵糧輸送を夜間に行い続けた事が味方した。夜間操船の技術はかなり高まっていた。

 

今川軍の水軍は昼間こそ活動しているが、夜間は港に帰っている。駿河湾は北条軍の勢力下であった。このため、戦闘用でない船を使っての輸送が可能だった。

 

今川軍は撤退することに意識が向けられており、灯りもつけず僅かな星の瞬きを頼りに渡海してくる北条軍に気づかない。

 

この策を告げられてから数ヶ月。ずっと今か今かと待ち構えていた本隊が気合い十分で行動を始める。

 

 

 

暗夜に紛れ、駿河を舞台に、史実では発生しなかった戦闘が始まろうとしていた。



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第27話 興国寺城の戦い・後

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。


「まったく動かないな」

 

「はい…ここまで長期の滞陣とは予想しておりませんでした。北条は挟撃されております故、すぐに片が付くと思っておりましたが…」

 

 今川軍の一角に武田菱が翻っている。援軍要請に応えた武田晴信以下三千の軍勢だった。陣中にあって晴信とその異形の軍師、山本勘助の表情は暗い。いまだ武田家の完全統治下にあるとは言い難い諏訪の支配、敗将諏訪頼重とその妻にして晴信の実妹、禰々の処遇、対高遠家の戦略…彼らの頭を悩ませるものは多かった。

 

 こんなところにいつまでも留まっている訳にはいかなかった。今回の要請を受けた理由は信虎を引き取ってくれたことへの返礼の意味や戦国の世への公式デビューの意図もあったが、真意はそこではない。勘助のアイデアである三国、すなわち駿河の今川・相模の北条・甲斐の武田での連携を実現させるためであった。そのために武田は今川・北条間の講和の仲介人となり、あわよくば不可侵を結びたいと思って要請を受諾した。どちらかが劣勢になったタイミングで講和の打診をするという策だった。

 

 武田としては、信濃に領地を持ち、争うのは必定の関東管領より、北条の方が都合がよかったのだ。だが、予想に反してまったく本格的な戦闘は起こらないまま時は過ぎていく。そろそろ講和の打診をしても良かったが、全く動かない北条の前衛並びに本隊に、晴信は底知れぬ寒気を感じていた。

 

 そんな陣中に様子見の信繁がやってくる。甲斐本国は信龍と信君に任せてきた。普段は反目している二人だが信繁に説得されて渋々協力している。四天王に彼らの補佐を任せ、陣中見舞いも兼ねてやって来たのだ。

 

「姉上、お久しぶりです。お変わりありませんか」

 

「次郎、久しぶりね。こっちは相変わらず何の動きも無しよ」

 

「そう…おかしいわね。そんな長期間陣を張れるほど余裕はないはずなのに。前衛の総大将は誰?」

 

「現在関東管領に囲まれている河越城主、一条兼音と申す者だそうで」

 

「一条…」

 

 信繁の疑問に勘助が答える。それは益々もって変だ、と信繁は思った。あの人がそんな風にぼーっとしているとは考えにくかった。彼女の脳裏には花倉の乱の記憶が鮮明に染みついている。僅か三十人で落とされた城。煌々と燃え上げある花倉城。炎に照らされながら翻る三つ鱗の旗。敬意さえ感じた鮮やかな手口。その記憶があるからこそ、信繁は無策で北条軍が陣を張っているとは思えなかった。

 

「姉上、勘助、用心して。向こうが無策とは考えにくいわ」

 

「しかしですなあ、一条兼音というものがいかほどの者でも雪斎には勝てますまい。不肖この勘助もそのような者に負けるとは思いたくありませんな」

 

「次郎、あたしもそう思う。確かに花倉の時の話は聞かされたが、あれは風魔という戦国の世でも類を見ない忍び集団の力があってこそではないのか」

 

「それはそうだけれど…」

 

 少し違う。二人は思い違いをしている。そう信繁は言いたかった。あの人の本当の怖さはそこじゃない。そういう策を思いついてなおかつそれを実行してしまうところなの、と。だが、諏訪戦におけるあっさりと得られた勝利のせいでいささか二人は自信過剰になっているきらいがあった。二人とも初陣だったため、それも仕方がないことだろうが。

 

 そこへ、駆け足の使者が飛び込んでくる。

 

「も、申し上げます。我が主、朝比奈備中守泰朝よりの伝令でございます。先ごろ、大石寺の雪斎様よりの報せによれば、尾張の織田信秀が国境より侵攻。同時に三河で国衆が蜂起とのこと。故に、夜間に早期撤退せよとの命が下りました。武田様におかれましても、我々と共に撤退をお願いしたいとのことです!」

 

「承知した。伝令ご苦労」

 

「はっ!」

 

 伝令を見送り、晴信は撤退指示を出そうとする。

 

「しかし、拍子抜けだな。こんな終わりとは。勘助これなら講和の打診を出来るかもしれないぞ」

 

「……」

 

「勘助?」

 

「おかしいとは思いませぬか。諜報に関しては北条の方が圧倒的に上。ならばこのような北条に有利な情報がなぜここまで伝わったのか…まさか!」

 

「意図的にこの状況を作りだしたと?」

 

「あり得るわ。だとしたら慌てて撤退してる私たちに彼らがすることは…」

 

 奇襲。三人がその最悪の予想に青ざめる。それと同時に前方、松井宗信が陣を張っている方向から喧騒が聞こえる。明らかにそれは戦によるもの。だが、未来にも名高き三人も次の報せの内容までは予想できなかった。

 

「申し上げます!北条軍本隊、海より来襲!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「全軍、作戦行動を開始。突撃!」

 

 指示を聞き、軍が突撃を開始する。士気は十分。反面焦りのある今川軍はこの奇襲にスムーズに対応できないはずだ。

 

 海岸線に一番近い元忠隊の千人が前方にいる鵜殿隊にまず突撃する。騎馬部隊を預けてあり、突破力の高い軍団がまず敵陣に穴をこじ開ける。それに続き、こちらの部隊八百人と清水隊六百人が突撃する。盛昌隊六百は側面から回り込み松井隊を叩く。普段なら敵軍との数の差によって瞬殺だろうが、奇襲・夜間・敵の混乱の三要素によってこちらの優位に戦闘が進んでいる。

 

「申し上げます!多米隊、鵜殿長照隊を蹴散らし海岸線を制圧!」

 

「よし、我らも出るぞ!かかれ!」

 

「「「「応っ!!」」」」

 

 前方の松井宗信隊に襲い掛かる。予想通り敵軍は大混乱に陥っているようだ。

 

「首は捨て置け!一兵でも多く殲滅するのだ!」

 

「申し上げます!本隊が上陸を開始しました!」 

 

 今夜最大の吉報に口角を上げる。勝ちが見えてきた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜闇の中に大船団が進んでいる。真っ暗な駿河湾の海上に、闘志をみなぎらせた精兵六千がいた。沼津城の港を出港した彼らは間もなく海岸線に到着しようとしていた。船団を自ら指揮している氏康の記憶には、数ヶ月前に前衛を引き受けた彼の言葉が克明に残っていた。

 

「この賭けに乗りますか?」

 

 自分が青ざめた顔をしているのがわかった。だが賭けに乗らなければどうしようもないこともよくわかっていた。

 

「勝てるの?」

 

「成功すれば、必ず」

 

「そう……」

 

 しばらく目を閉じ沈黙する。自分の人生において最大級の決断を迫られていることを自覚する。

 

「乗りましょう。その賭けに。あなたを、信じます」

 

「ありがとうございます」

 

「気をつけて、死なないでね」

 

「勿論ですとも。約束は忘れておりませんので」

 

 微笑み出ていく姿に感じる僅かな高揚感。ダメ、ダメなの。この感情は決して抱いてはいけないもの。私は氷の女、戦国大名北条氏康。そうあらねばならないの。そう思って気持ちを振り払うように頭を横に振った。

 

「今となっては数か月前の記憶も懐かしいわね…」

 

 夜風に当たりながら小さく呟く。

 

「上陸準備整いました」

 

「よろしい。全軍上陸開始!」

 

 号令に従い、六千の兵が上陸を始める。主力は氏邦に預けてある。数は三千。この部隊には孤立無援で奮闘している吉原城の救援に向かわせる。笠原康勝の二千と間宮康俊の八百は多米元忠の千と合流して、敵の包囲を始める。こちらに気付いた敵軍は恐慌状態になっている。勝利の予感に氏康の手は震えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何が起こっているの!早く報告を!」

 

「無理です!左の松井様の部隊並びに右の鵜殿様の部隊が潰走しておるとしか!」

 

 朝比奈泰朝は混乱していた。撤退を始めた矢先に突如奇襲を受けた。状況の打開を図ろうにも、まったく情報は入ってこない。やはり、彼女は若すぎた。あるいは雪斎がここにいれば状況は変わっただろうが、それはあり得ない夢想だった。

 

「と、とにかく一刻も早くこの場から撤退を!」

 

「関口様を見捨てるのですか!」

 

「死にたくないなら走りなさい!」

 

 朝比奈隊が逃走を始める。鵜殿隊はもはや壊滅寸前だった。前方からは多米元忠の騎馬隊。右手側からは間宮康俊が、後方には笠原康勝の部隊がいる。元々千五百しかいない彼の部隊は、持ちこたえるには数が足りなかった。鵜殿長照とて凡庸な武将ではない。応戦を試みるも多勢に無勢。潰走する。

 

 勢いそのまま、笠原隊と多米隊は関口親永隊に襲い掛かる。関口隊には潰走して逃げてきた鵜殿隊の残党が後ろから迫ってきており、まともな軍事行動が出来る状態ではなかった。関口隊もあえなく敗走を始める。どれだけ将が奮闘しようとも、兵士の士気は皆無。抵抗できるはずもない。その敗走する姿は古、富士川にて源氏軍と鳥の飛び立つ音を間違え逃走した平家の軍勢の如し。一つ違いがあるとすれば、ほとんど死者が出なかった富士川の戦いとは違い、おびただしい数の今川軍の死体が転がっていることだろうか。

 

 一方で吉原城を囲んでいる岡部元信隊は今川軍本隊の方角から聞こえる音で奇襲を悟り、態勢を整えていた。そこへ北条氏邦隊三千と、城内の松田頼秀隊五百が襲い掛かる。

 

 まさに激戦であった。今川軍において一番活躍しているのは誰がどう見てもこの部隊だった。

 

「岡部元信!どこだ、出てこいっ!」

 

「騒ぐな!私はここにいる。貴様は誰だ!」

 

「北条左京大夫の妹、北条新太郎氏邦!」

 

「相手にとって不足なし。今川治部大輔義元が家臣、岡部丹波守元信、参る!」

 

 猛将同士の一騎打ちが始まった。打ち合うこと数十合。決着はつかない。岡部元信の目に潰走して死にそうな顔をした関口親永の姿が見えた。

 

「チッ、あのお坊ちゃんはまともに逃げられやしないのか」

 

「戦闘中に余所見とはいい度胸だな、そのそっ首もらい受ける」

 

「あいにくとまだ死ぬ訳にはいかないのさ。この勝負、しばらくお預けだ!」

 

「あっ、逃げるな、卑怯者!!」

 

 叫ぶ氏邦を後目に、岡部元信は関口親永救援のために馬を走らせた。噛みしめた唇から流れる血が彼女の悔しさの証だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鵜殿隊壊滅。関口隊、朝比奈隊、松井隊潰走。岡部隊、残存部隊を何とか引っ張り逃走中。次々舞い込んでくる報告は素晴らしいものだった。数時間前に誰がこの展開を予想しただろうか。一万八千近い今川軍は、約半分の九千に翻弄され、潰走するなど。

 

 だが、まだ障害は残っている。潰走する部隊の中、整然と撤退し始めている部隊が一つ。旗は武田菱。武田晴信の率いる部隊だった。流石武田と舌を巻きつつ、今後について考える。勝ちは揺るがないだろう。しかし、このまま放置という訳にはいかない。一瞬だけ信繁の顔が脳内をよぎるが、それを振り払う。

 

 段蔵が逐一もたらしてくれる情報によれば、多米隊、笠原隊、間宮隊、氏邦隊、松田隊は合流し、敵の敗残兵を殲滅しているようだ。こちらには清水隊、大道寺隊が合流し、数は約千八百ほど。軽く戦闘して撤退してもらうのが一番だろう。ここで武田を殲滅しては、戦闘を仲介してくれる人間がいなくなってしまう。

 

「これからどうするのですかな」

 

「これよりこの軍で敵に当たります。目標、武田隊」

 

「承知!」 

 

 清水康英が駆けていく。盛昌に後方を任せ、私も続く。武田家の軍勢が見えてきた。武田の軍勢の前に一人、人影がわずかに見えた。

 

「全軍、止まれ!」

 

 こちらの指示に軍がかろうじて停止する。ぎりぎり理性が残ってくれていたようだ。

 

「そちらの大将は誰か!」

 

 聞き覚えのある声がする。

 

「北条氏康が家臣、一条兼音!武田家当主、晴信殿の妹君、信繁殿とお見受けする。何故我が名を問う!」

 

「貴殿と交渉したい」

 

「…よろしい。聴こう!」

 

「感謝する。我が姉、晴信は北条氏康殿と心の底より争いたいと思ってはいない。今川に恩があった故、援軍要請に応じたまで。こちらには今川家と北条家の和睦を仲介する意思がある。ここをお見逃し頂ければ、必ずや和睦の斡旋をすることを約束しましょう!約束の担保に我が身を差し出します。和睦の斡旋叶わぬ時は、この身を煮るなり焼くなり好きになされよ!」

 

 思わぬ申し出だった。受ければおそらく和睦できるだろう。晴信も妹を見殺しにはしない。こちらはもう片方の戦線を抱えている。それに、ここでは勝利したが、今川家の全領土を平らげられるほどの力はない。このあたりで河越に向かいたい。断ればどうなるか。武田軍との戦闘で損耗するのは明白だ。無用な争いは避けるべきだろう。河越に回せる兵を残すためにも。

 

「…承った。御身と引き換えに、武田軍全軍の撤退を邪魔しないこととしよう。和睦についても、主・氏康と相談いたそう」

 

「ありがとうございます」

 

 これで、河越に戻れる。意識はすでに武蔵の大地に向いていた。

 

 

 

 

 

 一条兼音は知る由も無いが、この交渉に至るまですさまじい争いが姉妹間で行われていた。が、最後に晴信が信繁の「私一人と武田軍三千とでは天秤は釣り合わない。どちらが重いかは姉上自身がよくお分かりのはず。一条殿は必ず受けてくれます」という言葉に折れ、信繁を送り出した。

 

 かくして、武田軍三千はこの戦いの中唯一無傷の部隊として撤退することとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 武田軍の撤退を見ながら、一条兼音は北条氏康と氏邦に使いを出し、深追いしないようにと諫める。これを受け、北条軍は戦闘を終了。

 今川軍、死者行方不明者約四千八百。北条軍死者行方不明者九百三十。北条の圧勝であった。これにより、今川家は武田家を仲介に北条家への講和を打診する。

 

 関東に覇を唱える北条家の戦の中でも稀にみる大勝利。後世の人々はこの戦を一条兼音飛躍の戦として、『興国寺城の戦い』と呼んだ。奇しくも戦場となった興国寺城は北条家の始祖、早雲の飛躍を支えた城だった。

 

北条家は新たな展開を迎えようとしていた。



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第28話  興国寺城の戦い・終

「今、何と申した」

 

まだ夜も明けない深夜に悲惨な身形で自分に土下座する少女に、雪斎は信じられない事を聞いたように問う。

 

「で、ですから、当方大敗と」

 

「…………」

 

雪斎にはこの現実は受け入れ難かった。大敗?九千の軍に、武田の援軍も含めた一万二千もの軍勢が大敗したと言うのか?

 

ここに来て黒衣の宰相は自分の過ちを認識するに至る。敵の方が一枚も二枚も上手だったか、今回の敵は若手武将の手柄稼ぎになるような相手ではなかったのだ、と。そして、兵法を叩き込んで来たはずの期待の将だった朝比奈泰朝の敗走は自らの教育の至らなさの証明だった。

 

しかし、彼は腐っても僧侶。自らを律し、ここで朝比奈泰朝を怒鳴りつけないだけの自制心は持っていた。それでも怒鳴りつけたい気持ちは心の中でかなり膨らんでいた。そして、それは敵の力量を正しく見切れなかった自分へも向いていた。

 

この敗北は同時に対北条戦のプランを完全に見直さなくてはならなくなった事をも意味していた。

 

「何故負けた。敵の大将は誰だ。氏康直々に指揮したのか」

 

「何がなんだかさっぱりわかりません…。突如敵の大軍が海より来て、撤退中の我らを強襲してきたのです。おそらく敵前衛は囮。囮の大将は一条兼音という若者で、多くの将は恐るるに足らずと侮っておりました」

 

海よりの強襲というのは雪斎の兵法家としての脳を刺激し興味を湧かせたが、それより気になる単語が言い訳の中に含まれていた。

 

「撤退中?お主らは何故撤退などしておったのだ」

 

何を言っているのか、と言いたげな目で見つめながら泰朝は答える。

 

「お言葉ですが、禅師から撤退せよと命令を受けたのですが」

 

「何だと、拙僧はそのような命を出してはおらんぞ」

 

「ですが、尾張にて織田信秀が挙兵し、三河の国衆もそれに続いた故に至急戻れと確かに伝令が…」

 

その言葉に、彼はしてやられた事に気付く。

 

「お主、見事に謀られたな。大方その伝令は風魔の手の者だろうよ」

 

事実は風魔ではなく加藤段蔵なのだが、雪斎にそれを知る術はない。

 

「お話中失礼する」

 

「飯尾殿か、何かご用か。今取り込み中であるのだが」

 

「火急の事にて失礼。尾張の織田信秀が挙兵し、三河もそれに続いた。今遠江衆が抑えているがいつまで持つかはわかりかねる。それがしは遠江国衆の代表として直接援軍をお願いすべく参った次第」

 

「何と、その情報は真実だったか…」

 

確かにこれを聞けば焦る。そこへ撤退せよと囁けば多少強引な嘘であっても真実味が出る、か。敵将は末恐ろしいものだ。と雪斎は思った。そう思いつつも、彼もかなりまずい展開になったとは思っている。

 

報告によれば兵は四千近く討ち取られ、残存兵は傷ついた者が多い。士気も低い。遠江衆と合流すれば立て直せるし、三河の対処も出来るとは思っているものの、北条をそのままにはしておけなかった。

 

「おい、入るぜ」

 

無遠慮に陣中に来たのはこちらも少し傷を負い、薄汚れている岡部元信である。関口親永に肩を支えられ歩いている。関口親永を見た瞬間泰朝の顔は青くなる。何せ、泰朝には親永を焦りや恐怖でぐちゃぐちゃになった感情のせいで冷静に判断が出来ず、戦場に見捨ててきてしまったという罪がある。

 

「お前が見捨てたこいつを何とか拾ってきたぜ。オレがいなけりゃ、こいつは今頃北条の奴等の前で首になってるだろうさ」

 

そう言うと彼女は不貞腐れたように座る。当の親永は困ったように青ざめる泰朝と半ギレの元信を見ていた。

 

「てめえ、鵜殿の爺やら松井のおっさんも放置してきただろ。みんなギリギリ生きてたから良いものを。偉そうにふんぞり返ってその様か、え?」

 

「……」

 

「何とか言ったらどうなんだよ!お前は大人しく城でも囲んでろと言ってた朝比奈のお嬢さんよ!」

 

「本当に、申し訳ありませんでした」

 

「謝ったら死んだ奴が帰ってくるのかよ」

 

「元信殿」

 

「あ!?」

 

「そこまでです。私も、鵜殿殿も松井殿も恨んではおりませんよ。敵が我らを上回っていただけです。勝敗は兵家の常と申します」

 

「けっ、お前がそれでいいならこれ以上は言わねぇよ」

 

ギロリと睨まれ、縮こまる泰朝。大将級の将の討ち死にがないのが唯一の救いだと雪斎は嘆息しながら、今後について考える。と言っても結論は一つだけ。

 

「和睦するしかない、か」

 

それを口にすれば場の空気は重くなる。どう考えてもここで和睦を申し出ても蹴られるか、もしくはかなり向こうに有利な条件で講和させられるかの未来しか見えなかった。

 

泰朝はますます縮こまり、元信は舌打ちする。何でもいいから早く救援に来てほしい飯尾連達は焦り、親永は眉をハの字にしていた。ちなみに、満身創痍の鵜殿長照と松井宗信は手当てを受けている。義元はまだ寝ている。主を叩き起こす必要を雪斎が感じていた時に更なる来客があった。

 

「これはこれは武田殿。この度はこのような事態となりまことに申し訳なく思っております」

 

雪斎はひたすらに頭を下げて謝る。国力は今川の方が上とは言え、流石に今回の件は今川家の将の失態。彼も頭を下げるしかなかった。加えて言えば、あくまでも立場が晴信より上なのは彼の主である今川義元であって彼本人ではない。腰も低くなるのだ。

 

「いや、構わない。幸いあたしの兵は一人も死んではいないからな」

 

その発言に元信がキッと目を鋭くする。だが、彼女が口を開くそれより先にまともに思考の働いていない泰朝が晴信を問い詰め始めた。

 

「あ、貴女、まさかとは思いますが北条と通じていたのではありますまいな!でしたら此度の敗戦は…」

 

が、彼女はそれ以上言葉を続けられなかった。理由は簡単。雪斎が持っていた扇で彼女の後頭部を強打したからである。ここに来て雪斎の鋼の自制心にも限界が来た。

 

「この愚か者っ!自らの敗戦を恥じるでもなく臆面もなく責任転嫁とは…恥を知れ。武田殿が兵を損なわなかったのはご自身の優れた用兵によるもの。偽報に踊らされ夜襲に逃げ惑い味方を置き去りにするお主とは違うのだお主とは!」

 

「いや、別にあたしの用兵が優れていた訳じゃないんだがな…」

 

あまりの剣幕に、最初は泰朝の物言いにムッとしていた晴信も苦笑気味である。怒気を無理やり抑え、雪斎は晴信に問う。

 

「では、貴殿はどのようにして北条の夜襲の最中一兵も損なわず撤退が出来たのですかな?」

 

「簡単なことだ。取り引きをした」

 

「して、その内容とは」

 

「和睦の仲介」

 

これで雪斎は悟る。この姫は最初からそれが目的で援軍に参加したのだと。怒りに身を震わせながらも、彼の叡知は健在だった。

 

「それは…」

 

「武田が北条と今川の和睦を仲介し、北条が河越へ向かえるようにする。それが北条が武田を見逃す条件だ。あたしの妹、次郎信繁は武田がこの約束を守るまでの間証として北条に自ら進んで人質になりにいった」

 

まさか、援軍の将の妹を見殺しにはさせまいな?敗戦はそちらの責任であるのに。と言う無言の問いかけに、雪斎は折れるしかなかった。

 

「和睦なさるか?」

この問いに雪斎はやむを得ず頷く。こうして三国の主たる三人の姫が会見する場が設けられようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「貴女は元気ですね…」

 

「そうでしょうか?」

 

小首をかしげながら尋ね返す少女に少し疲れを覚えながら、馬を進める。時刻は夜中。おそらくは現代時間で午前3時頃。松明の灯りが煌々と戦場を照らしている。

 

今川軍は敗走し、今は北条軍がその陣を使っている。上陸部隊と前衛部隊は合流して、軍議を行おうとしていた。彼女、武田次郎信繁は武田晴信から約束(講和の斡旋を行うことの代わりに武田軍の撤退を見逃す)の証明の人質としてここにいる。そして今ここでその約束を引き受けた身として、彼女を紹介しなくてはならない。加えて、主・氏康様にこの約束に同意していただかねばならない。

 

何故か楽しそうな信繁に、やはり、やや頭痛を覚える。ここは一応まだ敵地なのだが…名門の姫とはみんなこんな感じなのだろうか。

 

「言っておきますが、妙な事はなさいませんように。呼びますのでそれまではここで待機を」

 

「わかっておりますとも」

 

大丈夫かなと思いつつも、陣の幕をくぐる。

 

「遅くなり申した。一条兼音参りました」

 

陣内には既に他の将が揃っている。空いてる席が一つしかない。そこが自分の席なのは見ればわかるが、場所が少々問題だった。

 

「あの、もっと下座では?宿老の方々を差し置きその位置は些か問題かと…」

 

場所は氏康様のすぐ近く。長いテーブル席をイメージした時に、お誕生日席が氏康様だとしたら、そのすぐ隣である。向かい側には幻庵様が座っている。どう考えてもおかしい。

 

「良いじゃない。此度の戦いの一番の大手柄をあげたもの。誰も文句は言わないわ」

 

いつになく上機嫌な氏康様に同調するように諸将が頷く。

 

「そ、そうですか。では、畏れ多いですが失礼します」

 

こちらが腰かけると氏康様がスッと立ち上がり、口上を述べる。

 

「まずは、此度の勝利に感謝するわ。これにより、今川に打撃を与えられた。長期の陣を張った甲斐があったと言うものよ。まだ窮地を逃れられてはいないけれど、少しばかりは祝いましょう!」

 

拍手が鳴り響く。私自身もホッとしたのは事実。これで河越に戻れる。

 

「論功行賞は全てが片付いてから。けれど、皆も思っているだろうことを私が代表して言うわ」

 

そこで一度言葉は区切られる。何を言うのかと待つと、主はこちらを見つめながら再び口を開く。

 

「一条兼音、大儀であった」

 

咄嗟に言葉が出ないが、何とか返す。

 

「はっ、もったいなきお言葉」

 

「貴方がいなければ、私達は決して勝てなかったでしょう。それどころか雪斎と武田の援軍にこっぴどくやられ、屈辱的な講和を結ばされていたかもしれなかった。この勝利で北条の意地を、今川の家臣には戻らないという確固たる意思を見せつけられたわ。本当にありがとう」

 

「過分なお言葉恐悦至極に存じます。ひとえに皆様のお力添えの賜物。私一人の力ではございません」

 

「謙遜せずともその功は皆が理解しているわ。さて、この感謝は後で全てが片付いてから示すとして、次の行動を考えなくてはならないわ。ここいらで早く河越へ向かいたいけど…」

 

「あぁ、それに関して一人ご紹介したい人物がおります」

 

「よろしい。紹介しなさい」

 

「はっ。お入りあれ」

 

「失礼します」

 

声をかけると、陣の外から幕をくぐり、先程とはまったく違う凛とした様子で信繁が入ってくる。

 

「武田家当主・晴信が妹、武田次郎信繁と申します。北条家の方々におかれましては以後、お見知りおきを」

 

予想外のビッグネームに場がややざわめく。

 

「武田とは此度の戦において敵対していたはず。何用でここにいる」

 

「一条様とのお約束によってです。それを北条家の当主に承認して頂くべく、ここにいます」

 

「約束、ね。何のことかしら。聞いてないのだけれど」

 

「申し訳ありません。ここは私から説明させて頂きます」

 

「話しなさい」

 

「はっ。先程の戦の最中、武田家の部隊と遭遇しました。混乱から敗走する今川兵とは異なり、武田の兵は整然と並んでおりました。これを相手取るのは些か骨が折れると思っておりましたところ、信繁殿より提案がありました。聞けば、もとより此度の戦に参戦したのは義理立てであり、北条と事を構えるつもりはない。ここで撤退を見逃して貰えるなら、和睦の斡旋を行う。その証として信繁殿を人質として引き渡す、と。当家は河越で関東管領とも事を構えており、ここで今川戦を本格的に進めるのは不可能であり、ここが潮時であると僭越ながら判断し、約定を交わした次第。越権行為であり、本来なら伺いを立てるべきではございましたが、火急の事ゆえこちらで判断させて頂きました」

 

今となっては越権行為な気もするので、弁明する。

 

「…まぁいいわ。戦場ではいちいち上の伺いを立てられないことの方が多いのだし、多少の越権行為は認めましょう。それに、前衛の総大将は貴方であるしね。結果的にここで和睦したいのはこちらも同じだし、状況判断をキチンとした上の事なら許しましょう」

許されたようだ。助かった。事情を理解してくれる理性的な君主は本当にありがたい。他の将もここが潮時なのは理解してくれるようで、反対意見は無さそうだ。

 

「ありがとうございます」

 

「さて、次郎信繁殿」

 

「はい」

 

「和睦は受けるわ。ここで停戦して、河越に向かいたいのは事実。元より北条の野望は関東制覇。駿河ではないわ。貴殿の姉君か雪斎がその話を持ちかけてくるまで兼音の陣中にいなさい。良いわね」

 

「はい、よろしくお願いします」

 

「貴方もそれで良いわね」

 

「異論ございません」

 

「しっかりともてなしなさい。色々とね。…では、解散。皆、関東に戻るまでの少しの間だけれど、疲れをとりなさい」

 

「「「「「はっ」」」」」

 

 さて、このお姫様の世話をしなくてはな。殺風景な陣だ。普段はいる綱成も兼成もいない今、完全に男しかいない私の陣で武田の姫を接待するのは気がひけるが、やるしかないだろう。

 

 いつ寝るかを考えながら、ため息を吐き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

武田次郎信繁から見て、一条兼音は不思議な人だった。同時に憧れる人でもある。『憧れ』とはアイドルに憧れるようなものではなくベクトル的には尊敬に近かった。彼女の知っている軍師は彼と山本勘助しかいないが、それでも彼女は思考的には刹那的な勘助よりも彼に好感を抱いていた。勘助が嫌いな訳ではなかったが。

 

少し機嫌が良かった理由は、そんな人物に近づく機会を得たのが一つ。そしてもう一つは、愛する姉とその軍師に自分の尊敬する人物の偉業を見せつけられた、すなわち自分の目の正しかったことを証明できたからであった。勿論、武田の将兵が傷ついていないことも大切だったが。

 

そして彼女は一条兼音から、彼から見た武田家や信濃攻略についても聞いてみたかった。勘助を信用していない訳ではないが、他の意見を聞くのは悪いことではない。視野を多角的に持ち、広げることは重要だと思っていた。

 

「一条さんは武田家についてどう思われますか?」

 

突然の問いかけに、何事か書き留めていた彼は顔を上げる。少し考える素振りをしてから口を開く。

 

「強い家でしょう。国はまだ貧しくとも、人は多くいる。人材がいれば国は広がり、富んでいくでしょう」

 

あぁ、それと、少し関係ありませんが、と前置きして続ける。

 

「姉君殿と元通りになれたようで何より」

 

その声音は少し優しそうだった。多忙な生活をしているだろうに、小娘の愚痴を覚えていたのか、と思うと同時に恥ずかしさも込み上げてきた。

 

「…では、武田の信濃攻略についてはどうお考えですか?今後の展望など」

 

どうしてそのような事を私に。隻眼の軍師殿に怒られますよ、と笑いながら告げつつ、答えてくれた。

 

「真面目に答えるなら高遠やらそこらは直ぐに降伏へ持っていけるでしょう。守護は話にならないでしょう。ただの好色漢に武田は倒せない。関東管領も相手にはならないでしょうね」

 

そこまで告げられ信繁は疑問を覚える。

 

「関東管領?上杉憲政は今そちらの居城を囲んでいるはずですが…」

 

「彼らは来ますよ。信濃へ。関東武者は武あるものに従う。その失いかけの武威を取り戻しに」

 

微妙に話が噛み合っていないことを感じ、信繁は首をかしげた。その様子を見て食い違いに気付いたらしき彼は納得したように頷き、衝撃の一言を放つ。

 

「あぁ、これは失礼。何故武威を取り戻す必要があるか、ですね。簡単です。関東管領の軍勢は河越で消滅するのですから。我らの手により。これは夢想でも希望的観測でもなく、確定事項です」

 

ま、そちらさんも勝てるでしょうが。と続ける彼に信繁は少し面食らった。おかしな事を言ってからかっているような素振りも、冗談を言っているような雰囲気もない。本気で言っているのだ、と彼女は思った。不思議と夢物語と笑う感情ではなく、そうなるのだろうな、と自然に思った。それほどまでに堂々と言い切っていたのだ。

 

「注意すべきは村上ですかね。あの男は怖そうだ。彼について気になることがあるなら段蔵に聞いてみますかね。貴女に教えてくれるかは、運次第ですが」

 

この発言は少し軽い口調だった彼は、次に急に雰囲気を重苦しくし、こう言った。

 

「勘助殿と私とどちらが上かはわかりかねる。だが一つ私が確実に上回っていることがあるならば、それは実戦経験の数です。知識は知っているだけでは意味はない。知識は将、実践は兵です。将が一人で喚いていても、兵がいなくては戦には勝てないでしょう?盲信してはいけませんよ」

 

「騎馬の弱点を理解してから挑むことです。己を知り、敵を知れば百戦危うからず。されど、己も敵も知らざれば、戦う度に危うい。村上を倒すにはそれが要でしょう。何が弱点かは、自分でお考え下さい」

 

「逸らず、焦らず、油断せず、驕らず、侮らず。結局全てこれなんでしょうね」

真剣な空気にのまれ、信繁はいつしか呼吸さえも忘れかけていた。目の前の人間が本当に人間なのか疑いたくなった。まるで、知の神であるかのように感じた。一つ一つの言葉がスッと心の中に入り、刻まれるのを感じた。これを聞いたことは必ず役に立つはずだ、と彼女は思った。

 

「まぁ、兵法や思想、国政について学びたいなら古書を読むことでしょう。知識は将で実践は兵。しかし、将なくして兵は勝ちを得られない。これを差し上げましょう。私にはもう必要ないので」

 

渡されたのは古ぼけた孫子と呉子。存在は知っているが、思えばキチンと教育された覚えはなかった。

 

「基本からですよ。何事も。これを読んで自分なりの活かし方や意見を考えてみてください」

 

尊敬する人物から貰ったのだ、嬉しくないはずがない。

 

「ありがとうございます!大切にしますね」

 

「そう言って頂けると幸いです」

 

「さて、そろそろ私は行きます。陣の外に使いが来たようです。大方、講和についてでしょう」

 

そう言って立ち上がり、陣を出ていこうとする。ふと振り返り、彼はこう言った。

 

「今後は武田と北条は協力関係になるでしょう。今より関係は良くなり、交流も活発になるでしょう。何か、わからないことでもありましたら文でも送って下さい。もしくは、信濃でお困りの事があれば何なりと。主に怒られない程度にお返ししますよ」

 

そう言って彼は笑いながら陣を出ていった。果たして最後の言葉をどこまで信用して良いのかはわからなかったが、読み終わったら色々書いて送ってみようと思った。そんな未来を楽しげに思い描き、彼女はボロい本を抱き締めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やれやれ、どうもやりにくい。信繁が自分を慕ってくれているのはよく分かる。あれが憧れに近い感情であることも、何となくわかっている。本来はどこまでいっても他国の人間。色々アドバイスしすぎたのは事実だし、最後の言葉はあまり良くない事だと反省している。同盟国になったとしても、だ。

 

ただ…ただ、一つだけ言うのなら。あの子が川中島で辿る運命を知っているから、情が湧いてしまったのかもしれない。

 

北条に利が無いわけではない。信濃攻略がスムーズに進めば越後の軍神とそれだけ長く渡り合ってくれる。と言うか、現状北条に害はない。だから許されるかと言えば、別問題だが。

 

氏康様も、出来れば仲良くなり交流を深め、自然に甲斐の情報を抜き取れ、その為なら多少文のやり取りくらいは許可する、と言われている。と言うより推奨されている。騙すようで気がひけるが、別に悪いことしてる訳じゃないのだから、と言い訳する。

 

そんな事に悩みつつ、馬を進める。和睦の打診が来たのだろう。雪斎も動きの早いことだ。

 

心を河越に飛ばしながら、理性は講和の条件を考えていた。




次回は里見家へ視点をシフト…とも考えましたが、このまま会談まではそのまま続けます。里見家は河越に戻る前に書きますので、今しばらくお待ちを。


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第29話 三雄会談

少し長くなりました。キリがいいところまで書いたので。


 一条兼音が氏康に呼び出され、信繁との会話を切り上げ馬上の人となった少し前、当の氏康は自らの一族でもはや年齢不詳の北条幻庵と会談していた。

 

 北条幻庵。幻庵は号であり、諱は長綱。北条早雲こと伊勢新九郎の娘だとも妹だともあるいは母であるとも囁かれる見た目は若い老人である。自身の戦闘力は皆無に等しく、戦も上手いとは言い難いが、風魔を束ねており北条家の情報面を担当している。また、外交や謀略などの智を担ってきた。最近は一条兼音の存在により外交戦略を考える負担が減りつつあったが、興国寺城の戦いで風魔を酷使する作戦を提案されていたため少し疲れ気味である。

 

「なんとか一難は取り払えましたのう」

 

「ええ、取り敢えずは、ね」

 

 氏康は小さくため息をつく。彼女の色白な肌が証明しているが、彼女は戦争が得意ではない。正確には戦闘が苦手である。乗馬は出来るものの、剣術・弓術・槍術などおおよそ武芸は不得手であった。万が一に備え、最低限の小刀戦術と鞭術を習得しているが、おおよそ武人とは言い難かった。謀略や外交によって戦わずして勝つことが彼女の目標であった。

 

 引きこもり癖の持ち主だが、公家趣味ではない。そこが今川義元との大きな違いだった。彼女は北条家の当主としてその重圧を一手に引き受けるはずであったが、一条兼音の功績によりそのストレスはやや緩和されている。それは彼女自身も認識しており、今回の戦においてよりそれを認識していた。

 

 元々彼女の信条は小田原に籠城し、耐える。そして兵站が厳しくなったタイミングで敵を調略。そして勝ちを得る。というものである。ただ、今回の件で籠城は最終手段として考えた方がいいかもしれない、と思い始めていた。それくらいこの勝利は大きかった。

 

「さてさて、若軍師殿のおかげで何とか勝ちを得られましたがな、これからが問題じゃ。ここでグダグダしていては、河越に向かえないでなぁ。ある程度は譲歩を示さねばならんぞ」

 

「わかっているわ。こちらが寛容であり、”今川に譲歩してあげた”という体をとりましょう。それでこちらの体面も立つでしょう」

 

「そこは腕の見せ所じゃな。若軍師殿はその辺も考えてはおろうが、雪斎と武田の新たな軍師になったという山本勘助なる怪しげな男と張り合うにはやや不安があるでな。おばばも付いて行くぞ」

 

「好きにしなさい」

 

 早く戻りたい…と氏康はもう一度ため息をつく。陣幕をくぐり自らが呼び出した一条兼音がやってきたことに気付き顔を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 善徳寺に三国の代表たる姫が集まっていた。甲斐の武田晴信、駿河の今川義元、そして相模の北条氏康。

 

 氏康様の右隣には長老北条幻庵。左隣には一条兼音である。今川義元の隣には黒衣の宰相、太原雪斎。武田晴信の隣には山本勘助。氏康と兼音にとっては武田晴信と山本勘助は初めて会う相手である。反面雪斎と義元は以前会ったことがある。

 

 が、その義元と氏康は以前とは違い対等な関係として相対したその瞬間、露骨に不機嫌になっていた。二人はある意味対照的であり、領土問題をめぐり感情的にも拗れているのだろう。その対照性は本人たちがより敏感に気づいているようだった。

 

 その仲介人たる武田晴信は、文人の姫との前評判とは違い威風堂々としている。顔は信繁によく似ており、雰囲気こそ違えど姉妹であることを物語っていた。義元は、というより雪斎は武田家への敗戦の責任から、北条家は妹を差し出す本気さを見たためこの場についている。

 

「お初にお目にかかる。あたしが甲斐の国の新たなる守護、武田晴信だ」

 

 余談だが、武田家は今川などと同じで守護大名から戦国大名になった家である。そのため名目上はまだ室町幕府の存在している今は甲斐の国の守護であった。

 

 その姿に氏康は「甲斐に引きこもっていそうな人間には見えない。いかにも戦好きの野蛮人だわ」という感想を抱く。反面義元は「もっと山猿のような姫かと思っていましたが、意外にも雅な一面もありますのね」と真逆の感想を抱いていた。その晴信自身は演技が効きすぎていると少し泣き言を言いたかった。しかし、勘助に『英雄を演じよ、心を読まれるな』と言い聞かされているため泣く泣く我慢している。

 

「それがし、御屋形様にお仕えする軍師、山本勘助晴幸。今川と北条の戦をこの辺りで終わらせるべく、御屋形様は出陣なされました」

 

「どこかで見た顔と思えばそなた、かつて今川家に仕官を願いに来たことが。武田家に召し抱えられていたとは」

 

「は。今川様にはどうにも怪しげであると袖にされましたが、我が御屋形様には拾っていただけました」

 

「信虎殿の追放劇の裏にはそなたの策謀があったか。なるほど、甲斐で何があったか、概ね理解した」

 

 今川家の宰相と武田家の軍師の視線が交わり、見えない火花が飛び交う。牽制をしあう二人に流石という感想を抱く。

 

「ふぉふぉふぉ。流石に二人とも智謀の士。無言で牽制し合っているとはの」

 

 幻庵は実年齢にそぐわない美貌に妖艶な笑みを浮かべる。対照的に兼音は沈黙を保っていた。他の人間の動きを把握し、絶好のタイミングを図っているのである。ただ、タイミングを図っていると言っても他の人はそれぞれに牽制し合っているため、このままではいたずらに時が流れていく。そう考え、兼音は口を開く。

 

「さて、武田殿においては今川家を巻き込み、我ら北条に何かお話があるとか。いったい何用でしょうか」

 

 まったくもって白々しい言い方ではあるが、あくまで北条家としては今のところ勝ち戦である。故にここで戦を切り上げるには家臣団に面目を保つためにも今川側から和睦要請が来た、というポーズが必要だった。まだ大義名分や正当性、誇りや誉、体面の持つ力の多い時代である。例示するならば、下克上にも前君の暴政という簒奪の大義名分が必要であった。北条早雲における堀越公方、三好長慶における細川家である。

 

 ともあれ、これにより場の雰囲気は変化し、緊迫感からは脱した。雪斎から漏れ出る苦々しい空気が代わりに室内を満たし始めたが。

 

「初代早雲公以来、北条家の悲願は関東制圧。対する今川家の望みは街道の西進。にも拘わらず我が父・信虎が今川と結んだことが無用の混乱をもたらした。加えて、北条家が占領した河東を遅々として返還しなかったことにより、西進する上で国府のすぐ近くが他家の領土であることに不安を感じた今川家は開戦に踏み切らざるを得なくなった。その北条家も河越城を囲まれ、その城も落城寸前。お家は滅亡間際であった。まずは両家の志に変化がないことを確かめたい。いかがか」

 

 交渉の前段階の口上を述べる晴信の表情は、口を開く前のどこか柔和さを感じさせる少女勝千代のものから戦国の世に産まれた甲斐の虎・武田晴信のものに変わる。芝居ではあろうが、この野望の炎はただ者ではないな…と雪斎は驚愕し、幻庵もうちの姫にもこれくらいの覇気があれば…と肩を落としている。氏康はそんな幻庵に冷たい目線を送る。最後の一人、兼音は悪く言えば値踏みするような目線、よく言えば真価を見定めるような目線を送っている。

 

 もっともその心の内には晴信の将器を見定める気持ちもあるが、純粋に武田信玄と対面したことへの感動も混ざっていた。本人も忘れかけていたが、彼は生粋の戦国好き。オタクを通り越して研究者の域であった。実際に現代では大学の講義に潜り込んだりしていたほどである。

 

 自身の感動を振り払い、彼は晴信の口上の一節に思うところがあり、口を開く。氏康は取り敢えず様子を見ている。

 

「武田殿、一つ訂正を」

 

 間違っていたところがあっただろうかと眉を顰める晴信を見ながら兼音は続ける。

 

「河越城は落城寸前などではございません。私の城とそれに籠る我が将兵を侮らないでいただきたい。それに、河東を不当に占拠しているというかの如き言い方は止めていただこう。我ら北条はどこかのお家とは違い、民をよく治め、無駄に家中に流血を伴う争いを生じさせたりなどしませんので」 

 

 けんか腰の兼音に氏康はギョッとするが、晴信はそこまで気を悪くはしていなかった。むしろ、妹・信繁の評価する人物がこのようにはっきりと物を言うことにそこそこ好印象を抱いていた。

 

「これは失礼した。決して貴殿の配下を侮っていたわけではないので、どうか気を悪くなさらず」

 

「いえ、こちらも言い過ぎました。失礼いたしました」

 

 逃がしてもらった恩義があるので、晴信は少し兼音に気を使っている。加えて妹の生殺与奪の権を握られている。それを察しているものの、利用しないという選択肢をとるほど、彼は甘くなかった。

 

「私の軍師が失礼しました。さて、答えるならば、私たち北条の野望は不変。関東制覇の為ならば、怨恨を捨てることも考えましょう」

 

 氏康は晴信に対し『武田晴信。流石父親を甲斐から追放しただけのことはある。まるで餓えた虎ね。決して心を許してはならない。しかし、感情より”利”を優先して動ける能力がある。後はこの女の望みを知って、うまく誘導すれば…』と思いながら答えた。この素早い判断は流石知将である。

 

「でしたら…」

 

「ですが、河東とそれとは別問題。我が方の犠牲になった兵の為にもただで退くことは出来かねるわ!」

 

 氏康にもプライドや死んだ者への責任感がある。おいそれと返還要請に応じることは出来なかった。やや強い口調で氏康は晴信の言葉を遮った。ここで無言の雪斎が口を開く。義元はなるべく黙っているように言われているので無言。なお、「北条が河東を占領していて邪魔だから早く返せ」と言いそうになっていたが、今川軍が敗れたことを思い出し、すんでのところで言葉を飲み込んだ。それくらいの芸当は出来るのである。

 

「それにつきましては、こちらより提案がございます。単刀直入に申し上げる。河東と引き換えに不可侵を結びたく存ずる」

 

 雪斎もこれを受け入れてくれるとは毛頭考えていない。それでも吹っ掛けてそこから徐々に妥協点へもっていく腹づもりであった。

 

「提案、提案ですか…ではこちらも単刀直入に申し上げると、もう一度殲滅されたいのですかな。なに、あの程度の事、幾度であろうとも成し遂げて見せましょうぞ」

 

 兼音は半分嘲笑気味に言う。無意味に煽っている訳ではなく、妥協する気はあまりないという意思の表れであった。加えて言えばあくまでもこの状況、この会談は今川が窮地(具体的には東の北条西の三河国衆&織田信秀)にあるため、それを改善するために今川から持ち掛けられたものである。立場を明確にする必要があった。例え北条の継戦能力が乏しく、河越に戦線を作っているとしても、だ。勝者は北条であり、敗者は今川そして敗者寄りの中立が武田である。ここで北条がごねれば危機に陥っていくのは今川なのである。数か月前とは打って変わって、時間が無いのは今川であった。

 

 それを雪斎も察し、言葉を変える。

 

「失礼、お願いでございました」

 

「だ、そうですが。氏康様。どうしますか」

 

「……富士郡の割譲が妥協点ね。不可侵の代わりにそれくらいは譲歩してあげましょう。それ以上は小石一粒、田畑の面積の一欠片であっても応じないわ」

 

「承知しました。寛大なお心遣いに感謝いたします」

 

 この雪斎の発言により、取り敢えず今川と北条の関係は何とかなった。そして雪斎のこの発言に一番密かに感動していたのは幻庵である。北条の黎明期からその屋台骨を支えてきた彼女であるからこそ、今川の家臣のような扱いを受け、屈辱を感じたことも多かった。雪斎の姿勢はもはやかつてのそれではない。北条はここに初めて今川と対等になった。その感動に幻庵は思わず泣きそうになっていた。

 

 雪斎は疲れ切った感情と苦々しい思いが混ざり合い、死んだ魚のような目になっている。

 

「これにて両家の和はなり、我が武田も古き怨恨を捨てて北条を支援する。我が家の悲願は信濃平定。それに邪魔な関東管領は北条と共通の敵である」

 

 関東管領は信濃にも領土を持っている。

 

「我らの利害は見事に一致している。いずれはこの三国が縁戚となり、三国同盟を結ぶべきであると思う」

 

 晴信の言葉に義元が食いつく。

 

「そのような展開になれば背後の憂いは消えますわ!都への上洛も簡単になりますわね、雪斎さん!」

 

「……御意」

 

「で、武田晴信。信濃を獲ったあとはどうするの?関東は北条が、都は今川が。貴女の野望の終わりはどこにあるのかしら」

 

 鋭い!と晴信は思ったが、これは勘助との想定問答集の中に答えがあった。最早丁寧語や張り付けた仮面も剥がれつつあった。

 

「そこからさらに北に進んで越後へ。甲斐は山国。塩と貿易港をどうしても確保したい」

 

 まだ越後の主は長尾晴景である。病弱惰弱な彼は越後をまとめ切れていない。元々越後は団結しない国。各個撃破は容易いと踏んでいた。この時のこの発言が晴信の運命を大きく変えるが、それを知るものはこの地上にただ一人しかいない。その本人はまあ精々義狂いの軍神を引き付けてくれ、うまくいくように一応願っているよ、と傍観している。

 

 北条氏康。怖い女だ。あたしと同じくらいの年頃なのに、氷のような心の持ち主。人の心の奥底を平然と覗き込める恐ろしい女。でもこれで乗り切れた。三国同盟の布石はなった。両家に対等の格を認められた、信濃攻略も軌道に乗った、と晴信がホッと一息つこうとした時、氏康は不意を突いた。

 

「越後?それは甲斐にとって必要なものを奪うというだけの話。貴女自身の野望の終わりではないわ。貴女の本当の夢は何?それを教えて頂戴」

 

 勘助は顔色を変えて氏康の静止をしようとするが、兼音にギロリとにらまれる。氏康の細い目をしっかりと見つめながら晴信は答える。

 

「氏康。あたしは父上の逆を行く。武田晴信が臆病者ではなかったと天下に証明する。父上に認められる、古今無双の名将になり、戦国最強の軍団を造る」

 

「そう…父親の志は継がないのね」

 

「父上に志などなかった。だから諏訪などと同盟したのだ。甲斐統一で父上の役割は終わった。父親に甘やかされたお前にはわからないかもしれないがな」

 

「どうかしらね。それは戦ってみなければ、わからないわ」

 

「最初からあたしと戦う気などないだろう。甲斐のような貧しい国など奪っても、北条には何の利益もないからな」

 

 氏康は酷薄な笑みを浮かべる。兼音と幻庵は主の判断に任せ、場を見守っている。

 

「その通りよ、武田晴信。貴女の秘めた志は確かに聞いたわ。信用はしないけれど、利で結びついている間だけは信頼してあげる」

 

 その言葉に晴信は今度こそ安堵した。勘助は末恐ろしい娘が世の中にはおるものだな…とため息をつく。それを横目に兼音は切り出した。

 

「さあて、我が主は納得したようですが、私から一つ大切なお話が」

 

「はて、何だろうか」

 

「妹君についてでございます。和議が成り、北条と武田の関係も改善した今、お返しいたします」

 

「かたじけない」

 

「ですが……やや信用に欠けるというのが私の所感でありまして。今川は信虎公という質を得ている。ただ、武田北条間にそのようなものはない。これでは些か、ね?」

 

 人質を寄越せ、と言外に要求していた。繰り返すが、武田は見逃してもらった恩があり、敗者の今川方の援軍であったため、立場的には北条より下だった。国力的にもであるが。人質を出すのが武田なのは妥当であった。なお、北条から武田への対価は関東管領への共同戦線。加えて一条兼音の心中では、信繁への指南と信濃攻略のアドバイスもそれに追加しているつもりである。

 

「ですが、当家には質に出せるような者は…。御屋形様の妹君たちはまだ幼少。母の下を離れられませぬ」

 

 勘助の応答に兼音は我が意を得たりという顔になり、口角を上げる。

 

「おや、そうですか?どうやら扱いに困ってらっしゃるご夫婦が甲斐躑躅ヶ崎にはおられるようで」

 

 その言葉に晴信は瞬時に禰々と諏訪頼重の事であると察する。

 

「禰々を送れと言うのか…」

 

「ご夫婦一緒でも構いませんよ。諏訪頼重が何を囁こうと、そんな誘いに乗るより貴殿と組む利の方が遥かに大きい」

 

「……」

 

 晴信は迷っていた。妹との関係は冷え込んでいる。好き同士の婚姻ではなかったが、晴信にはわからない夫婦の情が禰々にはあるようで、夫・諏訪頼重を攻めたことを詰ってくるのである。最近では頼重を殺されるかもしれないと恐れているようであった。いっそ甲斐から隣国に送った方がいいかもしれないと晴信は思った。北条は人質を殺したりしない。こちらが願っても彼らの暗殺を行う汚れ仕事のために引き取ったのではないと言われ、またその誇りから拒否されるだろう、と告げれば行ってくれるのではないか。諏訪家は頼重の妹の四郎に継がせればいいのだから。

 

 晴信の腹の内は固まった。

 

「承知した。直に禰々と諏訪頼重を小田原へ送り届けよう」

 

「ご英断感謝いたす」

 

 氏康は思わぬ土産にやや喜色を浮かべ、兼音は平然と頷く。幻庵は自らの出る幕がないことに時代の流れを感じつつも頼もしさを感じホッとしていた。送り出す晴信と勘助も無用な家中の争いを減らせるとどこか安堵している。

 

「よくわからないですけど、これで円満に治まったようですわね。素晴らしいことですわ。おーっほっほほ!」

 

 黙らせろよという視線が雪斎に降り注ぐが、雪斎はどこ吹く風。理詰めで生きていないから拙僧が止めても無駄、などと考えている。ある意味、こういう相手の方が思考が読みづらく、厄介かもしれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「さて、これで河越に向かえるわね」

 

「ええ。まったくです」

 

「ふぉふぉふぉ。良かったのう」

 

 北条家は帰り支度を始める。兼音は指をパチリと鳴らした。

 

「これに」

 

 どこからともなく段蔵が現れ、兼音の前に跪いた。

 

「一条殿、その者は?」

 

 勘助が問う。

 

「我が配下、加藤段蔵でございます。万が一があれば、我が主だけでもお救いするべく、風魔と共に待機させておりました。使わずに済んだのは僥倖。姫を殺す趣味はありませんでな」

 

「あいや、武田もこの寺の周囲に真田忍群を忍ばせております。それは不可能だったかと」

 

 すると、段蔵は兼音の耳元に何かを囁く。それを聞き、どこか嬉しそうに兼音は続けた。

 

「はて、それはどうですかな。そちらの忍び衆は風魔には気付いていたようですが、段蔵には気付いていなかったようですが。外では風魔と真田忍群が睨み合っていましたが、私は気づかれず素通り出来たと申しておりますが」

 

 それにギョッとした勘助のところに真田忍群の一人がやってきて耳打ちする。それを聞き勘助の顔には苦々しい表情が浮かんだ。

 

「なるほど、これが北条の力ですか…」

 

「そうよ。莫大な、そして精密な情報こそ北条の力よ」

 

 氏康が告げる。それを痛感している雪斎はいよいよもって渋面である。

 

「今川の忍びは真田忍群や風魔とは違い、少し甘い。ただの人間では彼らには勝てないわ。雪斎、上品なあなたらしいけれど注意した方がいいわよ。この世界には人間の常識ではわからない力を持つ者がいる。彼らは歴史の表舞台には出ないけれど、確かにいる。あるいはこの世界の彼方から来る者もいたりしてね」

 

 兼音はビクリとなり、心の中でダラダラ冷や汗を掻いている。この氏康の発言で未来から来たと言っても頭がおかしいとは思われないようだが、それでもリスクが高かった。亡き氏綱の言葉を思い出し、いつかは言うべきだろうが、今では無いと思いなおした。

 

「これは冷めた氏康殿とも思えぬお言葉。この世界の彼方から来るなど、それはもはや神仏の類ではございませんか」

 

 目の前にそれがいるとは知らず、雪斎は告げる。見ようによってはやや滑稽であった。

 

「幼い頃から風魔を見ていれば誰でもそうなるわよ。私は現実にあるものは、それがどれだけ不合理であっても否定しないわ。否定して目を塞ぎ、耳を閉じていても、そこにあるモノが消える訳じゃないもの。これほど世俗に塗れ、血が流れ続ける世界にも、まだ神秘が満ちている。」

 

「拙僧は信仰の場ではともかく、戦場では神秘も異形の力も信じませぬ」

 

 まあ、北条家のおばばは異形というに相応しいが…と雪斎は思ったが口には出さない。

 

「では、氏康様。一足先に失礼します。私もさっさと河越に戻らねば。兵は元忠に預けてきました。信繁殿も一緒です。丁重に送り届けてあげて下さい。それでは御免」

 

「ええ、私も必ず向かいます。それまで何とかあと少し持ちこたえて頂戴」

 

「御意」

 

 そう言うと、兼音は段蔵に「頼む」と言う。段蔵は無言で頷き、彼を抱きかかえた。そこそこ体重のある男性を易々と持ち上げる段蔵もなかなか人外だが、兼音的には大の男が忍びとは言え女の子に抱きかかえられているのが恥ずかしかった。段蔵は氏康と幻庵に一礼し、その場からまるで蜃気楼のように消える。

 

 それを見送り、氏康と幻庵も立ち上がり、礼をしてその場を去る。その後軍団に戻った氏康は直ちに全軍の転進を命じた。雪斎も急いで軍を再編するべく立ち上がる。晴信と勘助も禰々の説得と信濃攻略を続けるため、自軍に戻っていった。なお、すでに送り返されていた信繁がいつになく上機嫌であったため、晴信はやや驚いた。

 

 

 

 

 

 

 

 直に自分達を破った将に出会った朝比奈泰朝と岡部元信は恨みよりも悔しさを感じていた。寺の警護のため駆り出されていた彼女たちは寺へ来た氏康と兼音そして幻庵に名を名乗り案内した。情報戦に優れた北条家が破った敵将の名を知らないわけがない。そのため、嘲笑や侮辱も覚悟していた彼女たちだが、三人とも、特に自分達が彼女達を破った相手として意識している兼音は何一つ感情を見せることなくスルーした。それがまるでお前たちなど歯牙にかけていないと言われているようで無性に悔しかった。いつか名を轟かせ、眼中に入るようにしてやると彼女たちは奮起した。

 

 その奮起は直後の三河征伐でいかんなく発揮されることとなる。

 

 

 

 

 一方で、北条軍は意気軒高。領土を一部割譲こそしたが、旧主今川家に頭を下げさせたことでその留飲は下がっていた。氏康は「雪斎はこちらに頭を深々と下げ、和を乞い寛大な処置を願った」とあえて誇張して告げ、将兵の士気を上げた。勢いそのまま、北条軍は怒涛の進撃を開始。河越城に神速の行軍を始めた。いわば河越大返しである。

 

 そして、それより早く、今川の敗戦をまったくもって知らない管領方の陣を突破し一条兼音が河越城に帰還する。そして真の伝説は始まろうとしていた。



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第30話 関宿城攻防戦

ちょっと長くなり過ぎました。一万文字越えたのは初めてです。すみません。筆が乗り過ぎました。


 北条軍九千が二倍の数を誇る今川・武田連合軍に歴史上稀に見る反転強襲をしかけ、大敗させたのとほぼ時を同じくして、遥か東、下総の北側に位置する江戸川と利根川の分岐点である関宿では、古河公方足利晴氏率いる二万五千と里見義堯・真里谷信隆・千葉利胤の三家連合軍一万二千がにらみ合っていた。

 

 真里谷信隆。現代でその名を知る人間は一部の戦国超ガチ勢ぐらいなものであろう。そんなマイナーと言っても問題ない男は、これでも一応名家真里谷(別名、上総武田家)の産まれである。先ごろ国府台で一条兼音の手で討たれた真里谷信応は彼の実弟である。ただ、家督を争うようになってから、兄弟の情など捨てていたが。彼は弟に上総の地を追われることとなる。その背後には都合のいい部下を欲した故・足利義明の存在があった。

 

 頑強に義明並びに信応に抵抗していたが、結局は敗れ、峰上城を明け渡し足利義明に降伏した。その後、造海城に籠城したが歌を百首詠むことを条件に開城する。そして、支援していた北条家の下に逃れた。そのまま燻ったまま生涯を終えるかと思っていたが、恩人の北条家の家臣、一条兼音がにっくき実弟をこの世から追放してくれたおかげで、真里谷家の当主に返り咲けた。

 

 願望は果たせたが、その後復讐が終わったらやるべき事が無くなって燃え尽きた人の典型例を発動して真っ白になっていた。が、今回の戦においては義理を通すべく参戦している。加えて言えば、自分を追放した足利義明と同じ足利家の古河公方に嫌悪感を抱いていたというのもあるが。ともあれそこそこやる気はある。今回の指揮をする里見義堯にも特に含む所はない。彼の野望は知っているが、最近は真里谷の家名を保てれば何でもいいと思っており、最悪は上総を離れ、北条家の臣下となるのも悪くないと考えている。

 

 

 

 

 千葉利胤。現在の千葉市にある亥鼻をかつては治めていたが、今はその支配権すら失いつつあり、佐倉城を本拠地にしている。病弱な少女であり、名門千葉家の名跡は重過ぎると言えた。彼女なりに責務を果たそうと考えており、その一環で北条家に近づいた。至上命題は黄昏の名家、千葉家の延命。名前を残せるならと、最近は病弱な自分に代わり北条の血を引き入れる事を計画していた。

 

 千葉家はかつて平安末期に源頼朝に仕えた御家人、千葉常胤の子孫である。常胤は初期の頼朝と合力し、その政権を支えた。なお、元々は平家の一族である。多くの一族を持つ古い名族だ。

 

 弟の臼井胤寿と争ったり、発言権を原胤清らの重臣に奪われつつあった。重臣たちの中で、北条に付くことを主張したものと関東管領に付くことを主張したものとで争っていたが、利胤の強い主張によって千葉家の命運を賭けて北条側で参戦した。北上している里見義堯に危機感を抱いてはいるが、勝てなかった場合、待つのは滅亡のみであることを理解している彼女は経験豊富な里見義堯の指示に従うことにしている。

 

 

 

 

 

 

 対するは関東の旧主、足利晴氏。それに従う結城晴朝、梁田晴助。そして籠城するのは梁田晴助の息子持助である。

 

 梁田氏は平家の血を引く名家である。鎌倉公方、そして古河公方の家臣として仕えている。筆頭家老として古河公方を支える彼らにとって北条家は倒すべき敵だった。今回の戦にも主、足利晴氏の望みがあったため参戦している。勝ち戦だと思って当主は息子持助に僅かな兵を預けて河越へ出兵していたが、戻る羽目になりやや苛立っている。自分の居城と息子を囲まれていればそれもやむを得ないだろう。

 

 一方の結城氏も名家の出である。藤原家の出であるが、頼朝のご落胤説も存在している。関東八屋形に数えられる名門であった。かつて結城氏は結城合戦を行い幕府などと対立。一時は滅亡した。その後何とか復活を果たしたが、家臣の相次ぐ分離独立で衰亡の一途をたどる。分国法の「結城氏新法度」はそれなりに有名だ。古くから古河公方を支持しており、今回の戦にも古河公方の命で参戦している。

 

 結城氏は普段佐竹や宇都宮、小田などと争い合っている。しかし、今回は同じ軍門に集い反北条で結集している。北条家に特にこれといった恨みはないが、大勢を読み、また古いつながりから兵を率いていた。

 

 

 

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 両軍は睨み合っている。関宿城がもうすぐ陥落寸前というところで古河公方がやってきたため、現在は攻城戦を中止している。

 

陣中で里見義堯は舌打ちをする。

 

「ちっ、無駄に足の速い奴め。あと少しで関宿城は落ちたものを」

 

「まぁまぁ、そうカッカなさらず」

 

「あの小娘もまだ駿河から戻らぬのか…。いい加減にせぬと河越も落ちるぞ」

 

「その時が殿と我らの命日ですな」

 

「滅多な事を言うな!縁起でもない」

 

「先に始めたのはそちらでしょうに」

 

やり取りをするのは安西実元。彼のほかには正木時茂率いる正木一族、多賀高明、加藤信景、土岐為頼、秋元義久、酒井敏房、岡本氏元率いる岡本一族、市川玄東斎ら里見家が誇る将たち。義堯の息子義弘は現在幽閉されている、という事になっている。義堯も滅亡を回避するための保険はしっかりと用意しておいた。事実は反北条派の義弘を義堯が強引に幽閉したということにして、いざというときは義堯が切腹し、家の命脈を保つつもりであった。

 

「しかし、動きが無いのもまずいでしょう。幸い敵は寡兵を侮り陣中の風紀は乱れておるようです。この機を逃しては、勝利は厳しいやもしれませぬぞ」 

 

「陣中の様子は回ってきておる。風魔が手をまわしてかき乱しているらしい」

 

 義堯の言葉に複雑な顔の諸将。普段は最重要警戒対象の風魔が味方であることに対する色々な感情が混ざっていた。ともあれ、味方になると役に立つもので、古河公方側の陣中の様子は筒抜けであった。遊女や白拍子などの陣中風俗に携わる女性に扮した風魔も多数潜入している。これは、河越城を囲む軍勢も同じだが。

 

 そこへ一つの報せが敵陣に侵入していた風魔によって舞い込む。

 

「申し上げます。敵軍、夜襲を立案中にてございます。今晩に実行すると」

 

「なんだと!それは真か」

 

「は。我が手の者が陣中より盗み出した情報にございます」

 

「よし分かった。ご苦労、下がってよいぞ」

 

「は!」

 

 義堯からすれば実に僥倖なことであった。埒が明かないことにしびれを切らしたのであろう。一気に状況打開を図るため、夜襲を計画したのだな、と彼は考えた。そして、その情報が伝わったことで、敵軍の優位性は一気に崩れた。今晩ならば、まだ時間はある。義堯は顎髭を撫でながら、どう料理するか思案し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 場面は変わって、その古河公方の陣中である。風紀は乱れているというだけのことはあり、酒の匂いと嬌声が響いていた。流石に、総大将足利晴氏などは油断せずにいたが、一般の雑兵たちはそうもいかない。彼らは別に闘志に燃えている訳でもなんでもなかった。早く故郷に帰りたくなっている。溜まった不満は酒と女で解消するしか手はなかったのだ。おそらく禁止すれば暴動が起きる。

 

 元の、上杉や古河公方の治世には戻りたくないと心の底から思っている兵で構成され、救国の意思が固い北条軍の兵士とはそこが違った。必死さが段違いなのである。早雲より続く北条家の善政の成果が確実に出ていた。

 

 このままではどうしようもない。ここで釘付けになり、その間に河越が落ちれば、上杉が幅を利かせるようになるのは明白であった。そうなっては関東での権勢は取り戻せない。加えて言えば、北条家を皆殺しにする勢いなのは関東管領だけであり、扇谷上杉はそこまで憎悪に燃えている訳ではなく、足利晴氏もそうであった。今更相模伊豆が戻ってきても統治が難しいだけであろうことは想像がついている。彼の脳内では、武蔵を扇谷上杉、相模伊豆を北条家、安房を里見家、上総・上野を上杉憲政、下総と常陸は自分という何となくの国分けがあった。勿論小領主が多数いるため、実際はこの通りにはならないかもしれないが。

 

 彼自身は悪人でもなく、北条家に凄まじい敵意も無かった。事実、北条家の娘である妻も離縁してはいなかった。彼女は夫が自らの一族に敵すると決めた時、ショックを受けたが、離縁しろとは言わなかった。彼自身もする気はなかった。政略結婚だが、謎の名門意識を働かせ偉そうにしている梁田家の出である正妻より愛していた。自らを侮る正妻より、優しく気立てのよく、氏康の血縁であることが良くわかる美人顔の妻の方が好きだった。珍しいことである。まぁ、こんなこと口が裂けても言えないが。ともかく、彼自身は北条に壮大な恨みつらみはなかった。むしろ、敗軍の北条に講和の斡旋くらいはする気だった。なお、自分が負けるという発想はないが。

 

 長期間の出陣は彼の心に疲れを生み出していた。最初あった情熱もだんだん失われていた。関東が北条のものになったら鎌倉に行きたいと要請すればいいのではないか、と今更気付いた。それに気付くと、途端にやる気が失せていく。ただ彼も二万五千の総大将。投げ出して帰るわけにはいかない。せめて、鮮やかに勝たねばならなかった。

 

 長時間の滞陣は、雑兵たちにもあまりよろしくない。凡庸な彼でもそこはよくわかっていた。そのため、陣に旗下の将を集め、策を練ることとした。そして辿り着いた結論が夜襲である。長期の陣張りに倦んでいるのは向こうも同じはずだった。大規模な勝利を掴めば、停滞した流れを覆せる。足利軍の将たちは、そう考えていた。残念ながら、彼らはそこまで防諜に意識が向いていなかったため、それが筒抜けであるとは夢にも思っていないが。

 

 かくして足利軍は、全軍でもって奇襲を計画したのである。この作戦は関宿城にも伝えられ、彼らも夜襲が始まれば、城を開けて打って出ることとなった。こうして粛々と両軍の準備は整えられていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時刻は真夜中。普段ならば草木も眠る時間ではあるが、水音を抑えつつ行軍する集団がある。結城軍三千五百と足利軍二万が一斉に渡河を開始した。この季節は水も少ない。渡河は簡単だった。梁田軍は、城の援軍として別行動である。

 

 対岸の里見軍らまであとほんの少し。そう先頭集団が思った矢先のことであった。里見軍、そして千葉軍の陣からかなりの数の松明が一斉に灯される。その光量は現代の電気の明かりよりは格段に落ちるものの、月も細く空も曇っていて星のない夜中に夜目を慣らしていた足利軍にはかなりのダメージだった。瞳孔の開いていた彼らにはその炎の明かりであっても目がくらんだ。

 

 そこへ一斉に矢が放たれる。ここに至って足利軍の指揮官たちは夜襲の失敗を悟った。

 

 

 

 

 

 

 時はやや戻り、里見義堯のもとに敵が夜襲を計画している旨の情報が入った少し後になる。千葉利胤や真里谷信隆も集められ、今後の方針が話し合われていた。

 

「先ごろ報せがあった。公方は夜襲を計画している。今夜だ。各々方、ここが正念場と心得られよ」

 

 義堯の言葉に利胤と信隆が頷く。ここで敗れればどちらとも命運は尽きるのだ。顔も真剣そのものである。

 

「敵が夜襲をするつもりなら、こちらは当然それに乗ずる。夜になるのを待ち、川岸へ移動する。奴らが攻めて来たらば、火を灯せ。多く、出来るだけ多くだ。奴らの目をつぶす。そうしたらば、弓を射かけ、混乱したところを叩く。これを千葉軍と里見軍でやる」

 

「我ら真里谷はいかがしましょう」

 

「城にこの情報が届いていないとは考えにくい。大方こちらがやられているのを見て混乱したそちらを城を開け放ち城兵で奇襲するつもりであろう。貴殿らは城門の前に張り付き、城兵がまんまと門を開けた時に一気呵成に攻め上られよ。さすれば城は瞬く間に落ちるであろう」

 

「承知いたした」

 

 城兵は七百、真里谷軍は二千。数は元よりこちら側にあった。真里谷軍は他の二家の部隊とは異なり、橋を渡った城側に陣を張っている。

 

「敵は城兵以外は全軍でこちらへ来るでしょうか。城兵と真里谷殿の隊の兵数差があるのは向こうも承知のはず。まったく救援を寄越さないとは考えにくくはありませんか」

 

 利胤が口を開く。この姫は病弱であったが暗愚ではない。長い黒髪を結うことなく垂らしながら、目の下に長期の滞陣による疲れから生じたであろう色濃い隈を残す彼女の姿に義堯はやや同情した。

 

「千葉殿の申されることもっとも。その可能性は大いにあり得る。然らば……真里谷殿」

 

「はい」

 

「電撃的に城を落とすことは可能か?一度城を落としてから迎え撃っていただきたいのだが」

 

「善処致しましょう」

 

「お頼み申す」

 

 信隆は無言で頷く。確かな勝算が義堯に生まれていた。もしうまく行けば、かなりの戦果を挙げられるだろう。遥か川の対岸に見える足利家の陣を眺めながら、義堯はほくそ笑んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 かくして里見・千葉軍は一万をもって全力で攻勢を開始する。射かけられる弓に大軍であること、川の中であることが理由で身動きがとれない。次々と射抜かれていった。前方の部隊の有り様を見て、後方部隊は慌てて撤退を始める。しかし規律が乱れ、士気も落ちていた所に無理やり始めた夜襲でこうなっていては兵の統率が執れる訳がない。なりふり構わず逃亡する兵を叱咤する将たち。しかし残念ながらその声は恐慌状態の彼らの耳には届かない。

 

 大混乱の様子を見た義堯は、利胤に僅かな手勢を預け後衛を任せ先陣切って突撃を敢行する。足利軍の前衛はまともに戦闘も出来ず次々討ち取られていく。

 

「進め!進め!見よあの敗走する足利の弱兵を!もはや我らに敵う訳もなし。全軍進めぇぇ!」

 

「「「「応!!!」」」」 

 

 川は虐殺の場と化していた。その様はある意味興国寺城の戦いにおける今川軍よりもひどかった。首は捨て置かれ、遺体は川を流れていく。最前線では正木時茂が無双の槍を振るう。穂先が敵兵に触れた瞬間に敵兵は物言わぬ死体となって血煙を川にまき散らす。安西実元らの里見家臣もその剣を、槍を、戦斧を振りまわす。千葉家の家臣団とて負けてはいない。

 

 下総一の名門、千葉家の将が里見に後れをとるなど彼らのプライドが許さない。原胤清、原胤貞、高城胤辰、相馬治胤、豊島明重など里見家臣団にも負けない将たちがいる。千葉軍は里見家よりも兵数が少ないながらも奮戦する。彼らはかつて病弱な姫を侮って反乱が勃発した時にも利胤に従い続けてきた忠臣である。普段は意見の違いなどから対立しており、主・利胤の発言権も奪いつつあったが、それでも主への忠誠心は残している。たとえ自分と意見は違っていても、主が古河公方や関東管領との決別を決意したのなら、それに従うだけであった。

 

 古い名門、旧権力の代表として北条家に認識されている古河公方、関東管領であるが、彼らは所詮室町幕府の支配体制になってからの権力者である。対する千葉家は鎌倉時代、もっと言えば平安時代の武士団からの権力者である。その血の系譜は圧倒的である。本来ならば北条には敵対するのが普通であった。だがそれでも利胤は新たな力・北条家に未来を見出した。最初は反対していた家臣たちも、それを感じ同じ力に希望を見出すことにした。

 

 競争心から里見軍は益々奮起する。足利軍の戦線は完全に崩壊した。まさしく潰走という他はなかった。 

 

 

 

 

 

 

 関宿城では里見軍と足利軍の戦闘が始まる少し前に城門を開け放つ。まさか敵が万全の態勢で待ち構えているとは夢にも思わない。

 

「かかれぇ!」

 

 城将、梁田持助自らが指揮を執る。城門から一気呵成に出陣した梁田軍は一路真里谷家の陣を目指す。奇しくも里見軍とほぼ同じタイミングで真里谷家の陣に一斉に灯火が灯る。

 

「なんだと…!まずい、退け、退け!」

 

 一瞬にして梁田持助は状況を悟るが、軍は急には止まれない。先頭が止まろうとするも後ろから突き上げが来る。ゴタゴタしている状況など襲ってくれと言っているようなもの。元より数は真里谷軍の方が上。信隆はここまでは想定通り、と全軍に前進を命ずる。敵兵を殲滅しつつ、中央を突破。がら空きの城門を何者にも妨げられることなく抜け、城内に侵入する。かつては頑強に抵抗していた関宿城の郭群も誰も守兵がいなくては意味をなさない。瞬く間に占拠されていった。同時進行で城外に出ていた城の軍は次々と屍を晒す。間もなくして信隆の下に城将・梁田持助の首が届けられた。

 

 ホッと一息つこうとした信隆であったが、ここで義堯の言葉を思い出す。

 

「そうだ、里見殿よりの伝言である。関宿城には救援部隊が来るはずだ、と。警戒せよ」

 

 これにより、急遽真里谷軍は警戒態勢に入る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方、足利軍別働部隊として関宿城に向かっていた梁田晴助は燃え上がる火や煙を自らの居城に見た。これにより、少なくとも関宿城においての作戦は失敗したことを知る。しかし、ここで引き下がるわけにはいかなかった。そこで彼は、関宿城を攻略している敵軍(真里谷家の部隊)はおそらく攻略に夢中になっているはずだ、と考える。敵軍が夢中になっている間に、息子を見殺しにしてでも勝ちを得ることを優先することにした。その策とは単純で、関宿城の後方を素通りし、利根川を渡河し敵陣を急襲する作戦である。

 

 なお、梁田晴助は主・足利晴氏の軍と同僚の結城晴朝の軍が里見義堯によって敗走させられていることを知らない。関宿城は放棄して、連携して挟撃することにしたのである。そこで晴助はおそらく命は無いであろう息子のことを思い流れる涙を拭い去る。そして、彼が目指している地点には現在少数しか兵のいない利胤隊がいるのである。

 

 

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 一方、警戒し続けている信隆はおかしいと感じていた。いつまでたっても襲撃がないからである。

 

「殿、本当に襲撃はあるのでしょうか」

 

「ううむ……」

 

「もし襲撃が無いのでありましたら、里見殿の援助に向かうべきではありませぬか」

 

 その家臣の発言に対して信隆は考え込む。別働隊がいるのなら、既に関宿城の状態は把握しているのであろう。そのうえでなお来ないのはこちらの出方を窺っているからであろうか。だがそうする必要が敵にあるのだろうか。別働隊であるならそこまでの大軍ではないはずだ。少なくとも本隊より少ないはずである。敵の数は二万五千。たとえ四分の一であっても、こちらより多い。敵もこちらのある程度の数は把握しているであろうから、数の多寡は分かっているだろう。では、敵が来ない理由は何か。

 

 そこで、信隆はふと気付く。現在最も手薄な部隊は誰の部隊か。里見軍?最も兵数の多い部隊だ。千葉軍も合わさり一万はいる。自軍は兵数は多少減っていても二千弱。残る最後の部隊、千葉利胤の後衛部隊は……僅か二百。

 

「まずいぞ!もし敵がこの城を迂回していたら!」

 

「危ないのは千葉殿ですか!」

 

「それがまことなら、直ちに救援に向かわねば!」

 

「万が一のため、五百を残す。残る全軍で千葉殿の保護に向かう。直ちに反転。橋を渡れ!」

 

「「「「「応!」」」」」

 

 急遽真里谷軍は数百を城に残し、橋を渡り始めた。

 

 

 

 

 

 

 果たしてその予想は的中していた。梁田晴助の部隊は関宿城の真里谷軍に作戦通り気付かれないまま利根川を渡り、そこで利胤の二百の部隊を発見する。僅かしかいない利胤隊は、格好の獲物であった。梁田晴助は全軍に突撃を命じる。

 

 後衛部隊として気を張ってはいたため、利胤は襲撃にはすぐに対応できたものの多勢に無勢。次々利胤の護衛は討ち取られていく。息子の復讐に燃える梁田晴助は、攻撃の手を止めない。最後の一兵まで殲滅するつもりであった。

 

「姫様、もはや防ぎきれません。お逃げください、ここは我らが時間を稼ぎます。里見殿に合流すればお命を長らえられましょう!」

 

「そうです。我らにも限界があります。我らは千葉家の家臣。ここで果てるとも姫様のために死ぬならば本望!我が先祖や子々孫々も誉れとするでしょうぞ!」

 

 村上綱清、大須賀政常らの近衛の武将が次々と叫ぶ。利胤は、それに答えず、小姓に持たせていた刀を受け取り、抜き放つ。

 

「ここで逃げては関東の武門の名門、千葉家当主としての名折れ。里見殿なら勝利を掴めましょう。私一人の力など大したものではありませんが、せめてもの時間稼ぎを致します。退くわけには参りません」

 

 利胤は傍らにいた馬にまたがり、剣を構える。

 

「ごめんなさい。私が北条に付くなどと言わなければ…」

 

「姫様!」

 

 利胤の呟こうとした懺悔は宿老の一人、井田胤徳によって遮られる。

 

「我らは名誉と誇りの為に死ぬのです。そこに悔いはござらん!姫様は懺悔などなさらず、私の為に死ねとでも仰せになればよろしい!我らにとってすれば、それこそが一番の名誉なれば!」

 

「…そうね。それでは、行きましょう」

 

「「「いずこまででもお供仕ります」」」

 

 利胤の本陣にも敵兵が入りだす。病弱なその身を叱咤して、刀を振るう。その表情は、思わず梁田軍の兵がたじろぐ程悲壮であり、また鬼気迫る顔であった。共に戦う将兵も歴戦の強者揃い。それでもジリジリと押されていく。時間稼ぎの限界を悟った利胤は義堯と信隆に希望を託した。北条は自らの為に当主が戦死した千葉家を決して粗略には扱わないだろうという確信があった。

 

「関東八屋形、千葉家当主、千葉中務大輔利胤はここにいる!私の首が欲しければ取りに来なさい!」

 

 その言葉に多くの兵が群がり始める。彼女が死を覚悟したその時であった。

 

 

 

 

 

「千葉殿を死なせるな!全軍突撃!」 

 

 信隆の号令に雄たけびを上げながら、真里谷軍が突撃を始める。少数の兵に群がっていた梁田家の兵士は突然襲い掛かられ、大混乱に陥る。

 

「助かった…、の?」

 

「千葉殿、ご無事ですか!救援が遅くなって申し訳ない」

 

「い、いえ、助かりました」

 

 慣れない行動に疲弊している利胤は咳き込みながら、よろめく。それを馬に乗りながら駆けよった信隆が支える。

 

「申し訳ありません、お手数おかけしました」

 

「お気になさらず」

 

 両軍の当主が邂逅している間に、千葉軍に襲い掛かり、殲滅できる、勝てると確信していた梁田隊の兵たちは統率は崩れていく。千葉家の近衛も負けずに最後の力を振り絞り反撃する。真里谷隊によって崩れた戦列は立て直せず、梁田隊は壊滅する。梁田晴助はついに敗れたこと、息子の仇を討てなかったことに呆然としているところを周囲を真里谷兵に囲まれ、引きずり下ろされ捕らえられる。殺されなかったのは信隆の命令であった。今後交渉する際に使える材料が欲しかったのである。繰り返すが、まだ彼らは義堯の勝利を知らない。その上で交渉材料が必要だと判断している。

 

 かろうじて利胤の救援に間に合ったため、梁田晴助率いる別働隊が壊滅したことにより房総連合軍の勝利が確定した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 足利晴氏は愕然として、激しく後悔していた。敗戦。その文字が脳内に染みつく。なぜこうなった。即戦闘せず兵の士気を下げたこと、夜戦などという手段に頼ったこと、慢心、油断、情報の洩れ…。あの万全の備えは完全にこちらの情報が漏れていたしか思えなかった。これが風魔か。知っていたが、その力を侮っていた。それとも、自らの野望の為に、愛する妻の実家を攻めると決めたその時からか。野望に呑まれ裏切りを決めた罰か…。

 

 だが、晴氏はここで死ぬ訳にはいかなかった。馬に乗り、全軍に撤退命令を出したのち一心不乱に近習と共に古河城へ駆け始める。背後で死んでいく兵たちの断末魔を聞きながら、彼は馬を走らせ続ける。里見軍も深追いを禁じており、追撃してこなかった。自分たちの見た目が完全に落ち武者であることを自覚している晴氏は早く帰る必要があった。さもなくば落ち武者狩りにあう可能性がある。

 

 帰りたい。帰らなくては、帰らねばならない。古河公方としての地位も、その面目も、最初抱いていた野望も最早どうでもよかった。ただ、自らの城に帰り、彼女に会いたかった。自分の実家を攻めると聞いた時も、自分の武運を祈り、無理して浮かべた笑顔で待っていると言ってくれたその姿をもう一度見たかった。古河公方としては、間違いなく間違った想い。だが、それを自覚しつつも、彼はその想いを消せなかった。無事に帰れたら、北条に許しを乞おう。誇りも捨てて良い。あんな罵倒しかしてこない正妻はとっとと離縁してやる。北条に筋を通すためなら正当性があるだろう。たとえ古河城を追われても、二人でいられたら良かった。

 

 駆け続けた末に、何とか古河城にたどり着いた時、先に逃亡した家臣に敗戦の情報を聞き、顔を青くしながら城の家臣に止められるのも聞かずに待ち続けた彼女の顔を見た時、緊張の糸が切れた晴氏は馬から落ちる。泣きながら駆け寄り、着物が汚れるのも気にしない彼女に抱き締められた時、晴氏は疲労により意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かくして関宿城の戦いは帰結した。結城晴朝は降伏。梁田晴助は捕らえられ、足利晴氏は逃亡。関宿城の守将、梁田持助は死亡し、足利軍の将も多くが死傷した。二万五千の軍は四散した。対する里見・千葉・真里谷連合軍は要地、関宿城を落とし、夜襲をはねのけ大勝。足利軍死者行方不明者五千三百。里見軍死者行方不明者千二百。西の興国寺城で北条軍が大勝するのと時を同じくして、東の関宿城で里見連合軍が大勝する。関東管領の趨勢は着実に敗北に傾きつつあった。

 

 だが、河越城包囲部隊はこの事実を知らない。北条家の情報封鎖は完璧であった。

 

 古河公方、足利晴氏は、降伏の準備を始める。里見軍は兵をまとめ、更なる北上を始め、南常陸を荒らし始める。

 

 

 

 河越夜戦まで、あと十日。




次回、河越夜戦です。長かった。前半の山場です。これを迎えられたのも、皆さまの応援のおかげです。感想や評価に力を貰ってます。これからもよろしくお願いします。


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第31話 河越夜戦・序

今回からいよいよこの章のラストパートです。


 時はさかのぼり、約半年前。河越城の主、一条兼音が小田原へ出立して数日後の事であった。河越城の城代、北条綱成は同僚であり、兼音の副将であり、自らの従姉である花倉兼成と共に政務に励んでいた。内政は兼成が一手に引き受けており、軍務は綱成が担っている。有事の際の統帥権は綱成が有している。故に城代なのである。

 

 ただ、軍団を組織する際はそれが変わってくる。例えば、河越城の兵力を率いてどこかへ出征する軍団を組織した場合、ナンバーワンはあくまで兼音であるが、兼音が指揮を出来ない状況になった際は兼成が指揮を執る。

 

 現在、主は今川との対決の為、小田原へ出ている。くれぐれも留守を頼むと言われた以上、全力で励むつもりであった。そこへ、慌てた様子の兵が飛び込んでくる。

 

「も、申し上げます!」

 

 息が上がりきった状態で叫ぶ兵の様子に二人はただならぬものを感じる。

 

「何事です!」

 

 綱成が問いかける。兼成は水を持ってくるよう女中に指示していた。耳はしっかり聞いている。

 

「あ、あ、赤い、赤い狼煙が上がりましてございます!!」

 

 その報告に、二人の目線は一気にキツくなる。それもそのはず、彼女たちの主、一条兼音が残した伝言によれば赤い狼煙が上がった時は味方の小領主が緊急事態を知らせたという事である。

 

「段蔵さん!段蔵さぁん!」

 

 兼成は段蔵を呼ぶ。二人は新しい仲間を割と歓迎していた。主が実力を認め、わざわざヘッドハンティングしにいったという事は、それに見合う実力なのだろうと判断している。戦国期の武家には忍びを下賤の者として差別するところもあるが、北条家においてはそのようなことはあり得なかった。何しろ、風魔忍びたちは北条家黎明期から共に戦ってきたのである。その情報収集能力や暗殺術など数々の能力に助けられてきた北条家の面々に、忍びを差別するという思考が生まれようもなかった。

 

「これに」

 

「非常事態が起こったようですわ。配下と共に事態の詳細を調べてきてくださいませ」

 

「承知」

 

 補足すれば、段蔵は兼音の直臣であるがそれは兼成も同じことであり、仕えてきた期間の長さや今の立場、家格などから兼成の方が立場は上である。綱成は氏康の家臣であり、兼音の下へ出向している形なので、本来の序列的には綱成がこのメンバーの中で一番偉いのだが、特に気にしていない。

 

 段蔵が去った後、二人は万が一に備えての対策を始める。

 

「籠城態勢に移行します。周りの土豪たちにも声をかけ、四千は籠れましょう」

 

「その数なら兵糧は一年ほどならば持つと思われますわ。城下にも触れを出さなくてはね。兎にも角にも…」

 

 急がなくては。言葉にしないが二人は頷き合い、それぞれ歩き出した。

 

 

 

 

 その少し後、段蔵が帰還する。城には徐々に兵が集まりつつあった。数時間後には配置に付けるだろう。城下の民の収納も終わりつつある。民を収容すると籠城できる期間は大きく減り、半年ほどになってしまう。だが、見捨てるという選択肢はなかった。自らの思想に反する上に、主に激怒されるのは目に見えていることである。この城に籠れない農民たちは、避難を命じてある。返した兵糧は元隠し田に隠せと指令を出した。現在・北条家はこの元隠し田の存在を知っているが、旧領主・扇谷上杉は知らないからである。

 

「調べ終わりました」

 

「どうでしたか」

 

 綱成の問いに答えんとする段蔵の顔色はよろしくない。

 

「状況は最悪に近いかと。関東管領・上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方・足利晴氏、その他結城、小田、土岐、相馬、江戸、大掾、鹿島、佐野、小山、宇都宮、壬生、那須など関東中の諸将が、八万の軍勢となりこの城を目指し進軍中でございます。明日にも、この城は囲まれるかと」

 

「八万…まさか、そんなに…」

 

「これはまずいですわね」

 

 二人の顔はもはや真っ青である。他の城の将たちも顔色は良くない。

 

「どうしますの」

 

「どうとは?」

 

「籠城か、降伏か」

 

 真剣な問いだが、その目の奥に見える兼成の真意を見て取った綱成は口角を上げる。

 

「後者はあり得ません。それは同じ思いでしょう。意地悪な仰せですね」

 

 それを聞き、兼成の顔にも微笑みが浮かんだ。

 

「ごめんなさい。けれど、聞かなくてはと思ったのですわ」

 

 そこへ報告が入る。

 

「申し上げます。城兵の収容完了いたしました。今は馬場に集まっております」

 

 その報を聞き、綱成は立ち上がった。

 

 

 

 

 綱成の眼前には約四千の兵が集まっている。

 

「皆!聞きなさい。これより我らは城に籠る!逃げたいものは逃げよ。けれど、武士として、北条の民として生きるというのなら、兼音様のお戻りまでいかなる艱難辛苦が待ち構えていようとも決して屈さず戦いなさい!」

 

 彼女の号令に一拍あけ、凄まじい雄叫びが響く。誰一人として、逃げ出すものなどいなかった。彼らのほとんどは在地の兵である。かつては扇谷上杉の兵であった。しかしながら、彼らの心には旧主扇谷上杉ではなく、新たな主たる北条の善政が根付いていた。河越城に一条兼音が入ってよりまだ一年も経っていない。にも拘らず、民の心は既に北条と共にあった。

 

 この兵たちの反応を見た兼成は静かに段蔵に告げる。

 

「ただちにこの状況を小田原へ。そして、兼音様に伝えて下さいまし。籠城兵は四千。兵糧は持って半年。けれどわたくしも、綱成も、決して降伏は致しません。お戻りになるまで、一年でも、十年でも籠ってみせます、と。良いですわね」

 

「はい…必ず!」

 

 兼成の悲壮な覚悟を感じ取り、段蔵は言葉に詰まりそうになりながらも頷いた。兼成の脳裏には、過去の記憶が蘇る。燃え盛る城、死んでいく兵たち。亡骸となった祖父。そして、自らの身代わりになった幼き頃からの侍女。片時たりとも忘れたことはなかった。今でも鮮明に思い出せる。御達者でという言葉、優しくも哀しい笑顔。そうだ、自分はこんなところで死んではいけない。あの子の分も、生きて、生きて生き続けなくてはいけない。

 

 そして、あの城から救い出してくれた彼の姿も、その後抱えられながら朝日の中馬で駆けた記憶も。きっとまた、わたくしを助けて下さりますよね。信じております。あの日から、ずっとずっと。

 

彼女は遠く、小田原の方角を見つめ祈った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 駿河での三雄会談が終わった後、段蔵に抱えられ河越城に急行していたはずだ。なのだが…

 

「お、おい、大丈夫なのか。この道なき道をさっきからずっと進んでるが」

 

「問題ありません。あまりお話にならない方がよろしいかと存じます。舌を噛みますよ」

 

「は、はい」

 

 速い。滅茶苦茶速い。風を切って進んでいる。これ大丈夫なんだろうなあ。ここはどこだかよくわからない。時々休憩しながら三日ほど走りっぱなしだ。

 

「ここはどこだ」

 

「武蔵の国の南部です。今晩中には戻れるかと」

 

「そうか」

 

 本当に舌を噛みそうなので黙る。風魔と言い、段蔵と言い、物理法則をガン無視してる。助かっているのだから良いのだが。

 

 

 体感で数時間経っただろうか。日も暮れた。しばらく平野を駆けていたが、今は小高い丘の上だ。

 

「主様。間もなくでございます。領内には既に入りました。あそこに見えます光がおそらくは敵軍かと」

 

 目をこらせば遠くにチロチロと光の粒が見える。それもかなりの数が。古河公方は撤退したそうだが、それでも五万五千はいる。

 

「あと少しだ。頼む」

 

「はい。お任せを」

 

 再び抱きかかえられ運ばれる。やっぱりこの態勢はどうかと思う。普通は逆ではないだろうか。通称お姫様抱っこで運ばれる城主。うん、情けないな。

 

 敵軍は陣を街道上には敷いていないようで、警備兵もいないがら空きの街道を走る。割とあっさり突破できた。数か月ぶりの自分の城に、懐かしくなる。城門の前で降ろされる。

 

「段蔵。ここまで助かった。ありがとう」

 

「当然のことを致したまで。さ、早くお戻りを。皆さまお待ちでございましょうから」

 

「ああ」

 

 段蔵は体力を使い果たした様子で、休みに行った。城下町に入るための門を見る限り、どうやら攻勢は行われていないようで傷はない。この様子だと城下も無事だろう。それに安堵しつつ、門の前に立つ。

 

「何者だ!止まれ!」

 

 警告と共に十人ほどの弓兵が弓を構えて門の上の櫓から顔を覗かせる。

 

「皆、待たせたな!私だ、一条兼音である」

 

「じょ、城主様!おい、早く開門しろ!」

 

「本当に城主様か?名を騙る刺客やもしれんぞ」

 

「ばか、お前、俺はご尊顔を見たことがあるんだぞ。間違えるわけねえだろ!おい、とにかく開門!」

 

「りょ、了解!」

 

 ギーっと音をたて、門がゆっくりと開く。

 

「こちらの馬をお使いください。城代様以下皆、お帰りをお待ちしておりました。本当に、よく、お戻りに…」

 

「すまない。待たせてしまったな」 

 

「い、いえ、いつかお戻りになると信じておりました。さあ、お早く」

 

 泣きながら言う門の守備隊長の様子から、言葉が真実であると悟る。半年。本当に長い期間待たせてしまった。だがそれもこれまでだ。これから行うは古今東西類無き無双の奇襲戦。そして北条の名は日ノ本全土にとどろくのだ。

 

 そう思いながら、貸された馬で城下の道を駆け、城へ向かう。深夜でも煌々と灯された明かりが臨戦態勢であることを伺わせる。大手門へ続く橋の上には少女が二人。その後ろには多くの兵や民の気配がする。馬を降りて、橋へ歩き出す。数か月ぶりに見る二人の姿に、涙がこみ上げる。私の姿を視認し、顔を見たであろう綱成は、こちらへ駆け寄ってくる。思いっきり抱き付かれてちょっと吹き飛ばされそうになる。

 

「先輩!先輩っ!!よかった、よかったです!本当に、本当に……!」

 

 涙と嗚咽で言葉の出ないまましがみつく彼女の頭を左手で抱えながら、視線を上げれば、兼成がゆっくりとこちらへ近づいてくる。

 

「よく、お戻りに、なられましたわ…!ずっとお待ち申し上げておりました」

 

 気丈に振舞いながらも涙で顔を歪ませた彼女の頭を撫でる。

 

「よく、耐えてくれた。ありがとう、本当に、ありがとう。もう、大丈夫だ。だから安心しろ」

 

「はい、はい……!」

 

 流れ続ける涙を拭うことも、止めようとすることもなく、彼女たちは泣き続ける。自分よりも年下の、しかも女の子に背負わせてしまった重圧の重さに罪悪感を抱きながらも、自分の心は二人の無事を安堵していた。

 

 

 

 

 

 

 泣き続ける二人を落ち着かせ、城の広間に連れていく。他の城の者達も多くが集まっている。大広間はすし詰め状態だ。赤くウサギのようになった目をしながら、綱成が皆を代表して口を開く。

 

「それで、先輩。お戻りになったという事は、駿河戦線は決着したという事でしょうか」

 

「ああ。その認識で間違いない。皆がここで耐えてくれている間に、我らはあの今川の大軍を完膚なきまでに叩き潰した。太原雪斎は我らに寛大な処置を乞い、頭を下げた。誰が何と言おうと、勝利である!」

 

 この言葉に、広間は沸き立つ。表情に喜色を浮かべ、口々に祝辞を述べている。手を上げ、騒がしい広間を一度鎮める。

 

「これにより、駿河戦線は消滅した。そして、氏康様旗下の本隊が八千の精鋭でこちらへ急行している。間もなく到着するだろう。あと十日だ。十日のうちに、関東管領はその屍をこの河越の大地に晒すだろう!」

 

 今度は広間を越え、城中が震えるような歓声が響いた。

 

「後詰めが、来るのか…!」

 

「我らは見捨てられたわけではなかった」

 

「数か月分の鬱憤ぶつけてくれる!」

 

 こちらの士気は十分だ。何とか持ちこたえてくれていたらしい。反面、敵は長期の陣でダレている。兵の士気は低く、軍紀も乱れているのだ。大軍に油断した敵軍など恐れることはない。今川の軍の方が恐ろしかったまである。

 

「あと少しだ。あと少しだけ、私に力を貸してくれ!」

 

「「「「「「おう!!!」」」」」」

 

 威勢の良い返事に頷く。首を洗って待っていろ関東管領。貴様は絶対に逃がさない。血が出そうなほど拳を握りしめて決意を固めた。

 

 

 

 

 多くの改革を実行し、不正は断固として糾弾し、多忙な中農民や城下の民の生活を視察し、細かに民や兵と接し続けていた彼の努力はまさにこの時実っていた。領民は皆、この領主をひいては北条の支配を歓迎していた。平和な暮らし。素晴らしいまでの治安の良さ。誰も餓えない生活。産まれて初めて享受するこの環境は彼らにとってユートピアの如しであったのだ。誰一人の逃亡者もなく、籠城を続けられたのはこれらの要素によって引き起こされたある意味必然とも言うべき結末であった。

 

 半年が経ち、弱気になる者もいたが、それでも逃げるものはいなかった。彼らは信じている。きっと勝てるんだと。最初城を囲んだ八万の軍勢を前にしてもなお彼らは信じていた。きっと自らの主は自分たちを勝利へと導いてくれるはずだと。そして、彼らの信じた未来は間もなく現実になろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 河越城が城主の帰還に沸き立っていた時、北条氏康率いる八千の軍勢は武蔵国滝野川城付近にいた。滝野川城は現代の北区に位置している。かつては豊島氏の城だったが、彼らは太田道灌に敗れ、現在は北条家の支城になっており、兵站の補給などに使われている。この城で一時の休息をとっている。ほぼ休みなく強行軍をしてきたが、駿河での大勝によって、将兵共に士気は高い。

 

 時系列的には関宿城で足利軍が大敗してから三日が経過している。明日には河越に着けるというのが氏康の予測だった。情報は既に手元に集まっており、河越城周辺には情報封鎖をかけている。関東管領以下、陣中の誰もその事実を知らない。関宿城周辺で睨み合っていると思っている。その実、二万五千の足利軍は里見軍に大敗を喫し軍勢は四散していた。足利晴氏は命からがら古河城に戻っている。その事実を知っている氏康はそろそろ何らかの書状が来るであろうと踏んでいる。その予想は正しく、足利晴氏は迅速に行動しており、今まさに文が到着していた。

 

「おばば、見なさい。足利晴氏から命乞いの手紙が来たわ。北条と縁を結んでいながら、よくも裏切ってくれたわね。どうしてくれましょうか」

 

「じゃがなぁ氏康。そう厳しい処分は下せんぞ。衰えたとはいえ、奴はいまだ古河公方としての地位を保っておる。京の幕府が滅びぬ限り、権威は不滅であろうて。関東武士の棟梁は名目上は奴。主殺しの汚名を被るは避けねばならんぞ」

 

「わかっているわ。まったく厄介なことだけれどね…」

 

「出来て幽閉と当主交代であろうな。多少は強気には出れるが、ここら辺が限界じゃろう」

 

「そうね。どうやら鎌倉に戻りたかったようだし、そんなに鎌倉がお好きならご要望通り鎌倉で生涯を終えてもらいましょう」

 

 楽しそうに冷たい笑顔で氏康は言う。自らの敵が順調に消えていっていることに、彼女は喜びを感じられずにはいられなかった。残るは最後の敵、両上杉である。彼らが関東より退場したその日が、北条早雲以来の夢が叶う日だろう。武蔵、下総、上野を抑えれば、残る巨大な敵は常陸の佐竹と安房・上総の里見だけである。下野は諸将が乱立しており、まとまりに欠ける。大きな敵にはなりえない。

 

 彼女の胸中には必勝の策があった。兼音には伝達する時間がなかった、というより、行軍中に思いついた策であったのだが。彼女の心には、彼ならばこれくらいの策は既に思いついており、自分たちの到着を待っているはずだという確信めいた信頼があった。

 

 興国寺城における大勝は彼女の思考を大きく変えつつあった。いくら敵軍の士気は低いとはいえ、昼間では撃破されてしまう。ではどうするか。答えは簡単である。それとは即ち夜襲だ。単純明快な理論である。氏康は意識していないが、興国寺城の戦い、関宿城攻防戦、そしてこれから河越城で起ころうとしている戦いの三つは全て夜戦なのである。この時代の誰も知る由はないが、後世にこの三つの戦いは関東三夜戦と呼称されることとなる。

 

「敵の様子はどうかしら」 

 

「我らを侮り、酒宴三昧であるようじゃ。せっせと書き続けた命乞いが役にたってきたのう」

 

「まったくよ。心にもない講和を願う書状を書き続けるのはなかなかに苦痛だったわ。菅谷隠岐守に送り付けた書状も効果があったようね」

 

「ああ。奴の陣を敷く地は一見すると河越への糧道であるように見えるからのぉ。じゃが実際は違う。河越の兵は中にため込んだ兵糧だけで耐えておるからな」

 

「ええ。敵はさも私たちが何とかして城兵を救済しようともがいているように見えるでしょう。こんな芝居は疲れるわね」

 

「じゃが、おかげで敵は油断しきっておる。これは勝機があろうて」

 

「そうね。そしてそこへ、最後のダメ押しと行きましょう」

 

「ほう?」

 

 幻庵は興味深そうに氏康に視線を向ける。

 

「古河公方に伝令を出すわ。死にたくなければこちらの命令を聞けと」

 

「何を命じるんじゃ」

 

「こちらから降伏要請を出すわ。それを痛烈に拒否するようにと」

 

「む?ああ、なるほどそういう事か」

 

 知将である幻庵はこれだけで察した。氏康の真意は、こうである。まずは北条方から命と引き換えに降伏の意思を古河公方に伝える。そして、古河公方にそれを拒否させ、上杉憲政に情報を流させる。これによって、上杉憲政は勝利を確信し、益々もって油断するであろう。そうなったところを乾坤一擲の夜襲で奇襲し、敵を殲滅するという作戦である。

 

「さあ、時間よ。取り敢えず、今は河越へ急がなくては」

 

「おや、もうそんな時間か。では行くとするかのう。老骨にはちと堪えるがな」

 

 二人は立ち上がり、それぞれの部隊へと赴く。その五分後、北条軍の全軍が進撃を再開した。

 

 その数時間後、日付が変わり朝早くに八千の軍勢は河越城に到着した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところは変わり北武蔵の忍城。この城は成田氏の居城である。城の主、成田長泰とその子、氏長は山内上杉の与力として参陣していた。現在城の留守居は成田一族の長親が行っていた。この長親、現代においてはそこそこの知名度を得ている。彼は史実において、石田三成旗下の大軍から忍城を守り抜き、小田原城が落ちるまで持ちこたえた。

 

 その彼の最大の特徴は圧倒的なまでの農民からの人気であろう。普段は武蔵国の武家の名門に産まれた異端児としてその素質を理解されず愚鈍と思われている。当主長泰の甥であり、氏長の従兄であるものの、扱いは低かった。それでも一門であり、彼の父親・成田泰季が病気がちであることから留守居役になっている。そんな彼ではあるが、現在は城におらず、農民と戯れていた。そこへ馬に乗った少女が近付いていく。

 

「おおい、長親!まーたこんなところにおったのか。皆が出払っておるのだからお主が城にいなくてどうする!一応留守居役なのだろう」

 

「戻らずともお前がおればいいではないか」

 

「そういう問題ではない…」

 

 この少女は甲斐姫。史実では武勇をもって知られ、最終的に豊臣秀吉の側室になった女性である。彼女は当主・長泰が姫武将という制度に理解がなかったため、武将として生きていけず、当初は嫁に出されるはずであった。だが、長親の介入によって何とか輿入れだけは回避した。もっとも頑なな長泰はいまだそれを認めてはいない。この出来事以来、彼女は長親に対して仄かな好意を持っていた。

 

「どうせ勝てる戦とは言え、戦は戦だ。何が起こるかは未知数だぞ。万が一に備えるのは当然だろう」

 

「勝てる…ね。このまますんなり勝てるとは思えんな」

 

「お前、ついに数も数えられなくなったのか?」

 

 なかなかの皮肉を甲斐姫は長親にぶつける。長親は特に怒るでも苛立つでもなく、苦笑いしていた。

 

「半年。半年だ。そんなにも長い期間、八万の軍勢を維持するのに一体どれだけの兵糧をむしり取ったのだろうな」

 

「それは、そうだが…」

 

「半年、士気を維持したまま城を囲めるとは思えんがな」

 

「それは城側も同じではないか」

 

 それはまったくもってその通りである。だが、こと北条家に関して言えばそれは当てはまらなかった。

 

「扇谷上杉が民から奪い取った兵糧を北条は民に返した。税も安く、安寧を享受している民が、旧主の支配に戻りたいとは死んでも思わんだろうさ。士気の差に加え、管領は慢心してるはずだ。民を重んじぬ国は亡びる。必ず」

 

「……では、負けると?」

 

「陣中を行き来する商人に聞けば、北条の軍勢は戻ってきたという。駿河から戻ったということは、何らかの方法で今川と決着をつけたのさ。里見もそういうところに賭けたのだろう」

 

「大軍だから勝てる、は安易という事か」

 

「そういう事だ。さーて、丁度いい。北条が戻ってきたという事は何かしら行動をとるだろうさ。一つやるとするか」

 

「おい待て、何をする気だ」

 

 甲斐姫は嫌な予感が激しくしており、長親を問い詰める。

 

「父上が死んだとでも言って呼び戻す。大軍だ、我らがちょっと抜けても問題ないと思われ、許されるだろう」

 

「正気か?遅かれ早かれ嘘はバレるぞ。もし露見したらさしものお前も許されるかは分からないぞ!」

 

「その時はその時さ」

 

 飄々と言う長親に言い返そうにもうまい言葉が見つからず、甲斐姫はただ心配するしかできなかった。長親は言葉通り独断でこれを実行。その書状を受け取った長泰は一度戻り葬儀だけ執り行いたいと上杉憲政に告げ、憲政は油断や慢心から問題ないと判断し、長泰の一度帰城を認めた。これにより、成田家は一度河越から撤退することとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 河越城に氏康の軍勢は到着した。しかし、まったく動きはない。これは益々諸将の油断を誘った。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 上杉憲政の本陣では、山内上杉家臣による合議が行われていた。

 

「小田原方の負けは目に見えている。そう急がなくとも、このまま兵糧攻めで河越城は落ちる。もうじき城の兵糧も尽きる頃だろうさ」

 

 この憲政の発言に、家老の妻鹿田新介が追随する。

 

「はっ。城兵は既に餓え始めているものと存じます。事実、小田原方は糧道を押さえる菅谷隠岐守に幾たびも書状を送っては退陣を懇願しております」

 

 この予測はそこまで的外れなものではなく、実際河越城の兵糧は後二週間前後が限界だった。

 

「その今をもって城攻めにかかれば、北条の後詰めもなす術なく我らに降伏するでしょう。これ以上に時を無駄にして北条が何らかの策を講じますれば、城内の兵も息を吹き返すやもしれませぬ。そうなる前に一気に勝敗を決するべきかと存じます」

 

「業正。何をそのように恐れることがある。敵は八千。城には四千。僕らは古河公方がいなくても五万五千はいる。その公方も時流の読めない馬鹿な里見を討てば戻ってくるさ。この戦は、公方が小田原方を見限った時に勝敗はついたのさ。今川にも和を乞うたのだろうし、もう降伏以外に道はないね」

 

「恐れながら、北条は今川に和を乞うたというのはいささか希望的観測ではございませぬか。もし、仮に彼らが和睦したというのなら、それは北条の、我らより今川を引き離す策に他なりませぬ」

 

「業正!何べんも言わせないでくれ。前から言ってるだろう、北条ではない、伊勢だ!もとは伊勢のあぶれ者が伊豆相模をかすめ取った、言わば盗人だ。それを厚かましくもかつての執権北条の姓を名乗るとはその名を聞くだけで虫唾が走る」

 

「今は左様な名跡にこだわる時ではありませぬ!」

 

「こだわる時だ!今こだわらずしていつこだわる」

 

「長野殿。敵は策を講じようにも、城に使者を送ることも叶わんのじゃ。このまま小田原へ兵を退くか、討ち死に覚悟で我らに攻めかかるか。我らはそれを見極めてから動けばよかろう。もっとも、後者を臆病者の小娘ができるとは思えぬがな」

 

 嘲笑交じりで言うのは業正と同じく山内上杉家の家老である倉賀野直行である。

 

「うん、直行の言う通りだ。それにね」

 

 そう言うと憲政は一通の書状を業正へ投げ渡す。

 

「見な。これが小田原方の策さ。公方に命乞いをしてきた。籠城している兵の命を助けていただければ、城と周りの領地は公方様に差し上げますってね。憐れみを乞うてきたのさ、ハハハハハ」

 

「公方様は?」

 

 業正の案ずるような問いにやや不機嫌になりながら憲政は答える。

 

「むろん退けたさ。一人でも生かしておけば後々の禍になると言ってね。小田原の小娘が、まさかここまでの恥知らずの臆病者とはね」

 

「侮ってはなりません」

 

「業正」

 

 業正の名を言う憲政の顔は険しい。

 

「僕を侮ってるのは、君じゃないか…?」

 

 その鋭い視線に業正は返答できなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「管領様は敵を侮っておられる。このままでは勝てるかわからんぞ」

 

「あの人は昔からそんな感じであっただろう。今更さ」

 

「…ふむむ」

 

 渋い顔の業正に淡々と答えるのは上州一の武人にして、現代にも続く剣術流派・新陰流の祖。剣聖・上泉伊勢守信綱。長野業正の古い盟友である。

 

「ま、何にせよ。私のやることはただ一つ。目の前の敵を斬る。それのみだ」

 

「お主も城の主なのだからそれだけという訳にもいかんであろうに」

 

「そんなものは臣下や娘がやるさ」

 

 髭を撫でながら、信綱は剣を振るう。一陣の風と共に舞い落ちていた木の葉が一瞬にして四分五裂する。その凄まじい剣術に業正は相変わらずだな、と舌を巻く。

 

「さて、今回は何人死ぬのだろうな」

 

 辟易したように言う信綱に業正は何もいう事は出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 軍紀の乱れきった陣中を一人の小さな少女が歩いている。顔から何かの感情を読み取ることは出来ない。無表情なまま、彼女は歩き続ける。

 

「姫、こんなところにおられましたか」 

 

「憲重」

 

「そう勝手に出歩かれては警護の者が苦労しますので、お控え頂けると幸いです」

 

「…そう。分かった」

 

 彼女は一万五千の兵を擁する扇谷上杉家の当主・上杉朝定である。まだ子供である彼女に実権はなく、筆頭家老・難波田憲重や上田朝直、太田資正などが家中を動かしている。籠の中の鳥であることは、幼少ながら彼女が一番わかっており、大人しく感情を消して日々を送っている。

 

「戦はまだ終わらないの」

 

「そうですなあ。いかんせん河越城の兵たちはしぶとく籠っておりますので。ま、それも後一、二週間でしょう。さすれば、あの城にまた戻れますぞ」

 

「…そうね」

 

 難波田憲重は戦の残り期間を問う朝定に、彼女が早く自らの元々の居城である河越城に戻りたいと思ったようであった。しかし、彼女からすれば、河越城は自らを閉じ込める檻にしか思えない。けれども、この陣中にいる状況も、彼女の望むものではなかった。願わくば、すべてを捨ててゆっくりと過ごしたかった。十歳になったとは言え、扇谷上杉当主の地位は、その小さな身体には重すぎた。

 

 曇天の中、河越城にはためく三つ鱗の旗が彼女の目に映される。北条家中になら自由はあるのだろうか。あり得ない夢想をしながら、城に背を向け、彼女は陣幕の中に消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 運命の夜まで、後二日。




序・破・急ってしようと思ったらまさかの元ネタたる劇場版・新世紀エヴァンゲリオンが延期…。まあ仕方ないですね。

最近やや話が長くなる傾向にあるのですが、直したほうがいいですかね。今回も一万超えちゃいましたし。何かあれば感想・メッセージなど下さい。

オンライン授業期間になったので、投稿速度は上がると思います。


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第32話 河越夜戦・破

 河越城を囲む上杉憲政の陣には笛の音と陣中には本来聞こえないであろう女性の声が多く聞こえる。そこに混じり、笑い声も響く。関東の貴公子と呼ばれ、女好きで知られる憲政の呼び寄せた遊び女であった。彼はもはや戦に勝った気分でおり、あろうことか戦勝の宴を催していた。それを長野業正は苦々しい顔で眺める。

 

「ふうむ…」

 

「そう唸るな。今に始まった事ではあるまいに」

 

「何回もこのようなことがあるから儂はこういう態度なのだ。しかも此度は今までの戦とは桁違いの大戦だと言うのに……」

 

「諫めたのか?」

 

「諫めて聞いて下さっていたらどれだけ良かったか」

 

「だろうな」

 

「はぁ…」

 

「ため息を漏らすな。酒がまずくなる」

 

 業正の悩みなどどこ吹く風で剣聖・上泉信綱は酒杯を呷る。酔った様子はない。その様子を見て業正はより深いため息をつく。

 

「なに、殺し合いになれば役目は果たすさ。貴様に死なれては困る。管領はまぁ…どうでもよいが」

 

「そう言わずに管領様も守ってくれまいか」

 

「貴様がそう言うならそうするさ」

 

 どうも今夜は嫌な風が吹く。何も起きなければ良いが…、と業正は皺の深く刻まれた顔を渋めながら空を眺めた。

 

「風から殺意がするな。妙に血が騒ぐ夜だ」

 

 信綱もそう呟き、自分の中にある戦が、殺し合いが近いことを感じ取ったことによる火照りを鎮めるためもう一度酒を呷るのだった。

 

 

 

 

 

 

 扇谷上杉家の陣中にも宴の誘いが来ていた。それを家臣から聞いた上杉朝定は一言呆れたように言う。

 

「勝ってないのに戦勝の宴とは…?」

 

 そのド正論にちょっと興味があった家臣たちは決まりの悪い顔をする。そもそも扇谷上杉家と山内上杉家は仲が悪い。それを抜きにしても、上杉朝定は上杉憲政のことが好きではなかった。会ったことは数回しかないが、会うたび会うたび小馬鹿にされているのは気付いていた。憲政の姫武将を侮る態度は昔からである。

 

 加えて言えば、女好きで見境のない憲政は、子供とは言え割と良いものを食べていた為そこそこ発育のいい朝定のことをそういう目線で見ることが何度かあった。その度に朝定は不快感を抱く。それはある意味女性として当然の事であった。

 

「そもそも夜襲の警戒くらいするべき」

 

「まあまあ、姫様。そこら辺でご勘弁下さい。あの臆病者で有名な氏康にそんな芸当が出来ようはずもありません」

 

「そう…」

 

 朝定は自らの意見が一蹴されたことへの不満感を表に出すこともなく無表情である。

 

「人が死ぬ戦で、しかもまだ終わってすらいないのに酒宴なんて…」

 

 せめて終わってからにしろ、戦の最中くらい気を引き締められないものか。憲政に対しても、戦勝の宴とは言わないでも酒や女に興じている自分の家の陣中に対してもそう思っていた。敏い子である。しかし、その賢さが彼女を悲観的にしていた。風が陣幕をはためかせ、頬を撫でる。河越城の方から吹いてくる風にうすら寒さを感じ、彼女は陣幕の奥深くへと入っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 更け行く夜。上杉憲政の陣中は既に静まりかえっている。憲政は既に就寝しており、彼ほどの大身ならば護衛の兵が多くいるはずであるが、その者達も酔って寝てしまっている。多くの関東諸将の陣中が似たような状態である。扇谷上杉家の陣も流石に酒宴は慎んだものの、寝静まっている。完全に油断しきっていると言っても過言ではなかった。

 

 そんな陣中から、黒い影が複数そろりそろりと離脱していく。彼らは風魔忍びである。遊び女に扮して諸将の陣中に潜り込んでいた。警備が厳しく、警戒態勢が他の陣に比べ厳しい長野家の陣には忍び込めなかったものの、その他の家の情報は筒抜けである。氏康の命令により、今夜夜討ちを行うための布石として、各将兵を酔わせて戦闘能力を削がせる目的で侵入していた。決行可能と氏康に報告するため、北条家の陣に戻ろうとしているのである。

 

 城を囲む集団からは少し離れて街道沿いで河越へ通ずる糧道を守っていた菅谷隠岐守の兵は密かに撃破されていた。しかし、距離のせいで合戦の様子が聞こえず、この前哨戦に気付く連合軍の将兵は一人もいなかった。

 

 

 

 

 時刻は既に真夜中。今夜は暗夜という訳ではない。が、雲が多く星影も見えにくい。月の光も僅かだ。静かな闘志を燃やす北条家の陣では氏康を筆頭とした諸将が今か今かと風魔の帰還を待っていた。なお、今夜夜襲という情報は既に河越城の内部にも伝わっており、一条兼音が万全の準備を整えて本隊の行動を待っている。

 

「全忍びが帰還いたしました。いずれの陣も油断しきっており、警戒態勢は無いに等しい模様でございます」 

 

 この報告に沸き立つ北条家の将たち。その視線は自らの主である氏康に向けられていた。氏康は静かに一度目を閉じる。思い出すは父、そして祖父の記憶。一代で身を起こし、今川家の客将から伊豆相模を奪い取った祖父・早雲庵盛時。その後を継ぎ、領土の安定化と南武蔵、下総、駿東に領土を拡大させた父・氏綱。その両名にとって目の上のたんこぶであり、生涯を費やしても滅せなかったのが上杉家だった。その彼らの滅亡がすぐそこまで来ている。悲願を果たせる時が来たのだ。祖父早雲が鼠が二本の杉の木をかじり倒し、虎になる夢をみてから幾星霜。ついに関東に三つ鱗がはためく時である、と氏康は万感の思いであった。最早負ける要素はない。策謀を張り巡らした。敗走はあり得ない。それでも震える手をきゅっと握りしめ、彼女は鋭い視線で諸将を見つめた。

 

「苦節幾星霜。ついにこの日が来た。かつての強敵上杉はもはやいない。弱兵だけ集めた烏合の衆に、負ける道理がどこにあるというのか。そしてこれまで、よく私や、父上、お爺様に仕えてくれたわ」

 

 その言葉に老将たちは涙をこらえる。関東の大地を駆け巡ってきた思い出が鮮やかによみがえった。

 

「今日、私たちは関東の覇者になる。その為に上杉は邪魔よ。ここに必ず奴らを殲滅する。我ら北条の目指した泰平を目指し、これより夜襲をしかける!」

 

「「「「「おう!!!」」」」」」

 

「北条の興廃、この一戦にあり。皆は心を一つにその力を合わせ…」 

 

 言葉を区切った彼女は普段めったに抜かれることのない己の剣を抜き放つ。

 

「ただ、私の向かうところを見よ!!」

 

 その威厳、その威容、まさに関東の覇王にふさわしい姿。小田原の引きこもり娘は今、やがて遥か未来において相模の獅子と呼ばれるにたる名将として開花した。

 

 恐怖心がない訳ではない。それはきっとどれだけ戦場に立とうと消えないだろうと氏康は思っていた。それでも、あぁそれでも。譲れないものはある。自分を信じてくれるものの為に、自分の亡き先祖の為に、そして、自分自身の為に。たとえどれだけ辛く苦しい道でも私は進まねばならない。そう誓ったのだから。私は一人じゃない。皆がいる。彼がいる。私を素晴らしい主だと、そう言ってくれたのだから、その期待には応えなくては。

 

 雲が僅かに晴れ、雲間から月光が差し込む。剣の刃は白銀に光り、その煌きに氏康の白い顔が照らされる。紫苑色の髪が靡く。その姿には凄絶なまでの美しさがあった。

 

 将たちは一斉に己の剣を抜き、胸の前で構える。

 

「「「「この命を捧げるとも、必ず勝利を!!」」」」

 

 全ての武将が唱えたその言葉を合図にするように、彼らは勝利を目指し駆けだした。

 

 微かな足音が響いては消えていく。腕に白い布を巻き付け、敵味方を判別できるようにした兵が一心不乱に駆けている。数は八千。騎馬も歩兵も今は混じりながら進軍する。目指すはただ一地点。関東管領上杉憲政の陣。軽装にさせたためほぼ無音に近い彼らの行軍に、敵はまったく気づかない。

 

 

 

 

 上杉憲政の陣はまだ酒の匂いが残っている。警備の兵たちも酔っ払いながら雑魚寝していた。

 

「おおい、酒は、酒はもうないのか」

 

「お前、まだ飲むのか。もういい加減にしとけ。身体を壊すぞ」 

 

「うるせえ、飲まなきゃやってられねぇよ」

 

「ま、それもそうか」 

 

 敵が数十メートルほどの距離のところにいる事にも気付かずに、彼らは再び酒盛りをしようとしている。

 

「おい、待て。何か聞こえないか」

 

「ああん?獣か何かだろう?」

 

「だよな」

 

 そういった瞬間、陣幕が切り裂かれる。輝く無数の白刃。背負われた三つ鱗の旗。盃がポトリと手から滑り落ちる。敵襲を叫ぶ間もなく、目の前に振り下ろされる剣。それらが彼らの見た最後の光景だった。

 

 

「全軍、突撃!」

 

 馬上で高らかに叫ぶ氏康。それを聞いた北条軍全軍が突撃を敢行する。その数分後、上杉軍一万五千は大混乱に陥る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 河越城には風魔の手の者から使者が来る。曰く、全軍出撃せり。これを聞き、臨戦態勢であった城兵は城門前に集合する。誰もが手ぐすね引いて今か今かと眼前の城門が開かれる時を待っていた。彼らの前の櫓の上に城主・兼音が現れる。

 

 

 

 ついに、この時が来た。河越夜戦。北条家の運命を決定づける戦いが。この日の為に出来る限り、ありとあらゆる備えをしてきた。それを全て出し切って、今こそ決着をつける。

 

 戦国の世にやって来て、慣れない生活に戸惑うこともあった。現代の倫理観を乗り越えるのにも苦労した。それでも、戦い続けてきた。目を閉じれば、もう脳内の現代の記憶は戦国の世での記憶に更新されつつあるのが分かった。最初は生き残るために。今は、そう、理由付けをするならば。

 

「見つけた生きる意味を守り続けるために、だろうかな」

 

 ひとり呟く。暗く、顔は見えなくてもこちらを見つめてくる八千の瞳。燃え滾る四千の闘志。それが伝わってくる。月下で誓ったものを守る為に。あの人を輝かせると誓ったのだから。私の生きる意味はそこにある。それを貫くためにもこの戦いには何としてでも勝たなくてはいけない。

 

 さて、既に高まっている士気だが、それを最高潮にしなくては。こういう場合何を言えばいいのか、まだ今一つわからない。だが、やらない訳にもいかないだろう。ふう、と息を吐きだす。

 

「これまでの半年間良く耐えてくれた。今夜、ようやくその恨みを晴らす時が来た。雑兵の首に拘るな。ただ一路、扇谷上杉の本陣を目指し駆け抜けろ。既に本隊は関東管領の陣に攻撃を始めている。後れをとるな!全軍、己の槍を、剣を、弓を構えよ。朝日の昇る時、この大地には奴らの骸が転がっているだろう!先鋒は綱成に任せる。必ずや、暁の空の下、勝利を謳おうぞ!!」

 

「「「「うおおお!」」」」

 

 兵の叫びと共に城門が開け放たれる。騎乗した綱成が全軍の先頭で槍を振るう。 

 

「全軍、私に付いてこい!」

 

 凄まじい速さで綱成が駆け行く。その後ろを騎馬隊とそれに負けず劣らずのスピードで走る歩兵隊が続く。櫓から駆け下り、自らの馬に乗る。城を空っぽにして、全軍での攻勢である。先鋒は綱成。その後に私の部隊。後衛部隊は兼成が率いている。段蔵は私の護衛役。姿は見えないが、守ってくれている。

 

 先頭を突っ走る綱成の背中には地黄八幡の旗。夜叉の如く、風の如く。河越城の騎馬隊が夜闇を疾走するのが、後ろからもありありと見える。その更に前方には寝静まった扇谷上杉家の陣。一万五千の大軍もこうなっては人形と同じ。早く追いつくために馬を走らせる。ここまで無言で走り続けた全軍に先頭から綱成が激励を行う。

 

「見ろ!そこに敵がいるぞ!私に続け。この地黄八幡の旗に続けば必ずや我らは勝利する!勝った勝った、勝ち戦だ!!」

 

 北条家の武の象徴、北条綱成の後世まで伝わる伝説。勝った勝ったと叫びながら敵へ突っ込む姿を見ることができたことに感動を覚える。この綱成の叫びに、全軍が咆哮し、扇谷上杉の陣幕を蹴散らし勢いそのまま進軍する。勝利を確信しながら、先頭に続くべく更に馬に鞭打ち大地を進んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 扇谷上杉家の軍勢は突然の奇襲に飛び起きる。慌てて戦闘態勢に入り目を擦れば、その眼前にあったのは殺戮の光景だった。闇夜の中に血しぶきが飛び散る。大混乱の中、からくも北条軍の魔の手を逃れた兵が本陣に走る。

 

「申し上げます!申し上げます!敵襲、敵襲にございます!」

 

 この注進に難波田憲重は仰天しつつも必死に思考を働かせる。彼の縁戚の太田資正や上田朝直は別の部隊として川を越えた北側に陣取っている。使える将がほとんどいない。かろうじてまともな将は藤田康邦か大石定久くらいなものである。残りは皆凡将であり、酔いつぶれているだろうし、そもそも危機対応能力があるとは考えにくかった。割と辛辣な評価を朋輩に向かって下しながら、彼は最優先事項を遂行する。それは主・扇谷上杉朝定を逃がすことだった。彼は急ぎ本陣の最奥、朝定の眠る場所を目指す。

 

「姫様!姫様!」

 

「起きてる」

 

 目の前に見えるのは小さな少女。ここに来て憲重は自らの不明を悟る。敵を侮り過ぎた。自らの主は齢十にして既に夜襲の警戒を促していたというのに。何もわからない幼子であった時代は過ぎ去っていたのか、と。彼は悔しさに唇を噛み締める。最初は重責を背負う事となった小さな主を守りたかっただけなのだ。孫ほどの年齢差のある彼女を。しかし、いつからだろうか、笑い顔を見なくなったのは。いつしか、我々は閉じ込めてしまっていたのか。もう、嫌われてしまっているのだろう。死は怖くなくても、それだけが無性に悲しかった。

 

 このままでは確実に扇谷上杉家は終わる。朝定が死んでしまったら、もう扇谷上杉家を継げる人物はいない。死なずとももう戦国大名としては終わりだろう。兵も将も多くが死ぬはずだ。主の将器を開花させられなかったことは生涯最大の過ちだ。それでも何とか生き延びてもらわなくては。それが自らの罪滅ぼしであると。

 

「姫様。良くお聞きください。それがしの不明でした。夜襲を受けております。多くの将兵が死ぬでしょう。この弾正も死ぬでしょう。このまま馬に乗り、北へ駆けて下さい。武蔵はもう危険です。上野あるいは信濃、越後、この際どこでも構いません。とにかくお逃げください。私が時間を稼ぎます」

 

「弾正は、あなたも逃げないの」

 

「今生の別れでございます。どうかお引止めくださるな」

 

「…分かった」

 

「さ、お早く。どうか生きて下され」

 

 朝定の感情を写すことのなかった目には涙が浮かんでいた。彼女にとって憲重は自らを閉じ込めていた鳥籠の番人。それでも幼い頃から見知った人物との、おそらくこれが最後となるであろう会話にはこみ上げるものがあった。彼女は、心の中で自分がここで死に、憲重が生きればいいではないかと考えていた。それでも、逃げろと言われてしまった。思想は変わらなくても無駄死にさせるわけにはいかない。彼女は当主としての義務感から駆け出した。

 

 

 

 

 走り去る幼い背中を見送り、憲重は嘆息する。その背中はいつか見たものよりだいぶ大きくなっていた。いつからかしっかりとその姿を見ていなかったな、と彼は後悔しつつ、もし生き残れたら今度は…と考える。その彼の元に、北条軍最強が迫りつつあった。最奥の陣幕が破られ、騎馬武者が侵入してくる。

 

「貴殿は扇谷上杉家家宰、難波田弾正忠憲重殿とお見受けする。私は河越城城代にして当主氏康姉様の義妹、北条綱成!尋常に勝負!」

 

「小娘に負けるほど落ちぶれておらん!来い!」

 

「参る!」

 

 剣と槍が交錯する。伊達に家宰を勤めてはいない。憲重も決して弱くない豪の者である。しかしやんぬるかな、相手が悪すぎた。しかも馬上と地上では圧倒的に馬上有利。ジリジリ押されながら、憲重は死を覚悟した。その視線をわずかに綱成から逸らし、朝定の逃げた方角を見る。時間は稼げただろうか。そんな心配が命取りとなり、彼の肉体は綱成の槍で弾き飛ばされる。暗転する視界の中で、憲重は主の無事を祈り続けていた。

 

 

 

 

 綱成は難波田憲重を討ち取った後、掃討戦に移行する。そこへ兼成がやって来る。

 

「先輩!難波田憲重はこの通りです」

 

「よし、よくやった。上杉朝定は?」

 

「それらしき姿は見えません。逃亡したのではないかと」

 

「それはマズい。しかし、他にも敵はいるな…よし、綱成。お前はこれから三千五百で南下せよ。諸将の寄せ集めの五千がいるが、大した問題にはならないだろう。そこを突破し、長野業正の七千五百を撃破せよ」

 

「了解しました。先輩はいかがされますか」

 

「私は五百を率いて上杉朝定を探す。そう遠くへは行っていない。おそらく北の方角だな。逃げるならそちら方面しかあるまい」

 

「分かりました。それではご武運を!」

 

「ああ、そちらもな」

 

 ある程度殲滅したのち、綱成は兼音に言われたように南下を開始する。そこには下野の諸将が陣取っているものの、大した問題にはならず、混乱の中を突破。長野隊を目指した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 チッ。どこに行ったのさ。そう思いながら前後左右を見渡す。そう遠くには行ってないはずなのにどうも見当たらない。

 

「城主様!こちらにそれらしき人影を見た者がおります!」

 

「何っ!どこだ」

 

「私です。雑兵や騎馬武者とは異なる装いの小柄な人間があちらの方角に!」

 

「よし、よく知らせてくれた!」

 

 指の指された方角に向かって馬を走らせる。すると、前方に確かに小さな人影がある。

 

「そこにいるのは扇谷上杉家当主、上杉朝定か!その首もらい受ける!いざ尋常に勝負!」

 

 そう叫ぶがまったくもって止まる気配はない。仕方ない。正々堂々行くべきかと思ったが、相手がこの態度なら致し方ないだろう。背負っていた弓を構える。やや風が強いな。弦を引き絞る。一瞬だけ風が止む。その瞬間を逃さずすかさず手を放つ。そして放たれた矢の行方を注視する。脳天ど真ん中コースだから当たる……はずだった。

 

 

 

 

 上杉朝定は必死に馬を走らせていた。小柄な彼女には扱いづらいが今はそんな事は気にしていられない。大将が単騎で駆けているというこの異常さがある意味扇谷上杉軍の混乱を示していた。生きろと言われた以上、憲重の死を無駄には出来なかった。自分の中の感情がそう言っていた。一心不乱に駆けていると、後ろから自らを呼び止める追手の声が聞こえる。

 

 殺される。本能的に彼女は悟る。それは生物が持っている原初的な死への恐怖。それには抗いがたかった。実際のところは投降すれば姫なので死は免れるが、それを知識で知っていても死を前にして冷静に考えられるほど彼女は大人ではなかったし、戦場慣れしていなかった。ちらりと後ろを見れば追手の男は弓を構えている。追いかけるより弓を選んだ。なぜ。そっちの方が確実だから。そう思考回路を何とか働かせた彼女は何とかして避けようとした。

 

 そして、その馬から勢いよく飛び降りたのだ。

 

 まったくもって正常な判断とは言えない。馬は全速力で走ればちょっとした自動車並みのスピードは出る。そこから飛び降りるのだ。無事では勿論いられない。

 

「痛い…痛いよ…」

 

 泣きながら、彼女は腕や足を抑える。弓を放った男が近付くのが分かった。最早死にたいなどこれっぽちも思っていなかった。閉じ込めていた感情があふれ出す。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!こんなところで、このまま死にたくなどない!だって、だって私はまだ何も成せていない。鳥籠の中に閉じ込められたまま死にたくなんかない。私だって、飛びたい。辛くても、苦しくても、広い世界に飛びたかった。何もできないまま死ぬ方が、きっともっと辛くて苦しいから。

 

 生への渇望を強く抱きながら、彼女はか細い声を絞り出す。

 

「死にたく、ない…」

 

 

 

 

 

 死にたくない。その言葉に近づく足を停止する。

 

「おいおい、上杉朝定ってこんな子供なのか…。しかも女の子…」

 

 子供だから、情けをかけられるほど戦場は甘くはない。そんなことは分かっている。それでも自分の中の微かに残った倫理観が子供殺しを拒否させている。上杉朝定が年若いのは知っていたが、こんな子供でしかも女の子だとは知らなかった。必要ない情報だと思って誰も伝えなかったな…。いや、調べなかったこちらの落ち度か。とにかく、この子が女の子なら、投降すれば死を逃れられる。いつかどこかでかけたような言葉を、彼女に向かってかける。

 

「生を望むか。産まれの誇りも、血の高貴さも、名誉も何もかも捨てて、泥を啜り地に這いつくばり我らに頭を垂れ、蔑まれようとも生を欲するなら…叶えよう。その願いを」

 

 あの時私の副官は何を言ったんだったかな。ああ、そうだ。生きろと命じられたのだから、私は生きなければならない、だったか。この子は何を答えるのだろうか。あの出来事が、もう随分昔のことに感じられた。目の前の少女は落馬による痛みに耐えながら、涙ながらに答えた。

 

「私は、生きたい。鳥籠の中で、死にたくない。どんな目にあっても、空を飛びたいの!お願い、お願い。私に、自由を教えて…!」

 

 その言葉に目を見張る。自由になりたい、か。上杉朝定が傀儡状態なのは把握していた。おそらくこの子は賢く、それ故に自らを殺して傀儡に徹していたのだろう。そんな状態から生まれた言葉が自由を教えて、か。しかしまあ、生きたいという要望は受け取った。抜いていた刀をしまう。

 

「確認するぞ。上杉朝定だな?」

 

「はい。そうです。…っ痛い」

 

「見せろ。……ああ、これは折れてるな。手当が必要だな。その様子だと足もやられてるな。さて、どうするか。連れていくわけにもいかないし」

 

 なるべく戦闘終結後の評定まで隠したほうがいいだろう。皆どこかしら狂っている戦場では因縁深い敵の当主に対して何を行うか分かったもんじゃない。私はそこまで恨みがないから冷静に対処できる。取り敢えず、城に隠すか。

 

「段蔵!」

 

「これに」

 

「この子供を私の自室に運べ。手足が折れてる。応急処置くらいはしておけ。良いな」

 

「よろしいので?これは北条の怨敵ですぞ」

 

「まだ子供だ。それに、姫不殺の慣例を破るわけにもいくまい。どんな目にあっても生きたいと渇望したのだ。なおのこと殺せん。それはお前とて同じだろう?」

 

「…そうですね。命じられればともかく、私も好き好んでやりたいとは思いません。承知しました。この子を置き次第再び護衛に戻らせていただきます。その間は、我が配下が代わりを務めますのでご安心を」

 

「そんなに心配せんでもいいのだがな」

 

「いえ、そういう訳にはいきません。主様は私が戦国乱世に見出した太平への希望なのですから」

 

「そうか…。では頼んだぞ」

 

「はっ!」

 

「大人しくしておれよ。さすれば死にはせん」

 

「はい」

 

 小さく答える声を聴き、段蔵を促す。首肯した段蔵は、上杉朝定を抱えたまま蜃気楼のように消えた。さて、綱成と合流しなくては。付近をまだ捜索中の兵に、一人でも多くここで殲滅するために上杉朝定一人に構ってばかりもいられないと告げ、捜索中止を命じて集結させ反転する。目指すは上州の虎、長野業正の陣。強敵の予感に武者震いしながら再び馬を走らせた。

 

 

 

 

 

 私は生きられる。その確かな予感に震えつつも、助かったことへの安堵から朝定は少し放心していた。前で男とその部下らしき女が話しているがその内容も良くわからない。段々痛みが増してきた。

 

 気付けば、黒服の女に抱きかかえられていた。

 

「大人しくしておれよ。さすれば死にはせん」

 

 そうかけられた声に、小さく答え了承を示す。恐怖やその他の感情から声が小さい訳ではなく、単純に痛みがひどく、話すと痛いからだ。自分を抱える女はそれを知ってか知らずか揺らさないようにしてくれるらしい。生きられることへの安心と、ひどい痛みから朝定は意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 扇谷上杉家の軍勢が壊滅しているその時、城を挟んだ反対側では関東管領上杉憲政の陣で殺戮が続いていた。就寝中の上杉憲政の元に腹心の本間近江守が駆け寄る。

 

「上様!敵の、小田原方の夜襲でございます!」

 

 その言葉に思考が一瞬追いつかない上杉憲政は硬直し、そして目に見えて狼狽し始めた。

 

「そ、そんなまさか!あり得ない…あの小娘にそんな度胸があるはずが…!」

 

「しかし、事実我らの兵はこうしている間にも死んでおります。お逃げください。早く!」

 

「あ、ああ」

 

 慌てながら軽装のまま憲政は騎乗する。焦りからもたつく。彼の耳には兵の断末魔がはっきりと聞こえていた。

 

 

 

 

 

 

 

 北条軍の誰もが目に激しい殺意を滾らせ、己の武器を振るう。容赦なく、呵責なく、命の価値に区別なく。敵の兵とみれば、その命を刈り取っている。その姿を形容するならば、死神の軍勢とでも言えようか。比喩でもなんでもなく、上杉軍からすれば、かれらはまさしく死神であった。北条一族の者が。多米一族が、大道寺一族が、富永・笠原・間宮・遠山・狩野・松田・清水などの諸将が。止まることなく進軍を続ける。怨恨続くこともはや数十年。ついにそれに決着をつけられるとあれば、この有様も納得であった。軍中で氏康は叫ぶ。

 

「雑魚に構うな。狙うは上杉憲政の首ただ一つ!決して逃がすな!」

 

 端正な顔は鮮血に染まり、白い肌とあわせ残酷なコントラストをなしていた。綺麗な目も血走っている。その眼は視界の隅に逃げ行く軽装の男を捉えた。

 

「いたわっ!あそこにいるのが上杉憲政よ!私に続け!必ず討ち取るわ!!」

 

 その言葉に反応した数十騎が続く。なかなか速く、追いつけない事に苛立った彼女は追随する騎馬隊に騎馬上からの行軍射撃を命じる。それに応え、弓が放たれる。憲政の周辺の騎馬から兵が落馬するが、本命はまだ馬上だ。だが、徐々に敵のスピードは落ちている。護衛も最早数騎だ。護衛を周りに任せ、氏康は己の太刀を抜く。

 

「上杉憲政!死ねええぇぇっっ!!」

 

 駆けながらも僅かに振り返った憲政目掛け刀を振り上げた。しかし、憲政は男。体格差はいかんともしがたい。その刃は首元を狙うには僅かに足りず、憲政の左目を切り裂く。慣れない戦闘に氏康の体力は限界に近く、二回目をするのは厳しかった。

 

「逃げるなぁ!大人しく私に殺されろ!!」

 

 それでも力を振り絞り、最後の剣を振るう。だが、憲政にとっては幸運な、そして氏康にとっては不幸な事態が起こる。本間近江守が己の命を投げ打ち、割り込んだのだ。氏康の振り下ろした刃に致命傷を負いながら止まりかけていた憲政の馬の尻をひっぱたき、最期の言葉を叫ぶ。

 

「今です、上様、早くお逃げを!」

 

「すまないっ!」

 

 その言葉に満足したように本間近江守は絶命する。山内上杉家にも忠臣はいたのだ。

 

「待てっ!逃げるな、卑怯者!!」

 

 氏康はその忠臣の屍を踏みつけ追撃しようとするが、それを元忠に止められる。

 

「姫様。大局を見誤られるな。敵はまだおります。最早関東に上杉憲政の逃げ場所は無いでしょう。あとからいかようにも出来ます」

 

 その言葉に氏康はやっと従来の冷静さを取り戻し、剣をしまう。

 

「そうね…。後で必ず、殺してやるわ」

 

 そう呟き、馬を反転させた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 憲政は血に滲む視界と走る激痛に苛立ち、絶叫しながら武蔵の大地を走っていた。

 

「この僕の顔を傷つけ、恥辱を与えるなんて…絶対に許さない。認めてやる。北条家、北条氏康!今はお前が強い。だが、僕は必ずお前たちに復讐する。この地に戻ってきてやる!どんな手を使ってもだ!!」

 

 叫びながらも、何とかして居城の平井城に戻らなければ復讐も出来ないと知っている憲政はひたすら走った。

 

 

 

 

 関東の旧主上杉はついに倒れる。しかし、戦場にはまだ恐れるべき敵が残っていた。上州の虎と剣聖。この両名がこの絶望的な状況下でなお、その力を振るおうとしていた。




上杉朝定の容姿はFate/kaleid liner プリズマ☆イリヤより、美遊・エーデルフェルト(朔月美遊)です。参考までに。

文庫本一冊の文字数平均って10万~12万文字だそうですね。拙作も、文庫本二冊分くらいは書いてきましたね。今後もよろしくお願いします。


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第33話 河越夜戦・急

北条綱成は、暗夜の中を駆けていた。目指すは長野業正の陣ただ一つ。街道を越えた先には関東諸将の寄せ集め部隊がいるが、この部隊は所詮寄せ集め。扇谷上杉家の陣への夜襲に気付いて逃亡した者も多く、相手にはならない。各個撃破され、いとも容易く壊滅した。こうなっては五千いようが一万いようが、あまり意味はない。ただ死体予備軍となるだけである。加えて言えば、この軍団には本格的な殲滅行動をとっていない。あくまでも北条家の主目標は両上杉家の打倒であり、この戦場にいる五万五千全軍の殲滅ではない。というより、それが不可能であることを知っていた。あと一万北条家の兵がいれば展開も違ったであろうが、ない物ねだりをしても仕方がない。

 

 既に山内上杉家並びに扇谷上杉家の本陣は潰走。扇谷上杉朝定は捕縛され、関東管領上杉憲政は逃亡した。この戦場に残る両上杉の軍勢は長野業正の七千五百と倉賀野直行の七千五百である。この軍勢を潰走せしめた時が北条家の勝利であると言えた。そのため、綱成は三千五百で突撃している。兵力差はおよそ二倍。だが、綱成の心中にはこの状況ならば二倍の戦力差も覆せるだろうと言う思いがあった。なお、兼音も同様の考えである。

 

 だが、戦場に絶対はあり得ず、都合のいいことばかりが起こるとは限らない。綱成を虎視眈々と待ち構える男がいた。当代剣聖・上泉信綱である。今回の戦には、娘の上泉秀胤と共に参加している。迫りくる気迫から、この男は敵の大将が娘には荷の重い相手だと悟る。久方ぶりにその剣が人を斬るために抜かれようとしていた。

 

 それを知らない綱成は勝利を確信し突撃している。その後方には、やや遅れながら周囲の警戒を続けつつ進軍する綱成の従姉・花倉兼成の姿もあった。この時、兼音は朝定を段蔵に預け、綱成の元に急行している。今、剣聖と地黄八幡の対決が行われる。

 

 

 

 

 

 

 

「見えたぞ、長野の陣だ!総員、突撃!」

 

「「「「おおう!」」」」」

 

 綱成の槍の指し示す先に多くの兵が進む。それを見て、勝利を確信した綱成は、部下と共に騎馬で駆けた。その時であった。悪寒が彼女の背筋を鋭く走る。それは武人としての勘だった。彼女は自らの直感に従い、身体を馬上でのけぞらせた。瞬きする間もなく、ついコンマ数秒前まで頭のあった位置を一陣の風が吹く。身体の急な動きによってふわりと浮いていた髪の毛が切り裂かれ、空中を舞う。

 

「ほう?」

 

 戦場という狂奔に満ちた世界に似つかわしくないほど冷静な声が響く。その言葉を発した人物の態度はあまりにも自然体であった。

 

「その首、七度は落としたつもりだったが…よもや繋がっていようとはな」

 

「貴殿、何者だ。その剣技、その気配。ただ者ではあるまい」

 

「そう大層なものではないさ。ただの剣客だ」

 

「戯けたことを。我が名は河越城城代にして、北条家当主・氏康姉上の義妹、北条綱成である」

 

「…名乗られたからには名乗り返さねばな。私は上泉伊勢守信綱。剣に生き、剣に死なんと欲する者だ」

 

 会話をしながらも一向に止まらない汗と悪寒に綱成は心中で震えていた。槍を握る手にも力が入る。剣聖の名は関東では有名である。その顔は知らずとも、その名は熟知していた。付けられたその二つ名が凄まじいまでの技巧を示している。

 

「北条の武士は仕合う時に地上の相手に対し馬上で挑むのか。それは知らなんだ」

 

「ッ…!」

 

 挑発であることは重々承知していた。先輩の兼音だったらば、そうだが何か?とでも嘯き容赦なく馬上から攻撃するだろう。だが、綱成は武人として誇りを捨てられなかった。配下の兵には既に突撃を命じている。もし、ここで剣聖を逃せば被害が増えるのは確実だった。彼女は覚悟を決める。武人としての闘志が戦えと命じていた。

 

「いいでしょう。私も地上に降ります」

 

 それをやや意外そうな目で見ながら、信綱も攻撃はしない。彼もまた誇りのある武人だった。

 

「これで対等でしょう」

 

「いやはや、乗って来るとは思わなんだ。これは失礼した。こちらの非礼を詫びよう。貴君は本気で相手にすべき武人のようだ」

 

 その言葉と共に信綱の周りの気配が一変する。だが綱成も負けてはいない。その目は勇気に満ち、その身には闘気が渦巻く。刹那、金属の触れ合う鋭い音が響いた。動いたのはどちらが先か。あるいは同時だったかもしれない。おおよそ常人の目では捉えられぬ速度で両名の体は動いていた。

 

 一合、二合、三合…数えるのも難しい速度で幾度となく剣と槍は交差する。綱成が踏み込めば信綱が弾き、信綱が刃を一閃すれば綱成が抑える。千日手にも近い状況。だが、おおよそ剣の道を窮めたと言って差し支えない信綱と弱冠十六歳の綱成が渡り合えていることの方が異常なのである。とは言え、手数場数には大きな差が存在する。徐々に信綱が押し始めている。

 

「厳しいか…!」

 

「戦闘中にお喋りとは感心せぬな」

 

「そちらこそ、そんな事を言って牽制しつつも手がブレているぞ!」

 

「フッ。それは貴殿の見誤りであろう。槍術は見事だが、目はまだまだだな」

 

 なおも決闘は続く。その周囲には誰も近付けない。中途半端な武術しか修めていない者が不用意に近付けば、一瞬にして肉片すら残らぬ血煙に変わるだろう。重い綱成の一撃も信綱は剣で軽くいなす。比例するように綱成の一撃一撃はどんどん重くなっていく。技術は信綱が上。体力と腕力は綱成が上だった。

 

 いまだ決着はつかない。信綱もそこそこ長い時間を生きてはいたが、こんなことは久しぶりだった。しかも、こんな少女相手にここまで苦戦するとは…、と彼は嘆息する。気迫も体力も向こうが上。ともなれば技術で攻めるしかないが、必殺の一撃を繰り出そうにも間合いを詰められてはそうもいかない。そろそろ決着をつけたかった。ここでこの強者を逃せば、北条の武として大いに盟友・長野業正に害をなすだろうことは明らか。関東管領など心の底からどうでも良かったし、くたばっても何一つ困りはしないが、業正に死なれるのは嫌だった。

 

「そろそろ終いにしようではないか」

 

「望むところ」

 

「姫不殺の習いはあれど、武人の戦いにそれは不要のことと考えるがいかに」

 

「同意しよう。気遣いをされるなどご免だ」

 

 両名とも相手をこの一撃で確実に屠るという心持ちでいる。一度両名離れて得物を構える。一歩先に信綱が動く。その速さは風の如く。それに綱成も反応するも、やや遅れる。経験と鍛練を積み重ねてきた年月の差が綱成を追い詰める。剣の切っ先が針のように鋭く自分の首元に迫る。繰り出した自分の槍は信綱に躱される。首筋に近づく刃に綱成は死を覚悟する。目に映る光景はゆっくりとして見える。走馬灯が見える。短い生涯。だが、北条家に来てからは幸福だった。しかし、最期に先輩に会いたかった。そう思い彼女は目を閉じようとした。

 

 しかし、天運は信綱には微笑まなかった。

 

 キンッ!という金属が金属に当たる音が信綱の刀から鳴り響く。それにより僅かに彼の剣筋がズレ、綱成の首筋をすんでのところでかすめる。綱成の首の薄皮が少し切れ、すっと一筋血が流れる。毛細血管の血なので大事ではない。

 

「何奴!」 

 

 信綱は何が起こったか何とか理解していた。おそらく自分の刀に矢が当たったのだろうと。戦場に矢が転がっているのは通常の光景だが、さっきまでなかった矢が自分の足元に刺さっている。それを認識したうえで、あと少しで殺せたところを邪魔した者を探す。加えて、勝負を邪魔されたことに無粋さを感じ苛立っていた。 

 

 一方の綱成は命を長らえたことに安堵していた。武人としての誇りはあれど、別に死にたい訳ではない。助かったのならば、自分が卑怯卑劣な行いを働いた訳ではないのだからして、それはそれでいいと思っていた。この辺りの認識の差は両名の決定的な差である。

 

 そして、綱成には矢を撃った相手に心当たりがあった。射手の技量は凄まじいものがある。日本刀の細い刀身に正確に矢を当てるのがどれだけ難しいか。もっと言えば、信綱の剣を振るう速さは尋常ではなかった。高速で動く細い物体に矢を的確に当てられる人物は知り合いでただ一人。自らの先輩である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 上杉朝定を捕えて急いでUターンしている。綱成が心配だった。恐慌状態の敵軍とは言え、率いる将はあの武田家の攻勢を七度に渡り跳ねのけた名将長野業正。それにおそらくこの時期ならば、剣聖・上泉信綱が陣内にいる可能性が高い。とにかく急がなくては。

 

「よし、追いついたぞ、合流して敵を叩け!」

 

「「「「応!」」」」

 

 指示を出し、朝定探しに従事していた兵が一斉に合流しにかかる。さて、綱成はどこだ。目を皿にして探すが、夜であり、長野陣の松明の明かりはあれど、それも少ない。煙も所々に出ており、探すのは難しい。

 

 何事もなければよいが…。嫌な予感がする。

 

「おい、どこかに綱成はいないか!」

 

「先ほど、敵将らしき男と戦っておりましたが…」

 

「それはどこだ」

 

「あちらの方角でございます」

 

 質問をした兵が指さす方向に目をやる。

 

「助かった!」

 

「お役に立てましたならば幸いです。ご武運を!」

 

 見送る兵に手を上げ、その方角を目指す。喧騒の中、一際激しい音がする。金属のこすれ合う剣戟の音。尋常ならざる闘気が肌を刺す。そして見えた。十数メートル先。先ほどの兵が言っていたように、剣を持った男と槍を持った綱成とが争っている。下手に介入すれば、自分が死ぬだけだろう。

 

 固唾をのみながら見守る。一度戦闘が止まり、二人は構え直す。おそらく、次で決めるため。万が一に備え、男の持つ剣を狙うように弓を構える。男は動く。あの速さ、あれが剣聖か。動体視力には自信がある。剣の切っ先はまっすぐに綱成の首へ吸い込まれる。咄嗟に指を離した。

 

 矢は一直線に飛んでいく。そして、剣が綱成の首を切り裂こうとした瞬間に命中し、剣を弾く。当たったことに安堵する。

 

「何奴!」

 

 上泉信綱が叫ぶ。答えるべきか否か迷うが、結局答えることにした。無視したところで、自分が発射したと露見する可能性が高かった。弓も持ったままなので余計そうなる可能性が高い。これ以上剣聖とやり合うのはいささか分が悪い。二人がかりでも斬られかねない。退かせるためにもあえて尊大さと余裕を演出する。

 

「これはこれは剣聖殿。失礼致した。されど、我が配下をみすみす殺される訳にもいかぬでな。無粋とは思えど、介入させていただいた」

 

「では、貴殿がお相手いただけるのか」

 

「否否。私程度の剣の腕前では、そちらに瞬殺されるのが関の山。此度はここいらでお引き取り願えぬか」

 

「それを呑まねばならぬ理由がどこにある。二人とも斬り殺せば良いだけの事。折角の強者との仕合いを妨げられ、当方はやや虫の居所が悪い」

 

 この発言で交渉の突破口が見えた。その時、長野家の陣が徐々に撤退を始める。退き鐘や太鼓が鳴る。

 

「長野隊は退くようですぞ。貴殿はよろしいのか」

 

「貴殿らを斬った後に合流しても間に合うだろう」

 

「そうか。では、一つ提案と行こう」

 

「聞くだけ聞こうか」

 

「強者と仕合うのが貴殿の望みならば、今は退き、しばし待たれよ。いずれ、また戦場でこの綱成が貴殿と相対した時、今夜よりも強くなった彼女と戦えるだろう」

 

「…」

 

 上泉信綱は思考を始める。その立ち姿に寸分の油断もないが、理性を保って戦場にいるとんでもない人間だ。だが、それ故に交渉の余地はある。

 

「承知した。北条殿」

 

「…何でしょうか」

 

「いずれまた」

 

「……次はその首もらい受けます」

 

「ハハハ威勢の良いことで。次は貴殿の過保護な主のおらぬところでやり合いましょうぞ。では私はここいらでご免。河越城主・一条殿もいずれまた。貴殿ともいつか刃を交わしてみたいですな」

 

 そう言い残して、剣聖・上泉信綱は風のように消えた。名乗ってもいない自分の正体をあっさり見破られたが、よくよく考えれば、綱成のことを配下と呼べるのは私か氏康様のみ。消去法で素性を見破ったということか。

 

「しかし、良く聞いているものだ。あの冷静沈着とした姿と戦場で狂わず、理性を残したままのあり方。怖いものだ…」

 

 思わず、そう呟く。しかし、なんとかこの場は撤退させられた。急に長野家の軍勢が撤退を始めた理由が今一つ分からないが、とにかく重要なのは彼らに損害を与え、撤退させたという事実。南方に退いたので、氏康様の隊を背後から急襲、という訳でもなさそうだ。おそらくは、飯能か狭山の辺りまで退いて、秩父を経由して上州に戻る算段なのだろう。あの辺なら確かに山道はあるものの、撤退は可能だろう。あそこは北条領ではないので、襲われることもないはずだ。落ち武者狩りをしようにも、あの数では無理だ。推定で四千くらいはいるように思える。元々七千五百いたので、残りはおそらく屍となったか逃げたかだ。 

 

 いつまでも突っ立ったまま思考している訳にもいかない。半分呆然としている綱成に声をかける。

 

「おい、おーい。綱成、綱成!生きてるか!」

 

「あ、は、はい。先輩。生きてます。ちょっと助かったと思ってぼうっとしてしまいました。まだまだですね」

 

「いや、仕方ないさ」

 

「あの時、確かに死ぬ、と思ってました。ありがとうございます」

 

「今は助かったが、次はどうかわからない。あの男はまた我らの前に現れるだろう。その時は、助けられないかもしれん」

 

「大丈夫です。次は必ず勝ちます。戦が終わったら鍛練を一からやり直すつもりですので」

 

「そうか…」 

 

 心身にダメージはなさそうで安心した。この調子なら大丈夫だろう。さて、もう一人、手のかかる姫がどっかにいるはずなのだが。

 

「いやっほー!お二人ともお元気ですー?」

 

 噂すればというか、呑気な声がする。何してるんだ、緊張感を持て、と言いたくなって口を開こうとした時に彼女の放った一言で、驚愕することとなる。

 

「わたくし、長野軍を撤退させましたわ!」

 

「は…?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なぜ、内政官になりつつある彼女が長野軍を退かせるに至ったのか。それを語るには綱成と信綱が戦い始めた頃に時間を戻さねばならない。

 

 この時、兼成は護衛数騎と共に、長野家の陣の内部にいた。先に突撃した兵の後に続いたのである。綱成がいない理由を彼女らは知らなかったが、ともかく綱成がいないならば、自分が指揮をしなくてはならないと思い陣頭指揮を執っていた。

 

「しかし、戦の空気には相変わらず慣れませんわね」

 

 ぼやきながら、進んでいく。陣内は混乱しており、堂々と進めた。彼女は無為無策でここにいるわけではない。彼女は彼女なりに熟考したうえでここにいる。その考えを現実のものにするには、ある人物を探す必要があるのだが、なかなか見当たらない。

 

「はてさて、どこにいるのやら。何となく目星は付いておりますが、外れれば無駄骨。居て下さればよろしいですが」

 

 

 

 

 

 そのお目当ての人物こと長野業正は撤退か抗戦かで決断を強いられていた。抗戦する場合は主の上杉憲政を放置することになる。加えて、兵も混乱しておりどこまで抵抗できるかは未知数だった。最悪、相打ち覚悟なら今攻めてきている軍勢を潰すくらいは出来るはずだ、と業正は考えていた。

 

 息子、吉業は抗戦を主張して譲らない。冷静さを保てる上泉信綱は強者の気配を感じたと言って出て行ってしまった。北条軍はおそらく、本隊の数ではない。となれば、城の軍勢だろう。ここにあの軍勢がいるという事は、河越城の城門近くに陣取っていた扇谷上杉家が敗れたという事を示している。迷っていたところ、陣幕が突如としてめくられる。息子・吉業を始め、この場にいる将が一斉に抜刀した。

 

「探しましたわ。長野信濃守業正様。こんばんわ、ごきげんよう」

 

「誰だ!貴様!我が手の者ではないな。面妖な。敵の刺客か。ならばこの場で斬り捨てる!」

 

「ええ、わたくしは確かに長野家の者ではありませんが…短気は損ですわよ。いついかなる時にも冷静に、ねぇ?」

 

「誰かと聞いてるんだ!」

 

「あらあらまあまあ、仕方ありませんわね。わたくしは、河越城城主・一条兼音様の副将・花倉越前守兼成と申します」

 

 敵将ではないか!と諸将は色めき立つ。予想外の大物に業正もやや驚く。

 

「のこのこと現れて、何をしに来たのかはしらんが斬ってやる!」

 

「待て!」

 

 業正は逸る息子を抑える。パッと見た所、強者には見えないが、こういう手合いが一番危険だ。どんな手を隠しているかわからない。この謎の余裕の理由が不明な以上、下手な手は打てなかった。得物は目視できるところ、何の変哲もない刀と小刀。手元の鉄扇のみ。

 

 だが、吉業は静止を聞かず刀を振り降ろそうとする。が、その剣が降ろされることはなかった。構えたまま固まっている。理由は簡単。喉元に鉄扇が突き付けられてるからである。彼女は元々は箱入り娘。武術など使えない。その点では鞭術は使える氏康以下の戦闘力であった。しかし、このままでは主に受けた恩を返せない上に自衛も出来ないため、綱成や配下の武士たちに頼んで武術を教わっていた。その結果、鉄扇と小刀を使って最低限の自衛が出来るようになっていた。吉業が固まっている中、優雅に彼女は微笑み続ける。

 

「だから申しましたでしょう?いついかなる時も冷静に。怒りに呑まれ我を忘れると、わたくしのような者にこうもあっさりとやられるのですわ」

 

「っ!」

 

「下がれ、吉業」

 

 業正は再度制止する。その命令に従い、吉業はゆっくりと構えた剣を下した。同時に兼成も鉄扇をしまう。業正は息を深く吐きながら兼成に問いかける。

 

「それで、貴殿は何をしに参ったのか」

 

「ええ、ええそうでしたわね。わたくしが参った理由は一つ。長野軍の撤退を提案しに参りました」

 

「撤退だと!ふざけるな!」

 

 吉業はなおも威勢よく兼成に突っかかる。しかし彼女はどこ吹く風。軽く受け流す。軽く口角を吊り上げ妖艶な笑みを浮かべる。流石は海道において一の美人と名高い今川義元の姉である。まだ幼さの残る義元とは異なり、大人の色香を身につけている。加えて、そこそこ死線をくぐっている。義元とは違う凄絶な美しさを持っていた。この笑みとトパーズ色の瞳に呑まれ、吉業は言葉を失う。

 

「威勢が良いのはよろしいですが、北条家の本隊は既に山内上杉家の陣を急襲しています。関東管領が今頃その生を保っているか否かは保証出来かねますわ。扇谷上杉家も我らが蹴散らしました。合流は難しいと考えますわ。聡明な信濃守様ならば、自軍の兵を一人でも多く生かすためにも、どうするのが最善かはお分かりいただけるでしょう。ここまで抵抗したことで、関東管領への義理忠節は果たせたのではないでしょうか」

 

 家を保ち、兵を生かすためには最善なのが何か。それを考えれば、答えは目の前の少女が話していたことがそのままである。

 

「南下し、狭山を抜けて秩父を目指せばよろしいですわ。そこなら、無事帰れるでしょう。わたくしとしても、これ以上兵を損なうのはよろしくないと考えております。長野様相手では、扇谷上杉家のように易々とはいかないでしょうし、今後の領国支配のため生き残る兵が少しでも多い方がよろしいのですわ」

 

 呻きながら熟考した業正はこの口車に乗ることにした。その心中には敗戦の原因は主・憲政の慢心が主要因なのは事実だ。ここで退いてもこれまで抵抗したため面目は立つだろう。これ以上義理を立てて玉砕する必要もないだろうと思ったのである。その心中の本人も気付いていない奥底には憲政への意趣返しも存在していた。

 

「わかった。その提案を受けよう」

 

「ありがとうございます。流石は聡明なお方ですわ」

 

「世辞はいい。全軍、直ちに撤退!退き鐘を鳴らせ!」

 

「父上!」

 

「吉業。もはや勝ちを望むのは難しい。ここは退いて、再起を図ればよい。今は耐えて黙って退くのだ」

 

「……承知しました」

 

 吉業は鋭い視線で兼成を睨む。しかし相変わらず効果はなく、兼成は優雅に微笑んでいる。それに舌打ちをしながら吉業は撤退の準備を始めた。すぐに退き鐘が鳴り響く。それを聞いた長野家の軍勢は撤退を始める。始めより深追いを禁じられている兵たちは追い回すことなくある程度のところで追撃を中止した。かくして、弁舌を以て兼成は長野軍を撤退させることに成功した。

 

 兼成は撤退してゆく長野家の軍勢を目を細めて眺めながら一つの命令を配下に下した。

 

「趨勢は決しました。河越城の支配下にある全農村に伝達。逃亡兵を皆殺しにしなさい。大将首ならば、武士に取り立て、報奨金、年貢免除などの報酬を与えると」

 

 この命令を受け取り、配下の武士たちは各地に散り、農村に命令を伝える。完全な独断だが、城の財政を握っている彼女だから出来る事であった。

 

「こんな事はきっとよろしくはないでしょう。けれど、きっと兼音様のお役に立つはず。ここで一人でも敵兵を減らせれば、今後の戦で有利に戦える。独断を叱責されたらまぁ、その時は甘んじて受け入れましょう。あのお方がわたくしを罰するならそれはそれで構いません。元より、この身はあのお方に捧げた物ですから、どう使われてもいいのです」

 

 残酷なことを命じる罪悪感に心を痛めつつも、彼女は一人呟く。その声は喧騒にまぎれ、夜の中に消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「とまぁ、ざっとこれが事の顛末ですわ」

 

「そうか…」

 

 兼成の言葉に瞑目する。やや独断専行が目立つが、考えてもこちらの不利益はない。長野家の軍勢もある程度は撃破できたし、まだ南方にいるはずの諸将の寄せ集め部隊三千も撃破したい。ここらで終わらせるのは良い判断だと言わざるを得ない。長野業正と真正面からやり合えばどれだけの損害が出るか分かったもんじゃない。落ち武者狩りも非常に合理的な判断と言える。勝手に褒賞を約束したのはいただけないが。

 

「独断が過ぎましたことは重々承知でございます。どのような処罰も受け入れますわ」

 

「…私はお前が交渉していた時上泉信綱と対峙していて軍の指揮を執れる状況になかった。以上だ」

 

「ありがとうございます」

 

 これが落としどころというか、処罰せずに済む方法だろう。私が指揮を執れない時の全権は兼成に移譲する。やや強引だが、そういう状況だったという事にすれば言い訳は可能だろう。その代わり、この場でこの件に関する彼女への褒賞はなしになる。もっとも、籠城中の功績に関してはまた別の褒賞があるので、それに色をつけるか、個人的な願いを聞くとかで何とかしよう。そう思いながら、全軍に南下を命じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もう一つの戦線では、氏康率いる北条軍本隊が奮戦していた。上杉憲政を撃破した後、その北方に陣取る倉賀野直行の陣を急襲する。この陣は憲政の本陣が攻撃されているのを見て、救援するでもなく撤退をしようとしていた。だが、それを逃がす氏康ではない。憲政に斬りかかったその刀で兵に道を示しながら、果敢に指揮をしていた。これに従う八千弱の兵は更なる突撃をする。兵数的にはほぼ同じ。ともなれば奇襲側に負ける要素があろうはずもない。あえなく七千五百の部隊は壊滅。倉賀野直行は多米元忠によって討ち取られた。長野軍の南方にいた諸将の寄せ集め部隊もあっという間に撃破され、散り散りになる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 これにて河越城の戦いは終了する。関東諸将連合軍五万五千。内、死者行方不明者三万五千。多くは夜襲による混乱でまともに戦う事も出来なかった。命からがら逃げだした兵も北条に心服している農民たちによって次々殺されていく。無傷で帰れたのは三千にも満たなかった。扇谷上杉家家宰・難波田弾正忠憲重、山内上杉家家老・倉賀野直行、同本間近江守は討ち死。総大将の関東管領・上杉憲政は片目の視力を奪われ、美男子と評判だった顔には大きな傷が出来る。扇谷上杉家当主・上杉朝定は捕縛。扇谷上杉家家臣・大石定久、藤田康邦は投降。太田資正、上田朝直は居城に撤退。その他の関東諸将は殲滅対象ではなかったため、討ち死にこそ少ないが、それでも兵を損失しており、何とか帰国するも数年は軍事行動が不可能になる。

 

 北条軍一万二千。内、死者行方不明者三百五十。あまりの損害の少なさに後世にその資料の正確性を疑わせることとなる。

 

大勝の報は南常陸を荒らし回っていた房総連合軍にも届く。これを受け、彼らは後退を開始。下総まで退き、古河城を監視する態勢に入った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 かくして、関東の覇権は一夜で塗り替わった。興国寺城の戦いと関宿城の戦い、そして今回の河越城の戦いを総称して北条大乱や関東大乱と呼称される。その全てが夜戦であったことから、後世では関東三夜戦とも言われる。旧権力の失墜は北条家の隆盛の、そしてここから始まる覇道の幕開けの象徴となる。そして、氏康はこの戦いで相模の獅子の名を得る。獅子の覚醒はこの伝説的大勝利と共に日ノ本中を駆け巡る。また、この軍師兼河越城城主として一条兼音の名も関東中に広がる。

 

 この後数百年間、この戦いは伝説として日本、さらには世界にまで広がる。それは様々な将に多くの影響を与えた。

 

 この戦いを人は今なおこう呼んで称える。「河越夜戦」と。




これにていよいよこの章は終わりです。次回はキャラ紹介して、新章にいきたいと思います。


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キャラ集➁

前回のキャラ集から今回までの新キャラと既出のキャラの追加項目を書いています。

流石にこんな作者の備忘録みたいなものだけで終わらせるのはアレなので、一応超短編を二本載せましたので許して…。


<北条家>

北条氏康…引きこもり癖のある少女だったが、一連の戦闘における華麗なる勝利で徐々にその性質は緩和されつつある。興国寺城の戦いにおいては、生来の性質から、耐え続けるのは得意なため我慢強く機会を待ち続けた。船団を用いた強襲揚陸作戦など、彼女の知る兵法の中には存在していなかったが、兼音を信頼し作戦を許可した。河越夜戦の基礎作戦を考案するなど、知将としての名采配を見せた。

 

 河越夜戦では、普段はやらない自ら剣を振るうという行為を行い、関東管領・上杉憲政の片目を奪った。その隠されていた勇猛さから「相模の獅子」の異名を得た。これにより、関東の覇権は彼女に移行し始めた。

 

 

北条幻庵…北条家随一の長老。年齢不詳。若づくりのため、見た目は二十代の美人。実は子供もいる。風魔の統率を行っている。その統率力は一連の戦闘でいかんなく発揮された。三雄会談では、今川に頭を下げさせたことに感激し、時代は兼音や氏康のような若者が引っ張るようなものに変化しつつあると寂しさと頼もしさを抱いている。まだまだ死ぬ気はないが、これからは一歩引いて見守ろうと思っている。

 

北条氏綱…故人。娘を兼音や家臣に託し穏やかに亡くなった。その最後の交流は兼音に多大な影響を与える。愛する娘に手を握られ、幸せなまま逝った。戦国黎明期の英雄。彼の遺した負の遺産である二正面戦線は娘・氏康が解決した。後世の評価は高い。

 

北条氏邦…氏康の妹。血気盛んでやや頭で考えるよりも先に手が出る性質がある。激情しやすいが、道義や義理を重んじる一面もある。兼音に対しては、最初は自分の城を見捨てようとしているのかと憤慨したが、彼の苦悩を読み取り謝罪した。興国寺城の戦いでは武功第一であった。(全体の戦功では兼音が第一。)壮大な作戦に感動しており、兼音への見方はかなり好意的。

 

北条綱成…氏康の義妹。河越城城代。河越城では武の面を担っている。兵の調練や武具の管理を担当。その武で扇谷上杉家の家宰・難波田憲重を討ち取るも剣聖との戦闘で事実上敗北。鍛練のやり直しを決意した。名台詞の「勝った勝った」は今後彼女の持ち台詞になる。

 

加藤段蔵…兼音に仕える戸隠の忍び。兼音の勧誘を受け、彼の目指すものに未来を見出し出仕する。優れた幻術使いで、異形の術も多く使える。情報収集や伝令などに優れた働きを示す。河越城の影の守り人である。

 

松田盛秀…北条家家臣。兼音の指示に従い、駿東へ急行。絶望的な状況下で半年間五百の兵をもって吉原城に籠城。見事役目を果たした。

 

多米元忠…北条家家臣。父から家老職を受け継ぐことが内定している。第一次国府台合戦では多くの首級をあげ、興国寺城の戦いでは騎馬隊を率いて活躍。その武勇を示した。河越夜戦では、逸る氏康を制止するなど、知力も高い。

 

大道寺盛昌…北条家家臣。元忠と同じく、父から家老職を受け継ぐことが内定している。多くの合戦では本陣の守衛など目立ないはたらきをしているが、興国寺城の戦いでは側面から松井宗信隊を急襲。見事敗走させた。

 

花倉兼成…兼音の副将。綱成は氏康の直臣のため、段蔵と並び数少ない兼音の直臣。北条家に来た頃はお世辞にも良将、名将とは言えなかったが研鑽を積み、その能力値は飛躍的に上がっている。河越城では内政を担当。優れた管理能力と業務執行能力で文官の尊敬を密かに集めている。河越夜戦では、長野業正を弁舌をもって撤退させた。現在のステータスは統率:70、武力:45、知力:78、内政:90、外政:85とかなりの高値を持つ。普通に美人なので、兵や民からの人気も高い。

 

遠山直景…北条家家臣。下総側の国境地帯であった葛西城を治める。第一次国府台合戦では、足利義明の家臣を多く討ち取る。

 

 

 

 

 

<里見家>

 

里見義堯…里見家当主。房総制覇に野望を燃やす安房の名将。第一次国府台合戦では小弓公方を支持するが敗退。その後北条家と抗争を続ける。関東管領の呼びかけには答えず、北条家に賭ける。関宿城の戦いでは古河公方を撃破。その強さを見せつけた。

 

正木時茂…里見家家臣。槍大膳の名を持つ勇将。関宿城の戦いでは多くの首級をあげる。

 

安西実元…里見家家臣。どちらかと言えば、知将よりの将であり、義堯の腹心として活躍する。

 

多賀高明・加藤信景・土岐為頼・秋元義久・酒井敏房・岡本氏元・市川玄東斎…里見家家臣。関宿城の戦いでは多くの古河公方の兵を討ち取る。

 

里見義弘…里見義堯の息子。万が一の際の保険として、反北条を唱えるも父・義堯に理解されず幽閉されているという事になっていた。

 

 

 

 

 

<足利家>

 

足利晴氏…古河公方。上杉憲政に唆され、反北条の軍勢を興す。しかし、関宿城で里見軍に大敗。古河城へ逃亡した。北条家から側室を迎えており、正室の梁田家の娘よりもこちらの方を愛していた。戦に出る前に、離縁を拒み無事の帰還を祈った彼女への罪悪感を心に抱き続けていたが、敗戦によって完全に自らの愛情を悟る。命からがら帰還した後、その愛する彼女に涙ながらに抱き締められ、気絶した。その後は氏康に対し、命乞いをし、上杉憲政を油断させる作戦に一役買う。

 

梁田晴助…古河公方家家臣。関宿城の城主。息子を討たれ、仇討ちとばかりに寡兵の千葉利胤隊に突撃するも、すんでのところで救援に来た真里谷信隆によって敗れ、捕縛される。

 

梁田持助…古河公方家家臣。故人。作戦に従い、関宿城を囲んでいた真里谷軍を攻撃するも、作戦が漏れていたことにより返り討ちにされ討ち死に。

 

結城晴朝…古河公方家家臣。関東の名門、結城家の当主。大した活躍も出来ないまま関宿城にて敗走した。

 

足利義明…小弓公方。故人。扇谷上杉家を支援し、古河公方・北条家と対立していたが、河越城の落城により追い込まれた扇谷上杉家の支援のため挙兵。真里谷信応・里見義堯と共に第一次国府台合戦を起こす。武勇に優れていたが、弟と息子を討たれたことに激昂し突撃したところを射殺された。氏康を我が物にしようとしており、北条家からのヘイトを無駄に買っていた。

 

足利基頼…足利義明の弟。北条綱成に討ち取られる。

 

足利義純…足利義明の息子。北条綱成に討ち取られる。

 

印東内記・土屋織部・一色刑部・椎津隼人佑・高修理亮・逸見三郎・後藤内蔵助・鴻野修理…足利義明家臣。いずれも、第一次国府台合戦で北条家によって討たれる。

 

 

 

 

<真里谷家>

 

真里谷信応…凡将であり、油断し、暴走する足利義明を止められず、第一次国府台合戦で敗北。兼音によって討たれた。

 

真里谷信隆…真里谷信応の兄。足利義明の思惑によって追放される。関宿城の戦いでは梁田持助を破り、同城を制圧。その後、千葉利胤を救援し、梁田晴助を捕らえた。

 

真里谷信常…真里谷信応家臣。兼音に一騎打ちを挑むも、今川家より下賜された剣によって胴体を一刀両断された。

 

西弾正・武田一郎右衛門…真里谷信応家臣。前述の鴻野修理と共に三人がかりで綱成に勝負を挑むも、まとめて討たれた。

 

 

 

<千葉家>

 

千葉利胤…北条家の傘の下で自らの血の命脈を保とうとしている名門・千葉家の当主。元々の居城亥鼻城を追われ、佐倉城を本拠地にしている。病弱ながら、関宿城の戦いでは自ら奮戦。しかし、多勢に無勢で討たれかけたが、そこを真里谷信隆に救われた。

 

原胤清・原胤貞・高城胤辰・相馬治胤・豊島明重・村上綱清・大須賀政常・井田胤徳…千葉家家臣。関宿城の戦いでは多くの兵を討ち取ったり、主・利胤の危機に奮闘したりと活躍を見せる。

 

 

 

 

<扇谷上杉家>

 

上杉朝定…扇谷上杉家当主。幼くして当主となっていたため、実権はない。賢い少女だが、その賢さゆえに自らを殺し傀儡に徹してきた。割と常識人であり、勝ってもいないのに戦勝の宴を催す上杉憲政に疑問を抱いたり、戦で浮かれるべきではないと思うなどと、名将の片鱗はある。兼音によって射殺されそうになるも、自ら落馬する荒業で回避。自由を渇望し、生を欲したため捕らえられる。

 

難波田憲重…扇谷上杉家家臣。故人。家宰を務め、斜陽の扇谷上杉家を支える。上杉朝定には自らを傀儡にして縛り付ける存在であるように思われていたが、彼自身としては朝定を大切に思っており、それゆえに過保護になっていた。悲しいすれ違いに最期の時に気付くが時すでに遅く、彼女の無事を祈りながら綱成によって討たれた。

 

太田資正…扇谷上杉家家臣。岩槻城城主。難波田憲重の娘婿。武断派的一面があり、知将タイプの上田朝直とは対立することも多かった。河越夜戦では、敗戦を悟り撤退した。

 

上田朝直…扇谷上杉家家臣。松山城城主。難波田憲重の甥。太田資正とは対立することも多かった。河越夜戦では敗戦により撤退。関東中を巻き込むことを計画した。河越夜戦の発案者とも見ることができる。

 

大石定久・藤田康邦…扇谷上杉家家臣。河越夜戦では投降した。

 

 

 

 

<山内上杉家>

 

上杉憲政…関東管領。貴公子と呼ばれる女好きであり、権謀術数は得意だが、武力や統率力はないに等しい。上杉朝定には嫌われていた。河越夜戦では油断しきっており、酒宴を催す。その後寝ているところを奇襲される。本間近江守によって救われるも、氏康によって左目の視力を奪われ端正な顔には大きな切り傷が出来ることになる。

 

長野業正…山内上杉家の家老。上州の虎と呼ばれる老将。慎重で緻密な作戦を好むが、憲政にはやや口うるさいと疎まれていた。河越夜戦では城への強攻を主張して却下される。急襲してきた綱成たちにもうまく対処して損害を減らすが、兼成の説得により撤退を決意。秩父方面へ退いて行った。

 

長野吉業…業正の息子。奇襲されてもなお抵抗を主張する。兼成に煽られ激昂し斬ろうとするも、鉄扇を喉元に突き付けられ身動きが取れなくなる。場数が足りないせいで兼成の雰囲気に呑まれ、タジタジになる。

 

上泉信綱…一応山内上杉家の家臣。上泉城の城主。剣聖と呼ばれる剣客。無双の強さを誇るリアル戦国無双。綱成との一騎打ちではあと一歩のところまで追い込むことに成功するが、最後の最後で兼音によって邪魔される。その際により強くなった綱成と再戦すれば良いという発案を受けて撤退した。

 

上泉秀胤…上泉信綱の娘。名前だけ言及されるも、特に出番なし。

 

本間近江守…山内上杉家家老。故人。上杉憲政を叩き起こし、撤退させる。また、氏康によって斬られかけた憲政を救い、代わりに氏康に斬られた。

 

妻鹿田新介…山内上杉家家老。河越夜戦では敗戦により逃亡した。

 

倉賀野直行…山内上杉家家老。故人。河越夜戦では北条の動きを見極めてから行動するように進言し、憲政に採用される。その結果奇襲を受け混乱の最中に元忠によって討たれた。

 

 

<小田家>

 

菅谷隠岐守…小田家家臣。台詞は無いが、河越夜戦で登場。河越へ通じる糧道を押さえており、氏康からの再三の手紙によりすっかり油断しているところを一足先に急襲されるも、本隊との位置関係により気付かれず、密かに壊滅していた。

 

 

<今川家>

 

今川義元…前回登場から目立った活躍なし。強いて言えば武田信虎の受け入れを認めたくらい。見せ場は果たして来るのやら。

 

太原雪斎…今川家の家宰。黒衣の宰相。興国寺城の戦いでは、義元政権への移行並びに将来への地盤固めのために弟子でもあり、若手の朝比奈泰朝を前線司令官に据える。その結果、大敗。自らの不明を悟り、泰朝を叱責せずにしようとしていたところに、彼女が放った武田晴信への失言を聞きキレる。その後は三雄会談にて終始北条側に押され気味だった。最終的には北条に頭を下げ今川の面子を何とか守った後三河へ遠征しに行った。

 

朝比奈泰朝…興国寺城の戦い最大の戦犯。若さゆえの実戦経験不足から情報戦において翻弄され見事なまでに兼音の策に引っかかる。恐怖のあまり関口親永を見捨ててきた事を岡部元信に糾弾され縮こまっていた。不用意な失言から雪斎に後頭部を殴られる。

 

岡部元信…興国寺城の戦いでは吉原城を囲んでいたところを北条氏規率いる部隊に急襲される。同時に城内から松田憲秀にも攻撃されたが、奮戦していた。北条氏規と一騎打ちをするも命からがら逃亡を続ける関口親永を見捨てられず、一騎打ちを放棄する。その後責任者の朝比奈泰朝を糾弾したが、関口親永に窘められ、不貞腐れた。

 

飯尾連龍…遠江の武将。三河で起きた反乱と進行する織田軍の対処に追われていた同地域の今川方の将を代表して雪斎に救援要請をしに行った。

 

鵜殿長照・松井宗信…今川家家臣。興国寺城の戦いで敗走。満身創痍になった。

 

関口親永…今川家家臣。一門衆である。朝比奈泰朝に見捨てられ置き去りにされ逃げまどっていたところを岡部元信に救われた。その後、朝比奈泰朝を糾弾する彼女を諫める。

 

 

 

 

<成田家>

 

成田長親…忍城の留守居役を命じられた当主・長泰の甥。農民と分け隔てなく接し、人望に厚い。成田家の家中からは評価されていないその才能は未知数。河越夜戦ではその数日前に北条の勝利を確信。長泰を自らの父であり、長泰の弟である成田泰季が死んだという嘘の伝令でだまし、帰城させた。

 

成田甲斐…成田家の姫。当主の方針により、成田家は姫武将を認めていないため、名乗りが通常の姫武将とは異なる。武勇に優れており、美人と聞こえが高い。実は長親に好意を抱いているが、突飛な行動を繰り返す長親の行く末を心配している。

 

成田長泰…成田家当主。長親に騙され帰城した。臆病で猜疑心の強い性格で、妻や一族からはあまり好かれていない。

 

 

 

<武田家>

 

武田晴信…幼名勝千代。後の信玄。甲斐の虎。温和で知的な将であったが度重なる父親からの人格否定、諏訪頼重による暗殺未遂で心を病みかけていたが、山本勘助によって天下への道を意識するに至る。罪悪感を感じながらも、己の進むべき道を見出し、父・信虎を駿河へ追放する。その後は妹婿の諏訪頼重を攻める。諏訪攻略戦後、今川の援軍に赴く。初陣の大成功からやや慢心気味であったが、その緩んだ心は興国寺城の戦いで根本からぶち壊される。妹の様子に戸惑いを覚えるが、幸せならそれでいいかと思っている。

 

武田信繁…父・信虎に姉よりもずっと期待をかけられてきたことに負い目を感じていたため、信虎追放では率先してそれを先導し、重要な役目を果たす。姉と、今まで触れられなかった時間を取り戻そうとしている。その行動を後押ししたのは兼音の存在だった。花倉の乱以後、彼の動きに注視してきた。興国寺城の戦いではその危険性を説くも疑問視される。敗走が決定した時は、武田軍の無傷の撤退と引き換えに自らの身を差し出す。三雄会談が無事終わった後は、陣中で兼音より貰った孫氏・呉氏を大事に抱えながら甲斐へ帰国した。さながらその心情は推しの地下アイドルが全国区になった際のファン一号のそれ。教えを乞うべく、手紙を書こうと考えている。

 

武田義信…武田信虎の唯一の息子。武勇は優れているが、粗野で考えなしなところがあるため、信虎も早々に当主継承は無理だと判断した。ちなみに、長男だが産まれたのは晴信、信繁に次いで三番目。

 

武田信廉…通称孫六。絵描きを自称する風流人な変わり者。容姿は晴信にそっくりだが、双子ではない。お気楽に生きているように見えるが、その実色々と考えている。

 

一条信龍…姓は違うが、彼女も信虎の娘。甲斐の名門にして祖先を同じくする一条の名跡を継がされた。存在感が薄く、眠っているように見えるが独特の嗅覚を持っている。それにより、人の性質や戦の機運なども嗅ぎとれる。腐った果実のような裏切りの匂いがすると穴山信君を警戒していた。

 

武田信虎…武田家の先代当主。晴信を文弱の輩と蔑視していた。かつては彼女に大きな期待を抱いていたが、その大きすぎる将器を感じられずいつしか罵倒するようになっていた。鬱屈した愛情が歪みに歪んだすれ違いの果てに追放される。娘と共に自らを裏切った老臣たちに武田の為に死ぬようにと叫び、駿河へ連れていかれた。

 

禰々…信虎の娘。信濃攻略を断念した父親によって諏訪頼重と政略結婚をする。政略結婚ながら、夫に対しては愛情を抱いており、姉を裏切った夫に対し悲しみを覚えているが、それ以上に夫を許さず諏訪家を事実上滅ぼした姉に対して怒りを感じている。何とか再興のために尽力していた。最終的には、夫・諏訪頼重と共に北条家への人質として相模へ送られる。

 

穴山信君…武田家一門衆筆頭の姫武将。腹黒く、権謀術数を好む。もっとも軍才が無い訳でもなく、そつのない用兵をする。信虎父子の諍いや家臣団の追放決定の流れを盗み聞きし、いいタイミングで自分を売りつけることで地位を確保する。信龍に警戒されるもとぼけることでそれ以上の追及を逃れた。彼女的には裏切るのは衰勢が見えてからなので、今はまだその心配はない。ただ、いざとなれば容赦なく裏切るので、信龍の嗅覚もあながち間違いとは言えない。

 

山本勘助…異形の軍師。諱は晴幸。長らく流浪の生活を送っていた。かつては忍び働きもしており、山の民とも交流がある。真田幸隆とは旧知。天下人の軍師となり大戦をしたいという野望を抱いており、その天下人として晴信を見出す。非道な策を好む。兼音との優劣はまだ不明。心の底で若くして北条家で活躍する彼に嫉妬している。人の運命を見る占星術である宿曜道に通じている。

 

板垣信方…武田家四天王。長らく武田家の中核を担ってきた老臣。晴信の守り役を務めており、彼女には同情的であった。甘利虎泰と共に武田家のために死ぬことを決意した。

 

甘利虎泰…武田家四天王。板垣と同じ老臣。涙もろい性格で、最後は武田家のために死ぬことを決意した。

 

横田高松…武田家四天王。元は伊賀からの流れ者であり、信虎に拾われた。利に敏く、見切りの早い性格であり、信繁を味方につけた晴信に付くことを素早く決めた。

 

飯富虎昌…武田家四天王。四天王では唯一の姫武将。赤備えで知られる戦狂い。赤い理由はどうせ敵の血で染まるのだから、遅いか早いかの問題だから。これには流石の信虎もドン引きしていた。義信とはいわゆる幼馴染。

 

馬場信房…旧名教来石景昌。晴信の指示で未来の武田家を担う姫武将になるべく、信虎によって滅ぼされた名門馬場家の名跡を継ぐ。信虎はこれにも苛立っていた。怪力の持ち主で巨大な槌を武器にする。

 

春日源五郎…春日村の農民の娘。貧乏で食うものにも困っていたため、山野を駆け巡り、狩猟にいそしんでいた。その影響で優れた小刀の投擲術を持つ。後の高坂昌信。

 

小山田虎満…旧四天王の一人。飯富虎昌にその座を譲り引退した。

 

馬場虎貞・内藤虎資・山県虎清・工藤虎豊…故人。暴政を続ける信虎に諫言し、そろって切腹を申し付けられた。

 

 

 

 

 

<その他>

 

諏訪頼重…婚礼の儀で甲斐まで赴き、そこで目にした晴信の将器に恐れを抱き暗殺をもくろむ。最終的に失敗するが、これが理由で攻められた。甲斐へ護送され、妻の禰々と共に軟禁生活を強いられていた。最後は相模へ人質として送られることとなる。プライドが高く、この人質となることも嫌であったが死ぬ勇気もなく従わざるをえなかった。

 

諏訪四郎…本編完全未登場。存在だけは言及されている。頼重の妹であり、現在は兄夫婦と共に軟禁中。

 

織田信秀…本編完全未登場。存在だけは言及されている。今川を嵌めるための策として兼音に利用される。三河へ攻め込むが、大きな戦果は得られなかった。これには不満を抱いていたが、興国寺城の戦いで今川が完膚なきまでに叩きのめされたのを聞き溜飲を下げた。

 

猿飛佐助…真田忍び。諏訪頼重に雇われて晴信の暗殺を目論むが失敗する。

 

軍神ちゃん…感想欄で大人気の少女。まったく話には出てきてないが、作者が感想欄でのあまりの人気(違う)故にここに載せた。彼女の状態的には河越夜戦に前後して長尾為景が死亡。晴景は家督を(家臣に脅され半ば強制的に)譲り、当主になっている。もっとも、内憂外患が山積みで反覆常無き越後の国衆の統率に苦労している。兼音の最重要警戒対象。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

≪超短編Ⅰ・山中の小城にて≫

 

 関東で行われた三つの大きな戦いは、いずれも北条家とそれに与する勢力の勝利で幕を閉じた。その中でも興国寺城の戦いと河越夜戦は一際大規模な殲滅戦として諸国に広まる。北条家側も終わってしまえば情報統制をする必要性は皆無。むしろ、武威の喧伝のため積極的に他国に広めた。陸奥から都まで。四国の辺境から日ノ本の最南端まで。これを誇張だと思う者、信じる者様々であった。そして、この伝説的な戦の一連の顛末は吟遊詩人のような形をとった北条家の息のかかった商人たちによって事細かに伝えられた。美濃は菩提山城という小城にて、一人の病弱な少女がその北条家の影響下の商人の話を熱心に聞いていた。

 

「迫りくるは関東管領・古河公方率いる連合軍その数驚天動地の八万。同時に駿河よりは海道の雄・今川が精兵一万八千を動かし迫りくる。まさしく国難。絶体絶命。されど、相模の獅子は動じず。その相貌を寸分たりとも変化させず己の軍師に策を用意させる。そこで若軍師一条兼音がひらめきたるは古今東西類無き大奇襲。聞こえ名高き鵯越もこれには勝てぬと小田原では評判のこの策こそ軍船数百艘を使った上陸だ!」

 

「今川は偽計に欺かれ夜間に慌てて撤退を始めた。それを聞くや否や港より北条の大軍が大海へ漕ぎ出す。燃やすは闘志、握るは己の得物。月無き海より来る敵と半年自分の軍を引き付けていた別働隊が突如としてはじめた大攻勢に今川は敗走。太原雪斎は和を乞うた!」

 

「これを受け、獅子はその身を反転させ義妹の地黄八幡の籠る河越城を救援に向かう。一条兼音は己の居城であるこの城に無敗の戸隠忍び・鳶加藤に導かれ戻った。関東、否、日ノ本有数の知者二人に挟まれた関東管領に勝ち目なし。夜襲にいとも容易く敗走。だが、ただ逃げるのを許しては北条氏康の名が廃る。その美しき眼に炎を灯し、月下一閃関東管領の喉元を狙う。そして刃はこの男の目を片方奪い取る。すかさず二の太刀を振るも、敗軍にも忠臣あり。忠臣の命を引き換えにした護衛にすんでのところで取り逃がす」

 

「しかし、勝利は勝利。三つ鱗の行くところ遮れる者なし。軍勢は四散し、関東はもはや彼の家の治るところになる日もそう遠くはなし。暁の空に刻まれた勝利の雄叫びがそれを物語っているのだ…」

 

 端折ってはいるものの、概ねこの調子で話が進んでいく。

 

 話を終えた商人が退出すると、彼女は咳き込みながら、先ほどまでの話を反芻していた。戯曲風に語っていたので多少の誇張はあれど、おそらく大部分は真実であると彼女は思っていた。

 

「一条兼音さん…一体どんな方なのでしょうか…」

 

 彼女の知る兵法に上陸作戦などというものはない。しかも海戦ではなく、あくまで戦場は陸戦。夜襲を軍船を用いてかくも大規模にやるというのは衝撃だった。

 

 まだ見ぬ東の地にいる軍師の姿に思いを馳せ、どこか心の中で彼といつの日か戦う日が来ると不思議な予感を感じていた。彼女の名前は竹中半兵衛重治。今孔明と現代でも名高い名軍師。陰陽師という側面もある。果たして彼女の予感は本当のものになるのか。それはまだ誰も知らない。時代が生み出した真の天才と全世界の戦争がその頭脳に収められた知識の男。その二人が知恵比べをしたとき、どちらに軍配が上がるか。その結果を断言できるものもまた、いないのだった。

 

 

 

 

 

 

 

≪超短編Ⅱ・現代side≫

 

「来年の大河のモデル・主役決定」

 

 TwitterにNHK公式アカウントが出したこのツイートは多くの反響を産む。近年落ち目だった大河ドラマの人気を上げるために、NHKは予算をふんだんに掛けたドラマの作成を決定する。舞台は戦国にすることは決定していた。人気なのがこの時代なのだから仕方ない。

 

 この発表された20××年の大河ドラマは少し話題を呼んでいた。と言うのも、放送の数年前に通常だったら人物とキャストが発表される。だが、この年に限っては放送の半年前・つまり情報が公開された今日まで完全シークレットだったのだ。この異常事態にネットは少し湧いていた。近年は戦国がブームになりつつある。選ばれる武将が誰なのか。掲示板では予想合戦が行われていた。その結果発表されたのは

 

タイトル『はためく三鱗』

 

 これにネットは大歓喜した。いままで凄まじい人気を誇りながら一回も採用されなかった北条家の大河ドラマがやっと来る。川越市と小田原市以下、関東の市町村が歓喜に沸く。しかも、原作は新進気鋭の作家が書いた長編歴史小説でもありながら恋愛小説としても知られている作品だった。俳優&女優は実力派揃い。神脚本と神キャストに加え武将たちも有名どころ勢ぞろいである。

 

 更に注目を集めたのは今回の作品が原作通りなら一条兼音と北条氏康のダブル主人公になる。この発表の少し前にテレビで行われた戦国武将総選挙にて、一位は惜しくも織田信奈に譲るも、堂々の二位につけたのがこの北条氏康だった。ちなみに三位は武田信玄、四位は一条兼音である。ビックネーム二人を使ったあたり制作陣も本気だった。

 

 

 

 そして、半年後に放送された初回は驚異の視聴率をたたき出す。かつての名作、「風林火山」と「邪気眼龍政宗」を上回る戦果に日本中が注目した。氏康と兼音の関係性、そして魅力的な北条・武田・上杉の姫武将や兼音をはじめとしたカッコよく演じられた男武将に多くのファンが生まれた。その視聴率はほとんど落ちず、最終回では驚異の56%を記録する。これはあのビートルズの公演と並ぶ数字だった。ちなみに、織田信奈を扱った「野望の火」も視聴率は30%代と悪くはないが、これには遠く及ばなかった。兼音の予期しないところで北条家は天下を取ったのである。




その大河ドラマの内容が何か。それはこの先の物語で語られます。気になる方はぜひともこれからもこの作品にお付き合いください。



…ただの宣伝です。すみません。次回はすぐに投稿します。具体的には今週中。

武将たちもこれからまだまだ出てきます。リクエストはメッセージ等で常時募集中。あと、戦国時代の貿易に関して知識のある方は教えてください…。


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第4章 北狄来襲
第34話 戦後処理


今回はちょっと短めです。


 河越城の戦いをもって、関東中を巻き込んだ大戦は終了した。上杉方は敗走し、古河公方は謹慎する。勝者となった北条家は戦後処理に入ろうとしていた。河越城では、論功行賞が行われようとしていた。兼音は大広間を整え、本来は城主用の席を空けて氏康を迎え入れた。関東中を巻き込んだ大戦の完全勝利を受けて、北条家は戦勝ムードで満ちている。市勢も喜色に溢れていた。 

 

 

 

 

 

 

 ひっ捕らえた上杉朝定を自室に放置しているので、それを何とかしなくてはいけない。段蔵によれば、運ばれている最中に気絶したらしいので、様子見が必要だ。骨も折れていたし、治療も必要だろう。昔、中学生時代に学校の階段から滑って見事に手足を折ったことがあるので、治療のやり方はわかる。

 

「起きてるか」 

 

 襖を開けて、室内に入る。敷かれた布団の上に、仰向けで寝ている。起きてもらわないと治せないので、ペチペチと軽く頬を叩く。

 

「ん…ううん…」

 

「起きてくれないか?早く治したいのだが」

 

「あ!は、はい。う、痛い…」

 

「無理に起きるな。じっとしてろ。手足は伸ばせるか?触るから痛かったら言いなさい」

 

「はい」

 

 ゆっくり触っていく。左腕と左足が折れてる。ただ、そんなに複雑には折れてない。添え木でなんとかなるかな。傷もあるので、消毒もしなくては。念のため持ってきた治療セットを用意する。

 

「動くなよ」

 

「は、はい」

 

 腕に添え木をして、包帯もどきで巻く。三角巾で吊って、固定する。足も同じように添え木と包帯で固定する。あとは、焼酎を染み込ませた綿を傷に当てる。

 

「よし、ゆっくり起き上がれ。歩けるか」

 

「何とか、なりそうです」

 

「大丈夫そうでなにより。これより、私は論功行賞の場へ向かう。そこでお前の助命を何とか頼んでみる。北条の老臣には、お前に悪印象を抱いているものも多い。頑張って説得してみるから、大人しくしててくれ」

 

「分かりました」

 

 朝定を連れて、廊下を進む。すれ違う女中が怪訝そうな目で見てくる。違いますよ。隠し子とかじゃないですよ。本当に誤解されてそうなので後で何とかしなくては…。大広間に到着する。朝定に壁に寄っかかって待つように指示して、中へ入る。

 

「一条兼音、参りました」

 

「中へ」

 

「失礼いたします」

 

 中には諸将が集合している。思えば私、いつも最後だな。

 

「揃ったわね。では、始めましょう」

 

 一同が頭を下げる。

 

「まずは、戦勝を祝いましょう!皆、半年間本当によく耐えてくれたわ。ありがとう!」

 

「「「「「ははぁ!」」」」」

 

「我ら北条家はこれをもって負の遺産だった二正面戦線を打破したわ。まずは状況を今一度整理しましょう。盛昌。頼んだわ」

 

「はい。かしこまりました」

 

 盛昌が中央に出る。ドンと巨大な地図を中央において、その前に座る。

 

「まずは駿河戦線。興国寺城の戦いで我々は奇襲作戦で大勝。これの勝利によって、富士郡の割譲の代価に今川との対等な不可侵条約を結び、武田家とも協力体制を築き人質の確保にも成功しました」

 

「その人質ですが、小田原留守居の氏政様から伝令があり、禰々御寮人と諏訪頼重殿が到着したとのことです。氏政様は指示を求めております」

 

 補足するように清水康英が告げる。着いたのか。意外と早かったな。

 

「次に里見家並びに千葉家・真里谷家の軍勢です。彼らは関宿城で古河公方足利晴氏旗下の軍勢を撃破。古河公方は我らに和を乞うています。里見家からは真里谷家の上総からの退去と三年の不可侵、貸した軍船の返却と貸し賃の支払い、香取郡・匝瑳郡・海上郡(東下総)の割譲を要求してきております。真里谷家は代替地を用意してくれるのならば、退去も可能と。また、古河公方はあらゆる条件を呑むと申しております」

 

「最後に河越城で敗れた関東諸将ですが、まず扇谷上杉家当主・上杉朝定は行方不明。投降者は牢に入れております。関東管領は沈黙を保っていますが、上州平井城へ逃げたようです。これから旧扇谷上杉家家臣団の残党が相次いで和を乞うてくるかと思われます」

 

 地図を見れば、北条の影響圏はかなり広い。駿東郡、相模、武蔵のほぼ全土、下総半国。豊かな大地を抑えた。これで後は残党狩りが終われば北から厄介なのが来る前に備えが出来るだろう。

 

「ご苦労様。さて、今盛昌がした説明は聞いていたわね。これより論功行賞と今後の方針を決めるわ。皆意見を出しなさい」

 

 ここでいくしかないか。廊下に待機させている少女(幼女?)を呼び出す機会だろう。場の雰囲気が盛り上がっている時になら何とか交渉がうまく行く可能性が高いだろう。

 

「氏康様。よろしいでしょうか」

 

「何かしら」

 

「…ご紹介すべき者がおります。廊下に待たせておりますので、中へ入れてもよろしいでしょうか」

 

「凄く既視感があるし、何なら嫌な予感がするけれど、許可します」

 

 遠くを見ながら頭に手を当て、ため息をつくように氏康様は言う。申し訳ないなぁと思いながら、朝定を招き入れる。

 

「中へ!」

 

「し、失礼いたします…」

 

 襖がゆっくりと開いて、よいしょよいしょと足を何とか動かしながら朝定が入ってくる。

 

「あなた…まさか!」

 

 何事か察した氏康様を罪悪感を感じながら無視して、自己紹介を促す。

 

「自己紹介を」

 

「お初にお目にかかります。扇谷上杉家当主・上杉朝定です」

 

 この言葉に、大広間は大混乱に陥った。

 

 

 

 

 

 

 まぁ無理もないだろう。いきなり行方不明の敵の大物が痛々しい包帯姿で出現したら誰だって腰を抜かす。インパクトと言うか衝撃が強すぎたのか、皆口をポカンと開けたまま唖然としている。

 

「説明」

 

「…はい」

 

 若干ドスのきいた低い声で命じられ、ヒエッとなりながら説明を始める。

 

「戦場で保護しました…というのは正確ではないですね。弓で射ようとしたら自ら落馬して回避するという荒業で避けられたので、慣例に従い降伏か死かを選択させたところ、降伏を選んだので連れてきました」

 

「あなたはまたそうやって…」

 

 おそらく我が副将の顔が頭に浮かんでいるであろう氏康様は、目を抑えている。重ね重ね申し訳ない。氏康様が疲れている間に、皆が現実世界に戻ってきた。

 

「お前!どういう事だよ!上杉は怨敵。その当主を取り逃がすでも殺すでもなく、捕らえるって何考えてるんだ!興国寺城でちょっと見直したのに…」

 

「そうですぞ!いくら姫不殺と言ってもあくまで慣習は慣習。場合によっては守らずとも良く、乱戦ではいかようにも出来ましょうぞ」

 

「一条殿には申し訳ないが、処刑すべし!」

 

「優しさだけでは生き残れませんぞ!」

 

「その通り!」

 

 予想通り、氏邦様筆頭に非難轟々だ。しかし、人格攻撃してこない辺り、現代人よりよっぽど理性的かもしれない。

 

「まぁまぁ皆様。一度落ち着いて下され。私も何の利益も無いのにこんな小娘を生かしておいたりなどしません。真の役立たずなら、とっとと殺しております。優しさから助けたなどと思われるのは心外ですな」

 

 

 朝定には申し訳ないが、別に本心でなくともこう言わないと本当に今すぐ叩っ斬られてしまう。敢えて厳しいことを言って生かす利益をアピールしなくてはいけない。何を言うかは、こうなることは展開予想していたので、既に考えてある。

 

「上杉朝定を生かす利益は三つ。一つは正当性の主張です。関東管領の武威は地に落ちました。諸将は揺らいでおります。ですので、ここで対抗馬を持ち出すことで、”北条家と関東管領の争いに北条家側で参戦した”よりも諸将の靡きやすいであろう”扇谷上杉家と関東管領の上杉家の主導権争いに扇谷上杉家側で参戦した”という状態が作れます。もっと言えば、都合のいい傀儡の誕生ですな」

 

「二つ目に、旧扇谷上杉家家臣団の円満な吸収でしょう。扇谷上杉家家臣団はまだ健在です。各地に散った彼らが我らの元を訪れなくてはならない理由が出来ます。人望厚き家宰・難波田憲重が命を賭して守った彼女を見捨てることは彼らにはできますまい。家臣団の中でも勢力の大きい松山城の上田朝直と岩槻城の太田資正は難波田憲重の縁戚。彼の遺志を壊さぬためにも一層帰順しやすくなりましょう」

 

「最後に、将の育成です。どうやら、彼女は扇谷上杉家での発言権は皆無に等しかった模様。家臣の独断を目の当たりにしてきており、自由なき日々を送ってきた彼女は、今までとは異なる環境を求めております。ここで恩を売り、若き彼女に次世代の北条家の為に粉骨砕身してもらいましょう。怨敵扇谷上杉家の当主が我らに膝を屈しながら日々奉公していると考えれば、皆々様の溜飲も下がると考えますがいかがか」

 

 ここまで一気に言うと、皆が黙り込む。損得勘定をしているのか、己の感情に整理をつけているのか。それは分からないが、取り敢えず即刻処刑ムードからは解放された。

 

「確かに、筋は通っておるが…」

 

「しかしなぁ…」

 

 今一つ納得していない様子。どうしたもんかと思っていれば、元忠から助け船が入った。

 

「ここで上杉朝定を助命すれば、長年の敵対関係を知っている関東の諸将は驚き、北条の寛大さを見てこちらに靡く者も出るのでは?今後の敵も降伏しやすくなるかもしれない」

 

 この発言が決定打となり、場の空気は助命に流れる。小さく元忠に頭を下げれば、気にするなと言うように手をひらひらさせていた。朝定は無言で頭を下げる。どこか安堵したようにも見えた。

 

「まぁ、一度助けてしまったものは仕方ないわね。もう諦めて利用し倒してしまいましょう。あなたが責任を持って監視する事!良いわね?」

 

「ははぁ!」

 

「ならばよし!この件は終わり。あぁそうだ、今ので私の心労が増えたから、ついでに武田からの人質も監視しなさい」

 

「え」

 

「”え”じゃないわ。あなたが武田に要求した人質じゃない。それに、話を聞く限り私と諏訪頼重は確実に相性が悪いわ。諏訪頼重は武田晴信という姫武将に敗れた。似たような存在の私との相性は最悪でしょうね。河越で戦乱を忘れて余生を送らせなさい。それに、あなたは武田と繋がりが当家で一番深い。その点からも置いておいて損はないと思うわ」

 

「…承知しました」

 

 厄介なのが三人も同時に来るのか。勘弁してほしいが、これくらいは甘んじて受け入れよう。期待されていると考えれば悪い気はしない。

 

「次は里見ね。貸しが大きい分譲歩を迫られるのは仕方ないとしましょう。私としては、向こうの要求を全て呑むつもりだけれど、この約定に何か意見のある者は?」

 

「真里谷家の代替地は武蔵内に用意すればよろしいでしょうか」

 

「そうね。南武蔵の辺りに見繕いましょう」

 

 盛昌の質問に氏康様は頷く。房総方面の安定が得られればしばらくは北に専念できる。上野、下野の切り取りが可能になる。強いて言うなら付け足したいことが一つ。

 

「里見家に海上交易に関する協定を行えますでしょうか。民間の商船への攻撃を永久的に相互禁止する契約を交わすのはいかがでしょうか。互いに海上封鎖で孤立する事態を防げるうえ、交易の活発化を推進可能と存じます」

 

 実際のところどこまで有効かは不明だが、少なくとも抑止力になる。里見は海上戦力が強い。東京湾や伊豆沖を封鎖されてはたまったもんじゃない。最悪この時代の数百年後の軍船を造ればいいのだが、私は船舶の専門家じゃないので大体しか分からない。密かな目論見としては南蛮船や明の商船を呼び寄せたいのだが…。そのためにも安全な航路と港は必要だろう。向こうにもメリットがある話だ。

 

「堺や九州に来ている異国の船などを呼び込めれば、内陸国の関東諸将に経済的・軍事的に大きな差をつけられるかと」

 

 出来れば帆船の設計とか大砲の設計図とか売ってほしい。スペイン語はほんの少しだけ分かるから是非とも来てほしいが。本当はイングランドの船が一番いいんだが。

 

「里見は数年は外征をする気はないのでしょう。房総は後回しにするのでしたら、良いのではないかと」

 

「港の活発化は我らも望む所です」

 

「当家に利が多いわね。よろしい。その策を採用し里見家と交渉に入るわ。おばば、葛西城の遠山直景と共に交渉にあたってちょうだい」

 

「ふぉふぉ。年寄遣いの荒い当主じゃなぁ。承知したぞ」

 

 これで房総は片付く。越後からお客様が呼ばれてもないのに土足で侵入してくるので、その対策をしなくては。

 

 

 

 

 

 

 

「問題は古河公方ね。滅多なことは出来ないし困ったものだわ」

 

 これを受け、場は扱いに関し議論を始める。

 

「鎌倉に送るべし」

 

「引退させ、息子に継がせるべきでござろう」

 

「しかし、あまりやり過ぎては反発が強まる恐れが…」

 

「いや、ここで一気に軍権を奪い取るのが最上。古河城以下、領土の明け渡しを要求致しましょう」

 

「領土明け渡しはマズいのでは…?」

 

「結城家は講和を望んでおり、梁田家は当主を捕縛中。古河公方の二大家臣がこの有様ならば大丈夫でござろう」

 

「領土明け渡し、鎌倉で事実上の軟禁の代わりに生命の保障、加えて公方はそのまま足利晴氏の続行が妥当ではないでしょうか」

 

 最後の盛昌の意見で議論は収束する。こちらとしても、ここで古河公方を手元に押えておきたい。正当性の主張には役立つだろう。

 

「一つ要請するとしたら、上杉憲政から関東管領の位階を取り上げて貰いたいですな。ついでに次の関東管領を上杉朝定に継がせれば、こちらの正当性は完璧でございましょう。本来の人事権は都の公方にありますが、今やそれも形骸化しつつあります。事後承諾でも問題ないでしょう」

 

「それは良い案でござるな」

 

「これならば領国支配も安定化できますぞ」

 

「加えて、領土拡張の正当性も確保できますな」

 

 賛同多数。うまく行った。これには言った通りの目的もあるが、ただの人質よりもしっかり位階を与えることは朝定を守ることに繋がるだろう。預かった命ならば最後まで責任を持たなくてはいけない。

 

「では、先ほどの盛昌の言った案の通りとしましょう。兼音の意見も伝えるわ」

 

 氏康様が頷き、この問題にも片が付く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後の会議は順当に続いた。まだ戦闘終了から時間が経っていないので、そう大きなことは出来ない。多くの関東諸将はまだ自領に戻っていない。その為交渉も出来ないのでそんなに決めることは無いのだ。千葉家の臣従要請を受け入れる事、捕らえた藤田康邦と大石定久にはそれぞれ氏邦様と氏照様を養子として送り込む事が決定する。我々河越城の立ち位置としては、前述の取り込んだ両家の統制と扇谷上杉家旧領の統治代理を命じられた。北条家の名目上の武蔵方面の指揮官は氏邦様。実質的な指揮官は私。周辺領土の加増と大規模な資金援助が認められた。これにて河越城の軍事的地位はかなり上昇する。武蔵を完全支配するための中核基地となるのだろう。氏照様は滝山城に入るらしいが、あそこは現代で言うところの東京都。氏邦様は鉢形城に入る予定らしいが、時期はもう少し先になりそうだ。

 

まだ未支配領域が広がっているのは埼玉県部である北武蔵なので、こちらが主導権を持っていると考えてまず間違いない。

 

 個人的な見解だが、上田朝直と太田資正は朝定の名前を出せば降伏してくるはずだ。その他の北武蔵諸将も、頼るべき相手がいない現状、降伏か死かを選ばざるを得ないだろう。唯一不気味なのは身内の葬儀と称して決戦数日前に突如陣を引き払った成田家だが、あそことは交渉次第になりそうだ。

 

 平穏が訪れれば、内政に取り掛かれる。農業改革、商業改革などやることは盛り沢山だ。招かれざる客が来るまでに準備を整えたい。

 

 

 

 

 

 

 

 これから忙しくなりそうだ。なんにせよ、しばらくは平穏が手に入るだろう。しばらくは、な。




次回は北武蔵の攻略です。それが終われば武田、そして長尾家の話になっていきます。お楽しみに。


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第35話 鳥籠の鳥を愛した人

今回は扇谷上杉家の話です。


 河越城で上杉連合軍に大勝した北条家は戦後処理を実施。その後祝宴が開かれ、街も城も大いに賑わった。そして、軍勢は帰還。河越城は平穏を取り戻しつつあった。

 

 そんな河越城では降将であり、一条兼音に命を救われた上杉朝定の処置が行われていた。

 

 

 

 

 

「これより、この河越城に住むこととなる扇谷上杉家当主・上杉朝定だ。立場は私の与力であるが、まだ戦働きは不可能であろう。その為しばらくは教育期間を置く。彼女の存在は今後の北条家の領国経営において非常に重要なものとなる。丁重に、とまでは行かないが普通の暮らしを送らせてやるように」

 

 広間には困惑が広がる。それもそうだろう。数日前まで敵だった、しかもその大将の一人だった少女が包帯姿で頭を下げている光景を見て、平静でいられる奴はなかなかの変人だろう。

 

 綱成は目頭を抑えながら何やら唸っているし、兼成はどういう訳か笑っている。

 

「納得いかないこともあるかもしれぬし、困惑しておるだろうが、どうか頼む。上杉家は怨敵だが、真に大事なのは北条家の繁栄。その為ならかつての敵ですら利用せねばならぬのだ。近々古河公方は鎌倉へ移る。それが完了し次第都の将軍に使者が送られる。その使者が将軍に述べる文言の内容が許可されれば、朝定は新たな関東管領に就任する。これの意味は言わずともわかるな?」

 

 この言葉に納得したのか、一同静かに頭を下げた。

 

 幕府の復権を望む足利義輝が将軍だったら危なかったかもしれないが、今の将軍は弱腰の足利義晴。困窮しているとも聞くし、金を送れば承認するだろう。そうすれば、上杉憲政は逆賊。堂々と上野を征伐できる。加えて従わない勢力は関東管領と鎌倉公方(旧古河公方)の名の下に戦争を吹っ掛けられる。もっと言うなら越後の軍神の正当性も減るだろう。伝承通り、義と正当性を重んじる人間ならこの展開に苦悩するはずだ。義はともかく、圧倒的な正当性がこちらにはある。もっとも、私は上杉謙信の人間性をそこまで評価していないので、何とも言えない。それに、実際の謙信がどんな人物かわかるまでは安易な推測は危険だろう。依然、警戒と対策は続けるべきだな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数日が経ち、二名の人物が城を訪ねてきた。一人は松山城城主・上田能登守朝直。官吏風の細身の男だ。もう一人は大槻城城主・太田美濃守資正だ。風貌は戦国武将らしい筋骨隆々である。この二名は援軍もなく、これ以上の抵抗は不可能と判断した。難波田憲重は死に、主である上杉朝定が降伏したことは知れ渡っていた。ともすれば、いち早く降伏することで自らの勢力を保たねばならなかった。加えて、死んだ憲重の願いは主・朝定の安寧であったためそれを叶えなくてはならない。このような経緯を経て、両名とも数騎の手勢と共に河越城にやって来たのだ。

 

 

 

 目の前の二人の男は、深々と頭を下げている。一応、朝定も横に椅子を持ってきて座らせている。彼らの主はまだ朝定だ。北条家への臣従を誓っていない以上、現在の力関係をはっきりと目に見える形でアピールする必要があった。

 

「この度は、私どもを受け入れていただき、誠に感謝の極みであります」

 

「朝定様を処刑することなく、生かしていただいたことは、旧家臣団を代表して御礼申し上げます」

 

 朝直と資正は口上を述べる。

 

「両名とも、よくぞ参られた。私が河越城城主にして、北武蔵の鎮圧司令官・北条氏邦様の代理として貴殿らの対応を務めさせていただく一条兼音である。まず両名に問いたいのは、ここにこうして参ったという事は、当家に恭順する意志ありと見てよろしいか」

 

「いえ、扇谷上杉家が未だ存続している以上、私どもの主は朝定様でございます。裏切るわけには参りません」

 

「なるほど、それはごもっとも」

 

 こう来たか。まぁ、これは予想通り。そう簡単に裏切っては沽券に関わる。大義名分はまだ大きな力を持っている。関東武士は武勇を重んじるが、正当性や大義名分もまた重んじる。

 

「扇谷上杉家がこの先どのように扱われるかによって、我らの行動も変わります」

 

「そう簡単に膝を屈しては関東武士の名折れ。いざという時には貴殿を斬ってでも朝定様をお救いするまで」

 

 資正が殺気を放ってくる。当の朝定は無表情。

 

「まぁまぁ、そう興奮なされるな。では、お望み通り扇谷上杉家の扱いを言おう。端的に申せば、扇谷上杉家は関東管領になる。こちらには古河公方・足利晴氏がいる。彼に都への書状を書かせ、現関東管領の上杉憲政の罷免と新管領として上杉朝定の任命を公方にやらせる」

 

「なんと…」

 

「朝定様が…関東管領?」

 

 信じられないような顔で二人は驚きを露わにする。

 

「当然、都合の良い事ばかりではない。有体にいえば、彼女には我らのこの城で過ごしてもらう。申し訳ないが、傀儡だ。しかしながら、これは蔑ろにするという訳ではない。北条の扇谷上杉家に対する恨みは深けれど、それは水に流し関東の新秩序の形成に尽力するまで。彼女にはその象徴になってもらう。もし両名がここで我らの軍門に下ったとしても面目は保てよう。形式上は上杉朝定に仕えるということにして、内政軍事に関してはこちらの方針に従ってもらうこととはなるが、そう悪い相談ではあるまい。こちらでしっかりと一人前の武将として教育もしよう。扇谷上杉家は存続できる」

 

「これならば、扇谷上杉家の立場も守れるか…。加えてこの処置ならば我らも…」

 

「……」

 

 思考を口にする朝直とは対照的に資正は無言で瞑目している、心情的には納得しづらいところがあるのだろう。

 

「あまりこういう事は言いたくはないが、ここで貴殿らが反旗を翻すと、もっと言えば北武蔵の平定が上手くいかない場合彼女の立場がどうなるか…。私は外様故に上杉に恨みはなけれど、宿老の方々はそうではない。彼らを説得するのには骨が折れるのです」

 

「ふむむむ…」

 

「……」

 

「朝直、資正」

 

 ここで不意に朝定が声を発する。

 

「北条は私を殺さず、受け入れた。死を与えず、生きる道をくれた。私は、北条で生きていく。二人にもそうして欲しい。……私はもう、鳥籠には戻らない」

 

 最後の言葉に二人の顔が一瞬だけ悲しげに歪む。ここにどうもすれ違いがあるのかもしれない。少し、聞く必要があるかもしれない。ともかく、彼女の言葉に二人は腹をくくったようだ。

 

「これよりは、北条家の軍門に下りましょう」

 

「こちらも同意する」

 

「よし。無駄な血を流さずに済みそうだ。配慮に感謝する。これより貴殿らの領内に代官を送る。また、領土縮小は無し。その代わりに今後の武蔵統治のために尽力せよ。当然、外征時には兵を出してもらう。よろしいか」

 

「「承知」」

 

「よろしい。朝定は下がってくれ。少し、両名と内密な話がある」

 

「はい」

 

 少し怪訝そうな顔をしつつ、彼女は私の自作の松葉杖を突きながらゆっくりと退出していった。足音が聞こえなくなったところで顔に疑問を浮かべている二人に再度声をかける。

 

「ここからは別にお家のことでも何でもない。少し楽にしていただいて結構。少し個人的な疑問があったので、少し残ってもらった」

 

「はぁ」

 

「…」

 

 胡乱げな視線を向けられる。

 

「疑問と言うか聞きたいことなのだが、朝定のことだ。彼女は私に降伏するときこう言った。『鳥籠の中で、死にたくない。どんな目にあっても、空を飛びたいの!お願い、お願い。私に、自由を教えて…!』とな。それで噂通り、扇谷上杉家は家臣によって主・朝定は傀儡と化していたと思っていた。だが、様子を見る限りどうもそうではなさそうだ。それで、真実を知りたいと思った。彼女は自分が傀儡として閉じ込められていたと思っている。聞かせてはくれまいか」

 

 両名は沈黙する。二人は小さくアイコンタクトをしあう。どう話すべきか迷っているように見えた。結果、朝直が話すことになったようだ。

 

「…そういう側面があったのは事実でしょう。ですが、亡き憲重様も我らも、決して朝定様を蔑ろにして専横するつもりなどございませんでした」

 

「では、朝定は傀儡などではなかったと?」

 

「我らの心の内ではそのつもりでした。結果的にすれ違ってしまいましたが…」

 

「元々我らと朝定様は良好な関係だったのだ。まだ、先代の朝興様が生存されていた頃だが」

 

「先代様がお亡くなりになられた際、朝定様は心をとても痛められてしまったのです。憲重様も我らも、それを見ていることが出来ず、どうにか苦しみを減らして差し上げようとなるべく政務に関わらせぬようにしていたのですが、どうもそれが朝定様には閉じ込められているという風に感じられてしまったのでしょう。気付いた時にはもう、我らの間柄にはどうしようもない壁が存在していました。それをどうしたらよいのか、我らにはわからず気付いた時には朝定様はまったく笑わなくなっておいででした」

 

 悲しい背景が少しずつ見えてきた。思いやり故のすれ違いなのだろう。

 

「憲重様は心より朝定様のことを考えておいででした。河越城を取り返そうとやっきになっていたのも、朝定様に安息の地であり、亡き先代様との思い出の残るこの城にいて欲しいと考えたからです」

 

「死ぬ間際まで朝定様のことを考えていただろうな。あのお方のことだ。不器用な方だったよ。それでも、朝定様への愛は本物だったはずだ」

 

 嘆息するように朝直は言い、資正は亡き難波田憲重のことを悼むように言葉を続けた。二人の目には光るものがある。

 

「そうか…。よく話してくれた」

 

「いえ、どうか、朝定様をよろしくお願いいたします。我らには見せることのできなかった世界を朝定様に見せて下さい」

 

「頼む。あのお方にはきっとわれらでは気付けぬ才があるはずだ。それを開花させてやってほしい」

 

「お任せあれ。助けると決めた時より覚悟はしている。さて…両名とも本日は泊まっていかれるとよい。ささやかながら宴を設けましょう」

 

「かたじけない」

 

「感謝する」

 

「それと、半刻ほど経ったら使いを送る。その者がある場所へ案内する。ついて行ってくれ。暗殺とかではないから安心してくれ」

 

「承知しましたが、いったい何処へ」

 

「行けば分かる」

 

 疑問を抱きつつ、両名は頭を下げて退出していった。少し、朝定と話さなくてはいけないな。ここまでする義理はないが、聞いた以上は何かしてやりたいと思うのが人情だ。それに、このまま一生すれ違ってしまっては亡き難波田憲重が浮かばれない。小さく息を吐きながら、立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 包帯を巻いた足を引きずりながら、ゆっくりと杖をついて廊下を歩く。あまり会いたくない顔を見たせいでイライラしていた。今更なんなのだ。そんなに私を閉じ込めておきたかったのか。朝直と資正の顔が悲しげになったことを思い出し、余計にイライラした。

 

 与えられた部屋に戻ると、椅子に座った。足が治るまで地べたには座れない。情けなくて悲しかった。襖の向こうから声がした。

 

「入るぞ。いいか?」

 

「はい」

 

 私を助けてくれた兼音様がその顔を覗かせる。助けてくれたというのもおかしな言い方だけれど、他の北条家の将に会っていたら私は問答無用で殺されていただろう。だから、私は幸運なのかもしれない。兼音様はどこか困ったような顔で部屋に入っていた。

 

「少し、行きたいところがあるのだが、良いか」

 

「はい。何処へでも」

 

「そうか。では掴まれ」

 

 そういって兼音様は私を抱きかかえる。まるで赤子のような抱き方だったけれど、不思議と嫌ではなかった。腕の中で揺られながら景色を見れば、城の屋敷を出てゆっくりとどこかへ向かっている。ゆらりゆらりと揺れていると少しずつ眠くなっていき、気付けば目を閉じていた。

 

「着いたぞ」

 

 その言葉に目を開け、辺りを見回す。ここは、多分城下の寺。そしてここは墓地だった。目の前には一つの墓石。そこには扇谷上杉家之忠臣難波田憲重之墓と書かれていた。

 

「ここって…」

 

「そうだ。難波田憲重の墓だ」

 

「なんでこんなところに私を連れてきたのですか。私は…!」

 

 強い口調で兼音様に突っかかる。やりきれない思いが渦巻く。嫌がらせかと思った。

 

「この人にずっと縛られていたのに…か?」

 

「……そうです」

 

 そこで兼音様はふぅとため息を吐く。そのため息の意味が分からず、睨む。

 

「この人は、本当にお前を縛っていたのか?ずっとずっと産まれてこの方ずっとそういう風に扱われてきたのか」

 

 何を言っているの、と戸惑う。

 

「朝直と資正より話を聞いた。彼らはお前を閉じ込める意思などなかったと言っていた」

 

「だったら、だったらどうして!」

 

「守りたかったんだそうだ。先代の遺児でまだ幼少だったお前を守るためだったんだ。不器用な彼らはそうする以外に策を思いつけなかったんだ」

 

「うそ、そんなの嘘っ!」

 

「嘘じゃないさ。お前はどうやってあの混迷極まる本陣から逃げ出した?あのままあそこにいたら、うちの綱成に斬られていたと思うが。死んだ難波田憲重は死ぬ間際に綱成ではなく、全く違う方角を見続けていたと綱成から聞いたぞ」

 

 そんなこと、信じたくなかった。確かに憲重には助けられた。でも、それは義務感からのはずだ。違う、違うんだ。兼音様は勘違いしている。訂正しようとしたところを遮られた。

 

「義務や忠誠じゃない。だったらどうしてこんなものを懐に入れたまま戦っていたんだ。いままでこれの意味は分からなかったが、先ほどやっとわかった。彼は、お前との思い出を大事にしていたのさ」

 

 差し出された紙には、大分色あせた墨の線。辛うじて人の顔に見えなくもない。それを見て一気に昔の忘れかけていた記憶を思い出す。遠い遠い昔の古ぼけた思い出。

 

 

 

 

 

「これ、これあげる!」

 

「おや、五郎様。これは…顔の絵ですかな」

 

「うん!のりしげのかお!かいたの」

 

「ははは、拙者ですか。ふむ、大分男前に描いて下さいましたな」

 

「じょうずでしょ!」

 

「ええ、ええ。お上手です。この憲重、一生の宝でございます…」

 

 

 

 

 

 

 

 どうして忘れていたんだろう。あんなに楽しかった日のことを。死の間際までこれを持って、こんな落書きを本当に一生の宝にして、最期の時まで持っていたなんて。こんなもの、何度だって描いてあげるのに。もっと上手い絵を、何度でも。でも、もう、かなわないんだ。だって、だって…!

 

心はいっぱいになって、涙があふれてきた。

 

「愛する故にすれ違ってしまったのさ。どうしようもないほど悲しくて、誰も悪くなんかない。彼の行いは褒められたものじゃないかもしれないが、優しさゆえのものだったのだ。だからこそ、救われないな…。ただ一つ言えることは」

 

 そこで言葉を区切りながら、兼音様は私のぼやけた視界の中でこう言った。

 

「どれだけ嫌われ、疎まれていても、彼はお前を愛していたよ」

 

 もう限界だった。あふれるものを抑えられなくて、物言わぬ墓石にしがみつく。腕と足の痛みなど、気にならなかった。 

 

「憲重、憲重ぇ!ごめんなさい、ごめんなさい!私がもっと、しっかりしてたら。賢かったら。あなたの想いに気付けていたら…!あなたは死ななかったかもしれないのに…!あんな絵なんて何度でも描いてあげるから、また、私と、話してよ!もう、嫌ったりなんかしないから!」

 

 その私の肩に手を置きながら、兼音様は呟く。

 

「もう死者は蘇らない。けれど、愛する人はたとえ冥界からでも、お前を見守っているんだ」

 

「ああああああああああっ!」

 

 抑えられない涙と叫びを墓石にぶつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 叫びながら泣いている朝定を見守る。

 

「朝定様!?」

 

「貴様、何を!」

 

 泣き声を聞きつけたであろう朝直と資正が走ってくる。丁度予定通りだな。凄い剣幕の二人に無言で墓石を指さす。

 

「これは…」

 

「あのお方の、墓地…」

 

 二人は言葉を失いながら、視線をさ迷わせる。そして、朝定の握りしめていた紙を見つけた。

 

「これは…昔、見せられました。これは儂の宝だと。何度も何度もしつこいほどに」

 

「ああ、よく覚えてるぜ。よく眺めてたよな…」

 

 この紙と朝定の様子で二人は何があったのか察したらしい。長年のすれ違いは、今終わったという事に。

 

「心より、感謝申し上げます」

 

 こちらに背を向け、口元を抑えながら嗚咽を殺して朝直は言う。資正はグッと拳を握りしめ、こちらを見据えた後、手を地について深々と頭を下げて

 

「すまない。そして、感謝する」

 

 と言った。それを見た後くるりと背を向ける。ここに私は不要だ。語らうべきはあの三人なのだから。彼らを背にしたまま黙って手を振る。

 

 

 

 

 

 

 

 朝定はあの二人が回収してくれるだろう。万が一にもあり得ないとは思うが、その万が一に備えてこの寺は忍びが警護している。しかし、朝定も要人だ。専用の護衛が必要だな。そんな事を考える。

 

「あーあしかし、慣れないことはするもんじゃないな」 

 

 寺の門前で一人呟く。

 

「なかなか粋なことをなさいますね」

 

 いきなり現れた段蔵にやや驚くが、最近は慣れてきてしまっている自分がいることに気が付いた。慣れとは怖いものだ。

 

「なに、少し気が向いただけだ」

 

「そうですか。では、そういう事にしておきますね」

 

 含みのある笑みを浮かべる彼女を横目でチラリと見る。

 

「是非、そうしてくれ」

 

「御意」 

 

 金色の瞳が楽しそうにこちらを見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「本当に何から何まで、ありがとうございました。このご恩は一生忘れません。これより、この上田能登守朝直、誠心誠意励んで参ります」

 

「ああ、よろしく頼む」

 

「ほら、あなたもですよ」

 

「分かっている。太田美濃守資正。これより朝定様と共に北条家の発展に尽力しよう。命をかけてでも、礼は返す」

 

「期待している」

 

 二人から礼を受け取る。宴ではあの後どうなったかは聞かなかった。聞かずとも、どうなったかは様子からわかるし、何より聞くべきではないと思ったからだ。今は朝定も一緒に見送りをしている。これが、関係がどうなったかの何よりの証拠だろう。

 

「それでは朝定様、兼音殿、またお会いしましょう」

 

「それじゃあな」

 

「ええ。次お会いできるのを楽しみにしております」 

 

 頭を下げて、二人は馬に乗り、供の数騎と共に駆けて行った。地平線の果てに見えなくなるまで、朝定とそれを見送る。

 

 

 

 

 

 

 

「兼音様」

 

 不意に朝定が呼びかける。

 

「なんだ」

 

「私、ずっと間違ってました。私のいた鳥籠は冷たくて固くて暗いと思ってました。でも、本当は私が気付けなかっただけで、そこには暖かさもあったんですね」

 

「それに気付けたのなら、難波田憲重も浮かばれるさ」

 

「はい。…私はずっと逃げ出したいという気持ちから外の世界を知りたいと思ってきました。でも今は、前向きな気持ちで外を知りたいと思うのです。兼音様、どうか私に、世界を教えてください」

 

 暗い顔をして、人形のようだった彼女の瞳はいつしか輝きを放っていた。そこにあるのは好奇心か、それとも別の何かか。それは分からなかったが、とても輝いていた。ここまで変わるか、と驚きつつも子供の成長とはそんなものなのだろうと親のような感想を抱く。

 

「辛いことも、苦しいこともたくさんあるぞ」

 

「覚悟はしました。私は、もっと広い世界を知って、そしていつか憲重にも話すのです。きっと憲重が見ることのなかった光景を。その為に私は、今生きているんです。生きてる者の勝手な言い分かもしれませんが、それが、私が憲重にできる恩返しだと思います」

 

「そうか。ではよろしい。私の知識、叩き込んでやろう」

 

「よろしく、お願い致します」

 

 そう言ってぺこりと頭を下げる朝定の頭をポンポンと撫でる。

 

「さ、帰るぞ。やることは多いんだ」

 

「はい!」

 

 少しづつ治りつつある足を動かしながら、朝定は歩いていく。それを一歩後ろから見守る。鳥籠に囚われていたと思っていた姫は今、真実を知り、そして飛び立った。その行く末は誰も知らないが、もしその未来を想像して語るのなら。

 

 きっと大空を舞っているだろう。美しく、雄大に。鳥籠の鳥を愛し続けた不器用な誰かに見せるように。

 

 そう、思ったのだ。



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第36話 北武蔵

英語弱者が露呈し、感想欄でご指摘を受けたので、タイトルを少し変更しました。ご了承下さい。


 ここでやや時間を戻す。時は河越夜戦の後すぐである。北武蔵は忍城にて怒り心頭の男が怒鳴り散らしていた。男の名は成田長泰。成田家の当主にして、忍城の主である。彼が激怒しているのは弟が死んだという嘘の報せによって兵を引き上げる羽目になったことが原因だった。そしてそんな嘘を長泰に伝えたのは彼の弟の子、つまり甥の長親であった。日頃からでくの坊の役立たずのうつけ者として知られていた彼のこの行動には今まで我慢してきた長泰も堪忍袋の緒が切れていた。

 

「貴様ぁぁ!何という事をしてくれたのだ。このこと、どのように管領様に伝えればいいのだ!そもそも何故こんな事をしでかした!」

 

「命を救ったのだ。感謝されこそすれ、怒鳴られるいわれはないな」

 

 怒髪衝天の長泰の言葉もどこ吹く風。長親は飄々と受け流す。

 

「命を救う…?何を戯けたことを!ついに気でも狂ったか。我らは万が一にも負けるはずのない戦いをしておったのだぞ」

 

「いいや、管領は負けるさ。天地がそう言っている。民を苦しめた家に隆盛はない」

 

「…いよいよ頭がおかしくなったようだなっ!よいか、我らは五万五千、敵は高々一万と少しぞ。偽りの報せまで用いて、本当に何を考えておるのだ!もう埒が明かん。長親、お前はしばらく拘束する。管領様より沙汰が下るまで大人しく待て!」

 

「好きになされるがいい。じきに結果はわかる」

 

「ああ言えばこう言いおって。そうだ、甲斐。お主も何をしていた。しっかり止めぬか!やはり、女に武家のよしなし事は務まらん」

 

 甲斐姫は反論できず、黙りこくっている。静かに頭を下げながら、目ではチラチラと長親の方を見ながらその身を案じている。苛立ちの収まらない様子で長泰は話を切り上げ長親を牢獄へぶち込もうとしていた。そこへ大慌ての兵が駆け込んでくる。

 

「申し上げます!」

 

「どうした。今は取り込み中だ」

 

「それが、緊急事態でございます。河越城にてお味方大敗!管領様は逃亡中。扇谷上杉家当主も行方不明!連合軍は損害多数。各地へ四散しました!」

 

「なん、だと……」

 

 長泰は顔面蒼白で視線をさ迷わせる。あの数の軍勢が負けるなど、彼の常識ではありえない事だった。そして長親に目線を向ければ、ほら見ろと言わんばかりに座っていた。長泰の目は、自らの知力では計り知れぬものを見る恐怖に染まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 河越城の城内の一室では、少しづつ回復に向かいつつある朝定に兼音による講義が行われていた。まだ小田原の小さい屋敷で兼成と二人で暮らしていた頃に彼女に行っていたのと同じことをしているのである。ちなみに、あの屋敷は未だに彼の持ち物であり人を雇って定期的に清掃させている。あまり小田原に長期滞在しないが、滞在するときにはまだ使っている。

 

 それはともかく、朝定はまだ小学校五年生くらいの年齢ではあるが、この時代は賢い子供が多い。またその中でも朝定は特に優秀であった。その為、兼音の多少難しい話もどんどん吸収している。彼も彼できちんと分かりやすいように教えているので、結構なスピードで講義は進んでいる。

 

「良いか、お前は今後大人になった時に武蔵の統治の一端を担う事になるかもしれない。加えて、私の後継者候補である。兼成は補佐の方が向いているし、兵法しかしっかりと教えていない。政治思想に関しては深く教えていないのだ。綱成は槍働きが向いている。その為、私の代わりに統治者になれるように鍛えるのだ。分かったか」

 

「はい」

 

「知識は持っているだけでは何の役にも立たない。正しく機を見て己の知恵の泉より引き出すのだ」

 

「はい」

 

「ではまず、統治者に大切なことは何か。仁義だの礼考などではない。忠は主に対するものであり、為政には必要としない。まず民を重んじる事。そして法を重んじる事だ。この二つを守らねばならない」

 

「仁義はいらないのですか」

 

「いらない訳ではないが、それを重んじるあまりその他が疎かになってはいけない。民無くして国は保てず、法を軽んじ容易に破れば、国は乱れる。実利を取り、理想は二の次だ。古の仁義では国を治められぬと韓非子にはある。あの書は時折過激なことも書いてあるが、これは真実だろう」

 

「どうして仁義を守っては国を保てぬのですか」

 

「仁義を守るとは、人々のかくありたいと願った生き方の理想の集合体だ。人はそうなれないからこそ夢想を抱く。そんなもの、実行不可能だろう」

 

 冷たい声で兼音は言う。その目にはある種の暗さがあった。朝定はそれに少し怯える。だがそれを知ってか知らずか、兼音は言葉を続けた。

 

「そもそも仁義、特に義など己の主観に過ぎない。立ち位置が変わればそれは容易に牙を剥くだろう。この世に絶対的な義などなく、あるとするのならそれは空想の産物か妄想だ。空想のものを信ずるなど馬鹿馬鹿しい。この世は全て正義と正義のぶつかり合いなのだ。それ故に戦乱は続き、末法の世を救うはずの仏教も宗派で争っている」

 

 吐き捨てるように言う言葉に、恐る恐る朝定は問いかけた。

 

「兼音様は、正義はお嫌いなのですか」

 

「いや。自分が絶対に正しいと信じてるやつが嫌いなんだよ。私は自分の行いがどこまで行っても人殺しであることを知っている。その行いに正しさなどないとさえ思っている。私が戦うのは氏康様の為でもあり、この地に住まう民の為である。正しいかどうかではなく、己が何を為したいか。それが己の信念と相反してはいないか。それが重要である、と私は考える」

 

「…」

 

「剣は殺すことも生かすことも出来る。どうするかはお前次第だ。結局、誰かを守り助けるという事は誰かを傷つけ、助けないという事であるからな。お前の進む道を義だのなんだのと言った曖昧模糊なもので肯定しようとするな。己の信ずる道を行け。そこに肯定を求めるな」

 

「……はい」

 

 その返事に満足したのか、兼音は目線を朝定から逸らし、遠くを見つめた。

 

「兼音様」

 

「何だ」

 

「もし、もしも、自らは義の化身だと謳う者が敵に現れたらどうなされますか」

 

 彼女は長尾景虎のことを全く知らないが、知的好奇心からこの問いが出てきた。そして兼音はこれに当てはまる人物が長尾景虎であると思った。

 

「殺す。それだけだ。我らは、いや私はそのような者とは絶対に相容れない。どこか我らの知らぬ地で妄言をまき散らすだけならともかく、敵として立ち塞がるなら殺してやろう」

 

「そ、そうですか…」

 

「そうだ。いい年になって絶対の正義を妄信している奴はただの愚か者だ」

 

 だが…、と彼は言葉を区切って言葉を選んでいるように口ごもる。

 

「だが…?」

 

「一度も正義を信じたことのない奴はただの人非人か臆病者だ」

 

 その言葉に朝定は答える術を持たなかった。あまりにもそれを言う兼音の目が悲しそうであったから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一条兼音とてこんな悲しい思想を産まれた時から持ち合わせていたわけではなかった。だが彼はある意味正義に裏切られたのである。

 

 彼は高知県に産まれた。父親は自衛官。母親は看護師。人を助け、守る仕事を生業とする親。そんな家系に産まれたからだろうか、彼は両親に強い憧れを抱き、強い正義感を持ち合わせていた。幼き頃は正義の味方に憧れた。そして、今はその在り方を憎んでいると言っても過言ではない長尾景虎は、彼のかつての好きな武将だった。なお、歴史好きは父親の、弓道は母親の影響が強い。

 

 概ね幸運な人生を送っていた彼の人生は十五歳の時に一変する。両親の死であった。

 

 病死ならまだ呑み込めたであろう。けれど現実は非情だった。彼の両親は事故死だったのである。それも、逃走する車を追っているパトカーのハンドルミスによって起こされたものだった。己の信じていた両親という名の正義は犯罪者を追い治安を守るはずの警察と言う正義によって殺された。この時に思春期と言う多感な時期の真っただ中だった彼の心は一度壊れることになる。

 

 この事件は大きなニュースになり、日本中を騒がせたが、そんなことは彼にとってはどうでも良かった。信じていたものに裏切られたと感じた彼は己の心中に警察への、そして正義への憎しみを抱き始めた。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと言うように、彼のぐちゃぐちゃの思考は理不尽に対する怒りの捌け口を求めたのである。独りぼっちとなった彼は両親との思い出にすがるように史学と弓道に没頭していった。そのどちらも極めたと言えるまでに。彼の異常ともいえる技量と知識はここに由縁がある。そして、いつしか長尾景虎も彼の憧れではなくなっていった。調べれば調べるほど幻滅していった。勝手に幻滅された本人からしたら知らんがなという感じであろうが、それでも彼にとっては大きなことだったのである。

 

 

 

 そんな彼が戦乱の世に飛ばされたのはこの出来事から大体二年が経過した十七歳の時であった。

 

 

 であるからして、彼に敵対する者は気を付けなくてはいけない。相手するのはただの十代の青年ではない。その頭脳に収められているのは、狂気に近い執念によって蓄えられたまさしく人類史そのもの。現在過去未来の英雄豪傑、名将知将が彼の味方であるのと同義だ。義の体現者とそれに裏切られた者。因縁の対決は、もう間もなくのところまで来ていた。己の過去を見せられたようなものである彼が何を思うのか。それはまだ誰も分からない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小田原からの客人が到着した。正確には小田原からと言うより甲斐からの客人なのだが。既に広間に通したと言われ、少し急ぎ足で向かう。

 

「お待たせした」

 

 室内に入り着座すれば若い男女が座っている。

 

「貴殿らが諏訪左近大輔頼重殿とその奥方、禰々御寮人で間違いないか」

 

「相違なし」

 

 線の細い神経質そうな男が答える。目の生気が薄く、諦観の面持ちであった。隣の禰々御寮人は顔が武田晴信や信繁に似ている。流石は実の姉妹。そっくりだ。

 

「遠路はるばるご苦労。これよりはこの河越で過ごしていただく。不自由のないようにと武田家から金子が送られてきている。後でお渡ししよう」

 

「…ありがたい」

 

「我が信条の一つに働かざる者食うべからずというのがある。という事で貴殿らには神官として働いてもらおう。この地には元々神社があったらしいのだが、長年の戦乱で燃えた。その後整備する者もおらず、最早何の社であったかもわからん。その為再建した。これを諏訪大社の分社とする。そこの神官を務めるように。良いな」

 

「まことですか!やりましたね、頼重様。これでここで子供を授かれましたら、異国の地ではありますが諏訪家の再興も叶います。本家は四郎様が継いでくださるようですし、諏訪家は安泰です!」

 

「……あぁ」

 

「ちょっと、頼重様!せっかくのご厚意です。逃す手はありませんよ!」

 

「まぁまぁ奥方殿。頼重殿は長旅でお疲れなのだろう。新居へお送りするように護衛を付けるので、早速行かれるがよい」

 

「左様ですか!ありがとうございます。さ、頼重様行きましょう」

 

「分かった」

 

 二人は案内役に付いて行った。あれで大丈夫なのだろうか。家庭内不和とか勘弁してほしい。調停の仕方なんぞ知らんぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで、貴様は何故ここにいるのだ。今は折角久方ぶりにこうして飲んでいたのに」

 

 煙草は体に毒でしかないので絶対にやらないが、酒はこの世界に来てちょくちょく飲んでいた。現代の酒を飲んだことがないのでここのものしか基準がない。その為うまいともマズイとも言えないのだが。それはさておき、ストレス解消のために一人で酒を呷っていたら、顔色の悪い諏訪頼重が駆け込んできた。

 

「何しに来た。用がないなら帰れ」 

 

「…匿ってくれ」

 

「何した。奥方を怒らせて殺されそうにでもなったか」

 

「禰々を殴りつけてしまった」

 

「…は?」

 

「ずっと閉じ込められ監視されていた反動から酒に溺れていた。そこに禰々が延々と諏訪家の再興云々の話をしたり、新しい居場所でしっかりやって行こうだのと繰り返し言い続けるので、つい苛立ち、それで…」

 

 私の目は多分ゴミを見る目になっていると思う。流石に腹に据えかねたというか、あまりの仕打ちに腹が立った。捨てきれない現代の倫理観と酔いによってやや鈍った思考が、私の手を動かした。酒を頼重の顔面目掛けぶっかける。

 

「ゲホッゲホッ!な、なにを」

 

「この大馬鹿者!こんなところで何をウジウジと愚痴っておるか!貴様がそもそも裏切らねばこうならなかった話であろう。加えて言えば、誰のおかげで貴様は今、生を長らえている!奥方殿は貴様ととっとと離縁して、晴信殿に貴様を殺させることも出来た。しかし、彼女はそうせずに何度も何度も平身低頭で晴信殿や家臣団・一門衆に頭を下げ続けたと聞くぞ!貴様が一人監禁された屋敷で死ぬ勇気もなく腐っていた時にな。それがあったから貴様は今ここにいるのだろう。そして今もなお貴様を愛そうと努力し、尽くしてくれておるではないか。貴様、何たる果報者ぞ!本来足を向けて寝られぬはずだ。それをまさか殴りつけるなど…!言語道断にもほどがあろうっ!!」

 

 胸倉掴みながら顔面で怒鳴りつけている為か、頼重は完全に委縮している。

 

「今すべきはここで我相手にウダウダ愚痴をすることではないだろう。とっとと帰って奥方殿に土下座して来い!」

 

「わ、わかった。今すぐ帰る」

 

「何が悪かったのかしっかり頭冷やして帰り道に真剣に考えやがれ。後でキチンと貴様が謝ったかどうか確認に行くからな。こんなことが続くようなら武田家にも連絡せねばなるまい。貴様はあくまで人質としてはおまけだ。大切なのは晴信殿の実妹である貴様の奥方殿だけ。それをわきまえるがよろしい」

 

 コクコクと勢いよく首を縦に振る頼重の胸元から手を離し、とっとと出て行けとジェスチャーする。慌てて退出する頼重を横目に見ながら、酒瓶を覗く。ほとんど残っていない酒がぽたりと一滴垂れた。何だか腹が立ち、今夜は寝ることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 兼音が不貞寝することにした時、諏訪頼重は城下町を走っていた。兼音に思いっきり酒をぶっかけられ、彼の頭は大分冷静になってきた、その上、滅茶苦茶怒鳴られたその中の言葉は頼重を目覚めさせた。言われたことは全て正論。禰々がいなければ、自分は今ここにいない。誇りの為に死ぬことも出来なかった臆病者にはもったいない妻であることをようやく自覚するに至る。だいぶ酷いことを言ってしまった。早く戻らなければ、取り返しがつかないことになる気がした。そう思い一層その足を動かした。

 

 新築のやたら綺麗な境内に戻り、本殿の奥にある住まいへ急ぐ。その姿を探して走った。襖を開ければ、暗い部屋の中で、ポツンと一人座りながら呆然自失としている禰々の姿を見つける。

 

「あ、頼重様。お帰りなさいませ。今お布団を準備しますね」

 

 頼重の姿を確認すると、空虚な目で壊れた機械音声のように言う彼女の異常を察した頼重は渾身の土下座を敢行する。突然の奇行に禰々の死んだ魚のようになっていた目と声が蘇る。

 

「あ、あの、頼重様…?」

 

「すまなかったっ!!」

 

「え、え、あのお顔をお上げください」

 

「先ほど一条殿に痛罵されてやっと気が付けた!すべて俺が間違っていた。今生きていられるのもすべてお前の力によるものだった。にも拘らず、お前を殴ってしまった。許してくれ!どうか、この通りだ!これから諏訪家再興のために尽力する。ここでしっかりと勤めを果たそう。お前の言う事を聞こう。次同じことは絶対にしない。したら武田に言いつけても構わない!だからどうか見捨てないでくれっ!!」

 

 全力のお願いだった。頼重は断られたら死ぬつもりである。やっと想いが通じた禰々の目に涙があふれてきた。

 

「勿論でございます…!ここに来た時から添い遂げる覚悟です!」

 

「ゆ、許してくれるのか…?」

 

「はい。はい。私も頼重様のお気持ちを考えず、自分勝手に話し続けてしまいました。お許し下さい」

 

「ありがとう、ありがとう!」

 

 二人とも大粒の涙を流しながら抱き合っている。この夜、彼らは初めて、本当の意味で一つになれた。

 

 この顛末を後日神社を訪れた際に禰々からの報告で聞いた兼音は自分の犠牲にした酒で一組の夫婦の仲を調停できたのは良かったと思いつつも、犠牲になった結構な量の酒を思い出し、いまいち釈然としない気分になっていた。それをお構いなしに惚気話を続ける禰々に兼音はこの後二時間ほど拘束される羽目になった。

 

 かくして史実において若くして命を失う運命にあった夫婦は河越にて第二の人生をスタートさせる。翌年には第一子が誕生し、河越城の面々を大いに慌てさせるのだが、それはまた別の話。そして頼重が喧伝したのか何なのか、兼音に酒をぶっかけられると夫婦仲が改善するという良くわからない風説が流れることになる。幸か不幸か、この噂は数百年後にも伝わり、河越諏訪神社は縁結びと夫婦円満の神社として知られることとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 北武蔵の帰属不明勢力はあと大きく二つ。忍城の成田長泰。そして羽生城の広田直繁である。これをどうするべきかと案じていれば、成田から帰属を願う文が来た。成田家は関東管領を見限ったと見て間違いないだろう。その証となる使者がやって来た。

 

「貴殿が成田下総守長泰殿の名代か」

 

「成田大蔵大輔長親でござる。この度はこちらへ馳せ参じるのが遅れまして、申し訳ございません」

 

「それで、成田家はどういう方針にするのか。改めて口頭で聞きたい」

 

「は、これより成田家は北条家に臣従したいと思います。つきましては、小田原への取り成しをお願いしたく」

 

「了承した。後日追って沙汰を出す」

 

「ありがとうございます。それでは、拙者は今後ともこちらでよろしくお願い申し上げます」

 

「む?帰らぬのか?」

 

「おや、文はご覧になっておりませぬのか?」

 

 え、嘘だろと思いながら受け取った文をもう一度読み直す。延々と書き連ねられている言い訳にうんざりして最後の方が流し読みになっていた。それによれば、人質として使者の長親とその護衛の甲斐姫をお送りすると書かれてある。これは随分と面倒なことになった。この城は人質収容所ではないのだが。成田長親と言えば、忍城籠城戦において豊臣軍に対して退くことなく、小田原が落ちた後も籠り続けたことで知られる。奇策をもって石田三成を翻弄したとも言うし、変人であったらしいが馬鹿と天才は紙一重とも言うし…。評価に困るな。甲斐姫は秀吉の側室となるが、元々は武にも優れていたらしいし、こちらは姫武将として活用できるか。綱成と馬が合いそうだ。

 

「体のいい厄介払いですな。いい迷惑だ」

 

「ほぅ、厄介払いとな。貴殿ら、家中に居場所がないのか」

 

 成田家の実情に興味がわき、問いかける。

 

「長泰は当主の器じゃあない。家中は皆そう思っている。本人もそれに気付いている。そのせいで猜疑心が強く臆病でその癖功名心と名誉欲の強い人間になってしまった。元々拙者は嫌われておりましたが、今回の嘘のせいでいよいよもって嫌われたようですな。甲斐は姫武将嫌いの長泰によって武将としての道を閉ざされておりました。どうか使ってやって下され」

 

「嘘、嘘とな。それは、成田家が先の決戦前に不審に陣を引き払ったことと関連しておるのか」

 

「左様。我が父が死んだと虚報を伝えさせた」

 

「なぜ、そのようなことを?数は圧倒的に関東管領が勝っていたであろうに」

 

「負ける。天と地がそう言っていた。民を苦しめ、長期の陣を強いた怨嗟はこの世を満たしていた」

 

「それだけか?」

 

「他に何の要素が必要であろうか」

 

 これは、なかなかの逸材だ。天才型の人物なのだろう。そして先ほどの話を聞いた限り、成田長泰はそれを使いこなせるような人物ではなかったという事だろう。それ故に小田原征伐まで埋もれていたのか。その才能が輝く場が訪れなかったのだ。思わずほくそ笑む。すまないな、成田長泰。貴殿のところの才人は私が頂いた。

 

「それはさぞ生きづらかったであろう。ここは才ある者は取り立てられる。人質の件、承知したと伝えてくれ。あと、今から申し伝えることを一言一句違わず、成田長泰に伝えよ。良いな」

 

 伝達事項を聞いた長親は頭を下げ、甲斐姫を置いて一度帰っていった。その数週間後、再三にわたる降伏勧告・帰属要請を拒否し続けていた、羽生城の最後の抵抗勢力であった広田直繁の首が届けられた。私が伝えさせたのは単純なこと。

 

「成田家は兵を損なっていないと聞く。最後まで去就を明らかにしなかった成田家を北条は疑っている。忠義を示すなら、羽生城を献上せよ」

 

 である。これで北条は己の兵を損なわず、成田家の力を良い感じに削ぎつつ北武蔵の完全統治に成功した。ひとまずは任務完了だろう。後は、代官を派遣し、北条家の制度を導入させ、検地を行い民心を服属させる。城郭を整え、防衛網を構築する。生産が安定したら上州征伐だろう。軍神が来るまでの備えがようやく本格的に始められそうだ。来るなら来い。相手になってやる。

 

 

 

 

 

 

 

 これにて北条家の版図は伊豆・相模・武蔵・下総半国となり、文字通り関東の最大勢力へと躍り出た。兼音によって北武蔵や秩父などの未帰属地域も服属し、同時並行で氏邦が深大寺城周辺の接収を行っていた。多くの領主は帰属を選び、まとめて小田原へ一度赴くこととなった。

 

 ここで大きく発展した城下町や港湾、そして巨大な城郭を誇る小田原城を見たことで彼らの心の反抗心は完全に消滅する。圧倒的なまでの発展の差は逆らうという選択肢を消したのである。加えて、捕らえておいた上杉朝定がここで効果的に働いた。彼女が積極的に声明を発表し、それを見聞きした扇谷上杉家家臣団は北条家の庇護下で朝定を支えることで団結することとなる。

 

 この後、様々な手続きの関係で河越城の事務方は大忙しであった。同時に多くの資料が複製され送られてくる小田原城もその管理にてんやわんやとなる。凄まじいまでに増加した影響圏と仕事。氏康はこれに嬉しい悲鳴を上げることとなる。

 

 そして、鎌倉にいる足利晴氏のところより都の将軍に向けて使者が派遣される。内容は関東管領の交代に関して。陸路は危険なので堺まで海路で赴き、そこから陸路となる。多額の金銭も一緒に送られた。幕臣に渡し、円滑に取り次ぎと決裁を行ってもらうための心付けである。また公家へのロビー活動も行うためである。荒れ果てた京にうんざりした公家を風光明媚な小田原もしくは鎌倉に呼び寄せるのである。成功すれば色々と役に立つのだ。

 

 和平の仲介役や有識故実の伝授、都とのパイプ役など多岐にわたる。そこそこ金もかかるが十分なリターンがある。これは兼音による提案であり、当初は氏康は乗り気ではなかったものの、とにかく長尾景虎に正当性で負けるのを恐れる兼音は朝廷とのパイプを欲したのである。熱心な説得に氏康も折れて承認するに至る。ちなみに兼音の指示で、将来長尾景虎と組むことになる近衛家とは接点を持たず、近衛家と対立する一条家(本当の貴族の一条家)と当代の関白二条晴良が当主の二条家をメインに支援活動をすることになる。

 

 この時、兼音はまた今度でいいと思っていたが、前に彼が南蛮船を呼びたいという趣旨の発言をしていた事を思い出した氏康は、忠勤の報酬として堺にいる南蛮船に小田原までこられないか交渉するように命じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その氏康の下に兼音より「超重要。春から使えるであろう農業改善策」と書かれた書状が届く。氏康はたまたま小田原城にいた盛昌と共にその書状を開封する。

 

「どのような内容でしょうか。超重要とまで言うからにはそれなりの物でしょうけれど…」

 

「また何か思いついたのよ。もう何が来ても驚きはしないわ」

 

 ペらりと紙をめくれば、長文の文章と所々絵が描いてある。これを読み、両名は目から鱗が落ちるような気分になった。

 

 兼音が送り付けた改善案は簡単に言うならば「正条植え」のやり方である。この頃の、と言うよりは明治頃までは乱雑植えという植え方であった。正条植えとは、現代の水田と同じように苗を縦横そろえた位置に植えることである。これにより日光が等しく当たり、風通しも良くなる。加えて、苗を踏みつける危険性が減り、水田に入って病気の苗などを取り除くことが出来る。これで生産量は上げることができる。

 

 加えて、塩水選と言う良い種籾を選別する方法も書かれている。ただ塩は高いのでこちら側(つまり武士)がキチンと配給する事という旨の内容が書かれている。また、種籾をいきなり直植えするのではなく、一度発芽させて苗にする播種作業のやり方や、正条植えを楽に行うための六角形の木組みで、線を付ける「枠まわし」という道具のつくり方と使い方。同じく正条植えに使う除草の為の道具「回転式田草取り機」の図面もあった。兼音は城下の職人と協力してちまちま試行錯誤を繰り返し、朧げな記憶を掘り起こし、脳内の資料にあったこれらの道具を再現するに至る。また、田植え後は米ぬかを散布するなどの肥料面の話も書かれていた。その他にも細々と注意事項や細かいやり方などが書き連ねてあった。

 

 彼は別に農家でもなんでもないので、必死に知識を総動員した結果がこれである。うろ覚えではあったが各作業のメリットも何とかまとめて氏康のところに送ったのである。

 

 

 

 

 

 あまりの情報量に氏康と盛昌は眩暈がしたが、しかし書いてあるのはどれも効果のありそうなことである。植物の成長に水と日光がいるのは知っているし、蒸れると腐るのも知っている。虫と雑草が成長を阻害することも、光合成だの養分だのの理論は知らなくても理解はしていた。デメリットが見出せないものの、そこは慎重派の氏康。データをとるために、河越城の領地、つまり兼音の領地で試すことを命じる。これの結果次第で採用するか否かを決定することにした。

 

 これは兼音も予想済み。城下の職人を総動員して道具を作らせる。この時、前に彼が考案した踏み車は多くの農村に普及していた。その恩恵を受けた農民は、彼の新案に協力する。また、城の手の空いている者にやり方を教え、指導員として農村へ派遣した。

 

 これの結末がどうなるかは秋を待つ必要がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 北条家が武蔵を完全制圧し、改革に動き出す中、隣国甲斐の武田家は己の勢力拡大のために動いていた。その様を知るには、時を河越夜戦のすぐ後に戻さねばなるまい……




 この辺が私の農業知識の限界です。何かお知恵があれば拝借したく存じます。

 私は謙信ちゃん好きです。個人的には天と地と姫との謙信ちゃんの作画が大変好みです。別に貶めたい訳じゃないんです。誤解しないでください。ちゃんと見せ場はあります。謙信ちゃんファンの人も安心してね!

 どうでもいいんですが、私、Fateシリーズ好きなんですよね。それで、この世界線だとFGOとかに一条兼音と北条氏康は参戦出来そうだなぁと思いました。妄想です。
 もう一つどうでもいい話をすると、これが書き終わった遠い未来に恋姫無双の話とかも書いてみたいですね。私が書く三国志ものがどういう作風になるか、ここまでお読みいただいた皆さんならわかると思いますが(笑)。ともかく、今はこれに集中したいと思います。手を広げ過ぎても収拾つかなくなるので。

 この作品の主人公の兼音君って他のジャンルの作品でも一定数活躍できそう。異世界にクラス転移とかでも何とかなりそうですね。


 次回は武田家の話です。


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第37話 焦燥 甲

今回は武田家の話です。


 北条家が河越にて上杉軍と対峙している時。信州でも動きがあった。甲斐へ帰国した晴信は、そのまま兵を率いて信濃は諏訪・伊那地方に侵攻していた。諏訪大社上社の矢嶋満清・高遠城の高遠頼継・福与城の藤沢頼親は連合軍を組んで宮川橋にて武田軍と対峙するも、諏訪頼重の妹・諏訪四郎を担いだ武田軍に兵が相次いで離反。大敗北を喫した。

 

 その後、信繁は藤沢方の荒神山城を攻略。同時進行で晴信の本隊が高遠城を攻略。高遠頼継は落ち延びて行った。最後の攻勢で城から打って出た藤沢頼親は松島原で信繁に完膚なきまでに叩きのめされ、降伏する。主のいない福与城は一瞬で落城していった。諏訪湖畔に建つ有賀城の有賀昌武は戦わず降伏した。藤沢頼親の救援に来た小笠原長時は竜ケ崎城までやってくるも板垣信方に蹴散らされ撤退した。

 

 かくして、諏訪・伊那の両地方は武田家の支配下に入った。この時期、諏訪頼重とその妻で晴信の妹、禰々を小田原に送り出した。最初は禰々の猛烈な抗議にあうが、根気よく説得し最終的には禰々も渋々小田原行きを承諾した。決め手になったのは諏訪頼重も一緒に連れて行っていいというところであった。諏訪頼重に抵抗する意思も力もなく、唯々諾々と従わざるを得ない。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、晴信たちが東信濃の佐久郡に目を向け始めた頃、関東では「河越夜戦」が勃発していた。板垣・甘利らの諸将は「関東管領の地位も名誉も地に落ちたか」「まことに下克上の世が来たのう。御屋形様が諏訪家から兵権を奪ったのは正解であったか」と唸る佐久の陣中で、山本勘助は河越夜戦の経緯を詳細に報告していた。武田家は密かに忍びを放ち、河越城で起こるはずの決戦の行く末を見極めようとしていた。北条家側はそれに気付いていたが、合戦の経緯を見られるくらいならば問題ない、むしろ広めてくれた方が助かると思い黙殺していた。勝つ自信があるが故の判断である。

 

 この行く末は武田家家中も大いに注目するところであったが、家中の予測は半々だった。古くからの老将・宿将は北条家の勝利は難しいと考えていたが、新たな世代の将は勝利すると考えていた。急激な体制変化はこのような小さな分裂を密かに生み出しつつあった。信繁は小さく走る亀裂を案じ、革新派の旗頭として祭り上げられていることに苦悩しつつも思想的にはやはり北条家の勝利を確信していた。

 

 勘助は、「上杉憲政は気障な優男ですが、関東管領の名と権威を利用して諸将を動かす策謀にかけては一流。侮れません」とうなずく。

 

「かくて上杉憲政率いる八万の関東連合軍は、北条方の関東における最重要拠点・河越城を包囲しておりました。本来の城主・一条兼音は駿河に出兵しており、河越城を守る北条綱成は北条氏康の義妹。北条最強の武勇の持ち主と名高いとはいえ、わずか四千の守兵で八万の包囲陣を蹴散らすことはかないませんでした」

 

「ところが御屋形様が、北条と今川を和睦させた。駿河に釘付けになっていた北条氏康は、兵をとって返して河越城への救援に向かうことができた。そういうわけだな、勘助」

 

 と、宿老の板垣信方。ちなみに、真に関東全土を巻き込むことを考えたのは扇谷上杉家の家臣・松山城城主の上田朝直ではあるが、それは一般に流布されていないので大抵の人間の認識では、関東管領・上杉憲政が発起人であると捉えていた。

 

「ここで一つ連合軍側に異変が起きたのでございます。房総の雄・里見が反連合を掲げ挙兵。関宿城を目指し前進したのです。里見軍は北条家の傘下の千葉・真里谷両家と連合し、関宿を囲みました。それを聞きつけた古河公方は兵を退き、関宿城の救援に向かったのです。この軍勢を里見軍は撃破。古河公方の兵力は使い物にならなくなりました。されど、なおも河越城を囲む軍は大軍で、五万五千を擁しておりました」

 

「しかし氏康率いる北条の本軍とて、わずか八千。城兵合わせても一万二千。どうやってそれほどの大軍に勝ったのじゃ?」

 

 これは、猛将の甘利虎泰。

 

「北条氏康は戦場においては上杉憲政をはるかに上回る策士。援軍を率いて戦場に現れておきながら全く戦おうとせず、『多勢に無勢なので河越城に籠もる兵の命とひきかえに全面降伏する』と古河公方に土下座せんばかりの勢いで言い、それを拒否させ諸将の油断を誘ったのでござる。この時すでに古河公方は敗走しており、降伏要求を拒否するように言われたことに逆らう事は出来ませんでした」

 

「相変わらず小ずるい女狐じゃな」

 

「みな、本気にしたのか?」

 

「本気にした者が大半でございました。なにしろ北条氏康の臆病と戦嫌いは関東では有名でござる。とてもあの北条早雲の孫とは思えぬ。下克上の雄・北条家も三代目で堕落してただの自称名門貴族に成り下がったか、と言われておりましたゆえ。ただ、上杉憲政に仕える名将・長野業正などは、あの女は絶対に他人に頭を下げたりしない、といっさい取り合わなかったということでござる」

 

「勝ってもいないのに戦勝の酒宴に興じていた上杉憲政は完全に油断しきっておりました。この一瞬の隙を、北条氏康が突いたのでござる。自ら全軍を率いて夜襲をかけて、関東連合軍を完膚なきまでに殲滅したのでございます」

 

「乾坤一擲の勝負に出て、勝ったのか。あの臆病な氏康が。当人は初陣で敵に堂々と立ち向かい立派な刀傷を顔に負ったと吹聴しておれど、実は傷ひとつない真っ白い顔の持ち主だと物笑いの種になっておったが」

 

「甘利殿。その『臆病者』という評判こそ、この夜戦のために氏康自身がせっせと築き上げてきた風聞だとしたら?」

 

「ううむ…」

 

「城主・一条兼音も東国有数の忍び・加藤段蔵によって既に河越城に帰還済み。彼自ら弓を取り、扇谷上杉朝定を捕縛。扇谷上杉家の家宰・難波田憲重は北条綱成によって討ち取られ、山内上杉家の家老・倉賀野直行は多米元忠によって、同じく家老の本間近江守は氏康自らの手によって斬られたとのことです。さらに、上州の虎・長野業正は一条兼音の副将・花倉越前守兼成によって説得され撤退。上杉憲政は氏康によって左目を斬られました」

 

「あの氏康自ら斬ったのか…。しかも河越城の将は名将揃いという訳だな」

 

「は。花倉兼成は今まで無名の将でございましたが、かの今川軍を完膚なきまでに叩きのめし、駿河を血で染めた一条兼音の副将。ただの凡将ではございませんでした。華麗に長野軍の陣奥深くに潜り込み、長野業正を諭したと」

 

 信繁は最早ルンルンの気分である。尊敬する一条兼音の発言が真実となり、関東管領が敗れたのである。彼女の中の兼音に対する信頼はうなぎ上りである。

 

 横田高松が「女狐とはあいつのためにある言葉だな。北条氏康を見捨てておいたほうが武田にとってはよかったんじゃないか」と呟いた。

 

「いえ。横田殿。関東においても甲信においても、古き秩序は新しき力によって滅ぼされねばなりませぬ。われら武田家もこれまで上杉家だの古河公方だのの内輪揉めにさんざんつきあわされて時を浪費してきました。関東に直接関わっていれば上洛は遠のくばかり。厄介な関東の平定は、北条にやらせておいたほうがよいでしょう」

 

「そんなものかね。戦場でもの狂いになるだけが取り柄の俺にはわからんな」

 

「関東管領の息の根は、なんとしてもここで止めねばなりません。その面倒な上杉憲政を、北条が半ば片付けてくれました。上杉憲政の関東管領としての威光は、河越夜戦で敗れたことで凋落。もはやあのような関東連合の大軍勢を率いることはできますまい。扇谷上杉家は断絶。古河公方は北条に降伏し、関東公方の名分を北条に完全に乗っ取られました」

 

 ここで信繁は兼音の発言を思い出す。関東管領は信濃に来ると言っていた。そして口を挟んだ。

 

「汚名返上の為に信濃に来るという事ね」

 

「左様でございます。かくして関東にて追い詰められた上杉憲政は名誉挽回のために、信濃に押し寄せて参りました。すなわち、われらが今、侵略しているこの佐久に」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高松は疑問を抱きながら勘助に問いかける。

 

「佐久に? こんどは武田と戦うつもりか? そんな元気があるのか?」

 

「上杉憲政は、この敗戦によって武蔵から事実上撤退。今後は、北関東の上州を根拠地とするしかありませぬ。関東の諸将は武威になびきまする。河越夜戦で名をあげた北条がいる限り、上杉憲政の武蔵への再進出は困難。となれば、上州と碓氷峠を経て隣接している北信濃・佐久地方を押さえることで衰えた国力の回復を図り、関東管領の健在ぶりを喧伝する。あの男が生き延びるには、それしかございません」

 

「そうか。あの諏訪頼重が以前、佐久にあった自領を上杉憲政に譲り渡していたからな。そして俺たちは今、その佐久を猟犬のように荒らし回っている」

 

「はっ。とはいえ、あの大敗からまもない上杉憲政本人はよもや出陣できるまい、あと一年は動けまいとそれがしも甘く考えておりましたが、どうやら関東管領自らが佐久へ出兵してきたようですな。二度と姫武将などには負けぬと、河越での恨みを佐久で晴らすつもりらしゅうございます」

 

 地図を見ればわかるが、碓氷峠は上州との連絡口である。現代においては、群馬側から碓氷峠を越えると避暑地で有名な軽井沢がある。軽井沢から長野中央に向かうと佐久がある。「関東管領・上杉憲政率いる三千の軍は佐久衆に援軍を乞われ出陣、既にその碓氷峠を越えて武田と決戦に及ぼうとしている」と勘助は告げた。

 

「我らは佐久の要・志賀城を攻略する予定でしたが如何いかがなさりまするか、御屋形さま。撤退いたしますか、それとも」

 

勘助の問いに、それまでじっと押し黙っていた武田家当主・武田晴信がついに口を開いた。

 

「勘助。天の時は上杉憲政のもとを去った。関東を統治する能力も持たずいたずらに戦乱を長びかせてきた関東管領などという室町幕府の亡霊を、今こそ滅ぼすべき時だ。関東管領を討ち、その軍は徹底的に蹂躙し、殺し尽くす。上杉軍から捕虜は取るな。みな斬首せよ。二度と、甲斐信濃の地には関東の軍勢を踏み込ませぬ」

 

 板垣と甘利、二人の老将が「それはやりすぎでは?」「まるで越後の長尾為景じゃ」と異を唱えたが、晴信は「関東管領などもはや存在しない。ただの他国からの侵略者にすぎない。この機に乗じて、北条に叩きのめされて震えている関東の連中に『甲信に二度と手を出してはならない』と知らしめるのだ。関東管領・上杉憲政の首を獲れ」と目を血走らせて猛っていた。

 

 他国からの侵略者というのは完全にブーメランなのだが、その辺は気にしていない。信濃国の住民からすればお互いに侵略者であり、その侵略者同士が勝手に争っているという感覚である。あまり性格のよろしくない兼音がここにいれば爆笑してしまうだろうが、いないのでどうしようもない。彼がいた場合、虐殺はよろしくないという観念を持っているので何が何でも止めるだろう。晴信に逆らいまくってでも冷静にその不利益を説く。主が相手でも一歩も引かないので独断型の主とは相性が悪い。その為限界までキレずに冷静に話を聞き、自分を律することが出来る氏康は抜群のコンビであると言えた。しかも氏康もかなりの知力があり、兼音にカウンターできるので一方的に家臣の言う事を聞いている訳ではない。やはりベストコンビだった。

 

 

 それはともかく

 

「板垣。あたしは平明な世をもたらす。武田家は、血筋よりも能力を重んじる。神氏も関東管領もこの乱世を長びかせるための要因でしかない以上、最早不要だ。あたしは過去のしがらみをことごとく一掃し、身分に関わりなく有能な者に活躍の場を与え、立身させる。諏訪家も上杉家も同じだ」

 

「ですが。衰えたりとはいえ関東管領の威光は生半可なものではありませんぞ御屋形様。殺さずに幽閉し、名を奪い取ることを考えたほうが得策かと存じます。北条が、敗残の古河公方と扇谷上杉朝定を手に入れてその名を我が物にしたのと同様に」

 

「上杉憲政など要らぬ。あたしはもう、諏訪頼重で懲りている。あの時以上に厄介な火種を家中に抱えるつもりはない。しかも、上杉憲政は権謀術数に長けている上に、左目を斬られたと言え女好きな若く美しい貴公子という。姫武将たちを育成している武田家にとっては、そのような厄介者は有害無益だ」

 

「むしろ上杉憲政を婿に迎えれば、御屋形さまが関東管領に。敗残の今ならば、今は武田と雌雄を決する覚悟でいる上杉憲政もあるいは飛びつきましょう」

 

「……愚かなことを言うな板垣! あたしはまだ婿など取るつもりはないし、北条に叩きのめされた負け犬を夫にするなどありえん!」

 

「はっ! 申し訳ございませぬ。ですが、河越で追い詰められた上杉をさらに佐久でいたぶるのは、得策とは申せませぬ。窮鼠反ってということも」

 

「だから、反らせる前に討ち果たすだけだ」

 

 

 

 

 

晴信の隣に侍っていた副将の信繁は、姉上は、自分と似た文弱な姫武将である北条氏康が河越夜戦で名をあげ武辺の実力を見せつけたことに、焦りを感じているんだわ、と気付いた。ただ、東国の旧秩序の頂点に立つ関東管領家をここで断絶させられれば困難を極める信濃平定は数年を経ずして終わるという姉上の冷徹な読みもまた正しい、と思った。

 

 しかし、なにかが危うい。

 

 やはり海を持たず港を持てない姉上は焦られているのだ、北条があの広大な関東平野を丸ごと手に入れつつあるというのにご自分はいまだに信濃の山中を駆け回っているという現実に焦じれているのだ、そう思う

と不安を感じずにはいられなかった。兼音の言葉を思い出す。

 

「逸らず、焦らず、油断せず、奢らず、侮らず。結局全てこれなんでしょうね」

 

 この発言がスッと頭をよぎる。焦りは禁物だと彼は真剣な口調で言っていた。貰った書物でもそう書かれている。それを考えると、このまま座して見ている訳にもいかなかった。

 

「御屋形様。急ぎ奇襲をかければ勝てまする。決戦の地は小田井原(おたいはら)になりましょう。諏訪での合戦とは異なり、血生臭い戦いになりますぞ」

 

「覚悟の上だ勘助。板垣。甘利。横田。そして飯富。武田家が誇る四天王全員をこの決戦に注ぎ込む。必ず、上杉憲政の首を獲れ。やつはこの戦に敗れれば、二度と最前線へは出てこなくなるだろう。以後は強敵を前にすればヤドカリのように隠れる男になる。今回の戦が関東管領を討ち東国の旧秩序を永久に一掃する、最初で最後の好機だ」

 

北条氏康め。どうせならば上杉憲政の首を河越で獲っておけ。あたしが尻ぬぐいをさせられて関東管領殺しの汚名まで着せられるのは割に合わない、と晴信はいつになく苛立っていた。

 

 苛立っている晴信にあまり声を掛けたくないとは思いつつも、止められそうな人が他にいないので仕方なしに声をかける。好戦的な飯富虎昌は暴れられる、と楽しそうにいるし、他の四天王は黙っている。一門衆筆頭の穴山信君は胡散臭い笑みを浮かべながら事態の推移を見守っており、助けにはならない。信龍は寝てる。

 

「あの…姉上、あんまり焦るのは良くないわ。私たちは私たちのやり方で堅実に行きましょう?」 

 

「大丈夫よ、次郎ちゃん。焦ってなんかいないわ」

 

「そう、それなら…良いのですが…」

 

 やっと元に戻れた関係を壊したくない信繁は、関係の壊れることを恐れて、これ以上は踏み込めなかった。自分の心の弱さに忸怩たる思いを抱きながら信繁は唇を噛んだ。勝てるはずと言っていた兼音の言葉を信じ、無理矢理気持ちを前向きにすることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 進軍する上杉憲政は怒りに満ちていた。左目にはまだ包帯で覆われている。ズキズキ痛む傷は、彼のプライドを傷つけていた。

 

「武田晴信。北条氏康。今川義元。姫武将どもが、貴公子である僕に逆らうだなんて。許されることじゃないよ」

 

 幼少時より「上杉家の在原業平」と呼ばれ、関東一の美男子の誉れ高い上杉憲政にとって、戦に敗れたことよりも「姫武将に翻弄された」ことのほうがはるかに屈辱的だった。そんなこと考えてるからお前は負けるんだと兼音の嘲笑いそうな事を考えながらもなお進軍する。

 

 とりわけ、武田晴信だ。あれはいったい何者なのだ? 父親を甲斐から追放して国を奪った女だという。信濃の名族・諏訪家を滅ぼしたという。名門甲斐源氏の出身でありながら、野望のためなら日ノ本の秩序を破壊せんとする下克上の魂の持ち主らしい。この姫武将さえ倒せば、今川と北条は再び対立するはずだった。関東管領復権という志のためには、誅しなければならなかった。

 

「なんだ、あれは?」

 

 小田井原にさしかかったところで、上杉憲政は見た。

 

 自分を待ち構えていたかのように翻る諏訪大明神の旗印と、御諏訪太鼓を。

 

「なんだと? 待ち伏せされていた!?」

 

 僕の采配は姫武将にも及ばぬのか、九歳で関東管領を継いだこの選ばれた僕が、と憲政は血を吐くような屈辱の思いに震えていた。北条氏康も、武田晴信も、まるで同質だった。彼女たちは関東管領という偉大な役職が持つ威光にも、上杉家の高貴な血筋にも、まったくひるまない。むしろ、倒すべき敵とみなして打ちかかってくる。関東管領と関東公方。この重大な役職と美しい血筋が持つ「力」を手にするために、関東の諸将はこれまで果てしない戦を続けてきたはずだった。

 

 しかし、北条氏康と武田晴信は、違うらしい。関東管領などに、いささかの価値も、見ていないらしい。

そのような古きものが亡霊のように生き延びているからこそ、関東は平穏にならないのだと信じているらしい。

 

 これは、下克上だ。

 

 室町幕府が関東に残していった体制そのものを、北条と武田は潰してしまうつもりらしい。

 

「姫武将どもめ! 上杉の血も足利の世もなにもかも否定するか!」

 

 上杉憲政はこの時になって、ようやく自分が河越夜戦で敗れたほんとうの理由を悟った。

 

「野望だ。野望の質の違いだ。やつらを女と甘く見ていた僕の失敗だった。顔かたちは女でも、やつらの魂は長尾為景の如き野獣だ。礼節もしきたりも血筋もなにもかも無視して獣のように戦ってよいというのならば、古の権威を回復しようとする者よりも、秩序を破壊する無法者のほうが、圧倒的に強い」

 

 僕に、あの北信濃の雄・村上義清のような武勇さえあれば――。

 

 しかし、ないものを悔いても手に入るわけではなかった。憲政はまるで都の公家のような色白で細面の貴公子として生まれてきたのだ。関東最大の武家の名門・上杉家も、代を重ねれば貴族化して当然なのだ。よくよく考えれば、元々上杉家の祖先は都からやって来た藤原系の貴族なので、先祖返りとも言えるが。

 

「殿! 敵は武田軍の主力、その数は三千! わが軍と同数です!」

 

「先頭に、宿将・板垣信方と甘利虎泰! 左翼に横田備中、右翼に飯富兵部の赤備え! まことに当たらざる勢い!」

 

「我が軍は河越での疲労が抜けておらず、到底勝ち目はありませぬ!」

 

 容赦のない襲撃を、関東管領軍は受けた。降伏すら認めない、という徹底的な殲滅戦だった。先の越後守護代・長尾為景が数代前の関東管領を合戦で討ち果たした時ですら、これほどの容赦ない殺戮戦はやらなかったであろう。長尾為景は荒れ狂う巨凶ではあったが、関東管領というものをこの世から消し去ろうという野望は抱いていなかった。頼みの綱の長野業正はまたしても諫言を聞かない憲政に半分愛想を尽かし、勝手に謹慎してしまった。この行動で思いとどまって欲しいと思ったが、憲政にはまったく効果がなかった。

 

 

 

 

 武田晴信は他とは違うらしかった。あの、諏訪家を滅ぼしたのだ。関東管領など何程のものでもない、と本気で信じているに違いなかった。

 

「殿、お逃げください!」

 

「武田は、殿の首だけを狙っております!」

 

「扇谷上杉家、古河公方が絶えた今、関東管領の殿だけが関東における最後の名族!」

 

「なんとしても逃げ延びてくだされ!」

 

「時代は変わったのだな。時代は……」

 

 ここで死ねば関東管領・上杉家は僕の代で滅びる、と上杉憲政は恐怖に駆られながらまたしても遁走した。思えば、あの越後の長尾為景が時の関東管領を殺した時点で、上杉家の命運は尽きていたのだ。僕がやっていることは所詮は過ぎ去った時間を巻き戻そうとしているだけにすぎないのかもしれない。そう思いつつも憲政は諦めようとはしなかった。何もかもを置き捨てて、懸命に逃げた。

 

「しかし僕はまだ死なないよ。河越でも生き延びたんだ。武力はなくても、僕には関東管領上杉家の血筋と名と策略がある。武田晴信! 北条氏康! この借りは必ず返すよ!」

 

 捨て台詞を吐きながら上杉憲政は上野に逃げていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上杉軍は壊滅し、武田晴信は佐久を平定した。武田軍はこの戦いで討ち取った上杉軍の兵士の首を佐久の志賀城前に並べて、「関東管領の後詰めなど来ない」と守備兵たちを絶望させたともいう。すべては鬼の軍師・山本勘助が選んだ非情の策だったとも。ともあれ、晴信に抵抗を続けてきた佐久の諸将はついに降伏した。

 

 兼音は後にこれを聞き、効果的だが下策と評価を下した。武将の首だけでも問題ないはずなので後は交渉でどうにかするべきというのが彼の考える上策だった。彼の脳内にあるのはワラキワの串刺し公・ヴラド三世だった。彼はオスマン軍の前に彼らの同胞の首を串刺しにして並べ、絶望させた。結果、地元ではともかく他国では悪評が広まった。最後はワラキア貴族に裏切られる事となる。もっとも悪評はハンガリーによるプロパガンダの側面はあったが。

 

 ともかく、そういう悪評が流される要素はなるべく減らし、恭順する勢力を増やすことが大切だというのが彼の考えであった。特にヴラド三世は防戦だったが、攻勢をする武田家は特に悪評はマズいと思っている。戦わずして勝つを実行すべきというのが彼の信条である。一応戦わずに城は落としてはいるが、残虐な行いをするなら切り札にすべきであり、こんなところで使うべきではないと考えていた。それ故下策としたのである。

 

 

 

 閑話休題

 

 佐久衆のうち、捕らわれた者たちは武田家が運営する金山へと送られた。晴信は金山を熱心に開発していた。次々と新しい金山を開き、既存の金山でも新たな金脈を掘り進めていた。そのため、甲斐では金掘り人が不足していたのである。

 

「禰々は、父上が戦で捕らえた捕虜を奴隷として売りさばくことに心を痛めていた。だが、甲斐では米が穫れない。大幅に規模を拡大した金山を回転させるにも、働き手がいない。捕虜を送り込むしかない…」

 

 いずれ肥沃な平野と港を手に入れればこのような野蛮な真似はしなくてもすむようになる。だがまだ東海道も越後もはるかに遠い。勘助にも、金山における労働力不足を解決する秘策はなかった。賃上げを行っても、好きこのんで金山で働こうとする者が少ないのだ。むしろ彼らは足軽として合戦に参加しようとする。同じ命がけの仕事ならば、立身出世の可能性がある槍働きを選ぶのだろうか。貧国の甲斐が外征を繰り返して連戦を行う。しかし甲斐や諏訪の領民に対しては信虎時代とは桁違いの善政を敷く。信濃全域を治めて経済を潤わせるまでの期間に生じるこの矛盾は、佐久の犠牲によって埋めるしかなかった。

 

これしか国を保つ術が無かったのである。戦争ありきの国家経営。どことなく二次大戦のドイツを思わせる政策だった。

 

 勘助にできることは、可能な限り佐久の人々の恨みを自分に向けることだった。兼音に聞けば色々策を出してくれるし、何なら半自動化して少数で運営する方法や待遇の効果的な改善の方法、健康被害を減らす方法などを知っているが、勘助にそれを求めるのは酷であろう。未来知識はやはり圧倒的なアドバンテージなのである。

 

 次郎や板垣たちが

 

「佐久衆に対してだけ、あまりにもむごい」

 

「昨日までの敵とはいえ、すでに佐久も武田の一員となりましたぞ」

 

 と反対したが、晴信は

 

「諏訪衆は諏訪家のために戦ったのだ。だから許した。わが父には服従していたにもかかわらずあたしが甲斐の当主となるやいなや離反し、こともあろうに他国から関東管領を引き込んだ佐久衆は、諏訪衆のように寛大には扱わない。信濃の者たちが二度と関東管領などと結託しないよう、佐久衆には貧乏くじをひいてもらうしかない」

 

 と突っぱねた。突っぱねざるを得なかった。

 

「関東管領などもはや甲斐にも信濃にも、そして関東にも不要なものだと諸将や民に知らしめるためだ。あの、権威と血筋だけを振りかざして人々を戦にいざなう男は、まさしく『貧乏くじ』にすぎないのだと」

 

 板垣信方は、引き下がらなかった。

 

「たしかに理屈ではそうなりましょうが、御屋形様。それは利口な御屋形様と勘助の中でだけ通じる理屈でございます。素朴な民たちはもっと単純に考え、感じますぞ。諏訪と佐久とで依怙贔屓がある、諏訪の民は丁重に扱われているのに、自分たちは武田に虐げられている、と」

 

「もう言うな板垣。武田が降伏を許さず打ち殺したのは、関東管領軍の軍勢だけだ。武田領となった佐久衆の命は獲らない。佐久衆に押しつけた金山での負担も、領土を拡大するごとに減らしていく。このことを繰り返して言い伝え、理解させよ」

 

「焦ってはなりませぬぞ御屋形様。北条氏康が河越で大勝利を収めたことに、御屋形様は柄にもなく焦りを感じておられます。その焦りが、佐久でのやりように表れております。しかし武田家は三代続いた北条とは異なり、その国力の基盤は脆弱なのです」

 

「そうだな。あたしが、父を追放したからな。北条氏康は幸運だ。祖父と父に甘やかされ、盤石の政権をつつがなく引き継ぎ、広大な関東平野と海と港とを与えられた。無理をして人を狩り、金山など掘る必要もあるまい。おまけに家臣団は団結し優秀。雪斎などにも後れをとらぬ軍師まで擁している」

 

 実際は氏康が無能であれば一瞬で国は滅びるし、民の忠誠は離れるし、政権は終わるし、持っている領土的優位性も活かせない。努力しない暗愚な主であれば、家臣も付いて行かないし、兼音も裏切っていた。氏康とて悩み苦しみながら努力しているのである。民を生活を重んじ重圧に苦しみながらも懸命に頑張っている。加えて別に甘やかされたわけではない。愛されてはいたがそれは甘やかすとは違った。ただ、親の愛を受けられなかった晴信はその違いを知らなかった。

 

 と言う風に晴信の発言を河越城城主の氏康大好き人間を筆頭とする家臣団が聞いたら猛烈に反論したであろうが、幸か不幸か彼らはいない。

 

「御屋形様。人の和を見失ってはなりませぬぞ」

 

「わかっている板垣。氏康のことはただの愚痴だ。あたしはただ、上杉憲政という大魚を取り逃がしたことが悔しくてならなかったのだ。信濃統一事業が、あの男を逃がしたことで三年は遅れた気がする。それでつい激高したのだろう。あたしは冷静さを欠いていたかもしれない。許せ」

 

 実際は三年どころではなく、彼がこの後越後に逃げたことで、晴信の予想できない事態になる。

 

「……左様でございましたか。拙者も、余計なことを申してしまいました」

 

「佐久を平定したはずなのに、心が鬱々と塞がる。佐久という土地は手に入れたが、佐久の民の忠誠心を手に入れられそうにないからだろう。あたしは自分が思っているよりも完璧主義者なのかもしれない」

 

「十割の勝ちは戦にはございません。八割の勝ちをもって満足なされませ」

 

 晴信は、板垣が姿を消した後、本陣内で一人「勝てなかった」と歯がみしていた。関東管領・上杉憲政の首を、獲れなかった。あの男は河越に続いて佐久でも大敗しながら生き延びた。なにか、そういう才覚があるのかもしれない。あの男の取り柄は、血と美しい顔立ちだけではない。「負けても生き延びる」。これは大いなる才能だ、と思った。あれを取り逃がしたことが後々、巨大な災いになる。そんな予感に襲われながら、晴信は北信濃の雄・村上義清との対決に踏み切ろうとしていた。

 

 残る信濃の強敵は、二家。中信濃の小笠原長時。信濃守護職という名分を持っている。北信濃の村上義清。信濃最強の、圧倒的な武を誇る。諏訪を奪い南信濃を固めた武田家は、順序からいけば中信濃の小笠原長時と雌雄を決するべきだった。他の有力勢力の木曽家は武田に臣従の姿勢をとっている。

 

 地理的にも、また敵の強さを比べても、諏訪に近い小笠原をまず滅ぼすべきだった。それが兵法の常道と言えた。また、関東管領軍を撃ち破り殲滅した晴信が倒すべき次の敵は、名ばかりとなった「信濃守護」すなわち小笠原長時であるべきだった。村上義清は有能な武人ではあるが信濃における家格という点では小笠原長時に数段劣る。

 

 勘助の戦略も、諏訪を起点に徐々に信濃を北上していくというものだった。しかし関東管領軍を破って北信濃へ連なる佐久地方をも平定した晴信は、敢えて先に強敵・村上義清との戦いを選ぼうとしていた。急がなければ上杉憲政が村上との連合策動するかもしれず、それより前に叩かねばならなかった。佐久での強引な戦いぶりも、これを恐れてのことだった。

 

 それともうひとつ、理由はあった。勘助が見たところ、晴信と同年代の若き小笠原家当主・小笠原長時は、武勇という点では優れているが、信濃守護という高貴な役職を鼻に掛けているところがあり、武断主義の村上義清とは異なり日和見をする男だった。先に小笠原を攻めれば村上が小笠原に加勢するかもしれない。だが先に村上と戦えば、小笠原は勝敗が決するまで日和見を決め込むに違いなかった。

 

 そして事実、武田軍が対村上戦に着手しても、小笠原長時は動かなかったのだ。

 

 

 かくして武田家は強敵・村上義清との戦いに挑む事となる。戦国史を少しかじった人間は彼の名を知る者も多い。彼の名は後世にこの事実と共に伝えられる。「武田晴信に黒星を与えた男」として。長尾景虎より前の晴信の強敵として、知られる。

 

 そんな未来のことなど知る由も無い晴信は、村上義清との戦いに及ぼうとしていた。そして、焦りを隠せない姉の様子に不安を感じた信繁は河越城の兼音に助言を求めるべく、筆をとったのであった。

 

 

 

 

 

—————上田原の戦いまであと僅か。




図に書いた守屋山って東方projectが好きな人ならピンとくるんじゃないでしょうか。それはさておき、次回も武田の話です。


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第38話 月影宿せ 甲

遅くなってすみません。


【挿絵表示】


信濃の郡の色分けです。参考にどうぞ。

黄色…伊那郡
緑色…諏訪郡
橙色…佐久郡
青色…小県郡
桃色…筑摩郡
濃桃…埴科郡
水色…更級郡
黄緑…安曇郡
紫色…高井郡
茶色…水内郡


 先の小田井原の戦いと志賀城包囲戦の後、晴信の焦りを感じた信繁は河越に密かに速達の手紙を依頼した。当主の妹ともなれば逆らう訳にもいかない。早馬は秩父の方を通って河越に到着した。何やら凄い勢いでやって来た早馬に兼音はギョッとしたが、武蔵統一も終わり、少し手が空いていたので訝しみつつも手紙を読み始めた。

 

 

 

 突然このような形で文をお送りする無礼をお許しください。いかがお過ごしでしょうか。北条家におかれましては、河越にて大勝を得たと聞き及んでおります。本来でしたらその功名話を後学のためにお聞きし、戦勝をお祝い申し上げるところではありますが、火急の用故、ご容赦ください。陣中にて急ですが何卒お力添え下さる事を願います。

 

 信濃攻略も進み、残るは強敵は村上・小笠原の両者になりました。しかしながら、姉上は北条家の躍進に焦燥を感じておられるようでございます。家中にも、信濃は最早武田のものという緩んだ空気が蔓延しております。古い因習を否定し、改革をもたらすのは立派なことであると思っておりますが、いささか性急すぎるきらいがあるのです。村上義清はそのような状態で容易に勝ちを得られる相手ではないのは私も承知しています。以前お会いいたしました時に、村上義清に注意するようにと仰せられていたのを思い出し、この現状をどうにかする為の術を教えていただくため、こうして文をお送りしています。

 

 そちらからすれば他家のことでありますし、不躾なお願いとは重々承知しておりますが、このままでは何か不吉なことが起こる予感があるのです。浅学菲才の身ではありますが、どうかお知恵をお貸しいただけませんでしょうか。

 

 武田次郎信繁

 

 

 

 文面を見ながら兼音は面倒なことになったと唸っていた。しかし、約束は守らなくてはいけない。そう思って墨のついていない筆をクルクルと回す。彼の知識からこの展開と一致する史実の戦いが引っ張り出された。その名は「上田原の戦い」。多くの重臣を失う事となる武田家でも大きな戦だった。逸る姉を抑え、村上義清に勝てる策を用意しろとはまた無茶苦茶な。しかもその場にいないのに…。とため息をつきつつ、出来ることはすると言ってしまった手前致し方なく彼は紙を引っ張り出した。

 

ただ、珍しく文章を書く手は遅い。自分が援軍に行ければ話は別だろうがそれがかなわないこの状況では、いかんともしがたい部分があった。出来るだけのことはしたが…と渋い顔をしながら再び続きを書き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 村上左衛門尉義清は信濃埴科郡葛尾城の主である。南北朝時代には足利尊氏に与し、大いに権勢を振るった。義清の代になると、佐久郡の一部・小県郡・更科郡・埴科郡・高井郡・水内郡を支配し、守護の小笠原家を越え、信濃最大の勢力となっていた。

 

 千曲川沿いを上流から中流にかけて進むと、佐久から村上義清の本拠地・葛尾城まで一直線に街道が連なっている。佐久を平定した武田晴信は、この葛尾城攻略のために満を持して八千の兵を動員した。中信濃を支配する小笠原長時は、信濃の運命を決するこの合戦を前にしても、動かない。小笠原長時は同盟相手である村上義清に援軍を送るべきだったが、奇策を弄して合戦らしい合戦もせずに勝ちを収めてきた文弱の姫武将と侮っていた武田晴信が佐久で関東管領軍を容赦なく撃破する苛烈な戦いを繰り広げたことを警戒したのか、あるいは天性の日和見主義者なのか、居城の林城にヤドカリのように籠りきりだった。しかし、ここで小笠原長時はどう考えても動くべきであった。村上・小笠原の連合軍が成立すれば面倒だったが、各個撃破していけば勝率ははるかに高まる。それが分からないから小笠原長時は愚か者として後世に名を残すのだが。

 

 ともかく、ここまでは勘助と晴信の思惑通りに事態が進行していた。小笠原長時の出陣を止めると同時に、孤立した村上義清の本拠・葛尾城を晴信率いる本隊と次郎信繁率いる別働隊とが南北から挟撃する、そういう目算だった。しかし、勘助得意の挟撃策は破れた。村上義清には葛尾城に籠城するつもりはいささかもなく、城を出て千曲川北岸の岩鼻へと布陣したのだ。兵力は五千。その中には、特に何度も義清が使者を送り援軍を依頼した高梨政頼、須田満国、島津忠直、井上清政、小田切清定などの姿もあった。

 

 対する武田軍は、千曲川を挟み南岸の上田原に陣を構えた。この上田原のあたりは、遮るもののない広大な平野である。伏兵・奇兵の類は配置できない。岩鼻に布陣した村上軍の背後へ別働隊を回り込ませることも地図の上では不可能ではないが、実際には山地の長く厳しい間道を越えねばならず、あまりにも時間と労力がかかりすぎる。それでは別働隊の奇襲を事前に気取られるし、それ以前に村上義清に決戦を挑むに及んで到着が間に合わない。このため、遂に勘助は武田軍を二手に割ることができなかった。

 

 平野は騎兵にとって絶好の戦場であったが、千曲川がネックとなる。川を挟んだ戦闘だと直近では第一次国府台合戦がそうだが、あれは足利義明がお世辞にも名将とは言えなかったため、みすみす北条軍を渡河させてしまった。あまり参考にはならない。村上義清は足利義明とは違い、名将である。

 

 村上義清は、奇策を弄しない。兵数が不利であろうとも、堂々の正面衝突で雌雄を決するつもりだった。別働隊を動かして敵城を挟撃するという勘助得意の奇策が、村上義清の無策の前に封じられたという形になる。晴信は信濃統一を焦っていた。「あちらが無策ならば、正攻法で戦うのみ」と決める。勘助も、晴信の意を汲んで新たな陣立てを考えた。

 

 

 

 

 

 

 

 信繁は今か今かと返事の来るのを待っていた。早くしなければ、姉は攻撃を命じてしまう。その前に何とかしなくてはいけなかった。最後の軍議に間に合えばいいけれど。そう思いながら彼女は自分の陣の天幕の中をグルグルと徘徊していた。そこへ早馬が戻ってくる。思わずグッと拳を握り俗に言うガッツポーズをした信繁は慌てて返事の書状を受け取る。開いた彼女の目に飛び込んできたのは圧倒的な情報量であった。その量に眩暈がしたが、ここまでしてくれたのだと感動もしていた。感謝の念を深く抱きつつ、目を通し始めるのだった。

 

 そこに記されているのは信濃攻略の言わば指南書。細かい勢力図や戦略の詳細まで書かれていた。籠城戦をされた場合の兵糧の必要数まで書いてある辺り、書いた人物がかなり完璧なものを作り上げたことがわかる。加えて最近はすっかり関東の風土に慣れているが、段蔵は元々戸隠に住んでいた。信濃は庭のようなものである。その段蔵から聞いた信濃の実情から導き出された結論の集合体。それがこの返信だった。

 

 晴信の説得方法や上田原での会戦の注意点なども記されている。ただ、これらに関してはうまく行かない可能性大と書かれていた。聡明な人物ほど自らの過ちを認め難いからである。また、戦場は思い描いた通りには進まないのである。また上田原の戦いの詳しい経過が不明なところも兼音の書面の内容を抽象的にさせた。やはり安楽椅子探偵ならぬ安楽椅子軍師は無理があるのである。敗北しても彼に責任を求めるのは酷だろう。

 

 これを承知しつつも、元々無茶苦茶な要求だったのだからここまでしてくれたことに感謝しなくては、と信繁は思った。軍議の始まるタイムリミットギリギリに読み終わった信繁は脳内で膨大な量の情報を整理していた。そして自分の頬をパチリと叩き決意を決めて軍議に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 村上義清率いる五千の敵軍と川を隔てて対峙した晴信は、重臣たちを本陣に召集して、「時は来た」と告げる。

 

「信濃最強の村上義清を破れば、小笠原などは戦わずして武田に降る。これが信濃統一のための最後の合戦となる。勝てば、宿老の板垣信方と甘利虎泰にはそれぞれ信濃の一城を知行地として与える。手柄を立てたそれぞれの将にも、知行を約束しよう。信濃全域を手に入れれば武田の国力は増す。越後にも東海道にも進出することができる。海に出られるぞ。甲斐は、一変する」

 

 板垣と甘利。二人の老将は、

 

「戦に勝つ前に大盤振る舞いをするのは不吉でございます。論功行賞は、勝ち戦の後に行うもの」

 

「城など要らぬ。儂はただ甲斐に武田晴信あり、と天下に示すことができればそれでいい。駿河の大殿、晴信さまのご活躍をなにとぞご覧あれ! うおおおおん!」

 

 と落ち着き払い、あるいは豪快に騒ぎ、いつもと変わらない。佐久では国人・豪族・領民たちの執拗な抵抗に遭って手こずったが、晴信は家督を継いで以来ただの一度の負け戦も経験していない。晴信の留守中に反旗を翻した者たちも、晴信自身が出兵すればことごとく敗れ去った。

 

 だが、歴史は証明している。勝っている時が一番危険であると。勝利の余韻に酔った将が容易く敗れるのはこれまでも、これからもよくあることなのである。しかも、老獪な武将の常勝とこの武田家の常勝の質は大きく異なる。武田家は、特に晴信は敗戦を知らない。加えて、経験が圧倒的に足りない。これらの要素は聡明な晴信の目を確実に曇らせていた。

 

 兼音も敗戦は知らないのだが、彼はその狂気じみた知識がある。人類史に刻まれた戦いの敗者のことも当然熟知している。何故負けたのか。勝てる方法は無かったのか。実体験に劣らないだけの知識がある為決して油断はしなかった。だが、晴信はそんな知識はない。

 

「御屋形様。こたびの戦、正面から衝突して押し切れればよろしいのですが、武田軍は連戦続きで疲弊しております。数で圧倒しているとはいえ村上軍を侮ってはなりませんぞ」

 

「板垣は心配性だな。焦ってはいない。今更に村上義清個人の武勇で覆せるような戦力差ではなかろう。なにも問題はない」

 

「軍師どのは如何お考えか?」

 

 勘助が「左様ですな」と顔を上げた。

 

「別働隊を出して挟撃するが最上の策なれど、己の武を頼む村上義清は籠城を選びませんでした。しかも意外にも村上陣営の諜報網は強うござる。各地へ物見に出した兵たちが戻ってきませぬ」

 

「おおかた、戸隠の忍びと結んだのであろうな」

 

「こちらも多くの忍びを抱える真田の者どもを雇えればよかったのですが、まだ上州を去る決意ができぬ模様。すでに関東管領の権威は地に落ち、上州も滅びを待つばかりなのですが」

 

「真田は、御屋形さまにご不信があるのかもしれぬな」

 

「いえ。真田はかつて、信虎さまと村上義清、諏訪家の連合軍に城を奪われておりますれば、武田と村上が再び同盟する可能性が消えるまでは信濃には戻らぬが得策と用心深く考えているようです。真田幸隆はなかなかの狸」

 

「今の真田は本領を失い上州の食客になっておる身だ。ここで上州を飛びだしたはいいが信濃の本領にも戻れなかったとあらば真田の一族は行き場を失い四分五裂する。慎重にもなろう。こたびの戦いで両軍が壮絶な死闘を繰り広げれば、真田は武田方につくであろうか? 勘助」

 

「板垣殿、それは間違いありますまい。武田と村上の関係が破綻すれば、旧領の真田の庄を回復する絶好の機会となりましょうからな」

 

「真田を帰順させたのちに村上との決戦に及ぶべきだと拙者は考えておったが、そういうことであれば村上とこの場で戦うしかあるまいな」

 

 ここで不幸なことが何かあるとするならば、勘助は戸隠忍びの実力を知らない。現在は最強だった加藤段蔵とその一味がいないものの、それでも侮っていい相手ではなかった。風魔には劣るが、真田忍びなしに挑むにはいささか戸隠忍びは強すぎる。

 

 更に、興国寺城の戦いに参加していない将がほとんどの武田軍の将はかの戦の北条家の勝因が情報戦における勝利であることを未だ気付けないでいた。情報戦と言う概念が明確に認識され始めるのは20世紀の終わりごろに米国によってである。この数世紀前に情報戦を展開している北条家の戦略に理解が及ばないのはある意味仕方のない事なのかもしれない。しかも、勘助もある種前時代的なところがある軍師だった。情報は大切であると考えている(むしろ考えていない人間に軍師を名乗る資格はない)が、それでも軍略や実際の戦闘でどうにでも出来ると考えていた。兼音が聞けば呆れかえるだろうがこれが実戦経験の足りない軍師の限界だった。

 

「だがな板垣の親父さん。佐久で、俺たちは少々やりすぎた。村上軍の連中は敗れれば金山へ送られると互いに噂しあっていて、全員決死の覚悟だ。諏訪での高遠との戦いなどとは比べものにならん。連中の士気は高い。四郎様という手品の種も使えない。厳しい戦になるぞ」

 

 軍議にほとんど耳を貸さず、黙々と槍を手入れしていた横田備中が、ぶっきらぼうにつぶやく。

 

「もっとも俺は、こういう生きるか死ぬかの戦のほうが嬉しいがな」

 

 四天王中紅一点の姫武将・飯富兵部がイナゴの佃煮を頭からかじりながら

 

「そうさね」とうなずく。

 

「大殿が仇敵だった村上義清や諏訪頼重と同盟を結んだ時、あたしたちはがっかりしたもんさ。とりわけ諏訪との婚姻同盟を成立させたことはね……。佐久ごときを奪うために信濃全土を併呑するという野望を捨てちまったのか、とね。しかし今、御屋形さまは諏訪を平定し佐久を独力で奪い、信濃制覇に王手をかけた。今川・北条と固く結ぶという奇策を用いてね。大殿の戦略を全部、あたしたちの手でひっくり返してやろうぜ」

 

「おう。堂々と戦って村上を破れば、親父どのも二度と姉上を臆病者だとは罵しれねえ! あの親父どのですら、村上義清には勝てなかったんだからな! 信濃を平定すれば、きっと認めてくれるさ」

 

 晴信の弟の太郎義信が、飯富兵部の肩をぽんと叩いた。勘助はその様子を目を細めながら見守っている。ちなみに、一条信龍は甲斐で留守居役である。

 

 今の武田家は、信虎時代とはまるで違っている。皆が御屋形様のもとに仲間として集い、疑似家族として結束している。この人の和こそ、武田家と御屋形様にとってなによりも大切なものだ。決戦といえどもこの和を失いかねぬ無理押しはならぬ、と勘助は確信していた。

 

「とはいえこの決戦、無傷では勝てますまい。これは武田が戦国大名として生まれ変わるための産みの苦しみと言ってもいいでしょうな。皆の衆、よろしく頼み申す」

 

「いや勘助。あたしは強引な戦で四天王たちを失いたくはない。四天王は父上が甲斐に残してくれた貴重な財産だ。万が一にも形勢不利とみれば、退こう。もっとも、この戦力差があれば万が一はないはずだが」

 

 そう言いながら河越で自軍を殲滅された男がいるのだが、晴信はやはり自信過剰になっている。興国寺城でやや矯正されたが、あの戦いは自分が指揮していなかった事、その後伊那で連戦を重ねたことで元に戻ってしまっていた。信繁は最後の一言は兼音の書状に似たような事を言い始めたら注意と書かれていたことを瞬時に思い出した。そのせいで顔色はやや悪い。

 

 晴信の脳裏には河越夜戦の報告がちらつく。それを思い出すたびに心の奥で何かが疼くのを感じた。

 

 

 

 

 

 今しかないか、と信繁は口を開く。

 

「皆、水を差すようで悪いけれど最近家中で油断慢心が見えるわ。意図していなくても、態度の端々に。それは兵にも伝播しているように見える。今一度気を引き締めなくては、負けてしまうわ」

 

 場の雰囲気に流されず、冷静に告げる信繁に一同はやや訝し気な目線を送る。

 

「そうは言っても次郎、こちらは八千。向こうは寄せ集めの五千だぞ」

 

「そういうところよ」

 

 ピシャリと言う信繁に全員が目を見張る。彼女が強く晴信に意見することなどめったにない。目の前で行われたその数少ない例外に瞠目している。

 

「大将が兵数に驕ったり、戦う前に恩賞の話をしてはいけないわ。その行動の根底には油断があるものよ」

 

「前者はともかく、後者は迷信だろう?あたしは迷信など信じないぞ」

 

「姉上、確かに古い因習にはどうしようもなく下らないものも、全く意味のないものもあるわ。けれど、それと同じ数だけ理由があるものも存在する。忘れられてしまって迷信じみていても根っこには合理的な理由があったはずのもの。これは無闇に無視していいものではないわ。どうしてそういう風に言われているか考えないと。何から何まで否定するのは、違うと思うの」

 

「…そうかもしれないが」

 

「私は不安なの。どうも最近の姉上は焦っているように見える。それがどうしても危うく見えるわ」

 

「あたしは焦ってなど…」

 

「焦ってるわ。北条家の戦勝を聞いてからずっと」

 

「ッ!」

 

「姉上、武田と北条はそもそも出発点が違うわ。比べるなど無益よ。どうか冷静になって。この戦も…」

 

「次郎。分かっている。それに、将たるものがそう不安ばかり口にしていては士気に障る」

 

「……そう。くれぐれも油断しないで」

 

 それが限界だった。姉へのある種の反抗は信繁の心を傷つけていた。兼音様、ごめんなさい。私は説得できませんでした。この流れは止められません。せめて、村上義清と戦う事を決める前に手紙を送っていれば…!と信繁は拳を握りしめる。かくなる上は自分が最後まで行く末を見守って軌道修正を図るしかないと考えていた。

 

「板垣。無闇に突撃しないで。もし、最初の渡河の時点で敵が何か策を弄していたら危険よ」 

 

「あいや信繁様。村上義清はその様な策を用いる男ではござらん。問題ないでしょう」

 

「勘助。あなたの戦術眼は信頼しているわ。でも、先入観は危険よ。あの人物はこういう人物だという定義づけは判断を狂わせるわ」

 

 最後の言葉は兼音の文書に記されていた事項の要旨である。勘助が思わぬ反論に驚いている間に、彼女は板垣に命じた。

 

「板垣。ともかく、己の常識で測れぬものに遭遇したらすぐにそれこそ一目散に退くこと」

 

「御意」

 

 板垣信方は「己の常識で測れぬもの」という言葉にやや疑問を抱きつつも承諾の意を示した。勘助は、信繁が胸元に入れている書状を握りしめているのを見て、信繁に入れ知恵をした人物の正体に気付く。これに彼の自尊心はやや傷つけられた。兼音に言わせれば、そんな自尊心とっとと捨ててしまえというところであるが、それを言う者はいない。

 

横田備中が「……戦国の世だ。弱い者から先に滅びていく。俺たちが戦えば戦うほど、敵は次々と強くなっていく」と呟いた。

 

「村上義清を倒せば、いずれさらなる強敵が現れるだろうな。俺たちはそのことごとくと戦い、勝たねばならん。俺は、武田軍が日ノ本最強となる瞬間を見てみたい」

 

 

 

 

 

 信繁の脳内には不吉な一文がチラつく。「宿老さえ知らぬ、己の常識で測れぬ村上の新たな戦術がある可能性高し。かの武人は貴殿らの騎馬隊を屠る術を編み出している確率が大。そうなれば、申し訳ないが現状の貴殿らの騎馬隊では勝利は難しい。すみやかにいち早く撤退をするべし。さもなくば、御家滅亡もあり得る。」兼音からの書状にはそう書かれていた。

 

 兼音は正確には、「己の常識で測れぬもの」ではなく「槍衾」に遭遇したら退けと書きたかった。しかし、村上がこれを用いる確信が持てず、敢えて言いかえた。この時代、まだ集団戦法は浸透しておらず、それは武田軍も例外ではなかった。兼音からすれば、書いても理解されるか分からなかったのである。それに、槍衾はほぼ鉄壁の防御を誇る。特に騎兵に対しては。これを突破するには銃火器などを大量に用いるか弓を無限に放ち続けるか、いずれにしろ遠距離攻撃で崩すしかない。しかし、残念ながら武田家に鉄砲は無く、弓兵の数も少なかった。これを知っている兼音は撤退を選択するように書いたのである。速度は騎馬の方が上。逃げ切れると踏んでいた。

 

 実は横ががら空きなのが槍衾の弱点なのだが、村上軍は千曲川の支流を挟んだ反対側に陣取っている。本陣は更にその奥の須々貴山城にある。その為、横側を突くにしろ、後方を脅かすにしろ、川を渡らねばならない。村上軍がそれを見逃すはずもなく、回り込むのは難しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 明け方。

 

 産川(千曲川の支流)を挟み、武田軍と村上軍の激突がはじまった。勘助は、武田軍を三段に分けた。先鋒に、宿老の板垣・甘利たち。諏訪衆がその主力である。中備えに、次郎信繁率いる郎党衆たち。太郎や飯富兵部はこの中軍に配備されている。後衛に、晴信自身が率いる近衛軍。

 

 血気盛んな若手ではなく、老獪な板垣信方に先鋒を任せた。村上義清はおそらく最初の突進にすべてを懸けている。その村上義清の突進を、板垣の熟練の戦略眼と采配によって避けようというのである。「後の先」を取ろう、板垣ならば取ってくれるだろう、それが勘助の読みだった。

 

 この時点で勘助もそして晴信も、従来の戦いとは異なりわずかに一歩腰が引けていたといっていい。

先鋒隊を率いて産川を押し渡りはじめた板垣信方は、自身の役割を熟知していた。

 

 まずは川を渡る姿勢を見せて、先手を取る。これを見た村上義清は「先手を取られまい」と全力で迎撃する。この村上軍の圧力を受け流しながら悠々と元来た川岸へと引き上げ、「後の先」を取る。闘気を逸らされて猛り狂う村上軍は川を渡りきり、武田が待ち受ける南岸へと押し寄せてくる。だが、武田が数で勝る。さらに、突出させた村上軍を背水の形に追い込むことで地の利も得る。甘利隊、信繁隊、飯富隊とともにじわじわと包囲していく――。

 

 村上義清は、己の武を頼みにひたすら突進する男だ。正面から当たれば大やけどを負う。矛先をかわし、武田に有利な地へ、有利な地へと村上軍を誘導する、それがわが使命。この日の朝。運命の一戦を勘助と晴信から託された板垣信方は冴え渡っていた、はずだった。

 

この作戦は決して酷い作戦ではなかった。むしろ、村上義清が読み通りの人間性ならば万事うまく行っていただろう。だが、不幸なことにそうはならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 板垣率いる先鋒隊は、最初の一当たりによってあっけなく崩された。村上の弓隊が、開戦の挨拶とばかりに矢を放った後、異様な軍団、異様な陣形が、板垣の面前に突如として出現していた。

 

 途方もなく長い槍を構えた足軽たちが、びっしりと蟻のように密集して、一直線に板垣を目掛けて凄まじい形相で突進してきたのである。

 

「あ、あれはなんだ!」

 

 槍か?それにしては常識をはるかに超えて長い。あれでは敵を突くこともできぬ、と板垣は驚いた。しかし、それらは突くための武器ではなかった。押し寄せながら、殴りつけてくる。間合いが違う。板垣隊の足軽たちが構えた槍が届かぬ距離から、重さに任せて殴ってくる。一般に槍は日本刀の五倍の重さがあると言われる。長槍ともなれば更に重くなるのだ。そんなものが上から重力と遠心力にまかせて振り下ろされれば頭蓋骨陥没は免れない。しかも下手に馬で正面から進もうとすれば、ハリネズミになるだろう。何とかかいくぐって切り崩すしかなかった。

 

 無数の長槍をすり抜けて刀で斬り込みをかけようとした豪の者たちも、まるでひとつの生き物のように連動して動く長槍の触手のような動きに捕まり、叩きのめされていく。

 

 一対多。

 

 いかように闘おうとしても、こちらの武士は一。向こうの足軽は多数。しかも、間合いが違いすぎる。一方的に攻撃を受ける、それも多数から。この長大な槍を無数に連ねた「歩く要塞」を前にしては、いかなるつわものといえどもそのような不利な戦い方しかできない。集団戦は応仁の乱以降浸透してきてはいるが、まだ個人戦闘が主体なのが武田軍であった。彼らは個人の武勇に頼むところが大きい。その意味で、旧態依然とした軍だった。個人戦闘に集団戦闘は統率にもよるが、大きな効果を発揮する。そして残念ながら、村上軍は統率がしっかりとしていた。武田軍でこれまで功績を稼いでいた腕自慢の武士たちが、名もなき足軽たちの槍衾によって、次々と倒されていく。

 

 ともかく撤退しなくてはならない。信繁の命令にあった「己の常識では測れないもの」とはこれのことだろうと板垣は思った。

 

「全軍、直ちに撤退せよ!無駄な被害を出すわけにはいかぬ!」

 

 崩れかけながらも板垣軍は一目散に撤退を始める。

 

「村上義清と直接戦った経験がある拙者や甘利ら老臣の情報を、御屋形様も勘助も鵜呑みにしていたのだ。あの二人には村上戦の経験がなく、それがしたちにはあった。それゆえに我らの意見が尊重された。だが、それが過ちだった」

 

 臍を噛みながらも板垣は駆ける。彼の背後に敵本陣からただ一騎で飛びだしてきた村上義清が、黒馬に跨って川を押し渡ってきた。武田信虎を彷彿とさせる殺気と獣臭をその身体から放ちながら、しかしその獰猛な視線には憎悪も猜疑心もなにもない。山に潜み獲物を狩る、狼のような視線だった。

 

「ここが貴様らの三途の川だ。武田家中興を果たした名将板垣よ。最期は、この俺の手で冥土へ送ってやろう」

 

 板垣様をお守りせよ!と叫び義清に挑んだ兵たちが次の瞬間には物言わぬ死体になっている。主を失った馬が悲し気に嘶く。

 

 村上義清は馬を殺さず、馬上に跨がる武士だけを討った。

 

 圧倒的な武の力だった。この男が戦国の習いを無視した集団戦術を編み出すなど、山本勘助にすら予想できなかったろう。勘助にはやはりまだ実戦経験が欠けている。逆に、村上義清が己の本能に反するような槍衾戦術を閃いたのは、ひとえに実戦経験の積み重ねゆえだった。己一人の武の力では武田の侵略は止められぬと追い詰められてこそ、閃いたのだろう。この男は頭で考える戦はできない。野獣のように、考えるより先に身体を動かし敵を討つのみ。その獣の嗅覚が、槍衾を生んだらしい。

 

 完全なるIFの話であるが、北条軍が村上義清の相手であったら、もしくは援軍が千でもいたら。こうはならなかったであろう。北条軍は歩兵中心の集団戦術を行っている。応仁の乱で発展した集団戦術は上方では有名だが、応仁の乱に直接巻き込まれていない関東甲信では知られていなかった。ここで思い出すべきは北条家の始祖、早雲は京の伊勢家の出である。彼は関東に上方の戦術を持ち込んでいた。それが北条軍の強さの秘密である。とは言っても兼音に言わせればまだまだ完全ではないが。

 

 このような戦術は、頭でこしらえる学問からは生まれまい。やはり勘助と御屋形さまに足りぬものは、実戦経験であった。拙者はすでに老いたが、村上義清はまだ老いてはいない。むしろ今こそがこの男の武将としての全盛期であるかのようだ、と板垣は目を細めた。

 

 この圧力は止められぬ。矛先をかわすこともできぬ。村上義清は、我らに「後の先」を取らせはしなかった。そのために村上は、この一戦で全軍玉砕するつもりで後先も考えずに突撃をかけてきた。これでは仮に村上軍が武田軍を破ろうが、村上軍とて大打撃を負うだろう。それが村上義清の恐ろしさでもあり、「故郷の地を守る」という以外の野望を持たぬ者の強みでもある、と板垣は思った。この戦いののちも四方で次々と合戦を繰り広げねばならぬ武田軍には決してできぬ無謀な突撃だ、と。いや、それこそが御屋形様の弱みであったのかもしれぬ、と板垣は思う。

 

 ともかく、時間を稼がねば、御屋形様を逃がせない。時間さえあれば、勘助がなにか起死回生の策を閃くやもしれぬ。策が見当たらなくても、逃げることはできる。

 

 板垣隊は川岸で陣を整え始める。川の流れの中を突き進んでくる村上義清と槍衾部隊の進撃をわずかでも阻もうとした。板垣に長年仕えてきた兵士たちも、大将の意を汲んで即座に川岸へずらりと並び、人間と馬とで「壁」を築きはじめていた。後方から甘利虎泰隊が、板垣を救おうと慌てて突進してくる姿が見えた。

 

「馬鹿者め。甘利は相変わらず、人情だけで動いておるわ。御屋形様をお守りせよ、拙者は捨て殺しにせよと怒鳴りつけたいところだが――何十年もともに戦った男だ。あやつの性格は今更変えられぬ」

 

 いつもそうだった。戦場においては拙者がさかしらに策を練り采配を振るい、大殿と甘利がその武の力を惜しみなく発揮して拙者が頭でひねり出した策の足りぬところを補ってくれたのだ。

 

 すでに大殿は駿河。拙者たちが追ったのだ。大殿の役目はすでに御屋形様に。策を練る役は勘助に。武を発揮する役は、まだ若い横田や飯富が負うことになりつつあった。この一戦に勝利し信濃を平定すれば拙者も甘利も引退する潮時であったが、それほど甘くはなかった。

 

「甘利。拙者とともに死ぬつもりか」

 

 それも良いと思った。しかし、そこで板垣の心に迷いが産まれた。

 

 だが、だがもし拙者と甘利が同時に死ねばどうなる。我らを家族と言ってくださるあの心優しい御屋形様だ。ひどく傷つくことになるだろう。あの大殿を駿河へ追いやった一件でも、辛そうにしておられた。あのお方は身近なものが死ぬことに慣れておらぬ。このままでは、御屋形様の御心は張り裂けてはしまわぬか…。それは我らの望む所ではない。ならば拙者のやることは一つだけではないか。

 

「すまぬな、甘利。先に逝く」 

 

 そう呟き、彼は辞世の句を素早くしたためる。そして青い空を仰いだ。

 

 

 

 

 

 

「いかんな。もしも大殿が村上義清であったなら、御屋形様はきっとかかる追放劇などを決行することもなかったろうに、などとありえぬ世迷い言を……拙者の天運は、尽きていたらしい」

 

「うおおおお! 勝手なことを抜かすな、板垣よ! ともに大殿を駿河に追っておきながら、この正念場で御屋形さまを置いてさっさと討ち死にしようなど、貴様は昔から考えすぎる!」

 

 甘利隊が近付く。板垣は渾身の怒声で盟友に叫ぶ。

 

「愚か者!我らが密集してどうする。村上の思う壺だ。やつにはまだ奥の手が、第二の矢があるはずだ。それ故に信繁様もすぐに退けと仰ったのだ。ここで二人が一気に死んでは意味がない。拙者が踏みとどまる。戻れ!」

 

「板垣! 老いたうぬ一人では苦もなく村上に斬られるわ! わしが一騎討ちを仕掛ける! この戦の勝機はそこにしかない!」

 

「戯け!あれに勝てる訳なかろう!ここで我らが両方とも討たれれば御屋形様の御心はどうなる。お主は生きて、最後まで御屋形様をお守りせよ!ここで死ぬのは拙者一人で十分だ」

 

「板垣…お主ッ!」

 

「頼む。生涯唯一にして最後の頼みだ。ここは退いてくれ。そして拙者の分も御屋形様を!」

 

 甘利は板垣の覚悟を読み取った。その上でなお迷う。だが、板垣はおそらく何が何でも自分を退かせるだろう。無力な自分を呪いつつ、己の思想よりも甘利は生涯の盟友の頼みを選んだ。

 

「必ず生きて戻って来い!」

 

「応、そう簡単に逝ってたまるか。戻ったら一杯やろう」

 

「っ!旨い酒を用意して待っておるぞ!!」

 

 甘利隊が反転していく。去り行く背中を見送りながら、板垣は念を送っていた。

 

「頼むぞ、甘利。どうか生きて、拙者の分まで、御屋形様の天下を見てくれ…!」

 

 

 

 

天を突く勢いで、渡河を終えた村上軍が、突進してきた。あの、槍衾隊である。人と馬とで築いた即席の「壁」は、容易に突き崩された。漆黒の鎧に身を包んだ村上義清が、左右に走らせている旗本隊を引き連れ、板垣信方が待ち受ける陣中へと乱入してきた。

 

「板垣信方か。悪いが時間は稼がせぬ。俺の流儀ではないが、一瞬で終わらせる。天の時がわが頭上に輝いているならば、まもなく晴信は死ぬ。だが天の時が晴信のもとにあるならば、俺は武田晴信率いる武田軍を新たに生まれ変わらせるという大仕事を手伝ってやったということになろう――」

 

 馬上で咆哮する村上義清を見上げながら、板垣信方は答えていた。

 

「そうとも。今日の勝ちはそなたのものだ。しかし御屋形様はこの経験によって、お強くなられる。日ノ本一の武将になられる」

 

「いや、まだだ。まだひよっこだ。女は、武将にはなりきれん。なりきる前に、俺がその首を落とす」

 

「ならねばならぬ、御屋形様はな」

 

 村上義清が馬に鞭を入れ、板垣めがけて再び走りはじめた。板垣も腰の得物を抜き放つ。突進する槍と待ち構える刀とが交錯する。刹那——板垣の口から血が噴き出す。胸からも鮮血が迸る。崩れ落ちる板垣。

 

 薄れゆく視界の中、彼の瞼に見えるのは、己にとどめを刺さんと欲する村上義清の槍の穂先ではなかった。 

 

「おお、おお!見える、見えるぞ。京の街に、武田菱がはためくのが…!」

 

 かつて若い頃に一度だけ訪れた都。その大通りに武田の威風堂々とした騎馬が行進する。誰もが笑い合う。御屋形様に大殿が声をかけている。今まで良く頑張ったと。ああ、素晴らしい。

 

 今際の夢に板垣信方は笑う。彼の望む幸せがそこにはあった。行進する馬の爪音が聞こえた。

 

 そして――――――

 

 槍が胸を貫くと共に彼の意識は深い闇へと落ちていった。その口元には確かな笑みが浮かんでいた。

 

  

 

 

 

 飽かなくもなほ木のもとの夕映えに 月影宿せ花も色そふ

 

 彼の辞世である。花は落ちた。されど戦は終わらない。



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第39話 苦難の道 甲

 戦場は混迷を極めていた。河を挟んだ死闘はなおも続いている。後方へ撤退する武田軍。追いすがる村上軍。村上軍の先頭は大槍を構えた村上義清が率いている。

 

「板垣信方様、討ち死に!」

 

 その報が武田軍を駆け巡る。彼らはその統制を失いつつあった。

 

「甘利様、撤退を始めました!」

 

「我が軍の勇士が、続々と討ち死にしております! 村上方の奇怪な長槍隊に対処できませぬ!」

 

「総大将の村上義清自らが旗本衆を率いて、この武田本陣をめがけて突進して参ります!」

 

「村上軍の被害も甚大なれど、退くつもりのない玉砕戦を挑んで来ました!」

 

 千曲川沿いに展開した味方の先鋒が次々と総崩れになっている光景を凝視しながら、武田本陣は騒然となっていた。

 

 晴信は「板垣が…!」と思わず声を詰まらせたが、次郎と二人きりの時以外は決して涙を見せまいと誓ったことを思いだし、かろうじて踏みとどまった。無意識のうちに自らの唇を噛み破り、赤い血を流していた。

 

 誰からともなく、村上義清が繰り出してきた奇態な長槍の集団を、槍衾、と名付けていた。

 

 勘助とあたしの兵法はほぼすべて、学問。すなわち、学んだもの。兵站に情報戦。謀略に挟撃等々。けれど、戦場に新たな兵器を投入し、その兵器を生かすための新たな陣形を考案することまでは、できなかった。いや、無数の長槍を足軽に持たせて戦闘時の間合いを完全に奪い、こちらに攻撃する猶予すら与えない槍衾を構築するなど、完全に盲点だった。その上、あらゆる計算と策略を覆す村上義清の圧倒的な武。見くびったり侮ったりしたつもりはなかった。板垣と甘利から、村上の武勇については何度も聞かされていた。だが、これほどとは。想定外以外の何物でもなかった。

 

 活かし方が悪いのだ、と河越城の軍師が怒りそうなことを思いながら、晴信は後悔していた。兼音に言わせれば、学んだことを活かせていない時点で何の意味もない。それなら知らない方がマシだ。なぜなら、下手に知識があるとそれに囚われるからである。

 

 やはり、村上が城から出て野戦を挑んできたところで、いったん兵を退いて策を練り直すべきだったのだろうか?智者は智に溺れるとはこのことかもしれない、と晴信は悔いた。それにしても、あの板垣がこんなにもあっけなく、この地上から消え去ってしまうとは。

 

 板垣信方は、晴信の守り役だった。晴信を疎んじた信虎に代わって、父のように晴信を守り、教え諭し、信虎追放劇の際にも動揺する家臣団をまとめて自分のために奔走してくれた。実の父親よりも慕っていた。

 

 その板垣が――。

 

 別れの言葉もなく――。

 

 村上義清は「姫武将といえど武士。降伏など認めぬ」と晴信の首だけを求めて戦場のただ中を駆けているという。しかし己の死が間近に迫っていることよりも、武田家の柱石と頼んできた彼を失った衝撃のほうが晴信にははるかに痛かった。今までの人生で、これほどの恐慌状態を来したことはなかった。いったいどうすればいいだろう。どうすれば。父上が村上義清と和睦した選択は正しかったのだろうか。身の程を知らないあたしの野望のためにあの忠臣は、多くの将兵は、武田家を支えてきた勇者たちは、死なずともよい死を迎えたのだろうか。

 

乱世の恐ろしさ、合戦の激しさに、晴信は身震いしていた。涙よりも先に、脂汗が流れおちていた。脇腹の猛烈な痛みと、吐き気に襲われていた。油断、怠慢、慢心。招いたのは敗北と言う結果だけ。あれほど次郎に言われたにも拘わらず。興国寺城で己の常識の埒外の攻撃を受けたにも拘わらず。自分は何一つ成長していなかった。驕った末の末路がこれか。

 

「勘助は。勘助はいずこに」

 

 軍師の姿が本陣内に見えなかった。

 

「軍師殿は何とか全軍を撤退させるべく中軍の次郎信繁様のもとに。次郎様は、御屋形様を逃がすべく盾とならんとするから、と」

 

 背後に侍っていた小姓が震えながら伝えた。次郎さまの討ち死にだけは阻止せねばならない、今ここで次郎さまが失われれば御屋形さまのお心は保たぬ、と言い残して。

 

 

 

 

 

 

 さて、その次郎信繁は中軍にて板垣隊が崩れるのを目の当たりにした瞬間に撤退命令を下した。彼女の瞳には、槍衾が写っている。あれこそが、己の常識では測れぬもの。事実、彼女の読んだ兵法書にあんな陣形は無かった。板垣隊も撤退しようとしているのが見える。救援か、撤退か。迷う彼女は記憶を必死に蘇らせる。送られた書状には、「万が一の際は御身はいち早く逃げ延びるべし。貴殿を失えば、晴信殿は狂乱されよう。ともなれば、武田は滅亡を免れぬ。他を顧みず、ただ一目散に駆けよ」とあった。

 

 兼音からすれば、折角できた繋がりをこんなところで失ってしまっては困る。その為、さっさと逃げるように指示していた。しかし板垣たちを見捨てる訳には…と葛藤する信繁のところへ息を荒くした甘利虎泰が逃げ込んできた。

 

「甘利!板垣はどうしたの!?」

 

「はっ!板垣は盾になると申して踏みとどまっております!ここで我らが両方とも討たれれば御屋形様の御心はどうなる。お主は生きて、最後まで御屋形様をお守りせよ!ここで死ぬのは拙者一人で十分だ、と…!」

 

 盟友が生きて帰ってくる可能性はゼロに等しいと分かっている甘利の声には涙が混じっている。

 

「そんな、板垣…!すぐに退くように言ったのに…」

 

「じきにここも危なくなりまする!次郎様はどうかお早くお逃げください」

 

「ッ!……分かった。全軍退け!」

 

 ああ、あの軍議でもっと何か言えていたら。違う結末があったのだろうか。ふと信繁は、自分ではなく兼音が武田家に産まれていたら…と思った。そうなっていたら、どうなっていたのだろうか、と。

 

 後悔から己の無力さを呪う信繁のもとに勘助がやって来る。

 

「次郎様!最早戦線を立て直すのは不可能。お早く…!」

 

「知っているわ。今から退くところよ。甘利!護衛は任せた!」

 

「承知ぃ!この老骨ここで果てるとも必ずやお守りしてみせましょう!」

 

「勘助。姉上は」

 

「退くように伝えるよう、小姓に言い残しました」

 

 それに安堵しつつも、信繁は急いで後退を始める。規律を失いかけながらも最後のところで踏みとどまっていた武田軍だが、信繁の撤退命令により後退を始める。勘助は己の不甲斐なさを恨みながら、何とか撤退できそうなことに安堵していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 板垣信方は生前、勘助の知が策に傾きそこに情がないことを何度も警告し教え導こうとしていた。その性格ゆえか容貌ゆえか、あるいは天性の一匹狼であったのか、人情というものが生来理解できなかったその勘助が、晴信そして四郎との出会いと交流を通じて、板垣の訓戒を通じて、はじめて情というものを知った。

 

目の前の戦における言い訳のきかない敗北を自称天下一軍師として糊塗するよりも、勘助は、窮地に陥った晴信の心がもっとも今望んでいるであろうことを為そうとした。そして、駆けた。

 

 しかし、情を知ってしまい情を抱いてしまっただけ、勘助は無敵ではいられなくなったのだろう。かつての勘助であれば逆転勝利の可能性を掴むためならば次郎をも捨て駒として切り捨てようとしたはずだ、と晴信は思った。すまない。あたしがふがいないばかりに、お前の戦歴に黒星をつけてしまった、と勘助に感謝しながら詫びた。

 

 小姓の一人が「御屋形さまをお救いする策を出さずに無断で飛びだすとは、軍師にあるまじき行動です」と吐き捨てるように口走っていた。

 

「勘助は左様な無責任な軍師ではない。なにか策を言い残していったはずだぞ。告げよ」

 

「お、『御屋形さまはすべてを捨てて一目散に逃げよ』と、だけ」

 

「それは正しい。勘助の言う通りだ。あたしがここで死ねば武田家は滅び去る。今は恥も外聞も捨てて逃げるしかあるまい。だが――村上義清は、その猶予を与えてはくれなかったようだ」

 

 幔幕が突き破られ、巨大な黒馬に跨がった武者が晴信の視界に入った。本陣の急襲。それが彼の策だった。その男の姿の中に、晴信は武田信虎の影を見ていた。加えて周囲からは多くの殺気。戸隠の忍びたちが彼女を狙っていた。

 

 あたしが父上から奪い取ったもののすべてを、この男は、あたしから根こそぎ奪い取ってしまう。これはあたしへの罰だ。父上が、同盟者をあたしのもとへよこしたのだ。あたしの首を奪うために。極限状態でふと生じたこの思考の錯誤から、晴信の心は突如としてあらがいがたい恐怖に囚われていた。

 

 床几に座ったまま、身動きができない。机の上に置いた剣を手に取ることができない。このような獣じみた男に、この細腕で勝てるはずがない。

 

「武田晴信、その首をいただく。葛尾城主村上義清、参る」

 

 勘助ともあろうものが、あたしが逃げる猶予を与えられなかった時のための策を準備していなかったはずはない――と晴信は己を励まし、剣に手を伸ばそうとした。

 

 ごぉ、と村上義清の槍が音を立てて晴信の頭上へ落ちてきた。ほんの一瞬ではあったが、恐怖で身体が言うことを利いてくれなかった。その一瞬が、生死を分けた。晴信は、臆病のために自分の命運がここで尽きた、と覚悟し絶望した。

 

 

 

 

 

 

 だが、運命はそう簡単に彼女をこの世界からは解き放たなかった。轟音を立てながら振り下ろされる槍は、凄まじい速さで飛来したクナイを払うために軌道修正させられる。目の前の状況を飲み込めない晴信の鼻腔に甘ったるい花の香りが入り込む。

 

 桃色の靄が陣中を満たす。村上義清もこれに混乱しているようだった。戸惑いながらも再度晴信に狙いをつけ、槍を振り上げる義清。しかし、勘助は自ら次郎信繁を救いに行くと同時に、晴信の命運を自らの「教え子」たちに託していた。

 

 村上義清が必殺の気迫を込めて振り下ろした槍先を巨大な鎚で受けてぎりぎりではじき返し、晴信の命を防ぎ止めた者がいた。

 

「……あー……馬場信房、見参」

 

 鎚の使い手は、長身の姫武将、馬場信房。小姓衆の中に身を小さくして紛れていたらしい。俺の槍を受けきる女がいたとは、と村上義清は目を見開いていた。

 

「逃げましょう、姫さま!」

 

 腰の抜けていた晴信を庇うのは春日源五郎。

 

「姫小姓だらけの本陣だと!? 武田晴信! この俺を舐めていたか!」

 

 義清が怒鳴る。その姫小姓どもに必殺の一撃を外されたわが慢心こそが不覚にして恥辱!青ざめた村上義清が「邪魔だてする者は女であろうとも叩き斬る」と怒気を放ちながら、鎚を引き上げて再び構えに入ろうとしていた馬場信房へと躊躇なく躍りかかる。

 

「馬場信房とやら、死ね。その重い鎚では、俺の槍の速度には追いつけん」

 

 その村上義清の左手から、鉄扇が。右手からは、何の変哲もない「石」が次々と放たれてきた。

 

「姫さまをやらせはしないわ!」

 

「いいい石つぶての目つぶしです!」

 

 小姓衆に紛れていた飯富三郎兵衛が鉄扇を、そして簑を着込んで完全に気配を消していた工藤祐長が石つぶてを、左右から同時に村上義清めがけて投擲してきた。二発目、三発目、四発目、と息を継ぐ暇もなく。

 

 山本勘助は、教え子である彼女たちに「馬場信房は鎚の一撃を繰り出した後、無防備になる。姫武将であるそなたたちに忍びになれとは言わぬが、戦場で馬場を補完する特技を身につけよ。乱戦において御屋形さまをお守りするため、そしてお互いを守りあうためである」と槍・弓・刀以外の独自の技を習得させていた。彼女たちはみな、晴信が見出した将来の武田を担う姫武将たちだった。春日源五郎は高坂昌信、飯富三郎兵衛は山県昌景、工藤祐長は内藤昌豊と言った方が通りが良いか。いずれも後世に名高き武田四天王である。そしてこの中の三人は長篠にてその命を散らすことになる。高坂昌信だけが生き残り、斜陽の武田家を案じながら亡くなった。

 

 なるほど。三方からの同時攻撃か。忍びまがいの術を姫武将どもに教え込んだのは山本勘助か。俺を侮っていたわけではなかったらしい――と村上義清は苦笑いを浮かべた。石と鉄扇とは、それぞれ異なる軌道を描いて変化しながら飛んでくる。とりわけ、重量の軽い石が厄介だった。一発、二発を食らっても問題はないが、飛びながら奇妙に曲がったり落ちたりする。これらすべてを変幻自在にうねる槍先で払い落としている隙に、正面の馬場信房が再び鎚を振りあげて村上義清の頭を兜ごと叩き潰そうと迫ってくる。

 

「が、しょせんは覚え立ての児戯よ。実戦ではまだ使いものにならん」

 

 村上義清が槍の射程内に再び馬場信房を捉えたこの時。晴信を背負って本陣から逃げようとしていた春日源五郎が、不意に村上義清の首筋めがけて、小刀を投げていた。それも、背を向けて逃げながらだった。

 

「……背面投げ!?」

 

 逃げることしか頭になさそうなこの娘が……そうか、四人目がいたか、勘助得意の詐術か!と義清はうなった。小刀の直撃を避けるために馬上で身をかわし、太股の力だけで馬の背に踏みとどまりながら、馬場信房が振り下ろしてきた鎚を両腕で盾代わりに握りしめた槍の柄で受けた。義清に勝るとも劣らぬ、すさまじい剛力だった。まして、槍と鎚とでは圧倒的な重量差がある。この姫武将ははじめから己を守ることをいっさい考えていない、三人の姫武将による支援を信じているのだ、と義清は思った。

 

「どうやら俺は貴様らを甘く見ていたな。だが……」

 

 だが、これまでだ。これ以上晴信に時間を与えるつもりはない。視界はなおも色のついた靄が漂っている。邪魔なこれだが、何とかならない訳ではない。それよりも、これに紛れて晴信に撤退される方が厄介だった。村上義清は盾代わりに構えていた槍を押し戻して馬場信房の鎚をはね飛ばすと、雄雄雄雄、と異様な雄叫びをあげていた。

 

 この時、義清が引き連れてきた村上家の旗本衆は、武田本陣前で晴信の旗本衆を相手に激しい攻防を繰り広げていた。村上義清は奇襲攻撃などで殺せる相手ではない。次の一撃を突破口に、晴信を守ろうと本陣内に踏みとどまっている姫武将をことごとく倒すだろう。殺し尽くすだろう。

 

 しかし、その時には晴信は本陣を脱出しているのだ。それこそがあちらの姫武将たちの目的。義清を殺せるとははじめから思っていない。全員が捨て石となって、時を稼いでいるのだ。その関係こそが、彼らの強さだった。

 

 

 

 

 

 村上義清が手間取っている。ならばこの隙に、と影に潜む者たちが動き始める。晴信の頭上から一斉に襲い掛かろうとしていた。彼女はそれに気付かない。だが、次の瞬間、彼らは地面に落ちる。

 

 突然落ちてきた忍び姿の者たちに晴信は驚くが、彼らが自分を殺さんとした戸隠の忍びであると理解する。しかし不可解なのは、何故彼らは傷を負って地面に伏しているのかである。疑問を抱く彼女の前に一人の人間が姿を現す。金色の目に黒い髪。黒と赤、それも血のように濃い赤を基調とした服に身を包み、長い髪は赤いリボンで一つに括られている。異質な美しさを誇る忍び姿の女が立っていた。

 

「間一髪、と言うところ。助太刀は一度でいいかと思っていたが、存外に手のかかる姫だ」

 

 彼女はそう言いながら晴信を見下ろす。そして地に伏している戸隠忍びに向けてガラス片のようなものを吹きかける。途端に悶える忍びたち。その中の一人が苦し紛れに叫ぶ。

 

「貴様、この裏切り者!」

 

 それを無表情な目で見降ろし、彼女は絶命したその姿に向かって言い放つ。

 

「いつまでも戸隠にしがみついている貴様よりは、天下万民のためになれる場所を見つけただけのこと。裏切り者とは心外だ」

 

 鼻を鳴らしながらなおも抵抗の意志を見せる忍びたちの頭上から大量のクナイが降り注いだ。

 

「間に合ったでござる。村上義清の突撃に紛れて忍びどもがこの本陣に来ると読んで、軍師殿と口裏を合わせていたでござるよ!」

 

「日和見は嘘か! 真田の者どもが武田方に参戦していたか!」

 

「当主の幸隆どのはほんとうに日和見しているでござる! 参戦した者はあんたがたに気取られぬように、ごく少数でござるよ!」

 

 最後に言い残した忍びに答えたのは晴信も知った顔。猿飛佐助であった。その姿を先ほどの女忍びは片眉を吊り上げながら見ている。

 

「猿飛、佐助…。それと、お前は…」

 

問う晴信に女忍びは答える。

 

「ああ、名乗っていませんでしたか。我が名は加藤段蔵。我が主、一条兼音より命じられ、援軍に参上」

 

 佐助は晴信を促し、陣を脱出させる。追おうとする武士は段蔵によって悉く冥界に送られた。村上義清は槍を一閃して馬場信房を馬上から振り落としたところで、「晴信が陣中から消えた。勝ち戦を、逃したか」と目を細め、思いを吹っ切るかのように馬首を翻していた。馬場、飯富三郎兵衛、春日、工藤。なおも自分を足止めすべく陣中に留とどまる四人の姫武将の命を奪おうとも思ったが、やめた。晴信の首を獲れないのならば、この少女たちを殺し尽くしたところで意味がない。戦は終わったのだ。勝利条件は満たせなかったのだ。ならば、未熟で幼い姫武将たちを殺したところでそれはただの腹いせでしかない。

 

 戦場に男も女もないとは言ってきたが、戦が終われば話は別だった。よくぞこの俺を防ぎきった。お前たちは生かしてやる、四人はいずれ名将になるだろう。だがその時こそお前たちの命を俺が奪う、とつぶやいた。

 

「者ども。晴信を取り逃がした。急ぎこの戦場より離脱する」

 

 上田原の合戦は六時間に及んだ。このような正面からの玉砕戦は、戦国時代では滅多に起こらない。普通の大将は、このような明日のない戦などしないからだ。村上軍からもまた、甚大な被害が出ていた。

 

 村上義清は、果敢に討ち死にした味方の勇将たちの名を聞かされながら、憂鬱そうに眉をひそめていた。

 

 屋代源吾、小島権兵衛、雨宮刑部。重臣だけではない。この六時間のうちに死んだ将兵の数は、数え切れなかった。覚悟の上で犠牲を払った。だが、晴信を討ち漏らした。山本勘助とその教え子である姫武将たち、そして真田幸隆が送り込んだ忍び、そして名乗りは聞こえなかったがおそらく手練れの忍び。そいつらが俺をぎりぎりのところで阻んだ。ならば、死んだ連中は無駄死にだったのだろうか。明日もう一度突撃をかけるのか。いや、それでは武田も滅ぶが村上も滅び去る。信濃の片田舎で俺はなにをしているのだ。村上義清はふと出家への思いに駆られた。

 

「わたくしたちだけでは姫さまは守りきれなかったわ。村上義清の猛攻を食い止めて時間を稼ぐのが精一杯で戸隠忍びまではとても手が回らなかった。真田を最高の形で高く売りつけたわね。真田幸隆」

 

 仲間とともに本陣を最後まで死守した飯富三郎兵衛が、佐助に声をかけていた。

 

「幸隆どのは流浪暮らしが長びいて、銭にせこいのでござる。面目ないでござる」

 

 佐助は頭をかいて、笑った。

 

「しかしまた、ずいぶんと人が死んだでござるなあ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の夜。

 

 千曲川を挟んで武田・村上両軍は再び睨にらみ合いに入った。しかし、双方ともに甚大な被害を出し、容易には動けない。これでも一応史実より武田の戦死者は少ない。早急に撤退したことが生きていた。

 

 村上義清はなにを思ったか、板垣信方の首と遺骸とを丁重に武田本陣へと送りとどけてきた。

 

 これでこの戦は水入りにしたい、という意志なのかもしれなかった。だが、村上軍が陣払いをする気配はまるでなかった。この上田原は村上領である。武田が退かない限りこちらからは絶対に退かない、このまま戦い続けて滅亡するならばともに滅びようという挑戦の意志とも受け取れる。

 

「死ぬのは俺か、飯富兵部だと思っていたのだがな……あんたはまだまだ死にそうになかった。別れの言葉すら交わせなかった。御屋形様に言い残したい言葉もあったろうに、それすら伝えられなかったな。これが戦か」

 

 軍議の席で、横田高松が酒を浴びるように飲みながら首桶を前にそうつぶやいた。総大将の晴信は号泣したい気持ちをけんめいに抑えていた。何とか生き残れた甘利虎泰は満身創痍のため、手当を受けている。

 

「姉上。先鋒ってのは若いやつがやる仕事なんだ! 次こそ俺を先鋒に使ってくれ。頼む!」

 

「太郎。姉上は心中に深手を負われているの。これ以上姉上を心配させてはだめよ」

 

 逸る太郎を次郎は必死に抑える。山本勘助は、宿老の死という痛恨の敗戦を噛みしめながら、敢えて淡々と撤退の方針をすすめた。

 

「無念ですが武田の完敗にござる。このような無謀な突撃を仕掛けてくることも計算外でしたが、あの槍衾は堅い。急いで諏訪へひきかえさねば、諏訪にて反乱が起こりますぞ」

 

「いや勘助。撤退はしない。われらも大打撃を被むったが、村上軍も多くの重臣と兵を失って四分五裂する寸前だ。板垣たちの無念を置き捨てて、おめおめと帰れるはずがない」

 

 晴信が撤退に反対した。必ず諫止したであろう板垣はもうこの軍議にはいない。甘利は出られる状態ではない。

 

「御屋形様。これ以上村上に固執すれば、諏訪、高遠、佐久。これまで奪った領地のすべてを失いますぞ。小笠原長時が中心となって信濃の反武田勢力がいっせいに蜂起いたしましょう。さすれば信濃平定は振り出しに。もし佐久と諏訪を失陥すれば、われらは敵地で孤立したまま甲斐へ戻れなくなります」

 

「勘助。お前は最前線で立て直し、同時に馬場たちと佐助を本陣に集結させてあたしを守った。次は、諏訪での反乱を抑えながら村上と戦うのだ。できぬことはないだろう」

 

「御屋形様、立て直したのは次郎様でございます。それがしは、何も…」

 

「勘助。あたしは村上義清の姿を見るなり金縛りにあって動けなくなった。板垣の仇を目の前にしていながら、恐怖に居すくんでしまった。このまま逃げ帰れば、自分がどうしようもない臆病者だと認めることになる」

 

「……これまで、武田家の内政外交は板垣様が。軍事は甘利様が統括されておりました。その柱石の片翼が亡くなられたのです。武田家の体制そのものを立て直さねばなりませぬ」

 

 勘助は晴信を懸命に説得する。しかし、晴信はぐちゃぐちゃになった感情のために冷静な判断が出来ずにいる。

 

「板垣を捨てては帰れぬ」

 

「捨てて帰るということにはなりません。もう死んだ者にございまする。それに、首はこうしてわれらのもとに還ってきております」

 

「勘助! 今朝の軍議では、冗談を言い合っていたではないか! それを、もう死んだ者とはなんだ!」

 

「御屋形様はまことにお優しいお方でござる。しかしそれがしは軍師にござりますれば、今だけは心を鬼にして事実を述べているまで。ここでそれがしまでが情に流されれば、武田家は滅びまする」

 

「ならば武田を滅ぼさずに村上に勝つ策を考えよ、勘助!」

 

「兵どもは村上義清を恐れております。再び決戦する兵力も士気も今はありませぬ。あの圧倒的な村上義清の武と、そして鉄壁の槍衾を破る戦術を考えねば……実戦経験のなさを、それがし、板垣さまに懸念されていました。それがこのような形で現実のものになるとは……」

 

「この敗戦でそのことをわれらは学んだはずだ。新たな戦術には、さらに新たな戦術をぶつけるしかない。勘助。そなたならできるはずだ」

 

「昨日今日というわけには。閃きだけでは戦術は実戦に投入できませぬ。調練にも日数がかかりまする」

 

 御屋形様は判断力を失われておられる、と勘助は震えた。

 

 しかしそれがしには説得する方法が見えぬ。四郎さまは二度と戦場へ連れ出さぬと決めた以上、他に方法が見えない。引き続き、次郎様と太郎様に説得していただくしかない。

 

 だが、次郎と太郎もまた、晴信に撤退を納得させる言葉を持たなかった。とりわけ次郎は「あたしは臆病者ではない。しかし今逃げれば臆病者だ」と父親の影と村上義清の姿をだぶらせながら涙目で繰り返す晴信の心情がわかるだけに、強く晴信を叱りつけることができなかった。

 

 

 

 

 だがそんなのは知ったもんじゃないとばかりに陣幕にもたれかかった者が口を開く。

 

「内輪もめは大いに結構。ですが、とっととどうにか結論を出してほしいものですな」

 

 それに一同が目を向ける。勘助は一度だけ目にしたことのあるその姿に何故…と戸惑いつつも問う。

 

「それで、加藤殿。北条家の、もっと言えば一条殿の家臣の貴殿が何故ここに」

 

「主命だ。勝ち戦ならばそれで構わぬが、負け戦ならば武田の当主を守れ。万が一にも死なれては困る、とのことでな。詳細は分からねど、あのお方のことだ。深慮遠謀があるのだろう」

 

「左様か…」

 

 勘助が、まさか一条兼音はこの展開を予想して…!?だとしたらそれがしはまた敗れたのか、と臍を噛む。どういう経緯でここに段蔵がいるのか。その詳細は数日前にさかのぼる。

 

 

 

 

 

 

 信繁に書状を送った後、兼音は上田原の合戦に関しての記憶をほじくり返していた。何か無かったかと思ったからである。そして思い出したのは、この戦の結果、晴信はかなりの傷を負ったということである。これは史実でも確認されている為、事実だろう。最近で評価の見直され、史実性があると判断されている甲陽軍鑑にもそう書かれている。流石は甲陽軍鑑を原文そのままで読んだ男。こんな大事な資料の内容を抑えていない訳がない。

 

 兼音はここで警戒する。この世界は必ずしも自分の知る世界と同様ではない。何かのはずみで大きく変わる。万が一にも晴信の傷が悪化し、死亡したら。もっと言えば、討ち取られたら。可能性が無い訳ではなかった。この時代の医療など、現代人に言わせればお粗末なものである。破傷風やその他の病気になる可能性は高い。

 

 そうなっては対越戦略は破綻する。それは彼のもっとも恐れる事だった。その可能性を断つために万が一に備え、段蔵を送ったのである。それと共に上田原の戦いについての情報を正確に集め、戦術研究をする目的もあった。かくして鳶加藤は信濃へ送られたのである。

 

 

 

 

 

 再び場面は戻って、上田原。武田四天王のうち、中軍を任されたためにからくも生き残った二人――横田高松と飯富虎昌は、板垣を戦死させたことに後ろ髪を引かれている。

 

「御屋形様の代わりに俺たちで決着をつける。仇討ちといこうぜ」

 

「おうよ! 弔い合戦さね!」

 

 と戦う気まんまんで、逆説得をはじめる始末だった。勘助と次郎が「こんな時に板垣様が」「勘助。それは言わないで。せんのないことよ」と顔を見合わせていると、一人の異相の姫武将が――姫と呼ぶにはすでに年を重ねているが――陣中に現れた。

 

 六文銭の旗印。小銭を数珠のように紐に通して縛り、首や肩にじゃらじゃらと掛けていた。両脇に、うら若い双子の「真田姉妹」を引き連れている。

 

「わたくし、真田幸隆と申します。こちらの姉妹はわが娘、信綱と昌輝。真田一党は上州を去り、この信濃に戻ると決めました。そのほうが銭を稼げそうですので。わたくしどもはこれより武田晴信様にお仕えいたします」

 

 てめえが真田か! 今頃来たのかよ? さんざん気を持たせて日和見してきやがったくせに、今更なんだ! と飯富兵部がイナゴをほおばりながら怒鳴った。

 

「武士も商人も、自分がいちばん高く売れる時に売るもの。ふふ。土産代わりに、晴信様のご母堂・大井夫人様から書状をいただいて参りましたわ」

 

「なんだって?」

 

「ええ。ここに。ここで敗戦を認めたくがないあまりに意地を張って武田を滅亡に導いてはならない。潔く敗北を認めて退く時は退き、再び立ち上がる機会を窺うかがうことこそが真の勇気。今は急いで撤退し、甲斐へ戻れとのこと」

 

 控えめな大井夫人はもともと、奥のこと以外には関わらない。すべてを信虎に任せていた。夫・信虎が追放されて以後も、娘・晴信の国政に口を挟むことはなかった。

 

 それだけに、晴信の心には大井夫人の手紙が響いた。

 

 いきなり自分の主君を調略すんのかよこの女は、と飯富兵部がいよいよ真田幸隆をうさんくさがったが、勘助はこれで御屋形さまは救われた、と安堵のため息を漏らしていた。

 

「……わかった。あたしは父親を駿河へ追放した娘だ。それでもなお甲斐に留まってくれた母上に対して親不幸はできない。甲斐に引き返そう」

 

 それを聞いた段蔵はフッと影のように消えようとした、それを信繁が止める。

 

「どうされた」

 

「一条様に御礼を。勝てはしませんでしたが、兵を損なわず済みました。加えて、書状の内容を活かせば、村上義清に再戦を挑む事も出来ます。本当にありがとうございました」

 

「お伝えしましょう」

 

 その姿を真田幸隆はやや驚き気味に見つめる。

 

「本当にあの鳶加藤が主を持つとは…」

 

 勘助は幸隆にその言葉の意味を問う。

 

「あの、とは?」

 

「鳶加藤は主を持たぬことで有名でしたの。戸隠でひっそりと暮らしていたはずですが」

 

 それに段蔵は答えた。

 

「私の理想を叶えられる器を持った主を得ただけのこと。加えてその主の方から私を呼んでくださったのです。僥倖でした」

 

そう言って段蔵は闇に消える。それを見た幸隆は「心から心服させるとは。河越城主・一条兼音。侮れない相手かもしれませんわね」と呟いていた。

 

 それに…案外関東の風土は暮らしやすい。食事も良いですし、もう戻れそうにはありませんな、と苦笑しつつ、段蔵は主への報告のために河越を目指した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 上田原から去ってゆく武田軍を見ながら、村上軍は手出しできなかった。両軍はすでに大打撃を負って崩壊寸前となっている。ここで追い打ちをかければ、大怪我を負いながらも頑として撤退しようとせずに戦線に粘り続けた武田晴信とその家臣たちは最後の一兵まで戦って討ち死にする道を選ぶだろう。加えて、援軍に来ていた北信の諸将がこれ以上の追撃を拒んだのである。義清は彼らに無理強いすることは出来なかった。

 

 かつて武田信虎と組んで信濃から追い出した真田一族が武田に合流したと知った村上義清自身は「真田の力を手に入れた晴信はより強くなる。いずれ手に負えなくなるのならば、ここで共倒れを選ぶのもいいかもしれん」と追撃をもくろんだが、「武田が退いていく!」「勝った。命を拾った」「生き延びた」と安堵し緊張状態から解かれていた家臣たちや兵士たちが無謀な追撃に反対したのだった。義清も、それ以上強くは追撃を主張できなかった。なにしろ、兵が、将があまりにも死にすぎている。加えて、援軍の北信の諸将が追撃に反対したのである。彼らに無理強いすることは出来なかった。

 

 板垣たち戦没者の墓標を建て終わり、満身創痍となった武田軍が粛々と甲斐府中へ撤兵する中、村上義清の圧倒的な武と新戦術の前に一敗地にまみれた山本勘助は、真田幸隆に頭を下げていた。

 

「よくぞご決断くださった、真田殿。欲を言えば、もっと早く武田家に帰順してくだされば上田原であのような負け戦はやらずにすんだかもしれぬが」

 

 いえ、真田はあくまでも城を守ることに特化した一族。攻める戦は得意ではありません。わたくしたちが参戦しても武田は勝てなかったでしょう、と幸隆は苦笑した。すでに何人もの子を産み育ててきたはずの幸隆だが、不思議と年齢を感じさせなかった。この辺は北条幻庵と共通するものがある。武田がこれほど大敗したというのに、その武田をかろうじて救ったというのに、戦功を誇ろうともせず、恬淡としている。

 

「母」とはこのようなものなのかもしれぬ、と勘助は思った。

 

「去就を迷っていたのは事実ですわ。武田・村上・諏訪の連合軍に真田の庄を奪われて追われた後、上州で多くの人々の世話になりましたから。その上州の上杉憲政様もいまや北条そして武田にいいようにやられてすっかり落ち目で、今ここで上杉家を見限っていいのやらとずいぶんと迷いましたわ。ですが」

 

「が?」

 

「我らにはまっとうな武士とは言いがたい独自の価値観がありますの。むしろ、忍びの一族に近い存在」

 

「たしかに」

 

「武田信虎殿はそんな真田を邪道の一族と嫌いました。その父上の逆を、逆を行こうとなされる武田晴信様は、関東管領上杉家も、神氏諏訪家も、そして信濃守護小笠原家もお認めにならない。人の価値を、血筋や官位ではなくその能力に求めようとされるお方。ご自分がその能力をお父上に認めていただけなかったからかもしれませんね。すなわち御屋形さまは、決して真田の一族を疑ったり差別をしたりなさらぬお方と、見定めましたの」

 

 相変わらず頭の切れる女性だ、と勘助は冷や汗をかいた。

 

「御屋形様は幸隆殿を、信濃先方衆の筆頭として重用するとのこと」

 

「ありがたき幸せ。ですが勘助殿。武田軍は、村上義清には勝てませんよ」

 

「勝てませぬか。新しき世の戦に対応するようにこれより制度改革を進めますが、それでもなお?」

 

「御屋形さまとあなたは、理詰めの戦をします。真田もそうですわ。村上のように荒ぶる武神とは、相性が悪いのです。かの韓信は国士無双でしたが、項羽にだけはかないませんでしたでしょう? 村上を相手にするならば勝ち戦を求めずに、負けぬ戦をするべきです」

 

「それでは、いつまでも信濃を平定できませぬぞ」

 

「世に、完全無欠な武将などおりません。長所があれば欠点がある。ひとつの能力に己を特化させた者は、特にそうです。武神には武神の弱みというものがございます。武のみならず奸智に長けた武田信虎どのですら、あっけなく自分の家臣団に追放されてしまったではないですか。ふふ」

 

「相性の悪い相手に対しては王道を行くな。邪道を行って勝て、ということですな。ですが、御屋形様は納得しますまい。板垣殿を失った以上は……それよりもなによりも、村上義清を恐れて本陣内で一瞬ひるんでしまった自分の臆病を、御屋形様は許せますまい。正面からぶつかりあって戦わねば、先へ進めぬとお覚悟の様子」

 

「それでは、また大勢の兵と家臣が死にますよ」

 

「死んでいく者たちは、誰も悔いたりはしますまい。だが、家臣の死が続くと、御屋形さまのお心が心配です……」

 

「勘助どの。あのお方はまだうら若き乙女。戦にばかり執着させるのがよくないのです。心に余裕がなくなっているのですわ。佐久での強引な戦、上田原での大敗、いずれも戦に勝って父を超えようと欲する焦りが生みだしたもの。恋でもさせるのがよろしいでしょう」

 

「もともと男に恬淡としている方です。縁談を勧めても、どうなるか…」

 

「ご自分が母親にでもなれば、あの父上に対する負い目や執着のようなものも薄れるのですけれどもねえ」

 

「それがしも、妻子を持てば己の野心の炎が鈍るのではないかと恐れておりまする。妻子かわいさに己の命を第一と考えるようになれば、軍師としては失格であると。軍師たる者はいつでも戦場で死ねるよう、身ひとつで生きるべきだと。ですが御屋形様は武田家の当主。お世継ぎも必要です。父を追放したという重荷を背負ったまま戦に次ぐ戦の日々では、御屋形様……」

 

「本来、あのお方は誰よりも情熱的な人。いずれその時が来るでしょう。人の心は否応なしに成長するもの。ただ、その恋が成就するか新しい悲劇となるかは、わたくしにもわかりませんが」

 

 しかしその時こそ武田晴信さまが完全無欠の名将になる時かもしれませんと幸隆は笑い、そのすでに女として盛りをすぎたはずの幸隆の笑顔をまぶしく感じた勘助は、それがしにはその時は来なかったのであろうか。老齢にさしかかりながら男として未完成なそれがしは、いつか天下一の軍師になれるのであろうか、と目をしばたたかせていた。

 

 

 

 

 かくして上田原の戦いは終結する。板垣信方を失い、武田家には初めて敗北という結果が突き付けられる。ここからが武田家の苦難の道の始まりである。兵数の損失が少ない事、晴信が五体満足な事、甘利虎泰が辛うじて生き残っているのが数少ない救いだった。




感想欄で多数のご意見がありました。中には否定的なご意見もありましたが、これはひとえに私のストーリー構成力が足りなかったことが原因です。満足できる物語を書けず、申し訳ありませんでした。

言い訳をさせていただくと、この作品はあくまで司馬遼太郎先生などがお書きになった歴史小説ではなく、「織田信奈の野望」の二次創作です。勿論、はじめの方に書いたようになるたけ硬派な作品を目指してはいますが、あくまでも二次創作です。

二次創作は原作の雰囲気を大幅に変えすぎるのはあまり良くないと思っております。その為、現実の戦国時代では為されないであろう行いをすることがあります。これはこちらとしては原作リスペクトのつもりですので、ご承知下さい。

ただ、ストーリー上矛盾があったり、余りよく分からなかったり、これはちょっと…と思うものがありましたら遠慮なくお書き下さい。精一杯活かせるようにしたいと思います。また、この勢力についてもっと深く書けやゴラというのもありましたらどうぞ。努力致します。

長くなりましたが、読者様あっての拙作です。今後とも、どうぞよろしくお願い致します。


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第40話 参謀

お待たせしました。今回は北条に視点が戻ります。


 扇谷上杉家が降伏し、成田家が臣従。そして最後の抵抗勢力だった羽生城が落ちたことにより、北武蔵(現在の埼玉県)は完全に制圧された。ここ一帯に勢力圏を持つ国人・土豪などの小領主は全て北条家の傘下に入った。

 

 武蔵の名目上の司令官・氏邦様は現在滝山城にいる。今後鉢形城に移る予定のようだが、今はまだ完全に統治できていないので滝山城に留まってもらっている。北条家の今後の方針は北伐、つまり上野制圧である。この為には我らが河越城含む北武蔵の勢力が欠かせない。その為、北武蔵の中心であり、統括をしている河越城城主である私のゴーサインが必要であるようだ。こちらのゴーサインが出ない以上はまだ北武蔵は治まっていないという意味だと北条家の上層部は判断しているようである。なので、こちらの責任は重大。早急に北武蔵を掌握する必要がある。

 

 武家勢力が降れば掌握…ではない。民心が得られなければ何の意味もない。商人、農民、寺社勢力。これらの人々の支持が必要だ。当然河越城城下の内政も欠かせない。正直猫の手も借りたいくらい忙しい。まずは北条家の法を浸透させることが必要だ。ともかく、これに注力しよう。

 

 武田家から文が来て、上田原の助言を行い、段蔵も派遣したが結果はまだ不明。帰ってくるのを待つしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あのだな、ここは溜まり場でも酒場でもないのだが」 

 

 そうジト目で見つつ、盃を呷る。自分の亡き両親はかなり酒類に強かった。そして自分にもそれが確実に遺伝していた。

 

「まぁまぁそう言わず。この城で数少ない男同士、友誼を深めようではないですか」

 

 目の前では成田長親が笑いながら飲んでいる。その横では無言でいる諏訪頼重。折角一人で飲もうとしていたのだが、もう仕方ないと諦める。ついでだ、気になっていた事でも聞くとするか。

 

「時に、そちらの甲斐姫殿は健やかに過ごせてるのか」

 

「ああ、それでしたらご安心を。貴殿のところの綱成殿とよく競い合っておるようで。結果は今のところ全敗のようですが」

 

「それはなにより」 

 

 綱成も実力の近い相手がいるのはいい刺激になるだろう。この前の一件から夫婦仲を改善できた頼重が問いかけてくる。

 

「我が妻が最近よく花倉殿と話している。彼女とて暇では無かろうに、申し訳ない」

 

「いや、まぁ気にするな。あいつも自分の仕事の管理くらいは出来ているだろう」

 

「なら、良いのだが…」

 

「ほれほれ頼重殿、手が止まっておりますぞ。さ、もう一杯」

 

「あ、ああ」

 

 故郷を追われた諏訪家の神官、実家の当主に嫌われた成田家の奇才、本来この世界にいない筈の未来人。なかなかトンチキな三人組だが、我々三人が河越城でも要人と言えるだろう。一人は武田家、もう一人は北武蔵の雄・成田家の人質である。人質と言っても利用できるものは利用するのがこちらの主義なので、時折仕事をしてもらっている。

 

 特に、最近では農民とコミュニケーションを取るのが上手い長親には兼成の手伝いとして現在河越城の領内で進めている農業改革プロジェクトを任せている。成果は順調のようで、村々からも受け入れられているようだ。

 

「少し真面目な話、北条家は次何処へ行くのだろうか」

 

 頼重が聞いてくる。別にただの好奇心から聞いている訳ではないだろう。彼から奥方に伝わり、そこから甲斐へ伝わる。長親とて、成田家へ知りえた情報を伝える可能性がある。そうそう重大機密を話すわけにはいかない。農業改革に関しては漏らしたら殺すという誓約の元仕事をさせている。監視はついているが、今のところ約束は守られている。元々疎んじられていた上に、近頃は恐れられているらしいので、成田家への情報漏洩はそこまで心配しなくてもいいかもしれないが。それでも警戒は必要だけれど。

 

 北条家の方針は別に部外秘でもなんでもなく、城下の民も分かっている者も多いだろう。教えて差し支えないと思う。

 

「北へ」

 

「では上州か」

 

「そうなるな」

 

「上州ならば少しお役に立てるかもしれませんな」

 

 長親が言う。旧主関東管領・上杉憲政を攻めると言っているのと同義なのだが、特に何の感慨もないらしい。別にそれはそれでいいと思うが。

 

「役に立つとは…?」

 

「我が従兄、成田氏長の正妻は上野南部・新田金山城の由良成繁の娘なのですよ」

 

「なるほど、それはそれは。では一つ、成田家から働きかけてはくれぬか」

 

「承知。後ほど文を送りましょう」

 

 頷く長親。彼が協力的な理由は前に聞いた。曰く、「北条は民を安んじ、民を愛している。栄えるべきはこのような家だ」とのことだった。先日上杉家の一族で深谷城を本拠地とする深谷上杉の上杉憲盛に扇谷上杉を正当な上杉家の嫡流と認める旨の声明を出すように要求した。これで朝定の正当性も上がるだろう。

 

「ところで、武田はいかがか」

 

「信州攻略であるかな?」

 

「左様。我が妻がしきりに気にしておるので、この機会に聞こうかと」

 

「伊那・諏訪は平定したようだ。佐久はまだ半分と言ったところか。木曽は中立。小笠原と村上以下の北信は揃って反武田と聞く」

 

「でしょうな」

 

「流石は詳しいですな」

 

 茶化すように言う長親にどこか苦々しげに頼重は盃を呷る。

 

「村上義清が敵となったか。或いは、晴信の命運は尽きるやもしれぬな」

 

「そんなに強いのですかな」

 

 長親の問いに頼重は無言で首肯する

 

「あれに勝てないようでは今後どうにもなるまい。武田の運命は、村上義清を乗り越えられるかにかかっていると言っても過言ではない。晴信などどうでも良いが、我が妻が悲しむのでな」

 

 姫武将が古き権威や男武将を乗り越えて新たな世を拓こうとしている。そう感じた。その過程で多くの者が死ぬのだろう。

 

「人がまた沢山死ぬな。この乱世では男から先に死んでいく。難儀な事だ。私は出来る事なら、氏康様の行きつく未来を最後まで見てみたいが」

 

 そう言う私に、応えることなく二人は盃に目線を落とす。三人で一斉にグイっと呷る。夜中の月は、いつかの夜に見たものとよく似ていた。小田原の、氏綱様の部屋の前の庭で見た月。等身大の氏康様の姿。目に焼き付いたその記憶を反芻しながらぼんやりと空を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ああああ忙しいっ!どうしても仕事が減らない。内政はできてもその間に参謀役がいなくなる。こうなったらどうにかして優秀な人物が欲しい。求めるのは私が内政中に謀略の出来る人物兼別軍を作って行軍する時、そちらの参謀が出来る人物。どこかにいないものか。

 

 私の中での目下の仮想敵は長尾景虎。こいつである。これを打倒できるスペックを持つ人物はいないのか。船頭多くして船山に上るとも言うが、現状船頭がいない。私の身も一つしかない。

 

 パッと思いつかない。仕方ないので逆に考えよう。長尾景虎が負けたことはないのか。————ん?記憶が正しければ、どこかで負けていたような。確かそう、臼井城の戦いだ。この時長尾軍を追い返した軍師は白井胤治。彼もしくは彼女ならば、あるいは。記憶の中から蘇ったその名に期待を抱く。

 

 

 

 

 

 臼井城の戦いの経緯は長尾景虎が三国峠を越え関東で越冬したことに始まる。翌年、北条方の小田氏治の領する常陸小田城を陥落させ高城氏の領する下総小金城へ攻め入った後、1万5千の大軍で北条方の原胤貞が治める下総の臼井城を包囲した。景虎はここを拠点に里見氏と連携し、印旛沼や利根川水運を手に入れようと考えていた。

 

 景虎が臼井城を囲んだ際、 大軍を前にして落城必至の情勢に、原胤貞より指揮を託された胤治は兵を鼓舞し、兵の士気を高め好機を待った。 総攻撃を命じた景虎に胤治は、城門を全開にし城兵による総攻撃を命じた。まず原大蔵丞と高城胤辰の先陣が突入し、疲れが見えたところで二陣の平山・酒井が錐で穴を空けるがごとく道を造り、松田康郷が敵本営にあとわずかのところにまで迫った。特に三陣の松田康郷の活躍は凄まじく、「赤鬼」の名に恥じぬ鬼神の働きであったと伝わる。これにより上杉軍は一旦撤退を余儀なくされる。

 

 景虎は敵が勢いに乗って攻め込んでくると考え本陣で待ち受けたが、一向に攻め込んでこない。業を煮やした景虎は逆に、先手を打つ出陣を命じた。先鋒の長尾顕長は城の逆茂木を壊し濠を越え、大手門にまで迫ったが、これを見越していた胤治に城壁を崩され、兵士数百名を一瞬で下敷きにされてしまった。これに驚いた景虎は全軍を撤退させようとしたが、勝機と見た胤治は城兵に総攻撃を命じた。崩れる上杉の軍勢を北条長国や新発田治長が良くつなぎ止め撤退戦を行うが、しかし多数の戦死者が出た。足利義氏は上杉の死傷者は5千人以上と語っている。

 

 このように長尾軍はボコボコにされている。かの不敗の軍神を寡兵で叩きのめしたのだ。もし大軍があれば、もっと複雑な戦術を使えたのではないか。ただ、戦略や内政が出来るかは分からない。この人物を見極め、もし有能なら是非迎え入れたい。実際どういう人物か、内密に調査を出す。

 

 その結果、実家に認められず軟禁状態にある事。臼井城主・原胤貞は才能の片鱗を知っているものの、白井家に強く出れず、重んじることができないこと。この時代の家臣は絶対の忠誠を誓った関係ではない。なので、遠慮や配慮で思い通りにできないことも多かった。だが、知識人からは評価されるようだ。

 

 これならいける。そう思い、千葉家に使者を出す。ここで臼井城に該当する人物がいたら勧誘する許可を千葉利胤に求める。千葉利胤に許可を得てから勧誘するとするか。受けてくれると助かるが…結果を待とう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 待っている間にも仕事は降りかかってくる。氏康様に提案した結果、まず自分でやってデータをとるように言われた農法改革も今のところ順調のようだ。これには一安心する。河越城下は賑わい、人・物・金が行き交っている。

 

 河越城下は元々大きな町であったため、既得権益も多く絡んでいる。大商人に寺社。これらの勢力と折り合いを付けながら上手く町を運営していかなくてはいけない。寺社が権益を得るようになった理由はいくつかあるだろうが、一つはそうしないと生きていけないからである。もっと邪な理由もありそうだが。そこら辺の見分けはこれからつけなくてはいけない。

 

 後手後手に回っていた寺社対策をするため、大広間に各寺・神社の代表者を集めている。

 

「よく来てくれた。まずは礼を言おう」

 

 ザっと衣擦れの音が響き、一斉に頭が下げられていく。今日集めたのは河越城だけでなく、北武蔵全域の寺社である。そのため、結構な人数がこの空間にはいる。

 

「早速、申し付ける。北条家の勢力下にある北武蔵の全寺社は例外なくその権益を手放すべし」

 

 ざわめきが広がる。先頭にいた僧侶が顔を真っ赤にしながら立ち上がる。

 

「な、何と言うご無体なお申しつけ!仏罰が当たりますぞ!」

 

「ほう?何故仏罰が当たるのだ。私はそなたらが金を集めるのを止めよ、と言っている。それとも御仏は金もうけをしろと言っておるのか?」

 

「そ、それは…」

 

「しかし、そうしなければ我らが飢えてしまいます…」

 

「勿論ただで取り上げれば、そなたらが死んでしまう。それくらいは承知だ。当然、こちらから荒れ放題で放置されていた寺社領より得た収益をキチンと支給する。私とて信仰心の無い訳ではない。しっかりと教えの求道と布教、法事・神事に努めるのなら、これからのそなたらの生活を保障しよう」

 

 この言葉に安堵するものが多い。既得権益を取り上げられるのは痛くても、しっかり対価があるのなら…と思っているのだろう。

 

「これからは本来の教えに従って民を導くといい。ああ、そうだ。今から名を呼ぶ寺と神社の代表は少し同行願う。何やらこちらの衆判所が聞きたいことがあるのだとか。どうも、今まで民を苦しめたり悪党とつるんでいた疑いがあるようだ。たっぷり弁明せよ。無罪ならそれでよし。もし有罪なら…しかるべき苦役を覚悟するのだな」

 

 顔面蒼白になっている何人かを無視して対象の寺社の名を呼ぶ。これらの者たちは迎えに来た衆判所の担当官に連れられて行った。いったい何人が有罪になる事やらな。

 

「北条は信賞必罰であり、法を重んじる。不正は断固糾弾し、民を守る。心するように」

 

 固い表情のまま、連れていかれなかった者たちは再度頭を下げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 兼音が寺社の統制を行っている間、城内の裏方、女中部屋ではうわさ話が展開されていた。大名家に仕える女中は身元をしっかりと調べられた武士の娘が行っている場合や領内より奉公に出た娘たちが勤めている場合などがある。河越城は後者だが。いつの時代も女性が集まると姦しいものだが、ここでも例外ではなかった。

 

「ね、ね、聞いた?」

 

「なになに、何かあったの?」

 

「小耳に挟んだんだけど、城主様、また縁談断ったらしいのよ」

 

「えー!またぁ?」

 

「もう何度目かしら」

 

「四度目よ、四度目。小田原の氏康様も困り顔だったみたいよ」

 

「何しろ、飛ぶ鳥を落とす勢いで北条家の家中に名高い一条兼音様に足りないのは一族だけと言われてるものねぇ。万が一があって家が滅ぶのはもったいない、彼ほどの知将ならばいい武将を育成できるだろうに…ってのがもっぱらの評判」

 

「想い人でもいるのかしら」

 

「あり得るわね。誰かしら」

 

「お綺麗どころが多いものね、この城は…。貴族の風格を持った優雅な兼成様に武闘派だけれど華のある綱成様。もしかしたら朝定様の可能性もあるかも」

 

「段蔵様も忘れてはいけないわ。忍びであってもあの美しさ。憧れるわね」

 

「大穴でまさかの氏康様かも」

 

「ちょっと流石にそれはマズいわよ。姫大名と家臣は結ばれないのが世の鉄則よ」

 

「もしもの話よ。そうだったら素敵じゃない」

 

「そうだけれど…」

 

 やいのやいのと話し続ける女中たち。前に抱かれた朝定=兼音の隠し子説は否定されたものの、彼女たちはネタを探し続けている。その状況下で兼音の縁談とそれを断ったという顛末は想像をかきたてていた。多忙過ぎてそんなことしてる余裕があまりないというのが兼音の本音ではあったが、周りはそれではあまり納得しない。そもそもこの時代の人間でない兼音は子孫を残さず死んでも構わないと思っているが、氏康的にはそれでは困る。嫌がっているのを強制はしないが、頭を悩ませていた。この攻防はもう少し続くこととなる。

 

 

 

 

 

 

 

 視点は下総の臼井城に移る。兼音の勧誘しようとしていた彼女は臼井城城主・原胤貞に仕えている。白井家は代々原家に仕え、臼井城に出仕していた。胤治自身は原胤貞に仕えていることになっているが、実際は父親が白井家の代表であり、胤治には何の権利も無かった。彼女は下総の片田舎である臼井には似合わない天才だった。まさしくトンビが鷹を生んだと言うべきか。だが、天才故の悲しさではあるが、臼井に彼女の力を理解できるものはいなかった。知者であると認識はされているが、重んじられてはいないのである。父親は武闘派であり、同じく武勇に優れた腹違いの弟を次の当主と定めていた。

 

 彼女が兵法を修めた理由は母への懐古の情である。彼女の母は早くに亡くなった。その母が生前褒めてくれたのが彼女の頭の良さであった。その日々を忘れられず、学を修めた。新しい母親とは残念ながら馬が合わなかった。天下に興味はなく、百万の軍勢の軍師となると言った大願もない。

 

 かつて、命の危険を感じたこともあり、あまりの扱いに出奔し関西の三好家に仕えたこともあった。一定の活躍をし、三好長逸に感状を貰った。関西の水が体に合わず辞めたが。三好の感状を見せると父も弟も自分を冷遇するのを止めたが、それでも侮られていた。弟にはあからさまに自分の身体を売って三好から感状をもらったのではないかと言われたこともあった。内心でキレていたが、ここで怒っても父に告げ口され、どうしようもないことを知っていた為、諦めた。

 

 彼女の心は閉ざされかけている。この辺は武田晴信と通じるところがある。もっとも、胤治の場合は肉親全てから否定されているので、こちらの方が辛いかもしれない。三好長逸には認められたが、それはあまり家族には効果が無かった。三好の名前など、関東の片田舎の武家では何の権威にもなりはしない。認められるのは諦めたが、いつか見返したいと思いながら無理だろうなという感情を抱いたまま過ごしていた。そして、出来る事なら、誰かに必要とされたかった。

 

 

 

 

 

 

 そんなある日、いつものように座敷牢のような狭い自室で書を読んでいたところ、運命を変える呼び出しがあった。

 

 ドタドタと激しい足音がしたかと思うと、勢いよく襖を蹴破り父親が乱入してきた。

 

「どうされましたか、父上」

 

「どうしたもこうしたもあるか!貴様、何をした!城よりお呼び出しがあり何事かと思えば、貴様を呼んでおる!」

 

「何もしておりませんし、させてもらえないのですが」

 

「五月蠅いっ!今胤幹(胤治の弟)が対応しておる!早く来い!!」

 

 腕を引っ張る父親に引きずられながら胤治は考える。はて、どうして私は呼ばれたのか、と。原胤貞は老齢に近い。好色でもないし、自分の身体目当てでもないだろう。理由がさっぱり分からず、困惑していた。城の大広間に通される。客人の座る上座に見知らぬ若い武士が座っている。余談ではあるが、この若武者はかつて段蔵勧誘の際に派遣された人物である。段蔵から勧誘には向いていると兼音に言われたのでそのまま今回も任命された。

 

「貴殿が白井胤治殿か」 

 

「ええ、はい。そうですが…」

 

 目の前の若武者の問いに困惑気味に答える。

 

「それがしは、主である河越城城主・一条兼音様の命で参った」

 

 それに瞠目する一同。胤幹は何かやらかして斬られでもするのか、とにやけ顔をしながら見ている。父親の青い顔をちらりと見ながら胤治は頭を働かせる。しかし、何かやらかした記憶は全くない。一条兼音と言えば、主家の原家の主家である千葉家が先日従属を決めた北条家でも有名な将である。あの河越城の戦いの立役者であるとか。軟禁状態の胤治にもそれくらいの情報は入って来ていた。そんな大人物が自分に何の用か。そもそも何故自分を知っているのか。謎は尽きなかった。

 

「単刀直入に申し上げれば、白井殿には河越城に来て頂きたい」

 

「河越城に行くとは…何故でしょうか」

 

「兼音様は貴殿を配下に加えたいと思っておられるようです」

 

 その言葉に、場の空気は一気に変わる。胤治を侮ったり、河越城からの使者を訝しい目で見る空気から、彼女を何か凄まじいものを見る空気へと一変したのである。何より、当の胤治自身が一番驚いていた。

 

「な、何でこいつにそんな誘いが来るんだ!白井家の次期当主は俺だ!俺の方が有能なんだ。それは父上も認めている!」

 

 騒ぐ胤幹。しかし、その様子を意に介さず、使者は胤幹に冷淡に告げる。

 

「我が主が必要とされているのは胤治殿だけです。貴殿ではない。お静かに願います」

 

「ッ!」

 

「それで、如何ですかな。既に千葉利胤殿、原胤貞殿の許可は得ています」 

 

 胤治は少し迷っていた。自分が勧誘を受ける理由は分からなかったが、このままここにいても片田舎で死ぬだけ。今まで眠っていた見返してやりたいと言う気持ちが疼きだした。自分を馬鹿にし続けていた奴らに、目にもの見せてやれる。亡き母も、「貴女を理解できる人がきっと現れる。だから、その日までは忍耐しなさい。私が見守っているわ」と言い残した。めぐってきた最後の機会かもしれなかった。

 

「承知しました」

 

「おお、それはありがたい!それでは早速参りましょう。何か荷物などはありますか」

 

「…いいえ、何も」

 

 亡き母の形見は肌身離さず持っている。それだけが唯一の彼女の持ち物だった。屋敷にはもう思い入れもない。自分を連れて行こうとする使者に続きながら唖然としている父親と顔を赤くしたり青くしたり忙しい弟が視界に入る。それを無表情に眺めながら、最後に一礼する。ざまぁみろ。心の奥で小さく呟いた。どうしようもなく空虚でむなしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目の前に平伏しているのは黒髪を白い花の付いた髪飾りで2つに結っている少女。右袖だけたくし上げた赤い着物と黄色い帯。束ねた黒髪が動くたびに揺れる。彼女が私の招いた参謀候補・白井胤治だった。目の中には知性の光を感じる。当たりだと直感した。

 

「まずは確認だが、そなたが白井胤治か」

 

「はい。左様です」

 

「うむ。来てくれたことを感謝する。もう用件は聞いているかもしれんが、改めて言う。我らが軍にて、その才を使ってはくれんか」

 

「何故、私を。私の名は知れ渡ってなどいません。一条様ほどのお方に招かれるような人材ではありません。誇れることと言えば、三好日向守長逸様に感状を一つ頂いたのみです」

 

 まぁ、そうなるよな。無名だった自分が急にスカウトされたらまず怪しむだろう。三好長逸に感状貰っていればそれで十分な気もするが…。

 

「十分に誇るべきだと思うがな。今を時めく三好家の重鎮からの感状であれば」

 

「そうなのでしょうか。なにしろ、今まで全く認められてきませんでしたもので…」

 

「賢人は眠る賢人を知る。事前にそなたについて調べさせてもらった。下総の賢人・知識人はそなたの才を知っていたぞ。そしてそなたをこの目で見て分かった。そなたは片田舎で眠るには惜しい才を秘めておる」

 

「そうでしょうか…」

 

「問う!神の如き才能を持つ大将の率いる軍はいかにして破るべきか」

 

 見極めるための最後のテストのようなものをしたいと思い、唐突だが聞いた。いきなりの質問だったが、この問いに彼女の目の色が一気に変わる。身にまとった雰囲気も無気力気味だったのが極度の集中を行っている雰囲気に。

 

「大将を釘付けにし、その配下を先に倒す。本拠地を急襲する。領国を焼き払う。経済を封鎖する。兵糧を断つ。敵を調略し、分断させる噂を流し陣内を乱す。これで勝てます」

 

「戦にて重んずるべきは」

 

「情報」

 

「戦を用いて常勝。これは最上か」

 

「否。悪しきことにはあらねど最上にはあらず。最上は戦わずして勝つ事なり」

 

 端的な解答が即答される。これは優秀だ。そしてこの質問はかつて早雲寺にて氏康様より問われたことだった。同じような答えが返ってくるということは、自分と同じ思想を持っているという事だろう。これなら方針でもめる事も無いだろう。優秀な軍師でも曹操と荀彧みたいなことになっては悲しい。

 

「素晴らしい。私と同じ解答だ」

 

「え…」

 

「私は、私の代わりに指揮を出来る人材を探している。北条の家を盛り立て、民に安寧と平穏をもたらす。その為にはまだ多くの時を要するだろう。その参謀として、我が軍に来てはくれぬか。私は、河越城はそなたを必要としている」

 

 

 この時胤治は人生で初めてと言っても過言ではなく誰かに必要とされた。理由はそれだけで十分だったのだ。

 

「よろしくお願いいたします。どうか、私を使って下さい」

 

 そう答えるのに、長い時間は必要なかった。

 

 

 

 

「よろしくお願いいたします。どうか、私を使って下さい」

 

 その言葉に胸を撫でおろす。長尾景虎対策の一環ではあるが、これで今後の相談役が出来る。そう言う意味でも大きかった。着々と準備は進んでいる。小田原には辿り着かせない。長尾景虎、貴様の墓標はここだ。不敗の軍神をこの地で撃ち墜としてやる。

 

 

 

兼音は気付かない。今まで誰にも必要とされず、母との思い出を抱きしめ生きてきた彼女が、初めて必要としてくれた、手を差し伸べてくれた兼音に対し若干の依存心を抱いたことを。これが後々大きく河越城を動かすのだが…それはまた別の話。

 

 

 

 

 

 

 

 遥か未来において、白井胤治の名は名参謀として知られる。数々の戦において的確な助言を行い、表に裏に活躍した。史実において才能を見出されず下総でひっそりと死んだ無名の軍師は、一人の男によって見出され、その名を轟かせる。その前半生が不遇であったことは意外にも知られていない。




 白井胤治の容姿は文豪ストレイドッグスの泉鏡花です。理由は私の好みです。

 次回は今川家かな?


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第41話 小豆坂 駿

 時系列は甲相駿の三雄が一堂に会した三雄会談の後までさかのぼる。この時、今川家はそこそこの窮地にいた。頭を下げ、何とか北条家との和議を結ぶことができた。しかしながら、五千近い損害を出しながら得られたのは親北条感情が渦巻き、容易に統治は出来ないと思われる富士郡のみ。どう考えても割に合わなかった。本来の予定では富士郡と駿東郡を割譲させ、ゆっくりと統治をするはずだったのだが、その青写真は悉く粉砕される。

 

 北条家、もっと言えば一条兼音の策略によって三河の国衆や豪族が決起したのである。加えて、その三河に織田信秀の軍勢が侵攻してくる。もし彼らが連合し、一斉に駿河を目指したら。防ぐのは厳しいものがあった。

 

 今川家の西部戦線の諸将は遠江に防衛線を構築して耐えているが、どうなるかは分からない。そして三河という勢力圏を失うのはあまりに痛かった。

 

 三河と言うと有名な徳川家康の出身地である。その為、彼の生家・松平家が治めていたというイメージがあるが、実態はそうではない。そもそも、家康の生家からして元々は松平家の宗家ではないのだ。加えて、松平家以外にも吉良、奥平、菅沼、西郷、戸田、牧野、設楽など多くの勢力が割拠している。三河に今川の影響がいかにして及ぶことになったかを語るには、まだ北条早雲が生きていた頃までさかのぼらねばならない——————

 

 

 

 

 

 北条早雲がまだ若かった頃、彼は今川家の客将だった。彼の妹が今川家当主の今川義忠の妻となっていたのである。その義忠が塩買坂での戦いで戦死した結果、今川家では家督争いがおこる。義忠の従兄弟の小鹿範満と義忠の幼い息子の龍王丸(早雲の甥、のちの今川氏親)が争った。結果としては小鹿範満の外祖父・上杉政憲と扇谷上杉家家宰の太田道灌が兵を率いて駿河へ進駐して家督争いに介入。これを早雲が仲介して、範満が龍王丸の後見人として家督を代行することで決着した。従来の説では早雲が知略で無双したように言われていたが、事実は室町幕府の意向を受けて盛時が駿河へ下向して今川家の内紛を調停したのである。

 

 これでひとまず治まったかに見えたが、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても範満は家督を返そうとはせず、家督奪取の動きを見せて龍王丸を圧迫した。これを受けて、龍王丸は京に戻っていた早雲に救援を依頼。彼は石脇城を拠点に兵を集めて今川館を襲撃して範満を殺した。範満が頼りにしていた太田道灌は既に主君の上杉定正に殺害されており、援軍なく範満は死亡した。

 

 その後、11代将軍足利義澄の命により、早雲は義澄の異母兄足利茶々丸を討伐して、伊豆を手中にした。氏親も早雲に兵を貸してこれを助けている。これは管領・細川政元が起こした明応の政変に連動した動きであった。以後、氏親と早雲は密接な協力関係を持って支配領域の拡大を行うことになる。

 

 駿河国の隣国・遠江は元は今川氏が守護職を継承していたが、後に斯波氏に奪われていた。遠江奪還は今川氏の悲願となり父は遠江での戦いで命を失っている。当主となった氏親も積極的に遠江への進出を図り、守護斯波義寛と対立した。

 

 遠江への侵攻の兵を率いたのは早雲で、遠江中部まで勢力下に収めた。早雲は更に兵を進めて三河岩津城の松平氏を攻めているほか、牧野古白を滅ぼして奥平貞昌の従属には成功している。かくして今川家の勢力は三河に及ぶのである。

 

 だが、ここで想定外の事態が発生する。流石松平家と言うべきか、史実において天下人を輩出するに至った家だけありただでは滅ばなかった。一万の兵を五百で破った英雄が現れる。その名は松平長親。徳川家康の高祖父である。元々分家だった彼は、ここで松平一族の惣領の座に就いたのである。こうして今川の三河侵攻はとん挫した。

 

 その後の三河は更なる不世出の英雄を迎える。松平清康。家康の祖父である。だが彼は森山崩れと言われる政変で家臣の阿部正豊に両断され即死した。その後の松平家は没落しかける。清康の子、松平広忠は彼の大叔父・松平信定に本拠地を追われた。一時は伊勢まで逃れた彼は家臣の阿部定吉の働きに救われる。その後今川の助力を得て岡崎に復帰した。この時は丁度第一次国府台合戦が起こった辺りである。こうして三河の最大勢力となった松平に影響を及ぼすことで今川は三河を勢力圏に加えた。

 

 

 このまま今川は松平を半従属させながら三河の統治を行う予定であった。がしかし、全ては一条兼音のせいで狂う。行けると踏んでまず離反したのは水野家であった。水野家は松平広忠の妻の実家であったが裏切った。また同時に戸田家も織田方につく。このタイミングで今川に人質として送られるはずだった竹千代は戸田康光の手によって織田家に運ばれてしまう。両勢力を味方にした織田信秀は北条からの調略を受けたことも相まって三河へ侵攻する。安祥城は一瞬で抜かれ、岡崎まで撤退し徹底抗戦した。遠江の諸将は三河を見捨てて浜名湖周辺まで撤退する。このタイミングで対北条戦線のために駿東に出兵していた太原雪斎の元に飯尾連龍が派遣される。

 

 だが頼みの綱の今川は北条相手に大敗。しかし今川も松平を見捨てる事は出来ず反転進軍を開始した。最早歴史は完全に乖離し始めている。それでも運命は一つの戦場に彼らを導いた———。

 

 

 

 

 

 

「これより全軍で三河へ急行する。直ちに進軍。道中で兵力を吸収しながら進軍する。興国寺の失態、ここで取り返すべし」

 

「は!」

 

 太原雪斎はこめかみを抑えながら苦々しい声で告げる。目の前にいるのは縮こまったままの朝比奈泰朝。あんな大敗を喫した後でも朝比奈家の影響力は健在であり、蔑ろにするわけにはいかなかった。しかし将が足りない。松井宗信や鵜殿長照などは負傷しておりとてもじゃないが前線に出れる状態ではなかった。早く遠江衆や三河の友軍勢力と合流する必要があった。

 

 既に早馬を領内に走らせている。会談の成功によって今川領内の北条家による情報操作は解除されている。引退する気満々だった朝比奈泰朝の父・泰能なども出兵せざるをえない状況に追い込まれている。岡部元信は泰朝の顔も見たくないと吐き捨て軍議をボイコットしている。関口親永は彼女をなだめるためにいない。必然的にこの場には二人だけになってしまっていた。

 

 会談の際に思いっきり北条家の面々にスルーされたのが余程堪えたのか、泰朝は意気消沈としたまま粛々と退室していった。

 

「しかし」

 

 雪斎は無人となった寺に敷かれた本陣で呟く。

 

「兵の損失が多い。何とかしてかき集めねば…」

 

 一条兼音による被害は甚大であった。大国今川でなければ一瞬で滅亡への道をたどっていたであろう。何故こうなったのか。やはり油断があったか。老境に入りかけながらも未だ未熟な自分を恥じながら、老僧は悔し気に唇を噛んだ。

 

 

 

 

 

 時系列はやや戻り、尾張は末森城。尾張の猛将・織田信秀は出陣の準備を行っていた。彼は尾張守護・斯波家の守護代・織田大和守家の家老筋の一つ・織田弾正忠家の産まれであった。その身分からは考えられない勢力を保ち、今川・松平や斎藤道三、尾張国内の抵抗勢力と生涯戦い続けた。信秀はこの時、自らの庶子の長男、織田信広を先鋒にする腹づもりだった。目標は安祥城と岡崎城である。

 

「信広!」

 

「は!」

 

「よいか、この機を逃す手はない。今川は駿東に釘付けだ。北条が体を張って踏みとどまっている間に我らは漁夫の利を得るのだ!」

 

「承知しております」

 

 信秀の一門衆、家老衆、城持衆、奉行衆、馬廻衆などが評定の場にはいた。

 

「今川なき今ならば松平広忠ごときの小倅を恐れる理由がどこにあろうか」

 

「では、内膳信定を復権させるので?」

 

 問うたのは信秀の弟・信光。内膳信定とは先述の広忠の大叔父である。今川の助力を得た広忠に情勢の不利を悟り降伏していた。現在は居城で逼塞している。

 

「それには些かの不安がありますなぁ。既に一度追われた身。三河の国衆は治められんでしょう」

 

 信秀に代わって答えたのは平手政秀。信秀の跡取りの守り役である。日頃はその役目に振り回されているが彼とて歴戦の名将。かつては京の公家相手に交渉をしたこともあった。

 

「信定が岡崎城に戻る手助けをしても、織田に得るものは少ない。それどころか、お荷物だ」 

 

「では内膳とは切るのか」

 

「捨て置けばいい。広忠にとっては抱えても使えぬ駒だ」

 

 筆頭家老・林秀貞が意見を言い、信光が問い、信秀のもう一人の弟・信真が答える。この時期はまだ柴田勝家はおらず、その父・柴田勝義が家老であった。丹羽長秀もおらず、その父丹羽長政が参加している。他に主だった面々を紹介すれば、佐久間信盛や池田恒興の父・恒利などもいる。

 

 議論は激しくなる。この中には信秀の跡取りとなる予定の信奈もいた。本来信秀は信長という名を与えるつもりだったが勝手に本人がそれを変えてしまったのである。そんな破天荒な娘だったが、今は大人しくしている。初陣も済ませていない小娘に発言権など無かった。ここにいるのはひとえに将来のための勉強である。彼女の面持ちにはまだ第六天魔王の予兆はない。

 

 冒頭で威勢よく返事をしていた信広であったがその実大して話についていけてなかった。凡。平凡極まる。信秀は密かに彼をそう評していた。せめて信奈のためにももう少し成長して欲しかったが、こればかりはさしもの信秀もどうなるか分からなかった。

 

 

 

 

 ここで兼音の人物評を挟むとするならば彼は織田信秀のことをそこそこに評価している。信長飛躍の下地を作った事やその才能を見抜いていたことは大きなことだと思っていた。反面農業政策にはやや難ありというのが評価である。ただ、最後まで旧世界の権力を滅ぼせず、生涯の終わりまで守護代奉行であり、実質上は尾張を代表する戦国大名だったものの、形式的主君であった守護代家、守護家は維持したままで、尾張国内の大和守家や他の三奉行や犬山の織田信清など何度も敵対し争ったり、反乱されたりしているのに、最後まで徹底して粛清したり叩こうとせず、それらを抱えたまま国外の敵と戦うことに限界があり、旧来の権威や秩序を重んじる古さがあった。

 

 それでも信長に大きな影響を与えたことは間違いなく、彼もまた一人の英雄と呼べるであろう。

 

 ちなみに、一条兼音が尾張に転移していた場合信奈に仕えることとなるのだが、その場合史実以上に修羅の道となる。がそれは取り敢えずは存在しないIFのストーリーだった。具体的には斎藤家が秒殺され、畿内は一瞬で平定され本願寺は爆破され、抵抗勢力は鏖殺される。武田は長篠を待たずに壊滅し、毛利は西国の露と消え、長曾我部は踏みにじられ、上杉は国力差の暴力で殴り、北条は蹂躙されることとなるだろう。

 

 本能寺を起こす前に危険分子として明智光秀は謀反をでっちあげられ粛清。不穏分子排除のためにも羽柴秀吉や滝川一益・徳川家康や黒田官兵衛も同じ憂き目に合う。信澄はそもそも殺される。粛清の渦が吹き荒れるソ連のような恐怖の国家の誕生である。そしてこれは兼音の行き過ぎた忠誠心によって行われるだろう。最後は恐怖政治を終わらせるため、安土の城で愛した主の手によって————。そうならなかったのは彼が氏康と出会っていたからである。

 

 

 閑話休題

 

 

「よし。内膳には頼らぬ。我らの力で三河を攻めるぞ。者ども。戦支度をせよ!!」

 

 信秀は決意を固める。

 

「「「「ははぁ!」」」」

 

 一同は勢いよく返事をする。しかし信広の雰囲気は他の家臣と変わらない。自分と同じような覇気を全く感じられない姿に、失望を隠せなかったがそれでも信秀は張り付けた笑顔でそれを隠す。やはり信奈か…。そう思わざるを得なかった。

 

 信秀は信広を先鋒に4千の兵を集めた。実態は水野・戸田・佐治家との連合であったがそれでも士気は高い。勢いそのまま織田軍は三河の大地に侵入。まずは安祥城を目指した。安祥城には少数の城兵がいたが、それでは織田軍を防ぐには足りず、決死の防戦むなしく落城した。

 

 

 

 

 

「ふむ、意外に時を要したな」

 

 陣中で信秀は背後の安祥城を眺めながらそう嘆息した。安祥城の守備隊は絶望的な防戦の中、彼の予想よりも大分粘った。何とか落とせたが予定は大分狂っていた。

 

「早くせねば今川軍が戻って来てしまいますなぁ」 

 

「北条がいつまで耐えられるかが勝負だろうな」

 

 平手政秀が冷静に言う。信秀はそれを聞いて渋い顔である。事実この時既に北条軍は講和しており、今川軍は全速急行で引き返して来ている。そして、その情報は信秀の元に意外な形で届けられた。

 

「失礼する」

 

「何奴っ!」

 

 どこからともなく声が響く。政秀は刀を抜き放ち警戒態勢になる。彼らの前に忍び装束の男が現れる。

 

「何者だ。儂の命を奪いに来たか。雪斎の爺いはこのような手にでるような奴では無かったのだがな」

 

「いや我らは今川の手の者に非ず。我は風魔なり」

 

「北条か。何かあったのか」

 

「北条は今川に大勝。四千近くは消し飛ばした。今川の負傷者多数。しかし戦線を複数抱える我々は講和して転進した。今川はこちらに戻ってきている」

 

「な、貴様らから誘っておいてとっとと撤退とはいかなることか!」

 

 政秀は怒り心頭である。このままでは織田軍は得るものなくただの当て馬に使われただけになってしまう。

 

「いくら何でもそれは…!」

 

「よい」

 

「ですが!」

 

「誘いに乗ったのは我らだ。盟約を結んでいたわけでもなし、責めるのは筋違いであろう。それに、四千が死んだのは真実であろうな」

 

「それは保証する」

 

「では、我らにも勝機はあるという事だ」

 

「確かに伝えた。義理は果たしたぞ」

 

 忍びは影のように消えていく。勝機はあると言ったものの、信秀の顔色は決してよくはない。太原雪斎がいないからこそ今回動いたのにも拘わらず、戻ってきてしまったのでは目論見が全て崩れ去ってしまう。

 

「いかがいたしますか」

 

「無論このまま退いてやる訳にはいかぬ。迎え撃つのみ」

 

「は!」

 

 渋い顔を崩さずに信秀は信広に先鋒を命じた。目指すは岡崎。今川が戻ってくるまでに落としてしまいたかった。

 

 

 

 

 

 

 視点は再び今川に戻る。

 

「こんの愚か者がぁぁぁ!大軍に胡坐をかいてまんまと嵌められるなど何を考えておるか!ああ、何も考えておらんからそうなったのだな!朝比奈の名に泥を塗りおって、覚悟は出来ておろうな」

 

「朝比奈殿、そこまでに」

 

「いーや禅師がいかに仰ろうとも許せませんな。この愚か者をどうにかせねば全軍の規律にも難がありましょうぞ」

 

 朝比奈泰朝の父・朝比奈泰能は激昂しながら娘を痛罵していた。半引退状態であった泰能は先ほどの敗戦により引っ張り出されてきた。彼の意識には同族の駿河朝比奈家の存在がある。体面的にも許しがたかった。

 

「加えて、味方を見捨てて情けなく撤退。なんという恥晒し。生き恥を晒しおって!」

 

「申し訳、ございませんでした」

 

「朝比奈殿!」

 

「…そうお止めになりますがな、しかし禅師。落とし前はつけなくては」

 

「それはもっとも。しかし、勝敗は兵家の常。加えて此度の敵はこちらも考えの及ばない方法で攻撃してきた。あながち泰朝だけを攻める訳にはいきますまい。汚名返上の機会を与える事も必要であると考えている」

 

「……禅師がこう仰られるので此度はこれまでにする。次は無いぞ。分かっておるな」

 

「はい」

 

 悔しさに唇を噛ながら泰朝はひたすらに頭をこすりつける。今回の総大将は雪斎であり、副将として朝比奈泰能がいる。泰能は鼻を鳴らしながら軍の様子を見るために陣の外に出ていった。あの時より泰朝はずっと白い目で見られていた。悔しいがどう頑張っても反論は不可能だった。しかしせめてもの言い訳をするのなら「お前らがあそこにいたって逃げるしか出来ない癖に」と言える。しかしそんな事を言ったところで何も変わらない。むしろ立場は悪くなるだろう。

 

 ただ陰口を叩いていた義元の小姓衆は岡部元信に怒鳴られて一目散に逃げ去った。批判しても良いが馬鹿にする権利はあの場にいた者にしかない、というのが彼女の考えだった。その為庇ったのである。泰朝は偶然それを目撃する。それは孤立無援の彼女にとっての小さな救いだった。

 

 

 軍は現在三河と遠江の国境部に来ている。遠江に侵入しようとしていた三河の反乱軍は既に撃滅した。残るは岡崎に向かって進軍している織田軍のみである。遠江の諸将の兵と無事だった興国寺の生き残りをかき集めて八千弱。松平が岡崎に籠っている以上、野戦で決着を付けたかったらこの手勢で何とかするしかなかった。遠江の諸将としては安部元真、天野景貫、菅沼定盈、井伊直盛などがいる。

 

 

 

「此度の戦いで目指すは岡崎の救援だ。物見の情報によれば、敵軍は既に岡崎を目指して進軍中である。我らの布陣するのはここである」

 

 雪斎は岡崎周辺の地図の一点を指し、諸将に見せた。そこには小豆坂と記されている。

 

「坂の上に陣取り、場所の優位を得る。しかし、これだけでは些か不安がある。そこで伏兵を用いる。この部隊は二千を以て鎌倉街道を迂回し、敵の本陣を目指す。誰ぞ志願する者はいるか」

 

 雪斎の言葉に応え、諸将の中からスッと一筋の手が上がる。 

 

「朝比奈泰朝、ここで志願する意味、分かっておろうな」

 

「は。先の戦での汚名、ここで返上したく」

 

「もししくじればいかがする」

 

「この腹を切る所存」

 

 最後のチャンスと思い決死の志願をする泰朝。失敗すれば切腹とまで言う覚悟を見せたため、諸将も押し黙るしかなかった。

 

「よろしい。では、お前が伏兵の大将だ」

 

「ありがとうございます」

 

「泰能殿は拙僧と共に、本陣に。その他の将も同様。先鋒は…」

 

「オレがやる。やらせてくれ」

 

「元信か」

 

「朝比奈のお嬢だけに汚名返上させてたまるか。オレだって武名を回復させたい」

 

「では任せよう。ともかく、敵より先に坂の上を確保することが重要だ。全速で向かう。今度こそ、今川の力を見せる時だ。各々方、よろしいな」

 

「「「「応!」」」」

 

 

 

 

 

 今川軍は電撃的に進軍。織田軍より早く小豆坂に到着することに成功する。しかし織田軍もただでは終わらなかった。

 

「信広」

 

「は!」

 

「無理押しはするな。今川の軍に一度当たり、すぐに退け。その後本隊と合流し叩く。戦意の薄い者たちから撃破して行けば勝てるであろう」

 

「…承知しました」

 

 信広は不満のようだ、と信秀は思った。自分の力で攻めきれないと思われているのが気に食わないのだろう。しかし…と信秀は嘆息する。雪斎や今川はそのように容易くは倒せない相手なのだ。信広はまだそれを理解していない。北条が勝ったのが真実ならば、それは余程優秀な指揮官が率いていたのだ。

 

 やはり信広ではダメか。信奈への家督移譲を始めよう。あの子ならば、或いは。その様に信秀の意志は固まった。

 

 

 

 

 戦いは昼頃には始まった。坂の上より上りくる織田軍に対し容赦ない弓兵の射撃が加えられる。凄まじい攻撃にたまらず織田軍は撤退し始める。小豆坂の後方に上和田砦付近に退いた。岡部元信旗下の先鋒が追撃を加えた。

 

「突き進め!織田軍は怯んでいる。信秀のいない先鋒など叩きのめせ!」

 

 元信の叱咤が響く。後方からも後続の部隊が続く。織田軍は最早虫の息に見えた。しかしそうはならなかった。織田軍は本隊と合流し再攻勢に転じたのである。これに突き崩されたのは遠江の部隊である。彼らは三河から侵入を試みる反乱軍の対処に疲弊しており、戦意も低かった。北条への鬱憤を晴らすかのような奮戦をする興国寺の生き残りの方が戦意は高かった。

 

「チッ!遠州の奴らは役に立たねぇな。全軍一度隊列を整えろ!しっかし伏兵はまだかよ…」

 

「まぁまぁそうカッカなさらず」

 

 苛立つ元信に若い姫が声をかける。

 

「全軍、ゆっくりと後退!少しずつ退きなさい。その体たらくでは駿河の面々に笑われますよ」

 

 煽りに反応した部隊が少しずつだが態勢を整え始める。

 

「戦はやはり冷静沈着に、ね」

 

「新八郎か。助かった」

 

「おや、覚えられていたとは。私も捨てたものではありませんね」

 

 新八郎とは菅沼定盈のことである。菅沼家の若い才媛である。史実では今川滅亡後に松平(徳川)に属し、武田家に抗戦し続けた将である。

 

「それに、ほら、ご覧ください」

 

 彼女の指さす先には土煙。ちょうど織田軍の後方だった。迂回していた朝比奈隊が到着したのである。

 

 

 

「進め、進め!」

 

 泰朝は叫びながら自らも先陣を騎馬で突っ走る。織田軍は後方からの襲撃に浮足立っていた。

 

「ここで負ける訳には、絶対にいかない!」

 

 汚名返上、そしていつか北条にその名を覚えさせる。それが彼女を突き動かしている。

 

 これに呼応して岡部元信が奮起。凄まじい武力を以て殲滅を開始した。最早織田軍に勝機は無かった。後はいかに多くが撤退できるか。それにかかっていた。

 

 泰朝の眼前に敵の一大将らしき将の姿が見える。逃亡をしようとしている。

 

「うわぁぁぁ!!」

 

 叫び声を上げながら泰朝は剣を抜き放ち、逃げる敵将の背後に追いすがる。

 

「ま、待て!儂は織田の将ではない。仕方なく織田に付いていたのだ。こ、降伏する。儂は戸田堯光だ。儂を生かしてくれれば必ず戸田家を今川の元に」

 

 しかし敵将は最後まで命乞いを出来なかった。その途中に泰朝の剣で首を跳ね飛ばされたからである。いつもはこんなことをしない彼女であるが、最近精神的に追い詰められている彼女は余裕がなかった。首を一つでも多く取る。それが彼女の脳を支配していた。

 

 

 

 

 

 

 

 やられた。信秀はそう思わざるを得なかった。完膚なきまでにやられた。伏兵の存在に気付けなかったのが彼のミスだった。次々に勇士が散っていく。勝てない。もう負けだ。認めたくはなかったが、それでも認めねばならない。そうしなければここで死ぬだけだ。ここで死んでは全てが無駄になる。せめて、信奈に家督を渡すまでは死ねない。帰還しなくてはならない理由があった。

 

「全軍、安祥城まで退くぞ!走れ!!」

 

 ズタボロになりながら、織田軍は安祥城まで退いた。しかし、その途中で信広が捕らえられる。重臣や一族で死者がいないのが幸いだった。されど織田軍は壊滅。援軍の水野・佐治・戸田の部隊も大損害を受けていた。信秀は息子を取り返すために、安祥城と松平竹千代、のちの徳川家康を信広と交換することにした。今川軍はこれを受諾。織田軍は三河からの撤退を行うことになる。 

 

 北条軍に叩きのめされた今川であったが、その力は未だ健在と見せつける事ができたのである。松平家は今回の一件で完全に従属。その他の弱小勢力が立ち向かえる訳もなく、三河は今川の版図に組み込まれた。かくして三雄会談を行った国のうち一つは武蔵・西下総を、もう一つは三河を得た。最後の一つだけが、未だに信濃で燻っている。奇しくも、小豆坂の戦いと呼ばれたこの戦いが行われたのは上田原の戦いと同じ日だった。




 遅くなりました。テストとウマ娘が全て悪いのです。あのゲームは神ゲーです。私の押しはライスシャワーとサイレンススズカです。 

テストも終わったので次回は直ぐに投稿できると思います。

 次回は北条に戻ります。もう数話したらいよいよ長尾の話になります。今しばらくお待ちを。


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第42話 賢人と愚者


【挿絵表示】


武蔵北部・現在の埼玉県領域の支配者です。大分ガバガバなので大体の勢力圏と考えて下さい。全て北条家の勢力下ではあるのですが。

水色…一条兼音
緑色…上田朝直
黄色…太田資正
青色…深谷上杉憲盛
紫色…藤田康邦
橙色…成田長泰
白色…その他小勢力+北条家家臣


 新たな参謀役として白井胤治を迎え入れて数日。河越城内は平穏な時間を過ごしていた。北条家の領内全体でも戦乱が嘘のような平和な時が流れている。隣国・信濃へ送った段蔵が間もなく帰ってくるはずなのだが、まだ戻らない。上田原の戦いの顛末を聞くためにも彼女を待っている。

 

 私の元に胤治が訪ねてきたのはある日の午後の事である。数日が経ったが彼女の存在は受け入れられていた。そもそもこの城の武将級の人間は殆どよそ者である。誰一人相模や武蔵出身がいない。城主は高知生まれの未来人。城代は駿河生まれの流れ者。副将は同じく駿河生まれの死んだことになっている人物。諜報担当は信濃出身。見事なまでの寄せ集めである。唯一武蔵出身なのは上杉朝定だけ。そんな環境だからか、下総出身の胤治でもすんなり仲間内に入れたようだ。

 

 年齢はまだ15歳だと言うし、朝定と年齢が近いこともあり仲が良いようだ。朝定は姉のように見ていると言う。私の時間が作りにくくなることが予想される今後は、彼女を朝定の教育係りにするのも悪くないかもしれないと考えていたところであった。

 

「失礼いたします。今、お時間よろしいでしょうか」

 

「ああ、構わない。どうだ、ここに来て数日経つが。何か不自由はないか」

 

「はい。皆さま大変よくしていただいております。仕事の方も花倉様が手配してくださいました」

 

「そうか。あいつはしっかりと上司出来ているか」

 

「それはもう!素晴らしい方です。あの計算能力と現状把握能力には目を見張るものがあります。私にも親切にして下さり、昨日は親睦を深めようと仰られて街の店に連れて行って下さりました」

 

「ふむ。それは何より。屋敷の方はどうか」

 

「そちらもありがとうございます。今までの座敷牢に比べれば王宮の如しです」

 

「そ、そうか」

 

 さらっと座敷牢とか出てきたのだが。何だこれは。彼女は一体どんな生活をしていたのだ。才人の才を見抜けぬどころか迫害するなど。愚者の中でも最もろくでもない愚か者だ。気まずいので咳ばらいをして話を変える。

 

「それで、どうしたのだ。何か用事があったのであろう」

 

「あ、はい。あの、段蔵さんという方がいらっしゃるとお聞きしたんですが…まだ挨拶が済んでおりませんでしたので、是非お会いしたいのですが」 

 

「そう言えば段蔵とは会ってないのか。それはあまり良くないな」

 

「今、どちらへ?」

 

「ああ、信濃にいる。ちょっと武田の援軍と言うか状況の偵察にな」

 

「いつ頃戻られるのでしょうか」

 

「さぁてこればかりは何とも…」

 

 そう言った時である。

 

「私について何か?」

 

「うわぁ!」 

 

 胤治の後ろに突如出現して声をかける段蔵。心臓に悪そうな行為だ。その証拠に胤治は白目になりかかっている。

 

「帰って来たか。ご苦労」

 

「主命は果たしてまいりました。ご報告と行きたいところですが…この御仁はどなたですか?」

 

「彼女は白井胤治。私が下総より招いた。我が軍の参謀役として働いてもらう。有体に言えば軍師だな。私が氏康様の元で軍師役をする際には彼女に我が代わりを務めてもらう事になる」

 

「ほうなるほど。してその智謀は如何ほどあるので?」

 

「三好からの感状を持っている。加えて下総の知識人の間では話題だったようだ」

 

「三好とはまた大物の…。加えて市井で密かに知られているとは…古の伏龍・鳳雛の如きですね」

 

「確かにそうだな…おーい、いつまで白目を剥いてる。起きろ。噂をすればだ。段蔵だぞ」

 

 美少女にあるまじき顔をしながら残念なことになっていた胤治の目に光が戻る。

 

「申し訳ありません。驚きのあまり、つい。私が新たにこの城の末席に加えて頂きました、白井胤治と申します。以後よろしくお願いします」

 

「こちらこそ。ご丁寧にどうも。加藤段蔵と申します。謀略・護衛・偵察・伝令・暗殺の際は是非遠慮なくお申し付けください」

 

「は、はい」

 

「彼女は東国有数の忍びだ。その力、信じるに値する。必ず命を遂行してきてくれるだろう」

 

「買い被りでございます。私などまだまだ」

 

「そう謙遜するな。さて、紹介もそこそこに、武田の報告を頼みたい」

 

「承知」

 

 用事は済んだのに加えて、自分がこの機密に近い情報を知るべきでないと考えたのか退室しようとする胤治を手で制する。彼女にもこの情報を聞いて欲しかった。何か思いつくかもしれないし、意見がある分何か違うかもしれない。相談役としての役目も期待しているのである。

 

「それでは報告を始めます。まず端的に結果だけ申し上げると、武田晴信と村上義清は上田原にて会戦。武田の敗北にございます。武田は柱石・板垣駿河守信方を失い、後退を余儀なくされました。ただ、村上義清も決して無傷ではなく屋代基綱・小島権兵衛・雨宮正利らが討ち死。総死者数では武田が上のようです」

 

「ふーむ、これは負け戦だな」

 

こちらの分析に追随するように胤治が自分の見解を述べる。

 

「はい。村上は防戦が目的。対する武田は侵略が目的。戦争遂行の目的を果たせなかった時点で武田の敗北です。そして死者の数を加味してもそうなるでしょう」

 

 胤治の雰囲気が変わる。先ほどまでの平凡な気配から叡智の気配が漂う。その目も鋭くなっていた。

 

「では、胤治。今後の武田のたどる運命について述べられるか」

 

「は。武田は此度の敗戦で兵を多く失いました。加えて板垣駿河守の敗死は大きいです。彼は単に重臣というだけでなく、信濃統治の中心でした。その彼がいない今、統治は難航するでしょう。加えて反乱も続出するでしょうし、小笠原がこれを座して見ている訳もなく…。乗り切れるかは武田晴信と家臣団の手腕にかかっているかと」

 

「で、あるな。その他に何か変わったことはあったか」

 

「真田が武田に帰順することを決めたようです。また村上軍は槍衾と呼ばれる戦法をとっておりました」

 

「あの真田が、か。一人を失って一人を得たな。加えて槍衾とは…」

 

 真田は優秀な人材が多い。一徳斎幸隆、安房守昌幸、その兄で長篠で死んだ信綱・昌輝。高名な幸村こと信繁にその兄の信之。矢沢頼綱や真田信尹等々。彼らを得たことは大いに武田の利となるだろう。矢沢頼綱に北条はあまりいい思い出は無いが。

 

 そしてもう一つ驚くべきは槍衾が実話だったことだろう。あの戦法は高度な集団戦術が必要になる。当然そこに至るまでの練兵が欠かせない。村上義清、想像以上に優秀だったか。 

 

「騎馬中心の武田は苦しい戦いを強いられるでしょうね…」

 

 胤治の言葉が真実だった。ここでストレートに勝って、とっとと長尾とやり合っていて欲しかったが…現実はそう上手くいかない。甘利虎泰討死の報告が無かったことから彼は生き残れたのだろう。何が変わるかは分からないが、今後も注視する必要があるだろう。

 

「最後に次郎信繁殿より伝令です。”勝てはしませんでしたが、兵を損なわず済みました。加えて、書状の内容を活かせば、村上義清に再戦を挑む事も出来ます。本当にありがとうございました”との事。お伝えしました」

 

「そうか。それは…いや、重ね重ねご苦労だった。ゆっくり休んでくれ」

 

「そうさせて頂きます」

 

 そう言って肩をコキコキ鳴らしながら彼女は再び音もなく消える。胤治は無言で何かを考えている。

 

「どうした。何か気になる事でもあるのか」

 

「はい。何故武田に殿が御助力なさるのか考えておりました」

 

「ああ、なるほど」

 

 なかなか痛いところを突いてくる。こちらとしては対越戦線を見据えているのだが、まだ越後はこちらに不干渉だ。上杉憲政もまだ関東にいるはずだし、対越戦線など未来を知らない者からすれば全くの絵空事である。さて、どう言い訳したものか。

 

「武田には早く信濃を攻略してもらう必要があるのだ。我らは武蔵と西下総を手に入れた。先日今川も三河を獲った。だが武田はどうだ。未だに中信濃で燻っている。このまま信濃侵攻が上手くいかねば破れかぶれで関東に進出してくる可能性もなくはない。そうなっては困る。それにな、万が一越後に長尾為景のような暴君が現れ、肥沃な関東に略奪をしに来たら?そうならない為にも武田は囮になってもらわねばならない。北信は長尾の本拠地春日山と目と鼻の先だ。加えて言えば、親北条の派閥を作っておけば何かと便利であろう」

 

「親北条の派閥ですか」

 

「そうだ。私が書状を送っているのは晴信ではなく、その妹。武田家の副将だ。そして、もし晴信が亡き後は武田の当主候補筆頭だ。後は分かるな」

 

「なるほど。万が一当主亡き後は半傀儡に出来る可能性もあると」

 

「左様。他国の内情も知れるしな」

 

「それならば道理も立ちましょう。差し出がましい事を申しました」

 

「いや、それがお前の役割だ。これからも頼むぞ」

 

「ご期待に添えるよう尽力いたします」

 

 そう言いながら平伏する胤治を見ながら、何とかなったと安堵の息を小さく漏らした。

 

 

 

 

 

 

 

 河越城の支配領域は広い。理由は幾つかあるが、大きいのは先ごろの河越夜戦で扇谷上杉の小領主が討ち死にしたことだろう。その為、彼らの支配地域がそのまま直轄として占領できている。秩父や飯能などもその領域として加えている為、かなりの生産力・工業力・人口を誇る。これは信頼の証と言えるだろう。同時に前線基地としての役割も期待されているのだが。

 

 この領内を統治するために武官・文官関係なく日々取り組んでいる。武官は平時は調練と治安維持を行う。警察兼軍隊だ。領内最大都市の河越の治安維持は当初は綱成の役目だったが、領地拡大で多忙になったため今は成田家から来た甲斐姫が志願して担ってくれている。断る理由もなく、任せている。と言うのも、彼女の旗下の警備隊は皆こちらの手勢。滅多な事は出来ないだろう。警戒は怠ってはならない。

 

 多くの嘆願や訴訟もこちらにやって来る。北条家は平民であろうとも武家をもっと言えば大名を訴えられるのが特徴だ。実際はもう少し複雑な制度だが概ねこの認識で間違いない。中世ではありえない開かれた裁判制度の萌芽が既にあるのだ。理論上は氏康様を一百姓が訴える事も可能だ。

 

 ここに北条の領国統治の巧みさが隠れている。これは一揆の防止となるのだ。誰でも訴えられる。だから一揆などせずにしっかりと不正や窮状を訴えろ。その代わり一揆をしたらそちらも罰する。こうすることで飴と鞭を上手く使いこなしている。

 

 

 

 合議は多く行われる。税に関する事、重要な訴状、軍事に関する事等々の相談は欠かせない。兼成がまとめてきた資料を基に話し合う。メンバーは兼成・綱成・私だったが最近そこに朝定が追加された。彼女のレベルなら話について行けると判断した結果だ。元々彼女の領地である訳だし。必死に資料の数字と簡易的な表とグラフを読み込んでいる。胤治はまだ恐れ多いと遠慮している。彼女はどうも今までの扱いのせいか自己評価が低い傾向がある。これの改善はこれからだろう。段蔵は休暇中だ。綱成がやや眠そうだが、まぁ大丈夫だろう。

 

「指示されました農政改革は順調そのものですわ。成田長親殿が農村への説得を行って下さいまして、最初は難色を示していた農村も受け入れて下さいました」

 

「それは僥倖だな。成長状況はどうだ」

 

「今のところ順調で、このまま行けば確実に生産は増加します。投資にかかった費用も商人からの税で賄えますわ。加えて昨年よりも大規模な銭の増収が見込めます」

 

「一部予算を治安維持に裂けないでしょうか。最近人数が増加したこともあり、やや厳しくて…」

 

 綱成が予算を要求すると兼成は無言で手を綱成に向かって何かを要求するように差し出す。その手に綱成が紙を渡す。あれは見積書である。兼成は二人暮らし時代に小田原の勘定方でアルバイトしていたからかどうかは分からないが、非常に予算に厳しい。しっかりとした見積書がないとビタ一文たりと出してくれない。これは私も同じで、しっかりと要求された。この前押し通そうとした武官が論破された挙句門前払いされたらしい。そのせいもあってか、武闘派の者たちも算術をしっかり学ぶようになった。良い傾向だろう。

 

「ふむむ…。まぁ良いでしょう。認可します」

 

「ふへ~」

 

 少し気が抜けた声を綱成が出す。きっと頑張って仕上げたのだろう。

 

「予算の一部は保管しておくように」

 

「その意図は?」

 

「災害時の給付金だ。地震・噴火・疫病・冷夏などのな」

 

「承知いたしました。手配いたしますわ」

 

 この国は地震が多い。加えて浅間山が噴火する。冷夏や疫病の可能性も大いにある。一番怖いのは地震だが。私が子供の頃に起こったスマトラ島沖地震や新潟県中越地震の記憶が忘れられない。丁度小学校高学年の頃だったか。武蔵は津波に心配は無いが。両親が経験したと言う阪神淡路大震災の話も良く聞いていた。耐震設備の研究は難しいかもしれないが少しずつやらせている。給付金も必要だろう。

 

「次にこちらの訴状を…」

 

 

 

 

 

 

 合議は休まず進んでいく。二時間ほどが経った。流石に疲れてきたので一度休憩を挟む。

 

「少し休もう」

 

 その言葉に朝定がガッツポーズを見えないようにした。バリバリ見えているがな。兼成と綱成は苦笑いである。女中がお茶を持ってきてくれたので、それを飲みながら休憩である。

 

「そう言えば兼成。胤治を連れて街に出たとか」

 

「ああ、お聞きになりまして?早く慣れて頂きたかったのです」

 

「その店旨いのか」

 

「評判の店ですわ。美味しかったです」

 

「そうか…今度行くか。おーい朝定、綱成今度行かないか」

 

「先輩のお誘いとあらば是非」

 

「私も行きたいです…」

 

「じゃあそう言うことで」

 

 のんびりとしていると胤治がやって来た。手に何か書状を持っている。

 

「失礼いたします。街でこちらを持った小田原よりの使者にお会いしました。その際にこちらをお願いされましたので、お届けに参上しました」

 

「ご苦労。使者は」

 

「宿所へ案内しました。明日発つようです。返書をお書きになるなら待たせますが」

 

「頼む」

 

 手紙を渡すと胤治は帰っていく。使者に私の返書を待つように伝えに行ってくれたのだろう。さて、内容はなんだ。

 

「――――――ふむ」

 

「内容はなんでしたか。義姉上からのようですが」

 

「ああ。印判状の使用を許可するとの事だ」

 

「おお、それは!」

 

 綱成がやや驚いた顔をする。兼成もピクリと眉を上げた。興味があるらしい。

 

 印判状は戦国時代以降の印判を用いた武家文書を指す。花押を用いる判物に代わり次第に流行した。公的書類に権威を表したりその公式性を保証したりするのに使われる。詳しい用途は多岐に渡り、通行許可書、手形、諸役徴収に関する家臣への書状、職人への書状、裁判結果の通達、家臣への知行書立、感状、地行宛行や安堵などである。北条家では禄寿応穏の虎の印判が有名だ。ここに書かれた文字は為政者の統治への姿勢を示す。

 

 記憶が正しければ、北条家では一門の他に有力な従属下の国衆と家老クラスの家臣に印判の使用を許可しているはず。つまりこれは正式に私の立場が家老クラスだという事だろう。

 

 手紙の内容を要約して分かりやすくすると――

 

『こんにちは。お元気ですか。私は元気です。小田原の桜はもう散り橘の花の時期です。綱成は変わりなくやってますか。それとこの前送ってくれた農業政策は順調ですか。先ほど深谷上杉憲盛が挨拶に来ました。武蔵の様子は順調のようで安心しています。上野平定の準備が出来たら教えてください。由良家の件も受け取りました。ご苦労様です。

 

 この度はこれまでの功績によってあなたを正式に外様衆の筆頭として家老格にします。宿老たちも賛成してくれました。これからの一層の活躍を期待して、黒の印判状の使用を許可します。知っての通り、印判状の文句にはその家の統治の姿勢を掘るのがしきたり。あなたが何を記すのか、楽しみにしています。それでは身体に気を付けて頑張って下さい

 

 追;また縁談が来てました。今度は御家中衆・伊勢貞就からと国衆の宅間上杉からです。またどうせ断るのでしょうから、こちらで上手く断っておきました。しかし、こう何度も断るのも骨が折れるので、いい加減身を固めてはどうでしょうか。北条の一門から出すべきではないかと叔父上にも言われました。私としてはそれでもかまいませんし、綱成が許すなら綱成と結ばれても構いません。(この辺りから文字が震えている)自意識過剰とも思いましたが、もしかしたら私の事を想ってくれているのかもと考えました。けれど、もしそうなら残念ながら戦国の習いには逆らえません。諦めて下さい。大体あなたは何度断れば…(ここから日頃の苦労の愚痴)

 

 また一月後に評定があります。その時にお会いしましょう』

 

 なかなか長文の手紙が来た。後半はともかく、印判状の件はありがたい。縁談の件は…もう少し迷惑をかけることになるだろう。申し訳ない。しかし、氏康様の事を想っている、ね。存外そうなのかもしれない。生憎と色恋には疎いので何とも言えない。現代にいた時は恋愛とは無縁だったしな。

 

 中学時代は部活三昧だったし、両親が死んで大阪に出てきたあとはそれどころで無かったから。告白された事は無い訳ではないが、絶対彼女よりも弓道と史学を優先する自信があったので丁重に断らせてもらった。そんなこんなで恋愛に関しては全くの初心者だ。そもそも色好みの奴が兼成と二人で暮らせないだろうし。思えば二人で隣同士で布団を敷いて寝るとか完全に夫婦の所業だし。

 

 まぁこの問題からはもう少し目をそらさせてもらうか。氏康様の愚痴は見なかったことにしておこう。吐き出せる場があるなら大丈夫だと個人的には思うが。さて返書を後で書くとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

「印判状の文言はどうするかな」

 

「理想や目指すべき国の在り方を示すことが多いですね。先輩の目指す治世をお書きになればよろしいかと」

 

「ある種の宣誓ですわね」

 

 朝定も興味津々で見ている。理想とする世の中か。昔の私ならば正義とか書いたのかもしれないが。今となってはそれは出来ない。理想は平和と安寧。太平の世の中。それを示す言葉…。

 

「草満囹圄。これはどうだろうか」

 

「どういう意味ですか?」

 

「平和に治まっていて、よい政治が行われ、犯罪がないことのたとえですわね。『草満』は草が生い茂ること。『囹圄』は牢屋のこと。犯罪を犯す人がいないために、牢屋が使われることなく、牢屋に草が生い茂るという意味から来ておりますわ。出典は確か…『随書』の『劉曠伝』からでしたか」

 

「その通り」

 

 朝定の問いに説明しようとしたら兼成に全部持っていかれた。朝定の目が心なしか兼成を尊敬の目で見ている。いや、良く勉強しているとは思うが。

 

 個人的に好きな言葉を選んだのだが。そんな問題ある言葉でもあるまい。

 

「そういう意味なのですね…。私は良いと思います!」

 

「先輩のご随意に。私も賛成ですが」

 

「理想にするにはいいかもしれませんわね。早速職人に手配させましょう」

 

「ああ、頼む」

 

「御意。さて、休憩もそろそろ終わりにしましょう。それでは早速続きを…」

 

 何かを話そうとした兼成の声は伝令に来た者に遮られた。

 

 

 

 

 

 

 

「申し上げます!」

 

「何事ですの…」

 

「兼音様並びに胤治様に会わせろと暴れる若者が城門に来ております。いかがいたしますか。斬り捨てましょうか」

 

「胤治は」

 

「小田原からの使者の案内を済ませた後戻られております。兼音様の指示に従うと」

 

「そうか…一応会ってやろう。胤治も同行させる。綱成」

 

「はい」

 

「護衛を頼む。胤治を最優先に。私は自分の身くらいは守れる」

 

「御意」

 

「伝令ご苦労。胤治に私の命を伝えてくれ。城門集合とな」

 

「は!」

 

「兼成と朝定はここにいてくれ」

 

「承知いたしましたわ」

 

 返事は無いが朝定も頷く。やれやれまったく誰だこのクソ忙しい時に。どうでもいい用事だったらぶっ殺すぞ。やや物騒なことを考えながら綱成と城門に向かった。

 

 

 

 

 

 

 不機嫌になりながら城門へ向かうと、確かに押し問答をしている声が聞こえる。苛立ちが増すのを感じながら歩を早める。胤治は既に待っていた。頭を下げる胤治に軽く頷き、城門の守備兵に声をかける。

 

「あやつか。件の騒がしい者は」

 

「はっ!用件を聞いても通せとばかり。お約束があるのかと聞いても答えず、ほとほと困っております」

 

「はぁ…」

 

 ため息をつきながら門を開けさせる。隣の胤治が息を呑むのが聞こえた。

 

「やはり、ですか」

 

「どうした。知り合いか」

 

「はい。申し訳ございません。あれは私の弟でございます。大方、私が殿に迎えられたことに納得いかなかったのでございましょう」

 

「なるほどな…厄介な」

 

「重ね重ね申し訳ございません」

 

「よい。お前が謝る必要など毛頭ない。おい貴様!私が一条兼音である。貴様は誰で、何用でこの様に騒ぐか」

 

「俺は白井胤幹だ!白井家の次期当主だ!俺の愚姉が召し抱えられて俺が誘われないのは納得いかない!あんなでくの坊の変人より武勇に優れた俺を雇った方が河越城のためになるはずだ」

 

「ほう?なるほどなぁ」

 

 チラリと横の胤治を見れば顔面蒼白である。今までずっと閉じ込められて、馬鹿にされ続けてきたのだろう。もしかしたら、暴力を振るわれた事もあったのかもしれない。すっかり怯えてしまっている。

 

「ああ、そこにいたのか。おい!今すぐ私如きが雇われたのは間違いだと言って仕官を撤回すれば許してやる!それとも、その貧相な身体を売ったのか?」

 

 なんだとこの野郎。私に女性経験など皆無だよ!

 

「貴様。私を何だと思っておるのだ?私がその様な人間であると、そう言いたいのだな」

 

 苛立つ自分を抑えるようにしながら言葉を続ける。

 

「もし貴様が胤治の才を見抜けていたならそうしていただろうな。良いか、貴様が気付いているかは知らんが、胤治を馬鹿にする度にそれを雇った私を馬鹿にしているのだが?」

 

「あ…」

 

間抜けな顔だ。反論されるなどとは思っても無かったのだろう。私が直ぐに己の判断が過ちだったと思い直してこいつを召し抱えて胤治を放逐するとでも考えていたのか?だとしたらとんだ脳内お花畑野郎だな。大方、拗らせまくった優越感のせいで(自称)優秀なはずの俺がなぜ見向きもされずあんな無能(に見えた)姉が召し抱えられるのかと思考回路が繋がったのだろう。

 

元々頭も弱かったように思える。目上はこちらなのに敬語がガバガバだ。

 

「人には求められた役割がある。武芸に優れた者はそれを奮い、内政に優れた者はそれを活かす。軍師に求められているのは才を以て軍を操り敵を翻弄し、自軍を勝利に導くことである。己の才を誇るのではなく、他人の出来ぬことを貶め、天才の才を見抜けず、あまつさえ賢人を座敷牢などに放り込んだ無能を雇ってやるほど、この城は人材不足ではない!たとえ人材がどれだけ不足しようとも貴様だけは絶対に我が城には入れさせん!」

 

「ですがこいつはひ弱で何の役にも…!」

 

「管仲・楽毅が敵陣に突撃したか!諸葛亮が剣を用いて敵将の首を獲ったか!答えろ愚か者!それも出来ぬなら即刻我が領内より立ち去れ。さもなくば、我が剣で斬り捨ててやる。分かったな!!」

 

 怒鳴られた愚か者は走り去って行った。ふん、と鼻を鳴らし逃げ去る背中を睨みつける。

 

「おい」

 

「はっ!」

 

「塩撒いとけ塩!」

 

「承知いたしました」

 

「それと伝令を用意しておけ」

 

「御意」

 

 城門にいた兵に指示を出す。あの野郎無駄な用事だったじゃねぇか。次来たらマジで殺すぞ…いかんな。どうも攻撃的になっているようだ。ストレスが溜まるな。 

 

「本当に申し訳ございません。私などを召し抱えたばかりに…。もし、ご迷惑でしたら…」

 

「それ以上言うな。私が欲したのはお前だ。あの無礼な男ではない。自信を持て。お前の親族がどれだけお前を否定しようとも、私はお前を肯定し続ける」

 

「!……はいっ!」 

 

 甚だ気分が悪い。後で白井家のある臼井城の城主に苦情を申し送っておこう。次来れば殺すと書いておけば、大丈夫だろうさ。ああ、しかし忌々しい。こんな不快な気分になったのは久しぶりだ。才人の才能を理解せず、それを見抜けないならばまだしも座敷牢にぶち込み、貶め、トラウマを背負わせるなど。許されることではない。しかも、女の子に…。男女で差別するのはこの世界だろうがどこだろうがよろしくないだろう。それでも私の残っている現代の倫理観が許しがたいと告げてくる。

 

 多分傷付いているだろう胤治を慰めようとその頭をポンポンと叩く。陰鬱した顔をすることの多かった彼女だが、初めてしっかりと笑ってくれたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の夕刻である。合議も終わり、長親と約束していたので自室に戻る。その途中で呼び止められた。

 

「一条様」

 

「む、ああ甲斐殿か。いかがした。長親とはこれから会う予定なので、あ奴に用があるなら私が日を改めるが」

 

「いえ、そうではないのです。お話は綱成様の事で…」

 

「綱成?綱成がどうかしたのか?」

 

「はい。私はこれまで綱成様と武芸の鍛練をさせていただいているのですが、先日初めて一勝出来ました」

 

「ほう。それは凄いな」

 

「ですがその後、綱成様が思いつめた顔をされておりまして。気になっていたのですが、どうも夜の睡眠を削って一人で鍛練をなさっているようで。このままでは倒れてしまうのではないかと案じているのです」

 

「なるほど」

 

 ああ、だからさっき眠そうだったのか。

 

「知らせてくれた事、感謝する。今夜にも綱成に話をしよう。鍛練している場所は分かるか」

 

「馬場であると聞き及んでおります」

 

「分かった。すまないな」

 

「いえ、それでは私は失礼いたします」

 

 去り行く甲斐姫を見送りながら、頭を掻く。こりゃ長親にはお引き取り願うしかないな。後輩の様子を見に行かなくては。彼女が思いつめている理由に何となく察しがつきながら、夕暮れの廊下を歩いた。




次回も北条家の話。その次は武田を数話。そしたらお待ちかねの長尾です。


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第43話 たった一人のための英雄

今回は綱成回。ちょっとだけ短め。


 兼音が河越城に白井胤治を迎え入れていた頃、小田原城では氏康が頭を悩ませていた。目下彼女の悩みは今前に平伏している男をどう説得するかという問題だった。この男は北条家の家臣の一人である宅間上杉家からの使者だった。

 

 宅間上杉はその名の通り上杉一族であり、朝定や憲政とも同族である。元々相模にいた一族ではあるが室町時代の中で没落。河越夜戦の前から北条に臣従していた。新興勢力である北条家の中では割と古くからいる勢力である。その彼らから氏康は今縁談の話を持ち掛けられていた。もっとも彼女本人ではなく、河越城主の一条兼音の縁談であった。

 

「で、ありますから当方といたしましては我が宅間上杉の妙齢の姫を是非とも今飛ぶ鳥を落とす勢いの河越城主・一条殿に嫁がせたいと思う次第であります」

 

 彼に多くのこういった話が舞い込んでいるのは承知していた。と言うより、勝手に家臣同士で結婚は出来ないのでこうして氏康を仲介しているのである。そんなこんなで何度も兼音に送った縁談は全て丁重に断られていた。どうせ今回も結果は目に見えている。そんな無駄手間をかけたくないのでここで断ってしまうのが吉だろうが、どういう風に言ったものか。それが氏康の悩みの種だった。

 

「残念ではあるけれど、どうも彼は縁談を断っているようなの。きっと、武蔵の統治が多忙でそんな余裕が無いのでしょう。これは任じた私の責任でもあるけれど…今が正念場なの。もう少し彼の多忙は続くわ。今はこの話は無かったことにしてもらえないかしら」

 

「それは…仕方ありませんな。主にはそう報告いたします」

 

「ええ、ごめんなさい」

 

 何で私が謝ってるんだろうかと一瞬思ったが、実際兼音が忙しいのは氏康に任じられた職務を全うするために全霊を賭しているからなので考え直した。使者が少し肩を落としながら広間を出ていく。その背中を見ながら氏康は小さくため息をついた。

 

「またこの話か」

 

「あ、はい。そうです叔父上」

 

 使者と入れ違いに入って来たのは氏康の叔父の北条氏時である。どうやら廊下でバッチリ聞いていたようだ。

 

「ふーむこれで何件目だろうか。しかし、彼ほどの人材ともなればもういっその事北条の血を引く者を送り込んではどうだろうか。もしくは血は引いていないが苗字を受け継いでいる綱成やその縁者と添わせるという案もあるが。いずれにせよそう長くは先延ばしに出来ぬ問題だからな。一度しっかと話し合う必要があるかもしれんぞ」

 

「はい。次の評定の際に小田原に彼が来た折、機を見て話したいと思います」

 

「うむ、ならば良いがな」

 

 それだけ言うと氏時は去って行った。見送りながらもう一度氏康はため息を吐く。手元にはその河越城からの書状。由良家の調略が可能そうであるという文面が記されている。成田家を仲介した調略をする予定のようだった。武蔵は意外と落ち着いていることに氏康は安堵していた。もっと旧扇谷上杉家家臣団から反発されるかもしれないと思っていたが、上杉朝定の存在は思ったよりもかなり効果的な力を発揮していた。

 

 これだけの功績を上げている。いい加減そろそろ序列をはっきりさせなくては。そう思い氏康は重臣たちを招集した。

 

 その後、唸りながら氏康は手紙を書いた。余談ではあるが、この時代は右筆という代筆がおり、一般的に大名はその右筆に手紙を書かせる。直筆は滅多になかった。とは言いつつ、あんまり人に言えない事を書いている自覚はあったので、彼女は自分で書くことにしたのである。

 

 兼音が縁談を断り続けている理由に実は一つ心当たりがあったのだが、この時代では御法度なものである。その為、もし違ったら赤っ恥ではあるものの一応文面に加えた。書いてて恥ずかしかったのが段々苛立ちに変わっていき、色々と愚痴を書きなぐったものが出来てしまう。しかし、書き直すのも億劫だったため、そのままにしてしまった。

 

 もし、自分の事を想ってずっと一途に独り身なのだとしたら…

 

「悪くは、無いけれど」

 

 ポツリと呟いた。けれど、もしそうであっても自分たちは結ばれない。主従云々もあるが、まず身分差がある。最低でも大名家ないし都の公家・神官家の出でないと不可能だろう。結局、自由な恋愛など夢物語なのだ。どうやっても自分はしがらみからは逃れられない。そう思うと少し悲しくて、潤んだ目元を拭った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 甲斐姫から報告を受けた綱成の様子を見に行かなくてはいけない。彼女に負担をかけてしまっていたのは上司たる自分の責任だ。武闘派と言えども内政がからっきしでは困るとは思っているが、やはり人には向き不向きがある。それを考えなくてはいけない。だが、どうも出来ているせいからか大丈夫だろうと勝手に思ってしまっていた。まだまだ上司としては未熟かもしれないと思い知った。

 

 長親に手短に用件を告げ、また別の日に頼むと告げる。その後、コキコキ肩を鳴らしながら馬場へ向かう。馬場は広いので、練習にはうってつけだろう。最悪ぶん殴ってでも止めねばならない。自分を追い込むのはある程度は必要だ。だがやり過ぎれば害でしかない。しかし彼女はおそらく自分でその制御が出来てない。一応先輩らしく、そこは止めねばな。

 

 どう考えても一筋縄ではいかなそうで、苦労を思ってふんすと息を吐きだし、綱成を探しに歩き始めた。

 

 

 

 

 

 ここで綱成の実家、福島氏の説明をしなくてはいけないだろう。

 

 福島氏。櫛間・九島・久島氏とも書かれるその氏族は、平安時代を生きた源満仲から、足利家など河内源氏と別れる。満仲の長子である頼光は、摂津・多田兵庫県川西市の地と武士団を父親から継いで、金太郎などと一緒に酒呑童子を討伐した。その頼光の曾孫の1人が国直で、彼は美濃・山県郡に移住して、その子孫が山県家としてこれを受け継いでいく。

 

 国直の叔父・国房の子孫は、斎藤道三によって美濃を追放される土岐家となった一方で、国直の子孫は地方武士として根付いていった。同族に、史実では佐久間信盛追放後に和泉を任される蜂屋頼隆や、小牧・長久手の戦いで討死する関成政などがいるが、それを知っている可能性があるのはこの世界でただ一人である。山県家の分家の1つである福島家は、応仁の乱の少し前に斯波家が治める遠江に移り、城東郡の高天神城を中心に勢力を広げる。

 

 福島正成の時には、周辺に多くの分家や家臣を持ち、更に城の近くの港の水軍を持つまでに至っていた。しかし、その正成は武田攻めの時に油断してしまい、散々な目にあった事から発言力が落ち、派閥対立が起きてしまう。正成からすれば復権を願って起こした乱だったが、雪斎と兼音によって無惨に敗れる事となる。最後の生き残りの綱成が北条を名乗ったことにより、ここに東海の福島氏は滅亡する。兼音も綱成も知る由は無いが、綱成と共に北条に行くのをよしとしなかった同族たちは潜伏しているところを岡部氏・小笠原氏(いずれも今川家臣)によって討滅され、一部甲斐に逃れた者は信虎によって殺された。なので事実上最後の生き残りが綱成なのである。

 

 なお、秀吉子飼いの将である福島正則とは何の関係もない。彼の実家は桶屋であったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 産まれてこの方ずっと、強さを期待されてきた。

 

 才能はあった。武の才能。この乱世で生きるのに一、二を争うほど有益な才能。故にずっと期待されてきた。別に嫌ではなかったし、それに応えるために奮起してきた。一族の武名を高めるための存在に、福島一族の英雄になれる。そのはずだった。

 

 だがその福島一族は敗れ去った。花倉の乱。自分の一族はこれによって四散した。別にそれを恨みには思っていない。これも乱世の習いだった。棟梁の越前守正成の命令により、北条に助けを求めるべく小田原を目指した。家族を連れて。幸い先代氏綱に気に入られ北条の苗字を貰えた。家中では親切な先輩に教導された。刀も返してもらえた。

 

 そして国府台合戦。あそこで自分は資格を得られた。ここにいて良いんだという資格を、戦う意味を、この苗字に相応しいと自分で思えるだけのものを。同じ夢も見られた。だから私は、北条綱成は強くあらねばならなかった。その為に努力してきた。精一杯、これまでも、今も。それしか知らない。それしか出来ない。先輩がくれた私の価値は戦えない私では、弱い私ではまったくもって存在しなくなるものだったから。もくもくとやり続けるしかなかったのだ。

 

 それも河越城の戦いで破壊されかける。上泉信綱。その異名は剣聖。圧倒的なまでの武だった。勝てっこなかった。でも、あれは人間を辞めた神に近い何かである。だから勝てなくても仕方ない。先輩に弓と弁舌で救われても良いのだ。そう思う事で己の自尊心を保った。なのに、なのに。ついに甲斐姫にも負けてしまった。どこかで、私は彼女を侮っていたのだろう。彼女は私より弱い、と。その慢心は如実に結果に表れた。

 

 このままでは、私は最強になれない。無価値で無意味な存在になってしまう。心が折れそうになって、涙も出そうになったが、自分に残った小さな誇りがそれを邪魔する。いっそ、諦められたら、泣けたらどれだけ楽だっただろうか。それさえできない私は、こうするしかないんだ。

 

 だからずっと寝る時間を削って鍛練し続けた。ひたすらに、ただひたすらに。強く、強く。そうあるために。今も槍を振るう。けれど、昨日の方が出来ていた。まだ甘い。キレが甘いし、詰めも甘い。これでは上泉信綱に勝つなど土台無理な話だ。クソッと小さく舌打ちをする。荒い呼吸を整える。もう一度最初から、そう思って槍を構えた時、声はかけられた。

 

 

 

「何をしている」

 

「あ……先輩。こんばんは。いかがされましたか。うるさかったでしょうか」

 

 表情から決して激励や褒めに来た訳ではないことが察せられた。取り繕っても無駄な事は顔色からうかがえた。月明かりに照らされたその顔は厳しかった。

 

「何をしている、と聞いているのだが」

 

「えっと、ご覧の通りで、鍛練を」

 

「こんな時間までか?」

 

「……」

 

 はぁ、とため息を吐いて目頭を抑えている先輩の姿に若干の苛立ちを感じる。

 

「まぁいい。寝ろ。夜は寝るものだ」

 

「いえ、私は」

 

「寝ろ。これは命令だ」

 

「ですがっ!」

 

「甲斐殿より報告が来ている。それに日中眠そうにしているようでは意味がないぞ。まったく、こんな鍛練をしていても何の意味もない。早く戻れ」

 

 呆れたように言うその様子に苛立ちが募る。意味ない?意味がない?そんなはずはない。やればやるだけ力はつくはずだ。現に今までもそうだった。弱くなったのは慢心。勝てないのは力不足。だったら両方ともやれば良いだけじゃないか。それに…

 

「誰のせいで…」

 

「何か言ったか?」

 

「いえ……もう放っておいて下さい!音には気を使ってます。誰の迷惑にもなってない筈です。だから、」

 

 誰のせいで、誰のために頑張っているというのか。それなのに!……知ってる。これが逆恨みなのは知ってる。でも、思わずにはいられなかった。

 

「だから?」

 

「もう、放っておいてよっ!!」

 

 激情に任せて掴まれた手を振り払う。怒るでもなく、少し意外そうな目で先輩はこちらを見る。

 

「それは出来ない。何故なら私はお前を預かる身だ。止める義務がある。それにな、そんな鍛練の仕方では何の意味もない。むしろ弱くなることもある。今のお前なら、私でも勝てるぞ」

 

「そんな訳っ!…じゃあ証明してくださいよ。先輩は私より弱いですよね?失礼ながら申し上げると。勝算、あるんですか?私は上泉信綱と違って弁舌では退きませんよ」

 

「分かった。良いだろう」

 

「え」

 

「しばし待て」

 

 そう言って先輩は武具を取りに戻った。こう言えば退いてくれると思ったのに。どうやって戦うつもりか知らないが、勝てる訳ないだろう。先輩の槍はへたくそではないが、私には遠く及んでいない。これは純然たる事実だった。それを理解できない訳でもあるまいし。憮然とした顔で待っていると、しばらくして戻ってきた。腰には槍ではなくいつもの大太刀。そして

 

「弓?」

 

 そう。先輩が持っているのは弓。なめられたと思った。確かに遠距離攻撃として弓は有効だろう。けれど、槍を持った相手と一対一でやり合うための武具では断じてなかった。だから侮られている。そう思った。

 

「さぁ、準備は万全だ。どうした?そちらから来ないのか?怖気づいたのか」

 

「っ!そんな訳ありません!」

 

 槍を構える。そして先輩のもとに一気に槍を突き出した。勝負は一瞬で決着する。そのはずだった。だけれど、私の槍は空を切り裂く。え、と思って踏みとどまる。さっと避けたのか、先輩は涼しい顔で近くに立っていた。混乱しながら二の手三の手を繰り出す。けれど、それは全て避けられる。

 

 太刀は腰に帯びられたまま。弓も背負われたまま。まるでこちらの攻撃する方向を読んでいるように避けられ続ける。そこで気付いた。先輩が見ているのは私の手元。そこでどちらにどんな風に攻撃するのか読んでいるのだろうか。そんな事、本当に…?でも、それ以外に考えられなかった。攻めきれない焦りから槍を加速する。

 

「その程度か?北条最強が聞いて呆れる。生憎と私は動体視力、つまり動くものを目で認識する能力は高くてな。お前の槍は……止まって見える」

 

 それが本当か嘘か。後になって考えれば分からない事だった。でも、私はそれを信じてしまい、露骨な挑発に乗った。

 

「うぁぁぁぁ!」

 

 叫びながら次の一撃を繰り出す。だが焦燥で力配分を考えられなかったからか、息が上がり始める。その隙を待っていたのか一気に間合いを詰められる。斬るのでもなく鳩尾目指して蹴りを入れられかける。このままではやられるのは必定。咄嗟に後方に飛びのく。だが、それを待っていたのだろう。

 

 弓が構えられる。射線は真っすぐに私の脳天を狙っている。おそらく本気。一射、二射と放たれる矢。次の矢を放つのが速い上に一射一射が正確だ。槍で弾き落としてもすぐ次が来る。向こうの矢が尽きるのを待つしかない。今のところこの場に留まるので精一杯だ。認めなくてはいけない。先輩は、彼は弓術だけで槍遣いを釘付けに出来る。

 

 やっと猛攻が止んで一歩踏み出そうとすれば、一気に三射される。いや、あれは矢を同時に放ったのだろうか。私の頭、胴、足をそれぞれ目掛けて一直線に飛んでくる。槍を駆使して何とか避けるが、上がり切った息を吐きながら前を見た時先輩はいない。何処に行った。そう思った時、後ろから衝撃が加えられる。それを機に私の意識は暗転した。

 

 

 

 

 

 

 

 次に目を覚ました時は布団の上だった。馬場にいたはず、と混乱する頭を動かしながら辺りを見回せば自室だった。

 

「ああ、目覚めたか」

 

 部屋の襖の開く音と共に先輩が入ってくる。

 

「あの後運び込んだ。あそこまでやる必要はないかとも思ったが、退いてくれなそうだったので一時的に気絶させた。済まなかったな」

 

「いえ……」

 

 私は負けたんだ。あんな煽るようなことまで言って惨めに敗北したんだ。その事実が私を突き刺した。剣聖に負け、甲斐殿に負け、あまつさえ槍の巧者ではない先輩に負けるなんて。張り詰めていた何かが壊れる音がした。

 

「だから言っただろう?今のお前ならば私でも倒せると。普段のお前ならば一撃で私がお陀仏。地獄行きだ。疲れているから息がすぐに上がる。安い挑発に乗る。冷静な判断が出来ない。槍さばきが鈍る」

 

 ああ、まったくもってその通り。その指摘は何もかもその通りだった。けれど、認めたくない自分がいる。それを認めたら、今までの努力を否定する気がして、どうしても認められなかった。

 

「何故あんな事をした。何となく見当はついているが、お前自身の言葉で聞きたい」

 

「聞いてどうするんですか。もう、私は…無理です。こんな目にあって、もう、努力し続けるなんて」

 

「それ以上、口にするな。諦めると自分で言ったら、もう本当に戻れなくなるぞ。それで良いのか」

 

「それは…」

 

「諦めないのは勝ち続けるより難しいんだ。それは私がよく知っている。私とて、一朝一夕で弓術を身につけた訳ではない。血の滲むような努力をして、あの技量がある。お前がもし、諦めたくないと少しでも思ってるんだったら話してしまえ。そうしてスッキリして、また頑張ればいい。誰かに話したほうが、己で抱え込んでいるよりも楽になるぞ。私でよければいくらでも聞いてやる。なにせ、私は、お前の先輩なんだからな」

 

「…」 

 

 まだ私の頑なな部分が拒んでいる。打ち明けるのが怖かった。打ち明けた心を馬鹿にされるかもしれない。先輩はそんなことしない。そんなの分かり切ってるのに。

 

「個人的に言えば、ここで努力を辞めて欲しくはない。だってさ」

 

 そこで先輩はしゃがみ、私に目線を合わせて言う。

 

「あそこまでずっと頑張って来たんだろう?それを無駄にはして欲しくない」

 

 ずっと、強さを期待されてきた。才能はあった。だから出来て当然と思われて、更なる強さを要求された。そうだ。ずっと私は欲しかったんだ。頑張ったね、とほめて欲しかったんだ。贅沢かもしれないけれど、結果じゃなくて過程を、その努力を褒めて欲しかった。

 

 困ったような笑顔にため込んだ十数年分の思いが噴出する。先輩の胸元目掛けて飛びつく。うわっと言いながら私に押し倒された先輩が慌てる。その上に乗っかりながら涙を流した。事態を把握したのか、先輩が上半身を起こして私の頭を撫でながら言う。

 

「それで良い。悲しいなら、悔しいなら泣いてしまえ。そして、明日からまた頑張るんだ」

 

 声を上げて泣きまくる。もう理性も、何もかもぐちゃぐちゃになったまま涙の枯れるまで泣き続けた。泣きながら話す。今までの生涯を。ずっと一族の英雄たれと望まれた幼少期。こちらに来てから意味を与えられた事。そして負けて悔しかったこと。何もかも、赤裸々に。

 

 それを先輩は黙ってずっと聞いていてくれた。

 

 

 

 

「私には無かったものだったな。その強くあれ、と願われるというものは。だからこそ、お前は凄いよ。誰かの期待のために努力して、ずっとそれに応えてきたんだから。だが一つ勘違いをしている。これは私の言い方が悪かったのかもしれないが…」

 

「勘違い…?」

 

「私も氏康様も、お前は武だけしか価値がないなどとはこれっぽっちも思っていない。それに、一度負けたくらいで価値が無いなどとも思っていない。大丈夫だ。お前は、生きているだけで価値がある。もしもこの先、何か予想も出来ないことがあって、お前が戦えなくなったとしよう。そうなっても、私も、氏康様も、この城の皆もお前を捨てたりしないし、無価値とも思わない」

 

「なんで、そんな風に」

 

「なんでって当然じゃないか。仲間を見捨てるものがどこにいる?氏康様は義妹を見捨てるような方ではないし、私は、直属の後輩を見捨てられるほど薄情ではない」

 

「そう、なんでしょうか」

 

「そうだとも。私はお前こそ、この城の主に相応しいと思っていた。だから一度はお前をここの城主に推挙したんだぞ?あの時、河越城の夜戦の時も本当にカッコいいと思った。勝った勝ったと叫びながら勇猛果敢に敵陣に突っ込む姿は、私の憧れた英雄の姿だった」

 

 英雄。その言葉は衝撃だった。私はずっとむしろ先輩の方が英雄だと思っていた。だってそうだろう。誰も思いつかない事をして、来た。その言葉に相応しい力があった。大国を退け、国を富ませ、太平を目指し走り続けている。私とは何もかも違うのに。

 

「もし、お前が自分の価値を認められなくても私は叫び続けるとも。お前は、北条綱成は、私だけの英雄だ、とな」

 

 だから安心しろ。そして明日からまた頑張れ。そう言って先輩は私を布団にもう一度寝かせる。

 

「もう、今日は寝ろ。寝ないと力はつかない」

 

「先輩は、まだ頑張れって言うんですね」

 

「ああ」

 

「それが辛い道だと知ってるのに」

 

「ああ。そうだな」

 

「また、私が今夜みたいになってしまったらどうしますか」

 

「その時はまた止めるさ。何度でも。分かったか、後輩?」

 

「はい。安心しました」

 

「そうか。じゃあな。お休み」

 

 その言葉にゆっくり瞼を閉じる。サッと襖の閉まる音。今まで、先輩の事は尊敬できると思っていた。ただ、それだけだったのに。

 

「あんな言い方、ズルいじゃないですか」

 

 だって、好きになってしまうのに。これまでずっと強さを期待されてきた。それはこれからも続くだろう。でも、今は。自分の価値はそれだけじゃないと心の底から思えたから。もう迷わない。目指すのは、先輩と同じ夢。それともう一つ。あの人の英雄で居続けること。何故だか、これまでよりも頑張れそうな気がした。泣きつかれた身体を眠気にゆだね、泥のように眠った。

 

 

 

 

 

 

 

 一夜が明けた。結局私が眠れなかった。まぁおそらく綱成の説得には成功したから良かったと言うべきか。大丈夫だろう。きっと彼女はもっと高みに行ける。諦めなければ。私よりもずっと高い、極地に。

 

「先輩!おはようございます!」

 

 元気よく挨拶される。よく眠れたのだろう。シャキッとした顔をしていた。人が徹夜なのになぁ、と思い、ちょっと揶揄おうと試みる。

 

「目が赤いぞ」

 

「え!?」

 

「冗談だ」

 

「何だもう、先輩ったらぁ」

 

 どういう訳だろうか。反応がこれまでと違う気がする。あと、こころなしか距離が近い。

 

「さ、参りましょう。私も今日からまた頑張って参ります。しっかりと近くで見ていて下さいね!」

 

「あ、ああ。勿論」

 

 立ち直れたのなら良いだろう。これで、いつも通りのパフォーマンスを発揮できるはずだ。なにより、後輩の悩みが無くなったなら万々歳だとも。手を引っ張る綱成に慌ててついて行った。




次回はもう一度武田です。明日か明後日には投稿します。ウマ娘でライスシャワーとミホノブルボンの育成がムズすぎて死んでますが、それはそれとして話は書いているので。


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第44話 塩尻峠・前 甲

一話で終わらせる予定でしたが、何か二話になってしまいました。取り敢えず前編です。


 上田原の戦いで深手を負った武田軍は軍を後退させ、南信に撤退した。なりを潜めていた信濃諸将は一転して、武田を信濃から駆逐するべく攻勢に出ていた。

 

 ただ一度の敗北のために、いまや武田家は崩壊寸前となっていた。急いで態勢を立て直さねばならなかった。しかし、柱石・板垣信方は死亡し、もう一人の柱石・甘利虎泰は重傷を負ったため甲斐まで戻らせ、療養させている。このまま引退の可能性もあった。

 

 ともかく、この未曽有の危機に際し、武田家では緊急の軍議が開かれていた。流石にこのままではヤバいと思った晴信は甲斐本国から穴山信君を急遽呼び寄せている。本当はあまり彼女を今川家との国境線から動かしたくは無かったが、最早どうしようもなかった。加えて原美濃守虎胤も招集し、この難局を乗り切ろうとしていた。

 

 軍議の場では板垣信方の跡を継ぎ、名実ともに武田家の副将となった次郎が、武田と信濃の現状を短い言葉で一同に伝えた。村上義清は、武田軍を押し返した勢いで佐久を攻略中。晴信自身が出兵できない以上なすすべがなく、佐久の諸城は続々と村上の手に落ちている。

 

 なりを潜めていた小笠原家当主で信濃守護の小笠原長時は、武田の敗北を知ると同時に抜け目なく立ち上がり、諸将や国人衆を「反武田」の名のもとに集めて諏訪攻略を開始。一時は諏訪衆の半分が寝返り「諏訪失陥」の危機が迫ったが、そうはならなかった。

 

「山本勘助が、うまく策を巡らせて小笠原軍の進撃を阻んでくれたの。それも、一兵も動かせないという手詰まりの状況で」

 

 勘助は、諏訪神社の奇祭「御柱祭」を巧みに利用した。御柱祭は現代の諏訪でも行われている祭りで、巨大な神木を森から切りだして逆落としに落とし、そのまま諏訪神社まで牽引して高々と建てるという文字通りの奇祭である。神木を逆落としにする「木落し」の際には、死人が大勢出る。なにしろ、坂を落としていく神木の上に乗る命知らずの男たちが大勢いるのだ。

 

 日ノ本古来の神の末裔である諏訪家の歴史は途方もなく古い。やまと御所の頂点に立つ姫巫女系の歴史よりも古いらしいのである。晴信の時代にはすでに、この御柱祭の由来も目的もまるでわからなくなっていた。

 

 しかし、諏訪の人々にとってこの御柱祭がとてつもなく神聖な祭りであることは言うまでもない。勘助は、この諏訪の御柱祭と、小笠原軍及び諏訪の反乱軍の侵攻とを、噛み合わせた。

 

 諏訪に進撃してきた小笠原軍は、この神聖な「木落し」の行事を妨害する形となった。戦渦に巻き込まれることを恐れた神社側は祭りの中断を申し立てたのだが、勘助は断固として強行させたのだ。しかしながら押し寄せる小笠原軍を前にした住民たちは祭りどころではなくなっていた。武田の軍兵が守る中、御柱祭は「無人の祭り」となった。前代未聞のことだった。一方で、諏訪四郎を義妹として迎えて保護し、大いなる苦境にありながら御柱祭を開催させて諏訪の伝統を守り通した武田家に対する諏訪の民たちの評判はさらに上がった。

 

 諏訪の民たちは小笠原軍の無礼に怒り、蜂起した。一方、「晴信はいない! 深手を負って甲斐に隠れている! 伊那にいる晴信は影武者だ! あるいはもう死んでいる!」と晴信失踪の情報を掴み、勝利を確信していた小笠原軍は、諏訪に侵入すると同時に、諏訪の民たちが起こしたゲリラ戦によって撃退されたのだった。むろん、勘助が「諏訪を奪い取るのは今だ!」と調子に乗る小笠原長時を油断させ諏訪に深入りさせるために、誇大な情報を撒いたのだった。村上義清であれば、このような己に都合の良すぎる情報などは信じなかっただろう。やはり情報戦は大切なのである。

 

「へぇ、それはなかなか。あの御仁、ただの怪しげな老人ではない、か」

 

 信君が独り言を言う。知将タイプの彼女は相変わらず胡散臭い笑顔を顔に張り付けている。しかしその内心は身の振り方を懸命に考えていた。上田原で負けた原因を情報不足であると考えていた。そもそも今川領に近い所領を持つ彼女は東海の情勢に明るい。当然興国寺城の戦いにおける顛末を知っていた。

 

 北条の勝因は情報戦の勝利。この情報と言うものの大切さを彼女はある意味では武田家の中で最も理解していた。それ故、それを学べずむざむざ敗戦してきた晴信に若干の失望をしていたのである。このまま武田が衰勢に向かうならば、いっそ。そんな考えが頭をよぎっている。

 

 

 

 

 小笠原長時は晴信と同年代の若い少年当主で、戦も好きだが女漁りが最大の趣味であり生きがいだった。村上義清と晴信が激闘を繰り広げていた時には、林城にこもって息を殺し、なにもしていない。ひたすら晴信の敗北を祈っていた。もしも小笠原長時が上田原に村上方として参戦していれば、晴信は生きて甲府へは戻れなかっただろう。小笠原長時は天の時を逸したのだ。

 

 その小笠原長時が、晴信が村上義清に敗れたと知って漁夫の利を得ようと急ぎ立ち上がった。小笠原軍はだから、慌てて各地から召集した急ごしらえの軍団だった。小笠原長時は武人としては一流だが軍略家としては晴信や義清より一段劣っていたと言わざるを得ない。信濃守護に相応しい器とは思えなかった。

 

「ところが、その小笠原長時が軍を立て直して、またしても諏訪を窺っているの。村上義清が佐久の諸城を次々と攻略しているのを見て、信濃の反武田勢は戦意を取り戻し、武田を信濃から駆逐するのはやはり今しかない、ともう一度結束したようね。小笠原長時の指揮能力に疑問はあれど、村上が佐久で武田を押し続けている今ならば勝てる、と」

 

 軍略で村上義清より一段劣るとはいえ、小笠原長時に今のところ致命的な欠陥があるわけではない。武勇も知略もある。村上義清と比べれば甘い、というだけだ。美しければ家臣の妻であろうが手をつけようとするという女好きの性癖も、姫武将や家臣の奥方たちには迷惑だが、武家の大多数を占める男武将たちにとってはそれほど問題にならない。

 

 「小笠原長時はこのたびの諏訪侵略戦で、恩賞を釣り上げたようよ。武田晴信は佐久で捕らえた将兵たちを奴隷として金山へ送った。自分は、この戦で捕らえた武田方の若き姫武将たちを恩賞に与えると――そして、武田晴信は自らの側女にすると」

 

 姉上を側女にとは万死に値する発言。殺しましょうと次郎が自分の発言に声を震わせ、馬場・飯富・春日・工藤がいっせいに「許せない!」と立ち上がった。

 

 

 

 なお、後日これを聞いた時、兼音は報告を聞いて一言「キモイなぁ」と言った。その時彼は自らの討ち取った足利義明が自らの主である氏康に向かって似たようなことを言っていたのを思い出し、若干機嫌が悪くなった。

 

 

 

「佐久の捕虜で金山の欠員を埋め合わせようとしたあたしも乱暴だった。人のことは言えないが、姫武将を恩賞にするとはどういう発想なのだろう。いまいち理解できないな」

 

 真田幸隆が「完全無欠の武田晴信さまにもこんな思考の盲点が」と苦笑いを浮かべた。

 

「あらあらまあまあ。板垣さまも勘助どのも、御屋形さまには色恋の道を教えなかったようですわね。男というものは、若い乙女を見ると獣になるのですよ。信虎さまの時代には、武田軍にもそういうところが大いにあったはず。乱取りと申しましてね。小笠原長時の色好みの絶倫ぶりはさすがに特別ですけれど」

 

「乱取りか。あたしは父上のもとではほとんど従軍させてもらえなかったので、よく知らないのだ。捕虜には金鉱を掘らせる以外に、なにか使い道があるのか?」

 

「ええと、それはですねえ。源氏物語を読まれればけっこう書いているのですけれど」

 

「源氏物語はずいぶん読んだが、殿方が姫を押し倒した次の瞬間には朝が来てすずめが鳴いているので、その間どうなっているのかよくわからない。あの間にはなにが行われているのだ、幸隆」

 

「うーん…。これは言ってよろしいのでしょうかねぇ」

 

「そんなことは知らなくてもいいのです姫さま!」と春日源五郎改め春日弾正が声をあげ、次郎が「そうよ姉上の耳を穢さないでちょうだい!」と幸隆の口を手でふさいだ。この手の知識はあるのと無いのとで大分差がある。河越城では朝定にどう教えたもんかと兼音が苦悩して、結局胤治に丸投げした。ちなみに氏康はしっかり知識がある。

 

「なぜ止めるのです次郎殿? 御屋形様は武田家のご当主。早く殿方と経験させておかないと、後々面倒になると思いますけれどね」

 

 この空気に嫌気がさした信君がげほんげほん、と咳ばらいをする。お前ら黙れよ、と言うキツい目線に騒いでいた一同が大人しくなる。これでも穴山信君は一門筆頭。当主の一番近くに座る権利を持っている。普段は飄々としている彼女だが、今やるべきことじゃないだろうと珍しくキレ気味だった。信繁も幸隆も空気を読んだ。

 

「男女関係の話は全て片付いてから幾らでもしていただいて結構。ですが、今は小笠原を相手取る戦略を考えましょうね。さて、小笠原軍を撃退する戦略ですけれど――ただ撃退するだけでは駄目ですねぇ。村上義清の進撃を止めるためにも、徹底的に勝たなければ。小笠原長時を討ち取るか、あるいは再起不能に追い込むくらいの勝利を収めなければ、信濃での佐久・諏訪における両面作戦はいつ果てるともない泥沼になってしまうでしょうね」

 

 場の空気が戻った事を感じた信君も真面目に提案する。彼女とて負けたくはない。

 

「問題ない。すでに勘助とあたしとで戦略を練っている。馬場たちに命じて準備も進んでいる。今ここで行うべきことは、最終確認だけだ。我らは先の村上戦では、力押しで勝てると相手を甘く見て油断した。敵が小笠原であれ、油断すればまた同じことになる可能性がある。この作戦は、新生武田軍がいかに生まれ変わり、いかに強くなったかを信濃全土に知らしめるための周到なものだ」

 

「ほう?」

 

「ついでに言えば、木曽義康の説得に成功したわ」

 

 と、信繁が補足する。これには信君も目を見開く。木曽氏は西信濃の筑摩郡に大きな勢力を持つ国人である。かの旭将軍・木曽義仲の子孫を名乗っており、その影響力は大きかった。中立的態度をとり、静観を決め込んでいた木曽義康だったが信繁はその彼の元を電撃的に訪問した。

 

 兼音からの書状には木曽を味方につけて小笠原を挟撃すべし、と書かれていた。その方法は自分で考えるように、とも追記されていたが、これに従った信繁は義康を説得。内容は一族を送り込み一門にすること、金の献上、交易権の保障、小笠原撃破後の所領拡大、二年間の軍役免除である。この条件で木曽家は博打に出る事となる。ただし、木曽家からの条件として小笠原軍を一度は破る事。これを満たせたのなら即日参戦するというものだった。流石は信濃の名門の一つ。ただでは助力しなかった。しかし、不干渉を引き出せただけでも大きな収穫である。

 

 加えて小笠原に勝てば臣従してくれるのである。交渉は成功であった。

 

 

 

 

 これは、あの村上義清に勝つための戦だ。こんどこそ、河越夜戦に匹敵する戦果をあげる――晴信は、実戦を経験し敗北を経験した自分と勘助とがより強くなった、村上義清によって古き殻を破られた武田軍は一気に成長したと確信していた。小笠原そして村上を倒すまでは、涙は流さない。板垣を失った悲しみに暮れるのは、信濃を平定したその時でなければならなかった。しかし心中には北条と比較する心が根強く存在していた。これは上田原の敗戦で一層強くなっていた。

 

「真田幸隆。武田晴信は大傷を負い、いまだに馬に乗って駆けることもできない。武田軍の戦意はあがらない、と噂を撒け」

 

 

 

 

 

 

 

「今こそ村上義清のおこぼれをいただくのだ! 諏訪も甲斐も晴信ちゃんも俺さまのもの!」

 

 五千の大軍を率いて塩尻峠の高台に陣を敷いた信濃守護・小笠原長時は、得意の絶頂にいた。黙っていれば名門の御曹司に見えなくもない美男子だが、粗野で下品な性格がその表情に表れていた。古式ゆかしい「小笠原流礼法」を受け継ぐ名門中の名門でありながら、長時は信濃一の絶倫男とも、日ノ本一の女好きとも言われていた。いや、自分自身でそう豪語していた。国盗りよりも俺は天下中から美女をかき集めたい、それが小笠原長時の野望。

 

 あちこちから信濃守護の名でかき集めた国人連中から「人質は要らんからお前らのところのいちばんの美人を差し出せ」などと命じて、この塩尻峠の本陣に信濃美人たちを集めて日夜の宴会に耽けっている。どっかで見た負けフラグである。もうすぐその地位を剥奪されそうな関東管領の敗戦を聞いて何も学ばなかった男の末路がこれである。

 

 寄せ集めの小笠原軍の陣中は「聞きしに勝る性豪だな」「こんなのが総大将でだいじょうぶなのか」「助力に来た仁科殿はこの体たらくかと、怒りに青筋を立てておられるが」「本当に武田の姫武将を恩賞としてくれるのか」「恩賞を受け取ったと同時に殺されそうだ」とすでに仲間割れ寸前となって殺気立っていた。

 

 寄せ集め軍の悲しさで、統制が取れていない。ああ、これもどこかで見た景色である。

 

 だが小笠原長時はそんな細かいことを気にするような性格ではなかった。その日の夜も本陣内に信濃から選りすぐった美女軍団を侍らせながら、月見に興じていた。

 

 

 

 なお一条兼音にこの手のハニトラであったりは通用しない。周りに美人が多いのがこんなところで幸いしていた。見慣れてしまっているのである。それもそのはず。胸は薄いが関東でも随一の美麗さを誇る色白のクール系の主、ザ・武人の装いをした黒髪ポニーテールと栗毛の髪に優し気な瞳を持つ同僚。多分河越城で一番スタイルのいいお嬢様、サイドテールの後輩系、神出鬼没のスタイルが二番目にいいくノ一、若紫の再来と噂される少女、依存度の高い参謀役など選り取り見取りである。

 

 小笠原長時が見れば地団駄を踏んで悔しがるレベルの逸材揃いだった。

 

 

 

 それはともかく、この有様に家臣の神田将監が「油断がすぎますぞ」と顔色を変えて諫言に訪れたが、「黙れ。うるさい。俺さまは今、女たちと風流な一夜を過ごしているのだ」と一喝して取り合おうとしない。

 

「殿。この軍は統制が取れておらず、いつ分裂するともわかりません」

 

「なぜだ。不思議だな」

 

「殿が陣中で女漁りをしておるからです!そもそも殿には五千の混成軍を指揮する能力がございません。ここは、佐久で暴れている村上義清と連合して武田と決戦するべきですぞ!」

 

「村上義清が総大将になるのか? 冗談はよせ。信濃の守護はこの俺さまだ」

 

「むろん殿が総大将です。村上義清には、諸将を睨ませておけばよろしいのです! それで裏切り・内通・日和見は防げます!」

 

「知るか。俺さまは村上義清が嫌いだ。あいつは無骨な武人だなどと言い張っているが、ガキを十人も作っているんだぞ。一匹狼の顔をしていながら、俺なんぞよりもよほどの性豪だ。無節操な下半身の持ち主のくせに、信濃中の若い女どもに『渋い、強い、頼りがいがある』などとちやほやされて人気なのも腹が立つ」

 

「と、殿……! 殿は信濃守護なのですから、もっと大きな器の持ち主となりなされ!」

 

 器が圧倒的に小さかった。これでは武田を仮に破れてもいずれ破滅する。ちなみに史実における彼の死因は家臣の妻に性的ないたずらをした結果ブチ切れた家臣に殺されている。

 

「村上と連合して勝ったら、俺さまの戦利品を村上が根こそぎ持って行ってしまうではないか。俺さまは入念に調べあげているのだ。見ろ将監。俺さまが中信濃の忍びを総動員して作り上げた『甲斐国美人図鑑』だ」

 

「うおおお! 日夜、書物を手にしているものだからてっきり信濃の地図を研究しているのかと思いきやそんなものを? 美人図鑑など作っている場合ではありませぬ! しかも甲斐の美人とは、捕らぬ狸の皮算用!」

 

「俺さまは戦場で暴れて敵を斬るのは好きだが、領地を盗ったり城を経営したりするのは面倒で嫌いなのだ。戦利品についてあれこれ考えなければ、やる気が出ないのだ。いいか爺。見ろ。甲斐一番の美人は、なんといっても武田晴信だ。父親を平然と追放したりする殺伐とした危険な性格に難があるが、そういう女に限っていちど男になびけばかわいくなるものさ。うひ。うひひひ。しかもこの早熟な肉体。細い身体のくせに、乳がでかい!」

 

「どうして武田晴信の裸体なんぞを描かせておるのですか、嘆かわしい。小笠原流礼法が泣きますぞ」

 

「忍びが確認してきたから間違いない! 晴信ちゃんは温泉好きだから、けっこう隙があるのだ」

 

「そんな隙を掴んでいるのなら、暗殺させなされ…」

 

「そんなもったいないことができるか! 村上義清だって、おっさんの板垣信方は容赦なく討ち取っておきながら、いざ本陣に突撃して晴信ちゃんを殺そうとした時には柄になく討ち損じているではないか。あれはな、晴信ちゃんが美人だからもったいなくなって躊躇したのだ。すなわち、村上義清は晴信ちゃんを側室にするつもりだ。あんな初老の親父に渡してなるか、若くて美しくて血筋のいい俺さまが先んじる!」

 

「ええい。常に自分基準で考えるのはやめなされ。村上殿は殿とは思考形態がまるで違う御仁ですぞ!」

 

「ふん。くだらんことを言うな。男の考えていることなどみな同じだ。俺さまは正直者で、村上の野郎は嘘つきの格好つけだ。小笠原流礼法などというものが持て囃されるのも、人間の性が悪で下品で好色だからだ。そのくせ、自分を聖人君子だと思い込みたがり格好だけはつけたがるから後付けの格好つけ方法、すなわち礼法を必要とするのだ。俺さまは幼い頃から礼法などを叩き込まれてきたから、いかに礼法などを求める人間どもが嘘つきで不正直かを思い知らされて辟易しているのだ。生まれながらに礼節を身につけている人間ならば、礼法など学ぶ必要などないではないか」

 

 長棟様の教育が悪かったのかのう……と将監は嘆いた。まぁこの意見はある意味正論なのがタチが悪かった。

 

「まあそう嘆くな。晴信ちゃんの温泉は美女揃ぞろいなのだぞ爺。長身で見事な肉体美を誇る馬場信房。晴信ちゃんお気に入りの愛らしい姫小姓・春日弾正。やんちゃな飯富姉妹も最高だ。特にちっちゃな妹のほうは、見た目には童女にしか見えないのだとか。そういうのも珍味としては乙なもの。あと、工藤なんとか、な。こいつは美形の割には存在感がなくてぱっとしないらしいが、そういう地味めの娘に限って意外と床では乱れたりしていいものだぞ。さらには晴信ちゃんの妹たち。次郎信繁に孫六。全員、あの武田信虎の娘とは思えぬ美形揃いだ。うふ。うふふふ。俺さまの見たところではみんな生娘だな。当主の晴信ちゃんが男に興味がないうぶな娘のまま当主となったせいで、姫武将たちも晴信ちゃんに遠慮して男と交際しないらしい。まるで天が俺さまに甲斐美少女軍団を授けてくれたかのようだ」

 

 素直にキモイ才能だった。兼音もドン引きである。この男はある意味戦国時代生まれでよかったかもしれない。現代にいたら確実に性犯罪でお縄だろう。

 

「そんな知識はよろしいから、信濃の地形を頭に叩き込んでくだされ! 武田晴信には、山本勘助という奇道を用いる軍師がおるのですぞ。今夜この塩尻峠に武田軍が奇襲をかけてきたらなんとなさる!」

 

 俺さまは信濃守護だぞ、信濃全土の地形などすでに頭に入っているわ愚か者め、と小笠原長時が不快そうに吠えた。

 

「山本勘助がどう知恵を使おうが、この天険に守られた塩尻峠は奇襲できんのだ。伊那を出発した武田軍は、のろのろと行軍してやっと上原城に入ったばかりだという。晴信の怪我の回復具合がよくないらしいな。俺の未来の愛妾の身体に傷をつけおって、村上義清めいずれ殺す!」

 

「たしかに、武田軍の行軍速度は妙に遅いですが。伊那から諏訪まで、急げば一日で移動できます。それを今回は一週間以上かけている。ですが、それこそ罠かもしれませんぞ」

 

「塩尻峠の背後を取るためには、武田軍は険しい山道を大きく迂回しなければならない。それでも挟撃をするとなれば南に離れた勝弦峠の側から回り込むしかないだろうが、無理無理。上原城から勝弦峠を越えて遠回りで塩尻峠に辿り着くのにどれだけ時間がかかる?」

 

「むう。意外や意外、殿の頭の中に戦略戦術が占める部分があろうとは」

 

「ふん。俺さまは戦利品の美女を手に入れるためならば知恵も使うのだ。挟撃策を捨てて正面から押し寄せてきたとしても、山における合戦では、山頂の高所に陣取ったほうが有利だ。俺さまがいったん諏訪湖を離れて塩尻峠に登ったのは、武田軍との平地での決戦を避けて山頂から逆落としをかけるためだ。武田軍は、険阻な山脈に阻まれるから挟撃もできない。三国志の馬謖とかいう阿呆と違って、水の手も確保しているしな。山本勘助などといういまだに嫁も取れない醜男に俺さまが負けるはずがあるか。うふふ」

 

「なるほど、陣取りは見事でございますな。さすがは信濃守護、地の利は生かしておりますな、地の利は。殿の女漁りのせいで連合軍の統制が取れていないことを除けば」

 

「まあ山本勘助は、あの顔では甲斐の綺麗きれいどころの姫武将を食ったりはできんだろうから、捕らえた暁には罪一等を減じて斬首のところを切腹にしておいてやろう」

 

「あれほどの逸材を、なんともったいない! 切腹させずに軍師として使いこなしなされ!」

 

「醜男など俺の陣営には要らん。姫武将さえ増えればいい。信濃には姫武将が少なくてつまらんので俺さまは本気を出さなかったが、甲斐を奪うとなれば話は別だ!温泉!美人!姫武将の天国!俺さまの目には、甲斐があたかも桃源郷のように思える!」

 

「……殿。一度目の諏訪侵略の際、諏訪神社の御柱祭を遊び半分に邪魔して民たちに叛かれ、むざむざ撤退せねばならなくなったことをお忘れなきよう」

 

「そうだな。なんであんな木の棒を山から落として地面に建てるというわけのわからん祭りを邪魔された連中があれだけ切れているのか、聡明すぎる俺さまにはさっぱりわからなかったが、諏訪神社の巫女を務める幼い四郎ちゃんがまことに愛らしいのだとか。いずれ乙女になれば四郎ちゃんも俺さまの愛妾に」

 

「……もうなにも申しますまい。油断だけはなさらぬよう」

 

 

 

 

 

 ところが、諏訪湖畔での平地決戦を避けて山上の塩尻峠に陣を敷いた小笠原長時は、やはり晴信と勘助の罠にかかっていたのだった。進軍速度を重視する晴信が今回に限ってわざとゆるゆると行軍した理由のひとつは、小笠原長時に余計なことを考える時間を与えるためだった。人は、と言うより凡人は暇になると余計な事を考え、実行する。小人閑居して不善をなすとはまさにこの事だろうか。

 

 小笠原軍の士気が高まっているところで問答無用の決戦を即座にはじめれば、上田原の合戦の時のようなことがあるかもしれない。小笠原長時も、滅多に本気を見せないだけで、その武は村上義清に匹敵するかもしれない男だ、と言われている。買い被りの可能性が高いが。しかしダラダラと滞陣していればいるほど、士気は下がる。長時の女遊びがこれに拍車をかけていた。

 

 だから、晴信と勘助は、むしろ塩尻峠に布陣してもらいたかった。

 

 敢えて山上に追い込んで、小笠原長時が「できない」と思い込んでいるであろう山中での挟撃をかけたかった。不可能だと思い込むのも当然で、上田原の合戦では実際に、晴信と勘助は挟撃策を断念している。なにも躊躇わずに山上の城を捨てて平地へと突出してきた村上義清の陣取りが、挟撃を許さない形となったためである。

 

 今回の戦ではその逆を行く――それが勘助の戦略だった。諏訪湖沿いの平地を奪っていた小笠原軍を山上へ追いやることで、挟撃を可能としたかった。山上に陣取れば、諏訪の平野を一望に見渡すことはできるが、別働隊に山中を行軍させれば唐突な奇襲攻撃が可能となる。山中行軍はデメリットもあるが、この場合はメリットの方が大きかった。

 

 夜が白々と明けはじめ、小笠原長時が「今頃、諏訪湖をめざしてゆっくりと進軍しているところだろうかな武田軍は。だがもう遅い、塩尻峠の布陣は万全だ」と美女たちの肩を抱きながら笑っているところに、前線からの兵が飛び込んできたのだった。

 

「武田軍、昨夜の闇に乗じて上原城を出てすでに諏訪に到着しておりました! 電撃的な速度で、この塩尻峠に押し寄せて来ました!」




書き溜めを一挙放出です。次回もすぐに投稿できるかと。おそらく今日の夜には。

やっとライスシャワーでうまぴょい出来た…。


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第45話 塩尻峠・後 甲

「武田軍、昨夜の闇に乗じて上原城を出てすでに諏訪に到着しておりました! 電撃的な速度で、この塩尻峠に押し寄せて来ました!」

 

 この報告に「なんだと?朝駆けか?」と小笠原長時は思わず立ち上がっていた。武田軍が朝駆けを仕掛けてきたとなれば面倒だが甲冑を身にまとわねばならない。

 

 上原城から一気に駆けてきたのか。速い! これまでの遅々とした進軍速度はなんだったのだ。まさか死んだふりだったのか? とふと不安がよぎったが、長時はその不安を一掃した。常に長時は強気である。迷わない。合戦でも女相手でも、なにごとにも先手、先手を打つ癖がある。いい面が出ることもあれば、悪い面が出ることもある。先手を打ち損ねて反撃を食らった時の粘りが薄い。この強気な男の特質上、戦いの二手、三手先までは考えないからだった。長時はその時その時に本能にまかせて動く。

 

 吉と出たためしは殆ど無かったのだが。

 

「武田軍の兵数は?」

 

「二千か、せいぜい多くて三千です」

 

「五千は動員できなかったか。上田原では八千もの大兵力をかき集めたというが、やはり落ち目だな。しかも、そんな少数で麓から山上へと攻め寄せるつもりか。馬鹿が。狭い峠道を大人数で押し通ることはできんのだぞ。こんなことは兵法の第一歩ではないか。逆落としをかけて、蹴散らしてやれ」

 

「はっ! 峠道へと押し寄せる武田軍は五つの部隊に分かれております! それぞれ、馬場・春日・飯富姉妹・工藤が率いております!」

 

「なんだとおお? 姫武将が続々と前線に出ているのかっ! そうかそうか板垣が死んで、甘利が重傷だからか? 村上義清、いい仕事をしてくれたな! だったら俺も愛刀・千代鶴を抜いて前線に出てやろう。姫武将がいたら殺さずに捕獲せねばならんからな。足軽ふぜいには無理な話だが、この俺さまほどの強者ならば手加減しながら姫武将を捕獲することもできるのだ。うふふふ」

 

「え。いつもは戦を面倒がる殿が、自ら最前線に? なにか悪い予感がするのですが……殿は本陣に座ってくださっていても楽勝です、むしろなにかあった時のためにこのまま本陣に留まっていただいたほうが」

 

「黙れー! 未熟で弱いお前らに任せていては、美しい姫武将たちが死んだり傷ついたりするではないか! いいか、姫武将と戦うのならば、村上義清より俺さまのほうが上手だ! 武田の姫武将たちはこの俺さま自らが傷つけずに捕獲して飼う! 侍らせる! そして小笠原の子種を孕ませるっ!」

 

 どうしようもない理由ではあったが鎧を身につけた小笠原長時が勇躍して坂道を駆け下り、「うおおおお! 姫武将たちは全員俺さまがいただく!」と力任せに千代鶴を振り回して好き放題に暴れはじめた。

 

 村上義清のような底冷えがする迫力はなかったが、本気を出した時の小笠原長時の戦闘力は異常だった。

 当たるべからざる勢いで、坂を登ってくる武田軍の先鋒隊を突き崩し、胴丸ごと足軽たちを斬って斬って斬りまくった。

 

 なにしろ、姫武将たちを早く捕獲しないと討ち死にしてしまう! と彼は目の色を変えている。最低すぎる理由ではあるものの、それでも戦果は上がっていた。ところが、長時が最前線で無双の剣を振るっているこの間に、夜を徹して山道を行軍していた次郎信繁並びに穴山信君の二名が率いる武田の別働隊千五百が、南の勝弦峠を驚異的な速度で越えて、迂回を完了していた。

 

「一週間の猶予を与えられて、知恵を絞ったばかりに、罠に落ちたわね小笠原長時。姉上と勘助はこたびこそ挟撃策を成功させるために、諏訪周辺の山中に棒道を整備していたのよ。みんな! 武田家と姉上の命運は、この一戦にかかっている! 上田原での黒星をこの塩尻峠で取り戻す時が来たわ! 小笠原本陣へ進め!」

 

「ま、今回ばかりはしっかり働かせてもらいますよ。ここで負けたらお家滅亡待ったなし。それでは些か困るので、ね」

 

 別働隊は大将不在となった塩尻峠を、背後から急襲していた。小笠原長時の「常識」では考えられない行軍速度で、次郎隊は勝弦峠を迂回してきていた。信繁も信君も才気ある名将である。その地位に相応しい指揮能力を発揮し、戦闘を行っていた。普段は前線にあまり出ない信君ではあるが、同じような属性を持つ氏康などとは違い決して戦闘能力が無い訳ではなかった。むしろ強い方ではあるのだが、如何せん他の面子が異常な戦闘能力を誇っているので影に埋もれている。

 

 晴信は迅速な行軍を実現するためにこの合戦において「軽騎馬隊」を投入していた。この部隊には足軽はいない。全員が騎馬武者である。しかも武士たちはみな、重装備を捨てていて、軽い。その徹底した軽量化によって、馬の速度を速めていた。更に密かに獣道に偽装された山道が整備され、その行軍を助けていた。

 

 信繁は自らこの決死隊の指揮官役を買って出て、窮地に追い込まれた武田家の衰亡を防ぐための一か八かの勝負に出た。ただ、万が一を考え信君もついて行ったのである。

 

 そして、成功した。多くの足軽兵たちの血を吸った千代鶴を担ぎながら、山上に武田菱の旗があがった光景を仰ぎ見た小笠原長時は「げええっ? やべえ! どこから登ってきやがった? 勝弦峠越えならばこんなに早くは来られないはず……ええい。俺さまは逃げるッ!」と吠え、味方諸将をすべて置き捨てにして戦場から脱兎の如ごとく逃げだした。

 

「武田晴信、俺さまは諦めんぞ! お前も、お前の姫武将も、最後にはこの俺さまが手に入れるのだっ!」

 

 とりあえず俺さまの居城・林城へ逃げる。だが晴信は容赦なく俺さまを追ってくるだろう。そうなったら村上義清のもとに逃げるか……それはそれでありかもしれん。あの男の周りにはきっと美女が集まってくるだろうが、やつはもう歳だからいちいち全員の相手をしてはいられないだろう。俺さまがそいつらをいただく!

 

 小笠原長時は、あくまでも強気だった。城や土地を多少失おうが、美女さえ集められればそれでいい。だからどれほどの窮地に追い詰められても、長時の心が折れることはない。この男の弱点でもあり、強みでもあった。くそう! 姫武将の一人くらい攫さらっていかなきゃ割に合わねえ! といらだち混じりの剛剣を振るいながら、悠々と戦場を離脱していった。

 

 だがしかし、強い者はそれでもまぁ何とかなるのだが、一般の兵や国人たちはそうもいかない。総大将の早々の戦線離脱に大混乱に陥っていた。その混乱の最中、小笠原家家臣・神田将監は討ち死。その他にも多くの兵が死ぬこととなる。実は長時には信定という名の弟がおり、松尾城にいるのだが、彼の元には行かなかった。弟の方は人格がまともだったので、兄とはそこまで仲が良くなかったのである。ちなみに彼はこの後落ち延び、同族の三好家を頼って上洛。その客将となる。

 

 

 

 

 

「あのう。もしかして御大将の小笠原さまでは……私、工藤祐長と申す者で……こ、こ、ここで出会ったのもなにかの縁。いえっ、地味だった私の人生においてはじめての幸運です。わが武名を武田に轟かせるために、ぜひとも私と勝負を! この機会を逃したら私はこのまま蓑虫暮らし。勝てば姫さまから感状をいただける栄光! 負けたら潔く奴隷にでもなりますっ」

 

「武田が誇る姫武将は! 姫武将はいねえがあああ! 俺さまと勝負しろ、そして側女になれ! うおおおお、どこを見渡しても野郎しか戦ってねえ! 今日の俺はついてねえ!」

 

「いえ、ですから、ここに愛らしい姫武将がですねっ! 待ってくださーい、気づいてくださーい!」

 

「うおおおお! 姫武将たちを続々と戦線に投入したと言いながら、俺さまとの宿命の出会いを果たす姫武将が一人もいないとはどういうことだ! これは詐欺だっ! なんとあくどい女なのだ、このままではすまさんぞ武田晴信! 必ずやお前の処女は俺さまがいただいてやる!」

 

「いくら極限状態の戦場だからって、どうして誰も私に気づいてくれないんですかああ!」

 

 影の薄すぎる工藤祐長はまったく気づいてもらえない。小笠原長時も集中力があまりないので仕方ないかもしれないが。ともかく、一名の姫武将の心に若干の傷を残しながら、塩尻峠の合戦は、武田軍の一方的な勝利に終わった。

 

 

 

 

 上田原で村上義清に敗れ、多くの家臣を失った武田晴信だったが、武田家はいささかも揺らいでいない――それどころか武田軍は新たな血に完全に入れ替わったことによってむしろ強くなった、と信濃中の国人豪族たちは思い知らされることになった。

 

 小笠原長時の武器である「信濃守護」という役職の権威は、連合軍を惨敗に追い込んだことで完全に地に落ちた。何とか立て直しを図ろうとした矢先に密約を守った木曽義康が侵攻。これには耐えられず小笠原長時は林城を捨てて、愛妾たちとともに村上義清のもとに遁走したのだった。思えばまぁついてきてくれるだけマシなので、何らかの魅力があるのかもしれなかった。

 

 晴信は林城に代わって、深志城を中信濃における武田の本城に指定し、山本勘助に大改築を命じて縄張りを行わせることとした。

 

 そして深志城の城代には、若き姫武将・馬場信房を指名した。信虎時代ではありえなかった、大抜擢だった。

 

「……板垣さまのお役目を自分が……深志城は、命に代えても」

 

 馬場信房が感激しながらうなずき、武田の諸将は「板垣さまが倒れられても武田家は盤石だ」「むしろこれから武田の黄金時代が来る」と一時は失いかけていた自信を取り戻して怪気炎をあげた。

 

「馬場。地侍や住民たちの声を聞いてやれ。佐久であたしがやらかしたように民と対立してはならない。国とは、つまるところその土地に暮らす民のことなのだとあたしは思い知らされた」

 

「……承知」

 

「それゆえ、誰よりも心優しく、根気強いお前を城代に選んだのだ。あたしは性急で気が短いが、お前ならば中信濃の者たちと根気よくつきあって融和することができるはずだ。これは戦と同等に、あるいはそれ以上に重要な任務だ。頼むぞ」

 

「……はっ」

 

「もうひとつ。駿河商人から、大陸の駿馬たちを手に入れた。甲斐の馬よりもひとまわり大きく、道を整備してやれば同じ馬とは思えぬほどに速く走る。脚は遅いが粘り強い甲斐馬は荷駄隊には向くが、戦場では大陸の馬がより役立つはずだ。この大陸馬を増やして育てよ。村上義清に勝つためには、さらなる軍備増強と技術革新が必要だ。種子島の火力ばかりが持て囃されるが、誰も『馬』の『速度』には注目していない。よいな」

 

 佐久での強硬な政策が反乱を呼んだことを反省した晴信は、中信濃では地元の国人たちの所領を安堵するなどして保守的だが穏健な政策を採用した。結局、民や国人たちが蜂起すればその土地は争いによって衰え、国力は伸びない。それに一揆や反乱は晴信自身の心をも病ませる。少々改革の速度が遅れ支配力が弱まっても、その土地その土地の住民に合わせた「弱い支配」を選択したほうが長期的には国力増強に繋がる。晴信はそう判断したのだ。以後、これが武田家による領土支配の基本方針となっていく。

 

 同時に密約通り木曽氏は武田に対して大幅に譲歩させて臣従する事となる。見事に小笠原を葬った手腕を木曽義康も評価したのである。これより木曽氏は武田の一員となり、武田家一門の娘が送られ一門衆として配下となるのである。

 

 だが、軍事については、保守的ではいられなかった。村上義清に再戦を挑み、そして勝たねばならないからだ。そのために、晴信と勘助は着々と武田軍の改革を進め、かつ、中信濃での支配体制を広げねばならない。

 

 

 

 

 

 軍議を終えた後、晴信と勘助、そして次郎信繁の三人は信濃の夜空を見上げながら酒を酌み交わしていた。

 

「……ふう。ずっと大将口調で毅然としているのに疲れちゃったわ」

 

「御屋形様。上田原では板垣殿を失いましたが領土を得ることはできませんでした。されど、塩尻峠ではほとんど犠牲を払うことなく中信濃を手に入れることができましたな」

 

「ええ。これで、一息つける。やっと、やっとね…」

 

「上田原では、それがしの未熟ゆえに村上義清に敗れ、御屋形さまの不敗神話を終わらせてしまいました。申し訳ござりませぬ」

 

 でも、上田原では負けたけれども姉上は生き延びられた。だからこそすぐに武田は塩尻峠で大勝を収めたわ。これで広大な信濃の三分の二は姉上のものに。あとは、残りの三分の一を領する村上義清を押し切るだけ。勘助ご苦労、と次郎が笑った。

 

「これで信濃に残る大勢力は、村上義清だけになったわね次郎ちゃん。強敵だけれども、板垣・甘利たちの仇は必ず討つ。信濃平定まであと一歩よ」

 

「信濃を平定すれば、武田家の国力は増大するわね姉上。天下取りへの道が本当に開けてくる。次は海だったわね。海さえ確保すれば、いつでも上洛できるわ。駿河へ出る? それとも越後の海へ?」

 

「……今川義元を上洛させたくはないけれど、駿河には定もいるし、父上もいる。太郎ちゃんや孫六もしょっちゅう駿河へ遊びに行っているしね。となると、川中島を越えて越後へ向かうべきかしら……あそこはよく知らない土地だけれど。それに、越後は南北に長く、治めるにはあまりにも広大すぎるわ」

 

「先の越後守護代・長尾為景は私たちの父上のように強かったそうだけれど、今の守護代・長尾晴景は病弱で戦が苦手だそうよ。そのために国人衆の勢力が強い越後は乱れているとか。好機かもしれないわ、姉上」

 

「天の時を得られるのかしら、あたしたちは」

 

 あいや、しばらく、と勘助が口を挟んだ。勘助は、夜空を見上げていた。その隻眼で。北極の星が、輝いていた。

 

「その越後ですが、それがしも予想していなかった事態になっております。あるいは村上義清以上の途方もない難敵が育ちつつあるやもしれません」

 

「難敵?」

 

「はっ。その者の名は、長尾景虎。越後初の、姫武将にございます」

 

「……長尾、景虎……不思議ね。ずっと昔から、あたしはその名前を知っていたような……」

 

「姉上?」

 

 この夜。

 

 武田晴信は、ついにその運命の者の名を、耳にした。そして、口にした。

 

 長尾景虎。

 

 越後の、毘沙門天の名を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今川義元の本国・駿河。

 

 実娘・晴信に追放されたかつての甲斐守護・武田陸奥守信虎は今、義娘である今川義元のもとに客将として滞在していた。駿河には晴信の妹の定が先に入り、義元の義妹として暮らしていたのだ。ゆえに信虎は、駿河今川家においては今川一門に連なる上客として優遇されていた――とはいえ、むろん、甲斐には戻れない。贅沢な館をあてがわれて新たな側室を迎え悠々自適の暮らしをしていれど、故郷を追われた浪々の身であることに変わりはない。

 

 その信虎のもとに、甲斐から息子の太郎義信と娘の孫六信廉が遊びに来ていた。これまでも二人は、何度も駿河の父親のもとを訪れている。

 

「親父どの。姉上は村上義清には負けたが、正念場の塩尻峠で勝ったぜ。信濃守護の小笠原長時は所領を捨てて、北信濃の村上義清のもとへ逃げ込みやがった。残る村上義清ももう、信濃の大部分を武田に奪われて孤立無援だ。信濃平定まであと一歩だぜ!」

 

「それはもう、厳しい戦いだったサ」

 

「おいおい孫六。てめーは従軍してねーじゃねーか!」

 

「わたしは近頃、姉上の影武者を務める訓練をしているのサ。なかなかゆっくりと絵を描く時間がなくてネ。困ってるのサ」

 

「しっかし村上義清は手強かったよな。化け物じみてらあ。もしも真田幸隆を上州から引き抜いて味方につけていなけりゃ、上田原の合戦はやばかったぜ」

 

 太郎に侍って駿河まで随行してきた「赤備え」の姫武将・飯富兵部虎昌が、信虎に「さあどうぞ。伊那名物のイナゴだ大殿! 滅多に会えないんで、奮発してたっぷりとかき集めてきたぜ! 食え食え!」と迫った。

 

 老いてなお大食漢の信虎は「イナゴの佃煮なんぞ食えるか馬鹿者! この駿河に来てからは毎日、新鮮な海の幸を食えるようになった。虫なんぞ絶対に食わぬ」と怒鳴りつけていた。

 

「なんだよー大殿。冷たいなあ。姫さまが信濃をがんがん平定していってるのを見て、焼き餅でも焼いてんのか? いい加減仲直りしなよー」

 

「わしが晴信に嫉妬だと? 愚かなことを言うでない。晴信は軟弱者のくせにあろうことかわが盟友であった諏訪頼重と村上義清を裏切り、無謀な戦で板垣を死なせよった! 奴は、わしの片腕。甲斐武田家を守る柱石であったというのに、それを端武者のように先鋒に立たせるとは――」

 

「大殿も、北条との合戦でただ一人の実弟を討ち死にさせたことがあったろう? 合戦をすりゃあ、そういうこともあるさね」

 

 実弟とは勝沼信友のことであり、彼は今川氏輝と争った際に援軍に来た今は亡き北条氏綱に敗れ死亡していた。これを後世では山中の戦いと言う。

 

「そうだぜ親父どの。板垣は親父どのを駿河へ追って姉上を担ぎ上げた時から、覚悟を決めていた上での戦死だ。武士として合戦で死ねたんだ、悔いはねえだろう」

 

「その仇敵たる北条づれと仲良くやろうというのが気に食わぬ! 北条などはあの河越で関東管領の大軍に呑み込まれて滅びるはずだったというのに、なぜ晴信は北条に手を貸したのじゃ! 晴信は関東への道を捨てて、いかがするつもりなのじゃ! どこまでこの父に逆らえば気が済むのじゃ。いつまでも山国でイナゴを食うつもりなのか」

 

「まあまあ父上。信濃を平定すれば、姉上はいよいよ越後の海に出るって話だネ」

 

 貴様ら三人の脳天気ぶりにはついていけぬわ、と信虎は忌々いまいましげに吐き捨てた。

 

「つくづく愚かなり晴信。すでに、越後は容易に盗れる国ではなくなっておるぞ。病弱な長尾晴景が守護代の座を降りて、軍神とも神将とも呼ばれる長尾景虎が新たな守護代となってしもうたではないか! 同じ姫武将でありながら、長尾景虎は晴信とは大違いの義将であるという。しかも戦にめっぽう強い天才なのだとか。村上に敗れて信濃で時間を浪費するから、このようなことに」

 

 だが武田はすでに諏訪・高遠・伊那・中信濃・佐久まで奪っている。残るはもう北信濃だけなんだ。あと一戦で村上の命運を絶てる、と姉上も勘助も言っている――太郎は「いつの間にか親父どのと姉上の不仲はずいぶんとこじれたもんだ」と頭をかきながら、晴信を弁護した。

 

「ふん。板垣を討ち死にさせた今、広大な信濃を治めるにも人材がおらんだろう。後先を考えずに、ない勇気を見せようと蛮勇を振るうから、このような羽目になる」

 

「だいじょうぶだいじょうぶ。姉上は、うら若き姫武将たちを抜擢してどんどん経験を積ませているのサ。板垣どのに代わって、今は馬場信房が信濃を統治しているサ」

 

「おう。馬場を筆頭に、春日弾正。あたしの実妹の三郎兵衛。あと、工藤。みんな姫さまを実の姉のごとく慕っていて忠誠無比。板垣と甘利が欠けても武田の屋台骨は揺るいでいないぜ、大殿」

 

「女ばかり増えたな……馬場……工藤……相変わらず、わしが誅して滅ぼした連中の家名を片っ端から復活させておるのだな! どこまでも嫌みな娘じゃ!」

 

「いやだから、それは武田家の和のために」

 

「ええい黙れ! 和というのならば、武田と今川の和が破れようとしているのだぞ。晴信はその件、いかが考えておるのだ?」

 

 というと? と太郎たちが首を傾かしげ、信虎は小声でつぶやいていた。

 

「……今川義元の義妹としてこの駿河で暮らしておる定の病が重くなってな。もはや長くないのじゃ。定を甲斐から出すべきではなかった。まもなく、今川と武田の義姉妹同盟は崩れる」

 

 それで定のやつ、姿を見せてないのか、と太郎が天を仰いだ。

 

「そうか…定が…」

 

「晴信が潔く武将をやめ、今川に義妹として入っておれば定ももう少し長生きできたであろう。今更言うても、せんのないことだがな」

 

「ふうむ。信濃平定戦の総仕上げ、そして海を目指しての越後攻め――武田には今川との同盟維持がどうしても必要サ」

 

「いくら姉上でも、親父どのが隠居している駿河を攻めるわけにはいかねえからなあ。親父どのは実質的に今川の人質なんだ。武田が今川と戦えば、姉上は『父殺し』になっちまう」

 

「杞憂じゃ太郎よ。あの生まれながらの臆病者にそんな度胸はあるまい。だが、この同盟を維持する必要は、たしかにある。晴信は今川をのぞいて、わしが同盟した相手すべてを裏切り攻めかかっておるからのう。まるで川に落ちた野良犬じゃ。今川と手切れになれば、晴信の代で武田家は滅びることになろう」

 

「父上にお考えは?」

 

「いまいちど義姉妹同盟を繰り返すわけにもいかぬだろう。義姉妹では子を生なせぬからな。両家の間に子が生まれれば、同盟の絆はより長いものとなる――わしは太郎に、今川義元の妹を嫁として取らせることを考えておる」

 

 な、なん、なんだってええええ!?

 

 太郎が素すっ頓狂な悲鳴を上げ、その隣で「うまーうまー」と笑顔でイナゴをかじっていた飯富兵部が「げほげほげほ」と咳せき込んだ。

 

「おおおおお俺に、よよよよ嫁ッ!? 今川義元の妹? 誰なんだよ、会ったこともねーよっ!?」

 

「ちょ。大殿。待って。待ちなよ! 太郎はまだガキだぜ! よよよ嫁なんてこここの野郎にはじゅうじゅう十年早いって!」

 

「あーあー。太郎も兵部も真っ赤になって慌てちゃって、かわいいよねえ。えへ、えへへへ。初々しいネ」

 

「孫六、てめーはなにをへらへら笑ってんだッ?」

 

 太郎と飯富虎昌は幼なじみ。そして彼女は、太郎のお守り役だった。実の姉と弟のような関係である――そのはずだった。だがにわかに「太郎の縁談」が持ち上がったことによって、二人は激しく動揺した。

 

 しかし朴念仁の信虎は、まったくお構いなしだった。太郎は武田家の長男。飯富は家臣にすぎない。主君と家臣との間に色も恋も祝言もない――それが、「武田の血」をなによりも最重視する信虎にとっての常識であったからだ。

 

「すでに太原雪斎どのとも話し合って、縁談を進めておる。雪斎どのは小豆坂の合戦で尾張の織田信秀に大勝し、三河の松平家を従属させ、三河の世継ぎ・松平竹千代を織田から奪い返した。今川はすでに駿河・遠江・三河の三国を支配する東海一の大大名じゃ。あとは仇敵の尾張を蹴散らせば、上洛軍を興すことができる――」

 

 雪斎と義元はかつて、京の都で風流な暮らしに興じていた。雪斎は高名な学僧であり、雪斎に養育されていた義元は姫武将になる予定はなく、本来は華やかな今川家の姫として都で優雅に生涯を過ごすはずだった。二人とも、上洛して都に「帰りたい」という思いが強い。

 

 くわえて、都の足利将軍家は見る影もなく衰微し、細川・三好といった畿内を掌握する家臣たちが専横を極め、将軍などは彼らの権力争いの駒のようなものとなっている。今こそ、歴とした足利家の分家である「今川」が都に凱旋して足利を補佐し幕府を立て直してくれるはずだ――将軍家とその家臣たちはだから、今川義元を、いやむしろ太原雪斎の上洛を今か今かと待ち焦がれていたのだった。

 

「わしはどうにも、晴信の方針が理解できぬ。目先の信濃を手に入れたいがために北条・今川の仲を斡旋などしたため、本来の敵を利してばかりじゃ」

 

 北条氏康は河越夜戦で関東管領を破り、関東の覇者となった。

 

 今川義元は三河を併呑し尾張の織田信秀を破って、海道一の弓取りと称されるようになった。

 

 しかし肝心の晴信は上田原で村上義清に大敗し、ようやく中信濃の小笠原を駆逐したとはいえ、いまだ信濃平定を成し遂げてすらいない――。

 

 

 

 

 

 

 

「だからって、俺が今川義元の妹と祝言をあげなきゃならねえのかよ、親父どの?」

 

「わしは別に、晴信に今川家から婿をあてがってもいいのだぞ。しかし何度も縁談から逃げ回ってきたあの愚か者が素直に承知するはずもあるまい」

 

「まままま参ったなあ。たたた太郎に、よよよ嫁ねえ。ふ、ふうう~ん。めめめ目出度い話じゃないさね? いいいいイナゴ食うかい、大殿?」

 

「だから、要らん」

 

 さすがにイナゴばかりは飽きたヨ。なにかおつまみはないのかねえ、と孫六が苦笑していると。

 

「え、へへ。粗茶です~。三河の八丁みそをつまみにどうぞ~」

 

 南蛮渡来の妙な「眼鏡」をかけた幼い娘が、そっと室内に入ってきて、這いつくばるように信虎たち武田家の面々に一礼した。

 

「おっ。薄幸そうだがなかなかかわいい子供じゃねーか。ってまさかおい。親父どの?」

 

「おいおい大殿! ダメだぞ、この子はまだガキんちょすぎる! なんか怯えてるし!」

 

「勘違いするではない。この娘は、三河松平家の当主・竹千代よ。哀れにも子供攫いにあい、織田家に売り払われて織田のうつけ娘に『狸』として飼われておったところを、松平を従属させた今川家が取り戻したのじゃ」

 

「はい~。わたくしは、たぬき……いえ、違いました。竹千代と申します。今川家のご恩は、生涯忘れません~」

 

「こんなにちっちゃいのに、当主だって? お父さんはどうした?」

 

「はい。それが、祖父も父上も、若くして暗殺されちゃいました~」

 

 松平広忠は先の小豆坂の合戦のすぐ後に暗殺されている。

 

 この歳ですげえ経歴だな。なんという七難八苦な幼女なんだ。それなのに笑顔を浮かべて……うっ、けなげな……がんばれよお嬢ちゃん、と太郎はもらい泣きしながら竹千代の頭をぽんぽんと叩たたいた。

 

「がんばります~。でも織田家から買い戻していただく際に、今川家から大借金したのです~。一生働いても、たぶん返せません~」

 

「なんてこった。太原雪斎の野郎も、案外と鬼畜だな!」

 

 虎昌が、猫のように丸まっている竹千代の背中をばしっと叩いた。

 

「なんだよ。服も髪も緑色がかってるせいか、よわっちそうだな。おい竹! 姫武将になるんなら、赤だ。赤備えがいいぜ。身体が細くてひ弱い女ってのは戦場では野郎どもに舐められるからな、血湧き肉躍る真っ赤な鎧で軍装を統一して男武者どもをびびらせてやるんだ! いいな。わかったらイナゴを食え!」

 

「……え、えへへ……こここの美人のお姉さん、目つきが怖くておしっこ漏らしそうです……」

 

「おっよく見抜いた。兵部にはいまだに、婿のなり手がいねえからな!」

 

「なんだと太郎! てめーこそいい歳して相変わらずの糞ガキのくせして……あ……いや、祝言話が進んでいるんだっけ……」

 

「……あ、ああ……まあ、そうだな……」

 

 太郎と飯富兵部はお互いの顔をちらりと見やると、沈黙してしまった。

 

 幼い竹千代には、まだよくわからない。

 

 

 

 

 

「ああ、そうだ父上。禰々の様子はどうさね。文は来てるんだろう?」

 

 話を変えるように孫六が問いかける。

 

「む、ああ、禰々は元気にしておるようじゃ。わしから言わせれば北条なんぞに送り出すなど身の毛もよだつ話じゃがな」

 

「そうは言ってもそうしなきゃ諏訪頼重を殺さなきゃいけなくなってたし、苦渋の決断なんだよ」 

 

「そうだぜ親父どの。これでも結構苦労したんだ」

 

「だから!そもそも晴信めが諏訪を攻めなければあんな事にはならんかっただろうに!」

 

「ふーむ父上の北条嫌いにも困ったものだネ」

 

「そんなら大殿、一度北条に、河越に行ってみたら良いんじゃねぇの」

 

「なんじゃと」

 

「一度その目で北条の様子を見て来れば考えも変わるってものさ!案外、同盟者にしておいた方が得だと思えるかもな」

 

 虎昌の提案に信虎は意外にも激昂するでもなく考え込み始める。

 

「悪くないかもしれんな。そうすれば北条の内情も見られるだろうし」

 

「そういや、北条領内に実際に入ったことは無かったな」

 

 太郎が思い出したように言う。思い返してみれば、武田家の誰も小田原や河越などの北条家の領内に行ったことは無かった。唯一あるのは禰々と諏訪頼重のみだが、その報告は来ていない。

 

「娘に会うという口実なら入れてくれるやもしれんな」

 

「氏康のところを通過できれば後は大丈夫サ。河越城主には次郎姉上がツテがある。紹介状を書いてもらえるように頼んでみるよ」

 

 こうして武田陸奥守信虎の河越行きが決定する事となるのだった。

 

 

 

 

 

 柱石が逝き、代替わりが進んで一気に若返った武田家に、新しい波が立とうとしていた。それはまださざ波のような小さなものだったが、「われ関せず」と常に絵師としての立場でものごとを眺めている孫六の心眼には、いずれ津波のように荒れ狂う波のようにも見えていた――。

 

「越後では、国内初の姫大名の出現によって目の色を変えた男どもが主君を奪い合っての大喧嘩をはじめているとか。そういう色恋沙汰ざたはわが武田家には無縁と思っていたけれど、国こそ違えども人の心は同じ。これは案外、大荒れに荒れるかもねえ」

 

 だが、その春の波が晴信をどこへ連れて行こうとしているのか――そこまでは彼女にはわからなかった。




次回はお待ちかね、長尾編です。


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第46話 雪色の子 越


【挿絵表示】


越後と佐渡の郡分け図です。参考までに。

アンケートありがとうございました。4割の方が作者の好きにしろと仰って下さったので、そうします。色々悩んだのですが、本猫寺の面々を削るのも勿体なかったので、原作のそのまま行きます。


 時系列はかなり昔、それこそ氏康と兼音が出会う何年も前に遡る。まだ氏綱や信虎が現役であった時代。北国・越後ではまさに騒乱の時代であった。

 

 この国は豊富な海の幸と港での交易により得られる富に恵まれた大国で、かつ南北に長い。それゆえに越後では各地方の豪族国人が強い独立性を持ち、統一はままならなかった。

 

 この国の守護職は上杉家の一族が勤めてきた。戦国期の東国には関東の支配者「関東管領・上杉家」と越後国主「越後上杉家」が存在するが、この両家は同族なのである。ちなみに、越後は鎌倉府(鎌倉公方)の管轄下にはない。関東の大地とは険しい山脈で分けられており、僅かな峠のみがその出入り口であった。

 

 この越後守護・上杉家のもとで守護代を勤めてきた一族が、長尾家。現在の守護代は、南越後の春日山城を本拠としている府中(春日山)長尾家の長尾為景だった。

 

 

 長尾氏は桓武平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族である。鎌倉氏自体が、相模の古代豪族の末流だとする説も有力だが、長尾氏が鎌倉氏一門の古い一族であることは確かである。坂東八平氏のひとつに数えられる。

 

 関東には上野の白井を本拠地にする白井長尾、同じく総社を本拠地にする総社長尾がいる。白井長尾家は、景仲とその子景信のとき、上野守護代、武蔵守護代、山内上杉家家宰職を兼ねて重きをなしたが、景信の死後、家宰職を総社長尾氏に奪われた景信の子長尾景春が山内上杉家に反乱を起こした。 この乱で景春は太田道灌に攻められ鉢形城を失い、続く長享の乱では白井城を失うが、永正の乱では越後の長尾為景、相模の北条早雲と連携し勢力を盛り返す。その後も白井長尾家は、上野国で勢力を保持し、山内上杉氏に対抗し続けた。

 

 総社長尾家は、白井長尾家に代わって長尾忠景が家宰となったが、忠景の孫・顕方の代に家宰職を足利長尾氏に奪われてしまう。その後、庶流の高津長尾家が総社長尾家の家督を奪ってこれを継承するが、同家は後北条氏に通じ、白井長尾氏、越後長尾氏に続いて山内上杉傘下から離脱するが、山内上杉方に残った長野氏の攻勢に押されるようになり、白井長尾氏・景春の孫の長尾景誠が暗殺されると、長野業正の影響下の元、白井・総社の両長尾氏は山内上杉傘下に復帰した。

 

 そして越後には府中長尾がおり、これが越後の守護代に任じられている。高景以来、代々越後守護上杉氏を補佐する立場にあったが、応永の乱などでしばしば対立し、ついに長尾為景のときに上杉定実を擁立して謀反を起こす。守護上杉房能を廃して下克上を果たした。為景は房能の実兄である関東管領上杉顕定が越後に攻め寄せるとこれを戦死させたが、一族の上田長尾家を含む越後の国人たちと激しく対立した。

 

 分家に上田長尾、古志長尾がある。

 

 

 

 長尾為景はすでに六十を過ぎた老将だが、同時代の東国を生きたもう一人の奸雄・甲斐の武田信虎を老成させたような怪物じみた荒武者で、これまで越後の覇者を目指して戦いに次ぐ戦いの日々を過ごしてきた。

 

 越後も関東も、関東公方の足利家や関東管領の上杉家が分裂して互いに争うことで衰え、乱れに乱れていた。そんな中で、越後守護と関東管領が長尾為景との戦に敗れて次々と討ち死したのだから、「下克上」もここにきわまり、東国はいよいよ末世のごとく混乱した。

 

 だが、為景は常に馬上で傲然としていた。

 

「戦国の世は、力がすべてよ。俺に逆らうやつは、たとえ管領だろうが守護だろうが叩き潰す!戦とは互いに命を懸けた真剣勝負、負ければ死あるのみよ!」

 

 と叫びながら。為景の戦は、勝ったあとの追撃戦が厳しく、残虐そのものだった。敗走する敵兵たちを蹂躙し、奪い尽くし、殺し尽くすことこそが為景にとっての「勝利」。戦争そのものだった。

 

 敵将が自分の主君であろうが問答無用に追いかけて討ち取り、その首を本城である春日山城の門の前に晒した。為景の父・能景は、隣国・越中で新興宗教本猫寺の門徒と豪族国人たちが起こした一揆を鎮圧しようとして出兵し、一揆衆の罠にかかって死んだ。その恨みもあってのことである。

 

 長尾為景は凶悪とはいえ常に「戦で雌雄を決する」という武士としての矜持を持っており、常に堂々と会戦し、時にはおおいに敗れて佐渡などへ逃げ、敗北しても決してあきらめず蘇り、逆襲の機会を掴み取るや否や問答無用で主君の首を奪うその覇王ぶりには一種の凄惨な覚悟のようなものが感じられ、意外にも「暴虐の徒め」と罵る者は少なかった――。

 

 悪の魅力のようなものがこの異常な老将にはあった。

 

 とはいえ、このように主殺しを繰り返す驍将が、元来ばらばらの越後衆をまとめられるはずもなく、あちらを討てばこちらが反旗を翻すといった具合で、越後の戦乱はいっこうに終わらなかった。もともと越後人は独立の気概が強く、「統一された越後」というものを考える人間はほとんど存在していなかった。

 

 武将は男の仕事と定められているところも、当時の日ノ本では珍しい部類といえる。それぞれが一匹狼として生きる覚悟を背負った独立の気概と、「戦は男の世界、女は無用」という一種凄惨なまでの美学とが、越後人の性質だといえる。

 

 

 

 この越後人の性質をつきつめて濃縮して生まれ出てきた男が、大勝利と大敗北を繰り返す主殺しの驍将・長尾為景だった。越後の完全制覇をもくろむ長尾為景は、自ら殺して空位になった越後守護と関東管領の座にそれぞれ上杉家の血をひくお飾りの代役を充てたが、上杉家復興を唱えて為景に反乱を起こす者は絶えず、忠誠心というものが生来薄い越後の豪族たちは叛服常ない。

 

 

 兼音はこの男を反英雄と思っている。英雄らしからぬ所業も多いが、その生き様は他人を引き付ける何かを持っている。そう考えていた。なにより、彼はおそらく英雄と称えられるのを嫌いそうだと感じていたのである。実際にそういうところはあるので、彼の人物評はなかなか精度の高いところがあると言える。

 

 

 

 

 さて、この多数の豪族の中でも、もっとも厄介な存在が、宇佐美定満という豪族だった。

 

 長身。常に総髪。かぶいた異相。日頃は琵琶島のほとりで船を浮かべ、美女たちを侍らせて釣りに興じている遊び人の青年なのだが、力こそが頼みと信じている素朴な荒武者が多い越後にあって、学識のある宇佐美定満は「義」という観念にこだわっていた。

 

「長尾為景は強いが、あれは獣だ。あいつの頭の中には、正義ってもんがねえ。考えもなくただ戦って守護を殺し関東管領を殺し、東国をめちゃくちゃにしやがった。それでも乱れた世を立て直して収拾をつけるならいいが、あいつは腕自慢の連中と戦を繰り返すことじたいが目的だ、収拾なんぞつける気がねえ。オレは面倒な戦は嫌いだが、捨てておけねえよ」

 

 とこの男なりに義憤を感じ、「面倒臭い」とぼやきながら反為景勢力を結集し、長尾為景と何度も戦ってきた。宇佐美定満は軍学に長けている。ひたすら突撃あるのみの為景を大がかりな策にかけて敗走させ、あと少しというところまで追い詰めたこともある。

 

 しかしながら宇佐美家は、守護代になれる家柄ではない。宇佐美定満が為景を討ち取って殺してしまえば、さらに越後は乱れる。たとえ為景を守護代の座から引きずり下ろしても、次に出てきた守護代もまた暴君なら同じことになる。むしろ、為景という強大な力が存在しているからこそ、かろうじて越後は崩壊の手前で踏みとどまれているとも言えた。

 

 宇佐美定満は、本来ならば琵琶島で美女と酒と釣りを満喫して遊んでいられればそれでいい男だ。それが立ち上がったのは、もともとは為景との間に存在するぬぐいがたい因縁のためだった。しかし、彼は次第に自分自身の栄達や野望のためでなく、越後の民を戦乱という不運から救済したいという、おかしな「観念」によって動くようになっていた。

 

 人の世に、失われた「義」を復興させたいと、本気で願うようになっていた。

 

 彼はあるいは幼き頃の兼音と同じような思考を持っていると言えた。一人は義を夢見て裏切られ、それを憎んだ。そしてもう一人はその夢を追い続けた。どちらが正しいとも言えぬだろう。或いはどちらも正しかった。

 

「戦はやめた。為景はもういい年だ。オレは、長尾家から次の守護代にふさわしい人間を輩出させるぜ。性根ができあがっちまっている大人はもうダメだ。利発な素質を持った幼い子供に英才教育を施すのよ」

 

 ある時、宇佐美定満はそのような深慮遠謀を抱き、為景と和睦した。

 

 為景は宇佐美の心底がわからん、と訝しんだものの、戦で宇佐美を殺すのは難しい。それに、宇佐美には妙な人望があり、蹴散らしてもすぐに味方をかき集めてきて自分に抵抗する。しかも、欲に釣られない。「義」などという得体の知れない言葉のために戦っている。

 

 かと思えば、「もう戦に疲れた」と言いだして突然すべてを放りだし、霧深い野尻湖に浮かぶ琵琶島にこもって釣りに狂うこともある。

 

 越後には根付いていないはずの、姫武将、などというものも育てているらしい。家臣にそのことを非難されると、宇佐美家は人材難だからだ、とへらへら笑っているという。なんとも不気味で、理解不能だった。為景がもっとも嫌悪している男だった。

 

 そしてそれゆえに為景は、和睦に応じた。

 

 

 

 

 

 そんな中、春日山長尾家の分家にあたる上田長尾家の嫡男・長尾政景という少年武将が、合戦でめきめきと軍功を重ねながら、老いた為景の次の守護代の座を狙いはじめていた。

 

「分家とはいえ、俺にも長尾家の血が流れている。宇佐美定満がどうあがいてもしょせん下郎の血筋の者。あいつは守護代にはなれんが、俺にはその資格がある!」

 

 戦国時代の人間の命は短い。人間五十年である。六十を過ぎてなお現役の武将として西へ東へ兵を出し続けている長尾為景はある種の異常人だが、さしもの驍将・為景も寄る年波には勝てないはずだ。

 

 それに対して、上田の長尾政景は父・房長から家督を継いだばかりで、圧倒的に若い。年の差こそあれ、為景と政景は、似たような性質の人間だった。戦場においては無類の無鉄砲さを誇り、どれほどの乱戦になろうとも死なない強運の持ち主で、勝利を確信するとともにけたたましい笑い声を発しながら逃げる兵たちを斬って斬って斬っていく、そんな残忍な武将だった。

 

 その意味で、政景はまるで、為景の実の孫のようだった。外見もよく似ている。全身から野心の炎を燃え上がらせるかのような、筋肉質の肉体。肉食獣を思わせる、太く黒い眉。名門の男武者らしく整った顔立ちとはうらはらに、敵を食い殺さんばかり

の鋭い眼光。悪鬼の如しである。

 

 

 

 兼音に彼について聞けば、湖で溺れたという事になっている人と言う情報と景勝の父親と言う情報が貰えるだろう。彼について兼音は個別の評価をそこまでしていないが、粛清されたと考えている。当時の上田衆はある種の差別用語であり、裏切り者の一族と言う事で景勝の代になるまで白い目で見られていた。その為、このように兼音は考えていたのである。

 

 ちなみに氏康の苦手なタイプの男はこういう感じの男である。そしてこの手の人物は大体人の話を聞かないので、兼音の苦手とするタイプの人間でもある。相性は基本最悪である。なお、為景はまだ一応人の話を聞きはするためギリギリの相性だろうか。

 

 

 

 

 

 さて、皮肉なもので、為景の嫡男・長尾晴景は、為景にはまったく似ても似つかない惰弱な貴公子で、すでに六十を過ぎた父親に引退を勧めることもなく、春日山城の館で歌や女遊びにうつつを抜かしている。暗君の代表みたいな奴だった。

 

 当然、自分の武勇を誇りあらぶっている若い野心家の政景は憤っていた。自分はいつも最前線に駆り出され、為景に勝利を与えているというのに、その為景の息子の晴景はといえば館にひきこもっているのだから。まぁこれに関して政景に理が無い訳でもなかった。為景と政景は、後継者の件を巡って何度も衝突を繰り返してきたが、ある戦の折、ついに軍議の席で衝突した。

 

「ジジイ!晴景のようなうらなりに越後の守護代がつとまるか!同じ長尾家の人間でありながら、晴景ごときが守護代の座を継ぐのは我慢できんな。あんたの次は、武勇に優れたこの俺が!越後守護代になるべきだ!」

 

 と若い政景が野望を剥き出しにすれば、為景も、

 

「若造めが長尾家は、この俺が大きくしてきたのだ!俺はな、越後一国を奪い尽くすために、守護も関東管領も討ち果たしたのだぞ。貴様のような小僧にその度胸があるか、主を殺す覚悟が?当然、越後は俺の国だ。守護代の座は、この俺の息子に継がせる!」

 

 と譲らない。

 

「ほざいたな!だが、時はあんたに味方しない。俺のほうがあんたよりもずっと長く生きるからな。いずれあんたは老いる。越後最強の男はこの長尾政景だ!」

 

「こざかしい小僧めが。ならば、俺は百までも生きてやろう」

 

「後悔するなよ!俺は、受けた屈辱は必ず晴らすぞ。たとえ何年かかってもだ!」

 

「どうだ政景。戦で、俺を殺せるか。俺を殺せたとして、分家の小僧に、越後の豪族どもが従うと思うか?従うわけはあるまい」

 

「あんたを殺してみなければわかるまい。望むところだ、戦で決着をつけようじゃないか!」

 

 両雄、並び立たず。同じ長尾家の人間である政景と為景とが、戦場で激突することとなった。幾度かの合戦があった。

 

「これじゃオレが為景と和を結んでやった意味がねえ」と愚痴りながら両者を調停しようと奔走した宇佐美定満は、ひとたび激怒して火がついた両者の心を鎮めるのに苦心した。宇佐美は時には政景についたり為景に味方したりしつつ、「長尾家の両雄が共倒れして越後が崩壊する」という最悪の破局だけは防ごうと駆け回り、ようやく両者を和睦させることに成功した。

 

 が、その和睦もいつまた破れるかわからない不安定なものであった。

 

 為景と政景。二人が実の親子であったら、あるいは為景が武勇に長けた政景を自分の養子にして越後守護代を継がせるつもりになったら、越後は為景の代で統一されていたかもしれない。しかし、為景は若い頃は己の血というもの、家族や子供というものに無頓着だったが、六十を過ぎてにわかに子供に執着を感じるようになっていた。

 

 為景には綾という幼い娘がいて、これが晴景よりかなりできがいい子供だった。しかし、綾が優秀であろうが晴景がいくら惰弱であろうが女子に家督を継がせる習慣がない越後では、綾に家督を継がせるわけにはいかなかったのだ。そんな、殺伐とした越後に、ひとつの異変が起きた。

 

 

 

 

 

 

 

 為景の妻・虎御前が懐妊したのだ。

 

 虎御前はその勝ち気な性格から「虎」と名付けられた長尾一族の娘だが、越後には姫武将というものは存在しておらず、そのような風習もなかったため、先妻を病で失った為景に嫁いでいた。為景も、孫ほど幼いこの新妻を「女にしておくには惜しい勇敢さよ」と気に入っていたが、まさか子供ができるとは想像もしていなかったらしい。

 

 ある日。

 

 妻を見舞うため、春日山の中腹にある虎御前の館を目指して尾根づたいの険しい道を徒歩で登っていた為景は、奇妙なことに気づいた。兎や熊、鳥、犬や猫のたぐい――数えきれぬほどの動物が、緑に包まれた虎御前の館の周辺に集まっているのだ。

 

 熊などがおとなしく他の動物とともに館を護るかのように侍っているのは、おかしい。地震の前触れかなにかだろうかと為景は妖しんだが、館に害をなそうという気配もなかったし、獣如きなにほどのことがあろうと思い、そのまま捨て置いて館に入った。

 

 聖者の誕生の時、このような現象が時々起こったと歴史は報告している。あるいは賢人、偉大な王の誕生の際にも似たような瑞兆があると言う。それが果たして真実なのか、それは分からない。所詮歴史とは作られたものでしかない。全知全能であり、全ての真実を記している訳ではない。真実と歴史はニアリーイコールなのである。

 

 ただ、この時においてはまごう事無き事実であった。

 

「おかえりなさい、御館さま」

 

 身重になった虎御前が、為景を出迎えた。越後には姫武将の習慣がないだけに、戦とまつりごとに関してはすべて夫が取り仕切るが、内々のことは妻に任せきりとなる。血生臭い春日山城の中で、虎御前の館だけは、極楽浄土のような静寂さに満ちていた。

 

 為景は「子ができたとは、まことか」と何度も念を押した。

 

 虎御前はすでに大きくなった腹を撫なでながら、「本当よ」と微笑んでいる。母になることが嬉しくてたまらないらしく、笑顔を絶やさない。

 

「俺はもう六十の半ばだ。未だに精力絶倫とはいえ、度重なる戦でいつも忙しく、お前と夜をともにした日数は片手で足りるほどしかない。どうにも信じがたい」

 

「あたしも意外な思いだけれど、本当なの」

 

 為景は、男女の情というものの機微がよくわからない。いい女は抱く、醜女には身の回りの雑用をやらせる、その程度の荒々しい感覚だけで生きてきた。この時代なんてそんなものである。だが、この年になって新妻として迎えた虎御前は別である。老いた為景にとっては孫のようなものだったし、すでに女体への欲望も枯れている。だから虎御前をなるべく生々しい「女」としては扱わずに、彼としては珍しく丁重に扱ってきたつもりだった。

 

 それが……。

 

 まさか、誰か若い男と内通したのではないか、と為景は疑った。それだけ虎御前に愛情のようなものを覚えているのだが、戦いに明け暮れてきた為景にはそんな自分の気持ちの揺れがわからない。ある種の不器用さであった。

 

「この子を身ごもった夜に、夢を見たの」

 

「夢、だと?」

 

「そう。天界から降り立ってきた軍神・毘沙門天が、あたしのお腹の中に入ってくる、そんな不思議な夢を」

 

 虎御前の瞳が、まぶしく輝いている。為景は、なにか見てはならぬ神聖な輝きを、そこに見た。信仰心などかけらもない為景が、つい躊躇ってしまうかのような、そんな輝きを。

 

 まだ娘だと思っていたが、虎も母親になったということか。新しき命を与え、子を産む。これだけは男には、どうしても乗り越えられぬ壁よ。男の仕事は、戦い、殺し、奪い取ることだからな――

 

 それにしても、毘沙門天が腹に入ったとは、なにごとだろう。彼はそう思った。

 

「仏典では、天竺で釈迦が生誕する時、母親は神が自分の腹に入ってくる夢を見たという。お前は、それほど信仰心が篤あつかったか?」

 

「いいえ。仏道にはあまり興味はないわ。でもあたし、本当にそういう夢を見たの」

 

 奇しくも世界で多くの人々に信仰されるキリスト教にも似たような話がある。もっともあちらは処女受胎であるが。アイヌや中国、エジプトにも同様の伝承がある。…世界の宗教とは考える事の根っこは似ているのかもしれない。日本でも聖徳太子の母、間人皇女は救世観音が胎内に入り、皇子を身籠もったとの伝説がある。

 

 

 

 

 

「では、そやつが毘沙門天だとなぜわかったのか?」

 

「そう名乗ったからよ。あたしにはわかる。この子は、毘沙門天から大いなる力を与えられた特別な存在だということが。どうしてあたしのもとに来てくれたのかまでは、わからないけれど……きっと、この子は日ノ本に後世まで語り継がれるような、偉大な人になるわ」

 

「殺生に殺生を重ねてきた俺の子が、か?」

 

 為景は、己が悪であることを自覚している。そういう意味で、彼は決して愚者ではなかった。戦国乱世においては、主筋であろうとも無力な者は討ち滅ぼさねば自分自身が生き残れない、いわば「弱肉強食」の掟こそ乱世の定めなのだ、という覚悟を背負っている。地獄というものがあれば、自分は死後間違いなく地獄に落ちるだろうとも。

 

 そのような俺の子が、釈迦のような偉大な人間として生まれてくるものだろうか?

 

「フン。そんな甘い話が、あるはずはない……女子供の戯れ言よ」

 

「いいえ、本当よ。春日山中から生き物たちが集まって、この館を護ってくれているでしょう」

 

「たしかに、獣どもが館の周りに群がってはいたが」

 

「この子がこの世に生まれてくることを、山に生きる全ての生き物が祝福しているのよ」

 

「なにを言いだす。畜生に御仏の偉大さなど理解できるか!」

 

「そうじゃないの。人間も動物も同じ生き物だもの。この子が何者なのか、山の生き物たちは知っているんだわ」

 

「親の贔屓目も、そこまで来るとなにも言えんな」

 

 毘沙門天は、都の北方を守護すると言われている、軍神。自ら甲冑を着込んで鉾を取り仏悪と戦う、あらぶる神である。この聖なる春日山にも毘沙門堂があり、邪鬼を踏みつけている毘沙門天の像が祀られている。

 

 その恐ろしげな姿からもわかるように毘沙門天はもともとは悪鬼だったが、仏に従いその守護者となってからは、夜叉や羅刹といった強力な鬼神どもを従えて正義のために戦う善神になったという。起源は、仏教誕生以前からインドで信仰されていた土着の神であったらしい。

 

 実は為景には仏像を彫ると言う趣味とも特技とも言えぬものがある。彼の若き頃に家臣を己の判断ミスで死なせた時から作っていた。

 

 それはともかく、毘沙門天はその「軍神」という性格から日ノ本では武家に尊ばれてきた。室町幕府を開いた足利尊氏や、その足利尊氏と戦った楠木正成もまた、この毘沙門天を信仰していた。だが虎御前はいたって現実主義的な少女で、神頼みよりも弓馬のほうを好むたちで、今までこのような神がかった迷信を熱心に語ることはなかった。

 

 母になることから来た、心境の変化というものだろうか?いずれ男子であれば、父である俺とともに戦場を血で染める宿業を背負うのだ、甘い夢など見ることはできん、女子であれば別だが――為景は、そう言いたかった。だが、生まれてきた時に言えばいいことだと思い直した。

 

 それよりも、本当に俺の子なのか、俺の子だとしてはたして健康に生まれてくるのか――俺はもう六十代半ばだ、と為景は現実に返った。

 

「父親があまりに年を重ねていると、子にも影響があるとも聞く。生まれてくる子に、なにかなければよいがな」

 

「毘沙門天の力を与えられた子だから、外見も性格も、他の子とは違うものになるかもしれないわね。釈迦だって、異相だったそうだし」

 

 本来ならば、越後の習わしでは虎御前から生まれてきた子を引き離して乳母に育てさせなければならないが、子供好きの虎御前はそう簡単に手放しそうになかった。今も、血の繋がらない為景と前妻との娘・綾を、虎御前は実の子のように手元でかわいがって育てている。

 

 俺の妻は若年ながら学識深く、また武勇にも長けている。男であれば、立派な武将になれただろう。女は家を護るのが越後の習わしだからと戦場に立たせず、この上、思いがけずもうけた実の子供まで取り上げれば、なにをやらかすかわからん。

 

 六十を過ぎてなおも四方に敵を抱えて戦っている為景にとって、家庭の問題にまで関わるのは煩わしいことだった。

 

 為景には、子を産み育てることを仕事とするはずの女が槍を取り戦場で戦う「姫武将」という奇習を、越後に持ち込むつもりはもうとうなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 雪が降り積もり一面の銀世界となっていた春日山城で、その運命の子は生まれた。

虎御前は、涙を浮かべながら、わが子を胸に抱いていた。

 

「御館さま、見て。元気な女の子よ」

 

「……みゅう、みゅうう……」

 

「怖がらないで。あなたのお父上よ」

 

 長尾為景はしかし、虎御前が抱いているその赤子の異相に、驚きしばらくは声も出なかった。

 

 な、なんだ、これは?これは人の子であるのだろうか?

 

 白い。肌は透き通るような雪の白さ。肌の下を流れる血管が透けて見えるほどに白い。硝子もかくやであった。赤子にしても、やけに大きな目。瞳の色は紅玉の如く、赤星の如く真紅。うっすらと頭頂に生えた髪も、白金色に輝いている。日ノ本の人間の子供には見えない。かといって、異国人とも違う――。まるで雪兎のような…。

 

 兼音がいればアルビノ、別名・先天性色素欠乏症であると診断しただろう。いわゆる特別変異であり、決して人間でないなどという事は無い。彼に聞けば旧約聖書のノアがアルビノであった説やアフリカにおける民間信仰の話を滔々としてくれるだろうが、この時代にこの世界にこれを理解できる人間などいない。

 

 

 

 

 

 

 

 かくして英雄となりうるべき子は産まれた。東国にいた四人の英雄の一人、長尾景虎――後の上杉謙信はこうして歴史の流れに産まれ落ちたのである。この時、残りの三人のうち武田晴信と北条氏康は既に生誕しており、それぞれの居城で幼少期を過ごしていた。最後の一人はまだ数百年後で高校生をしている。

 

 残酷なる運命と言う名の奔流は彼女を押し流す。血と怨嗟と慟哭に満ちた悲しみの地へと。その先に何が待つのか。知る由など、誰も持たないのであった。




多分上杉編は5~7話続きます。この辺はまだまだ原作のままですね。まぁ兼音はまだ来てないので、彼女が家督を相続する辺りまではあんまり史実と変化無いかも。もうしばらくお付き合い下さい。


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第47話 極東の神稚児 越


【挿絵表示】


甲斐の郡分けを作ったので、何の関係もない越後の話ですが載せます。時々こういう事はあるので、お許しを。


「これは、生きておるのか」

 

「ええ。もちろん。元気に、生きているわ」

 

「だが。なんという不吉な。身体に色がない。白子だ!」

 

 産まれた新生児を相手にとんでもない事を言う為景の目は未知のものを見る恐怖に染まっている。繰り返すが、この赤子はアルビノであり、まったくもって不吉だのなんだのと言う事は無い。しかし、この時代にそれを理解できる人間はごく一握りである。

 

「まるで化生の者ではないか。これは、長尾家の終焉を告げるものではないのか?俺が主君を次々と殺したから、ついに長尾家に神罰が……」

 

「いいえ。虎千代は、あなたの子よ。そして、祝福されている」

 

 ある意味、この時神仏の存在を為景が心から信じたのはこの時からかもしれない。老いによるものなのか、別の由縁から精神が昔より臆病になっているのか。分からないが、ともかくすでに、虎御前はこの赤子に「虎千代」という名を与えていたらしい。

 

 自分のお腹を痛めて産んだ初めての子よ、と虎御前は喜んでいた。

 

「『虎』だと? お前には見えないのかっ?こやつの目の色も肌の色も、まるで兎のようではないか! 本猫寺の教祖は代々、人でありながら猫の耳を持つ妖怪変化の類であると聞いている。こやつもまた、兎かなにかの血をひく妖怪ではないのか?つまり、俺の子ではない」

 

「あなたの子よ。言ったでしょう。この子は、軍神・毘沙門天から特別な力を与えられたのだもの。ただの人とは違うの。だから、異相を持って生まれてくるって」

 

「誰が信じるか!俺の子が化生であるはずがない!これは宇佐美定満の子ではないのか。やつは、兎の耳を前立てに飾って道化ているからな!」

 

「……虎千代を信じてあげて。誰とも異なる異相に生まれついたこの子には、誰よりも多くの愛情が必要なの」

 

 あうー、あうー、と、兎が赤子に化けたかのような異相の子が、無邪気に笑いながら為景のほうへと小さな真っ白い手を伸ばしてきた。男であれば面倒だった。殺すこともあり得たが、女ならば捨て置いても問題はなかろう。だが、この異相では婚姻同盟の駒に用いることはできん、役立たずめ、と為景は生まれてきたばかりの虎千代を罵りたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 畜生め! やはり俺が老いたためか。子種がすでに老いていたからか……という嘆きを、為景は口にできなかった。なぜならばこの虎千代との対面の儀に、息子の晴景、娘の綾、さらには激戦の果てに和睦を結び今は「家臣」として自分に仕えているがまったく油断ならない長尾政景や宇佐美定満たちをずらりと引き連れていたからだ。

 

 見せない、という訳にはいかない。死産であったとしてその辺の山野に捨てる事も考えたが、虎御前が狂乱することは目に見えていたので、為景にその選択をとることは不可能だった。

 

「……これは……父上」

 

 嫡男の晴景は、母親が違い年齢も離れたこの新しい妹にさして興味を抱いていないが、しかしその雪の精のような儚げな異相には少なからず驚いている。この反応は至極当然だった。現代でも異相ではあるのだ。為景が郎党と家臣団の手前、どう振る舞えばよいか迷っていることくらいは、晴景にも察しがつく。

 

「虎千代のことは姉の綾に任せればよいでしょう、父上」

 

「ええ。わたしに任せてください!」

 

 利発な綾はむしろ、「わたしがこの子を守ってあげなければ」と姉としての情愛のようなものに目覚めたらしく、虎御前の手から小さな虎千代を受け取って、「わたしがおねえちゃですよー」と優しくあやしはじめた。

 

「きゃっ、きゃっ」

 

「とらちゃは、かわいいですねー。兎さんの赤ちゃんみたいですー」

 

「綾は、虎千代が好きなのね。ありがとうね」

 

「はい母上さま。とてもとても、かわいい笑顔です。とらちゃ。おねちゃと母上とで、とらちゃを大切に育ててあげまちゅからね」

 

「きゃふ、きゃふう」

 

 このような一家団欒の一幕は、為景が苦手な光景であった。血と殺戮にまみれた人生を送る為景にこの光景は毒だったのだ。

 

 なんという甘ったるい……!こんな子は間引いてしまえばよいのだ。こう思った。為景はこのような席で「おうおう」とほほえむ好々爺になるには、あまにも人を殺しすぎたし、あまりにも血の気が有り余っていた。

 

「へえ。虎千代か。希有な人相の持ち主だな、うひひ」

 

 殺伐とした春日山城にもこんな清らかな空気を湛えた館があったとはなあと面白がっていた宇佐美定満が、綾に抱かれてはしゃぐ虎千代の屈託のない笑顔を眺めながら、「オレに虎千代ちゃんのおもり役をやらせてくれねえか」と言いだした。為景は、「断る」と一蹴した。

 

「遊び人の貴様に、娘を預けられるか!」

 

「おいおい。娘と言っても、生まれたばかりだぜ?」

 

 何度も合戦で殺しあってきた間柄だ。いつまた、再び敵対することになるかもしれない。いくら白子の虎千代でも、為景がその養育を宇佐美に許すはずがない。真っ当な判断である。

 

「宇佐美よ。本当に俺に仕えるというのならば、貴様は武人を育てろ!女子供に兵法書を読み聞かせて、どうなるというのだ。馬鹿馬鹿しい」

 

「為景さんよ。この子は、特別な容貌の持ち主だ。あんたが手を焼いている越中の門徒どもが教祖をありがたがるのも、教祖一族が代々持つ猫耳という異相を『神の象徴』だとありがたがっているからだぜ。なにしろ北陸は本猫寺が強い。加賀などは、守護を追い出して坊主どもが国を持っている。越後の国人たちだって、荒っぽいくせに根っこではやたらと信心深い連中さ。北陸の国々ではいくら戦で勝っても、民や国人の心までは支配できねえ。だがこの子を『神の子』として押し頂けば、あるいは越後はひとつになれるかもしれんぜ」

 

「くだらん。ただの小娘をあがめるような愚かな土民など、すりつぶしてやるばかりだ!逆らえば殺す!やつらは黙って武家に年貢を納めていればそれでいいのだッ!宇佐美よ。貴様のような弱腰では、領土は増えぬぞ!」

 

「……やれやれ。あんたには、義がないな」

 

 神権は時には大きな力となる。神の子を名乗ることは宇佐美の言うメリットが確かにあった。押し抱き崇めるのが神ないしそれに近い存在であれば、絶大な力となりやすいのがこの時代である。ある意味神が生きている最後の時代なのだ。近世とはすなわち、神を否定する時代なのである。西洋史では東ローマが滅び、絶対的権力だったローマカトリックは批判にさらされることとなる。新大陸やフランスでは革命が勃発する。

 

 越後守護代の座を狙い続けている若き驍将・長尾政景は、この間、ひたすらに無言で虎千代を凝視していた。

 

「……フン……長尾虎千代、か」

 

 雪の精のごとき姿で生まれてきた虎千代になにがしかの感慨を抱いているのか、あるいは己の野心を遂げるための利用価値を見出したのか。この時点では誰にもわからないことだったし、為景はもう虎千代などどうでもよくなっていた。娘ならばすでに綾がいるし、そもそも嫁に出せないのでは政治利用できない。

 

 だが、若い政景は逆に、虎千代をじっと観察している。綾はそんな政景を不気味に思い、腕の中にいる虎千代をさらに強く抱きしめた。きゃっきゃっ、と虎千代が手を振って笑った。為景が「この不吉について誰も口外するな。虎千代の異相について漏らせば、殺す」と脅しながら一同を解散させようとしていたその時。

 

 

 

 

 

 ずらりと、異形の集団が現れて、館へ入ってきた。年を経た、大勢の僧侶たち。まるで天狗のような赤ら顔を持つ、修験道の行者。例の、館を護るように囲んでいた山の獣も混じっている。

 

「なんだ、貴様らは」

 

「拙僧らは、叡山から来たもの」

 

「私どもは、高野山より」

 

「我らは、出羽三山から来た」

 

 出羽三山とは月山・羽黒山・湯殿山の三山を指す。霊峰であり、多くの修験道の修行者がいる。

 

「私どもはみな、春日山に輝きを見ました。偉大な王が、この春日山にお生まれになったことを知り、祝福に参りました」

 

 越後の偉大な王ならここにいる、俺だ。と為景は心中で彼らが誰の事を指しているのか察しながら、顔をひきつらせた。

 

「ああ、ああ。虎千代さま。この純白のお姿は、まさに神仏に選ばれた証」

 

「われらの目に狂いはなかった。このお方は人にして、ただの人にあらず」

 

「末法の世の衆生を救済するべくお生まれになったのです」

 

「毘沙門天に選ばれしお方。いえ、それどころか毘沙門天そのもの。毘沙門天の化身かもしれませぬ」

 

「人心が獣以下にまで落ちた乱世に、義の光を輝かせるお方」

 

 妻の虎御前がずっと以前から、この子は毘沙門天から選ばれて特別な力を与えられたと言い続けていたことを、為景は思いだしていた。あの噂が巡り巡って、とうとう「毘沙門天の化身」などと言いだす坊主たちまで現れたというのか。

 

 忌々しい。

 

 この連中は噂を聞いて、こうして物乞いに来たのだ。こんな真っ白い不気味な赤子が、救世主などであるはずがない。あの世にならともかく、この世に、神仏などいない。いれば、主殺しを二度もやってのけた俺はとっくに地獄へ落ちていなければならんではないか。

 

 為景はそうわめいて唾を吐きかけてやりたかったが、得体の知れない修験者はともかくも、叡山や高野山から来た高僧たちを悪し様にするわけにはいかない。そんな事をすれば被害を被るのは自分なのだ。

 

 訝しんでいる為景を押しのけた巨漢の青年僧兵が、虎千代を前にして叫びはじめた。

 

 

 

 

 

「それがしの名は正覚院豪盛。叡山で修行と武芸に励む僧兵にござる!ほう!これはなんともお美しいお姿。この異相は間違いなく、覚者の証し。出家なされば、釈迦牟尼や弥勒菩薩のごとき救世主となり、戦乱に苦しむ衆生を救うお方になるだろう。だが……惜しい!」

 

 なんと、女だったとは!と、正覚院豪盛が「すべては終わった」と言いたげに嘆いた。

 

「残念じゃ! 叡山は女人禁制の山、女は座主になることができんのじゃ!女人に五障あり、女人は梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏陀のいずれにもなれぬという。比丘尼の中でならば頂点を極めることはできようが、日ノ本の仏教界の頂に立つことは不可能……!」

 

 高野山は叡山ほど女人に厳しくはありませぬが同様です、格式ある古い宗派はいずれもそうです、惜しいことです、と高野山から来た高僧もつぶやいている。虎御前は「女だからというだけで、出家の道はそんなにも厳しくなるのですか」と不満げに目をいからせたが、僧侶たちは一様にうなずくばかり。

 

「左様。女人が悟りを開き救われるには、まず男にならねばなりませぬ。なぜなら女体は穢れているからです。それを仏の教えでは、『変成男子』と呼びます。これほどのお方であれば、男になるのも不可能ではありますまい」

 

「女人が女人のまま救われるという教義を持ち、それどころか女人が生き神としてあがめられる宗派といえば、新興の本猫寺くらいでしょうな。あすこは、女人が教祖をつとめている」

 

「いやいや、あすこは新興ゆえのあさましさで、なんと、世襲。仏教の根本である禁欲を否定し、教祖が家族を持ち子を作り、その子に教祖の座を継がせている。『猫の耳』の威光でな」

 

 町で暴れてる比叡山とどっこいどっこいなのだが、客観視は彼らの苦手とすることだった。

 

「宗教者でありながら婚姻し子をなし『血』を重んじるとは、まるで貴族か武家よ。あれでは、虎千代さまの入る余地はない。むしろ、兎と猫とでは……」

 

「本猫寺からは、虎千代さまは悪魔の化身と呼ばれるやもしれませぬな」

 

「なにぶん虎千代さまの祖父は、越中での合戦中に一揆勢に殺されている。そういう、悪しき因縁があるからのう」

 

 だがしかし、と出羽から来た修験者が言い放った。

 

「おう、そうだ。武家ならば、男女の区別はさほど厳しくない。この子は、越後守護代長尾家の娘である。当世流行の姫武将となれば、天下に君臨する偉大な転輪聖王となり、必ずや日ノ本の歴史に『義』をその身をもって示し遺す、そのような偉人になられよう」

 

 それはいいなと宇佐美定満がつぶやいたが、姫武将は越後にはおらぬわ、と為景が切って捨てた。

 

「いやいや為景さま。かつて天竺の王族の城にて釈迦牟尼が生まれた時、とある聖者が、この子は出家すれば衆生を救済する仏陀となり、武家を継げば世界を支配する偉大な転輪聖王となる、と預言したという。虎千代さまは衆生の魂を救う仏陀になられるか、それとも……」

 

「……姫武将となり、乱世に武威を示し戦う転輪聖王となるか」

 

「あるいは、釈迦牟尼とは異なる道を歩まれるのかもしれぬ。このお方はそのために、敢えて女人として生まれてこられたのかも……」

 

「しかし惜しい。なぜ女に。まことに、もったいない話じゃ!」

 

「いや豪盛。今の乱世は、言葉と教えだけでは終わらぬ。末法の果ての世よ。自ら武器を取って義のために戦う軍神こそが、人々から求められているのかもしれぬ」

 

 ええい、貴様らはもう出て行け、と為景が怒鳴り散らした。

 

「やくたいもない、くだらん会話を俺の前で続けるなッ!この世に、神も仏もいないのだッ! 越後の王は釈迦でも転輪聖王でも毘沙門天でもない、この俺だ! 白いガキがそれほど珍しいならば、好きなだけ山を探せ!」

 

 自分を無視して虎千代を褒め称え、あるいは「なぜ女に」と惜しがる彼らの態度が、自尊心が強すぎる為景には耐えられなかったのだろう。ことに、「姫武将となれば偉大な王になる」という預言が、気に入らな

かった。越後では、戦は男の仕事と決まっている。こんな、本当に俺の子かどうかもわからない生まれぞこないの娘が、なぜ俺よりも偉大な王になれるのだ、これだから坊主どもは役に立たぬのだ、と罵倒したかった。

 

 嫡男の晴景も、嫡子の僕を無視して、なぜ虎千代だけが偉い坊主たちにちやほやされるのか。真っ白いからか、とつまらなさそうにしている。綾はなおも虎千代を見つめている政景の視線から避けるように、「とらちゃ。お風呂に入れてあげまちゅからね」と虎千代を抱いて裏庭へ駆けていった。利発な虎御前は、「出家するか姫武将となるかは虎千代自身が決めることよ。御館さま。無理強いはよしてね」と為景にすかさず釘を刺してきた。虎千代の人生がとほうもなく前途多難なものになることを、虎御前はよく知っている。

 

 なにしろ、真っ白い姿を持って、現世に生まれてきたのだ。そして虎千代の父親は悪逆の限りを尽くす武人・長尾為景。あたしはたとえ刺し違えてでも虎千代を守る、と虎御前は死を覚悟していた。

 

 為景は、そんな幼い妻の燃えるような目に、自分に憎悪の視線を送ってくる越中の門徒たちの目を重ねて思いだし、これだから狂信者は厄介なのだと忌々しげに舌打ちしていた。

 

「なあ、虎御前よ。生まれた子があのような子で、さぞかし驚き恐ろしかっただろうな。安心せい、間引きはせぬ。あれは、綾とそなたに育てさせる」

 

 だが、絶対に姫武将にはせぬ、力こそすべての越後に軟弱な姫武将などは不要よ、と付け加えた。

 

 

 

 

 

 

 遥か数百年前、西方のある地に一人の男児が産まれた。その男児は神の子であり、その生誕を東方より来た三人の博士が祝福した。奇しくもこの状況はよく似ている。今回の場合、三博士の予言を聞いて自らの地位を脅かされるのを恐れたヘロデ王は為景なのだろうか。

 

 三人の博士は男児にそれぞれ贈り物をした。一つは黄金。王権の象徴。乳香。神性の象徴。没薬。将来の受難である死の象徴。これをヒエロニムスは、これを捧げられた男児、すなわちイエス・キリストが王であり、神であり、さらに人間として死すべきものであることを示していると解釈した。

 

 王として生き、神として崇められども、最後は人として死ぬ。この運命はキリストのみでなく、極東の雪深い国に産まれた小さな白い女の子の未来も示しているようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 春日山を下りる途中。

 

 宇佐美定満は、「なぜ女なのだ」とまだ悩んでいる正覚院豪盛の尻を蹴り上げながら、笑っていた。

 

「おい坊主。叡山ももう時代遅れだな。一休宗純いわく、『女をば法の御蔵と云いうぞ実に、釈迦もだるまもひょいひょいと生む』、って言うじゃねえか」

 

 ちなみにだが、この思想は兼音に近い。彼は現代の日本人らしく無宗教であり、正月は寺に行き、神社に詣り、クリスマスをするし、道教やらケルトやらの文化を受容していた。女性を遠ざける=修業は否定しないものの、女性=穢れの思想は否定するだろう。「誰から産まれてきたんですかね」と言われる。もっとも宗教権威の否定は厄介なので滅多に言わないだろうが。

 

「ぶ、無礼な。このかぶき者が!」

 

「ほう。なにが無礼だ。あんたら、毎晩お稚児さんのケツを掘ってるんだろう?人の肌を求めねえ人間など、いるわけねえ。女を断つから稚児なんぞ必要になるのよ。無理すんなよ」

 

「だ、黙れッ!わしにはそのような汚れた稚児趣味などないっ!」

 

「じゃあ、身体のほてりをどうやって発散するんだい。その巨体じゃ毎晩力が有り余ってたまらんだろう」

 

「武芸だっ!きええええええっ!」

 

「いや、そこは修行して悟れよ? お前さん、坊主だろ?」

 

「身体を動かさねば目が冴えて眠れん!伝教大師・最澄さま以来、我ら天台の僧は叡山にこもって童貞を守り数百年! 女人へのあさましき欲をすべて武の道に注ぎ込み続けている叡山は!日ノ本最強の僧兵軍団であるっ!」

 

 いろいろこじらせてるな、こいつは、と宇佐美定満は思った。禁欲を美徳とする昔ながらの宗教ってのは厄介だ、普通に考えりゃすぐわかるが禁欲ってのはたいていの人間にとっては無理がある、だからこそ当世

流行りの衆生仏教ってやつは親鸞以来女も酒も妻帯もなんでもありだってのによ、まあそれはそれで俗世と容易に結びつき、すぐに武器を持って集まって一揆をやるから面倒なわけだが、さて――。

 

 猫と兎とでは合わないってぇのは本猫寺の門徒じゃねえ俺には理解しがたい話だが、だとすれば俺が想像していたよりも虎千代は苦労することになるな。雪深い北陸の民はえらく信仰心が強い。昔から本猫寺の門徒だらけで、容易には武家にまつろわねえ。為景のように武力一辺倒では、どうやったって治められねえ

 

 それに、女は叡山の頂点に立てねえってのなら虎千代をあまりこいつら宗教者に近づけてかぶれさせないほうがいい。あの出羽から来た修験者が言っていたように、いっそあの子を神の異相を武器とするまばゆいまでの「姫武将」に育てよう、と定満は決めた。

 

 そうだよ。そもそも釈迦が出家なんぞせずに素直に転輪聖王になっていりゃあ、今頃乱世なんぞなかったかもしれねえじゃねえかよ。戦ってやつは腹が減るし人が死ぬし面倒だが、義人といえど戦わなければ人に義を知らしめることもできない、誰が誰を殺すかもしれねえ今の乱世じゃあ、と定満は苦笑した。

 

 しょせん人間は言葉では悟れねえ、行動で示すことしかできない、と現実主義者の定満は思っている。

 

 ただ、虎千代を見てからなかなか口を開こうとしない野心家・長尾政景の態度だけが、宇佐美定満にもどうも不気味だった。政景は武勇抜群の豪傑だが、まだガキだ。戦に夢中で、女も知らないらしいしな。妙なことにならなければいいんだが……

 

 不気味な予感に宇佐美は肩をすくめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 雪どけの季節が、春日山城に何度か巡ってきて――。純白の娘・虎千代は、現代で言えば幼稚園児ほどの年齢まで育った。母の虎御前と、年が近い姉の綾とに愛されて、幼少期を過ごしたといえる。

 

 ただ、父の長尾為景は、相変わらず合戦に明け暮れてほとんど館には顔を出さなかった。うかつに虎千代に深入りするのを避けていたようだった。虎御前と綾に噛みつかれるのが面倒だったのだろう。なので、虎千代は、為景にはなつかなかった。また、嫡男で兄の晴景とも、疎遠だった。晴景は恐ろしい父である為景の合戦につきあわされる一方、兵が田畑に戻った季節には趣味の風流道楽のほうで忙しく、真っ白い妹にかまっている暇がなかった。

 

 虎千代は生まれつき身体が小さく、なかなか大きくならなかったが、さらには身体そのものが弱かった――というよりも、日光に弱かった。肌や瞳に、色がないためだろう。まぶしい日光を恐れたし、雪が積もった山を歩くことも恐れた。虎千代は目があまりよくなく、ことに光が苦手なのだ。

 

「ちゅっ? まぶしくて、みえないでちゅ」

 

「とらちゃ? とらちゃ、だいじょうぶ?」

 

 綾が白銀の山に散歩に連れ出すと、虎千代はいつも目を小さな手で覆って、その場にうずくまってしまった。一面に降り積もった雪が照り返してくる光がまぶしくて前が見えなくなり、こけてしまう。雪の中を歩いているうちに、白い肌が赤く腫れることもあった。

 

 雪は反射するので実際に肌や目にダメージを多く与える。加えてアルビノは脈絡膜および網膜色素上皮における色素欠乏のため網膜上での光の受容が不十分で、視力が弱い。眼球振盪・斜視・乱視・近視・遠視を伴うこともある。また、虹彩に色素がないor少ないため遮光性が不十分で、光を非常に眩しく感じる。更に、皮膚で紫外線を遮断できず、紫外線に対する耐性が極めて低い。なおこれらの病状は非進行形である。

 

「……いたいでちゅ……ひりひりでちゅ」

 

「とらちゃ、ごめんね。おねちゃが、お外を歩かせすぎたね」

 

 薬師から「日の光が、虎千代さまのお肌と瞳にとっては、毒になります」と伝えられてからは、虎御前と綾も、虎千代を長時間日光に晒さらさないように気を配らねばならなくなった。なので、夜の時間に月を眺めながら綾と二人で春日山の山道を散歩するのが、虎千代の日課になっていった。

 

 夜の春日山は、静寂と深い闇が支配している。人はみな寝静まっている。太陽の輝きを、見ることはできない。そんなことをすれば、肌と瞳が焼き切れてしまう。

 

 凍てつくように冷たい月の光だけが、虎千代には、許されている。日中、外に出て遊ぶことができないので、同年代の友達もできない。自然、虎千代は物思いにふけりがちな童になった。同年代の子供に比べて、身体は二回りほど小さい。

 

 時折館を訪れる家臣たちや家族たちは、まるで兎の子供が童の姿になったかのような虎千代に、愛らしさとある種の奇怪さとがあいまった複雑な感情を覚えるらしい。みな、この人なのか雪の精なのかわからない虎千代という不可思議な童に、どう接していいのか迷うようだった。

 

 とりわけ、父である長尾為景が、虎千代の扱いに困っていた。その上、虎千代の精神は、異常なほどに繊細だった。他人の抱く善意や悪意といった「感情」に、妙に鋭く反応する。視覚が弱いぶん、感受性が鋭敏なのかもしれなかった。

 

 夜の散歩の途中、虎千代はよく目をうるませた。

 

「とらちゃは……おとうちゃに、きらわれてるでちゅ? よわよわで、夜にならないとお外に出られないから……」

 

 姉の綾は、そんな虎千代の小さな手をひきながら、

 

「ごめんね、とらちゃ。でも、いっぱいご飯を食べて大きくなれば、きっとお昼間にもお外に出られるようになるよ!」

 

 と、健気に妹を励まし続けた。虎千代は生まれつき胃が弱く、食も細い。とりわけ、鶏や猪の肉が食卓に出ると「どうぶつさんをたべるのは、かわいそうでちゅ」と泣きだすくらいに、肉を食べるのが苦手だった。料理人が鶏をさばいているところを見て以来、感受性の強い虎千代は動物を食べられなくなったらしい。ただあれは大分トラウマになる光景なのであまり子供に見せるものではないし、仕方ないものではあるが。

 

 その上、現代で言うところのアレルギー体質というものも持っていて、例えば大豆を食べると「かゆいでちゅ、おえええ。うええええ」と吐いてしまう。重度の大豆アレルギーだった。これは当時の薬師には原因がわからず、「わがままで好き嫌いをさせてはなりません」と何度も問題の食材を食べさせ、しかしそのたびに吐いて震えている虎千代にさじを投げ、「これは強情やわがままではござらん、ある種の病でしょう。治し方はわかりませぬ。お吐きになる食べ物は避けたほうがよいでしょう」と折れざるをえなくなる始末だった。

 

 

 なお、兼音がいたらこの薬師はぶん殴られている。下手したら殺されている。アレルギー物質(=アレルゲン)を摂取するのはアナフィラキシーショックを引き起こす可能性が大変高く、このショックは程度のよるが死に至る確率も高い。エピペンの接種で何とかなるのだが、そんなものこの時代にある訳もない。日本での普及は2011年を待たねばならない。ちなみに、兼音はアボカドアレルギーである。もっとも戦国時代の日本にアボカドはないので問題など起こりえないのだが。

 

 

 

 虎千代はともかくも手のかかる童だったが、虎御前と綾は、これほど様々な問題を生まれながらに持っていながら懸命に生きようとする虎千代が時折家族の愛情に反応して浮かべる笑顔に、家族愛をさらに超えたある種の神性に対する感動のようなものを見てやまなかった。

 

 だが、虎千代の時間の大半は、「自分は人とは違う」という悲しみとともにあった。その夜も月を眺めながら、虎千代はつぶやいていた。

 

「おねちゃ。とらちゃは、シラコだからお嫁にいけないでちゅ?」

 

「誰がそんなことを言ったの? とらちゃは、お嫁にいけるよ。ご飯を食べて大きくなれば。だいじょうぶ」

 

「……でも……とらちゃ、おとこのひと、苦手でちゅ……おとこのひとは、怖いでちゅ。血なまぐさくて、まるで獣みたいで……」

 

 父・為景のあの戦場で鍛え上げられた巨体と殺伐とした表情を、虎千代は苦手にしていた。為景が自分によい感情を抱いていないことがわかってしまうだけに、辛い。

 

「とらちゃががんばれば、いつか、かわいい赤ちゃんも産めるよ」

 

 綾は虎千代の背中を撫でて応援するが、

 

「そんなの……こわいでちゅ」

 

 赤ちゃんはほしいけど、「チチオヤ」はこわいでちゅ、「チチオヤ」がいないと女の子は赤ちゃんを産めないそうでちゅ、でも「チチオヤ」はこわい、こわいでちゅ……。

 

 為景から粗略に扱われている虎千代にとって、大人の男性は、恐怖の対象でしかなかった。戦場に出たことはないが、戦場から城へ戻ってきた男武者たちが発する生々しい「血」の臭いをかいで震え上がったことは何度もある。

 

 台所で料理人にさばかれている鶏も、血を流していた。戦場で、男たちは、あれと同じことを人間にやるのだ。

 

「……こわいでちゅ。おねちゃ。とらちゃを、捨てないで」

 

「だいじょうぶ。ずっと一緒だよ!」

 

「おねちゃは、怖い『チチオヤ』に痛いことされないでちゅ?」

 

「おねちゃはここにいるから。とらちゃが大人になるまでは、お嫁にもいか

 

ない。なにも心配しないでいいの、とらちゃ!」

 

 綾は、虎千代に誓った。約束してくれた。だがこれは、虎千代が大人になった暁には、綾は為景の意向で誰かのもとに嫁ぐかもしれない、ということをも意味する。

 

 為景にとって、娘は政略の道具である。いずれ、越後の有力な豪族に自分を嫁がせて越後統一を推し進めるくらいのことはやるに違いない、と綾も覚悟していた。

 

「でも、おねちゃには、とらちゃのほうがだいじだから。おねちゃがとらちゃを守るよ!」

 

「……やさしいでちゅ、おねちゃは」

 

 綾にすがるように抱きつきながら、虎千代はふるふると震えた。いつか、おねちゃと離ればなれになってしまうのだろうか。そのうち血なまぐさい獣のようなおとちゃがやってきて、おねちゃは怖い「チチオヤ」のもとへ連れ去られてしまうのだろうか。

 

 おねちゃが好きになった人ではなく、おとうちゃが家の都合で決めた相手のもとへ。好きでもないチチオヤの赤ちゃんを産まされるのだろうか。

 

 そんなのは嫌だ!

 

 もしかしてとらちゃが大人にならなければ、ずっとおねちゃと一緒にいられるのか、と幼い虎千代は必死に知恵を絞って考えた。だが、すぐに、それではとらちゃを育ててくれているおねちゃを裏切るこ

とになる、と気づいて、自分で自分を叱りつけた。

 

 早く大人にならないといけないでちゅ。おねちゃを「チチオヤ」に盗られる前に大人になって、とらちゃがおねちゃを守るんでちゅ。そうでちゅ。じぶんのことよりも、おねちゃがだいじでちゅ。とらちゃがこうして幸せでいられるのも、おかちゃとおねちゃに大切にしてもらっているからでちゅ。とらちゃは、ワガママ勝手な子になってはいけないんでちゅ、と、心の中でつぶやくのだった。

 

 

 

 

 

 長尾虎千代は、荒々しい男たちの影に怯えながら、薄暗い月明かりの夜のもとに育てられたのだった。日輪に祝福されない少女の行く末に間もなく第一の不幸が訪れようとしていた。




次回もすぐ投稿します。まぁしばらく原作とあまり変わらないですが。

☆9評価が100を越えました。ありがとうございます。一つの区切りとして深く御礼申し上げます。これからも鋭意努力しますので、よろしくお願いします。


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第48話 正義と恩讐 越

今回で通算50話です。まだまだ原作開始まで遠い…。頑張ります。


 さらに数年の月日が流れた。

 

 越後守護代・府中長尾家の当主・長尾為景の越後統一戦争は、なおも終わらない。

隣国・越中では豪族国人と本猫寺門徒による一揆が多発し、そのたびに為景は「あやつらは俺の父の仇だ」と出兵して叩いて蹴散らしたが、いくら叩いても一揆衆はもぐらのようにまた出てくる。

 

 青年期を迎えた上田長尾家の長尾政景は、実績・押し出し・若さのすべてを兼ね備えた名将に成長し、ますます越後にとって重要な存在となっていた。為景はなにがあっても実子の晴景に家督と越後守護代の職を譲るつもりではいたが、もはや自分亡きあとの越後が分家の政景の力抜きに立ちゆかないことも理解せざるを得なくなった。

 

 為景はもう、七十を過ぎていた。この歳で越中戦線にまで出兵して戦っている為景はまさに異常の英傑であり、主君を二度も殺した神罰もいっこうに下らず、越後の人々からは「善悪を超えた不死の武人」と恐れられているが、さしもの為景も自分の体力に限界を感じはじめていた。生きるだけならば百歳までも生きられようが、馬

上で槍を振るって堂々と戦えるのは、あと数年だろう。

 

 しかも、病弱な嫡子・晴景の戦嫌いの癖はまったく改まらない。このままでは自分なきあと、分家の政景に越後守護代の職を奪われるのは間違いなかった。為景は、後顧の憂いを断つために政景を暗殺するという手も考えたが、政景は悪辣にして狡猾、誰よりも用心深く、決して忍びの者を身辺に近づけない。

 

 たとえ女子供であろうとも、あやしいと勘ぐったら迷わずに斬り捨てる。戦場で討ち果たしたくとも、両者ともに譲らぬ剛勇の武人同士ゆえに、これも難しい。まるで若き日の自分と戦っているようでどうにも腹立たしい為景だったが、さりとて政景の武なくしては惰弱な晴景は大名として存続できそうにない。本家だ分家だと争っていても、長尾家そのものが滅びてしまえばなんの意味もない。

 

 ならばいっそ、政景と婚姻同盟を結んで「一門衆」にしてしまおう、と思い立った。毒を食らうなら皿まで、だと。分家とはいえ同じ長尾一族であるから、格式にも問題はなかった。

 

 この策は非常に合理的であると言えた。一門として取り込んでしまえば、容易には背けない。背けば流石の越後であっても逆賊のそしりは免れないであろう。

 

 ちょうど、年頃になりつつあった娘・綾が為景の手許にいる。綾は、美しく凜々しく育っていた。どこへ出しても絶世の美少女として通る。綾は「とらちゃが大人になるまでは嫁ぎません!」と縁談の話が出るたびに断り続けてきたのだが、政景を一門衆に取り込むとなれば綾を駒として用いざるを得ない、と為景は割り切って考えていた。

 

 だが意外なことに、この縁談を持ちかけられた政景のほうが、首を縦に振らなかったのだ。それだけならまだ良かったのだが……

 

 

 

 

「断る。俺はまだ、妻を娶らない。俺が嫁にしたい娘は虎千代しかいない」

 

 為景が送った使者の前で、政景は敵将どもの首実検をしながらそう言い放ったという。

 

 為景は、政景がなにを考えているのか、まるで理解できなかった。虎千代を?嫁に?あの白子を?日の光に当たるだけで倒れるような娘を?第一、虎千代はまだ子供ではないか?

 

 彼のこの疑問符に満ちた感情も仕方ないものであろう。虎千代はまだ幼少過ぎる。古の若紫よりも幼かった。現代ならば間違いなく通報まったなしである。この時代でもなかなかに非常識であり、虎千代の容姿と相まってこの場合政景の方が異常であった。為景は脳が理解を拒否している感覚を味わっていた。繰り返すが、この場合為景が正常である。

 

 為景は、政景がこの婚姻話に飛びついてくるとばかり思っていた。分家の政景に娘を娶らせて本家の一門衆に組み入れるということは、来たるべき晴景政権において政景に一門衆筆頭に置き越後の宰相という破格の地位を与えるという決断を意味するのだから。

 

 気概のない晴景は、俺が死んだあとは厄介な仕事をすべて政景に預けるだろう。つまり俺は政景を事実上の越後守護代にしてやろうと言っているのに、まさか選り好みをするとは……しかも、あの虎千代を嫁にしたいなどと、正気とは思えん

 

 だがさすがの為景も、「貴様は狂っているのか」とは言えなかった。虎千代はまだ子供だし、そもそも病気だ、日の光にすら当たれんのだ、いつまで生きられるかもわからんものを嫁には出せん、と為景は返答した。春日山長尾家と上田長尾家の縁談話は、一度はこうして流れた。

 

「出し惜しみをするか、老いぼれが! ならば力ずくで奪い取る!」

 

 断りの使者に対してそう言って笑ったという政景は、越後守護の家系である上杉家の血筋の者を担ぎ「上杉家復興」を掲げて、ついに反為景の兵を起こした。為景は頭を抱えた。この老人にあまりに酷な仕打ちだろう。誰でもこの展開は病む。

 

 本来は上杉家の家老にすぎなかった為景は、越後をわがものとするため、主筋である上杉家の人間を戦で殺した。越後守護を殺し、関東管領も殺した。今の越後守護は、上杉家の血筋の者ではあるが、為景が担ぎ上げたお飾りである。長尾為景の横暴を終わらせ越後守護上杉家を復興するという政景に、大義名分はある。むろん、政景もまた別のお飾りを担いでいるだけで、実質的には長尾家同士の抗争にすぎない。

 

 

 

 越後、そして隣国の越中は、いよいよ乱れた。勇猛で鳴る為景自身が出兵すれば必ず勝つが、その出兵じたいが為景の老いた身体に負担をかけていた。越後中の豪族国人たちは、為景と政景のどちらが最終的に勝利を収めるかを息を殺して見守っている。

 

 為景はいよいよ苦境に追い詰められつつあった。

 

 

 

 

 

 

「ひひひ。外の世界を見たくないか、虎千代」

 

 この日は朝から曇っていて、日の光が弱かった。館の裏に流れる小川で足を洗っていた虎千代に、声をかけたあやしい長髪の男が一人。琵琶島城主の宇佐美定満だ。

 

 余談だが、彼の存在は一応史実に登場する。彼は宇佐美定行と言う架空の軍師のモデルとなったと言われている。

 

 宇佐美定行は北越軍記によると、兄長尾晴景から命を狙われ栃尾城へ逃げ込んだ上杉謙信(当時は長尾景虎)に招かれて彼の軍師となり、敵対を躊躇する謙信を説得して兄への挙兵を決意させる。川中島合戦では謙信の窮地を救う活躍した。その後、謙信に従って関東に出兵して、厩橋城を北条氏邦の攻撃から守り切るも、嫡男定勝を失う。そして定行は謙信への叛意を抱く長尾政景を暗殺するため政景を野尻湖へ舟遊びに誘い、舟底の栓を抜いたうえで、政景もろとも湖底に沈んだとされる。 

 

 定行は謙信宛ての遺書を残しており、そこには上田長尾側からの遺恨を抑えるため宇佐美家を取り潰し、兄の死によって嫡男となった勝行を追放するようにと認めてあった、としている。これは全くの創作であり、事実無根である。

 

 

 

 この時期、宇佐美定満は、長尾政景が率いる反為景軍に所属していた。つまり為景の敵となっていたわけだが、当人は「もう長尾家同士の内輪もめはいいだろう」とやる気がなく、大胆にも時々しれっと春日山の虎千代のもとに顔を出している。

 

 虎千代はだいぶ大きくなり、それなりに体力もつき、曇り空の日はこうして小川で遊んだりできるようになったが、まだ男というものが苦手だった。

 

「……うー」

 

 ふるふると震えながら、赤い瞳で宇佐美をにらんでいる。

 

「フッ。今までもう何度も挨拶したのに、たやすくは懐かねえな。まるで野生の小動物だ。だがな、オレは越後一の軍師と呼ばれる男! 今回は切り札を持ってきたぜ!」

 

 ドジャーン!宇佐美が、兎のぬいぐるみを背後から取り出した。まるでポケモ…である。

 

「どうだ!愛らしいだろう、かわいいだろう!オレさまが夜なべして自分でこしらえた、究極のぬいぐるみだーッ!虎千代、お前にやろう。懐け」

 

「……いらない」

 

 ぽいっ。虎千代は、半目になりながら小川のせせらぎの中にぬいぐるみを捨てた。

 

「うわああああああ?オレのうさちゃんがあああああああっ!なっ、なんてことするんだ、テメエエエーッ!うさちゃんが溺れ死んだらどうするんだッ、てめえには血も涙もねえのかー!オレの心は深く傷ついたッ!」

 

「……あれは、生きてない。生きてないから、死なない」

 

「ぐわああ!かわいくねええええ!飼い主に愛されたぬいぐるみには魂が宿るんだよ! いいかッ!今度うさちゃんを捨てたりいじめたりしたら、全力でお仕置きするからなッ!」

 

「……やられたら、やりかえす。がるる」

 

 虎千代は、小さな八重歯を剥き出しにして、すごんだ。野生のあらぶる兎のように。光を避けるために全身に白い外套を巻き、小さな頭には白い布でこしらえた頭巾をかぶっているので、まるでてるてる坊主のようだ。

 

「ひでえよう、ひでえよう。子供ってのはよう、人形とかぬいぐるみが大好きなんじゃねえのかよっ?なんだよてめえはよっ?」

 

 宇佐美は泣きながら、土左衛門となった兎のぬいぐるみを引き上げると、ぎゅーと絞った。

 

「見ろ、かわいそうに!びしょびしょじゃねえか!てめえも水の中に漬けてやろうか? ああん?」

 

 虎千代は、そんな宇佐美の哀れな背中をじーっと見ている。その目は酷く冷静だった。

 

「なにをしにきた、うさみ」

 

「だから、うさちゃんをてめえにくれてやって懐かせようとしてだなあ……まあいい。今日は虎御前さまも綾ちゃんもいねえようだし、このオレがてめえを散歩に連れていってやるとするぜ!」

 

「いやだ。ことわる。そういうおとこを、こどもさらい、というらしい。そもそも、うさみはおとちゃといくさをしているではないか」

 

「ちょっと前まで『でちゅでちゅ』言ってたのに。かわいげなくなったなあ……いいか? 今日は曇ってるし、母さんも姉ちゃんもいない。一日くらいは春日山を下りて、外の世界を見てみたくはねえのか?」

 

 外の世界?ぴく、と虎千代が身体を震わせた。虎千代は産まれてからのほとんどをこの屋敷と山で過ごしていた。町の事は何も知らないに等しい。外の世界とは、虎千代にとって怖さと好奇心とが入り混じった謎に満ちた世界なのである。

 

「外は、こわい」

 

「じゃあ、一生この館に籠って過ごすつもりか? 大人ってのは、家の外の世界を渡り歩くもんだ。虎千代、てめえはずっとガキのままで終わるつもりか?」

 

「……それも、いやだ。いつまでもあねちゃを縛り付けたくはない。外の世界を、見てみたい……」

 

「よく言った。かしこい子だな、お前は。坊主どもは、お前が生まれた時に、偉大な人間が誕生したと騒いでいたっけな。あの頃のオレは、要はお前の見た目が神々しいって話だとばかり思っていたが、どうやらお前の本質、お前の希有な価値というものはお前の精神そのものにあるようだ」

 

 虎千代は、宇佐美が遠慮なく語ってくる難しい言葉を、よく理解した。言葉だけで理解しきれない部分は、宇佐美の表情から「感情」を読んで、補足する。宇佐美が虎千代に抱いている感情は「好意」だが、悪しき「好意」ではないようだ。

 

 長尾政景などは、もっと激しい「好意」を虎千代に抱いているが、虎千代が見たところその政景の抱く好意にはひどく毒々しくて黒い、穢れたなにかが混じっていて、おぞましい。だから敏感な虎千代は、政景の顔を見るのもいやだった。だが、宇佐美というからっとした万事適当な男には、そういうドス黒さがなかった。

 

「もっとも、オレさまは幼女愛護家じゃねえ。お前をオレの理想のために教育して、志を遂げるためにがんばってもらおうって魂胆だ。お前にはその器があるが、育てねえと才能は伸びねえ。甘やかしたりはしねえぜ」

 

 この男は正直だ、と虎千代は思った。

 

「りそう?」

 

「義ってやつだ」

 

「ギ?」

 

「書物を読んで勉強してんだろ? 正義、だよ。まあいい。本なんぞいくら読んだって、ほんとうのことはなにもわかりゃしねえんだからな。人間ってのは、実際に歩いて体験しなきゃあ、なにひとつ理解できねえんだ。いいか虎千代。観る者は、観られる者なんだ。観られる者がいなければ、観る者も存在しねえ。ってことはよう。目をつぶり耳をふさいでなにも観なければ、そいつはこの世に存在していないのも同じだってこった」

 

「……なにしゅうのおしえだ?」

 

「何宗でもねえ。オレさま自身の言葉で語ってるんだ。オレは生来、宗門ってのに興味がなくてな。神も仏も信じちゃいねえ。そういう意味で、お前の親父とオレは似た者同士だよ。だが、オレには目に見えない神や仏なんぞよりも信じられるものがある。それが、自分自身の魂に宿るもの――義、だよ」

 

「じぶんじしんの、たましい」

 

「信念、っていってもいい。まあそういうのはぜんぶ、ただの言葉だ。言葉なんてものは、ほんとうのものを指し示すための道具にすぎねえ。そら、立て。山を下りようぜ。お前が食えるものも用意してきてやった。肉も大豆もだめなんだってな。だがこの琵琶島名物の――」

 

 こんどは食べ物で釣ろうとしていた。

 

「やはり、こどもさらいか。おとちゃとのいくさにかつために、とらちゃをひとじちにするのか」

 

「いやあ。もう長尾為景のジジイとやりあうつもりはねーよ。今越後で続いている戦は、お前を嫁にしたがっている長尾政景がやる気まんまんなだけだ。オレさまが知略を用いて戦を終わらせてみせるさ。オレは実はそのために、敢えて政景陣営についている」

 

「ほんとうか」

 

「オレはよ、あの義ってやつを忘れて生まれてきたとしか思えねえ為景のジジイにはもうさじを投げたが、かといって分家の政景は為景が屈折したような男でいよいよタチが悪い。オレは聡いお前に期待しているんだ。次の世代ってやつにな! 夜になったら館に送り返してやるって。さあこい」

 

「……」

 

 やっぱ懐かないかな、かぶいた遊び人姿ってのがよくないのか、次はもっとかわいいうさちゃんを作らなければならねえな……と宇佐美が頭をかいていると。

 

「……わかった。うさみを、しんじる」

 

 虎千代が、静かに立ち上がっていた。立ち上がった虎千代は、宇佐美の腰のあたりまでしか背が届かないが、なにか、不思議な威厳のようなものを発していた。父親が合戦している相手である宇佐美を信じる。そして自分の足で山を下りる。

 

 そういう決断をしたことで、虎千代の中でなにかが目覚めたようだった。宇佐美は、苦笑していた。

 

「言っておくが、誰でも彼でも信じるなよ。世の中には、平気で嘘をつく悪い大人がうようよしているんだぜ」

 

「しっている」

 

「ともあれ、行こう。まずは城下の村と町を見物だな」

 

 まるで人間の心の内側にあるすべてを見通すような虎千代の赤い瞳が、きらり、と輝いていた。春日山を下りる途中、山道に一頭の大きな熊が出た。人間と出会ったせいか、驚いたらしく興奮していた。宇佐美は「おっと。熊鍋にするか」と目をギラつかせたが、虎千代が止めた。

 

「いけない」

 

「いけないって、威嚇しねえとこっちが食われちまうぞ」

 

「その時は、その時だ」

 

「その時って。おい。危ない、近寄るな」

 

 白い頭巾を被り白い外套をはためかせながら、虎千代がとことこと熊の足下に歩み寄って、ぺこりと頭を下げた。

 

「今は戦が激しい。平地に暮らしていれば、いつ攻め殺されるかわからない。だから、お山を借りている。ごめんね」

 

「むふー」

 

 熊は、大喜びで虎千代の頬を舐めると、のしのしと森の中に去っていった。

 

「手なずけやがった?っていうか、言葉が通じてるのか?」

 

「……言葉は通じない。心が通じている」

 

 子供が動物と会話出来たり霊だったりと言うスピリチュアルな存在と交信できるというのは昔より言われていることである。女の子にその傾向が強いが、これは感受性によるものだろうか。どういう理論なのか、果たしてそれは真実なのか、科学では今のところ解明できていないが、ともあれ虎千代はこの力が人よりも強かった。この力は一般的には大人になると失われる。大人の定義とはえてして曖昧なものであるが、この場合は大概性徴を迎えたという事を指すことが多い。

 

「驚いたな。お前は、ほんとうに釈迦牟尼のような大賢人になるのかもな。第一、獣が怖くないのか?」

 

「怖い。怖いけれど、獣は嘘をつかない。正直者だから、好きだ。こちらが憎まなければ、憎み返さない。それに、獣を殺して食らう人間のほうがずっとおそろしい」

 

「熊鍋は滋養があるんだぜ。栄養を取らねえと大きくならないぞ」

 

こいつ草ばかり食んでるもんな、これじゃいつまでも体力つかねえ、どう

 

したもんかな、と宇佐美は頭をかいている。

 

「行かないのか、うさみ」

 

「それじゃ、行こう」

 

 

 

 

 

 

 宇佐美は虎千代を馬の背に乗せて、春日山を下り、ふもとの府中の町へと向かった。府中はもともと越後の都だった町だが、合戦が続いているために、長尾為景は一族の者や重臣の家族・人質などを春日山城に移動させていた。

 

 近頃では、為景自身も春日山城で政務を執ることが増えていて、府中は政庁の町から商業の町へと変わりつつあった。なにしろ直江津の港がほど近く、貿易で栄えている。府中へ向かう途中の村に、宇佐美は立ち寄った。

 

「オレさまにとっては昔なじみの村だ。ここなら合戦中でも安全だぜ」

 

 たくさんの布を運んでいた若い娘たちが、「宇佐美さまよ」と声をかけてきた。宇佐美定満は身分の別なく民に接し、特に若い娘には甘いと評判。みな、彼に土下座などしない。

 

「宇佐美さま、お久しぶり!」

 

「また姫武将にしたい子がいたら、ぜひ連れていって!」

 

「わかった、わかった。今は、算術が得意な子を探している」

 

 宇佐美家は家臣団が一度全滅しててな、人手が足りないんでこうして村や町をまわって小姓を集めるんだ、と宇佐美が虎千代にささやいた。

 

「うさみ、なぜ女の子ばかりを? やはりこどもさらい?」

 

「オレの美学だ」

 

「ねえねえ、樋口さんとこのお子さんはどうかしら?」

 

 この時話題に出た少女が後の越後の宰相・直江兼続であるとは誰も露知らぬことであった。直江兼続の旧姓は樋口。父親は薪炭吏であったと言う。

 

「ああ。あの子、頭いいもんねー」

 

「ところで、その白い頭巾を被った女の子は誰?」

 

「宇佐美さまのお子さま? かわいいー」

 

「ああ。親戚の子だ」

 

「かわいい!」

 

「兎みたい!」

 

「その、草はなんだ」

 

 虎千代は、娘たちが抱えている草の束を指さした。

 

「お嬢ちゃん。これは青苧というものよ」

 

「青苧?」

 

「この青苧で織った織物は、都の公家さんに高値で売れるの。府中の商人さんが直江津の港から船で都や堺に売りにいくのよ」

 

「青苧の草は、このあたりで育てているのか」

 

「もっと山奥の魚沼のほうね。わたしたちは、青苧を魚沼商人から買い求めて、皮を割いて糸にしてから府中の商人さんに売るのよ」

 

「そうか。山と村と港がみなつながって、ひとつの特産品が流れてゆくのだな。それも、海を渡って……目には見えなくとも、すべてはつながっているのだな」

 

「そうそう。よくわからないけど、そういうこと」

 

「かしこい子ね!」

 

「……」

 

 虎千代は照れたらしい。頭巾をすっぽりと被りなおして、顔を完全に隠してしまった。

 

 

 青苧は越後の主要な産物であり、経済を支える商品作物であると言えた。現代ではカラムシの名で知られている。ちなみに花言葉は「あなたが命を断つまで」「ずっとあなたのそばに」である。

 

 日本において現在自生しているカラムシは、有史以前から繊維用に栽培されてきたものが野生化した史前帰化植物であった可能性が指摘されている。古代日本では朝廷や豪族が部民として糸を作るための麻績部、布を織るための機織部を置いていたことが見える。なお、この機織部から派生して服部という名字が生まれたのだと言う。日本書紀によれば、天皇が詔を発して役人が民に栽培を奨励すべき草木の一つとして「紵(カラムシ)」が挙げられている。

 

 越後は日本一の産地だったため、長尾家は衣類の原料として青苧座を通じて京都などに積極的に売り出し、莫大な利益を上げた。新潟県の魚沼地方で江戸時代から織られていた伝統的な織物、越後縮はこれで織られていた。また上杉氏の転封先であった出羽国米沢藩では藩の収入源のひとつであった。

 

 一方、南方でも薩摩藩がカラムシの生産や上布の製織を奨励したため、薩摩藩や琉球王国では古くから栽培や加工が発達した。

 

 現代では現状本州においては、福島県会津地方の昭和村が唯一の産地であり、国の重要無形文化財に指定されている「小千谷縮・越後上布」の原料とされている。沖縄県宮古島市の宮古島では、苧麻の栽培から、手績み等を経て、宮古上布の織布までの行程が一貫して行われている。いずれも高級かつ伝統的な繊維製品の材料として使われている。

 

 

 

 

 

「この子は、まだ海を見たことがないんだ。ずっと山に籠っていたからな。オレたちは直江津の港へ行く」

 

「捕れたてのお魚をたくさん食べてね!」

 

「……生き物は食べたくない。苦手だ」

 

「直江津にあがってくる魚は、みな美味しいわよ?」

 

「これで戦さえなければ、越後はいい国なんだけどね」

 

「それは言わない約束でしょう」

 

「なにしろ守護代さまが毎日のように敵を作っては戦、戦だもの……そのたびに兵糧を持っていかれたり槍を持たされて軍役を押しつけられたりで、村の男たちはすっかり空っぽ。ひどい時は、飢えた侍が襲ってくるし」

 

「……しっ!宇佐美さま以外のお侍さまに聞かれたら」

 

「襲ってくる、とは?敵の兵が村を襲うのか」

 

「敵も味方もないわよ、血に飢えた侍は若い女を見ると、まるで獣のようになって」

 

「あんたはしゃべりすぎ! な、なんでもないのよ、お嬢ちゃん!」

 

 虎千代は、詳しいことはわからないが、戦のたびにこういうのどかな村に荒々しい侍がやってきては、なにかとてもいやな騒ぎを起こしているのだろうと察した。

 

「そうか……気が立った侍は、敵味方の区別もないのか。獣は、そういうことはしない……」

 

 虎千代は、「女が集まると平気でどぎつい話をするからいけねえ」と鼻をかんでいる宇佐美に手を引っ張られて、村をあとにした。虎千代は馬上で宇佐美に「荒れ狂っている侍は村の女になにをするのか」と何度もたずねたが、宇佐美は「いやなことだよ」とだけ答えて、詳しくは語らなかった。詳しい内容はお察しである。戦場とはそういうものであった。

 

「武士ともあろうものが、民に乱暴するのか……」

 

 武士がもう少し大人しくなるのは江戸時代を待たねばならない。江戸時代の武士は官僚に近い。だがこの頃の武士はさながらヤクザである。これでも鎌倉以前に比べれば大分マシになっている。鎌倉以前の武士の様子は御成敗式目を読めばその惨状が何となく理解できよう。また、元寇の蒙古軍も最近の研究では武士の力で撤退させたと言われており、バーサーカーであったようである。

 

「戦場で殺し合って血を流しているとな、遠征に出稼ぎに来た足軽などの中には盗人や放火魔になるやつもいる。むろん、あまりに派手に暴れれば目上の者に知れて罰を受けるが、戦ってのはそういうものだ。乱取りと言って、合戦に勝ったついでに周囲の村を略奪してまわるのもまた、戦の一環のようなものだよ。いわば勝ち戦のご褒美だな」

 

「武士は、民を守るために戦うのではないのか」

 

「そういう戦を、義の戦という。だがな虎千代。越後で繰り返されている戦は、欲の戦なのさ。越後の王の座を巡って、守護だの守護代だの豪族国人だのが何十年にもわたって欲の戦を続けているんだなこれが。世の秩序を守るためには、時には戦は避けて通れねえ。だが醜い欲の戦がだらだら続けば、つきあわされている兵もまた堕落するわけだ」

 

「越後の王は、守護の上杉家ではないのか。他に誰がいるというのだ」

 

「名目はそうだ。だがな。守護を補佐する守護代であるお前の親父が、主君である守護を殺し、関東管領まで殺して越後の王を自称しているのが現状さ。為景は、守護を自分のいいなりになる他の上杉家の男にすげかえたが、今度はそのお飾りの守護が為景を倒そうと蜂起。そいつを黙らせたら、また別の上杉家の男が、長尾政景と組んで守護の座を狙いはじめた。そんなこんなで、戦は終わらない」

 

「うさみも、昔からおとちゃと戦っていたと聞くが。おとちゃは、うさみは昔からの長尾の仇敵だからみだりに関わるなってうるさい」

 

「まあな。オレは確かに、長らく長尾為景の仇敵だった。もっともオレだけじゃなく、越後に割拠するほとんどの豪族国人がそうだがよ」

 

 馬はしずしずと進み、二人は直江津の港に着いた。これが海か、広いな、そして青い、と虎千代が歓声をあげた。宇佐美は、「山を下りるといやな話が多くてな。申し訳ねえが」と頭をぽりぽりとかきながら、虎千代をそっと下ろした。

 

「うさみとおとちゃは、なぜ戦っていた? 教えろ」

 

「かつて宇佐美の一族は、守護の上杉家を守るために、お前の親父さんと戦ったんだ。その時、兵を率いていたのはオレの親父さ。まあ義戦といえば義戦だったんだろうよ。そして、一族はお前の親父さんに負けて、皆殺しになった。城に籠城していた宇佐美一族、全員ぶっ殺されちまった。生き残ったのは、ガキだったオレ一人だ」

 

「か、家族が? 全員? おとちゃに?」

 

 そんな、と虎千代が目に涙を浮かべる。

 

「ひどい!」

 

 あわてて宇佐美は虎千代の頭をわしゃわしゃと撫でた。

 

「泣くな。戦ってのは命のやりとりだ。死ねば殺されても文句はいえねえ。それが武家の常だぜ。そうでなきゃ、百姓や商人から年貢や税を取り立てる資格などねえ」

 

「それで宇佐美は、どうした」

 

「その時のオレはまだガキだったから、越後中の村や山を逃げ回って生きるので精一杯だったさ。武士なんぞやめて故郷の琵琶島でのんびり釣りでもやってそれで終わりにしちまおうとも思ったが、いっぱしの大人になってみるとなんとなく納得がいかなくてな。宇佐美家の元家臣団の生き残りなども、ちらほら集まってきた。そいつらを養うためには旧領を奪回しなくちゃならねえ。だからよ。長尾為景、つまりお前の親父さんをぶっ倒して復讐しよう、宇佐美家のために、いや、為景が踏みにじりやがった義のために、などと柄にもなく立ち上がっちまった」

 

 そんな壮絶な過去がこの陽気なうさみに、と虎千代は震えた。人は見た目では分からない。現実の世の、なんとすさまじいことか。自分が育まれてきた春日山は、もしかすると極楽浄土なのだろうか。

 

「そうか……だから、うさみはおとちゃと戦ってきたのか」

 

「ありゃ一種の化け物だ。戦場での狂いっぷり、暴れっぷりは、甲斐の武田信虎といい勝負だ。戦えば戦うほどに強くなる、戦で敵を殺さなければ生きてはいられない、そういう悪鬼みてえな人間だぜ。オレは何度も為景と戦ってきたが、オレが兵をあげればあいつはますます喜ぶだけなんだ。宇佐美家再興だの長尾為景への復讐だのといった過去に引きずられながら、あの戦狂いの化け物の相手をし続けているうちに、オレはすべてがむなしくなっちまった」

 

「……」

 

「そもそも、戦場で戦って勝つ、という目的がよ。為景と同じになっちまってたんだよ。同じ土俵で戦ってたんだよ。つまり、オレさまも戦場で血を浴びているうちに為景と同類の悪鬼になりかけていたってことさ。その矛盾に気づけたオレさまはさすがは越後屈指の軍学者だと自分で自分を褒めたね。うひひ」

 

 釣りを教えてやる、と宇佐美は岸辺に座って、糸の先の針に餌をつけ始めた。魚は食べない、生き物はみな仲間だ、と虎千代が首を振るが、「じゃあ、釣った魚は逃がしてやろう。それでどうだ」と言う。宇佐美はあくまでも釣りをやりたいらしい。虎千代はしぶしぶ竿を持って、宇佐美の隣にちょこんとお尻を下ろした。初めて味わう磯の香りを胸一杯に吸い込む。生臭いような、妙な香りだ。だが、心地よい。

 

「なあ虎千代。釣りってのは一見なにもしていないように見えて、実は魚と戦っているわけだ。というか、時間との戦いだな。なにもせずに魚を釣り上げる瞬間をじっと待ち続ける……魚という目的があるのに動かないってのは辛いことだぜ。だが、この我慢こそが勝ちにつながるんだなあ」

 

 

 

 再び余談ではあるが、兼音は釣りは意外と好きである。彼が中学に入ってすぐに亡くなってしまったが、彼の祖父は四万十川の近くに住んでおり、遊びに行くたびによくしていたのである。戦国の世に来てからはそんな事をしている余裕はあまりなくなってしまったが、それでも時々河越城の近くを流れる入間川ではぼんやりと釣り糸を垂らす彼の姿が目撃される。大抵比較的暇な時間にやっている。

 

 朝定が加わってからは元々ボーっとすることが多かった彼女と共に釣りをしている。段蔵が近くで団子やらを食べながら普段に比べれば大分楽ちんな護衛をしているので一応安全にも気を使っているが。

 

 

 

 

「ううう……もう我慢できなくなってきた……じれったい遊び」

 

「今座ったところだろうが! 意外と気が短いな、お前ッ?」

 

「とらちゃは、じっとしているのは嫌いだ。がるる」

 

 少しは元気になってきたってことか、いいことだ、と宇佐美は笑った。

 

「なあ虎千代。少し難しい話だが、お前ならわかるだろう。越後の武家どもは、みな、欲に取り憑かれて多かれ少なかれ悪鬼になっちまっている。大本はお前の親父さんだが、上田の長尾政景もまだガキだが悪鬼さ。お前の親父さんを倒しても、次は政景が。政景を倒してもまた。そもそも上杉家にはもうまともな人材が残っていねえから、守護の復権なんぞ無理だ。関東の事実上の支配者だった関東管領も、下克上の波に呑まれてさらに没落するだろう。悪鬼羅刹の輪廻とでも言うのかな。きりがないんだ」

 

 事実、この時上杉家の一族である扇谷上杉は江戸城を北条氏綱に奪われていた。

 

 とはいえ、仏の教えなんぞで悪鬼どもが調略できるはずがない。言葉はただの言葉だ。問答無用に悪鬼を踏みつけ黙らせる「力」が必要だ。つまり、義のために悪鬼と戦い踏みつけて従える者が。

 

「本猫寺はどうだ。生き神さまがおられるし、一揆をやれば強いぞ」

 

「生き神ったって、猫の耳一族の血を崇拝しているだけだろう。そういうのは、本当の信仰じゃねえんだ。血への信仰じゃなく、そういう因縁を超えた無償の義が必要なんだ」

 

「とらちゃには、ちょっと難しいぞ」

 

「まあ聞け。今の乱れた越後には、義のために戦う者が必要さ。オレみてえに一族の復讐とかそういうドロドロとしたものを背負っていない、心の美しい者がな。軍神・毘沙門天のような存在が。悪鬼どもの穢れた心を、誰かが人間の心に戻してやらなければならねえ。こいつはオレみてえなおっさんには無理だな。ひひひ」

 

「……このとらちゃに、毘沙門天のようなものになれと言うのか? 無理だ。とらちゃは、ただの子供だ。おかちゃから、とらちゃは毘沙門天の力を授かっている、と言い聞かされてきた。だが、毘沙門天そのものではないとも」

 

「お前は頭がいいな。神として生まれてくる子供など、たしかにこの世にはいねえ。お前はただの人間だよ。だが、毘沙門天のような存在には、なれる。人間ってのは、てめえ自身の行いによって己が望むものに『なる』ものなんだ」

 

「なる、もの……」

 

「そうだよ。人間の中身ってのは、生き様だ。行動だよ。名前や血筋じゃねえ。オレは宇佐美家なんぞという家名にこだわっていたばかりに、悪鬼の戦を長引かせてしまったんだ。無欲。正義。高潔。無償の義の心。それら言葉の上では美しいが誰も実際に行うことのできないすべてを行うことができる、そんな純真な心ってのは、オレみてえな大人には持てない。子供でなきゃあな」

 

「……しかし。とらちゃには、おとちゃの血が流れている……罪深い長尾家の血だ……とらちゃは……うさみの、かたきだ」

 

 なんという純真さ、と宇佐美はつい涙ぐみたくなったが、こらえた。

 

「大丈夫だ。いいか? オレですら何年もお前の親父と戦ってきて、そういう恩讐を乗り越えた。むしろ、あの悪鬼から高潔な義将が生まれたとなれば、越後から義を奪い取った為景の子が越後に再び義をもたらせば、その時こそほんとうにオレの勝ちさ。わかるか?」

 

「うさみがわたしをおとちゃと正反対の者にしたいのは、復讐のためではないのだな」

 

「たぶんな。復讐というなら、虎千代、お前を今ここで海に沈めれば済むことだ」

 

「……やるがいい……おとちゃは、それだけの罪を犯した……」

 

「おいおい! 素直すぎるだろっ!」

 

 やはりとらちゃは出家して、うさみの一族たちや、おとちゃが殺したみんなの菩提を弔うべきなのだろうか、と虎千代が肩を落とした。宇佐美は、そんな虎千代の頭をそっと撫でた。

 

 

 

 

 

 

 兼音がいたならばこう告げるだろう。「父親の罪はその父親が生涯背負うべきものだ。だが、子供に罪などない」と。彼の中にある思い出はそう囁く。事実、彼は両親がパトカーによって轢き殺された事件の際、ハンドルを握っていた元警官の裁判の際にこう言った。「被告の減刑を要求する」と。これはこれで裁判の関係者を驚嘆させた。

 

 その心理となった理由としては、被告の家族に会ったからである。土下座をして許しを乞う妻の横には小さな子供がいた。子供にとってきっと自分の親を殺した者であっても優しい父親だったのであろう。それがいつまでも塀の中では可哀そうだ。そう思った。彼はある意味異常者であった。

 

 正義への憎しみとこの家族には何の罪もないという彼の中の正義感・倫理観が反目していた。結果、怒りをぶつけるのは彼らではない。そう考えたのである。その行き場のない怒りが選んだ矛先が信じていたのに裏切られた正義という概念と警察そのものであった訳だが。

 

 すべての結末としては被害者遺族の意見が重要視され、マスコミに煽られた世論が厳罰化を求める中、運転過失致死の刑罰の中では最も軽い懲役で判決された。兼音に対峙した関係者は彼の目に狂気を感じた。怒りを感じ憎みながらもまだ正義の残骸によって被告とその家族に常人なら向ける怒りや憎悪を抑え込んだ狂気的な精神のもつ光だったのである。おおよそ15歳の思考ではなかった。

 

 故に「父親の罪はその父親が生涯背負うべきものだ。だが、子供に罪などない」と言えるのである。理想論でもなんでもなく、彼はそう信じ、それを実行した。

 

 宇佐美定満とは少し似ていた。家族を失い、一人になったというところは共通している。勿論、現代と戦国。その程度の差はある。されど、そんな程度の差など客観的に見れる関係ない第三者だから言えるものであり当事者からすればそれが全てなのである。

 

 

 

 

 

「宇佐美の家の怨念からオレは解脱した。しかし、すべてを捨てて琵琶島で釣りに興じて人生をぶん投げるような資格は、さんざん戦ってきたオレにはねえ。なあ、虎千代。お前に出家はもったいねえ。たしかに、お前は釈迦牟尼になれるかもしれない。山の獣までがお前に懐いている。あいつらは人間と違って魂が純だからな。お前がどういう者なのか、わかるのだろうな」

 

 宇佐美はそこで息を継いだ。

 

「だがな。仏の道をきわめても、言葉だけで乱世を終わらせることなんてできねえんだ。為景が死ねば、上田の長尾政景が為景以上の悪鬼となり、国人豪族たちとさらに戦い続け殺し続ける。ありゃガキだからいったんそうなれば果てしない地獄だぜ。虎千代、為景が死んだらお前が越後を平定するんだ。お前は為景の娘だ、血筋的にも文句はつけられねえ。お前の心が汚れてしまいそうな厄介な仕事は、オレさまが補佐して処理する。義のために戦う、越後の真の王になってくれねえか」

 

「無理だ。わたしは……とらちゃは、女だ。越後に、姫武将はいない。女は、子を産むのが仕事だと言われている」

 

「だからこそだ。越後の豪族どもは男だけで、獣の論理で生きている。あいつらに獣の論理とは違う義というもののなんたるかを直接見せてわからせる役目は、姫武将こそふさわしい。それに、言っちゃ悪いが、お前のその真っ白な見た目はまるで神の化身に見える。もともと男は女の中に神性を見て怯える連中さ。この国も、女神・天照大神からはじまっている。男はそれがおそろしくて、素戔嗚尊のように暴れ狂うしかねえのさ。お前は天照大神のような眩しい存在になるんだ。だがしかし、素戔嗚尊を打ち倒す力も持たなきゃならねえ。誰が暴れても、天岩戸あまのいわとに隠れることはするな。打ち倒すんだ。獣ども、悪鬼どもに、義の力を知らしめるんだ」

 

 ぴくり、と虎千代の竿にアタリがあった。

 

「……うさみ。幼い子供に向かってああしろこうしろと、あつかましいぞ。お前が女になって、自分でやれ」

 

「ええええっ? オレさますげえいい言葉を長々と吐いていたのに、すげえ感動的な語りだと自分で自分を賞賛していたのに、お前の返事はそれっ?」

 

「うんしょ、うんしょ。魚が釣れそうだ。でも、重くて竿があがらない。手伝え」

 

「……しょうがねえな。とにかく、出家だけはすんなよ。宇佐美家の話なんぞ忘れてくれ。いいな?」

 

「どりょくしよう」

 

 そう。宇佐美定満は、かつて、一族を長尾為景に滅ぼされた子だった。武家でありながら村や町の民と強いつながりがあり、村から子供を小姓として取り立てて人材を育成しているのも、かつて一族が滅んだ際に家臣の多くが討ち死にするなり四散するなりしたためだ。

 

 宇佐美は、虎千代に「家や血の因縁を解脱しようとあがいている人間」という見本を見せたくて、自分の辛い過去を語った。言葉だけでは人は説得できない、言葉はただの言葉。生き様だけが、人を納得させることができる。そういう自分の信念を貫くために、敢えて自分のこれまでの生き様を伝えた。

 

 虎千代もまた、「主殺し」長尾為景とはまったく別の人間であり、父親とは異なる生き様を貫くことができるのだ、と教えたかったのだ。虎千代はそんな宇佐美の本心を察し、理解し、「人間はただいがみ合い殺し合うだけの禽獣ではない」と感動した。

 

 敏感すぎる虎千代の心にはしかし、「おとちゃはうさみの一族を皆殺しにした」という罪の意識もまた、深く残ることになった。宇佐美が明るくふるまえばふるまうほど、自分に優しくすればするほど、申し訳なさでいたたまれなくなった。なんと爽やかな男だろう、と宇佐美の生き様に虎千代は深く感動したが、それゆえに虎千代は自分を許せなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 この日から虎千代は、真剣に出家について考えるようになった。



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第49話 別離 越

今回は長めです。


 為景と政景の戦いは続いた。為景という男は実におよそ三十年にわたって、越後国内で戦い続けてきた。それでもなお越後の王になることができないのは、越後の守護は「上杉」の人間でなくてはならず、「長尾」はあくまでも守護代の家柄であったからだ。「主殺し」を犯した者は、決して王者として認められない。これは、どれほど義が廃れ人心が乱れても変わらない、人間の世界における掟だった。

 

 下界で、同じ長尾一族同士が血を流し合っている間――。

 

 春日山城という安全な箱庭で、虎御前と綾に愛されながら過ごしていた少女・虎千代は出家して越後の人々の心を救いたい。父上も政景も、まるで禽獣だ。いや、山の獣たちはこんな意味のない殺し合いなんてしない。あらゆる生き物の中で人間こそが、もっとも野蛮なのだ。「上杉」や「守護代」などという、生きるための自然の掟とはまるで無縁な、勝手な幻のために戦うのだから、と日々思い悩んだ。

 

 父・為景がかつて戦に敗れた宇佐美定満の一族を皆殺しにしたという事実も、感受性が強すぎる虎千代を苦しめた。しかも、戦乱は、宇佐美定満が自らの苦悩から解脱した今も、終わっていない。

 

「とらちゃ。最近、つらそうにしているけど。なにかあったの?」

 

 ある日。心配した綾が、虎千代に「ちょっと早いけど」と、読み物を贈ってくれた。

 

「このご本は、『源氏物語』と『伊勢物語』。恋と愛についてのお話なんだよ」

 

「恋?」

 

「とらちゃも、いつかはお嫁さんになるんだから、そろそろ恋についても勉強しておこうね」

 

「……男は嫌いだ。とらちゃは、誰のお嫁さんにもならない。なれというのなら、おねちゃのお嫁さんになる」

 

「姉妹同士で夫婦にはなれないの。面白いから読もう? 若紫ちゃんが光源氏に誘拐されるくだりとか、この先どうなるんだろうとどきどきするよ?」

 

 

 この辺は趣味が分かれるのだが、取り敢えず綾は肯定派だった。現代でも源氏物語のこの辺りの下りは評価が分かれている。なお、兼音は沈黙を貫いた。本来は朝定にこういった教育をしなければならないのだが、胤治にぶん投げている。

 

 

「やっぱり、こどもさらいがでてくるのか」

 

「興味ない?」

 

「い、いや。おねちゃが読んでくれるのなら、読む」

 

「わたしもまだ経験がないけれど、恋っていいものだよ。とらちゃ。恋を知っている人間は、戦で殺し合うことだけが生きることじゃない、って風流な心を得られると思うんだ。相手の幸福を願う心、相手を慈しむ心っていうのかなあ」

 

「……たぶん、越後の武士どもは恋などしない」

 

「たとえば長尾政景さまも、恋をすればきっとお優しい人になってくれると思うの。あのお方はまだお若くて恋を知らないから、子供のように戦に夢中になっているだけで……」

 

「おねちゃは、政景のお嫁になるのか。いやだ。あんなやつに、おねちゃを盗られるなんて。とらちゃが許さない」

 

「もののたとえよ。おねちゃは、とらちゃが大人になるまで絶対にここから出て行かないからね~」

 

 仲のいいこと、でも綾はそろそろ嫁がないと行き遅れてしまうわよ、と部屋の奥で兎のぬいぐるみをぬっていた虎御前が苦笑いした。虎千代は、やっぱりおねちゃを捨てて出家するわけにはいかない、と綾の手を握りながらひとりごちていた。

 

 

 

 

 

 

 

 直江津にほど近い三分一原に、長尾為景率いる春日山軍と、長尾政景・宇佐美定満ら、上杉家を旗印とした反為景連合軍が、睨み合っていた。守護代・長尾為景と守護・上杉家。三十年に及ぶ越後内乱の、相も変わらぬ繰り返しだった。為景がいくら上杉方を倒しても、また別の上杉家の旗頭が出てくるので、この内乱は終わることがないのだ。

 

 今回、長尾政景が新しい守護にしようとして担ぎ出した「上杉」は、上条城主の上条定憲という男である。彼は現越後守護の上杉定実の実弟である。もはや、どうせただの旗頭だから上杉の血筋ならば誰でもいいという状況になっている。この三分一原を突破すれば府中、そして春日山はもう目の前なのだが、反為景連合は統制がとれていない。

 

 めいめいが好きなところに布陣し、勝手に行動している。旗頭にすぎない大将の上条定憲が中央に布陣し、後衛には荷駄隊を率いる軍師役の宇佐美定満。右翼には若き猛将で実質的な総大将の長尾政景。左翼には柿崎城主でこれもまた若い武将の柿崎景家。日頃は「南無阿弥陀仏」と物静かに唱える信仰心篤い美丈夫で、柿崎城では自らは窮乏しながらも善政をしき民百姓から「生き仏さま」と慕われている越後の貴公子――なのだが、このたび生まれて初めて戦場に出て槍を振るい敵の足軽を突き殺した瞬間、柿崎景家は惑乱して人が違ったかのように凶悪になった。

 

 

「うわあっははははは! 待ち焦がれたぞ、わが初陣だあああ! 罪深き長尾為景よ、いいかげんにその白髪首を置いて地獄へといぬがよい! 南無阿弥陀仏!」

 

 戦が人間性を変えてしまう極端な一例なのかもしれない。柿崎景家は長尾政景の命令を無視して突出し、三分一原で暴れ狂った。あまりにもこれまでの人柄と違ってしまった柿崎景家の狂乱ぶりに、春日山軍の兵士たちは恐怖して逃げ惑い、初戦は反為景側の勝利に終わった。

 

 

 史実において柿崎景家は越後の国人である柿崎利家の子として生まれたといわれる。はじめ長尾為景に仕え、為景死後はその子・晴景に仕えた。晴景と長尾景虎が家督をめぐって争ったときには、景虎を支持している。景虎の下では先手組300騎の大将として重用され、春日山城の留守居役を務めている。小田原の北条氏攻めにも参加し、直後の甲斐武田氏との第四次川中島の戦いでは先鋒を務め、八幡原の武田信玄の本陣を攻め、武田軍本隊を壊滅寸前にまで追い込んだ。

 

 また、北条氏康との越相同盟締結においても尽力し、子の晴家を人質として小田原城へ送るなど、内政や外交面でも活躍している。謙信からの信頼は絶大で、謙信の関東管領職の就任式の際には、斎藤朝信と共に太刀持ちを務めた。上杉四天王の一人である。(残りの三人は直江実綱、宇佐美定満、甘粕景持である。)

 

 

 

 

 一番戦意の低いはずの高梨家の援軍が何故か前線で踏ん張っているというありさまである。ちょくちょく比喩表現でなく本当の鬼が出たとか妖が襲ってきたなどと言う報告が散見され、反為景連合軍は若干困惑していると言うのが現状である。戦鬼・長尾為景が病を得ていて、春日山軍の動きが鈍いことも為景軍の敗因であった。

 

 

 

 

 

 高梨氏は、信濃国北部は高井郡・水内郡に割拠した武家の氏族。全盛期の本拠地は、現在の長野県中野市である。平安・鎌倉期の高梨高信・高梨忠直らは源義仲傘下として越後から南下した城助職率いる平家方を破り、その後も源義仲に最後まで従ったと思われ、高梨忠直は京都の六条河原で刑死した記録が残されている。また、頼朝が上洛した際の御家人の中に高梨次郎の名が見え、鎌倉時代も御家人として存続していたことが伺われる。その後は保科氏らと婚姻関係を結びつつ北方へ領土を拡大していった。

 

 戦国期の高梨政盛の代に、越後守護代の長尾氏と関係を強めるため、長尾能景に娘を嫁がせるが、その娘が産んだ長尾為景が越後守護代となり、室町末期には越後で守護上杉家と長尾家の争いが起きると、高梨氏もそれに巻き込まれることになった。距離的にも春日山と近いため、密接な関係にある。一説には、長尾景虎の信濃出兵はこの高梨氏救援のためである可能性が高いとさえ言うほど、関係が密だった。

 

 

 

 

 柿崎景家に命令を無視されたため、当初に練っていた戦術を実行できなかった長尾政景は激怒した。その夜の本陣で、大激論となった。

 

「柿崎景家!貴様、一騎がけなどしおって!戦は、狩り場ではないぞ!」

 

 長尾政景が激高すれば、まだ興奮状態にある柿崎景家も黙っていない。

 

「かああああっ!長尾為景の首を盗る、それがこの戦の大義ではないのかああ?政景、うぬは戦をじゃれあいだと思っているのではないかああああ?為景に逆らってみせて、いい和睦条件を引き出して手打ちにする、いずれまた反旗を翻してさらに条件を引き出す――そのような貴様のこざかしい政治のために合戦があるのではないいいいい!」

 

「な、なんだとっ? 初陣に出たばかりのひよっこが、なにを偉そうに!」

 

「笑止!貴様のほうが私よりも年下だあああ!政景よ、貴様は上田の城主として自らの子供たちを、民を慈しんだことがあるかあーっ?聞いておるぞ!民をさんざん搾取し、戦の道具にしおって!」

 

「フン!土民のことなど知るかっ!貴様、あくまでも俺に逆らうのかっ?」

 

「御仏は、そのような慈悲なき戦を繰り返す者にいずれ罰をくだすであろうぞ。南無阿弥陀仏!」

 

 殺伐とした軍議の席のすみっこでは、上条城からひっぱりだされてきた上条定憲が「とても味方同士の軍議ではない」と震えている。同情の余地がそこそこにあった。反為景軍を仕切っている長尾政景が性暴虐なのにくわえて、新顔の柿崎景家がまた強情な男なので、とても統制がとれる状態ではない。

 

 そして。

 

 柿崎景家を反為景軍に引き入れた張本人である軍師・宇佐美定満は虎千代から贈られた兎のぬいぐるみを腕に抱きながら、「そろそろ頃合いかな」と呟いていた。

 

「明日こそは俺の命令通りに動け、柿崎ッ!さもなくば殺す!」

 

「おう、殺せ殺せ!為景を討ち取る度胸を見せてみよ、小僧!」

 

 長尾政景と柿崎景家の反目は、お互いの性質から出てくるたぐいのものらしく、修復は困難だった――。

 

 

 

 

 

 

 帰陣した柿崎景家のもとに、宇佐美定満が「うひひ」と笑いながら忍び込んできたのは、その日の深夜のことだった。不意を突かれた柿崎景家は、丸太のような腕で自分の上半身を抱きしめながら、怯えた。確かに絵面は不気味極まりない。

 

「南無阿弥陀仏!血迷ったか宇佐美?私には衆道趣味など、ないーっ!」

 

「誰が衆道趣味か!アホかお前、気色悪いこと言うな!」

 

「では、なんだあああっ?」

 

「静かにしろ。人変わりしすぎだろ、お前……さっきの軍議でわかったが、柿崎景家、お前はこの越後内乱に義憤を感じているな?」

 

「常々言っていること!為景には越後を治める人徳がないし、政景も同じよ!上杉家の人材もあらかた為景に殺されるなり逃げるなりで、守護にふさわしい器量を持つ者はすでにおらぬ!」

 

 私はこのような戦に振り回され続ける越後の民が哀れでならない、だから明日こそ為景を殺してこの三十年の内乱に決着をつけるううう!と柿崎景家は槍をしごきながら凶悪な笑顔を浮かべた。柿崎城での心優しき明君ぶりしか知らなかった宇佐美にも、柿崎景家のこの外道武将としての覚醒は計算外だったらしい。

 

 だが、流れがこっちに来ている、幸運かもしれない、と判断した。

 

「宇佐美よ。私は、越後に義を取り戻そうというあんたの言葉に賛同して戦に出てきた。だが長尾政景は失格だあああ!上条定憲などは政景の傀儡になっているだけで、論外!」

 

「ああそうだ、柿崎の旦那。その目で見て理解できたろう、越後の内乱が終わらない理由が。為景が壊してしまったものは、もう元には戻らない。守護上杉家の復興は、上杉の血にこだわる限り、不可能なんだ」

 

「……あんたは、宇佐美一族を皆殺しにした為景へ復讐したいのではないのか?」

 

「うひひ。復讐を超えてこその義さ。信仰心の篤い旦那なら、わかってくれるだろう。旦那をこっちの陣営に引っ張り込んだのは、為景と戦うためじゃねえ。この内乱を手早く終わらせるためなんだぜ」

 

「ふむ。どういうことだ、宇佐美よ」

 

「今すぐ返り忠して、本陣で寝ている上条定憲を襲え。反乱の旗頭である上条定憲を蹴散らし、敵陣へ駆け込み、為景に合流しろ。それで旗頭を失った政景も抗戦をあきらめ、戦は終わるさ。オレさまが両軍の間に立って、和睦に持ち込む」

 

「なんだと……血迷ったか宇佐美。寝返りなど、できいいいいん!」

 

「ところが政景が担いでいる上条定憲は、正式な守護じゃねえ。誰もが忘れているが、越後の本物の守護は、為景のところにいる。府中にな。だからこいつは寝返りじゃねえ、返り忠だ」

 

「宇佐美。私が、あんたをこの場で殺すことは考えておらんのか?寝返りを進める不忠者は死あるのみとひとたび私が叫べば、槍の穂先があんたの胸板を貫くぞ」

 

「結界は張ってある」

 

 柿崎景家がふと頭の上を見ると、きらりと光る筋のようなものが、いくつか確認できた。

 

「鉄で作った紐だよ。ほとんど見えない上に、よく切れる。こいつを何重にも巡らせてある。オレさまが指を動かせば、旦那は細切れさ。ひひっ」

 

「……忍びの術か? 武人とは言いがたし!」

 

「こちとら、生き延びるためにはなんでもやってきたんでな」

 

「そのような脅しで寝返る柿崎景家と思ったか?」

 

「いや。ただの用心さ」

 

 柿崎景家は、豪胆にもにやにや笑いを浮かべて兎のぬいぐるみと遊んでいる宇佐美を眺めながら、ため息をついた。

 

「ふむう……驚いたぞ。つまりは最初から、為景と政景、両長尾家を和睦させるために立ち回っておったのか、宇佐美よ。私を引き入れたのも和睦のためか。これまでも為景と政景、両者の和睦のためになんの得にもならない奔走を重ねてきたとは聞いていたが」

 

「その先は綱渡りになるがな。すべて思い通りにいくなんて思っちゃいないさ。だがとにかく、老いた為景が家督を正式に誰にも譲らぬうちに病かなにかでいきなり死ぬのがいちばんまずい。越後が滅ぶ。急いで、為景死後の体制を定めなければ。その席に為景をひっぱりだすための、この戦なのさ」

 

「ふふふ。立派なものだな、宇佐美よ。なぜにあんたは一族の恩讐を超えて、そこまで義を貫こうとする。戦の果てにあんたはなにを見た。阿弥陀如来か?」

 

「いや。毘沙門天みてえな顔をした、人間の子供さ」

 

「……神の子と噂されている、虎千代さまか?」

 

「ああ、そうだ。かわいいぞ。返り忠したら、いちど春日山城に顔を出してみるんだな。兎のぬいぐるみを差し入れると喜ばれるぜ。ひひっ」

 

「女人は武人にはなれぬ、それが越後の掟だが……ふーむ」

 

 わかった、あんたの義の心にこたえよう、これから上条定憲を蹴散らしてくる、と柿崎景家は即答して立ち上がっていた。

 

「返り忠の汚名も、越後に義を取り戻すためとあれば、御仏も許してくれようぞ。南無阿弥陀仏!」

 

 今日が初陣のお前はまだ悪鬼にはなりきっていない、越後期待の星だぜ柿崎の旦那、と宇佐美が笑った。この光景を金色の瞳が見つめていた。

 

 

 

 

 

 為景方の陣では何故か本日一番働く羽目になった高梨政頼が苦い顔をしていた。彼は元々援軍ではあるが、最前線で戦うことになるとは全く思っていなかった。にも拘らず、総大将が病気で浮足立つ軍中にあって唯一まともに動ける軍であったのだ。

 

「夜分に失礼仕る。敵陣にて密談を聞きました。柿崎景家が今夜裏切りを行う模様」

 

「何!まことか!」

 

「はッ」

 

「うーむそうか。ならばならば。勝ち筋のあろうと言うもの…おい、貴様いつまでいる。はよう下がらぬか」

 

「申し訳ございません」

 

「全く、妖術遣いの忍び風情が…」

 

 政頼の目には下賤の者、と蔑む色がある。これはある種普通の感覚だった。忍びの人権は無いに等しい。私がいなければいまごろ自軍は大混乱だったろうに、と今回の戦で活躍したものの全く報われない加藤段蔵は小さく呟く。反為景連合軍に報告された鬼やら妖は全て彼女の幻術である。

 

 高梨政頼には日々暮らすための銭を得るため一時的に雇われているものの、忠誠心などあろうはずもない。彼女の理想の世界を作る力は彼には無かった。いずれかにいないだろうか。我が才を理解し、恐れず蔑まず、我が理想を遂げて下さる方は。

 

 いるはずもないか、この乱世に。そう悲しくため息と共に言葉を吐き出して加藤段蔵は夜の闇に消えていく。彼女が己の真の主に見出されるまではまだまだ時間が必要だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 柿崎景家、返り忠!

 

 戦況は一変した。

 

「越後の守護は、府中におわす!ならば守護をいただいている長尾為景こそ正統の守護代!長尾政景が担いでいる上条の上条定憲は、偽者であったわあああ!」と突如翻心した柿崎景家が、上条定憲の本陣をいきなり夜襲。驚いた上条定憲は所領へと逃げ帰り、柿崎景家は兵を率いて為景方に合流。

 

「あの男、よくもこの俺を裏切ったな!許せん!この三分一原を、血の海に染めてくれるわ!」

 

 窮した長尾政景はなおも残存兵を統率して激しく戦ったが、宇佐美定満が「為景は病を発している。今が頃合いだ」と政景を説得して交渉の席へ着かせた。

 

「宇佐美!さては、貴様が柿崎を寝返らせたな!」

 

「守護代の座を狙うなら、為景が病で衰えている今が好機だ。今を逃せばお前には二度と回ってこないぞ」

 

 こうして、春日山城に長尾為景・長尾政景・宇佐美定満らが集まり、和睦と越後支配体制の今後についての交渉が実現したのだった。宇佐美も、ここまでは念入りに下準備してきたが、この先はぶっつけ本番である。長尾家の人間ではない宇佐美自身の発言力は、ほとんどないに等しいのだ。なお、援軍の高梨政頼は既に為景から謝礼を渡され帰国済みである。

 

 宇佐美のほうに、風は吹いていた。宇佐美も読み切れなかった要素が付け加わっていた。交渉の直前に、隣国の越中でまたしても反為景一揆が起きたという急報が国境から届いたのだ。一揆勢は、春日山を目指し進軍してくるという。

 

 この場で政景と和睦を成立させなければ、為景の命運は尽きるだろう。

 

「俺は隠居して、息子の晴景に家督と越後守護代の座を譲る。が、それは名目だけで、実権は渡さん。生きている限り、俺こそが越後の王だ」

 

 為景は咳き込みながらも、なおも野望の炎に燃えていた。しかし、あれほどの巨体の持ち主だったはずが、ずいぶんと痩せていた。政景も、これはあまり長くない、少なくとも戦に出られるのはあとわずかだろう、と為景の衰えを一目で理解した。

 

「だが晴景には子がいないな。しかも、晴景は病で伏しがちだという。こんどの三分一原の戦にも顔を見せなかった。晴景が子を残さずに終わったら、どうする」

 

「……その時は、政景。長尾の分家である貴様が守護代を継げばよかろう」

 

 為景は忌々しげに、吐き捨てた。

 

「フン。俺はしょせん分家だ。守護代を継いだとて、越後の国人どもを統率できるかどうか。それに、口約束だけでは保証がない」

 

「なにを要求するというのだ。こほ、こほ」

 

 咳が止まらん、と為景は手で口元を抑える。どうしようもない老いと病の気配がそこにはあった。

 

「かつて一度流れたあの話を今こそ実現しよう。婚姻同盟だ。府中長尾家の娘を、俺の嫁とする。これで俺は本家の一門衆だ。両長尾家は完全につながる。仮に晴景の次の守護代が俺になっても、いずれ守護代の座はお前の血を引く孫に戻ってくることになる。どうだ」

 

「だが、それだけでは一方的だ。政景、貴様が晴景を裏切らぬという保証がないぞ!」

 

「これから言う俺の要求をのんでくれれば、俺は絶対に晴景もあんたも裏切らない。先陣を務め、ただちに越中の一揆勢を蹴散らしてやろう」

 

「要求とはなんだ。どこぞの領地でも欲しいのか」

 

 為景はどこの領地でもくれてやる腹づもりだった。これで越中の一揆勢をどうにか出来るなら御の字である。政景がもし、本当に裏切らないならば、この提案は非常に魅力的だった。

 

 

 

 

 

 

 

「虎千代を、俺の嫁にする。今宵、俺は府中の館で待つ。夜明けまでに、虎千代をよこせ」

 

「虎千代だと?貴様、本気であいつに執着していたのか?綾ではないのか?」

 

 為景は政景がいったいどのような無理難題を言いだすのかと警戒していたので、むしろ気が抜けてしまった。

 

「あれも大きくはなり体力もついてきたが、身体の色は抜けたままだぞ。生涯あのままであろう。それに、あれはなにやら気むずかしい。出家したいといつもつぶやいて思案にふけっている。男には懐かぬぞ」

 

「いいから、虎千代をよこせ!あんたにとってはどうでもいい娘だろうが、長尾家の存続と晴景の命の保証が娘一人で済むのだぞ!それともまだ俺と戦をするか、ジジイ!」

 

「……わからぬ。虎千代のなににさほどにこだわるのだ、貴様は。あれは、女としては出来損ないだぞ。そもそも俺の実子かどうかすら」

 

 短気な政景はぶるぶると震えだし、「貴様にはわからんのだ。もうろくしおって!」と激高した。

 

「為景!次に虎千代を侮辱するような言葉を吐いたら、貴様をこの場で刺し殺すぞ!俺はな!天下に嫁とすべき女は虎千代ただ一人と、あいつが生まれた時から思い定めてここまで独身を貫いてきたッ!」

 

「な、なんだと?」

 

 為景は、あっけにとられた。ここで為景を責めるのは酷であろう。この辺りの思考回路は割とまともな老人に政景の思考を理解せよ、と言う方が無理難題である。為景の傍らにはべっていた宇佐美も、政景が見せた異様な執念に息をのんだ。

 

「鳶が鷹を生んだようなものだからな、貴様のような野獣にはあの娘の美というものがわからんのだ。越後の王には、王にふさわしい女が必要だ!ただ血筋が高いだの見た目が麗しいだけだのでは足りんのだ。虎千代のあの赤い瞳から放たれる神聖さ。あれこそ、この長尾政景の伴侶にふさわしい光よ!」

 

 ただの女ではだめなのだ、ただの女では、と、政景は熱にうなされたように立ち上がって叫び続けている。完全に、狂乱していた。常人の放つ雰囲気ではなかった。

 

「虎千代は特別な女だ。人でありながら神。あの聖なる者を、春日山から引きずり下ろして、この俺のものにしたいのだ!」

 

 もはや、越後守護代の話などはどうでもいい、と言わんばかりだった。策士の宇佐美ですら、政景がこれほど鬱屈した感情を虎千代に抱いていたことを、想定できなかった――。

 

「……そうも虎千代に執着されると、否と言ってやりたくなってきたぞ。なにやら不意に虎千代が不憫にもなってきた。ただの嫁入りではない、これはもっとおぞましいなにかであろう」

 

 政景の狂乱ぶりを見ているうちに、虎千代への親としての愛情と憐憫を抱いたのだろうか。為景が、生理的嫌悪感を剥き出しにして、政景をにらみつけた。或いは、父親としての本能かもしれない。

 

 宇佐美が「わけがわからねえ」と頭をかきむしっていると、座のいちばん奥に隠れるように立っていた一人の痩せた武士がいきなり、

 

「その婚儀の話、承知いたしました」

 

 と為景を制して返答してしまった。

 

「直江、ひかえい!」

 

 為景が怒鳴ったが、「直江」と呼ばれた青白い顔の男は、「先日、殿はわたくしを虎千代さまの守り役に任じられるとおっしゃいました。ならば、虎千代さまの嫁ぎ先についてはわたくしにも発言する機会があります」と無表情のまま淡々と答えて受け流す。

 

 直江大和守実綱。長尾為景に仕える側近中の側近。叛服常ない越後国人の中で、直江大和は為景を主と仰ぎ決して裏切らない、珍しい男だった。直江氏は元は本与板城主・飯沼氏の旗本であったが、飯沼頼清が長尾為景によって滅ぼされると、長尾氏に臣従し本与板城主(後に与板城主)となっていた。

 

 史実ではこの後長く長尾家に仕える。子がないまま死んだため、後を婿養子・信綱(彼はトラブルによって毛利秀広という者に殺されている。)の未亡人と結婚した樋口兼続が継いだ。先述の通り上杉四天王の一人である。

 

 

 

 

 

 

 身体は細く、顔は青く、女のように静かできゃしゃで、全身から発する存在感というものがない。その上、口数もこれまでは極端に少なかったために、為景も政景も宇佐美も、これまで彼の存在を意識したことはなかった。

 

「な、直江大和よ、そなた。よもや最初からそのつもりで、年頃となった虎千代のお守り役を志願したというのか?」

 

「御意。長尾政景さまは、以前より虎千代さまを所望しておられましたので。すべては、越後の内乱を終わらせ越中一揆勢の侵入を防ぐためです」

 

 宇佐美が、だめだ!だめだ!と直江大和の胸ぐらを掴んだ。

 

「おや。宇佐美さま。あなたは長尾家の内乱を終わらせるために奔走していたのではないのですか。今こそがその時です。やっと迎えた婚姻同盟を結ぶ好機を、自ら潰されるのですか?」

 

「政景がこれほど虎千代にいかれているとは知らなかったんだよ!なんかやべぇだろう!こいつに虎千代を渡したらどうなる?それにな、虎千代は越後初の姫武将にすると決めているんだ!越後に義を知らしめるための、特別な武将にするんだ! そこまでが越後を平定するためのオレの策だ!今、政景に嫁がれちまったら台無しだ!」

 

「画竜点睛を欠くとはあなたのことですね、宇佐美さま。虎千代さまを義を掲げた姫武将として押し出せると気づけたのなら、そのありがたい虎千代さまを私物化しようとする男が続々と現れることくらい予想できたはずですが」

 

「あいにく、オレさまにはそういう特定の女への執着がねえんでな!」

 

「たいていの男には、あります。ことに越後の武士はそうです。すべてにおいて『私』というものが強いのです。義よりも、私のために生きているのです。そういう者には、虎千代さまは餌にしか見えません。宇佐美さま、あなたは人間というものを過大評価しすぎて失敗したのです」

 

「……ぐ……」

 

「これで決まったな!ふ、ふ、ふはははは!長らく戦ってきた甲斐があったぞおおお!」

 

 政景は「それでは今宵、虎千代を送ってこい」と言い捨てて、笑いながら立ち去っていった。

 

「俺は今ッ!最高の気分だ!」

 

 残された為景は「飼い主の手を噛みおって」と直江大和をにらみつけていた。だが、越中の一揆勢はこうしている間にも春日山へ迫っている。柿崎景家の返り忠でどうにか勝てた今しか、政景と和睦する機会はない。

 

「……仕方があるまい。直江大和、虎千代のことはお前に任せる」

 

「御意」

 

 宇佐美は、為景に猛抗議した。

 

「なんてこった。おい為景!だから、虎千代のお守り役はオレにしろって言ってたんだ!」

 

「もう遅い。あと十年若ければ、政景ごとき小僧に屈服することなどなかった。越後で俺は三十年も戦ったのだ、もう終わりにしよう……政景はどういうわけか虎千代に入れあげている。虎千代をくれてやれば満足し、越中の一揆勢を蹴散らすだろうし、晴景を殺したりはせんだろう」

 

「敵を殺し尽くす修羅が、こんな時だけ弱気になりやがって!虎千代が不憫じゃねえか!あんた、一度くらいは父親らしいところを虎千代に見せてやれよ!」

 

「虎千代が不憫ではあるが、俺は、老いた。悔しいが、これから雄としての絶頂期を迎える政景との戦いを、勝ち抜けん。まして虚弱な晴景にはどだい無理だ。晴景には子は生せんだろう。たとえ女系であろうが、春日山長尾家の血を将来の守護代へつなげるべき時だ。虎千代が俺の血を引いていると信じてみたくなった」

 

「このジジイが。もうろくしやがって!俺の一族を皆殺しにした時のあの気合いはどこへ行っちまったんだ、百まで生きて戦うとほざいていたあの執念を見せろ!」

 

「……貴様の一族にはすまぬことをした、宇佐美。三十年戦って敵をひたすらに殺してきたが、どうやら最後まで越後の王にはなりきれなかったようだ。主殺しの代償は高くついた。俺の身体に、長尾ではなく、上杉の血さえ流れていればな」

 

 数年前なら決して放たれることのない為景の言葉だった。宇佐美は一瞬息を呑む。為景はこの時人生で初めて誰かに謝罪をした。

 

「オレが聞きたいのはそういう言葉じゃねえ!てめえも人の親なら、最後くらい親らしくしろ!長尾政景、あいつは異常だ!虎千代を守れ!」

 

 宇佐美は、吠えた。

 

 そうだ。

 

 もう死んでしまった一族のために、こいつを謝罪させたかったんじゃない。そんな言葉をいくら吐かれても、死んだ者は生き返らない。オレが求めていたものは、未来だ。越後の未来を開くために、オレは――!宇佐美が為景に食らいついているうちに、直江大和が、部屋の周囲に槍隊、弓隊を配置し終えていた。

 

「宇佐美さま。今宵一晩、あなたを軟禁させていただきます。邪魔をされてはたまりませんからね」

 

「ちっ。てめえ、ただの青っちょろい小姓もどきじゃなかったんだな」

 

「どうやら、そのようです」

 

 宇佐美は舌打ちした。目立たない直江大和がこれほどの切れ者だったとは。いや、逆だ。これまではわざと目立たないで過ごしていたのだろう。与板城主・直江大和――父の代から、為景に仕えてきた男。もとの主は、たしか、為景に滅ぼされているはず。宇佐美一族と同様にな。だが直江大和の父親は、主とともに討ち死にする道を選ばず、為景に命乞いして屈服した――直江大和はその時、まだガキだった。幼い頃から旗本として為景に仕え、これまで目立つことなく淡々と職務を遂行してきた。大きな失敗もなければまばゆい戦功もない。底が知れないやつだ、正体がわからねえ。こいつは為景に本気で忠誠心を抱いているのか?

 

 宇佐美にも、読み取れない。直江大和自身の目的が、意志が、どこへ向かっているのか、その無表情さとその真っ白い地味な経歴からはまるで読み取ることができない。今もなお。

 

「てめえ、今の今まで爪を隠していやがったな!直江大和!いったいなにが目的だ! 事と次第によっちゃあ……」

 

「宇佐美さま。わたくしはただ、虎千代さまにお仕えする者です。わたくしの内面には、『私』はありません」

 

 これほどの重大事です、両家が約束を違たがえぬように書面を作り約定を交わしましょう、わたくしがすべて準備いたします、と直江大和は感情を交えぬままに言った。春日山城の虎御前館は、驚愕に包まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 突如訪れた為景が「今宵、虎千代を政景の嫁にやる。対立してきた長尾の本家と分家が、一体となる。これで越後の戦は終わりだ!」と忌々しげに怒鳴りはじめたために、驚いた虎千代は怯え、綾は「まだとらちゃは子供です!」と虎千代を抱きしめながら必死でかばい、母・虎御前も「虎千代はまだ女になってもいません。あと数年のご猶予を」と為景に正面切って反論を挑んだ。

 

 為景は「もう決まったことだ」と譲らない。

 

「政景と戦っている隙を突かれて、西の越中でまた一揆が起きた。俺の親父を殺した越中の豪族どもが、性懲りもなく本猫寺門徒と組んで越後との国境に入ってこようとしている。猶予はできん。急いで政景と婚姻同盟を結ばねば、越後は危うい。虎千代一人で皆が助かるのだ。この春日山が落城すれば一族離散、あるいは皆殺しではないか!」

 

 為景は、刻一刻と抜き差しならない状況に陥りつつある。

 

「ですが、御館さまは虎千代を捨ておかれてきました。愛情を注いできませんでした。それを、今になって」

 

「文句なら、政景に言え!なぜ虎千代なのか、俺にはまるで見当もつかんのだ!四の五の言わずに今すぐ出立させる!よいな!」

 

「そんな。虎千代を、猫の子のように扱うなんて」

 

「猫の子とは思っておらんわ!だが、毘沙門天から選ばれた者とも思わんっ!そなたらがそうやって虎千代を神の子のように扱うから、政景のようなおかしな気を起こす輩やからが出てきたのだぞ!」

 

 虎千代は、綾の腕の中で震えながら、「とらちゃは、出家したい。あの政景がとらちゃのチチオヤになるなんて、いやだ。きっと、怖いことをされる」と勇気を振り絞って父親に逆らった。

 

「そうよ! とらちゃは渡さない!嫁に出すなら、姉のわたしが先のはず!」

 

「……あねちゃ……」

 

「とらちゃが大人になるまで、ずっと一緒にいて守ってあげたかったけれど……政景さまが嫁ぎ先ならば、これで戦が終わり春日山ととらちゃが救われるのならば、わたしは納得できます!」

 

「だめ。あねちゃ。行かないで!」

 

「とらちゃ……とらちゃ! ずっとこうしていたい……放したくない。ごめんね、ごめんね」

 

 為景とて本意ではなかった。この七十過ぎの老人に昔のような苛烈さはもうない。けれども、こうしなくてはいけなかった。彼は結局、そういう生き方しか知らないのだから。為景は虎千代を抱え、綾たちから引きはがす。

 

「とらちゃ!とらちゃあああ!」

 

「おねちゃ……!いやだああああ!」

 

「直江大和!虎千代を籠へ放り込め!俺はすぐさま越中征伐の準備に移る!越後に踏み込まれる前に一揆を蹴散らす。今宵は一睡もできんぞ!」

 

「御意」

 

 見たくない何かから目を背けるようにして為景が去るのと入れ替わりに、虎千代輿入れの件をすべて委任された直江大和が、青白い顔を月光に照らされながら館へと入ってきた。小脇に、為景から手渡された虎千代を抱えている。

 

「放せ!放せえええええ!いやだ、いやだああああ!」

 

「やめて!とらちゃに乱暴しないで!」

 

「虎千代をさらうなんて、母であるあたしが許さないから!」

 

 直江大和は、母と姉の猛抗議をさらりと聞き流して、やはり無表情のままだ。泣き叫び荒れ狂い小さな手足をばたばたと振っている虎千代をまるでぬいぐるみでも抱くかのように抱えたまま、淡々と、なにごとも起きていないかのように事務的に言葉を紡いでくる。

 

 心がないのか、この男は、と綾も虎御前も唖然とした。

 

「綾お嬢さま。虎御前さま。お聞きいただけますか」

 

 一刻ほどが過ぎた。春日山のふもとにある武家館のひとつに、「勝利者」長尾政景が宿泊している。三分一原では、柿崎景家の「返り忠」があって敗れ、為景の息の根を止めることはできなかった。

 

 だが、大局的には政景の勝ちだった。越中一揆の凶報を聞いた為景は、虎千代を嫁にやり政景を一門衆にするだけでなく、隠居して嫡男・晴景に家督と守護代の座を譲る、と折れたのだ。政景に大幅に譲歩したことになる。

 

 結局、すべてを戦で決しようとした為景は、四方に敵を作りすぎたのだ。戦には強くても、政治感覚に欠けていたといっていい。政景はその点俺は聡い、為景のように武辺一本槍で行くつもりはない。これまでは上田の分家の出という劣った血ゆえに越後の国人どもを支配できなかったが、為景の娘を妻にした俺にはもう弱点はない、と自負していた。

 

「明日から越後守護代の座は、あの病弱な晴景に移る。やつには子供がいない。あと数年待てば、守護代の座は俺のものだ!」

 

 もしも、のちのち晴景に子が生まれれば、その時は親子ともども殺してしまえばいい。まあ、それまで晴景の身体がもたないだろうがな。

 

「フフフ。この俺が晴景に酒を教えて、溺れさせたのだからな。だが、酒に呑まれるなんぞしょせんはそこまでの男よ」

 

 深夜の庭園で酒を飲みながら、政景は己に酔いしれていた。

 

「ついに!虎千代と越後守護代の座!二つを俺は手に入れた!」

 

 そうだ。俺はあの虎千代という不思議な娘に心を奪われていた。予感がしたのだ。この娘を手に入れれば、俺のものにすれば、越後一国を支配できると!

 

「守護代の娘という血筋。常人とは異なるあの神秘的な姿。坊主ども、山伏どもが集まってきては伏して拝む神性。虎千代を手に入れた者が越後を支配できると、最初にあいつを見た時に電撃的にひらめいたのだ!掌中に玉を掴んでいながら、最後まで気づかなかった為景は愚か者だああああっ!」

 

 笑いが止まらなかった。役者のように美しい顔立ちの中から野獣のような下卑た笑みが浮かび上がってくるさまは、文字通り、異様だった。

 

 かつて上田長尾家の長だった長尾政景の父には、同族の本家・春日山長尾家の長尾為景と主筋の上杉家が繰り広げた戦の折りに、ここ一番というところで上杉家を裏切って長尾為景側に寝返ったという暗い過去があった。政景の父は、この効果的すぎる寝返りのためにかえって為景率いる府中長尾家に根強い不信感をもたれ、出世はそこで頭打ちとなってしまった。むしろ「上田長尾家は土壇場で主を見捨てた裏切り者よ」「長尾家といえどもしょせんは分家、なんたるあさましさよ」と上田長尾家全体が越後中から白眼視される結果となった。

 

 当時幼かった政景が本家・春日山長尾家に劣等感を抱き、憎悪とともに春日山長尾家の血を求めるようになったのは、父と一族が受けた屈辱の結果だったかもしれない。

 

 政景が、春日山長尾家から妻を娶るという考えに執着したひとつの理由は、このどうしようもない「血」の問題にあったといえる。

 

 そうだ。俺は絶対に成り上がってみせる。春日山長尾家から守護代の座を奪い取ってみせる。俺は、親父とは違う……!

 

 柿崎景家の返り忠というこしゃくな策を弄ろうして俺と為景を強引に和睦させようとした宇佐美も、今宵はあの直江大和とかいう幽霊のような痩せた男に軟禁されて手も足も出ない。この婚姻が成立するまで、宇佐美は解放されないという。

 

 直江大和。なにを考えているのかわからない得体の知れんやつだが、俺が守護代となった暁には取り立ててやってもよかろう。ひたすら飲みながら待っていた政景のもとに、ついに籠が、到着した。

 

「フン……来たか。長かったぞ、この時が来るまでずっと俺は待っていた」

 

 政景は、舌なめずりしながら、御簾を開いた。

 

 

 

 

「放せ。出せ。出せえええええ!あねちゃ!おかちゃ!とらちゃは、嫁になんて行きたくない!チチオヤなんていらない!うさみ、うさみいいい!」

 

 虎千代は手足を縛られ、駕籠に押し込められて山道を運ばれた。日頃はやせ我慢して泣かない虎千代だったが、恐怖と悲しみのあまり大きな目からぽろぽろと涙が溢れてきた。ずっと愛してくれなかった父・為景にいきなりあっさり捨てられた、あの昔から自分を見る視線がたまらなくおそろしい政景の「所有物」にされる、政景の赤ちゃんを産まされる、出家もできないし姫武将にもなれない、自分の前に開けていたはずの未来のなにもかもを奪われた、自分は毘沙門天の化身でもなんでもなかった、長尾家のために使い捨てられるただの道具だった……。

 

 あねちゃ。おかちゃ。とらちゃは、別れたくない…!悔しくて悲しくて、いつまでも涙が止まらなかった。

 

 おとちゃに、こんな扱われ方をされるなんて。越後の姫なんかに、生まれるんじゃなかった。自分の生き方を、自分の意志で決められないなんて

 

 やがて、駕籠が止まった。長尾政景の館か――。籠の奥で虎千代が最後の最後まであきらめない、と赤い瞳を輝かせて様子をうかがっていると、御簾が開いた。

 

 そこに待っていたものは――。

 

「虎千代さま、お待ちしておりました。ここは春日山の麓、林泉寺でございます」

 

 違う?政景じゃない?

 

「直江大和!?」

 

「はい。わたくし直江大和が、本日より、虎千代さまの守り役を務めさせていただきます。騙されたことを知って当面荒れ狂うであろう長尾政景から逃れるために、しばらくこの林泉寺に隠れていただきます」

 

「騙された? 政景が?」

 

「はい。わたくしが、虎千代さまをお守りするために騙したのです。別の者が乗った駕籠が、今頃、政景のもとに」

 

「別の者?」

 

「会議の席で――政景と殿との間に、婚姻に関する約定を交わしました。書面にて。この約定には両者が花押を書き入れ、すでに有効となっております」

 

「それが?」

 

「わたくしが作りましたその約定には、『為景の娘を政景の嫁とする』とあります。『虎千代』とは、どこにも書いておりません。政景は今頃抗議しているでしょうが、婚姻に関する約定に花押を書いた時点ですでに手遅れです。つまり」

 

「まさか? 直江大和、まさか……」

 

「はい。政景に嫁ぐお役目は、綾さまが自ら志願なされました。虎千代さまの替え玉は、『為景の娘』でなければなりませんゆえに。殿にも伝えておりません。この件は、すべてわたくし直江大和の独断です」

 

「……!?」

 

 虎千代は、言葉を失って吠えていた。直江大和に手かせを外されると同時に、飛びかかって殴っていた。直江大和は、黙って幼い虎千代に殴られている。まだ子供の虎千代だ。殴っても蹴っても、直江にダメージを与えることはできない。

 

「がるるうううう!」

 

 虎千代はついには怒りに我を忘れて、直江大和の首筋に噛みついていた。直江大和の首の皮に虎千代の犬歯が刺さって、血がにじんだ。

 

「今宵は、気が済むまで怒りなさいませ」

 

「お前は……お前は、あねちゃを……!なぜだ!」

 

「綾さまに恨みはございません。ですがわたくしは、虎千代さまの守り役にございます。殿が、そう命じられたのです。守り役となったからには――主人を守るためならば、わたくしは誰であろうが犠牲にいたします」

 

 たとえ自分の親であろうが家族であろうが、わたくしは躊躇せず容赦せず利用し搾取し殺します、わが主は虎千代さまただ一人ゆえに。直江大和は静かに、作り物の人形のような声で、そっと語り聞かせる。

 

「なぜだああああ!なぜ、おまえのあるじが、とらちゃなのだ!あねちゃを、返せええええええ!」

 

 一度だけわたくしの本心を言葉にしましょう、それが主に対する礼儀でしょうから、と直江大和は噛まれながらつぶやいている。

 

「わたくしは、自らの意志でこういう生き方を選んだのです。長らく恩顧を受けてきた主を見捨てて怨敵・長尾為景に屈服し命乞いし、恥辱にまみれた晩年を過ごしたわたくしの父――あの男のすすけた背中を見て育ってきたわたくしは、決して、この男のようにはなるまい、ただ一人の主と運命をともにし絶対に最後まで裏切らない、自分自身の人生など持たないと、そう定めたのです」

 

「……直江大和。ならばなぜ、おとちゃに仕えぬ!」

 

「従者は奴隷ではないのです。自らの意志を持って主に仕えるのです。自らの主はわたくし自身が選びます。性悪な為景さまは、その器ではないのです」

 

「兄上は!?」

 

「性悪ではありませんが惰弱にして、これもまた器にあらず。しかしいちど禄を食んだ以上、府中長尾家を裏切ることはわたくし自身が許しません。府中長尾家の者でわたくしの主たるにふさわしい器の持ち主は、虎千代お嬢さまただお一人です」

 

 直江大和は、幼い頃から孤高の魂の持ち主だった。自らの主を裏切り、敵であった為景の武威に尻尾を振った父を、許せなかったのだろう。孤高であるがゆえに、生まれながらに孤高に生きる定めを背負った虎千代に共感していたのかもしれない。

 

「これでしばし、政景はおとなしくなるでしょう。春日山長尾家が越中の一揆を鎮圧し、越後の内乱を平定するためには、政景という荒ぶる狼を手なずけねばなりません。ですが、虎千代さまを失うのは犠牲が大きすぎます。あなたには、戦乱の世を鎮めることが可能だ。たぐいまれなる慈悲心をお持ちだ。宗教者としての天賦の才をお持ちだ」

 

 俗世などにはかかわらず、このまま林泉寺にとどまって出家なさいませ、それが越後のためです、と直江大和は虎千代の背中を撫でながら静かにささやいた。噛み破られた白い首筋から大量の血が溢れているが、直江大和の凍り付いた表情は変わらない。

 

「政景などに嫁いでは、虎千代さまの神性が失われます。それでは本猫寺門徒たちを心服させることは永久にできなくなります。越後、越中、北陸に平和と安寧をもたらすためには、誰かが武家に絶望し一揆に走った民たちの心を慈悲心で救い、そのことごとくを心服させねばなりません。そしてそのようなことができる者は、越後広しといえどもあなたしかいない。婚姻や恋などといった俗事は、あなたから神性を奪います。出家なされば、あなたは永遠にその天賦の神性を失いません」

 

「とらちゃは……とらちゃは、神などではない!あねちゃ一人、救えなかった!ただの、白子の子供にすぎない!日の光にすら怯える、ただの……」

 

「今はまだ子供ですが、いずれ年頃の乙女になりましょう。そうなれば越後の国人どもは、みな、あなたの神々しさに狂う。長尾政景は、聡いのです。幼い心のまま、本能のままに、欲望のままに生き抜いてきたぶん、誰よりも気づくのが早いのです。誰があなたを妻として娶めとるかを巡り、今後、越後はいよいよ乱れる。政景に嫁げば、政景を殺してあなたさまを奪おうとする輩が次々と現れます。そのような私欲を失ってしまった、いや生まれつき私欲というものの量が少ない『義』の男・宇佐美定満には、それが理解できていない」

 

 虎千代は、首を噛まれながらも表情を変えない直江大和の心の奥底をかいま見た気がした。一見すると氷のように冷徹な仮面の下には、たしかに、越後を憂い乱世に憤る熱い男の魂が隠されていた。そして、宇佐美定満とは方向性こそ違えど、彼もまたなぜか幼い虎千代に未来への可能性を見出していた。だからこそ政景から虎千代をかばうために自ら悪名を被った――理屈ではなく、心がそう感じた。

 

 ならば、憎くとももうこの男を噛むのはやめよう、と虎千代は思った。

 

「綾さまにそのむねをお伝えしたところ、ご理解いただけたのです、綾さまはあなたを越後の国人豪族どもによる果てしない奪い合いから守るために、自ら政景に身を捧げたのです――」

 

 

 

 

 

 

 この夜、駕籠から降りてきた綾を見た長尾政景は、激高して綾の首をはね飛ばそうとした。刀を抜きながら、懐にあった書面の写しを取り出して、そして、自分が直

江大和にたばかられたことに気づいた。政景は、勝利に酔いしれて最後の最後に「罠」にはまった自分の油断を罵倒したかった。

 

「うおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 

 だが、綾が決して自分から目を逸らさずに立ち向かってきたことが、「やるならやりなさい、殺しなさい」と一喝したことが、政景の怒りを鎮めた。

 

「わたしは政景さまの妻となるために来ました。わたしでは不服ですか。越中で一揆が起き春日山城に迫っている今、無謀にも春日山軍と最後の決戦をするというのであれば、この場でわたしを血祭りにあげなさい!」

 

 政景は、震えながらも気丈に自分をにらみつけてくる綾を、殺せなかった。殺してしまえば、誰よりも気位の高い政景は、よりみじめになる。

 

 俺は、直江大和に負けた!ぎりぎりまで姿を見せなかったあやつこそ真の策士だ! 宇佐美を出し抜いた時点で、俺は勝利を確信して、慢心していた!この雪深い越後に、二人も、俺と渡り合える策士がいたとは……

 

 刀を鞘におさめて、そして、咆哮した。

 

 錯乱してこの女を斬ったところで、勝ったことにはならん。すでに俺の妻だ。新婚の夜に新妻を斬ったとあらば、この長尾政景が狂乱したと越後中に触れ回られる! 虎千代はまだ誰にも嫁いではいない、耐えるのだ!

 

 いいか、今宵は俺の負けだ。だが俺は命ある限り決して虎千代をあきらめん、手に入れると決めたものはすべてこの手に掴つかんでみせる、それが俺の生き方だ!と政景は綾に言い放っていた。

 

「いいえ。わたしを妻とした以上、妹である虎千代には触れさせません」

 

「……この小娘め……!」

 

「小娘ではありません、あなたの妻です。たとえ男のように武将になる道を閉ざされていても、戦うことはできます。虎千代は、あなたに飼われる鳥ではありません。必ずや、越後を救う偉大な人となります。そのためならば、わたしは……」

 

 そこまで矢継ぎ早に語り終えたところで、綾の緊張の糸が切れた。

 

「…………う……うう……」

 

 荒れ狂う政景への恐怖と、虎千代と離ればなれになってしまった悲しみのあまり、涙が止まらなくなったのだ。政景は、斬ろうか、と一瞬凶悪な思いに駆られた。だが、できなかった。虎千代ではないが、綾が春日山長尾家から娶った妻であることに変わりはない。

 

 春日山長尾家との血の繋つながりは、政景が渇望する越後守護代への鍵だ。生かしておかねばならない。虎千代を奪い損ねた鬱憤を晴らすために、綾を虐待してその命を縮めるような真似も、避けねばならない。

 

「……フン! 小娘めが……武家の嫁になるなど十年早いわ!」

 

 政景は、小姓に命じて綾を別室へ案内させると、自らはほてった身体と頭を冷やすためにそのまま庭園で飲み続けた。

 

 俺としたことが、斬れなかった。ただの小娘と思っていたが……やはり、どこか、面影が虎千代と似ているのだろう。俺は直江大和の知略とあの綾の勇気に敗れた、しかし痛み分けだ。これで俺は春日山長尾家の一門衆となった。越後守護代の座は、必ず手に入れる。そして、虎千代も。

 

 俺はまだ若い。すべてが意のままになるわけではない。敵は多い。しかし一人一人倒し、一歩一歩『夢』へと近づいてやる!あと少しというところで虎千代を手に入れられなかった政景は、綾に対して複雑な思いを抱きつつも、なおいっそう野望の炎に身を焦がすのだった。

 

 

 

 

 

 こうして、虎千代は最愛の姉と引き離されることとなる。だが、彼女の苦難はまだまだここからであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少しifの話をしよう。もし、この時既に兼音が春日山にいたらどうなっていたかである。彼がもしこの時期より少し前の越後に来てしまったら、全力で為景に取り入る。彼と為景はあまり相性が良いとは言えないが、どうせもうすぐ死ぬと分かっている相手なので、我慢も出来る。取り入り方も兼音は良く知っていた。

 

 加えて為景に兵権を一度でももらえれば彼の勝ちである。越中の平定戦が行われ、文字通り反乱勢力は殲滅される。これにより功績と適当にでっちあげた土佐一条のご落胤というゴリ押した血筋で彼は成り上がっていく。

 

 為景が病で臥せっている間、政景を危険分子と判断した兼音は三分一原の戦いにおいて裏から指揮を執る。為景の指揮に見せかけて軍を動かし、終盤では自らも前線に赴き、長尾政景を遠距離攻撃によって討ち取る。そして総大将亡き反為景連合軍は瓦解。為景の勝利となる。

 

 軍神・上杉謙信を生み出さないことを目指す彼は虎千代に出家を唆す。同時に為景はこの目の前の何で自分に仕えているのかもよくわからない新参の能力の高さから、その気になれば下克上も可能であること、政景亡き今、府中長尾の命運は半分くらい兼音が握っていることを悟る。どうにかして繋ぎとめておくために、為景は苦渋の決断ながら娘の綾を嫁がせることを打診する事となるのだが……

 

 それはあり得なかった夢想の歴史である。現実は悲惨であった――――



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第50話 毘沙門天 越


【挿絵表示】


越中の郡分けです。参考までに。

キリのいいところで区切ったら超長くなってしまった…。多分今回だけです。


 政景がすり替えられた花嫁に戸惑い歯ぎしりしているうちに、早くも越中一揆勢は越後との国境近くまで出てきていた。越中には複数の国人が割拠しているが、もっとも大きな勢力を誇っているのが神保家だった。神保家は、北陸一帯を席巻し加賀一国を支配している新興の民衆教団・本猫寺門徒を中心とした一揆勢と共同し、なし崩し的に越中の独立を計っていた。

 

 

 

 神保家は室町幕府管領畠山氏の鎌倉以来の譜代家臣で、畠山氏の領国越中、能登、紀伊などの守護代を務め、越中国射水郡放生津に本拠を構えた。応仁の乱では東軍畠山政長の腹心として神保長誠が活躍、明応の政変で幽閉された将軍・足利義稙を救出し、放生津館に迎えるなど最盛期を迎えたが、長誠の後継者慶宗は主家畠山氏からの独立を目指し、一向一揆と手を結んで長尾能景を討つなどの行動をとったために主君畠山尚順の怒りを買い、長尾・畠山連合軍による討伐を受け、新庄の戦いで能景の子・長尾為景の軍に敗れて敗走中に慶宗が自刃し、壊滅状態となった。

 

 しかし、慶宗の遺児とみられる長職が新川郡に富山城を築いて神保氏を再興し、新川郡守護代の椎名氏との抗争を経て越中一国を席巻する勢いとなった。

 

 

 かつて長尾為景の父・能景は、越中一揆鎮圧のために越中へ出兵した際、この神保家に裏切られて戦死している。神保家は武家でありながら、同じ武家を裏切り、一揆勢と手を結んだのだ。まさに下克上の時代だった。

 

 父の突然の死を受けて家督を継いだ為景は、越中へ攻め入って神保家の当主を攻め殺し復讐を遂げたが、為景が自国越後において本猫寺を禁教としたために本猫寺一揆の勢いはむしろ激しくなり、いまだに隣国越中では反為景一揆はやむことがない。

 

 滅ぼしたはずの神保家も、一揆勢と手を組み再起していた。その越中へ、今、隠居したはずの長尾為景が再び出兵していた。家督を継いだ息子・晴景の体調が思わしくないため、また為景自身にまだ引退するつもりがなかったため、越中戦線に慣れた為景が遠征軍の総大将となったのだ。

 

 娘婿となったばかりの上田の長尾政景、軟禁を解かれた宇佐美定満、柿崎景家らも参戦した。

 

「俺は親父の仇を討ち果たすために、越中で無為に何年も過ごしてきた。ありもしない極楽浄土のほら話で領民や流民どもを騙している本猫寺の連中などどうでもよかったが、ただやつらは親父の仇だったゆえに、越後では禁教として弾圧してやった。今、俺は隠居したというのに、越中の連中は亡霊のようにこうしてまた湧いてくる。因業というものだ……」

 

 越後から越中へ入るには、親不知と呼ばれる難所を越えねばならない。鯨海(日本海)沿いに長々と続く断崖絶壁、その崖に設けられた険しい山道を行軍するのだ。かつて承久の乱の際には朝廷側はここで北条軍を迎え撃ったが、敗れている。交通・軍事の要衝だった。軍師役の宇佐美定満は当初、親不知から山道を進軍する途上に伏兵がいた場合退却が困難だという理由で海路を勧めたが、為景は激しい波と風を理由に陸路を選んだ。

 

「この天気では、雪が降るかもしれんな」

 

 寒風が吹きすさぶ山道を、馬上に揺れながら進む為景は、「越中だけは片付けておかねば死んでも死にきれん」とうめいている。本猫寺は、もともとは浄土宗系の流れを汲む民衆仏教の教団だが、仏教以前の日ノ本の土着信仰――「猫神信仰」と融合して特異な存在となっていた。出家者でも、家族を持ち子を育てることが許されている。

 

 強引にたとえれば、出家と禁欲を絶対視し、かつ民衆に対して閉鎖的な叡山や高野山の旧仏教勢力はローマのカトリックに比することができる。これに対して出家僧の妻帯を認め民衆に対して開放されている新しい仏教勢力の浄土宗系や本猫寺の性格は、プロテスタントに似ているといえよう。

 

 日ノ本でもヨーロッパでも、文明が発展し生産力が向上していく中、貴族とエリートのための密教的で厳格な宗教から、民衆のための世俗的な宗教へと時代の主流は移りつつあった。ただ、本猫寺がプロテスタントに比べて特異だったのは、教祖一族が世襲であったことだ。

 

 本猫寺当主の一族は生まれながらに猫の耳と尻尾を持っており、また肉体も頑強で尋常ならず再生力が強く、これゆえにただの人間とは異なる「聖人」「生き神さま」とされている。

 

 そのような特異な当主をいただき「武家よりも当主のほうが偉大である」と教える本猫寺教団は、武家にとっては許されざる下克上的存在で、実際、門徒たちは主である武家ではなく本猫寺に年貢を納めるようになった。日ノ本の中に、もう一つの国ができたようなものだった。

 

 

 新興宗教はいつでも厄介だった。特に反政府・反支配秩序を行う宗教団体ほど厄介なものは無い。現代の日本でも某宗教が東京の地下鉄で起こしたテロ事件があった。あれとはベクトルが違うが、支配者から見れば五十歩百歩である。

 

 

 

 本猫寺当主一族は、かつてはただの人間だった。しかし八世れんにょの代に、平安時代に半狐半人の陰陽師「安倍晴明」を生んだ大坂の信太の森の者の血が混じった。この者が安倍晴明の血族となんらかの関わりがあったらしく、それ以来一族の当主は生まれつき猫の耳を持つようになり、社会から差別され、弾圧されることとなった。

 

 だがそれゆえに貧民や流民など、領民から差別されてきた人々が続々と本猫寺当主のもとに集い、戦乱の世が長引けば長引くほど流民の数が増え、ゆえに本猫寺は気がつけば戦国大名をも超える巨大勢力となっていた。自ら猫の耳を持つ被差別者であったれんにょは、人間を身分や血筋、職業で差別することを否定し、『ただ商いをもし、奉公をもせよ、猟すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞ』と説いた。これは偶然か必然か、領民が減り流民が増え続ける戦乱の時代に求められていた教えであった。

 

 武家は本猫寺に何度も弾圧を加えたが、れんにょを暗殺しようとしても、れんにょの身体が持つ奇跡的な治癒能力によって再生されてしまい、かえってれんにょの神秘性と門徒たちの信仰心を高めてしまう結果となった。ことに、北陸の本猫寺門徒たちは宗教組織というよりも武装した民衆の自治団に近く、本猫寺当主の命令にもほとんど従わず、武力で加賀一国を支配。

 

 さらに越中・越前・越後・能登でも一揆を起こし、北陸本猫寺王国とでもいうべき新しい国を建設しようとしていた。それは、武家のいない国である。家の代わりに、本猫寺当主をあがめ崇拝し押し立てる、そのようなまつろわぬ民の国である。

 

 なにしろ、加賀で本猫寺教団を巨大化することに成功した当時の当主れんにょ自身が、加賀の門徒たちが制御不能の一揆集団と化し国を奪おうと活動していたさまをおそれ、畿内へ移り、加賀での一揆の動きを批判し、そのまま畿内から戻らなかったくらいである。

 

 プロテスタントの魁であるルターは、自らの教義を掲げて支配者層を倒そうと蜂起した農民一揆を批判した。彼は宗教者としてカトリック教会の堕落を糾弾したが、政治体制までを覆そうとは考えていなかった。しかし、発達した経済力に裏打ちされた自立心を抱いた民衆の動きはルター自身の思惑を超えていき、事態は支配階級と民衆との間の武力闘争へと発展していったのだ。このカトリックとプロテスタントの宗教戦争はヨーロッパに激動の大航海時代をもたらし、カトリックの宣教師たちが命を懸けて極東世界の日ノ本まで大海原を突き進む原動力ともなった。同じことが、この時期、戦国日本でも起きていた。

 

 長尾為景は、この越中の一揆勢討伐に、半生を費やしてきたといっていい。「半獣の教祖なぞを拝むとは、意味がわからん。猫の耳など、なにがありがたいのか。そのようなあやしげな生き物なぞ、食ってしまえばいいのだ」当主自身が猫耳であろうがなんであろうが、そのようなことは問題ではない。ただ、稲荷神や犬神、猫神といった日ノ本古来の土俗信仰の伝統感覚と視覚的に結びつきやすいため、民衆にとってはたとえば「阿弥陀如来」といった抽象的な概念を扱う他の仏教よりも「猫神」のほうがはるかに理解しやすいというだけであったろう。もしも日ノ本に特異な「猫神」が現れていなければ、おそらくは阿弥陀如来を信仰する浄土真宗が本猫寺と同じ歴史的役割を果たしていたであろう。

 

 合戦が続き田畑を焼かれ重い年貢を奪われる中、戦乱の世を終わらせることができない武家に見切りを付けた民衆が、こぞって本猫寺という名の自治団に加わり武装して武家を自らの国から追い出そうとしている。これはつまり、中世から近世へと社会が変革されていく際に経なければならない類の宿命的な闘争なのだ。社会の急激な成長に、既存の制度が追い越され追い抜かれつつある際に生じる混乱。人々が新たな社会、新たな国の仕組みを創出するために通らねばならない「生みの苦しみ」なのだ。為景が、あるいは武家が本猫寺門徒との関係に決着をつけるためには、旧来の支配体制をどれほど強要しても効果などない。彼らは旧来の体制を捨てた門徒たちに、本猫寺が提供するものよりもさらに「新しい世界」を、「新しい生き方」を提示しなければならないのだ。

 

 

 

 兼音はこの世界に来て本猫寺の話を聞いた時、多分彼史上最も間抜けな顔をしていた。何とか捻り出した言葉は「猫、猫ね…猫か…」である。本願寺が

ないことに愕然とし、しかも猫を信仰してると聞いた彼の頭に古代エジプトが浮かんだ。エジプトかよ…と呟きながら頑張って現実を受け入れたのだった。

 

 彼の超個人的な意見としては、自称霊能力者などがあふれた現代に生きていたので是非とも本猫寺の当主一族のからくりを暴きたいと考えていた。実際はからくりなどないのだが、そうと知ればそれはそれで人体にどのような差異があるのかと考え始めた。あと一歩で解剖を試みそうな気配が漂うが、マッドサイエンティストでないのでそこまではしない。

 

 ともかく、彼からすれば本猫寺は驚天動地の存在であった。

 

 

 

 

 

 さて、宇佐美定満が唱える「私欲なき義戦」はそのためのひとつの斬新な方法であり、直江大和が虎千代に求める「慈悲に満ちた救世主」の役割は武家である長尾家の一員に宗教的救済の役割を与えることで本猫寺の役目を武家によって統合しようとする試みである。宇佐美は道義心を忘れた私欲の争いを続けて民衆に見放された武家たちに目を向けて武家の精神を改めさせようと考え、直江大和は一揆にまで追い詰められた民衆の心をすくい取ることに目を向けていた。

 

 このことの本質に、老いた為景は気づけなかった。為景は、こう考える。ひとつの国に支配者が二人いれば、どちらかが倒れるまで戦うしかない、と。

 

 まして、為景にとって越中一揆は父親の仇であり、絶滅させるべき敵だ。しかしこの越中への遠征を、俺は何十年続けてきただろうか?こいつらさえいなければ、俺は今頃越後を統一して関東へ、あるいは京の

都へと進出できていたであろうに……。そう考えずにはいられなかった。

 

 本猫寺門徒と一揆運動は日ノ本の各地に広がっているが、加賀一国をまるまる乗っ取ってさらに隣国支配へと乗り出すという「宗教王国」ともいえる様相を呈している地域は北陸だけである。「加賀・伊勢・大坂」と言われる本猫寺三大勢力地のうち残る二つ――伊勢と大坂では拠点となっている寺とその周辺地域を支配するのみで、国持ち大名化はしていない。

 

 北陸だけが異質なのだ。なぜなのか。為景は考えた。この雪山で豪雪に吹雪かれ凍り付くような寒さと大雪原の荘厳さに震えていると、神というものを身近に感じるのかもしれん。俺たち血なまぐさい武家にはないなにかが、坊主にはあるのかもしれん。北陸の民は、その人生を支配する雪の白さと冷たさゆえに、気候温暖な国の連中よりものごとの中に人間の企みを超えた神秘性を求めたがるのかもしれん。

 

 だとすれば、「武家」であり「人間」である長尾家と、「神」を信奉する本猫寺一揆の戦いには、決着はつかないのではないか。殺しても殺しても門徒は増える。なんと俺の生涯は、雪山における猫との戦いであったか。俺の親父も、この俺も……晴景と政景も、そうなるのか。

 

 因業、という言葉をつくづく感じる。猫にたたられているとしか思えない長尾家に、兎の妖精のような子が生まれたのも、なにかの意味があったのだろうか。ふと虎千代のことをなぜか思い出した為景は、隣を進む宇佐美定満に尋ねていた。

 

「政景のもとには虎千代でなく綾が輿入れしたそうだな。政景は怒っているか?」

 

「荒れてはいるが、直江大和にしてやられた、としぶしぶ負けを認めてるぜ。だからこんどの出兵にもつきあったんだろうよ。しかも先鋒を引き受けた。オレさまも騙されたぜ、あの直江大和ってきざな野郎にはよ」

 

 宇佐美定満は、戦場だというのに兎のぬいぐるみを抱きかかえている。兜の前立ても、兎の耳だ。なにがなんでも兎をめでたいというのが、この男の性分らしい。

 

「直江大和はな、子供の頃から俺に仕えてきた。もとは敵の家に奉公していたのだが、あいつの父親が命惜しさに主君を裏切って俺に寝返ってな。あいつは人質として春日山に送られてきたのよ。万事に如才ない男だったので取り立てた。越後の武家としては異例の男だ。自分の望みや欲をまるで出さない。たんたんと、俺の命令を遂行する。暗殺ですら平然とやってのけ、顔色一つ変えない。ゆえに、信用できる」

 

「命惜しさにあんたに屈服した父親を持つ身の直江は、オレとは辿ってきた生き様が正反対だな。道理で、オレとは考えが合わねえはずだ」

 

 もうその話はよせ、と為景が苦々しそうに吐き捨てた。

 

「直江大和。昔からあいつほど忠誠心の高いやつはいないと思うておったが、どうやらあいつはいつの頃からか俺ではなく虎千代を自らの主君に選んでいたようだ。政景が再度虎千代を所望して俺が断り切れなくなった時、策を用いて虎千代をかばう手はずを、以前から整えていたらしい」

 

「あのきざ野郎は、虎千代を出家させるつもりだ。本猫寺門徒の力が強い越後は武家には支配できない、神の存在が必要とされている、などとぬかしてやがった。虎千代を生き神さまにして、ただの戦争屋にすぎない長尾家に神の権威を与え、猫神さまをあがめる本猫寺勢力を抑えようと考えているようだ」

 

 

 

 

 

 年端もいかぬ少女を神に仕立て上げようなど…と兼音はこれを聞けば嫌悪する。彼は上杉謙信が嫌いである。しかし、だからと言ってまだ未来も未確定な幼子が大人の勝手な都合で修羅の道を歩まされることを許容できるほど悪人ではなかった。かつての憧れがそのような形で利用され、祭り上げられ、徒労の末に死ぬ事など許せなかった。彼も彼で大分鬱屈している。

 

 義を己の力で成せぬなら諦めろ。死ぬまで叫び続けてもいない癖に。誰かに頼って、しかもそれが幼少の感受性が強く、罪悪感を感じやすい少女だとするならば、その義は既に紛い物である。それが兼音の信条である。己の力とそれに合力してくれる同士と共に目指すのが義の道であると考えている。出来ないとのたまうなら、私と同じだ。穢れた夢を見たまま死ぬか、理想を捨てろ、と言うだろう。どこまでも彼は為景の死後に越軍の中核を担う者たちと相性が悪かった。

 

 

 

 

 

「宇佐美。貴様は、虎千代の出家に反対か」

 

「ああ。オレは、虎千代を武家にするつもりよ。あいつは娘だが、晴景なんぞよりずっと出来がいい。越後を制するには、なんといっても強くなければならねえ。だが、政景のように残忍な男が守護代になるのはまずい。為景の旦那、あんたが若返ってさらにあと五十年生きるようなもんだ。あげく、あいつは分家の血をひく己を恥じているぶん、あんたよりひねくれている。いくら強くても政景が頭じゃあ一揆も内乱も果てしなく続くぜ」

 

 その点、純朴な娘である虎千代なら、越後の武家どもが忘れちまった義の心を越後にもたらすことができるはずだ。為景の旦那よ、虎千代は敵を殺し奪い裏切ることしか知らないあんたとは正反対の武将になるぜ、義を体現した希有の武将によ、と宇佐美は豪胆にも笑っている。

 

「人心が荒廃している越後には、義を貫く潔癖さを持った姫武将が必要なのだぜ。まあ、そもそもあんたが人心を荒廃させたんだがな」

 

「だから直江大和は、もはや民が武家を信じていない越後には生き神さまがどうしても必要だと思っているのか。あやつは武家との戦いよりも、本猫寺との戦い――というよりも北陸の民の心を掴むことに重きを置いておるのか」

 

「猫耳に対抗する兎耳教団を作るってんなら、オレさまも話に乗ってやってもいいぜ。教団ってのは儲かるしな。だが虎千代を担ぐのは断る。あいつは天才的な武将に生まれついている」

 

「貴様も直江も政景も、小娘に夢を見すぎだ。あれはな。ただの、娘だ」

 

「美しい夢が見られるだけ、ましじゃねえか。あんたが守護代の時代には、誰もが血なまぐさい悪夢しか見られなかった。だからよ、虎千代に夢を託そうとする男が次々と出てくるんじゃねえのか?」

 

 虎千代は武家になるのか、出家するのか。あるいは、政景が意志を曲げずにあくまでも己のものとするのか。多くの人間の思惑が錯綜し、いまだ、虎千代の去就は定まらない。当人も、最愛の姉である綾を政景に奪われ、これから自分がどうすればよいのかがわからずに戸惑っているだろう。

 

「為景の旦那。まったく、越後はややこしい国だな。西国の人間はもっとのらりとしているらしい。大坂の本猫寺総本山は、こっちの一揆衆と違ってえらく陽気だそうだ。これも、北から重く冷たい風を送りつけてくる鯨海のせいか……」

 

「白い雪のせいかもしれん」

 

 為景は、今日の俺はどこか妙だと気づき、なぜか胸騒ぎを覚えた。それと同時に越後の大の男たちが一様に一人の幼い少女に夢を見ていることに言いようのない不快感と嫌悪感を抱いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その虎千代は、直江大和ただ一人を連れてひそかに春日山を下り、越中と越後との国境へと向かっていた。為景たちの軍勢からはかなり遅れているが、同じ道筋を進んでいる。老いた父・為景を心配してのことだった。百戦錬磨の戦の鬼である為景だが、老いて病んだ身体の衰えは隠せない。

 

 それに、姉の綾が自分の身代わりとなって政景に嫁いだ今、自分だけが春日山の麓でぬくぬくと暮らし続けることに、虎千代は罪の意識を抱いていた。

 

「……できることならば、おとちゃの隣にいたかったが、姫であるとらちゃが武家として参戦できるはずもなかった」

 

「お嬢さま、この道は雪が深い。馬の体力を温存するために、ここで少し休みましょう」

 

 糸魚川を越えて越中との国境にほど近い親不知の山道で、直江大和が馬を止めた。直江大和は何度も越中入りを口にする虎千代に「戦場へ出かけたいなど、愚かとしか言いようがありません」と反対したが、ついに虎千代が虚を突いて勝手に林泉寺を出奔してしまったので、やむを得ず帯同している。

 

 越後と越中の国境、海に面した断崖絶壁の難道・親不知。長い間、鯨海の荒波に削られてきたためか、切り立った高い崖の連なりに、這うように狭い道が延びている。崖を転落すれば下は黒い海。死は免れない。海から直接吹き付けてくる風も、すさまじい。

 

「いにしえの昔、滅び去った平家の奥方が落ち武者となった夫をたずねてこの海に面した断崖を通ろうとしました。だがその際、連れてきた子供たちは次々と波に攫われていったのです。それで、この難所は親不知と名付けられたそうです」

 

「ここには平地がない。山と海とが、直接に交わっている。その山と海の間に、強引に人がぎりぎり通れるだけの道を通しているのだな。とらちゃがもしも落ちれば、簡単に死ぬな」

 

「お嬢さま。今日は波も荒く、風も強いです。為景さまが本来ならば親不知を進むよりも安全な海路を断念したのも、この風と波のためでしょう。馬を下り、ご自分の足で進まれたほうがよいでしょうね」

 

 直江大和が馬から「うんしょうんしょ」とけんめいに下りようとする幼い虎千代を支えようとしたが、虎千代はお気に入りの青竹でぺしりと直江の手を打った。

 

「……とらちゃは、まだお前を守り役と認めたわけではない。あねちゃを、政景から奪い返せ。奪い返したら、守り役にしてやる」

 

 虎千代は優しい性格に生まれついた純朴な子供だが、綾が自分の身代わりになって政景というチチオヤに連れ去られたことがかなりの衝撃だったらしく、直江大和を見る目はとげとげしい。

 

 この自称「守り役」を、警戒しているのだ。こいつは、悲しい事情はあってもこどもさらいだ。あねちゃをさらったんだと。だが、直江大和は涼しい表情で打たれた手をさすっている。この雪だ。分厚い手袋をしているので、青竹で叩かれても痛くはなかった。そして、直江大和は、恐ろしい言葉を静かに口にした。

 

「長尾政景を暗殺すれば、綾さまは春日山に戻ってくるでしょう。それ以外に綾さまを取り戻す手段は、ございません」

 

「……そんなこと、できない!」

 

 虎千代は震えながら、直江大和の尻を青竹で打った。

 

「暗殺など、二度と口にするな! とらちゃは、暗殺など絶対にしない! どんな理由があっても、そんな卑劣な真似はしない!」

 

「ふふ。悪く言えば甘く、よく言えば慈悲深い。それでこそ虎千代さまです。やはりあなたは生まれながらに、慈悲心を備えている。人と獣の罪を許し、命を救わんと欲される天性を」

 

「とらちゃはお前が憎い、直江大和。お前は、腹黒いやつだ」

 

「何度も申しましたように輿入れをお止めしたのは、お嬢さまに出家していただくためです。本来ならばこうして戦場に向かうことにもわたくしは反対なのですが、この山と海との狭間に幽玄に浮かび上がった親不知の難道をいつかお見せしたかったので、まあ、よいでしょう。お嬢さまがここでこの海を前に結跏趺坐すれば、即座に悟りを開くことも可能かと」

 

「ここで足止めして引き返すつもりだな!」

 

「いえ。引き返そうと言ってもお嬢さまはきいてくださらないでしょう。しかし今はなにぶんこの風です、無理はなさらずゆるゆると進みましょう」

 

「おとちゃに挨拶をしたいのだ。あねちゃを政景から取り戻してほしいと、おとちゃに頼みたいのだ。悪い予感がする……あねちゃは、このままでは政景の赤ちゃんを産まされる」

 

「政景さまは祝言を挙げる暇もなく、為景さまとともに越中に出陣中です。子作りなどするような余裕はありますまい」

 

「独身のお前になにがわかる。チチオヤというのは、怖いものなのだ。直江大和。あんな乱暴な男がチチオヤになっても、生まれてくる赤ちゃんは愛されない。そうに違いないぞ」

 

「さあ。それは、生まれてみなければわかりません。為景さまも、お嬢さまを冷たくあしらっているようで、内心ではそうでもありません。ただ、お嬢さまが神の子のごとく美しい特別なお姿を持ったお方なので、どう関わっていいのかためらっておられるのです」

 

 為景さまはなにぶん本猫寺がお嫌いですしね、幼くも神々しいお嬢さまを見ていると本猫寺の当主をどことなく連想するのでしょう、と直江大和は静かな声で語った。

 

「おとちゃは、とらちゃが白いことを気にしているのか」

 

「ええ。あのお方は二度もご自分の主君を戦場で破って殺し、父親の敵である本猫寺を禁教にして一揆衆を殺し続けた。お嬢さまのお姿はそのような己の因業の結果ではないかと、ひそかに怯えておられます」

 

「……そうか」

 

 虎千代は肩を落とした。ふらり、と崖から転落しそうになる。風に、吸い込まれたのだ。直江大和が、すかさず虎千代の手を掴んで引っ張り上げた。

 

「ご注意ください。今日は特に風が強い。気を抜いては、死にます」

 

「……う、うむ。直江大和、大儀」

 

「わたくしはお嬢さまの守り役ですから。しかし、この天候は、危うい」

 

「危ういか」

 

「越後軍も陸路を採り、この先に連なる山道を進軍しています。今までの為景さまでしたら一揆との戦など慣れたもので心配はありませんが、ただ今は綾さまを政景さまに奪われ、家督を息子の晴景さまに譲らされ、気落ちしておられます。最近はとくに病がちでしたし、万一ということも」

 

「おとちゃが危ういのか。急ぐぞ」

 

「お嬢さま。越後軍にとって最大の敵は、雪であり、山と海に阻まれた難路なのです。雪と難路が、行軍の自由を奪い、時を奪い、思考の自由をも奪います。この厳しい自然こそが、越後人にとっては克服すべき敵なのです」

 

「……天と地とが、乗り越えるべき敵か。この親不知に来て、とらちゃにもそのことがわかった気がする。人間に厳しい土地だ。だから北陸には、神にすがる民が多いのだろうか」

 

「そうかもしれません」

 

「……待て。直江大和。前方だ。前線で、なにかが起きた」

 

 虎千代が眉をひそめたその時。遠くから、山々の向こうから、鬨の声が聞こえてくると、虎千代は叫んだ。先刻までは、合戦が繰り広げられている気配は全くなかったのだ。まさか奇襲か、と直江大和がつぶやいていた。だが、直江大和にはその鬨の声は聞こえていない。虎千代の鋭敏な感覚だけが、はるか先にある戦場での異変を、捕らえた。

 

 

 

 

 

 

 異変は本当に起こっていた。

 

 為景と政景、それぞれが勝手に進軍し両軍の間に距離があったことが、問題だった。統率が取れていない越後軍は、越中の山道を進む途中で一揆勢の奇襲を受けた。先行していた政景の軍は伏兵に気づかず、山中の隘路を通過。遅れてきた為景の軍が、奇襲を受けた。

 

 為景自身、槍を受けて落馬した。混乱する中、宇佐美定満が壊乱しかけた軍勢を踏みとどまらせ、少数で山に潜み奇襲してきた死兵たちを蹴散らしたが、このままでは腹を刺された為景の命が危ない。宇佐美は先行していた政景に「殿を頼む」と伝令を飛ばすと、進んできた山道を全軍で逆行、急ぎ退却しはじめた。

 

 置き去りにされた政景は「宇佐美め、この俺もことのついでに抹殺するつもりか」と憤怒の表情で得物を取り、「虎千代を奪い取るまでは俺は死なん!」と雄叫びをあげると、文字通りの阿修羅と化して一揆勢の中へと斬り込みをかけた。壊乱寸前の越後軍は、宇佐美の水際だった采配と殿を任された政景の槍働きによって、越中から越後へと血路を開くことができた。

 

 

 

 

 

 

 

虎千代が半ばまで進んでいた親不知の難所に、手負いの為景を乗せた駕籠を守りながら宇佐美定満が現れるまで、さほど時間はかからなかった。宇佐美は政景どころか旗本衆すら置き捨てて、ただ為景を越後へと運ぶために逃げに逃げてきたらしい。宇佐美の身体は、傷だらけになっていた。虎千代は直江大和と顔を見合わせた。

 

「全軍を捨てて引き返してきた。あとは政景がなんとかするだろう。とにかく為景の旦那が、危ねえ」

 

「あなたがついていながらなにをしていたのです、宇佐美さま」

 

「悪い。虎千代の今後をどうする、って話で為景と白熱していたのがいけなかった。俺も旦那もおそらく政景も、心、ここにあらず、だった」

 

 断崖に立ちながら、宇佐美は駕籠の御簾を開いた。為景が無言で顔をしかめている。腹部の傷は、かなりの重傷だった。直江大和は、すでに為景が助からないことを悟った。

 

「宇佐美さま。ひどい傷ではないですか。なぜ連れ戻してきたのです」

 

「親子二代にわたって越中の一揆に殺されたとあっちゃ、越後守護代・長尾家の面目は丸潰れだろうが。旦那は、なんとしても自分は春日山城で病没したということにしてえのさ」

 

 駕籠の中に横たわりながら、為景がこくりとうなずいた。ただそれだけの動作で、脂汗が流れる。雪が、舞いはじめていた。白い雪の嵐の中を、震えながら、虎千代が為景のもとへ駆け寄っていく。

 

「おとちゃ!?」

 

 為景には、虎千代を振り払う気力も残っていない。むしろ、「おお、おお」と異形の虎千代を迎え入れてくれた。こうして父の腕の中で甘えた記憶が、虎千代にはなかった。

 

「おとちゃ。一揆にやられたのか。あねちゃの次は、おとちゃがいなくなってしまうのか」

 

「……虎千代よ。綾は、いなくなったわけではない。政景の妻になっただけだ。これからも、お前の姉だ……」

 

「おとちゃ。お腹から血が。血が、溢れて」

 

「うろたえるな。これが、因果応報よ。俺の親父は、越中の一揆勢と結んだ神保家に敗れて死んだ。その復讐を果たした俺もまた、俺の行った復讐に対してさらなる復讐を誓った一揆勢に。これが乱世だ。殺し合いの連鎖は、果てしなく続くのだ」

 

 これほど為景が自分に優しく語りかけてくれたことは、なかった。もう、虎千代が白い子であろうがなんであろうが、為景が虎千代の実の父であろうがなかろうが、為景には関係がなくなったらしかった。眉間に深く刻まれたしわが、嘘のように消えていた。

 

 おとちゃは死ぬのだ、と敏感な虎千代は知ってしまった。涙だけは見せまい、と必死にこらえた。

 

「……政景との内輪の争いを綾との婚姻によって終わらせることができただけでも、幸いよ……晴景は身体が弱い……政景とそなたとで、晴景を支えてやれ……もしも、晴景が惰弱でものにならぬなら……この因果の連鎖から、晴景を、降ろしてやれ」

 

 虎千代は、黙って「こくこく」とうなずいた。はじめて、おとちゃが優しくしてくれたのに。はじめて、こうして仲良くお話することができたのに。それなのに。あねちゃを奪われ、おとちゃも死んでしまう!

 

「よいな。俺は病死したということにせよ。二代続けて越中一揆に討たれたとなれば、長尾家は権威を失墜して越後守護代の座を失う。俺が殺した主君は越後守護と関東管領の二人。越中一揆に討たれた長尾家の越後守護代もまた二人。どうやらこれも、坊主が言うところの因果というものだったようだ……」

 

「おとちゃ。とらちゃは。とらちゃは、どうすればいい? 出家か。武家になるのか。おとちゃの、言うとおりにする!」

 

 なんとけなげな娘だろうか。為景は、わが子だ。なぜ俺は疑ったりしたのだろう? この子は、たしかに俺の娘だ……いや、もう、血が繋がっていようがいまいが、そんなことはどうでもよい。虎千代は、俺の子だ……と目に涙を浮かべながら、虎千代のために微笑を作ろうとした。

 

「虎千代。お前をずっと捨て置いてきて、すまなかった。そなたは、そなたの思うがように、生きるが……よい……」

 

 しかし、為景が正気を保てたのは、ここまでだった。失血と衰弱と混乱とで、死に瀕している為景の知覚は、にわかに異常のものとなった。おそらくは脳の一部に、致命的な機能障害を来したのだろう。為景の目の瞳孔がかっと開いた。目の前にいる虎千代を、怯えながら凝視していた。

 

「……お……おお……毘沙門天か……毘沙門天が、この俺に神罰を下しに来たのか!?まさか、神は本当にいたのか?ならば、俺は地獄落ちか?」

 

「ちがう、毘沙門天ではない。おとちゃ。とらちゃだ」

 

「神よ……お許しあれ……!お許しあれ、なにとぞ!俺が主である越後守護を殺し、関東管領を殺したことを、怒っておるのであろう!しかし、殺さねばこちらが殺されていたのだ! 仕方がなかったのだ!」

 

 為景は惑乱した。白い頭巾に頭を包み赤い瞳を光らせている小さな虎千代の姿が、天から舞い降りた毘沙門天そのものに見えているらしく、最後の生命力を振り絞って全身全霊で恐怖した。何十年もの間、胸の奥に封じてきた罪悪感のすべてが、一瞬のうちに解き放たれていた。彼は、根本では普通の人間だった。残酷な世界が彼を狂わせた。

 

「俺が越後に内乱を起こし、関東に争乱を起こし、越中で一揆勢を討ったこと、なにもかもが罪というのか!この俺が東国に戦乱を招いたと!俺の下克上が、ぬぐいがたい罪だと?俺は生涯をかけて、東国の秩序を破壊し戦乱の因果の種を蒔いたと?そこまでして越後一国さえ統一できなかった。それが、俺の全人生だったと?」

 

 瀕死の為景だった。傷が痛み、熱にうなされ、理性を失っていた。これまで修羅の仮面の下に押さえ込んできた人間の生の心を、もはや隠すことはできない。為景は虎千代の赤い瞳から逃げようと、まるで別人のように怯え、苦しみ悶えた。

 

「やめてくれ!その瞳で俺を見るな!心の内の醜きもの、弱きもの、おぞましきもの、目を背けたくなるもの、すべてを見通すその瞳で!」

 

 宇佐美定満も直江大和も、虎千代を毘沙門天と見間違えて駕籠の中で悲鳴をあげる為景に、なにをすることもできなかった。宇佐美にとっては一族の仇であり、直江大和にとっては父親を屈服させ恥辱を与えた忌まわしき記憶の源泉である。しかしその為景もまた、心の内では己がしでかしたことへの罪の意識に、常に脅かされて生きてきた――。

 

 だが、いくら暴虐の王とはいえどいまわの際に実の娘を自分を罰するために現れた神と見間違えて怯えながら死んでいくなど、あまりにも哀れだった。為景も、そして虎千代も。

 

「……おとちゃ……とらちゃが、わからぬのか。とらちゃは、そのようなものではない」

 

「俺を見るな!俺はおそろしい!神仏が実在したならば、地獄があるならば、俺は永劫に罰を受けるしかないではないか!この越後に、俺ほどの悪党がいただろうか!主を二人も殺し、従わぬものを次々と討ち果たし、主君の上杉家を没落させて関東までを混沌に陥れた俺ほどの悪が!頼む、許してくれ!」

 

 虎千代の神秘的な姿は、今の為景にとっては、神罰を下す毘沙門天そのものにしか見えないらしかった。

 

「これ以上、もたねえ」

 

「お嬢さまが哀れすぎます」

 

 宇佐美と直江の二人は、為景に触れることも許されず呆然と立ちつくして震える虎千代を引き離そうと駕籠へ歩みよろうとした。

 

 だが。

 

 虎千代は、二人を視線で制すると、怯える為景の手をそっとにぎっていた。こうして、直接父に触れた記憶はなかった。自分はずっと父に怯えられていたのかもしれない、と虎千代は思った。すでにその手を振り払う力もない為景は、「許してくれ」とうわごとのようにつぶやいている。

 

 まもなく、息を引き取るだろう。

 

 虎千代は、老いて傷つき今この現世から去ろうとしている父の目を、その赤い瞳でじっと凝視した。為景が「ああ」と声を漏らした。虎千代の唇から、少女のものとは思えない声が、発せられていた。

 

「許す」

 

「ああ。許して、くださいますか」

 

「汝の犯した罪を許す。越後守護を殺した罪を許す。関東管領を殺した罪を許す。主家の上杉家を没落させ、越後と関東に騒乱を起こした罪を許す。越中一揆を殲滅しようとした罪、本猫寺を禁教にして弾圧した罪を許す。宇佐美定満の一族を滅ぼした罪を許す。直江大和の一族に屈辱を与えた罪を許す」

 

 虎千代は、父の犯した罪のすべてを、許す、と伝えた。もう、虎千代だと思われなくてもいい。毘沙門天と名乗ってでも、父の魂を救いたかった。

 

 いかにすれば父のこれほどの大罪をあがなうことができるのか、まるでわからないままに、それでも虎千代はただ父を救うために、神聖なる軍神・毘沙門天になりきっていた。

 

 為景の表情から、恐怖が消えていった。

 

「感謝、いたします……俺は……今……救われた……」

 

 為景はまぶたを閉じて、動かなくなった。背後では宇佐美定満と直江大和が、無言で手を合わせている。驍将、長尾為景。関東管領と越後守護、上杉家の主を殺した男。自分に抵抗した宇佐美家の一族を皆殺しにした男。直江家を力で屈服させて、主を裏切らせた男。父の仇である越中一揆と戦い、そして敗れて自分もまた父と同じ結末を迎えた男。

 

 これほどの悪行を重ねていながら、ついに越後守護代の座を守りきれず、野心家の政景に娘を与えねばならなかった男。

 

 だが、その最後は、安らぎに満ちていた。現世に降臨した毘沙門天によって、すべての罪を許す、と約束されたのだ。だが、その毘沙門天は、本物ではない。虎千代の、演技である。虎千代にこのような演技をさせてしまったことを、宇佐美定満も直江大和も、家臣として、そして虎千代の器に惚れ込んでいた者として、恥じた。

 

 恥じながらも、虎千代の中に、尋常ならぬ純粋ななにかをはっきりと見出し、感情を乱されていた。常に無表情を貫いてきた直江大和ですら、唇の端を震ふるわせている。

 

「おとちゃが、死んだ」

 

 二人はその言葉で、「長尾為景が死んだ」という現実に、引き戻された。

 

「……旦那……すまねえ。オレが油断していたばかりによ……オレはいつも、最後の詰めが甘い。わざとじゃねえんだ、悪かった」

 

 半生を為景との戦いに費やしてきた宇佐美定満は、まるで実の親が死んだかのように、顔をしかめて立ちすくんでいた。

 

「為景さま。どうか、安らかにお眠りください。お嬢さまは必ずや、この長尾家の因果から、わたくしが……」

 

 直江大和は、自分の表情を見られたくないかのように、天を見上げている。暗鬱な灰色の雲に覆われた、越後の空を。そして。

 

「うわ……うわああああああ!」

 

 毘沙門天から、ただの少女に戻った瞬間。

 

 虎千代は、為景のもとからぴょんと飛び退きながら、叫んでいた。その兎のように赤い瞳は、自分の無力さに対する深い怒りと黒い絶望とに燃えていた。

 

 なにが、毘沙門天の化身だ。自分が毘沙門天であると、嘘までついた。それでも老いた父一人、守れなかった。姉を自分の身代わりとして、野獣のような男に差し出した。いったいなんのために自分は生まれてきたのか。日光のまぶしさにすら怯えるようなこんな脆弱な身体で。

 

 父親を、殺し合いの因果から救い出すこともできず。男たちの好奇の視線に怯え。ただ春日山に隠れ、母と姉に甘えて、無償の愛情をねだるばかりの日々だった。これほど重い因果に絡められた家に生まれていながら、これまでなにをなすこともできなかった。

 

 許す?おとちゃの罪を許す?とらちゃに、そんなことを言う資格があったのか?ただ一つ、許す方法があるとすれば、それは――。

 

「おとちゃが因果応報で死なねばならなかったというのなら、その因果は、とらちゃが引き受ける!毘沙門天!とらちゃから、肌の色を、髪の色を、瞳の色を奪っておきながら、なぜ命を奪わない?おとちゃの罪を許せ!その代わりに、とらちゃの命を、持っていけ!」

 

 虎千代は、叫びながら崖から飛び降りて鯨海の荒波へと自分の身体を差し出していた。

 

 なんのためらいもなかった。

 

 宇佐美も直江大和も、あまりにも一瞬のことだったために、制止できなかった。

 

「な……なにいいいいっ? 虎千代てめえ、なんてことを!」

 

「お嬢さま!?」

 

 二人は為景の遺骸の存在ゆえに一瞬ためらったが、次の瞬間には無言で自ら虎千代を救い出すために崖の下へ――波しぶきの中へと飛び降りていた。同時だった。虎千代の小さく脆い身体は、清浄な鯨海の底へと沈んだ。波にのまれ流されていく虎千代の呼吸は、この時、止まっていた。

 

 生と死の狭間、天と地との狭間で――。

 

 虎千代は、夢を、見ていた。鯨海の底に身体を残して、虎千代の意識だけが、天へと引き上げられていく。脆い肉体を持っていた時には直視できなかったあの太陽へ向かって、虎千代は上昇していく。見下ろすと、宇佐美と直江が鯨海へ飛び込んで自分の身体を引き上げようとしている光景が、ありありと見えた。

 

 幽体離脱か、はたまた幻覚か。その正体は分からない。ただ一つ事実なのは虎千代の視界は確かに天にあった。

 

 

 

 

 

 

 

 とらちゃは、死んだのか?おとちゃは…?宇佐美と直江、こんな自分になにがしかの期待をかけてくれてきたあの二人まで巻き込んでしまわないよう、虎千代は祈った。虎千代は、ぐんぐんと地上から引き離され、どこまでも昇っていく。

 

 気がついた時には、満天の星空の中を漂っていた。背後には、青くて丸い星が、見えた。ああ。あの青い星がとらちゃが暮らしていた「地」だ、と聡い虎千代は気づいた。

 

 太陽は、まばゆい星々がきらめく闇の中に、なおも赤く輝いている。暗黒の夜空の中に、太陽がぎらぎらと輝いている。その太陽の彼方から、誰かの声が聞こえた。知らない声だった。男か女かもわからない、奇妙な声。

 

「虎千代よ。長尾為景の命はすでに尽きた。しかし生前の罪をなかったことにはできない。むろん、そなたの命と引き替えにもできない。そなたはまだ、死ぬべき時ではない。地上へ戻り、生きねばならない」

 

 その声は、虎千代の意識の真ん中へと直接届いた。

 

「なぜだ。とらちゃは、なんのためにこんな姿で生まれてきた。本猫寺の当主のように、新しい宗門を作って民の心を癒やすためか? おとちゃにやったように、毘沙門天のふりをして嘘をついて人を救うためか?」

 

 虎千代は、己の意志をその何者かにぶつけた。

 

「虎千代、そなたは人間でもなければ、少女でもない」

 

「人間ではない?」

 

「そうだ。そなたは、本当にこの私、毘沙門天の化身であり分身である。毘沙門天とは、地上の世界を生み出した天の意志そのものであり、この宇宙そのものである。そなたはその毘沙門天の魂を人間の身体に宿して府中長尾家に生まれた。そなたのその白い肌と赤い瞳とは、印である」

 

 信じがたい言葉を、虎千代は聞いた。

 

「とらちゃに、なにをしろと言うのだ?」

 

「毘沙門天の化身として、乱れた世に正義を示し、失われた秩序を回復せよ。神の化身として自ら戦場に出て槍を取って悪しき者どもと戦い、正義の心を人々に示せ。欲の戦ではなく、義の戦というものをなせ。懲らした悪には慈悲を与え、悪を善となせ。神が人のかたちをとって戦というかたちで世に正義を知らしめる奇跡があると、そなたはその短い全生涯をかけて人々に訴えよ」

 

「人を救うのに武が、戦が、なぜ必要なのか?」

 

「そなたに武の力があれば、為景は一揆に殺されなかった。しかしその一方で、そなたが慈悲の心によって為景を許さなければ、為景の魂は救われなかったであろう。そなたは義を示すために悪人と戦い、かつ、慈悲の心をもって彼らを許すのだ。人の命と、人の魂、そのいずれも救うのだ。それが、本物の神の道だ』

 

 なぜだ。なぜ、こいつはうさみのようなことを言う。義のための戦?なぜ、直江大和のようなことを言う。神の子として生き、悪人に慈悲を与える?ほんとうに、こいつは毘沙門天なのか?とらちゃは、海中で溺れながら夢を見ているにすぎないのではないか?虎千代の明晰な心が、自分が今体験しているこの邂逅が現実なのか妄想なのかと問いかけ、迷わせる。

 

「断る。坊主や神人が槍を取って戦をすることを、とらちゃは好まぬ!戦をすれば人が死ぬ。宗門や神仏は、人を救うためにあるはずだ!武家か、出家か、いずれかだ!どちらの生も同時に生きるなど、強欲だし矛盾だ!」

 

「末法の世だ。釈迦牟尼が大王になる道を捨てて出家し、それで世が定まっただろうか?戦が終わっただろうか?終わらなかった。釈迦牟尼の一族は滅び、彼の一族の国もまた消えた。武によって滅ぼされたのだ。西方にも、同じ運命を辿った神の子がいた。その者は帝国に武で抵抗せず、十字架にかけられて人々に義と救済を示した。しかし、やはり、それでも戦乱は終わらなかった。言葉だけでは、世は変わらず、人は救われない。言葉は、慈悲は、人の魂を救える。救う手助けができる。しかし命を救うものは武だ。慈悲の心に裏付けられた無私の義戦だ。乱世の神は、生きてあらねばならない。生きて、そして戦わねばならない」

 

 西方? 十字架? 船に乗って西国に現れたというキリシタンのことか?とらちゃはいつどこでキリシタンにまつわるこんな詳しい話を耳にした?これがとらちゃの夢ならば、とらちゃはどこかで誰かから、キリシタンについて聞いていたはずだ。でも、思い出せない……。

 

 ならば、これは夢ではないのだろうか?

 

「虎千代よ、そなたは釈迦牟尼たちとは異なる生き方を示せ。人としてではない。神として義戦を戦い、かつ敵をことごとく許し、命と魂をともに救え」

 

「なぜ、とらちゃが」

 

 お前は自ら毘沙門天を名乗って、長尾為景の罪を許す、と口にした。言葉にした。その瞬間に、お前は自分が為景に伝えた言葉を自ら生涯をかけて本当のことにしなければならなくなったのだ、と毘沙門天は答えた。

 

「自らの主を二人も殺し、神を信じる門徒たちと争い殺し、世の秩序を乱した長尾為景の罪業をあがなうために、お前は毘沙門天の化身として生きる定めを背負ったのだ。これは、罰である」

 

「罰?」

 

 腑に落ちた。疑問は、氷解した。この毘沙門天との対話が夢でも幻でも構わぬ、とらちゃにとって真実であればそれは真実だ、と虎千代は叫んでいた。虎千代は、自分自身の存在理由を、ついに見つけた気がした。

 

 おとちゃは、たくさんたくさん、悪いことをした。越後でいちばん偉い人であり越後の王である守護を殺し、その越後の王よりもさらに偉い関東管領を殺した。越後守護と関東管領の家系・上杉家を無残に衰退させ、越後と関東に大乱を引き起こした。越中の一揆にも厳しく当たり、父親を殺された復讐戦を繰り返し、本国越後で本猫寺を禁教とし弾圧した。主である守護のために戦った宇佐美の一族を、皆殺しにした。

 

 悪いことばかりしている。多くの人を死なせた。でも、おとちゃだって、やりたくてやったわけではない。戦って勝ち残らなければ滅ぼされるから戦ったのだ。しかたがなかったのだ。戦国の世だから。乱世だから。誰も彼もが、戦い、裏切り、殺し合う。誰かが、この因果の連鎖を断ち切らねばならない。

 

 すべてを、許さねばならない。

 

「そうだ。死にたくないから戦う、滅びたくないから相手を殺す、それが欲の戦だ。己の命を守りたいと願う、これは生物すべてに備わっている欲だ。人々が義を見失い、欲と欲が戦という形でぶつかり合えば、今のような果てしない乱世となる。しかも種子島や大筒という南蛮の新兵器が、日ノ本の国に続々と入ってきている。あれらの兵器を用いれば、戦で死ぬ人数は、まるで桁が違うものとなる。人々は義なく欲にとらわれ新たな兵器を生み出しさらに殺し合う。地に生きる人間たちはみな危機に陥っているのだ、虎千代よ」

 

「……種子島……」

 

 聞いたことがない、ような、ある、ような……。いや。もう、疑うまい。

 

 この毘沙門天との対話がうたかたの夢であっても、とらちゃにとっては夢ではなく確固とした真実なのだ。

 

「そなたは神の化身だ。自分自身の命、自分自身の滅びへの恐怖、己の欲の、その一切を克服し、純粋な義の光を人々に示すために戦え。死ぬまで、戦え。その行為が、為景の罪を贖うことになろう」

 

「それでおとちゃの罪は、許されるのか。本当か?」

 

「そなたにしかできないことだ。よいか。これは罰であり、呪いである」

 

「呪い、なのか」

 

「そうだ。祝福でもあり、呪いでもある。決して人間になろうとするな。神として、毘沙門天としてのみ生きよ。それ以外の生き方はそなたには許されていない。煩悩を捨てよ。そなたの日に当たると焼け付く白い肌も、飽食すればたちどころに吐き戻してしまう弱い臓腑も、一目で神の子とわかるその容姿も、すべてはそなたをただの人間にしてしまおうとする内外の煩悩からそなたを守るために備わっている」

 

 ことに、恋心はそなたの魂を堕落させる。己の血が通った子孫を残そうとする人間にとって、恋心ほど強烈な欲はない、仏門が出家と禁欲を勧めるのもこの欲がすべての障害となるためだ、と毘沙門天は告げた。

 

「虎千代。もしも生きた人間に恋をすれば、そなたはたちどころに、死ぬ」

 

 あなたを愛している、とひとたび人間に告げれば、そなたの心の臓はその瞬間に、止まる。よいな。そなたを守るために長尾政景に嫁いだ、綾の意志をむげにしてはならない。

 

「恋心は、すべて己の心の内にとどめ、煩悩を昇華せよ、それが毘沙門天として生きるそなたの宿業だ。己の恋に生きてはならない。人々に道を示す、輝ける道標として生きるのだ」

 

 わからぬ。恋心とは、それほどのものなのか。幼いとらちゃにはわからぬ。だが、その程度の呪いなど、乗り越えられぬはずもない。とらちゃは、生きるべき道筋を見つけることができた。自分がなんのためにこのような姿に生まれ、なんのために苦しんできたのか、そのすべてを知った。後悔などない。

 

「わかった。この虎千代が!長尾為景の子は、己の欲を克服した義将だと、慈悲の心で救世をなす毘沙門天の化身だと!天下に知らしめる!」

 

 それでおとちゃが救われ、とらちゃの苦しみに意味が与えられるのならば、とらちゃは生涯、恋などしない。神として戦い、神として生き、いつか神として天に還る。そう誓おう。

 

「一つ心せよ、虎千代よ。この後遥か南方の地に一人の男が現れる。この男に気を付けよ。この者は悪鬼に非ず。されど義を憎み、義を蔑み、義に絶望している。この者を放置すれば、理想の世は瞬く間に崩壊しよう。黒き瞳に黒き髪。空より降り来た鉄によって作られし剣を佩き、神を撃ち墜とす黒鉄の矢を放つ男だ。心せよ。この者がそなたの道を阻むだろう…」

 

 分かった。ああ、分かったとも。だから、約束を違たがえるな、毘沙門天。

 

 虎千代の意識は、そこで途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

「うっひゃああああ! 虎千代が、息を吹き返したぜ!」

 

「お嬢さま! これは奇跡です。まさか蘇生しようとは」

 

「虎千代。ほんとうによかった。為景さまも、きっと喜ばれているはず」

 

 虎千代が再び目を開くと、そこは春日山城の館の一室だった。どうやら、眠っていたようだ。とらちゃは、親不知の海に落ちたのではなかったのか?見慣れた顔ぶれが、仰向けに寝ていた虎千代を囲んでいた。

 

 ただ、為景の姿はない。やはりおとちゃは死んだのだと、虎千代は唇を噛んだ。

 

「ほれ。てめえにダメ出しされた兎のぬいぐるみを改良した。いいか、こいつを光に当てると目の玉が赤く光るんだ。すごいぞ!南蛮渡来のビードロってやつを目の代わりに埋め込んだんだ……って、こらああ!うさちゃんを投げるなあああ!」

 

「宇佐美、とらちゃはもう子供ではない」

 

「うるせえ。大人は自分のことを『とらちゃ』って言わないんだぜえ~」

 

「お嬢さま。越後軍の越中からの撤退は、成功しました。為景さまの葬儀は既に終わりました。為景さまは病を発して倒れられ、そのままお亡くなりに。春日山の今の主は、兄上の晴景さまです」

 

「わかった、直江大和。そして、おかちゃ」

 

 虎千代は、母である虎御前の手をにぎっていた。虎御前はすでに、夫の菩提を弔うために出家する準備を進めていたらしく、手に数珠を持っていた。

 

「なに、虎千代?おなかがすいたの?あなたは肉を食べないけれど、なにか食べないと滋養がつかないでしょう。たくさん、笹団子を用意しているわ」

 

「虎千代が進むべき道が見つかったのです、おかちゃ。いえ、母上」

 

「まあ。それでは、出家か武家か、いずれかを選んだのね?」

 

「直江大和は出家を勧めてくる。宇佐美は姫武将になれという。しかし、おとちゃが撒いた因果の種は、子が刈り取らねばならない。越後守護の家系であり関東管領の家系である主筋の上杉家を、長尾為景の子が復興し、罪を償わなければ」

 

 虎御前の目には、蘇生した虎千代がまるで本物の毘沙門天のように輝いてみえた。宇佐美と直江大和もまた、息をのんでいる。あの瞬間からだ。毘沙門天になりかわり、為景に「許す」と言ったあの時から。

 

 虎千代の中で、なにかが大きく変わった。あるいは、これまで眠っていたものが目覚めた。

 

「とらちゃは姫武将になり、越後と関東の騒乱を終わらせ、上杉家を復興する。それが、おとちゃの罪の償いになり、天下に義を知らしめることになる」

 

「では、虎千代は姫武将になるの?」

 

「ただし、とらちゃは嫁にはいかぬ。武将にはなるが、出家と同じ戒律を守る。毘沙門天の力は、純潔を守らなければ失われる。夢の中で出会った毘沙門天から、そう聞かされた。とらちゃは誰の嫁にもならず、すべての人を慈悲の光で照らす越後の軍神となる。ほんものの毘沙門天に。これからとらちゃは自ら、毘沙門天の化身と称する」

 

 虎千代の心に宇佐美定満と直江大和がそれぞれ撒いた種は、鯨海の底に沈んだ際に、このような形で花開いたらしい。

 

「まあ。出家と武家、どちらも捨てないなんて。欲が深すぎるわ、虎千代」

 

「欲ではない、母上。これは、義だ。とらちゃは、正真正銘本物の毘沙門天として生きることにした。絶対に、あねちゃを失望させない。とらちゃを守るために長尾政景に嫁いだあねちゃに、後悔はさせない」

 

 戦い、かつ、救う、そのような困難の道を、虎千代は選んだのだ。自ら越後の軍神となり、人としての幸せも我欲も捨て、出家したも同じ世捨て人となり、ただ乱世の人々に義を示し道を切り開くためにのみ生き、かつ刀を握って戦場へ自ら赴き、義の戦を戦い抜く。

 

 途方もない話だった。

 

 かの天照大神でさえ、軍事は弟である素戔嗚尊に託していたのではないか。釈迦ですら、仏陀の道と転輪聖王の道の二つを同時に選び取ったりはしなかったではないか。

 

 宇佐美も直江も、それほどの難行をただの人間の少女である虎千代に要求しようと考えたことすらなかった。そのような離れ業が、人間の少女に可能なのだろうか?だが、虎千代は、「やる」と断言した。

 

「本当にとらちゃが毘沙門天の化身なのかどうかを決めるのは、誰でもない。自分自身だ。自分の真実まことは、この胸の内にある。夢であろうが嘘であろうが、自分自身が納得する生き方ができればそれが真実まことになる。ならば、最後まで毘沙門天として生きてみせる。もはや、己の姿を恥じぬ。奇妙とも思わぬ。堂々と越後の民の前に姿を現し、堂々と敵前を行軍しよう。わが肌もわが瞳もわが髪も、すべてはわれが毘沙門天だという『しるし』だ!」

 

 いつもここではないどこかを彷徨っていたような赤い瞳が、今は、揺るぎなくここにある。宇佐美定満も、直江大和も、ああ。自分がこの子をここまで追い詰めてしまったのではないか。虎千代がその小さな胸に抱いた理想は、実現不可能ではないのか。壮大な徒労ではないのか。なによりも虎千代自身にとって、果てしのない苦行以外のなにものでもないのではないか、という胸が詰まるような思いを抱いたが、しかし生まれてはじめて自らの存在意義を見つけ、神々しいまでの威厳を放ちはじめた虎千代の姿を前にすると、なにも言えずに思わず頭を垂れてしまった。

 

 そうだ。もうすでに、賽は投げられたのだ。自分にできることは、虎千代を守るために己の命を捧げることだけだ、と二人は瞬時に覚悟を固めた。

 

「わかった。よくぞその歳で、それほどの決断を下したもんだ。オレの命を、くれてやる。使え」

 

「いいでしょう。神の子のまま、姫武将におなりなさい。この直江大和も生涯独身を貫き、お嬢さまの理想のために生き、そして死にます」

 

「おいこらーっ!直江!生涯独身を貫くだなんて適当こくんじゃねえ、このきざ野郎が!」

 

「宇佐美さま、あなたもお嬢さまの軍師ならば生涯独身を誓わないのですか?」

 

「誓えるかそんなもん!オレはなあ、てめえみてえな青白いうらなりとは違うんだ!」

 

「やれやれ。あなたのお嬢さまへの忠誠心など、しょせんその程度ということですね」

 

「オレは戦を担当するからいいんだよっ!てめえこそ絶対に妻を娶るなよ?娶るんじゃねえぞ?いいな?てめえが尻尾を出す瞬間をこの手で捕まえるためによぉ、ずっと見張ってやるぜえ!」

 

「ああいやだ。衆道趣味はわたくしにはございません」

 

「オレにもねえよ、気持ち悪いんだよ!」

 

 宇佐美と直江が激しくいがみ合う姿を眺めながら、虎千代と虎御前は苦笑し合っていた。

 

「そうだ。おねちゃはだいじょうぶなのだろうか、母上。政景にいじめられていないだろうか」

 

「ええ、政景どのは綾を丁重に扱ってくれているわ。それよりも、晴景どのと政景どのの関係が早くも険悪になりつつあるの。昨日も、為景さまの葬儀の席次を巡って一悶着あったばかりよ」

 

「兄上は、政景にまつりごとと戦をすべてゆだねるとばかり思っていたが。なぜ揉めるのだろう」

 

「政景どのは、一日も早く自ら守護代になりたいらしくて。お飾りでも晴景どのが自分の上にいることが我慢できないみたい。あの男の野心は、とめどがないわ。ほんとうに、為景さまが若返ったかのよう」

 

「……おとちゃが死んでまもないというのに。政景め、欲深な男め」

 

 虎千代は、欲を恥とも思わない長尾政景を忌々いまいましく思い、歯ぎしりしていた。同時に夢の出来事を反芻し、思考を巡らせていた。遥か南方の地。多分関東だろうと想像がついた。義を倦む男。いったい誰なのか。この時の虎千代はまだ知らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 箱根山中。一人の青年が途方に暮れていた。ひとしきり混乱した少し後に冷静に異常を察知した彼は農民の様子から時代を特定。寺社仏閣に現在位置と知識を得るべく歩き出していた。その頭脳には人類史が刻み込まれている。駿河にて迎える初陣で東海の太守より下賜された剣は実は隕鉄剣と言う特殊な剣であるのだが、それを彼が知るのは大分後である。そしてその目の奥深くには正義への絶望と神を名乗る者を撃ち墜とさんという意思がチラついていた。

 

 同じ頃、小田原城の次期当主となるべき姫は、己の一族である年齢不詳の見た目をした老婆から夢のお告げを聞かされていた。北条に繁栄をもたらし、滅びから救い、天命を変える運命の者と早雲寺で出会うと言う内容であった。半信半疑であったが、始祖早雲の夢を思い出した彼女は一人墓参りも兼ねて早雲寺へと馬を進めた。何かが変わる予感を胸に抱きながら。

 

 運命が出会うまで、あと二時間と少し。



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第51話 狂気の世界 越

 為景の葬儀が終わった後、守護代となった兄・長尾晴景は相変わらず体調が思わしくなく、妹婿となった上田長尾家の政景にほぼ全権をゆだねた形となっていたが、為景が死んで惰弱な晴景が守護代となったために越後の各地で次々と国人豪族が反乱を起こし、越後はまたしても内乱状態となっていった。

 

 この内乱は、意外に根が深かった。奥州の名家・伊達家が、自らの一族を越後守護・上杉定実へ養子として送り込み越後を奪い取ろうと画策を開始していたのだ。上杉定実は長尾為景に担がれた傀儡の越後守護だが、高齢にもかかわらず実子がなく、後継者不在となったままだった。実質的な越後の王である為景の存命中は問題にならなかったが、為景の死によって「越後守護」の存在が再び重要性を帯びてきたのだった。そこにすかさず、隣国の伊達家が介入してきた。

 

 為景のいない越後など恐れるに足らずとばかりに奥州から踏み出して越後の支配に乗り出した伊達家と、越後人でもなんでもない伊達家の守護などいらぬと激怒した北越後の国人衆「揚北衆」との間に紛争が起こり、これが越後国内での親伊達派・反伊達派の分裂対立を呼んだ。

 

 さらに、存在感がなく戦に出てこない新守護代・長尾晴景をなおも支持する派閥と、越後の実権を握った上田の長尾政景を推す派閥の対立がこれに絡み、「やはり為景の旦那なき今、越後は一気に崩壊しつつある」と宇佐美が奔走しながら嘆くほどだった。

 

 伊達家は国内で内紛が発生したために越後支配をあきらめたが、ひとたび火が付いた越後国内での派閥抗争は収まるどころか激しさを増すばかりとなり、春日山城にもいつ謀反人の兵が押し寄せてくるかわからない情勢となっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 少しばかりこの件について解説するならば、これは通称「天文の乱」あるいは「洞の乱」とも言われる事件である。

 

 伊達家第14代当主となった稙宗は、多くの子女を近隣諸侯の下に送り込むことで勢力を拡張し、家督相続からの30年間で10郡を支配下に収め、陸奥守護職を獲得し、最上・相馬・蘆名・大崎・葛西ら南奥羽の諸大名を従属させるに至った。

 

 奥羽に一大勢力圏を築き上げた稙宗は、一挙に拡大した伊達家中の統制を図るべく分国法・台帳を次々と作成して集権化を推し進めていった。また特に稙宗に協力的であった婿の相馬顕胤に伊達領の一部となっていた相馬旧領の宇多郡・行方郡の一部を還付しようとしたが、この案に稙宗の長男・晴宗が猛反発する。ここで内乱の予兆が生まれたのである。

 

 これに加えて、さらなる勢力拡大を目論んだ稙宗が、三男・時宗丸を越後守護・上杉定実の養子として送る案を示したことで、父子間の対立は決定的なものとなる。この案に反対する揚北衆の本庄房長らが挙兵して紛争へと発展した。

 

 晴景もこの案に反対していた。まぁこれは先代・為景の路線をそのまま受け継いだだけであるが。つまり彼自身の意思は介在していない。しかし、自らの後継者が得られない事に不満を抱いた定実が出家・隠遁を計画していると知った晴景はやむなく稙宗に縁組への同意を伝えるが、越後国内では「越後天文の乱」と称される一連の内乱の影響もあって反対する動きは収まらなかった。

 

 稙宗はこれら反対派に対抗するため、越後に入国する時宗丸に家臣100名を選りすぐって随行させることにした。強兵を引き抜かれることで伊達氏が弱体化することを恐れた晴宗は、中野宗時・桑折景長・牧野宗興ら稙宗の集権化政策に反発する重臣達の支持を受け、ついに父・稙宗を押し込めることを決意する。クーデターである。やろうとしていることは武田晴信のクーデターと似ていた。

 

 晴宗は鷹狩りの帰路を襲って稙宗を捕らえ、居城・西山城に幽閉する。ところが稙宗は側近・小梁川宗朝によって救出されて娘婿・懸田俊宗の居城・懸田城へと脱出し、相馬顕胤をはじめとする縁戚関係にある諸大名に救援を求めたため、伊達氏の内紛は、一挙に奥羽諸大名を巻き込む大乱になった。序盤は諸大名の多くが加担した稙宗方優位のうちに展開し、陸奥では大崎義宣・黒川景氏が柴田郡まで兵を進めて留守景宗を抑え、出羽では鮎貝盛宗・上郡山為家・最上義守らが長井郡をほぼ制圧した。ところが、稙宗方の田村隆顕と蘆名盛氏の間に不和が生じて両者が争い始めると、蘆名氏は晴宗方に転じた。このため戦況が一転して晴宗方優位に傾くと、さらに稙宗方からの離反者が相次ぎ、将軍・足利義輝の仲裁を承けて、稙宗が隠居して晴宗に家督を譲るという条件で和睦が成立し、争乱は終結した。

 

 同時に越後においても、時宗丸入嗣推進派と反対派との間で戦闘が発生したが、入嗣推進派の上杉定実・中条藤資らは、反対派の守護代・長尾晴景や揚北衆などの越後国人衆に敗れ、ついに時宗丸入嗣案は完全に頓挫した。

 

 6年間にも及んだこの乱により、稙宗が当主となって以来拡大の一途をたどってきた伊達氏の勢力は一気に衰弱した。まず、伊達氏に服属していた奥羽諸大名のうち蘆名氏・相馬氏・最上氏などが乱に乗じて独立して勢力を拡張、特に蘆名氏は伊達氏と肩を並べるほどの有力大名へと成長した。また大崎・葛西両家においても、養子として送り込まれていた稙宗の子(義宣・晴清)が討たれ、乗っ取りが失敗に終わった。

 

 一方、伊達家中においても、稙宗方についていた懸田俊宗らが和平案を不服として晴宗に反抗を続け、この鎮圧にさらに5年余りを要した。加えて晴宗方の重臣・中野宗時が乱中にあって、子の久仲を牧野氏の後継に送り込むなどして力を伸ばし、家中最大の勢力となって権勢を振るうようになった。晴宗は乱の終息後、家中の検断を行って集権化を図るが、晴宗方についた重臣達には守護不入権などを認めざるを得なかった。こうした乱の後遺症の後始末がようやく終わったのは、晴宗の子・輝宗の代であった。

 

 奥羽全土に影響を及ぼしたこの大乱によって、奥州にはしばらく強大な支配者が現れなくなる。奥州に強大な力が生まれるには、伊達政宗の誕生を待たねばならない。

 

 主な伊達稙宗派としては、伊達家の伊達稙宗・小梁川宗朝、宗秀・懸田俊宗、義宗・鮎貝盛宗・上郡山為家・堀越興行・富塚仲綱・金沢宗朝・粟野長国・石母田宮内少輔、大崎家の大崎義宣、葛西家の葛西晴清、畠山家の畠山義氏、相馬家の相馬顕胤・桑折久家、清家・岡田直胤・堀内近胤・江井胤治・青田胤清、田村家の田村隆顕、石川家の石川晴光、国分家の国分宗綱、黒川家の黒川景氏、稙国、遠藤家の広田宗綱、亘理家の亘理宗隆、綱宗、元宗・菱沼時久、越後の上杉定実・中条藤資である。

 

 反対に主な伊達晴宗派としては伊達家の伊達晴宗・小梁川親宗、盛宗・桑折景長・大枝稙景・村田近重・新田景綱・中野宗時・牧野宗興、景仲・白石宗綱、宗利・田手実烈・宮内宗忠・石母田光頼・鬼庭元実、良直・片倉景親・中目康長・中島宗忠、大崎家の大崎義直、葛西家の葛西晴胤・柏山明吉・富沢金吾、畠山家の本宮宗頼、相馬家の黒木正房・中村義房・東郷胤光、黒川家の黒川藤八郎、遠藤家の遠藤高宗、岩城家の岩城重隆、留守家の留守景宗、越後国の長尾晴景と中条氏以外の揚北衆である。

 

 一方で途中で裏切ったり中立を貫いた者もおり、主な面子としては伊達家の伊達実元、蘆名家の蘆名盛氏、二階堂家の二階堂照行、最上家の最上義守、石橋家の石橋尚義、長江家の長江盛武、白河結城家の結城晴綱である。こうして面子を見れば、それだけで規模が想像できる。奥羽は綿密な婚姻関係で成り立っており、ほとんどが親戚である。この繋がりは乱の後も残り、反伊達政宗連合軍を組ませるに至るのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 晴景を一刻も早く廃して自ら越後守護代にならんとする野望を抱いた長尾政景が両派閥を煽り続けている。政景は、晴景が病死するまでおとなしく待っていられない性格であった。ぐずぐずしていると他の者に虎千代を奪い取られるのではないかという焦りもあった。

 

 このような緊張の中で――。

 

 いつ元服し、いつ姫武将となるか、虎千代は林泉寺に潜みながら自らの運命がはじまるその時を待った。そしてその日が来た。林泉寺で座禅と瞑想に励みつつ、宇佐美から軍学を、直江からまつりごとを学んでいた虎千代は、自分自身とはすべてが正反対の姫武将の存在を不意に知った。

 

 その許されざる悪人の名は、武田晴信。甲斐源氏の嫡流、甲斐国守護の武田信虎を父に持つ、名門中の名門の姫武将だった。おとなしく気弱で、寡黙な少女だという。まだ十代の少女なのに、学者も舌を巻いて逃げ出すほどの学識の持ち主だとも。

 

 ところがその晴信が、いきなり自分の父親を駿河に追放して、甲斐守護の座を強引に奪い取ったのだという。さらには、自分の妹が嫁いだ先である信濃の諏訪家を攻め滅ぼそうとしているのだとも。諏訪家はただの武家にあらず。古代出雲の神・建御名方神の血を引く神氏であり、本職は諏訪神社の大祝(おおほうり)すなわち神官であった。本猫寺当主などよりもはるかに歴史がある、神聖な一族なのだ。

 

 武田晴信は気弱な学問好きの少女という仮面を被りながら、突如として父を追放し、さらにはそしらぬ顔で妹の婿を、それも神氏の諏訪家を滅ぼそうとしているのだ。虎千代は、衝撃を受けた。

 

「父を、捨てた、だと?」

 

 幼くして父を戦で失った虎千代にとって、自分の父を野望のために国外へ追放する姫武将など、およそ考えることもできない純粋悪そのものであった。まるで、父の罪業をあがなうために生涯不犯の義将となることを誓った自分を、武田晴信があざ笑っているかのような、そんな不愉快な気分に襲われた。

 

 虎千代は、青竹を振りながら、山を駆けた。駆けながら、咆哮した。

 

「自分の父親を他国へ追放して、家督を奪うなんて。自分の妹を政略の犠牲にして、妹婿を討ち滅ぼそうとするなんて。間違っている。そんな者、絶対に許せない」

 

 宇佐美定満が、「落ち着け!」と騒ぎながらあわてて虎千代を追いかけた。

 

「その竹で割ったような性格なんとかならねえか、虎千代! 武田晴信は親父に疎まれて廃嫡されかけていたんだ、やらなきゃやられるところだったんだぜ!」

 

「いくら冷たくあしらわれていたとはいえ、廃嫡されかけたとはいえ、父は父。子は子。それを……ありえない!」

 

 虎千代が一気呵成に走り終えた地点には、直江大和が「お嬢さまの走る道か筋はお見通しです」とばかりに待っていた。虎千代は、二人に宣言した。

 

「決めたぞ。わたしは、今日より姫武将になる。正式に姫武将となり、いずれ越後兵を率いて、武田晴信に天誅を加える!」

 

 

 

 

 

 

 

 電撃的に、その日は来た。

 

 長尾虎千代、元服。

 

 虎千代は宇佐美定満と直江大和を携えて春日山城本丸に入り、主君である兄・晴景と対面し、越後初の姫武将として戦場で戦うことを誓った。以後、長尾景虎と名乗る。晴景は「姫武将の慣習は、越後にはないが……」とうろたえたが、小柄な身体でありながら父・為景を彷彿とさせる景虎の鋭い視線と毅然とした口調に、反論することはできなかった。

 

「そなたが女でありながら武将になったことを認めぬ越後の豪族たちが、これを不服としてまた暴れなければよいが」

 

 気の弱い晴景はつくづく、守護代に仕え従うということを知らない越後の国人豪族どもの気風に疲れ果てていたが、景虎がいずれ姫武将になるという話じたいは以前から宇佐美から聞かされていた。宇佐美はそれなりに根回しし、充分に下準備をしていたらしい。

 

 ついに、認めた。

 

「ありがたき幸せ! これよりこの景虎、姫武将として兄上をお守りいたします」

 

「う、うむ」

 

 晴景は、久しぶりに会ったこの異形の妹が娘として成長している姿を見て、戸惑いを隠しきれないでいる。まるで、後光が差しているかのようにまばゆい、美しい異形の妹。これは人なのか。ほんとうに、神の子なのではないか。

 

 長尾政景が虎千代にしつこくこだわっていた理由が、やっとわかった。もし、この尋常ならざるまばゆさに包まれている娘が僕の妹でなければ、僕とて…。

 

 晴景はこの時、不意に妙な気分に襲われた。息が苦しい。頬が紅潮していた。自分の妹である虎千代改め景虎を、直視できない。

 

 馬鹿な。相手は自分の実の妹ではないか。だが、この胸のときめきはどうしたことだ。ただの情欲ではない。僕は風流人だ。これまで多くの女と浮き名を流してきたが、このような胸がかきむしられるような苦しい想いを、僕はいちどたりとも女に対して抱いたことはなかった。女などは僕の身分と肩書きに容易になびく安い連中ばかりだと思っていた。しかし、景虎は違う。僕のような惰弱な男が触れてよいような存在ではない。そうか。これが、恋心というものか?

 

 生来虚弱体質で戦嫌いの晴景にとって、父・為景から譲られた越後守護代の座などは重荷に他ならなかった。長尾政景に譲ってもいいとさえ思っていたが、譲れば為景に似た性格の政景は守護代の座を手に入れると同時に「用済み」とばかりに自分を殺すかもしれない。その恐怖ゆえに守護代の座を手放すこともできず、乱れに乱れる越後の情勢から逃れるように春日山城に逼塞して酒と女に溺れ、「この戦乱の世は地獄のようなものだ。僕は戦など捨て、風流人として静かに生きていきたい。さりとて、越後守護代の座を捨ててでもともに生きたいと思わせてくれる運命の女人に巡り合うこともできない」と日々苦しみ続けていた。

 

 その晴景が、生まれてはじめて、女人に心を奪われていた。

 

 その姿は神のように美しく、その心は清らかで、そして自ら剣を取りこの戦乱の世を武将として駆け抜けていこうと決意できるほどに強い。僕にとって理想の女人だ。いや、僕などが抱いていたちっぽけな理想を、はるかに超えている

 

 だが悲劇的なことに、その運命の女人は、実の妹だった。

 

 なんということだ!これが恋か。政景はわが妹を手に入れられるかもしれないが、僕には無理だ!実の兄と妹ではないか――生きて景虎への想いを遂げることは僕にはかなわない。胸をかきむしられる切ない恋とはこのことか。ああ。ああ。僕は、今にも狂ってしまいそうだ!

 

 晴景は内心、ほとんど狂した。妹に気取られてはならない。取り繕うように、虎千代改め景虎に言葉をかけた。

 

「む、無理をするでないぞ、命を粗末にするな。そなたの父も祖父も、戦場で討ち死にしているのだからな」

 

 景虎は、はじめて兄から優しい言葉をかけられて、思わず目を潤ませた。よかった、わたしと兄上との関係はとてもよい、わたしは父上にも兄上にも本当は愛されていた、父を追放し妹の幸福を踏みにじった武田晴信とは違う――。

 

 つくづく、自分と年齢が近い姫武将でありながら、政景以上に己の欲望のままに生きているとしか思えない武田晴信が許せなかった。自分を白子として放置してきた父を恨め、綾を奪った長尾政景を殺して綾を奪い返せ、それが人間らしい生き方だ、己の欲するままに生きろ。見知らぬ晴信に耳元でそうささやかれているかのようで、たまらなかった。

 

 武田晴信が信濃を侵略すれば、次は越後である。いずれ、長尾と武田とは、国境を接する。信濃と越後の国境、川中島付近で、両者は激突することになろう。

 

 わたしが毘沙門天として生きるためにも、あのような奸悪な姫武将を認めてはおけない。わたしが倒す。

 

 長尾虎千代改め長尾景虎はまだ、未来の自分が兄から守護代の座を奪い取り、さらに越後の守護となり、ついには主筋の上杉家そのものをものみ込みわがものとして自ら「上杉謙信」と名乗り関東管領に就任する運命を、知らなかった。

 

 兄である晴景の心に自分に対する悲劇的な恋慕の情が生まれてしまったことにも、その原因がこの世の人間のものとは思えぬほどに気高くかつ美しすぎる存在感を放ちはじめている景虎自身であることにも、まだ気づかなかった。

 

 武田晴信と長尾景虎の不幸な邂逅の時は、近づいていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 時はやや経ち、武田晴信が信濃征服をもくろみ、悪戦苦闘していたその頃。越後でも、戦乱が巻き起こっていた。虎千代改め、長尾景虎。兎のように白い肌はそのままで、身体も小柄なままだったが、いまや栃尾城の城主となっていた。武田晴信が妹婿でしかも神氏である諏訪家を滅ぼし、佐久では関東管領軍を叩きのめし、信濃守護の小笠原長時を追おうと策謀している。甲斐信濃から聞こえてくる晴信の傍若無人な暴れようを聞くたびに青竹を振って「武田晴信め! 父親を追放しただけでは飽き足らず、この世のあらゆる権威を打ち倒そうというのか。どこまでも傲慢な女だ!この景虎に越後兵を動かすことが許されるならば、奸悪な晴信を討ちたい!毘沙門天の化身として戦に勝てど敵を殺さず、赦すとは誓ったが、あの女だけは別だ。あの、己の野望を遂げようとする生き様は、あまりにも許しがたい」と怒りに震えていた景虎のもとに、景虎の後見人である二人の武将――宇佐美定満と直江大和が現れて、そして景虎をさらに激怒させる知らせを伝えたのだった。

 

 なお、この時の彼女は毘沙門天のお告げを頭の片隅に置きつつも関東の情勢にそこまで興味はなかった。春日山からも栃尾城からも関東は遠い。峠を挟んだかなり遠方である。それに比べれば信濃の方が近かった。必然的に関東よりも信濃の情勢に興味を抱いているのである。

 

「なあ虎千代。いや違った、今は景虎だったか。言いにくい話だが、興奮せずに聞いてくれ。お前の兄の晴景が、お前を討とうとしている」

 

「兄上が? なにかの間違いだろう宇佐美? 兄上とわたしとの関係は良好だぞ。長尾家は、父と娘とが骨肉相食む武田家とは違う」

 

「いいえ。越後長尾家にも今、内紛の危機が生じているのですお嬢さま。分家・上田長尾家の長尾政景が、本家の晴景さまをそそのかしているのです」

 

「政景が? あの男はいまや、姉者の夫。越後長尾家の一門衆筆頭ではないか! しかも、病気でなかなか執務を執れない兄上に代わって越後一国を切り盛りしている事実上の宰相だ。そんな立場の政景が、なぜ兄上とこの景虎を争わせようとする!? なにゆえにだ?」

 

「それが、お前には聞かせづらい理由でな……おい直江。お前が語れ」

 

「いいですよ宇佐美さま。わたくしはそういう役目ですからね。わたくしが語りましょう。ですがその前に、お嬢さま。お嬢さまが兄君と不仲であると聞きつけた近隣の豪族どもがいちはやくお嬢さまに反旗を翻し、この栃尾城へ攻め寄せて参りました。如何なさいますか?」

 

「論ずるまでもない直江。そのような噂に惑わされる者どもを放置はしない。戦って勝ち、かつ、赦す。毘沙門天の化身として。お前たちに海の底から引き上げられたあの日の誓いを、わたしは生涯捨てたりはしない」

 

 宇佐美定満と直江大和は「おい直江。もうそろそろお年頃なのに、まだ毘沙門天ごっこが続いているぞ」「むしろ、だんだんこじらせてきています」と顔を見合わせていた。

 

「それよりも宇佐美さま。お嬢さまは実戦で采配を取れるのですか? もしかしなくても、これが初陣でしょう」

 

「いやあ。一通りの軍学は教えたが、あまり頭に入ってなかったな。っていうか聞いてねえ。で、俺も途中からは教えるのをやめた」

 

「では、軍学の授業と称してお嬢さまと過ごしていた時間、あなたがたはなにをしていたのです」

 

「釣りだよ」

 

 直江大和はもともと青い顔をさらに青ざめさせ、「この男に軍学を教えさせたのは失敗だったかもしれません。お嬢さま、実戦とはまことに厳しいものですのに」と頭を抱えていた。

 

「初陣では、毘沙門天の化身として戦う、という流儀はおやめください。越後には姫武将不殺の掟がないのです。死んでしまいます」

 

「政景が煽ったのだろうが、なにしろいきなりの反乱だ。こっちは、ろくに準備もできてねえしな……兵数もまともに集まらないぞ景虎」

 

「宇佐美さま。あなたが釣りなどに興じていたからでしょう?」

 

「お前こそ策士ならば政景をなんとかしろっ!」

 

「政景を暗殺すれば片付く問題ですのに、お嬢さまが許可してくださらないのです」

 

「待て。案ずるな直江、宇佐美。この戦で死ぬのならば、景虎は毘沙門天の化身ではなかったということだ。だがわたしはわたし自身を信じる。われは毘沙門天の化身、ゆえに無敵無敗であると。この信念が真実かそれとも虚妄だったかは、戦の勝敗だけが明らかにしてくれる。ただそれだけだ」

 

「だがな景虎。婿も取らないうちに戦死だなんて乙女の生涯の最期としては哀れすぎるぜ?」

 

「ここここの景虎は、婿など取らないっ! その話はよせ宇佐美っ! 集められるだけでいい、兵を集めろ! わたしは出陣するぞ!」

 

 長尾景虎は、期せずして初陣の時を迎えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 かの梟雄・長尾為景から越後守護代の座を継いだ長尾晴景は病がちで、かつ、跡取りがいなかった。ただ一人の子・猿千代は夭折している。体調の問題や生まれ持った風流好きで惰弱な性格のため、晴景が守護代となってからの越後は乱れに乱れていた。隣国の伊達家までが首を突っ込む始末で、春日山城から遠く離れもともと独立性が高かった下越の揚北衆などは晴景を主君と認めずにほとんど独立したも同然のありさまだったし、中越においても豪族国人たちの独立・謀反が相次いでいた。

 

 あのおそろしい長尾為景が死んだ今、守護代長尾家などに遠慮することはない。むしろ下克上を――と多くの越後豪族が野心をたぎらせ、あれほど宇佐美定満たちが奔走して安定させていた越後国内は今や四分五裂しはじめていた。本来ならば新しき守護代となった長尾晴景が自ら出兵してこれらの謀反を武力鎮圧するべきだったが、身体が言うことをきかない。戦場へ向かおうとすると胃腸の具合が悪くなるので、晴景の身体の不調の半分は精神的なものが原因だったのかもしれない。晴景は色白できゃしゃで、腺病質の男だった。そういう意味で、腹違いの妹の景虎と晴景は似ていた。あの梟雄・為景から生まれてきたとは思えない兄と妹だった。

 

 しかし晴景は、妹・景虎が自分とは似ても似つかない存在であることをまもなく知ることになった。晴景政権の実権を握り、越後の騒乱を片付けようと奔走している上田長尾家の長尾政景が、春日山城を訪れて景虎の近況を晴景に伝えたからだった。

 

「あの景虎が、中越の豪族たちを片っ端から撃破して従えている?」

 

「ああ。景虎は自ら望んで、騒乱地域となった中越の要である栃尾城に入城していた。予想通りというか、たちまち中越の豪族国人たちが『姫武将など越後には無用』と栃尾城に入った景虎に反旗を翻した――まあ、俺が煽ったのだがな」

 

「そこまでは計画通りだ。合戦になったのか? 妹は無事なのか? 栃尾城は下越にも近い! もしも揚北衆まで攻め寄せてきたら妹は危ういぞ。やつらには、守護や守護代に帰服するという概念がそもそもない。ほどほどに暴れさせて、妹を怯えさせて春日山城へ逃げ込ませる。それが僕とお前が立てた計画だったはずだ!」

 

「フン。景虎が泣きを入れてくれば魚沼から兵を出して救援し、春日山城へ連れ戻す。その手はずだったが、とんでもない裏目に出た。景虎は、わずかな手勢を自分の手足のように動かして反乱した豪族たちの軍勢をことごとく破った。しかも、撃ち破った敵を必ず許すのだという。中越の多くの豪族は手のひらを返したように景虎に帰順し、揚北衆までが景虎の武勇を『あの長尾為景の再臨』と認めておとなしくなったという」

 

「なんだって? 自らの敵を許すというのは妹らしいが……だが、あの身体が弱い妹に合戦などできるはずがない。軍師・宇佐美定満が采配をふるっているのではないか?」

 

「俺もはじめはそう思った。策士の宇佐美が幼い景虎を御輿として担いで、奇策でも弄ろうして勝ち続けているのだろうと。だが違った。宇佐美は、合戦場においてなにもしていないのだ。景虎自身が実際に采配をふるっているのだ。その用兵は、あたかも天に目を持っているかのように戦局のすべてを見通している、そうとしか思えない神がかりのものなのだという。戦上手な中越の連中が、若年でしかも姫でありながら自分たちを赤子の手を捻るように撃ち破り続ける景虎を『神将』と崇めはじめているのだという」

 

「それでは、政景……あのひ弱い妹に、軍才が?」

 

「どうやら、そうらしい。それも、並の才ではない。噂が事実なら、たぐいまれな天才と呼ぶにふさわしいほどだ。日の光を長時間浴びられぬ身体を行人包みで包み、自ら先陣を切って即断即決で目の前の敵軍を蹴散らしていくという。あの身体だからあまり長い時間は戦えないようだが、時間切れになる前に必ず勝ってしまう。非力ゆえに槍や弓などの武芸の腕はさほどでもないが、軍兵を自在に進退させて敵陣の急所を見抜き、的確に突くことにかけては宇佐美が口を挟める場面がまるでないという」

 

 そう伝えながら、長尾政景自身、まだ自分が間者から聞いた情報の真偽については半信半疑だった。どうしても、あの雪の精のように儚い景虎が、戦場では為景を彷彿とさせる戦の天才に変化するとは、思えないのだった。晴景は「それでは妹は栃尾城から春日山城へ戻ってはこないのだな」と深いため息をついた。

 

「僕が、前線へ出て姫武将として戦うと言い張った妹に敢えて栃尾城行きを許したのは、騒乱のただ中にある栃尾城へ入ればきっと越後の男武者どもに叩かれてすぐに退散してくるだろう、と予想していたからだ。妹はああ見えて頑固で、『春日山城へ戻ってくれ、武将として生きるのはやめてくれ』という僕の意見を聞いてはくれなかった。もはや、越後には姫武将の居場所などない、と直接経験で思い知ってもらうしか説得する方法はない。だからお前に中越の国人たちを煽らせた……」

 

「ああ。そして、もしもの時は俺が栃尾へ救援へ向かう。そのはずだった。俺はお前の妹で景虎の姉である綾を妻にしているが、景虎をあきらめたわけではないからな。景虎をただの姫に戻したいという俺と貴様の利害は一致していた。だからこうして組んでいる。しかし、当てが外れた」

 

「……僕の妹はもしかして、ほんとうに戦の天才なのか」

 

「フン。人の噂などは過大に広まるものだ。この目で見てみなければわからん。ことに、宇佐美定満と直江大和が後ろに控えているのだからな。すべては嘘なのかもしれん。実際には、戦場での景虎は日の光を避けて本陣に巣ごもっているだけなのかもしれん。だが、嘘であろうがまことであろうが、越後中の武将どもや民たちがこの噂を信じるようになれば、景虎は越後初の姫武将として国中に認められてしまうだろうな」

 

「……そうなれば妹を戦場から救い出せなくなる。それはいけない。政景! 次の策を考えてくれ。こんどこそ妹に武将稼業をやめさせる方法は?」

 

「景虎が頑固なことは俺も承知している。一度姫武将をやると宣言したからには、とことんまで姫武将としての生き方をやり通すつもりだろうな。しかも軍才を発揮しはじめているとなれば、言葉で説得しても無駄だ……実力で、つまり戦で景虎を撃ち破るしかないぞ。たとえば、越後最強のこの俺が」

 

「とはいえ、僕が妹に直接軍を向けるわけにはいかない。それでは妹は謀反人になってしまう!既に、僕が妹を討とうとしているという噂が越後中に広まりつつあるんだぞ?」

 

 気づいていないようだがそいつは俺が流している噂さ、お前と景虎の仲を裂くためにな、と政景は苦笑した。

 

「むろん政景。お前が妹を討伐することも認めない!間違いが起きたらどうする!」

 

「フン。あくまでも片八百長だ。越後において長尾為景の武勇をもっとも引き継いでいる武将はこの俺、長尾政景だ。小娘などに負けるはずがない。直江は戦場では役に立たぬ男だし、宇佐美の軍法ならば何度も手合わせしてきたからすでに見知っている。手加減しながら、景虎に手傷を負わせることなく打ち負かしてやる。それであいつは武将としての人生をあきらめ、おとなしく姫になる」

 

「駄目だ!お前は戦場で妹を捕らえたら、なにをするかわからん!いいか政景。妹には指一本触れるな! お前には越後一国の宰相の座を与えたが、わが妹だけは譲らん 景虎は、お前の妻・綾の実の妹なのだぞ! 兄として!僕は妹を守る!」

 

「……ちっ」

 

 越後守護代でありながら、なにごとも政景に丸投げして過ごしてきた晴景がこの時、はじめて強烈な意志を見せた。鋭敏な政景は、それまで愚鈍な男と侮っていた晴景の内側に、異常のものを感じた――あるいはこいつは俺と同類の、道ならぬ執着に煩悶する男なのではないか、と。

 

「晴景。貴様はもしかして、景虎に……自分の妹に色欲を抱いているのか? そういえば、風流人の貴様が、元服した景虎と対面して以来めっきり女を近づけなくなった」

 

 妻の妹に執着する俺もどこか異常の男だが、だとしたら実の妹に煩悶している晴景は俺よりもはるかに惑っている、と思った。そして晴景は「狡猾なお前に嘘をついても、いつまでも誤魔化ごまかせきれまい」と青ざめながらも、認めた。

 

「あいつが幼い頃は、僕にとってはただの腹違いの妹にすぎなかった。白い髪、白い肌、赤い瞳。まるで兎の子のようでどこか気味が悪いと思っていたほどだ。すべてが一変したのは景虎が元服して春日山城に舞い戻り、謁見した時からだ。あれほど美しい妹に成長していようとは思わなかった。しかも、あの美しさは、人の美しさではない。まるで、本当に毘沙門天が人の形を得て地に下りてきたかのような……いいか。僕はただ単に色欲に惑っているのではないぞ政景。女など抱き飽きた。僕が妹に抱いている感情は、もっと複雑で崇高なものだ!」

 

 俺の景虎への鬱屈した想いもあるいは、触れがたいまでに崇高なものを前にして哀れにもどう振る舞っていいのかわからなくなった愚かな男のそれなのかもしれない、と政景は思った。思いながら、晴景の妹への恋心を利用すれば俺はさらに這はい上がれるかもしれない、と気付いた。長尾家の分家に生まれ、裏切り者の一族と周囲に蔑ますまれて不遇を重ねてきた政景の野心は、留まるところがない。

 

「……晴景。あれは、貴様の実の妹だぞ。貴様の想いは、遂げられるはずもない。通常の、手段ではな」

 

「ここまで語ったからには後には引かせないぞ政景。こんどこそ景虎を春日山城へ戻せ!ただし僕と妹との直接戦闘は駄目だ!あれは僕を兄として慕ってくれている。兄が敵に回れば、妹を苦しめることになる!」

 

「だがな。景虎と戦う相手は、この俺でなければ無理かもしれん。宇佐美と直江が担いでいるあれを打ち負かすのは、なかなかに難しいからな。そしてその俺は、こうして貴様の右腕となっている」

 

「策を頼む。景虎に姫武将の座を捨てさせることができれば、長尾政景!お前に越後守護代の座をくれてやる!」

 

「フン。守護代の座くらいではなあ。どうせお前が死ねば、俺のものだ。為景がお前に守護代の座を譲る際に、そう取り決めたはずだ」

 

「いや。このままでは、そうはならないぞ政景」

 

「なに?」

 

「妹には宇佐美と直江、二人の軍師がついている。知っているだろうがあの二人は、残忍な野心家のお前を越後守護代候補とは認めていない。おそらくはわが妹を次の守護代の座につけるつもりだ――しかし僕は、妹に今以上の過酷な修羅場を生きさせることを、望まない」

 

 そうか、しまった、と政景は吐き捨てていた。

 

「言われてみれば、すでに揚北衆と中越の国人の半ばが景虎を支持している。俺は、幼く美しい姫の出現に越後の無骨な男どもが惑っているだけだと笑っていたが……景虎自身にそのような野心などなくても、宇佐美と直江は違う。やつらは策士だ!まさか景虎のあの希有な美しさをもって、容易には服属しない揚北衆を服属させようとしているのか!」

 

 俺が、景虎を春日山城へ連れ戻すために国人どもを煽った陰謀を、あの二人は逆利用したというのか?またしてもやつらに一杯食わされたのか俺は?いや、しかし、それにしても景虎はあまりにも強すぎる……!

 

「政景。宇佐美と直江の考えていることはわかるし、正しい。越後に平和をもたらすためならば、わが父上にそっくりなお前などよりも妹のほうが国主にふさわしい。しかし僕は、越後という国の運命などどうでもいい。僕はただ、妹を過酷な戦場に出したくないのだ!あんなにも弱い身体なのに何度も戦場に立たせていては、妹の命は縮まるばかりだ。日の光を浴びさせてはならない。あの美しい顔に傷でもつけられたらどうなる。討ち死にしてしまったらどうなる。敵に捕らえられて汚されてしまうかもしれない!そんな妹の姿など想像したくない。考えただけで胸が破れそうだ。春日山の館で母上とともに安寧に暮らしてほしいのだ。そしていずれ、この僕の想いを認めてもらう」

 

「待て。景虎は誰よりも潔癖な性格だぞ。兄との道ならぬ関係など、景虎が認めるはずがない。この俺が、あいつの姉である綾を妻にしてしまったために景虎から遠ざけられているのを知っているだろう?ましてお前と景虎は血が繋つながっている実の兄妹だ」

 

「それでも、だ。妹に槍を取らせるくらいならば、この僕自身が戦場に赴いて戦うほうが百倍ましだ!」

 

 どうせ景虎はこの俺の妻になるのだ。俺は絶対に景虎をあきらめない。その俺に頼るとはつくづく馬鹿なお坊ちゃんだ――と政景は内心で苦笑しながら、晴景の手を取っていた。

 

「わかった。越後守護代の座と引き替えに貴様のその注文に応えてやろう。お前自身が景虎と戦うことなく、あいつを撃ち破る方法を具申する」

 

「次の策を、考えてくれたか?」

 

「ああ。まずは景虎が倒すべき『敵』を作らねばならない。かなり危険な手段を取ることになるな」

 

「危険な手段?」

 

「まず、俺は表向き貴様と仲違いして春日山城を去り、上田へ引きこもって『長尾政景・謀反』の噂を流す。そうすることで越後守護代の座に野心を抱く適当な国人を一人選んでその気にさせ、その者に春日山城を襲撃させる」

 

「僕の命を狙う謀反人を別に作るということか?」

 

「俺自身が春日山城を攻めるわけにもいくまい。それでは茶番を終えた後、俺は宰相の座に戻れなくなる。汚れ仕事は適当なやつにやらせるさ。後でそいつだけを始末すればいい」

 

 顔色も変えずに政景は言ってのけた。晴景が顔をしかめた。

 

「……どこまでも悪辣な男だな」

 

「なに、ここは越後だ。候補者ならばいくらでもいる。俺がそいつを三寸の舌先で操って、春日山城を襲わせ、しかし占拠させることなく退却させよう。片八百長だ。春日山城が襲撃されたと知れば、景虎はその襲撃者を討伐しようとするだろう。その時こそ俺が、謀反人と景虎をかみ合わせて戦わせる。じきじきに采配をふるうのは、この俺だ。俺が景虎を破り、景虎が敗走して逃げ込んだ栃尾城を攻め落とす。自分の武将としての能力の限界を思い知らされた景虎は姫武将として生きることをあきらめる――忌々しい宇佐美と直江は俺が始末する。あの二人を消せば景虎は裸も同然だ。景虎をもとの姫に戻したのち、貴様は俺を『降れ』と説得すればいい。俺が、帰参の証しとして春日山城を攻めた謀反人を始末し、俺と貴様は『和睦』する。以前に宇佐美が柿崎を踊らせてやらせた『返り忠』を、こんどは俺がやりかえしてやるわけだ。これでどうだ?」

 

「……とはいえ謀反人の汚名は、お前がもっとも嫌うものだろう政景。本当に、やってくれるのか?」

 

「ああ。小賢しい宇佐美を完璧に破るためには戦の鬼である俺がじきじきに戦うしかないんだ、やむを得まい。だが、小手先の誤魔化しでは宇佐美と直江は――ことに狡猾な直江大和は騙だませない。春日山城を攻めさせる際に、大勢の人間を犠牲にせねばな。無傷で全員が逃げたとなれば、芝居だと気取られる」

 

「か、構わん。やれ!」

 

「ほう?しかし晴景。お前の一族も犠牲にせねばならんぞ」

 

「構わん。どうせ僕の守護代の座を虎視眈々と狙っている面々だ。僕は妹さえ、景虎さえ守れればそれでいい! だが母上にだけは手をかけるな。僕にとっては継母だが、景虎の実母なのだから。母上を巻き添えにしてしまえば、景虎を苦しめることになる」

 

「フン。さしもの俺でも、女は殺させん。しかし一族の男たちを犠牲にしても構わぬとは、貴様の妹好きはもはや狂気の沙汰だな。魔性に魅入られたかのようだ」

 

「……違う。僕は、神に魅入られたんだ。下克上によって血塗られてきた『長尾家』になど、あの美しくて気高いわが妹と比べればいかほどの価値もない。妹は、なにを犠牲にしてでも守らねばならない。守らねば……」

 

 それほどに狂うほど景虎が欲しいのであれば、己一人の力で奪い取るべきだ。それが戦国の世の掟だというのにどこまでも甘いやつよ。この俺が貴様から守護代の座を奪い一族を奪い景虎を奪ってやる、貴様は指をくわえて俺が越後のすべてを手に入れる姿を眺めていればいい、と政景は口元を歪めて晴景の惑いぶりをあざ笑った。あざ笑いながらも、こいつは生まれてはじめて、この世に人として生まれてきた己の幸福というものを知ったのかもしれん、とどこか晴景にうらやましさのような感情をも抱いていた――。

 

「政景。人の心というものは幸福の源泉でもあり、苦悩と不幸の原因でもある。なぜ、人の世には男と女という二つの異なる生き物がありながら、兄と妹という関係までが存在するのだろうか? なにをしても虚しかった僕の心は、景虎を一目見た瞬間に、生まれてはじめて女への愛というものを知った。しかし、その愛と同時に、醜い欲望の炎もまた燃え上がったのだ。男が、女に抱くのであれば、この矛盾する二つの情はきっと両立するものなのだろう。しかし、実の兄が、妹に抱いていいものではない……せめてもう少し以前から妹と触れ合っていれば、僕はこんな苦しみに身を焦がすことなどなかったはずなのに。ただ、妹を兄として愛でて守れさえすればそれで満足できたはずなのに。御仏の教えにすがる民たちの心持ちが、少しばかりわかった気がする」

 

「くだらんな晴景。無数の女を抱いてきた貴様が今更、坊主のように悟りきれるとでも思うか? すでに貴様は汚れている。妹を抱きたいなどと欲する者が悟れるはずがなかろう。貴様の魂は景虎によって浄化されるはずもない、むしろ逆だ。煩悩の炎に焦がされ、ますます汚れていく」

 

 だからこそ僕は苦しんでいる、と晴景は顔を押さえてうめいた。

 

「晴景。ちっぽけな道徳など踏みにじれ。己の心を偽って、それでなにが手に入れられるというのだ?それほどに妹が欲しいのならば容赦なく手に入れろ。さもなければ、他の男が奪い取るばかりだぞ。お前が奪わないのなら、この俺が奪う」

 

「そう言うお前は矛盾を感じないのか?お前は綾を妻にしている。妻の妹にまで欲望を抱くのは、それは、不義ではないのか?」

 

「黙れ! 綾とは政略結婚したにすぎん。俺は直江大和に騙されたのだ!そもそも欲というものはただ欲するがままに己を燃やすもので、そこには義も後悔もなにもない。それがこの俺、長尾政景の生き方だ!」

 

「……僕には、お前もまた『景虎を手に入れられない』という自分の苦しみから目を逸そらしている哀れな男に見える。長尾政景。お前はなぜ強引にわが妹を手に入れないのか?それはお前の心には妹への欲望だけでなく、やはり、誤魔化しがたい愛という情念があるからだ。その一点だけで、お前は、かろうじて人間としてのぎりぎりのところで踏みとどまっている。その一点を超えれば、お前は鬼になる」

 

「フン。愚かなことを。俺は、力で景虎を屈服させるだけでは飽き足らないだけだ。それでは景虎の身体は奪えても、心は奪えん。やつは誰よりも誇り高く意固地な娘だから、力ずくではかえって心を遠ざけてしまう。心まで奪い尽くさねば勝利ではないからな――俺はな。貴様ごときには景虎の心を掴むことはできない、そう貴様を見下しているから貴様に荷担してやるだけのことだ。欲望の命ずるままに生きる俺の心に、苦しみも悲しみもない。ただ、あいつを手に入れるまでは俺の全身を焦がしている欲望の炎はいつまでも燃焼しきれない。それが苛立いらだたしいだけだ」

 

「政景。お前は僕をただの惰弱なお人好しだと思って利用するだけして捨てようと考えているのだろうが、そうはいかない。妹を、景虎を決してお前には渡さないぞ。僕が生きている限りは」

 

「……貴様」

 

 晴景と政景はしばらく、無言のまま睨み合った。あの晴景が、政景に鬼の形相で睨まれても、決して目を逸らさない。

 

 政景は、こいつ、もう一度俺が「景虎を奪う」と口にすれば、即座に俺を殺すつもりだ、と理解した。むろん、政景は晴景に殺されるような男ではない。だが、脇差しを抜いて襲いかかってきた晴景を返り討ちにしてしまえば、自分の主を、しかも同じ長尾の一族を殺した謀反人になってしまう。謀反の戦を起こして堂々と戦って勝つならばともかく、「主君暗殺」は最悪の手だった。「やはり上田長尾家の血筋は、卑怯な裏切り者の血筋だった」と常々上田長尾家を軽蔑している越後諸将の激しい反感を買う。そうなればもう、景虎を奪うどころではない。宇佐美定満、直江大和、さらにはあの信仰心篤い柿崎景家らが続々と敵に回る。もはや越後にはいられなくなる――。

 

 僕はいつでもお前と刺し違える。殺せるなら、殺してみろ。僕は妹を手に入れられぬままに死ぬが、お前もわが妹を手に入れられない。

 

 妹への道ならぬ想い。ただそれだけのために、晴景は長尾家一門の歴史も守護代の座も自分の命もなにもかも捨てるつもりらしい。

 

 俺はこの病弱な男を舐めていた!と政景は気づき、晴景のような意志の弱い男をここまで狂わせる景虎という存在はいったいなんなのか、と震えた。あるいは、景虎は本当に毘沙門天の化身なのだろうか? 違う。そんなはずはない。あれは己を毘沙門天の化身だと思いたがっているだけの、ただの小娘だ!あれが他の女と同じように黒い髪と黒い瞳を持って生まれていれば、晴景とてこうも惑うことはなかったはずだ。俺は、あいつがただの小娘だということを景虎自身に、そして晴景のように愚かにもあの娘の異常な容姿に目を眩まされて惑っている連中に知らしめてやりたいのだ!

 

「……よかろう。長尾晴景。貴様が生きている間は、景虎に関しては貴様に一歩譲ろう。だが、その身体であと何年生きられるかな?」

 

「妹へ、わが想いを伝えるまでは」

 

「わかった。ならば、春日山城へ景虎が戻ってきたら、その時はためらうな。好きにするがいい。だが、言っておくが貴様は俺以上に拒絶されるぞ」

 

「承知の上だ。それでも想いを伝えなければ、なにもはじまらない」

 

 政景は鼻を鳴らしながら、越後の地図を広げてみせた――。

 

「こいつだ。黒滝城主、黒田秀忠を『謀反人』に仕立てよう。こいつは、春日山城を攻めろ、この俺が手助けしてやると少し煽れば調子に乗る男だ。そして、貴様と違って御しやすい。用済みになれば、簡単に始末できる」

 

 

 

 

 

 ああ、まさしく狂気に支配された者たちの狂宴である。この狂った世界を止められる者はいない。残酷な運命は、一人の少女を更なる苦難の道へと導いていた。神は決して微笑まない。毘沙門天に誘われるまま、彼女はその道を確実に踏み出していた。



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第52話 正義に溺れて 越

書き溜めが、尽きる…。


「長尾政景が、黒田秀忠の反乱軍に加勢している?政景は兄上のもとで宰相を務めていたのではなかったのか」

 

 黒滝城主・黒田秀忠が、謀反に踏みきった。

 

 春日山城を急襲し、大勢の犠牲者を出した。晴景の弟にして景虎の兄であった長尾景康・長尾景房らも殺害された。彼らは景虎に欲情したりしない普通の人間だった。だが、ここで犠牲になってしまった為、府中長尾家の武将は晴景と景虎だけになってしまった。ただ不幸中の幸いにも、越後守護代・長尾晴景と景虎の母・虎御前は無事に逃げ延び、黒田秀忠が兵を退いた後に春日山城へと戻ったという。

 

 黒滝城討伐のために栃尾城の城兵を率いて出陣していた景虎は、日光を遮るように天井までを白絹で覆い尽くした陣中で宇佐美定満の報告を聞きながら「妙だ」と口走っていた。彼女と兄二人との関りはそこまでなかったが、その死には多少のショックを受けている。心なしか気落ちしていた。

 

「政景がなぜ兄上を裏切る? 兄上の次の守護代は政景だと定められているはずだし、兄上にはお子がおられない。一人だけ幼子がおられたが、不幸にも流行病で亡くなられてしまった。政景が兄上を討つ理由がない」

 

「直江の野郎から聞いたろう? 中越の豪族国人たちに栃尾城を攻めさせたのはお前の兄貴と、政景の謀略なのだと」

 

「わたしに武将働きをやめさせたいがために、兄上がそのような政景の企みに乗ったとは聞いたが……しかし今回は違うぞ。政景はどういうわけか兄上と袂を分かっている」

 

「なにか不満があれば謀反せずにはおられないという政景のいつもの病気かもしれんが、裏ではいまだに晴景と繋がっているのかもしれねえな。直江。お前はどう見る」

 

 宇佐美に促されて、直江大和が「人を疑うことにかけては宇佐美さまよりもわたくしのほうが上手ですからね」と苦笑いした。

 

「順々に豪族・国人を当てても、誰もお嬢さまには勝てない。このままではかえってお嬢さまを次の守護代に、と越後の国人衆がお嬢さまのもとに団結してしまう。政景はそう悟って、自ら雌雄を決するつもりになったのではないでしょうか?」

 

「実際、景虎の武名はうなぎのぼりだ。今暫く政景には黙っていてほしかったがな」

 

「ですが政景は宰相の地位にいる以上、お嬢さまとは戦えません。そこで表向き離反したのでしょう。ですが、政景が謀反人として目立ちすぎると後で帰参しづらくなります。そこで黒田秀忠を踊らせて暴れさせたのでしょうね」

 

「春日山城での騒ぎはつまり、大芝居か?」

 

「ええ。このたびの黒田秀忠の謀反騒動では府中長尾家の一族が何人も死にましたが、これは自分の次期守護代の座を確実なものにするために政景が謀反劇のついでに処分させたと思われます」

 

 政景め!兄上を騙しているのだ、と景虎が手にしていた青竹をぴしりと打ち付けた。実際は騙されていると言えなくもないが、どちらかと言えば自発的に企みに乗っている。

 

「しかし直江。すべては政景の策略だとして、晴景がなぜこんなに自家を弱体化させて自分の守護代としての権威を落とす最悪の茶番に乗った? あいつは戦が苦手なうらなりだが、そこまで馬鹿じゃないはずだ」

 

「どんな手を使ってでも、お嬢さまに武将をやめさせたいのでしょう」

 

 宇佐美定満は「景虎がまだ虎千代と名乗っていたガキの頃は、妹に無関心な兄貴だったのにな。どういう心境の変化なんだ」と長髪をかきむしりながら顔をしかめた。まさか晴景が実の妹に恋慕の情を抱いて惑っているとは、遊び人ではあるが色恋の道に関しては常識人――むしろ朴念仁と言ってもいい宇佐美定満にわかるはずもなかった。栃尾城へ押し寄せて来た豪族たちをわずかな人数のみで蹴散らした初陣以来、景虎の武名は高まるばかりだった。

 

 あの初陣で、小柄な姫武将・景虎は白い行人包で頭と顔を覆い、鎧も兜も身につけず、飛び交う矢の雨の中を一騎がけして突進した。こんな幼い少女に戦ができるのだろうか? とはじめて見る「越後の姫武将」の弱々しい姿に戸惑っていた栃尾城の男武者たちは、景虎のあまりの無謀ぶりに度肝を抜かれた。

 

「運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり!私は毘沙門天の化身だ。矢などいくら撃ちかけたところで、毘沙門天の身体には一本も当たらない。もしも当たれば、私は偽者にすぎなかったということだ」

 

 そう叫びながら景虎は敵陣深くへと突進していく。栃尾城の男たちは、景虎を死なせてはならない、と猛り狂った。

 

 景虎に弓を向けていた敵兵の男たちも、初めて見た「越後の姫武将」の可憐で儚い姿に驚愕し、そしてその非常識な無謀に戸惑った。彼らは、景虎を無残に殺すことをためらった。数に劣る栃尾城勢が、圧勝した。

 

 次の戦でも、その次の戦でも、景虎は勝った。常に自ら先陣を切って、敵味方の男たちを惑わせ、狂乱させ、そして勝ち続けた。無茶苦茶するんじゃねえ!と宇佐美定満が何度も制止したが、景虎は聞かなかった。

 

「宇佐美。私はあまり長い時間、日の光を浴びてはいられない。長対陣は避けたい。敵の矢に当たって死ぬのと、日の光を浴び続けて死ぬのと、どちらが武士として相応しい?わが戦は、速戦で決める」

 

 そう言われては、宇佐美定満も景虎を止めきれなかった。確かに、越後の男武将たちにとって、行人包で肌を包み赤い瞳を輝かせながら戦場を駆ける小さな景虎の姿は異様なものに映った。敵にとっては迂闊に触れてはならない神秘的な存在に見え、味方にとっては命を賭しても守らねばならないなにかに見えた。

 

 ただ……景虎自身は口にしないが、曇りの日はともかく、晴天の日の戦場では、景虎はまぶしさのあまり目の前の光景がよく見えていないらしかった。それ故に、一騎がけの突進という無謀が可能になったのかもしれなかった。が、視力が十分ではないにもかかわらず、馬上で景虎が矢を避ける能力は、異様なほどに高かった。目が利かない分、耳で矢が風を切る音を聞き分けることができるようだった。

 

 己の肉体の不利を、景虎は利点として活かしていたのだ。しかも、考えてやっているのではなく、ただ直感でそれを実践したのだ。

 

 それだけでも信じがたいことだったが、宇佐美がさらに驚いたのは、景虎が戦場での敵味方の兵士たちの「動き」を敏感に察知する嗅覚を持っていることだった。嗅覚と呼んでいいのかどうかわからないが、目で見ることができない範囲での兵たちの動きをも、景虎はなぜかかなりの部分まで正確に感じ取ることができた。まるで、天上の世界から大地に展開される合戦を俯瞰しているかのように。

 

 敵味方の陣形を俯瞰できる景虎の用兵は、常にその時その時の閃きと感覚だけで行われ、あらゆる軍法に縛られず自由自在なものだった。突如として軍を割り、兵をいきなり反転させ、誰も考えつかないような地点へと彼らを唐突に動かし、そして徹底的に勝った。

 

 宇佐美にも、宇佐美から事情を知らされた直江大和にも、なぜ景虎にそのような能力が備わっているのか説明することはできなかった。むろん、己こそ越後に正義と秩序をもたらす毘沙門天の化身である、そうであらねばならないと信じて無我夢中で戦っているにすぎない景虎自身にも。

 

 おそらくは感覚が尋常ではなく鋭敏なのだろう、常識をはるかに超越した戦の天才と言うしかない、と二人は結論した。越後全土に、「長尾景虎は神将である」という恐れと憧れと戸惑いとがないまぜになった声がわき起こった。はたしてそれが景虎にとって喜ばしいことなのかどうかはともかく――。

 

 三度目の戦で景虎の希有な天才ぶりに気づいた宇佐美は、滅多なことでは景虎が閃きのままに繰り出す戦術に口を挟まないことにした。だが、今回の戦だけは少々事情が違った。

 

 黒田秀忠が、あの「越後最強」長尾政景と合流して野戦を挑んできたからだった。しかも政景は景虎の姉・綾の夫である。つい先日までは、兄・晴景の宰相を務めていたはずだ。日頃は後方で兵站を担当している直江大和を戦場へ連れ出したのも、相手が厄介な長尾政景だったからだ。これは政景が何度もやらかしてきたいつもの謀反劇ではない、もっと複雑ななにかだと察知したゆえに、直江を前線へと呼び出したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「宇佐美。直江。政景たちが堂々の野戦を挑んでくれたのはありがたいな。黒滝城へ籠城されていれば面倒だった。この戦、一日で片をつけよう」

 

 景虎は生まれつき食が細く、また体質的に食べられない食材が多い。戦場では、食べ物をほとんど口にしない代わりに、酒を飲んでいた。

 

「まだガキのくせに酒はよせって景虎。若い頃からの飲み過ぎは身体を壊すぜ」

 

「小うるさいぞ宇佐美。わたしはいくら飲んでも酔わないし、己を失ったりはしない。それにわたしはもう子供ではない。元服している」

 

 飲み過ぎぽっくり厠で死んでくれないかなと関東で誰かがぼやいている。

 

「いや違うな。お前は、まだ乙女になってねえじゃねえか」

 

「うん? と、いうと?」

 

 意味がわからない、と景虎がきょとんとしている様を見て、宇佐美は焦った。

 

「……ああ、いや。そいつはオレの口からは気恥ずかしくて言いだせないな。直江、鉄面皮のてめえが説明しろ」

 

「嫌ですよ。宇佐美さま、あなたはわたくしをなんだと思っているのですか。いくらお嬢さまに厳しい言葉を伝える嫌われ役でも、その筋の話はわたくしが口を入れるべきではありません。だいいちお嬢さまは婿を取るおつもりがないというのに」

 

「……いやいやいや直江。そうじゃねえんだ。景虎はな、どうやらまだ来てないんだよ」

 

「……えっ? なぜわかるんです?」

 

「長いつきあいだ、見てりゃわかる」

 

「お嬢さまは同年代の乙女たちと比べて身体が小さいですが、それにしても少々遅すぎませんか?」

 

「そうなんだ。もしかしてずっとこのままなのだろうかと心配でな」

 

「男のあなたが心配する筋合いの話でもないでしょうに」

 

「オレは景虎に関しては心配性なんだよ!」

 

 なにをこそこそ男同士で頬を寄せ合って密談しているのだ気持ち悪い、と景虎が盃の酒を飲み干しながら眉をひそめた。

 

 

 

 ちょっと生々しいものの、割と大事な話をする。この世界では武将の多くは女性である。という事は年頃の女性にありがちな生理現象も当然発生する。通称生理である。現代でもそうだが、この症状には個人差が当然ながら存在する。

 

 例えば、晴信や氏康のようにそんなに重い症状がないとかなり楽なのだが、そうでない姫武将もいる。河越城だと兼音の母親がかなり重いタイプの人であったため、重症の場合は休暇が貰える。大分ホワイト企業である。

 

 ただ、彼的には朝定をどうするか悩みどころだったのであるが、胤治が来たのをいいことに丸投げしている。得意分野と言うか、男にはどう頑張っても分からない事はあるので適材適所だと言うのが彼の主張なのだが。

 

 ともかく、この手の生理現象は出征にも影響するため、軍事においては重要な事とされていたのである。

 

 

 

 

「敵陣を見るに、左翼に黒田秀忠、右翼に長尾政景が布陣しているな。左翼側の守りに大きな隙がある。相手が政景単独ならば手こずっただろうが、この急ごしらえの混成軍が相手なら勝てる。宇佐美、お前は兵三百を率いて左翼の黒田勢を叩け。わたしは旗本衆を率いて右翼の政景の陣へと突進する」

 

「おい、景虎?あいつとお前が直接激突するのか?かえって政景をやる気にさせるんじゃねえのか?あの男にとってお前は越後一国よりも重要な戦利品だぞ」

 

「気持ちの悪いことを言うな宇佐美!いいか。政景の堅陣をわたしが必ず崩す。機を見てお前も反転して政景を挟撃しろ。政景勢を崩せば黒田勢など勝手に逃げ散る」

 

「待てよ景虎。政景は今までの敵とは違うんだぜ。戦場でお前を見れば、お前の可憐さに恐れ入るどころかかえって頭に血を上らせる。直江、なにか適当な言葉で景虎を止めろ!」

 

「城内での騒ぎならいくらでも諫言できますが、ひとたび戦場に出られたお嬢さまは、誰にも止められませんよ」

 

「おいおい。なんのためにお前を連れてきたと思ってるんだこの野郎!」

 

「やはり、宇佐美よりも直江のほうが利口だな。その分、いけすかなくてたちが悪い男だが」

 

 景虎は兎のように赤い瞳をきらめかせながら、うなずいていた。

 

「よいか、この戦に決して時間をかけるな。政景に二度とつまらぬ謀反など考えさせないほどに勝利し、やつを打ちのめす。わたしがあの男よりも強い武将であると知らしめ、武将をやめさせるなどという企みはきっぱりあきらめさせる。本当にあの男が兄上に妙な策を次々と吹き込んでいるのだとしたら、許しがたいことだ。現に春日山城が襲われ、兄上の守護代としての権威は大いに落ち、二人の兄が死んだのだぞ。兄上は心のお優しい方だから、このわたしを出汁に使われて狡猾な政景に騙されているのだ。法螺貝を吹かせろ、直江大和」

 

 今こそ政景を殺す好機ですがと直江大和が笑い、「戦って勝てばそれでよい。戦いが終われば許す。それが毘沙門天の義の戦だ」と景虎はつぶやいていた。

 

「私に、姉上の夫を殺せなどと二度と勧めるな、直江大和」

 

 

 

 

 

 

 

 

 馬上の人となった景虎は、迫り来る死の恐怖と、戦場で敵味方が互いの命を奪い合わねばならないという悲しみとを感じながら、目の前に展開する越後蒲原の平原を見下ろした。敵将を許すとは誓えども、戦闘のさなかに大勢の兵が傷つき死ぬのだ。

 

 青空の輝きが、まぶしかった。瞼を完全に開いてはいられなかった。吹き上がってくる風を、全身に感じた。

 

「兄上。申し訳ありません、私は――景虎は生涯を姫武将として生きるとすでに定めました。父上の悪行を償うために、私は毘沙門天によって生かされているのです。これより、長尾政景を撃ち破ります。どうか再び長尾政景などと与さないでください」

 

 義の戦。正義を越後にもたらすための戦。本当に可能なのか。言葉遊びによって、殺戮と暴力を肯定しようとしているだけではないのか。初陣に出て以来、戦場を経験した景虎は何度も自分が掲げる義を疑い、惑い続けている。自らの手で敵を斬り殺した経験はまだないが、それでもどうしようもなく反撃しなければならない危地に何度も立たされた。そのような時には、やむを得ず刀をふるい、相手に手傷を負わせた。

 

 本当に、義の戦は可能なのだろうか。わたしがやっていることは徒労ではないのだろうか。あるいは、父上と同じ罪を重ねているだけではないのだろうか。罪悪感に怯えながら馬を進め、自ら最前線へと駆けはじめた景虎の耳に、あの忌まわしい男の声が響いてきた。

 

「景虎!戦の天才などと呼ばれているようだが、所詮貴様は井の中の蛙よ!本当の戦というものをこの俺が教えてやる!問答無用の武の力の前には、貴様が誇る天性の勘など無力!まして、敵を殺せぬ臆病者に俺は止められんぞ!」

 

 遮二無二に突進してくる武者の姿が見えた。しかしその顔までは、よく見えなかった。この青空の下では、ぼんやりとした輪郭しか見えない。が、景虎を無性に苛立たせるこの傲慢な声は、長尾政景のものだった。

 

 速い。馬も武者も巨体なのに、速い。気がついた時には、黒馬にまたがった長尾政景が長大な斬馬刀を軽々と掲げて、目の前に迫ってきていた。かの斬馬刀は、長尾為景が若い頃に使っていたものを譲り受けたのだという。今の越後で、この太刀を戦場にて用いることができる武者は、長尾政景しかいないのだという。

 

「来たな奸物め!」

 

「景虎さまをお守りせよ!」

 

「若造どもが!この俺を止められるものがあるか!」

 

 次々と政景へ突進していく小姓たちが、容赦なく首を打たれ腕をもがれていく姿が見えた。

 

「この雑魚どもがあああ!消え失せろっ!」

 

 今の政景は、もはや人ではない。まるで鬼か阿修羅だった。景虎はすでに何度か、戦場を駆けてきた。実戦を経験してきた。命の危険を感じた場面もあった。それでも、こうして生きている。戦場に立つと不思議と、敵味方の軍勢の「動き」が感じられる。越後の大地から吹き上がってくる風が、戦場を駆け巡る人々の命のきらめきのようなものを景虎に教えてくれるのだ。どこかできらめきが輝けば、それは命のやりとりに燃え上がっているということである。きらめきが消えれば、誰かが死んだということである。景虎はその無数のきらめきの明滅を風に感じながら、自軍を進退させればそれで勝てた。だから、決して負けなかった。理屈では説明できない。毘沙門天の力、としか言いようがなかった。

 

 しかし戦場に立った政景は、景虎にとってはまるで想像外の生き物だった。その巨体から禍々しい野望の黒い火柱を放っているかのように、景虎は感じた。

 

 私の細腕でこの怪物のような男を打ち倒せるのだろうか、と景虎は恐れた。だが、越後最強の武人・政景を戦場で、「武」を用いて倒さなければ、自分は到底毘沙門天の化身になれるはずもない。

 

「景虎!貴様はただの小娘だ!この俺に勝てるか!?毘沙門天ごっこはここで終わりだぞ!夢から、覚まさせてやろう!」

 

 政景は躊躇なく殺戮を繰り広げる。ただ一人で、景虎が率いる近衛衆を皆殺しにできる、それほどの怪物だった。景虎の顔に浮かんだ感情は、恐怖ではなく、憤怒。

 

 私が正義なのか、私が毘沙門天なのか、何も確信はない。しかしこれだけはたしかだ。目の前で今、年端もいかない侍たちの血を吸っている長尾政景は、悪だ、と!この男は、殺戮を楽しんでいる!弱者を虐げその命を奪うことに、喜びを感じている!

 

 口先で「不戦」を唱えても、「義」を唱えても、「和」を訴えても、この男を止められはしない。誰かが、悪を誅さなければならない。誰かが、止めなければならない。

 

「……うわああああ!」

 

 目に涙を浮かべながら、腰の太刀を、抜いていた。

 

「やめろ!長尾政景!貴様の相手はこの私だ!」

 

 長尾政景の懐へと、突進した。己の命のことなど、忘れていた。政景は、景虎が自分に立ち向かってくるなどとは、予想もしていなかったらしい。

 

「……景虎。貴様……!?」

 

 景虎と、視線が合った。瞬間、政景の身体は馬上で硬直していた。

 

 景虎は、怒りにまかせて心の中で「不殺」の誓いを破った私は今、この男に斬られて死ぬのだ、と覚悟した。だがこの時、政景は振りあげた斬馬刀を、景虎の頭蓋へ叩き込めなかった。

 

 不覚にも隙を奪われた。反撃せねば殺られる。しかしそれでは景虎を殺してしまうことになる。だが、政景はそのような理由で景虎殺しを躊躇したのではなかった。景虎の鋭い突きを前に、なにかを考えている時間は、政景にはなかった。ただ政景は、涙に濡ぬれ憤怒の感情を爆発させている景虎の赤い瞳に、この時、魅入られていた――。

 

 同じだ。この小娘が春日山城に生まれてきた時に感じたあの途方もない衝撃と、同じだ……いや、それ以上だ。この娘は、怒りに燃えれば燃えるほど、いよいよ美しい。

 

 気づけば、景虎が突き入れた刀が、政景の脇腹に刺さっていた。胴巻きを割られたらしい。肉が裂ける痛みが全身を駆けていた。戦場で敵の総大将に見とれて刺される武士など、聞いたこともない、と政景は歯ぎしりしていた。

 

「……俺としたことが……不覚に、不覚を、重ねた」

 

 

 

 

 

 景虎はしかし、「私の太刀が政景に当たる」と気づいた瞬間に手を緩め、かろうじて刀を逸らしていた。急所を避けていた。

 

「……あ……あ……あ」

 

 政景がふるう野蛮な暴力を目の当たりにして途方もなく激怒し、己を忘れていた。気がつけば姉上の婿の身体に、刀を突き立ててしまった。殺そうとしていた。殺すところだった。我に返った景虎は、震えていた。

 

 それでも政景を殺さずに済んだのは、毘沙門天の加護か。

 

 なぜ自分が勝てたのかまるでわからないままに、景虎は政景の脇腹に突き立っていた刀を引き戻し、「長尾政景!貴様の悪心は今、毘沙門天の太刀が断った!降伏して兄上のもとへ戻れ!」と凜りんとした声で叫んでいた。言おうとしていた言葉とは違った。「ごめんなさい」と泣きながら謝ろうとしていたのに、まるで違う言葉を景虎は叫んでいた。もしかして毘沙門天自身の声なのか、と景虎は思った。

 

「……貴様、この俺に慈悲を……俺を、侮辱したな……許さん……」

 

 振り絞るような声でうめきながら、政景の身体は、馬上から落ちた。長尾政景殿、討ち死!景虎さまご自身が一騎打ちにて討ち取ったり!という声がどこかからか響いてきて、そして長尾政景軍は一気に崩れた。

 

 長尾政景討たれる!と聞いて恐慌を来した黒田秀忠軍は、文字通り四散した。もともと、政景の後ろ盾あってこそ謀反に踏み切ったのだ。為景没後、文字通り越後最強となったあの政景がまさかか細い姫武将に討たれるとは。

 

「長尾景虎さまは、軍神だ!」

 

「まことの毘沙門天の化身だ!」

 

「俺は見た!政景と刀を交えた時、景虎さまは声も人相も一変していた! 悪を討つために、毘沙門天が乗り移られておられたのだ!」

 

 あり得ないことが起きていた。戦場で戦っていた敵味方の兵士がみな、目の前の合戦を忘れるほどに騒然となった。この日この戦から、越後最強武将の座は、長尾政景から景虎へと移ることとなった。しかも景虎は、武士として、人間としての武辺の力を超えた力、まさしく神の力の持ち主であった。そうでなければ、なぜ幼い少女があの野獣を倒すことなどできるだろうか?

 

 黒田軍を追い散らした宇佐美定満が、「お前まさか政景と一騎打ちしたのか?無茶苦茶だ!」と慌てながら軍を率いて駆けつけてきた。

 

「追い討ちはするな。無益に兵を殺すな。降伏する者は受け入れよ。宇佐美!長尾政景の怪我の手当てを!急所は突いていない、政景は死んではいない!」

 

「景虎。いったいどうやって政景を斬った!?お前の武術の腕前は姫武将にしては上等だが、政景は論外の化け物だぞ。あの長尾為景と一騎打ちで張り合えた唯一の男だ。俺にはもう、なにがなんだかわけがわからねえ!」

 

「宇佐美。確信したぞ。戦場にひとたび出た私は、毘沙門天の化身になるのだ。生身のわたしには勇気も武辺もなにもないが、悪を誅する戦場では、毘沙門天の力を与えられるらしい」

 

「いや、違う。そうじゃない。なにごとにもきちんとした理屈があるんだ、景虎。理屈がわからないことをすべて毘沙門天で説明するのは、なにか違うぜ」

 

「ならば説明しろ。わからぬうちは、毘沙門天の加護、の一言でわたしは片付ける」

 

「……説明、か……これはもう軍学とは関係がねえ。そいつは、オレよりも直江の領分だな」

 

 宇佐美定満はしかし、いつまでもこんな神がかりの奇跡が続くはずがねえ。しかも、これほどの恥辱を与えておきながら政景を生かすだと?いくらなんでも甘すぎるぜ!このままでは景虎は遅かれ早かれ討たれちまう!なんとかして対策を練らねえと……と気が気でなかった。

 

 天才肌の景虎には軍学を教えない代わりに槍や刀で敵兵と戦う術すべばかりを教えてきたが、景虎は殺生を好まない。「殺さず」の誓いがある分、不利だ。今日は毘沙門天の加護としか言いようのない不可思議な奇跡が起きて生き延びたが、護身のための術を学ばせねえと駄目だ。

 

 それも、越後の男武者どもが用いない術を。やつらが知らない術を。種が知れていない術を。だが、そのようなものがあるのだろうか?見当たらないというのならば、探さなければならなかった。宇佐美定満はこの純粋すぎる少女に「義」の精神を教え込んだ者として、姫武将という厳しい生き方を勧めた者として、最後まで筋を通し責任を取り続けねばならない、と改めて誓っていた――。

 

 

 

 

 

 

 この合戦からしばらく後、河越城にて兼音は朝定にその叡智を叩き込んでいた。彼は言う。

 

「正義に呑まれ、それに溺れて誰かを悪と断じた時に真の正義は死ぬ。悪を誅すと言った時に、もう正義は成せない。この世界に絶対の正義はなく、もしあったとしても武士にそれは成せない。武士はどこまで行っても人殺しだ。忘れるな。正義は、悪なくして成り立てないのに悪を消そうとする自己矛盾の塊なのだから」

 

 と。悪が無ければ正義は成立しない。にも拘わらず正義はしばしば悪を誅する。子供向けアニメの中ですら。悪がいなかったら、次に世界の敵になるのは強大な力を持つヒーローなのに。正義を口実にした瞬間にそれは正義ではない。そうやって多くの者が戦争を巻き起こした。戦争とは己の信じる正義のぶつかり合いなのである。

 

「神は人を殺すことを正義と言って肯定しない。神はいつでも冷酷に、冷静に、そして平等に人を見る。もし個人を代理人にして力を与え、己の理想を遂げさせようとする神がいるならそれは善なる神に非ず。邪神である」

 

 この頃になると景虎の話は関東にも多少は聞こえてくる。朝定には、兼音が誰の事を非難しているのか何となく察しつつも、その憎悪に近い感情がどこにあるのか分からなかった。彼女は兼音の言う事を正しい一つの意見であると認めつつ、もうちょっと世の中を見てから判断しようと考えた。彼女は聡明であり、賢明だった。そしてそれを兼音も肯定している。私の意見を信じるのではなく、参考にしながら自分で答えを探しなさい、と教えている。その結果、朝定は自分の意見をしっかり持って世の中の様々な事に接せる人間に成長しつつあった。

 

 

 

 

 

 黒田秀忠の乱は、この日のただ一戦で鎮圧された。今や越後の希望の星となった景虎は、黒滝城へと逃げ込んだ黒田秀忠に追い討ちをかけることなく、自らの居城・栃尾城へと凱旋した。そして、宇佐美定満・直江大和とともに、降伏した長尾政景と対面した――。

 

 長尾政景の腹部の怪我は予想外に軽かった。だが、幼い姫武将である景虎に敗れた政景は、怒りと屈辱に目を充血させていた。政景は戦場で景虎を討てるはずだった。しかしそれを、頭ではなく身体がためらった。そんな己の甘さに激怒していたのかもしれなかった。

 

「景虎。貴様、なぜ俺を殺さなかった。愚かな。このたびの戦に敗れたのは、黒田秀忠が不甲斐なかったためにすぎん。俺は、また叛くぞ」

 

 そんな事言われても、と言うのが黒田秀忠の言い分である。が、この場にいないので言い訳できない。政景を「獅子身中の虫」と常々嫌悪している直江大和が「切腹させましょう」と景虎に勧め、宇佐美定満が「姉婿とはいえ、謀反を生きがいにしているような男だ。なんの咎めもなく宰相の地位に戻すわけにもいかんだろう」と罰することを求めたが、景虎は「姉上の夫を殺すことはできない」と繰り返した。

 

 意識を取り戻して以来荒れ狂っていた長尾政景は、そんな景虎の赤い瞳に睨まれているうちに、次第に気圧されていった。日の光が入らない室内では、景虎は行人包を被らずにその銀色に輝く長髪を肩へと垂らしながら床几に腰掛けるのが常だった。

 

 今や景虎は美しい少女に育っていた。が、それは人としての美しさではなかった。生まれてきた時、実父に「兎の赤子」と忌み嫌われたはずのあの銀髪と赤い瞳と真っ白い肌を持った少女のこの世の人とは思えない神秘的な美は、すでに人の領分を越えてしまっていた。

 

 美しい。直江大和さえいなければ、俺は綾ではなくこの景虎を娶るはずだったのだ。俺にとって景虎は、越後一国よりも重い。ひと思いに殺せるはずがない。

 

 政景は、成長した景虎が放つ侵しがたいなにかに、魅入られていた。だが景虎にとって、政景は姉婿だった。

 

 政景が、妻の妹である自分を「女」として意識していることが、許しがたかった。それは景虎にとっては、兄に対する謀反よりもさらに許しがたく耐えがたい不義だった。故に政景を嫌悪した。綾の夫であるゆえに許しはした。だが、宇佐美定満が勧めるように、なんらかの罰は与えなければならないだろう。潔癖な景虎には、そのあたりの政治的感覚というものがなかった。生まれつき欠如しているといっていい。

 

「長尾政景。姉上の手前、お前を許す。しかし私はお前が嫌いだ。お前には義も理も志もない。ただあるのは獣じみた欲望だけだ。黒田秀忠を煽って春日山城を襲わせたのは、お前なのだろう。お前こそ今回の謀反騒動の首謀者だ。だとすれば、兄上のもとで再び宰相をやらせるわけにはいかなくなる」

 

「フン。貴様よりも俺のほうが長尾為景の血を濃く引いているということにすぎん。それに、俺が黒幕だという証拠があるのか?」

 

「証拠はいずれ手に入る。黒田秀忠を問いただせば済むことだ。すでに黒滝城へ使者を送っている。あの者は大罪人だが、正直にすべてを語れば、降伏を認めるという条件で黒田秀忠を許す」

 

「それは甘いぞ景虎。黒田秀忠は、敵をすべて許すなどと公言している貴様の毘沙門天ごっこなど信じてはいない。戦って敗れれば切腹あるのみ、死あるのみと貴様に怯えていた。だからこそ貴様と戦ったのだ。貴様などいつでも殺せるという自負を抱いている俺とはまるで違う理由で立ったのだ。使者など送っても無駄よ」

 

「それもすべて、お前が黒田秀忠に吹き込んだのだろう。越後一の剛勇を誇りながら、陰でこそこそと策を弄する卑劣な男め。お前は女である私よりもよほど女々しいぞ、長尾政景」

 

「くだらんな、景虎!俺は武人だ!勝つためならばどんな手でも打つ!策を弄さず武辺だけで越後を奪えるほど、戦国の世は甘くない。義だの慈悲だのとほざいているお前には、なにごとをなすこともできんぞ。たとえ神がかりの軍才を持っていたとしてもな!」

 

「……戦いかつ許す、それが毘沙門天の戦いだ」

 

「だが謀反人をひとたび許せば、二度でも三度でも叛かれるぞ。それが越後における戦いの歴史だ」

 

「私は、敵を五度でも十度でも許す!」

 

「フン。口ではなんとでも言える。七縦七擒とは、諸葛孔明を気取ったつもりか?この俺が再び叛いても許せるか?貴様がどれほど神がかりの強さを見せようが、慈悲をかけようが、俺は絶対に生き方を変えんぞ!死ぬまでな!しょせん俺の身体に流れる血は、裏切り者の分家の血筋よ!お上品な貴様とは違う!」

 

 

 

 七縦七擒とは、三国時代、蜀の諸葛孔明が敵将の孟獲を捕らえては逃がしてやることを7回繰り返した末に、孟獲を心から心服させたという「蜀志」諸葛孔明伝・注の故事から来た言葉である。転じて相手を自分の思いどおりに自由自在にあしらうこととして現代では使われている。

 

 

 

 

 景虎は怒りに震え唇を噛みながら、声を振り絞った。

 

「……それでも、許す」

 

 ただし黒田秀忠がお前を訴えれば、命は奪わずともそれなりの罰は与える、と付け加えていた。

 

「後悔するぞ、景虎。貴様は、俺を殺す機会を二度も捨てた。直江大和が言うように、俺は越後に巣くう獅子身中の虫だ。裏切るつもりがなくとも、周囲の連中が俺に囁やくんだ。長尾政景はしょせん裏切り者の分家の血筋だと。一度裏切った上田長尾家は、いずれ必ずまた裏切るとな。俺は、幼い頃からそのような蔑みの視線に晒されてきた」

 

「……お前は、兄上の次の守護代ではないか。どこに兄上に謀反する意味がある」

 

「くたばった為景が残した書状に、力などない! しょせん越後を制するものは武の力よ! 武の力ある者こそが守護代となれるのだ。そして今、貴様が現れた。貴様はただ義とやらのために戦を繰り返しているつもりだろうが、そこに侍っている直江と宇佐美は、貴様を次の守護代にするために動いている。道理は通っている。分家の俺と本家の貴様では、血筋が違うからな! またしても、貴様が俺の前に立ちはだかったのだ。貴様がいる限り、俺は野望を遂げられん。越後最強の武人の名を、必ず貴様から取り戻す!」

 

 宇佐美定満が、口を挟んだ。政景と景虎はどこまでも相容れない。このままでは、切りがなくなる。

 

「春日山城を襲わせた際に、景虎の兄たちを殺させたのは失敗だったな、長尾政景。これで本家の人間のうち、守護代を相続できる資格を持つ者はずいぶんと減った。晴景が死ねば、次の守護代は為景の旦那が生前に定めたお前か、あるいは――旦那の直系の子である景虎しかいない。お前の余計な策謀のおかげで、候補は二人に絞られたということだぜ」

 

「フン……してやったりといったところか、宇佐美定満?」

 

「冗談じゃねえ。俺は、長尾政景、お前の阿呆さ加減を笑いたいだけさ」

 

「俺のどこが愚かだというのだ?」

 

「俺にはお前が、景虎に越後守護代の職を与えたくて必死で奔走しているようにしか見えねえ。じっとしていりゃあお前が次の守護代だというのに、わざわざ自ら謀反人になって、しかも他の候補者たちを始末させ、てめえは勝てるはずの景虎に一騎打ちでむざむざ敗れて景虎を『越後の軍神』に仕立て上げちまった。特に、一騎打ちでてめえが景虎に不覚を取るはずがない。お前がなにを考えているのか、わけがわからねえ」

 

 政景は、その意外な宇佐美の言葉にためらい、そして押し黙った。

 

 言われてみれば、俺は景虎が有利になるようにいちいち行動しているかのように見える……しかしそれは結果がそうなったというだけで、俺は俺自身の野望のために策を弄してきたにすぎない!

 

 反論したかったが、景虎が「それはどういうことだ宇佐美?」と無防備な表情を浮かべている横顔を見てしまうと、なにも言うべきではない場面だと気づいた。

 

 そこへ、黒滝城から追い返された使者が入ってきた。

 

「黒田秀忠、心変わり!一度降伏すると言いながら、前言を覆して再び籠城の準備を始めました!これほどの罪を犯して今更許されるはずもなし、かくなる上は景虎さまと決戦に及ぶと。城を枕に一族ことごとく討ち死にするお覚悟です」

 

「長尾政景。お前が黒田秀忠を説得して開城させろ。兄上に返り忠を見せろ。それで、宰相の座に復帰することを許す。大軍を率いて黒滝城を包囲することは認めない。むろん、黒田秀忠がお前の悪事を言い立て、お前が黒幕だと訴えれば、公平に裁く」

 

 この狡猾な男にそのような重大な任務を与えてはなりません、わたくしが参りますと直江大和が血相を変えて立ち上がったが、景虎は「政景にはなんらかの罰は与えねばならない。これで帳消しにしてやる」とうなずき、そして酒を舐めた。

 

「直江大和。この機会に俺を殺すつもりだったのだろうが、残念だったな。景虎はお前が想像している以上に甘いようだ」

 

「長尾政景さま。この謀反騒動には、春日山城の晴景さまご自身が参与されているのではありませんか?」

 

「なに?」

 

「晴景さまは、お嬢さまを戦場に立たせたくない一心で、どうにか姫武将をやめさせようと心を砕かれておられます。しかし誰もお嬢さまに勝てない。そこで、あなた自身が戦わねばならなくなった――晴景さまとあなたの間では、はじめから裏で話がついているということです」

 

「証拠などないな。いいだろう。黒滝城へ乗り込んで、黒田秀忠を帰参させてくる。断れば、直江大和が俺を処断せよと騒ぎ立てるだろうしな……しかし直江大和。宇佐美とは違い、お前には裏切り者の血が流れている。お前は命惜しさに主君を裏切り、長尾為景に寝返った裏切り者の息子だ。どれほど聖人君子ぶろうが、お前はこの俺と同類よ」

 

「なにを言おうがわたくしの心を言葉で傷つけることはできませんよ、政景さま」

 

「知っているぞ。お前の父は、為景に自分の妻を与えた。妻の身体と引き替えに、為景に命乞いしたのだ。それが直江家の男の本性よ」

 

「……黒滝城へただちに向かいなさい。しくじれば、お嬢さまがどれほど庇おうとも、切腹を命じます」

 

 直江、と景虎が思わず声をあげた。直江大和は、なにごともなかったかのように静かに微笑ほほえみ、政景の言葉に動揺している景虎をその視線だけで落ち着かせていた――。

 

 しかし、直江大和はこの時はじめて、長尾政景に裏をかかれたのだ。やはり、動揺していたのだ。

 

 

 

 

 直江大和には屈辱的な秘密の過去があった。景虎にさえ打ち明けていない過去だ。かつて直江大和の父は、主君を裏切って長尾為景陣営に走り、為景に命乞いをした。それ故に直江家は、最後まで忠義を貫いて為景と戦い続けた宇佐美家のように一族皆殺しにされることなく存命することができた。幼かった直江大和は、為景よりもむしろ為景の武威に屈して卑屈にも生き残りをはかった父親を嫌悪した。

 

 そこまでは景虎に語ったことがある。しかし、本当はまだその先があった。大和の父は、自らの助命と引き替えに為景に妻を献上したのだ。父の卑屈のために母親から引き離されたのだ。今はすでに大和の父も母もこの世にはなく、あの耐えがたい屈辱はすべて遠い過去の記憶となって消え去っていくはずだった。

 

 そんな誰にも知られたくない屈辱の記憶を呼び起こされて、しかも景虎に知らされた。父・為景の数々の暴虐を罪と受け止めている潔癖な景虎は「わたしの父はそのような悪行を」と傷つくに違いなかった。景虎もまた、政略結婚によって姉・綾を政景に奪われている。しかもその策を立てて実行したのは他ならぬ直江大和だった。保身や出世のためではなく、生涯の主君と定めた景虎を政景から守るためのやむを得ない措置だったとはいえ、直江大和は憎んできた自分の父親と同じことをやったのだ。だから、景虎に自分の過去を知られたくはなかったのだ。感受性が強すぎる景虎は深い罪悪感を抱くだろう。そしてきっと「直江もまた、お父上が犯した罪から自由にはなれなかったのか。ではやはり、わたしもいずれ父上と同じことを……」と悲しみ傷つくだろう。

 

 それ故に直江大和はこの時、動揺した。思わず、出立しろ、と政景に向って口走ってしまったのだ。もっと先の先まで隠しておきたかった切り札だったが、切ってしまった。だがこれで直江大和との化かし合いは一勝一敗だ、と長尾政景は立ち上がりながら笑っていた。

 

 宇佐美定満は、景虎にこの件についてこれ以上考えさせてはならないと慌てた。

 

「ほら見ろ景虎。うさちゃんの抱きぐるみだぜ。この新作は、お尻から手を突っ込んで口をぱくぱくと開閉できるんだ!」

 

 宇佐美は懸命に話を逸らそうと新作について大いに語った。

 

「お尻から手を突っ込むとはなにごとだ、下品な。乙女に対して手渡すようなものなのかこれは」

 

 景虎は不機嫌になって、無理矢理手渡された兎の抱きぐるみを宇佐美の顔めがけて放り投げていた。

 

「……」

 

 冷や汗を流しながら沈黙していた直江大和は、宇佐美に救われた気分になっていた。

 

 

 

 

 

 

 しかし、政景はただ直江大和に腹いせの意趣返しをしたわけではなかった。本来の目的は、別にあった。

 

 この日の夜。

 

 長尾政景は、黒滝城にわずかな手勢だけで乗り込み、黒田秀忠とその一族をことごとく斬り捨てて黒滝城に火を掛けた。…はずだった。黒田秀忠は政景が乗り込んだ時に全てを悟った。己を生かす気のないことを悟ったのである。この時、彼には息子と娘がいた。娘の方が年長だったがこの越後に姫武将の習慣がないため、柿崎景家に嫁いでいる。息子の方はまだ幼少。

 

 そして、何とかこの息子を生かすべく、黒田秀忠は決死の時間稼ぎを行い、信用のおける家臣に彼を託した。政景はこの子の存在を知らなかったため、追討軍は無かった。知っている家臣団もみんな死んでいる。最後の主命を受けた家臣は何とか城外に脱出し、家族を連れて越後からの脱出を図った。どの道越後にいては死ぬだけであるからだ。結果山野をさ迷い、途中年老いた家臣は死んでしまったが、その娘が父の使命を継いで逃亡。安住の地を探し、国境を越え、岩代(福島県西部)の地を通り関東の大地に入り込んだ。その頃になると北条と景虎の対立が始まった頃であった。

 

 これならば生きていけるのではないか。匿ってもらえる可能性があると踏んだ娘は息も絶え絶えにある城の門を叩く。北武蔵最大の城塞。一番の発展を遂げている経済の中心地。北条家の重臣にして、期待の新星・一条兼音の治める地。河越城である。だがそれはまだ大分後の話。

 

 

 

 

 

 

 

 黒田秀忠が降伏を認めず、政景一党を討ち果たそうとしたためにやむを得ず戦った、と政景は言い張った。そして、これは景虎にとっては許しがたい悪事だったが、越後の武士たちの常識では見事なまでの「返り忠」だった。政景は宰相の座に返り咲き、政景が春日山襲撃騒動の黒幕だったという証拠は消えた。

 

 黒滝城へと急行した景虎が、炎上する黒滝城を見上げながら「政景め!どこまでもこのわたしに逆らい続けるつもりか!あの外道め!姉上の夫でなければ、あの男に限っては慈悲など忘れて生かしておかぬところだ……!」と激高した時にはもう、すべては終わっていたのだ。

 

 政景は現場から逐電していた。黒田秀忠の首を抱え、「返り忠を主に報告する」と宣言して晴景の居城・春日山城へと向かったという。直江大和が、「やられました。あの男の言葉に惑わされてこの事態を予測し得なかったわたくしの責任です」とうなだれていた。

 

 宇佐美定満は、感情らしい感情を持たない男だと思っていたが、この男がこれほど動揺するとは、為景の旦那に母親を奪われたことがよほど心の傷になっているらしい、とはじめて直江大和に憐憫の情を抱いた。宇佐美定満は為景に家族の命を奪われたが、直江大和は為景に母を「寝取られた」のだ。

 

 宇佐美定満は思った。失ったものが大きかったのは俺のほうだが、直江のほうが俺よりもはるかに辛かったのかもしれねえ。母親が生きて為景のもとに捕らわれていたんじゃなあ。それも人質ではなく愛妾として……。

 

 しかも、直江が屈辱を隠しながら為景に小姓として仕え、疑われないように地道に為景に忠誠を尽くして出世し、ようやく為景から母親を奪い返せる立場になったその時、彼の母親はすでに病で死んでいたらしい。直江大和が決して女性を近づけない禁欲的な生活を自らに課している理由も、自らの主君として姫である景虎を選んだ理由も、その景虎に出家を勧めた理由も、朧気ながらにわかってきた気がした。

 

「まあこういうこともあるさ直江。気にするな」

 

「あなたはほんとうに適当な人ですね。我々が次に政景に裏をかかれれば、お嬢さまを守りきれないかもしれないのですよ? それだけは許されません! お嬢さまのために自ら身代わりになってくださった綾さまに申し訳がたちません……!」

 

「まあ、まあ。落ち着けよ。今回は景虎に代わって、政景が面倒な謀反人を片付けてくれたと考えておけ。どのみち黒田秀忠は捨て置いてはならない男だった。いくら景虎が義将とはいえ、春日山城を襲撃して主筋を手に掛けたんだからよう。捨て置けば、越後の乱はいよいよ収拾がつかなくなるところだったぜ」

 

 景虎が「政景は黒田の一族の者まで殺し尽くしたのだぞ。宇佐美。お前も、我が父に一族を殺し尽くされた男ではないか」と宇佐美を叱りつけた。

 

「主君に忠義を尽くして滅びるのと、謀反して滅びるのとでは意味が違うさ。そういう意味では、黒田家の一族のほうが宇佐美一族よりもはるかに哀れだ。一族の長が秀忠だったことが、黒田家の不幸だったということだぜ」

 

「ならば、もっと悔しそうにしろ!怒れ!宇佐美、お前は飄々としすぎているぞ!人の命をなんだと思っている!」

 

「悪い悪い。怒る怒らない以前に、政景の野郎の容赦なさを目の当たりにしてあっけにとられちまったんだ。どこまでも悪党だぜ、あいつは」

 

「宇佐美~。お前はまったく、緊張感がないな!」

 

「いちいち景虎と直江が深刻ぶるもんでな。一人はオレみたいな適当な男が必要だろうさ、栃尾城には。三人揃そろって眉をひそめていたら、お通夜じゃねえかよ」

 

「黙れうるさい」

 

 青竹でぴしりと景虎に頭を殴られた宇佐美定満は苦笑しながら、「長尾政景を許し続ける限り今後もこういう悲劇は起こるぞ、景虎。いくら謀反人とはいえ一族の殲滅など、お前は認めちゃならねえ。いずれは直江が言うように、政景を殺すしか道はなくなるだろうな」と燃える黒滝城を見上げていた。

 

「それを言うな、宇佐美。政景を殺せば、この景虎の負けだ」

 

「だが今日こそはわかったろう?義の戦を遂行し、敵を許し悪を善となす。お前が目指す生き方は途方もなく遠い道のりだぞ、景虎」

 

「しかしそう言う宇佐美さまも、内心は政景の非道に腸が煮えくりかえっているのでしょう?お嬢さまと出会っていなければ、あなたは今頃逆上して『政景の首を獲る』と叫んでいるはずです」

 

「いちいち混ぜっ返すなよ直江。オレまでがここで真顔になったらあまりにも景虎がきついだろうが。空気をなごませようとしているんだよ。人にはそれぞれ、役割ってものがあるんだぜ。てめえが『いけすかない嫌な野郎』の役を買って出ているのと同じさ」

 

「ふふ。お互いに、長尾政景には心の古傷を暴き立てられてまったく不愉快ですね。ですが、それほどわれらはあの男の恨みを買っているということです。なにしろ、我らはあの男があれほど執着しているお嬢さまを奪い取ったのですから」

 

「はあ?奪い取ってねえよ?われらが主君として、押し頂いているだけだ」

 

「自分以外の人間に仕えることを知らないあの男にとっては、同じことです。しかもあれは、お嬢さまに異性として執着しています」

 

「どうやらそうらしいな。昔からそういうところはあったが、景虎が成長した今ではもう病的なほどに執着している。嫁を迎えれば女というものを多少は知って、落ち着くかと思ったが……」

 

 嫌な話をするな宇佐美、とまた景虎が青竹で宇佐美の頭を叩いた。

 

「宇佐美さま。悪党は悪党なりに使いようはありますが、さしもの毘沙門天でも長尾政景を心服させることは不可能かもしれませんね。あれは必ずや、いずれお嬢さまを絶体絶命の危地に追い込む男です。絶対に、あの男にだけはお嬢さまを汚させてはなりません」

 

「その時は直江、お前が独断であいつを暗殺して腹でも切れ」

 

「いえ。わたくしがいなければお嬢さまは領地を治められません。やるならば、軍師でありながら数日で弟子に乗り越えられてしまって釣りしかやることがない宇佐美さまがどうぞ」

 

「抜かせ。お互い過去に傷を持つ者同士、多少は同情していたのによう。やっぱ、てめえはかわいくねえなあ! 政景とはまた別の方向にひねくれやがってよぉ」

 

「男にかわいいと言われる趣味はわたくしにはありませんのでね」

 

 許せないのは長尾政景だ。あの男の悪心を祓うには並大抵のことでは無理だ。政景とは戦場で決着をつけねばならない。なぜかこたびの合戦ではやつはわたしに不覚を取ったが、あれはなにかの間違いに等しい。やつはだから、腹の底ではわたしに負けたとは思っていない。次こそは完璧に叩きのめす、二度とこのような殺戮は繰り返させぬ、と景虎は決意していた。

 

「直江大和。知らぬこととはいえ、済まなかった。わが父の非道を詫びる。もちろん、宇佐美にも……」

 

「愚かな。わたくしたちはお嬢さまに仕える僕ですよ。わたくしも宇佐美さまも、自分の意志であなたを主と選んだのです。あなたとお父上とは別の人間ですから。二度とあなたのお父上の過去などはお気になさらぬよう。政景の口にした言葉など、聞き流してしまいなさいお嬢さま」

 

「……直江大和」

 

「ですが今は、あの野獣を泳がせておいたほうが得策かもしれません。あれは宇佐美さまがおっしゃられたように、自分でも意識しないままにお嬢さまを越後守護代の座につけるために暴れ回っているも同然ですから」

 

「くどい。わたしは兄上から守護代の座を奪うつもりなどないぞ。そのような不義を働けば、わたしは武田晴信と同じになってしまうではないか」

 

「お嬢さま。あの政景が守護代となれば、為景さまと同じ罪を重ねます。悲劇が繰り返されます。越後に義をもたらすためには、お嬢さまご自身が政景の上に立たねばなりません。すなわち、晴景さまの次代の越後守護代に」

 

「ああ。今や越後中の国人たちが、景虎、お前を次の守護代にと推している。柿崎景家をはじめ、今すぐにお前に守護代になってほしい、と願う者も大勢いる。なにしろお前は長尾政景に勝っちまったんだ。もう、政景は国人どもの支持を以前のようには得られない。義将として越後に義と安寧をもたらすというお前の志を遂げる好機だ。オレたちはもっと時間がかかるかと思っていたが、期せずして天の時を与えられたと言えるんだぜ。いや、お前自身が実力で天の時を掴み取ったというべきかな」

 

 宇佐美定満がうなずいた。

 

 景虎は、またか、近頃は多くの者が私に兄上から守護代の座を奪えと勧めてくる、このままでは兄上に誤解されてしまう、かといって、兄上に反旗を翻す謀反人を捨て置いていいはずもない、兄上は病身だから直々に戦場に出られないし、私が代わりに戦うしかない、だがわたしが戦って勝てば、兄上はさらに侮られる、困ったものだ……とため息をついた。

 

「宇佐美、直江。政景の非道を押さえつけるためには確かに武は必要だ。あの政景が守護代になれば越後は父上の時代よりも乱れるだろう、私もそれは避けたい。避けなければならない。しかし兄上はご病気がちだが、まだお若い。いずれ新たなお子も生まれるはずだ。私に守護代になれなどと、二度と口にするな」

 

「お前らしいが、天の時を手放すと痛いしっぺ返しが来るぜ、景虎」

 

「ええ。天の時は得がたいものです。お嬢さまがどれほどの神将であれ、時の波に乗れねば時間切れになりますよ。大きな志のためには、小さな不義を働かねばならない時もあります」

 

「兄上を裏切るのが小さな不義だというのか?それこそ、武田晴信の理屈だ!私はあくまでも妹として、兄上を補佐する。そのために謀反人たちと戦う!それで十分に越後の内乱は治められる!」

 

 知らないところで比較され罵られている風評被害甚だしい晴信である。それはともかく、まもなく景虎たちはもちろん長尾政景ですら予期していなかった事態が、越後を襲うことになる。景虎の兄・晴景が、突如「わが妹・景虎を討伐する」と号して春日山城下に軍勢を集結させたのだ。



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第53話 人としての幸せ 越

さっさと越後編を終わらせたいので少しハイペースで投稿してます。この話が終われば次で多分越後編は終わりです。


 長尾晴景の政権基盤は、晴景があの梟雄・長尾為景の長男であるということよりもむしろ、妹婿で宰相となった上田長尾家・長尾政景の圧倒的な武力に頼っていた。為景亡きあと、若き政景は「越後随一の武人」として恐れられていたのだ。しかし若き頃の為景に負けず劣らず暴虐で、その上敵を陥れるためにいちいち策を弄する政景には、人徳が決定的に欠けていた。

 

 本来ならば主君の晴景がその人徳を補うのが理想の形だが、病弱で政景に越後のすべてを預けきっている晴景には人徳といっていいほどのものはなかった。あるいは内面には徳があったのかもしれないが、家臣団にその徳を見せる機会を持たなかった。隣国米沢の伊達家が内政に介入したことにはじまる越後の大乱に対して、晴景はなんの手も打てなかった。そんな中で起きた黒田秀忠の謀反劇は、晴景に守護代の能力がないことを知らしめたと言える。

 

 そんな越後に、颯爽と長尾景虎が登場し、越後最強の長尾政景を破った。

 

 越後では「武」こそが正義である。当初は栃尾城に入った景虎を「姫武将など越後には要いらぬ」と煙たがり、好奇の目で眺めていた下越の揚北衆も、中越の国人たちも、今やこぞってこの異形の姫武将・景虎が見せた神がかりの戦ぶりを「神将」と褒め称え、景虎を支持していた。

 

 越後では前例がないことではあるが、今は乱世。病弱な晴景さまには越後守護代の務めは荷が重すぎる。このままでは越後は他国の侵掠によって滅ぼされる。長尾政景を上回る戦の天才である景虎さまをこそ、守護代に――!

 

 春日山城下に大軍を集結させて「栃尾城を攻めるぞ」と越後守護・晴景が立ち上がったのは、しかし、にわかに越後全土を震撼させて人々の心を掴み取った異形の妹の軍才や人気に嫉妬したからではなかった。

 

 黒田秀忠とその一族を独断で攻め滅ぼし、春日山城へ入った長尾政景は、青白い頬をこけさせながら鎧兜を身にまとって軍の采配をはじめていた晴景を、あっけにとられながら眺めていた。なにが起きているのか、晴景が誰と戦おうとしているのか、理解することができなかったのだ。

 

「政景か。お前がわが妹に敗れて降伏したことはすでに聞いている。戦場で、手加減をしたな」

 

 政景は「手加減をしたのではない。俺はただ」と口走ったが、その先の言葉を継ぐことはできなかった。俺はただ、なんだ?真っ白い雪の精の如き景虎が戦場で見せた憤怒の涙に魂を奪われてすべてを忘れ、戦場の真ん中で迂闊にも立ち止まってしまった、とでも言うのか?馬鹿な。生涯誰にも言えぬ恥だ。

 

「鮎川、色部、本庄らの揚北衆より、使者が来た。この上は潔く越後守護代の座を妹に譲るべし、我らは景虎さまが守護代とならば長尾家に従おう、と。中越上越の諸将からも次々と、政景を排除して景虎を重用せよ、あるいは次の守護代に、との声があがっている。柿崎景家、北条高広、斎藤朝信などそうそうたる顔ぶれだ。お前を一騎打ちで破ったのだから、彼らが妹を神将と信じて崇めはじめたのは当然だ。政景。妹は、お前が手心を加えたばかりに二度と引き返せない武将としての生涯を決定づけられようとしているのだぞ!」

 

 晴景は、生まれてはじめて激怒していた。他ならぬ妹のためだというのに、僕はなにをしていたのか。政景に頼ることなく、はじめからこうするべきだったのだ、と自分自身の浅はかさと甘さへの激怒でもあった。

 

「もはや妹から武具を奪い取り春日山城に姫として戻すためには、僕自身が妹と戦って勝つ以外に道はなくなった。越後守護代に相応しい者は妹ではなくこの僕だと諸将に知らしめるしかないのだ。どれほど妹に恨まれようが、構わぬ。妹に、父上のような修羅の生涯を歩ませるわけにはいかない。栃尾城を攻め落とす。お前も兵を率いて付いてこい、政景」

 

「やめておけ晴景。景虎は、戦下手のお前が勝てる相手ではない。あの雪の精のような純白の行人包に顔を包んだ景虎と戦場で遭遇すれば、男であれば誰であれ惑わされるぞ。これまで越後には姫武将はいなかった。それだけに、景虎は越後の武士たちに強烈な印象を与えるのだ。景虎に従う兵士どもの形相も、ただごとではなかった。殺しても殺しても、景虎を守るために突進してくる」

 

「政景。僕ははじめから妹に惑っている。だから、これ以上に惑うことはない」

 

「ふざけるな!お前が敗れれば、景虎が守護代になってしまうではないか!貴様の次の守護代はこの俺だ!」

 

「だがお前は妹に敗れた。この越後では、力こそが正義だ。手をこまねいていては、妹が僕に刃向かわずにこのまま栃尾城で座していたとしても、諸将が続々と蜂起して僕を春日山城から追い出そうとするだろう。すでに黒田秀忠が春日山城襲撃という暴挙をやらかしているのだから、みな、真似をする。僕は守護代の座などに執着はないが、妹を守護代にはしたくない。血で血を洗う合戦の日々に、妹を引きずり込みたくない。妹を、まことの毘沙門天の化身と言いだした者までいるのだ。あの行人包から覗いている赤い異形の瞳は、妹が人ではなく神仏の生まれ変わりだという証しだと」

 

「……フン。あいつが生まれた時からつきまとっていた、毘沙門天の与太話をいよいよ本気で信じる者が出てきたか。くだらぬ。だが、嘘も百度つき続ければ、真になると言うな……」

 

「どうやら妹は、己の身に与えられた毘沙門天の力を保持するために生涯不犯を貫こうと考えているようだ。婿を取らず恋もせず、ひたすらに合戦を繰り広げる、そのような生涯を選ぼうとしている。このままでは、僕の手の届かないところへ行ってしまう!」

 

 お前が総大将では士気もあがらず、勝機は見いだせないかもしれん。しかし景虎も勝てない、と政景は口走っていた。

 

「景虎は、義のために戦うと己に課している。まさしく女子供の情に流されたくだらん考えだが、義将として戦うというのならば自分の兄と戦うことはできまい。しかもお前は守護代で、景虎はその家臣にすぎん。お前を撃ち破れば、景虎はほんとうに謀反人になってしまう。下手をすれば兄殺しの大罪人だ。だとすれば、景虎は貴様が率いる軍に対しては勝ちを収めることはできないな。戦いは膠着する。いわゆる千日手というやつだな」

 

「妹の情を利用しようというのか?卑劣だが、今は手段を問うている場合じゃない。しかし戦いを膠着させた後、どうする」

 

「そこからは俺と、宇佐美・直江の知恵比べよ。一対二では不利だが、ともかく長対陣のうちにあちらの内部分裂を誘うしかあるまい。景虎陣営は、まだまだ武力で周囲の豪族国人たちを靡かせている寄せ集めの集団にすぎない。こちらには、先代為景が築いた守護代家の確固とした組織がある。景虎は決して春日山城を攻めることができないのだから、功を焦っているあちらの連中はきっと焦じれてくる。義だの慈悲だのと言っても連中には通じるまい。やつらは、景虎の武に恭順しているだけなのだからな。ならば、切り崩しの機会はいくらでもある」

 

 政景の言葉にうなずきながら、晴景は粘っこい咳を何度も繰り返した。

 

 まずいな。無理をしおって。晴景はもう長くないかもしれん。今こいつに死なれると俺の立場は危うい、と政景は自分自身の未来に暗雲が立ちこめてきたことを危惧していた。

 

「あまり長対陣はできんな。切り崩すとすれば『民百姓の暮らしを案ずるために』と柿崎景家を揺するか、あるいは恩賞をちらつかせて北条高広を誘うか――」

 

 いずれにせよこれは俺の甘さが招いた事態だ。次こそは景虎を倒す。もしも討たねばならぬというのならば、討つ――この戦で敗れれば俺は景虎も越後守護代の座も両方失ってしまう。それだけは許されない。二つの実をともに手に入れられないのならば、せめてひとつだけでも確保しなければ俺の生涯はここで終わりだ、と政景は思った。

 

 

 

 

 

 越後はまたしても震撼した。越後守護代・晴景軍が、妹である景虎の居城・栃尾城へと攻め寄せてきたのだ。

 

「景虎が、わが越後守護代の座を狙っているという噂の真偽を問いただす。軍備を解いて春日山城へ出頭せよ。武将働きを止めると誓えばすべては風聞であったと認め、今まで通り長尾家の姫として迎え入れる。槍を捨てないというのであれば謀反人と見なして討伐する」

 

 と、晴景は使者を立てて景虎に通告した。あの長尾政景も、晴景軍の中に副将として参戦している。そして、肝心の景虎は兄と戦うことなく、栃尾城の城下に陣を敷いたまま動かず、抵抗のそぶりを見せようとしなかった。

 

 周囲の諸将に「この上は晴景さまを破って越後守護代におなりください」といくら勧められても、わが兄と戦うことはできない、と景虎はひたすらに繰り返しているのだという。越後初の姫武将は、一瞬の輝きを放った直後に、こうして越後の歴史の闇へと葬り去られる運命なのか、と誰もが思った。

 

「春日山城を発した大軍が、この栃尾へ一斉に迫ってきています。先鋒は長尾政景。やはりあの男こそ獅子身中の虫」

 

 その日の朝。

 

 天井部分までをも白い布で覆い尽くして日光を遮っている景虎の本陣内で、直江大和は「逡巡できるのも今日が最後です」と景虎に冷たく言い放っていた。

 

「晴景さまがこれほど容易に政景に踊らされるとは予想外でしたが、こちらが戦わずとも向こうから攻めてくるのです。お嬢さまが武器を捨てて春日山城へ戻らぬ限りは、晴景さまは兵を退きませんよ」

 

 景虎は憔悴しきっていた。兄が自分を討伐するために軍を発進させたと聞いて以来、眠ることができなかった。

 

「なぜだ? なぜ兄上が?私には、わからない……」

 

「わたくしにもよくわかりません。お嬢さまの武名に嫉妬した、とも考えがたいところです。晴景さまはもともと自分の武名になどに興味もなく、守護代の座にすら執着のないお方です。あのお身体では、守護代職は負担となりお命を縮めるだけのものですから」

 

「では、なぜ?」

 

「人の心は不思議なものです。どうしてもお嬢さまに武家働きをやめさせたいのかもしれません。このような非情の手段を取ってでも」

 

「……兄上……ならば、いよいよ兄上と戦うことはできない。わたしは、景虎はどうすればいい?」

 

 宇佐美はどこへ消えたのだと景虎は口にしそうになったが、こらえた。越後全土の国人が、豪族が、民たちが「血で血を洗う長尾兄妹の戦いになるのか」と動揺している。景虎が決して兄に弓を引けないことも宇佐美は承知している。この難局を打開するためにいずこかを奔走しているのだろう。

 

「いずれにせよ晴景さまの隣に宰相として長尾政景が舞い戻った以上は、政景はお嬢さまと晴景さまをかみ合わせてお嬢さまの武名を地に落とそうとするしかないでしょう。それ以外に、あの男が失った武名を取り戻す道はありませんので」

 

「また、政景か。わたしと兄上の仲を裂くとは、絶対に許しがたい」

 

「ですから、殺せと勧めていたのです」

 

「しかしなぜだ。わたしはそもそも越後守護代になるつもりなどない。なぜみな、わたしと政景をそれぞれに担いで勝手に徒党を組みたがる?」

 

「越後では武こそが正義。その武の象徴が、今、越後には二人いるのです。お嬢さまと、政景です。両雄並び立たずと申します。どちらかが完全に屈服するまで、争いは終わりません」

 

「直江大和。なんと言われようとも、私は兄上と戦うことはできない。このまま本陣に留まって首を打たれても構わぬ」

 

 景虎が震えながら酒を口にした。夕べからなにも食べることができなかったのだ。だが、吐き気がこみ上げてきて、酒を飲むこともできなかった。

 

 槍も刀も捨てて兄のもとに戻りたい、母とともに再び春日山城のあの静謐な館で暮らしたい、という強烈な衝動。その捨てがたい想いと、景虎はずっと戦っている。兄の挙兵以来、ずっと、眠ることもなく。

 

 しかしそれでは、誰が政景を押さえつけ越後の動乱を鎮めるというのだろう? 景虎よりもさらに身体が弱い兄・晴景には過酷すぎる激務だった。晴景を補佐すべき一族の男たちの多くは黒田秀忠の乱で倒れた。宇佐美や直江は我欲に流されることのない有能な武将で自分の志も理解してくれているが、惜しいことに長尾家の血筋ではない。結局は、自分が旗頭となるしかないのだ。あるいは、政景の悪心を完全に打ち払い次代の守護代に相応しい人間に生まれ変わってもらうか、だ。だがそれは武力ではなしえないことのように、景虎には思われた。武力で政景に野望を捨てさせられるのならば、既に景虎に一騎打ちで不覚を取った時点で捨てさせられたはずだった。しかし捨てさせるどころか、さらに政景の野望の炎は燃え上がっている。あの男を変えられるものがあるとすれば武ではなく義と慈悲だ、と景虎は思っている。

 

「お嬢さま。越後の今の王はお嬢さまの兄上ではありません。あの政景ですよ。このまま座していれば、お嬢さまだけではなく、お嬢さまの一族は徐々に政景に始末されていきます」

 

「……どうすれば政景を、あの獣のような男を変えられるのだろう」

 

「そのようなお考えは、お捨てください。お嬢さまが、あのような男にそこまで心を砕く必要はありません。それではいずれ政景に捕らわれることになります。ああいう無頼の男は、そのように女人の心を引きずり込むのです」

 

「……直江。わたしは、そういうつもりで言ったのではない」

 

「人は、己がなりたいと願った者にしかなれないのです。お嬢さまが毘沙門天の化身でありたいと願うのと同様に、あの男は乱世の野獣として野望と欲望をことごとく奪い取る人間になりたいと願ったのでしょう」

 

「つまり政景は、わたしの父上のように、なりたかったのだろうか」

 

「自分が長尾の分家の血筋であることを、政景は気に病んでいます。本家の頂点に立つ為景さまを自分の手本としたであろうことは、あり得ます。上田長尾家は分家の立場とはいえ、もとをただせば上田長尾のほうが越後長尾家の長男の家系、すなわち宗家なのです。政景は、為景さまに本家の名も守護代の地位も奪われている自分の家のなにもかもが屈辱だったのでしょう」

 

「ならば父上の因果から、政景が生まれたと言っても言い過ぎではないな。あれに打ち勝って改心させなければ、わたしはまことの毘沙門天にはなれない。だが、兄上は別だ……兄上は心の優しきお方だ。戦を嫌って遊興に耽ふけっていたこともあったというが、悪事を働けるようなお方ではない。わたしは、政景とは何度でも戦えるが、兄上とは戦いたくない……」

 

「何度も聞かされました、その繰り言は。なにごとも直情的に即決するお嬢さまらしくないですよ」

 

「……うるさい」

 

 直江大和は「ならば槍を捨てて春日山へ戻り、出家なさいませ。わたくしはもともとお嬢さまが武士になることに反対していましたから、最後までお供いたしますよ。ですが、武田晴信を捨て置いてよろしいのですか」と意地悪く微笑んでいた。

 

「武田晴信がどうした?諏訪を攻め滅ぼして妹婿を関東に追放したところまでは知っているが、また武田晴信がなにか悪事を働いたのか?」

 

「はい。先年、河越夜戦で北条氏康に敗北して滅亡寸前となっている関東管領上杉憲政が、こんどは信濃・佐久の戦で武田晴信に敗れました。上杉軍の敗残兵三百、あるいは三千とも伝わりますが、ことごとく首を打たれてその首を志賀城へ向けて晒されたということです。これでもはや関東管領上杉家は滅亡したも同然、と関東も信濃も騒然としております」

 

 武田晴信。まだ見ぬ甲斐の姫武将の名を、景虎は久しぶりに口にしていた。おそるべき、苛烈な侵掠だった。関東管領軍を粉砕して信濃の佐久地方を強奪したとなると、次は北信濃を攻略するだろう。善光寺、戸隠、川中島。その北信濃のすぐ先に、春日山城はある。武田晴信が春日山城へと近づいてきている、と景虎は思った。

 

「遠国での出来事はなにごとも誇大に伝わる。三千ということはあるまいが、いくらかは実際に晒したのだろう。長尾政景を女にしたようなやつだ、武田晴信は。いや、政景ですら実の父を追放したりはしない。晴信め。とてつもない悪党だ」

 

 事実は真面目に三千晒している。

 

「武田晴信は北信濃を攻め上ってきます。そして、いずれは海と港を求めて越後に。お嬢さま。武将の地位を捨てて、政景と晴信を戦わせますか? 政景ならば互角に戦えるかもしれませんよ。独立心旺盛な越後の国人たちを結束させられれば、の話ですが」

 

「……無理だろう。政景はすでに、わたしに敗れた……戦場でわたしと再戦し、私の首を刎ねない限りは、越後最強の名を取り戻せない」

 

「武田晴信が蹂躙することになりますよ。春日山城も。半ば茶番めいていた黒田秀忠の乱どころでは済みません。武田晴信ならば、本当に春日山を焼き尽くすでしょうね」

 

 

 

 

 実際に景虎がここで死んだ場合は、越後は分割統治に晒される。兼音は景虎が死ぬと言う良くわからない事態に驚愕しつつ、喜びながら北伐を進言する。説得された氏康は晴信と歩調を合わせ、蘆名や最上を巻き込んで進軍を開始。春日山や糸魚川のある頸城郡は武田領、魚沼・古志・刈羽・三島郡は北条領、蒲原郡は蘆名、岩船郡は最上領となるだろう。そうなれば、北条は関東制覇を数年で完了し、武田は上洛する。織田家の台頭する隙もなく、覇権は決まるだろう。

 

 

【挿絵表示】

 

越後分割図

 

 

 

 

「私に、武田晴信と戦えと言うのか、直江大和」

 

「わたくしはお嬢さまに出家していただきたかった。ですが残念ながら、今は乱世です。そして、あなたの神がかりの軍才を知ってしまった。おそらく日ノ本の歴史において、これほどの軍才を生まれ持ってきた者はあなたと源義経だけでしょう。あなたはそれほどの天才です。軍師でありながらそのことに気づかなかった宇佐美定満はつくづく間抜けな男だったと思い知りましたよ」

 

「いや違う。わたしの才ではなく、毘沙門天の力だ。義を捨てれば、わたしは戦に敗れるだろう」

 

「その毘沙門天の力で越後に義と平安をもたらすことができる人は、あなたしかおりません。お嬢さま。手をこまねいていれば、武田晴信が越後を奪い取ります。越後を一つにまとめて武田と戦うために、守護代におなりなさい」

 

 あと一刻もすれば晴景さまの軍勢がこの栃尾へ到達し、開戦となります。もう猶予はありません、と直江大和は静かに、しかし懇々と景虎をかき口説いた。

 

「駄目だ。意気地がないと言われようとも、兄上とは絶対に戦えない。私は武田晴信にはなりたくない。なれないのだ!」

 

「小さな義のために、大義を逸するおつもりですか? あなたは毘沙門天の化身として、義をなすために武将となったのではないのですか。兄と越後とどちらが大切なのです」

 

 景虎は青竹を振りあげて直江大和を叩こうとしたが、できなかった。青竹を捨て、自分の顔を白い指で覆っていた。

 

「……どちらも大切だ。選べるはずもない……」

 

「……お嬢さま。でしたら、出家すると晴景さまに伝えなさい。これからは出家の身として、越後の人心を救う道を歩むのがよろしいでしょう。姫武将はたとえ敗れても出家を選んだならば殺してはならないという掟が、他国にはございます。武将として戦うか、兄との戦いを避けて出家するか、どちらかを選ばねばなりません」

 

「お前はそれでいいのか、直江大和」

 

「……わたくしはお嬢さまの僕です。すべては、お嬢さまご自身が決断なされることなのです。あなたの言葉に、従います」

 

 この時、直江大和はどうしても景虎に「毘沙門天の化身として戦い続けろ」と訴えることができなかった。人として戦うのならばまだしも、人でないものになりきって戦え、とは言えなかった。言えば、景虎は本当に人間であることを捨てて毘沙門天になってしまう、そう思った。そして、景虎自身のためにそれを恐れた。

 

 だが、景虎が「私は出家する」と宣言するよりもわずかに早く。

 

 栃尾を離れて奔走していた宇佐美定満が、本陣へと転がり込んできた――。

 

「景虎!越後の守護、上杉定実さまにご出馬願ったぜ! この栃尾まで連れてきた! 為景の旦那が担ぎ上げただけのお飾りとは言え、嘘でも越後の主だ!守護の命令によって、このたびの兄妹喧嘩を終わらせ、二人を和睦させる!」

 

 今すぐに上杉定実に面通ししろ景虎。ただし上杉定実もただのお飾り守護じゃねえ、為景の旦那とやりあってきた古狸だ! 事と次第によってはお前は暗殺されるかもしれねえ、これは戦だ!と、宇佐美定満は叫んでいた。

 

 

 

 

 

 史実における上杉定実は上条上杉家に生まれ、越後国守護・上杉房能の娘を正室に迎えて、その婿となる。その際に「定実」と名乗っていた事から既に成人していたと考えられるが、生年は不明であり、これ以前の定実については上条上杉家の出自である事以外に詳しい資料がない。

 

 越後国守護代・長尾為景に担がれて房能を倒すと、正式に守護となった。ただ、実質的には為景の傀儡に過ぎず、その際に為景の妹を娶ったとされ、宇佐美房忠から名刀「宇佐美貞光」を献上されている。

 

 この当主交代の報復のため、房能の実兄で関東管領・上杉顕定が侵攻すると、長尾為景と共に越中国へ敗走する。越後の諸将を掌握できていない顕定軍の内情を見て、定実と為景の軍勢は越中から佐渡国を経由して蒲原津に上陸する。佐渡の軍勢を加えて勢力を盛り返し越後各地で顕定方の軍勢を破り、長森原の戦いで顕定を敗死させた。

 

 ところが次第に為景の傀儡であることに不満を抱き、守護家家臣筋の宇佐美房忠・定満父子や実家上条氏の上条定憲、揚北衆の諸氏の勢力などを糾合して春日山城を占拠して断続的に抵抗を続けたが失敗、一時幽閉されるなど権威はますます失墜した。その後、上条定憲らが再び反為景勢力を結集し、為景を隠居に追い込んだが、定実が実権を握るまではできなかった。それでも為景の跡を継いだ長尾晴景は求心力に欠けていたため、定実の権力は一応の回復を見せた。

 

 黒田秀忠の反乱が起きて越後は動揺するが、これを景虎が鎮圧したことで、周囲はおろか定実自身も景虎に一目置くことになった。晴景と景虎の争いが起こるとこれを仲介し、景虎の擁立に尽力した。

 

 晩年は出家して玄清と名乗り、その後病死。定実の死後は跡継ぎがない越後守護家は断絶することとなり、室町幕府13代将軍・足利義輝の命令で景虎が越後守護を代行した。

 

 この世界でも概ね史実通りの生涯を送っており、既に老人であるがその目にはまだ衰えの色は少ない。戦国初期の乱世を生き抜いた者のみが持つ目をしている。ちなみに、面識は全くないが、北条早雲と同世代である。

 

 

 

 

 

「そなたが長尾為景の娘、越後はじまって以来の姫武将、長尾景虎か。あのいたずら坊主の宇佐美が担ぎ上げているお飾りの姫か、それとも……もしも越後にさらなる大乱を呼び込む娘であれば、生かしては返せぬ」

 

 越後守護・上杉定実はすでに七十歳である。宇佐美定満に出馬を促されて栃尾入りした上杉定実は、景虎勢と晴景勢との中間に位置する丘陵に陣を張り、景虎一人を陣中へ入れて謁見していた。

 

 単身で越後守護の前に乗り込んだ景虎は、宇佐美から上杉定実の人となりについてあらかじめ教えられている。

 

「景虎よ。儂は今でも、宇佐美定満には申し訳ないことをしたと悔いておる。忠義を尽くしてくれた宇佐美一族への罪滅しとして、せめて定満だけでも生き延びさせて家を再興させてやりたかった。軒猿の忍びの術をあれに教えたのも、定満が死ねば宇佐美家が断絶してしまうからじゃった」

 

 景虎は首を傾げた。

 

「軒猿?」

 

「越後上杉家に仕える忍び衆よ。儂の生涯は、驍将・長尾為景との暗闘の日々であった。お飾り守護にすぎぬ儂には兵力がない。為景は、意に沿わぬ儂を何度も亡き者にしようとした。代わりの者などいくらでもいたからのう。それでも為景が儂を殺せなかったのは、常に軒猿たちが儂の身辺に潜んでおったからじゃ」

 

「それでは先ほどから、この陣中に殺気がみなぎっているのは」

 

「軒猿たちの気をそなたが感じているのだろうのう。奴らは完全に気配を殺すことができるはずじゃが、そなたは特別らしい。宇佐美定満が言うておったとおりじゃ。尋常の人間にはない感覚が、そなたには備わっている」

 

 景虎の背後から、不意に石つぶてが飛んできた。景虎は、身体をわずかに傾けることでその石つぶてを避けた。

 

「見事じゃのう。まるで背中に目があるかのようじゃのう。忍びの修練を重ねた経験があるわけでもなし、そなたはいつからそのような力を身につけた?」

 

「私には特別な力などありません。ただ、こうもまぶしいと目がよく利きません。目がくらむ代わりに、鼻や耳や肌が利くのです」

 

「ほう。まるで蝙蝠が暗い洞窟の中を飛び回れるかのようなものか。生きづらかろうのう」

 

「今、越後は兄上に忠誠を誓う者と、私を担ぐ者とに二分され、またしても騒乱の渦に巻き込まれています。越後に平穏をもたらすために、この景虎を殺されますか」

 

「迷うておる。儂はすでにいちど世を捨てて為景への抵抗を諦めた。しかし先年、その為景が死んだと知り、こんどこそ越後守護としての責務を果たそうと余計な陰謀を画策した。儂には世継ぎがおらぬ。この歳ではもう子を生なすこともできぬ。もう長くは生きられぬ。世継ぎを定めぬまま死ねば、為景なき越後はいよいよ乱れるだろう。そこで儂は、いっそ隣国米沢の伊達家から養子を迎えて越後守護職を譲ろうとした。知っておるな」

 

「……はい。ただ……なぜ遠縁の伊達家だったのでしょう。上杉家の本流である関東管領家から養子をお迎えすれば、問題はなかったと思いますが」

 

「関東・越後は上杉家が、奥州は伊達家が統べる。それが東国のしきたりであったが、上杉家はすでに見る影もなく没落しておる。そなたの父・為景と小田原の北条家によってな。上杉家はもはや当てにならぬ。しかし、伊達家は巧みな婚姻外交政策を重ねて奥州全土を支配せんとする勢いじゃった。ならば伊達家と上杉家がこの越後で繋がれば、東国は安定する」

 

「そうでしたか」

 

「そう考えたのが、儂の愚かさじゃったわ。しょせんは机上の空論よ。越後と奥州との間に不和を呼び起こし、大乱を起こしてしもうた。伊達家までが分裂し、奥州もまた関東や越後同様に血で血を洗う戦国の世に突入してしもうた。すべては儂の愚かさ故じゃ。宇佐美定満に『死に損ないが余計なことをするんじゃねえ』とさんざん文句を言われたわ。あやつの奔走を無駄にしてしまったのじゃからな」

 

 宇佐美定満に倣って、わが娘を武将となして世継ぎに指名すればよかったのかもしれぬが、できなんだ。この修羅の国で娘に槍やり働きなどさせとうはなかった。だから娘はそなたの兄・晴景に妻としてくれてやった、と上杉定実は笑った。

 

「しょせん上杉家はもはや斜陽で、蘇ることなどできぬ。いっそ守護上杉家と守護代長尾家の血が一体となればよかろう、それで越後の混乱も鎮まろうと思うてな。だが、晴景とわが娘との間に生まれた子は夭折し、晴景は病を得て今では妻に目もくれぬ。次の子は生まれぬであろう。儂の命も保もってあと一、二年。揺れる守護代の座にくわえ、越後守護の座を巡って越後はまた割れる。それは凄まじい争いになるだろうのう」

 

 上杉定実は疲れ果てていた。長尾為景に担がれ、一兵も持たぬ身で反旗を翻し、策に溺れて失敗を重ねてきた自分の生涯はいったいなんであったのかと思うと、なにごとをもなせずに七十年を浪費したという空しさと後悔だけが残っていた。いっそ堂々と為景と戦って討ち死にしていれば悔いなど残らなかったのではないかと。

 

「宇佐美一族は、死んで義を残した。宇佐美定満というやんちゃ坊主を越後に残した。その宇佐美定満が、そなたに義将としての生き方を教えたのだという。あの憎い一族の仇である為景の子にじゃ。なかなかできることではない。一方、儂はおめおめと生きながらえながら、なにも残しておらぬ」

 

 七十年を生きてきた越後の主が「自分は越後になにも残していない」と嘆く姿を、景虎は痛ましく思った。越後がこれほどに乱れたのは父上が主君をないがしろにしてきたためであって、このお方の罪ではない、とも思った。

 

 景虎は「父の罪は子である私が背負います」とうなずいていた。

 

「この景虎も今また、守護代である兄上と戦おうとしています。父上と同じ過ちを繰り返そうと。これが業というものかもしれません……定実さま。もしも越後になにごとかを残したいとお思いならば、この場でわたしを討ってください」

 

「晴景と和解はせぬのか?」

 

「私には最初から兄上に逆らうつもりはないのです。ただ、わたしがいる限り、今後も越後は二つに割れて争い続けるでしょう」

 

「人の心は、人相に表れる。儂はまだ、そなたが宇佐美定満が言うようにまことの義将なのか、あるいは越後の男たちを惑わせる魔性の者なのか、判断しかねる。その顔を覆った行人包を取るがいい。そなたの心に為景のようなおぞましい野心があるのか、それとも毘沙門天の化身として生きようと願う高潔な姫武将なのか、それは表情を見ればわかる」

 

 景虎は、「短時間だけでご容赦を」と目を細めながら、頭を覆っていた行人包を、外した。

 

「日に焼けると肌が赤くなります。しかしそれ以前に、この醜い姿は父上の業の祟りと言われておりますれば、人前にさらしたくはないのです。主君の前では、特に」

 

 銀色に輝く長い髪と、矛盾するいくつもの感情に揺れる真紅の瞳が、上杉定実を驚愕させていた。人でありながら人ではない、まるで神じゃ、と上杉定実は絶句していた。とりわけその燃えるような紅い瞳に、侵しがたいなにかを感じた。まるで睨にらむ者すべての心の奥を覗き込み、心に巣くう悪を祓ってしまうかのような力を、感じていた。

 

 だがなによりも衝撃だったのは、その景虎が自分を醜いと思い込んでいることだった。もはや人生に疲れ果て枯れ果てていたはずの定実の心を、その激しい衝撃が揺り動かしていた。

 

「醜いとはどういう意味じゃ。そなたは……」

 

「毘沙門天のしるしだ、と言い張ってきたこともありました。しかし、やはり私のこの姿は、父上の罪の証しです。越後の守護として生きようとした定実さまの生涯を、父上は何十年にもわたって弄び続け、台無しにしたのです」

 

 長尾為景。そなたはまことに愚かな男であったわ、と上杉定実は叫びたくなった。長尾家にこれほどの英雄を授かっておきながら、ただ己の罪の意識を娘に担がせてくたばり果てるとは!儂が景虎の父であれば、この景虎に「わたしは醜い」などと言わせるような育て方は絶対にしなかった、と為景を怒鳴りつけたくなった。

 

「……愚かなことを言うでない。景虎。そなたは、何者かに選ばれし人間じゃ。英雄の器じゃ。本当に、毘沙門天に選ばれたのかもしれぬ。為景がそなたを遠ざけていた理由もわかったわ。あれほど悪行を為なしてきた男が、そなたのその目を前にして平穏でいられるわけがない。その目は、まさしく破邪の瞳じゃ。そなたに見つめられた者は、己の心の内側をすべて暴かれずにはおられぬ」

 

 彼には越後守護の座を託せる後継者がいない。後継者を探す時間も体力ももうない。彼には時間が残されていなかった。定実は「わが人生の最後の最後に。なにもかもが無様な失敗に終わったとあきらめていたこの人生の終盤に。次代の越後守護が。わが後継者が見つかった」と確信し歓喜していた。

 

「長尾景虎。もはや老い先短いが、儂はこれより、そなたの後ろ盾となろう。儂はいつ死ぬかわからぬ故、ことを急ぐぞ。この老いぼれにすべて任せてくれ」

 

「定実さま?」

 

「わが人生は挫折と敗北の七十年であった。しかし、それでよかった。そう悟った。一生に一度だけでよい。儂もこの故国・越後に『義』を残して、死にたいのだ」

 

「それは、どういうことでしょうか」

 

「為景がいなくなれば儂の力で越後を統一できるであろうと悪あがきをした儂は、誰よりも愚かであった。最後には息子の晴景に守護代の座を譲った為景よりもずっと愚かであった。越後のみならず奥州までを戦乱に巻き込んだ。どうか生きているうちに、償わせてくれ。そなたの義の心に、越後を、この国の未来を託したい。儂は晴景を説得し、そなたを越後守護代の座につける」

 

「いえ、それはなりません!」

 

「越後に平穏と秩序をもたらすためじゃ!しかしそれだけでは足りぬ。儂が死ねばあの長尾政景が、誰を守護の座につけるかを巡ってまたしてもそなたと争うことになろう。堂々巡りになる。そこで儂は、越後の内乱を終わらせる最終的な解決をはかる。宇佐美定満の小僧も、そこまでは考えが及ばなかったらしい。これは儂の手柄、わが一世一代の名案じゃ。儂が死んだ暁には、長尾景虎。そなたが越後の守護となれ」

 

「わたしが?越後の?守護?」

 

 景虎は絶句していた。定実さまは混乱しておられるのだろうか、と思った。

 

「聞け景虎。儂は七十年も挫折を繰り返してきた本当の愚か者じゃ。上杉家の名分だけではもはや国を治めることはできぬ、圧倒的な武なくしてこの越後は治まらぬ、と知っておる。そして、その武に義が伴わなければ、どれほど合戦に強くともやはり越後は治められらぬということも」

 

「定実さま。わたしは、上杉家の血筋の人間ではありません。わたしが守護になれば、それは取り返しのつかない下克上になってしまいます!父上ですら、そのような悪行は」

 

「悪行にはならぬ。関東管領上杉家、そして京の足利将軍には儂が話をつけておく。長尾景虎は、長尾為景の野心とこの儂の愚かさによって混乱した越後に平穏と秩序と正義をもたらす救世の英傑であると、関東管領にも将軍家にも重ねて訴える。そなたの戦場での武人としての天才ぶりは、すでに諸国に知れ渡っておる。その上に齢七十を重ねた越後守護のこの儂がお墨付きを出せば、彼らも納得しよう。これが儂の、現世における最後の仕事じゃ……」

 

 景虎は、恐れながら定実さまはもしかしていささか耄碌されておられるのでは。もしかしてわたしは、自分では意識していないだけで、死期が迫ってもうろうとしている老人を騙して越後守護の座を奪い取ろうとしている稀代の悪人なのではないか、とこの突然の成り行きを恐れはばかったが、定実は「儂は老いたが、頭はまだ明朗である。案ずるな」と笑って取り合わなかった。

 

「ただし老人というものは恐ろしく短気でな。いつ死ぬかわからんのだから、仕方があるまい。もはや身体は衰え果ててすべての欲はすでに失ってしもうたが、ただ一つ、妄執とも言える心残りがある。越後になんの善行をも残していけず、ただ混乱と汚名だけを残して死にとうない、という心残りじゃ。世継ぎがおらぬ老人ほど、哀れなものはない。頼まれてくれぬか景虎」

 

 景虎は「頭をお上げください」と震えながら、上杉定実の申し出を、受けた。受けることを、決意した。死にゆく父・為景の魂を救うために毘沙門天になりきったあの時と同じように、景虎は、救いを求める上杉定実の頼みを聞かずにはいられなかった。

 

「私はあなたを苦しめてきた為景の娘です。それでも、よいのですか。私を信じてくださいますか」

 

「信じるとも。人がなんのために生まれてきたか、なにを為すために生きるかは、すべてその当人が決めることじゃ。そなたは、為景への罰として生まれてきたのではない。儂はそう信じる。為景の罪は為景の罪じゃ。そなたの罪ではない。そなたも信じよ。醜いなどと、二度と言うでない。誰が、そのような愚かな言葉をそなたにかけた?」

 

 我が父上が、と景虎は言いそうになり、その言葉を呑み込んだ。

 

「容貌や心の美醜などは人がそれぞれ決めること。そなたに途方もない美しさを感じるものは己の心の内側に人の美を見出すのであり、そなたを恐れるものは己の心に巣くう醜いものを恐れるのだ。景虎。儂を含めて、いちいち他人の言葉に惑ってはならぬ。そなたが何者であるかはすべて、最後にはそなた自身が決めること。自分で、決めねばならぬ。人は、己がなりたい者になるのだ」

 

「……わたしは、毘沙門天の化身として生きたいと、願いました。宇佐美も直江も、快くは思ってくれないようですが」

 

「ならば今は、毘沙門天として堂々と生きよ。いつか、別の生き方を見つけるまでは」

 

 別の生き方というものがなにを指しているのか、この時の景虎にはわからなかった。ただ、今できる生き方を精一杯生ききるだけだ、と思った。

 

「兄上と和解し、越後守護代に。そして、いずれ越後守護に。この景虎が守護となった暁には、越後の騒乱は必ず終わらせます。兵が民を襲うような悪習も一掃します。越後軍を、義軍として生まれ変わらせます。いずれ父上が乱した関東にも定実さまが乱された奥州にも、失われた秩序を蘇らせます」

 

「そうか…感謝する。しかし、一つ言わせてくれ。どうかこれだけは忘れるでないぞ。そなたは一人の少女だ。そなたは毘沙門天の化身なのかもしれぬ。じゃがな、そなたは一人の人間じゃ。神ではないのだ。どうか、どうか全てを為した後は、人としての幸せを掴んでくれ。友と語らうのでも良い。芸術に生きるのでも良い。仏門に入るのでも良い。己を燃やす恋をするのも良かろう。決して神として死んではならぬ。そなたに越後を託そうとしておる儂が言えた話ではないかもしれんが…」

 

 困惑する景虎の目を見据えながら定実は言う。

 

「そなたは人を救っていける器じゃ。だからこそ、そなたを救ってくれる者が現れる事を願っておる。いつか、いつかな。そなたが人としての幸せを掴めたなら、このおいぼれの苔むした墓に教えてくれ」

 

 それを楽しみに待っておる、と告げて定実は去ったのであった。景虎はただ、その背中を見送ることしかできなかった。神なのか、人なのか。人としての幸せ?自分を救ってくれる人?すべてが分からず、彼女は沈黙したままだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「上杉定実様には、越後守護代職の引き渡しの仲介をしてもらうはずだったのでは。まさか、ご自分の守護職をお嬢さまに譲ると言いだすとは考えてもいませんでした。宇佐美さま。あなたははじめからこの成り行きを予想して」

 

「いや、さすがにそこまでは考えちゃいなかった。定実が景虎を支持してくれるかどうかは一か八かの賭けだったが、あの爺じいさんとは古なじみだ。宇佐美家のれっきとした武士の子である俺に、軒猿の暗器術を教え込むような風狂な爺だからな。そうでなければ、為景の旦那と何十年にもわたって暗闘を繰り広げたりはしなかったさ。その風狂の血が、景虎の異相と出会ったことで唐突に目覚めたんだろうよ」

 

「その憎い為景さまのお子ということで、上杉定実さまはお嬢さまを暗殺するかもしれなかったのですよ」

 

「直江。お前が見通してたとおり、景虎には妙な力がある。病んだ魂を癒やす力とでもいうのかな。景虎は、誰に教義を教えるわけでもない。救いを与えるわけでもない。浄土を約束するわけでもない。むしろ景虎自身が自分に与えられた過酷な運命に迷い、苦しんでいる――だがあのひ弱な身体で、景虎はその運命から逃げることなく生きようとしている。俺もお前も定実爺さんも、そういう娘に弱いらしい」

 

 春日山城。

 

 すでに表舞台から引退していたと思われていた越後守護・上杉定実が突如として立ち上がり、晴景・景虎の兄妹紛争を仲裁した結果、二派に割れて対立していた越後の諸将はついに「景虎を越後守護代に」という上杉定実の言葉のもとに一つとなった。武力を持たない上杉定実の言葉が決定的な重みを発揮したのは、「いずれ、わが守護職をも長尾景虎に譲る」と定実が宣言したためである。

 

 いかに下克上の時代とはいえ、守護代と守護との間には越えられない壁があった。

 梟雄・長尾為景がついに上杉定実を最後まで排除できなかったのも、二度も越後の守護を殺すことはさすがの為景も躊躇したからである。一度、守護を殺した時点で為景は内外の人望を失い、終わりのない内乱・外憂に巻き込まれたのだ。二人目までを殺すことははばかられた。

 

 ところがその上杉定実が、景虎に守護職を譲ると言うのだ。

 

「世継ぎのない儂は隣国の伊達家より養子を迎えて越後守護職を継がせようとしたが、この強引な移譲が越後の豪族と伊達家の一族の反発を生み、天下を乱す結果となった。故に自然の流れに任せることとし、儂が死んだ後には新たな越後守護代・景虎に守護職を譲ることとした。今後、越後では守護代と守護との対立はもう起こらない。越後最強の景虎が守護となれば越後に長く続いた内乱は治まるであろう」

 

 むろんこのまま晴景が守護代を続けるのならば守護職は譲らぬ、晴景には越後はまとめられぬことはすでに明らか、と上杉定実は付け加えた。

 

 上杉定実が伊達家から養子を迎えようとした時には傲然と反旗を翻した豪族国人たちも、「景虎さまが名実ともに越後の主君となるのであれば喜ばしきこと」と定実を支持した。景虎の、父・為景の才能を継いだ神がかりの武勇。上杉定実が持つ「越後守護」という絶対的な名分。

 

 この二つが一つに融合されれば、越後は強大な国となる。守護一人に権力が集中するのは独立心が強い越後の国人たちにとっては望ましいことではなかったが、しかし、彼らは今こそ一つにまとまらねばならなかった。あの諏訪家を平然と滅ぼした甲斐の武田晴信が、北信濃へと進出してきていたからだった――。

 

 父親を甲斐から追放して以来、武田晴信は恐るべき貪欲さで侵掠を続けている。北信濃を奪えば次は越後の海を目指して北上してくることは、明らかだった。今の守護代・晴景を擁している長尾政景には徳がない。今のままでは越後は混乱し続けるだろう。それでは越後を武田晴信から守りきることは難しかった。しかしあの、越後初の姫武将・景虎ならば、義と慈悲を掲げる景虎なら、どれほどの権力を手にしても越後の国人たちを締め付けるような真似はしないだろう。ひとたび戦っても、降伏する者はことごとく許し続けているという。

 

 そして。

 

 意外にも、あっけなく晴景自身が「これでもはや妹を引き戻すことはできなくなった」と折れた。強攻を主張する政景に逆らって栃尾城攻めを中断し、「守護殿のお言葉、すべて承知した」と撤兵したのだった。晴景は、無抵抗のまま城から出てきて無防備な陣を敷き、兄に討たれる時を待っているかのように自らを日の光の下に晒していた妹を、攻めたくなかったらしい。攻められなかったというべきだろうか。

 

 梯子を外された形となった政景は居城の坂戸城にこもり、一時は春日山城への出仕を拒否したが、越後最強武将の名を景虎に譲った政景についていく者は少なく、また妻の綾に景虎への恭順を何度も勧められ、意外にもとうとう政景も屈服した。

 

 そしてついに守護代交代の日が訪れ、景虎は宇佐美定満と直江大和を連れて春日山城へと凱旋したのだった――。宇佐美と直江は、景虎の母・青岩院(虎御前)の屋敷を訪れていた。

 

「よくぞ兄と妹の仲違いを止めてくださいましたね。宇佐美どの、直江どの。府中長尾家に生まれていなければ、二人はあのようなことにはならなかったはず」

 

「なに。政景の野郎が煽っていたんだよ。これで水に流せるだろう。晴景の旦那はもともと、守護代の仕事が重荷で身体を壊していただろう?」

 

「晴景さまもこれで肩の荷が下りて、ゆっくりと養生できるでしょう」

 

「その政景どのも、綾の夫です。直江どの、今日はその政景どのも綾を連れてこの春日山城に来るようですが、どうか政景どのにお慈悲を」

 

「お嬢さまは、政景さまの命を奪いたくはないのです。それでは綾さまを深く傷つけることになってしまいますから。ですから、わたくしがこの機会に政景さまを暗殺せよと勧めても、お嬢さまはお認めになられませんよ」

 

 ただし、と直江大和は付け加えた。

 

「政景さまは、越後と関東を結ぶ三国街道沿い一帯を支配しております。関東では関東管領が北条に攻め立てられております。もしもその関東へ連なる出口を政景さまが謀反を起こして塞いでしまえば、その時はさすがに放置できません」

 

 青岩院は「政景どのは昔から、妙に景虎に執着している方でした。綾はそのような政景どのに尽くしておりますが、景虎が生まれる際に、わが体内に毘沙門天が入ってきたとこの母が漏らしたことが発端だったのかもしれません。あの噂が巡り巡って、景虎が生まれてきた時には高僧や山伏たちが集まってきて大騒動になりました」と当時を振り返って目を細めた。

 

「宇佐美どの。直江どの。なぜあのような言葉を漏らしたのか、今となっては自分でもよくわからないのです。まさか、景虎が自らを毘沙門天の化身であると信じるようになるとは、そして独身を守ると言いだしてこのような合戦の日々を送るようになるとは、予想もできませんでした……」

 

「景虎を姫武将に育てたのはオレの責任さ。だが、晴景の旦那の衰弱ぶりを見れば越後のためにはこの道しかなかったんだと思える。今の景虎はさまざまな重荷に耐えるためにああいう奇矯な物語を信じているが、いずれは、毘沙門天の化身であると信じる必要もなくなるだろうさ」

 

「本当にその時が来るでしょうか、宇佐美どの」

 

「来るさ。景虎は元服したとはいえまだ子供だ。自分が『人間』だという真実を受け入れる時が、毘沙門天の化身という信念が要らなくなる時が、いずれ来る」

 

「……心配なのです。景虎は日の光に当たるだけで倒れてしまう子でしたから、幼い頃、この館からあまり外へ出なかった。女性にばかり囲まれて育てられた子です。合戦から戻ってきた父である御館さまや政景どのの血なまぐささにいつも怯えていました。とりわけ父親に怯え、男を恐れるようになったのです。そしてこのたび、兄との合戦。あの子は本当にずっと夫を取らないまま生きるのでしょうか?」

 

 綾さまを失われたこともお嬢さまにとっては痛手でした、お嬢さまが男嫌いになり結婚を忌避しているのはわたくしの責任です、と直江大和が青岩院に頭を下げていた。

 

「いえ、綾は妹を守れて満足していると思います。あの時はああしていただく以外になかったのですから。ただ、景虎の心にはあの件が今でも傷になっています」

 

「はい。ですが、今日こうして晴景さまと和解できました。生涯独身を貫くというお嬢さまの信念も、いずれ春の雪のように溶けていきましょう。お嬢さまもそろそろお年頃です。宇佐美がいずれ、お嬢さまに相応しい相手を探してくるでしょう」

 

「よろしくお願いします、直江どの。宇佐美どの。どうか、あの子を毘沙門堂に閉じ込めておかないでください。この母が今更こう願うのも我が儘かも知れませんが、やはりあの子には、人間として生きてもらいたいのです……景虎はその戦ぶりによって、常人ではないことをすでに越後全土に知らしめました。世に認められました。諸将によって越後守護代の座に推戴されました。守護さまとも劇的に和解しました。これで越後には平和が訪れるはずです。この偉業を成し遂げたあの子には、どうか人としての幸せを掴んでもらいたいのです」

 

 青岩院は、「越後最強の神将」として春日山城へ凱旋してきた景虎の姿に、なにか不安を感じ取っていたらしかった。直江大和は(まだ婚期を云々するお歳ではない。あと数年はこのままお嬢さまの好きにしていただいていいのではないか)と思ったが、隣で宇佐美定満が妙に小難しい顔をしていたので、その意見を青岩院に伝えることはやめた。

 

「どうしたんですか宇佐美さま? あなたらしくもない」

 

「いや。今回の騒動における晴景の旦那の態度が、なんだか、どこかで見たような……ま、気のせいだろうがな。青岩院さま。景虎は親不知の峠で神秘的な体験をして以来純潔を失うと毘沙門天の力を失うなどと思い込んでいるが、焦らずとも自然となるようになるさ。ただ、ちょっとばかり身体の成長が遅れているのと、あの身体の色がいかにも神がかっているので周囲が本気で毘沙門天扱いするから、毘沙門天気取りが長引いているのさ。いずれ、自分が人間の娘だという事実を受けいれる時が来る」

 

「だと、いいのですが。宇佐美どの」

 

「母親ってのは子供がいくつになっても心配性なものさ」

 

 宇佐美はそう言って肩をすくめた。



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第54話 喪失 越

今回で越後編は一旦終わりです(!)やっと終わった…。次回はまた北条に戻ります。予定では、近いうちに影薄くなってるメインヒロイン・氏康様回を用意してます。


 宇佐美と直江の二人が、青岩院に事態の詳細を報告しているその頃、景虎はついに晴景と再会を果たしていた。宇佐美定満も直江大和もまだ知らなかった。

 

 晴景が、実の妹に魂を奪われていたということに。晴景はその禁じられた想いを抱きながら毎夜苦しみ、見る影もなく病んでいた。さらにはその妹を攻めねばならない栃尾への出兵が心身双方に祟り、健康状態は急激に悪化していた。

 

「兄上。そのお姿は」

 

 景虎は、やせこけてしまった晴景の姿を見て、息を呑んでいた。

 

「……景虎。お前を謀反人と断じて攻めようとした罰が当たったのだろう。僕は愚かな兄だった。ただ、僕はお前を討とうとしていたのではない。姫武将などという危険な生き方を諦めてもらいたかったのだ……」

 

 景虎は晴景のもとへ駆け寄り、激しく咳込んでいる晴景の背中をさすった。その背中が、まるで骨と皮だけになっていた。

 

「兄上」

 

 私は兄上に対してなんという不幸者だったのか、と景虎は悔いた。目の前で次々と続く晴景への反乱・謀反を平定することに必死で、晴景自身がこれほど自分を心配してくれているとは知らなかったのだ。いや、知らなかったでは済まされない。合戦に無我夢中で、知ろうとしなかったのだ。わたしはあるいは戦えばすなわち勝てる合戦に淫していたのかもしれないと景虎は自分を恐れた。自分の身体に流れる為景の血を恐れた。

 

 この上越後守護代の座を兄から奪うなど許されるはずもない、と思った。

 

「待て、景虎。僕にはもう守護代は務まらない。見ての通り、もはやそのような体力はないのだ。政景にすべてを委ねてきたが、政景では越後諸将が従わないことはもう明らかだ。政景自身も守護代の座を諦めたようだ。そして僕には子がいない。跡取りは早世している。守護代は、お前が継いでくれ」

 

「それでは私は、お優しい兄上からすべてを奪い取った非道の妹ということになってしまいます……武田晴信のような者には、なりたくないのです。どうか兄上、ぜひ再びお子を。そのお子が元服された暁に、守護代の座をお返しいたします。上杉定実さまから譲られる越後守護の座も……」

 

「……子は、生さぬ。まだ、作ろうと思えば作れる。だが作らないと決めたのだ。僕はもう、女を抱かないと決めたのだ。恋もしないし、女に欲情することもしない。いや、もはやできないのだ。どれほどの美人を前にしても、僕の心はいささかも揺るがない」

 

「なぜですか?もしかして守護代としてのお悩み故に?これからはこの春日山城で楽隠居していただきます。大丈夫です。戦と謀反に悩まれる日々はもう終わりです。これからはこの景虎が兄上の盾となります。二度と離れません。きっと、ご気分も晴れます」

 

 二度と離れません、という景虎の無垢な言葉が、晴景の臓腑をえぐっていた。生まれてすぐに「兎の子」と忌避され、父親に愛されなかった景虎が、自分になにを求めていたのか。この時、晴景は痛いほどに景虎の思いを理解した。そして、自分が今もなおその景虎を裏切っているという罪の重さに震えた。

 

「……死ぬまで口にしたくはなかったが……言わねば、僕の魂は死後永遠に春日山を彷徨ようことになるだろう……景虎、違うのだ」

 

「兄上? 違う、とは?」

 

「僕は、兄としてお前を心配していたのではない」

 

「なにを仰っているのか、わかりません」

 

「……僕はお前に恋をしたのだ。だから戦場に立たせたくなかったのだ。大切に、手許にかくまっておきたかったのだ」

 

 景虎はしばらく、返す言葉を見つけられなかった。

 

「い、いったい、な、なにを? 兄上は私の兄です。私は兄上の妹です。母親こそ違いますが、同じ父親を持つ実の兄妹ではないですか!?」

 

「……それ故に僕は心を病んだのだ。罪の意識に夜ごと苦しめられてきたのだ。その苦しみが、身体をも病ませたのだ」

 

「だって。そんなのは……そんなことは……!」

 

 景虎は、咳き込む兄の背中をさすっていた手を、反射的に離そうとした。だが、離せなかった。この人は私の兄だ、なにかの間違いだ、熱にうなされておられるだけだ、と信じたかった。

 

「僕は、お前とはほとんど会うこともなかった。白い肌と紅い瞳を持つ妹に興味を持たなかった。この春日山城でお前と再会するまで、お前は僕にとってはほとんど他人のような存在だった。どうやら、それが間違いだったらしい。幼い頃から時折お前と会っていれば、僕はこのように生きながらにして冥府魔道を迷うようなことはなかっただろう。綾のように、お前の世話をしていれば。ほんのわずかでも。これは、お前という生き難い身体に生まれついた妹を支えることも守ることもせずにのうのうと遊び暮らしてきた僕への天罰だろう」

 

「な、なにを言って……兄上。兄上の周りにはいつも美しい女性が大勢いたはずです。どうして、私などに。私は、あなたの妹です。それに、私の姿はこんなにも醜い……」

 

「違う景虎。そなたは、美しいのだ。人でありながら人にあらざるほど美しいのだ。その髪もその瞳もその心根の純真さも。そなたよりも美しい女人など、この世にはおらぬのだ!この広大な越後の天と地の狭間のどこにも、そなたの代わりなどいない!」

 

「兄上」

 

「今思えば、そなたが幼い頃に、この言葉を伝えておくべきだったのだ。父上はいつもお前を疎んじていた。お前が、自分は醜い兎の子だと思い込んだのは当然の成り行きだった。兄である僕が、もっと早く、この心が汚れぬうちにお前に優しい言葉をかけておけば。それを怠ったばかりに僕は……もう遅い。もう僕は汚れてしまった。ただ兄として妹を愛するだけでは済まなくなってしまった。醜い欲望に憑かれてしまった」

 

 僕はどこまでも己のためにしか生きようとしなかった、故にお前を裏切ることになった、お前のために兄として生きるという選択肢を僕はついに学び得なかったのだ、と晴景は顔を覆ってうめいた。

 

「僕がお前に与えられるものはよこしまな想いと欲望だけだ。それはそなたが求めているものではない。せめて守護代の職を継いでくれ、景虎」

 

「お優しい兄上。兄上は、悪い夢を見ておられるのです。どうかお子を。それできっと、悪夢から覚めます」

 

「景虎。すまないが僕にはできない。お前以外の女を抱くつもりは、生涯ない。お前への恋心を裏切ることになる。だが妹を抱くわけにはいかない。それはお前の人生を狂わせお前の心を汚すことになる。つまり、僕はもう死ぬまで女を抱かない。一人きりで生き、一人きりで死ぬ。子は、生せない。それでいいのだ。僕が子を残せば、お前がいずれ困ることになる。子は不要だ」

 

 景虎は、泣いていた。

 

 悲しくて泣いているのか、兄に裏切られたと傷ついているのか、兄の途方もない愚かさと、その果てしなく倒錯した感情の奥になおも妹への優しさが残っていることが哀れなのか、或いは、私がこのような奇妙な姿に生まれていなければ、兄上と私は普通に仲睦まじい兄と妹としてともに生きられたのではないか、と自分を責めることで晴景への本能的な嫌悪感を押さえようとしたのか、景虎自身にもわからなかった。

 

 ただ、景虎は、男の中には自分のこの特別な容姿を見るや否や果てしなく戸惑い狂する者がいるのだ、とはじめて自覚した。宇佐美定満や直江大和のように父や兄として自分を受け入れてくれる男だけではないのだ、と知った。そして、あるいはあの長尾政景もまた、と気づいた。

 

 不意に政景の影が脳裏にちらつきはじめ、景虎は怯えた。男の性とはこれほど恐ろしいものなのだろうか。血が繋がった自分の妹を――! 兄が自分に恋をしているなど、欲情しているなど、認めたくない、と思った。泣きながら、兄を翻心させようと言葉を連ねた。

 

「兄上は、ま、間違っています。わ、私には、わかりません。お優しい兄上が、どうして、何故なぜにそのような言葉を」

 

「……僕がそなたの兄でなかったら、この恋が成就する可能性はあったのだろうか?」

 

「そんな、あり得ない話をされても、私は答えられません!」

 

 それ以上は言葉にならず、景虎は震えながら泣き声をあげていた。晴景は、景虎が身も世もなく怯えきっていることにようやく気づき、それでも景虎が自分の背をさすっている手を離さないことを確かめると、しばし口をつぐんだ。

 

 やはり僕は死ぬまで口をつぐみ続けるべきだったのだろう。だがいずれにせよ、あの政景が僕のこの邪悪な恋の想いについて景虎に吹き込む日がいずれ来たはずだ。いや、その日は今日かもしれない。あの男はそういう男だ。だから先に、僕が自分自身の口からはっきりと言っておくしかなかったのだ。だが、景虎の人生を僕は大きく狂わせてしまったのではないか、というこの後悔と罪の意識は、もう死ぬまで消えることはない、と晴景は思った。

 

「……景虎。この愚かな兄のことは忘れろ。いずれそなたにも、その時は来る」

 

 晴景は、自分の背中に回っていた景虎の手をそっと取って、引きはがしていた。

 

 景虎が「ぴくっ」と怯えながら、涙に濡れた顔を上げた。

 

「……その時、とは……?」

 

「今は毘沙門天の化身を名乗りそのように生きていても、そなたも人間であるからにはいつか必ず自分以外の人間を愛してしまう時が来る。前触れもなく、突然に。その相手が、お前自身の潔癖さが自分を許せなくなるような特殊な者ではないことを、願っている」

 

「……自分を許せなくなるような、特殊な者であれば……?」

 

「その時にはそなたは、きっと僕を許してくれるだろう。だが、僕は許されたくはない。このような満たされぬ想いに惑うそなたを、見たくはない。越後の守護となるからには世継ぎが必要だ。早く身を固めてくれ。宇佐美定満か、あるいは直江大和を婿にとるがいい、景虎。あの二人は、僕と違い真人間だ。父上によって人生を大きく狂わされながら、彼らはお前の中に美しい希望の光を見出した。お前に出会っておきながら妹への欲望に取り憑かれた僕のような男とは、男としての出来が違う……」

 

 あの二人は家族でありわが師です、そのような相手ではありません。考えたくもありません、もうやめてください……と景虎はまた目に涙を浮かべながら呟いていた。

 

「そうか。そうだったな。不甲斐ない兄の代わりに彼らがそなたの家族となってくれていたのだな……すまなかった」

 

 晴景は、僕の恋も僕の人生もすべては終わった、と絶望しながら、切りだしていた。

 

「僕は、二度とそなたを怯えさせたくない。そなたが兄から強引に守護代の座を奪い取ったという悪名を被ることも避けたい。だから、形式上、父と子の契りを交わすこととする。具体的な誓紙は直江大和に一任した。僕が父で、そなたが子だ。父から子へ、守護代の座を継承させる――これでそなたはもう僕に怯えることはない。景虎」

 

「兄上」

 

「そなたが僕に求めていたものは、家族としての、とりわけ父親としての愛だったはずだ。僕はそのお前の心を裏切った。父子の誓いを交わせば、もはや僕はそなたに指一本手出しできぬ。以後、再び会うことはない」

 

 私のためになにもかもを差し出して、一人ぼっちで死のうとしておられるのですね。お優しい兄上……と景虎は兄へ言葉をかけたかった。しかし、今私が優しい言葉をかければそのまま兄に抱きすくめられて押し倒されてしまうのではないかという恐怖が、その言葉を阻んだ。

 

 私は、黒い髪が欲しかった。黒い瞳が欲しかった。もっと人間の肌らしい色の肌が欲しかった。お優しい兄上をこれほどに惑わせて苦しめるつもりなど、私にはなかった……。私は恋などしない。生涯を独り身で過ごす。兄上が私のためにそうするのならば、私もそうするべきだ。それ以前に、男は……いや、「女」を目の当たりにした殿方は恐ろしい。汚らわしい。触れられたくない、怖い、と兄を失った景虎は思った。

 

 兄・晴景との唐突な決別。

 

 予想外だった晴景の告白に、景虎はどう対処していいのかわからなかった。ただ、晴景の命を賭した執念にわけがわからぬままに流されてしまうことを恐れて、懸命に晴景を拒絶した。他に、どうしようもなかった。実の兄に求愛された時に妹はどうすればよいのかなど、景虎は今まで誰にも教わったことはないし、考えたことすらなかった。そしてそんな事を知っている人間はこの地上にいないであろう。

 

 兄上は心も体も病まれておられる。このままではもう長くないだろう。しかも兄上の気の病は、この私のせいだ。ならばせめて兄上のお心を救うことがわたしの――私が兄上に尽くせば、兄上の病も良くなるのでは……。

 

 違う。そうではない。景虎は、廊下を進みながら唇を噛んでいた。慈悲とはそのようなものではない。断じて違う。そのようなことをひとたび認めれば、きりがなくなる。際限がなくなる。人を救うのと、人の欲望を満たすためにわが身を弄ばせるのとは違う。そもそも、実の兄と妹が――それは人の道に外れている。その罪深さ、おぞましさは、武田晴信どころではない。

 

 男女のことならば宇佐美に相談すればいいのか。それとも私情を交えぬ直江に。いや、誰にも言えぬ。兄上にとってこの上もない恥だ。恥というのともなにか違う。どう言えばいいのかわからない。気持ちが悪い……目眩がする。ただ、ただ、恐ろしい。これまで決して失われないと信じていた足下の大地が突如崩れ去ったような。

 

 幸い、日が曇っている。全身汗まみれになった景虎は庭園に下りて、懸命に深呼吸を繰り返した。そして、もっとも会いたくない男に、出会ってしまった。

 

 

 

 

 

 

「フン。景虎。兄貴にいきなり道ならぬ愛の言葉でも囁かれたか。顔が青ざめているぞ。二人きりで対面させるとは、宇佐美も直江も甘い。晴景の異変に気づいていなかったのか。馬鹿な連中だ」

 

 次期守護代の座から景虎によって引きずり下ろされた、長尾政景だった。気位の高い政景のこと、最後まで景虎には帰順しないだろうという声が大勢を占めていたが、意外にも帰順を申し出てこうして春日山城へ出仕してきたのだ。今日はこのあと、越後諸将を一堂に集めて景虎の守護代就任式が行われるのだ。その就任式の席次で長尾政景は、一門衆筆頭から大幅に格下げされるはずだった。

 

「……政景……近寄るな。私は今、気分が悪い」

 

「フン。晴景の秘密を俺は知っているぞ。黙っていてやるつもりだったが、あいつが俺をけしかけてお前を戦の場から排除しようとした理由を、どうやらお前も知ってしまったようだな。墓場まで黙って持っていけばいいものを最後の最後にぶちまけてしまうとは、晴景はどこまでも愚かな男だ。俺としたことが、さっさと殺しておけばよかった」

 

「貴様の知ったことではない! 黒田秀忠の一族を滅ぼした罪はいずれ償わせる」

 

「景虎。戦場では不覚を取ったが、俺は貴様に敗れたわけではないぞ。俺はな、ただ大の男であるこの俺が姫武将を討ち取ることを恥と感じて身体が居すくんだだけよ。貴様の神がかりの強さには、越後の武者たちが姫武将をこれまで見たことがなかったという幸運があると知れ。越後の外へ出れば、通じぬぞ」

 

「黙れ。私に敗れておきながら、私を侮辱するつもりか」

 

「お前を侮辱したのは晴景であろう。景虎?お前、よもや晴景に?」

 

「ふざけるな。兄上まで侮辱するな!兄上はお優しいお方だ、ただ病で惑われておられるだけだ。私から姉を奪い、さらに私まで奪おうとしている貴様とは違う!」

 

 そうか。どこまでも中途半端な男だったな、あれは、と政景はせせら笑った。

 

「景虎、お前はそうでなくてはな。そこで阿呆のように惑わされて情に流されてしまうような弱い女では、俺も興が削がれる」

 

「……黙れ……わたしに指一本でも触れてみろ。政景、その時は貴様を殺す。姉婿は兄と同じだ。兄上は病で気が動転しておられるが、貴様は正気だ。貴様のほうが兄上よりもずっと罪深い」

 

「フン。俺や晴景が正気かどうかをお前が決められるものかな。あるいは狂っているというのならば、その狂気を呼び起こしているのは誰なのだろうな。景虎、その元凶はお前自身なのではないか」

 

「違う。わたしは奇異な容貌に生まれてきたが、わたしを見たからといって誰もが狂するわけではない。貴様の心が欲望に汚れているというだけだ、長尾政景」

 

「ガキめ。そのように他人の心を正義と悪とで綺麗に割り切れると思うな。欲と愛と情はわかちがたいものだぞ、景虎。男だけではない。女も、そうなのだ。人の心に混じりけのない正義などないし、真っ黒な悪もない――」

 

「悪党はみなそう言うのだ。己を弁護し、心弱き人を操り利用するために。私は、情に流されて悪に屈したりはしない。兄上は善人だが、妹をあのような目で見ることはまぎれもなく悪だ。だから兄上を、私は拒絶した。もう、二度と会わぬ」

 

 景虎。いずれお前は毘沙門堂にひきこもって目に映るすべての人間を排除していくのだろう、お前は日の光がまぶしくて目が眩むのではない、お前の心が眩んでいるのだ――と政景は獰猛な犬歯を剥き出しにして笑っていた。

 

「政景! 今の私は混乱している。貴様に殺意を覚えているぞ!私が耐えられるうちに、消えろ!」

 

「断ると言いたいところだが……ちっ。綾が来たようだ。俺は、消える」

 

「姉上が?」

 

 景虎が振り向くと、懐かしい姉の姿があった。

 

「景虎。すっかり凜々しくなって。ほんものの毘沙門天さまのように綺麗よ」

 

 綾はまるで歳を取っていないように見えたが、しかし、一点だけ昔と違うところがあった。腹が、大きく膨らんでいた。どういうことだ?と正面へ向き直るともう、政景の姿は消えていた。

 

「姉上。そのお身体は?なにかの病なのですか?」

 

 景虎が実兄に告白されて懊悩していることを知る由もなかった綾は、「子が生まれるの」と微笑ほほえんでいた。幸福そうな笑顔だった。母の笑顔にそっくりだった。

景虎は不意に、きっと私は生涯、このような笑い方をすることはないのだろう、と胸をつかれた。

 

「子?赤子が、ですか!?まさか政景の?」

 

「他に誰がいるというの?」

 

「しかし……そんな……あの男は執拗にわたしに迫ってくる獣なのに。そんな、汚らわしい……あ、いえ。姉上が汚れていると言ったつもりは」

 

 夫と妻ですもの。汚れてなどいないわ、と綾は苦笑いした。景虎は相変わらず子供のように潔癖ね、と。

 

「景虎。ごめんなさい。あの人は分家に生まれついた自分の血筋に苦しみ、あなたの人にあらざるたぐいまれな美しさに惑っているだけなの。私が子を産めば、人の親になれば、あの人もきっと憑きものが落ちたように鎮まってくれるはずよ。執拗にあなたを妨げることもなくなるはず。むしろ、宇佐美定満や直江大和のようにあなたに忠義を尽くしてくれる武将になるわ。そのためならばわたしは政景さまにどこまでも尽くすわ」

 

 ああ。やっぱり、姉上が浮かべている笑顔は母の笑顔だ、と景虎は思った。同時に、この笑顔はもう私にではなく、これからはお腹の子へ向けられる笑顔なのだと思うと、鼻の奥がつんと痛くなった。

 

 姉上は、政景と暮らすうちにいつしか情に流されたのだ。その結果、姉上は政景の子を愛するようになったのだ。私も、さっき兄上への情に流されていれば、考えたくもないようなおぞましいことになっていたのだろうか。

 

「姉上。政景は己の妻の妹であるこの景虎に醜い欲望を抱いている男です。許されない男です。それなのに、それを承知で姉上は」

 

「あのお方も苦しんでいるの、景虎。いつかわたしとこの子が、政景さまの心を溶かして癒やしてみせる」

 

「しかしそれは、本来は私の役割だったはず。私が拒絶したばかりに、姉上がなぜ犠牲に」

 

「犠牲ではないわ景虎。男と女が夫婦として長い時間を過ごせば、情が移るものよ」

 

「ならば今すぐに、政景を改心させてください!あの野獣のような男を!今すぐに!」

 

「景虎?どうしたの?あなた……泣いているの?」

 

「……なんでもありません!」

 

 景虎は、綾のもとから走りだしていた。もう、守護代就任の式など、出席したくもなかった。長尾政景とまた顔を合わせることになる。姉上を孕ませたあの男に。

 

 私は、兄と姉を同じ日に失った――

 

 

 

 

 

 

 

 

 雲が流れ、日の光が強くなってきた。自分の足下が、はっきりと見えなくなってきた。母のもとへ、生まれ育ったあの館へ逃げ込もう、と景虎は思った。だが、本丸から母の館へと抜ける山道を駆ける途中、景虎は走れなくなった。下腹部に、今まで経験したことのない激痛が走ったからだった。

 

 景虎は下腹部を白い指で押さえながら、山道の半ばで膝をついて崩れ落ちていた。

痛い……痛い、痛い、痛い!私の身体になにか異変が起きている。いったい、なにが?

 

 座り込んでいるうちに、喉の奥からひどい吐き気がこみ上げてきた。なにか食べてはならないものを食べてしまったのだろうか。でも、記憶にない。

 

 下腹部の激痛は、まるで身体の内側から肉を食い破られるほどにひどかった。景虎は、気づいた。自分の太股が、赤い血に塗れていることに。

 

 刺された!? 違う。どこにも傷口などない。怪我などしていない……!しかし私は今、血を流している……血を……これは。これはまさか。その血から立ち上ってくる錆びた鉄のような強烈な香りが、景虎の敏感な鼻腔に流れ込んでくると、吐き気はさらに激しくなった。

 

 まさか。私は。守護代の座を兄から奪うその日に、私は兄を失い、姉を失い、そして私自身もまた、子供ではなくなってしまったというのだろうか。

 

「嫌だ。嫌だ。嫌だ……!」

 

 景虎は苦痛と屈辱と、耐えがたい喪失感と、それらのあらゆる感情に襲われて泣いた。かつて春日山城で過ごしていた子供時代にはあれほど懐いてきた小鳥たちも、今の景虎にはもう寄ってこなかった。

 

 早く母の館へ、といくら焦っても、全身を貫く激痛のために立ち上がれなかった。こんなところにもしも政景が現れたら、私はもう。恐ろしい。男も女も、なにもかもが恐ろしい。私だけは現世の汚れに染まるまい、人ではなく毘沙門天の化身として生きたい、そう願っていたのに。

 

 景虎は顔を指で覆いながら、毘沙門天ではなく、人の名を口にしていた。

 

「……助けて……宇佐美。助けて……」

 

「ほら。うさちゃんだ。こんどの新作は、耳が回転する」

 

 宇佐美定満が、いつの間にか、景虎の隣に座っていた。大柄な身体をめいっぱい曲げて、景虎の視線に自分の顔の位置を合わせようと悪戦苦闘していた。もう鳥たちも鹿たちも私の声を聞いてはくれないが、この者だけはわたしの声を聞きつけて来てくれた、と景虎は思った。

 

「……宇佐美……うっ。うっぷ……」

 

「こらッ、吐きながら抱きつこうとするな!どっちかにしろっ!」

 

「……げほ、げほ、げほ……」

 

「あああ。うさちゃんの新作がーっ!?吐く前に手放せよ、うさちゃんを抱きしめながら吐くな!」

 

「……う、う……ごめんなさい……」

 

 ごめんなさい、だって?そんなしおらしいお前ははじめて見た、と宇佐美は景虎の頭をぽんと叩たたきながら笑っていた。景虎は宇佐美定満に背中をさすられながら、吐けるものをすべて吐いた。涙が止まらなかったが、吐き気が治まるとその涙も止まっていた。宇佐美定満は、景虎が食べられないものを口にして七転八倒する姿にも、そんな景虎を介護することにも、慣れている。

 

 それに――景虎は、自分の世界のなにもかもが終わってしまったかのような恐怖に震えながらも、宇佐美を無条件で信頼していた。宇佐美は女遊びに興じていると聞くが、兄上や政景のように私を汚れた目で見ることは決してない。その代わり、私を甘やかしてくれることもないし、主君扱いもしてくれない。まるで実の父か、兄のようだ、と。

 

「こんな日にいきなり大変だったな、景虎。しかしお前、ずいぶんとまたきついらしいな……男の俺にはわからん話だが。合戦中に月のものが来たら困るな、直江になにか知恵を出させるか」

 

「直江大和にも教えるのか? なにか気恥ずかしいな」

 

「あいつは身体は男だが、中身は坊主みてえなもんだ。気にすることはねえ。っていうかオレはいいのかよっ?」

 

「わたしは、宇佐美は男のうちに数えていないからな」

 

「オレの男としての格は、あの童貞野郎の直江以下なのかよっ!?この、琵琶島の風流源氏と賞される越後随一の遊び人のオレさまがっ?」

 

「うむ」

 

「うむ、じゃねえよ。まあいい」

 

「童貞とはなんだ、宇佐美」

 

「なんでもない、忘れろ。お前に妙なことを吹き込んだと知られたら直江に仕返しされる。ともかく、お前も乙女になったってことだ。本来はめでたい話なんだが、これほどきついとなると合戦の妨げになるぜ。厄介だな……」

 

「母上や姉上も、月に一度このように苦しんでいるのか? 見たことがないが」

 

「それがな、人によって違うらしい。平気な女は平気だそうだ。お前は特別にこたえる体質なんだろう。まあ、不運と思ってあきらめろ」

 

「……私は生涯夫など取らないというのに。子供を産む力など、私は要らない……宇佐美。これは仏教で言うところの穢れなのか?乙女になってしまったわたしは毘沙門天ではなくなったのか?」

 

「アホを抜かせ。女が子を産めなければ、釈迦も弥勒もなにも生まれてこられやしねえ。男が子を産めるか?」

 

「しかし、鳥たちが懐いてくれない。私が穢れてしまったからではないだろうか」

 

「それは単に、お前の背が伸びたからじゃねえか? 深く考えるな景虎。すべては自然の成り行きだ。誰もが通る道さ」

 

「……宇佐美はなぜ妻を取らない。直江から、お前はどうしようもない女好きだと聞いているぞ。女に興味がなさそうな直江が妻帯しないのはまだわかるが」

 

「家族に縛られるのは面倒でな。オレはずっと、一歩間違えたら滅びちまう危険な綱渡りをしてきた。自分のやらかしのために、家族を一族皆殺しの運命に巻き込んじまったらと思うとな」

 

「寂しくはないのか」

 

「琵琶島城に幼い姫武将候補を集めて育成しているから、騒がしいものさ。いずれ、お前の側近になる連中だ。いつまでも男だけの世界でただ一人の姫武将として生きていくのも辛いだろうからな」

 

「やはり宇佐美は、子供攫いだったのだな」

 

「とにかく景虎、気をしっかりもて。すぐに慣れる。それとな。お前は生涯独身を貫くと言っているが、いずれ夫を取れ。これから越後の諸将がお前を奪い合う未来がオレにも直江にも見える。お前が独身を通せば、いずれ内乱の種になるぞ」

 

「……嫌だ。男と女の交わりなど、私は嫌いだ。ぞっとする。汚らしい」

 

 宇佐美定満にも、兄の件は言えなかった。ただ、綾が政景の子を身ごもったことは、伝えた。隠せるようなことではなかった。綾と会えば一目瞭然なのだ。

 

「よりによって今日という日にそんなことがあったのかよ。つくづく、ついてないなお前」

 

「姉上は政景に情を抱いてしまっている。あの男を、愛しているのだろうか?」

 

「そうかもな。ああいう男が、意外と女に愛されるものさ」

 

「私の立場はどうなる。私にはわかる。政景は絶対に改心したりなどしない」

 

「ああ。越後守護代を通り抜けて、いずれお前は越後の守護になると決まった以上、政景はいよいよお前に執着するだろうよ。景虎、お前は政景が望むものすべてを手に入れてしまったんだからな」

 

「……しかし、私は夫を迎えない。あの男は姉上を手に入れ、子供まで生した。その上、私から何かを奪おうとするのであれば、それは強欲というものだ。許しがたい……が、もう政景を殺したり越後から追放することは、できない……姉上とそのお子が不幸になる」

 

 直江が知ったら「だからさっさと殺しておけと言ったんです」と愚痴りそうだ、と宇佐美定満は苦笑していた。

 

「日が暮れてきた。守護代就任の儀式と、夜を徹しての宴がはじまるな。景虎、行くぞ。立てるか?」

 

「どうにか、耐えられる」

 

「ともかく、お前が乙女になったことは政景にもいずれ気づかれるだろう。待ったなしだ。祝言を挙げろ。候補はオレと直江が探してくる。お前はえり好みが激しそうだが、あまり贅沢は言うなよ」

 

「……わたしは、殿方と同じ部屋で夜を過ごしたりは、したくない。できない。嫌だ。恐ろしい。汚らわしい。そんな不潔な真似をすれば、私はたちどころに毘沙門天の加護を失う。毘沙門天から、そう聞かされている」

 

 そっか。まあ、いずれ気が変わる時も来るさ、と宇佐美はおどけながら立ち上がっていた。兄・晴景とのことをいずれ宇佐美も直江も知る時が来るのだろうか、それは嫌だ、と景虎は思った。自分が、実の兄を誘惑するような汚れた女だと思われるのではないかという恐怖があった。この二人が自分をそのような目で見ることはあり得ないという信頼感があってもなお、景虎は晴景とのことを二人に知られることを恐れた。そして、山道の途中に、直江大和が待っていた。

 

「こんなところでなにをしているのですか? お嬢さま。宇佐美さま。守護代就任の儀式の前に、ご相談があるのですが」

 

 越後に「姫武将」というしきたりをはじめて導入した宇佐美にとって、完全に計算外の事態が起きていた。春日山城に集結した血気さかんな諸将が、誰が景虎の婿になるか、を巡って早くも紛糾している――というのだ。

 

「なんだって? 景虎は今日から越後の守護代だ。しかもいずれ正式に越後の守護となる。国人どもはみな景虎の家臣になるんだぜ?姫大名は、一族ではない家臣とは祝言を挙げられない。容易に下克上されちまうからな。それが姫武将の掟のひとつだ!例えば分家の長尾政景が綾どのを離縁すれば、景虎を嫁にする資格を持つようになるが……長尾の一族でない連中には資格がない」

 

「ええ。しかしこの越後にはこれまで姫武将の風習そのものがありませんでした。しかも、お嬢さまは元服して姫武将として越後に登場するなり、あっという間に越後守護代へと上り詰めてしまいました。ですから、誰もそのような掟を知らないのです」

 

「……姫武将の掟が越後に根付くまで、もっと時間をかけなければならなかったってことか?」

 

「いえ。時間をかけていれば、越後の内乱はさらに拡大し、すべては手遅れになっていました。お嬢さまを守護代に就けることを急いだのはやむを得ないことです。むしろ、守護の座まで約束されたのですから、我々の考えていた以上の成果をあげたといえます。ですが、彼らは守護職がお嬢さまに移譲されることの重さをよくわかっていないのです」

 

「……長尾家の景虎が守護になるといっても、国人どもはぴんと来ていないってことか。内心では、まだまだ長尾家も自分の家も同格だと思っている……」

 

「ええ。守護代の職、そして守護の職がこれほど平和裏に移譲されるなど、越後では前代未聞ですからね。お嬢さまは上杉家の人間ではありません。みな、守護と言っても名目にすぎない、と軽く考えているのでしょう。あまりに鮮やかに、血を流さずに移譲が行われたために、みなお嬢さまを絶対的な越後の主君、犯しがたい権威だとは感じられないのです」

 

「越後ではなじみのない姫武将だから、かもしれねえなあ」

 

 まずいな。オレはどうもこういう男女のことに関しては鈍くていけねえ、と宇佐美は唇を噛んでいた。

 

「今夜は揉るぜ、これは」

 

「とりわけ、鎌倉以来の名門・大江家の末裔である北条高広が、お嬢さまを嫁に欲しいと言いだしております。長尾と大江であれば家格は釣り合う、と」

 

「北条か。あいつは戦では有能だが、腹に一物ある男だ。景虎を娶れば越後一国を手に入れられると色気を出したか?見せしめに手討ちにするか?」

 

「お嬢さまは慈悲の武将です。そのような理由で家臣を誅したりはできますまい」

 

「そうだ直江。しかし、わたしは誰にも嫁がぬぞ。毘沙門天の化身たる資格は、出家僧の如き戒律を守った生き方をしなければ失われるのだから。諸将にもそう宣言せねばならない」

 

 景虎は弱りはてたようにつぶやいていた。わたしは、兄を狂わせた。次は、越後の諸将を惑わせるのかもしれない、と思った。

 

「お嬢さま。それだけでは北条たちは納得しませんよ。それどころかかえって逆効果です。決してお嬢さまに心服していない長尾政景が好機と見てそのような連中を扇動すれば、またしても内乱となりましょう。いかがします、宇佐美さま」

 

「……オレに考えがある。景虎。お前は今夜、諸将の前で言いたいことを言え。義将たる者は、いつ何時であっても自分を偽るな。あとは、オレたちに任せろ」

 

 

 

 

 

 

 その日の夜、越後全土から集結した諸将を前に、春日山城の大広間で「越後守護代・長尾景虎」がその姿を現した。諸将のうち、実物の景虎を目にしたものはほとんどいない。栃尾城に入るまでは諸将と交流を持つ機会がなかったし、戦場では常に日の光を避けるために景虎は行人包を被っていた。そのために「尋常の美しさではない姫である」という噂だけが一人歩きしていた。

 

 彼らが晴景・政景政権に見切りを付けて景虎を支持した最大の理由はその問答無用の強さ、「戦の天才」というところにある。次に、景虎が暴虐を極めた父・為景や姉婿・政景とは真逆の「義の武将」であるという点にあった。春日山城を攻めて景虎の一族を殺した黒田秀忠は二度目の謀反の際に誅されたが、その黒田ですら一度目の謀反の時には許されたし、春日山城まで攻め込まなかった黒田以外の将は敗れてもみな許された。

 

 三番目の理由が、越後守護の上杉定実が「景虎を次の代の守護にする」と触れ回ったことである。守護代の家系であった春日山長尾家が名実とも越後の王となるわけで、独立心の強い諸将にとっては喜ばしいことではない反面、彼らはみな果てることがなかった越後の内乱に倦んでいた。しかも関東では北条氏康が、信濃では武田晴信が凄まじい勢いで北上戦を続けている。特に武田晴信は「海が欲しい」と越後に目を付けていると噂されており、すでに内乱どころではなくなりつつある。

 

 義将・景虎であれば越後守護となっても国人豪族たちを弾圧することはあるまい、しかも戦ではあの政景よりも強い、と彼らは相反する二つの「益」を景虎に期待していた。そう。景虎が越後初の姫武将であるからとか、たとえようもなく美しい「らしい」から、というような理由で景虎を「政治的に」支持している武将などは、越後にはいなかったのだ。そのような甘い乱世ではなかった――この日この時までは。

 

 が、行人包を外したその素顔を景虎が諸将の前に見せたこの時、彼らは驚き、どよめいた。ことに、景虎を妻として娶ることができれば事実上、俺が越後の王になれる、という野心と情熱に燃えていた若い男たちはみな、景虎の姿を直視できないほどに心をときめかせた。

 

「たしかに、女だ。しかも、まだ年端もいかぬ少女だ」

 

「だが、ただの女ではない」

 

「この銀色に輝く髪。紅い瞳、雪のような透けた肌」

 

「人か魔か、あるいは神仏の化身か」

 

「景虎さまは、尋常のお人ではない……!」

 

 景虎は悩んだ末、自分に忠誠を誓う家臣たちの前で素顔を隠し続けることを不義であると判断し、決意して諸将にその素顔を見せた。

 

 醜い、と口にしたり表情に出す者は一人としていなかった。兎の子だ、と顔をしかめるような者は、どこにもいなかった。景虎がこの宴に対して抱いていた最大の不安は、杞憂だった。だが、直江大和があらかじめ伝えてきていた問題は――もう一つの不安は、景虎が危惧していた以上の熱量を持って実現してしまっていた。

 

「景虎さまは」

 

「婿を取られるのでありましょうか」

 

「許嫁はおらぬと伺っております」

 

「他国では、姫大名はその家臣とは祝言を挙げてはならぬという風習があります。親族あるいは同格の大名が相手でなければ祝言を挙げられぬそうです」

 

「ですがこれまで姫武将すら存在しなかったこの越後には、そのような風習はありませぬ」

 

 若い武将たちは目の色を変えて、景虎を我が妻に、と燃え上がっていた。

 

 長尾政景ほど異常な執着を見せる者こそいなかったが、政景と同様の野心を抱く男たちが大勢現れたに等しかった。景虎は、「気持ちの悪いことを言うな」と一喝したくなったが、左右に侍っていた宇佐美と直江が視線で制止した。いくら言いたいことを言え、自分を偽るなとはいっても、景虎は正式に越後守護代となったのだ。感情にまかせて怒鳴り散らすべき場面ではなかった。

 

 もっとも全員がそのような感情を抱いたわけでは無く、既に妻帯している将や老将などはその美麗な見た目に目を見張りつつも、血気盛んな若者とは違い比較的冷徹に景虎を見つめていた。容姿だけで国は治められないのを知っている。

 

「諸将よ。私は毘沙門天から武の力を授かって、その力を借りることで戦に勝ち続ける。これからもこれまでも、私は合戦に負けないだろう。だが、夫を迎えれば毘沙門天の力は失われる。私は生涯、誰にも嫁がぬ。武士ではあるが、出家の身に等しいと考えてもらいたい」

 

 一門衆の筆頭から外されて末席に座っていた長尾政景が腕を組み、そっぽを向いて「手に入らぬと知ればますます男の煩悩は燃え上がる。藪蛇よ」と鼻先で笑う姿を、景虎は忌々しげに見つめていた。事実、まだ妻帯していない男たちを中心に、多くの家臣たちが「なんと。生涯嫁がないとは!?」と悲鳴のような声を漏らし、狂わんばかりの表情を見せた。

 

 大江家の流れを汲くむ越後屈指の名門・北条家の北条高広は、景虎という「駒」を奪い取れば越後の主になれるという野望を抱いて春日山城を訪れていた。しかし景虎がただの「駒」ではないということを目の前に突如現れた天女のような景虎の素顔を見て思い知り、同時にその景虎が自分の手には入らないと知って、惜しいと思い、顔面蒼白となっていた。

 

 景虎を強力に支持している猛将・柿崎景家が「神仏の力は戒律を厳格に守る者にのみ訪れるのだ。貴様ら、潔くあきらめよ。南無阿弥陀仏」と彼らを一喝してくれた。

 

 しかし景虎は、これから兄上のように私に愛を語ってくる者が次々と現れるのだろうか。嫌だ。私は、誰ともそのような関係にはなりたくない、と泣きたくなった。

 

 このまま景虎の不犯宣言を既成事実にするのは惜しい、と北条高広が「柿崎殿。あなたは相変わらずの阿弥陀仏馬鹿だな。それがしたちは坊主ではない。武士なのだ。戦に己の命を懸ける武士が、美しい女性を我が物にしたいと願うのは当然のことだ」と立ち上がり、柿崎の鼻先に己の拳を突き出してきたために、場はいよいよ騒然となった。北条高広は名門ゆえに優雅な物腰で人と接するが、その鍛えられた巨体は柿崎景家・長尾政景と並ぶものだった。そして、北条高広はこの直情的な二人とは違って己の本心を滅多に口にしない男であり、それゆえに独特の凄みがあった。

 

「柿崎殿。目の前にいきなりこれほどの美しい女性が現れていながら、いきなり夫は生涯取りませんと言いだすは、どういうことだ。これでは我らは生殺しではないか」

 

「ええい黙れというに、なんぞ不穏な野望でも抱いたのか北条くずれが! 景虎さまは貴様の戦利品にあらず、乱世に義をもたらす越後の王にあらせられるぞ! 喝!」

 

「それにしても、なぜ戦場にいるかのように荒れている?仏のようにお優しい柿崎どのらしくもないぞ」

 

「今日の春日山城は、戦場も同然だからよ。私は景虎さまに越後の未来を託した。晴れのこの日に家臣の中から景虎さまをわがものにせんとする輩が現れれば、そやつはこれからの越後にとって獅子身中の虫!従って斬る!そう、覚悟しておったのだああああ!」

 

「やれやれ。あなたのお相手をするのは少々面倒だが、なにごともはじめが肝心。それではこの場で景虎さまを懸けて戦うとするか」

 

「景虎さまの晴れ舞台を血と野心とで汚すというのか、北条!」

 

 宇佐美定満が「まあまあ。待ってくれ待ってくれ」と笑いながら、口を開いた。

 

「おい北条。他の面々も聞け。景虎さまはまだ若い。この通り、子供だ。いずれそれなりのお年頃となれば必ずや気が変わって婿を取ることになるだろう。それまで、五年待て」

 

 おやおや五年も待てと言うのか?と北条高広は苦笑いしながらなおも食い下がり、「貴様のような私利私欲に塗れた男などに、景虎さまに指一本触れさせぬ!」とこちらも激高する柿崎景家と互いに組み合って相手の腕をへし折ろうと争いはじめた。この場にいる誰もが、今まで男武者だけの世界だった越後に唐突に現れた雪の精のような少女君主を一目見て、血を煮えたぎらせ、興奮していた。

 

 なんということだ。これでは収拾がつかない。私という存在がまたしても越後に戦乱をもたらしてしまうのだろうか……と景虎が泣き顔になってうつむいていると、直江大和がいきなり宇佐美定満を指さして、言い放った。

 

「宇佐美さま。五年待てとおっしゃいますが、そうやって諸将を足止めしておいてご自身がお嬢さまを娶ろうとしているのではないですか?」

 

「おい待て。突然、なにを言いやがる。直江てめえ」

 

「宇佐美さまの女好きは、越後では有名ですから。いつも琵琶島から美女たちを大勢乗せた舟を出して、釣りに興じていると」

 

「オレは釣りが好きなだけだ!」

 

「村から幼い娘たちをかどわかして、琵琶島城に集めているとも」

 

「景虎の手足となるべき姫武将を育成しているだけだ!」

 

「諸将の顔をご覧ください。多くの者があなたを疑っています」

 

 そうだそうだ、と諸将が吠ほえた。

 

「てめえは、景虎さまが幼い頃から兎の縫いぐるみで手懐てなずけてきたと聞くぜ!」

 

「光源氏が紫の君をかどわかしたのと同じ手口だ!」

 

「宇佐美定満。貴公が景虎さまを奪い取ろうとしていること、間違いない!」

 

「うおおお!オレってこんなに信用されてなかったのか!?」

 

 それ以外のことならともかく女に関しては誰もあなたを信用するまいと北条が目を細めて笑い、柿崎も「そればかりは私も宇佐美どのを弁護できぬ。南無阿弥陀仏」とさじを投げていた。

 

「宇佐美さま。諸将に納得していただくため、今日からはお嬢さまの軍師役を外れていただきます。お嬢さまの補佐はこのわたくしが務めましょう。三年間、お嬢さまに男が近寄らぬよう監視いたします。三年経たてば、ただちに婿の選定にかかります。むろん、わたくしは生涯独身を貫くと決めておりますのでその候補には入りませんよ。越後にとってもっとも良き選択をいたします」

 

 ふむ。浮いた噂のない直江大和どのならば側近にしておいても問題なかろう、と北条が引き下がった。柿崎の腕から手を離し、畳の上にあぐらをかいた。

 

「あなたは、殿方しか愛せないという噂もあるくらい身持ちの堅いお方だからな。幼い頃は為景さまの稚児だったという話すら耳にしたことがある」

 

「ふふ。それは根も葉もない噂ですが、信用いただきありがとうございます北条さま」

 

「直江、てめええええ! この機会をうかがっていやがったな!この期にオレさまを追い落として越後の宰相になるつもりか!少しは友情を感じていたのによう、やっぱりてめえはこういう奴だ!てめえの身体には血が流れてねえ!」

 

「やれやれ。宇佐美さま、あきらめなさい。日頃の行いの違いです」

 

 諸将は「叛服常ない、しかも女好きの宇佐美が、側近の座から下りるならば安心できる」「律儀な直江大和ならば約束を守るだろう。三年だな。三年待てば、景虎さまはわれらの中から婿を選ぶのだな」とようやく納得した。

 

「あなたがたの中から選ぶとは限りません。同格の守護大名が婿となる可能性のほうが高いでしょう。ですが、槍働き次第ではどうなるかまだわかりません。関東の北条氏康、甲斐の武田信玄。この越後を、あるいは越後の隣国を侵そうとする外敵は多い。これよりは外敵との戦に次ぐ戦となりましょう」

 

 雄雄雄雄、と諸将が吠えた。もっとも武田はともかく、北条にそんな野望はない。後々晴信のせいで私まで疑われてる。盛大な風評被害だ、と氏康がぼやく羽目になった。

 

 景虎は「宇佐美、これも越後をひとつにするためだ。すまない」と悲しげにうつむき、宇佐美は「そういうことなら、それでいいんだぜ。ただし、このまま黙って引き下がるオレじゃねえ。お前に謀反をするような真似はしねえが、直江大和は君側の奸だ。どうやらお前を生涯独身のまま毘沙門堂に閉じ込めておくつもりだぜ、こいつは。黙っていられるか。必ず、オレは直江の野郎を排除する」と言い捨て、迷うことなく立ち去っていた。

 

 宇佐美・直江の両雄は並び立たなかったか、と諸将はまたしてもどよめいた。景虎にとって股肱の臣だった宇佐美が第一線から排除され、かつての守護代候補だった長尾政景もすでに一門衆筆頭の座から転がり落ち、直江大和が宰相となったのだ。さらに直江大和は、かねてより自分と親しかった者たちを次々と高い役職につけた。意外な成り行きだったが、政権が移譲する際にはありがちな政変ではあった。

 

 宇佐美は軍師。すでに神将の名を欲しいままにしている景虎さまに宇佐美が教えられることはもうなにもない。宇佐美の役割はすでに終わったのだ。これからは、内政外交に長けた直江大和こそが景虎さまの第一の側近にふさわしい、と諸将はこの人事に納得していた。

 

「お嬢さまが宇佐美さまを遠ざけ、わたくしを変わらず信頼されるのはひとえに、わたくしが身を慎み女色を遠ざけているためです。諸将も、これより三年間は、よこしまな考えを抱くことなくひとえに忠義に励まれるように」

 

 そうか、わかったと、北条高広は意外にもあっさりとうなずいていた。しかし。

 

「フン。直江大和。俺は貴様を信用できんなあ。一度騙されているからな。貴様は景虎を俺に嫁がせると謀って、綾を俺に娶らせた」

 

「その綾さまがご懐妊だそうで、おめでとうございます。政景さま。仲むつまじいご夫婦のようで、微笑ましい限り」

 

「……なにを企んでいるかは知らんが、景虎のくだらん不犯の誓いなど撤回させてやる。空手形などを信じて三年も待つつもりはない。俺はな」

 

 長尾政景だけは、直江大和の言葉を信用せず、不敵にも笑っていた。

 

「あなたは一度叛いた。お嬢さまに討たれ、命を許された。次に謀反すれば、お嬢さまがどう言おうとも処断いたします。あなたが黒田秀忠を誅したように、です。長尾政景さま」

 

「もう俺の負けはないぞ、直江大和。あんな下手な戦は二度とやらん。次は、黒田秀忠など担がん。俺のやりたいように戦い、俺が勝つ」

 

 それは御屋形さまに、景虎さまに謀反するということか!と柿崎景家が血相を変えて怒鳴り、政景はただ笑うだけで返事をしなかった。

 

「……私は、なぜ姫に生まれたのだろうか。私が男であれば、誰を惑わすこともなかったはずなのに。私は本当に越後に義をもたらすことができるのだろうか。宇佐美……」

 

 景虎は、越後の男たちに囲まれながらたとえようもない孤独を感じていた。

 

 越後には姫武将はいない。私ただ一人だ。それでも私には姉上がいると思っていた。孤独ではないと思っていた。しかしその姉上はいまや、政景の妻であり、そして赤子の親となられる。姫武将となった私と、母親として生きる道を選ばれた姉上とはもう、異なる人生をそれぞれが歩むしかないのだ。

 

 これから直江や宇佐美たちが家臣としてどれほど自分に尽くしてくれても、この心の寂しさは埋めることができないだろう。それが、越後で姫武将として生きるということだ。……寂しい。

 

 景虎ははじめて、姫武将の友が欲しい、と願った。自分と同じように姫武将という己の運命に立ち向かっている友が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、場所は遥か西方に移る。長年の戦乱で荒れたこの地域ではあるが、それでも民はしぶとく、力強く生きていた。この地にはもう死に体ではあるものの、一応の権威は保持している室町幕府が近江に。この末法の世でもしっかり生き延びているやまと御所が京にあった。この地域に今、北条家より派遣された外交官として北条為昌が来ていた。

 

 彼女は北条氏康の妹ではあるが、玉縄北条家を相続しており本家の当主継承権を放棄している。その為、氏綱の次女でありながら当主筆頭候補としての教育を受けていない。その教育は三女の氏政が受けている。為昌本人曰く、「私に姉上のような事は出来ない」と言う事である。だがそれでも氏康の実妹には変わらない。なのでこの様な外交活動に従事していた。

 

 彼女が姉より与えられた使命は三つ。まず、扇谷上杉朝定を関東管領に就任させること。次いで北条家の地位を向上させること。三つ目に堺で南蛮船を一隻以上関東に来させる事である。為昌は取り敢えず一つ目と二つ目から開始した。幸い上方には本家筋とも言える伊勢家がいる。このツテを辿り、将軍に面会していた。

 

「北条左京大夫が妹・彦九郎為昌にございます。この度はこのような場を設けて下さった事、恐悦至極に存じます」

 

 時の将軍は12代足利義晴である。

 

「うむ。して此度は何用で参ったのか」

 

「は。恐れながら、こちらの書状をご覧頂きたく。姉よりの書でございます」

 

「分かった。見よう」

 

 氏康の書状には、現在の関東管領・上杉憲政がいかに暗愚で民を苦しめ、関東の地に騒乱をもたらし、無用の争いを助長させているかが悪し様に書き連ねてある。また、朝定がいかに聡明でまだ年若くても勤皇並びに幕府への忠誠に溢れており、関東の維持を行える器かが賛美されている。加えて、北条家が古河に逃れざるを得なかった古河公方を鎌倉に戻し、近々戦乱で荒れた鶴岡八幡宮を修復しようとしていることも書かれていた。これこそ忠勤の証であると。

 

 そして関東の武士も民も皆悪逆の関東管領の追放と新関東管領に上杉朝定が就任することを望んでいる。是非、どうにかして欲しいと書かれている。

 

 義晴は周囲に事実確認を行うが、この文面に書かれているのは多少の誇張はあれど、事実だった。また、武田に大敗した上杉憲政に朝廷工作や幕府工作を行う余裕もなかったことが功を奏した。また、氏康が持たせた莫大な額の金銭を幕臣に渡している。貰った分の仕事をする彼らはしっかりと北条家を称賛し憲政を罵った。

 

 凡庸ではない義晴は一度考えると言って為昌を下がらせる。彼の望みはただ一つ。京への帰還である。それは同時に幕府の復権も意味している。その為に北条はむしろ利用できると考えた。北条は関東管領の廃止ではなく、交代を求めている。大方傀儡であろうが、それでも幕府の権威を重んじる意思はあると感じていた。また、鎌倉に古河公方を移したのも真面目に秩序を戻そうとしているのではないかとも。北条家にそう悪い噂は聞かない。このように支援してくれる可能性もあり得る。

 

 数日考え、義晴は幕臣を集め自分の決定を告げる。内容としては氏康の要求の全面的容認+αであった。結果を氏康に言い渡すため幕臣として川勝広継が為昌に同行して義晴の代理として関東に赴くこととなる。

 

 

 

 

 次に為昌は京に向かいやまと御所に工作を始めた。基本はお金配りである。基本この時代の貴族は困窮していた。同時並行で姫巫女にも献上を行う。特にメインで関白の二条晴良に接近する。近衛は反北条である為あんまり接近しなくていいと言われていた為昌であったが、彼女の独断で近衛前久にも挨拶を行った。前久は塩対応だったものの、一応会ってはくれた。また、その息子の信尹には好感触であったため一定の収穫はあったと判断した。

 

 実は信尹には武士に憧れている節があり、まだ年齢も一桁でありながら真剣を振るっていた。為昌も初陣済みの立派な武士。それ故に色々と聞かれた。しかも為昌は氏康と姉妹なのでよく似た美人だった。信尹少年の初恋である。京を去る時は父親に内緒で見送りに出てくるほどである。ここで為昌が別れを渋る彼に大人ぶって「また会える」とか適当に言ったせいで後で割ととんでもないことになるのであった。

 

 それはともかく、御所でのロビー活動は成功であり、氏康や北条一門並びにその家臣は新しい官位も貰えた。この叙任と朝定の関東管領就任を見るべく、貴族からは二条家の分家である松園忠顕が下向する事となる。

 

 

 

 

 

 最後に為昌が向かったのは堺。南蛮船の集う地である。ここでは北条家のお抱え海運商人のツテを頼って堺の会合衆に面会。人脈を広げると共に、南蛮船を紹介してもらえた。つい先日入港したばかりの船であると言われた船に交渉し、小田原まで来てもらえることになる。ただ、彼らは小田原までの海路が分からないので、為昌一行は丁度関東に戻ろうとしていたお抱え商人の船に同乗し南蛮船を案内する事になった。

 

 為昌はよく分からずに適当に交渉したのだが、この船の船籍は実はスペインでもポルトガルでも無かった。その船舶には白地に赤十字の旗が掲げられていた。これも後々大きな騒動となる。反面これを聞いた兼音は驚きつつも喜ぶ。南蛮船を呼ぶことを提案しておいてアレだが、スペイン語やポルトガル語など挨拶しか知らないなと思っていた彼だが、その言語面の不安がなくなったのである。

 

 

 

 

 

 北条家にとって最高の瞬間はもう間もなく訪れようとしていた。朝定の関東管領就任決定。北条家の一門・家臣の官位上昇。南蛮船の誘致。考えられる限り最高の状態である。だが幸運は長くは続かない。嵐も再び近づこうとしていた。




はい!次回から絶対に北条に戻ります。大変長らくお待たせしました。同時に書き溜めも尽きました。まぁ明後日か、その次くらいには投稿します。


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第55話 確かな幸福

今回はどちらかと言うと兼成回です。氏康回は次回になります。


 近江・京で外交的大勝利を収めた北条為昌が海路で帰還している最中、夏の香り漂う河越では弓の音がしていた。

 

 

 現在は仕事も一段落している。その為弓道場にて朝定の練習を始めていた。槍と馬術は綱成が、剣は甲斐姫がそれぞれ合間を縫って調練してくれる。自慢ではないが、この城で一番弓術の出来る私がこれを教えるのが一番効率的だった。

 

「そうだ。いいぞ。もっと背を伸ばして、引き絞れ。顎は引く。あってるぞ、そのまま狙いを付けたら撃て」

 

 パシュッと気持ちのいい音が響き、飛んでいった矢を目で追えば的のど真ん中ではないものの、それなりにいい場所に当たっている。始めてから数日でよくまぁここまでと言う感じだ。距離は当然大人用より近く、弓も子供用に加工したものだとしてもこれだけ出来れば上出来だろう。

 

「あ、当たりました!」

 

「ああ。筋が良い。これなら努力次第では私も抜かされてしまうかもな。こちらももっと精進しなくては」

 

「そ、そんなでも…」

 

 謙遜しながらも若干にやけている。まだまだ子供だなぁと思いつつ、少しほっこりする。褒めて伸ばすのが一番いい。お互いにその方が気持ちいいからな。ここに来るまでは後輩に指導もしていたので昔取った杵柄と言うかなんというかだ。

 

「まだまだ真ん中には当たりません…」 

 

「いや、焦る必要はない。私も最初はへなへなした矢しか放てなかった。努力次第だよ、何事も」

 

「そうだったんですね」

 

「ま、一度当たってからはそうそう外さないが。ああでも最近外れたな。馬に乗ってる目標に当てようとしたらまさかの方法で回避してきたからなぁ。ここ数年ぶりに外したのはあれだな」

 

「あ、あははは…」

 

 ちょっと苦笑いしている朝定。馬から自分で落馬することで避けるとは度肝を抜かれたが、思えばあれが一番いいアイデアかもしれない。

 

「そのおかげでお前は今生きているんだし、もうちょっと堂々としていても良いんだぞ。小弓公方すら撃ち抜いた私の弓を避けた数少ない人間だとな」

 

 ちょっと嬉しそうなのは褒められたからだろうか。前に比べて大分表情も豊かになった。笑顔や怒り顔も見られるようになった。目が死んでた出会った頃に比べれば随分いい状態だろう。ポンポン頭を撫でれば、もっとやれと言うようにすり寄ってくる。

 

 約二十年近く一人っ子で生活していたから兄弟姉妹がいる感覚はよくわからないが、妹がいると言うのはこういう気分なのかもしれない。そんなに悪くはない。

 

「よしよし。ではもう一度やってみようか。継続は力だ。今日よりも明日、今よりも次に良くなるように努力するんだ」

 

「はい!」

 

 しばらく練習を指導する。一時間くらい過ぎた時に、伝令がやって来た。

 

 

 

 

「申し上げます!小田原より伝令。至急お会いしたいとの事であります!」

 

「分かった。ご使者殿にはすぐに行くと伝えてくれ」

 

「は!」

 

 なんだろうか。また何か問題が発生したと言うことはないだろうが…。甲駿は安定している。房総とも関係は普通だ。北関東で何かがあったらこちらに情報が入ってこないとおかしい。となると都か。ともかく、早く行く必要がある。

 

「朝定。聞いていたと思うが、行かねばならない。今日はこれまでだ」

 

「あの、私は一人でも…」

 

「バカもん。万が一のことがあったらどうする。弓は剣や槍に比べれば危険性は低いが、それでも危険物だ。ある程度実力がつくまでは私の監督がないと危ないだろう?お前に何かあったら困る」

 

「は、はい!すみません」

 

「謝ることは無いがな。向上心があるのは良いことだぞ」

 

 褒めるべきところは褒めて、咎めるところは咎める。これで多分大丈夫のハズ。よーしそれではとっとと片付けて行くとするか。

 

 

 

 

 

 

「お待たせいたした」 

 

「いや、急に押しかけまして申し訳ござらん。なにぶん緊急でしたので」 

 

「して、いかなる内容ですかな」

 

「まずはこちらをご覧下さい」

 

 出されたのは一通の書状。氏康様からの書状であった。ついこの前見た気がするが。例によって簡単に訳すとこうなる。

 

 

『こんにちは。お元気ですか。ついこの前手紙を送ったと思いますが、緊急事態になりました。と言うのも、都に派遣していた為昌が帰還しました。詳しくは皆を集めてから話しますが、分かっている事項だけでも非常に素晴らしい状況になりました。最高の気分です。朝定と綱成も連れてきて下さい。その他の人選は任せます。北武蔵の有力勢力の深谷上杉・太田・上田・成田などにも同じような内容を送っています。早くに来てください。待ってます』

 

 となる。おそらく朝定の関東管領就任が許可されたのだろう。文面からめちゃくちゃ嬉しそうなのが伝わってくる。これは作戦大成功と言う事だろうか。

 

「承った。氏康様には了承したので直ちに出立すると伝えてくれ」

 

「承知しました!それではそれがしは次の城に行かねばならぬ故、御免!」

 

「お勤めご苦労にございます」

 

 使者を見送りながら、さて、と呟く。さっさと準備しなくては。久しぶりに小田原に行くことになったな。若干楽しみにしている。だがしかし誰か一人留守番させねばなるまい。誰を置いていくか考えなくては。綱成は連れてこいと言われているからして…。兼成か胤治かだな。取り敢えず。ともすれば後者を置いていくしかないだろう。

 

 兼成を置いていったら多分拗ねる。いや、しっかり仕事はしてくれるんだろうが、多分拗ねる。これはもう確定だろう。これでも私は一年近く一緒に住んでたんだからして、彼女の性格は十分に理解している。悪いが胤治には留守番してもらうとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 結果から言えば胤治は特に嫌がることなく、むしろ喜んでいた。こんな大任を!と言ってオーバーに喜んでいたのでまぁこれで良かったのだろう。馬を進めて半月ほど。何とか小田原についた。懐かしい潮風が吹いてくる。初めて関東一のこの大都会にやって来た朝定は目を輝かせている。

 

「どうだ。ここが北条家の本拠地、小田原だ。凄いだろう」

 

 凄いだろうと言いつつ、私が治めてるわけでも発展させた訳でも無いのだが、それでも自慢したくなるのは何故だろうか。

 

「凄いです!凄いです!あんなに人がいて、大きな建物があるなんて!それに私、海を初めて見ました!大きいですね!!」

 

「そんなに興奮しなくても、また何度でも見れるさ。これからの長い生涯でな」

 

 感動を隠せず、鼻息荒く周囲を見渡している。物珍しい光景に溢れているのだろう。街中は活気にあふれている。多くの人が往来を行き来している。港には大型小型の船舶が……ん?何か今違和感のある光景を見たような。

 

 いや、見間違えじゃなかった。え、なんで南蛮船がここにいるんだ。あ、まさか。大分前の記憶を思い出す。確か河越夜戦の戦後処理の時に異国船を呼び込むプランを話した記憶がある。なるほど、氏康様のサービスという事だろうか。呼び寄せた為昌様と言い、ナイスだ。どこの船だろうか?

 

 そう思って目を凝らす。遠くに見えた国旗らしき旗の柄を見る。どうせスペインかポルトガルかだろうが。大穴でイタリア商人だろうが…。白地に赤十字。なるほど。…………え?

 

 混乱が止まらない。記憶が正しければあの旗はイングランドの国旗だ。なんでいるんだよ。いや、そりゃ航海能力のある船は持ってるだろうけれど。だがこれは良いことかもしれない。本当にイングランド船なら、メリットが多い。プロテスタント(正確には英国国教会)なので、イエズス会とは違い布教目的でない可能性が高い。あと、私が英語喋れるのもメリットだろう。これは面白い展開になってきた。この後面会することに期待して更に馬を進めた。

 

 

 

 

 

 進めた訳だが。

 

「先輩!それでは私は屋敷に向かいます。また後でお会いしましょう」

 

「ああ。また後で」

 

 忘れていたが、綱成は自分の屋敷がある。そりゃそうだ。北条家当主の義妹なんだからな。で、困ったのは滅多にこっちに来ない、と言うか駿河に行く前に一度こっちに来た時以来戻って来てないので不便はなかったが、屋敷がない。正確にはまだ二人暮らしだった頃の小さい屋敷しかない。

 

 多分これ朝定の屋敷もない。あ、これ死んだかもしれない。仕方ないので、護衛は綱成の屋敷に引き取ってもらい、懐かしの小さな屋敷にやって来た。人を雇って清掃はさせているので綺麗ではあるけれど。

 

「久しぶりにこの屋敷に戻ってきましたわね」

 

「まったくだ。多忙な日々が続いてこっちに戻ってくることはなかったしな」

 

「懐かしいですわねぇ」

 

「本当に」

 

 今日は昔とは違い小さなお客さんがいるが。

 

「悪いな朝定。城とは大違いの小さい屋敷だが今回は我慢してくれ」

 

「いえ!私はどこでも構いませんので」

 

「助かる」

 

「あ、あの私気になったんですが、兼音さまと兼成さまは同じこの家で住んでらしたんですか?」

 

 二人で顔を見合わせる。

 

「ええ、そうですわ。大体一年くらいですわね。楽しい日々でしたわ。まだわたくしが小田原の勘定方にいて、兼音様が普請方にいた頃です」

 

「そうなんですね…まるで夫婦のようですね!」

 

「そ、そうかもしれませんわね。あの時は生きるのに必死で、何も考えておりませんでしたが…」

 

 この件に関してはノーコメントで行こう。相変わらず、この手の話題は苦手だ。中に入れば特に変化はない。綺麗に保たれているようだ。台所を見れば食材が置いてある。どうやらここの管理を任せていた者が気をきかせてくれたようだ。ありがたい。

 

「さて、わたくしは仕事をしますので、朝定さんはゆっくりしていて下さいね」

 

「え、お仕事ですか?」

 

「はい。そうですのよ」

 

 朝定はそう言いながらキュッと和服を紐で縛る兼成を目を丸くしながら見ている。そして開始された鮮やかな包丁さばきに益々驚いているようである。おっとぼうっとしてはいられない。私も仕事しなくては。取り敢えず米を洗おう。

 

「凄いですね…私はその様な事をしたことありませんので、お役に立てず申し訳ありません」

 

「気にしなくていいのですわ。わたくしとて、最初から出来ていたわけではありませんもの。手取り足取り教えて頂いたのです」

 

 ねぇ、そうでしょう?と言うように向けられた流し目に軽く頷いて答えつつ思い出す。確かに最初は指を切ったりしていた。文字通り箸より重いものを持ったことのないお姫様だった訳だし。それは朝定も同じだろうけれど。

 

「私にも何か出来る事はありますか?」

 

「じゃあ布団干してきてくれ。多分押し入れに入ってる。庭の物干しで干したら棒で叩いてくれ」

 

「はい。分かりました」

 

 トテトテと押し入れに向かって歩いて行った。素直ないい子だ。

 

「いい子ですわね。わたくしの幼少期とは大違い」

 

「だろうな」

 

「まぁ酷い。そこはそんなことないよ、と言うところでしょうに」

 

「そんな事言う人間じゃない事は良く知ってるだろう?」

 

「それはもう、存分に。河越城の郎党で一番付き合いの長いのはわたくしですもの。綱成でも、段蔵さんでもあの子でもありませんわ」

 

 昔を懐かしいと思うのは誰でもそうだろう。兼成の目には過去の記憶が蘇っているようだった。そう言えば私も思い出す過去の記憶と言えば段々この世界に来てからの記憶になりつつある。決してそれより前を忘れた訳ではないが、ここに来てからの密度の濃さだろうか。一つ確かなのは抜け殻に近かった高校生時代よりも今の方が実りあって幸せだという事だ。

 

「もうちょっと詰めて下さいませんこと?」

 

「狭いんだから諦めろ」

 

「諦めろと仰られても困りますわ」

 

「仕方ないだろ。事実なんだから」

 

 ここまで言って二人して笑いだす。このやり取りもあの頃よくやっていたやり取りだった。確かに夫婦に見えるのかもしれない。或いは、私のずっと求めていたのはこんな小市民的な生活だったのかもしれない。失ってしまった、もう戻らない日々の思い出が、そうさせているのか。それは分からない。どんな理由であっても変わらないのは、私が今明確に幸せであることだろう。

 

「お味噌どこにしまったんですの?まったく…」とぼやきながら戸棚を探している兼成を見て、そう思った。竈の中で赤い火が暖かく燃えていた。

 

 

 

 

 

 

「美味しいです!」

 

「それは良かったですわ」

 

「はい。本当に美味しいです。普段のお料理も十分にいいものを食べさせてもらって、美味しいのですが、このお料理は何と言うのでしょうか。暖かいですね。優しい味がします」

 

「そこまで褒めても何も出ませんわよ。さ、冷めないうちに」

 

「ありがとうございます!」

 

 食べ盛りの年齢だ。パクパク食べてしまう。元気なのは良い事だ。

 

「食べ終わったら食器は置いていてくれ。兼成が洗う。朝定は布団敷いてくれ。私は風呂を入れてくる」

 

「お風呂?お風呂あるんですかこの家!?」

 

「ありますわ。この風呂好きのお方が休日返上で作ってましたもの。結構薪を使うのであまりやりませんが、今日は特別ですわね」

 

 

 兼成の言うこの家の風呂とは私が頑張って自作したものだ。仕組みとしては、まず井戸から大量の水を汲む。一回のお風呂には現代だと200リットル近くの水量を使う。井戸から桶で一回に4リットルくらい汲み上げられる。つまり50回やれば良いのだ。結構な重労働だけれど。その大量の水を金属で出来た大型の釜に入れる。そうしてその釜の下で火を焚き、水を温める。60度くらいに温めたら釜の片側についている縄を引っ張って釜を傾け、中の水を専用の木製の水路に流す。釜にはビーカーの注ぎ口のような加工をしてある。水路を伝ったお湯は勢いよく浴槽に流れ込む。流れている過程で冷やされて適温になる仕組みだ。もっと詳しい構造は存在するが、大体こんなもんである。

 

 ちなみに浴槽の水とそこから溢れる水はしっかりと街にある水路に流れるようにしている。この水路は雨水を流すようで生活用水ではないので安心だ。小田原は水には苦労していないのでこんな事も可能である。ありがたいことだ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

一条屋敷・自作風呂の図

 

 作るのに大分時間がかかった。技巧の工夫やら排水管の配置やらで時間がかかった。そもそもの建物を増設するのにも。金がないので自分でやるしかなかったからな。おかげさまでこんな風に風呂を自宅に作れると言う訳だ。小田原の城は温泉引いてるらしいが、ここまでその温泉を引く管は伸びていないからな。

 

「わぁ!凄いです。ここに来てから驚きっぱなしです!」

 

「褒めるならあの方を褒めてあげて下さいな。頑張ってお一人で作られたのですから」

 

「多才な方ですね」

 

「ええ、本当に。わたくしなど、遠く及ばない方ですわ」

 

 風呂場からはそんな会話が聞こえてくる。あの二人、一緒にお風呂に入る事を選んだらしい。姉妹と言うか母子と言うか。仲良さそうなのは何よりだ。

 

「しかし兼成様のこの均整のとれたお身体はどうやって…私はぺったんこです…」

 

「そりゃまだまだ小さいのですから焦ることはありませんわ」

 

「そうは言っても羨ましいです」

 

「あ、ちょ、こら。どこ触ってるんですの!?」

 

 ……多分これ以上ここにいたらマズイ。そう思い、そこそこの重労働に疲れていたが急いで中に戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 寝ようと思ったら布団が二つしかない。子供に狭い思いをさせるのはどうかと思い、取り敢えず強引に寝かせることにした。疲れてたようでスッと寝てしまった。長旅はやはり体力を使うからな。

 

「寝てしまいましたわね」

 

「ああ。ぐっすりだ」

 

 小さい声で会話する。

 

「明日は登城しなくてはなりませんし、わたくしたちも早く寝てしまいましょう」

 

「そうするか」

 

 さっさと寝ることにしたが如何せん狭い。一人用の布団を二人で使ってるのだから当然と言えば当然なのだが。

 

「もうちょっとこっちにいらしてもよろしいのですのに」

 

「十分近い」

 

「照れてますの?お可愛いところもありますのね」

 

「そんな訳ないだろう」

 

「それはそれで女が廃ると言うものですが…」

 

「お前こそどうなんだ」

 

「ま、まぁわたくしもまったくの平常心ではありませんけれど…」

 

「そ、そうか」

 

 沈黙。昔とは違うところが一つあるとすれば、互いに少しは相手のことを意識しているところがある事だろう。私とて十代の青年。美人でスタイルのいい子が息のかかるほど近くで寝ているのに何も思わない訳じゃない。

 

「ね、寝てしまいましょう」

 

「あ、ああ、そうしようか」

 

 沈黙に耐えられず、若干焦りながらお互いに顔を背けて目を閉じる。眠りに落ちるその前に、「ありがとうございます。わたくしにこんな幸せを与えて下さって。あなた様にお会いできてからわたくしは…。わたくしは、あなたの事を……。」と聞こえた。何を言おうとしているのか聞こえる前に眠りの海へ落ちていった。

 

 

 

 

 

 朝起きた時に目を開けたら、胸元に顔があった。抱き締めるように寝ていたことに気付く。寝顔が暴力的に美人だった。こいつはこんな綺麗だったのだろうか。氏康様とはベクトルの違った美人だ。心なしかいい匂いがする。朝定の教育に悪そうなので、起こさないようにゆっくり起き上がり、朝ご飯を作ることにした。確かな幸福がここにあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 登城すれば久方ぶりの小田原城の空気はどことなく喜色に満ちている。用意された広間に行けば、大体既に到着済みだった。兼成はちょっと用事があると言うので定刻までに戻ってくるように言って、朝定は隣に座らせる。朝定とは反対側の隣には上田朝直が座っている。まだ時間があるようなので、各々が着席しながら雑談している。

 

「どうもお久しぶりですな」

 

「ああこれは一条殿。ご挨拶が遅れまして申し訳ない限りです」

 

「いえいえ…太田殿は?」

 

「もう間もなく来るはずですが…昔からあまり時間通りに来ないので。それはさておき、朝定様の近況はいかがですかな」

 

「本人に直接聞かれては?朝定。上田殿が近況を聞きたいそうだ」

 

「ご無沙汰しております。つつがなくお過ごしでしょうか」

 

「ええ。よくしてもらっております」

 

「左様ですか。安堵致しました」

 

「心配には及びません。兼音様は良い方ですので」

 

 二人が私を挟んで会話している。この光景も彼らにとっては今までそうそうなかったことなのだろう。周囲の北武蔵の旧扇谷上杉家臣団の生暖かい視線を感じる。それ自体は構わないが、しっかし兼成はいずこへ?

 

「お待たせいたしましたわ」

 

「お前どこ行ってたんだ」

 

「少しばかり友人の元へ」

 

「友人?お前この城に友なんかいたのか」

 

「ええはい。松千代ちゃんと言います」

 

「松千代?お前、それって氏政様ではないのか?」

 

「そうですが、何か?」

 

「ええ……」

 

 意外な接点が発覚した。何だこの謎の繋がり。別に良いけども。家臣の交友関係はそこまで統制する気はないし、同じ家中のしかも主筋なら問題ないだろう。いや、別の意味で問題か?二人がそれでいいならいいと思うが。この件はしばらく保留だ。

 

 

 

 

 

 

「氏康様がいらっしゃいます」

 

 雑談の声が一気に静まり返り、姿勢を正した諸将の前に氏康様が姿を現す。しかし、今回は少し下座に座っている。もっと上の官位の人が来るという事だ。

 

「続いて、鎌倉殿のお越しでございます」

 

 鎌倉殿とは鎌倉公方の事である。つまり当代の鎌倉公方・足利晴氏がやって来ると言うことだろう。少しやせ型の男がスッと現れる。そして彼が座った際にはこちらにいる一同で一斉に頭を下げる。実態はどうであれ、彼がこの関東における最大の権威を持っていると言っても過言ではない。

 

「幕府より、川勝豊前守広継様のおいでです」

 

 幕臣の代表と思われる男が入ってくる。彼は氏康様の反対側に座る。

 

「最後に、やまと御所より松園忠顕様のおいででございます」

 

 少し太り気味の白粉を塗った公家風の男が入ってくる。この幕臣と公家はおそらく彼らの上司よりの使者だろう。

 

「お三方におかれましては本日、このようなみすぼらしき城にお越し下さいましたこと恐悦至極にございます。不肖・氏康、感銘の至りでございます」

 

「ほほほ。左様に謙遜せずともよいでおじゃる。麿はこの風光明媚な地でのこのような歓待、まことに嬉しく思うでおじゃる」

 

「ありがたき幸せに存じます」

 

 あんまり内心ではやりたくないだろうことを表情一つ変えずに氏康様は言っていく。冷静に見えて意外とプライド高いので、あんまり誰かに頭を下げたくないんだろうとは察しが付く。周囲を観察すれば、武蔵や下総などの最近服属した勢力は公家や幕臣を呼べるこの北条家の状態を再認識したと言うところだろうか。

 

「まずは拙者より、公方様のお言葉を伝えたいと存じます」

 

 緊張が広間に走る。これ次第でどうなるかが決定するのだ。

 

「北条氏康においては関東の秩序を戻し太平をもたらさんとする意志そして働きまことに大義。我が一族も数十年ぶりに鎌倉に戻れたと聞く。この功績をたたえると共に一層の活躍を期待する。末永く幕府のために奉公せんことを望む。関東管領・上杉憲政による蛮行乱虐の限りは我が心中を苦しめるものである。であるが我が臣・北条氏康より上杉一門の上杉朝定が人格優良であり聡明であると注進があった。これを事実と認め、我・足利義晴はこの地位の権利を以て上杉憲政の関東管領の位を剥奪。後任に上杉朝定を据える。これはこの文言が我が忠臣・川勝豊前より上杉朝定本人に伝えられた後、就任式にて有効となる。速やかに就任式を行い、関東の大地を安んじよ」

 

 ここで川勝豊前守は紙を懐に仕舞い、朝定の方を見る。

 

「上杉朝定殿、返答を」

 

 緊張しながらも、彼女は川勝豊前の目をしっかりと見据えて返答した。

 

「謹んでお受けいたします。幕府のそして鎌倉府の一員として、また鎌倉殿の臣として関東の大地を安んじるべく尽力致しましょう」

 

「うむ。承知いたしました。北条殿、いつごろ就任式は行えますでしょうか」

 

「今すぐにでも」

 

「それは僥倖でござる。では近日の吉日に行いましょう」

 

「は!」

 

 氏康様がホッとしたように胸を撫でおろす。これで大義名分は得た。

 

「次にもう一つお言葉を賜っている」

 

 川勝豊前は再び別の紙を取り出し、怪訝な顔の氏康様をスルーして読み始めた。

 

「北条氏康のこれまでの働きは関東に安泰をもたらさんとするものである。我はこの働きを高く評価し、鎌倉府における新たなる役職として鎌倉府執権とする。これは古くは鎌倉の幕府にて日ノ本のまつりごとを行った執権北条よりとっている。鎌倉殿を支え、関東管領と共に安寧をもたらすべし。この位階は関東管領より一段下とし、これを補佐するものとする。また北条氏康を相模・伊豆の守護に任ずる」

 

 これは大分大きな事になった。氏康様は最早口が半開きになりかかっている。ここら辺の案件は知らなかったのだろう。これは素晴らしい事だ。実質的な関東の支配者から、名実ともに関東を治める権利を得たに等しい。室町幕府の提示してきた関東の統治機構は鎌倉公方の下に関東管領。そしてその下に今回新しく創設された鎌倉府執権が来る。向こうも馬鹿ではないので実際は鎌倉公方も関東管領も傀儡であることは理解しているだろうが、それでもこの役職を持ってきたと言うことは取り込む気満々と言う事だろう。それにしても名目上は関東のナンバースリーを手に入れたのだ。これ以降の征伐は全て大義名分を無条件に得たという解釈で問題ないだろう。

 

 更には相模・伊豆の守護に任じられたことで今まで簒奪感のあったこれらの領地の支配が容認された。これは戦国時代に横行していた武家官位ではなく、正式な地位である。いやしかし、為昌様が優秀過ぎる。何の事はないという表情で今も座っているが、どんなことしたらこんなのを引き出して来れるんだ。

 

 

 

 

 

 武家官位とは、戦国時代になると幕府の権力が衰えたことにより、大名が直接朝廷と交渉して官位を得ることである。朝廷が資金的に窮迫すると、大名達は献金の見返りとして官位を求め、朝廷もその献金の見返りとして、その武家の家格以上の官位を発給することもあった。たとえば左京大夫は大名中でも四職家にしか許されない官であったが、戦国期には地方の小大名ですら任じられるようになり、時には複数の大名が同時期に任じられることもあった。官位は権威づけだけではなく、領国支配の正当性や戦の大義名分としても利用されるようになる。その主な例として、大内氏が少弐氏に対抗するために大宰大弐を求めた例、三河国の支配を正当化するために織田信秀、今川義元、徳川家康が三河守を求めた例がある。

 

 一方この時代には、朝廷からの任命を受けないまま官名を自称(僭称)する例も増加した。織田信長が初期に名乗った上総介もその一つだ。豊臣秀吉が公家の最高位である関白として天下統一を果たすと、豊臣氏宗家を摂関家、豊臣氏庶流および徳川・前田・上杉・毛利・宇喜多の諸氏を清華家格とする家格改革を行うなど、諸国の大名に官位を授けて律令官位体系に取り込むことで統制を行おうとした。ところが、ただでさえ公家の官位が不足気味だったところへ武家の高位への任官が相次いだために、官位の昇進体系が機能麻痺を起こしてしまう。その結果、大臣の任用要件を有する公家が不在となってしまい、秀吉が死去した際には、内大臣徳川家康が最高位の官位保有者であるという異常事態に至った。

 

 この時代の官位など勝手に名乗っているのがほとんどである。

 

 

 

「北条殿。公方様は大変貴殿に期待しておられる。今後も幕府のために奉公して下され」

 

「し、身命に変えても」

 

 おそらく今の文言には金とか寄越せよ、みたいな意味もあるんだろうが、些細な犠牲だ。これは素晴らしい。上杉憲政を詰ませることが出来たぞ。

 

「では次は麿でおじゃるな」

 

 そうだ。みんな唖然としていて忘れていたが、まだ残っているんだった。朝廷はどんな用件があるのだろうか。

 

「姫巫女様はそちらの勤皇の志に感動しておられたでおじゃる。また関白様も、同様でおじゃる。よって北条氏康を従四位下・左京大夫に任ずる。また相模守の官位も与える。これよりも勤皇に励むでおじゃる。さて、残りも幾つかあるでおじゃるが後は左京大夫に任せるでおじゃる」

 

 そう言い松園忠顕は紙を氏康様に渡す。氏康様はゆっくりと頭を下げ、退出する松園忠顕を見送る。同時に川勝豊前守も「拙者もこれにて。また就任式でお会いしたく思います」と言って出ていった。「我もこれで帰る。後は新執権に任せる」と足利晴氏も出ていった。残ったのは北条家の家臣だけである。いつも通り上座に戻り若干呆けていた氏康様が復活して、紙を見ながら目を見開く。内容的に、こちらも知らなかったと見るべきか。そして少し震えた声で続けた。

 

「続けて、以下の者にも官位を与える。一つ、北条為昌を伊豆守に任じる。一つ、大石氏照を陸奥守に任じる。一つ、藤田氏邦を出羽守に任じる。一つ、北条氏尭を上野介に任じる。一つ、北条氏政を武蔵守に任じる。一つ、北条氏規を近江守に任じる。一つ、北条綱成を上総介に任じる。一つ、多米元忠を周防守に任じる。一つ、大道寺盛昌を下野守に任じる。一つ、清水康英を下野介に任じる。一つ、梶原景宗を備前守に任じる。一つ、松田盛秀を尾張守に任じる。一つ、笠原信為を加賀介に任じる。一つ、千葉利胤を下総守に任じる。一つ、上田朝直を能登守に任じる。一つ、太田資正を美濃守に任じる。一つ、成田長泰を武蔵介に任じる。そして最後に一条兼音、土佐守に任じる。以上」

 

 誰も口を開かない。あまりにも壮大な結果過ぎた。何処からともなく拍手が起きる。小さな拍手の音が次々と広間に広まっていき、会場を支配する。

 

「やった。やったわ。やったのよ!」

 

 小さく現実を認識するように呟いていた氏康様が最後には涙を流しながら喜んでいる。あと一歩で夢が叶う。そんな笑顔だった。これを邪魔するものがいるのなら、それはどんな手を使ってでも止めなくてはならない。この泣き笑っている顔を悲しみで歪ませるなど、あってはならないのだ。

 

「ありがとう。みんな、本当に、ありがとう…!」

 

 とめどなくあふれる涙につられ嗚咽を漏らす老臣宿老の面々。それを苦笑しながら見守る外様衆。万雷の喝采はいつまでも城内に鳴り響いていた。



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第56話 いつか私を

英語は全部『』内に日本語にして書いてます。ちゃんと英語で書いても良かったんですが、作者が英語に自信がないので止めました。『』内は全て外国語だと思って読んでください。


 何とか涙を拭って、落ち着きを取り戻した氏康様は、咳ばらいをして一同を見渡した。

 

「これにおいて、我ら北条家は正式に御所並びに幕府よりその地位を保障された。これからはもう、私たちは簒奪者とも侵略者とも呼ばれない。これからは私たちに逆らう者を私たちが糾弾する番よ。悲願の関東支配まであと少し。これからの皆の働きに一層の期待をしている!どうか、あと少し力を貸して。必ずや、この地に安寧を…!」

 

「「「「「応ッ!!」」」」」

 

「そして個別に。まずは為昌。ここまで多くの物を得たのは貴女の交渉によるもの。これまで、上方にてご苦労だったわ。自慢の妹よ」

 

「私など何もしておりません。すべては、この地の民が我らにくれた財と先代・先々代そして姉上のお力によるもの。どうか、このまま望みを遂げて下さい。それが私の願いです」

 

「ええ、必ず」

 

 ストイックな感じのする為昌様は史実では影の薄い人だが、今回の功により必ず歴史書に名外交官として名を刻むだろう。今も冷静に座っている。が、目が若干潤んでいるので、決して無感動ではないのだろう。

 

「宿老たちにも感謝しているわ。これまでお爺様と父上、そして私を支えてくれた。これから北条家は益々大きくなる。新参の家臣も増えるでしょう。けれど、あなたたちの力なくしてここまでは来れなかった。そのことを、私たち一門は決して忘れない」

 

「なんと勿体なきお言葉…!」

 

「もう、思い残すことはないかのう」

 

「こら、勝手に死ぬ算段を始めるな。まだ氏康様の花嫁衣裳を見ておらぬだろう」

 

「しっかしこれで亡き氏綱様にも顔向け出来るわ」

 

「そうじゃなぁ。苦節何十年。やっと報われたな…」

 

 これでは関東を制圧し終えた後はどうなってしまうのか。それくらいの感動が渦巻いている。それだけ多くの時間を、生涯を賭けてきたのだろう。我々新参には分からない事だった。

 

「おばばも、これまでお疲れ様」

 

「なんの。まだまだ道半ば。これからじゃ、これから…これからじゃぞ……!」

 

 こんな老いぼれ婆になるまで生きておったが、長生きはするもんじゃな。お主らの夢はもうすぐじゃ。と呟きながら天を見上げた幻庵は手に持った数珠を握りしめる。亡き早雲を想っているのか、それとも氏綱様か。もしかしたら道半ばで散っていった同志たちかもしれない。

 

「次に、扇谷上杉家旧家臣団。まず、私たちへの臣従を決めてくれた事に感謝するわ。これで、無用な争いを減らせた。扇谷上杉家家臣団の者たちは、形の上では私に臣従しているけれど、もし心の主を朝定にしたいのなら、咎めはしないわ。知っていると思うけど朝定は今河越城にて一条兼音が教育をしています。私は彼に大きな信頼を寄せているわ。彼なら必ず名将に育て上げてくれるでしょう。ねぇ?」

 

「はっ!扇谷上杉家の家名に恥じぬ武将へと必ず。既に武勇に優れた者となる片鱗を見せ、知性に溢れ、この乱世においてその名を轟かせること必定の武将になりつつあります」

 

「聞いての通りよ。扇谷上杉家は確かに北条の仇敵だった。過去に多くの争いを繰り広げた。けれど、どうかその遺恨を捨てて私たちに協力してくれないかしら。切にお願い申し上げるわ」

 

 頭を下げる氏康様に困惑の表情を見せていた旧家臣団だったが、お互いのアイコンタクトで意を決したようにそれぞれ頷く。代表として上田朝直が口を開いた。

 

「我らは長く山内上杉の下風に立たされてきました。先の河越の戦でも協力とは名ばかり。事実上我らが下でござった。その扇谷上杉家から関東管領。しかも仇怨を流し朝定様を生かしてくださるどころか、名将として育てて下さっている。旧家臣団としてこれ以上の喜びはありましょうか。我らの主が朝定様であることは変わりませぬが、これよりは氏康様も同じ主として誠心誠意お仕え申し上げる次第。扇谷上杉家旧家臣団一同を、関東制覇の先鋒としてお使い下さい」

 

「忠心宣誓、感謝します。決して粗略に扱う事はしないわ。そして最後に最近加入した千葉家、真里谷家、成田家の者たち。これよりあなた達の主は私よ。これからは北条の法に従ってもらう。けれど、あなた達の土地が、民が侵されそうになった日には必ず北条はあなた達を助けます。それが我々の責務だからよ。どうか、同心して共に戦って欲しい」 

 

「「「承知致しました」」」

 

 最後に三家の当主が平伏する。これにて、この場にいる諸将は全て改めて北条家の傘下になった。史実では上杉謙信の関東遠征で敵方になった太田や上田、成田などの

武蔵の有力者にこの世界で寝返るメリットは存在しない。武蔵の平定も史実よりスムーズだ。

 

「残すは逆賊となった上杉憲政。そして未だに心服しない者たちよ。まずは上杉憲政から片付ける!その前に関東管領の就任式。関東中の諸将を呼びつけるわ。もし来なかったら……その時はその時ね。さぁあと少し、頑張りましょう!!」

 

「「「「「応ッ!」」」」」

 

 

 

 

 

 

 

 

「これにて、書状にて書いたことはひとまず終わったわ。皆、ご苦労様。これよりは少し楽にして頂戴。呼んでいる者たちがいるの」

 

 おそらく南蛮船の乗組員だろう。これは大いに期待できる。さぁ情報、技術、その他もろもろを下さいな。

 

「港を見て驚いた者もいるかもしれないわね。為昌が交渉ついでに南蛮船を堺から呼び寄せてくれたわ。なんでもいんぐらんど?とか言うところの船らしいわ。色々な事を聞けるでしょうし、期待しましょう」

 

 ここまで言って氏康様はこちらに向けて小さくウインクしてくる。これは私が前に言ったことを覚えていてくれたという事だろう。嬉しい事だ。

 

「南蛮船とは…これはまたまた珍しい」

 

「いんぐらんどと言うのはどのあたりにあるのかの。琉球や高山国(台湾)の先かの」

 

「いやいや、天竺の遥か彼方らしい」

 

「何でも天狗のような顔をしておるとか」

 

「青い目と聞いたぞ」

 

 とざわめく声が聞こえる。グローバル化の進む現代でもないので、外国人を見たことのある人はこの時代だと堺や九州の一部の人間だけだろう。割と言いたい放題だが、仕方ないだろう。襖が開けられる。我々は先ほどまでは横一列で氏康様のいる上座を向いて座っていたが、今は広間の真ん中を開けた合議する際の体形になっている。

 

 ゆっくりと長身に洋装の男が二名入ってくる。彼らが一歩進むごとにざわめきが起こる。初めて見るものに、興奮と戸惑いがあるのだろう。通訳らしい男も後ろに続く。多分中国人だろう。大体通訳は中国人か海外に出ていたごく少数の日本人だ。指定された場所に座れると彼らは礼をする。おそらく氏康様がこの地の主であると教えられているのだろう。

 

『初めてお目にかかります。異国の女王よ。我らはエリザベス女王陛下にお仕えする臣民であります。我らはこの東方の地を探索すべく、女王より仰せつかっております。私は船長のオリバー・エヴァンズと申します。隣は航海長のリチャード・ウィルソン。副船長は病により謁見は遠慮させていただきます』

 

 分かる。分かるぞ!…某天空の城に出てくる眼鏡の人みたいになってしまったが、普通にわかる。英検一級舐めんなよ。死ぬ物狂いで勉強したんだ。私立高校学費免除の特待生とるためにね。リスニングはバッチリだぜ。多分この時は無い単語や熟語、言い回しがあるのだろうが、それに気を付ければ大丈夫のはずだ。

 

「あー、初めて、会う、違う国の、女王。私たち、えー……」

 

 通訳が訳しているが、英語は多分あんまりこの当時主流じゃない。ヨーロッパでもそうなのだから、主にスペイン船かポルトガル船しか来ない東洋人が英語を流暢に話せる可能性は少ないだろう。むしろ通訳がいたことに驚きだ。英語が主流になるのはもっと後だし、今はヨーロッパだと…スペイン語かフランス語とかが主流じゃないだろうか。ドイツ語=オーストリア語もかもだが。英語はまだ辺境の言語のはずだ。

 

 氏康様がいまいちわかりづらい通訳にすこーしイラついてる。表面上はまったくそうは見えないが、一瞬ピクリと眉が動いて同時に顔の筋肉が強張っている。いい加減面倒だし、少々助け船を出すか。

 

「お初にお目にかかる。異国の女王よ。我々はエリザベスと言う女王に仕える家臣であります。私たちは自国から見て東方にあるこの日ノ本を探索するために主の命令で来ました。話しているのは船長のオリバー・エヴァンズと言う者で隣は航海の責任者のリチャード・ウィルソンという者だそうです。副船長は病だとか。なので会うのは勘弁してほしいと申しております」

 

「えーあーその人、合ってる。私いらないネ…」

 

「申し訳ないが通訳殿、この場はお任せいただきたい。氏康様も、よろしいでしょうか」

 

「え、ええ。……?あなた、異国の言葉が話せるの?」

 

「はい。彼らの国の言語は幸い。イスパニア語はさっぱりですが」

 

「そ、そう。………じゃあ、任せます。しっかり訳して頂戴」

 

「はっ!」

 

 周りが唖然としているのが分かるが、こういうのは変な追及がある前にさっさと押し切ってしまった方が得策だ。

 

『申し訳ございません。少々トラブルがありました。ようこそ日本へ。歓迎します』

 

 何なら向こうも口をポカンと開けているが、すぐに立ち直った。そのあたりは流石だ。相手は後のイギリス人になる人々。イギリス人は概ね外交上手だ。主に自国に有利になるような。油断は出来ない。

 

『ありがとうございます。随分とご堪能ですが、どこかで教わったのですか?』

 

『ええ、まぁ、昔少し』

 

『なるほど。この地の女王の名前をお教えいただいてもよろしいですか』

 

『私たちの主の名前はウジヤス・ホウジョウと言います。正確には女王ではなく、諸侯の一人ですが』

 

『王ではないのですか?』

 

『王、と言うより皇帝に近い方は別にいらっしゃいます。この国は軍権を持った者と神権を持った者が別にいます。ちょうど神聖ローマ帝国の皇帝とバチカンの教皇が近いでしょうか。建前上は神聖ローマの皇帝にあたる方もおられて、我が主はその配下の諸侯の一人という事になっています』

 

 ここいらで彼らの顔つきが少し変わる。ヨーロッパの情勢を何となくだが理解してるぞ、と言外に言ったからである。

 

「何て言ってるのかしら」

 

「氏康様のお名前をお教えしました。また、この国の支配体制についても。氏康様は日ノ本の王ではなく、建前上は幕府に仕える者の一人であると」

 

「そう。では、何故ここに来たのか、詳しい話を聞いてくれる」

 

「承知」

 

『貴殿らは探索に来たと言われたが、詳細をお教え下さるか』

 

『はい。我らの女王陛下は、スペインの影響のまだ入っていない貿易地を探しておいででした。その為、インドやマラッカのその先にあるこの国の存在を知ったのです』

 

『それでやって来たと』

 

『ええ。しかし、堺や九州は既にスペイン船が多く見られます。その為どうしたものかと思っていたのです。丁度こちらにお誘いを頂き、参りました』

 

『理解しました』

 

「どうやらイスパニアと非友好的な関係にある彼らの国の女王はイスパニアの影響の少ない貿易相手を探していたそうです。そしてこの国に来たものの、堺や九州はイスパニアの影響が大きく、悩んでいたところに為昌様にお誘い頂いたと」

 

『スペインは己の教えを布教するつもりです。そしてこの国を内側から支配しようとしているのです。また、彼らは人身売買を行いこの国の民を海外に売り払っています!彼らと組むのは得策とは思えません』

 

『イングランドの国教会は布教目的ではないと』

 

『!…はい。それが主目的ではありません』

 

 ちゃんとブリテン島の宗教状態も知っているからな。ヘンリー八世の結婚問題で英国内は割れていたはずだ。

 

「イスパニアは自分の宗教を広め、この国を内から支配するつもりであり危険である。また彼らはこの国の民を海の向こうに売り払っていると申しています」

 

「……」

 

 思案顔の氏康様。仮想敵国の事を悪し様に言うのは常套手段だろう。その可能性を考えているはずだ。決して嘘も言っていないが。宣教師にそういう目的がゼロであったかと言えば微妙だろうし。勿論純粋に求道の徒もいたかもしれないが、そうでない者も多いはずだ。

 

「貿易と言ったわね。何を持ってこられるのかしら。そしてこちらに何を求めるのか。聞いてちょうだい」

 

『貿易品は何ですかな』

 

『私たちは補給と共にこの国の産物を欲します』

 

『資源や刀剣、漆器などですかな』

 

『その通りです。また、こちらからはこちらの生産品をお渡しします。何か希望の物はありますか?』

 

『主に聞きますので少しお待ちを』

 

「資源、おそらく鉛や銅、金銀でしょう。また刀剣や漆器などのこの国独自の産物を所望すると。また食料などの供給を受けたいと。その上でこちらの望むものを聞いています」

 

 武蔵や相模、伊豆には鉱山がある。現代では枯れていても、この時代は金銀や鉛、鋼鉄が出る。あまりやり過ぎると史実よろしく日本の金銀が海外流出する事態になるが、ほどほどなら大丈夫だろう。

 

「望むもの…と言ってもねぇ。鉄砲かしら」

 

「そこから派生した大型兵器の大砲があるはずです。そちらの方が良いのでは。後は船のつくり方でしょうか」

 

「作り方?」

 

「ええ。そうすればこちらの商人も外洋に打って出れます」

 

「それは大きいわ。これなら他家に一歩も二歩も先んじれる。より多くの物資や人員を運べる」

 

「大砲とは何ですかな」

 

 横から飛んできた質問に答える。

 

「彼らの兵器です。鉄砲は小さな弾を飛ばしますが、より大型の弾を飛ばすのが大砲です」

 

「何と。それでは威力も大きいのでしょうなぁ」

 

「それはもちろん」

 

 冷静な戦略が組み立てられているのだろう。氏康様の脳内が回転しているだろうことがわかる。その大砲と言う兵器がどこまで有効か考えているのだろう。

 

「攻城に使えそうね。交渉して頂戴。是非とも技術をこの手に」

 

「要求してみましょう」

 

『我らは兵器を望みます』

 

『兵器……銃と大砲でしょうか』

 

『そうです。少数でも構いません。そうしていただければ、お望みの品を引き渡しましょう。そしてもう一つ。そちらの船の設計をお教え願いたい』

 

『なるほど……承知しました。その条件で構いません。ああ、そうです。こちらを献上します。友好の証と思って下さい』

 

 差し出されたのは地球儀と望遠鏡らしき筒。なるほど、これで歓心を買おうと。まぁ減るものでもないし、貰っておけばいいと思うが。彼らは日本人の技術力を知らない。知ってたら多分安易に技術を渡さないだろう。日本は数年で鉄砲を自国生産できるようにした。船の設計を渡してみろ。数年で改良してくるぞ。まぁいい。相手の知らないことに漬け込むのが大事だ。それにスペインに対抗できる勢力は欲しいだろうし。

 

「友好の印にこれを献上するようです。遠くを見れる筒と世界の形を書いた絵図です」

 

「これが、南蛮の物…。日ノ本の技術ではまず見ない物ね。遅れてるわね…。まぁいいわ。話はまとまった?」

 

「はい。武器を渡し、船の設計を教えると。これで南蛮貿易が行えます」

 

「僥倖ね。最後に、我々とだけ交易して、他家に同じものを渡したり教えたりしないように言ってちょうだい」

 

『我が主は交渉の成立にお喜びです。ですが、貴殿らが我らに敵対する者に騙され、不当な交易をさせられることを案じておられます。残念ながら我らのように真心を以て相手と相対するものばかりでないのがこの世です』

 

『理解しています。争いとはそういうものです』

 

『そのため、貴殿らのこの国での自由を守る代わりに我らとのみ交易をお願いしたい』

 

『…よろしいでしょう。その代わり、しっかりと約束は守っていただこう』

 

『それは勿論』

 

 こいつら、多分北条とだけ貿易をするメリットとデメリットを理解したうえでこちらとだけすることを取った。スペインがあくまで優先だからだろう。アジアに補給拠点も設けられたのだし、そう悪い事ばかりでないと踏んだのだろう。交渉も私と言うイレギュラー要素のおかげでやりやすいはずだ。

 

「条件を呑むそうです」

 

「それは良かったわ。こちらからはひとまず以上よ。下がらせて良いわ。また呼ぶかもしれないけれど。それと貿易の詳細はまた追って連絡すると伝えて。」

 

「分かりました」

 

『主は貴殿らと有意義な時間を過ごせたことを嬉しく思っています。しかし、多くの公務があるため、今回はここまでとさせていただきたく思います』

 

『貴重なお時間をありがとうございました』

 

『いえいえ。またお呼びすることもありましょうが、その時はどうぞよろしく。貿易に関する詳細は追って連絡します。おそらくもっと少数で話し合う事になりましょう』

 

『分かりました。出会いに感謝します。あなたと、その主に神のご加護のあらんことを』

 

 そう言うと彼らは退出していく。ホッと一息だ。長らく英語なんて話してなかったが、そうそう忘れないものだな。なんとかうまくまとまって良かった。これで国力アップだ。上杉が南下してきても多くの銃火器があれば。どうとでも出来る。船があれば外洋交易が出来る。インドやトルコに直接赴ける。

 

「終わりました」

 

「ご苦労様。またしてもあなたがここに来るまでの事が気になる特技を見せてくれたわね」

 

「は、ははは」

 

 ジト目で聞かれたことを誤魔化す。いつになったら話せるのだろうか。機会は未だに訪れていない。他の諸将は話に何とかついて行っていた感じだ。初めて見る南蛮人に順応するのに時間がかかっていたのだろう。私の英語を話せると言う特異性に突っ込む余力はないようだ。

 

「今日はこれでお開きにしましょう。夜には宴を用意しているわ。今宵くらいは祝いましょう!」

 

 おお!っと喜色を皆が浮かべている。さて、今日くらいは他の事を忘れて楽しむとしますか。すべてが上手く行っていた。この時は、まだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を開けたら美人がいた。

 

「あ、起きましたのね。もう日も昇って大分経ちますが」

 

「え、ああ。ここは?」

 

「屋敷です。昨晩は宴会で北武蔵の諸将やご同僚の方々とお酒を大量に召した後ぶっ倒れたのですわ。わたくしが頑張って綱成と運んできたのです。お水ですわ」

 

「ありがとう。……軽く頭痛いな。二日酔いか」

 

「飲み過ぎです。まったく」

 

「朝定は?」

 

「就任式の段取りについての話があるんだそうで、朝早くから城へ」

 

「そうか…。ふぅ」

 

「落ち着きましたか?」

 

「大分」

 

「ああ、それと氏康様がお呼びですわ。酔って寝てるとお伝えしたら、苦笑しながら起きたら来るように言ってとの事でした」

 

「んな!もっと早くそれを言ってくれ。マズいな、マズいぞ」

 

「お召し物はそこに既においてますわ。行ってらっしゃいませ」

 

「ありがとう。助かった」

 

「今回は貸しますが、後で返して貰いますからね氏康様」

 

「何か言ったか?」

 

「いーえ何も」

 

「そうか」

 

 急いで服を着替えて城へ走る。急がないとヤバい。城門を幾つも抜けていく。多分呼び出されたとしたならあそこ。昔からいつもの場所だ。

 

「そんなに急いで来なくても良かったのに」

 

 笑いながら氏康様が言う。大分穏やかな笑顔だった。良かった。少なくとも怒ってはいないようだ。安心した。しかし、呼び出されたのは昨日の貿易関連だろうか。それとも北武蔵関連の話だろうか。もしくはその他の内容だろうか。

 

「本日はどのような用件でしょうか」

 

「まぁまぁそう焦らないで。一応貿易関連の話だと伝えておいたのだけれど」

 

「兼成からは何も聞いてませんが…」

 

「あらまぁ…そういう事ね。察せられてしまったかしら。借りが出来たわね」

 

「と言うと?」

 

「いいの、こっちの話よ…。さて、ちょっと付き合いなさい」

 

「いやあの、貿易の話は…?」

 

「そんなの建前よ、建前。さぁ行きましょう」

 

 困惑しながらも引っ張られるままに歩き出す。良く見ればいつもの格好ではなく、地味目の格好だ。いつもが華美な恰好な訳ではないけれど…どう言ったものか。少し商人風だろうか。

 

「街の視察に行きたいの。でも、普通に行ったら委縮してしまうでしょう?だからお忍び。護衛をお願いするわ」

 

「承知しました」

 

 城門を抜ければ、街が広がっている。大きな城下町。海の香りが漂う城下には多くの人や店がひしめいていた。賑やかさは都以上だろうか。はやく河越もこれくらいになって欲しいものだが。努力しなくてはいけないのだろう。

 

「一応私は駿河の商人の娘という設定にするわ。あなたはその護衛ね」

 

「分かりました」

 

「よろしい。なら行きましょう」

 

 歩きながら色々見ている。城にいる時間が圧倒的に長い氏康様に外の、特にこういった町並みは珍しいものなのだろうか。商店を覗いては面白そうにしている。外郎を試食して美味しそうにしていたり、土産物を見て目を丸くしていたり。その顔は冷静沈着な小田原の女主人ではなく、年相応の少女だった。ここ半年近くで大分成長されている。主に身体面で。もう16歳。十分に大人だろう。元々雰囲気が大人なこともあり、大人っぽさに磨きがかかってる。

 

「お腹が空いてきたわね…。あ、しまった。お金持ってくるの忘れたわ」

 

 この辺抜けているのは可愛いと言うか何と言うか。クールなだけでは無いのが慕われる理由だろう。

 

「大丈夫です。私が持ってますので」

 

「じゃあ遠慮なくご馳走になろうかしら」

 

「お任せを」

 

 城下で有名な店に入る。いい匂いに目をキラキラさせているのを見ながら薄く微笑んでいるのが自分でもわかった。

 

「いらっしゃいませ~。む、あ、あなた様は!」

 

「しー」

 

 指で店主の口を押えてちょっと連行する。大きな店の店主ともなれば氏康様の顔を知っているだろう。城にも来たことがあるのかもしれない。

 

「すみません。お忍びですので。城下の視察をしてるのですが、気を使われたくないようですので、出来れば…」

 

「分かりました。周囲の商店にも伝えます」

 

「ご配慮痛み入ります」

 

 店主を解放して案内された席に行けば、周りの客と話していた。一瞬絡まれているのかと思ったが見た感じそうでもないみたいだ。

 

「嬢ちゃん、どこから来たんだ?」

 

「え、あ、駿河から」

 

「商人の娘って感じかい」

 

「ええ」

 

「そうかそうか。ここは良い街だろう?俺は産まれも育ちもここだぜ。昔も今も、良いところだ。氏康様の統治が良いんだなぁ」

 

「そうだそうだ。色んな国を巡ってきたけど、ここが一番よ。結局ここに落ち着くんだよなぁ」

 

「一番平和なんだよ、北条領が」

 

「それもあるなぁ」

 

「あっちのは甲斐から来た商人。あっちのおっさんは安房からだ。向こうのは常陸。伊勢から来たのもいるぜ」

 

「凄い街だぜ」

 

「そう…いいところなのね」

 

「おうさ。みんなそう思ってるぜ。ここが一番だってな」

 

「それは、良かったわね。北条の当主はどうかしら」

 

「ああ?氏康様か?強いよなぁ」

 

「そうそう。敵は悉く倒されてるしなぁ」

 

 多くの商人が、町人が氏康様を、この街を称えている。何も知らない人々が話しているのだ。これは真実だろう。嬉しそうに笑っている。誰もが。ここは本当に乱世なのか。実はもう天下は平和なのではないか。そう思わせるだけの空間がここにはあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 店を出てしばらく歩きまわった。城下を抜けて砂浜に出てきた。傾いていく夕日が世界を照らしている。海は夕日色に染まっている。相模の海はしっかり見るのは二度目か。一度目は氏綱様が亡くなるその日に。

 

「疲れたわね」

 

「そろそろ戻りますか?」

 

「ええ。でもその前に休憩しましょう」

 

 そう言うと氏康様はサッと砂浜に腰を下ろして座る。ポンポンとその隣のスペースを叩いてくる。座れという事だろう。遠慮せず、私も腰を下ろす。逢引みたいねと揶揄うように氏康様は言う。

 

「皆、笑っていたわ。この街が、彼らが私の守りたいもの。守らなくてはいけないもの。その重さに潰されそうになってた時もあったけれど、皆が、あなたが助けてくれたわ」

 

「いえ、そんな、私は…」

 

 謙遜なんていらないのよ、と笑いながら言われる。

 

「悲願まであと少し。もう少しで夢がかなう。この地に平穏と安寧がもたらされる。お爺様とお父様の夢が私の夢が、叶うの。……だけど、だからこそ怖い」

 

「怖い、ですか」

 

「急に壊れてしまうんじゃないかって思って。今の幸せが、この世界が。気を引き締めているし、油断なんてしてない。でも、それでも震えが止まらない」

 

 どう返事をすればよいのか分からず、沈黙しかできない。氏康様の身体が小刻みに震えている。

 

「夢を見たの。私は、この街を馬に乗って進んでいた。宿老と共に、民に祝福されていた。お爺様と父上がいて、私を褒めてくれたわ。夢だからね。特に疑問に思わなかった。でも急に周りに誰もいなくなって、家臣がみんな倒れてるの。白い兎が口元を血で染めていた。そして私の首筋に飛びかかってきたところで、私の目が覚めた」

 

 こんな夢に恐怖して、弱い主でごめんなさい。氏康様はそう言って謝った。

 

「白い、兎、ですか」

 

「ええ、そうよ。何故兎なのかはとんと検討はつかない。私があなたに会ったのはおばばの夢のお告げに従ったから。あなたも知っての通り、北条の印判が虎なのはお爺様の夢から。だからただの夢だと無視できなかった」

 

「そうなんですね。幻庵殿の夢で…」

 

「誤解しないでね。あなたを迎え入れたのは夢なんてあやふやなものが理由ではないわ。しっかりとあなたの才能を認めたからよ」

 

 ざざぁんと波が寄せては引いて行く音だけがする。

 

「ねぇ、前に、父上の葬儀の夜に言ったわね。あなたは私の剣であると」

 

「ええ。申し上げました。それは変わっていませんよ」

 

「――――多分この後、きっと順調にはいかないと思うの。夢の中身は置いておいても、順調な時にこそ落とし穴があるものよ。だから、いつか、そうなってしまったら」

 

 

 

 

 私を助けてくれる?

 

 

 そう聞かれた。答えなど決まっている。始めから、きっと初めて会ったあの日から。返すべき返事はたった一つだ。

 

「必ず。あなた様が苦しんでいるのなら、世界のどこであろうとも、お助けに参ります」

 

「――そう。ありがとう」

 

 小さな声で言われる。そしてすぐに軽い衝撃が右腕に加わる。寄っかかられてるのが分かった。

 

「もう少し、このままでいさせて。今だけは、私はただの女の子に戻れるから」

 

「はい」

 

 顔は見えなくても、その口角が上がっているのが分かる。きっと優しい笑顔なのだろう。爽やかな夕暮れの潮風。茜色の空。柔らかい身体の感触と触れる艶やかな髪。現代に置き忘れた青春の香りがした。

 

 この世界が、思い出が私の生きる意味。守るべきもの。そうだ。だからこそ。やるべきことは決まっている。必ず、守ってみせる。正義は嫌いだ。だけれど、彼女が、氏康様が私の今の正義だ。なら守らなくては。憧れは捨てた、正義の味方は止めた。そして、今は全ての人じゃなくて氏康様の味方になるんだ。

 

 そう誓い、拳を握りしめる。二人を包むように海風が頬を撫でた。



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第57話 関東管領

 遅くなりました。高3にもなり、日々疲労困憊する生活を送っておりまして…。執筆しようとパソコンの前に座っては寝落ちする毎日でした。申し訳ないです。何とか持ち直して普通通りに投稿出来るようになりましたので、どしどし書いていきたいです。よろしくお願いします。


 官位の授与ラッシュがあってから二週間ほどが過ぎた。この間に北条家は各種の対応に追われている。私とて暇ではなく、唯一私のみに可能な行動、すなわちイングランド船との交渉に入っていた。メインであった兵器の譲渡と艦船建造技術のある技師(修理要員らしい)との折衝に入っていた。正直設計図だけあれば後は何とかなりそうなものだが、如何せん私は門外漢。素人が下手に手を出すとろくなことになりそうもないので見守る事にした。

 

 私は艦船の設計など出来るはずなどないし。蒸気機関のつくり方なら知ってるけれど。いつか作りたいなぁ。鉄道網と蒸気船。戦国時代に蒸気機関車が走ってるとかなかなかな光景だけれども。真面目な話、産業革命を自国で起こせれば日本が覇権国家になれる可能性が高い。自国の発展を願うのはある意味当然と言える。

 

 太陽暦のカレンダーなども手に入れたため、暦の変化も出来る事には出来るが、この辺は朝廷の神権を象徴するものの一つなのでおいそれとは出来ない。活版印刷技術も要求したかったが、積んでなかったようなので仕方ない。次回持ってくるように要求しておいた。

 

 

 

 

 

 こちらが英語祭りをしている時、北条家全体は関東の諸将に書状を送っていた。内容は関東管領の就任式をやるから鎌倉に来いと言うものである。実際は鎌倉公方の足利晴氏が書いているが、事実上の北条家からの呼び出しだ。まぁ来ない方が少ないだろう。今回の一件の意味が分からない奴は既に滅んでいる。来ないと大義名分をこちらに与えてしまうのだから。

 

 佐竹や里見、南常陸に下野の諸将に書状が送られている。後は友好関係にある今川と武田にも。なお氏康様曰く、上杉憲政にも送ったらしい。嘘だろオイと思ったが、積年の鬱憤を晴らしたかったのだろう。白々しい文面で煽ったらしいので、どう出るかは見ものだ。多分無視だろうが。確認すると上杉憲政はまだ一応関東にいるらしい。上野一国に押し込められ、その上野の支配も安定していないそうだ。近々亡命する可能性が高いので、監視を強化するように進言している。

 

 書状を送った結果、上杉憲政と上野以外の全勢力から返答があり、当主が病気や高齢の場合以外はほぼ当主が参列する事になった。来れない家は代理が来ている。今川や武田は一門を送った。毎日続々と諸将が鎌倉やその周辺都市に来ているようだ。同時に北条家の家臣団も続々と集結中である。いままで家臣団一同が一斉に介すことはほとんどなく、葬儀と当主の交代の時のみである。私は偶然にもこの二つを体験したわけだが。あの時はまだ傘下でなかった面々も多くいる。当家の隆盛と発展を物語っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 家臣団総出で接待が始まっており、諸将を案内している。大身の佐竹や里見は北条一族の人が担当している。佐竹義昭には氏政様が、里見義堯には幻庵殿が対応している。他にも宇都宮、小田、江戸、結城、鹿島、佐野、小山、壬生、那須、土岐、大掾、皆川、芳賀、真壁、笠間、大田原その他にも多数である。

 

 今川からは一族の関口親永が来ており、先日の都でのロビー活動で絶大な存在感を発揮した為昌様が当たっている。そして武田からは…

 

「お久しぶりですね!この度はお招き感謝します。姉上に命じられ、新たなる関東管領・上杉朝定様の就任を祝しに参りました」

 

「はい…ようこそ…」

 

 どうしてこの人がと言う感じではあるが、塩尻峠で勝利をおさめ、何とか小康状態になっている武田家からは武田信繫が名代として来ている。この人事は武田家のこちらに対する姿勢がうかがえる。当主の妹を寄越すのだ。かなりの重要な相手と認識しているのだろう。塩尻峠は何とかなったが、決して油断は出来ない状況のはずだ。ここで北条との関係をしっかりと確認して、もしうまく行けばより良好に、と言うのは良い戦略だろう。

 

 私はその接待役である。そもそも今川とは一度敵対したものの、かつては交流もありそこそこ関係の良かった時期も存在する。反面、武田とは関係が良好になったのは最近だ。その為、両家共に相手の中にあまりパイプがない。なので、私と彼女の関係並びに今は河越に人質二人がいる状況はかなり大きなことなのである。

 

「しかし、先ごろは塩尻峠での勝利、お喜び申し上げます」

 

「いえ、辛勝でした。少しでも何かが欠けていれば、危うかった戦いです。お力添え、重ね重ねありがとうございました」

 

「お役に立てたのなら幸いです」

 

 是非ともこの後待っている対越戦でそちらがお役に立って欲しい。お互いに協力しなくては強大な経済力と軍事力を持つ上杉家の相手は難しいものがある。頑張ってもらおう。今川のおかげで背後は安全。これで武田も全力を出せるだろう。この後砥石崩れが待っているが…あれがあると武田の発展は遅れる。しかし、あれのおかげで武田軍が成長したと言う側面もあるだろう。どうしたものだろうか。

 

「これからも強敵揃いでしょうが、堅実に歩まれれば勝利は固いでしょう。くれぐれも、ご注意下さり、武田家が我ら北条と共に飛躍する事を祈っております」

 

「ありがとうございます。それでですね。この度の本題は勿論関東管領就任式に出席することですが、姉上は随分と禰々のことを気にしていました。ですので様子を聞いてくるようにと言われているのです」

 

「ああ、彼女ですか。諏訪頼重殿と共に我が城下で神官を務めてもらっています。最近は夫婦共に仲睦まじく過ごしているようです」

 

「そうですか…ホッとしました。あの子はこちらの政略のせいで不幸な目に合わせてしまったのではないかと案じていました。あの子なりの幸せを掴めたのなら、幸いな事です」

 

 安心したように彼女は胸を撫でおろす。姉妹を案じることはいつの世でも同じだろう。それでも引き裂かれたりするのはこの世の悲しい出来事なのだろうと思った。

 

「この後の北条家はどういった方針を取られるのでしょうか」

 

「北伐です」

 

「やはり…ですね」

 

 あっさりと答えられるのは、最早これを隠す意味はないからだ。状況を見れば明らかである。北条の表立った敵は上州の上杉憲政しかいない。里見は仮想敵国ではあるが小康状態を維持している。常陸方面は佐竹に動きはなく、現在もこの就任式に参加していることからすぐには敵対とはならないはずだ。ともすれば、この就任式に参加していないので大義名分があり、戦略上でもここを抑えることが大事なので間もなく北条家が北上するのは明白な状況と言えた。

 

 北伐とは文字通り征伐と言う意味だが、これを使えるのもこちらに大義名分があるからだ。関東管領と鎌倉公方がその命令を発し、鎌倉府執権の北条がこれを実行する。完全なまでの大義名分である。上杉憲政になんの名分もない。もはや彼は関東管領を僭称する逆賊である。

 

「逆賊・上杉憲政を討てば最早関東に逆らえる勢力はほぼいませんので。そうなれば我らの理想まであと少しです。民を安んじ、この地に太平を建設できる。もし、何らかの大敵が現れなければですが…」

 

「そのような敵がいるのでしょうか?」

 

 首をかしげながら聞く信繫。それもそうだろう。この時長尾景虎は既に越後にいてかの地の主であるものの、現在は国内の制圧に精一杯だと言う。強敵とは認識していないだろうし、今の武田家で強敵、と言えば間違いなく村上義清の方だろうからだ。

 

「この世界に絶対はないのですよ。幸か不幸か、ね」

 

 小さくため息を吐きだす。間もなく待ち構えているであろう運命を想うと億劫だった。

 

 

 

 

 

 

 そんなこんなで武田家御一行の接待をしながら、迎えた就任式当日。関東管領の就任式は代々鎌倉の鶴岡八幡宮で行われる。参道には関東の諸将と北条家の家臣団がいる。ズラリと並んだ人々の中を悠々と朝定が進んでいく。慣例に則り、今日は馬ではなく輿に乗っている。見えない位置に多くの警備がいるのが分かる。暗殺など絶対にさせないと言う確固たる意志を感じる。私としても当然されては困るし、なにより悲しい。これまでの期間で私にも彼女との間に情と言うものが生まれている。

 

 普段とは異なり、立派な衣装に身を包み、堂々と行進している。立派な姿に感動を抱く。これは親心というか何と言うかなのだろうか。道中では下馬した諸将が行進を見守っているが、その中には一人だけ下馬しない人間がいる。成田長泰である。成田家は藤原氏の流れをひく名門で、祖先は源義家にも下馬をせず挨拶をしたという名誉の家門であると言う故事から馬から下りない。どっかの軍神はそれを知らなかったのか何なのかボコボコにしたらしいが、北条家はそんなミスはやらかさない。

 

 これでも完全によそ者の越後勢と違って50年近くは関東にいるんだ。それに、関東諸将の情報をこの情報戦に長けた北条家が持っていない訳がない。近年の研究では下馬しなかったのは領土問題で揉めていたからという説もあるようだ。個人的な見解だと成田長泰は関東の主ともいえる関東管領の器であり、それに相応しい知識を有しているか試していたのかもしれないと考えている。そしてその資格なしと判断したので帰国したのではないかという事だ。

 

 ただ、どや顔しながら馬上でふんぞり返ってる彼にそんな芸当が出来るだろうか…。こうなってくると完全に私の見解は外れている気がしてきた。頭のどこかで長親が鼻で嗤う音が鳴った気がした。

 

 

 

 

 滞りなく就任式は終わり、その後の宴会に移っている。そこでどういう流れになったのかいまいちわからないが、どうやら各家の当主たちや参列者の代表の間で色々話している中で北条家の武将についての話になったらしい。会話の中で里見義堯に若干煽られた氏康様(珍しく酔っている。普段はあまり飲まない)が売り言葉に買い言葉でこれまた色々言ったおかげで私はもれなく馬場にいる。

 

 どうも流れで流鏑馬をすることになったらしい。「関東武者は源平の昔より、武芸に優れた者を尊重する。北条家のご家中に関東武者に相応しき武人はおられるかな?このような大身で、しかも鎌倉府の執権に新たに任じられるほどのお家。さぞ、素晴らしい腕をお持ちの武者がおる事でしょう」と言われたようだ。よそ者が多い北条家の重臣に対するある種の挑発だが、逆に言えば武を示せれば認めてやる、と言う意味にもとれる。ここで示せれば北条家の評判は上がるだろう。

 

 いや、巻き込むなよと思ったが、顔を赤くした主に「しっかり頑張りなさいよ~」と言われたので仕方ない。本気で挑むとしよう。今回は神事ではないのでしっかりした的ではないものの、射る分には問題ない。さて、ちょっと頑張ってきますか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 大丈夫だろうか。そう思いながら、私・武田信繫は眼前の光景を眺めていた。彼と馬が走る道の周りには多くの人が集まっている。今回の参列者の多さを物語っている。先ほどの宴の最中に里見殿と話していた氏康殿の意向でこうなっている。

 

 冷静沈着な合理主義者と聞いていたが、少し気が大きくなっているのか。それともこれも計算のうちなのか。私では分からないが、それでも彼がその腕前を披露することは決定だった。「関東武者は源平の昔より、武芸に優れた者を尊重する。北条家のご家中に関東武者に相応しき武人はおられるかな?このような大身で、しかも鎌倉府の執権に新たに任じられるほどのお家。さぞ、素晴らしい腕をお持ちの武者がおる事でしょう」と言われた氏康殿は「勿論よ。当家の家中には弓・槍においては関東最強を名乗ってもおかしくないものがいるわ。剣は生憎と剣聖がいるけれど…。槍の綱成はそちらの槍大膳にも負けはしないし、弓なら兼音がいるもの」と返している。

 

 槍大膳こと正木時茂と北条綱成の直接対決は普通に危ないのでなしになったが、里見殿が「そこまで仰るとは、さぞ一条兼音殿は弓術に優れておられるのでしょう。是非拝見したいですなぁ」と負けじと返したので、あれよあれよと舞台は整ってしまった。私は彼の弓の腕を直接見たことはないので、どの程度かは分からない。けれど、彼の家臣や普段同じ城にいると言う新関東管領がなんら不安そうな顔を見せていないのを見ると、私が不安なのがおかしい気がしてきた。

 

 礼をして騎乗した彼が走り出す。お手本のような構え方でキッと的を見る。そして一射目が放たれる。命中。それもど真ん中。そして二射目、三射目も同じように鮮やかに命中させた。素晴らしいとしか言えない腕前に一瞬場が静まる。その後に大きな喝采が飛んだ。強き者には敬意を。関東武士の美徳を垣間見た。

 

 しかし、少し誇らしい気分ともやっとした気分が同居している。彼の才を一番最初に見出した他家の人間は私なのに、と思う。こんなこと考えてもどうしようもないのだが、心は疼く。彼は氏康殿のものなのだから、私が見出したと言ってもそれは一番じゃない。彼を一番最初に見出した氏康殿こそ、この感情を抱くべき権利があるのに、私は…。そう思って俯くが、考えてもどうしようもない事にも気付く。今は祝いの場。ならば素直に私の師とも言える方の栄光を祝福しよう。そう思って歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ……」 

 

 結構緊張していたので、何とか成功出来てホッとした。流鏑馬をやり始めたのはこの世界に来たからだが、自分で言うのもあれだが私の乗馬スキルの習得は早かったので、あとは組み合わせてと言う感じだった。おかげで今ではしっかりと出来るようになっている。

 

「いやぁお見それ致した。一条殿、貴殿の実力を疑って申し訳ござらん。この老人を許してくれ。何分、目が悪くてな」

 

 顎鬚を撫でながら里見義堯が近づいてくる。この人物は私が今のところ唯一勝てなかった相手だ。そして関東の中では北条家に次ぐ大勢力だと言っても過言では無かった。

 

「いえ、お目汚しいたしました」

 

「否否。謙遜することはないですぞ。ご覧の通り、此処にいるのは関東の武者たち。その彼らが儂も含めて認めておるのじゃ。胸を張られるがよろしい」

 

「里見様ともあろうお方からそのような仰せとは、勿体なきことです」

 

「ははは。これでは戦場で相まみえたら最後、儂の白髪首など一瞬で跳ね飛ばされてしまうかもしれんなぁ」

 

「そのようなことにならぬのが一番でしょう。これからも里見家とは末永くお願いしたいものです」

 

「おお、そうであったなぁ。はは…」

 

 目があんまり笑ってないな。牽制し合ってはいるものの、この御仁、なかなかに厄介だ。老獪そのものである。今回氏康様を煽ったのも、北条家の将の実力を少しでも把握したかったのかもしれない。

 

「まぁ、この世に絶対はあり申さん。もし万が一戦場であったらば、その時はお手柔らかに…」

 

「こちらこそ…」

 

「さて、立ち話はこれくらいにいたそうかな。氏康殿に謝りに行かねば。そちらもお客人のようであるぞ」 

 

 指をさされて後ろを振り返れば、こちらに向かって歩いてくる信繫。遠くで「ほら見た!私の兼音はさいきょーなのよぉ!」と若干怪しい呂律で話している氏康様の声を聴きつつ信繫の方に向かっていくことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 関東諸将やその他の他家の参加者は皆自分の本拠地へ戻っていき、北条家中の家臣団もみな帰った。私も一月ぶりくらいに居城に帰ってきた。小田原の空気も好きだし、懐かしさも感じるが個人的にはこちらもこちらで捨てがたい。時期は既に夏である。新農法は順調のようで、かなり現代っぽくなった水田で稲がすくすくと成長している。これは確実な生産量アップが狙えそうだ。今年は少しあったかいので、収穫も早くなりそうだと報告が来ている。収穫が完了次第、北伐の準備は完了と小田原に送る予定になっている。また戦だが、速攻で終わらせてしまいたい。冬が来れば越後勢は来れないが、そうでないと来襲してきてしまう。

 

 戦争の足音がし始め、河越城では一層綱成の練兵に力が入っている。おそらくこの城からは四千人近くを動員できるだろう。留守役は別にして、だ。北武蔵だけで一万は出せるだろうか。北条家全体だと…五万くらいはいけるか?兵糧弾薬の補給面も、兼成以下文官の優秀な仕事ぶりで何とかなりそうだ。そして肝心の留守居役だが、一人当てがあり小田原から呼んでいる。

 

 関東管領の就任式では胤治に留守番をさせたが、おそらく遠征となれば彼女も連れて行かねばなるまい。綱成は言わずもがなだし、兼成は一番大事とも言える補給役だ。胤治は作戦参謀である。朝定は関東管領なので出兵しない訳にはいかない。大義名分そのものなのだからな。そして今は呼んだ人物の到着を待っている訳だが。

 

 

 

 

 

 色々あって休みもろくになかったせいで、城内の一同から休めと言われてしまい、強制的に休暇になった。することがないので仕方なく釣竿を持って出かける。途中で毎度の如くついてくるし誘わないと拗ねる朝定を拾ってぼんやりと入間川に釣り糸を垂らす。特に何もかからない時もあるし、かかる時もある。えてして釣りとはそう言うものだが…。

 

 ここにいる地味な服を着ている男と少女が河越城主と関東管領だとは誰も思わないだろう。護衛役の段蔵もそこら辺の店で買ってきた団子を食って寝ていたりすることが多いが、今日は暑いので冷やした瓜を食べていた。彼女曰く「こんな楽な任務はありません。平和で良いですねぇ」とのことだった。彼女の休暇はこれで十分らしい。面子の豪華さに対して絵面は凄く地味だが、ともかくこれが私の趣味だった。

 

 小一時間ほどそうしていると、早馬が駆けてきた。

 

「申し上げます。お客人がお見えです」

 

「そうか、ご苦労」

 

 待ち人が来たらしい。ふむ。では帰還するとするか。

 

「帰るぞー。撤収だ」

 

「分かりました」

 

 そう言いながら朝定が名残惜しそうに竿を引けば、丁度食いついたようでヒュっと魚が釣れる。

 

「あ、釣れました」

 

「お、じゃあ台所方に渡して適当にさばいてもらえ」

 

「そうします」

 

 釣った魚は箱に入れてさっさと持ち帰る。冷蔵庫のないこの時代、生ものは傷みやすい。馬上で二人乗りをしながらなるべく早めにと少々急ぎつつ城に戻った。

 

 

 

 

 

「いやはや、待たせてしまってすまない」

 

「いえ、事前に日時を決めておかなかったこちらの不手際でございます」

 

「遠路はるばるご苦労だったな」

 

「姉上とこうして同じところで働けると言うのですから、これくらい安いものです」

 

 姉上と言う言葉からわかるように、彼女はこの城の幹部の妹である。私にはいないし、兼成の妹は義元と氏真だ。段蔵は独り身だし、胤治には弟しかいない。ともなれば候補は一人。そう、綱成の妹である。

 

「北条伊賀守綱房です。一条土佐守兼音様におかれましては、以後ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」

 

「ああ、こちらこそよろしく頼む。綱成の妹と言うことで期待している。是非、それに応えてもらいたい」

 

「ありがとうございます」

 

「では、君と綱成のご母堂と君自身の住居の案内をさせよう。綱成と同じ屋敷にしてある。そこに住んでくれ」

 

「ご配慮、痛み入ります」

 

「それでは、これよりそちらの命は私が預かる。姉と協力し、是非北条の発展と我が城下の発展に寄与してくれ」

 

「はっ!」

 

 彼女こそが留守居役のために呼んだ人材である。勿論、それだけではない。将の育成も兼ねており、ここで学んで欲しいと言う氏康様の願いも反映されている。二人の母親を連れてこさせたのは、単純に小田原に母親だけ放置と言うのも何だったからである。それに、私的な経験だが、親とは話せるうちに沢山話しておくべきだ。どうあっても死んでしまった時に「あの時もっと…」と後悔するものだが、その後悔の量は少しでも少ない方がいい。ただそれだけだ。

 

 ああ、また夏が来る。あの忌まわしくも思い出に満ちた夏が。墓参りも、出来なくなってしまったな。そう思うと少しだけ現代への郷愁が心に浮かんだ。不意に思い出された記憶に、ツーっと何かが頬を流れるのを感じ、袖でそれを拭った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 兼音が城にて綱房と対面しているころ、城下では河越城が誇る美人二人がある店にいた。いわば甘味処である。所在なさげな片方に対し、もう片方は堂々と扇を仰いでいた。

 

「あの、えっと、やっぱり私にはこのようなお店は合わないと言いますか、その~」

 

「そんな事ありませんわ!お店はお金さえ払ってキチンとした礼儀を心得ていれば誰にでも平等な場所ですのよ。そう卑屈になることはありませんわ」

 

 一条兼音直々のスカウトを受けた参謀白井胤治と河越城の裏の主人と名高く財政を一手に引き受ける花倉兼成である。胤治はいつも通りの真っ赤な服を白い紐で縛ったコーデである。反面兼成は夏物の和服を着ていた。一見性格の真反対な二人だが、兼成は育ちのせいで自己評価の低い胤治をなにかと気にかけており、よく誘っては交流しているのである。時にお茶を飲んだり、歌の会だったり様々であるが。胤治は振り回されつつもそれを楽しんでいた。同性の友達などいなかった人生である。戸惑いながらも謳歌していた。それでも長年染みついた根性はそう簡単には変わらないもので、相変わらず自己評価は低めである。

 

「兼成さんは凄いですよ。そんな風に、自信満々で、前を向けて。それにお仕事でもとても頑張ってらして。成果も出してますし、評価も高いですし。何より美人ですし…」

 

「最後のは関係ありますの…?まぁそれはともかく、わたくしとて、最初はこんな風ではありませんでしたのよ」

 

「え、そうなんですか…?」

 

「ええ。前にわたくしの出自はお話ししましたよね?」

 

「はい。駿河の、あの名家の…」

 

「そうです。内乱に敗れ、あの方にお命を助けて頂きました。その頃は世間知らずのわがまま娘でした。今みたく要領よく仕事もこなせませんでしたわ。けれど、あの方は見捨てずに根気よく教えて下さいました。時折頭をペチペチされましたが」

 

「お優しいですよね。私なんかの事も、必要だと仰って下さいました。前の主の三好長逸様も決して悪い方ではありませんでしたが、そのような事は言っては下さいませんでしたし…」

 

「ええ。厳しく見えても、本質的にはお優しい方ですわ。だからこそ、無理をなされてしまう事も多いのです。だからこそ、わたくしたちがお支えするのですわ」

 

「肝に銘じます」

 

 そんな胤治をじっと兼成は見つめる。それに気圧されて胤治はちょっと戸惑った。

 

「ど、どうしましたか?」

 

「貴女、あのお方の事、お慕いしていますわね」

 

 ブーっと胤治はお茶を噴き出した。ゲホゲホと咳き込みながら、彼女は何とか話し出す。

 

「な、な、な、何を言ってるんですか!?私が、殿を!?いやまぁそのあのえーっと」

 

「フフフ、取り繕う事はありませんわ。わたくしとて同じことです」

 

「え」

 

「なにせ、お助けしていただいた時に身も心も捧げるように言われてしまいましたし、さっき言ったようにわたくしが教えを受けている時も出来が悪くてこのままでは捨てられると悩んでいたわたくしに『お前を助けて、氏康様にお前を預かるように言われたときに人一人の人生を背負う覚悟はすませているつもりだ。捨てるなどあり得ない』と言われてしまいましたし」

 

「そ、そんなことが…」

 

 胤治の心の中に兼音への信愛以上の何かが生まれる音がした。同時に兼成への嫉妬にも気付いたのである。敏い彼女はその感情の正体を察し、少しの困惑と共に受け入れた。だが、兼成や氏康と言った強力な相手に勝てる訳ないと諦めようとしていた。しかし、それを遮る声がする。

 

「なーにさっさと諦めてますの。それでも武家の娘ですの?」

 

「え、でも…」

 

「貴女も武士なら、『私が奪ってみせる!』くらい仰いなさいな。ま、一番はわたくしですが。ここは譲れません」

 

 堂々と言い放つ兼成に、胤治は呆気に取られている。

 

「いいですか?人はいつか死ぬものですわ。この乱世、それがいつかは分かりませんの。でも、だからこそ恋の道でも全力で行かねばなりませんわ。結ばれる前に死ぬなどご免ですもの」

 

 この言葉は、胤治の中にあった古い鎖に亀裂を入れた。いつか死ぬなら、全力で今を生きる。そういう道も、ありだと思えたのである。ドヤ顔の兼成相手に胤治は少し笑う。

 

「ねぇ兼成さん」

 

「何ですの?」

 

「私、この後、着物が見たいです。この赤いのだけでは季節に合いませんし、何より殿方に振り向いてもらうには色気不足ですから」

 

 この言葉にビックリしていた兼成だったが、やがて満面の笑顔で胤治の手を取った。彼女は嬉しかったのである。自分のやりたいことや行きたいところを今まで口にしてくれなかった胤治が、初めてこんな風に言ってくれたからである。

 

「ええ、ええ!それは素晴らしいですわ!では善は急げと申します。直にでも参りましょう。今すぐに!」

 

「あ、ちょっと、え、まだ残ってます。私の料理まだ残ってますぅ~!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ある昼下がりの出来事である。新調した青を基調とする着物を褒められた胤治は顔を真っ赤にして兼音に熱病や熱中症を心配されることになる。なお、この頃城下の諏訪神社では巫女服の諏訪(旧姓武田)禰々が旦那の諏訪頼重に向かって

 

「ねぇ、頼重様、私近頃妙に梅干しだったり蜜柑や橘みたいな酸っぱいものが食べたいのだけれど…」

 

 と告げていた。これを酒の席で聞いた兼音は酒を噴き出して長親の顔にぶっかけて大騒ぎになるのだが、それはまた別の話。




 本編とは関係ないですが、密かな野望として三国志ものをずっと書きたいと思ってました。具体的には原作は恋姫無双ですね。前にも書いた気がしますが。どんな話になるかは今作をお読みの方は分かると思います。大体ガチ戦争です。甘ったるーいのはあんまりないです。一応存在はしますが。

 多分主人公は今作のをそのまま流用して(便利なキャラなので。)メインヒロインは悩んでます。考えてるのは原作キャラとしては曹操√、孫権√、劉備√、袁紹√、袁術√、董卓√、馬超√、公孫瓚√などがあります。後は実は個人的本命のオリヒロ司馬懿の兼音が主君になる√があります。なんか好きなのあったら教えてください。近々書こうと考えてます。

 こんな超個人的な話はともかく、これからもよろしくお願いします。いつも感想下さってる方、ありがとうございます。色んな知識を得たり、展開を考えるヒントを頂いてます。50話以上投稿しておきながら、いまだに感想欄を開くときはドキドキしております。活力を頂いているので、是非これからもお付き合い下さい。次回はそろそろ北伐したいと思います。


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第58話 北伐・前

少しだけ未来の話を入れました。


 夏は間もなく終わりつつある。この時代は温暖化もしていないため、ちゃんと秋が来るのは良いことだ。現代では秋は消滅しつつあったしな。高知や大阪はいずれも暑くて死にかけた思い出がよみがえる。私は暑いのは平気なのだが、後輩には当然配慮しないといけないので、猛暑日は休みにしていた。これでも部長だったのだし。

 

 秋が見え始めてきた今日この頃。収穫まであと少し。確実に収穫増加が見込める。よって既に成田家に指示を出した。命令は一つ。由良家を調略しろ、と言うものである。由良家の調略が終わればその縁戚を辿って桐生氏、那波氏、赤井氏を引きずり込む。そうすれば東上野はもらったも同然である。

 

 東上野をこちらに引きずり込めば後はどうとでもなる。最大の警戒勢力は長野だが、流石に国力の差は埋めがたいだろう。ただ、最重要警戒対象には変わりない。剣聖もいるだろうし、綱成もリベンジに燃えている。勝利を得るべく、最大限努力したいものだ。

 

 

 

 

 

 出陣するにあたって少し問題が生まれた。留守居は綱房にやってもらう事で人員を確保したが、朝定の護衛役がいない。正直例えば剣聖がいたらやってもらえたりするのだが、残念ながらそうでは無い。段蔵も分身は出来ないし、困っている。関東管領として出陣しない訳にはいかないが、しかし彼女は自分の身を自分で守れるほどは強くない。最近少しずつ実力もついてきたが、まだ足りない。護衛出来る人材を求めるしかないだろう。

 

 なので、人員を紹介してもらうため、段蔵を召還した。

 

「それで、だ。朝定の護衛役は急務だ。私の護衛はお前が勤めてくれている。綱成を襲おうとしたら刺客が返り討ちにあう。兼成も最低限の護衛術を身につけている。胤治は女の一人旅を長い事していたんだし、決して無防備ではないだろう」

 

 後で確認したら剣術は普通だが、杖術は使えるらしい。伊勢で盗賊一味を壊滅させたこともあるとか。怖いものだ。決してひ弱な文官ではなかった。彼女の弟は間違っていたことが図らずも証明された。おそらくトラウマだったため逆らえなかったが、実力は同じくらいなのではないだろうか。

 

 しかし、段蔵はムスッとした顔になっている。困ったものだと苦笑する。しかし、決して彼女を貶めたり能力不足と言う気はない。

 

「お前が力不足だと言うつもりは全くないし、これからも私の第一の忍びとして活躍してもらいたいと思っている。ただ、どうしても朝定の護衛役は必要だ。風魔は北条家一門の護衛役を担っている関係で不可能だ。それで、だれか紹介してもらえないだろうか」

 

「……そういうことなら仕方ないですね。そうですか…護衛役ですか…」

 

「ああ。出来ればお前に近い実力があることが望ましいのだが」

 

「そうですねぇ…。いないという訳ではありませんが、少々問題ありと言いますか…」

 

「問題?性格的に何か問題があるのか?」

 

「いえ、いい子です。ただ、見た目が異形なので、信濃の諸将には私以上に受け入れられていませんでした。あと、私はある種の裏切り者と見られているようなので、どうなるかは分かりません。あの子が心中でどう考えているのか…。一応戸隠を去る前にその趣旨の話をしましたし、その時は特に反対もされませんでしたが…」

 

「声をかけるだけかけてみてはくれないか。どうなるかはまた別の話だ」

 

「承知しました。一週間ほどで戻ります」

 

「すまない。頼んだぞ」

 

 サッと消えていく。あんまりいい思い出のない信濃に行くのは好きじゃないと前に話していたのはキチンと覚えているが、申し訳ないけれど行ってもらった。あ、名前聞くのは忘れたな。まぁしかし、戻ってきたときに聞けばいいだろう。もし勧誘に失敗したら募集をかける必要もあるかもしれない。成功することを祈るとするか。

 

 

 

 

 

 

 

 段蔵を送り出したその日の夜。私は細い灯りの中、この前朝定に言われたことを思い出していた。この間、太平記を読ませていたがその時に「兼音様はこういった書物をお書きにはならないのですか?兼音様から見た視点で北条家の軍記物語をお書きになったら後世に名が残ると思います」と言われた。

 

 確かにそうだと思ったが、私はこんな風に何か長文を書いたことが無い。ただ、後世に伝えると言う意味ではやってみるのもアリだと思った。特に氏康様のすばらしさを伝えるのは急務である。加えて、詳しい資料があれば私のような研究肌の人間の助けになるだろうとも思った。

 

 思想や悲惨な未来に行かないための道も同時に示せるかもしれない。という事で、紙を城下で沢山買ってきたので、少しずつ書いていくか。始まりは氏康様と出会った頃から始めよう。関東の情勢や当時の風俗も書き込んで、資料として残していく。そうすれば、例え国が変わり人が変わろうとも私たちの在り方や生き様は後世に生き続ける。それはとても望ましいことだ。一人の歴史好きとして。

 

 さて、どう書き出すべきか。文体もどうするべきか。ちょっと崩すか。少しだけ迷いながら筆をとった。

 

 

 

 

 書かれた軍記物語のタイトルは『三鱗記』となる。これは未来において古文の教科書に掲載されたり受験問題にもなるなど高い評価を受ける。氏康賛美の要素は結構あるものの、それを抜きにしても資料としては一級品であり、当時の様子を知るかなりレベルの高いものとなった。小説調のため登場人物の会話が生き生きとしていることも面白い要素として研究されている。全文で源氏物語を越える長編であり、物語としても評価が高い。

 

 結局悩んだ結果書き出しはこのような感じになっている。

 

『応仁の大乱、日ノ本全土を焼き、末法の世を齎したり。箱根之関の東方、広大なる山野在り。是関東と言う。古くは武者の栄し地にて、鎌倉に武門の総領在り。大乱戦国の中、此の地を統べ、遍く山野河海を治めんと欲す家在り。是は大欲悪望による物に非ず。民を安んじ、法を新たにし、人の生きる世界を安寧に満ちし物にせんとするが故の行いなり。其の家の名を、古の執権に倣い、北条と言いけり。是、我・一条土佐守兼音が主家なり。

 

 北条に暗君無く、初代早雲公、二代氏綱公、何れも隠れ無き名将名君にして、其の領国は大いに安んじられる。然れども、三代氏康様こそ先代二君に勝れる関東の主にして、正に女帝たる覇者なり。人の言うに、神将神君なりと。我がこの偉大なる君に仕えしは、君齢十四の秋なり。我、其の時齢十七なり。山中に迷い、道を尋ねんと欲し、戸を叩きし早雲寺にてその出会いを得たり。後に振り返りて見れば、前世よりの縁によるものかも分からねど、運命と言うに相応しき物かな。

 

 風貌美麗にして、唐天竺を眺めれども、彼の御仁より美麗なるを我は未だ知らざる。あらゆる傾城傾国、我が主を一目見れば己の美を恥じ、家屋深く籠ること必定なり。紫苑の髪、陽光を受け金襴緞子よりも艶やかなる輝きを放ち、白き肌は白磁を上回れり。紫水晶の瞳は隠せぬ叡智を宿し、此の世の悪逆非道を見抜き、人物事物の真贋を喝破するものなり。この君に勝れる王、人類史を見回して何処に居るものや。』

 

 終始こんな調子で進んでいく。当然他の登場人物の事も多く書かれているが、氏康の事だけは圧倒的に分量が多い。後世の研究者は読めば読むほど顔が死んでいくのである。戦闘のシーンはまともなのだが、ひとたび日常になると一気に雰囲気が変わる。それでも資料としては本当に有能なので、現代でも使われていた。実は未来予測を記した裏三鱗記があるというオカルト的都市伝説があるが、真偽は不明である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 一週間ほどが経ち、より秋の香りが風に含まれ始めたある日、段蔵がやっと帰ってきた。随分かかったことにやや驚きつつ、報告を聞く。

 

「ご苦労であった。随分かかっていたが、首尾はどうであったか」

 

「いや、まぁ疲れました。一度戸隠の忍び衆に発見されて追い回されました。やれやれです。ですが、勧誘には一応成功しました」

 

「一応と言うと?」

 

「最後は直接会って確かめたいと申しておりました。朝定様の護衛役としての任務が主任務なら、その朝定様にもお会いしたいと」

 

「ふむ……。まぁもっともではあるな。では朝定を呼んでくる。当の本人は何処に?」

 

「控えさせてます」

 

「分かった」

 

 そういう訳で、胤治から授業中の朝定を借り受けて連れてきた。

 

「え、あの、私は何をさせられるのでしょうか」

 

「会って欲しい人物がいる。お前の護衛役候補だ」

 

「あ、はい」

 

 横に座らせて段蔵に目配せする。彼女は頷いて、サッと一度消えた。私と最初に邂逅した時とは違い、ちゃんとした方法で対面させるつもりらしい。少し経って、戻ってきた。

 

「準備が出来ました。それでは入ってください」

 

「はい」

 

 外から涼やかな声が響く。また女性か。いや、別に良いけれど。戸隠忍び人手不足なのだろうか。と言うか、これ強者二人を北条に引き抜かれた戸隠忍び集団大丈夫なのか……? 襖を開けて入って来た人物に目を見開く。明らかに日本人離れした容姿。紺に近い青をした忍び装束を纏ったその少女は金髪碧眼の西洋人形のような風貌だった。どう考えても日本人ではないだろう。隣の朝定もビックリしている。

 

「この度お招きを受けました、霧隠才蔵と申します」 

 

 流暢な日本語を操りながら、彼女は名を名乗る。霧隠って、真田十勇士じゃないか。こんな西洋人だったとは知らなかったけれど。スッとした冷静な目で彼女は私たち二人を見つめている。我々の人間性を見ようとしているのだろうか。ともかく、声を掛けねばなるまい。

 

「よく招聘に応じてくれた。まずは礼を言いたい。そして、こちらが招いた目的である護衛の対象である新関東管領・上杉朝定だ。朝定、挨拶」

 

「あ、はい。こ、こんにちは。ようこそ関東へ」

 

「お気遣いありがとうございます。それでは私から、一つだけ朝定様に問いたいことがありますが、よろしいでしょうか」

 

「え、えっと何でしょうか」

 

「私の容姿をどう思われましたか? 信濃の諸大名も同じ戸隠の忍びも私の容姿を見て私を避けます。醜いと言われたこともありました。唯一カトーだけが仲良くしてくれましたが。信濃は頑迷な信仰が多く生きています。私を受け入れなかった。貴殿はどうですか」

 

 真剣な目で朝定を見つめている。この問いに朝定は少し戸惑ったようだったが、少しずつ自分の言葉で話し始めた。

 

「綺麗だなぁって思います。私は小田原で南蛮の方を見ましたが、女性はいなかったです。私は綺麗なお顔と御髪だと思います!こんな美人さんを放っておいた信濃の人の頭が悪いだけです。女の子に醜いとか酷すぎます!」

 

 最後の方は滅茶苦茶感情籠った声で言い放つ。ふんす!と鼻息荒く凄い興奮気味なのだが、よっぽど腹に据えかねたのだろうか。この剣幕に才蔵もポカンとしている。そしてぼそりと「可愛い」と漏らした。朝定は聞こえていなかったようだが、私はバッチリ聞こえたぞ。一人で信濃の人々への怒りをあらわにしている朝定を他所に、才蔵は才蔵で「これは守らなくては」と呟いている。それに関しては同意しよう。庇護欲を掻き立てるのは良くわかる。

 

「朝定様」

 

「大体何ですかちょっと顔と肌の目の色が違うだけで…!あ、ごめんなさい。何でしょうか」

 

「是非ともこれからよろしくお願いいたします」

 

「あ、え、えっと、こちらこそよろしくお願いします」

 

 容姿で人を差別すると言うのは現代になってもなお解決しない問題だ。人種や民族、宗教での差別はまだまだ残っていた。普通の日本人では分からない事だろうし、私も実感は無かったが。そう考えると朝定がすごい健全に育っていて嬉しい限りだ。美大落ちのちょび髭に彼女の爪の垢でも煎じて飲ませたい。

 

「一条様。私はこれより朝定様の家臣として、影より必ずお守り致します」

 

「ん、了解した。住処に関しては段蔵経由で用意させる。しっかりと朝定を守ってくれ。頼んだぞ」

 

「この命に代えても」

 

 子供だからこそ裏表なく本心から自分の置かれた境遇を憤ってくれた朝定に好感を抱いたのだろう。彼女はいつしかキチンと人の上に立てる器になっていたんだなと思い、感慨深い。人は変われるものだ。その意志さえあれば。その言葉の実例を私は目の当たりにしているようだ。きっと将来は素晴らしい人間に育つだろう。その日が楽しみだった。

 

 

 

 

 

 ついに本格的に秋が深まり、収穫の時期がやって来た。そしてこれは私の農業政策の結果を示すものでもある。どんなもんだろうかと思ってる。内心は冷や汗をかいているが、そんな顔を見せる訳にも行かない。今日は領内の村々から回収された税が一斉に運送されてくる日のはずだ。ソワソワしながら待っていると、ドタドタと走ってくる音がする。

 

「た、大変ですわ!米蔵が全部埋まりました!」

 

「……は?」

 

「は?ではありません!従来の米倉は全て埋まってしまいましたわ。仕方ないので空いている武器庫に放り込んでいますが、それでも足りるかどうか。小田原に送る用の荷車も足りそうにありません。ああ、これは台帳の大幅更新が必要です…。ともかく!至急おいで下さいまし!」

 

 兼成に誘われ、急いで向かってみれば明らかに去年より多い量の米俵が運び込まれている。陣頭指示を出しながらも喜色満面の長親が騒いでいる。この事実が示すのはたった一つ。農業政策の大成功だ。これなら、胸を張って小田原に報告出来る。この方策を北条領全域で行えれば、関東の生産能力は飛躍的に上がる。上手くすれば、越後と国力でかなりの大差を付けられる。

 

 記憶が正しければ、長尾景虎が近衛前久を連れて最大規模の関東遠征を行い小田原を囲んだ際に関東は大規模な飢饉に見舞われた。史実の北条氏康が氏政に代替わりを行ったのはこの飢饉の対策の為、責任をとって引退しそれを口実に徳政令を出していたはずだ。この永禄の飢饉の対策にもなるかもしれない。備蓄米を用意すれば経戦能力も上がるだろう。

 

 近くの者に声をかける。

 

「直ちに小田原に伝令を。北伐可能なり、と」

 

 

 

 

 

 

 河越より小田原に送られた使者は端的に状況を伝える。それをうけて氏康は号令を発した。

 

「関東管領の就任式にも参列せず、未だに関東管領を僭称し、無意味に関東に騒乱をもたらし民を苦しめる逆賊・上杉憲政の討伐を行う事をここに宣言する。彼の者に与する者はいかなる勢力であろうとも賊徒である。新秩序を関東の大地にもたらすべく、上杉憲政に宣戦する!敗北を望まないのなら今すぐ降伏せよ。命を長らえたくばその城を明け渡せ。もしこの大地があるべき姿を取り戻すことを阻害する者があればそれがいかなる存在であろうとも形ある限り攻撃を行う。安寧をもたらし、太平を築くために、もはや言論や融和は役に立たない。剣と血による行動こそが理想を遂げる唯一の手段である。全北条家の兵に命ず。我らの大義のため、奮戦せよ!!」

 

 この檄文が北条領内外を駆け巡る。小田原城下に集められた北条軍本隊八千はこの演説に万雷の喝采を奏でた。氏康本人はまったく気付いていないし、知りもしないが、彼女の演説の中にはビスマルクの鉄血演説の要素が入っている。この世界では「鉄血演説」の代わりに「剣血演説」と呼ばれることになる。

 

 北条領内から兵が集められた。上州攻略軍は万全を期してかなりの規模で組織されることになる。その内訳は、

 

・第一軍、北武蔵軍  総大将:上杉朝定 数六千

・第二軍、南武蔵軍  総大将:北条氏邦 数六千

・第三軍、本隊    総大将:北条氏康 数八千

・後衛軍、伊豆駿東軍 総大将:多米元忠 数二千

 

 総数二万二千。正直過剰戦力だが、これだけの大軍を賄えるだけの国力が存在していることを示している。勿論守備隊は残しているので、総兵力ではない。しかも、これだけ動員しても兵糧にはまだまだ余裕がある。この規模でも数年は戦える。間違いなく戦国最強クラスの兵力を持っていた。また、第一軍には氏康の意向により次期当主筆頭候補の氏政が送られた。経験値を積ませ学習をさせるためである。第一軍の総大将は名目上は上杉朝定だが、事実上の総司令官は一条兼音である。

 

 九月の終わり。大軍の先鋒たる第一軍が上州と武蔵の国境を一斉に越境した。

 

 

 

 

 ついに始まった大遠征。この先鋒軍の事実上の司令官を任命された。六千の大軍を率いて上野を陥落させることが求められている。名目上の総大将は朝定であるが実権はこちらにある。六千の内訳は三千が私の支配下の兵である。千が成田家。七百が上田家。七百が太田家。六百が深谷上杉家だ。成田家経由で東上野は攻略済みのため、勝ちはほぼ貰ったも同然であろう。しかし油断は出来ない。油断こそ最も恐れる敵だ。

 

 そう言えば、氏康様よりの伝言によれば誰かを送るって言ってたような。行軍中の駐屯地の天幕にて思い出す。そこに私の背中へ飛びついてくる人がいた。

 

「やっほ~~~!」

 

「グヘッ」

 

 変な声が出てしまった。腰にタックルされたらそりゃそうなると言うものだ。しかし、この声は

 

「氏政様。離れて下さいませんか」

 

「え~ヤダ」

 

「ヤダって…」

 

「まぁまぁいいじゃない?お兄様」

 

「あの、私は氏政様の兄ではないのですが」

 

「細かいことは気にしない気にしない。それで、状況はどうかな?」

 

 よくわからない呼び方をされたが、状況を聞くときは緩い空気が少し薄れてしっかりとした雰囲気を纏い始めた。これでも氏康様の妹なだけはある。

 

「我が軍は邑楽郡を進軍中。現在金山城の由良家から従属の書状が届いています。桐生家、赤井家、那波家からも同様の書状が来ました。これより北西に進軍します」

 

 これら四家からは北条家に臣従する事、関東管領の就任式に不参加だったのは全て上杉憲政のせいである事、人質を差し出す事などが書かれていた。概ね言い訳だが、一応筋は通っている。この辺の地域を無血で通れるのはかなり大きかった。兵の損害は少ないに越した事は無い。

 

「なるほど~。で、勝てそう?」

 

「おそらくは。野戦を挑んでくる勢力は皆無と言っても過言でもありません。あるとしたら長野ですが、果たして出てくるかは分かりません。堅城箕輪城に籠る可能性も大いにあり得ます。取り敢えずはこちらに与せんとする勢力を吸収しつつ、平井城を目指します」

 

「そっか。…それじゃあ、もうちょっと頑張ろうね。お兄様」

 

「ですから兄ではないです。しかし、はい。頑張りましょう。次の目標は山上城と高津戸城です。城主の山上氏秀、里見勝政は降伏を拒否しています」

 

「じゃ、そこを落とさなきゃね」

 

「はい。万事お任せ下さい。必ず勝利します」

 

 そうだ。もうすぐだ。もうすぐ勝てる。小勢力ばかりの上野は敵ではない。諜報網は厳重に張られており、おそらく上杉憲政の脱出は不可能だろう。長野も憲政を捉えれば大義名分を失う。孤立無援の長野なら負ける事は無い。全力で行かせてもらおう。もし憲政が脱出できなければ軍神は来れないのだから。確かな勝利の予感に震えた。

 

「諸将を招集。部隊を二つに分ける」

 

 さぁて、どう出るかな。どう出てこようとも、負ける気は毛頭ないけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 上野・平井城では重苦しい空気で軍議が行われていた。

 

「小田原方の敵は二万を超え、先鋒は既に越境し邑楽郡、山田郡は落ちたと見て間違いないでしょう」

 

「桐生や由良は何してるんだ!」

 

 憲政は家臣の報告に思わず立ち上がり激昂する。

 

「戦闘を行った形跡はありません。おそらくは…」

 

「……裏切ったか。あの恩知らずどもめ!」

 

 上杉憲政は乱心気味である。河越、そして小田井原で敗戦を重ねたことで彼の自尊心はボロボロだったところに彼の最後のよりどころであった関東管領の位階も没収され、もはや彼は無冠である。あるのは山内上杉の当主と言う地位だけである。だが、これしかないため、上野の国人豪族は離反の動きを見せ始めている。見せしめに一人くらい粛清したくとも、すれば一斉に離反される。八方ふさがりだった。敗戦の事を考えるたびに氏康に斬られた左目が疼く。

 

 頼みの綱はもう長野業正だけだった。

 

「業正は、業正はどこだ!」

 

「これに」

 

 箕輪城で籠城の準備をしていた業正はそれをある程度完了させて、平井城にやって来ていた。

 

「もうどうしようもなくなったよ。関東管領でない僕は、何の権力もない。しかも敵は二万以上の大軍だ。先鋒だけで六千もいる。しかも実質的な総大将はあの一条某とか言う輩。勝てる訳もない!」

 

「……殿。お逃げくださりませ」

 

「君の、箕輪城へか?」

 

「いえ、越後にござりまする。先代為景は不埒にも謀反を企て、お家の一族を討ち取りました。されど新たなる当主の景虎は、正義を重んずる誠の戦上手にござりまする。殿がこれまでの長尾の不忠を水に流し、心から頼られれば、無下には致しますまい。景虎は、必ずや殿の股肱の臣となりましょう。何卒、越後へ」

 

「君も、共に越後に参るか」

 

「いえ、それがしは上州に残り申す。殿が越後兵を率いて再起をお計りになるその日を、此の上州にてお待ち申し上げたく存じまする。何卒」

 

 乱心気味だった憲政の顔に理性が戻り始める。この老臣の覚悟に彼もまた動かされた。四方は敵に囲まれることになるだろう。北条は決して容赦しないだろうという事は分かっていた。扇谷上杉には譲歩したが、彼らがいる以上、山内上杉に価値はない。長野業正ほどの名将ならば、降伏したとしても厚遇されるのは憲政も分かっていた。だからこそ、そんな状況下で抵抗を選択した業正の覚悟に心を打たれていた。

 

「しかし、忍びの警戒網が強い。どうするんだい」

 

「沼田城への荷駄の中にお隠れ頂きます。沼田城はそれがしと共に抗戦するつもりですので、時間は稼げましょう。沼田へ行き、商人の隊列に紛れます。また、影武者を常陸と会津へ送りまする。さすれば北条は殿が佐竹か蘆名のいずれかを頼られたと考えるかと」

 

「この乱世に真の忠臣とは、君のような存在だ。今まで、苦労をかけた。」

 

「苦労などと。勿体なき仰せです。さ、弟君の龍若丸様と共にお早く。それがしは準備をしてまいります」

 

「ああ、任せたよ」

 

 憔悴した顔にやや希望が宿っている。為景の娘など信用しがたいが、どの道ここにいても死を待つばかり。いっそ一か八かの賭けに出る必要があった。覚悟を決めた上杉憲政は着物を簡素なものに変え、脱出の準備を始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遥か未来

 

 1941年 大日本帝国首都・××

 

 軽快な音楽がラジオやテレビから流れ始める。道を行く人々も足を止め、摩天楼の中腹にある大きな画面を見つめた。同時刻、国内の防災無線などにも一斉に同じ音楽が流れる。

 

「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海空軍部、12月8日午後3時発表。帝国陸海空軍は本8日正午頃、西太平洋並びに地中海にて独米両国と戦闘状態に入れり。繰り返します。西太平洋並びに地中海にて独米両国と戦闘状態に入れり。北条首相よりのお言葉です」

 

 一瞬音が途切れ、そして直に明朗な女声が響く。

 

「我が帝国は、世界秩序の安寧と平和の構築のため、これらを乱しいたずらに戦火を広げ、悪辣なる手法を以て多くの殺戮と差別を行う存在を許してはならない。我らは同盟国、英国より届けられた窮状を報せる報を受け、我らの求める理想のために軍事行動に至った。すべては差別と不正なき世界の建設のために!帝国並びに大亜細亜共栄圏各国は共同で本日、ドイツ第三帝国並びにイタリア王国、その他これらに与する勢力、並びに同盟国たる英国に反旗を翻した英領新大陸アメリカ自治帝国に対し宣戦を布告する!」

 

 世界大戦の火蓋は落とされた。




才蔵は原作キャラです。


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第59話 北伐・中


【挿絵表示】


上野の郡分けです。


 上州攻略は三分の一は終了した。東上野の邑楽郡、山田郡、新田郡、佐渡郡、勢多郡東部の占領は既に完了している。那波郡と緑野郡は南武蔵の兵を主軸にした第二軍が担当しているが、連戦連勝の報告が入っている。ここまでは順調だ。ここまでは。

 

 現在は占領下にある柄杓山城(別名桐生城)に本陣をおいて、これからの進路を確認している。参加者は自分を含めた河越城の幹部衆、上田朝直、太田資正、成田長泰、上杉憲盛、第一軍の名目上の総大将として関東管領・上杉朝定、そして北条家一門からのお目付け役と言う名目で後学のために出張を命じられた氏政様。そして降将である桐生介綱。彼は記憶が正しければ桐生家の最盛期を築いたはずだ。長尾景虎と共に関東に下向した近衛前久の警護役をして、のちに謝辞を送られていたはず。

 

 更には金山城主であり、娘の嫁ぎ先である成田家を介してそうそうにこちらに内通していた由良成繁。他にも文屋康秀の子孫を名乗る赤井氏の赤井照康。吾妻鏡にも名前が載っている那波氏の那波宗俊がいる。彼らは全員調略済みの将であった。この辺りを治める名家であるため、今後の統治に役に立つと考えての調略である。水先案内人の役目も期待している。

 

「この先は西勢多郡、群馬郡です。厩橋城、平井城、白井城、箕輪城、高崎城、国峯城などが待ち構えています。更にはその奥には吾妻郡きっての堅城岩櫃城が。北の利根郡には沼田城が。あそこはあそこで中々の堅城。沼田家に使者を送りましたが、徹底抗戦すると…」

 

 桐生介綱に説明される。

 

 

【挿絵表示】

 

上野の城の図。

 

 

 

 

「あくまでも上杉憲政への忠義を貫くか」

 

「はい。加えて、長野業正も抗戦する模様。周囲の城群もそれに続くようです」

 

「面倒なことになったものだ」

 

 一般に攻城戦には守城戦の三倍の戦力を必要とすると言われる。時と場合によって変わるが、概ねこの感覚でいれば間違いはない。そう言う意味では一つの城を相手にするのに六千もいれば問題などないのだが…如何せんこうも城の数が多いと消耗してしまう。それは避けたい事態だ。

 

「このままの進路を保ち続けると厩橋城に到達します。しかし、その途上には上泉城が」

 

 上泉の名に綱成の拳が固く握られる。大胡城は落とせるだろうと言うのは共通見解だ。 

 

「上泉城ってのが何か問題なの?お兄様」

 

「上泉城自体は問題ではありません。箕輪城やらに比べれば小城です。しかしながら、そこの城主が問題なのです」

 

 もうお兄様呼びは諦めた。朝定が凄い顔をしているが、あれはどういう感情なのだろうか。好奇心も湧いたが、怖さが勝って問うのは止めた。

 

「剣聖だよね?でもこの時代に個人の武勇だけでどうこうするのは無理だと思うけどなぁ。三国志とかじゃあないだろうし」

 

「普通はそうなのです。普通は…」

 

 あれは化け物だ。そう言っても過言ではないだろう。あの腕前ならば、多分三国志でも通用する。それくらい頭おかしい武力なのだ。しかし、今回は行けるだろう。強化版綱成ならば、必ず。彼も全盛期ではない。年を経ている。必ず隙はあるはずだ。

 

「それがしの一族のうち、それがし達に従わなかった者たちが赤石城に籠っております。厩橋城を狙うならば、そこをどうにかせねばなりますまい」

 

 那波宗俊による進言が来る。部隊を分けるか。

 

「よし分かった。部隊を二つに分ける。上田殿、太田殿、上杉殿。朝定を預ける。赤石城へ向かってくれ。その他は私と共に上泉城を攻める」

 

「殿、各個撃破の危険性がありますが」

 

「いや、問題ない。斥候に出した段蔵以下の忍び衆の情報によれば、敵に行軍する部隊はない。いずれも城に籠る道を選んだようだ。その上で何か付け足すことはあるか、胤治」

 

「ならば、速攻が必要であると具申します。もたもたしていると集結しかねません。長野業正の動きに注視する必要があります。また、兵糧も減る量は少ない方がよろしいでしょう」

 

「もっともである。なるべく速く片を付けて本隊と合流する。兼成、兵糧の状況は?」

 

「問題ありません。数年は戦えますわ」

 

「よろしい。準備は万全。人事を尽くして天命は来た。全軍、進軍開始!」

 

 力強い返答を聞き、勝利を確信した。

 

 

 

 

 

 

 

 上泉城の中では剣聖が静かに剣を磨いていた。北条軍の足音はすぐ近くにまで迫っていた。彼も剣客である前に一人の城主。その務めは果たすつもりであった。だが、徹底抗戦は不可能であると考えている。盟友の業正の籠る箕輪城ならばいざ知らず、上泉城では到底防ぎきれない。それはこの城で生まれ育った彼自身が一番よくわかっていた。

 

 ならば共に箕輪城に籠る選択肢も考えたが、領民を見捨てる行いは出来なかった。もっと言えば、そこまで上杉に忠誠を貫く気が無かった。ここで自らが抗戦し、存在感を示せれば。上泉家の武名がさらに高まれば。娘を生かす算段が見えてくる。他家でも生きていけるようになるのだ。信綱は死を覚悟している。この時代、もはや剣の腕だけでは勝てない。南蛮由来の鉄砲はこの国の戦の概念を破壊しようとしている。個人の戦闘力がものを言う時代から、集団戦術で大量殺戮をする時代へと。武の最前線にいる者としての勘だった。

 

 まったく不出来な娘だが、その道を究め続ければいつかは自らと同じかそれ以上になれるだろう。そうすれば上泉の剣は残る。あの若き姫は成長し、またも自らに襲い掛かって来るだろう。今回は勝てるか分からない。瞑目しながら、独特の呼吸でゆっくりと息を吐く。ドタドタと廊下を走る音がする。

 

「申し上げます!北条軍約四千、この城を包囲せんと進軍中の模様!秀胤様が指示を求めています」

 

 剣を鞘に納めて立ち上がる。死の匂いが風に乗って運ばれてくるのを敏感に感じながら、彼は籠城の指示を始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 上泉城はよくある小城だ。大きさも、防備も。籠っている兵の数も少数だ。だがそこの城主は関東一の剣術家である。勿論、剣術だけで軍を全滅させるのはほぼほぼ不可能であると言っても過言ではない。だが、士気にはダイレクトに係わってくる。そりゃそうだ。目の前で大量に兵士が斬り殺されてるところに突撃したいと思う奴はそうそういないだろう。いたとしたら戦闘狂かよっぽど自分の武勇に自信がある奴だろう。

 

 それゆえに良く見極めなくてはならない。敵の、特に肝心の上泉伊勢守の出方を。そう言えば、ここ最近の一連の戦いは久々の攻城戦だという事に気付いた。自分が直接参加するのは、花倉の乱以来だろうか。国府台は野戦だし、河越城攻略戦は参加する前に終わった。野戦と攻城戦は必要なものが違う。経験値としなくてはならないだろう。

 

「申し上げます!上泉城の包囲が完成しました!」

 

 城を囲むように軍を配置させる。さて、ここからどうしたものか。思案していると、更なる報告がやって来る。

 

「申し上げます!大手門の前に初老の男が一人、剣だけを持って佇んでいます。射かけますか」

 

「いや待て。初老の男……綱成を呼べ。おそらくそ奴は…」

 

「殿、何をなさる気ですか」

 

「こんな大軍の前に剣一振りだけで佇むやつなど常識的に考えれば狂人だ。だが、関東にはそれを可能とする男が一人いる」

 

「剣聖・上泉伊勢守信綱ですね」

 

「その通り。これに対抗しうる武力を持っているのは綱成だけだ」

 

「しかし、あまりに危険すぎます!」

 

「先輩、ただいま参りました」

 

「ああ、言わんとすることは分かるな」

 

「はい」

 

「勝てるな」

 

「必ず」

 

「よし!ならば行け。剣聖を降し、関東最強を勝ち取れ!」

 

「はっ!」

 

 綱成は槍を握りしめ走っていく。その目は普段以上に気迫に満ちており、鬼気迫るものを感じた。あれならきっと。

 

「今からでも止めるべきです!綱成様がお強いのは知っています。しかし、万が一があっては…!剣聖とは言え生身の人。無数の矢を避けるなど不可能です」

 

「それはどうだろうな」

 

「…失礼を承知で申し上げるならば、殿は彼を過大評価しているかと。時代は集団戦術です。個人の武がものを言う時代は終わりを告げようとしています」

 

「だがまだ終わってはいない。そうだろう?」

 

「それは、そうですが…」

 

「大丈夫だ。あいつは勝つ。必ず勝つ。私はそれを信じる。だから、お前もあいつを信じてくれ。私の信じた綱成を」

 

「まったくもって根拠なく、不確定要素に満ちています」

 

「手厳しいな。だが、意味もある。武名轟く剣聖を討ち取れば、北条の名はさらに高まる。自分で言うのもアレではあるが、先日の関東管領就任式での流鏑馬で北条に武があると言う風説が広まりつつある。今が好機だ。関東武者は武に従う。北条がそれを示すにはおあつらえ向きだ。しかも、倒すべき最強が向こうから来ているんだ。逃す手はない」

 

「…分かりました。しかし、殿には万が一に備えて待機していただきます。綱成様は北条家の一門にして河越城の支柱。ここで失う訳にはいきません。遠方よりの狙撃ならば殿の右に出るものは関東におりません。ですので、危うくなったら剣聖を射抜いてもらいます」

 

 有無を言わせぬ胤治の口調に苦笑しつつも頷く。それと共に実感したことが一つ。

 

「しかし、今思った。お前を招聘して正解だった」

 

「ふへっ!?」

 

「こうして多少キツいことを言ってでも私を制止してくれるだろう?自分の行動の問題点を指摘してくれる人材は貴重だ。自分を客観視できる人間でも、それができない瞬間はある。だが、止めてくれる人間がいれば最悪の事態は避けられるだろう。ありがとう。これからも、この調子で頼むぞ」

 

「は、はい!私は今まで必要とされてきませんでしたが、この程度の事でお役に立てるのならば、いくらでも!」

 

「ハハハ。さて。では、行くか」

 

 綱成ならば勝てる。そう信じてはいる。しかし、手の震えは止まらなかった。

 

 

 

 

 

 ヒュウウと秋風が吹く。空堀の上に架かった大手門へつながる橋の上に男は立っている。風の音に混じって馬の嘶きが聞こえる。ゆっくりと目を開ければ、そこにはあの夜に戦った姫が槍を握り立っている。馬は橋の向こうに置いてきたようだ。

 

 気配が違う。それを信綱は感じ取った。あの時よりも洗練され、研ぎ澄まされた気配。まるで氷柱のように。まるで錐のように。自分を倒さんとする意志が感じられる。この意志の力は、彼が失って久しいものだった。綱成が氷柱ならば、彼は霧。つかみどころのない気配を纏い、佇んでいる。ここは戦場ではなく、市井の中であるかのように、自然体で。

 

「来たか」

 

「来たぞ」

 

「今日はあの弓の強者はいないのか」

 

「ああ。今日は私だけが相手だ。先輩もどこかで見てはおられると思うが、手出しは無いだろう」

 

「いやはや、あの御仁とも戦ってみたかったものだが」

 

「それは私を倒してから言え」

 

「ふむ。それもそうであるな。では、行かせてもらおうか。此度は退かぬぞ」

 

「こちらこそ」

 

「「参るっ!」」

 

 二人の声が重なった。それと全くのタイムラグを見せずに二つの影が動き出す。橋の中央で剣と槍は激突した。金属の擦れる音、弾かれる音。これだけが響く。全軍の将兵がこの戦いを見つめていた。信綱の剣が真っすぐに綱成の胴を貫こうとする。けれども槍で防がれる。綱成の槍が信綱の身体を叩き潰そうと上から迫る。しかし剣を盾にされて、作戦はかなわない。

 

 加速する剣と槍。影も最早追いつかない。人間を越えた何かの戦いがそこにはあった。

 

 

 

 速い。だが負けない。綱成はそう思った。あの日から悔しさを活力に励んできた。一時期道を迷いかけたが、力づくで止めてくれる人のおかげで正しき道に戻れた。止まって見えると言われたあの日の槍。どうだろうか。今、この戦いを見ているはずの先輩の目には、この槍は見えているのだろうか。

 

 諦めないのは勝つより難しい。その言葉は心の中に生き続けている。そうだ。私に与えられたのは、槍を振るう才能じゃない。諦めない才能だ。剣聖に技術では勝てない。経験でも勝てない。だけれども。努力なら、負ける気はない!己の歩みの肯定。自分を信じてくれた人への恩返し。その為に、私は戦うんだから。槍の速さが加速した。

 

 

 

 

 

 

 人を活かす道を知りたかった。剣に生き、剣に死ぬ。それに疑問を抱く事は無かった。そう、今でもだ。自分がこんな上州の片田舎の領主でなければと何度思ったことだろうか。そうすれば自らの剣術をもっと高められる。だが、自分の目指していたのはこんな殺人の道では無かった。

 

 剣は人を殺す道具である。それを否定は出来ない。それでもどこかにきっと剣で生かせる命があるはずだ。変わる人生があるはずだ。そう信じて剣を振るって、殺して、振るって、殺して。もう何年になっただろう。当初の理想は摩耗し、消えて果てた。自分は殺人人形だ。機械のように剣を振るって、戦場で殺す。それしかできず、それしか知らない。領主としては平々凡々。軍を操る才能もない。だが剣だけが自分と共にあった。

 

 だが今はどうだ。心躍っている自分がいる。こんな思いを抱いたのはいつ以来だろうか。真っすぐに。ただ真っすぐに。自らを狙う槍は、その素晴らしいまでの技量の中に凄まじい気迫と共に、確かな純粋さがあった。求道の果て。そこには無念無想の境地があると言う。それに自分は未だ至れていない。真似事は出来てもだ。しかし、だがしかし。この姫の中に、確かにその境地への手がかりを見つけた気がした。自分はそれがたまらなく嬉しいのだ。そしてそんな原石と自らが競っているというこの状況が、歓喜だった。

 

「素晴らしい。これが我が弟子だったらば、どれほど良かったか」 

 

 思わず出した言葉に、槍が止まる。怪訝そうな目で見つめられ、困惑させたことに気付く。

 

「いや、済まない。貴殿の中に確かな求道の光を、求める境地への手がかりを見つけたのでな。つい年甲斐もなく興奮してしまった」

 

「…貴殿は」

 

「む?」

 

「貴殿は何故、剣を振るう」

 

「そのような事を聞いてどうする。問答で退く気はないぞ」

 

「貴殿は求道の光と言った。では、貴殿もまた求道者ではないのか。これだけの武を持ちながら、求める境地がありながら、何故戦場に剣を持ち込んだ。何故、己の道を行かなかった」

 

「弱かったからだ」

 

「弱い?」

 

「違う道を行くのには勇気がいる。当方に、それが無かっただけのこと。そして、当方はこの狭い片田舎からは逃れられなかった。縛る鎖が多すぎた。故に戦場で斬り続けることが人を活かす道だと信じ続けるしかなかった!貴殿にそれが分かるか!しがらみからも、血からも逃れられぬ田舎武士の哀しさが!」

 

「分からない。きっと生涯分からないでしょう。…貴殿は人を活かす剣を作りたかったのか」

 

「そうだ。もう、その望みも消えつつあるがな」

 

「では、私が示そう。私は貴殿を殺さない。人を殺さずとも示せるものがあると見せてやる。私の目的は貴殿に勝つ事だ。殺すことではない」

 

「不殺は必殺よりも難しいぞ。当方とて負ける気はなし。また、こちらに不殺をする道理なし。殺す気でかかるぞ。それでも、良いのだな」

 

「ああ」

 

「では、見せてくれ。北条の戦いを。貴殿の戦いを!」

 

「望む所。北条左京大夫相模守鎌倉府執権平朝臣氏康が義妹・北条上総介綱成、圧して参る」

 

「長野信濃守業正が盟友、上泉伊勢守信綱、参る」

 

 

 

 

 

 再び二つの影が動き出す。一歩、二歩、三歩と歩むごとに信綱の気配は周囲の空気と同化していく。殺意など微塵も感じさせず、彼は歩む。まさにこれこそ無念無想。武の極み。すべての求道者の求める到達点。彼は確かに今、そこに立っていた。一度収められた剣がゆっくりと鞘から抜かれる。

 

 

 対するは神速の速さ。こちらにも殺意はない。最早意識は槍と同化しつつある。風も音も置き捨てて、無想の境地を破らんとする。そして二つの獲物は衝突する。無音。一拍おいて凄まじい轟音が鳴り響く。あまりの速さに音は遅れてやって来た。そして――――

 

 

 

 

 血が口から漏れ出た。剣聖上泉信綱の口から流血している。彼が己の腹を見れば、槍の穂先でない方で突かれている。腹の中には刺さっていないが、その衝撃故に内臓の一部が破損したらしい。

 

「負けた、か」

 

 しかし何故。確かに彼女は強かった。だが決して自分も劣ってはいなかった。それでも結果は自分の敗北。思わず己の手に握られた剣を見る。愛刀は変わらぬ輝きを誇っている。であるが信綱は数十年単位で付き合ってきたこの剣の些細な変化に気が付いた。

 

「刀身が、歪んでいる…のか」

 

 そう。それこそが正解である。あの時確かに彼の剣は綱成を捉えていた。しかし、この剣の歪みが精密機械もかくやと言うべき剣を鈍らせた。結果綱成は槍の穂先を用いてこの若干軌道の歪んだ剣を跳ね飛ばし、反対側で信綱の腹を突いたのだ。それ故に綱成はダメージを負わず、僅かに髪の一部を切られたにとどまっている。

 

「負けた。負けたのか。なるほど……」

 

 道を見失っていない者と見失った者。負けるのがどちらかなど、始めから決まっていたのか。ならば

 

「是非もない、か…」

 

 カランと剣が彼の手から滑り落ちた。剣聖が、その異名で呼ばれ始めてから初めて敗北した瞬間だった。そして彼は両手をゆっくり顔の横まで上げる。

 

「降伏しよう。当方の負けだ」

 

 上泉城はたった一人の死者も出さず無血開城した。

 

 この戦いを三鱗記はこう記す。

 

『此の上泉城における戦い、正に人外の戦い也。其の剣も槍も、最早己が眼にて捉えられる者は無し。剣と槍ぶつかる事幾合にも及べど、その全てにおいて音は遅れて来たり。是、音を越えて己が得物を振るいし証なる哉。実に恐ろしきは道を究めし者の技也。我が少なき語彙は此の死闘を語るに足らず。故に此処で顛末は終わりとする。されど敢えて一つ言わんとするならば、不屈なりし者こそ勝者たり得ると言うべき也』

 

 

 

 

 

 

 

 上泉城の陥落後、上泉信綱は拘束され護送されることになる。敗者に選択の余地なしとして自ら縄についた。しかしながら待遇は高待遇で、貴人と同様の扱いを受けている。また、娘の上泉秀胤は父親の方針を受け入れ、北条の兵を中へ入れた。

 

「よくやった、綱成。これで、名実ともにお前が関東最強だ」

 

「はい…!先輩が、私をあるべき道に戻してくださったおかげです。そうでなければ、私は負けていたでしょう」

 

「それでもだ。私が何を言ったにせよ、勝ったのはお前だ。これは、お前の実力だ」

 

「ありがとうございます」

 

「上泉父娘はどうしている」

 

「大人しくしております。白井殿が現在上泉城の掌握をしています」

 

「そうか。明日には厩橋城へ行けるな」

 

 兵をまとめ、補給関連の指示を出す。後方の桐生城に留まっている兼成に使者を出し、補給線の構築をさせる。今のところ、これだけの軍勢だがまったくもって兵糧不足に陥っていない。自分で教育しておいてあれだが、卓越した内政能力があったようだ。良く考えれば、史実の今川義元も無能ではないし、今川の血が馬鹿で構成されている訳もないか。そうでなければ国は保てない。今川は桶狭間の後すぐに滅んだイメージがあるが、数年はもっている。もし氏真の能力がさらに高ければどうにか出来た可能性はある。

 

 もううちの軍は彼女なしでは成り立たないな。段蔵率いる忍び衆と同様の重要性を誇っている。先ほど桐生城に送った使者も忍びだ。スピードが違う。速さは戦場において一位二位を争うレベルで重要である。補給や情報は速さが命だ。例えば普墺戦争や普仏戦争ではプロイセン軍は鉄道網をつかった迅速な補給で勝利を掴むに至っている。他にも色々要因があるが、これも大きな理由だろう。制空権の概念が無い世界では鉄道は強力だ。…欲しいな。

 

「ただいま帰還しました」

 

「おお、段蔵。赤石城はどうだった」

 

「まったく問題ございませんでした。朝定様が自ら陣頭指揮を執り、それに応えるように各部隊が奮戦。一度攻め、適当なところで退き、今日の攻勢はもう無いだろうと思わせた敵に対し深夜に再度攻撃を行う事で敵を混乱させました。そして城は陥落。城将は死亡しました。兵数の損害は僅か。現在厩橋城に向けて進軍の用意をしています」

 

「おお、そうか…」

 

 え、あ、マジか。一応部隊を分ける上で名目上でもなんでも指揮官が必要だろうと思っていたが、まさか陣頭指揮を始めるとは思わなかった。教育の効果が出ているようで何より。私はあれか?もう教育係に転向した方が良いだろうか。自分がいらなくなる日も来そうだな。一抹の寂しさを覚えつつ、次の進軍に備えることにした。

 

 

 

 

 

 数日かけて厩橋城に進軍した。厩橋城は後世では前橋城として知られる。利根川の近くにある為、よくその氾濫の被害を受けていた。分けていた部隊は合流し、一つにまとまっている。厩橋城周辺の城砦群は相次いで降伏した。今まで類を見ない量の軍勢に加えて、ここで撃退できても南方からも大軍が迫っていることを知り、絶望して降伏を申し出てきた。この噂も全て河越忍びと風魔が共同で流している。

 

「朝定、良くやった。報告は受けている。素晴らしい陣頭指揮を執ったそうだな」

 

「いえ、まだまだです。すべてご指導ご鞭撻のおかげです」

 

「謙遜することはない。その年でここまでできれば上出来であろう。関東管領に相応しい将器を持っていると喧伝出来る。泉下の難波田弾正も喜んでいるだろう。この城が落ちれば、お前はここに留まってもらう。桐生城からの中継拠点になってくれ。頼むぞ」

 

「お任せください!」

 

「よし、いい返事だ。今は休んでくれ」

 

「はい」

 

 休むために下がる朝定の背中を見ながら、随分成長したものだと思う。昔はオドオドしていたが、今は胸を張っている。明るく笑う事も多いし、上田朝直や太田資正からもよく感謝の言葉を貰う。もし私が未婚のまま死んだら河越城は朝定に譲り渡すのが良いかもしれない。そこら辺は氏康様との相談だが。

 

 さて、それはともかく、上野中部まで進軍した。そろそろこっそり進めていた策が開花するはずだが…。

 

「申し上げます!」

 

「何か」

 

「総社長尾家において政変が発生。当主長尾景孝は討ち取られ、こちら方の長尾景総が当主に就任しました!」

 

「よろしい。報告ご苦労」

 

「はッ!」

 

 そう。これこそが、と言うほどでもないが温めていた策である。長尾景総は実は北条家に出奔していたらしい。らしい、と言うのはその詳しい経緯を聞いていないからだ。氏康様なら知っているのかもしれないが。籠城の方針をとってもそれに反対する家臣は一定数いる。その家臣たちに接触しクーデター工作をさせ、風魔に護衛された景総が総社長尾の本拠地蒼海城に侵入。一気に制圧して乗っ取るという寸法だ。籠城派の家臣は殲滅するように指示を出しているので、すぐにこちらか本隊か第二軍に接触があるだろう。

 

 この策は、景総の存在を知った私が当人や氏康様と相談の上、侵攻以前に計画していたものである。途中までは第二軍と行軍し、侵攻が良い段階までいったら実行する計画だった。これでこちらも色々やりやすくなった。他の長尾家は敵対姿勢を変えないだろう。ならば好都合。全て総社長尾に吸収させてしまえば楽だ。そして厩橋城を開城させるための材料も揃った。胤治を呼び出し、厩橋城への使者になるように命じる。護衛は段蔵だ。彼女ならば一人で十分に守りきれるだろう。

 

「総社長尾で内紛が起こり、北条家家臣の長尾景総が当主となった。これを材料に長野賢忠(厩橋城主)を説得できるか」

 

「問題ございません。お任せくださいませ。必ずや、殿の望むようになりましょう」

 

「分かった。全て任せる」

 

「ありがとうございます」

 

 

 

 

 まぁ大丈夫だろうと思っていたが、案の定と言うべきか厩橋城はあっさりと開城した。長野賢忠は一族と共に箕輪城へ落ち延びて行った。向こうの降伏条件は無血。それを拒む理由もないので受け入れた。総社長尾が敵にまわり、使えていたそこ経由の補給路や連絡路が絶たれたことが決め手になったらしい。上手くまとめてくれた胤治には感謝だ。やはり下総の片田舎に埋もれているべき人材では無かった。過去の自分の慧眼にも感謝だな。

 

 厩橋城に入城し、一度兵を休める。補給拠点にする観点で、城内の備蓄や元城兵たちの処理もしなくてはいけない。風魔からの連絡が入り、長尾景総は第二軍に接触。まぁ氏邦様としばらく行動を共にしていたのだし、良く知らない私よりも意思疎通のしやすい向こうを選んだのだろう。氏邦様から総社長尾領の南部に割拠する和田業繁を攻めるように命じられ、現在行軍しているようだ。家臣団の粛清も完了し、行軍に問題はないようだ。

 

 ここまではなにもかも順調。予想外のことも起こっているが、全ていい方向に予想外な事だ。お茶を飲みながら少し一息ついていた。

 

「いえーい。お疲れだねぇ~」

 

「そう仰る氏政様はお元気ですね」

 

「うん、まぁ私は何もしてないしねぇ~。でも、お勉強になることは沢山あったよ。流石だねお兄様。お姉ちゃんが信頼してる理由が分かったよ」

 

「そうですか」

 

「もうつれないなぁ。そんなんじゃお姉ちゃんに振り向いてもらえないよ」

 

「ゲホッゲボッ」

 

「大丈夫?」

 

「大丈夫?じゃないです。な、ななな何を仰ってるんですか!」

 

「ねぇお兄様」

 

「なんですか」

 

「お姉ちゃんのこと、好きでしょ」

 

「……」

 

「その顔は肯定だね」

 

「いや、あの、私は恋愛などしたこともないので、好きとか言われましても」

 

「……うわぁ、そこからか…まぁ良いけど。私は姫大名は恋愛禁止とか嫌なんだよねぇ。それにお姉ちゃんには幸せになって欲しいし。いままで頑張って来たんだから、報われなきゃ嘘でしょ」

 

「それは、分かりますが」

 

「お姉ちゃんはお兄様のこと結構意識してると思うよ。だから私はお兄様には頑張って欲しいんだ。このまま手柄を上げて、同時にお姉ちゃんが関東の王になれば、お姉ちゃんの決定に逆らうものはいなくなる。婚姻に関しても。だから、気張って励んでね」

 

「……善処します」

 

「期待してるよぉ~お義兄様」

 

 ニコニコ笑い、鼻歌を奏でながら去って行く氏政様。私は、この感情は恋なのだろうか。両親の死以来、空虚なままだった人生に彩りと生きる意味をくれたのは他でもない。氏康様だ。それは間違いない。じゃあ、私は恋してるのだろうか。分からない。こればっかりは分かりそうにもなかった。もし氏政様の言葉が真実ならば、この前のお忍びはデート的なものなのだろうか。

 

 軍略政略とは違い、何の道しるべもない。自分の進むべき道を決められず、拳を握りしめた。




遅くなりました。登校途中などに昔いただいた感想を見返したりしてるのですが、皆さん本当にありがたいという気持ちになります。お待ちしてますので、是非。

それはそれとして、ハーメルンに投稿を始めてはや一年弱。やっとルビの使い方を学びました。もしかして、いままで読み方分からなかった地名人名とかありますかね…?もしそうなら過去の話を編集し直します。下記にアンケートを載せるので、お答えいただけると幸いです。


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第60話 北伐・後


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もう一度上野の郡分けと上野の城砦の図です。


上泉城が囲まれる少し前。上州の中心地であった平井城はもう間もなく戦火に巻き込まれんとしていた。国峯城は既に陥落し、北条軍の第二軍六千と本隊八千がやって来ていた。この総勢一万四千は現在でこそ国峯城にて城内物資の接収などを行っている。しかし、それが終わり次第平井城を目指すのは火を見るよりも明らかであった。

 

 平井城では、脱出の方針を固めた上杉憲政が今まさに城から落ち延びようとしていた。

 

「憲政様、お早くお支度を。間もなく北条の軍勢が押し寄せてまいりますぞ」

 

「ああ…」

 

 家臣からの呼びかけにも反応は薄い。彼は今までほとんど上州から出ていない。この前の二度の遠征はいずれも例外的だった。加えて、本拠地を喪失するのだ。意気消沈するのも無理はなかった。その証拠に北条と呼称する家臣に注意することもない。いや、例え元気いっぱいであったとしてももう北条を僭称する伊勢家の分家と言うことは出来なかった。最早北条の家名は朝廷や幕府からも認められた公称。それは同時に上杉憲政の権威は全否定されたことを示していた。

 

「殿、我らもこの上州に残ります!」

 

「何を言うんだ、妻鹿田(めかた)…」

 

「かような事を申しては何ですが、万が一殿と弟君が共に参られ、途上にて北条の軍勢に囚われますればいかがなりましょう。我が妻は、龍若丸様の乳母にございます。龍若丸様は必ずや我らがお守りし、この上州で殿と越後勢がお越しになるのをお待ちしたく思います!」

 

「兄上、妻鹿田の申す通りです。私は兄上が戻られるまでこの上州に留まりとうございます」

 

「龍若丸…分かった。今しばらくの我慢だ。妻鹿田…頼むぞ」

 

「ははぁ!」

 

 出来た弟である。或いは彼が当主だったのなら、ここまで戦乱は大きくならなかったかもしれない。北条と共に新秩序を築く道もあっただろう。それくらいに聡明な好青年だった。兄とはある意味対照的である。

 

 妻鹿田新介は上杉譜代の重臣ではなく、憲政の代になってからの重臣だった。元々は近江六角氏の家臣・目賀田氏の一族のようで、妻や弟の長三郎・三郎助、伯父の九里(くり)采女正(うめのかみ)と共に関東に下向していた。そしてそれを上杉憲政に召し抱えられたのである。

 

 上杉憲政も一応君主らしく振舞おうと他国から優秀な人材を求めるために招聘をしていた。そこまでは良かったのだが、人を見る目に欠けた彼は凡人や善人忠臣とは言い難い人物を重用してしまった。隗より始めよとは言うが、それが成功するのは賢人の場合で、彼の場合はその真反対をやってしまった。ちなみに成功例は河越城の白井胤治であり、彼女が重用されてから下総の知識人などが相次いで北条家に仕官し始めていた。

 

 

 さて、それはともかくとしておいて、上杉憲政は脱出を試みる。付き従うのは僅かな家臣のみ。憲政本人は物資の入った樽の中に身を潜めていた。長野領を通って沼田城を目指していた。この間に岩櫃城、箕輪城、会津、北常陸の佐竹、小田などに相次いで影武者が出発。それに気を取られた風魔衆は取り逃がすことになる。プライドの高い憲政がこのような惨めな策に出るとは誰も予想していなかった。

 

 氏康は武田は絶対にありえず、自らの父と争った越後の長尾もあり得ないと踏んで、関東内のこれらの勢力かもしくは蘆名かと考えていた。風魔の統括をしている幻庵もこれと同じ意見である。そして未来知識のある兼音は風魔の実力をやや過剰に評価していた為、まさか取り逃がすこともあるまいと思ってしまっている。北条家きっての切れ者三人によって生まれたこれらの偶然が憲政に味方した。

 

 沼田城を経由して越後領内に入る憲政は樽の中で叫び出したい気分だった。しかしそれさえ出来ず、彼は小さく呟く。

 

「いつか必ず戻ってきてやる」

 

 隻眼の目を見開いて彼は拳を握りしめる。その手からは血が数滴零れ落ちた。

 

 

 

 

 そして憲政脱出から数日後、平井城は陥落した。主なき城は砂上の楼閣。脆く崩れ去ったのである。ここに山内上杉家の本拠地はついに北条家の治める所となった。これは事実上の滅亡を意味していた。繰り返すが、氏康を始めとする一行はまだ憲政の行き先を知らない。取り敢えず脱出したと言うことだけは知っていた。平井城には多くの兵糧弾薬が残されており、それの接収作業に入る。同時に後方軍の多米元忠率いる二千が入城した。ちょうど厩橋城が落ちたのと同タイミングである。

 

 

 

 

 城の陥落の少し前、上杉龍若丸も脱出していた。彼は妻鹿田一族と共にあばら家に身を隠していた。

 

「妻鹿田」

 

「はっ」

 

「もし越後の援軍が来ぬ時は、我らだけでも北条勢へ討って出よう!こうなったら最後まで、戦って散るのだ。囚われて恥を晒すことだけはしまいぞ!よいな」

 

「……はっ」

 

 決意を固める龍若丸に対し、妻鹿田新介の顔色は優れない。龍若丸が身体を休めるため一時的な仮眠を取った時である。その時新介の元に彼の叔父、九里采女正がやって来る。

 

「お主、本当にあの若造と心中する気か」

 

「…」

 

「よせよせ。今時忠義を貫いて、楠木正成の真似事か?我らは山内上杉で十分良い暮らしをしてきた。同時によく働いた。もう頃合いであろう。沈む泥船にいつまでの乗り続け共に沈むのは愚行の極みぞ。北条と言う宝船に乗り換えられるのは、今だ!今をおいて他に機会はないっ!」

 

 新介の目に夜の闇より深い黒いものが渦巻く。彼の目線はゆっくりと寝息を立てる龍若丸へと向かっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 平井城の大広間―かつて上杉憲政を始めとする山内上杉家の当主が座っていたその席で、氏康は歓喜していた。

 

「素晴らしい大戦果よ!もう山内上杉はおしまいね。これで、お爺様の、早雲公の夢が(まこと)のものとなる。関東の半分が我らの手に落ちた。悲願達成の時は近いわ!!」

 

 珍しく興奮を隠せず、紅潮した頬で大きな声を出す氏康。しかし、周りの家臣団もそれを珍しい、と思う余裕さえなかった。あの幻庵でさえ。

 

「姉上、報告によれば厩橋城も陥落したとの事」

 

「並びに総社長尾家での政変にも成功。万事順調です!」

 

 発言したのは陸奥守氏照、近江守氏規である。氏康の妹であり、いずれも優秀な武将候補として将来を楽しみにされている逸材である。他の妹である氏邦は現在周辺諸城の掃討にあたっており、氏政は兼音と行動を共にしている。ちなみに、まだこの他にも北条シスターズは存在しており、将来北条氏秀、氏光、氏忠となる人物がいる。だが、彼女らはまだ幼少であるため参加していない。今は小田原で留守番である。為昌は小田原の留守居役の為不在である。

 

 こうしてみると北条家は女性の多い一族であった。特に氏康の代はひとりも男がいない。こうなるとどっかから婿を引っ張って来ない事にはどうしようもないのだが、今は誰も気にしていない。みんなまだまだ若いからである。

 

 次々上がる報告はいずれも戦勝によるもののみ。歓喜するなと言うのはどだい無理な話であった。

 

「領民はどう?」

 

「いずれも歓迎の姿勢を見せています。どうやら我らの治める地の在り方は既に広まっているようで。街によっては歓待を受けているとか。また、指示通りに生活の苦しい農村に大量の食糧支援をしたことも大きな効果を発揮しております」

 

 北条のスタンスは慎重第一である。また農民や商人、職人などの武家でない圧倒的多数の存在を重要視していた。その政策の一環として、今回だけに限り不作や徴収によって貧困にあえいでいた農村に大量の米や野菜、味噌や塩などを送り付けている。まだ正式にこの地の領主となったわけでもない彼らの大盤振る舞いに領民たちは大歓喜していた。

 

 報告通り、街の中には歓迎の姿勢を見せるものも多い。過激な村や町では領主を引きずり降ろして開城してしまったところもある。また、商人による山内上杉への兵糧の不売運動も起こっていた。こうすることで新たな領主に取り入ろうとする商人たちの生存戦略であった。

 

「そう言えば上泉は、剣聖はどうなったの?」

 

「はい。先鋒総大将の一条殿の報告によれば、綱成様と一騎打ちを行いこれに敗北。現在投降し拘束されているとの事」

 

 清水康英が報告する。これに場はざわつきく。誰もが驚愕を隠せなかった。元々強いのは国府台、そして河越夜戦で証明されている。しかし、剣聖を敗れるほどだとは知らなかったのである。さしもの氏康も驚きを隠せない。

 

「本当に?あの子がやってくれたの?」

 

「はい。確かなようです」

 

 事実と分かると次々と綱成をたたえる声が上がる。

 

「なんと、まさかあの上泉伊勢守が敗れるとは!」

 

「いやはや恐れ入った」

 

「氏綱様のご判断は正しかったのだなぁ」

 

「先の関東管領就任式での一条殿に続き、今度は綱成様が。これで北条は武でも関東にその威光を轟かせるぞ!」

 

 詠嘆する者、過去に思いを馳せる者、明るい未来を見て喜ぶ者、様々であった。

 

「あとは逃げた上杉憲政とその弟・龍若丸を捕らえるのみね。まぁそう遠くへは行ってないでしょう。直に風魔によって捕まるはずね」

 

「残るは箕輪城と沼田城。ここを落とせば岩櫃城は自然と降伏するじゃろう。最後の正念場ぞ」

 

「ええ、分かってるわ、おばば。まだまだ油断は禁物。再度進軍の準備を。目指すのは箕輪城。そこで先鋒と合流しましょう。あと少し。ほんの少しよ!皆、精一杯奮闘して頂戴!」

 

「「「「ははぁ!」」」」

 

 平井城に闘志に満ちた声が響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 厩橋城が落ちた今、現在向かうべき場所は箕輪城である。この城を落とせば、反北条の勢力も大きく戦意を後退させるだろう。そうすれば勝利は益々固くなる。本隊からの箕輪城での合流を指示する内容の伝達を受け取り、その準備を進めながらそう思った。上泉信綱は娘共々賓客待遇で陣にいる。監視はしているが、まったく不審な動きはない。憑き物が落ちたようだと娘の秀胤は言っていた。

 

 先日、この城が落ちたばかりのタイミングで氏政様に言われた言葉はまだ頭の中で何度も反芻されていた。自分の気持ちにさえ整理を付けられず、いったいどうやって戦うのか。それに万が一両想いだとしても我々の間には絶対的な壁が存在する。身分差と言う壁だ。氏政様はああ言ったものの、これを乗り越えるのは容易ではない。そして、それをして幸せになれるのだろうか。壁を越えられなければ最悪あのロミオとジュリエットみたいになる可能性も否定できない。

 

「はぁ……」

 

 深いため息が零れる。どうしようもなかった。一朝一夕で解決する悩みじゃない。

 

「お悩みだねぇ、お義兄様」

 

「誰のせいで…いやなんでもありません」

 

「あはは。聞かなかったことにしてあげる。で、ちょっとは考えた?」

 

「一応」

 

「結論は?」

 

「……」

 

「まぁ、そう簡単に出せる結論じゃないよね。ウン、それは理解してるよ。身分差を乗り越えるって言うのは言うよりずっと難しい事だからね。でもじゃあ…」

 

 氏政様は耳元で囁く。

 

「お姉ちゃんが引退したらどうなる?」

 

「それは…!」

 

「姫大名は家臣と婚姻できない。これは確かに絶対の掟。でもこれが適用されるのは当主だけ。引退した元当主はどれほど実権を握っていて、実際の当主となんにも変わらなくても掟から解放されるんだよ」

 

 ニコニコとしている氏政様の顔。しかし、目の奥には覚悟を問う眼差しが確かに存在していた。決して柔和で朗らかな優しいだけの少女ではない。それを身をもって理解させられた。流石はあの氏康様の妹君だ。そして史実における北条の最盛期とその滅亡を招いた人物でもある。無能なバカが君主になれるほど、この世界は甘くはなかった。

 

「私はねぇ、お姉ちゃんにはすべてが終わったら休んで欲しいの。真面目な人だからさぁ、きっと頑張り過ぎて、倒れちゃう。それこそ、恋もせずに。そんなのってないよね。あんなにみんなの事を考えて、頑張ってるのに。誰かの幸せを守るために戦ってたら自分が幸せになりませんでしたなんて、どんな冗談なのさって感じだよ」

 

 吐き出すように言うけれど、その言葉の中には確かに姉に対する尊敬と深い愛があった。いつも呆れられたり怒られたりしても、それでも目の前の少女は北条の名を背負おうとしていた。

 

「だから、関東統一の戦いが終われば、お姉ちゃんには引退してもらうの。そしてそこからは、私が背負う。この地に平和と安寧をもたらす。それが私の役目。きっと歴史はお姉ちゃんを英雄として称えて、私をお姉ちゃんの遺産で国を保った凡人って言うんだろうね」

 

「そのような事はありません!国を保てなかった君主がこの四海を見渡してどれほどいるでしょうか。国を保つのは、興すのと同じくらい難しいのです。そこに優劣はありません」

 

「ありがとう。でも、きっと民衆は華々しい英雄譚を望む。それに欠ける内政家になんて興味はない。でも良いんだ。それが私の生き方。私の在り方。お姉ちゃんに守ってもらって、愛してもらっている私の恩返し。どれほど嘲笑されても、過小評価されても構わない。凡人には凡人の戦場があるんだから」

 

「氏政様…」

 

「きっと私一人じゃ国は保てない。お義兄様や他の家臣のみんなの助けも必要。その時は頼ると思うけど、それ以外ではお姉ちゃんを助けて欲しいの。冷徹なふりして誰よりも傷ついて。冷静な仮面をかぶってるのに本当は誰よりも優しくて。努力して、寝る間も惜しんで、大きな重圧を跳ね返して、壮大過ぎる夢を背負ってる。そんなお姉ちゃん。私の誇り。家族の誇り。私を愛してくれたお姉ちゃんを今度はお義兄様が愛してあげて。私が貰ったのと同じように」

 

 覚悟と信念。それをにじませる氏政様は確かに王者に相応しい風格を備えていた。それはきっと華々しくなくても、華麗でなくても、己の道を貫こうとした英雄の姿であった。彼女の小さな身体の影に一瞬だけ初老の男の姿が見えた。瞬きしたら消えたその姿はきっと、私が書物の上でのみ知る北条氏政の姿。無能と嘲笑われ、凡人と誹られていてもきっと彼は確かに一人の英傑だったのだ。そう直感した。

 

 そしてそれと同じ器を、目の前の少女は持っている。優しく穏和で朗らかなその目の奥にきっと。そう確信せずにいられなかった。

 

「だから、お義兄様。よく考えて。どれだけ悩んでもいい。でも時間は有限。いつかは終わりが来る。それだけは、覚えておいて欲しいな。覚悟が決まったら私に教えて。姉妹全員で協力するから」

 

「……はい」

 

 そう絞り出すのが精一杯だった。するとスッと威圧感は消え、元の氏政様に戻る。

 

「さぁ!お姉ちゃんに呼ばれてるんでしょう?箕輪城へ行こう!」

 

「承知しました」

 

 次の代も安泰そうです。空の氏綱様に心の中でそう報告した。

 

 

 

 

 

 

 箕輪城を囲む本陣はやや南方にある並榎(なみえ)城に敷かれた。この城の持ち主であった並榎将監は籠城を諦め、兵と兵糧を率いて箕輪城へ後退している。そして空き城となったここに北条軍二万前後、つまりほぼ全軍が集結していた。

 

 軍議の場では、北条家家臣オールスターが集合して現状の確認と今後の方針について意見をまとめていた。またこの中には見事クーデターを成功させた長尾景総や帰順した上野の将などもいた。長尾景総はクーデターの後和田業繁を討ち、そこを北条の勢力圏に組み込んだ。今の北条の勢力は主に南半分を抑えている。

 

 

【挿絵表示】

 

上野の現状の勢力図

 

 

 

「つきましては第一軍と本隊はこのまま北上して沼田城を囲んで箕輪城の孤立化を図る方針としたく思います。またこの際第二軍はこのまま箕輪城の包囲を続行していただくことになるかと。何かご意見のある方は?」

 

 最近すっかり司会進行が板についてきた盛昌が進行している。この意見には特に反対する理由がなかった。現在我々第一軍の補給の最大重要拠点は桐生城である。ここから厩橋城に補給線が繋がり、そこから我々まで補給が来ている。その桐生城のある山田郡から割と大きめの道が利根郡に向けて伸びている。補給はしやすいだろう。

 

「第一軍としては賛成する」

 

「第二軍も同様だぜ。チマチマ城を囲むのは性に合わないが…やれと言われたらやるのが仕える者の義務だろうからな」

 

「分かりました。氏康様、これでよろしいでしょうか」

 

「問題ないわ。それと…皆に見せたいものがあるわ。連れてきなさい」

 

 氏康様がそう告げると、合議の行われていた広間に面した中庭に男たちが連れてこられる。彼らは何事かをわめいているが、周囲の兵に槍を向けられ大人しくなった。

 

「上杉家家老、妻鹿田新介とその一族よ。上杉憲政の弟、上杉龍若丸の身柄と共に降伏してきたの。端的に言えば裏切りね。龍若丸は憲政の居場所は吐かなかったけれど、唯一話してくれたことによればこの妻鹿田がこの地に留まるように進言したとの事よ」

 

 ごみを見るような目で全員が彼らを見始める。私とて、裏切りを否定する気はない。生き残る為、信念を貫く為、夢を叶えるため、領民を守るため。理由は様々だろうが、決して悪ではないと思っている。だがしかし、妻鹿田新介は他国の人間であり、それを上杉憲政に召し抱えられたと言う。最終的には妻が上杉一族の乳母になるまで出世できた。その姿はどこか自分と重なるところがあった。その様な大恩がありながらこの所業。納得しがたかった。

 

「長年の恩を恩とも思わず、我らに寝返った不忠者よ。彼らを受け入れれば他国の笑いものになるのは必定。加えてきっと当家にも仇なすわ」

 

「そ、そのような事はございません!必ずや、北条のお家に身命を賭してお仕え致します!」

 

 いい加減見苦しいので少し黙ってもらおうと発言する。

 

「妻鹿田とやら。いや唆したのは奥の九里采女正か?まぁどちらでもいい。最終的に決めたのはお前だ。さて、身命を賭すとか言っていたが、お前がそうすべきであり、そうすると言った家は今どうしている。何故、お前は一戦もせずにここにいる?」

 

 私の発言に全員が頷いている。寝返りが悪なのではない。ただ、そのやり方が悪なのだと私は思った。抗戦して、そして下ったのならまだいいだろう。忠の末の選択だ。だが、彼はそれさえしていない。しかも、よそ者であるのに厚遇されていた恩を返さずに、だ。自分の中の倫理観と言うべきか、消えかけの正義感と言うべきか。ともかくそういった残骸が彼を非難して叫ぶ。

 

「な、ならば!ならばそこにいる桐生や那波、赤井に由良に成田も同じでございましょう!何故妻鹿田一族だけがこのような憂き目に!」

 

「まだわからぬか。彼らは我々の調略で寝返った。彼らは己の民と血を守る方を取ったのだ。そして彼らはその領地になれている。上野支配を円滑にするのに必要であった。成田家はそもそも抗戦していてもどうせお前たちが来ないだろうと踏んでこちらについた。現に山内上杉内部は割れていたし、武田にもやられてそんな余力はなかっただろうから正解だな。それに比べてお前はどうだ。憲政の近くにおりながら長年の恩を恩とも思わず、主を見捨てた不忠者で卑怯者ではないか?比ぶべくもない。在地の領主は主が責務を果たさぬのならそれを見捨てる権利がある。お前はどうだ。在地の領主ではない他国からの流れ者が召し抱えてくれた主にすべきことは、何だった」

 

 元忠が諭すように言う。真っ青を通り越して真っ白な顔になる妻鹿田。それを誰もが白々しい目で見ていた。内通したければもっと早く言うべきだった。こんな土壇場になっての裏切りを行うものは必ず後々害をなすだろう。

 

「私は憲政なんて大嫌いだし、とっとと死んでほしいけれど今だけは彼に同情するわ。もっともこんな家臣の性質も見抜けなかったのが悪いのかもしれないけれど。我が父は仰られた。『義を捨てての滅亡と義を守りての滅亡は別である』と。そしてその前者のいい例がこれね」

 

 能面のような表情のない顔で氏康様は告げる。これはもはや実質的な死刑宣告だった。

 

「首を刎ねよ!と言いたいところだけれど、本当は私にこれを言う資格は無いのよね。そして、あなたに会いたいと言う人がいるわ」

 

 その言葉と同時に閉じられていた別室の扉が開かれ、中から若い男が現れる。おそらくあれは龍若丸だろう。どうやら憲政と彼とはずいぶん年の離れた兄弟のようであった。

 

「た、龍若丸様…!」

 

「処遇は任せるわ。あなたの家臣でしょう、上杉龍若丸」

 

「ど、どうかお慈悲を。仕方なかったのです!私とて一族の者を守らねばならず!」

 

「氏康殿、剣をお貸し願いたい」

 

「許可するわ」

 

 氏康様は一振りの剣を貸し与える。万が一にも暴走しないように龍若丸の周りは兵たちが囲んでおり、いつでも槍を突き出せるようになっている。

 

「私を裏切ったのは許そう。私が身命を賭して仕えるにたる主では無かったというだけの話だ。それは私の不徳の致すところである。しかし、兄上を裏切った事だけは許し難し!」

 

 彼が剣を振るい、ギャっと悲鳴を上げて妻鹿田新介は絶命する。そして直に九里采女正も討ち取られた。慄く妻鹿田一族を鎮めるために兵が槍を向ける。

 

「兄上の仇討をさせていただいたこと、感謝する」

 

「最後まで誇りを貫いた者に対するせめてもの餞別よ」

 

「山内上杉の男として生き恥を晒す訳には参りませぬ。救命の申し出ありがたけれど、辞退させていただきます。私はこの場で腹を切らせていただきたく。妻鹿田一族は…男は斬首、女は追放をお願いします」

 

「…そう。その覚悟を尊重しましょう。妻鹿田一族に関しても引き受けます」

 

 胡坐をかいて切腹しようとする彼に、氏邦様が待ったをかける。

 

「そのような不義不忠の者を切った剣で腹を切らせるなどあってはならない。これを使え!後、そこに転がってる死体もどっかに片付けろ!」

 

 そして小さな短刀を放り投げた。

 

「これが北条なりの義の示し方だぜ。覚悟見せた武士だ。それなりの対応をするのが筋ってもんだろう」

 

 そう言いながら彼女は氏康様に許可を求めるように目線を送り、氏康様もそれに応え、小さく頷いた。

 

「敵将に対する格別の配慮、感謝の極み」

 

 扇谷上杉は降伏を選び、山内上杉は拒否した。この家のどちらが幸せか、それは我々では判断できない。一般論ならともかく、当人の幸せは当人たちが決める事だ。生きる事だけが幸せとは限らない。

 

「介錯は私が引き受けましょう」

 

「貴殿は…?」

 

「お初にお目にかかる。私は河越城主。一条土佐守兼音にござる」

 

「そうか、貴殿が…」

 

「氏康様、よろしいでしょうか」

 

「認めます」

 

「ありがとうございます」 

 

 腹を召そうとする龍若丸の後ろに立ち、己の刀を抜く。

 

「知勇名高き貴殿に介錯されるとあらば、一生の最後に良い土産となった。或いは貴殿のようなものがいたのなら、当家もこのようにはならなかったかもしれんな」

 

「…それはどうでしょう。すべては結果論。あり得ぬ話をしてもせんなきことです」

 

「であるな。スパッと頼むぞ」

 

「この刀は切れ味が売りなれば。直に浄土に参れましょうぞ」

 

「ハハハ、そうか。地獄で待っているぞ」

 

 それだけ言うと彼は多くの者に見つめられる中、小刀を腹に突き刺した。

 

「…御免」

 

 上杉龍若丸。享年十三。上杉憲政の弟とは思えぬ立派な最後であった。

 

 

 

 この一件を三鱗記はこう記す。

 

『戦の世は、如何なる故からか好青年から先に死に逝く。嗚呼、彼の者達は前世に如何なる業を積んだのか。多くの有望なる若者露となり散りけれど、中でも上杉憲政が実弟、上杉龍若丸の如きは敗将の鏡、真の武士也。生きる事も誇りであり、また死ぬべき時に死ぬは意地なり。何れが正しきか。是は己の決める処也。実に虚しきは戦国の世。怨むべきは残酷なりし世界。されど涙流すは強者の驕り故、其れは堪えて死出の道を見送るが武士の作法かな』

 

 

 

 

 

 

 

 箕輪城。ここでは老将長野業正が絶望的な籠城戦を行おうとしていた。そこへ家臣が駆けてくる。

 

「申し上げます!北条の使者が参っております!」

 

「降伏勧告には応じぬ!追い返せ」

 

「いえ、そうではありませぬ。上杉龍若丸様のご遺体を持って参ったと」

 

「何だと!」

 

 業正も珍しく焦っている。そんなはずはない。何故ならば上杉龍若丸は主の憲政と共に逃げ延びたはずだ。北条の悪質な偽りであると思った。しかし、確認はせねばならない。必死に走って広間へ向かう。そこには首桶があった。

 

「北条家の使者はこれだけを置いて去りました。ここに文が」

 

「見せてくれ」

 

 業正はその手紙を開く。そこには妻鹿田新介が上州に留まるように龍若丸に進言し、残った所で裏切り、北条に降った事。それを許さず、北条氏康は妻鹿田一族を誅した事。上杉龍若丸は自ら死を選び腹を切ったという事が書かれていた。そして、この勇者の遺体は既に上州の地に埋葬したが首は稀代の忠臣たる長野業正に送るとも書かれている。

 

 震える手で首桶を開ければ、確かにそこにいるのは弟君の変わり果てた姿であった。絶句して言葉も出せぬまま、呆然とする業正。ドタドタと吉業が駆けてくる。

 

「父上、どうされました!…!これは…龍若丸様!北条め、討ち取ったのか!」

 

「いや、そうでは無い。これを読め」

 

「……なんですと!しかしこれが真実である証明は何処に」

 

「もし討ったのなら大々的に広めておる。それこそこの城の中に広まるようにな。そして士気を下げる。そこに気付かない氏康ではない。それをしないという事は…我らと龍若丸様への情けだろう。この城内に埋葬しよう。北条氏康に感謝せねばな。こういう形になってしまったが、晒された首を見るよりずっとマシだ」

見るよりずっとマシだ」

 

「憎むべきは妻鹿田の輩!あれだけ取り立てられ重用されておきながら…!それこそ父上の冷遇されている間もずっと…!!」

 

「そう言っても仕方のない事だ。長野の一族だけを集めてくれ。大きく葬儀を行えぬのが残念だが、せめてもの弔いを行おう」

 

「はっ!」

 

 長野一族を集めるために部屋を出た吉業の背後から大きな声が響く。

 

「ああああああああ!!!」

 

 普段聞いたこともない父親の慟哭に吉業は瞑目した。あの感情は恨みでも憎しみでもなく、純然たる悲しみからだろうと、彼は思った。不思議と北条を憎む気持ちは薄れていた。

 

「ああああああああ!」

 

 老将の悲痛な叫びは城内に木霊した。

 

 

 

 その晩、北条の陣に矢文が届く。

 

『北条左京大夫様には龍若丸様を送っていただいたこと感謝いたす。主との誓い故、降伏には応じられぬが、確かな感謝を申し上げる。最後に斬首ではなく、腹を切ると言う名誉を選ばせていただいたこともまた礼をするところ。戦場で手加減は出来ねど、正々堂々と戦いましょうぞ』

 

 このように書かれていた。城の一角に目を凝らせば、灰色の煙が天高く立ち上っていた。この文を読んだ氏康は「望むところ。負けはしないわ」と小さく呟いた。そして灰色の煙に向かい、静かに手を合わせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 沼田城を囲む陣の空気は随分と明るかった。もうすぐ勝利が近いとあればそうなるだろう。あの並榎城の一件から一月近くが過ぎた。上杉憲政はまだ見つからないが、おおかたどこかに潜伏しているのだろう。史実通りに越後に逃げようにも風魔の手から逃れられないだろうからな。

 

「さて、沼田城をどう落とすか…」

 

 幸い氏康様の本隊もいる。兵数は十分だった。兵糧もそう多くはないようだ。直に降伏するだろう。

 

「主様!緊急事態です」

 

「どうした段蔵。お前らしくもない。茶でも飲むか?」

 

「それどころではありません!北の越後軍が越境しました!現在長尾政景、本庄繁長などの先鋒がこちらを目指して進軍中!」

 

 カランと音がした。自分が持っていた湯呑を落とした音だと気付くのに数秒を必要とした。

 

「そんな、馬鹿な…」

 

 あらゆる手を打った。国境は封鎖しているも同然だし、大義名分も完璧なまでにこちらに用意した。なのに、どうして。どこで道を間違った。どこで選択肢を誤った。何をしようとも、私の邪魔をしようと言うのか、長尾景虎。偽りの神、偽物の義人め。噛み締めた唇から、血の味がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 未来。1941年。ドイツ、ベルリン。

 

「何故だ!何故イギリスを落とせない!どうしてだ、答えろゲーリング!」

 

「申し訳ありません、我が総統(マインフューラー)。必ず来年中には戦果を…!イギリスに橋頭堡を!現に英国艦隊への爆撃と市街工場などへの爆撃を成功させています。ロンドンも焼きました。もうすぐです!」

 

「もういい。その言い訳は聞き飽きたよゲーリング君。一か月前にも一言一句同じことを言っていたな。君には失望した。イギリス攻略は延期だ。手早く空軍をポーランドへ回せ」

 

「ポーランドですか?ですが、何故」

 

「年内中にロシア帝国に宣戦する」

 

「は?しかし、それでは二正面に!」

 

「そうです。総統、私からもそれには反対です」

 

「マンシュタイン。君までそんな事を言うのか。いいか、二正面作戦を悪のように言うが、成功だった例も存在している。それに英領新大陸アメリカ自治帝国も味方になった。あそこは自治権が強く、また英国海軍が多く停泊していた。それを接収して自前の海軍と併せた彼らならばイギリスを叩ける」

 

「二正面作戦と言うのは日本の…」

 

「そうだ!極東の黄色いサルどもに出来たことが、どうして我々優等種族であるアーリア人に出来ない!必ず成功させろ。ロシアは腐った納屋だ。モスクワまで行けば必ず降伏する。あの劣等ユダヤやスラブを皆殺しにしろ!」

 

 誰もが答えない室内でちょび髭の男がわめく声だけが響いた。

 

「ですが、総統。ロシアへ侵攻すれば多くの若者がまた死にます」

 

「若者の務めだろう。かつて私がそうしたように」

 

「…」

 

「とにかくこれは決定事項だ!いいな!」

 

「「「…総統万歳(ハイルヒトラー)!」」」

 

 狂気と暴力の国家は地獄の門を自ら開け放った。

 

 

 

 

 

 

 数か月後、大日本帝国首都××。首相官邸。

 

 首相補佐の男は首相のいる扉を叩く。戦争を始めた後に入ってくる報告を届けに来た。この国は北条首相のカリスマのおかげで混乱はない。一度だけ陸軍が反乱を起こしたが、北条首相自らが応戦。傷を負いながらも自宅に侵入した軍人相手に大立ち回りを見せて全滅させた。北条家の血を証明したのである。まだ二十代の若い女性だけあって多くの男が彼女に求婚しているが、まったく応じる気配は無かった。かく言う自分も…。長い付き合いだし…と思っているが、ただの幼馴染兼補佐官の自分では釣り合わないと思っていた。扉を叩く

 

「入れ」

 

「失礼します。戦果報告をお持ちしました」

 

「読み上げてくれ」

 

「まずは空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴、大鳳を中心とする機動艦隊はミッドウェーで新大陸海軍と接敵。これを全てスクラップにしたとのことです。続いて地中海ではイタリア・スペイン海軍と大和、武蔵、信濃を中心とする戦艦艦隊が接敵。鎧袖一触だったそうです。現在シチリア島に艦砲射撃中。陸軍は中国軍と共同でオスマンのバルカン戦線に張り付いています。また機甲師団がエジプトの解放に成功しました。現在リビアのトリポリを目指し進軍中」

 

「そうか。大戦果だな」

 

「凄いですね。向かうところ敵なしです」

 

「ああ。そうだ。君に見せたいものがある」

 

 そう言って首相は彼に一つの冊子を渡した。

 

「これは…?」

 

「三鱗記の北条並びに海軍総司令官を務めている一条本家にしか伝わっていない裏バージョンだ。基本一族以外には見せないのだが…まぁお前は例外だ」

 

「しかし、よろしいので?」

 

「……この鈍感クソ野郎。一族にしか見せないって言ったあたりで察しろ」

 

「はい?」

 

「いーや何でもない。まぁ読んでみろ。最後らへんを特にな」

 

「はぁ」

 

 

 

 

 

 

 彼は自宅にそれを持ち帰る。難解な内容が多かったが、最後の部分だけは、とても読みやすかった。それを読み、彼は自らの職務に対する覚悟を決めなおした。己の出来る事、なすべきことをしようと。さしあたってそれは上司兼幼馴染を支える事なのであるが。そしてそれはこんな内容であった。

 

 

 

『永遠の平和はあり得ない。平和とは、次の戦争への準備期間に過ぎない。だが絶望することはない。戦争とはまた、次の平和への過程なのである。明けない夜は無く、永久の昼は無い。我々の行いを、君たちがどう評価するのかは分からない。ある者は善だといい、ある者は悪だと言うだろう。それは構わない。時代が、場所が変われば評価は変わる。歴史とは流動的であり、常に誰かからの恣意的な目線から見るものなのだから。だが、妄信はいけない。狂気に呑まれたとき、立ち止まる勇気を持つことを私は望む。自由や正義に酔うな。戦いの果ての自由(リバティー)など、争い無き理想郷(ユートピア)の模倣に過ぎない。

だがしかし、国家に縛られた社会(ファシズム)最果ての世界(ディストピア)の具現だ。己の信じる世界を、理想を正義や自由で塗り固め、それを妄信しては絶対にならない。道具としてのみ、これを用いるのだ。

 

 善も悪もすべては流れていく。私の生きる今も、きっと過去になるだろう。この時代に死んだ者たちが君たちを平和な世界へと導くと私は信じている。英雄でなくても、世界は変えられる。君たちがもし凡人であるならば、それを卑下するな。私の尊敬すべき義妹はこう言った。凡人には凡人の戦場があると。己の職務を全うし、後世に伝えるのもまた使命である。

 

 この平和の後には、大きな戦争があるかもしれない。多くの者が死ぬだろう。我らのように。そのとき君たちが何をしていて、何を感じているのか、私には分からない。けれど、先人として道を見せるならば、我らは戦い続けた。停滞は緩やかな死であると思いながら。明日の見えぬ世界で、理想を遂げようと必死に残酷な運命と現実に抗った。君たちにそうせよとは言わない。だが、もし道に迷ったのなら、やるべきことに悩んだのなら、私の問いを思い出してほしい』

 

 ここまで書いて、ページは途切れている。そしてその後ろ数枚をめくると、大きな文字でこう書かれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『我々は戦った。我々は抗った。我々は行動した。さぁ君はどうする』




次回は直に投稿します。越後編です。一話だけですが。嫌だぁぁぁぁぁ。神経が削れるぅぅぅ!


発狂したところでアンケートの感謝を申し上げます。結論から言うと、意外と問題ないという方が多い一方でよくわかんないという方もいらっしゃることが判明しました。ですので、今後読み方が特殊な人名・地名は必ずルビをつけます。過去の分は、気が向いたらやります。取り敢えず、近日中にキャラ集だけはルビつけようと思います。

キャラ集を除けば今回で60話。思えば遠く来たもんです。これからもよろしくお願いします。まだ原作すら始まってないですが…。


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第61話 義と偽 越

今回マジで長いです。言い訳すると、越後編を何話も書きたくなかった…。指と手首が…。死ぬかと思いました。流石に次回はこんなに長くないです。GWだからできたことなので。


 越後では、あの野望の将・長尾政景が再び、長尾景虎に反旗を翻していた。景虎に越後守護職を譲ると宣言していた、越後のご老公――越後守護の上杉定実がついに没したことが、発端であった。

 

 室町幕府の将軍・足利義晴は、畿内の実権を握る戦国大名・三好長慶との抗争のために京を追われて近江に逃れることたびたびという苦難の人生を歩んでいたが、上杉定実の生前の根回しによって、長尾景虎にすみやかに「白傘袋と毛氈(もうせん)鞍覆(くらおおい)の使用」を許可したのだった――これはつまり、足利将軍が、景虎を越後の正統な守護として認めたということである。越後初の姫武将・長尾景虎が父親・為景をも超える「軍神」らしいという評判は、既に、畿内にも鳴り響いていたのだ。宰相・直江大和の工作が功を奏したのだ。この時、時の公方足利義晴はまさか後にあんなことになろうとは予想もしていなかった。関東と越後は関りが本来は薄い。なので、独立したまま不干渉を貫くだろうと思っていたのである。そしてこの後直に彼は病が悪化する。

 

 この頃、直江大和は、景虎を電撃的に上洛させて天下に大号令をかけさせるという、大計画を練っていた――練るのみならず、すでに実行していた。「景虎上洛」という路線を敷いて、やまと御所や足利幕府などへの工作を進めていた。もっとも、景虎自身は上洛にはさほど乗り気ではないのだが――。

 

 ともあれ、長尾政景は、越後国内における反景虎派を糾合し、兵を挙げた。反景虎派といっても、すでに越後の国人の大多数は景虎を支持しているのだから、少数派である。しかしこれまで、長尾家はあくまでも「越後守護代」であり、越後の国人たちの代表という立場にすぎなかった。その長尾家が「越後守護」すなわち越後の支配者になってしまったのだから、景虎があまりにも強大になってしまうことを危惧する国人たちも出てきた。

 

 直江大和との権力争いに敗れて、景虎政権から外された宇佐美定満が、琵琶島城で政景方の副将として兵を挙げたことによって、越後は再び二つに割れたのだった。宇佐美定満は、これまでも何度も敵味方の間をうろうろとしてきた、叛服常ない武将である。

 

 長尾政景も、この男には何度か煮え湯を飲まされている。信用はできないが、ある夜、反乱を起こすか否か政景が逡巡しながら立て籠もっていた坂戸城へ宇佐美自らが単身乗り込んできて、

 

「政景。オレはよ、直江の野郎の首を盗とる!景虎にはいっさい恨みはねえが、直江が純朴な景虎を騙して横取りしやがったのが許せねえのよ!共同戦線を張るぜ!」

 

 と騒ぎ立てたので、政景の心は大いに動いた。

 

「宇佐美。貴様の軍師としての役目は終わった。悔しいが、景虎は戦の天才。軍師などいらん。直江がいてもいなくても、寝返り常習者のお前は景虎の政権から外される運命だったぞ」

 

「そいつはてめえも同じことだ、政景。景虎はオレやお前を粛正しようなどとはしないだろうが、直江大和は違うぜ。軍師役を奪われて失脚したオレは、いずれ直江に暗殺される。てめえもだ、政景。直江は、政治に興味のない景虎をお飾りの軍神として、自らによる越後独裁をもくろんでいる」

 

 芝居か、と政景は疑った。宇佐美と直江は最初から八百長を仕込んでいて、俺を乗せようとしているのではないか、と。しかし、宇佐美のこの言葉が、政景を切れさせた。

 

「マジだぜ! 直江の野郎がなぜ、あの歳まで独身を貫いてきたか、わかるか? あいつは、越後を独裁しようとしているだけじゃねえ。景虎を娶るつもりだ。景虎の兄貴代わりのオレと、景虎に求愛し続けているてめえとは、そういう意味でも邪魔なのよ!オレのほうは完全なとばっちりだがな!時間が経てば経つほど直江の権力は増大する。互いに、生き残れねえぜ!」

 

「……景虎を、娶る?直江が?あいつは為景の小姓あがりで、衆道趣味の持ち主ではないのか?女になど興味はないとばかり」

 

「いやいや。あいつが女に興味を持たない振りをしているのは、すべては景虎の隣に侍っても周囲に疑われないための演技なんだ、計算ずくなんだよ!思いだせ政景。かつててめえと、景虎の父・為景とが他ならぬオレの仕切りによって和睦しようとしていた際、その和睦会議に割って入ってオレを排除し、てめえと景虎との嘘の祝言をでっち上げたのは誰だ?」

 

「……直江大和だ」

 

「そうだ。直江は、景虎と偽って、てめえのもとに景虎の姉・綾を送りつけた。景虎は林泉寺へとかくまわれ、仏の教えにかぶれ、潔癖な男嫌いの娘に育っていった。てめえが自分の身代わりに綾を奪い取ったことが心の傷になったんだな。以来、景虎のてめえへの印象は最悪になった。だが――」

 

 それは誤解だ。俺は景虎の代用品としてあいつから姉の綾を奪い取ろうとするような男ではない、直江の策謀に俺は引っかかっただけだ、と政景は吐き捨てていた。

 

「……もっとも、綾をぞんざいに扱うこともしなかったがな……あれはあれで、健気な女だ。俺の子も産んだ……あれほどの覚悟を背負って嫁いできた者を、飼い殺しにして捨てておくことはできなかった。が、景虎にとっては、俺は景虎に求愛しておきながら、姉の綾を奪い取り、子まで産ませた裏切り者だな……」

 

「今にして思えば、直江大和があの二人をすり替えたあの時、てめえは、直江にはめられたんだ。綾を妻とし、子まで成した以上、林泉寺で潔癖に育てられた景虎は、てめえのものにはならねえ」

 

 政景は用心深く、人を容易には信じない男だが、景虎が妻としてやってきたはずがいざ対面してみたら景虎の「姉」であったというあの一件は、今思いだしても腸が煮えくり返る。綾に対しては憐憫こそあれ憎しみなどない。だが、鬼畜にももとる直江大和の所業は――。

 

「直江への疑いはまだある。景虎と兄貴・晴景の仲違いを収めるために上杉定実の爺を担ぎ出したのはこのオレだが、爺が『景虎に守護職を譲る』と言いだしてすぐに、つまりうまい時期にぽっくり死んだのも、もしかしたら」

 

「フン。上杉定実はいつ死んでもおかしくない老体だったから、偶然だろうが……あるいは、後継者を見つけられて安心して大往生したのかもしれん」

 

「ともあれ直江の独裁体制を崩すには、一旗揚げるしかねえぜ、お互いに。黙っていれば、あいつは景虎になにも伝えずに独断でオレたちを処分しちまう。政権から排除されたオレと、一門衆の最下位へと席次を落とされたてめえとの、政権中枢への復帰が、今回の反乱の落としどころだ」

 

「相変わらずだな宇佐美。俺は落としどころなど考えていない。戦うからには、景虎に勝つ。俺が越後最強だと国人どもに知らしめ、越後守護の座を実力で奪うまでよ。俺が単独で景虎と戦ったならば勝敗は五分五分だが、琵琶島城の貴様と坂戸城の俺とで景虎軍を南北から挟撃すれば、勝ち目は大いにある」

 

「勝ったあと、景虎をどうするつもりだ?」

 

「むろん、妻にするのよ」

 

「そいつは無理だろう。てめえには綾がいるし、子供だっているのだろう。てめえの世継ぎ、上田長尾家の嫡男がよ」

 

 坂戸城の御殿には、妻の綾と、そして生まれたばかりの嫡子・義景がいる。本来ならばまだ幼名で呼ぶ習わしの赤子だが、政景はこの長男に早くも武将としての名を与えていた。自分に似た猛将に育て上げるためであり、将来に期待をかけていた。

 

 もしも俺が強引に景虎を娶らなければ、自らを毘沙門天の化身と信じる景虎は誰とも祝言を挙げられまい。生涯不犯を貫くだろう。しかしそうなれば、景虎の代で長尾宗家たる府中長尾家は断絶する。その時には、せめて景虎の従弟にあたるわが子を後継者に――俺の子は誰にも「裏切り者の血筋、上田長尾の血筋」などとは呼ばせぬ。そんな思いもあった。

 

 が、景虎にとっては、自分に求愛していながら実の姉を娶り孕ませた政景の行動は――薄汚い所業に映っているはずだった。

 

「フン。まあいい。勝ったあとのことなど、今から計算したところで皮算用だ。勝つまでは手を組んでやる。勝った瞬間からは、敵同士よ。宇佐美定満」

 

「神将の景虎を粉砕できるか?」

 

「どうせあいつはぐだぐだと迷って、俺と貴様を相手に本気では戦えぬ。兄の晴景と戦った時のように、無駄に時間を浪費するだろう。その間に包囲網を完成させてしまえばいい。坂戸城は越後から三国峠を経て関東へ連なる南の要所。琵琶島城は海に面した北の要所。春日山城から景虎が進軍してくるとなると、両軍による挟撃は可能だ。長尾政景と宇佐美定満が組んだとなれば、こちらにつく国人も増えるかもしれん。が……まだ、足りぬな。下越の揚北衆を引き込めれば、三方向から景虎を包囲できるが」

 

 政景は、立つと決めた。宇佐美は、例によって例の如く「落としどころ」を探るために戦をして、ほどほどのところで和睦に持ち込むつもりらしい。だからこそ、「いつもの宇佐美のやり口だな」とむしろ信用できた。それに、もしも宇佐美が直江と裏で手を結んで自分を謀反に駆り立てて滅ぼそうとしているのだとしても、戦場で景虎を破ってしまえばそれでよいのだ。すべては「武」によって決着がつく、それが越後という国なのである。

 

 それに、宇佐美定満は、いかなる悪謀を練ろうとも、「暗殺」だけはやらない。命を活かすための謀略しか実行しないのだ。「義」の精神とやらがこいつを縛っているのだ、と政景は冷笑していた。暗殺をやらかすとすれば、むしろ冷血の宰相・直江のほうだろう。

 

「揚北衆は難しいな。神将の景虎に合戦で勝つことは難しいと信じている。しかし、直江がオレたちを潰す合戦を手助けすれば、揚北衆の独立性も脅かされる。しばらくは傍観を決め込むようだ」

 

 既に、宇佐美も軍師の表情に切り替わっていた。越後の地図を開きながら、宇佐美が敵味方の城に駒を配置していく。

 

「宇佐美。戦局を優位に持っていけば、問題ない。春日山城は上越にあり、信濃と越中に隣接しているが、関東と奥州からは遠い――なにしろ、関東への道はこの坂戸城が塞いでいる」

 

「関東はダメだ。上野の関東管領・上杉家は北条の圧迫を受けて、もう死に体だぜ。越後の合戦に引き込むのはとても無理だ」

 

「その北条はどうだ」

 

「向こうに何の利もないな。北条氏康の目的は関東の支配だ。越後に興味は無いだろう」

 

「奥州がある」

 

「天文の大乱で懲りている伊達はもう越後には関わってこないだろう。あいつらは越後守護に伊達家の者を送り込む件で揉めて親子で相争って、奥州をぐちゃぐちゃにしちまった。名実とともに奥州の覇者となる目前だったのにな。惜しいことだぜ」

 

「いや、伊達ではない。会津の蘆名家を引き込むのよ」

 

「会津か……!蘆名家は今、伊達のくびきを逃れて、独立大名としての力をつけようとしているところだ。越後の内乱に首を突っ込ませれば……だが、蘆名を説得できるか?蘆名は今、常陸の佐竹と対立しているようだが」

 

「フン。それがわれらに幸いしているのよ。背後に上田長尾家という強力な同盟相手が現れれば、佐竹との争いも有利に運べるというもの。同盟を結ぶならば、今だな。会津の蘆名が動けば、揚北衆も日和見はできまい。景虎が、姉上の夫を討つことはできないだの、宇佐美と戦いたくはないなどと、いつもの調子でぐずぐずと躊躇らっているうちに――この俺が戦略的に勝つ」

 

 宇佐美定満が、「そうか。てめえには、武人としての才だけでなく、軍略の才もあったんだっけな。これで直江をへこませることができるぜ」と笑った。

 

「しかし越後の王に求められるものは、あくまでも武だ。最後は、合戦で決着をつける」

 

 政景は、会津へと向けて使者を放った。

 

 だが――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 政景が会津へと放った使者が、蘆名家のもとに到達することはなかった。宇佐美定満が密かに放った軒猿――上杉定実が残していった忍びたちが、この使者を妨害し、一人残らず捕らえ、抵抗したものは斬ったからである。

 

 またしても宇佐美に引っかかった、と気づいた政景が「宇佐美のやつめ!殺してやる!」と激高した時にはもう、宇佐美はけろりとした顔で「蘆名からの援軍は来ねえな。やっぱりオレ、景虎陣営に戻るわ」と坂戸城へ向けて出立していた景虎軍に合流していたのである。こういう時、寝返り癖があると思われている武将はかえって動きやすいのよね、うひひ、と宇佐美は久々に再会した直江大和の前でうそぶいていた。

 

「宇佐美。お前のことだから、どうせ戻ってくるとは思っていたが、よりによって政景を焚きつけて挙兵させておきながら、のこのことわが陣営へ戻ってくるとは……お前は、ろくな死に方はしないぞ」

 

 断腸の思いで坂戸城を包囲した景虎は、直江との小芝居を終えて政景を蜂起させ、坂戸城に孤立させるという計略を終えて戻って来た宇佐美に思わず苦言を呈していた。

 

「そうは言うがよ、景虎。本当に政景を殺してもよかったんだぜ。そこをよ、命を奪わずに、手打ちで済ませようとしているんだ」

 

「そなたには無理だろう。政景は荒れ狂う虎のような男だぞ」

 

「相打ちならば、できるさ」

 

 不吉なことを言うな、と景虎は顔をしかめた。景虎の本陣からは、戦場が見渡せる。魚野川の清流が広がり、その清流の向こうに、坂戸山がある。坂戸城はこの山を城塞化した巨大な山城である。

 

「坂戸城にはわが姉上と、その子もいるのだぞ」

 

「お嬢さま。お嬢さまが正式な越後守護として国人たちの上に君臨するためには、どうしても最大にして唯一の政敵である長尾政景の反乱を抑えねばなりません。これはお嬢さまが越後守護、すなわち越後の女王になるための儀式のようなものです。政景に反乱を起こさせるためには、宇佐美さまに暴れてもらうしかなかったのです」

 

 直江大和が、無表情のまま、景虎に告げた。景虎も、宇佐美と直江がよもや本気で仲違いしているとは信じてはいなかったが、はじめから政景を騙して蜂起させるための芝居だったと知って、頬を膨らませていた。

 

「お前たちは、越後の女王である私に無断で勝手な謀略を練る。今後は、このような真似は許さない。姉上に万が一のことがあったら、一体どうするのだ。越後の国主の座など、私はいつだって捨てていいのだぞ……第一、守護代ならまだしも、守護とはなんだ。定実さまの遺言であれば逆らえずお受けするしかなかったが、上杉家の人間ではないわたしが越後守護など、僭越の極みではないか」

 

 政景は愚か者ではありません。ある程度、こうなることを予想していながら、敢あえて蜂起しているのですよ、と直江は笑った。

 

「どういうことだ直江」

 

「お嬢さまが晴景さまから守護代の座を、そして上杉定実さまから守護の座を移譲される際には、合戦らしい合戦は行われず、一滴の血も流れませんでした。あまりにも平和裏にことが運んだため、かえって、お嬢さまをまことの越後守護と実感できない者が多いのです。どうしても国内の強敵を相手に一戦する必要があり、しかも阿吽の呼吸で和睦を結びお嬢さまに臣従を誓える、そのような便利な敵が必要だったのです。宇佐美さまでもよかったのですが、宇佐美さまのお血筋では、お嬢さまと戦う反乱軍の旗頭にはなれませんからね」

 

「……それが、『儀式』か。直江。だがなぜ、またしても謀反した政景が今更私に臣従すると言い切れる。あの男は姉上に続いて私を無理矢理妻にするために、意地でも戦い続けるかもしれないのだぞ」

 

「いいえ。本人は認めないでしょうが、あれは、お嬢さまを越後の王にするために自ら悪役となってあくせく動いている男です。ああいう気位の高い男故に、自分がなにに突き動かされているかに気づいていないだけです。ですので、遠慮なく利用させていただいたのです――お嬢さまが守護代から守護へと駆け登るための登竜門役に、なっていただいたのです」

 

 お前は本当に血が通っていないな、まるで蜥蜴(とかげ)のような男だ、と景虎はいよいよ憤慨した。宇佐美が、「だが最後の最後になって、想定外の事態になっちまったようだ」と頭を掻いた。

 

「あとは政景が奥方の綾さまと息子を春日山城に人質として差し出せば丸く収まるんだがな。それが、いくら使者を送っても承知しねえ」

 

「なぜだ、宇佐美」

 

「どうやら、生まれたばかりの息子が、大病を患ったらしい。身体の弱い赤子にはよくあることだが……間が悪かったな」

 

「……病!?」

 

「景虎。赤子の何割かは、体力がなく、生まれてすぐに死ぬ。それが人間という生き物の定めだ……生きて成人できた者は、身体が強いということだ。お前だってそうだ。お前は生まれながらにひ弱いが、それでも成人できた。が、政景の子は、そうではなかったらしい」

 

 お嬢さま。男武将が正妻以外に側室を複数とる習わしも、子が無事に成人する確率が低いためです。血筋を絶やさぬために多妻が常識となっているのです、と直江が付け加えた。

 

「幸い、綾さまのほうはご無事なようです。運が悪ければ、出産の際に母子ともに死んでしまいますからね。出産とはそれほど危険な作業なのです」

 

「……いずれにしても、少々辛いことになりそうだぜ。子はまた作ればいいが、死んじまった子は二度と戻ってはこない」

 

 そうか。それであの好戦的な政景が、一戦も交えずに坂戸城に籠城してしまったのか、と景虎はつぶやいていた。

 

「……私は、姉上を不幸にしている。これ以上、坂戸城を包囲していては……」

 

「お嬢さま。もはや我らが包囲していようがいまいが、赤子の病とは関わりがありません。これは残念ながら、天命です」

 

 だがまだ死んではいないのだろう、と景虎は告げた。

 

「死んではおりませんが、それ故にかえって事態が混乱しているのです」

 

 赤子が死んでくれれば幸いだと言いたげな物言いはやめろ、と景虎は思わず直江の肩にぴしりと青竹を振り下ろしていた。景虎は、すでに子供ではない。少女に……乙女になっている。望めば、子を成せる身体になっている。

 

 むろん、生涯不犯を誓った身として、自分が子を産む姿など想像したこともない景虎だが、政景に嫁いだ綾が文字通り自分の命を賭して赤子を産み落としたこと、その子が生まれてすぐに命の危機に瀕していること、綾がかつて病弱だった自分をあやし育てるかのように自分の子を介抱しているであろうことを思い描くと――到底、これ以上政景との合戦を続ける気にはなれなかった。

 

 そのような戦は不義であり、慈悲の心に欠けた悪行だ、と思った。

 

「私の身代わりとして政景に嫁がされた姉上を、この戦を期に春日山城へと取り戻したい、というわたしの思いは、私欲にすぎなかったのかもしれない。姉上はすでに、一人の女として……大人の女性として、政景を夫と認め、子まで成したのだ。これ以上坂戸城を囲み続け、姉上のお子が命を落とせば、まるで私がその子を殺したも同然ではないか」

 

 越後の外の国ではすでに大勢輩出されている「姫武将」――特に姫大名は、婚期を逃し子を産めずに生涯を終える可能性が高いという。戦に次ぐ戦の日々。その合戦の合間に、子を孕み産みそして育てるという「もうひとつの合戦」を同時に行えるほど、心身ともに強い人間は、そうはいないのだろう。

 

「わたしは決めた。宇佐美。直江。坂戸城の包囲を解き、春日山城へ戻るぞ。この戦は水入りとする。長尾政景から、人質は取らない」

 

 それはなりません!と直江が青ざめながら、景虎の袖を掴つかんでいた。

 

「宇佐美さまのお働きで、会津の蘆名と政景との同盟を水際で阻み、こうして坂戸城を包囲できたのです。今、兵を帰しては、蘆名と政景の同盟が成立してしまいます! それでは、台無しです!この八百長としてはじめたはずの越後の内乱が、会津を巻き込んだ大がかりなものとなってしまいます――」

 

「人々に慈悲を示せとわたしに教えたのは、直江大和、お前だ」

 

「包囲網を解いても綾さまのお子さまの運命は、変えられません。お嬢さま。あなたは越後の統一と平和という大名としての大義名分よりも、ご自分の情を取るのですか?」

 

 宇佐美さまもなにか言ってください。お嬢さまは政略というものをまるで考慮してくださいません、と追い詰められた直江が宇佐美に助け船を求めた。

 

「最大の政敵である政景を謀反させてこれを鎮圧・恭順させ、なるべく早いうちにお嬢さまを上洛させて、天下にその武名を轟とどろかせ、越後諸将の忠誠心をより高めるという遠大な計画が、これでは」

 

 直江大和ほどの者でも、これほどうろたえることがあるのだ、と知った宇佐美定満は、苦笑するばかりだった。たしかに、直江と宇佐美が練りに練ってここまで進めてきた計画を、景虎はひっくり返そうとしているのだ。

 

「いつだってものごとは計算通りにはいかねえさ、直江。必ず、不測の事態が起きて頭の中でこしらえた計算は反故にされてしまう。だが、計算通りにいかない遠回りの道に見えて、実は、景虎が進んでいる道こそが――もっとも『正解』に近い道なのかもしれないぜ」

 

「合戦に関してはそのとおりでしょう。お嬢さまは戦の天才です。我々が口を挟めることなど、戦場においてはなにもありますまい。ですが、お嬢さまはまつりごとに関しては、まるで童女のままです」

 

「そういう厄介な主君だからこそ、仕えがいがあるってもんだぜ。一人でなんでもできちまう主君ならば、宰相や軍師などいらねえ。そうじゃねえか?」

 

 

 

 

 

 

 景虎軍が、包囲を解いて、退いていく。一方的に、景虎から坂戸城の政景のもとに「この合戦は終わった。政景を不問に付す」という「終戦報告」の書状が届き、いきなり、越後の真の王を決定する最後の決戦は、打ち切られてしまったのだ。

 

 坂戸城の御殿で、妻の綾とともに子を介抱していた政景は、「あの小娘めが……なんという愚か者なのだ!」と激高していた。

 

「なんのために俺を策に嵌めて謀反させたのだ!この坂戸城は、越後と関東との間に立ちふさがる要所だぞ。ここで俺を見逃して、会津と俺との同盟が成立すれば、景虎は春日山に押し込められて追い詰められる。越後は再び麻の如く乱れる!自分がなにをやっているのか、わかっているのか。これでは宇佐美も直江も、やりきれんだろう……!」

 

「景虎は、この子を、義景を案じてくれたのね。この容体では、人質に取られることが命取りになりかねないと……」

 

「なにが、人質だ。お前の実家に――春日山城に戻るだけではないか」

 

 綾が、高熱を発して泣くことすらできなくなっているわが子を抱きながら、

 

「武将としては景虎は優しすぎるの。あの子も、幼い頃から身体が弱くて、いつ死んでもおかしくなかったから……赤子が忍びなくなったんだわ。坂戸城を合戦の重苦しい空気が覆っている限り、この子の容体は持ち直さない、と思ったんだわ。もう、これ以上、景虎と戦うのはやめて」と政景に懇願してきた。

 

 政景の心中に宿る景虎への執着は、いまだ断ち切れず、それどころかいよいよ炎のように燃えさかっている。だが、綾を、景虎の代用品だと思う気には、なれない。これが夫婦というものかもしれん、と政景は思った。悪いものではなかった。

 

 ただ戦場で殺伐として荒れ狂い、敵兵の首を盗り、命を奪うだけだった政景の日々に、綾は、「家族」というものを持ち込んできた――野望と現実の狭間で荒ぶる政景を癒やすことを、妻である自分の使命だと信じて、政景に尽くしてきた。裏切り者の家系・上田長尾家に生まれてきた自らの血と運命を呪う政景を、越後守護代の家である春日山長尾家に生まれた綾は、まるで二つの長尾家をひとつに束ねることで救済しようとしているかのようだった。

 

 今、命が尽きつつある義景は、政景にとっても綾にとっても、分裂した長尾家をひとつにするための大切な子供であるらしい。

 

 妙な話だ。俺は、綾と子を成す仕事を……嫌だとも、当主としての避け得ない義務だとも思わなくなっている。ならば、俺の、景虎への執着は――ただの男と女の仲というものを越えた、なにか違う性質のものなのかもしれない、と政景は思った。だが、綾にそのことをうまく伝える言葉を、政景は持たない。

 

「フン!俺はいちど、戦場であの娘っ子に一瞬心を奪われて、不覚を取った。あれ以来、俺の武名は地に落ちた!どうしても、武名を取り戻したかった。たとえ宇佐美の謀反の誘いが罠わなだとしても、それでも再戦したかったのだ!」

 

「ならば、春日山城へ引き返そうとしている今の景虎に、追い打ちをかけるの?」

 

「……フン。景虎は本気で合戦を終えたつもりになっているだろうが……宇佐美と直江は、景虎に無断で俺を討ち取るためのさらなる罠を仕掛けているかもしれん」

 

「罠にひるむあなたではなかったはずよ。謀反を起こしていながら、結局は景虎と決戦せずに、こうして坂戸城に籠もったのも、この子を案じてのことだったのでしょう?」

 

「それは、宇佐美に蘆名との同盟を阻止されたからだ」

 

 どうする。このまま景虎を帰しては、俺もまた、子煩悩の甘い男だと越後諸将に舐なめられるのではないか。景虎を、追撃するか――。

 

 そうなれば景虎も、むざむざ俺に討たれはすまい。無抵抗のまま、自軍を壊滅させたりはすまい。 無理矢理に、玉砕決戦に持ち込んでやるか。こんどこそ、越後最強がどちらであるかを諸将に知らしめるために――。

 

 しかしもしも敗れれば――綾とこの子はどうなるのだ。俺が討ち死にすれば、綾は自害するかもしれん。ちっ。妻子など、合戦にすべてを賭ける俺のような男にとっては、足手まといになるばかりだ。これでは、生涯不犯を誓い合戦にすべてを捧げている景虎には勝てん!今の俺は……綾とその子に、牙を抜かれつつある。そうか、直江大和め。俺を「家族」によって縛ったな。あの男は、合戦を采配できる軍師ではないが、もっと厄介ななにかだ。

 

 政景は、迷った。絶対に景虎に勝てる自信がない。敗れれば失うものが大きすぎるのだ。

 

 そして、景虎には、失うものがない。景虎が戦死によって失うものはただ、自分の命だけだ。

 

 毘沙門天の化身にとって、戦場での討ち死にこそが、唯一許される死に方なのかもしれん。だとすれば俺が奴やつを倒せば、奴の『毘沙門天の化身として生きて、そして死ぬ』というくだらん願いを、手助けすることになる。だが、政景が逡巡するうちに、事態は誰も予想していない方向へと急展開したのだった。

 

 

 

 

 

「なんだか長尾家同士で内輪もめをしていたみたいで足止めを食らっていたが、やっと越後に入ることができたよ。きみが坂戸城主の政景くんかい? ずいぶんと頭が高いね。僕ぁ、上杉憲政だ。名前くらいは知っているだろう?越後に亡命してやるから、さっさと景虎のもとに僕を案内するんだ。いいね?」

 

 疫病神がやって来た。

 

 

 

 

 坂戸城包囲戦の勃発によって越後入りを阻まれていた、上杉憲政が、景虎が撤退した直後にその坂戸城へとわずかな手勢を率いて転がり込んできたのだった。

 

 政景が屈折する理由となった「血筋」という点では、東日本において、上杉憲政ほど高貴な血筋をひいている人間は殆どいない。例外は足利将軍の分家である鎌倉公方だけだが、足利将軍や鎌倉公方などは、政景にとってはやまと御所の姫巫女にも似た侵しがたい存在で、到底嫉妬できるようなものではない。ただの武家を越えた貴い身分だからだ。政景が「同じ武家でありながら」と嫉妬できる身分の上限は、関東管領である。

 

 強いて言えば上杉朝定は憲政に同等な血と言えた。或いは関東管領となった彼女の方が現在の血の価値的には上である。その彼女は今厩橋城にいる訳だが。

 

 政景がこれまで憎悪しその地位を奪うことを渇望してきた府中長尾家など、越後上杉家の、そのまた家老筋にすぎないのだ。越後守護・上杉家は、しかし、その血筋が途絶えて、景虎が越後守護職を事実上継いでいる。

 

 上杉憲政が、なぜ俺の坂戸城に転がり込んできたのか?と、政景はいぶかしんだ。わけが、わからない。これも直江の罠か?いや。直江は景虎を上洛させて将軍に謁見させ、箔をつけさせようとは画策しているが、関東管領に関してはなにも工作していないはずだ。なにしろ、景虎の父・為景がかつて関東管領を攻め殺しているのだから、関東管領家にとってその為景の子である景虎は不倶戴天の敵であるはずなのだ。工作など、できようはずもない。

 

 ともあれ、わが子の容体が気がかりではあったが、形の上では景虎との合戦が終わっている以上、会わないわけにはいかなかった。「上野へ追い返せ」と怒鳴りたかったが、耐えた。綾からも、「きっと、越後に、あなたと景虎に、重大な転機が訪れたのよ。義景のことは私に任せて、上杉憲政さまにお会いして」と勧められた。

 

 だから、会った。気障な男だった。まだ若い。八歳にして名ばかりの関東管領に就任し、数年をかけて関東管領としての実権を奪取していった貴公子だ。その、涼しげだが嫌みったらしい笑顔を張り付けた外見も、色白の肌も、武家の棟梁というよりもむしろ公家だった。もっともその地位も今や剥奪されたが。特徴的な隻眼ではあるが、武家にとって顔の傷はそこまで恥でもない。であるため元々の顔のつくりが悪くなかった為か、今でもなかなかの美貌であった。本人は嫌がっているが。

 

「俺が坂戸城主、長尾政景だ。越後に、亡命とは?正気か?関東管領といえば、北条と武田を相手に敗戦を繰り返し、上野の平井城に巣ごもっていたのではないのか。加えて分家の小娘に地位も実権までも盗まれたと聞くが。加えて遂に領土まで失ったのか?」

 

 越後に野獣が二匹いる。老いた野獣が長尾為景、若い野獣が長尾政景と聞いていたが、たしかに人というよりもきみは虎だな、と上杉憲政は笑った。高慢な笑い方だ。人に頭を下げたことのない貴種の笑い方だ、と政景は思った。このような男を前にすると、腸が煮えくり返る。

 

「平井城も維持できなくなったのでね。守りの要として雇い入れていた真田一族が忍びたちを連れて丸ごと抜けて、武田に寝返ったのさ。北条氏康と武田晴信は、関東管領などに価値を認めない。彼女たちはさしずめ、女の皮を被かぶった獣だよ。北条氏康は相模の獅子。武田晴信は甲斐の虎、といったところだね。むろん、小娘は小娘さ。北条、武田の強さは、いずれも先代の働きが大きいのだけれどもね……残念ながら、越後の梟雄・長尾為景との合戦で当主が討ち死にして以来、我ら上杉家は没落の一途さ。敗戦の傷を必死に回復している隙に朝廷工作までされてしまった」

 

「フン。お前が関東管領を継いだ時にはもう、すでに死に体だっただろうに。だから武蔵どころか上野を維持することもあきらめて、はるばる越後まで逃げてきたということか?」

 

「ふふふ。残念だが、世間的には河越夜戦で北条氏康に敗れた僕の責任だね。あの戦では関東中の諸将を呼び集めて大軍をかき集めたが、坂東武者はどいつもこいつも身勝手で、統制など取れたものじゃなかった。あの戦に敗れたことが、転落の契機さ。連中は、こぞって北条へと寝返っていったよ。上野から退去して武田へ寝返った真田などは、まだましなほうだよ。城を奪ってはいないからね」

 

 こういうのを責任転嫁と言うのだが、そんな言葉は彼の辞書にない。お前が油断してたからだろうが、と北条軍は言うだろうし、セクハラの被害に合ってきた朝定は酒宴してたくせに良く言うと蔑むだろう。往々にして自分のミスを認めないのがこの手の人種だった。

 

 僕が籠もっていた平井城はもう落ちたよ、山内上杉家はもう事実上滅びたんだよ、と上杉憲政はそしらぬ顔で口走っていた。彼はまだこの時自らの弟が妻鹿田一族に裏切られたことを知らない。

 

 ならば、こいつはもはや落ち武者ではないか。俺ならば屈辱のあまり切腹したくなるほどに無様な境遇だが……貴種たる者は、こういうものなのかもしれん、と政景は顔をしかめていた。苦手な男だ。

 

「待ちたまえ。平井城は失ったが、上野の拠点がすべて陥落したわけではないんだよ。僕の家臣のうち、長野家の者たちが、まだ、上野で北条への抗戦を続けている。越後の長尾景虎を頼れ、と彼らにも勧められてね。特に業正が熱心に勧めてくれたのさ。父親は主筋を主筋とも思わぬ虎狼だったが、景虎は違うと。必ず主筋を敬い義を貫いてくれる、義将であり神将だと。僕自身も常々そう思っていた。なにより、生涯不犯を誓っている点が、信頼できるね」

 

 そんなこと思ってさえもいなかったのに、良くまぁペラペラと回る舌であった。

 

 嫌みな笑い方だ。利用できる、と言いたいのだろうが、と政景は思った。

 

 この男――己の血筋と顔を利用して、景虎を籠絡するつもりだ、と、すぐに気づいた。よもや景虎がこのような上っ面と血筋だけの男に騙されるとも思えんが、虫が好かん。なにより、関東の騒乱に景虎を引き込もうとしているのが気にくわない。

 

 直江大和は景虎を上洛させ、畿内を統括する天下人への道へつけようと動いているのだ。関東など捨て置けばいい、と思っているのだろう。仮に俺が景虎の参謀だったとしても、同じことを考える。この乱れた世で、関東と畿内を同時に望むのは、無理だ。人間は、身体をひとつしか持たぬのだからな。たとえ景虎が神がかりだとしても、同じことよ。そして、景虎が義将として生きるというのであれば……どちらを優先すべきかと言えば、むろん、天下であり、畿内だ。

 

 上杉憲政を、くびり殺すか――。

 

「政景。僕ぁ平井城落城以来、放浪の身でくたくたなんだ。早くしてくれたまえ。もう揉め事は終わったのだろう?きみと景虎とは何度も戦っているそうだが、いつだって景虎の越後国主としての名を挙げるための八百長のようなものだったと聞いているよ。きみは、自ら望んで景虎の引き立て役を演じているのだとか。天晴れな忠義心だねえ。春日山城の景虎のもとに、僕を案内したまえ。あとね、僕は腹が減っているんだ。湯漬けを所望するよ」

 

「誤解だ。俺と景虎は、不倶戴天の敵同士なのだ。景虎の左右に、直江大和と宇佐美定満がいる限りはな。しょせん上田長尾家なぞ、春日山の景虎家臣団にとっては、裏切り者であり鼻つまみ者よ。今や景虎は越後の守護だぞ。それに引き替え、俺は……」

 

「……ならばこの僕が、きみの後ろ盾になろうじゃないか」

 

「フン。地位も所領も失ったお前が、か?」

 

「僕には山内上杉の血がある。この血はまだ生きている。例え関東管領を剥奪されてもそれは変わらない。それに、上方も一枚岩じゃない。親北条の公方はともかく、その息子は反北条らしい。じきに公方が変わる。今の公方はもう歳だ。そうすれば復権もあり得る。そしてこちらにはまだ一応京との繋がりがある」

 

「……なるほどな。この俺が貴様と結べば――宇佐美と直江も、俺を排除しづらくなる」

 

「そういうことだ。この坂戸城が関東と越後の境界にあったことが、きみにとっては幸運だったわけさ。僕に感謝するんだね」

 

 あまりにも一方的で、そして、これっぽっちも自分に負い目がないと信じている男だった。奇矯と言えば奇矯だが、これが貴種なのだ。政景は、殺さずに景虎と噛み合わせてみるか、と考えを改めた。

 

 フン。虫が好かない男だが、殺そうと思えばいつでも殺せる。景虎がこいつをどう扱うか、一度観てみたい気もする。あいつがまことの義将であり続けられるかどうか、毘沙門天の化身だとかいうくだらん戯言を、この男を前にしても貫けるかどうか、確かめてやる。もしも上杉憲政なぞに籠絡されるような馬鹿な娘であれば――その時こそ、俺は景虎に見切りをつける。もはや景虎に憧れ続ける意味などなくなるからだ。ともどもに殺して、俺が越後の王になる、と政景は思った。

 

 景虎が、武も持たず、血筋と顔の良さだけを頼みに生きているこのような無能な男に籠絡などされるはずがない。どこかで俺はそう信じたいのだろうな。まるで恋する乙女のような甘さだなと己自身をあざ笑いながら、政景は

 

「承知した。俺と景虎とは些細なことで合戦に及びかけたが、その行き違いは解けた。俺と景虎とはそもそも、義理の兄と妹よ。わが妻は景虎の甥を産んだばかりだ――越後の両長尾家はすでに本日よりひとつとなった。上杉憲政。貴様が、俺と景虎の関係を取りなすのだ。そう約束するならば、貴様を、景虎のもとへ紹介してやろう」とうなずいていた。

 

 わが子が死の運命に直面し、綾が憔悴している。景虎との決戦に踏み切れなかったのも、関東から「主殺し」の娘のもとへ逃げ込んできた上杉憲政などを受け入れたのも、すべては「間が悪い」ためだ。家族は、殺伐とした合戦の日々でささくれた男の心を癒やすと同時に、野望を果たそうとする際には重い足かせになる諸刃の剣だ――と政景は思った。

 

 が、不思議と、それが苦痛ではなかった。あの主殺しを繰り返した「鬼」の長尾為景ですら、晩年は、歳の離れた妻・虎御前を慈しんでいた。そうせねば、正気を保てなかったのだろう。為景は、老いてから唐突に生まれてきた異形の景虎をわが子ではないのではないかと疑いながらも、ついに景虎を殺すことができなかかった。自ら妻子を得た今になって、わが子の死という運命を前にして、為景の老いとそして人としての迷いとが、痛いほどにわかる。

 

 むしろ、己を毘沙門天の化身と信じるためにあの若さで生涯不犯を誓う景虎と、その景虎に宰相として付き合うように自らも独身を貫いている直江大和の主従のほうをこそ、哀れに思う自分が、政景は不思議だった。

 

 かくして、関東管領・上杉憲政が、長尾景虎と対面する運びとなった。

 

 政景はのちに、やはり憲政が俺のもとへ転がり込んできた時にくびり殺しておくべきだった。はじめての子を失いかけていて、あの時の俺はらしくもなく、弱気になっていたのだ…と悔いることになるが、父親が殺した山内上杉の当主を自らの義と武によって復権させるという景虎にとっての「運命」は、政景がたとえ初対面の場で憲政を殺していたとしても、逃れられないものであっただろう。なぜならば、「主筋殺し」という為景の罪をあがなうことに景虎が囚とらわれていると察した直江大和が、景虎の心を関東から引き離すべく京の都へと上洛させてもなお、その「運命」は景虎をより深く関東へと縛り付けることになったのだから――。

 

「やあ政景、もっと虎狼のような男だと聞いていたが、存外に律儀じゃないか。いいとも。越後への亡命を認めてくれたお礼に、きみと景虎とのこじれた仲は、この僕が仲裁してあげよう。そうだとも。北条と武田の北進を防ぐべく、越後は今こそひとつにならねばならないんだよ。景虎ときみとの内紛は、これで打ち止めだ。これより越後は安泰。やっと僕も、安心して眠ることができる。は、は、は」

 

 この時、若い野心家であり自分の血筋に酔いしれていた上杉憲政は、景虎を籠絡して越後を乗っ取ることで頭がいっぱいだった。景虎は、彼にとっては家臣筋にすぎず、しかも「主殺し」の娘にすぎなかったのだから。

 

 

 

 

 

 

 春日山城。

 

 宰相・直江大和は「坂戸城の包囲を解いたことが、このような事態を招くとは……」と柄にもなく舌打ちしていた。北条氏康に追われ、上野から逃げ延びてきた上杉憲政が、こともあろうに坂戸城の政景のもとへと転がり込んでしまったからである。

 

 政景にとっても、直江にとっても、この「亡命者」の登場は想定外だった。上杉憲政が北条勢に押されて青息吐息となっていることは知っていたが、まさか越後へ亡命してくることにはなるまい、とお互いに思っていたのである。律儀な景虎が「お迎えして、御館に住まわせるように。すぐに対面させていただく」と喜んだことも、直江にとっては頭痛の種だった。

 

 直江は、対政景戦と同時に、上洛の準備を進めていたのである。およそ二千の精鋭を率いて上洛し、景虎を足利将軍に拝謁させ、越後の支配権を幕府に――都に公式に認めさせるという計画を練っていたのだ。最大の政敵・政景を坂戸城に追い詰めて帰順させるとともに電撃的に敢行されるこの上洛は、景虎政権にとって効果絶大のデモンストレーションになるはずだったのだ。

 

 直江は、できることならば景虎を畿内へ――天下へと近づけたかった。関東には興味を抱かせたくなかったのだ。三代を経て「関東の覇者」の地位を固めている北条家と関東を舞台に戦えば、泥沼の戦いになる。

 

 それなのに、景虎は「山内上杉家は主筋だ。わが父上がかつて関東管領に叛いてこれを討ち果たしたことが、関東管領・上杉家の没落を招いたのだ。父にずっと監禁されていた越後の先の守護・上杉定実さまは、わたしに守護職を譲ってすぐにみまかられてしまった……。しかし、上杉憲政さまはまだお若い方と聞く。丁重に府中へとお迎えし、忠節を尽くさねばならない」と、上杉憲政を迎え入れてしまった。

 

 

 

 

「お嬢さまの悪癖が出てしまったようですね。宇佐美さま。いかがいたしますか。わたくしは、お嬢さまが関東出兵などに駆り出されぬうちに上杉憲政を暗殺してしまうべきだと考えていますが。ようやく牙を抜いたはずの政景が憲政を担いでいるという状況も最悪です。上杉憲政は、政景を政権中枢に復帰させよ、長尾一族は関東管領の家臣として結束すべし、とお嬢さまを説得するつもりのようです。転んでもただでは置かない男です、あれは」

 

 直江大和の隣にあぐらをかきながら、宇佐美定満はあくびをしていた。

 

「直江よ。こうなった以上は、仕方あるまいよ。てめえの計算通りにはことは運ばない。景虎は、為景の旦那が叩き潰してしまった関東管領家を復興したい、そのために働きたいとずっと毘沙門天に祈っていた。これも、天命だろう。だいいち、憲政が今いきなり死ねば、先の越後守護の爺の死まで、景虎がやったことだと疑われる。義将の名声は地に落ち、親子二代続いて関東管領を殺す下克上をやらかした謀将だと囁ささやかれるようになっちまうぜ。それじゃあ、景虎は救われない」

 

「……関東出兵のほうがまだしも、お嬢さまのお心の安寧にとっては、よい選択だと言われるのですね」

 

「最善手とは言えないがな。父親の代の恩讐を捨てて、上杉憲政が景虎に頼ったとなれば、景虎の義将としての評判はうなぎ登りだ。上洛前の景気づけとしては、これはむしろ幸先よしだぜ。問題は、関東出兵を本格的な規模に広げちまわないことだ…。関東の大地の広さは尋常じゃねえ。あの身体ではるばる小田原まで遠征などということになれば、景虎が危うい」

 

「それもですが憲政は関東管領の位階を剥奪されました。最早賊軍認定です。こんな状態の彼を助けても、我らも賊扱いされ、最悪関東全土の将兵が越後に流れ込んできます。長らく古河にいた鎌倉公方はかつての本拠地鎌倉へ戻りました。それを行った北条は鎌倉府執権に任じられています。大義は向こうにあります。北条は傀儡とした鎌倉公方の名の下に上杉憲政を討伐しようと軍を興しました。これは本当に義なのでしょうか…」

 

「そればっかりはあいつの判定だろう。オレらがどうこう言っても、頑固なアイツだ。梃子でも動かねぇ。それにもう一つ。あいつ拾い上げちまうと、さらに厄介なことになるかもしれねえな……」

 

「武田晴信に圧迫されている北信濃の諸将までもが、越後への亡命を考えるのでは……ということですね、宇佐美さま」

 

「そうだ。景虎の名声が高まれば高まるほど、火中の栗を拾わされる機会も増える。武田晴信と北条氏康を同時に敵に回して二正面作戦なんぞやらかせば、いくら景虎が戦の天才でも、もたないぜ」

 

「ですが、北条は成功させました」

 

「あれは氏綱の遺した強力な家臣団と善政による領民の支持、あとは当主氏康の才能と軍師一条兼音の頭脳のたまものだ。興国寺はオレも唖然とした。船で渡るなんて誰が考えるよ。それに内部もこちらとは状況がまったく違う。こちらは領民の支持は高くない。おまけに家中は分裂の火種があちらこちらに転がっている」

 

「お嬢さまは義と慈悲という観念によって動かれるお方ですから、現実的な計算などできません。常識ではありえない二正面作戦も、義のためならば平然とやりかねませんね」

 

「オレたちがそういうふうに育てちまったんだから、しょうがねえ。あとは……上杉憲政の野郎が景虎を口説こうとした時に、どのあたりで止めるか、だが」

 

 お嬢さまは、男の地位や、まして容貌に惑わされるお方ではありませんよ、と直江は久々に笑っていた。

 

「わたくしという美青年がずっと隣に侍っていても、まったく興味を持ちませんからね」

 

「それは冗談で言っているのか、それとも本気で言っているのか?」

 

「さあ。どうでしょう。むしろ憲政が無粋な真似に及ぼうとしてくれたほうが、殺す理由ができてわたくしにとっては好都合ですが、八歳の頃から関東管領の位にあった上杉憲政はほとんど公家のようなものです。残念ながら、そのような野暮な真似はやらかさないでしょう」

 

 それにしても、坂戸城の包囲を解いていなければ、こんな厄介な事態にはならなかった。宇佐美定満は「天命としか言いようがねえな。関東管領と景虎とは、切っても切れない縁があるようだ」とつぶやいていた。

 

 

 

 

 景虎はため息をつきながら、上杉憲政との対面の間へと廊下を進んでいた。政景と綾の子は、かろうじて命を取り留めたらしい。坂戸城包囲の中断によって少しでも生き延びられる可能性が出てくれば、と景虎は祈っていた。だが、景虎が坂戸城へ出陣している間に、兄・晴景の容体が悪化していた。景虎が政景と再び相争いはじめたことを気に病んだために、なにも食べられなくなったらしい。薬師の見立てでは、衰弱が著しく、もう長くないという。

 

 兄上はお優しすぎるのだ……私は兄上の言うとおりに、武将をやめておくべきだったのだろうか……だが、運命は、私のもとに関東管領さまを。定実さまに尽くせなかった分も、憲政さまには尽くさねばならない。父上の犯した下克上の罪を、私が…。

 

 

 

 愁いに満ちた表情で、小柄な景虎が対面の間に姿を現した時。琵琶を弾きながら退屈を紛らわしていた上杉憲政は、思わず絶句していた。琵琶を教え歌を教え、「源氏物語」の講義などもしてやれば、景虎という戦しか知らない小娘はおよそ簡単に籠絡できるだろう、と憲政は甘く見ていた。いくら「越後に並ぶもののない美貌の持ち主」と言われてはいても、そんなものはおべっか混じりの田舎武士たちの噂にすぎない、と。関東では、憲政はいわゆる美人などは腐るほどに見てきた。誰もが自分の高貴な血筋と美貌とそして関東管領という目映いばかりの肩書きとに、結局は靡く。女はたいてい、そのようなものだと思っていた。戦場で戦う姫武将ともなれば、北条氏康がそうであるように、もっと現実主義的な者が増え、扱いづらくはなるが、越後の外の世界を知らない景虎はそうではないだろうと思っていた。

 

 しかし、景虎は、まるで人間ではないもののように見えた。あの食わせ物の上杉定実が越後守護の座を僕に無断で景虎に譲った理由も、わかる気がする、と驚愕した。

 

「憲政さま。私が、長尾景虎です。畏れ多くも、越後守護の名跡を継がせていただいています――越後へ来られたからには、二度と憲政さまに危険が及ぶようなことはさせません。北条氏康とかいう下克上の蛮族は、この景虎が成敗いたしましょう。これよりしばしの間、憲政さまには府中の御館にてお暮らしいただきます。本来は、定実さまのために建設していた御殿でしたが……」

 

 氏康がふざけんなと叫びそうな言葉を吐いている。景虎は一方的な目線からしか見ていない。上杉の領民が長年の戦争で疲弊していることも。重税や杜撰な管理に苦しんでいたことも。そしてその上野の民たちが今圧政よりの解放者を喝采していることも。何も知らない。父の犯した罪を自分が背負うという感情が彼女を狂わせ、冷静な判断を奪っていた。

 

 

 

 

 そうか、と憲政はやっと声を発することができた。景虎の赤い目。異形の瞳。まるで魔眼だ。毘沙門天と呼ばれるのも、当然だった。到底、簡単に口説き落とせるような娘ではなかった。この天女のように美しい少女が、五年もの間、不犯を貫くと決めているとは。

 

 なんと、惜しいことか――。

 

 が、それもやむを得ないことだ、と憲政は理解した。婿を取ると迂闊に宣言すれば、この少女を巡って、越後の国人たちはばらばらに割れてしまうだろう。誰を婿に迎えても、不満が爆発する。政景などは、景虎の姉を妻としていながら今なお景虎に執着しているのだという。ならばこの僕こそが、彼女を妻にするに相応ふさわしい唯一の人間なのかもしれないと、そのように憲政が考えたのは、生まれながらの名族だからだろう。

 

「長尾景虎、大義である。そなたの関東管領への忠義の心は、まことに殊勝。そなたの父の罪は、僕が許そう。過去は水に流し、ともに我が家の復興のために北条と戦ってくれるかい」

 

「委細承知」

 

「即答していいのかい? きっと家臣団が反対するよ」

 

「構いません。憲政さまの領国である上野を、この景虎が奪回いたします」

 

「上野を僕のために奪回しても、きみの領土は増えない」

 

「わたしは甲斐の武田晴信とは異なります。もとより、他国を侵すための戦いはいたしません。義と秩序のためにのみ、この景虎は戦います」

 

「軍団を率いての三国峠越えは、大変な難行軍になるよ」

 

「坂戸城の政景に先導役を命じ、道を整備させ、関東へとすぐにでも出兵いたします」

 

 景虎には、政治感覚というものはないに等しい。頼られれば、考えもせずに、受ける。ことに、父の罪を許す、と直々に伝えられたことに景虎は激しく感動しているらしく、大きな目を潤ませていた。その他のことが分からなくなるほどに。このままでは自分が賊になりかねないことに。

 

 憲政の心は、なんということだ。戦の天才と聞いていたのに、心はまるで童女だ。一国を束ねる大名としては、途方もない馬鹿だと言ってもいい。この者を極限まで利用し尽くせば、関東管領家は復興できる。という打算と、それは関東随一の名門の御曹司である僕が取る行動としては、あまりにも無粋じゃないか、という逡巡の間で、揺れ動いていた。

 

 家臣は主君のために働き死ぬものである、それが関東の秩序というものの本質であり、北条氏康はその秩序を無視して関東を侵食する下克上の輩である、僕のために戦って死んでくれる家臣だけが良い家臣である。それが、貴公子・憲政の信念であった。

 

 むろん、憲政は知っている。そのような都合のいい、楠木正成のような家臣など現実の関東にはほぼいないのだ。長野業正がその唯一である。だからこそ、関東管領家は無残に凋落した。

 

 こういう風に他人のせいにして、賢人忠臣がいるのに用いないからこうなるのだが、気付かないのが彼の彼たる所以である。

 

 それはともかく、いざ目の前に、長尾景虎という、本当に「僕のために北条と戦って死ね」と命じれば迷いもせず言うとおりに死んでいくであろう、希有な姫武将が現れてみると――。利用し尽くさせてもらう代わりに、せめて、こちらからも人間らしい返礼をせねばならないな、と憲政ほどの者が戸惑った。

 

 この姫武将は、おそらく、生涯、こうやって僕のような者に利用され尽くし、消耗し、そして自分自身の人生というものを見つけることなく虚しく死んでいくのではないか。それに、明らかに、長生きできる身体ではない。

 

 そう思うと、憲政は憐憫の情を覚えずにはいられなかった。自分のような高貴な者にもそのような感情があることに、憲政は驚いていた。

 

 返礼はしよう。だが、利用はさせてもらうよ。いずれ――彼女の心を僕のものにできるかもしれないという、打算もある。そう。僕は恋に落ちたのではない。あくまで打算が、僕を動かしているのさ。

 

 恋などではないと自分に言い聞かせなければ、僕のほうがいつか景虎のこの赤い魔眼の虜にされてしまう、と憲政は思った。すべてを見透かしているかのような、それでいて相手の心の中の醜いものをなにも認識できていないかのような、景虎の瞳。

 

 河越夜戦での勝利によって、すでに北条の覇権は揺るがない。そんな関東になど出兵させてはならぬ、彼女の生涯を台無しにしてしまうという躊躇と、自分の立場として北条討伐はどんな手段を取ってでも成し遂げねばならないという義務感。そして上州に残してきた弟や業正のためにも…。

 

 それに――先ほどから、軒猿の気配をも感じていた。僕が景虎に無粋な真似をすれば、即座に理由をつけて殺すつもりだろう、と気づいた。おそらくは、軒猿をこの部屋の周囲に配置した者は、長尾政景の政敵、宰相の直江大和だろう。

 

 その手には乗らないよ、と憲政は苦笑した――八歳で関東管領に就任して以来、何度も、暗殺の危機をかいくぐってきた。修羅場には、慣れている。

 

「景虎。お礼に、きみに琵琶を教えよう」

 

「有り難き幸せ」

 

「合戦は、人の心を荒らし、虎狼のように貶しめてしまう。故に、武将たる者、風流趣味は必須なんだよ。琵琶を鳴らせば、戦場では慰めとなり、いずれきみが上洛した際には都人との交際の席で役に立つよ」

 

「……げ、『源氏物語』などは、多少、たしなんでおりますが……」

 

 景虎は、そのような自分の乙女趣味を恥じているらしい。雪のように真っ白い頬がほんのりと桃色に染まっていた。

 

「ならば上洛した折に、都の源氏物語通たちの講義を聴いてくればいい。僕が紹介状を用意しよう」

 

 だが、関東出兵が先だね、と憲政は微笑ほほえんでいた。

 

「承知しております。上野へと出兵し、遠征中の北条軍を急襲いたします。この一戦で北条氏康を捕らえ、あるいは討つことができれば、関東の秩序を回復させることができるでしょう」

 

「この一戦で倒せなければ、越後と北条との関係は泥沼になるけれどもね。たとえ神将といえども、はるばる小田原城まで逃げる北条を追撃することはできないからね。覚悟はできているのかい?」

 

「はい。父が壊した関東の秩序を再興するためならば、この景虎、生涯を賭ける覚悟でおります」

 

「平井城はすでに北条の手に落ちている。僕の家臣団は、沼田城と箕輪城に籠城中だが、この二城もまた陥落寸前だ。沼田城が落ちればもう、上野全土が北条のものとなってしまうよ。そうなれば、関八州すべてが北条に靡く」

 

「坂戸城で睨み合っていたわたしと政景が和睦できたのも、憲政さまの天運のおかげでしょう。ただちに沼田城を救援し、平井城を奪還いたしましょう」

 

 こともなげに、景虎がうなずいた。

 

「きみは本物の義将のようだね、景虎。だが、きみが予想している以上に北条は大敵だ。情勢によっては――きみに、この地位を譲ってもいい。北条から我ら山内上杉家が関東の覇権を奪い返せるのであればね。その頃には上方も関東管領の位階を返すだろう。そうしたらそれも譲ろう」

 

「関東管領職を!?憲政さま、それはなりません!私は上杉家に仕える長尾家の人間です。まして、我が父は先の関東管領を戦場で討ち果たした、そのような血筋の――」

 

「本当に、きみは本物のようだ」

 

 上杉憲政は、、まるで赤子のような心根の娘だ。僕は上杉定実のような爺さんとは違う。まだ二十代になったばかりの若武者だ。景虎の武力を、関東管領に復活するために利用させてもらうよ。それに、いずれ景虎を僕の妻にできれば、上杉家はいよいよ盤石のものとなる。宰相の直江が祝言までの期限と定めている五年のうちに、僕が景虎を……と笑った。

 

 だが、どこか、苦い笑いだった。

 

 政治的な駆け引きの交渉ではなく、いずれ、老境の上杉定実がそうしたように、「僕の血を、きみに譲る。上杉家の名跡もなにもかも、きみに与えよう!僕のすべてを、持っていけ!」と自分が景虎の前にひれ伏して叫ぶ日が来ることになるとは、この時の憲政は予想すらしていなかった。もちろん、憲政さまはそこまでわたしを頼ってくださるのか。父上の汚名をついに晴らす機会を、私は毘沙門天より与えられた。たとえ戦場で死んでも、憲政さまを上野へお戻しする。あくまでも関東管領職は、憲政さまのもの。なんとしても、北条を倒す――。上方の方々は騙されているのだ。私が義戦を実行すれば、きっと真実に気付かれるだろう。と感涙にむせんでいる景虎自身も。

 

 

 

 

 

 

 ここで北条からすればタイミングが最悪なことに、いよいよ足利義晴の容態が悪くなった。為昌と対面したあたりで既に病を得ていたのだが、それが悪化したのである。実権は息子の義輝に移っていた。そしてこの義輝はどんな方法でも足利幕府を復権させんとした父とは違い、あくまでも旧世界の秩序に戻すことを目指していた。なので、北条家を認める訳にはいかないのである。事実、鎌倉府執権を与えるとした時も強硬に反対した。利用し倒そうとする父義晴とは真反対だった。

 

 そして彼は北条を認めず、密かに上杉憲政宛てに書状を送っていた。使者は海路で越後まで来て、ここを経由して上野に入ろうとしていたところで憲政が御館にいる情報を知ったのである。内容的には「もう間もなく自分が将軍になる。そうしたら一年以内に憲政を関東管領に戻す」と言うものだった。ただ、朝定を廃するとはさすがにできなかった。金を定期的にばらまいてくれることが確定している北条をよく思う幕臣も多くいた。加えて二条家・一条家がこれに味方した。反対に近衛家は義輝寄りである。

 

 苦肉の策としてかつて関東管領は二人いたという故事を引っ張り出して成立させることにした。元々彼のプランとして復権にあたってのバックに義将・軍神と上方で名高い景虎を使う予定であった。謀略家として高名な氏康より御しやすいと思ったのである。なので、今回の亡命は義輝からすれば渡りに船であった。

 

 この政策はつまりは関東管領どうしを対立させ、上杉憲政&長尾景虎VS上杉朝定&北条氏康&足利晴氏の構図を作るのが目的である。こうして対立させ、頃合いを見て足利晴氏を攻撃する。するとかつて鎌倉府と上方が争った享徳の乱のような図が出来上がるという寸法だ。そして軍神と名高い景虎がこれを破る。そうすれば旧世界の秩序は戻る。関東を上杉憲政が、越後を景虎(これは断絶してしまった越後上杉の養子なので問題ない)が支配する。そして幕府の復権の役に立ってもらおうという策である。関東独立を本願とする北条の野望を知っていたのである。その野望を受け入れる選択肢はなかった。加えて、元々鎌倉公方と都の足利本家は仲がそこまで良くない。公方になれる資格のある人間を潰せるのなら潰したかった。

 

 そしてこれが上杉憲政から長尾景虎に渡される。そして景虎は表沙汰にはなっていないものの、次期将軍からのお墨付き=大義名分は得たと舞い上がってしまうこととなる。こうなってはもう、止める術はなかった。

 

 義輝からすれば万が一景虎が敗れても問題ない。そうなってしまったら仕方ないので北条に良い顔をして二枚舌してやろうと考えていた。今川からも上洛の打診が来ている。最悪こちらを利用すればよかった。

 

 

 

 

 

 

 長尾景虎、運命の関東出兵――。

 

 柿崎景家や北条高広ら越後の国人衆は「おお。ついにはじまったか、義戦の日々が。なんの得にもならぬ戦をはじめられるか。南無阿弥陀仏!」「合戦をやれば兵糧が減る。いくら義戦といえども、少しは稼がせてもらわねば困る」と驚き戸惑いながらも、上杉憲政の尽力で長尾政景との内戦が終結した以上、もはや敵は越後の外にしかいないのである。

 

「今こそ父の汚名をそそぐ」と景虎が訴えたことも、諸将の心を動かした。そして隠された大義名分も諸将にだけは教えられた。末端は知らないが。

 

 そうだ。景虎さまは亡き父上の汚名をそそぐために戦われるのだ。この関東出兵で大功を挙げれば、景虎さまの心を掴めるやもしれぬ、と張り切る者も続出した。どちらかと言えば後者がメインである。とりわけ、揚北衆の中で最年少の少年武将・本庄繁長は、初めて景虎の姿を見て以来、景虎をまことの毘沙門天さまと崇拝している。

 

「ああ。なんという美しい人なんだろう。景虎さまにお仕えできるボクは幸せ者だ!も、もしも、あのお方の婿になることができれば、どれほど幸せだろうか……。早く景虎さまのもとで手柄を立てたい!」

 

 と日夜景虎の像を拝み続けるくらいの熱烈な景虎崇拝者となっていたから、「関東の土塊となってでも戦い抜くぞっ!」と本庄一族の全軍を召集して、いの一番に三国峠へと向かっていった。最悪である。下越の揚北衆は、独立心が強い国人の集合体であり、長尾家の威名をもってしても容易には従わない厄介な武闘派勢力である。

 

 その揚北衆の中でも一、二を争う有力な国人である本庄繁長が、景虎の唐突な関東出兵指令に真っ先に従い、喜び勇んで出立してしまったのだから、こうなってしまえば宇佐美も直江も、景虎の「上杉憲政さまのご命令で、関東へ向かう。上野を奪回する。これは義戦である」という命令を阻止することはできなかった。

 

 ただ、一つ大きな問題があった。

 

「お嬢さま。武田晴信の猛攻を受けている北信濃の村上義清と小笠原長時からも援軍要請が来ております。万が一の時には越後への亡命を許可してほしいとも。こちらは、いかがなさいます」

 

 この時既に砥石崩れも終わり、その後の一度退いた武田軍による再度の攻勢で砥石城は陥落していた。

 

「北信濃からも、援軍の要請が?直江?本当か、宇佐美?」

 

「ああ。景虎。いくら神将といえども、関東と北信濃との二正面作戦は無理だぜ」

 

「そうだな……たしかに、私の身体はひとつしかない。武田と北条とを同時に討つのは無理だ。直江と宇佐美とで、北信濃をしばらく安定させる方策を考えてほしい」

 

 直江が、即座に策を出した。すでに、景虎が関東出兵すると宣言した時のことを想定して、宇佐美とともに練った策だった。

 

「それでは、村上・小笠原の要請に応じて、北信濃へも援軍を派遣いたしましょう」

 

「直江。武田晴信は倒すべき敵であり、懲らすべき悪だ。しかし今、わたしは関東へと出兵しようとしているのだぞ」

 

「あくまでも村上義清の戦いに多少の『見せ兵』を貸すのです。これ以上北信濃を蹂躙すれば越後軍が相手になる、北信濃は緩衝地帯として残しておいたほうが武田のためにもなると、武田軍を牽制するためです」

 

「武田晴信は智将だ。越後軍には、関東で暴れさせておいたほうが得策。わざわざ北信濃に呼び込むことはない、と兵を退くはずだ」

 

 直江と宇佐美が考えだした、一種の軍事的デモンストレーションであった。

 

「この『見せ兵』の効果は絶大です。おそらく、現在更級八幡での村上軍と武田軍との間で行われている合戦は、さほど大規模な戦闘になりますまい。越軍の旗を見た武田軍は、撤退するはずです。越軍が見せ兵だと即座に見破ると同時に、その意味をも理解し、村上勢を越後へ完全に追い落とす愚を悟るはずです」

 

「そうか。武田晴信は、兵を退くか。宇佐美も同意見か?」

 

「ああ。愚将は扱いづらいが、智将ってのはかえって先が読めるもんだ。必ず退く」

 

 そうか、それで武田晴信が北信濃への野心を捨てればそれでいい、と景虎はうなずいていた。

 

 春日山城下に「毘」の旗が掲げられ、三国峠の山道には「憲政に恭しく仕えるのだろうとは思っていたが、まさかいきなり北条とことを構えるとは、本気なのか。あの小娘め……俺の予想をことごとく覆してくる」と舌打ちしながら政景が先導する先鋒隊が溢れ返り、そして景虎は、生まれてはじめて越後の外へと軍を率いて出ようとしていた。

 

 粛々と三国峠へと向かう景虎本隊の中で――。

 

 わたくしと宇佐美さまとが政景を操ることで達成させた越後統一が、あまりにも早すぎたようです、と直江大和は自嘲するしかなかった。あと一、二年ほど政景との間で片八百長の内紛を続けていれば、関東へ出兵する余裕などなかったのだ。しかも、越後を統一した景虎は上杉憲政のみならず、今や北信濃からも頼られている。

 

 彼らの願いにいちいち義で応えていれば、景虎の身が持たない。すべてがうまくいきすぎたのだ、お嬢さまが一気になにもかもを手に入れてしまったその反動なのだ、と直江は反省しきりだった。

 

「策士は策に溺れる――そしてお嬢さまは、自ら望む運命を、引き寄せる力をお持ちのようですね」

 

「武田晴信のほうは心配ねえが、とにかく問題は関東だ。景虎が文字通りの戦の天才だと知られる前に、最初の一戦で北条氏康を討つしかねえな。最初の合戦で逃がせば、北条の最強部隊がやって来る。最悪小田原城へ籠もられる。越後から小田原までの補給線は長い。長期間に及ぶ包囲はできねえ……そういう事態になれば、景虎は少なくとも十年は関東に引きずられる」

 

 宇佐美も、ため息をついていた。

 

「最強部隊ですか?」

 

「河越衆だ。考えても見ろ。普通の将、しかも外様を河越なんて言う要地に置くか?あそこは北武蔵の統治の要だ。つまり、万が一には最前線となるあの城を支配するに足る信頼があり、北武蔵の国衆を従える武勇と人望があり、北条家中との関係も良好って事だ。そしてあの城は河越夜戦の時四千近い軍で立て籠もった。それだけの兵を率いる権限もある。加えて数々の軍略だ。もう最強部隊と言ってもおかしくねぇ」

 

「ですが、お嬢さまには敵わないのではないでしょうか。あの越後最強だった長尾政景も敗れました」

 

「だと良いんだがな。どうも嫌な予感がする」

 

「話を戻しますと、上野を長尾家の領国にしてしまえば、長期戦も可能ですが。お嬢さまは、『国盗り』はなさらないでしょうからね」

 

「ああ。父親を追放し、信濃を侵食する武田晴信を蛇蝎のように嫌っているからな。『義戦』か……ありえない矛盾を、景虎は成し遂げようとしている。あいつの生涯が、壮大な徒労に終わらなければ、いいんだが」

 

「あなたとわたくしが、お嬢さまを育成したのですからね。われらがお嬢さまの矛盾に満ちた不可能を、可能となせるよう、支えていくしかありませんね」

 

「景虎のために死ぬ覚悟は、いつでもできているさ。オレの後継者も見いだしてある」

 

「ほう? それはどなたです。琵琶島城に大勢抱えている姫武将候補のうちのお一人ですか?」

 

「ああ。樋口村生まれの幼い娘だ。いずれ直江、てめえの養女にしてえんだ。宰相を育成する手腕にかけては、情の深いちゃらんぽらんなオレよりも、冷血のお前のほうが向いている」

 

 馬上でふらふらと揺られていた宇佐美定満も、覚悟を決めた。

 

 

 

 

 

 

 三鱗記に曰く、

 

『この奇襲、真に大義名分の無かりしもの也。後に上方より密書在りし事判明すれど、此の時分においては未だ名分は当方に在り。真に思慮に欠け、政治感覚と言うものに欠けたるかな。大方、都よりの貴人の書に舞い上がったと見えれり。唐国において長城を越え中原を荒らす北方の蛮族の如きなり。彼らに於ける皇帝連枝の娘が此度の書状と同列と言えるかな。是、何を以て義戦と言うのや。何を以て義将と称するのや。是を義と言いし者は己が頭脳を洗浄し、目を取り換える事を切に勧める。ならば、此度の是は何と言うべきか。答えは真に明快なり。是即ち義に非ず。偽なり』

 

 地獄の幕が開けた。




次回はまた北条に戻ります。砥石崩れの話は次章かな、と。長かったこの章もあと数話で終わります。


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第62話 苦難と幸せ

「ふっざけんじゃないわよーーッッ!!!」 

 

 氏康は激怒した。必ずかの無知蒙昧なる自称神を除かねばならないと決意した。陣中に怒声が響く。これまでこのように感情的に激怒する事など滅多になかったが、今がその時だった。何故こうなったのか。時は少し戻る。

 

 

 

 

 氏康率いる北条軍二万二千は満を持して上野に侵攻していた。初代早雲から続く因縁の相手。その最後の生き残りに今引導を渡せるかと思うと、彼女の心は弾んでいた。先鋒軍は東上野を配下に加えている。これは兼音の調略によるものであり、その報告は氏康の元にも随時来ていた。

 

 本隊と第二軍は中央から進軍し、平井城やその周辺諸城を瞬く間に陥落させた。そして妻鹿田一族の裏切りによって上杉龍若丸を捕らえた。彼の捕縛に際し、憲政の行方を聞いたが、決して答えなかった。助命を願うならば行うとも言うが、丁重に拒否される。仕方なしに、せめてもの餞として仇討をさせたのである。そしてその遺骸を長野業正に送ったのは、彼女なりの優しさだった。また、厄介な相手と認めつつも業正の将器を認めていたのである。

 

 これまでの合戦に対してきわめて消極的で慎重派を任じていた北条氏康であったが、平井城の陥落はその氏康をして「一気に上野から上杉家の勢力を一掃する絶好の機会が来たわ」と狂喜させるには十分な大成果である。加えて、興国寺や河越などでの数々の成功体験が、彼女の消極性を消しつつある。消極性を無くした慎重派の武将は敵からすれば厄介極まりない。

 

 北条家はすでに伊豆、相模、武蔵、西下総を平定しており、常陸にも経済的に影響を与えている。山内上杉の勢力を駆逐して上野を平定すれば、広大な関東の西半分をことごとく手に入れることになる。そうなれば、もはや関東には北条家に独力で対抗し得る勢力は存在しない。厄介な里見と佐竹らが残ってはいるが、それも国力差を考えればどうにかなると考えていた。

 

 北条三代の悲願「関東平定」が、目前となっていた。氏康は「この勝機を見逃す手はないわ」と軍を沼田城へと北進させた。沼田城は、利根川上流の山城である。川向こうに陣を敷いた氏康は、素晴らしく上機嫌である。普段は努めて冷静であるのだが、現在の彼女は公的な場では珍しく笑顔を浮かべている。普段あんまり笑わないので、そのギャップはかなりのものであった。

 

「河越城を包囲された時には、もう北条家も私の代で終わりかしらと嘆いていたものなのに。あの一連の戦いで、すべてが変わったわ。これも全て皆のおかげね。晴信は信濃で村上義清に苦戦していて、今川もそこまで勢力を伸ばせていない。興国寺の打撃が痛すぎたのね。いい気味だわ。北条家にとっては、なにもかもがいい具合に進んでいる」 

 

 海が好きな彼女としては内陸の上野はそんなに好きでもないのだが。彼女は常に、北条家を守り「関東独立王国」の建国という北条三代の悲願を達成するために、全身全霊、姫大名としての仕事に打ち込んできた。氏康自身が合戦に出陣する機会は少ないが、風魔衆とともに常に諸国の情報を集めて分析し、次々と謀略の手を打っていく氏康には、寝る時間も少ない。その上、領民を慰撫するための内政にも氏康は徹底的に力を入れていた。「武」の力で一時の勝利を得て城を奪っても、領民を慰撫できなければ、一揆を起こされ、あるいは隣国に逃散され、長期にわたって安定的な支配を実行することは不可能である。政治家としての天才的な感覚を生まれながらに持っていた氏康は、合戦よりも謀略と内政によってじわじわと領国を広げ、領民を慰撫していく、そのような気の長い方法論で関東の覇者になろうとしていた。

 

 本来ならば過労死しかねない仕事量であるが、意外と彼女の精神並びに肉体は健康である。厄介な諸問題が片付いていることもあるが、家臣の頑張りも大きく作用していた。兼音の登用と出世は大きく家中で効果を発揮しており、譜代の老臣は追い越されないように努力し、新参やまだ立場の低い者は才能を示せればあのようになれると奮起している。いい効果だった。家臣団の結束も固い。氏康は非常に家臣からの人気が高い。その理由には公正公平である事、つねに理論的で無茶な命令をしない事、個人の適材適所に合った仕事をさせようとしている事、末端であっても気を配っている事、家臣の家族へも配慮がある事などがある。

 

 彼女個人について行っている家臣も多くいる。武田晴信などに比べれば鮮烈さは少ないものの、これも一つのカリスマだった。領民からも評判は良く、商人もいい取引相手だと思っている。武家であることを笠に着て横柄な態度であったり無茶苦茶な取引をしようとしないこの家は大分商人からすれば過ごしやすい。不正をすれば即お縄だが、やらなければ良いだけの話なので些細な問題だった。

 

「当主になってから、結果的に良い事ばかりね。感謝してもしきれないわ。特に…」 

 

 北武蔵の統括司令官。そう、一条兼音である。彼のおかげで助かったことがなんどあった事か。父・氏綱が亡くなった後の葬儀の夜。茫然自失として、当主と言う大役への不安で押し潰されそうだった自分を優しく受け止めてくれた。あの時の自分は、北条氏康では無くて、父を亡くした少女になれたのだ。そしてその後も。今川を破り、武田を動かし、上杉を打ち破った。扇谷上杉の朝定を保護していた時はさすがに驚いたし、どうしたものかと思ったが、これが予想外の作用をもたらした。

 

 北武蔵の諸将や南武蔵に一部いた扇谷上杉の残党が揃って武装解除して降伏してきたのだ。特に、北条に良い感情を持っていない筆頭格であろう上田や太田などの変貌は凄いものであった。そこの繋がりでとんとん拍子で話は進み、関東管領も鎌倉公方も手中にした。自分も鎌倉府執権の職を貰い、相模守と左京大夫に正式に任じられた。一族郎党も多くが任官された。そしてイングランドという南蛮の国とも交流できた。

 

 氏政を、いい教育になるだろうと思って送り出したのも信頼の証だった。小田原の城下での逢瀬も大事な思い出だった。氏康の心の中に燃え上がる感情の正体を彼女は知りながら、その地位と立場を考えて押し殺していた。でも、もし関東を治め、全てが終われば。氏政もその頃には立派になっているだろう。そうしたら…。そんな甘い妄想が頭に広がるのを、彼女は楽しんでいた。山内上杉がもうすぐ終焉するという事実は、彼女をこうさせるのに十分すぎる材料だった。

 

 なにしろ、北条を悩ませてきた駿河の今川も、甲斐の武田も、今では北条の味方なのである。今川は上洛を目指して尾張三河で戦い、武田は信濃統一のために戦い続けている。背後を気にすることなく関東攻略に専念できる。

 

 だがここで彼女の脳内だけの僅かな幸せをぶち壊す最悪な報告がやって来る。

 

「ふぉっふぉっふぉっ。お嬢よ、常に慎重なそなたらしくもない。上野を奪うならば、こたびは平井城までで止めておくべきであった。上野全土の支配を急いで沼田城を囲んでしもうたがために、えらいことになってしもうたぞよ」

 

 相変わらず顔だけは二十代と言っても遜色のない年齢不詳の長老・北条幻庵が口を開いていた。

 

「えらいことって、なにかしら?」

 

「風魔を直接束ねている者は、このおばばじゃ。お嬢に報告が入るよりも一足先に、おばばのもとに風魔からの一報が入るようになっておる」

 

「知っているわ。いちいち私自身が風魔の報告をすべて聞いていたら、時間が足りないもの。なにか気がかりなことでも?」

 

「上杉憲政の亡命先がわかったぞえ」

 

「あら。どうせ佐竹か小田か。もしくは蘆名でしょう?」

 

「それがのう。そこいらに逃げたのは全て影武者じゃった」

 

「……なんですって。それじゃ、本物の上杉憲政はどこに?まさか仇敵だった武田晴信のもとへ逃げ込めるはずもないし。そんなことをすれば、あの女に容赦なく首を刎はねられるわよ。里見だって受け入れないわ。あの狡猾な義堯は信用ならないけど、前に対立したし、何より義堯自身が憲政を嫌っていたはずよ。民を苦しめる暗君だって。いくら憲政が無能な馬鹿でも、そんな愚かな真似は」

 

「越後じゃ。越後の、長尾景虎のもとに逃げ込んでおったのじゃよ。上杉憲政は戦は下手じゃが、お嬢が考えているほどには愚かではない。あれは、公家のような育ちの男じゃからのう。なかなかに、したたかなものじゃ。風魔をもまんまと騙しおったわ」

 

 それこそ天地がひっくり返ってもありえない話だわ、と氏康は信じなかった。

 

「長尾景虎の父・為景は、かつて関東管領・上杉顕定を殺した下克上の男よ。関東管領家がかくも無様に没落したのも、為景のせいと言ってもいいわ。それなのに、いくら窮したからって、関東管領たる者が逆臣の長尾家を頼って越後へ亡命するだなんて。これまでの長尾家と上杉家とのいきさつを考えれば、助けてもらえるはずがないでしょうに」

 

 それは違うぞえお嬢、と幻庵が首を振った。

 

「長尾景虎は、父親とは真逆の姫武将よ。頼られる者はすべて助け、悪を討ち正義を実現するために戦うと宣言している、義将じゃ。天下にも国盗りにも興味はなく、領土を奪うための合戦はしないという。一種の奇人じゃろうな。そして、景虎はこの世の秩序に異様にこだわっておる」

 

「秩序……?」

 

「関東には坂東武者の棟梁としての鎌倉公方が君臨し、関東管領・上杉家がこれを実効支配し、関東の諸将は関東管領に従う。これこそが関東の正しい秩序であり、下克上をものともせずに関東を切り取り続けている北条家は関東の秩序を乱す逆臣であると、そう常々言っておったそうじゃ」

 

 それは長尾家のことでしょう!どういうつもりなの、長尾景虎という娘は!?と、氏康は思わず金切り声で叫んでいた。

 

「長尾家は、関東管領を殺し越後守護を殺した。とてつもない悪逆の家でしょうに。たしかにわが北条家は、下克上を上等として戦い続けてはきたけれど、主殺しの罪はなるべく避けてきたわ。初代の早雲公は、堀越公方の足利茶々丸を殺したけれど、それは茶々丸が正統な堀越公方を殺して公方の位を簒奪したからよ」

 

「早雲が茶々丸を殺したことは、お嬢が北条家に伝わる書をすべて焼き払って改竄してしもうて、まんまと隠してしもうたがのう。ふぉっふぉっふぉっ」

 

「それは人聞きが悪いからよ」

 

「ともあれ――上杉憲政を迎え入れた長尾景虎は、即座に、憲政の要請に応じて軍を編成し、越後を出立。三国峠より、すでに越後軍の先鋒隊が攻め寄せてきておるのじゃ。この沼田城をまっしぐらに目指してな」

 

「まさか。春日山城からの三国峠越えは容易ではないわ。どれほどの距離があると思っているの、おばば」

 

「たしかに春日山の景虎本隊は、まだ峠を越えてはおらぬ。じゃが、揚北衆の本庄繁長軍が、すでに三国峠を越えておる!」

 

「揚北衆?長尾の命令など聞かない、北越後でめいめいが独立している連中でしょう?武家というよりも、半ば山賊のようなもので……それに、三国峠を越えるためには、上田長尾家の坂戸城をとおらねばならないはず。上田長尾家は、春日山長尾家とは不仲で……」

 

「かーっ!氏康、まだわからぬか!その揚北衆と上田長尾家が、景虎の関東出兵の号令を主命として受け入れ、戦意まんまんで攻め寄せてきたと言っておるのじゃ!」

 

「まさか」

 

 風魔衆が、いつの間にか音もなく氏康の背後に侍っていた。

 

 三国峠を越えて上野に出現した敵兵の旗印は――。揚北衆の、本庄繁長。上田長尾家の当主、長尾政景。他にも小勢の将が数名。春日山からの景虎本隊を待つことなく、われらを急襲するつもりでおります。

 

 淡々と、氏康がにわかには信じがたい情報を、告げてきた。

 

「どうやら長尾政景は、謀反を許されたばかりで、『いきなりの関東出兵など急ぎすぎる』とぼやきながら、義理を果たすためにやむを得ず参戦しているようですが……本庄繁長は玉砕するつもりでこの北条の大軍を恐れることなくまっしぐらに突き進んで来ます」

 

「兵どもも、なにか異常です。まるで本猫寺一揆のような」

 

「武家の軍勢というよりは……みな、宗教一揆の如き目つきなのです」

 

「さらに、北条高広、柿崎景家ら、越後屈指の猛将どもが次々と三国峠に殺到しているようです」

 

 長尾為景の代の越後とはまるで違う!長尾景虎はあの若さで、広大な『国人の国』である越後を統一したというの?と、氏康はにわかに青ざめていた。胃が、きりきりと痛む。いままで感じた恐怖とも違う。なにか、異様なものを敵に回してしまった、決して戦ってはならないものを敵にしてしまった、そんな本能的な恐怖が、氏康を絶句させていた。

 

「お嬢。それほどに長尾景虎は越後の男武者どもに支持されておる!越後国内で国人どもを相手に延々と内紛を繰り返してきた父親とは違うのじゃ!兄が持っていた守護代の位に続いて越後守護の位までをも平和裏に与えられ、今また関東管領を迎えて忠誠を示すべく関東に迷いなく出兵しておる。われら坂東武者の常識の通じぬ、義将じゃ」

 

「義なんて向こうには何もないじゃない!何が義よ。己の侵略戦争を正当化したいだけでしょう!関東管領も、鎌倉公方もこちらにいる。憲政の関東管領の位階は正式に剥奪されたわ!なのに、どうして…」

 

「それをここで我らが議論しても答えは出まい。所詮、敵の考えは敵にしか分からんのじゃ。このまま手をこまねいていては本隊が来てしまう。今、北条の各軍は分散しておる。長野業正が背後から急襲してくる可能性もある中、集結は危険じゃ。最悪補給路を寸断される。そうなれば終わりじゃ。今補給を担当しておる二大輜重役の盛昌と河越のお嬢(花倉兼成)がいなくなれば全てが崩壊するわい」

 

「上杉憲政……!大人しく北条の軍門に降っていればいいものを、この関東になおも戦乱をもたらそうというのね。どれほどの兵の、民の血が流れることになるか、わかっていないの?彼らだって、愛する者がいて、帰りを待つ家族がいるのに。私たちは、その命を預かって戦ってる。理想を遂げるために死んでいく者達を、決して忘れてはいけないと言うのに…!それとも、領民や家臣の命などはどうでもいいの?やっぱりあの男は、愚物だわ!遠慮せずに、風魔を用いて殺しておけばよかった!」

 

 いかがいたす。お嬢? 北条家にとって、河越夜戦以上の試練の時ぞ。そなたの知恵の見せ所は今ぞ、と幻庵が氏康の決断を促す。このように追い詰められた時、氏康の頭脳は最大の力を発揮する。氏康の武将としての才能は、攻撃よりも、防衛に特化しているのだ。

 

「分かっているわ…。どうしたら……」

 

 そして迷った末に結論を出す。それは一度後退するというものだった。

 

「越後軍との衝突は回避。沼田城攻略は中断。戦線を厩橋城まで下げるわ。あそこは兼音の配下の白井胤治…だったかしら?が無血開城させてくれたわ。防衛設備は無傷のはずよ」

 

 越後軍の戦意は異様じゃ。戦線を下げても追撃してくるぞえ、と幻庵が釘を刺したが、氏康は「大丈夫よ」と微笑んでいた。

 

「長尾景虎が、弱き者の味方で、隣国の秩序などというどうでもいいもののために戦うことを惜しまない義将だというのであれば――秩序を踏みにじる強者と――武田晴信と噛み合わさせましょう」

 

「北信濃でか!あくどいのう、お嬢。実にあくどい。いい笑顔じゃのう」

 

「ええ。晴信の北信濃攻略は、あと少しで達成できる段階に入っていた。そこに越後軍が水を差して、村上義清を討ち損ねた晴信は、かなり立腹していると聞くわ。きっとあの女は、再度攻勢に出る。村上たちを北信濃から取り逃がさぬように真田衆をも総動員して結界を構築することでしょうね。そこで――」

 

 補足するならば現在砥石崩れも、そのリベンジマッチも終了している。砥石城は陥落していた。

 

「村上義清と、そして村上のもとに居着いている小笠原長時を救うのじゃな」

 

「ええ。ついでに高梨もね。もはや信濃に居場所がなくなった彼らを生きて越後へと脱出させる手引きを、風魔にやらせるのよ。むろん、風魔の正体は隠すわ。戸隠忍びに化けさせるの――武田、村上ともに戸隠忍びを抱えて暗闘しているのでしょう?そこに風魔を送り込んでやれば、一時的に村上方の忍びの力が有利になる。越後へ落ち延びさせることは可能よ。いくら愚直な義将といえども、北条と武田を同時に敵に回しての本当の二正面作戦など採れるはずもない」

 

「じゃが、景虎はおそらく信濃よりも関東を優先するぞえ。山内上杉と信濃守護の小笠原では、家格が違う」

 

「そうはならないわ。関東は春日山城からはるかに遠い。三国峠の彼方の世界なのだもの。でも、北信濃は飯綱山、黒姫山、妙高山を隔てつつも春日山城に近接している。北信濃が武田晴信のものとなれば、春日山城は喉元に合口を突きつけられるも同然。だから、景虎は北信濃を放置できないわ。特に高梨氏が落ちたら春日山は目と鼻の先。必ず救援には行くはずだった。それが早まるだけよ」

 

 それに――と、氏康は言った。

 

「武田晴信と長尾景虎は、ともに自分の家族から家督を奪った姫武将同士でありながら、まるで水と油。景虎が古き世の秩序を馬鹿みたいに重んじる義将ならば、晴信は新しき世の秩序を自ら作るために諏訪氏であろうが小笠原であろうが平然と滅ぼせる野望の将。景虎が兄から平和裏に守護代職を譲られたのに対して、晴信は父親を甲斐から追放して家督を奪った女。私と景虎が相容れない以上に、あの二人が相容れるはずがないわ。きっと不倶戴天の敵同士となって、何年にもわたって北信濃で消耗し続けてくれるはずよ」

 

「ふぉっふぉっ。武田は事実上の同盟国じゃというのに、お嬢は怖いのう」

 

「ええそうよ。晴信が越後の神がかりと噛み合っている隙に、私はさっさと関東を平定するのよ」

 

 長尾景虎――上杉憲政のような負け犬の頼みをあっさりと入れて、いきなり三国峠を越えて関東で私と決戦しようだなんて、どうかしているわ。絶対に、戦ってはならない相手だわ――これまで、氏康はその臆病さを武将としての「武器」にすることで生き延びてきた。危機を事前に察知し、回避する能力である。なにごとも絶対に楽観しない。いつ何時、運命が暗転するかわからないのが、戦国の世の定めだからだ。その氏康が、「沼田城まで攻めたのは短慮だったわ」と唇を噛みしめていた。

 

 まさか、長尾景虎がこれほどに愚かしい武将だとは想定していなかった。が、たしかに沼田城まで軍を北上させれば、越後軍を関東に呼び込んでしまう可能性は、わずかなりともあったのだ。上杉憲政から平井城を奪った段階で、満足しておくべきだったのだ。あとは、長尾景虎を刺激せぬよう、じわじわと上野を簒奪しておけばよかった。いや、先に景虎と晴信を噛み合わせておくべきだったのだ。

 

「……おばば。まだまだ私も甘いわね。もしかしたら……もう、すべては手遅れになってしまっているような気がするわ。長尾景虎は……武田と北条を同時に敵にして二正面作戦をやらかすような、そんな常軌を逸した女かもしれない……そうなる予感がするの。そうなれば、私が生きているうちに、北条三代の悲願を達成する夢は……」

 

 氏康は破れそうに痛むお腹を押さえながら、上州の空っ風を浴びていた。これから先の私の生涯において、心の底から笑える日はもう来ないのではないか、そんな気がしたのだ。だが、北条家を継いだ時から、その覚悟はもうできている。

 

 今さら気弱なことを考えても無駄よ。これが私の運命なのだから、と氏康は思い直した。問題ない。そなたがたとえ志半ばで死んでも、おばばは死なぬ。安心して戦うがよいぞ、ふぉっふぉっふぉっ、と幻庵が笑った。

 

「おばばは、あと百年は生きるつもりじゃからのう」

 

 私もおばばのような気楽な性格の女に生まれてきたかったわね、と氏康は苦笑いを浮かべていた。何故か、脳内にいつか見た夢の景色が広がっていた。燃え盛る小田原城。倒れ伏す家臣や領民、家族たち。その屍山血河の中に口を赤く染めた白兎がいた。そしてその兎はたった一人になってしまった自らを食らわんとした。その兎が、或いは。そんな思いに憑りつかれた。

 

 私は幸せになってはいけないの。皆の幸せのために戦い続けて死ななければいけないの。私は、一体…。ツーっと涙が頬を伝った。

 

 

 

 

 

 

 

 その時である。彼女の救世主がやって来たのは。 

 

 

 

 

 

 

 

 

「失礼いたします。氏康様に意見具申に参りました」

 

「え…」

 

 慌てて涙を拭い、毅然とした面持ちを作る。不思議と、彼ならばどうにか出来るのではないかと思っている自分がいた。こんな不確定要素に満ちたことを思っていては当主失格かもしれないと考えた。けれど、この感情は止められそうになかった。

 

「若軍師殿、意見とはなんじゃ?」

 

「その前に、現在越後勢がなだれ込もうとしているのはご存じかと思います。これに対し、如何なる方策を以て対応されるのかお聞かせ願えますでしょうか」

 

「ふむ。取り敢えずは厩橋城まで退いて戦列を立て直す。その間に小笠原や村上の脱出を手助けし、景虎の意識を信濃にずらすという事になった。何か思いついた策はあるかの?」

 

「まず、後者の策は賛成です。武田には随分と恩を売ったつもりです。ここで返して貰いましょう。そして前者の策ですが…はっきり申し上げると私は反対でございます」

 

「ふむむ…」

 

 幻庵が唸る横で氏康は希望の光を見出そうと、兼音に理由の説明を促した。

 

「ここで退いては今までの全てが無意味になります。幸い敵主力はまだ来ておりません。この隙に先鋒を叩いてこちらの武威を示し、敵が躊躇している間に信濃でことを起こせば敵は退きますでしょうし、同時に今後の侵攻をためらうようになるはずです。大将が乗り気でも、家臣兵卒はどうでしょうか。山を越えての侵攻は、兵の大きな負担になっているはずです。敵の出鼻をくじき、こちらの恐ろしさを思い知らせるためにも、戦わなくてはなりません。更に、敵が略奪を行う可能性もあります。これを防がねばなりません」

 

 以上のことから、敵の先鋒を完膚なきまでに殲滅することを具申いたします。と彼は言った。焦る様子も、怒る様子もない。しかし、氏康は彼の目に仄かな暗さを感じ取った。それは狂気のようでもあった。

 

「勝てる自信はあるのね?」

 

「必ず。我らには我らの戦い方があります。軍神本人がどれほど強いのか知りませんが、少なくとも弱くは無いでしょう。しかし、それがいない先鋒如き、歴戦の関東武士の敵ではありません。それに、幸いこちらには上野に詳しい在地の諸将が多くいます」

 

 光が、希望が見えた気がした。このまま統一も、自分の想いも、皆の願った理想も全てすべて夢と消えるのかと思っていた。けれど、彼ならやってくれる。そう強く思った。信じようと決意した。私が信じてくれると彼はきっと疑ってすらいない。興国寺の時もそうだった。絶望的な状況の中、彼は希望を失っていなかった。私が希望を失い倒れそうになっていても。

 

 もう一度奇跡を起こせるのか。分からないけれど。やる価値はあると思った。白い兎が射られる光景が不意に頭に流れ込んできた。

 

「分かったわ」

 

「ありがとうございます。つきましては、氏康様は念のため幻庵様らと共に後退を。本隊の一部を割いて頂ければ幸いです」

 

「いいえ、それには及ばない」

 

「と言うと…?」

 

「む、お嬢、まさか!?」

 

「ええ。私もここに残るわ」

 

「いかんぞ、それはいかん。万が一があったらどうするのじゃ。ここは素直に若軍師殿の言う通りに…」

 

「彼が勇気を示したのに私がおめおめと退くわけにはいかないわ。それにこれは意地の問題よ。景虎とやらに教えてやりましょう。北条を甘く見るな、舐めてると殺すぞ、とね」

 

「いやしかし…」

 

「大丈夫よ。私だって、鞭術は得意なのよ。総大将がいた方が士気も上がるでしょう?」

 

「……承知いたしました。今、諸将に伝令をしています。もう間もなく、軍議を開けるかと。私は一度失礼します。用意しなくてはいけないものが少々ありますので」

 

 仕方ない、と言うように渋々彼は認めた。

 

「分かったわ。待っています」

 

「ありがとうございます。それでは御免」

 

 反転する時、彼の目が一瞬だけ見開いた気がした。その中にさっき感じたよりも暗い光が見えた。どこか違う世界の住人のようで。どうしてか、人ならざる領域に踏み込んだ者のようで。どこか遠くへ行ってしまうのではないだろうか。本当の彼がいなくなってしまうのではないか。狂気に呑まれたまま…。と思ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 そんなのは許容できなかった。幻庵の静止を無視して追いつくべく走る。

 

「待って!」

 

 その呼びかけに彼はすぐに立ち止まって振り返った。

 

「どうしましたか?」

 

「お願い。お願いがあるの」

 

「何でしょうか。私に叶えられるものであったらいいのですが」

 

「いつか言ったわよね。あの日、月の下で。私より先に死なないで、夢を叶えるまで生きてって」

 

「はい。仰られました。そして私はそれを約束したと記憶しています」

 

「覚えていてくれたのね。いい?たとえ生きていても、貴方が本来の貴方らしさを失って、修羅の道に落ちてしまってはいけないの。私は、私の選んだ貴方と夢を、理想を叶えたい。だから、どうか狂気に呑まれないで。私を助けてくれるって言った、あの日のままでいて」

 

 お願い…と最後はすがるように言っていた。弱くなったわね、私も。そう冷静な自分が言う。けれども、決してそれは嫌なことでは無かった。たった一人を特別扱いだなんて間違ってる。それも戦場でなんて。私のために戦おうとしている人に言う言葉でもなかった。けれど、どうしてもそれは譲りたくなかった。

 

 ああ、私は強欲な女ね。そう自嘲する。しかしそれを悪くないと思っている自分もいる。過去の自分が困ったような顔で見つめていた。

 

「分かりました。頑張ってみますね。貴女様に、ここまで言われてしまったのですから」

 

 そう答える彼の目に、先ほどまでの暗い光はもうない。安堵して、足の力がやや抜けてしまった。すかさず支えられる。思いっきり顔と顔が近付き、互いに赤くなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まだまだ青いのぉ」

 

 遠くから見つめる幻庵は一人呟いた。

 

「まぁ、これがお嬢の幸せなのかもしれん。今までもこれからも努力し続けるじゃろう。そんなお嬢じゃ。少しくらいこういう事があっても文句を言う輩は家中や領国にはおらんじゃろう」

 

 頼むぞ、若き男よ。必ず、あの子を導いてやってくれ。そして願わくば幸せを。氏綱の願った、一人の少女としての幸せを。どうか……。

 

 誰に祈っているのかも分からないまま、幻庵は手に持った数珠を握りしめた。




次回、いよいよ戦闘です。乞うご期待。


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第63話 沼田合戦

「長尾軍本隊の到着まではまだ一週間以上はかかる模様です。慣れない大地と山野の行軍が鈍足化させているようです。現状、沼田城周辺に着陣した先鋒部隊のみが突出している形になります」

 

 

【挿絵表示】

 

沼田城周辺の現状図

 

 現状の図を示しながら説明を始める。敵軍の戦力は八千。対するこちらは一万六千。数の上ではこちらが倍近くいるが、理由としては本隊の後退が無かったこと、敵軍の予想をはるかに超える諜報網を所持するこちらの伝達速度により、平井城方面から急行してきた多米隊二千が間に合ったことにある。この区間を僅か二日弱で踏破してきたため、多少の疲労はあれど問題なく戦力として加えられるはずだ。

 

「今回の作戦の目標は敵軍の殲滅。これの実現のための軍事行動となります。そして、今回の作戦は複数段階に分けられています。まずは第一段階。本隊は川田城、我が隊は幕岩城、北武蔵別働隊は敵軍の垂水隊を攻撃します。そうすれば敵中にあって少しでも味方を確保したい長尾軍は各将がこれの対応に動くと予想されます。おそらくは長尾政景・本庄繁長辺りは本隊、鮎川清実は我が隊となるでしょう。それが部隊数的にも合理的です。また、万が一各個撃破を目論んだ敵が集結してもこの戦場の広さならば持ちこたえている間にこちらも集結出来ましょう」

 

「我が隊はどうする」

 

「多米隊はその存在を知られていないようです。山中の街道を進んだことが幸いしました。このまま潜み、三日目の深夜、我々が攻撃を始めた段階で関口城方面の山野を行軍していただきたい。道なき道の行軍ですが、可能でしょうか」

 

「問題ない」

 

「感謝します。移動後は陽が落ちるまで山中にて潜伏してください」

 

「了解した」 

 

「続けます。次に第二段階です。各隊は接敵後、緩やかに後退。現在構築中の簡単な野戦陣地まで退いて下さい。敵軍が戻ろうとしたら追尾する動きを見せて、なるべく釘付けにしていただきたい。そしてそのまま日暮れまで耐えて下さい。この時に戦意が低くちょっかいをだしてみたものの、結局防戦で手一杯という感じになるとなおよろしいです。夜まで粘ったら戦闘を終了。敵軍は元の陣地に戻るでしょう。これを三日に渡り続けます。そして最終段階。三日目の深夜、我が軍の得意とする夜戦を使用します。幸い我が隊、本隊、多米隊は興国寺と河越の参加者。北武蔵隊も河越での経験はあるはず。敵軍は攻めきれず苛立ちを覚え始めるでしょう。集中力が削がれた時こそねらい目。成功は固いかと。夜襲の際に多米隊は関口城を攻撃。退路を塞ぎにかかります。こうすることで、敵軍は逃走経路がほぼ消滅します」

 

「沼田城方面から荘田城へ向かう道が空いているが、此処はどうする」

 

「鮎川と戦闘している我が隊から別働隊を出します。長尾政景などが本隊に引き付けられているため、手薄のはず。包囲は容易いかと」

 

「ふーむ…」

 

「万が一敵軍がこちらの攻城に対してつられてこない場合はどうする」

 

「その場合はそのまま攻城を続行。川田、幕岩を落とせれば、荘田、小沢は目と鼻の先。ここを全て押さえれば自然と包囲が出来ます。もっとも、それを敵も理解しているでしょうから放置はしないかと。情報によれば敵軍は将兵共に凡そ勝利を疑っていないようです。そこもまた、付け入る隙でしょう。また流言飛語を流し、敵兵を混乱させると共に情報をかく乱して敵の頭脳をそちらに集中させます。それに、いくら兵の士気が高くとも地元揚北に蘆名が来るなどと聞いては不安にもなりましょう」

 

 空間を沈黙が支配する。何とかして軌道修正した結果がこれだ。なんとも中途半端な上に苦し紛れな感じもしなくはないが、これが短時間でどうにか出来た精一杯だった。後は内部から油断させるために風魔を放って情報操作をする。これで何とかと言った感じだ。正直どこまで敵が乗ってくれるかは分からないが、夜戦のノウハウだけならこちらが上。敵がある程度警戒していてもその予想を上回れれば勝ちだ。

 

 だがどうも長尾政景はそこまで単純ではなさそうだ。だとしたら狂信的になっている本庄繁長や垂水二次郎を狙うまで。鮎川清実は今回の出兵自体に反対だったようだが、仕方なく参戦しているため戦意は低い。ここもまた狙い目だろう。

 

「本隊も戦闘に参加するようですが、大丈夫ですかな」

 

「成田殿、北条には精鋭の馬廻衆(本隊)と風魔がおります。万が一にも、氏康様の討ち死にはあり得ないかと」

 

「左様ですか、ならばよろしいのですが…」

 

 折角勝ち馬に乗れたんだ。このままいい思いをしていたいと顔に書いてあるが、多少邪な心を持っていても決して用兵がへたくそと言う訳ではない。むしろしっかり基本通りにやっている。融通はききにくいが堅実にやってくれるだろう。どんな理由であれ、戦ってくれるならば問題ない。どうせ憲政辺りからは葬儀と称して帰った理由は内通していて、自軍の被害を避けるためだろうと思われているだろうし。山内上杉に帰るべき席はないのだ。

 

「越軍の練度が実感として不明な以上、どこまでやれるか分かりませんがこのまま見過ごす訳にも行きますまい。ここで叩かねば今後も関東は越後からの侵攻に晒されるでしょう。そうなる前に…」

 

「憲政が戻ってくるのは阻止せねばならない。朝定様のために」

 

 上田朝直と太田資正は俄然やる気である。東上野の諸将は予想外の展開に混乱しつつも、どうせ寝返っても殺されるだけだと説得をしたことで腹をくくったようだった。彼らは各拠点の防衛を任せる。最低限今ある拠点だけでも失う訳にはいかない。

 

 同時に上野中に風説を流しておく。越後軍は国内の備蓄を賄うべく、略奪をしに来た。このままでは家財道具に食料は根こそぎ奪われ、女は慰み者となり子供は売られるだろうと。民衆に動揺が走っている。このまま越後軍のどこか一つの部隊でもいいからこれらの狼藉を実行してくれれば真実味が増す。民衆には心苦しいが最初のプランでは越後軍から盗んだ装備と旗を持たせた軍に故意に略奪をさせ敵の仕業に見せかける方法をしようとしていたので、それに比べれば敵の落ち度を待つので良心的だろう。軍神と言えど、自軍全てが統率できているわけでは無い。おそらくは…。

 

「やりましょう。概ね目立ったほころびは見えないわ。この策をそのまま実行に移しましょう。もし万が一、越後軍本隊が来てしまったら沼須城・阿會城・森下城は放棄。長井坂城まで退いて、山林と山林に挟まれた狭いところに防衛陣地を作って立てこもりましょう。長引けば長引くほど、向こうは不利。自ずと退くでしょう。それに、現在北信で変を起こしているわ。どの道彼らは退かざるを得ないはずよ」

 

「現在奥州は蘆名にも使者を送っています。蘆名は揚北衆が多く留守の今を狙って越後へ向かうつもりのようです。どこまでやってくれるかは不明ですが、少なくとも抑止力となるでしょう」

 

 戦闘を行う事を進言した後、相談してすぐに会津へ使者を出した。蘆名が攻めてくるという風説も越軍を動揺させる材料になるだろう。

 

「ここで敗れれば、向こう数十年は関東は安寧から遠ざかる。ここが正念場。まずは先鋒を完膚なきまでに叩き潰して、勝利をこの手に。一層の努力と忠労を期待する!」

 

「「「「「「御意!!」」」」」」

 

 さて、お手並み拝見だ。是非とも尻尾を巻いて本国へ逃げ帰っていただこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 北方は会津。現代でも近年改装され赤い瓦の天守閣になった若松城のあるこの地には蘆名氏と言う名族がいた。古くは関東の名族・三浦氏の一族と言う。この三浦氏は北条家の初代・早雲によって滅亡していた。それはさておき、奥州の中でも一大勢力を築いているこの家の当主は蘆名盛氏と言う男だった。伊達稙宗の娘を妻に持ち、岩城岩代の地(今の福島県)に大きな影響力を持っていた。彼としては南奥州に覇権を築きたいのだが、如何せんライバル勢力が多すぎた。天文の乱で大分影響力を後退させたとは言え、未だ強大な伊達を筆頭に、二階堂・白河結城・石川・岩城・相馬などの諸勢力が割拠している。複雑な縁戚関係で結びついた奥州ではそう簡単に拡大戦争が出来ない。やろうとすれば周辺から袋叩きにされる。

 

 彼はそうした現状を嘆き、蘆名が頭一つ飛び出るためにどうするべきか日々考えていた。そして南の大国・北条に目を付けたのである。旧権力を破壊し、多数の敵に囲まれるも全て撃破して進撃する彼らは若き当主の目に鮮烈に映った。近々友好の使者を送ろうと考えていた矢先に向こうから越後へ侵攻しないかと誘われたのである。これはとても魅力的な提案だった。幸い、何とか遠征できるくらいの国力はあった。少し悩んで盛氏はこれを受諾する。最悪、越後軍が戻って来てもその場合は直に兵を退き、未だ混乱状態の伊達の目をかいくぐり勢力を拡大するために使う腹づもりであった。かくして、後に北条主導で対伊達包囲網を組む際の有力諸侯の一角が北条家と縁を作ることになるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、場所は戻って上野。ある者は意気揚々と、ある者は嫌々ながらも行軍していた越後軍先鋒は無事目標地点だった沼田城に到着した。何故ここを目指したかと言えば長野業正が憲政を脱出させる前に、彼に対し箕輪城は大丈夫だが沼田城はおそらくもたない、優先は沼田の救援であると告げていたためである。もっとも軒猿が機能不全に陥っている中、北条軍本隊の数や、多米隊の高速行軍には気付けていなかった。

 

 一応名目上の先鋒指揮官は長尾政景であるが、実態は揚北の有力国衆である本庄繁長や鮎川清実、垂水源二郎らの連立軍に過ぎない。今までこのような足並みそろえた行軍などほぼほぼやってこなかった彼らは互いの息がどうしても合わない。沼田城に何とか辿り着いてみれば随所随所に三つ鱗の旗がある。これはマズいと思ったものの、まったく攻撃してこないので、その隙をついて布陣。道をこじ開け、沼田城へ物資を運んだ。

 

 ただしかし、ここで予想外の事態が生じる。北条軍が突如として彼らの部隊ではなく、周囲の城に攻勢を開始したのである。そして彼らはこれに対処せざるを得なくなった。そうしなければ自分たちの壁がなくなるからである。上野の地において長尾軍は慎重にならなければいけなかった。今まで足を踏み入れたことの無い地である。越中ならばともかく、関東への遠征は初めての試みであった。慣れない風土、あまり詳しくない現地の地理が彼らを縛っていた。

 

 そして妙なことに、北条軍は攻勢に出たかと思えばすぐに退いて行くのである。これまで景虎に付いた軍は常勝の軍であるという理由で狂信的な追撃を行う本庄隊であったが、これもあしらわれている。北条軍は元々防衛戦闘が得意な兵団である。今その本領発揮であった。そのまま夜まで粘られ、仕方ないので攻めきれぬ不快感だけを残しながら越後軍は元の陣地まで戻るしかなかった。ここまで完全に兼音の術中にはまっている。決して長尾政景も本庄繁長も鮎川清実も馬鹿では無いのだが、自分たちの兵力を削ぐのが目的だと考えているのである。

 

 これらの一連の戦闘も三日目となった日、各部隊の長は集まり軍議を開いていた。強硬策を主張する本庄繁長と垂水源二郎。厭戦気分が露骨に顔に出ている鮎川清実。残してきた我が子やら妻の事、そして上杉憲政に利用されている景虎への歯がゆさなどから長尾政景も本調子ではない。思考は鈍っていた。それに加え、多くの情報が錯綜しどれが本当か分からず、それの精査に時間がかかっていた。これも全て策略通りで、北条が意図的に情報を混乱させている。七割の嘘に三割の真実を混ぜればそれっぽく聞こえるという兼音の指示である。その為もあって会議は踊る、されど進まずであった。

 

「で、あるからして、敵軍の攻勢は我らの兵を削ぐためのもの。適当に相手していればよろしい。本隊の到着を待てば、後はどうにでもなりましょう」

 

「敗北主義者は黙るんだ!ここは突撃。北条の本隊がいるのだ!景虎様のためにも、玉砕してでも神敵氏康を討ち取る!」

 

「左様。それこそ我らの忠義!」

 

 鮎川の発言に本庄並びに垂水の両名が叫ぶ。勿論彼らの意見も不可能では無かった。越後軍先鋒は大体八千。氏康本隊は六千。死に物狂いで突撃すれば討ち取れる可能性が無い訳でもない。万が一そうなれば北条と長尾の絶滅戦争が始まるのだが、その危険性など知る由も無い。兼音ももう遠慮はいらないとばかりに怒涛の悪逆非道の策を以て越後を文字通り草木も生えない地にしようとするだろう。

 

「ではそれは貴殿らだけで勝手におやりになるがいい。我は、自分の兵を無駄死にさせる訳にはいきませんので」 

 

「臆したか鮎川!」

 

「冷静なだけだ。貴殿らこそ、目を覚ませ!北条は甘い相手ではないぞ!政景殿、貴殿からも何か言ってやってくれ」

 

「ああ、そうだな…」

 

 政景も思考を働かせる。やっといつもの調子が戻りつつあった。北条の動きは不可解だ。何故攻めてこない。理由は単純だ。今がその時では無いから。北条が決して弱兵でない事は河越で証明されている。坂戸は関東と繋がる出口近くにある。必然的に関東の情報も他の越後の諸地域よりも濃い密度で流れ込んでいた。今がその時でないなら、いつがその時なのか。本庄らは焦っている。なぜならここで手柄を立てて景虎に振り向いてもらうためだ。兵も落ち着かない。

 

 何を待っている。いや、もしもうその時が来ていたら?政景の目がハッと見開かれる。北条は河越で上杉憲政らの油断を誘って夜襲を掛けた。興国寺では敵を偽情報で欺瞞して混乱させた隙をついたという。であれば今の自軍の状況はどうか。油断はしていないが、まとまりに欠け、兵たちもあらぶっている。この状態は最良とは到底言い難かった。加えて蘆名が侵攻してくるや、越中の一揆が国境を超えたなどの噂が飛び交っている。もし今夜襲を仕掛けられたら。

 

「マズいことになったかもしれん」

 

「どういう事で?」

 

「各軍に夜襲への警戒を厳とするように命じよ。俺達は誘い出されたのかもしれんぞ!」

 

「何ですと?」

 

 その時である。焦げ臭い匂いが四人の鼻を突いた。誰かが何か焼いているのかと思ったが、どうもそんな規模の燃え方では無いようであった。慌てた様子で天幕に伝令が飛び込む。

 

「も、申し上げます!我が軍の兵糧が燃えております!」

 

「何だって!」

 

 慌てる本庄繁長。政景は臍を噛み締めた。俺としたことが、不覚を取った。戦場で家族やら他の事を考えるなど、弱くなったものだ。怒鳴りだしたい気分を抑えて事態の収拾を図ろうとする。しかし、時は既に遅かった。

 

「申し上げます!我が軍が何者かの奇襲を受けております!敵味方の判別がつかず、同士討ちが多発している模様!」

 

 あちらこちらから怒号と悲鳴が響き始める。

 

「遅かった!夜襲だ!早く自軍に戻れ、さもないと全滅するぞ!」

 

 政景の声で我に返った三人は大急ぎで駆けて行く。嵌められた。北条の得意技に引っかかるとは…!悔しがるのは後だ。ここで死ぬ訳には断じていかない。なんとしてでも脱出だ。方針を定めた彼は混乱する己の軍の収拾にかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 政景らが軍議を開いている間、北条軍は粛々と行軍中だった。既に敵陣の様子は筒抜けである。なまじやる気に満ちていたため梯子を外されたようになっている兵は不満たらたらで集中力は落ちている。統率のいまいちとれていない陣中では、喧嘩やもめ事が多発していた。そこに追い打ちをかける流言である。段々彼らが何故こんなところで戦っているのかと我に返り始めているのはバレバレであった。

 

 時は満ちたのだ。三日目となる今夜。北条軍は予定通り作戦を決行した。二度の大規模夜戦で将兵の夜戦スキルはかなり高かった。無音かつ高速で行軍が可能なのはそういう所以である。おおよそ夜間行軍では考えられないスピードであった。そして名乗りを上げるでも雄叫びを上げるでもなく、彼らは静かに静かに忍び寄り、一斉に襲い掛かった。長尾政景らのいる付近は本隊の担当である。そして時を同じくして垂水隊には北武蔵衆が、鮎川隊には兼音の部隊が襲い掛かっている。完全なまでに作戦成功であった。

 

 

 

 

 

 鮎川清実が軍議でいないのは知っている。大将なき今、絶好のチャンスであった。

 

「突き進め!越後の蛮族どもを、此の地よりたたき出せ!」

 

 もうこちらの存在は露呈しているので、大声で下知を飛ばす。成田隊には街道の封鎖に行ってもらった。勿論街道以外を通れば行軍可能だが、道が整備されていないので速度は落ちる。速やかな脱出は不可能になるだろう。

 

「申し上げます!多米隊、無事に関口城を急襲。敵は突然の攻撃に混乱しております!」

 

「申し上げます!本隊の一部が氏照様指揮のもと、敵の兵糧を急襲。これを燃やしております!」

 

 次々と飛び込んでくる情報。戸隠の、と言うかもう河越に随分長くいるので元戸隠忍群の現河越忍群の活躍により素早い情報が入ってくる。兵糧を燃やせたのは良いことだ。これで取り逃がしても敵の撤退が早まるだろう。越後は貧しい国家では無いが、決して無尽蔵の兵糧がある訳じゃない。大陸(中国)とはわけが違うんだ。向こうは数百万の軍勢を維持する兵站があるのだから恐ろしい。

 

「私に続けぇ!この戦は勝ったぞ。勝った勝った!勝ち戦!」

 

 それはともかく、綱成がお決まりの決め台詞と共に最前線で槍をぶん回している。血煙が夜でもはっきり見える。いつか見た光景だなと苦笑気味に眺める。こちらも敵味方入り乱れている状態だ。先ほどから目についた敵を射抜いている。北条軍はみな腕に青い布を巻いているので敵味方の判別が出来る。反面敵はそんなものはなく、同士討ちさえ行われていた。

 

「駆けろ、駆けろ!今こそ好機だ!河越の兵の底力を見せつけろ!」

 

 軍神のいない越後軍ではあるが、さぞ強いのだろうと思っていたが…。拍子抜けだ。先鋒が敗れたと知ったら敵の本隊はどのような対応を取るだろうか。思考は既に戦闘の後の事を考え始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 垂水源二郎は素早く自軍に帰還できたが、彼の軍は一番数が少ない。そのため、早く逃げる必要があった。そして攻撃を仕掛けてくるのは旧扇谷上杉家臣団の中でも二大柱と言われる二人。上田朝直と太田資正。更には上杉憲盛もいる。折角自らの主である上杉朝定が関東管領となれた今、山内上杉に戻って来られるのは一番避けたい事態だった。もう風下にはいたくない。そんな思いが支配している。

 

「マズいマズい。このままでは景虎様に…!逃げろ、逃げろ!一兵でも多く連れて帰って再度挑めば、まだ機会が…!」

 

 そう叫ぶ垂水源二郎に大刀が迫る。

 

「太田美濃守資正、参る!!」

 

「しまったッ!」 

 

 眼前まで迫った刃。これが彼の生涯最後の言葉となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方の政景は北条軍相手に苦戦を強いられていた。彼個人は武勇に優れているが、軍の全員が彼みたいな訳もない。それでもとにかく今は退却することだけが優先だった。北条の武者を切り裂いて、撤退を始める。

 

「俺はこのようなところで死ぬ訳にはいかん!必ず帰還してやる!死にたくなければそこをどけぇっ!!」

 

 彼の配下もこのような事態は慣れっこと言うわけでは無いが、政景の無理な行軍に幾度となく付き合わされている。生き残る術は熟知していた。一方の本庄繁長は自分の部隊に戻るのにも時間を要し、指揮が遅れていた。その為、我先にと撤退する長尾隊のせいでまともに戦闘が出来ないでいた。それを見るや否や、本隊の中でも最強格の氏康の馬廻衆が動き出す。それはすなわち当主自らの陣頭指揮を意味していた。

 

「皆の者!越後勢は退いて行く。最後の踏ん張りよ!一人でも多く、この上野の大地に倒れる骸としなさい!」

 

「「「「おおお!!」」」」

 

 勝ち戦に加えて、当主自らの指揮で北条の将兵の士気は熱烈天を突かんばかりである。ある種呆然とこの様相を見ていたのは本庄繁長である。勝てるはずであると信じていた。しかし、ふたを開ければ神のいない軍など脆くも崩れ去った。玉砕を誓った一族も次々と逃げ出していく。

 

「そんな、馬鹿な…!このままでは景虎様になんて申し開きをすれば…」

 

 この期に及んでも彼の思考は景虎に囚われていた。彼女に嫌われたくない。失望されたくない。恋する男ならば誰しも似たような感情を抱くだろう。しかし、彼の場合抱いた相手と今現在の状況と、場所が最悪であった。

 

「お早く撤退を!繁長様!」

 

 家臣に強引に誘導される。生きて帰らねば雪辱を晴らす機会もなくなる。失点は取り返せるが、死んではそれも不可能だ。このままくたばるよりかは何としてでも退いて、今一度。そんな思いが彼を支配する。そして馬に鞭を入れ、駆け出そうとした時に彼の(まなこ)は見てしまった。

 

 丘の上、星と月に照らされれ、剣を指し示しながら指揮を執るその姿を。髪は紫苑。瞳は紫水晶。肌は白磁で声は雅曲の如きと三鱗記に絶賛されるその艶やかなる姿を。唇は赤く紅く染まり、どう猛ながらも優雅な笑みが浮かんでいるように彼には見えた。実際は引き攣っているのだが。

 

「夜の、女王がいる…!」

 

 かつて春日山で景虎を初めてみた時と同じような衝撃が彼を駆け巡る。刺激を受けやすい彼にとってこの二大美人を直接目撃したことはかなり毒であった。呆けかけている彼を無理矢理家臣が引っ張る。月を背に指揮をするその姿を本庄繁長は忘れられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 戦闘は一時間とかからず終了した。最終的な損害は越後軍、総勢八千中死者行方不明者・二千と数百、重傷者、千数百。北条軍、総勢一万六千中死者行方不明者・七百、重傷者数百。当初の予定より割と北条軍に損害が多く、越後軍は思ったよりも取り逃がしていた。殲滅を目標としつつも無傷で脱出した兵も多くいる。これの原因としては、成田軍が押されたことも一因である。

 

 とはいっても成田長泰はしっかり仕事はしていた。ただし、この軍を突破し包囲を脱しようとした兵は決死の覚悟で攻撃をしてきたので、損害の拡大を恐れて本気の戦闘をしなかった為である。そのため多くの越後軍が命からがら脱出に成功していた。しかし重傷者も多く、また軽傷者ともなればかなりの数がいる。確実に越後軍の敗戦と言っても差し支えなかった。

 

 彼らの敗因としては錯綜する情報の精査に手間取り失敗した事、流言が飛び交う陣内を統制できなかった事、北条の三日間の行動の意味を考えようにも浮足立った者、厭戦感マシマシでやる気のない者、色々考えることが多く、本調子でなかった者がおり将帥の段階で統制が出来ていなかった事、いつもは情報面で頼っていた軒猿がまったく機能できなかった事などがあげられる。

 

 このようなことが積み重なり、敗戦する。垂水源二郎は討ち死。鮎川清実は何とか脱出するも腕に重症を負う。これは兼音の射た弓が意図せずではあるが偶然当たってしまったことが原因である。この傷から彼は数日間高熱にうなされるなどの憂き目に合った。多米隊は無事城の攻略に成功。関口城は開城した。勢いそのままに兼音隊は幕岩城、本隊は川口城、成田隊は小沢城を攻略。丸裸にされた沼田城は兵糧の底が尽きたこと、親北条派の金子泰清による煽動で引き起こされた城内の不和などにより三男であった当主を殺して実権を握っていた隠居の沼田顕泰は絶望。自ら命を絶ち、残された沼田景義は降伏を願い出た。

 

 後世にてこの戦いは沼田合戦と呼ばれ、初戦で越後勢の出鼻をくじいたと評される一方、ここで敵将や兵を取り逃がしたのは大きな痛手であったと評する専門家もいる。事実、この後より越後と北条の間で長い戦争が続くことになるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三国峠付近。ここには景虎の本隊が駐屯していた。そこに落ち武者のような格好の敗残兵たちが次々とやって来る。何事かとにわかに騒がしくなる本陣。緊急事態を察して景虎のもとに集まった宇佐美、直江の所へ大分血に汚れた政景が訪れた。

 

「どうした政景。お前には先鋒として沼田城の援護を命じたはずだが」

 

「フン、今回ばかりは俺の失態だ。素直にそれは認めよう。北条の軍の奇襲を受けた。奴らは臆病者ではない。氏康も、小田原に逃げ帰るような小娘では無かった。関東遠征は諦めろ。あれと戦えば、お前は二度とその沼から抜け出せなくなるぞ」

 

「問題ない。私には、毘沙門天の加護がある。私に、負けはない」

 

「愚かな…!そういう次元の話をしているのではない!あれは英雄だ。時代が呼んだ寵児だ。北条氏康とはそういう存在なのだ。直接戦った俺が言うのだ!間違いない!鮎川清実はおそらく一条土佐守にやられた。この軍略も奴が編み出したのだろう。浮足立った軍、錯綜する情報、俺も不覚にも思考が散漫だった。だがそれを抜きにしても奴は異質だ。係るべきではない…!」

 

 一条兼音。その名前は…と考えた景虎に頭痛が走る。

 

「うっ!」

 

「おい、景虎、大丈夫か!」

 

「お嬢様!」

 

 名を呼ぶ宇佐美と直江の声がどこか遠くに聞こえ、あの冬の親不知で聞いた声が頭に響いた。

 

()の者が、お前の義を阻む黒鉄(くろがね)の矢を放つ者だ。心せよ。彼の者のある限り、お前の理想は果たされぬ…」

 

 ああ、その男がそうなのか。義をもたらすことを阻む、不義の男。何としてでも対処しなくては。景虎の中に炎が燃え上がる。

 

「おい、おーい!聞こえてるか?」

 

「ああ、聞こえているぞ、宇佐美」

 

「良かったぜ。急に呻きだすからな」

 

「安心しました。今ここでお嬢様に万が一のことがあってはと思いました」

 

「宇佐美、直江、私は決めた。このまま進軍する」

 

 両名は顔を見合わせる。政景はもうそっぽを向いていた。何を言っても無駄だと判断したのである。

 

「だがよう、いつまでも越後を留守には出来ねぇぞ」

 

「はい。宇佐美さまの言う通りです。蘆名が揚北などの北越を狙っているとの報せが。また北信濃で武田が動いたようです。このまま北条といつまでもことを構えていては…」

 

「それでもだ。義を示すために、下剋上の奸物・氏康と義を阻む者である一条兼音は排除せねばならない。全軍に進軍を命じよ!」

 

 こうなってはもうどうしようもない。それは付き合いの長い二人であるからこそよくわかっていた。頑固な景虎はよっぽどのことがない限りはもう意志を変えないだろう。どうにかして実行可能にするしかないと二人は覚悟を決めた。

 

 自分と一条兼音。何れの知力が上なのだろうか。軍師として、勝ちを得られるか。どうも嫌な予感が止まらない。宇佐美定満は一人、肌に纏わりつくような汗を流しながら、そう考えていた。




この話でこの章は最後となります。次回はキャラ集、その次に新章スタートとなります。新章は多分武田の砥石崩れからスタートになるかと。

指と手首からいよいよもって変な音がなる上に慢性的に痛むので、しばらくペースが落ちるかお休みをいただく事になるかもしれません。私事で申し訳ないですが、ご了承下さると幸いです。


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キャラ集➂

前回のキャラ集から今回までの新キャラと既出のキャラの追加項目を書いています。

流石にこんな作者の備忘録みたいなものだけで終わらせるのはアレなので、一応超短編を二本載せました。


<北条家>

 

北条氏康…北条家当主。小田原城城主にして、相模守、左京大夫、鎌倉府執権を兼任する。伊豆、駿東、相模、武蔵、西下総を支配し、東下総や南常陸に影響力を持つ大大名。かなりの大役に任じられたことにプレッシャーを感じつつも、領民の幸福のための努力を続けようと決意している。

 

 沼田合戦では若干顔を引き攣らせながらも果敢に陣頭指揮を決行した。最近個人の幸福と北条家の野望を同時に果たす術はないか模索中。また、過去の遺恨に囚われない柔軟さを持っており、降将であり長年の仇敵であった朝定を許すなど度量の広さを見せる。これにより、上野の諸将の降伏率は上昇した。冷静沈着な氷の女を自称しているが、隠しきれない優しさがあり、それは山内上杉家の龍若丸の一件でも明らかである。

 

 外見的には概ね原作通り。現在の年齢は16。年相応の成長をしており、身長も伸びているが、一部の変化がないことに不満を感じている。(具体的には胸が…)。ただ、見た目が優麗なのは事実であり、三鱗記に至っては『風貌美麗にして、唐天竺を眺めれども、彼の御仁より美麗なるを我は未だ知らざる。あらゆる傾城傾国、我が主を一目見れば己の美を恥じ、家屋深く籠ること必定なり。紫苑の髪、陽光を受け金襴緞子よりも艶やかなる輝きを放ち、白き肌は白磁を上回れり。紫水晶の瞳は隠せぬ叡智を宿し、此の世の悪逆非道を見抜き、人物事物の真贋を喝破するものなり。この君に勝れる王、人類史を見回して何処に居るものや』とまで記している。

 

 兼音の闇落ちを防げるキーパーソンでもあり、今後も怒涛の攻勢をかけてくるメインヒロイン。

 

 

北条氏政…氏康の妹。武蔵守。史実では次男(あれ?長男じゃないの?と思われるかもしれないので補足すると、氏親と言う兄がいたが10代で夭折している)であるが、今作では妹。無邪気な側面が目立つが、決して何も考えていないかと言うと全くの真逆で、彼女なりに思考を巡らせている。自他ともに厳しい姉を尊敬しており、彼女の幸せを願っている。そのアシストとして兼音に発破をかけた。

 

 自分が姉や他の名臣、他国の名君と比べれば凡人であると自覚しているが、凡人には凡人の戦いがあると思っている。これは兼音にも感銘を与えた。凡庸の皮をかぶった密かな英雄。彼女の本領は治世において発揮されるだろう。外見は姉によく似ているが目が若干柔らかい。

 

 

北条幻庵…北条家の元老。若づくりのため、見た目は二十代の美人。見た目を保てるメカニズムは不明。風魔の統率を担う北条家中の宿老。数々の官位ラッシュや山内上杉の上野からの追い出しに感激し、涙を流す。しかし、まだまだ若い連中には負けないと意気込んでいる。兼音には若い氏康と共に歩んでくれることを期待している。

 

 

北条氏邦…北条家の一門。氏康の妹。武闘派であり決して馬鹿では無いのだが、やや短慮なところがある。義理や人情、道理を重んじる。ザ・姫騎士と言った感じの少女である。藤田家に養子に行ったため、藤田の姓を名乗っている。出羽守。龍若丸切腹の際は彼に裏切り者の血で濡れた剣で腹を切るのをヨシとせず、己の短刀を渡した。

 

 

北条氏時…北条家の一門。氏康の叔父。兼音の婚姻相手に関して一族から降嫁させることを案の一つとして考えるように氏康にすすめた。

 

 

北条氏照…北条家の一門。氏康の妹。上野への北伐に際して本隊と同行。陸奥守。

 

 

北条氏規…北条家の一門。氏康の妹。上野への北伐に際して本隊と同行。近江守。

 

 

北条氏秀、氏光、氏忠…北条家の一門。北条シスターズの幼少組。まだ戦場に出るのは早いため、小田原で留守番中。

 

 

北条為昌…北条家の一門。氏康の妹。実は目立たないが次女。己の当主としての能力に早々に見切りをつけて、氏政に後継者の枠を譲っている。思わぬ外交センスを持っており、朝廷・幕府より多くのものを送られる。また、南蛮船を小田原に呼び寄せる事にも成功する。北伐の際には小田原での留守居役である。

 

 

多米元忠…北条家家老。北伐では後方の軍を担った。遊撃部隊として行軍していたが、急報を受け沼田合戦に参加。敵軍に察知されていない利点を活かして隠密行動を行い、城を急襲する。外見イメージはISの篠ノ之箒。

 

 

大道寺盛昌…北条家家老。北伐では後方で輜重隊を率いる。本隊に兵糧を送る二大補給役として活躍した。地味ながらも確実な仕事に定評がある。外見イメージは俺ガイルの一色いろは。

 

 

上田朝直…旧扇谷上杉家家臣。官僚風の冷たい容姿だが、その実はそこまで冷たい男ではなく、旧主の朝定との関係に関しては案じていた。これを解消してくれた兼音には感謝している。北伐時には第一軍として兼音の与力として活躍している。氏康を主としているが、同時に朝定への忠誠も忘れていない。北武蔵の要衝の一つである松山城を預かる身である。

 

 

太田資正…旧扇谷上杉家家臣。寡黙な武人。口下手のきらいがあるが、その心には主への忠誠が存在していた。これを解消してくれた兼音には感謝している。北伐時には第一軍として兼音の与力として活躍している。沼田合戦では敵軍の将の一角である垂水源二郎を一刀両断した。氏康を主としているが、同時に朝定への忠誠も忘れていない。こちらも北武蔵の要衝である岩槻城を預かっている。

 

 

上杉憲盛…旧扇谷上杉家家臣。深谷上杉家の当主。上杉家の傍流であり、扇谷上杉家に従属していた。そのまま北条家にスライドして仕えている。上記の二人ほどでは無いが朝定については案じているところも多かった。北伐では兼音の与力として兵を率いている。

 

 

成田長泰…旧山内上杉家家臣。忍城に一大勢力を持つ成田家の当主。臆病で尊大、己の家名を誇るところがあり、朝定の関東管領就任式では下馬しなかった。特に咎められる事は無かったので気をよくしている。北武蔵では少ない旧山内上杉家の与力であった勢力である。

 

 

足利晴氏…旧古河公方。現在は鎌倉に戻り、鎌倉公方の職に就いている。とは言っても実権は皆無であり、権威はある傀儡である。が、本人は特に気にしておらず、平穏に過ごせればそれで良いと思っている。最近では金沢文庫にある書物を読んだり、関東に関する歴史書を記して過ごしている。

 

 

千葉利胤…名前だけ登場。千葉家の当主。北条の力を背景に内部を抑え込むことに成功し、奪われていた亥鼻城を奪還。佐倉城からの帰還を果たした。

 

 

原胤貞…存在感は薄かったが、一応登場。臼井城の城主。胤治を使いこなせないでいた。決して悪人でも無能でもないが、かといって名将名君でもない。胤治を送り出した後、家臣がやらかした結果、兼音より滅茶苦茶怖い抗議文が送られてきたせいで胃を痛めた。

 

 

白井胤幹…原胤貞の家臣にして胤治の腹違いの弟。立場的に北条氏康の家臣の千葉利胤の家臣の原胤貞の家臣と言う階級なので、下の方なのだが、何を勘違いしたのか河越城で騒ぎを起こす。マジギレした兼音に怒鳴られ、スゴスゴと退却。その後地元に戻れば主から叱責を受けてかつて胤治のいた座敷牢に押し込められることになってしまう。彼からすれば雲の上の方にいる千葉利胤と同格の男に喧嘩を売ったのだからやむなし。と言うか、胤治は兼音の直臣なので、ランク的には己の主の原胤貞と同じ位置にいるのだが…。そこら辺はよくわかっていなかった。

 

 

長尾景総…北条に仕えていた元総社長尾家の長子。出奔し小田原にいたが北伐時に氏康の命令により風魔や北条派の家臣と共にクーデターを敢行。成功させ景孝を討ち、隣接する地域の領主である和田業繁の領地に侵攻した。

 

 

<一条家>

 

一条兼音…不動の我らが主人公。具体的な功績は本編参照。農業政策や対外国外交、軍事面においても大きな成果を挙げている。北武蔵(現在の埼玉県)のまとめ役を行っており、経済・軍事の重要拠点の要衝である河越の支配者である。領民からの評判はかなり良い。厳格な司法統治を行っているため、治安は相当に良い。現代日本から来ただけの事はある。

 

 未来では高知出身・大阪在住であったが標準語。関西弁は話そうと思えば話せる。幼い頃から弓道を嗜み、中学からは弓道部。成績は中高共に全国大会優勝。また、学業面においても優秀であり、大阪で最も偏差値の高い私立高校に高校側から返済義務のない奨学金を貰っている上に特待生として学費全額免除の特権持ち。学校の教師陣からは志望校にもよるがK大合格筆頭候補ととらえられていた。

 

 両親は既に死亡。詳しい経緯は本編参照。正義やそれに属する思想などを嫌っているが個人的な正義感は生きており、未来にいた時も中学ではイジメの被害者をそれとなく助けたり、高校では痴漢冤罪をかけられたサラリーマンの手助けやカツアゲの被害に合っていた後輩を助けたりしていた。見た目は普通よりかはそこそこ良い普通の男子高校生。

 

 

花倉兼成…河越衆の副将。また、補給役を担っており、抜群のセンスを見せ最早欠かせない存在になっている。加えて内政面の取りまとめを行っており、事実上の河越城の宰相。財政を握っているため、兼音すらもその点に関しては頭が上がらない。綱成が担っている警備活動なども彼女に報告書が行っている。優れた管理能力と業務執行能力で文官の尊敬を密かに集めている。正妻力を見せつけており、家事能力も保持している。かつて二人暮らしをしていたのが生きている。現在の能力値は統率:75、武力:55、知力:83、内政:95、外政:88。かなり内政重視だが、普通に優秀。兼音の教育のたまものである。外見は原作の今川義元を大人っぽくして身長を伸ばし、お気楽な雰囲気を抜いた感じである。

 

 

北条綱成…河越城の城代。一応出向扱いだが、事実上の兼音傘下。河越城では武の側面を担っている。上泉信綱に敗北した際にかなりの衝撃を受け、必死に鍛えようとして空回りしていた。そこを兼音にかなり強引にではあるが説得された。北伐時には因縁の相手と決戦。一騎打ちを仕掛け、見事に勝利する。上泉信綱がその腕前を認める逸材。上総介。沼田合戦では切り込み隊長を任せられている。いつもの台詞を叫びながら突撃した。見た目のイメージは『寄宿学校のジュリエット』より狛井蓮季。

 

 

加藤段蔵…元戸隠忍び改め河越忍びの頭領。この作品では珍しく、非科学的な技を用いることが可能。様々な場面で活躍し、重要情報を探ったり伝達したりしている。関東はおろか東日本でも有数の忍びであり、彼女を超える存在を見つけるのは困難。自分の防備に割と無頓着な兼音の護衛役を務めることが多い。今のところ正体不明だが、今後明かされる予定。実は亡国の姫君であり、年齢も兼音より上。信濃へ情報収集に赴き、その際に命令通り窮地の武田晴信を救援する。外見のイメージは『Fate/grand order』の同名のキャラ。

 

 

上杉朝定…扇谷上杉家当主。領土は全くないが、現在も当主の座にいる。関東管領に就任したことにより、事実上全上杉家のトップに立つ。家臣団との間に誤解から軋轢が生じていたが、兼音の尽力によりそれが解消される。亡き難波田憲重に誇れる将になるべく奮闘を開始する。生来の優秀さと呑み込みの良さでどんどんと知識を吸収し、北伐の際には立派に陣頭指揮を執った。兼音を「お義兄様」と呼ぶ氏政に自分の存在価値に危機感を感じている。外見は「Fate/kaleid liner プリズマ☆イリヤ」の美遊・エーデルフェルト(朔月美遊)。

 

 

白井胤治…下総の田舎武士の家の産まれ。鳶が鷹を生むと言わんばかりの存在であり、臼井城でも浮いた存在であった。才を理解される事は無く、父と腹違いの弟に幽閉されていた。かつて一度だけ三好家に仕えていた事もあるが、関西の水が体に合わず辞職した。その際に三好長逸よりの感状を貰っている。今までの境遇によって自己評価の低いきらいがある。要所要所で大事な役を任されており、官僚としても優秀。元々誰かに使われる事で才能を発揮する王佐の才を持った人材である。外見は「文豪ストレイドッグス」の泉鏡花。

 

 

成田長親…正確には河越衆にいるわけでは無いが、事実上部下扱いされている人質。本人は特に気にしていない。武勇において優れているわけでは無く、内政官としても素晴らしいわけでは無いが農民に好かれる才能においては他を凌駕している。現在は河越で独自に行っていた農業政策に関して、領民への説明と経過観察の役目を担っている。外見はイメージは「のぼうの城」に出てきた成田長親そのまま。

 

 

成田甲斐…こちらも長親と同じく正確には家臣ではなく、人質。長親のおまけとして厄介払いされてきた。当主の成田長泰は姫武将をあまり認めておらず、他の姫武将のようにしっかりとした名前がなく、甲斐姫と言うのが名前である。武勇に優れている上に、元々暇にしているのが嫌いなタイプなので河越城下の警備役を綱成の代わりに代行している。評判は上々。治安の向上に一役買っている。

 

 

諏訪頼重…諏訪家の元当主にして、城下の神社の神官。元々相次ぐ戦乱で祭神が分からなくなっていた城下のボロ社を改築して諏訪神社の分社にした。当初はこんな関東に送られてきたことを嘆き、鬱憤が溜まっていたが、苛立ちから妻である禰々御寮人をぶん殴ってしまった際に兼音に怒声を浴びせられ目が覚める。その後の夫婦仲は良好。

 

 

諏訪禰々…頼重の妻。旧姓武田。晴信や信繁の妹。政略結婚ながらに夫を愛そうと努力していた。結果的に関係が改善したことに喜んでいる。

 

 

北条綱房…綱成の実妹にして、氏康の義妹。要請を受けた氏康によって姉妹の母親共々河越に招聘された。まだまだ年若いため、戦場には出せないので留守居役になっている。もっとも、河越が最前線になるころには幹部衆は帰還しているであろうからあくまでも名目上の留守居である。

 

 

霧隠才蔵…元戸隠忍び。朝定の警護役を求める兼音の発案によって行動した段蔵により勧誘される。金髪碧眼とおおよそ日本人ではない見た目をしており、天狗だの穢れた子だのと言われてきたがそれを気にしない朝定の人間性に好感を持ち臣従を決定する。正確には河越衆ではなく朝定の直臣。

 

 

 

 

 

<武田家>

 

武田晴信…甲斐の虎。信濃侵攻を開始する。北条家や今川家に対する焦りから、侵攻を急ぐ。佐久では侵攻してきた上杉憲政の軍勢を虐殺。佐久郡に恐怖政治を敷いた。その結果離反が相次ぎ肝心の決戦も村上義清に大敗。その後漁夫の利を狙った小笠原長時は撃退できたものの、依然として厳しい状況が続いている。原作よりも心の傷は少ないが、逆に耐性が無いので板垣の死に激しく動揺している。戦争ありきの国家体制になっており、捕らえた捕虜を金山に送るなど、鍵十字の某国家のような事をしている。もっとも絶滅政策をとっているわけでは無いが、決していい状態ではない。

 

 

武田信繁…晴信の妹。姉と共に信濃侵攻作戦に従事。信濃をとっとて制圧して対越共同戦線を張りたい兼音の思惑によって助言され、木曽家との同盟(事実上の木曽家の臣従)の交渉に成功する。各地の戦いで副将として八面六臂の活躍を見せる。ただし、姉の存在がネックにもなっており、晴信に危機が迫ると冷静さを失う欠点もある。

 

 

武田義信…晴信の弟。武田家の本家では唯一の男子ではあるが、粗野なため後継者候補からは外されていた。前衛で戦うタイプの人間であるため、各地での戦いでも先陣切って戦っている。板垣戦死の際にはその弔い合戦を主張するなど、義理人情に厚い一方で向こう見ずで考えなしなところが欠点とも言える。塩尻峠の戦いの後に駿河を訪問し信虎と対面。一度北条領を訪れる事を勧める。今川との縁談が取りざたされている。

 

 

一条信龍…晴信の妹。名門一条家の名跡を継いでいるため、名字が違う。なお、兼音の家や京・土佐の一条とは特に関係ない。彼女もなかなかキャラの濃い子なのだが、今回の章では甲斐の留守居役を任されており何れも不在。

 

武田信虎…晴信の父。駿河に追われ、同地で隠居生活を営む。新しい側室を迎えるなど割と好き勝手に過ごしているが、不甲斐ない戦いを見せる娘に不満が溜まっている。実弟を討った北条家の嫌っていたが、今後の事も考え勧められたとおりに禰々に会う目的も兼ねて一度北条領へ赴くことを決める。

 

 

武田定…晴信の妹にして今川義元の義妹。駿河に人質として送られていたが、病を拗らせ長くはない。

 

 

勝沼信友…信虎の弟。故人。山中の戦いで北条軍に敗走。戦死した。

 

 

武田信廉…通称孫六。晴信の妹。絵描きを自称する風流人な変わり者。容姿は晴信にそっくりだが、双子ではない。お気楽に生きているように見えるが、その実色々と考えている。娘への不満を吐き出す信虎をなだめる。義信の縁談に不穏なものを感じてはいるが、それがなんなのかまでは分かっていない。

 

 

大井夫人…晴信らの母。甲斐の名門・大井氏の出身。普段は政務に口を出さないが、上田原の大敗後なおも戦地に留まろうとする晴信を真田幸隆の尽力もあり文面で諭し撤兵させた。

 

 

山本勘助…武田家の軍師。対信濃の作戦立案を行っているが如何せん今のところあまりいい見せ場は無い状態。しかしながら、局所的な戦闘では概ね勝利し諏訪へ侵攻した小笠原軍を神事を行う事で撃退するなどの活躍を見せている。真田幸隆とは旧知の仲である。国家体制がいずれ破綻する可能性が高いことに気付いてはいるが、明確な対抗策を打ち出せずにいる。

 

 

板垣信方…武田四天王の一人。故人。上田原の戦いにて先鋒を務めるも村上義清の槍衾の前に敗死した。運命を共にしようとした甘利虎泰を逃がし、今後への礎を守ろうとした。

 

 

甘利虎泰…武田四天王の一人。信方と共に死のうとするも、説得により逃走を選ぶ。しかしこの最中に重傷を負ったため、命に別状はないものの治療に時間がかかっており政務・軍務は行えない。

 

 

横田高松…武田四天王の一人。上田原の合戦後は信方の死にショックを受けていた。

 

 

飯富虎昌…武田四天王の紅一点。上田原の合戦後は義信と共に信方の仇討を主張するなど好戦的。駿河に赴いた際には義信の婚姻騒動に動揺していた。

 

 

穴山信君…武田一門の筆頭。甲斐でも大きな影響力を持つ穴山氏の当主。武闘派の多い武田家中にあって数少ない頭脳派。とは言っても武芸が出来ないわけでは無い。今一つ締まらないことの多い軍議に苛立つことも多い。北条家には情報戦を重んじる戦い方にシンパシーと言うか好感を感じている。多分こっちの方が居心地は良いだろう。しかし、今はまだ従うのが吉と判断している。信龍とは仲が悪い。

 

 

馬場信房…晴信の近臣。後の四天王。信方亡き後の信濃統治を任された。怪力の持ち主で巨大な槌を武器にする。

 

 

飯富三郎兵衛…晴信の近臣。後の四天王・山県昌景。飯富虎昌は姉。鉄扇を用いて攻撃する。他の若手姫武将と共に村上義清に挑むも歯が立たなかった。

 

 

工藤祐長…晴信の近臣。後の四天王・内藤昌豊。影が薄いのが悩みであり、その存在感の無さゆえに小笠原長時も彼女の存在に気付かなかった。

 

 

春日源五郎…晴信の近臣。後の四天王・高坂昌信。小刀を用いた攻撃で村上義清の意表を突いた。逃げ癖があり、よく消極策を口にしているが、彼女がそうすることで消極的な提案がしやすいというメリットもある。

 

 

真田幸隆…怪しげな風貌の女性。流浪が長く金銭にがめついという特徴がある。自らを最も売り込めるタイミングを見計らっており、その機会は訪れたと上田原の合戦の後に晴信に自分を売り込んだ。真田の家の復権を夢見ており、その地に公界の建設をすることを野望としている。手練れの忍びを多く率いている。性知識の無い晴信の事を若干心配している。

 

 

真田信綱・昌輝…真田の双子姉妹。幸隆の娘たち。

 

 

諏訪四郎…諏訪頼重の妹。後の勝頼。今はまだ幼少の身である。現在の諏訪家の当主であり、その影響力は健在。諏訪に小笠原軍が侵攻した際には勘助によって旗頭となる。これに対して諏訪の豪族は相次いではせ参じた。

 

 

猿飛佐助…忍び。上田原の合戦の際には段蔵には後れをとったものの真田幸隆と共に晴信の救援に参陣した。

 

 

 

 

 

<信濃の武将>

 

小笠原長時…信濃守護。小笠原礼法と言う礼法の名門の当主でありながらその存在は礼法とは程遠い女好き。美女美少女によるハーレムを夢見ており、信州の美人を集めて遊興に耽っていた。しかし実力はありその剣の腕は本物。ただ、女性のためなら知恵も使うが如何せん元々の頭は残念であり、塩尻峠では見事に武田軍の策に引っかかり敗走。村上義清の元に落ち延びることになってしまった。

 

 

神田将監…小笠原家の忠臣。長時に多くの諫言をするも受け入れられる事は無かった。塩尻峠の戦いで戦死。

 

 

小笠原信定…長時の弟。松尾城城主。兄に見切りをつけ亡命に同行せず同族の三好家を頼って畿内に落ち延びて行った。

 

 

藤沢頼親…福与城城主。武田軍に抵抗し、松島原で決戦を行うも信繁に完膚なきまでに叩きのめされた。

 

 

高遠頼継…高遠城城主。諏訪頼重は同族。その繋がりで諏訪神社の宮司の地位を狙う。しかし武田軍に敗れ落ち延びて行った。

 

 

矢嶋満清・有賀昌武…いずれも諏訪の領主。武田軍の前に降伏した。

 

 

須田満国、島津忠直、井上清政、小田切清定…いずれも北信の有力諸侯。上田原の合戦では村上義清の援軍として参陣していた。

 

 

高梨政頼…北信の中でも更に最北、越後との国境沿いに勢力を持っている。その為春日山の府中長尾氏とは関係が深く縁戚である。その為、色んな越後の騒乱に援軍として赴いている。三分一原に援軍として赴いた際は為景方として(雇われていた段蔵の活躍もあり)奮闘した。

 

 

村上義清…北信の最大勢力。強者としてその名を知られる実力者。血に狂わない冷静な武人。人柄としては高潔であり、大願がある訳では無いが武田軍の侵略に対して故郷を守ろうと立ち上がった。上田原の合戦では武田軍に敗北を与えるが自軍にも少なくない損害が発生し、多くの将が討ち死にした。合戦後は無情に囚われ出家の思いにかられた。

 

 

屋代源吾、小島権兵衛、雨宮刑部…いずれも村上家家臣。上田原の合戦で奮戦するも武田軍によって討ち死にした。

 

 

 

 

<山内上杉家>

 

上杉憲政…「元」関東管領。現在は無職。河越夜戦で大敗した後上野に撤退し、威信回復のために佐久へ侵攻するものの晴信によって軍を殲滅される。左目は取り敢えず何とかなったが見えないままであり大きな傷が残っている。いよいよもって立て直しが厳しくなった隙を突かれ朝廷工作をされたことで地位を失った。北伐を前にして長野業正の意見を受け入れ越後へ逃亡した。おおよそ君主としては三流である。悪運だけは無駄に強く、変装していたにしても厳しい諜報網をかいくぐって逃げ延びた。傲岸不遜で態度がデカい。逃亡先に越後では利用するだけしてやろうと思っていた景虎の異質さに面食らっている。

 

 

上杉龍若丸…憲政の弟。好青年であったが家臣に恵まれず、己の兄の失敗のせいで結果的に死ぬこととなる。守り役でもある妻鹿田新介に裏切られ、北条に引き渡された。北条に捕まるも逃亡した憲政の行方を話す事は無かった。最後は氏邦に渡された短刀によって腹を斬り、兼音に介錯された。

 

 

山上氏秀・里見勝政…それぞれ山上城・高戸津城の城主。北伐に抵抗して、山上は箕輪へ落ち延び、里見は戦死した。

 

 

由良成繁…金山城主。縁戚である成田家のツテを頼って内通し、上野での船頭役を果たした。

 

 

桐生介綱・赤井照康・那波宗俊…いずれも東上野の諸将。北条家に内通し、北伐に際しては裏切って船頭役を果たす。

 

 

長野業正…箕輪城主。上杉憲政の忠臣であり、彼に越後への亡命を促した。忠義から徹底抗戦を貫いており、大軍の北条家に対し周辺諸城と共に絶望的な籠城戦を敢行している。龍若丸自害に際しては氏康から送られた遺体と子細を記した紙を前に号泣した。敵ながらも温情ある行為に感謝し、氏康に返礼の矢文を送っている。

 

 

長野吉業…業正の息子。史実では河越で戦死していたが紆余曲折あり生存している。

 

 

長尾景孝…総社長尾の当主であったが、折り合いが悪く逃げていた長尾景総にクーデターを起こされ家臣諸共討ち取られる。

 

 

長野賢忠…厩橋城城主。長野業正の同族。総社長尾家での政変に動揺していたところを胤治に囁かれ抗戦の意思がくじけ、城を明け渡し箕輪へ落ち延びて行った。

 

 

和田業繁…中上野の領主。クーデターを起こした長尾景総と交戦することになる。

 

 

妻鹿田新介…山内上杉家の外様の家臣。憲政に重用されていたが、叔父の九里采女正に唆され上杉龍若丸を裏切り北条に引き渡した。その結果龍若丸に温情を示す氏康らの計らいによって復讐の機会を与えられた龍若丸に斬られた。

 

 

九里采女正…妻鹿田新介を唆して裏切らせるも、甥である彼と共に斬られた。

 

 

上泉信綱…一応山内上杉家の家臣。上泉城の城主。剣聖と呼ばれる剣客。無双の強さを誇るリアル戦国無双。綱成と再戦する機会を与えられ、戦いの最中でかつて自分の目指していた剣の道をもう一度見る事が出来た。信念の差がある者が勝てる訳もなかったかと受け入れ、満足げに敗北。両手を挙げて降伏した。

 

 

上泉秀胤…信綱の娘。あまり登場の機会は無かった。父親であり師匠でもある信綱の敗戦に驚きながらも彼が負けを認めるほどの相手なのだから自分が敵う訳もないと分かり、大人しく父と共に降伏した。

 

 

 

 

<今川家>

 

今川義元…今川家の当主。昼行燈の文字通り、何の仕事もせずに遊び暮らしている。が、家臣が皆優秀なので何とかなっている。太原雪斎を始めとして優秀な臣下が多いのでどうにかなっていることに気付いていない。

 

 

太原雪斎…今川家の黒衣の宰相。生臭坊主であり、思いっきり飲酒肉食をしている。京へ上り今川の安寧を確立することを目指している。興国寺での敗戦の傷が大きく、立て直しに苦労している。特に兵数はかなりギリギリの領域に追い込まれていた。不甲斐ない若手に苛立ちながらも三河へ進出。見事に傘下に加えることに成功した。

 

 

朝比奈泰朝…興国寺の事実上の戦犯。朝比奈の名前のおかげで地位は保てているが家中の目は厳しい。失点を取り返すべく小豆坂では奮闘。戸田堯光の命乞いを無視して斬り捨てた。この時にはかなり精神的に追い詰められており、無視していたというより聞こえていなかった。

 

 

朝比奈泰能…泰朝の父。大戦犯をやらかした娘に大激怒した。今川の最大級の重鎮であり、三河出兵でも中核をなした。

 

 

岡部元信…武闘派の筆頭。泰朝に苛立っているが、批判はしてもかまわないがその場に参陣していたものだけしか嘲笑はしてはいけないという考えを持っているので、泰朝を馬鹿にした義元の小姓を叱責した。落ちた武名の復活のために泰朝に協力。大きな手柄を挙げる。

 

 

安部元真、天野景貫、井伊直盛…遠江の将。三河侵攻に参陣した。

 

 

菅沼定盈…奥三河に割拠する菅沼家の若き才媛。将来を期待される若手のホープの一人。

 

 

 

 

<織田家>

 

織田信秀…織田家の当主。勇猛果敢な将ではあるがいまいち勝ちきれない。尾張の主ではなく、主は別にいる。元々分家筋であるのでそこからの下克上に四苦八苦している。息子の信広に見切りをつけて才能を示している信奈に尾張を渡せるように方針転換を考えていた。風魔からの情報もあり今川は弱っていると一気に攻勢をかけるが小豆坂で大敗。また尾張統一の道は遠のいてしまった。

 

 

織田信広…信秀の庶長子。庶子であっても後を継げる可能性はあったが、凡庸な将であったため信秀に見切りをつけられる。

 

 

織田信忠・織田信真…信秀の弟。小豆坂の戦いに将として参陣し、軍議に参加していた。

 

 

林秀貞・平手政秀・柴田勝義・丹羽長政・池田恒利・佐久間信盛…織田家の家臣。小豆坂の戦いに将として参陣し、軍議に参加していた。柴田勝義は勝家の、丹羽長政は長秀の、池田恒利は池田恒興の父親である。

 

 

 

 

<松平家>

 

松平広忠…松平家の当主。実権はあまりなく、有力家臣や多くの松平の親族に圧迫されている。織田家の攻勢に抗しきれず今川に援軍を要請した。事実上の今川の傀儡であり、娘の竹千代(のちの家康)を駿府へ送った。

 

 

松平信定…桜井松平の当主。広忠の大叔父。現在は利用価値も無くなり、居城に逼塞している。

 

 

 

 

 

<越後>

 

長尾為景…暴虐をもって知られる越後の梟雄。戦国初期の下克上の代名詞の一人。丁度早雲や信虎、毛利元就などと同じような世代である。戦乱に明け暮れ、多くの戦いを行う。末子の虎千代が生まれた際はその人間離れした容姿に気味悪さを覚える。その後もアルビノの娘を気味悪く思っていたがそれでも虐待したりはしなかった。年を取り親としての甘さや妻である虎御前への優しさや愛が無自覚に生まれていた。異常者の多い越後では比較的まともな方であり、死ぬ前には親としての感情に目覚めつつあったが、最期の時に錯乱。己の罪の意識にさいなまれ幻覚を見た結果、娘を毘沙門天であるかのように見る。毘沙門天の演技をした虎千代に罪を許され安堵されて最後に救いを得て逝去した。

 

 

長尾晴景…凡庸な将であったが、年の離れた妹に道ならぬ感情を覚える。その迷いの結果政景に唆され妹を討伐する兵をあげるが最後には和解。己の感情を妹に告白し、迷いの淵に虎千代を突き落とした。

 

 

長尾政景…分家の上田長尾家の当主。史実における上杉景勝の父。虎千代に異常な執着を見せる。その根本には己の家柄に対する劣等感が存在していた。府中長尾家に対するコンプレックスなどから何度も反乱を繰り返した。またある時は反乱を煽ったりし、悉く敵対行動をとり続けた。関東遠征では先鋒として北条軍とぶつかるも思考をまとめ切れていないところを襲撃され、あえなく敗退。逃走することとなる。神の化身を名乗る景虎には否定的である。

 

 

長尾景虎(虎千代)…ある意味本作のもう一人の主人公。人造の正義。機械仕掛けの偽神。アルビノでアレルギー体質と言う虚弱な身体で生を受ける。虎御前が懐妊する際に毘沙門天が体内に入る夢を見たことや僧侶や山伏の話により毘沙門天の化身ではないかと囁かれる。山の中でひっそりと幼少期を過ごしたが、姉である綾と謀略によって引き裂かれ、そのあたりから残酷な運命が襲い掛かるようになる。

 

父である梟雄為景の行った数々の行いに罪の意識を抱いている。共感性の強く感受性の高い子供であったために宇佐美家の悲劇や直江の屈辱、その他にも多くの罪を自分の罪と考えるようになっていく。教育環境次第ではもっと真っすぐな子に育つはずであったが多くの者の欲望や願いのためにその道は閉ざされた。

 

陣中見舞いに向かった際に一揆に敗走した瀕死の父に遭遇する。錯乱した彼の幻覚を演じることで彼の魂を救済するが、その代わりに消えない呪いをかけられる。無力感と救えなかった苛立ちから海へ飛び込み、『神』と対話する。そこで自らの運命を知りその日を境に本格的に武将として活動を開始した。毘沙門天の化身を名乗り義の戦いをすると言う彼女には賛同者もいれば反発する者も多くいた。

 

最終的に老体の上杉定実に守護職を譲られ、越後の王となる。やや義に妄信しているきらいがある。その後亡命してきた憲政の頼みを受け入れ関東へ出兵することとなった。 

 

 

長尾綾…景虎の姉。妹を慈しんできたが謀略によって代わりに長尾政景に嫁ぐこととなる。第一子を授かるもその子は病に倒れた。

 

 

虎御前…景虎の母。毘沙門天が体内に入る夢を見た後に景虎の妊娠が発覚する。ある意味全ての始まり。

 

 

長尾景房・長尾景康…晴景の弟。黒田秀忠の乱の際に死亡した。景虎とは没交渉であった。

 

 

宇佐美定満…景虎の自称軍師。戦争の天才たる彼女にはあまり必要ないが助言役として参陣している。幼少期の彼女に大きな影響を与えた人物。飄々としているが独自の正義感を持っており、それが無いが故に越後は動乱が続くと考えている。一族を皆殺しにした為景の娘ではあるが景虎に理想を叶える力を感じた。彼の一族に為景が行った行為も景虎を縛る鎖となる。

 

 

直江実綱…大和と呼ばれることの多い青白い顔の青年。為景の小姓をしていた。母と屈辱的な別れをしており、個人的に為景を憎む気持ちはあるがそれでも道理を通し長尾家に仕え続けている。景虎を仏門に進ませようとしていたがこれはその方面で彼女が越後のメサイアになることを期待していたからである。戦闘時は後方支援を行うことが多いが、如何せん兼成には能力的に負けている。

 

 

黒田秀忠…越後の豪族。景虎への反発と政景の誘いに乗って反乱。春日山を攻め、景虎の兄二人を殺害するなどしたが最終的に政景に裏切られ殺される。しかし最後の抵抗として小さな息子だけを老臣に任せて脱出させた。

 

 

柿崎景家…貴公子風の男であったが初陣で覚醒。武闘派になってしまった。仏門に造詣が深く、数珠を持っている。政景とはそりが合わない。高潔な人材であり、領民にも優しい。

 

 

北条高広…名門の北条家の出身。打算的で利己的な性格。景虎を利用しようと春日山に行ったが逆に魅了されることになる。

 

 

上杉定実…戦国の古強者。実権の無い傀儡ではあったが為景と政治的な暗闘を繰り広げた。景虎に越後救済の光を見出すも、そのままでは彼女は誰かの願いをかなえるだけの装置として死んでしまうと危惧し、越後を任せるものの最後は人としての幸せを見つけるようにと言った。都へ手早く工作を行ったので無事景虎は越後の守護となる。それを見届けた後に今後を案じながら鬼籍に入った。

 

 

本庄繁長…揚北衆の一人。景虎にガチ恋をし、過激派であったが関東遠征の際に月下の元指揮をする氏康を見てしまい、揺れ動くことになる。

 

 

垂水源二郎…揚北衆の一人。景虎過激派であったが関東遠征の先鋒に加わった際に北条に奇襲を受け、撤退を試みる中太田資正によって討ち取られた。

 

 

鮎川清実…揚北衆の一人。慎重派の将であり、景虎にも懐疑的であったが反乱者とは思われたくないので参戦していた。軍議でもまともな事を述べたが相手にされず、撤退中に兼音の放った流れ矢に偶然当たり、その傷が原因の高熱にうなされることになった。

 

 

 

 

<上方>

 

足利義晴…室町幕府の将軍。氏康からの書状を読み北条家に利用価値を見出して鎌倉府の再建と共に北条家をそこの執権に置いた。同時に障害となる上杉憲政を罷免する。北条家の軍事力を使い、支援させるつもりであったが息子とその点で対立。解決しないまま病が重篤化していく。

 

 

足利義輝…室町幕府の将軍。父親とは異なり反北条派であり旧秩序の復活を目指している。関東で大名同士を争わせ、その力を削ぐことを画策。上杉憲政に書状を送る。これが引き金になり、関東遠征に大義名分が与えられることになった。

 

 

川勝広継…幕臣。義晴の命により、伝達事項を伝えに関東へ下向してきた。

 

 

松園忠顕…二条家の分家筋にあたる貴族。朝廷の命を受け、伝達事項を伝えに関東に下向してきた。

 

 

近衛信尹…近衛前久の息子。武士に憧れる貴族の少年。挨拶に訪れた為昌に初恋を抱き、色々と話しかける。「また会える」と言われたことに胸を躍らせながら日々を過ごしている。もっとも言った本人は…。

 

 

 

 

<他>

 

オリバー・エヴァンズ、リチャード・ウィルソン…英国人の船長と航海士。エリザベス女王の命により東洋の見聞のために派遣された。実は割と上級な地位におり、簡単な外交ならば認められている。

 

 

蘆名盛氏…蘆名家の当主。目覚ましい発展を遂げる北条家を見習うべき対象と定めている。漁夫の利を得るべく関東出兵でがら空きの越後に軍を派遣した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<超短編Ⅲ・world war Ⅱ>

 

 大きな大地の上を一機の飛行機が超高速で飛行していた。ジェットエンジンの爆音と共に天空の遥か彼方を進んでいる。彼らは目指すべき場所があり、そこで果たすべき目的があった。

 

「しっかし凄い機体ですね!」 

 

 銃手の青年がベテランの機長に言う。

 

「ああ。帝国の最新鋭ジェット爆撃機の富岳・改2だ。生半可な方法じゃ落とせない」

 

「それに、高度もレシプロ機とは違い過ぎますし、エンジンのスピードも段違い。米軍のレーダー網じゃあ捕まえられないでしょうね」

 

「だからこの機体がこの作戦に選ばれたんだろう」

 

「ですね」

 

 高速の翼は目指すべき目的地に迫りつつあった。

 

「本当にこの作戦で戦争は終わるんでしょうか」

 

「だと良いんだがな」

 

「秘匿回線、通信があります。真珠湾基地より伝達。機体コード回天、異常はないか、です。」

 

「異常なし。間もなく作戦を遂行と返せ」

 

「はっ。異常なし。間もなく作戦を遂行します」

 

 パイロット席からでは細かい内容が聞こえない通信が終わった音がする。

 

「武運を祈る、だそうです」

 

「……そうか。おい、録音機を起動しろ」

 

「録音機でありますか?承知しました。……セット完了です」

 

「うむ」

 

 機長は何かをためらいながらその機械に向かって音を吹き込んだ。

 

「我々は、大日本帝国空軍特殊作戦・メギドの火作戦の遂行者。特殊爆撃機富岳・改2、コードネーム回天の搭乗員である。これより、人類初の行為をなす。願わくば、この引き金を引くのが私で最後になることを求める。そして、この行いが意味のあるものであることを、切に祈るばかりである」

 

「間もなく目的地上空!後15秒!」

 

「終末は訪れる。私がその扉を開ける、最初の者になるだろう。大日本帝国万歳!」

 

 カチリと引き金が引かれ、超大型の塊が地上に向けて落下を始める。

 

「急速反転!しっかり掴まれ!」

 

 機体はくるりと宙返りを行いエンジンをブーストさせる。音速を超えるスピードで機体が進む。銃手の若者は後方をチラリと振り返る。その背後には、エンジンの爆音ではかき消せない確かな轟音と、成層圏まで届きそうな巨大なキノコ雲が立ち上っていた。

 

「真珠湾基地に伝達。本国時間1945年8月6日0815、目標地点・ワシントンへの特殊爆弾の投下に成功。これより帰還する」

 

 地獄の門は開かれた。奇しくも史実と全く同じ時間に、史実とはまったく異なる展開で。大日本帝国は世界初の原子爆弾の投下を行う。3日後にはロサンゼルスに同様の物が投下された。北米自由帝国はこれを以て降伏。5年近くに渡って繰り広げられた太平洋における戦争は終わりを迎える。

 

 

 

 

 

 

 

 

<超短編Ⅳ IFIF世界>

 

 もしも一条兼音が関東ではなく越後に転移していたら。これはあり得なかった空想の歴史の一端である。

 

 

 

 

「ゲホゲホッ!」

 

 血の混じった咳をする老人が畳の上で寝ていた。この男こそかの梟雄・長尾為景である。その猛将も今は見る影もなく衰え、弱っていた。

 

「どうであったか…戦の首尾は…」

 

「万事問題ございません。予定通り、勝利をおさめましてございます」

 

「そうか…。政景は?」

 

「乱戦の最中、戦死致しました」

 

「殺したのか!何と言う事を!…ゲホッ!」

 

「さように怒鳴られてはお身体に障ります」

 

「五月蠅い。もう長くはない身だ。好きにさせろ。あれがいなくなった今、長尾は危うい。それは理解しておろうな」

 

「しかしながら戦に手心を加え、その上なお勝つと言うのは難しいものがございます」

 

「ゲホっ!お主ならば出来たであろうに…」

 

「買い被りでございます」

 

「まぁいい。過ぎてしまったことはもうどうしようもない。だがな、このままでは越後は乱れる。長尾も終わりだ。そこでお主に最期の命令を下す」

 

 老人の心は一族の血脈を保ち続けることに意識を向けていた。その為にはこの一条家の流れを自称し、瞬く間に越中の一揆を殲滅した男の技量が必要だった。絶対に逃がしてはならない。敵にしてもならない。長尾の領国に入ったばかりの越中の統治もせねばならない。政景に武を担わせようとしていたが、それも叶わなくなった。

 

 元は政景の求めるままに虎千代を引き渡すつもりでいたが、この男、一条兼音が何を吹き込んだのかは知らないが説得に応じ、成人まで待つと言い始めた。そこからすべてが変わっていった。政景が気付いたころには既に家中に彼の居場所はなく。その復権を狙い起こした反乱も報告通りなら鎮圧され首謀者は討ち死だ。どうあっても最早長尾の命運はこの男に託すしかなくなった。下克上で越後の守護代として君臨してきた自分の後釜が、まさか赤の他人とは。これも因果か…と為景は思った。

 

「最後の命令とは縁起でもございません」

 

「良いから聞け。命じる。一条兼音。お主は長尾兼音となれ」

 

「……は?」

 

「もはやお主なしで府中長尾は成り立たん。こちらに親しい豪族に話は通してある。それに一族にもだ。長尾は今や風前の灯。この老体が朽ちればその炎も消えよう。それでは困る。北信の高梨政頼も味方だ。まぁお主であれば多少の反乱軍など、この城と僅かでも兵がおれば容易に鎮圧できよう」

 

「為景様、もうお休みになられた方がよろしいかと。些かお疲れのご様子」

 

「黙れ!耄碌などしておらん。病を得ようとも、まだこの通り頭は動いておる」

 

「ですが…」

 

「勿論ただでくれてやる訳などない。お主には我が娘・綾と結ばれてもらう。それが条件だ。娘婿に国を譲る。それならば多少は名分も立つであろう。お主が儂に心から臣従しておらんのは知っている。お主の描く国がどこまでやれるか。試してみるがよいわ。日頃口うるさく言う、『民のため』にもそれが良いのではないか?」

 

「……分かりました。お引き受けします」

 

「フン。分かればよいのだ。分かれば。最初から素直にウンと申せばよいものを」

 

「……」

 

 かくして国は譲られる。この世界線でどのような未来が待つのか。それは誰にも分からない。ただ一つ言えることがあるとするならば。一条兼音は18にして結婚する羽目になったのである。それは同時に幼き未来の軍神が義妹になることを示していた。




まずはかなり遅くなりましたことをお詫び申し上げます。完全回復とは行きませんが、ある程度文字を打てるくらいには復活しました。ただ不安定な状態ですので、今後もスローペースでの更新となることが予測されますのであらかじめご了承ください。

次回以降は新章に突入します。まずはしょっぱなから武田家の話でしょうか。感想やメッセージありがとうございます。ちゃんと読んではいるのですが、手を騙しだましなので返信が遅くなることも多々あると思います。慙愧の念にたえません。本当に私事で申し訳なく思います。

多くの方から心配の言葉と気長に待つと言うお言葉を頂きました。本当に感謝の極みです。温かいお言葉のおかげで早く治さねばと言う気持ちに一層なりました。今後ともどうぞ、宜しくお願い致します。


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第5章 運命の歯車
第64話 砥石崩れ 甲


長くなりました。素直にかなり長くなりました。言い訳すると、砥石崩れは一話にまとめたかったんです。北条の話なので話数をあんまり武田に割く訳にもいかず…(越後編から目を逸らしつつ)。加えて途中で切ってもキリが悪かったのです。次回はまた北条に戻ります。


信虎を訪問した太郎一行が、甲斐に帰国してすぐ――。

 

 飯富虎昌は、自分の館に横田を招いていた。

 

 かつて「武田四天王」と称された四人の男武将のうち、板垣は上田原で討ち死にしている。老齢である小山田虎満は家督を譲って引退していた。太郎の守り役の姫武将という立場から槍の実力で台頭してきた飯富兵部は、後で四天王のうちに数えられるようになっている。

 

 今、武田晴信のもとに残された動ける現役の四天王は、飯富兵部とそして横田備中だけだった。甘利は重傷を負ったのでその療養中だが、その傷も治るかどうか怪しいと言うのがもっぱらの噂だった。もし治ったとしても何らかの障害が残る可能性も高かったし、現役復帰は厳しいだろうとは誰もが予想出来ていた。

 

 横田高松(たかとし)はまだ老人ではない。壮年の男ざかりだ。だが、家族を持たない。妻も子もいなかった。甲賀から流れてきたよそ者であるゆえに、甲斐に縁故がなかったからだろう。その点、駿河から来たとも三河から来たとも言われている軍師・山本勘助に境遇が似ているが、横田は勘助のようないわゆる醜男ではない。むしろ、戦場を生き抜いてきた男の色気に溢れていた。戦場で一人でも多くの敵を殺し首を盗ることばかりを常に考えているためか、このような酒の席でも全身に殺気を伴っている。無表情で、視線は氷のように冷たかった。

 

「ほうとうと、粗茶よ。わたくしも姉上のように駿河へ行きたかったわ。あちらには都から来た茶の湯の師匠もいるのだとか」

 

 飯富虎昌の妹・三郎兵衛が、彼に茶を点たてた。甲斐には茶の湯文化ともいえるようなものはまだ来ておらず、我流だ。横田はしかし、飲めればそれでいい。無言で「ぐいっ」と茶を飲み干した。

 

「茶の湯なんて合戦の役に立たねーぞ、三郎。武士ってものはな、公家にかぶれたら終わりだ」

 

「あら。姉上らしい言葉だけれど、姉上は大切なことをもう一つ忘れていなくて? その『もう一つ』こそが、今日、横田さまをお呼びした理由でしょう」

 

「う、うるせえな。だいたいなんでお前がここにいるんだ。これは秘密の軍議なんだぞ」

 

「わたくしも上田原での働きで小姓として姫さまに認められて、いよいよ姫武将として一人前になろうとしているのだもの。後学のためよ」

 

「……槍働きの参考になるような話じゃねえ」

 

「心得ているわ。太郎さまのことでしょう?今川義元の妹と祝言をあげるそうね。それが妙に苛立たしくて腹が立つので、こうして横田さまを呼んで愚痴をこぼそうとしているのでしょう?」

 

「ぐぐぐ愚痴じゃねーよっ! だいたいお前、あたしはそういうつもりじゃ……勝手に決めるなっ」

 

 いや、愚痴だな、と横田備中は珍しく笑った。

 

「軍略に関することなら山本勘助を呼ぶだろうし、内政についての相談ならば次郎さまのもとを訪れるはずだ。男やもめで退屈している俺を呼んだということは、酒を飲んで愚痴をこぼすか、あるいは、太郎さまを横取りされたくねえと不平不満を垂れ流すか、ってところだろう」

 

「おいこら横田!」

 

「横田さま。それは建前でしょう。姉上はね、はっきり言ってあげないと同じところをぐるぐる回り続ける人なのよ。正直なところを言って頂戴」

 

「じゃあ言うが、山本勘助はこういう話には疎い。さっぱり頼りにならん。四郎さまはまあああ、と幼子を見て鼻血を流しているような奇人だからな。まして武田家の次郎さまや孫六さまに、太郎さまを手放したくないなどとは相談できん。しょせん、主と家臣だ」

 

 虎昌は「くううう~! お前ら、なんで訳知り顔なんだよっ」と涙目になった。ほうとうが入った鍋をひっくり返して逃げようとも思った。が、やめた。彼女自身も、そして横田も、いつ戦場で死ぬかわからないのだ。村上義清は健在である。再びの決戦は、目の前に迫っている――。

 

「飯富。お前としたことが武士らしくもない。ぐだぐだと照れているうちに、命は尽きるぞ。それが侍の定めよ。欲しいならば、主君筋だろうがなんだろうがためらわずに奪え」

 

「そそそそんなんじゃねえんだよ!馬鹿ばか言ってんじゃねえぞ横田!あたしはただ、その、太郎にはまだ嫁は早いんじゃないかって……今川家の娘ってのも気がかりだし……いずれ姫さまは東海道に進出するために今川領に攻め込むんじゃないかなって……大殿が今川のもとから去った時にだな……うん。その時になって、純真な太郎が両家の板挟みになったらどうしようって……そう……思ってだな」

 

 飯富兵部はしどろもどろに弁明したが、自分でも途中からはもうなにを口走っているのかわからなくなった。横田は「ま、君臣の恋は実らない」と声をかけた。

 

「そいつはなんていったって、下克上だからな。いくら武田の今の主君が色恋沙汰に鷹揚なお方だからといっても、君臣の恋を認められる立場ではない。そいつを認めちまえば」

 

「たぐいまれなお美しさを誇る姫さま……晴信さまに言い寄る無粋な男どもが、いっせいに躑躅ヶ崎館へと押しかけるでしょうね。甲斐の統制は失われてしまうわ。今、長尾景虎を主君にいただいた越後が四分五裂しているように」

 

 幼い妹のほうが、姉よりもこの種の話が得意らしかった。勇猛な姉に憧れて槍と馬の修練に明け暮れてきた三郎兵衛だが、本来の資質は武将よりも姫だった。雅な都人の文化にも憧れていたし、文芸の道に関する素養があった。虎昌は、そういう免疫がない。色恋に目覚めるよりも早く槍を握り、馬を駆っていた。およそ経験というものがなかった。いざこうして追い詰められると、ひたすらに恥じらって、「あうあう」と口をぱくぱくさせるのが精一杯だった。

 

「……君臣の恋とか、そんなんじゃ……」

 

「なあ、兵部。それでも、てめえの想いが相手に通じればそれでいいんじゃねえか?」

 

「……横田?」

 

「太郎さまは、お前の想いをすげなく拒絶するような無神経な男ではあるまい。それでお前は、戦場で戦って満足して死ねる。どうせ人はいずれ死ぬのさ。特に、俺たちのような合戦にしか生きられない狂犬はな……兵部。俺も貴様も、明日死ぬかもしれない身だ。てめえの生き方に、死に様に、後悔だけは残すな」

 

 二人は、横田の愁いに満ちた横顔を思わず凝視していた。あの、戦を求め首を狩って戦場を彷徨よっている修羅の顔ではなかった。戦に疲れ切り、孤独に倦んでいる男の顔だった。

 

 死相ともいうべきものが、出ていた。

 

「思えば甲賀から身一つで飛びだして以来、野良犬同然に生きてきた。殺すことだけが生きがいだった。家族なんぞ、槍働きの邪魔でしかないと思っていた。だから、ここまで一人で生きていた。しかし、俺を拾ってくれた大殿を駿河へ追い戦場では板垣に先を越された。そろそろ潮時だと思うんだよ。だが誰にも懐かぬ狂犬のまま死んでいくのは、どうもな。どうやら俺にも、未練があるらしい」

 

「横田、あんた」

 

「戦国の世で、主君のために犬となって敵の首を狩る生き方しかできない俺の命、もう長くはなかろう。せめてその散り方の意義ぐらいはな。自分自身、納得して死んでいきたいのさ」

 

「どういうことだよ横田?あんたらしくもない。板垣が死んで甘利が深手を負ったからって、次がてめえだと決まっているわけじゃねえだろう?村上義清をブチ殺せば生き延びられるじゃねえかよ?」

 

「そうかな。次に戦場で村上義清に殺されるのは、御屋形さま――晴信さまだと思うぜ。晴信さまと山本勘助は、どうにも村上との相性が悪い。ああいう、謀略を無視して己の武威のみを頼りに命を捨ててくる武人は、裏をかくことができないからな。裏をかけねば、表から突破されるのみ。力と力の勝負になれば、晴信さまは不利だ」

 

「だから、そうはさせねえよ!そのために、あたしたち四天王がいるんだろうが!」

 

「ふん。もう、次の戦に出られるのは二人しか残っていないがな。三郎、お前も早く一人前になれ。姉貴とともに、飯富の赤備えを率いて戦場を駆けろ。四天王の称号を得られるように、励めよ。ただ……俺みたいにはなるな」

 

 三郎兵衛は、なにも言わず、何度もともに生死の境目を潜くぐってきた姉とその同僚とのやりとりにじっと見入っていた。

 

「おい。あたしが愚痴をこぼすはずだったのに、横田、なんでてめーが愚痴ってんだよ!お前、なんなんだいったい?まさか、今になって恋でもしたってのか?」

 

「どうやら、そうらしい。俺のような犬としたことが。つまり、そろそろ死に時が迫っているということだ」

 

「……ええええええ?ほんとに?恋っ?てめえが?あんたが?横田、まさか、相手は……三郎はやらねーぞっ! こいつはまだ子供なんだ、てめーとは年の差がありすぎる!」

 

「バッ……俺を山本勘助と同じ病の持ち主だと思っているのか、愚弄するな!殺すぞ!」

 

「えええ?だっていつも殺気を放って敵を殺すことばかり考えているあんたの周囲にいる女なんて、数えるほどしか……ま、ま、まさかあたしかっ?それはダメだ!あたしには太郎が……へ、へ、へそ見るな!」

 

「ああ?へそがなんだって?どうして俺がてめえのようなやせっぽちの男女に? まるでガキだ、女にゃ見えねえよ!」

 

 胸が小さいのは飯富一族の定めなのだわ、と三郎がぼそりと悔しげに漏らした。

 

「……んだよ。胸かよ。胸にしか興味ねーのかよ。ちっ。堅苦しい顔して案外、即物的な野郎だな……っておい。まさかのまさかだが、横田てめえ。ひょっとして。まさか!?あんたの近くにいる若い女で、しかも胸がでけーって、一人しか思い浮かばないんだが? ままま、まさか?」

 

 まさかを何度も繰り返すなうっとうしい、と横田が眼を細めた。

 

「おいおいおい。ダメだよダメだ!そいつは無理すぎる話ってやつだぜ、横田?」

 

「知っている。余計な混乱を招くだけだ。俺は俺の想いなんぞ、黙って墓場まで持っていく。他言無用だ」

 

「はぁ?横田待てよ、言ってることが違うじゃねえか!そりゃああんたの恋は無理筋だ。しかし相手にてめえの気持ちを伝えるくらい、いいじゃねえかよ!それで想いを残すことなく死んでいけるんだろう?だったら、堂々と告白しちまえよ!」

 

「……同じ主君筋でも太郎さまとは下克上の格が違うぞ。そもそも村上との決戦を控える前夜というこんな重大な時期に一方的に俺の感情なぞをぶつけても、ただ迷惑なだけだ。あのお方の邪魔は、したくない」

 

「おい横田。てめえ人には偉そうに説教しておいて、自分は逃げるのか?ああ?てめえ男だろ、しかもあたしよりずっと年上だ!どんと行けよどんと!そうすりゃ、あたしもがんばれる!」

 

 こいつに漏らしたのはまずかったかもしれん、と横田備中は苦虫をかみつぶすかのような表情で酒に手を伸ばしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 塩尻峠の合戦で武田軍に大敗した信濃守護・小笠原長時は、自らの城と領土を放棄し、今は北信濃の村上義清のもとに転がり込んでいる。板垣ら多くの犠牲を出した。それまで連戦連勝だった晴信に生涯初の黒星をつけた。なによりも「信濃統一」という悲願のために、晴信はなにがあっても村上義清を倒さねばならない。

 

 塩尻峠での大勝に驕ることなく、晴信と勘助は上田原の合戦の失敗を繰り返すまいと、打倒村上に向けて周到な戦略を練っていた。村上義清の戦ぶりと北信濃の情勢に詳しい「信濃先方衆一番手」真田幸隆も、作戦参謀として加わっている。真田も、もともとは武田信虎・村上義清・諏訪頼重の連合軍によって信州を追われた一族である。信虎に追われた者を戦力として、しかも「外様」ではなく武田家の一員として迎え入れて活用するという点で、晴信は徹底していた。

 

 兵法に通じた勘助と、異形の忍び衆を引き連れた幸隆の二人軍師は、絶大な威力を発揮しつつある。二人の意見は一致していた。剛勇無双を誇る村上義清の本城・葛尾城は難攻不落。これを直接攻めれば、またしても大きな犠牲が出る。すでに中信濃を平定した今、焦る必要はなかった。葛尾城は捨ておき、村上方が対武田防衛線を築いている諸城を順番に攻略して葛尾城を孤立させていけばいい。

 

 山本勘助と真田幸隆が「ここを奪えば葛尾城は戦わずして落ちる」と指し示した攻略目標、それが「砥石城」だった。

 

 佐久と葛尾城の間に位置する、村上義清にとっては絶対に抜かれてはならない地点に、砥石城はあった。山の上に設けられた小さな城であり、守備兵は五百ほどしか詰められない。だが、まるで山と山とが衝突してさらなる巨大な山脈を形成しているかのような信濃国特有の、想像を絶する断崖絶壁によって守られた天険の城でもあった。かつて真田幸隆が縄張りを行い、村上義清が奪ってさらに強固な山城に改修した。

 

 問題は、葛尾城の村上義清に気取られる前にこの砥石城を速戦によって落としてしまえるかどうか、にかかっていた。あの精強無比な槍衾隊を率いる義清自身に後詰めに来られてはまたしても厄介なことになる。砥石城を要塞化した当の本人である幸隆は力押しでは攻略は難しいと訴え、調略を勧めた。

 

 真田が誇る忍び衆と銭の力を用いて、戦わずに砥石城を盗み取ってしまおうというのである。義清は、謀略を好まず用いずひたすらに戦のみで決着をつけようとする武人。戸隠の忍び衆を、暗殺や調略には用いるまい。銭で侍の心を買おうなどともするまい。しかし武田は、いかなる手をも使うことができる。ならば、調略戦・謀略戦に持ち込めば必ず武田が勝てる。

 

 上田原で大勢の味方を討ち死にさせている勘助も「武田は軍組織を再編成している途上です。それがよろしいでしょう」と賛同したため、晴信は幸隆に多額の甲州金を与え調略活動を開始させていた――あと数ヶ月、あるいは一年で砥石城は労せずして落ちる、はずだった。

 

 だが、予期せぬことから事態は急変した。

 

 

 

 

 

 

その日は、午後から主立った家臣団が諏訪社に集結し、砥石城攻め・葛尾城攻めに関する定期軍議が開かれる予定だった。影武者修業中の妹・孫六信廉とともに馬を並べて諏訪に入った晴信は、妙な噂を耳にしたのだった。あの横田がなにやら武田家の主君筋の誰かに恋をしていて、上の空になっている、というのだ。

 

 久々に四郎と再会して抱き合いながら、晴信は「横田が懸想している武田の娘とは、まさか四郎ではあるまいな。それであやつは今まで独身だったのか。そういう輩やからは勘助一人で十分だ」と気が気でならない。

 

「姉上。人の噂も何日とやら。気にしないほうがいいサ」

 

 孫六は笑って諫めたが、晴信は激しく動揺していた。

 

「いや。板垣には後継者がいたが、流れ者の横田は甲斐に来て以来ずっと独身で家を継ぐ者がいない。勘助もそうだが、あれほどの武士の家を絶やすのは惜しい。わが子を、立派な武士として育成することができるだろうからな」

 

 しかし、いくら武田に仕える者はみな家族といえども、さすがに主従の間での恋はまずい。下克上だ。父上が甲斐の守護だった時代には聞いたこともない話だ……晴信は「あたしが姫武将だから、このようなことが起こるのかもしれない」とため息をつきながら、軍議が開かれるよりも先に彼をひそかに諏訪社へと呼び出した。

 

 孫六が「影武者だからね」と同室しようとしたが、晴信は孫六を別室へ向かわせた。強面で知られてきた彼にとって恥になる話、おおっぴらにしたくない話かもしれないからだった。そして。晴信の前にやってきた横田備中は、浮ついた様子など微塵もなかった。いつもにもまして狂犬のような殺気を放っていた。ただの噂だったか、と晴信は安堵した。

 

「御大将。まだ軍議の時間にはなっていないようだが。どうした」

 

「……いや。なんでもない。ただ、お前が誰かに懸想していると諏訪で噂になっていたのでな、少し驚いて呼び出してみたのだ。横田。お前も勘助と同じ病なのではないかと思い当たって四郎が心配になった」

 

「ま、またその疑いかっ?俺は幼女好きなどではない!なぜこの俺が山本勘助の仲間扱いされねばならないんだ?」

 

「世間とはそういうものだ。いつ死ぬともわからぬ武士が妻帯せず子も育てずでは、幼女好きか衆道趣味かを疑われるのも当然だろう横田」

 

「言っておくが、四郎さまに妙な想いなど抱いてない。ただ、火のないところに煙は立たねえとも言うな……」

 

 横田は、噂には火元があることを認めた。

 

「おおかた飯富の阿呆が口を滑らせたんだろうよ。今更主君に隠し立てしてもはじまらん。たしかに俺の感情は、いわゆる君臣の恋ってやつだ。だがまあ、心だけのことだ。武田家の和を乱すような真似はしねえよ」

 

「それじゃ、まさか次郎に?それとも孫六?いずれにしても、君臣の恋は御法度だぞ。あたしは諏訪の神氏も関東管領も恐れないが、その一線だけは越えたくないな。越えれば、武田家は収拾がつかないことになると思う。あたし自身どこかさばさばとした性格で色恋が苦手なだけに、いざ武田家中にそのような風潮が流行はやってしまった場合、どう制御すればよいのかわからないのだ。孫子にも、書かれていない。多分な」

 

 勘助はあたしに輪を掛けてああいう性格だしな、と晴信は苦笑いした。

 

「承知している。武田家といえど、破ってはならない掟はある。君臣の恋は、主筋と家臣団とに姫武将と男武者が入り交じっている戦国の武士団にとっては重大な禁忌さ。しかし御大将、あんたは勘違いしている。俺の想い人は、次郎さまでも孫六さまでもない」

 

 なんだと、と晴信が小さな悲鳴をあげながら手にしていた軍配を落としていた。まるで我を忘れたかのように、頬を赤く染めた。

 

「……ま、ま、まさか……それじゃあ、太郎に……!?やっぱり、衆道趣味が……い、いや、あたしも女の子ばかりを寝室に侍らせて添い寝させているからお前のことは言えないのだが、あたしの場合は別にそういう趣味があるわけではなく、独り寝が苦手なだけで……いや、まあ、心だけに秘めたる想いならば衆道であろうがなんであろうが構わないぞ?あ、あたしはお前を差別したりしない」

 

 横田は、呆れた。どこからどう考えれば、そういう結論になるのだろうか。晴信を姫大名として育成している山本勘助は、この種の話に関してはものの役に立たない男らしい。もっとも、横田自身もつい最近までは似たようなものだったのだが。

 

「……御大将。まつりごとから合戦までを万事そつなくこなす秀才かと思っていたが、あんたにも苦手なものがあったんだな。色恋にかけては、幼児程度だな……驚いた」

 

「ざ、ざ、残念ながら、たぶん、太郎には衆道趣味はないと思う。たたたただ、そういう男と男の愛というものは意外と部隊を強くしてくれるものだとは聞くな。なんでもいにしえの南蛮には、男色部隊というものが実在したという。恋人同士で隊列を組んで戦うことによって、相手を守りたいという想いが増幅して絶大な戦闘力を生んだのだとか」

 

「ああ、もういい。すっかり『武田晴信』の顔を忘れているぞ。墓場まで黙って持っていくはずだったが、不気味な誤解をされたままくたばっていくと心残りになりそうだ! 俺は戦場を彷徨う幽霊なんぞにはなりたくねえ。俺が懸想している相手は、あんただ。御大将!」

 

 この時。

 

 晴信は、生まれてはじめて、男から恋心を告白された。幼少時から父の叱責に怯え続け、書物に埋もれ、妹・次郎の背中に隠れながら暮らしてきた晴信には、想像したこともない事態だった。

 

「……あたし……!?まさか」

 

「なにがまさか、なんだ?あんた、自分が年頃の美しい娘だということに気づいていないんじゃないか? もしも俺が好色な男だったら、あんた、この場で押し倒されているところなんだぜ。合戦に勝つことばかりに夢中で、てめえ自身については無防備すぎる。少しは用心しろよ」

 

「横田!あたしは武田家の当主、甲斐守護職にある者だ!いずれ子を生すために祝言をあげるにしても相手はあたしと同等の大名格の者か、さもなくば武田の血をひく親族衆でなければならないのだぞ!?」

 

「知っている。だから、心の内だけにしまい込んで死んでいくつもりだったさ。あんたがあまりにも酷い誤解をするものだから……つい、かっとなって口走っちまった。悪いな」

 

「い、いや。だがなぜ、急に恋心など。今までずっと独り身だったお前が?」

 

「……板垣が俺よりも先に死んじまったからかもしれねえ。死ぬならば、余計なものを後ろに背負っていない俺だと信じていた。よそ者の俺には、家族も親族もいないからな。その分、簡単に戦で命を捨てられるだろうよ、とどこかで覚悟していたのさ。だが、その覚悟は俺の誤解にすぎなかった。板垣はあんたを守るために、見事に散った」

 

 戦場の犬にとっては、厄介な家族を持たないでいることもまた奉公であり「武」を高めてくれる道であると、そう俺は言い訳していた。本当は、失いたくないものを抱え込むことでてめえの死を恐れるようになる、そう怯えていただけだと悟ったのさ――と横田は言った。

 

「よそ者などと。あたしにはそういうつもりはないぞ、横田」

 

「わかっている。四天王として大殿のもとで戦ってきた小山田の爺さんが唐突に隠居した時に、空いた四天王の一角に強引に俺の名をねじこんでくれたのは、あんただった」

 

 おそらくあんたが男だったら、ただ戦で暴れたかっただけの俺は四天王などという面倒な称号は断ったろう。が、なぜか断れなかった。思えばあの時から、俺の心の中になにかが芽生えはじめていたのかもしれん、と横田は述懐する。

 

「俺は、家も血筋も持たない一介の雇われ侍だ。犬のように主のために戦って野垂れ死にするつもりだったが、死に場所に一輪の花が欲しくなったのかもしれん」

 

 晴信は、横田備中の心の中でなにが起きているのか、ようやく掴んだ気がした。板垣の死が、きっかけとなった。あれ以来なにものかが毎晩この孤高の男の心に「死に時を逸するな」と囁ささやき続けているのだろう。その逃れがたい死への予感が、横田備中がそれまで己に禁じていた「恋」という感情を、呼び起こしたのだろう。

 

「横田。なぜ、そんなにも死に急ぐ?あたしが父上よりも戦に弱いからか?誰かを犠牲にしなければ、城を奪えないと言うのか?」

 

「それは、あんた自身が囚われている考えだろう。御大将。あんたは甲斐を奪うために大殿を失い、諏訪を取るために禰々さまを追いやった。最早再会は叶わないだろう。ひいては村上に敗れて板垣を失った。村上に勝つためには、さらに誰かを失わねばならない、と怯えている――」

 

 晴信は唇を噛かんだ。

 

 そうか。あたしと横田は似た者同士なのだ、と気づいた。横田はかつて自分の祖国で、家族をすべて失ったのかもしれない――おそらくは合戦に敗れたことで。だから二度と家族を持とうとしなかったのだ、失うことを恐れていたのだ、ずっと戦場に「死に損ねた」自分の死に場所を探していたのだと。

 

「……さすがによく見ているな。次の戦ではお前が死ぬような気がしてならない。戦場で死にたがっている武士ほど、容易に死ねる者はない」

 

 横田は、主に対して言ってはならない言葉をぶつけた。もっと激しく拒絶され、あるいは斬られるのではないかと思っていた。だが、晴信の主君としての器は彼の予想以上に深く大きかった。生まれながらに、心根の清廉な姫なのだ、と思った。次々と大勢の人の思いを包み込んで、それらを自分自身の想いとして抱えようとする人なのだ、と知った。あの山本勘助の煮えたぎるような野心でさえ、晴信は平然と包み込んだ――。

 

 己が頼むものは己自身のみと信ずる信虎が「臆病者」「甘い」と晴信を罵しり続けてきた苛立ちの原因も、多少は理解できたような気がした。俺が討ち死にすればこの姫はますます合戦にのめり込んで、人としての幸福からさらに遠ざかってしまう、と己の短絡ぶりを悔いた。だがもう、知られてしまった以上はなかったことにはできない。だから。

 

「わかった。俺は村上戦では死なない。約束する。あんたに俺の気持ちを知られた以上、簡単には死ねなくなっちまったようだ」

 

 笑いながら男は言う。

 

「御大将。このままじゃあんた、誰とも祝言をあげられずに合戦に明け暮れているうちに人生を終えるぞ。この俺がそうなったように――しかしその悪循環を、俺が断ち切る。俺を戦場へ送れ。俺は村上義清と戦い、生き延びて、そして北信濃を御大将にくれてやる」

 

 その時こそ、あんたは武田の血をひく子を生すために婿を取れる、甲斐の戦国大名・武田晴信としてだけではなく一人の「武田勝千代」としても生きることができる、と横田はにこやかに笑っていた。

 

「あたしに袖にされたわりにはさっぱりしているな、横田備中」

 

「あんたこそ、生まれてはじめて男に――それも俺なんぞに言い寄られたはずなのに、爽やかに笑っている」

 

「性分らしい。合戦には怯える性格だが、こういう色恋に関しては、あたしは女々しくないようだ」

 

「嫌いじゃないさ。あんたは弱いように見えて芯はしたたかで強い、御大将」

 

 晴信は、再び生きる意欲を取り戻した横田備中を生かすために、己自身が陥った運命の悪循環から脱するために、横田備中がこの悪循環を終わらせてくれると信じてみたくなった。

 

 信じてもいい、と思った。その場で、横田備中に、砥石城への出撃を命じていた。

 

 

 

 

 

 

 すでに出撃が決定した後に家臣団が晴信のもとに集ってきて正式な軍議が開かれた。多くの将が揃っている。武田一族は信龍を除いて総出で出陣しており、他にも穴山信君、小山田信有、原虎胤、三枝守友、多田満頼、秋山信友らもいた。その場において、山本勘助も真田幸隆も出兵に反対した。他にも難色を示す将は多かった。

 

「強引にすぎましょう御屋形様。砥石城は忍びと銭を用いて調略すると決めたはずです。万一にも力押しで落とせねば、村上義清が後詰めに来て我らを挟撃しますぞ」

 

「ええ。調略には時がかかりますの。あと三ヶ月お待ちください」

 

「勘助。幸隆。そのつもりだったが、あたしは気が変わった。父上にこれ以上、臆病とそしられたくはない。村上義清だけは合戦で押し切って乗り越えねばならない。ここで正面衝突を避けて回り道を行けば、この先の戦いでもあたしは自分の――運命から、逃れられなくなる。そんな気がするのだ」

 

「それは御屋形さまの気の迷い、偶然にすぎませぬ。合戦で武士が死ぬのは自然のことであり、避けることはできませぬ。しかも、横田どのが先鋒とは?板垣さまが亡くなり、甘利さまもいない今、頼みの横田どのがもし討ち死にしてしまえば武田四天王はほぼ全滅ですぞ」

 

「偶然ならば偶然だと証明せねばならない勘助。そして、武田は次こそ運命を乗り越える。そうだな、横田」

 

「……三日で陥落させる。葛尾城の村上義清も間に合うまい。勘助と真田は葛尾城と砥石城との間での連絡を遮断してくれ。それで挟撃される危険も回避できるだろう」

 

 うなずく横田。勘助は「ななななにがあったというのだっ?」と思わず声をうわずらせていた。

 

「横田殿!貴公はまさか?例の噂というのはもしや……今は御屋形さまを惑わせる時ではないっ!」

 

「くだらんことを言うな勘助。御大将はそんな安い姫ではない。断じて、われら君臣の関係に恥じるようなものはない。一点もだ」

 

「ぐぬぬ。その堂々としたご様子から推察するに、嘘ではないようだが……ええい。男と女のことは、この勘助にはまるでわからぬ! まして御屋形さまのように胸が腫れた年頃の女に対してどうのこうのという世の男どもの気持ちがさっぱり理解できぬ!」

 

「わかっているのか勘助。板垣の命を奪い御大将ご自身にまで深手を負わせかけた村上義清は、御大将にとって巨大な壁だ。克服するべき『運命』そのものだ。武田はただ城を奪えばいいというわけではないぞ。たとえいっとき卑劣な勝ちを収めても、『運命』からは逃れられん。御大将を『運命』から脱却させることこそが、軍師としての貴様の務めだろう」

 

「あいや。戦というものは卑劣であろうがなんであろうが、勝たねば意味がないのだ。死ねば、すべてが水泡に帰すのだ」

 

「勘助。あんたが大殿を殺さずに駿河へ追放したのは正解だった。父殺しの姫武将など、誰も相手にはしてくれないからな。だが村上義清は、御大将の父親ではないのだぞ。倒すべき、敵だ。あの荒ぶる山の神の如ごとき男を戦で撃ち破ってこそ、俺たちは循環しているかのように見える御大将の『運命』を断ち切ることができる」

 

 真田幸隆も山本勘助も、この者はもしや姉上に懸想して……と激怒していた次郎信繁も、この横田の言葉を聞いて顔を伏せてしまった。「主君の犬」と自分を蔑すんでいたはずの横田備中が、これほどに晴信のことを考え、案じていたとは。

 

「……横田どの……ですが、三日であの険阻な砥石城を落とそうとはあまりに強引すぎますぞ。そなたが討ち死にすれば御屋形さまはますます……いや、それ以前にこの城攻めにしくじれば、御屋形さまの命はこんどこそ村上義清に奪われてしまう」

 

「あんたがた軍師が知恵を絞って、村上義清のもとに砥石城開戦の報を入れさせねばいい。三日持たせてくれれば、落とせる」

 

 真田幸隆が「こちらも切り札を投入して忍びを増員してみますわ。ですが、三日間持たせるという確約はできません」と釘を刺した。互いに投入する忍びの数を増やせば増やすだけ、被害も大きくなり、結果も見えなくなる。殺しを嫌う佐助だけではもはや手に負えない規模の暗闘になる。幸隆は忍びたちが北信濃の山中で繰り広げる過酷な戦いを予感して嘆息した。最終的に晴信の決断を承諾した者は、副将の次郎だった。

 

「姉上。そうね。姉上は武田家の当主である前に、一人の『人』だから。決して姉上を、人間以外のなにかにしてはならないのね――勘助、幸隆。そして横田。過酷な任務だけれど、どうかお願いね」

 

 兼音がいたら果たしてどうするだろうか。彼はこの戦いの史実における結末を知っているので、止めるかあるいは勝利へ導けるだろう。おそらく堅実な前者を選ぶと思われる。だが信繁に彼ほどの合理さは無かった。姉への負い目がどうしても目を曇らせる。信虎の遺した負の遺産だった。

 

 決して不可能ではないと言うのも彼女を動かした。自分で研鑽を重ねているものの、如何せんまだ成長途中。勝てる可能性に賭けることにしたのである。

 

 仕方なしに、深志城の馬場信房に急報を入れますると勘助がうなずいていた。

 

「それにしても、わからぬ。胸の腫れたおなごのなにがよいのやら、それがしにはさっぱり」

 

「うるせえ。胸は関係ないだろう胸は! はなあ。貴様とだけは同類にされたくなくて、言わなくてもいいことを口走っちまったんだ!」

 

「あいや。それがしと同類は嫌だとはいかなる意味ですかな横田どの。四郎さまを崇める諏訪大明神の信仰のすばらしさ、純粋さ、美しさを横田どのは理解できぬと?罰が当たりますぞ。死ねば大人の女に囲まれた無限地獄行きですぞ」

 

「貴様に限っては、四郎さまを讃えるその笑顔が禍々しい」

 

 どうやら横田備中は晴信に懸想したらしい。そしてその想いを晴信に直接伝えたらしい。晴信は「君臣の恋は許されない」と即座に拒絶したようだ。それなのに、二人の間には男女の仲とは異なる強い絆のようなものが生まれていた。君臣の絆、であろう。朴念仁の勘助には理解しがたかった。だがすでに開戦と決まった以上は、己の知謀を振り絞って策を立て、勝利の可能性に賭けるしかなかった。

 

「あちゃー。軍議が開かれる前になにかあったみたいだけれど、もしかしてあたしが漏らしちゃったせいかな」と飯富虎昌がイナゴの佃煮をかじりながら頭をかき、太郎は「……横田は俺の尻を狙っているらしい……助けてくれ兵部」とそんな兵部にすがりついて震えていた。

 

 

 

 

 

 この場において唯一止められる者がいるとすれば一門衆の筆頭格にいる穴山信君だけであった。他の上層部がこの戦いに前向きなっている中で水を差せるストッパーは彼女しか残っていない。だがそんな状況下にあっても冷めた目で見ながら彼女は思案していた。個人的な感情で戦線が構築され戦闘計画が練られるのを彼女は好まない。自分の行動理由としてあっても良いとは思っているものの、それを理由に戦いの予定を変えられるのは業腹だった。とは言え、ここでどうこう言ってもおそらく決定は覆らない。では次に大事なのはいかにして自分の旗下の将兵の犠牲を減らすかである。

 

 この後も武田家の戦闘は続くだろう。横田と晴信の君臣間でどういうやり取りがあったかを分からないほど彼女は愚かではない。それ故に横田を危険視していた。合理性のない恋などと言う感情で動かされ、今後もこういう事態が続くのは避けたい。故にこの危険すぎるうえに性急すぎる計画変更を止めない。死ねばいいとは思わないものの、不安材料が取り除かれるのならばここでの敗戦もそう悪いものではないと考えている。何しろ、自分は生きているのだから。

 

 彼女は善人ではない。だが、ある意味最も人間だった。軍議の後、天幕を出て呟く。

 

「『人でない何か』ねぇ…あの夜に父親を追い、日ノ本最強になると決めた時点で貴女はもう人ではないのですがね。その道は修羅。多くの白骨で築かれた地獄への道。そうすると決めた者が、人な訳無いでしょうに。もっとも、武士などただの人殺し。最初から人と呼べるかは怪しいものですが」

 

 皮肉な事実に口角を歪ませ、彼女は鼻で何かを嗤った。その嘲笑の対象が何だったのか、本人も分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一刻の後――。

 

 先鋒を命じられ、出陣の準備をはじめた横田のもとに、孫六が一人でふらりと訪れていた。横田は戦争狂。孫六は絵画に夢中な風流人。ほとんど会話を交わしたことのない二人だった。が、孫六の顔は姉の晴信によく似ている。一瞬、横田は晴信と見間違えそうになったほどだった。

 

「武田家の絵描きさんか。どうした?」

 

 なにを話せばいいのか、横田にはわからなかった。

 

「うーん。一言だけね。ご忠告にね。ちょっと気がかりだったからサ」

 

「そうか。絵描きや歌人は、やけに勘が良いからな。ありがとう。聞いていこう」

 

「怒らせたらごめんね……横田備中高松。あんたが今まで生きてこられたのは、戦場で即座に自分の命を捨てるその捨て鉢さが強さとなっていたからサ。柄にもなくやる気を出しすぎるとサ……死ぬヨ?」

 

 御大将の子供の頃に似ている。戦場に出たことがない分、実年齢よりも幼い小娘だな、と横田は思わず笑っていた。微笑ましかった。

 

「たしかに今の俺は、柄じゃない。だが心配はいらない」

 

「そうかな?」

 

「守りたい者のために死ぬのと、捨て鉢になって狂犬のまま死ぬのとでは、意味が違う。てめえの命の重さが違う。板垣の死に様から、俺はそのことを教わった気がする。そして俺は今、容易には死ねなくなった。俺は生きて帰る。御大将の『運命』は、この戦で打ち止めだ」

 

「……うん」

 

 孫六は強くうなずくと、馬上の人となった横田備中を見送っていた――。

 

 

 

 

 

 

 

戦場概略図

 

【挿絵表示】

 

 

 砥石城は、信濃国小県の山城である。

 

 武田軍が村上軍に大敗したあの上田原の北東部に位置し、村上義清の本城である葛尾城と、信濃の中部・南部を制圧した武田家勢力との狭間にあった。村上義清を相手に上田原での再度の野戦を行って勝てる見込みは、まだ無かった。だから晴信は支城を順番に攻略していく戦略に切り替えた。この砥石城を奪えば、村上義清の本城・葛尾城は事実上孤立する。

 

 ゆえに、真田幸隆が時間と銭をかけて砥石城を奪うはずだったが――。

 

 横田備中の告白という彼女自身にとって大きな事件に面した晴信は、「調略で砥石城を奪う」という当初の予定を変更した。甲斐、諏訪、中信濃、佐久から総勢七千の兵を動員して、砥石城を急襲したのだ。砥石城の兵数は五百とはいえ、村上義清はこの砥石城を、峻険な山の地形を利用して文字通り難攻不落の砦に改造していた。山頂の砦へ辿たどり着くには、武田軍は文字通りの「崖」を這い上がらねばならない。

 

 危険な勝負であり、時間との闘いだった。葛尾城の村上義清が気づく前に、精強な後詰めが到着する前に、砥石城を落とさねばならなかった。

 

「この城だけは正面から攻撃して奪わねばならない。調略で奪えば、父上に臆病とそしられることになる。それに横田備中が言ったように、あたしはどこかで繰り返す『運命』を断ち切らなければならない」

 

 晴信の情熱に押し切られた軍師・山本勘助は、千曲川の東岸に展開した武田本陣内で、「到底、三日では落とせそうにない」と晴信を説得できなかったことを後悔していた。

 

 

 

 

 

 板垣亡き後とは言え、武田軍にはまだまだ信虎とともに戦ってきた歴戦の猛者が揃っていた。にわかに四天王筆頭格として将器を見せはじめた横田高松、一門衆最強の小山田出羽守信有、「鬼美濃」こと原虎胤といった勇将たちが今、家臣団とともに砥石城の断崖に取りついている。

 

 三人とも、騎馬隊を率いるよりも槍を取っての足軽隊の指揮に長けた城攻めの名人たちだった。原は下総から甲斐に流れてきた老将で、信虎に対して忠誠無比を貫き、信虎追放劇の際には「原美濃は一本気な男、大殿追放に反対するであろう」と板垣・甘利に追放劇の陰謀を前もって知らされなかった男である。事実、信虎が追放されたと知った原美濃は板垣たちに対して「なんという真似を」と激怒したが、しかし新たな当主となった晴信に叛逆するという道も選ばなかった。いかなる経緯があれども当主に対しては忠義を尽くさねばならぬ、と彼は怒りを呑み込み、以後、晴信に黙々と仕えた。

 

 その原がこの砥石城攻めに関しては、「無理押しでは砥石城は落ちませんぞ」と晴信に異議を唱えていたが、城攻めが決定したと知ると「近頃育ってきた姫武将たちは騎馬隊での長距離行軍作戦に特化していて、地味な山城攻めについてはまだまだ経験不足じゃ」と自ら先鋒を志願したのだった。

 

 小山田信有は、穴山信君と並んで一門衆筆頭格。甲斐の郡内地方を治める有力国人・小山田家の当主で、父親の代に武田家と縁戚となった。なお、先ごろ引退した先代四天王の一人・小山田虎満とは別の一族である。史実では大河ドラマ『真田丸』で温水洋一の怪演で話題になった小山田信茂の父である。武田に従属してはいるが、自領においては半ば独立領主である。郡内は甲斐と駿河とを繋ぐ街道筋を押さえる要所であり、小山田家は立場としては越後における長尾政景に近い。

 

 この小山田も、原とともに砥石城攻めを「時期尚早でござろう」と反対したが、山本勘助が「板垣さまが亡くなり甘利さまも事実上引退の今、御屋形さまは栄えある武田四天王の称号を復活しようと考えておられます。これは若い姫武将にはまだ荷が重い称号。信虎さま時代から実績と経験を積まれたお二方に、四天王の称号を――」と彼を説得した。原は「わしはそんな名など要らん。ただの家臣じゃ。主君たる者、黙って命令を下せぬのか」とかえって憤慨したが、まだ若く野心家だった小山田は「承知した」と四天王の称号と引き替えに先鋒を引き受けたのだった。小山田家は代々、「われらの家は武田家と同格である」と信じている。馬場某や春日某といった小娘に先を越されては名誉を穢される、と彼は思っていたのだろう。

 

 穴山信君は今回は兵の準備が云々と言って後方待機をしている。この思惑は自分の隊は敗戦となっても被害を免れようと言う意図と、万が一敗走となった際に一兵も予備戦力がいませんはマズいと思ったからである。

 

 すでに開戦前から、武田軍内はこのように足並みが乱れていた。戦況は思わしくなかった。

 

「砥石城を三方から攻め立てさせているけれど――小山田信有は報償に釣られて勝手に振る舞っているし、横田隊はやる気にはやりすぎていつもの冷静さを失っている。乱れていないのは原の部隊だけよ、姉上」

 

 本陣で勘助とともに晴信の隣に控えていた副将の次郎信繁が「まるで的よ。次々と兵が死んでいく」と顔を歪めた。勘助が「三日では無理であったか」と嘆息した。城将・楽厳寺雅方(らくがんじまさかた)も決して凡将ではない。見事に攻撃を防ぎきっていた。

 

「……御屋形さま。砥石城は見た目には粗末な山城ですが、幸隆どのが縄張りを施した天然の要害。しかも村上の手で大改修され、兵糧も十分のようです。水の手を断つなど、大がかりな城攻めが必要になりましょう」

 

「だがそれでは陥落に数ヶ月を要する。真田の忍びたちをもってしても、そんなに長くは防ぎきれない。葛尾城の村上義清にわれらの動きを知られてしまい、後詰めを出されるだろう」

 

 諏訪法性の兜を被かぶった晴信は、横田に賭けた。村上義清という巨大な壁を越えるためにとつぶやきながら、なにかに祈るかのように眼を閉じていた。横田備中の恋心に動かされて感傷的になっているつもりはない。晴信は、男女の仲というものに恬淡としていて、まだ恋というものを知らない。ただ、あれほどの情熱が壁を貫けぬはずがない、と思った。似た者同士だった。横田の望みのままに戦ってほしかった。死ぬにせよ生きるにせよ、悔いを残してほしくはなかった。もしも横田が勝てば、生き残れば、村上義清を武で破ることができれば、あたしは二度と……父上の声に怯えることなく、「野望と家族は交換である」という運命に悩まされることもなく、そしてその時こそは甲斐国主・武田晴信としてだけではない「武田勝千代」としての人生をも切り開くことができるはず――。

 

 或いは運命を動かせる者がいたのならそれは叶ったかもしれない。だが、戦国時代の現実は非情である。その希望は小田原の女王が手に入れてしまった。そして、砥石城の山頂へ登り切れる者は、ついぞいなかった。自軍の犠牲だけがいたずらに増えていく。

 

「横田隊、兵の半ばを失いました!山頂へは未だ到達できず!」

 

「小山田殿、断崖を登る際に矢を浴びて負傷!崖から転落!もはや部隊の指揮は執れませぬ」

 

「原隊も七合目で苦戦!この城には人が通れる山道などない、崖しかない、と足軽たちが口々に弱音を吐いております」

 

 御屋形様。このままでは砥石城はわれらを釘付けにするための撒き餌です。力押しで盗れる城ではありません、と勘助が撤退を仄めかした。

 

「ダメだ勘助。あたしはすでに村上義清からいちど逃げた。二度も、逃げられない。戦って運命を変えてみせる」

 

「運命という言葉に囚われてはなりませぬ、御屋形様。それは、御屋形様の御心が作り上げた観念にすぎませぬぞ。戦のたびにご家族や家臣が亡くなられるのは、単なる偶然にすぎないのです。まして、横田殿とご自分との運命や境遇を重ね合わせることはなりません。ここは戦場です。躑躅ヶ崎館ではありません。そのような私情を戦に挟めば、軍略に必ずや綻びが出ます!」

 

「それは理屈だ勘助。理屈ではわかっている。すでに綻びは出ている。だが、村上義清に勝つためにあたしは理屈を超えた力が欲しい。運命に抗う意志、情熱、新しい人生を切り開こうとする希望、そのようなものをあたしは、あの横田の心変わりの中に見た気がする」

 

「御屋形様は公私を混同しておられまする!次郎さま。どうか御屋形様に諫言を。最早それがしの言葉は届きませぬ」

 

 だが、次郎は「姉上が間違っていることはわかっている。でも、わたしは姉上の妹だから、姉上のお気持ちもわかるの」と首を横に振った。

 

「それがしも、わからぬわけではありませぬ。ですが、ここは戦場なのです。またしても村上に破れればこんどこそ御屋形様のお命にかかわります」

 

「勘助。慌てないで。あなたは軍師として、武田に勝ちをもたらし、あるいは負けるとしても決定的な大敗を免れる策を考えるのよ。姉上は国を治めるからくりでも、戦に勝つために本陣に飾られた仏像でもない。人間なの。年頃の娘なの。姉上の感情までを軍略に繰り込んで戦に勝つのよ、勘助。さもなくば、姉上はいつまでも父上の影から、逃れられない」

 

 武田家内部の問題、御屋形さま個人の問題と、国盗りの合戦とを混同してはなりませぬ!と勘助は言いたかったが、自分こそが信虎を甲斐から追放してこの二つの問題を晴信の心の内側で一つに結びつけた張本人なのだと気づくと、それ以上次郎に反論することはためらわれた。天下無双の「鬼謀」を誇る軍師・山本勘助は、実戦を知らぬがゆえの、家族を知らぬがゆえの非情さを失いつつあったのだ。

 

 鬼謀は、非情なくしては輝かない。情とは常に、大勢の人間が共有し理解できる要素であるからだ。故に、人々の裏をかき意表を突く鬼謀とは、情が欠落した精神状態から生まれてくるものらしい。

 

 信虎の影。自分を呪う「運命」。晴信自身の心に巣くう敵と、目の前に立ちはだかる信濃最強の武将・村上義清。この難敵を同時に倒す方法を、今の情に満ちた勘助の脳髄は閃かせることができなかった。ただ一つ策があるとすれば、越後の長尾景虎と結んで北と南から村上義清を挟撃するという、戦国の世ではよくある「並」の策である。だが、長尾景虎は「私は武田晴信が憎い。父親を追放するなど姫武将にあるまじき不義であり悪だ。いずれ毘沙門天の化身として天誅を与える」とまるで取りつく島もない。越後にいくら外交の使者を送っても、常に門前払いされてしまうのだ。

 

 長尾景虎という、晴信を異常に憎む正義の毘沙門天が越後の国主になろうとは、勘助ですら予想していなかった。越後には姫武将の習慣がなかったからだ。ただ、越後はその景虎の登場によって紛糾している。内乱が起きている。越後が内乱で揉めているうちに村上義清を倒さなければ、時間切れとなり、村上と越後が同盟してともに武田へ襲いかかってくるだろう。そこまで先を読めば、村上との決着を急ぐ晴信の感情にも道理はあるのだった。それ故に、勘助は晴信を強く止めることができない。あの歳で不意に恋心に目覚めた横田がなにか奇跡を起こしてくれるのではないか、と信じたくもなる。お互いに長年己の家族を持たずに狂犬として異国で生きてきた男同士として、応援したくもなる。

 

 それが情であり、鬼謀を閉ざすものなのだと、勘助は知っていた。知ってはいたが、晴信の心情を推し量ると、どうしても振り切ることができなかった。勘助は「それがしがこの場で献策できるとすれば、それは致命的な負けを逃れる窮余の一策くらいですな」とうなずいた。

 

「……かくなる上は、真田どのが放った忍びたちが三日以上ねばってくれることを期待する他はなし」

 

 だが、奇跡とは容易に起きないから奇跡と言うのである。

 

 

 

 

「村上義清自らが率いる後詰めが、我らの背後に現れました!」

 

 その急報が砥石城を包囲していた晴信本陣にもたらされた。晴信が真田の忍びから「守りを突破された」との報告を受けるよりも、葛尾城から出撃した村上義清が戦場へ到着するほうが、はるかに早かったということである。そもそも、晴信はこの事態を恐れて城攻めを急いでいたのだ。前方の砥石城に総力を注いで強引な攻撃を続け、完全に疲弊しきっていた武田軍は、たちまち総崩れとなった。

 

 山本勘助にも、にわかになにが起きているのか理解しがたかった。

 

「これはいったいどういうことだ……仮に真田の網が突破されていたとしても、あまりにも村上義清の到着が早すぎる!」

 

 真田幸隆が、腕組みしながら思考を巡らせる。

 

「おそらくは、戸隠忍びたちが総出でこちらの忍びたちを引きつけ――」

 

「その間に『本命』の使者が葛尾城へ達したというのですかな真田どの?だが鳶加藤よりも速く地を駆けることができる者が、戸隠におりましょうや。あの飛鳥の速度で天駆ける『鳶ノ術』を体得しえた忍びは、鳶加藤ただ一人のはず。いや、正確に言えば二人いるが。もう一人は猿飛佐助……たとえ鳶加藤とて、佐助の結界を容易に抜けられるはずもない。その加藤も今は北条の配下。そんな事が可能とは…」

 

「総力を結集して体当たりすれば鳶加藤の去った後の戸隠と言えど可能ですわ。そしておそらく使われた道は、千曲川」

 

「千曲川!」

 

「敵の陣容を残らず洗い出し終えるまでには、諜報が行き届いていなかったようです」

 

「ううむ。やはり、時間が足りなかったのか……」

 

 上田原では、堂々の野戦を戦った。武田軍は多くの犠牲を出したが、村上軍も壊滅寸前となる打撃を受けたのだ。しかし、今はまるで違う。あの常勝を誇った武田軍が、一方的に叩かれ、斬られ、動揺し、崩れに崩れていた。上田原では、村上義清個人の武勇と、槍衾という村上方の戦術に敗れた。戦略的には、晴信は致命的と言えるほどの失敗を犯してはいない。だがこの戦では、晴信は完全に裏をかかれた。砥石城から、城兵が逆落としをかけてきた。今や武田軍は、背後の村上義清と前方の砥石城から挟撃されていた。これは、戦略上の致命的な失敗だった。

 

 砥石崩れ。

 

 晴信は死を覚悟した。「運命」を乗り越えることはできなかったのか。晴信は、横田の情熱に希望を見た。しかし、その希望を見出みいだした者は、恋を知らない少女・武田勝千代ではなかったのか。甲斐の国主・武田晴信は、そのような個人的でささやかな希望と、国盗りの合戦という「公」としての現実とを、決して混同してはならなかったのではないか。

 

 あたしはただ、横田備中に「今のあたしは信濃盗りにすべてを捧ささげている。お前の気持ちに、あたし自身として応えてやることも拒絶することも許されないのだ。すまない」と一線を引いて詫びるべきだったのだろう。それができなかったのは、やはり、はじめてのことに戸惑いどこか舞い上がっていたからなのだろう。どこかで希望と現実とを混同していたのか、「運命を超える」という言葉に囚われてはき違えていたのか。横田の想いを、戦場でともに運命を超えるというかたちで果たしてやりたかったのか。それとも……あたしは、戦場に己の「情」を持ち込んだのだ。その情が、勘助と幸隆の戦略を曲げさせて、狂わせたのだ。板垣と甘利を失ったあの上田原での敗戦を取り戻そうと、焦っていたのだ。甲斐の国主の座とは、これほどに重いものだったとは……父上……

 

 しかもこの死は、晴信一人の死、勝千代という個人の死、己の死だけでは済まされない。七千を誇る武田軍、そのすべてが死の運命に晒さらされていた。

 

 「愚か者め!」という信虎の叱責の声が聞こえてきた。激しい目眩いと吐き気に襲われて、晴信は倒れそうになった。だが、かろうじて大地を踏み支えて耐えた。次郎が、晴信の背中に手を回して支えてくれていることに、ようやく気づいた。

 

「……勘助。このままでは武田軍は壊滅する」

 

 やっと、その言葉だけを、口から発した。

 

 山本勘助は「お察しいたしまする。この勘助がもっと、男と女の情の世界に通じておりますれば……精通してなどいなくとも、せめて人並み程度に」とうなだれながら、「全軍すみやかに諏訪へ撤退せよ」と叫び、情報将校たち――「百足衆」を四方へと飛ばした。

 

「勘助。幸隆。村上義清は今度こそ、あたしの首を盗ろうと遮二無二追撃してくるだろう。諏訪までの道のりは遠い。いかがする」

 

 真田忍びは防衛網を張るためにみな出払っております、と幸隆が嘆息し、そして勘助は鬼の形相で「それがしにお任せあれ」とうなずいていた。

 

 

 

 

 

 

 

 崩れていた。

 

 横田高松は、前後から殺到する村上軍の挟撃を受けながら、晴信本隊を戦場から離脱させるべく殿となって戦い続けた。ともに砥石城を攻めていた小山田信有はすでに重傷を負って戦線から消えていた。原虎胤の姿も、雲霞の如く現れた敵兵の中に紛れて、見えなくなっている。横田率いる部隊も、壊滅的な打撃を被っている。一人として、傷を負っていない者はいなかった。

 

 それでもなお、これまで横田とともに幾多の戦場を生き抜いてきた男たちは、脱落しなかった。わずかばかりとなった晴信本隊の背後を守り、人間の壁となって村上義清の猛襲を少しでも食い止めようと戦い続けていた。

 

「みな、すまん。最後の最後に、どうやら俺は運を掴めなかったらしい。上田原で死に損なった俺は、柄にもなく欲を出したのだろうな」

 

「いつかはいずれ死ぬ。それが今日だったということだ、大将」

 

「大将も、一人の男だったってことよ」

 

 そう笑いながら、男たちは次々と倒れた。敵兵に背中を向ける者はいない。みな、前のめりに倒れて、そして死んでいった。横田自身、全身に矢を浴び、刀傷を負い、その視界は赤い血に染まっていた。すでに馬も失っている。甲斐に流れ着いてきた頃の端武者のように、己の足で地を駆け、槍を振るい、すぐ背後を行軍する「諏訪大明神」の軍旗を掲げた晴信本隊を守り続けた。

 

 馬上の村上義清の姿が、前方に見える。今度こそ、晴信を斬るつもりなのだろう。「諏訪大明神」の旗を見つけたらしい。急接近してくる。やらせるか、と横田は吠えた。俺としたことが、御大将にあのような言葉を。本当に、血迷っていたとしか思えねえ。まるで初恋に狂った子供のようだった。四郎さまに舞い上がって夢中で仕える山本勘助のようだった。俺はこんな馬鹿な男ではなかったはずだ。そのような甘い夢を見るには、あまりにも多くのものを失いすぎていたはずだった。

 

「貴様。横田備中か。既に戦は武田の負けだ。なにゆえに、そこまでして戦う」

 

「てめえの、知ったことか。俺はな、主のために槍を振るう犬よ」

 

 目前に迫った村上義清へと槍を繰り出しながら、横田備中は吼えていた。徒歩だった。馬上の義清までは遠い。せめてこちらも馬上で構えてのやり合いならば、この首と引き替えに義清に一太刀は浴びせられたかもしれない。それだけが無念だった。己の口から熱い血が溢れてくる感触。腹に一撃を食らった、と知った。

 

「……ざまあねえ。俺としたことが。だが、この首をはね飛ばさない限りは俺を止めることはできんぞ。村上義清」

 

 片膝をつきながら、横田は「まだまだ」と笑い、再び槍を構えていた。

 

 だが。

 

「諏訪大明神」の旗まで、諏訪法性の兜を被り馬で敗走する晴信まであとわずかと迫ったところで、村上義清の表情が、一変した。そして。

 

「……武田晴信……またしても、命を拾うか。どうやら俺は、お前に敗れるのだろう。横田備中、見事な忠義であった。貴様らの勝ちだ――さらばだ」

 

 突如として、馬首を翻していた――。村上義清が、兵をまとめて退却していく。失血が多すぎて俺は幻でも見ているのだろうか、と横田は思った。大粒の雨が、横田の額めがけて落ちてきた。もはや、動けなかった。視界がぼやけてきた。御大将に詫びを。村上義清は退いたと、報告を。

 

「……横田、備中」

 

 前のめりに崩れようとしていた。その血に塗まみれた身体を、抱き留められていた。諏訪法性の兜を被った姫武将が、馬から下りて、横田の身体を抱き留めていた。

 

「……あんたは……そうか。村上の野郎は……一杯食わされたんだな。ざまあみやがれ、だ」

 

 横田は、笑った。なあ、あんたはなぜ泣いている。それとも、にわか雨が頬を伝っているのか。

 

「ごめんね。わたし、姉上によく似ている?」

 

 ああ。本当によく似ている。顔を見るまで気づかなかった。いや、こうして間近で顔を見てもなお、見間違えそうになったぜ。この俺を欺くとは、よくもここまで影武者としての修業を積み上げてきた、と横田はその少女を手放しで褒めたかった。晴信の影武者として村上義清を欺き、晴信を無事に諏訪へと逃がしきったのであろう、信廉を。

 

「本当に、ごめんね」

 

「いや。これでよかったんだ。死に場所に」

 

 一輪の花、だ。勝ち戦を届けられなかった俺には、有り難すぎる。思い残すことはねえと、横田は孫六の腕に抱かれながら静かにつぶやき、そこで命が尽きた。

 

 

 

 

 

 

 

「己の命を捨てて守ろうとしていた者が。最後に見たあたしが、影武者だと。孫六だと、横田は死ぬ間際に気づいたそうだ」

 

 武田晴信は、またしても敗れた。横田備中討ち死に、と伝令から聞かされながら、それでも逃げねばならなかった。声を上げて泣いている時ではなかった。諏訪路を。横殴りに降る雨の中を駆けながら、晴信は溢れそうになっている感情をかろうじて抑えていた。声を詰まらせていた。

 

「仕方がなかったのです。兵は詭道なり。敵を欺くには、味方より……横田どのは御屋形様を守るために必死だったのです。孫六様のほうを振り返る余裕はなかったのです。だからこそ、村上義清も土壇場まで孫六様を影武者だと気づけなかったのです。己の眼で、孫六様の姿を確認するまで」

 

 横を進む山本勘助が、沈痛な面持ちでうなずいていた。彼もまた、己の感情を抑え込んでいた。己の軍師としての未熟さを悔いるのは、横田の命を賭した恋心を利用してそして裏切るというあまりにも非情な策を用いたことを晴信に詫びるのは、諏訪に晴信を帰還させたその時でいい。

 

「横田は、あたしを恨んでいるだろうか」

 

「さような男ではござらぬ。強い、男でした」

 

「しかし死んだ。今までどれほどに過酷な戦も生き延びてきた男が、あたしへの情ゆえに。泥に塗れて死んでいった。勘助。恋は……人を弱くするものなのだろうか。それとも」

 

 勘助は答えられなかった。

 

 真田幸隆ならば答えられるはずだ、と勘助は背後を振り返った。だが幸隆は百足衆とともに先行し、諏訪への逃走経路を準備している。滅ぼされた佐久衆の残党や野伏せりが、敗残の晴信を襲撃しないように。村上義清が孫六の正体を見切った時のために「二人目の影武者」として諏訪法性の兜をつけていた次郎が、「わたしは恋を知らないけれど、きっと、血を分けた家族への情と同等に強いものよ」と代わりに答えていた。

 

「横田備中は主に飼われる犬としてではなく、人として、男として死んでいったわ。きっと、後悔なんてしていない。姉上、願わくばわたしも死ぬ時はあんなふうに――」

 

 晴信は、長い髪を振り乱しながら馬上で耳を塞いでいた。兜は外している。次郎に被らせている。

 

「次郎……もうやめて! 死ぬ、死ぬ、死ぬって……もう……」

 

「……姉上」

 

「どうして。あたしは、武田家の家族を、家臣団を守るために当主になったはずだったのに。どうして。なぜ……これがあたしの運命なの、勘助?父上を追った罪が、こうして生きる限りあたしを捉えて放さないの?ほんのひとときでも、乙女のような夢を見てはならなかったの……!?」

 

 そう叫ぶ晴信の後方から声がする。先行させると言う名目で部下を先に逃がし、万が一に備えて最後の方まで戦場に残り横田に最後を託し、撤退してきた信君だった。

 

「何を腑抜けた顔をしている。何が運命だ。何が夢だ。ふざけるなっ!家臣や家族を失う?当然だろう!日ノ本最強になるとはそういう事だ!甲斐から出て他国を切り取るとはそういう事だ!家臣を、領民を、一族を殺して失って血塗れた手足で白骨の道を征く。そういうものだ。そんな事も分からず嘆いているのなら、今すぐ辞めてしまえ!」

 

「穴山殿!」

 

「黙りなさい!お前たちが甘やかすからこうなったんだ。いいか?私が此度の戦で前線に出なかったのは何故か分かるか?こうなるのが見えていたからだ。合理性もなく、恋だなんだで作戦を変える。そうやって多くの兵が死んだ。だからいつまでたっても北条に十歩も二十歩も先を行かれるんだ!」

 

「信君…」

 

「その目を止めろ。見るべきはなんだ?現実から逃げた所で始まらない。負けは負けだ。自分の判断の誤りでこうなったんだ。その責任を取ってこの場の最善を考えろ。確かに我らは思惑があって先代の追放に加担した。だが、決めたのはお前のはずだ。それは紛れもない事実だろう。目を逸らすな!これは、お前の始めたことだろう!!」

 

 皮肉げに嗤い、腹に一物抱えたような態度を崩さない信君の激昂を見たのは全員これが初めてだった。元々彼女はこんな風に怒鳴るつもりはなかった。しかし、聞こえた叫びに、彼女の中の何かが切れた音がしたのである。

 

「夢も理想もないお前のような者に言われたくない…!」

 

「私にだって、夢くらいある。だがそれと私の責務とは別の問題だ!我が夢は優先順位の一番下に来るべきものだ。そんなもの、この道で生きるなら当たり前だろう!」

 

 信君の夢。それは海であった。彼女は甲斐・信濃から出たことがない。海を知らない。人伝に聞いた海を、この目で見る。それが彼女のささやかな夢だった。だが、それは叶えられそうもない。越後は軍神が支配し、相模は氷の女王が支配し、駿河はしがらみのせいで攻められない。誰も傷つけない彼女の夢は、夢のままだった。願わくば大海原に漕ぎ出したい。その願望を押さえ続け、彼女はこれまで戦い続けているのである。

 

「…すまない」

 

「いえ、こちらこそご無礼を。無事に諏訪に戻れましたらご処分はいかようにもなされませ」

 

 信君は激昂するなど自分らしくもないと思いながらいつもの調子に戻っていた。

 

 大打撃を被った武田軍はしばらく立ち上がれませぬ。ですが村上義清もついに御屋形さまの首を盗れませんでした。はじめの戦略に戻り、真田忍群を動かし、調略で砥石城を奪いまする、と勘助は震える声で晴信に伝えていた。

 

「忍びだって人間でしょう。大勢が、死ぬのでしょう」

 

「御意。ですが、軍と軍を激突させて戦うよりは、死人の数はずっと少なく済みまする。真田忍群の総力をあげて戸隠忍群の結界を破り、砥石城へ突入させ、城内の内応者と呼応して一夜にして城を落としまする」

 

 それがしも佐助たちとともに調略部隊に加わります、と勘助は言った。塩尻峠でかろうじて崩壊を免れた武田は、またしてもその名声を村上義清によって叩き落とされた。同じ相手に三度目の敗北は絶対に許されない。勘助は、この作戦に真田忍群全員と、そして己自身の生命を賭した。

 

「武田に真田の夢を託した幸隆どのにも、そのお覚悟をしていただきます」

 

 最後尾を囮として行軍していた孫六を救出してきた飯富虎昌と太郎義信の部隊が、諏訪上社へと到着しつつあった。虎昌も義信も傷つき、疲れ果てている。武田四天王のうちの二人が、逝った。一人はもう戦えないだろう。四天王は、事実上虎昌一人となった。太郎は、不安そうに目を潤ませていた。

 

「なあ兵部。お前も死んじまうんじゃねえだろうな?」

 

「太郎。あんたより先には絶対に死なねえよ。あんたは戦場で暴れるしか脳のない馬鹿野郎だからな、お守り役がいなくちゃ一日もやっていけねえ」

 

「……そっか」

 

「ああ、そうさ」

 

「……なあ兵部……駿河にいる定の命も、尽きようとしているようだ。敗戦を重ねている武田は、今川と手切れすればそこで終わる。俺は今川の姫との祝言を、請けなければならなくなったろうな……」

 

「……そうだな。太郎、あんたも少しは大人になったみてえだな」

 

「兵部。あのさ。本当は、俺は」

 

「お守り役は生涯、お守り役だ。あんたとあたしはなにがあってもずっと一緒だ。最後まで、あんたと一緒にいてやる。だから、気にすんな」

 

 兵部と太郎。馬上で手を繋ぎかけながらためらっている二人の姿をその隣で見つめながら。鶴亀を描いた艶やかな雨傘を差しながら馬上を揺れる孫六の頬から顎へと、雨粒が一滴、二滴、したたり落ちていた。

 

「忍ぶまま色に(いづ)る事もなき我が恋は もの告ぐ前に露となりけり」

 

 下手クソな歌だネ…と呟いた声は雨音に掻き消された。誰の耳にも、ついぞ届く事は無かった。




手も大分良くなってきました。お休みのおかげです。これからは前みたいなペースで行けるかと。次回は来週のいつかになります。


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第65話 二人の女王

今回は北条の話に戻ります。前回が長すぎましたが、今回はいつも通り一万字前後です。

すごくどうでもいい私事ですが、先日放送の「世界ふしぎ発見!」に小田原城と北条氏が特集されていて、ちょっと興奮してしまいました。


 現在、上野は混沌の渦の中にあった。沼田にて行われた合戦で長尾軍が敗北。その後三国峠付近まで撤退したと言う情報は既に国内に流れている。北条か、或いは長尾(とそれの威を借りる山内上杉)かという二つに割れているのである。

 

 

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 沼田城は陥落し、東上野は軒並み北条の影響下に置かれた。とは言え、まだ完全なる服従はしていない。未だ抵抗を続ける小勢力や箕輪城の長野業正など、敵は残っていた。そしてつい先日開城したばかりの沼田城には沼田合戦に参加した北条軍の生存者や負傷者が入城していた。

 

 この沼田の主は鎌倉の昔から沼田氏であり、鎌倉末期の文献には楠木正成の籠る千早城や赤坂城を攻める鎌倉方の軍に彼らの名がみえる。先祖は三浦半島に本拠地を置き、北条家の始祖、早雲に滅ぼされた三浦氏であるようだ。元当主の朝憲は北伐の噂を聞きつけ、その際は早々に降伏をしようと考えていたがここでそれに父の顕泰は反発。対立の末に実子の朝憲を殺し当主へ返り咲いた。しかし周りの友軍の城を落とされ沼田城を丸裸にされ、兵糧も尽き、親北条派の金子泰清による煽動で引き起こされた城内の不和が激化した結果自害。残された顕泰の末子・景義が降伏を願い出て開城したのである。

 

 この城で今、今後の方針が決められようとしていた。具体的には沼田景義以下沼田氏一族の扱い、その家臣団の扱い、最後に最も重要な対長尾戦についての臨時評定が行われようとしていた。これに際し、箕輪城包囲の総大将だった北条氏邦は副将であった猪俣邦憲と藤田信吉に軍を任せ、沼田城へやって来ている。なお、猪俣邦憲の名に兼音は複雑な顔をしたのだが、それはまた別の話である。

 

 それはともかく、ここに大国となった北条家の行く先が決まろうとしていた。即ち、更なる長尾との戦闘つまりは追撃か否かである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 評定はかなり割れていた。追撃派は我々武蔵の将が多く、反対派は伊豆相模の将が多い。北条家の重鎮・三家老家(松田、遠山、大道寺)の内、松田家の松田盛秀は反対派の中心である。

 

「此度の勝利を以て、長尾は早々に退いて行くでしょう。わざわざ追撃し、窮鼠猫を噛むと言うような事態になってはいかがするのです。前衛とは言え、四分の一を抹殺したのですぞ。まともな大将ならば本国に逃げ帰るところでございましょう。彼らが逃げるのを待ってから、残りの土地を征すればよろしいかと」

 

「いえ、ですがその相手がまともではなさそうなのでこうして申し上げているのです。越後の将の中には狂信的に長尾景虎を崇拝しておる者も多くいると聞きます。なんでも毘沙門天の化身を自称しておるとか。そのような輩が果たしてまともな将と言えましょうか?」

 

「長尾景虎が仮に気狂いの娘であっても家臣が反対しよう。流石にはい、そうですかと頷き進軍するほど越後の男どもは単純ではないはず」

 

「かつて国内で乱が起きた際、不殺を宣言し反対する家臣を黙らせたと言う風説も聞き及んでおります。素直に家臣の諫言を受け入れるような人物ではないかと」

 

 このレスバトルみたいなやり取りを先ほどからずっと繰り返している。段々お互いに面倒になってきているものの、こちらも向こうも譲れない。ごちゃごちゃしてもうるさいから代表を決めて論議してくれと言われたので、追撃派の私とこのまま現状維持派の松田盛秀がこうしてディベートみたいなことをする羽目になっている。

 

「義の実行者などと平然と嘯く人物がまともとは思えませんな」

 

「それはあくまでも建前で、本心は上野を領国とせんと欲してるだけでは?一条殿は些か長尾景虎を特別視されているようだが、それがしに言わせればものを知らぬ小娘だと…」

 

「申し上げます!」

 

「…何か」

 

 突如としてやってきた乱入者に場の視線が一気にそちらに向く。

 

「はッ!三国峠付近に駐屯していた長尾軍が箕輪城を目指して進軍を始めました!」

 

 案の定と言うか、このまま終わりはしないだろうと思っていた予感が的中した。

 

「…なんだと。あり得ぬ。損害規模からして撤退の一択であるはず…。おい、間違いは無いのだな」

 

「この目でしかと確かめてございます!」

 

「そうか……一条殿。それがしが間違っておったようですな」

 

「いえ、松田様のご意見はどれももっともでございました。ひとえに敵の大将が異常なだけのこと」

 

 ともかくこれで場の方針は強制的に転換された。こちらが主導権を持っていたはずが、いつの間にか敵に奪われていた。我々が選べる選択肢は二つ。抗戦か、撤退かである。いずれにしても箕輪城を囲む第二軍と合流する必要がある。三国峠から沼田は距離的に近い。常識的に考えれば沼田にいるこちらの大軍を相手にするのだが、どういう訳か箕輪を目指して方向転換したらしい。ひとまずは反北条勢力である斎藤憲広の籠る岩櫃城に向かうようだ。

 

「困ったことになったわね」

 

 悩まし気な声で氏康様は言う。越後と関東をつなぐ道は少ない。越後軍の考えが読めない。もし、箕輪へ南下した場合こちらが沼田から北上し道をふさいだら帰るに帰れなくなると思うのだが。もしくは勝てると言う絶対的な自信があるのだろうか。あまり考えたくはないがその辺の考えは全くなくただ思うままに行動している可能性もある。いずれにせよ、行動の読めない相手ほど厄介な相手はいない。

 

「箕輪の軍を捨て置くわけには絶対にいかない…。されど沼田の兵も必要ね…」

 

「誰かにここの守備を任せる必要もありますな」

 

「しかし、誰に任せるべきか」

 

 自軍が危ういと分かってはいてもたってもいられない氏邦様は我慢ならない様子でソワソワしている。河越の兵は兵数と練度共に北条軍でもかなりのものになる。私がここに残る訳にはいかない。

 

「その任、それがしにお任せあれ」

 

 突然の参上、ご無礼仕る。と口上しピンと張った髭を撫でながら中年の男が声を上げた。今まで沙汰を下すために広間の外に控えさせていたこの城陥落の立役者・金子泰清である。

 

「あなたは…金子美濃守ね」

 

「いかにも。元沼田家家臣の金子美濃守泰清とはそれがしのこと。この沼田は勝手知ったる地。この城も我が庭に同じ。必ずや守り通してみせましょう」

 

「しかし、貴殿は降ったばかりの将。どうして要衝を任せられようか」

 

「左様。また裏切られるとも分からぬ」

 

「折角取った沼田をやすやす奪われてはたまらぬわ」

 

 否定的な意見が相次ぐ。そりゃそうだ。ついこの前まで敵であった男を手放しに信用せよ、という方がおかしい。

 

「かかか。そのご心配は最も。されど、それがし、寝返るのは故あっての場合のみ。此度はそれに当たらず」 

 

「具体的には?」

 

 氏康様の問いに待ってましたとばかりに彼は滔々と語りだす。

 

「それがしの寝返る訳は二つ。一つ、主が愚か者であること。二つ、戦い続ければ多くの兵が死ぬのが確定であり、その上勝利が不可能である事なり。此度の北条家中はいずれの条項にも当たりませぬ。賢君と名高き左京大夫様でありますし、また北条は必ず救援に来て下さるでしょう」

 

「へぇ、それは良いわね」

 

「お話が早く助かりますぞ」

 

「丁度あなたの処遇を決めようとしていたところだったのよ。前々からこちらに接触していたのは知っていたけれど…何故あの時機に裏切ったのかしら」

 

「あのままでは力攻めでそれがしも他の将兵も犬死ですからな。顕泰さまがご自害なさるとは流石に予想外でございましたが」

 

 氏康様の目が細くなる。

 

「まぁ今のであなたの建前は分かったわ。それで、本音はなにかしら」

 

「はて?なんのことでしょうかな」

 

「その顔にこれが本心な訳あるかと書いてあるわよ」

 

「!おやおや…流石は賢君聖君と名高き左京大夫様。それがしの浅い面の皮など看破されてしまいましたな。それでは語ると致しましょう。それがしの求めるのは己の命と金―すなわち世俗の儲けのみ。戦など腹が減るだけで一文の得にもなりはしませぬのでな。忠義を果たして死ぬのはなるほど確かに立派な生き様。されどそれがしは好んでそうしたいとはついぞ思いませぬな」

 

 あまりに清々しい言いっぷりに場の全員が絶句する。なるほど、こう来たか。そもそも聖人君子の言う触書の長尾景虎とはあまりに合わぬ思想だ。

 

「あーっははは!そう来るとは思わなかったわ」

 

「裏切り者には二種類おります。一つは土壇場で裏切る蝙蝠のような者。例え如何なる恩義を主より受けようともふらふらと一貫しませぬ。そしてもう一つは己の信条に従い前々から段取りをつけて新たな主にとって最も望ましい時を見計らい裏切る者。何れを信用されますかな?」

 

「北条は裏切りを否定しないわ。作法を心得ているのならね。此度はそれをあなたが心得ていた。よろしい。あなたに任せます。土壇場で寝返るどこかの誰かよりはよほど好感が持てるわ。少なくとも、北条があなたに利を与えている限りは裏切らないのでしょう?」

 

 そういう存在を上手くコントロールできるかも主としての腕の見せ所と言うところだろうか。殺すのは容易い。けれど、利用価値のある者は最大限使わねば。それが例え毒であっても皿まで喰らう覚悟なしに乱世に覇を唱えるのは不可能だろう。本当に良いのかと皆が言外に問いかけるが氏康様は信用することにしたらしい。まぁフワフワしていて自分がないような人間よりも行動原理がはっきりしていて良いと私も思うがな。

 

「それは勿論。裏切り寝返り返り忠は機会を窺う事が何よりも重要なれば。信用は得るのは無数の時間を要しますが、失うのは一瞬でございますからな。よほどのことが無ければの非常手段なのでございますよ」

 

「まとまったようだな!兎にも角にも沼田に留まっていても話は始まらない!箕輪の近くに我々の本陣がある。そこへ急行してくれないか。そこでもう一度軍議を開こう。敵の近くにいた方が情報も入りやすいし、何より迅速に動けるはずだ!」

 

 氏邦様が割と大きめの声で言う。こちらとしてはそれでも構わない。情報が本当ならばすぐに向かうべきであることに間違いはなかった。全員の視線が決定を求めて一点に集まる。

 

「……そうね。分かりました。氏邦の提案を聞き入れ、箕輪方面に急行します。盛昌、物資の手配は任せるわ。兼音、あなたに桐生城とのやり取りは任せるわね。主力の武蔵兵の兵糧があのお嬢様にかかってるわ。河越にため込んでいる忍び衆でもなんでも使って是が非でも兵糧環境を整えて頂戴。前線の兵が飢えるようでは戦はおしまいよ」

 

「承知仕りました。兼成には必ずや任を遂行させます」

 

「金子美濃守。あなたの人間性について思うところが無い訳ではありませんが、私は私の人生と受けてきた教えを信じてあなたにこの城を託します。よろしく頼むわね」

 

「御意」

 

「全軍、直ちに第二軍と合流!目指すは箕輪。義を僭称し、関東に無用の争いを産む旧体制の亡霊たる長尾をここで必ず叩く!」

 

「「「「「ははぁ!!」」」」」

 

 一万五千の北条軍が動き始めた。同時に厩橋城にも使者が走る。留守居を任せていた朝定に合流を要請するのである。長尾軍は上杉憲政と言う神輿を担いでいる。であれば、こちらも神輿である上杉朝定を担ぐのが筋であろう。これは長尾と北条の戦と言う意味の他に、長きに渡る扇谷上杉と山内上杉の戦いと言う側面も持っていた。どちらが勝つにせよ、関東の趨勢はここにかかっていた。もし負ければ侵攻計画はとん挫する。もし成功すれば信州、越後、武蔵、下総、下野に繋がる交通の要衝たる上野の地が手に入る。そうなれば戦線は減り、東に目を向ければ良くなる。負ける訳には絶対にいかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 北条勢が移動を開始する前、三国峠付近。ここには敗走した先遣隊と景虎率いる本隊が合流していた。先遣隊が元々八千。帰ってきたのが五千と数百のみ。その内の千近くは重軽傷を負っており、今すぐ戦闘に参加できるのは四千ほどしかいなかった。本隊の数はそれでも一万五千ほどいる。国内をまとめたばかりの軍勢にしてはかなりの数であった。対する北条は守備隊を除くと全軍合わせて二万ほどはいる。兵数的にはほぼ互角。であれば将兵の質と戦略がものを言う。それは長尾軍の誰もが抱く共通認識だった。これは景虎も例外ではない。

 

 宇佐美定満が苦心の末に出した戦略的な答えが、沼田に向かうのではなく箕輪の長野業正と合流することであった。軍の行動における主導権を取ろうとしたのである。こうすることで取り敢えず北条は長尾の動きに合わせての行動、つまり後手後手の行動を強いられる。これは案外戦場においては無視できない要素であり、敵軍の戦闘前後の行動における選択肢を狭めることに繋がる。また、兵数的にも互角なのを少しでも有利にするための進軍でもあった。また、箕輪へ向かう道筋にはまだ反北条勢力が多く残っている。これを従えればかなりの数になるはずであった。

 

 だがしかし、案は良くても実行部隊がその案を是とするかはまた別の話である。越後最強格の長尾政景があっさりと敗れたことで越後軍内では動揺が走っていた。関東武者侮りがたし、北条氏康おそるべしとの風説はまことしやかに陣中に流れた。そしてその動揺をおさめるため、またどうするにしても今後の方針を決める必要があったため軍議が開かれた。

 

 軍議は大荒れになった。流石のこの状況に反発する者も現れ始めていた。反抗心を露わにする政景、上の空の本庄繁長、熱は下がったものの包帯を巻いたままの鮎川清実の姿は反対派を勢いづかせた。反対派の代表格は大熊朝秀や斎藤朝信、長尾政景である。大熊は財務方の人間であることから財政面から、斎藤は武勇が有名だが、戦略家としても一流であり、戦略の面から反対している。政景の理由は言わずもがなであろう。柿崎景家は中立派であり「主の命を果たすのが武士の在り方。南無阿弥陀仏!」と言って沈黙している。

 

「北条氏康を討つ。これは義を示すために必要な行いである。直ちに軍を整え、行軍の用意を整えよ」

 

 この発言にてっきり流石にこれだけ被害があり、陣内が動揺し、反対派の意見が声高に叫ばれる中であるから撤退だろうと思っていた者たちは愕然とすることとなった。

 

「お待ちください!我が軍の被害はかなりの数に及んでおります!彼らの犠牲をどう考えるのです。彼らは越後の兵ではありますが平時は農民。越後の生産を支える階層でございます。その農民にとって貴重な男手が二千以上失われたのですぞ!二千死ねば、二千人分の生産が落ちます。その上、領土も城も何もなし。控えめに言って大赤字です。無駄に損害を増やす前に撤退すべきは妥当であります!」

 

「それがしも大熊殿に賛同いたす。間もなく冬が来る。北条は背後に万全の補給路を用意しております。しかし、我らの頼みは直江殿が峠を通り運び来る兵糧のみ。雪が積もれば三国峠は通れませぬ。そうなれば我らは敵地に孤立することに。飢えと寒さの中凍え死ぬことになりますぞ。また、敵の補給は万全です。何とか軒猿が手に入れた情報によれば平井城から大道寺下野守盛昌が、桐生城から河越衆・一条土佐守の副将花倉越前守兼成がそれぞれ補給を送っているとの事。河越を中継に各地から集められた兵糧がいきわたり、北条の兵に餓えるものは一人もいないとか。最低でもこの二人を除かねば、北条軍の自滅はあり得ませんな」

 

「フン。その二人の言う通りだ。オレも再三言っている通り、今回ばかりは退くのが正しい。それを諫言すべきは本来貴様のはずだが?宇佐美」

 

 険しい視線を向けられた宇佐美定満は何も言えず、ただ苦笑いするしかなかった。本心では彼も撤退するのが正しいと信じている。しかし、景虎をこういう風にしてしまった責任の一端が確実に自分にあることを自覚し、それに負い目を感じているのも事実だった。

 

「暗殺は不可能か?宇佐美殿」

 

 髭を撫でながら樋口兼豊が訪ねる。彼は史実における樋口兼続つまりは直江兼続の実父である。今は娘の兼続を宇佐美の元に修行に出している。彼は諜報面を担っていると言う側面もあり、軒猿ではなく商人などを中心としたネットワークを保持していた。軒猿担当は宇佐美である。余談ではあるが、この時代の商人は逞しくそれこそ戦場であろうとも金の匂いを嗅ぎつければ参上した。

 

 世界史の裏には経済がいる。それこそ、この時代の少し前に欧州で行われた十字軍にもヴェネツィア商人の思惑が潜んでいたり、戦国日本の同時代にフランスやイタリアはメディチ家の影響圏だった。この繋がりでサンバルテルミの虐殺だったりが起こりナントの王令に繋がりそれが太陽王の時代に無くなり…と繋がっていく。そして王令が廃止され、商工業者だったプロテスタントを失ったフランスは経済に陰りが見えそれは後の革命の一端になったり…と表に裏に商人はいる。ちなみに歴史の皮肉だが、この後なり上がるプロイセンの発展を支えたのは王令のせいでフランスから逃げた商工業者だったのである。まぁそれは別の機会に語ることがあろうと思われるのでここでは詳しくは省こう。

 

「私は暗殺などと言う義に反する卑怯な真似はしない。風魔を使い暗殺調略を厭わない北条氏康とは違う。二度とそのような提案をするな!」

 

「だそうだ」

 

「…承知しました。義に反すると言う観点には考えが及びませんでした。申し訳ございません」

 

「そもそも風魔の壁が厚く氏康を筆頭に北条一族や重臣は軒猿が近付くことすら不可能だと聞きます。一条土佐守は風魔ではない独自の忍び集団を持っているとか。そしてその頭目は信越では名の知れた忍び…加藤段蔵です。特定の主を持たないとされていた奴ではありますが、一条土佐守はどういう術を用いたのか引き入れたらしいのです」

 

 大熊朝秀が補足する。大熊は北信にも勢力を持っており、そこはかつての段蔵の本拠地である戸隠と近い。当然存在を知っていた。三分一原の戦いで為景方で参陣した北信の将・高梨政頼が彼女を用いたのも情報として手に入れている。 

 

「先ほど斎藤殿の申された補給の要の二名ですが、大道寺下野守は今大熊殿の言われたように風魔の護衛が強く、花倉越前守の方は比較的護衛が薄いようですが、まぁ彼女を暗殺などしようものなら一条土佐守が怒髪衝天で攻めてくるでしょう。己の片腕を亡くして平常で居られる主などおりますまい。それに、重臣の一角でありながら今もなお妻帯しない一条土佐守とは恋い慕う関係にあり婚姻候補筆頭ではないかとも噂されているようですな」

 

 表立って反対派では無いものの、このまま利益が無いのは困ると思っている北条高広も付け加える。彼も独自のルートで関東の情報を多く持っていた。

 

「戦場で色恋に耽るとは…汚らわしい」 

 

 景虎は嫌悪感を隠さない。これを聞いたら二人は猛抗議することになろう。一人はそのような事実はない。でたらめのデマを言うなと怒り、もう一人はそうならないから困ってるのですけれどと言うのが容易に予想できた。ともかく、実態はどうであれ、この時代の人の目にはある程度そう言う風に映っていた。二人とも過去が謎であり、昔からの主従だともそうでないとも色々囁かれていた。後世でもここは学者の間で論争になる。何故か兼成の出身だけは三鱗記でもぼかされ僅かに駿河生まれとしか情報が無いのである。

 

 

 

「せめて上杉憲政に城を返すのは思いとどまっていただきたい。具体的には厩橋城か平井城の城代にそれがしを。もう片方は斎藤殿辺りにお任せするべきかと」

 

 北条のこの提案も景虎は一蹴する。

 

「私たちは憲政様をお助けするために出兵したのだ。それは出来ない」

 

「ですがな…」

 

「北条殿。そうでなくても我らは彼を大義名分に出兵しております。救援を謳いながら城を返さぬとあれば諸国からの信を失いかねません」

 

 直江実綱が北条を説得する。これには一定数の正当性があったので北条も黙るしかなかった。

 

「では、これだけはお約束ください。いかなる結果になろうと冬になる前には帰国すると。そう確約が頂けぬならば私は兵を退かねばなりません!」

 

 大熊が再度声を張り上げ要求する。その姿を景虎の赤い目はジッと射るように見つめていた。ただ彼女とて馬鹿ではない。冬が来る前に帰らねばならないのは理解していた。

 

「ああ、分かった。約束しよう」

 

 その言葉にようやく安心できたように大熊が胸を撫でおろす。斎藤はこめかみを押さえるが、どうしようもないのを察して勝つしかないか、と覚悟を決めた。政景は憮然とした表情を崩さない。明らかにこの決定に不満を抱えていた。

 

「皆、問題ない。私は必ず勝利する。義の戦に敗北は無く、私の行く道に敗北はあり得ない。私自らが出陣すれば勝利は固い。北条氏康に毘沙門天の戦を見せてやるのだ――神の戦を。なにが悪で、なにが義かを、あの女に知らしめてやるのだ」

 

 この発言に諸将も一応納得する。今のところ景虎は無敗。この戦績が彼女の発言に一応の説得力を与えていた。諸将は老将でもない限り、他国の組織的な大軍と戦闘していない。一揆軍はあくまでも一揆。統率の執れた北条軍とは勝手が違う。他国の大軍と戦ったのはかつての関東管領・上杉顕定と長尾為景が争った長森原の戦いが最後である。久しぶりの他国との争いに越後の大半の諸将が勝手を分かっていない。

 

 唯一兼音や氏康とまともにやり合った先遣隊の面々だけがその恐ろしさを知っている。油断ならぬ存在だと感じ取っていた。しかし、政景の軍勢はあまり多く連れていけない。本庄繁長の軍勢は三国峠付近の今の陣地に留守居をさせることになったため経験を活かせない。もっとも参陣したとしても今の繁長は割と呆けているので役に立つかは怪しかった。鮎川清実は傷がやっと治ったと思ったらまた出陣を命じられ、軽く絶望している。それ以外の将は景虎がいる以上まぁ負けはしないという観測の元進軍した。

 

 

 

 

 

 

 だが、宇佐美定満はあまり楽観視できていない。普段はあまり役に立たない軍師役の彼ではあるが、こういう時こそ己の出番と思い、対策を練っていた。燻っているとはいえ北条軍と戦闘した中でかなりの経験値を積んでいるには違いない政景も一緒である。政景も景虎にこんなところで死なれては困るので、今だけは利害が一致した。

 

「なぁ政景。正直なところ、景虎は氏康に勝てるか」

 

「フン。知らんな。勝てる勝てないはその時の状況で変わる。断言は出来ん。…が敢えて言うなら」

 

「言うならば?」

 

「厳しい戦になるかもしれん。俺も決して弱くはない。景虎に一度敗れたとはいえ、越後で二番手であると思っている。だが、その俺が負けた。それも完膚なきまでに。或いは俺が井の中の蛙だったのかもしれん」

 

「傲岸不遜なお前さんにそこまで言わせるのか」

 

「あの軍はえらく夜戦になれていた。恐ろしい練度だ。警戒は怠れん」

 

「それは考えていた。景虎は勝てると思っているが氏康と言えどただでは負けてくれねぇだろうさ」

 

「このままではあ奴の魂は見果てぬ夢に縛られ、その生涯は徒労に終わるかもしれんぞ。それで貴様はいいのか、宇佐美?」

 

 いい訳ねぇだろ。だが、どうやったら景虎を解放できるのか。オレと直江の旦那が景虎をあんな風にしちまったなら…どうにかしねぇといけないのはわかってるんだがな。と宇佐美は呟いた。

 

「フン。そう悩むくらいなら最初から綾の代わりに寄越していればよかったものを」

 

 宇佐美は「それは違う!無用の争いが増え、越後は修羅の国になる」と叫びたかったが、もしかしたら争いの起こる地が国内から国外になっただけではないかと言う考えが頭にこびり付いて取れなかった。

 

「ともかく、一条土佐守。この男が軍略に長け、北条軍の軍師をしているようだ。この男に鮎川もやられた。果たして貴様とどちらが上だろうな」

 

「どれだけ強い敵も必ず倒す術はあるものだ」

 

 だといいがな、と言ったきり政景は口を噤んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして戦場から遠く離れた房総。この地にも沼田の顛末が早速届いていた。と言うのも、この地一帯の主・里見義堯は現在視察のため北上総にいたのである。僅かに風魔の目をかいくぐった斥候の報告である。風魔と言えども、現状のように一部の戦線に集中しているとどうしても隙間が生まれてしまう。そこを今回は突かれた形だった。ただ、今回は北条にとって幸運なことに里見は敵対姿勢からではなく状況把握のために密偵を出していた。

 

「驍将・長尾為景の娘が関東に攻め入ったか。しかもかつての父親とは真逆に地位を追われた元関東管領・上杉憲政を奉じて、か。泥船に乗ったところで沈むだけであろうに」

 

「ですが、この景虎とか申す娘。まだまだ北条氏康には及びもつかぬ小娘ですが、越後では無敗の軍神と崇められているとか」

 

 安西実元が反論する。

 

「負けておるではないか」

 

「どうやらこの沼田での戦いに景虎本人はいなかったようです」

 

「そういうからくりか…」

 

「いかがいたしますか。上州に北条が釘付けになっている間に西下総をかすめ取るのも可能と存じますが」

 

「愚か者。左様な事をしてみろ。あの上杉憲政(疫病神)が関東に舞い戻ってきてしまうわ。奴が治めるならまだ氏康の軍門に降る方がマシだ」

 

「ですが、好機ではあります」

 

「まぁ焦るな。じきに機は来る。今佐竹、小田らと交渉しておる。我らの停戦が切れれば一気に襲い掛かろうぞ。景虎とかいう娘がいかほど強いかは知らぬがその時に適当に巻き込めばいいのよ」

 

「その折に我らの提案に乗ってきましょうか」

 

「乗るな。必ず」

 

 義堯の勘がそう告げていた。歴戦の勘である。憲政が嫌いと言う彼自身の感情もあるがなるべく関東の事は関東の将だけで決着したかった。だからそれまでは適度に北条の目を逸らしてくれればいいとしか考えていない。そもそも報告を聞く限り、義を謳う景虎と早雲に憧れ、下剋上を繰り返した自分とは決定的に合わないだろうと言う空気を感じたのである。

 

 安西実元は義堯の判断基準を知っているが、彼は義堯の勘をある程度信頼しているため、特に何も言わなかった。房総も少しずつ蠢動し始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 箕輪城の近く。上州の中央部に位置するこの大地に大軍が集結していた。

 

 一つは三つ鱗を掲げる大軍。率いるは小田原の女帝、相模の獅子、鎌倉府執権、北条氏康。配下に多くの将兵を抱え、気合十分である。もう一つは毘の旗を掲げる大軍。率いるは越後の軍神、北国の龍、義の執行者、長尾景虎。ここまで彼女自身の赴いた戦は無敗。役者は完全に揃った。最早史実は崩れ去った。己の使命、心情、夢、野望、理想を賭けた戦いが始まろうとしていた。

 

 二人の女王が下知を下す。箕輪城の戦いが始まろうとしていた。




「謙信越山」と言う滅茶苦茶有能な本をゲットしたので、研究してます。その結果、第一次国府台の戦いと河越夜戦の詳細な様子が判明したので(書いた時点ではまだよくわかってませんでした。一応調べたんですけどね…)、ちょっと加筆修正します。多分その前後も。来週くらいまでには終わると思うので、気が向いたら確認してみて下さい。それに合わせてキャラ集も追加並びに修正があります。話の大筋に変わりはないのでご安心ください。


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第66話 小さき戦・前

長らく大国(北条・武田・今川・長尾・里見・上杉)の視点で物語を進めてきましたが、景虎VS氏康の決戦の前にこの時代の大半を占め、本編でも大体名前だけ出てきて終わりの小領主の戦いを書きたいと思いました。ニーズがあるかは…知りませんが…。時系列的には「58話、北伐・前」と「59話、北伐・中」の間です。次回は後編。そうしたらばお待ちかねの景虎との決戦になります。


 秋の色が山々に満ちた大地。関東の北に位置する上野のある山中では鹿狩りが行われていた。主催者は山上氏秀。この辺り一帯を治める小領主にして山上城の主であった。山上城は赤城山の南麓に築かれた城であり、細長い形をした丘城である。西側に空堀、東には天神川を西には鏑木川の支流が流れており天然の惣堀を形成している。

 

 よくある山間にある城という形であった。そんな城の主がこの男である。山上氏の祖先は足利に繋がるとも言われており、上野の勢多郡山上を領有している。南北朝時代に分裂し足利尊氏に属した山上公秀が氏秀の祖である。氏秀は山上一族の中でも支流の藤七郎正秀の家系であった。同家は戦乱の最中本家が絶え、下克上の世相も相まって城主の地位を得る事となった。下克上とは何も大勢力の間だけで行われているものでは無いのである。

 

 若干26の若侍ではあるが、武勇に優れその名は上野でもそれなりに有名である。もっとも、上泉城の主とその娘には一本も取れないでいるが。一応現在の立ち位置としては由良家にある程度従属している。その彼の元に急を報せる使者が城よりやって来た。

 

「急ぎお戻りください。北条軍が接近しております」

 

「なに、北条が!?」

 

 それまで上手く行っていた狩りの成果に笑みを浮かべていたが、それは一瞬にして失われた。即座に馬に飛び乗り城へ帰還することとなる。

 

 

 

 

 

 

 城では一族重臣が重い顔をして座っていた。上座に近い位置に藤五郎氏吉、近くには隠居した父親の源内がいる。当主たる氏秀は首座に座って重臣の糸井太郎衛門に向かった。

 

「申せ」

 

「武蔵におりました北条軍2万以上が隊を分け上野内に侵攻しております。その内の一隊、約6千が迫って参りました」

 

「由良や那波、桐生はいかがした」

 

 由良は一応の従属相手、那波と桐生は同盟では無いが同じ上野の武士であるので動向を知る必要があった。

 

「いずれも音沙汰ありませぬ。北条軍が通過したという事は…既に」

 

「寝返ったか…しかし箕輪や厩橋ではなく当城にか」

 

「判りませぬが囲まれてからでは遅うございます故」

 

「さもありなん。膳は?」

 

 膳城は山上城から800メートルほどの位置にある城で、善備中守宗次の城である。膳と山上は唇と歯の如し。かつて周辺領主が由良家を攻撃した際に合力して以来歩調を合わせてきた。

 

「使者を送りましたがまだ返答はありませぬ」

 

「左様か。箕輪(長野業正)、白井(長尾景憲)、唐沢山(佐野豊綱)にも同様のものを」

 

 矢継ぎ早に命じた氏秀は家臣たちに改めて向き直った。

 

「さて、この6千、いかにすべきか」

 

 氏秀の意思は固いがそれでも家臣に意見を言わせるのは体裁としては必要であった。

 

「恐れながら申し上げます。半月も城に籠れば赤城(おろし)が吹き荒み、さらに時が経てば雪も降ります。温い相模武蔵に慣れ切った兵に寒さは耐えられませぬ。城に引き付けて戦うべきかと存じます。さすれば上野の味方もはせ参じ、散々に追い打ちをかけられましょう」

 

 徹底抗戦を主張するのは鏑木主計である。

 

「何を申す。当家はかき集めても5百がいいところ。対して敵は大軍。しかも当城は要害でもない。囲まれれば半日が良いところですぞ」

 

 反論したのは一族衆の山上藤九郎である。氏秀の正室は藤九郎の妹であった。

 

「されば藤九郎殿は一戦もせずに和を乞えと申されるか」

 

「これまで当家は山内、由良、長野と勢力の強き者に従ってきた。これが北条になるという事。忠義立てするべきは由良のみだが、その由良も寝返った。無駄な争いを避け、流れに身を任せることこそお家を守る術と言うもの」

 

 藤九郎のいい方は主計の説得ではなく、氏秀に向かい発せられた言葉であった。

 

「しかも寄せ手の総大将は先に新たに管領となった扇谷朝定。これは即ち公方(鎌倉公方)の後ろ盾があるという事。しかも旗下には成田・上田・深谷上杉・太田に加え、あの一条土佐守がいるというのだ。これにどう抗せと」

 

 ざわめきが起こる。氏秀の表情も益々険しくなった。北武蔵オールスターと言うべき陣容。しかも上杉朝定とはまた分が悪い。大義名分はどう考えても向こうにあった。先の関東管領上杉憲政がその位階を剥奪されたことを上野で知らない者はいない。彼は必死に隠していたが北条家のプロパガンダの前には無力だった。

 

 更に一条土佐守。その名を知られる関東に現れたほうき星のような男である。出自不明ながら見事に北条の重臣まで上り詰めた才人、鶴岡八幡宮では居並ぶ関東の諸将の眼前で見事な武勇を披露したとの噂も既に流れている。北条最強の強さを誇るという北条綱成を配下に置き、数々の戦役で要職をこなしあの今川すらも撃破したとの呼び声高き大将だった。武勇には自信があったが流石の氏秀もこの陣営の手堅さと強さに舌を巻いた。

 

 しかし主計とて引き下がらない。

 

「山内、由良、長野はいずれも上野の者じゃが北条は他国。しかも氏素性も知れぬ、流れ者が下克上の末にのし上がっただけの事。承服できぬな。貴殿も将門公を討った藤原秀郷の子孫であるはず」

 

「乱世になれば出自は関係ない。貴い血で刀槍が防げているのならかように世は乱れまい」

 

 あくまでも冷静なのが山上藤九郎である。関東の武士は武勇と血筋を重んじる。源平の昔よりこの地に住む血脈が多いが故の事だった。

 

「畏れながら、北条が北へ北へと参りますれば当家より先に膳城を囲むことになります。膳城から救援の要請あれば、殿はいかがなされるおつもりか」

 

 白熱する議論に水を差すように糸井太郎衛門が氏秀に尋ねる。視線が氏秀に移った。

 

「善家とは苦楽を共にしてまいった。頼まれれば後詰に向かうも(やぶさ)かではない」

 

「善家も集められる兵は当家とさして変わりませぬ。後詰は焼け石に水でござる」

 

 藤九郎は反対する。善家の限界動員は600人前後。膳城と山上城にさして防衛設備の差は無い。力攻めされれば一蹴されるのは目に見えていた。

 

「とは言え見捨てる事は同じ勢多の武士として出来まい」

 

「されば膳城が戦わずして降ればこれに倣われますか」

 

 縋るように藤九郎は問うた。

 

「まだ決めておらぬ。それ故皆の思案を聞いておる。続けよ」

 

 氏秀は改めて家臣団に意見を問うも大半は恭順を求める声だった。夕刻に使者が戻る。膳城の善宗次は抗する、箕輪の長野業正、白井の長尾憲景、唐沢山の佐野豊綱も支援を表明した。

 

「我らだけ下れば腰抜けと侮られよう。由良の軟弱者どもと同じ穴の狢と呼ばれるは死するより不名誉なるぞ。戦支度をせよ!」

 

 援軍はおそらく来ない。元々頼るべき由良成繁は既に北条方だ。一抹の不安はあるがこれで本意の通りに戦えるとやや喜色を浮かべて氏秀は家臣たちに命じた。

 

 

 

 

 

 

 翌朝から籠城の準備が行われる。空堀の底を深くし、出た土を土塁に重ねて盛る。周囲には逆茂木を置く。逆茂木とは戦場や防衛拠点で先端を尖らせた木の枝を外に向けて並べて地面に固定し、敵を近寄らせないようにした障害物の総称である。こういう即席の工事が出来るのが近世以前の城のメリットだった。破却と改築がしやすいのである。

 

「これでいかほど敵を防げようか」

 

 作戦の指揮を執りながら氏秀は問う。

 

「おそらくは半日持てば良い方かと。敵に強烈な打撃を加えたくば、川が激流にでもならねばなりますまい」

 

 弟の氏吉は希望的観測を述べた。しかし、これは氏秀にとっては思わぬ天啓であった。城の近くには天神川が流れている。利根川やらと比べれば当然その差は推して知るべしではあるが、こういう小城にとってはありがたい自然条件だった。少量でも水は軍隊の敵になる。鎧や装備は濡れると重みを増し、肌に纏わりつく。体温の低下から集中力や体力を奪う。川とはその大きさに拘わらず、立派な防衛装置なのだ。

 

「ほう、面白きことを申す。されば天神川の上流に堰を築き、頃合いを見て落とさせれば濁流となって寄せ手を押し流そう」

 

「川の水を溜める水瓶がありませぬ」

 

「半里ほど北の童沢には湿地がある。そこになれば溜めておけよう」

 

「されば、早急に堰き止めさせます」

 

 即座に氏吉は準備のため去った。

 

 

 

 

 

「申し上げます。林伊賀守殿が参られました」

 

 籠城準備の最中に使者の来訪を糸井太郎衛門が報告した。林伊賀守高次は由良四家老とも呼ばれる重臣の一人である。由良家を傘下に加えた一条兼音の命令により降伏勧告の使者に来ていた。正確には兼音が由良成繁に命じ、成繁が己の重臣に命じた形である。

 

「左様か。北条も本腰を入れてくるようじゃな。すぐまいる」

 

 氏秀は首肯して本丸へ向かった。主殿の下座には林高次が着座している。

 

「久しゅうござる」

 

 氏秀は笑みを向ける。山上家は由良に従属していた。その縁で既知の仲なのである。そこら辺の事情を把握して派遣されてきている。

 

「ご無沙汰でござるな」

 

 林高次は笑みを返す事は無い。敵味方の間柄である事、元々山上が従属相手だったことから下に見ている。降将が城主を説きに来ることは珍しくない。ちなみに兼音は由良成繁ないしその一門レベルの人間が行ってくれれば言う事も聞いてくれるだろうと思って命じたのだが、自分レベルの人間がいくような相手ではないと思った成繁が家臣に押し付けたのである。故にやや横柄な態度だった。ここは兼音の伝達ミスであった。

 

「降伏を説きに参られたか」

 

「左様。もし開城してしかる後に降を乞い軍門に入るならば、本領安堵をするように御屋形様(氏康)に取り計らうと土佐守様は仰せだ」

 

「降伏の呼びかけは城を囲んでからするものと思っておったが、どうやら違うらしい。使者を遣わして降を乞わせるとは破竹の勢いの北条勢とは思えぬ弱腰。儂を舐めておるのか、或いは土佐守とやらは余程の臆病者か。それとも横着しておるのか」

 

 氏秀は愚弄されているようで怒りを覚えた。この辺りの感覚を現代人が理解するのは難しい。けれど、当時は確かに名誉や恥と言った概念が現代よりも圧倒的に重いのである。戦国の武士は基本一部を除いてバーサーカーなどではない。兵を動かせば糧食も武器もいる。手間がかかる。勝とうとも死者は出る。失えば経済も農業も打撃を受ける。いわんや負ければやである。更に死んだ者の遺族には慰労金を出さねばならない。可能ならば戦わずして降伏させるのが最上なのである。

 

「本領安堵の約定がどこまで本当か、わかったもんではない」

 

「上野に静謐がもたらされるのだ。城などなくともいかようにも出来よう。それに、時の関東管領・上杉朝定様は降将なれどかの如き厚遇を受けておられる」

 

「それは上杉の血を北条が重んじたからであろう。それに、丸腰となれば小田原のいいなりだ。それでは先祖に申し訳が立たぬ」

 

 犬にはならぬ。そう氏秀は覇気を示した。

 

「城兵全てを討ち死にさせる所存か」

 

「相武の兵で首塚を築くつもりにござる」

 

 首塚とは兜首33をもって一つの塚を作る事を言う。

 

「左様か。では仕方ない。説得を聞き入れられず残念無念。某は帰城致す」

 

 太刀は主殿に入る前に従者に預けてある。それでも脇差はあるので何かあれば斬ると油断なく周囲を見回す林高次である。警戒の色を消さぬまま、退出していった。

 

「これでいよいよ引き返せなくなった。北条は明日にも大挙して押し寄せよう。準備を急がせよ」

 

 高まる闘争心を抑えながら、氏秀は太郎衛門に命じた。更に降伏勧告を拒否したことを改めて周辺領主に伝え、援軍を要請した。

 

 

 

 

 

 

 翌日の夜明け前。氏秀は寝室で一人、瞑想していた。今日、存亡を賭けた戦いをするのかと思った。近いうちにそうなるかもしれないと覚悟はしていたが、当日になってみればその実感は薄かった。恐怖心も焦りもない。それにやや戸惑った。あまりに敵の数が多すぎるからなのか。降伏の意思が己の中にない事を再度確認して自身の尻を叩き立ち上がった。

 

朝靄の中、山上領内に戦鼓が鳴り響く。籠城中ではあるが家臣団全てを城内に入れた訳ではない。まだ兵糧は搬入中である。しかしながらそう広くもない領内なので報せが行きわたれば一時間ほどもすれば入場できる。これが河越クラスの城になるとそうそう簡単にはいかないのだが、小勢ゆえの利点でもあった。周囲に在する家臣は続々と城へやって来る。裏切りを防ぐべく妻子を人質にするのが慣例ではあるが流石にこの兵力差という事もあり妻子たちは治外法権とも言うべき寺社に置いている。ここを万が一攻撃すると寺社のネットワークによって他の同宗派や同系の寺社に袋叩きにあう。

 

 ほぼ勢ぞろいする中、糸井太郎衛門が告げた。

 

「ほぼ集まってはおりますが、藤九郎殿らの姿が見えませぬ」

 

 北条に降るだろうと糸井太郎衛門は目で訴えた。

 

「左様か」

 

 そこまで氏秀に動揺は無い。こうなる事は予想出来ていた。一族全員討ち死によりは家名を残せる可能性が高くなる。もっともそれは向こうの大将次第ではあるが。氏秀は少し瞑目した後、己の正妻、つまりは山上藤九郎の妹である彼女を実家へ送り返した。決して愛していないわけでは無かったが、自分に付き合わせるよりもそちらの方が幸福を掴めると考えたのである。

 

 この時、その旨を伝える役目を担った糸井太郎衛門は彼女に対し、氏秀へ頃合いを見て藤九郎に投降を呼びかけさせて欲しいと伝えた。主の死を防がんとする思いゆえの事だった。

 

 

 

 

 

「これで心置きなく戦えるな」

 

 氏秀はもうどこか清々しかった。主殿にて黑糸威(くろいとおどし)の甲冑に身を包む。数えさせると集まった兵は三百だった。報告したものの声は申し訳なさげだった。それだけ北条の大軍は脅威であり、藤九郎一族の不参戦は反響が大きかった。

 

「怪しい輩がおらぬ故、返り忠を恐れることがなくなった。戦は兵の多寡ではない。九郎判官義経が平家を撃ち破れたのは詭道であり、神速であったがゆえの事。我らはこれに倣い、敵を攪乱して勝ちを得る」

 

 宣言すると氏秀は横にいる父に目をやった。

 

「某は藤五郎(氏吉)と共に敵を急襲する所存。留守をお頼み申す」

 

「任せよ。存分に敵を蹴散らして参ると良い」

 

「申し上げます!北条勢は膳城へ入った模様!」

 

「善家が降ったか。抵抗の様子はあったか?」

 

「戦は行われなかったようにございます」

 

「左様か。賢い選択やも知れぬが、それ故上野兵は腰抜けと侮られるのじゃ。同郷の者を討ちたくはないが、これも乱世故に仕方のない事。我らと敵対する道を選んだこと、必ず後悔させてやらねば」

 

 吐き捨てると近習が三方を持って現れる。上には干し(あわび)、勝ち栗、結び昆布が載せられている。これらはゲン担ぎのための食物であり、三献の儀ともいう。まぁ別にやらなくても問題は無いし、そんなことしている余裕がない時も多い。ちなみに河越衆はやらない。と言うより大体慌ただしく出陣しているのでしているほど暇じゃないのが現実だった。戦国が進むとやらずにいる家も多くなっている。あまり意味は無いと氏秀自身も理解はしているが、敵は六~七千、自分は三百。最低でも二十倍の敵を相手取るのだ。目に見えぬ拠り所は欲しかった。

 

 酒でこれらを流し込む。

 

「上野兵の強さを天下に示そうぞ!」

 

 覇気のある声で叫ぶと、氏秀は床几を立って盃を床にたたきつけた。

 

「おおーっ!」

 

 破片の割れる音が響く中、家臣たちは威勢よく鬨の声で応える。それなりに士気は高かった。

 

 闘志みなぎる中、大股で主殿を出る。脚を踏み出すほどに具足がこすれる。無機質な音が紡ぐリズムが昂揚を生み出していた。如何ほど敵を討てるか。これのみを考え、氏秀は胸が高まった。栗毛の駿馬に跨ると愛馬は嬉しそうに嘶く。

 

「先祖代々より伝わりし我が領地を侵さんとする者は打ち払うのみ。いざ、出陣!」

 

 決意を咆哮して馬鞭を正面に振り下ろす。家臣たちは声をあげ、大谷治左ヱ門を先頭に山上城の大手門をくぐる。城を出て少し進んだところで氏秀は弟の氏吉に向かう。

 

「決して無理をするな。此度は軽いひと当てじゃ。真の戦は城に引き付けてからのこと」

 

「承知致しました」

 

 頷いた氏吉は百の兵と共に東へ進む。氏秀自身は西へ馬脚を向けた。

 

 寡兵故の機動力の高さですぐに移動が出来た。反面北条勢はそこそこ時間がかかる。山上城への道はいずれも狭い。故に二列での行軍が限界だった。この細長い軍勢を東西からの挟撃をすることを狙ったのである。奇襲なので旗指物は置いてきた。氏秀は兎川の西の土手に兵を隠して敵を待った。少しばかりして、北条軍の先鋒を担う北条綱成隊が姿を見せた。

 

 なお、この時軍団の指揮官たる兼音は膳城に氏政と共にとどまっている。更には七千ほどの北伐軍第一軍は軍勢を二手に分けられており、北武蔵の諸将の兵は全て里見城へ差し向けられている。総大将は上杉朝定。左右に太田資正と上田朝直。完璧な布陣である。ともかく、今山上城攻略に着手している北条軍は河越の本隊と上野の諸将の兵を合わせて五千弱。総指揮官は白井胤治が担っている。

 

 綱成は先鋒の切り込み役、兼成は桐生城にいるので不在なのでまぁ(他に候補がいないのもあるとは言え)妥当な人事であった。ここいらで実戦の経験を積ませておきたいと言うのが兼音の考えであった。同じことを考えた雪斎によって派遣された朝比奈泰朝は興国寺で大敗したわけだが、そんなミスを犯すような人間でないと兼音が信頼している事、そしてミスをするような状況ではない筈と考えての事だった。かつてまだまだ駆け出しの若輩たる己に兵を預けて経験を積ませてくれた氏綱のことも、脳内には存在していた。

 

 その辺の事情を氏秀らは知らないが、ともかく「地黄八幡」の旗が晩秋の風に棚引いているのが目に入ったのである。この旗は関東では有名だった。氏秀からは三百メートル弱の距離である。戦いは近い。氏秀は鹿角の脇立を備え、獅嚙の前立てをつけた兜をかぶった。

 

「まだだ。まだ…焦るでないぞ」

 

 敵が北進すればするほど山上城は危うくなるが、奇襲攪乱を成功させるにはこれしか方法がない。確実に横っ腹を突かねばならなかった。先の言葉は下知と言うより己を鎮めるためのものだった。氏秀は第二陣に照準を合わせていた。分断するつもりである。千ほどの兵が通過したころ、にわかに騒がしくなった。

 

「藤五郎め!逸ったか!」

 

 憤りながら氏秀は吐き捨てる。注意はしたものの、闘争心を抑えきれずに暴走することは珍しい事ではない。ただ、だからと言って傍観は出来ない。挟撃しなければ氏吉勢は寡兵。あっという間に壊滅してしまう。

 

「味方が戦いを始めたが故に予定が早まった。敵は弱兵。多勢であろうと恐れるに足らず。我らは討ち放題!上野兵の強さを敵に示す時。かかれーっ!!」

 

「うぉぉーっ!!」

 

 檄に家臣は大音声で応えて勇んで土手を乗り越える。このところ雨は降っていないので兎川の水位は低い。流される心配は無かった。山上勢は勢いよく水しぶきをあげて渡河し、北条軍に迫る。敵は氏吉勢に注意をひかれているように見えるので好都合でもあった。

 

 百メートルほどに接近するとようやく北条軍も西の氏秀に気付いた。これくらいは何とか弓の有効射程圏内である。しかし大概の者では敵を仕留めるのはやや早い。具足、甲冑を身につけている兵ならば尚更である。これをこの距離から倒すにはよほどの名手でなくてはならない。その名手は膳城にいてこの戦場にはいない。とは言え、威嚇にはなる。

 

「弓衆、放て!」

 

 最前線の氏秀は怒号をあげ、関根弥十郎ら弓衆に一斉射撃をさせる。二十数本の矢は青空に弧を描き、北条軍に降り注いだ。大半は胴丸やら陣笠に弾かれるも、最初の射撃で数人が死傷する。これにはたまらず混乱に陥る…はずだった。

 

「西方にも敵来たり!」

 

「防戦態勢!」

 

 告げられた命令に従い機械的に北条兵が陣形を変える。二列だった兵の半分が氏秀たちに向き直った。予想外の攻撃のはずにも拘わらず、この動き。五百近い兵が向き直る。後続の兵も異常に気付いたようで、軍勢が少しずつ形を変えはじめていた。これの裏には当然事前の指示があり、胤治はわざわざ使者を追い返すような城の主が易々と己が城が囲まれるのを良しとするはずもないと考えたのである。故に奇襲の可能性、そしてその場合隊列の伸びるポイントが狙われること、更には挟撃の形をとるであろうことを予想していた。

 

 それに加え、この辺の地理に詳しい善家の人間が既に降伏している。胤治は渋る彼らから地形情報を聞き出し、ポイントを幾つか予測していた。まさに万全を期したと言うべき行動だった。

 

 危険を伴わない行軍で弓を張る事は通常はしない。けれど、この時の北条軍は弓にしっかり弦が張られている。焦りもなく彼らは弓を構えた。この北条兵は河越の大戦を戦い、半年の籠城を成功させたベテラン兵が多い。加えて日々の厳しい軍事調練を受けていた。中には興国寺で氏康から兼音に預けられた部隊の者もいた。兼音の下でならばより功を挙げられると付いてきたのである。動きも迅速だった。

 

「ちっ!見抜かれておったか!」

 

 敵の行動は自分達の奇襲を予想したが故の行動だと気づいた氏秀は舌打ちをする。かくなる上は仕方ない。刀身約1メートル。持ち手も同じぐらいの長さの薙刀を持つ。刀や槍ではなく、氏秀の武器はこの大薙刀

だった。剛腕の彼からすればこの重みも大した事は無かった。

 

「敵はこの奇襲を見抜いておった!今より敵に突撃し、かき回す!」

 

「「「応っ!」」」

 

 弓衆以外の家臣団が突撃を始めた。氏秀自身も駿馬に跨り、先頭を切って突撃する。躊躇なく進んだ。この突撃は流石に予想外であったのか、多少の動揺は見て取れた。しかし流石はベテラン兵。すぐに立て直す。左右からは槍の相次ぐ攻撃。しかし、その穂先に身体が抉られるよりも先に敵中に突き入り、自身の右にいる敵を薙ぐ。剃刀のようにすっぱりと切れる類の刃ではないが、剛腕剛力の彼が振るうと一刀で敵の首が飛んだ。

 

「まだまだ!」

 

 切り払うと即座に次の敵兵をそのまま下から斬り上げる。薙刀を片手で使用しているので、敵の槍の間合いと同等に遠間からの攻撃が可能である。遠心力が加わり、敵の腕が胴から別れを告げた。大根でも斬るかのように首が地に転がり、噴き出る血煙が宙を染める。

 

「相模武蔵の弱兵は我一人も止められぬか!」

 

 水車を横にしたように薙刀を降ろせば首は物と化す。

 

 敵もさるもの。すぐに隊形を整えようと動くが、それより早く馬上の氏秀は引っ掻き回す。主に倣い、家臣の須永栄左衛門、深沢利右衛門、山形喜衛門、薮塚孫左衛門なども傍若無人に駆け廻る。だが、北条軍も負けてはいない。すぐに騎乗した侍大将級の将がわらわらと現れ、氏秀たちに襲い掛かった。その合間を縫うように歩兵も三人や二人一組で馬上の氏秀たちに抵抗する。

 

「殿、そろそろ限界にございます。戻りませぬと…」

 

 糸井太郎衛門が諫める。

 

「そうじゃな。貝を吹け!」

 

 氏秀は命じて撤退の法螺貝を吹かせる。即座に山上勢は退却に移る。

 

「動くな!動くでないぞ!」

 

「留まれ!留まれ!負傷者を下がらせる。報告せよ!直ちに膳城へ戻し、手当を受けさせるのだ!」

 

 逸る北条兵を指揮官が抑える。

 

 

 

 

 

 

 

「まぁ一応成功と言えるか」

 

 氏秀は奇襲を見抜かれていたことを不満に思いつつ、撤退する。氏秀が与えた損害は、弟氏吉の攻撃と合わせて死傷者が五十数名である。もっとも、この大半が負傷者であり、死者は十五人前後であった。この負傷者は膳城で治療を受け、桐生城へ差し戻される。しばらくの療養が必要なものは補給隊の帰路に同行し荷車に揺られて本国河越に帰還することになる。

 

 一方で氏秀方の損害も大きく、こちらも先ほど同様氏吉隊と合わせると当初三百はいた兵だが、二百弱に減ってしまっていた。氏吉に至っては奇襲を察知され、逆奇襲を受け這う這うの体で帰還してきたのである。いなくなった百人の半分は死亡。残りは行方不明であった。

 

「申し訳ありませぬ…一生の不覚でございます」

 

 氏秀は詫びる氏吉を見ながら、これは弟を囮にしたようなものか、と憂いを感じた。諸手を挙げて喜べるような戦果では無かった。城に籠る兵は二百弱しかいない。

 

「さて、布陣であるが」

 

 主殿に主だった者を集め、氏秀は改めて指示を出す。一番南の南郭は氏秀、その北の三ノ丸は板橋又右衛門、二ノ丸に大谷治左衛門、本丸は弟の氏吉、一番北の北郭は父の源内を配置した。大手が南にあるので、氏秀自身が最前線を守ることになる。

 

 いつでも来るがいい。屍の山を築いてやる。

 

 人殺しを快いとは思わないが、武士として生まれたからには力を尽くして戦うのが倣い。本丸から南方を眺め、敵の接近を待った。

 

 

 

 

 

 

 

 行軍中の北条軍の最後方にいる胤治のところへ、一頭の馬が駆けてくる。これは綱成のものだった。

 

「貴女の言うように奇襲が敢行されました。我が方の死者は今のところ十六名。負傷者は四十一名です」

 

「そうですか。随分抑えられましたね。これは良きことです」

 

 想定よりも被害が少ないことをホッとしながら胤治はフッと息を吐きだした。それを綱成は黙って見ながら次の指示を待っている。綱成も決して自分で考える脳のない脳筋では無いのだが、自分より頭のいい人の指示を待っているのである。その方が効率的だからである。ちなみに、決して仲が悪いわけでは無い。戦場でおしゃべりになれるほど胤治は実戦慣れしていない。綱成はそれを気遣って余計な事を言わないようにしていた。

 

「この調子では午後には城を囲めましょうな」

 

 胤治の近くで言ったのはこの軍勢の中に参陣している那波宗俊である。由良成繁や桐生介綱、赤井照康などもこの軍勢の中にいた。皆小娘と侮ることなく指示に従っている。と言うのも、奇襲を見抜いたというのもあるが、兼音自身がスカウトしたという話が広まっているからである。この話はむしろ兼音側が積極的に広めており、彼の武名が高まるほど同時に引き上げられていくシステムになっていた。なお、綱成はそんなことをせずとも名を知られており、兼成も兼音の古くからの腹心という事でそこそこ有名なため、特にそう言った風説は必要ない。新参や小娘と侮られないようにと言う配慮だった。

 

 また、彼女の言葉は我が言葉と思え、と兼音に言われているため、機嫌を損ねるのはマズいと判断している諸将は指示を聞いていた。そこに今回の一件でなるほど、実力は噂通りかと思うに至ったのである。

 

「城を囲んだ後、一応もう一度降伏の使者を。恐らくは拒否されるでしょうから、そうしたらば攻め寄せましょう。それと、城東には兵を置かぬように」

 

「何ゆえかお聞きしてもよろしいか」

 

 由良成繁が問う。

 

「川があります。善家の話では天神川と言うとか」

 

「さしたる大河ではありませぬが」

 

 話を遮った成繁に対し特に苛立つ様子もなく頷き胤治は話を続ける。人の話を聞かない、遮る輩の相手は実家で散々やって来ている。もう慣れっこだったし、決して成繁が悪意を持って言ったわけではないと言う事が分かっていたため、苛立つ事は無かった。厄介な家族ではあったが、役に立つこともあるのだと彼女は内心思っていた。

 

「ええ。ですが、この北に湿地帯があるという話もありました。我らに奇襲をかける相手です。ここに水を溜めて水位の下がった川を渡らせている最中に堰を切り…という事も十分あり得るかと。危うい轍は踏まない方が安全です」

 

「なるほど、お見それ致した」

 

 この危惧はまさにドンピシャと言わざるを得なかった。実際に彼女の予想通りの策を氏秀は考えていた。

 

「早速伝達して参ります」

 

「よろしくお願いいたします」

 

 現場に伝達しに行った綱成を見送りながら、彼岸花の描かれた赤い着物を(たすき)で縛った黒髪の少女は主の期待に応えられるのか、不安に思いながらもう一度小さくため息を吐いた。意気揚々としている由良成繁が少し羨ましかった。




遅くなりました。本当に申し訳ない限りです。指を治すためにゆっくり書いていたらテスト期間に突入し、それが終わったと思ったら椅子が壊れ、次いでパソコンがお釈迦になり、全部終わったと一息ついたら風邪をひくという最悪な一か月間でした。

今後はまた戻る…と言いたいところですが、山のように入った夏期講習が予定を圧迫しており、一日に1時間ほどしかどんなに頑張っても時間を確保できません。ので、遅くなる可能性は大いにあります。死ぬ気でやって5千字前後/毎時が限界です。書いてはおりますので、どうか、ご了承ください。


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第67話 小さき戦・後

「援軍はまだ来んのか。この城が落ちれば次は我が身と何故判らぬ!」

 

 本丸の主殿で鏑木主計が吐き捨てた。その顔には深い苛立ちが刻まれている。箕輪の長野業正、白井の長尾憲景、唐沢山の佐野豊綱は支援を約束したが、氏秀たちはまだその軍勢を確認できないでいた。

 

「まぁ落ち着け。そのうち参ろう」

 

 上座から鷹揚に宥める氏秀ではあったが、内心では援軍はないと踏んでいた。後詰はあるまい。皆、我が身が可愛いもの。我らの動向を窺いながら密かに降る時期を探っているのやもしれない。他家を当てには出来ない。此度は我らのみで…と氏秀は冷めた感情を抱いているが士気に障るので口にはしなかった。

 

 箕輪の長野公が来ないのは口惜しい、あれはそう言う御仁ではないはずだが…と唯一長野業正には信頼を置いている氏秀ではあるが、この時既に北条軍第二軍(総大将・北条氏邦)によって箕輪は包囲されている。来れるはずもなかった。他の勢力に関しては氏秀の読み通りである。

 

「畏れながら、逃亡している兵がいるようでございます」

 

 小声で糸井太郎衛門が告げる。

 

「左様か。物見に出ておるのだろう。捨て置け」

 

 寛大に氏秀は応じた。ここで見せしめのために兵を斬れば、身の振り方に迷いを抱えているものは最悪反旗を翻すことになる。そうなれば、敵と戦う前に身内と戦う羽目になる。そんな有り様ではとても大軍相手に戦は出来ない。なまじ城内にいて敵を引き込まれるよりも城の外に出てくれた方がありがたかった。

 

 帰城して半刻ほどした後である。本物の物見が本丸の氏秀のところへとやって来た。

 

「申し上げます。敵が参りましてございます」

 

「左様か。此度こそは手痛い目に合わせてやらねばな」

 

 笑みを浮かべ、スッと床几から立つ。すぐに兜を持った小姓の山崎隼人がそれを追う。家臣たちは皆それに続いた。櫓に上り、周囲を見渡せば色とりどりの旗指物が城を囲み所狭しと立っていた。

 

「よくもまぁここまで集まったものだ。当城始まって以来の事ではないか。儂も認められたものだな」

 

 城下を埋め尽くす大軍に氏秀は他人事のようにもらした。既に城下は敵が隠れられぬように焼き払った。その周りには刈り入れが終わった乾いた田が広がる。

 

「呑気に申している場合ではありませぬ。未だ後詰もなく、城は普請途中。おまけに逃げ場所もない。我らだけで戦わねばならぬのですぞ」

 

 鏑木主計は主を窘める。

 

「主計、諦めよ。文句を言うても塀は増えぬし、城も固くはならぬ。かくなる上はいかに戦い、いかに死ぬかが肝要。敵の首の数、そちには負けぬ」

 

 糸井太郎衛門が氏秀を気遣って主計に言う。

 

「望む所。酒一樽でどうだ」

 

「ああ。儂が負けたら浴びるほど呑ませてやる」

 

 二人とも覚悟は既に決まっていた。

 

「そなたらは討ち死に覚悟のようだが、儂は死ぬつもりなどさらさらない。確たる根拠は無いがな。悔いなきように戦うのみ。さすれば道も開けよう」

 

「はっ」

 

 周囲の側近は氏秀の言葉に頷く。氏秀は使いを送り、持ち口を固め、安易に出撃しないことを命じて自身も南郭に移動した。この郭は最前線になるので八十ほどの兵が守っていた。午後一時を回った頃に降伏勧告を伝える使者がやって来た。

 

「脅しには屈さぬ。城が欲しくば、刀槍にて取りに参れ」

 

 使者を城内には通さず、氏秀は大手櫓の上から答えた。追い返された使者が帰陣してすぐに法螺貝の音が鳴り響く。

 

「いよいよ、来るか」

 

 開戦を報せる音に、得も言われぬ力が湧いてくるのを氏秀は感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 敵はあちらこちらから猛然と迫ってくる。山上勢はそれぞれ敵に向かって身構えた。大手門のある南はやはりと言うべきか特に攻撃が激しい。

 

「今こそ敵を討て!押し立てよ!」

 

 敵の将が何人も声を張り上げそう叫ぶ。彼らは足軽大将や河越周辺の土豪、そして上野の寝返った勢力の武将たちである。戦鼓と陣鐘が鳴り響き、多数の兵が踏み出す音が地響きとなって押し迫った。アリの集団がエサに群がるがごとき光景だった。

 

「佐兵衛に報せよ」

 

 氏秀は開戦を目の当たりにして糸井太郎衛門に命じた。彼の居場所から城の東側は見えない。そこに全く兵がいないことに気付いていなかった。

 

「承知いたしました」

 

 応じた糸井太郎衛門は即座に狼煙を上げさせる。合図を見た天野佐兵衛は半里ほど北にある堰を切って落とした。童沢の湿地に溜めていた水は一気に天神川に流れ込み、濁流となって兵を押し流す…はずであった。

 

「申し上げます!」

 

「いかがした!」

 

「城の東側には全く寄せ手がおりませぬ!」

 

「何と…まて、しまった。佐兵衛に中止を!」

 

「間に合いませぬ。最早堰は切られてしまったかと」

 

 実行指示は出来ても中止命令は出来ない。狼煙と言うシステムの弊害だった。川の状況に関しては伝達ミスと言うしかなかった。事前の準備は全て無に帰したと言ってもいい。最早無策となった以上できることは限られていた。賢しら気に策など講じたが所詮田舎武士の猿知恵であったか、本物の知恵者には看破されていたと歯噛みしたがそうしていても状況は改善しない。失敗に拘り続けるほど愚かでは無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「申し上げます!城の東側の天神川が突如濁流と化しました!」

 

 この報告を陣内で受けた由良成繁は舌を巻いた。なるほどあの軍師の言った通りか、と。末恐ろしいものだと思いながらも、自分の降伏すると言う判断は何一つ間違ってなどいなかったことを確信し、己の家を滅ぼす羽目にならずに済んだとホッとした。誰もいない区域なのでその濁流による兵の損失はゼロだ。

 

「山上氏秀…大人しく降っておればかかる憂き目には合わずに済んだものを…。武士の本領は家を守る事。その為には我らのような国衆は蝙蝠になるのが肝要なのよ…」

 

 ポツリと複雑な表情で呟く。本意という訳ではない。とは言え、強者に唯々諾々と従わねば明日の朝日を拝めるかもわからない身だ。やるせない気持ちになりながらも覚えを良くするためにさらに猛攻を下知する。

 

「前進せよ!敵は浅知恵の策が破られ動揺しておるはずだ!一気呵成に攻め滅ぼせ!」

 

 振り下ろした軍配の装飾の輝きはどうしてか鈍く見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「足止めは出来そうか」

 

「いえ、難しいかと……。せめてもの救いは敵が東より攻め寄せぬことでしょうか。おかげで攻撃の向きを集中できまする」

 

 氏秀の問いに悔しそうに糸井太郎衛門は答える。

 

「で、あろうな…。今しばらく持ちこたえよ。敵兵は大軍に安心しておる。故に味方が次々と倒れるのを見れば戦意を失うやもしれぬ。二ノ丸、三ノ丸は決して打って出ず、矢にて敵を押し返せ!」

 

 そう命じて眼前の敵を凝視した。

 

「進め!」

 

 北条軍の将が次々に命じる。檄を受け、まずは盾兵が前進して敵の矢を弾く。物量差では圧倒的に山上勢が不利。矢は一本作るのに時間を要する。ホイホイと作れる代物ではない。金もかかる。当然、山上勢の備蓄は少なく、撃ち続ければいつかは弾切れを起こすだろう。せめてもの救いは敵が多いので適当に射ても大体当たるという事くらいだろうか。

 

 北条の弓衆が並んで弓を弾くと三百近い矢が宙を黒く染める。一瞬、鳥や魚の群れのようにも見えるが紛れもなく敵兵を絶命させんとした殺意の雨である。山上勢はすぐに身を隠して反撃する。城門に向かって時折爆音が鳴らされる。これはいわゆる銃火器である。

 

 銃火器と言うと普通は戦国であれば火縄銃をイメージするだろう。それは間違いではなく、実際に鉄砲が戦国時代に日本にやって来たのは事実だ。で、あるがその取引場所は堺と博多。生産地は堺と根来、国友が多い。関東はあまり鉄砲の普及が早くは無かった。北条家の持っている数は少ない。それこそ一桁だ。そんな貴重品をこの部隊が持ってはいない。では何か。

 

 「手把鋼銃(ハンドカノン)」通り名的に言えば石火矢である。石火矢とは何ぞ?という場合は宮崎駿氏が監督した「もののけ姫」を思い出してほしい。あの作品に登場する火縄銃とはまた異なった銃火器。それが石火矢である。中国では十四世紀頃、朝鮮では十五世紀頃から実用化されていた。着火装置は「指火式」と呼ばれ、小枝や棒で直に薬室に点火するスタイルである。日本の鉄砲伝来の時期は1543年に種子島へ…となっている。だがこの通説にはいささか疑問が残る。まぁここではその詳しい話はしないが、ともかく北条軍の中にもこの兵器を運用している集団がいるのである。

 

「あのような物そう簡単に当たらぬ。落ち着け」

 

 氏秀は矢を構え砲兵のいる位置に放つ。牽制と士気向上のためである。がしかし手間のかかる兵器ではあるが轟音は兵を委縮させる。加えて矢と違い玉が見えないのでいきなり櫓や門に当たって木片が弾け飛ばし城兵を驚かせた。多勢の攻撃は凄まじいもので南郭の山上勢が三十本矢を放つと十倍になって返ってくる。元来、遠間の戦は城方が有利ではあるが圧倒的な兵数に押され、攻撃力が低下する。

 

「臆するでない!よく狙え!」

 

 家臣たちの攻撃の手が止まるので氏秀は注意をするが状況は変わらない。その間に少しずつ寄せ手は前進するため矢の勢いも増す。

 

 このままではいかん、兵の多寡で押し切られてしまうのでは降伏を蹴った意味がない。氏秀はそう判断して櫓を降りて騎乗する。

 

「打って出る!弓衆以外は我に続け。押し出せ!」

 

 氏秀が獅子吼(ししく)すると城門が開かれる。鐙を蹴って砂塵を上げ進む。家臣団もこれに続いた。城門の前に土塁は無い。寄せ手はここではなく左右の土塁を上ろうとしていた。山上勢は少数。流石に出てくるとは兵も予想しておらず、明らかに焦っていた。

 

「蹴散らせ!」

 

 抜き放った薙刀を右肩に担いで氏秀は移動中の敵に向かい真一文字に突き入った。

 

「喰らえ!」

 

 正面の敵が槍を突き出すよりも早く氏秀は得物を振り下ろす。槍の柄と共に敵を両断する。鮮血が噴出される中次の敵に向かう。北条軍は簡易的に槍衾を作り動きを抑え包囲しようとするが動きが速すぎる。その点雑兵では敵わないくらいに彼は剛の者だった。

 

「北条は数だけの腰抜けか!儂を止める者はおらぬのか」

 

 氏秀は一閃で敵を斬り伏せ軍勢の鼻先を駆け抜ける。骸の数が増えていく。家臣たちも主に倣って臆することなく突貫した。

 

「彼奴は大将!彼奴を討てば我らの勝利。恩賞は思いのままぞ!」

 

 家臣の尻を叩く北条方。中には上野の武士も多くいる。見知った顔に氏秀は苦々しい気持ちになった。

 

「汝らごときに討たれる山上氏秀ではないわ!」

 

 次々に突き出される槍を躱し、或いは弾く。氏秀は案山子を相手にしているようであった。敵に討たれるという危機感は微塵もなかった。

 

「退け!」

 

 多少なりとも攪乱に成功し足止め出来たので氏秀は退却にかからせる。

 

「逃げるぞ。追え、追え!」

 

「討ちたくば早う追いつけ!」

 

 叫びながら氏秀は敵を切り払い城へ向かう。撤収した後は城門を固く閉ざし、引き付けた敵に対して矢の雨を降らせた。開戦から一時間が経過しようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「周囲の様子は」

 

「どこも似たような光景で、敵は土塁にへばりついております」

 

 糸井太郎衛門が答えた。

 

「左様か。敵の武将の一人二人でも討ち取らねば状況は変わらぬな。今一度、打って出るぞ!」

 

 再び騎乗した氏秀は勢いよく馬腹を蹴って城外へ出撃する。

 

「望み通り出張ってやったぞ!」

 

「敵大将じゃ!此度は逃がすな!その首もらい受ける!」

 

 氏秀が剛勇であろうと、討てば恩賞にありつけると寄せ手は臆さずに殺到する。

 

「左様なへっぴり腰で儂を討てると思うてか」

 

 馬上の氏秀は薙刀を振るい、突き出される槍ごと敵を斬り捨てる。疾駆しながら血煙を作っていった。そろそろまた戻るか…と思ったところに家臣の山本権八郎が背後に近付く。

 

「申し上げます!北郭が落ちました」

 

「何!父上はいかがした?」

 

 いずれは、と予想はしていたが思ったよりも早かった。氏秀は改めて兵数の差を思い知らされた。

 

「本丸へ逃げられました。それと、三ノ丸が西から破られそうにございます」

 

「それはまずいな」

 

 三ノ丸が落ちればその南にある南郭は孤立し、南北から挟撃されて如何ともしがたくなる。本丸にすら戻れない。

 

「退け、退け!」

 

 撤退の下知をすれば今度こそ逃がすなと敵が追いすがる。それを振り払い城へ戻ろうとする。すると、急に兵のざわめきがやや静まる。不審に思い、後ろを振り返れば黒い馬に跨った年はおそらく十四、五であろうくらいの少女が鎧姿でいる。氏秀は当然知らないが、彼女こそ、剣聖へのリベンジを胸に秘めこの北条軍の大北伐に参加している北条綱成その人である。あまりに好き放題敵大将が暴れていると報告を受け、家臣の士気向上のために出張って来たのだった。

 

「あれは…」

 

 おそらく強者、と武人の感が言う。実力差を察した氏秀は急いで城へ馬を走らせる。その姿を見ながら綱成は横にいる家臣から槍を受け取る。その槍は己のではなく、その辺にある普通の槍である。それを構え、狙いを定めると思いっきり投げ飛ばした。数キロの重さはある槍は綺麗な放物線を描き、その線上にいた氏秀に当たる。氏秀にとっては幸いなことに角度の問題で鎧が弾いたが、骨が砕けたかと思う衝撃が左腕に走った。折れてはいないがヒビは確実に入っていた。もっとも今は興奮状態のため脳がその痛みを麻痺させているが。

 

 恐ろしい技だ…と産まれてよりこの方あまり感じたことの無い恐怖と言う感情を知り、氏秀はブルりと身震いする。この投擲に北条軍は勢いを取り戻し、再度前進を始めた。南郭に戻れば敵の侵入を許しており、既に二十人は入り込んでいた。敵は続々と増え続ける。石火矢で門の閂はぶち壊されていた。

 

「南郭は放棄し、本丸へ下がれ!」

 

 命じた氏秀は戻るべく三ノ丸へ進む。ここにも敵がいた。

 

「クソッ。兵の多寡はどうにもならんのう」

 

 吐き捨てながら氏秀は敵を斬り倒し北の二ノ丸へ達した。ここは辛うじて持ちこたえてはいるものの、敵が殺到するのは時間の問題だった。

 

「いかほど残った」

 

「本丸には二十人ほど故、総勢八十名ほどかと存じます。討ち死には半数。残りは…」

 

 傷だらけの具足を身につけた糸井太郎衛門は逃亡した、と言いかけて言葉を濁した。

 

「左様か。皆、引き上げよ!最後の戦いをせねばならぬ」

 

 二ノ丸が落ちれば本丸は裸同然。防ぐ術も策もない。決断をしなくてはいけなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 氏秀の命で家臣たちは二ノ丸に戻ってきた。生き残る兵全員を収容させれば、敵の侵入を許してしまう。門を閉じるのは苦渋の決断だった。今周囲にいる家臣は多勢相手に奮戦し、刃を潜り抜けてきた事が明白。満身創痍の体だった。しかし疲労困憊の中にあっても戦意を失う者はいなかった。

 

「今一度打って出る。動けぬ者は休んでおれ」

 

 告げるとへたりこんでいた家臣たちは槍を杖代わりに立ちあがった。もとより死を覚悟の上である。

 

「痴れ者め」

 

 愛を込めてねぎらった。騎乗した氏秀が城門の前に立つとゆっくりと閂が抜かれ、門は開かれた。

 

「命を惜しまず、名を惜しめ!我に続け!」

 

 大音声で叫ぶと真っ先に突撃する。

 

「おおーっ!!」

 

 山上勢は氏秀の檄に鬨の声で応えると主に続く。

 

「儂は山上氏秀!我と思わん者はかかって参れ!」

 

 怒号した氏秀は群がる寄せ手を薙ぎ払う。従者の首取りは最早追いつかない。敵中を縦横無尽に疾駆し屍の山を築く。疲労すると二ノ丸に戻り酒を口に含んで喉を潤す。そして再度出撃する。帰るたびに味方が減っているのを実感するが、次の出撃が最後になるかもしれないと、氏秀は努めて気にせずに砂塵を上げた。

 

 三度もそれを繰り返せば家臣は三十人ほどに減っていた。そんな中でも氏秀は奮戦し数十人を片付けた。

 

「殿、ここは我らがお支えします。その間に…」

 

 傷だらけの糸井太郎衛門は、剣戟を響かせながらも訴える。「本丸にて潔い最期を…」とでも言いたげだった。

 

「何を申す。まだ儂は戦える。いや戦い足りぬ。今少し踏ん張れ」

 

 二人を同時に相手にしながら氏秀は切腹を拒否する。疲労感は全くない。信じられないほど体が躍動していた。これを止められるのは不本意でしかない。死ぬまで戦い続けるのが願望だった。

 

「畏れながら殿は城主にて、首を渡しては末代までの恥となりましょう」

 

「安心せよ。儂を討てるものなど今ここにはおらぬ」

 

「ご注進!最早二ノ丸も支えられませぬ」

 

 二ノ丸の守将を務めていた大谷治右衛門が進言する。

 

「楽しき時とは短いものだ…」

 

 失意を覚えた時、近くで「ダーン」と乾いた音がする。その刹那、氏秀の被る兜の左の脇立が吹っ飛んだ。脳震盪が起きかけていた。頭が飛ばなかったのは不幸中の幸いだった。

 

「北条、汚し!」

 

 奇襲、夜襲を公然と行っても白兵戦の最中は飛び道具を使わないという暗黙の了解が関東武士の中にはある。これを真っ向から無視され、氏秀は血が逆流するほどの憤りを感じた。やはり北条はよそ者、関東武士の作法は分からぬかと氏秀は罵った。指揮官の胤治は当然知っているが、暗黙の了解なぞ破るためにあるとばかりに攻撃を命令していた。勝てば官軍負ければ賊軍。死人に口なしである。

 

「敵は優位にも拘わらず手段を選びませぬ。どうかお戻りください」

 

 糸井太郎衛門が必死に懇願する。

 

 このままでは儂は名もなき飛び道具に命を奪われるのやもしれぬのか、と思うと激昂する血が冷めた。厳しい現実が氷のように怒気を覚ました。

 

「治右衛門、あとは任せた」

 

 大谷治右衛門に命じて氏秀は本丸へ向かった。と言っても腹を切るためではなく、敵を本丸へ引き付けて最期の一戦をするためである。

 

「おおっ、氏秀か。早うに北郭を失い申し訳ない」

 

 本丸へ戻ると氏秀の顔を見た父・源内が詫びる。

 

「いえ、僅かな兵しか残せなかった事、お詫びいたします」

 

 頭を下げた氏秀は樽から柄杓で酒を汲んで、喉を潤して一息ついた。

 

「申し上げます!二ノ丸も破られ、本丸だけになりました」

 

 ボロボロの糸井太郎衛門が報告する。

 

「左様か。兵は如何ほど残っておる」

 

「五十ほどかと存じます」

 

「それだけいれば、今一度面白き戦いができそうじゃな」

 

 酒を含み立ち上がる氏秀をギョッとした表情で源内が見つめる

 

「待て、そちは城主でありながら討ち死に致す所存か」

 

「望みは致しませぬが、それが結果となれば致し方なき事。腹を切る思案なぞござらぬ」

 

「されば残る城兵全てを道連れにするつもりか」

 

 それが氏秀の悩みの種である。

 

「今からの投降など認められますまい。某の腹一つで助けられましょうや」

 

「敵もこれ以上の手負いを出したくはあるまい。やってみる価値はあろう」

 

 父の説得にも氏秀は応じない。心は一瞬降伏に傾いたものの、すぐに欲求が打ち消した。

 

「降伏するならば、端から敵対など致しませぬ。某は戦う事が好きなようで城主には不向き。某を主に持った家臣たちを不憫には思うが、こればかりは曲げられませぬ。詫びは黄泉で致しましょう。残り少ない命、存分に楽しませて戴きます。おさらば!」

 

 源内に告げた氏秀が主殿を出ようとした時、大谷治右衛門が跪いた。

 

「申し上げます!藤九郎さまが北条の使者として参られました」

 

「藤九郎が?今更何用じゃ。差し出す首などない。追い返せ」

 

 氏秀はこの期に及んでやって来た藤九郎に不快感を露わにして吐き捨てた。

 

「畏れながらどうも違うようにございます。とにかくお会いなされてはいかがでしょうか」

 

 お願いいたしますので…と大谷治右衛門は懇願するように言う。

 

「氏秀、一族の使者ぞ。話だけでも聞くのが筋。場合によっては助けられる家臣も出てこよう。よもや全員に討ち死にを強制するつもりではあるまいな」

 

 渡りに船と言いたげな源内である。

 

「左様なつもりはござらぬが、つまらぬ切腹をさせられるのは御免。まぁ、父上が申すのならば口上だけでも聞きましょう」

 

 面倒ではあったが、父の顔を立てて応じることにした。ほどなくして藤九郎が主殿に姿を見せた。先ほどまで氏秀の義兄であった男である。氏秀は追い詰められていることもあり、生命の危機に無い藤九郎の態度がやや尊大に見えた。

 

「久しいな。儂は忙しい。手短に申せ」

 

 乱世において主家を見限るのは珍しくない。敢えて直接の恨み言は避けた。嫌味は言うが。

 

「既に察しておられよう。もう、十二分に戦われたはず。この辺りで降伏してはいかがか」

 

「まだする気はない故に具足を脱いでおらぬ。そうじゃ、家臣の中には城を出たがっている者もおる。それらを連れていけ。儂は一人になっても降伏はせぬ。儂一人でも数十人は道連れを作れる。特にそちなどは良き(ともがら)になりそうだな」

 

 一族であろうとも旧臣の勧めに応じる気は無かった。

 

「遠慮致す。それに、氏秀殿が降伏なさらぬ限り、城兵の助命は認められぬと御妹(氏政)様と土佐守(兼音)様は仰せである」

 

「変わり身の早さが生き残る術か」

 

 北条氏政と一条兼音の事を敬称で詠んだことが氏秀に皮肉を口にさせた。

 

「家を残すのが武家の倣い。家臣、領民を守るのが領主のはず」

 

 最初からこの結末を判っていながら武士の意地だけで多くの家臣を死なせたお前は領主でも武将でもなく、足軽大将程度の戦人でしかないと藤九郎は切って捨てた。

 

「的を射ているのやもしれぬが、ここまで来たからには最後まで上野武士の意地は貫く所存。残る家臣も覚悟していよう。早々に立ち去り、そちの主に言うがよい」

 

 強い口調で氏秀は言い放った。

 

「早まられるな。土佐守様は氏秀殿が膝を屈すれば城兵のみならず氏秀殿の命も助けると仰せだ」

 

「何と!」

 

 氏秀よりも先に声を発したのは源内だった。

 

「これはまた可笑しきことを申すもの。あと一押しで城は陥落させられるはず。これをせずして儂を騙し、虜にして辱めを受けさせた挙げ句、斬る所存か。剣呑、剣呑、その手には乗らぬ」

 

「されど、鎌倉の公方(足利晴氏)と今の管領(朝定)は健在。彼らは一度北条を危急存亡にまで追い込んでおりました」

 

「傀儡にしては都合が良いの」

 

「いずれにしても北条家は信義を守っておられる。後は決断次第」

 

「決断か。とっくにしておるわ。儂は敵には下らぬ。帰陣して己が主にそう申せ」

 

 藤九郎を振り払い主殿を出て廊下に足を踏み出そうとした時、糸井太郎衛門を始めとし、末端の家臣までもが中庭に跪いた。

 

「殿の心中お察しは致しますが、生きる術があるならばこれに賭けるべきかと存じます」

 

 努めて愛想良く彼は言う。

 

「そう言う事か…」

 

 流石の氏秀も語尾を濁した。糸井太郎衛門らが敵に、もっと言えば藤九郎に調略されたとは思わないが、地獄で仏に会ったような思いなのだろう。悲壮感と覚悟のあった顔は闘争心が挫けたような面持ちになっていた。

 

「勝負は時の運。敗れる時もございます。ここは鎌倉殿(源頼朝)を見習い一時は下って再起を果たされてはいかがでしょうか」

 

 伊豆に蟄居させられていた頼朝は反平家の軍を興すも石橋山で敗れて逃亡。安房で再起を図ったのは有名な話である。

 

 鎌倉か…。儂は将軍になれるような器ではない。目指すならば九郎義経だが、皆の闘志が消えた今儂一人で斬り込むしかないな。決して山上城を衣川館にするわけにはいかぬ。儂には弁慶もおらぬ…。と氏秀は瞑目した。

 

「畏れながら、殿ならば今でも敵の二、三十人を斬る事は容易でございましょう。しかし、お命を失えばそれきり。生きてさえあれば満足のいく戦いが出来るのではありませぬか」

 

 大谷治右衛門も止め立てする。更には源内もこれに追随した。

 

「氏秀、そちが何十人敵を斬ろうが死は確実。出撃するならば儂は腹を切ろう。されど、そちが降れば儂のみならずここにおる皆が助かるやもしれぬ。それでも行く気か」

 

「嫌な言い方をなさりまするな。生に固執すれば生き恥を晒すのみですぞ」

 

「敗軍の将じゃ。既に恥は晒している。確かにそちは城主には向いておらぬやもしれぬ。戦う事が好きなれば、生に固執するしかない。城主なればこそ、大いに恥を晒して皆を助けて見せよ」

 

 源内の言葉は氏秀の罪の意識を煽り立てる。更に追い打ちをかけるように藤九郎が続く。

 

「藤姫も心配してござった」

 

 藤姫は実家へ送り返した氏秀の正室であり、藤九郎の妹だった。

 

「離縁した女子の事など申すな。それほど皆が儂に恥辱を受けさせたいのならば、受けてやろう。藤九郎、敵総大将の許に儂を連れて行け」

 

 怒気を露わに氏秀は言い放った。敵の大将に会えば討つことも出来る。戦は総大将を討った方が勝ちじゃ。機会はある。少数が多数に勝つには奇襲急襲の類も大いにありだと氏秀は考える。無論、騙しや虚言も。氏秀はまだ敗北したと思っていない。引見を楽しみにしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 騎乗した氏秀が山上藤九郎と共に城を出ると先ほどまで戦闘状態であった北条兵は怒りと驚きの目を向けてくる。使者である藤九郎が城に入った時点で北条兵の中核をなしていた綱成の兵は撤退しているため、戦場の前線に残っているのは殆どが上野の兵な訳だが。一応白井胤治はそのまま城の近くに陣を張っている。

 

 そんな兵の中をかき分けて進んでいく。北条の本陣は膳城から五百メートルほどのところにある八幡神社に置かれていた。少し前までは膳城の中であったが士気を高めるべくわざとそうしたのである。鳥居を潜ると相州鱗もしくは三つ鱗と呼ばれる北条家の家紋が施された陣幕が張られていた。

 

 馬から下りれば、わらわらと侍が寄ってくる。皆目に敵意をにじませている。

 

「待ちおろう。今からでも遅くない。そ奴、我らに引き渡し願おうか」

 

 髭を蓄えた長身の侍が藤九郎に命令口調で言う。朋輩が討ち取られた河越衆の者らしかった。故に氏秀に忿意の念を燃やしているのも頷けることだった。それに、一応恩賞首であるのには変わらない。

 

「こちらのお方は、土佐守様の下知でお連れ致す。邪魔立てすれば罪に問われようぞ」

 

 藤九郎は敢えて胸を張って答えた。

 

「何をいっちょ前に主の名を呼ぶか。新参の分際で偉そうに…。汝とてそ奴と同族であろう」

 

 長身の侍は藤九郎を蔑んだ。

 

「怖気づいて間際に返り忠した輩じゃ。構わぬ、一緒に討ち取ってくれよう」

 

 頬傷のある肉厚の男が加わる。他の者はいざという時は加勢しようと見ている。苦渋の選択の上で麾下になってもそうそう簡単に信頼を得る事は出来ないのか、特に末端の兵からは…。と氏秀は思った。信用を得るには年月と勲功が必要。それまでの間は命を賭けて忠節を示すほかなかった。

 

 鞍替えの先もまた茨、か…と氏秀は思わずにいられなかった。藤九郎には憤っていたが、哀れに思えたせいか腹立ちも少々和らいだ。代わりに北条家の家臣に怒りの矛先が向く。

 

「戦の最中では近付けぬが、下ろうとする者には強気に出るか。汝らのような輩を内弁慶、或いは虎の威を借る狐と申すのよ。儂が雑魚に黙って討たれると思うてか」

 

 薙刀は置いてきたが、腰には大太刀を佩いている。兜も脱ぎ、具足を外していても氏秀は周囲の侍に負ける気は毛頭なかった。

 

「面白い、此奴(こやつ)を討ち取れ!」

 

 途端に数十名が氏秀に刃を向ける。

 

「止めよ!」

 

 大音声が聞こえる。鋭い声が場を切り裂いた。そちらに顔を向ければ、若い男が最低限の防備だけした服を着て立っていた。腰には氏秀の物と同等、或いはそれ以上の大きさの太刀。筋骨隆々という訳ではないが手練れの雰囲気だった。声の正体がわからない氏秀は周囲の反応で探る。

 

「北条の名を汚すな。降将であれ何であれ、敬意を持って扱うが我らのやり方。そう、何度も申したであろう」

 

「ハ、ハハッ」

 

「ここで戦闘に及べばそれは私闘であるとみなさざるを得ない。その末路がいかなる物か、知らぬお主ではあるまい」

 

 氏秀は知らないが、ここまでの行軍中に麾下にいた上野兵に間で乱闘が起きた。元々仲の悪い者同士で、普段は会わないがこうしてひとくくりにされて行軍しているので出会ってしまった。騒ぎを起こした者二人はすぐに取り押さえられた。そしてその者の主に許可を得た兼音は軍法に乗っ取り容赦なく斬首させた。規律なき軍隊に勝利なし。それを徹底させるためであり、上野の諸将に北条の意思を示す意味があった。当然この場にいる侍たちは気が立ってはいたがそれを知っている。

 

「も、申し訳ございませぬ」

 

「私はな、このような馬鹿馬鹿しい事で忠臣を失いたくはないのだ。お主の気持ちはようわかる。同輩が討ち取られた悔しさや悲しみをぶつけたいのもな。私も悔しい。出来る事ならば皆生きて国へ戻したかった。そんな時、敵の親玉が目の前に。ともすれば報復したいのも痛いほど分かる。しかし、ここは堪えよ。降将を受け入れたとなれば降る者も増えよう。そうすれば犠牲も減る。辛くとも耐えねばな。それが武士の矜持だ。そうであろう」

 

 肩を叩かれた長身の侍は直に跪いた。

 

「殿の大御心に気付かぬとは…某が浅慮でありました。申し訳ございません。罰は如何様にも受けましょう」

 

「良い、と言いたいところではあるが示しはつけねばな。では、今負傷者を膳城に運び込む作業をしておる。動ける体力はあるようだ。それに助力して参れ。良いな」

 

「はっ!」

 

 一礼すると周りの武士を引き連れ長身の侍は走って行った。ふぅ、と息を吐きだすと、殿と呼ばれた若い男は氏秀に近付いてくる。

 

「済まんな。見苦しいところを見せた。では参るか。妹様がお待ちだ」

 

「…貴殿は」

 

 予想がついてはいたが氏秀は尋ねた。男は振り返りながら言う。

 

「これは申し遅れた。北条左京大夫氏康が臣にして河越城を預かる者。此度の遠征軍の将が一人。一条土佐守兼音と申す者」

 

 氏秀の打破すべきだった男が、そこにいた。

 

 

 

 

 

 

「腰のものを渡せ」

 

 降将として当たり前の事を守備兵に求められた。

 

「相模の者は臆病者が多いようだな」

 

 陣幕内部に聞こえるように言い、氏秀は兵に大太刀を預けた。

 

「もう一本」

 

 兵は脇差も要求する。

 

「太刀や大刀は敵を斬るための物。されど脇差は己が腹を切るための物」

 

 氏秀は拒否するも兵は納得しない。

 

「貴様が腹を切るか否かは中のご歴々がお決めになること」

 

 早く渡せと兵は催促する。これに合わせて周囲の兵も槍を構えた。一人を脇差で斬って槍を奪い、陣幕の中に崩れ込む…のは些か厳しいか。と氏秀は一瞬で考えた。柄に手をかければ串刺しになるのは間違いない。一条兼音は氏秀がいかなる行動をとるかを観察している。丸腰でもまずは敵の大将の前に出るのが肝心。僅かな可能性に賭けることにした氏秀は脇差を渡した。その思考を読み取ったのか否か、一条兼音が薄く笑った。

 

 中に入れば盾が机の代わりに置かれ、床几が椅子のように置かれている。上座の中央、総大将の席には柔和な面持ちの少女。左右にいるのはその臣下だろうか。下座になると見知った上野の諸将の顔も見える。那波に、赤井に由良に桐生に…。陣幕に沿って多くの兵が並んでいる。一条兼音は氏秀から離れ、カツカツと歩き上座のすぐ横に立つ。何やら短く言葉を交わしていたが、流石に聞き取れなかった。

 

 藤九郎が盾机から少し離れた所に立ち止まり、跪くように促した。降将なので当然の如く床几などは用意されない。とは言え、降将でも用意される場合もあるが…今回の氏秀はやや格が足りなかった。これで長野業正が降った等の事であれば床几を用意するどころか最敬待遇を受けるのだろうが。

 

 盾が邪魔だ。氏秀はそう考えながら間合いを計り、首座を睨みながら地べたに胡坐をかいた。

 

「これなるは山上城城主の山上藤七郎氏秀にございます」

 

 恭しく藤九郎が報告し、隣の氏秀に顔を向ける。

 

「ご挨拶なされよ」

 

 命乞いをしろ、とでも言いたげな藤九郎である。だが氏秀は、戯けめ、儂が左様な卑屈な真似をすると思うてか、と立ち上がったと同時に二歩地を蹴って敵大将の喉笛を握りつぶせるかどうかなどを考えていた。姫不殺の掟はあまりその文化の浸透していない北関東や奥州、北陸では通用しない。

 

「届きそう?」

 

 不意に凛と鈴のような声がした。声の主は首座の少女、北条氏政において他にいなかった。その目を直視した氏秀は唾を飲み込む。一瞬、ほんの一瞬だが少女の目は間違いなく強者の目をしていた。覇気が違った。己の会ったことのある全ての武将に勝るものだった。だが瞬いた時には既に元の様子に戻っている。けれど氏秀は滴り落ちる汗を止められなかった。そうだ、よくよく考えればそうだ。大国北条、その女主人たる氏康の妹にして次期当主と明言されている彼女がただの凡庸で穏和なだけの少女であるはずがない。気付けば己に恐るべき槍を投げたあの武将もいる。あれがおそらく北条綱成。一条兼音も警戒を解いてはいない。勝てない。素直にそう思うしかなかった。けれど意地がある。見栄を張るのは武士の文化だった。

 

「お歴々がいなければ容易い事」

 

 敢えて動揺を見せず、悪びれずに氏秀は言ってのけた。

 

「言い訳無用だぞ。出来ぬからお主はそこで座っておるのだ」

 

 桐生介綱が声高に言う。

 

「言い訳などしていない。事実を申したまで」

 

 自尊心のある氏秀は感情を抑え冷静になるよう努めながら言っている。事実、確かに周囲の面々がいなければ討ち取れる自信はあった。もっとも、河越忍群とも言うべき集団が本陣を警護しているので実際は難しいであろうが。

 

「左様か。遠慮せず行かれてはいかがか」

 

 桐生介綱は煽るように言う。彼の部隊からも損害が出た。氏秀の助命を望んでいない様子だった。

 

「時期を見計らっておる故、安心なされよ」

 

「何と、面白きことを申す。大将でありながら兵卒に混じり暴れ散らしたとか。まさに匹夫の勇よな」

 

 更に煽る桐生介綱。青筋を立てる氏秀。一触即発の状況に変化がもたらされたのは氏政がその人差し指を口に当てて、黙るように無言のうちに示したからだった。意図を察した介綱は黙りこくる。

 

「何故、無謀な戦を?」

 

 氏政は問う。

 

「勝負は水もの。遠き厳島では寡が多に勝利したと聞く」

 

 安芸の厳島で毛利元就が三千の兵で陶晴賢の軍勢二万を破った話は日本中に広まっていた。

 

「それに、北条もそうであったはず」

 

 氏秀の指し示すのは河越夜戦の事に他ならない。

 

「貴方が毛利右馬頭(うまのかみ)(元就)のような知将に並ぶと言いたいの?」

 

「一対一なら負けはせぬ」

 

「では、貴方は何を求めて戦うの。どういう未来図を描いて、どういう理想のために戦ったの。民を巻き込みながら」

 

「それは北条とて同じだろう。そのまま領土に引きこもっておれば起きぬ争いであったはず」

 

「それは事実だけどね。けれど、私たちは戦乱の根絶、あらゆる流血の終焉を求めて、誰かの明日を奪っている。それは矛盾している。とは言え、それ以外に方法がないのも事実。今は武でしか、平和は作れない。今一度聞くね。貴方はどういう未来を描いて戦ったの?」

 

「……」

 

 答えるべき解答を氏秀は持ち合わせていなかった。己の意地と誇りの為の戦いだった。そこに、未来の話など、考えたこともなかった。

 

「儂は小領の主。大領の主とは産まれ持っての全てが違う。故にそのような大願は持ち合わせていない」

 

「私の祖父は地盤の無い関東でものし上がったけれど」

 

「早雲と比べられれば関東の諸将いかなる豪傑であろうとそうそう並び立つことは出来ぬ。それに儂はまだ若い。生きていれば道は開けよう」

 

「そちの命など我らに握られているのではないか」

 

 口の減らぬ輩め、と憎々し気に桐生介綱が言う。軽く咳ばらいをしながら氏政は軽く介綱を睨む。

 

「あの、私が話してるのだけれど?」

 

「し、失礼いたしました…」

 

「やはり騙し討ちにするのか」

 

 氏秀は怒りを見せながら聞く。氏政は首を横に振った。

 

「いいえ。約束を守るのが私たちの流儀。約定通り助けます。後の仕置きは…」

 

 氏政はちらりと横を見る。兼音が頷いた。

 

「我らが氏政様は寛大故、新たに臣となる山上藤九郎の願いを聞き入れ、貴殿の助命をなされる。関東管領・上杉朝定公はここにはおらねど、我らの方針は同じ。これは関東管領の意思でもあるとみなす。ただし、山上領に戻る事は許さぬ。どこぞへでも行くがよい」

 

「いいのか?儂はまた噛みつくぞ」

 

「古の孔明は蛮族の王を七度捕らえて七度放した。同じことよ。幾たびでも挑み来い。そしていつか我らと理想を同じくせんと思った時は我らの軍門を叩くがよい」

 

 助かった、という思いよりもまた戦えるという思いがある。蛮族の王だか何だか知らないが、取り敢えず挑み来いというのだから挑んでやると闘志を燃やした。

 

「かような無礼な輩に信義など必要ございませぬ。首を刎ねるべきかと」

 

「桐生殿。礼なき者にも礼を尽くす。それが王者の在り方なれば」

 

「次に相対するまで牙は研いでおこう。せいぜい気を付けるがよい」

 

 負け犬の遠吠えのようだが氏秀は本気である。決意表明にも似た捨て台詞を吐き、氏政らの前から去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ついに宿無しになったかと陣を出た氏秀は愛馬を前に困惑していた。側には従者の吉蔵一人。

 

 儂は、皆に謝る事も最後の指示を出すことも出来ぬのか。なんと情けない城主か。いや、無謀な戦を始め城を攻め落とされ、己一人助かり行方をくらませた身勝手な男故、愛想を尽かし新たな主に忠節を尽くせるか…。自分の事は楽観的に見れても家臣たちには罪の意識を覚える。氏秀は自虐で罪悪感から逃避した。

 

 まぁ悔いても仕方がない。城に戻れぬとすればこの後いかがするか。最早独り。浪人となっても構わぬが北条に挑むには一勢がいる。これを作るには山賊でも纏めるしかないが、そんな志の高いものがいる訳もなし。叩きのめして従えても徒労に終わるだけか。いずれかに寄食するしかないか…。

 

 そんなことを思いながら空を見る。忸怩たる思いはあるが現状を認識すれば選択肢は限られている。食っていかねば再起も出来ない。仕方のない事だった。

 

 足利長尾か、佐野か、長野か、斎藤か…越山は難しいし、やはり関東に居たい。甲斐は北条と友好的。下総も半分は北条。房総の里見に伝手は無し。佐竹も同様。取り敢えず長野公に会って援軍に来れなかった事情を確認し、その後受け入れられなければ下野。これが彼の考えたプランだった。

 

 今は他家を頼るより他にない。氏秀は決断し、騎乗した。

 

「儂は宿無しぞ。そちも城に戻ればどうじゃ。藤九郎は蔑ろにはしまい」

 

 氏秀は馬上から(くつわ)を取る吉蔵に話しかけた。

 

「すぐに城主に返り咲きましょう。殿の才は某がよく存じています。それに某がいなくなれば殿の討った首を誰が拾うのです。某がいればこそ、殿を後世に伝えられるのです」

 

 吉蔵は笑みを返す。小柄な男で、武勇とは無関係だがすばしっこく機転が利く。側にいると便利な男だった。

 

「悪名になりそうじゃな」

 

「毎日、美味なものを腹いっぱい食わしていただければ良き伝わり方になりましょう」

 

「無理故に大悪党を目指すか」

 

 頬を上げた氏秀は馬脚を進めた。途中で一条兼音の手の者から伝令があり、父・源内など僅かな臣が共に城を退去したとの知らせがあった。皆城の南西にある龍安寺にいるという。わざわざ報せるように指示した一条兼音へ一応の感謝の口上を述べ、そちらへ向かった。

 

 龍安寺に赴けば、確かに数頭の馬と大きな荷車がある。それを確認し、氏秀は父の姿を求めた。そしてそれはすぐに見つかる。

 

「父上。ご無事でしたか」

 

「ああ。何とか荷車一つ分だけの荷物を持ち出すことを許された。ともかくこれにて首の皮一枚繋がった」

 

「他の者は…」

 

「糸井らは藤九郎に仕える事となった」

 

「左様ですか。藤九郎ならば儂のような無謀な賭けはしますまい。皆も落ち着いて暮らせましょう」

 

 戸根田主善や渡辺源八と言った股肱の臣のみが付き従っている。他にも弟の藤五郎氏吉もいる。

 

「これよりいかがする」

 

「まずは長野殿をお頼りしようかと」

 

「箕輪か…。じゃがあそこもいずれは北条に囲まれようぞ。もしくは今も既に」

 

「長野業正殿がご健在ならばそうそう容易く城は落ちますまい」

 

「分かった。では箕輪へ向かうとするか。それと一つ問題があってな…」

 

 源内の言葉は歯切れが悪い。何やら迷っているような表情に氏秀は疑念を抱いた。

 

「問題?何か、あったのですか」

 

「いや、それなのだが…追加の同行者がおる」

 

「誰なのです。それは」

 

「お話はお済ですか」

 

 氏秀の耳に絶対に聞こえない筈の声が聞こえてきた。声のする方に勢いよく振り向けば、馬上で移動する用の服を着た藤姫と数人の侍女がいた。藤姫は山上藤九郎の妹にして送り返したはずの氏秀の正室であった。混乱でさしもの氏秀も唖然としたまま困惑している。源内の表情の理由が分かった。

 

「お主、何故ここにおるのだ!確かに藤九郎の許へ送り返したはず…」

 

「何故って、私は殿の正室。行く先へ同行するのは当然でありましょう」

 

「いや、お主とは離縁した…!」

 

「私は承諾しておりませぬ」

 

「そういう問題ではない…!」

 

「兄上に宛てて縁を切る旨の書状を残して参りました。殿と同じく私も宿無しでございます。宿無し行く当て無しの女をお見捨てになりますか?」

 

「むぅ…」

 

「氏秀、諦めよ。儂も藤五郎も散々説得したのだがまったく己の意見を曲げぬ。連れていくより他あるまい」

 

「しかし儂の戦に武士でもない女子を巻き込むなど…」

 

「北条でもそうですが、姫武将の制度もございます。私は戦にはあまりお役に立てませぬが、決して男だけの戦場ではない事もご理解ください」

 

「……相分かった。では行こう」

 

 言いくるめられ、釈然としない気持ちではあったが、ともかくここで押し問答をしているのも無意味な時間だった。決して別れたかったわけでは無い。連れ立つのも嫌ではないので、渋々氏秀は同意して出立した。目指すは箕輪。上野における北条家に対する最大の抵抗勢力である。

 

 なお、この後山上城下にある己の屋敷内で自分宛ての絶縁状を見た山上藤九郎は驚愕してすぐに引き留めようとするも、行方は分からないし、捜索させようにもそんな余裕はなく、勝手に兵を動かせば兼音らに睨まれるのは必至のため、ガクりと肩を落として嘆く他なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 山上城がなんとか開城し、無事に氏秀の処置も終わった後、北条家の陣内では功を労う軽い宴が行われた。そしてすぐに上泉城方面へ向かう手はずを整ええる段階に入っていた。本陣の陣幕内にはもう既に上野諸将や綱成の姿はない。彼らは皆部隊の休息を取らせ、物資の確認や負傷者・犠牲者の集計に当たっている。氏政も既に休息に入っている。降将相手になるたけ威厳を出そうと演技して疲れた様子だった。今陣内にいるのは兼音、そして胤治だけだった。

 

「どうであった。初の実戦指揮は」

 

「予想外の事が多く、不手際もありました。予想よりも兵の被害は抑えられましたが、山上氏秀が暴れるのを許してしまいました。悔しい限りです」

 

「ま、そのようなものさ。実戦と言うのは幾ら綿密に作戦を立て、備えようともいとも容易くその計画は破綻してしまう。一から十まで上手く行く事など考えるな」

 

「…」

 

「私も実戦では上手く行かない事だらけだ。特に里見の妖怪にはいいようにあしらわれた」

 

「殿が、ですか」

 

「ああ。もう一年以上前の話だがな。義堯め、覚えてろよと思ったものさ。今になって思えばあれは亡き氏綱様よりの訓示であったのだろう。何も仰らなかったが…実戦は思いのままにはいかない。増長するなと言うな」

 

「そのような事が…」

 

「ああ。であるから、お前も気に病むな。むしろ、良くやった。上野の諸将はお主の策に舌を巻いていた。あれで白井胤治の名も知れるだろう。新参の身と呼ばれるのももうじき終わりだ。お前は見事にやり切った。恐らく、その場面その場面で考えうる限りの最良を選びながらな。であるから、下を向くな。胸を張れ。お前は己の実力を以て、私の鑑定眼は間違っていないと証明したのだ」

 

「あ、ありがとうございます…」

 

「お前の実家が認めずとも、この私が認めよう。白井胤治!我が頭脳たる参謀よ」

 

「は、はいっ!」

 

「大義であった」

 

「はっ!」

 

「良く休め。明日よりまた忙しい」

 

「承知いたしました」

 

 涙目で陣を出ていく背中を見送りながら、兼音はホッとしたように呟く。

 

「これでもう大丈夫、だと良いのだけれどな」

 

 さて、私も寝るかと言いながら陣を出る兼音の姿をこっそり陣幕に隠れて見ながら「この女たらし。いつかお姉ちゃんか誰かに刺されるよ…」と氏政はポツリと呟くのだった。




次回こそ越軍VS相軍の決戦です。お楽しみに


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第68話 箕輪城の戦い・前

遅くなりました。ゆっくりと書いていた+地図を作っていたら予想外に遅くなってしまいました。ちなみに、今まであまり書いてきませんでしたが戦場の地図は必ず北が上です。念のため。


 北条軍が動き始めた。整備してきた補給路を逆進し、一路箕輪を目指す。取り残されかかっている第二軍と早々に合流する必要があったからだ。各城での戦闘の結果、北条軍にも損害が出ている。守備隊も必要であることを考えれば、全軍を引き連れてと言うのは不可能である。反面箕輪城近くにはこの城を包囲している六千の兵がほぼ無傷のまま存在している。これと合流することは急務だった。

 

 一路街道を駆け抜けた北条軍はそのまま箕輪城を囲んでいた軍と合流すると一度後方の和田城まで退いて軍勢を整えることになる。新しく布陣を変えるため、包囲を解いたのである。そのまま包囲を続行した場合逆包囲を受ける可能性が高く、そう簡単に箕輪城が陥落するとも思えなかったのがこの行動の最大要因であった。

 

 軍議が開かれようとしている最中、長尾軍が箕輪に到着する。長野業正率いる箕輪城籠城勢との合流を防ぐのではなく、その合流をさせてでも万全を期して戦闘をすることを求めたのだ。そしてその布陣の様子から徐々に彼らの軍勢の全貌が見えてきたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 軍議の席は重い緊張に包まれている。長尾軍の総勢が思っていた以上に大軍であったことがその原因だった。当初の予想では多くて一万五千程度の予想だったがそれは上方修正せざるを得なくなった。その総勢は恐らく二万千五百。対するこちら側は守備隊の兵や損害等もあり二万二千。後方の高崎城防衛に五百は欲しいので、兵数はほぼイーブン。ともすれば兵の士気と練度、将の質がものを言い始める。加えて補給状態や戦場の様子なども欠かせない情報になってくる。そして彼らの到着と布陣はこれまたこちらの予想以上に速かった。決して練度の低い弱兵ではないことが容易にうかがえた。

 

 敵は早々に布陣を済ませ、こちらを迎え討とうとしている。こちらが集結して配置換えをしている今が狙い目なので、攻撃してくるかと思い、心底焦ったがどうも決戦をしたい様子で一向に動かない。野戦を得意とする旨の記述の多い長尾軍だが、やはりここでもその特性を活かして野戦に持ち込む気らしい。正直あまり相手にしたくないが、かといって退けばここまでの軍事行動すべてが無に帰す。上野の諸将も離反を始め、上杉憲政が帰還してしまう。そうなればここから長い期間上野に対して遠征を繰り返す羽目になり、終いには本家本物の蜀軍北伐よろしく徒労に終わる可能性も高くなる。退却の選択肢は端からなかった。

 

 軍議にはこの遠征に参加しているほぼ全ての将が参加している。当主・氏康様を筆頭に氏政様、氏照様、氏邦様、幻庵公の北条一族。松田盛秀、憲秀、康定の松田一門。大道寺盛昌に清水康英、笠原信為、多米元忠、石巻家貞、大藤栄永、富永康景、山中修理亮、内藤康之、垪和(はが)氏続、山角康定などの北条家譜代の家臣団と彼らの副将格。この中には城持ちも多く、他にも馬廻などの精鋭の将も幾人か参加している。更には外様で言えば我々河越城以下の北武蔵衆の上杉朝定、太田資正、上田朝直、成田長泰、上杉憲盛もいる。河越城からは私こと一条兼音、北条綱成、白井胤治が参加している。そして最後に上野諸将。桐生介綱、赤井照康、那波宗俊、由良成繁、長尾景総らに加え、降伏した和田業繁も傘下にいる。いない面子はほぼ留守居であり、また現状急に転進したこちらに兵糧を送るべくいまだに桐生城で奮闘中の花倉兼成もいない。

 

 本来陪臣である胤治は参加を許可されないものであるが、氏政様による推薦枠でねじ込んでもらった。

 

 どんよりとした曇り空の下で重苦しく軍議は始まろうとしていた。全員の集合を確認して氏康様はため息を一つ吐きながら口を開いた。

 

「盛昌。地図を」

 

「はっ」

 

 場の中央に置かれた机には大きな紙が広げられた。そこには地形図と、そして敵将の名、その率いている兵数の概算が書かれている。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 ビッグネームの揃う布陣。これに対抗する術を考えなくてはいけなかった。前衛には北条高広、柿崎景家、斎藤朝信、甘粕景持など戦国史をかじった事のある人間ならば一度は聞いたことのある越後の武将たちが勢ぞろいだ。長尾政景はやや後方。一方で肝心の長尾景虎は最後方にいる。山あいの道に陣を敷いており、今までの戦いで見られていた、かつ史実において時たま見かける大将突撃を行えない布陣になっている。迂回すればこちらを攻撃できなくもないが、他の部隊からあまりに離れすぎるためそんなリスクは流石に冒さない…はず。

 

「横陣…の亜種かしらね」

 

「そのように見受けられます。やや西側の兵が多いですが」

 

 氏康様の問いに盛昌が答える。敵の狙いは何だろうか。この布陣で我々をどのようにして攻略しようとしているのかが今一つ見えてこない。ただ、どういう訳か東側が手薄のなのは事実だ。つまり、ここが順当に考えればウィークポイントなのであるから、此処を攻撃して突破すればグルっと包囲して退路を断てる。そうなると残された退路は長尾景虎本隊や斎藤憲広が陣取っている山あいの街道のみ。山と言ってもそう大きくない岡のような大地なのだが…。ごった返したら大混乱になりそうだ。あまりいい地形とは言えない。そんな事は容易に予想できる。絶対に突破されないと言う確固たる自信か、それとも何か他に策があるのか、何も考えていないのか。最後のであれば楽だが。

 

 とは言え、そう多く損害を出す訳にいかない。無闇に突撃して返り討ちにあうなどもってのほかだし、生産人口の面でも損害は少ない方が良いに決まっている。川中島の戦いのように総力戦のようなことをして大損害を被ってはいけないのだ。今回は包囲殲滅や大勝ではなく、損害を減らして耐える必要がある。どうせもうすぐ雪だ。三国峠が塞がる前に彼らは退かねばならない。

 

「長尾家の陣中の様子はどう?」

 

「主戦派と反戦派が対立しておる。その根は深く、さしもの長尾景虎も冬前には撤退する旨を約束する羽目になったと、報告が入っておるぞ。兵の士気は普通じゃな。とは言え、先の沼田での敗戦が響いたのか弱気になっておる者も多い様子だったそうな」

 

 更なる問いに風魔の取りまとめ、幻庵公が答える。

 

 食い入るように地図を見ていた胤治が袖を引っ張る。

 

「どうした。何かあったか」

 

 小声で問いかける。少し迷った様子を見せた後に小声で答えてきた。

 

「少し、気になった事がございまして…誰が一体反戦派の主要人物なのかが引っかかっているのです」

 

「であれば、情報を持っている幻庵公にお聞すればいいだろう」

 

「しかし…私は陪臣ですから」

 

「ここにいる以上、発言権はある。問うのは自由だ」

 

「……分かりました。発言の許可を願います」

 

 彼女はスッと手を挙げる。我々の方面軍にいた諸将は特に何も疑問視していないが、他の面々は誰?みたいな眼差しで見ている者や何故ここで…?という目をしている者が多い。

 

「一条土佐守が千葉家当主の利胤に願い出てまで引き抜いた一介の書生がいると聞いてはいたけれど、それが貴女の事かしら。名は白井、胤治と」

 

「はっ。恐れ多くも鎌倉府執権にしてこの北条家の当主たられる御屋形様が我が名を記憶に留めて頂いておりましたこと感銘の至り。私が我が主、一条土佐守様ならびに御妹君たる氏政様より格別のご配慮を頂きこの座の末席に加えて頂きました白井胤治でございます」

 

「へぇ、貴女が…発言を許可します」

 

 観察するような目をした氏康様は口角を上げ許可を出した。

 

「感謝申し上げます。北条幻庵様にお尋ねしたい」

 

「何かな。儂のような年寄りでも役に立てればよいが」

 

「長尾軍における反戦派の中核はいかなる将であったか、情報がありましたらお聞かせ願いたく」

 

「ふむ。報告によれば長尾政景、大熊朝秀、斎藤朝信、鮎川清実等であったようじゃ。北条高広、樋口兼豊もそちらよりじゃろう」

 

「ありがとうございます。合点がいきました」

 

「それを聞いてどうしたのだ。何か、掴めたか」

 

 困惑している人が多いので、助け船を出す。質問の意図を皆に分かるように説明しろ、という意味を込めたが、察してくれたようだ。

 

「はい。この布陣の意味、ひいては敵の狙い、或いは分かったやもしれません」

 

「それは何か」

 

「まず、この布陣は三つに分けられます。一つは東の北新波砦の近く。一つは中央の平原。一つは西の兵力の多い部分。それらに対処するとなると、我々も横長の陣を敷かねばなりません。すべてに対応しなくては突破されて後方に回り込まれてしまいます故。つまり衝突した場合、必然的に敵はほぼ全ての部隊がこちらの部隊を相手取る形になります。特に一番前線にいる部隊たちは。そしてその部隊の将と先ほどの幻庵様の情報を組み合わせると、見えて参ります」

 

 前線にいるのは鮎川清実、長尾政景、北条高広、新津勝資、斎藤朝信、甘粕景持、柿崎景家、色部勝長、加地春綱。なるほど、そう言う事か。自分は合点がいった。

 

「鮎川清実、長尾政景、斎藤朝信は反戦派の中核。恐らく長尾景虎の本心は戦闘続行。しかし彼らのような目の上のたんこぶの進言によって撤退を約束させられた。内心面白くないはず。ただでさえ長尾政景は幾度となく背いていますからね。加え北条高広も反覆常無き男。新津、色部、加地は揚北衆。越後内の半独立勢力です。もし、この陣形に我々が突撃すれば被害を被るのは彼ら。少なからず損害が出ればその発言権を削ぐことが出来ます。多少損害が大きくなっても長尾景虎本隊は最後方。サッと逃げれます。もう間もなく雪の季節。越後まで帰れば用意の無い我らは追えませぬ。考え過ぎかもしれませんが、こう見ることも出来るのではないかと…思った次第で…あります。失礼いたしました」

 

 最後の方が段々と自信がなくなってしまったが、確かにそう見る事も可能だ。

 

「では、甘粕や柿崎の存在はどう説明する?それと樋口や大熊が後方な理由も」

 

 笠原信為殿が尋ねる。これに対する答えは自分の中ではあるが、ここでは胤治のお手並み拝見と行こう。

 

「はい。まず前者ですが、自分にとって都合の良くない者だけで前線が構築されていてはあからさますぎますし、内通の危険も高まります。更に発言権を削ぐと言っても壊滅されては困る訳です。己に都合よく、裏切らず、取り返しのつかない被害が出ないよう対処できる人物を前に置いたのではないかと。後者ですが樋口兼豊は商人集団との繋がりが深いとか。青苧の販売などで利益を上げている越後にとって必要です。そして大熊は財務を担っていると。これも武辺者の多い越後では稀有な存在。欠かせなかったのではないでしょうか」

 

「筋は通っていると思われるが…うむむ…」

 

「私の勝手な想像でございますが、あくまで可能性の一つとして…ない話ではないかと思った次第でございます。お耳汚し致しました」

 

 すすすと下がっていく胤治。しかしそう的を外れた話ではないと思う。長尾景虎が一体どういう人格なのか、まだはっきりとは分からないがもし景虎自身のアイデアでなくても彼女のそう気づかせないように実行している者が存在している可能性はある。例えば岩櫃城周辺で兵站輸送をしていると言う直江実綱。例えば大体本陣にいると言う宇佐美定満。彼らの計画の可能性もある。国人勢力の強い越後で中央集権化をするためのコラテラルダメージだと思っているかもしれない。ただ、不敗の軍神の看板をそう簡単に降ろさせるような真似はしないと思うのだが…。

 

 如何せん不確定要素が多いのが戦場だ。すべての可能性を洗い出しても問題は無いだろう

 

「なるほど。可能性として、あり得ない話ではないわね。そして今の意見を踏まえて皆に一つ、はっきりさせなくてはいけないことがあるの」

 

 ザっと音を立て、諸将は地図を睨んでいた顔を氏康様に向ける。

 

「此度の戦、その目的を確認するわね」

 

「それは長尾軍の撃破ではないのですか、姉上?」

 

「いえ、それは違うわ氏邦。今回の目的は長尾軍を追い返す事。一見似ているようだけれど、その実は全く違う。この地より去らせればいい。。蘆名や越中の一揆も動きが見せるはず。雪が降るのも近いけれど、今頃武田が北信で暴れているはず。そのあたりはどう、おばば」

 

「既に動き始めたようじゃ。北信諸将を春日山に投げ込む任も既に完了しておる。まだ奴らの陣には報せは行っておらんようじゃがな」

 

「ならばなおの事、ここで我々が無駄に血を流す必要はない。北伐の目標は上野の制圧。流石にここで冬は越せないし、箕輪は諦めざるを得ないでしょう。けれど、この大地の四分の三は支配したわ。後はこれらの地に私たちのやり方を染み込ませ、国力を上げた後に箕輪をもう一度囲みましょう。ここらが退き時よ。退き時を誤り死地に留まるは下策の極み。長尾とて、上野に拠点を築くことは出来なかった。そして今からそれをしようにも時機を逃した。更にお題目の上杉憲政すらまだ峠を越えられていない。長尾の戦争目標は未達成。この時点で勝負はついている。故に長尾を殲滅するのではなく、上野より彼ら自身が勝手に出ていくまで耐えればいい。慎重に、あくまでこちらから攻撃はせずに。それを考えて動きなさい」

 

「「「「ははっ!」」」」

 

「けれど向こうが攻撃してきたのなら遠慮は無用。二度と峠を越えられないくらいには徹底的に叩きなさい」

 

「「「「重ねて承知致しました!」」」」

 

 これまで迅速果断に制圧してきたが、よく考えれば北条家の支配領域の広げ方はもっとゆっくりしたものだ。今回一気に版図を広げられたが元より氏康様の当初の予定は上杉憲政の抹殺と上野の半国程度だったのではないだろうか。親玉を失った国人衆が降伏し、完成するプランだったのかもしれない。すべては推察するしかないが…ともかく積極的攻撃に伴う戦闘は最小限に、というのが狙いだろう。負けるよりかはよっぽどいい。

 

 そして少しずつ布陣場所を決めていき、最終的に西側は北条氏邦隊、松田盛秀隊、清水康英隊の計七千五百で抑える。中央部は笠原信為隊、多米元忠隊、北条幻庵隊の計五千で相手取る。そして東側は北武蔵全ての兵をかき集めて一条隊と北条綱成隊に分け計四千で迎え撃つ。西側の後方に氏康様本隊の三千。東側の後方に東上野諸将の二千が陣取る。こちらから攻撃はせずに相手の損耗を待つ。北条家が元より得意とする防衛戦術を採用しての配置になった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 とは言え、長尾軍相手だけならまだしも、この戦場には長野軍がいる。箕輪城と里見城、御門城にほとんどが籠っているとはいえ、二千五百の兵は侮れない。かき集めた兵数なのだろうが、士気は下がっていないと聞く。いくらかは前線に投入してくる可能性が高い。そうなるとあまり油断はできないが。ともかくにらみ合いのまま終わる事を願うだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 軍議が行われているのとほぼ同じ頃。東上野の桐生城では事件が勃発していた。時はやや遡って軍議の日の前の晩のことになる。この城は現在北伐の重要拠点の一つと化している。平井城や厩橋城、沼田城ほどの大きさではないのだが、東上野の中央部にあるため交通の利便性が高いのがその重要さの一つであった。また、この遠征に協力的な桐生介綱が自らの居城を開放しているので、軍を率いてかつこの城を差し出した彼の献身を鑑みる上での重要な事だった。領内にある小城ならいざ知らず、やはり本拠地を渡すと言うのはなかなか出来るものではない。

 

 さて、そんな桐生城は現在二つルートが用意されている今回の遠征のうち、東側ルートの補給路の一大中継拠点だった。河越以下の武蔵や相模から送られた物資はここを経由して本隊のいる位置へ送られる。のであるが兼音以下の部隊はなかなかの速度で移動している上にあちらこちらへ行くのでその搬送先がコロコロ変わってしまう。そのため後方人員はかなり苦労していた。厩橋に行ったかと思えば次は沼田。その次は急ピッチで箕輪へ行くと言うのだからたまらない。

 

 勿論兼音とて補給無くして軍隊は動けない事を熟知しているので、しっかりと連絡を入れているのだが、やはり多くの食料や武具を運ぶには時間がかかる。伝馬制や上野の各小城を経由地としたバケツリレー方式で運んでいるものの、書類は増える一方である。桐生城には文官の死屍累々が転がっていた。最早その辺の廊下で寝ている始末である。

 

 そしてその桐生城の守備兵二百程度と文官たちの統制役は花倉兼成である。ご存じの通り元今川家のご令嬢な訳で、一応今も当主を継承することは出来る血筋の人間だ。本人にその気はさらさらないが、河越城内で朝定と同レベルのサラブレットであった。そんな生粋のお姫様であるが、兼音の配下になる事早数年。その教育の賜物か、本人の努力か、或いはその両方かはあずかり知れないがしっかりと成長を果たしていた。主に内政官として。

 

 そもそも史実の今川義元も決して無能などではなく、内政に力を入れていたのでその血を分けているのだから本気になればこの程度容易い。その彼女は今一番過労死寸前であった。もう数徹している。そろそろ休もうと思うのだが、あまり休めない。しかしそんな彼女の努力の甲斐あってか、誰一人餓えることなく略奪に走ることなく北武蔵軍集団は過ごせていた。

 

 深夜になり三日月が昇っている。燭台の灯りの中で彼女は一心不乱に紙と筆を使い格闘していた。墨に至ってはするのが面倒なので現代に売っている墨汁のようにして入れ物にぶち込んでいる始末。もう書ければなんでもよかった。パソコンもワープロもシャーペンすらない時代。悲しい手作業である。Excelならものの数分で終わる作業もこの時代は数十分、下手すれば数時間かかった。

 

「これが終わったら休みませんと…流石に死にます…。こんなところで過労死。笑えませんわね。お爺様にも怒られてしまいますわ。ああ、でもわたくしが死んだらあの方は悲しんでくださるのかしらね、ふふふ……」

 

 独り言をつぶやきながら手を動かす。段々発言が不穏になってきた。事務処理能力は動いているが、それ以外が情緒不安定になって来ていた。ともあれもうすぐ寝られる、と思った矢先であった。

 

 ガキンッ!と言う音が室内に響く。投擲された金属を金属で弾いた音。突如彼女目掛けて飛来した手裏剣(所謂十文字型ではなく棒型)を鉄扇で弾き落とした音。殺気を直前に感じ取った後の咄嗟の行動だった。これまでやって来た訓練が実を結んだ瞬間であろう。手裏剣の先端には毒が塗られている可能性もあり得る。暗殺者がいる事を察知し彼女は冷や汗を流していた。そこまで動きやすい格好ではない。

 

「どこの誰かは知りませんが、そう簡単にわたくしを害せるとは思わない方がよろしいですわ」

 

 牽制の意を込めて言う。第二波が来るかと思いきやシュッと衣擦れの音のみを立て忍び姿の恐らく男が姿を見せる。暗器を用いて死角から殺るのを諦めたようだった。彼女は必死に思考を巡らせる。死にたくない。けれど、泣き叫んでいただろう昔ならいざ知らず今は自衛の手段が存在していた。目まぐるしく視線を動かし、使えるものを探す。その間も忍びは彼女を警戒し間合いを取っている。

 

「貴様が花倉兼成か」

 

「いかにも。そう言うそちらはどちらの…と言って答えるはずもなし。どうせ越後辺りでしょう。なるほど、警備の薄いわたくしを狙い北条軍の補給を混乱させる…という策でしょうか。下策ですが、その下策でわたくしはこうして命の危機に瀕しているのですわね」

 

「良く回る口だ。言いたいことはそれだけか」

 

「いえいえ、まだ死ぬ気は毛頭ございませんのよ。そしてあなたは忍び失格。正しき暗殺者は一の矢を外しても標的に話す隙すら与えずに二の矢を放つもの。でなくば手痛い報復をくらうからとわたくしの同僚は申しておりましたわ」

 

「なんだと?」

 

 その男の言葉を合図にするように兼成の反転攻勢が始まる。そこまで広くない室内。彼女の武器は短刀と鉄扇。一気に間合いを詰めて鉄扇で喉元を狙う。咄嗟の事であったがそこは腐っても忍び。苦無で防御する。しかしそれは想定済み。当たった鉄扇をくるりと返して苦無の勢いを崩し忍びのバランスを崩す。すかさず手を打擲して暗器を叩き落とす。この時点で忍びの右手にはヒビが入った。しかしまだ暗器を幾つ持っているかは分からない。

 

 彼女の頭は動き回りながらも必死に回転している。思わぬ反撃に感情を露わにしている相手に向かって思いっきり墨汁の入った容器を引っ掴んで中身をぶちまける。相手の目を目めがけて。つむってもしみてくる墨。痛みに悶える隙に反撃手段を潰すべく鉄扇で顔や手や足や腕や腹や頭を兎に角めいっぱい殴る。彼女も死にたくない一心なので兎に角打撃は滅茶苦茶だが、確かに効果はあった。そこまでパンチの強くない彼女の身体を鑑みれば、重さのある鉄扇で殴るのはベストな選択肢だった。

 

 よろめきながらも立って態勢を整えようとしている相手を見ながら立とうとしたところで足を払い転倒させる。まだしかししぶとく抵抗する忍び。そして素早く部屋を見渡す。短刀は最後の手段である。力加減を誤る可能性がある。出来るだけ無力化し尋問する必要があった。そして見つける。この部屋には先ほどまで使っていた燭台がある。燭台=蝋燭(ろうそく)立てである。当然溶けた熱いろうがまだまだ固まらず溜まっている。それを顔面にかけた。

 

「ギャアアアアア」

 

 悲鳴が響き渡る。この期に及んでやっと警備の兵が駆けつける足音が兼成の耳に入って来た。それを聞いてホッとしつつ、冷静になった頭で彼女は思いっきり己の短刀で男の手首と足首を切断した。悲鳴が更に響き渡る。動けなくして縄抜けなどを不可能にするための処置である。

 

「ご無事ですか!!」

 

「ええ、まぁ、何とか」

 

 髪を振り乱しながら荒い息をしつつ、返事をする兼成。足元にはのたうち回る男。

 

「遅くなり申し訳ございません」

 

「御託は良いから早くこの曲者を縛りなさい」

 

「はっ!」

 

 男は猿轡をかまされ、ぐったりとしながら連行される。ぐちゃぐちゃになった部屋を取り敢えず城内の女中などに任せることにした彼女は書類整理はもう無理だ、今夜はもう寝ようと諦め別の部屋で睡眠態勢に入った。

 

 そしてこの一件は非常事態として凄まじい速度で彼女の主のところへと伝わったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 対陣してから早数日。敵軍に動きはない。今のところ様子を窺っているのか、何もせずにいる。その様子がかえって不気味でもあった。しかし、戦国の戦闘で大規模な前面衝突はあまりない。まだ中期ともいえるこの頃は特に。それこそ川中島や桶狭間などが数少ない例だろう。大体は大した被害もなく、睨み合っただけで終わるものもある。川中島も五回あるうちの四回目以外はそんな感じだ。

 

 陣内では警戒態勢が続いているものの、個人的な思考は戦いの次の段階つまりは撤兵後に関しての思考に移っていた。河越に帰還後、行うべきことである。今回の遠征後は少なくとも何もなければではあるが来年の秋ごろまではここまで大規模の遠征はない…はず。であれば色々と内政面の工夫もなせるはずだ。

 

 農業政策は引き続き実行。後は商業政策などをしなくてはいけない。河越は今回の遠征によって最前線基地としての役目を返上することになる。その役目は今後厩橋城か平井城、沼田城辺りが担うだろう。ともすれば北条家の領内に置いて我々の所領はある程度の安全圏に入った。そうなるともっと大規模な工事が行える。それも北武蔵全体を巻き込んで。

 

 現在構想段階としてあるのは新田開発と交通網の整備。どちらも多くの資金と人手がいるが、そのリターンも大きい。前者は収入面で。後者は軍の移動もスムーズになる上に商業振興にも役立つ。アウトバーン政策のパクリだ。自動車はないし舗装もしていないけれど。それ以外にもやるべきことは山積みだ。特産物や商品作物の生産も必要。災害対策に区画整理なども必要。大変だが、やるべきことである。地位にはそれに見合った働きが要求される。仕方のない事だろう。しかし、特産品って何だろうか。大体ああいうのが出来始めるのは江戸時代なんだがなぁ。

 

 ああでもないこうでもないと頭を悩ませていると、勢いよく伝令が飛び込んでくる。

 

「し、至急の伝令であります!」

 

「どうした。何事だ」

 

「桐生城の花倉様が襲撃されました!」

 

「は…?どういう事だ」

 

「そのままの意味でございます」

 

 頭が真っ白になりそうになった。どういうことだ。長尾景虎は暗殺を嫌うとの事前情報があったはず。このような手を…いや、家臣の独断専行と言う可能性も捨てきれない。

 

「容体はどうなのだ!護衛の兵はなにをしていた!!答えろっ!」

 

「は!幸いにして賊は兼成様自らが応戦され撃退。負傷の類はないとの事です。護衛の兵に関しましては…某には分かりかねますが恐らくは忍び込まれたため発見できなかったのかと」

 

「そうか…それは、不幸中の幸いであったな…。しっかし越後軍め、良くも私の臣下に手を出してくれたな…!ええいかくなる上は氏康様に言上仕って総攻撃をしてくれん!」

 

「何事ですか、さようにお騒ぎになって」 

 

「…どうした胤治」

 

「それはこちらの言葉にございます。普段冷静な殿らしからぬ振舞い。何事かございましたか」

 

「兼成が襲われた。恐らく越後の賊だ。幸い命に別状はなく、撃退したそうだが…このような目にあって放置している事など出来ない。早速総攻撃の下知を下さるように氏康様に申し上げに行こうとしていた」

 

 それを聞いた胤治は、はぁ…と息を吐いて言葉を紡いだ。

 

「それはなりません。我らも暗殺は行います。敵にやるのは良くて己方がやられるのは嫌と言うのでは、子供の喧嘩も同然。これは忍び衆から護衛の人員を割かなかった殿の落ち度。それに殿は些か情に厚すぎます。特に身内に対しては。私どもにしてみればありがたい事ですが、その温情によって殿自らが作戦をぶち壊すことを果たして兼成様はお喜びになるでしょうか。それこそ敵の思う壺やもしれません。お気持ちは重々承知していますが、どうかここは一つ堪えて頂き今は兼成様のご無事に安堵致しましょう」

 

 冷静な説得に段々と感情が落ち着いてきた。同時にとんでもないことを口走っていたことに気付いて顔が青くなる。どうやら冷静になれなかったようだ。これではいけない。こんな事では今後何かあった時に正しい判断を下せない可能性がある。

 

「すまない。冷静になれなかった。こういう時こそ動じずいるべきであったが…不甲斐ない事だ。本当にすまない」

 

「いえ。これが私の役割でございますから。それに決して悪い影響ばかりではありますまい。これにより、殿が怒髪衝天の有り様であったことは将兵に伝わりましょう。さすれば、臣下のために怒り、嘆く話を聞いた将の忠誠心は上がりましょう。いざ討ち死にしても、我らが殿は決してその名を忘れる事は無く我らのために嘆いて下さる…と」

 

「ああ、だと良いのだが…」

 

 フォローまでさせてしまって、本当に情けない限りだ。思えばこの世界に来て二年以上。その内一年以上を彼女とは共にしてきた。もう身内の中でも家族同然に思っていたのかもしれない。それ故に家族を失った時の感情が戻って来て、私の心と思考を狂わせたのではないかと思った。抑える必要がある。この時代は戦乱の世。いつ誰がどういう形で死んでも、決しておかしくはないのだから。取り敢えず護衛の兵を増やし、忍び衆をつけよう。そう決意した。

 

 そこへ再び伝令が舞い込む。

 

「申し上げます!敵が前進を開始。速度は緩慢ですが、ゆっくりとこちらへ接近してきております!」

 

 このタイミングでか。しかしもうすぐ本当に雪が降りそうな天候が続いている。最後のチャンスとばかりに攻撃を開始したのだろうか。

 

「敵の動きは緩慢なのだな」

 

「はっ!騎馬兵での突撃もなく、敵兵は皆徒歩にて進軍中。その速度も通常の歩速と変わりありません」

 

「そうか。よし。全軍に通達。敵軍来襲、迎撃態勢!」

 

 冬迫る大地にて、この年最後の激突が行われようとしていた。




越後側の視点は次回。この話を含めて全三話で上野遠征編は終了の予定です。ちょっとテンポが悪いような感じが私的にあるので、そこら辺の調整をしながら投稿したいと思います。


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第69話 箕輪城の戦い・中

遅くなりました。今回は越後サイドの話がメインになります。


【挿絵表示】

布陣図


 時系列はやや戻り、長尾軍が箕輪城へ向けて進軍し始めた頃になる。三国峠を越えた少し先に陣を構えていた彼らは先鋒隊の敗走をものともせず、南下を始めた。その目標は箕輪。数少ない抵抗勢力の一大拠点である。もう一方の拠点であった沼田城が陥落した関係で箕輪を落とされる訳にもいかななかったのである。そして、その道中にある岩櫃城をまずは中継地点として選んでいた。

 

 岩櫃は上野の中でもかなり奥まったところにあり、現在の住所で言えば東吾妻町である。草津とまではいかないが、峻険な山の多い山間部の要衝だった。ここの領主は斎藤憲広。大河ドラマの影響で真田家の城というイメージが強いものの、この頃はまだ斎藤家の持ち物だ。斎藤朝信や斎藤道三と同じ家名だがそこまで関係はない。この男は普通の小領主であるが、特に確固たる信念があったり忠義に厚い訳ではない。良くも悪くも模範的な一般国人である。

 

 なので上杉憲政にさしたる恩義も感じていないが、長尾軍が迫っている状況で北条側です!と公言するなど自殺行為にも等しい。取り敢えず、彼らが帰国するまでは長尾側ひいては上杉憲政側でいようと思っていたのである。越後が近い事もあり、長尾景虎強しの報せは入っている。兵も多い。逆らうなどと言う選択肢はなかった。

 

 岩櫃城の広間の上座には長尾景虎が座っており、それに拝謁する形で斎藤憲広が着座している。なお、このタイミングの北条家は長尾軍転進の報が入ったくらいの頃である。

 

「お前が斎藤憲広か」

 

「…ははぁ。守護様におかれましては壮健のこと、お慶び申し上げます。此度は拝謁の栄を得ましたこと、恐悦至極」

 

「斎藤憲広、お前の主は誰か」

 

「某の主でございますか…?」

 

 そこで憲広は初めて顔を上げて景虎の顔を見た。その表情から感情は読み取れない。なるほど、確かに美人だと彼は思った。しかし、考えるべきはそれではない。この答えによって自分の進退がかかっている。彼自身としてはとっとと見限りたいところではあるが、一応まだ彼の主は生きている。そして現にこうして援軍を呼べるレベルの政治力を擁している。まぁ北条家が勝っても「いやぁ従わないと皆殺しと言われたもので…」とか言えば何とかなるだろうと踏んでいる。北条は国人を殺さない。

 

「某の主はご居城を失われようとも越後へ落ちられようとも憲政様お一人にございます」

 

「では、何故箕輪と合流しない。私は嘘は嫌いだ。正直に述べよ」

 

「はっ、恐れながら申し上げると当方は弱小領主。動かせる兵は少なく、とても大国北条に抗しくるのは不可能。無闇に突撃し、兵を損なっては父祖に申し訳が立ちませぬ。故にこうして援軍あるのをお待ち申し上げていた次第」

 

 本心ではないが嘘ではない。実際、兵数差は圧倒的。奇跡でも起こさない限り万単位の北条家に挑むのはアホのやる事だった。山がちの地形故に生産力も高くはない。城を囲まれた場合半年もすれば落城だった。

 

「ならば今後の動きには与力として加わるな」

 

「はっ。憲政様が援軍の将として呼ばれたお方でしたらどうしてお力添えしないという事がありましょうや」

 

「であればそれでいい。これから尽力せよ」

 

「承知仕りました」

 

 ああ、取り敢えず助かった、と彼は内心考えていた。正直出兵させられるのは癪だがそうも言ってられない。なるたけ後方待機で済むようにどうにかして立ち回るしかないだろうと今後の予定を定めている。小領主と言えば小領主だが、この辺の地域一帯(吾妻郡)では影響力の大きい領主である。かき集めれば千くらいは用意できるはずだ。損害を減らす事のみを考えている。どうせなら積年の相手である鎌原氏を滅ぼせればとも考えているが、それは二の次三の次。今を生き残ることが肝要だった。

 

 なお、死ぬほどくだらない話であるが彼が景虎の前で法悦状態になっていないのは単純に彼の好みでなかったからである。彼の配下は主の個人的性癖によって最前線を免れたとも言える。そう考えると何とも理不尽な話であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな一幕もありながら、長尾軍は特に障害に阻まれることもなく箕輪へ到着することになる。この間に北条軍は包囲を解き一度後方にまで撤退している。その情報が入る前であったため、景虎は箕輪城は未だ囲まれていると判断。部隊を二つに分けて、行軍させた。加地春綱、色部勝長、柿崎景家、甘粕景持などの総勢六千近い兵は山道を通り榛名湖前を通過して箕輪城の背後に出るルートを選択する。そしてもう一方の本隊は山あいの道を通って箕輪城の南方へ出るルートを選択した。しかし、既に包囲は解かれていた。とは言え、これくらいは想定内。ここで包囲に固執すれば城内外から挟み撃ちにされてしまう可能性が高い。そんな愚を犯すほど愚かならば、ここまで勢力を拡大できるはずもないからである。

 

 北条軍が南方の和田城方面にいる事を斥候の情報によって知った彼らは箕輪城を守る、そして北条軍と決戦するという目的を果たすべく、横一列に並んだ形になった。なお、斥候が情報を持ち帰れた事情としては現在風魔は最重要人物たちの集まる本陣の警護、長尾軍内の様子の偵察に注力していたからである。更には北信濃での工作、越後国内の煽動、東北・越中での煽動、甲斐や駿河・房総への潜入をしているなど他国に出ている者も多い。活動が多岐に渡っており、必要人数を確保できていなかった。版図が広がった結果の弊害でもあった。河越の忍群はもっと数が少なく、積極的に外へは出ていけない。長尾軍の中に潜伏するのに大半が費やされており、残りの精鋭は護衛任務である。いくら超腕利きが二人いるからとはいえ、彼女らも人間。休みは必要だった。

 

 ともかく、河越夜戦の時などは敵が集中していたことやその敵に全力を注げばよかったこともあり、完全無欠だった防諜網も少しほころびが見え始めていた。とは言え、まだまだ他に比べれば固く、機密などは漏れないが。

 

 そしてそんな中起こったのが花倉兼成暗殺未遂事件なのである。これにはやや複雑な経緯が絡んでいた。

 

 

 

 

 

「では、それは確かなのだな」

 

「はい。多くの物資は多数の経由地を通っておりますが、全て一度桐生城に行っているようでございます」

 

「なるほど。情報提供感謝する」

 

「いえ、今後ともご贔屓に…」

 

 ペコペコと退出する商人を見送った樋口兼豊は思案を始めた。

 

「桐生、か」

 

 呟きながら地図を広げる。今の正確な地図から比べるとガバガバもいいところだが、一応形にはなっていた。この世界の正確な形を把握している人間は現状一人しかいない。ので、これは普通のことだった。さて、樋口兼豊が何故このような情報を手にしているのか。それは彼は越後商人とかなり深い関係にあったからである。商人は多くのネットワークを持っており、それは下手すると忍びよりも早く正確であることもしばしばだ。例を出せば本能寺の変で堺に滞在中だった家康に惟任日向謀反を伝えたのは茶屋四郎次郎と言う商人だ。彼は京の呉服屋の主である。侮れないネットワークが存在しているのだ。

 

 彼は越後の商人ではあったが、越後の物産を関東に卸している。主な品目は越後布である。他には鮭も取引していた。燻製ではあるが、関東に鮭はいない。なので割と実入りが良いのだった。そしてその彼は商人のネットワークを通じ、関東の多くの米問屋などが物資を運んでいる先を知ったのである。丁度、雪が降る前に帰国しようと思い北上していたところで馴染みの樋口兼豊に出会ったという経緯だった。

 

「おそらくここが北条家の兵糧集結地の一つ。即ち奴らの烏巣という訳か」

 

 先ほどの商人に会う前の別の商人からの情報によれば北条家は二つの大きな部隊が前衛にいるという事、そして兵糧関連の補給部隊を担っている将が二人…つまりは花倉兼成と大道寺盛昌であるが…いることが分かっている。大軍であればその片方が消えれば一気に苦しくなるのは必定。叩ければ大きかった。そして恐らく桐生城にいるのは警備の薄い花倉兼成であろうことは察しがついていた。その理由としては山上氏秀。僅かな共を連れ箕輪に逃げ込んだ彼のもたらした情報より、山上城を攻めたのが一条兼音の部隊であったことを知った。花倉兼成は一条兼音の副将であること、山上城と桐生城は近いことも加味すれば簡単なロジックだった。

 

「景虎様の思想はご立派だ。だが実戦を知らなすぎる。いや強敵を知らなすぎると言うべきか…」

 

 年を取ると独り言が多くなる、とぼやきながら彼は思う。長尾政景は強いが所詮越後国内のみのこと。国外に出れば、政景以上の敵などごまんといる。そして北条氏康とはそう言う存在だと彼は思っていた。河越での話、統治の話、様々な話を仕入れている。その結果、氏康侮りがたしと考えているのだった。強敵に正々堂々と挑むのは英雄譚としてはいいかもしれない。けれど、ここは物語ではない。搦手を使い勝てる要素を増やすことが肝要だった。しかし、彼の主は暗殺を卑怯と言い拒否した。

 

「義か…そんなものが実在しているのなら、この世はとっくに平和だ。誰も、苦しみなどはしないだろう。理想としては素晴らしい。儂とて、欲する。しかし…正義も神も、そして仏も。とっくに死んだのだ」

 

 責められるだろう。だが景虎に自分を殺すことは出来ない。何故なら、彼女は許してしまうからだ。政景も、その他の多くの者も。救うだけで、導けない。許すだけで、贖罪させない。その苦しみを、彼女は知らない。いや、知らない方が良いのかもしれない。相反する感情に苦しみながら、老将は静かに配下の数少ないがいる忍びに指示を出す。花倉越前守兼成を討ち、混乱に乗じ桐生城の兵糧を焼けと。例え失敗しても警戒は強まる。それで後方に兵が割かれればそれはそれで良かった。

 

「首尾よくいっても儂は責められ、失敗しても露見すれば責められ。救いようのない結末よ」

 

 それを招いたのは自分自身だがな、と兼豊は昏く笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 さて、余談になるが北条軍がいかにあれほどの大軍を維持しているのか、そのメカニズムに密かに疑問を抱いている方も多いかもしれない。一般に軍人には大体一日三千キロカロリーが必要だという。しかも、略奪はご法度。関東は平野とは言え、広い。そこでの兵糧輸送は厳しいのでは?と思われても無理はない。荷車に乗せて運ぶのではないのか、と問われた場合、それは半分正解で半分間違っている。正確には荷車”も”使うのである。だがその兵糧輸送の主体は船だった。いや、そんな長江とか中国の大運河じゃあるまいしと思われるかもしれないが、この当時関東を流れる川は現代とは大違いである。

 

 一般にイメージされる関東の大型河川、即ち利根川・江戸川・荒川・多摩川・渡良瀬川・隅田川・鬼怒川などなどであるが、今の様子は治水工事の結果大分小さくなった川である。昔の関東の川はもっと太くて広かった。なので船舶航行も可能だったのだ。それこそ、米などの軍需物資も。河越城の城下には入間川と言う大型河川が流れている。当然昨今のものとは違い、とても太くて大きい。そこを下って一度東京湾へでた船は利根川・渡良瀬川の河口に入り、北上していく。桐生城のすぐ近くに渡良瀬川が流れており、そこへ大量の物資が運ばれていた。まだ家康による整備はされていないので幾分荒れている川だがそれでも輸送は出来たのである。そして厩橋城へもこの水運ルートを使って兵糧が運び込まれていた。ここには大道寺盛昌がいる。

 

 つまり、陸上輸送と合わせ関東中を流れている大型河川を利用した水運の結果、尽きない兵糧輸送網が出来上がっていたのである。まだ印旛沼が超巨大な湖で、九十九里に椿海があった頃の話である。

 

 閑話休題

 

 

 

 

 

 

 

 樋口兼豊が暗い陰謀を巡らせている頃、景虎とその側近たる宇佐美定満は箕輪城城主の長野信濃守業正と対面していた。この忠義の老将は兵二千五百を率い、堅城箕輪城に立て籠もって絶望的な籠城戦を行っていた。救援が来たことに安堵している彼ではあるが、もう間もなく冬がやって来ること、そして越後勢は関東で越冬できないことを知っている。なので、やや焦り気味であった。とは言え、流石の名将。内心の焦りを理性で抑え、動じることなく景虎に対峙していた。

 

 業正は景虎と会うのは当然これが初めてである。どのような姫なのか。忠義に厚いとは聞いているが…と思っていた彼は、その対面の時を迎えいざ顔を見た際にやや面食らった。その美貌云々ではなくその年齢と雰囲気にである。景虎はまだ若い。幼いと言い換えてもいいかもしれない。成長期は来ているものの、氏康や晴信、当然兼音よりも下の年齢である。小柄な体躯も相まって、随分幼く見えた。しかし、まとう雰囲気は常人のそれではない。おおよそ人ではないなにか、邪気ではないので恐らくこれが聖なるもののまとう気配なのだろうと思った。

 

 そう言えば、彼女は毘沙門天の化身を称していた。権威付け、或いは自称することで家臣の士気を上げているのかと思っていたがあながち間違いでもないのかもしれない、と密かに見定めていたのである。その事を知ってか知らずか、景虎は口を開いた。

 

「救援遅くなり申し訳なかった」

 

「いえ、実入りもなきこのような申し出をお受け頂いたばかりか、このような大軍を率いてのご参陣、誠にありがたく存じます」

 

「長野の旦那、状況はどうだ」

 

 宇佐美は状況確認を急ぐ。時間的猶予がないのは越後勢の方だった。

 

「慙愧に耐えぬ思いなれど、我らの不甲斐なさにより既に上野の半分以上は占領され申した。その地の諸将も、多くは降り残りは討たれるか逃れるか…。前々より通じていたと思わしき者も多数おり、我らの勢力は少なくなる一方。最早この箕輪が最後の砦となりつつあります」

 

「そうか…想像以上に悪いな…。そしてそこにもう一つ悪い報せをしなくちゃならねぇ。俺たちは一月以内に国に戻る必要がある」

 

「もう間もなく三国は雪で閉ざされます。それはもとより承知のこと。雪が来れば北条も帰らざるを得ませぬ。それでひとまずは十分にてございます」

 

「小田原を落とすことはおろか、上野から駆逐することもままならないのは私も悔しい限りだ」

 

 景虎の言葉に業正は目を見開き、しばし固まった後に重々しく述べた。

 

「……何を申されるか。わざわざ自国を留守にして、このような無関係の地への援軍にきて頂いていると言うのに、これ以上何を望みましょうや。北条も、常勝無敗の誉れ高き景虎殿が参られたとあれば畏れ慄いている事でしょう。現に包囲を解いたのがその証。氏康は慎重な将。警戒心の強い者ほど、恐れる心は増しましょうぞ」

 

 業正からすれば、何の縁もゆかりも代償すら明示していないこの圧倒的に自分たちに都合のいい申し出を受けてくれた時点でありがたいことなのだった。しかも、主家である山内上杉家と景虎の生家である府中長尾家は長尾為景の頃より対立しており、下手したら憲政を首にして北条に送り付けてもおかしくはない家なのだ。ダメもとの援軍要請だったため、業正は大いに喜んでいた。義に厚いと言っても所詮それは大義名分のための道具、己の評判作りのためにそう称しているだけかと思っていたが、ここに来てその評価は間違っていると思わされていた。彼女は純粋だった。それこそ、水のように、白紙のように。だからこそ、染まりやすい。愚直さはいずれ自身の身を滅ぼしかねないとも思ったが、所詮自分もその純粋さを利用しようとしているにすぎないと思いなおした。

 

「山地を越えわざわざのご着陣にも拘らず何の対価もございません。景虎殿におかれては、いずこか上野の城にしかるべき城代をご家中より置かれるべきかと。もしお望みでしたらこの業正はすぐにでもこの城の主の座を降りましょう」

 

「私は上野を切り取りに来たわけでは無い。ただ、憲政様の復権のために参ったに過ぎない。それゆえ、申し出はありがたいがそれは出来ない。それに、今私が上野を切り取れば結局奴も欲に塗れた凡将かと嘲笑われるだけだ」

 

 とは言え、そうあっては例え北条を追い払ったとしても完全なる無駄骨。一文の得にもなりはしない。果たしてそんな事を認める戦国大名がいるものなのだろうか。困惑した業正は宇佐美へ視線をやるも、その宇佐美も困ったように肩をすくめて苦笑するしかなかった。

 

「すまねぇな、ただ、景虎はこうと決めたらそれの一点張りだ。容易に曲げようとはしない。それに、今仮に城代を置いて領国化しても維持できねぇ。北信濃から悲鳴が飛んできてる。蘆名や越中の門徒もきな臭い。今回の遠征は、上野の領国化を目指せる時期でも兵数でもなかった。悪いが、あんたの提案には乗れねぇ」

 

「左様か…。ならば、致し方ないですな…。不躾かつ何の利も益もないお願いとは重々承知の上ではありますが、何卒憲政様をよろしくお願い致します」

 

 そう深々と頭を下げて業正は頼み込む。この目の前の異形の少女に縋るしか、もう主家の生き延びる道はないのだと、そう思い知らされていた。それを悔しいなどというような感情にはならないものの、ただただ栄枯衰勢の虚しさを感じるだけだった。

 

 越後の将は恐らくこの相貌に焦がれている。それを悪とは言わないが、おおよそ今の状況においては望ましくない。そしてそれは我が子息も同じ…。吉業を景虎殿に会わせる訳にはいかぬな…、と業正は心中思っていた。この老人の肩に対し、今横たわっている問題はあまりに重すぎた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 対陣は数日間続いた。これはそう長い訳ではない。だが、時間制限がある中では数日と言えど惜しむべきだった。それは無論、諸将も承知の上である。故に何故動かないのかと訝しむ声があった。その声を知りつつも景虎は絶対に動こうとはしなかった。その姿はまるで何かを待っているような様子でもあった。

 

 そしてある日のことである。まだ動かないのかとせっつかれた宇佐美は、渋々景虎に不動の訳を尋ねた。諸将も一々宇佐美を中継するのは癪だが、結果的にそれが最短になると悟っているのである。

 

「宇佐美。どうあってもこの戦で北条を倒すのは無理だ」

 

 景虎は至極残念そうに口を開いて言う。北条の領国は広い。そして時間制限もある。更に、戦国時代の合戦で大名級の討ち死には少ないため仮にここで大勝利をおさめても北条はすぐに勢力を盛り返すだろう。掃討戦や北条方の城を攻める事は出来ない。下総の兵など、参加していない兵も多い。万が一氏康が死亡しても氏政が、彼女が死亡してもまだ小田原に為昌が存命である。盤石な体制が揺るがないのは目に見えていた。

 

 当初は氏康を侮っていた為か、他の理由からか北条をすぐに駆逐できると考えていた景虎も沼田での先導隊の敗走より考えを改めざるを得なくなっていた。

 

「負けるとは考えていない。しかし、仮に勝ったとしても北条はすぐに軍を立て直す。氏康は臆病だ。必ず分が悪くなれば兵を退く。けれど、私たちも兵を退かなくてはいけない。そこでもし、雪が無ければ奴らはどうする」

 

「どうするって、そりゃぁ…追いかけるか静観するかの二択だろう」

 

「氏康自身は静観する。だが家臣はどうだ」

 

「氏康は強固な支配体制を築いてるぜ。きっと、北条家の家臣もそれに従うと思うが」

 

「どうだろうか。私は越後の荒武者たちの有り様を多く見てきた。命令無視は上等と言わんばかり。果たして関東武者が同じでないと言えるのか?復讐に燃える関東武士が山越えに速度を落とした越軍を見て何を思うだろう」

 

「なるほどな…背後から急襲されかねないという訳か」

 

 懸念はもっともな事だった。もしかしたら景虎は決戦をしないで双方の時間切れを待っているのではないか?と一瞬宇佐美は思った。それならそれで構わない。早くに兵を退いて北信の対応をすべきだと。だがその期待は淡いものですぐに打ち消される事となる。

 

「とは言え、無傷のまま去らせることは絶対に出来ない」

 

「なぁ、そこまで拘らなくても良いんじゃないのか?長野の旦那も言ってたが十分義理は果たしただろうぜ」

 

 だが景虎は首を横に振る。

 

「義によってお助けしたのだ。手を引くなど出来ない。……もうじき雪が降る」

 

「何だと?快晴だが…」

 

「今日ではないが、明日には初雪となる。明日が決戦だ。雪が降り積もり北条が退く前に攻撃し、これを破る。その後素早く兵を退く。そして雪を警戒して追えない北条を後目に越後に戻る。これでどうだ」

 

「……分かった。ひとまずはそれで良いとしよう。で、肝心の氏康はどうやって倒す。生半可にやられてくれる相手ではないぞ」

 

「敵は横陣になっているのだな」

 

「ああ。俺達の軍に沿うように横陣になっている。氏康の居場所は…不明だが後方だろうな」

 

「氏康は和田城にいる。その前に陣を張っている。」

 

「……そうなのか」

 

「ああ」

 

 何故そのことが分かったのか。風魔たちの氏康に対する防備は完璧だった。本陣の位置を知った敵の中で一人として帰れたものはいなかった。なのにも拘わらず、どうして判明したのか。最早神がかりとしか言いようのない技だった。気の流れを読み、感じ取ったのだろう。常人になせることではないが、景虎にはそうでは無かった。

 

「それがわかったところで、どうしようもないだろう。……お前、まさか」

 

 嫌な予感を感じた宇佐美は恐る恐るといった感じで尋ねる。その悪い予想は当たるもので、まさしく彼の考えた通りの作戦を実行しようとしていた。

 

「全軍に前進を命じる。そして敵を釘付けにさせる」

 

 越後軍のうち、横陣になって北条軍と対峙している部隊を全て前進させることで、彼らを引き付ける。その間に、景虎自身は北条氏康のいる本陣を急襲すると言うのが筋書だった。おおよそ大将突撃を前提にしている辺り正気とは思えない。だが、彼女はこれまで全てそのやり方で勝利してきた。それこそ奇跡的に無傷で。

 

 事実、景虎は強い。非科学的な要素を除いたとしても天性の武のセンスが備わっていた。並大抵の武士では不殺を誓ったところで逆に殺されて終わりである。己が傷つかず、他人を傷つけず無力化出来ている時点でかなりの強さがあった。当然、相手は自分を殺さんと欲しているのにも拘わらずである。宇佐美も最早この頃になるとそれを止める気は無くなりつつあった。しかし、敵中孤立だったりあんまりにも無茶苦茶な突撃がさせてはいけない。それだけは譲らないつもりだった。

 

「どうやって急襲するつもりだ?回り込むのか?確かに出来なくはない。道もあるが、流石に敵に察知されかねないぞ」

 

 アリの子一匹通さぬ…とは言えないが、それでも北条家の諜報網は侮れない。それは他国にも知れ渡りある種の抑止力になっていた。戦争とはいかに相手の選択肢を減らすかの戦いなのだから。

 

「山の間道を使う。箕輪の者に先導させ、私と小島弥太郎が後に続く。今いる街道の一つ南の道に出るだろう。ここには敵兵はいない。氏康のところへ急行できるだろう」

 

 

【挿絵表示】

 

越軍の予定進路。

 

 この間道は普通の山道である。普段使いするようには出来ていないため、大軍の行進には当然向かない。現地の地理に関しては現地民の方が詳しいのは当然のことであり、北条家はこの存在を把握していなかった。というより本隊は本来この辺の地域の担当ではないため把握する必要が無かった。元々この辺の担当は北条家の第二軍であり、彼らが把握しているべき情報なのだが…怠ったか情報が錯綜したが故の伝達ミスか。伝わっていなかった。

 

 もっとも、伝わっていたとしてもこんな道を通って乾坤一擲の奇襲はあるまいと思うのは普通なのだが。ともあれ、この策を用いれば氏康を叩けるのも事実だった。宇佐美はかなり悩んだ末に認めることにした。どうせ、抵抗しても無駄なのだろう。景虎は頑固な石頭なところがある。これと決めたら容易に曲げない。そして今回も曲げる事は無いだろうと宇佐美は長年の付き合いから判断した。

 

 兵数は長尾景虎二千三百対北条氏康三千。兵数は北条家の方が多いが、練度にはどちらも精鋭のためそこまで変化はない。十分に相手になるだろう差だった。全軍突撃してほぼ死亡というような事例が稀な戦国時代では逃散が多い。叶わぬと見たら逃げ出す兵もいるだろう。特に景虎自身が相手にした部隊はその傾向が強くあった。

 

「諸将にはゆっくりと進軍し、敵をなるべく長い時間拘束するようにと」

 

「……分かった」

 

 敵が見過ごしてくれるとは思わないが、そうやって引き付けている間に一気に道を走って本陣を襲うつもりなのだろうと宇佐美は判断した。大胆極まりない策だ。悪く言えば無鉄砲ですらある。しかし、遠征して何の意味もありませんでしたでは景虎は良くても周囲に示しがつかない。何らかの軍事行動をする必要があった。景虎のいう事が正しければ、時間切れは近い。それまでに何らかの成果を出すには、これしかないように思えた。

 

「討ち漏らす可能性が高い。その場合はすぐに戻ってくれ。お前さんを失う訳にはいかねぇ」

 

「分かっている。私が死ねば、越後はもっと乱れる」

 

「俺以外の奴にはどうやって報せる。軍議を開くか?」

 

「いや、宇佐美自身が伝えてくれ。風魔によって伝達が阻害され足並みが乱れるのが怖い」

 

「了解したぜ。それじゃあ、早速行ってくる」

 

 よっこらしょとばかりに立ち上がった宇佐美を人形兎のような赤い目が見つめる。軽く手をひらひら振りいつものように努めて飄々と宇佐美は立ち去った。

 

 

 

 

 翌日。振られた采配に従い兵はゆっくりと歩き出す。目指すは取り敢えず目の前の敵陣。それを打ち倒す事だった。同時に景虎麾下の精兵は一気呵成に氏康本陣を目指す。タイムリミットまであと僅か。勝利の天秤がどちらに傾くのか。その結果が明らかになるまでもう少しだった。




次回で一旦北伐編は終了のつもりです。そうしたら…戦後処理と内政と武田家の様子とかですかね。

感想の返信出来てなくて申し訳ない限りです。キチンと読ませて頂いております。


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第70話 箕輪城の戦い・後

遅くなりました。大変申し訳ございません。駿台・ベネッセ全国共通テスト模試だったのです。ついでに英検と次の駿台全国模試も近いのでまた遅いかもしれません。何卒、ご理解ご了承のほどよろしくお願いいたします。


 

【挿絵表示】

 

戦場図

 

 敵兵は依然変わらぬ歩みで進んでくるようだ。割とこちらの指示する時間がある。余裕をもって対処できれば、大きな混乱もないだろう。まずは、防衛体制を整えなくてはいけない。

 

「段蔵、段蔵!」

 

「はっ!ここにおります」

 

「敵を全体から俯瞰してくれ。出来るか」

 

「容易いことにございます」

 

「ならば頼む。ついでに朝定たちを呼んできてくれ」

 

「承知致しました」

 

 サッと段蔵は去った。恐らく横陣となっている友軍全てに対峙している敵軍が進軍してきている事だろうと思われる。

 

「敵を引き付けろ。なるたけ正確な射撃が出来る位置まで引きずり込んでから弓兵は射かけるのだ!」

 

「はっ!」

 

 前衛の部隊に向かって指示を出す。敵兵が特に何の対応もしてこなければ、敵兵には数百の矢が降り注ぐことになるだろう。まぁそうなれば音に聞く門徒とかでなければ逃げ出す者が多発するだろうが。そんな狂信的な集団には見えないのだが、もしかしたら私の目がダメなだけの可能性はある。

 

 現代に狂信的な集団を直接目にすることは、少なくとも日本においてはまずない。最近だと中東地域では狂信的なイスラム原理主義者がテロを起こしている。私が中学一年生の頃にはアメリカのワールドトレードセンタービルとペンタゴンに飛行機が突っ込んだ。風邪をひいて学校を休んでいた時に台風情報を見ようと偶然つけたテレビでその映像を目の当たりにした。幼児期にはオウム真理教のサリン事件なども起こっていた。が、これは稀な例であり、普通は目にしない。1988年産まれの私からしてはよくわからない事もあるが、宗教が生活に根差していたり神の存在が身近なこの時代では狂信的な集団も大いにいる事だろう。宗教とは警戒しておくに越したことはない。そう言う意味では毘沙門天の化身を名乗る長尾景虎もある種の宗教なのかもしれない。

 

「胤治」

 

「はい」

 

「綱成のところへの使いを頼めるか。先ほど私の言ったことを厳命してくれ。攻撃は遠距離で。こちらから攻め寄せるのは禁止する。河越の直臣の多くはあちらに配属している。まぁ命令違反をするような者たちではないはずだ。綱成の教育も行き届いているだろう。とは言え、念のためな」

 

「直ちに」

 

 急いで馬に跨り走っていく胤治を見送る。敵の狙いがいまいち読めない。何を目論んでいる。突撃するならばしてまだわかる。だが、何故こうも緩慢な動きなのか。そんな思考は伝令の声で遮られる。

 

「申し上げます!」

 

「いかがした」

 

「多米周防守様がお見えです」

 

「元忠が?通せ」

 

 何をしに来たのかは検討がつかないが、取り敢えず用事があるのなら会わない訳にはいかない。彼女は将としての質が高い。非常に優秀な武将だ。武勇も知略もあるので、もしかしたら敵の不可解な行動の答え合わせも出来るかもしれない。三人寄れば文殊の知恵とも言う。二人しかいないが。

 

 ガチャガチャと鎧の擦れる音がし、天幕がめくられる。

 

「すまないな急に押しかけて」

 

「いや、構わないが…そちらの部隊はどうした」

 

「配下に一時預けてある。時が惜しい。早速本題に入るが、この動き、どう見る」

 

「今の時点では何とも。予測の域を出ない」

 

「だがどうも敵軍の動きに仕組まれた何かを感じるのは私の気のせいか」

 

「いや、同意する。或いは…沼田と同じか?戦法を真似ているのだろうか」

 

 沼田と同じ戦法とは、少し攻めたらすぐに後退して幾度となくそれを繰り返して敵の士気と体力と精神力を削ぎ、その後に敵は臆病なりと油断させ、そこを奇襲すると言うものだ。かつて沼田城での合戦の際に長尾政景以下の軍勢に対して用いた策であった。それをパクられている可能性はありえた。

 

「使われた策を使い返すだろうか?種も仕掛けも割れていると言うのに」

 

「それもそうなのだ」

 

 まったくもってその通りであり、こちらが先に使ったのだからその仕組みも良く把握している。下手に真似ても、いや上手に同じことが出来てもこちらの指揮官は油断することは無いだろう。何しろこの前に自分たちが用いた策なのだから。可能性としてあり得るとは思ったものの、そのパーセンテージはかなり低そうだった。

 

「奇襲か?」

 

「誰の」

 

「長尾景虎のだ。あり得ない話ではないだろう。そう言う相手だと、お前が言ったのではなかったか?」

 

 元忠の問いはその通りだった。奇襲策への警戒は述べた。こちらも夜襲を得意として多くの奇襲攻撃で大きな戦果を挙げている。興国寺、河越、沼田。この三つをとってもそうだった。奇襲を用いるからこそ、その怖さを知らなくてはいけない。

 

「だが長尾景虎は戦場の奥の方にいる。前に出たくとも玉突きのようになってしまうぞ」

 

「回り込むのはどうだ」

 

「確かに現在長尾本隊が布陣している場所にある街道は山を迂回して南下すれば松田殿の隊がいる街道に繋がるが…時間がかかり過ぎてその間に発見されるだろう」

 

「突っ切った可能性はないか」

 

「無いだろう。山だぞ。不可能とは言わないが、正気の沙汰とは言えない」

 

「だがそれ以外に考えられない。突発的に戦端が開かれたにしてはやけに統率がとれている。抜け駆けでもないだろう。そうだったら走って吶喊してくるだろうからな。時間稼ぎをしていると考える他ないと思うが」

 

「……あり得ない、と一蹴するには条件がそろい過ぎているか」

 

 現に元忠の言う通りだった。奇襲するなら今は最高のタイミングに他ならない。ともすれば、あり得る話ではあった。

 

「なるほど、気付いたところで我らは見事に動けない。下手に動けば敵もそれを察知して突っ込んでくるだろうからな。一杯喰わされれかもしれん」

 

「どうする。放置、という訳にはいかないぞ」

 

「氏康様自らお気づきになられればそれで済む話だが」

 

 そうすれば本隊がすぐに対応策をとるだろう。本隊の状況は今のところよくわからない。情報伝達にタイムラグがあるのもこの時代の戦闘の大きな問題だった。現代ならばガラケーがあるのに…。パソコンも電話もない時代に何を求めると言われればそれまでだが。いずれはパソコンもガラケーサイズになるのかもしれないが…私が高2の時点ではまだなかった。

 

「ひょっとすると、もう既に襲われているやもしれない。或いは間もなく山を越え終わるかも…」

 

「そうなると遅いか…」

 

「お前の指示に従おう」 

 

「良いのか?同期とは言え、そちらの方が譜代。本来なら私が従うのが道理だが」

 

「お前の方が頭が回るだろう。悔しい限りだが、今は仕方ない。いつか並び立つまでは、才ある者の指示を聞き、盗むまで」

 

「……そうか」

 

 こういう思考をしてくれる人が多いから私はここで生きられている。あまつさえ、このような地位にいる。他の家で果たしてこうなるのだろうか。武田なら或いは可能かもしれない。もしくは織田か。それ以外となると途端にダメな気がする。よっぽどのことをしない限りは不可能だろう。

 

 ともかく、今は奇襲?があるかもしれないという事への対策だ。兵を割くにしても誰を、どのくらいと言う問題が発生する。上野諸将の軍を前に出してこちらと合流させる必要があるかもしれない。壁を厚くして、その間に増援を派兵する。これが最良のプロセスかもしれない。

 

 取り敢えずの思考が固まり、口を開こうとした矢先戦場偵察に行かせた段蔵が急遽帰陣した。なにやら慌てている。その上左腕を抑えている。非常に嫌な予感がした。

 

「どうした」

 

「本陣に奇襲。騎兵多数、中には恐らく大将と思われる騎馬武者が」

 

「左腕は何があった。お前のような強者(つわもの)が」

 

「これを討てば終わりかと長尾景虎と推測される白い肌の娘に攻撃しましたところ、弾き飛ばされました。しかし、軽微な傷です。折れてもおりませぬ。不可思議な技にて、どうも殺気を感じません。妖術遣いがなにを言うと思われるでしょうが、面妖です。お気を付けを」

 

「分かった。傷を労り、下がれ」

 

「不覚を取りました。申し訳ございません。護衛は出来ますので、忍ばせて頂きます」

 

 そう言うと彼女はスッと気配を消す。控えめに言ってかなりの戦闘力を持つ彼女が弾き飛ばされる、もっと言えば攻撃できないとはどういう理屈なのだろうか。それこそ、妖術のように何か超科学的な現象によってなされた事なのだろうか。それよりも今は本陣奇襲の話だった。

 

「恐れていた最悪の事態が起こったな」

 

「今すぐ救援に向かわねば!」

 

「まぁ待て。逸っても碌な結果にならない」

 

「だが座して見ているなど不可能だ。氏康様に万が一があれば、私は…。それはお前も同じのはず」

 

「だからだ。だからこそ、最も効果的な形でお助けせねばならない。違うか」

 

「……分かった。だが悠長に問答している時間も惜しい」

 

 元忠はキッとした目でこちらを見つめる。言外に早くしろと迫って来ていた。とは言え、ここは本隊から一番遠い。そう易々とは動けない。そこへやっとこさ北武蔵衆がやって来る。遅いと言いたかったが、色々準備に手間取ったのだろうと推察して呑み込んだ。

 

「時間が惜しい。手短に話すが、現在本隊が奇襲を受けている。現状どのような戦況なのかを特定するのが困難なため、救援に行かねばならない。つまり兵を割く。これに際し、抜けた穴は上野諸将に埋めてもらうつもりだ。何かあるか」

 

「どなたが救援に?」

 

「私が行く」

 

 朝定の問いに元忠が答える。人選は割と問題だったので、悩みどころだったがこの解答には少し驚いた。

 

「だが、そちらの部隊はどうするのだ」

 

「お前に預ける」

 

「……」

 

 敵将は色部勝長と柿崎景家。なめてかかって勝てるような相手ではないだろう。しかし、本隊を襲っているのはおそらく長尾景虎本人。ともすれば、それ相応の相手を差し向けねばならない。一瞬迷うが、すぐ答えをだす。

 

「分かった。姫様を頼む」

 

「勿論。我が隊から精鋭百騎を出す。興国寺を勝ち抜いた騎兵だ。必ず勝てるだろう」

 

「こちらからも幾人か出そう」

 

「であれば俺が参ろう」

 

「太田殿、お頼みできるか」

 

「任されたし。長尾景虎なにするものぞ。武蔵武士の力を見せるまで」

 

「よし。太田殿に二百を預ける。元忠と協力して奇襲部隊を退かせてくれ。恐らく敵の狙いは氏康様の首一つ。それが無理と分かればすぐさま退くはずだ。これに全てを賭けているだろうからな」

 

 全員が頷いたのを確認する。そう、あくまで敵の殲滅ではなく敵を撤退をさせるのが今回の目的。そこを見失ってはいけない。どうあっても長尾軍はその目標たる北条軍の壊滅、並びに上杉憲政の復権を成し遂げるのは不可能に近い。ならば、無駄な損害は避けるべきだった。

 

「では、これより本隊へ援軍に行く!後は頼んだぞ」

 

 足早に陣外へ出ていきながら話す元忠。普段はこんな感じではないのだが、幾分冷静ではなくなっているのだろう。それはこちらも同じことだったが、自分より慌てている者がいるとこちらも落ち着くらしい。とは言え、気が急いていては下手なミスをやらかしかねない。

 

「元忠!」

 

「どうした」

 

 呼びかけに振り返った彼女に自分の大刀を放り投げる。今となっては懐かしい花倉城陥落の功績により今川家より貰ったものだ。由来不明、恐らくは…と言う銘は伝わるもののいつからあるのかも不明のようだった。扱いに困っていたのを下げ渡したのだと後に聞いた。とは言え、名門からの下賜品。そうそう変なものではない。しかも抜群の切れ味と刃こぼれの無さで今まで多くの戦で役立っている。相棒ともいえる逸品だった。

 

「貸す。生きて返せ」

 

 なんなくキャッチしてのけたものの、いきなりの行動に困惑していたようだったが、私の言葉でこちらの意図を察したのかニヤッと笑い刀を持った手を軽く上げて応え、そのまま走って行った。長尾景虎本人と戦闘するかは不明だが、もしそうなったときに役立つだろうと思って渡した訳だ。危険な任務に変わりはないので、必ず生還出来るようにとのまじないも込めているが。

 

 続いて太田資正もサッと陣を出ていく。すぐに兵を招集して駆け出して行った。これでひとまずは何とかなるだろう。

 

「朝定はここにいてくれ。護衛もいる。ここが一番安心だ」

 

「はい。わかりました」

 

「上杉殿、成田殿にはもうひと働きお願いしたい。ここを耐えれば勝利は目前。気張るは今なれば。上田殿は本陣の守りを朝定と共にお願いしたく」

 

「「「承知した!」」」

 

「私も前線に出よう。ここに踏ん張っているだけで勝たせてくれるほど、敵将は甘くは無いだろうからな」

 

 送った部隊の成果を案じながらも陣幕を飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 その頃、長尾軍は前進と後退を繰り返していた。損害はそこまで多くはないものの、疲労はたまる。とは言え、さして難しい陣形を組まされている訳ではない。そこまで苦労はしていない。がやはりストレスはたまる。戦場とは極限の空間。生死を争う場でこんな風に突撃するでもなく、退くでもなくと言うのはかなり堪えるものだった。

 

 それでも彼らはこの先に勝利があると信じるしかない。作戦の真意を知っているのは一部の上層部のみ。奇襲が成功すれば少なくとも北条軍は一度は瓦解し、敗走するだろう。そうなれば上杉憲政の復権は叶う。上杉憲政がどれだけ人でなしであっても流石にこれだけの事をしてもらった相手を裏切るなど不可能。戦っても勝てる見込みなどないのだから。

 

 更にはここで大功をあげれば景虎を己がものにと目論むものも多くいる。そんな状況ではあるがなかなかに奮戦しており、現在北条軍の前線にいる多くの部隊は全て釘付けになっていた。北条軍の最大部隊は北条氏邦を中心とする部隊四千五百だ。しかし、この部隊も北条高広のねちっこい攻めに苦労していた。鮎川清実も反戦派ではありながらもこうなっては仕方ない、生きて越後に戻るために何とかするのだと思い詰め、行動している。景虎の通る道を開けた方が良いだろうと考えた彼は後ろに陣どる政景に協力を依頼。二部隊で松田隊を自軍側にやや引きずり込み、道を開けさせた。

 

 このタイミングで景虎本隊が山越えの強行軍を完了。一斉に氏康の本陣を目指して走り出した。土煙から奇襲が行われていることを見て取った長尾軍はこれを機に援軍に行かせられる兵を減らすべく、一斉攻勢を開始。今まではのらりくらりとしていて本気度の感じられない責めだったにも拘らず一気呵成に猛攻撃を仕掛けたのである。その為、松田隊、氏邦隊、幻庵隊などは釘付けにされ兵を割く余力はなかった。

 

 兼音たちの相手である柿崎景家や色部勝長が、兼音が元忠たちを送り出した時点で猛攻撃をしていなかった理由は伝達速度の問題である。単純に景虎本隊が氏康を急襲したかどうかが伝わっていなかったのだ。そのタイムラグのおかげで兼音は元忠たちを送りだせた。この辺りは段蔵のファインプレーと言える。なお、一番東にいる長尾軍の加地春綱は北新波砦の攻略を命令されていたが、綱成隊にボコボコにされていた。ここだけ北条軍は圧倒的優位に戦況を進めているが、他は思い通りとはいかなかった。無論、奇襲を受けてすぐに氏康の本隊が襲撃されたと他の北条軍部隊にも伝令が行くも、長尾軍の猛攻と奇襲の混乱でとても兵を割ける状態では無かった。つまり氏康は兼音たちの送った精鋭騎兵三百が来るまで自前の三千で迫りくる二千の猛攻に耐えなくてはいけなくなったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時系列は戻り、氏康が奇襲される直前になる。彼女はやや後方にある本陣で前線の戦況に関する報告を受けていた。どうも敵軍は緩慢に攻めてきており、こちらも下手に挑発に乗れば損害を受けるのは確実。とは言え無視も出来ず、敵に釘付けになっている旨の報せを聞いていた。

 

 戦国の日本において有数の頭脳を持っているだけのことはあり、すぐさま氏康は敵の意図を考える。だが彼女の思考についていけそうな相談相手はみんな出払ってしまっていた。盛昌は後方の高崎城に。兼音と元忠は前線にいる。幻庵も同様。氏政は和田城にいる。結局一人でうんうんと唸ることになった。

 

 それでもやはり知将。敵は恐らく何らかの時間稼ぎをしていて、それは恐らく長尾景虎本人が出陣してくるまでの時間稼ぎであろうと結論を出した。一人でここまで考えられるので普通に凄く優秀な事が伺える。だがここで氏康は一つ読み違えをする。長尾景虎は正面突破をしてくるだろうと考えたのだ。氏康は山の中の間道を知らない。知っていてもそこからは通常であれば来ないため、考えないだろう。そして氏康は良くも悪くも常識人。武田晴信に言わせればお嬢様だった。非常識的な発想をするのを苦手としており、堅実な作戦は得意なものの完全に頭おかしいことをしてくる相手は苦手だった。

 

 その相性最悪の相手と敵対しているのは不幸としか言いようがない。正面から来ようが氏邦以下の部隊がそこにいるのだし、勢いが強かろうと防げるだろうと思っている。もし厳しければ本陣から兵を割けばいいかと思っていたその時に風魔が慌てた様子で姿を現した。ただならぬ様子と嫌な予感に顔を引き攣らせながら氏康は問うた。その解答は彼女の想像を絶していた。

 

「長尾景虎、二千にて奇襲を敢行。現在西方の街道より、本陣目掛けて一目散に駆けてきております!」

 

「西方?正面ではなく!?」

 

「西方でございます。恐らく山越えをしてきたのかと。地元の者しか知らぬ間道があったようにて」

 

 山越えなんて正気の沙汰ではないと思ったものの、そんな事を言っても敵は待ってはくれない。混乱はしているが、それで指揮が出来無いようでは大軍の主は務まらない。

 

「全軍、防衛体制!」

 

 ここを乗り越えられなければ北条は斜陽になりかねない。命の危機に瀕しているという意味では河越より酷いかもしれない…と氏康は冷や汗を流しながら配下を叱咤した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 丁度同じ時系列で景虎は山越えを終えていた。彼女の視界の先にははためく三鱗の旗。そこに敵総大将氏康がいるのは火を見るよりも明らかだった。義をなすために、父の罪を雪ぐために。この戦いに負けることは出来ない。確かに、このまま上野に居続けることは出来ない。とは言え、氏康を排除できれば数年は北条家の動きは鈍くなるだろう。その間に上野を奪還すれば…と考えているのだ。

 

 先頭を迷いなく駆けて行く。彼女の強行軍に付き合った精鋭たちが後ろに続く。主に後れを取るものかという者もいれば、ここで武功を立ててあわよくば…という者もいる。純粋に義信を重んじる景虎に感動し信者となっている者もいた。

 

 鮎川清実が上手く松田隊を引きずり込み、北条高広が巧妙に氏邦隊を引き付けているため、道に遮るものは何もなかった。天性の感か、風や気の流れか、景虎は氏康の位置を悟った。本隊の中央にいる。そこを目掛けて迷うことなく馬首を向ける。だが、そこにそれを遮るものがいた。ちょうど少し前に戦場を俯瞰して来いと命じられた一条兼音の配下にして河越城の忍び頭・加藤段蔵である。

 

彼女は考えた。彼女の主である一条兼音は彼の副将・花倉兼成の暗殺未遂を命じた(実際は樋口兼豊の独断だが、それを知っているのは命じた本人だけなのである)長尾景虎に激怒している。ならばこちらもやり返したとて問題ないだろう、と。確かに兼音の激怒は事実だった。それに、段蔵自身も気の良い同僚(実際は上司)であり、日陰者である自分たちに普通に接してくれている彼女の襲撃に些かお冠であった。同時にそれは護衛できなかった、もっと言えば護衛に人数を割けなかった自分たちの不甲斐なさへの怒りでもあるのだが。また、北条家ならば関東に平和ももたらせると信じる彼女からすれば景虎は障害物でしかなかった。

 

 そんな存在が軍勢の先頭を行軍している。これは狙う以外の選択肢はなかった。景虎が間合いに入ったのを確認し、一気に躍り出てクナイを多数投げつけた。これは払われる。だがここまでは予想のうち。景虎は武人。これくらいは出来るだろうと想定していた。なので彼女の狙いは別。クナイを払ったがために景虎の武器はすぐに段蔵に対応できる位置に無い。その為持っている短刀で喉を掻き切ろうとしたのだった。

 

 だが、ここで異変が起きた。景虎は馬上でありながらまるで舞を舞うかのように細い身体を緩やかに躍らせて――円を描くように、東国最強の忍びの攻撃から、己の身体を移動させていた。緩やかに――とは、段蔵が感じたことであって、実際には一瞬のうちに景虎の上半身が段蔵の剣の移動線から移動しているのだが、段蔵の目には、景虎がゆったりと舞っているようにしか見えなかった。桜の花びらが、景虎の身体へと舞い散っているかのように、見えた。

 

 そしてその事態に一瞬固まった時に速すぎる景虎の剣が段蔵の腕に触れる。切断されたり大怪我を負うような傷では無かったが、確かに一太刀が加えられた。確かに固まったが一瞬。隙というには刹那過ぎた。景虎には「殺気」がない。段蔵は彼女の強さの基準を垣間見た。その振る舞いは、あの剣術を極めた剣聖上泉信綱とも、違う。殺気が無いからこそ、殺気に満ちた者の攻撃への最大の防御になり、攻撃になる。

 

 或いは、本当に彼女は神仏の化身であり、自分のような凡俗の非英雄では傷を負わせるのは不可能なのかもしれないと心の奥底で密かに段蔵は思った。もしそうだとしたら景虎を攻撃できるのは英雄であり、神を落とせる器を持った者。瞬時に彼女の脳裏に己の主が浮かぶ。少し遅れて小田原の女主人の顔が浮かんだ。

 

 ともかく、手負いとなった以上まだここにいるのは危険だ。早く主に状況報告をせねばならない。独断専行が過ぎた、と反省し、段蔵は急いで兼音の陣へ向かう。傷を負ったことで己が冷静でなかったことを思い知らされたのである。そして時系列は序盤に戻る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「防衛網破られます!」

 

「絶対に通すな!死んでも守り抜け!」

 

「勢いが強すぎて防げない!」

 

 阿鼻叫喚の叫びが聞こえてくる。氏康の本陣は奇襲により混乱していた。ただの奇襲ならばこうはならなかったかもしれない。だが、相手が悪すぎた。風魔による情報で完全な形での奇襲は避けられた。事前に備えをして指示を出せるくらいの時間は与えられた。何とか防備体制は整っていたはずだった。しかし勢いが強すぎる。景虎以下の騎兵はすさまじい速度と力で強引に防衛網をこじ開け、本陣の中枢目掛けて突撃している。

 

 逃げたいと心の中では思っている氏康だが、総大将が皆を置き去りにして一人だけ逃げる訳にはいかないと踏ん張っていた。最悪自分が死んでも氏政や為昌がいる。兼音や元忠、盛昌らの若い衆も多い。老臣も頼れる者がたくさんいる。酷いことにはならないだろうと踏んでいた。とは言え、まだまだ死にたくなどない。やるべきこと、やりたいことがたくさんある。何より…

 

「白無垢も着ないで、死ぬなんて御免被るわ!」

 

 と叫びながら次々来る報告を捌いている。流石は精鋭そろいの馬廻。さしもの景虎麾下をもってしても容易には突破できないようだった。だがただの武者は防げても神がかりとなると苦しい。本陣の幕を飛び越えて白い行人包みを被った少女が飛んでくる。赤い目に雪のような肌。特徴を伝え聞く長尾景虎その人そっくりだった。

 

 ゴクリ、氏康は唾を飲み込む。ここが運命の分水嶺にいると察している。槍などの得物を構える家臣を手で制す。馬上から行人包みの少女が語りかけた。

 

「お前が、北条氏康か」

 

「ええ、そうよ。そういうそちらは長尾景虎ね」

 

「そうだ。私が長尾景虎。義によってお前の野望を砕く者だ」

 

 槍が向けられる穂先を突き付けられても氏康は動じなかった。しっかと両の目で景虎の紅き瞳をにらみ返す。ルビーのような眼とアメジストのような瞳とが睨み合っていた。

 

「義、ね。なるほど、お前は清廉潔白でさぞ高潔なのだろう。だが、それで何を成せる」

 

「何だと」

 

「お前の言う義とは何。幕府?上杉憲政?それともそれらを包括する古き秩序?」

 

「全てだ。今は衰え、力を失っていても道理のある者を助ける。それが私の義。氏康、お前の言うそれらもまたそうなるだろう」

 

 これまであくまでも冷静に冷静にと対処してきた氏康の血管がここでキレた。

 

「幕府が一体何をした!古き秩序が、一体だれを守ってくれたと言うの!いつだって傷つくのは力なき者たち。強者の思惑に振り回されて、餓え、苦しみ、死んでいく。古い秩序がいつ、彼らを救済したの!いつ、彼らと共に前に進もうとしたの!同じ日々を繰り返して、何も成さず、何も行わず、ただ無意味に日々を浪費して欲望のままに突き進み、そしてその結果が応仁の大乱ではなかったの!?」

 

「だが、それであっても正さねばならないものはある。毘沙門天の化身として、私はこの乱れた世界に…」 

 

「神に祈ったところで世界は変わらない。確かに、お前が生きている間はもしかしたら救いはあるのかもしれない。それでも死んだら全ておしまいだ。神を失った人は、すがるものを失い絶望し、そして嘆くだろう。嘆くだけで何も出来ない者たちを産むだけだ。人は神ではなく、己の足で立って、前に進まなくてはいけない!それが、この苦しみに満ち、死に溢れた乱世をおさめる唯一の道よ!人が神に導かれる時代はもう終わったの。これからは、人が、人を信じて歩む時代よ。そして、そこにお前の居場所はないわ!長尾景虎!」

 

 言い終わると同時に後ろ手に隠していた鞭を振るう。氏康は武闘派でない。だが、こと鞭術に関してはトップクラスの腕前を持っていた。狭い空間でも使え、伸縮自在。軽さもあり隠しやすい。なんともおあつらえ向きの武器だった。その氏康の鞭が景虎の槍を振り払う。思わぬ氏康の発言の数々に動揺していた景虎は少し行動が遅れた。槍が地に落ちる。すかさず氏康の第二攻撃が来る。

 

 だが、景虎もそれを見ているだけではない。瞬時に反応して剣を抜き、鞭の攻撃に対処していた。数合打ちあうが、両者ともに体力がそこまでない。いつか限界が来るのだが、それが人より早い二人にとってはどちらが先に力尽きるかが勝負の分かれ目だった。しなやかに鞭は宙を舞い、鋭い剣は喉元を狙う。

 

 正確無比な剣裁きをどうにかこうにか躱していた。もしこの世界に、この東国の地に神を落とせる者がいたとしたならば、その一人が氏康に他ならない。残念ながら、長尾政景では景虎を地上へは引きずり落とせない。神を否定し、人の力で明日を創らんとする者――すなわち近世の扉を開かんとする者だけが、その資格を有していた。武田晴信しかり、北条氏康しかり、一条兼音しかりである。それも相まって、天性の武のセンスを持ち、神がかり的な強さを保持している景虎相手に氏康は奮戦できているのである。

 

 遂に氏康の体力が限界に近くなる。もう数十は打ち合っていた。手から得物を弾き飛ばされ、彼女は死を覚悟する。だが、どういう訳か景虎は止めを刺すのではなく、氏康の顔を見つめてきた。

 

「どうして、私を殺さない。私を殺せば、お前の血で穢れた果たされることの無い夢はわずかだけれど完成に近づくのよ」

 

「……分からない。お前は、悪だと憲政様は言われた。関東の大地を侵し、関東公方様を操る簒奪者、大罪人であると。私もそう思う。お前は秩序を破壊している。甲斐の武田晴信と同じだ。だが……お前からは悪の気は感じられない。何故だ」

 

 それはある意味では景虎であるからこそ感じ取れたことだった。元々感受性の強い性質の彼女には、氏康の人となりを知る事が出来た。それが例え戦場のど真ん中で行われる、血で血を洗う斬り合いのさなかだったとしても。

 

「知らないわよ、そんなこと」

 

 氏康は吐き捨てるように言う。彼女の脳裏には小田原の街が思い浮かぶ。この遠征の始まる前、関東管領の就任式の時の思い出が蘇る。町の中を歩いた。普段は目にできない自分の城下を知れた。あの時、多くの人が幸せそうに歩いていた。それこそ、このいつまでの戦いの収まらない世界ではなく別の世界であるかのように。

 

「私はお前とは違う。すべての救済も、正しき世界の創造も出来っこないのは知っているわ。私の手は小さい。けれど、関東のこの世界だけなら、私の手でも掬い上げられるかもしれない」

 

 戦場を舞い散る土埃に、けほけほと咳き込みながら氏康はそれでも力強く言い放った。

 

「小田原の街を見た。多くの人が笑っていた。その姿を守り、そしてこの地で未来永劫誰もが幸せになれる世界を夢見ることを悪だと言うのなら、私は悪で良い!後世の歴史家に中傷されようと、お前のような者に糾弾されようと、私は構わない。見るべき相手は、そこではないのだから!」

 

 その言葉に、景虎は固まるしかなかった。人は皆、普通は善たらんと欲して生きているはずだ。勿論例外はあるだろうが、と思っていた。しかし、この目の前の者の叫びには、悪の気はない。それどころか、善性すら感じられる。にも拘らず、彼女は己が悪であっても良いと言った。その心は、景虎が理解するには時間が足りな過ぎた。愛を知っている者、正しい愛に包まれて育った者が見る世界とそうでない者、歪んだ愛を向けられる者が見る世界。それが交わる事は無いのだ。少なくとも、この時においては。 

 

 叫びながらも氏康は何とか打開策を探っている。そしてそんな彼女に救世主が現れた。

 

 

 

 

 

 

 

「姫様を討たせるな!突撃!!」

 

 本陣に襲い掛かる景虎の本隊を見た元忠は馬上で剣を振るう。預かりものだが、よく手に馴染んだ。切っ先で敵を指し示しながら己も駆け出した。合流した太田資正たちを併せても三百しかいない。されど、この三百は精鋭中の精鋭。騎兵が三百吶喊してくる状態に、今まで本陣の兵にかかりきりだった長尾兵は意表を突かれる形となる。

 

 さしもの奇襲兵も、自分たちが奇襲される身となってしまってはどうしようもない。奮戦していた本隊の上を軽々と飛び越えた騎兵に次々と討ち取られていた。乱戦の最中である。弓も使えない。鉄砲は長尾軍には無い。ならば騎兵は圧倒的に有利。しかもこの彼らは重装備を置き捨てて速度を優先した軽騎兵である。人馬諸共身軽に動き回り、長尾軍を圧倒していった。

 

 

 

 

 

 

 

「時機を逸した、か」

 

 景虎は剣を引っ込めながらそう呟いた。

 

「…お前が悪で良いと言うのなら、私はそれを倒すのみだ」

 

「人形のような生き方ね」

 

「それしか、私には無い。父上の罪を償うのが、私の生きる意味だ」

 

 そう言うと景虎は馬首を返して去る。遠くから「姫様!何処においでか!ご無事ですか!」と叫ぶ元忠の声がする。命の危機は脱せたと安堵しながら、へなへなと床几に座り込む。気が抜けた結果、腰が抜けかかっていた。

 

 大魚を取り損ねた長尾軍はくるりと反転して北上する。この辺りの動きの緻密さは流石長尾軍の精鋭と言えた。北上した景虎たちはそのまま松田隊と氏邦隊の間を駆け抜ける。正直無茶苦茶な挙動ではあるが、氏康本隊並びに元忠の援軍が追撃しなかったこと、松田隊・氏邦隊が激戦の中であったことなどが起因して、何とか駆け抜けられた。同時に長尾軍の将たちに撤退命令が出される。

 

 まずは大熊隊がさっさと兵を退いて榛名湖方面へ退いた。続いて長尾景信、斎藤朝信が撤退を始める。氏康の命令を厳守している北条軍は突然の攻勢中止と敵軍の撤退を前にしても追撃を禁じて追わなかった。それを確認して甘粕景持、新津勝資が退く。柿崎景家と色部勝長はもう少し粘ろうとしたが、胤治が再三止めたのだが勢い余って加地春綱を撃破してしまった綱成が横っ腹をついてきたのに加え、兼音たちの決死の指揮、合流させられた上野諸将の思わぬ奮戦によってこれ以上は危険と判断し、桃井城へと引き上げていった。北条高広・長尾政景・樋口兼豊が殿となり奮戦でボロボロの鮎川清実の撤退を支援。斎藤憲広は大熊が退いた段階でゆっくり後退を開始。自分の城へと帰って行った。長尾軍はこの後斎藤憲広と直江実綱を除いて桃井城へ集結することとなる。

 

 そしてこの晩、関東では今年初となる雪が降り、これ以上は留まれないと判断した景虎直々に帰国が表明され、背後からの奇襲に警戒しつつ撤退することとなる。

 

 

 

 

 

 

 この箕輪城の戦いにおける長尾軍の損害は長野軍を除いて一万九千人中、死者行方不明者九百人ほど。反対に北条軍は二万二千人中、死者行方不明者六百人ほど。数字の上ではあまり変わらなかった。北条軍は戦闘目標だった長尾軍の後退並びに前線の維持には成功。しかし、これ以上の攻勢は不可能であり、当初の戦略目標だった上野の制覇、箕輪城の陥落は無理であった。長尾軍は戦闘目標の氏康の撃破には失敗。戦略目標の上杉憲政の上野復権も未達成であったものの、反北条勢力を上野に残すことには成功。奇襲も一応成功しているので勝敗判定は微妙なところであった。

 

 後世の歴史家の中には氏康は後一歩で死んでいた。故にそれほどまでの窮地に追い込んだ長尾軍の勝利という者も、反対に損害と戦略の観点から北条の勝利とする者もいる。だが大多数は引き分け判定を下していた。どちらも痛み分け、大軍が激突したにしては少ない死者数もこの引き分け判定を後押ししていた。

 

 三鱗記に曰く『正義、異なる正義を受け入れし事稀なり。蛮勇振るいし長尾の北狄、義を正さんと欲して来れども、涙さしぐみ帰りたり。これ毘沙門天より我らを守護したもう鶴岡八幡宮の神威高かりしことの証左なれば、我が方の勝利と言うに差し支え無きことと思われん。義を騙りながら我が副将をば害さんと刺客差し向けたるは真に許しがたき行いなり。この御礼は必ず成し遂げたく思い候』と。

 

 こうして巨大な勢力、そして日本有数の武将が衝突する箕輪城の戦いは閉幕したのだった。そして断ち切れぬ両者の恩讐は続き、これからも干戈を交える事となる。だが、ひとまずは上野の地に降り積もる雪がその因果を凍らせていた。




これにて、景虎の一回目の越山は終了です。一回目と言う事は…二回目以降があるという事ですね。……はぁ。次回は戦後処理の話をして、それが終われば武田家の話かなぁと思います。多分ですが。

感想の返信が鬼遅いですが、ちゃんと読んでますのでどしどしくださるとありがたいです。泣いて喜びます。何回投稿しても、頂いた感想を読む喜びは無くならないものですので。


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第71話 上州仕置

またしてもかな~り遅くなったことをお詫び申し上げます。今回はある種の戦後処理回です。


 長尾軍が撤退した二日後。雪はひとたび降るのを止めていたがまたいつ降り始めるとも分からない空模様だった。そんな寒空の中、箕輪城の外郭の一つに位置する法峰寺では、もう間もなく撤退を行う氏康と箕輪城の城主・長野業正の会談が執り行われていた。

 

 長野側の参加者は業正本人と藤井豊前守友忠。藤井友忠は長野十六槍の一人にして業正の娘婿である。対する氏康側はこれも氏康本人と重臣を出そうという話になり今回北条家家臣団の中で一番序列が上である松田盛秀が参加している。松田盛秀は北条三家老家の一つ松田家の当主である。同じ三家老家の盛昌もいるが、年齢的なものでこうなった。お世辞にも和やかなどとは到底言えるはずもない雰囲気の中、会談は行われようとしていたのである。

 

 最初に口火を切ったのは長野の方であった。

 

「鎌倉府執権・北条新九郎左京大夫平朝臣氏康殿に置かれては、此度は当方の申し出に応じて頂き恐悦至極。長野信濃守業正にござる。これに控えるは我が腹心の一人にして娘婿の藤井豊前守友忠にて候」

 

 業正の紹介に合わせて友忠が頭を下げる。敵対していても官位の上では圧倒的に氏康が上。礼節を知る業正としては下手に出るしかなかった。氏康が平朝臣なのは元の伊勢氏がそうだからである。ついでに言えば、かつての鎌倉時代の執権北条氏も平氏だった。

 

「これはご丁寧な挨拶痛み入ります。畏れ多くも御所より鎌倉府の執権に任じられております、北条新九郎氏康にございます。長野殿から見れば若輩。どうぞ、楽になさって下さい。私の隣に控えるは先代よりの宿老・松田尾張守盛秀です」

 

「ご配慮いただき感謝申し上げます」

 

 礼節には礼節を。氏康もここで尊大に出るのではなく、年上を敬う姿勢を見せる。それはそれとして地位は上である事を示すのは忘れない。若輩と言う言い方も、捉えようによっては業正は爺であるという風にも見える。腹の探り合いであった。

 

「さて、前置きが長くなっては待たせている臣下も苛立ちましょう。長野殿に単刀直入に言い渡す。これは鎌倉府の総意、引いては関東公方足利晴氏様のご意向とお考えあれ」

 

「謹んで拝聴いたす」

 

「我が方としては徒に陣を長引かせ民百姓を怨嗟させるは関東のためにならざるものと考える。故に、長野殿に置かれては早急に兵を解散し鎌倉府へ出頭あるべし」

 

 なかなか高圧的な言い方であるが、これが通るとは流石に考えていない。業正はこれに頑強に抗ったりへこへこするような性質でないことは見抜いている。上手く躱してくるだろうと。ならば、最初から吹っ掛けてもし通れば良し。通らなくても現実的な範囲に落とし込もうという戦法だった。業正も流石は年の功。一瞬で氏康の目論見を看破する。

 

「いやはや、それがしも関東に先祖代々住まう者なればその安寧を願う事他に負けずと自負しております。故に此度は不幸な行き違いとして鎌倉府が寛大な御処置をば我が主・憲政様共々下して頂けるのならばと考えておるところでございます。さすれば越後より老骨に鞭打って主をお連れするも吝かではございませんなぁ」

 

「上杉憲政は関東に大乱をもたらし秩序を乱した者ゆえ憲政の赦免は許さず。新たなる関東管領上杉朝定公の御就任式にも参上せずとあればこれ逆心あるは必定。もって国主追放、山内上杉は取り潰すべしと晴氏様はお望みである」

 

「なるほど、そこまでお怒りとは…されど、臣が思うに、君側の奸が晴氏様のもとに侍りある事ない事讒言致しておるのやもと疑うところにございます」

 

「では、業正殿は姫様が君側の奸であると仰せか!」

 

「控えよ盛秀。しかし、これは驚きました。上州の黄斑と謳われしお方の口からまさかそのような世迷言とは。この氏康、天地神明に誓って讒言など致さず天道のもと真っ当に政を司っておりますれば」

 

「氏康様がそのような事をなさるとはこの業正もゆめゆめ思ってなどおりませぬ。言葉足らずでしたな。されど、氏康様はご多忙。その隙を縫ってよからぬ輩が何を吹き込むかも分かりませんのでなぁ」

 

「我が臣をお疑いか?」

 

「ご家中の人数は多い事でしょう。さすれば氏康様の御目の行き届かぬところもありましょう」

 

「妻鹿田のような輩を家中に迎え入れるほど、我らの人物鑑定眼は甘くはないのですけれど…それでもお疑いか」

 

「いやはやそれを言われると痛い。奴は山内上杉家きっての汚点です故」

 

 憎々し気に業正は言う。あんな男でもそこそこの期間朋輩として同じ主に仕えていたのだ。その期間の記憶がかえって彼の憎しみや怒りを増大させていた。

 

「妻鹿田の話をされては返す言葉もござらん。この業正もあのような性根とはついぞ見抜けなんだゆえ。されど敢えて返させていただく。我が主の事となれば閉口する訳にもいきませんのでな」

 

「何故そこまで憲政に忠義を尽くす。もうあの男は敗軍の将。上野諸将の雪崩のような背信を以てしてもまだ彼に将器在りと言われるか?」

 

「最早冥土への旅路に出る日も近くなった老骨最後の御奉公と言うしかござらん。武士には時に道理よりも重んじるべきものがあるものでござる。それは、氏康様にもご理解いただけるかと」

 

「我が軍門に降れば上野半国をもって遇すると言おうと思っておりましたが、無駄のようですね」

 

「左様。この身朽ちる日までご抵抗申し上げる所存。足利晴氏様には逆心などございませぬが、我が主をお認め下さらぬとあらば致し方なき事。長尾殿も今後も変わらぬ支援を約束して下された」

 

「長尾と憲政に如何なる大義名分があると言われるのか」

 

「上方の公方(義輝)様は一年以内に憲政様を関東管領に戻すと仰せのようでござった。かつて関東管領は二人いた。故に旧来に倣い両上杉から関東管領を出すと。長尾殿はそのようなお話を某にして下さいましたがな。氏康様はご存じでないと?」

 

 これを聞いて驚いたのは氏康である。そんな話は寝耳に水だ。勿論はったりの可能性もある。業正が有利な条件を引き出す為の材料として嘘を言っている可能性はあった。しかし、もし本当だとしたら。この時代の情報伝達は遅い。流石に将軍が変わったのは知っているが、その人となりや方針までは伝聞していなかった。

 

「さてどうでしたかな。私も多忙の身。つい失念しているという事もあるやもしれません」

 

「そうでしたか。てっきり上方より疎んじられ公方様から故意にお話を受けておられないのかと邪推してしましました。よくよくお身体を労わられるがよいと存じます」

 

 もうにっちもさっちもいかなくなった氏康の取った策は誤魔化すだった。そこをネチネチついてくるほど業正も性格が悪いわけでは無い。怒らせたり恥をかかせてキレられても困るのだ。しかしチクリと刺すくらいはする。最後の台詞も、早く小田原に帰ってくれという意味も含まれていた。

 

 それはともかく、この情報の信ぴょう性の裏付けが取れない以上氏康が業正に大きな譲歩を迫る事は出来なくなった。上方の機嫌を損ねすぎると最悪討伐令が出されかねない。里見や佐竹、長尾も嬉々として攻め込んでくるだろう。ここら辺で手打ちかと氏康はため息を心の中で吐いた。あくまでの表には出さない。表向きは穏やかに冷静な姿を見せるのみだ。

 

「上州の冬は堪えると聞き及んでおります。我が兵も本格的な冬の到来を前に望郷の意思が高まっております。それはそちらも同じと考えますがいかに」

 

「そうですな。長野家中にも冬の備えをせねばと言う声もあります」

 

「ここで手打ちと致しましょう。こちらは箕輪の囲いを解き、これ以上の勢力拡大を行わない。反対にそちらも北条方の諸将の所領に手出しをしない。これが現実的な案ではと考えますがどう思われるか」

 

「……致し方なし。当方未だ一戦もせず、敗軍と言うには些か足りませぬが厳冬に戦えと申すも民を苦しめる事になり申す。一切の条項を呑み、停戦と致しましょうぞ」

 

「では、起請文を交わし、ひとまず一年の停戦と致しましょう。冬が明け、春の終わりまでは双方軍勢を動かす事罷りなりませんがよろしいか」

 

「同意致す。当方に同心している上野の者共にも某から言い渡しましょうぞ。さすればその者たちもこの約定に従いましょう」

 

 取り敢えず纏まったと氏康はホッと一安心である。ここで意固地になられて何年でも立て籠もってやると言われた日には面倒なことになる。それは回避できた。また新しい問題が浮上してきたが、それは今は他所へ追いやっておく。長野業正は誠実の人、約定はそう簡単に違えないだろう。その安心感はあった。勿論油断はしていない。備えはしっかりしておくつもりだった。現状維持で決まった今回の講和ではあるが、北条は上野の四分の三を手にしている。

 

 

【挿絵表示】

 

停戦ライン

 

 完全制圧が出来無かったのは残念ではあるが、概ね主要部分は抑えた。沼田、厩橋、平井、高崎、国峯などの諸城は悉く北条家の占領下だ。抵抗する主な城もこの箕輪と白井、岩櫃など限られている。急速な領土拡大の結果問題も幾つか出てきている。流石に急ぎ過ぎたかと反省気味の氏康であった。しばらくは内政をしっかりと固める期間にするつもりである。武田が長尾を引き付けてくれる。里見とは停戦中。新たに長野とも停戦となった。暫定的に抱えている戦線は全て無くなったと言える。

 

 サラサラと起請文を互いに書いて、血判を押した。こんなの破られてばかりなのが戦国だが、取り敢えず何もないよりかは相手の非を責めるのに使えるので有効だった。相手が先に約束を破れば起請文に反していると声高に叫べるのである。

 

 会談も何とか終了の気配を醸し出してきた。別れの口上を述べて客側であった氏康と盛秀は帰還の準備を始める。

 

「さて、これにてひとまずは丸く纏まりました。喜ばしい事です。長野殿も関東公方様の忠臣たらんとお望みの折はいつでも小田原に一報下さい。この氏康、喜んでお迎え申し上げる」

 

「これはありがたきお申し出。されど、その日が来る前にこの老体が骸となる方が先やもしれませぬな」

 

 暗に拒否しているのである。死んでも行かねぇよと言う意思表示だった。

 

「それでは臣を陣に待たせておりますれば、これにて失礼いたします。また、いずれ相まみえましょう」

 

「見事な采配をこの目に拝見できる日を老いた身ながら楽しみにお待ち申し上げましょうぞ」

 

「しからば御免」

 

「最後に一つ、個人的な儀ではございますが龍若丸様の件、改めて御礼申し上げます」

 

「……優れた道を残した武士の生き様に敬意を表したまで。敵対しようとも骸に鞭打つ非道は我らの望む所に非ざれば。特筆して礼を言われるべきことでは無いと我らは考えております」

 

 そう言うと、氏康と盛秀はスッと立ち上がり一礼した後に寺を後にした。その背中をゆっくりと礼をしながら業正は見送る。業正の寿命はまだ尽きないが、結局これがこの二人が直接会った最初で最後の瞬間となる。『末恐ろしい姫だ。儂が後十年若ければ呑み込まれておったやもしれん』と会談の後、業正は臣下に漏らしたと言う。これで講和は成立し、上野国内に一時の安寧がもたらされたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帰陣した氏康を多くの諸将が出迎える。長尾軍との戦闘が終了し次第箕輪を取り囲んでいた軍勢は囲いを解き高崎城まで後退していた。小田原まで戻る事も考えたが、上野諸将に関しては小田原へ向かって帰っての手間がかかるだろうと言う思いやりから上野内で今回の北伐の処理をしてしまおうという事になったのである。一同勢ぞろいした城内の大広間にて、略式ではあるが論功行賞と今後の展望を計る会議が開かれようとしていた。上座の氏康。隣には実権はないものの地位的には同格の関東管領の朝定が座っている。居並ぶ諸将を前に氏康は高らかに宣言する。

 

「まずは此度の勝利を祝いましょう。北伐の目的であった上野の解放を完全に成すことは出来なかったけれど、憎き山内上杉をこの関東より追い出すことが出来たわ!」

 

「「「おめでとうございます!」」」

 

 一斉に諸将が声をあげる。老臣たちも古くから、それこそ早雲時代から敵対勢力であった山内上杉を関東より追えたことに喜びを隠せない。上野の諸将も取り敢えずこれで裏切り者と処刑される危険性から解放され一安心の様子であった。

 

「皆が多くの献身をしてくれた。一人一人称えたいところではあるけれど、それをしていては日が暮れ明日の朝日が昇ってしまうわ。故に、代表的な者を選んで功を労います。けれど、決してそれ以外の者も落胆することの無きように。必ず追って褒賞を約束するわ。まずは東上野の諸将」

 

 いの一番に名前を呼ばれるとはついぞ思っていなかった面々は驚いて顔を上げている。

 

「貴方たちが関東の民、そして今後百年の大計を案じて戦わずして我らの大義に与してくれたからこそ、迅速に事は運んだわ。加えて、多くの戦いでの数々の軍功。まさに褒め称えるべき事よ。北条は腰抜け憲政とは違う。外敵あれば必ず貴方たちを守ります。遠慮なく援軍を乞いなさい」

 

 そう言われては悪い気はしない。新参でありながらもしっかりとその功を評価してくれると言うのは彼らにとって大きな利点だった。そして裏切り者ではなく、大義のために、そして関東のために降ったのだと言われれば何となく自分たちが正義の側に立っているような気分になってくるのである。百年の大計とか言われると更に自分がなにか途方もない先を読んで行動したかのような後付けがされて気分が悪くなるはずもない。加えて戦勝後すぐであるがゆえに興奮がおさまっていない。このリップサービスも素直に受け取っていた。

 

 ここにはいないが、彼ら以外にも多くの服属を願い出る者が出ており、安中重繁や小幡憲重も降伏を願い出ている。また、沼田城の金子泰清・沼田景義や上泉城の上泉秀胤などもいた。

 

「続いて成田武蔵介長泰」

 

「ははっ!」

 

「貴殿が由良家やその他の家に働きかけ、彼らを正しき道へ導く担い手となったと兼音から聞き及んでいます。流石は八幡太郎義家公よりの名門。影響力の強さには感服したわ。敵に回られたら大変であったことでしょう。これからもその伝手を我らのために使う事を望みます」

 

「過分なお言葉恐悦至極。鎌倉府のため、この長泰粉骨砕身致しましょうぞ」

 

 成田長泰は北武蔵衆として一括で兼音の傘下にいるが厳密には少し他の北武蔵衆とは異なっている。と言うのも、彼は元山内上杉家家臣。他は扇谷上杉家家臣だ。朝定本人への忠誠と関東管領就任の斡旋によって氏康や北条家に恩義を感じている彼らとは違い、成田長泰に特にそう言うものは無い。強いので逆らってはマズいと従っているのだ。なので、彼の自尊心を満たし、繋ぎとめる必要があった。その為の言葉である。名門意識を持っている長泰のある種の弱点をピンポイントで突いた発言であり、事実彼の自尊心は完璧に満たされていた。

 

「他の北武蔵の諸将も良くやってくれた。関東管領麾下の名に恥じぬ活躍であった。特に太田美濃守などは私の窮地に救援に来てくれるなどしてくれたわね。それはしっかりと記録しているわ。しかるべき後、兼音を通じて沙汰を渡します」

 

「「「「はっ!」」」」

 

 外様から順番に。そうやって心を繋ぎ止めているのだ。譜代の家臣もそれを理解しているので何も言わない。

 

「長尾景総!」

 

「はっ」

 

「よくぞ逆臣たる兄を討った。また、和田業繁を捕らえたことも賞賛に値します。貴方がこれからの総社長尾の当主よ。地位は変われど貴方は私の大切な臣下。変わらぬ忠節を期待します」

 

「ありがたき幸せ!」

 

 そこからもどんどんと会は進んでいく。多くの譜代の臣が賞される中、特にとピックアップされて称えられたのは大道寺盛昌と多米元忠、そして我らが一条兼音の若手同期三人組だった。

 

「まず盛昌はその優れたる采配をもってこの大軍の半数近くの兵糧を支えたこと特筆すべきね。兵糧無くして戦う事はままならない。皆も、このように武のみに頼るのではなく、智を活かした働きを強く期待するわ。そう言う意味では地道な作業を確実にこなし、餓えるものなく遠征を終わらせるに大いなる活躍をした貴女が勲功一等よ」

 

「ありがとうございます。文官たちも喜びましょう」

 

 その兵糧輸送の恩恵には本隊麾下や氏邦麾下の多くの部隊が預かっている。大きな拍手が鳴り響く。これまで大きく称えられることの少なかった彼女は顔を赤くしている。ちなみに兼音の隊の兵糧係りは現在も桐生城で死にかかっていた。

 

「続いて元忠。適材適所で働ける万能の将ね。そつなくこなせるのは才能と言えるわ。そして、何よりも長尾の奇襲に押されていた私を助けに来てくれた。この氏康、生涯忘れる事は無いでしょう。僅かな手勢を率い多勢に挑む恐ろしさのいかばかりか。私も河越の折に体験し身に染みて分かっている。本当にありがとう」

 

「こちらこそ過分なお褒めでございます。私が抜けた後の隊を率いてくれる者がいなければ、任せられる者がいなければこのような働きは出来なかったでしょう。精進あるのみと悟らされた戦いでございました」

 

「武士たる者常に向上心を持たねばね。流石は元忠。北条家の忠臣ね。その精神大いに見習いましょう」

 

 また一段と大きな拍手が起きる。特に、その安心感や何でもできるマルチなありがたさを知っている兼音は中でも大きく手を叩いていた。

 

「最後に兼音」

 

「はっ」

 

「東上野の攻略、沼田の作戦立案、箕輪での複数部隊の見事な統率。これは他に勝る働きであったわ。孔明の知に衛青の武加わるとあれば最早敵なし。文字通り、北条の主力と言えるでしょう。綱成も貴方の所で大きく活躍しているようね。まぁ今回は少しやり過ぎたけれど…それはともかく、他にも細々と数え切れぬ功があるわ。その智謀、今後も期待を寄せているわね」

 

「素浪人であったこの身を拾い上げて下さった氏康様、並びに氏素性も知れぬ若輩を暖かく受け入れて下さった北条家のお歴々への恩返し、未だ済んでおりません。百年かかっても返せぬ大恩。少しでも多くお返しすべく奮励努力致すのみにございます」

 

「私の目は正しかったわね。良かったわ」

 

 少し笑いながら氏康は言う。それに兼音は一層頭を深く下げた。そのサクセスストーリーは多くの知るところであるが、その背後には彼の言ったようなものが多くを占めていることを彼は片時たりとも忘れた事は無い。故に裏切るなどあり得ず、しっかり戦うのだった。

 

 これにて大まかな論功行賞と言うか褒賞会が終了する。そして今後の方針を定めるフェーズへと移っていった。細かいことはまた上野の委任統治司令官が小田原からの指示を受けて定めるところとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「長野業正との講和が成立したことによって、一年は平穏が訪れると思っていいでしょう。里見も佐竹も小田も動きを見せない今、しばらくは拡大した版図を固めるべく内政期間に入ろうと思うわ」

 

 これに反対する者は特にいない。皆その必要性は大いに感じているところであった。

 

「まずは現状の確認と今後の支配体制に関しての話をしましょう。盛昌」

 

「はっ」

 

 盛昌は関東全土を描いた地図を広げた。その中には代表的な城、河川や山地の名前も記されている。

 

「領土の大きな変更はないものとして扱うわ。そして今後、各国には北条家より国主を置いてそれを小田原から統括する形を取る。上野には氏時叔父上を、北武蔵には氏邦を、南武蔵には氏照を、下総には氏堯を、相模は私が、伊豆は氏政が、駿東はおばばとその子たちが担うものとします。その下に右腕となる将を配置し、共に励んでもらうわ。上野には新たに平井城の城主として盛昌に入ってもらい、厩橋城には盛昌の妹の周勝に入って貰いましょう。大道寺党は上野の行ってもらうことになるけれど…大丈夫ね?」

 

「はい。謹んでお受けいたします」

 

 史実では大道寺党は河越にいたのだが、それが玉突き式に上野に派遣となった。氏時も史実では死去している年齢だが、まだぴんぴんしている。

 

 

【挿絵表示】

 

北条家略式家系図

 

「鉢形城の氏邦の下には引き続き河越の兼音と朝定に居てもらいます。猪突猛進気味の愚妹だけれどどうか補佐してあげて頂戴。続いて氏照の元には盛秀が、氏堯の元には(遠山)綱景が入るわ。私の配下は多いけれど特筆するなら(北条)綱高かしら。氏政の下には(笠原)信為もいるわね。ここも大きな変更はないわ。そして古河城。今まで空位となっていたそこの主に元忠を配置するわ。常陸方面への抑えとして綱景と協力して当たって頂戴。国主とその副官はよく相談して、施政を行う事。必ず小田原への報告連絡は忘れずに。努々勝手な行動は慎む事。良いわね?」

 

「「「「ははっ!」」」」

 

 中々中央集権は厳しい関東ではあるが、間接的な集権の為の措置であった。北条一族は互いに固い絆で結ばれている。それを活かして氏康の手となり足となりえる存在として各国に配置。その下に息のかかった面子を置くことで統括を図っているのである。

 

 ちなみに初登場の北条綱高とは氏綱の猶子である。玉縄城代を務める猛将でもあった。要衝を抑えるため多くの戦には参加していないが、それでもその実力は確かなものがあった。背後の抑えにこれ以上の人材はいないと見込んでの役である。信頼の現われであった。

 

「兼音。特命を一つ」

 

「はっ!」

 

「山内上杉家の金子主水なる者が建てたけれど今は廃城同然の杉山城なる城が河越の近くにあったわね」

 

「ございます。その遺構もあまり残ってはおりませんが…」

 

「そこを改築しなさい。そしてその城主に綱成を配置します。とは言え、引き続き綱成は河越務めで構わないわ。普段は城代を派遣し、有事の際は籠りなさい。両名、よろしい?」

 

「「仰せのままに」」

 

「そして改めてここで北条家の主力とも言える部隊を定める事とします。理由は幾つかあるけれど、敵に喧伝し戦意を削ぐことや武威を示すことを目的としているわ。名付けて五色備え。五つの色に合わせた五つの部隊を任命します。なお、この者たちの地位はおばばたち一門衆、次の三家老衆の下になるわ。文字通り、北条家の重臣ね」

 

 これは大変光栄な事であった。これに任じられる=北条軍の主力と定められることとなるからである。重臣の中でもかなり高い位置につけることは間違いなかった。

 

「まず、赤備はこの場にはいないけれど玉縄城代・北条常陸介綱高。黒備、古河城主・多米周防守元忠。白備、下田城主・笠原加賀介信為。黄備、杉山城主・北条上野介綱成。最後に青備、河越城主一条土佐守兼音。以上五名。励むように」

 

 史実と違い自分がその中に入ってしまったことに愕然としている兼音を他所に、広間にはまた大きな拍手が鳴り響く。皆実力者揃いの集団。若手が三人もいることが北条家の今後の隆盛を物語っているように老臣たちは感じていた。逆に新参たちは若手や新旧に関係なく兼音のように任じられることもある事にやはり興奮を隠せない。いつか自分も…と憧憬の火が灯っていた。

 

 また、戦略的にも大きな意味があり、三家老は上野下総相模と要衝を抑え、五色備も北武蔵に二人で要衝を抑え東奔西走出来るようにしている。武蔵は関東のど真ん中にあり、領国のどこへでも割と簡単に行ける。北下総に一人で対佐竹・小田、玉縄に置くことで海を挟んで対上総。下田に置くことで海上交易と今川に睨みをきかせられる。考え抜かれた配置だった。

 

 政治的な面はひとまずこれくらいにしておこうと言うのが氏康の考えだった。細かいことはまだまだ大量にあるが決して時間がないわけでは無い。ゆっくりと決められる事も多かった。特に、財政や農政と言った面はじっくりとした話し合いが必要になるため、このような場ではあまり好ましくない。その為、ここいらで会を切り上げることにした。

 

 すぐさま解散も考えたが、慰労会が必要な事を思い出しささやかな宴を催すことにした。将のみならず、兵にもそこそこ豪華な飯が振舞われる。なお、夜襲の危険性はなくなった訳では無いため、酒は厳禁としている。禁を破るとどうなるか、想像に難くないので誰もやる者はいなかった。そして、宴会になる前に思わぬ事態に呆然としていたが、やっと現実を認識し青くなりながらも呑み込んでいた兼音に声をかけることにした。

 

「兼音」

 

「は、何でございましょうか」

 

「申し訳ないけれど、桐生へ伝言を頼むわ。氏康が大儀であったと言っていた、その様に副官の姫君に伝えて頂戴。速やかに、ね。任せたわ」

 

「それは…ありがたき幸せ!」

 

 意図を察した兼音は氏康も呆気にとられる速度で座を抜けて供の数騎と共に桐生城へ向かった。己の副官をやられかけたと聞いて案じている様子を察したが故の配慮である。その姿を見ながら少し妬けると苦笑いしながら氏康は盛り上がりの尽きない座の中心にいるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 大小様々な変革を伴いながらも北条家はまたこうして一歩を踏み出す。外敵は多く、油断ならない上に内政もまだまだ道半ば。上方情勢も複雑怪奇で、虎視眈々とこちらを狙う者もいる。しかしながら、今だけはその喜びに酔いしれる時だった。そして北条家と現状最も関係性の良く、又深い隣国武田家もこの一連の北伐の期間中に大きくまた勢力を広げることになっていく。同時期老いた古き虎が小田原へ向けてその旅路に出ていた。時代は着実に前に進み始めていた。




次回以降は一話、もしくは数話かけて武田家の話になるかなと言う予定です。もしかしたら、北条武田交互にお送りするかもしれません。まだまだ未定ですし、次回がいつになるかも分かりませんが、よろしくお願いします。

 また、どこか読みたい勢力の話がありましたら、是非どうぞ。例)織田家の話が読みたい。この頃信奈は何してたの…?とか三好家って何してるの…?など。一話分(大体一万文字)くらいの内容を確保できそうだったら書いてみたいと思います。必ずしもご期待通りに書けるかは分かりませんがご要望在りましたら遠慮なくお申し付けください。


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第72話 神と人と 甲

大分長くなりましたが、今回は武田回です。書き溜めがあるので、すぐに次も投稿できるかと。次回は多分上野から撤退した後の長尾です。


 真田一族が、信濃小県の海野家に仕える新興の武家だったことはすでに触れた。正確には海野家も含まれる小県郡や佐久郡から北上野にかけてに分布している滋野氏一族の中の禰津家の分家ではないかと言われている。『大塔物語』には、室町時代の1400年に信濃守護小笠原氏に対する国人領主の抵抗として起こった大塔合戦において、大文字一揆衆の大将で、滋野三家禰津氏の当主禰津越後守遠光の配下に「実田」の名が見られ、これが「真田」の当て字とする説が現実的である。「実田」を「サナダ」と読むとすれば真田氏の初見となる。

 

 とは言え、国牧管理者の大伴氏が土豪化して真田を名乗ったとする説、また真田家の家伝に百済王の子孫とする一説もあり、真偽のほどは定かではない。本人たちは清和源氏流貞保親王の孫の善淵王を祖とする家系であり、信濃国小県郡の海野棟綱あるいは真田頼昌の子という真田幸隆が小県郡真田郷を領して真田庄の松尾城に居住して以後、真田姓を名乗ったという事にしている。だがこれもまた怪しい。結局出自は謎なのである。

 

 その海野家が武田・村上・諏訪の連合軍によって滅ぼされたため、所領・真田の庄を失った真田幸隆とその一族は上州を頼ったが、武田信虎を追放してその娘・晴信を甲斐の守護の座につけた山本勘助からの再三の勧誘を受け、今はこうして武田に仕えている。幸隆は、なんとしてでも真田の庄を奪回しなければならなかった。真田の庄奪回のために必要な城。それが、かつて幸隆が守りの要として整備した砥石城だった。この城を奪い返せば、小県における村上の勢力は封じ込まれる。局地戦では村上義清相手に連戦連敗を喫してきた武田が、戦略によって村上に勝てる。

 

 その上でなお障害になるのは当然村上義清。そしてその背後で暗躍する善光寺や戸隠忍びであった。善光寺?寺じゃんと思われるかもしれないが、信濃国内においてその影響力は諏訪大社に並ぶものがある。この頃の寺社は政局に大きな影響を与える武力や影響力を有していた。比叡山を見れば明らかである。戸隠忍びは北条家のせいで主力格だった加藤段蔵・霧隠才蔵を失い、弱体化しているもののまだまだ勢力は残っていた。

 

 それに対抗すべく、武田は真田の力を用いることにした。この日。幸隆は一族と、そして「真田忍群」を集結させていた。その主力格としてまずは猿飛佐助。真田幸隆が見出だした山育ちの天才忍者。もうお年頃になったというのに、相変わらずの野生児である。出自不明の者が多い真田家の中でも、もっともその出自は謎に満ちている。なにしろ、幸隆が見出すまでは戸隠山であろうことか猿に育てられていたのだ――しかし、どこか人間の暗い部分をすべて置き忘れてきたかのような天真爛漫な佐助がいると、どのような殺伐とした空間でも賑やかになり、みな救われた気持ちになれる。謀略と調略に明け暮れている真田家においては、決して欠かすことのできない者となっていた。

 

「なぜ十蔵が武田だの真田だののお役に立たなければならないの。十蔵はね、戸隠で楽しく暮らしていたかったの。十蔵を戸隠の山に思いきり捨てた父上の遺言なんて守りたくないの」

 

 南蛮渡りの最新鋭兵器・種子島の使い手、幼女忍びの筧十蔵。筧家は、真田家の家臣筋にあたる。とは言え、真田と同じく元は何をしていたのかもよくわからない家の出。武功や先祖代々の遺産などあるはずもない。「武家になるのだ」と思い詰めていた十蔵の父親が幼い十蔵を非情にも戸隠へ送ったのだ。通常の武士であれば、一族の血と家系を絶やすことをはばかってそのような一か八かの博打をしたりはしないものだが、真田は山の民から武家に成り上がったばかりの新興の集団であったために、古い武士たちから見れば奇妙なまでの一体感と忠義心を誇っているらしい。

 

 この時、筧家と同様に、真田家に仕える家臣団の多くがわが子を戸隠へ送ったというが、そのほとんどは戻ってこなかった。十蔵は、幸運児であったのか、生きて戻ってきた。一応多くの技能を習得していた。が、父親への不信と真田家への複雑な感情を抱えての生還だった。

 

 幸隆の「山の民も農民も分け隔てなく生きられる楽園を真田の庄に築く」という真田幸隆の志に共感して真田に仕えた戸隠出身の忍びのうち、幸隆が山で拾って育てた佐助と、真田家臣の娘である十蔵とが、飛び抜けた能力を持つ実力者だった。佐助は移動力に特化し、十蔵は種子島を用いた攻撃に特化している。さらに、敵の忍びと戦う術には劣るが、情報の伝達や敵陣からの内応といった地味な活動には幸隆の双子の娘が活躍してきた。

 

 そして、もう一人。砥石城調略のために動員された、真田忍びがいた。

 

「……私ごときが幸隆さまのお力になれるのでしたら、この術を捧ささげてみせます。足手まといになるとは思いますが、皆さん、どうかご容赦ください」

 

 物静かで幸薄そうな、盲目の巫女。望月千代女。彼女は、信濃の名族・望月家の姫である。海野家が滅びた際に、望月家も運命をともにした。名族とはいえ、望月家は忍びを束ねる「上忍」の一族という性格をも持っていた。佐助のように直接戦場へ駆り出されて忍術を駆使して戦う忍びたちは、いわゆる下忍である。上忍とは、忍び社会における元締めの一族であり、忍びの里そのものが犯されない限りは自ら戦うようなことはない。望月千代女はその上忍の一族の姫であった。本来ならば、戦う必要のない立場にあった。が、その望月家が滅び、生きていくためには下忍のように自ら術を得て戦うしかなかった。

 

 彼女はその戦乱と貧困の最中、視力を喪失する。むろん、視力を失ったことは、忍びにとっては致命的といえる。千代女が忍びとして最前線で活動できるようになるまでには、言語を絶する苦闘があったはずだ。

 

「……お、お優しい幸隆さまに助けられていなければ、私は盲いた自分に絶望して山中でこときれていたはずです。ご恩を返す時が来ました」

 

「千代女はぎりぎりまで隠れていなさい。あんたの力は、真田忍群のとっておきだから。村上方に誰が参戦しているのかもわからない状況だもの、お互いに手の内を隠しながら札を切っていかないと負けちゃうわよ」

 

 千代女は失明する以前から気が弱く引っ込み思案な姫だった。千代女よりもずっと年下の十蔵のほうが、気丈だった。

 

「村上方についた戸隠忍びは、多くいるはずだわ。この十蔵が真田方にいると判明したのに、根津っちが顔を出さないなんておかしいわよ。根津っちはきっと十蔵を裏切って他の奴らのところに行っちゃったんだわ。砥石崩れの折にはあいつが千曲川を渡って、砥石城攻めを村上に告げたんだわ。村上義清に入れあげてるの? んもう! 女の友情ってこんなにも脆いものだったの!?」

 

「まあまあ十蔵どの。さて。砥石城内部にはすでに、内応者がいるでござるよ。武田の甲州金をたっぷりとばらまきましたからなあ。にゅ、ふ、ふ。一夜にして内応勢が内側から城門を破壊して、砥石城を一気に陥落させる、村上義清が後詰めに来る暇を与えぬうちに。その手品の種は、これにある『地雷火』でござるよ――」

 

 先ほどから、佐助が茶釜のように弄もてあそんでいる金属製の球体。唐風に呼べば、地雷火。和風に言えば、埋火。すなわち、内部に火薬を詰め込んだ地雷兵器である。 南蛮の最新技術を採り入れたこの真田の地雷火は、従来の埋火よりもはるかに爆発力が激しく、絶大な効果を発揮する。当然扱いは難しいがそれを扱える者が、真田にはいた。その忍びの正体は隠されている。仲間内では、暗号で『地雷也』と呼ばれていた。

 

 兼音が聞けば腰を抜かすような物品を既に彼らは持っている。当然、お値段も張るので秘密兵器であった。カンボジアの話を思い浮かべ地雷に嫌悪感を持っている兼音ではあるがそんなものが武田家にあると知ればその対応を考える必要に駆られる。とは言え、普段ならば観戦させるべく配下を割くのだが、現在河越の忍びは全員上野で暗躍中である。機密が漏れる心配はしばらくは無かった。

 

「私の弟、頼綱が内応者たちをまとめているわ。時機が来ればそれを率いて城内で暴動を起こす手はずになっている」

 

 頼綱とは、矢沢源之助頼綱。史実では真田家きっての北条スレイヤーである。昌幸時代には真田一門の筆頭として沼田城代となり、北条の侵攻を何度となく退けた名将で、北条氏邦率いる7万の大軍を2千の守兵で撃退したと伝えられる。ググると出てくるワードは「チート」、通称「沼田の守護神」。頭おかしい人材である。

 

「外から火薬で驚愕させ、中では裏切り。これはひとたまりもないでござるなぁ。幸隆殿の謀略まさに外道でござる」

 

 真田幸隆は「その地雷火を茶釜のように乱暴に弄んでいる佐助、あなたほどではありませんよ」と笑っていた。

 

「これ以上、武田家の武将から犠牲者を出すわけにはいきませんもの。晴信様のお心が壊れてしまいますから。町や村は復興できても、人の心はそう容易くは再生しないもの」

 

 今風に言えば無敵の鋼鉄メンタルを誇る佐助――野生の動物に限りなく近しい彼女の心の中には、人間が持つ迷いや闇や苦悩はほとんど存在しない――には、ぴんと来ない話ではあった。

 

「だが戸隠忍群が、必ずや妨害に出てくるはず」

 

「忍び同士の暗闘に勝たねば、こたびの調略もまた失敗に終わる」

 

 双子が、互いの手のひらを押し付け合いながら、声を合わせた。

 

 真田と戸隠。互いの手を知っている忍び同士の暗闘になる。鍵は「地雷火」を目的の場所へと設置できるかどうかにかかっていた。佐助や十蔵では面が割れている。むろん、目が見えない望月千代女には地雷火を運び埋めるという仕事は果たせない。他の忍びにしても、そのほとんどは戸隠から来た者であるから、佐助と同様である。ここはなんとしても、裏の裏をかかねばならない――。

 

「幸隆殿。こたびはそれがしも砥石城へと潜入し、『囮』の役目を果たしましょう。手引きをお願いいたす」

 

 真田の庄を訪れてこの軍議に出席していた軍師・山本勘助が、口を開いていた。

 

「幸隆殿が理想とする真田の庄建築の夢と、ただ己の才覚を戦国の世に知らしめたいと欲するそれがしの野望とは、重なり合うものではござらぬ。我らは長らく、お互いの力を必要としながらもつかず離れずの関係でありました。ですが、御屋形さまを村上義清にこたびこそ勝たせねばならないという点で、両者の決意は一致しておりましょう」

 

「勘助殿。そう、露悪的にならずとも。お互いに武田家という主君を必要としている点では、われわれは同志であるはずですよ。それに今のあなたは片足の自由を失った身。忍び働きは、危険な任務となりますよ」

 

「真田を武田に引き入れたのはそれがし。その真田の者どもをこれほどの危機に追い詰め、命懸けの仕事をさせるとなれば、それがしも男として責任を取らねばなりますまい」

 

「ふふ。戦に、男も女もありませんが……宿曜道の占いでは、なんと見ます?」

 

 幸隆が、問うた。

 

「残念ですがお味方は占えませぬ。まして術者自身の星は、見ることがかないませぬ。なんとなれば宿曜道の技術もまた、術者自身の心によってその結果と解釈を左右されるものでありますれば」

 

「ならば村上義清の、星は?」

 

「冬の北天に輝ける天狼の星。天上のいかなる星とも交わらぬ、激しくも孤高の星にござる。あの者の運命は誰よりも孤高なものゆえに、宿曜道をもってしても読めませぬ」

 

 天狼星、即ちシリウスの事である。

 

「星を見る軍師・山本勘助との相性も最悪というわけですわね。なるほど、二度も敗れるはず。ですが、次こそは勝たねばなりませんわ。三度敗れれば、武田も真田も信濃から追われましょう。もう、後はありませんよ」

 

「承知。なにしろ塩尻峠でわれらに敗れた守護の小笠原が、村上のもとに身を寄せておりますからな。村上がみたび武田を破れば、信濃は村上のもとに一つにまとまりましょう――しかしこの勘助が、決してそうはさせぬ。信濃は。神の国は。御屋形様が、統べなければならぬ。そうでなければこれまでの御屋形様の苦渋に満ちた決断の連続が、すべて無意味であったということになってしまう……おのれ。ただ孤高を貫くというそれだけの意地のために御屋形さまの覇道を妨げおって。村上義清……!」

 

「うきゃ。軍師どのの面相は相変わらずおそろしいでござるな」

 

「そなたに言われずとも、わかっておるわ!」

 

 佐助が、地雷火を放り投げながらきゃっきゃっと笑った。そんな佐助がよそ見をしながら危うく地雷火を取りこぼしかけた時、さしもの勘助も思わず顔色を変えた。

 

「これっ!佐助!落としたらなんとする!われら全員消し飛んでしまうではないかーっ!」

 

「その時はその時でござるよ。うぷぷぷ」

 

「そなたと話していると、どうにも緊張感が萎なえてしまうわ!」

 

 十蔵が「決死の対決前夜だというのに、佐助ってほんとうに幸せそうでいいわね」と種子島の銃口を拭きながら憎まれ口を叩き、望月千代女は「人間が求めるある種の理想の境地に、佐助さんは達しておられるのです。羨ましい限りです」と静かに微笑んでいた。

 

「どのみち時間的猶予は少ないですぞ。北条は北へ向かう構えを見せております。河越に北武蔵の兵が集結しておるとの伝達があり申した。ともすれば山内上杉家の命運も間もなく尽きましょう。北条が上野を抑えればそこから小県に野心を抱かないとも限りませぬからな」

 

「ええ。そうですね。さて、みなの衆。調略決行は、新月の夜。段取りを決めて、実行に移しますわよ。鍵となる『地雷火』の設置を最優先。全員が呼吸を合わせて戸隠へと臨機応変に対処できるかどうかに、この調略の成否がかかっていますわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここで時系列的にはほぼ同じ頃。所は一度河越に移る。段蔵にヘッドハンティングさせてきた才蔵は晴れて朝定専用の護衛になる事が決まったが、その後河越城主の兼音とも個人的に面談をしていたのである。

 

「お前は何処から来たのか。その金髪碧眼。日ノ本の出ではないな。別に私は差別しようと言う訳ではない。南蛮人にそのような感情を抱いていたらこの先生き残れんし、小田原でイングランドの使者とも話さん。ただの知的好奇心だ。もし言いたくなければ言わんでもいいが、いつか朝定だけには教えてあげてくれ」

 

 かつて亡き氏綱に言われたのと似たことを無意識のうちに言っていた。その発言にしばしの沈黙の後、彼女は生い立ちについて語り始めた。

 

 彼女は遠く「仏蘭西」から流れてきた。それを聞き、兼音は驚きを隠さなかった。一応は下級貴族であるが、先祖代々、異端である。邪宗門の家系である。およそ百五十年前に、始祖が「異端の魔女」としてルーアンなる土地でカトリック教会の手によって焼き殺されて以来、才蔵の一族は「異端の魔女の一族」と忌み嫌われて仏蘭西国内を転々とした。最終的に、南仏蘭西のアルビという土地に一族は定住した。

 

 かつて、アルビジョワ派あるいはカタリ派と呼ばれた基督教異端が栄えていた土地である。もっとも、すでに十字軍によってカタリ派の勢力は壊滅し司祭たちは殺し尽くされていたのだが、ごくわずかな信者たちが「隠れ切支丹」の如く細々と生き延びていた。

 

「なるほど、アルビジョワ十字軍の事か。ルイ八世とインノケンティウス三世だったかな」

 

「良く知っているな…そんな昔のことを」

 

 彼女はやや驚くも、まぁそう言う事もあるかと受け入れた。ともかく、実際に異端の集落に逃げ込むことでしか、才蔵の一族は生きられなかったのだ。カタリ派は、東方異教の影響を受けた基督教異端で、「肉」と「霊」、すなわち「物質」と「精神」の二元論からなるこの世界を「邪悪な世界」と考えていた。「霊」のみの世界、「物質」を持たない一元論の世界が、この世界とは異なるどこかに存在する。その霊の世界こそが真の世界であり、この世界は邪悪な存在が創造した偽りの世界である――カタリ派の思想を簡単に言い表すと、そういうものになる。

 

 だからカタリ派にとっては、カトリックが標榜するような地上の王国などはあり得ないのだった。霊だけの世界があろうがなかろうがどうせ自分はその世界には辿たどりつけぬ、と醒めていた現実主義者の才蔵は、カタリ派の教義にはさほど興味を抱かなかったが、一族の始祖がカトリック教会に焼き殺されたという過去が才蔵を「異端」にのめり込ませた。カタリ派の教義のルーツが、十字軍が東方から持ち帰ってきたいわゆるグノーシス主義と呼ばれる神秘思想にあり、そのグノーシス主義のもととなった二元論を追いかけると波斯のゾロアスター教に行き着き、さらにその波斯の東方には、いまだ古代の神々の「力」が生き延びている世界の果ての島国が存在するらしい、と知った。

 

 ついに才蔵は仏蘭西国内にいられなくなり、イスパニアからガレオン船に飛び乗って印度へと亡命。その印度で、「八百万の神々が住まう」という極東の島国ジパングの存在を知り、ジパングの神々の痕跡を追った。博多の港から天津神の一族が降臨した高千穂へ、さらに国津神の一族が支配していた出雲へ、そして最終的にはその国津神が逃げてきた信濃へと渡って戸隠山に出会い、そこを旅の終わりとした。

 

「お前の先祖はもしやあの救国の…」

 

「知らない。貴族に列せられた始祖様以前は、わが家はただの羊飼いの家だった。多分、そちらの考えている人物ではないだろう。もしかしたら遠く繋がっているかもしれないがな。ヨーロッパでは、先住民も侵略者もすでに血が混じり合っている。仏蘭西では特にそうだった。だが、私にはガリア人の血が入っているかもしれないな……ガリア人はみな、私のような金色の髪を持っていたそうだ。が、血などどうでもいいことだ。私はジパングにおけるカトリックの布教を阻止したい。奴らはジパングの神々の痕跡を消してまわろうとするだろうからな」

 

「私は神がいないとは言わないが信じてはいない。それはそれとしてカトリックはあまり好きではない。その点は、分かり合えそうだな」

 

「安心した。これで敬虔なカトリック教徒だったら私は今すぐここを去らねばならなくなるところだった」

 

 そう言いながら初めて彼女は薄く笑った。それを見て安心して用いることが出来そうだと兼音は安心して胸を撫でおろした。そしてそこからは彼の質問ターンである。

 

「ところでインドへ行ったと言ったな。出来ればで良いのだがアナトリアとペルシャ、インドからマニラにかけての情報を詳しく聞きたい。オスマンは今何をしている。サファヴィーは?ムガルは?」

 

「……長くなりそうだな」

 

 才蔵は興味津々の目をしている己の間接的な上司に苦笑いした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「武田晴信。戸隠忍びと真田忍びを闘犬の如く噛み合わせるつもりか。懲りぬ女だ……村上義清は、二度も戦場であの女を破っておきながら、自分は武田晴信には勝てぬ、最終的にはあの者の強烈な野望の前に敗れ去るだろうと思い込みはじめている。砥石城が落ちれば、村上義清は対武田戦の継続を諦めるかもしれんな…。まぁどうなろうと知ったことでは無いが、信用無くして戦国では生き残れぬ。仕方ない。だがしかし…幸隆。お主、何を考えて武田に…」

 

 闇に紛れ、戸隠忍びたちが砥石城を目指して行軍している。率いる長は出浦盛清。大河ドラマでも有名になった彼である。彼自身は小県郡に居を構える豪族だ。しかし、現在は村上義清に仕えているため、その指示に従って行動している。特に村上に恩義は無いが、そうは言っても配下なので仕方ない。

 

「そんな年寄りの感傷なんて今はどうでも良いのよ!必ず武田を貶めてやるわ!」

 

 常に水に潜み、陸上を駆けるのは苦手な少女忍び・根津甚八が、全身汗まみれになりながら盛清を追いかけていた。衣服が薄く肌に密着しているのは、水中で受ける抵抗を極限まで減らすためである。それだけ、陸上での行動は苦手にしていた。狂犬のように鋭く、飢えた瞳の持ち主である。根津甚八は私怨によって、出浦に加勢している。根津家を滅ぼし、湖賊に貶おとしめた武田晴信を討つために。

 

 彼女は、諏訪家に仕える「水の民」根津家の姫だった。根津家は、代々諏訪家のもとで諏訪湖畔を統括していた。

 

 武田晴信が諏訪家を事実上取り潰つぶして諏訪を武田家に併合した際、根津家も没落し、一族郎党は湖賊に身を落とした。本来の正史ならばこの家は晴信に娘を送り、存続を許されていた。だがこの世界では北条家の凄まじい台頭に焦る晴信によって強権的に取り潰されていた。根津甚八が戸隠に赴いたのも、ひとえに、武田晴信に復讐したいからであった。戸隠で水中での動きや術を身につけたことにより、川や湖での索敵ならば右に出る者はいないレベルに昇華している。

 

「…砥石崩れは、この戸隠忍群の総帥であるこの儂を囮に用いて、葛尾城まで千曲川を潜って神速で駆けたうぬの手柄だ。その傲岸不遜な度胸、たいした娘だ」

 

「そうよ。あんたが討ち死にしようが、あたしはぜんぜんどうでもいいものね。あたしには味方とかいないから。あたしはあたし以外の忍びなんて信用していない。あんただって、あたしにとっては晴信を殺すためのただの道具よ。それなのに村上義清の奴、頼りないのよ!二度も晴信を討ち漏らすだなんて!もう我慢できないわ。あたしが直接殺ってやる!今宵はまず、邪魔っけな佐助と十蔵を殺す!十蔵。あの裏切り者…戸隠ではさんざん守ってやったというのに、ちょっと力を手に入れたら一人前面してあたしのもとから離れていきやがって!あんの、デコチビ娘が!」

 

 根津甚八は、同じ時期に戸隠の山を彷徨っていた筧十蔵を拾って、義姉妹の契りを交わしてともに助け合い支え合った過去がある。しかし十蔵は、ことあるごとに姉貴風を吹かせる根津のもとから飛びだして、そして今はこともあろうに敵である武田についている。筧家は真田家の家臣だから、そしてその真田家が武田に仕えたから、らしい。さんざん自分を戸隠に放り込んだ親に恨み言を言っておきながら、筧十蔵は結局その真田に仕えているのだ。

 

「なにが、筧家よ。なにが、真田の家臣よ!筧家だなんて言っても、ちょっと前まではただのマタギだったくせに!ちゃんちゃらおかしいわよ!」

 

 水を操る術の持ち主のくせに、当人は炎のように熱い。小うるさいとは思いながらこの年でこんな境遇に合う羽目になった原因が確実に武田にあると考えると盛清もいい気分では無かった。多くの者にとって大義名分だのはどうでも良い。とにかく平和に日々の暮らしを送りたい。それだけだ、と彼は思っていた。

 

「ああもう。息が切れていたっ!ちょっと、あんたたち!どうして千曲川を使わないのよっ!川を通れば、砥石城まで一泳ぎなんだからっ!」

 

「にょっほっほ。根津よ。そちゃ、陸上ではてんでダメじゃのう。同じ戸隠の忍びでも、格の違いというものが出るのじゃのう」

 

 色白の、お姫さま然とした華奢な少女が、目にも留まらぬ速さで枝から枝へと瞬時に飛び移り、高笑いしていた。忍び働きの最中だというのに艶やかな振り袖姿なのは、自分が敵に捕まることをまったく想定していないからである。

 

「うっさいわね、うんこ!」

 

「海野じゃっ!わらわは海野じゃっ!おうおう、下品じゃのう根津は。さすがは湖賊の娘じゃ。わらわは、信濃随一の名門・海野家の姫であるぞ。真田家なぞはそもそも、海野家の一家臣にすぎぬポッと出のうさんくさいエセ武家にすぎんのじゃ。海野家は武田と村上そして諏訪の連合軍に滅ぼされてしもうたので、村上もそして根津もわらわにとっては仇ではあるが、なんといってもわが海野家に取り立てられておきながら今はすっかり武田の犬と化している真田幸隆が許せぬのじゃっ!あのような輩には、この由緒正しき海野家の姫である六郎がじきじきにお仕置きをしてやるのじゃっ!」

 

「ハン。信濃随一の名門のお姫さまが、忍び働きぃ?人間、ここまで落ちぶれたくはないものね。ああ、いやだいやだ。だいたいなによその振り袖姿は。忍びをバカにしてるの? あんたはその高貴な血筋と美貌を生かして、男をその身体でとろかす歩き巫女でもやればいいんじゃない?」

 

「黙るのじゃ根津公!頭が高いのじゃっ!そんなもの、高貴なわらわがやれるかっ!嫌じゃ嫌じゃ。この清らかな身体を下劣な男どもに汚されるくらいならば、死んだ方がマシじゃ!」

 

 こやつら。寄せ集めとはいえ、不仲すぎる、と盛清は頭痛がしてきた。もう何だかすべてが虚しくなってきているが今更止める訳にもいかない。足取りが重くなるのを感じながら、背後の喧騒をおさめる術を考えていた。

 

「……砥石城が、見えてきたぞ。感じるか。数人の真田忍びが、近くに潜んでいるぞ。猿飛は確実に、その中にいる。根津と海野は、もう会話をするな。気取られる」

 

「わかったわよ。でも、これからどうすんのよ?」

 

「幸隆が砥石城でなにを企んでいるかを突き止めて、封じねば。敵の出方を見定めるために、城内に散る」

 

「にょほ。知恵者のわらわには、おおかた想像がついておる。奴らは『火』を使う気がするのじゃ。あちらには、種子島使いの筧十蔵もおるしのう」

 

「海野。よもやうぬは、火を自在に操り南蛮仕込みの地雷を操ると言う――『地雷也』が実在すると言いたいのか?しかも、真田陣営にその地雷也がいると?」

 

「うむ。こちらが水に長けたである根津を隠しきって、砥石崩れの際に奴らの裏をかいたのと同じじゃ。あちらはあちらで、切り札として地雷也を隠しておるのであろう」

 

「そうなると些か問題が多いな。どうしたものか」

 

 盛清の悩みなど知らないように、根津は啖呵を切る。

 

「へえ。やるじゃん真田幸隆。だったら、とことんやり合いましょう。みんな行くわよ、早い者勝ちよ! 城内で真田方の忍びと遭遇次第、片っ端から殺しちゃえばいいのよ!」

 

 海野六郎が白い指を天に突き出す合図とともに、三人の戸隠忍びたちの姿が、闇の中にかき消えていた。盛清は音もなく山城の内部へ潜入すると、根津甚八を山の西へ、海野六郎を東へと向かわせ、自らは北東の方角へと突き進んだ。互いに、山城の各方角へ忍びを散らしての、総当たりである。進む途中、砥石城の険しい山道を、片足を引きずりながら必死で這い上っている初老の男を、眼下に見た。

 

 軍師・山本勘助であったか……まともに走ることもできぬ男がここにいるとは。おおかた砥石崩れの敗軍の責を負って囮にでも志願したのであろうが、まぁ殺そうと思えばいつでも殺せる雑魚。しかもあの様子では地雷火を運ぶこともままならないだろう。相手をする必要すらないと盛清は山本勘助を無視して、目的地へとそのまま一足飛びに飛んだ。

 

 

 

 

 

 

 

「くっくっく。兵は詭道なり! 戸隠忍群の警戒網をかい潜って直接いずれかの城門に地雷火を埋めることは、いかなる忍びといえどもできぬ。ゆえに、片足の不自由なそれがしが、いかにも囮であるかのような無様で無力な姿を晒したそれがしが、地雷火を運んだのだ。大方何もできまいと見逃したのであろうが、それが仇よ!わがことなれり。今度こそ、砥石城は陥落する!」

 

 漆黒の闇の中。山頂に屹立した山本勘助が、高笑いしていた。盛清は本物の地雷火を背負っていたその者を発見していながら、見逃していたのだった。その間に、勘助は所定の位置に隠し持っていたそれを置く。盛清は佐助が、他の二人も真田の配下たちが足止めをしている隙であった。

 

 大地が揺れた。砥石城全体が、激しく上下に揺らぎ、崖は崩れ、岩は転げ落ち、木々は薙ぎ倒されていった。凄まじい爆発力である。

 

 武田方に内応していた城兵が、城門をいっせいに開く。

 

「今だ!火の手を上げよ!」

 

 城内の矢沢頼綱が叫ぶ。それに呼応して、内応者たちは次々と城の中で暴れ始める。

 

「内応だ!」

 

「山が崩れる!」

 

「噴火がはじまった!」

 

「すぐに武田騎馬隊が攻め寄せてくる!皆殺しにされるぞ!」

 

 頼綱と配下の兵たちが次々と叫ぶ。そうすることで混乱を加速させていた。城兵たちが、斜面を転がり落ちるように逃げ惑っていく。すべては、夜の闇の中の出来事であった。恐怖と流言飛語と疑心暗鬼によって、同士討ちすらがはじまっていた。

 

 この混乱のさなか。盛清が「結!」と唱えながら千曲川の北岸へと舞い下りてきた時には、すでに海野六郎たち戸隠忍びが再集結していた。なおも大地が激しく揺れている。どうやらどこかの地盤を刺激したらしい。夜間を強行してきた武田騎馬隊が混乱する砥石城を攻め立て占領していくさまを、彼らはなすすべもなく眺めているしかなかった。

 

「してやられたのじゃ!わらわは危うく、爆発に巻き込まれかけたぞ」

 

「そうか。真田の本命は佐助ではなく、山本勘助だったか。儂の負けだ。知恵では、あの男には敵かなわぬ…一刻も早く逃げるぞ。もう村上は終わりだ。身の振り方を考える方が良いな」

 

「あたしは千曲川を泳いで一人で逃げ切れるけどぉ。あんたたちはどうすんの?地揺れもそろそろ収まりそうだし」

 

「…恐らくだが村上義清は出兵してくるだろう。途中で砥石城落城を知って引き返さざるを得なくなるが、取り敢えずはその前に合流してしまえばいいだろう。砥石城を奪われた以上、村上義清はもはや北信濃を維持できん。次の戦線は、千曲川をさらに北上した川中島・善光寺平あたりとなろうが、もはや村上の剛勇をもってしても戦うことはできぬだろうな」

 

「あんた、これからどうすんの?村上が信濃を追われたら、真田に仕えるわけ?まぁあんたはそれで良いわよね。真田とはお友達だったもの。あたしは嫌よ。真田幸隆には恨みはないけれど、武田晴信に仕えるのだけはまっぴらご免だわ!」

 

「わらわも嫌じゃの。真田などはわが海野家の家臣にすぎん。真田幸隆が改心してこのわらわに仕えるというのであれば、考えてやってもいいがの。にょ、ほ、ほ」

 

「儂はお前たちとは少し毛色が違う。儂は領主だ。小さいとは言え、領主である以上好き嫌いで判断は出来ない。お前たちは好きにしろ」

 

 そう言うと彼はスッとその場を後にした。どうするかはまだ決めかねているが、取り敢えずこれでかつての盟友と余計な争いをせずに済んだことにホッとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 砥石城、一夜にして陥落。謀将・真田幸隆の「調略」によって、あの村上義清方の最前線・砥石城がついに武田の手に落ちた――。

 

「一戦も交えることなく、手品のように砥石城を奪い取ってしまったという」

 

「小笠原に続いて、村上義清までもが武田に破れた!」

 

「小県一帯は、もはや武田晴信の手に落ちた」

 

「室賀と出浦は早々に武田への臣従を決めたようだぞ。曲尾も続くようだ」

 

「もう村上義清をもってしても、葛尾城を支えることはできぬだろう」

 

「屋代政国が塩崎を引き連れて離反したと言うぞ。もう終わりだな…」

 

 屋代家は信繁からの再三の調略に屈したのである。ただの寝返りではやや足りないと思い、彼は去就を迷っていた塩崎氏を引きずり込んだ。室賀家も当主の満正が同じく誘いを受けていたが故の恭順だった。また、この頃仁科氏も同じく信繁経由で領土内の交通網の掌握を認める事を条件に寝返りを承諾していた。

 

 この時期北条家は北伐を開始。もう既に平井城は陥落。沼田での合戦が行われた後の事である。現在北条軍は箕輪へ転身を始めようとしていた。

 

 隣国はさておき、信濃全土の豪族国人たちが震撼する中、しかし、武田晴信による村上義清との最終決戦は行われなかった。「砥石城陥落」の朗報を聞いた晴信が勢いに乗って義清の本城・葛尾城へと攻め上ろうとした時、躑躅ヶ崎館で出家し楽隠居していた母・大井の方(大井夫人)が倒れたのである。

 

 晴信が自分の夫・信虎を追放する際にも、晴信の過激な行動を黙認し、「わたくしも娘・晴信のもとに残りましょう」とそのまま甲斐に留まってくれた。しかも上田原で村上義清に大敗した時、晴信に書状を送って撤兵を決断させてくれた。その、母である。

 

 晴信と次郎信繁は出陣を断念し、大井の方のもとへと急いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 あたしはついに砥石城を得た。板垣信方に横田備中。二人もの股肱の臣を失い、惑い続け、ついには真田忍びの調略を用いて搦手で勝利し、今やっと村上義清を堂々と戦場で倒し乗り越える時が来た。そのはずだったが……またしても、城と交換で、あたしの家族が失われようとしている。それも、わが母上が

 

 大魚を逸することはわかっていた。窮地に追い詰めた村上義清を今討たねば、あの男は北方へと逃れ、そしていずれ蘇ってくる。だが、母を捨てて葛尾城へ攻め寄せることを、晴信は自分に許さなかった。

 

「姉上。気をしっかりもって。砥石城落城によって、中信濃の豪族は姉上に恭順した。村上義清はもう葛尾城にはこもれない。仁科も降伏を願い出てきた。武田による信濃統一は、ほぼ八割がた達成されたわ。残りは北の最後の雄、高梨政頼のみ。母上にそのことをご報告すれば、きっと持ち直していただけるはず」

 

 並んで廊下を進みながら、次郎が晴信を励ます。姉妹二人で、部屋へ入った。晴信が部屋へ入る折に、入れ違いとなった薬師から、もはや今宵が最期かと…と小声で見立てを伝えられた。

 

 すでに起き上がれなくなっていた母の枕元へ、晴信は駆け寄っていた。

 

「……晴信。わたくし自身が筆を執って、あなたの一代記を書き残し後世に伝えていく。それが、わたくしの最後の仕事と思い定めておりましたが……もはや、書けませぬ」

 

 枕元には、硯と紙が置かれてあった。なにかを書こうとしていた。あるいは、毎晩、睡眠時間を削ってすでに書き続けていたのか。

 

「母上?そのお身体で、そのような仕事など。なぜ、命を削られるような真似をなされたのです」

 

「あなたは世間に誤解されています。父を駿河に追放して国主の座を奪った悪逆非道の野望の女だと……母親であるわたくしが、後世に、真実のそなたの姿を書き残したかったのです。わが子晴信のまことの姿を。ですが、母のひいき目ゆえか、感情ばかりが先走ってうまく書けませなんだ」

 

「……そのような」

 

「春日源五郎に、武将働きの合間を縫ってそなたの一代記を新たに書き起こすよう、伝えておきました。春日どのならば、やり遂げてくれましょう」

 

 信濃の平定はもうじき終わりますね、晴信どの。いずれ信虎どのと和解なさいませ。武田の上洛がなった暁には、駿河より甲斐にお戻りいただきなさい。それでそなたの悪名も消えましょう、と大井の方は微笑んでいた。

 

「……次郎」

 

「はい!」

 

「よく晴信を支え続けてくれましたね。父子、兄弟姉妹が血で血を洗い家督と土地を奪い合い続けてきたこの戦国の世では、希有なことです。晴信の功績の半ばは、次郎、そなたが姉に尽くしてきてくれたおかげです」

 

「母上。私はただ、姉上をお慕いしているだけです。尽くしてきたなどという意識は、私にはありません。父上を追放することになったのも、姉上の意思というよりも、私の意思です。父上が駿河へ去ってくれれば、私は誰にはばかることなく、姉上とともに生きることができると……そう、思って……」

 

 ですから姉上の悪名も、本当は私のものです、と次郎は声を詰まらせていた。

 

「そなたも晴信も、今は双子のように寝食をともにしておりますが、いずれは独り立ちせねばなりませんよ。二人とも、婿を取りなさい。姫武将は、ともすれば合戦に明け暮れて婚期を逃し、世継ぎを作るきっかけを失ってしまいます。急ぎなさい。よろしいですね」

 

 晴信は、政略上の理由で妹婿を攻め、二人そろって武蔵へ追いやった。晴信を「国盗りの野望と家族家臣とは交換である」という呪いから解き放とうとした横田備中をも死なせた。最後は、孫六信廉を自分だと思わせて横田備中を騙し、戦場で捨て殺しにした。「承知いたしました」と言うべき場面なのに、どうしても、言えなかった。

 

 そして次郎は、

 

「母上。わたしは生涯、姉上ただ一人に仕えます。父上を追放すると決めた時から、そう思い定めています。夫は要りません」

 

 もっと明確に、婿取りを拒絶した。なにごとにも寛容で、決して我を出さない次郎が、危篤に陥っている母親に反抗するとは、晴信は想像もしていなかった。驚いていた。

 

「……次郎どの。それは、いけないことですよ。晴信どのを、縛ることになります……姉妹といえども、別々の魂を持った異なる人間なのです。そなたたちは信虎どのによって恣意的に差別され、仲違いさせるように育てられ、引き裂かれて苦しめられてきました。今はそれゆえに、晴信どのと別れがたいと思い定めておられるのでしょうが、次郎どの。あなたは次郎信繁として、生きねばなりません。それが、お互いのためです」

 

「いいえ。わたしは何年かかっても、姉上との時間を取り戻します。わたしは元々、父上から家督を譲られる寸前だった立場です。自立などすれば、家中をまた二つに割り、いずれわたしと姉上とが争わねばならなくなります。そんなことになるくらいなら、そのような苦しみを姉上に与えねばならなくなるくらいならば、わたしは生涯、姉上の影でありたい」

 

「……次郎どの……晴信どのよりも、幼いあなたのほうがより多く、傷ついておられたのですね……」

 

 晴信は、あたしは自分が父上に愛されないことばかりを気に病んで、一人で勝手に苦しみ続けていた……父上に依怙贔屓される側だった次郎が内心ではこれほどに傷ついていたことに、気づいてあげられなかったのか……いや、自分のことで精一杯で、そのような余裕がなかったのだろう。しかし、これからは…と自分の心の冷たさを恐れ、後悔し、次郎の手をそっと握っていた。

 

「影になどしない。次郎。武田が海へ出て、上洛を果たせば、武田の故地である甲斐信濃は次郎にすべて委ねる。あたしが都を治め、次郎が東国を治めればいい。源頼朝も、足利尊氏も、東西に兄弟が割拠したことから仲違いして殺し合ったが、あたしと次郎とは別だ。次郎は、絶対にあたしを裏切らない。だから、影になど、なるな」

 

「……姉上。あたしが欲しいのは、国ではなくて……姉上と過ごす、時間なの。一緒に、いたいの」

 

 わかった。ならばずっと一緒に行こう。ともに海へ出よう、と晴信はうなずいていた。目の前で、母親が死のうとしているのだ。

 

 突き放せば、次郎がどうなってしまうかわからない。

 

 だが、母を安心させることも必要だった――姉妹ともに生涯独身を貫くなどとは、決して言ってはならなかったし、疑わせてもならなかった。

 

「母上。お世継ぎに関しては、ご心配なく。あたしが子を生なさねば、次郎が家督を継ぎます。いずれ折を見てかかるべき婿を得れば、あたし自ら子を生します」

 

 次郎がぴくりと背中を震わせたが、晴信はその次郎の背をさすって、暗に言葉の上だけだ、安心しろ。と次郎に伝えた。

 

「……その言葉を聞いて安心しました。よき相手が、いるでしょうか。晴信どの」

 

「広大な信濃を併呑した武田は今や、北条・今川と肩を並べる東国を代表する強国となりました。上洛を果たせば、引く手数多となりましょう。天下人としての地位を固めるべく、よき相手をこちらから選びます。信濃を平定した今、武田は北の海にも南の海にも出られます。海へ出れば、あとは武田騎馬隊を率いて瀬田に武田菱の軍旗をはためかせるだけです。五年、いや三年で上洛は成りましょう。ご心配なさらぬよう」

 

 晴信はこの時、よもや自分と山本勘助の遠大な天下盗りの策が、越後初の姫武将によって阻止されることになるとは夢にも思っていなかった。次郎もそして母も、うなずいていた。太郎義信が、孫六信廉が、そして後ろで遅れながら信龍が。次々と、駆けつけてきた。

 

「母上!なんてこった、葛尾城で村上義清と最後の決戦をはじめるって時に、まさか母上が!巡り合わせが悪すぎらぁ!」

 

「太郎。縁起の悪いことを言うもんじゃないサ」

 

 騒ぎ立てる義信と窘める信廉。信龍はその母親の姿からどうしようもない死の匂いを感じ、もう助からないことを悟って何かを言う事も出来ず涙していた。

 

「あああっ、なんでこうなるんだよう!甲斐を追われた親父どのは駿河で妾を迎えてぴんぴんしてるってのによう!子供まで産ませたって噂だぜ!これ以上、弟とかいらねえっての!」

 

「だから太郎。母上がご重体だというのに、ここはそういう話を振るべき場面じゃないサ。あんたはもう、ほんとに、しょうがないねぇ。いつまでも子供だねえ」

 

「……そうだった!悪かった孫六っ!だーっ!俺はどうしてこうもバカなんだああああ!母上、申し訳ねえっ!」

 

 末妹の禰々には危篤の報告が送られている。しかし、如何せん戦国時代。電話も新幹線もない。今やっと河越に使者がついたころである。もっとも、使者が到着しても勝手に帰る事は出来ない。その判断を下せる地位の身元引受人たる城主一条兼音は出兵中だ。大井の方は兄弟のうちでいちばんできが悪い太郎の慌てぶりを目を細めて眺めながら、

 

「……太郎。今後も、武田家の当主である晴信どのに忠実にお仕えするように。かんしゃくを起こして暴れてはなりませんよ。そなたがいちばん心配です。ほんに、しょうのない子……ふふふっ」

 

 太郎と孫六、信龍の顔を見て、張り詰めていた気が、一度に解放されたのだろう。それが、大井の方の、最後の言葉となった。五人の姉弟たちは、しばし瞑目し、母の死に顔に白い布を被かぶせていた。四隅をそれぞれの指で持ちながら。信龍はあまりの悲しみからか突っ伏して泣いたまま動かない。

 

 次郎が「姉上。ここは、私たちが。姉上は軍議へ。山本勘助が待っているわ」と告げる。また失った。信濃一国と引き替えに、あたしはついに母まで失ったのだ、とうなだれていた晴信の目つきが、「軍議」という言葉を聞いた瞬間に一変していた。

 

「山本勘助が? なにがあった、次郎」

 

「私も詳細は聞いていないけれど、勘助はかなり焦っていたわ。もしかしたら想定外の事態が起きたのかも」

 

 晴信は、評定の間へと駆けた。母を失った悲しみに暮れている時間すら、武田家の当主にはなかった。母上。これが戦国大名として生きるということのようです。申し訳ありません…。そう母に詫びながら、平伏している勘助の前へと躍り出ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうした勘助! 村上義清に動きがあったか! まさか、あたしの母が危篤だと知って、一か八かの逆転を求めて村上が攻め寄せてきているのか? そういう男ではないと思うが」

 

「は。それが、それがしの想定外の事態となりました。上州にて異変が」

 

「上州?上野にはまだ、関東管領を剥奪されてどうしようも無くなっている上杉憲政が一応踏ん張っていたはずだが。真田幸隆を引き抜き、佐久でさんざん叩いてやってからは、半分死んだようになっていたな。北伐を始めたと言う北条氏康についに滅ぼされたか?」

 

「ははっ。半ばその通りになっておりました。成田家の手引きを受けた東上野の有力諸将が相次いで降伏。平井城は陥落。他の諸城も相次いで降伏し、残すは沼田、箕輪、岩櫃などになっておりましたところ、その上杉憲政が――北条氏康に滅ぼされるくらいならばと上州を捨てて、越後の長尾景虎のもとへと亡命いたしました!」

 

「越後の、長尾景虎!だが越後長尾家といえば、関東管領家の宿敵ではなかったのか!?そもそも、かつては関東管領を殺したような相手だぞ。それが、なぜ?」

 

「関東管領家と相争っていたのは、下克上上等を信条としていた先々代の長尾為景でございました。長尾景虎は、為景とはまるで真逆。義と秩序を重んじる姫武将。長らく長尾家の傀儡となっていた越後守護の上杉定実からも景虎はまことの義将と覚えめでたく、上杉家の人間ではないにもかかわらず、越後守護職を与えられたとのこと」

 

「ふん。力ずくで奪ったのであろう」

 

「それが、そうではないようなのです!上杉定実自身が景虎の人物に惚れ込み、越後を統一できる英雄は景虎しかいない、と自ら進んで守護職を景虎に継がせると越後中の豪族どもに言ってまわったのです。これにより、揚北衆や上田長尾家の長尾政景ら独立心旺盛なうるさ方も、みな守護職という大義名分を得た景虎にひれ伏して、越後全土は今や景虎のもとにまとまっておるとのこと」

 

 いったいどのような姫武将なのだ長尾景虎とは、と晴信は腹立たしい思いを抑えながら勘助に問うた。

 

「長尾景虎は、生まれた時から父親である為景に疎まれ続けておりました。為景晩年の、末子です。己の実の子ではないと、為景はずっと疑っておったようです。その外見も、奇怪なものであると伝わっております」

 

「奇怪?」

 

「兎のように赤い瞳と、雪のように真っ白い肌、そして銀色に輝く髪の持ち主なのだとか。それゆえ、長尾景虎は父親に遠ざけられ、寺に押し込められていたのですが、家督を継いだ病弱な兄に代わって戦場に立つや否や、おそるべき強さで戦に勝ち続け、ついには越後諸将に担がれて兄から家督を継いだのです」

 

 要は、親に愛されなかった娘が、兄を追い落として武力で家督を奪っただけではないのか、あたしとなにが違うのだ? と晴信はつぶやいていた。

 

「野望にまみれた姫武将ではないか」

 

「それが、評判はまるで逆なのです。景虎自身は家督にも守護職にもまるで興味などないにもかかわらず、常に、周囲が勝手に景虎を押し立てていこうとするのです。長尾景虎は無私無欲にて、されど戦においては神の如き采配を振るい、自ら常に先頭に立って敵陣に斬り込み、その武勇はまるで――北方の守護天・毘沙門天の化身そのものであると。しかも常に敵を許し降伏した将は決して殺さず、城を奪うこともない、希有な義将だと」

 

 その義将としての評判が信頼となり、周囲が景虎に権力を持たせようと動くのです、と勘助が冷や汗にまみれながら述べた。父を甲斐から追放して家督を奪い、「野望の女」という悪名にまみれた晴信にとっては、聞きたくもない話であることは明白だからだ。

 

「偽善にもほどがある。敵を倒しながら必ず許し城を奪わぬなど笑止だ。それでは、いつまでも城盗りの合戦が繰り返されて、堂々巡りになるだけではないか。長尾景虎という姫武将は少しばかり、どうかしているのではないか?」

 

「たしかに、どうかしているのかもしれません。自らを、毘沙門天の化身であると信じて疑わぬそうです。ゆえに、戦場においても甲冑をつけることすら滅多にないと。矢や鉄砲玉のほうが、景虎の身体を勝手に避けていくと」

 

「神がかりか」

 

「だが、強いです。あり得ぬほどに、強いのです。まるで、天に目を持っているかのような采配ぶりだといいます。軍師役であった宇佐美定満なども、景虎の戦場における天才ぶりを一目見て理解し、以後はなにも口を挟む場面がなくなりあえなく失脚したのだとか。これほどに強い武将は日ノ本の歴史においても源義経と長尾景虎だけだと、越後では言われております。景虎はなにぶん越後初の姫武将であったゆえに、諸将の驚きは激しいものがあるとのこと」

 

「源義経も、戦が強いだけで政治というものをまるで理解していないバカではなかったか?そういう、娘か」

 

「はっ。ですが景虎は義経よりも厄介ですぞ。直江大和なる策士が景虎の背後に侍はべり、景虎の政治感覚のなさを補っておりますゆえ」

 

「では、越後の海へ出るのは少々難しくなったということか、勘助」

 

「いえ。それだけではござらん。事態は、大きく動きました。その長尾景虎のもとに、なんと、関東管領上杉憲政が救いを求めて逃げ込み、あろうことか関東管領職を景虎に譲ると言いだしているのです!」

 

「関東管領職を!?それは、東国の王の座ではないか!?越後守護職などとは重みが違うぞ!上杉家の血をひかぬ者に、まさか。あり得ん!と言うか、そもそもアイツは関東管領を剥奪されていたではないか!先ごろ、次郎を使者に差し向けた関東管領の就任式があったはずだぞ。扇谷上杉家の上杉朝定を据えると言う話だったではないか。北条氏康め朝廷工作もお手の物かと舌を巻いたが…幕府も朝廷も憲政の権利剥奪を認めたと言うぞ」

 

「北条氏康などに捕らわれて死ぬくらいならば、義将・長尾景虎に託そう、と決めたようです。どうも背後がきな臭いように感じます。幕府も一枚岩ではないようで。もしや、かつて関東管領は二人おりました。それこそ、尊氏公の頃ではありますが…。その故事を持ち出した可能性はございます。ともかく、景虎は、弱者に救いを求められれば決して断らない義将。関東管領就任の件は辞退しつつも、関東管領の復権という上杉憲政の悲願は自らの手で果たそうと決意した模様です。早速越山し、先鋒が沼田にて北条軍の主力と激突したと」

 

「それで、戦況は」

 

「風魔がこちらに教えた情報では沼田は陥落。長尾の先鋒は悉く敗走。景虎はいなかったものの、越後でも名高い長尾政景が敗走に追い込まれたようです」

 

「主力では無いとは言え、北条氏康もおもいきったことをしたな。そんな過激派には見えなかったが」

 

「一条土佐守の献策によって退くは下策と決断。その策を以て撃ち破ったと、我らに報せた風魔は誇らしげに言っておりました」

 

「北条氏康…獅子が翼を得たか…」

 

 だが、それならば、と晴信は思った。北信濃で戦う武田にとっては好都合ではないか?と。越後の長尾景虎の目が関東へ向かえば、村上義清は孤立無援となる。その北にいる高梨政頼もだ。村上義清を完全に叩きのめし、高梨を屈服させ、信濃を完全に支配する絶好の機会といえる、なぜそうも慌てているのだ勘助と晴信はいぶかしんだ。

 

「違います。御屋形様。御屋形様と長尾景虎とは、本当に水と油のようになにもかもが逆なのです。長尾景虎が、北条家という大敵を背負い厄介な上杉憲政の亡命を受け入れたという噂を聞いた村上義清もまた、越後へと亡命したのです!」

 

「……あの、孤高の男が!?葛尾城を捨てて?越後へ?亡命っ!?」

 

「長尾景虎は、義将。村上義清の申し出をも、断らなかったのです。村上義清もまた、長尾景虎に北信濃奪回を依頼したのです。頼まれれば決して断らぬ、それが義将・長尾景虎であるゆえに。村上義清自身がそう決断したのではなく、信濃守護の小笠原が村上を通じて景虎に要請したそうですが。武田軍を信濃から甲斐へと押し戻し、信濃守護の座に復帰したい、と。村上義清は、長尾景虎という奇妙なこの義将に、興味を抱いて亡命を受諾したようです。いったいどれほどに強い姫武将なのか、武のみを頼みに生きてきた男として、見てみたいのでしょう」

 

 それでは関東と信濃の二正面作戦になるではないか!いくら戦に強くとも、そのような無謀は不可能だ!武田と北条を同時に敵にまわして、勝てるはずがない!越後は滅びる!と晴信は苛立ちを隠せなくなり、怒鳴っていた。

 

「この信濃を併呑した武田とて、北条と今川を同時に敵にまわせば生き延びられぬ!いや、全面戦争ともなれば最早北条単体にすら勝てない。それゆえ、我らは懸命に三国同盟の準備を進めてきたのではないか勘助。それを、長尾景虎は……己の領土など一寸も増えぬ頼まれ事の戦を、二つも同時に抱えるというのか?負け犬どもを次々と抱え込んで、武田と北条を敵にまわして戦うと?役にも立たぬ守護たちを復権させるためだけに?戦国の世を、舐めているのか!?」

 

 あるいは、兄から家督を奪った心の負い目を糊塗するために、義戦などという偽善を持ち出して、引っ込みがつかなくなっているだけだ!とてつもない愚か者だ!と、晴信の罵倒は止まらなかった。

 

 それほどに激高していた。母を失ったその日に、これほど許しがたい話を聞かされるとは。

 

「勘助。長尾景虎は本当に、北信濃へ出てくるか!?」

 

「いかに軍神とはいえ、関東遠征にはそれなりに犠牲も出るでしょう。すぐには行えませぬ。ですが、北信濃は景虎の居城・春日山城からほど近くそう長くは放置できないはず。多少無理をしても押し通すでしょう。越後は甲斐よりもはるかに豊かでございます。善光寺平から川中島にかけてが、戦場となりましょう」

 

「川中島か…」

 

「このままでは戸隠忍群や善光寺の僧侶どもも、長尾景虎方につきましょうな。出浦盛清は降ってきましたが、内心は分かりませぬ。あれらは、神の国・信濃における古き神々に仕える者どもでございます。諏訪と同様に、武田が押さえねばなりませんぞ」

 

「あたしは母上の葬儀を終えたらただちに、川中島へ向かう。戦場となる場所を視察し、地理を頭に叩き込んで、軍略を練りたい。相手が戦の天才であれば、なおのことだ。長尾景虎はあの村上義清よりも、強いのだろうか?」

 

「……おそれながら、一騎打ちにおける強さは別として、義清どのなどは景虎に比べることもできますまい。あの景虎なる者、戦をやらせれば比類なき天才にございます。軍師すら必要としないのです。毘沙門天の化身と豪語しながら、越後の猛将どもが誰一人その言葉を疑わず、数十年にわたる内戦をやめていっせいに恭順いたしました。これだけで――」

 

「もうよい。貴様のような傲慢な男がそこまで言うのならば、ほんとうなのだろう、勘助」

 

 ただし、一騎打ちにおいても、景虎はそれまで越後最強と呼ばれていた猛将・長尾政景を自らの剣で倒しております。しかも、とどめを刺さず命を救っております。いずれは一騎打ちの腕前でも村上義清以上の強者となりましょう、と勘助は自らが練り続けてきた周到な策が一人の天才によって一気に崩れ去ろうとする予感に震えていた。

 

「北条氏康は箕輪でもう一戦する構えのようでございます。既に動き出していると。彼らがどこまで越軍の戦力を削ってくれるか、それにかかっておりましょう」

 

「長尾景虎。神がかりの偽善者め。信濃はすでに神の国ではない。このあたしが支配する、人間の国なのだ。乱世は、神がかりの武将などを求めてはいない。現世を生きる人間こそが、乱世を終わらせることのできる唯一の存在なのだ。そのことを、知らしめてやる!」

 

 母を失った。四天王の半分を失った。信濃の平定と「人間の国」としての新たな国造りを、越後の神がかりなどに邪魔はさせない。父に愛されず、兄から家督を奪った野望の姫武将が、自分となにも変わらぬ野心の塊のような戦争狂いの小娘が、義将だの軍神だの毘沙門天の化身だのと周囲の男武者たちから持ち上げられていい気になっている姿を想像するだけで、晴信は、怒りと悔しさのあまり目から涙が溢れてくることを抑えられなかった。




この辺の設定の多くは原作からなのであんまり突っ込まないでくださると嬉しいです…。作者もその塩梅には結構悩みましたが、大幅改変も良くないだろうと多少マイルドにして書いてます。駆け足気味に少し削っているところもありますがあくまでメインは北条家なのであしからず。

春日先生の作品である「鎌倉源氏物語」を買ってみました。何か役に立つと良いのですが…。


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第73話 運命の地へ 越

長尾景虎の運命――北条氏康の運命――そして、武田晴信の運命。

 

 同じ時代に、東国に生まれた三人の姫武将の運命は今、劇的な速度で重なり合おうとしている。

 

 景虎はついに上野救援を果たせなかった。乾坤一擲の野戦を敢行することは出来たが、決定的な打撃を与える事はついぞできなかった。それどころか初戦である沼田の戦いで景虎抜きとは言え敗走している。

 

 まだ兵は残っているとはいえ、電撃的に出兵した越後軍にははるばる武蔵へ、ましてや相模の小田原城へまで遠征する準備はない。そうでなくても雪が退路を塞げば、孤立した長尾軍は完全に包囲されることになる。後は煮るなり焼くなり氏康の好きなように出来てしまう。

 

 それだけではなかった。景虎が兵を率いて春日山城を出立してまもなく、越後を巡る事態が、急変したのだ。一つは、長らく病を得て伏していた兄・晴景が危篤に陥ったこと。もう一つは――「見せ兵」の策によって撤兵したはずの武田晴信が、再び北信濃へと猛烈な進撃を開始していたことだ。これまでの合戦とは異なり、今回は村上・小笠原の一族を根絶やしにせんばかりの勢いで、炎のような侵略を開始しているという。

 

 どうやら晴信は越後軍の「見せ兵」を、「北信濃を高梨政頼に任せて緩衝地帯にしよう」という提案として受け取ったのではなく、「挑発」と解釈したらしかった。直江大和にも宇佐美定満にも、この展開は予想外だった。

 

 武田晴信という姫武将に対して、景虎は長らく憎悪と言っていい感情を抱いていたが、もはや個人的な憎悪だけでは済まされない情勢となっていた。北信濃を武田軍が制圧すれば、春日山城の目と鼻の先までことごとく武田の領土となってしまう。これまで、北信濃には景虎を支持する親長尾派の国人などもいたのだ。そのため、北信濃は越後と信濃諸将との緩衝地帯として長らく機能していた。その緩衝地帯が、国盗りの野望に燃える武田晴信率いる武田軍と越後との最前線となってしまうわけだ。少なくとも、晴信は、北信濃を「緩衝地帯」とする意志を放棄している。

 

 更には会津の雄、蘆名盛氏が国境侵犯を繰り返し、国境で略奪行為に及んでいると言う。また越中の門徒たちもきな臭い。四面楚歌に近付きつつあった。これに及んで宇佐美は早急な撤退とまずは武田と蘆名を早急に何とかするように進言していた。

 

「ともあれ上杉憲政への義は果たした。今は、北信濃の武田軍の動きを止めろ。蘆名は本格的に越後を盗ろうと言う気はない。外交でどうにでもなる相手だ。それに会津も冬が来る。雪になれば動きにくいだろう。まずは武田だ。一刻も早く止めないと、高梨が呑まれるぞ」

 

 諸将の顔色もあまり良くない中、三国峠でそれを聞いた景虎は思わず舌打ちをしていた。氏康との一騎打ちで自分の知らない存在に衝撃を受けた彼女だったが、それについて深く熟考する時間も余裕もなかった。そして宇佐美の意見には直江も、同意見だった。越後からはるかに遠い関東などで真剣に戦う必要はない。北条軍が三国峠を越えて北上してくれば、牽制してみせれば、それで済む。北条とて、広大な関東平野の切り取りにしか興味がなく、遠く越後まで侵攻してくることはない…と言う事になっている。越後欲しいなぁと思っている男が河越にいるが、そんなのは知らない。ちなみに彼の狙いは日本海・太平洋の交易を牛耳るのと佐渡である。

 

「その一方で、武田晴信は越後の海を狙っているようです。信濃も甲斐も山国で、海を持ちません。武田が勇躍するには、越後か、あるいは駿河へと出なければならないのです――しかし武田と駿河の今川家とは同盟関係にありますから、越後を盗れる、と確信すれば武田晴信は即座に越後へと攻め入って参ります。南北に長い越後全土の平定は武田には無理でしょうが、春日山城を盗ってしまえば越後の西半分――少なくとも上越は奪えます。武田は、直江津の港を欲しているのです」

 

「最終的に海を欲しているとしても、私が関東の奥深くまで乗り込んでいる隙を見て空き巣となった越後を攻めればいいものを、なぜこうも猛然と北信濃を侵略してくる?直江。武田晴信は智者ではなかったのか?」

 

「わたくしにも予想外でしたが……晴信ほどの智者であっても、どうにもならない感情というものがあるのやもしれませんね。晴信とお嬢さまとは、いわば、水が合わないのでしょう」

 

「わかる気がする。私も、武田晴信が嫌いだ。晴信も、私を嫌っているのだろう」

 

 上杉憲政を擁して正式に景虎と和睦し、再び一門衆の上席に返り咲いた長尾政景もまた、「今度ばかりは宇佐美、直江と俺も同意見だ」と景虎に具申してきた。

 

「貴様が関東管領を押し立てて関東に秩序だの義だのを再興するというのならば気が済むまで勝手にやればいいが、ただ一度の野戦で広大な関東を斬り従えられるほど、板東武者たちは甘くない。それすらも今回危うかった。負けでは無いが、勝ってもいない。北条は侮れない。『武』だけでは『義』など成り立たんぞ。北条は、たとえ何度貴様が関東へ出兵しても防ぎきるだろう。氏康は翼を得た獅子だ。多くの家臣がヤツの翼となっている。どうしてもやるのならば、上野と武蔵を切り取って領国化しろ。関東諸国を貴様の国とするのだ。まぁそれも一条土佐守が踏ん張っている限り難しいだろうがな。それ以外に、北条を潰す道はないぞ――北信濃においても、同じことだ。たとえ武田を追い払っても、村上や小笠原には領土を返すな。北信濃を長尾家の領国としろ。そうしなければ、いつまでも守り切れるものではない。それが戦国の世の(ことわり)というものだぞ、景虎。無駄な義戦を繰り返しても、この世はなにも変わらんし、今は貴様の美貌に酔いしれている越後の国人どもも次第に冷めていき謀反を起こすことになる。人はな、義だけでは動かせぬのだ。利で釣らねばならん。馬鹿な真似は慎め」

 

 平素であれば景虎はかっとなって政景の肩を青竹で打っていただろうが、この時ばかりはそれどころではなかった。

 

 景虎は「ともあれ兄上のもとへ行き、すぐに小笠原長時たち北信濃の武将たちと謁見する――まだ彼らは越後には入れていないようだ。兄上のご容体が持ち直してくれればいいのだが」と焦りながら、軍を引き返し、兄・晴景のもとへと舞い戻っていた。実の妹に恋心を抱くような異常の兄である。二度とは会わないと誓ったはずだったが、土壇場になってみると、妹としての情が勝った。

 

 姉の綾も、晴景を見舞いに行こうとしたが、これは実現できなかった。赤子の容体が再び悪化していたためだ――母・虎御前こと青岩院も、綾のもとにつきっきりとなっている。このため、景虎は、二人きりで晴景と対面しなければならなかった。それでも、景虎は、勇気を奮い起こして、晴景のもとを訪れたのだった――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここでも時系列はやや前後し、一旦北条に戻る。ところは河越。時は丁度兼音たちが箕輪にいる頃である。この時河越には綱成の妹、北条綱房が留守居をしていた。言われた仕事をしっかりこなしている中、急を報せる伝令が到着する。すわ前線で異変かと警戒した綱房に使者は甲斐より来たと伝えた。内容は大井の方の病状悪化、薬師の見立てではあと数日の命と言う情報だった。せめて葬儀には…と縁起でもないことを言う使者を説教しながら彼女は考える。

 

 悩んだ綱房だったが、一応上司とその更に上司にお伺いを立てるために忍びを急発進させた。連絡用に幾人か残していたのである。気が気ではない禰々だったが、二日か三日で忍びは帰還した。

 

 護衛付きで行くなら問題なしと言うのが見解だった。ここで家族の情に情けをかける懐の深さと武田に恩を売りつけるのが狙いであったが、そんなことは知らない禰々は感謝しながら夫を神社に放置して大急ぎで出立。護衛と共に一路甲斐を目指すことになった。

 

 時系列の順番的には沼田の情報が風魔の手により半同盟関係の武田に伝わる→大井の方の病状悪化→使者、河越へ→使者が禰々と綱房に会う→綱房、連絡要員の忍びを用い急いで兼音へ連絡→許可が下りる→忍び帰還→箕輪の戦い→砥石城陥落→禰々、護衛数十騎と使者と共に出立。甲斐へ強行軍→大井の方死去。この時甲斐へは入国していた、である。

 

 氏康は最初悩んでいたが「家族の死に目にはともかく葬儀には出たいだろう。運が良ければ死に目にも会えるかもしれない。別れの言葉を言う時間くらいは、運命に振り回される御仁にあっても良いのではないか」と言う兼音の進言を受け入れた形になる。彼の進言の裏には、親の死に目に会えなかった悲しみや葬儀にも出れないとなればその悲哀は如何ほどかと言う過去の自分を思ってのものがあった。

 

 ぬるい、甘いと言われる判断だったが、親の死に目には会えた氏康にもこの進言は割と刺さり、こうしたのである。非情になり切れない主従であった。が、それも意外と悪くなく、「父母孝行を重んじ人質であっても葬儀のための帰国を許すとは懐深し。乱世に何と言う義理堅さ、仁徳の高さよ。これならば人質を差し出しても無体な事はするまい」と言う風説が広まり、関東の国衆の多くが小田原に人質を割と積極的に差し出す事となる。

 

 後世の物語などでも割と劇的に名場面として書かれることも多く、かなり脚色されたりもした。「禰々姫甲斐行道中」と言う芝居にもなるくらいなので(素晴らしく盛られているが)、終わり良ければ総て良しである。甲斐へ戻った禰々と姉・晴信との間にまたひと悶着あるのだが、またそれは別の機会に語ろう。そう遠い日では無いだろうが…。

 

 

 

 

 

 

 

 

「上杉憲政は、関東管領職を譲ってもいいなどと甘言を弄し、そなたを籠絡して越後を奪い取るつもりだ。関東に再び君臨するために……仮にそなたに管領職を譲っても、そなたの婿になってしまえば同じことなのだから。僕はもう死ぬが、命の炎が尽きつつある今になって、ようやく長い長い迷いから目が覚めた思いがする。なぜ、血を分けた妹に対してあのように惑っていたのだろうか……愚かな兄を許してくれとは言わないが……兄としての最後の遺言をどうか、覚えていてほしい」

 

 体調を崩してから、晴景は酒を断った。正確に言えば、もはや酒を飲む体力すら残っていなかった。酒を断ったことで、物静かで温厚だった頃の思考力をようやく彼は取り戻していた。断酒したところで、壊れてしまった内臓が蘇るわけではなく、時すでに遅しではあったが、人生の最期に、景虎に会えた。景虎は、自分のようなあさましい兄を、許してくれたのだ。それだけで晴景は、救われた…と満たされていた。

 

 ただ、景虎をこのまま現世に置いていくことだけが、悔いとなっていた。

 

「兄上。関東管領様を押し立てて関東の秩序を復興することは、私にとっては天命のような仕事です。上杉憲政様には琵琶や歌を教えていただいていますが、関東管領職を譲り受けるつもりは毛頭ありませんし、決して男女の関係にはなりません。ご安心ください。直江は五年ののちに私に婿を取らせると言っていますが、あれは越後衆を黙らせるための方便で、私は生涯婿を取りません」

 

「僕の愚かな煩悩のせいか。それとも、毘沙門天とやらの声に従ってのことか」

 

「……兄上のせいではありません。兄上は病と酒とで、惑っておられただけです」

 

「……ご老公が……上杉定実が今しばらく生きていてくれれば……上杉憲政の亡命は、景虎、そなたの生涯を確実に狂わせる。越後の守護職を譲られるのとはわけが違う。関東管領職を受けてはならない。父上の所行のことは、忘れよ。忘れてくれ…」

 

 忘れることはできません、と景虎は力なくうなだれていた。次々と、家族が死んでいく。父・為景は越中一揆討伐の際に奇襲を受けて戦死し、為景亡きあとに父代わりとなってくれるはずだった上杉定実も、そして、兄・晴景もまた。

 

「兄上……政景との和睦ののち、回復する気配を見せてくれていた姉上のお子も、長くはなさそうです……これも……越後へと引き返した理由のひとつです。政景を従軍させるべきではなかったのです」

 

「……政景は、宇佐美たちと異なる意見を持っていた。武田が猛然と北進してくると予想していた。理由はただ、武田晴信がそなたを嫌っているから、と……そこまで計算して、関東出兵に従軍したのだろう。あの男は……自分では理解していないが……景虎。お前を想っている。お前の、自分に自分で鞭打つような生き方を、深く案じている……それが、あのような怒りの感情になって表れるのだ」

 

「私に政景の愛妾になれと言うのですか、兄上は。政景は、姉上の夫です。それだけはできません」

 

「そうではない。だが、長尾家という家族は、どうしようもなくこじれてしまった…景虎。僕には世継ぎがいない。お前までもが生涯独身を貫けば、春日山長尾家の嫡流は断絶するのだぞ。誰でもいい。そなたがこの男をこそ、と頼んだ者と、結ばれてくれ。生涯不犯の誓いなど捨てろ。その誓いがある限り、そなた自身がますます苦しむことになり、そして越後はいよいよ乱れる。やはり、僕のしでかした愚かな真似を、許せないのか」

 

「許すも許さないもありません。兄上。わたしは、兄上をお慕いしておりました…」

 

 景虎は、それ以上言葉が出てこず、ただ涙を流していた。

 

 晴景は思った。ああ。この瞳だ。僕が狂ったのは、この赤い瞳のせいだ。死を目前にして、己の煩悩のすべてが燃え尽きた今にして、ようやく言える。

 

 ただ、美しい、と――。

 

 この瞳が、美しいのではない。赤いから、綺麗なのではない。景虎の心根が、美しかったのだ。母上が。綾が。宇佐美が。直江が――景虎を、あまりにも美しい心のままに、育ててしまったのだ。

 

 その結果、景虎は類い希な少女に育った。だが、純粋すぎるあまりに、景虎は人ではないものになりつつある。毘沙門天の化身に……神に、なってしまいつつある。景虎を地上へ引きずり下ろそうとあがいていた男は、きっと、政景だけだったが……その政景も、この無垢な瞳を前にすれば、なにもできまい。あらゆる男を激しく惑わせると同時に、その煩悩の炎をかき消してしまう、そんな力を持つ瞳だ。家族親族が互いに殺し合う戦国乱世に、なぜ、景虎のような者が生まれてきてしまったのだろうか

 

 美しいままに生き、美しいままに死んでいく。この世のあらゆる汚濁に塗まみれることなく。女神として、散っていく。それが景虎の運命なのだろうか。或るいは、それでいいのかもしれない。同族同士が命を奪い合うこの戦国の日ノ本に、このような義将が実在してくれるというだけで、人々は乱世に生きる希望を見いだせるのかもしれない。

 

 だが、景虎は……景虎自身は。わが妹は。それで、幸せになれるのだろうか? ただ美しい理想と醜い現実との狭間で、誰にも理解されない、義など実現できない、と苦しみ続けるだけではないのか。さして、長くもないであろう命を……徒労のうちにすり減らしてしまった、と悔いながら寂しく……独りきりのまま、死んでいくのではないのか。この僕のような愚かな兄が妹に看取みとられながら逝けるというのに、こんなことがあっていいのか

 

 死後も魂だけの存在となってでも、この雪のように白い妹を守護することができれば、僕は鬼になってもよい、と晴景は思った。

 

「……景虎。そなたは、毘沙門天ではない。人間の、娘だ。僕は兄としてそなたを導くどころか、むしろ惑わせてしまった愚か者だが……人として、生きてくれ。人とは、清濁いずれの心をも持つ者のことだ――神も魔も聖も穢も、すべては人の心の中に。いずれ、そなたにもわかる時が来る。それが、僕の」

 

 これが晴景の最期の言葉となった。

 

 

 

 

 

 

 景虎は、兄を失った。

 

 姉婿と、実の兄。道ならぬ関係を求めてくる男たち。親族たち。家族たち――それでもなお、晴景を憎むことは、景虎にはできなかったのだ。

 

 ああ。本当に、お優しい兄上だったのだ、病で惑われていただけなのだ、それとも、この私がこのような罪深い姿に生まれてきたばかりに……なぜ、あれきり兄上を放置して逃げてきたのだろう。もっと語らっていれば、あるいは。兄上は、まだ生きられたかもしれない。そう自分を責めながら、景虎は、そなたは毘沙門天ではない。人として生きてくれ。という兄の最期の言葉を、胸に刻んでいた。

 

 聞き流すことも、忘れ去ることも、できなかった。人として生きるとはどういうことなのだろうか、と激しく戸惑っていた。小田原の女主人は言った。「人は神ではなく、己の足で立って、前に進まなくてはいけない。それが、この苦しみに満ち、死に溢れた乱世をおさめる唯一の道だ。人が神に導かれる時代はもう終わった」と。分からなかった。それが正しいのか、間違っているのか。それでも確かに彼女は善でありながら自分にとっての悪であることを良しとした。

 

 宇佐美は私に義を教え、直江は慈悲を教えた。父上は、私がなりきった毘沙門天の言葉によって救われた。だから私は――毘沙門天の化身として生きると決めた。

 

 もしも、私が人として生きれば、兄上の魂は救われるのだろうか。人として生きながら、義の合戦を戦い抜くことは、できるのだろうか。果たして、義とは何なのだろうか。

 

 人が戦をすれば、それは結局のところ、武田晴信のように野望に憑かれていくのではないだろうか。父上と同じ過ちを繰り返すだけになってしまうのではないか。人とは、清濁いずれの心をも持つ者――言葉の上では、理解できる。しかし、人の心がひとたび汚れれば、清流はすべて濁ってしまうのではないのだろうか。国を奪えば新たに国を奪わねばならなくなり、敵を殺せば新たな敵を殺さねばならなくなり、そしてひとたび恋に落ちれば――。だがそうでない者もいた。私の思いこみに過ぎないのか、けれど、越後の男たちはほぼそう言う者達で構成されている。

 

 お優しい兄上。あなたが私の兄上でなかったら、あるいは。兄上の最期の遺言にすら、承知いたしましたと答えられなかった私を、どうか許してください。ですが、兄上のお言葉は決して忘れません。今は、なにもわからない私ですが……答えを求めて、越後の外の世界を見聞して参ります。

 

 景虎は慟哭を押さえながらかろうじて立ち上がり、襖を開いて廊下へと飛びだしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 春日山城に、北信濃からの敗将たちが登城したのは、葬儀から遅れて三日後のことだった。彼らの信濃脱出に戸隠忍びに扮した風魔の手助けがあったのは言うまでもない。兄・晴景の葬儀を慌ただしく終えてまもなく、景虎は、彼らに謁見した。蘆名へは既に使者を送り、和睦を求めている。

 

 直江大和と宇佐美定満も侍っている。母や姉とともに晴景を失ったことを悼む時間すら、景虎には与えられなかった。景虎が越後の守護職を継ぐや否や、関東と信濃とで、ほぼ同時に旧体制が崩壊し、関東管領と信濃守護がともに越後へと亡命してきた。景虎も、直江も宇佐美も、これは偶然ではないと理解していた。越後でも、関東でも、信濃でも、時代は大きく転換しようとしている。

 

 いわば、日ノ本の戦国時代は、「下克上」によって旧体制が崩壊していく初期から、武田や北条のような戦国大名が隣国を侵略し、旧支配者から武力で領国を奪い取る中期へとさしかかっていた――。分裂した日ノ本の再統一への機運が高まっているのだ。

 

 が、景虎は、あくまでも旧秩序の復興にこだわっていた。戦国大名になどならぬ、他国の領土など奪わぬ、と景虎は固く誓っている。武田家は、源氏の一門にして甲斐守護職を務めてきた旧勢力の代表的な家柄でありながら、信虎・晴信の二代のうちに隣国信濃を容赦なく攻め落とす戦国大名となった。まして、今川家の家臣から身を起こして関東を乗っ取ろうとしている「後北条家」など論外である。北条家とは僭称にすぎず、その実体は「伊勢家」にすぎない。伊勢だって名門だぞこの野郎と氏康の叫びが聞こえそうだが、ともあれ――。

 

 景虎は、北信濃の諸将に声をかけていた。

 

「よく越後へ来てくれた。面をあげよ」

 

「……旧葛尾城主、村上義清。今は、流浪の身だ。武田晴信を二度までも戦場で討ち損じ、こうして生き恥をさらしているが、長尾景虎という武将に興味があって、落ち延びてきた」

 

 北信濃の餓狼、村上義清。すでに初老にさしかかっているが、気力体力ともになおも満ちている。これが、奸智に長たけた武田晴信を二度までも戦場で撃ち破った勇将か――敗将となりながらも、まるで媚びるところがない。景虎は、村上義清の誇り高さに同じ武士として好意を抱いた。

 

「うおおおおお。これが景虎ちゃんか!聞きしに勝る美少女だ!がはは、この俺の嫁にならないかッ!村上は真面目な顔をしていて、十人以上のガキを儲けている性豪だぞ!こういう裏表のある男がいちばん信用ならんのだ。その点、俺さまは正直者!いい女はぜんぶ俺のものにして抱くッ!わが言葉に、一点の曇りなし!その上、越後守護と信濃守護とが結ばれれば鬼に金棒だーッ!」

 

 一方の、信濃守護の小笠原長時。外見はそれなりに上品な貴公子に見えるのに、口を開くとなんとも下品な男だった。

 

 景虎は、な、なんだこの男は……な、長尾政景よりも酷いな。小笠原家と言えば礼儀作法に五月蠅い名門だったはずだが…と唖然とした。上杉憲政のような雅な男を想像していたのに、まるで違う。さしもの村上義清も煙たそうに目を半開きにして、小笠原を睨みつけた。

 

「小笠原長時。私は、あと五年は誰とも祝言を挙げないと決めている。世継ぎを儲けるよりも、義戦を遂行する仕事が先だ。私は救いを求められればどこへでも出兵し、そして勝つ。武田晴信と戦い、北信濃の領地を奪回する。次は、見せ兵ではなく、本物の軍団を率いて」

 

「おおっ!?ありがてえ、景虎ちゃん!関東でことを構えていて忙しいんじゃなかったのか?そうかそうか。俺さまに惚れたのか、がはは」

 

「淫らな発言は控えよ、小笠原。わたしは毘沙門天の化身である。この身を汚そうとする者は仏敵と見なして容赦なく青竹で打つぞ――不殺の誓いも、貞操を守るためならば破ってもやむを得ないと私は近頃考えを改めた。私が越後守護となって以来、お前のような輩が増えたからな」

 

「……ちっ。それほどの手練じゃ、そう簡単には押し倒せそうにねえな。まあいい。景虎ちゃんが処女だということは間違いないのだ。必ずや俺さまが最初の男になってやる、ぐふふ」

 

 景虎は、これほど露骨な男に出会ったのははじめてである。頭痛がした。ちょっと可哀想である。武田晴信は強い、容易には打ち払えぬ、と村上義清が漏らした。

 

「村上義清。そなたは二度、武田晴信を倒したのではなかったか?」

 

「たしかに俺は、局地戦では、勝ちを重ねた。正面対決で、晴信に負けたことはない。だが、晴信の首を盗ることはついにできなかった。その結果――真綿で首を絞められるように付け城を徐々に奪われ、国衆たちに裏切られ、孤立させられ、越後へ亡命する他はなくなっていた」

 

 そうだ。俺さまたちは合戦では武田に負けちゃいねえ。真田忍びにやられたんだ! と小笠原が鮫のように尖とがった歯をむき出して怒鳴っていた。村上が「小笠原軍は武田と正面きって戦って塩尻で大敗したではないか」と小笠原を睨みながら、言った。ド正論だった。

 

「うるせー黙れ。景虎ちゃんへの俺の印象が悪くなることを言うなこの好色爺が。景虎ちゃんは神将だぞ。ということは、合戦に強い男が好きなのだ!越後国内には景虎ちゃんに勝てる武将などいねえというから、となると景虎ちゃんの婿候補は俺か貴様しかいないのだっ!」

 

 俺にはもう妻も子もいる、黙ってくれ頭が痛い、と村上義清は額を押さえながら小笠原の口を閉じさせた。小笠原が転がり込んできて以来、毎日この調子なので辟易しているらしい。義清がもう少し気が荒ければ命が危うかっただろう。水と油のように合わない二人だ、と景虎は思った。小笠原ではなく村上義清が信濃守護であれば、信濃はかくも無残に武田などに侵略されずに済んだものを、と惜しんだ。

 

「真田忍びはいかにしてそなたを破ったのか、村上義清」

 

「やつらは諜報、攪乱、暗殺などの任務をやらせれば、諸国の忍びよりはるかに役に立つ。武田晴信はその真田忍びを用いて、わずかな手勢だけで砥石城を落とした。『砥石崩れ』の敗戦を、忍びどもの活躍だけで取り戻し、俺を北信濃から追い落としたのだ」

 

 汚いやり方だ、と景虎は憤った。

 

「武田晴信は、はかりごとをもって城を奪い国を盗る姫武将か」

 

「いや。はじめは二度までも、俺に正面から仕掛けてきた。そこまでは、父親・信虎にも似た猪武者だった。だが、二度続けて俺に敗れ、武田四天王のうちの二人までもを失った。それから、戦い方を変えたのかもしれん。決戦するたびに人材を失っていては、城は奪えても人が減っていく。それでは武田家はもたぬ、と悟ったのかもしれん。どうせ城を盗るなら、死ぬ人間の数は少ないほうがよほどいい。晴信は俺のような故郷を守ることしか知らぬ田舎者とは違う。長い目で見れば――天下をうかがうほどの野望を抱いているであろう晴信は、城と人の命とを交換したくはないのだろう」

 

 愚かな話だ。正面から戦えば将を失うというのは、それは晴信が弱いからだ、と景虎は憤った。私は、合戦に臨んでは常に自ら先頭を駆ける。本陣に隠れて、諸将を前線へ送り込んだりはしない。大将自らが先陣を切って戦えば、自らが討ち死にしない限り、諸将や足軽たちの命を次々と失うようなことはない。戦場で晴信の陣に自ら突撃をかけたという村上義清も、自分と同じ種類の「いくさびと」なのだろう。

 

「村上義清。真田幸隆とはいったい何者なのだ」

 

「真田氏を名乗ってはいるが、それは信濃の名族・真田家を乗っ取ったからで、もとはどこから来たのかわからん。武家ではあるまい。戸隠山の忍びや山の民たちを真田の荘に定住させ、山の民の楽園を作ろうとしている妙な女だ。いちどは俺が信濃から追い払ったが、武田方の軍師・山本勘助を通じて、武田晴信に服従した」

 

「山本勘助の野郎も、一つ目で片足が萎えている上に、得体の知れない宿曜道などという術を用いる奇妙な男だからな。がははは。まるで、たたら師のような野郎だ。武田晴信ちゃんは――にっくき俺の敵ではあるが、俺さまはかわいい女の子は敵であろうがその美しさを素直に愛めでるのだ――神氏(みわし)を滅ぼし守護職を追放する一方で、あんなたたら野郎みたいな奴を軍師として重用し、真田のような忍びの一族を直参同様の待遇で召し抱える。変わった女だぜ!」

 

 小笠原長時が、笑った。そうか。晴信は、武家だろうが忍びだろうが山の民だろうが、ひとたび「武田家」に所属するとさえ誓えば徹底的に平等に扱う。身分による差別をしない女らしい、と景虎は気づいた。

 

 人は生まれながらに本来は平等であり、身分や血などは能力や志に比べれば一段劣る、と信じているのだろう。その考えじたいは、景虎も理解できた。だが、その理屈は、あくまでも自らが「正義」の範疇にいてこそ有効なのである。己を律してこそはじめて、旧秩序を踏み越えることが許されるのだ。そうでなければ、父親より自分が優れているのならば父親を隣国へ追放して国を奪ってもいい、ということになる。

 

「その理屈が、甲斐源氏の嫡流でありながら、武田晴信を下克上の戦国大名にしてしまったのか――不埒な。私は、これ以上武田晴信を捨て置けない。自分の父親を国から追い払うなど、言語道断だ。直江。宇佐美。ただちに北信濃へと出兵する。春日山城からは、北信濃は近い」

 

 村上義清が「越後守護が自ら戦場へ?」と声をあげていた。

 

「川中島へ出兵するというのか。北条氏康とことを構えていながら、さらに武田晴信と戦おうというのか。いくら神将でも」

 

「村上義清。北条は山を越えては来るまい。私はこれより武田を川中島一帯から蹴散らし、そなたたちの領土を奪回する」

 

「俺の言葉を聞いていなかったのか。今の武田晴信は武辺だけの姫武将ではない。謀略と武とを織り交ぜて変幻自在の戦をやる女だ。この俺と死闘を繰り広げていくうちに、武田晴信は敗戦を重ねながら、とてつもなく強くなった。戦略なしに決戦を挑めば、晴信の思う壺となるぞ」

 

「野望と欲に身を焦がされている人間の女などに、毘沙門天は敗れぬ」

 

「ではせめて、約束してほしい。川中島へ出兵したらただちに、北信濃を直轄領にしろ。かつての俺の領土……村上領をもだ。旧主たちに城を返却したところで、もはや北信濃の諸将は武田勢から自分の城を守り切れぬ。それでは堂々巡りになり、ついには晴信の異様な妄執の前にお前は敗れる。ただ故地を守れればそれでよい、と恬淡てんたんとしていた俺がこうして敗れ去ったように。俺と小笠原には、越後の片隅に捨て扶持でも与えればよい」

 

 小笠原長時が「なにを言うんだてめえええ!」と村上義清に突っかかったが、村上義清は聞いていない。義清はひとえに、景虎を武田との終わりのない抗争へ巻き込むことを危惧しているらしい。まさか、対面したその席で景虎が「北信濃へ出兵し晴信と対決する」と即決するなどとは思っていなかったのだろう。

 

 景虎は、その村上義清の言葉と心に、義を見た。義には義で応えねばならない。

 

「村上義清。私は、毘沙門天の化身である。北信濃の領土を奪ったりはしない。それでは、わが戦もまた欲の戦となり、人の戦となり、晴信と戦う大義名分を逸する。私が求めるものは、乱世に秩序と義を回復することのみだ」

 

「武田晴信は強い。晴信には、真田忍びのみならず、山本勘助という食わせ物の軍師がいる。北条氏康もまた、したたかな女だ。この両雄と同時に戦い、かつ、一寸の領土も奪わないなど――そのようなことが、できるはずがない。お前のその夢は、徒労に終わる」

 

「徒労に終わるかどうかが問題なのではない。生きているうちになにをなそうとしたか、その道程こそがすべてなのだ。村上義清」

 

「……そなたは……本物の、義将だな……もはや、亡国の将にすぎぬ俺の言葉では止められまい。越後の古参たちに任せるしかないな。直江大和と宇佐美定満に」

 

 直江大和と宇佐美定満は、顔色を変えていた。村上義清・小笠原長時の両者と対面した景虎が義憤にかられて「北信濃出兵」を言いだす。予想できていたことではあったが、あまりにも景虎は性急すぎる。晴景があとしばらく存命でいてくれれば、景虎とて春日山城に留まってくれただろうが――むしろ、兄・晴景を失った喪失感を、景虎は戦場に出ることで忘れようとしているのかもしれなかった。

 

 景虎自身、自覚があった。しばらく、この春日山城から離れたかった。早く、戦場を駆けたかった。敵と、戦いたかった。さもなければ、やりきれなかった。

 

「お嬢さま。お待ちください。上洛の計画はいかがなさいます。すでに上洛の日が迫っているのです」

 

「お前が武田晴信を嫌っているのは知っているが、北条と武田を同時に敵に回しての二正面作戦など正気の沙汰じゃねえぞ!落ち着け!」

 

 直江と宇佐美の小言には慣れている。景虎は、二人の理屈と情は痛いほどにわかっている。だが、譲れない。と微笑して受け流した。

 

「これは義戦だ。事実上の越後守護となった今、隣国の救援に応じた義戦を行わねば、私もまた武田晴信と同じ簒奪者となってしまう。口先だけならば、いくらでも綺麗事を言うことができるだろう。だから私は、己の口にした言葉をまことにするために、行動するしかない」

 

「なあ、景虎。武田晴信が見せ兵の謎かけを無視して攻めてきているということは、徹底的に越後軍と戦うと決意したってことだ。北条氏康以上に好戦的だぞ!」

 

「やむを得ない、宇佐美。宿敵・村上義清を制したことで、武田晴信は己こそ戦国最強の武将であると思いあがっていることだろう。放置しておけば、北条以上の非道をやるに違いない。北条は領民には優しいが、武田は捕虜を金山へ送るというではないか。だからこそ、武田晴信に毘沙門天の戦を見せてやるのだ――神の戦を。なにが悪で、なにが義かを、あの野望に取りつかれた女に知らしめてやるのだ」

 

 流石景虎ちゃん! と小笠原長時が歓声をあげ、村上義清が「……俺はあるいは、生涯の主君を得たのかもしれん」と目を細めていると。

 

 お待ちくださいませ、と景虎を制止した者がいた。

 

 

 

 

 

 

 

 父・為景の代から長尾家に仕えている、財務方の官僚武将、大熊朝秀だった。見た目も商人のような優男で、越後の国人の多くは合戦のたびにこの大熊に銭を借りている。ただ、武芸の腕も確かで、史実ではあの上泉信綱とも互角に渡り合っている。

 

「戦には、戦費というものがかかります。わが国は国人衆と直参の諸将を関東出兵に動かしたばかりで、しかも景虎様は上野において防衛した城をすべてそのままにして、彼らに恩賞として分け与えていませんから、ありていに言えば諸将は赤字なのです。この上、間髪入れずに北信濃への出兵を命じれば、戦費を捻出できずに首が回らなくなる者も出て参りますし、謀反が起こる恐れもございます」

 

 景虎は、戦費のことを深く考えたことがなかった。越後は途方もなく豊かな国だったし、内政については、宰相の直江大和に任せきってある。

 

「多くの者は、領土など得られずとも、私から感状を与えられて喜んでいたが」

 

「景虎様からの感状など、彼らにとっては要は恋文のようなものです。一時しのぎにすぎません!恩賞として土地の代わりに感状を渡すという行為を何度も繰り返せば、いずれ感状は紙切れ同然となってしまいます。なぜならば武家たる者、家臣を食わせねばならないのです。せめてあと半年、お待ちください」

 

「……北信濃へは、わたし自身が出兵する。問題はない。国人衆は、余裕のある者だけが参戦すればよい」

 

「景虎様!戦は遊びではありません。人の命も、兵糧も、銭も失われるのです。いくらわが国が青苧の貿易で荒稼ぎしているとはいえ、財源は有限なのです!」

 

「大熊。わたしは商売人ではないぞ。武士だ!兵は一人たりとも無駄死にさせぬ。私自身が軍を率い、勝つ。勝つための銭勘定はそのほうが宰相の直江とともに知恵を絞って考えよ!」

 

 直江大和が、「他国を助けるための義の合戦などは銭がかかるだけです!土地なり城なり人なりを奪わねば、黒字にはなりません!」と激高する大熊朝秀を「上洛の折には、その青苧の販路をさらに拡大するための工作も予定しております」と宥めた。

 

「大熊殿も上洛されればよいのです。お嬢様の名声が畿内にて鳴り響けば、巨額の利が保証されましょう」

 

「しかし直江殿。今、北信濃で合戦をはじめれば、上洛の計画そのものが流れてしまうではありませんか!」

 

「そのお言葉は、ごもっともです。合戦の期限を切りましょう。それに、もともとお嬢さまはお身体がお弱い。長い遠征には、耐えられませんのでね」

 

「期限内に、武田晴信を倒せますかな」

 

 武田晴信が決戦に挑んでくれば、倒せる。と景虎はうなずいていた。

 

 義だけでは人は動かせない――この「真理」を潔癖な景虎が実感するまでには、まだ、しばらくの時間がかかる。大熊朝秀はなおも納得できないようで歯がみしていたが、直江大和の凍てついた視線が強引に彼の口を封じてしまった。

 

 ちなみにではあるが旧上杉家(定実)の配下と元々長尾家(為景)の配下であった者たちとの間には微妙な確執がある。宇佐美は割とそれをフラフラと乗り切ってはいるが、為景の配下であった者達(一応政景もこちら)の方が優位であった。直江は旧長尾家家臣。大熊は旧上杉家の家臣だった。そしてこの対立軸の噂は最悪なことに関東へ流れていくことになる。

 

 

 

 

 

 

 見かねた村上義清が、「晴信と決戦するならば、川中島だ」と進言した。

 

「砥石城、葛尾城を落とした武田晴信軍は、千曲川沿いに北上。川中島へと進軍している。俺が越後へと落ち延びている隙に、善光寺を接収するつもりのようだ――善光寺は、戸隠山の表玄関だからな。それに、南信濃の諏訪が民衆にとって特別な聖地だったのと同じで、北信濃の民衆にとっての聖地といえば善光寺だ。たとえ武力で城を強奪したとしても、それだけでは維持は難しいが、その土地に住まう民衆の信仰心を掴つかめば、侵略者の武田晴信であろうとも奪った国を治めることはできる。そして高梨政頼が信濃の最北でまだ踏ん張っているはずだ。彼は長尾家と繋がりが深い。貴殿の従兄のはずだ。反武田の心は同じ。必ずや助けてくれるだろう」

 

「私は、国など奪わぬ。晴信め。人々の信仰心まで利用して、領土を拡大しようとは。卑劣な女だ」

 

 常の晴信ならば慎重に戦うが、今の晴信は越後の「見せ兵」によほど立腹しているようで「城を奪えるだけ奪え」とばかりに北信濃を蹂躙している。どうしても決戦するというのならば、晴信の戦意が高揚している今こそがその時期だろう、と村上義清は言った。

 

「が、この決戦が成らねば、関東に続き北信濃での戦局も、泥沼になるぞ。長尾景虎。その覚悟は、あるのか」

 

「ある。関東はわが父の汚名をそそぐために鎮撫しなければならない宿命の地であり、決して捨て置けない。一方、信濃と越後とにはそこまでの深い縁こそないが、自らの父親を追放した女・武田晴信を捨て置いていては義将は名乗れない」

 

 景虎が、立ち上がった。

 

 背後から、そんな景虎を揶揄する声が、飛んできた――。

 

「フン。上杉憲政に、小笠原長時と、己の国も守れぬ屑どもを次々と集めて城も奪わぬ外征を繰り返すとは。いったいなにがしたいのだお前は。有象無象を集めても、せいぜい村上義清を犬として戦場で使い潰すくらいしか使い道などないぞ。馬鹿にも程がある」

 

 長尾政景だった。

 

「……姉上のもとにいるのではなかったのか」

 

「俺の子はどうやらもう助からん。晴景に続き、葬儀をやらねばならんな。だが、子などはまた儲ければいい」

 

「しかしまだ助かる可能性はあるのだろう。北信濃への遠征には出なくてよい。姉上のもとから動くな、政景。春日山城での留守役を命じる」

 

 宇佐美定満が「おいおい。この狼に春日山城を預けるのか?」と予想外の景虎の言葉に慌てたが、「これくらいの大役を任さねば、この男は姉上のもとに留まらない」と景虎は首を振った――。

 

「フン……晴景は結局、世継ぎを残せなかった。貴様が生涯不犯を貫けば、俺と綾の子が次代の越後守護ということになるな。俺の子のために、なんの益もない合戦を繰り広げてくれるというのか。ご苦労なことだ」

 

「……政景。お前には国主の資格はないが、姉上の子であれば、義を貫く名君になってくれるだろう。それで、なにも問題ない」

 

 愚かな、と政景は吐き捨てるようにつぶやいていた。その政景に、短気かつ傲慢な小笠原長時が突っかかっていったので、場は騒然となった。政景は常に全身から殺気を放った武闘派だが、小笠原長時も剣を抜けば剛勇無双である。

 

「待て、待て待て待て~い!何様だぁてめえは!俺さまの景虎ちゃんに馴れ馴れしくするんじゃねー!だいいち、生涯不犯とはなんのことだ!五年のうちに俺さまが景虎ちゃんを口説き落として、そして子を産ませるのだ。がははは」

 

「……雑魚が……国も城も失っておきながら、女を奪って帳尻を合わせようなどと。ゲスの本性を隠し抜く演技力くらいは持っている上杉憲政以下だな、貴様は」

 

「はあ?うらなりの上杉憲政なんぞと一緒にするな!てめえ、俺さまと尋常に勝負しろっ!」

 

「双方とも、内輪もめなどしている場合ではないぞ。諸将が仲間割れすれば、すかさず武田晴信に切り崩される。小笠原よ、慎め。俺たちにできることは、新たな主君となった長尾景虎の指揮のもとで死力を尽くして戦うことだけだ。貴様も亡国の将ならば、分をわきまえろ」

 

 村上義清が、二人の間に割って入った。

 

 見覚えのある光景だ。以前、北条と柿崎との間でも、同じようなことが……。景虎は、宇佐美と直江のケンカだけは、芝居だったが。なぜこうも、男どもは仲間割れを好むのだろうか。解せない。姫武将である私とはものの感じ方、考え方が異なるのだろうか……直江が私の祝言の期限を引き延ばしたが、このままでは五年ももたないのではないか。と寂しげに眉を下げながらも、憂いを振り切り、出陣を命じていた。

 

 北信濃へ。ついに、長尾景虎、軍を率いて――川中島へ。景虎はまだ、川中島で己を待つ者を、自らの運命を、知らない。宇佐美も、直江も、この北信濃での戦いが景虎にとってどれほど巨大な運命の分岐点となるかを、予測できなかった。景虎は、まだ見ぬ武田晴信の姿を思い描きながら、小姓へと告げていた。

 

「この景虎自身が出陣したことを武田に知らしめるために、毘沙門天および、懸乱龍の旗を掲げよ」

 

 

 

 

 

「義」と「毘」の旗の下に集結した男たちは、それぞれ、動きはじめた。

 

 

 

 

 出陣前夜。

 

 ひとたび景虎が川中島で義戦を開始すると決めると同時に、「今回の合戦こそは負けられない。負ければとんでもないことになる――しかも相手はまたしてもとてつもない強敵だ」と覚悟を固めた宇佐美定満と猛将・柿崎景家は、敗将となり越後に屋敷を与えられた村上義清を招いて、武田晴信の独特の軍法や戦術、その思考の癖までをも聞き出そうと質問攻めにした。大部についてはすでに軍議の席で景虎自身が義清から直接聞き出しているが、村上義清ほどの豪の者を策略によって切り崩していった武田晴信について、宇佐美は事前にもっと知らねばならないと焦っていた。一応信濃商人とも付き合いのある樋口兼豊も呼ばれている。が、彼は武闘派ではないので黙って聞いていることが多かった。

 

「なあ、村上の旦那。景虎に、欲の戦ではなく義戦をやれと教育したのはこのオレなんだ」

 

「噂には聞いていた。一族の仇である長尾為景の娘に、誠心誠意仕えている越後の風変わりな軍師のことは――宇佐美定満。あんたは、善き軍師だ。景虎を一目見れば、わかる。あれはこの乱世では奇跡とも言える、希有な武将だ」

 

「だがオレは甘くてな。どうやら景虎を純粋に育てすぎた。それに対して、村上の旦那。あんたは、期せずして武田晴信の師になっちまったようだな。晴信の強さの大部分は、あんたとの死闘によって培われたものだ」

 

「どうやら、そうらしい」

 

「二度までも戦場で晴信を敗走させておいて、なぜあんたほどの猛将が、晴信を殺せなかったのか?」

 

「……わからん。ひとたび戦場に出れば、武士は武士。俺は、相手が姫武将相手だからと情けをかけるような男ではない。言葉では言い表せぬなにかが、俺を阻んだのだ。あるいは……」

 

「あるいは、景虎と武田晴信を出会わせるために、オレもあんたも、奔走してきたのかもしれねえな。そんな気がするぜ。あの二人の対決は、逃れられない宿命だったのだろうさ」

 

「だとすれば、俺はもっと早く敗走しておけばよかったな。北信濃で粘れば粘るほど、文弱な姫武将だった晴信に戦い方を教え込んだことになる。越後最強の景虎といえども、晴信との戦いは容易ではないぞ」

 

「あんたがこの合戦の種を持ち込んできたんだろうが。戦場では、責任を取ってもらうぜ」

 

「承知している。この恩義は息子や孫の代に至っても決して忘れぬ。村上一族は越後で生き、戦場で死ぬ。毘沙門天の旗の下でな」

 

「猛将は、戦場で討ち死にできるから、いいな。オレのような陰謀を巡らせる軍師は、その死に様すらきっと、薄暗い」

 

「それでこそ軍師だ」

 

 宇佐美と義清は、盃を酌み交わしながら笑い合っていた。

 

 柿崎景家が「村上殿。笹団子をどうぞ。南無阿弥陀仏」と奇異な菓子を勧めてきた。笹の葉で餅をくるんでいる。その笹の結び方が、まるで兎の耳のように見えた。

 

「オレと柿崎が景虎に食わせるために考案した団子だ。あいつは生まれつき豆が食えない身体でな。酒ばかり飲んでいるので、なんとかして飯を食わせたくてよ」

 

「……あんたは、善き軍師だ。景虎はまるで、越後のかぐや姫だな。それで、兎が軍師役か」

 

「景虎は戦の天才。戦場であいつに教えられることはなにもないが、だがまさか、北条と武田との二正面作戦をはじめることになるとは予想できなかった……村上の旦那。武田の武器は真田忍びだけじゃあねえんだろう。忍びの力だけで国が奪えるほど、乱世は甘くない。塩尻峠の合戦では小笠原率いる信濃連合軍を完璧に粉砕している。武田のもうひとつの武器は?」

 

 それは緩急。山の如く不動と見せかけて、勝機を掴めば風の如く進軍してくるその速度――つまりは『騎馬隊』。そしてその騎馬隊を縦横に用いるための『道』の整備だ、と村上義清は答えていた。

 

「甲斐も信濃も山国。故に、騎馬隊の速度を活いかすことが難しい地勢だ。それを晴信は覆した。山本勘助という忍びあがりの軍師が、信濃の地理を知り尽くしているらしい」

 

「『道』か。景虎が次に関東へ本格的に出兵する折には、三国峠の山道を整備しなくてはならねえな……雪が今度も敵になるな」

 

「それに武田家には、人の和がある。主君・晴信のためならば、宿将たちは平然と戦場で己の命を捨てがまってくる。その点、どうやら越後は一枚岩ではないらしい。景虎はまさしく無私の義将だが――長尾政景と上杉憲政に対して、甘すぎる。関東遠征派と信濃遠征派とに、国人どもが割れねばよいのだが」

 

 残念ながらもう割れつつある、だが内憂に対しては外征で解決する、これは国の統治の初歩とも言える、と柿崎景家が口を開いていた。

 

「先の守護様に続き、晴景様がお亡くなりになった今、国外に敵を求めて戦うことこそが越後をひとつにする最善の道かもしれぬ。南無阿弥陀仏」

 

 それはそうと、と区切って宇佐美は無言を貫く樋口に向き直る。

 

「樋口の旦那、あんた関東で刺客を送ったな?」

 

「…なにか証拠でも?」

 

「風魔のせいでロクに動けなかったとは言え、一応軒猿は握ってるんだ。それくらいは分かる。桐生城、花倉越前守のとこだろ」

 

「……ああ、そうだ。しかし、それが何か?確かに景虎様のご意向には背いた。しかし、首尾よく行けば北条の補給網を寸断出来たはずだ。混乱も与えられただろう。未帰還と言う事は不首尾だったのだろうが」

 

「それで済んだらよかったんだけどよ」

 

 宇佐美は頭を掻きながら何とも言えない顔で言う。

 

「今日村上の旦那たちが帰った後、景虎と俺らのところにこんな書状が届いた」

 

 宇佐美が樋口に見せた書状の末尾には一条土佐守兼音と綺麗な字で書かれている。思わずギョッとする樋口。横から覗き込んだ村上義清も片眉を上げた。慌てて目を通す樋口。書面には確実に皮肉であろう時候の挨拶から始まり、散々に景虎を非難した挙句、「義を謳いながら刺客を送るとはこれ如何に。我ら北条はいつでも貴殿らの寝首を掻ける中に合ってもなさざるのに、何たる行い。我が副将を襲いたる事、許し難し。必ずや御礼申し上げん」と書かれている。なお、これは独断の訳もなく、家中で不和を起せればいいなぁ程度の目的で氏康に命じられ書いたものである。現にある程度効果を発していた。

 

「景虎が相当怒っててな。誰が送ったか探せと言ってきた」

 

「突き出すか…?」

 

「いや、しねぇ」

 

「……恩に着る」

 

「とは言え、手紙の主も景虎もご立腹なのは変わりない。しばらくは大人しくしているのが吉だろう」

 

 誰が刺客を送ったのか分からないのが幸いだったと思いながら、相手はともかく景虎に怒られることにやはり納得していないながらも渋々頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同じ頃。長尾政景のもとには、この北信濃での無益な合戦に反対している男たちが集っていた。

 

「川中島を奪回しても、村上と小笠原に領土を返すというのなら、われら越後の国人たちはただ消耗するのみだ。関東遠征に続いて、二度までも無駄働きをさせられる羽目になった。やれやれ。政景どの、もっと強く景虎さまを諫止していただかねば困る」

 

 景虎さまには早く上洛していただかねばならない、合戦とは武士どもと足軽たちが稼ぐためにやるものであって、差し引きが赤字になるような義戦はなるべく回避したいとぼやいている、北条高広。

 

「まったくです。景虎さまは、経済というものがわかっておられない。銭などは無尽蔵に湧いてくるとでも考えておられるのでしょうか。たしかに越後は甲斐などとは比べものにならぬ大国ですが、限度がございます」

 

 川中島出兵が決定して以来、ずっと青ざめている大熊朝秀。

 

「人として大切な礼節をすべて捨ててきたような小笠原などは放置しておいてもいいだろうけれど、村上義清は厄介だね。景虎は、ああいう無骨な武辺者とは馬が合うだろう。義清はもう老境で、不犯を誓っている景虎が警戒せねばならぬような男でもないしね……関東管領家の復興は越後軍の力なくしては不可能。僕にとっても、頭の痛いことになってきたよ」

 

 景虎が三国峠を越えられなかったために、なおも越後に留まらねばならなくなった上杉憲政。憲政自身は、修羅の国と化している上野へ戻るよりも、越後の豪奢な館で風流な生活をしている今のほうがずっとよい、と思っている。だが、越後軍が川中島へ出兵するのは困る。武田晴信との戦いが本格化すれば、それだけ、景虎の関東遠征計画は遅延することになる。北条氏康に、あまり時間を与えてはならない。北条の関東支配体制が盤石のものとなる前に、景虎と氏康と噛かみ合わせねば間に合わなくなるのだ。

 

 他にもまたしても遠征を命じられ、もう嫌になってきている鮎川清実や先ごろの箕輪の戦いで綱成によって散々に撃ち破られた加地春綱などもいる。二人とも何かを言う事は無く現実逃避してボーっとしていた。

 

「いやあ長尾政景。きみは春日山城での留守居役を命じられて、羨ましいよ。あれだけ派手に謀反しておきながら、景虎はきみには特別に甘いらしい。やはり、姉婿だからだろうか?」

 

「……フン。くだらんことを言うな。あいつは誰に対しても平等に甘い。万人に慈悲を与える毘沙門天を気取っているのだからな」

 

 政景は、吐き捨てるようにつぶやいていた。

 

 北条にとって、いや、多くの国人にとって、関東遠征とは要は隣国への出稼ぎのようなものなのだろう。川中島出兵に反対し関東遠征に賛成するのは、肥沃な関東ならばいくらでも稼げるが川中島では奪えるものなどない、という理由だ。いずれにせよ「義戦」を掲げる景虎とは必然的に対立することになる。計算高い北条や財務にしか興味のない大熊はもちろん、今はわりかし景虎の武威に心服している下越の揚北衆とて、景虎の義戦とやらが宗教的高揚感以外になんの利益ももたらさないと気づけば、そのうち暴発するかもしれん。

 

 政景は、上杉憲政の盃に酒を注いで、言った。

 

「このまま景虎を放置しておけば、どこまでも村上義清とともに川中島で義戦を続ける羽目になるぞ。上杉憲政。貴様には、景虎に琵琶と和歌を教える時間がある。なんとしても景虎を説得して、上洛させろ。直江の計画を後押しするのは不本意だが、川中島などに張り付かれるよりはずっといい。あれは、頼まれれば嫌だとは言えない娘だ」

 

「関東遠征ではなく、上洛が先だというのかい?」

 

「景虎はいちど承知した以上、関東遠征は必ずやるだろう。しかし川中島での戦いも決してやめまい。二正面作戦の愚を補えるほどの絶対的な名分を得るとなれば、上洛し、御所の公家どもや幕府の将軍から『お墨付き』を手に入れるしかない」

 

 村上義清に引きずられぬよう、僕が景虎の心を奪うという道もあるよ、なにしろ芸事を教えるために二人きりになる時間があるんだから、と憲政がちらりと野心を覗のぞかせたが、政景は「そのような下心を露あらわにすれば、以後は、小笠原も貴様も景虎の目には同類に映ることになるぞ」と取り合わなかった。

 

「……それはまずいな。たしかに一度しくじれば、取り返しがつかなくなりそうだ……だが、景虎は、小笠原をよく斬らないね。彼は景虎の寝込みを襲うかもしれないよ」

 

「あれは、不殺縛りとやらで己を縛っているのだ。馬鹿な娘だ。が、寝込みを襲っても無駄だ。宇佐美と直江が雇っている腕利きの軒猿たちが、景虎の寝所に結界を張っている」

 

 北条高広が「景虎様が許しても、無礼千万な小笠原殿はいずれ少々痛い目に遭うかもしれませんな。景虎様の婿の座をうかがっている越後の諸将が、黙ってはいますまい」と苦笑いを浮かべた。

 

「いや北条。小笠原は傍若無人な男だが、殺すことはならんぞ。上洛の折には、あれでも役に立つ。信じがたいが、奴は小笠原流礼法の継承者なのだ。田舎者の景虎にとって、あいつの礼法の知識は必要なものだ。憲政の琵琶と和歌だけでは、まだ足りん」

 

 上杉憲政は、政景が景虎を憎んでいるのか、それとも越後の女王として育てようとしているのか、僕にはよくわからないよ。上洛した結果、関東から景虎の心が離れてしまわねばよいのだが……。と腕組みしていた。ただはっきりしていることは、景虎を力ずくで襲ったりすれば宇佐美、直江、政景たち越後諸将の逆鱗に触れて自分の命はたちどころに奪われるだろう、少なくとも佐渡島あたりに流されて生涯幽閉されることになる、ということだけだった。

 

 無理強いができないとすれば――小笠原の礼法教育と、僕の風流手習い。いずれの時間が景虎の心を奪えるかという勝負なのかもしれない。だとすれば僕の勝ちだ、小笠原はいくら礼法を身につけているとはいえしょせんは山猿だからね、その点、僕は内なる衝動を制御して優雅に立ち振る舞えるほんものの貴公子だ。八歳にして関東管領職を継いだ経歴はお飾りじゃないさ、と憲政は思った。

 

 景虎自身が己の意志で僕を選べば、政景もなにも言えまい。小笠原が下品に振る舞えば振る舞うほど、僕の魅力が引き立つというものだ。ふふふ。

 

 景虎は戦には強いが、男どもの求愛にはどうだろうか。かぐや姫のように無理難題を与えて、ことごとく蹴散らしてしまえるのか。政景は、いつしか自分が景虎とかぐや姫とを同一視していることにふと気づいて、苦虫をかみつぶしたような表情で酒を呷っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どちらにも与しない質素な屋敷で、直江は「与六」を呼びつけていた。

 

「……はい。義父上」

 

 宇佐美定満が推挙し、新しく直江大和の義娘となった、樋口兼豊の娘である。利発だが、よほど宇佐美のもとでの居心地がよかったのだろう。冷淡な直江大和にはまだ心を開いていない。

 

 次代の宰相として育てる以上、与六を甘やかしてはならない。しかし、幼い娘子に理不尽な暴力を振るってもいけない。その暴力が、新たな怨念を生んではならない。それでも与六の資質や性格によっては、必要な暴力を罰として与えねばならないこともあるだろう。このあたりのさじ加減が難しい。与六は宇佐美に見出されたことを自負していて、気位が高い。「私はこんなところに来とうはなかった」という与六の口癖を改めるためには、どうすればいいのか。独り身のわたくしには子育てとは難しいものです。直江大和はため息をつきながら、与六に命じていた。

 

「来る川中島での戦に結着がつき、お嬢様が無事に春日山へ帰還された暁には、小姓としてお嬢様に侍るように。それまでは、武術の修練と学問にいそしんでもらいます。あなたには、自由時間はありません。お嬢さまのために生き、そして死ぬのです。それが――越後の宰相に与えられた使命」

 

 この与六を義娘にしたということは、義父上はもう妻帯なさらないのですか、と与六が尋ねてきた。あまりにも利発すぎるところがある、と直江大和は思った。

 

「お嬢様が不犯の誓いを撤回すれば、考えましょう。夫だの妻だの世継ぎだのについて語るには、お前は幼すぎます。わたくしは宇佐美さまとは違いますよ、覚悟しておくように」

 

 与六は――後に「直江兼続」と改名する幼い娘は、「早く私も景虎様とともに戦場に赴きたいです」と瞳を輝かせながら、うなずいていた。




次回は北条家に戻ります。やっと戻れる…。


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第74話 亡命者

今回からしばらくは北条家の予定です。まぁ何か時系列的にあれば別の所に行くかもしれませんが。皆さん三好が気になる方もいるようですので、三好の話を書くかもしれません。あとは大内とかですかね。大寧寺の変とかです。時系列的には史実だともう少し後なんですが、短縮されてるのでそろそろかなぁと。


 時は北伐の事実上の終了後になる。高崎城から数騎が出立し、一路桐生城を目指していた。高崎から桐生の間はそこそこ距離があるが、すっ飛ばせば割とすぐに着く。日が暮れる前には一行は目的地へと到着していた。

 

 

 

 

 

 この城には先ごろ樋口兼豊の放った刺客に急襲された兼成がいる。彼女は流石に緊迫した攻防により疲労が爆発し一日ほど寝込んでいたがまたすぐに復活して仕事をし始めた。まぁ特にケガもないので問題はないと言うのが本人の弁ではあった。

 

 だが、そんなことは知らない。もっと言えば断片的にしか把握してない兼音は猛スピードで帰ってきた次第である。急な帰還にざわつく城内。だが、兼成はそんなことは知らずにひたすら書類と睨めっこであった。ドタドタと騒がしい音が響いていることに違和感を感じ、彼女は手を止めてその音の原因を探りに行くことになった。

 

「なんですの?先ほどから騒々しい」

 

「それが、土佐守様急のご帰還でございまして…」

 

「…?何故…?」

 

「さぁ、私共にはさっぱりで…」

 

 首をかしげる彼女であったが、遠くから聞きなれた声が何やら騒いでいる。何を興奮しているのか知らないが、主人であろうと兎にも角にもうるさいので少し静かにしてもらえるように言うつもりで彼女は足を向ける。

 

「ちょっと!もう少しお静かにしていただけると助かるのですけれど。急に報せも無しに帰るなど、無用の混乱を生むだけなのでお控え頂けると助かりますわね…」

 

 威勢が良かった言葉の勢いも段々と落ちていく。と言うのも、こちらを見た兼音が、余りにも変な顔をしていたからだった。何と言うのだろう、基本は安堵だけれどもっと違う何かがあるような…と彼女が感じていると、兼音は軽装のまま近付いて行く。

 

「良かった、本当に、良かった……」

 

「ふぇっ!」 

 

 急に抱き締められた彼女はもう何が何だかよくわからない。だが、花倉の乱以降既に二年以上が経っているが彼の泣いている姿など初めて見た。普段は凛としており、いつも割と難しい顔をしていることが多い彼の態度からは想像も出来ない弱さに驚きながらも、その弱みはきっと他の者には見せてくれないのだろうと思い僅かな優越感に浸っていた。

 

「はいはい。貴方様の副将はしっかり生きておりますわ。仕方のない方ですわね、ふふ…」

 

 本来この二人は同い年の二十歳なのだが、今日ばかりは彼女の方が大人として振舞っていた。家族を失いはや数年が経った。それでも身近な存在を失う事を恐れている兼音からすれば、先ごろの急報はかなり衝撃的なものだった。それくらいに彼の中での立ち位置が大きくなっているのだが、本人は無自覚のまま。乙女の受難はまだまだ続く。取り敢えず、五分くらいは仕事の役得だと開き直った兼成は抱き付いたままだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やってしまった。いい年して何やっているのだろう。凄い羞恥に苛まれながら馬上の人となっている。我ながら取り乱したと思う。それくらいに色々な感情がごちゃ混ぜになっていた。大丈夫だろうか、嫌われてないよなぁなどと悩みながらも割り切るしかないと思い取り敢えず忘れることにする。

 

 いきなり恋仲でもなんでもない異性から抱き付かれるとか現代はおろか多分この時代でもご法度だ。なんか、立場を笠に着た行為みたいになってしまっていると思いまた反省する。あの一件以来家臣の目が生暖かい。加えて綱成がツーンとしている。更に胤治が落ち込んでる。…どうしろと?もう分からないので、考えないようにしよう。そうしよう。

 

 過ぎてしまった過去への反省もそこそこに強制的に頭を仕事に切り替える。取り敢えず命じられたのは杉山城の改築。それと北武蔵の統括司令官である氏邦様の補佐。一番直近の指令はこれくらいだろう。出来る事から順番に始めて行かないと。農業政策については、河越一帯で成果を収めた方法は既に共有済だ。元々は氏康様に送った内容に対して実験して効果があるのか立証してね、と言われたからやったのだ。立証は完璧。実際の作業過程で気付いたことや改善点は成田長親がまとめてくれた。農民と身近に接しているだけあって、かなりいい気付きが多かった。

 

 その全ては報告書にして再度小田原に送付済み。後は正月に小田原に新年のあいさつあり、多分国中の諸将が集まるからその時に説明と実行するように命令が出されるのだろう。他でも上手く行くかは正直どれくらいしっかり監督できるかにかかっていると思う。だが上手く行けば基本的な生産力は上がる。加えて新田開発も活発だ。最近では下総の方で干拓の話も出ているらしい。水系を一本化して大運河を作り、それ以外を干拓すると言うものらしい。候補地は印旛沼周辺だとか。あの辺の開拓は江戸時代の例があるからあんまりいい予感はしない。

 

 うちの地域では武蔵野の開拓が進められている。田の区画化も進行中。農業はこんなもんだろう。商業は活発ではある。水運、陸運どちらも盛んだ。河越は中継基地にもなるし、この町自体の人口も多い。とは言え、もっと高値で売りさばける特産品が欲しいのだが。何だ、何が売れるんだろう。作るか、石鹸とかそう言うの。まぁ追々だな。

 

 後は軍事面。どうも上方で確認したいことが多いらしく為昌様はまた都行きらしい。イギリス船もそろそろ出国するらしいので途中まで乗っていくのだとか。彼らには色んなものを貰った。キチンとお返しも渡して帰ってもらおう。出立は一月の中頃らしい。それまでに準備は間に合うだろう。ついでに鉄砲を持ってきてもらえるように交渉しなくては。やることが多い。

 

 そうこう考えていると懐かしの城が見えてきた。やっと帰れる。高知、大坂に続く我が第三の故郷。兵たちの気配も明るくなっている。まぁ残してきた家族がいる者も多い。亡くなってしまった者たちも多いのが、やはり胸に刺さる。彼らの犠牲で我々は今日を生きている。それを生涯忘れてはいけないだろう。

 

 朝定たちは別ルートで帰還するらしい。まずは河越城の兵士だけで帰還だ。城下町の門の前で一度行軍を止める。

 

「これより我らは故郷へ帰還する!我らは勝者の軍勢である。威風堂々と、胸を張って整然と行軍せよ!」 

 

 ザっと音が鳴り、ピシッとした姿になる三千の精兵たち。

 

「開門せよ!」

 

 合図と共にギーっと木の扉が開かれる。大通りの中央を騎兵先頭に突き進んでいく。槍兵はその得物を天高く向け、弓兵はしっかりとその弓を背負っている。大体威風堂々とした軍事パレードはロシア辺りのが参考になるのでそれを意識しながらこういう儀礼的な訓練もしてきた。おかげでかなり見た目は良い。スピードは敢えて少し遅めにしている。見せつける目的なのだから駆け抜けても仕方ない。

 

 中段に我々が入り、最後尾にまた騎馬兵がいる。城下からは所々歓声が聞こえる。子供が物珍し気にこちらを眺め、商人は何かを頷いている。観察している者も多い。中には他国の者もいるだろう。今川武田里見や佐竹。彼らにもしっかりと見せる意味がある。戦争が終わっても軍紀を失わず堂々としている。その様は精強なりと伝えてもらおう。

 

 いつの間にか沿道には多くの人が集まり行軍を見物している。戦勝祝いで多くの商店が所謂セールをしている。その影響か人も多い。それもこちらの指示通りと言うか読み通り。商店に頼んでそうしてもらい、人通りを増やす。同時に軍の威容を見せる。店は儲かる。誰も損しない仕組みだ。

 

 綱成の所への声援が凄いな。凄まじい人気だ。八幡大菩薩の旗もはためいている。女性からの声援もかなり多い。胤治や兼成は男性受けの方が良いようだ。私は…まぁそこそこに。誇らしげな顔の兵が多い。騎馬武者には声援が来たら現代の天皇家よろしく手を振っておくように言っておいた。そうしたら綱成が手を振ると歓声が増える。こんなに人いたのかこの町。普段は家にいる層も集まっている。農村からも来ている者が多いようだ。

 

 改めて民衆慰撫の大切さを思い知らされる。彼らに反旗を翻されれば兵の多くも家族がいる向こうにつくだろう。そうならないように定期的になんかイベントをやる方が良いかもしれないと最近思っている。パンとサーカスとローマを指してよくそう言う。そのサーカスに当たる部分を何か考えないといけない。何だろう。祭りとかだろうか。後は人集めて何かするものと言えば花火大会とかだが火薬は流石に高すぎる。

 

 ……競馬でもやろうかなぁ。上手くすれば結構儲かるんだよなぁ、特に胴元たる主催者は。昔の趣味が湧いて出てくる。釣り、歴史、弓道、競馬。真ん中二つは両親由来。最初と最後は祖父由来だ。この四つが私の趣味。と言っても最後は見てるだけだったけれど…。おじさんくさいとよく言われたが、何が生きるか分からない。現に真ん中二つは身を助けている。釣りは…朝定とのコミュニケーションだろうか。でも流石に賭博はマズいだろうなぁ。神事としてならともかく。要検討としておこう。馬は貴重な資源だし。

 

 

 

 

 

 

 それはさておき、プロパガンダの効果も上々のようだった。流石に活版印刷はないので瓦版のように配れはしないが、戦勝の報告を高札にして随所に張り出していた。特に人目のつくところに。さながら大本営発表だが、大体真実を書いている。内容もナショナリズムを煽ったり、快進撃を告げるものばかりにしてあった。民衆を扇動では無いが支持してもらうために成果を報せていたのである。おかげで遠くの地で行われている戦争に大衆は期待を寄せていた。

 

 群衆の中から駆け寄る者がいる。周囲の護衛が警戒態勢を取るがそれを制した。相手は小さな少女。年は六歳前後だろうか。

 

「これ、あげます!」

 

 差し出されたのは花輪。慌てて止めにくる母親らしき人物を目で止めて、一度行軍を停止させ下馬する。手慣れたものでしっかりピタリと静止した。目線を合わせるために膝をつく。

 

「くれるのかい?」

 

「はい!お母さまが言ってたの。遠くで私たちのために戦って下さってるって」

 

「そうか…ありがとう、小さなお姫様」

 

「うん!」

 

 どれだけ大義を掲げても我々は人殺しに過ぎない。それでも、その理想が、理念が少しでも理解されていることがありがたかった。彼女を帰し、馬上で手を高く掲げる。その様子に一度こちらを見物していた民衆が静まる。それを確認して声高に言葉を発した。

 

「我らは常より民と共にあらんと欲してきた!今、その想いが我らの未来を作る若き者に伝わっていたことを、私は嬉しく思う!若き者たちこそがこの戦いで果てた者たちの夢見た景色を作る担い手であるのだ。見よ、この冠を。例え、幼き小さな姫君によって形作られた物であろうとも、一国一城にも代えがたき財宝である!黄金も白銀も、何がこれに代えられようか!この一条土佐守、命ある限り忘れる事は無いだろう!」

 

 もう一度大きく歓声が響き渡る。利用してしまっているようで申し訳ないが、それでも私個人としても嬉しさがあったのは事実だ。行軍の再開を命じる。

 

「こちらも、仕込んでおりましたかな」

 

 影の中から声がする。他の者に気取られないように今も護衛に入っている段蔵の声だ。

 

「いや、まさか。あの年の者に演技などさせても白々しいだろうに」

 

「で、ありますね」

 

 彼女とて私がサクラを仕込むような真似をしているとは思っていないだろう。冗談の類だ。その証拠に声も笑っている。沿道は人でごった返していた。経済効果もしっかり確保できていそうだ。軍事パレードと化した帰還式は無事に終わり、軍は本城の扉の中へと入っていく。背後からは冷めない興奮の声が聞こえる。成功と言っても良いだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 軍団を解散させ、各員を家に帰らせる。それで終わりかと思われそうだが、まだ終わらない。まずは綱房に留守時の確認をしないといけない。兼成は部屋に戻って寝る準備を始めたし、綱成は部下に呑みに行こうと誘われていていない。胤治は今後の護衛に関してのマニュアル的なものを作ると言っていた。終わり次第どこかへ飯だろう。私だけハブられた…と言う訳ではないが少し寂しい。

 

「まずは長きにわたり城の留守居、ご苦労だった」

 

「はっ!」

 

「何か問題はあったか」

 

「いえ。残して頂いた者たちは皆優秀で、至らぬ私を支えてくれました。問題らしい問題と言えば武田の姫君の事くらいでございます」

 

「あの件も、良く知らせてくれた。これで武田に恩を売れる。他国への評判も上がろう。迅速な対応、英断であったぞ。流石綱成の血を分けた妹。勝るとも劣らぬ優秀さだ」

 

「ありがとうございます」

 

「この件は氏康様もいたくお喜びであった」

 

「!そうでしたかっ!」

 

「ああ。これはまだあくまでも予定ではあるが、私は此度杉山城の改築を命じられた。その主にはお主の姉、つまりは綱成が配置される。とは言え、彼女はここの守りの要。普段はこちらに居続けてもらう。その代官として、お主を派遣する案を考えている。完成まではここで経験を積んでもらうが、工事が終わり次第移ってもらう事になるだろう。北伐の間に見事責務を全うしたからこその措置だ。やれるな?」

 

「勿論です!早く姉上に追いつけるよう精進いたします」

 

「そうか。それは頼もしい。ともあれ、今日までご苦労であった。細々とした指示も多く面倒であっただろう。今日はもう休むと良い。綱成は城下だ。合流したくば行くと良い」

 

「兼音様は、いかがなされるのですか?」

 

「私か?私は今から寺社巡りだ」

 

 疑問符を顔に浮かべている彼女を笑って見ながら、部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 寺社巡りと言っても、遊びで行くわけでは断じてない。当然目的があっての事。領内にある手近な寺に行く。馬のひづめの音を聞きつけてか早速住職が出てきた。

 

「これはこれは、ようこそお越しくださいました。大したおもてなしも出来ませんで、申し訳ない限りでございます…」

 

 いきなり何の用事だろうと警戒しているのが伺える。この前の寺社の代表を集めた会が響いているのだろう。割と強権的に寺社の持っていた権益を回収した。それに不満を持って抗議する者もいるかと思ったが野盗とつるんでいた不正坊主を処断した結果治安向上にもなったが寺社勢力は恐れをなしたのか沈黙してしまった。

 

 この辺には本猫寺門徒は少ない。他の法華宗なども大人しくしている。仏敵云々と問答を仕掛けても論破されかねないと言う風説が流れているらしい。だが、この強権的な政策は一面に過ぎない。飴と鞭の鞭の方だ。寺社は地域と密接に関連している。これの機嫌を損ねて得になる事など何もない。キチンと飴の政策も用意してある。下げてから上げるのは鉄則だ。

 

 飴の一つが寺社領の回復である。奪った権益の代わりに寺社領を保障している。そして今回のがもう一つだった。

 

「いや、気にしないでくれ。急に押しかけたのはこちらだ」

 

「何かご無礼を働いたでしょうか…?」

 

「そうでは無い。今日は感謝を伝えに参った」

 

「感謝、でございますか」

 

「ああ。先ごろ北伐を行う前に頼んであった、戦勝祈願の祈祷は確かにやってくれたようだな」

 

「は、はぁ…」

 

「兵の奮戦も勿論であるが、神仏の加護もあったのだろう。それ故に毘沙門天の化身などと称する者を撃ち破れたのだ。即ち、貴殿らの祈りの力でもある。この土佐守、御礼申し上げる。そしてこのような大戦果を持ち帰れた。ささやかではあるが、貴殿らの誠心誠意の祈りと神仏への感謝の意を込め御礼の進物をこの後城より運ばせる。是非とも受け取っていただきたい。そして次の戦役の際も、よしなに…」

 

「さ、左様でございますか。拙僧の祈りなど微々たる力でしかありませんでしたでしょうが、御仏への進物ならば受け取らぬ訳にも参りませんな。お気持ち、ありがたく頂戴いたします。御仏の加護のあらん事を」

 

「それでは私はこれにて失礼仕る。いずれ、また会う事もあるやもしれんが、その時はゆるりと仏道についての話でも聞かせてくれ。ではご免!」

 

 割と呆気に取られている和尚を置き去りにして次の寺へと向かう。領内中に同じことをさせていた。戦勝祈願の祈祷である。勿論、そんなものに効果が無いのは分かり切っている。祈ってもカミカゼは吹かない。それでもこの時代の兵の士気には使える。そして領内の寺社には蔑ろにしている訳ではない事と宗教の弾圧者ではない事をアピールするのが狙いだ。鰯の頭も信心からと言うし、何かしら良いことがあるかもしれない。領内全てなのでかなりの数になるが、まだ時間は結構ある。夜までには終わるだろう。そう思いながら馬を走らせた。供も特に連れてはいないが、護衛はいるので問題ないはずだ。何処にいるのかは私もよくわからないが。

 

 

 

 

 

 やっと全部周り終わって今はすっかり夜だ。城下に戻れば夜だが相変わらず人の流れはそこそこにある。飲食店は夜も経営しているところが多い。そこともう一つ活気があるのが城下の一区画に集めてある遊郭だった。人の集まるところには自然とそう言うお店も出来る。野放しにしておくよりかは江戸幕府のように管理してしまった方がマシであるためそうしている。私に興味は無いが娯楽無くして民衆統治は難しい。その為の施設である。

 

 疲れたのでサッサと戻って寝ようと思っていると、大手門で何やら揉めている。なんだかいつぞやの記憶が蘇って嫌になってきたが、兎にも角にも事情を聞かない訳にはいかない。番兵と子連れの女性だろうか。後者の格好は随分とみすぼらしい。貧困に喘いでいると言うよりかは長い旅の末にすり切れたような格好だ。

 

「いかがした。何を揉めている」

 

「はっ!この者が城主様にお会いしたいと申して聞かないのでございます。先ほどより身分の明かせない者を通せぬと言っているのですが…」 

 

「どうか!どうかお話だけでも、お願いでございます!」

 

「私が城主だ。その名と生国、この城へ参った目的を明かすならば話を聞こう」

 

「私は黒田家の家老の娘でございます。この子は亡き秀忠様の御嫡子にあらせられます。生国は越後、此処へは庇護を求めに参りました」

 

 越後。そして黒田家と言う名前。その二つは私の目をさますには十分な要素だった。

 

「分かった。入るがいい」

 

「ありがとうございます!」

 

 広間は夜なので暗い。燭台に火を灯し、座らせる。小さな少年は風呂にぶち込むように指示しておいた。聞き分けがよく、あっさりと連れていかれた。これ下手するとまた隠し子説出てくるんじゃなかろうか。勘弁してほしい。

 

「それで、黒田家とは真か」

 

「はい。これを…」

 

 渡されたのは小さな短刀。その鞘の紋章は上杉笹。上杉家の家紋だ。扇谷上杉も山内上杉も越後上杉も同じ家紋を使用している。黒田家は確か故・上杉定実の家臣だったはず。あの爺のせいでよくわかんない戦闘狂が越後の支配者になってしまった。十中八九黒田家伝来の物に違いないが、一応尋ねる。

 

「これは?」

 

「秀忠様の先代の長門守様が上杉定実公より拝謁した短刀になります。これしか城を攻められた際に持ち出せませんでした…。秀忠様は長尾政景に唆され今の国主、景虎様に反旗を翻しました。しかし、梯子を外され最後は政景の陰謀によって一族と共に皆殺しとなったのです。ですが、秀忠様はその前に密かに危険を悟り、家老であった私の父と私に御嫡子を託したのです。それより流浪を続け、庇護していただけるところを求めておりました」

 

「なるほど。話は分かった」

 

「私どもはもう行く当てがございません!不躾なお願いとは重々承知しておりますが、何卒庇護をお願い申し上げます!」

 

 額をこすりつける彼女を見ながら、思考を巡らせる。黒田家の遺児を庇護するメリットは正直少ない。越後を支配することになるならともかく、その可能性は低いだろう。当面は。だとしたら特に意味は無いことになる。だが、プロパガンダ的な意味合いではどうだろう。越後は決して一枚岩ではない。内部にも当然長尾景虎に反発する勢力があるはずだ。今は面従腹背であろうとも。

 

 その彼らを引き抜く際に使える材料かもしれない。遺児を手厚くもてなしている。貴殿らもどうだ。幼子であの待遇ならばいわんや成人した能力のある者たちをや、であると言えるのではないか。対外的にも聞こえはいいだろう。ついでに言えば、これも色々利用できる要素は多い。どうせ敵対は避けられず、一方的に敵視され和解もあり得ない訳だが、そうなってしまうのならそれを貫くしかないだろう。

 

 いっそのこと、黒田秀忠を忠臣に仕立て上げてしまおう。関東で流すプロパガンダになる。上杉定実は長尾景虎に脅されその地位を譲った。それを知った黒田秀忠は恩ある上杉家が守護代風情に乗っ取られるを良しとせず、抵抗した。だが奸臣長尾政景に嵌められ儚くもその命を散らした。その遺児が関東にて反長尾の旗印となる。なかなか完璧かつお涙頂戴なストーリーに見える。真実は知らない。けれど、人は繰り返し同じ話を聞くと信じ込む傾向にある。7割の嘘と3割の真実。これが鉄則だ。乗っ取ったように見えるのも事実だし、黒田秀忠が死んだのも事実だ。長尾政景に嵌められたのも。後は各事実に意味づけをするだけ。

 

 十分に役に立つだろう。取り敢えず私はそう判断した。

 

「良いだろう。私から小田原へも打診をする。故郷を離れた関東の地なれど、しかるべき時来たらば必ずや黒田家を再興させよう。この土佐守、その為に尽力致す」

 

「ありがとうございます!ありがとうございます!」

 

「長旅、さぞ疲れたであろう。ゆるりと休むがいい」

 

 ペコペコし続けているのを連れて行ってもらい、ため息を大きく吐いた。また仕事が増えた。まぁ仕方ない。見捨てるのも後味が悪いし、大方黒田秀忠は大した信条も無かったんだろうが子供に罪は無い。それに利用価値もある。ならば使わなければ損だ。理由付けはこんなところで良いだろう。無邪気に助ける!と言えない立場が少し悲しくもあり、それを地で出来る長尾景虎が少しだけ羨ましかった。

 

 感傷だ、と思考からその考えを振り払い寝る準備を始める。明日の朝も早いだろう。…そう言えば北伐以来何かを忘れている気がするが、何だろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帰還してから一夜が明けた。仕事は尽きない。今日も休みなく働かなくてはいけない。そう言えば今日は確か一日遅れではあるが、朝定が船で帰ってくる。その出迎えもしなくてはいけない。

 

 二日酔いの頭を抑えながら綱成が登城し、良く寝て回復した様子の兼成が続く。胤治は無駄に元気だが、思えば畿内まで長旅をボッチでしていたのだった。フィジカルはなかなかのものだろう。

 

「あの、先輩、評定の前に一つよろしいでしょうか」

 

「どうした、何かあったのか。二日酔いで頭が痛いのは知らん。白湯でも飲んでおけ。限度をわきまえるように」

 

「はい…。それはもう反省しています…。ではなくてですね。此度の戦で痛感したことがあります」

 

「痛感したこと?なんだ」

 

「その…与力が足りません」

 

「は?」

 

「部隊を率いれる人間が少ないのです」

 

「…あー」

 

「ついでに私からも申し上げておきますわ。内政のできる文官が足りませんわ。前々から結構カツカツではありましたが、遂に厳しくなってまいりました。特に指示できる者が少なすぎますわね」

 

 ここに来て人手不足が深刻化してきた。この原因は遡ると河越夜戦まで戻る事となる。元々河越城は扇谷上杉の城だった。しかも本拠地である。当然、扇谷上杉家の支配下にいた国衆や土豪が軍役を担っていた。が、彼らのほとんどは全滅した。夜戦で死んだのである。河越城が北条の支配下に変わった際に抵抗した勢力は全部追っ払われていた。勿論、抵抗していない勢力の土豪たちはこの城の戦力を担っているが…その中での部隊指揮官が足りないのだ。小部隊の指揮官はそこそこいる。後で彼らへの恩賞と感状とかも書かねばならない。

 

 感状の件はともかく、中部隊の指揮官や大部隊の指揮官がいないのだ。そもそも我々はほぼよそ者で構成されている。城主、未来人。筆頭家老、今川家の出で駿河出身。城代、福島家の出で駿河出身。軍師(正確には家老)、白井家の出で下総出身。情報機関統括者、出自不明で最近まで信濃に在住。見事に他国者だ。武蔵、もっと言えば河越にバックボーンを持つのは強いて言えば朝定だが、彼女は私の配下じゃない。

 

 結構この辺は複雑な仕組みになっている。朝定は建前上は関東管領。傀儡であろうとも、一応私への命令権も持っている。

 

 

【挿絵表示】

 

概略組織図

 

 図にしても複雑だが、私は厳密にはこの城の兵権を持っていない。軍団を集められるのは本来は綱成だけだ。彼女は氏康様の義妹として私の監視も含めている。今はその権限を実質的に委譲してもらっているので私が指揮官として振舞っており、兵を集めているが本当はこうだ。同じように太田家や上田家などの国人たちに指示を出す役目は氏邦様のものだ。今まではそれを借り受けていたにすぎない。

 

 ともあれ、この地に縁がない上に関東にすら縁がない我々は譜代の家臣がいない。それこそ、盛昌は上野に移動を命じられたが譜代の家臣も多くいる。一族もだ。だが我らはどうか。いない。その問題はいよいよ実害を成すようになった。

 

「分かった。氏康様に要請し、小田原から与力を派遣してもらう。多分経験の浅い譜代の臣の子弟になるだろう。同時並行で雇えそうな人間を探しておく。取り敢えずはそれまでの辛抱だ。済まないがもう少し耐えてくれ」

 

「…お早めにお願いしますわね」

 

「私からもお願いします」

 

「信濃と三河辺りから引っ張って来れると良いのだが。あの辺は武田今川の侵攻で家を失った者も多い。両家への復讐ではなく家の存続を優先しているような者であれば召し抱えても問題ないだろう。おそらく見つかるはずだ。ついでに求賢令も出しておく。誰か来てくれれば御の字だ。段蔵!」

 

「はい。何でしょうか」

 

 天井裏からニュっと現れてくる。少し心臓に悪いこの登場の仕方は未だに慣れない。

 

「聞いていたな。信濃か三河か…その辺から当家への仕官をしてくれそうな人材を見つけてきてはくれないか。なるたけ才能のある人間を頼む」

 

「承知しました。その間の主様の護衛は他の者に任せます。ご承知おき下さい。それでは御免」

 

 またスッと消えていく。仕事は優秀だ。今回も期待して待つとしよう。さて、と区切って一度この話を終える。

 

「これより私は一度氏邦様のもと、つまりは鉢形城へ出頭しなくてはいけない。その前に、私の温めておいた、と言うか計画していたことを行う。先日、私は杉山城の改築を命じられた。それと同時に北武蔵の全土で街道整備を行いたい。この計画は氏邦様へも言上し、許可が出れば北武蔵を巻き込んで行うつもりだ」

 

「街道整備、ですか。具体的にはどれくらいのものを?」

 

 胤治の質問に答えるべく、作っておいた設計図を見せる。現在の道を舗装し、拡張する。軍勢の速やかな行軍を目的としているが、商業の促進も目指している。

 

「これほど立派なものですと、そこそこに予算もかかりそうですわね…」

 

「先立つものは無い訳ではない。小田原からも金をふんだくるつもりだ」

 

「私は門外漢ですので特に口出しは致しませんが、先輩の仰る事なら間違いでは無いと思います」

 

「取り敢えず今日明日にでも動き出す、という訳でもない。頭に止めておいて欲しかったのだ」

 

 評定はまだまだ続く。午後には朝定も帰ってくるだろう。そうなればやっといつもの感じに戻る。安寧のひと時はやはり安心できるところが多く、張り詰めていた戦場での緊迫が少しずつ日常に戻っていく雰囲気がある。もうすぐ今年も終わりだ。来年はどうなるのだろうか。その不安を押し殺しながら、目の前の議題に向き合った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その頃、帰還途中の氏康の元に一通の手紙。それを読んだ氏康は「う~ん、困ったことになったわね…」と頭を悩ませる。その手紙の差出人は足利晴氏。内容は上杉朝定についてで、扇谷上杉家は朝定しかいない。最早この状況でいつ死ぬとも分からない戦国の世を生きるのは流石にマズいのではないか。しかるべき者、もうこの際誰でも(もっと言えば北条家中の朝廷から任官されているような者からでも)良いからくっつけるべきではないか、という打診であった。まぁ言ってることはド正論なのでその分タチが悪い。朝定は十一歳。もう十分に常識的な結婚可能年齢に突入していた。しばらく氏康はこの問題に悩まされることになるのだった。




下記にアンケートを用意したので回答して下さるとありがたいです。


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第75話 茨の道

前回のアンケートありがとうございました。


 時系列は少し戻って、段蔵が誰か勧誘できる人物がいないか出立する少し前である。この城の中では内政に関して明確な役割分担が成されている。民政は兼成。軍事は綱成。そして外交関連は胤治が担う感じになっている。なお、司法は兼音の権限下に置かれている。その胤治から段蔵は呼ばれていた。

 

「どうもすみません。わざわざご足労させてしまいまして」

 

「いえ、お気になさらず。それで、この私をお呼びだてとは何か新たな任務でしょうか?」

 

「はい。と言っても正確にはまだ発令されてはいませんが」

 

「?…と言うと?」

 

「当家は現在人手不足です。武官にしろ文官にしろ圧倒的に足りていません。特に、指令階層つまり有体に言えば幹部が足りないのです。そしてそれはご存じと思います」

 

「まぁ、把握はしておりますが」

 

「兼成様と綱成様は本日連名で殿にその儀を言上するようです。そう言う相談をしておりました。そしてそれが受け入れられた場合、殿は貴女に恐らく三河や信濃方面へ勧誘に差し向けるでしょう」

 

「そうなりますかね」

 

「はい。恐らくは。それについては私も特に反対などはありません。そこで、それに伴ってついでに行って欲しいところがあるのでお願いしたいと思い、こうしてお呼びしました」

 

「筑紫の極みや道の奥へ行けと言われるのでなければ、別に構いませんが」

 

「ありがとうございます。必ずやお家の役に立つはずなのでどうぞよろしくお願い致します。こちらの書状をこの地へ」

 

 段蔵は一通の書状を渡される。もう一枚の紙には住所が書かれている。

 

「三好家時代の知己です。運が良ければ関東への下向もあり得ます。兎に角、そちらを渡して頂ければ」

 

「確かに承りました」

 

 それを聞いて安心したようにペコペコと頭を下げる胤治。相変わらず気の弱い事で…と思いながらも段蔵はその書状を懐にしまった。そして、その後は兼成と綱成の進言を聞き入れた兼音は胤治の予想と同じ命令を下してきた。その先見性に感服しながらも彼女は風のように道中を進む。まずは甲斐だ。そこから南信濃、奥三河と進もうと予定を組んでいる。

 

 さて…と渡されたメモ書きの紙を眺める。畿内には行ったことの無い彼女であったため少し大変そうだと思い、どうにか道を特定しなくてはと考え畿内行きの道の調査もやる事リストに入れる事にする。

 

「しかし、大和の国の生駒郡とは。また随分と遠方で…。平群嶋城とはどこにあるのか見当もつかないな…。すぐに見つかれば良いが」

 

 もう一度紙をしまい、彼女は速度を上げた。取り敢えず今夜中には甲斐へ入りたいと言うのがひとまずの目標だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何か忘れているような気が相変わらずするが、まぁそんな大したことでは無いのだろう。多分。もうすぐ朝定が帰ってくる予定だし、帰ってきたら鉢形城へ行かないといけない。もう少しゆっくりしていたいがそうもいかないのが現実だろう。確実に現代の政治家よりも働いている自信がある。まぁ政治家は武器持って殺し合わないのだけれど。…プーチン大統領とかはやってそうだったが。ソ連崩壊は私の三歳の時の話だ。自衛官の父が割と忙しそうにしていたのを覚えている。

 

 懐かしい記憶を思い出しながら舞い込んでくる仕事をこなしていく。そうしていれば少なくとも色んな辛いことを忘れられるだろうからだ。友人がいなかったわけじゃない。後輩も、先輩も、恩師もいた。それでもそれを捨てて私はここにいる。彼らの幸福を願いながら、此処で生きている。この世界の行く末によっては彼らが生まれてくることもあるだろう。……そこに私がいないのが残念ではあるが。

 

 過去を想起しながらも仕事をこなすと時間はあっという間に経っていく。不意に何やらバタバタとする音が聞こえる。その理由におおよその予想はついた。

 

「朝定様がお戻りになりました」

 

「今どこに」

 

 伝えに来た女中に尋ねる。

 

「やや火急の用があると仰られて今こちらへ」

 

「そうか」

 

「失礼いたします」

 

 そう言うと襖を閉め、足早に去って行く。この城では誰もが忙しい。怠けている暇など存在しないのだ。その分給料はかなり良い相場にしてある。家臣も少ない上ため、与えられる俸禄も多い。キチンと週休二日制にしてあるし、そこそこホワイト企業のはずだ。一応労災や産休制度も用意してある。利用の機会は少ないが。

 

「失礼いたします」 

 

「どうぞ」

 

 先ほど閉じられた襖が再びスッと開いて朝定が顔を出した。

 

「よく帰ってきたな。今回の遠征は疲れる事も多かっただろう。今は休むと良い」

 

「その件なのですが…私が休む前に一つお話があります」

 

「聞こう」

 

「あの…何かお考えがあったら申し訳ないのですが、上泉殿の事を放置しておられたので独断で連れてきたのです…」

 

 その言葉に筆を動かす手がピタリと止まる。嫌な汗が顔から出てくる。多分鏡があれば私の顔は真っ青だろう。どこかに引っかかっていた忘れていたことがこれだったことを今思い知った。私の予感は決して外れてなどいなかった。何が大したことないだ。完全に忘れておいてそれは無いだろう…。過去の私を痛烈に罵倒しながら震える声で尋ねる。

 

「それで、今どこに…?」

 

「広間に待たせています」

 

「そうか…ありがとう」

 

 言ってすぐに立ち上がり唖然としている朝定を放置して広間へ走る。初老の男が瞑目しながら静かに座っていた。とくに縛られているようなことは無い。そうしないようにキツく言っておいた甲斐があった。この一騎打ちなど廃れ始めている時代に正々堂々と挑んだのだ。その心意気は武人のものであり、評価を受けるべきだと思っている。

 

「捨て置かれるのやもと、危惧しておりました」

 

「…大変申し訳ない。例え降将とは言え、戦い終わりし後は礼節を尽くすのが人としての道。不明をお詫びいたす」

 

「元より囚われの身。気に病まれることでは無い。煮るなり焼くなり好きにされても文句なぞ言える訳もなし。敗北の将は黙って縛につくのみ。この命あるだけでも御の字なり」

 

「武名轟く貴殿を戦場で討ち取るならばまだしも刑場にて首を刎ねたとあれば、関東の諸将に笑われましょうぞ。北条、武を愛するを知らずと。それは我らの望まざること」

 

「さらば、当方はいかな処遇に置かれるのかお尋ねしたい」

 

 それに関しては正直迷っていた。これほどの武勇。手放すのは惜しい。史実では長野家滅亡後に武田からの仕官の誘いを断り疋田景兼と共に流浪の旅に出たと言う。上泉家は現在信綱の娘・秀胤が当主を継承して氏時様の与力の一人となっている。是非とも仕官をと思うが、そう簡単には受け入れてくれないだろう。

 

「高名なる剣聖我が城に在りとなれば誠に頼もしい限りである。私の持てる範囲での希望を聞こう。是非当家へ仕官してはくれないか」

 

「今をときめく関東の新星、一条土佐守殿に声をかけられたとあればこの老人の人生にも箔が付きましょうな。されど、盟友を裏切る訳にはいかず」

 

「長野信濃守殿か」

 

「左様。奴がまだ北条と干戈を構えんと欲しているのならば、その北条に仕える訳にはいかず」

 

「…その友誼天晴れという他無し。であれば関東管領に仕えるとあればいかがか」

 

 ピクリと彼の眉が動いた。流石に昨日の今日で私、ひいては北条家に出仕と言うのは気が進まないはずだ。それくらいは予想通り。ならばより大きな権力を持って来ればいい。そして長野VS北条ではあるが、厳密には長野業正に朝定への対立意思はないそうだ。建前であれ何であれ、そう言う話になったと氏康様は言っていた。どうも都で動きがあったようで古の故事にならい関東管領を二人にする方針で話が進んでいるらしい。どちらにしろ、朝定の地位はしばらくは安泰のはずだ。

 

「当家に仕える事は友への裏切りとなろう。しかし、管領に仕えるはそれに非ず。勿論、長野信濃守殿と当家との戦に出る義務は無し。関東管領に仕えるは天下に隠れなき行い、関東静謐への一歩と考えるがいかに」

 

「……」

 

「現管領はまだ若い。その歪みなき心根をどうかそのままで在れるように貴殿の手で鍛えてはくれぬか。それこそ貴殿の思い描いた人を活かす剣に繋がると浅学ながら心得る」

 

 長い沈黙の後、彼は重苦しく口を開く。

 

「……相分かった。あくまでも北条ではなく、関東管領の家臣として奉公しよう。剣術指南と言う事で宜しいか。」

 

「おお!お願い出来るか!」

 

「…人を活かすと言われれば断る事は出来ぬ上、関東管領の名を出されて逆らうのは不可能である。……暇があれば北条の者であれ、ご教授いたそう。武人同士の仕合ならば、裏切りにもなるまい」

 

「よくぞご決断下された。平に感謝申し上げる。逗留の屋敷は空いているところを早急に用意させるのでしばし待たれたし。私も後に指導をお願いいたすやもしれんが、どうぞお手柔らかに」

 

「善処致そう」

 

「それでは、私はいかねばならぬところがある故、失礼いたす」

 

 返事は無いが、無言の一礼があった。これはかなり大きい事だ。朝定の剣の技術向上もそうだが、この城全体の武の向上も期待できる。勿論私自身もだ。どこかに行かれるよりもずっといい。どうにかこうにか理屈をこねくり回して朝定付きにすることが出来た。この方法は案外有効かもしれない。ともあれ、剣聖上泉伊勢守信綱は河越城の、厳密には朝定の剣術指南役となったのだった。

 

 さて、この人は後で屋敷に放り込んで、今度から仕事をしてもらうとして、私は早速鉢形城へ行かねばならない。挨拶もそこそこに広間を出て残りの仕事を片付けにかかった。出来れば今夜までには出発したかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 城に帰還してまだ数日もしないのにまた出かける羽目になるとはなかなかについていない。とは言え、今後のこの地域の方針を決める大事な会議となるだろう。出ない訳にはいかない。今まで怒涛のように出来事が乱発していた。国府台合戦から氏綱様の死去。相次ぐように興国寺と河越夜戦。そしてそう日の経たない間に上州征伐。これまでの流れの中で色々なことが決められてはいたが、やはりそれはある程度暫定的なものに過ぎなかった。

 

 河越夜戦が終了しても明確に敵対姿勢を見せている上州上杉憲政の存在がある以上、ゆっくり内政と言う訳にもいかなかったのである。しかし、その憲政も最早いない。アイツが呼び寄せた越後勢も雪のためしばらくは冬眠だし、武田との戦闘が始まるだろう。時間は基本こちらに有利だ。小さなタイムリミットは信長の台頭まで。大きなタイムリミットは100年だ。100年以内に近代国家体制を作れなかった場合、我々は列強の植民地と化すだろう。最低でも江戸幕府と同程度の水準を持つ国家を誕生させる必要があるだろう。逆に、上手くまとめれば鎖国せずに近代化し大日本帝国(ちゃんとしたもの)を作れる可能性も高い。英仏米におもねらない第三勢力となれる可能性もある。

 

 先の長い話にはなるが、現状時間はこちら有利だ。佐竹も里見も表立っては動けない。この間にやっと決まった体制を固めて次のステップへ進まなくてはいけないだろう。その第一歩が提案する予定の街道計画だ。願わくばこの北武蔵の監督者、即ち氏邦様が開明的かつ理解のある方だと助かるが。悪い人では無いのは知っているが、如何せん知略の面では氏康様に劣るだろうと言うのが歯に衣着せぬ感想だ。

 

 

 

 

 

 鉢形城への距離はそんなに遠くは無い。この城は現代で言うところの寄居町にある。荒川の中流域、長瀞のすぐ下流に位置し、その左岸に街が発達している。秩父往還の街道筋にあって、街の対岸に鉢形城があり、その城下町も存在している。鉢形城は深沢川が荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地し、その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三ノ丸の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二ノ丸、本丸、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面する…と言うのを図面で見た。

 

 初めて築城したのは関東管領山内上杉氏の家臣である長尾景春と伝えられている。そしてその後は史実においても氏邦様が入城し、信玄謙信の攻撃にも耐えたが小田原征伐の際に三万とも五万ともいう軍勢に取り囲まれ、開城した。最後は前田利家に助命を願われ、金沢にて氏邦様は没したと言う。だが、この世界ではそうはさせない。そもそも豊臣秀吉の小田原征伐なぞさせるものか。それ以前に関東奥羽をまとめ、西国に駆け上がって行けばいい。

 

 結局夜通し進み続け、明け方に到着した。城下にある陣屋に宿するように言われているので、素直にそこに泊まる。身内びいきかもしれないが、河越の方が発展しているように思えてガッツポーズである。とは言え、どちらも小田原には勝てないのだが。そうは言ってもしっかり繁栄しているようで、町並みは整っている。まだこの城の入って日が浅い(河越夜戦の戦後処理で藤田家に養子に入ってから)にも拘らず領国発展のために尽力していることが伺えた。どのみち、用事があるのは昼からなのでそれまでは少し寝させてもらうことにした。

 

 

 

 

 

 

 時刻は昼過ぎ。時間通りに登城する。時計の無い世界では大体で時間を図るしかない。太陽の動きがその主な道具だ。水時計とかはあるのだろうけれど、あれは大分大掛かりなものなので持ち運びは不可能だ。複雑な構成の城の中を進み、最上部にたどり着く。そこに城主の住まいがある。

 

 本丸の門の前に出迎えがいた。まだ若い。二十代かそこらの男である。丸顔で、人の好さそうな面持ちをしている。武家と言うよりは商人や大道芸人の方が向いていそうな雰囲気だ。

 

「一条土佐守殿ですかな」

 

「いかにも、私が一条兼音でございます」

 

「主よりお話は仰せつかっております。私は猪俣能登守邦憲と申します。高名な一条殿にお会いできるとは光栄でございます」

 

「これはご丁寧に…」 

 

 猪俣邦憲。旧名を富永助盛と言う。武蔵の名族、猪俣氏の養子に入り範直を名乗った。その後、氏邦様よりの偏諱を受けて邦憲と言う名になっている。史実では当時敵対していた仙人ケ窪城を計策によって乗っ取った功により、氏直より感状を貰い箕輪城代や沼田城代を務めている。1589年、真田昌幸の家臣・鈴木重則が守る上野名胡桃城攻略の際、重則の家臣・中山九郎兵衛を内応させ、偽の書状によって重則を城外へと誘き出し、その間に九郎兵衛に城を乗っ取らせる謀略によって奪取したが、これが天下人である豊臣秀吉の発令した惣無事令違反として小田原征伐の理由となってしまう。まぁ遅かれ早かれ小田原征伐は起こったとは思うが、その原因となった人物としてしばしば物語に登場する。

 

 とは言え、この世界ではまだ何も成していない。これから次第だろう。もし悪い方向に転ぶようなら…いや、そう言う事はなるたけ考えないようにしよう。今は仲間だ。悪意を持って名胡桃事件を起こしたわけでもないだろうし。彼はあくまでも中間管理職に過ぎない。真の責任は恐らくそれを命じたであろう氏邦様に帰するべきだ。どんな結果であれ、上司が部下の責任を負うのは当然の事だ。

 

 広間に着けば、既に私を呼んだ本人は席についている。不自然なくらいに人が少ない。一門衆の氏邦様ともあればもう少し人が多くてもいいような気がするが。先ほど案内してくれた猪俣邦憲はそのまま脇に控えた。私と氏邦様が向かい合い、左右に数人のみ座っている。ここにいるのは北条家の人間のみだ。他国衆に分類される太田資正や成田長泰などは呼ばれていない。

 

「仰せによりただいま罷り越しました、一条土佐守兼音にございます」

 

「ああ、よく来てくれた。これで全員だ。まずは改めて、私がこの度姉上よりこの北武蔵の管轄を任された北条氏邦だ。ここにいる皆は北条家の忠臣であると信じている。どうか、姉上と私を助けるため、ひいては関東静謐のため、力を貸して欲しい。特に一条兼音。お前は私の与力の中で一番の大身だ。その武勇と智謀、大いに期待している。私は姉上も言われていたように激しやすく、猪突猛進気味なところがある。私の頭脳として助けてくれ」

 

「過分なお言葉恐悦至極。何なりとお申し付けください。必ずやご期待に沿ってご覧に入れましょう」

 

「頼むぞ。そして、河越もそろそろ人手不足だろうと姉上が気を回して二名の者を連れてきた。いずれも決して若くは無いが、お前を助けてくれるだろう。北条長年の功臣ではあるが、お前を補佐するに異存なし、むしろ軍略の何たるかを教えて頂こうと思う、と言ってと喜んでいる。とは言え、まだまだ足りないだろうからもっと人を集めて構わないと、そう言う仰せだった」

 

 これは願ってもない申し出だった。正直、私の管理地域はかなり広い。にも拘らず今まで幹部三人で回していたのがおかしいくらいだ。もうこの際誰でも良いので来て欲しかった。

 

「ありがたき幸せ。して、どなたが来てくださったのでございましょうか」

 

「そうだな、勿体ぶっても仕方ない。入ってくれ!」

 

 その言葉に待ってましたとばかりに後方から足音がする。振り返ると初老の武将が二人、歩いている。一人は禿頭で豊かな口ひげ。どことなく亀仙人みたいな見た目で身長は小さめだ。もう一人は静かな雰囲気ではあるが、両目に切り傷が付いている。痩せ型で細長い顎髭だ。いずれも強者感が漂っている。遠目で氏綱様の葬儀の際に見かけたことがあるような気がする。まずは禿頭の方が口を開く。そしてもう一人が続いた。 

 

「山中内匠助頼次でござる」

 

「太田豊前守泰昌でございます」

 

 深々とお辞儀をする二人に慌てて礼を返す。

 

「二人とも今までは為昌姉のおられる玉縄衆に属していたが、此度移動となった。上手く使ってやってくれ」

 

「若輩の私にこのような歴戦の将が付いて下さるとあれば百人力であります。河越の付け城に老袋城と寺尾城がございますので、そこへ入っていただきたいと思います」

 

「「よろしくお願い申し上げる」」

 

 そう言い、二名は脇へずれた。

 

「さて、今後は冬も深まる」

 

 そう氏邦様は切り出す。

 

「そこで、この農閑期にこそ土木工事は進めようと思う。そこで提案があるそうだな」

 

「はっ!」

 

 向けられた視線に応え、懐の紙を取り出す。広げたそれには北武蔵の地図が載っている。

 

「まずは、北武蔵全土に街道網を整備したく思います。それに伴い、最初は北武蔵の正確な地図を作成する必要がございます。それに関しては既に目途をつけており、お命じ下されば大規模な測量隊を編成し、すぐさま実行にかかります。その上で、各支城を結ぶ道を作るのです」

 

 同時に街道の図も見せる。基本は同じ構造のものを延々と作るだけだ。少し盛り上がらせて両脇に松かなんかを植えておく。真ん中の道はそこそこ広めに。軍隊がスムーズに行軍出来るようにしておく。

 

「また、この農閑期を利用し、田畑の整理を行いましょう。出来る限り、四角になるようにすることで、生産高の向上が見込めます。この件は正月に小田原にて正式に話があるかとは思いますが、始めるのは早い方が良いでしょう。かなり金子もかかりますし、人手も必要です。しかし、今領内は人口増加の一途をたどっています。十分に賄えるかと」

 

「だ、そうだ。私の意見を言う前に、ここは当家の流儀にならって皆に諮りたい。どう思う?」

 

「某は賛成です。商業の活性化につながり、かつ職を失った者や流民にも食い扶持を与える事が出来ます故」 

 

「某はまぁ、先立つものが確保できるのであれば特に何も言うまい。それが民のためになるのならばやるべきと言うのが北条の在り方であると思っている」

 

 猪俣邦憲と太田泰昌は賛成のようだ。微妙な顔なのは山中頼次である。

 

「うむむ…それ自体には賛同いたすが…一条殿にお尋ね申し上げる」

 

「謹んで、承る」

 

「街道を広げるのは自軍のみならず敵軍の行軍を助けることに繋がる恐れありと愚考するがいかに。また、我らは納得してもこの地の領主たちが首を縦に振るかは分かりませんぞ」

 

「まず前者ですが、その恐れは当然ございます。しかし、北条家の戦略を考えるに、この地が戦場になる可能性は低いでしょう。と言うのも、わが国が国境を接してるのは主に上野、下総、甲斐、相模、そして信濃です。このうち、信濃と甲斐は武田の治める地。彼らの求めるのは北信。敵対はありますまい。上野下総相模はお味方。下野も大身の勢力は無し。敵を食い止めるにしてもここが前線になる確率は低いと言えましょう。後者の件は私が責任を持って説得致しましょう」

 

「しからば反対致す理由もなし。儂も賛同いたしましょう」

 

 ここまでの意見を聞いた氏邦様はウンと頷く。

 

「実を言えば私も頼次に近い疑問を持っていたが、今ので解消した。武蔵は北条の経済を支える屋台骨の一つになるだろう。必要な援助は小田原から得られるはずだ。金は余裕がある。大いにやると良い。兼音、任せて構わないな?」

 

「ははっ!山中殿、太田殿と言う心強い与力が加わっていただけましたので、抜かりなく行えるでしょう。大船に乗ったおつもりで、お任せくださいませ」

 

「農政の方も頼む。必要なものがあればいつでも申し出てくれ。人、物、金…なんでも構わない。勿論、この城からも人員を割こう。兵も使って良いだろう。良い訓練になるはずだ」

 

「ありがとうございます」

 

「それではこれから、くれぐれもよろしく頼むぞ」

 

「「「「ははぁ!」」」」

 

 礼をする我々に氏邦様は満足そうだ。安心したような表情で胸を撫でおろしている。

 

「よし、帰ってもらって構わない。それと、済まないが兼音だけは少し残ってくれ。個別に話がある。邦憲も外してくれ」

 

「はっ!それでは一条殿、お先に失礼いたします」

 

 ニコニコとしながら猪俣邦憲は去って行く。寡黙な老将二人も立礼を私にして帰って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 ハーっと息を吐きだして、氏邦様は針金の切れた人形のようにヘタレる。

 

「すまないな。残って貰って」

 

「構いませんが…如何なる用事でございましょうか」

 

「うん…まぁ、その頼みと言うかがあるのだが」

 

「私に出来る事ならば、何なりと」

 

「そうか。悪いが、私もそうなのだが、邦憲を助けてはくれないか。悪い奴では無いのだ。北条への忠誠も大いにある。ただ、どういう星の元の産まれたのか、やる事なす事裏目に出る事が多いのだ。良かれと思っているのだろうから文句も強くは言えない。だが…いつか致命的な事をしでかしそうで気が気では無いのだ。基本は優秀なだけに、それだけが残念でならない」

 

「…承知致しました。善処致しましょう」

 

「すまないな…負担を多く強いてしまっている」

 

「いえ、この身は御家のために。これくらいはどうという事はございません」

 

「お前も気付いたかもしれないが、我が元には信用に足る重臣が少ない。我が義弟の用土重連も藤田信吉も表面上はともかく内心では私を面白く思っているはずがない。あわよくば反乱を企んでいるはずだ。だからこそ邦憲を重宝しているのだが…。いずれは手を汚さなくてはいけないのかもしれないな…。姉上のようにはなれそうもない」

 

 その言葉の意味するところは粛清だろう。いつかはそうなるのかもしれないが、その性格から正々堂々と決着をつけたいと願っているのかもしれない。だが、為政者としてそれは許されない。その狭間におられるのだろうと推察した。

 

「お前に愛想を尽かされないように努力するさ。姉上には遠く及ばなくとも、だからと言って足を止めて良い訳でもないからな…。おっと、済まない。長々と引き留めてしまったな。頼次も泰昌も良い奴だ。交流を深めてくれ」

 

「……承知いたしました」

 

 ゆっくりと礼をしてその場を去る。誰もが重圧を抱えている。我々は数万の命を握っている。その重さがのしかかっていた。これからまだ苦難は続くだろう。それでも力を合わせれば何とでもなるはずだと信じている。甘い見通しかもしれないが、きっと成し得る事があるはずだ。やる事は多いが、まずは新しく来た二人とコミュニケーションを取らねばならない。人の和無くしては何事も成し遂げられないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところは移って鎌倉。遠征帰りの氏康は、この地に住まう関東公方・足利晴氏の元を訪ねていた。本人は金沢文庫の整理や管理をしつつ、基本暇人として過ごしている。そんな男から届いた書状の中身について話すために小田原へ直帰せずにやって来たのだ。晴氏は上座に座り、氏康を見下ろしている。立場的にはそうせざるを得ないのだ。例え実態がどうであろうとも。

 

「まずは此度の戦の戦勝を祝おう」

 

「ありがとうございます。お力添えもあり、多くの上野諸将がはせ参じました。正月にはお会いすることもあるかと存じます。どうぞ、彼らの立場にご理解をお示しになると共に更なる忠節を誓う彼らを受け入れて頂きたく」

 

 言葉は敬語で丁寧だが、声音は有無を言わせぬものがある。内容も嘆願ではあるが実際は命令であった。上野諸将を繋ぎ止めておくための行動を取れと言うものだった。

 

「うむ。それで、お主が来た理由はようわかっておる。送った書状についてであろう」

 

「ご推察の通りでございます。ご心配の中身はごもっとも。されど恐れながら朝定はまだ年少につき、婚姻には些か時が欲しゅうございます」

 

「だが早すぎるという訳でもなかろう。憲政を追放した以上、関東管領家、つまりは扇谷上杉家を保つのはそなたの使命でもあるのだぞ。そうしなくば、そちの欲する秩序を形成できなくなる。扇谷上杉家の本流は最早あれのみと聞くぞ」

 

「ごもっともでございます。しかし、もし仮に婿を迎え入れると申しましても、然るべき家でなくば…」

 

「佐竹、武田、里見、今川など多くいるではないか」

 

「……」

 

「言いたいことは分かる。北条の息のかかった人間を送りこみたいのであろう。だが北条の縁戚は既婚者か女ばかり。それ故にわざわざ家臣筋でも家柄良き者と言ったではないか。関東の名族を幾つも抱えておるであろうに」

 

「しかし、彼らの多くは大身にあらざれば、釣り合うとは…」

 

「結局断る理由を探しておるのみではないか」

 

「申し訳ございません」

 

「……まぁいい。朝定がまだ若いことは事実。まだ数年は先でも問題あるまい。だがな!」

 

「…はっ」

 

「そなたもそなただ!幾つになる」

 

「………………十八になります」

 

「自分がそろそろ然るべき縁を結ばねばならん事は分かっておるな?」

 

「…はい」

 

「氏綱とは敵対することもあったが名将であると思っている。しかし、子に男無き事だけは失敗であったな。これでもこちらなりに北条の行く末を憂いているのだ。北条無くしてこの典雅な生活はあり得ぬからな。氏政と言う後継者はあれど、そなた自身も子を設け、次の時代へ命を繋げ。三十になって後悔しても遅いぞ。よいな?」

 

「肝に銘じておきましょう」

 

「何か障害があれば申せ。出来る事はする。飾り物でも足利の出。幕府がある限りは権威は衰えぬ」

 

「ご配慮、痛み入ります」

 

「家臣団も早く次に繋げるようにせよ。特に未婚の者ども。姫武将は婚姻が遅れるのは仕方ないにしても例えば一条土佐守のような者はな。最悪側室だけ先に置くでも良い。正室は後からでも、複数でも良いのだからな」

 

「……………………はい」

 

「絶対納得しておらんな。まぁ良い。食客のような立場ゆえ、そうそう大きなことは言えぬが、関東の安定を願うのは同じ。よくよく考えてくれ」

 

「心に留めおきます」

 

「遠征帰りに来させるような文を送ったのは済まなかった。ゆるりと休め。働きずめではいつか死ぬぞ」

 

「ご心配には及びません。優秀な臣下が多くおります故」

 

「…そうであったな。もう行くと良い」

 

「失礼いたしました」

 

 

 

 

 

 部屋を出て同時にため息を吐く。氏康はのしかかっている大きな問題がいよいよ取り敢えずでも何らかの措置を講じないといけない段階に来ているのを感じ取って吐いたため息である。今から正月が憂鬱だった。春には三回忌もしなくてはいけない。まだまだ安寧の日々は遠そうだった。

 

 晴氏は自分の忠告を全然守る気のない氏康に対してため息を吐いている。政治力でも将才でも負けているが、年上故に氏康の心理くらいは何となくわかった。一条土佐守の話をした時の一番長い沈黙。珍しく泳いでいた目。絞り出したような声。自分ではまったく気付いていなそうではあったが、晴氏はしっかり見抜いていた。助け船のつもりで正妻の数の話などをしたのだが、分かっては貰えていなそうだ。

 

 晴氏は書庫にある源氏物語を引っ張り出し、ペラペラとめくる。巻物ではなく閉じ本の形になっていた。あの氷のような小田原の女帝がまさか恋とはな。まぁ悪いことでは無いが…と晴氏は氏康の顔を思い出す。冷徹無比な女かと思ったがなかなかどうして人間らしいじゃないか、氏綱。貴様の娘は今揺れておるぞ、と

小さく笑う。決して悪意によるものではなく、純粋に若い人を見る老人のような心情だった。半ば隠居してから少し丸くなったらしい。

 

「だがな…それは茨の道であるぞ」

 

 パタンと本を閉じて晴氏は呟いた。




本来この時代(戦国・江戸)は結婚年齢が早く、女性に限って言えば大袈裟に書くと十代での結婚は当たり前、二十代は売れ残り、三十代に至ってはババア扱いです。ですが、流石にそれだと時系列的にキツいため二十代くらいに結婚すればOK。三十以降は売れ残りみたいな感じの世界観に変えてあります。

真面目な話、原作時系列から数えても良晴が信奈と出会ってから結ばれるまでに数年かかってるんですよね。仮に信奈が当時15歳くらいだとしても流石に20歳くらいにはなってるわけで。その辺ぼかしてありましたが、それを考えると信奈より年上の氏康は…となりますので。

あしからず。

もう一つ補足すると、正室側室に関する規定(具体的には正室は一人)などと決められたのは江戸時代の武家諸法度以降であり、平安時代の公卿などに複数の正室を迎える例がみられたり、豊臣秀吉の「側室」である淀殿や京極竜子らが同時代の史料において正室扱いされていることが確認されています。なので、複数の正室が同時にいる事もあったとお考え下さい。足利晴氏の発言はここから来てます。


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第76話 老虎

なかなか前へ進まない時系列…すまないです…。


 足利晴氏との対面を終えて小田原に帰還した氏康。彼女の目下の課題は…と言える量ではないほどの背負っている課題が存在していたが、それでも何とか帰還できたことに安堵していた。今後は正月が迫っている。今は師走の初頭、徐々に年末年始に向けて忙しくなろうとしている時期である。年が明ければ早速上方への交渉を開始したい氏康は、その行きの船の事もあって、英国船に年内は滞在してくれないかと要請した。その結果了承されたため為昌は何とか実家で正月を迎えられることとなる。

 

 だがしかし、氏康に休みは無い。そして今もまた、新たな課題が舞い込みつつあった。

 

 

 

 

 

 

 

「その報告は真なのね?」

 

「はっ!確かに。数日前に駿河府中の屋敷より武田陸奥守信虎が出立したと。行き先は相州小田原。次いで武州河越と周囲に吹聴していたとの事」

 

「……ご苦労。下がって良いわよ」

 

「はっ!」

 

 氏康はスッと消える風魔を見送りながら大きく白いため息を吐く。すっかり寒くなった室内には火鉢があるが、暖かさとは遠い。それに当たっている幻庵が愉快そうに口を開いた。

 

「ふぉふぉふぉ。何やらおかしな事になって参ったのぉ」

 

「笑い事じゃないわよ。これ、どうすれば良いのかしら」

 

「殺すか?」

 

 不意に幻庵の顔が一瞬だけ怖くなる。

 

「何を言って…まぁ、選択肢としてあり得ない物ではないけれど。その場合は晴信に許可を取ったことが前提ではあるわね」

 

「そうじゃ。そうすれば晴信は駿河に進むのに何の遠慮もいらん。同時に我らも攻め込めば…」

 

「話に乗りはしたれど却下よ。流石に危険が大きすぎる。しかも、何故北条が武田のためにそんな使い走りの犬のようなことをしなくてはいけないの。それに、駿河を得たら武田の北進する理由がなくなる。そうなれば駒として対越に使えなくなるわ」

 

「なぁ~に冗談じゃ。最近のお嬢はやや優しくなりすぎなような気もしたでな。少し発破をかけたまで」

 

「心臓に悪いから止めてちょうだい。それに…冷酷なだけじゃいけない事もあると気付いたのよ」

 

「ほぉ?」

 

 意外そうな顔をする幻庵。だが、最近氏康に変化が出始めていることをこの老人はその年の功から確かに察知していた。けれどそれは決して悪いものではないので、特に咎める気はない。しかし、為政者として甘いだけではだめなのでこういう提案をして選択肢そのものから消させないようにしていた。仁君徳を以て天下泰平を成すとした孔子の教えが理想論であるとは分かっているが、そういう要素もあってこそ偉業を成せるのだと思い、氏康の変化を歓迎していたのである。何より冷酷であらねば…という強迫観念が薄れているのは喜ばしかった。

 

「さて…真面目な話に戻すが、如何致す」

 

「追い返す訳にもいかないでしょう。向こうがどういう意図で来ているのか、そもそも領内を通過するだけで特に私たちに用はないのか。それを見極めてからでも良いと思うのだけれど」

 

「ま、その辺りが妥当じゃろうな。もし対談する事あらば重々用心せよ。奴は早雲殿の頃より既に生きておった。今は亡き今川氏親も随分苦しめられた相手じゃ。舐めてかかれば老虎の餌となろうぞ」

 

「分かっているわ。古強者相手に丸腰で挑むほど、愚かではないつもりよ」

 

 その若さと自負が危険な時もある…と思いながらも、もし危なくなれば自分が間に入ればどうにかなるはずだと幻庵は出かかった不安を飲み込んだ。ぐちゃぐちゃであった甲斐を一応統一できたのは偉業と言わざるを得ない。更には強権を持つ家臣の大半が粛清されたため、現在危ない可能性があるのは穴山・小山田くらいになっているという側面もある。これらの地盤を背景に晴信が躍進できていると言うのも事実だった。決して、暴虐なだけの男では無いのである。

 

「さてさてどうなるかの…」

 

 余計な手間が増えた…と消沈している氏康を横目に、幻庵は信虎が北条家にいかなる影響を与えるかを考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これは何とも…」

 

 馬上にいる老将はそう呟いた。そう言わざるを得なかった。彼の名は武田陸奥守信虎。かつての甲斐の君主であり、現在はその座を娘の晴信に追われ駿河の食客になっている。そして今は旅の途中にあり、箱根を越えて山中より小田原を見下ろしているところであった。勿論一人な訳もなく、付き従う50名にも満たない人間と共に進んでいる。かつて虎と恐れられた甲斐の国主の供廻りにしては随分と貧相であった。そのわずかな家臣のまとめ役は晴信が彼を追放した際に後でそれを知り、何かあった際に諫めるなり駿河より逃がすなりの介添えをするべく晴信に直談判して駿河へやって来た忠臣・清水式部である。年はかなりいっており、信虎とほぼ変わらない。

 

「如何なされました」

 

「見よ、式部。あれが北条の力よ」

 

「ほほぅ、随分と多くの船がありますなぁ。それに城も大きい」

 

「躑躅ヶ崎では比べ物にならぬな」

 

「恐れながら甲信の城館ではいずれも…」

 

「で、あるな。あの船の数が奴らの経済力の支えとなっておる。あれは音に聞く南蛮船か?儂には良く分らぬが、大明や天竺より彼方からも来るそうじゃな。そして莫大な富と鉄砲なる武器をもたらす。駿河で一度見たのは覚えておろう」

 

「何やら轟音がしたと思えば鎧が弾け飛んでおりましたな。某も大分長く生きておりますが、あのような物は初めてでござった。しかし、戦を変えるほどのものになりましょうや。命中率は悪く、また装填に時間がかかる、そもそも高価であるなどの欠点も多く見受けられましたが」

 

「それはお主、数が無いからそうなるのじゃ。数を揃えれば多少の不便さも消せる。更にあの音。あれが複数戦場で響けば武田の秘蔵たる騎馬軍団がどうなるか。目に見えておろう。やはり港じゃ。港がなければ鉄砲は手に入らぬ。火薬も、そして鉄砲以外の富も。晴信め…北に厄介な敵を作っておる暇があれば駿河へ行かんか…」

 

「殿、お声が大きいですぞ。駿河の者に聞かれたら何とします。しかも、北条は一応駿河とは友好関係でございます」

 

「はっ!この乱世に友好関係なぞあるまい。皆敵よ。今我らに利しているか否かの差だけじゃ」

 

 一行は歩みを進める。信虎の目は周囲に光っている。農地の様子、行き交う商人や旅人の様子、町や道の様子など様々を余すことなく見ている。豊かな国だ…甲斐ではなくここに産まれていれば今頃自分も、晴信も、天下に覇を唱える存在になっていたかもしれないと思うほどには富んでいる。

 

「豊かな街でございますな」

 

「…………」

 

「そうお気落ちなさることもございますまい。甲斐には金山がございます。晴信様がそれを元手に豊かな国を作ってくれましょう」

 

「…金山はいつか尽きる。そうなれば終わりよ。故に儂は信濃を攻めた。結局、旧態依然の軍勢では歯が立たなかったがな。搾取せねば生きては行けぬ。それが甲斐の現実じゃ。民に心を砕いていてはそう出来ぬ。ましてや家臣を一族と同列に扱うなぞ…以ての他」

 

「ですからお声が…周りの者に不審がられますぞ」

 

「儂は腐っても元国主じゃ。誰に憚ると言うのか」

 

「ここは関東。関東公方と関東管領、更には執権の権勢は及べども甲斐国主、しかも元とあっては…」

 

「……そうであったな。結局な、あ奴は儂と変わらぬ」

 

 小田原の街の中を進みながら信虎は遠い目をする。そこには言い表せない苛立ちや哀切があった。

 

「確かに甲斐の者からすれば仁君であろうとも。しかしな、信濃衆はそうは思うまい。民なぞ幾らでも生えてくると嘯いた儂と、捉えた佐久衆を金山へ送るあ奴と、何が違うと言うのか。儂の幻影を恐れ遠ざけようとして、かえって儂の背中を追っておる。愚かな奴よ…」

 

「まだお若こうございます。いずれ、その癖も無くなるやもしれませぬぞ」

 

「時間こそ万金に代えがたき物ぞ!いたずらに時を貪り、いずれ後悔するのじゃ」

 

 頑固な事だ、と清水式部は思った。しかし、信虎には彼なりにプライドも信念もある。荒れ狂っていた甲斐をまとめ、敵対した叔父の油川信恵は殺した。それにこれまでの生涯の多くを費やしてきた。その結果がこれではやりきれないところもあるのだろうと。あの晴信への行き過ぎた仕打ちに関してはあまり庇えなかったが。

 

「長い戦いが続くじゃろう。その中でやがて、あ奴の心は壊れる。このまま進むのならば、尚更な。あの臆病者に、覇王たるはどだい無理な事。いずれボロが出ような…」

 

 まぁ良い。最早復権はあり得ぬ。精々不肖の娘よりも長生きして笑ってやろう。甲斐を荒らした極悪人を演じてやろうではないか。信虎はそう思いカカと笑った。

 

 

 

 

 

 産まれた時は随分と期待をかけたものだった。何しろ初子である。だが、成長するにつれてその素質に重大な欠落がある事に気付いた。優しすぎる。この甲斐で生きる、いやただ生きるだけなら良かったかもしれないが、もし武田の当主となるのならその優しさは不要だった。そこへ輪をかけるように優秀な次郎の誕生。信虎は徐々に次女の方に期待を寄せるようになる。元々望んで甲斐武田の家に産まれたでもなし。だが嫡女である以上、当主になってもらわねば困るし廃するには病気か本人の辞退が必要だった。前者は健康な晴信では無理だったし、であれば後者のみ。自ら隠遁を望むように仕向けて行った。

 

 そしてそれが晴信を追い詰め、信繁を苦しめ、終いには爆発し信虎は追放された。最初は文弱な者を戦から遠ざけようとしていただけだった。失望が無いと言えばウソになる。それでも彼女は娘だった。だが、悲しいかな戦いの中に生きた男は愛を知らなかった。優しさを捨てていた。故にああするしかなかった。難癖付けて嫌っているフリをしているうちに、段々とフリではなくなっていった。自分の演技に自分自身が乗っ取られていったのである。セルフマインドコントロールとでも言えばいいのだろうか。

 

 何が間違っていたのか。いや、最初から間違っていたのかもしれない。いずれにせよ、最早それを言ってもどうしようもない。

 

 そんな信虎の懐古とも言える感傷は複数の金属音に遮られる。意識を現世に戻せば、数十人の兵に取り囲まれていた。抜刀はしていないし、槍も向けられていない。だが、決して友好的ともいえない視線だった。敵対的かと言われればそういう訳でもないのだが。

 

「どこの家中の者だ。儂を誰か知っての狼藉か」

 

「狼藉に非ず。やや手荒になった事はお詫び申し上げる。甲斐の元国主殿に丸腰で会うなぞという蛮勇、我らは知らぬものなれば。申し遅れました。私は北条伊豆守為昌。当主氏康の実妹にして本日の饗応役でございます。姉が呼んでおりますれば、是非ともお越し願いたく」

 

 この発言でやや自尊心の満たされた信虎は鷹揚に頷く。

 

「良かろう。案内してくれ」

 

「どうぞ、こちらへ」

 

 護衛とも監視とも言える兵たちに囲まれ、清水式部が周囲を警戒しながら囁く。

 

「よろしいので?」

 

「断れば良くて駿河へ送還、悪ければ死ぞ。無駄な争いを起す必要もない。それに…殺すならばとっくにやっておろう。儂らが国境を越えた折、いや或いは駿河を発った折より風魔とやらに監視されておるだろう。式部、お主も妙な事は考えず、大人しくしておれ。いざとなったら厠を潜ってでも逃げ出してやるわ」

 

「ははっ!」

 

 信虎一行は小田原城の中枢へ向かう。若き小田原の君主がどういう器か、娘と比較してどうか。それを見極めてやろうと思い、信虎はニヤリとほくそ笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 為昌に連れられた信虎は小田原城の中枢の座敷に通された。質素ではあるがしっかりとした造り。要所要所に美的な配慮も見える。そう言うところから見た目以上に拘った内装になっていることを察した。腐っても元国主。目には自信がある。待つこと数分で人の気配を感じた。この準備の良さから、あらかじめ自分たちが来訪すると知っていたことに確証を抱いた。

 

「お待たせ致しました」

 

 珍しくキチンと艶やかな姿で氏康は姿を現す。普段はもっと質素倹約を心がけて地味な服しか着ていない。なので、正月などの特別な式典しか着ない礼服だった。旅路の途中故に略装の信虎とはある種の対比になっている。

 

「本日は我が小田原へようこそお越しくださいました。陸奥守殿とは対立したこともございましたが、今はそれはお互い水に流したく存じます」

 

「ああ、うむ。左京大夫殿に置かれては武運隆盛の事お喜び申し上げる」

 

「やや強引な手段になりましたことはお詫び申し上げますが、先の甲斐国主を素通りさせたとあっては恥になりましょう。細やかながら、おもてなしをせんと欲した次第にございます」

 

「先に言うておくが、儂から甲斐の何事かを聞きださんとしても無駄じゃぞ。腐っても甲斐武田の当主。追われたとは言え、我が娘に不利になる事は言えん。加えて、元より晴信との連絡は絶っておる。他の子供ともそう頻繁に会う訳でもなし。取次ぎを求むるも同じく骨折り損のくたびれ儲けとなるだろうな」

 

「いえいえまさかとんでもない。我が父も相手取った古強者のご尊顔を一目拝さんとしたまでのこと。まったくその様な御懸念は見当違いにございます」

 

 氏康としてはそうは言っているが内心は『使えないな…』と思っている。あくまでも自発的に動いてもらわねば困るのだ。万が一唆したことが露見すれば色々問題になる。最悪今川武田で挟み撃ちにされかねない。元々そこまで期待はしていなかったのでサッと忘れて次の話に移る。まったくおくびにも出さない辺りが政治家としての質の高さを示していた。

 

 同時に信虎も氏康の魂胆を察している。故に揺さぶりをかけてみた。並の将ならば多少動揺の色が見えてくるものだが、何もない。表面上は穏やかだ。顔のみならず無意識に表に出やすい手や足にもそれとなく視線をやるが、動きは無い。呼吸も平常。うむむ…侮れないと思うしかなかった。

 

「どうされましたか?私の顔に何か?」

 

「いえ、何でも」

 

「そうですか。さて、改めてにはなりますが、この度はお悔やみ申し上げます」

 

「お悔やみ?誰も死んでおらんぞ」

 

「おや、ご存じありませんでしたか。御身の正妻であらせられます大井の方様が鬼籍に入られました。流石に駿河へも危篤を報せる文が行っていると思うのですが…入れ替わりになってしまったのやもしれませんね」

 

「そうか…あ奴が…」

 

 しばし瞑目する信虎。政略結婚であったとは言え、結構な期間を過ごしてきた相手である。多少なりとも思うところはあった。

 

「その関係で河越におりましたご息女は現在甲斐へ一時帰国中でございます。まぁそろそろ戻るとは思いますので、御身が河越に着いた頃にはお会いになれるかと」

 

「何ッ!?人質を返すのか?」

 

「一時的、ではございますが。その後戻ってきていただきますので悪しからず」

 

「親の葬儀とは言え、他国からの人質を帰らすなぞ聞いたこともないわ…」

 

「敵には毒と調略を以て接し、身内には仁を以て接する。さすれば天下は定まり安寧も訪れ民のみならず武家よりも信を得られますので…。殺しても生えてこないのが民でございますから。」

 

 これは信虎への皮肉であった。内政面に関しては信虎と氏康の方針は真逆とも言える。

 

「……まぁ早くに嫁に出されたと思えば嫁ぎ先を姉に攻められ夫と共に二人のみで見ず知らずの土地へ遣られた娘であった。一応の感謝を申し上げる」

 

「お気になさらず。仁を行いて誇るうちは仁君とは呼べませんので」

 

 氏康は終始にこやかだ。対する信虎も元々優しい顔つきでは無いが、平常時の顔でいる。言葉のどこかに毒が混じっているし、雰囲気も独特の凄味が出ている。会話に反して部屋の空気は圧迫感の凄まじいものであった。

 

「左様か」

 

「ええ。おや、そろそろ時間も長く経ってしまいました。ご高齢のお方を長々とお引止めしては申し訳が立ちません。宿所は手配しておりますので、どうぞ今晩はごゆるりとお過ごしくださいませ」

 

「未だ我老いたりとは思わざるところなれど、断るもまた無礼な事。ありがたくご配慮に預かり申す。若年であろうともいつ儚くなるとも知れぬ世。我が武田の背後を守る北条の当主を亡くすは一大事。ご自愛されるとよろしい」

 

 口調は丁寧だが、「お爺ちゃんもうそろそろ疲れただろうから休んでね。死なないように」と「黙れ若造。貴様こそさっさとくたばらんようにしておけ」という意味である。視線が激しく交錯し、数秒。

 

「それでは、儂はそろそろ」

 

「ええ、それでは。また機会がありましたら是非。北条領は山海豊かな風光明媚の地。駿河に飽いたらいつでもどうぞ」

 

「ははは。折角ではあるが、暫くは今川領にいさせていただくつもりじゃ」

 

「そうでございますか。北条家はいつでもお客人の来訪を心待ちにしております。政務多忙故、これにて失礼いたします」

 

 そう言うと氏康はサッと去って行く。同時に座敷の襖が開いて為昌が案内をしに来た。信虎はフン、と一度鼻を鳴らしてその後に黙って続いた。

 

 

 

 

 

 

 

 その日の晩である。信虎は指示された屋敷で逗留している。清水式部や他の供廻りも合流していた。酒しかなかった甲斐から出ればそれ以外にも山海の珍味がある事を知れたので、今では前ほど酒乱ではない。それでも多少は呑むので、グイっと盃を煽りながら式部と話していた。

 

「実に面倒な女主人であったわ」

 

「そこまでですか」

 

「あの愚女(晴信)が良くまぁまともにやり合えたものよ。祖父や親父にそっくりであったわ。狡猾で知恵の回る。敵に回れば強敵ぞ」

 

「今晴信様と対峙なさっていると言う長尾景虎よりもでしょうか」

 

「その景虎は半ば敗れるようにして上州より逃げたと街で下々が話していたではないか」

 

「はてそうでしたかな。某は店々の品を見るのに夢中になっておりまして」

 

「なまじ強いだけの相手よりも厄介じゃ。決して戦に弱くない癖して真っ向からかからず搦手を盛んに用いる。国は富み、民は精強に働く。家臣も無能ではないと来れば神がかりの強さがあってもいつまで耐えられるか…。いわんや我が娘をや、だ。その辺りを分かっておるのかの、あ奴は。義信が出した策にしては珍しく役に立ったわ。来て分かった事も多い。後は河越にて女狐の股肱の臣の顔でも拝んでやるとするか」

 

「頼重殿もおられましょうが、よろしいので?」

 

「構わん。元より、奴に非は無い。儂と盟を結んだのじゃ。それを追い出した晴信を当主と認めずとも、まぁ筋は立つ。あれを殺さんとしたことに関しては庇いようも無いがな。じゃが、その程度の刺客を生き延びられず、当主が務まろうか」

 

「ならば、よろしいのですが…」

 

 式部はどちらかと言うと仲が微妙だった禰々姫のことを案じているのだが、まぁどうにかなるだろうと思うことにした。また、信虎は信虎で一条兼音を武田に引き抜けたら引き抜きたいと思いその策を練っている。晴信のことは今でも許していないが、貶めたいわけでは無い。可愛がっていた他の子たちもいる。武田の隆盛のためならば多少は思うところがあっても呑み込むつもりだった。夜は更け行く。老いてなおまだまだ精力健康な信虎は盃を再び煽るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうであった、あの爺は」

 

 幻庵が目を細めながら言う。妖怪のように何年経っても変わらない顔は燭台の火で照らされている。不気味なほどに優美だった。

 

「猪突猛進、武勇一辺倒の男かと思えば…存外に食えないわね」

 

「そうじゃろうなぁ。伊達に数十年生きておらん。おばばと同じよ」

 

「妖怪度で言えばおばばが上よ。顔は年相応だったもの」

 

「ふぉふぉふぉ。まぁそう言うな。で、これよりは如何する」

 

「護衛でもつけて河越へ送り出してあげましょう。そうして娘の顔でも拝んでとっとと帰ってもらうわよ。追い出されたとは言え、武田を恨んでいる節は無いわ。万が一何事かされても困るのよ。武蔵の衆は大半臣従を誓った。その多くは本心でしょう。ただし…」

 

「三田一族か」

 

「そうよ。武蔵は山ではあるけれど甲斐と繋がっている。相模も、駿東もね。もし仮に寝返られたら厄介よ。接触の機会を無くさないと…。後は兼音が上手くなんとかしてくれるでしょう。あの爺に呑まれるような者ではない筈よ」

 

「そうじゃのう。あの若軍師殿ならば、まぁ悪手は取るまいて」

 

「あとでそれを連絡しないと…。はぁ面倒ね。手間ばかりかけさせて。今後も武田には何かと手間をかけられそうな気がするわ」

 

「それもまた、運命じゃよ。ふふふ」

 

 面倒と口走りながらもどこか嬉しそうな氏康に幻庵はもう一度目を細めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところは移って甲斐。時系列もほんの少し戻る。この時甲斐、巨摩郡は大井郷の長禅寺において武田家の精神的支柱でもあった信虎の正妻・大井の方(法名:瑞雲院殿月珠泉大姉)の葬儀が行われていた。寺の中には多くの参列者がいる。ほとんどは武田家譜代の臣や一門であるが、中には外様の真田幸隆率いる真田氏、流れ者であった山本勘助、臣従したばかりの木曽氏などもいた。また、一応は一門の諏訪四郎も参列している。晴信や信繁はいないことが多いので、甲斐の躑躅ヶ崎に置かれている彼女の面倒をみてきたのは留守居役の多い一条信龍と故・大井夫人であった。

 

 ポクポクと木魚の音と共に読経が響いている。

 

「結局禰々は間に合わなかった、か」

 

「そもそも来れない可能性の方が大きかったもの。万が一に賭けて送ったんだから、仕方ないわ姉上。後で向こうでも弔ってくれるように遺骨を送ればいいわ」

 

 小さな声で晴信と信繁が囁く。いつもは五月蠅い義信も今は神妙な面持ちだ。孫六信廉も無言で虚空を見つめている。まだすすり泣いている信龍を、日頃は反目しており妙に仲の悪い流石の穴山信君も今日はその背中をさすっていた。諏訪四郎も兄と義姉を一気に追い出された後に優しくしてくれた存在の死にショックを隠し切れない。

 

 そんな中馬蹄が聞こえ、何やらざわめきがする。一同がそれに気付いて何事かあったのか!となると、晴信の元に伝令が来る。

 

「いかがした」

 

「それが…河越より禰々姫様がご帰還なされました」

 

「何だと」

 

 それと同時に扉が開けられ参列者の間を割って一人の女性が入ってくる。その張ったお腹は、妊娠を示すものだった。本堂内は少しざわつく。それもそのはず、人質に行っていたはずの姫が帰って来たのだから当然であった。人質=生き別れを意味することの多いこの時代。しかも経緯が経緯だけに驚くを隠せない。この事実は同時に北条氏康が許可を出したという事も意味する。一瞬で氏康の狙いを察した幸隆や信君であるが、その他は「北条氏康は案外優しいのでは…?」「義理人情に厚いという事か」「武田に好意的なのかもしれん」と好印象である。まぁこれが狙いなのでドンピシャと言う感じはするが。

 

「なんとか…間に合ったようね…」

 

 ふぅと息を吐きながらゆっくりと進み、焼香を済ませる。棺に入った母親の亡骸を見て何事かを呟いたようだったが、晴信たちには聞こえなかった。身重の人を床に直座りはマズいだろうと気をきかせた寺の者が用意した腰掛に座りながら、動揺する家中と晴信たちを他所に、葬儀は粛々と進んでいった。

 

 

 

 

 

 

 葬儀が終わった後も、武田家一族の間には気まずい沈黙が流れていた。家臣団は全員帰って行ったため、人のいない本堂には武田の血の濃い者しか集まっていない。まだ幼少の源十郎(後の松尾信是)、兵十郎(後の河窪信実)らはいない。この場には晴信、信繁、信廉、義信、禰々、信龍そして巻き込まれた信君がいた。信君はすさまじく居心地が悪いので早く帰りたいと思っているが動けずにいる。理由としては信龍に引き留められていたからである。信君は沈黙の中小声で信龍に話しかける。

 

「あの……いい加減私関係ないので帰ってもよろしいですか?」

 

「だめ。許さない」

 

「ええ…何故。私が一体何をしたと言うのですか…」

 

「お前は信用ならないけど、武田の家の者の中ではかなり理性的。明らかに姉上と禰々の仲は良くない。万が一の際に止める役が必要」

 

「そこまでわかっておいでならご自身やご姉弟(きょうだい)でなされては?」

 

「太郎はバカだし、次郎姉上も微妙。どちらかと言うと勝千代姉上寄りだし…孫六はよくわかんないし。何考えてるのか読めない匂い。残ったのはお前しかいない。一門筆頭なんだからたまには役に立って」

 

「はいはい。主命とあらば喜んで」

 

 心底嫌そうだが、逃げない辺り何だかんだで嫌い合いながらも信龍を気遣っている。母親が死んだ矢先にこんな場に呼び出されて調停役とか死んでも嫌だ、と信君は内心で思っていた。

 

 重たい沈黙を破ったのは晴信であった。そうするしかないと判断したのだろう。重苦しい声であった。

 

「よく、帰って来たな」

 

「はい。お陰様で」

 

「河越の暮らしは、どうだ。不自由ないか」

 

「ええ。土佐守様以下皆々様、夫共々良くしていただいております。甲府とは大違い」

 

 ツンとした顔で言った言葉の意味は、自分たちを攻めた挙げ句甲府に軟禁し人質として送り付けたことへの嫌味である。禰々姫にとって、今の生活は実に満ち足りたものであった。綺麗な新居もある上に街は豊かだ。神事の仕事はあるが、それでも凄く大変という訳でもない。友人もいるし、夫も前より大分マシになった。監視役の城主は随分気にかけてくれている。武田の姫にして諏訪の妻を蔑ろになど出来るはずもないのだが、それでもかなり良い暮らしをしていた。何より山ばかりで貧しい甲斐と違い、ご飯が美味しい。

 

「…そうか。息災ならば、何よりだ」

 

 苦い顔で晴信は言う。負い目は多い。故に強気には出られなかった。

 

「それで、そのお腹は…」

 

「見てお分かりになるでしょう。姉上の殺そうとした頼重様の御子よ」

 

「それは…」

 

「前にも言ったろ?先に姉上に刺客を放ったのはその頼重だ。しかもお前との祝言の最中にだ」

 

 太郎が堪らず口を挟んだ。

 

「ええ。そうね。それに関しては頼重様に非があるわ。だから特に責めてはいないでしょう?」

 

 自分の兄に憚ることなく禰々は言う。母親になるということは大きく人を変えるのか。前のように感情的に話すわけでもなく、淡々と語る彼女に晴信はこういった感想を抱いた。 

 

「父上を追い出し、私も追い出し、佐久の者を金山送り。信濃を取って、次は何処へ行って、誰を何人殺すのかしら。身内も何人もやられていると聞くけれど。板垣も横田も亡くなったのでしょう?甘利も今日見かけたけれど…現役復帰は厳しそうな容態だったわね」

 

「…あたしは五年先、十年先を考えているの。今はわからないかもしれないけれど、信じて」

 

「代償に、多くを犠牲にして、ね。姉上のやっていることは父上と変わらないわ!ただ、小奇麗な理屈で舗装しているだけよ!」

 

「他国を奪うのがこの時代だ!あたしは父上とは違う。佐久衆だって、いずれは待遇を変えるつもりだ。この甲斐を、武田を変え、誰にも負けない最強の軍団を作る。そうして初めて平和が訪れるのだ。甲斐は貧しい。今はこうでもいつかは…それに、そんな事を言ったら北条だって同じではないか!他国を侵し、領土を奪う。何が違う!」

 

「北条家は身内を誰も犠牲にしてなどいないわ。それに、負けてもいない。姉上よりも、ずっとお優しいわ!私がいるにも拘わらず、情け容赦もなく諏訪を滅ぼした、姉上よりずっとね!こうして、葬儀への参列も許可してくれた。姉上に同じだけの度量があって!?」

 

「お前……!」

 

 禰々はこれまで溜まっていた鬱憤を吐き出すように言った。彼女の根底には、勿論夫の家を滅ぼされ、生国を追われた怒りもあったが、なにより自分は下手したら殺されていたかもしれないのに諏訪を攻めた姉が信じられなかったのである。日頃から家族を大事にと嘯きながら、いざとなれば平気で切り捨てるのかと、その欺瞞に苛立ちを覚え、悲しみと怒りを渦巻かせていたのである。そして、彼女の発言は、晴信が最も言われたくない事だった。

 

 信繁はどちらの言い分も一定の正しさがある事を良く分っているために口を挟めない。どちらが正しいのかで懊悩している。信廉は姉妹で争う世を儚み、義信は口を出せるほど己が賢くないのを自覚していた。それを見た信君は信龍へ目配せをする。信龍も頷き、二人で間に入る。

 

「禰々。気持ちは分かるけれど、落ち着いて。あまり騒いでは、お腹の子にも障るでしょう」

 

「信龍姉上……」

 

「大事なのは禰々の身体。怒りは毒。怒りと憎悪の匂いは、身体の中の赤子にも届く」

 

「…そうね」

 

 信龍の静止で禰々は渋々引き下がる。なおも怒りのやり場を失っている晴信を見て、仕方なしに信君は止めに入る。まだ静止の楽そうな禰々に逃げたな…と信龍を恨みがましくチラ見してはいたが。

 

「ほら、年下の妹が先に冷静になっておられるのにその体たらくで如何されるんですか」

 

「信君…。少し下がれ」

 

「いーえお断りします」

 

「だが……」

 

「いい加減お黙りなさい!貴女ねぇ、前々から思っておりましたが揺れすぎです。妹君に何を言われたからどうだって言うんですか。前にも言ったかもしれませんが、貴女の夢は出発点から既に血で汚れています。なら、多くを殺してでも、何を言われてもそれがどうしたと笑っているくらいの覚悟を持たないでどうするんです!いい加減にしないと私も一族郎党引き連れて北条に寝返るぞ。お前の家臣は、そんな事のために死んだのか。こんな腑抜けのために死んだのか!この臆病者!!」

 

 それはかつて晴信が良く父・信虎から言われていたこと。敢えて姉上にとっての悪役を演じてくれているのだ、と信繁は気付いた。諌止すべき妹の自分が不甲斐ないから、余計なことまで背負わせている。信君からしてみれば、こんな主をとっとと見限って北条なり今川へ行っても良いのだ。事実彼女はそう言った。裏切りとみなされる覚悟の上である。一門筆頭の自分ならこれくらいならば殺されないだろうと踏んでの事であった。そして、彼女の才、そして配下に抱える金堀衆があればどこでも重宝されるだろうことも明白な事実だった。

 

 絶句する晴信や沈黙を続ける他の者を見回し、信君は場をまとめるべく話を始める。

 

「葬儀の後に騒ぐものでもありません。長尾が来るとの風説も真実味を帯びてきました。重要視すべきはそちら。禰々様は今後如何なされます?」

 

「すぐに河越に戻ります」

 

「左様ですか。信龍様」

 

「分かった。送る」

 

 その言葉に禰々は無言で頷き、二人は本堂を後にする。

 

「それでは私もこの辺で。後に軍議でお会いしましょう」

 

 そう言いながら信君も立ち上がり、本堂を出ようとする。慌てて信繁が駆け寄り、耳元で小声で話した。あまり、晴信には聞かせたくない内容だったのである

 

「ごめんなさい…私が姉上を止めないといけなかったのに。申し訳ないとは思っているけれど、これからも武田にいて欲しい。それは皆もそう思っているはずよ」

 

「寝がえりなどしませんよ。今は、ね。それに私も目的があったとは言え、御屋形様の夢に乗っかった。ならば同罪です」

 

 疲れたような声で信君は応える。その反応に信繁は申し訳ないと思う事しかできなかった。去り際に振り返る、信君は晴信に向かって言う。

 

「謝るつもりは毛頭ございません。そして最後に一つだけ。貴女、やはり先代様と同じですよ」

 

 

 

 

 

 

 

 境内の外へ繋がる門では禰々を見送った信龍が立っていた。

 

「はぁ、貴女様のせいで面倒なことになりました。確実に嫌われましたし。当主から嫌われてどうやって生きていけと言うんですか」

 

「へ。いい気味。私が好きでいてあげる」

 

「は?謀反するぞ」

 

「殺すよ?」

 

 バチバチ視線を交わしたのち、はぁと息を吐いて二人とも山門から伸びる階段に腰かける。

 

「どこもかしこも悲しみの匂いで満ちてる。平和は、来ないね……」

 

「ええ、本当に」

 

 そして二人はもう一度大きなため息を吐いた。その後、「吐くのを合わせるな気持ち悪い」「言いがかりでしょうそんなの」とギャースカギャースカやり合っていた。意外と良いコンビなのかもしれないと、後にそれを見た者は思ったという。




なんか、半分くらい武田家の話になってしまいました。申し訳ない…。個人的には第22話の後書きに書いた信虎視点を書けたので満足です。自己満野郎で申し訳ないです…。次回はちゃんと北条だから、許してください…!謝ってばかりですが、作中の年が変わったら一旦章を閉めてキャラ紹介の予定です。人も随分増えたので、そろそろと思いまして。


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第77話 敵の名は

多分今回でこの章は終わり…の予定です。


 鉢形での滞在は案外にもすぐに終了した。あの会議の後に山中頼次と太田泰昌は正月に合わせて一度玉縄に戻り、年明けに一族郎党を引き連れてやって来るという。かなりの人数がいるそうなので、彼らのレベルは分からないが無能ではない筈なので最低でも何とか数合わせにはなってくれそうだ。

 

 寒波の吹きすさぶ武蔵野の大地をすっ飛ばしている。大分寒くなって来た。この時代はまだ地球温暖化もなく、確か大規模な寒冷期のはずなので現代よりも大分寒い。と言っても現代関東の冬の寒さを私は知らずに生きてきたわけだが。

 

 帰る途中で寄らなくてはいけない場所が多い。北武蔵の、そして自領内の地侍や豪農に顔を出しておく仕事がある。この仕事が案外侮れないもので、現代で言うところの地盤作りという訳だ。この地道な活動がいざと行くときにいい効果を生み出す。それに、足場を固める事は大事だ。足元が崩れていては遠征など以ての外。改革も新政も出来たもんじゃない。

 

 大量に酒を飲まされることになるのが目に見えているので今から若干憂鬱である。腰を低くして、それでも舐められないようにという塩梅を保つことで人心を確保する。田中角栄なんかもこうして人気を集めていたと聞く。よそ者の若輩に指揮されるのを快く思わない層が無くなるようにしないといけないのが辛いところだ。とは言え、仕方がない。地位には見合った代償が必要になる。そう割り切って馬を進めた。

 

 

 

 

 

 

 

 結局戻るのに一週間近くかかってしまった。自分の城なのにほとんどいられないとはこれ如何に。家に帰れないブラック企業の社員みたいだ。町はいつも通りに賑わっている。人はあちらこちらからやって来て、あちらこちらに去って行く。ある者は小田原から、甲府から、駿府から。ある者は東北へ、房総へ、古河へ。目指すべき街の理想像は江戸だ。あの当時世界最大の人口を誇った都市の様子や文化を目指して頑張っている。

 

 光あるところに闇ありとはよく言ったもので、この街にも徐々にではあるが流民が増えてきた。戦災、天災、疫病、その他にも様々な理由で故郷を失った人たちが流れてきている。彼らの行き先は一応用意してあり、産業従事か軍務の二つになっている。前者は開墾や治水、田畑の規格化などの土木作業に従事している。女性などは機織りや軽工業などの出来そうな仕事だ。医療班もある。また、後者は読んで字の如く職業軍人としての雇用である。当然死亡率も高いが一攫千金のチャンスがあるのもまた事実だ。

 

 だが、成人しているならばいい。働けることが多いからだ。もっとも働けない老人や病人などはここに来る前に亡くなってしまうという厳しい現実がある訳だが。問題なのは子供だけの場合だ。彼らは肉体労働に従事するのが難しい。とは言え、見捨てる訳にもいかない。なので、その対応策は用意しておいた。あれは私が今年の夏、まだ北伐前だった頃に出した政策である。

 

 

 

 

 

 

 夏の深まった頃、私は予算嘆願のために兼成のもとを訪れていた。城の主が部下にお金頂戴…と言うのもなんとも奇妙な話ではあるが、実際この点においては頭が上がらない。そう教え込んだのだから仕方ないが。

 

「賢才育成館でございますか」

 

「そうだ。まぁ名前はなんでもいいのだが」

 

「どのような目的がおありで?」

 

「河越も随分と大きくなった。その結果商業は盛んになり人の出入りも活発だ。しかしその陰で流民が流れてきている。しかも多く。陸奥(みちのく)は冷夏らしい。田畑を捨て逃げる者も多い」

 

「そう言う風説でございますね」

 

「働ける流民は良いが、子供はそうもいくまい。領内外にそういう者は多くいる。彼らを集め、教育を施す。そして未来の北条を担う人材を育て上げるのだ」

 

「はぁ……まぁ悪くは無いと存じますが。そう上手く行くのでしょうか」

 

「餓え苦しみ流れついた先に待っていたのは衣食住を保障された生活だ。衣食足りて礼節を教え込み、長年かけて忠誠心を植え付ける」

 

「……いざという時は先陣を切らせ、殿を押し付け、殺すために育てるんですの。それでは…畜生と変わりませんわ」

 

 キッと睨みつけるようにして彼女は言った。美人に睨まれるのは怖い。だがそんな人倫にもとる事をするために金を使う気はさらさらない。

 

「まさか。そんな無駄なことはしない。兵は言い方は悪いが替えがきく。だが将はどうだ。必要な知識、武芸、身に付けるのに幾年もかかる。であれば大勢集めて一気に育てた方が効率的だ。そして過程を終えた後の選択肢は広く用意しておく。小田原に仕えたくばそれも良し。家中の他の御仁に仕えたくばそれも良し。河越に残りたければそれも、だ。そして北条家の外でも構わないと言っておく」

 

「それに何の意味が…?ああ、なるほど。助けられ数年に渡り育ててもらった家を裏切ってまで外に出る者などいない、と」

 

「その通りだ。教育中は無駄飯ぐらいになるが、その分の見返りがあるように生半可な育て方はさせん。足利学校より教導役を呼ぶつもりだ」

 

「よろしいでしょう。わたくしとしても、使える配下は一人でも多く欲しいところですもの」

 

 ふぅとため息を吐いて彼女は採決してくれた。そんな訳でこの政策は施設、教導役の到着と人員確保を待って私が出陣中の秋口にスタートした。生徒となるべき者は悲しい事に多くいた。旅の途中で両親と死別した者、自分たちだけで逃げてきた者など様々だ。何故既にいる領民から子弟を集めないかと言えば、かなり黒い理由がある。それは身寄りがないからだ。帰る家が無いなら、帰る家を与えればいい。そうすればそこを守るために命を賭けるだろう。寄る辺なき者たちだからこそ、次にその居場所を失う事を恐れるだろう。こんなこと、誰にも言えたもんじゃないと黙っている。それに、やらない善よりやる偽善だ。

 

 かなり長い目で見ないといけない活動ではあるが、きっと実を結ぶ日が来るだろうと信じている。私が老いた後も、北条家を守れる存在を育てるために。―――――猿面の男にあの穏やかな小田原の世界を壊させないために。私ももう、とっくの昔に綺麗な人間ではなくなっている。大阪でのほほんと過ごしていた高校生には、もう戻れないのだ。目を背けるでも、遠ざけるでもなく、自分の黒い面を直視しなくてはいけない。それが政治家としての、為政者としての責務だろうと自分に言い聞かせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年は東北と下野の境にある寒村で産まれた。六人兄弟の五番目。今年で10になる。下には3歳離れた妹がいる。一番上の兄は戦死しており、今生きているのは五人だけだった。そしてこの村はかなりの困窮状態にあった。軍勢によって田畑は焼かれ、多くが略奪された。これでは納税はおろか、冬さえ越せそうにない。焦った彼の親は彼の妹を人買いに売ることにした。売れなければ、待っているのは口減らしである。

 

 だがそれを少年は看過できなかった。ある晩二人で村を脱走したのである。何とか逃げ延びるうちに国境を越えて下野に入った。山野の野草や水で飢えをしのぎ、洞窟や木陰で寒さや雨を防いだ。時には街でかっぱらいをして食料を確保しながら何とか進み続けた。衣服はボロボロになり、足には血がにじんだが、それでも少年は妹を背負いながら逃げ続けた。そして下野の一応は中心地、宇都宮に到着した。そこで街陰に身を潜めていると、商人の話す声がする。

 

 曰く「かわごえ」に行くという。曰くそこは人が多いらしい。その後は「おだわら」へ行くと言っている。そこで昔親がぼやいていた内容を思い出した。南の果てにある「ほうじょう」という侍が治める地はこの世の楽園らしい、と。彼にとって侍は怖い存在であり、憎むべき相手だった。それでもそんな地に行けば…と夢見て、河越行きの荷車に潜り込んだ。それから数日が経ち、二人は見事に河越にたどり着いた。奇跡的な事である。野盗に会わず、武士にも咎められなかった。最早追って来れる位置ではない。

 

 とは言え、住処も無ければ職もない。みすぼらしい少年と少女を受けいれる場所などあるのだろうか。どのみち店は多い。盗める物も多そうだ、と彼は打算している。生き残るためには倫理観など気にしてはいられない。だがそれに待ったをかけるように声をかけられる。

 

「もし、そこのお主、その装いはどうしたことだ。話を聞かせてはくれぬか」

 

 二人組の侍に声をかけられる。彼らは一条家家中の武士で職務である巡回の最中だった。河越ではまず見ない様子の二人を不審に思い声をかけたのである。しかし彼からすれば今までの罪がバレたと思った。そして妹の手を引いて逃げ出したのである。

 

 とは言え、所詮は栄養失調気味の子供。すぐに捕まる。追い詰められて「妹に手を出すな!」、「お兄ちゃんだけでも、逃げて」と互いに懸命に庇っている姿を見て困惑したように侍二人は口を開く。

 

「いや、何も取って食う訳ではないのだ。随分と痩せておる上に服装もすり切れたボロ着故になにか困っておるのではと思ったのだ」

 

「お主の顔が怖いからだ」

 

「何だと、お主こそ似たようなもんではないか」

 

 やいのやいのと言い始める二人にこれはもしかしたら、助かるかもしれないと藁にも縋る思いで少年は今までの事情を話し始める。そうすると、彼らは二人をある施設へと案内した。それこそが一条兼音の作っていた賢人館である。ここで風呂へぶち込まれ、飯を食わされ、寝かされた二人は殺される前の言わば最後の晩餐的な何かではないかと内心怯えつつも一夜を過ごす。

 

 

 

 

 

 起こされ朝食の後に案内された広い部屋には同じくらいの年齢の子が多く集められていた。促され席に座る。梁には三枚の大きな絵が飾られており、中央に若い女性の顔、向かって右に中年の侍の顔、左に禿頭の老人の顔が飾ってある。何事かと思いジッとしていると、扉が開かれ男が入って来た。侍姿ではあるが随分と若い。そして高身長で、長い刀を持っていた。美形とは言い難いが悪い顔でもない。男は口を開く。

 

「私は、我が偉大なる主、北条氏康様直々にこの地を治めよと命じられた河越の領主・一条土佐守兼音である」

 

 偉そうな口ぶりは少年の好まない侍そのものだった。

 

「お前たちは不幸にして故郷を失い、此の地にいる。そして身寄りもなく、親もない。では、それは何故か!」

 

「お前たちのせいだ」

 

 ぼそりと誰かが呟いた。殺されるぞ、と思いながら少年はいざという時に備えて身構える。だが以外にも一条と名乗る侍は怒らなかった。悲し気な顔をしていた。

 

「その通りだ。我ら武士が不甲斐ないが故に、苦しみを受けたのだ。それは、政を行う我らの責任である。お主の地の領主に代わって謝ろう。ただ、それだけではない。もし、仮にお主たちに力があればどうであったか。その領主に歯向かう事も、定められた未来を変える事も、出来たのではないか」

 

 それはその通りだ。逃亡生活中にいつでも少年は思っていた。自分に力があれば、武家のような力や商人のような金があれば、妹を守れるのに、と。 

 

「力とは、殺すだけのものではない。即ち、武芸のみならず読み書き算術兵法治世の技。人を活かし、守るための力である。そして私は、お主らにそれを与えよう。ここはその力をお主らが学ぶための場だ。ここで暮らし、学べ。そして知を、力を手にするがいい。その先は自由だ。他家に仕えるも、ここに残るも良いだろう。都や西国へ行き見聞を広めるも良いだろう。それはお主らが選ぶことだ」

 

 人を、守るための力。そう言った時、男の目が自分を見据えているように少年は感じた。妹の手を握る手に力がこもる。

 

「この機を逃せば、もうお主らの望む力が手に入る事は無いだろう。今なのだ。今だけなのだ!私も、関東へ来た時は無位無官、何の地位も無き流浪の民であった。身寄りはなく親もない。お主らと似ている。だが、私には知があった。力があった。故に氏康様は私を取り立て、今の地位へ据えて下さった」

 

 満腹で混乱もあるところへ今しかない!という限定感を出し、自分の価値を見せ、サクセスストーリーを話す。完全に詐欺の手口なのだが、人を説得するにはこれが一番向いている。事実、この場の空気は変わっていた。最初は不信感に満ちた目で一条兼音を見ていた少年も、妹も、先ほど発言した者も、他の者も目の色が変わり始めている。彼を信じれば、何かが変わるかもしれない。現に自分たちは昨日まででは考えられない境遇にいる。思考力は少しずつ奪われていく。目の前の男の一挙手一投足に集中させられていた。

 

「食らい、鍛え、学べ!二度と、己が行く末を誰かに委ねぬために!己が運命を己が手で切り開くために!この残酷にして無情なる世界に抗うために!力を持って戦おうではないか。私は、その術をお前たちに授け、そして共に歩もう。争い無き、未来のために!愛した誰かを、そして己自身を守るために!」

 

 彼の後ろからは光がまばゆいほど差している。全て計算ずくなのだが、少年にとってすれば、いや、この場に集められた全ての少年少女からすれば一条兼音はまごう事無き英雄に、救世主に見えた。己が未来を切り開く。その言葉は世界に翻弄され続けた者達には劇薬であった。手に入りかけているチャンスを捨てる者などここにはいなかった。

 

 ここに類を見ない施策が始まる。彼らは一期生とも言うべき秋口に集められた生徒の次の第二弾であり、言わば二期生だった。一条兼音が二十歳の冬の事である。そしてここの卒業生たちは皆口を揃えて言う。あの日、あの時路頭に迷っていた自分たちを、世に絶望していた自分たちへ手を差し伸べた者の姿を想起しながら。

 

「土佐守様、左京大夫様のためならば、我が命を預けられる」

 

 それを聞いて一条兼音は複雑な顔をした後悲しそうに苦笑いしたという。その表情の真意を知る者は少なく、そしてそのごく僅かな者たちも最後まで口を閉ざしたままだった。その成果が出るのはもうしばらく時を置かねばならない。だが、この政策によって多くの者が救われたのは事実である。

 

 三鱗記に曰く、『我是を善行と思わざる也。彼の賢人館に居るは、元は斯くの如き運命を辿らずとも己が血族と共に生き、死ぬ資格を有したる者也。されど其れ敵わぬが故に致し方無く此処に居たり。是弱きを助けず強きに靡きたる乱世の武士の不徳の致す処と言わずして何と言うべきか。その償いを我がして居るに過ぎず。願わくば、彼の者らが己が運命を残虐なる世界に委ねる事無きを願う。安寧の地に居てやらざる善を叫ぶ者になるならば、我は偽善と誹られるとも行いを為すを選ばん。罪無き者に幸いのあらん事を』と。この意志は現代まで繋がり、帝国国内の大学までの教育課程無償化と高校までの義務教育化に大きく寄与している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お客様がお見えです」

 

 この言葉で目を覚ました。どうやらうたた寝してしまったらしい。河越に帰城して二日後の事である。

 

「誰か」

 

「武田陸奥守様でございます」

 

「…そうか」

 

 氏康様より送られてきた手紙の中身と一致する。どうしたもんかと思うが、「取り敢えず上手くやりなさい」というすさまじくアバウトな指示を出された身としては何とか穏便に帰ってもらえるように努力するしかなかった。既に話は家中に通してある。恐らくは広間に通されているのだろう。よっこいせと立ちあがって、変な姿勢で寝たせいに痛む腰を抑えて歩き出した。

 

 広間には予想通り男の姿がある。老いてはいたが、その覇気は健在であった。武田陸奥守信虎。現代では暴虐をもって知られるこの男ではあるが、武田家戦国大名化の発端を作ったのは彼でありその後の躍進の土台を作ったのも彼である。暴虐粗暴の風説は後世に作られたものがほとんどであろうから、その一面だけを取り上げて評価するのは間違っているだろう。基本は上方情勢にも明るい策士である。油断大敵と気を引き締め、上座ではなくお互いに向かい合うようにして座った。

 

「お待たせ致して申し訳ない。私が、この城を任されております、一条土佐守兼音にございます。武田殿に置かれてはご健勝のこと、お慶び申し上げます」

 

「そう固くなられるな。儂は隠居の身。今や国主にあらざれば、ただの老人に過ぎぬ」

 

「何を仰せか。昨今の甲斐武田の隆盛躍進、御身の力によるところ大きいと見ておりまする」

 

「ほほう、儂は世間では次女を偏愛し晴信を害さんとした毒父、暴虐悪政を敷く罪人と称されるが」

 

「その方が、晴信殿にとっては都合が良かろうと存ずる。武田家中、一枚岩に非ざれば明確な敵が必要。それに相応しきは…」

 

「家臣を誅殺し、民を人とも思わぬ儂であると」

 

「左様。聞けば甲斐では大風(台風)により大きな被害が出ており、かつ小山田今川らの手により路地が塞がり物流に滞りがあったとか。その不満のやり玉にあげられたのが貴殿であると心得る」

 

 実際これは結構言われていることだ。家庭環境が悪いのはこの世界では事実のようだが、言われている悪評と言うのは大体荒唐無稽なものかテンプレの集まりであり、その証拠を指す一次資料も私の知る限りはない。

 

「儂が晴信を遠ざけたのは事実よ。あれは乱世の大名に向かぬ。優しすぎる。駿河で絵でも描いて大人しくしておるのが似合う、臆病者だ」

 

「まぁ、晴信殿に関してはまだお若い。時が変わればいずれ…」

 

「それまでに北条の門前に轡を並べることにならねば良いがな」

 

 苦々しげに信虎は言う。段々と敬語もお互いに剥がれてきている。彼が家臣を斬ったのは事実だろうが、斬られたのは内藤虎資、馬場虎貞、山県虎清、工藤虎豊ら。いずれも大きな力を持った重臣だ。彼らを除ければ集権化が早まる。そう考えていた面もあっただろう。そうすると諏訪との縁組も信濃侵攻を諦めた訳ではないな。何れ産まれる子を一門として組み込み、諏訪を足がかりにするつもりだったのだろう。つくづく代替わりしてくれて助かった。

 

「今の晴信なら御しやすかろうな」

 

 信虎は一層顔を渋面にして言う。

 

「じゃが、貴殿も武田を笑えぬのは承知しておられるかな」

 

 一気に顔を変えて信虎は告げた。今までの自分たち、武田を卑下する調子から話題を急転換させてきた。動揺を誘う気だろうか。その手には乗らんぞと気をさらに引き締める。

 

「と、仰いますと」

 

「気付いておられよう。貴殿、今すぐにでも小田原に反旗を翻せば関東全土支配も容易き事。そうは思わんかな?貴殿がそう思わずとも、北条一族が思わずとも、小田原の家臣団はいかがであろうなぁ。地縁もなく血縁も無し。そんな男の大出世。嫉まぬ者無しとは、思えぬ」

 

「ええ、まぁ、でしょうな」

 

「いずれいらぬ讒言によりその地位、奪われるやもしれぬ。であれば如何か、いっそのこと…」

 

「讒言あれば申し開きをし、それでも許されぬとあれば…」

 

「返り忠を成すか」

 

「否。速やかに開城し、兵を解散し、剃髪して世俗の中に紛れ世を過ごすのみ」

 

「………なんじゃと?では折角得た地位を、全て捨てると申すか」

 

「我仕えるべきは北条の御家に於いて他に無し。裏切り独立以ての外。二君に仕えることは致さず、静かに死ぬのみ」

 

 これは元々決めていることだった。私はもとより歴史にいるはずのない人間。もし必要がなくなったのであれば、一切を捨てる覚悟は出来ていた。

 

「……………斯くの如き忠臣、武田にも欲しいものだ。唆し貴殿を武田の家中へ鞍替えさせんとしたこと、お詫びいたす」

 

「謝られることはない。私も同じことをしたでしょう。穴山、小山田らまだまだ信おけぬ家臣は武田家中にも多い事と拝察致します」

 

「ふん、見抜かれていては致し方ない。それをどう御すかは晴信次第よ。ま、いずれ音を上げようがな。ああ、もしそうならないとすれば、貴殿らにより使い潰された武田が長尾と死闘をしてその渦中で討ち死にという事であろうが」

 

 俺らを防波堤にしようとしているだろう、という警告にも聞こえた。事実、彼の目はその口調に反して全く笑っていない。晴信は嫌いでも武田を侮られ使い走りにされるのは御免だという事だろう。

 

「使い潰すなど、とんでもない。我らは共通の敵を持つ者。共に手を携え、歩むのみ」

 

「……」

 

「……」

 

 そんな訳ないだろう、という目の信虎。私は北条家の戦略を見抜かれていることを察知しながらもそんなことは無いとしらを切るために飄々とした顔を保つ。沈黙がしばし場を支配した。

 

「そこまでして、貴殿は何を目指す。この世は乱世。昨日の敵は今日の友。今日の主は明日の敵。そんな中で如何なる大望を持って貴殿は忠節を貫くか」

 

「乱世は終わらせねばなりますまい。その為には力と知がいる。それを共に持つのが、我が主なれば。地の利有りて人の和確か。天道も我らに微笑んでおります。その証左にいまや連戦連勝。上野もほぼ我らの支配下に入り申した」

 

「乱世を終わらせる…さような事が可能と思っているのか」

 

「出来るか否かではございません。やるかやらないかでございます。罪無き者が泣き、人は苦しんでいる。世は荒み、人心は休まらず。この有様が正しき訳はなし」

 

「戦しか知らぬ儂には分からぬ。だが!一つ言える事あるとすれば」

 

「なんでございましょうか」

 

 信虎はキッとこちらを見て、立ち上がり、私を指さして言う。

 

「貴殿の敵は全世界。言い換えればこの時代であるな」

 

「…」

 

「乱世を良しとせず、血で血を洗うを停滞とみなす。そうであろう」

 

「……我らがやらずとも、英雄が現れいずれ世は統一されるやもしれませんな。しかし、疲弊した世を立て直すために、南蛮を排除するために、彼らは国を閉ざすでしょう」

 

「確かに南蛮の技術は脅威だ。耶蘇教なる物も入って来て日ノ本の仏教と対立しておる。しかし、それを追い出すのの何がいかんのだ」

 

「確かに一度はそれで国内は治まりましょう。泰平が訪れ、微睡を享受できる。しかし、日ノ本がまどろむ中、南蛮…いえ、西洋と言い換えましょう。彼らは進み続けている。そしてある日、海の彼方より黒煙を吐く船が参ってこう言うのです。『国を開けよ。さもなくば死ね』と」

 

「…」

 

「我らが寝ようとも、他国はそれを待ってはくれますまい。そこから長き苦難の時代が始まるでしょう。ですから、国を閉じてはいけないのです。停滞は緩やかなる死。ですが幸いにして、我が主は聡明にして開明的。今小田原にいる南蛮船にも理解を示しました。あのお方ならば、この国を治めるに足る、力量を持っておられる。微力ながら私もその助けとなる所存」

 

「……まるで見てきたかのように言われるな。しかし、その言、空言ではないように思う。では、切り開くと良い。貴殿の望みのために、屍血山河を築く覚悟は既に済んでおられよう」

 

「当然のこと」

 

「覚悟の足らぬ我が娘よりも幾分かマシよ。貴殿が我が嫡子であれば、儂も迷わず家督を譲ったであろうに……最早武田は北条と対立すれば生き残れぬであろう。貴殿は北条家内の親武田派の筆頭と聞く。どうか、武田をお頼み申し上げる」

 

「晴信殿が盟に背かぬ限り、我らは決して背を刺すことはありますまい」 

 

「今はそれで良い。いずれあのバカ娘は取り返しのつかぬ失態をやらかすであろう。その時に、どうか…」

 

 約束など出来ない。私は北条家の家臣であって武田の家臣ではない。だがこの目の前で頭を下げている老人の言葉を無視も出来なかった。きっと、今まで他人に頼みごとをすることなどほとんどなかったのであろう。そのプライドも投げ打っての懇願であった。ここで何を言っても効力は発生しない。ならば、どうにかして穏便に帰ってもらうために方便を使うしかないだろう。

 

「出来る限り、お助けいたそう。しかし乱世故に、いつ敵対するかも分かりませぬ。その時は申し訳ないが」

 

「それは重々承知しておる」

 

 取り敢えずここら辺が落としどころだろう。まぁ、口約束に過ぎないので実際どうなろうと文句は言えない。とは言え、それは向こうも良く分っているだろう。表面上はしばらく助け合う必要がある。織田が隆盛になった際の防波堤として、だが。そろそろ場の雰囲気もお開きへ向かう感じになってくる。

 

「河越の盛んなる事、驚き申した。いかなる者が治めるかと思ってこうして相まみえればなかなかの偉丈夫。この陸奥守感服致した。されど……一ついかんな、と思う事あり」

 

「謹んでお聞きいたす」

 

「独り身は良からぬことと思うがこれ如何に。もし相応しき者なしと思われるならば我が娘たちはいかがか。親の贔屓目なれど、皆天下に恥じぬ容色であると思うが」

 

「いやいや、私は所詮武田から見れば他家の家臣に過ぎませぬ。とてもとても」

 

「ふむ。無念なり。頼もしき婿が出来るやもと思うておったが。まぁ隠居の爺が口を出す事でもなし、早々に許嫁でもお決めになられれば家中安泰と老婆心にて申し上げる」

 

「お気遣い感謝いたす。それでは貴殿もいかがかな。武田家の先代、甲斐の猛虎と称えられし陸奥守殿が食客としてご指導ご鞭撻下さるとあれば心強いこと限り無し」

 

「儂は駿河に軟禁の身。今はこうして許されてはおるが、河越に留まり続けるとあれば治部太夫(今川義元)より何を言われるか分かったもんではない。あの坊主(雪斎)に睨まれるのも怖いでな」

 

「そうですか。それは無念。またの御縁をお待ち申し上げよう」

 

「ハハハ。もし今川衰亡の時あれば、喜んで麾下に加わらん」

 

 ああ、この男今川が滅ぶとか考えてないなと思った。残念。史実通りなら誰も予想しなかった桶狭間にて今川義元が死亡。今川はあんたの娘が潰すんだけどな、とフラグ立ててる信虎を見て感じるが、この世界でどうなるかは分からない事を思い出した。

 

「では、儂はこの辺で。娘が甲斐より戻るまで、ここにしばし留まらせていただきたい」

 

「どうぞどうぞ、お気の済むまで」

 

 かたじけなし、と言うと彼は一礼して去って行く。私も一礼して見送った。その背中が見えなくなり、足音が遠ざかるとふぅっとため息を吐いた。私の敵はこの時代、か。その通りかもしれない。やはり策士、侮る事など出来なかった。露骨に引き抜きをかけられ、失敗しても動じず次の話題に移り、武田の未来を託すような発言をして揺さぶりをかけて私の逆スカウトも上手く躱した。最後に私のウィークポイントたる結婚問題に言及して揺らした。やはり強い。もしかしたら、数々の揺さぶりはこの城にも当然いるだろう風魔の手の者に聞かせるつもりであったのかもしれない。だとすれば家中の不和を作る火種を生もうとしていたとなる。猶更怖い事だ。

 

 だが学ぶべきところはあった。屍血山河を築く覚悟。それを問うた時の目は確かに古強者の貫禄があった。あんなの相手にずっと生きてきたのか。そりゃ疲れるな、と遠くの武田晴信に同情しながら自室に戻った。北武蔵測量のために諸将に送る手紙がまだたくさん残っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その夜。信虎は与えられた宿所で清水式部相手に結果を話す。

 

「如何でしたか、一条土佐守は」

 

「食えぬ男よ。それでいて大胆じゃ。儂に食客にならぬかと勧誘してきおった」

 

「何とまぁそれは」

 

「ただの文官肌のうらなりかと思っておったがその武勇も確かのようじゃ。肉体もしっかりしておる。敵に回せば怖いな。氏康め、良いものを買いおった。そうそう手に入るもんではないぞ。まぁ良い。親武田なのは分かった。利用できそうならば利用してやろう。互いに利用しあって、生き残るのじゃ。然るべき者宛てに文を出さねばな。晴信には断じて出してやらんが、北条の様子を報せねばなるまい」

 

「武田にも欲しゅうございますなぁ、そういった人材は」

 

「はん、それをどうにかするのも腕の見せ所よ」

 

 兼音の用意させた高級酒をガバガバ飲みながら信虎はこう口走る。

 

「彼の者、一国与えれば即ち十国を制し、十国与えれば日ノ本を制し、日ノ本を与えれば唐天竺を制さん」

 

 そこまでかよ、と思いながら、式部は酔っぱらってる主を見張っている。だが、ここまで言うという意味を悟り、今後の先の見えぬ武田家の運命に不安を抱いた。どうもこの老いた主は一条土佐守のことを随分と気にいったらしい。武闘派の信虎ではあるが、戦績をみれば武闘派と言っても過言ではない土佐守を見て認めたのかもしれない。側室として娘を送りこんだりしようとしなければ良いが…と式部はもう一度、不安を覚えた。奇しくもそれが当たっている事を今の彼は知る由も無い。

 

 年は暮れ行く。時代の転換点まではまだまだ遠いけれど、少しずつ変革は現れつつあった。一条兼音戦国時代四年目の冬である。




キャラ紹介を挟んで次章です。キャラ紹介に毎度恒例の短編は未来編が一つと、兼音の過去編(高校時代編)をいれてみる予定です。次章は…どうなるんでしょうかね。色々やりたいことはあるのでまた長くなるかもしれません。更新も不定期ですが、気長にお付き合い下さるとうれしく思います。


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キャラ集④

再び章末なのでキャラ集です。前回のキャラ集から今回までの新キャラと既出のキャラの追加項目を書いています。いつも通り、こんな作者の備忘録だけだと申し訳ないので短編も載せています。こいついないんだけど…ってのがあれば教えて頂けると助かります。

流石にこんな作者の備忘録みたいなものだけで終わらせるのはアレなので、一応超短編を二本載せました。予告通り、未来編と、兼音の過去編です。感想を返せていませんが、しっかり読ませていただいていますので、どうか怒らないでください。次回を書くまでにはちゃんと返信いたしますので気長にお待ちいただくと共になんでもドシドシ送って下さい。


<北条家>

 

北条氏康…北条家当主。小田原城城主にして、相模守、左京大夫、鎌倉府執権を兼任する。伊豆、駿東、相模、武蔵、上野、西下総を支配し、東下総や南常陸に影響力を持つ大大名。

 

 沼田合戦の後に行われた箕輪城の戦いでは、長尾景虎の奇襲を受け本陣が危険にさらされ一騎打ちを行う羽目になる。沼田での評定では金子泰清に城を任せる選択を一瞬で下すなど、指揮官としての実力と判断力は確か。いついかなる時もその明晰な頭脳を働かせており、生き残るための選択肢を選び続けている。一騎打ちにおいても神の時代は終わったと宣言し景虎の動揺を誘い、「自国の民のためならば悪でも構わない」と発言し景虎の戦意を奪った。去り行く景虎を人形のようだと評するなど最後まで誇り高い姿を見せていたが後で死ぬほど怖かったようで見えないところでちょっと泣いた。

 

 幕府を旧体制の象徴ととらえ、室町幕府が戦乱を繰り返し続け無理のある政治体制(有力守護を争わせ、調停で権威を発揮する、潰し合わせて幕府一強にする)などを行ったことが乱世の原因、民衆の苦しみを生み出した要因と考えて嫌悪している。武士とは民衆の上に立って君臨するのではなく民衆と共に同じ目線で手を携えて生きるべきだという思想を抱いている。凡そ封建制度の君主らしからぬ考えではあるがあくまで理想論と割り切りつつも目指すべき頂として掲げている。政治家としての自分の力量に見切りをつけており、そうであっても関東だけでも救済したいと願っている。

 

 長野業正、武田信虎などの歴戦の武者と対峙して堂々と話をし、前者とは講和をするなどかなり政治力に恵まれている。また、上州征伐の終わりに行われた仕置きでは優先順位を考えた表彰や国衆への配慮を多く見せる事で心をつかむ作戦に出て結果的に成功している。最近では足利晴氏他に早々の婚姻を促され困っている。軍議の多い事が北条家の特徴であり、一長一短である事を認識しており上手いタイミングでイニシアティブをとって望む方向に誘導したりすることが多い。その辺りも高度な政治力のなせる業。関東には北条より家格や歴史の古い家が多いので配慮が必要なのである。

 

 外見的には概ね原作通り。現在の年齢は17。年相応の成長をしており、身長も伸びているが、一部の変化がないことに不満を感じている。(具体的には胸が…一向に成長の兆しがないので本人も諦めた)。度量の広さは相変わらずであり、禰々姫の一時帰還を認めるなど常識にとらわれない判断を下すことも多い。甲相駿の中では頭一つ飛び出た存在になりつつある。兼音より絶対の信頼を向けられる不動のメインヒロイン。ただ、胡坐をかいていると追い越されかねない。ちなみに誕生日が調べても出てこないので仕方なく命日を誕生日と勝手に設定して計算中。10月21日が今作における生誕日である。イメージCV、雨宮天

 

 

北条氏政…氏康の妹。武蔵守。今章ではあまり出番がなかったがしっかり遠征にはくっ付いている。描写は少なかったが沼田合戦では北新並砦に放り込まれている。氏綱によって指名されている四代目の筆頭候補。温和で優しいイメージが内外に強く、暗愚なのでは…と囁く心ない者も国外にはいるが、その実はかなり切れる頭脳を持っている。

 

 のほほんとしているのは平時のみで頭を使えば姉に近い能力がある。氏綱が無能を四代目に据えるはずもなく、その真価が示されるのはもう少し後のことになる。外見は姉によく似ているが目が若干柔らかい。優しそうな見た目に騙されると危険で怒ると一番ヤバいのはこういうタイプ。イメージCV、悠木碧

 

 

北条幻庵…北条家の元老。若づくりのため、見た目は二十代の美人。見た目を保てるメカニズムは不明。風魔の統率を担う北条家中の宿老。沼田合戦では自ら前線に立つなどまだまだ衰えない様子を見せつけている。やっと山内上杉を追い出せたので安堵が止まらない。今章にて続柄がはっきりし、早雲の妹で即ち氏康の大叔母に当たる事が判明した。老人なりに兼音と氏康の関係を見守っている。イメージCV、田中理恵

 

 

北条氏邦…北条家の一門。氏康の妹。武闘派であり決して馬鹿では無いのだが、やや短慮なところがある。義理や人情、道理を重んじる。ザ・姫騎士と言った感じの少女である。藤田家に養子に行ったため、藤田の姓を名乗っている。出羽守。沼田合戦では一番多くの兵を率いて戦い、確かな功を示した。鉢形城に拠点を置いているがなかなか獅子身中の虫も多く統制に苦労していて、為政者と武人の狭間に置かれ悩んでいる。長年の臣である猪俣邦憲の性質を理解しており、その心配をしている。北武蔵の統治においては姉より補佐役に置かれた兼音を頼る事を決めており、その政策をサポートするつもりである。イメージCV、大地葉

 

 

北条氏時…北条家の一門。氏康の叔父。今章ではほぼ出番がないが、上野を任された。史実ではもうとっくの昔に死んでいるがまだ生きている。

 

 

北条氏照…北条家の一門。氏康の妹。上野への北伐に際して本隊と同行。陸奥守。滝山城にて改めて南武蔵(東京都や神奈川県横浜市などの地域)を任された。イメージCV、篠原侑

 

 

北条氏規…北条家の一門。氏康の妹。上野への北伐に際して本隊と同行。近江守。イメージCV、門脇舞似

 

 

北条氏堯…北条家の一門。氏康の妹。影が薄いが家系図的には氏政の次に来る。今章では下総をポイと渡された。氏規、氏照共々あまり詳しい描写は無いがこの後出番が増える予定。イメージCV、真野あゆみ

 

 

北条氏秀、氏光、氏忠…北条家の一門。北条シスターズの幼少組。まだ戦場に出るのは早いため、小田原で留守番中。

 

 

北条為昌…北条家の一門。氏康の妹。実は目立たないが次女。己の当主としての能力に早々に見切りをつけて、氏政に後継者の枠を譲っている。外交官のため、今章では小田原に留守居役でいる。史実ではもうそろそろ死んでいるがまだそんな気配は全然ない。史実での死は北条家にしばらく問題を引き起こす(指導者不足)ので死なれては困る存在。姉も妹もロングヘアだが、彼女はセミロングに近いショートと短め。容姿は氏政より若干暗い雰囲気を纏っている。イメージCV、石川由依

 

 

松田盛秀…北条家譜代の中でも一際大きな勢力を持つ松田家の当主。尾張守。沼田では長尾景虎が箕輪へ進軍することに懐疑的であったが、その直後に越軍動くの報を聞きその理解しがたい思考回路に苦虫を噛み潰したような顔をしていた。合戦後は長野業正との交渉に参加。重臣としての役割を果たす。新体制では特に新しい任地はなかったが、北条家の本拠地である相模に大量の所領を持っているのでその信頼が伺える。イメージCV、田中秀幸

 

 

大道寺盛昌…北条家の中でも大きな勢力を持つ三家老家の次席。下野守。多くの合戦においては直接戦闘をするのではなく補給部隊の確保に走っていた、言わば北条家の蕭何。かなりの大軍である北条軍本隊の補給を支え切るなど、かなりの大功を上げている。新体制では氏時の副将として上野に置かれることになる。その際に旧上杉憲政の居城・平井城を任されるなど、かなりの信任を受けている。また、まだまだ不安定かつ敵対勢力(長野家)が残っている上野を任せたのはその政治力に期待しての事であり、政治家としての感覚も優れている。イメージCV、茅野愛衣

 

 

大道寺周勝…北条家三家老家の一つ大道寺家の妹。史実では恐らく盛昌の子。出番は名前のみだが武将としての資質はあり、それゆえに厩橋城を任されている。

 

 

清水康英…北条家家臣。特に台詞は無いが箕輪城の戦いに参陣していた。

 

 

多米元忠…北条家の中でも割と古株の一族で家老。周防守。箕輪城の戦いでは危機的状況に陥っていた氏康を救援する事に成功する。この時、敵の動きに仕組まれた物を感じるなど戦場でのセンスは高い。譜代の臣であるため同期でも兼音よりも立場は上だが、知識量や判断力では敵わないとみて即座に指示を乞うなど枠組みに囚われず努力するタイプの人間。また、麾下の部隊を預けるなどかなり兼音を買っており、救援に行く際は彼の愛刀を投げられ受け取って笑いかけるなどイケメンムーブをかましているカッコいい系女子。万能タイプなので、その才を買われ足利晴氏が鎌倉へ閉じ込められてから空城だった古河城へ配属された。加えて五色備えの黒に据えられている。イメージCV、日笠陽子

 

 

笠原信為…北条家の譜代の臣、笠原家の当主。加賀介。伊豆の要衝・下田を任されている大身。箕輪城の戦いでも堅実に戦功をあげて長尾軍の突破を許さなかった。後に五色備えの白に据えられる。イメージCV、大塚芳忠

 

 

北条綱高…北条家の一門。故・氏綱の養子。常陸介。名前だけの登場となったが、玉縄城を任されている(=房総対策)ほどの猛将。後に五色備えの赤に据えられている。

 

 

山中頼次…北条家の家臣。内匠助。元は玉縄に所属していたが、人事異動の結果氏康に命じられ河越城の与力になる。見た目は亀仙人のような低身長かつ禿頭。豊かな口ひげを持っている。兼音の街道拡充計画には懐疑的だったが、説得を受け了承することになる。イメージCV、佐藤正治

 

 

太田泰昌…北条家の家臣。豊前守。太田道灌や資正とは別系統。元は玉縄に所属していたが、人事異動の結果氏康に命じられ河越城の与力になる。見た目は両目に切り傷があり、痩せ型で細長い顎髭を持っている。兼音の街道拡充計画には賛成の意を示した。イメージCV、置鮎龍太郎

 

 

長尾景総…北条に仕えていた元総社長尾家の長子。出奔し小田原にいたが北伐時に氏康の命令により風魔や北条派の家臣と共にクーデターを敢行。氏康より賞賛の言葉を受け取る。在地の国衆の当主でありながら北条家の直臣と言う結構変わった立ち位置にいる。

 

 

猪俣邦憲…旧名を富永助盛。氏邦の長年の配下であり、その邦の字を貰っている。温厚篤実な人柄で丸顔の人のいい男。人間性は良いのだが如何せん空回りしやすくやる事が裏目に出る傾向がある。兼音からは軽く警戒されているが、今のところ気付いていない。イメージCV、島田敏

 

 

用土重連・藤田信吉…北条家家臣ではあるが元々氏邦が乗っ取った藤田家の人間。氏邦に仕えているものの心中は快く思っている訳もなく、面従腹背の状態であり氏邦の悩みの種となっている。

 

 

上田朝直…旧扇谷上杉家家臣。能登守。官僚風の冷たい容姿だが、その実はそこまで冷たい男ではなく、旧主の朝定との関係に関しては案じていた。兼音の与力として活躍している。今回の戦闘でも見えないところで奮戦をしており、文字通り北武蔵軍の主力格を担っている。イメージCV、子安武人

 

 

太田資正…旧扇谷上杉家家臣。美濃守。寡黙な武人。口下手のきらいがあるが、その心には主への忠誠が存在していた。兼音の与力として活躍している。箕輪城の戦いでは元忠と共に氏康の救援に行くなど高い戦闘能力を発揮した、こちらも北武蔵軍の主力格。イメージCV、井上剛

 

 

上杉憲盛…旧扇谷上杉家家臣。深谷上杉家の当主。上杉家の傍流であり、扇谷上杉家に従属していた。そのまま北条家にスライドして仕えている。兼音の与力として兵を率いており、上杉の名を貶めない為に戦っていた。自軍を持たない朝定の旗本になっていることが多い。イメージCV、池田秀一

 

 

成田長泰…旧山内上杉家家臣。忍城に一大勢力を持つ成田家の当主。北伐では東上野の将の多くを北条方に引きずり込んだあたり名ばかりの名門ではない事が伺える。尊大で臆病、かつ自尊心が強い性格だが氏康もその辺は心得ているので上手く言葉をかけて彼を満足させている。そんな性格ではあるが指揮は意外と堅実。へんな事をしない安心感がある(悪く言えば教科書通りである)ため、割となんでも任せられる人材。イメージCV、北川勝博

 

 

足利晴氏…北条家に擁立されている関東公方。鎌倉在住。とは言っても実権は皆無であり、権威はある傀儡である。が、本人は特に気にしておらず、平穏に過ごせればそれで良いと思っている。最近では金沢文庫にある書物を読んだり、関東に関する歴史書を記して過ごしている高等遊民。良く考えれば権威死にかけの京の足利に比べれば大分マシ。彼らが京を追われた場合、晴氏は唯一正統の足利幕府後継者となる。氏康や朝定の結婚問題に関して口を出すが、出来る限り彼女らの意に沿うように配慮を見せるなど色々と視野が広い人物。彼らの道は茨の道と知っているがその結末を見届けようとしている。イメージCV、浪川大輔

 

 

金子泰清…北条家に降伏した沼田家の代表者。新北条派であり、徹底抗戦をしようとしている者らにクーデターを敢行し開城した。堂々と氏康と交渉した結果事実上の沼田城管理者として据え置かれる。イメージCV、古川登志夫

 

 

沼田景義…前述の沼田家の当主。父親が徹底抗戦派だったが、越軍の敗走を受けて絶望し戦意喪失。勝手に自害したせいで当主になってしまった。

 

 

上泉秀胤…上泉家の現当主。剣聖の娘。父親の強さを知っているのでそれが降伏した相手に勝ち目はないと思い降伏を受け入れた。現在は従属勢力としてそのまま上泉城にいる。

 

 

安中重繁・小幡憲重…名前のみ登場した上野の国衆。北条家に降伏を願い出てきている。

 

 

那波宗俊・赤井照康…北条家に従属した東上野の国衆。兼音の麾下として従軍し、越軍との戦闘にも参加させられる。

 

 

由良成繁…北条家に従属した東上野の国衆。兼音の麾下として従軍。山上城攻城戦では胤治の智謀に舌を巻くことになる。人の話を聞かない傾向にあるが、まぁ些細な問題。イメージCV、稲田徹

 

 

林高次…北条家に従属した由良家の家老。由良四家老と呼ばれる大身の一人である。伊賀守。山上城攻城戦では降伏を勧める使者になるも交渉に失敗する。格下を見る横柄な態度が原因なのだがそれを知っている者が北条家や由良家の中にいないため特に問題視されていない。

 

 

桐生介綱…北条家に従属した東上野の国衆。兼音の麾下として従軍する過程で己の居城・桐生城を兵站基地として明け渡した。北伐終了後は返却されている。山上城攻城戦では戦後の沙汰の際に氏政の話を遮ってしまい若干の不興を買う。

 

 

 

 

 

<一条家>

 

 

一条兼音…不動の我らが主人公。現在の年齢は20。具体的な功績は本編参照。農業政策や対外国外交、軍事面においても大きな成果を挙げている。経済・軍事の重要拠点の要衝である河越の支配者である。北伐では東上野において多くの戦闘で完勝。箕輪城の戦いでも唐突に預けられた多米隊を率いて色部勝長や柿崎景家相手に互角の戦闘を繰り広げるなど、指揮能力も高い。戦後の新体制では概ね変化はないものの正式に氏邦の副将格に据えられ北武蔵の宰相としての活躍を期待される。また、五色備えの青に据えられた。

 

 後述の黒田家の遺児を匿う、禰々姫の一時帰国を許すように進言する、流民の子供を保護し士官として育成を行うなど、穏健的かつ人道的な政治を行う傾向にある。とは言え寺社に対しては飴と鞭を使い分けるなど、優しさだけの人物ではない。河越城下はかなりの発展を見せており、多くの大店が軒を連ね町人も多い。妓楼や遊興場も整備されつつあり江戸を目標とした都市設計を行っている。未来の知識を多く持つが、それをいきなりやるのではなく地道な国力向上に回しており、街道拡充計画もその一環。武田信虎とサシで対談し好感触を得るなどただの文官肌ではない。

 

 領民からの評判は上々。戦意向上に繋げるため演説のネタにしたものの、無垢な少女の激励に応えるなど元々真面目で正義感のある人柄であったことが伺える。最近では為政者として清濁併せ呑むがそれでも譲れないところは譲らないと決た。某鉤十字の第三帝国のおかげと言ってはなんだがプロパガンダや演説は上手い。帰城時の軍事パレードもどきもその一環。本人はそれにやや複雑な感情を抱いている。

 

 未来では高知出身・大阪在住。幼い頃から弓道を嗜み、中学からは弓道部。成績は中高共に全国大会優勝。また、学業面においても優秀であり、大阪で最も偏差値の高い私立高校に高校側から返済義務のない奨学金を貰っている上に特待生として学費全額免除の特権持ち。理系知識もあるのはそのおかげ。じゃないと国立大学は受けられない。並々ならぬ努力の背景には様々な感情が渦巻いている。 両親は既に死亡。詳しい経緯は本編参照。高知の実家は既に売り、母方の祖父母は産まれる前に死亡。父方の祖父のみが近しい親戚であったが、両親死亡の1年前死亡。大地主格であったため広大な面積の土地が売られ、その金と両親の遺産が彼の生計を支えている。そこそこ良いマンションに住んでいるのは警察からの和解金のおかげ。その辺は割り切っている。

 

 生年は1988年(昭和63年)7月19日。ペレストロイカ開始、青函トンネル開通、ドラクエⅢ発売の年であり、浅田舞や新垣結衣と同年生まれ。ぎりぎり昭和の産まれである。作者は影も形もない。なお競馬界ではこの時平成三強の全盛期であり、かなり湧いていた。戦国へ来たのは2006年の春休みの最中の事。まだ小泉内閣、ブッシュ政権の時である。競馬界はディープインパクト旋風の真っただ中であった。作者はまだ三歳だった。

 

 趣味は弓道、歴史、釣り、競馬と凡そ大体おじさんくさい趣味であるが、前者二つは両親、後者二つは祖父から受け継いだものだった。その為彼の家には弓道の道具が置かれ、壁には往年の騎手のサインと名馬の写真、本棚には大量の本があり、部屋の隅には釣竿が置いてある。あまり趣味を表に出さないため、家に文化祭の打ち合わせに来た生徒会長(高校で多分一、二を争うレベルで仲良い人。元は選挙に立候補時に応援演説をしたのがきっかけで関係性を深めた。若干氏康に似てる切れ長目に黒髪の美人である)はかなりビックリしていた模様。趣味の結果謎の審馬眼を持っている。

 

 両親の死後、親のような存在からの愛情に餓えている部分があるが本人は無自覚。身近な存在の死を恐れており、兼成暗殺未遂事件の際は珍しく狼狽し総攻撃を仕掛けようとした。数年単位で一緒にいるので最早家族同然ととらえており、無事を確認した際にも本人に抱き付くなどその方面では情に厚い。恋愛関係はクソボケだが人の感情が読めない訳ではなくむしろ逆。部下のために色々配慮し、適切な声掛けや肯定をするため好感度は上がるのだが素で気付かない最悪な野郎。いつか刺されそうとは氏政の弁である。イメージCV、中村悠一

 

 

花倉兼成…河越衆の副将。越前守。また、輜重隊の統括を担っており、抜群のセンスを見せ最早欠かせない存在になっている。財政を握っているため、兼音すらもその点に関しては頭が上がらない。綱成が担っている警備活動なども彼女に報告書が上がっている。優れた管理能力と業務執行能力で文官の尊敬を密かに集めている。穏健派の一人であり、賢人館建設の際も戦場で特攻させるために育てるのではないかと危惧していた。正妻力を見せつけており、家事能力も保持しているが、それはかつて二人暮らしをしていたのが生きているため。なお、兼音が家事能力があるのは一人暮らしだからである。どうして一人暮らしなのかは……本編参照。年齢は兼音と同じで20。普通の男ならイチコロのスタイルと顔を持っているが如何せん落とせないので本人は苦労している。

 

 その能力故に桐生城で書類に囲まれ過労死しかかっているところを後述の樋口兼豊が放った刺客に命を狙われたが、段蔵由来の戦闘法で何とか切り抜ける。鉄扇で応戦しボコボコにしたせいで身体中の骨が折れ、内出血を起こし、かつ溶けた蝋を顔面にかけられた忍びの姿は生きてはいるものの悲惨な姿だった。忍びが所詮姫と侮ったために救われたがマジの手練れであったら厳しかった。そういう意味では幸運。帰城後は人手不足を兼音に訴えたりと活動している。彼女の休暇は何処だろうか…。イメージCV、能登麻美子

 

 

北条綱成…兼音の補佐役兼監視役の一人。後者に関してはあまりする必要がないと感じている模様。上総介。一応出向扱いだが、事実上の兼音傘下。河越城では武の側面を担っている。箕輪城の戦いでは加地春綱を相手にするが、勢いに乗って追撃禁止を言い渡されていたのを忘れて突撃していった。その結果加地春綱隊は潰走する羽目になるのだが、後で氏康・兼音両名から少し怒られた。とは言え、その武勇は最早関東でも五本の指に入る物である。山上城攻城戦では敵総大将・山上氏秀が城より打って出た後に騎乗する際、自分の槍を投げつけ回避こそされたもののあと少しずれていれば命中と言う精度で氏秀を恐怖させた。それらの武功の結果五色備えの黄色に据えられる。また、戦後の新体制では杉山城を任せられることになったが本人は引き続き河越で職務に励み杉山には有事の際のみ籠って普段は代官派遣をするつもり。

 

 武闘派の筆頭みたいな人間ではあるが気遣いが上手な一面もあり、ただの武辺者ではない。実質初の戦闘でカチコチになっている胤治に配慮してあまりべたべたと声をかけないなどの優しさを見せた。また部下からも慕われており帰城時には城下の酒屋で宴会を開いていた。上司が誘われる側なのはある種の人徳と言えよう。義姉の氏康とは血の繋がりが無いにも拘わらず体形が似ていることにガビーンとなっている。もう少し胸と尻に肉を…と本人は主張しているが成長の兆しはあまりない。イメージCV佐倉綾音

 

 

加藤段蔵…元戸隠忍び改め河越忍びの頭領。この作品では珍しく、非科学的な技を用いることが可能。様々な場面で活躍し、重要情報を探ったり伝達したりしている。関東はおろか東日本でも有数の忍びであり、彼女を超える存在を見つけるのは困難。自分の防備に割と無頓着な兼音の護衛役を務めることが多い。実は亡国の姫君であり、年齢も兼音より上。箕輪城の戦いでは独断で景虎に攻撃を仕掛けるも効果がなく逆に返り討ちにあう。重症では無かったためにすぐに現場復帰できたので、帰城後は兼音に命じられ東海信濃に誰かスカウトできそうなやつがいないか探してこいという結構アバウトな命令を受ける。その際胤治から旧三好家時代(とは言っても相手は三好家の家臣じゃない)の知り合い宛ての書状を渡すために大和へ行ってくれと頼まれた。彼女の正体は対越で動き始める次章以降に出てくるだろう。ヒント1:北陸出身、ヒント2:元は名家のお嬢様。イメージCV、明坂聡美

 

 

白井胤治…下総の田舎武士の家の産まれ。鳶が鷹を生むと言わんばかりの存在であり、臼井城でも浮いた存在であった。かつて一度だけ三好家に仕えていた事もあるが、関西の水が体に合わず辞職した。その際に三好長逸よりの感状を貰っている。今までの境遇によって自己評価の低いきらいがある。箕輪城の戦いでは軍議において長尾軍の目論見を反抗的勢力を前線に出して彼らの勢力を削ごうとしているのではないかと想定。結果的にそれは違ったものの、そういう視点での考えは良い影響を及ぼすので歓迎されている。この一件で氏康の目にも留まった模様。山上城攻城戦では山上氏秀の計略を看破し水攻めを失敗させるなど随所随所で活躍。実践経験が少なかったがそれも補われつつある。兼音に賞賛の言葉をかけられ自己評価も改善傾向。箕輪城の戦いではその戦中に暴走しかける兼音を諫言して止めるなど参謀としての役目をはたしている。その後、段蔵に旧三好家時代(とは言っても相手は三好家の家臣じゃない)の知り合い宛ての書状を渡すために大和へ行ってくれと頼んだ。イメージCV、諸星すみれ

 

 

諏訪頼重…諏訪家の元当主にして、城下の神社の神官。今回は名前のみ。甲斐へ急ぐ身重の妻を見送った。イメージCV、三木眞一郎

 

 

諏訪禰々…頼重の妻。旧姓武田。晴信や信繁の妹。夫婦仲が改善した結果第一子を妊娠中。母・大井の方危篤の報を受け、帰国を願い出る。まぁ断られるだろうと諦めているとまさかの了承が下され驚愕。すぐさま旅立った。結果臨終には間に合わなかったが葬儀にはギリギリで到着。その際に姉の晴信と武田の在り方を巡って口論になる。最終的には信龍や信君の仲裁でお開きとなるが姉妹仲の溝は根深くなる一方だった。イメージCV、小倉唯

 

 

北条綱房…綱成の実妹にして、氏康の義妹。要請を受けた氏康によって姉妹の母親共々河越に招聘された。まだまだ年若いため、戦場には出せないので留守居役になっている。なんにもないだろうと思っていたら甲斐からの急報が来て焦っていた。とは言え、上司に相談するべく使者を出す。その後許可が下りた際には護衛を付けるなどの配慮を見せた。自己判断で勝手に動いてはいけないレベルの物であると理解してお伺いを立てたので兼音からは高評価。未定ではあるが、杉山城の綱成に代わって常在させる予定。イメージCV、矢野妃菜喜

 

 

霧隠才蔵…元戸隠忍び。朝定の警護役を求める兼音の発案によって行動した段蔵により勧誘される。朝定の臣下であるため滅多に兼音の指揮系統には入らない。朝定からしてみればあんまりみんな暇ではないので良い話し相手になっている。作中で登場シーンは少なかったが、しっかり関東管領の護衛役を務めていた。兼音と欧州事情の談義をし、過去を語る。その際の彼の知識量に舌を巻いていた。イメージCV、川澄綾子

 

 

黒田家遺児&家老の娘…読んで字のごとく。越後で景虎に反乱を起こし鎮圧(族滅)された黒田家最後の生き残り。脱出した家老は流浪の最中で死去。ボロボロの格好で河越の門を叩き、保護された。まだまだ幼いが、対越に於いて高度に政治的な存在になるのは確定だろう。

 

 

上杉朝定…扇谷上杉家当主。領土は全くないが、現在も当主の座にいる。関東管領に就任したことにより、事実上全上杉家のトップに立つ。家臣団との間に誤解から軋轢が生じていたが、兼音の尽力によりそれが解消される。後方勤務が多いが、それでも前線に立つ回数は増えつつある。特に大きな部隊を率いて戦うと言ったことは少ないが、言ってしまえばいるだけで良い存在なので問題はない。事実、上野の国衆などもその肩書によって憲政からの離反に正当性を見出していた。少しずつ大人に成長しつつあり、もうすぐ結婚適齢期になるので足利晴氏からせっつかれている。が、当人はその話を全く知らない上に念頭にない。新たに剣聖・上泉信綱が剣術指南役に付いた結果、関東でも最高峰の教育環境にある。実戦で披露する機会があるかは不明だが、槍・弓・剣において関東有数になるのは間違いないだろう。イメージCV、名塚佳織

 

 

上泉信綱…元上泉城の城主。剣聖と呼ばれる剣客。無双の強さを誇るリアル戦国無双。綱成に敗北した後捕縛されていたのだが激戦の過程で兼音からその存在をすっかり忘れ去られ、結果朝定が上野から連れてくることになる。兼音の説得を聞き入れ、関東管領の剣術指南役として再出発した。イメージCV、山路和弘

 

 

 

 

<上野>

 

 

上杉憲政…「元」関東管領。現在は無職。同じ高等遊民でも何もしてない分足利晴氏よりタチが悪い。左目は取り敢えず何とかなったが見えないままであり大きな傷が残っている。北伐を前にして長野業正の意見を受け入れ越後へ逃亡した。おおよそ君主としては三流である。送り出した景虎が上野奪還に失敗し帰国したのはまぁ良いとしても、その後に川中島方面に出兵しようとしていることに頭を抱えてる。彼としては風流な暮らしを御舘(史実における彼の墓所)で過ごす方が良いと思っているものの関東を失陥したままで良いかと言われればノーであった。小笠原は放置することにするとしても景虎の美貌に惑うこともなく武人気質の村上義清が景虎と馬があってしまった事に頭を抱えている。小笠原が下品であるならばあくまでも色気を出さずに上品に景虎に接することで奪い取ろうと画策。その一環として琵琶と和歌の講師になる事で、親密さを上げようとしている。イメージCV、緒方恵美

 

 

長野業正…箕輪城主。上杉憲政の忠臣であり、彼に越後への亡命を促した。忠義から徹底抗戦を貫いており、大軍の北条家に対し周辺諸城と共に絶望的な籠城戦を敢行している。援軍に来た景虎に対して何の見返りも利益もない要求を呑んでくれたことには感謝しつつもまとう気配の異質さに気付く。小さな異相の少女に山内上杉の行く末がかかっていることにやるせなさを感じ、栄枯盛衰の世を儚んでいる。また、その顔は男を引き付ける魔力がある事を察し、息子を合わせないように徹底していた。箕輪城の戦いの後は氏康と講和会議に望み、腹の探り合いの後に停戦を決定。その際にも氏康の力量を評価しており、自分が十年若ければ呑まれていたと漏らした。イメージCV、小林清志

 

 

藤井友忠…長野業正の娘婿にして筆頭家老。豊前守。主と共に講和会議に出席した。北条側が筆頭家臣の松田家を出してきたのは家格を合わせるためである。

 

 

山上氏秀…元々チョイ役だったが作者が彼を主人公にした小説を読んだことで急遽復活。話を二話も使わせた。由良家に従属した東上野の国衆の一人であるが、北条と一戦も交えずに屈するを良しとせず抗戦することを決定する。武勇は確かにそれなりにあり、また胤治には看破されたものの策略を練る程度には頭が回る。典型的な小領主なので特に戦国日ノ本の展望などは考えていない。林伊賀守の横柄な態度と武士としての矜持から戦闘を決意。数十倍の敵に対する絶望的な籠城戦を開始する。策は外れ、石火矢を食らい、綱成から化け物みたいな投擲を投げられるなどなかなか悲惨な戦闘展開となるも大軍相手に奮闘し結構な時間を浪費させたのは事実である。最後まで抗戦の意思を見せるが最早家臣も一族も戦意を失いかけているのを見て降伏勧告を受諾。個人では戦意を失わず罵倒されても反論していた。兼音に仲裁され氏政の前に引っ張り出されるも挑発するなど血気は盛んだった。最終的に領外追放になり、家族や僅かな郎党と共に箕輪城へ落ちていった。イメージCV、諏訪部順一

 

 

山上氏吉・源内…氏秀の弟と父。氏吉は奇襲作戦に参加するも逸るのを抑えきれず攻撃を開始してしまう。源内は北郭を守っていたが落とされ、最後は一族である藤九郎の降伏勧告を受諾するように説得。最終的に両名ともわずかな荷物を持って城を追われ氏秀と共に流浪することになる。

 

 

糸井太郎衛門…氏秀の最側近。彼から多くの事を任されたりと何かと使われている。最後は降伏勧告を受け入れるように氏秀を説得した。

 

 

鏑木主計…山上家家臣。抗戦派であったため過激な発言が多い。

 

 

天野佐兵衛…山上家家臣。氏秀の計略であった水攻めの実行役。忠実に職務を果たしたが、胤治が全て見抜いていたため不発に終わってしまった。

 

 

山上藤九郎…山上家の一門。氏秀の義兄。北条家と戦うを良しとせず抗戦しないで降伏。その後氏秀に降伏勧告の使者として派遣され、結果としてその命を救う。氏秀からは降った軟弱者と思われていたが北条家内での扱いを見て降伏するも茨の道であるかと同情された。北条家によって新たに山上家当主となったため城の主となる。が、妹に逃げられ、追いかけようにも睨まれたくないため行動できず泣き寝入りとなる。

 

 

須永栄左衛門・深沢利右衛門・山形喜衛門・薮塚孫左衛門・大谷治左衛門・板橋又右衛門・山本権八郎…いずれも山上家家臣。北条家との戦闘に参加し奮戦する。

 

 

吉蔵…氏秀の配下の小者。武勇は無いがすばしっこいので重宝されていた。氏秀と共に落ち延びて行く。

 

 

戸根田主善・渡辺源八…氏秀の家臣。藤九郎に仕えることを良しとせず氏秀と共に落ち延びて行くことを決意した。

 

 

藤姫…氏秀の正室。藤九郎の妹に当たる。当初氏秀は戦乱に巻き込まないために離縁をしようと寺に追い出していたが、それを受け入れず侍女数名と共に脱走。兄の元を去り流浪の身となることにした。それに対し氏秀は渋っていたものの、口では勝てずに押し切られて共に亡命することになる。

 

 

長尾憲景…名前だけ登場。白井城の城主。反北条派であり氏秀からの援軍要請を承諾したものの結果的に送る事は無かった。

 

 

斎藤憲広…岩櫃城城主。特に信念や忠誠心は無いが流石に周りを反北条に囲まれ景虎も来ているのに北条方を名乗るリスクを冒すはずもなかった。景虎との対談も何とか乗り切る事に成功し弱小勢力なのを言い訳にして最前線行きを回避する。なお、好みのタイプでは無かったために景虎の魔力にやられる事無く無事だった。箕輪城の戦いでは撤退する越軍を後目に一足先に逃亡した為損害ゼロで終了した。景虎も憲政もいない今ならば適当に口実をつけて長年の敵対勢力である鎌原氏を攻められるのではないかと模索中。

 

 

佐野豊綱…唐沢山城当主。下野の人間だが面倒なのでここでまとめて扱う。氏秀から救援要請を受け受諾するも結局援軍が来ることは無かった。

 

 

 

 

<武田家>

 

 

武田晴信…甲斐の虎。信濃侵攻を実行している。北条家や今川家に対する焦りから、侵攻を急ぐ。その焦りから砥石城を攻略しようと焦り、また同時期に家中で発生した色恋沙汰や彼女自身の精神的な問題もあり作戦は大失敗に終わる。結果、多くの兵を失い武田四天王の一人、横田高松を失う。父親の幻影に今なお憑りつかれており、過度に家族を失う事を恐れている。だがそれは軍事的なもので父親に認められようとする彼女の野望と矛盾しており、信君に叱責されることとなった。撤退後は再侵攻を試みるも、母である大井の方の危篤により撤退。その死に際では自身や信繁の結婚問題に触れられ動揺していた。その後何とか砥石城を落とす事には成功するも、多くの犠牲を払うことになる。また、この一件で北信の諸将が相次いで越後へ逃亡。史上最悪の宿敵を引きずり込むこととなってしまった。更にその間に行われた大井の方の葬儀では自身が武蔵へ送った禰々と激しく対立。怒りを露わにしていたことをそれは自分の夢が血で穢れていることへの覚悟が足りていないからだと痛罵され臆病者とまで罵られることとなる。決して暗君では無いが如何せん父親の黒い影のせいで負のスパイラルから抜け出せず、家族もあまり踏み込めないため解決には程遠いだろう。

 

 長尾景虎に対しては神がかりの偽善者と罵っており、その政治思想や行動にまったくもって共感することが出来ないでいる。また、彼女が海への道を塞いでいるので戦う事は必定。母親を失った日に景虎について知ったのもあいまって激しい憎悪を向けている。その実は親の正しい愛を知らないのは同じなので、皮肉的な運命としか言いようがない。ちなみに誕生日は12月1日。原作CV、岡村明美

 

 

武田信繁…晴信の妹。姉と共に信濃侵攻作戦に従事。信濃をとっとと制圧して対越共同戦線を張りたい兼音の思惑によって助言されている。仁科家に粘り強い交渉を重ね、領内の通行に関する権益を保障することを条件に臣従させた。彼女の精神性にも信虎の偏愛が影を差しており、その経験のせいで姉に対し強く出る事が出来ないという致命的な弱点を抱えている。真面目で実直だが、やや真面目に考えすぎるきらいがあり、晴信と禰々の口論の際もどちらにも言い分があると思い仲裁することも出来ず考え込んでしまった。また、母である大井の方の死去の際には婿取りを拒絶。姉の陰であろうとも、共にいる事を選びたいと言った。その選択がどういう未来を引き起こすのかは、まだまだ分からない霧の中である。イメージCV、東山奈央

 

 

武田信廉…通称孫六。晴信の妹。絵描きを自称する風流人な変わり者。容姿は晴信にそっくりだが、双子ではない。お気楽に生きているように見えるが、その実色々と考えている。横田に対して淡い恋心を抱いていたが戦国の無情さゆえにその恋情は成就はおろか告げることも出来ずに雨中の華と消えることになった。なお、横田が誰かに恋情を抱いている旨の噂の時にそれを軽く否定したりや、晴信が彼にその事実を確かめようとした際に同席を願い出たのは横田から晴信への感情を知っており、それを晴信に聞かせたくなかったが故の乙女の精一杯の抵抗だった。イメージCV、遠藤綾

 

 

武田義信…晴信の弟。武田家の本家では唯一の男子ではあるが、粗野なため後継者候補からは外されていた。前衛で戦うタイプの人間であるため、各地での戦いでも先陣切って戦っている。、義理人情に厚い一方で向こう見ずで考えなしなところが欠点とも言える。大井の方の危篤時にも先行きを心配されたり余計な事を言ってしまったりと粗忽なところが目立ちがち。とは言え、信虎に相模行きを勧めたのが結果大成功だったように時々本質を突いた行動をする。イメージCV、遊佐浩二

 

 

一条信龍…晴信の妹。名門一条家の名跡を継いでいるため、名字が違う。なお、兼音の家や京・土佐の一条とは特に関係ない。存在感が薄く、眠っているように見えるが独特の嗅覚を持っている。それにより、人の性質や戦の機運なども嗅ぎとれる。大井の方の危篤の際はその死の匂いによってもう助からない事を悟り無言で号泣していた。葬儀の際も号泣が止まらず嗚咽を漏らしていたため、普段は仲の悪い信君に慰められていた。また、禰々と晴信が口論になった際は禰々の母体を案じ、仲裁役に入る。謀反するぞと軽く言えるくらいの間柄なのでそんなに見た目ほど仲は悪くないのかもしれない。去り行く禰々を見送りながら平和な世は当分来ないであろうことを嘆いていた。イメージCV、影山灯

 

 

武田源十郎…後の松尾信是。まだ幼少のため特に出番はないく、葬儀に出席していたくらい。

 

 

武田兵十郎…後の河窪信実。まだ幼少のため特に出番はないく、葬儀に出席していたくらい。

 

 

武田信虎…晴信の父。駿河に追われ、同地で隠居生活を営む。新しい側室を迎えるなど割と好き勝手に過ごしているが、不甲斐ない戦いを見せる娘に不満が溜まっている。実弟を討った北条家のことを嫌っていたが、今後の事も考え勧められたとおりに禰々に会う目的も兼ねて一度北条領へ赴くことを決め、実行。小田原を訪れた際はその港の様子から国力を推察するなどかなり優れた知見を見せた。引退して脳みそが冷えたのかもしれない。その後も街の様子などをくまなくチェックしており、風聞や噂話にすら耳を傾けていた。氏康と対談した際は真っ向から向き合い、特に何か進展があった訳では無いが政治的なやり取りを交わす。また、河越に訪れた際は兼音とも対談。越後相手に武田を使い潰そうとしていることに気付いている旨を警告したり、兼音の持つ危険性について本人に伝え動揺を誘おうとした。後者に関しては失敗したうえに北条を追われれば死ぬとまで言ってのけたのに驚きつつも羨ましさを口にした。食客にならないかという提案は断ったものの今川が滅びれば悪くないと言っている辺りかなり好印象を抱いている。またその実力も高く評価しており、今後もそうそう悪い関係にはならないだろう。イメージCV、津嘉山正種

 

 

大井の方…信虎の正妻にして晴信らの母。信虎追放後も甲斐に残っていたが病を得て伏せる暮らしが続いた。砥石崩れの後もズルズルと戦をしようとする晴信を引き返させることに成功する。最後は春日源五郎に晴信の業績を正しく記すように依頼し、家族に囲まれながら亡くなった。

 

 

清水式部…信虎の側近。信虎と同じくらいの年齢であり長年付き従ってきた老臣でもある。晴信の行動を知った後に自ら願い出て駿河へ行った。常識人であるため苦労が絶えないが主と共にいる生活は甲斐の山奥では見聞きできないもので溢れておりそう嫌なものでは無いと思っている。

 

 

横田高松…武田四天王の一人。故人。晴信への恋情を抱きながら奮戦するもやはり敵わず、砥石城の戦いにて戦場の露と消える。その際に信廉の部隊を晴信と見間違え(勘助によって騙され)必死の殿を務める。その後信廉本人によってそれを開かされるが恨み言を言う事もなく静かに息を引き取った。彼を抱きとめた少女の感情には最期のその時まで気付くことは無かった。

 

 

飯富虎昌…武田四天王の紅一点。色恋沙汰の話は大の苦手である。また、幼馴染でもある義信の結婚問題に関してかなり否定的な意見を持っており、一応万が一駿河侵攻になった際の義信の立場について言及しているもののかなり個人的な理由。イメージCV、沢城みゆき

 

 

山本勘助…武田家の軍師。対信濃の作戦立案を行っているが如何せん今のところあまりいい見せ場は無い状態。割とそつなく色々こなせるもののドカンと一発かます大功がない。とは言え、その原因はしっかり練った作戦計画を全部ぶっ壊す晴信が悪い側面もあるのであんまり一概に悪く言えない。砥石城撤退の際も叱責する信君を制止しようとして逆に怒鳴られるなどの一面もあった。横田の恋心を利用した作戦を立てたことなどに罪の意識を感じており、いつかその報いを自分が受けるその日まで戦い続ける事を誓っている。また、他国の情報も集めており、越後の状態について細かな理解で晴信へ説明した。砥石城攻略戦リターンではみすぼらしい格好で油断を誘い、城門に地雷火を設置することに成功し、陥落させた。イメージCV、清川元夢

 

 

馬場信房…晴信の近臣。後の四天王。信方亡き後の信濃統治を任された。現在は深志城にいる。本編には名前のみ登場。イメージCV、ブリドカットセーラ恵美

 

 

山県昌景…晴信の近臣。後の四天王。飯富虎昌の妹。姉とは違い色恋沙汰には詳しいが、貧相なスタイルを気にしている。イメージCV、大西沙織

 

 

春日源五郎…晴信の近臣。後の四天王・高坂昌信。よく消極策を口にしているが、彼女がそうすることで消極的な提案がしやすいというメリットもある。また、死に際の大井の方に晴信の業績を書き記して欲しいと依頼され引き受けることになる。イメージCV、内田真礼

 

 

穴山信君…武田一門の筆頭。甲斐でも大きな影響力を持つ穴山氏の当主。武闘派の多い武田家中にあって数少ない頭脳派。とは言っても武芸が出来ないわけでは無い。今一つ締まらないことの多い軍議に苛立つことも多い。恋だなんだで揉めている砥石城攻めの軍議の際も横田が万が一いなくなった場合非合理的な判断で行動する人物・要因が減り武田の家中統制がしやすくなるという冷徹かつ現実的な事を考えていた。とは言え、割と最後の方まで村上義清相手に奮戦して逃亡。重臣の死に動揺する晴信に対しその夢は呪われた物であり、この血に濡れた物語を始めたのはお前だと怒鳴る。決して冷血漢かと言うとそうでもなく、大井の方の葬儀の際は号泣する信龍の背中をさすってリバースしたり過呼吸にならないようにさせていた。また禰々と晴信の調停の際は母の死後すぐにこんな場面に遭遇する信龍の気持ちを慮り仕方なしではあるが引き受けた。いい加減ふらふらしている晴信に怒りが堪り臆病者と罵る。その後は去り際に父親と同じである旨を告げた。信龍とは仲が悪いが、実はそこまででもないのかもしれない。海を見るという夢を持っているが押し殺して生きている。イメージCV、上坂すみれ

 

 

小山田信有…武田家重臣。出羽守。騎馬よりも歩兵の指揮が得意なタイプの将。武田家の家臣と言うより元々独立勢力だった関係から自尊心が強く、四天王の座に釣られ砥石城攻めに参加した。小山田家は立場としては越後における長尾政景に近い。最終的に失敗したため手傷を負って撤退する。

 

 

原虎胤…武田重臣。美濃守。武田家家臣と言うよりかは信虎個人の家臣であり、その追放にも反対し激怒したがなってしまったものは仕方ないので従っている。元は上総の出身。彼も四天王の座を推薦されたが名などいらない、主たる者顎で家臣を使えずしてどうすると憤慨していた。最終的に城攻めは失敗したため手傷を負って撤退する。

 

 

三枝守友、多田満頼、秋山信友…いずれも武田家重臣。砥石城攻めには反対であった。

 

 

真田幸隆…怪しげな風貌の女性。流浪が長く金銭にがめついという特徴がある。真田の家の復権を夢見ており、その地に公界の建設をすることを野望としている。手練れの忍びを多く率いている。性知識の無い晴信の事を若干心配している。忍び衆に指示を出し、弟の矢沢頼綱と共同して内部工作によって砥石城を陥落させることに成功した。イメージCV、真田アサミ

 

 

真田信綱・昌輝…真田の双子姉妹。幸隆の娘たち。

 

 

猿飛佐助…真田の忍び。地雷火を手でもてあそぶなどかなり危ない行動をしているがその裏付けには確かな実力がある。鋼鉄メンタルなのであまり晴信のメンタルに関して理解できてはいなかった。イメージCV、田中あいみ

 

 

望月千代女…元は信濃の名族・望月家の姫。戦乱と貧困の最中、視力を喪失する。むろん、視力を失ったことは、忍びにとっては致命的といえる。千代女が忍びとして最前線で活動できるようになるまでには、言語を絶する苦闘があった。砥石城攻略戦においては戸隠忍群の目を勘助から逸らすために暗躍することになる。イメージCV、佐倉綾音

 

 

筧十蔵…忍び。南蛮渡りの最新鋭兵器・種子島の使い手。真田家の家臣筋にあたる。とは言え、真田と同じく元は何をしていたのかもよくわからない家の出。武功や先祖代々の遺産などあるはずもない。「武家になるのだ」と思い詰めていた十蔵の父親によって幼い頃に非情にも戸隠へ送られた。

 

 

地雷也…忍び。名はコードネーム。地雷火を作る事の出来る技術者。その正体は謎に包まれている。彼or彼女の作る地雷火はいわば普通の対人地雷や時限爆弾とあまり変わらない出来の物である。

 

 

矢沢頼綱…史実では真田家きっての北条スレイヤー。沼田城代として後北条氏の侵攻を何度となく退けた名将で北条氏邦率いる7万の大軍を2千の守兵で撃退したと伝えられる。ググると出てくるワードは「チート」、通称「沼田の守護神」。頭おかしい人材。今章では砥石城に潜入。配下と共に城内で流言飛語をばらまいて大混乱に陥れた後に城の門を開け放って武田軍を迎え入れた。

 

 

 

 

<越後>

 

 

長尾景虎…ある意味本作のもう一人の主人公。人造の正義。機械仕掛けの偽神。アルビノでアレルギー体質と言う虚弱な身体で生を受ける。また何がアレルギー物質か分からないため偏食気味であり、かつ生理がかなり重度であるというハンデを負っている。神がかりの美貌を誇っており、その身を妻にせんと越後の武者が息巻いているため、三年は未婚であるという誓いを立てている。その後のことはその時考えようと言う割と行き当たりばったりな策だが婚姻を迫る諸将を宥めるための緊急事態だったため仕方ない。嘘や阿諛追従が嫌いであり、正直さや清廉さを好んでいる。ビジュアルはみやま先生バージョンと深谷先生バージョンがある(ググれば出てくるが是非原作を買って欲しい)が個人的な好みで深谷先生バージョンをイメージしている。その辺はご自由に。

 

 沼田合戦で先鋒隊がかなりの被害を負ったため、三国峠付近の陣で軍議が行われた際には大熊朝秀、斎藤朝信、長尾政景らが強硬に反対するのを押し切って氏康討伐を宣言した。またその際に暗殺を提案した樋口兼豊に対してかなりの嫌悪感を露わにしてその発言を一蹴。二度と提案するなと命じた。また(兼成にとってはともかく)一応は事実無根である兼音と兼成との関係性を告げられた際は戦場で色恋に耽るを良しとせず、こちらもまた嫌悪感を示した。なお、真実はまったくの嘘っぱちなので完全なる風評被害といわざるを得ない。

 

 政治力には(オブラートに包んで)些か欠けており、斎藤憲広相手に強気の交渉をして圧迫するなどあまり交渉向きではない。この場合は憲広が無用な争いを回避したのでどうにかなったが上野衆の中には関東ではないよそ者を良しとしない者もいる。その場合は無意味な戦闘が発生していた可能性があった。強引に開戦に踏み切りはしたが、この一戦で北条家を滅ぼすのは不可能であることは認識しており、無傷で帰らせない事を目標に定めていた。諸将を全て投入して足止め兼陽動をさせるという策で北条軍の目を引き、その隙に奇襲を敢行する。奇襲自体には成功し、氏康本陣を脅かす事となった。

 

 その際に氏康と一騎打ちをすることになるが、憲政から伝え聞いていた人物評と明らかに乖離している精神性である事をなまじ見抜いてしまった為に混乱することになる。悪の気配を感じない事を問うが知るかと一蹴される。人は皆、普通は善たらんと欲して生きているはずにも拘らず、氏康の叫びには悪の気はなくそれどころか、善性すら感じられた。けれども彼女は己が悪であっても良いと言った。その心は、景虎が理解するには時間が足りな過ぎた。受けた愛の質が、量が、種類が全く違ったことが二人の行く末を分けたともいえる。

 

 奇襲は結果的に失敗し、撤退した後に越後にて兄晴景を看取る。そこで人として生きて欲しいという旨の遺言を受けるが、それを果たせそうにないと言うのが正直な心情であった。義とは何か、己の行いは正しいのかと自問自答することになるが、惜しむらくは時間が足りず、北信よりの亡命者との会談に臨まねばならなくなる。景虎の美貌に興奮している小笠原長時はともかく、村上義清はその孤高の武人としての精神性がある種の共鳴を呼び好感を抱いている。武田晴信のやり方に不快感を覚え相いれない事を改めて認識。戦略上の目的も合わさって北信濃への出兵を決意する。また、兼音より怒りの籠ったお手紙が届いたため、その内容を読んで激怒することになる。が、宇佐美の機転もあり、結局兼成暗殺未遂の命令犯は景虎視点では不明のままだった。ちなみに誕生日は2月18日。イメージCV、早見沙織

 

 

長尾晴景…凡庸な将であったが、年の離れた妹に道ならぬ感情を覚える。越後男子特有の死ぬ前にまともになる症候群の罹患者。憲政が景虎をたぶらかし復権を狙っていることを見抜き、関東管領を継いではいけないと助言する。純粋過ぎる瞳を見つめたことで、景虎が人ではない何かへと変貌を遂げようとしているのを感じる。その清純さがあれば煩悩も消え去り、民衆は平和になるのかもしれないが、景虎本人の幸福はそこには無い、そしていつかその結末は徒労の末に終わるのだと察知する。死に際の明察をした後、清濁いずれも必ず人の心中にあってそれこそが人であると諭し、人として生きる事を願って命の炎を消した。彼の望む神を落とす資格のある者は果たして……。イメージCV、鶴岡聡

 

 

長尾政景…分家の上田長尾家の当主。史実における上杉景勝の父。虎千代に異常な執着を見せる。その根本には己の家柄に対する劣等感が存在していた。三国峠での軍議では氏康との戦闘に反対。己が(他に意識を割いていたことがあったにせよ)敗北した相手である氏康と兼音を危険視していたが景虎に受け入れられることは無かった。また、箕輪城の戦いの後も上野や北信を領国化して切り取るように進言するがあくまで氏康や晴信とは違う存在であることに拘る景虎には響かない提案であった。北信諸将との会見後は大熊や北条らの反信濃出兵組の旗頭のような役割を担い、上杉憲政に対し何としてでも北信への出兵を止めるように説得しなければ一生復権は叶わないと脅し、役目を果たさせた。景虎の姉・綾との間に一子を設けていたが早世してしまった。イメージCV、水中雅章

 

 

長尾綾…景虎の姉。妹を慈しんできたが謀略によって代わりに長尾政景に嫁ぐこととなる。第一子を授かるもその子は病に倒れた後病没してしまい、意気消沈している。イメージCV、坂本真綾

 

 

青岩院…景虎の母。出家する以前の名前は虎御前。息子を亡くした綾に寄り添っていた。

 

 

宇佐美定満…景虎の自称軍師。戦争の天才たる彼女にはあまり必要ないが助言役として参陣している。幼少期の彼女に大きな影響を与えた人物。飄々としているが独自の正義感を持っており、それが無いが故に越後は動乱が続くと考えている。長野業正との会談など、随所随所で景虎の至らなさをフォローする形にはなっている。提案はいつも真っ当な物が多いが大体景虎からは拒否されている。景虎の推戴によって一応越後国内から騒乱は消えつつあるが結局それは越後の騒乱が国外で行われるだけなのではないかという思いに囚われている。村上義清相手に武田の強さを聞き出すことで対策を練ろうとしていた。また、機転を利かせる事で樋口兼豊を庇い、恩を売ることになる。イメージCV、櫻井孝宏

 

 

直江実綱…大和と呼ばれることの多い青白い顔の青年。為景の小姓をしていた。景虎を仏門に進ませようとしていたがこれはその方面で彼女が越後のメサイアになることを期待していたからである。戦闘時は後方支援を行うことが多いが、如何せん兼成には能力的に負けている。強硬に関東遠征や川中島への出兵に反対する大熊朝秀を眼光で黙らせるが、これには旧長尾為景家臣団と旧上杉定実家臣団の対立軸が絡んでおり、直江自身は前者の派閥に属している。また、弁も立つため関東の領国化を進言する北条らを退けた。己の屋敷で宇佐美が見出してきた樋口兼豊の娘・与六(後の直江兼続)を育てている。イメージCV、緑川光

 

 

黒田秀忠…越後の豪族。名前だけ登場。景虎への反発と政景の誘いに乗って反乱。春日山を攻め、景虎の兄二人を殺害するなどしたが最終的に政景に裏切られ殺される。しかし最後の抵抗として小さな息子だけを老臣に任せて脱出させた。

 

 

柿崎景家…貴公子風の男であったが初陣で覚醒。武闘派になってしまった。仏門に造詣が深く、数珠を持っている。政景とはそりが合わない。高潔な人材であり、領民にも優しい。いずれの軍議においても主に従うのが流儀であるとダンマリを決め込んでいた。国衆を抑えられる権威がほぼない状態なので国をまとめるには外敵を作る必要がありそれによって越後をまとめるのも致し方なしというかなり黒い考えも抱いている。箕輪城の戦いでは優れた指揮を見せてはいたが兼音率いる鉄壁の陣営を突破できずに撤退した。イメージCV、銀河万丈

 

 

大熊朝秀…越後の国衆の一人。財務官僚も担っており、越後の財政を支えている。ついでに金貸しも行っているので何かと金のかかる戦争の際は多くの者が彼から金を借りている。その結果商人気質であり損得で戦場を判断する。兵の死=生産量の低下につながる旨の発言などからもそれが伺える。最終的に冬になる前に兵を退く(=関東で越冬しない)を条件に参戦することとなる。越後のみでなく北信にも若干の所領を有しており、段蔵の評判などを知っている。また、官僚風の容貌ではあるが武芸も優れており史実では上泉信綱と一騎打ちを行ったこともある。箕輪城の戦いでは景虎の奇襲失敗を知るや否やすぐさま撤退。兵の損失無く帰国した。しかし金銭面でのダメージは大きく、北信への遠征には強硬に反対。大赤字であること、恩賞が足りないこと、財源は有限と言う事などを話すが聞く耳を持たれず、直江に説得される。武田を倒し上洛することで利権を確保する考えに一応は同意したが懐疑的。なお、旧上杉定実家臣のため旧長尾家家臣団とは対立傾向にある。イメージCV、川原慶久

 

 

鮎川清実…揚北衆の一人。沼田で兼音に狙撃された傷の癒えないうちに箕輪城の戦いに参陣させられる羽目になる。無駄に奮戦してしまった為またボロボロ。その上で更に北信遠征を命じられておりもう心が死にかけている。

 

 

小島弥太郎…越後の国衆。名前だけ登場。景虎と共に氏康本陣を奇襲する部隊に加わる。

 

 

甘粕景持、新津勝資、色部勝長、長尾景信…名前だけ登場。箕輪城の戦いに参陣して北条軍を足止めしていたが景虎の奇襲失敗により撤退した。

 

 

加地春綱…名前だけ登場。箕輪城の戦いに参陣して足止め役をしていたが勢いに乗った綱成隊に散々に撃ち破られ潰走してしまうことになる。

 

 

樋口兼豊…後の直江兼続の実父。宇佐美の仲介で娘を養子に出した。三国峠の軍議では暗殺を提案するも景虎の怒りを買い撤回する。商人と独自のネットワークを築いており、その繋がりを活かして兼成の居場所を突き止める。北条軍の混乱を目的に独断で暗殺を決行させるが失敗。あろうことか暗殺未遂を北条側にバラされ宇佐美の機転で犯人は分かっていないものの暫くは大人しくしなくてはいけなくなってしまった。イメージCV、塚田正明

 

 

北条高広…名門の北条家の出身。打算的で利己的な性格。関東と独自のルートで繋がり情報を仕入れており、兼音と兼成の関係に関する風聞などを知っていた。厩橋城などの領有化を進言するが拒否されてしまう。更に無駄骨になるのが確定している北信遠征には反対であり、もっと強く抗議するように政景を詰問していた。イメージCV、藤原啓治

 

 

樋口与六…後の直江兼続。将来の越後を担う人材にするべく直江によって育成されている。優秀ではあるのだがやや利発すぎるきらいがあることを危惧されている。景虎にある種の憧れを抱いており共に戦場に出る日を夢見ている。ただ、経験値が圧倒的に足りないので兼音や氏康相手に勝負になるかは…。イメージCV、竹達彩奈

 

 

斎藤朝信…武断派の多い越後内では数少ない知略も出来るタイプの人間であり、三国峠の軍議でも大熊に賛同し兵糧などの補給面からこれ以上の継戦に反対。最終的には兵糧輸送の責任者を除かねば北条側の自滅はあり得ないと進言した。イメージCV、若本規夫

 

 

 

 

<房総>

 

 

里見義堯…関東の中でも一際大きい勢力を誇る里見家の当主。現在は安房、上総、下総の東三郡を有している。銚子や館山などの港町を抑え、東常陸にも影響を及ぼしている。北条家とは三年の停戦条約を結んでいるため戦闘は発生していない。この隙に殖産興業に努め富国強兵を狙っている。また、貿易に関する協定も多く結んでるため大量の船舶が東京湾を航海している。長尾軍来るの報はすぐに手に入ったが憲政に協力することを良しとせずあくまでも自分が主体で北条を打倒する腹づもり。憲政に仕えるならば氏康の方がマシだと思っている。両家が潰し合ううちに佐竹や小田と何か事を起すつもり。イメージCV、土師孝也

 

 

安西実元…里見家家臣。参謀役を務めており、随所随所で意見を述べることが多い。義堯の陰謀の成功率は微妙だと思っているがこのままではじり貧なのも事実なのでそれに賭けることにした。

 

 

 

 

<信濃>

 

 

小笠原長時…信濃守護。小笠原礼法と言う礼法の名門の当主でありながらその存在は礼法とは程遠い女好き。美女美少女によるハーレムを夢見ており、信州の美人を集めて遊興に耽っていた。しかし実力はありその剣の腕は本物。景虎の美貌に狂わされ、いきなり出合い頭に求婚。怒られるのを通り越して唖然とさせてしまう。かつ下品な男だと思われているので彼の野望は望み薄。村上義清相手にも自分の印象の下がるような事を言わないように騒ぐなどかなり面倒な人間。怖いもの知らずなのか何なのか、挙句の果てには政景にまで喧嘩を売りに行く始末。その際に雑魚と罵られるがこの場合は正論だろう。まったく堪える様子もないので恐らく生涯変わらないだろう。とは言え、礼法の知識と守護の座は本物なのでまだしばらく越後に居られるだろう。少なくとも上洛するまでは。イメージCV、松岡禎丞

 

 

村上義清…旧葛尾城城主。晴信相手に幾度も苦戦を強い、多くの将兵を討ち取ったが陰謀と策略には勝てず砥石城を失陥。それによって配下の国衆が相次いで離反した為形勢不利を悟り一縷の望みを託して越後へ亡命することになる。亡命した後は景虎を我が物にしようとする小笠原を制止しつつ、武田軍の情報―例えば騎馬軍団を動かす道を整備していることなど―を渡す。亡命はしたものの、復権自体は諦めていたが景虎が予想外にも北信への遠征を決めたことに面食らう。だが、最終的には複雑な思いを抱えつつ戦場とするならば川中島であると助言した。その後は宇佐美と語らう中で晴信を名将に育ててしまったのは自分ではないかと後悔を見せ、戦乱の火種を持ち込んでしまったことの責任を取り越後で暮らし毘沙門天の旗の下で死ぬことを誓った。イメージCV、速水奨

 

 

楽厳寺雅方…村上家重臣。多くの重臣が死んでしまったので砥石城を任されている。砥石崩れでは見事に武田の幾重にもわたる猛攻から耐えきった。が、後に勘助によって城を奪われてしまい、降伏した。

 

 

高梨政頼…北信の中でも更に最北、越後との国境沿いに勢力を持っている。その為春日山の府中長尾氏とは関係が深く縁戚である。景虎とは従兄弟の関係にある。多くの勢力が武田に降る中、一人で必死に耐えていたが景虎の遠征によって何とかなりそうなことが確定した。イメージCV、飛田展男

 

 

出浦盛清…信州の豪族。領主と言う一面のほかに忍びという側面があり、真田幸隆とは旧知の仲。信州生まれでありながら甲斐の晴信と組んだことを疑問に思っている。砥石城に地雷火を仕掛けようとしている勘助を見かけるが何も出来ない老人と侮ってしまい見逃した結果城を陥落させる結果になってしまう。砥石城陥落後はすぐさま武田に臣従することで難を逃れた。

 

 

根津甚八…水を住処とする忍び。陸上行動は苦手だが、水中では無敵に近い。根津家を滅ぼし、湖賊に貶おとしめた武田晴信を討つために村上方についた。砥石崩れの際は千曲川を用いた行動で味方を助けていた。筧十蔵とは同じ山をさ迷った仲として義姉妹であったがその誓いを破って真田に与した重蔵を恨んでいる。砥石城陥落後は武田に与するのを嫌い、去って行った。

 

 

海野六郎…信濃随一の名門・海野家の姫。元々は真田家の主人筋であったが戦乱の最中没落。元家臣筋にも拘わらず武田に与している真田を倒すべく村上方についた。木々の間を高速で移動するのを得意としている。砥石城陥落後は真田と同輩になるのを嫌い、去って行った。

 

 

屋代政国…信濃の国衆。砥石城陥落の報を聞き、最早村上家もこれまでと見切りをつけて手土産に塩崎氏を引き連れ武田に臣従した。この背後には粘り強く交渉を続けていた信繁の存在があった。

 

 

室賀満正…信濃の国衆。砥石城陥落の報を聞き、最早村上家もこれまでと見切りをつけて武田に臣従した。この背後には粘り強く交渉を続けていた信繁の存在があった。

 

 

仁科盛政…信濃の国衆。。砥石城陥落の報を聞き、最早村上家もこれまでと見切りをつけて武田に臣従した。この背後には粘り強く交渉を続けていた信繁の存在があった。領内の交通関連の利権の保障を引き換えに提示した。

 

 

 

 

<他>

 

 

蘆名盛氏…蘆名家の当主。目覚ましい発展を遂げる北条家を見習うべき対象と定めている。漁夫の利を得るべく関東出兵でがら空きの越後に軍を派遣した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<超短編Ⅴ・未来side・太平洋>

 

 1942年、6月。東太平洋上ハワイ沖。

 

 この海域を機動部隊が進んでいく。旗には日章旗。7隻の空母とそれに付随する多くの随伴艦。その旗艦・赤城の指揮所で一人の男が電文を読んでいる。白い軍服、階級章には最上級を示す記号が書かれている。実力主義の粋と言われる大日本帝国海軍、その若きトップがこの海軍創設者である一条家の当主(現在32歳)である。紆余曲折を経た帝国は、海主陸従の海軍偏重国家になっており、陸軍は少数精鋭になってしまっていた。艦内はせわしなく人が蠢いており、間もなく大作戦が始まる事を予感させていた。

 

「閣下、準備が整いました」

 

「…ああ、そうか」

 

「何か、本国から通信でありますか?」

 

「いよいよもって英国が危機だそうだ。今日明日にも上陸されかねないんだそうで、本国としては、早くこの部隊を欧州に回したいのだろうさ。ドイツめ、どこに海軍を隠して居やがったのか、英国海軍は五分五分の戦いを強いられているらしい。プリンスオブウェールズが沈んだと、英国では蜂の巣をつついたような大騒ぎだそうだ。やはり時代は航空機だ。貴官の意見を採用して正解だった、井上さん」

 

「……私は閣下よりも階級が下の人間であります」

 

「それでも貴官の論文が役に立ったのは言うまでもない。中将」

 

「私は戦争には反対であります。それは今も変わりはしません。あの首相は何を考えているのか…」

 

「まぁそう言うな。向こうから仕掛けてきた戦争だ。北条さんも色々配慮が必要だったんだろうさ」

 

 カツカツカツと走る音が聞こえる。

 

「伝令!レーダーに感あり!10時の方向、ミッドウェー海域!」

 

「……出番だ、中将。全機に発艦命令を」

 

「全機発艦!直掩隊のみ残して全機で米空母を叩け!」

 

 慌ただしい音が響き、やがてプロペラとエンジンの回転音が響き渡る。艦橋要員は白い帽子を振りながら彼らを複雑な面持ちで見送っていた。

 

「何機、帰って来れるだろうか」

 

「…………」

 

「虚しいだけだな、戦争なぞ。我が先祖は良くこれに耐えたものだ。男も女も等しく海に散っていく」

 

 史実では男性のみだった海軍だが、現在の帝国海軍の2割は女性であった。士官の中にも何人もいる。

 

「見てくれ中将、電報の中に入った本国のニュースだ。気慰めになると思って送ったのだろう。空気の読めないお役所野郎どもだ。本国は呑気に今年の競馬の結果予想だ。帝国の勇将・一条大将果敢に米帝を撃ち墜とさんする最中、其の偉大なる祖の名を冠ししレースにて歴史を刻むはいずれか、だそうだ。我らが命を賭して海上にいるときに、銃後は馬の心配。何が帝国賞旭日杯一条記念だ、馬鹿馬鹿しい」

 

「銃後が平和なのは、軍人として喜ぶべきことでしょう」

 

「貴官のその生真面目さには感服する。……何が英雄だ。俺は英雄じゃない。先祖の名を追い続けて未だ届かない、ただの凡人だ」

 

「……」

 

「全艦、取り舵。左舷回頭45度。目標進路、ミッドウェー!」 

 

 運命の海域に船は行く。ただ、この世界での結末は、史実とは180度変わったものになるのであった。

 

 

 

 

 

 

<超短編Ⅵ・かつてありし日々>

 

 ジリリリリとけたたましい音が鳴る。ゆっくりと目を覚まして時計を止めた。深く息を吐く。もうほとんど冬の香りのしなくなった部屋を見渡し、小さくため息を出す。いつもと変わらない朝が来ていた。

 

 一人しかいない部屋から出て、一人しかいないキッチンへ行く。卵を割ってパンをトースターにぶち込んでから顔を洗う。鏡で濡れた顔を見れば、可もなく不可もないと良く言われる人相の自分がいつも通りそこにいた。コーヒーを入れてご飯を食べ、テレビをつければ天気予報とニュースが流れる。世界人口が65億人を突破したという内容を大真面目にキャスターが語っている。それをぼんやり眺めて、口を動かす。

 

 食べ終わればサッサと片づけをして、夜の仕込みをして、昼ご飯を作って、着替える。つきっぱなしのテレビを消して弓道の道具を持って鞄を抱え、家を出る。

 

「行ってきます」

 

 返事など帰ってくるはずのない部屋に挨拶をして、私は家を出た。何の変哲もない、2006年3月の朝だ。

 

 

 

 

「おお!」

 

「ああ、おっちゃん。生きてる?」

 

「勿論生きとるがな。見とったらわかるやろ」

 

「昨日遅くまで呑んでて怒られたでしょ。声聞こえてたからね」

 

「バレちまったか。ちょ~っと飲み過ぎちまったわ」

 

 隣に住んでいるおっちゃん。年は52歳。工務店の社長をしているらしい。詳しくはしらないけれど。彼とはよく馬や釣りの話をする仲だった。微妙におじさんくさい趣味がまさかの交流を生んでいた。この前の菊花賞もわざわざふたりして仁川まで見に行ったのもいい思い出だ。

 

「今日はお休み?」

 

「午後からやなぁ~」

 

「そっか。あんま飲み過ぎないでよ」

 

「そっちも気ぃ付けてなぁ」

 

「はいはい。行ってきますね」

 

 奥さんに命じられてゴミ捨てをしようと一回まで下りてきた彼に見送られ、私は学び舎への道を歩き出した。

 

 

 

 

 電車に揺られ、30分。私の学校はそこにある。大きく綺麗な校舎は私立校である事が明らかな見た目をしている。教室に直行するのではなく、奥へ進み弓道場を目指す。

 

「「「「おはようございます!」」」」

 

「ああ、おはよう。早いな」

 

 ガラガラと引き戸を開ければ大きな挨拶が飛んでくる。全国大会でも常連の弓道部。先輩から受け継いだ部長職の名に恥じぬような戦績を作って次代に引き継がないといけない。さもなくば顔向けできないだろう。朝のHRまで小一時間。その時間を部員の指導と自分の練習に当てていた。今年は筋のいい子が多い。大会結果も期待できるだろう。

 

 

 

「「「「お疲れさまでした!」」」」

 

「はい。お疲れ様でした。日に日に良くなっているように思えます。三年生が引退した今こそ練習を積み、新入生を迎え入れる準備をしましょう。そして、もうすぐ期末テストがあります。部活動のみならず、学業においても優秀な成績を残せるよう、努めて下さい。分からないところがあれば助け合うもよし、先輩に聞くも良しです。頑張りましょう」

 

「「「「はいっ!」」」」

 

「それでは解散。くれぐれも遅れないように」

 

 礼節を重んじる部活の生徒は当然日常生活でも品行方正であることが求められる。正当な理由のない遅刻など以ての外、と先輩は常々厳しく言っていた。上手い下手よりも人間として尊敬される存在でありなさい、と。私もそれには賛同する。なるたけ正しく生きようとするのは、必要な事だろう。特に集団生活を営むのであれば。

 

 

 

 

 教室に行けば半数以上が既に席についているか友人と話している。声をかけられたら返して挨拶をし、自席に鞄を置く。

 

「朝練?」

 

「その通り。そちらは?」

 

「生徒会の仕事で、少し。ほら、卒業式が近いでしょう」

 

「ああ、送辞か」

 

「練習しておくに越したことは無いから」

 

 黒いポニーテールが揺れる。切れ長の目がこちらを見据えてくる。もう二年の付き合いになるこの元委員長、現生徒会長は私にすれば比較的仲の良い友人と言えるだろう。基本真面目なので付き合いやすい。元は去年のクラスの委員長が彼女で副が私だった。その縁で選挙の際の応援演説を頼まれた。二年生時の文化祭実行委員長は色々あって私がしていたのでそこでも仕事で絡む事が多かった。どういう因果か今は隣の席にいる。読んでいる本は私が貸したものだった。

 

「これ、難解ね」

 

「普通の高校生は資本論を読もうとしないからね。対象年齢が違うんだから、仕方ないさ」

 

「貴方が読めるなら、私だって読んでみせるわ。それはそうと」

 

 彼女はパタンと本を閉じる。綺麗な栞が挟まっている。私のボロい無機質な本も多少華やいだように見える。

 

「進路は決めた?第一はやっぱり京大?」

 

「近場の国立なら、まぁ。学部はまだ迷ってるが多分文か法」

 

「オーソドックスね。学部だけ違う感じかしらね。私は経済志望だし。それ以前に貴方にテストで勝たない事には安心して進路を目指せないから」

 

「いや、今のところ私が2年で合わせて7戦中4勝3敗だからそんな闘志を燃やさなくても。普通に何回か負けてるし」

 

「前回、1点差で負けたのを忘れてないわ。次こそリベンジ」

 

「まぁお好きにどうぞ。また私が華麗に持っていくだけですから」

 

 特進クラスのワンツートップが競り合っているのは割と有名な話になっているようだ。別にそれに対して特に何らかの感情や感想を抱くことは無いけれど。窓の外の植栽は徐々に緑の目が出始めている。

 

「もうすぐ春ね…。春休みは何か?ずっと部活?」

 

「いや、そうでもない。ちょっと福引で大当たりを引いてね。箱根に行ってくる」

 

「温泉旅行とは良いご身分ね。受験生さん」

 

「それを言わないでくれ。まぁ言うても2泊3日だし、すぐ帰るさ。なんかお土産買って帰るよ」

 

「期待して待ってるわ」

 

 関東へ行く機会はあんまりない。そこそこ楽しみだった。

 

「戻ってきたら連絡頂戴。私も映画のペアチケット当たったにも拘わらず、みんな都合つかなくて」

 

「了解」

 

 後輩に囃し立てられそうな気もするが、友人としては妥当な距離感だと思う。決して友人の少なくない彼女の友達が全員予定が入っているのはなかなかの確率だが、そう言う事もあるだろうと思って特に気にはしなかった。

 

両親はいなくても私は決して一人でいる訳じゃない。まだ将来の事など、何一つ分からないけれど、そうそう悪い事にはならないような予感を抱きながら、いつも通りの授業を受ける準備を始めた。一時間目は日本史。私の得意科目だった。春に近付く空は青々としている。平和な時間が流れていた。 




まず、一つ御礼申し上げます。拙作のお気に入り登録者数が2000人を超えました。本当にありがとうございます。この作品をこんなにも多くの方が評価して下さっていること、感謝の念にたえません。高評価や暖かい感想も多くいただいて、日々幸福と幸運を噛み締めているところです。コロナ禍でオンライン授業の日々が続き鬱屈した感情の慰めに始めた活動でしたが、今ではすっかり生き甲斐の一つとなっています。一つの区切りとして、報告させていただきました。重ね重ね御礼申し上げると共に、今後ともよろしくお願いいたします。

また、前々から考えていた登場人物のCVモデルが出来上がりました。作者がこういう声優さんをイメージしてキャラクターや台詞を作っているという参考になればいいなと思っております。敬称略で載せました。あくまでもイメージなので、なんか違うなと思ったらご自分で当てはめてみて下さい。


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第6章 有翼の獅子
第78話 百年の大計


作中で年が明けるにあたって新章のスタートです。この年も多くのイベントが盛りだくさんの予感。一体原作に辿り着けるのはいつの事へやら…。


 年の瀬が迫り、城内も城外も慌ただしい雰囲気を醸し出してきた。年末年始に向けての商品が発売されはじめ、店は総決算の時期に突入している。借金取りが走り回り、債務者は逃げまどっている。正月というものはいつの時代もビックイベントであるらしい。神社や寺は稼ぎ時とばかりにお札やらお守りやらを売り始めた。まぁ、これはこちらの入れ知恵によるところも大きいが。

 

 そして昨年、一昨年はそれぞれ戦争中、当主重態につき行われてこなかった新年の儀もあると通達が来た。関東管領と関東公方が傘下に入った以上、恐らく鶴岡八幡宮でも何らかの神事を執り行う可能性が高い。我々家臣団もほぼ全員が小田原へ参集する。普段は会わない人とも接触する機会なので是非とも家中での人脈を強化しなくてはいけない。ただでさえ流れ者の身。味方は多い方が良い。

 

 城はほぼ空になるが、数名だけ家臣が残る。兼成、綱成、朝定、胤治、綱房なども全員強制出仕だ。更には人質ではあるが諏訪頼重も参加が求められている。他が一門衆引き連れてくるのにこちらだけボッチでは面目が立たない。体面を整えるためには必要な事だった。兵数も精鋭百五十騎が付き従う。朝定には深谷上杉家から貸し出された精鋭三十騎も加わるので警護体制はバッチリのはずだ。段蔵不在だが、朝定は表で剣聖、裏で才蔵が守ってくれている鉄壁の布陣だ。突破できる奴がいたら見てみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一週間近くかけて小田原の街に辿り着く。相変わらずの賑わい。そして港も豊かさで満ちている。割と早めに到着した為か、まだ着いていない家も多い。なお、小田原入城の際は盛大に行軍する事が求められている。戦意向上のためでもあり、家中の活動に理解を示してもらうためでもある。事前にいついつのこれぐらいに着くと連絡してあるため、城内も準備が良い。ちょっとしたお祭りみたいになっている。

 

「開門!」

 

 小田原城の外郭の門が開かれ、大きな街が姿を現す。大通りの中央は道が開けられており、我々が通行するための道になっていた。沿道の人々の目線が一気にこちらへ降り注ぐ。

 

「おお、一条土佐守様だ!」

 

「後ろには関東管領上杉朝定公もいらっしゃられるぞ!」

 

「地黄八幡様よ、こっち向いて~!」

 

 沿道から多くの歓声が飛び交う。盛んに喧伝されている北条家の大戦果プロパガンダはしっかりと小田原城内でも機能している。有名どころは名前と顔がある程度割れているのだった。なるべくゆっくりと行進しながら街を見渡していく。参考にできる処はどんどんしていかないといけない。そうやって、徐々に進んでいき武家屋敷の立ち並ぶゾーンへと突入していったのだった。

 

 かつて私の暮らしていた屋敷は流石に格好がつかないため、もう他人の手に渡ってしまっている。糟糠の…では無いが思い出深いところも多かったが仕方ない。立場にはそれ相応に見合った環境が求められる。衣・食・住においてだ。例えば一国の大統領が百均の腕時計を付けてたら格好がつかない上に舐められるのと同じだ。屋敷が別の北条姉妹、朝定とは分かれて与えられた新居へ入る。……造りはいいのだが、如何せん落ち着かない感はぬぐえなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 除夜の鐘が鳴り響いた翌朝。早朝六時頃から登城が命じられている。やや丘城になっている小田原城からは、初日の出が見える。その光を浴びながら、城へと入って行った。城内の大広間にはかなりの数の家臣団がいる。普段目にする面子もいれば、全く知らない人も。そしていつも通り、上座がまだ空席で、上座から見て横顔が見える形で向かい合っている。

 

 案内の係りが席を指定している。私の家臣は私の後ろに座るように指示されていた。そしてその席は一門衆が上座に近く、その次に三家老方。そして更にその下だった。そう言うとなんだか下っ端みたいだが、まだまだ下座に大量に席が用意されている。三家老に次ぐ。それが五色備えの待遇だった。時刻が経過すると共に続々と人が集まってくる。近くに居る者同士で話が始まるのもいつもの評定と変わらない光景だった。

 

「お早うござるな」 

 

 不意に声をかけられ驚く。声の主の方を向けば、初老の武者が礼服姿で立っていた。そのまま私の隣の上座に近い方に座った。彼の存在を私は知っている。文官風の顔をしているがその実かなりの武闘派でもある。何をやらせてもそつなくこなし、完璧の名を持って三家老すらもその発言には一定数の配慮を見せる早雲公以来の大宿老。若い頃はそれこそ美男であっただろう面影を残す風貌の美老人である。その名を笠原越前守信為。つい先ごろ加賀介の官位を都からもらったが、本人も周囲も越前守で通している。

 

「これはご挨拶が遅れまして、誠に申し訳ございません。越前守様に置かれましては、本年もご壮健の事お慶び申し上げます」

 

 後ろで兼成と胤治も一斉に頭を下げる。席次では五色備えだが、その実力を使えば三家老家の筆頭、松田家ですら首を垂れるだろう。私は直接見ていないが、箕輪城の戦いでは甘粕景持、斎藤朝信と言った後世でも名を知られる武将相手に余裕の戦闘を見せ、一歩も後退せずに完封勝利するという離れ業をやってのけた御仁である。見習うべき存在であった。

 

「そう固くならず。最早我らは同格。同じ五色備えとなり、それぞれ一門のご連枝をお支えする立場ではないか。儂は伊豆で氏政様を、汝は北武蔵で氏邦様を。そうであろう?」

 

「で、ありますが私としては家中に名高きお方に若輩の身ながら同格などと思いあがるは些か荷が重く。このままお話いたしたく思います」

 

「ハハハ、左様か。汝のそのような点、儂は存外評価しておるでな」

 

 意外な言葉が飛び出てきた事に、下げていた頭を上げる。

 

「意外という顔じゃな。ま、無理もない。表立って接点も無し、であったからなぁ。新参は増長しやすい。特に才があればあるほどな。儂は才ある者はどんどんと出世すれば良いと思うておるがそうでない者もおる。そんな者たちと無用な軋轢を起し才人を失うのは損失であると思っておったが……杞憂のようじゃ」

 

「はっ。宿老のご歴々を蔑ろになど、毛頭致しませぬ。如何に大身になろうとも、この身の忠誠は御家に。未来永劫無くならぬ感謝は家中のご歴々に、でございます」 

 

「ならば良し。恩を売るつもりでは無いがな、種明かしをすれば氏康様が汝を拾ってきて暫くこの城に居る折に家中の諸将に汝の名を広めたのは儂なのじゃ。ちなみにお主の副将と氏政様とを繋いだのも儂でな。和歌の繋がりを持っておる」

 

 どうりで、と思った。この世界にきてしばらくここで過ごしている間に、積極的に家中と交流するようにはしていた。とは言え、身分もなく氏素性も知れぬ流れ者を受け入れてくれる訳もないと思っていたが、以外にもスムーズに受け入れられた背景には氏康様の口利きと共にこの御仁の尽力があったらしい。恐らく家臣団だけでなく一門衆、ひいては亡き氏綱公にも…。

 

「ありがたきことにございます。されど…当時は何も成していなかった一介の若者に、何故……?」

 

「野望の目をしていたのよ。そして野望と言うても北条の御家を滅ぼさんとするものではなく、むしろ逆であった。儂はそれが気に入ったのよ。亡き早雲公が救世救民の心に燃えておられた時と同じ光を、汝の目に見出した。言ってしまえばそれだけの事じゃな」

 

 カカカと彼は笑う。確かにあの頃は必死だった。この世界という慣れない土地、文化習俗、環境。それらに順応するために必死で、そしてこの世界に、この家に受け入れられるために必死だった。それが目に留まったのなら、頑張った甲斐もあったというものだろう。

 

「それは何とも……どう御礼を申し上げてよいか…」

 

「いやいや結構結構。礼を言われる為にやった訳では無いからなぁ」

 

 恐縮しながらへこへこしていると、続々と人がやって来る。石巻家貞、大藤政信、富永康景などの大物が多い。そしてその中で一人すり寄るようにして近寄ってくる男がいた。生憎と顔と名前はまだ一致しておらず、誰だかよくわからない。

 

「これはこれは!関八州に名高き一条土佐守様と笠原越前守様ではございませんか。土佐守様に関してはお初にお目にかかりますなぁ、某、江戸城を預かっております、太田康資と申します。どうぞお見知りおきを」

 

「ああ、これはご丁寧にどうもありがとうございます…」

 

「某は、まぁ当然ご存じの事とは思いますがあの、あの!偉大なる!太田道灌の直系にして……」

 

 聞いてもないのにずっとペラペラ自慢話をしている。しかし太田康資か、資正と同じ一族の出身で確か江戸城代の……。あ、待てよこいつ確か。記憶が正しければ第二次国府台合戦の時に裏切る奴じゃないか!そう考えてみるとどことなく笑顔が胡散臭い。所領の多さもトップクラスなのに下手に出てるのも勘ぐってしまう。先入観は良くないのだが、明らかに忠臣の類ではない雰囲気がプンプンする。どうしたものか、と困惑していると、助け船が入った。

 

「太田殿、その辺で。お話はまた今度、ゆっくり聞かせて頂こう」

 

「お、おお!そうですなぁ。それでは某はこの辺で」

 

 そう言うと足早に次の人のところへ行って大袈裟に挨拶している。

 

「あれは好かん。獅子身中の虫の匂いが抑えきれぬくらい漂ってくるわ。お主も付き合い方には気を付けるがいい。利を与えておけば大人しいからな。ま、今日明日にも離反はしないだろうが」

 

 信為殿はそう耳元で囁く。史実を知っている以上、余計その言葉に説得力があり、ただ頷くしかできなかった。

 

 

 

 

 そうこうしていれば徐々に上位の人々が入ってくる。まずは伊勢家の伊勢康弘。続いて小笠原家の小笠原康広。二人とも家臣と言うよりは客分である。伊勢家は早雲公の実家であり、その繋がりで関東に下向して京への取り次ぎなんかもしている。同族が幕臣にいるため、連絡が取りやすいのだ。そして小笠原家は早雲公の妻の実家であり、元は早雲公の同僚であった幕臣が下向してきている。礼法関連は彼が担当しており、有職故実に関しては彼に全て任せている。いわゆる現代で言うマナー講師だ。どちらも軍役などないが扱いは優遇されている。

 

 そしてもう一家。台帳にすら記載がない勢力がある。それは世田谷領主吉良家。『足利絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ』という言葉で言い表すようにすさまじい名家だ。あの今川義元ですら、彼らの前では下座に座らされる。その本家は三河にあり、忠臣蔵で有名な吉良上野介もここの出だ。そんな名家故に臣下ではなく一門に近い扱いが成されている。勿論、法や制度においてキチンと従ってはいるし軍も動員しているのだが、その際も動員命令ではなく動員要請と言う形で発令される。理論上は断っても構わない訳だ。そんな存在だが、足利晴氏を関東公方として既存の枠組みを利用しつつ関東制覇を目指す以上彼らの立ち位置を変える訳にはいかなかった。現当主は吉良頼康。『康』は偏諱である。通称は「世田谷御所」や「蒔田御前」。その名からも格が伺える。

 

 一門衆の方々も見え始める。北条シスターズや幻庵媼、その子供たち、そしてこちらも滅多に見ない顔であるが亡き氏綱公の猶子・北条治部少輔綱高様がいる。女性の多い北条家では珍しい男性。一応血の繋がりはあり、氏綱公とは叔父と甥の関係になる。筋骨隆々の偉丈夫で、大分年はとっているが衰えの気配は全くない。五色備えの赤に封じられるのも納得の様態だった。

 

 

 

 

 

 

 

「静粛に。鎌倉府執権・北条氏康様並びに関東管領・上杉朝定様のご到着である」

 

 小姓から放たれた言葉にピタッと会話が止まり姿勢が正される。スッと襖が開き、まずは向かって左側の氏康様が、次いで朝定が出てくる。左側に氏康様なのは左大臣の方が上なのと同じ理論だ。日本では左の方が高貴であるとみなされる。中央の空いた席に座るべき人物はこの後に来る。

 

「関東公方・足利晴氏様のご到着である」

 

 ザっと一同が前を向き、一斉に頭を下げて関東で一番高位の存在を迎え入れる態勢が整う。武家はこういうルールの上に成り立っている。その空間の中を歩いた音も立てずに足利晴氏は着座して声を発する。

 

「面を上げよ」

 

「「「「ははぁ」」」」

 

「新年を迎えたこと、真にめでたき仕儀である」

 

「「「「おめでとうござります」」」」

 

「先年は、争い多き年であった。本年は、関東に静謐のもたらされん事を希望する。その為、この場に集いし者は、余が臣たる両名に奉公し共に万世に繋がる安寧を創出せよ」 

 

「謹んで、承る次第でございます」

 

 我々は彼からすれば皆陪臣。故に口を開くのは代表者たる氏康様において他ならない。傀儡である朝定は手はず通りに黙って座っている。

 

「余が頼む臣は汝らである。北狄のもたらす戦火を振り払い、南蛮と渡り合い、苦汁を耐え、忍従して乱世を治める事に注視せよ。それのみが余の求めるところである」

 

「必ずや御宸襟を悩ます奸を滅し、此の地に楽土を築きましょうぞ」

 

 氏康様がそう言うと微かに頷き、彼は退出する。これだけのために鎌倉から呼び出されたのだから大変だが、そうは言ってもただ飯食らいに居場所はない。高等遊民しているのだからたまには働いてもらおう。そしてこの発言で大きかったのは越後を北狄認定したことだった。公式の場でこう言ったので北条家としては大手を振って対越戦に臨める。関東管領はどう頑張っても関東公方の傘下。史実通りに景虎がその座についても関東公方から討伐命令を出されたらそれまでだ。ついでに武田家にも正当性が生まれたことになる。彼らにとっても思わぬ副産物かもしれない。と言うのも大昔は鎌倉府の管轄国に甲斐も含まれていた。頑張れば北条家は甲斐支配の正当性を主張できるのだが、やらないのは単純にそちらに興味が無いからである。他にも理由はあるが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 頭を下げていた氏康様はいなくなったのを見ると「ああ、スッキリした」とでも言いたげな顔で首をコキコキ鳴らして中央の上座に座りなおす。プライドも結構高い方なので、あまり頭を下げ慣れていない。しかもお好きではない旧体制の具現化みたいな存在に頭を下げるのが気に食わなかったのだろう。それでも邪険にしないのは利用価値があるのと単純に血縁があるからと、そこまで相手が悪い人間ではなく黙って北条家に権力を投げ渡しているからである。そんな我が主の側の朝定は隣でちょこんと座っているが特に何もすることは無いだろう。

 

「昨年は、多くの事があった。河越での大戦、家中の面々の任官、そして上州征伐。この一連の中で当家はその勢力を盤石なものにしたわ。これによって、最早日ノ本全土に敵対でもされない限りは安泰よ。そのことに、まずは感謝しましょう。私に、そして我らの大義に従う全ての臣下に、最大限の感謝を」

 

 我々は着座のまま礼をした態勢で動かない。感謝の言葉を黙って受けていた。

 

「そして、今年の大計を示しましょう!」

 

 顔を上げた我々の目に飛び込んだのは二枚の長い紙。それぞれ『不攻内安』、『農地豊楽』とある。これが今年のスローガンになるのだろうか。まぁ、漢字を見れば意味が解るが、詳しい内容までは察せない。

 

「盛昌、説明を」

 

「はッ!まずは一つ目ですが、これは我々からの攻勢を停止するという事です。即ち、対外拡大のための積極的攻勢はこの一年、中止します。当家は昨年の間に多くの所領を獲得しました。しかし、支配の行き届いている相模や伊豆とは異なり、まだまだ日が浅く当家の施策が行き届いていないのが現状です。その為、内部の安定化を図るべく、こちらからの攻勢を禁じます。ただし、相手側からの攻撃の予兆あれば断固として対応するのに変化はありませんので皆々様に置かれましては変わらぬ武芸の鍛練をお願い致します」

 

 なるほど、里見とは不戦条約を交わしている。三年の期限はまだ切れない。佐竹や小田もそうそう簡単には動けない。三国峠のおかげで長尾ともそこまでやり合わないようになっているし、万が一には武田や越中を動かす算段か。もし仮に長野に攻撃の意思があれば対抗はするもののこちらからイケイケどんどんとはならないと。堅実だが当家らしい策だ。中身の安定は何よりの国力増加に繋がる。

 

「そして二つ目。これは農地の大改革を予定しております。既に一条殿発案の農政改革は皆々様の元にあるかと思います故、それはそれとして行いつつになります。具体的な施策ですが、武蔵野台地を潤します」

 

 それには流石にざわめきが走る。武蔵野台地とは、現在の東京都中部から埼玉県南部にかけての巨大な台地地帯だ。水脈が地中深くなので荒野が広がっているのみだが……まさか!玉川上水計画だろうか。確かにあれは本流は江戸に流れているが支流が武蔵野台地全土に水を供給している。

 

「多摩川から水を引き、武蔵野台地の中に人工河川を創造いたします。そして計画案も既に完成し、概ね実行に移せる段階へとなっております。その指導者も既に確保しております。これへ!」

 

 動揺する我々を他所に襖が開く。そこには二名の顔のよく似た兄弟が座っている。ちょっと時代が早すぎる気もするが、今更だろう。あれは恐らく玉川兄弟。

 

「兄の庄右衛門と弟の清右衛門でございます。彼らは水脈に詳しく、また武蔵野台地の風土に関する知見も多く持っていることを確認しました」

 

 いやはやしかし、なるほど。これが実現すれば確かに生産量は飛躍的に向上する。それ故に不攻なのか。戦争する資金や人員を全てここにぶち込むために。呆気にとられてみんな魂が抜けたような顔をしている。だが流石の人材たち、すぐに現世に戻って来て思案を始めている。

 

 

 

 

 

 

 

「これらはまだ計画段階。故に、皆の賛同があって初めて実行に移されるわ。意見あれば、いかなる者でも構わない。いくらでも言いなさい」

 

 そう言われ、各々で思考をしていた諸将が話し出す。この合議制が北条家のある種民主的なところだった。最終的な決定権は保持しつつも、意見を述べさせる。そうやって不満を潰す。また、もし家臣の多くが反対すれば実際に政策を取りやめる事もあるようだ。絶対君主制の中央集権を出来る環境でもしないのは信念をお持ちなのだろう。

 

「不攻と仰せられたが、武器の開発はいかがなりましょうや。鉄砲、南蛮船、何れもそろそろ国内での製作を始めるが吉と存じますが」

 

 言ったのは大藤秀信。紀州は根来の出身という異色の出であり、鉄砲を最初に持ち込んだ人物だった。それ故にその重要性を認識しているのだろう。

 

「勿論、それは必ず行うわ。硝石の輸入方法のめどが立ち次第、実戦配備も視野に入れて制作を行わせるつもりでいます。船も取り敢えず完成図は出来たから一隻だけではあるけれど相模の船大工を結集させて建造に当たらせているわ。試行錯誤しながらではあるけれど四か月以内に出来るそうよ。まぁ一万五千貫(大体16億円くらい)吹き飛んだ上に山一つ禿そうになっているけれど…」

 

 めちゃめちゃ金かかってるなぁ。これ量産したら真面目に国滅びかねない。後木材資源が…。イギリスの山から緑が消えた理由が分かる。海軍は金かかる。本当に。建艦競争とか正気の沙汰じゃないのが実際に為政者になると良く分る。多分銃火器開発にも大砲政策にも金がかかる。イギリス船から武装の一つを買うのにかなりの額を吹っ掛けられた。金山がフル稼働していると噂には聞いているが、枯渇しかねない。勿論貿易等で財源はかなりあるがそれでも…。

 

「財源はいかがでしょうかな。多くの工事やら武具の開発に資金を使う上に朝廷工作にも多額の資金が要るのは当然ご存じのはず。当家の財政は持ちますかな」

 

 尋ねるは三家老家の席次は三番目。遠山綱景である。

 

「それはもっともな懸念よ。当然、余裕綽々という訳にはいかないわね。かなり苦しくなると言わざるを得ない。けれど、工事が成功すればかかった費用を遥かに超える利益があると確信しているわ。具体的な数字は耕地面積とそこで収穫できる目算の作物量を盛昌に作らせているから見てちょうだい。里見との不戦のおかげで内海(東京湾)は我らの庭。北条家の商船は北は蝦夷地、南は琉球まで足を伸ばしているわ。その利益をもってすれば、財源確保も可能ね。国庫を費やす価値はあると、そう踏んでいるの」

 

 大方の問題点はこの辺りに集約されている。この後も、詳しい工期や動員する人員の規模、工事のやり方などについて質問が相次いだが、それに対して全て明朗にスパスパ応えていった。多くの者は好感触である。確かに負担は増えるが、その分のリターンも多そうだからである。生産量の向上は領主の利益と直結する。財源を心配する声は大きかったが、目途が立ちそうなことに納得はしている様子だった。私はまぁ、財源の心配はしていないので、工事の計画書を見ている。無くなるのは小田原の予算で、こちらの予算ではない。街道拡充計画は並行して実施可能だろう。計画によれば伊豆・相模・南武蔵の人員が主に動員されるようだし、問題は少ないはずだ。そんなこんなで計画を見ていると一つ気付きがあったので声をあげることにした。

 

「こちらの計画書を拝読いたし申した。大変良く出来ているように思われるが…一つ」

 

「謹んで承ります」

 

 兄弟の兄が緊張した面持ちで応える。

 

「取水地の第一案を日野に、第二案を福生にしているが、辞めた方が良かろうと存ずる。第三案の羽村前丸山裾より水を反させる方になされた方が良いかと」

 

「何ゆえか、お聞きいたしてもよろしいでしょうか」 

 

「第一、二案いずれも水喰土の多い地であるからだ。調べればわかるだろう。私は仕官して間もない頃、この辺りに築城を命じられた経験があってな。色々と調べ歩いたのだ」

 

 後ろから兼成のそんなことしてたっけと言う視線をひしひしと感じるが、無視する。これは完全に未来の玉川上水に関する資料に残っていた内容だ。水喰土、即ち吸水性抜群の関東ローム層の事である。玉川上水はこの関東ロームのせいで二度工事を失敗して処刑されてしまった者もいる。

 

「は、ははぁ!そのように変更いたします!」

 

「汝は一体全体どこまでモノを知っておるのじゃ。この世の全てを知っておりそうじゃな」

 

「いえいえ、全ては知り申さぬ。知っていることだけです」

 

「なるほど、知らざるを知るか。知とはそういう物かもしれんな…」

 

 小声で話しかけてきた信為殿は何やら哲学の境地に入ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「意見は出そろったかしら」

 

 時が経ち、氏康様はそう声をかける。氏康様は皆がそれに微かに頷いているのを確認して盛昌に目で合図した。

 

「では、決を採ります。ご一門衆、賛同する方は挙手を」

 

 北条一門の全員の手がスッと上がる。

 

「続いて、三家老家、賛同する方は挙手を」

 

 こちらも同様。

 

「最後に、全諸将、賛同する方は挙手を」

 

 全員の手が一斉に上がった。方針は決定された。大国・北条家の一年の進路が定まったのである。

 

「皆の賛同に感謝を。必ずや、此の地に住まう全ての者の理想となる世界を創りましょう!」

 

 そう宣言する氏康様。そして我々の席の前に台と盃が運ばれる。盃には少量だが酒が注がれている。参加者全員の元に置かれたのを確認して、声高に音頭が取られた。

 

「今年一年の安寧と健康、そして当家の発展と関東の安寧を願い、祝い酒よ。乾杯!」

 

「「「「「応っ!」」」」

 

 一斉に飲み干される。新しい年が、変革の年が始まる事をひしひしと感じながら、その味を堪能した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数日後。色々な事があって大忙しであったが、取り敢えずひと段落着いた。氏康様はこの間に武田や今川、関東諸将などからの使者の応対をして、都からの使者のご機嫌を取り、小田原の街に出向いて街道を回り、家臣団を引き連れて鶴岡八幡宮に参拝などてんこ盛りだった。当然私も八幡宮へは参拝した。まだまだお仕事は終わっていらっしゃらないはずだが、私は呼び出されている。大方用件は予想している。多分もうすぐ帰国するイギリス船関連だろう。

 

「一条土佐守、参上仕りました」

 

「入りなさい」

 

「失礼いたします」

 

 ここは氏康様の邸宅。小田原城内にある。箱根の山から水を引き、池のある大庭園を擁し温泉まである大きな館だ。とは言え、質素な造りになっているのは流石北条家と言うところだろうか。呼び出されたのは庭の見える茶室だ。

 

「よく来てくれたわね」

 

「お呼びであれば何時であろうとも」

 

「ふふ。今日呼び立てた理由は二つ。まず一つ」

 

 その細くて白い指がピンと立つ。

 

「知っての通り長尾が当家に対決姿勢を露わにしているわ。恐らく和睦は不可能。長尾景虎…あの者こそ、私の見た夢の人食い兎よ。一騎打ちの際に見た容姿は白すぎる肌に赤い目。まるで兎のようだった…」

 

「長尾景虎がそのような容姿であったとは。人並外れた美貌を持つと聞いておりましたが」

 

「……」

 

 ジトっとした目でこちらを見てくる。その理由がはっきりとは分からないのだが、自らの容姿にも自信を持っておられるので仮にも家臣であるものが敵の見た目を褒めるのが気に食わないのだろうか。

 

「私個人としては人外じみた容色よりもご尊顔の方が見目麗しく感じますが」

 

「そ、そう。それなら良いのよ」

 

 正解だったのだろうか。いまいち何か重大なミスを犯した気がする上に脳内の氏政様が何かを叫んでいるのだが。

 

「コホン。その長尾に抗するにはやはり単独では難しい。今回は臨時で武田を使ったけれど、多分景虎はまた関東を目指す。その時に抵抗できるよう、武田とは対越同盟を組む必要があるわ。この構想には恐らく越中の一揆、日本海交易を荒らされている能登畠山や佐渡の本間、会津の蘆名も組み込める可能性があるの。けれど、取り敢えずは武田を防波堤にするわ。そこで、貴方にその担当を任せることにしたわ」

 

「つまり、私が対武田の外交を一手に担うと、そう言う事でしょうか」

 

「その通り。武田の人質を抱え、副将たる妹とも交流がある。貴方なら胡散臭い山本勘助や晴信本人、若年ながら老獪と噂の高い穴山信君とも渡り合えるでしょう。それに、陸奥守信虎から貴方を絶賛する文が届いているのよ。それも利用できるわ」

 

「では、武田が対越で援軍を乞うた際は…」

 

「行ってもらう事になるでしょうね。当家も面子があるわ。それ相応の将を送らなければいけない。けれど、三家老家は動かせない。元忠や信為は武田の主戦場から遠いし、綱高もダメ。となると、貴方と綱成が頼りなの。外交も出来るのは、貴方の方でしょう?」

 

「承知しました。お引き受けいたします」

 

「睦月の終わりくらいに一度武田へ赴いてこの構想の話やそれにまつわる交渉をしてきて頂戴。最低条件は伝えるから、後は全権を委任するので良い条件を引き出してきて」

 

「万事、お任せください。必ずや、ご期待に沿う形で交渉をまとめて参ります」

 

「よろしい。そして二つ目。イングランド船が帰国するのは知っているわね?そこで彼らの国の女王に親書を書きたいのだけれど、私はまったく言葉が分からないので代筆をお願い」

 

「かしこまりました」

 

 用意されていた筆と墨と紙をセットして、書き始める。

 

「東の地より、西国の女王にご挨拶申し上げます。いかがお過ごしでしょうか、とかがはじまりかしらね…」

 

 つらつらと述べられていく手紙の内容を全部英語にしていく。筆と墨で和紙にアルファベットを書くのは難易度が高い上に、適切な言葉に置き換えるのはなかなか骨の折れる作業だった。例えば千年の歴史ある東の地、貴国の考える黄金の国の女公爵が偉大なるイングランド王国の女王陛下にご挨拶申し上げます。みたいな感じで改変しているのだ。かと言って大外れな事書くと拗れるのでうまくバランスを取らないといけない。

 

 悪戦苦闘しながら文字を書いていると覗き込まれる。

 

「どう?どんな感じかしら…みみずみたいな文字ね。さっぱり読めないわ」

 

 筆記体だからそりゃ読めないでしょうねと思っているが、顔が近い。あと、顔が良い。止めてくれ、なんかすごくいい匂いのする髪でおかしくなるから。美人がめちゃくちゃ近くに居て何も感じないほど枯れてないんだ。惚れてしまうでしょうに。叶わぬ恋とかしたくないんだ。

 

「どうしたの?なにか、あったかしら」

 

 絶対確信犯な事のわかる声色で、氏康様はそう言う。無駄に距離の近いこの状況は、結局私が親書をかき上げるまで続いていたのだった。




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第79話 淀んだ新風

次回は…多分甲越のどっちかです。まだ未定ですが。割といろんなことがドサッと起こる回になっています。文字数的に考えるとこうするしかなかった構成なのでご承知おきください。


 小田原の港。そこは現代では漁港であるが、この時代は大きな港である。かまぼこなどの練り物用の魚介が水揚げされる現代とは異なり、漁業だけでなく多くの貿易船も停泊している。ただ、国際港とするにはやや狭いので、いずれは移転が必要になる事が明白だった。恐らくその場合の候補は江戸になるだろう。

 

 さて、そんな小田原港に今は一風変わった船がいる。大きなマストと白い帆。堂々と掲げられた白地に赤い十字の旗。ガレオン船、いわゆる南蛮船だった。東洋の情勢、お恐らくはスペインの展開規模の偵察に来たであろう船は、スペインポルトガルが食い込んでいる堺で居場所を無くしていた時に勧誘されこちらへやって来た。それから半年以上ここに停泊していたのである。

 

 そして今日はそのイングランド船の帰国日であった。途中堺で都への使者団を降ろしてからの帰国にはなるが。その見送りには多くの人々が来ている。そして当然交渉役の私も、臨席していた。

 

『こちら、私どもの主より、貴国の女王陛下への親書でございます。どうか、お納めください』

 

『確かに受け取りました。必ずや、陛下にお渡しいたします』

 

『積み荷は問題ありませんか』

 

『全て積み込みました。いつでも出航可能です』

 

 この積み荷は多くの物資である。帰りの航海の分の物資はこちらが提供した。色々貰った恩返しである。中でも重宝されそうなものとしては漬物があげられる。保存が効くので、多分食べられるだろう。これには壊血病を予防する効果もあるので、問題はないはずだ。更には多くの書画骨董や武具も詰め込んでおいた。中でも日本刀はかなりの業物を入れてある。漆器や鋳物、陶器なんかも技術力や文化を示すには大いに役立つだろう。

 

『イスパニア対抗の志を同じくする者同士、世界の裏側ではありますが手を携えて参りましょう』

 

『我らが女王陛下もお喜びになるでしょう。貴国の海軍増強は我が国の利となると判断いたしました。盛大に南海交易を荒らしまわっていただきたい』

 

 彼らは我々を国と判断したようだ。神聖ローマ帝国の諸邦のような認識なのだろう。と言うか、そう言う風に説明したつもりだ。姫巫女と言う法王的な存在がいて、それが権威上の皇帝である。そしてその配下に将軍=軍人のトップがおり、実務上の皇帝を担っていた。しかしその制度は崩れかけ、諸侯は時に手を組み、時に反目しあっていると。この船長はそこそこの地位に居るようで、現地勢力との交渉を許可されていたらしい。それ故にあっさりと船の設計図を渡したのだった。あくまでも彼らの至上命題は打倒スペイン。その為にアカプルコ貿易でぼろ儲けしているスペインを叩いてくれる勢力が欲しかったのだと推察できる。その辺も親書に盛り込んであるので、騙されたり唯々諾々とは従わない旨が伝わるだろう。エリザベス女王は賢明な王だ。大丈夫のはず。

 

『貴国の風土と手厚い看病のおかげで副船長も回復しました。感謝申し上げます。また、貴国の民と交わり、此の地で生きる事を望む者がいるのですが、受け入れて頂けないものでしょうか。皆、家族もなく未練はないと言っております。水夫のため、貴国の御造りになった船の操縦のお役に立てるかと』

 

『分かりました。主と交渉致します』

 

 そう断って今まで何を言ってるんだろうという目で見ていた氏康様に声をかける。

 

「支度は整ったとの事。親書の件、確かに承ったとの言です。また、先日お話いたしましたように彼らはイスパニアと対決する上で当家の力を欲している模様。共に手を携えて、との事です。また、本国に身寄りのないものが幾人か帰化を求めておりますが、如何しましょうか」

 

「受け入れて構わないわ。今後イングランド船が何度も来るでしょうから、その時に役立つのでしょう?」

 

「ええ、船の操縦にも使えるとの事です」

 

「なら、構わないと返事して」

 

「はっ!」

 

 この通訳は結構面倒くさいのだが、出来る人材がいないので仕方ない。英語をこんなに駆使して話したのは修学旅行以来だ。高2の秋にイギリスへ行ったのが懐かしい。私立高が故の行き先だった。

 

『受け入れる、と仰せであります』

 

『そうおっしゃって下さると思っていました。貴国の言語も日常会話程度なら習得したと言っておりましたので、その点も問題ないでしょう。受け入れてくれることを期待して造船所に置いてきているので、ご用がありましたらそちらに居ます』

 

『分かりました。……それではまた、お会いしましょう。キャプテン・エヴァンズ』

 

『ええ。ここは良いところです。陛下にお願いして、必ずや戻ってきましょう。サー・イチジョウ』

 

 握手を交わして再会を誓う。大航海時代の真っただ中だからこそあり得た奇跡的な邂逅だった。この時代からならば、日英が手を取り合いながら発展していくことも可能かもしれない。そうなったならば、きっと日本はあんな道を辿らずに済むはずだ。

 

「出立するようです」

 

「そう。ありがとう」

 

 そう言うと氏康様は一歩前に出て、口を開く。

 

I pray for the safety of your voyage.(皆様のご航海の安全をお祈り申し上げます)

 

 !?となっている私の隣で流暢に話されていた。エヴァンズ船長は一瞬固まった後に感極まったような表情で最敬礼をして応えた。現代でこそ英語は世界言語だが、この時代の主流はフランス語。英語は劣等言語のような扱いを受けている。だからこそ、彼らが一国の主と認識した存在が自国の言語で礼節を示したことに驚き心を揺さぶられたのだろう。少なくとも学ぶ意思があったという姿勢を見せている。

 

 船員が全員乗り込み、堺へ行く北条家の使節も乗り込んだ。街の人々も多く駆け付け、武士も町民も関係なく見送りをしている。遠くには馬上ではあるが朝定や足利晴氏も来ている。帆が広がり、ゆっくりと大きなガレオン船が動き出す。

 

「また来いよーー!」

 

「気をつけてなーーー!」

 

 各所から飛び交う見送りの声に船員たちは手を振って応じている。船長もその帽子を取って回している。小田原の人々は半年ではあったがこの街にいた一風変わった来客者の姿が海の向こうへ消えるまで見ていた。日英の、恐らく初の国際交流の瞬間だった。

 

 

 

「しかし、驚きました。いつ習得を?」

 

「ふふふ、私だって遊んでいた訳じゃないのよ?船員の中に唐国の通訳がいたでしょう。その者から聞き出したのよ。キチンと意味は伝わったかしら?」

 

「はい。船長は氏康様の向学心と配慮に感服しておりました」

 

「なら大成功ね。良かった、実のところ、あの一節しか話せないのよ」

 

 チロリと小さく舌を出して、いたずらが成功した子供の様な顔で笑っている。からくりの種明かしではあったが彼らにはクリティカルでヒットしていたので大成功のはずだ。後はあれを船長が本国で喧伝してくれるのを待つのみ。

 

「綺麗な海ね…あの彼方には何があるのかしら。いつの日か、琉球や、その先を見てみたい……」

 

「その日は必ず来ましょう。関東が統一され、大船団が用意出来た日には、必ず。氏政様に当主位をお譲りになった後ならば、御身を縛るものは圧倒的に少なくなるはずでございます」 

 

「それじゃあ、その時はよろしく。私一人では寂しくて死んでしまうわ」

 

 なんて返すのかしら?と言いたげな表情の上目遣いでこちらを見てくる。だからやめて下さいお願いします。

 

「遥か万里の彼方であろうとも、お付き合い致しましょう」

 

 私の返答に満足げに頷き、「今はこれでいいわね」とこぼして氏康様は笑う。その漏らされた言葉の真意を確かめようとした私を遮るようにして撤収命令が出された。北条家の面々は交渉には関係ないので遠くで見送っている。彼らに向かって大きな声で指示が飛んだ。

 

「さぁ、お客様の見送りは終わりよ!全員、城へ帰りなさい。まだまだ仕事は終わらないわ!」

 

「「「はっ!」」」 

 

 ゾロゾロと一行は引き上げていく。

 

「さ、私たちも行くわよ」

 

「…はい」

 

 出かかった言葉を飲み込んで後に付き従う。何を言おうとしたのか自分でもはっきりとしないまま、胸の動悸だけが高まるのを感じる。揺れる髪の後姿を見ながら、私は何を言うでもなく後に従った。ああ、これはきっと。如何に私がその感情に無頓着でも、分かってしまう。

 

 

 

 

 

 

 これは、私の恋だ。そしてきっと、これは叶わないのだろう。私との間を隔てる有形無形の壁は、あまりにも分厚い。初恋が報われぬ恋とはなんとも。世間で囁かれる初恋は実らないは本当だったと言う訳だ。言葉と言うのは良くできているものだと、ぼんやり思った。

 

 乗り越える覚悟くらい見せろ。それを出来る頭があるだろうと、頭の中で氏政様が舌打ちした音が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな一幕から数日後。私はとある人物に呼び出されていた。呼び出されていたというよりかは呼ばれたなので表現には語弊があるかもしれない。けれど、相手は一応私の上役なので逆らう事などできはしない。小田原城下の立派な屋敷の一間に私はいた。

 

「お待たせ致した」

 

「あ、いえ、お構いなく…」

 

 頭を下げる私に対してドッカリと座ったのはこの屋敷の主にして三家老の一人、遠山綱景殿である。富永直勝殿、そして先日会った太田康資と共に江戸城を預かり、葛西城の城主でもある。現在は三家老家のトップは松田家であり、次点で大道寺家なので三番手ではあるが、かなりの数がいる大国北条家の三番手ともすればその権勢は押して知るべしである。とは言え、私とはそこまでのかかわりが無かった。同じ戦に参陣したのは第一次国府台合戦と河越夜戦とくらいなものである。もっとも前者はまだ引退前の遠山直景殿が指揮をしていた。代替わりした綱景殿はカイゼル髭をしているが、まだ三十かそこらの年齢である。

 

「して、本日はいかなる用向きでございましょうか」

 

「そう固くならずとも良い。まずは、茶でも飲んでから話そうではないか」

 

 運ばれてきたお茶を飲む。駿東で栽培しているので獲れる高級品である。あんまりバカスカ飲めるもんでもないので味わって飲みほした。

 

「さて、今日呼んだのは他でもない。お主と縁を結びたいと思っておるのだ」

 

「縁、でございますか。とするとご一族のどなたかを私の伴侶と…?」

 

 やや私の表情が無意識のうちに曇ってしまったのか、それを察した綱景殿はフハハハと笑った。

 

「ま、最初はそれも考えておったが、お主のその顔を見る限り止めて正解であったな。縁談ではない、お主に我が十一になる娘を義妹として送りたい」

 

 この時代、婚姻以外にも義妹同盟などで縁を結ぶこともある。例えば、隣国駿河の今川家は当主義元と武田の姫である定姫が義姉妹の関係にある。そうやって関係性を深める行為がこの世界では行われていた。私の知る世界では戦国の主役はほぼ全て男性のため、婚姻同盟等結婚によって関係を作るのが一般的だったが、姫武将の多いここではそうではないらしい。

 

「それは光栄なお話でございますが、何故私を…?」

 

「氏康様からの指示でな。特に含む所がある訳では無いが、巡り合わせの問題かお主とは今までそう縁がなかった。松田家は幾度か共に轡を並べておるし、尾張(盛秀)殿は良く評価しておる。大道寺とは親しいようだしな。しかしどうも遠山とは縁がなかった。故に此処で縁を作り、当家の中でのお主の地位を確立させようという配慮であろう。某としてもお主と縁を結ぶは願ったり叶ったりだ」

 

「それはありがたいお話でございます。私で宜しければ、是非とも迎え入れたく存じます」

 

「そうかそうか。では、よろしく頼むぞ。……恥ずかしながらここだけの話、末の一人娘と言う事で某も妻もやや甘やかし気味になってしまったきらいがあるのだ。元は僧籍にでもいれるか、或いはどこかに嫁がせて…というつもりであったのもある。済まぬがもし我が儘で手を焼くようであれば、容赦なく躾けてくれ。何をしてもくれても構わん。我らに遠慮せず、一条家の家風に合わせてくれ。姓も遠山から一条に変えさせよう」

 

「承知いたしました。お預かりする以上、責任を持って教育致します」

 

「返す返すすまんな。本来ならば我々親が教育すべきであろう所を…。つい甘く接してしまった。息子たちもそれを咎めず可愛がってしまったのもあるだろうが……」

 

「親の愛を受けて育つは人として最上の幸せにございましょう。性根はそう悪くない筈と存じます。ご息女の事、左様に卑下されることもないように思います」

 

「うむむ…。ともかく、よろしくお願い致す。お主の帰城に合わせて送る。河越にて引き取ってくれ」

 

「ははっ!謹んで承りましてございます」

 

 綱景殿はようやく安心したような顔を見せた。しかし、親の謙遜なのか真面目に我が儘娘なのか。その辺は会って見ない事には何とも言えないだろう。薄々娘の将来を案じていたので、然るべきところで教育を受けさせたかった。そしてその候補としてよさそうだったのが私だったという背景もありそうだ。同時に独身で流れ者の私に宿老の娘を義妹とさせることで後ろ盾を作ろうという上層部の意図も見える。普通にありがたい事だ。

 

「では話もまとまった事だ。両家の親睦を深め、御家の発展に寄与しようではないか」

 

「は、はぁ」

 

「宴の支度じゃ。酒を持て!」

 

 この後しばらく付き合わされ、結局帰れたのは陽が沈んで大分経った時の事だった。決して酒に弱い方では無いが、それを超える酒豪と共に飲む羽目になり、大分酩酊して帰ったため「いつまで呑んでるんですの……酒臭いです」と兼成には小言を言われ、胤治には「あまり遅くまで出歩かれない方がよろしいかと」と釘を刺されることとなる。微妙に踏んだり蹴ったりな感はしつつ、河越に新たな風が吹き込もうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後は大事もなく帰国できたが、だからと言って遊べるわけでは当然ない。まずは国人や地元の有力者、寺社を廻り挨拶をする。そしてその後はまとめ役をしている北武蔵の大身大名と会合があった。メンバーは太田資正、成田長泰、上田朝直、上杉憲盛である。内容は今年一年のこの地域一帯の方針を定める事にあった。

 

「各々方ご存じではござろうが、今年は内政を注力する一年となりましょう。武蔵の開拓には我らは資金供与を求められることと相成り申した」

 

「人足は出さずともよろしいので?」

 

「人足は相模、南武蔵、伊豆、駿東、下総などから集めるようですな。北武蔵、上野は別の工事を行う事を承諾いただいております」

 

 それに成田長泰は少しホッとしていた。あまり関係ない地域の発展は特に自領の助けにはならない。一見自己中にも見えるが、キチンと自領のことを考えているのは良い事だった。

 

「我らは農政改革のうち、水はそこそこ足りている。むしろ、湿地を埋める側だ。それも兼ねつつ、街道整備を行う。既に承知の通り、大規模な測量を行わせている。如月の半ばには終わる目算である。それが終わり次第、随時街道の大拡充をする。その為の助力を願いたい」

 

「では、土佐守殿の提唱された田の形を四角にする区画整備も兼ねつつ、街道延伸をしつつ、湿地を埋めると?」

 

「その通りでござる」

 

 う~む、と皆唸る。国を挙げての大工事、なんてものが行われたのは果たしていつ以来なのだろうか。下手すると鎌倉にまでさかのぼってしまう。彼らにとって初めての事だからか、戸惑いも大きいようだった。

 

「これは決して各々方の利権を剥奪せんがための目論見に非ず。むしろ、商業を振興させるための策でござる。有事の際は速やかな軍勢の移動、兵糧の運搬にも一役買いましょうぞ」

 

「土佐守殿は杉山城の改築を行うよう命じられていたと記憶しておりますが、余裕はおありですかな」

 

「配下の者に調べさせましたところ、縄張りはほぼ完璧に近く、多少草を抜き土塁を整えて構造物を乗せればすぐにでも使える旨の報告がありましてな。そう時間はかかならないでしょう。要して半月かと」

 

 さぁどうだと思っていると、意外にも最初に口を開いたのは成田長泰であった。

 

「……まぁ、当家としては賛同いたす。元々、降伏が遅れ羽生城を落とせと命を受けた折、某は羽生城を取られることを覚悟しておりました。されどいまだ羽生城は当家の元にある。その分の奉公をせねばなりますまいな」 

 

 一番ゴネそうだった成田長泰の賛同により、他三名も直に同意した。元々、私が話を持ち出したという事は、氏康様と氏邦様が承認したことを意味しており、出来もしない事や不利益の多い事をさせるほど馬鹿ではないだろうという信頼もあっての事だと思われる。

 

「では、この件は各々方賛同いただけたと言う事で、氏邦様に言上致します。また、詳しい工事については後日書簡にて改めてお送りいたしますので、確認の上実行をお願いしたい。当家からも代官を派遣し、工事の補佐を致しますので合わせて宜しくお願い致します」

 

「「「「承知致した」」」」

 

 すんなりとまとまりを得られたのは助かった。これで揉めると後々面倒なので、その辺の煩雑な手続きや折衝をすっ飛ばせるのは大きい。それもこれも朝定を生かしておいた恩恵と思うと、過去の自分の判断が間違っていなかったことの証左となる。

 

「また、特産物の振興にも努めるようにと指示が出ている。やる事は多いが、それを成せば民も我らも豊かな生活を享受できる。共に努めて参ろうぞ」

 

「「「「応っ!」」」」 

 

 綺麗に締めて、此処からはまたしても宴会だ。こういう酒の席での付き合いがこの時代は現代以上に大きな意味を成す。しかも、この場に居る将は皆全員私よりも年上だ。年上であるが与力扱いと言うなんとも微妙な関係にあるため、配慮を欠かすことは出来ない。

 

「ところで、秩父領はいかがなり申したか」

 

 少し顔を赤くしていつもよりも饒舌になった太田資正が尋ねてくる。

 

「ああ、あれは当家の管轄で良いという事になりました」

 

「ほぉ、そうでありましたか。あそこは坂東の中央とはやや外れた地であるが…まぁ貴殿なら治められるであろう」

 

「ありがたいお言葉ですな」

 

 大きな盃を煽る資正を眺めながら、思い出すのは数日前の事である。

 

 

 

 

 

 

 

 その日、小田原を発つ前に氏邦様に呼ばれた。いかなる用向きか使者に尋ねれば、武蔵の領地に関しての話であるという。赴けば秩父の扱いに関する相談であった。

 

「急に呼びつけて悪かった。もうすぐ河越に戻ろうとしていたのだろう?」

 

「いえ、急用とあれば。して、如何致しましたか」

 

「…すまないが、秩父の管理をしてくれないだろうか。一条家の領国に編入という形で構わない」

 

「秩父の?異存はございませんが、その故をお聞きしてもよろしいでしょうか」

 

「ああ。前にも話したと思うが、藤田家は今あまりうまく纏まっているとは言えない状況だ。それもこれも私に姉上のような才が無いからなのだろうが…。勿論街道拡充計画に参加できるようにはする。しかし、小土豪が多い秩父をまとめ、発展させる余裕は正直なところあまりない。反面、河越は良く収まっていると聞く。姉上と相談し、任せたいという事になった」

 

「なるほど。相分かりました。鉱山の開発も、進めてよろしゅうございますか」

 

「勿論だ。むしろ、それを期待している。鉱山開発には金も時間も技術もいる。武田と親しいお前なら、鉱山に関する技術を貰えるやもしれない。それに、そちらに注力する余裕もありそうだしな。それと同時に…」

 

 そう言って氏邦様は背後から一冊の冊子を取り出す。

 

「これは……?」

 

「うん。私の温めていた産業育成計画だ。お前に全部任せっきりでは立場がない。何か無いかと北武蔵の者たちに話を聞いて回り、これに辿り着いた。お前の目からも見て欲しい」

 

 渡された冊子の表紙にはデカデカと養蚕計画とだけ書かれ、下の方にはデフォルメされた蚕らしきイラストが描かれている

 

「可愛らしい絵ですな。どなたがお描きに?」

 

「……私だ。文句あるか」

 

 不貞腐れた顔で言う姿に思わず吹き出しそうになるのをこらえる。

 

「い、いえ。随分と愛らしいなと」

 

「う、うるさい。黙って中を見ろ。……まったく姉上と同じことを言いやがる」

 

 ペラペラと紙をめくる。史実においても北条氏邦と言う武将は支配下にあった上野、北武蔵の産業振興のために養蚕や林業の開発に取り組んだと伝わる。この時代の農業では食料生産を除くと、生糸こそ日本における各国の主要産業であった。かなり綺麗にまとまった計画書には、鉢形、秩父などを中心として、大規模な養蚕拠点を作る旨の記載があった。その為に必要な技術、道具、予算、人員全てきっちり計画されている。

 

「ど、どうだろうか」

 

「僭越ながら申し上げるのであれば、文句なしの出来であろうと思われまする」

 

「そうか……良かった……。姉上からはかなり良いと思うが、お前に見せて良しと言えば問題ないだろうと言われていたんだ。お前くらいの知恵者は太鼓判を押すのなら、問題ないだろうな」

 

「過分なお言葉、恐悦至極」

 

「では、この計画は進めることとする。また、手助けを頼みたい」

 

「何なりとお申し付けください」

 

「……ありがとう。話は以上だ。長々引き留めては悪いからな。また、領国で会おう」

 

「ははッ!」

 

 一礼して去る時にチラリと見れば、あまり元気のなさそうな顔が目に入った。家中の統制に苦労しているのだろう。藤田家を乗っ取る形の養子入り。当然北条家の家臣と元々藤田家の家臣だった者で対立が起こる。そしてどちらを遇するかと言えば、答えは分かり切っていた。南武蔵の話はあまり聞かないがあそこも苦労していそうだ。盛秀殿が今は氏照様の補佐をしているが、松田家とて暇な訳ではない上に相模の所領の方を重んじるのは仕方ない事だろう。

 

 もしかしたら、こちらで育成している賢人館の者たちを何人か送る事も考えた方がいいかもしれない。味方は一人でも多い方がいいだろうし。私自身が行ければいいのだが、私も東奔西走忙しい。甲斐行きも命じられてしまった。秩父の開発もしなくてはならない。余裕などないと言うのが、この時思った正直な感想だった。段蔵が戻り、誰か捕まえてきてくれれば人手も余裕が出そうなものだが、こればかりは運を天に任せ待つしかない。何事も順風満帆とはいかないものだと、小さくため息を吐いた。

 

 明日には甲斐から禰々姫が戻ってくると言う報告を受けている。あんまり飲み過ぎる訳にはいかないのだが、どんどん盃には酒が注がれる。負けじと注ぎ返しているのだが、入れれば入れた分だけ飲まれてしまう。どういう肝臓してるんだ。まぁ、現代に比べればアルコール度数も大したことないのだろうけれど、この生活はあまり健康に良くなさそうだ。武士が運動しないといけない理由が垣間見えた気がする。更け行く睦月の寒夜。座敷の灯が消えるのは、月の沈みかけた頃だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。「また飲み過ぎましたわね!」と怒られながらガンガンなる頭を押さえ、お湯を呑んで二日酔いをやり過ごす。前もって送られてきた手紙の通り、禰々姫が帰還した。母親の危篤という事で甲斐へ行かせていたのだが、戻って来たという事は葬儀などの一連の行事は終わったと見るべきだろう。もう大分大きくなったお腹を見る限り、後二三か月で産まれてくると思われる。たぶん四月くらいが予定日ではないだろうか。床に座らせるのは負担になりそうなので椅子を用意させ、座ってもらう事にしている。

 

「この度は、お悔やみ申し上げる」

 

「いえ、こちらこそ、左京大夫様と土佐守様のお情けのおかげで母上の葬儀には参列する事が出来ました。最期の姿を見る事が出来たのは、情け深い思し召しのおかげでございます。本当に、何とお礼を申し上げて良いか。乱世の習い故、最早二度と甲斐の地を踏むことは無いだろうと覚悟しておりましたが、本当に…ありがとうございました」

 

「親の死に目に会えぬ辛さを私は良く知っております。貴女様にそのような目に合ってはいただきたくなかったのです。悲しみや無念さが募っては御子にどんな影響が出るかも分かりませぬ。妊婦の精神は、思わぬ形で出産に影響致しますからな」

 

「感謝致します」

 

 信濃の名門、諏訪の血と甲斐源氏の名門武田の血の混じった子が産まれるとあれば、何かあっては一大事だ。私も気を使わなくてはいけない。

 

「これより厳冬は一層厳しさを増します。如月の頃が寒さの頂点でございましょうな。雪もご覧のように降り積もっております。暖かくして、滋養に良いものを食べ、お身体を労わって下され。諏訪武田、両家の架け橋となる子となりましょうからな」

 

「はい…。実は、不躾ではございますかその件で一つお願いが」

 

「はて、何でございましょうや。この土佐守、出来る限りご援助させていただく所存」

 

「ありがとうございます。夫とも相談いたしまして、この子が無事に成人を迎える事が出来ましたら、その暁には御名の偏諱を頂くと共に烏帽子親となっていただきたく思います」

 

 烏帽子親とは元々は、男子が成人に達して元服を行う際に特定の人物に依頼して仮親に為って貰い、当人の頭に烏帽子を被せる役の事である。後見人的な意味合いが強い。この世界では女性も成人する際に武将の道を選ぶのであれば、烏帽子親を設ける事が一般的なようだ。偏諱とは下の名前、私の場合は兼音のどちらか一字を渡す事である。

 

「私で宜しいのでしたら、喜んでさせて頂きましょう。立派な子が産まれ無事育ちますよう領内の寺社にも祈願させております。小田原で為昌様にお頼みし、都より腕利きの医者を連れてきていただいております。甲斐姫殿も色々と手を回している様子。私では分からない事も多いですからな。彼女にも頼りつつ、大船に乗ったつもりでお構えあれ」

 

「かくも多くのご配慮、何を以てお返しすればよいか、全く見当もつきません。この御恩は一生忘れず、子々孫々に語り継ぐ所存です」

 

「ははは、左様に大袈裟にならずとも。私は人として当然の事をしているまででございます」

 

「その人の心を保てる者が、この乱世には少ないように思えてなりません。私の姉上も……変わってしまいました。昔は虫も殺せぬお人だったのに、今は多くを殺しています。それが私には、恐ろしい。土佐守様はどうか、そのままの御心を保って下さい。姉上のようになっても、苦悩するだけでございましょう。きっと、このままの道を行くのならば武田の家に未来は…。土佐守様がもし、武田と関わる事がございましたら、どうか姉上の道を少しで良いのです。正しき方へと直して頂けたらと思ってやみません」

 

「……お約束はしかねます。されど、武田は対越で手を取る同志。心に留めておきましょう」

 

「重ね重ねありがとうございます。政務のお邪魔になっては申し訳ありません。そろそろ、退出させて頂きます。父上にも会わねばなりませんので」

 

「左様ですか。分かりました。お気をつけてお帰り下さい」

 

 去り行く彼女を城門まで見送り、そう言えば正月の間もずっと武田信虎が滞在していたことを今更ながら思い出した。彼女に会えば、あの老将も駿河へ帰るだろう。そうなればまぁ、一つ配慮すべき事項が減ることになる。精神的には少し楽になる。

 

 生憎と一人っ子故に誰かの妊娠や出産に立ち会ったことがない。どうしたらよいのか保健体育の知識しかない身としては困りものだが、知ってることは活かしつつ無事に産まれてくることを祈ろう。人質としてここに居るが、兼成や甲斐姫など友人もいるようだし夫である諏訪頼重との関係も悪くない。ストレスがあまりない状態なので、その点はあまり心配していない。が、出産は命懸けだ。現代ですらそうなのだからいわんやこの時代をやである。衛生環境を整えてその日を待つとしよう。甲斐へ行く準備もしなくてはいけない。やる事は山積みだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 仕事の続きをするかと思い、踵を返し歩き出すと誰かが駆け寄ってくる。

 

「申し上げます!南門にて口論が起きておりまして、至急のお越しをお願い致します!」

 

「ああ、わかった。今すぐ行く」

 

 なんだよ厄介な、と思いながら小走りで大手門から南門へ向かう。結構広いこの城を走るのはちょっとした運動だ。しかも雪の上を走ってるので普通に危ない。何度か滑りそうになりながら到着すると、確かに何か揉めている。胤治や兼成の姿も見えた。一瞬綱成がいないのは何故だろうと思ったが、今は雪中行軍の訓練中だった。

 

「何事だ!」

 

「ああ、良かった。この娘が城に入れろと。供の者も土佐守殿にお聞きあれと一点張りで……」

 

 胤治がそう指さす先には駕籠の中の少女がいた。ショートに近い灰色の髪をしている。年は十歳かそこらだろうか。勝気そうなと言うか若干傲慢の色を含んだ目をしている。とは言え、見た目で判断するのは良くない。供廻りは三十人ほどだ。

 

「ですからね、お名前を教えて下さいとそう申し上げているだけですわ。何もそう難しいことを要求しておりませんの」

 

「はぁ?聞いてない訳ないでしょう。田舎侍風情が気安く口をきくもんじゃないわ。その似非姫口調も感に障るから止めなさい」

 

 前言撤回。何だこのクソ生意気なガキは。人の副将をボロカス言いやがって。

 

「え、似非……」

 

 兼成がショックを受けてる。お前、その相手は腐っても早雲公の甥である今川氏親公の娘。今川義元の義理の姉で母親も元大身福島家の娘だぞ…。サラブレッドの中でもかなりの血統なんだが。

 

「知らないなら聞かせてあげましょう。私は寛大ね。私の名は遠山右衛門大夫。諱を政景よ。この田舎城の城主の義妹になりに来てあげたの。父上がどうしてもと言うから仕方なく、ね」

 

「殿、真でしょうか」

 

 …しまった。確かに私の伝達ミスだ。色々予定が詰め込まれていて、処理すべき事項が多すぎたために家臣に伝えるのをド忘れしていた。もうだめかもしれない。秘書が欲しい。

 

「……すまない。真実だ。遠山綱景殿より打診があり、私がそれを受けた。すっかり伝え忘れてしまっていた。大変申し訳ない」

 

「そうですか。まぁ、それならば問題ないのですが。次からはお忘れなきようにお願いいたしますね」

 

「不甲斐ない限りだ……」

 

「多少抜けている方が人間味がありますが、大事を忘れられては困りますので。小姓でも置きになってはいかがですか?」

 

「……考えておこう。だが今は取り敢えず、この状況を何とかせねばな」

 

「治められるのは殿くらいでしょう。兼成様が泣きそうになっているのでお早めに」

 

「ああ」

 

 コホンと大きく咳ばらいして場に割って入る。

 

「誰アンタ」

 

「私がこの河越の主・一条土佐守兼音である。貴殿の事を臣下に申し伝え忘れたのは私の落ち度。陳謝致そう」

 

「はぁ、そうだったの。使えないわねぇ。しっかもこんな冴えない男が私の義兄とか、嫌になってしまうわ」

 

 周りの面々の顔に青筋が走っている。隣を見れば子供だししょうがないなぁくらいの目で見ていた胤治が殺気を飛ばしている。番兵も目が殺気立っている。危険信号が点滅している。

 

「だが、しかし。礼を以て遇そうとした我が副将を愚弄して良い理由には断じてならない!しかも、その口の利き方はなんだ。私を誰と思っている。畏れ多くも先代氏綱公より仕え、当代の氏康様にこの城を与えられ、引いては朝廷が姫巫女様より土佐守を賜りし者ぞ。貴様の父上が遠山甲斐守殿であろうと、この場においては私の方が上である。控えおろう!」

 

「な、なによ。私は三家老家の娘よ、アンタなんか…」

 

「父上に頼んで、か?何故あのような立派な方から貴様のような我が儘娘が産まれたか理解に苦しむな。それと、貴様の父上は私に厳しく躾けてくれとおっしゃられた。残念だったな」

 

 唖然としている少女を他所に、静観を決めている供廻りに帰還命令を出す。

 

「供の方々、ご苦労でござった。後は我らが引き受ける」

 

「確かに、お連れ致しました」

 

 そう代表者が言うとサッサと帰ってしまう。

 

「もう齢が十を過ぎているのならば、礼節と目上への敬意の払い方を学ぶべきだな。しかし、言葉で言っても聞かぬだろう。態度を見れば明らか」

 

 ちょっと可哀想な気もするが、自分の配下をバカにされては沽券にかかわるし、家族をバカにされて黙っていられる訳もない。お灸をすえさせてもらおう。最初のパンチはデカい方がいいと言うし。綱景殿、申し訳ない。貴方の言う通り、いやそれ以上でしたよ。親の前ではもう少し猫被ってたんですかね。仰る通り容赦なくさせていただく。武家として生きるならば、それ相応の覚悟がいるのだ。

 

「誰でもいい。この無礼者の頭が冷えるまで、牢にでもぶちこんでおけ!!」

 

「ははぁ!」

 

「ちょ、何を言って」

 

「頭が冷えたら出してやる。連れていけ」

 

 ギャースカギャースカ騒いでいるが、やがて連行されていった。

 

「お取りになった措置には大いに賛成ですが、よろしいので?」

 

 底冷えのする声で胤治が言う。

 

「ああは言うたが風邪でも引いて死なれては困る。座敷牢があっただろう。そこに入れておけ」

 

「了解しました」

 

 胤治はそう言うとサッサと歩いて行ってしまう。命令しに行ったのだろう。さて、似非姫と言われて呆然としている兼成を慰めなくては。厄介な問題児がやって来たものだ。

 

 これから待ち受けるだろう面倒ごとを予感して頭を抱える。吐いたため息は白く、雪景色の中に消えていった。あのじゃじゃ馬我が儘娘をどうにかして使えるようにしなくてはいけない。甲斐行きまで半月もない。縁談を回避し続けたツケがこれか。そりゃあないだろう…とガックリ肩を落とすしかなかった。



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第80話 メビウスの輪 戸隠

今回は少し離れた場所での回です。なんか、蛇足感のある話ですし主人公もほとんど出てきませんが、キャラクターの理解のため、どうかお付き合いくだされば幸いです。

感想返信が遅いorしてない状況で申し訳ないです…。書き溜めを投下していますが、あと何回今年中に更新できるかは分かりません。が最早これを書くのが息抜きになってしまったので、ちょくちょく夜に書いて行きます。返信もその時に出来たらなぁ~と。

そして、1月~2月は完全にストップします。完全に私事で申し訳ない限りですがなんとかして史学科を掴み取って来るので、受験の終わる3月からまた再開しますから、それまでしばしの御待ちをお願い致します。


 上田から千曲川沿いに葛尾城を越えてさらに北上すると、善光寺平に出る。南部には千曲川と犀川とに挟まれた広大な中州地帯――川中島。犀川を渡ると、北信における諏訪神社に比すべき善光寺。その善光寺の北には北信五岳が(そび)えている。そして修験道と忍びの山である飯縄山。飯縄山のさらに北には、まるで龍の背中の如き山が天を塞ぐかのように聳えている。

 

 戸隠――。

 

 戸隠忍びたちの聖地であり、かつては比叡山・高野山と並ぶ霊山であった神の山である。

 

 

 

 時は丁度、兼音が正月年賀を終えて帰還したころになる。

 

 この日の早朝。一万の兵を率いて塩田城に入った武田晴信は、一人でこの戸隠山を登っていた。真田と戸隠の忍びたちを生みだしたという戸隠山を自分の目で確かめたかったのだ。それに、越軍との決戦場となる善光寺平と川中島を山上から見下ろしたかった――妹の信繁が「同行する」と執拗に言いつのったが、振り切っていた。無論、用心深い晴信がほんとうに単独で敵地に入るはずはない。晴信自身にも気取られぬ形で、真田忍びたちが結界を張っているはずである。

 

 しかし、戸隠忍群は仕掛けてこない、と晴信は知っていた。彼らがたとえその気になっても、長尾景虎が暗殺を許さないだろう。長尾景虎は、武将と武将との争いは堂々の合戦で決着をつけねばならないと信じ切っている。

 

 晴信にしてみれば、愚かなことだった。合戦ともなれば、無駄に兵士たちの血が流れ多くの命が失われるのだ。だが、それだけ景虎には自信があるのかもしれない。決戦すればすなわち必ず勝つ、と。

 

 

 

「戸隠奥社の「石」には近づいてはなりませぬぞ、御屋形様。月のものがある大人の女が近づいて「石」の力を浴びれば助かりませぬ。大人には耐えられぬのは男とて同様。いずれ戸隠山は武田が支配せねばなりませぬ。ですが、「石」の扱いには慎重を要しまする。不思議なことに――甲州金山に導入した最新技術の「灰吹法」に用います「鉛」の匣によって「石」を覆い隠すことで、致死性の「石」の力をある程度防ぐことはできまする。おそらく奥社の「石」は「鉛」の匣に収められておりましょう。ですが、直接「石」を見れば、命はありません。それはいわゆる「祟り」などとは違うものです。くれぐれも妙な好奇心を抱かぬように……」

 

 武田家に膨大な金を与えてくれる最新鋭の灰吹法。戸隠の「ご神体」こと「石」。

金も石も、いずれも「鉛」を用いることで人間が制御しているらしい。

 

 山の民との交流が深い山本勘助の言葉を繰り返しながら、晴信は馬を進めて戸隠の山を登り続けた――中社の前に辿り着いた。

 

 なるほど。どちらも鉛によって操れるが、より純度の高い金を鉱石から取り出す灰吹法とは逆。「ご神体」の正体は、目に見えぬが実在する「力」を発する鉱石というわけね……その石の力が、人体になんらかの影響を与えるというだけ。浴びた者の多くは死に、耐えきった者のみが忍びとしての技を得ることができる。やはり、この世界にほんものの「神」などは存在しないのね、と晴信は思った。

 

 後にこの話を聞いた一条兼音は「放射能か…」と漏らした。その昔、何らかの形で飛来した放射性原子の多く含まれる隕石がこの地に落ちてご神体となったのではないかと言うのが彼の仮説だった。龍に関する伝説も、空から尾を引いて落ちてくる石を龍と捉えたとしても不思議ではない。金属で覆うとどうにかなる力もそれを裏付ける。ただ、放射能は老人の方が生存率が高いのはチェルノブイリをみれば明らかだが、この石は違う。もしかしたら、何か未知の元素かもしれない…と考察した。とは言え、彼は生涯この石を見ることは無く、全ては口伝からの考察である。

 

 

 

 

 白い霧が深い。馬から下りつつ、戸隠の「石」をいかにするべきか晴信が思案しながら顔をあげると――。鳥居の左右に、高い杉が伸びていた。その杉の下に、真っ白い行人包をすっぽりと頭から被った、小柄な少女がいた。晴信よりも数歳年下だろうか。顔の大部分を行人包で隠しているが、肌が白く、瞳が、赤い。白い霧の中に、うっすらとその白い肌と赤い瞳とが、浮かび上がっている。無数の小鳥たちが、その少女の身体を守るように飛び回っていた。これは現世の光景なのだろうか、と晴信は息を飲んだ。

 

 視線が、合った。ぺこり、と少女が頭を下げた。

 

「……こんにちは。綺麗な人……」

 

 消え入りそうな、しかし凜とした声だった。

 

 綺麗なのはあたしではない。この子だ。まるで雪の精のような、と晴信は思った。

この世に神などいない、という晴信の信念が、揺らいだ。

 

 もしもこの世界に神がいるとすれば――このような姿で顕現するに、違いないわ。

 

 そう思いながらも言葉が、出てこなかった。晴信は、自分が敵地に潜入していることを、しばし忘れた。

 

「こ、こんにちは」

 

 かろうじて、言葉を返していた。自分は戸隠の山の神に出会っているのだろうか、と疑った。少女もまた、晴信を驚いたように凝視している。だが晴信のような恥じらいは、その視線にはない。

 

「……本当に、綺麗な人。背が高くて、凜々しくて……そして、とても意志の強そうな瞳」

 

 純粋無垢な視線だった。晴信に、憧れの気持ちを抱いているようだった。見つめられている晴信のほうが、恥ずかしくなった。ともあれ、偽名を名乗らなければならない。晴信とも勝千代とも名乗ってはならなかった。少女が、晴信の顔をなおも凝視しながら、呟く。

 

「……私は……見神(けんしん)を……感じるために」

 

 見神。それは、越後で広く信仰されている、山の神の名だった。正式名称を、大山津見神(おおやまつみ)という。神話に曰く、天津神一族が天孫降臨した際に、天津神の長である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、国津神である大山津見神の二人の娘、木花之開耶姫(このはなさくやびめ)磐長姫(いわながひめ)を娶ったという。つまり大山津見神は、天津神以前の古い地主神であったらしい。

 

 北信五山の美しさと神聖さに惹ひかれて、少女は、しばし己の持ち場から離れてこの戸隠山に登っていたのだった。「山の神」を、感じたのだ。これより川中島で合戦をはじめなければならない己の業と罪を、少女は、戸隠の山の神に伝えねばならなかった。

 

 しかし唐突にその少女に出会った晴信は、それが彼女自身の名なのだ、と聞き違えた。現実主義者で学者肌の晴信は、神の実在など感じたことがなかった――たった今まで。この雪の精のような少女と、出会うまでは。

 

「あなたの名は『見神』というの?奇遇ね。あたしもそう。あたしの名は……『神見(しんけん)』よ」

 

 とっさに相手の名をひっくり返して、名乗った。偽名を用いて少女を偽るつもりは、なかった。自分が本当に、甲斐の国主武田晴信ではない、ただの山の民の少女であれば、と晴信は思った。

 

「……神見……ちゃん」

 

 見神と呼ばれた白い少女は、ぽっと頬を赤らめていた。彼女の肌は、雪よりも白い。感情がそのまま、顔の色になって表れるのだ、と晴信は気づいた。

 

「……わ、私は、同年代の女の子とはあまり話したことがないの」

 

「あたしは奥社へ向かっているのだけれど、あなたは?」

 

「……私も、奥社まで行くつもりだったの」

 

「それじゃあ、一緒に行きましょう」

 

「ええ。鬼ごっこをしながら」

 

「お、鬼ごっこ?」

 

「私は山育ちなのだけれど、山で鬼ごっこをして遊んだことがなかったから。いちど、してみたかったの。私が鬼ね。奥社に着くまでに捕まえたら――あなたの勝ち」

 

「ちょ、ちょっと待って。危ないわ」

 

 小柄な見神が、駆ける。

 

 岩から岩へと、まるで身体に重さがないかのように軽々と飛び跳ねていく。晴信は山登りが苦手だった。見知った山道を馬で進むことは得意だが、自分の脚で駆けることは滅多にない。体力も歩幅も晴信のほうが上回るはずなのに、なかなか追いつけない。真冬のさなかでありながら、ここはなぜだか雪が疎らにしか無かった。

 

 

 

 

 

 

「待って。岩が苔むしていて、雪と合わさって滑りやすくなっている。気をつけて!」

 

「ふふ。私はだいじょうぶ。ちっちゃくて、軽いから――大人みたいな身体つきのあなたこそ、気をつけて」

 

「あ、あたしは太ったりしていないわ!」

 

「知ってる。とても女の子らしくて、綺麗な身体――私は自分が女の子に生まれてきたことを忌まわしく思っていたけれど、気が変わったわ。あなたのような美しい女の子に、なりたかった」

 

「あたしはそんなんじゃ……あっ。待って。待ちなさい!」

 

 少女は、自分が感じたことをまっすぐに言葉にするらしい。晴信がそのあまりのまっすぐさに戸惑うと、詰めていた距離をまた引き離されてしまう。

 

「あははっ。鬼ごっこって、楽しいのね!これで雪が積もっていたら、あなたに雪まんじゅうを投げつけられるのに」

 

「見神ちゃん。あたしのほうばかり見ていないで、前を見て!」

 

「だいじょうぶ……あっ」

 

 彼女が、脚を滑らせた。晴信は「危ない」と滑り込んで、少女の小柄な身体を抱き留めていた。

 

「ふう。だから、危ないと言ったのに」

 

「……捕まっちゃったわ。次はあなたが鬼ね」

 

 本当に、軽い、と晴信は驚いていた。

 

「け、見神ちゃん?追いかけっこも楽しいけれど、どんどん山道が急になってきているから。ここからは、一緒に並んで進みましょう」

 

「慎重な性格なのね」

 

「ずいぶん出鱈目に走ったから、奥社への道がわからなくなっちゃったわ」

 

「平気よ。小鳥たちが、教えてくれるわ。行きましょう」

 

「鳥、が?」

 

 晴信は勘助から戸隠の地図を託されていたが、必要なかった。見神は「戸隠には始めて来たの」と笑いながらも、道を間違えなかった。太陽の位置を確認せずとも――この日は朝から曇り空で、太陽が見えなかった――東西南北が正確にわかるらしい。彼女は、常人とは異なる感覚を持っているようだった。やはり、山の神なのだろうか。

 

「戸隠には社がいくつもあるの。その多くが、天岩戸開きの神話に登場する天津神の神々。火之御子社(ひのみこしゃ)には、天岩戸に隠れた天照大神を引き出すために踊った天鈿女命(あめのうずめのみこと)が祀られている。たった今私たちが訪れた中社には、天岩戸開きを立案した知恵者の天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)が。私たちが向かっている奥社には、天岩戸をその腕で開いたという怪力の神・天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)が。高千穂から放り投げられた天岩戸は信濃に落ちたんだって。その天岩戸が、この戸隠山――」

 

 見神ちゃんは――人の世よりも、神々の世のほうに惹かれているみたい、と晴信は思った。本当に楽しそうに話している。だが、やはり、身体が弱いらしい。山道の途中で息が切れ、辛そうに座り込んだ。

 

「……うう。はしゃぎすぎたみたい」

 

 晴信は、少女の手を取った。

 

「だいじょうぶ? お腹がすいたのなら、ほうとうを炊くわ」

 

「ううん。にぎりめしがあるから。日頃は米は苦手なのだけれど、山を登るとなると食べないともたない」

 

 奥社へと登る山道の途中で、「見神」はおにぎりを懐から出して、頬張りはじめた。

 

 ……は、白米!?と晴信は驚いた。大名とはいえ甲斐育ちの晴信にとって、白米は祝い事の席でしか口にしない貴重なものだった。悲しき甲斐の農業事情である。が、見神は「苦手だけど」と言いながらおにぎりをはむはむとかじっている。

 

「全部は食べきれないから、神見ちゃん。あなたに半分あげる」

 

「あ、ありがとう。食が細いのね」

 

 見神が半分かじったおにぎりを、晴信は照れながら口に入れた。白米を弁当に用いて、しかも半分残すだなんて。この子は、越後から来た少女なのだろうか。

 

 赤い瞳。雪のような白い肌。異形の姫……。もしかして……まさか。

 

 晴信はこの子があの長尾景虎なのだろうか、という疑惑を、懸命に振り切った。そうであって欲しくなかった。見神は、心に一点の穢れもない、神の子のような少女だった。姫大名として合戦に明け暮れている少女であるはずがない。姫大名として生きれば、たちどころに、手を汚し、心まで汚れる。合戦で敵味方の将兵の命を奪い、捕らえた敵兵たちを奴隷として金山へ送り込まねばならない。家臣の謀反を疑わねばならない。乱波たちを操らねばならない。すべて、晴信自身が、味わい尽くしていることだった。

 

 長尾景虎は、兄から越後守護代の位を奪い、越後上杉家から守護の位まで奪った。その両者とも、景虎に自分の位を奪われてすぐに、死んでいる。用済みとなったので暗殺されたのだ、という噂もあった。噂が本当ならば、父親を追放した晴信よりもはるかに罪深く、そして、野心に満ちた姫大名だということになる。この雪の精のような儚げな子が、そのような存在であるはずがない。

 

 もし、そうなら…。晴信の心は壊れてしまいそうだったから。穢れに満ちた世界で、純粋さを保ち続けている存在と、穢れと血に染まった自分と。記憶の中で信君の言葉が反芻した。「穢れを恐れているのか、臆病者」と。

 

 

 

 

 

 中社から奥社まで、二人は、手を繋ぎながら登った。お互いに、言葉は要らなかった。もう、武田晴信も長尾景虎も、ない。今はただ、こうして偶然巡り会った「お友達」と、一緒に過ごしていたい……晴信はそう願い、そして、見神もまた、同じことを願っているらしい。

 

 不思議だった。まるで、生まれながらの友達同士だったかのような、懐かしい感覚を、二人は抱いていた。

 

 あたしは……まるで……この子と出会うために、この地上の世界に人として生まれてきたかのような……なぜ、こんな気持ちになるのだろう。たぶん、「源氏物語」に描かれている恋心とも違う。次郎ちゃんたち家族に抱く感覚とも違う。わからない。でも。

 

 でも、とても幸せだわ、と晴信は思った。これが「友情」なのかもしれない、とも。二人の間には、身分も主従関係も血縁もない。ただこうして、一緒に寄り添っていたいという想いだけが、あった。武田家の嫡子として生まれてきた晴信がはじめて築いた関係とはじめて知った感情が、そこにあった。見神も――同じ感情を抱いてくれているらしい。表情を見れば、すぐに、わかった。戸隠山の登山道の入り口に鎮座する奥社へと登りきった時、ようやく、彼女が口を開いた。

 

「神見ちゃん。ここが奥社――奥社の中には立ち入ってはならない洞窟が。そしてここが、戸隠山へ登る山道の入り口よ。すぐ近くにも、『龍窟』があるらしいの……ここだわ」

 

「龍窟?地主神が祀られている洞窟ね」

 

「そう。九頭龍大神が封じられているの。『石』によって――もっとも『石』がどこにあるのかは、わからない。戸隠には三十三の洞窟があるそうだから。九頭龍大神がもともとの戸隠の神で、天津神は天岩戸と呼ばれる『石』とともに後から来たのね。おそらくは奥社の奥に延びる洞窟の中に、『石』があるのでしょうけれど」

 

「諏訪神社の御柱と似ているわね。諏訪でも、出雲から流れてきた建御名方神を主神として祀っているけれど、地主神はミシャグチ神と言って、蛇と龍の神だったらしいわ」

 

「そう。諏訪のことは私はあまり。あなたは、諏訪に詳しいのね」

 

「……あたしが、というよりも、あたしの知り合いに、妙に山に詳しい人たちがいるの」

 

 その人たちの名が、山本勘助と真田幸隆だとは、言えなかった。こうしている間だけは、山の下の世界のことを……人間たちの世界のことを、忘れていたかった。二人は目の前に広がる戸隠山の勇姿を眺めながら、「まるで龍の背中のように見えるのね」「雪が積もっているから、余計にそう見えるわ」と囁き合っていた。

 

 晴信は、戸隠の山の奥底に閉じこもって俗世を捨て、修験道の修行に生涯を捧げる山伏たちの気持ちが、はじめてわかった気がした。一人では無理だろう。だが、隣にこの子がいてくれれば……人の世の合戦も謀略も野望もなにもかもを捨てて、彼女と手を握りながら山の神のもとで生きていけるならば、それはきっと――とても幸福なことなのだろう。もちろん、それはかなわぬ願いだった。父・信虎を甲斐から追放した自分には、決して選ぶことの許されぬ道だった。泣きたくなった。

 

「神見ちゃん?また、お腹がすいたの?」

 

「え?ち、違うわ。あまりにも戸隠の山が綺麗だから、つい」

 

「あなたのほうが綺麗だわ」

 

 もう一つ、新たにおにぎりを取り出した見神が、「私は一口だけでいいから、あとはあなたが」と晴信におにぎりを差し出してきた。

 

「……私は、生まれた時から周囲がみんな男ばかりで、女の子のお友達がいなかったの。お姉さんはいるけれど、早くに嫁いでしまったし。し、神見ちゃん?あなたが、私にとってはじめての女の子のお友達よ」

 

 本当に、嬉しそうだった。表情と肌の色に、全ての感情が表れるのだ。もしかして長尾景虎ではないか、と疑った自分が恥ずかしかった。もしも彼女が「人の世」で名乗っている名が、長尾景虎だとしても――だから、なんだというのだ。

 

「……おにぎりをもらってばかりじゃ、悪いから。ほうとうを炊くわ。甲斐味噌は美味しいのよ?私の本国は甲斐なの。信濃には、善光寺参りに訪れているの」

 

 本当は善光寺平を奪うために武田軍を率いて乗り込んできた、とはこの山の神のような清純な少女にはとても打ち明けられなかった。彼女が長尾景虎であろうとも、そうでなかろうとも、彼女をこの合戦に巻き込みたくない、なんとかして合戦がはじまる前に善光寺平から越後へ返してあげたい、と晴信は思った。

 

 だが、どうやって伝えればいいのだろうか。しかし、見神は、意外なことを口走っていた。

 

「あ、赤味噌は食べられないから、遠慮するわ。ごめんなさい……」

 

「え?味噌が?どうして?」

 

「……よくわからないけれど、大豆を口にすると、倒れてしまうの。身体が受け付けないの……日の光も、私の肌にとっては毒になるの。あまり長い時間浴びていると、肌が腫れ上がってしまって。今日は曇ってくれたから、山に出られたけれど」

 

「……そう……だから行人包で顔を覆って。それで、お友達が少ないのね」

 

「日の光も苦手なのだけれど、この姿を人目に見られて、気持ち悪がられるのが嫌で。殿方たちは、私を美しいとか言うけれど……その褒め方が……なにか違う気がするの。私が貴女を綺麗だって思うのとは、ちょっと違う。うまく言えないけれど……殿方は、怖い」

 

「怖い?どうして?」

 

「……わからない……でも……私は、誰にも嫁ぎたくないの。同性のお友達すらいないままに、殿方に嫁ぐなんて。私は……誰とも祝言を挙げたくない。私の子もまた、私同様に、兎のような白い肌と赤い瞳を持って生まれてきたらと思うと、不憫で」

 

「不憫だなんて。貴女は綺麗だわ、見神ちゃん」

 

「綺麗というのは……神見ちゃん。貴女のような目鼻立ちが整っていて、健康そうな身体を持った女の子のことを言うのよ。私は、違うわ。人間の女の子として美しいんじゃないの。みんな、まるで、私を、人間ではないなにかを見るかのような目で……家族のような優しい視線で私を見てくれる殿方もいるけれど、それは幼い頃から一緒だった一部の者だけで」

 

「殿方の視線が、敏感な貴女には痛いのね」

 

「貴女は、怖くない?」

 

「ええ。あたしは、父上に愛されずに育ってきたから。むしろ、殿方があたしを憧れの目で見てくると、自分自身を誇らしく思うわ。人はね。求められるよりも、相手にされないほうがずっと辛いのよ。愛されるよりも、嫌われるほうが、ずっとみじめよ」

 

 あたしと勘助とを結びつけたのは、その「誰にも必要とされない」という孤独故だった、と晴信は勘助との出会いを思いだしていた。

 

「そんなことが?私も、父上からは遠ざけられて育てられてきたけれど……私の場合は、こんな見た目で、長くは生きられない身体だから、それも仕方のないことだと……でも、あなたが、どうして」

 

「私は、臆病者だから。父上には、それが耐えられなかったみたい」

 

「そんな。貴女は、私がなりたかった理想の私そのものなのに。どうして、そんなことが」

 

「貴女の方こそ。あたしがなりたかった、理想のあたしそのものだわ」

 

「……私に、なりたいの?こんな不自然な身体に、なりたい?」

 

「あたしは、心が黒々と汚れているから。野望の炎のようなものに、あたしは憑かれている。きっと、父上に愛されず遠ざけられていた反動で、そうなってしまったのだろうけれど。それとも、もともとあたし自身がそういう人間だったからこそ、父上に嫌われたのかも。貴女のような真っ白い綺麗な心が、あたしは、欲しかった」

 

「神見ちゃん。身体は、もう入れ替えることはできない。生まれながらに授かった身体とともに生きるしかないわ。けれど、心はいつだって変わることができるわ。貴女次第で」

 

「……出来るかしら」

 

「出来るわ」

 

「でも心は、人と人との関係の中で生じてくるものよ。過去も未来も、全ての因縁はその中から生まれいずる。だから……世を捨ててしまわなければ、全ての人との関係を断ち切ってしまわなければ、心を純化することはできないのではないかしら」

 

「世を捨てるだなんて。今日、こうして出会ったばかりなのに。そんなことを言わないで」

 

 晴信は、見神が被っている行人包をそっと外したくなった。きっと、想像もできないほどに美しい素顔の持ち主に決まっているのだ。同性であるあたしが「美しい」と言えば、この子は安心してくれるだろうか。喜んでくれるだろうか。しかし、彼女を守っている行人包を無理矢理に剥がしてはならない、と思った。そんな無粋な真似をして、嫌われたくはない、と。

 

 父上が言われたとおり、あたしは臆病なのだろうか。見神の白く小さな手を握りしめながら、晴信は、自分自身の過去を、想いを、語り続けた。武田晴信だと知られても構わない、と思った。見神もまた、越後の山に生まれ育った自分自身の昔話を、語った。お互いに、幼い頃から父親に愛されずに、捨て置かれてきた。そのような運命を背負った少女は、乱世に、大勢いただろうが――。互いに、繊細な性格と高い知性が、災いとなった。山本勘助――宇佐美定満――直江大和――自分を支えてくれる者たちに巡り会いながらも、なにかが、足りなかった。

 

「私は、死にゆく父上の前で、罪を犯した父上を許す神さまになりきって、お芝居をしたの。嘘をついてしまったの。だから、その嘘を、生涯、演じきらなければならなくなった。嘘だと認めてしまえば、父上の魂が救われないから」

 

「貴女は優しいのね。あたしは、父上と喧嘩別れしてしまったわ。あたしが家から追い出されるか、あたしが父上を家から追い出すか。二択を迫られたあたしは、父上を家から追い出してしまったの……どうせあたしを愛さない父上なら、最初から、いない方がましだと……なぜ、自分から身を引かなかった、よくわからない。色々と理屈をこねたけれど……あたしは人として、最低なことをしてしまった。でも、もう、取り返しはつかない」

 

 あたしの正体はもう、この子に気取られてしまっただろう、と晴信は恐れた。実の父親を追放する娘など、この乱世にも、二人といない。

 

「でも。お父上を殺さなかったのだから、貴女は優しいわ」

 

 見神が、頬を赤らめながらきゅっと晴信の手を強く握りしめていた。あたしのこれほどの悪行を、許す者がいるはずがないわ。ただ一人を除いて。彼女は――長尾景虎なのだと、晴信もまた、この言葉を聞いた瞬間に、確信していた。

 

 越後に生まれ、そして生涯、人間でありながら神の化身を演じきらねばならない少女。白い肌に、赤い瞳――。他に、いるはずもない。見神が、いや、長尾景虎が村上義清に「見せ兵」を授けた時――激高して川中島で合戦をはじめてしまったことを、晴信は、深く悔いていた。

 

 だが、川中島で合戦を開始していなければ、こうして自分が彼女と出会うことはなかった。それもまた、皮肉な事実だった。長年抱いていた長尾景虎への憎しみは春の雪のように溶けて、そして、哀しみが溢れていた。景虎への哀しみ、そして景虎と出会っていながら、友として手を握って生きていくことのできない自分への哀しみ。もしも、どちらかが男であれば。

 

 越後長尾家と甲斐武田家との当主同士が祝言を挙げ、そして、両国がひとつになるという道も、あり得たはずだった。そうなれば、晴信はもはや、今川家と北条家の顔色をうかがう必要はなくなる。むしろ、不敗の神将・景虎と智将・晴信とが手を組めば、今川も北条も数年のうちに苦もなく倒すことができるはずだった。難攻不落の小田原城とて、越後と甲斐から両者が挟撃すれば、守りきれるものではない。

 

 越後の海を手に入れた晴信が今川を追い落として東海道を手に入れて上洛の兵を興し、同時に景虎は関東へ出兵して小田原城を落とし関東管領家を復興する――それも決して、不可能ではない夢だった。

 

 いや、そのような利害関係など、どうでも、良かった。ただ一度の出会いで、お互いに、これほど心を惹かれ合っていた。外見も性格も志も、なにもかもが正反対の二人だったが――。お互いに、同じものを求めて地上を彷徨さまよい続けていると、知った。父親の愛情に餓えて苦しみ続けている姫大名が、自分だけではないと、互いに知り得た。

 

 まるで、地上に生まれいずる際に失われた、自分自身の半身に邂逅したかのような――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが。

 

 長尾景虎も。

 

 そして武田晴信も。

 

 姫大名、だった――。

 

「あたしの下界での名前は、武田晴信よ。あたしを廃嫡しようとした父上を……武田信虎を駿河へと追放して家督を奪った不義不忠の娘。でも晴信は武将としての名で、本当の名は、勝千代」

 

「私は……長尾景虎。越後の春日山長尾家に生まれ、病身の兄上から家督を継いだ、姫大名。子供の頃は、虎千代と呼ばれていたわ。貴女を、騙すつもりはなかったのだけれど……」

 

「わかっている。あたしが勝手に聞き違えただけ。あなたの名を、『見神』と思い込んだだけよ」

 

「……本当に、私が、見神だったならば……」

 

「あたしも、武田晴信などではなく、ほんとうに神見だったなら」

 

「ずっと、一緒にいられたのに」

 

「この山を下りれば、あたしたちは――下界で、敵同士として戦わなければならないのね」

 

 まだ、戦わねばならないと決まったわけではないわ、と景虎は言った。懸命に、晴信を、引き留めようと、していた。

 

「私の父上はもう、この地上の世界にはいない。父上は越後の守護様を殺し、関東管領様を殺し、関東に尽きることのない無秩序な戦乱を巻き起こした人。私が義のために戦い関東管領家の復興のために戦うのは、父上の罪を娘として償うため。毘沙門天の化身となったのも……自らが犯した大罪を恐れて惑っておられた父上の魂を救うため。毘沙門天は、義戦のために生涯を捧げよと。恋をすれば私はその時、死ぬと……そう言われたわ。でも貴女と私とならば、同性同士。貴女とともに生きていくと決めても、恋に奔ることにはならない。毘沙門天もきっと認めてくれる。私とともに、義戦を戦ってほしい……ううん。戦わなくてもいい。ただ、私とともに、生きてくれればそれで」

 

 晴信は「貴女とならば」と頷きかけていた。だが、それは選べない道だった。

 

「毘沙門天なんて、どこにも存在しないわ。貴女の心が生みだした幻にすぎない……貴女にとって、お父上も、毘沙門天も、全ては観念の世界にしか存在しないもの。でも……あたしの父上は、生きているのよ。生きて、自分を追放したあたしに、こう囁ささやいてくる。臆病者め。早く天下を盗らぬか、早く上洛せぬか、と……いつまで信濃ごときで手こずっておる。一体なんのためにこの父を甲斐から追放したのだ、と……」

 

「貴女が、お父上の野望を引き継ぐ必要はないわ」

 

「ううん。追放した瞬間から……覚悟をしていたのよ。家臣領民を虫けらのように扱う父上のやり方では甲斐一国を切り従えるのが限界。海も土地もない甲斐から天下をうかがうには、最強の軍団を編成するには、家臣領民を武田家の家族として分け隔てなく受け入れる当主が必要だと……」

 

「その結果、諏訪家を滅ぼし、今また善光寺と戸隠を滅ぼそうとしているの?」

 

「信濃を支配してきた神の世を終わらせて、人の世を築き上げなければならないの。この戦乱を終結させるためには、仕方のない仕事よ。貴女がもしも、私とともに歩んでくれるのならば……」

 

「人の世を築く…北条氏康も同じようなことを言っていたわ」

 

「氏康が…」

 

「あの者も不思議な者だった。伝え聞くような悪では無かったわ。でも、悪でも構わないと、そう言った。民に慕われるなら、悪で良いと」

 

「氏康の言いそうなことね…。彼女は強いわ。自分の道を疑わない。真っ直ぐに進んでいく。だから、貴女とも互角に戦える。氏康は一条土佐守と言う翼を得た獅子だ。義でも無く、武でもない。そんな野望を持っている」

 

「私にはわからない。父上を失った私は、義という観念を地上に実現するために生きるしかなくなった。……お父上が生きておられる貴女は、地上の野望を極めねばならなくなった。私たちは双子のように似ているけれど、たった一点だけ、異なる境遇の持ち主だった。そういうことね」

 

「そういうこと、らしいわね。あたしの父上が病で没すれば、あるいは、あたしは貴女と同じ道を進めるのかもしれない。でも、父上はきっと、あたしよりもずっと長生きするお方だわ。とてもお身体が頑強だもの。精神力も凄まじいわ。兵を率いて合戦を続ければ、いずれ戦場で討たれる可能性もあっただろうけれど、その道はあたしが塞いだ。あたしは生きる限り、父上の視線に見張られながら……武田家当主・武田晴信として天下盗りの戦を続けなければ許されないの」

 

「……私の父上は、越中の一揆衆との合戦で命を落としたわ。私はなにもできなかった。せめて、父上の前で毘沙門天になりきって、父上の罪を許すと告げることしか…。きっと、貴女はお父上を戦死する運命から救ったのよ。もう、これ以上お父上に縛られずとも」

 

「それは貴女のほうよ。貴女のお父上は、もう、死んでしまった。死ねば魂もない。あの世など、ないわ。存在しないもののために義戦を続けねばならず、毘沙門天の化身になりきらねばならない貴女の徒労は、あなたの命が尽きるその時まで、終わらない。そんな辛くて悲しい生き方をする必要なんて、あなたにはないわ」

 

「私が越後から逃げれば、春日山長尾家の嫡流は絶え、長尾政景が国主の座に就くだけ。そうなればきっと越後は分裂して、関東をも巻き込み、私の父上の時代以上に荒れ狂うことに。自分のお父上のまつりごとが民を苦しめ家臣たちを苦しめてきたことへの反省と後悔から、娘としてお父上の失策をあがなうべく国主となったのは……貴女も同じでしょう」

 

 そのとおりだわ、と晴信は思った。しかし、父親を追放して自ら甲斐の国主となってはじめて知ったこともある。一国の主たる者は、時には自らの手を汚し罪を犯さなければならないということを。山本勘助や真田幸隆たちが晴信に代わってその薄暗い仕事を務めてくれているということを……。だが、景虎は違うらしい。越後一国の当主であり続けながら、あくまでも「下克上の男」だった亡き父・長尾為景とは真逆の生き方を貫こうと決めているらしい。

 

 そんなことが、可能なのだろうか。

 

「わからない。でも、やるしかないの。私の父上はもう、この世界にはいないのだから……」

 

「貴女は死んでいない。生きているのに。それなのに、死者に囚われているのよ」

 

「そうかもしれない。でも、それを言うのならば、貴女は生者に囚われているわ」

 

 晴信は、景虎の志を美しいと思った。そして、景虎もまた晴信の志を気高いと感じている。景虎の赤い瞳を見れば、わかった。お互いに、相手に憧れと、そして尊敬の念を抱かずにはいられなかった。しかし、言葉は、すれ違った。この天上では――山の神々の世界では、想いがすべてだ。心と、魂と、そして言葉だけが、ここには存在している。修験者たちが飯縄や戸隠の山々に魂を惹かれ、そして俗世を捨てて神々の世界で生きたいと欲する想いを、晴信ははじめて自らの内側に見つけていた。

 

 だが人々が生きる地上の世界は、想いによってのみ成り立っているものではない。

景虎は、それでもなお、神々の世界の美しさを手放すことなく、地上の世界に実現しようとしている。

 

 晴信には、その二つの矛盾する世界を同時に生きることなど、人間にはとても可能とは思えなかった。しかし、景虎ならば可能かもしれない、とも思った。わからない。出会ったばかりなのに、もう、置いていかれてしまうのだろうか。地上の世界の理を景虎に知らしめることができれば――「合戦」に勝つことができれば、あるいは、景虎を地上の世界に引き下ろして再び手を繋ぐことができるのだろうか。

 

 一人で行かないでほしい、ここに留まってほしい、と晴信は思った。景虎を抱きしめて、そのまま戸隠の山々の中に閉じ込めてしまいたかった。景虎もまた、それを望んでいるような、そんな気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでも。

 

「……私は王道を目指し、あなたは覇道を目指している。話し合いを続けても、きっと、平行線ね」

 

「鬼ごっこを再開しましょう。負けたほうが、勝ったほうの望みを聞くの」

 

「そうね。二人だけの遊びにしておきたかったけれど。善光寺平で――川中島で、鬼ごっこを」

 

「将兵を無駄に死なせる意味はないわ。できうることならば、この戸隠の山で、二人きりで」

 

「この乱れきった日ノ本に、古き秩序と義を復興させられるか、それとも新しき人の世を切り開けるか。二人だけで決めてしまいたいけれど……私は越後の国主で、貴女は甲斐の国主。お互いに大勢の家臣たちがいて、領民たちがいる」

 

「……鬼ごっこで負けました、では……とおらない、わね」

 

「……ええ。二人が揃って国主の座を、捨てない限り」

 

「あたしには、捨てられないわ。父上を追放した罪までも、投げ捨てて逃げることになってしまう。それに、ね……地上の世界と神々の世界とは、共存することはできないわ、景虎」

 

「地上の世界の理が、毘沙門天の力に勝ると、貴女が私に教えてくれるの?」

 

「鬼ごっこではなく、善光寺平で。川中島で。合戦で、貴女に勝てば――貴女は、認めざるを得ない」

 

「自信が、ある?村上義清に二度惨敗したあなたが、私を打ち負かせる?」

 

「わからない。でも……きっと、貴女に追いついて、捕らえてみせるわ」

 

「……戦をすれば、人が大勢死ぬわ。とりわけ貴女の戦ぶりは、そう。私とは違うもの。残念だけれど、貴女には私のような合戦の才能が、ない……たとえ、どれほどの犠牲を払うことになっても、私を捕まえるというの?」

 

「ええ。約束する」

 

「本当に? きっとそれは、とても辛いことだわ」

 

「……それでも」

 

「武田晴信。貴女は欲が深いのね。私とは本当に、真逆みたい。でも……そんな貴女が、私は羨ましい」

 

 時間が、流れていく。日が暮れるよりも早く、下山しなければならなかった。二人きりで語らっていられる時は、尽きようとしていた。晴信は、景虎が素顔を覆っている行人包を剥ぎ取ってしまいたい衝動と戦いながら、「どこにも行かないで」と伝えたいという想いを抑えながら、景虎に告げねばならなかった。

 

「明日から直接戦うことに、なるわね。あたしは、川中島を――北信濃を、捨てられない。奪い取らなければならない。駿河へ出られぬ以上は、いずれ、越後の海へと。父上を甲斐から追ったあたしにとって、武田家を戦国最強となし上洛を果たすことだけが、父上に認められる唯一の道なのだから。そして、長尾景虎。あなたを神々の世界から引き下ろす唯一の道でもある」

 

 景虎は、そんな晴信の肩にそっと寄り添いながら、答えていた。

 

「…私は、毘沙門天の、化身だから……父上の前で毘沙門天として振る舞ったあの時から、ずっとずっと。きっと、死ぬまで。誰にも、私を神の高みから引きずり下ろすことは、できないの……でも」

 

 もしかしたら、貴女ならば。

 

「戦場で……私を殺してくれるかも……しれない。死んでしまえば……もう……戦で人々の命を散らす日々からも……解放されるわ」

 

「いや……あたしは……貴女を守りたい。幸せに……したい」

 

「私も、同じ気持ちよ。貴女は私にとって、はじめての同性のお友達だもの……」

 

「だったら」

 

「でも俗世を捨てない限り、それは……無理なお話だわ。次に会う時は、敵同士よ。わたしは、戦場でも敵兵を決して直接殺さず、そして敵が降伏すればすなわち許すという不殺を誓っているけれど……」

 

「……残念ながらあたしには、そのような悠長な戦い方は……通じないわ。あたしは貴女ほど戦に強くはないけれど、周到で執拗なの」

 

「多大な犠牲を払いながら村上義清を最終的に打ち破ったのも、貴女のその執念故ね。私には、ないものだわ。とても、眩しい」

 

「お互いに兵を率いて戦えば……問答無用で、互いの命を奪い合うことに、なるわ」

 

「……そのようね。それでも私は、不殺を貫くつもりだけれど」

 

 こうして戸隠の山で出会うまで――晴信は、会ったことのない景虎を、ずっと憎んでいた。しかしそれは結局――自分自身の影を憎んでいたのだ、と晴信は知った。本物の景虎は、これほどにいとおしい。景虎もまた、こうして邂逅するまでは自分を不義不忠の女と憎んでいたはずだった。しかしその憎しみは、すでに溶けて消えている。

 

「景虎。どうしても、村上義清たちのために、川中島で義戦を行うの?あたしよりも、義という観念のほうが、貴女には大切なの?あたしの望みには、応じてくれないの?」

 

「……村上義清や小笠原長時から、あなたは城と国を奪った。他国を侵略する者は、毘沙門天にとっては、許されざる敵なの」

 

「どうしても戦うのならば、せめて落とした城を長尾のものに。北条氏康とあたしを両方敵に回して、領土も奪わずに、義戦を続けるだなんて。そんなことをしても、壮大な徒労でしかない。どれほど戦に強くとも、無駄だわ。一体なにができるというの。そんな身体で……命を、縮めてしまう」

 

「私は、毘沙門天の化身。戦場で死ぬことしか、許されないの」

 

「……貴女はそうやって自分自身の観念の世界に生きているのね。神々の気配を感じることのできない俗人であるあたしとは、真逆のようね……ともに同じ道を歩んで生きていくことは……」

 

「そのようね。貴女は、諏訪を滅ぼした。善光寺もそして戸隠も、滅ぼしてしまうでしょうね」

 

「……人間は人間よ。いにしえの神話に憑かれれば、目の前の人間の世界を見失って、人でないものになってしまうわ。あなたが、毘沙門天になってしまったように。たとえこの戸隠の地底に九頭龍が実在するとしても、人間ごときの力で駆り立てることなどできない」

 

「戸隠の『石』を手に入れて、忍びを増やすのでしょう? 大勢の子供を犠牲にして」

 

「そんなことはしたくないわ。『石』は――いずれ甲斐へと持ち去って、そして、壊すつもりよ。そう、決めたわ」

 

「神を恐れぬ者ね、貴女は」

 

「ええ。父親をも恐れないのだから、神を恐れられるはずもない」

 

 そうではない。あたしは今、目の前にいるこの少女の中に、神を感じているはずなのに。そうでなければ、彼女の顔を隠しているこの白い行人包を剥ぎ取ってしまえるはずなのに。既に晴信の正体を知っていながら、景虎はまるで無防備だった。いっさいの殺意も敵意もない。剥ぎ取ろうと思えば、いつでも容易く剥ぎ取れる。それなのに、晴信には、どうしても手を伸ばすことができなかった。

 

 うぬは生涯なにをも手にする勇気を持てぬ臆病者よ、と信虎がせせら笑う声が、耳元で聞こえていた。

 

 うぬはな。己の幸福をすら、恐れるのだ。幸せを手に掴むことすら、うぬの弱き心を、傷つけるのだ。貴様の敵は儂ではない。貴様自身なのだ、晴信よ。そう高らかな声がした。

 

 いいえ、違うわ。この神々の世界で景虎の行人包を剥ぎ取っても、意味がないの。地上の世界で――戦場で、剥ぎ取らなければ、景虎をこの手に捕まえることはできないのよ、と晴信は自分に言い聞かせていた。

 

 晴信と景虎は唯一無二の友として出会い、そして――宿敵として別れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この出来事を正確に知る者は殆どいない。だが、後に武田家の者からこの出来事の断片を聞いた兼音は三鱗記にこう記した。

 

『心なぞ、なければ苦しまぬものを』

 

 終わりの無い歪んだ円環が回りだす。この川中島と言う小さな舞台は、残酷な演劇を描き出そうとしていた。まさしくメビウスの輪。決して、綺麗な円環になる事は無いのだ。




なんか、この二人だけで完成してしまいました。もう少し書きたかったんですが…。次回は多分割とすぐ(今週中?)です。なるたけ12月中に行けるところまで書いてしまいたいですからね。

今回晴信と景虎の話でしたが、タイトルに甲も越もないのはミスではなく、今回の話における二人はそう言う国に縛られた存在でありながらもそれからの解放を望み、二人の少女として過ごそうとしていたからです。なので戸隠と言う異例のタイトルになってます。


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第81話 第一次川中島の戦い 甲・越

書き溜め連投投下です。またしばらくは遅いでしょうと思います。温かい言葉を多くいただいて感謝感激であります。激励に応え、適度にこの執筆で気を抜きつつ、志望校を勝ち取りたいと思います。ご理解をお示し頂き、誠にありがとうございます。


 長尾景虎と、武田晴信。

 

 宿命の出会いを果たした二人が、自陣へと帰還した。野尻湖から飯縄山の東を進んでいた越後軍本隊に合流した景虎は、「これより晴信と決戦する」と宇佐美定満に命じ、まっすぐに善光寺平へと出た。東西の山々の間に、千曲川の水の流れが彫り上げたかのように広大な平野が広がる。これが善光寺平である。善光寺平の南部で、西から流れる支流・犀川と、上田側から流れる千曲川本流とが合流する。この二本の川に挟まれた中州地帯が、川中島。

 

 犀川以北、善光寺平の北部の中心地は、善光寺である。善光寺の別当たちの一部が戸隠山の修験者たちの代表をも兼ねており、善光寺は戸隠山の表玄関としても、そして戦時には要塞としても機能していた。善光寺の別当たちの間では「越軍か、甲軍か」「景虎か、晴信か」真っ二つに意見が割れたが、「武田晴信が勝てば、善光寺の秘仏も戸隠の『石』も奪い取り甲斐へ持ち去るぞ」と大分数は少なくなったが残された戸隠忍びの残党に説得され、善光寺平の北部は戦わずして越軍のものとなった。

 

 問題は、犀川以南。いわゆる川中島である。既に川中島は、武田方の先鋒、晴信の妹・武田次郎信繁とその守り役を務める老将・諸角豊後守虎定によって占拠されていた。さらに、武田晴信自身も川中島まで兵を進めているという。

 

 先に、越軍五千の見せ兵を借りた村上義清が武田軍と戦った際、村上義清は武田の守備隊を相手に戦った「更級八幡の合戦」に勝利し、善光寺平より千曲川を北国街道沿いに南進して、かつての本城であった葛尾城を奪回。しかし葛尾城はすでに武田・真田の手によってほぼ破却されていたため、さらに南へ。かつて武田軍を野戦で蹂躙して板垣信方を討ち取った上田の南方にある山城・塩田城まで進んだ。

 

 しかし、敵中深く乗り込み塩田城へと進んだことが、村上義清自身を追い詰めた。武田晴信自身が、甲斐一万の軍勢を率いて猛然と反撃。武田方の猛将で現役の武田四天王最後の一人・飯富虎昌に敗れて塩田城から駆逐された村上義清はそのまま一方的に押し切られ、上田から撤退。善光寺平における拠点をことごとく武田軍に奪い返されて、ついには越後の景虎のもとへと亡命を余儀なくされたのだった――。

 

 この日、長尾景虎は八千の越軍兵を率いて善光寺を出立し犀川を渡ろうとしていた。川中島で、武田軍と決戦するために。先鋒隊は、「南無阿弥陀仏」の旗を掲げる柿崎景家。だが、景虎自身が率いる旗本本隊も、その先鋒隊のすぐ隣を突き進んでいた。景虎の戦いは常に、総大将の景虎自身が先頭に立つ。前回の箕輪城が異例中の異例であった。そして前回の苦い記憶は色々な制約となれない奇襲作戦を取った事が原因だと景虎は考えていた。まさに、一撃決戦主義であった。武田晴信に完全に敗北して越後軍の降将となっていた村上義清が、思わず景虎に具申したのも、当然だった。

 

「一撃決戦には晴信は乗らない。先の更級八幡の合戦でたしかに俺は武田軍の先鋒隊を破り、勝ちに勝って千曲川を南進し上田まで深入りした――だが守るべき葛尾城はすでに半ばまで破却され、仕方なく塩田城に入った。それが俺の敗因だ。上田一帯はすでに山本勘助と真田幸隆の両名の手によって、『敵兵を誘い込む死地』となっている」

 

 村上義清は「来月に上洛を控えているご主君には、これから葛尾城を再建する時間はない。北信濃で戦える時間は、あと三週間しかないのだからな。上田に入ってはならない。この善光寺平で……川中島で決戦するしかない。もしも晴信を取り逃がしても、それ以上深入りするな」と景虎に訴えた。

 

 日の光を浴びぬように行人包で顔を覆い隠した景虎は馬上杯を掲げて酒を飲みながら、兎耳の前立てをつけたひょうけた兜を被る宇佐美定満に尋ねた。

 

「……宇佐美はどう見る」

 

「軒猿の諜報によれば、武田晴信はどうやら上田の塩田城に留まったままだ。武田信繁とともに川中島に陣を敷いて越軍を待ち受けている武田晴信は、おそらく影武者だな。逍遙軒(しようようけん)とか名乗る、もう一人の妹だろう」

 

 逍遥軒とは孫六信廉の事である。砥石崩れの一件以来、益々影武者としての完成度に磨きがかかっていた。

 

「影武者か。それが武田晴信の戦い方か。虚と実が入り交じり、なにが本当かを見せないようにする。川中島の布施に陣を構えて越軍の野戦決戦に応じようとしているのは、罠か」

 

「罠とも言えるし、そうではないとも言える。武田軍は、かつては村上の旦那に何度も敗北した。その頃の晴信は兵法の常道を手堅く戦う守りに長けた姫武将ではあったが、村上軍の規格外の突進力にはとても対抗できなかった。だが、今は違う。敵軍の突進力をいなす戦術眼と、絶対的な統率力を身につけている……」

 

「たしかに、村上義清ほどの豪の者を一蹴できるほどに、武田軍は強くなった。川中島の武田軍を見るに、軍律は見事に統制され、武将たちはみな晴信を絶対的な主君として崇めている。見事な軍団だ。私とて油断慢心すれば敗れるだろう。だが、それほどの手練であれば、なぜ晴信自身が堂々と川中島に出てこない?」

 

「おそらくは、ひとつには越軍の戦い方を知らねば決戦はできないと慎重になっている。晴信はかつての村上軍との対決で、危険な一撃決戦には懲りているからな。その村上の旦那以上に強いと噂されるお前と安易に激突して大敗することを恐れている」

 

 この宇佐美の読みは半分正解で半分間違いだった。確かに晴信は越軍の手の内を見極めるために上記の行動をしている。だが、越軍の軍勢の詳細な状態に関してはほぼ全てのデータが彼女の手元にあった。出所は北条家。送り主は一条兼音。宛先は武田信繁である。箕輪城、そして沼田城で戦った際の詳細なデータと所感が書かれた資料が叩き送られていた。第一次川中島の戦い発生を知っている兼音による援護射撃である。

 

 とは言え、他国のくれたものを無条件に信じるほど晴信は甘くない。自分で確かめ、裏付けを取ったうえで利用しようとしていた。同時に氏康は城下の商人集団に命じ、米を甲斐で売りさばかせている。兵糧支援だった。甲斐は貧しい。買おうにも、金はあっても物がないと言うのが日常茶飯事である。故に、他国からの物資でもありがたいものなのだ。北条家は金が手に入り、それの行き先は工事費用である。死の商人は儲かるのだ。

 

「私は勝っても、晴信を殺さぬ」

 

「敵味方入り乱れての大乱戦になれば、不殺の掟など守れないぜ、景虎」

 

「……つまりは私と互角に戦えると、晴信に思われているのだな」

 

「もうひとつの理由は、お前を怒らせて上田まで深入りさせるためだ、景虎。戸隠山で晴信と出会ったことは、お前にとっては不利に働くだろう。そして、晴信にとっては有利に働く――晴信はお前のように甘くはない。お前に純粋な友情を感じていようとも、いざ合戦となればその自らの感情をも戦略の駒として用いることができる」

 

 それでこそ武田晴信だ、と景虎は思った。が、晴信が自分を倒すという気概を剥き出しにしてこないことが不満だった。

 

 二人が戸隠山で偶然出会ったことを景虎から聞かされた宇佐美定満は、それ以来、ずっと浮かない顔をしている。景虎に同性の、しかも同じ姫大名という立場にいる友人など、滅多にできるものではないからだった。越後には、景虎を除けば姫武将はいないのだ。ようやく出会った親友と、即座に合戦をはじめなければならない景虎の心を思うと、宇佐美の胸は晴れなかった――。

 

 しかも、父を救うことから義戦の道を歩みはじめた景虎と、父を追放することから野望の道を歩むことになった晴信とは、決して相容れることはないだろう。

 

 この川中島での対陣は、もしかしたらこれから何度も繰り返されることになるかもしれない、景虎の志も晴信の野望もなにもかもが川中島というこの狭い盆地に閉じ込められることになるかもしれない、と宇佐美は危惧していた。

 

「……あの女は……私の義の戦を否定した。私とともに地上を歩む道を拒絶した。私を戦場で破って、現世の理というものを私に知らしめるつもりなのだ。ならばなぜ、自ら出てこない。私と戦うと言ったのは、口だけか」

 

「だから、景虎。そうして怒っている時点ですでに、お前は晴信の掌の上だ」

 

 子供扱いされているのか、と景虎は憤った。景虎は越後国内では無敵の神将だったが、越後の外へ出て異国の兵と本格的に戦うのは、これが二度目である。外敵と戦ったのは僅か一回、しかも相手の手の内は殆ど見えず、謎のベールに包まれている。得られる物は少なかった。対する晴信は、この信濃で何度も村上義清や小笠原を相手に激戦を繰り広げてきた。

 

 地の利は、圧倒的に晴信にある。あるいは、「人」に関しても――。

 

 諜報を担当する直江大和と剛勇無双の長尾政景。あの二人がいれば、と景虎は思ったが、直江大和は兵站を維持するために後方部隊を率いている。長尾政景は越後上田に残してきた。信濃の上田と越後の上田。同名故に少々煩雑だが、越後上田は越後から関東への玄関口である。政景と綾の長子の命が、尽きつつあった。そのために景虎は、政景を招集できなかった。政景の代わりに、北条高広と柿崎景家を招集したが、北条高広は「関東遠征に続いて信濃遠征にまで繰り出されるとは……わたくしは関東担当ではなかったのですか。せめて武田方から奪った土地を越後の諸将に恩賞として与えてくれねば、とてもやっておられぬ」とはじめから不満顔である。

 

 武田晴信は、合戦で奪った土地を惜しみなく次々と諸将に分け与えるのだという。それ故に晴信は、父・信虎ですらなれなかった「甲斐の絶対的な主君」となれたのだろう。

 

 早くも上杉憲政・長尾政景・北条高広ら「関東遠征派」と、小笠原長時・柿崎景家ら「信濃遠征派」とに分裂して対立しはじめている越後とは、あまりにも違う。宇佐美定満と直江大和が、両派閥の間に入って調整に奔走しているが、「領土も奪わずして二正面作戦は不可能だ」という両派閥の意見はもっともであり、景虎も苦慮していた。「領土を奪わない」という景虎の誓いに頑強に反対する大熊朝秀のように、いっさいの外征に異を唱える者もいるのだ。

 

 しかし晴信の振る舞いは、潔癖な景虎にしてみれば、他国を侵略する下克上行為であり、明らかな「泥棒」であった。晴信は甲斐の国主にすぎず、信濃の守護は……下品で短慮な男とはいえ……小笠原長時なのである。その小笠原長時を放逐して信濃を切り取り続ける晴信を、景虎は捨て置けない。

 

 そしてもう一人。景虎の救援によって文字通り救われた男がいる。名を高梨政頼。北信の一番北に勢力を持つ大名である。この男の一番の特徴は景虎の従兄であることだった。為景の妹が政頼の父、済頼の妻であった。つまり政頼の母である。彼は周辺勢力が武田に靡く中、必死に北信で抵抗を続けた。彼が陥落すると後は春日山まで後少しである。春日山はイコールで越後の首都。首都まですぐに敵が迫れるのは戦略的にマズい状態だった。敵地が首都のすぐ近く、という状況はソウルが近いだろうか。やる気マックスかつ鬼強い北朝鮮が毎年攻めてくると考えて欲しい。なお、背後には中華人民共和国=北条家が付いているものとする。

 

 そんな訳で頑張って抵抗していた政頼も、ついに抗しきれなくなり景虎に救援を乞い願った。景虎と政頼の関係はあまり濃くは無いが、面識はある。従兄ではあるが、いつかわが手にしたいという願望は彼も持っていた。とは言え、不透明な未来の妻よりも明日の我が身である。今回の出兵にはかなり感謝をしており、出来る限りの兵を引っ張り出して参陣していた。政頼は箕輪城での一件をあまり知らないので、不敗の神将が晴信を打倒するべく来てくれたと信じているのである。彼女の決断に異を唱えることなどあり得なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「武田軍だ。七千はいるぞ、景虎」

 

 宇佐美定満が声をあげ、村上義清がうなずいた。犀川を渡り終えた――布施に、「風林火山」の軍旗を見つけだした。諏訪太鼓の音が、鳴り響いている。武田軍がいっせいに動きはじめ、陣形を変更する――。

 

「景虎。戦は、鬼ごっこじゃないぞ。長尾政景と内輪揉めをしていた時とは訳が違う。更に言えば、時間切れを待っていた北条氏康とも違う。相手は、甲斐から遠征して全信濃を平定しようとしている武田晴信だ。待ってなどくれないぞ。武田家は甲斐の守護の家柄だが、もはや守護大名じゃない。他国切り取り放題、下克上上等の――戦国大名、と考えろ」

 

 宇佐美定満が「戦国大名」という言葉を口にした時、景虎の細い肩がぴくりと動いた。武田軍と戦い続けてきた村上義清は、越軍の誰よりも武田軍の陣容に詳しい。それぞれの旗印を見るだけで、布陣がわかる。

 

「ご主君。敵先鋒は諸角豊後。信虎時代からの老将だが、俺同様、いささかも心身に衰えはない。諸角隊の背後には、武田の副将・武田信繁。晴信の妹だ。諸角は信繁の守り役だ、信繁の盾となるべく気力を充実させている」

 

「村上。お前はかつて武田四天王のうちの二人……板垣信方と横田高松を討ち取った。諸角がそれほどの大物であれば、なぜ武田四天王に繰り上がらぬのか」

 

「晴信は、先代に仕えてきた男武将よりも、自らが抜擢し育成した姫武将を新たな四天王としたい考えだ。姫武将ならば、忠義心と恋愛の情とを混同して武田家主君の座を脅かす恐れがない。仮に恋に堕ちても女同士であれば、子を成す可能性がないのだから、晴信が主君の座を乗っ取られることはない……姫大名という不安定な立場を守るためという目的は同じでも、方法はご主君とは逆だ。水と油だ」

 

「村上。女同士で恋に墜ちたりなど、するものか。だが、晴信らしい。自分を脅かす者ははじめから近づけねばよい、というその用心深さが」

 

「いずれにせよご主君のほうに勝機はある。旗印を見るに、実質四天王最後の一人にして最強の姫武将・飯富虎昌がこの布施の戦場にはいない。本物の晴信とともに塩田城に籠もっているようだ。山本勘助の姿が見えぬのが不気味だし、こちらも越後最強の突破力を誇る猛将・長尾政景を欠いているが、政景の役は俺が担おう」

 

 村上。その必要はない、私自身が柿崎とともに先陣を切る、と長尾景虎は答えた。驚くほどに、そっけない、即断だった。

 

「私は武田晴信と約束したのだ。決戦をして勝敗を明らかにする、と。私の王道と晴信の覇道、いずれが正義か、私自身が証明する」

 

 村上義清が思わず宇佐美定満に「越後の国主が、この武田軍とのはじめての交戦で先陣を切るなど、あまりに無謀すぎる。軍師として止めぬのか」と問うたが、宇佐美定満は「止めて止められるものじゃねえ。これが越後流さ」と苦笑いするばかりだった。

 

 先陣を切った中央に、長尾景虎と、柿崎景家。左翼に、本庄繁長ら揚北衆と斎藤朝信、甘粕景持。右翼に、北条高広と高梨政頼。

 

 相手が何者であろうが、景虎の戦は常に「一撃決戦」主義であり、そこにはいっさいの迷いがない。長尾景虎が討ち死にする時が、越軍が敗北する時なのである。自らの保身のために家臣団を的にしたり餌にするような卑劣な戦いはせぬ、と景虎は決めている。

 

 それが一国の主として、やってはならない非常識であろうとも。私は武田晴信とは違う、と。容赦なく、突進した。いきなりの総攻めを前にした武田軍はいささかも動揺することなく鶴翼の陣形を取ろうと動くが、景虎は駆け続けた。川中島の平原に雨のように飛び交う矢も鉄砲弾も、景虎には当たらなかった。

 

 速い、と村上義清は息を飲んだ。景虎は小柄である。背が低いだけではない。驚くほどに体重が軽い。しかも、重い鎧を着ることもない。それ故に、景虎を乗せた馬にしてみれば、誰も乗っていないかのように軽量なのだ。斤量のない馬がどれだけ速いかは推して知るべしであった。競馬でも鞍上の落馬した空馬は一着でゴールすることもある。

 

「しかし。まっしぐらに敵中へと突き進んでいるが、良いのか宇佐美!?」

 

「景虎が突こうとしているあそこが敵陣の『穴』ということだ!者ども、景虎に遅れるな!蹴散らせ!」

 

「穴、だと!?なぜ瞬時にそれがわかる?武田軍が敷いている堅陣の中に、俺には、穴など見えぬ!」

 

「俺もさ、村上の旦那。景虎を動かしているものは軍学じゃねえ。あいつは生まれながらの戦の天才だからな――毘沙門天の化身を気取るのだけは、そろそろやめてほしいんだが、あいつには敵陣の穴が、隙間が、『見える』のさ」

 

 そんなことが人間に可能なのか。それがまことなら、本当に神がかりではないか、と村上義清は呆れ、衝撃に打ち震え、そして「ご主君を散らさせはせぬ」と槍を構えて突進していた。

 

「おおお。景虎様が突撃なされる。柿崎勢も一気に行くぞ!むうううん。南無阿弥陀仏!」

 

 柿崎景家が、遅れてはならぬとばかりに、続いた。

 

「うわはははは!一条土佐守にやられた鬱憤を、この川中島で晴らしてくれるわ!」

 

 相変わらず柿崎の旦那は戦場に出ると人変わりする、と宇佐美がまた苦笑した。多くの兵が突撃を始める。北信で粘っていた高梨隊は恨みを返さんと言う勢いで突撃をかましている。

 

「死ねぇ死ねぇ!越後より救援に来た、我らの神を討たせるなぁ!」

 

 戦場でアグレッシブに動くタイプではない高梨政頼も、今日この時ばかりは獅子奮迅の働きをしていた。そして、武田の先鋒、諸角豊後隊のわずかな「死角」を、景虎は突いた。景虎率いる全軍は、八千。しかしこの八千が、自ら主力決戦の先頭に立つ景虎にとってはもっとも扱いやすい兵数であった。

 

「なんと!?速すぎて、見えぬ!?長尾景虎。噂以上の神将であったか!?やらせはせん、次郎さまをやらせはせんぞおおおお!」

 

 諸角豊後の老いた叫び声が戦場に木霊した時にはもう、景虎率いる五百の精鋭騎馬隊によって、諸角隊は崩れはじめていた。

 

 やはり、この布施に陣取っていた武田晴信は影武者らしい。武田軍は決戦を覚悟していたようだが、それにしてはあまりにも手応えがなさすぎた。村上義清を破ったほどの晴信が、これほど脆いはずがない。総大将は、影武者の逍遙軒なのだろう。そして逍遙軒はどうやら、見極めがよく、逃げ足が速い。殿を務めることが得意な姫武将らしい。

 

 諸角豊後の首などは取らないし、諸角隊の足軽たちを殲滅する真似もしない。景虎は迷わずに、第二陣へ――次郎こと武田信繁の陣へと直進した。景虎にとって「勝利」とは、敵将の首でもなければ、足軽たちの命でもない。敵陣を壊乱させ、潰走させ、そして降伏させれば、それが勝ちなのである。「義」を守る、「義」を破らぬ、と誓わせれば、そこで戦が終わるのである。敵味方の兵の命が散っていく光景を、景虎は、見たくはなかった。可能な限り避けたかった。「義」のために戦えば戦うほど、「命」を散らさねば合戦は成立しないという矛盾が、大きくなる。勝利の快感は、命を失っていくという哀しみによってたちどころに吹き飛ばされてしまう。しかしそれでいいのだ、と景虎は思った。勝利の快感などに憑つかれてしまえば、それでは、武田晴信となんら変わらぬ――。

 

「……あれが……あの子供のような小さな姫武将が、長尾景虎……!?総大将が、先陣を切って、一気にここまで……!?嘘でしょう……?」

 

 信繁は信じられなかった。兼音からも情報を得ていた。『長尾景虎は単騎突撃を好む者也。それも敵総大将の陣へ行かんと欲する。我が主、是により奇襲を受け危うくその御命を落命せん際に陥る。是は誠也。絵空事の絵巻物に非ず。努々侮るべからず』と。それでも心のどこかであり得ない、と彼女の常識が言っていた。しかし、相手は非常識の具現化だった。大人しく忠告に従うのだったと唇を噛んでももう遅かった。

 

 

 

 

 

 

 

 景虎は丘の上に、武田信繁の姿をちらりと見た。晴信とよく似ている。やはり、姉妹なのだ。しかしすでに信繁は馬上の人となり、「次郎さまああ!ここは拙者にお任せあれ!」と諸角豊後に追い立てられて退却をはじめていた。

 

「でも諸角。あまりにも一方的すぎる。このまま引き下がっては、まるで大人と子供の戦いだわ。姉上に面目が……」

 

「いいえ!次郎様が討ち死になされてしまっては、この諸角の面目が立ちませぬ! 御屋形様は言うまでもなく、川中島の死守よりも次郎様のお命のほうを選ばれておられます、もしも越軍が噂通り村上義清以上の強敵であれば、必ず次郎様と孫六様を戦場より逃がせと仰せつかっております!」

 

「……長尾景虎……無敵不敗の、神将……毘沙門天……あなたが、姉上の心を、私から奪ったのね……許せない」

 

 背を向けて逃げていく信繁と、ほんの一瞬だけ、視線が合った気がした。去りゆく信繁から、凄まじい憎しみの情を、景虎は、感じ取っていた。

 

 憎まれている!?

 

 これほどの憎しみを、景虎は他人から受けたことがなかった。馬上で身体が一瞬、硬直した。だが、この合戦は景虎がはじめたのではない。武田晴信が北信濃を奪い取ろうとしなければ、この戦もなかった。武田晴信は、合戦に、勝利に、他国の城と領土を奪い取る悪行に淫しているのだ、と景虎は憤った。しかしこの憤りが怒りになり、怒りが殺意になれば、私もまた合戦に淫する一人の武将に堕してしまうのだ……。

 

「……琵琶を持ってくれば、よかった。琵琶の音は私の心を静めてくれる」

 

 殺伐とした戦場のまっただ中を駆けながら、景虎は布施から敗走しはじめた武田軍を「追撃」すると宣言していた。

 

「足軽は打ち捨てよ。首は取るな。川中島より武田勢を一掃できればそれでよい。そしてそのまま我ら越軍は――善光寺平を出て、千曲川沿いに、上田まで進撃する。本物の武田晴信は、そこにいる」

 

 北条高広からの使者が、景虎に「川中島の南の入り口にあたる塩崎城を是非ともそれがしに。それがしが入り口を塞げば、武田軍はもうおいそれと善光寺平には出てこられませぬ」という北条高広の言葉を伝えたが、潔癖な景虎は「北条。お前も、勝ち戦に淫するのか」と思わずかっとなって「塩崎城はもとの城主に返す」と突っぱねていた。戦場での容赦ない命のやりとりは、景虎の繊細な精神をやはり、興奮させているのだった。

 

 武田軍は布施から撤退し、塩崎城をも放棄し、善光寺平から上田へと退却していく。一方的な負け戦にもかかわらず、見事な退陣ぶりだった。あの「上田原の合戦」以来、武田軍は死地に追い詰められてもなお動揺せずに踏みとどまる胆力を得たらしい。「負け慣れ」している。局地戦での敗北などは巨大な晴信の戦略の中ではさほど重要ではない、と足軽までもが理解している。

 

 そして、武田軍はしっかりと撤退戦の研究をしていた。特に、信繁率いる部隊はそれがはなはだしい。兼音からの書状には『戦には勢い有り。勝ち戦は自ずから勢いに乗りて兵卒皆意気軒昂に敵を追わんとす。されど、負け戦はその意気挫け、崩れる山の如く敗走する事多し。然らばこそ、撤退戦こそ、武将の真価の見えし処也。負け方心得たる物、勝ち方も知る。唐国は漢の高祖、百戦百敗なれど、遂に項羽を破る。是負け方を心得、勝つべき時を知るが故也』とあった。それを参考に訓練していたのである。そしてその中で晴信の戦い方を染み込ませていった。

 

 

 

 

 

 

 

 それを知る訳もないが、恐るべきは武田晴信のこの統率力だ、と景虎は思った。武田軍の諸将も足軽たちも、目の前の戦の勝敗に一喜一憂しない。武田晴信の戦い方を、皆が身体で理解し覚えているかのようだった。あまりにも、越軍とは違う。

 

 実のところ、まだ合戦が終わっていないにもかかわらずすでに「城をよこせ」と言いだしている北条高広のほうが、本来の国人豪族の姿であり常識なのだ。景虎が「義の戦」を掲げるあまりに、越後の国人たちはかえって我欲を抑えられないのかもしれない。晴信は「恩賞」を必ず与えるが故に、武田軍の諸将は無私の心で戦えるのかもしれない。

 

 私が祝言を五年先に延ばしたと同時に、私に懸想する男が増えたのも、同じことなのかもしれぬ。人の心はまことにとらえがたく難しい、と景虎は馬上で唇を噛んでいた。

 

 ようやく追いついてきた宇佐美定満が「深入りはするなと村上の旦那も言っただろうが!」とついに景虎を止めたが、景虎はうなずかなかった。

 

「宇佐美。私は武田晴信よりも強い。手合わせしてわかったが、越軍は武田軍よりもずっと精強だ。しかし、武田軍には負け戦を乗り越える執念と堅い規律がある。やはり武田晴信自身を破らずして、武田軍の北上は止められない。局地戦で善光寺平から武田軍を追い払うだけでは、私と晴信の川中島での戦いは堂々巡りになる」

 

「……そうか。追いかけるか、武田晴信を。結局は、鬼ごっこだな」

 

「わたしが信濃に留まっていられる時間は少ない。急ぐぞ」

 

「景虎。やっと同性の友ができたというのに、お前も、因果な運命だな……」

 

「宇佐美。私の友は、あくまでも『神見』だ。信濃全土を奪い取ろうとしている武田晴信は、友などではない。倒すべき、敵だ」

 

「……しかし武田晴信を憎むなよ、景虎。憎しみは憎しみを生み、その憎しみは連鎖する」

 

「わかっている。だがすでに、晴信の妹には、私は相当に憎まれているらしい」

 

「妹、か。あの信虎が家督を譲ろうとした次郎信繁だな。黙って家督を受け取ればいいものを、家督を姉に譲ってともに父親を追い出したという、相当に奇矯な妹だ。それほどに、姉の晴信を愛しているのだろうな。お前に、嫉妬しているのかもな」

 

「……私の姉上とは、違うのだな……政景の妻となり、母親になった、姉上とは」

 

「そう言うな。綾さまだってお前を愛していたからこそ、政景に嫁いだんだ」

 

「……だとしても……今の姉上は、もう」

 

「姉と妹とは別々の人間なんだぜ、景虎。お前と綾様の関係のほうが、正しいんだ。信繁は……どこかで、永遠に晴信の『影』としてしか生きられぬ道へと、はまり込んでしまったんだ。おそらくは二人で手を取って、父親を追放した時からな」

 

「……影、か。だが、片方が影だとしても、きっと……二人は、幸福なのだと思う。私は、武田家の姉妹が……羨ましい」

 

「景虎……」

 

 ああ。やはり晴信は、私が手に入れられなかったものをなにもかもすでに手にしている、と景虎は思った。心が痛んだ。この上、なおも信濃の横領を望むなど。

 

「後方から、直江の野郎が『さっさと退陣しろ』としつこく使者を送ってくることになるな。京に上るならば、小笠原流の修行も琵琶の練習も、急いで積まねばならねえからな。景虎。オレは直江の野郎とは気が合わねえが、あいつのこの意見にだけは賛成だ。お前には……殺伐とした血生臭い戦場よりも、華やかな都こそが、よく似合う」

 

 宇佐美定満が、目を細めながら、つぶやいていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 武田の先鋒隊が布施での会戦で越軍に敗北し、善光寺平を離脱して上田へと退却してきたことによって、塩田城に本陣を構える武田晴信陣営は騒然となった。晴信、信繁、塩田城の城代に任じられた飯富虎昌、そして山本勘助の四名を中心に、軍議が開かれた。

 

 山本勘助は「戸隠での長尾景虎との邂逅を奇貨として、景虎を騙し手懐けておけばよかったのです御屋形様。あの者は、人の言葉にまことと嘘があるということを知りませぬ。騙そうと思えばどうにでも騙せ、操ろうと思えばいかようにも操れたものを。どうせ、上杉憲政のような青二才などに操られて関東管領家再興などという不可能な道に引き込まれ、惑っている者でありますのに」と深いため息をつきながら、上田の地図を広げている。

 

「上杉憲政のようなすでに命運の尽きた古の世の亡霊ではなく、御屋形様とともに今の世を生きる道を選ばせてやったほうが、長尾景虎にとっても幸福でありましたろうに」

 

 戦略と謀略によって景虎との合戦に「勝つ」ことにはいささかの躊躇いもないが、あたしは景虎を人として騙して利用したくはない、と晴信は勘助の言葉を突っぱねていた。

 

「長尾景虎とは、戦って勝たねばならない。戦国の世で最強を名乗るためには、あの者と合戦し、そして、勝ちを収めねばならない。騙して利用することはできるだろう。あの者の心はまるで赤子だ。だが、それは勝ちではないのだ勘助」

 

「……面倒な者に魅入られましたな、御屋形様は……諏訪氏も関東管領も戸隠も善光寺すらも御屋形様にとっては克服すべき旧勢力でしかないというのに、よもや、越後の毘沙門天に憑かれるとは……早く婿を取って身を固めないから、かような者に魅入られることとなったのですぞ」

 

「武田が海を手に入れるためには、越後へと北進するか、今川義元を裏切って駿河へ侵攻するかしかないではないか、勘助。長尾景虎が率いる越後よりも、駿河のほうが奪いやすそうではあるが……太原雪斎に父上を殺させることになろう。あたしは父殺しの女となってしまう。ならば越後だ」

 

「……いずれは越後を取るとしても、ですな。景虎が関東遠征に引き込まれつつある今は川中島など放置して、北条と景虎とを噛み合わせておけばよろしいのです。関東遠征の泥沼に景虎が足下まで突っ込んでいるその隙に、春日山城まで進めばよろしいのです。それを……越後の見せ兵を蹴散らし、ついには景虎自身を川中島に引き込んでしまうなど。これでは、北条氏康が喜ぶばかりですぞ」

 

「いや、勘助。村上義清を討ち漏らして越後に亡命させてしまった時点で、こうなることは確定していた。あの者は……長尾景虎は、『義』を掲げて関東・信濃での二正面作戦を本気でやるつもりだ。我らとは、行動原理が違うのだ。戦いを避けることはできない」

 

 布施から兵を率いて上田へと帰還してきた次郎信繁はこの軍議がはじまって以来じっと押し黙っていたが、ついに耐えきれなくなって口を開いていた。

 

「姉上。ならば堂々と越軍と決戦するべきよ。川中島で無駄に時を浪費してしまってはならないわ。姉上は、もっと冷静な人だったはずなのに。長尾景虎のことになると、目の色を変えてまるで我を忘れてしまう。戸隠であの女と出会って以来……姉上は、口を開けば長尾景虎の話ばかり!景虎に憑かれているとしか思えないわ!」

 

 晴信が戸隠山から戻って以来――あれほど仲睦まじかった晴信と次郎信繁の関係にヒビが入っていることを、軍師勘助は察し、そして案じていた。晴信自身が抱く野望は、なにも変わってはいない。だが、景虎を「兄から家督を奪った偽善者」と罵ることはなくなっていた。「あたしが持ち得ることのできぬものを、景虎は持っている。なんとしても合戦で、あたしは景虎に勝ちたい」と、むしろ景虎という姫大名への尊敬の念を隠さなくなった。戸隠で、なにかが、あったのだろう。あるいは、なにもなかったのかもしれない。

 

 ただ、本物の長尾景虎という少女を知ることで、晴信は一回り大きくなったように、あたかも蛹から蝶へと一段階成長したように、勘助には見えた。今までの晴信は、父親を甲斐から追放したという負い目を正当化するために、ほとんど狂犬のように戦い続けてきた。その結果、四天王のうちの二人までもが戦場で命を落とすことになったのだ。しかし、己と真逆の価値観を掲げて戦う景虎と出会ったことで、晴信の野望はより大きな「理想」へと進んだかのように思われた。

 

 勘助が見たところ、信繁は、晴信に自分が置いていかれるのではないかという恐怖を味わっているようだった。もはや晴信には自分は必要ないのではないか、と。兄弟姉妹との縁などすでに失って久しい孤独な勘助には、そんな妹・信繁の戸惑いもまた、美しくそして貴重なもののように思われた――。

 

 だが、感慨に浸っている余裕は勘助にはない。

 

 すでに越軍は善光寺平南部・川中島地帯を武田方から奪い返し、善光寺平における武田方の拠点・塩崎城を落城させ、そのまま上田へと進軍を開始している。それどころか越軍はすでに、千曲川を挟んで葛尾城と向かい合った上田における西の拠点・荒砥あらと城を奪っていた。塩田城までの距離は、およそ十五キロしかない。

 

「信繁様、御屋形様。軍議に戻りまする。越軍は、上田における最高の要地である葛尾城がすでにほぼ破却されていることもあり、また景虎の上洛を控えている以上信濃に留まれる時間はあと二週間ほどしか残っておりませんので、決戦を求め塩田城へと攻め寄せるでしょう。千曲川沿いに越軍が荒砥城より塩田城まで進軍する途中を、叩きます。決戦は、かつて村上義清と戦った、上田原となりましょう。南の塩田城より我ら本隊が逆落としをかけ、北側の真田本城に籠もっておる真田幸隆殿率いる別働隊が越軍の背後を襲います」

 

 勘助は、晴信の意識を合戦へと引き戻すべく、とうとうと述べた。

 

「布施での合戦と北条からの情報を合わせ、越軍の戦い方はおおむね掴みました。長尾景虎は一撃決戦主義を取り、自ら先頭に立って野戦を指揮するという異様な戦術を用います。景虎が討たれればそこで全軍が瓦解するという諸刃の剣の如き危険な戦術ですが、景虎が討たれぬ限り、越軍の将兵どもはみな死兵となって戦い続けることに。しかも、越軍の部将格の者たちは、まず討たれることはありません。敵の攻撃は、長尾景虎に集中するのですから。総大将が自ら敵を引きつける的となる故に、足軽の損耗も最小限に食い止められまする――」

 

「まったく、非常識きわまりねえな。勘助。そんな真似をして、景虎はなんで死なないんだ? 総大将が一騎駆けしてきたら、普通は生きては戻れねえぜ。戦場はそんなに甘くねえ。それとも越後では景虎に弓をひけるヤツがいねえってことか? あたしたちは違うぜ」

 

 赤備えを率いる飯富虎昌が、いなごの佃煮をかじりながら呆れ顔で尋ねてきた。

 

「ははっ。景虎と直接戦闘した信繁様、および、諜報役を務めた猿飛佐助の報告によれば……」

 

 信繁が唇を噛みながら、自分が戦場で見たありのままの景虎の姿を晴信に告げた。

 

「景虎は小柄。的が小さく、その操る馬の動きは信じがたいほどに速いわ。景虎自身が避けようとせずとも、馬が勝手に矢を避けてしまう。種子島の弾を当てようとしても、間に合わない。よほど大量の種子島を準備して弾幕を張らない限りは」

 

「そういうことのようですな。だが、恐るべきは長尾景虎自身、自分に弾も矢も当たらぬと信じていることです。当たれば、その時は、自分は毘沙門天の化身ではなかった、それだけのことにすぎない、と……豪胆というよりも、凄絶な覚悟がございますな、あの姫武将には。ともあれ、景虎を絶対に討たせてはならない、と越軍の男どもが異様な戦意を持って打ちかかって来るのです。こういう戦を『聖戦』というのやもしれませぬ。命を惜しむ武士の戦というよりも、死ぬために戦う一揆衆の戦いに近い。しかも、越後兵の練度は高く、優れた体力を誇り、景虎の戦術眼には天性のものがあり、まさに最強。結果、越軍の兵はほとんど命を落とさぬのです」

 

 あれはまさしく戦の天才。景虎を守る越後の将兵どもも、まことに屈強。正面から堂々の野戦を挑めば、武田軍に勝ち目はありませぬ。いや、日ノ本の誰も景虎を一撃決戦で打ち破ることはできますまい、と勘助は告げた。先の箕輪城戦も正々堂々とは言えない要素を多く含んでいた。搦手に弱いのがある意味で弱点と言えそうだが、景虎はそれを補って余りある武勇がある。

 

「それ故に上田原へ誘い出して、北の真田と南の塩田城から挟撃、か。考えてみれば、あたしの生涯初の敗戦は、村上義清と正面からの決戦を挑んで狭い上田原に釣り出されたことからはじまったが……果たして武田の将兵を損じずに越軍に完勝することができるか、勘助」

 

 村上との合戦のように次々と将を討たれ兵を損じるようでは、目先の勝ちを拾えたとしても長尾景虎との戦いはとても継続できぬぞ、と晴信は目を細めていた――長尾景虎自身が武田兵に討たれて戦場の骸と化す光景を、晴信は想像したくないらしい。それは願望なのか、あるいは冷静な予測なのか、勘助にもわからない。が、勘助よりも、晴信のほうが長尾景虎という少女を知っている。理解している。

 

「景虎には、なにぶん時間がありませぬ。必ずや上田原へ引き出せるはずでありましょう」

 

「しかし勘助。長尾景虎は戦場では無類の勇気を誇るが、無謀な猪武者ではない。敵味方の将兵の命を無益に散らすことを嫌っている。いくらあたしとの決着をつけたくとも、真田本城の別働隊の存在に気づけば、容易には出てこないだろう」

 

「……上田原へ引き込めねば、こたびの合戦は水入りとなってしまいますな。そうなれば……我らは第二回川中島の合戦を戦わねばならなくなりましょう。長尾景虎相手に確実に勝ちを収めるには、たしかに、時間をかけ調略を重ねるべきかと存じますが……できることならば、この一戦で」

 

 晴信自身も、村上義清との相次ぐ死闘による将兵の消耗、そして真田忍群を駆使しての電撃的な砥石城攻略を経験し、さらに景虎と出会ったことで、以前よりもさらに慎重かつ確実な「勝ち方」を望むようになっていた。勘助も同じである。万が一にも、晴信のたいせつな妹である信繁や逍遙軒孫六、あるいは弟の太郎義信が討ち死にしてしまうようなことがあってはならない。それでは、真の勝利とは言えない。

 

 しかし、長尾景虎という戦の天才を前にした二人は、犠牲なき勝利を越軍から奪い取る困難さを痛感していた。勝つためにはどこかで「賭け」を為さねばならないが、その賭けに敗れれば多くを失う。問題は、その見極めどころ、だった。

 

「勘助。次郎。時間がなくて困っているのは、越軍のほうなのだ。今は動かず、一週間ほど、待つ。それでなお越軍が荒砥城から動かねば、越軍を上田原に引っ張り出すための策を講じる」

 

 晴信は、勘助に告げた。すべては長尾景虎に、この膠着状態を一週間耐え切る胆力と忍耐力があるかどうかだ。景虎の戦は、速戦主義だ。景虎は野戦で敗れた経験がない一方、長期にわたる攻城戦は苦手としている。景虎には……長期間、陣中に留まる体力が、おそらく、ない……。

 

 晴信の言葉の歯切れが、悪くなった。心を痛めているのかもしれない。勘助が「生まれながらにお身体がお弱いのでしょう」と思わずうなだれ、信繁が「姉上。それがわかっているのならば、迷わずにそこを突くべきよ」と頬を赤らめて晴信を叱責するように声をあげた。信繁が頬を赤らめているのは、恥ずべきことを口走っている、と自分でもわかっているからだろう。

 

「次郎。それでは勝ちとは言えないと、言っただろう」

 

「それでも。長尾景虎の義の戦にいつまでも付き合い続けてはならないわ、姉上。それは、姉上の夢を、志を、阻む結果になってしまう。私にはわかるの。姉上と長尾景虎とは、川中島という閉じた土地に縛られてしまったのよ。そして、お互いにお互いを追いかけながらいつまでも捕まえられない、そんな堂々巡りがはじまろうとしている。そんな気がするの……」

 

 景虎はちっこいがえらく短気だって言うじゃねーか。だいじょうぶ、すぐに攻めてくるだろう、と飯富虎昌が戯けた。緊迫した軍議でこういう間抜けな言葉を吐く役目は太郎のものなのに、あいつが留守居役だなんて。まったく。御屋形様はどういうつもりなんだ、と飯富虎昌は憤っていた――。

 

 

 

 

 

 

 荒砥城と塩田城とに入った越軍と甲軍とが睨み合ううちに、一週間が過ぎた。開戦以来、すでに三週間のうち二週間を費やしている。景虎に残された時間はあと一週間しかない――。だが、景虎は上田原には出てこなかった。

 

 

 

 

 

 

 晴信め、このまま私の時間切れを待つつもりか――と荒砥城に詰めていた長尾景虎は、直江大和との間での連絡係を務めていた忍びから「背後にて調略が」との急報を得た。武田晴信が、上田原へと越軍を引き出して、塩田城の本隊と真田本城の伏兵とで挟撃しようとしていることを、景虎はすでに察知していた。その結果、景虎と晴信とは、目と鼻の先に位置する荒砥城と塩田城とに籠もり合って睨み合う形となった。この上は、晴信はなんとしてでも越軍を荒砥城から出陣させねばならない。

 

「晴信はかつて村上義清の最前線拠点・砥石城を落としたように、こたびも忍びを用いるだろう。むろん、荒砥城を忍びの暗躍によって落とせるとは晴信は考えていない。わたしを挑発して上田原へ呼び込むためだ」

 

 景虎は、真田忍群による荒砥城奇襲を、戸隠忍びたちを充てることで未然に防ぎ止めた。これで再び、甲越両軍は手詰まりとなった。上洛が迫る景虎に残された時間はあと三日もない――。そんな中、直江大和が、武田晴信が「調略」を用いて景虎の退路を断とうとしている動きを素早く掴んだのだった。

 

 塩田城の方角を睨みつつ、宇佐美定満とともに月夜を眺めながら酒をなめていた景虎は、心は晴信の謀略に囚われていた――。

 

「代々善光寺別当を務める栗田氏という国人がいる。この栗田氏は善光寺に加えて戸隠山でも別当を務めている一族だそうだ。この日ノ本では神仏は習合されており、善光寺は戸隠・飯縄の玄関口的な役割をも果たしているようだから……」

 

「武田晴信は……戸隠と善光寺を守護する栗田氏を調略しようとしている、というのか? 栗田氏は村上義清に仕えているはずだが……こたびの合戦でも、善光寺を越軍に本陣として提供してかいがいしく働いてくれているはずだ」

 

「そうだ。その善光寺と戸隠に、晴信は楔を打ち込んできた。善光寺と戸隠は体制が複雑で、決して一枚岩ではない。血筋によって戸隠を仕切ってきた栗田氏にしてみれば、現状は面白くない」

 

「つまり、諏訪に続いて戸隠と善光寺をも、晴信は壊そうとしているのだな」

 

「その通り。晴信は栗田寛安という男を筆頭に、栗田氏の半分を引き抜こうとしている。栗田氏が割れれば、善光寺も戸隠も割れることになる。善光寺平を出てこの上田にまで進軍している越軍は、戸隠山と善光寺を封鎖されれば越後への退路を断たれるということになるな」

 

「そうなれば宇佐美。上洛どころか、我らは越後への撤退すら困難となるな。武田晴信め。次々と姑息な策略を練ってくる。僅か三週間の戦いにすぎなかったが、すでに忍び部隊による奇襲に、宗教者への調略と、やることが汚い。布施の陣に影武者を配置し、自らは塩田城から出てこなかったやり口もそうだ!私と正面から戦うつもりはないのだ、あの女は……!」

 

「落ち着け景虎。怒りに囚われれば、武田晴信の思う壺だ。晴信は正攻法ではお前に勝てないと知って、お前の平常心を揺さぶろうとしている」

 

「……わかっている宇佐美」

 

「では荒砥城から撤退するのか、景虎?布施ではさんざんに勝ったが、晴信率いる武田の本隊はまだ消耗していない。今、越軍が撤退すれば、荒砥城はもちろん、塩崎城も奪回されることになるぜ。善光寺平の南部、犀川以南の川中島の一帯は、再び武田のものに」

 

「無念だが、一度上洛すると約束したからには、その約束を反故にするわけにはいくまい、宇佐美。直江に、善光寺と戸隠における寝返りだけはなんとしても阻止させよ」

 

「危険を伴うが、塩田城を落とすと触れ回りつつ、晴信の望み通りに上田原で決戦するという荒っぽい手も、ないことはないが……」

 

「それでは晴信の目論見通り、真田と晴信に挟撃される。たとえ勝てたとしても将兵の多くを失う。さらには、越軍が消耗したところを見計らって中信濃の深志城から、馬場信房が騎馬隊を率いて善光寺平へと長駆遠征してこないとも限らない。晴信が打つ策は一手だけではない。二手、三手、四手と先を読んで策を用いてくる」

 

「まったく軍師要らずだな、お前は。武田晴信も全知全能を振り絞って策を練っているだろうに、気の毒だ」

 

「私自身が、晴信本人をよく知っているということもあるが……師が優秀だったおかげだ。宇佐美。だが、かわいくない兎の縫いぐるみは要らぬぞ」

 

 耳から棒手裏剣を放つ新作を考案したのに……と宇佐美定満がうなだれた。

 

「景虎。こいつは、お前と武田晴信。いずれの信念が勝つか、という戦いだ。武田軍も精強だが、正面からの野戦を行えば、必ずお前が勝つ。しかしそれがわかっている武田晴信は変幻自在に策略を用いて、越軍を切り崩そうとするだろう。攻め続けるお前と、正面対決を避けて罠を張り続ける晴信。まるで碁の達人同士の勝負にも似ている。俺も直江も、お前たち二人の勝負が永遠に終わらなくなるのではないかと危惧しているんだぜ……人間の世界での時間は、あっという間に過ぎ去っちまう。人の戦いとは、時間との戦いだということを忘れるなよ、景虎」

 

「時間との戦い、か……前回も、そして今回もそうだった。私はもう、時間切れだ。しかし次は百日でも二百日でも対陣できるよう、準備を怠らぬ。私が床に伏す日の周期さえ隠し通せれば、なんとか、なる」

 

「……景虎。上洛した段階で、決断しろよ。いかにお前が強くとも、お前の身体はたったひとつだ。越軍の桁外れの強さはあくまでもお前個人の強さ、お前を崇める兵たちの強さだ。晴信が鍛え上げた武田軍も、北条三代を経て絶頂期を迎えつつある北条軍も、十二分以上に強い。二正面作戦はできない。関東管領復興と川中島の防衛とは、両立し得ない。お前が川中島で晴信と戦いたいというのであれば止めないが、その時は、関東遠征は先送りにするべきだ。義の戦では銭を消耗するばかりで得られる土地がないことに気づいた北条高広や、莫大な出費に目を回らせている大熊朝秀あたりは、不満を爆発させる寸前だぜ」

 

「諸将の不満はわかるが……お前が教えてくれた『義』があればこそ私は姫大名として生きていられるのだ、宇佐美。義のない戦をせねばならぬとなれば、私は越後も長尾家も捨てて、出家するしかなくなる」

 

「圧倒的な強さは同時に弱点ともなる。越後一国を平定するのが、早すぎたようだな。景虎……越後統一に十年をかけていれば、きっとお前の運命は」

 

「人の世の戦いは、時間との戦いだと言ったではないか宇佐美。悠長に十年もかけていれば、晴信に越後の半ばを併呑されていただろう。お前は最近、心配性だぞ。私は毘沙門天に誓う。必ず、次の戦で晴信に勝つ。勝って、義こそが乱世に必要なのだと、晴信に理解させる。そうだとも。晴信は愚人ではない。私とは進む道が異なるが、必ずや数百年未来の後世にまで名を残す名将だ。必ず、私の本意が、伝わる……」

 

「……景虎……武田晴信が、男だったらな。互いに兵を率いて戦う以外に、手を携える道がないとは。神が本当にいるのならよ。まったく、皮肉にもほどがあるぜ」

 

 宇佐美定満は悲しげに景虎の横顔を見つめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 越軍、荒砥城を出て、善光寺平へ。そのまま越後へと撤退を開始。塩田城の一室でまんじりともせずに、佐助からその一報を耳にしていた山本勘助は――。

 

「御屋形様。次郎様。善光寺の栗田寛安を寝返らせ越軍の退路を断つ策、長尾景虎に見破られてございます。やはり越軍は、策略こそ用いませぬが、その情報網は堅い……直江大和が、あの癖の強い戸隠忍びどもをよく駆使しているようです。このまま景虎に越後へ帰られてしまっては、川中島を巡る攻防、長引きまする。越後の海へと出るどころか、善光寺平を切り取るだけで、何年もかかりましょう。これ以後、川中島での越軍との戦いを重ねることになれば、武田家にとっては致命傷に。駿河の今川義元に、上洛を許してしまいまする」

 

 晴信と、そして信繁の姉妹を前に、非情の策を切りだしていた。

 

「ならばどうしろと言うのだ、勘助」

 

「勘助。私にできることがあるならば、言って」

 

「……次郎様……武田家の大方針は、今川・北条と和して信濃を切り取り、その国力をもって越後あるいは駿河の海へと出る、というものでしたが、長尾景虎はあまりにも強い。全面激突さえ回避すれば、最終的には我ら武田が善光寺平を奪えるでしょうが、貴重な時間を失ってしまいまする。そこで、方針を大幅に変更します。越後の長尾景虎と和し『義姉妹同盟』を結びまする。むろん両家はすでにいちど合戦を行っておりますれば、人質として越後へ送られる義妹は――実妹でなければ」

 

 孫六様でも、まだ足りませぬ。武田の副将・次郎様が越後へ入られるのです。御屋形様も次郎様も、そこまでしてでも景虎との対決を回避したいとこんこんと説くのです。さすれば、さしもの景虎も断りますまい。景虎は本心では、御屋形様と戦場で命を奪い合いたくはないのですから。

 

「景虎は、実姉の綾様を長尾政景のもとに自分の身代わりとして嫁がせたことを今なお心の傷としております。姉を奪われた悲しみを抱いております。御屋形様が次郎様を景虎のもとへ差し出せば――景虎は必ずや御屋形様と次郎様の心情と意志に揺り動かされましょう」

 

 晴信が目を潤ませながら口を開く前に、信繁が激高していた。

 

「勘助!二度とそのような下策を口にしないで!次に口にしたら、その時は……あなたを斬るわよ!私は絶対にどこにも嫁がないし、人質にもならない!私の姉上は、ただ一人よ! いったいなんのために、父上を甲斐から追放したというの……!?勘助!お前は……父上を駿河へ追いやり、私を越後へ追いやって、姉上を武田家から奪い取るつもりなの?」

 

 抜刀しようとした信繁の腕を、晴信が懸命に制止する。

 

「勘助。お前の軍師としての非情さは評価しているし感謝もしているが、次郎を越後へ送ることだけはできない。それでは、武田の家族を犠牲にすることとなる。たとえ日数をかけてでも、景虎に勝つ策を考えだしてほしい……」

 

「ですが御屋形様!今は余裕のある北条氏康がいずれ越軍に追い詰められて、それがしと同じ策を思いつけば、北条と越後が同盟することになってしまいまするぞ!」

 

「その道も、塞げ」

 

「無理難題でございまする!御屋形様は天下に号令をかけるお方!川中島にいつまでも固執していては、すべてを失ってしまいますぞ!」

 

「勘助、無理を言うようだがあたしとて、絶対に選べない選択肢というものはある。決して次郎を、あたしの野望の犠牲にはしない。許せ」

 

 感情が爆発して言葉を発せられないで泣いている信繁の肩をそっと抱きながら、晴信は勘助に頭を下げていた。

 

「その、義姉妹同盟の件……『妹』が諏訪四郎勝頼では、ダメなのか?諏訪神社ごと越後へと譲渡する、越後で諏訪家を再興させよ、と景虎を口説けば、信仰心の深い景虎の心は動かされるかもしれない」

 

 晴信の、苦渋の選択だった。四郎勝頼をわが娘のごとく溺愛している勘助の心は、揺れた。むろん晴信とて、幼い勝頼を手放したくはなかった。勘助は、落ち着け。私心を交えず軍師として頭を動かし、結論を導け。と隻眼を潤ませながら、知略を振り絞った。あらゆる条件を頭の中で組み立て、そして、

 

「……いや。勝頼様は御屋形様の義妹でございますれば、景虎は『いざとなれば切り捨てるかもしれぬ』と僅かなりとも疑心を抱くことに……それに、諏訪から勝頼様も社もことごとく去るとなれば、諏訪衆が黙ってはおりませぬぞ。諏訪の統治が困難となります。諏訪が乱れれば、伊那も。靡いた木曾も……南信濃はことごとく離反いたしましょう」

 

 人の心も。国も城もそして土地も。奪うことよりも、統治することのほうが難しいのです、と軍師勘助は答えていた。

 

「そうか。そうだな。景虎は、戦って勝てば嵐のように去って行くのみで、奪った土地を統治しなくてもよい。だが、我ら武田は違う……それに、兄を奪われたあげく、さらに越後へと人質として追いやられれば、四郎もいよいよ傷つくだろう。あたしとしたことが……二度とこのような愚かなことは、言うまい」

 

「次郎様のご動揺が、御屋形様をも動揺させておられるのです。それがしが、次郎様を越後へやれなどと、戦場を駆ける景虎のあまりの強さを知って愚策を口にしたためです……しかし幸いにして、景虎は上洛いたします。その間に、次の手を考え、そして実行しましょう」

 

「できるか、勘助。景虎自身は調略活動に無頓着だが、直江大和は、手強い。それに、戦場で軍議にも出ずに釣りばかりしていたようだが、あの宇佐美定満も厄介だ。景虎の扱い方を熟知しているかのようだ……あたしにとっての勘助のような存在らしいな、あの男は」

 

「困難ですが、必ずや。次郎様。勝頼様。孫六様。太郎様。そして信龍様……二度と武田家の方々を、御屋形様と別離させはしませぬ」

 

 次郎様にもお約束いたします、この約束が破れた時はそれがし死んでお詫びいたしまする、勘助は信繁に深々と頭を下げていた。しかし信繁はまだ言葉を発することができなかった。晴信の顔も、青ざめていた。勘助は、「信虎追放」という献策を行って武田家の姉妹にこれほどの傷を与えた者が他ならぬ自分であることに気づき、その業の深さに震えていた。

 

 御屋形様と信繁様を独り立ちさせねば、武田家の行く手には――。

 

 御屋形様は長尾景虎と出会って、人としての成長をはじめられた。しかし信繁様には今なお御屋形様が必要なのだ。姉妹ともに父を追放したあの時から……信繁様の時間は……止まっているのだ。このままでは……。

 

 勘助は、宿曜道で占わずともわかる。長尾景虎の宿星は――御屋形さまの羅の星に寄り添い、離れぬ星である!二つの星は引き合い続け、いずれは衝突し、お互いに夜空に四散する。二人を戸隠で邂逅させてはならなかった……と悔いた。だが、決して避けられぬ運命であったのだろう、と思い直した。それがしが軍師として御屋形さまの運命を変えてみせる、この山本勘助、鬼となってでも、と決意していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰もが悲壮な覚悟をしているこの最中。空気をぶち壊すような声がした。

 

「失礼致しますね」

 

 一同が声の方向を見れば、妙に楽しそうな表情の穴山信君がそこに居る。その顔を見て晴信は若干目を逸らす。だが、聞かねばならない事があった。

 

「信君、どうしてここに居る。お前には、太郎や信龍と共に留守居を任せていたはずだが」

 

「ええ、その通り。勝手に持ち場を離れたことはお詫びいたします。ですが割と火急の用件でして。信龍様に残りはお預けして馳せ参じました。信龍様は渋々でしたが納得していただけたので、罷り越した次第です」

 

「分かった。それで、その用件はなんだ。何か甲斐で起こったか」

 

「いえいえ、甲斐はいたって平穏。いつも通りの貧国の冬です。そうではなく……お客様です」

 

「客?躑躅ヶ崎館で待たせておけば良いだろう」

 

「それがそうもいかなくてですね…まぁ、後は御本人からお聞きになって下さい。どうぞ、お入りください」

 

 信君の言葉が発せられた後に廊下を踏みしめる音がする。襖の向こうから現れたのは男一人と小生意気そうな小娘。とは言え、小娘の方はかなりビクビクしている。その上剣呑な雰囲気と晴信を見て腰を抜かしかかっていた。その男の顔を見て、晴信・勘助・信繁の三人は驚愕の表情を浮かべていた。それを見てニヤリと笑い、男は口を開く。

 

「我が懐中に三策在り。是上策中策下策也。御歴々、一体何れを御所望か?北条左京大夫が臣。一条土佐守兼音、我が主の命により外交交渉を行うべく参陣仕る。これに控えるは我が義妹。世間知らずの小娘の教育のため連れ出しましたが、置物とでも思うて頂ければ幸いですな」

 

 言葉を発せない三人を見て信君は一層愉快そうに笑っている。

 

「さて、対越大同盟のご提案に参りました」

 

 ピンと背筋を伸ばした一条兼音はそう言ってもう一度口に弧を描いた。




いつになるかは分からない次回は一度時系列は戻って二話前の続きからになるかと思います。


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第82話 月天心貧しき国を通りけり

一日約千文字を大体十日続ければ安定した更新が出来る事に気付きました。まぁ、千文字くらいなら話出来てれば十五分くらいで終わるんで、息抜きになりそうです。

感想返信、遅くて申し訳ありません。皆さんとてもありがたい感想を下さるのでしっかり読んでしっかり返信しようと思うとなかなか時間が取れず…。キチンと読んではいますので、どうかこれからもお願いします。近いうちに返したいと思います。メッセージも…近日中に……。


「あの小娘はいかがした」

 

「角の部屋に入れてあります。少し前までは騒いでいましたが、今は不貞腐れているのか大人しくしております」

 

「よろしい。お前ならばわかってくれると信じていたぞ」

 

「ご期待に沿えたのならば幸いでございます」 

 

 二日酔いで痛む頭痛に響くキンキン声で叫ばれ、イライラしていたが徐々に収まって来た。送りこまれてきた厄介な娘は多少大人しくしているらしい。あそこで牢に放り込めと言ったがそれは正確には間違いだ。勿論、犯罪者用の牢や格子の入った座敷牢も存在はするがそこに入れたら確実に問題になる。故に、胤治に頼んだのだ。彼女はイラっとしていても私よりも冷静だ。だから、あの場はああ言わなければ兵が暴発していた可能性を分かってくれていたのだろう。

 

「お前はああいう手合いの相手が存外向いているな」

 

「実家の者よりマシですから。慣れたものです」

 

 若干闇を垣間見たが今が問題ないならそれで良しとしよう。もう小一時間経った。そろそろ様子を見に行かなくてはいけない。

 

「それで、あの小娘は一体何なんですか。ご説明をお願いしたい」

 

「遠山家からの送られてきた。私の義妹だそうだ。縁を結びたいと先方から話があり、送られてきたと言う訳だ」

 

「そう言う話はもっとお早めに言って頂かないと困ります!当家としても準備がありますでしょう!」

 

「……本当に済まない。完全に私の不手際だ。この通り、許してくれ」

 

 しっかりと頭を下げる。これに関しては言い訳のしようもなく私のミスにおいて他ならない。

 

「…もういいです。私は仕事に戻りますから、あれの対処はお忘れになった殿がご自身でなさってくださいませ。後、あの後使いの者が来てこれを渡し忘れたと」

 

 しょうがないですねぇと言う顔で渡されたのは書状。差出人は遠山甲斐守。綱景殿である。

 

「それではよろしくお願いいたします」

 

 彼女はそう言うとサッと出ていってしまう。反省は後でいくらでもするとして、まずはこの手紙を読まなくてはいけない。

 

『この書状を読んでいるという事は、愚娘はそちらの居城へ到着したという事でござろう。親の前では猫を被っていたが、使用人からその性根は聞き及んでいた。それを治せなんだのは親の甘えからであり、真に申し訳ない。到着の際にご無礼を働くかもしれないが、それに対しいかなる措置を取ろうとも当家は一切お恨み申さず、抗議も致さぬ。今後の教育に関しても同じである。これは某のみならず、子息にも言い聞かせておる故、我らの不手際の尻ぬぐいではあるが、名将を育てるに才在りと聞く貴殿のお力をお借りしたい。また、あの子はそちらに着いた時点で遠山ではなく、一条家の家中に入る故、目下の者としてこき使ってやってくれ。世間の厳しさを教えてくれると助かり申す』

 

 ざっとこんな内容だ。完全に子育てに失敗した子供を送り付けてきた形だが、他の家ではなくここに送って来たのは問題児でも何とかしてくれるかもしれないという期待と、新参の我々ならば追い返すことが出来ないだろうという打算だろう。とは言えこちらの伝達ミスはこれで手打ちに…ならないかもしれんので後で書面上で言い訳をしておこう。先に謝罪しておくことで印象を操作しないとマズいことになりかねない。それでも普通到着の少し前になんか知らせるのが常識なんだが…。よっぽど速く送りたかったのだろうか。河越で受け取ると承諾はしたものの詳しい日時は決めてないので伝令があって然るべきなんだがなぁ。お互い忙しいのでそこら辺は水に流そう。

 

『追記、唐突に送り付ける形となってしまった。逸るあまりの事である。万一、家中に伝達する時間が無かったのなら申し訳ない』

 

 なるほど。であれば伝達ミスでなく時間が無かったと誤魔化そう。それより、まずは本人の相手をしなくてはいけない。寒い廊下を通って角の狭い部屋に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

「入るぞ」

 

 入れば仄かに暖かい。一応火鉢だけは置いてある。風邪ひいて死なれては困るので妥当な措置だ。部屋の中央で呆然と虚空を見ていた少女は私の姿を視認するなり目にハイライトが戻り、噛みついてきた。

 

「ああ!やっと来たわね!私をこんな何もない部屋に放置しておくとは何事よ!しかも私が来ることを知らしめていないなんて、どういう了見!?普通は領民総出で出迎えでしょ!」

 

「……伝達をしていなかったのは先ほども言ったように私の不手際だ。謝罪しよう」

 

 そう言って頭を下げる。特に返答はないので秒で頭を上げた。

 

「さて」

 

「何勝手に頭上げてんのよ!」

 

「謝ったぞ?」

 

「許してない!」

 

「知るか。良かったな良いことが学べたぞ。お前は私よりどうあがいても立場が下だ。世の中は目下の者に対して理不尽な事を知れたな。目下の者に謝る事もあろう。だが、許す許さないを決める権利は発生しないのだ。身分社会とはそう言うものだぞ」

 

「~~!?!?」

 

 言葉にならない怒りをぶつけてくる。顔の造詣は悪くないのだが、真っ赤になってるせいで若干面白い感じになってしまった。まぁ、普通に家臣が許してくれないと面倒なので許してくれるように誘導するのだが、主君の謝罪は受け入れるが武士の基本だ。無理なら謀反しかない。

 

「実家に頼ろうとしても無駄だぞ。これを読め」

 

 放り投げたのは先ほどの書状。涙目で渋々読んでいたが、読み終わるとこちらに投げ返された。頭を狙ってきたのでサッと避けたが、所作が腹立たしい。

 

「こんなの嘘よ」

 

「お前は親の字も知らんのか」

 

「……嘘だもん」

 

「まぁそうへそを曲げるな。お前にとってそう悪い話でもないんだがな」

 

「はぁ!?こんなド田舎に送られて!義兄は性格最悪の冴えないクソで!親からは見捨てられる!何が悪い話じゃないのよ!?」

 

「クソとか言うでない。良いから聞け。今よりお前の姓は遠山ではない。一条だ。まぁ私的な空間ではどっちを使っても構わんが、ともあれ公にはお前は私の義妹である。そしてお前の家の家督を継ぐ候補は兄がいるな?しかも二人も」

 

「…それがなんだってのよ」

 

「部屋住みのお前に家督継承権が回ってくるためには父親である甲斐守殿、そして兄二人が死ななくてはいけない。だが、その可能性は薄い…。そして私には実子はおろか、縁戚が一人もいない。これで察したか?」

 

「……」

 

「もし仮に私が死去もしくは当主遂行が不可能な状態に置かれた際に一条家の名跡を継ぐのはお前だ。その際に相応しい能力を持っていれば、この城も、家臣も、領民も、そして与力の国衆も全てお前のモノになる。あわよくば五色備えの地位も、だ。当然それには私の推挙と周囲の納得が無ければ氏康様も認可を下さらない。すべてはお前次第だ。冴えない部屋住みか、どこかの家に嫁に送られる運命か。千兵を率い、万雷の喝采を受け、万余の民に跪かれる未来か。さぁ選べ、どちらにする」

 

 畳みかけるように話す。相手に考える時間を与えないことが交渉術においては大事なことだ。特に、自分の望む方向に誘導したい時には。

 

「当然今のままではどちらを選んでも破滅だろう。騒がしく礼儀知らずで尊大で我がまま。そんな嫁や後継ぎなぞ誰も欲しがらない。それこそ、権力を手にしたい者でももっと他の手を取るだろうな。我が後を継いでも私が心血を注いで集めた家臣も、交友を作った国衆も、手を尽くした領民も従ってはくれんぞ。それにお前を送った者たちの態度を見ろ。誰一人付き添わず、とっとと帰ってしまった。遠山家に戻って、果たして味方はいるのだろうかな。甲斐守殿も庇うのには限界があろう?」

 

 どうでるかは完全に相手任せだ。もしこれで実家へそれでも帰りたいと騒ぐのならばそれはもう仕方ない。返す訳にはいかないが、ここで一生部屋住みになってもらうしかないだろう。

 

「……仕方ないから受け入れてあげるわよ」

 

「それが物を頼む態度とは恐れ入ったな」

 

「!……お願いです。どうかここに置かせて下さい。義兄様の言いつけを守り、誠心誠意奉公致します」

 

 めちゃめちゃ殺意と敵意籠った視線を向けつつ歯切れ悪く言うの控えめに言って怖いので止めて欲しいのだが、まぁこれ以上イジメても仕方ないのでここら辺で手打ちにすることにした。

 

「良いだろう。こちらも渋々ではあるが甲斐守殿の頼み故に受け入れてやろう。ついでに言っておくがこの城の主だった者はお前よりも圧倒的に優秀だぞ」

 

「はぁ?」

 

「お前が似非姫と呼んだ女は城の財務を一手に引き受け、戦の際は万の軍勢の兵糧を管理し、敵国から氏康様らを超す最優先排除対象とみなされ刺客まで送られたのだぞ。お前をここまで送った女も千万の軍勢を操る計略を立て、北条家の面々の前で話すことを許されている。剣聖を破った氏康様の義妹や、その剣聖すらもこの城におる。一応言っておくが、お前が一番礼節を守るべきは我らではなく関東管領上杉朝定だからな。あいつに何かあると私を通り越し氏康様、関東公方などから叱責が飛ぶぞ。お前にな」

 

 実際は監督不行き届きで私が怒られるのだが、その辺は敢えて誇張して言っておく。どのみち無傷ではいられる訳もないのだから。

 

「アンタはどうなのよ、クソ兄貴」

 

「クソ……お前なぁ」

 

「フンッ!」

 

 注意してもそっぽを向く。まぁ、こいつも一応家族と離れ離れで寂しい気持ちもあるのだろう。私に対してこう接することで解消されるなら、まぁ許してやろうという気持ちになった。

 

「私がどうか、か。良いだろう。言うより見る方が早いな。旅支度をさせよう」

 

「旅?何処へ連れてく気よ」

 

「甲斐だ。喜べクソガキ、武田の領内へ世間の見聞に行かせてやろう」

 

「甲斐は良いとこなの」

 

「んな訳あるかボケ。河越なんぞよりもっと酷い山しかない貧国だ。ド田舎とはああいうところを指すんだぞ」

 

「なんでそんなこの世の果てみたいなところへ行かなくちゃいけないのよ~!ヤダヤダヤダヤダ!」

 

「黙って付いてこい。ごねてもこれは決定事項だ。あと、晴信殿の前で粗相を働いたら向こうが怒る前に私がその首を跳ね飛ばすからな」

 

「で、出来るもんなら…!」

 

「では今から試そうか?」

 

 脅す時のポイントは白目を剥いてグイと顔を近づける事だ。

 

「ヒッ……ごめんなさい」

 

「そうやって最初からすぐに謝れ。自分が悪ければごめんなさいをするのは市井の子供でも知ってるぞ。領民に馬鹿にされないためにも礼節は必要なのだ。下手な豪農や商人の子はお前よりも礼儀正しいぞ。いいか、我らがいなくても彼らは生きていける。だが、我らは彼らがいなくては生きてはいけない。その意味をよく考えろ。それがしっかり身に染みてわかったのなら、入り口に立ったとみなしてやる」

 

「……偉そうに」

 

「残念ながら偉いんだ」

 

「ああ言えばこう言うのムカつく」

 

「おあいにく様。口下手に交渉は任せないんだな」

 

「~~~!!」

 

 また言い返せなくてむくれてる。まぁ、手のかかる妹が出来たと思えば、なんとか我慢も出来るだろうか。その内可愛く見えてくる……かもしれない。

 

「年頃の女の子をイジメて楽しい!この甲斐性無し!へっぽこ!」

 

「チッ」

 

「あ、舌打ちした、遠山家から来た義妹に舌打ちした!」

 

「何の事だ。それより、この後改めてこの城の主だった面々にお前を紹介して、部屋もこの城の一室を用意するから、そこに住め。私に対してはともかく、公の場では大人しくして、さきほど暴言を吐いた兼成には謝れ。いいな?それと、使用人には丁寧に接しろ。大人しくしていれば自由時間もある。街に出ても良いぞ。分かったか!」

 

「……」

 

「分・か・っ・た・か?」

 

「…………はい」

 

「よろしい」

 

 しおらしくしてれば多少は可愛げが無くもない、かもしれない。やっと一段落付きそうなので疲労がどっと出てきた。まぁそれでもこれからよろしくの意味と、素直に返事が出来て偉いねの意味で頭をポンポンしてみる。

 

「撫でんなクソ兄貴」

 

 やっぱり無理かもしれない。あまり娘の悪口を書き連ねる訳にもいかず、遠山家への返信に書く中身をどう取り繕うかを考え始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 正直あの後は面倒なことのオンパレードだった。家中からは面倒な事になったという目で見られ、綱成もそこまで好意的に接してはくれていないが、それでも彼女が一番優しかったので何となく察するものがある。朝定も微妙な顔していたし、年齢が近いから本当は仲良くしてくれた方が良いのだが、しばらくは隔離だろう。独身のまま鬼籍に入る事があり得る私からすればやっとゲットした後継者だ。そうそう易々逃せない。最悪朝定に河越を返還することも考えていたが、流石にリスクが大きい。兵権を持たせるのは特に。なので、これはこれで良かったのかもしれない。

 

 兼成は流石に大人なので取り繕ってはいたが、顔が引きつっていたし胤治も無表情のままだった。顔合わせも終われば甲斐行きの準備である。既に用意は概ね整っている。雪中ではあるが、道はあるので問題ない。そして条件の指示された書状も既に持っている。供廻りの準備も完了しているので、後は追加で一人連れていくだけだ。

 

 そんなこんなでまだまだ寒さの消える訳もない一月下旬。武蔵の地から甲斐を目指し旅立つことになった。一週間もあれば躑躅ヶ崎館に着くだろうか。秩父を経由していくことになる。帰りに秩父の様子を見る必要があるかもしれない。まぁそれは構わないのだが、ずっと五月蠅いのが一名。

 

「寒い寒い寒い寒い」

 

「我慢しろ。周りを見ろ、皆お前より軽装だ」

 

 わざわざモコモコの服を用意して何枚も重ね着させてるのにこれ以上どうしろと言うのだろうか。幸いここ数日は雪も降っていない。とは言え、寒い事には変わりないが。

 

「寒いものは寒いの!」

 

「暴れるな、落ちるぞ」

 

 馬に乗れそうにないので二人乗りをする羽目になっている。残念ながら駕籠なんて贅沢なものはない。それに移動効率も悪い。それ故に二人乗りだ。邪魔で仕方が無いが、どうにもしようがないので諦めている。

 

「もうすぐ甲斐だ。この峠を越えればな…ほら、見えたぞ」

 

 指さす先には荒涼とした台地が広がっている。まぁ今は冬なので田畑も雪を被り雪原となっている。その中に微かに民家から細い煙が立ち上っている。この辺りは現代で言えば三富村だろうか。合併されてた気もするがその辺はあいまいだ。夢窓疎石が開山した恵林寺があるのもこの地であるようだ。とは言え、面積の大半は山野。ここを治める荻原氏もそう強い勢力を持っているわけでもない。貧しい山国の寒村だった。

 

「……なんもないじゃない」

 

「ある訳ないだろう。甲斐府中はもう少しマシだろうがそれでも商人の言う事には河越とどっこいどっこいだぞ。甲斐は貧しいんだ」

 

「貧しいならなんとかすれば良いじゃない。それが仕事でしょ」

 

「簡単に言うなお前。氏康様とご家中のご歴々を全て動員してもでもそれは難しいだろう」

 

「氏康様をバカしてるの?」

 

「誰がそう言った。良いか、甲斐はまず土壌がクソだ。平野もない。日当たり最悪。河川氾濫は毎年起こる。台風も良く来る。おまけに火山がある。米何ぞどうやって作れと?金は出るがそれもいつかは枯渇する不安定な財源だ。国内の豪族は力が強い。極めつけに風土病まであるときた。私が生国を選べるなら、まず産まれたくない」

 

「……頭は良いのね。性格は悪いのに」

 

「バカに交渉役をやらせてみろ、あっという間に丸め込まれてなんの役にも立たん」

 

 この地は凡そ天下取りを夢見た際にスタート地点にするべきでない国ナンバーワンである。そこの領主をしていると考えれば現状の武田家はよく頑張っている方だとは思う。とは言え、塩を関東と駿河に依存し、経済基盤は鉱山がメイン。侵略戦争で略奪しないと生き残れない。人もいないから占領地の人間を鉱山労働者にするしかない。史実の武田家も先がある程度見えていた。どう頑張っても天下取りには参加できないだろう。それこそ、信玄が長生きしていても。勝頼の辿る運命が少し変わるくらいだ。余裕など少しもない軍事国家が甲斐武田の実情だ。それ故に…

 

「付け込む隙も多い、か」

 

「はぁ?」

 

「いや、こっちの話だ。後一日二日府中へ着く。場合によってはそこから更に信濃へ行くことになるから覚えておけ」

 

「また移動するのヤダ。飽きた」

 

「知らん。耐えろ。忍耐無くして武士にはなれんぞ。忍耐ない奴ほど突っ込んできて、そして私に殺られて死ぬんだぞ。足利義明みたいにな」

 

「え……小弓公方殺したのアンタだったの……?」

 

「知らんかったのか?家中で話にも上がらなかったか…。そうか…。まだまだ精進せねばな」

 

「いや、ちが…私が聞いてなかっただけで…」

 

「何か言ったか」

 

「何でもないわよ!」

 

「ああそう。…おや、お出迎えのようだ。遠くに騎馬武者が数騎いるな」

 

 何かぶつぶつ言っているがどうせ大したことない話だろうと無視して進む。騎馬武者は甲斐留守居役、一条上野介信龍の配下と名乗った。彼らがここから先の府中への道を先導してくれるらしい。それに従っておけば問題ないだろうから、黙って従う。迎えが来たという事は、国境を越えた時、或いはその前から監視されていたと考えるべきだろう。北条家ほどではないだろうが、武田家の防諜体制もそこそこに整備されているようだった。真田の加入が大きく幸いしているのかもしれない。

 

 そして、この時ばかりは政景も察したのか大人しくなっていた。ここで騒ぐと北条家の品位に関わることくらいは理解しているようだ。取り敢えず一安心する。それくらいもわからぬようなら本格的に頭を抱えているところだ。レベルの低い安堵を覚えながら、目的地を目指した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 躑躅ヶ崎館で出迎えたのは当主晴信でもなく、案内人の主でもある一条信龍でもなかった。武田の血を引いているからか、しっかり美形の顔立ち。武田家本家の姉妹よりも少し大人びて影があるものの、どことなく胡散臭い香りのする容姿だ。それでも一筋縄ではいかない雰囲気は醸し出されている。小田原に長年出仕している北条家の宿老と似た気配があった。

 

「ようこそ。躑躅ヶ崎館へ。我が名は穴山左金吾信君。甲斐国主・武田大膳大夫が一門筆頭にして留守居を預かる将の一人にございます。北条左京大夫様のご名代でいらっしゃられた、一条土佐守様で宜しいでしょうか」

 

「ご挨拶痛み入ります。私が一条土佐守兼音でございます。これに控えるは我が義妹でございます。さ、挨拶を」

 

「ほ、北条左京大夫氏康の臣、一条土佐守兼音の義妹、い、一条政景にございます」

 

「左様ですか。分かりました。それでは供廻りの方々と妹君は本日は城下の寺にお泊り頂きましょう。土佐守様は少し話したき儀がございますのでお手数ですが館にいらして頂ければと」

 

「承知致した」

 

「ありがとうございます。ご案内しなさい」

 

「はっ!」

 

 ここまでの案内役が供廻りと政景を連れていく。ささ、こちらへと言われたのに従って、躑躅ヶ崎館の門をくぐった。護衛として段蔵の配下が数名どこかに潜んでいるはずなので安心だ。そうでなければ私も不用心に単身乗り込んだりしない。しかし、躑躅ヶ崎館か。現存するリアルなものに入るなど、マニアからすれば垂涎の行いだろう。かくいう私も、そのことに少し楽しさを覚えていた。

 

 

 

 

 

 

 通された座敷には、ど真ん中の囲炉裏に鍋が吊るされている。どうしたら良いのか分からないので、取り敢えず座ることにした。数分待てば、襖が開き穴山信君が入ってくる。

 

「寒中の長旅のお見舞いと言ってはなんですが。些かこれを作る腕には自信がありまして」

 

 開けられた蓋の中身を見れば、山梨県の郷土料理であるほうとうが入っている。

 

「如何ですか?話もそちらの方が進むでしょう」

 

「ありがたく頂きましょう」

 

 皿を受け取りながら、相手の思惑を考える。どういう話かは知らないが、暖かい部屋と食事で相手の心理的ハードルを下げてそれこそ機密も喋ってしまうように仕向けようという魂胆だろうか。例えそうだとしてもそれをまったく感じさせず、体面で座っているその顔には微笑しか浮かんでいない。顔は良いので、並大抵の相手だとコロッと騙されそうだが、相手はあの穴山梅雪。侮るなどもってのほかだ。…自分で言うだけあって普通に美味しいのがなんだか微妙な気分になる。もしくはそれさえも策の一環なのかもしれない。

 

「美味ですな」

 

「それは良かった。海に恵まれた関東の方は舌が肥えているとお聞きしていますから。甲斐は山国。ご覧の通りの貧国です故、これでも精一杯の贅沢でございます」

 

「材料ではなくお心遣いいただいた事こそ有り難き事。ところで、一条上野介殿は何処に?」

 

「少し、私用のようで。ですので私が代わりに」

 

「左様ですか。……それで、お話とは。よもや、鍋を囲むことが目的ではございますまい」

 

「まぁそうお焦りにならずに…もうすぐ梅花の時期ですねぇ」

 

「それは、そうですな。梅花に雪の景観はいつの世も美しいものです」 

 

「私は桜よりも梅の方が好きなのです。雪中にあっても赤々と咲き誇らんとする姿は、実に美しい。苦しく寒い中を生きんとするのは、甲斐の者と被って見えます。出家する時は法号に梅雪とでも名乗りましょうかね」

 

「良き名かと。貴殿の容色にも相応しいのではないでしょうか」

 

「おやおや口説いておられますか?こんな私でもそういう目を向けられるのはやぶさかではありませんね」

 

 と言っている顔は笑っているので冗談だろう。

 

「我が家も海でもあれば、話は変わるのでしょうが。私は大海を知らなくてですねぇ。いつか見てみたいと夢見ております」

 

「駿河にでも行かれればいかがかな」

 

「いえいえ、あそこは今川領。今はそう易々とは参る訳にも行きません」

 

「小田原では如何かな?北条家中、総出を上げて歓待申し上げるぞ」

 

「いずれ時機が来ることがあれば、その時は」

 

 ……勧誘失敗、とみるべきか。穴山信君の史実を知る身としては、その心の内を知りたいのでカマをかけてみた。海を見たいは越後を攻めたいという意思、駿河に行けないは信虎の負い目。小田原は引き抜きに応じないかという意味だったが、時機が来るまでとは即ち今は無理という事だろう。逆に言えば、史実よろしく時機が来ればこちらへ来るという事でもある。駿河の際に少しだけ声色が違ったのは本音は越後ではなく駿河を攻めたいという心が出ているのかもしれない。

 

 全て憶測ではあるが、憶測であると片付けるには少し裏のあり過ぎる会話だった。

 

「左京大夫様は対越徹底抗戦を採択されましたかな」

 

 突然の変化球に思わず咳き込みそうになる。唐突な話で相手の反応を窺ってきてる。やはり策士か。

 

「如何なる故を以てそうお考えになられたか、お聞きしても?」

 

「簡単ですな。一条殿は北条家の中でも武田と縁深い。そんなお方がわざわざお出向きとあれば、重大事項であるのは必定。それも並の使者では務まらないと判断されたが故に、左京大夫様は重臣の一角を派遣なさった。ともすれば、その重大事項とは何か。甲相両国が共に抱える敵は越後のみ。凡そ、武田の対越和平、引いては同盟の防止。共闘構想の作成のためにいらっしゃられたのでしょう。武田は北条家と共に越後と戦い続ける。その見返りは…そうですねぇ、兵糧支援と貿易品目の値下げと言ったところですか」

 

 ほぼあっている。勿論、それ以外にもいくつかあるが、メインの目的もその見返りも的中させていた。思考回路も明晰。武田は脳筋が多そうなイメージを抱いていたが、厄介な相手もしっかりといるようだ。

 

「それを確認して、如何なさるおつもりか」

 

「特に何も。強いて言うのであれば知的好奇心を満たすためとしか。してどうでしたか」

 

「大膳大夫殿に持ちかける交渉ですからな、例え合っていてもお答えは致しかねる。これが精一杯の譲歩とお心得あれ」

 

「十分でございます」

 

 ここまで聞いたのだから、この穴山家の方針が気になるところである。対越交戦派か、和睦派か。一門筆頭の名は伊達ではない。武田家は寄り合い所帯の連立政権の色合いが濃い。そんな中で無視できないのがこの穴山家と小山田家だ。そこに今木曽家も加わったと聞く。穴山家の方針に配慮しなくてはいけないのが晴信の辛いところだ。率直に聞いた方が早い気もする。答えたならば良し。そうでないならまた考えよう。

 

「貴殿はいかがですかな。対越方針は」

 

「和睦は無理でしょう。そもそも、御屋形様は信濃全土の征服を諦めきれない。適当なところでの手打ちは無理ですな。越後も目と鼻の先に敵勢力というのは困りもの。長尾景虎の掲げる義云々は置いておくにしても、府中長尾の安定のため最低でも高梨政頼はその所領に居てもらわねば困るでしょうね。まぁ、御屋形様の実妹でも送れば話は別でしょうが…駿河に父を、相模に妹をとなり越後にもとなれば国内は反発必至。まともならそんな方策は取らないでしょう」

 

「まともならば、とは不穏な仰りよう。貴殿の主でございましょう」

 

「分かりませんよ、急に長尾景虎と意気投合してくる可能性は無い訳ではございません。正しき愛を受けられなかった者同士傷を舐め合うのも一興でしょう。もしくは越軍と戦い勝てぬと悟った軍師殿が狂気の提案をなさるやもしれませんし」

 

「山本殿は左様な狂人なのですかな」

 

 私のその言葉に意外そうな顔をしてこちらを見てくる。囲炉裏の火が赤々と燃えている。二人分のはずなのだが、結構な量があるのでバクバク食べていたほうとうも、もう残り少なくなっている。

 

「父を追えと進言する者がまともとでも?」

 

「御家の内情を左様にベラベラ話しても良いものですかな」

 

「私は武田に恩義なぞ感じていませんし、そもそも、貴殿の事だ。どうせお気づきになるでしょう?関東一の出世頭。北条左京大夫の翼。そんな貴殿が気付かないようでは、北条家もその程度という事。遅かれ速かれ知るのでしたらさして違いはありますまい。それに、貴殿は御屋形様に私が話したことを漏らさない。武田を越後の盾に使おうとしているのです。内輪揉めをされたら困りますからね」

 

 打算と計算の凄まじい人物だと思った。確かに、武田に内輪の火種は多くある。一番の火種は目の前の女ではなく、恐らく信繫。次点で義信。信繁からの書状には『姉上の影とならんと欲します』と書かれていた。であれば、その光となるべき晴信がもし軍神にかかりきりになればどうなるか。晴信が望む望まざるに拘わらず意識しなくてはいけないのは必定。となればその心は必ず乱れる。そして義信は今のところ結婚適齢期に入っている唯一の男だ。今川との関係を強化したいならば、向こうから嫁が来るだろう。だが、それでうまく纏まるのは一瞬だ。桶狭間の後全てが崩壊する。

 

「例え山本殿がそう提案なされても大膳大夫殿も典厩殿も納得はしないでしょう」

 

「さぁ、そればかりは私にも分かりかねます」

 

「大膳大夫殿は勇猛果敢ではあるが、明知の人と聞き及んでいます。さような狂案に乗るとは…」

 

「武士とは皆人殺し。それを積み重ね天下に名を広め、最強たらんと欲する時点で狂っておりましょう?そも、人は狂わねば誰かを殺すことなぞ出来るはずもありません。私も、そして……」

 

 貴方も。そう言いながら細い指が私の心臓を指さす。「みんなみんな狂っているのです。この乱世では、誰もが。あるのは、その度合いの違いだけです」と、そう告げた声がやけに耳に響いた。

 

 

 

 

 

 

「長々とお引止めしてしまいました。御屋形様は今出陣中ですが、会いに行かれますか?それとも躑躅ヶ崎館で待たれますか?」

 

「なるたけ早くお会いしたく存じますが」

 

「であれば行かれた方がよろしいでしょう。私が水先案内人を務めますのでご安心ください。明日出発で構いませんか」

 

「ご配慮痛み入ります。日付も、異論有りません」

 

「であれば、昼前には出立と致しましょう」

 

「しかし、留守居は大丈夫ですかな」

 

「信龍様とはこれからお話をしてまいりますが、まぁお許し下さるでしょう」

 

「ならば安心いたしました。我らを案内したが故に貴殿が咎められることあれば私の不覚です故」

 

「大したもてなしも出来ず申し訳ございませんでした。では、明日お迎えに上がります」

 

「こちらこそ、馳走頂き感謝申し上げる」

 

 深々と頭を下げる穴山信君を背に、案内の者に従って馬上の人となった。この会談はなかなか興味深いものがあった。決して無駄ではないだろう。武田の内情も、肌で知ることが出来た。出された料理も旨かったが麺をこねて踏んで切っている信君の姿を今更ながら想像し、吹いてしまった。

 

 

 

 

 

 宿所の寺に行けば、何の拍子か障子の和紙に思いっきり大穴を開けた政景がバツの悪そうな顔をしていたのを叱る羽目になった。和尚が止めに来るまで私に怒られていたせいか、暫く部屋の隅で不貞腐れていたが飯時になると出てくるのはなんとも子供だなぁとしか言いようがなかった。このガキンチョも戦場を知れば多少変わるかもしれないと、早く信濃の本陣に行きたい気分に襲われる。戦場を知ればと言っている時点で私もこの時代に染まってしまったようだ。それが悪い事とも良い事とも言えないが、「乱世は皆、狂っている」という言葉が思い出される。もし人の行動が狂っている度合いの問題ならば、なるべくでも正常に近くあろうと、改めて自戒する。

 

 貧国の夜に、雪は深々と降っていく。月に照らされた銀の世界が、暗く淀んで見えた。




この後原作時系列だと数話先に景虎が上洛する話あるんですけど、それ飛ばしたほうが良いですかね…。多分三~四話占領しそうなんですが…。悩みます。



ここからは凄くどうでもいい話です。私はオルフェーヴル世代から競馬に入った人間なんですが、阪神JFの予想大当たりして喜んでたら香港でとんでもないものを見せられてメンタルが死にました。福永騎手が無事(?)で不幸中の幸いでしたが、やはり競馬はそういう残酷さも持っていると改めて思い知らされましたね。そんなこんなで精神が若干病んでますが、この作品を書いて立ち直りつつあります。そんなこんな果てしなくどうでもいい話でした。たま~に此処で馬の話をするかもです。他に話す場もない籠りきりの受験生の悲しみと思い、お許し下さい。

誤字報告、多くの感想・メッセージありがとうございます。いつも創作のエネルギーになっています。今後ともよろしくお願い致します。

PS、有識者の方、有馬記念の予想を教えて……もう何もわからない……


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第83話 対越大同盟

メリークリスマス!(やけくそ)

クリスマスプレゼントという名の更新です。そんなのプレゼントにならねぇよと言う方はごめんなさい。後、なんか急に十二月に入って登録者が伸びてるんですが何かあったんですかね…?嬉しいので小躍りしてます。


 信濃は雪国である。何を当たり前の事を言われるかもしれないが、その様相は関東とは大きく違った。積もっている雪の量や質が大きく異なる。そんな大雪の中でも進めるのは街道があちこちで整備されているからだろう。武田の金をつぎ込んで造られているこの道たちが彼らの行軍を支えている。彼らの尊ぶ速さを出すには道が不可欠だ。特に山国では。

 

 関東も湿地帯が多い。条件は違うが、街道を必要とするという事自体は変わらない。見るべきポイントでもあった。甲斐は土地条件が悪すぎるのを必死の内政でなんとかカバーしようとあがいている国だ。その必死さは己らの生存に直結するが故だろう。関東には無い精神性だった。

 

 我々は今川中島に向かっている。川中島と言うと第四次の行われた戦場をイメージするが、実際はかなり広範囲の総称だ。そこで滞陣中の武田軍本隊との接触が今回の目的だった。大人しく躑躅ヶ崎館で待つ手もあったが、それでは会えるのがいつになるか分からない。そうなってくるとこちらの予定にも不都合が生じる。サッサと済ませて帰りたかった。途中で戦は終わり塩田城に兵を退いたという情報が入って来た。

 

 穴山信君に案内されるがままに着いて行く。決して豊かとはいえない大地だが、それでも民衆は根強く耐えていた。その忍従が強固な軍団を生むのかもしれない。それこそ、食料を求めて南下する中国北方の騎馬民族のように。政景はずっとガタガタ震えている。そんなに寒いのかは分からないが、子供なので仕方ない側面もあるだろう。

 

 真っすぐに塩田城に向かう事も考えたが、今後援軍に派遣される可能性が高い事を考えて川中島の八幡原を見てみることにした。ザっと地形を把握したかったのである。それっぽい理由を付けたら穴山信君は納得してくれた。そしてその途中に今回の戦場であった布施はある。そこには武田長尾双方の死体が転がっている。本来合戦においてはその犠牲者から武具をはぎ取る者や、埋める者がいるのだが、如何せん雪のせいか活動を休止しているらしく、白く凍った死体が幾つもあった。

 

「ヒッ!」

 

 小さい悲鳴が聞こえる。物言わぬ濁った眼に見据えられて、出た悲鳴のようだった。

 

「戦場は初めてか」

 

「……」

 

 返事はなかったが、小さく頷いた。

 

「見たくなければ見なくていい。見ていて気持ちのいいものではないからな。これはお前を侮っている訳ではない。誰だって最初はこうだ。目を背けたくなる。それを臆病とは思わん。そうならない奴は大概可笑しいのだ。私も、最初は酷いもんだった。吐き気をこらえるのに精一杯だった。武士ですら無かったからな。それまでの私は」

 

「……」

 

 小さい身体が震えている。少し可哀想な事をしたかもしれない。流石に早かったか。そう思って先へ行こうとすると、小さな声で彼女は言う。

 

「これ、目を閉じたら消えるの?」

 

「いいや、そのままだ」

 

「じゃあ、見るわよ!……消えないなら、そうするしかないじゃない」

 

 予想外の答えに咄嗟に返答が出来なかった。私は些かこの時代の人間を侮っていたらしい。私の思うよりも、ずっと、強かった。穴山信君は小さく手を合わせて経を読んでいる。そう言えば出家する際はとか言っていた。多少なりとも仏典の知識はあるのだろう。

 

「ねぇ、クソ兄貴」

 

「なんだ」

 

「この人たちは、生きていた意味があったの…?こんな戦場で、誰にも看取って貰えないまま、こうやって雪に埋もれている人生なんて……私は……」

 

「…死者の生きた意味を決められるのは生者だけだ。我々生きとし生ける者の行動が、彼らの生きた意味を定める。何の意味もない無駄骨だったか、それとも少しでも誰かの幸福を作るための意味のあるものだったかを」

 

「そんなの、死んだ人にはわからないじゃない!自分の人生に意味があったか分からないまま死んで、その後にどうこう言われたって、結局……」

 

「そうだ。詭弁だ。それでもそれ以外に、方法を知らないから私たちは戦い続ける。この悲惨な戦争の果てにきっと今よりかはマシな未来があると信じて、な」

 

「じゃあ、武田や長尾は意味を見出せるの?この凍った人たちに、生きた意味をあげられるの?」

 

「無理かもしれんな。武田には旧体制を破壊する力がある。だが、その破壊に持続力は少ない。その力もいつまで持つか分からん。長尾の義には今を延命させる力がある。しかしそれも一時しのぎにすぎない。長尾景虎は生粋の武官だ。治める術を知らん。未来を作る力は……どちらにもないかもしれんな。」

 

 それが正直な答えだった。そして史実を知る者として、そう答えるしかなかった。政治家としても軍人としてもかなりの高水準にいる氏康様しか器に値する者はいないというのが感想だった。

 

「北条の夢はなんだ」

 

「……関東静謐」

 

「そうだ。関東静謐。静謐とは即ちこんな地獄を作らない事だ。その為に我々は戦い、争い、殺す。平和の為に、誰かの明日を奪っている。そんな矛盾のために我々は戦っている。だから、忘れるな。そういう者たちがいたことを。名前も、顔も知らないかもしれない。お前が戦場に立つかもわからない。けれど、どんな人生を歩むにしても、忘れないでやってくれ。そういう人間が、この世界にいたという事を」

 

「辛くないの、そんな戦い」

 

「辛いさ。そりゃ誰だって。きっと北条家の面々も、どこかに痛みを抱えて、けれどそれを隠して生きている。そうすれば、誰かが笑える日々が作れていると信じているからな。少なくとも、お前の父上も、氏康様もそうだった。そして私もそうなりたいと思っている」

 

「……あんたの言う事、少しは聞いてやるわ」

 

「ほう?どういう風の吹き回しだろうか」

 

「こんなの見せられたら…そうするしかないじゃないの!あんたは最低ね、私を誘導したくて連れてきたんでしょう!?」

 

「……」

 

「もし武田も、長尾も、この人たちの生きた意味を、死んだ意味を見つけられなかったら私が見つけるしかないじゃないの!じゃなきゃ、あんまりにも……辛すぎる。いつか、貴方たちが戦った意味があったって誰かが言ってあげなきゃ、ずっとこの人たちはこの場から離れられないじゃない!」

 

「そうか…それがお前の」

 

 プルプルと震えながらも気丈にそう叫んでいる。穴山信君はそれを意外そうな顔で見ている。生意気なクソガキ。我が儘お嬢様。それは真実だろう。だが、ある意味愛を受けたからこそ、箱入りだからこそこの感想が出てくるのだろう。この発想になるのだろう。きっと、この子の本当の根っこは優しいはずだ。今はそれが歪んでいて、かつ隠れているが、恐らくは。

 

 戦場を見たことは、いままで死人など見たこともなかった少女に一つの決意を与えた。もし本当に彼女がその道を達成できたのなら。そう考えてしまう。

 

「ではそうしろ。選んだ道がそれなら、それを貫け。自己満足だと言われようともその自己満足を誇り続けろ。関東の戦乱は必ず氏康様の代で終わらせる。そうすればその次は氏政様の代だ。その時はこんな戦争屋はお払い箱で、お前のような若手が活躍するだろう。治める方が攻めるより難しい。平和は乱世の何倍も保つのが困難だ。彼らが死んだ意味があったと、少しは言えるような世界にしてくれ。そうすれば少しは慰めになるだろう」

 

 私は必ず、なんとしてもこの代で関東に静謐を。そしてその後は、この国を。戦国の世だけじゃない。この世界の日本の行く末に、焼け野原はいらない。硝子の大地はいらない。400年後の未来に、太陽が昇り続けているように。その第一歩として必ず降りかかる火の粉である越後を叩く。

 

「お前が意味を与えろ。ここに眠る、物言わぬ氷に。我々と共に戦い続ける将兵の人生に。いいな」

 

「…はい」

 

「その為の力は色んな奴がくれるだろう。私も、河越の面々も、そして他国の者も。他国の者の行動を見て学べ。何が善策で、何が愚策かをな」 

 

 思わぬ副産物を私にもたらしたこの寄り道だった。当初の予定通り、その後は八幡原の地形も把握できた。多いに意味があったと言えるだろう。だが、この戦いはまだまだ序の口に過ぎない。北条も武田もこの後もっと悲惨な戦いを幾度も繰り広げられることになる。それを思うと憂鬱でしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さぁ、こちらです」

 

 塩田城に着いた我々は案内されるがままにその城内を進んだ。いたるところに戦争の後が見える。積みあがった物資、せわしなく動く城内の人々、緊張感をはらんだ空気、そして傷付いた将兵。勝ったとも負けたとも言えない戦いだった第一次川中島合戦の終わった後の雰囲気は戦敗の暗い物でも戦勝の明るいものでもない。どことなくフラストレーションのたまった気配があった。

 

 ここだろうと言う部屋に入ろうとすると、中から声がする。恐らくは会議をしているのだろう。ある種の手詰まりに陥った今後の武田家のために。どうしたものかと思っていると、穴山信君は手で我々を制し、唇に人差し指を当てる。黙って聞けという意味だろう。中からは少し曇っている声が聞こえてくる。

 

「善光寺の栗田寛安を寝返らせ越軍の退路を断つ策、長尾景虎に見破られてございます。やはり越軍は、策略こそ用いませぬが、その情報網は堅い……直江大和が、あの癖の強い戸隠忍びどもをよく駆使しているようです。このまま景虎に越後へ帰られてしまっては、川中島を巡る攻防、長引きまする。越後の海へと出るどころか、善光寺平を切り取るだけで、何年もかかりましょう。これ以後、川中島での越軍との戦いを重ねることになれば、武田家にとっては致命傷に。駿河の今川義元に、上洛を許してしまいまする」

 

 今川義元の上洛に関しては私はこの世界に来る前、あり得ないと一蹴していた。桶狭間の戦いは大高城の後詰の為の出兵兼三河の安定化のためであると踏んでいる。もしかしたら尾張を制する目的もあったかもしれないが、凡そ織田を一回叩いておくくらいがその目的だったのではないか。とは言え、この世界はどうも私の時間軸ではいわゆる小説の演出であったりが史実になっている傾向がある。言うなれば三国志演義が史実となっているという感じだ。ともすれば今川義元の上洛も事実かもしれない。しかし、六角家が織田に援軍を送っているとする資料も信憑性はともかくあるので、そう簡単にはいかなそうだが。

 

「ならばどうしろと言うのだ、勘助」

 

「勘助。私にできることがあるならば、言って」

 

「……次郎様……武田家の大方針は、今川・北条と和して信濃を切り取り、その国力をもって越後あるいは駿河の海へと出る、というものでしたが、長尾景虎はあまりにも強い。全面激突さえ回避すれば、最終的には我ら武田が善光寺平を奪えるでしょうが、貴重な時間を失ってしまいまする。そこで、方針を大幅に変更します。越後の長尾景虎と和し『義姉妹同盟』を結びまする。むろん両家はすでにいちど合戦を行っておりますれば、人質として越後へ送られる義妹は――実妹でなければ。孫六様でも、まだ足りませぬ。武田の副将・次郎様が越後へ入られるのです。御屋形様も次郎様も、そこまでしてでも景虎との対決を回避したいとこんこんと説くのです。さすれば、さしもの景虎も断りますまい。景虎は本心では、御屋形様と戦場で命を奪い合いたくはないのですから」

 

「景虎は、実姉の綾様を長尾政景のもとに自分の身代わりとして嫁がせたことを今なお心の傷としております。姉を奪われた悲しみを抱いております。御屋形様が次郎様を景虎のもとへ差し出せば――景虎は必ずや御屋形様と次郎様の心情と意志に揺り動かされましょう」

 

 なんちゅう事を言ってくれてるんだ。そうなってはこっちの戦略は根底から崩壊する。越後に加え甲斐まで相手にするとか最悪だ。もしそうなった場合のシミュレーションをする。越後は冬は攻めてこない。だったらその間は武田と戦争だ。蘆名と一揆で足止めさせて、なんとしても今川とは同盟を続行する。最悪房総を一時的に失ってでも里見の援軍を呼び寄せて叩く。越後はともかく武田の最大動員は頑張って二万五千~三万。越後は四万~五万。対する今川は今現在三河の統治に忙しいとは言えなんとか興国寺の損失も取り返しつつあるようで二万~三万が限界だ。そして北条は五万~六万を城をすっからかんにすれば動かせる。蘆名は五千で一揆は加賀も合わせれば十万だろうか。勝機はあった。

 

 割って入るべく襖を開けようとすると、穴山信君が止めてくる。もう少し推移を見守るつもりのようだ。

 

「勘助!二度とそのような下策を口にしないで!次に口にしたら、その時は……あなたを斬るわよ!私は絶対にどこにも嫁がないし、人質にもならない!私の姉上は、ただ一人よ!いったいなんのために、父上を甲斐から追放したというの……!?勘助!お前は……父上を駿河へ追いやり、私を越後へ追いやって、姉上を武田家から奪い取るつもりなの?」

 

「勘助。お前の軍師としての非情さは評価しているし感謝もしているが、次郎を越後へ送ることだけはできない。それでは、武田の家族を犠牲にすることとなる。たとえ日数をかけてでも、景虎に勝つ策を考えだしてほしい……」

 

「ですが御屋形様!今は余裕のある北条氏康がいずれ越軍に追い詰められて、それがしと同じ策を思いつけば、北条と越後が同盟することになってしまいまするぞ!」

 

「その道も、塞げ」

 

「無理難題でございまする!御屋形様は天下に号令をかけるお方!川中島にいつまでも固執していては、すべてを失ってしまいますぞ!」

 

「勘助、無理を言うようだがあたしとて、絶対に選べない選択肢というものはある。決して次郎を、あたしの野望の犠牲にはしない。許せ」

 

 なるほど、少し見えてきた。山本勘助の仮想敵は越後ではない。一見越後をどうにかする気のようだが、その仮想敵は北条家だ。だからこそ執拗に我々を警戒している。氏康様は少なくともその意思はないが、駿東を手放さなかったことが関東の外にも拡大するつもりがあるのではないかと疑わせている原因かもしれない。だとしたら私の策が裏目に出たことになる。クッソ、やらかしたかもしれんな。

 

「その、義姉妹同盟の件……『妹』が諏訪四郎勝頼では、ダメなのか?諏訪神社ごと越後へと譲渡する、越後で諏訪家を再興させよ、と景虎を口説けば、信仰心の深い景虎の心は動かされるかもしれない」

 

 諏訪郡死んじゃう…。そういう感想しか抱けなかった。諏訪郡の民は諏訪一族に対して並々ならぬ感情を抱いている。武田家に従っているのも一応諏訪頼重が生きていてその妹の諏訪四郎勝頼が甲斐に健在だからだ。いわば武田のためではなく諏訪四郎のために戦っている。武田に尽くすことが結果的に諏訪四郎に尽くすことに繋がるからだ。もし彼女を越後へ送ってみろ、最悪諏訪郡で大暴動が発生する。証拠と言っては何だが武田家滅亡の際に穴山梅雪筆頭にどんどん家臣が降伏していく中、諏訪郡は最後まで抵抗を続けていた。仁科盛信が高遠城で果敢に討ち死にした際も多くの諏訪衆がそれに付き従っている。彼らは武田勝頼の為に死んだのではなく、諏訪四郎勝頼の為に死んだのではないか。私はそう思えてならない。

 

 そう言えば、情報によると晴信は旧権威を破壊しようと目論見、特に信濃を人の国にするべく迷信や宗教を切り離そうとしているらしい。だが、諏訪郡でそれをやるのは下策だ、と私は思う。宗教と上手く付き合ってこそ生き残れると言うのに。彼らだって、守るべき民であり共に歩むべき者たちなのだから。現に飴と鞭の政策で河越の寺社には応じている。北条家としても鶴岡八幡宮をはじめとした寺社に配慮を見せている。思えば私と氏康様を繋いでくれたのも早雲寺だ。邪険に出来る訳がない。

 

「……いや。勝頼様は御屋形様の義妹でございますれば、景虎は『いざとなれば切り捨てるかもしれぬ』と僅かなりとも疑心を抱くことに……それに、諏訪から勝頼様も社もことごとく去るとなれば、諏訪衆が黙ってはおりませぬぞ。諏訪の統治が困難となります。諏訪が乱れれば、伊那も。靡いた木曾も……南信濃はことごとく離反いたしましょう」

 

「そうか。そうだな。景虎は、戦って勝てば嵐のように去って行くのみで、奪った土地を統治しなくてもよい。だが、我ら武田は違う……それに、兄を奪われたあげく、さらに越後へと人質として追いやられれば、四郎もいよいよ傷つくだろう。あたしとしたことが……二度とこのような愚かなことは、言うまい」

 

「次郎様のご動揺が、御屋形様をも動揺させておられるのです。それがしが、次郎様を越後へやれなどと、戦場を駆ける景虎のあまりの強さを知って愚策を口にしたためです……しかし幸いにして、景虎は上洛いたします。その間に、次の手を考え、そして実行しましょう」

 

「できるか、勘助。景虎自身は調略活動に無頓着だが、直江大和は、手強い。それに、戦場で軍議にも出ずに釣りばかりしていたようだが、あの宇佐美定満も厄介だ。景虎の扱い方を熟知しているかのようだ……あたしにとっての勘助のような存在らしいな、あの男は」

 

「困難ですが、必ずや。次郎様。勝頼様。孫六様。太郎様。そして信龍様……二度と武田家の方々を、御屋形様と別離させはしませぬ」

 

 取り敢えず現状認識するくらいの理性はあったことに安堵している。余りにもダメそうなら同盟する価値無しとして小田原へ報告するところだった。馬鹿に付き合って泥船に乗ることほど愚かな事は無い。乗るべきバスは見極めなければ。そうだろう?大日本帝国さん。

 

 そして穴山信君の目的も見えた。山本勘助の仮想敵が北条家だとしたら彼女の仮想敵は、というか明確に敵なのは長尾。次点で今川だ。北条家とは手を組み続けるべきだと考えている。だからこそ私に色々教え、この会話を聞かせた。方針の違う山本勘助と水面下で対立しているから。政争の一環とも見れるし、武田の為の行動ともとれる。或いは、自領に被害をもたらさない為か。穴山領が荒れるとすればそれは駿河から攻め込まれたとき。つまり今川や北条と敵対した時のみだ。

 

 

 

 

 

 

「そろそろいいですかね」

 

 そう言うと信君は襖を開けた。

 

「失礼致しますね」

 

「信君、どうしてここに居る。お前には、太郎や信龍と共に留守居を任せていたはずだが」

 

「ええ、その通り。勝手に持ち場を離れたことはお詫びいたします。ですが割と火急の用件でして。信龍様に残りはお預けして馳せ参じました。信龍様は渋々でしたが納得していただけたので、罷り越した次第です」

 

「分かった。それで、その用件はなんだ。何か甲斐で起こったか」

 

「いえいえ、甲斐はいたって平穏。いつも通りの貧国の冬です。そうではなく……お客様です」

 

「客?躑躅ヶ崎館で待たせておけば良いだろう」

 

「それがそうもいかなくてですね…まぁ、後は御本人からお聞きになって下さい。どうぞ、お入りください」

 

 出番という事で剣呑な雰囲気にビビっている政景を引っ張って中へ入る。努めてにこやかに。人当たり良く。

 

「我が懐中に三策在り。是上策中策下策也。御歴々、一体何れを御所望か?北条左京大夫が臣。一条土佐守兼音、我が主の命により外交交渉を行うべく参陣仕る。これに控えるは我が義妹。世間知らずの小娘の教育のため連れ出しましたが、置物とでも思うて頂ければ幸いですな」

 

 武田晴信のどす黒い雰囲気と信繁の怒りのオーラとなんか悲壮な感じのする山本勘助に気圧され一層縮こまってしまった政景を見て信君が愉快そうな顔をしている。戦国史でも名を知られた者たちを前にすれば圧倒されるのも無理はない。

 

「さて、対越大同盟のご提案に参りました」

 

 そう言って私は背を伸ばし言う。少しの沈黙があった後に、晴信が口を開いた。

 

「…まずはよく来てくれた。気になる文言があったが、ひとまず三策について聞こうか」

 

「はっ!武田家の現状を鑑みるに川中島にて長尾と相対するも決定打なく、千日手になろうとしておるものと拝察致します。故に、それを破るべき策は三つ。まず勝てるかは分かりませぬが、総力を挙げて長尾に突撃し死を顧みぬ攻撃でこれを破らんとする。是が下策でございます。次に、北信を諦め、兵を退く。是が中策。最後は我らの提案に同意していただく。是が上策であります」

 

「戦は下策か」

 

「孫子に曰く、『勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む。』と。戦わずして勝つが最良。無謀な突撃は益なし。それどころか百害になりましょう」

 

「…だろうな。兵を退くはこれまで死んだ者に申し訳が立たない。実質、選べる道など一つではないか」

 

「そうでしょうかな。私が思案できぬだけで、山本殿ならば他に何か策を思いついておられるやもしれませぬぞ」

 

「どうなのだ勘助。何か、あるか」

 

「……無い訳ではござりませぬ。されど、不確実性が高いものが多い故に進言を躊躇っておりました」

 

「では言ってみてくれ」

 

「はっ!まず一つは美濃を目指すものございます。美濃を落とし、尾張方面に出れれば津島の港も手に入りましょう。されど、美濃には蝮の道三がおり、これを破るは長尾よりは容易かろうとは存じますが、やはり難しく…。二つ目は飛騨を取る事でございます。飛騨は豪族が割拠しまとまりを欠いております。ひっかきまわし制圧するのは可能かと。とは言え、山国故に御家の力が上がるかと言われれば…。それに維持も山越えがある故に難しいのが現状でありましょう。とは言え、不可能ではないかと」

 

「そうか…次郎はどうか」

 

「私は……従来通り北進を貫くべきだと思うわ。武田単体なら厳しいでしょうけれど、決して一人な訳ではないでしょうから」

 

「まさにその通りにございます。長尾景虎はやはり強敵。我らもその主を失う寸前でございました。それに一人で相対するは獅子に身一つで挑むがごときこと。さればこそ、対越大同盟こそ、我らの進める策にございます」

 

「対越大同盟……どういうものだ」

 

「はい。まず参加勢力は武田、北条、蘆名、北陸一揆、神保の五勢力です。加え、出羽の大宝寺、最上、鮭延、砂越などにも声をかけております。それぞれ北信、上野、揚北、越中の戦線を持ち、共同して長尾を抑え込まんとする同盟でございます」

 

「そうか、それだけの勢力が…ならば或いは」

 

 晴信の心はかなり傾いている。そもそも戦場で打ち破るビジョンが見えず、もし対決を避けても行くべき道は山しかない飛騨と道三のいる美濃だけだ。一応長野もいるが、もし攻めても結果は押して知るべしだろう。史実が明確な根拠になる。だがここで待ったがかかった。

 

「あいやお待ちあれ、それでは一見良きことのように見えても一番有利なのは北条家ではござらぬか?」

 

 そう、それはそうなのである。地図を見ればいい。雪と山の二つの障害を間に持つ関東が実は一番長尾方の行軍が難しい。次点で越中だが、あそこはまぁ、狂信者の集まりなんで犠牲を顧みないだろうからあまり考えないものとする。勢力の大きさ、経済規模などから考えても一番有利なのは北条だ。逆に、冬だろうとお構いなしに対峙する羽目になる武田が一番負担が大きいと言えよう。経済規模も金で潤っているように見えるが地力が小さいのであまり大きくはない。

 

「それは我らの主も心を痛めておりました。武田の民を思えば、武田に大きな負担を強いるは非道なのではないか、と」

 

「せめて、同盟の対価をお示し願いたい」

 

 対価、ねぇ。強く出たなと思う。正直、この連携から弾かれて困るのは武田の方だ。しかし、曲がりなりにも甲斐源氏の名門が、北条の要求に屈したというのは対面が悪すぎる。面子が大事な時代だ。はい、そうですかとはいかないのは承知の上。なので、武田に必要なのは言うてはなんだが格的には元々下の伊勢家=北条家と組むメリットを家臣に提示できるかどうか。なので強気なんだろうと思われる。

 

 だがそこは織り込み済み。流石は氏康様と言うべきか、その辺の対策はしてあった。強気のムードが武田に出始めている。ちょっとは元気になったのだろうか。

 

「あたしは対等な同盟関係を望んでいる。もし北条家と組むのであれば、一方的に命ぜられるのではなくあくまでも共闘を目的としたい。北条家の望みは分かっている。我々を防波堤にしたいのだろう?」

 

「そのような事は決して。その仰りようではまるで武田を捨て駒のようにしているではありませんか。我らはそこまで落ちぶれてはおりませぬぞ!」

 

「どうだか。氏康がそんな優しさで出来た女ではないことくらい善徳寺で思い知った。利用されるのは仕方ないが、それをやられたままというのは看過できない。防波堤がなくなって困るのはそちらも同じだろう」

 

 これはある意味事実だった。防波堤と言ったら聞こえは悪いが、それがなくなると困る。協調路線を取ってくれないと何かあった際に動向の読めない勢力を隣に抱えることになる。当家の損害を減らすためにも武田は必要だった。

 

「最低限、援軍は必ず送って欲しい。適当な将ではなく、一軍の将たるに相応しい者をだ。次いで、貿易を促進してくれ。甲斐は貧しい。兵糧は常にいっぱいいっぱいなのだ」

 

「うむむむ…」

 

「教えの通りなんとか北信、中信の豪族の大半をこちらにつける事に成功しました。先の戦いで武田は撤退しましたが、依然として長尾方に付いているのは高梨政頼のみです。しかし、威を示せなくては武田からの離反もあり得ます。それでは戦略が破綻、引いては対越にも影響が出かねません。どうか、ご一考なされて下さいませんか」

 

 信繁が情に訴える声で言ってくる。情に訴えるのもこの時代では大事な事だ。なるほど、手練手管がかなり上手くなっている。木曽や北信の諸将を落とす際に使ったと見える。練習材料としては丁度良かったのだろう。度肝を抜くべく単身木曽福島城に乗り込んだと聞いた時は驚いたが。ここで唸っているのも譲歩させたという実績を作らせるためだ。元から描いていたゴールへ着地させるために。

 

「分かりました。見ず知らずの御仁ならいざ知らず、他ならぬ次郎信繁様、そしてその御姉君である大膳大夫様の仰せとあれば無下にも出来ませぬ。よろしいでしょう。当方と致しましては援軍の派遣、兵糧支援、そして塩の値段を下げましょう」 

 

 一気に時間が止まる。相手にインパクトを残すには相手の想像の上を行くことをしなくてはいけない。貿易の促進で十分と考えている相手にドカンとかますにはこれくらいがちょうどいい。

 

「そ、それは真か」

 

「はい。しかし、当家としてもあまりに下げては大損。一割が限界でございますが、もし武田家がこの同盟構想にご参加頂き共に戦って下さるのであれば、当家としても誠意を見せたく存じます」

 

 逆にこれはもうこれ以上は譲歩しないぞという脅しでもある。塩は山国である甲斐の生命線だ。止めればそれこそトンデモないことになる。輸入に頼り切っているこの産物の価格が下がると言うのは朗報以外の何物でもないだろう。少なくとも、金が外に出る量を減らせる。三割までなら下げて良いと言われていたが、一割で十分だったようだ。北条家の収入源は塩以外にももう沢山ある。史実以上の余裕の表れがこの条件だった。損する商人の分は補償が出るらしい。関東でのシェアも拡大している。そう大きな損失にはならない。塩商人との密約も終わっていると言われた。兵糧支援や援軍派遣も要求される前提で氏康様からは指示を受けている。

 

「……分かった。喜んで参加させて貰おう」

 

「よろしいのですか、御屋形様」

 

「もうこれ以上の成果は望めないだろう。これがあれば甲斐は少しマシになる。それを活かして次なる戦に備えよう、勘助」

 

「ハハッ!御屋形様がよろしいのでしたらこの勘助、異論はございません」

 

 信繁はなんとか交渉がまとまったことにホッとしている様子だ。武田に恩も売れたし、まぁこれで概ね成功だろう。史実以上に越後への攻勢を強められるはずだ。

 

「援軍には誰が来れそうか?」

 

「そうですな、勿論こちらの戦事情もありますが……恐らくは私が」

 

「で、あれば問題ないか」

 

「それと、これはお願いなのでございますが、宜しいでしょうか?」

 

「言ってみてくれ」

 

「はい。当家は大々的に木材を必要としておりまして。武田領内の木材を優先的に売っては頂けないでしょうか。勿論、対価は言い値でお支払いいたします」

 

「それくらいなら構わないだろう。貿易の促進は歓迎するところだ。当家で使う物の他は優先的に回そう」

 

「ありがとうございます。これにて、両家の対越同盟は成りました。我が主もお喜びになるでしょう。この後、共に手を携え、北の脅威に備えましょうぞ。何卒、よろしくお願い申し上げます」

 

「…ああ。こちらこそ」

 

 一瞬だけ曇った晴信の顔だが、すぐに凛々しく頷いた。山本勘助は早速方針を転換し始めているようだ。信繁も「北信を繋ぎ留めないと」と呟いて書状を書きに走る。僅かだが、と晴信には手土産を渡される。父上が世話になったとも言われたので、河越の一件も知られているのだろう。もしくは、彼が何らかの形で北条と組むように書面で諭したが故に割とすんなり進んだのかもしれない。成功に終わったことに安堵しつつ、ずっとだんまりで怯えていた政景を回収し、城を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 国境まで見送りに来てくれるそうで、穴山信君は我々を引き続き先導している。

 

「で、実際はいくらまで値段を下げて良かったんですか」

 

「なんのことですかな」

 

「分かっておいででしょうに。お人が悪い」

 

「はて、さっぱりですな」

 

「そう言う事にしておきましょうか。義妹殿は大丈夫ですか」

 

 より一層寒波が強まったようで、寒さにガタガタしている。それを見て心配の言葉をかけてくれたのだろう。

 

「こらえ性の無い娘で申し訳ない…お見苦しかったならば陳謝致します」

 

「いえいえ、甲信の寒さは子供には堪えます。布施でのお話を一部聞いておりましたが聡明な妹君と思います」

 

「そうですかな」

 

「ええ、私にも太郎義信様の近臣をしている弟がおるのですが、救いようのない阿呆なので」

 

「そ、そうですか…」

 

 穴山信君に弟がいたなど初耳だった。知らない事はまだまだ多い。義信の近臣と言うのも気になる言葉だった。もし、義信事件が起これば連座する可能性もある。

 

「さて、そろそろ国境です。ここを越えれば秩父。貴殿の所領です」

 

「ここまでの案内、誠にありがとうございます。無事、大事を果たして務めを終え、故国へ帰還出来ます。小田原へも胸を張って帰れるというもの。私の面子も立ちましょう。お力添えのおかげでございます」

 

「なんのなんの、貴殿のお力によるものでしょう。次にお会いするのは戦場でしょうか。またの再会を楽しみにお待ちしております」

 

「こちらこそ、穴山殿と轡を並べるを楽しみにしております」

 

 馬上で握手を交わし、分かれを告げる。

 

「道中お気をつけて」

 

「それでは御免」

 

 見送られるままに甲斐を後にした。我々の本来の戦場は甲信ではなく関東。この大地ではまだ戦いは終わりそうにない。少しでも有利になるように知恵を絞り続けるしかないだろう。ともかく、この顛末を小田原に報告しなくてはいけない。まだまだ休める日は遠そうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<未来・1942年6月・大日本帝国、帝都、首相官邸>

 

 大亜細亜に覇権を唱える大国家の宰相は今、渋い顔で報告を受けていた。海軍は連戦連勝を重ねているが、欧州戦線は押されている。ドイツの勢いは圧倒的だった。

 

「総理、ツァリーツィンが落ちてから一か月、サンクトペテルブルクで絶望的な戦闘を繰り広げていたロシア帝国軍ですが、遂に陥落しました。モスクワも既に陥落寸前です」 

 

 ツァリーツィンとは史実におけるスターリングラードである。

 

「皇帝は?」

 

「老帝ニコライ二世は近衛兵と共に宮殿内に侵入したドイツ軍と銃撃戦の後、宮殿ごと自爆したようです。新帝に嫡子のアレクセイがエカテリンブルグで即位しました。新帝は繰り返し大亜細亜共栄圏の支援を求めています」

 

「そう。トルコはどう?」

 

「カフカス山脈が障害になっています。バルカン戦線ではギリシャ相手に苦戦しているようで…アフリカではエジプトからイタリアを一掃しましたが、それ以上の進軍は現在の補給環境だと望めないとの報告が山下将軍から来ております」

 

「ドイツが思った以上に強力ね」

 

「はい。ジブラルタルもスペインにより陥落。ポルトガルも圧力を受けています。サラザールは英葡同盟を遵守する考えのようですが、時間の問題かと。それと…言いにくい報告ですが、陸軍が限界に近付いています。海軍の予算を削ってでも増強しなくてはならないかと」

 

「我が先祖とは言え、一条兼音の海主陸従政策も考えものね」

 

「あれは対西戦争における軍備増強でしたから…。当時の陸軍は戦国武士で構成されていましたのでふんだんにありましたが海軍は統一国家としては弱かったので致し方ない処置だったと言わざるを得ないかと」

 

「まぁ良いわ。取り敢えず陸軍増強は承知しました。北米は取り敢えず後回しよ。アラスカ州で守備させておきなさい。とにかくロシアが滅びる前にドイツを叩きましょう。外務省に連絡して、ムルマンスク・カレリアとの交換でフィンランドを参戦させられないか、露帝と交渉を」

 

「分かりました。早速行ってまいります」

 

 あわただしく出ていく秘書官を見ながら、首相は深いため息を吐いた。三億の人口、五十一の都道府県と五の州を持つ大帝国の宰相の瞳の先には、混沌とした様相を呈す世界を描いた地図が飾られていた。

 

 

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景虎上洛編に関しては色んなご意見を頂きました。まずはありがとうございます。その上で、要らねぇよと言う方も要るという方も色々いらっしゃいました。勿論、どっちでもいいと言う方も。という訳で色々考えたんですが、全く出さないのも不可能なので、少し視点を工夫して出したいと思います。具体的には大分前の出してほしい勢力の募集で多かった三好家を出して畿内の情勢を絡めつつ、かつ今出向中の為昌の話もしつつでいけば何とかなるのでは…?と勝手に思いました。なので、猛烈な反対にあわない限りはそんな感じで行きたいと思います。よろしくお願いします。

後、お正月に塾からお休み許可が出たのでコメント返信&第1章改稿をする予定です。改稿に関してはまだ微妙ですが…もしかしたら加筆シーンがあるかも?しれないです。


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第84話 尾張のうつけ 尾

これが年内最後の投稿になります。今回は気になる勢力募集でお声の多かった織田家の話になります。信奈のキャラを掴めているかが微妙ですが…史実信長をインストールしてるのでこうなってます。破天荒で活発な感じの原作でしたが、今作ではすこ~し変わって優秀な指揮官としての要素も入ってます。

なお、これを機に改めて注意書きですが、今作はあくまでも歴史をベースとしたエンタメです。歴史愛好家としての作者は信長公記などの中身をあまり信じてはいませんが、エンタメ性を確保するために有名な俗説を多々使用します。ご容赦ください。

そして、一応これからの内容的には、次回以降(=投稿は2月下旬になるかと)から恐らく長尾景虎上洛編&三好家編&北条為昌畿内編になる予定です。大分間が空いてしまいますが、どうか寛大な心でお待ちいただけると幸いです。


 尾張。現在の名古屋市を含む愛知県西部を占めるこの地域は古来より東国を繋ぐ経路として栄えてきた。今の名古屋の繁栄ほどではないにしても、日本国内でも大きな力を持った地域であったことは言うまでもないだろう。揖斐川長良川などの河川交通、津島・熱田の港。これらは尾張に莫大な富をもたらした。更に、濃尾平野の広がるこの地は生産高も多く、非常に恵まれた立地と言えよう。

 

 室町時代は斯波氏がその主であったが世は下剋上。その権勢は見る影もなく、今は越前の神官から出世した守護代の織田家が勢力を拡大している。織田家は多くの一族を持ち、尾張一国内にかなりの権勢を保持していた。なお、守護代とは守護の代理人であり、その領地の差配を任されている。その為多くの場合で守護の失墜を機にそれに成り代わっている。代表例では織田家の他に、越後長尾や細川の守護代三好氏、斯波氏の守護代朝倉氏、京極氏の守護代尼子氏などがあげられる。

 

 織田家の一族は多く存在するが、これまでは上四郡(丹羽郡、葉栗郡、中島郡、春日井郡)を守護代岩倉織田家(織田伊勢守家)が、下四郡(愛知郡、知多郡、海東郡、海西郡)を守護代清州織田家(織田大和守家)が治めていた。一応形式上は斯波氏はまだ残っており、その権威も生きてはいたが実権は無かった。そして急速に台頭を果たしてきたのが、清洲織田氏の三家老の一つ、織田弾正忠家の織田良信・信定父子であり、海東郡津島に居館を構えて交易を押さえ、海西郡や中島郡を侵食して勢力を伸ばし、勝幡城などを築城し根拠地とした。織田信定がその子の織田信秀に家督を譲った頃には弾正忠家は主家を凌ぐ力をつけており、今川那古野氏の今川氏豊から那古野城を奪うなど信秀は更に勢力を拡大し、美濃国では斎藤道三と、三河国では松平清康・広忠や、駿河守護の今川義元と抗争した。

 

 

 

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織田家系図

 

 

 イケイケどんどんに見えた織田信秀の陰りは小豆坂から始まった。北条家との屈辱的和睦を経て転進してきた今川軍により織田家の部隊は壊滅した。その前の加納口の戦いでも全盛期の斎藤道三相手に敗走。弟の織田信康、青山信昌、寺沢又八、千秋季光を失い逃走した。なお、この加納口の戦いは大河ドラマ『麒麟が来る』でも描かれていたのでそちらを参照されたい。記憶のある方は思い出してほしいのだが、シーンの一部に神官姿の男がいる。それが千秋季光である。彼は熱田神宮の大宮司であった。

 

 ドラマはともかく、織田信秀の晩年はこのように順調とは言えないものであった。しかし、港を複数有し莫大な財力を持っていることは変わりがなく、勢力の衰えとは行かなかった。それどころか、相変わらず他の織田家を圧迫していたのである。そしてその信秀が死んだ。享年41。それ自体はまぁ、人なのでいつかは死ぬだろうと言うそれだけだった。しかし、そう事は単純に終わらなかったのである。時系列はまだ関東管領上杉朝定の就任式の前である。

 

 

 

 

 

 

 

 葬儀は尾張の萬松寺で行われた。多くの僧侶が読経し、その数300人だったという。なお、北条家はそんなにいらないという事で氏綱の葬儀は数人の僧侶だけだった。そうでもしないと入らないのである。ともあれ、葬儀は始まったが肝心の喪主がいない。喪主は当主継承者。つまりは嫡子。信秀最初の子は織田信広であるが、彼は庶子である。故に、超優秀でもない限り当主にはなれなかった。そして彼は凡であった。見切りをつけた信秀は、その妹、そう織田信奈を当主に指名したのである。

 

 母親である土田御前は気が気ではなかった。さもありなん、己の娘が現在進行形で消息不明なのである。しかも、この一大事に。

 

「勘十郎!吉は何処なのです。またうつけ仲間と角力で遊んでいるのではないですか」

 

「ははは、いつもの事です。ご安心あれ母上。姉上が来られるまでの間、僕が喪主代理を務めましょう」

 

「流石は勘十郎。頼りになります。お前が織田家を継いでくれれば、安心できると言うのに」

 

 そんな様子を遠巻きに見る一門家臣。この勘十郎とは信勝の事である。他の弟妹は、信奈は自分達家族には優しくしてくれているので白けた目で見ているが、家臣たちの中には信勝待望論が持ち上がっていた。信奈派は肩身の狭い思いをしている。その筆頭が平手政秀。信奈の守り役である。信勝の家臣に詰め寄られ、息も絶え絶えであった。

 

 だが、転機は突然訪れる。信奈がやって来たのだ。小姓の前田犬千代(利家)を一人だけ連れて。茶筅髷に藁縄を腰に巻き、太刀を指している。ついでにひょうたん。うつけ云々を抜きにしても、普通にマナー違反である。葬儀に特攻服とかスカジャンとかを着て銀のチェーンをジャラジャラさせたモヒカンヘアが殴り込んできたと言えば現代でも分かるだろうか。どう考えても葬儀の恰好ではない。その目は真っ赤であり、良く見れば泣いていたことがわかる。だが、多くの者はその服にのみ目が行き、顔を窺えなかった。

 

「―――父上の葬儀デアルカ!」

 

 唖然とする参列者の中を突き進み、読経していた僧侶の首をいきなり掴む。

 

「こんな経文なんて意味ないでしょう!あんたたちの法力とやらで父上を生き返らせて!蘇れば無限の報酬を払うわ。出来ないならみんな焼き殺すわよ!」

 

「ひぃっ!しししし死人を蘇らせるのは仏法の仕事ではありませぬ!」

 

 死人を蘇らせようとするとどうなるかは鋼の錬金術師をご覧あれ。

 

「だったら何のために高い布施を盗って葬式を開いているわけ?この寺だって父上が開基したんでしょう!今こそたっぷり利子をつけて恩を返しなさいよ!」

 

「御仏の教えとは死者を生き返らせる邪法に非ず。生前に殺生を重ねた死者の御霊を速やかに送り成仏していただく為に……」

 

「どこに?父上の魂とやらをどこに送ったわけ?」

 

「ごごご極楽浄土でございます……」

 

「ハァ?極楽浄土?それ、どこにあるの?見せてみなさいよ!」

 

「生者には見る事が出来ませぬ」

 

「なによそれ、詐欺だわ!じゃあ、私があんたたち坊主をまとめて送ってやるから極楽浄土で父上に会ったら合図しなさい。坊主は死んだら極楽浄土に行けるんだから、遅いか早いかだけじゃない!」

 

「ひぃぃぃ、そんなご無体な、そんな理由で殺さないで下され!」

 

「人間は死んだらそれで終わりなのよ!なにが魂よ、何が極楽よ!私はそんなもの信じないわ。どうして、死んでしまったの……!」

 

 平手政秀はもう心労で顔が真っ青になっている。言い分は分かるが…という開明的な者もいたが、多くはこの時代の人物。まだまだ迷信は生きている。信奈の発言は気狂いの論理にしか聞こえなかった。現世に帰還した土田御前が叱責を飛ばす。

 

「吉っ!なんという格好なのですか!それでも織田家の跡取りなのですか!あなたは!」

 

「……姫……この狂乱ぶりは……一点です」

 

「ひひ、姫様ぁ!とうとう本当にご乱心あそばされたんですかっ?品行方正な信勝様を少しは見習って下さい!」

 

 丹羽長秀と柴田勝家が諫言するも、その声は届かない。

 

「……うるさい!こんな葬式なんて、意味ないのよ!みんなで畏まって坊主の経文を聞きながら泣いたって、もう父上は帰って来ないんだから!こんな茶番、あんたたちの自己満足に過ぎないでしょ!」

 

 そう言うと信奈は抹香をわしづかみにして信秀の位牌に向けて思いっきり投げつけた。唖然とする空間を他所に、そのまま走り去って行く。後には騒然としたままの家中が残された。「織田弾正忠家は終わった」「もうダメだ」「いっそのこと岩倉か清州に走るか」「あるいは今川、長島に……」という声が囁かれる。それを一喝したのは織田信秀の弟、信光だった。

 

「各々方、黙らっしゃい!確かに物言い、姿かたち、行いは褒められたものではない!だが、事実この中に兄上の死を悼んでいるものが幾人おる!聞いておれば儂の前で寝返りの算段か?信奈は自己満足に過ぎんと申したが、それよりなお悪いわ!それに、義姉上もである。聞いておれば嫡子を優遇すべきところを次子偏愛で家中に混乱を招いておるのは明白ぞ!」

 

「ですが、あの子はあの通りのうつけ者。私の言う事など聞きもしませぬ」

 

「のっけから否定してこようとする者を近づける者がどこにおる。正直儂にも信奈の言う、世界だのなんだのはさっぱりわからん。だが、受け入れる姿勢も見せずに叱るだけでどうする!義姉上は信奈の母親であろう!叱るだけなら守り役がおる。家臣郎党もおる。母親が受け入れてやらず、誰があ奴を守れるのだ!」

 

「……」

 

「兄上はまごうことなき英傑であった。それを疑う者は流石におらんだろう。その兄上が早々と後継者にした者が愚か者であろうはずがない。儂の目の玉の黒いうちは信奈に謀反なぞさせんぞ!覚悟しておれ!」

 

 バツの悪そうな顔で静まりかえる堂内。取り敢えず生き延びられたと数少ない信奈派は胸を撫でおろした。信奈派は平手政秀の他に、前田党、池田恒興、村井貞勝、佐久間信盛以下の佐久間氏、丹羽長秀、飯尾定宗、佐々成政、塙直政、梁田広正、川尻秀隆、森可成などがいる。いや、十分大勢だろうと思われるが、大きな勢力を持つのは佐久間氏、丹羽氏、佐々氏くらいである。反対に林一族や柴田勝家などは反信奈であった。勝家本人の心情は信奈派だが、周りがそうさせたのである。とは言え、ここで信秀の弟で大きな影響力を持つ織田信光が信奈支持を訴えたので問題はひとまず沈静化した。ついでに犬山織田家の織田信清、織田藤左衛門家の織田信張も信奈と友好関係を持つ旨を表明したので、取り敢えずの安定は確保したと言えよう。しかし、火種はくすぶり続けたままだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 父親の死に打ちひしがれる間もなく、信奈の当主としての生活が始まる。最初の課題は、葬儀の一件を見て遂に織田は終わりだと見限った山口左馬助教継の対処であった。この男は信秀時代には今川方相手に勇戦し、また両者の講和斡旋をしていたりもする。信秀に重用され、三河との国境の要地である鳴海城を任され尾張南東部の備えとなっていた。そこそこの大身であるが、あっさり裏切ったのである。信勝にも付かなかったことを見ると、織田弾正忠家自体に見切りをつけていたと言うべきだろう。鳴海城近くに笠寺・中村の砦を築き、葛山長嘉・岡部元信・三浦義就・飯尾乗連・浅井政敏を引き入れた。

 

 これに対し、放置するわけにもいかない信奈は家中の動揺が激しい中、八百の兵を率いて出陣する。この時の将は皆馬廻衆ばかりであり、大身の者は殆どいなかった。信勝は末森城に籠って出てこない。是には出陣に反対した土田御前の思惑も絡んでいるのだが、他にも林一族なども参陣せず、また信光も他の織田一族への備えであったため出れなかったのである。

 

 八百と言うと関東での今までの戦闘を見る限りそんなに多くないように感じるが、十分な大身勢力と言える。確かに隆盛を誇った信秀の子にしては少ないが、尾張の中では多い方だった。実際、信光や信勝がいれば三千くらいはいったことを見ればこの時の織田弾正忠家はまだまだ衰えたと一蹴するには強かったのである。逆に言えば、これを遥かに上回る数千の兵を動員可能な兼音の勢力の大きさも伺えるというものだった。

 

 信奈に対抗し、今川軍と山口教継も出兵。今川軍は兵四百でもって笠寺砦に籠り、山口教継は兵千五百で出陣した。

 

 

 

 

 

 

「敵将、赤塚に布陣する構えにございます」

 

「デアルカ」

 

「恩知らずの山口め…。一気呵成に攻めかかるのが吉かと。当方は三ノ山に布陣しております。高さの優位を活かすが定石なれば」

 

 進言するのは内藤勝介。知名度はかなり低いが、林秀貞、平手政秀、青山信昌と共に信奈の家老としてつけられた補佐役である。青山は戦死し、平手政秀は現在清州織田家との交渉中。林はバックレたのでいるのは彼だけであった。

 

「そうね。父上を裏切った教継は許せない…。父上の夢、尾張統一の第一歩よ!全軍、前進!」

 

 赤塚に布陣していた山口軍に向かって信奈の配下が一気に突撃を敢行していく。しかし、寡兵であるのは事実。また、山口側も山から勢いに乗って来るのは分かっていたので防戦の構えは十分であった。

 

「ハハハ、突撃しかないとはやはりうつけよ。先代殿には世話になったが、それとこれとは話が別。今川の援軍も来ておる!ここで勝てば更なる大身に成り上がれるのだ!邪魔はさせん…!」

 

 織田兵も良く戦ってはいるが、やはり兵数の差は埋めがたいものがあった。まだこの頃は長槍戦法も使われていない。織田兵は弱兵と揶揄される尾張の兵のステレオタイプでである。しかも対峙する相手は顔見知りであるためいまいちやる気も起きない。そんな状態なので、どうにもこうにも膠着状態から脱することが出来ずに双方兵を退くことになった。

 

 だがおさまりが付かないのが信奈である。父は死に、その配下は裏切り、踏んだり蹴ったりな目にあったまま撤退では示しがつかない。ついでに言えば、ここで武功をあげなくては弾正忠家のまとまりが更にかける可能性すらあった。兵を退いた地で思案する彼女の脳内には先日行われた大戦争のことがあった。すなわち興国寺・関宿・河越の関東三大夜戦である。夜戦の有効性、策がハマった際の強さに関してはよくよく承知であった。夜戦は成功すれば大きな成果をあげられる。で、あれば尾張の弱兵であってもどうにかなるのではないか。そう考えた。だが、当然のことながらハイリスクであるためストップがかかった。

 

「桜中村城に夜討ちを仕掛けるわ」

 

「姫…正気でござるか。野戦ならばいざ知らず、城攻めを夜間に、しかも急襲したとてさして効果は望めませぬ」

 

「そんな事するわけないじゃない」

 

「で、あればいずれに夜討ちを…?」

 

「まぁ見てなさい。必ず教継は除いてみせるから」

 

 姫の奇行が始まったとため息を吐いている内藤勝介。それを他所に、信奈は流言を流させた。その数は二つ。一つ目は織田信奈は諦めず笠寺砦に総攻撃を仕掛けようとしているという内容。二つ目はその前に山口教継を桜中村で夜間に急襲しようとしているという旨である。是の目的はまず、笠寺の今川軍に防備を固めさせる意味合いがあった。もっと言うと笠寺砦に今川軍を縛り付けたかったのである。外に打って出るよりも寡兵の信奈相手ならば砦に籠った方が良いと考えさせたのだ。そして、総攻撃の前に防備を固めようと今川軍は工事を始めた。

 

 山口教継は臆病者。故に信奈の背後に見え隠れする信秀の威光に恐れおののいている。そう信奈が嘯いているという話は教継の元にも届いた。彼は信秀と共に今川と戦い高名をあげた剛の者。それがあんなうつけ姫に臆病者と罵られ嘲りを受けると言うのが我慢ならなかった。

 

「ええい!小娘風情が…儂が臆病者だと?目にものみせてくれる」

 

「おやめください、殿!」

 

「これは、あのうつけの罠ですぞ!」

 

「打って出てはそれこそ返り討ちに逢いましょうぞ」

 

「黙れ!面目を潰されて座視しておれようか。それに、夜襲すると言うならばすればよい。迎え撃ってくれよう」

 

「せめて城に籠られては…」

 

「籠っておってはヤツの妄言に証左を与えることになってしまうであろう!今川頼みの山口左馬とな!それに兵数も士気もこちらが上。負けることなぞあり得ん」

 

 息巻いた山口教継は城から出てその門前に布陣した。ここで信奈が諦めない姿勢を見せたことで配下や国衆に動揺が走っている。信秀の娘も同様の猛将なのではないか…?という声が囁かれていることも焦りを加速させた。山口教継の支持基盤は不安定。己が裏切り者であることから、今川で功績を立てないと生き残りも怪しい。その為には信奈を叩く必要があり、国衆たちに己の実力を見せつける必要性が生じていた。だが、城から一歩でも外に出すことが信奈の作戦である事に気付いていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「本当によろしいのですな?今ならまだ、引き返せますぞ」

 

「大丈夫よ。突撃!進んだ先にだけ、未来があるのよ!」

 

 雄叫びをあげながらもうひと踏ん張りと織田軍が突撃していく。だが、バレバレの行動であり、なおかつ万全の状態で山口教継が待ち構えているので結局のところ数日前の焼き直しにしかならない。通常であれば敵がそんな訳の分からない行動をしていると疑うものだが、此処では信奈の評判が効果的に作用していた。うつけ。この言葉がこんなにも彼女にとってプラスに働いたのはこれが初めてであろう。教継は信奈を侮り、その行動の意味を考えもしなかった。したとしても敵の愚かさを嗤っただろう。反面信奈の麾下は、彼女の信任厚く、また忠誠を誓っている馬廻である。信奈を疑うことなく突き進んだ。 

 

 始まって十数分は山口教継優勢で進んでいた。はずだった。

 

「殿、うつけ姫の軍勢は無謀に突き進んで来ておりますが、今のところさしたる問題はございません」

 

「警戒するだけ無駄でしたな」

 

「言ったであろう。信秀も死ぬ前になって判断を誤ったのよ。我が子可愛さで指名してみれば、家を滅ぼす凶星であったとはな。不運なことよ。ハハハ!」

 

 高らかに笑ったその時である。背後からダーーンと轟音が走った。背後には城しかない。この音は噂に聞く鉄砲だろうか。何故背後から?彼らが訝しんだ時、既に作戦は成功していた。攻め手の兵が次々叫ぶ。

 

「良し、進め!城内内応!」

 

「内応者が鉄砲を撃ったぞ!お味方大勝間違いなし!」

 

 そんな訳ないのを山口教継は知っていた。現に城に動きはない。百か二百の軍勢しか残していないが、静かなままである。だが、城内にもこの声は響いており、焦った城将は裏切ってない事を弁明するべく門を開いた。それが山口教継の運の尽きであった。

 

 裏切りの声、背後からの銃声、開かれた門。これらの要素だけ見れば完全に城は内通し、挟み撃ちに合っているかのようである。兵は一斉に逃亡を始めた。それを好機と織田軍は突き崩しにかかる。ようやく教継は嵌められたことを悟ったのである。通常であれば、例えば雪斎相手に布陣していたならばこんなミスは犯さなかったかもしれない。ただ、今回彼は信奈を舐め過ぎていた。葬儀の奇行、普段のうつけぶり。こんな戦術を使うような将だと、気付ける筈がなかった。後の天下人の実力を過小評価しすぎていたのである。

 

 敗走する山口軍。それを必死に抑えようとするが、戦の勢いは一度傾くと容易に戻らない。兵数の多寡も最早関係なくなっていた。友軍である今川軍はまだ笠寺砦に籠って信奈を待ち構えている。

 

「ええい!馬を持てぃ!退くぞ!」

 

「見つけたぞ!山口左馬介教継だな、我は、源頼光の七代後山県三郎頼経の子蜂屋冠者頼俊の血を引く蜂屋般若介頼隆なり!いざ勝負!」

 

「下郎、推参なり!」

 

 信奈の側近で馬廻の一員でもある蜂屋頼隆と山口教継との一騎打ちが始まる。打ち合う事数十合。教継の近習も皆戦闘に入っており、一騎打ちを止められる者はいなかった。蜂屋頼隆も弱くはないが、相手は戦国屈指の練度を持つ今川と戦闘してきた、しかも手柄をあげた猛将。そう簡単には討ち取れないばかりか押されていた。

 

「どうした下郎、その程度か!実力差も分からんとは、うつけの配下はやはりうつけか!」

 

「裏切り者の貴様に言われるほど、信奈様は愚かではないわ!」

 

 威勢よく叫ぶも、劣勢は明らか。蜂屋頼隆が諦めかけたその時、もう一度ダーーンと轟音がする。そして、目の前で打ち合っていた山口教継の肩から出血が認められた。背後を見れば、己の主が馬上で鉄砲を構えている。その目はいつになく怖いものであり、頼隆は一瞬己の主に震えた。

 

「おのれ、織田信奈…!一騎打ちに割り込み、飛び道具とは…卑怯なりッ……!」

 

「卑怯……あんただけには、言われたくないわよ」

 

 よろめく姿に好機と思った頼隆は抵抗する教継にまたがり、首を切り裂く。

 

「織田上総介信奈が臣下、蜂屋般若介頼隆!山口左馬介教継が首討ち取ったり!!」

 

 その声を聴き、辛うじて抵抗していた兵も一斉に逃げ出した。信奈は追撃を禁じると桜中村城を占領。こうして戦いは終了し、山口軍の敗走と言う結果が残っていた。山口軍、兵一五百、死者行方不明者約八十名、城一つ落城並びに総大将死亡。織田軍、兵八百、死者行方不明者約六十名、桜中村城陥落並びに山口教継撃破。まごうことなき織田軍勝利であった。後世には赤塚の戦い、そして桜中村夜戦と謳われるこの二つの戦いは、織田信奈の戦国デビュー戦として認知されることになる。

 

 山口家自体は息子の教吉がいたため問題なかったが、損害は痛かった。また、今川軍はこの敗戦を見て織田信奈侮りがたしと思い撤退していく。山口家の攻略こそできなかったが、出陣の意味は大いにあったと言える。暫くの間、この地域では膠着状態が続くことになる。それは、都を目指す信奈にとって願ってもない事であり、尾張統一に邁進する事となる。史実では今川に謀殺されるまで生きていた山口教継の討ち死の原因はやはり北条家の戦術によるところが大きい。虚報で釣って夜襲で一網打尽と言うのは興国寺・河越の戦術そっくりであったからである。思わぬバタフライエフェクトが起こっていた。

 

 更にこのすぐ後、その信奈を後押しする事が起こるのだが、それを説明するにはやや時間を戻す必要がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 尾張津島・熱田が港町であることは前述した。そんな港町には当然と言うべきか、関東の船も多く来ていた。北条領の商人集団は、氏康の貿易振興政策、里見との和解により東京湾の安全確保がされた事などを受けて北は大湊、南は九州琉球まで行くようになっていた。そんな商人の中には河越から河川と海で交易をしている者もいる。ある日、まだ当主就任前であるが既に後継者として指名されていた信奈の話を聞きつけた河越商人が、兼音と会話していたことに彼女の幸運は端を発した。

 

「ほう?うつけと……。確かに、常識的な恰好ではないな」

 

「そうでございましょう。私も尾張の方々でその噂を耳に致しました。茶筅髷と腰に藁縄を巻き、袋やひょうたん、石をぶら下げ、肩をさらけ出し歩き回るなぞ、関東では聞いたこともござらん。しかも織田の姫が、でございますぞ」

 

「ははは、まぁそう言うな。確かに、北条家は家中も御一門衆も、氏康様も品行方正かつ清貧であらせられるからな」

 

「織田弾正忠も次代で終わりだと嘆く声も、家中からは出ているようで」

 

「街の者はどうであった」

 

「そう悪印象であったようには見えませんでした。苦笑気味な者が多いようで」

 

「そう、か。いや、まぁ確かにおかしな行為ではあるが、うつけと断じるには早いやもしれんぞ」

 

「と、仰られますと?」

 

「うむ。まず茶筅髷、これは支度にかかる時間を減らす工夫ではないか。性急に動く気質の人間は長々とした準備を嫌う。藁縄は鉄砲に使う火縄、石は火打石、袋には火薬や弾が入っておるのではと推察できる。ひょうたんには水を入れれば、喉を潤せる。何処にでも水がある訳ではないしな。街をうろつくのは民の状況を観察しておるのではないか。一見、うつけに見えて、実は合理的なのやもしれんぞ?」

 

「そうでしょうか……」

 

「ま、私の考えすぎかもしれん。だが、意外と目に見えるものだけが真実とは限らんものよ。そういう奇抜な者こそ、時代を変える革命児やもしれん。いずれにしろ、織田弾正忠家の上総介信奈か……。信長じゃないのか……。注視すべきだな」

 

 という会話がされていた。この商人が尾張で一連の話を尾張の者に話し、まわりまわって信奈の元に届いた。那古野の街では「もしかしたらそうなのか?」「いや、しかしなぁ……」「だがあの一条土佐守の発言だぞ」「ならばあり得る、か……」と囁かれている。

 

 三鱗記にも『織田上総介、注視すべき』と記載がある。この時代、まだ長尾景虎の「な」の字も出てこない時期である。日記と私小説の混じった形式である三鱗記にそんな記載があるのは兼音の先見性を示す根拠として後世で取り上げられている。実態はただのカンニングなのだが、実際この頃の所詮は清州織田家の奉行の家の当主にもなっていない娘を評価していたのは朝倉宗滴と彼くらいであった。

 

 本人の思っている以上に東海地方において”あの”今川相手に完封勝利を決めた一条兼音の名は知れていたのである。大戦果を挙げた北条家、そのヤバい作戦を立案した兼音、信じて実行した氏康。氏康の開明性、知力、政治力、胆力。兼音のような人材が誠心誠意仕えている人望の高さ。いずれもおそるべしと言うのがまことしやかに囁かれていた。その為か妙な信憑性がこの話に付いて回り、信奈自身もこの噂を最大限有効活用した。

 

 曰く「織田弾正忠家と北条家はよしみがある。先の小豆坂は北条家と先代信秀との遠大なる今川挟撃であった。一条土佐守はかつて北条に流れて行く前に織田信秀と会っていた。その時に作った作戦がこの挟撃である。もし織田弾正忠家に一大事あれば、一条土佐が大船団を率いて尾張に上陸し、敵を蹴散らすだろう」と。こんな無茶苦茶な話当然嘘であるし、一応挟撃ではあったが兼音の過去話も事前の作戦であったというのも嘘八百である。これを心の底から信じた者はそう多くはなかった。当然反信奈派も鼻で嗤った。だが、心のどこかで拭い去れない不安が残った。本当に一条土佐守や北条家が援軍として来たら?

 

 Q、勝てるだろうか。 A、無理である。

 

 こういう結論に至るのは当然であった。当時の今川と北条はまだ同盟ではない。武田と今川は義妹同盟があり、北条と武田も準同盟みたいな感じではあった。実際、この後対越で同盟を組む。しかし、今川と北条とは北条優位の休戦状態、いわば三十八度線であり、今川と北条が再開戦する可能性は十分にあるというのが東海濃尾に住む者たちの認識だった。その際に織田弾正忠家が対今川で窮地になれば北条が助けてくれるかもしれない可能性もまた、あり得たのである。そして反信奈派の動きはしばらく鎮静化することになる。

 

 さんざん利用されている北条家ではあるが、ただでは利用されてあげないのが流石の氏康である。尾張における一連の動きを知ると津島・熱田に北条領の商船が行くから整備してくれ、ついでに優遇もよろしくという書簡を送りつけた。ただそれだけでは向こうに利が無いので「北条は関東公方の臣として、織田弾正忠家は斯波家の臣として共に盛り立てていこう」という旨を書いておいた。相模・伊豆の守護=斯波家と格的にはほぼ同じ相手からの書簡にこう書かれ、しかもそれが織田”弾正忠”家に来たというのは尾張の実力者として北条氏康は織田信奈を認めたことに他ならなかった。これも相まって斎藤道三が対尾張政策を宥和路線に切り替え始めたのもこの時期であった。

 

 こうして、最終的には天下の趨勢をかけて争う事となる両雄のファーストコンタクトは思ったよりも好意的なものであった。そしてこれより織田信奈は今川の火の粉を払いのけながら、尾張の統一に邁進していくことになる。この後、清州織田家との対決に移っていくことになるのだが、それはまた別の話である。




今年一年、ご愛読ありがとうございました。思えば、昨年の十月に連載を始め、百万文字弱の物語を綴って参りました。ひとえに応援して下さった皆様方のおかげであります。八百件近い感想、メッセージいつもありがたく読ませて頂きました。高評価も沢山いただき、現時点で二千二百弱の方々にお気に入りしていただいております。感謝以外の言葉が浮かびません。また、誤字報告を下さった方も、合わせて感謝申し上げます。

受験勉強と並行しての連載であり、更新期間の長期化などご迷惑をおかけしたことも多くありました。謝罪と改めての感謝を。前書きにも書きましたが、これから人生最大級の戦に挑んで参りますので、帰還までしばらくお待ちください。必ずの復帰をお約束いたします。感想の返信は元旦に頑張ってやりますのでもう少しの辛抱を。

それでは皆様、良いお年をお迎え下さい。一年間ありがとうございました。またの再開を!


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第85話 畿内情勢複雑怪奇 越・河・相

本当は投稿するつもりはありませんでしたが、一日三十分だけでかつ勉強の集中力が途切れた時のリセット用として書き溜めていました。書きたい欲が溜まって抑えられなくなりそうだったもので……。勉学には支障がありませんのでご安心(?)下さい。

タイトルの越は長尾、河は三好、相は北条ですね。前の予告通り、景虎上洛編と合わせて北条為昌畿内外交編と三好家の話をお届けしたいと思います。天野忠幸先生の「三好一族」という本を参考にしましたが、理解にかなり時間がかかりました…。おまけに三好家の解説に大分文字数を割いてしまいました。戦国でも目立たない強大勢力三好家の理解の助けになっていれば幸いです。


 川中島から引き上げてきた長尾景虎は、宰相・直江大和のかねてからの計画通りに、上洛を決行することとなった。

 

「お嬢様。此度の上洛の目的はいくつかございます。将軍足利義輝様より、越後守護職を引き継ぐことを認可していただいたことへの返礼。やまと御所への任官への返礼。京の青苧座と堺商人との友好関係を築き、越後の主要財源である青苧の販売網を拡大すること――他にも、先々代以来敵対関係となっている北陸の本猫寺一揆衆との関係を改善するために、大坂本猫寺へ贈り物を届けることなど、数えきれぬほどにございます。お嬢様は、密教修行の聖地である叡山と高野山へ入り修行することを熱望しておられますが、日程の問題もありますし、いずれの聖地も女人禁制ゆえ、これは少々手間取るかもしれませんね」

 

 直江大和守実綱は合戦場では兵站係を務めることが多く目立たないが、こと外交に関しては屈指の有能さを誇っている。越後からの長駆上洛にはさまざまな困難が伴うが、直江は川中島の合戦の折に後方で諜報と兵站を担当しながらも、同時に上洛計画を周到に進めていたのだった。越後の直江津より越前の敦賀までは、景虎や直江をはじめとする重臣たちは安全策を採って海路を進む。ただし、二千の兵たちは陸路を採る。

 

 上洛途中で通過しなければならない諸国――越前の朝倉家の軍事を仕切る宰相・朝倉宗滴、および近江国主の六角承禎とは、すでに直江が話をつけてあった。朝倉も六角も足利幕府を支援する名家であり、将軍家と幕府の立て直しを目的とする景虎の上洛を拒否する理由はなかった。

 

 問題は、一揆衆の力が強い越中・加賀であるが、直江大和は越中の国人衆と交渉し、かなりの金銭を投じて、上洛軍の通過を彼らに認めさせていた。出兵の目的が越中攻略ではなく上洛、そして荒れている都の秩序を回復することだという「義」と、多額の金銭。さらには、一揆衆にとっての本山である大坂本猫寺への働きかけも功を奏して、ようやく二千ほどの兵の通過を許可されたのだった。かくして景虎は、直江津から船で敦賀へと発った。

 

 ともに上洛に付き従う家臣は――宰相の直江大和。この度の上洛の一切を差配する。軍師の宇佐美定満。すぐに癇癪を起こす景虎の守り役である。猛将ながら、戦場を離れれば柔和な柿崎景家。厳格さをもって二千の兵を指揮する。小笠原流を継ぎ景虎の礼儀作法教師役を務める、信濃守護の小笠原長時。他に幾人かいるが、いずれもいわゆる「信濃派」の家臣が多く、長尾政景や上杉憲政をはじめとする「関東派」の諸将は、この上洛の旅からは外されている。

 

 直江が、いつ景虎に襲いかかるかわからない好色漢の小笠原長時を仕方なく連れてきたのは、信濃川中島における長尾と武田の争いに「大義」が必要だったからである。信濃の守護職は今なお、この小笠原のものだった。関東管領・上杉憲政ではなく、小笠原長時を上洛させたということは、直江大和も、そして宇佐美定満も景虎を関東出兵作戦からできるだけ遠ざけ、当面の目標を信濃川中島一帯に絞らせるつもりなのである。

 

 甲板に立ち、親不知の海を眺めながら「山も綺麗だが、海もまた美しい。見渡す限りの海原とは、いいものだ。酔いそうだが」と目を細めていた景虎に、直江と宇佐美が、告げていた。

 

「ただしひとつ、問題がございます」

 

「問題?」

 

「今回の上洛の最大の目的は、公方に目通りすることだった。信濃戦の大義名分を得るためにな。ところがその将軍足利義輝が、都落ちしちまったんだ」

 

 宇佐美定満が言うところには――。

 

 足利幕府は応仁の乱以来衰亡著しく、京の近辺あたりにしか支配力が及ばない有様になっている。幕府の畿内における実権は、管領細川家が握っていた。しかしその細川家も、家臣である三好家に台頭を許し、ついには足利将軍・細川管領家と、足利将軍家にとっては陪臣にすぎない三好家とが、畿内の覇権をかけて相争う事態となっていた。足利将軍はほとんど兵力を持たないので、実質的には管領の細川とその家臣である三好が争っているということになる。

 

「ちょっと待て宇佐美。私には、まったくわけがわからないぞ……なぜ細川家の家臣が、主君である細川家と戦うのだ。しかも細川家が公方様を擁立しているということは、三好がやっていることは大逆ではないか。そのようなことが許されるのか。しかもその三好が勝つとは」

 

「下克上の世なんだよ、景虎。三好には三好で、細川と戦う理由があるのさ。三好家の先代も先々代も、主君であるはずの細川家の裏切りによって命を落としているんだ。今、三好家の当主を務める姫大名の三好長慶は、父親が戦死した折に堺から脱出し、幼くして三好の本国である四国に逃げ帰った経歴を持つ……」

 

「三好長慶は四国で力を蓄え、仇をとるために畿内へ戻って来て管領・細川晴元を追い落としにかかったわけです、お嬢様。一見混乱しているかのように思える出来事であれ、なにごとにも因果というものがございます」

 

「細川晴元は、なぜ家臣の三好を裏切り死なせたのだ」

 

「三好家が武功をあげ続けて、実力を持ったからでしょう。下克上を恐れたのです。大坂本猫寺に手を回し、一揆を起こさせて三好を背後から討たせたといいます。しかしながら幼かった三好家世継ぎの長慶を四国へ逃がしてしまい、そして――その長慶が、松永弾正久秀という女を軍師として手に入れることで、三好家は再び力を取り戻し、ついには細川家と足利将軍家を戦って破り京から追放したのです。今や、畿内の覇者は、三好長慶なのです」

 

「いや、待ってくれ直江。足利・細川・三好まではわかる。しかしその、松永弾正久秀とは、どこの誰なのだ?」

 

「わかりません」

 

「わからない、だと?」

 

「素浪人の境遇でありながら美濃一国を奪い取った斎藤道三や自称土佐産まれ以外の何も情報の無いながら数年で北条家の重臣に上り詰めた一条兼音と同じさ、景虎。下克上の世だ。実力さえあれば、身分すらわからない者でも、才覚だけでのし上がることができる。松永弾正は三好に出会う前は堺で商人をやっていたというが、それ以前の経歴がさっぱりわからねえ」

 

 美濃を盗み取った下克上の男・斎藤道三は裏切りを繰り返す「蝮」。三好家を仕切る松永弾正は毒を使うことで有名な「蠍」。嫌な渾名の持ち主たちだ……と景虎は眉をひそめた。なお、兼音の渾名はあまりないが、越後内では彼と相対すると敵勢力は必ず大損害を被ることから「死神」、もしくはその計略の細かさから「蜘蛛」と囁かれることがある。

 

 天下は、あまりにも乱れている。関東では北条氏康が関東管領を上野から越後へ亡命せしめ、信濃諸将は武田晴信に追われこれも越後へと亡命した。東国がこれほどに乱れた一因は、景虎の父・長尾為景が関東管領や越後守護を次々と戦で破って殺したことにあり、景虎は父が乱した関東の秩序を再興するために義戦をはじめたのである。まぁ実際はそれだけではなく中央の思惑や諸将の欲望による物も大きいのだが。

 

 しかし直江と宇佐美によれば、東国だけでなく、畿内の秩序もまた乱れに乱れきっているのだ。日ノ本の権威の象徴たるやまと御所。日ノ本の武の頂点に立つ足利将軍。その将軍家を補佐する管領細川家。ここまではわかる。しかしそのまた家臣の三好家のさらに家臣で、氏素性の知れない松永弾正などという者まで出てくるとなると、畿内の情勢に疎い景虎にはまったくもってわけがわからない。

 

 いや、松永弾正が誰であろうが、人間にとって生まれは関係ないのだ。問題は、松永弾正が三好長慶とともに主君を戦で破り、都から追放し、畿内の秩序を無残に破壊していることなのである。

 

「ともあれ三好松永に敗れた将軍足利義輝様と細川晴元様は今、近江の朽木谷へ逃れておられます。つまり、予定通りの道を通って都へと行軍すれば、景虎さまは将軍に会えないのです」

 

 将軍様と管領様が、ともに都落ちとは。なんという乱世だと景虎は憤った。東国だけでなく、西国も酷い有様になっている……。

 

 死んでないだけマシなのは世界史を見れば何となくわかるが、まぁここは日本なので権威はあまり殺されない傾向にある。あくまで「あまり」ではあるが。

 

「では進路を変更し、その朽木谷を訪れるぞ、直江。公方様にお会いできねば、此度の上洛、意味がなくなる。なによりも、落剥しておられる公方様を無視して私だけが上洛することはできぬ」

 

「険阻な山中です。遠回りになりますし、なにより危険です。松永弾正は、あらゆる謀略を用います。我らが松永弾正と通じた刺客と疑われれば、朽木に侍る者どもと合戦になるということも」

 

「こういう時のための直江だろう。長尾景虎が公方様を都へお連れするためにはせ参じた、と伝えよ」

 

「今回の兵力だけでは、都へ将軍を連れ戻すのは無理です。三好長慶は今や、二万とも三万とも言われる大軍を動員できるのです。或いはそれ以上かと……畿内は人口が圧倒的に多いですから」

 

「たとえ兵力差が十倍あろうとも、私は不義を討つ」

 

「しかし俺たちは、仕事を済ませたら早々に越後へ戻らねばならねえ。あまり越後を長く空けていると、また武田晴信が川中島を狙って動きはじめる。都に踏みとどまって何年も戦うことはできないぜ、景虎」

 

 宇佐美定満が「手から毒針を放つ」という兎の新作縫いぐるみを手に持ちながら、「越後から都は遠い。しかも加賀・越中という一揆衆の国が、間に挟まっている。越後になにかあった時に、間に合わなくなる」とやんわり説いた。景虎は肩を落としたが、現実を認めざるを得なかった。いっそ道中を塞ぐ一揆衆を殲滅してしまえば……という衝動を、景虎は慌てて打ち消した。一揆には多くの領民が参加している。民を、大量に虐殺することになる。それはもう義戦ではなくなる。本山である大坂本猫寺ですら、北陸一揆を意のままには統制できないのだ。すべては、世の秩序が崩壊しているための混乱なのだ。民には罪はなく、死なねばならない理由は彼らにはない。

 

「……そうか。ではせめて、公方様にお目通りだけでも。将軍家への進物を届けねばならない。あと宇佐美。その縫いぐるみは、今すぐ海に捨てよ」

 

「またそれか、景虎。なぜだっ!?曲者をとっさに倒すための必殺の暗器仕込みだぜ!? 道中は危険だ。猛将柿崎や新しく雇った信濃忍びがお前を守っているとはいえ、なにがあるかわからねえ。持っていろ!」

 

 この頃武田に恨みを持つ根津甚八や海野六郎が流れてきて仕官していた。彼女たちの実力を図るためにもここで護衛をやらせているのである。

 

「だから、その暗器がいけない。公方様の前にそんなものを抱いて顔を出せるか。それでは、まるきり暗殺者ではないか」

 

 愛らしいうさちゃんの笑顔で油断させ、すかさず毒針を伸ばして刺客を殺す。傑作だと思ったのに……と宇佐美がしょぼくれながら縫いぐるみを抱きしめ、「さらばだ、わが子よ。立派な蛭子えびすになるんだぜ」と海へ流した。不法投棄である。

 

「宇佐美さま。お嬢さまをいつまでも子供扱いしないよう。五年経てば婿を取るという例の公約も、徐々に残り日数が減っているのですし」

 

「うるせえよ直江!てめえこそ、いつまでも主君を『お嬢様』呼ばわりしてるんじゃねえ!そういう態度が景虎を勘違いさせるんだ」

 

「主君を呼び捨てにするあなたよりはましだと思いますが……」

 

「それよりも直江。オレが預けた樋口家の与六はどうしている?目から鼻に抜けるような才子だろう?あれはいい宰相になるぜ。あいつに限っては、オレが育てるよりも、てめえが鍛えたほうがいい。あいつにとっても、景虎にとっても」

 

「……私はこんなところへ来とうはなかった、というあの口癖さえなければ、よき姫武将候補なのですがね。誰に似てああも気位が高いのだか。おおかたあなたが甘やかしたのでしょう、宇佐美様。お嬢様もそうでした。おかげでいまだに婿を取らぬだの生涯不犯だのと」

 

 主君の前で、堂々とこども攫いの話か……とうとう直江まで宇佐美のこども攫いの悪趣味に乗ったのか、と景虎が困ったようにまた眉をひそめた。

 

「こども攫いじゃねえ!お前を支える姫武将を育成するのがオレたちの義務だ!」

 

「今の越後にはお嬢様以外に姫武将がいませんからね。多くの国人・家臣が、あわよくばお嬢様を自分の嫁に迎えようと野心を抱いている。それが、お嬢様が越後守護としてやりづらくなっている原因です。次世代の政権は、姫武将で固めたいものです。武田家がそうしようとしているように」

 

 武田晴信の真似など私はしたくない、と景虎は唇を尖らせていた。しかし、そうか。晴信は周囲を姫武将で固めて……ならば、男に襲われる心配はないのだな。流石に、慎重な姫武将だ。知恵深いな。その上、欲深な女だと思っていたが殿方に関しては意外と潔癖だ。よかった。と、なぜかほっとする自分に気づき、そして戸惑っていた。

 

「それでは進路を変更いたしましょう。我らは敦賀より琵琶湖の西に延びる平坦な西近江路を進む予定でしたが、その途中で山中の鯖街道へ入って朽木谷を経由し、朽木谷で将軍様に謁見したのちに叡山の麓を駆けて都へ入ります」

 

「鯖街道?」

 

「若狭街道のことです。若狭と都とを繋ぐ山道です、お嬢様。難所になります。若狭の港に集まった鯖を山中の盆地である京の都へと運ぶ道筋であるため、商人どもは鯖街道と呼びます」

 

 山国で魚を食うのは面倒だからな、なぜわざわざあんな盆地に都を作っちまったんだろうなこの国は、しかも京は守るのが難しく攻め落とすのは容易という戦術的にはひでえ場所だ。あんな物騒なところに都があっちゃあ乱世が終わるはずがねえ、と宇佐美定満が苦笑していた。

 

「陰陽道的には意味があるらしいのですがね、宇佐美さま。四神相応の地だとか、太い龍脈の通り道なのだとか」

 

「戦術的には無意味どころか有害もいいところだぜ。景虎、覚えておけ。四方を山と街道に包囲されている京の都に軍を入れれば、その時点でもう『袋の鼠』みてえなもんで、大軍を率いても防衛しきれるもんじゃねえ。それ故に、古来京の都を本拠とした武家はことごとく没落していった。平家も源義仲も源義経も、朽木谷に今は逃れている足利将軍家だってそうだ。同じ山中の盆地でも、天然の要塞とも言うべき唐国の長安とはわけが違う。だいいち日ノ本は海に囲まれた島国だ。本来は、海に面した土地に都を置くべきなんだがな……」

 

 宇佐美さま。古代には難波に都があった時代もありましたよ、白村江の戦いに敗れたことも内陸部に遷都した一因ではないでしょうか、と直江が笑い、宇佐美が「そんな昔のことまでは知ったこっちゃねえよ」と耳の穴を指でほじった。

 

 京への遷都の理由には、仏教勢力の干渉を嫌っていたという話を耳にすることが多く、日本史の教科書等でもそう教えているようだ。勿論、そういう理由もあるだろうし、風水的な理由もあるだろうがすべてではない。もっと重要なのは環境問題である。奈良の木を伐り過ぎて水害や土砂崩れ、水質汚染などの災害が頻発していた為に遷都を余儀なくされたというのも大きな理由であるようだ。また、現在大河ドラマやアニメ「平家物語」でも話題の清盛は福原京に遷都して経済を重んじようとした側面が強い。首都機能を海岸線に置くのは一長一短あるが国防がしっかりしてるのであれば利益の方が多いのだ。

 

「そうだな宇佐美。海は交易を、そして交易は富をもたらしてくれる。越後がこれほどに豊かなのも、直江津を中心とした青苧交易のおかげだ。だからあの武田晴信も、海を欲している。甲斐の盆地に留まっている限りいくら金山を掘り続けても限度があるということを、理解しているのだな……。北条家も今川と組んで貿易で荒稼ぎしている。それが氏康の財源になっているのだろう」

 

 晴信が駿河に生まれていれば私と相争う必要もなかったのに、と景虎は思った。

 

「お嬢様。風が荒れてきました、そろそろ、お休みください。次に我らが大地を踏みしめる時には、そこはもう敦賀です」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

三好氏略系図

 

 

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細川氏略系図

 

 

 

 さて、つらつらの長尾景虎の視点を書き連ねたが、此処で少し寄り道をしたい。景虎に説明するべく直江はかなり端折ったが、実際事はそう単純では無かった。時はまだずっと前、それこそ北条家の始祖・早雲の若かりし頃にまでさかのぼる。時は戦国の嚆矢、世紀の大乱、応仁の乱の真っ最中である。

 

 この戦乱の中、智勇兼備の良将と謳われた三好之長が現れる。之長の諱は、阿波細川家の細川成之に偏諱を受けたものである。この之長は、管領・細川勝元に従い応仁の乱に東軍として参加した。勝元は言わずと知れた有名人である。勝元の子細川政元の養子に阿波細川家の澄元が迎えられると、これを支え各地を転戦して武功を挙げ、畿内にも大きな影響力を持った。之長は細川京兆家の直臣に組み入れられたものの、阿波細川家との主従関係はその後も継続して両属の形式となっていたという。

 

 細川政元は当時の実力者であり、第10代将軍・足利義材を追放し、第11代将軍・義澄を擁立し「半将軍」と呼ばれる程であった。このクーデターを明応の政変と呼称する。しかし、この修験道狂いの政元は童貞を極めると魔法使いになれるとガチで信じていたので実子が無く九条家の澄之、阿波細川家の澄元、野州細川家の高国を養子としていた。そして之長は、細川澄之の執事で山城守護代であった香西元長と反目していた。普通に養子の取り過ぎが問題である。何を考えていたのだろうか。

 

 なお、この澄之の母は足利政知(まさとも)の妻と姉妹であった。この足利政知は堀越公方であり、伊豆の実力者であった。前述の明応の政変で擁立された足利義澄はこの政知の子である。政元は京に義澄、鎌倉公方に足利潤童子(政知の子で義澄の弟)を据え、細川家を従兄弟の澄之に次がせようという構想を抱いていたようだ。だがそうなる前に実際は足利茶々丸が潤童子を殺害。そしてそれにキレた義澄が当時室町幕府の奉公衆で乱世を憂いていた伊勢宗瑞に茶々丸討伐を命じたのである。これが北条早雲躍進の第一歩であった。

 

 さてそれはさておき、そしてついに細川澄之と香西元長は、細川政元を殺害して細川京兆家の家督を強奪する。これを永正の錯乱と呼称する。そのあと邪魔となる同じ養子の細川澄元を三好之長ともども襲って近江へ追いやった澄之だったが、同族の細川高国や細川尚春、細川政賢らの反撃によって討たれた。之長らは近江から帰洛し、澄元と共に権勢を掌握した。

 

 しかし、周防に流れていた前将軍足利義材が大内義興に擁立されて上洛戦を開始する。細川澄元は大内義興との和睦を画策したが、細川高国が大内方に寝返ったため決裂し、足利義澄、細川澄元、三好之長は近江に逃れ、大内義興は上洛を果たし、足利義尹は将軍職に復帰した。その後細川澄元、三好之長は、京都に侵攻したが、逆に高国と義興の反撃を受けて如意ヶ嶽の戦いで敗北し阿波に逃走する。

 

 それに業を煮やした細川澄元は第11代将軍・足利義澄、播磨の赤松義村、淡路の細川尚春らと連携しと共に堺に上陸し、深井城の合戦に勝利し京都を奪還する。しかしすぐ後に、足利義澄が死去し、三好之長らは再起した細川高国と大内義興との船岡山合戦に敗れ、阿波に落ち延びた。大内義興は、上洛を果たし、管領代に任命された。

 

 船岡山合戦後、細川高国は細川尚春の降伏を許し、阿波一国を与えることを条件に寝返らせることに成功した。これは阿波細川家や三好之長にとっても看過できる事態ではなく、出陣を巡ってこれに反対した為一時不仲になっていた之長と細川澄元は和解し、之長は淡路に攻め込んで細川尚春を追放し、同国を手に入れることに成功した。そして運のいいことに軍事力では主力であった大内義興は、出雲の尼子経久の勢力が拡大し石見、安芸、周防を脅かし始めたため帰国してしまう。大内義興の在京期間は10年に及んだが、軍事力の中枢を失った細川高国の基盤は揺らいだ。

 

 細川澄元・三好之長が、細川高国の領国である摂津に侵攻し下田中城主・池田信正の協力を得て、瓦林正頼が籠もる越水城を攻略した。すると第10代将軍・足利義稙(旧名義材)も澄元に通じため、細川高国は単独で近江坂本に逃れ、三好之長は京都を奪還した。しかし細川高国は六角定頼と丹波の内藤貞政の援軍を得、上洛戦を開始する。これに対して澄元・之長らは兵を集めることができず、之長は等持院の戦いで敗北し捕らえられて自害し、摂津伊丹城に居た澄元も阿波に敗走した。そして細川澄元も阿波にて病死した。六角定頼は、上洛を果たし、後に管領代に任命される。ここが六角の黄金時代である。

 

 

 

 

 一年の月日が流れ細川高国と第10代将軍・足利義稙の関係は険悪となり、義稙が堺に出奔したため、赤松家の実権を握った播磨の浦上村宗の元にいた前将軍足利義澄の子・足利義晴が第12代将軍に補任された。足利義稙は逃亡先の阿波で死去した。

 

 三年後細川高国が家臣の香西元盛を殺害して細川氏で内紛が起こると、三好之長の孫・三好元長は細川澄元の子晴元と、第12代将軍・足利義晴と同じく第11代将軍足利義澄の子で、船岡山合戦の後、阿波細川家で庇護されていた足利義維を擁立し、桂川原の戦いで高国を破り京都を奪還する。足利義晴は細川高国を伴い近江に逃れた。

 

 将軍・足利義晴と細川高国は朝倉宗滴の支援を受け上洛を果たすが、不和から朝倉宗滴が越前に帰国すると京都は細川晴元と三好元長が奪還した。三好元長はそれまでの功績により山城守護代に任じられたが、新たに同僚となった柳本賢治らと折り合いを悪くしたため、阿波に逼塞する。

 

 逼塞から一年が経ち柳本賢治が播磨出陣中に暗殺されると、足利義晴と細川高国は、浦上村宗や伊勢の北畠晴具と連携して上洛を果たす。細川晴元は堺公方府防衛のため三好元長を呼び戻し、浦上村宗の軍勢を止めることに成功、摂津中嶋にて戦線は膠着状態となった。しかし突如、浦上氏の主筋である赤松政祐が細川晴元方に内応し、細川高国・浦上村宗軍を背後から攻撃したため、細川高国と浦上村宗は敗死した。その結果細川晴元と三好元長は京都を奪還した。これで何度京が奪い奪われてを繰り返したか数えるのも面倒なほどだ。それほど幾度となく争奪戦の舞台となっていたのである。

 

 仇敵・細川高国を討った細川晴元は第12代将軍・足利義晴と和解を進めたため、堺公方の足利義維を庇護してきた三好元長は仲違いを始める。更に畠山総州家の畠山義堯の家臣である木沢長政が義堯を飛び越え細川晴元に接近し、元長の従叔父の三好政長も細川晴元に同調する。畠山義堯と元長からは2度に亘って木沢長政の居城の飯盛山を攻撃したが、晴元の要請により蜂起した本猫寺一揆が背後から元長を襲い、畠山義堯を自刃させ、三好氏の根拠地である法華宗の和泉顕本寺も襲い、元長は自害に追いまれてしまった。

 

 

 

 

 

 

 ここでやっと長慶の登場である。三好宗家は元長の嫡子である三好長慶が継ぐことが許されたが、長慶は十歳という幼少のためか三好氏は一時的に後退した。足利義維も混乱に乗じた晴元らにより阿波に移され、義晴と和睦した晴元が政権を握り、晴元の側近として三好政長・木沢長政らが台頭した。

 

 しかし長慶は長じて智勇兼備の武将に成長し、河内守護代で畿内に強い勢力を誇った遊佐長教と義妹同盟を結び、三好宗家の本拠地を阿波国から摂津越水城に移す決断をした。摂津において力を蓄えた長慶は、四国の留守を守る弟の三好実休や安宅冬康、十河一存らと協力して、、木沢長政ら父の仇の敵勢力を次々と破り、細川家中に父以上の勢力を築き上げることに成功する。

 

 長慶は岳父・遊佐長教の援軍を得た上で細川高国の養子氏綱を擁立、細川晴元に反旗を翻し、晴元の勢力を軍事面で支えていた三好政長を討ち取った。将軍・足利義晴と細川晴元は大津に逃亡し政権が崩壊した結果、長慶は戦国大名として名乗りを上げる事となるのである。

 

 一年後足利義晴が死去。この間に北条為昌が足利義晴に接触し関東における諸々の官位を授かっている。その子足利義輝は、六角定頼を烏帽子親として元服していたが、長慶と敵対していた。長慶は足利義輝と戦って近江に追い、摂津、河内、大和、丹波、山城、和泉、阿波、讃岐、淡路と合わせて9ヶ国と播磨、伊予、土佐の一部を支配する大大名にまで成長した。このタイミングで景虎が上洛してきたのである。

 

 

 

 この時船上で話題に上った将軍都落ちとは東山霊山城の戦いの事である。細川晴元は復権を試みており、長慶に対して叛いた芥川孫十郎の籠る摂津芥川山城を長慶が攻めていた際、28日に丹波から軍勢を率いて侵入して三好方の小泉秀清が守る西院城周辺に放火した。そしてこれを好機と義輝も晴元方と手を組んだ。義輝は北野の右近馬場に布陣し、内藤彦七以下の三千~四千人の軍勢が西院城を包囲したが、軍勢の損耗を恐れて攻撃を行わなかった。結果的にこの判断は失敗であり、西院城は陥落せず、東山霊山城は攻撃された。

 

 遂に長慶が二万五千の大軍を率いて上洛した。これはまだまだ三好家の動員兵力の一部であり、その勢力の大きさがうかがえる。これを受け義輝は船岡山に移動し、東山霊山城は松田監物、醍醐寺三宝院衆、磯谷氏らを守備にした。この醍醐寺は寺社であるが寺社領をめぐって三好と対立していたが故の参戦である。普通に武装してくる仏教勢力が多い時代なので、比叡山を燃やしたくなる気持ちも理解できるところだ。

 

 さて、大軍の三好方では、一気呵成に今村慶満の軍勢が霊山城を攻めた。今村慶満は霊山城付近の渋谷越の流通を基盤とした今村氏の人物ある。流通を抑え大きな権勢を誇り、富を集めていた。商人的側面の強い武将だが、現地の地理を知悉していたのである。畿内は商人出身、もしくはそういう側面の大きい武将が多いのが特徴である。戦闘の結果は三好家の圧勝であり、守備隊は壊滅。三好方でも今村氏の一族など数人が戦死し、15、6人ほどの負傷者が出はしたが、守備側では松田監物が自害。三宝院衆にも負傷者が出て、霊山城には火の手が上がり陥落。どう判定しても三好の勝利で間違いなかった。

 

 陥落後義輝は船岡山に籠ってそれでも抵抗を続けたが、すぐさま反転した三好方の軍勢が船岡山に迫ったので義輝一行は長坂越を経由し、5日に丹波山国荘を通過して近江の龍花に到着、その後細川晴元と共に朽木へ落ちて行った。この後数年、義輝は朽木に幽居させられることになるのである。責任を果たさない権威=管領がいかに迷惑かよくわかる事例であると言える。三好長慶自身に(周りはともかく本人には少なくとも)幕府簒奪の意志はなく、ただ細川晴元をぶっ殺すという復讐を国是としてきた。なので、さっさと細川晴元を見捨てて三好と手を組めば足利の復権の未来もあり得たのだが……それは夢想の中の話となってしまうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朽木谷は、近江山中にあり、足利将軍家にとっての隠れ里のような異界であった。毎回ここに逃げてこられるせいで六角やら三好やら朝倉やらに睨まれる朽木家の感情を除けばであるが。

 

 将軍の館で景虎一行を出迎えた者は、細川藤孝と名乗る美しい少年であった。細川家の一支流を継いではいるが、十一歳で亡命先の近江坂本で将軍位を継いで以来、運命的な流浪を続ける非業の将軍・足利義輝の、腹違いの弟にあたるという。義輝は元服当時「義藤」と名乗っていた。その藤の一文字を与えていることからも、二人の親密な仲がうかがい知れる。藤孝は細川和泉下守護家の当主であった細川元有の次子、三淵晴員の次男である。兄に同じく幕臣の三淵藤英がいる。

 

「貴女が、越後はじまって以来の姫武将、長尾景虎殿ですか。お初にお目にかかります。義輝さまのお世話をさせていただいております、細川藤孝と申します――義輝さまの用心棒とお考えください」

 

 少女のような笑顔を浮かべている細川藤孝には、しかし、まるで隙がなかった。諸国を放浪し自らの剣を志ある者に伝承している剣聖・塚原卜伝は、この細川藤孝と足利義輝の異母兄弟に、自らの新当流の太刀を伝授したという。畿内は、武家の頂点に立つべき将軍自らが剣を取らなければ、自らの命すら守れない、そのような下克上の世界なのだ。

 

 

 

 

 

 

 なお、塚原卜伝は関東出身であるが、剣聖上泉信綱の師である。今は諸国を流浪しているが、もう歳なのでそろそろ故郷の常陸に帰ろうとしているところである。実は成田長泰は彼の弟子である。兼音は直接見たことが無いが、実際の成田長泰はかなり腕の立つ武人である。それこそ太田資正などとも引けを取らない。人は見かけによらないものである。更に、彼の弟子である斎藤勝秀、通称斎藤伝鬼房は北条家の家臣であり、その伝鬼房に剣を教わった者に多米元忠がいる。その元忠に弟子入りしていたのが小田原勤め時代の兼音であるから、彼の剣の流派は鹿島新當流に加え、伝鬼房の編み出した天流のミックスである。また、彼の弓は日置流印西派を現代で習い、小笠原流の騎射も戦国で修めていた。なので関東諸将の前で流鏑馬をやるように命じられたのである。普通に今すぐ弓の道場でも開けばそれで食っていけるくらいの才能はある。であるからして、その弓術と剣聖の剣術・新陰流を日常的に教わっている朝定の武力値がおかしくなっていくのも当然と言えるだろう。

 

 閑話休題。

 

 

 

 そんな若き足利義輝が、「武」を極めることで三好松永を打破しようと野望に燃える剣豪将軍の道を志しているのに対して、彼を補佐することを生涯の使命と自認している細川藤孝は、文武両道の武将だった。「文化」の世界では藤孝は天才的な教養人として一目置かれ、やまと御所の公家・三条西実枝(さねき)から一子相伝・門外不出の「古今伝授」を伝えられたとも噂されている。古今伝授とは、勅撰和歌集「古今和歌集」の「正しい解釈」を伝える口伝で、三条西家が代々伝えてきた。その内容が門外不出である理由はよくわからない。一見、和歌を並べているように見える「古今和歌集」そのものが実は暗号に満ちた「日ノ本の未来を伝える予言集」であり、「古今伝授」とはその予言集の「解釈方法・解読方法」なのだとも言う。

 

 しかし朽木谷で細川藤孝が景虎一行を出迎えたこの時、越後国内で誰よりも都の事情に通じている直江ですらも、そのようなことは知らない。

 

「幕府ではわたくしが文を、義輝様が武を担当しております。二人ともいまだ若輩にて、三好松永の専横を許し、このように朽木谷に逃れておりますが、いずれ自ら剣技を極めつくし武の頂点に立てたその時こそ、六角承禎ら諸国の大名の力を結集して、堂々と京へ戻る。それが義輝様のご意志です――」

 

 六角承禎の名誉の為に言うと彼にそんな意思はない。が、佐々木源氏の自分に対し、小笠原一族の分家も分家の三好に従うのも家格の面で問題なので将軍には適当に返事してなぁなぁの膠着状態を保っていた。

 

「公方様にお会いし、越後守護に任じていただいたことのお礼を。そして、上洛のご許可を願いたいのです」

 

 景虎のその依頼に対して、細川藤孝は少々厄介なことになっています、と伝えた。美女と見まがうばかりの柔和な笑顔のままであるが、なにを考えているのか相手に腹のうちを見せない男だった。

 

「義輝様は、景虎殿の越後守護継承の正当性は疑いなし、と仰せになりました。景虎どのが姫武将であろうとも、武家たる者ひとたび戦場で剣を取れば男女の別などなく、その点でも、なにも問題はないと。ですが」

 

「が、なんでしょう?」

 

「戦場でも自らは『不殺』を貫く義戦。そのようなものが真に可能であるとは思えない。戦場で剣や槍を手にした敵と戦いながら、不殺を貫き、かつ戦に勝つ。はたして可能であるかどうか。ただの甘い夢にすぎぬのではないか――越後の諸将は、越後初の姫武将に対して、戦場でこれを斬り殺すことを躊躇しているだけなのではないか。義輝様は、貴女が不殺の軍神だという噂を疑っておられるのです」

 

 義輝様は物心ついた時から戦火の中を潜り抜け、生き延びるために将軍でありながら塚原卜伝殿の弟子になり剣の修行を続けなければならなかったお方。「武」の厳しさ、真剣の恐ろしさを誰よりも知っているお方。にわかに「不殺の義戦」を実戦している武将が現れたと聞いて疑うのも無理もありません、と藤孝は、景虎とそしてその左右に侍っている宇佐美と直江の二人へ言い放っていた。

 

「そりゃあつまり、どういうことだい?」

 

「宇佐美様。口調。口調が下品です」

 

「どうすれば公方様にお目通りいただけるのでしょうか?」

 

「公方様は、景虎殿との真剣勝負を所望しておられます。私心なき義将、不殺の神将、慈悲の戦を行う軍神――そのような『お題目』を、自分の剛剣を前にしても景虎どのが貫き通せるのか、それを知りたい、と」

 

 直江が「仮にも足利将軍と一騎打ちなど、なりません。まして真剣勝負など」と景虎を制止したが、景虎は「わかりました」と受けた。忍びたちも影で主が晴信打倒の為に頼りになるのかどうか見極めようと興味津々である。細川藤孝が、目を細めた。

 

「まさか二つ返事で受けられるとは。さすがは豪胆なお方。しかし、義輝様の剣の腕は今や塚原卜伝殿の弟子の中でも指折り。天下でも一、二を争います。その義輝様と真剣で立ち合う以上――一太刀でも浴びれば、斬り死にすることになりますよ」

 

「公方様は――義輝様は、『武』の道を究めることで将軍の権威を復活させようとしておられるお方。ならば、私たちがいくら言葉を重ねても無意味でありましょう。『武』に対しては、『武』で語り合うのみ。一万の言葉よりも、一度の立ち合いでこそ、理解しあえましょう」

 

 武田晴信がそのような清廉でまっすぐな思想を持つ姫武将ならば、川中島での戦いもただの一度の一騎打ちで終えられるのに、と景虎は哀しかった。同時に、足利義輝に同じ武士としての好意を抱いた。将軍ともあろう者が、端武者のように剣術を習い修行に打ち込むなど、前代未聞ともいえる。それほどの「武」を身につけねば、今の世では将軍といえども生きていられないのだ。戦場でも自ら剣や槍を取らねばならず、かつ三好松永が放った刺客との戦いも闇で行われてきたのだろう。

 

 が、景虎がこれは、と身震いするように緊張させられている相手は、将軍ではなく取り次ぎ役にすぎないはずの細川藤孝である。細川藤孝の帯びた静かな「殺気」は、異常なものだった。藤孝もまた、三好松永の刺客を次々と斬り捨ててきた豪の者なのだ、と景虎は気づいた。その剣の腕を、貴族のような優雅な笑みの下に隠しているのだ。

 

「義輝様は、わたくしよりも強いですよ」

 

 宇佐美が「景虎、やめておけ。この優男、とんでもない剣の腕前だぜ。将軍がこいつよりも強いとなると、斬り殺されるぜ」と景虎の袖を引いたが、景虎は「藤孝殿は柔の剣を使われるお方。ならば、将軍様は剛の剣を振るわれるお方。むしろ剛の剣のほうが、私にとっては相性がよい」と取り合わなかった。

 

 

 

 

 そして景虎は将軍邸の庭へと、通された。朽木家が頑張って用意した邸宅である。

 

 まだ年若だが、すでに筋骨逞しい巨漢となっている足利義輝が、天下五剣のひとつ・「三日月宗近」を手に、すでに景虎を待ち構えていた。

 

「そのほうが越後の神将・長尾景虎か。常勝不敗、無敵を誇る軍神にして、毘沙門天の化身。確かに、そのほうの放つ気高き『気』は、尋常ではない。しかし、女人として、美しすぎる。余は決して姫武将を男武者より低く見る者ではないが、そなたの女性としての美しさは異常すぎる。男どもの誘惑、羨望、憧れ、嫉妬、欲望、それらの煩悩を駆り立てずにはおられぬそなたが『武』を極められるとは、思えぬ」

 

 若き征夷大将軍。足利幕府の正統なる将軍、足利義輝。その将軍が三好松永のような陪臣に圧迫されて都を追われ、管領ともども朽木谷へと亡命を余儀なくされていること。将軍としての即位式すら都で行えず、近江坂本の日吉で行われたこと。武将の頂点として自ら剣を取り「武」を体現すべく、なにもかもをかなぐり捨てて一途に剣鬼としての道を突き進んでいること。将軍家の弱さによって乱れた世は、「剣豪将軍」の圧倒的な「武」によって平定されねばならないという、足利将軍位を継いだ者としての覚悟。それらのすべてが、その鬼の如き巨体から、伝わった。

 

 言葉は要らなかった。武田晴信と出会った時も、そうだった。

 

 景虎は、強烈な精神の持ち主を前にすると、その者の意志を、読み取ってしまえる。それほどに感受性が強い。足利義輝もまた、「衰微した幕府を再興し天下を統すべる」というあまりにも重すぎる運命を幼少時より自ら引き受け、運命と闘い続けている者であった。景虎は「まさしく貴方こそが、乱世を統一するという気高き志を抱かれた公方様。お会いできて、感激です」と思わず目に涙を浮かべて、庭先へと入っていた。

 

 この時。景虎は、宇佐美定満が準備していた刀を、手にしていない。宇佐美定満が「丸腰だ。無刀だ」と思わず呻うめいた。足利義輝が三日月宗近を抜き、「余を愚弄するか」と叫んでいた。

 

「長尾景虎!剣を取れ!余は、そなたとの真剣勝負を命じている!言葉でいくら語り合っても、なにも伝わらぬ。この下克上の乱世で、唯一たしかなものは、武だ!戦場を生きぬき刺客どもを返り討ちにできる武という力がなければ、志も、夢も、ただの無力な言葉にすぎぬ!剣を取って、余と戦え!!」

 

 藤孝!この者、まるで戦意がない。話が伝わっていないのではないか!と義輝が細川藤孝を思わず怒鳴りつけたが、藤孝は、

 

「景虎殿は、すでに一騎打ちに入っております」

 

 と涼しい顔で告げた。

 

「景虎殿の剣は、義の剣にして不殺の剣。たとえ剣を握って義輝様に勝たれたところで、景虎殿ご自身の武を示すことはできても、義を貫いたという証明にはなりますまい。ならばこそ敢えて無刀で、義輝さまとの真剣勝負に挑まれているのです」

 

「無刀で?この義輝を甘く見るか、長尾景虎!我が将軍位が都ではまるで名ばかりの無力なものなのと同様に、そなたの女性としての美しさなど、この剣鬼の前には無意味!ここで余に斬られるというのならば、そなたの神将としての名は越後侍どもが生みだした幻にすぎず、義将としてのそなたは偽者だったということだ。剣が、武が、この偽りに満ちた乱世における真偽を決定する唯一の言葉ぞ!」

 

 義輝が、景虎との間合いを一気に詰めるべく、跳躍した。

 

「余は、剣に己の生涯のすべてを賭けている。いつかの長尾政景のようにはいかぬぞ、景虎!」

 

「……義輝様。確かに私は、武と義という両立困難な二つの志を、同時に果たそうとしております。越後では、女が武将として生きることそれ自体が矛盾だ、と言われることもしばしばあります。不殺もまた、自己矛盾にすぎないと言われます。戦をすれば兵は死にます。私自身が不殺を貫こうが、私が敵味方の兵の命を散らせることにかわりはありません」

 

「ならば、なぜ剣を取らぬ!無刀で戦場を生き延びられるはずがあるまい、景虎。徒手空拳で戦場に立てば、敵の前に姿を現せば、小姓ども、家臣どもを盾にして身代わりにするしかあるまい!それもまた、武なき無力ゆえの殺生に他ならぬ。余は失望したぞ、長尾景虎!どれほどに強き神将、どれほどの軍神が現れるかと思っていたが……まさか、余を前にしてなおも不殺などという寝言をほざくとは!」

 

「貴方様がお強いお方だということは、すでにわかっております。私と公方様がここで立ち合うなど、無意味です。我らは乱れた世の秩序を復興するという志をともにする者同士。ともに歩まねばならないのです。ですから、剣は取れません」

 

「ならば、そなたの武を見せよ!余に、その実力を知らしめてみよ!」

 

「どうしても、戦わねばなりませんか」

 

「くどい!余には、時間がない!明日をも知れぬ命なのだ。武士と武士とがわかりあうには、戦う以外に、なにがある。行くぞ、長尾景虎!」

 

 速い。宇佐美にも直江にも、まるで義輝が繰り出す剣の動きが見えなかった。あるいはこれが、鹿島新当流の秘太刀「一の太刀」かもしれない。それは、「突き」であった。「一の太刀」そのものには、実のところ、決まった形がないのだともいう。ただ一撃で相手を打ち殺すための「見切り」、相手の構えに隙を見つけて初太刀で瞬殺するための「眼力」こそが、一の太刀の神髄なのだとも言う。が、たしかなことは、わからない。塚原卜伝と、卜伝が認めた足利義輝をはじめとするごくわずかな数の弟子だけが、一の太刀を体得している。

 

 ともあれ義輝の野獣のような剣鬼としての本能は、袈裟懸けではなく、「突き」の速度を選択していた。

 

 景虎の小柄な身体にこれまで誰も一太刀すら浴びせられなかったのは、景虎の身体の「小ささと軽さ」、すなわち「速度」ゆえではないのか、と義輝は閃いたのかもしれない。むろん、言葉では考えていない。一秒の十分の一、あるいは百分の一という刹那の瞬間に、言葉にならない本能的な閃きが義輝の全身を駆け抜け、そして、その肉体が無意識のうちに「突き」を選択させていたのだろう。

 

 しかも。義輝の突きは、ただの突きではない。修練の果てに体得した異様な速度だけが為せる、「三段突き」であった。剣先を見切り身体で躱かわしても、刀が、追いかけてくる。二度まではかろうじて躱せても、三度めの突きは躱せない。奇しくも幕末の剣豪沖田総司と同じ技であった。

 

 義輝は剛剣を使う。彼は若くとも、征夷大将軍である。敵を正面から堂々と袈裟斬りに斬ることを、なによりも重んじてきた。そのようにして、堂々と戦い、生き延びてきた。相手の急所を一点突破で貫く「突き技」は防御力の高い甲冑武者同士が斬り合う実戦においては実用的な技ではあるが、彼は将軍として、この「突き」を決着手として用いることを己に禁じてきた――。

 

 が、小柄な身体から見たことのない強い「気」を放つ長尾景虎を前にして、義輝の将軍としての気位を、剣鬼としての肉体的本能が、越えたらしい。大上段に構えての一撃は、身軽な景虎には通じぬ。攻撃態勢に入ると同時に、義輝の身体が、そのことをすぐに悟った。

 

 そこからの「三段突き」であった。それら一連の判断から動作までのすべては無言のうちに、刹那のうちに処理され実行されているのであり、そこには論理も言葉も介入する余地はない。この問答無用の無我の境地こそが、義輝が追求してきた「武」の世界であり、その武の世界に景虎は今、直面していた。

 

 宇佐美も。直江大和も。景虎は躱せない、躱しきれない、と絶望していた。

 

 だが。景虎の喉を狙ったはずの一撃めの突きは、当たらない。見切っていた。景虎もまた、言葉で思考している猶予はなかった、が、敢えて言語化すれば、景虎はこの時このようなことがらを、瞬時に想起していた。

 

 公方様は、「武」とは「力」であると信じておられる。それは一面では正しい。力なくして、乱世の秩序は再興できない。その現実を受け入れ、武を極めることで幕府を立て直そうと決意なされたのだ。そして、かくも鋭い剛剣を会得されたのだ。優れたお方だ。しかし、敵を倒すための力ばかりを求めるあまり、そのお心にもその剣筋にも、「慈悲」がない……哀しいほどに強いゆえに、危うげなお方だ。私のように誰も彼も許してしまうという生き方は愚かにすぎるとしても、敵をどこかで許しともに生きていこうという慈悲心がなければ、守護職も管領職も、ましてや征夷大将軍職も、とうてい務まらない……私がここで剣を打ち下ろして倒しても、「余にはまだ力が足りなかった」とさらなる力を追い求めるのみ。ならば……

 

 本来、そのような思想的・観念的な作業を、景虎は行っている場合ではない。だがそれでも、景虎はそのような観念を抱かずにはいられなかった。この間。二突きめ、三突きめと、義輝は目にも止まらぬ連撃を放っている。宇佐美ですら、二突きめまでしか、追いかけられていない。三度めの突きがあるなど、想像もできなかった。

 

 初見でこの義輝の「三段突き」を躱せる者など、天下広しといえども、どこにもいないはずであった。が、景虎は、まるで舞を舞うかのように細い身体を緩やかに躍らせて――円を描くように、剣鬼と化した義輝の「突き」から、己の身体を移動させていた。緩やかに――とは、義輝が感じたことであって、実際には一瞬のうちに景虎の身体が義輝の制空権から左へと移動しているのだが、義輝の目には、景虎がゆったりと舞っているようにしか見えなかった。桜の花びらが、景虎の身体へと舞い散っているかのように、見えた。

 

 ぽん、と景虎の掌てのひらが義輝の手首へと伸びてきて、そして「三段突き」を突き終えたばかりの刀が義輝の手から静かに滑り落ちていた。なぜ、落としたのかも、義輝にはわからない。剛力で叩き落とされたのではない。 触れただけで、掌が、自然と開いていた。いつの間に景虎に真横に付かれて、手首を叩かれたのかも、理解できなかった。そのような隙を作った覚えは、義輝にはない。隙ができるような未熟者でもない。己の技量に、思い上がったことはない。景虎は常人には見切れぬ余のわずかな隙を瞬時に見極め、そして見極めながら同時に動いたのだ、と義輝はかろうじて理解した。

 

 景虎は、速い。そして、静かである。動きを、まるで察知できなかった。景虎には「殺気」がないのだ。その振る舞いは、あの剣術を極めた剣聖塚原卜伝とも、違う。

 

「私が小太刀を持っていれば、御身の手首は飛んでおりました。ですが、その必要はありません。私には力はありませんが、力を止めることはできます。これで、一騎打ちは終わり、お互いに手傷を負うこともなく、私と公方様とはともに同じ『乱世に秩序を再建する』という志を抱いて歩めます。これもまた、武です――これで、信じていただけるでしょうか」

 

 義輝は、まるで子供のように小さな景虎の身体をまじまじと見つめながら、

 

「あいわかった長尾景虎。余には、欠けているものがあった……!武なくば乱世はただせぬ。力は必要だ。しかし力押しだけでは、秩序は回復できぬ。義、不殺、慈悲。それらもまた欠かせぬもの。敵の命を奪うことだけが勝ちではない。むしろ乱れた者どもの心を静め敵を味方と為すことが、まことの勝利なのだ。そなたの不殺の誓いは、使いどころを誤れば自らを破滅させ秩序を再び見失わせる弱さともなるが、その人としての心の弱さをもそなたの武は越えていくというのだな!まさしく、毘沙門天の化身と称されるに相応しい強さだ……!見事だ、長尾景虎」

 

 景虎の手を取り、破顔していた。

 

「……公方様。今はまだ、景虎は力が足りず、お連れできませんが……必ずや、いつの日かこの長尾景虎、都に御身をお連れし幕府を再建いたします」

 

「よい。そなたには、関東管領や信濃諸将を守るという仕事がある。余はあくまでも、己の力で京に戻る。だが景虎。その時には必ず、そなたの武と義をもって余を補佐してほしい」

 

「御意。ありがたき、幸せです」

 

「それにしても、不思議な技であった。いや、技ではないのか。余はまだ、どういう理屈で自分が敗れたのかわからぬ」

 

「こちらが最初から、殺さず、斬らず、と決めていれば、自ずと剣を持った者同士の戦いとは異なるかたちの立ち合いとなるのです。私はその虚を突いたにすぎません」

 

「いや。そうではない。力押しでは、そなたは決して倒せない。力で押せば押すほどに、するすると逃げられていく。そして、何倍もの力を、この身に返されるのだ。あるいは、剣の道や、天下盗りの道だけではなく……男が追い求める女とは、そういうものかもしれぬ……光源氏が生涯理想の女人を追い求めながら、ついに手に入れられなかったのと同じように……」

 

「『源氏物語』は読んでおりますが、そ、そのような話は、わ、私は苦手です」

 

「これは失敬した。余としたことが、つい。許せ」

 

 宇佐美定満。直江実綱。よくぞこれほどの者を育成した、と剣豪将軍は景虎を育ててきた軍師と宰相にも、言葉をかけていた。

 

「ただちに京へ向かうがよい、長尾景虎。関東および信濃でのこと、余が都に戻りし暁にはきっと助力し紛争の解決を助けると約束する。ともあれ、余の従兄弟――やまと御所の関白・近衛前久に紹介状を書いておこう。三好松永も、関白の客人ともなれば、迂闊に手出しはできぬはずだ」

 

「ありがとうございます」

 

「そなたたちの、宿泊先は?」

 

 直江大和が、返答した。

 

「兵たちは宿を分散させますが、わが主は三条西さまの館へ。青苧座を通じて、懇意にさせていただいております」

 

「三条西家といえば、藤孝の歌の師匠だな。これもなにかの縁か。しかし都まで行くのであればあと少しだけ脚を延ばして堺を訪れ、南蛮渡来の種子島を購入せよ。剣の道を志す余が言うのも矛盾かもしれぬが、これからの戦は種子島だ。乱世は、南蛮渡来のあの新兵器によって大きく動く」

 

「もともと堺へは、青苧の販売経路を拡大するために行く予定でした。種子島につきましても可能な限りの量を購入したいと存じます」

 

「ただし、堺は松永弾正の根拠地。あの者には気をつけよ」

 

 種子島か……鉄砲を内蔵したうさちゃん縫いぐるみもいいなと宇佐美が言いだし、景虎が顔をしかめた。

 

 紙と硯を、と小姓たちに命じていた細川藤孝が、「義輝様にとっても、よき運命の出会いとなりました。毘沙門天の化身、長尾景虎殿。その武威は誰にも推し量れぬほどの高みにあるようです。あの松永弾正ではなく、貴女がその神の如き力を得て生まれてきたこと、この国のために幸いであったと思います」と微笑んでいた。

 

「ですが――貴女の強すぎる武、そしてその純粋すぎる義と慈悲の心は、諸刃の剣。都では、用心なされませ。あすこは、この隠れ里の朽木谷とは違います。まさしく、魑魅魍魎の世界でございますゆえに。そして今、堺と京には貴女の武田晴信と並ぶもう一人の宿敵たる北条家の次女が上洛しております。そちらにも、努々お気を付けられますように。道中の無事、お祈り申し上げます」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この少し前、堺の港には数日間の船旅を経た為昌が到着していた。彼女と同行者を降ろすと、イングランド船はすぐに出航の用意を始めた。堺はスペインやポルトガルのシマである。ここで騒動を起こせば問題になるためやらないが、あまり長居したくない場所であった。カトリックも根強く息づいている地であるがゆえに、下手すると切支丹と化した勢力や民衆に焼き討ちとかに会いかねない。なので、サッと去ることにしたのである。

 

 ここまで乗せてくれたお礼を兼音から渡されたカンペを使ってたどたどしいながらも頑張って話している為昌に対し、船長は深々と一礼した後「マタ、オアイシマショウ」と日本語で返し、去って行った。国際交流の基本は分かり合おうとする精神である。ここでそれは遺憾なく発揮されていた。イングランド人も、日本を、もっと言えば北条家を敬意を払うべき技術・知見・文化を持った存在と認識していた。これが後々二十一世紀以降も続く同盟の礎になるとは、この時両陣営の誰も予想などしていなかった。

 

 ここ堺は三好家の財布である。自由都市堺を中心にした港群による海上貿易。これが三好家の大量動員を支える経済力であった。その三好家は今、将軍と合流しかねない厄介な勢力の方に注視している為監視の目がない。自由な状態で工作を行えることを示していた。

 

 為昌は氏康より外交方針の大まかな指令は受けているが、それ以外は全権委任の大使として来ている。それはつまり、ここで彼女が行った決定はイコールで氏康の決定と同じという事である。かなりの重責であるが、それを任せられるのは一族だからというのが大きい。元々姉とは腹違いの同年生まれ。向こうが先に産まれたため次女だが、実際は同年齢の十八歳である。ここで他の家だとお家騒動になるのだが、早々に氏綱が氏康を指名したこと、その氏康が凄まじく優秀だったこと、為昌に当主になる意思が無かったことなどが相まって外交役に甘んじている。四代目の候補者に氏政を推薦したのも彼女であった。もっとも、そのせいで妹に面倒なことを押し付けてしまっている自責の念を感じてるのだが……。

 

 

 

 

 

 

 

 そんな彼女は堺から少し南下してやって来たのは紀伊である。ここは三好の勢力下ではなく、一応畠山がいることになっているが実際は群雄というのも微妙な地侍が割拠している地である。そしてここには戦国でもかなり有名な一団、雑賀衆がいるのである。彼女が来たのは鉄砲関連の交渉を行うためであった。

 

 この頃鉄砲はかなり生産され始めているがまだまだ畿内周辺のものであった。関東にはそうそう出回っていない。お値段は一挺あたり大体十貫ほど。現代円で相場にもよるが八十万から百二十万円くらいである。安いのか高いのかと言われれば勢力の大きさ次第ではあるが、あるだけでは使えないので火薬やら修理費やらを含めるとかなりの額になってしまう。勿論、北条家の造っている西洋船や運河計画・街道計画の予算に比べれば少額であるが、それでも数を揃えるとなると無視できない額になる。

 

 そうして為昌は鉄砲入手を命じられたわけであるが、欲しいのであれば堺の今井宗久などに頼めば早い。北条家は堺にとっても多くの船を回してくれるお得意様。優先して用意してくれるだろう。だが、そうしなかったのには彼女なりの考えがあったからである。確かに、買えば楽だ。だが、それでは供給を堺に依存することにはならないか。自国内で生産するにも、技術者がいなければ話にならない。鍛冶師はいるし、鋳物も盛んではあるが心もとない。改良もベテランの技師ならば出来るかもしれないが、領内の鍛冶師では時間がかかる可能性が高い。等々考えた結果、物を買うより作れる人材を引っ張って来ればいいのでは?となったのだ。要するに優秀な技術職のヘッドハンティングである。その為、堺ではなく独自で鉄砲を生産している雑賀衆を訪ねた。雑賀衆は北条家の歩兵名手の大藤氏の出身地である。その縁も頼れると期待しての事だ。

 

 為昌が雑賀衆の首領格の一人、土橋守重に面会したのは堺到着の四日後であった。関東の名族が何しにこんなところへ来たんだろうと訝しむ守重に対し、為昌は交渉を始めた。

 

「本日はどうもありがとうございます」

 

「いえいえ、こちらこそ、本来はこちらが出向かねばならぬと言うのに御足労頂き誠に恐縮でございます。して、本日は何用でお越しになられたのでしょうかな?」

 

「鉄砲の調達に参りました」

 

「ほほぅ、なるほど。確かに鉄砲は我ら雑賀でも生産しておりますな。されど、お求めならば堺で成された方がよろしいように思いますが。我らは商人ではございませんので」

 

「それは重々承知の上の事。私が真に欲しているのは職人です。ここでは鉄砲を自分たちで生産して、使っている。ともすれば当然それを作り、修理する者がいると考えるのは必定です」

 

「確かにそれはその通りでございます。しかし、職人をお求めとは……ふむむ。彼らは我らにとっても貴重な存在。おいそれと渡す訳には参りませぬ。いくら鎌倉府執権北条家の頼みとは言え、心苦しい限りですが……」

 

「渡すことは出来ない、と」

 

「はい。彼らの技術はまさに金のなる木でございます。その知識・技術の習得にはそれ相応の時間と労力を割いております。並大抵のものでは、取り換えられないかと」

 

「分かりました。言い値をお支払いしましょう。一人につき百貫でどうでしょうか」

 

「百貫!?一人頭ですかな」

 

「はい」

 

「ぐむむむむ……いえ、しかし職人が一人で鉄砲を一挺造れば凡そ十貫。十本作ればそれくらいは容易に稼げます。長い目で見れば、人の方が良いと言うお考えなのでしょうけれど、些か少ないと言わざるを得ませんな……しかし、珍しい方だ。貴殿の他にも幾人か、この雑賀に鉄砲を求めた者はおりました。安く売れないか、と。しかし人を求めてきたのは初めてです。しかも、一人に対し、かなりの大金。堺で求めれば十本どころかもう少し手に入るやもしれませんのに」

 

「物は代えがききます。壊れれば直すなり買い替えればよい。ですが人はそうはいかないものです。代えのきく物より、代えのきかない人を重んじるべきでしょう。技術には対価を、努力には敬意を。人として、当たり前の事でしょう」 

 

「我々の作ったものではなく、我々そのものに価値を見出すという事でしょうかな」

 

「まさしく。そして当家には引き抜いた者を腐らせぬ資金と環境があるのです。北条は益々拡大を続けるでしょう。我らは貴殿らのような守護や守護代の勢力にまつろわぬ者たちも多く内包しております。風魔もしかり、それ以外の山の民、海の民がおります。文化の違う者に寛容であれ。姉上はそう申しておりました。能あればどのような産まれでも用いられます。風魔は評定に加わり、貴殿らと同じ地より来た大藤一族は今や城持大名です。ですが、政争明け暮れる畿内にそのような勢力はおりましょうや?三好が拡大を続けたら、もしくは三好に代わる第三の勢力が畿内を統べたら。その時、貴殿らの居場所はあるでしょうか。為政者とは、往々にしてまつろわぬ者を嫌います。その者らが、分不相応と思われるような武器と技術を持っていたら……どうなるでしょうか」

 

「紀州は燃えるでしょうな。それを黙って受け入れる我々雑賀衆ではありません。我らは確かに公儀や朝廷から見れば厄介な存在なのでしょう。けれど、我らには我らの誇りがあり、生き様があるのです」

 

「法と秩序を乱さぬ限り、我々はそれを尊重しましょう」

 

「その法とは、為政者にとって都合のよい方便ではございませぬかな」

 

「いえ、我らの法は厳格です。やろうと思えば、領民が当主を訴える事も出来るでしょう。それをされないようにするのが努めであり、また、その訴えを弾圧することを姉上は許さないでしょう」

 

「……」

 

「関東に行くのはそう悪い事ばかりではありません。ここは西国情勢はすぐに手に入るでしょうが、東国情勢はやはり時間がかかるでしょう。信憑性にも、疑問が残るはずです。仲間が関東に下向し、正確かつ早い情報を渡してくれるとすれば。商売も捗るのではありませんか?」

 

 軍需物資である鉄砲を用いた傭兵集団。それが彼らの本質である。傭兵は情報が命だ。当然大金を積まれても勝ち目のないものには味方しない。命あっての物種であるのだ。情勢を見極め、高く売りつける。それが必要な事だった。

 

「しかし、では行こうと思っていけばさしたる待遇も無しという不安もありますな」

 

「ご安心あれ。私は今、姉上に上方における全ての権限を任されております。ここで私のとった方針が、北条家の方針とお考えあれ」

 

 為昌は大分持てる手札を切ったつもりがあった。それだけの価値があると踏んでいるのである。土橋一門は雑賀の双璧だ。職人を勧誘しているように見えて、その実土橋一族全体を勧誘しているのである。最初は勿論職人だけを連れていきたいと思っていたが、守重との対話の中で彼自身が北条家に興味を抱いていることに気が付いたのだ。それならば勧誘してしまおうと言う方向に舵を切ったのも頷ける話だ。何故ならば、日本においてまだまだ新しい兵器である鉄砲を自在に使いこなせる軍集団というのは大きな戦力になるはずだからである。

 

「分かりました。職人をお求めとの事でしたが、条件を一つ、呑んで下されば承知いたしましょう」

 

「何でしょうか」

 

「我ら土橋一門を御取立ていただけるのであれば、配下の職人、女子供など合わせて総勢五百名弱で馳せ参じましょう」

 

「願ってもない話であります。しかし……よろしいのですか?貴殿らの一門は根来寺の有力な子院・泉職坊を有しております。しかも雑賀の中では鈴木一族と同格の家柄。雑賀衆にとって痛手となるのではありませんか」

 

「……ここだけの話ですが、非常時は協力しておりますが、鈴木一族と我らとは根本的なところに対立があるのでございます。我らはあくまで自治を主張していますが、鈴木は長い物には巻かれろと言うのが方針で三好に対してもすり寄っているのです。他にも土地や水利権の争いはよく起こっております」

 

「なんと、その様な事が!」

 

 大袈裟に驚いている為昌だが、当然把握している。土橋氏に断られれば鈴木の方に行こうと思っていたのだから当然だ。がっつくのも良くない。あくまで向こうが自発的に、というのは大勢力としての体面上必要な事だった。

 

「我らがいなくなれば確かに一時は戦力が落ちるでしょう。しかし、居場所のない者は畿内に溢れております。いずれ、補完されるでしょう。鉄砲は扱いやすい武具です故。我らがいない方が雑賀の統率も執りやすくなるはずでございます」

 

「我らとしては何も問題ありません。小田原筆頭に関東北条家数万の臣民がお出迎えしましょう」

 

「我らの傭兵としての価値でも、作られた鉄砲の価値でもなく、我らの努力と技術に敬意を払って下さった事を信じましょう。五日で支度します。その後は、堺より懇意にしている商人の船で小田原へ参ります。それくらいの銭は貯めこんでおりますので、ご安心を」

 

「どうぞ、宜しくお願い致します。姉上には、この後すぐに文を書くのでそれをお渡しください」

 

「ははぁ!」

 

 早速頭を下げて臣従の礼をとる土橋守重。為昌はそれを確認して深く頷いた。この後、託された文を携え、土橋守重は一族郎党と共に多くの鉄砲、弾薬を持って小田原を目指すことになる。北条為昌。与えられた条件の中でクリティカルヒットな成果を上げてくる優秀な外交官であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「上手く行きましたな。お見事にございます」

 

「土橋氏が加わってくれるとあれば戦術的にも優位に立てましょう」

 

 堺へ戻る馬上の為昌を褒めたたえるのは伊勢康弘と小笠原康広。両名とも有職故実に詳しく、また上方に同族を持っている。なので、こうした上洛の際には必ず同行しているのである。勿論、武士であるから腕も立つ。いざという時の護衛役でもあった。この小笠原康広のおかげで三好家とも連絡が取れるのである。小笠原と三好は同族であった。

 

「上々と言ったところ……けれど、本番はこれからでしょう。都の公家や堺の商人を相手にするのは骨が折れます」

 

 堺も大分近付いてきた。為昌は嘆息しながら遠くを眺める。すると、その方から早馬のような物が駆けてくるのが目に入った。

 

「なんでしょうか、あれ」

 

「分かりかねますが……警戒態勢を取りましょう」

 

 一瞬で一行は密集体系を取る。万が一の際の戦闘に備えるためだ。段々と馬上の人物が見えてくる。年はまだ若い。子供、それも男子である。公家の若君の装束をまとっている。紋章は近衛牡丹。摂関家の頂点、近衛家のものであった。それを見て、為昌は馬上の正体に気付く。名を近衛信尹。近衛前久の子である。年は十一。なお、父前久は三十代である。

 

「信尹殿?どうしてこんなところに……」

 

 疑問を抱く彼女の前に、息を切らしながら少年貴族が駆けてきた。彼とは前回の上洛の際に再会を約束した。しかし、京へは行く予定なので、何故堺方面へ来なくてはいけないのかが分からない。

 

「どうされたのですか、こんなところへ」

 

「堺にいると聞いて来てみれば紀州へ行ったと言うから慌てて駆けてきたんだ!悪いことは言わねぇ、都へは来ちゃダメだ!親父殿が長尾景虎を呼びやがった。今三千の兵と共に都にいる!来たら殺されるぞ!」

 

 彼は肩で息をしながら、初恋相手の少女に向かって叫んだ。




また暫く、今度は本当に二月の終わりごろまで投稿しないと思います。次回も多分上方編でしょうか。色々ネタは溜まっているので、早く書きたい気持ちでいっぱいですが、我慢します。

それではまた、二月の終わりにお会いしましょう!


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第86話 蠍 越・河・相

どうでも良いですが、家系図を作るのにペイントソフトを使ってるんですがもっと便利なツールは無いですかね……。前回の細川氏のやつ作るのに一時間もかかりました。はぁ……。


 景虎が生まれてはじめて足を踏み入れた京の都は、「源氏物語」に描かれているような風流の世界ではなかった。果てしなく続く戦火によって炎上したまま打ち捨てられている寺社仏閣や町家なども、ところどころに目立った。華美な地域と、戦乱のために廃墟化が進んでいる地域との落差が極端だった。まさしく乱世の都。ことに、やまと御所の落剥ぶりは明らかだった。

 

 その上、貴族たちも窮乏している。景虎たちが宿とした三条西邸も、往年の輝きはない。三条西家の当主・権大納言・三条西実枝は、越後から来た景虎一行を歓待することはなかった。

 

「ようきはった、長尾はん。当家は藤原定家から歌道の正統を継承する格別の家柄でおじゃるが、ご覧のように応仁の乱以来うち続く戦火で貧窮しておってな。荘園は地侍どもに横領され、三条西家が取り仕切っておった天王寺の青苧座は――そちら越後衆どもに市場を奪われる始末。その上、越後衆の面々に都のわが屋敷まで押しかけられるとは、難儀なことですな」

 

 三条西実枝は、越後長尾家と懇意にしているとはいえ、長らく青苧座という利権を巡って長尾家と対立してきた。景虎の父・長尾為景は、三条西家が独占してきた青苧座の利権を徐々に越後衆のものにすることで富を得て、戦に連戦連勝できたのだ。為景は「青苧は越後原産であるのに、これを畿内に売りさばく折に公家などが座の権利を振りかざして中間搾取しておる、まことに許せぬ」と三条西家に圧力をかけ、武力を振りかざして青苧座の利権の大部分を奪い取っていたのだ。

 

 御所への参内を間近に控えている景虎に対して、三条西実枝が京の公家らしい嫌みを喋り続けるので、直江が「青苧座の件については、わたくしが一任されております。三条西家にとってもよき話になるかと」と三条西実枝の注意を景虎から引き離した。以後、青苧座についての文句は自分に言え、と伝えたのだ。

 

 長尾家は、越後の特産品である青苧の流通網を握って収益をあげるために、三条西家が持つ青苧座の特権を徐々に奪い取ってきたわけだが、直江大和は「衰微した都の秩序を復興せねばならない」という景虎の大方針を守らねばならず、青苧座の解体にまでは至れない。逆に、越後も三条西家もともに収益を確保できる仕組みを再構築するために、上洛したのだ。美濃で斎藤道三が実施しようとしているような座という制度そのものの破壊を、景虎は望まなかった。

 

 とはいえ、宰相・直江大和は越後がさらに稼ぐことができるように、京、堺、天王寺、さらには天王寺を越えつつある巨大な門前町・大坂本猫寺を奔走して、越後から畿内への青苧流通網を拡大するつもりであった。その新たな販路で得た銭のうち、三条西家に何割かを支払う――為景が嫌った「中間搾取」であるが、いい落としどころではある。為景は目の前の戦に熱中するあまり、北陸の本猫寺一揆衆や京の公家衆、商人衆に対して雑で横柄なところがあったので、為景のやり方は武家以外の階層に多くの敵を作った。だが景虎は、武家以外の階層の者たちとはできる限り歩調を合わせ、共存することを望んでいた。景虎が戦う相手は、秩序を武力で破壊せんとする武家のみである。

 

「青苧座の話は直江に任せております。この景虎が越後守護となったからには、今後は三条西家のお力にならせていただきます。私はぜひ、権大納言様に『源氏物語』の講義をしていただきたく」

 

「……景虎。そちゃ、まるきり子供であるのう。直江とやらと詰めるとしようかの。歌道、香道、そして『源氏物語』について学びたければ、書庫を開いてやろうぞ」

 

「ありがたき幸せ。しかし、これは上洛する際に小耳に挟んだ噂ですが――細川藤孝様に伝授された『古今伝授』とはいったい、なんでございましょう」

 

「それは、そちら武家が知っていいものではないでおじゃる。麻呂も、先代より『古今伝授』の内容を伝承されてはおるが、実のところ、その意味、よくわからぬ。藤孝は一代の傑物ゆえに、解読できるようでおじゃるが」

 

「わからない……のでございますか」

 

「一子相伝の秘密を何代も伝えてきたためでおじゃろう。わが弟子の中でも細川藤孝は天才にして別格でおじゃる。本来、三条西家から門外不出と定められておる『古今伝授』をあの者に伝えたのは、麻呂がこの戦乱の中いつ死ぬやもしれぬということもあるでおじゃるが、あの者ならば解読できるであろう、失われてしまった『古今伝授』の謎を正しく明らかにできるであろうと期待したことも理由でおじゃる」

 

「その、秘密とは……?」

 

「藤孝のみが知っているでおじゃる。麻呂にも教えてはくれぬ。それこそ、一子相伝の秘密であるがゆえに、と。じゃが『古今伝授』は藤孝から麻呂の子へと伝承すると決まっておる。いずれは藤孝が解いた『正解』とともに三条西家に戻る。ほ、ほ、ほ」

 

 古今和歌集の「正統な解釈」が「一子相伝の秘事」となっていて、それを三条西家が代々継承してきたにもかかわらず、代を経るごとに内容のみが伝わり意味は忘れ去られていった、というのだ。細川藤孝は、その暗号めいた秘事の意味を解読するためにのみ、一代限りで秘事を伝えられ、解読した後にはまたその伝承を三条西家へ戻さねばならぬという。

 

 なにもかもが奇妙な話だ、と景虎は思った。いにしえの歌に、いったいどのような秘密があり、どのような力があるというのだろう。すべては、「和歌」の世界を取り仕切るための、三条西家のまやかしではないのだろうか。商品を巡っても、青苧座のような利権の構造があり、その中心に三条西家という公家が存在している。和歌においても同じなのではないだろうか。が、青苧には実体がある。和歌の秘伝には、実体がないのかもしれない。一子相伝である以上、部外者にはその正体がわからないのだ。都とは、藤孝が言ったように、魑魅魍魎の世界なのかもしれない。

 

「景虎。公方より紹介状を取り付けたのであれば、急ぎ関白殿を訪問するがよいぞ」

 

「関白、近衛前久様、ですね」

 

「そうじゃ。あの者、公方とは従兄弟にあたる。塚原卜伝から太刀などを学び、馬を好み、矢を射る野蛮な関白ぞ。藤原摂家の頂点に立つ男でありながら、公方のような武家になりたいらしい。公方とともに、三好松永らを排除したいのだとか。一子相伝の『古今伝授』を武家の藤孝が継ぎ、御所のあらゆる公家の頂点に君臨するはずの関白が武芸を好み公方とつるんでおる。いよいよ乱世も極まれりじゃのう、ほ、ほ、ほ」

 

 煮ても焼いても食えなさそうな三条西実枝の相手は、直江に任せた。和歌の世界にひかれている景虎は、歌道を志す者として「古今伝授」が気になるが、一子相伝とあれば知るよしもない。やむを得まい……とつぶやき、宇佐美定満一人を連れて、関白邸へと向かった。

 

 頭から白い行人包を被った小さな景虎が馬に乗って都の往来を駆けると、町衆たちは皆「あの子供は」「なんや?」「越後の毘沙門天はんらしいで」「毘沙門天?」「なんでも、源義経以来の神将やそうや」「義経はんもお稚児はんのように小さかった、いうな」「そやけど隣を走る兎耳の兜をつけた男は、弁慶には見えん」「弱そうや」と物珍しさも手伝って大騒ぎになった。

 

 越後に神将・長尾景虎ありということを天下に喧伝する。これもまた、直江が上洛を計画した理由のひとつである。

 

 景虎自身は、京の人々は口数が多い。噂好きらしい。といい気分ではなかったが、今、自分は都という「天下」の世界に来ているのだ、と思うと身が引き締まる。関東遠征に、川中島での武田晴信との攻防。若き景虎の義将としての働きは、これからはじまるのだ。天下が、景虎がまことの義将か否かを、じっと注目して見ている――。

 

「しかし宇佐美。三条西様は公家であられるのに、白塗りではなかったな」

 

「この乱世だからな。白塗りの化粧をするのは、参内する時だけじゃねえのか。面倒なんだろう。それに」

 

「それに?」

 

「あの野郎は、曲者だぜ。大金を積んだら素知らぬ顔で館をオレたちに開放したが、裏では武田や今川・北条に通じていやがる」

 

「武田に?」

 

「この戦乱だ。都はしばしば戦場となる。そのたびに、公家たちは都落ちして地方の大名のもとへと逃れるのさ。三条西は、甲斐や駿河へ何度も下向している。そこへ北条が多額の資金を送っている。居場所を武田・今川が、金を北条が支えているんだ。むしろ東国のほうにあの野郎の本邸があると言っていい。今、あいつが都にいるのは、青苧座の利権の調整を直江に持ちかけられたからさ。都に不在じゃあ、好機を逸するからな」

 

「……そうなのか。公家衆が続々と都落ちせねばならぬとは……異常なことだな。それも、権大納言さまほどのお方が。それで、館があんなにも簡素なのだな」

 

「景虎。聞いているのか? 三条西は、近頃では晴信の妹・武田信繁のもとに居着き、信繁に和歌の講義をして食っている男だ」

 

「晴信の妹のもとに?」

 

「ああ。武田家では、副将の武田信繁がうちの直江のような立場で外交の仕事を仕切っているらしい。三条西は武田・今川と通じているんだ。羽振りの良い地方大名に頼って生きていこうとする公家は多い。そういう武力を誇る地方大名のもとで暮らしていれば、安全だしな。なにしろ三条西家には、青苧座の件があるだろう。為景の旦那がそうとうにやらかしたおかげで、三条西は長尾家に含みがある。それで武田・今川に近づいたのかもしれん……ある意味、武田が都へ送った間諜だな。オレたちはその間諜の館に宿泊しているというわけだ」

 

「それでは、私に刺客を放ってくるのか?」

 

「それは問題ねえ。公家は穢れを嫌う。よほどのことでもなければ刺客など放たねえ。とりわけ、女にはな。将軍を都から追い出して畿内を仕切っている『天下人』三好松永のほうがやばいぜ。全身が下克上の権化のような主従で、松永弾正に至っては毒を用いるという。しかも、どちらも女だ。女は女に容赦しねえ。武田晴信どころじゃねえぞ、晴信は謀略を用いるとはいえ、できうる限り甲斐武田家の当主らしく堂々の合戦で決着をつけようとする意志はある。しかし得体の知れない出自の松永弾正は違う。面倒な合戦を繰り返すくらいなら、毒を使えば早く片付く、と思っているところがある。用心しろ」

 

「そんな者が、天下人の隣に侍っているのか……魔の都だな」

 

「主君の三好長慶は、さすがにもう少し常識人らしい。が、松永弾正は滅茶苦茶だ。長慶がいなければ、弾正は将軍だろうが管領だろうが平然と殺しかねない、そんな魔性の姫武将だという」

 

 三好長慶と松永弾正か。こたびの上洛に率いてきた兵力ではさすがに堂々と開戦しても倒しきれぬな。景虎は「都の秩序を回復し幕府を立て直すには、もっと多くの兵が必要だ」と唇を噛んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そちが、義輝が『天下無双をも越えた者』と絶賛している、長尾景虎か……紹介状はすでに読んだ。驚くほど小柄だな。しかも、天子と見まがう異相の持ち主とは。義輝を無刀でさばいて倒すなど、尋常の人間ではなかろう。源義経以来の戦の天才という評判は、嘘ではないらしい」

 

 藤原氏の「氏長者」。関白、近衛前久。やまと御所はうち続く混乱によってなにもかもが滞っており、とりわけ将軍・管領と三好松永の大戦と将軍・管領の都落ちという大事件があったため、正式にはまだ関白となっていないが、すでに就任は決定していた。武芸を好み、従兄弟の足利義輝とともに塚原卜伝のもとで太刀を学び馬で駆けることから、武家関白、とも呼ばれている。本名は晴嗣であるが、当人はその公家臭い名を嫌って自ら武家めいた響きを持つ「前久」を名乗っており、これが通り名となっていた。ついに、景虎は自身の生涯を大きく変えてしまうことになる男と対面していた。

 

 まさに公家の中の公家、貴族の中の貴族。男の面相などに興味のない景虎が「光源氏とはこのような貴人だったのだろうか」と想像するほどの、美丈夫である。細川藤孝のような「女めいた」美しさではなく、まさに男臭さと優雅さを兼ね備えた美男であった。

 

 血が繋がっている従兄弟の足利義輝が優雅さのかけらもない巨漢であるのに対して、近衛前久は優雅さと男臭さの二つを兼ね備えている。この男が武家の魂と公家の血を同時に併せ持っていることは、誰の目にも明らかだった。

 

「それにしても景虎。私は姫を恋に落としてしまう特技を持っていて、都では『乙女殺し』と呼ばれているのだが、そなたは顔色一つ変えぬな。その赤く輝く瞳には、私の眼力も通じぬらしい。さすがだ」

 

「『乙女殺し』、ですか?それは、技なのでしょうか……?」

 

「半ばは藤原摂家という血筋の力であろう。だから純粋な技とは言えぬが、都ではそれなりに重宝する。まつりごとを為す上ではな。もっとも残念ながら、戦には役立たぬ。武よりも文が尊ばれた『源氏物語』の時代であれば、強大な力となったのであろうが」

 

 近衛は「そなたの灼眼もいわば『男殺し』の力を持つ瞳であろう。そなたにとっては不要な力やもしれぬが」と不敵に笑った。景虎は、どう返事をしていいのか戸惑っていた。宇佐美定満もまた、こいつは異才だ。が、御所の頂点に立つ関白としてはこの男はどうか。オレのように武家に生まれついていれば才能を発揮できるだろうが、公家を束ねる人間としてはあまりに破天荒すぎるのではないか。と藤原家のために危惧した。

 

 そして近衛前久は、野望の持ち主でもある。

 

「私も武を求めて卜伝のもとで剣の腕を磨いたが、さすがに義輝にはかなわぬ。あれは、まさしく剣を振るうために生まれてきたような剣鬼将軍。その義輝を無刀で制するとは、景虎、そなたは間違いなく只者ではない。三好長慶と松永弾正の専横を、そなたならば抑え込めるかもしれぬな……が、毒には用心せよ。弾正は、毒を使う」

 

「承知いたしました。関白さまへの贈り物は、宇佐美が運んできております」

 

「銭なら要らぬ。食えるだけの分があればよい。私が欲しいものは、武具と馬だ」

 

「武具!?」

 

「私は、三条西のように地方大名のもとで歌などを教えて寄宿していこうとは思わぬ。私が藤原摂家に生まれた関白であるからには、天下を動かしたい。わが従兄弟とともに――関白と将軍とが歩調を合わせれば、この大乱を終わらせることができるとは思わぬか、景虎」

 

 御所と幕府。天下に君臨する権威と武家の統領とがともに歩むことができれば、必ず、と景虎は思わず身震いしながら答えていた。そして近衛前久もまた、天女めいた異相を持つ景虎に、未知の可能性を見出していた。

 

「しかし今の幕府には、兵力が足りぬ。応仁の乱以来、管領細川家もすでに死に体となり、足利将軍家が自ら管理している土地はもう、ほとんど残っていない。対する三好には、本国である四国から次々と送り込まれてくる兵力がある。義輝がいかに一騎当千の剣豪将軍であろうとも、兵力なくして三好松永には勝てぬ。ゆえに、義輝は朽木谷へ落ちることとなってしまった」

 

「近衛さまは、落ちぬのですか」

 

「たしかに、都に居座っていればこの命、危うい。何度も松永弾正の放った忍びに襲われもした。が、ことごとくを斬り殺した――将軍が不在である以上、関白だけでも都に留まらねば、三好松永は姫巫女さまをも廃したてまつるやもしれぬ」

 

「……まさか?」

 

「三好長慶は陪臣とはいえ四国の名族ゆえまだ話が通じるが、松永弾正ならば、やりかねぬ。が、そなたが生きる東国も下克上の世になっているようだな……今や、三条西は東国と御所を繋ぐ役目を果たしている。駿河の今川義元は、大軍を率いて上洛し、幕府の実権を握ろうとしている。尾張の織田信秀と美濃の斎藤道三、この二人の『下克上の男』が邪魔をして立ちふさがっているために、上洛が遅れているようだが」

 

 西国の大名はなにをしているのでしょう? と景虎は思わず尋ねていた。

 

「中国を制覇し、もっとも天下人に近かった大内義隆は、下克上によって殺された。武家でありながら、公家趣味にかぶれすぎたせいよ。豪壮で知られる出雲の尼子家も衰退しつつある。そして、豊後の大友家はあまりにも遠すぎる。当面の間、西国大名の支援は期待できまい。期待できるのは東国の大名のみ。が、私は今川家を頼ろうとは思っておらん」

 

 今川義元を担いで太原雪斎が上洛すれば、義輝を将軍として祭り上げながら、今川義元が副将軍あるいは管領となって政権の実権は雪斎が握るという、今川家による「武家政権」が成立するばかり。それでは、この乱世は収まらぬ、と近衛前久は説いた。

 

「義がない、というのでしょうか。わたしは、今川義元と太原雪斎は、不義と言えるほどの悪行は働いていないと思いますが……」

 

「義のみでは乱世は終わらぬ、景虎」

 

「しかし、駿河今川家の兵力は十分です。太原雪斎は隠れなき名将。近江の名門・六角家が支援すれば、今川軍ならば三好をも倒せるでしょう」

 

「景虎。今まで通りの『武家政権』ではダメだと、私は言っているのだ。宗教的権威がやまと御所にあり、地上を統べる武力を武家が持つ。この二重構造が、日ノ本が混乱を極めているひとつの原因だ」

 

「ならば、どうすればよいのでしょう」

 

「関白である私自身が将軍義輝とともに兵を率いて、公武を合体させる。武家だけでなく、公家もまた血を流して合戦場を駆けることで、公武合体政権を誕生させる。景虎。私は、北畠顕家(きたばたけあきいえ)になりたいのだ。南北朝の時代、北畠顕家は公家に生まれながら、自ら奥州に乗り込んで東国兵を率いて上洛し、足利尊氏軍と堂々と戦い、一度は尊氏を九州へと追い払はらう活躍を見せそして散っていった。たしかに天運なく敗れはしたが、北畠顕家の戦いには義があるとは思わぬか?」

 

「……北畠顕家公……」

 

「足利が北畠に敗れていれば、あるいは和睦していれば、公武合体は成ったはずだ。この国における神権と王権の二重構造は、解消できたはずだ……今の将軍・義輝と私とは、血が繋がった従兄弟同士にして、幼なじみであり、莫逆の友である。これは奇貨であり、天命である。私は、そう信じている」

 

 いずれ私が「戦う関白」として東国の兵を率いて上洛し、三好松永を一掃し、公武を合体させる。両者が合体してしまえば、御所が南北朝に分裂することはもう、ありえない。神権と王権とが姫巫女さまのもとに統一された時、この戦乱は終わる。

 

「が、今川と雪斎にはそのようなわが野望を語っても、理解されぬであろう。雪斎はあくまでも、旧態依然とした足利の血筋による武士政権を復興しようとしているのだからな。それでは三好が今川と入れ替わるだけなのだ。たしかに壊れた秩序を復興することも必要だが、なにもかもが元通りになるだけでは、同じことの繰り返しになる。景虎。義将であるそなたが、義輝と私の『兵』となってくれぬか」

 

 他の武士にこのようなわが志を説いても理解されまい。しかしそなたは別だ。御所と幕府の両方に仕え、双方の「盾」になってくれぬか、と近衛前久は鷹のような目を輝かせながら、景虎に訴えた。宇佐美定満が、まずい!と景虎の袖を引いていた。流石に、いつものゆるい口調では、語りかけられない。相手は、公家の頂点、関白なのである。

 

「戦場では景虎様の背後で寝ているだけの男ですが、長尾家の軍師として口を挟ませていただきます。まことに気宇壮大ですが、即答できる話ではありません、近衛様。これほどの大事とならば、時間を掛けて下準備を行わねばなりません。奥州に派遣され東国兵を束ねていた北畠顕家公は、そのわずか二十年の短い生涯の間に義を貫き武神とも言うべき無類の強さを誇りましたが、最後には足利尊氏に敗れました。それは、南朝方からの上洛命令があまりにも急で、東国で下準備をする十分な時間を与えられなかったからです。合戦の天才であった北畠顕家がもしも東国に盤石の基盤を築いていれば、必ず足利に勝っておりました」

 

 宇佐美定満、その通りである、と近衛前久は頷いていた。

 

「南北朝の戦乱がはじまった当初、南朝は東国に北畠顕家を派遣したのみで、西国をほとんど放置していた。それ故、一度奥州より長駆上洛してきた北畠顕家軍に打ち破られた尊氏は、九州で勢力を盛り返し、最後の勝利を収めたのです」

 

「その点、問題はない。南朝方も西国をおろそかにしたことを反省し、その後、九州に楔を打ち込んだ。今の九州には精強な薩摩隼人どもを束ねる武人の家・島津家がある。島津家は、わが近衛家の忠実な家臣である。私の身はひとつしかないが、東国で長尾景虎が、西国で島津家が私のために立ち上がってくれれば、北畠顕家の悲劇が繰り返されることはない――」

 

「景虎様は、関東管領上杉家の復興と、信濃川中島の防衛という二面作戦に入っています。大軍を率いて上洛するには、なお時間が必要となります」

 

「そうだな。私は、関白でありながらなにもできぬ己の境遇を前に鬱々としているのが耐えがたく、気が短い。待つことが苦手な性格なのだ。長尾軍を上洛させるにはどうすればよいか、その方法を考えておく。まずは、三好松永と再戦し、義輝を都へ戻さねばならない。それが先だな――」

 

「ですが……ひとつ気がかりなことが。将軍様と関白様とが決裂するという可能性は、ございませんか。関白様の公武合体策を、将軍様は……義輝様は承知しているのでしょうか?」

 

「むろんあれは武家の棟梁。心より承知はしておらぬが、理解はしてくれている。公武合体こそが、南北朝分裂からはじまった戦乱を終わらせる『遠回りの早道』であることを……が、私の発想は新しすぎる、とは常に言っているな……しかし私利私欲を持たず、『義』によって戦う、景虎ならば」

 

 景虎は「ともに戦いましょう」と近衛に即答したかった。が、宇佐美定満がこれほど必死で景虎と近衛の意気投合を阻止しようと粘ることも、理解はできた。景虎も近衛も、性急な性格だった。情熱に生きる人間として、よく似ていた。しかし、情熱だけではこれほどの大事は為せない。宇佐美は軍師として、「周到な計画と準備が必要だ」と二人を制したのだ。

 

 明後日、御所へ参内せよ、姫巫女様への拝謁を果たしていくがよかろう、と近衛前久は景虎に告げていた。

 

「姫巫女様は、そなたに『住国ならびに隣国治罰の綸旨』を賜る。信濃でも関東でも、そなたの信じる義を貫くがよい。私は義輝とともに都で戦い、機が熟するのを待とう。もっとも、いかに毘沙門天とはいえ、あの武田と北条を相手取った二面作戦が成功するとは私には思えぬが……」

 

 東国の秩序回復は、近衛様の志を実現する上でもどうしても必要なことです。私は戦います、と景虎は告げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 景虎のやまと御所参内は、近衛前久の働きによって成功を収めた。景虎は、当代の姫巫女より「越後とその隣国の治安を守るように」と綸旨を与えられ、天盃と御劔を賜り、越後守護代・長尾家の出自でありながら公に「越後守護」として正式に認められることになった。

 

 生まれながらに甲斐守護職の家に生まれてきた武田晴信には、わかりがたいことではあったが――下克上をなによりも忌いみ嫌う景虎にとって、足利将軍とやまと御所より正統な越後守護として認められたことは、兄から守護代職を、越後上杉家から守護職を継承して以来、ずっと胸にわだかまっていた悩みが晴れるかのような大事だったのだ。

 

 東国では関東管領復興。畿内では、足利幕府復興、そしてやまと御所復興。戦乱を義によって平定するという景虎の志は、このような壮大な形で具体化しはじめていた。

 

 常人ならば「これらすべてを成し遂げるなんて無理だ」と怖じ気づくほどの巨大な使命だが、景虎は自らが天から与えられた使命が重ければ重いほど、多ければ多いほど、かえって救われたような晴れやかな気分になれる。「無私」な少女は、己に欠けている「私欲」のために、いくつもの「義」をその心に抱え込まなければならなかったのだ。

 

 長らく塞ぎがちだった景虎に笑顔が増えたのは、この参内の時からであった。お嬢様の仕事がまた増えそうですと苦笑しつつも、上洛の成功のために心を砕いて奔走してきた直江が安堵したことは言うまでもない。次の景虎の目的地は、堺と高野山であった。が、その堺には、松永弾正久秀がいるのだった―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところは移ってその堺を目前としている北条為昌一行。雑賀での交渉を終えいざ京へと思って北上していた最中であった。そこへやって来たのは京の父・前久が景虎の応対をしている間に脱出してきたその息子、信尹だった。

 

「堺にいると聞いて来てみれば紀州へ行ったと言うから慌てて駆けてきたんだ!悪いことは言わねぇ、都へは来ちゃダメだ!親父殿が長尾景虎を呼びやがった。今三千の兵と共に都にいる!来たら殺されるぞ!」

 

 この言葉にやや驚いたものの、こういう場合のプランは用意してある。取り敢えず堺で様子を見て、彼らが堺へ行こうとすれば自分たちは反対に京へ向かい、入れ違いになる形でやり過ごそうと画策していたのである。三好家に既に話はつけてあるため、三好の勢力範囲ならば動き回れるし庇護も期待できる。長尾景虎が上洛しようとしている旨は物資の流れから筒抜けであった。しかし、こうして情報をくれる存在、しかも身分の高い存在がいるとは思いもしなかった為昌は予想外の事態に驚きながらも人の縁に感心していた。

 

「お教えいただき、ありがとうございます。ですが、ここで帰る訳にも参りません。上手く彼らを回避する術は思案済みですので、ご安心を」

 

「そ、そうか……良かった……」

 

「しかし、逆に信尹様こそよろしいのですか、我々への情報漏洩は御父上の意に背くことになりますが」

 

「親父殿は長尾景虎に『住国ならびに隣国治罰の綸旨』を出すように働きかけた。これの意味は分かるだろうからすっ飛ばすが、オレは反対したんだ。関東は良く治まってる。これ以上引っ掻き回してどうなる、ってな。だが親父殿は長尾景虎の武力を利用して公武合体なんかを夢見てやがる。あまつさえ関東に下向して第二の北畠顕家になろうって算段だ。絶対上手く行くもんか、気が短くてその癖気位は高い粗忽者だ。関東武士に支持なんかされるはずがない。むしろ、北条の方がマシだってなるかもしれねぇ。そう言ったんだが……」

 

「聞く耳は持って下さらなかったと」

 

「ああ。オレみたいな餓鬼が何言っても聞いちゃぁくれねぇ。ただ、お前は好きに動くが良いとも言われた」

 

「なるほど…」

 

 為昌は親譲りの頭脳を働かせる。近衛前久が北条に対し敵愾心を持っているのは知っていた。だが、その張本人が息子の自由な行動を許可するとは、どういうことか。簡単だ。家を割って勝者に付こうとしている。もし長尾景虎が勝てば――前久的にもそれが望ましいのだろうが――近衛は長尾の支援者として勝者になれる。京を抑えた長尾の力を背景に権勢を奮える。それこそ御堂関白藤原道長のように。だが、もし長尾が敗れれば。戦の最中で自分が死ねば。北条が日ノ本や京の政治に影響力を強めれば。近衛はおしまいだ。そうならないように信尹を北条のもとへ送り、協力させた。そうすればどうあっても近衛は勝者だ。実に汚いが、王道でもあり、常套手段でもあった。

 

 これに似た状況を我々は良く知っている。真田丸で一躍名を馳せた真田家。その犬伏の別れは有名な故事であろう。

 

「もしどうしても京へ行きたいなら二条晴良か一条内基を頼れ。あそこには話がついているんだ」

 

「先の関白様と亡き一条兼冬様の弟君の内基様ですか?」

 

「そうだ、アイツらなら反近衛の名目で仲良くなれるはずだぜ。オレはこんなだし、親父殿の子だからかあまりよく思われちゃいない。けど、あっちこっちの公家の家に潜り込んだりしてるんだ。子供のすることだし、まぁ……って思われてるのと、もしかしたらオレを取り込んで親父殿を倒す武器にしようと思われてるので見逃されてる。顔は割と広いんだぜ」

 

「諸々のご配慮、誠にありがとうございます」

 

 これは好機!と為昌も周囲も心中で沸き立っていた。公家が割れてくれれば最高の展開だった。それが叶ったのである。近衛の息子はこちら側。話を聞く限り二条と一条もこちら側。それに付随する公家も多いだろう。

 

「でだ、さっき親父殿の野望の話を二条晴良に言ったら『奴は姫巫女様とこの国の秩序を破壊する気でおじゃるか!応仁以来の大乱が起こりかねんでおじゃ……!』と激怒してな。ちゃんと北条が対抗勢力って吹き込んだから安心してくれ!今頃親父殿に対抗して『住国ならびに隣国治罰の綸旨』を北条にも出すように要求してるはずだ。今の姫巫女様の即位式は北条も大金を出してただろ?それもあってか当代の姫巫女様は北条に好意的だぜ」

 

 氏綱時代の出資が思わぬところで生きてきている。信尹自身も、粗野な感じのする子供ではあるが流石は藤原家の跡取り。政治力は高かった。子供だからこそ出来る行動力であちらこちらで繋がりを作っているらしい。この話が本当ならば五摂家は割れまくっている。嫌味のように近衛に資金援助をしつつ、他の五摂家にはそれを上回る大金や名物を送れば関係性も深められそうだ。いい仲介役兼紹介役も向こうから転がり込んで来てくれた。棚から牡丹餅どころか黄金が降って来た気分である。

 

 今が好機だった。今こそ京へ乗り込んで朝廷工作を行う時である。

 

「ここまでのご厚意、なんとお礼を申し上げて良いか。この御恩は必ずお返し致します。我らは早速京へ向かいます。今が好機ですから」

 

「……そうか。覚悟は固いのか」

 

「はい。必ず成し遂げなければならないことが、我々武士にはあります故。姉上の命は、己の命よりも重いのでございます。御家の為、関東静謐の為、必ずやこの外交は成功させねばなりません」

 

「分かった。オレも武士に憧れる身。”覚悟”は知ってるつもりだ。近衛の懇意にしてる船がある。これで京まで行こう。オレも付いて行く」

 

「ですが……」

 

「いや、これくらいやらせてくれ。オレといれば誰も手出しは出来ないからな」

 

「……お言葉に甘えさせて頂きます」

 

 会話の最中にも様々な段取りを組み替えている。移動の手段、三好家との交渉の順番を後回しにして公家を優先することで発生するリスクとリターン、堺での活動に出る支障とその対策。すべてがカチッとハマって結論が出たが故の言葉であった。

 

「さっき恩を返すと言ったな」

 

「はい、申し上げました。お望みがありましたら、何なりと」

 

「いや、今は良い」

 

「はぁ…?」

 

「いつかオレは関白になる。親父殿や、他の摂家も蹴散らして、あと十年だ。十年以内に関白になる」

 

「それはなかなか大きく出られましたね。ですが、大望を抱くは悪しき事ではありません。それに向かって邁進出来るならば、でございますが。今の御働きを見ていると、僭越ではありますが、いずれ摂政関白太政大臣にも手が届くと愚考する次第でございます」

 

「そうか、そう言ってくれると嬉しい。でだ、関白になれたら、必ず迎えに行く。それまで、待っていてくれるか」

 

「へ……?」

 

「オレには風流な歌なんて読めねぇ。関東の大家・北条に相応しい男になったら、そ、その……正妻に迎えたい」

 

「私を……?姉上ではなく……?」

 

「北条氏康が美人なのは風説で知っているが、そんなのどうでも良い。オレが惚れたのは姉の方じゃない」

 

 呆気に取られているのは為昌と同行してきている者たちである。北条に天運が向いている、と喜んでいたらまさかの求婚に巻き込まれたのだから一大事だ。しかも相手は藤原家の氏長者の近衛家子息。そんじょそこらの相手ではない。まぁ一応北条氏康は従四位下の左京大夫。現在の大河ドラマの主人公・北条義時と同じ位に位置している。しかも自称ではなくキチンとした送られた官位だ。普通に殿上人である。なのでまぁ家格的にはギリギリセーフとも言える。今後もし氏康の地位が上がればより問題がなくなっていくだろう。

 

 伊勢康弘や小笠原康広が唖然としている中、当の為昌はまんざらでもない顔をしている。割とクリティカルヒットな発言を食らった上に、信尹は子供とは言え姫武将殺しと謳われた父の美貌を受け継いでいる。なよっちくないイケメンに求婚され、割とグラグラしていたのだ。しかも、彼女の好みの年齢と合っている。だが、はい喜んで!と言う訳にもいかない。大人の対応を迫られていた。それに、割とこういう子供の頃の好意対象は変わっていく傾向にある。

 

「分かりました。もし、信尹様が十年以内に関白に御成り遊ばされた時、まだお気持ちが変わっていませんでしたら喜んでお側で生涯を共にさせて頂きます」

 

「本当か!約束だぞ!」

 

「はい、勿論でございます。どうせ私は姉上が婚姻なさるまで独身でしょうし、問題ありません。姉上の恋が叶うまで十年弱はかかるでしょうから」

 

「ありがとう……必ず行くからな」

 

「小田原にて、お待ち申し上げております」

 

「良し!では早く行こう!船を待たせてある、こっちだ!」

 

 勢いよく馬と共に駆け出す信尹。それを慌てて追う一行。その中心の為昌の顔には年相応のにやけ顔が浮かんでいた。都の御曹司から求婚とは……まさに源氏物語のよう。田舎の姫武将がきいたら血の涙を流しそうな話だと思い、笑みをこぼしている。髪を伸ばしてみようか、姉には及ばないにしても、少しくらいは。家臣に恋してる姉よりかは前途がありそうだと苦笑する。恋する乙女の顔をしている彼女は多分、姉妹の中で最もそっち方面では進んでいた。その頃小田原で大きなくしゃみが響いたが、それは別の話。

 

 北条為昌十八歳。恋愛対象は年下。本人は謙遜しているが、普通に美人で物静かで優しくしてくれるお姉さんに信尹少年の脳は既にグチャグチャなのは言うまでもないかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな恋愛強者が地道に恋の道を驀進している中、恋の道に全く縁のない、と言うか拒否している少女が行き違いになるように堺へ下向していた。彼女が堺へ着いた時、既に為昌と一行並びに信尹は船で京へ着いていた。

 

 黄金都市・堺は「会合衆」と呼ばれる商人たちが自治権を持った畿内屈指の中立地帯だが、かねてより貿易を通じて三好家との関係が深く、この頃は三好家当主・三好長慶の片腕とも言うべき姫武将・松永弾正久秀が幅を利かせていた。松永久秀はもともと氏素性のまったく知れない堺の女商人で、管領・細川晴元に父親を殺されて四国に追われていた姫武将・三好長慶に乞われて武家に転進したという下克上の象徴とも言うべき存在である。

 

 三好長慶を畿内の覇者……天下人にすると誓った松永久秀は、足利幕府……将軍・足利義輝と管領・細川晴元を敵に回して、京で摂津で丹波で戦と謀略に明け暮れていた。相国寺の戦いでは幕府方が陣取る京の相国寺を容赦なく焼いて幕府軍を敗走させた。景虎が本来都で謁見するはずだった将軍・足利義輝が近江の朽木谷に逃れていたのも、三好長慶・松永久秀に敗れたからだった。その松永久秀が、高野山を訪れる前に堺に立ち寄った長尾景虎一行を館に迎えて、盛大な茶会を開催した。

 

 むろん、律儀な景虎は断れない。

 

 足利幕府を容赦なく潰して三好長慶を畿内の女王にするべく暴れ続けている松永久秀は、乱れに乱れた日ノ本の秩序を再生復興しようとしている景虎にとっては、武田晴信や北条氏康以上の悪であり敵ではあったが、松永久秀が礼を尽くして自分たちを茶会に招いた以上は、堂々と会って幕府と天下の安寧について語り合わねばならなかった。

 

「うふ。わたくしとは真逆の色の真っ白い肌をお持ちのようですね。長尾景虎さま。見た目だけでなく、心に抱いている志も、わたくしと貴女とでは水と油といったところでしょうか」

 

 松永久秀は、日ノ本人とは異なる、褐色の肌の持ち主だった。

 

 長尾方の出席者は、景虎の他に、宇佐美定満、直江実綱、柿崎景家の三重臣、そして「礼節が必要な場は俺さまに任せろ!」としゃしゃり出てきた小笠原長時。

 

「うおおお、すげえ色気たっぷりの美人だあああ!松永弾正といえば下克上の権化のような稀代の悪女と聞いていたが、見ると聞くとは大違い!俺さま好みだ!弾正ちゃん!ぜひ、この俺さまと一夜の閨をともにしないか!」

 

「あら。お世辞でも嬉しいですわ。天竺より取り寄せた珍品の茶をどうぞ、小笠原様」

 

 目の前に、足利幕府の権威を踏みにじっている者がいる。景虎はずっとぴりぴりしていた。景虎たちは今、敵陣営の真ん中に飛び込んでいるのだ。いつ何時斬り合いになるかもしれないという緊張感は、小笠原が鼻の下を伸ばして騒ぎはじめたために、途切れた。

 

 宇佐美が「なにが幸いするかわからねえな」と苦笑する。

 

 松永久秀の側にも数名の出席者がいたが、みな、傀儡のように表情がなく、発言もしない。景虎の目には誰が誰なのかよくわからなかった。

 

「松永弾正殿。将軍義輝様と管領細川様を、京の都へ戻していただきたい。私はそのことをお頼みするために、高野山へ向かう途上で、この堺へ来た……むろん噂の種子島を購入するなどの仕事もあったが、足利幕府と三好家の長い対立を終わらせたいという思いも、あるのだ。都は戦乱によって荒れ果てている」

 

 景虎が、微笑みながら小笠原に茶を点たてていた久秀に、本題を切りだした。

 

「種子島でしたら、今井の家に千金を積めば手に入りますわ。ですが、足利幕府との戦いは、一朝一夕では終わりそうにありませんわね」

 

「なぜだ。三好家は、細川家の家臣。足利将軍家の陪臣ではないか。将軍家に弓を引いていいわけがない」

 

「世を乱したのは細川家のほうが先ですのよ、景虎さま。わが主・三好長慶様は、お父上を主君である細川晴元に殺されたのですわ。長慶様のお父上は、この堺で切腹し、命を落としたのです。しかも細川晴元は直接手を下さずに、本猫寺門徒に一揆を起こさせ、お父上の命を奪わせたのです」

 

「本猫寺門徒の一揆に……」

 

「もっとも長慶様は、本猫寺には恨みはありませんの。なぜならば、勢力を増した本猫寺もまた、細川晴元の策謀によって本山の山科を焼き払われるという憂き目にあったのですわ。しかも、本猫寺と和睦したのちは、こんどは京の都で台頭していた法華宗門徒を焼き討ちするために、叡山の僧兵に京の都を襲撃させた。管領・細川晴元とは、そういう京に巣くう化け物のような男。わたくしの家族もみな、天文法華の乱に巻き込まれて死にましたの」

 

「では……長慶様と弾正殿は、同じ細川晴元という仇を持つ者同士ということなのか……」

 

「そういうことですわね。長慶様とわたくしとは、二人で一人ですわ。ただ、長慶様は下克上を恐れるお優しいお方。父親の敵である細川晴元をどうしても殺せないのです。あの者を殺し、長慶様が名実ともに天下人になれば、畿内の戦乱は収まりましょう。歯がゆいことですわ」

 

 景虎の父・為景もまた、越中の一揆と戦って命を落としている。

 

 自分と三好長慶とが実は同じ境遇を持つ姫武将だと知った景虎は、

 

「お会いしたことはないが、長慶殿には義の心があるのだろう。父の復讐よりも、天下の秩序を壊さずに守り抜くことのほうが肝要だと、知っておられるのだろう」

 

 と思わず久秀に訴えかけていた。

 

「恨みに対して恨みで返していれば、いつまでも戦が続き、世の乱れは終わらない。どこかでこの連鎖を断ち切らなければ、京の都は完全に灰燼に帰してしまう……都の荒廃は酷いものだった。それに、今の公方様は細川と三好の因縁とは無縁のお方のはず。本来ならば長慶殿の家臣である弾正殿こそが、この連鎖を断ち切るべき立場であるはず」

 

「うふ。長慶様とあなたとは似ておられるようですわね。心の澄み切った、かわいいお方。人を憎みきることのできないお方。しかし、家臣たる者は、そのような主君にできぬ汚れ仕事を肩代わりしてこその家臣。貴女に仕える宇佐美様と直江様は、どうやら貴女に甘すぎるようですわ」

 

「弾正殿。個人的な復讐のために、戦を起こし町を焼き民を苦しめていいはずがない。そのような戦には、義がない。戦は、秩序と正義を回復するためにのみ許される必要悪であるべきだ」

 

「秩序とは、足利幕府のことですか、景虎殿?」

 

「やまと御所が神権を。足利幕府が王権を。はるか昔から、決まっていることだ。この秩序が応仁の乱によって崩れたことから、日ノ本全土が戦乱の世となったのではないか。信濃では武田晴信が守護の小笠原長時を追い、関東では北条氏康が関東管領の上杉憲政殿を追った。肝心の畿内で、足利将軍と管領に弓を引いて都を破壊しているそなたこそが、この下克上の中心にいると言ってもいい」

 

「応仁の乱から、何年が経っているとお思いですか、景虎殿?統治能力を失った名ばかりの足利幕府など、潰してしまったほうが早いとは思いませんこと?あのようなものを中途半端に崇めて生き残らせているからこそ、乱世はいつまでも終わらぬのです。誰かがすべてを焼き尽くして、まっさらにしなければ、新しい秩序は生まれませんわ」

 

「新しい、秩序?」

 

「すでに将軍には権威はなく、叡山の僧兵たちは利権を守るために京を襲う私兵と化し、管領は台頭してくる己の家臣や民衆を粛正して自分の権益を守るために好き放題に陰謀を巡らせております。景虎殿。貴女が関東管領を復権させても、将軍を京に呼び戻しても、なにも変わりませんのよ。すでに人々の心は……民の心は、足利幕府から離れきっておりますわ。古き秩序を形ばかり再興すれば世の乱れが収まるという貴女のお考えは、あまりにも甘く、幼い。それは、武家の考え方ですわ」

 

「武家の……」

 

「わたくしは商人の考え方をいたします。新しき秩序を作る力とは経済であり、銭ですわ。それ故に、堺を抑えておりますの。わが主・長慶様を天下人の座に据えて新しい世を切り開くためには、古き亡霊の如き将軍家と管領家は、潰してしまわなければ……その仕事は、お優しい長慶様には不可能。いずれわたくしが、長慶様にお仕えする家臣として、きっとやり遂げてみせましょう」

 

 経済こそが民の暮らしを安定させるために必要なものであることは、景虎も理解していた。景虎が民を搾取することなく大義の戦を続けることができるのも、越後長尾家に青苧交易による莫大な富があるからなのだ。しかし、銭は人の飢えを満たし命を与えてくれるが、銭だけでは人の心は癒やされず、救われることはない。だからこそ、本猫寺をはじめとする幾多の新興教団に、心の安寧を求めて人々が殺到するのだ。久秀が都の秩序を燃やし尽くした後、久秀がそのような人々を救うための新たな秩序を作ることができるとは、景虎には思えなかったし、久秀自身も自分にはそのような構想はないと知っているようだった。

 

「わたくしには慈悲心、信仰心、神への畏れがありません。そこはしかし、わが主・長慶様の領分。わたくしが古き秩序を壊し尽くした暁には、長慶様が新しき秩序を生みだしてくださいますでしょう」

 

「三好長慶殿が私と似た姫武将なのであれば、それはできない。自分の家臣が幕府を蔑ろにして主筋を殺したりすれば、自分は下克上を為してしまったと戸惑い、苦しむだけだと思う……私ならば、苦しむ。私を支えてくれる忠臣の中には、私に謀反した家臣を討てと薦めてくる者もいるが、私にはとてもできない……」

 

「義理堅く、正義感に溢れたお方ですこと。わたくしが直江津の商人であれば、おそらくわたくしは貴女にお仕えしていたことでしょう。宇佐美様と直江様ほど、甘くはありませんわよ。わたくしが貴女の家臣となれば、まずは獅子身中の虫である長尾政景を毒殺いたしますわ。あの者は、長尾家の分家筋にて、貴女の姉婿。しかも今この隙をついて春日山城を奪い取ってしまいかねない野心家ですもの。うふ」

 

 直江が、松永久秀を思わずにらみつけていた。

 

「我らがお嬢様は、姉婿を暗殺するような非道の真似はいたしません。わたくしがどれほど勧めても……ならば家臣たるわたくしたちは、ぎりぎりまでお嬢さまのご意志を尊重するのみ。弾正どの。あなたは僭越すぎる。主君と家臣との区別が、ついておりません」

 

 まるで久秀に自分の腹のうちをすべて見透かされているかのような不快感を、直江は覚えていた。

 

「直江様。野心を抱いた同族こそが、家を乱すのです。長尾政景を殺さねば越後は必ずや乱れましょう。景虎様がこうして畿内へ上洛している隙に、きっと足下の越後で謀反が起こりますよ」

 

「起こりますか?長尾政景はそこまで愚かではありません。誇り高く扱いづらい者ではありますが、お嬢様に戦で敗れて以来、己の分をわきまえております」

 

「では、政景ではなく他の者が、武田晴信に調略されますわ。もしくは北条氏康に」

 

「……武田晴信、北条氏康……」

 

「わたくしの目と耳は遠くまで効きますのよ。晴信は、北陸の一揆衆ともよしみを通じている様子。先の川中島の合戦で越軍の強さを知った晴信は、これからは搦め手を用います。越中一揆と、越後武将の謀反。越後を内と外から締め上げるおつもりでしょう。しかも、そんな状況を小田原の女王は黙って座視はしないでしょう。既に行動を起こしているやも……。北条では貴女に対しての蜘蛛の糸が張り巡らされております。その策謀に引っかからねばよろしいですが」

 

 直江は、猿たちが越後諸将を監視してはいるが……武田にも真田忍群がいる。監視の目をすり抜けることは可能だ。と唇を噛んでいた。自分が、宇佐美定満以上に悪辣な越後一の策士だという自負はあった。だが、松永久秀の目には、そんな彼も赤子同然に見えるらしい。それほどに遠くの国の情報まで自在に手に入れるとは、如何なる忍びを用いているのだろうか。

 

「景虎様の武をもってすれば、謀反の鎮圧など容易いことでしょう。ですが――長尾政景が許され続ける限り、謀反劇は終わりません。長慶様が細川晴元を殺さねば、畿内の戦いが終わらぬのと同じです。禍根は、家臣たる者が、主命に逆らってその手を汚してでも断たねばなりません」

 

 貴方方も何年か京の都であの化け物どもと戦っていれば、必ずわかります。越後や信濃や関東のような田舎の武家たちはみな、荒々しいけれども純朴ですわ。畿内の……とりわけ京の権力者どもはまるで違いますのよ、彼らは一種の妖怪なのですよ、義だの慈悲だの神への信仰だのといった美しいものをすべて飲み込んで己のために利用し、捨てる。それが京に憑つかれた化け物どもの能力です、と久秀は怪しく笑った。

 

 籠に入れていた虫が、鳴いた。久秀が飼っている鈴虫だった。

 

「この鈴虫、三年ほど生きております。わたくし、長寿の法を探し求めておりますの。五十年しかない命が五百年に延長されれば、人間の心ももっとましなものになるのではないかしら。黒い憎しみに取りつかれているわたくしも、父上の仇討ちと主家への忠義心との間で悩まれ続けている長慶様も……」

 

 ああ。極悪人と噂されている松永久秀の心もまた、飢え渇いている。私に弾正殿の心を癒やすことはできるのだろうか。景虎は、武田晴信の面影をなぜか年の離れた久秀の中に、見出していた。権謀術数を用いることを躊躇わず、己の手を汚し、悪人という評判をものともせずに己の野望のために突き進む姫武将。しかしその心の中には、なにか大きな穴が、開いている。その穴を埋めるために、戦い続けねばならないのだ。景虎には、それが永遠に終わることのない堂々巡りのように思われて、悲しかった。それでもまだ、武田晴信には家族がいる。松永久秀には、その家族すらいないのだ。もしも主君の三好長慶が死んでしまったら、久秀はどうなってしまうのだろうか、と景虎は久秀の心身を案じていた。もう、久秀を悪人として成敗する意志は、なくなっていた。ただ、旧怨を水に流して、流浪の将軍・足利義輝と和解してほしかった。三好松永と管領・細川晴元の争いは、やはり、幼くして名ばかりの将軍職を継いだ義輝自身にはなんの責任もない話なのだ。

 

「細川晴元の息の根を止めるには、あの者に荷担する丹波の国人どもを押さえ込まねばなりません。わたくしはしばらく、丹波平定のために奔走することになりますわね。長慶様もわたくしも婿を取って子を産むような時間がありませんの。三好家にはいくらでも養子にとれる子供がいますし、わたくしも義弟を迎えて家の体裁は整えていますけれど、景虎様は生涯不犯を誓われているとか。ですが……恋のひとつも経験せねば、貴女が追い求めている理想の貴女、長尾景虎の完成形を見ることはできないでしょうね。せっかく堺に来られたのですから、風流な恋を経験しておくのも一興ですわ」

 

「弾正殿。オレたち家臣団も、景虎には婿取りを勧めてはいるんだぜ。関東に信濃にと義戦を続けている今は無理だが、やがて落ち着けば」

 

「うふ。越後には姫武将の伝統がございませんでしょう?女であることと戦国武将として生きることとの両立は、まことに難しいもの。しかも、敵を許し城を奪わぬ義戦などを貫いていては……武田晴信や北条氏康との戦いは終わることがないでしょう。その『やがて落ち着く』時が景虎さまに来るとは思えませんのよ、宇佐美さま」

 

「ああ、困難だ。だが、あんたみてえに下克上を生きがいとするような姫武将には、景虎はなりたくてもなれねえよ。景虎は復讐のために姫武将になったんじゃねえんだからよ」

 

「花が散るのはあっという間。とりわけ景虎様は失礼ながらご短命なお方とお見受けいたしますわ。わたくしが飼っている鈴虫のように、命と若さを延長するおつもりが景虎様にあるならば、薬をお譲りいたしますけれども」

 

「……命を延ばす、薬か……」

 

 もういい、宇佐美。あやかしの薬など要らぬ。恋など「源氏物語」を読んでいればそれでいい、と景虎は答えていた。

 

「新しい世の秩序も持たぬ者が、今の世の秩序を壊してもいいという道理はない。弾正殿。それでは貴女は、この世のすべてを焼き尽くすまで破壊を止めることができなくなる」

 

「貴女も同じでしょう。長尾景虎様。男女の愛憎も知らぬ者が、日ノ本の人々の荒んだ心を癒やし救おうなどと。あなたこそ、終わることのない虚しい義戦を止めることができなくなりますわ。不世出の戦の天才でありながら、その生涯を、無為な義戦に浪費してしまうことになりますわよ」

 

 貴女がそのおつもりになれば、畿内も天下も、いえ、海の外の世界すらも、掌中に収められるほどの戦の才を持ちながら、貴女の人生は孤独と徒労のままに終わってしまいます、それではあまりにも惜しい。貴女ほどの美しいお方が――久秀が浮かべた微笑の真の意味を、この時、景虎たちは読み取れないでいた。久秀自身もまた、京の都を舞台に妖怪たちと暗闘を繰り広げてきた、海千山千の妖怪なのだ。

 

「最後に一つだけ。貴女すら翻弄してみせた一条土佐守。小弓公方を射殺し、今川を破り、河越の名将と名を馳せておりますあの男。土佐生まれで堺で遊学し小田原に仕えたと吹聴しておりますが……」

 

「あの男が何か?」

 

「わたくし、堺には長い事親しくしております。しかし、あれほどの才を持った者がいたと言う話はとんと聞きませんわ。能ある鷹は爪を隠せども溢れるもの。それに、三好に仕えなかったのも謎が深いですわ。土佐の話は確かめようがございませんが、堺云々の話は嘘八百の可能性も。あの者が何者なのか、何をしていたのか。その前半生は全く読めません。わたくしや美濃の斎藤道三と似ております。わたくしは蠍、道三は蝮。そしてあの者は蜘蛛。毒を使わぬ代わりに、糸で絡め取り、喰らい尽くす。もしかしたら、貴女もわたくしも、天下すらも、その糸に絡めとられ操られておるのやもしれませんわ。対峙なさる時はお気を付けて……」

 

 そう言うと、彼女は怪しげに笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「むう。松永弾正め、まことに妖しい女であったな。景虎様の茶に毒を入れられるのではないかと冷や冷やものだったが、畿内で覇権を争っている三好家と、東国戦線で義戦を重ねている長尾家とは水と油のような関係ではあれど直接は敵対してはおらん。毒殺は免れたようじゃ。これも景虎さまへ与えられた御仏のご加護であろう。南無阿弥陀仏!」

 

 商人町である堺の宿泊先は、京での宿よりもさらにいくつかに分散した。宇佐美、直江、柿崎の三家老は同宿となり、景虎は単身で別宿を取った。もっとも、景虎が泊まる屋敷には連れてきた軒猿を密かに配置してあるので、景虎に暗殺者の魔手が伸びることはないはずだった。

 

「……堺商人たちは海千山千で、お嬢様が兵を率いられて戦う武家の合戦よりも、はるかに手厳しいものでした。本猫寺の懐柔も、なかなかに難しい。当主が幼いけんにょどのに交代する時期が迫っているということで本猫寺内部がごたごたしていて、しかも、このけんにょどのがすでに武田晴信と肝胆相照らしているようです。宇佐美様。貴方も少しは働いてくださいませんか」

 

 青苧座商売の交渉と、大坂本猫寺との交渉に奔走した直江は、珍しく疲れ果てている。

 

「悪いがオレは叡山と高野山に景虎を登らせる交渉で手一杯だ。どちらも公式には女人禁制だからな。麓までは認められても、頂上までは難しいな。特に、叡山は。そもそも、叡山の根本中堂なんぞに景虎を入れたら、あいつは感極まってそのまま出家しかねない」

 

「越後の財政を支える商いの主、東国で合戦を戦う武家、敬虔な信仰者、と、お嬢様はいくつもの世界に興味を抱きすぎです。その上、足利義輝様や近衛前久様にも深入りしすぎです。東国と畿内の双方の軍事情勢に同時に首を突っ込むなど不可能ですのに。それなのに、恋愛と祝言とは未だに拒み続けておられます……松永弾正などに心配されるとは」

 

「あの女はなぜか景虎に好意を抱いてはいるようだが、深情けをかける女だな。かえって面倒なことにならなきゃいいが」

 

「もう会わなければよいでしょう。これ以上、畿内の政争にお嬢様を関わらせてはなりません。ただでさえ、越後諸将は分裂しているというのに。関東遠征派も信濃派も、お嬢様が東国を放りだして長々と畿内に居座り続ければ、いずれ怒りだします」

 

 数珠を手に念仏を唱えながら、柿崎景家が目を細めた。この男は、戦場では野人の如き膂力を震う凶暴な殺人鬼と化すが、戦をしていない時には徳の高い禅僧のように物静かになる。

 

「宇佐美定満と直江実綱。そこもとたちは景虎様にあれもこれもとものを教えすぎ、理想を説きすぎたのだ。景虎様は、誰よりもお優しきお方故、二人の夢をともに背負い込んでくださったのだ。村上、小笠原、上杉憲政を受け入れたのも、景虎様のお優しさ故。困窮した将軍様や関白様に頼まれれば、否とは言えまい。が、このままでは景虎様は生涯不犯のまま……それではあまりにもお気の毒。良き殿方があらわれてくれるよう、私は御仏に祈るばかりだ。南無阿弥陀仏」

 

 お嬢様の評判を高め、見識を深めていただくために上洛を計画したわたくしが言うのもなんですが、京との関係が必要以上に深まればお嬢さまの仕事と負担を増やすばかりです。少なくとも東国の戦線が片付くまでは、上洛はこれを最後にしたほうがよさそうですねと、直江大和がため息をついた。

 

「お嬢様は人が良すぎるのです。慈悲を説いたのはたしかにわたくしですが、人の身体はひとつしかないというのに。東国と畿内で同時に義戦を遂行するなど不可能です。川中島と関東の二正面作戦ですら、無理がありますのに」

 

「しかし青苧の販路は目論見通りに拡大できそうなのだろう、直江?武田晴信はすでに先手を打って三条西家や本猫寺を押さえていたが、お前がこうして直接畿内へ乗り込むことで、その豪腕で情勢をひっくり返したはずだ。武田晴信にも、弱点はある。慎重すぎて、自ら少人数のみを率いて強攻上洛するような危険は決して犯さない」

 

「宇佐美様。むしろ、お嬢様の義と武に期待をかけてくださる将軍と関白・近衛様のほうが問題でしょうね。お嬢様があのお二方の要請に応えてしまえば……」

 

「景虎の戦の才能は、唯一無二のものだ。景虎のいない越後軍は、豪族国人がめいめい好き勝手に集まっただけの烏合の衆。複数戦線は無理がある。川中島での武田晴信との合戦に絞らなければ、景虎の義戦は……松永弾正が言ったように、千日手になるぜ」

 

 宇佐美も直江も、武田晴信との合戦がこれほど激烈な、そして困難なものになるとは当初は予想していなかった。甲斐信濃という山国に押し込められて海路を持ち得ない武田家には、畿内にまで介入する力はないと思っていた。ところが京と堺に来て、晴信の政治力に舌を巻いたのだ。甲斐にいながらにして、晴信は畿内の情勢を掴み、調べ上げ、長尾家を経済的・軍事的に封じ込めるために先手先手を打っていた。

 

「景虎を高野山に登らせたら、すぐに越後へ戻ったほうがいいな。国人の謀反は、あるかもしれねえ」

 

「武田北条が越後でも蠢動しているということですね、宇佐美様」

 

「ああ。松永弾正は、なにかを掴んでいるのかもしれない」

 

 松永久秀にはたしかに、景虎への殺意はなかった。むしろ、清廉可憐な景虎に「貴女の澄みすぎた夢は成就することはない」と忠告しつつも、自分とは好対照すぎる景虎に好意を抱いたらしい。武田晴信が景虎を憎みきれず、むしろ惹かれているのと、同じである。だが松永久秀の稀代の悪女らしい「深情け」癖は、宇佐美と直江の想像の上を行った。

 

 深夜。商家の個室で眠りに落ちつつあった景虎のもとに、密かに這い寄る者がいた――。

 

 元信濃守護の、小笠原長時であった。松永久秀は、小笠原長時の茶に、一服盛っていたのである。その薬は、毒ではない。ただ、小笠原長時の理性を吹き飛ばし、押さえ込まれている欲望を解放する類いの麻薬だった。もともと景虎を「絶世の美少女」と萌え狂っていた小笠原がこれまで自分を律していたのは、景虎の寝込みなどを襲ってもしも拒まれれば越後に留まれなくなり、逃げだす他はなくなるからだった。

 

 越後諸将は「景虎様は五年間、操を守られる」「誰が景虎様の婿となるかは、その五年間という禊の期間が過ぎた時に決まる」「抜け駆けする者は許さぬ」と、景虎争奪戦について一種の不戦協定を築いている。自分こそが勝者になると信じて疑わない長尾政景が、諸将に睨みを利かせているのだ。長年景虎に恋し続けている政景をこの件で切れさせれば、政景は確実にその者を殺すために挙兵するだろう。景虎が止めても、収まるまい。そうなれば、もはや越後にはいられなくなるのだ。

 

 さて、領地も兵も失いほとんど身ひとつで越後に寄宿している小笠原長時。いくら稀代の女好きであろうとも、景虎の寝込みを襲う危険を冒すことは不可能なはずだった。だが――。

 

「むほおおおお!弾正ちゃん家での茶会のあと、なぜか全身が火照ってもはや辛抱たまらん!もう、信濃に戻れなくなっても構うものかーっ!やはり景虎ちゃんは俺さまの女になるべきなのだ。高野山なんぞに登られてしまったらもう口説けなくなる。今宵、一世一代の夜襲をかけてやるぜえええ!ぐふふふ!」

 

 そんな旅先で一服盛られ、さらには松永久秀から、密かに、越後では諸将が信濃派と関東派で揉めているとか。もしも越後を追われることとなりましたら、三好家に駆け込まれますよう。わが主・長慶様はまもなく天下人となられます。わたくしは細川晴元を討った後、長慶様を将軍に押し立てて三好幕府を開かせるつもりです。しかしながら、四国の三好家の武将は荒くれ者が多いのです。礼法を極められた小笠原流継承者はきっと歓待されますわよ。うふ。と口頭で「亡命先の保証」をもらっていた。

 

 むろん、すべてが「長尾景虎がこのまま生涯不犯を貫くのは不憫、恋を知らしめてあげたい」という余計な深情けを景虎にかけてきた松永久秀の企みなのであるが――。

 

 茶会の席で、景虎の恋の相手として小笠原長時を選んだのは、明らかに簡単に暴走させられる男だったからである。直江と宇佐美の二人は明らかに景虎を「女」ではなく自分の「娘」として愛していたし、それに茶に一服盛られればすぐに見破る用心深さと知力を持っていた。柿崎景家は一服盛られても「邪念よ去れ!南無阿弥陀仏!」と気合いで耐えきってしまう堅物だった。

 

 景虎ちゃんを俺さまのものに!という欲望を抑えることなく悶々としていた小笠原長時が、最適だったのだ。むろん、小笠原長時は浮気癖が酷くて景虎の生涯の伴侶などにはなり得ぬ男ではあるが、いちど恋を覚えればもう殿方を拒む必要もなくなる。いずれは運命の殿方に出会うことになるでしょう、と久秀は景虎のために計らったのである――まことに、余計な計らいではあったが。

 

 春日山で蝶よ花よと育てられてきた景虎は、寝込みなど襲われたことがない。旅の疲れもあって、寝室ですやすやと眠っていた。

 

 小笠原長時は長い犬歯を剥き出しにして「ぐふふふふ。景虎ちゃ~ん!いっただっきま~す!」と眠っている景虎めがけて「ぴょん」と飛び上がり、文字通り突撃した――。が、飛び起きた景虎が突き出して来た掌に「ぽん」と腹を押されると同時に、凄まじい速度ではね飛ばされて池へと落とされていた。

 

「ギャー!?気がついたら、すっ飛ばされて……なんじゃ、こりゃあああ?」

 

「私を襲おうなどという悪心は捨てよ、小笠原長時。五年の猶予は方便。私は毘沙門天の化身としての力を保持するために、生涯不犯を誓った身だ。力ずくで私を奪おうなど、無駄だ。せめて言葉でも尽くせ」

 

 言葉なんぞ尽くしている暇があるかーっ!と長時はずぶ濡れになりながら吼えた。

 

「だ、だが、景虎ちゃんは強すぎる!なんだ、今のは?誰がどんな攻撃をかましても、まるまる弾き飛ばしちまうというのか!?そうだ、種子島なら……いや、それじゃ景虎ちゃんの美しい身体に傷が!それじゃ意味ねえ!だーっ!千日手だーっ!ああ……天は俺さまにこれほどの美少女を見せておきながら、指一本触れさせてもくれねえというのか!こんな不条理があるかーっ!せめて唇だけでも……畜生、呪われろーっ!天も地も裂けろーっ!」

 

「薬でも飲んでいるのか……」

 

 呆れた声で漏らす景虎に、小笠原長時は「くっそー! 景虎ちゃんの護身の術、必ず破る!修行を重ねてきっと破ってみせるぜえええ!俺さまはいずれ景虎ちゃんの武を越える!生まれてはじめて本気を出す時が来たぜえ!それまで、さらばだ!」と叫びながら、壁を登って屋敷から逃走していった。

 

 景虎は、

 

「……ふう……信濃の守護殿が、長尾家から逐電してしまった……これで、川中島で晴信と戦い続ける大義が半ば失われてしまった」

 

 と呟く。だがしかし、それでも私は武田晴信を必ず「父を追放した娘」という苦しみから解放したい。そのためならば、何度でも川中島で戦い、いつかきっと私が信じる義こそが晴信にとって必要なものなのだと理解してもらう。そう誓っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして――松永久秀が示唆していた通り、謀反は、起きた。

 

 謀反の主は、懸念されていた長尾政景ではなかった。北条城(現在の新潟県柏崎市)の城主、北条高広が反乱を起こしたのである。ちなみに、すでに述べたがこの北条高広は安芸の毛利氏と同族の大江氏出身である。大江氏は元は学者の家柄で、大江匡房、大江匡衡、和泉式部や赤染衛門などもこの出身で、現在の大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』の一人、大江広元も著名である。なので、関東小田原の後北条氏とは無縁である。

 

『それがしは景虎様には個人的な恨みはございませぬが、関東管領と村上・小笠原ども信濃諸将の双方を越後へ受け入れて益なき義戦を繰り返す景虎様のもとではこれ以上奉公は続けられませぬ。戦には銭がかかるのです。春日山城の財力は無尽蔵に近いとはいえども、われわれ越後国人衆は感状だけでは働けませぬ。なにとぞお考え直しあれ――さもなくば、それがしは武田晴信殿のもとへ走りますぞ』

 

 高野山を訪れ、禅と密教について景虎が学んでいたその時に、北条からの書状が届けられたのである。戦の日々から解放されて神仏のもとで修行を重ねるという夢がついに叶い、できることならばあと半年は高野山に留まっていたいと望んでいた景虎は、まさか、あの知恵者の北条が?と戸惑い、途方に暮れた。

 

「以前から、北条が利益なき義戦の連続に不平を抱いていたことは知っていた。しかしまさか、武田晴信のもとへ走るなど、できるはずもない。北条城と武田領の間には、政景の坂戸城が挟まっているのだぞ。勝ち目のない反乱だ……」

 

 書状を景虎へ渡した宇佐美定満は、

 

「北条は計算高い男。本気でお前に逆らっているのではないだろう。晴信に煽られたのは事実だろうが、この晴信の謀反の誘いに乗ったふりをして、二方面での義戦を繰り返し国人衆を疲弊させるお前のやり方に釘を刺すつもりだ――お前が結局は北条を許すことまで、もう読まれている」

 

 と景虎に告げた。

 

「小笠原長時の逐電は、すでに越後に知れ渡っている。もはや信濃で戦う大義はない。戦線を関東に絞れ、そして関東の城を自分によこせ、と北条は言いたいのだろう。それがおそらく、あいつが直江に出してくる降伏条件だ」

 

「軍議の場で言葉として申せばいいものを、わざわざ謀反など。晴信め……!私は霊山で神々に近づく修行をしていたのだ。生まれてはじめて世俗から離れることができた。人の世の穢れから自由になれた気がしていた……それを、このような搦め手で邪魔するとは」

 

 いっそこのまま高野山に留まってしまいたい、と景虎は言いたかった。が、越後を捨てることはできない。自分を育ててくれた宇佐美定満のためにも。

 

「景虎。辛いだろうが、すぐに帰国したほうがいい。だが北条をひとたび許せば、また背く。越後一国の統制力を高めるために、北条を処断しろ」

 

 それはできない、と景虎は首を振った。

 

「そもそも、それは直江の言うことではないか」

 

「直江は反乱を起こした北条、そして留守を預かる長尾政景との交渉のために、急いで越後へ舞い戻った。もしも魚沼の長尾政景が北条と武田の側に乗れば、北条の謀反は嘘から出た実になる。魚沼から北条、柏崎にかけての中越一帯を武田晴信と北条氏康に奪われるぞ。越後は分断される」

 

「……政景は謀反などしない。姉上のお子は病で亡くなったが、また新たなお子を授かったそうではないか。政景が抱き続けている越後守護の座への野心が破裂しそうになっているところを、姉上が繋つなぎ止めてくださっているのだ……」

 

 北条を討伐する。が、降伏すれば許す。しかし武田晴信との戦いはやめぬ、と景虎は頬を赤らめて言い放っていた。

 

「青苧座の件といい、北条謀反の件といい、晴信のやり方は私は決して認めない!川中島で堂々と決戦して、私に勝てばそれで済むことではないか!どんな手を用いてでも勝てばよいという晴信のやり方は、不義だ」

 

「それじゃあ、また川中島へ出兵するつもりか」

 

「むろんだ。北条を下したあと、再び川中島へ全軍を率いて布陣する。次は、決戦を回避するであろう晴信の耐久策に備え、万全の兵站線を構築して百日でも二百日でも対戦する!晴信が決戦に応じるまで、何日でも……!」

 

「しかし、信濃守護の小笠原長時はもういない。三好家に奔っちまった」

 

「大義名分ならば、ある。村上義清たち信濃諸将は、なお越後にいる。彼らの失地を奪回する!小笠原長時とて、晴信を信濃から追い払った後に、丁重に呼び戻せばよい」

 

「呼び戻すって、お前……」

 

「宇佐美。乱世に義を示すためのわが戦いではなかったのか。武田晴信を捨ておいて、義もなにもない。あの者を捨ておけば、やがては松永久秀のようになってしまう。そうなる前に、私が、晴信を止める」

 

 景虎は、感情の起伏が激しい。とりわけ武田晴信という姫武将に対しては、景虎は過敏だった。同じ、父親の愛情に飢えている姫武将同士として、愛憎半ばしているのだろう。これほど景虎が怒ってしまえばもう、宇佐美にも止められない。

 

「いよいよ婚期が遠ざかるな、景虎。この上洛で、よい出会いがあればいいと願っていたが」

 

「宇佐美。私は誰にも嫁がぬ。すでに身体が三つあっても足りぬのだ。関東、信濃、畿内、霊山……この上、夫婦生活に割ける身体も時間も、わたしにはないぞ」

 

「そうだ。うさちゃんの縫いぐるみをたくさん作って、お前の影武者にしよう!」

 

「武田晴信や北条氏康が、私と縫いぐるみを見間違えるか!」

 

「女人を知らない高野山の坊主なら、騙せるぜ」

 

「縫いぐるみが座禅を組んで、なにが悟れるというのだ!」

 

「……悟れるかもしれないのに……」

 

 北条の旦那。あんたの芝居は藪蛇になったぜ、北条城の兵糧はすべて川中島へ提供させられることになるだろうよ、と宇佐美は北条高広のためにも嘆いていた。




いつも当作をご愛読いただきありがとうございます。そんな方々に大変申し訳ないですが、残念なお知らせがあります。本日をもって私の試験は終了しましたが、浪人がほぼ確実でございます。受かったところもあるのですが、大隈重信創設の某大学が諦めきれないので、一浪します。つきましては、浪人経験のある方はご存じかと思いますが、1日10時間、最低でも8時間の勉強時間が必要となります。更新は確実に少なくなるでしょう。場合によっては月1、もっと酷いと無い月もあると思われます。

個人的な話かつお前がストレートで受からないのが悪いんだろカスめと言われればそうですとしか返せない話ではありますが私の人生かかった話でもありますので、何卒ご理解の程宜しくお願い致します。とは言え、浪人生のルーティンを見てると週に30分くらいは確保できそうなので、何とかなるかなぁと思います。希望的観測ですが。

二月の残り数日は書きまくりますので、三月から上記の感じになる可能性が高いです。重ね重ねお願い申し上げる次第であります。


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第87話 秩父

感想返信できなくて申し訳ないです。今はとにかく書き溜めたいフェーズでして…。その内やるのでお待ちください。


 為昌一行と越後勢が上方で交渉を繰り広げているとき、東国でも動きがあった。一つは対越大同盟に武田が加入し、諸々の交渉を終えたことである。もう一つの動きは武蔵の中でも最も辺境に位置する地、秩父にて起こっていた。

 

 秩父地方とは秩父山地に囲まれた、現在の埼玉県最西部の地方である。埼玉県を横断する荒川の上流部であり、秩父盆地が広がる。古来より馬や銅の産地であり、また多くの木材がある。近代以降では石灰岩の鉱山として栄えてきた。ここで採取された石灰岩は関東に運ばれ、東京の発展を支えるコンクリートとなったのである。現在では鉱山は閉鎖されているが、他にもいくつかの鉱石が出土する地である。地酒も有名であり、水所としても名高い。寺社仏閣の多さや独自の文化から、他の武蔵地域とは違った特色がうかがえる。また、美人が多いと言うのでも有名だ。

 

 そんな秩父の戦国時代は特にこれと言った大勢力がいたわけではない。いくつかの小土豪が集まり、概ね北条家と武田家の間を行ったり来たりと言う一般的な国衆の行動をしていた。中央と積極的に係ろうとはしないものの、決して無関心ではなく交易は行われている。しかし、いまいち未だ北条家の支配の行き届いていない地域だった。ここは本来史実では鉢形城、つまり北条氏邦の管轄になるべき地域だったのだが、彼女が現在藤田家の統制に四苦八苦していることと、領内の整備に忙しいことから比較的余裕のある河越にその管轄が移された。石高にしてはそこまで大きくないが、広い地域ではあるので心服させられれば大きな利益が得られるため兼音からしても損はない。

 

 甲斐、その後は信濃での交渉を終えた彼は秩父の微妙な帰属問題にはっきり片を付けるべく帰路の途中で雪深いこの地域に足を踏み入れたのだった。

 

 

 

 

 

 ここ数日は降雪もなく、やや寒さも和らいでいる。この瞬間を狙って秩父を訪れていた。あまり吹雪いているようでは山越えは危険だからだ。ここはある種の独立圏。中央の政治体制に組み込まれていない地域だ。だがこの地域は多くの可能性を秘めている。沢山ある鉱山の存在もしかり、林業や養蚕業をやるにも適している。酒造や織布にも向いている。こんな宝のなる木を放置しておくわけにはいかない。また、武田家に対する防衛用にも大事な拠点だった。史実の信玄による関東遠征ではここら辺を荒らされたり通行路にされたりしている。

 

 事前に秩父の豪族たちと話がしたいと持ちかけたところ、龍ヶ谷城の城主、久長但馬守がまとめてくれるらしい。秩父には小豪族が割拠し、各々が山の中にある小さな城に居を置いている。雪の中ではあったが、特に困窮しているようには見えなかった。産物も多い事から、武蔵相模甲斐などでそれらを売り生計を立てているのだろう。

 

 相も変わらず震えている政景に今回の注意点を話す。

 

「おい、ここでも大人しくしているように。無用な挑発や失礼な発言は避け、相手を立てろ。良いな」

 

「ここは北条家の支配地域でしょ。しかも北武蔵。なら、あんたの管轄じゃないの」

 

「お題目上は、な。実態は違う。我々の代官は一人もいない。しかも、小田原に出仕したり鉢形に顔を出した者もいない。一応従属状態という事になっているが、此処での我々の影響力は微々たるものだ。万が一戦にでもなれば面倒極まりない」

 

「小勢がちょこまかしてるなら、踏みつぶせるでしょ」

 

「馬鹿者。同じ関東に住む者、なるべく共存共栄していくのが方針だ。ここの独自性は古い。それを踏みにじれば、悪感情を持たれ最悪内応されてしまう。隘路も多く、険しい山ばかりだ。攻めれば激しい抵抗にあうだろう。わかったか」

 

「はいはい。要するに、黙ってれば良いんでしょ」

 

「礼儀正しくしていろ、と言っているんだ」

 

 ちょっとはマシになったけれどもまだまだ生意気なのは変わりない。とは言え、それも個性っちゃ個性だ。公の場やこう言う大事なところでまともでいてくれるのであれば問題ない。私一人に向けられた生意気さなら私個人が処理すれば良い感情だ。ムキになってキレるほど幼くないつもりである。

 

「ここは多くの産物が手に入れられる。金のなる木をみすみす逃す訳にはいかないんだ。氏邦様指導の林業、並びに養蚕業育成計画にもこの地が重要視されている。私に管理を任された地域がいらない場所な訳ないんだ」

 

「大理石なんて何に使うの」

 

「道」

 

「は?道に敷くの?」

 

「んなわけ。色々その間に工程があるんだよ。まぁその内見せてやるさ」

 

 武甲山は秩父にある山のはずだ。あそこだけ割譲とかできないだろうか。てか誰が管理してるんだろう。持ち主と言う概念の存在している山ではないのかもしれない。それならそれで好都合だが、宗教的な信仰対象だと些か厄介だ。日本武尊が己の兜を奉納したとかいう由来で武甲山と言う名前だったはずだ。であれば信仰対象にされていてもおかしくはない。

 

「あれが龍ヶ谷城か」

 

「ちっさ」

 

「おいやめろ。河越がデカいだけだ。山城なんだからあれで良いんだ。うちの城は曲がりなりにも扇谷上杉家の元居城。いや今も一応そうか?まぁとにかく関東に覇を唱えた二大上杉の片方の本拠地が小さい訳ないんだよ」

 

 頼むから大人しくしててくれよと祈りながら、迎えの者に案内されて城の中へと入って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 武蔵と信濃の国境。その白銀の山中で、いくつかの焚火が燃えている。軽武装の武士集団がそこにはいた。人数は二百人前後。ただし、その装いは凡そ正規兵のモノではない。明らかに落ち武者、敗残兵か逃亡兵の類だった。甲斐の者、信濃の者、越後の者もいる。元は戦場で敵同士だったが、この冬を生き延びるには数を集めて動いた方が良いと言う判断から徒党を組んでいた。

 

「お頭、どうするんですか。このままだとなんもねぇ山ン中で野垂れ死にっすよ」

 

「まぁそう焦るな。俺にもちゃぁんと考えがあるんだよ。この先に行くと秩父がある。そこを襲う」

 

「秩父?武蔵だと北条領っすよ。しかも秩父に近い鉢形には北条の一門が、河越にはあの土佐守がいるのに…」

 

「冬のこの期間だ。例え援軍を乞われてもそう簡単には大軍を動かせねぇ。そして、秩父の豪族どもの出せる兵数も少ねぇ。襲うにはもってこいの相手だ。武田領や長尾領だと面倒だからな。まだ北条に完全に帰属してねぇ秩父なら、見逃されるかもしれん。どのみち、こないだの戦ではまったく稼げなかった。このままじゃ大損だぜ。野盗でもやってた方が大儲けよ」

 

「さっすがですなぁ。これで成功すりゃ、もしかしたら城持ちっすよ」

 

「敗残兵崩れの盗賊からご領主さまか。悪くねぇなぁ!ガハハハッ!!」

 

 哄笑する首領の声は、銀の山に吸われて消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ようこそお越しくださいました。それがしがこの城の城主、久長但馬守でございます。土佐守様にお越しいただけるとは感銘の至り。御高名は常々伺っておりまする」

 

「ご丁寧な挨拶恐悦至極に存じます。此度は急な訪問にも拘わらずお出迎え感謝申し上げる」

 

「お疲れとは存じますが、皆々首を長くして待っておりまする。ささ、こちらへ」

 

「かたじけない」

 

 案内された広間には多くの男たちが既に座っていた。高松城の逸見若狭守、根小屋城の渡辺監物、千馬山城の用土新左衛門、日尾城の諏訪部定勝、宮崎城の黒澤民部、下原城の橋久保大膳守、永田城の永田林四郎など秩父の有力者が勢ぞろいしている。この中で親北条の姿勢を見せているのは諏訪部、永田、そして久長である。反北条なのは氏邦様に乗っ取られた藤田家一門の用土氏の一門たる用土新左衛門。それ以外は特にこれと言った主張はしていない。こちらの出方を窺っているのが大半だ。用土新左衛門ですら、表立って逆らう様子は無い。流石に危険すぎると判断は出来ているようだ。

 

「各々方、本日はこのような厳寒の中、よくぞお集まりくだされた。まずは、感謝申し上げる。私は鎌倉府より命ぜられ河越を預かる一条土佐守と申す。どうぞ、よろしくお願いいたす。さて、本日罷り越したのは各々方と交友を深めるため、そして、今後の秩父についてのご相談に参った次第」

 

「相談とは片腹痛い。我らを押さえつけ、従わせる腹づもりでござろうに」

 

 用土新左衛門は口汚く言う。その言葉に不安そうな顔を抱く者も多い。声のデカい少数派はいつの時代でも存在していて、そしてそれは声の大きさゆえに威勢よく見えて不安を抱いている者たちからすれば希望に見えかねないのだ。

 

「そう思われてしまうのも致し方ないでしょう。されど、そうでは無いと初めにはっきりと申し上げておきます。こちらの条件を示しましょう。その方が話が早い。まず、各々方が最も気にしておられるであろう夫役(出兵義務)についてです。私としてはこれを免除する考えでおります。また同様に年貢も納めずとも構いません。勿論、自衛のために兵を持つことはお好きになさってください」

 

「なんと…」

 

「それでは、税は免除と言う事でよろしいのですかな?」

 

「概ねその考えで問題ありません」

 

 唖然としている空間で進行役を務めようとしている久長但馬守の疑問に答える。ざわめきが広がっていく。大勢力の配下に付いた国人には貢納と出兵の義務が生じる。これは基本抗えない。北条家内で土地を有していながらそれが無いのは世田谷御所の武蔵吉良家だけだ。それ以外は必ず義務があり、逆らうと攻められても文句は言えない。勿論酷い凶作の時や疫病が蔓延している場合などには限定的に免除になる事もあるのだが。

 

「それと引き換えに認めて頂かねばならぬこともあります。秩父は多くの可能性を秘めております。主に商業商品を作る場面において。酒、織物、林業、養蚕においてここは最適な場所。その作り方などはこちらから人を派遣するので、従って頂く。そして、米や兵役の代わりにこれを納めて頂きたい。それに伴う街道の拡充、移民の増加も認めて頂く」

 

 流れ込んできた人口を集めてここに送り労働者として働いてもらう。それが今のプランだった。養蚕は日本でも行われている。ただし、あまり品質は良くない。なので改良すれば立派な産物になる。それこそ、現在富裕層向けに流通している明製品に負けず劣らずのものに出来るだろう。やり方は偉大なる先人…明治政府が開発してくれた。これには湿度の管理を重視し、蚕室の換気に重点を置いた「清涼育」がある。屋根の上に通気用の櫓を造るものだ。田島弥平と言う偉大な方の書いた養蚕新論に書いてあるのだ。

 

 木材も木はそこら中に生えている。管理の仕方は一番ここの住人たちが知っているだろう。そもそもこれまでも林業を中心に栄えてきたのだから。酒も灰を使えば清酒が出来る。本来出来たのは慶長年間だ。現在は樽に入れられた酒が流通している。確か京都の方には琉球から入った焼酎の蒸留技術もあるはずだ。もうすぐ大型船が出来るので、それを使って琉球まで行ってきて欲しい。そうすれば泡盛や中国の薬用酒も入手可能だ。イングランドとの取引でワインやアラビアの酒も輸入できる可能性が高い。

 

「また、検地は予定しておりませんが、測量はさせてもらいましょう」

 

「如何なる理由でしょうか」

 

「地図を作り、国の支配に役立てるため。これが大きな目的でございます。各々方。いかがでござろうか」

 

「納める量以外の産物は我らの手に委ねられていると考えてよろしいか」

 

「左様。その通りでございます、諏訪部殿。商人と結託し、売りさばくも良し己で楽しむも良し」

 

「いくらほど、納めればよろしいのか」

 

「米や野菜の免除を考えれば総生産の七割を北条に。残りの三割のうち一割を貴殿らに。残りは民にでどうでしょうかな」

 

「多すぎる!七割は取り過ぎでござろう!7:1:2では我らの取り分が少なすぎる。しかも、北条は四公六民ではないのか!」

 

「それは米や野菜の話。これとは無関係」

 

「それでは承服しかねる!せめて、4:4:2でなければ納得できないですな!」

 

「……仕方ないですな。こちらも急に押しかけていると言う負い目があります。5:3:2でいかがか、用土殿?」

 

「…………某としては良いでしょう。致し方ありますまい。これ以上ごねれば、某だけ排除され攻め滅ぼされかねない」

 

「他の方々はいかがか?反論交渉あればお受けしますぞ。なるべく皆様のご不満少ない状態で参りたいと思っておりますゆえ」

 

「各々方、いかがか」

 

 久長但馬守の問いには誰も答えない。反北条の急進派みたいな扱いを受けていた用土新左衛門がもうこれでいいと言ってしまった以上、確固たる意志を持って北条に反対する者はいなかった。

 

「なにもないようでしたら、以上の内容を書面に興すので花押を記し誓紙と致しましょう。また、是より秩父は鉢形城の氏邦様より管理を任されたこの土佐守の配下となる。兵の派遣は先も言ったように要請致さぬが一度小田原と鉢形に出向いて頂く。以後、秩父にてもめ事あれば土佐守まで申し出るように。また、代官を派遣するので、それに従え」

 

「「「「「ははぁ」」」」」

 

「用土殿、それでよろしいか」

 

「……相分かった」

 

「我らは此の地の文化、伝統に敬意を払う。寺社仏閣はもとより、祭事に関してもだ。風魔を見れば分かるように我ら北条家は同じ関東の民として共に太平の世を目指そうと貴殿らの協力を求めている。秩父を抑えれば名実ともに武蔵は完全に治まる。よろしく頼むぞ」

 

 これである程度は治まるだろう。後は代官に能力のある者を配置すれば完璧だ。それと、個別で話のある者もいる。具体的には鉱山を譲って貰いたい。この頃はまだ武甲山の石灰岩に価値はない。何故ならセメントがないからだ。しかしセメントは使える。日本の道は雨が降るとぬかるむため、馬車が使用できない。しかし、舗装された道ならば使える。こうすれば補給はかなり楽になる。要するにアッピア街道を造ろうとしているのだ。また、建材としても有効に使えるだろう。更に、まだ発見されていない鉱山もある。金・銀・鉄・亜鉛・鉛・マンガン・珪砂・銅などが出土する。その辺は追々代わりとなる土地を渡すか、鉱山経営を任せるかで解決しよう。

 

 いきなり要求をドカンと突き付け過ぎても角が立つ。これくらいに抑えておくのがベストだと、個人的には思っている。さぁこれである程度は何とかなっただろうと解散しようとした時、急報が入った。

 

「申し上げます!」

 

「何用か!今は大事な会合の最中ぞ」

 

 但馬守が声を上げるがそれを制して尋ねる。

 

「いかがした」

 

「はっ!用土新左衛門様の千馬山城が現在大規模な野盗に襲われております。その数約二百!」

 

「何だとっ!それは真か。そんな数の軍勢、どこから…」

 

「恐らく先の川中島一帯での戦いの逃亡兵と思われます!」

 

 顔面蒼白の用土新左衛門だったが、すぐに立ち上がり怒りで顔を震わせた。

 

「ええい、甲斐の奴らめ。まともに統率も執れんのか!ご歴々、済まんが儂は今より討伐に向かう!兵も多くを連れてきてしまったわ」

 

「私も御助力しましょう」

 

「否!結構でござる。秩父の守りは秩父の者がやる。よそ者は引っ込んでて頂きたい!」

 

 そう言うとサッと駆け出して行ってしまった。周辺の領主も慌ててそれに従う。彼らも次に狙われるのは自分達の居城であると分かっているからだ。大分失礼な事を言われたが、それはあまり気にしていない。だが、実際勝てるのだろうか。用土新左衛門がどうなろうと知った事ではないが、その民衆に罪はない。彼らも抵抗はするだろうが、敵は統率が執れているのだろうし、どうなる事か。

 

 この時代の民衆は無抵抗ではなく刀や槍、弓で武装している。当然落ち武者狩りもやるし、領主に力が無いと一揆や隣村との水利権の争いなどで私闘を始める。大人しく唯々諾々従ってはしてくれない。なので、飴と鞭を使い分け、なるべく不満を抱かないように統治している。他に比べれば北条領の民衆は民度が高い方だと言えよう。

 

「但馬守殿、用土殿で勝てるのか」

 

「分かりませぬな……数も拮抗しておりますし、長尾武田の逃亡兵ですとなかなか厳しいところもあるのではないかと」

 

「そうか……ああは言われたが、我らも供廻りを連れて加勢に向かおうと思う。御助力願えるか」

 

「願ってもないお言葉」

 

「政景、お前はここに残っていろ」

 

 座の後ろの方でしっかり黙って見学していた政景は顔をしかめる。

 

「なんでよ」

 

「如何せん数が少ない。通常の戦ならともかく、お前はここでは足手まといだ」

 

「あっそ。精々頑張ってきたら」

 

「こんなところでくたばる気は毛頭ない。大人しくしているように」

 

「死んだら許さないから」

 

「それは怖いな。では、生きて戻るとしよう。但馬守殿、では参りましょうぞ」

 

「ハハッ!」

 

 走って待機していた供廻りに出陣を知らせる。仰天していたが、すぐに準備は整った。道案内は但馬守の軍勢がしてくれる。出陣前に入った報告では、罠ではないようだ。護衛に潜んでいる河越の忍群(元戸隠忍群)の者が教えてくれた。万が一、秩父全体で私を嵌める罠だった場合、多勢に無勢で死ぬところだった。報告が入った時はそれを真っ先に警戒した。だがそうでは無いようだ。良かったと思うべきだろうか。数が多いに越した事は無いだろうと、急いで馬を走らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 一方の残された政景は不満であった。勿論戦場に積極的に行きたい訳ではない。しかしながら、戦力外通告を食らい、役に立たないと決めつけられるのも自尊心的に許しがたかった。とは言え、じゃあ何が出来るのかと言われれば黙るしかない為、渋々従ったのである。

 

 むぅ……としている彼女に、残された国衆の一人、諏訪部定勝が声をかける。

 

「政景殿、ご不満そうですな」

 

「……別に」

 

「お義兄様のお役に立ちたいとは思いませぬかな?」

 

「……何かあるの?」

 

「はい。某が一条殿にお見せしようと持ってきたものがございます。これを使えば何かのお役に立つやも。某と共に参りますかな?」

 

「…………分かった。案内して」

 

「承知」

 

 彼も彼で目論見があり、取次役として存在感を示した久長但馬守だけがこのまま覚えが良くなることを避けたかったのだ。また、今後河越城の重鎮になっていくであろう政景と先に接点を作ろうという思いも存在した。兼音は子供も妻もいない。このまま彼が死ぬと次の当主は一条の姓を持ち、名跡を継ぐ権利のある政景になるだろう。先物買いである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あそこが千馬山城でございます!」

 

 久長但馬守の指す方を見れば煙が立ち昇っている。どう考えても苦戦していた。必死に押し返そうとしているが、ここ数年大規模な戦闘の無かった秩父の兵とついこの前まで激戦を繰り広げていた甲信越の兵では練度が違う。更に、彼らは欲の為に動いている。この冬で餓死しないためにもなんとしてでも財を奪い取る必要がある。

 

「押し戻せ!耐えろ!」

 

 必死で叫ぶ用土新左衛門の声が響くが激励虚しく敗走しかかっている。彼が敗走すれば、千馬山城は陥落し、野盗が支配者になってしまう。それは北条家として到底受け入れられる行為では無かった。例え、その城の持ち主が反北条的な姿勢を見せていたとしてもだ。

 

 幸いなことに、野盗集団は前方の用土隊に集中しており、後方から接近している我々に気付いていない。今が最大の好機だった。

 

「全軍、突撃!」

 

 号令の下、二十騎近い騎馬が駆けて行く。敵は全て歩兵。馬上の有利は強い。しかも、道もある程度は除雪されていて通れる。後ろから急襲されては流石にひとたまりもないだろうと思ったのだが。

 

「獲物が来たぞ!殺せ!」

 

 首領と思われる男の号令で一斉にこちらに襲い掛かってくる。思った以上に強い。武田か長尾か知らないが、どちらも強兵だ。これは敗残兵でも戦場を恐れた逃亡兵でもないかもしれない。金が貰えない、リターンがないから逃げたタイプだ。だとすると、精強なのも頷ける。もう少し連れてくるべきだった。

 

 後方から弓で射撃をするが、キリがない。矢も尽き始めてきた。そこに、十人ほどの兵の集団がやって来る。護衛と共に戦うも、数が多い。いくら戸隠忍が優秀でも多勢に無勢では真価を発揮できない。何とか全員斬り殺した瞬間に、飛んできた矢が馬に刺さる。暴れ出した馬を抑える事は出来ず、空中に放り出された。不幸中の幸いとして積もっていた雪の上に落ちたため、怪我はないが雪の水分を吸収して動きにくい。さらに視界も悪い。

 

 馬を失ってしまったため、私は一気に不利だ。そこをたちまち数人に囲まれる。厳しいな、と思った瞬間であった。ヒュ~と言う花火の打ち上げの時のような音がして、白い煙が戦場を包む。パァンと言う爆発音もひっきりなしに聞こえる。これにより、敵は混乱状態に陥った。明らかに人為的な行動による煙。そして爆発音。中には爆発物が当たったらしく吹っ飛んでいる敵もいる。なにがなんだかよくわからないが、最大の好機だった。

 

「今だ、敵は混乱している。一気呵成に突き崩せ!」

 

「「「おぉっ!!」」」

 

 更に別方向から新手の軍集団。先頭にいるのは諏訪部定勝。その後ろにしがみついているのは政景だった。あいつ、何でこんなところに。待機していろと言ったのに。諏訪部隊の手には筒のような物。そう言えば、秩父には龍勢祭というのがあった記憶がある。ロケット花火のようなものを打ち上げる祭りだったはずだ。その技術を使ったのか。なるほど。原始的だがしかし鉄砲をあまり知らない東国の兵士には効果がある。

 

 新手の出現と原理不明の煙によって敵は戦意を喪失し、多くが討ち取られ、残りも捕縛されていった。幸いなことに、私の供廻りに犠牲者はいない。手傷を負った者はいたが、いずれも軽症だった。後で報酬を渡さなくてはいけないな。それと……

 

「政景。なぜここへ来た。護衛も少ないんだ、死んだらどうするつもりだった!」

 

「良いじゃない!役に立ったでしょう!」

 

「それはあくまで結果論だ。お前が死んでいた可能性もあったのだぞ!言いつけ一つ守れんのか」

 

「大丈夫でしょ、それに、私が死んだって父上に顔向けできないくらいであんたには……」

 

「馬鹿者!私の体面なんかどうでもいいんだよ。お前が死んだら悲しいに決まってるだろ。望む望まないに拘わらず、私はお前の義兄になったんだ。兄には妹を守る義務があるんだよ。分かったか!」

 

「……なにそれ。ホント、なにそれ」

 

「まぁまぁその辺で。彼女を連れ出したのは某でございます。一条殿のお役に立ちたいと言う顔をされておりましたので。責めは某が負いましょう。申し訳ござらん」

 

「いや、諏訪部殿が悪いのではございません。助太刀、感謝申し上げる。あれは、秩父龍勢ですかな」

 

「流石、ご存知でしたか。左様でございます。あれが秩父吉田の龍勢。此度は一条殿にお見せしようと持ってきておりました。役に立ったのは僥倖でしたな」

 

「いやはや命を救われましたな」

 

「……ほら役に立ったんじゃない」

 

「はぁ……まぁいい。説教は終わりだ。助かった。ありがとう。お前がいなければ死んでいたかもしれない」

 

「撫でんな、クソ兄貴」

 

 そう言いながらも、今回は私の手を払いのけることなく、そっぽを向きながら撫でられるのを許容していた。少しは心を開いてくれたのだろうか。それなら多少は骨を折った甲斐もあったというものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日はそのまま龍ヶ谷城にて但馬守の歓待を受け、翌朝河越に向けて出立する事となった。馬は久長但馬守が代わりを用意してくれた。ありがたい事だ。後で帰り次第返礼を送っておこう。見送りにはそのまま龍ヶ谷にいた秩父の諸将も来ている。中でも態度の変わり方が凄かったのは用土新左衛門であった。

 

「申し訳ございませんでした。秩父の守りは秩父の者が、などと大口を叩いておきながらあの体たらく。一条殿が助力してくれねば、今頃某は雪に野ざらしの死体となり果てていたでしょう」

 

「いえ、間に合ったのは貴殿の奮戦のおかげです。この地を守らんとする確かな意思を感じました。我らも、貴殿らの誇りを侵さぬようにせねばと改めて思わされましたぞ」

 

「数々のご無礼に対し、寛大なお言葉誠にありがたき幸せ。この新左衛門、以後は御家に誠心誠意お仕え申し上げる」

 

「それはありがたい。貴殿の一族、用土氏は未だ氏邦様の事を快く思っていない者も多そうだ。貴殿から、説得してはくれぬか」

 

「身命を賭して、必ずや用土一族を説得致します」

 

「頼もしい限りだ」

 

 これで鉢形も少しは楽になるだろう。秩父の諸将は春になれば交代で小田原と鉢形に出向くと確約が取れた。産業系の事業指導も三月頃を予定している。戦果は上々だろう。

 

「但馬守殿、引き続き秩父と我らの取り次ぎ、よろしくお頼み申す」

 

「滅相もございません。必ず」

 

「諏訪部殿も、協力をお願いしたい。龍勢に関しても、お願いする」

 

「ははっ!」

 

 多くの者に見送られて山奥の里を後にした。これで秩父は完全に支配下に入ったと言えるだろう。最早抵抗する勢力はいなくなった。北武蔵で帰属不明の地域は消滅したと言っても過言ではない。後は氏邦様の下にいる用土氏と藤田氏が大人しくしててくれれば問題ないのだが。南武蔵も三田氏がどうも微妙だと言う話を聞く。上野はそこそこまとまっているようだが、まだまだ心服には時間がかかるだろう。

 

 ゆっくりと、しかし確かに心をつかんで行かねばならない。村や町、国への忠誠ではなく関東の者、引いては日本人としてのナショナリズムやアイデンティティを植えてけていかねば、今後の統治は困難だろう。長い時間がかかりそうだ。

 

 それと、早く段蔵には帰ってきて欲しい。送り出しておいてなんだが、いないと困る事も多い。あの強さはやはり必要だった。もうそろそろ帰ってくるとは思うのだが。正月も祝えなかったのでそれの補填も考えなくてはいけない。やる事はどんどん積み重なっていく。一つ一つこなしていくしかないだろう。

 

 こなしていくしかないのだが……どうも寒気がする。関節も痛い。二十年生きてればなんとなく身体についても把握している。これは間違いなく風邪をひく前兆だ。雪に埋もれたのと、それで濡れたまましばらく放置していたのが良くなかった。河越までもてばいいが。

 

 

 

 

 

 

 

「お帰りなさいませ」

 

 熱が上がっているがそれでも意識はあるし歩ける。だが、河越に辿り着いて、兼成の挨拶を聞いて気が抜けたのだろう。よろめいてそのまま柱にもたれかかる。

 

「帰って来てそうそうで済まんが、寝かせてくれ」

 

 ひんやりとした手が額に触れる。

 

「早くお湯を!布団も用意しなさい!」

 

 矢継ぎ早に指示を出す姿をぼんやりと眺めながら、うつらうつらとしてくる。

 

「大丈夫ですわ。必ず良くなります。お気を確かに」

 

 その声を耳にして、遠い昔に熱を出して母親に看病してもらった記憶をうっすら思い出しながら、目を閉じた。




世界の裏側が燃えてしまいました。我々には状況の推移を見守る事しかできませんが、歴史を知る者としてせめて、安易な情報に流されることなく過ごしましょう。

この作品では多くの戦乱、戦争を描いていますが、これは戦争賛美によるものではなく原作しかり今作しかりですが平和と太平を目指したものになっています。描写される思想信条理念宗教観はその人物の思想であり、それ以外の全ての思想宗教価値観を否定するものではありません。また、時折描かれる未来編も帝国主義の賛歌ではなく、アジアの平和を守るべく動く史実とは違った方向の大日本帝国のあり得た世界となっているようにしています。

このような政治色を出すことに忌避感を抱かれる方もいらっしゃるかと思います。しかし、一人の歴史愛好家として、また平和を願う者として日本人としてこのようなネット小説のあとがきではありますが、意思を表明する事が事態の収拾に繋がると信じております。

今回の戦争で死亡した両国の方のご冥福をお祈り申し上げ、また住処を追われ現在も不安を抱えながら生きていおられるウクライナ国民の皆様に一刻も早い安寧が訪れますことを切に願っていると共に、現在過去未来における全ての侵略戦争に対し断固反対して結びとします。


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第88話 遠き日の夢

遅くなりました。前話のアンケートにご回答いただいた皆様に感謝申し上げます。まだ回答可能ですので、お済でない方はよろしければどうぞ。


 懐かしい夢を見た。遠い日の夢。もっとずっと小さい頃の事だ。小学校に入って間もないころ、インフルエンザに罹った。それまで病気らしい病気にならずに生きてきたため、始めての苦しみに大きく衰弱した。ただただうなされていた思い出がメインだが、その中でずっと亡き母が手を握っていたことを覚えている。

 

 病院で働く看護師だった。それこそ、死に逝く患者も多く見てきただろう。普段は冷静沈着を体現したような人物だった。そんな母が取り乱したように慌てて付きっ切りでいてくれたことが、私にとっては初めての体験であり同時にどこかに冷たさを感じていた母親の人間らしさを知った時だった。人を愛するとは、ああいうことを言うのかもしれない。誰かのために泣いて、献身して。そういう人物に、私はなれるのだろうか。人を救う仕事をする親から生まれ、結局のところ大義を謳いながら多くを殺している私に。

 

 

 

 

 

 

 

 ハッと目を覚まして飛び起きる。まだ痛む頭と微熱で火照っている身体。どうやら今は一時的に熱が下がっているらしい。見知った部屋の天井。秩父から帰還した後の記憶があまりない。どうも倒れてしまっていたようだ。

 

「うう、ああ……」

 

 喉が痛いのと乾いているのとで声が出ない。判断力も落ちている。ぼんやりとしていた視界が明瞭になってくる。この時代の風邪は最悪命取りになる。生き延びる事が出来たのは僥倖だった。額には何かが乗っている。恐らく手ぬぐいだろう。すっかりぬるくなっているが。

 

 ふと、手に何かが触れている感触に気付いた。顔を横に向ければ、正座をしたままこくりこくりと首を上下させて寝入っている兼成の姿があった。彼女の手の片方が私と繋がっている。何日寝ていたのだろうか。起き上がるのはまだ辛かった。私のこの動きで起きたのか、彼女と目が合う。その目は真っ赤で、頬には涙の跡と思しき線があった。

 

「あ、ああ……起きられましたのね」

 

 脱力したような声で彼女は言った。

 

「まだ安静にしていなくてはいけませんわ。そのままどうぞお休みになって下さいまし」 

 

「お前は……ここで何を……病が、移るぞ」

 

「貴方様が手を離して下さらなかったから此処にいますのに、随分なお言葉ですわね。水をお持ちしましょう。そのままでは喋りづらいでしょうから」

 

 頭が上手く働かない。感情の赴くままに私の手はそのまま立ち上がろうとした彼女の袖を掴んだ。

 

「行かないでくれ、私を、一人にしないで……」

 

 口から漏れ出たのはそんな情けない言葉。彼女はそれを笑うことなく分かりました、と一言だけ言って座りなおした。

 

「頭のだけ、変えなくてはいけませんわね」

 

 目を開けているのも疲れてしまい、そっと閉じる。額からものが無くなって暫く水音が響く。そして冷たくなった布が置かれた。その冷涼さが心地いい。看病など本来は彼女のような立場の人間のすることではない。にも拘らず、こうして献身してくれている。

 

 目をもう一度開ければ、端正な顔がそこにあった。名門の血を色濃く受け継いだ色白の顔。現代なら持て囃されるだろう大きな目。桜貝色の唇は血色よく白い肌に映えていた。手を伸ばせばその顔に触れる。ほんのりと温かい体温が伝わってきた。

 

「ありがとう……私の為に泣いてくれて」

 

 かすれた声でそう呟く。私の安否を案じて泣いてくれる人がいてくれた事が無性に嬉しく感じられた。病を得て気弱になっているせいかもしれない。大切なものは守らなくてはいけない。さもないと何もかも失ってしまうから。死を前にして、そう思わされたからなのかもしれない。いずれにせよ、私が彼女にこらえきれない愛しさを感じているのは事実だった。

 

「お前の目は、綺麗だな。黄玉のような色をしている」

 

「病を召されると素直になるのも困りものですわね。日頃からそう言って頂いてもよろしいのですけれど?」

 

「美人に美しいと言っても、ありきたり過ぎて芸がないと思ってしまってな」

 

「そんな事は無いのですけれど。ともかく、今はゆっくりお休みなさいませ。生きて下さい。どうか、必ず。わたくしの愛しい御方……」

 

 優しい声に身をゆだねながら、眠りにつく。私は主に恋してる。しかし、彼女も愛しいと感じてしまっている。この世界ではそれでも構わない。だが、私の現代人としての倫理観はそれは間違っていると叫んでいる。二人の人間を同時に好きになるなど、あってはならないと。どちらが正しいのかもわからないまま、もう一度意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――

 

 

 微睡の中、懐かしい夢を見た。遠い日の記憶。まだ小田原にいた頃の記憶。炎の城から救い出され、あれよあれよと流されるままに小田原城下の屋敷に世話になった。東海に一気に名を広めたわたくしの同居人は、特に優しくはしてくれなかった。今まで蝶よ花よと育てられていた身にはかなり厳しいものに感じられた。

 

 けれど、仕方がない。祖父が反乱を起こし、敗れた。本来担ぎ上げられた大将であってもわたくしは総大将。死なねばならない運命だった。けれど、その運命は変えられた。一人の若侍の手によって。彼の身分は食客に近かった。扶持もない。本来は交わらぬ身分。それでもわたくしは自分の意思で彼の下に行った。城の時も、その後も。

 

 彼の知らない一幕。小田原に着いた後、わたくしは時の北条家当主で今となっては先代の氏綱公に呼び出された。我が父今川氏親の従兄弟に当たる方だ。

 

「よく来たな、今川良真。いや玄広恵探と呼んだ方が良いか?」

 

「ご随意に……」

 

「そうか。いやしかし、とんだ拾いものをしたものよのぅ、そうは思わぬか?」

 

「前例の無い事ではございますな。総大将を生け捕ったまでは兎も角、それを隠して連れてくるなど」

 

 返事を返した老将の名をわたくしはその時まだ知らなかった。その後に北条家家臣団の頂点を占める三家老家の人間でも敬意を払う笠原越前守であることを知る。

 

「しかし、拾ってきてしまったものは仕方ありますまい。利用価値が無い訳でもござらん。飼い殺しで宜しいかと」

 

「それがなぁ、信為。そうもいかんのだ」

 

「と、仰いますと?」

 

「こ奴を生け捕った一条兼音。あ奴が恩賞にこの娘を欲しておる。扶持はいらぬから、とな」

 

「なんと。嫁にでもする気ですかな?そういう例が無い訳ではございませんが。唐国では敵国の公女を捉え妻にした武将の話も多く聞きます」

 

「流石、博識よな。されどそうでは無いと申した。儂もお主と同じことを考え、問うたのよ。そうしたら生真面目な顔をしてこう申しおった。『福島越前守殿より頼むと言われてしまいました。その責を果たさねばなりません。どうか、武士の誓いを守らせては下さいませぬか』とな。その越前守を討った者の言う事、嘘偽りはないだろう。それに、儂の前で嘘を吐けるほど、あ奴の身代は大きくない。賢い男だ、その辺りは分かっておろう。さもなくば、氏康が側には置かん」

 

「氏康様はあれでいて気難しいところもございますからな」

 

「左様左様。まぁいかなる目論見があるかは分からぬし、もしかしたら無いのやもしれん。とは言え、恩賞を与えん訳にもいかん」

 

「では渡しますか。某はそれでも構わんとは思うのですが、そうなるとこの者の正体は明かせぬ故、別に恩賞を用意する必要がございます」

 

「ま、それは金子を渡し奉行職にでも着かせれば良かろう」

 

「それもそうですな。しかし、一条兼音……面白き者だ。見込みあると睨んでいたが、誠にそうなるとは。早雲公を越える立身出世を成し遂げるやもしれませんぞ」

 

「お主が目をつけているのならばそうなる事もあろうな。そうなってくれればありがたい。氏康を支える同年代の者が多く欲しかったところだ。……さて、聞いておったな、お主。どうするかは選ばせてやろう。我らに飼い殺されるか、身分の大きく違う男の下で暮らすか。二つに一つよ」

 

 その提案にわたくしは悩むことをしなかった。飼い殺しは今までと変わらない。それを憂いたのもある。けれど、心中の多くを占めていた感情はそれでは無かった。運命を変えてくれた人の側にいたい。それは、おかしな事ではないはずだ。

 

「一条様の下に参りたく存じます」

 

「ほう、そちらを選ぶか。面白い。良いだろう。では望みどおりにしてやろうではないか。一条兼音には後で儂から言っておこう。下がるがよい」

 

「多大なるご配慮いただきありがとうございました」

 

 退出して屋敷……と言うにはやや手狭ではあったものの、そう呼称される場所に行った。大量の書物を読め、そして覚えろと言われ眩暈がしたのを覚えている。彼の口調は疲れているようでつっけんどんであった。けれど、殿方と同室と言われ驚いていたところに「でないと私が廊下で寝る羽目になる」と言われた時はもっと驚いた。

 

 居候かつ無駄飯喰らいの自覚はある。言われもしたし、自分でもわかっていた。それなのにも拘わらずもしわたくしが嫌だと文句を言えば彼は黙って廊下で寝ただろう。そういう方なのだと気付くのに、そう長い時間はかからなかった。覚えが悪く、なかなか学問が向上しないのを根気強く教え、武士とて料理は出来ねばならないと叩き込む。かなり苦労していたのは見ていれば一目瞭然。さりとてわたくしにそのことを責めたり文句を言う事も無かった。

 

 最初は憧れであったかもしれない。もしくは助け出されたことで美化されていたのもある。だが、時間と共にそれは薄れ、人柄に惹かれていった。厳しさも優しさ。わたくしを姫ではなく、一人の人間として見ている。立場や血ではなく、その内側を。それはとても衝撃的で、初めての事であった。

 

 

 

 

 

「あれ?そうだよね~、やっぱり。貴女、今川から来たお姫様でしょ」

 

 彼の下にいるようになってから半年以上後。算術が出来るということで城に召され、仕事を任されるようになったある日の事。そう声をかけられた。振り返れば、陣中で見た北条氏康によく似ている。もう少し険がなく優しい目つきをしている。背も小さい。氏康を明るくした子供のようであった。

 

「貴女様は……?」

 

「私は北条松千代。諱は氏政。氏康お姉ちゃんの妹だよ。よろしく」

 

「ご丁寧にありがとうございます。わたくしは一条兼音が臣、花倉越前守兼成でございます」

 

 ”臣”という言い方も慣れてきた。もう姫だった頃の自分はいない。血の誇りだけは捨てるなと言われたため、それは持っているが他は全て捨ててしまった。もう駿河にわたくしの居場所はない。戻っても首を刎ねられるだけ。それならいらない誇りなど捨ててしまった方が楽だった。

 

「へぇ……やっぱりね。貴女がね。ふ~ん」

 

「なにか、ありましたでしょうか」

 

「あれ、知らないんだ。おかしいなぁ。この前病に倒れたでしょ?」

 

「ええ、はい」

 

 つい先日、慣れない地での生活の疲れからか倒れてしまった事があった。その間長く寝ていた記憶しかなく、朧気な事も多い。もうろうとした意識の中、必死に呼びかけていてくれた声があったような思い出だけが刻まれていた。

 

「あの時はねぇ、凄かったよ。貴女の主。真夜中に城を訪ねて寝ようとしていた父上を叩き起こしたんだから。戦の褒美も何かも返すから、北条家お抱えの薬師を貸して欲しいってね。父上も起こされて不機嫌だったけど、話を聞いて笑いながら許可してたし、豪胆だなって噂。本当に知らない?」

 

「まったく存じ上げませんでしたわ……」

 

 気付いた頃には回復していた。その間に何が行われていたのか、わたくしは知る術がなく、またその必要性もあまり感じてはいなかった。世話をしてくれたのだろうというのは分かっていたが、そこまでしてくれたなど、想像もできなかった。そう言えば、しっかりと礼を言ったのだろうか。流されて何となくそのままにしていたのではないか。

 

「『情でも移ったか?あれが死んでもそう困りはするまい』と低い声に聞いた父上に『移っては悪うございますか?共に日々を過ごした者が死んで欲しくないと思うのは当然でございます』と即答した辺りの剣幕は凄かったらしい、らしいって言うのは私も人づてに聞いたからなんだけど」

 

「お教えいただきありがとうございます。わたくしはこのままではとんだ不義をしでかすところでした」

 

「よくわからないけど役になったなら良かったよ。あ、そうそう、貴女和歌が得意って聞いたけど、本当?少し付き合って……」

 

 その後しばらく彼女と何かを話していた記憶はあるけれど、その内容までは思い出せない。わたくしの頭は先ほど聞いた話でいっぱいだったからだ。城から解放されると真っ先に帰り、彼に問うた。しかし彼の反応は「そんな事もあったかもしれないな」の一言だけ。お礼を言っても「別に気にするな」の一点張り。何事もなかったように日々は過ぎていった。それでもわたくしの心の中にはこのことはいつまでも残り続けた。

 

 何気ない日々。今まで経験したことがなく、それでいてとても充実したそれは年をまたいで続いた。大きな戦があって、氏綱公が亡くなり、彼は河越に置かれた。要衝であることはこれまでの学びの結果分かっている。そこに置かれるという事の意味は、言うまでもない。喜ぶべきことだった。当然、嬉しい事だった。けれど、心中の奥深くで悲しさが溢れていた。

 

 もう多分ここに戻って来る事は無いのだろう。今までのように、二人で過ごすことも叶わないのだろう。そう思うと、涙が零れ落ちた。それほどまでにわたくしは彼と、そして共に過ごした日々を愛していた。婚姻を断り続ける彼の真意は色々囁かれている。けれど、わたくしに言わせれば簡単な事だ。彼の目は当主となった氏康様に向いている。わたくしには親愛はあっても恋情はない。

 

 それでもいいのだ。例え愛されなくても、彼の記憶の中にわたくしと過ごした日々の思い出が少しでも残っていれば満足だった。故にわたくしと同じ家に産まれた綱成を助けた。己に自信を持てなかった胤治を励ました。彼女たちも大なり小なり彼に救われた身。そこは公平でありたかった。けれど、もし、叶うのならば。末席でも構わないから、生涯側にいたいと思ってしまう。

 

 上野での一件は命の危険こそあったが、終わってみればそう悪い事でもなかった。それに、彼がわたくしを大切に思っていると図らずも知れたのだから。こんな思いを抱くのは間違っている。それでも、思う事は止められない。そんな彼が甲斐からの帰りに寄った秩父から病を得て帰ってきた。その一連の事情は泣きそうになりながら「義兄さまが私のせいで死んじゃう……!」と取り乱す遠山の娘から聞き出せた。正直、秩父の者に苛立ちを覚えてしまったが、そうして苛立っていても詮無きことだとは分かっている。

 

 看病をしているときにふとこんな昔の事を思い出した。これで一つ、恩を返せたかもしれない。とは言え、まだまだ恩は積み重なっている。いつの日か返せるのだろうか。いや、返せなければずっと共にいられるのではないか。頭の中をそんな想いだけが渦巻いていた。

 

 嗚呼、わたくしは彼を愛している。この地上の、誰よりも。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 もう一度目を覚ました時、既に時刻は夕刻に近付いていた。熱はすっかり下がり、意識も明瞭になっている。まだ身体は仄かに火照っているが、熱の残滓だろう。手足にあまり力が入らないが、柱に手をついて立ち上がる。部屋に兼成はもういなかった。随分ととんでもない事を言ってしまった。どうしたものかと思案していると、呼ぶ声がする。

 

「殿」

 

「何か」

 

「山中内匠助様と太田豊前守様がお見えですが……如何なさいますか」

 

「会おう。それと、私は何日寝込んでいた」

 

「お帰りになられてから今日で三日目でございます」

 

「さほど日は経っていない、か。今誰が応対している」

 

「花倉様が。お二人はもし殿の気分優れぬようであればまた日を改めると仰せでした」

 

「いや、その必要はない。そう伝えてくれ。すぐ行く」

 

「はっ」

 

 息を整えて襖を開ける。白い息が漏れ出た。治りかかると今後は腹が空いてくるものである。三日間ほとんど何も食べていないのだろうから当然であった。どうりで力が入りにくい。腹の虫も鳴き出す。広間に行けば、既に二人は並んで座っていた。左右には河越の主な者が揃っていた。

 

「ようこそお越し下された。本来ならもっと近くで、というところではあるが、今は病み上がり故にここで失礼する」

 

「我らもそのような大事とは知らず、のこのこと馳せ参じてしまい申した」

 

「病の淵にあるにも拘わらず出迎えて頂き申し訳ない限り」

 

「いえ、これくらいは当然のこと」 

 

 この二人と私は微妙な関係にある。私はここを預かる身なのでこの周辺の地域の軍団を動かせる権利がある。そしてこの二人は在地豪族の多くが河越夜戦で死んでしまったため有力な指揮官がいない河越衆に与力として入り配下武将の不足を補うために派遣された。そして、もう一つ、私の目付役としてである。万が一謀反の動きあれば察知し小田原に伝える役目だ。この措置は当然であり、野放しに出来るほど小さい勢力ではない事も重々承知である。また、関東管領上杉朝定を擁していることから、やろうと思えばここで大規模反乱も可能である。そうなってしまえば、関東の勢力図は大きく書き換えられてしまう。

 

 信頼しているのと野放しにするのとは違う。信頼している家臣でも監視するのが王の務めというものだ。ここで情に流されないのも、私が主を高く評価している所以でもある。

 

 故にこの二人は配下ではあるが、直臣ではない。いわば出向扱いだ。軍歴の長さから言っても偉そうにすることは出来ない。それ相応の配慮を必要とするのだ。幸い、土地はある。彼らとその一族郎党を養えるだけの場所は用意してあった。

 

「改めて、元玉縄衆所属、山中内匠助頼次、一条土佐守殿の与力として一族郎党と共に馳せ参じました。以後、よろしくお頼み申し上げる」

 

「同じく元玉縄衆、太田豊前守泰昌、馳せ参じ申した。山中殿同様、お頼み申す」

 

「ご丁寧に口上頂き、御礼申し上げる。私が主・北条左京大夫氏康様より河越を預かる一条土佐守兼音であります。軍歴長く経験豊富とお聞きしている。その実力、戦場にてご披露頂きたい」

 

「武功多き貴殿の与力となれば今まで以上の手柄を上げられると我らも意気込んで来ておりまする。次の戦では、どうぞ我らに先陣を」

 

「相分かりました。是非ともお勤め頂きましょう」

 

 武闘派ではあるが、内政能力もある。これは良い人材を送ってくれた。これで大分楽になる部分も多いだろう。一族郎党と言っていたし、そいつらも是非ともこき使わせて頂こうではないか。その後、左右に控える面子を紹介する。河越一条家筆頭家老(家老一人しかいない)の兼成。杉山城を任されたが妹を送って自分は此処にいるつもりの綱成。参謀長(参謀は一人しかいない)の胤治。人質だったが人手不足のために農政関連に駆り出されている成田長親。同じく人手不足のために警備隊に駆り出されている甲斐姫。現在特に何もしていない政景。関東管領の上杉朝定。そしてその剣術指南役の上泉信綱と護衛の霧隠才蔵。今はいないが段蔵も。

 

 こうしてみるとなかなか壊れた面子がいる。サラッと流したが、一介の家臣の城に関東管領が普通にいるのは大分おかしな話だ。空いていた扇谷上杉時代に造られた大きな屋敷が幾つもあるので、そこに案内させて太田泰昌と山中頼次にはお引き取り願った。また改めて私の風邪が完治し次第宴会を催す必要があるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 兼成と話す時間を作ろうと思いながらも作れずにいた、その日の午後。急な客人が来訪した。私と同じ北条家の五色備えの一人。黒に任じられた古河城を預かる元忠であった。私が甲斐へ赴いている間も小田原にいたらしく、そこから任地へもどる途中にここへ立ち寄ったのだという。史実では足利氏の本城として用いられていた古河城だが、現在その足利氏は皆鎌倉にいる。足利晴氏と六人の子供が鎌倉にいるため、元々鎌倉にいるはずだった関東公方が紆余曲折の果てに鎌倉入りできず古河にいたのがそもそもの戦乱の理由の為、鎌倉に戻った以上古河にいる必要性はなくなった。なので、その空いた要衝を重臣が抑えているのである。

 

「存外元気そうじゃないか。城の者に病に倒れたと聞いていたが」

 

「ま、おかげさまと言うかだ。私の人望も捨てたもんではないらしい。献身的な看病によってご覧の通りだ」

 

「それは良かった。お前が今死ぬと、色々面倒だ。そうだろう?遠山の娘に、ここを治められるか?」

 

「無理だな。やっと目が覚めてきたようだから今叩き込んでいるが、しばらくは無理だろう」

 

「成田長泰などはお前だから従っている側面も強い。家の古さに自信のある奴はそれを上回る権威と力に弱い。どちらもあるお前にこそ従いたいと思っているのだろう。太田も上田も、一条兼音個人への恩義から北条に属している。そうでなくなるにはしばらく時を要するだろうな」

 

「時間をかけてやるしかないさ。急いては事を仕損じる。……さて、元忠。そんな茶飲み話をするためにわざわざ来たわけではあるまい?」 

 

 彼女はニヤリと笑う。一つに結ばれた黒い髪が揺れる。綱成と並んで女性人気も高い武将だ。まだまだ男所帯の北条家中においては家臣筋では珍しい姫武将。その為、盛昌と並んで紅一点ならぬ紅二点として扱われてきた。

 

「流石に鋭いな。話す前に、人払いを頼む」

 

「分かった。皆、下がれ。護衛もいらん」

 

 待機していた者たちがスッと消える。天井裏の護衛も引いたようだ。

 

「それで、人払いまでさせて何用だ」

 

「まずは報告だ。お前の働きで対越包囲網は完成した。越中門徒と加賀門徒、神保、佐渡の本間、蘆名、武田がこの企てに乗った。越後品目の不買、機会を見ての侵攻をするとの話になっている」

 

「ほぅ、それは良かった。これで長尾もいくらか困るだろう。足並みをそろえる必要はない。むしろ、バラバラに攻撃した方があちらこちらに駆り出され越後兵の士気も下がるはずだ。確かに大きな事よ。しかし、それだけでもないだろう」

 

「ああ。武田が動いた。我らに外交の主導権を握られているのが気に入らないらしい。近く、善徳寺で会合を開きたいと申し出てきた。時期は卯月頃を考えているそうだが姫様としては皐月に行いたいらしい。内容としては相甲駿の三国で同盟だろうという事でほぼ確定だ」

 

「三国同盟、か。今川をけん制して甲斐に来させぬためだろう。ついでに北条も、だろうが……」

 

「どう思う」

 

「東国の勢力は大きく変わるだろうな。当家としては何より今川と国交を正常化できるのが大きい。河東騒乱以来にらみ合いの続いている今川との関係を修復できれば後方の安全は確保される。後ろを気にせず関東攻略に乗り出せる。だが……どう盟約を結ぶと言うのだ」

 

 駿河は本来この時期今川が完全に支配しているはずなのである。しかし、興国寺での大勝とその後の講和により駿東は半分しか今川領にならなかった。残りの駿東部では、長久保城の北条幻庵と葛山城の葛山氏広が今川に向けてにらみを利かせている。この葛山氏広は氏綱公の弟、つまり氏康様の叔父にあたる。本来葛山氏は河東騒乱の後に今川に属するのだが、葛山氏の勢力範囲が北条領の為今も北条家に属している。そろそろ養子の氏元に当主位が譲られるらしいが、ともあれ歴史の変わった影響はこんなところにも出ていた。

 

「武田は北条に既に人質を送っている。今川にも送っていたが、その人質であった定姫が先ごろ死んだ。その為、恐らくは婚姻同盟になる」

 

「婚姻?誰と誰が……太郎義信か?相手は松姫だな。義元の妹の」

 

「その通り。恐らく北条からも誰かが駿府に行く必要があるだろう。それも含めて、重臣の評定が行われる」

 

「また小田原行きか……」

 

「いや、今度の場所は古河だ。それにどのみちお前は善徳寺行きだぞ」

 

「古河?何故そうなった」

 

 古河は下総の北に位置している。利根川水系の要衝だが、決して小田原から近い訳でもない。そこでやる意味はいまいちわからなかった。

 

「これはまだ計画段階だが、姫様の関東視察がある。武蔵、上野、下総を中心にやる。鎌倉の公方も同席の可能性が高い。その途中でやってしまおうという訳だ。時期は如月後半から卯月にかけてを計画している」

 

「故に皐月にずらせと言っているわけか」

 

「そういう事だ。ここ最近で一気に広がった領土内で人心が北条家に心服しきっていない可能性を危惧されている。また、戦の際に地理を把握したいという思惑もあるようだ。北条家は変わってきている。今までは小田原に籠るというのが基本戦略であった。しかし、お前が来てからは戦場でケリをつける方針になりつつある。小田原に籠るのは最後の手段という訳だな」

 

「不服なのか?」

 

「いや。興国寺、河越、沼田、箕輪。これらの戦は姫様の御心を動かすには十分だったという訳だ。合議制の形も変わりつつある。時の流れに置いて行かれぬようにするためにはこれ以上ない事だろう」

 

「しかし……そうか視察か」

 

 民衆は善政を敷いているのならば君主を歓迎する傾向にある。政治家に興味がなくても演説に来ていれば手を振ってみたりする。天皇に忠誠を抱いていなくても来てくれれば旗を振る。意外とミーハーというか、偉い人が自分の近くにいる。もっと言えば自分たちの様子を見て、なんなら声をかけてくれるというシチュエーションに弱い。支配を強固にしたければその地の現状を知る事も必要だ。産業、風習、地理、有力者の情報等々……。政治家も地元を行脚するのと同じだ。報告書からは見えてこない情報も多くある。

 

 だが、あまり小田原から出るのを好まない氏康様が自分から出てくるというのは珍しい。なにか、心境の変化でもあったのだろう。皆、少しずつ変わっていく。いい方向であれ、悪い方向であれ。取り敢えずこれは良い傾向だと個人的には思っている。

 

「善徳寺の会合には対甲の外交役のお前、対駿の外交役の幻庵媼と氏広様、そして松田殿が出席する予定だ。甲斐は誰が来そうか分かるか」

 

「私が出るのは既定路線か……。まぁ仕方あるまい。それで、甲斐の出席者か。そうだな……晴信、山本勘助、穴山信君辺りではないか?外様で良ければ真田もおるが。それ以外ではどうだろうか。あまり外交に特化した者がいない印象を受ける」

 

「穴山か……。ならばまぁやりようもあるだろう」

 

「だと良いのだがな」

 

 三国同盟。そろそろ来るとは思っていたが。この時期とは。受けないデメリットが多すぎるので受けるに決まっているのだが。私が河越に腰を据えられるのはいつになるだろうか。それに、視察で河越に寄らないとは考えにくい。応対の準備をさせねばならない。まだ正式決定ではないのだが、ほぼ決まったようなものだろうな。

 

「最後に伝える事だが、長尾政景の調略に失敗した。武田と合わせて動いていたが、ダメだった。北条高広は動いたが……あれは長尾景虎を出家させないために越後に戻そうとしているのだろうというのが姫様の見解だった。これは秘匿したままで頼む」

 

「勿論だ」

 

「まぁ、お前は漏らすような男ではないだろうな。そこは信頼しているぞ」

 

「それはありがたいな」

 

「では私は古河へ向かう。やらねばならないことは山積みだ。婚期は益々遠ざかるな」

 

 そうやって茶化しながら笑って元忠は言う。姫武将は結婚できない者も多い。それが彼女たちの悩みの種だった。音もなく立ち上がり、元忠は帰り支度を始める。嵐のように来て風のように去って行く。彼女も彼女で忙しいのだろう。古河は足利のお膝元だった。そのプライドを抱える者が多いはずだ。

 

「ではまた会おう。今日は久方ぶりに語らえて楽しかったぞ。死ぬなよ」

 

 そう言うなり馬に飛び乗った彼女はそのまま供廻りの騎馬と共に去って行った。スタイルも顔も悪くない上に所作がいちいち様になっている辺りが人気の理由なのかもしれないと、見送りながらぼんやりと思った。現代にいたら、男装しても似合いそうな気がする。元女子高だったせいか女子人数の方が多かった私の高校では大人気になっていたかもしれない。

 

「しかし……三国同盟、か」

 

 これの締結の後に第二次川中島の戦いが起こるはずだ。二百日にも及んだ前代未聞の長期戦だった。これによりまた両国は疲弊していくことになる。平和は遠く、兆しも見えない。自分自身の恋愛云々の悩みが矮小すぎるくらいに矮小に見えるほど、世界は苦悩に満ちていた。




小説複数シリーズ書いてるとどこまで書いたかとか何を書こうとしてたのかとか主人公やキャラの感じが混ざりそうになりますね。凄い今更ですが。


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第89話 北条氏照

なんか話の纏まりが……。遅くなったり色々申し訳無いです。頂いた感想ももうすぐしたら返したいと思います。今度こそ…!


 元忠の来訪から数日後。正式に氏康様による関東視察が決定し、通達された。数百人規模の大行進になるので、その準備が求められる。武蔵では江戸や小机、滝山、勝沼、河越、岩槻、松山、鉢形、忍などが主な訪問地になる。相模では津久井、鎌倉、浦賀、玉縄、三崎などで、下総では古河、関宿、栗橋、佐倉、猪鼻。上野では国峯、金山、厩橋、高崎、沼田などが対象になるそうだ。

 

 これの目的は情勢把握にある。同時に示威行為でもあるのだ。巡察によって市井の様子を把握し、地理状況を抑え、街道整備や河川整備に使う。威光を示し、同時に巡察に伴う経済面での効果も期待しているのだろう。供廻りを含めた多くの人間が金を落としていく。小田原に経済が依存するのを避けるつもりだろう。また、特産品のブランド化にも役に立つ。

 

 基本良い事しかない。欠点としては迎える側にもそれ相応の準備が必要という事か。ここで在地の領主と話をして地盤を固めたり、反乱の予兆を察知する事が出来れば御の字だ。時期はそう遠くない為、現在そこそこ急いで準備が進められている。元々客人用の屋敷は用意してあったが、それでは足りないため陣屋の構築をしなくてはいけない。

 

「陣屋の増築を急がせろ。それと、城の御殿も多少改良する必要がある。このままでは家格に相応しからずと思われてしまう」

 

「しかし、陣屋はともかく城の方は必要でしょうか。それに使う金子も無駄になりかねません」

 

「仕方ないのだ、胤治。これまでむしろ何も気を遣わず過ごしてきたが、家格に相応しい調度は必要である。必要経費と割り切ろうではないか。それに、上手くすれば今後、鎌倉公方の来訪もあり得るかもしれんぞ」

 

「まぁ、そちらの話は私ではなく兼成様にお話しなさって下さい。恐らくですが、二つ返事で了承、とは参りませんよ?」

 

「ああ、分かっているとも」

 

 巡察の情報を城内外に通達し、矢継ぎ早に指示を飛ばしているときに書状が舞い込んできた。

 

「滝山から……?なにかあったのか」

 

 書状は二通。片方は滝山城主・北条(大石)氏照様。もう一通はその滝山で補佐役をしている三家老の一角松田尾張守殿からである。滝山城は現代の八王子市にある城で、八王子城と並び同地の堅城である。八王子城はまだ築城されていないので、この城が周辺で一番の堅城であった。ここは大石家の支配領域であったが先の河越にて当主であった大石定久は捕縛され、命と引き換えに当主の地位を北条一門の者に譲る事を強いられた。

 

 だが、内憂のある鉢形とは異なり滝山では悪い話は聞かない。直情的かつ武人的な鉢形の氏邦様に比べ、姉である氏照様は史実で外交担当をしていただけあって人当たりが良い。仮面を被れる人物だ。もっと言うと、パーソナルスペースを詰めるのが上手いという特技がある。するっと懐に入っているという感じよりは堂々とパーソナルスペースの境界を突破しているがそれを不快に思わせない感じと言えばいいのだろうか。いずれにしてもどう考えても陽の側にいる人であり、他の姉妹とはそこが少し違っていた。

 

 猫被りのぶりっ子かと言うとそうでもなく、あざといかと言うとそこまでマイナスな感じはしない。それに、わざとらしさややり過ぎ感もない絶妙なバランス。そう感じさせるのも能力かもしれないと思っている。基本的なところに育ちの良さがあるので、良い感じに相互作用が起きて不快感を与えないコミュニケーション能力を持っていた。

 

 現代にいたならかなりモテていたと思う。しかもそれでいて同性からも嫌われない。そんな感じだ。元お嬢様高校の金持ち学校に特待枠で通っていた身としてはあまり見たことが無いタイプだったりする。女子慣れはしているつもりだが、それでも気を付けないとコロッと落とされてしまいそうな危険性がある。仕方ないのだ。長姉である氏康様似の美貌持ちなのだから。

 

 ともあれ、そんな存在からの書状だった。滝山の管轄と河越の管轄は隣接している。その為そこそこ官民問わず交流があった。河越より少し離れた現在の入間や所沢付近の状況把握には貸してくれた大石家の人材がかなり役に立った。素早く大石家を把握したあたり、人間関係に関しての能力では氏邦様より上かもしれない。

 

「如何なる内容でございましたか」

 

「勝沼をどうにかしたいとの事だ。協力を求めてきている。鉢形とも共同で動きたいのだそうだ」

 

「勝沼……三田一族ですか。確かに未だ従順ならざる勢力との話は聞きますが、時局が読めないほど愚かではありますまい。それが一体何故……」

 

「長尾のせいやもしれんな。南武蔵は比較的治まっていたのだが」

 

「里見、という事もあるかもしれません。今どうも結城がきな臭いようで。佐竹や下野の妖怪供もただでは諦めてはくれぬでしょうし」

 

「里見義堯。食えぬ爺だ。それでどうだ。何か策はあるか」

 

「我らが接近しても怪しまれるだけでしょう。簡単なのは闇討ちですが、評判を気にするとやらぬが吉。ともすれば謀反の証拠を集めるしかありません。国衆を使うのが最も手っ取り早いと存じます」

 

「いずれが適任と思うか。私は成田辺りが適任に思う。もしくは……諸刃の剣になりかねんが江戸の太田を使うか」

 

「成田殿はよろしいかと。あの御仁は関東管領への忠誠心で出仕している松山や岩槻とは違い、殿個人への誠心と氏康様への畏怖より従っているのは明白。であれば実は心中穏やかならずというのは理にかなった話でございます」

 

「であればその線を利用せぬ手はないな。早々にボロを出してくれれば楽だが、そうもいかないだろう」

 

「はい。言い逃れできる算段を多く用意しているでしょう。それに、北条は基本在地の領主をそのまま体制に組み込むことを前提にしております。ここで派手に粛清をすると警戒を与える事になり、無用な混乱を呼びかねませんのであくまで面従腹背であろうとも大人しくせざるを得ない状況にするのが第一かと。その為には滝山の氏照様の統治力が問われる訳ですが……」

 

「まぁ出来ぬ御仁ではないだろう。だが万が一粛清せざるを得なくなれば、真っ先にやり玉にあげられるであろうな。長尾や里見がもう一度来た時が危ういかもしれん。それは滝山も認識しているようだが。しかし、足りん。甲斐方面へも気を配るように忠告しておこう」

 

「武田が裏切ると?」

 

「同盟を結んだとしても裏で国境部の国人を懐柔するのは常套手段だ。特に武蔵と甲斐の国境は不明確。線引きがあいまいなのを理由に色々難癖付けられてはたまらん。ま、晴信がよほどの馬鹿でない限り目先の利益で本質を見失う事はあるまいが……備えあれば憂いなしだ」

 

 完全な同盟や国家間の友情など存在しない。基本全て仮想敵国であり、自分にとって比較的利をもたらすか、そうでないかの違いだけだ。その利益が多い方と手を組む。そしてそうで無くなれば手を切る。沈みゆく泥船に乗り続けるメリットなどない。信頼とは金と飯の上に築かれる。その逆はあり得ない。

 

 甲斐へも注意を割くよう念のため忠告する文を記しつつ、考える。さぁお手並み拝見だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は大体一年以上前に遡る。兼音たちが河越での戦いを終えその戦後処理に入っている間、南武蔵でも大きな動きがあった。それまで南武蔵、現在で言う東京都周辺地域は大きく二つに割れていた。滝山城や勝沼城のある八王子地域など西側は扇谷上杉家の、江戸などの東側地域は北条家の勢力範囲となっていた。だが、扇谷上杉家の事実上の滅亡により八王子などの旧扇谷上杉家領はそっくりそのまま北条家の勢力範囲となる。その後、藤田家の治める鉢形には氏邦が入ることになり、最前線が上野国境に移動した。同時に大石家の治める滝山には北条氏照が入城したのである。

 

 大石家は降伏したとはいえ、北条家に関する感情はよろしくない。この大石家は元々信濃の出身であり、関東管領上杉氏のもと、四宿老(長尾氏・大石氏・小幡氏・白倉氏)の一人に数えられ、代々武蔵国の守護代を務めたほどの家柄だ。藤原秀郷の後裔を主張し、南北朝の動乱やそれ以前の資料にも名が見える。北条家に敗れた後、一部の一族は越後に逃れ長尾景虎に仕えた。その代表人物が大石綱元であり、その子孫は米沢藩にて上杉鷹山の改革を受け継ぎ名家老と称賛された大石綱豊がいる。

 

 先代の当主であった大石定久は河越で捕縛され、北条家の方針で命は助けられたものの家を乗っ取られてしまう。彼も守護代の家というプライドがあり、戸倉城に退いたものの不満があった。この時点では三田家と組んで一戦交えるチャンスを窺っているタイミングである。

 

 その彼よりも面白くないのは子の大石定仲である。元々大石家は国境の国衆の例にもれず北条と上杉との間を反復横跳びしていた。その証拠に定仲の兄である綱周は氏綱より名を貰っている。だが、彼が河越夜戦の少し前に逝去してしまう。これで北条との縁が切れ、上杉側で参戦したのだった。筋で言えば次男の定仲が継ぐべきであるが、敗戦により年下の氏照にとられてしまう。これが面白いはずもなく、不満を募らせていた。

 

 そんな状況は当然氏照も知っている。しかし、特に気にする様子も臆する様子もないまま彼女は供廻りと共に新たな住処に入城したのだった。大広間に集められた重臣や定仲は内心不満だがそれを表に出しては命が危うい。それは良くわかっているので無表情で座っていた。横には定久もいるが機嫌が良いとは言い難い表情である。そんな中当主が座るべき位置に座った氏照が最初に行ったのは名乗りでも、威圧でもなかった。いきなり立ち上がると向き合うようにして先頭に座っていた大石定仲の手を取ったのである。流石に面食らった一同は混乱して何も言えない。その場のペースは完全に彼女に持っていかれていた。

 

「申し訳ありません!」

 

 悲しそうな顔で目をウルウルさせながら上目遣いしてくる姉譲りの美少女に強く出れるほど定仲は人生経験を積んでいなかった。

 

「兄と仰ぐべき御方を下座に座らせ……私はなんと恥知らずでしょう。どうか、お許しください。姉上、氏康よりここの当主になるよう命じられましたがあくまで正当な当主は貴方様でございます。私は繋ぎとでも陣代とでも好きなようにお思い下さい。決していつまでも居座ろうとは思っておりません。機を見て姉上に上申し、正しく定仲様が守護代の名門、藤原秀郷公の御子孫たる大石家の家督を継承できるように致しますので、どうかそれまで堪えて頂けませんでしょうか。私の兄としてご指導ご鞭撻をお願いします」

 

「あ、ああ、も、勿論ですとも、願ってもないお話。誠心誠意尽くさせて頂きます」

 

 なんとか持ち直したのは流石と言えるが、タジタジであるのは明白だった。更に畳みかけるように隣の定久にも声をかける。

 

「私は父を亡くしてしまいました。あの日以来、どこか心に虚な穴が開いたようにございます。厚かましいお願いとは存じますがどうか、私の第二の父となっては頂けないでしょうか」

 

「今をときめく北条家の御方にそう言って頂けるとは光栄ですな」

 

 定久はサラッと流したように対応しているが正直予想外であった。もっと上から居丈高に来ると思っていたのである。その為、超下手ともいえるこの対応には驚いていた。舐められたら終わりなのが外交と武士の世界である。そんな中下手に出るのは増長されかねない為危険だ。しかし、それを躊躇わずやった意図は何か。定久は考えた。一つは単純に氏照がその程度の人間であるという事。これは氏康の人選ミスもしくは身内人事である可能性が高い。であるがそこまで馬鹿ではないはずだと定久は踏んでいる。であれば二つ目。この態度は演技であり、懐柔しようとしている。彼はこの線だと予想した。

 

「私はこの地の事も、この大石家のしきたりも何一つ分かりません。定久様、定仲様をはじめとした皆様、どうかお力をお貸しください」

 

 深々と頭を下げたその姿に広間の空気は彼女に対して肯定的なものになっていた。一瞬マズいと思った定久だったが、演技ならいずれボロが出るはずだと見越し、その時を待つ方針にしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 だが数日、数週間経ってもボロが出る気配は無かった。当初は定久の言うように演技ではないかと疑っていた家臣団にも動揺が走っている。その間、氏照は精力的に動いていた。これまでこの地を治めてきた人間が割とそっくりそのまま残っている大石家では彼らの力を借りるのが統治の近道だった。そういう人間たちがほとんど消え去ってしまった結果広大な直轄地が残っている河越とは訳が違う。

 

 早速土地の情報から手を付けた氏照は定久には内政面でも主に経済的なものを、若い定仲には領内の案内を頼んでいた。彼らとてしっかりと真面目に統治してきた自負がある。それに隠しても後で酷い目にあいかねないので素直に話していた。聞くときの態度も言わせるのではなく教えを乞うような態度であり、積極的に話しかけ、自慢話がくればしっかり相槌を打って肯定し、嫌味が来ても軽く受け流した。これには二人も完全に押され気味であった。

 

 そんな中、どうしたものかと頭を抱えていた定久の下に氏照の周りに忍ばせてある女中から報告が来た。氏照は供廻りに実務を任せているが奥向きの人材をほとんど連れてこなかった。その為、容易に入り込めたのである。 

 

「如何であった。何か、馬脚を露すようなことはあるか」

 

「それは……」

 

「何もないのか」

 

「申し訳ございません」

 

 もう怒りなどの感情はない。もう無理かと諦めかけ、定久はため息を吐いた。

 

「何か変わった事は無いのか、お主に対する扱いが非道であればそれを盾にすることも出来る」

 

「いえ。むしろ、私どもにも大変よくして下さいます。変わった事で言えば……この前の夜、一人で落涙しているところに偶然居合わせてしまいました」

 

「泣いていた?所詮小娘、小田原が恋しくなったか」

 

「私も初めはそうでは無いかと思いましたが、そうではございませんでした。訳をお聞きすれば、守護代様や播磨(定仲)様と打ち解けたいのに、どうしても壁を感じてしまう。どうすれば良いのか分からなくて、泣いてしまった。私に至らない事があれば言って欲しいのに、何も言って下さらない。やはり、元敵対勢力の娘が身内になろうなど、高望みだったのですね……と」

 

 人は自分を慕っている人間を邪険にしている自覚がある時、こういう情報を聞かされると罪悪感に襲われる。勿論精神力の強い者などはなにも感じないかもしれないが、定久は良くも悪くも感性は普通の人間と同じであった。なので、自分は一体何をやっていたのだろうと虚しい気持ちに襲われてしまったのである。それにこの女中も大分氏照にとりこまれているのを感じていた。自分の娘である比左姫も彼女に懐いていた。

 

「もう、止め時かもしれん。意地を張って、一体何になると言うのだ。あの娘がいずれ北条に戻るとしても大石はその縁戚になれる。そうすれば北条が栄える限り大石の繁栄も約束される。このまま邪険にし続けることも出来ようが、そうなれば御家はどうなるかもわからん。大石家が守護代から解任された訳でもない。定仲に当主の地位が戻ればまた守護代になれるだろう。もう、終わりだ。北条氏照を受け入れよう。お主の仲間にもそう伝えてくれ。下がってよい」

 

「ははっ!」

 

 女中はどこか嬉し気な声で返事をし、去って行く。演技だったら大したものだ、と定久は肩を落とす。大石家は河越ではなく、今日ここでたった一人の少女に敗北したのだと悟るしかなかった。

 

 その後定久は息子を説得し、息子定仲も折れたためかくして大石家は完全に北条家に組み込まれることになる。これは後の上州征伐にも大きく影響し、大石家などは滝山衆として参陣。氏照配下の強力な軍団を構成する一員となった。

 

 

 

 

 

 

 

「これまでの仕打ち、誠に申し訳なかった。どうか許してほしい」

 

 大石定久と定仲が頭を下げているのを見ながら、氏照は勝利を確信した。結構大変な時間だったと振り返る。元々姉妹の中ではコミュニケーション能力の高い存在であることを彼女自身も自負しているし他の姉妹も知っていた。姉の為昌の方が交渉や頭の回転という観点では優れているので外交役では無いが、いずれはそれも出来る人材になって欲しいというのが氏康の願いだった。

 

 氏照は自分の容姿が良い事を自覚している。姉のような静かな雰囲気ではなく愛らしい雰囲気の人気も高い事も。それを利用する効果的な方法も当然知っていた。定久は演技を疑い続けていたが、まさにその通りだったのである。演技とは言っても元々の人格とそんなに乖離しているわけではない。だが、ここまで現代風に言えばあざとい訳ではない。あと、もう少し性格も黒い。

 

 そんな彼女に大石家の篭絡は時間がかかるという点では大変だが、それ以外は大したことなかった。いつでも努めて明るく。年上を敬い、学ぶ姿勢を見せ続ければよっぽどの偏屈でない限り評価してくれる。また、奥向きの供をほとんど連れてこなかったのも策の一環である。安全面は風魔がいる。であれば、敢えて大石家の息のかかった女中を周りに置いた方がいいと考えたのである。そして報告が定久の元へ行くのを織り込み済みで弱みを見せたのだった。勿論それまでにしっかり彼女たちを取り込むことも忘れない。

 

 こうして大石家は内部から切り崩されあっという間に掌握されたのだった。彼女が唯一警戒したのは同じ女である比左姫であった。女の敵は女と言うように、自分の演技を看破される可能性があったからだ。しかし、彼女は芯がしっかりした娘であったが幾分幼く純粋だった。彼女がすっかり自分に懐いた瞬間にほぼ九割方の勝利を確信し、そして今頭を下げている二人の姿に完全勝利を掴んだことを確信した。

 

「どうかお顔を上げて下さいませ。私は何もされておりませんもの。定久様が私を受け入れられないのは当然の事でございます。私が厚かましかっただけですから……」

 

「いや、其方の心根を信じられなかった儂の不徳の極みである。いかなる罰も受け入れよう」

 

「罰など……けれどもし叶うのなら、お願いがあります」

 

「何なりと申し付け下さい、儂も愚息も、喜んで従いましょう」

 

「どうか敬語をおやめになって下さい。それと、義父上、義兄上とお呼びしても、宜しいでしょうか」

 

「なんと、これまでの非道にも拘わらずなお義父と呼んでくださるか!喜んでその願いに応えましょう」

 

「某も同じ思いなり!」

 

 定仲も父の言葉に同調する。

 

「ありがとうございます!私……とても嬉しいです」

 

 「これで大石家も安泰じゃ……」「氏照様を当主と仰ぎ、盛り立てよう」「結果的に北条に早い段階でつけて良かったやもしれんな」「その通り!」とニコニコしている家臣団。安堵と感激の混じった顔の大石家の二人。そんな姿を見ながら、氏照は優しく微笑んだ。これでこの地は私の思うまま、と思いながら。

 

 そうは思いつつも接する態度は変えずにいるため、大石家内はとてもよく纏まっていた。北伐後補佐を命じられ様子を伺いに来た松田盛秀が人生最大の困惑と共に「ええ……」と声を漏らしたくらいには治まっていた。まるで元々北条家に仕えていた譜代の家臣のようであったと後の彼は語る。

 

 

 

 

 

 

 

 ここまでは割と上手く行っていたが、彼女も決して順風満帆であった訳ではない。次いで懐柔に入ろうとした三田家は一向に強硬姿勢を崩すことが無かった。勿論、三田家が単独で勝つのは不可能だ。故に、普段は大人しくしているが、面従腹背なのは明らかである。国人などそんなものであるため、通常ならばそこまで気にはならないし、裏切られないように対策をして終わりである。しかし、ここではそうはならなかった。

 

 原因としては三田家側にやや否がある。発端は大石家と三田家の所領の境界の村における水利権の争いだった。場所が場所なだけに氏照が介入し判断することになったが、三田側は一向に譲歩する気配を見せなかった。それだけでなく、氏照が双方の村にも出向いて調整を行い、若干大石家側が譲歩する形で決着が付こうとしたのを跳ねのけたのである。現地住民は納得していたが上が勝手に民意を無視して強硬姿勢を取った形であった。そうなると、調整をしていた氏照の面目も丸つぶれである。彼女は決して怒りっぽい人間ではなかったが、流石にカチンと来ていた。この件をきっかけに三田家は不審な動きが目立つようになっていった。

 

 なお、この件自体は解決している。怒り心頭の氏照だったが、現地の民衆を思えばそうそうに解決したい。三田家の態度の原因も分かっていた。北条家に対する敵愾心以前に武勇なき氏照の指示に従いたくなかったのである。有体に言えば舐められていた。しかし、昨日の今日で戦は出来ない。そこで氏照は武蔵において恐らく一番武功のある人間を引っ張り出してきた。それが一条兼音であったのだ。ここに、両名の関係性は深まっていく。

 

 滝山と河越の中間地点にある村山城に兼音を呼び出した氏照はため息交じりに切り出した。余談だが、この村山城は大石家の配下の村山党の宗家村山土佐守義光の治める城だった。もれなく氏照に懐柔された存在である。

 

「ごめんなさい。まだまだ忙しいでしょう……?」

 

「いえ。お呼びとあれば喜んで馳せ参じる次第ではありますが。如何なさりましたでしょうか」

 

「三田と大石で水争いをしているのは、知ってる?」

 

「話は聞いております。何やら弾正少弼(三田綱秀)が強硬だとか」

 

「そうなの……。それで色々してみたのだけれど、一向に態度を変えてくれないのね。多分侮られているの。でも私ではどうにも出来ないのも事実。武功ある貴方に調停をお願いしたいと思っているという訳です」

 

「左様ですか。しかし、そういうお話でしたら私より適任がおりますな。太田資正殿を差し向けましょう。元々扇谷上杉で大きな影響力を持っていた男です。武蔵の国人にも顔がきく。任せてみるのが良いかと」

 

「それでうまく行くのならば願ってもない話だけれど、簡単に言う事を聞いてくれる?」

 

「問題ありませんな。必ずや、成し遂げてみせましょうぞ」

 

 そしてその数週間後に太田資正の説得を受け三田家側が渋々交渉に応じ、なんとか解決したのだった。言葉通りに太田資正をある意味顎で使って、全く造反される気配もない兼音の統治能力と人望に氏照は軽い戦慄を覚えるのだった。

 

 姉が熱を上げている男であるからどのようなものかと見定める意味も込めていたが、自分の好みではないものの好青年であった。その求心力は恐らく知力によって生み出されたものであると何となく察しのついていた彼女は、兼音にどこか親近感を抱いている。彼女も自分の作ったキャラクターを演じる事で求心力を得ていたからである。

 

 ともあれ、その後の展開を見ても彼の有能さは明らかであり、姉がとてつもない買い物をしたことも理解した。猪突猛進気味の妹・氏邦にはいい補佐役になるだろう。もし姉と彼が結ばれるようなことになったのならば積極的に支持はしないけれど反対もしないでおいてあげよう。賛成するかは北条家と私個人に対する今後の働き次第ね、と外から見れば天真爛漫な風貌で、今日も彼女は笑顔を振りまいている。

 

 北条氏照。まだまだ成長途上の姫武将である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間は戻り、所は都に移る。長尾景虎が北条高広らの反乱を受け緊急帰国したため、北条為昌は余裕をもって外交交渉に臨めていた。二枚舌の朝廷は明らかに対立することを分かっていながら北条家にも『住国ならびに隣国治罰の綸旨』が出される。当然長尾がそれを持っていることも知りながら、為昌は恭しく拝礼した。

 

 朝廷にも金をばらまき、いざ帰国となったがその前に彼女はどうしても会わなければならない人物がいた。日本で現在一番天下に近い位置にいる副王。三好長慶その人である。近衛―長尾ー細川ー畠山ー足利で繋がりが構成されているのに対抗するべく北条ー三好で結びつきが欲しかったのである。

 

 芥川山城にて行われた会見で為昌はやや驚かざるを得なかった。飛ぶ鳥を落とす勢いと囁かれ、副王とすら称される存在である長慶は、今彼女の目には疲れ切った一人の女性にしか見えていない。これが本当に三好長慶なのか、影武者ではないのか。もしくは……と横に目をスライドさせる。ここに侍っている松永弾正が何かしたのか。そうでなければここまでやつれているのだろうか。勿論、見た目は問題ない。しかし、どうも精神的な面で大分参っているように思えた。

 

 しかし、困惑していても始まらない。惑いながらも挨拶の口上を始めた。

 

「三好修理大夫様に置かれましては益々ご健勝のことお慶び申し上げます。此度は、会見に応じて下さりありがとうございました。私は北条左京大夫が妹、北条伊豆守為昌と申します」

 

「……はい。ようこそ、畿内へ。なにか不便はありましたか」

 

「いえ。全くそのような事は無く、修理大夫様のお力により無事帰途につこうとしております。本日参ったのはその前にどうしてもお会いしたかったがゆえにございます」

 

「何用でしょうか」

 

「我が姉、氏康以下北条家は現公方様に対し不信感を募らせております。そしてその息のかかった長尾が侵攻するのを咎めぬばかりか指示しているのは言語道断。三好家と当家はその点で利害が一致しているはず。東西に分かたれています故、援軍などは難しいでしょうが是非とも交易などで手を取り合っていきたいのです」

 

「……北条家は公方様や景虎殿と戦う、と?」

 

「我らとて本心ではございません。しかし、降りかかった火の粉は払わねばならないのです。さもなくば燎原の火の如くあっという間に身を焦がすでしょう。もし、止むを得ぬ時は公方様の名に背いてでも、意思を成し遂げる腹づもりでございます」

 

「そうですか……。しかし私は……公方様や景虎殿とは戦いたくないのです。あのお二人に恨みはありません。私の倒すべき敵は細川だけでした。しかし、その細川ももう京には戻れない。名は残っていても勢力としては死んでしまいました。これ以上、何を……」

 

 ああ、と為昌は思った。この人はもう死んでしまった。きっともう燃え尽きてしまう。彼女の命の炎は復讐によってのみ燃やされていた。それに今までの人生を費やし、それだけを見てきた。その為に必要な行いを成してきた。だからその先を知らないし、考えもしていなかったのだろう。細川を打倒したその先を。もしかしたらこうもあっさり行くとは思わなかったのかもしれない。いずれにせよ、復讐こそを人生にしてきた彼女の心は死んでしまったのだろう。追い打ちをかけるように畿内の伏魔殿が襲い掛かる。権謀術数の果てに疲れ切っていた。

 

「修理大夫様個人としてはそうであっても、御家はそうではありますまい。御弟君に家を残さねばならないのではありませんか?」

 

 そう言った時、少しだけ長慶の目に光が戻る。

 

「そう……ですね。私個人として思う事はありますが、全体を見ねばなりません。北条家との交易に関しては承知しました。詳しい事は孫四郎(三好長逸)と詰めて下さい。私は……少し疲れてしまいまして。饗応には参加できず申し訳ないですが、休ませて頂きます」

 

「ご無理を聞いて頂きありがとうございました。どうぞ、お身体をご自愛ください」

 

 長慶にかけた言葉はふっと出てきてしまったものだった。為昌はその訳を考える。そしてすぐに分かった。彼女の雰囲気がどこか姉・氏康に似ていたのだ。よく似た傾向の存在であることがわかる。復讐に生きるには長慶は優しすぎた。そして、氏康もそういうところがある。

 

 或いは……と為昌は思案した。或いは彼女は一条兼音に出会えなかった姉なのではないかと。心を閉ざし、城に籠り、冷徹に冷酷に統治をする。そういう存在になっていたのではないだろうか、と。だからこそ憐れむような、慰めるような発言をしてしまったのかもしれなかった。もし三好家の下に一条土佐守がいたのなら。彼女は救われていたかもしれない。そう思わずにはいられず、為昌は視線を落とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<If・If>

 

 これは幻想。あり得なかった未来。しかしもし、三好家に一条兼音が存在していたのならば。

 

 ここは瀬田。信玄が史実で旗を立てよと命じた地。琵琶湖湖畔で今、大軍の衝突する大会戦が勃発しようとしていた。翻るのは三階菱に五つ釘抜の家紋。三好家の旗である。三好実休、安宅冬康、岩成友通、松永久秀、松永長頼、十河一存、三好義継、三好長逸、三好政康など多くの三好家の配下が参陣している。若狭武田、摂津池田、播磨や丹後、丹波の諸将も見える。紀伊や門徒すらも参陣していた。対するは木瓜の旗。尾張美濃伊勢伊賀近江を支配する若き才媛、織田信奈である。今川を裏切り一時的に同盟相手となった武田、そして婚姻同盟を結んだ浅井の姿もある。

 

 大戦争の勃発を前にして、男は高らかに叫んだ。

 

「全軍に告ぐ。これより、畿内の趨勢を賭けた戦いが始まる。この地に立っていた旗の主が、最後の勝者となるだろう。三好家の未来の為、畿内安寧の為!旧幕府にしがみつく者どもを排除せよ。天命は三好家にあり、三好幕府に在り!ここに藤原摂関一条家の現当主にして、新たなる秩序の構築者である長慶様の忠良なる臣たるこの一条兼音が宣言する。この戦いのもたらすのは、新たなる時代であると。明日の旭を夢見る猛者たちよ、遥か万里を駆けるがいい!!」

 

 数拍の間の後、一斉に凄まじい叫び声が響く。士気軒昂の軍勢を前に満足気に頷いた兼音は後ろに一歩下がる。

 

「全軍、突撃!」

 

 畿内の覇者、現在の征夷大将軍三好長慶によってその号令が下された。馬蹄が大地を踏みしめる音が鳴り、人の波が一糸乱れぬ突撃を敢行する。緊張で汗だくの長慶の手は、愛する男のそれと固く結ばれていた。それを松永弾正久秀は優しく見守るだけである。

 

 

 

 しかしこれは幾つも並行世界の果ての話。この世界でこれは決して起きない夢物語であり、三好家の落日は、もうすぐだった。




氏照の容姿はウマ娘のカレンチャンとかそんな感じです。あくまでイメージですが。

投稿遅いのは春期講習とその予習復習のせいですね。まぁそれ以外にも色々勉強しないといけないですから。こんなんでも一応私立高校の社会科教員志望なので。諦めたくないから浪人した身分で去年より結果ゴミですは笑えないですからね……。どうか堪えて下されば幸いです。

と良い事言った感じを出してますが、ただ単にネタと話の展開に詰まってただけです。ごめんなさい。許してくださいなんでもしますから。

次回もいつになるかは分かりませんが楽しみにお待ちいただけたら幸いです。

後、一応成人しました。親の脛をかじる身ですが責任の伴う社会人であることには変わらないので身を引き締めて生きて行こうと思います。


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第90話 信濃より

「十日程前、出立なされたようにございます」 

 

「左様か。報告ご苦労」

 

「ははッ」

 

 いよいよ視察が始まった。どうにかこうにか間に合いそうではある。それまでにやるべきことが多く増えたため、どこの城もてんてこ舞いになっているはずだ。ここまで急な動きには色々理由があるのだろうが、大きく二つであると睨んでいる。

 

 一つは先の対越戦争以来、領国の足場固めの重要性を認識したからである。先の戦いで三国峠を越えて侵攻してくる狂気の集団がいる事が分かってしまった。しかも、大体の戦争は外交の延長線上に位置している為、落としどころが存在している。だが、今回の戦いではそれが無かった。相手の求める事は我々勢力の衰亡であり、それのみを目指している。いわば宗教戦争のようなのもであった。この未曽有の事態に際し、いわゆる背後からの一突きを警戒していたのだろう。

 

 二つ目は増えた領国の管理状態の把握である。北条家は譜代だけでなく多くの外様を抱え込んだ。そして、多くの国衆から領土の没収をしていない。また、私のように外様に近い直臣ながらも広大な領土を有している人物もいる。こういった経緯から、正しく領国経営が行われているかの監査が入るのだろう。税関連が主だろうが、武装の状態や練兵、地域産業や町の様子なども確認されるのだろう。もっと大きいのは、特に国衆は城に入られることで城内の様子を筒抜けにされてしまう。縄張りがバレバレの中籠城戦をやれば大抵の城は落ちてしまう。

 

 準備期間を極力与えず、平時の状態を確認し、不正隠ぺいの時間を減らさせたのだと予測していた。だからどうと言う訳ではないのだが。勿論、我々は天地神明に誓って真っ当な政治を行っている。その上で、わざわざ来てもらって普段通りでは面白くない。なので、色々手を回しているのだった。

 

 書類を仕上げ、どんどんと仕事を進めていく中でフッと気配に気付く。顔を上げて周囲を見渡したが、一見何もない。こういう時は大体天井裏と相場が決まっている。一応剣を抜けるようにし、声を出した。

 

「いるのだろう、出て参れ」

 

「これはお見事。何時ぞやを思い出しますな」

 

「誰かと思うたぞ。もっと普通に出て参れんものか、段蔵」

 

 随分前、それこそ年が明ける前に誰か雇える人がいたら探してこいと送り出した段蔵が帰還した。大分長い事留守にさせてしまった。とは言え、東海を探る事が出来たので、こちらとしては満足だった。後でしっかりねぎらっておこう。

 

「早速話を聞きたいが、長旅で疲れもあろう。まずは風呂にでも行って汗を流してこい」

 

「ありがとうございます。お言葉に甘えて、失礼いたします」

 

 再びスッと消えて一人分の気配だけが残る。どんな結果になったのかが楽しみであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 1時間と少しした後。装いを新たにして戻ってきた彼女に、改めて話を聞いて行く。

 

「それで、如何であった。首尾のほどは」

 

「はっ。まずは亡命希望が数名、既に河越を目指し向かってきております。次に仕官希望が一名でございます」

 

「ふむむ……なるほどな」

 

 多くはない。だがしかし大事なのはその人物の能力だった。勿論優秀な人間であるに越した事は無いし、そうでなくても数がいないよりマシである。

 

「ご期待に沿うような多士済々を集められず申し訳ございません」

 

「いやいや。十分である。勿論優れた才ある者は幾らいても困る事は少ない。しかし、たとえ数は少なくとも信ずるに値する者、有用な者であればありがたい。十分によく働いてくれた。して、その名を聞きたい」

 

「ありがたきお言葉。亡命を求める者は信濃の笠原能登守光貞、大井貞清・貞重父子、芦田下野守信守でございます。仕官希望は小笠原伊勢守信浄と申す御仁でありました。奇妙な男でしたが、小笠原の血を引く者であると。長時に同行し越後に落ちるでもなくその弟と共に三好に逃げるでもなくプラプラとしておったようにございます」

 

「そうか!大分多く集めてきたではないか。上出来だ。私が真に求めていたのは千万の兵を率いれる者ではなく数百の兵を率いるのに適した者である。信濃の国人たちであれば武田との戦い、そしてそれ以前も小競り合いを多く経験しているはずだ。足軽大将、侍大将にうってつけの者達と言えよう」

 

「西国の様子も見聞きしてまいりました。三河、尾張、美濃、伊勢、近江、山城、そして大和と」

 

「大和?随分遠くまで行ったな」

 

軍師(胤治)殿に頼みごとをされまして。大和にいる友人に文を送って欲しいと」

 

「そうであったか」

 

 大和、今の奈良県は有名な松永久秀の根拠地だ。だが、それだけではなく興福寺や東大寺の僧兵、そしてそこの出身でもある戦国大名筒井一族がいる。更に、時代劇で名を知られる柳生も確か大和の産まれだったはず。そんなところに胤治の友人がいるとは思わなかったが、三好家時代の知己なのだろう。寄り道ではあるが無駄にはならない。

 

「帰りの船で見聞はまとめて参りました。ご査収ください」

 

「助かる。口頭で聞くのでも良いのだが、どうしても細部は忘れてしまうからな」

 

「なにか、私がいない間にお困りのことはございましたか?」

 

「困った事、そうだな……。秩父に行ったとき野盗の襲撃で危うく死にかけた。護衛の必要性を痛感したぞ。いるもんだと思って行動すると無茶になってしまう。ありがたみを改めて認識する良い機会であった。これからはまた、いつも通りによろしく頼むぞ」

 

「勿論、その様にさせていただく所存でございます」

 

「感謝する。ではあるが、今日はもう休むと良い。聞いているかもしれんが、氏康様による大規模な視察がある。それ故、暫くは城から動けない。鋭気を養い、ご来訪の日に活躍してくれ」

 

「ハハッ!失礼致します」

 

 正直に言うと、凄くありがたい。笠原能登守はあまりよく知らないが、大井貞清と貞重は武田の元でそこそこの活躍をしていた記憶がある。それよりも大事なのは芦田信守だ。彼自身も有能で、薩田峠の戦いでは史実の北条氏政・今川氏真軍を撃破している。そして徳川に包囲された二俣城の中で病死していたはずだ。それよりも大事なのは息子の方である。依田信蕃、それが彼の息子の名だ。史実では武田家臣であったが、その城から退去する際に完璧な引き渡しをしたことで家康から感心されている。多くの城の城主を務め、天目山で勝頼が自害した後も忠義を貫き、穴山梅雪の書簡でやっと降伏したと伝わっていた。その後は家康に匿われ、本能寺の変後根拠地信濃へ帰国。徳川への恩義を返すために奮戦し、進軍してきた北条軍相手にゲリラ戦を展開。進軍を中止に追い込み、家康が甲信を手に入れる足掛かりを作った。

 

 義理堅く、真面目な武将であり、滝川一益の撤退を支援したり北条方の真田昌幸を調略したりと八面六臂の動きを見せていた。小諸城を任され、最後は戦場での銃撃の傷が原因で亡くなっている。しかし、家康の評価は高く、家督を継いだ遺児・康国に松平姓と小諸城が与えられ、そして相続を許された所領が当時の家康家臣としては最大級の6万石という大領だったことからもそれは推測できる。子の康国も小田原征伐の際に奮戦している。有能であるのは間違いない。間違いないのだが……史実を鑑みると北条との相性は悪いかもしれない。しかし、あくまでも史実は史実。この世界の歴史はまた違ったものになるのだから、気にする必要もないだろう。もっとも、運命に引っ張られるようなことが無いとも限らないが。

 

 そして小笠原信浄である。彼は確か津軽三家老の一人のはずだ。津軽為信の元で活躍し、多くの戦に従軍している。津軽家は南部から独立し暴れまわっていた勢力であり、南部との衝突も多い。そんな中で活躍し流れ者から家老にまでなったのだからかなり優秀なのだろう。これまたありがたい人材だった。

 

 それぞれの欲している物を見極めれば登用も出来るだろう。この寄せ集めだらけの河越衆では彼らも馴染みやすいはずだ。土地に根を張った団結力はないが、居場所のない者、居場所を捨ててきた者などの集まりである我々はある種任侠のような団結力を持っている。他所からも受け入れる柔軟性と、居場所を守るために戦う団結性。この二つを上手く織り交ぜていることで、北条家内でも有数の主力部隊が誕生しているのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから十一日後。ぞろぞろと僅かな郎党を引き連れ、信濃からの面子が到着した。勿論、迎え入れる気はあるがはいどうぞとはいかない。それぞれに個別の面談をする必要があった。まずは笠原能登守からである。

 

「よう参られた。私がこの城を任されている一条土佐守兼音である。苦難の道筋であっただろうと拝察いたす。どうか、お寛ぎあれ」

 

「ありがたきお言葉にございます」

 

 中肉中背。見た目は普通の中年男性である。特段優れた能力ありと言う訳ではない、と報告はされていた。しかし、それでも部隊を率いたことがある人間は大事だ。戦は経験も大きくものを言う。集団を指揮し、人殺しが横行する尋常ならざる場たる戦場で戦うには経験を積まない事には何も出来ない。その経験は一朝一夕では身に付かないし、身につけるための場も限られているからだ。

 

 まぁ良い。どんな凡庸な人材でも言われたことが出来るのであればそれ以上は求めていない。軍隊は言われたことを忠実に実行できるタイプも必要なのだから。それに、最早信濃に居場所もない彼は忠実な臣になってくれる可能性が高い。

 

「笠原の名……つまりは志賀城におったのか」

 

「お察しの通りにございます。あの凄惨な……あれほど惨い戦は産まれて初めてでございました。清繁様もお討ち死になさり、奥方も小山田某の側女に落とされ、乱取り激しく城の者は残らず鉱山奴隷として甲斐に送られ申した。某は死ぬことも出来ず、おめおめと……おめおめとこのように醜態を晒してございます!」

 

 感極まったのか涙を流し始めた。志賀城の話は史実の話もこの世界での話も聞いているが、当事者の言葉を信じるならば武田家は絶滅戦争に近い事をやっている。占領地の民を奴隷化して働かせる軍事国家。我々現代人は似たような国を良く知っているはずだ。武田は対越の要にして同盟国。しかしこれにはいささか閉口せざるを得ない。

 

「醜態などと申されるな。こうして貴殿が生きている。それで信濃依田笠原家の命脈は続くではござらんか。我が元にて名高き北条綱成も、元は駿河よりの敗残者。生きてこそ掴めるものもござろう。武田は盟友。されど、志賀城の仕打ちには私も些か思うところがあった次第。あの地獄を生き延びただけで、儲けものでありましょう」

 

「このような敗軍の逃亡者に対し重ね重ねありがたきお言葉!この能登守、是非とも麾下の末席にお加え頂きたく!」

 

「相分かった。貴殿がこの地にて名誉挽回を図れるよう、取り計らおう」

 

「誠でござるか!?」

 

「ああ。私は駆け出しの頃、笠原越前(信為)殿に随分と世話になったものだ。貴殿と越前守殿は同じ姓を持つ者。近しい血縁ではないようだが、どこかで血が繋がっておるやもしれん。同じ笠原の名を持つ貴殿を助ける事で越前殿への恩返しになるやもしれん。しかし……我らは武田と盟を結んでおる。貴殿にとっては憎い相手ではないか?」

 

「武田を恨む気持ちは確かにあり申す。されど、その恨みに固執していては明日の生活もままならぬ身。これまで山野に隠れ世に出る機会を窺っておりましたが、此度話を頂き千載一遇の好機と思い参った次第。武田への怨恨、呑み込んでお仕え申し上げなん!」

 

「そうか、頼りにしておるぞ。綱成の元に行き、新たに侍大将となったと伝えよ。話は通してある」

 

「ははっ!」

 

 完全に心服した顔をしていた。元々武田に抑えられた信濃で居場所が無かったのだから遅かれ早かれどこかを頼っていたとは思うが。志賀城の境遇に完全に同情してはお前に何がわかると硬化される可能性もあった。それ故に曖昧な表現にとどめた。その前後の言葉を合わせれば勝手に脳内補完と想像をしてくれる。人手不足を解消したいという狙いを悟らせない為に笠原の姓が云々という話もした。しっかり武田関連の言質も取れた。これからは現場指揮官として働いてもらおう。まずは一人終了。次は大井貞清父子である。

 

 

 

 

 

 

 

 

「兄は武田に幽閉され、そのまま死去。儂も抵抗すれども衆寡敵せず、敗走してしまいました。我が城は武田の者が我が物顔で居座り、もはや我慢の限界。頼みの綱の上杉憲政もあっさり敗走。村上義清も越後へ遁走。かくなる上は再起を図らんとこうして参った次第。早速で申し訳ないが、屋敷へご案内頂けるかな」

 

 息子を侍らせた大井貞清は鼻を鳴らしながら座っている。元々小笠原氏の一門である彼はこうして氏素性も知れない者におもねっているのが嫌なのかもしれない。いきなり屋敷も要求してきた。こういう手合いにはそれ向けの対処法がある。

 

「話は分かった。だが、屋敷に居たいのであれば甲府で武田の足を舐めておられれば良かったにも拘らずわざわざかような地にまで来て、貴殿はどうされたいのか」

 

「な、何を言うか!招いたのはそちらでござろう!」

 

「私はそのようなことをした覚えはないな」

 

「なんだと……!」

 

「私は配下にこのように言うよう伝えたはずだ。『もし現状に不満があるのならば、河越に行くように。さすれば一人の将として生きられる。武田におもねることなく、暗殺に怯える必要もない。もし望むなら行くといい』と。そうでは無かったかな」

 

「それは……」

 

「招いた覚えなどない。来たければ勝手に来いと言うたのだ。そしてお主らはそれを受けて逃げてきた。良いか、それを認識せよ。武田に負け、城を奪われ、一生甲府で暮らすのが嫌であったから逃げてきたのだ。違うか?それをなんだあの態度は!貴様らのような小物など吐いて捨てるほどこの城におる。されど迎え入れようとしておったのだが……必要ないようだな」

 

「い、いや、待ってくれ、いやお待ちくだされ!儂の不明でございました。今ここを追われては行く当てなどございません。どうかお慈悲を!」

 

「思いあがるなよ!お主らは自分達の事を代わりのない唯一無二の存在だとでも思うていたのか?それ故氏素性の分からぬ一条土佐守風情ならば喜んで受け入れるだろうと。身の程を知れ!代わりのいないというのは兼成や綱成や胤治など事を指すのだ。断じて貴様らではない!」

 

「は、ははぁ!」

 

「良いか、代わりは幾らでもいる。しかし、貴殿らも武田の元で暮らすのは面白くなかろうと思って気を回したのだ。武田からにらまれるのも覚悟でな。私は期待している。大井の者が我が城にて活躍してくれることを。どうだ、期待には応えられるか?その自信はあるか?」

 

「益々の不明でございました。儂らの鬱憤にまでご配慮いただき、あまつさえそのような期待をして頂いたにも拘わらず……。心が荒み、視野が狭くなっておりました。謹んでお詫び申し上げます。許せぬと仰せでしたらば儂の皺頸を献上いたします故、倅だけはどうか!」

 

「良いだろう。許す。貴殿らの気持ちは察せられる。私も、敗北しこの城を他家の者が我が物顔でうろついておったら怒りで我を忘れてしまうだろう。しかし、北条家のご家中は才ある者は重んじられる代わりに礼儀には厳しい。私のように寛大では無い方もいる。それを忘れず励むように」

 

「せ、誠心誠意、ご期待に沿うよう努力させていただきます」

 

「その言葉、忘れるでないぞ。案内に従い、綱成の元へ行け。三百の兵を預ける。使いこなせ」

 

 息子共々幾度となく頭を下げ、彼は恐縮しながら去って行った。あの手の傲慢な手合いや自分を過大評価している人間には一度正しく現実を突き付けたり立場を分からせる必要がある。あくまでもこちらが仕官してくれないかと乞うているのではなく、向こうがお願いします雇ってくださいと言っているのだという事を認識させないと後々厄介だ。そうして厳しい言葉を投げ、その後でフォローを入れる。下げてから上げる方法で一気に関係性を固定してしまう。

 

 許すか否かの決定権が相手にある事を明らかにし、精神的な序列をつける事で従いやすくなるだろう。敵わない、と思わせれば勝ちなのだった。そして今それがドンピシャでハマっている。彼らはこれでまともに働いてくれるだろう。期待しているの言葉を裏付けするように具体的な兵数と共に指示を出した。一気にどかんとこれだけ預けられることは少ない。人手不足だからこそ全然問題ないのだが、それを逆手に取った作戦だった。大井貞清・貞重父子はこれにて終了。次は亡命組の最後、芦田信守と依田信蕃である。小笠原信浄はまだ来ていないようなので、今回はこれで最後だ。

 

 

 

 

 

 

 

 芦田信守は壮年の男。依田信蕃はまだ年若い青年だった。年は私よりも若いだろう。

 

「芦田殿は信濃でもかなりの大身であったとお聞きしておりますが、何故此度は武蔵へ?他の者と違い、武田家中でも生きる道があったはず」

 

「それはその通りでございます。事実、騎馬150騎、知行も10000貫文を許されておりました。ただ……」

 

「ただ、何ですかな」

 

「先日の川中島でこの先の武田に未来を見れなくなったのでございます。武田に着いたのも旧主・諏訪頼重殿が敗北したが故。その時は勢いに乗っていた武田について参ればいずれは古参に近くなり、扱いもより良くなるはずである。そして村上や高梨はあっという間に片付くだろうと算段を付け、降伏いたしました。しかし現実は異なり、砥石城を始め多くの敗北。勝敗は兵家の常と申します故それはよいのです。ですがそのたびに重税を課され……。それでも勝てればよいのですが、川中島のように千日手に陥り無駄に時を浪費し、何の成果も無し。この有様ではいずれ行き詰ると確信いたしました」

 

「左様であったか」

 

 確かに彼の言っていることは事実だ。拡大の裏で重税が課されている。土木工事に回されている側面もあるが、信濃衆からしたら関係ない甲斐の河川整備など知った事ではないだろう。自らに還元されない税金を人間は嫌う。現代でもそうだ。福祉制度は健康体の人間からすれば必要ない。年金もそうだった。今は金山のおかげでまだマシだが、枯渇すれば行き詰るのは目に見えている。

 

 元々戦争を国家の主軸に据え、拡大を続けるのが国是だ。その中で甲斐を富ませる。それが武田家、引いては晴信の目的である。海に出られないままではいずれ……。しかし一つ分かったのは、思った以上に武田の経済面は貧弱で、かつ内情は厳しいという事だ。今は金山の算出を北条に渡すことで莫大な兵糧や弾薬を手に入れている。反面関東は余剰生産を渡すだけで金が手に入るのだから大儲けだ。最近は木材が金の代わりになりつつあるようだが……どのみち厳しいだろう。

 

「しかし、その理論であれば北条が苦しくなればまた主家を変えるか?」

 

「いえ。最早その芸当は通じぬでしょう。我ら国人にとって故国を捨てるのは死ぬことに似ております。ただ従属先を変えるのではなく、国ごと捨ててきたのですから。家を追われた身でも、居場所のない訳でもない我らがこうしてここに参っておりますのは並々ならぬ覚悟とご承知願いたい。広大な海を有し、開拓の余地しかない関東平野を持つこの地ならば、未来も得られましょう。そこで一旗揚げる。それを願って全てを捨てて一族郎党、中には領民も混じって逃散して参ったのです」

 

「覚悟を疑ったこと、詫びよう。私の不明であった」

 

「お分かりいただけたのでしたら、幸いなことでございます」

 

 彼は優秀な人材である。未来も見えている。経済的な観点も持っている。史実においても多くの戦いに参加し、武功を上げている。いくつかの城を任されたり在番をやっていたりもする。武田の中でも有能に振り分けられる人材だったはずだ。何を任せるべきか考えている中、突如息子の依田信蕃が声を上げた。

 

「申し上げたき事がございます!」

 

「これ、源十郎!止めぬか」

 

「良い。聞こう」

 

「ありがたき幸せ!畏れ多くも今をときめく名将、今川破りの鬼才、北条にその人ありと名高き一条土佐守様にこれをご覧いただきたく!」

 

「これはなにか」

 

 差し出されたのは一冊の冊子。数十ページ分もある閉じ本だった。

 

「某の考えた山中戦闘における兵法書でございます」

 

「お主、なんてものを……!土佐守様、これは倅の自作でございます。とてもお見せできるとは」

 

「いや、見ようではないか。ここでこうして見せてくるとは自信ありと見た。何よりその度胸、買わずして何とする」

 

 私の言葉にホッとしたような顔をする信守。一方の息子は実直そうな顔をほころばせている。年相応の少年の顔であった。真面目そうな空気は感じるので、そういうタイプの人材なのだろう。二人に見つめられながら、冊子を開く。

 

 中身は彼の言った通りであり、もっと言ってしまえばゲリラ戦の戦術書だった。孫子呉氏六韜三略などの基本を押さえながら、山がちな日本での山間戦闘、さらには補給路の遮断についての論説書だった。意見文に近いかもしれない。地理把握に基づく奇襲、補給路の寸断を目的とした特殊兵科の創設、何よりも補給路を断つ事、民衆との連携などが書かれている。ホーチミンや毛沢東、チトーと言ったゲリラ戦の天才たちの戦いを知っている身としてはとてもよく出来ていると言える。毛沢東なんかは人間性とかはともかく、著作を読めば軍事的な天才あるとよくわかる。その内容と近いところもあった。

 

 ぱたんと冊子を閉じれば、不安そうな面持ちがこちらを見てくる。それを見返して、人事を決定した。

 

「芦田下野守信守、依田常陸介信蕃、双方私に仕えたいという事で異存ないな」

 

「ございません」

 

「ござりません」

 

「相分かった。両名直ちに秩父に向かい、そこで私の指示する計画に従え。兼成、綱成にはこちらからはなしを通す。鉢形の氏邦様にもな。秩父は要地だ。武蔵の、引いては北条家の財政や産業を支える地となるだろう。幸いあそこの国人は私に従う。我が名を出せば靡くだろう。秩父において行って欲しい計画書は既に出来ている。代官として、実行せよ」

 

「それは、つまり!」

 

「揃って召し抱える。秩父差配の奉行を任ずる。出来るな?」

 

「ハハッ!承りましてございます」

 

「困ったことあれば速やかに報告せよ。失敗は失点ではない。改善策を考えていけばよいのだからな」

 

「承知いたしました!」

 

 声が震えている。流石にいきなりドカンと一地方の管理役を任じられるとは思っていなかったはずだ。この衝撃のおかげでそれを与えた私への見方もより一層敬意などが強まるはずだ。先行きの見えない貧苦の信濃から一気に武蔵の要地へ昇格だ。当然、それにふさわしい能力はあると踏んでいる。何より経験を積ませたい。失敗しても構わないと思っている。むしろ、当然多少のトラブルはあるだろう。だが少しのトラブルで優秀な人材が育つならむしろ歓迎である。人を育てる。それが目的だ。若輩の私に色々任せていた氏綱公の真似事でしかないが、受けた恩を返そうにもご本人は既に鬼籍。ともなれば御家と次世代に返すのが筋。私はそう思っている。

 

「信蕃。すまんな、だまし討ちみたいな事をしてしまって」

 

「はい?それはどういった……」

 

「この書、持って小田原に行けば明日には北条直臣であったやもしれん。だがそうさせてはたまらんと思うて強引に配下になるな、と言質を取ってしまった。人手に多少は余裕のある小田原と違いここ河越は慢性的に人が足りない。逃がしてなるものか」

 

「では、それをお認め下さるのですか!」

 

「ああ。荒削りだがよく出来ている。私も補給線は重視しているところ。秩父へ行く前にその書を持って我が筆頭家老の元を訪ねよ。きっと高評価が来るはずだ。補給隊と補給網の整備をするいい機会である」

 

「ありがたきお言葉!土佐守様お墨付きとあれば、某も胸を張る事が出来ます」

 

「励むと良い」

 

 幾度となく平身低頭して彼らは退出した。家康が重宝しただけの事はある。優秀だ。秩父を任せられるくらいには優秀である。急な人事は当家のあるあるなので特に誰も何も言わないだろう。人手が足りないのは周知の事実。新しい人材の登用も急いで欲しいとすら思われている節がある。胤治が来た際も新参を警戒するよりもむしろ大歓迎されていた。

 

 河越の所領は直轄で大体2200貫ほど。秩父を足すともう少し増える。現代円に直すと2億6400万円ほど。もちろん民衆に還元しないといけないし、家臣に分配してるからもっと減るが、河越全体の収入はこれくらいだ。家臣が少ないのでまだまだ懐には余裕がある。調子に乗って雇い過ぎると破滅するが、そうならないラインを見極めて人事を行っているので不満は出ていない。

 

 領内の発展が出来れば収入も2倍3倍に増えていくだろう。まだまだ未開拓の土地は多い。ポテンシャルは十分なはずだ。そこの開発が急務である。そして、この広大な領国経営が出来ているかの監査がもうすぐ近付いていた。準備やデモンストレーションも着々と進んでいる。完璧な体制で迎えられるだろう。この一週間後に早馬が来て、武蔵国内に入ったと報せた。時は弥生の頃である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同時期、下総。千葉氏などの有力勢力が割拠する此の国は半分に割れていた。東半分を里見が、西半分を北条が支配していたのである。その西半分、現在で言うところの千葉市、船橋市、松戸市、野田市、古河市、取手市、印西市、竜ケ崎市、成田市、佐倉市などがある地域を治めているのは史実においても氏康・為昌の兄弟である北条氏尭であった。この世界では例に洩れず性別が違う。

 

 葛西城で遠山綱景が、古河城で多米元忠がそれぞれ彼女を支えている。かなりの期待をかけられており、姉・氏康や為昌からも期待されている。それ故に下総と言う要地を任されたのだが、彼女はとても憂鬱だった。家臣団は優秀だし、千葉利胤が筆頭に国衆を抑えてくれている。下総の国衆は千葉氏の一族が多い。なので、宗家を猪鼻に戻し今氏尭は佐倉にいた。国内は治まっている。一部を除いては。その一部の親玉が今目の前にいる。

 

 ただでさえプレッシャーで死にそうな彼女は、凄く気が重かったが仕方なく応対していた。その相手は下総結城家の当主、結城晴朝である。関宿合戦の後、北条家は降伏した彼の所領を没収しなかったためそのまま配下に加わったのだった。

 

「なに、つまりまとめるとこういう事?貴方の家臣の水谷全芳が勝手に小田方に調略を仕掛け、真壁道俊を裏切らせた挙句貴方を裏切って小田にいた多賀谷祥春を再度寝返らせたという訳ね。誰の許可も得ず独断で」

 

「その通りでございます」

 

「はぁ~~~~!」

 

 クソでかため息が出てくる。苛立ちと焦燥と色んなもので心をぐちゃぐちゃにされながら氏尭は頭を抱えながらかきむしった。

 

「どうするのよ、これ!水谷は文字も読めないの!?正月の方針は知ってるんでしょうね?」

 

「そ、それは勿論。今年は内政に勤め、こちらからは努めて手を出さないと……家臣一同にも周知いたしました」

 

「その結果がこれな訳ね」

 

「汗顔の至りであります……」

 

 晴朝としても結城家当主のプライドはあるが、それ以前に北条に睨まれたらと思い戦々恐々としている。自軍が壊滅しかけた上に、河越の大軍が蒸発したのを体験した当事者にしか分からない恐怖だった。外へは出ていかない方針を決めた北条だが、内部粛清はその限りではない。容赦なく潰される恐れもあった。

 

「小田氏治は怒ってるでしょうね。代替わり早々にこんな目にあったのだから。血気盛んの大将で勇猛果敢と聞くわよ。これを口実に里見や佐竹と合力して攻めて来たらどうする気なのよ。ホントふざけないで欲しいわ…………」

 

 どんよりした空気が更に重くなる。天才である氏康、外交センスに恵まれた姉為昌、実は同じ年に産まれているにも拘わらず当主指名を受けた氏政。一条兼音を使いこなしている妹氏邦、敵対していた大石家を骨抜きにした妹氏照。彼女たちとの比較が自分を苦しめる。氏政の次期当主指名は納得しているもののやはり心のどこかで燻るものがあった。しかし家族は好きだし北条を守りたいという思いは同じ。なので反乱などは微塵も考えたことが無い。反面自分を叱咤して自縄自縛していた。

 

「申し訳ございません。某も、先代もその前もずっとなのですが、何分結城家家臣団は素行がよろしくなく……。同僚同士で刀を抜き、睨み合いをしていたかと思うといつの間にか盃を酌み交わすような者たちでございます。酔っぱらったまま当主に意見することもしばしば、訴訟では白を黒と強弁して譲らず恥じず。陣触れとなると出陣先を確かめぬままに勝手に乱取りを始める始末。考えなしで身勝手揃い!某もほとほと手を焼いております」

 

「古き良き関東武者と言う感じね。鎌倉に幕府があった頃から何も変わっていないわ。もっと言えば将門公の頃からかもしれないけれど」

 

「常陸や北下総の武士は直情的なのでございます。どうかご容赦を……」

 

「それでも責任を取るのが大将の務めでしょう!?確かに同情はするけれどそれとこれとは話が別よ!取り敢えず小田原に知らせないと……ああ、また失点が増えていく……」

 

「……」

 

「晴朝殿、取り敢えずもうこうなってしまったのは仕方ないわ。貴方に忠実な家臣を選定しなさい」

 

「何をなさるおつもりで……まさか!」

 

「貴方がどうにか出来ないならこちらで処分するしかないでしょ!そうなりたくないなら、分かるわね?どちらに転んでも協力はするわ。貴方が決めなさい」

 

「は、ははぁ」

 

 晴朝の心中は色々な気持ちが渦巻いている。厄介な家臣団を消したい気持ち、しかしそれをやってはおしまいなのではないかと言う気持ち。目の前の氏尭をチラリと見る。疲れきっていて、何かに追われているようだ。目の下にはうっすら隈がある。冷静ではない、これは直接小田原に話すしかない。丁度視察もある。これを利用して……多米殿と会合せねば。表面上は忠実なように頭を下げながら、晴朝は今後のやるべきことを考え、行く末を憂いている。

 

 また嵐が吹こうとしていた。




前々から考えていた登場人物のCVモデルが出来上がりました。作者がこういう声優さんをイメージしてキャラクターや台詞を作っているという参考になればいいなと思っております。あくまでもイメージなので、なんか違うなと思ったらご自分で当てはめてみて下さい。

前回のキャラ集に追記しておきます。ご興味あればご確認のほどを。


すごくどうでも良いですが、画力が欲しい……と思う今日このごろです。画力があればキャラのイラストが書けるんだけどなぁ……


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第91話 不夜城

地図と読む信長公記という本を買いました。信奈パートがかなり詳しくなると思います。原作だとカットされていた正徳寺~稲生~桶狭間のところとかがかなり。一度ちゃんと読みたかったので助かりました……。


 下総国、古河城。かつては古河公方足利成氏を始めとする足利家の拠点として権勢を奮ったこの城も、今は北条家の配下にある。治めるは多米周防守元忠。新進気鋭の若手である。西の河越東の古河で若手の守る重要拠点になっている。下総、常陸、下野、武蔵に近いこの地を抑える事は戦略的に大きな意味を持つ。また、小田家や佐竹家、下野諸将との最前線となっている。

 

 この城に、青ざめた顔の結城晴朝が来ていた。先ごろ、指示を仰ぐべき北条氏尭に現状を話したところ粛清を仄めかされたため、焦っている。また、小田原から氏康が来るまでに解決のめど、もしくは何らかの方針を定めない事には首が危うい。結城家としての面子もある。だが、頼みの綱の北条氏尭はどうも冷静な判断が出来ていないように思えた。それ故、適当にお茶を濁し北下総と常陸の一部の管轄をしている元忠を頼ったのである。

 

「周防守殿、なにかお知恵を頂けませんかな」

 

「困ったことになったな……。これは私の処理できる程度を越えているぞ。そもそも氏尭様に頼るのが筋だろう」

 

「しかし……氏尭様はどうも尋常ならざる様子のようでございました。苛立ちと焦りとで某の話を冷静に聞いては頂けぬ状態であり、家臣団を処断せよとの仰せでありました」

 

「うーむ、方法の一つではあるがなぁ。いきなりやり過ぎるとかえってという事もあり得るが。そちらとしてはどうしたい」

 

「先代以前より苦汁をなめさせてきた家臣団であります故いなくなれば清々するとは思われます。されど、結城家の統治は奴らなしには出来ぬのも事実。結城に混乱ありと見れば周囲も黙ってはおりますまい」

 

 結城の位置は北条とその他勢力との境目の最前線にある。それ故にここで混乱が起きたとあれば下野や佐竹の介入を受ける恐れがあった。勿論、里見も西下総や常陸に手を出す機会を虎視眈々と狙っている。

 

「だがこうなってしまった以上、最早小田家との和解は絶望的だ。新当主の氏治はそういう男ではないだろう?」

 

「左様でございます。小田氏治は累世無双の弓取りと名高くその権勢は常陸の三分の一を抑えるほど。自身の弓働きを好み、強勢の猛将。何より若く血気盛んな大将でございます。先代の小田政治も厄介な男ではありましたが、その跡を継いだだけの事はあるかと」

 

「武辺者の猪武者か?」

 

「武勇一辺倒でもないようで。和歌なども興ずると存じております」

 

「ただの田舎武者では無いか……」

 

 

 

 

 

 

 ここで小田家について記そう。小田氏は鎌倉時代、源頼朝に従って功績を挙げ、常陸守護に任じられた藤原道兼の玄孫、八田知家を祖とする。南北朝時代には南朝方の一翼として活動し、室町時代には鎌倉府により関東八屋形に列せられ、関東の支配体制の一翼を担った名家であった。

 

 その一五代目、小田政治は実は小田家の出ではない。政という字に勘の鋭い者は気付くかもしれないが、彼は堀越公方・足利政知の子として生まれた。その力量は高く、信太重成・菅谷勝貞と並んで関東をにらみつける龍のような勢力を築いた。

 

 古河公方の内紛では宇都宮成綱・忠綱、結城政朝らとともに足利高基を支持し、佐竹義舜、小山成長、岩城常隆・由隆、結城顕頼ら足利政氏を支持した戦国大名らと対立。上杉や大掾などの勢力との争いも激化していく。その中で厄介だった佐竹家に妹を嫁がせた彼は、合同で大掾慶幹を圧迫し常陸を安定させる。この時期に彼は常陸の三分の一を支配していた。

 

 だがその隆盛にも陰りが見え始める。理由はやはり河越での大夜戦だった。あの戦いで小田家自体はそこまでダメージを受けなかったものの敗戦の影響はあり、失意の中小田政治は息を引き取った。常陸の支配者を夢見た未完の王は五十六で世を去る。その跡目は十八の氏治に引き継がれた。

 

 彼に待ち構えていたのは内憂外患である。信太重成と菅谷勝貞は名将であり頼れる存在だ。彼らはまだまだ若い氏治を支えるつもりである。しかし、それ以外の家臣はそうとはいかない。若い当主を前に不安と猜疑心があった。言ってしまえば威信が無いのである。また、佐竹も油断ならない。更には結城家も大きな影響力を持っている。下野の名族小山高朝。彼は結城晴朝の叔父である。同じく下野の宇都宮俊綱。彼は伯母婿である。那須高資もかつて合同で小田を攻めた仲だ。

 

 こんな状態でかなり厳しいスタートだったのは言うまでもない。代替わり早々に八万の連合軍と二万近い今川軍に攻められた代わりに最強格の武将を文字通り召還した氏康とどっちが良いかというのは人それぞれだろうが、内憂が無い分氏康の方がマシかもしれない。ならず者ばかりの常陸下野周辺に放り出された不安定な大船が氏治であった。敵にすると厄介な関東武士だが、どうも味方にしても頼りない。河越の結末を見れば明らかだったし、上野も一瞬でその半分以上が蹂躙された。アンチ北条の筆頭格になってしまった氏治は、現在結城家の行動に苛立ちを隠そうともせず状況打開を模索しているのだった。

 

 

 

 

 

「どなたか、お知恵を拝借できる方はおりませんかな……?」

 

「なんだ、兼音を呼んで来いって言いたいのか。私では不満か?」

 

「い、いえいえ!滅相もございません、決してそのような……」

 

 晴朝は地雷を踏んだかもしれないと恐る恐る下げた頭を上げるが、意外にも元忠は特に怒る様子もなく、普段通りの顔をしていた。

 

「まぁ仕方ないさ。私とアイツの持ってる城が逆だったらこうなってはいなかったかもしれないのは事実だ。もっとも、その場合河越は落ちていたかもしれないがな。どう頑張っても今の私では逆立ちしても勝てはしない。うーん悔しいものだ」

 

 カラカラと笑いながら元忠は呟く。どうコメントしたら良いのか分からない晴朝は無言だ。「はい、そうですね」とも言えず「いいえそんな事はありません」とも言いづらい。何とも微妙な顔をする以外に選択肢はなかった。実際のところ、元忠に特にこれといった他意はなく本心からそう言っているだけである。いつまでも負け続けているつもりが無いところが彼女の人気と人望の秘訣なのかもしれない。

 

「正直な話、小田だけならどうにでもなる。その裏に何かが付くと厄介だ」

 

「佐竹でありますか」

 

「ああ。それに里見も怪しい。結城の名でどこまで動かせる」

 

「小山、宇都宮はお任せあれ……と申し上げたいところではございますが、先の敗戦以来当家の求心力は落ちております。宇都宮はともかく、門閥意識の強い小山は北条に首を垂れる結城家頼むべからずという思いもあると聞き及んでおりまして、そう簡単には応じてくれぬでしょう。申し訳ない限りです」

 

「いや、謝罪には及ばない。元より、他人を当てにして計画を立てるなど愚策だ。上手く利用するならまだしも、な。よし、こうなってはもうどうしようもない。正直に言ってしまおう。その方が良いだろう」

 

「し、しかしそれでは……!」

 

「まぁ軽く叱責はされるだろうが、そう悪い事にはならない。それに、貴殿の後ろ盾はまだ生きておられるぞ。そも、貴殿が所領安堵されたのは彼の御仁のお陰だ」

 

「公方様……晴氏様が……」

 

「ああ。まだお前の事を忘れてはいない。結城を頼れと言ったのはあのお方だ。だから私も結城家に重きを置いている。家臣団の問題も合わせて報告してしまえばいい。その際に私以上の知恵者揃いのご家中の面々が知恵をくれるだろうからな」

 

「ですが、大評定は終わったのでは?」

 

「実は氏康様の視察に伴い、ここ古河で大きな評定がある。その際に議題に出そう。貴殿にも出てもらう。勿論、私からも貴殿を取りなす。伝手で大道寺(盛昌)一条(兼音)にも話を通す。三家老の一角と五色備え二人からの取りなしならば必ず良きようになるはずだ。安心しろ」

 

 なお、氏康様と呼ぶのは譜代の家臣や外様でも直臣だけだった。他は御城様や執権様、左京大夫様、御屋形様などまちまちである。

 

「おお、それならば!執権様へのお取り成し、どうかくれぐれもお頼み申す」

 

「その前に一応話を聞きたい。水谷全芳(治持)を呼んでくれ。後、多賀谷も」

 

「承知仕りました!」

 

 女子高に居たら確実にモテていた顔をフル活用して晴朝を安心させている。声も少し低めのため、安心感があり力強い物言いから信頼を得やすいタイプの人間である。武闘派であるが文治も得意なまさにオールラウンダー。兼音からの評価がとても高いのも納得である。器用貧乏でない万能派は貴重であり、その点は氏康も高く評価している。その辺の男よりも漢気があるので関東武士からの受けもよかった。

 

 少し安心したような顔で退出した晴朝を見送りながら、元忠は深いため息を吐いた。一応勢いで押し通したものの、実態はなにも解決していない。問題を先送りしただけである。だが、このまま焦った結果晴朝が下手な手を打つ前に牽制出来ただけでも儲けものだった。氏康の前に水谷を突き出すのは既定路線だが、一応言い分を聞いておきたかった。氏尭は粛清を勧めるだろうがいきなりそうする訳にもいかない。もしかしたらこちらが把握できていない部分が予断を許さぬ状況で、自分の身を守るためにやったのかもしれない。どちらか片方の言い分を聞いて判断するほど愚かでは無かった。

 

「弘朝、どう思う」

 

 声をかけられたのは今まで側に侍っていた野田弘朝。下総は栗橋城の城主である。野田氏は古河公方に仕える大物武士で、梁田家と並ぶ家格を持っていた。彼自身は元々正当な後継者では無かったが、関宿の一件で一族がほぼ壊滅。元々本人は拡大を続ける北条家の姿に青年期特有の心情も相まって憧れを抱いており、親北条派だった。その為戦後北条家が古河公方領を接収した際に進んで道案内を買って出た経緯がある。その件で信頼を得たため、こうして古河に出仕して元忠の腹心となっていた。年は十代半ばの好青年である。

 

「某としては起こるべくして起こったとしか。常陸武士は粗暴で頑固。厄介者で知られておりました。一応腕は立つのですが個人の武勇に頼むところ大きく、集団戦法を推し進める北条家の軍法との相性は最悪かと。水谷にしても、代替わりに際し今まで含む所の大きい小田にちょっかいをかけてやろうという程度かと。本人の思惑は、でございますが」

 

「そんな軽い気持ちで騒動を起こされてはたまったものではないな。だがまぁ本当に問題なのはこの件ではない。おかげで真の問題が見えてきた以上、水谷を痛罵することも出来ないな」

 

上野介(氏尭)様でございますか……」

 

「ああ。私も甲斐守(遠山綱景)殿も喜んでお支える所存なのだがどうもあまり頼って下さらない。嫌われているわけではないのだろうが益々分からない。晴朝の話を聞く限り焦っておいでなのだろうか」

 

「その可能性は高いと存じます。長姉である御城様は言わずもがな。武蔵守(氏政)様は当主後継者、陸奥守(氏照)様は大石家を心服させ、出羽守(氏邦)様も土佐守様を従え上手く領国を治めておいでです。先の北伐でも皆戦果を挙げておられます。その中で今なお武功少なく内政面でも具体的な成果は無いとあれば……焦るのも無理はないかと」

 

「もう少し歯に衣着せないか……」

 

「失礼いたしました。しかし、上野介様のお気持ちは今某が申し上げたようになっているのではないかと拝察いたしますが。これまた優秀と名高い近江守(氏規)様も控えておいでですし、万が一成果なしとあればすぐに解任されるのではと怯えておられる可能性もあるかと」

 

「下総は南を里見、北を佐竹小田に挟まれる要地であり危険な地帯だ。そこを任せたという事は氏康様は相当な信頼を持って氏尭様を任じたのだろうが……。この件、長引かせるのはいけないな。先んじて書状を送るしかないだろう」

 

「宜しいのですか?御気色を逆なでする事になるかもしれませんが」

 

「手をこまねいているわけにもいかないだろう?結城と小田の云々とは違ってこれは身内の事だ。なに、もしお咎めあるようならばいつでもこの首差し出すさ」

 

 そう言うと元忠は一心不乱に氏康宛の状況報告の手紙を書き始める。また、その後には盛昌と兼音宛の手紙、遠山綱景宛の手紙も控えている。氏康が現在は武蔵にいる事は把握している為、早馬を走らせて一刻も早く届けるためだった。その様子を見ながら、北条家中譜代の忠誠心に驚き呆れながらもこういう忠誠を向けられるのは悪い気分ではないだろうと勝手に氏康の心中を考えつつ、弘朝は己の職務に戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、そんな下総でのひと悶着をまだ知らない氏康一行は武蔵の江戸での視察を終え、北上していた。この後は河越~松山~鉢形~上野~古河~佐倉~猪鼻~国府台~葛西~滝山と進む予定である。その途中で当然予定外の行動も入るであろうからかなり余裕を持って日程を組んである。そして道中の古河で甲斐より持ちかけられた三国同盟の話をする予定であった。滝山の後は伊豆と駿東を経由して駿河にてまた会合となる段取りなのだ。

 

 この視察のために同盟交渉の期日を後回しにしろと武田に通告して、渋々ながら了承の返答を得ている。勿論、この安全保障上最重要の同盟を軽視するつもりなど毛頭ないが、こっちの予定を考えずにいきなり申し出てきたのは向こうである。時期の件はこちら側に決定権があった。元々駿府から動かない義元は問題ないにしても、氏康はこうして旅路の途中なので最初の提案通りの日時で応じる事は出来ない。

 

 この集団は氏康を中心として氏政、幻庵、氏規などを引き連れている。また精鋭の馬廻りとして山角上野介康定・石巻下野守家貞などや足軽部隊の総まとめたる大藤秀信なども随伴していた。文官も多く同行し、各所領の治世状況を見る。決して物見遊山の観光ではなく、地形を確認する者や城の縄張りを見る者もおり、護衛も含めればかなりの数になっていた。これを受け入れる負担もあるので各城は割と忙しいのであった。

 

 一方の道中組は意外と暇である。勿論、周囲の地形を見ているが基本平野や台地の多い武蔵では景色が変わり映えしない。そんな中を行軍している為、必然的に氏康は思考に没頭していた。

 

 

 

 

 氏康は自分が割と幸運であると自覚している。当主に就任した直後に数万単位の敵兵相手に二正面作戦を強いられた時は流石に終わったと思ったが、それもふたを開けてみればかつての上杉氏の威光は今何処と言わんばかりの大勝利。今川方もあれが強国の兵とは思えないほど奇襲に対しては脆かった。内政は上手く回り、家臣団の忠誠は厚く、皆有能揃いだ。歴戦の老将たちも多く生きており、世代交代した後の若手組も多士済々。彼らが老人になるくらいまでなので後四~五十年は安泰だろうという見込みだ。一族関係も安定しており無能もいない。かつての目の上のたん瘤であった足利と扇谷上杉は既に手の内。山内上杉ももう関東にはいない。

 

 父親が夢見て、そして果たせなかった両上杉の撃滅に成功。祖父も父もついぞ踏み入れる事の無かった上野の大地には、今や大半で三つ鱗の旗がはためいている。隣国の武田や長尾を見るに、自分の境遇がいかに恵まれているかを認識せざるを得ない。とは言え、産まれた境遇に文句を言ってもしょうがない。同情はするが、だからと言って妥協する気はこれっぽっちも無いのであった。

 

 そして何より一番の幸運は……。多士済々な北条家の中でもひときわ異彩を放つ男。一条兼音を配下に引き入れられたことだろう。もし、仮に彼が今川や武田に仕えていたら今頃自分はこうして呑気に駒を進めていないだろうとさえ思う。誰がどう考えても興国寺の勝利も河越が持ちこたえたのも北武蔵が安泰なのも長尾軍が尻尾を巻いて逃げ出したのも彼の功績である。勿論、一人の力で勝ったわけではないし譜代の家臣の協力無くしてはこうはならなかっただろうが、それでも勲功一等を上げるならば全会一致なのは目に見えている。

 

 そう言った軍事的・政治的な能力の高さに加えて絶対に自分を支えてくれる事、自分の欲しているモノを的確にくれる事、そして何より自分の負担がかなり減っている事などを考えれば家臣団くらいしか知己の男性がいない彼女が惚れるのも納得の結果だった。加えてお嬢様特攻とも言うべき彼の特性のせいで氏康の男性観にかなりのクリティカルヒットを食らっている。なお、年下好きの為昌などと違い、彼女の好みは年上で武に偏り過ぎてないけど自分を守ってくれるくらいには強くて頭も自分かそれ以上に良い人というかなり面倒な好みだったが、ばっちり当てはまっている。相性はこれ以上ないくらいに良いのだが、如何せん身分の差が響いている。とは言え、こればかりはさしもの知恵者である氏康も効果的な方策を打ち出せていない。私利私欲のために頭脳を割いているのは民のためにならないと考えている辺りが名君の由来だと言えるだろう。

 

 だが放置していては優良物件を持っていかれかねない。最後に自分の元に居れば良いとは思っているものの、それでもやはり誰かの元にいるのはムカつく事態だった。恋人などいたことないと言っている彼の言葉を信じるならば、その手のことに不慣れであるのは察しが付く。そう考えるとあの今川の姫が一番の恋敵だった。やはり同じ城にいるのは強い。今ですらかなり深い関係が更に深まればどうなるか、その結末は見え見えである。しかし現状はどうしようもない。そもそも恋心を抱いているのは自分だけの一方通行の可能性もある。ため息だけが口から漏れ出ていた。

 

 そんな様子を見ながら氏政は何してんだろうこの面倒な姉は、と思いながら頭を抱えている。幻庵は若い者の事に口を挟むべきではないと黙っていた。

 

 

 

 

 

 

 三者三様の思いを抱きながら一行は河越領に入る。その境目は誰がどう見ても明らかだった。普通、現代でもそうだが土地の境目というのは分かりづらい。現代でもグーグルマップなどを見るか、道などが境目になっているから分かるケースが多い。本来土地の区分というのは概念的なもので明確に見えるものではない。しかし、ここでは河越領とその他との差が一目瞭然だった。それもそのはず、街道の太さが違うのである。

 

 河越領の境目からは広い街道が他の田畑よりも一段上に盛り上がっている。馬数頭は横に並べる広さだった。しかも両脇には松の木が等間隔で並木を作っている。この時代の街道は整備が面倒な事が特徴であり、かつ昭和の半ばに全国で舗装されるまでまともな道は東京などの大都市周辺にしかなかった。それまでは土のガタガタの道であり、農業用道路しかないとまで海外に酷評されていたほどである。その道の悪さが馬車の未発達などの技術面の差を作ったともいえる。そんな中、河越領の道は綺麗であった。

 

 その秘密は土嚢だ。洪水の際によく見かけるあの白い袋である。この時代では麻を使った袋に土を詰め込み、それを大量に並べ、その隙間に土を入れていた。これにより、簡単に道を作る事が出来る。この技術は現代でも東南アジアやアフリカの支援で使われているものの応用だった。街道延伸計画の前段階のモデルケースとして自領内で既に完成させていたのである。

 

 兼音としては上にコンクリ舗装か何かをしたいと思っているのでまだ完成ではないのだが、この時代の水準としては十分すぎる出来だった。

 

「これはまぁまた随分と立派ね……」

 

 氏康は驚きながらも言葉を漏らす。街道延伸計画自体は氏邦と彼が熱心に推しているのを知っていたが確かにこれならばかなり経済や戦略も変わる。活発な陸運が行えるだろうし、兵糧の運搬や兵の移動も容易い。敵も使えるという問題点はあるが、それを上回る利点があるのは明白だった。

 

 随分と行軍のしやすい道を少し行けば、数騎が前方に待機しているのが目に入る。氏康一行の姿を確認し、一騎が城の方へ駆け戻っていった。艶やかな恰好をした先頭の姫武将が駆け寄ってくる。氏康の前で下馬するとその名を名乗った。 

 

「ようこそお越しくださいました。私は成田武蔵介長泰が子、甲斐にございます。左京大夫様御一行のお出迎えをするよう土佐守様より仰せつかって参りました。これより先導役を務めさせて頂きます」

 

 そう言うなり颯爽と馬に乗り、先導を始める。視界の左右にはきっちりと四角く区画整理された田畑が広がる。後に続くと大きな門が視界に入る。小田原よりは規模が小さいが、この街にも総構が存在しており、街の周りに堀が掘ってある。それのおかげで河越城が包囲された際は力攻めを避ける事が出来た。その堀に架かった大きな橋の先にある鉄製の門。それが河越城の玄関口の一つだった。河越は東西南北に道が伸びている為、その内の東側の門のところに氏康たちはいるのだ。

 

 甲斐姫が手を大きく上げるとゆっくりと門が開く。普段は開け放っているはずだが、一度閉めていたらしい、と氏康は察する。それと同時に河越で兼音が何かやろうとしていることに感づいた。少しずつ見えてくる門の開かれた先には大通りが広がっている。その中央に沿うように三つ鱗の旗を持った兵が等間隔に並んでいる。この時点で彼女には大体の事は察せられた。この視察行軍を見世物にする。それが兼音の目的であるのだと。

 

 沿道には多くの民衆が見物している。優雅に華麗に進軍することが求められた。先導役の甲斐姫はゆっくりゆっくりと進んでいる。その為、後ろにいる一行もそれに合わせた速度にせざるを得ない。そうすることでしっかりと目に焼き付かせることが出来る。そんな寸法になっていた。

 

「なるほど、私の視察も利用してやろうという魂胆ね。嫌いじゃないわ」

 

 自分に不利益のない事だ。向こうの思惑に乗ってやろうじゃないかと氏康はピンと背を伸ばして馬を前に進めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうでしたかな。当城流の歓待は」

 

「まぁ悪くはなかったわ。絶えず好奇の視線に晒されることを除けばね」

 

 この短い期間ではあったが、デモンストレーションを繰り返した歓待である。現在は河越全体で祝賀ムードにしてある。と言っても一般人にはあまり関係のない事なのだろうが。それでも何か珍しいものが来るらしいとあれば見に行く者も多い。なおかつ北条の当主が来るなど滅多にない事だ。河越に昔からいる人間はプライドがある。己の城は扇谷上杉の本城だというプライドだ。その自尊心を満たすためにも扇谷上杉より上になった権威である北条家の当主一門が来るというのは大事な事だった。

 

「それは平にご容赦を。多くの者にご尊顔を見させることが、忠誠心を生みやすくするのでございますから」

 

「そんなものかしらね」

 

「ええ。人は見ず知らずの存在が偉大である、忠節を尽くせと言われても今一つ想像できぬもの。それ故愛国心とでも申しましょうか、北条家に対する帰属意識も生まれにくくなります。それは根拠地、即ち小田原から遠のくほどそうなるでしょう。ですが、ここでその御姿を拝したことで明確な像を持って北条家という存在を脳内に描けるようになったのです」

 

 現在は夕食時。河越の御殿、昔は扇谷上杉の当主が使っていたそこで接待が行われている。飲食関連や服飾関連を扱う商人集団に今回がチャンスだと声をかけたのは正解だったと言えよう。こぞって一押しの品を献上してきたため、それをそのまま出している。ブランド化をするためにはイメージ戦略が大事だ。北条家や足利家といった名族の御用達はそれだけで価値がある。口にした、という事実だけでも地方都市ならば価値が出る。マーケティングのためにも利用できるのが今回の視察だった。

 

 氏康様の連れてきた文官たちは今うちの城の経理系書類などをチェックしている。それを元に状況を確認するのだとか。武官は周囲の村々や街の中をめぐり統治の実態を確認するらしい。氏政様は何やらやりたいことがあるという事で夕飯をすっぽ抜かしてどこかへ行ってしまった。幻庵媼は綱成の元で様子を確認している。また、ウチの河越忍群と情報を共有し、段蔵の畿内報告を読んでいる最中なのでこれまた不在である。氏規様は疲れたらしく寝てしまった。

 

 他の大身の重臣方は今別のところで接待中である。高級妓楼からレンタルしてきた人員をフル活用しての行為だった。

 

「良い街じゃない。つい数年前まで敵の根拠地だったとは思えないわね。私を歓迎する姿勢から見てもそうだし、民の顔に喜びを感じるわ」

 

「人心は大義よりも先に明日の我が身を保証してやる事で手中に入れやすくなります。彼らに見える形で還元すれば、いずれはどの地でも受け入れてくれましょう。ここのように。浴場の整備、妓楼の拡大、店の招致、いずれも皆彼らの暮らしに貢献しております」

 

「やはりここを参考にどこの街も造るように言うべきね。小田原さえ超える大都市になりかねないわ。そうなると困ってしまうもの」

 

「お褒めの言葉と受け取っておきましょう。実は一つお願いしたき事がございます。この後、松山・鉢形方面に向かわれる際に一度秩父へ寄って頂けませんでしょうか。入り口で構いません。奥地へは行かずとも、どうか、お願いしたく存じます」

 

「それは今後の統治に必要な事なのね?」

 

「はい」

 

「ああそう。であれば、分かりました。少し道を変えて寄る事にするわ」

 

「ありがたき幸せ……しかし、理由はお尋ねにならないので?」

 

「貴方が必要だと言うのならそうなのでしょう。それに、先ほどの発言も加味すればある程度理由の推測はつくわ」

 

 秩父の民衆や国衆にも北条家の存在を私を介してではなく直に見て欲しかったのだが、どうやらその目的は見抜かれていたらしい。これをやる事で一層秩父の支配は固まる。金のなる木がしっかり北条という大地に根を張るようにしなくてはいけない。このお願いはその為の第一歩だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今後の方針や統治に関する話をしているうちに夜は更けていく。出されているのは現在開発を進めている清酒だ。氏康様はあまり大酒を飲まない。何かあった際に酔っていましたでは示しがつかないという事だった。早雲公にもそういう方針があったらしい。勿論飲めない事は無いが、元々得意ではないそうだ。現に、数口飲んで顔が赤くなっている。疲れもあって酔いが回りやすくなっているのかもしれない。暑そうに手で仰いでいる。冬に分類される今だが、それでも少し暑いらしい。

 

「夜風に当たりましょうか」

 

「そうしましょう。あまり飲み過ぎるのも良くないわ……あ、そうそう貴方酒宴はほどほどにしなさい。国衆や家臣からの評判はおかげで悪くないようだけれど、貴方の筆頭家老が苦言を呈していたのを聞いてるわよ。後、綱成もね」

 

「ははは、申し訳ございません」

 

「身体を壊しては元も子もないのだから。今この大事な時期に重臣がいなくなるのは辛いから。それに、個人的にも困るの。気を付けなさい」

 

「はっ!しかと心に留めましてございます」

 

「ならば、良し!」

 

 城の外からはまだまだ街の喧騒が聞こえる。この城の特徴だった。商店の並ぶ辺りや妓楼が寝静まるのは明け方に入ってからだ。

 

「随分と賑やかね」

 

「見てみますか?夜の河越を。かなり良い物ですよ」

 

「へぇ?随分と自信ありげね、良いわ、案内しなさい」

 

「こちらへどうぞ」

 

 連れてきたのは大きな櫓である。城内の門の近くにある櫓で、普段は監視塔の役割を果たしている。

 

「よっと、此処が一番宜しいかと。如何でしょうか?」

 

 氏康様の瞳には、煌々と輝く街の灯が映っている。提灯がそこら中に飾られ、和中折衷なデザインの妓楼達からもその格子窓から光が漏れる。人はこの時間でも行き来しており、この街の繁栄と豊かさを象徴していた。この時代、夜の明かりと言えば星か月、もしくは行灯などしかない。こんな明るい街はそうないだろう。小田原は勿論、堺や京でもこうはなっていない自信はある。大分金もかかっているのだが、それを回収できるだけの利益を出していた。昼も夜も休みなく経済が廻る街になっている。そしてそれをこうして高台から見ると夜景として綺麗に見えるのだった。

 

「これは……綺麗な光……夜なのにまるで昼みたいね。不夜城とでも言うべきかしら」

 

「不夜城とはなかなかに美麗な表現にございますな。これが私の宝玉にございます」

 

「この先の未来には、こうして昼も夜も明るい世界が来るのかしらね」

 

「それはもう、勿論。人はいついかなる時も己を縛る自然を乗り越えんとする生き物ですから」

 

 それから数分間、氏康様は何も言わずにただじっと景色を見つめていた。その瞳の先に、どのような未来を思い描いているのか、それを全て知る事は出来ないのだった。

 

 

 

 

 

 

 御殿に戻り、そのままここでお泊り頂く旨を話す。北条のご一族は皆御殿だ。護衛は風魔が務めている。今も見張っていてくれているのだろう。他の方用に陣屋は構築してある。私は今日は綱成の屋敷に避難して寝ることになっていた。

 

「こちらでございます。ご用がありましたら城の者が多数交代で待機しておりますので、どうぞ遠慮なさらずお呼び下さいませ」

 

「心遣い、感謝します。もう疲れたからそのまま寝る事にするわ」

 

「それがよろしいかと。明日もまた旅路でございますからね」

 

「ええ。嫌ではないけれど、やはり疲れるものだわ」

 

 寝ようとしているのでそのまま退出しようとすると、袖をクイっと引かれる。振り返ればそっぽを向いたまま私の着物の袖を掴んでいた。

 

「いかがされましたか?」

 

「勝手に去っていいなんて言ってないわ。もう少し付き合いなさい」

 

「しかし……」

 

「良いからっ!」

 

 存外力強く引かれたせいでバランスを崩す。しかし、万が一傷をつけるような事があってはいけない。咄嗟に踏ん張り、その華奢な身体を抱きとめたまま布団に倒れた。日々剣聖にボコボコにされている訓練の成果が出ていた。

 

「お怪我はありませんか!?」

 

「え、ええ、大丈夫よ……」

 

 赤い顔が僅かな外の明かりに照らされて見える。ふんわりとしたいい匂いが鼻腔を満たす。白い陶器のような肌は、触れば溶けそうな仄かな柔らかさを持っていた。

 

「良かった……お戯れはおやめください。御身に何かあれば切腹ですから……。さて、それでは今度こそお休みなさいませ。良き夢を」

 

「ええ、お休み……」

 

 襖を閉めてハ―っと小さくため息を吐きだす。本当にああいうのは勘弁してほしい。自分の気持ちを自覚している分、辛さが増していく。私の理性がその辺の男よりはある方で良かったと今日初めて思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう、だから。襖を閉める瞬間に小さく聞こえた「意気地なし」は気のせいだと思う。そういう事にしよう。天井裏にいるはずの風魔までもが舌打ちをしていた気がするがきっと気のせいだ。酔ってしまったのだろう。そう言い聞かせて夜の廊下を歩く。そう思わねば、狂おしくて死んでしまいそうだったから。




小田家について知りたい方は、小説家になろうに存在する山城ノ守様が投稿されている小説「小田天庵記」をお読み下さい。私もかなり参考にさせていただきました。この場を借りて御礼申し上げます。

しかし話が遅々として進まない……。何故でしょう。しかし、テンポ悪くならないようにはしたいですね。

う~ん恋愛パートは苦手だ……。どうなんでしょう、今までみたいな感じで良いんですかね。この期に及んで悩んでるので何かご意見ご感想あれば下さい。

後、ゴールデンウィークには先延ばしにし続けた感想返信を絶対やります。それまであと数日、お待ち下さい!!


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第92話 恋すてふ

連休スペシャルでいつもより長めです。感想返信も大体終わりました。長らくお待たせして申し訳ありませんでした。今後はもっと早く書きますのでお許しください。皆さまから頂ける感想が活力です。本当にありがとうございます。最後になりますが、恋愛描写は苦手です!


 河越は武蔵の内陸部に位置している。しかし、入間川などの河川を使えば船で来訪することも出来る。小田原からの船に、一人の若侍が乗っていた。少し短めの黒髪をまとめるのでもなくそのままにし、日本刀を携えている。旅装ではあるが、軽武装だった。また、布に包まれた長い棒のような物も側に置いている。

 

「お侍さん、河越へ行かれるんで?」

 

「ああ。あそこにいる知り合いに来ないかと誘われてな。そこまで言うのならどんなものかと見に来た」

 

「へぇ!そりゃぁ運がいい」

 

「どういう意味だ?」

 

「河越のご領主さまの一条様は今諸国から才あるものを集めているそうですぜ。お目に留まれば、立身出世も容易いでしょう!なにせ、河越はいつでも人手不足。有能な将を求めているんでさぁ」

 

「ほう?……お前も志願してはどうだ?」

 

「ご冗談を。あっしはしがない船頭で十分でございます」

 

「ま、人にはそれぞれに合った性分という物がある。たまたまお主に槍働きが向いていなかっただけの事」

 

「ははは、そう言って下されば、少しはマシに思えます。向き不向きに拘わらず男に産まれたからは、一度は天下に名を馳せる事も夢見るものですから」

 

「なるほど……それが土佐守の人気の秘密か」

 

「それもあるんでしょうなぁ。戦に強く、民に優しく、公正明大で、若い。そしてその隆盛陰り無し。ともすればでございます。……ほら、見えて参りましたよ。あれが河越。今や武蔵で一、二を争う街でさぁ!」

 

「大分賑わっているな。堺とまではいかないが……それでも十分な大きさだ」

 

「いつでもこんな感じでっせ。お、しかも今日は更に運がいい。執権様の御視察の真っ最中みたいですなぁ!上手くすれば、北条の御家の直臣となれるやも」

 

「土佐守のように、か。それは面白い。が北条には用はないな。しょうもない奴ならぶっ飛ばしてやるが、そうでないことを一応祈っておくか」

 

 船がゆっくりと船着き場に向かって進んでいく。徐々に近づく河越の荷下ろし場を見ながら、武士は楽しそうに笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 氏康様は数日滞在した後、多くの群衆に見送られながら次の街へと旅立っていった。そろそろ桜も咲き始める弥生の半ばである。初日の晩の一件がどうも気まずく、お互いにあまり顔をキチンと直視できないまま終わってしまった。とは言え、それは個人間の話。政治的な目的は恐らく考え得る限り実行できたと言えるだろう。そう言う意味では視察は大成功であった。

 

「どうぞ、お気を付けて」

 

「ええ。これからも当地の発展に努めなさい」

 

「はっ!粉骨砕身、奮励努力して参る所存でございます」

 

「それでは古河で会いましょう。杉山の件も忘れずに」

 

「ははっ!」

 

 統治に対して下された評価は凡そ最高格のものだった。国替えの必要なし。瑕疵も認められず。これが小田原の能吏たちが下した私の統治能力である。そんな河越の群衆が大通りに詰めかけ、見送りをしている。ここ数日間はお祭り騒ぎだったが、これでまた少し日常になるのだろう。彼らの日常から餓えは遠ざかりつつある。戦乱はまだ隣りあわせだが、一つでも悲しみが減ったのならばそれに越した事は無いだろう。

 

 見送りも早々に仕事のある面々はさっさと戻って行ってしまった。彼らからすれば余計な負担であったし加えて審査されるとあればおちおち休んでもいられなかっただろう。臨時の何かを出さないといけない。時間外労働……という概念は無いが、それでも労働環境がしょうもないのが現代日本の課題だった。改善できることは少しずつ、である。

 

「先輩……義姉上と何かありました?」

 

「…………何もない」

 

「へぇーそうですか。本当ですかね」

 

「私が嘘を言っていると?」

 

「そこまでは言っておりませんが」

 

 御殿が使用されていたためここ数日間その住まいに避難させてもらった綱成がジト目でこちらを見てくる。確実に怪しまれているが、押し倒しそうになりましたなど口が裂けても言えない。どっちみち誤魔化すしか術はないのだ。

 

「綱成、後で少し大事な話がある。時間を取れるか」

 

「?はい……構いませんが」

 

「そうか」

 

 少々気が重いが、切り出さなくてはいけない話がある。これは私の一存ではなく、北条家全体の方針だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お会いしたいと仰る方がお越しになっておりますが、いかが致しますか?」 

 

「会いたい?誰だ」

 

「こちらの書状を見せれば恐らく来るだろうと……」

 

 綱成との面談までの間の時間、政務を執っているとこんな報せが入って来た。特に約束していた人物はいない。不審に思いながら使いが差し出してきた書状を確認する。感状であることが分かった。送り主は筒井順昭。宛先は……島清興。確かにこれは飛んでいかねばならないだろう。相手が三成に過ぎたるものとまで言われた将ならば。

 

 急いで広間に向かう途中で胤治と出会う。

 

「殿、どうされましたか、かように急いで」

 

「今客人が来ているのだ。用件は何だ、歩きながら聞こう」

 

「では、ご下命ありました杉山城の件ですが、凡そ縄張りを新設する必要はないかと。上の建物だけを新造すれば、後は軽い補修だけで済むでしょう」

 

「相分かった。では上の部分だけ、適度に作ればよい。余力があれば堀を深くし、馬出でも造ろうではないか」

 

「はっ。では委細そのように」

 

 そんな話をしていれば、すぐの大広間に到着する。客人の顔を見ようと着いてきた胤治は、座っている人物の顔を見るなりいきなり広間へ出ていった。広間にいたのは青みがかったハーフアップの髪をくるりと一回転させ簪で止めた姫。布に包まれた長い棒状のものを持っている。あれは恐らく鉄砲だろう。

 

「ああ!(せい)ちゃん!来てくれたのね……良かった」

 

「旧友に呼ばれてしまっては出てこない訳にもいかないさ。しかし、キミは相変わらずだね。畿内にいた頃と寸分たがわぬ美しさだ」

 

「もう、ちょっとやめてよね。まったくいつもそんな冗談ばっかり」

 

「冗談ではないさ。キミが望むなら、私の隣は空いているよ」

 

 呆気にとられている私の前で、二人による謎の会話が始まった。どうにか察したのは旧知の仲である、それも胤治の三好家時代の知り合いであったという事。そしてこの姫武将は言葉通りに捉えるのならば所謂百合というやつなのだろうか。私は特に偏見は無いが。

 

 しかし、この同窓会をいつまでも眺めているわけにはいかない。百合の間に挟まると危険そうな雰囲気を察したが、此処の主は私である。

 

「……胤治。説明を」

 

「ああっ!大変申し訳ございません。これに控えるは私の旧友・大和は生駒郡の出、島左近清興でございます。段蔵殿が西へ向かわれるという事で、もしかしたら殿の配下になってくれるやもしれぬと思い、ついでと思い文を送っていただいた次第でございます。何分確証の持てぬ話でございましたので、今まで申し上げては参りませんでした。この儀は平にご容赦を」

 

「まぁ、それは構わないのだがな。え~、島殿。胤治の文に応じたという事は、貴殿は私に仕える気があるという認識で宜しいか」

 

「無論の事。その為に参ったのですから」

 

 急に感情が落ち着いたような反応を見せる。謎の落差。これが余所行きなのだろうか。先ほどのは友人との接触によりハイになっていたと考えるべきか。つまりあっちが自然なのか?分からん。

 

「ああ、そう。うむ……しかし何故当家に?筒井になにか問題でもあったのか」

 

「いいえ、筒井はそこまで悪くはない場所でした。されど、親殺しはマズいという事で勘気を被りました」

 

「親殺し!?」

 

 私以上に胤治が驚いている。人が自分より大きいリアクションをしているとなんだか驚きが失せていく。親殺しと言うのはこの乱世でも推奨されない行為だ。そもそも下克上自体別に推奨はされてない。そして親殺しは儒学の中ではかなり禁忌に近い。故に尊属殺人は近年まで重罪だった。よっぽどの理由がない限り一生付きまとう。

 

「清ちゃ……いえ清興」

 

「崩してよい。どうせ我らしかいないのだからな」

 

「ありがとうございます。清ちゃん、もしかしてそれってあの継母?」

 

「ああそうだ。私を嫌っているだけなら別に良かったのだがな。あろうことか私を殺して家督を奪おうとしたので先手を打ってやった。逃げるだけでも良かったのだが、丁度文が届いたので、サクッとやってしまおうと思い立ったのだが……九人殺しは流石に問題だったようだな。生憎と父上は殺し損ねたが。私の自論では殺そうとしていいのは殺される覚悟がある者だけだ。それはともかく、そんな訳で奉公構えを出され、筒井と反目している上に胤治の旧主でもある繋がりで三好長逸の元へ行き旅費をたかって来たという訳だ。胤治の文を見せればあっさりと金をくれた。さて、どうですかな、土佐守殿。親殺しはお嫌いか?」

 

「子を好んで殺さんと思う親は親に非ず。鬼である。鬼を殺すはこれ世の為也」

 

「そう言って頂ければはありがたい。これで土産も渡せそうですな」

 

 彼女が出したのは桐の箱。蓋には三好家の家紋が書いてある。

 

「これは?」

 

「三好長逸殿より、土佐守殿へ渡してほしいとの言伝でした。胤治を使いこなせなかったのは儂の怠慢である。音に聞こえる土佐守殿ならば儂の分まであ奴の才能を活かせるであろう。儂のせいで芽をつぶしてしまったやもしれぬと悔やんでおった。これはせめてもの礼である、と」

 

 三好長逸は彼なりに胤治の事を忘れていなかったらしい。彼女もその日々の事を思い出したのか、少し涙ぐんでいる。

 

「長逸様……私のような者を……」

 

「相国寺で細川晴元を完膚なきまでに包囲する作戦を立てた者が言うと謙遜に聞こえるな。ま、私はそれとは関係なしにキミの内面が好きだけれどね」

 

 確かに結構イケメンな感じの雰囲気が漂う。元忠が質実剛健な感じであるとすれば、こちらはどこか軟派だ。京風なのだろうか。まんざらでもなさそうな空気感。まぁ内面を褒められて嫌な気分になる方が少ないだろう。この女性陣二人は取り敢えず放置して、桐の箱を空ける。中には綿に包まれた器。漆黒の器で内側には星のようにもみえる大小の斑文が散らばり、斑文の周囲は暈状の青や青紫で、角度によって玉虫色に光彩が輝き移動して見える。まるで宇宙のような文様。

 

「ま、まさか……!こ、こ、これはよ、曜変天目!」

 

 腰を抜かしている私に対し、女性陣はあまり茶器には造詣が深くないようで怪訝な顔だ。曜変天目と言えば現代に確実に現存するのは三つ。議論されているのを含めても四つだ。これは幻の五つ目という事だろうか。戦乱の中で失われた可能性はあるのであり得なくはないだろう。一度大阪の藤田美術館で見たことがある。この輝きは間違いない。私は鑑定士では無いが、明らかに気配からして違った。

 

「国宝じゃないか……なんつうもんを渡してくれたんだ……」

 

 三好長逸もあまり精通していなかったのか、良さそうなのを適当に選んだのか。いずれにしても絶対に失くしてはいけない代物だった。丁寧に箱に収めて見なかったことにし、蔵の奥に厳重にしまっておくことにする。ちょっと手に負えるものでは無かった。今度礼状を書かなくてはいけない。

 

「と、取り敢えず運搬してくれた事には感謝しよう。これは天下の名物だ。万一にも壊してしまえば天下の損失となる。さて気を取り直して」

 

 コホンと咳ばらいをして場を仕切りなおす。仕切りなおすと言っても私がただ腰を抜かしていただけなのだが。

 

「丁度当家は千単位の軍を率いれる武官を探しておった。望みを言え。それで以て召し抱えよう」

 

「望み……そうですなぁ。では城を頂きたく」

 

 城か。大分吹っ掛けてきたな。ここで交渉してそこそこの所領に落ち着く気だろう。それと同時に胤治をどれだけ信頼しているかを測ってもいるのだろう。胤治の信頼度が高い=彼女の推挙した人材への扱いが良いという式ができる。勿論胤治を信頼はしているし、島左近の能力は史実のものではあるが知っている。ならば望み通りにしてやろうではないか

 

「城か。それで良いのだな?」

 

「無論、それに相応しい知行も込みではありますが」

 

「鉄砲に造詣はあるか」

 

「多少ではございますが。今もこうして持参しております」

 

 包みをほどけば鉄の筒が露わになる。典型的な火縄銃だった。これからの時代、これを扱えることも大事な将の要素になっていくだろう。

 

「宜しい。であれば浅羽城に入れ。だがその前にしばらくはここで統治の仕方を学んでもらう。軍法並びに統治の法は守れ。そして民を労わり、必ず申し送られた施策は実行せよ。今後徐々にお主に兵権を渡していくつもりだ。励むがいい」

 

「……私を謀っておいでか?」

 

「いや?私は胤治を、我が参謀を信じている。されば、その彼女が交友を築きわざわざ大和という遠き地にいるにも拘らず推挙した者が只の凡将であるはずがないだろう」

 

「失敬。私は些か胤治への信頼を見くびっていました。ご容赦くださいませ。島左近清興、これより旧友の推挙の元、一条土佐守様にお仕えしたく存じ申し奉ります。私の事は左近とでもお呼び下さい。その方が慣れておりますれば」

 

「分かった。ようこそ我が城河越へ。お前の仕官を歓迎しよう。共に明日の地平を切り拓こうではないか」

 

 彼女は静かに平伏する。要求通りに城を渡したインパクトは大きかったようだ。彼女は自分の能力に自信がある。一定以上の条件でなければ飲まない。凡人ならお断りだが、その自信を抱くに値する能力が実際にある。でなくば胤治を理解し、友誼を結ぶなど不可能だろうから。自分の参謀がそう言う人物であると知っているからこその大領での召し抱えだった。そして彼女は自分を認めた私に着いて行くと決めたのだろう。忠誠心や信頼関係はこれから少しずつ築いていけばいいだろう。

 

「それとご主君。この胤治と結ばれたいのだがどうか便宜を図って頂けないでしょうか?」

 

「それは当人同士で話し合え。私は別に構わんがな」

 

「それは良き事を聞きました」

 

「ちょっと、殿も清ちゃんも私を無視して勝手に話を進めないでください!私には心に決めた方がいるのです!」

 

「……ご主君、胤治に何をされましたかな?この幼気で気弱な生娘なのを良い事に!」

 

「なんもしとらんがな!」

 

 分かっててこちらを揶揄ってくるのはどうも調子が狂う。とは言え、接していて不快感は感じない。そこそこ上手くはやっていけそうだ。しかし、いい機会に来てくれた。これで、憂うべき事は無くなる。安堵と寂しさの混ざった複雑な感情を飲み込んで、カオスな事態の収拾を始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「待たせたな」

 

「いえ、その様な事は!」

 

 日が傾きかけた頃。重苦しい気分になりながら、綱成を呼び出す。場所は狭い一室。普段は空き部屋であった。何か密談をするにはもってこいの場所である。元の城主である朝定は一人きりになりたいときこの部屋によく籠っていたらしい。

 

「さて……どうだ。この城に来てかなり経つが。政務・軍務には慣れたか」

 

「はい。何とかやっております」

 

「そうか。いつも見ているわけではないが、十分によくやっているように思える」

 

「ありがとうございます」

 

 事実、槍働きを期待されていた彼女ではあるが今ではすっかり書類仕事も出来るようになっている。不備があると鬼のようになる兼成に怒られながらも努力していた証拠だろう。練兵も上手くなっている。将としての質は圧倒的に上がっていた。勿論、強さもであり、上泉信綱にも勝利できたように関東有数の腕の持ち主であることは明白。単なる猪武者と呼ぶことはもうできないだろう。そしてそれは同時にもう一人でもやっていける事を意味する。

 

「お前の努力、そしてその成果は私も氏康様も良く知るところである。よって、北条上総介綱成に杉山城への移封を命じる。準備の整い次第、速やかに同地に赴任し政務を行え。武官文官の配置は既に完了し、杉山領の河越領からの分離手続きは済んでいる。これより杉山城以下の領域はお前の管轄となる。出兵時も独立した部隊となり、私の指揮下ではない。以上だ」

 

「…………え」 

 

 空気が固まった。動揺が、彼女の綺麗な黒い目に走っている。顔色は青ざめ、現実を受け止めきれないような顔をしている。

 

「あ、え、綱房を城代にして、私はこのままここにいるという事でよろしいです、よね?」

 

「いや。お前が移動するんだ。綱房とお前の御母堂共々、杉山へ行く」

 

「しかし、綱房を城代にするということを考えていると仰ったではないですか!」

 

「あくまで考えであった。それに、事情が変わった。これは私だけの一存ではなく、北条家全体の、引いては氏康様のお考えである。お前はもう十分にやっていけるようになった。であれば、いつまでも私の元に留め置かず独立させた方が御家のためになると、そう判断した。そして、私もそれに同意した」

 

「そんな……まだ私には出来ないことも多くあります。至らぬことも!ですから……義姉上にお頼みして、それを引き伸ばしては」

 

「綱成」

 

 早口で捲し立てる彼女を遮って私は口を開く。

 

「お前は私と氏康様の目がそこまで節穴だと、そう言いたいのか?私たちの判断は間違っていると?」

 

「っ!」

 

「不安なのは分かる。だがな、お前は北条の一族だ。私のような一家臣とは違う。一門である以上、その責務を果たさなくてはいけない。いつかはこんな日が来るとは思っていた。今生の別れではないのだ。またいつでも会えよう。大丈夫、お前なら出来るさ」

 

「そんなものが一門だと言うなら……私は……」

 

「それ以上は言うな。言ってはならんぞ。それを言うのは先代様を貶める事に繋がる」

 

 禁句を口走ろうとしたその口を手で押さえる。多少悲しんではくれるだろうと思ってはいたが、ここまで取り乱し、冷静でいられなくなるとは思ってもみなかった。

 

「私はもう、いらない子なんですか?」

 

「どうしてそうなる」

 

「私はもっと……もっと一緒にいたかったのに!先輩は身代も大きいです、意見だって三家老も他の五色備えの方も耳を貸します!だったら義姉上にそれだけはどうかとも言えたはずじゃないですか!どうして、どうして……私がいらないから、引き留めてはくれなかったのですか」

 

「無論私もどうにか出来ないかとは言った。大切な後輩だ。もっと教えたい事もあるとな。だがそれではお前のためにならんと言われた。そう言われえてはそれ以上逆らえない」

 

「やっぱり、私の事は手のかかる後輩としか思ってくれていないのですね」

 

 段々と目の焦点が合わなくなってる。同時に主張も支離滅裂になって来ていた。こんなに無茶苦茶な事を言い始める子ではなかったはず。どこかで決定的に対処を誤った。それだけは分かった。

 

「先輩……私は、女性として不足ですか」

 

「何故そんな話に……不足などと思った事は無い。お前は十分に綺麗だ。それは外見だけではなく中身も。お前がもし容姿に不安があるのなら、それは杞憂だ」

 

「では義姉上と同じように思えますか?従姉(兼成)殿とは?同じように、愛しては下さいますか?」

 

 そう言った目には涙が浮かんでいる。何を彼女が求めているのか。それが分からず、困惑することしかできなかった。いつもならば相手の望みなど凡そ分かると言うのに、これだけがどうしても理解できない。

 

「な、何を」

 

「知っていますよ、先輩が義姉上や従姉殿の事を愛していると。きっと私だけでなく、もっと多くの人が気付いています。先輩の恋情を。どうですか、違いますか!?」

 

「……その二人に関しては認めよう。二人が私をどう思っているかは分からないが。だがお前だって氏康様や兼成に負けないくらい魅力的であるとは思っている。それは嘘ではない」

 

「そうですか。今のはきっと、本心で言ってくださったんですね。でも、愛してるとは言って下さらない」

 

「だから先ほどからどうしてこんな話を」

 

「どうして?この期に及んでまだそれを言うんですか。先輩が好きだからに決まってるじゃないですか!!なんで、なんでこんな簡単な事が分からないんです!?私の気持ちだって、義姉上の気持ちだって、従姉殿だって、胤治さんだって!敵将の策謀も、民の心も、部下の心情も、朋輩の感情も、全部全部分かるのに、どうして私たちの気持ちは気付いてくれないんですか。みんな三者三様に先輩に振り向いてもらおうとしてるのに。なんで色んなことを知っていて、色んなことに気が付けるのに、一番近くにいる私たちの心だけ気付いて下さらないんですか!」

 

「私は……」

 

「知ってますか?思いを伝えられないよりも、気付いてくれない方が辛いんですよ」

 

「…………」

 

「面倒な女だってことは分かっています。でも、ここで私が言わなければ今度は別の誰かが涙する事になるでしょうから、言わせて頂きました!杉山城の件は承知しました。どうせ何を言っても変わらないでしょうから」

 

「……好意は嬉しく思う。けれど、お前の気持ちを受け入れることは出来ない。お前はあくまでも北条家の一門だ。養子とは言え、一門と家臣では釣り合わない。だから、私とて氏康様への感情だって無理だと思っている」

 

「そうですか。最後は、本心ではないのですね」

 

 満身創痍の私の心に、最後のとどめを刺しに来た。私だってこんな無下にするようなことは言いたくない。けれど、釣り合わないのは事実だし、私の信条にも合わない。けれども信条を説明しても理解されないだろう。だからこう告げるほかない。もっとも当たり障りのない答えで。もし出来るのならば、彼女を抱きとめたいけれど、それを私は出来なかった。だから、本心ではないと言われればそうなのだ。これまでのそこそこに長い付き合いのせいで、見抜かれてしまったようだった。唇を噛み締める。血の味が滲んだ。

 

「これまでずっと、私が困った時も苦しんでる時も悩んでいる時も寄り添って、導いて、支えてくださって、私に生きる意味と道を、北条家に馴染めるよう方々に働きかけて下さって、大事な時は嘘も建前も言わないでいてくれたのに、最後だけはそれらで飾るんですね。断られるのも、拒絶されるのも仕方ないです。随分と面倒なことを言ってしまいましたから。でも、だからこそ、最後はちゃんと断って欲しかったです」

 

 彼女は下を向きながら嗚咽混じりにそう言って、キッと顔を上げてこちらを見る。

 

「さようなら。――――嘘つき」

 

 そう言うと、彼女は立ち上がり走って行ってしまう。その後には、何も言えず、想いにも気付けず、そして最低な振り方をした、ただ見送る事しかできない愚かな男が一人、座っていた。ただ一つ明らかなのは、私は決定的に間違えたという事実だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私は、どうすれば良いのだろうな」

 

「先ほどからそればかりですな」

 

 一人で考えても何も分からず思考の坩堝にハマった私は、夜に頼重と長親を呼び出していた。ことのあらましはかいつまんでだが既に話してある。

 

「貴殿はどうされたいのだ」

 

「私は……分からない。どうしたらよいのか」

 

「そこをはき違えておられる。どうしたらよいのかではござらん。どうしたいのかを問うておるのです」

 

「どうしたいのか……さぁ、ここまで個人的な欲望を抱いたことがないもので」

 

「……」

 

 私に問うていた長親も黙りこくってしまった。見かねたように頼重が言う。

 

「先ほどのお話を伺うと、綱成殿は貴殿の建前を見抜いておりました。しかし、断るという貴殿の意思は本心であると思っておられるようだ。それは正しいですかな」

 

「ああ。それは正しい」

 

「では、建前を無くした断る理由は何です。彼女はお嫌いですかな?」

 

「いや、嫌いではない。むしろ好きだ」

 

「では婚姻しろと命ぜられたら?」

 

「受け入れるだろうな」

 

「他の男と結ばれると聞いたら?」

 

「…………嫌だな」

 

「愛していると?」

 

「そうかもしれない。自覚していなかったが」

 

「そこまで分かっていて、何故……?」

 

「私は……武士では無かった。それは知っているか?」

 

 二人が黙って頷く。

 

「そう、元々私は武士では無かった。故に、妻を複数などというものが分からない。それは人としてどうなのかと思ってしまう。私の周りでは、一人を愛し続けるのが普通であったからだ。無論、死別したり何らかの理由で別れる事もあるだろうが、最初から二人以上というのは……私の中で正しくなかった。もし綱成を受け入れたら、例えば氏康様や兼成のことも想っている私は、私の中で間違っていることになる。されど、この思いを間違いだとは思いたくなかった」

 

「なるほど、貴殿の中の道に反すると、そう思っておられる訳か」

 

「そう、なるだろうな」

 

 二人はむむむと腕を組んで悩み始める。私に背を向けごにょごにょ話し始めた。「失敗したら」とか「氏政様に殺られる」などという言葉が漏れ聞こえるが、何を言っているのかはよく分からなかった。

 

「しっかし、今の今まで綱成殿の想いに誠にお気づきにならなかったので?」

 

「ああ、全く。嫌われてはいないだろうと思っていたが」

 

「謎ですなぁ。貴殿は別に男女のことに詳しくない訳ではない。そして敵将はじめ、多くの者の心をよく読んでおられる。にも拘らず、気付かないとは」

 

「分からなかったのだ。恋も愛も、した事などなかった故に。勉学その他に追われ、そんな時間も余裕もなかった」

 

 小学校の時代は女子に興味なんて無かった。野山を駆けまわり、友達と遊び、趣味に没頭した。中学の前半もさして変わらない。後半の、多くの者が異性に恋愛的な興味を抱くだろう時期に私はそんな事を考えている時間はなかった。高校に進学してからも、クラス・部活・委員会・勉学等々に忙しく、構っている暇がなかった。彼女持ちの級友はいたが、羨ましいと思う事すらなかった。羨望が無いというより、そもそも羨ましいと思う発想が無かったのかもしれない。そう言う恋愛的な意味では灰色の時間を過ごしていたのかもしれない。

 

「それは仕方ありますまい。貴殿は優秀だ。学べばすぐに分かるようになるでしょうな。しかし、たとえ気付けても貴殿の信じる道自体はどうしようもない物だが……」

 

 長親は悩まし気に言う。何かを決意したような顔で、頼重は盃を置いた。

 

「本来道だの徳だの何だのは儒者か仏僧の生業だ。とは言え、こちらは一応神職。神に仕えるものとしてそれなりの事は言える気でいる。それ故に言わせていただく。貴殿のその道はやや異端だ。世間の道からは外れておる。武家の常識は貴殿の道とは違う。無論、武家の中にも正妻一人のみの者もいる。常道では無いがな。とは言え、別にそれ自体は悪しき事ではない。何を信ずるかは自由だ」

 

「では私は間違ってはいないと?」

 

「最後までお聞きあれ。自由ではあるが、それでは貴殿を恋い慕う者の気持ちはどうなる。己の道に反するからと言われ、しかもその道が出家などではなく武家において異端である思想だと知った時の彼女たちの想いはどうなる。納得できるだろうか。できる者もいよう。だが、出来ぬ者もいよう」

 

 確かにそれは言われた通りだった。私の個人的な倫理観、しかも現代のものであり、この時代のものではない倫理観に縛られた行動でで傷つく人がいるのは事実だ。どうして私はこの倫理観を捨てられないのか。殺人も、陰謀も、戦争も、忌避する倫理を殺したと言うのに。そう考えて気付いた。私はこの時代に交わる覚悟が足りないだけなのではないかと。

 

 恋愛観における現代倫理を保つことで、アイデンティティを失いたくないだけだったのではないか。戦国の世で生きているくせに、どこかで自分は現代人なのだと思っていたかっただけなのではないか。これは私の、ただの我が儘なのかもしれない。

 

「何度も言っているようにそれに善い悪いはない。ただ、貴殿にはその通常ならざる信条で断るのならばそれを話す義務があった。武家の倣いに恋の自由はない。それ故に源氏物語などが流行る。まぁあれも自由ではないが……今よりは自由であろうから。それでもその慣習を振り切って言った者に対し、あまりに不義理ではないかと思うがいかに。貴殿のやったのは説明ではなく、逃亡ではないか」

 

「私は、確かに逃げていたのかもしれない。知らないからと、経験なぞ無いからと、目を背け続けていたのか……」

 

「かつて貴殿は河越に来たばかりの某に酒を投げつけた。それ故に我ら夫婦は今でも普通に暮らし、子も授かった。その恩を返す時と心得ている」

 

「頼重……」

 

 宗教家は弁が立つ。それに妻帯者の話だけあって、納得は出来た。

 

「私は間違っていたな。周りにいなかったからなんだというのだ。武士の生まれでないからなんだというのだ。そんなもので、傷つけて良いはずがないと言うのに!」

 

「まぁそう難しく考えぬことでしょうな。己の為したいことを為せばよろしい。貴殿には、己の望みで動いてもどうにか出来る力があるのですから」

 

 長親が笑いながら言う。覚悟を決めるしかないだろう。私は現代人ではない。私はこの時代に生きると決めた。この時代の人間だ。ここで、生きていくんだ。ならば、私のするべきことは過去のアイデンティティにしがみつくことではない。この時代で生きるために必要な最後の一欠片が埋まった気がした。

 

「ありがとう。私はこれでやっと……。そして済まないが行くべきところがある。適当にお開きにしておいてくれ!」

 

「まぁ、これで一件落着か?」

 

「氏政様の要求は一応満たした、はずだ。これでなんとか生き延びれるか?」

 

「いやしかし執権様ではなく綱成殿の方になっているぞ」

 

「…………あ」

 

 何か後ろで言っている気がしたが、構っている暇はなかった。夜の城の中を走る。今この時間ならば、どこにいるかは何となく分かる。もし、いつも通り彼女が動いているのならば、馬場にいるはずだ。あの広い空間で、一人で鍛練しているだろう。それが剣聖に敗れた後の、そして勝利した後でも続けているいつもの行動だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 走るのは得意なつもりだが、どうしてか今日は足がもつれる。月明かりがこちらを照らす。刀も何もない、身一つで走っていた。そして私の求める姿は今日もそこにいた。彼女は強い。あんなことがあった後でも己に課していることをやめたりはしなかった。

 

「綱成!」

 

「……どうされたんですか、こんな夜更けに。今更何か?傷心なので一人にさせてください」

 

 私の声に気付いても、彼女は振り返らずに冷たく言った。それでも声が少し震えている。持っている槍を握りしめる力がきつくなったように見えた。左手は片側に結ばれたロングサイドテールを触っている。緊張したりした時の彼女の癖だった。ここで退き返してはいけない。そう私の中の勘が叫んでいる。

 

 静止の声を振り切って近付き、こちらを振り向かせる。月光に反射して、涙が光った。槍がカランと音を立てて地面に落ちる。

 

「せん、ぱい?」

 

「すまなかった」

 

「……」

 

「許してくれとは言わない。私が行った行為は最低だった。しかも諭されないとそれに気付かないという最悪さ。失望されても、嫌われても仕方ないだろう。だが、私のやったことを、せめて謝らせて欲しかった。私のくだらない臆病さと捨てきれなかった懐古のせいで、涙を流させて良いはずがない。お前の勇気を踏みにじったのだから、殴られても文句は言えないな」

 

「それでも、お前の気持ちを受け入れるとは言って下さらないのですね」

 

「それは出来ない」

 

「だったら!」

 

「今は、な」

 

「え?」

 

「今の北条家は急拡大の過渡期だ。だから誰もが必死になって働いてもなかなか仕事はなくならない。まだ外敵も多く、やるべき課題が残っている。だから、今婚姻したら貴重な戦力が動けなくなるかもしれない。それが敗因だとなれば、色恋で滅んだと後世から永久に笑いものだろう。だが、十年だ。十年以内に必ず関東静謐は成る。そうすれば、もっと安定するだろう。それまでは……約束だけで我慢して欲しい。そして時が来て、まだ私への想いが残っているのなら、その時は隣にいて欲しい」

 

「義姉上や従姉殿と一緒にですか?」

 

「……そう、かもしれないな」

 

「最低ですね。許嫁になってくれと頼んでおきながら他の女の名前を出すなんて」

 

 何も言い返せなかった。それでも彼女は涙を拭って、私の顔を見上げ、私の腕を掴んだ。強引に顔が引き寄せられ、そして軽く唇が触れた。目を白黒させている私を他所に、彼女はペロリと唇を舐める。年下の後輩の妖艶な仕草に思わず唾を飲み込んだ。戸惑う私に小さく笑い、腕の中に飛び込んでくる。

 

「義姉上たちの後の三番目でも良いです。一抜けでしょうから。今はこれで我慢してあげます」

 

 抱き付きながら、彼女はそう言った。突然の行動に驚いたが、求められるままに頭を撫でる。

 

「私の初めての接吻を奪ったんです。約束、お忘れにならないでくださいね。セ・ン・パ・イ?」

 

「あ、ああ、勿論」

 

 私は小悪魔を開花させてしまったのかもしれないと思いながら、頷くしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの晩から数えて、別れの日はすぐだった。これまた多くの群衆と兵に見送られながら彼女とその供回りは街の外まで来ていた。見送るのは私や兼成、胤治、朝定、政景、段蔵などと言ったメンバー。勿論頼重や長親、よくともに鍛練をしていた甲斐姫も来ている。新たにやって来た信濃衆や左近も。

 

「それでは皆様、今までお世話になりました」

 

「今度は領主として、頑張りなさい。わたくしたちも、応援していますし、何かあれば微力ながらお手伝いしますもの」

 

「はい。精一杯務めて参ります。左近殿、私のいなくなった後の河越軍を頼みました。胤治さんの推挙した貴女が一番私の後任に向いているでしょう」

 

「名高き地黄八幡様にそのようなお言葉を賜る事、恐悦至極!御身の代わりとなれるよう、努めます」

 

「頼みました」

 

「はっ!」

 

 朝定もよく稽古をつけて貰っていたし、政景も第一印象のお互いに良くない河越衆の中では特に偏見もなく接してくれていた綱成に感謝しているようでやや涙ぐんでいる。信濃衆はご挨拶をという目的で来ている。

 

「皆々様、お達者で。またお会いしましょう。先輩も、約束お忘れなく」

 

 唇に指を当てて、微笑みながら言うと馬に飛び乗って、彼女たちは駆けて行った。その影が見えなくなるまで見送る。これまでかなり長い時間同じ城にいた。これから少し寂しくなるだろう。元気よく慕ってくれる姿に助けられたことも多かった。

 

 皆が城へと戻っていくが、付き合いの最も長い私と兼成だけは最後まで残っていた。

 

「寂しくなりますわね」

 

「ああ」

 

「良い子でしたから。真面目で思いつめやすいところはありますけれど、それでもひたむきで」

 

「本当に」

 

「……それはそうと、()()とは何でしょうか?ゆっくりお聞かせ下さいますわね?」

 

「…………はい」

 

 目がまったく笑っていない笑顔を向ける兼成に対し、この後どうするべきか頭を抱えた。




恋愛描写は苦手です(二回目)。それはそうとGWスペシャル(のつもり)です。なんとか間に合ってよかった。


この作品も長いもので、書いているときに連載開始から一年半近く経ちました。なのでではないですが、制作秘話など書いていこうと思います。興味がない方は読み飛ばして頂いて結構です。

①兼音誕生

元々『織田信奈の野望』の二次創作を書こうと思ったのは原作を持っていたから、ただそれだけでした。戦国には造詣が深い方と思っていたので、原作よりもリアルな戦国を描ける、そしてそれが他作品との違いとなり魅力になるのではと考えたのでした。

一条兼音という人物像は割と早くから出来ていました。一条と言う名字、兼の字がまず出来上がりました。音の字は、当時(今も)連載している私の別の作品の頭文字です。高知出身で、大阪にいた高校生。弓道部で歴史に詳しいと言うのが最初期の人物像です。

そしてその後に良晴との対比を意識しました。良晴がおちゃらけているハーレム志願ですが熱い漢ならば、兼音は誠実で恋愛観は一対一を求める冷静な男になるように。学力も戦国史が強く後は普通対トップレベル。平成生まれのスマホっ子に対し昭和生まれのガラケー世代。多分公立の普通校に対し私立の名門。両親がいるのに対しいない。横浜と大阪。現代ではまったくモテないけれど恋愛願望が強いのに対しそこそこモテるし女友達も多いけれど全く興味がないなどです。

こうして兼音の人物像が出来ました。同時に両親不在の理由、正義への捉え方、どう頑張っても北条家と争う長尾景虎への思いなどが出来ていきます。ここで大体兼音の姿は固定されます。


➁北条家

北条家にした理由は幾つかあります。まず、織田家は外しました。と言うのも、王道だったからです。原作と被りますしね。金ヶ崎も信奈包囲網も余裕で突破してるのは物語的に面白くないですし。なので、織田家のいるあたりを日本の中心と考えて東か西の端っこの方にいる勢力にしようと思いました。

毛利は私が小早川さん×良晴過激派なので無しです。寝取られは解釈違い。島津も家久×良晴過激派なので同様。大友は南蛮貿易で強すぎますし、ポテンシャル高いので島津が死んでしまいそうなので止めました。あと、カトリックとは相いれない感じがしたので。そんなこんなで西は消えてしまいました。長宗我部は別に元親だけで四国統一できるので、兼音いらないなと思ってしまったのです。

伊達は私は政宗×良晴過激派なので止めました。そこまで考えて、原作キャラで私が好きなのにあんまり目立たない家があるぞと思い出したのです。それが北条家でした。氏康様は私が好きなヒロインだったのです。

北条家と言えば家族仲が良く、一族や家臣団も優秀。河越夜戦や国府台、三増峠や三国峠、小田原包囲などイベントも多く、関東平野とかいうポテンシャルの塊があります。更に、戦国重要イベントの川中島とも関われます。更に、兼音の手助けで史実や原作で未達成だった夢を叶えることも出来ます。ここで北条家が主人公で決定しました。



③初期の展開

花倉の乱から始めたのは、氏綱世代から始めたかったからです。近くに丁度いい出来事があったのでそうしました。兼成は氏康様についで最古参のヒロインで、私も早くから構想を練っていました。コンセプトは糟糠の妻ムーブをしてる義元です。また、花倉の乱を出すことで綱成や信繁とも絡めました。



④テーマ

今作には三つのテーマがあります。

Ⅰ、神との決別
Ⅱ、敗者復活戦
Ⅲ、正義とは何か

です。一つ目は景虎との戦いで、そして中世から脱却し日本という国家が人の時代へと進んでいくという中で描いています。二つ目は兼成や朝定のように歴史で敗れた者や目立たなかった者による復活戦。そして小田原戦役で敗れた北条家の復活戦でもあります。三つ目も景虎との戦いや織田家との争いの中で描かれていくでしょう。

とまぁ、景虎がかなりのキー人物になってしまっているわけです。なので越後編をメッチャ長くやったわけです。



こんなのが軽い制作秘話と言いますか、裏話です。今後も時々公開していくので、気が向いたら読んでみて下さい。


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第93話 恋とは戦なり

すんごい遅くなって申し訳ございませんでした。今回の話そのものが難産だったり、英検があったり、今まで放置していたFGOの二部六章を爆速で終わらせてたりしたらいつの間にか六月になってました。ごめんなさい……。


「…………」

 

「…………」

 

 長い沈黙だけが場を支配する。狭い室内で二人だけで向かい合っているが、重苦しい空気のせいでいつもより数割増しで部屋が狭いように思われてならなかった。何を切り出すでもなく早数十分。

 

「…………」

 

「…………」

 

 このままでは埒が明かないというか何も進展する気配が無いのは嫌でも分かった。こういう場合どうするべきか。その答えは凡そ決まっている。先に話を切り出すべきだろう。

 

「……話をしたいことがある。聞いて欲しい」

 

「……ええ、勿論」

 

「何をどう言っていいのか分からないが、結論だけ先に言う。綱成と許嫁となることになった」

 

「そうですか。それは御家の決定ですの?」

 

「いや、まだそこまで話は進んでいない」

 

「と、言う事はあの子から恋い慕っていると言われたという事ですわね?間違いございませんか?」

 

「その通りだ」

 

「ハァ~~~!まぁ前々よりあの子の仄かな恋情は存じておりましたが、もっと後かと思っておりましたわ。ここよりの別れを告げられて自覚した結果一気呵成に攻め立てたというところでしょう。流石武闘派、やると決めたら一直線ですわね」

 

「……申し訳ない」

 

「別に謝る事ではありませんわ。ま、これから頑張って下さいまし。取り敢えずご当主様以下を説得する必要がありますもの。どういった反応をされるかは分かりかねますが」

 

「はい。仰る通りです」

 

「その辺りを考えなしに約束してしまったんですものね」

 

「益々もってその通りです……」

 

 怒気は感じない。悲しみも特にないように見える。しかしその代わりにこいつをどうしてくれようかといった感情を感じる。

 

「ああ、困りましたわ~」

 

 唐突に声を上げ、よよよと泣き崩れる真似をする。白々しい演技だが、いきなりの事態に困惑してしまった。

 

「このままわたくしは独り者のまま寂しく後ろ盾もなく世を儚みながら我が子を愛することも出来ずに死んでしまうのですね~」

 

「あの、えっと……」

 

「けれど並大抵の殿方に嫁ぐのはわたくしに流れる今川の血が許しませんわ。それこそ素晴らしい殿方でなくては。具体的には武蔵の国の城持ちで国衆からも朋輩からも信望熱く、戦略戦術治世に長け背丈がわたくしより上で歳は同じくらい、炎の城から救い出してくださるような勇気と優しさのある方が良いですわね~。どこかにそんな方はいらっしゃらないかしら。求婚されたのならば、わたくしすぐお受けしますのに~」

 

 こちらの両手を掴みながら目を絶対に逸らせない位置まで顔を近づけながら言うのは止めて欲しい。言っていることも「それに該当する人物はお前だよ~」と隠す気もなく告げている。顔に甘い吐息がかかる。トパーズ色の目が私を捉えて離さない。逸らせないのではなく私が自分の意思で目を逸らそうとしていないのかもしれない。

 

 長い事共にいた。出会ったのは氏康様の方が先だが過ごしてきた時間と密度は負けていない。一年以上同じ屋根の下で、隣に寝ていた。両親以外の誰かとあんなに長い時間生活を共にしたのは彼女が初めてだった。もしあのまま下級武士として過ごすのならば二人だけで今もあそこにいたかもしれない。そんな未来に、一瞬だけ心惹かれた自分もいた。楽しい事ばかりではなかった時に、二人で逃げ出して堺とかで暮らせたらと思ったこともある。

 

 大事なものはいつ壊れてしまうか、失ってしまうか分からない。私はそれを良く知っている。だから怖がって、恐れていたのだ。想いを告げて、その後に愛した人が失われるのを。だが今は分かる。言わないで失った方がもっと後悔するだろうと。今までならいざ知らず、今の私には、彼女の求めていることが分かった。その上でこれは私が言わなくてはいけない事だ。もう覚悟は決めたのだから。

 

「私と、結婚してください」

 

「はい、喜んで」

 

 食い気味に彼女は答えた。にっこりといい笑顔で笑っている。

 

「これでわたくしの勝ちですわ」

 

「勝ち?」

 

「ええ。大事なのは想いを告げた順番ではありませんもの。あの子は自分から最初に言った。勿論最後は貴方様が仰ったのでしょうけれど、それでも最初はあの子の方から言いましたわ。一方のわたくしは貴方様が最初から想いを告げて下さいました。なので、わたくしの勝ちです」

 

 つまり告った向こうよりも告らせた自分が勝利と言いたいらしい。私にはよくわからないが、彼女たちの中には何かそういう序列があるのかもしれない。それは絶対に触れてはいけないところである気がした。君子危うきに近寄らずである。

 

「という屁理屈をこねましたが、先を越されたのは口惜しいですわね。でも、常に隣にいるのはわたくし。この時点で既にある種の決着がついているようなもの。あの子が逸るのも無理はありませんか」

 

「そういうものか?」

 

「そういうものです。虎視眈々と側で狙っている女がいる以上、一番最初という優位性を得るしか残されておりませんもの。それはさておき……これでやっと望み続けていた位置になりましたわ。これからもどうぞよしなに。北条家の方々への説得、二人分になってしまいましたが、これまでわたくし達の想いを無視し続けた報いと思って頂きたく」

 

「あ、ああ……分かった」

 

「さて、大分時間を使ってしまいましたので早く戻りませんと……」

 

 別に我々も暇人ではない。こうしている間にも仕事が溜まっていく。急いで戻る必要があった。襖に手をかけ出ていこうとする彼女が急に何かを思い出したように振り向いた。

 

「もし、氏康様にも綱成にも出来ない甘い夜をお望みならば……いつでもお待ちしておりますわ。旦那様」

 

 そう言ってウインクすると微笑みながら出ていった。心臓の音が鳴りやまない。唾を飲み込んだ瞬間、廊下の方から「あぁぁ!わたくしは何という恥ずかしい事を……!」という声が聞こえてきたので、少しは動悸が収まった。意識しないようにしてきたが、結婚するという事は当然()()()()()もセットでくっ付いてくるわけで。余計なことを考えると仕事にならなそうなので、急いで頭の中から不純な考えを追い出した。

 

 だが同時に考える。そもそも私に人の親になる資格はあるのだろうか。親になれるのだろうか。もし仮に恋愛の末に結ばれてたとしても、それだけを考えていればいい訳ではない。その先、命を繋いでいくことを踏まえての結婚なのがこの世界の常識だ。また別の問題が浮上してきた事に頭が痛くなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「聞いたわよ!」

 

 うるさい声が頭に響く。襖を開け放ち、政景が飛び込んできた。

 

「なんだ、騒々しい。やるべきことは終わったのか?」

 

「そんな事よりも大事な事よ!このままだとマズいわよ!」

 

「なにがだ。落ち着いて話せ」

 

「いいこと?兄貴は婚約してしまった、そうよね?氏康様のあれこれを全部無視した末にそうしたのよね?そうなると御家の危機よ!」

 

「氏康様のあれこれって……いや、まず何でお前がその辺の話を知っている」

 

「は?もしかして露見してないとでも思ってたの?北条家中にいる女の子の間じゃ有名な話よ、『一条土佐守嫁取りせざるは禁じられし恋の道故也』って」

 

「…………え?」

 

 突然の情報に混乱が生じる。そんな家中全部に知れ渡る規模だったことに困惑を隠せない。

 

「私も最近知ったのだけれどね。捉え方はそれぞれみたいよ。応援する者、嘲笑う者、憤慨する者、見守る者……。けれど取り敢えず氏康様と相思相愛なのはある程度は露見してるの。その上に女の子の気持ちがわからないクソ兄貴がのこのこ行って『婚約したいです』って言ったらどうなると思うわけ?普通の者はどうでも良いのよ、『ああ、諦めたのか?』って思うだけだし。問題は氏康様。そしてその妹様方よ」

 

「面子が潰れたという事か……。その上にお気持ちを踏みにじったと捉えられ、妹様方にも敵対視されると」

 

「そういう事よ」

 

 やっと分かったわけ?とふんぞり返りながらドヤ顔の義妹。彼女の言っていることはおおよそ真実だろうと思えた。同時に血の気が引けてくる。まず氏康様は怖い。怒ると本当に怖いタイプの人だ。次いで氏政様。ああいう一番優しそうな手合いが一番ヤバい。氏照様もそっちのタイプだろう。氏邦様なんかは怖くは無いが面倒なことになりそうだし、為昌様は何考えてるのか分からないところもあるし。終わったかもしれない。

 

「現状を認識した?じゃ、この私がお困りの義兄様のためにとっておきの策を授けましょう!」

 

「策?いらんわそんなの。下手な考え休むに似たり、だ。お前の献策が役に立つと?そもそもお前の献策なのか、それ。胤治辺りが考えたものじゃないだろうな」

 

「恋愛面にどうしようもないほど弱い癖になにか良い事が思いつくわけ?黙って聞いてちょうだいよ。一応私一人で考えたのよ!そもそも気付いてなかった問題を気付かせたのは私じゃない!それに……こういう方面なら少しは役に立てるかなって……」

 

 少ししょんぼりしている顔の彼女に言い過ぎたと反省する。彼女は彼女なりに私のことを考えて色々思考をめぐらせてくれたのだろう。多くの事が短期間に起きて疲れていたとしても話も聞かずに否定したのは悪い事をしてしまった。

 

「すまなかった。話も聞かず否定するなど君主を名乗るには百年早いな……」

 

「分かればいいのよ、分かれば。それじゃあ話すわよ。まずは氏照様を訪ねる事ね」

 

「氏照様?氏康様ご本人や氏政様ではなくか?」

 

「そうよ。まずは氏照様に仲介を頼むの。氏康様も氏政様も当事者に近すぎる。氏邦様は頼りにならないし、氏照様の調整力に頼る方が一番だから。それに、氏照様が一番関係ないところにいらっしゃるの。仲介を了承されたらまず事前に姉妹間で話を通して貰ってその後に氏康様に告げれば良いわ!これでひとまずは解決よ」

 

 間にワンテンポ挟むのは折衝の際にはよく使う方法でもある。氏照様とはそんなに関わりが濃い訳ではないがお願いすれば無視はされないだろう。人心掌握術が達人級でどこまで演技か分からない方なので不安はあるが、今はそうするしかないのかもしれない。感情面が大きく影響する恋愛に関する諸々のスキルが足りないので、政景の案が一番良いように思えた。

 

「なるほど、これで万事解決な訳だ」

 

「いや、違うわよ。本当にこっち方面はダメダメね。やっぱりクソ兄貴よ。これで終わりだと氏康様が放置されたままになってしまうでしょ?女心分かってないわね。婚約の話の後に二人だけでキチンと話すのよ。下げてから上げれば問題ないわ」

 

「そ、そうか……言われてみればその通りだ。どこでこんな知識を身につけた?」

 

「私は元々特にすることも無い第三子。だから暇つぶしに恋物語だけなら腐るほど読んだわけ。少なくともいろはもわからないまま迷走してるこの城の面々よりマシよ」

 

「もう少しその思考力と記憶力を学問に回してくれると助かるのだけれどな」

 

「うっさいわね!分かった?主だと思ってるからダメなのよ。相手を敵将だと思いなさいな。恋は戦よ。政略駆け引きと同じ。敵将調略には何が必要か、口を酸っぱくしてあんたが言ってることでしょ」

 

「求めるものを、与えよ。しかし与え過ぎてもいけない、という事か」

 

「その通りよ」

 

 教えてることを応用するのはキチンと出来ているのだが如何せん分野が分野だけに素直に喜べない。だが、これはこれで成長なのだろうと強引に思う事にした。

 

「ま、精々頑張ってよね。上手くすれば私は先代当主の義妹よ。遠山家大勝利ね」

 

 それだけ言うと嵐のように去って行ってしまった。最近ではよく街をうろついているらしい。河越はかなり治安が良いのでまぁそれ自体は問題ではないのだが、ちょくちょく面倒な学問をサボって逃げていることもある。しかし、妙に知恵が周りはじめ、世情視察などと言うようになった。彼女は彼女なりに色々模索しているのだと信じよう。

 

 少し癪だが、言っていることは正しかった。敵将を調略するのと同じ、か。それなら少しは上手く立ち回れそうな気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 滝山城と河越城は意外と近い。近いと言っても30キロほどはあるのだが、それくらいは馬にしてみれば軽い運動で一時間ほどあれば到着する。なので、この二つの城はかなり密接に連携を取る事もあった。この時代、他所の領主の土地は完全に異世界状態な事が多いが、人の移動を推奨している北条領は意外と移動も簡単だった。

 

 滝山の主・北条氏照は今日も今日とて愛想を振りまきつつ真面目に職務を全うしていたのだが、急な来客がやって来た。河越の主・一条土佐守兼音。普段は事前に申し入れをしてから来るのでやや面食らった氏照だったが、用もなく来るはずも無いかと思い、何事かあったと面会を了承した。思ったよりも堂々とした面構えであることから、何か吹っ切れたように見えた。

 

「唐突に押しかけてしまい誠に申し訳ございません」

 

「ううん、気にしないで構わないよ。それで~どうしたのかな?」

 

「誠にお恥ずかしい話でございますが、恥を忍んでお頼み申し上げたき仕儀がございまして」

 

 兼音の口から歯切れ悪く語られたのは完全に私事。それ自体は別に構わないのだが、全く進展する兆しの無かった恋愛面と聞き、さしもの氏照も興味津々だった。彼女も恋バナの好きなお年頃である。遂にヘタレ同士がやらかしたか、河越に姉が泊まった時に一線超えてしまったのでどうにか家中を説得して欲しいというお願いかと思い、それならば協力もやぶさかでもないとワクワクしていた彼女は数分後能面のような顔をしていた。

 

 許嫁が二人。一人はまぁ良い。もう片方が綱成。よりにもよって姉上の義妹かぁと頭を抱えたくなっている。確かにこれは北条家姉妹会議の開催を必要とする事案だ。評定に降ろす議案ではない。その為説得を頼もうというのが彼の目的であることは理解した。

 

 さて、どうしたものか、と彼女は思案する。許嫁の件は失点一。姉に対して未だに何もしてないのも失点一。でも自分を頼ってきたのは加点。やっと前に進み始めたのも加点。さてさて天秤をどちらに傾けるか。それが問題だった。目の前で平伏している男も悩みぬいた結果なのだろう。適度に揶揄ってその反応次第にしようと決めた。

 

「どうしようかなぁ~」

 

「どうかお願いしたく思います」

 

「やるのは構わないし、実際にやって成功させられる自信は大いにあるけれど、それをして私に何か利はあるの?」

 

「無論、お望みのことがあらば出来る限りのことをしたく存じます」

 

「へぇ……安請け合いは危険だよ?でも良いね、そういうのは嫌いじゃない。でも驚いた。やっと自分の立場を客観的にみられるようになったんだね」

 

「客観的、と申されますと?」

 

「あれ?違ったの。あのねぇ~うーんこれ言っていいのかなぁ……」

 

 一条兼音の婚姻拒否は正直我が儘以外の何物でもなかった。それが許されていたのも、圧倒的な功績に裏付けされてのことが多い。しかし、家中ではしっかりと所帯を持たせることを勧める声も大きかった。家族を作り、此の地に留まる理由を作る事で北条家に縛ることができる。そう主張する声を無視する事など出来ない。むしろ、彼らの方が正論を述べているのだから。

 

 姉・氏康が煮え切らない態度なのを見たそういう一派は氏照や氏時と言った政争に長けた存在に意見を具申していた。別に進言している彼らも兼音のことが嫌いなので嫌がらせをしたい訳ではない。むしろ、彼自身と北条家の家のことを考えての行動だった。氏照は当然姉と兼音の仲を知っているのでのらりくらりとかわしてきたが、正直言って面倒なので早くどうにかして欲しいとは思っていた。

 

「子を成し名将に育てるべく努力するのは武者の義務みたいなものなんだよね。例えばそれが上手く行けばあの誰々の子って言う事で色々恩恵があるんだよ。それは分かるでしょ?」

 

「無論でございます」

 

「今里見も佐竹もなかなか動けない状況にある。それはね、勿論佐竹とは直接接していないし里見とは停戦中なのもある。けれどそれだけじゃない。あなたが抑止力になっている。下野も常陸も房総も、攻め込めば一条土佐守を相手にする羽目になるかもしれない。そうなれば最悪の場合興国寺の今川のようになりかねない。それが大きな大きな抑止力になって軽率な軍事行動を思いとどまらせてるの。武田も賢い選択をしたよ。晴信はあなたを敵にするより味方にすることを選んだ。そして援軍として呼び寄せて、その技を盗む」

 

「技を……なるほど」

 

「さては自分の存在を勘定に入れて交渉してなかったね?あなた自身も立派な交渉材料であり伝家の宝刀の1つなんだよ。武田は老臣を多く失った。補填に入った姫武将たちは若く、経験も少ない。だから長尾との戦いであなたを呼び出し、若い臣下に見せようとしている。あなたの力を盗むために。そして今川も軽率には動けない。織田は大きな恩恵を得たし、三河もまだ燻ってる。今川にあなたが打ち込んだ大敗という名の楔は想像以上に大きなヒビを入れてる」

 

「……」

 

「そんなあなたの子ともなれば敵だって警戒するでしょう?あなたの薫陶を受けて育った名将の卵。そう思うよね。だからこそ早く結婚して欲しかった。でもあなたは恋を貫こうとした。……止めたみたいだけど」

 

「止めたわけではありません。その想いは今も、確かにございます」

 

「うわ~それ最低なこと言ってる自覚ある?姉上に殺されるよ~」

 

「お言葉ながら、恋慕い来る者を無下にすることは私には出来ませんでした。私の下らぬ信条に従って傷つける事など、あってはならない事でありました。それ故、後ろ指を指されようと、私はこの三つの恋情を抱き続ける所存でございます」

 

「多分、色んな子を泣かせるよ?」

 

「泣かせた数倍、幸せにしてみせればよろしいのでしょう?」

 

 挑戦的な瞳で彼は言う。うだうだ悩んでいた頃の有り様とは大分違うと氏照は思った。なるほど、覚悟を決めた者は男女に関係なくいつの時代も強いもの。私に余計な手間暇をかけさせることへの罪悪感ではなく彼自身の覚悟をしっかりと出してきた姿に、氏照の中の天秤がしっかりと傾いた。

 

 なるほど、泣かせた数倍幸せにか。女泣かせ、ただ、それでも貫くなら好きにすればいいんじゃない?そう思ったのだ。

 

「合格。良いよ。仲介役引き受けてあげる」

 

「ありがたき幸せ」

 

「でも1つだけ約束して。必ず姉上を幸せにする。勿論、他の子も。守れる?」

 

「必ずや」

 

「よろしい!会話の中で大正解な選択肢を選び続けたね。流石だよ~。でも、やっぱり見返りは欲しいから~買ってきて欲しいものがあるんだけど大丈夫?」

 

「何でございましょうか」

 

「南蛮のガラスの品。出来るだけ可愛いのをお願いね?」

 

「……畏まりました。なるべくお早めに用立ていたします」

 

 何度も頭を下げお礼を言ってから帰っていく兼音の背中を見送りながら、引き受けたことの重大さを感じていた。これを失敗すると最悪北条家は空中分解しかねない。とは言え、氏照にはそうならないようにする自信があった。すべては古河で行われる評定で決定する。この評定は一門・三家老・五色備え・その他必要と当主が判断した重臣だけしか参加できないものだ。

 

 根回しするならばそれまでのわずかな期間。姉妹の顔を思い浮かべた氏照は、まず氏政と氏邦を落とすことにした。次点で氏規、叔父の氏時だ。色ごとに興味のないはずの為昌は後回し、恋愛ごとをあまり好いていない氏尭も後回しだ。まずはやりやすいところから地盤を固めて行こう、というのが判断だった。

 

 重臣ならば松田にも少し働きかけておくべきだろうと書状を書き始める。松田盛秀は運の良い事に自身の補佐役。説得は出来る算段だった。一条政景の助言はまさに大正解。人一倍コミュニケーション能力に長けた氏照は、兼音の心強い味方になっていた。

 

 それは全て、愛する姉のために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、その氏照の働きかける先になった相模松田氏は藤原公光の時に相模守となり相模国秦野に土着した古い家柄である。丹波の名族、波多野氏と同族であることからもその古さがうかがえるだろう。19代目の義常が松田郷に住み、その子有常が松田を称して松田次郎と名乗り、松田氏の始祖となった。

 

 松田義常は石橋山の戦いでは大庭景親と共に頼朝軍を破り、頼朝の鎌倉入りの際にも一族と共に松田城に籠り抗戦をしたが、頼朝に追われ自害をした。義常の嫡男松田有常はこの時、大庭景義の懐島の屋敷にいて難を逃れることとなる。大庭景義は頼朝の父義朝の重臣で、鎌倉幕府の長老であった。松田有常は大庭景義の外甥であったことが功を奏し、後に大庭景義は松田有常を伴って頼朝の元に参上して許され、後に松田郷を与えらる。

 

 鎌倉時代の終わり、新田義貞が鎌倉幕府を討つ為に武蔵国に入り分倍河原の戦いで鎌倉北条軍に敗れた後、松田一族は相模国の同志軍と共に新田義貞軍に参陣。

 

 南北朝時代に於いては南朝方に味方し、新田義貞軍に組した。新田義貞の没後、新田義興、脇屋義治軍総勢6,000騎が松田城、河村城や西丹沢の諸城に移り、これを足利尊氏自ら大軍を率いて攻め込んできたので、足柄の地は一大戦場と化した。

 

 室町時代の後半になると関東公方の足利氏が衰微しており、8代松田頼秀は京都に居住していたが、将軍の命で関東に下向。伊勢盛時(後の北条早雲)が大森藤頼を倒して小田原城に入城した時に松田頼秀が協力した。こうして北条氏の地域権力の確立に当初から協力してきた相模松田氏は北条家家臣団として御由緒家七家に列し、家老職を勤める。北条氏家臣団中最高の2798貫110文を領有し、その権勢に並ぶものは無いほどの大きさであった。1つの家で大名と同じくらいの勢力を持っていたのである。その気になればいつでも背ける彼らを御せたのは北条三代の能力と人柄によるところが大きいだろう。かつて武蔵の半分近くを管理下に置いていた兼音の河越領ですらその勢力を超えられなかったことからも、その大きさがうかがい知れる。

 

 そして現在三家老家筆頭を務める松田盛秀の居城・松田城は小田原城のすぐ北にある。だが彼もそろそろ歳である。その為、今度行われる古河での評定にて息子・憲秀を正式に当主にすることを伝えようと思っていた。

 

左衛門佐(憲秀)。お前も良き年になった。次の古河にて行われる評定にお主も出よ。そこで正式に当主の座を譲り渡す。これよりはお前がこの松田家を率いて参れ」

 

「では父上!ついに某も三家老に名を連ねられる訳でございますな!」

 

「左様。しかし、筆頭は大道寺に移る。お主はしばらく盛昌殿の下で学べ。良いな」

 

「……御言葉ながら父上。大道寺家は大身なれど我ら松田家には劣り申す。家柄も所領の大きさもいずれも松田の方が上。筆頭を譲り渡すべきいわれがござらんように思いますが」

 

 三家老筆頭という事は他家で言えば筆頭家老と同じであるという事だ。有名どころで言えば信長の筆頭家老は柴田勝家である。上杉景勝の場合、直江兼続と言えるだろう。家中にて大きな影響力を持てる事は必然的だった。場合によっては軍団の総司令官を任じられる事もある。

 

「左衛門佐、あまり逸るな。盛昌殿は興国寺河越箕輪と多くの戦いを支えてこられた。その才能明らか。しかしお主は未だそれほどの軍功武功に恵まれておらぬ。経験も足らん。堪えよ。忍従無くして栄達はあり得んぞ」

 

「ですが父上、あまり悠長にしていては新参の者に地位を奪われるやもしれませんぞ!」

 

「……土佐守殿の事か?」

 

「左様でござる!」

 

 盛秀は、はぁ……とため息を吐いた。年齢が近いからかもしれないが、どういう訳か憲秀は兼音の事をライバル視している。別にそれを元に奮起して己を高めるのならば構わないが、憲秀はあまりそういう傾向が見受けられない。若い間だけならばそれでも良いのかもしれないが……と盛秀は不安だった。

 

「家中の朋輩を敵視してどうする。共に氏康様の治世を支え合う仲ぞ。それに、厳しい事を言うようだがな、信為殿が目をかけておられる時点で勝敗は決しておるかもしれんぞ?」

 

「何を仰いますか。それも未だ某が直接指揮を執って戦場に赴いておらぬからこその評価でございましょう。なに、すぐに変わり申す」

 

「土佐守殿はお前とは違い、初めは城の雑務をやらされておった。しかし、その中でも頭角を現した。それを評価されどんどんと役職を上げていった。そして戦に出て最前線で戦い軍功を上げた。城も落としておる。奉行職でも立派に勤め上げて見せた。未だに土佐守殿のいた普請方は優秀な成果を上げておる。つまりは叩き上げの武者であり内政官である。この差は大きいぞ」

 

「は、は、は。父上もすぐにわかられるでしょう。某の方が優れておることを」

 

 そういう態度を全く取らなかったからこそ本来彼のような新参者を忌避するはずの老将がすぐに胸襟を開いたのだという事を分かっていないな……と頭の痛くなってきた盛秀だったが考えをここで改めた。どの道どこかで痛い目を見る事はほぼ確定している。ならばそうなった方が良い薬になるだろうと思ったのだ。とは言え、何も言わないと松田家自体が危うくなる可能性すらある。

 

 先ごろ自分の上役である氏照様よりの書状があったな、と盛秀は思い出した。土佐守殿もやっと男になられたかと安堵していたため、もうこの際綱成様だろうが結婚してしまえと思っている。それで万事解決するならばそれに越した事は無いだろうという心境だった。息子から見た彼の姿はともかく、実際問題兼音は優秀だった。それに逃げられては困る。一門衆と婚姻させる価値は十分にあった。松田家に年頃の姫がいれば狙ったものを、とすら思っている。その点遠山にはしてやられたりとも。

 

 取り敢えず氏照様の書状には了承の旨を返しておき、そのついでに土佐守殿にも書状を送ろう。中身は当然憲秀についての根回しだ。盛秀はそう考えた。古河の評定までは自分も参加できる。その時に残った問題を全て片付けてしまいたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 ある者は治世下での不穏要素に頭を痛めながら、ある者は己の恋路について心を躍らせながら、ある者はついに覚悟を決めることになり、不安はありつつもそれだけではなくキチンと新たな内政策を用意しながら、ある者は息子に継がせることに不安を覚えながら。十人十色の思惑を抱き、大国北条の中枢は今、関東の大動脈・古河に集まろうとしていた。




<お報せ>

先日ちょっと色々ありまして、花倉の乱に関する資料を入手した後に該当箇所の見返しをした結果、あまりの足りなさと稚拙さに顔から火が出るかと思ったので、改稿しました。大筋の展開(花倉の乱発生→兼音などが援軍→敵軍敗走→城炎上→兼成救出)は変わっていませんが、視点が増えていたりと思います。ご興味がございましたら第3~6話をご覧ください。



<制作秘話Ⅱ>

前回の制作秘話が好評だったので調子に乗って作りました。

今回はヒロインに関してです。中でも氏康様についてですね。その他の子はまた別の機会にお話ししたいと思います。


①ストーリー展開的な話

氏康様がメインヒロインなのは最初から(書き始めから)決定事項でした。これは原作と同じで、仕えた家の当主がメインヒロインという構図にしています。正直そうしない理由も特にありませんでした。信奈と良晴は合戦で命を救うという形で出会いましたが、ここでも対比を使い兼音と氏康様は静かな寺の境内にて出会ってもらう事にしました。とは言っても知的な問答を行う事で、作品の方向性とメインヒロインの人間性の一端を垣間見せられたらなという目的もありました。


②メインヒロインであるという事

よく感想欄などでも氏康様メインヒロイン取られちゃう~というお声を頂きます(笑)。確かになぁ~なんて思いながら書いているわけですが、それでもメインヒロインは氏康様なんですね。というのも、実は明確な差が他の子たちとの間にあるのです。それはまぁ最初に出会ったのもそうなんですが、それだけだと良晴のメインヒロインは義元になってしまいます。

他のヒロインと氏康様の明確な違いは、他のヒロインは意図して兼音に救われているという風になっています。ある者は死の運命から救われました(兼成・朝定)。ある者は居場所を見つけています(胤治)。そしてある者は自分らしさを手に入れました(綱成)。もう一度乱世の中で夢を見られた者もいます(段蔵)。しかし、兼音を虐殺器官と化す道から救い出せるのは氏康様だけになっています。事実、闇落ちしかけた一番危ないタイミング=北伐時の沼田合戦前では踏みとどまれました。あれが無ければ強制バットエンド『越軍帰還者無し』が発生します。その後に胤治の諫めを聞けたのもそれが理由です。もしあのシーンが無ければ、諫めを無視していました。

そして枯れていた彼に恋という感情を蘇らせたのも氏康様の力になっています。こういう理由から、彼女がメインヒロインとして揺らがない構成になっているつもりなのです。



③キャラクター設定

氏康様のキャラ自体の大本は原作と同じです。兼音がいなければ引きこもり陰謀大好き胃痛娘と化していた可能性が高いでしょう。とは言え、ギャグテイストの強かった原作に比べ、大分強化が入っているのは事実ですが。それは作品全体に言えるかもしれませんね。織田家や武田家なんかも描写している家臣が増えている分、原作より強くなっています。

その結果、クールな知的系キャラになりました。なお胸は……。どちゃくそ美人なのは原作譲りです。信奈との対比を意識しているため、割と政策だったり行動も反対だったりします。なので、割と我慢強く、懐も広めです。多少は側室も許してくれるでしょう。まぁ兼音のせいで大分改革的になってはいます。また、人の時代を切り開き、関東に安寧をもたらすという要素をより際立たせています。これは中世の終わりを告げる東の鐘の役割を担ってもらうためです。その辺の要素は今後本編が進む中で確認して頂けたらなと。

こんな感じでまたしても裏話でした。また次回もあるかもしれないので乞うご期待。



次回の話もすぐに公開出来るように頑張りますので、今回の大幅遅延はどうかお許しください。何でもしますから!


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第94話 古河にて・前

なんか、予想外に伸びてしまいました。

あとがきにちょっと作者の昨今の情勢を受けての想いが書いてあります。ご興味ない方、苦手な方は読まない事をお勧めします。ですが、少しでもご興味を抱いて頂けましたら読んでいただけると幸いです。


 古河城。現代においては足利の拠点であったことで知られ、江戸時代には将軍の宿所があり、江戸防衛の担った一角である。この関東における経済の大動脈の中心地に今、関東の運命を左右できる者たちが集まろうとしていた。

 

 関東を統べる大大名、北条家。その当主と一族は勿論の事、配下の中でもえりすぐりの者だけがここに集まる資格を得ていた。外様も身代の大きくない者も参加可能な大評定ではない。もっと少人数で行われる大国の最高意思決定機関なのである。登場人物が多くなったので、改めてそのメンバーを紹介しておこう。

 

 まずは三家老筆頭・松田盛秀。北条家随一の大身にして、家臣の中でも一際高い地位を保持する実力者である。相模の重鎮にして、北条氏照の補佐役を務めている。保守派的思想の持ち主であり対越和平の道を探している面もあるが、強硬派の兼音が主流であることも理解している。今回は息子・憲秀を連れて参加した。北条家の地盤の最も強固なところを守る役目を担っているため、その責務は重い。

 

 続いて三家老二番手。まもなく引退する盛秀の後を継ぎ、三家老筆頭となる大道寺盛昌。氏康を古くから支え続けた旧臣である。早雲伊豆入りの際の御由緒六家であり、その家柄は古い。温厚篤実な文官肌であり、補給線を担う事も多く内政面での活躍が目立つ。史実では河越にいた大道寺家だが、現在は上野にて影響力を拡大させている最中である。対越の要である上州を任せられていることにその能力への信頼がうかがえる。

 

 三家老最後は遠山綱景。江戸城代と葛西城主を兼任する武闘派である。三家老では随一の武闘派であるが、連歌の会を主宰するなど教養にも優れている人物である。一条家に義妹としてやって来た政景の父親であり、先を見越して兼音と縁を結んでおくなど政治面でも優れた能力を発揮している。また、娘婿の太田康資を監視する役目も担っており、同時に対里見戦線の抑えでもある。

 

 三家老の次に来るのは五色備え。五色備えは五行思想に基づいたものであり四天王などが多い他家と比べてかなり特殊と言えるだろう。立ち位置的には五家老と言ってもいいかもしれない。

 

 筆頭格は赤備え・北条綱高。父・高橋高種が早雲の養女を嫁にしており、その子である。その為、外祖父が早雲という血筋になり、北条姓と一門衆の位を与えられている。とは言え、実際に血のつながった一門では無いため、本人は今の地位に甘んじているようだ。現在は玉縄におり、対里見の海上における備えを担っている。寡黙な武人であり、扇谷上杉家との戦いでは多くの功を上げた。龍雲斎と名乗っているが、綱高の方が通りが良い。また、海上政策においては小型船舶の量産による里見水軍の圧迫を唱えており、大型外洋航行艦艇による貿易拡大を謳う兼音とは思想を異にしている。とは言え、仲は悪くない。

 

 次点は北条綱成。言わずと知れた地黄八幡である。長らく河越にいたが、一悶着の末に現在は杉山城主。駿河福島家の出であるが、氏綱に見込まれて養子となった。綱高を見出したのも氏綱であることから、今の氏康体制に亡き氏綱が残した功績は大きい。武勇は北条随一であり、弓も兼音が焦りを覚えるくらいには上手い。槍の名手であり、それで剣聖に打ち勝った実績は関東中に流布されている。内政能力は河越でみっちり鍛えられているため、今は杉山領でそれを実行中。

 

 三席にいるのは笠原信為。本来は笠原康勝が担うはずだったが、まだ父親である信為が存命のため、こうなっている。席次は高くないものの、早雲時代から残る数少ない宿老にして、文武両道で知られる実力者。三家老であろうとも彼の影響力、発言を無視できないのがその凄まじさを物語っている。元祖一条兼音とも言うべき人物で、兼音がいつも恐縮している相手でもある。彼の才能を見抜き、家中に喧伝したのが信為なので、当たり前と言えば当たり前の事なのだが、逆に言えば、信為の発言で兼音出世の足掛かりができるくらいには影響力があるという証左でもあるだろう。

 

 第四席は多米元忠。評定の開催地・古河の主を務める真面目な武人である。ここの第四席を兼音とどちらが座るかで壮絶な譲り合いをした結果、譜代かつ御由緒六家であることを理由に元忠が座った。彼女自身は功績の差からあまり納得はしていない模様。ある種の万能性を持っており、命じれば大体のことはそれなりの成果を出してくる便利な存在。臨機応変が得意で、他人から学ぶ姿勢は家中随一であると言えよう。器用貧乏にならないのはその努力の賜物。兼音が来るまでは家中一番の出世頭と期待されていた。その評価を兼音にとられても怒らない辺りが人徳だろう。

 

 そして末席は我らが一条兼音である。この中で唯一の純粋な外様でもある。これは功績だけでなく、外様でも出世の機会はあるという事を示すために配置されているという側面もあった。とは言え、その配置理由の9割が功績であることがその有能性を物語っている。女性関係に悩まされてはいるが、元々対人スキルは高いので、覚醒した今はそれを活かして立ち回っていた。今回は雇い入れた島左近を護衛役にして古河へ連れてきている。普段の気さくな主から威風堂々、英雄然とした佇まいになっていることにやや驚いたとは左近の弁。また多くの施策を持って来た。

 

 その他にも兼音に席を奪われたものの本人はそれを知るよしのない富永直勝、水軍の指揮官である梶原景宗、同じく伊豆水軍の指揮官でもある清水康英、鉄砲に詳しい大藤信基の4人が特例で参加している。

 

 

 

 

 

 

 

 さて、古河に威風堂々大船団を率いてやって来た兼音の最初の仕事は挨拶回りであった。特に水軍関係で根回しが必要な北条綱高、梶原景宗、清水康英にはしっかりと挨拶をし、主義主張をすり合わせる必要があった。

 

 このうち、商人集団の元締めでもある景宗は大型船舶による大量貿易、外洋航行による南蛮・琉球への商売圏拡大を説明しているので既に納得している。清水康英に関してもかつての興国寺での共闘経験が生きてきており、大型艦の建造には賛成してくれていた。そして最後に残ったのが北条綱高である。彼は小型船舶の大量生産によって内海である東京湾や相模湾で里見水軍と激突することを考えている。その為、大型艦は内海向きではないとし、反対姿勢を取っている。その説得に赴く必要があったのだ。

 

治部少輔(綱高)様におかれましては益々ご壮健のこと、お慶び申し上げます」

 

「うむ」

 

 元々口数の少ない武将である綱高は多くを語らない。とは言え、(恋愛を除けば)人心を読むのに長けている兼音からすれば特に付き合いにくい相手でもなかった。

 

「玉縄の御様子はいかがにございますか」

 

「里見との停戦以後、変わりなく発展しておる」

 

「そうでございますか。それは良かった。玉縄は北条の領地内でも別格に重要な地。海上交易の要衝。鎌倉も近き地でございますれば。私も一度は訪れたいものでございます」

 

「今度、参られると良かろう。……奥方も伴ってな」

 

「これはお耳が早い」

 

「氏照様の手回しが早いの間違いだ。儂は一門でも外様。それ故とやかく言う事は無い。が、ご当主様を導くよう先代より仰せつかっている。お主の振る舞いによってご不幸になることがあれば、容赦せぬと心得よ」

 

「肝に銘じておりまする」

 

「ふむ、ならば好きにせい。時代は変わり行く。先代様の死とお主の台頭。老人の居場所はもうすぐ無くなるであろうな」

 

「そのような事はございますまい。先の大戦にても、大きな活躍をなさっておいででありました」

 

 いつになく口数の多い綱高に兼音はどうも少し感傷的になっておられるようだ、と分析していた。とは言え、此処までは世間話。本題はこれからである。

 

「で、本題は何であるか。凡そ、船の事であろうが」

 

「左様でございます。治部様と私の考えでは些か相違があるように思えましたので、心の内、今ここで先んじてお話申し上げる事が評定を円滑にするための良策とした次第にございます」

 

「お主の思想は知っておる。外洋艦であったか。あれで以て南蛮と渡り合う、であったな」

 

「その通りにございます。日ノ本はもはや世界から切り離された島国ではいられませぬ。こうしている間にも諸外国の手は西域に伸びておりましょう。それ故、我らは今まで日ノ本と関わりのあるイスパニアやポルトガルではなく、イングランドを選ぶ必要があったのです。琉球、明、天竺……そこの品々は多くの富をもたらしましょう。そして治部様の年明けにご覧になられたイングランドの大船。あそこに大量に積まれていた大砲。あれでもってすれば如何なる敵も粉砕出来ましょうぞ」

 

「富、か。備前守(梶原景宗)が喜びそうな言葉よ。しかし、我らの敵は里見だ。外洋の者たちではない。それを忘れてはおらぬな?長尾も今川も武田も我らを取り囲む者たち。それ故に気を配るのは当然。されど、最も気を割くべきは里見と佐竹ぞ」

 

「それは重々承知の事。それ故、何も小型船を無くせ、と申し上げる訳ではございません。大艦は内海では動きにくい、そうでございますね」

 

「然り。かの元寇においても鎌倉武士は夜闇の中蒙古の大船を小舟にて奇襲し、翻弄したと聞く。さればこそ、必要なのだ」

 

「流石でございます。で、あれば我が策もご理解いただけるかと」

 

 兼音の策とは従来の小舟での戦闘を変革するものである。大艦による砲撃で敵の前衛をくじき、その間隙を縫って小舟で突貫し従来の戦闘に持ち込む。海流が複雑である内海での戦闘故、敏捷さが問われることは重々分かっていた。これは帝国海軍の水雷戦隊に近い思想を元に作成された作戦である。同時に、未来において織田家が建造する可能性の高い鉄甲船への対策も兼ねていた。鉄甲船よりも大型の艦船を作る事によって火力で圧倒。撃破する目的である。

 

 これを説明された綱高は唸った。戦列艦による一斉射撃で砲撃するという思想がこの当時の日本には存在していない。海軍ドクトリンが変わろうとしていた。更に、陸上を砲撃することによる海辺の攻城戦支援も期待できる。しばしの沈黙の後、綱高は口を開く。

 

「良いだろう。我ら両名の思惑は共存できるのだな」

 

「はい。相対するようでありながら、その実両立可能にございます。その時の突貫における栄誉は今まで通り、相模・伊豆の水軍衆に任せられるでしょう」

 

「であれば当方異存なし」

 

「ありがとうございます。御身は北条水軍の要。そのご納得頂かぬうちに策を押し通すことは出来ぬと思うておりましたゆえ」

 

「そうか」

 

 自分の策を至上とせず、相手の要望に合わせる臨機応変さや、従来のやり方を行う者を上手く使ってそのノウハウをより高めさせるやり方。こういう地道な努力や根回しの末に本人は革新派であるにも拘わらず旧来の老将たちにも気に入られているという奇妙な現象が起きていた。基本的に改革派は旧弊派に嫌われやすい。しかし、こと此処に置いてはそれは当てはまらなかった。

 

 老将たちの代えがたい経験が生きている。自分達はまだ必要とされている。結果を出している若手がなおも敬意を自分達に払い続けている。これらは彼らの自尊心を保つには十分なものであった。例に漏れず、思想の違った綱高も彼の事を認めている。兼音の真の強い味方は本来なら敵になりかねない旧来の武将たちであったのだ。

 

「代わりと言っては何だが、1つ願いがある」

 

「なんでございましょうか」

 

「貴殿の家宰は和歌を能くすると聞く。一つ教えを乞いたい。取次を頼みたいが」

 

「……左様な事でしたら喜んで」

 

「かたじけない」

 

 少しだけ返事に間が開いた兼音の心中はちょっと複雑なものであった。綱高は老将ではある。しかし、独占欲がチラチラと心の中で燃えていたのだ。綱高もそれを理解できないほど若くはない。そういう人間らしい感情が見え隠れする辺りや色恋沙汰の経験不足な辺りも老人たちからすれば子や孫のようであり可愛さもあるのだった。

 

 ともあれ、両名の会談は無事成功。兼音視点では特に憂いも無く評定に挑めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、綱高様の説得が予想外に上手くいったのは非常に喜ばしい。私の中の予定ではもう少し粘られる可能性もあった。だが、理性的な人で助かったと言うべきだろう。今回の評定もまた重要な転換点になる事は間違いない。この後は恐らく甲相駿三国同盟と言う戦国の中でも屈指の大同盟が組まれる。今のところ、今川から武田へは松姫が義信正室として送られ、武田から北条へは既にいる諏訪頼重とその妻禰々姫、そして北条から今川へは北条シスターズの一人である氏規様が送られることになっている。氏規様は史実でも今川へ送られていたことのある人だ。あの徳川家康とも知己があったためか、小田原征伐後も生き残り大阪に狭山藩を開いた御仁である。大阪と言えば我が第二の故郷なので、親近感を感じてしまう。

 

 そしてこの同盟後には第二次川中島の戦いが発生するだろう。これはもう確定的だ。武田と長尾の利益はどう頑張っても対立する。和平の可能性があるとすれば、武田が侵攻を諦めるか南へ行った時だけだろう。長尾景虎の個人的な思想は横に置いておいても地理的に川中島が戦場となるのは必定だからだ。という事はもうすぐ清州城の戦いや長良川の戦いが迫っているという事になる。信長……ではなくこの世界では信奈か。その彼女の躍進が始まりかける。彼女が上洛するまでにどこまで勢力を広げられるか。それが焦点だろう。申し訳ないが今川には武田に吸収されて頂き、関東を攻めてこないように犠牲になってもらう。

 

 武田はあの貧弱な経済基盤が最大のネックだ。それがある以上、経済的従属状態へ追い込むことは可能である、と言うのが私の思惑だった。道路網の整備、農地の干拓と拡大、河川の整備、鉱山の開発。やるべきことは多いが、着実に力をつけるための戦略だ。これらを順次施行するために、私は評定の場に赴いていた。

 

 

 

 

 

 そしてもう一つ。ここに顔を出している人物の中で絶対に会わないといけない人がいる。まずは氏照様である。色々と仲介を頼んでしまった以上、そのお礼などをしないといけない。そういう訳で、拝謁していた。

 

「此度は多くの手配、誠にありがとうございました」

 

「うーん、まぁ、ちょっと疲れたけどこれくらいはね。三家老と他の五色備え、後は重臣に何人か。この辺は説得完了だね。為昌姉様は当日にギリギリで帰ってくるみたいだからまだ出来てないけど、氏邦と氏規は終了したよ。一応姉上にも話は通しておいたから、寝耳に水って事は無いと思うけど」

 

「重ね重ね御礼申し上げます」

 

「ただねぇ……」

 

「何か、ございましたか」

 

「逆に何もないと思ってるの?頭お花畑じゃないんだから、しっかりしてよね。姉上がなぁ……。コレを聞いた時の顔がなぁ……」

 

「どう、でございましたか」

 

「どうだったと思う?」

 

「お怒りになっておられた、とか……」

 

「残念、外れです。答えは一瞬無表情になった後、泣きそうな顔になった。でした」

 

「…………左様でございますか」

 

 罪悪感が募っていく。あっちが立てばこっちが立たない。そんな事がざらにあるのが人間関係だ。しかし、それでもやはり好きな人に泣かれるのは堪える。とは言え、氏照様はそれを前に聞いてきた。覚悟はあるのかと。その時の私の答えを貫くしかないだろう。

 

「どうする?引き返すなら今だよ」

 

「二言はございません」

 

「うんうん。それで良し。まぁこれで余裕ぶって胡坐かいてた姉上も少しは危機感を覚えたでしょうし、大丈夫じゃないかな。あとは貴方がしっかりやるべきことをやれば」

 

「ははっ」

 

 まぁ頑張ってよね。見返りも早めによろしく。そう言いながら彼女は二ッと笑った。大石家を僅かな月日で手中に収めた実力者が調停役になってくれている頼もしさを改めて実感すると共に、これで敵に回した時のリスクを考えてゾッとする。政景に土産を買って帰る事が決定した瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

「うむむむむ、流石は従姉殿。色恋沙汰では私より格上でしたか……」

 

 唸っているのは綱成。もう一人の会うべき人とは綱成の事だった。と言うか、同じ場所に来ているのだし、関係性から言っても会うのは自然な事だろう。恋人をすっ飛ばして許嫁な訳だが。元々恋人などいたこともなく、告白されたこともない身からすればこの方が何となく性に合っているのかもしれないが。

 

 しかし、今になって思えば青春時代だと言うのにもったいない事をしていたのかもしれない。女子も周りにいたのに……。とは言え、LOVEの方の好意を持った相手はいなかったので、結局付き合ってもすぐ破局していたような気もする。

 

「しかし、氏照様がお味方になってくれるとは心強いですね。先輩と私の祝言も秒読みです!」 

 

 嬉しそうなところ申し訳ないが、多分それはもう少し後になるだろう。だがこの幸せそうな顔に水を差すのも野暮だと思い黙っていることにした。幸せなバラ色の空間に旅立ってしまった綱成を見ながらくだらない事を考える。

 

 氏康様はブレザーだったウチの制服が似合いそうだ。兼成はお嬢様スタイルの服だろうか。ウチの女子の私服である。綱成はジャージの運動部って感じがする。あぁ……この子たちとだったら制服デートとかしたかったなぁ……。今になってそんな思いを抱いてもしょうがないのだが、ちょっと思ってしまった。それくらいは許されるだろう。今まで真面目に生きてきたつもりなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 評定の場でやる事はまず挨拶回りである。既に挨拶している人にはもう一度。暫く会えてない人にはしっかりと。そうすることで心証を良くしていく。こまめな気配りが大事であるのは間違いない。大物政治家だって支持者を大事にし、そして会う相手に好印象を持たせるのが出来る政治家だ。一門衆、三家老、五色備えなど大物揃いだからこそしっかり関係性は維持しないといけない。今は当主登場を待っている段階なので、その時間を有効活用するのだ。

 

 そして今日は新顔もいる。その名は松田憲秀。尾張守盛秀殿の子息である。今回、家督が移るという事で参加を許されているそうだ。個人的に彼に好印象は無い。史実に置いて、北条家屈指の裏切り者が彼だからだ。しかも息子も息子で控えめに言ってクソである。その為、あまり信用できない。関東圏での外交は優秀だったようだが如何せん秀吉を舐めていた井の中の蛙感はぬぐい切れない存在だった。

 

 だがまだ彼は何もしていない。色眼鏡をかけていては失礼だろうと思い、まずは声をかけてみる事にした。とは言え、いきなり行くのも良くはない。まずはまだ当主である盛秀殿が先だ。

 

尾張守(盛秀)殿、お久しぶりでございます。聞きましたぞ、ご勇退なさるとか。まだまだご指導賜りたき事ありましたのに、残念でございます」

 

「おお、土佐守(兼音)殿。そちらも壮健そうで何よりだ。儂のような老人はそろそろ引き際であるからな。貴殿のような者の未来を楽しみながら茶でも飲みたいのだ」

 

「いやいや、まだまだ現役ではございませぬか」

 

「いつまでも地位に固執していては御家の害。後ろから支える事も役目である。そうだ、ちと話は変わるが、お主遂に動いたな。これから大変であろうが、男として覚悟を見せるときぞ」

 

「はっ」

 

「さて、紹介したい。我が子息・左衛門佐憲秀である。儂が退いた後は我が官職・尾張守を継承してもらう予定だ」

 

「貴殿が左衛門佐殿でございますか。お噂はかねがね。お初にお目にかかりますので改めて名乗らせて頂きますれば、我が名は一条土佐守兼音と申します。以後、よろしくお頼み申し上げます」

 

「……」

 

「これ、憲秀」

 

「ふん、某はお前を信用しておらん」

 

「と、申されますと」

 

「姫様を誑かす奸臣では無いかという事だ」

 

 場の空気が凍っていく。他の参加者も会話を止め、ここの話に耳をそばだてている。しかし、色眼鏡にかけたら失礼と思っていたが撤回しよう。好印象など抱けようも無かった。そもそも、私のことが嫌いであったとしても面と向かって言うのは最大級に失礼だ。それに、軋轢を生んでは良い事など無いと普通は思うはずなのだが。悪口は裏で言う物だ。市井の子供ですら分かっていることである。

 

 誰も止めに入らないのは私と相手の力量を測っているのだろう。ここで松田憲秀が私を黙らせられる言論を出来れば一角だし、そうでないなら別の対応を考える必要がある。盛秀殿に恨みを込めた目線を送るが、目を逸らされた。確かによろしくお頼み申し上げるみたいな書状が来ていたけれど、こういう意味でお頼みされるとは思わないじゃないか。

 

「いかなる故を以て私を奸臣と仰せられるのか。それをお聞きしたいですな」

 

「氏素性も知れぬ上に賢しらげに知をひけらかし、なおかつ多くの余所者を囲い込んでおると聞く。逆心を起こす前段階ではないのか?」

 

「私には身内なく、地縁も無し。在地の領主の多くは先の河越での大戦にて討ち死に致した。それ故、仕方なく召し抱えているだけの事。御家の発展を願い尽くして参った仕儀を賢しいなどと評されるは心外の極み」

 

「だが疑わしいのは事実であろう。立場をわきまえず、父上に意見しておったのもいずれは三家老に己が加わらんがための行いではないのか?遠山・大道寺は貴様と繋がっておるのだからな。河越の家臣団も怪しげなものばかり……」

 

 ザっと立ち上がり声を出そうとする綱成を目で静止する。そして、なおも吠え立てる憲秀の目の前で抜き放った刀を床にぶっ刺した。

 

「な、何を……!土佐守、乱心か!」

 

「私に対する非難はお好きになさるとよろしい。甘んじて受け入れましょうぞ。されど、無関係の方々を巻き込み、あまつさえ我が家族も同然の家臣たちを云われなき中傷で貶めるのはお止めいただこう!日々私の、引いては北条の御家のために粉骨砕身している彼らに対してあまりにも無礼。もしどうしても信用ならず、弁舌尽くせどもご理解頂けず、私を奸臣と思うのであれば、この刀で我がそっ首お刎ねになるがよろしい!家中を思っての事ならば、この土佐守逃げも隠れも致さず。黙って刀の錆になりましょうぞ!もとより謀反起こすくらいならば死する覚悟なれば」

 

「両者それまでっ!」

 

 鋭い声が響いた。事態を重く見た方が止めに入ったのであろう。声のした方向を向けば、遅れてやって来ていた氏時様と笠原加賀介(信為)殿が入り口にいる。声を出したのは前者のようだ。氏時様は氏康様の叔父であり、家中の中では幻庵媼に次ぐ長老。上野を任されている大ベテランの将だ。氏照様によれば、元々私と綱成に婚姻をさせる事で家中が安泰になるのではないかと思っていた御仁らしく、根回しには一二を争う速さで賛成を表明したという。信為殿は言わずと知れば名将だ。

 

 厳しく場を見回した氏時様は声低く口を開く。

 

「土佐守、殿中抜刀はご法度。されど事が事故、評定終わり次第3日ほどの謹慎を申し付ける。良いな」

 

「申し訳ございません。寛大なお許しに感謝申し上げます」

 

「しかし、先に挑発したのは松田殿の方です、これでは先輩があまりにも!」

 

「綱成、お主が土佐守を庇う気持ちは分かる。されど、法とはそういう物だ。情状酌量はあっても、罪を無かったことには出来ぬ。これを蔑ろにすれば私情で裁きを下す家となってしまう。そうなれば天下の信用を失う。分かるな?」

 

「……はい」

 

「憲秀殿、これではいかんなぁ」

 

 普段は飄々とした声を出す信為殿がすさまじく冷徹な目をしている。殺気とも怒気とも言い表せないプレッシャーが場を支配した。歴戦の武将たちが冷や汗をかいたり見ないようにしている。早雲公世代最後の生き残り。それが信為殿。その恐ろしさを身をもって知る羽目になった。

 

「兼音殿の元に派遣されておる与力からの報告では何一つ瑕疵など無い統治を行い、逆心の兆しなど微塵も無し。誠の忠臣と評されておるが?」

 

「そ、それは……」

 

「まぁ良い良い。それは良いのだがなぁ、お主。儂らの元に一回も挨拶に来んかったのぅ。無理も無いか。敢えて儂から盛秀殿に何も指示しないように言うておったのだからな」

 

「な、何故、父上!」

 

「盛秀殿を責めるはお門違いぞ。お主には済まんが、試しておった。松田の新当主がどれほどの器量かをな。もし優良であれば大道寺や遠山とも話し、三家老筆頭は引き続き松田にしようと思っていた。いたが……今の有り様では不安しかないの。老将たちに顔も見せず、威張り散らし、尊大で、あまつさえ兼音殿の家臣団と本人を中傷した。これは器に非ず。もっと言えば、兼音殿を非難するは亡くなりし先代様のご判断を貶めるも同然だがこれ如何に!」

 

「…………」

 

「お主のこれまでの事は全て氏康様にご報告させてもらうでな。悪く思うでないぞ。黙って反省せい!」

 

 大喝が飛び、憲秀の肩がビクッと縮こまる。近くで聞いている私も、怒られている対象ではないのに身がすくむ思いがした。昔よくいた怒ると怖い先生がこんな感じだったのを思い出す。三家老家であろうと怒鳴りつけられるのは流石としか言いようがない。罰を与えないが、しっかり上に報告する辺りが最大の罰になっているのだろう。

 

 悪しき事として彼の行いは報告されるのに対し、私の行いに関しては言及がないという事は報告されない、もしくはされたとしても悪し様に言われる事は無い、という事だろう。ひとまず政治生命を失う事は避けられたようだ。

 

 凍りかけている場の空気をこれ以上このままにしておくわけにもいかず、私はその場で一礼して全体に謝罪し、与えられた席に着いた。三十秒もしないうちにバンっと襖が開け放たれ、氏康様が登場する。

 

「よく来たわね。さぁ、評定を始めましょう!……なに、この空気?」

 

 重苦しい雰囲気に困惑している氏康様の姿を他所にそれぞれの思惑が入り混じった会議が始まろうとしていた。




あまりこういう場で政治的な事を書くべきではないと思ってはいますが、敢えて書かせて頂きます。嫌な方はブラウザバックを推奨します。本編とは一切関係ないのですが、一社会人として、また一歴史愛好家・社会科愛好家として書くべきと思い筆を執りました。

連日ニュースで報道されているように、安倍元総理大臣が亡くなられました。彼の功績に関しては賛否両論あると思います。ここで私がどちらなのかを書くことはしませんが、例えどんな政治家であったとしても、暗殺されて良いなどと言う事は絶対にありません。また、安倍氏自身も、決してこのような形で亡くなって良い方だったとは思えません。

そして、これは民主主義への、そして引いては安全神話のあった日本へのテロリズムであると思っています。J・F・K暗殺事件、9.11、地下鉄サリン……こういったものと同等の事であると考えています。言論をこのような形で封殺する。それはテロリズムと形容して差し支えないと思います。その思いはこうして言論の自由、表現の自由の恩恵を多く受けているからこそ強く実感します。

第一次世界大戦は一発の銃弾から始まりました。民主主義が死ぬ日が来るのだとしたら、それもきっと銃弾から始まるのでしょう。ですが、今回の事をその日にしてはいけないと思います。私たちにはその責任があり、そうならないようにする能力があります。

有権者の方、選挙に行きましょう。非有権者の方、自分の事だと思って選挙を見て下さい。選挙は民主主義に私たちがもっと強く関われる瞬間です。今回が民主主義の死んだ日にならないように、最大限の民主主義的行為を行いましょう。ですが、投票権はお香典でも何でもありません。自分の信念に従ってご投票下さい。

情報が錯綜し、様々な意見が飛び交っています。どれが正しい、と言い切る事は出来ないでしょう。ですから、多くの意見に触れ、自分の意見を保つことが重要なのではないでしょうか。

テロリズムで社会は変わりません。今作は戦乱の世を描いています。暗殺もあります。ですが決して作者は現実世界でもこうあるべきとは思っていません。テロリズムで世界は変えてはなりません。全ての戦争に反対します。だからこそ屈さずに選挙に行きましょう。

最後になりますが、この場を借りて亡き安倍元総理大臣のご冥福をお祈り申し上げます。


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第95話 古河にて・中

遅くなりました!ごめんなさい!

信長の野望新作が出ましたね。私はPKまで待ちますが。あの作品、北条が鬼強いんですけどこの世界線の類似ゲームの北条家家臣団のステータスがおかしくなってそう。ナーフしないと他家死にまっせ……。


 ギスギスとした空気が大広間に充満している。古河城の大広間には、関東の大大名、北条家の重臣が揃っていた。いずれも千以上の軍勢を操り、大国北条の行く末を左右する資格を持った選りすぐりの家臣である。現代風に言うのならば、閣僚集団であり、各基地の司令官であり、県知事や市町村のトップでもあった。

 

 本来はもう少し空気もまともなのだが、松田家次期当主・松田憲秀による一条兼音糾弾事件によりその空気は霧散。非常に重苦しいものだった。一部始終を知らないので、凄く気まずい氏康。なおも兼音を睨んでいる憲秀。謹慎を言い渡されたが休暇だとしか思っていない兼音。そして呆れ顔の老臣。婚約者を罵られ怒り心頭の綱成。面倒だなぁと心の中で毒を吐いている氏照。等々それぞれの思惑があるが、大体良い感情を抱いていないので、空気が悪いのも必然であった。

 

 戸惑いながらも、後で説明されると言う風に叔父である氏時や笠原信為より説得された氏康は、一大評定を始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 憲秀の視線が鬱陶しい。とは言え、今はそんな事を気にしている場合ではない。やるべきことをやらねば。

 

「まず為昌。上洛における成果と畿内の情勢を」

「はい。畿内はほぼ三好によって制圧されておりました。この統治は現在は安定しております。しかし、あくまでも私の見立てですが、長慶の命はあと僅かかと。怨敵細川を追い、復讐の済んだ今、生命の炎が消えかけておりました」

「そう、長慶が……。長慶亡き後の展望は?」

「御一門がおります故、そう悪い事にはならないと思われますが……とは言え、長慶時代と同等に支配とはいきませんでしょう。また、公家衆も割れているようでして、一条家はこちら側、また近衛も前久様が長尾に肩入れしておりますが息子の信尹殿は当家に心を寄せておいででした。申し上げるのは僭越ながらも私をお望みのようで……」

「為昌様を、お望みとは?まさか奥方にと?」

「ええ。そう言うお話でした。尤も、まだ幼いお方。戯れかもしれません。ただ、十年で我は関白となる故、その時は我が妻にもらい受けたいと、そう仰せでありました」

「なんと……!」

 

 これには流石に驚いた。重臣方も相当動揺されているようだ。それもそのはず。近衛家は五摂家、即ち全国に何万といる藤原系統の一族のトップだ。その血の濃さは相当なものである。中臣鎌足から始まり、道長などの有名人を多く輩出してきた北家の正当な後継者である。ちなみに、一条家もその一族だ。これより血の濃い家となると、それこそ皇家か古い神官などをたどらなくてはいけない。阿蘇氏とかだろうか。

 

 子供とは言え、もう十代。女性の好みなどは当然あるだろうし、言ったことを忘れるような年でもないだろう。それに、言ってはいけないこととそうでないことの区別くらいはついているはずだ。そういう帝王学は最初に教えられるのだから。という事はつまり、この求婚は本当の事である可能性が高い。

 

 無理もないだろう。為昌様は氏康似の美人。少し陰のある部分が存在するが、それもまた魅力に見えるのだろう。十代でこの美麗さと接するのは女性観が破壊されても仕方ない。

 

「でかしたわよ。もし上手くいけば、五摂家当主と当家は縁戚。今や都は荒れ果てている。これを理由に関東へ招ければ日ノ本でも大きな影響力を持てるわ」

「まぁそう上手くいくかは分かりませんが、ひとまずはそういうお話でした。また、畿内での商談は凡そ上手く行きました。今後は堺を中心に多くの船が小田原へ来ることになるでしょう」

「鉄砲に関しては?」

「モノを買うよりも作れる技術のある者を連れてきた方が良いと判断し、雑賀におりました土橋一族を引き抜いてまいりました。相州は鋳物や刀剣鋳造が盛ん。鉄砲の量産も始められるでしょう」

「土橋一族とは誠ですかな?もし真実ならば大変大きな事でございます。雑賀では鈴木党と並び大きな勢力を誇った集団にてございます。鉄砲の扱いにおいても日ノ本屈指の実力者揃い。有事の際にも動員出来ましょう!」

 

 元々紀州出身の大藤信基殿は声高にそう言った。今まで当家にあった鉄砲は数がごく少数であった。石火矢は幾つか存在していたが、それも数が非常に限られている。その限られた鉄砲を何とかして実用化したいとあがいていたのが信基殿だ。これで量産が可能になれば、戦術にも幅が生まれる。いち早く大量導入することで、他家にも差をつけられる。

 

「つきましては、相応しい領地と家格を与える事を姉上にはお願いしたく」

「分かったわ。至急、用意させましょう。ただ、ものはあっても撃つためにはそれ以外にも必要なものはあるでしょう?」

「鉄砲には火薬が必須でございます。火薬は、硝石・硫黄・木炭を原料としております。これらの粉末を一定の割合で混ぜると火薬が出来上がるのです」

 

 信基殿が意気揚々と説明している。得意分野というか、今まで密かに頑張ってきた部分にやっと功績が当たろうとしている。足軽大将としても優秀な武将だが、やはり本業はそれではないという思いが強かったようだ。

 

「硫黄は大涌谷に腐るほどあるわね。木炭はまぁ良いでしょう。ただ、硝石はどうするの」

「それは……大明などの大陸よりの輸入だよりになるかと」

「自国での生産は出来ない訳?」

「紀州では容易に港から手に入りましたので……」

 

 硝石の天然鉱脈は日本にはない。水に溶けやすいので、高温多湿かつ多雨な日本では取れないのだ。有名な鉱山はチリにあるが、今はスペイン領である。ただ、方法がない訳ではない。代表的な方法が古土法である。日本では代表的な製造方法で、住居の床下土の硝酸イオンと木灰から作られる灰汁のカリウムを煮出して、溶解度差を利用して硝石を生み出す方法のことを指す。

 

 他にも、蚕の糞や草を養蚕家屋の床下に穴を掘って、4~5年程度のあいだ醸成させた土と灰汁と反応させる方法である培養法がある。これは、加賀藩の五箇山、飛騨天領の白川郷など限られた地域で見られた方法だ。また、ナポレオンも使用した硝石丘法も存在している。人畜屎尿を屋外で積み上げて1~3年を経過させた土と灰汁を反応させるやり方だ。これによりナポレオンは火薬を多く入手できた。

 

 更に、古代中国で発明された海藻法もある。海藻を焼いて炭酸カリウムを含む海藻灰を作り、硫酸塩や硫酸を用いて製造する方法だ。ただ少々面倒である。

 

「硝石は手に入ります。それも大明よりの輸入ではない方法でも。ただし、準備に最低3~5年ほどのお時間を頂戴することにはなるでしょう。それまでは輸入で耐えるしかありませんな。琉球を中継ぎにして、大明より持って参りましょう」

「それでも無いよりはマシね。ただ、大明との交易は出来ないの?」

「朝貢でもしないことには如何ともしがたいと思われます。何せ、奴らは倭寇によって大分痛い目を見ております。大明からすれば我らも倭寇も同じ穴の狢。交易には応じてくれぬでしょう。ですので、琉球を上手く使います。琉球を中継地にし、大明よりももっと南の国より輸入しましょう」

「だが、そんな南まで行く船があるのか?」

「富永殿、お忘れか。我らの鋭意建造中の船。それを如何なる者たちが利用していたか」

「なるほど、南蛮船か!」

「左様でございます」

 

 私の提言により、少しだけ搬入路に希望が見えたようだった。東南アジアでは伝統的に高床式住居の床下で鶏や豚を多数飼育してきたため、ここに排泄された糞を床下に積んで発酵、熟成させ、ここから硝石を抽出している。また、熱帯雨林の洞穴に生息するコウモリの糞から生成したグアノからも抽出が行われているはずだ。

 

「では将来的に自国内で生産することを見越しつつ土佐守殿の仰る方法において生成を行い、生産できない期間は南国よりの輸入とするのが最上でしょうな」

「盛秀の言う通りね。これからの時代、必ず鉄砲は必要な武具になる。それに、火薬は大砲にも必要なのでしょう?だとするのならば、これを入手するのは必須ね。兼音、後でその生成方法と南国への経路、詳しく書いて出しなさい」

「承知仕りました」

「搬入は是非とも某にお任せを!商人でもある腕が鳴りますぞ」

「そうね。海に詳しく商売に長けた景宗に任せるのが良いでしょう。では、任せます」

「ははっ!」

 

 ここで説明するよりも担当の者に書類を交えて話した方が早いという判断だ。景宗殿には後で詳しい話をする必要があるだろう。また生成方法に関しては、一度上で目を通してから複製して直臣に配られることになるだろう。国人領主には流石に渡せない。秩父の山奥などでは人目に付きにくいので、生成も用意だろう。蚕もいる事だし。

 

 ただ、鉄砲問題は解決しても大砲の方は鋳造が難しい。まだ先の話ではあるが、反射炉なら作れるのだろうか。江戸末期に韮山に反射炉が作られたのは有名だ。レンガをくっつけるためのセメントは、秩父にある石灰石で確保できる。燃料の石炭は高崎に炭鉱があったはず。鉄は……草津に群馬鉱山があったはずだ。あそこはまだ自国領では無いので、さっさと併合しないといけない。取り敢えず、自国の分くらいはこれで賄えるだろう。多少は目途が立ってきた。とは言え私は技術畑ではない。構造は伝えられても、実際はどうにかこうにか職人集団に頑張ってもらうしかないのが辛いところだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 話題は次の話へと移る。今回の本題である、三国同盟だ。

 

「盛昌、説明を」

 

「はっ!数か月前、甲斐は武田晴信殿より書状が届きました。それによれば、相・甲・駿の三国で以て一大同盟を結成し、各々の勢力が目指す道――即ち当家は関東、武田は越後、今川は西進を行うというものでございます。その為に、まず北条は御妹君のどなたかを今川へ。今川は当主の妹を太郎義信殿へ。そして武田の質は既に禰々殿がいらっしゃる。こうすることで人質を交換しつつ縁を結び、裏切られることの無きようにするというものでした。既存の同盟や盟約はそのままに、この三家のみで同盟を、と言うのが晴信殿のお考えの様です。また、これに際し今川からは海上交易のぶつかり合いを避けるべく、駿河湾から遠州三河の航路の使用を控えて欲しいと伝達がありました」

 

「ありがとう。これが今のところの先方からの要求よ。受けるか否かを論ずる前に、今川と武田について、現状報告を。まずは甲斐から。兼音、よろしく」

 

「はい。僭越ながら私が甲斐武田の内情と方針、思惑について意見を述べさせていただきたく存じます。単刀直入に申し上げれば、甲斐の内情よろしからずと申す他ございません。先の川中島での一戦は大きな損害を被ったうえに得る物少なく、また領民は侵攻に伴う重税に喘いでおります。その税の行き先は甲斐の治水と言う事で、甲斐では名君信濃では蛮君とこう言われているようで。これは我が配下に加わりし元信濃国衆が皆々口を揃えて言うことなれば、信憑性は高いかと」

 

「甲斐の経済状態はそんなに酷いのね」

 

「元々の産業基盤が脆弱な上に、土地も痩せております。無理もない事かと。その上で彼らの方針はとにかく対外遠征を行い、甲斐を安泰にすること、そして他国から収奪した物資で国を富ませる事。此度の同盟の思惑としましてはこれまで外交において武田は凡そ主導権を握れずにおりました。しかし、このままでは自国の国衆らに示しがつかない。故に外交的成果を作るべく、武田主導の三国同盟を提唱してきたものと思われます」

 

「それを受けて受けるべきか否か、どう思う?」

 

「対武田外交といたしましては、受けるべきでしょう。これから上州、常陸、房総の三方面を相手どらねばならない我らには少しでも安全と呼べる方面が必要です」

 

「では次におばば、駿河方面についてお願い」

 

「ふむ。まず今川の内情じゃが、そう悪くはない。先の敗戦は痛かったようじゃが、既に凡そ立て直しには成功しておる。また、三河が手に入った事で尾張への圧力が増えた。今はまだ内政に専念しておるようだが、当主の代替わりしたうえに未だ統一のなされていない尾張へはじきに侵攻を始めるじゃろう」

 

「今川は駿東を諦めたの?」

 

「心の底ではどうかはわからん。しかし、今事を構えるのは得策ではないとは判断しておるようじゃ。盟約を結べば、その判断がより長く継続することになろう。海上交易は痛いが……受けざるを得ないと言うのが正直なところ。儂らは関東諸侯から好かれておらん。下野はまだしも、里見佐竹小田長野等々……皆機会を探っておる。ここで同盟を蹴って外交的孤立を生むのは得策では無かろう」

 

 外交的孤立は一番避けるべき事態だ。世界の敵になると言う事の恐ろしさを、日本は身を以て知っている。孤軍奮闘して勝てるのは、他を圧倒する国力が無くてはいけない。全方位敵対外交は悪手中の悪手だ。

 

「武田、今川それぞれの専任外交役からはこういう意見が出ているけれど、他にある者は?」

 

「交易はどうでしょうな、やはり痛いですかな梶原殿」

 

「いえ、駿河湾航路は南蛮船による遠洋航海の拡大で取り戻せるかと。笠原殿の御懸念は確かに至極その通り。されど、代わりとなる物が無いわけではありませぬ。琉球、高山、呂宋との交易に乗り込めれば……あるいはと思っておりまする。まぁ現状は細々としかやっておりませんので、どこまで大掛かりに出来るかは未知数ですが……やる価値は十二分にありましょう」

 

「景宗、商人集団の説得は出来そう?」

 

「御身をお借り出来れば、すぐにでも」

 

「分かりました。必要とあればすぐ言いなさい」

 

「はっ!」

 

「他に何かある者は?」

 

「姉上、ここ最近の鉢形には甲斐から流賊が流れ込んできており、治安の悪化が起きておりまする。国内の流民の対処を武田に要請しては頂けませんか」

 

「杉山でも同じく」

 

「松田領にも同じような輩が多くおります。職を求めているだけならばまだしも……というありさまでして」

 

「駿東も少しずつ増えておるな」

 

 河越でも最近少し騒ぎが起きる事があった。刃傷沙汰になる前にストップが入っているが、それでもトラブルが増えた気がする。人が増える事にはこういう弊害もあるのだろう。氏邦様の鉢形領は同じ武蔵。綱成の杉山領もだ。盛秀殿の松田領は甲斐と相模の国境地帯にある。幻庵媼の駿東部もそうである。逃散する者がいる、というのが甲斐の有り様なのだろう。前に訪れた際も、寒村で細々と身を寄せ合って豪雪に耐えている姿があった。

 

「晴信には伝えておきましょう。国境の整理も兼ねて話しておきます」

 

「では、決を採ってよろしいでしょうか?」

 

「ええ」

 

「それでは、相・甲・駿の三国同盟に賛成の方は挙手を」 

 

 全員の手が上がる。上洛できない以外にデメリットのない同盟だ。特に、長尾相手の戦いにおいて後方に不安を抱えている訳にはいかない。これにより北条は全体的に西と南を気にせず、北~東に拡大路線を取る事が出来る。これに反対する理由は特に無いだろう。それは、さしもの憲秀でも分かっているようだった。

 

「全会一致にて、評定衆は三国同盟に加わる事に賛成致します」

 

「乱世では昨日の敵は今日の友。これよりは今川とも再び盟友よ。甲駿に拘わらず、国境部では問題を起こさないように国衆にも厳命させるように!」

 

「「「「ははぁ!」」」」

 

「これで西の外交には一段落ついたわね。長尾には頼れる盟友はいない。蘆名もこちら側。ならば次に戦になっても少しは有利に立ち回れそうね。さて次は氏尭から報告に来ている常陸の……」

 

「…………恐れながらお尋ねしたく!」

 

 氏康様の話を遮るような形で大声が出される。またお前か。さっきので少しは反省したのではなかったのか。遮られた本人は特に怒っている様子もなく、構わないといった雰囲気だが周りの空気が重くなった。信為殿は笑ってないし、梶原殿は呆れている。綱成から殺気が漏れていて、横の氏規様が委縮している。氏政様だけが顔面蒼白だ。

 

「どうしたの?」

 

「果たして長尾はそこまで恐るるべき相手なのでございましょうか!?」

 

「お主!」

 

「良いわ、盛秀。この場にいる誰しも己の意見を述べる自由があるの。そして、他の意見を遮ってはいけません。続けなさい」 

 

「はっ!内政を注力すべしという仰せは至極ごもっとも。しかし長尾を恐れ武田蘆名などの格下の輩と同格相手の如き応対をし、里見佐竹などに恐れを抱くは事大に同じかと!無敵北条の力を以てすれば、いずれも一捻り。長尾も先の戦で尻尾を巻いて逃げ出したことを見ても明らか!」

 

「……私は奇襲を受けたけれどね」

 

「それは作戦を立案した土佐守殿の責任かと!」

 

「そう。それは貴方一人の意見?」

 

「否でございます。家中の若き猛者たちの多くは皆口を揃えて某と同じことを申しております!彼らの代表として某は今日ここに座り、こうして口を開く許可を頂いているのです。どうか、若き世代が武功を立てる機会をお与え下さいませ!」

 

「…………」

 

 北条家には世代での微妙な空気感の違いがある。第一世代、つまり初期~中期早雲公世代と言うべき層は殆ど現役ではない。ここでは信為殿がその筆頭。後は幻庵媼。伊豆奪取、小田原攻撃、三浦攻め、上杉抗争。これら全てに参加した層だ。河越夜戦を最後に多くが引退している。続いて第二世代、これは末期早雲公世代~中期氏綱様世代と言えるだろう。上杉家がまだとても強力だった時代の歴戦世代だ。ぎりぎり小田原攻撃くらいからなら生きていた人もいる。代表者は盛秀殿や綱景殿など。そして第三世代が我々氏綱様末期~氏康様最初期世代。もう上杉家が終末を迎えている時代の人間だ。私や盛昌、元忠、氏邦様や綱成もここに入る。国府台、興国寺、河越、北伐などに参加している最初から激戦世代だ。最後が第四世代。これは河越夜戦以後に出てきた世代だ。若手が多く、参加した戦も良くて北伐。悪いと初陣もしていない。憲秀や氏規様がここに入る。

 

 世代ごとに北条家を取り巻く情勢も違い、その分温度差がどうしても存在している。第一~第三世代はそれぞれ強敵を知っている。第一世代は上杉や三浦。第二世代は上杉や武田。そして第三世代は今川や長尾。だが第四世代は勝利してきた快進撃の北条しか知らない。それ故に、世代で心情は大きく違った。やはり経験は大事だ。花倉の乱で戦は損害が出過ぎると知った。外交でどうにか出来るならばした方が良いを書物の内容では無く自分の感情として思った。国府台で戦は思い通りにならないと思い知らされた。里見の爺にはそういう意味では感謝しないといけない。

 

 空気は一気に重いものになる。だが、一つだけ、たった一つだが良い事もあった。この温度差に改めて(半ば強制的ではあるが)気付かされたことだ。これにより、重臣と若手との間にあるこの感情の差について対処する必要性が出てきた。こういうのを限界まで放置していると若手の暴走や独断専行、不満が溜まってからのクーデターコースだ。戦場での軍議の際にも意思疎通が取れず苦労することもあるだろう。

 

 226事件コースとかは頼むから止めてくれ。その場合やられるのは君側の奸――即ち実際は憂国の重臣である者たちだ。多分私も君側の奸として真っ先に闇討ちされかねない。憲秀の派閥なら間違いなくそうするだろう。河越にいる間は鉄壁だが、こういう評定のために小田原に行ったりする時が危険だ。

 

 いつの時代も若手と老将は対立することも多いのだと思わされる。……私が老将サイド?私はまだ20前半だぞ。勘弁してくれ……。

 

「取り敢えず一朝一夕では解決できない問題なので、後程また協議の上、何らかの形で対応します。今のところはそれで堪えて頂戴」

 

「勿体ない御言葉!ご検討いただき、ありがとうございます!」

 

 困ったことになったと顔にありあり書いてあるが、氏康様はひとまずは本来の議題を優先する事にしたようだった。氏照様が明らかにダルそうな顔をしている。氏政様は頭を抱えているし、前途多難だ。良く考えれば、もし順当に行けば後十数年で代替わりが起きる可能性が高い。史実を考えれば飢饉の際に代替わりをしていた。そうなると、少し世代交代が進み、氏政様を支える世代は丁度憲秀などの世代だ。それは頭も痛くなるというもの。

 

「ゴホン!話を戻して。常陸で少しばかり揉めていると話が入っています。元忠、説明を」

 

「はっ!事の始まりは結城家家臣、水谷全芳が勝手に小田方に調略を仕掛け、真壁道俊を裏切らせた挙句貴方を裏切って小田にいた多賀谷祥春をも再度寝返らせたことにあります。これに小田方は激怒。当主氏治は結城家並びに当家に対し、何らかの誠意を見せるよう要求しております。内実はどうあれ、お題目上は皆関東公方並びに関東管領の管轄下。小田家の要求もそう無理筋ではないかと」

 

「氏尭」

 

「……」

 

「氏尭」

 

「は、はい。何でしょうか、姉上」

 

「何でしょうかじゃないわよ。話聞いていたでしょうね。貴女の領内の事よ。結城晴朝の反応はどうだったの?」

 

「ゆ、結城家家臣団は古来より独断専行多く、素行よろしからず、当主の意にも従わず、困り果てていると」

 

「やはり小田ごときに遠慮するとつけあがるのです!結城も同様!ここは我らの無敵軍を以て懲罰するのがよろしいかと!」

 

 憲秀の威勢のいい声が響く。小田という緩衝地帯が無くなると、北常陸の雄佐竹と直接領国を接してしまう。それは向こうも同じだ。お互いに分かっているからこそ微妙な位置にある小田家を存続させて直接対決を避けている。佐竹が小田を攻めれば北条が出るし、逆もまたしかりだ。その隙を里見に突かれる可能性もある。常陸土岐氏や大掾氏などもその微妙な緩衝地帯、世界史で言えば独ソ間のポーランドのような存在として存続している。

 

 ここの均衡を崩すのはあまりよろしくない。やるにしても、ち密な計画を練ってから出ないといけない。こんな行き当たりばったりな軍事行動では成功するものもしないだろう。

 

「氏尭、小田家と交渉はできそう?」

 

「不可能ではない、とは思います」

 

「そう……征伐以外に意見は?」

 

 戦争論に曰く、「要するに戦争というのは、敵に強いて味方の意志を実現するための、暴力の行為である」と。ドラッカー曰く「戦争は、外交の失敗以外の何物でもない」と。何れにしろ、いきなり武力衝突は避けねばならない。勿論そうなってしまう事も、相手が長尾のように交渉の余地もなく攻めてくる事もある。しかし、そうでない現段階ならばまだ対応できるはずだ。

 

「戦とは、外交の次に行うべき次善の策。言葉を尽くす前に攻めるは愚行かと」

 

 私の提言に心なしかホッとした人間が多数いるようだ。氏康様はそのまま喋ってくれと促している。元より、戦は望むところでは無かったのだろう。自分で決めた非攻の方針を破りたいとは思っておられなかったはずだ。

 

「……腰抜けか、土佐守!」

 

「孫子に曰く、『主は怒りを以て師を興こすべからず。将は慍りを以て戦いを致すべからず。利に合えば而ち動き、利に合わざれば而ち止まる。怒りは復た喜ぶべく、慍りは復た悦ぶべきも、亡国は復た存すべからず、死者は復た生くべからず』と。死んだ者は帰って来ない。それに戦略もなく大義もございません。仕掛けたのは水谷。しかし奴は北条の陪臣。然らばこれで小田を攻めれば裏に北条あり、卑怯なりと謳われ信を失うは必定」

 

「叩けるときに叩かずして如何とする!己が手柄を取られるのがそんなにも怖いか!」

 

「義を守りての滅亡と義を捨ての栄花とは、天地各別にて候。これはどなたの御言葉か、努々お忘れあるまいな」

 

「そ、それは……」

 

「勝って兜の緒を締めよ。こうも仰せられておりましたな。それを除いても今は国を富ませ、民を安んじる時。やりたいならばお一人で行かれると良いかと存じます」

 

「死ねと申すか!」

 

「益なく戦略なく大義なき戦にて我が将兵を死なせるのは御免被る」

 

「ぐぬぬぬぬ」

 

「それくらいにしておかれるがよろしかろう。憲秀殿には申し訳ないが、貴殿は房総常陸の状況を分かってはおられぬ。それ故、そのように軽く言えるのだ」

 

 綱景殿は冷たくそう言う。

 

「出兵するにしての先陣を切るのは我ら古河衆。やれと言われれば存分に戦ってご覧に入れるが、今はまだ内政に時を割きたいと思っている」

 

「そもそも相模衆は留守番じゃないかな~」

 

 元忠と氏照様も歩調を合わせて言う。根回しの結果が効いてきている。信為殿がこちらよりなのは憲秀も知っているはず。綱景殿と元忠、氏照様が私に同調したことでようやく形勢不利を悟ったらしい。

 

「真っ先に死にそうだから先陣はなぁ……」

 

 氏邦様がボソッと言った言葉に顔を白黒させている。本人はあまり悪気が無さそうなのが一番笑いどころかもしれない。隣の氏照様は噴き出しそうだし、為昌様まで笑いそうになっている。

 

「そこまでよ。事はそれ相応に急を要するわ。当主権限で以て命じます。氏尭、この後小田家に赴きどうにか交渉を。すり合わせはこれからしましょう。為昌も一緒に来て」

 

「畏まりました」

 

「わ、分かりました……」

 

 どんよりした顔の氏尭様。どうもあまり元忠たちに心を開いていない様子と聞いている。それは小田原にも伝わっているだろう。氏康様はこれを機に姉妹の関係も含めてしっかり話をするつもりのようだ。そこは任せておけばいいだろう。

 

 憤懣やるかたない顔をしている憲秀だが、流石に当主権限を持って来られてはどうしようもないのだろう。元より、氏康様の腹の中ではお考えがまとまっていた。しかし、一応形式として評定に出した。他は特に反対する理由もない。それなので黙っていたが、空気の読めない人間がいると困る。まぁ時には必要な事なのだが、今回は必要ではないパターンだった。

 

「これにて大まかな話は一度終わりよ。まだ細かいものが残っているけれど、それは一度まとめてから再度やりましょう。それまでにしたい事もある事ですし。これから指示を出す者はその通りに動いてちょうだい。為昌と氏尭は先ほど言った通りに。後憲秀」

 

「はっ!」

 

「後ですこ~しお話があります。時間が来たら呼ぶからそれまで一度陣屋に戻って待機を」

 

「承りました!」

 

「では下がりなさい」

 

「ははぁ!」

 

 仰々しく動いて退室していった。空間には彼以外の宿老と一門衆が残る。どすどすと鼻息荒く床を踏む音が聞こえなくなったタイミングで氏康様は再度口を開いた。

 

「さぁて、あの問題児についてどうにかするわよ」

 

 誰かがため息を吐いた。私も吐きたい気分で一杯だった。




遂に全戦史作家垂涎の名作、クラウゼヴィッツの『戦争論』を買ってしまいました。めっちゃムズイですが少しずつ読んでいきたいと思います。

この前部屋を探してたら恋姫でガチリアル三国志ものを作ろうとしてた時のプロットが出てきました。独立君主(司馬家の婿)√かガチカリスマ先祖返り劉備√で迷った挙げ句選べなかったのを思い出しました。いつか書きたいなぁ(遠い夢)

次回もなる早で書けるよう頑張ります!


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第96話 古河にて・後

通算100話!100かぁ……。投稿開始が2020年の10月。それから約2年です。ここまで長く来たもんです。皆様の支え合っての事です。本当にありがとうございます。これからもよろしくお願いします!


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埼玉周辺地図


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現状の関東


「実際のところ、小田家と開戦して勝てる確率は?」

 

 氏康様は少し疲れた顔で我々へ問う。評定は何とか大まかに終了する事が出来たが、問題は露見した。三国同盟や内政面ならまだまだ何とかなっただろう。しかし今回発覚した問題は内憂だった。若手の要求自体は否定できるものではない。武士である以上、武功で手柄を!というのは常識だからだ。

 

 かく言う私も花倉の乱、国府台合戦での武功を以て今の地位にある。あれが諸将を納得させた一番の要因だろう。であるからして、彼らを否定することは即ち私自身の戦歴の否定にもなりかねない。どうにか上手く穏便にまとめるしかなかった。

 

「負けはしないと思います」

 

 氏尭様はあまり顔色の良くないまま言う。負けはしない。ただし、勝てるとは言っていない。絶対勝てるなんて事が存在しないのは戦史を見ていれば分かる。どんなに国力差が開いていても、ちょっとした要因で弱小勢力が大国を打ち破る事はあるのだ。

 

「小田氏治は領民に慕われていると聞きます。仮に小田家を攻め、小田城を追ったとしてもまた取り返される可能性の方が高いかと」

 

 氏尭様のサポートをした元忠の言う通り、小田氏治は現代では何回も城を追われた弱小大名と揶揄されるが、それでも兵の多くが討ち死にするまで戦いを続けたり、領民が城の奪還に協力したりと逸話は多い。家臣団も武勇名高いものが多く、決して無能では無いだろう。それに、民衆を重んじているのは我々と志を同じくしている。出来れば手を取り合っていければ最上だろうけれども、現実はなかなか甘くない。

 

「小田氏治……話せば分かり合える可能性も残されてはいるのね」

 

「佐竹よりは、という程度でしょうが、一応は」

 

「分かったわ。取り敢えず外交では協調路線を取れないか、模索しましょう。それはそれとして戦になった場合の事を考える必要はありそうね。兼音、軍師の出番よ。仕官時の希望は軍師だったのに、いつの間にか城主だけれどその戦略眼、鈍ってはいなわね?」 

 

「無論にございます」

 

「ではよろしく」

 

「それでは僭越ながら私が。まずは絵図をご覧ください」

 

 

【挿絵表示】

 

現状の関東

 

 示したのは現状の関東のざっくりとした地図。この時代、北条領以外の正確な測量はされていないが、流石にそこは未来出身。地図くらいは何となく描ける。それに、〇で国を示したガバガバ地図よりマシだろう。

 

「現状常陸にある当家の勢力範囲はここ、多賀谷政経と水谷全芳、そして結城家の領土でございます。それらは全て小田家の勢力範囲と接しておりますれば、戦場となるのはこの近辺かと。また、この近辺に勢力を持つ真壁久幹は独立を願っているため、状況次第では元主君の小田家に加勢する可能性もございます。翻って小田領南方ですが、まず守谷城には先の河越での戦いにて戦死した相馬胤晴の子、相馬整胤がおります。また、布河城には豊島頼重がおります」

 

 なお、この布河豊島氏は後に幕臣となり、井上正就を殺害することになる豊島信満を輩出することになる一族だ。この世界ではどうなるかわからないが……。

 

「二家の所領より少しばかり東には江戸崎城に土岐治頼がおります。これは美濃の土岐の一族。美濃の守護であった頼芸が道三に追われた今、実質的に実弟の治頼が土岐家の宗家を名乗っております。また、霞ケ浦を挟んだ対岸には鹿島が、その北には大掾がおります。いずれも、小田との関係はよろしくありません。ですので、これを利用します。要するに、当家を相手している場合では無くなればよいのです」

 

 絵図に線を引く。

 

「当家はまず小田家との外交に出ます。これは下手に出ても構わぬでしょう。肝心なのは小田との外交では無く、その他との外交。河越での敗戦以来、小田政治が死んだことも相まって小田の求心力は落ちております。それを回復するべく、小田氏治は積極策に出ております。此度の件で激怒しているのも自らの基盤が危うい時であったからであることも大きな要因かと。ともあれ対外拡張を推し進めんとする小田氏治に周りの諸勢力は不安を感じておるはず。そこに当家が誘いをかけ、相馬、豊島、土岐、鹿島、大掾を動かし小田に攻め入ってもらうのです。さすれば、当家よりもこれらの勢力に目を向けざるを得なくなるでしょう」

 

「だが、寄せ集めの連中で小田に勝てようか?」

 

「富永殿の御懸念、ごもっとも。まず無理でしょう。しかし、それでよいのです。何れの勢力も疲弊し、しばらくは動けぬでしょう。心配なのは佐竹ですが、こちらも介入できぬように結城を使い、同族の白河結城に動く素振りを見せて貰います。そうすれば目が北に向くかと」

 

「里見の介入はいかがする」

 

「遠山殿、正にそこでございます。これは里見が鹿島に介入してはご破算。そこで、江戸衆には軍事調練と称して千葉・原などと共に国境近くで練兵して頂きたい。抑止力になりましょうぞ」

 

 下野は今去就を迷っている勢力が多い。おいそれとは手が出せないだろう。それに、国境もほぼ接していない。北条領を通過する必要がある勢力は、まずもって手が出せない。里見は抑え、佐竹は別に視線をやるよう誘導し、小田は四方八方から攻められるために北条とさっさと和睦してしまわないといけない。さもないと、北条も大挙して攻め寄せ、全てを失う可能性があるからだ。小田氏治は決して馬鹿ではないと見ている。古河・佐倉を筆頭とする下総勢や江戸・河越を筆頭とする北武蔵勢を抱え万を動員できる北条よりは精々千が限界のこれらの小勢力を各個撃破する方がマシと考えるはずだ。

 

 当然、裏ルートで支援をすることで、決定的な敗北を回避するように動かす。痛み分けが最上だ。

 

「また、これらの小勢力を動かす際は当家である事を示さぬ方が良いでしょう。当家の名を出せば反発があるかもしれません。あくまでも、例えどれほど疑わしかろうと、潔白を示せる立場におるべきかと。これが現状私が献策出来る最上の策でございます」

 

「素晴らしい。多方面に目をやった良い采配ね。要は外交。これが上手くいかないと、全てが終わってしまうけれどそこは腕の見せ所という事で良いしょう。異論・質問のある者は?」

 

「古河衆はどう動くべきだ。氏尭様の護衛として動くことも出来るが」

 

「古河衆には……そうですな、結城晴朝の了解を得てから領内に進駐しましょう」

 

「結城家臣団からの反発が予想されるが」

 

「当家が締め付けに本気であると見せる絶好の機会であるかと。氏尭様次第ではありますが、ここで上下関係を分からせてやる必要があると思っております。必要とあれば、鎌倉を動かすことも視野に入れましょうぞ。無論、河越の管領も動けるよう待機させ、権力と武力で以て圧迫する事で鼻っ柱を折らねば以後も同じことの繰り返し。いたちごっことなるやもしれません」

 

「相分かった。では、古河衆率いて結城領内の視察と参ろう」

 

「よろしくお頼み申す」

 

「他に何か?……無いようね。であれば、兼音の献策を実行しましょう。先ほども言ったように氏尭は私と打ち合わせを。綱景は太田康資を連れて、千葉家と共に下総の里見国境付近へ巡察に。同時に練兵もして構わないわ。兵糧関連は盛昌と相談を。元忠も至急結城晴朝と連絡し、領内進駐の了解を得てきなさい。それが出来次第出兵。私は三国同盟の締結に一旦駿河の善徳寺へ向かうけれど、もし必要とあればすぐに戻って私自ら出向きましょう。為昌は土橋一門の手配が済み次第、氏照、小太郎と協力し対小田包囲の準備を。おばばと兼音は私と一緒に駿河行きの船よ。盛秀も最後の仕事として同行すること。景宗は硝石と商人への折衝を。それ以外は各々与えられている務めを果たしなさい。政策面は以上!」

 

「「「「ははぁ!」」」」

 

 氏康様のまとめによって方針が決定する。少しずつだが、最後の決定権が氏康様に握られるようになってきている。それで良いのだ。中央集権を成し遂げる事が、今後の発展につながっていくだろう。地方分権であった中世を終わらせ、絶対王政に近い部分にいかに持っていけるかがカギになっていると思われる。統一した意思の元に動く軍隊や国家が必要だ。

 

 絶対的権力は腐敗しやすいものだが、少なくとも君主が有能であるうちは腐敗した民主主義よりマシだと思っている。これには無論、異論もあろうが少なくとも無知蒙昧な民衆心理によって動かされるよりはずっといいだろう。軍人である武士としてはそう思わざるを得ないのが実情だ。

 

「では最後に。頭の痛い問題だけれど、先ほどの憲秀の件をどうにかしましょうか」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「某の子が申し訳ない……」

 

 誰も言葉を発しないまま、無言で目を逸らした。言いたいことは分かってしまうのだ。手柄を立て、出世する。それが武士の本領である。そして、此処にいる面々は少なからずそれによってここまでの地位を得てきた。勿論、生まれながらに地位を約束されていた者もいるが、そうであったとしても現在まで生き抜き信頼を得ているのはそれ相応の働きをしたからである。であれば、若い世代の言い分も理解できた。これは明治維新後の不平士族の感情と近いものがあるのかもしれない。

 

 頭では分かっていても、同情的な感情が全くないと言えば嘘になる。それが正直な全員の本音だった。これからは官僚として生きる事も必要であり、同時に戦は終わらないから武官として生きる必要もある。分けられればいいのだが……。それも一長一短だ。現場を知らない官僚によって酷い目に遭う事もある。厄介な問題だった。

 

 ただまぁ、アレは戦略眼が無いのと敵を軽視するのが問題なのであって、それ以外はまぁ、まだ許容範囲内でもある。戦いたいと思うのも、主戦派であるのもそれ自体は問題ではない。戦おう!と主張する者が全くいないのではそれはもう評定として成り立たない。ただし、やるべきではないとき、もしくはそういう方針になっている時にそれに逆らおうとするならばそれ相応の根拠が無くてはいけない。そうであって初めて大勢の意見を変えられる。後は根回し。これをしないと面倒なことになる。結論、政治力と知力、状況判断能力が欠けている。

 

「黙らないで頂戴よ……」

 

「……姉上。この件、私に預からせて欲しいけど、お願いできる?勿論、さっき言っていた”お話”はして構わないから」

 

「……貴女が?大丈夫、氏政。これは結構根深い問題よ」

 

「うん、分かってるよ。でも、これ以上姉上がこの件に関わると、他が回らなくなる。憲秀は多分見えている表層に過ぎない。私も一応同じ世代だしね。誰が彼に与していてどの程度染まっているか、調べてから対処するよ。伊豆の統治は信為や直勝、他にも(清水)康英もいるし、問題ないでしょう?」

 

「…………分かったわ。次期当主として、この件に取り組んでみなさい。ただし、手に負えないと判断したらすぐに誰でも構わないから相談するように。良いわね?」

 

「承知しました」

 

「では、取り敢えず任せる事にします。皆も、ひとまずは氏政を信じて待ってあげて頂戴」

 

 やってくれるというのであれば、我々に逆らう理由は存在しない。誰も反対意見を言う事なく、この件は氏政様に任せる事に決まった。次期当主としてこの件を解決できれば、大きな功績になる。脇腹であり同い年とは言え上に為昌様がいる以上、そこで論争が発生する可能性はある。それを封ずるためにあえて難題に取り組もうと仰るのだろう。まぁ単に手が空いているというだけの可能性もあるが……。氏照様ほどではないにしても、コミュニケーション能力は高いお方だ。何とかなるだろうと見ている。氏尭様が昏い目で見ていたのが気にはなったが、氏康様も気付いておられる様子。そこは任せて問題ないと判断した。さて、私は軽い謹慎だ。三日間大人しくしているとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 評定衆がそれぞれ散って行ったあと、氏康は叔父である氏時から自分が来る前の騒動の詳細を聞き及んでいた。そしてため息を吐きながら、松田憲秀を呼び出したのであった。

 

「どのようなお話でしょうか!」

 

「……貴方、先ほど少し問題を起こしたようね」

 

「そ、それは……」

 

 流石に信為による恫喝が応えたのか、憲秀はやや及び腰であった。

 

「まぁ良いわ」

 

「お、お怒りではございませんので?」

 

「別に?怒ってはいないわよ。呆れてるだけ」

 

「……」

 

 怒る気力も失せた。そういう風なニュアンスを込めての発言に、さしもの憲秀も気付かざるを得なかった。信頼は急速に失せていると。

 

「そ、某とて徒に申し上げたわけではございません!土佐守は」

 

「せめて土佐守殿と呼びなさい。あなたより年上で、かつ官位も地位も上よ。松田の当主はまだ盛秀なのだから。盛秀も、彼の事は土佐守殿と呼んでいるわ。朋輩には敬意を払う事」

 

「申し訳ございません。土佐守……殿は信濃より国衆を呼び寄せ、城の増改築も繰り返しておるとか!氏素性が分からぬのは、いずれよりの間諜であるが故ではございませんか!」

 

「その懸念、それ自体は私たちも持っていたわ。これでも読みなさい。後、読んだ内容は絶対に他言しないこと」

 

「は、はぁ……」

 

 ポイと渡された幾つもの書状。それを憲秀は困惑しながら受け取った。

 

「これは全て河越城の間者からよ」

 

「か、間者!?」

 

「そう。河越城の奉公衆や城勤めの女官たちに潜ませた風魔やそれに準ずる密偵達。それよりの報告書。そして、河越衆に配属された(山中)頼次と(太田)泰昌からの報告。鉢形と滝山からの報告よ。それらによれば土佐守に逆心なしと全て書いてあるわ。これだけ多くの者が一斉に同じことを言うという事は、信憑性が高いと思わない?それに、それぞれ全て別に指示を出しているわ。それ故、自分達以外に河越を見張っているとは思わないでしょうから連携も取れないし、示し合わせる事も出来ない。一門衆からの報告だから彼が抱き込むことも出来ない。よって、これらは潔白の証明になるのよ。それに、城の件や家臣増強の件は全て逐一本人から報告されているわ。それをしておいて謀反するほど愚かなら、彼はまだ城持ちでは無いでしょうね」

 

「み、見張っていたというのですか?こんなにも大勢で……。一体いつから……」

 

「最初からよ。当たり前でしょう?信頼しているのと、野放しにしているのとは違います。何処の城であろうとね」

 

「まさか、松田にも?」

 

「ええ。盛秀も気付いているでしょうね。でも、これは決して疑いを払しょくする為だけではないのよ。今回みたいに、あらぬ疑いをかけてくる者がいた時に、その疑いをかけられた者を守る事にも繋がるの。為政者は綺麗ごとだけ言ってもいられないのよ」

 

「それは……その通りであるとは存じますが……」

 

「これで兼音への疑いは晴れたかしら?後、私は色香に誑かされるほど弱くは無いわよ」

 

「申し訳ございませんでした……」

 

「この件は取り敢えずこれで終わり。では次」

 

「まだあるので?」

 

「当たり前でしょう!信為が言っていたこと、忘れたの?信為はあそこでは綺麗に収めてくれたけれど、他はカンカンよ。あなた、代替わりの挨拶に行ったのが遠山と大道寺、後一門だけってどうなってるのよ。確かに遠国にいる者には難しいかもしれないけれど、せめてこの評定を利用し、かなり早くに古河入りして顔を繋ぐとかしなさいな。兼音筆頭に他の家臣団もね。後、有力国衆にも顔を出しなさいよね。武蔵太田や成田、由良に千葉がそうね。寺社や商家にも必要に応じて出向かないといけないわよ。盛秀が外交をやっている相手にも。世田谷御所の吉良や、鎌倉の公方にだって必要よ。後、河越の関東管領上杉朝定にも」

 

「そんなに……」

 

「ああ、ちなみに。あなたがこれまでサボっていたせいで、あなたが代替わりするのは知っているけれど挨拶に来ないと怒っている人が多いわよ。頑張ってどうにかすることね」

 

 こう言って突き放してはいるものの、それらの怒っている人にはまず氏政が取り成しに行っていることを氏康は知っている。だが敢えて言わない。言うと絶対舐めてかかるからだ。相手が激怒していると思わせた方が良い。

 

「これが全部終わるまで代替わりはさせないから、そのつもりで。まだ失点は取り返せるから頑張りなさいな」

 

「ご無体な……!そも、公方様や管領を除いては某より家格は下。向こうより出向くのが通常では無いのですか!?土佐守……殿や他の者もそうでしょう」

 

「理屈ではそうね。けれど、理屈で人は動かないわよ。それに無名の新当主と一条土佐守、どちらが関東で名が知られているかしらね。里見義堯にでも聞いてみましょうか?長野業正でも良いわよ。武田晴信でも構わないわね」

 

 あまり納得できていない様子の憲秀。いい加減にしろよ、この野郎と思いながらもそれをおくびにも出さず、氏康は話を続ける事にした。彼が納得できないのは人は理屈で云々の部分であろうと見当はついている。流石に武名を競おうとは思っていないはずだと思っていたし、事実その通りである。義堯も業正も兼音を警戒しているし、それは同盟者であり外交役として接することの多い晴信も同じだ。なお、業正を除いて会ったことがあるので兼音は割と顔が広い。

 

「兼音を河越に置くことになった時、最初は河越では無かったという事は知っている?」

 

「いえ、存じ上げませんなんだ」

 

「あらそう。まぁとにかく河越では無くてもっと違う城だったのよ。河越は元扇谷上杉家の本拠地。それに、多くの犠牲を払って手に入れた土地でもあるわ。それ故に大道寺か綱成を入れるべきとの意見があった。その中で、大きく声を挙げて兼音を推挙した者たちがいたわ。盛秀は確か大道寺を入れる派だったわね」

 

「そうだったのですか」

 

「ええ。まぁ最後には納得してくれていたし、今ではこれで良かったと思っているようだけれど。その推挙した者たちというのはまず信為。次いでおばばと綱成本人。盛昌もそうだったわね。(間宮)康俊も賛同していたわ。そして垪和伊豫守氏続。彼が一際声を大にしていたわ」

 

「垪和殿が……?」

 

「私も驚いたのよ。彼、最初は兼音を嫌っていたのだもの。氏素性も知れぬ成り上がり者が私に取り入っている。そう思っていたようね。丁度、今のあなたみたいに。垪和家は元は幕府の奉公衆。堀越公方と共に下向してきたけれど、知っての通り堀越公方は滅亡したのでそのまままだ伊勢家だった当家に臣従してきたのよ。上杉憲政や北の方の国衆は当家を成り上がりと呼んでいるけれど、南関東ではそうでもなかったわ。だからすんなりと応じてくれた。お祖父様も元は幕臣であったのも影響しているでしょう。そんな家柄だったからこそ、兼音を認めてはいなかったわ」

 

「では何故河越入りを賛同したのです」

 

「地道な努力、という他無いでしょうね。彼はまだ一介の武士であった頃から挨拶に出向いていたわ。信為のようにその時に気に入って会ってくれる者もいたけれど、大半は門前払いよ。垪和家に至っては塩を撒かれたと言っていたわね。それでも諦めずに屋敷に通い続けた。城で会えば礼儀正しく。どれほど疎まれようとも礼を尽くしたのよ。結果的に氏続も断り切れず、遂には門を開いたわ。その後は交わりを続け、親しくなり、最後には推挙して貰うまでになった。言っておくけれど、兼音は自分を推挙してくれとは一言も頼んでいないそうよ。まぎれもなく、氏続の意思でしょうね」

 

「そんな事が……。いやまさか……」

 

「あなたがこれを信じようと信じまいと、これは真実よ。疑うなら氏続本人に聞くのね。尤も、彼はあなたが来ないことに激怒していたけれど……。比べられてしまうのは可哀想だけれど、古い家臣団は皆こうやって彼を認めるに至ったの。特別な工作なんて何もしていないのよ。いいこと?挨拶するという行為にはこれだけの力があるの。正しくやれば、無位無官、縁者もいない元浪人が数年で城持ちにまでなれるわ。少なくとも、その土台は作れる」

 

「……」

 

「分かった?あなたのした失態の大きさ。比べられたくないなら今すぐその地位を捨てなさい。厳しい事を言うようだけれど、あまり舐めて貰っては困るの。皆真剣に、かつ努力して物事に取り組んでいる。基本の基本が出来ていない人に任せられることなんて何もないわ。あなたはまず挨拶周りから始まりなさい。門前払いされても諦めない事。特に公方からは門前払いされても文句は言えないわよ。盛秀に泣きついても無駄なのは言うまでも無いでしょうけれど、念のため言っておくわ。よろしい?」

 

「……」

 

「返事!」

 

「は、はいっ!」

 

 逃げるように憲秀は去って行く。最後の方には段々イライラしてきた氏康の背後に怒気が浮かぶようになっていた。本人は抑えているつもりなので極力平然としているか軽く微笑するようにしていたのだが、その背後の空気感と相まって普段優しい人がマジギレすると恐ろしく怖いという現象が発生していた。同時に笑いながら怒られるというすさまじくトラウマになりそうな状況でもあったのだ。

 

 傑物早雲の血筋は健在である。それに本気で怒られたともあれば堪えるのも当然かもしれない。尤も、彼女はまだ優しい方で、氏政が本気で怒るという姉妹すらも見たことない状況になるとどうなるかは、誰にも分からないのだが……。とは言え憲秀にとって数少ない救いだったのは、好きな人を馬鹿にされてお冠の氏康が鋼の自制心で怒鳴る事なく終ぞなるべく穏やかに接していたことだったかもしれない。

 

「これで少しは変わってくれると良いのだけれど……」

 

 そうじゃないと氏照の”お話”をするしかないかもしれない。あれはなぁ……流石に……、と考えながらもいざとなればそうするしかないか……と、ため息を深く吐いた。最近あまりなかった胃痛がぶり返し始めている。しかも、義妹に婚約を取られた。何だか無性に腹が立ってきた氏康は、謹慎中の兼音の元に押しかけてやろうと決意するのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「謹慎を食らった」

 

「アハハハハハ!」

 

 爆笑しているのは今回護衛としてくっついてきた左近だ。彼女は胤治の引き抜きでやって来た大和よりの将である。史実では三成に過ぎたるものとまで呼ばれた将なのであるが、実際能力は高い。それは見て取れるし、頭の回転も速い。優秀なのは大変結構なのだが、如何せん性格はあまり務め人には向いていないだろう。当家のような寄せ集めでないとあまり力を発揮できないだろうし、古い家柄だとその能力を使い切れないのではないかと思われる。よっぽどの人材難なら別だが……。

 

 独自の価値観や精神性を持っているのでこうやって主が謹慎を食らっても平気で笑っているのである。別に咎める気は無いのだが、ムカつかないと言えば嘘になる。なので、仕事をやらせることにした。

 

「そんなに面白いか」

 

「まぁそれなりには。いやぁ私は一族滅殺。ご主君は殿中抜刀。良い感じに釣り合いが取れているではありませんか」

 

「どこがだ、全く」

 

「真面目な話、面子を潰されたのです。相手の御仁は殿中でやられずとも世が世なら屋敷に夜討ちをかけられても文句は言えない立場ですからな。それに家臣団である我らも、嘲笑に耐えるよりは抗する主の方が仕え甲斐があると言うもの」

 

「それはどうも。お主、暇か?暇だな。これより任を与える」

 

「答えておらんのですが」

 

「主を笑った軽い罰よ。元忠が間もなく常陸へ向かう。それに私の名代として同行せよ」

 

「元忠とは周防守様ですかな」

 

「左様。そこで色々学んで参れ」

 

「はて、私にこれ以上学ぶ事などあるでしょうか?」

 

「自信があるのは良い事だが、研鑽を怠れば身を滅ぼすぞ。元忠は非常に優秀だ。その手腕を見れば必ずや学ぶところがある。もし仮に本当に無いのであれば、無かったという事が学べる。学ぶことがないというのは怠慢だ」

 

「これは申し訳ございません」

 

「全く申し訳ないと思っておらんな。まぁ良い。見れば変わろう。元忠には話を通しておくから、しっかりと任を全うし、元忠を主と思うて命ぜられれば従う事。良いな」

 

「御意」

 

 肩を竦めながら彼女は了承の言葉を言った。舐められているのではなく親しみを持たれているのだと好意的に解釈しておくことにする。戦わせれば強いので、万が一偶発的に戦闘となった際も役に立つだろう。元忠と相性が良いかは不明だが……まぁアイツはそこまで狭量ではない。多少変人でも流してくれるだろう。

 

 古河で遊んでくると言ってフラっと出ていった左近と入れ替わりになるように意外な人物が訪ねてきた。

 

「これはこれは幻庵様。このような場所に御足労いただきありがとうございます」

 

「ふぉふぉふぉ。そう固くならんでよい」

 

 扇を口元にやり、笑っている。北条幻庵。諱は長綱。幼名は菊寿丸。箱根権現の別当をしていることでも知られている。史実では北条早雲の息子だったが、この世界では氏政様と同じように続柄や性別が変わっており、早雲公の妹になっている。その特徴は恐らく五十代、なんなら六十代に突入しているであろうに二十代後半~三十代と言っても遜色ない顔をしている。色褪せぬ美貌は魔女の様だと私は思っている。或いは人魚の肉でも食べたのかもしれない。

 

 この時代に近い年代を題材にした南総里見八犬伝では人魚の肉を食べた尼僧が出てきていた記憶がある。それと同じなのではないかと疑っているところだ。

 

「一応役目でな。手が空いておった故、しっかり反省して頭を冷やしておるか見に来たわけじゃ。ま、見る限り大丈夫そうだがな」

 

「ご迷惑をおかけいたします」

 

「家中はお主に同情的じゃ。さして影響は無いじゃろう。逸るのは若者の特権じゃが、次からは気を付けよ。お主は昔のように一介の侍大将ではない。城と領民を持つ領主じゃ。お主の行動一つでその者たちの運命まで変わってしまうやもしれぬ。用心することじゃ」

 

「御訓示、ごもっともにございます」

 

「綱成の件は氏照を上手く使ったな。じゃが、氏康はどうする。あのお嬢、少しばかり拗ねておったぞ」

 

「駿河へ赴くには日がございます。その間に、弁解をしようかと」

 

「そうか。流石に無為無策、という訳では無いようじゃな。色恋沙汰で家を真っ二つにするわけにはいかん。綱成はまだ良いが、氏康と結ばれたいと思うならばより一層慎重に、先を読みながら動くべきと思うぞ。氏政は何やら蠢動しておるが、まだまだ甘いと言わざるを得ん。その甘い誘いに乗らず、時局を読むのじゃ、良いな」

 

「はっ!」

 

「……ま、儂に言う資格があるのかは分からんがな」

 

 自嘲するように口を歪ませ、幻庵様は言った。少しばかり疑問に思っていたことがあった。これまで聞く機会も、そんな時間も無かったが今なら聞けるかもしれない。

 

「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」

 

「この老婆に答えられることならば良いがな」

 

「幻庵様には御子がおられますな」

 

「ああ、おるぞ。揃いも揃って問題児ばかりじゃが、それでも可愛い子じゃ。それがどうした」

 

「子と言うのは男女そろって初めて産まれるもの。であれば……あの方々の父君、幻庵様の夫君とはどなたなのでしょうか」

 

「…………」

 

 私の質問に眉を顰め、しばらく黙っておられた。数分の沈黙の後、こちらを見据え、その口が開かれる。

 

「人払いをしてくれぬか」

 

「承知。聞いておったな、下がれ」

 

 スッと気配が消え、護衛がいなくなる。段蔵ならばもし万が一があってもどうにか出来るだろう。

 

「誰にも言うてはならんぞ。これを家中で知っておるのは当主の氏康と当時も生きておった宿老である盛秀と信為のみじゃ。他には誰も知らん。お主は今後の北条を担う者。それに隠し通しても無駄じゃと思うが故、話そう。早雲殿の話はいかほど知っておる」

 

「ほぼ全て、のつもりでございますが」

 

「そうか。小田原の城にも当時の事に関する記録は多く残しておる。知っておる者から話を聞いたこともあろうな。だが、その中で一つ、何の記録もなく誰も語らぬ戦があるのには気付いたか」

 

「……伊豆討ち入り」

 

「その通りである」

 

 奇妙な話だった。伊豆討ち入りは足利茶々丸を討つべく公方足利義澄の命で行われたもののはず。堀越公方足利政和亡きあと、潤童子とその母である円満院を殺した挙句暴政を働く茶々丸を討つための戦い。いわば幕命である。これの正当性は幕府が担保しているので、北条家としてはなんら恥じるところではない。伊豆の領有もその時に認められているはずだ。

 

 だからこそ奇妙ではあった。その資料が残っていないのは。誰も武勲として口にしないのは。あそこであの時何があったのか。それを知る者は次々鬼籍に入っている。氏康様に資料がない理由を聞けば燃やしたとしか言わなかった。何故なのか。露見したくない事実がそこに書かれていたから。

 

 その時、脳内で糸が繋がったような気がした。だがこれは……そんな訳ないと思いながら話を聞く。

 

「お主の書いているという歴史書にも書いてはならんぞ。絶対に漏らしてはならん。漏らせば命、無いと思うが良い」

 

「承知しました」

 

「あれはまだ儂が若い頃。兄である早雲と共に今川の家督相続を助けた後の話じゃ。兄は都と駿河を行ったり来たりであった故、儂が城代として興国寺城を預かっておった。ある時伊豆の領民が逃げ込んで参っての。税が厳しすぎるとのことじゃった。聞けば、武者小路から嫁いできた継室が堀越公方の名の下に贅沢するべく絞っておると聞いた。その真偽を確かめるべく、堀越公方の偵察も兼ね、儂は伊豆へ赴いた。そこで見えたのは、歪な堀越公方の内情じゃった。執事の上杉政憲が必死にあの女……円満院を押しとどめておったが讒言され自害に追い込まれた。そして正嫡に元服もさせておらなんだ。そして儂はあの日、運命に出会ってしまった。伊豆の山中。継母より受ける仕打ちの憂さを晴らすべく遠乗りしておった、儂の恋慕う君に……。まさか後に討つべく兵を挙げるなど、あの時は思いもよらなかったがの」

 

「で、では……いやまさか、貴女様の夫君は!」

 

 あり得ないという思いが占める。それは、北条家の正当性を揺らがせ、ひいては幕府に弓引く行動。早雲は最後まで都の公方にはしっかりと筋を通し続けた。上杉との戦闘も、最初は望んでのものでは無かったと聞く。

 

「ここまで言えば気付くか。左様。出会いより密かに逢瀬を重ね、それが実らず兄に従い兵を挙げ、別れを心中で済ませるも伊豆討ち入りの際に脱出してきたのを見てしまい、そのまま恋に流され匿ってしまった。儂の愛すべき方。世間では、大罪人・暴虐の男・足利茶々丸。そう呼ばれておるな」

 

 寂しげな顔で幻庵様は笑った。




次回はいつになるか分かりませんが、早めに出せるように頑張ります。なお、本編完結後(数年単位で後)には北条の野望~Episode・ZERO~と称して早雲の話を連載予定。応仁の乱で乱世に絶望した少年が救世を掲げて奔走するストーリーです。また、北条の野望~Episode・World War~も構想中。世界大戦を生き残る皇国の姿を描く予定です。まぁいつになるかマジで未定ですがその時はお楽しみに!


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第97話 三国同盟

相甲駿三国同盟→武田の裏切りで崩壊
日独伊三国同盟→イタリアの降伏で崩壊
独伊墺三国同盟→イタリアの裏切りで崩壊

なんだこれ。


 古河城での謹慎も終わり、現在は海路をひたすら駿河へ向かっている。目指すは駿河の善徳寺。ここで2度目の三国の首脳が集まっての会合が行われる。史実では代表だけ来て当主陣は来なかったという説もあるようだが、こちらの世界では堂々と三国のトップが会談となる。

 

 まずは我らが北条家の北条氏康様。関東の覇者である。現在は伊豆、相模、武蔵の国主であり、下総・上野の半国、そして常陸の一部を領有する日本有数の大大名である。関東平野を支配しているため、国力は多い。内政重視の国家方針により大いに富んでいる現状、向かうところ敵なしではあるが、それでも敵対勢力は皆手ごわい。それ故に、今回の同盟は西の守りを固め、そこに割いている戦力を東へ回すためにも必要な事であった。

 

 二番手は今川義元。駿河、遠江、三河の三国を収める名門である。将軍家に近い血筋を持っており、三国とは言えそれらはいずれも豊かである。海上交易でも財を成しているため、その動員兵力は多い。織田家との抗争を優位に進めるべく、今回の同盟に参加している。北条家とは縁戚だが、対立関係にあったため昔のような友誼はほぼ無いに等しい。

 

 国力順三番手は発起人の武田晴信。甲斐、信濃を収めている。甲斐守護ではあるが、いずれの国も山がちであり甲斐はほぼ生産性においてなんら誇れないので国力は低い。ただし、それ故にハングリー精神に満ちた獰猛な軍隊を所有しており、山がちな地形は守りやすいことも相まって敵対すれば厄介な存在であるのには変わりない。外交での主導権を握るため、そして再度周辺国境を安定化させ北へ向かおうと試みている。

 

 船団は東京湾を過ぎて伊豆半島を周り、駿河湾に入っていた。

 

「申し上げます!あと半刻ほどで駿河の湊に到着致します」

 

「そう。ご苦労様」

 

「はっ!」

 

 到着時刻が知らされる。揺れる船内で今は私と氏康様だけだった。幻庵様は違う船にいる。

 

「おばばから聞いたのね。当家の最上級の機密を」

 

「はい……。よもや堀越公方家の血を引く方が関東に、しかも当家の御一門とは思いもよりませんでした」

 

「徹底的に隠して死んだことにしたもの。当然と言えば当然ね。それに、あなたのところの姫とはわけが違うのよ。これがもし露見すれば、幕府に背いたことになりかねないわ。それ故に、茶々丸殿――諱は密かに元服して政綱と名乗っていたけれど――は死んだことにせざるを得なかったの」

 

「それは重々承知しております。伊豆討ち入りは元は足利義澄公の御下命によるものだったと聞き及んでおりますから」

 

「ちなみに、氏政の政はここから引っ張ってきたのよ。一門衆ではあったから、その縁でね」

 

「そうだったのですか」

 

「これも、ほとんど知る者はいない事だけれど。今川を敵にするのとは訳が違うものね。仕方がない事だったけれど……果たして本当に幸せだったのかは……。ずっとおばばの屋敷から出る事は無かったわ。生涯、ただ一度もね。遠乗りや鷹狩を好む武闘派だったと聞いているけれど、外の景色すら見ることなく終わってしまった。おばばも、それを後悔していたわ。愛するが故、死んで欲しくないと思ったが故に、半ば強引に監禁してしまったと。それで武士の誇りを損ねてしまったのではないかと」

 

「左様でしたか。その口ぶりから判断いたしますに、もう既に亡くなられておいでですか?」

 

「ええ。お祖父様と時をほぼ同じくしてね。私はまだ生まれていなかったけれど」

 

「氏康様はお生まれになっておられなかったので?」

 

「そうよ?私が生まれる数年前だったかしら。だから、お祖父様の事は人伝にしか知らないの。氏康という名はお祖父さまが遺してくれたと聞いているけれど、繋がりなんてその程度よ。茶々丸殿も、私たちを置いてさっさと鬼籍に入られてしまったわ。おばばの落ち込みようも凄かったと聞いているけれど……生憎それも知らないのよね」

 

「あの幻庵様が……。あまり想像は出来ませんが。しかし……茶々丸殿は幸福であったことでしょう」

 

「そうかしら」

 

「ええ。間違いなく。でなくば、とっくの昔に自害しておられるはず。屋敷の中で年中付きっ切りと言う訳ではございますまい。刃物一本あれば、その命断てたはず。死人の本心はわかりませんが想像は出来ます。子や愛する妻に囲まれて死んだのであれば、人としてこれ以上のものは無いと、私は思うのです。閉じ込められていても、自由など無くても。愛はきっと、あったのではないでしょうか」

 

「……あなたは時々そういう風に夢想的になるわね」

 

「悪い事ではございませんでしょう?人生など夢のようなもの。さればこそ、その夢を全力で走り抜けるのでございます。評価なぞ後から付いてきましょう」

 

「だと良いのだけれど」

 

 一連の会話でおや、と思う。史実の北条早雲が亡くなったのは1519年と言われている。反対に氏康様の生誕は1515年だったはず。この世界は時の流れが速いとは言え、死んでいく順序は同じになっている。であれば、早雲公が死んだときには氏康様は既に生誕していたはずだが……?

 

 この前のイングランド船の話では、既に英国女王はエリザベス1世になっているとの事だった。ブラッディ・メアリーは既に死去したんだそうで。ただこれも妙な話だ。彼女の即位は1558年のはず。今の時系列は大体1555年前後を進行しているはずなので、イングランドが嘘をついていない限りここでもズレが生じている。世界史単位でも細かいズレが生まれている可能性はあるので、この辺に注意しないと国際情勢を見誤る可能性がある。全く情報が入ってこない明や朝鮮、女真についても気になるところだ。トルコがスレイマン1世なのは正しいようだったが。

 

 スペインにはフェリペ2世、ネーデルラントにはオラニエ公ウィレム、イングランドにもシェイクスピアやキャプテン・ドレイク、フランスはナントの王令のアンリ4世、ロシアには雷帝、ムガルのアクバル帝もいる。もう少ししたらサファヴィー朝のアッバース1世も出てくるのだ。なんだこの面子。世界史やってる人なら誰もが一度は名前を聞いたことのあるオールスターだぞ。怖すぎる。その反面、一度会ってみたいという思いもある。これは歴史愛好家なら誰もが一度は夢見る事では無いだろうか。

 

 エリザベス2世なら一度だけ修学旅行でイギリスに行った際に偶然パレードに遭遇し、生で見たことがあるが、1世の方はあるわけもない。外交使節とかになれば行けるのだろうか。早く平和になって欲しいものである。そうしたら引退して世界を巡れるのに。

 

「何を考えているのかしら」

 

「日ノ本や世界の今後について思いを巡らせておりました」

 

「そう。それも大切だけれど、その前にまず私との将来について思いを巡らせましょうか」

 

 目が笑っていない。さっきまで穏やかな感じだったのに、目が完全に笑っていない。口角は上がって微笑んでいるが、それが逆に恐怖を煽っている。滅茶苦茶怖いが、正直な話古河で色々あって先伸ばしにしていたのはこちらだ。怒られても文句は言えないだろうとは思っている。それはそれとして怖いが。義妹(いもうと)の助言を活かす時が来たのかもしれない。

 

 求めているものを考えないといけない。同時に、それは嘘であってはいけない。なかなかの難題だ。だが、ここで氏康様の求めている発言を考える事自体はそう難しくない。運のいい事に、私の本心とも一致する。であればどうするか。答えは簡単だ。言うしかない。だが問題はその発言の順番だ。流れをどうにか取り戻すには、一つ賭けに出る必要があるだろう。

 

 向こうは梃子でも動かないつもりらしい。ついでに言えば、私から話し始めるまで黙っている腹づもりと見た。であれば……。

 

「申し上げたいことがあります」

 

「何でしょう」

 

「好きです。つきましては将来的に祝言を挙げて頂けないでしょうか?」

 

 人生でまさかこんなにも短期間に告白を繰り返すことになるとは思わなかった。それも今までの全部を成立させたうえでという、現代では凡そただの浮気男の仕草をしながらである。ただ、例え何回告白しようとも慣れないものは慣れない。今でも心臓はバクバクなっている。それでも脳は意外と冷静に頑張って今後どういう答えが来るかのシミュレーションをしていた。

 

 政景のアドバイスは大変ありがたい。これで相手の求めている解答と自分の中での線引きを上手くすり合わせる事が出来る。恋は戦は本当その通りかもしれない。相手を落とせるかどうかが全てだ。ここで私は、主君という難攻不落な上に本来御所レベルに攻略してはいけない城を落とそうとしている。やってることは禁忌だ。だが、それを打ち破れずして、運命などに抗えようか。

 

「…………え」

 

「つまりはですね」

 

「良いわよ、分かってるから。……本気?」

 

「こういう類の戯言は言わない主義でございます」

 

「いえ……でも私は……」

 

「身分差に関しては何とかします」

 

「何とかって、軽く言うけれどこれはこの日ノ本に古くからある因習よ?そう簡単にはどうこう出来る問題ではないわ。どうしても男系が重んじられてしまう。例え女が当主であろうともね」

 

「では、氏康様は一生涯を独身でお過ごしになるおつもりですか」

 

「それは……いずれは子孫を残さないといけないとは分かっている。分かっているけれど……」

 

「私では嫌ですか?であれば、そう言ってください。張り裂けそうな思いになりはしますが、第一にすべきは御身の幸福。潔く身を退きましょう」

 

「そうではないの。そうではないのだけれど……」

 

 少しの間、沈黙が生まれる。その間、私は視線をそらさず氏康様を見つめていた。反対に、彼女は視線を動かしている。虚空を眺め、何かを考えているようだった。フラれるのならばそれはそれで仕方がない事だと思っている。それでももし、可能性が1ミリでもあるのならば。それをこじ開けてみせる。

 

「……覚悟は、あるのね」

 

「さもなくば、このような事申しません」

 

「今すぐにというのは無理よ。それこそ、私が引退するか、天下、とまでは行かなくともせめて関東を制し、貴方がそれ相応の家柄の猶子にでもならない限りは」

 

「承知の上でございます。例えどれだけ時がかかろうとも、この想い尽きる事はありません」

 

「他の女に目移りしておいてよく言うわね。私が交換条件で他の女全員と手を切れと言ったらどうするの?」

 

「その際は全力で説得に当たる所存です」

 

「呆れた。私を第一にしておきながら、願いは聞いてくれないのね」

 

「その手のお願いは残念ながら。ですがそれ以外に望むものがあるならば叶えましょう。私は、必ず御身を幸せに致します。もしかしたら、長い生涯の中で涙を流させてしまうかもしれません。しかしその分は必ず、何倍もの幸福を以てお返しいたします」

 

 私の答えは真剣だ。ただのクズだと言われればそれはその通り。なんの反論も出来ない。確かに一夫多妻が認められており階層が上がるほどそれが常識であっても、女性陣はいつだって自分を第一に見て欲しいものだとは思っている。それに、他の人に現を抜かすのを好む人もいないだろう。

 

 だが、私の答えはこれしかない。問題も全て分かった上でこうしている。相手の気持ちに答えないのは、私の行為よりもずっと良くない事だと考えているから。余人に何と言われようとも、私の想いは偽物ではない。全員必ず何とかして幸せにしたいと思っている。それが私なりの、この世界での責任の取り方だ。

 

 氏康様は大きくため息を吐く。その白い肌には、どこか仄かに赤い色が見える。元々別に真っ白という訳では無いが、それでもここまで赤、というかピンク色では無かった。少しは心を動かして、もっと言えば照れてくれたのだろうか。私の告白を好意的に捉えてもらえたならば、それだけで万々歳だ。

 

「はぁぁぁ!何でこんな男を好きになってしまったのかしらね。まぁ理由は分かっているけれど。でもどうしようもないのよね。好きになった自分は騙せないし、好きになるのに根本的なところで理由なんか無いのだから。良いでしょう。暫くは今まで通り。年単位でそれが続くでしょうけれど、それでも良いのであれば受けます。ただし!今は絶対無理。それは分かっているとは思うけれど、念のために言っておきます。私は主家、貴方は家臣。その区別はつけないといけない。これが崩すには私が降嫁するしかないけれど、その為には氏政に家督を譲らないといけない。そしてまだその時ではないわ。当分無理でしょうね。……とまぁ正直に言ってしまえば、決して楽ではないけれどそれでも良いなら、恋人から始めましょう?」

 

「ありがたき幸せ!」

 

「全く、しょうがない人。こんな問いを即答なんてね。普段は立派なのに、この手の話題になるだけで途端にこの様よ。でも、まぁ、それが良いのかもしれないわね……。私ももうダメね、はぁ……」

 

 氏康様が息をもう一度吐いた時、波によって船が大きく揺れる。それによってバランスを崩した身体が、私の腕の中に転がり込んできた。そのアメジストのような瞳が、私の腕の中からこちらを見上げる。どちらからともなく顔が近づいていき――――

 

「失礼いたします!」

 

 外からの呼び声に良い感じだったムードは一瞬で崩れ、氏康様は凄い勢いで私の腕の中から脱出し、元いた席に座った。まるでなんでもないような顔をしているのだから、女性は怖いものである。その澄ました顔もまた綺麗に見えるのだから惚れた弱みというものだろうか。

 

「間もなく到着となります。ご準備のほどをよろしくお願い致します」

 

「ご苦労様」

 

「はっ!」

 

 事実、外を見ればもう港が見えてくる。連絡をしたのは職責に則ってのことだろう。恨むのは筋違いである。それに、現代でもいきなり告ってすぐキスなんてのは少しスピーディーすぎると言えるだろう。流石に早過ぎる。

 

「それでは少し真面目な話を。分かっているとは思うけれど、今回の交渉では対今川が主軸になるわ。駿東はもう諦めていると思うけれど、出来るだけ有利になるような条件を引っ張り出すわよ。後、織田家との関係は切らない方針で行きましょう」

 

「二枚舌、という事ですね」

 

「その通り。何か言われても上手い事誤魔化していきましょう。どうせ向こうも佐竹や里見と繋がっているでしょうし。貴方の意見を信じるならば、織田信奈というのは傑物なのでしょう?」

 

「まだその目は覚めておりませぬが、いずれ必ず我らに影響を及ぼしてくるでしょう」

 

「ならば尚更関係性は残しておくべきね。武田に主導権を握らせてなるものですか」

 

「幻庵様ともある程度の話はついております。ご安心を」

 

「どうせ向こうもいつもの顔ぶれでしょうけれど、油断は厳禁。気を引き締めていきましょう」

 

「承知しました」

 

 船は湊に停泊し、我々も下船をする。桟橋に降り立つ際に揺れていた船から降りたために少しフラつく氏康様の手を取った。陶磁器のように滑らかな肌だが、その掌には筆まめと見える跡がある。少しだけ隠したそうにしていたのはこの為だったのかもしれない。日夜政務をこなしておられる証であろう。立派な事だと思うが、本人が気にしていることを指摘するのも失礼なので黙っておく。

 

 顔を見ていると、私が先ほどの事を悔しがっていると勘違いされてしまったようだ。ニッといたずらっぽく笑い、口パクで伝えてくる。口の動き的に『ざ ん ね ん。お あ ず け』と言っているように見える。読み取った事を理解したのか、そのままウインクして他の同行員に指示を出し始めた。年下に掌で転がされているような感じがある。私を振り回せるのは彼女だけだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 善徳寺には三国の代表とその重臣が揃っている。呼びかけた武田家からは晴信の他に穴山信君、山本勘助、他には史実で武田家の外交官だった駒井高白斎もいる。次に今川家だが、義元の他には太原雪斎が一人だけ。他はいらないという判断なのであった。良くも悪くも最高責任者なのがうかがえる。当家は氏康の他、北条幻庵、一条兼音、そして松田盛秀だ。

 

 善徳寺の広間にいるのは当主とその軍師役だけ。穴山信君、駒井高白斎、盛秀殿は別室で細かい要項を詰めている。こちらでは話しきれない経済面や軍事面の約定をしている。それをすり合わせていくのが同盟である。一朝一夕では出来はしない。ウィーン会議を見ていれば分かる。

 

「景虎上洛の隙に、魚沼・坂戸城主の長尾政景を調略することができれば、越後を分裂させることができるはずだった。しかし、政景は予想に反して動かなかった。北条高広もまた本気で景虎と戦うつもりはない――あたしと勘助は何度も話し合ったが、やはり川中島で次こそ景虎と雌雄を決する他はない」

 

「左様。この三国同盟が成立すれば、武田は東海道筋への道を失いまする。しかしながら、長尾景虎と長尾政景率いる越軍を押し返すこと、容易ではありませぬ。両者の離間がならぬならば、越軍決戦し、直江津へと抜けて北の海に出る他はなし……と、御屋形さまはご決断なさいました」

 

 武田晴信と、山本勘助。二人にとって景虎の上洛は、川中島での合戦を行わずに越後に勝つ乾坤一擲の好機だった。だったというのはその時期を少し逸してしまっていることを意味している。景虎が上洛して越後を不在としている隙に、勘助は越後国主の座を景虎と奪い合ってきた野望の男・長尾政景に「離間の策」をかけたが、乗ってきた者は北条高広だけ。

 

 長尾政景は、「フン。俺と景虎との戦いは、俺自身の戦いだ。武田などの手は借りん。他家の力などに頼った瞬間に、俺は景虎に敗れることになるのだ。貴様らには理解できんだろうがな」と、調略の使者をすげなく追い返したと聞いている。話すら聞かないのは最早その気はゼロであると思って良いだろう。彼は自分の手で長尾景虎を討ちたいのである。

 

 なお、その北条高広についても、「信州と関東の二正面作戦に続いて、京の将軍家の走狗とされてしまえば、景虎さまは身体がいくつあっても足りぬ。この上、高野山へ近づけるのはまずい……あのお方は、元来、乱世の民の心を救う宗教者として生まれついたお方。修羅の如き戦国武将をやめて霊山に籠もり、神々との交信に没頭しかねない。それでは、それがしども越後の国人衆は主を失い、越後は危うくなろう。それがしにとっては大損」と、武田への寝返りを口実として、景虎を高野山から越後へと呼び戻すために反乱の誘いに乗ったにすぎなかった。

 

 事実、上洛以後、越後での姫武将としての厳しい戦いの日々から解放されて高野山で真言密教と禅を学んでいた景虎は急遽越後へと舞い戻り、「武田晴信は許しがたし」と川中島への長期遠征の準備をはじめている。武田にとっては、藪蛇な結果となっていた。

 

 駿河に寄食している武田陸奥守信虎が、「川中島などどうでもよい。この儂の存在など無視して、駿河を盗ってしまえばよかったものを。晴信め、臆病にも程がある」と愚痴りながらも太原雪斎と山本勘助の間に立って交渉の取り次ぎを務め、ついにはこの善徳寺で三国同盟の締結が行われることとなったのである。

 

 武田家主従の声に、氏康が応える。

 

「当家としても、魚沼の長尾政景が勘助の調略に動じなかったことはまぁ、ある程度は覚悟していたとはいえ面倒と認識しているわ。魚沼を長尾が押さえている限り、景虎はいずれ必ずまた関東管領・上杉憲政を押し立てて関東に遠征してくるはず。沼田も近いのよね。上洛したことによって、あの女の義だの秩序だの権威の復興だのといった時代遅れで的外れな夢とやらはますます大きく膨らんでいることでしょうから……景虎が川中島で晴信と死闘を繰り広げてくれると、私は助かるのよ。関東の支配を固めていく時間が手に入るもの」

 

 確かに長尾政景の調略拒否は北条からしても残念なことだった。上手く行けば楔を打ち込めたものだったが、彼からすれば、景虎と決戦に及ぶ時が来るとしても、それは政景自身が独力で蜂起して勝たねばならない決戦であり、ましてや景虎が越後を留守にしている隙に泥棒のように盗み取るような卑劣な勝利では意味がない――政景はそう思い定めているらしい。

 

「ふぉっふぉっふぉっ。政景とやらは、どうも景虎に惚れ込んでおるようじゃのう。景虎の武に対して己の武で勝てねば、勝ちとは言えぬ、と信じておる。あの者、悪人ではあるが、好漢じゃな」

 

「峠での漸減邀撃にも限界はございます。信濃で越後勢に出血を強いられるのならば関東勢は万々歳。今年一年は平和に過ごせるのですから」

 

 あくまでも民衆第一を押し出しながら兼音も幻庵に続ける。このスタンスというかマニフェストというかを崩す訳にはいかないのであった。北条家のアイデンティティに近いところに民政第一というのは存在している。他家との差別化は大事であるのだ。

 

「藪をつついて蛇を出した方々には是非とも頑張っていただきたいわね」

 

 山本勘助は氏康の武田家主従を責める視線を感じたようで、少し顔を青くしながら答えた。

 

「あいや。それがし一人の責任にござりまする!御屋形様は決して、空き巣泥棒を企んだわけでは。むしろ……このまま景虎殿が高野山で得度し悟りを開けば、御屋形様にとっては無念なれど、景虎殿にとっても民衆にとっても、それはそれで良きことであろうと……」

 

「よくもまぁ言ったものね。ともあれ、大まかな同盟における内容は一致しているわ。それに、協力する、という一点においては既にこの場に来ている時点で納得しているはず。ひとまず共に手を携える、という文面の起請文に花押を入れましょう。良いわね、雪斎?」

 

 氏康の問いに対し御意、と今川義元の宰相を務める太原雪斎が微笑んでいた。

 

 この同盟を成立させたい者は、ありていに言えば、武田よりも今川なのである。北条・武田との不戦同盟が成立すれば、三河の松平家を飲み込んだ今川義元はいよいよ尾張の織田家との決戦に全力を注ぐことができる――東海道の要を塞いでいる織田弾正忠家さえ倒せば、あとは上洛あるのみなのだ。

 

 川中島で景虎と決戦をはじめねばならない武田晴信は、駿河進出を断念することになる。晴信と勘助は、野望のためならばなんでもやる。いずれ父・武田信虎を亡命させている今川家をも裏切り東海道を求めて南下してくるに違いないと雪斎は常にこの二人の動きを警戒していたが、長尾景虎の出現がすべてを変えたのだ。あとしばらくは、晴信と勘助は川中島に釘付けにされるだろう。決戦に挑めば、もはや「軍神」とまで呼ばれるようになった景虎に大敗して、命を落とすやもしれなかった。

 

 晴信殿に死なれてしまっては武田は滅びる。それでは東国が乱れ、かえって困るが……武田の軍師・勘助殿が川中島で倒れてくれれば、拙僧としては好都合、と考えていた。事実、武田が今のような拡大方針を取っているのは勘助の影響が大きい。そうでなければいずれ北条か今川の属国になっていただろう。

 

 関東制覇を目論む北条氏康もまた、その景虎率いる関東管領復興軍といずれ再びは戦わねばならない。組織的でかつ粘り強い武田軍と、神がかりで瞬間的な爆発力を誇る越軍とは、水と油のように噛み合わない。元々堅実な作戦を得意とする北条軍は待ちの場合は強い。加えて今は軍制改革の真っただ中であり、軍団編成や戦闘指揮系統なども変更が加えられている。噛み合わない甲越両軍が相争うのを時間稼ぎに使い、改革を完了するのが北条家の戦略となっている。そして今川にとって運のいいことに、その目は基本東を向いている。

 

 この場の多くにとっての敵・景虎は上洛の折、御所を参内し、隣国の乱れを鎮めよ、という綸旨を頂いている。関白・近衛前久にも痛く気に入られているという。この、近衛前久が実質的に作成して景虎に渡した綸旨の文面が問題だった。そう。「隣国」とは、「信濃」だけではなく「関東」をも含んでいるのだ。むしろ近衛は、関東管領が事実上失われた関東をこそ、景虎の武によって鎮圧させ、御所と足利幕府を強力に支える東国の兵站基地と為したいらしい。さすれば、三好松永の輩と戦い勝つことも可能だ、と踏んでいるのだろう。それにひきかえ信濃・川中島は、広大な関東の平野と比べれば、あまりにも狭すぎる。

 

 北条殿は賢い。その横の軍師も若い。幻庵殿はともかく、土佐守殿は後数十年は生きられる。その時、勘助殿は勿論、拙僧も鬼籍。これは困ったと思っていたが、軍神殿には助かった。このまま厄介な土佐守殿もしばらくは十全に動けない。関東を制覇した次の目が駿遠に向かうかも分からない。このままでいて欲しい。越後には宇佐美と直江という二人の軍師が侍っている。その分、景虎殿の政治感覚のなさは十二分以上に補われているのだ。軍神殿は今川に来た福の神やも……と、雪斎は苦笑していた。

 

 来たるべき織田家との尾張決戦の戦略を思い描きながら。

 

 東尾張を調略によって徐々に奪い取ってしまえば、あとは沓掛から熱田へと至る道を如何いかがするかが最大の課題となるだろう。熱田まで盗れれば、あとは平坦な尾張平野が続くのみ。簡単に奪える。織田はせいぜい、奇襲に賭けるくらいしか策がないはず。三国同盟が成立した以上、あと二年、いやあと一年で、今川は上洛軍を興すことはできる。尾張を盗れば、将軍を庇護している近江の六角と同盟を組んで、東海道を突き進み都に義元様を入れることができる……!と雪斎の心は上洛に傾いている。喉元に突き付けられた短刀であった駿東も、この同盟で無力化される。

 

 京の都に義元を連れ帰り、日ノ本史上もっとも艶やかな「女王」として光り輝かせるという雪斎の夢までは、あと一歩だった。

 

「太原雪斎。ずいぶんと嬉しそうに酒を舐めるのね。あなたももう高齢なんだから、酒には注意したほうがいいわよ」

 

 老境の雪斎には、しかし、氏康のそんな小娘らしい軽い嫌みも愛らしく聞こえる。

 

「たしかに。目出度き場故、つい酒が進んでしまいますな。義元様、これでもう北条も武田も、今川領へは侵攻してきませぬ。我らはついに、堂々の上洛軍を率いて尾張を併呑する大詰めの戦をはじめられますぞ。天下は、義元様のものに」

 

 と目に涙を浮かべながらうなずいていた。

 

「ほ、ほ、ほ。雪斎さんが京に戻るのは、久方ぶりですわねえ。これまで、雪斎さんには苦労をかけてきましたわね。わらわは……今川家の後継者争い以来、京に隠れなき名僧である雪斎さんに、戦の采配から外交、内政、謀略に至るまで、あらゆる雑事を押しつけてきましたもの。上洛を果たせば、今川家は新たな管領職に。ようやく、雪斎さんに楽隠居していただける日が、迫ってきたのですわね」

 

 ますます派手な美人に成長していた今川義元は、「天晴れ」の扇子を広げて高笑いしていた。

 

「いえ、義元様。京には妖怪が多数住み着いておりますれば、将軍の身になにが起こるかもわかりませぬ。我らの上洛軍が迫ってくれば、焦った三好松永らが将軍を弑するという可能性すらございます」

 

「あらまあ。いくら松永さんが稀代の悪女でも、まさか?」

 

「そうなった場合は、将軍職任官をも視野に入れて参りましょう。足利が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ。それが、将軍職の順番にございますれば――」

 

 吉良家は三河に割拠していた名門中の名門であり、今川以上の高家だった。かねてより義元将軍宣下の可能性を探っていた雪斎はその吉良家をすでに今川家内に取り込み、吉良家の姫武将・吉良義安を人質としている。吉良義安はいまや、松平元康の髪切り係だ。

 

「しょせん甲斐の猿源氏・晴信さんには将軍位を継ぐ順番は回ってきませんものねえ、おかわいそうに。氏康さんに至っては、伊勢氏ですものねえ……しょっぱい家柄ですこと」

 

「まぁそれは否定しないわ。平家である()()()に将軍位はあり得ないもの。公方が身罷るというのも不敬な話……というのは置いておくとしても、そう簡単には上手く行かないわよ」

 

「果たしてそうでしょうか」

 

「確かに足利が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川と言うのは事実。しかし、鎌倉に誰がいるのか忘れてはいないでしょうね」

 

「鎌倉公方、足利晴氏様……」

 

 雪斎は苦い顔になる。確かに、政治的な影響力は少ないとはいえ、存在はしている。関東諸侯が北条によってたかって攻めないのはこの存在が大きかった。足利に弓引く勇気のある者は、現状関東にはいないのである。それ故にどこの勢力も正当性を探っている状態であった。

 

 そして足利である以上、継承権は存在している。しかも居場所は鎌倉。古き源氏の総本山である。

 

「北条に天下への意思はないわ。されど、足利を抱えている以上素直に今川家の将軍宣下を許せるかと言えばまた別の話ね。最低でも、関八州の守護職は貰わないと。ついでに東国探題とかも」

 

「それは上洛が実現した暁に詳しくすり合わせたく存じます」

 

「あらそう?ではその時に良いお話をしてくれるのを待っているわね。それまでは関東を引き続き切り取っていくわ。その後の支配も盤石にするべく、ね」

 

「ええ、ええ。よろしいですわよ氏康さん。わらわは太っ腹ですもの。京で風流暮らしができるならば、東国はあなたにお任せいたしますわ」

 

「北条による関東平定はいずれ達成されましょうな。景虎殿の唱える関東管領復興など、絵に描いた餅。上野で押し戻されるのが関の山。しかしながら晴信殿は、果たして越後へと出られますかな。拙僧、それだけが心配の種でして。川中島を抜いて直江津・春日山城へと至る北上の道は、距離的には近くとも、あまりに分厚い壁のように思えますれば」

 

 やはり北上は無理だった、駿河を奪って東海道へ出るほうが楽だ、と晴信殿の気が変わられると今川家にとっては一大事、おちおち上洛軍も興せませぬ、と雪斎が勘助を睨みながら切りだした。

 

「雪斎殿。それがしと御屋形様が、いずれ今川を裏切ると?」

 

「景虎殿上洛の隙をついて調略をかけ、また自らの父親を駿河へ追放する主従ですからな。まさに『兵は奇道』を地で行くお方たち。あなた方は、今川の上洛を助けるために川中島で貴重な時間と兵力を潰している己の境遇に見切りをつければ、三国同盟の一方的な破棄をも、やりかねませぬ――拙僧に言わせれば、景虎など本気で相手にせず『村上義清殿に城を戻しましょう』と適当にあしらっておけばよかったものを、むざむざ自分たちから景虎との戦いに首を突っ込んでいっているように思えますが」

 

「あいや。駿河には、その御屋形様のお父上・信虎様がおられます。妹の定様も、義妹として駿河に。武田が駿河を攻めることはありませぬ」

 

「しかし定殿はすでに病で亡くなられた。信虎様は、いつ何時駿河国内であなた方と歩調を合わせて反乱軍を興すかもしれぬ危険なお方。やはり……こたびは武田家と今川家との間で、婚姻が必要になりましょうな。が、われらが姫も晴信様もともに姫大名なれば、大名同士の婚姻は不可能」

 

「ですが、次郎信繁様は御屋形様のもとを決して離れぬと。次郎様を駿河に嫁に送ること、できませぬ。末の妹君・信廉様も同じこと」

 

「承知しております。姉とともに、父親を追放した妹。よほど晴信様を慕っておられるのでしょう。こちらより今川家の姫を送りましょう。なにぶん、この同盟でもっとも得をするのはわれら今川家。その程度の誠意は見せましょう」

 

「以前にも、その話は出ていましたな。独身を守る御屋形様の弟君、太郎義信様に、義元様の妹君を娶らせる……ということですな」

 

「その通り。義元様には、松姫様という妹がおられます。そろそろ祝言を挙げてもよいお年頃。こちらでは信虎様を引き続き預かり、そちらには松様を。これにて、お互いに――」

 

「――人質を取り合った形となり、不可侵同盟は守られるというわけですな。雪斎殿」

 

「左様」

 

 勘助は、苦渋の表情を浮かべていた。

 

 太郎義信はたしかに独り身だし、晴信・次郎信繁・孫六信廉の武田姉妹が揃って男性に興味を示さずにいっこうに祝言を挙げようとする気配がない今、そろそろ太郎義信に子が欲しい。武田家の「次世代」を、義信に急いでもうけてほしかった。また、大名の家たるもの、そうでなければならぬ。

 

 なにより、武田の姫を今川へはやれぬ。晴信が景虎に勝って越後の海へと北上できるかどうかという問題とは別に、武田が上洛するならば東海道を押さえるために今川をいずれ裏切って攻め潰さねばならないのだ。

 

 しかし、太郎義信は――守り役で姉代わりを務める幼なじみ・飯富兵部と惹かれ合っているようだった。色恋沙汰に鈍い勘助といえども、さすがに、わかる。あの二人の互いへの想いは、ただの姉弟という関係を越えたところにある、と。晴信は、この土壇場となってもなお、躊躇していた。

 

 会盟を行う前に、あらかじめ、義信に「今川から嫁を迎えることになるだろう」とは言ってある。義信も、「仕方ねえな。長尾景虎との決戦に敗れれば、武田は滅びる。武田家にとって、のるかそるかって正念場だ」と笑顔で承知していた。飯富兵部も、「べ、別にかまわねーぜ。なんであたしにそんな話をしてくるんだ御屋形様?」と口では承諾していた。だが……。

 

 武田家を守り生き残らせるためとはいえ――二人を引き裂いていいものだろうか、と考えすぎる晴信は甲斐から善徳寺への道中、悩み続けていたのだった。

 

「御屋形様。お気持ちはわかりますが……今は、三国同盟を成立させねばなりませぬ。景虎と戦うとは、そういうことなのです。政景が調略に乗らなかった以上は、川中島で次こそ雌雄を決せねば、武田は甲斐信濃に閉じ込められてしまうのです。よろしいですな」

 

「……勘助。どうせならば、長尾景虎と同盟を結びたかったな」

 

「それは無理な話です。景虎殿は、筋目と義を重んじる姫武将。越後と同盟するためには、信虎殿を甲斐へ呼び戻さねばならぬでしょう。むろん、信濃の征服地のすべてを、信濃諸将に返還せよということにもなります。信濃を手放して甲斐一国の国主に逆戻りしてしまえば、甲州の盆地に押し込められてしまった武田はなにもできませぬ」

 

 景虎さんというお方は浮き世離れしておられますのねえ、と今川義元が扇子を扇あおぎながら笑った。

 

「越後は駿河以上の大国だと伺っておりますわ。おそらく、お米も取れず塩すら満足に手に入らない貧しい貧しい甲斐の国がどのような有様なのか、知らないお方なのですわね。おーほほほ」

 

「ええ。私と義元が塩を止めれば甲斐の領民はみな干上がって飢え死にだものね」

 

「あら。塩を止めただけで? そうですの、氏康さん?」

 

「もちろん。山国では塩が取れないのよ。いくら晴信が金堀衆を集めて金山を掘っても、塩がなければ人は生きられないわ」

 

「まあまあ。想像を絶する未開の地ですのね、甲斐は……晴信さん……あなたほど戦好きで謀略好きで野望に満ちたお方が……駿河かせめて小田原に生まれていれば、今頃は天下人でしたでしょうに。おかわいそうに」

 

「……貴様ら二人と同盟しなければならないのは、まったくしゃくに障るな!わかった!越後の海まで北上し、塩の道も米も港も手に入れてやろうじゃないか!越後が手にしている青苧の利益は、膨大なものだという!貴様らは、あたしが越後を奪ったその時に、青ざめるのだ!」

 

 思わず挑発に乗ってしまった。いや、義元は挑発しているのではなく、天然で失礼なだけなのだが。しまった。太郎に、どう申し開きすれば……と思ったが後の祭りである。綸言汗の如し。取り消しは不可能だった。

 

 青苧の利益が出る云々を氏康は全く信じていない。それまでに時がかかり過ぎるからだ。その間に太平洋航路を開拓する。引いては南蛮航路を開き、東廻り航路を完成させることを狙っていた。南蛮船の建造も順調である。もうすぐ処女航海を迎えられるだろう。量産できれば南蛮へも足を延ばせる。経済面で負けない確信があるからこそ、氏康は煮え切らない武田を煽ったのだった。

 

「雪斎禅師。今川から武田へはそちらの姫君を。そして武田から北条へは既に人質を頂いております。故に、北条から今川への同盟の証として人をお送りする所存でございます」

 

「これはありがたき事。どなたがいらっしゃるのでしょうか」

 

「我が主氏康と相談した結果、近江守氏規様をお渡ししたく」

 

「承知いたしました。どのような取り扱いをお望みでしょうか。武将、或いは姫、もし婿をお探しとあれば今川一門からお渡しいたしますが。何れにしろ、北条と今川はかつての縁戚。一門衆として扱わせて頂きます」

 

 雪斎と兼音が交渉に入る。人質として氏規を送るのは確定路線だった。現在、氏照・氏尭・氏邦は皆所領がある。他は幼少過ぎる。よって良い感じに手の空いている氏規を派遣するのが妥当と判断されたのであった。雪斎の問いである扱いに関しても、既に本人の了解を得てあった。

 

「政務軍務何れも姉妹に負ける気は無し。今川の将として尽力するとの言質を頂いております。婿に関しては、今はまだ無用と。しかしいつ何時変わるかは分かりませぬ。その時はよしなに」

 

「相分かりました。聡明名高き北条家の御姉妹方が一人にお越しいただけるとあれば、当家の若手の励みにもなりましょう」

 

 太原雪斎は頷き、最後の行程に入る。この会談の大前提、細かい部分は置いておき、それぞれの方針を確認して人質を交わし、協力を誓うという部分の仕上げである。「それでは花押を」と義元に囁き、義元がすらすらと花押を書き入れてしまった。氏康もすかさず花押を書き込む。もはや、後戻りはできない。

 

「……御屋形様……申し訳ござらぬ。必ずやこの勘助が、次の川中島決戦にて越軍を打ち破りまする。我が、命にかけても!」

 

「仕方ない、勘助。甲斐という国が天下盗りに致命的に不利だということは、はじめから承知の上ではないか。景虎に深入りしたあたしの過ちだったのだ……」

 

「ですが、深入りせずとも、あちらから信濃へ攻め寄せて参ります。義という、形のない観念のために。観念による戦には、利害がない。利害がなければ、戦は終わりませぬ」

 

「……天はなぜあたしをこの戦国の世に生まれさせておきながら、景虎をも生まれさせたのだろうな……」

 

 晴信は、決意していた。絶対に、次の一戦で景虎に勝つ。勝てねば、義信と飯富兵部の恋を引き裂いただけに終わる。義信と飯富兵部には、あたしから重ねて詫びる。詫びて、承知してもらう。それでいいな勘助、と晴信は勘助に告げていた。それがしが景虎に勝つ策を立てねば!と感極まった山本勘助は、

 

「御意。それがしは生涯、独身を貫いて死にましょう。それがせめてもの……!」

 

 と涙ぐみながら口走った。お前はもともと大人の女に興味のない変態ではないか、と晴信は半泣きになりながらも思わず愚痴っていた。武田が恋を破局させて前に突き進んでいる様子を見ている北条家の主従は若干気まずい。兼音は目を逸らし、氏康もあまり直視しないようにしていた。ここに来るまでに自分達が何をしていたのかを考え、流石に申し訳ない気持ちになったのだ。

 

 ともあれ、三国同盟は、成立した。義信の嫁取りという大きな犠牲を武田家に強いることで背後の憂いを断った武田晴信と山本勘助は、目の前に迫っていた長尾景虎との決戦に、すべてを注ぎ込むことになった。再び、川中島へ――。

 

 今川義元は上洛準備を開始し、北条氏康は関八州の鎮圧に乗り出す。武田家に与えられた残り時間が、失われていく。川中島に封じられたまま、これ以上天の時を逸することは、許されない。勘助にとっても、そして晴信にとっても。晴信と景虎は――再び川中島で、相まみえることとなった。景虎は反乱を起こした北条高広を許し、晴信は今川・北条と甲相駿三国同盟を結び、ともに背後を固めての、総力戦である。

 

 互いに一歩も退くつもりはない。これが、対陣二百日にも及ぶ、前代未聞の長期戦。

 

「第二次川中島の合戦」である。



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第98話 小獅子

感想返し出来無くてごめんなさい……。その内必ずやるので、許して……!


 相甲駿それぞれの雄が一挙に集まっている時。東、関東の地では大規模な軍事作戦が始動していた。それは北条がほとんど動くことなく進行している。尤も、それは見かけ上のことであり事実としては北条家が裏で糸を引いているものではあったが、北条軍が動くことなく、小田家は窮地に陥りつつあった。

 

「此度は結城の者が暴走いたしましたこと、主家筋として謝罪致します」

 

 小田氏治。この名門を継いだ若き当主の前で北条為昌は頭を下げた。本来ならば下げるべき立場では無いのだが、堀越公方の孫である氏治の血筋と敢えて下手に出るという作戦上こうしているのである。

 

 涼やかに謝罪する為昌に対し、相対する氏治の顔は渋い。当たり前である。

 

「謝罪など幾らでも出来よう。鎌倉府は当家の家臣の間を引き裂き、当家の主従に過度な干渉をするつもりか!これは公方様の御意思か!そこを問いただしたい」

 

「鎌倉公方様にそのような意思はございません。全ては水谷の暴走ゆえ」

 

「ではその水谷を謝罪に来させるのが道理であろう」

 

「ごもっとも。されど水谷は今結城城にて当家の者の詰問を受けております。本来は彼を差し向けるべきではありますが、主筋である私の方が話が早いでしょう。小田殿とはお早く話をまとめるべきと判断し、姉・左京大夫氏康の命によりまかり越した次第」

 

「……ふん!で、どうしてくれるのだ。最早裏切り者の顔を見たいとは思わぬ。されどこのままやられたままでは示しがつかぬ。道理をわきまえるならば、水谷に腹切って貰いたいがいかに!」

 

「それは些か厳しいですね。水谷はただ、多賀谷の意思を尊重し手引きしたのみ。確かにその手引き自体も当家の意思に反するものではありましたが……裏切れと調略したわけではありません。向こうの願いに応えた。ただそれだけでありますが故に」

 

「詭弁を言いおって……女狐の妹も狐か」

 

「……」

 

 確かにこれが詭弁であると為昌は重々承知している。しかし、大国には大国の面子がある。謝るべきところは謝るが、あくまでもそこまで悪くは無いんだよと主張しないことには面子を守れなかった。それに、叱責は出来ても氏治の言うような処分をすることは出来ない。それをやると従属勢力が揺らぐ可能性がある。特に上野が危なかった。それ故に、詭弁でも押し通すことが必要なのである。

 

「そも、誠に申し上げにくいことなれど、讃岐守殿の人望が薄き事が此度の件の原因ではありませぬか?戦乱の世、小勢力が家を守るべく主を変えるは当たり前の所業。小田家のお怒りは尤もではあり、忠義を尽くすは立派なことなれど多賀谷の行いもまた、乱世では正しき事。当家を責める前に、自戒為されてはいかがか」

 

「この……!言わせておけば!」

 

「伊豆守殿、そこまでにして頂きたい。主を愚弄するのはお止めいただこう」

 

「菅谷殿、これは失礼いたしました。些か姉を罵る声が聞こえましたもので」

 

 菅谷政貞、小田四天王の一人である。幾度となく城を奪われた氏治に仕え続けた忠義の士であった。

 

「ですが……これは小田家のために申し上げているのです」

 

「なんですと?」

 

「小田家は亡くなられた先代左近衛中将殿の頃に大分領地を広げました。その結果、多くの恨みを買っております。北条動かぬ今、若年当主の小田家を討ち取らんとする勢力が蠢動し萌芽してもおかしくはありますまい」

 

「当家を、脅しているのか……?」

 

 氏治は顔を歪ませ、頬を赤くし低い声で言う。余裕そうな表情で為昌は座っていた。工作は順調に進んでいる。他家はこの機会を逃すはずもない。小田家が大国北条と揉めているのは有名な話だ。そして先代政治の北条嫌いも。目が別の方面に向いている間に仕掛けるのは常とう手段と言えよう。事実、現在進行形で兼音の策の通りに多くの勢力が戦支度を始めている。

 

「脅すなど、滅相もない。此度は不幸な行き違いはあれど、当家は小田家との友好を望んでおります。つきましては、水谷の謝罪で此度は手打ちにして頂きたく」

 

「そのような話、受け入れられるはずがなかろう!」

 

 声を荒らげる氏治。ここには小田家臣団も多くいる。新当主の威厳を見せつける必要があった。先代が飼っていた荒くれ者や癖のある者に当主の資質を見せねばならないのだ。北条家に強気に出る事がこの時の氏治の数少ない出来る事なのである。

 

 だが、氏治の運は悪いもので――――。

 

「讃岐守様に申し上げます!」

 

「何か!」

 

「府中城主、大掾貞国、木田余城に向け進軍中!城主・信太伊勢守様が指示を乞うております!加えて鹿島城の鹿島治幹も土浦城目掛けて霞ケ浦を行軍しております!」

 

「それぞれ数は!」

 

「はっきりとは分かりませんが、大掾は約千五百、鹿島は七百ほどかと!更に南方江戸崎城の土岐治頼、幼君相馬整胤を擁する下総相馬、布河城の豊島頼重らも不穏な動きを見せております」

 

 まさに包囲態勢。周辺諸侯が全て敵に回った状態である。小田家としても動かせる兵は少ない上に、北条領との境界の守りも解けない。丁度古河城の兵が結城領に入っているという報を受けている以上、背中をがら空きになど出来はしない。多方面での戦闘に勝利しなくてはいけない上に恐らく勝っても逆侵攻できるほどの体力はない。どうあがいても損だった。

 

 里見に援軍を頼むことも出来るが、それをしても里見は動けない。鹿島に介入しようにも千葉領である国境付近に向かって江戸衆が千人規模ではあるが軍が行軍している。明らかに示威行動である。その為、里見は偶発的戦闘による戦火の拡大を恐れて介入をできないでいる。また、里見義堯は報を受け北条の狙いを探っている最中。いずれにしても小田を助ける余裕はない。兼音の策通り、江戸衆の演習は抑止力となっていた。

 

 ただし、こんな状況でも小田氏治としては武勲を示すチャンスでもある。家臣団を納得させる結果を、例え防戦であっても出したいという思いはある。だがその為には当然のことながら、北条との交渉をさっさと終わらせる必要がある。氏治も馬鹿ではない。後ろで糸を引いている可能性には思い至っている。しかし、それを指摘しても当然白を切られる。謀略1つでここまで窮地に立たされるか……と思い、氏治は苦々しく為昌を見つめる。

 

 その視線に込められた感情を理解しつつ、為昌は切り込む。

 

「当家といたしましては平和的解決を望んでおりますが……いかがいたしましょうか」

 

 氏治の顔が苦虫を噛み潰したようになったのを見て、為昌は勝利を確信した。

 

 

 

 

 

 

 同じころ、結城城。結城氏の本拠地であるこの城は結城合戦の舞台にもなった歴史ある城である。関東の名門、結城氏の代々の居城とあって、その雰囲気もなかなかに荘厳である。そして今ここには結城家家臣団とその主である結城晴朝がいた。更には渦中の人物である水谷。そして彼ら全ての上に立つのは北条家において下総の差配を任されている北条氏尭である。

 

 今現在、結城領は軽い混乱状態にあった。というのも、当主晴朝の了解を得た古河衆がかなりの兵を引き連れて領内各所を見回っているからである。簗氏や大川氏、玉岡氏、山川氏、片見氏、岩上氏など結城氏代々の家臣たちはこれに猛反発していた。これ自体は別におかしな話ではない。何もしていない自分たち国衆の領地に突如総主家の軍勢が進駐してきたとあっては穏やかではいられない。

 

 戦の支度なのか、それとも自分たちを嵌めて殺す気なのか。幸い統率の行き届いた古河衆は乱暴を働かないので結城領の民衆からは歓迎されている。経済効果も見込めるからであった。反面、結城武士団は荒くれ者が多い。昔ながらの武家の気風といえば聞こえはいいが、やっていることは鎌倉や室町初期と何ら変化していない。むしろ伝統だけが残っておりはっきり言ってしまえば扱いづらい存在であった。

 

 結城晴朝もこれの統率には苦労している。同僚同士で刀を抜き、睨み合いをしていたかと思うといつの間にか盃を酌み交わすような者たち。酔っぱらったまま当主に意見することもしばしば。訴訟では白を黒と強弁して譲らず恥じず。陣触れとなると出陣先を確かめぬままに勝手に乱取りを始める。厄介者の集まりであった。彼らが重んじるのは結城の名のみ。そして結城合戦で幕府の大軍相手に奮闘した先祖の武功。結局、結城家の名を誰が継ごうが、それ自体はさして重要では無かったのだ。

 

 今も氏尭が上座に座ったにも拘わらずずっと話をやめていない。様子はさながら学級崩壊したクラスとその担任であった。頼みの綱の元忠は、兼音より派遣された名代である左近と共に結城領内の武家の動揺を抑えている。護衛として野田家の者や氏尭の馬廻りはいるが、何れも結城家家臣団に大きく出れる存在ではない。結城晴朝は恐縮した様子で頭を下げていた。氏尭は苛立つのを抑えながら、先日古河でのやり取りを思い出していた。

 

 

 

 

 

 

 古河城にて評定が終わった後、氏尭は軽く頭を抱えていた。自分だけで処理することが出来ず、結局姉を頼ってしまった。これは家全体のことであるがゆえに、それは正しい判断である。ここで勝手に処理することは問題になる可能性が高かった。しかし、氏尭としては自分がもっとしっかりと手綱を握っておければこうはならなかったのではないかという思いが消えない。

 

 事実、武蔵は氏照と氏邦の元上手く収まっている。上野でも叔父と大道寺党の力で特にこれといった問題は起きていない。相模伊豆は言うまでもない。火種を抱えているのは下総だけ。これは国境部に小豪族が乱立していることを考えれば仕方ないことなのだが、それでも氏尭は姉妹と己を比べて陰鬱な気分になっていた。

 

 どんよりしていた氏尭のもとに、訪れる人間が1人。誰であろう現在家中で最も多忙な姉・氏康であった。

 

「姉上……」

 

「随分と辛気臭い顔をしているわね」

 

「申し訳ございません……」

 

「謝る事ではないけれど。……ねぇ菊王(氏尭の幼名)?もし下総の件、任が重いなら他の者に代わるようにしましょうか?」

 

「ま、待ってください!それだけはどうか!それだけは!」

 

「そんなに焦らないで。これは貴女を軽んじてるからではないわ。人には誰しも向き不向きがある。もし貴女が下総での任は向かないと言うのなら、私の側で政務を支えて貰った方がお家の為にも、貴女の為にもなると思うのよ。どう?」

 

「私は……もし、姉上がそれをお望みならば従います」

 

「話を聞いてないわねぇ……。私は貴女がどうしたいのかを聞いているのよ?」

 

「ですが、私は失態を……」

 

「誰も失態だなんて思っていないわよ。私だって、他の宿老も皆そう思ってるわ。貴女の昔からの悪い癖。何でもかんでも悪い方向に考えてしまう。慎重になれるのは良いことだけれど、全て自分が悪いと思ってしまうのは悪癖ね。今回の件、悪いのは水谷とそれをどうにもできていない結城よ。次点でほいほい誘いに乗った多賀谷とそれを繋ぎ留められなかった小田氏治。そして命令を厳命できなかった貴女と私。貴女以外にも悪い奴はたくさんいるのよ。私を含めてね」

 

「そんなことは……!下の者のやったことの責任は上の者が負うのは当然でございます!」

 

「あら、その理屈だと一番の原因は私ね」

 

「いえ、決してそういう事を言いたかったのでは!」

 

「いいえ。それで良いのよ」

 

「え……?」

 

「領内の失政も、問題も、小競り合いも、全ては当主である私の責よ。当然じゃない。領内で起きた出来事、それが吉事であれ凶事であれ、天変地異を除いては全て私が責を負う事。貴女のせいだなんて、おこがましいわよ。当主にでもなったつもり?全部が自分のせいだなんて思わないで。良いこと?私は貴女を信じている。そして、必ず下総を治められると信じている。現に千葉家と原家という二大勢力は貴女の命令に従っている。それがゆえに兼音の献策した農法の普及率も速い。街道増改計画も北武蔵に続いて二番目に進行中。更に利根川治水にも取り組んでいるそうね。技術者や現地の民の協力を得て、大干拓や河川の流れの変更も計画中と聞いているわよ。いずれも最も最先端をひた走っている北武蔵に次ぐ速さよ。相模ですら古い勢力の抵抗でそこまで劇的に進んでいないのに」

 

 結城領の問題が表面化しているが、正確には結城家は属国であり完全な家臣団ではない。外交権は無い物の、軍の動員は彼らの権利であるし、内政権も持っている。そんな属領を除けば、完全に支配下に入っている千葉家やその家宰原家、その他にも多くいる千葉家の家臣団という複雑な構成を上手くまとめきっていた。

 

 その折衝や会合、多忙さゆえの疲労と生来のネガティブ思考が加わって精神的に参っていたために元忠に心配され結城晴朝に危惧されるような状態になっていたのだ。その為、千葉領での評判はいい。ネガティブ思考という事は、先の先を予測して不測の事態に備えることができるともいえる。また、相手のことを考え不快にしてはマズいと考え、もてなしをするので千葉家家臣団は上手く組み込まれていた。

 

 元々千葉家臣団は家宰の原家、他にも多くの一族が割拠し利権関係も複雑だ。それゆえに下総の名門でかつ大家でもありながら千葉家は室町や戦国で大きな勢力とはなれなかったのである。それをうまく統治している時点で優秀だった。

 

 彼女が参考にしたのは河越領での兼音の取り組みである。しかし、彼は武蔵の一部でやっていた。それでも多忙である。にも拘わらず彼女は一国でそれをしようとしていた。しかも家臣の手をあまり借りずに。手が回らなくなり多忙になっていき精神的にも追い詰められていくのは仕方のないことだった。

 

 現に兼音のモデルケースを忠実に実行しているのは下総であり、大規模な穀倉地帯への変貌も間近だった。変なアレンジを入れない理由は何かしたときに責任を負えないから、というネガティブなものではあったが、この時ばかりはそれが大正解だったのだ。

 

「貴女のことは信頼している。だから要地であり、里見や佐竹とも近い下総に貴女を入れたのよ。氏照や氏邦ではまだ早い。貴女ならできる。そう信じていたし、今でも信じている。それは根拠のない家族の情とかではなく成果を挙げているからよ。けれど、一人ではできることも限りがある。元忠や綱景を頼りなさい。康資は……まぁ……あんまり信用できないけれど……。ともかく!譜代の忠臣は貴女が頼ってくれるのを待っているわよ」

 

「ですが……」

 

「ですがもへちまもあるものですか。主というのは、配下を使いこなすのも力量の一つよ。そうすることで配下も育つ。国も潤う。貴女が一人で頑張って倒れて国政が止まるのが一番の問題なの。武蔵を見てみなさい。氏邦も氏照も兼音をビシバシ使っているじゃない。あそこまでとは言わないけれど、配下を頼ってあげなさい。彼らは自分達が信用されていないのではないかと思って不安がっているわ。けれど、貴女が彼らを頼り、時に引っ張り、時にその声に耳を傾ければ自ずと信頼関係はできていくはずよ」

 

「……分かりました」

 

「貴女には、貴女にしかできないこと、思いつかないことがあるはずよ。昔からそうだったじゃない。いつだって色々な可能性を示せるのは貴女の特技だったでしょう?それに、勢いに乗れば姉妹の中でもかなり強かったじゃない。おばばに囲碁で勝ったときは魂消たもの」

 

「そのような昔のこと……どうして……?」

 

「覚えているわよ。当然でしょう?私は貴女の姉なんだから。姉さんたるもの、妹との思い出を忘れるわけないじゃない。全部覚えているわよ。どれだけ大人になって、活躍して、どんな相手と結ばれても、私たちは姉妹。そう箱根権現に誓ったじゃない」

 

 優しく氏康は氏尭を抱きしめる。冷静沈着な女帝として関東に君臨する氏康ではあるが、その姉妹仲は非常にいい。なんだかんだで個性派の姉妹のイニシアティブをとれるのは、彼女自身のカリスマ性と姉たらんとする自負であった。一族ですら信用できないと言われる乱世。それでも氏康は妹たちを愛し、信じている。その能力の高さも知っている。だからこそ諸国に配置し、能臣を付け、国を富ませる礎になってもらおうとしているのだ。

 

 氏尭は遠い昔のことを思い出す。氏政や氏照、氏邦は活発な子供だった。為昌は大人しめだが、意外と頑固で主張が激しい。氏康は面倒見がよかった。姉妹の中で一番引っ込み思案でウジウジしていたのが氏尭だったのである。父・氏綱からも直した方が良いと言われたその怯え癖を庇ってくれたのは姉だった。部屋の隅であやとりをして遊んでいたのを叱るでも別のことに誘うでもなくただただ付き合ってくれていた。それが、氏尭にとっては嬉しいことだった。だから、姉のために頑張ろうと決めたのだ。自分なんかにも理解を示してくれた、この人のためにと。

 

「私……頑張ります……!だから、どうかそのままでいさせてください」

 

「分かったわ。貴女がそう言うなら、もう聞かない。でも苦しくなったら言いなさい。私ならいくらでも話を聞いてあげるから」

 

 姉は変わったと氏尭は思う。年を取るにつれ、氏康は少し厳しくなっていった。それは他人によりも自分に。いつも険しい顔をして、何かを考え、悩んでいた。姉妹と過ごす時間も減り、自分はまた寂しい生活になって行った。他の姉妹も大人になっていき、氏尭を責めたりはしない。ただ、別に喧嘩をしている訳でもないけれど凄くべったりとも言えない何とも言えない関係性になってしまっていた。氏康は大きな鎹だったのだ。

 

 しかし、ある時から昔のような笑顔が増えた。胃痛を訴えるのもめっきり減った。皺が取れ、明るさが戻った。姉妹仲もまた昔のように戻り、和気藹々と家族が動き出した。それはまるで淀んでいた空気が風で一掃されるように。悩みを吐き出すようにもなったし、自他ともに厳しいのは変わらないけれど余裕が出来たのだ。

 

 その原因を氏尭は知っている。清流のような男は、氏康の閉じかけていた心をもう一度開かせた。もし彼がいなければ、氏綱の死去と同時に氏康は本質的なところで孤独になっていただろう。小田原城の奥深くに閉じこもり、胃と頭を痛めながら強敵と対峙していっただろう。確かにこれは自分が当主だったら好きになるかもしれない。氏尭はそう思っている。きっと自分が当主なら、彼に恋していたのは自分だろうと。

 

 だから一条兼音のことは嫌いじゃないのだ。ただちょっと姉を取られてようでジェラシーを感じているだけで。

 

「姉上」

 

「なにかしら?」

 

「幸せになってね。あの人と」

 

「……ありがとう」

 

 世界で一番綺麗で、優しくて、温かい人を挙げるんだ。泣かせたら殺す。絶対に殺してやる。でも、そうすると姉上が悲しむから半殺しですませてあげる。だから……どうか……お願い。氏尭は心の中でそう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 確かにあの時は頑張ると思った。姉の言葉を信じて、自分にできることを精一杯やろうと。でも、これをどうしろと?と氏尭は半分途方に暮れ、半分苛立ちながら座っている。

 

 小田原でこんなことをやろう日には氏康の怒号が飛ぶ。彼女はあんまり真の意味で怒らない人だが、昔一回だけ氏照が厨房の菓子をくすねたのを愛嬌で誤魔化そうとした時本気の怒りを見せていた。普段武芸をそこまで得意としない氏康が、見ていて思わず悲鳴が出るほどの速度で頬を張った際には姉妹一同恐怖したものだ。氏照は若干トラウマにすらなっている。

 

「武家たるもの、下々に迷惑をかけるな。お前のつまらぬ嘘で、台所方は叱責を受けたのだぞ!」と男口調で怒鳴る姿は鬼神もかくやだったのだ。基本、氏康はつまらない嘘は嫌いである。それで誰かが被害を受ける場合はもっと嫌いである。謀略でもない身内のことで嘘を吐く人間を厳しく叱っている。家中の嘘は亡国への始まり。彼女の信条である。

 

 ワイワイガヤガヤと煩い空間の中で、冷や汗を増やしていく結城晴朝。彼の心中は戦々恐々である。もう放っておいても黙らないだろう。そう考えた彼はとにかく黙らせることにした。

 

「静まれ!静まらんか!」

 

 これでやっと少しは静かになる。

 

「これにおわすは北条上野介氏尭様なるぞ。いい加減に黙らんか!」

 

「お言葉なれど中務様。此度我らの憤懣やる方なき心、ご理解いただけぬのですかな?」

 

「左様左様!臆病風に吹かれ、小田原の要求を受け入れたのは失策でござるぞ。我らの歴史ある領地をよそ者が闊歩しておりまする!」

 

「いっそ排除してしまいましょうぞ、ガハハハ」

 

 赤ら顔で吠える将に、他の家臣がどっと笑う。いつもこんな感じであったため、結城家の評定はかなり混沌としている。分国法結城氏新法度が制定されたのも、自由気ままで勝手な家臣団をなんとか統制しようという先代結城政勝の苦難の末の出来事だった。それも守られているかといえば微妙なところなので、その問題さがうかがえる。流石に御成敗式目以前のようなことはしていないのが救いか。

 

「小娘一人、恐れることなし!」

 

 豪語する一人の家臣に喝さいが飛ぶ。その小娘が誰を指しているのかはかなり解釈のわかれるところだろう。氏康を指すとも言えるし、氏尭を指すとも、或いは元忠を指すともいえる。彼らは関宿上の戦いで里見軍に敗走しているが、北条軍相手には戦っていない。その強さもいまいち実感できていなかった。武があれば従う。なければ背く。そんな単純だが厄介な理論。結城氏が彼らを繋いでいるのもその伝統故に過ぎない。晴朝にもっと武勇があれば、彼らは強力な家臣となっただろう。

 

 苛立ちながらも氏尭は冷静に恐れることなしと叫んだ男を観察する。確かに筋骨隆々の大男。しかし、俊敏さは感じられない。どちらかといえば力で押し通すような戦い方をするのだろうと見抜く。それを見抜いた氏尭は、一つの策を思いついた。失敗すれば大変な事になりかねない。ただ、ここで逃げてはいつもと変わらないと覚悟を決める。

 

「面白いことを言った」

 

 氏尭の発言にギョッとする晴朝。他の結城諸将もポカンとしている。

 

「表に出ろ」

 

「ハハハハハ!」

 

「聞こえなかったか、表に出ろ。それとも、小娘相手にビビってるのか?」 

 

「いい度胸だ。喧嘩は買ってやろう。北条の娘といえど手加減はせぬ。死んでも文句は言うでないぞ」

 

 この男――名を山川 晴重というが――は相手が本気であることを悟ると、自分なら勝てると思われているのか、舐められていると激怒し、肩を怒らせて庭に躍り出た。元忠配下の野田兵たちは諫言したが氏尭は一蹴する。晴朝は失神寸前だ。両名が庭に出て、向かい合う。真剣が抜かれた。

 

「かかってこないのか?」

 

「吠えたな、小娘。怨むなよ!」

 

 晴重は思い切り剣を振り上げる。その筋力で振り下ろされた剣はすさまじい威力を持って地面にたたきつけられ、風で土煙が舞う。誰もが氏尭の敗北を予見した。しかし、彼の剣の下にはその影も形もない。

 

「何っ!」

 

「こっちよ」

 

 声のする方に顔を向ければ、無傷で涼しい顔の氏尭が立っている。あっさりと避けられたことを悟りますます激昂した晴重はすぐさま剣を振った。しかしまたも避けられる。何度振り下ろし、薙ぎ払い、叩きつけようとも一向に当たらない。

 

 それもそのはず。姉妹の中で一番の武闘派は無論氏邦。しかし、氏尭も弱くはない。悪い未来を考えるのが彼女の生来の性質である。しかし、何でもかんでも恐れている訳ではない。杞憂とは違う、あり得る未来を恐れている。これはある種高度な未来予測と状況判断が問われる。そしてそれを戦いに活かせば、自身の死ないしは敗北という悪い未来を恐れ、それを回避するための策を考えるようになる。その結果辿り着いたのが当たらなければ死なないだろうと言う極地だった。

 

 そしてその考えをもとに、ひたすら避けることを考えている。その長年の成果が表れ、今見事にすべての斬撃を回避していた。氏邦も最近では一太刀も当てられていない。その回避力には自信があったので敢えて喧嘩を売ったのだった。避けるだけならばそこまで体力は消耗しない。既に時は半刻ほど経った。相手はもうヘロヘロである。その隙を見逃さない。晴重がへばった剣を振り下ろしたその直後、懐に入り込み、剣を切断する。相手が驚いた瞬間に飛びのき、後ろに回り込んで髻を落とした。

 

 髻を切るのは最大級の恥辱である。殺さない代わりに恥辱を与え、先ほどの北条家への侮辱の罰としたのだった。それは結城の諸将にも伝わる。そして当の切られた本人も自覚していた。武勇の者である晴重があしらわれ、しかも剣を斬られ髻も落とされた。この事実に結城家臣団は互いに顔を見合わせる。そして、一斉に頭を下げた。

 

「おみそれ致しました」

 

「我らの無礼、平にご容赦くださいませ」

 

「以後は心を入れ替え、北条の御家の法に従いまする」

 

「どうか、ご無礼のほどをお許し頂きたく」

 

 多賀谷重経・水谷正村・山川朝信・岩上朝堅の結城四天王が謝罪を口にする。他の家臣団も一斉に声を揃えて非礼を詫びた。山川晴重も地に頭をこすり付けて謝罪している。氏尭は鼻っ柱をへし折ろうとは思ったものの、此処までとは思わず少し困惑している。そんな氏尭に晴朝が声をかけた。

 

「氏尭様、家臣が大変なご無礼を失礼致しました。そしてお見事。晴重は家中でも名うての剛の者。他からも一目置かれておりましたが故に、皆のこの対応なのでござりましょう。古くからの関東武士は武ある者に従いまする。もしくは武ある者を従えられる者に。身内をここまで叩きのめした者であれば逆らおうなどとは思わないのでございます。そして、その氏尭様を従える執権様もまた敬うべきと、彼らは見なすでしょう」

 

「そ、そう……」

 

「これからは皆、従いましょう。武ある者には逆らいませぬ。軍法も、小田原からの通達も全て守る事となりましょう。であるな!」

 

「「「「ははぁ!」」」」

 

「だ、そうでございます。しかし無礼は無礼。それがしは責任を取りましょう。結城の名をお譲り致します。それがしには子がありませぬ。このままでは結城の名は絶えてしまうでしょう。下野の小山に渡すのもどうかと思って悩んでおりましたが、北条家のお方に養子となっていただきたく。そして結城の領国と家臣、全てお渡しいたします」

 

「しかし、それでは晴朝殿が」

 

「良いのです。元々彼らはそれがしが当主であることはさしてどうでもよいことでした。大事なのは結城に仕えているという事。それに、最早家臣団はそれがしには従わぬでしょう。氏尭様にならそうではありませんでしょうが」

 

「わ、分かりました。ただし御家の大事、すぐには返答できません。姉上の許可が必要です。それまでは」

 

「承知いたしました」

 

 氏尭は予想外の大成功であったが、内心では大喜びである。結城家が家督を譲ると言うのは非常に大きい。大石や藤田も名家ではあるが、結城には劣る。関東八屋形の一角が崩れるのは大きい。しかも支流網で常陸や下野に大きな影響力を持っている。分家は奥州にもいるのだ。今後の北条家の北方進出の足掛かりになるのは言うまでもない。

 

「いずれにしても、結城家は北条の傘下となりましょう。家督の話がどうであれ、従属国衆ではなく家臣となれるよう、小田原にお話しくださいますようお願い致します」

 

 これはゲームで言うところの臣従ではなく家臣となりたいと言う意味である。つまりは数少ない保っていた内政権と外交権も手放すという事を意味する。

 

「さ、何なりとお下知を。最早この場に従わぬ者はおりますまい」

 

「で、では!まず水谷全芳!すぐに為昌姉上のいる小田へ行って氏治に頭を下げてきなさい。残り!北条から内政の通達が来てるわね。それに従って領内の治安向上と安定に努めること。元忠たちは撤収させるけれど、後々監査官を派遣する。その時に改まっていなかったらその者は謀反の意思ありと見なして討滅する。分かったか!」

 

「「「御意ッ!!」」」

 

 かくして氏尭の行動により関東の名門、結城氏とその厄介極まる家臣団は統治下に完全に組み込まれることとなる。結城の家臣団は主を侮っていたが故にその乱雑無礼な行動が目立ったが、認めた相手には礼を持って接する。そして代々の当主が手を焼いた結城家臣団は氏尭の元急速な統一を進めていくことになるのだ。是より先、彼らはその武勇を活かし、佐竹戦線での主力として第一線で活躍することとなる。

 

 結城氏の文書は関東の獅子と謳われた氏康に配慮し、その妹である氏尭について、『その鮮烈なる事小獅子の如し』と書いている。

 

 小田家は四方を囲まれ動けず、結城は完全に地盤が固まった。唯一の懸念部分だった常陸との国境部が治まったことにより、北条家は真の意味での領内安定期を迎えることとなるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この少し後。西の大空を、一筋の長い尾を引く彗星が走る。そして――――

 

「信長様!是非この俺を足軽として雇ってくれ!」

 

「はぁ?誰よ、信長って?私の名前は織田信奈よ、の・ぶ・な!」

 

 その日、少年は運命に出会った。




次回のお話の方は第二次川中島への入りかなと予想中。


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第99話 援兵

今回は第二次川中島の戦いへの繋ぎですね。


 関東で政治的な取引や交渉が進む中、西の地である駿河でも交渉は進んでいた。大名級の会談は既に終了しているが、これからは閣僚級の会談が始まるのである。大枠として三国同盟の成立。そしてそれに伴う人質関連の話はまとまっているが、交易や援軍に関する話など、話すべきことは残っている。

 

 それを解決するため、北条家からは一条兼音と松田盛秀が、武田家からは駒井高白斎と山本勘助、今川家からは太原雪斎が出てきている。いずれもその家にとっては一線級で活躍する外交役や軍師であった。

 

 

 

 

 

 

「私としては、まず第一に援軍に関しての取り決めを交わす必要があると思いますが、いかに思われるか」

 

 我々北条家は対越としてこの同盟に参加している。そのためにはお互いに援助しあう事が大事だ。しかし何でもかんでも援軍を出していてはお互いのためにならないのは明白である。例えば武田は戦線が一つだが北条家はいくつも抱えている。それに全て対応できるにはできるが、援軍がいると心強い。しかし、内政期間が終われば出征回数も増えるだろうしそのたび援軍要請をしていては武田が立ち行かない。それも加味して交渉を進める必要があると思われる。

 

「拙僧としては、川中島はともかく上州は遠い。北条家には心苦しいですが、なかなか直には援軍は送れませぬな」

 

「それがしとしてもたとえば常陸、上総などでは些か遠いため、武田としても遠方へは送れませぬ」

 

 雪斎と山本勘助が言う。確かに地理的に関東は広い。平野とは言え、山越えできた武田を房総へは派遣するのが難しい。それに加え、今川も上野までとなると難しいのはよくわかっていた。盛秀殿もそれには同意しているようで、異を唱える気はない。

 

「我らも東海の先へは兵を送るのはそう簡単には行きませぬからその辺りはどこの家も同じであろうと思われるがいかに」

 

 盛秀殿の問いかけに高白斎が答えた。

 

「儂としては、やはり個別の案件に対しどう動くか決めるべきと思うておりまするがな。敵によって出す出さないを決めればよろしい。まず当家と北条は越後と相対するのは必定。双方が越軍と相対するのであれば援軍を出す。他はいらぬと、こういうのではいかがか?」

 

「こちらは武田・北条間は対越大同盟の際の盟約通りでよろしいと思うが……土佐守殿、いかがか」

 

「私としても異論はございません。当家の対越主戦場は上野。信濃とは隣国でございますからな。また、甲斐信濃も武蔵からならば近いので問題はないかと。大膳大夫様には私の出兵を願われておりますれば」

 

 どうせ出兵するのは河越衆や杉山衆、鉢形衆などの武蔵の軍勢だ。おそらくは武田との外交の都合上私が出る。少し前の対越大同盟でも武田晴信は私の出兵を要請していた。これと加味すれば自ずと選べる道は限られる。

 

「北条は先に締結された同盟通りで武田への援軍を出す。そちらもそれに従っていただければよろしいかと」

 

 盛秀殿のまとめで武田・北条間の取り決めはひとまず終わった。この後も交渉は続き、今川・武田間では川中島など越後との戦闘の際はできる限り援軍を派遣するが、同時に東海を西進している場合は出せないこともあるという事で合意する。今川・北条間は駿東の軍を援兵に差し向けるという内容でまとまる。

 

 ただし、今川としては北条の援軍には頼りたくないと言う思いが強いようであった。尾張との戦の終結は長きに渡る悲願。信秀亡き今、自力でそれを達成して興国寺以来落ちている国威の発揚に向けたいと言う狙いがあるのが見えた。

 

 それに対し武田はなりふり構ってはいられない。使えるものは何でも使って海への進出を果たしたい。山本勘助の隻眼からはそんな焦りが見えていた。とは言え、彼がポーカーフェイスであったとしても事情を鑑みれば内実は見えてくる。そう言う意味では駒井高白斎のように顔色を変えていなくてもさして意味は無かったのだが。そんな中、話題は次のものへと移っていく。

 

「近頃、武蔵と甲斐の国境に不逞の輩が多く現れておりましてな。捕えれば甲斐より参ったと申しておるのです」

 

「ほぅ、それは何とも」 

 

「ほう、ではございません。貴国のことでありましょう。何とかしていただきたい」

 

 こちらの要求に対して高白斎は飄々とした口調で他人事のように言った。山本勘助は内政面での権限はないようで、押し黙っている。雪斎は観察しているようであった。

 

「由々しき事態ではありますが、それは真に甲斐の者なのでしょうか?武蔵の者が甲斐の名を騙っている、或いは両家が天を倶にするのをよろしく思わぬ者の差し向けたる計略、という事もありましょう」

 

「なるほど。確かにその線はあります。しかしその場合は甲斐へいつも逃げ込んでいる野盗を武田家は見逃していることになりますぞ。我々は討伐しようにも越境はできませぬ。それ故に手をこまねいているのです。対越で心を同じくしていただけるのはありがたいですが、足元のおぼつかぬ同盟相手は不安ですな」

 

「甲斐の内政に干渉するのはやめていただこう」

 

「干渉などとはとんでもない。甲斐の民、そして武田の御家の為を思えばこその提言であると思っていただきたい。民百姓が逃げ出してからでは遅いですぞ」

 

 野盗というのは税収を減らすだけでなく、その地域の支配者の権威を下げる意味でも問題だ。だから私は河越に赴任してすぐに大規模な討滅作戦を行い、野盗を壊滅させた。現在国境部を侵犯している集団は甲信の食い詰めた者や逃散農民、逃亡兵だろう。無論、北条家の逃亡兵が全くいないとは言えないが。訛りが甲斐の者だと秩父の住民は言っている。

 

「ただで、とは申しません。信濃支配の容認を鎌倉府の公方並びに執権である主・左京大夫、そして関東管領に出させまする」

 

「信濃は鎌倉府の領域ではない筈では?」

 

「平時はそうでありましょうが、古には信濃守護不在の際に鎌倉府が管理していたという記録があります。故に小笠原長時のいない今、実質的な守護不在とみなし武田家に支配を任せるという形をとれるかと。大義名分もそれによってより一層立ちましょうぞ」

 

「……分かり申した。民の管理、今一度徹底させまする。されど北条側も当然行っていただきたい」

 

「無論のこと」

 

 盛秀殿も頷いている。武蔵国境部の方々からの要望はこれでひとまず先方に伝えたことになる。それを受けて動いてくれるかは別問題だが、少なくとも抗議はしました、という政治的アピールは大事だ。こちらは武力出動で以て野盗に応じている。その上で政治的な行動もしたとなれば、権威に傷はつきにくくなる。

 

 名を出して実をとれるならば支配の容認など幾らでもすればいい。それに、これは鎌倉府の権威を高めるにも使える。足利より武田の方が下なのは当然なので、鎌倉府の命にあの武田が従った。鎌倉府の権威はすさまじい。それの執権である氏康様の権威もさぞ……。となってくれれば万々歳であるのは言うまでもないだろう。皇室しかり朝廷しかり、権威は大事だ。

 

 ここで一度話を終えて休憩となった。武田組は当主である晴信に話をすると言って出て行った。盛秀殿も氏康様と一度打ち合わせと報告をする。雪斎はその必要が無いようなので出された茶を飲んでいた。私も居残りである。というのも、雪斎に少し私用があった。

 

「雪斎禅師。少しよろしいか」

 

「はて、何でありましょう」

 

「非常に私的なお願いで申し訳ないのですが、我が剣の来歴をお調べいただきたく」

 

「ほぅ。剣といいますと、先の乱でお渡ししたアレですな」

 

「その通りです。私は個人的に東国の歴史を書き留めておりまして、己のことではありまするが今川家よりいただいた名刀についてですので出来る限り詳しく書きたいと思っておるのです」

 

「なるほど。そうしていただければ後世における今川の名も上がりましょうな。分かりました。とは言え、我らも暇ではございません。元は富士家より献ぜられた物とは聞いておりますが、その詳しい経緯は聞いておりませぬ。富士の者に問うてはみますが優先順位は遅くなりますぞ。よろしいか」

 

「出来れば、という程度のお願いでございますから、幾らでも待ちましょうぞ。お調べいただけるだけでありがたいです。しかし富士家といいますと、あの浅間大社の?」

 

「左様。古き家ですので、何かしら残っているでしょうな」

 

 富士氏は浅間大社の宮司を務めている古い家柄だ。それこそ、奈良時代やそれ以前にまでさかのぼれる。出雲大社といい阿蘇神社といい諏訪大社もだが、神社系列は宮司の歴史が古い事が多い。それだけ多くの信仰を集めてきたのだろう。

 

 しかし今になってなんでこんなことを聞いたのかというと、歴史書云々もまぁ嘘ではないのだが、それ以外にも理由がある。というのも、この前諏訪頼重と話をした際に、あの剣はどういう物かと問われた。どうもこうも意味が分からなかったので聞き返したところ、どうもあの剣と一緒に長い時間いると具合が悪くなるような気がする。できれば持ってこないで欲しいとまで言われてしまった。何かあるのかもしれないと思い、調べてもらいたかったのだ。

 

 他の者にそういう事を言われた記憶はない。試しにいろんな人物に聞いてみたが99%は特に何もないと言われた。ただ、神職や仏事に携わる人間からは剣を見ている、或いは側にいると時々気分が悪くなるがそれが原因かは不明との回答があった。

 

 明らかに何かあると踏んでいる。問題があるとマズいので原因を知りたかった。浅間大社が絡んでいるとなるときな臭い太古の神道に関するアレコレがあるのかもしれない。考えていると山本勘助が戻ってくる。高白斎はもう少し遅くなるそうだ。盛秀殿も戻ってくる。

 

「土佐守殿、交渉概ねそのまま進めよと仰せであった」

 

「分かりました」

 

「それとたった今入った朗報であるぞ。()が九割ほど出来たそうだ」

 

「なんと。それは朗報」

 

 道とは、南蛮船のことである。建造は極秘で行われているため、こうして暗号のようなことをしている。まるで戦艦大和を造っていた海軍みたいだが、南蛮船は大きな戦力となる。完全に動くようになるまではしばらく秘匿するのが吉だろう。最初の航海は伊豆諸島行きを計画中である。できれば処女航海には参加したいが……。

 

「……そう言えば山本殿、つかぬ事をお聞きしますが」

 

「なんでしょうかな」

 

「武田はいつ頃再度川中島に出るのでしょうか」

 

「そうですな……。今は皐月。義信様の祝言次第と相成りましょうが、水無月には出陣したいと思っております」

 

「水無月!?」

 

「善光寺に調略を仕掛けておりますれば、その兼ね合いでそうなってしまうのでござる」

 

「わ、分かりました。盛秀殿」

 

「そうであるな。後はこちらでどうにかしよう」

 

「申し訳ありません。皆々様、真に申し訳ありませぬが、武田への援兵の都合上私は領国に戻り動員をかける必要性が出てまいりました。つきましては、此度の交渉の席をここで外させていただきたく」

 

 そんなすぐに軍を起こせる状態じゃない。今、ウチの常備軍はみんな工事労働中だ。道の拡張する工事労働者であり軍人でもあるのが我々の常備軍の実態だった。流石に職業軍人を作れるほど余裕はない。工事に関する日取りや計画が崩れてしまうので、その調整や諸々の準備もある。武田は進めていたようだが、もう少し遅いと思っていたこちらとしては寝耳に水。もしかしたら河越には届いているのかもしれないが、私があっちこっちへ行っているので伝令が行き違いになっている可能性があった。

 

「ふむ。であれば仕方ないですな。ご武運を」

 

「この同盟の締結に忙殺されておりました。伝達遅れはこちらの不手際。焦らずおいであれ」

 

 雪斎は理解を示したように頷き、山本勘助は頭を下げている。高白斎はまだ戻ってこないが、待っている場合じゃない。急いで戻る必要があった。

 

「それでは失礼仕る!」

 

 挨拶もそこそこに足早に部屋を出る。その後、氏康様に話を通し、帰国の許可を貰う。援軍は北条家の代表としていく以上、それなりの威信を示す必要がある。その為には軍勢の身なりだって整えないといけないのだ。やるべきことが多い。内政に向き合いたいのに、外交や軍事で忙殺されそうになっている。

 

 歴史的に見れば、これは第二次川中島の戦いだろう。これは史実通りだとかなりの長丁場が予想される。だが、私からすればそれは困った事なのだ。いざという時はサッサと今川に介入してもらって和睦してもらおう。まだ国力が足りない。訓練も足りない。全てが不足している。軍神を打ち破るのには、相当の時間がかかる事が予想された。

 

 

 

 

 

 

 

 兼音が善徳寺より急いで海路を走り帰国している最中。河越城を一人の男が疲れた顔で訪ねて来ていた。彼の名は松田憲秀。先の北条家の評定で盛大にやらかし、氏康に説教をされた男である。氏政が陰で奔走している結果、何とか公方や伊豆相模の国衆、重臣は許してくれた。しかし、問題はこれからである。関東管領の居城であり、憲秀からしてみればにっくき土佐守の居城でもある河越城。ここを訪れなければならなかった。

 

 理由としては関東管領への謁見である。兼音はもう一応挨拶をしているので良いのだが、傀儡とは言え関東管領。他の北条家家臣が代替わりする際は河越城を訪れていた。その度に若き当主を接待するべく兼音がペコペコすることになっている。

 

 治安の良いとは言え、戦国ではある。護衛はついているが数名だけだった。腕が立つ方ではあるが、それでも数は少ない。そんなにいらん!という父・盛秀の怒りの結果であった。彼の顔に泥を塗ったのであるからしてまぁ残念でもないし当然なのだが。しかし憲秀としてはやはり気分の良いものではない。足利晴氏にも病を心配する風に装って嫌味を言うという高等テクニックを食らってしまった。

 

 護衛は宿に休ませているが、虫の居所の悪い憲秀は風にあたるべく(ついでに土佐守のあら捜しでもしてやろうと思いつつ)外に出たのだった。残念ながら(兼音にとっては幸運なことに)街に瑕疵はない。大きく栄え、どこに行っても人で溢れている。活気があり、豊かだ。皆顔が明るい。街の外に広がる広大な田園も、兼音が必死になって作り上げた四角形の田園になっている。これにも想像を絶する苦労があり、民衆に頭を下げ廻ってやっとこさっとこ作り上げたものだった。

 

 そんな苦労は露知らず、憲秀は鼻を鳴らしながら左右を見つつ歩いている。すると足元に軽い衝撃が走った。見ると、子供がぶつかっている。しかも手に持っていた味噌のついた餅が服にベットリついてしまっている。明らかに憲秀側の前方不注意であるのだが、そこは身分制社会。自分の非礼を詫びるよりも早く、虫の居所が悪かったのもあり、つい子供に怒鳴ってしまった。

 

「なにをしておるか!」

 

「も、申し訳ございません!」

 

「謝って済む話ではないのだぞ、これはお主のような者が一生かかっても着れんようなものだ。どうしてくれる!」

 

「すみません!すみません!」

 

「ええい、まどろっこしい!」

 

 憲秀もさすがに弁償云々は考えていない。ただ溜まりに溜まったストレスを解き放っていただけであるので、子供から金を取ろうとまでは思っていないのである。故に、適当なところで怒鳴るだけ怒鳴って去ろうと思っていたのだが……彼の不運はこの子供がただの子供では無かったことにある。

 

「ちょっと待ちなさいよ!」

 

 甲高い声が響いた方向を見れば、憲秀主観で小生意気そうな少女が一人仁王立ちしている。その後ろからは息を切らしながら走ってくる黒髪のおとなしそうな少女。小娘風情が生意気な、と憲秀の頭は煮えた。二人の少女の腰には剣がある。河越城の武士は何たる無礼な、と息巻いたのだ。無論、土佐守の配下が云々というのも絡んでいるのは言うまでもない。

 

「何者だ、お主ら!何故この小僧を庇い立てする!」

 

「何故って、アンタが前見てなかったからぶつかったのに、それを責任転嫁してるからに決まってるでしょ!私はしっかりこの目で見たんだから!」

 

「なんだと!こちらを誰だと思っている……!」

 

「はっ!アンタがどこの誰かは知らないけど、こちらの顔を知らないなんてモグリもいいところね。もしや敵の間者?知らないなら言って聞かせてやろうじゃないの」

 

「ちょ、ちょっとお(けい)ちゃん……」

 

「いいのよ、ここでぶちかまさないと。この家紋が目に入らぬか!ここにおわすをどなたと心得る!恐れ多くも帝並びに大樹より関東管領を賜りし上杉朝定公なるぞ!頭が高いっ!」

 

 生意気な少女の言上に憲秀は目を剥いた。確かに示された印籠らしきものには上杉家の家紋が入っている。年も十代のはずだから後方で頭を抱えているおとなしそうな少女を一致する。だとするのならばこの今自分に印籠を突き付ける少女は河越城の者、少なくとも関東管領の近くにいる存在という事になる。

 

 この二人は当然のことながら関東管領上杉朝定と一条家の次期当主(暫定)の一条政景その人である。元々政景はよそ者である上にファーストコンタクトを盛大に失敗した為、胤治や兼成からの目線はそんなに優しくない。最近は少し優しくしてくれるようになったがそれでも疎外感はあった。唯一優しかった綱成は杉山に行ってしまったし、独りぼっちだった彼女であったが、ここで彼女にも天運があった。

 

 たまたま城内で朝定に出会ったのである。年齢の近い友人がいなかった二人は割とすぐに打ち解けた。グイグイ行くタイプと控えめなタイプ。バランスはとれている。案外うまく交友は続いており、時々喧嘩しながらも親交を深めていた。そして時々こうして城下町に出てきているのである。時々講義や鍛練をサボってのことであるが、悪さをしている訳でも無し、こうして親が働いている最中の子供たちと交流したり、街に上手く馴染んでいた為民衆理解の促進、開かれた城主で行こうという兼音の鶴の一声で黙認された。

 

 なお、剣聖の鍛練だけは絶対にさぼっていない。というのも、昔脱走しようとしたのが露見。政景、そして彼女とセットで止めたのに朝定も頭を殴られ目から星を出したことがあったのである。その為、さぼっていない。剣の腕では今のところ政景が上であるが、努力家なのは朝定である。これは将来的には朝定が上になるだろう、政景はどこかで限界が来るがその時に努力できるかが分かれ道、と上泉信綱は判断している。兼音もそれには大いに賛成であるため、見守っているのだった。

 

 (一応)真面目に剣の鍛練はしているのでそこそこ強い二人である。印籠を突き出しながらも政景は油断なく憲秀を見ている。彼女からすれば憲秀の正体は分からない。権威にひれ伏してくれればいいが、見境なく襲ってくる可能性はある。その為まずは自分が目立つ。そうして突き飛ばされてしまった自分が良く面倒を見ている子供を逃がし、朝定を憲秀の視界から消す。その隙に朝定が裏へ回り込み、剣を抜けるように構えるという寸法だった。

 

 さて、そんな憲秀はことここに至ってやっと状況を理解。同時に冷えた頭で周囲を見れば、周りからは冷たい目線。しかも後ろからは抜刀態勢に入っている剣士の気配。よく見れば目の前の少女の服には一条下り藤。とするとこれは遠山家から義妹として入った少女。しまったと思っても後の祭り。生唾を飲み込んで地に伏す以外に方法は無かった。

 

「どこの誰?名を名乗りなさい」

 

「そ、それがしは松田家次期当主、松田憲秀でござる」

 

「松田?三家老の?」

 

「は、はい……」

 

「どうする?許す?」

 

「あ、謝ってもらえばいいんじゃないかな」

 

 いつでも憲秀の背中を斬りつけられるように狙っていた朝定が姿勢を普通に戻しつつ言った。しかしまだ手は剣に触れている。いつでも抜けるようになっていた。自然体で警戒を失っていないのがわかる。

 

「だそうよ。寛大な関東管領に感謝するのね。ほら、謝りなさい」

 

「す、すまなかった……」

 

 打ちひしがれて憲秀は少年に謝る。それ以外に方法は無かった。政景に睨まれながら餅の代金を渡す。一件落着!と謳う政景にやんややんやと喝采が飛んでいた。一事が万事この調子なので、コンビは良くトラブルに巻き込まれていたりもする。しかし何だかんだ腕っぷしはあるので上手く機転を利かせつつ乗り切っていた。その為意外と知名度はある。そのおかげでは無いが、市民の目が監視の役割も果たしていたのであった。

 

 そこに馬の嘶きがする。人々はその姿を視認して道を開けた。政景や憲秀が目を音のした方に向ければ、馬に乗った男が状況を見下ろしている。

 

「君たちは何をしているのかね?」

 

 急遽駿河より帰国した一条兼音――この城の城主は困惑した顔で問い掛けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふ~むなるほど……」

 

 急いで帰ってくれば何やら揉めていた。しかも当事者はうちの義妹と朝定、そして松田憲秀である。彼が何でこんなところにいるのかと一瞬思ったが、顔合わせの旅をしていると聞いていたのを思い出す。これからまだ上野に行かねばならないらしい。

 

「ま、そう言う事なら仕方ないだろう。あまり派手に揉めるなよ?今回はお咎めなしだが、次からは警邏隊に任せておけ」

 

 警邏隊は成田甲斐を筆頭に組織されている城下の警察組織である。昼夜の見回りや犯罪の取り締まりをしている。時代劇で言うところの岡っ引き、同心のような存在である。衆判所は別にあるのだが、その前段階を任せている。特に、この時代の夜は暗い。遊郭は夜こそ本番であるが、無論住宅街や商家街は深夜ともなれば真っ暗だ。そこでよからぬことが起きないように二人一組で街中を警邏している組織である。

 

 現状かなり効果を出していて、目に見えて治安は良い。子供が勝手に遊んでいても問題ないし、老人や女性も住みやすい。不正な商売の摘発も速いし、孤児の保護も出来る。そして有事の際は剣を抜いて城に籠る武士でもある。近衛師団が警察もやっているみたいな感じだろうか。錬度は高い。

 

「は~い」

 

「はい……」

 

 軽い注意に政景は生返事。真面目な朝定(最近は政景に引っ張られている感じは強い)はしょげている。そんなにへこむ事は無いのだが、極端な二人と言えよう。さて、肝心の憲秀だが、一応しっかりと朝定と挨拶をする場を作ってあげたためにペコペコして逃げるように去って行った。

 

 あの様子では足利晴氏などに嫌味でも言われたのだろう。まぁ仕方のないことと諦めて欲しい。何だかんだで私も足利晴氏とは接点があり、感状を貰っていたりする。というのも、国府台の合戦は足利晴氏の要請を受けて亡き氏綱様が小弓公方を討つという大義名分もあったので、その足利義明を文字通り討ち取った私は感謝に値される人物という訳であった。

 

 他にも、花倉城陥落の功績で今川義元から、興国寺城と沼田で氏康様、国府台で氏綱様から貰っている。これを持って他家に行けば西国の家だろうと東北の家だろうと速攻召し抱えてくれるだろう。それも結構な高給で。これで武田信玄からも貰えれば東国の雄はコンプリートだったりする。別にそれを求めている訳でも、北条家以外に仕える気がある訳でもないが。というか、自分の恋人を放置して去るのは普通にクズである。

 

 それはさておきだ。私が帰ってきた用事を伝えねばならない。緊急で評定という事で、招集をかけた。評定のメンバーは若干変化している。兼成、胤治、段蔵は続投。綱成がいなくなってしまった代わりに左近が入っている。実は依田父子にも出る権利はあるのだが、彼らは秩父で頑張っているのでいない。そして一門なので政景もいる。家臣はここまでで後は与力の二名。太田泰昌殿と山中頼次殿である。

 

「急遽集まってもらってすまない。お二方も申し訳ない」

 

「なんのなんの」

 

「丁度暇しておりましたからな」

 

「それは良かった。まず……左近。どうであった、結城領は。そして元忠の技量は」

 

 左近はあっさりと結城領が片付いていたようで既に帰国していた。

 

「いや……何と申して良いのやら。お見それしたとしか言いようがありませんな。神速の手さばきでありました。まず結城の中でも当家との国境に近い国衆の城にいきなり城を囲んだ末の開城要求。狂ったのかと思いましたが、向こうが仰天して早馬をあちこちに送るのを想定してのことであったのでしょう。強制的に結城の国衆が結城城へ集まらねばならぬ状況を作り上げました。しかもたった一刻ほどで。その後開城させ城に居座るかと見せ、全部の国衆が結城城へ集った段階で兵を分け、結城領を徹底的に視察。電撃的な早業故に結城城へ情報が届いたのは全て終わった後。統率と言い、あの凛とした雰囲気と言い。筆舌し難し」

 

「であろうな。黒備、流石優秀だ。どうだ?自惚れは治ったか?」

 

「あれで治らぬは愚か者でしょう。生憎、私はそうではありませんので」

 

「言うではないか。だがそれで良い。優れた手腕より学ぶこと。それが肝要だ。さて……結城の方も片付いたという事でめでたいが、そうも言っていられない。近々、武田が兵を起こす。目的地は川中島。敵は無論……越後長尾」

 

 一瞬で広間に緊張が走る。この中で長尾軍と対峙したことが無いのは政景だけ。それでもその恐ろしさは多くの口から語られている。その為身震いしていた。

 

「そして我ら青備えの河越衆は援軍として兵を出す。無論、私が率いる。良いか、これは貧乏籤ではないぞ。北条家の威信、我らが双肩にあると心得るべし。そして、これは武田大膳大夫殿たっての要望である。一条土佐守並びに旗下の者に来て欲しい、とな」

 

 おおっ!と老将二名が色めき立つ。左近も目を開いてにんまりと笑っている。逆に仕事量の増える兼成は疲れた顔。本当に申し訳ない。

 

「水無月には信濃へ兵を出すとのこと。遅れるは断じてならぬこと。それ故、氏康様より許可を得て、急ぎ駿河より戻ってきた。ではこれより陣容を発表する。先陣・兵五百、太田豊後守殿。二陣・兵五百、山中内匠助殿。本陣・兵千、私並びに島左近。忍び衆・十、段蔵。後陣・兵三百、一条政景並びに白井胤治。以上精兵二千三百十を以て越軍殲滅の援兵部隊とする。すまんが兼成は後方で物資の支援を頼む」

 

「承知致しましたわ。武田の方々の分は?」

 

「それは自分たちで何とかするだろう」

 

「ならば問題ありませんわ」

 

「頼もしい。他、異論のある者は?それと政景は初陣だ」

 

「ちょ、ちょっと!」

 

「なんだ」

 

「初陣ってもっと、こう、勝てそうなところじゃないの!?それにまだ私は……」

 

「かの源頼朝公は13歳で初陣であったぞ。しかもその戦はかの有名な平治の乱だ」

 

「負け戦じゃないの!」

 

「お前が冬の信濃で言った決意は、まだ変わってないのだろう?」

 

「うっ……。わ、分かりました。義兄上のご配慮、感謝致します……」

 

「よろしい。他に異論のある者は?」

 

 誰も何も言わない。元より異論があっても困るのだが。

 

「では我らの武勇、甲斐信濃の者どもの眼へ十二分に見せつけようぞ!」

 

「「応ッ!」」

 

 評定を終え、胤治を呼び出して八幡平周辺の川中島の地図を見つつ、策を考えあう。主導権は武田が持っているが負け戦や長期滞陣は避けたい。穴山信君に頼んで回らせてもらった甲斐があった。史実では犀川を挟んで膠着してしまったが、この世界ではどうなるか。またどうできるのか。それに今後の命運がかかっている。

 

 東海では今川が動員を始めたという。そろそろ村木砦の戦いが始まるのだろう。織田信奈も徐々に勢力を伸ばしているという。残された時間は思ったよりも少ないのかもしれない。そんな予感がジリジリと頬を焦がした。




次回は第二次川中島の戦いです。甲信相って感じで視点を混ぜつつになるかなと。織田会はそれが終わった後がっつりやります!村木砦の戦いとか、正徳寺の会見、清州城・岩倉城などの攻略戦なんかですね。良晴も結構出ます!お楽しみに!


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第100話 犀川 甲・相・越

今回から数話は三家の入り混じった第二次川中島の戦いになります。


【挿絵表示】

川中島周辺概略図


 上洛を果たし将軍と御所の関白・近衛前久から絶大な信頼を得た長尾景虎。その最中に足下の越後で北条高広が反旗を翻し、堺では小笠原長時が三好家へ出奔するという不測の事態は起きたが、綸旨によって正式に御所から「隣国遠征の義軍」活動を認められた越軍は、関東へも川中島へも出兵自在の大義名分を得た。景虎自身、大義なき合戦、名分なき合戦は行わないと決めているので、綸旨を得たことによっていよいよ晴信との決戦をはじめる決意を固めた。今回は、上洛のために途中で撤兵しなければならないという縛りがない。

 

 北条家も同様のものを得ようと動いているが、流石にそうポンポン出せるものではないため時間がかかっていた。

 

 一方、武田晴信のほうは北条高広の反乱が失敗し、調略の本命だった長尾政景の方は不発に終わったことによって、立場的に苦しくなった。幕府も御所もすっかり衰微して実力を喪失しているとはいえ、景虎が行う「益なき戦」を嫌いはじめている越後諸将は、まだまだ権威に弱い。綸旨という大義名分には逆らえない。錦の御旗が掲げられてから早数百年。今や朝廷の権威と言えばこの綸旨くらいなものである。

 

 晴信は、弟の太郎義信と飯富兵部の仲を引き裂いてでも「三国同盟」を結ばねばならなくなったのである。しかしこれは乱世の世の常。何とか恋愛関係を成立させている隣国の方がおかしいのであって、武田を責めるのは酷な事であった。

 

 甲斐の府中にて、義信と、今川家から嫁いできた幼い松姫との祝言は、つつがなく行われた。武田家としてはやって来てくれた姫に精一杯のもてなしをしたつもりである。京から下向してきた貴族連中まで招いての婚儀は盛大に実行されたのでだ。

 

「今川家との同盟は、越軍に勝つために絶対に必要なことだった。俺にだってそれくらいわかっている。とはいえ、次郎姉さんや孫六姉さんを人質として駿河へ送るわけにはいかねえ。だから今川の姫を招いた。武田家からは、誰も欠けちゃいねえ。これでよかったのさ――」

 

 義信は爽やかに新郎役を務め上げ、今川・武田・北条の三国同盟は、ここに成立したのだ。これは大きく東国の情勢を動かした。信濃の国衆は武田への従属を強めている。北関東の諸将は北条の進軍は今日か明日かと怯えている。東海も俄かにざわめきだしていた。

 

 決して不満を口にすることなく、義信の嫁取りの儀式を「守り役」として見守り続けていた飯富虎昌の表情はこわばっていた。が、彼女は最後まで耐えた。すでに初老にさしかかっていながら嫁を取ったことのない孤独な軍師・山本勘助は、二人の心中を推し量りきることができなかった。そのような己を「それがしは人としていったい何年生きてきたのか」と恥じた。この上は、いかなる手を使ってでも越軍に勝ち、川中島一帯から永久に越軍の勢力を駆逐してしまわねばならない。今川義元が上洛軍を興すよりも早く、長尾景虎との戦いに決着をつけてしまわねばならない。そうでなければ、義信と飯富兵部の恋を引き裂いた意味すら、なくなってしまうのだ。

 

 

 

 

 

 

 その日、躑躅ヶ崎館を訪れた軍師・山本勘助は、睡眠不足で目を充血させながら「此度こそ必勝の策を立てました。御屋形様、信繁様。川中島での景虎との鬼ごっこは、この合戦で終わりとなります」と晴信・信繁の姉妹を前に「策」を開陳した。

 

 既に動員は始まりつつある。一条兼音率いる援軍部隊も関東で編成を開始していた。なお、ほぼ正規兵の常備軍であるので集まるのは速いのだが主計課とも言うべき部署が管理している兵站系が時間がかかる上に工事との兼ね合いで少し手間取っていた。

 

「だが勘助。北条高広はすでに景虎に降伏し、お咎め無し。以後も義戦に励む、次の合戦では先鋒を務めることで禊を果たすという条件で、再び景虎の旗下についたぞ。どうやらあの男、関東遠征派の筆頭を務める長尾政景が寝返らぬ限りは、本気で景虎に楯突くつもりはなかったらしい……政景が裏切れば政景につき、政景が動かねば景虎に降伏すると、両者を天秤にかけていたようだな」

 

「……太郎と兵部の気持ちを思うと、私も姉上も、眠れないの。こんなことになるのならば、私が今川家に『義妹』として入るべきだったのではないかと……勘助。長尾景虎は御所で隣国出兵の大義名分を――綸旨を得た。北条氏康は結城を抑えに入ったそうよ。北関東への布石を打っている。それでいて長野には何もしていない。これは完全に武田と景虎を噛み合わせるつもりだわ。景虎も、北条高広調略の件で武田に激怒している。既に川中島への出兵準備にかかっているみたい。真に、景虎に勝てる?」

 

 勘助は、答えた。堂々の上洛と電光石火の北条高広討伐によって越後諸将からさらなる尊敬の念を受けることとなった景虎は改めて「越後の軍神」としての名を高めた。一対一では厳しく、しかし同盟軍であるはずの北条氏康は武田を対景虎の防波堤として用いて自らは越後へ決して攻め入らぬつもり。

 

 というより、山が高すぎて無理なのだが。兼音も相当に難しいと結論付けている。歴史上山越えの進軍は難しい。大軍であり、かつ山が険しいほどそうなりやすい。なお、蜀軍は除く。

 

「どうするというのだ、勘助。すぐに越後の将を再び調略することは難しいだろう。少なくとも、景虎が越後にいる限りは」

 

 晴信も憔悴していた。武田家を守るために、父を追放したはずだった。それなのに、妹の禰々には関東に追いやり、今また弟の義信に犠牲を強いている。晴信が守るべき「武田家」は、武田の血をひいた一族だけでなく、武田家のもとに仕えるすべての家臣団と領民たちである。義信の祝言は、一族のみを優遇してきた信虎の方針を曲げて晴信が拡大した「武田家」を守るためには、やむを得ないことだった――が、義信も虎昌も「次こそ、景虎に勝たなければ」「御屋形さまは先に進めねぇ」とお互いにお互いを励まし合い、耐え抜いて一言の不満も恨み言も漏らさないことが、かえって晴信の胸を痛めていた。

 

「まず、かねてより調略を進めてきた善光寺別当・栗田寛安を決起させまする。善光寺と戸隠を越後派と武田派の二つに割ってしまうのです――善光寺の背後に旭山城なる山城がございます。この旭山城に栗田を入れ、武田の兵二千を送り込んで最前線基地といたします」

 

 旭山城の先には、飯縄山があり、その向こうには戸隠山がある。善光寺平は武田のものとなり、一気に犀川を越えて戸隠へと近づけるな勘助、と晴信が思わず身を乗り出していた。

 

「御屋形様。信繁様。加藤段蔵は既に信濃を去り、その後釜であった出浦も真田殿が調略しこちらへ寝返りました。この状態では戸隠忍群は、山から下りられませぬ。景虎自身が越後から兵を率いて善光寺平へ乗り込んでも、背後の旭山城が邪魔をして、思うようには南下できません。ですから、我らはこたび、犀川南岸まで北上可能です。前回は川中島の玄関口から北上できませんでしたが、一気に戦線を北へと押し上げられまする」

 

「しかし勘助。旭山城を奪っただけでは、膠着状態を誘発することはできても、雌雄を決するのは難しいぞ。常に決戦主義を取る景虎とはいえ、背後に敵を抱えたまま犀川を越えては来るまい。景虎は戦の天才、無理な突撃はしない。ただの猪武者ではない」

 

「そこで越中・加賀の国人衆と本猫寺門徒を取り込み、北陸一揆を同時に起こさせまする。景虎方は上洛中に大坂の本猫寺本山とよしみを結び、越中戦線に再び火が付かぬよう工作しておりましたが、大坂と北陸の本猫寺勢力は一枚岩ではありませぬ。長尾家から遠く離れた大坂方が『景虎と戦わぬように』と北陸の門徒衆に命じても、彼らは聞きません。なぜならば長尾家は北陸の一揆との戦いで代々の当主が命を落としております。景虎がどれほど『民とは戦わない』と慈悲を示しても――」

 

「北陸の民のほうが、信じぬな」

 

「景虎が北陸一揆に兵を向けている隙に、善光寺を二つに割ってしまい、旭山城を奪うことで戸隠山への入り口を切り開き、厄介な戸隠忍群の動きをも封じてしまえば――」

 

「われら武田本隊はその隙に、犀川を渡って、善光寺を占領できる」

 

「御意です、御屋形様。一万を越える兵力で、戸隠忍群も景虎率いる越軍も不在の善光寺を、奪い取ってしまいます。諏訪における諏訪神社と同様、善光寺平・川中島においては善光寺こそが民にとっては絶対の宗教的権威。これを手にすれば、民が靡きます。そうなれば後から景虎が兵を入れても、時すでに遅し」

 

「勘助。よくぞ策を練った。すぐにやれ」

 

「はっ。今川義元に上洛される前に、必ずや景虎と決着をつけまする」

 

 もはや晴信には「戸隠山の御神体=石」への興味はない。むしろ、景虎を『神の世界』から地上に引きずりおろすために壊していまいたい、と思っている。だが宗教要素の強い戸隠忍は戸隠山の石にこだわっている。その執念を利用し、足止めしてしまえばいいのだ。

 

 同様に、景虎は父と祖父が鎮圧に失敗して命を落とした北陸一揆を看過できないだろう。景虎自身には一揆衆への憎しみはないが、捨て置けば一揆衆のほうが親不知を越えて越後へとなだれ込んでくるのだ。望まずとも、景虎はこれを鎮圧しなければならない。

 

 北陸一揆の実体は、国人衆と門徒衆……つまり武家と領民との混成軍だ。景虎は武家とは戦うが、領民を相手に本気で戦うことはできない。武家同士の合戦には作法があり、降伏すれば許すという景虎の主義が通じるが、武家と一揆に走った領民との戦いは、「殺し合い」にしかならぬからだ。北陸一揆を景虎にぶつけることは、景虎を傷つけることになる……。と晴信は躊躇した。が、景虎と一揆衆が血で血を洗う戦いを始める前に、早急に犀川を渡り、善光寺に自らが武田本隊を率いて乗り込んでしまえばよいのだ。

 

「……義という観念のために戦い続ける景虎は、戦国大名にはなれない。戦国の大名に必要なものは、利であり理でありそして勝利だ。誰かが、土地を奪い城を奪い領土を広げていかねばならない。天下の乱れを終わらせるためには……景虎がそれをやらないというのならば、あたしがやるしかない。あたしと景虎の他に、乱世を平定できる英雄はいないのだ。北条は関東から出る気はない。一条兼音はその主に逆らわない。今川義元には無理だ。いかに太原雪斎がいようとも、雪斎はもう老齢だ。雪斎が倒れれば」

 

「左様。今川義元は補佐すべき軍師がいてこそ輝く主君。それがしが倒れようとも構わず上洛できるお力をお持ちの……自ら天下人のご器量を持たれておられる御屋形様とは異なります」

 

「不吉なことを言うな勘助。景虎の心の『縛り』を利用して両者を足止めするというこたびの策は、必ず成功する」

 

 信繁が「姉上。太郎への示しがつかない。この戦の先鋒は、私が。いえ、私直々に旭山城に入って」と名乗りを上げたが、晴信は「我ら姉妹は二人で一人だ。次郎は、副将としてあたしの隣にいてほしい。旭山城には春日弾正を入れる。武田本隊の先鋒は真田幸隆率いる信濃先方衆と、馬場信房に命じる」と答えた。

 

「真田を?真田は山岳地帯での戦いならともかく、平野での合戦は不得手よ」

 

「真田を先鋒に据えれば、戸隠と景虎はあたしの目的が善光寺の占領のみならず、戸隠山の石を奪うことまで視野に入れている、と考える。次郎、合戦とは碁のようなものだ。とりわけ、景虎のような戦上手の者が相手ならな。敵の心の動きと思考を先読みしながら、常に先回りして一手を打っていかねばならない。しかしながら長尾景虎が戦場で繰り出す戦術には、弱点がない。景虎は愚にもつかない観念のために戦っている姫武将だが、戦場でいざ兵を率いると、誰よりも冷静となり誰よりも正確に戦況を見渡すことのできる戦の天才。毘沙門天の化身と嘯くのも、自惚れや増長ではない。あの戦の天才に武田が勝つためには、景虎の心を攻めるしかない。景虎の心のうちの、人間としての部分を攻めるしかないのだ」

 

 信繁は、姉上はやはり、長尾景虎に心を奪われている。あの兎の精のような美しさを誇る、異形の戦の天才に……なんて、嬉しそうに景虎を褒め称えるのかしらと歯がみした。が、戦場でそんな姉上のもとから離れてはならない、とも思った。私が押しとどめなければ、姉上はきっと、景虎の姿を追い求めて越軍の中へと深追いしてしまう。武田の戦い方は、総大将の姉上自身が山の如く不動のまま本陣に腰を据え、兵を手足のごとく動かす戦法。景虎が望む「大将同士が最前線に出て戦う一撃決戦」に応じては、姉上は敗れる。剣豪将軍・足利義輝から「天下無双」と認められたという長尾景虎の武は、景虎と同質の武将であり長らく姉上を苦しめてきた村上義清の比ではない――。

 

「姉上。武田は、長尾景虎から毘沙門天を落として人間の娘に戻すために戦っているのではないわ。あくまでも信濃を平定し天下をうかがうために戦っているの。みな、姉上こそを天下人に、と願っているからこそ合戦に継ぐ合戦に耐えられるの。時間は無限ではなく、人生は短い。いくら太原雪斎なくば政権を維持できないだろうとはいえ、今川義元に上洛されてしまっては、姉上は天下人の座から遠ざかってしまう。私はどうしても、姉上に天下を盗ってもらいたい。そうでなければ、姉上は父上を追放したという心の傷から生涯自由になれないと思うから。それだけは忘れないで……」

 

 晴信が「わかっている。父上を追放したことは、お前にとっても傷になっているのだから」と頷き、勘助が「北陸と善光寺の栗田が連動すれば、次こそは必ずや」と胸を張っていた。

 

「惜しむらくは景虎には、政治感覚というものがありませぬ。景虎がいかに軍神とて、その身体はひとつ。越中と信濃で起こる二つの反乱を同時に鎮圧することはできますまい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長らく「謀反」の噂があった善光寺別当の栗田寛安が武田方に寝返り、善光寺の背後に聳える山城・旭山城に籠もったことは、すぐに春日山城へと伝わっていた。しかも、春日弾正率いる武田軍二千が、その旭山城へと加勢として入ったのだという。同時に、越中・加賀では本猫寺一揆が勃発した。北陸一揆衆の仇敵である長尾家との決戦を挑む、と口々に唱えているという――。

 

 北条軍の援軍が出立した事は徹底的な情報統制によって越軍にはまだ届いていない。武田は盟約に従って、出兵した旨をこの時受け取っていた。

 

 関東情勢はさておき、これらの一連の流れはいずれも、武田晴信の調略によって誘発された事態であることは、景虎にも理解できた。北条高広を降伏させた時点で「晴信の卑劣な策はこれで防いだ」と安心して春日山城に帰還し、出兵準備をはじめていた景虎は、「そこまでして、わたしに勝ちたいのか、晴信。勝てば、なにをしてもいいというのか……」としばし言葉を失った。

 

 しかも栗田は善光寺の本尊である「秘仏」を旭山城へと持ち去ってしまっているのだという。このため、善光寺平・川中島一帯の領民はみな、土地の守護神を失って右往左往しているのだという風聞であった。

 

 諏訪で用いた手と同じだ、と景虎は思った。神や仏を戦に勝ち民の心を奪うための道具として平気なのだ晴信という女は、とも思った。武田晴信という父親の愛を得られなかった姫武将に心惹かれているがゆえに、憤りもまた、大きい。

 

「お嬢様が越軍を率いて越中へ入れば、武田晴信自身が犀川を渡り善光寺を奪い取ってしまうでしょう。お嬢様不在の越軍では、いくら数を集めても晴信には勝てません。たとえ村上義清殿が総大将でも、無理です。足軽兵を中心に軍型を固める義清殿の槍衾戦法はもはや、騎馬隊を縦横に駆使する武田の新戦術によって、破られております――」

 

 直江は「このままでは、二正面作戦どころか、戦線は信濃・越中・関東に。三方面作戦となってしまいます。いくらなんでも無理です。今は、川中島を放棄して越中戦線に当たられますよう」と景虎に進言しようとしたが、軍議の席でも兎の新作ぬいぐるみの開発に余念がなかった宇佐美定満が、「まあ待て」と珍しく直江を制していた。

 

「こういう風にあちこちに綻びが出て状況がぐちゃぐちゃになった時こそ、オレの出番だぜ。オレさまの最大の特技は、舌先三寸で交渉相手をその気にさせる『調停役』だ。嫌みな直江の旦那には無理な仕事だぜ」

 

 越後では、景虎が守護となって以来、この手の混乱はほとんどなくなっていた。北条高広の反乱もまた、単発に終わった。常に越後騒乱の原因となっていた上田魚沼の長尾政景が動かないからだった。

 

 政景は、景虎の姉・綾との間に新たな子・卯松を儲もうけている。女子だが、このたびの子は幸いにも健康だった。政景はすでにこの卯松に上田長尾家の家督を継がせることを宣言していた。景虎がもしも自分のものにならず生涯を独身のまま終えれば、俺と綾の子が次の越後守護だ、と政景は公言していたし、実際、筋目から言えば政景が言うとおりなのだ。

 

「フン……北条高広の首を刎ねておかぬから、こういうことになる。土竜のように次々と武田晴信と山本勘助に煽られた面々が反旗を翻すぞ。宇佐美よ。貴様は越後国内では顔が利くが、相手が越中ではどうにもなるまい。長尾家の当主を殺し続けた連中だぞ。どうするつもりだ」

 

 その政景が忌々しげに宇佐美を睨むが、宇佐美は「直江の旦那が景虎上洛の計画を練って奔走してくれたおかげで、いろいろとツテができてな。さっそく、新たなツテを活かす時が来た」と笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 即座に宇佐美定満は――海路で、越前・一乗谷城へと乗り込んでいた。小京都と呼ばれる美しい城下町を誇る一乗谷城は、越前の王者・朝倉家の本城。第十一代当主の朝倉義景はまだ若く、政務にも興味を示さないために、朝倉家の一族である老将・朝倉宗滴がすべてを取り仕切っている。後に「朝倉家を支えた名将」として評されることになる朝倉宗滴。一条兼音の三鱗記にも『学ぶべき武士』と記載されその死を惜しまれたほどの存在として後世でも名高い。既に七十歳を過ぎた高齢だが、歴戦の勇者であり、「武士とは犬畜生である、戦に勝つことが武士のすべてである」と嘯く容赦ない勝利至上主義者として朝倉家を支えてきた。

 

「よくぞ来たな、宇佐美定満。いずれ儂のもとに助勢を乞いに来るだろうとは思っておったが、早かったな」

 

 朝倉宗滴は、茶室に宇佐美定満を招いた。宗滴自身には茶の湯の趣味はないのだが、かつて兵を率いて上洛して三好軍と戦っていた頃に茶を覚え、一乗谷へと持ち帰ったらしい。

 

「茶はまずいが……茶室というものは密談に便利でな」

 

「景虎を直接爺さんに会わせたかったが、武田軍がすでに大がかりに動いてきている。旭山城に二千。晴信率いる一万を越える本隊も甲斐から出立した。今回は、オレで我慢してくれ」

 

「心得た。北陸一揆を討てというのだろう。長尾景虎殿は、心の甘きお方。北陸の本猫寺勢力と結びついて一揆を先導している国人どもはともかく、一揆の主力となっている民草どもを殺し尽くすことはできまい。その点、儂は違う」

 

「爺さんは三十万の一揆衆をわずか一万の兵で打ち倒し、悉くを殺し尽くした凄まじい戦歴の持ち主だからな。あんたが本気で動いてくれれば、加賀の一揆衆は文字通り殲滅状態にできる。そうなりゃあ一揆勢も青息吐息。越中から越後へ攻め寄せることなど不可能となるさ――加賀から越中まで爺さんが攻め進んでくれば、皆殺しだからな。景虎が民を殺さないという甘さが、越中の一揆衆が強くなっている原因だ。爺さんが暴れれば、武家と領民との戦いの本質がこういうものだという現実を、連中も思いだすさ」

 

 越前に侵攻してきた北陸一揆衆を宗滴が打ち払い殺し尽くした「九頭竜川の合戦」はもう、はるか昔の話である。北陸の本猫寺門徒たちは、「われわれは信仰者。武家と戦ってはならない」と一揆の拡大に反対した始祖・れんにょを畿内へと追放して、越前の吉崎から加賀にかけて一大王国を築いていた。北陸一揆衆の「国持ち大名化路線」に反対して畿内へ追い出されたれんにょもまた、最終的には足利幕府・管領細川家と結びつくことで、畿内と北陸の門徒たちを守ろうとしたのだった。

 

 だがその結果、北陸の一揆衆は、ついには加賀のみならず北陸全土を本猫寺王国化せんとして越前・朝倉家との全面対決へ乗り出すこととなった。そして、越前の九頭竜川で、その惨劇は起こった――三十万の一揆勢に攻め込まれて朝倉家は存亡の危機に陥っていた。この時、若き猛将・朝倉宗滴が「武士とは犬畜生なり」と唱えて雲霞の如き一揆勢の中へと夜襲突撃を敢行し、九頭竜川でこれを殲滅したのだった。

 

 さらに宗滴は勢いに乗って、越前における本猫寺門徒の本拠地・吉崎御坊を徹底的に破壊し尽くし、越前の本猫寺勢力はこれによって大幅に弱体化したのである。朝倉家は宗滴の出現によって救われ、そして朝倉家の全盛時代が訪れた。かつては、宗滴は越前兵を率いて上洛し、管領細川家の要請に応えて三好軍と戦ったこともあったのである。

 

「あのまま、爺さんが京に留まって管領代にでもなっていりゃあよ、世はこれほど乱れなかった。なぜ越前へ戻ったんだ?そりゃあ、北陸一揆がすぐに息を吹き返してきたから、いつまでも越前を留守にはできなかったというのはわかるが」

 

「……宇佐美よ。細川家はもう、根っこから腐っておってな。大将があれでは、いかに儂が武威を示そうともどうにもならなんだ。お主も、京で幕府の衰微ぶりを見たであろう?もう細川は終わり。まだ三好の方がマシじゃ。武士は犬畜生、勝つことのみが本分と口では言っても、やはり武だけでは秩序は保てぬ。だからこそ、討たれても討たれても本猫寺一揆勢はその力を増大し続けるのよ」

 

「いやあ。今の細川家は将軍ともども京から追いだされていて、畿内は三好松永の天下だったさ。だが、あんたが上洛した時の将軍がどうだったかは知らないが、今の剣豪将軍は見所がある大器だぜ。『武士関白』の近衛とも義兄弟だ。配下には、細川は細川でも将軍家の落とし種の細川藤孝って切れ者もいるしな……が、今は畿内のことはいい。景虎を助けてくれ。爺さん」

 

「大器で天下が治まるのなら苦労せんわ。……加賀に攻め込んで、一揆衆との数十年に及ぶ対立の決着をつけろ、死ぬ前に、と言うのだな。年寄り使いの荒い男よの。儂が戦えば相手が武家であろうが門徒であろうが容赦ないぞ、それでは景虎がお主を叱らぬか」

 

 オレだって気は進まない。だがやむを得ないさ、山本勘助が打ってくる手はどこまでも厳しい。オレや直江が手を汚さねば、景虎は晴信と勘助に倒されちまう、それこそ武だけでは国は保てないってやつだ……と宇佐美は頭を掻いていた。

 

「景虎を救うため、景虎の『義』を守るためだ。だが、景虎には父親と祖父の敵である一揆衆を根絶やしにすることは決してできない。そいつは、軍師の仕事だ。これでいいんだ。いずれオレの罪はオレ自身の手で清算する」

 

「随分と景虎殿に惚れ込んだな、お主。一族の仇の娘であろうに」

 

「ああ、惚れ込んだらしい。あいつは、武によって天下を平定せんとするいわゆる『天下人』というのとは少し違うが、義の心を貫く高潔な意志を持ち、かつ戦場で自ら戦い抜いて勝ち続けることができる。景虎は、乱世に光をもたらす希有な存在だ」

 

 それほどの者か。たしかに、武だけでは誰も天下を平定できなんだ。幕府も管領もすでに腐り果ててしもうた。民の心が絶望しておるのじゃ。だから一揆が終わらぬ。だから本猫寺の猫神にすがる。あるいは景虎殿がまことに毘沙門天の化身ならば、我らにできなんだことも――あと二十年の若さが儂にあればな、と宗滴は苦笑いを浮かべていた。

 

「おたくの義景はどうだ?」

 

「あれは武家には向かぬ。絵師にでも生まれてくるべき男よ。ほとんど心根は女に等しい。それも、戦場で男に混じって戦う姫武将ではなく、戦なき世界に生きる娘にな。いくら性根を直そうとしても、無理なものは無理じゃ。儂も老い先短い。朝倉家の行方が心配じゃ……義景よりもむしろ、尾張の織田信奈がどのような武将に育つかを、儂は見届けたいと思っておる」

 

「織田信奈?誰だ、そりゃ?」

 

「通称は吉。かつて大垣でわしとも戦い、先ごろ死んだ織田信秀の娘でな。尾張のうつけ姫よ。永楽銭の旗印を掲げて町中で『きうり』をかじりながら遊び歩いていたという婆娑羅者で、異様に銭に細かいらしい。武家とは思えぬうつけじゃ。廃せよという動きも家中には未だにあるという。じゃが……織田信奈の噂を聞けば聞くほど、古き武士の中からは決して生まれてくることのない希有な新しき才能を感じるのじゃ。まるで、油売りの商人という身分から己の才覚のみで美濃一国を奪い取った斎藤道三の才能と志を、みな引き継いで生まれてきたかのような、奇天烈な姫よ」

 

「景虎とは水と油のようだが、そいつは面白そうだな。が、少々運が悪いな。尾張の織田家はまもなく太原雪斎率いる今川上洛軍に、飲み込まれる。尾張には銭があるが、先代同様知恵が回る斎藤道三には軽く捻られちまうだろうさ。雪斎の知謀にはかなわねえし、そもそも雪斎が築き上げた今川家との国力差はどうしようもねえ。その上、雪斎は三国同盟を成立させて武田・北条まで今川の味方につけた。まぁ、これは景虎のせいなんだがな」

 

「いや。織田弾正忠家はただの田舎武士ではない。商才があり、莫大な銭を生む仕組みを構築し終えておる。かつ、信奈の戦略眼と商才はいずれも信秀以上と儂は見ている。まだ雌伏の時のようだが、尾張がまとまれば強かろう。織田家は化けるかもわからぬぞ。人の命は……特に武士の命は、いつ終わるかわからん。儂が数十年に及ぶ戦を重ねながらなお生きておるのも冥加よ。或いは朝倉も、信奈に滅ぼされるやもしれぬ」

 

 ならばこそ、儂の目が黒いうちに加賀の一揆衆を根絶やしにしてしまうという朝倉家への最後のご奉公、お主に言われずともやるつもりであった、と朝倉宗滴は猛獣のような眼光で手にした茶器を睨みつけていた。

 

「そんなものだろうかな」

 

「そうだとも。長く生きておれば色々と見えてくる。……お主は一条土佐守は知っておるな?」

 

「知ってるも何も、戦った相手だぜ。めっぽう強かったがな。箕輪じゃあ腕自慢の色部や柿崎の旦那があしらわれてた」

 

「その土佐守が織田信奈を高く評しているそうだ。それを聞き、なかなか見えておる若者よと思ったぞ。儂と同じものが、或いはもっと先が見えておる。でなくば天下に謳われた左京大夫の懐刀が入れ込む訳も無かろう」

 

「それは……まぁそうだな」

 

「願わくば土佐守。一度会うてみたいものよ。儂の見立てでは日ノ本を獲れるのは織田信奈だろう。じゃが、奴にも欠点はある。評判を聞き察するに足元が緩いのが織田信奈の弱みよ。先を行き過ぎて足元がおろそかになる。反面土佐守は慎重じゃがそれがうまく作用し領国を治めておる。信奈が獲りし天下を執れるのはあ奴しかおるまい」

 

「だが爺さん。一条土佐守は北条氏康の家臣だぞ?」

 

「忠義の士であるがゆえに下克上はせぬだろうな。だが氏康とて土佐守の将才を知っておろう。ではどうするか?簡単じゃ。一族としてしまえばいい。それも色恋で雁字搦めにな」

 

「まさか……そんな事が?」

 

「あり得るであろうな。氏康には妹が多くおる。どこかの時期を見て引退すれば降嫁も出来よう。そうすれば氏康が目を光らせておるから次期当主は安心して土佐守を使えるという寸法じゃ」

 

「……それほどなのか、土佐守は」

 

「氏康は良い拾い物をした。それが全ての答えじゃ。後は歴史が証明しよう。儂の言葉の正否をな」

 

「……」

 

「まぁそれは良い。一揆の件、承知した。老いたりといえども、儂は朝倉宗滴。国境を守っている一揆勢を三日で押し戻し、加賀深くへと侵攻し、何ヶ月かけてでもきゃつらの本城を陥落させてみせよう。戦を苦手としている義景のためにもな」

 

 朝倉宗滴は「北陸一揆勢と最終決戦をはじめる。それも、今すぐに」と立ち上がっていた。

 

「宇佐美定満よ。儂も、お主がそこまで惚れ込んだ長尾景虎殿に興味を持った。織田信奈や一条兼音とはまるで別物……あるいは武士ではなく宗教者なのやもしれぬが、その宗教者がこの世の誰よりも強いとは実に面白い。冥土の土産に、毘沙門天の未来を切り開こう。このまま座して死んでしまえば、儂の生涯はただ生活に窮乏して立ちあがった民草を殺し続けた犬畜生というだけに終わる。若き武将たちに、乱世の平定という悲願を託して、逝くことにするわ」

 

 爺さん、恩に着るぜ、と宇佐美定満は破顔していた。しかし、越前の猛将・朝倉宗滴がこの決戦の途中で病没することまでは、宿曜道の使い手ではない宇佐美定満には知るよしもなかった――。

 

 

 

 

 

 

 茶室から退室し、庭園に出た宇佐美は、若い姫武将と鉢合わせした。おでこが広くて、利発そうな顔つきの少女だった。だが、とにかく、つい頭を下げてしまいそうになる気品があった。よほど高貴な生まれなのだろう、と宇佐美は思った。

 

「ああ。あんた、もしかして越前国主の朝倉義景?まるで女の子だな」

 

「違います。私は斎藤家家臣・明智兵庫頭光安が姪で明智十兵衛光秀と申します。美濃の斎藤道三様のもとで、小姓を務めております。本日は、美濃から越前への使者に随行して一乗谷に来てやったです」

 

「明智?聞いたことがねえな」

 

「越後のお方は知らぬでしょうが、明智家は由緒ある土岐源氏の名門なのですぅ。今は没落して、商人出身の道三様に仕えておりますが、道三様はまことに英明。国境を取り払って商業を興すことこそが乱世終焉への早道、と次から次へと改革を行っておられる名君ですぅ」

 

 十兵衛はいずれ道三様の軍師となり、美濃の宰相となって天下を平定するのです、ふふふ、その時は越後と仲良くしてやるですからこの十兵衛の顔をお覚えください――頭になぜか金柑の実を飾っている少女は、宇佐美が樋口家から預かり直江に養女として託した与六と同等、いやそれ以上に気位が高いらしい。だが、宇佐美には宿曜道の術がなくても、乱世で培った人物鑑定眼がある。

 

 明智十兵衛、か。まだガキだが、只者じゃない。才気が、光り輝いている。直江に養育させている宰相候補の与六に匹敵する……あるいは……いや、宰相どころじゃないかもしれない。文字通り「天下人」の器を持つ姫武将になるかもしれねえな、と直感していた。

 

 だが……「義」のために戦い続ける長尾景虎がいずれ、織田信奈と手を結び「天下布武」の戦いを繰り広げる明智十兵衛光秀を相手に雌雄を決する壮絶な決戦を行う未来が待っていることまでは、越後随一の軍師である宇佐美をもってしても予測できなかった。そしてその決戦に、宇佐美自身は加われないことも。その決戦が訪れた時にはすでに、宇佐美定満の命が、尽きていることも――。

 

 明智十兵衛か。この子の未来を、見てみてえもんだ。オレは宗滴の爺さんに比べりゃあまだまだ若いが、宗滴の爺さんの気持ちがわかる気がするぜ、と宇佐美は笑っていた。

 

「……織田信奈に、明智十兵衛、か。どうやら、時代は変わろうとしている。オレのようなオッサンが歴史という舞台から退場する時は、近いのかもしれないな。十兵衛ちゃん。美濃の宰相になるのならよ、口が悪い癖は矯正しておけよ。オレみてえな人生にくたびれた男には美少女の毒舌はご褒美だが、相手によりけりだぜ」

 

「むっ。織田信奈とは、尾張のうつけ姫ですね?一緒にしないでくださいですう。噂ではとんでもない奇行癖の持ち主だとか。高貴でかしこい十兵衛とは大違いです」

 

「おやまぁ。じゃ、一条兼音はどうだ?」

 

「土佐守様ですか!十兵衛の目標ですぅ。武名は濃尾まで響いておりますからね!道三様にもああなれと叱咤激励されております。きっとさぞ理知的で聡明なお方なのでしょう!」

 

 あまりの態度の変わりように宇佐美も唖然とする。どうやら濃尾や畿内の諸将、特に若い姫にとってすればふらりと現れ救国を成し遂げる英雄譚は響くらしかった。

 

 その頃山道を行軍中の兼音は激しいクシャミをし、家臣に心配されていた。

 

「ま、その辺りは宗滴の爺さんに聞いてくれ。オレはどっちにもに会ったことはねえんでな。越後と美濃とでは直接交流する機会は少ないだろうが、出来れば景虎の方と仲良くしてやってくれよ。それじゃあな――」

 

 宇佐美定満が朝倉宗滴を動かしたことにより、越中での一揆衆の動きは止まった。宗滴を始め、朝倉景鏡、朝倉景紀、朝倉景建、山崎吉家、魚住景固、真柄直隆、前波景定、河合吉統などそうそうたる諸将を引き連れ朝倉軍は北上したのである。それを受け、一揆軍は加賀での宗滴との決戦になだれ込んだ。宇佐美定満が春日山城へ帰還を果たすと同時に。景虎は兵八千を率いて、善光寺平へと出兵した。

 

 

 

 

 

 

 

「犀川北岸まで兵を進めたいが、背後の旭山城が気になる。迂闊に南下すれば、晴信本隊と旭山城に前後から挟撃されることになる――前回の合戦よりも防衛線を大幅に下げることになるが、善光寺を死守するべく、横山城に本陣を敷く」

 

「毘」の旗を翻しながら山を越えて再び善光寺平へと入った長尾景虎率いる越軍は、総勢八千。壮麗なる越後の男武将たちが、「毘」のもとに勢揃いしていた。

 

「帰り新参の北条高広、先鋒承り。やはり武田晴信の戦略に後れを取りましたな、景虎様。前回の川中島の戦の折に、北信濃の領国化を進めるべきだったのですぞ」

 

 景虎に反旗を翻しながら、あっさりと降伏して戻って来た北条高広。

 

「フン。貴様の謀反騒ぎに誘発されてこの俺が寝返れば、中越は武田晴信と北条氏康が分け取りしていたことだろうな。そうなっていれば、貴様の持ち城も増えていたであろうに。当てが外れたな北条」

 

 景虎の留守中に越後を守った形となった、上田の長尾政景。

 

「……まぁそれはさておき。しかしこれで、関東遠征がまた伸びましたな。北条氏康は今、景虎様の遠征に備えて小田原城を猛然と拡張しておるのだとか。加えて関東諸将の調略を進め、内政を固めておると聞きますぞ。手遅れにならねばよいですな」

 

「景虎が此度の決戦で武田晴信を討てば、次こそ関東遠征だ」

 

「北条も政景も、今は関東のことを忘れて目の前の敵に集中せねばならぬぞ。宇佐美殿が朝倉宗滴を動かして越中戦線を封じることで形勢を巻き返したが、晴信の容赦のなさと山本勘助の知略は見てのとおりだ。その上、武田軍は騎馬隊を中心とした新たな編成・軍法を導入して以前よりずっと強くなっている――前回の野戦での勝利は、あくまでも越軍を上田まで引き込む撒き餌だった。こたびこそ、武田軍が真の実力を見せてくる」

 

 武田軍に誰よりも詳しい降将・村上義清が、関東派諸将に忠告を発した。

 

「村上殿。既に信濃守護の小笠原殿は、旧領回復を諦めて三好家へと逐電なされた。村上殿の旧領回復も、大義を失ったのではありませぬか?村上殿には優れた武勇がある。我らとともに、広大な関東で土地を切り取りませんか?景虎様からも、関東のうち越後に接した上野に関しては、越後武将のうちから城代を選んで前線基地を統治させるとのお約束をいただきました」

 

 北条高広が、馬を寄せて、村上に囁く。村上義清は、北条高広がなぜ謀反したのかを理解した。政景が連動すればそれでよし、政景が動かずとも景虎から「関東上野における城代を任ずる」という前約束を取り付けられれば北条高広は「他国を侵略せず」という景虎から例外的な扱いを受けることができて、いずれ上野の重要拠点の城代となれる。

 

「村上どの。むろんわたくしには私利私欲も半ばありますが、半分は連戦の軍費を捻出するためですよ。長尾家が直接川中島を支配せぬ限り、武田には勝てません。例外は、晴信を戦場で討ち果たした時のみです」

 

「……確かに川中島に城代を配置せねば、戦略によって武田にどんどん押し切られてやがては北信濃全土を失陥する。わかってはいるが、ご主君は武田晴信との決戦に賭けておられるのだ」

 

 ボクが暴れて今回こそ武田軍を蹴散らしてみせますよ!景虎様ああああ!と揚北衆の少年武将・本庄繁長が叫んでいた。

 

 此度はどれほどの将兵が血に塗まみれ命を落とすであろう。「義」のためとはいえ無情ではある。せっかく憧れの高野山で大悟寸前まで修行されておられたというのに、景虎様のご心痛はいかばかりか。南無阿弥陀仏……と唱える柿崎景家も、己の位牌を頭に縛り付けて参戦していた。

 

 その他には――武辺者が多い越後では珍しく文武両道に秀で、「便利屋」的な立場として頭角を現しはじめていた斎藤朝信。もう若くもなく、体格は小柄だが、人格に重厚さがあり、粘り強い。戦費が。兵糧が。これでは越後の財政が持ちませんと青い顔をして震えている官僚肌の大熊朝秀。そして、景虎を補佐する左右の腕。宰相・直江大和と軍師・宇佐美定満が、白馬にちょこんと腰掛けて行軍する景虎に寄り添っていた。

 

「北条高広と柿崎景家の武勇は、武田方の飯富兵部や馬場信房にひけを取りません、お嬢様。とりわけ北条は謀反を許された借りを返すためにも遮二無二働きましょう。ですが、やはり犀川を渡る折には先鋒は武田軍を熟知されておられる村上義清殿に命じられるのがよろしいでしょう」

 

「わかっている、直江。私自身は善光寺より南には動けぬ……旭山城を押さえられている限りは、迂闊に犀川北岸まで南下できない」

 

「善光寺の秘仏はすでに旭山城へ持ち去られた。善光寺の付け城とも言うべき横山城に布陣して、善光寺の僧侶たちと領民の動揺を抑えるというのは名案だが……決戦を求めていたはずのお前らしくないな、景虎」

 

 軒猿たちは戸隠山と飯縄山に結界を張っている。忍びは決して野戦の勝敗を決する者たちではないが、晴信の持ち駒である真田忍群は、何もしないでいると善光寺平を自在に動けることになる。その分、諜報戦で後れを取る恐れがある、と景虎は宇佐美に答えていた。

 

「晴信は、戦に勝利を得るためならば善光寺も戸隠山も焼き払いかねない。必要とならば、秘仏も、ご神体の『石』も、奪い去って甲斐へと持っていこうとするだろう。あるいは善光寺そのものを甲斐へ――そうなれば、善光寺への信仰心が深い領民たちもまた、甲斐へ移り住むことになる」

 

 諏訪氏を滅ぼし、諏訪家の末裔・四郎殿を武田家へ取り込んだことで、晴信は南信濃の諏訪地方一帯を奪い取ることに成功した。北信濃では、諏訪神社にあたる存在が、善光寺と戸隠山なのである。「神々の国」信濃を他国人が奪い取り統治するには、信濃の国人を武で倒すだけでは不十分で、「神」を押さえねばならない。神を押さえれば、民の心を押さえることができる。

 

 景虎が思うに、武辺者だった武田信虎がついに信濃侵略に成功せず、諏訪家と婚姻同盟を結ぶに至ったのも、この「神々の国」信濃独特の文化を理解できなかったからであり、晴信が信濃侵略事業をほぼ成し遂げつつあるのは信濃が「神々の国」であることを理解していたからである。――ただし、晴信は信濃の山々の奥底に眠る「神々」など信じてもいなければ、崇拝も尊重もしていない。ただ、それが信濃侵略事業における「攻略目標」のひとつであると気づいたにすぎない。

 

「私とて、戸隠の者がめいめい言うような地龍の目覚めなどを本気で恐れてはいないし、戸隠の『石』が真の神であるとは思わぬが、人々が長年心のよりどころとしてきた神仏を奪い壊し甲斐へ持ち去るなど、認めてはならない。善光寺を奪われた民が絶望して本猫寺一揆のような一揆を起こせば、信濃もまた北陸のように無秩序な国となってしまう。――計算高い北条高広にこのようなことを話せば、『それほど信濃から神々が失われることを心配されるのならば、信濃を毘沙門天の住まう国にしてしまえばよろしい』とまた算盤をはじかれるが」

 

 わたくしでも同じことを言いますよ、ただ、言ってもお嬢様が取り合わないと知っているので言わないだけです、と直江大和が苦笑した。越軍は、善光寺のすぐ東にある小高い平山城――横山城へと展開した。

 

 善光寺の僧侶たちのうち、武田方についた半ばは栗田寛安に率いられて背後の旭山城へ登っている。旭山城には、晴信の小姓あがりの姫武将・春日弾正が二千の兵を引き連れて籠城している。景虎を支持する残りの僧侶たちと善光寺の建物を守るためにも、景虎は横山城から動けない。

 

「越中の一揆は、宗滴の爺さんが蹴散らしてくれるはずだ。いかに山本勘助といえども、越中に武田方の武将を送り込んで『大名不介入』を唱える一揆衆を直接指揮するわけにはいかねえからな。しかし、背後の旭山城は別だ……もともと、戸隠忍群に防衛を任せきっていた善光寺は、僧兵を集めて武装していた叡山とは異なり、自前の兵力が不足している。だから旭山城に、大喜びで武田軍を入れちまったわけだ」

 

 宇佐美定満は「北条高広が言うように、善光寺平か川中島に長尾方の城代を配置しなければ、いつまでも持たないぜ……決戦主義を続ける限り、晴信と山本勘助が決戦を避けて搦め手で越軍を封じる手を取れば、千日手になっちまう」と景虎の潔癖すぎる「決戦主義」を諫めていた。無論、景虎が承知するはずはなかったが。

 

「関東ならば話は別だ。関東管領・上杉憲政様が越後におられるのだから、便宜的に北条氏康を討伐し終えるまで上野の前線に城代を入れる必要はある。越後から関東への道はあまりにも遠く、遠征中に上野を失陥すれば越軍は帰国できなくなってしまうのだから。だが川中島は別だ。越後から程近いゆえに、善光寺から戸隠山にかけての善光寺平一帯を守りきってさえいればそう容易には退路を断たれたりはしない。しかも信濃守護の小笠原長時が逐電した今、城代は置けぬ。名分がない」

 

 小笠原の野郎。景虎の色香に迷って、とんでもないことをやらかしやがった……と宇佐美定満は嘆息した。だが、小笠原は稀代の女好きではあったが、そこまで愚かな男ではなかった。

 

 あるいは……あいつ、松永弾正に一服盛られて操られたのかもしれないと宇佐美はふと気づいたが、悔いてももはや取り返しがつかない。それよりも、「小笠原長時が景虎を襲った」という風聞が越後諸将の間に流れていることが心配だった。誅殺しておくべきだったのです、この件はあとあと災いの種になります、と直江も苦い表情を浮かべている。

 

 そこに、武田本隊一万二千が諏訪から川中島へと出てきました、犀川南岸の大塚に布陣をはじめています、と物見兵からの報告が入ってきた。

 

「これで旭山城と武田本隊――南北に武田兵を抱えましたね、お嬢様。如何為されますか?」

 

「私自身が直接犀川へ押し出したいが、それこそ晴信と山本勘助の思う壺だろう。旭山城に入っている春日弾正なる姫武将、なかなかに手堅く軽挙妄動しない性格だという。わたしは善光寺を守るために横山城に留まる。武田との戦に慣れている村上義清を、先鋒として犀川へ。後詰めに、柿崎、北条、斎藤の三将を」

 

「八千しかいない越軍を、さらに二手に割りますか。村上どのに渡河させますか?」

 

「そこは、村上義清の判断に委ねよう。晴信と山本勘助の本気の戦いぶり、決戦の前に一度見てみたい」

 

 村上の旦那はかつて「槍衾」戦術で二度も晴信を破ったが、晴信と勘助が武田軍を「槍衾」に対応するべく軍を再編成した結果、まるで勝てなくなった。晴信本隊を破れる者はやはり、景虎しかいないが……と宇佐美は危惧したが、景虎は問題ないと首を振った。

 

「村上義清には、決して無駄死にするな、来たるべき晴信との決戦の折にそなたの武は絶対に必要になる、と言い聞かせておく。晴信に犀川を渡らせぬことが、この野戦の目的なのだ。晴信を南岸に押しとどめておくあいだに、旭山城への対応を考えよう。私は野戦ではおそらく無敵だが、知恵比べとなると晴信と勘助の二人にはとてもかなわぬ。宇佐美、頼むぞ」

 

 越後国内の合戦ではまるで出番がなかったオレの越後流軍学に珍しく出番が来たな。それだけ景虎は晴信と勘助に押されているということだ、と宇佐美はうなずいていた。

 

 そんな陣中の空気を凍らせる報告を、次の物見が持ってきた。

 

「犀川向こうの武田軍の中に下り藤!一条土佐守の軍勢と思われます。数は二千ほど!」

 

 この報告で長尾軍の陣は重苦しい雰囲気に包まれる。先の箕輪では苦しい戦いを強いられた。撤退にはなったが最終的には引き分けであったという風に越軍は解釈している。一方の北条軍は大勝と喧伝しているのだが。

 

「だが妙だな。援軍だとしても先鋒に近い場所に……?」

 

 宇佐美の発言でやっと空気が少しは戻る。確かに常識で考えれば激戦地に援軍を置くのはおかしな話である。普通、援軍は一番前の方には出さない。それこそ超絶に不利ならば話は別だが、今回はおかしな話であるように思えた。

 

 しかし、一条土佐守と武田晴信だ。そう言う事もあるのだろうと言う景虎の一声でその動揺は静まる。今度こそ関東の者にも一泡吹かせねば。そんな思いが諸将を駆け巡る。それを感じながら、景虎は険しい目をしつつ、犀川の方を睨んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 犀川南岸へと布陣した武田本隊一万二千もまた、「これが越軍との最後の決戦となる」という晴信の覚悟のもとに、主力格の武将をずらりと揃えていた。春日弾正はすでに、「あわわ。景虎が犀川へ向かわず、善光寺の真横に本陣を?あああ旭山城を先に落とすつもりです。に、逃げましょう!」と震えながらも、最前線の旭山城へ別働隊を率いて籠城。

 

 先鋒は、「不死身」の通り名で恐れられるまでに成長した馬場信房。彼女は、本来の持ち場である深志城から招集されてきた。深志城では、叱咤する山本勘助の指導のもとに、諏訪家の遺児・幼い四郎勝頼を「次代の諏訪家当主」として守り立てて、諏訪と松本平の領民から厚い信頼を得ている。築城術から内政外交謀略に至るまで、馬場、春日、工藤、飯富三郎兵衛たち晴信世代の若き姫武将は軍師・勘助の教え子であり、勘助には頭が上がらない。とりわけ、地形と戦略に応じて縦横無尽の縄張りを閃めく勘助の築城術の見事さは、他者の追随を許さないものだった。

 

 が、此度の合戦では、馬場信房は久々に猛将としての闘志溢れる表情を剥き出しにしていた。

 

「……必ず御屋形さまの信濃統一事業を、この一戦で完成させる……」

 

 二番手には、信濃先方衆を率いる真田幸隆。信濃に数多い、武家とも農民とも異なる非定住民、いわゆる「山の民」の半ば以上が晴信に従っているのは、この真田の存在が大きい。なにしろ真田忍群の元締めたる幸隆が、郎党と同格の扱いを受けているのだ。武田の旗のもとではすべての者が武田家の人間である、という晴信の方針を、幸隆自身の活躍が信濃全土に知らしめていた。

 

「典廐様。この合戦のどさくさにまぎれて、一気に善光寺の秘仏と戸隠の石をも奪ってしまおうと思いますの。例え合戦で決着がつかずとも、領民の心を取れますわ」

 

「幸隆。典廐と呼ばれるのはどうも落ち着かないわ。信繁でいいわよ。あなたも、弾正と呼ばれるとなんとなくむずがゆいでしょう?」

 

「そうですね。都の松永弾正を思いだしてしまいますものね。あの者も、氏素性の知れぬところ、真っ当な武家では思いも浮かばぬ知謀を買われて武家に仕え出世しているところ、銭にうるさいところなど、なにやらわたくしに似ているそうです。ただ……松永弾正は忍びではなく、傀儡という人形を間諜に用いるとか」

 

「でも、松永弾正は独身だというわ。あなたは子だくさんでしょう?私は姉上のもとから離れるつもりはないけれど、子を産み育てる時間が足りない姫武将としては、羨ましいわね」

 

「ふふ。そうですね。真田家に入り込む前は、私は自由気ままな『山の民』でしたから。子育てが趣味みたいなところがあったのですね」

 

「……太郎は笑顔で祝言を受け入れたけれど、心は傷ついているわ。太郎と虎昌のためにも、いつか三国同盟を破棄できるよう、景虎を打ち破ってしまわなければ。景虎の首を挙げることができれば、きっと……景虎に憑かれてしまったかのような姉上だって……目を覚ましてくれるはず」

 

「典廐様、焦りは禁物ですよ。長尾景虎の首、容易には奪えません。戦略では確かに武田が勝っていますが、野戦決戦がはじまれば、景虎は一気に戦局の不利をひっくり返してしまう異形の武力の持ち主。勘助殿が全知全能を傾けてなお、五分と五分に持ちこめるかどうか」

 

「忍びによる暗殺も、無理なのかしら?」

 

「ええ。景虎はどうやら生まれながらに、胆が開いている者なのです。そのような者は、万人に一人もおりません。景虎は、生まれつき忍びの技も戸隠の石の力もいっさい通じない、いわば――そうですね。いわば、神の化身。戦国大名の家になど生まれなければ、衆生を救う宗教者として生きることができたお方ですのに」

 

「……毘沙門天……必ず、姉上の足下に跪まずかせて……」

 

 晴信の片腕・武田次郎信繁は景虎を倒すという闘気を抑えられなかった。近頃は武田家も堂々たる戦国大名の一家となったため、武田の副将である信繁の名を呼ぶことをはばかる者が増え、官位名で「典廐」と呼ぶ者も増えていた。が、危うい、と幸隆は信繁を案じている――。

 

 そして馬場隊と旭山城の間には武田の一門衆筆頭・穴山信君が鎮座している。金山で特殊技巧を持つ金堀衆を擁している穴山隊は精強な部隊の一つであり、一門衆である事もあってかなりの信頼を得ていた。また、本人も優秀であるため高い評価を受けている。加えて数少ない信玄・勘助体制に諫言できる人物として重宝されている。

 

 馬場隊の後ろには工藤隊が小柴見城で遊軍として臨機応変に動けるよう待機。栗田城には飯富三郎兵衛が入っていた。小柴見城の後方の窪寺城には秋山信友が詰めている。武田晴信本隊は後方・大堀館に本陣を構えていた。

 

 

第二次川中島の戦い・布陣図

 

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「勘助。越軍が動いたな。だが、先鋒隊の数が少ない」

 

「御屋形様。景虎は横山城に布陣して善光寺を押さえ、旭山城の動きを封じ込みつつ、村上義清を先鋒として犀川北岸へ送ってきましたぞ。少ない兵を二手に分けるとは、景虎ともあろう者がさすがに苦慮しておりまする。ふふふ」

 

「今度こそ、ずいぶんと両軍の将兵が死にそうサネ。独り身の姫武将と姫武将同士、仲良くできないものかねえ」

 

 近頃ますます長姉に似てきた孫六信廉こと逍遙軒も、晴信の影武者として本陣にこっそりと侍っている。更には、今川家から松姫を迎えて祝言を挙げた太郎義信と、その守り役で「武田四天王」最後の将・飯富兵部虎昌が、襲撃部隊として森林に潜んで出陣に備えていた。

 

「兵部。姉上たちは、この俺に松を娶らせてまで景虎との対決にすべてを賭けたことで、内心では極度に焦っている。そこから隙ができれば、戦の天才・景虎は一気に本陣を突いてくるかもしれねえ。俺たちの出番だぜ」

 

「わかってらぁ。それより、ああ、太郎?その……新妻との間に、子供はできそうなのかよ?仲良いんだろ?」

 

「……娶った妻だ。邪険には扱わねえ。定姉さんも、駿河に義妹として入って、故郷の甲斐を想いながら駿河で死んじまった。だが、子作りは、その……なんだ。今は、そんな余裕はねえよ。景虎を倒すまではな」

 

「新妻を放置すんなよ?あ、あ、あたしに気を遣うな。いいな?」

 

「……き、気なんて、遣っちゃいねーさ……そうさ……俺ぁ武田家ただ一人の男武将だ。本来ならば、俺が合戦を仕切っていなきゃならねえ立場なんだ。姉上たちに、恋を。祝言を、挙げさせてやりてえ。このままじゃ三人が三人とも、独身を貫きかねねえ。とりわけ晴信の姉上と、次郎の姉上はよ」

 

「……そうだな。お前ならいずれは戦の采配を任せられる武将になれる。今回は二人でさんざん暴れようぜ、太郎」

 

「おうよ!」

 

「へっ。毘沙門天だかなんだか知らねーがよ、武田四天王最後の一人を舐なめるな!『飯富の赤備え』が、毘沙門天を粉砕してやらぁ」

 

 晴信がこれほどの戦力を川中島へ総動員できたのも、三国同盟によって北条・今川との国境線に兵を割く必要がなくなったからであった。大きな犠牲を払った義信と虎昌の戦意は高い。二人ともに、戦場での槍働き以外に己を表現することのできない不器用な若者である。むろん、二人の悲恋を歯ぎしりしながらも止められなかった諸将や足軽たちの戦意も、また。

 

 そして忘れてはいけないのは北条家からの援軍部隊。一月と少しで信濃北部まで来いと言う最悪な事態に遭遇し、強行軍を敢行した一条兼音である。本人は二度とやりたくないとぼやいていた。これが出来た理由は、秩父まで街道を延伸していたことが大きい。また、そこまでに幾つも補給拠点を設けていたこと、兵たちが日頃から工事で身体を鍛えつつ三食しっかり食べて筋骨隆々で体力もあったことなどが挙げられるだろう。

 

 武田軍では、これらの将が一堂に会して長尾軍が動く前の最終的な評定を行おうとしていた。なお、旭山城の春日弾正は動かないで待機しており、武田義信も万が一に備え待機している。場所は最前線にほど近い小柴見城。強行軍で呼びつけられて疲れている一条兼音に申し訳なさそうな顔をしつつ、晴信が軍議を始めた。



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第101話 第二次川中島の戦い・前 甲越

今回は武田・長尾視点です。次回は同時系列を兼音ら北条家視点でお送りします。その後、時系列が進むと言った構成を例外的に取らせて頂きます。


 武田家は勘助の調略の元、善光寺を寝返らせることに成功していた。そしてその善光寺を叩き潰すべく長尾軍が出てくることも想定済みだったのである。今や信濃において最後にして最大の抵抗勢力である高梨氏からすれば善光寺の寝返りはかなりの想定外である。そして、八幡平を足掛かりに武田軍が自身の居城目指して北上する可能性も大いにあった。

 

 これを無視できない長尾軍は南下を開始。晴信と勘助の狙い通りに釣りだしに成功する。そして策の一環として配下の春日弾正、後の高坂昌信を旭山城に入城させ、自ら軍勢一万二千を率いて出兵。信濃中部の大堀館に陣を構えた。同時に策を弄した勘助は北陸一揆勢を動かすことに成功。しかしこれには長尾軍も朝倉家を動かすことで速やかな対処を行った。

 

 まだ北陸の戦況が不明な中、犀川近辺にある程度布陣を終えた晴信は伝令を受け取る。それは北条家からの伝令であった。援軍の将である一条兼音は強行軍を敢行。昼夜走り続け信濃へ入っていた。なんでこんな目に……と本人は思っているが、士気は高い。夏侯淵ばりの神速もその士気の高さに起因するところがあった。

 

「申し上げます!我が主、一条土佐守より伝令!我が軍ただいま貴軍本陣より数里のところを行軍中とのことです!」

 

「分かった。出迎えると伝えてくれ」

 

「はっ!」

 

 去り行く伝令を見送りながら、晴信は側に侍っている勘助に話しかける。

 

「随分と速い到着だな」

 

「我が軍同様、北条でも神速を貴んでいるのやもしれませぬ。いずれにせよ、北条の軍法軍律軍略を学び盗み取る好機。若き我らの将にも大いに刺激となりましょう。無論それは土佐守も見越してはいるのでしょうが……同盟相手に手の内を全く明かさぬという訳にも参らぬと存じます」

 

「土佐守とは直接会ったことは少ない。まだ人となりが掴めない以上、次郎と信君が頼りか…。ともあれ迎えはやらねばな。……いや、ここはあたしが直接行こう」

 

「御屋形様自らでございますか?」

 

「ああ。その方が見える物もあるだろう。行軍中にこそその軍の強さは見える。そうだろう?」

 

「承知いたしました。この勘助も同行します。同盟とは言え他家。その軍の有り様見させて頂きたい」

 

「では行こうか」

 

「御意!」

 

 晴信は馬を用意させ、自ら供廻り数騎を連れて本陣を出ると街道を行く。しばらくすると遠方から土煙が見えてきた。近づく軍勢の先頭には兼音自ら牽引し馬を走らせている。その後方には数千規模の兵の姿があった。走っていながらも全く乱れていない行軍に晴信と勘助は目を剥く。

 

 その二人を視認した兼音が右手を高く挙げると軍勢が停止する。そしてこれまた一糸乱れぬ行軍で歩き出した。そうして粛々と、そして堂々と出迎えに来た晴信の前で停止したのである。この驚きは無理のないことであった。戦国の軍の多くは農民兵である。故に軍事訓練というのが難しい。それは武田家でも同じである。武田軍は相当に無理をして厳しい訓練をしているものの、近現代の常備兵のようにはいかない。

 

 しかし、河越衆は違う。この精兵二千は日頃から訓練している常備軍である。とは言え、常備兵とはかなり金がかかる。戦でもないのに毎日訓練していると相当に金が飛んでいってしまう。河越は豊かだが流石にそこまでは無理。という事で、工兵部隊も兼ねている。普段は訓練と工事を行い、有事の際は精鋭として出撃するのが彼らの仕事だ。

 

 工兵という事で街道の拡充、河川の治水、開拓の進行、城の補填など多くの肉体労働に従事している。酷使している訳ではなく、三食はあるし福利厚生に近い制度もある。休憩時間も存在している。給料もいい。そう言った状況下で筋骨隆々な人間を育て、かつ作業内で団結や上の命令に従うという社会性を身につける。そして訓練では相当厳しく陣形や行動を叩き込まれるのだ。

 

 その調練は現代世界でも有数の練度を誇る自衛隊から参照されている。兼音の父親は元陸自の人間。それを参考に兼音がアレンジを加え、採用している訓練である。その為かなり厳しいが生き残る確率はかなり高くなっており、先の北伐時でも死者はほぼ出ない鉄壁ぶりを見せていた。その上忠誠心も高いため、戦場からの逃亡リスクも低い。最後の一兵まで戦える軍隊であった。

 

「全部隊、第三種休息態勢!各部隊長は部隊の管理をしつつ、異常あれば報告せよ」

 

「復唱!全部隊第三種休息態勢!」

 

 晴信と勘助が呆気に取られている間に兼音から発せられた命令を近侍の馬廻りが復唱し、各部隊の指揮官に伝えていく。この際の指揮官とは例えば太田泰昌や山中頼次、島左近などと言った大部隊クラスの指揮官である。その後、その指揮官が下の侍大将や足軽大将に伝え、それを更に小部隊ごとに徹底させる。相当に管理の行き届いた軍であった。

 

 兼音は下馬し、武田家の面々の元へと向かってくる。仮にも援軍の将。しかも兼音の方が年上であり、なおかつ氏康の名代であるので晴信も下馬して応じるのであった。兼音の顔を見ればかなり疲れ切っているのが目に見える。それでも晴信の前ではピンと背を張っていた。

 

「わざわざ総大将御自らお出迎え頂けるとは光栄でございます。主・北条鎌倉府執権左京大夫氏康の名代として参りました、一条土佐守兼音でございます。武田大膳大夫様に置かれましてはますますご健勝のこと、お慶び申し上げます」

 

「あ、あぁ。こちらこそ強行軍を強いてしまったようで済まない」

 

「いえ。ご心配には及びません。そんなことで倒れるような柔な調練はしておりませんので」

 

「そ、そうか……。先ほどの第三種休息態勢というのは?」

 

「すぐに移動できるように備えつつ休息を行う際の態勢です。第一種ですと数刻規模でその場に留まるものの、移動する意思はある場合となりますので。さて、援軍としてまかり越しましたが、我らは何処へ布陣すればよろしいか」

 

「勘助、地図を」

 

「はっ!現状、我々はこのように裾花川を挟んだ南岸に位置しております。旭山城に春日弾正、窪寺城に秋山信友、栗田城に飯富三郎兵衛、小柴見城に工藤昌秀、川のほど近くには馬場信房と真田幸隆、穴山信君が。伏兵で太郎義信様と飯富兵部が潜んでおります。また尼厳城には後詰の原虎胤が控えており、我らは本陣を大堀館においているのが現在の布陣でありますな。一条殿は……」

 

「馬場殿の後方に空きがありますな。ここへ入れさせて頂きたい」

 

「そこは敵にかなり近い位置ですぞ?よろしいのですか?」

 

「心配はご無用。我ら精兵二千、偽神景虎の首を討たんと欲する猛者のみ。武田の方々に負けぬ戦いぶりを披露して御覧に入れましょうぞ。また、敵の本陣横山城と近い方が敵の動きも読みやすいというもの。加えて、森におります伏兵や各将の方々とも連携しやすいのがこの位置でありますれば」

 

「一条殿が良いのであればそれがしからは言う事はございませんが……御屋形様、いかがなさります」

 

「……分かった。そこに入ってもらおう」

 

「感謝致します」

 

 

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 兼音としては何百日も滞陣となっては困るという本音もあり、この位置を希望した。そこならば戦況を動かせる可能性もあるからだ。それに加え、何の成果も無いというのは政治的によろしくない。越軍に被害を出せるならば出しておきたい彼としては後方で眺めるという選択肢はあり得ないものであった。

 

 同時に、万が一この戦いで武田が大勝。長尾景虎敗走ないし戦死となれば武田が大きい顔をするようになってしまう。それを防ぐためにも大勝したとしてもその勝利に大きく貢献したのだと主張できるような位置に付きたかった。これは北条家全体の外交的国益を考えた行動である。

 

 武田としても二千もいる明らかな精鋭を遊ばせておくわけにはいかない。使える物は何でもいいから使って長尾軍を撃退したいところであった。

 

「では、早速指定の場所へ移動致します」

 

「これより軍議を行うのだ。できればそのまま参加して貰いたいが……」

 

「分かりました。武田様がそう仰るのであれば、仰せに従いましょう。地図をいただいても?」

 

「どうぞお使い下され。写しがございます故」

 

「かたじけない」

 

 兼音は頭を下げると軍勢に戻った。ここで報告を受け、全部隊に異常がないことを確認する。その上で、指示を出した。

 

「全部隊移動態勢!胤治と政景を呼んで参れ」

 

「はっ!」

 

 伝令が走り、少しして白井胤治と一条政景がやってくる。ここで兼音は胤治に軍の移動を先導するように命令。これを受け、彼女が全軍を移動させることになる。また、政景は一度ここを訪れたことがある為、多少は土地勘がある。全くない胤治の補佐をさせる役目を任せた。流石にここでは空気を呼んだ政景は素直に指示を受け入れる。粛々と目標地点へと行軍する彼の軍勢を確認し、兼音は晴信と共に軍議に赴くのであった。

 

 

 

 

 

 

 軍議には今回の戦役における主だった将が参加している。穴山信君、飯富虎昌、馬場信房、真田幸隆、飯富三郎兵衛、工藤昌秀、秋山信友、本陣の三枝昌、土屋昌続、武田信廉、武田信繁、そして山本勘助、武田晴信、一条兼音。他にも数名いるが、主だった者ではこれらの面子が軍議の参加者だった。武田義信は万が一に備えて待機中。一条信龍と諏訪四郎は甲斐で留守居であった。

 

 この軍議で兼音は軽い感動を覚えている。武田二十四将を当たり前のように諳んじれる彼からすれば、飯富虎昌や後の四天王である馬場信房=馬場信春、工藤昌秀=内藤昌豊、飯富三郎兵衛=山県昌景などと会えているのは感激するべきことであった。かつて書物で読んだ歴史上の人物と歴史を作っている。これは彼からすれば常時ならば感涙するべきことであった。しかし、今は軍議。そのような感動をおくびにも出さず、武田の諸将に囲まれながらも存在感を放っている。

 

「敵の先鋒は村上義清で確定のようです」

 

 真田幸隆が報告を上げる。同様のものは兼音のところへも入っていた。彼は彼で独自の情報源を持っている。報告に頷き、勘助は己の策を披露した。

 

「まず馬場殿、真田殿並びに信濃衆には前に出ていただき、村上勢を相手取る。その間、穴山殿、一条殿は後方で援護を。さすれば流石の村上義清もすぐには突破できぬでしょう。しからばその間に義信様、兵部殿の部隊が強襲。軽騎兵で村上勢を叩くのです。討ち取れれば最上。されど兵を減らせるだけでも十分でござる」

 

「馬場殿は囮、でありますか。しかし敵も村上を見捨てはしますまい。後詰が参りますぞ。おそらく柿崎、斎藤、北条、さらには平林城の本条も来るでしょう」

 

「一条殿の御懸念は尤も。されど、平林城並びに中沢城は動けますまい」

 

「その根拠は?」

 

「戦の始まりと同時に、三郎兵衛殿に栗田城より出ていただき、両城に睨みを聞かせるのです。さすれば敵は警戒し迂闊には動けますまい。万が一の際は本陣を動かしてでも敵の援軍を阻止いたします。その間に釣りだした敵勢を叩き、敗走に追いやりましょうぞ。奇襲で一充てしていただいた後、馬場殿と奇襲隊は一時後退。すかさず一条殿と穴山殿が前に出て敵軍を挑発。武功を求め、かつめいめいが勝手に動く越軍はこれに乗じて前進する。それこそまさに好機。敵を引き付け、川を渡らせてしまうのです。すると敵軍は背水の陣となりますが、その退路を馬場殿と奇襲隊が反転して塞ぎ、殲滅する。これで敵の主力は消えてしまいましょう!」

 

「しかしそう簡単に敵軍が乗ってくるので?私も一条殿も挑発が得意という訳ではありませんが」

 

「おそらく乗ってくるとそれがしは見ております。と言うのも、包囲される前の敵軍は見事なまでの背水の陣。生兵法である者ほど、己の知っている陣形、己の知っている名将の戦果に肖らんと欲し状況を考えず決行してしまうものでありましょう」

 

 

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 絵図にすればこういう作戦であった。なお、前提として長尾本陣は旭山城の目と鼻の先にあるのでそこに詰める二千を警戒して動けない。もし動けばその横っ腹を突かれることになるだろう。また、裾花川の川幅は二十メートルほど。ただしそこまで深くはない。大軍が転舵反転するのも十分に可能な地形であった。また、上流は武田が抑えてる。水量の調整も多少なら出来るのだ。

 

 理論上は確かに不可能ではないし、有効に見える作戦であった。もちろん、その通りに上手く行くとは誰も、それこそ提案した勘助自身も思っていない。想定外の事態は存在するであろう。しかし、そこは現場判断に任せるしかないのが実情だった。戦争とは生き物のように常に動きを変える。いくら大軍師であろうとも、それを全て動かせはしない。とは言え方向性を定めることは出来る。

 

 勘助の通りにやれば敵軍は混乱することが予想されたし、それ相応の被害も出るであろうことも予想された。敵軍は箕輪での傷がそこまで癒えてはいない。越後の内政力には限界がある。人口も生産力も関東には劣る。しかも本陣で過労死寸前の大熊朝秀と、後方で必死に兵糧を運送している直江実綱が取り仕切っているのだ。明らかに人員不足のオーバーワークである。

 

 ただ、一条兼音には懸念があった。

 

「確かに山本殿の策は理にかなっている。だがその前提に不安がありますな」

 

「と、言いますと?」

 

「本陣の長尾景虎が出てこないとは限りますまい」

 

「しかし軍を動かせば、旭山城の者がやって来るのですぞ?」

 

「いえ、軍ではありません。景虎自身が単騎駆けでやって来る可能性があるのです。奴が来れば、まるで宗教一揆のごとき狂信で越軍は奮戦しましょう。狂乱し、理性の飛んだ戦場で自らを救わんとし颯爽と現れた異形の少女の狂わぬ者は少ないでしょうな」

 

「そんな、総大将が一騎駆けなど……」

 

 勘助自身も俄かには信じがたかった。武田の諸将は兼音を嗤ったり失望したりしている。穴山信君と武田信繁が辛うじてその意見を半信半疑ながらも受け入れていた。そんな非常識な総大将などいた事は無い。源義経でさえ供廻りはいたし、箕輪城でも軍勢で奇襲をかけている。何も供廻りだけの数騎で氏康本陣を強襲したわけではない。そんな馬鹿な、と言いたげな顔であった。鳴り物入りの土佐守も、そんなしょうもない懸念をしているのか。そう考えているのは兼音にも手に取るように分かった。

 

 兼音は知っている。史実の唐沢山城攻城戦の際に、北条軍数万を僅か十五騎で突破したという伝説がある事を。彼も当然、史実のそれは盛っているのだろうと思っている。しかしこの世界ではありえない話でもないと思っていた。その為に総大将一騎駆けの可能性を指摘したのだ。ただし、彼のことを詳しく知るのは二人だけ。他の大多数は微妙そうな顔か、露骨に嗤っている。大半は前者なのだが。

 

「あくまでも可能性の話。そうなる可能性は低いでしょうが、念には念を入れて、でございます。心配性なもので」

 

 おどけるように兼音は言う。その心中では舌打ちをしているのだが、ここでごねてもどうにもならないのを知っているので仕方なくこうしたのだ。それに、この戦役は武田が主体。援軍があまり大きな顔をするわけにはいかない。

 

「勘助の策の通りで行こうと思うが、どうか」

 

 晴信の声に異論無し!との声が多数上がる。兼音も出てきてしまったらどうにかしよう。また、近くに布陣している穴山信君ならば話せば分かってくれるかもしれないと思い、今は取り敢えず多数派に賛同することにした。元々北条家の戦略は甲越両軍がここで削りあって体力を消耗してくれること。憤懣やるかたないとしても兼音は主の方針には逆らわないのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 川を挟み、北岸に越軍の先鋒隊――「槍衾」戦術を考案し武田軍を二度退けた村上義清。南岸に、武田軍の先鋒隊――「不死身の」馬場信房。さらにその馬場隊の真後ろには真田幸隆率いる信濃先方衆。穴山隊二千も虎視眈々と攻撃の機会を狙っている。その三名をバックアップするように一条兼音率いる部隊も鎮座していた。

 

 武田晴信と、長尾景虎。甲斐と越後の両姫武将が、念願の直接戦闘に及ぶ時がついに来た。大きな直接衝突は初めてになる。両軍の将兵が展開する善光寺平・川中島は、静まりかえっていた――。

 

 村上義清が誇る鉄壁の「槍衾」戦術を打ち破るために、晴信と勘助は、各部隊間の縦横な連携と軽騎馬隊による速度を重視し、「孫子」の兵法を元にしてまったく新たな軍法を定めた。武田晴信は、本陣に座して山の如く動かず、采配ひとつで甲斐信濃の諸将が率いる各部隊を己の手足のように縦横に動かしてみせるという。

 

 一方、越軍は諸国人たちがめいめいに己の武勇を発揮すべく打ちかかっていくという昔ながらの戦いぶりを見せるが、ただ一つ例外があり、それは長尾景虎自身が愛馬に乗って前線へ突進してきた時だという。軍神・景虎が動けば、越軍の国人たちは日頃の不仲ぶり・統制の乱れぶりを嘘のように忘れて、法悦の心境に浸りながら真言マントラを唱え、越軍は一匹の巨大な龍の如きものになるのだという。

 

「村上衆。武田軍の戦いぶり、山本勘助の戦術、それらを我らが主君にお見せする時が来た。かかれ」

 

 村上義清は、全軍に下知して、裾花川の渡河を開始した。一騎駆けが当たり前だったこの戦国時代、足軽を主体とした長槍による密集陣形――「槍衾」戦術を最初に採用した武将は、美濃の斎藤道三であったか、あるいは村上義清であったか、どちらかなのだという。ほぼ同時だったかもしれない。下克上の男・道三は乱世に戦場における新興身分だった「足軽」に着目し、村上義清はあくまでも「武田との合戦に勝つ」という武を貫くために古武士としての見栄を捨てて戦場における合理性を選択した。

 

 上田原の合戦、砥石崩れ、度重なる武田軍の猛攻を村上義清はこの集団戦術で破ってきた――。

 

 だが、義清が破った時代の武田軍は、まだ先代・武田信虎が甲斐の国人衆を寄せ集めて編成した、個人戦術中心の古い軍団だった。異形の軍師・山本勘助と、そして「孫子」をはじめとする軍学に精通した武田晴信の二人が知略を尽くして改革した今の武田軍は、当時とはまるで別物である。義清が、板垣信方、横田備中ら信虎時代の猛将たちをことごとく戦場に葬ったことが、かえって、武田軍の速やかな新陳代謝を促したと言っていいかもしれない。

 

「馬場隊、前へ。村上軍の渡河を阻止する」

 

「同じく真田隊も、前へ」

 

「花菱」を掲げる馬場信房と「六文銭」を掲げる真田幸隆とが、村上軍の前に展開し立ちはだかる。足軽を主体とした村上軍の動きは、速い。

 

 村上義清の前進と共に栗田城の飯富三郎兵衛が進軍し、川沿いで中沢、平林の両城に睨みを効かせる。その為、勘助の狙い通りこの城の城将は動くに動けずにいる。

 

 裾花川を越えて、南岸へと繰り出してきた。しかもその「槍衾」陣の中心にいる村上義清は、老いてなお剛勇を誇っている。忍び働きや工作を得意とする真田隊は、正面からの接敵では実力をあまり発揮し得ない。猿飛の術を操る猿飛佐助をはじめ、今まで義清を悩ませてきた真田忍群が誇る一流どころの忍びたちも、その気配を感じさせなかった。信濃衆の武力が数少ないメインの戦力である。

 

 元々信濃衆は今回の景虎南下で動揺していたが、幸隆と信繁の素早い行動で武田側のまま参陣している。そのカラクリは簡単で、一条土佐守が援軍として来ると言った瞬間に国衆はコロッと態度を軟化させた。兼音の武名は信濃にも届いている。少なくともボロ負けはしないだろうと踏んだ国衆がそのまま味方しているのだ。

 

「真田の奇手はない。堂々の勝負ができる」

 

 村上義清は、猛然と突進してきた馬場隊へ半数を割いてその動きをかろうじて封じる一方で、自らは残り半数を率いて真田隊めがけて強襲をかけていた。村上義清自身が馬上で長槍を振りかざし、「真田弾正殿、村上義清見参。砥石城での借りを返す時が来た」と叫びながら敵中を突破し、真田幸隆の姿を追い求める。

 

「そなたも『攻め弾正』であれば、この俺と戦え……!」

 

 平均的な体力しか持たない女武将の真田幸隆には、忍術の心得こそあれど、村上義清と渡り合える武力はない。真田兵たちにも、平地での「槍衾」との正面衝突に耐えうるような防御力はない。彼らの多くは山岳戦を得意とする「山の民」なのだ。信濃衆もそこまでやる気はない。

 

 真田隊は、脆くも崩れた。真田幸隆は、村上兵の圧力を防ぎきれず、やむを得ず後退する。防衛線の片方が崩れると、重騎馬隊の突進力を存分に発揮してじりじりと押していた馬場隊が最前線に突出・孤立することとなる。二手に分かれていた村上の「槍衾」隊が、馬場隊を挟み込むように包囲を開始していた。

 

 ここまでは、「上田原の合戦」の再現とも言っていい。

 

 だが村上義清は、違う。晴信と勘助率いる武田軍はかつてとは違う。このまま先鋒隊の崩壊を黙視しているはずがない。なんという静けさだ――。と戦慄を覚えていた。突出孤立した馬場信房隊が「囮」だったと気づいたのは、それからまもなくのことであった。

 

 戦況を確認し、真田隊より伝令を受けた一条隊が行動を開始する。渡河はせず川岸まで進出し攻撃態勢に入った。これにより村上義清は一瞬そちらに視線を奪われる。同時に北条軍は一斉に投石と射撃を開始。弓矢に混じり、野球ボール大の石が雨のように降り注いだ。ここは河原。石ならばその辺に無限にある。

 

 しかも、北条軍の物資は潤沢。絶え間なく後方より補給隊が送られてくる。弓も矢も尽きる気配はない。何百の矢を飛ばしてもダメ―ジは無いに等しかった。石であっても当たり所が悪ければ死ぬし、そうでなくても痛いので戦意を削ぐことも出来る。真田隊の撤退を支援し、馬場隊の奥にいる村上隊を目指すように鉄と石の雨は降る。当然、村上義清はこの対処に追われた。

 

 その隙をつき、弓においては凡そ関東甲信越に敵無しな兼音自ら鏑矢を発射。合図は森に潜んでいた伏兵に伝えられた。

 

「来やがったぜ!『飯富の赤備え』の出番だ。全員、速度を殺す重い甲冑は捨てろ! 軽装で村上隊の背後へと特攻する!林の如く静かに、風の如く駆け、火の如く攻め立てる!上田原と砥石での汚名を雪げ!」

 

 飯富兵部が武田軍最強の騎馬隊、真紅の「赤備え」を率いて森の中から飛び出す。全員が騎馬兵であり、しかも防具を捨てている。軽い。そして、速い。赤備え隊が乗っている馬は、小柄で頑丈な甲斐馬ではなかった。駿河より入手し、馬場信房が育ててきた南蛮渡来の巨馬だった。

 

「どうだ、この速さ!武田四天王を舐めんな!太郎、着いてこい!」

 

「言われなくても!村上義清、てめえはもう姉上には勝てねえ!首を置いていけ!」

 

 渡河に成功して馬場隊を包囲しようとしていたはずの村上軍が、突然出現した「赤備え」隊に逆に横っ腹を突かれていた。兵の士気が落ち、散々に攪乱される。

 

「……新生武田軍の強さのひとつは速度だ。だが、これは速い。速すぎる……!なんだ、あの巨馬どもは。あれが馬なのか!しかも、重い甲冑を全員が脱ぎ捨て、極限まで馬の速度を活かしている……これは……!」

 

 南蛮から手に入れた馬を軍事兵器に転用しての、軽装騎馬隊による奇襲攻撃。しかし、あまりにも素早すぎる。村上義清は「槍襖で防げ」と軍を反転させて、いそぎ「赤備え」を阻もうとした。その時である。

 

 重装騎馬隊を率いつつも防戦一方だった馬場信房が、「馬場の兵ども。本気の突進力を見せよ」と唱えながら、巨大な鎚を振りあげて村上義清めがけて迫ってきた。

 

「……かつて村上殿が本陣の御屋形様へ突撃した折、我らは四対一でかろうじて撃退した。だが今は違う。我は不死身の馬場。一対一でも、村上殿に勝てる」

 

 槍衾の圧力に手間取っていたのは、芝居か、と村上義清が舌打ちしていた。馬場信房が率いるは、飯富兵部の「赤備え」隊とは真逆の、究極の重武装騎馬隊。まるで山の如き重さ。長槍を打ち振るっても、まるで南蛮のフルプレートアーマーの如き鎧で馬と武者とが武装している馬場隊には攻撃が通らない。その重騎馬隊が、飯富兵部に呼応して全力で突進してきた。

 

 村上隊の長槍による防衛陣が、前後から完全に粉砕されていた。

 

「……槍衾、敗れたり」

 

「おい村上!てめえの首、あたしたちがもらったぞ。覚悟はできてんだろうな!」

 

「俺たちゃ川中島でいつまでもグズグズしちゃいられねえんだよ!姉上の持ち時間、これ以上てめえと景虎に削らせるつもりはねえ!」

 

 武田には「むかで衆」と呼ばれる情報将校の組織があり、このむかで衆が戦時中でも縦横に駆けて各部隊の連携を完璧なものとしているというが、あるいはむかで衆の中に異形の忍びがいるのかもしれない、と義清は思った。かつても、自身とともに戦った戸隠忍びは撃退されていた。関東の風魔衆を援軍が連れているのかもしれない。

 

 村上義清は、この俺が晴信に乗り越えられていたことは、すでにわかっていた。死ぬべき時が来たらしい。御屋形様に……主君・景虎様に、晴信と勘助の戦術をとくとご覧になっていただければ、それでいい、と馬上で呟く。そのまま前後から突進してくる飯富兵部と馬場信房の二人の姫武将を待ち構えた。勝利への執念に燃え、目を血走らせて吼えている太郎義信も、迫っている。

 

 だが、この時――越軍の後詰めが渡河を開始した。

 

「村上殿を討ち死にさせては、越後の恥、義将・景虎様の名折れとなるぞ!者ども、死に狂う時は今ぞ!南無阿弥陀仏!」

 

「わたくしはかような乱戦で兵を損じるのは好みませんが、ひとたび景虎様に背き許された帰り新参の立場では、やむを得ませんね。北条軍、前へ。村上殿をお救いする」

 

「斎藤朝信隊も、全速で前進。諸君。この川を三途の川と思い定め、一歩も退くべからず。越後の『義』が言葉だけのものか真実のものかを、日ノ本全土の民が見守っておるぞ」

 

 越後が誇る二人の猛将・柿崎景家と北条高広。さらに、重厚な斉藤朝信。三部隊がいっせいに犀川へと突き進んで来た。とは言えここまでは想定済みの流れ。これまで沈黙を保っていた穴山隊、そして本命の一条隊二千が攻撃を開始した。

 

 これを契機に奇襲はある程度成功したと見た馬場隊が後退。飯富隊と義信隊も退いていく。後詰が来るまでの少しの間、裾花川では北条家の軍勢と村上義清が相対していた。だが攻撃はしない。相当固い防御姿勢をとっており、かつ矢と石を大量に投げてくる北条軍に義清は攻めあぐねる。そしてその対策と、武名轟く兼音を警戒するあまり、奇襲隊や馬場隊をそのまま撤退させてしまっていた。この辺は自身の武名を最大限活用し、義清の思考を奪った兼音の勝利である。

 

 兼音も攻撃は敢えてしない。後詰が出てくるのを待って、それごと殲滅しようとしているのだ。ここは作戦通り。

 

 義清も前進しなければこの雨を止められないと一気呵成に叩き潰すべく前進を開始。だが、北条軍は臨戦態勢にならず後退を始めた。兵はこれに敵が怖気づいたと思い更に前へ急ぐ。後ろから押されている村上隊はそのまま越軍の後詰と共に対岸へ上陸してしまった。

 

 その時、もう一度戦場を鏑矢が飛び、撤退していたはずの奇襲軍と馬場隊が反転。越軍の退路を断ちに来た。この辺りは練度の差が出ている。将がまずいと気付いても、兵は手柄欲しさに前へ進んでしまう。ずるずると勢いを消せぬまま、越軍は上陸してしまった。そして見事に包囲陣を決められたのである。

 

 

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 越軍とてバカではない。周りを囲まれたことに気付けば死に物狂いで脱出を試みる。とは言え容易にそれを許す相手では無かった。待ってましたとばかりに穴山隊が襲い掛かる。同時に北条軍の兼音の与力である山中頼次と太田泰昌。この二名が躍りかかった。いずれも歴戦の名将。老いてもなおその実力は健在。容赦なく包囲内の軍へ襲い掛かり、戦意を削いでいく。

 

 それでもまだ駄目押しとばかりに、兼音は島左近を投入。狙いは彼女の持っている兵器であった。戦場に銃声が響き渡る。その数秒も経たぬ後、越軍の騎馬武者が一人、首から上が吹き飛んで落馬した。それを見た軍は恐慌状態になる。

 

 聞いたことの無い音がした。その次の瞬間には今まで自分たちと一緒に懸命に戦っていた上官の頭が破裂したように吹き飛んだのである。音とこの事実。そしてもう一発音が鳴る。自分たちの処理能力を超えた事態に固まっていたその兵たちの頭の中で、一つの式が出来る。あの音=死ぬという図式である。武器を捨て逃げ出し始めた。あの音が今度は複数来るかもしれない。自分がああなるかもしれない。そう思い始めた者の恐怖は底知れない。

 

 越軍は包囲殲滅の危機に陥っていた。

 

 

 

 

 

 本陣を大堀館から犀川の北岸に移した武田晴信と山本勘助が、うなずき合う。本陣は文字通り、静まりかえっている。

 

「やはり村上義清を見殺しにはできず、後詰めが救援に来た。ここまでは読み通りだ、勘助」

 

「左様。越軍は横山城に兵の半ばを残しております。すなわち、この戦の兵力差は武田方が圧倒しておりますれば――」

 

「景虎が横山城から動けぬ限り、この決戦、武田の勝ちだ。景虎のいない越軍など、どれほど勇将を揃えたところで統制もなにもない。部隊の動きを見よ」

 

「ばらばらにございますな。もっとも、あれが戦国式の正しい用兵なのであって、あらゆる部隊が御屋形さまの手足となって自在に動く武田軍こそが異形なのでありますが」

 

「景虎不在の越軍の強さは、勘助が築き上げた武田軍の統制力の前では『匹夫の勇』。恐れるに足らずだ」

 

「勲功一等は、旭山城に籠城して景虎を横山城に釘付けにした春日殿でございますな。そして現在、包囲は完成しております。どうも一条殿は鉄砲を使ったようですな。聞き慣れぬ音に敵軍は混乱しておるようで。指揮系統も機能せず、最早越軍の敗走・殲滅は時間の問題かと」

 

 副将の信繁が「姉上。私がとどめを刺すわ。今こそ村上義清と柿崎景家らを討ち果たす絶好の機会。武田こそが日ノ本最強だと証明される時だわ。是非とも、私に出陣の下知を」と晴信に申し出てきた。だが次郎は、景虎に敵愾心を剥き出しにしすぎている、万一のことがあれば危うい――と晴信は躊躇した。

 

「次郎は武田軍の最後の切り札だ。しばし待て。相手は景虎。このまま勘助とあたしの読み通りにすんなりと終わるとは限らない。それに、一条殿や信君が奮戦している。これ以上行くと狭くなって軍の移動がし辛い。余計なことをすれば、その邪魔になってしまうかもしれない」

 

「でも、姉上!」

 

「戦いは八分の勝ちをもって最上となす。十割の勝ちを狙って焦ってはならない、次郎。それは博打だ」

 

「姉上は、景虎を買いかぶりすぎているのよ!勘助!このまま座していては好機を逸するわ!貴方からも、姉上を説得して!ここで一条殿に加勢して、一気呵成に叩くのよ。穴山たちだけに任せてはおけないわ!本隊が出る意味もあるのよ!」

 

「御屋形様は、信繁様を危機に晒したくないのです。一条殿の話によれば、景虎のいない前衛ならば容易いとの事。敵が支えきれず敗走したところで、信繁様に出撃していただき、追い打ちをかけていただきます」

 

 同じ頃、情熱的な姉とは対照的に、飯富三郎兵衛は常に取り乱さず、川岸で淡々と戦局を眺めている。今は加勢の必要なしと判断したのだ。勘助は、弟子に取って軍学を教えているいずれ劣らぬ四人の若手姫武将たちのうち、この三郎兵衛を最前線で武勇を発揮する「いくさびと」としてもっとも評価していた。

 

 無論、四人いずれもそれぞれ武将としての個性があり、四人が勢ぞろいした時こそ真価を発揮するわけだが。たとえば現に、別働隊を率いて越軍の力を半減させている春日弾正がいなければ、ここまで武田軍が優勢に戦えることはなかったのだ。また、重装騎馬隊を率いる馬場と「赤備え」の飯富兵部との一方が欠けても、武田騎馬隊の力は半減する。

 

 戦況を見つつ、勘助は再度言葉を重ねる。

 

「信繁様。この勘助からも、ご自重をお願いいたしまする。迂闊に前線に全兵力を投入して、万一のことがあれば御屋形様のお命にかかわりますれば。信繁様の最大の任務は、御屋形様を守ることでございます。それは、地味な仕事ではありますが、武田の副将たるべき信繁様にしかできぬ、もっとも大切な任務。それがしには、武勇がございませんのでな」

 

「……勘助」

 

「一国一城の主どころか、天下の覇者たる才覚をお持ちの信繁様に、御屋形様の影となれと命じ続けることは勘助にとっては心苦しいことなれど、この勘助は軍師。もしもの時は信繁様に『御屋形様のために死ね』と命じねばなりませぬが、その時はこの勘助もお供いたします」

 

 冷静さを取り戻した信繁が「そうね。私は武田の副将。最後の最後のぎりぎりまでは、姉上の隣に侍って、姉上をお守りしなくては……」と呟く。だが――。

 

 やはり戦局は、勘助と晴信が思い描いたとおりには終わらなかった。勘助に懐いて肩の上にお尻を降ろしていた真田源五郎――後の真田昌幸――が、「『毘』の旗だーっ!」と、川の北岸を指さしていた。不動の姿勢を保ち続けていた晴信が、思わず、腰を浮かせていた。

 

「……横山城から出てきたのか、景虎」

 

 あれはなんだ。僅かな兵なれど、凄まじい「気」じゃ。おお、これが、これが越後の龍、毘沙門天の化身、長尾景虎……と、山本勘助もまた隻眼を見開いて震えていた。

 

「まさか。背後の旭山城が気になって、景虎は動けぬはず!?え、越軍が、めいめい好き勝手に動いて乱れていた越軍が下知も受けぬままに、態勢を立て直していく。御屋形様……!」

 

 南無阿弥陀仏が口癖となっている柿崎景家も。信仰心など持たないはずの北条高広も。そして、降将にすぎないはずの村上義清も。鉄砲の音と逃げ場のない状況で潰走状態であった彼ら越後の国人たちが率いるすべての将兵も。

 

 景虎が高野山の若き高僧、無量光院第三世の清胤から授けられてきた「毘沙門天」の真言マントラを、口々に唱えはじめていた。高野山は叡山と同様に女人禁制であり、景虎の入山希望は高野山の僧侶たちの間で物議を醸したが、開祖・空海の性格のためか、女人禁制のしきたりが叡山ほどに厳しくなかったが、そもそも先年の大火によって高野山の伽藍の大半が焼け落ちてしまったまま荒廃を極め、越後の大名を迎え入れることのできる状況ではなかった。しかし、関白の近衛前久と叡山の正覚院豪盛からの強力な「推薦状」が効いて、景虎は「高野山の無量光院を越後から持参した金によって再建する」「山内では常に行人包で男装し、女性だということを隠す」という条件で、その無量光院を宿所に用いることを許された――。

 

 ここまでは、景虎が苦手な政治的な駆け引きだったが、高野山内にももちろん景虎の聖性と義心に揺り動かされた傑物がいた。それが、若き英才・清胤だった。下克上がうち続き高野山も民心も荒れ果てた末法の世に絶望して高野山に籠もっていた清胤は、景虎という「戦う毘沙門天」が出現したことを知り、女人禁制の掟を破ってまで景虎と対面。「乱世に新たな希望があらわれた」と感動した。清胤は景虎に「毘沙門天」の曼荼羅を授けたのだった。無論、清胤は景虎の素顔を見ている。そしてそこに、男女の性別を超越した聖性を見出したらしい。景虎に、惜しみなく己が学んだ秘法の数々を授けたのだった。

 

 清胤との出会いと、念願していた密教の修行体験が、川中島の戦場に出た景虎に「私はもはや戦にも勝利にも淫しない。毘沙門天の化身として振る舞える」との揺るぎない自信を与えていた――そしてその確固たる自信は、越後の全諸将へも伝わっていた。

 

 オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ。

 オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ。

 オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ。

 

「孫子」の兵法などとは、まるで無縁。毘沙門天の真言マントラが、「毘」の大旗が、そして白装束に身を包んだ小柄な姫武将・景虎の存在が、国人衆の寄せ集めにすぎないはずの越軍を、巨大な一個の生物としてまとめ上げていた。

 

 士気が跳ね上がった、どころではない。越軍の将兵たちの表情から、恐怖心がかき消されていた。一揆衆の如き法悦の表情すら、浮かべている。忍びの力と情報将校の技能を用いた情報伝達網すら、不要。景虎が息を吸えば、越軍の将兵たちが息を吸う。景虎が息を吐けば、彼らもまた息を吐く。

 

 その景虎の小さな姿が、勘助と晴信の目には、巨大な黒龍に見えた。山本勘助は、景虎がなぜ前線に現れることができたかを、ようやく知った。横山城から兵を割いていないのだ。副将・長尾政景、軍師・宇佐美定満、宰相・直江大和にほとんどすべての兵を預けて、景虎自身が、わずか十数騎の旗本衆を率いただけでこの犀川へ――。

 

 村上義清の危機を知り、ほとんど「単身」と言っていい人数のみで、最前線へと急行してきたのだ。そんな馬鹿な兵法があってたまるか、と勘助は泣きたくなった。が――景虎は、こうして、戦場に現れていた。

 

 オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ。

 

 越軍の兵たちも、日頃は反りが合わず対立している国人たちも、戦場に降臨した長尾景虎が毘沙門天の化身であり人智を越えた存在であることを信じている。上洛し、叡山と高野山で修行を積んできたことで、景虎の神秘性はいよいよ増していた。

 

「勘助。あれが長尾景虎。あたしが、どうしても乗り越えねばならない、巨大な壁だ。村上義清よりもはるかに高みにいる。あたしたちは、景虎を越えられるだろうか?」

 

「……越えねば、なりませぬ。越えねば、御屋形さまは先へ進めませぬ。必ずやこの勘助が、わが知略のすべてを注ぎ込んで。いや、しかし……あれは……あれは、まことに人間なのか。姫武将なのか。あの凄まじい『気』は、いったい……」

 

「宿曜道では、どう見る。景虎の背負う宿星は、なんだ? 勘助」

 

「……読み切れませぬ。眩しすぎて、読めませぬ。せめて我が目が二つ生きておれば。もしや、月天こと戦達羅チヤンドラか。あるいは……あるいは、本来は人が背負える宿星ではない星を……まことの毘沙門天の星を背負って生まれてきた異形の者なのか……この山本勘助をもってしても、わかりませぬ!」

 

 勘助の首筋に、冷たい汗が一筋、流れ落ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

 景虎が、ただ一騎で、川へと愛馬の脚を踏み入れていた。矢は、一本も当たらない。景虎が呟く言葉は、真言ではなかった。

 

「運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり」

 

 景虎自身が、高野山での座禅のさ中で得た、景虎自身の言葉だった。

 

「死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり」

 

 壊乱寸前だった越軍の兵士たちが、毘沙門天の真言マントラを叫びながら、景虎に導かれるように踏みとどまり、武田騎馬隊へと猛攻を仕掛けてくる。本猫寺一揆の宗教的熱狂と、越後武士の精悍な戦闘力と、景虎の天才的な武のすべてが一体となって、武田軍へと襲いかかってきた。

 

 馬場隊と奇襲隊は危ういと見て包囲を取りやめ左右へ撤退を開始。それを追おうとする越軍に真打がついに牙を剥いた。彼らとやりあうのを心底望んでいた軍隊が鉄壁の忠誠と世界最高峰の訓練で培った技術を元に突撃を開始する。

 

 その隙に馬場隊と奇襲隊は損害なく撤退に成功。穴山隊や工藤隊、真田隊も包囲から離脱し、川の南岸へ退避した今前線で殿を務めているのは援軍部隊である。

 

「偽神討滅!」

 

「「「「偽神討滅!」」」」

 

「毘天鏖殺!」

 

「「「「毘天鏖殺!」」」」

 

 総大将である一条兼音の大音声に合わせ、河越衆が声を揃えて叫ぶ。足踏みし、その音で威勢を示した。川中の越軍が僅かに動揺した隙に、兼音を先頭に北条軍が突貫を開始する。越軍も景虎を先頭に再度前進を始める。白き神の児と(そら)の剣を持つ男が剣を交え直接の激闘を始めた。

 

 その有様を眺めるしかできない勘助は呆然と立ち尽くす。景虎とは常に信仰心と戦国武将としての立場との間に板挟みとなり、男武将たちの求婚をかぐや姫のように遠ざけ続け、鬱々と苦しみ続けている娘だと聞いていた。生まれながらに身体の色素を持たず、体力がなく、日の光にすら悩まされるひ弱な少女だと聞いていた。それは事実なのだろう。しかし、なぜだ。なぜ、ひとたび戦場に立てば、その姫武将が不敗の軍神・毘沙門天になりきれてしまうのだろうか。

 

 御屋形様は村上義清との戦いで強くなった。だが、景虎もまた、高野山で別種の強さを得たのだ。孫子の兵法では……人間の知恵では……この者を打ち破ることはできぬ、と勘助が研ぎ澄ましてきた軍師としての本能が囁いていた。もっと一条兼音の話に耳を傾けるべきだったと、彼は遅い後悔をする。

 

「全軍、本陣を囲み、御屋形さまをお守りせよ!」

 

 山本勘助は、景虎に渡河させてはならぬ、と震えながら叫んでいた。そんな勘助の隣では晴信がまるで景虎の神がかった姿にあたかも魂を奪われたかのように震え、そして次郎信繁は無言で景虎を睨み続けていた。

 

 彼らの眼前には、凄まじい速度で剣を振るう男女の死闘が繰り広げられていた。




次回は今回出なかった兼音と信繁や信君との会話、政景の話、陣内での北条軍の話などが出てくるかと。一話に収めるには長すぎたのです。


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第102話 第二次川中島の戦い・前

前回の次回予告通り、今回は前回とほぼ同じ時系列の兼音視点です。


【挿絵表示】

川中島、概略図

【挿絵表示】

第二次川中島の戦い、布陣図

いつも感想・高評価ありがとうございます!返信は遅いですが、楽しく読ませていただいております。


「いかがでありましたか?武田の軍議は」

 

 胤治は絵図を眺めながら言う。横では左近が胤治にへばりついていた。邪魔そうにしていないので、よくある事なのかもしれない。二人の距離感は中々私には掴みづらいところがあった。

 

 強行軍を率いて信濃へ入って数日。連日連夜ぶっ通しで行軍した結果、十分余裕をもって参陣することが出来た。これでもし遅参していたとあれば、不手際と笑いものになってしまう。神速の河越衆という名声を作り、そして守るためにも必要な措置であった。

 

 こんな状態であっても家臣団はやる気満々である。ただ政景は不満そうな顔であったが、その不満は日夜行軍させられたことによるものであろうことは想像がつく。正直私もやりたいかと言われれば無論ノーであるので、彼女の不満は理解できるところであった。

 

 当主がわざわざ出迎えに来るというのには驚いたが、軍法を盗みに来たのは明らかである。武田の狙いはこちらの技術や軍法を盗み出し、自軍の強化を行う事であろう。武田軍は現在主力を若手が担っている。まだまだ戦場の主役がベテランである北条家とは違う。若手に経験を積ませつつ、軍法を盗み教え、鍛えようというのだろう。

 

 友軍が強化されるのは歓迎すべきだ。友軍である間は、だが。それにそう簡単に盗めるようなものではない。凄まじい調整と苦労、財政関連のあれこれをした結果、今の精強な軍と陸自式訓練が存在しているのだ。理論が分かったとしても一朝一夕で真似できるようなものではあるはずがなかった。

 

 武田の軍議は決して悪くはなかった。皆優秀な将であるのは容易にわかる。あの徳川家が参考にしたとあって、練度も確かだ。歴史に名を残す名将揃いであるのだからして当然ではあるし、私自身も彼ら彼女らが多くの小説や史書に謳われた者たちかと感極まったところはあった。だがしかし、長尾の異常性にはまだ完全に気付けていない。無理もない話ではある。しかし、まったく考慮しないというのもそれはそれで問題であるように思えた。

 

「戦の始まりと同時に、飯富三郎兵衛が栗田城より出て、平林・中沢城の二城に睨みを効かせる。そうすれば敵は警戒し迂闊には動けはすまい。万が一の際は本陣を動かしてでも敵の援軍を阻止。その間に釣りだした敵勢を叩き、敗走に追いやる。奇襲で一当て後、馬場隊と奇襲隊は一時後退。すかさず我々と穴山隊が前に出て敵軍を挑発。武功を求め、かつめいめいが勝手に動く越軍はこれに乗じて前進する。これを好機とし、敵を引き付け、川を渡らせてしまう。すると敵軍は背水の陣となるが、その退路を馬場隊と奇襲隊が反転して塞ぎ、殲滅する。だそうだ」

 

 胤治は自陣の前を流れる川を眺めながら山本勘助の策を反芻しているようだった。私はこれ自体は悪くないと思っている。敵の先端を突っつき、本隊を引きずり出したのちに包囲して殲滅。数多の将が夢見た理想像である。そう簡単には行かないかもしれないが、少なくとも失敗はしないだろうと思えるだけの軍質が武田にはあった。

 

 ただし、計画が万全である分それをぶち壊すであろう長尾景虎が怖い。あいつはそういうことを平気ですると分かっている。それは先の箕輪で痛いほど思い知った。このままでは、山本勘助の策が瓦解した場合史実よろしく川でにらみ合いになりかねない。

 

 それは無論避けたいことだ。こんな信濃の山間でいつまでも居たくない。さっさと河越に帰ってやらないといけないことが多い。諏訪家の子もいよいよ産まれるかどうかという時であったというのに。短期決戦をしたいところではあるが焦り過ぎても良くないのも理解はしている。そこはどうにかして工夫をしないといけない。

 

「そんなに上手く行くでしょうか。確かに長尾の動きがあまり統制されていないのは事実ですが」

 

「さぁな。本当に景虎が横山城から動かないのであれば勝機はあろう」

 

「ただ、そうはならないと考えておられるのですね。その旨、進言は?」

 

「した。一笑に付されたがな」

 

「ま、仕方のないことでありましょう。奴らは直接矛を交えてはいない。その分が殿との経験の差でしょう」

 

「私も参加していないがな」

 

 胤治にくっつくのをやめた左近が言う。確かに、彼女は北伐後に我が軍に来た人間だ。長尾軍の実力は知らない。舐めている訳ではないだろうが、当家ではこれが初の実戦だ。どれほどの腕かを見るいい機会になるだろう。尤も、生きて帰れればの話ではあるが。

 

「ご主君、その奇襲隊への合図は誰が?」

 

「私が鏑矢を放つ。状況判断が最も的確な存在として放つその時機もこちらに一任された」

 

「なるほど。では基礎布陣はいかがするので?」

 

「左陣に山中殿の五百、右陣に太田殿の五百、中央にお前の千だ。私は後方で三百と共に待機している。訓練通りに動けばいい。三部隊で連携をとり、殺し間を作れ。そこへ敵を引き込めば、三方向から攻撃できる」

 

 中央と両翼から攻撃されれば攻撃線が被る。基本軍は前しか攻撃できない。転換も難しい。であればこそ、それを逆手にとって三方向から直線攻撃を加えてその攻撃線の交わるところに敵を誘導すればいい。こうすることでこちらは敵と接する面を増やして相手の被害を増やせるし、攻撃力も上がる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「ご主君は出ないので?」

 

「清ちゃん!くれぐれもそういうことを言わないで。殿には本陣で構えていただきます。よろしいですね?」

 

「あ、あぁ……。基本はそうさせてもらうつもりだ」

 

 胤治からの圧が強い。彼女は基本私が前に出るのを好まない。まぁ普通と言えば普通であるのだが。総大将が前線に出ないといけないのは非常事態の際だけだ。もし総大将の人望が高ければ高いほど、兵は踏みとどまってくれるようになる。

 

「胤治。この話を太田殿と山中殿にも伝えてくれ。私は今から穴山殿と話をする」

 

「承知しました」

 

「政景は何をしている」

 

「各隊の兵のところを周っているとか。悪い話は聞きませぬので護衛だけつけて放置しておりました。それ以外にもやらねばならないことが多かったので」

 

「そうか。まぁ邪魔になっていないなら良い。引き続き頼んだ」

 

「はっ!」

 

「左近も気負い過ぎるなよ」

 

「なんの。軽く大手柄を挙げてみせますとも」

 

「その意気だ。では行ってくる」

 

 我が軍の本陣を後にして隣にある穴山隊の陣を訪ねる。穴山信君はあの軍議にあってもモノが見えていた。私の懸念をまともに受け取った数少ない人物である。であれば訪ねるべき価値は十分にあった。万が一の際、おそらく武田は川を境にして引きこもる。その辺の話はおそらく山本勘助から各隊へ通達されているはずだ。

 

 我々を使い潰すつもりか、それともどこまでやれるかを見るつもりかは分からない。しかしどうあっても我々が殿になる可能性が高い。それ自体は構わないといえば語弊があるが、構わないのだ。景虎を討ち取れる機会が訪れるとなればまたとない大チャンス。それを逃す手はない。ただし周りにちょこまかされていると我々の軍が訓練通りの素早い機動が出来ない可能性がある。それを防ぐべく、詳しい対応を話し合いに来たのだ。

 

 小田原からは突撃はなるべくしないようにとお達しが来ている。こちらからは行けないが、向こうが来る分には仕方ない。私は兵の損失を防ぎたいという思いと、この手で討ち取りたいという欲望、相反する二つを抱えていた。

 

「ご足労いただきありがとうございます」

 

「いや、こちらが話したい事があって参った次第。穴山殿とは連携を密にせねばなりませんからな」

 

「単刀直入に申し上げると、景虎突撃はありますかな」

 

「可能性としては十分に。アレはそういう存在です」

 

「存在、ですか」

 

「ええ。人の常識、戦国の常識の範疇で図ろうとすれば手痛い報復を食らう事になるでしょう。事実、我が軍は奇襲を受けあわや総大将討ち死にの危機に瀕したのですからな。横山城を他に任せて自身だけでもと吶喊するというのはあり得ないと言い切れないのです」

 

「……日頃皮肉を口にしてはおりますが、武田は先代の時よりも確かに強くなっております。それでも、勝てませんか」

 

「厳しいかもしれません」

 

 信君は難しい顔をして黙り込む。事実、史実ではこの後も大体武田が兵数有利だった。にも拘らずいつも勝ちきれないでいる。兵数の多寡が決定打にはならなかった。錬度にもそこまで差があったようには思えない。史実においての話ではあるが、やはり実力伯仲が正しかったのではないだろうか。だからこそ、決着を付けられなかった。

 

「分かりました。景虎単騎駆けもあり得ると認識しましょう。その際当家は……」

 

「穴山殿にはこちらに戻って防御を固めていただきたい。他の隊も全て撤退していただく。殿は当家が務めましょうぞ」

 

「な、それでは!当家を舐めてもらっては困りますぞ。穴山衆、腐っても一門筆頭。他家に遅れは取りませぬ」

 

「いえ、穴山殿の兵を疑っているのではありません。ただ、我が軍は少しばかり特殊な調練をしておりまして。他家の軍がそばにおられますと機動が塞がれ思ったように動けぬかもしれないのです。我が軍は越軍と二度、死闘を演じております。それを受け、我らの兵は対越に特化した戦いを行ってまいりました。我が策も彼らの動きと共にありまする。どうか、堪えていただきたい」

 

「……相分かりました。この不毛な追いかけっこを終わらせるためならば、致し方ありますまい。しかし窮地と見ればすぐにお助け致しましょう」

 

「感謝します」

 

 これで穴山隊は直に退いてくれるだろう。邪魔をされることはないはずだ。撤退時に場をかき乱されることが一番困る。我々はそんなにすぐ敗走するような柔な鍛え方はしていない。山本勘助の策通りに動かないといけない以上、これが何とかできる最良の手段であった。

 

 川向うに籠るという手もある。だが、それではいつまで経っても状況は変わらない。武田には疲弊して欲しいが、ここで例え勝てたとしても直に越後へは行けないはずだし、その間で疲弊はするだろう。対越同盟は越後の決定的敗北を以て終了とする旨が取り交わされている。そうなれば武田の財政圧迫を救った塩の値段減額も無かったことになる。

 

 それに、これ以上武田に遠征する能力はない。このままだとたとえここで最良の結末となったとしても、越後を抑える前に財政破綻してしまうだろう。武田の財政はいつでも自転車操業だ。堤防作りをしているので予算もカツカツのはず。しかも甲斐では万年疫病が流行っている。日本住血吸虫は今でも猛威を振るっていることだろう。

 

「では、よしなに」

 

「……ええ。一条殿も、ご武運を。人ならざる者にはならないようにご注意下され」

 

「心に留めておきましょうぞ」

 

 信君からの忠告は前に氏康様からも貰ったものだった。私は人外か何かだと思われているのだろうか。人の心という意味であれば、常に持っているつもりであったのだが。私の態度にどこか問題があったのであれば改めねばならない。

 

 ……と思いつつ、本当は心中では分かっている。私は長尾景虎を討つとなる時だけ、おかしくなる。彼女に直接的な恨みは無論存在している。自身の恋人を殺されかけ、北条領に侵攻された。我が軍からも犠牲者が多く出た。だがそれだけではない。同じ敵でも里見には敬意を持っている。私の恨みはもっと深い、根本的なもの。これが解消される日は、すなわち越後の崩壊する日であろう。

 

 今は勝つしかない。私のこの恨みも憎しみも、早く断ち切るために。武田晴信だけではない。私も、あの白い少女に取り憑かれているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まだ朝早いころ。戦の火蓋は切られた。本陣からも最前線の喧騒が聞こえる。

 

「始まったようですね」

 

「……あぁ。各隊に通達。指示あるまで待機。指示後は事前の連絡通りに動くべし!」

 

「はっ!」

 

 胤治の言葉に返答し、伝令役を走らせる。全軍に一気に緊張が走った。戦の前の特有の緊張感が場を包む。これまで何度も従軍してきた。その度にこの空気を味わっている。殺伐とも言えない、独特の空気感。人と人とが殺し合う世界の中で、理性を保とうとする矛盾を孕んだこの空気。これが俗に言う戦場の空気というヤツなのだろう。

 

 本陣にいる政景は青ざめた顔をしている。彼女からすれば初の戦。しかも勝てるかは未知数。初陣で武田長尾という戦国でも有数の将が激突する戦いに参加することになってしまったのには少しだけ同情する。とは言え、そうするように命じたのは私なのだが。彼女を鍛えるには戦場を経験させるしかない。

 

 元々、武士を選ばない道もあった。もしくは、兼成のように後方勤務をする道もあった。しかし彼女は戦場に出ると誓った。戦に出て、そこに生きて、そして死んでいった兵士たちを見るのだと。彼らの生きた意味を見出し、後世に伝えるために生きるのだと啖呵を切った。であれば、彼女を一人前の人間として扱わねば失礼だ。魂の奥底に武士の意地が存在している。その意地は生き残る上で大事だった。そういう意思の無い人間は、真っ先に死んでいく。どんなときであろうとも、強い目標を持っている人間は生きるのを諦めない。生きる道を模索するだろう。

 

 彼女は震えているし、顔は青い。だが、いつもと違いワガママもひねくれたことも言わなかった。憎まれ口も叩かない。彼女は震えながら、けれど確かにその宣言通りに前を向いていた。成長を感じる。僅かな期間ではあるが、義兄を務める身としてはその成長を嬉しく思った。

 

 でも、できればこんな戦場ではなくもっと平和な世界で、彼女を成長させてあげたかった。そんな思いも持っている。必ず後世を生きる者は、平和で安全な学び舎で成長出来るようにするのだ。そう改めて決意を固める。その為にも、長尾は討たねばならない。旧体制の守護など、この国の発展のためには有害でしかないのだ。少なくとも、私はそうやって大義名分を己の中に見出している。復讐以外の大義名分が、私にだって欲しかったのだ。

 

「申し上げます。馬場隊と真田隊が前に出ましたが、真田隊はすぐに撤退。援護要請の合図が来ております」 

 

「よし分かった。その足で全隊に通達。これより前進し、敵に矢の雨を降らせよ!」

 

「復唱、全隊前進。敵兵に矢の雨を食らわせよ」

 

「よし、行け!」

 

 報せに来たのは引き連れてきた忍び衆の一人。段蔵の部下である。彼女自身は周囲を警戒しつつ、戸隠忍びに備えて本陣を守っている。他の者は物見や偵察などに行っていた。本陣内にある小さな櫓からも外の様子は確認できる。二メートルほどの小さな台だが、そこからでも十分に外の様子は伺えた。報告通り、真田隊は退いたようだ。六文銭が川のこちら側にいる。突撃しているのは村上義清であることが旗からうかがえる。

 

 馬場隊が村上隊と対峙している中、自軍も動き始めた。指示通りの素早い機動で川のほとりまで行くと投石と射撃を開始する。村上勢は軽い混乱に陥っていた。訓練通りの動きが出来ている。戦場では普段の実力などほとんど発揮できないことも多い。まだ安心はできなかった。なにせ、自軍は敵と直接対峙していない。石を投げているだけならばともかく、刃を交えるとなってどこまでやれるか。それが問題だった。

 

 頃合いを見図る。馬場隊の攻勢と我が軍の遠距離攻撃に敵軍は苦戦している。今だと見て、台の上から鏑矢を放った。これでも弓では関東随一と謳われている。矢は音を立てながら遠くへと飛んでいった。その数瞬後、馬蹄の音が響き渡る。地鳴りのような音を奏で、地面を揺らしながら武田義信と飯富虎昌率いる奇襲隊が森の中より打って出てきた。赤備えの先頭では飯富虎昌自らが槍を振り回している。

 

 雄たけびが聞こえるようであった。降り注ぐ矢と石。前方の馬場隊、後方に回り込もうとしている側面の奇襲隊。その三方向から攻撃を受け、村上勢は統制を失いつつあった。苦戦していたのが今や敗走寸前になっている。このまま放置していれば時間の問題であるのは明白だった。

 

「申し上げます!」

 

 敵軍を敵の陣中近くで見張らせていた忍びより報告が来る。

 

「何か」

 

「越軍、渡河を開始しました。主だった将は斎藤、北条、柿崎らです」

 

「ご苦労!」

 

「はっ!」

 

 台を下り指示を出し始める。ここまでは山本勘助の言った通りの展開となっている。元々奴は無能ではない。普通に優秀な軍師だ。当家でも活躍できるだろう。その軍師が練った策。流石と言うべきところであったし、私でもこうするというところが多くあった。

 

「全軍、川岸まで前進。されど川へは入るなよ。突撃陣形三番開始!」

 

 前進しつつ、肝心なところでは攻撃しない。あくまでも遠距離援護を強くするのが3番である。突撃陣形とは言っているが、防御陣地に近いものであった。太鼓が鳴らされ、陣形が知らされる。この太鼓で陣形関連の連絡を取っていた。乱戦中は物見や忍びは使えない。連絡将校がいれば話は別だが、太鼓で事足りるように訓練しているので何とかなるはずである。

 

「申し上げます!敵軍、我が軍の雨を前に尻込みし攻めあぐねております!その間に馬場殿、飯富殿などは撤退を完了させました!」

 

「相分かった」

 

「いよいよ、此処からが肝心でございますね」

 

「あぁ。敵は必ず前に来る。さもなくば、降り注ぐ矢や石を防げぬからな」

 

「で、でも敵が逃げるかも」

 

「着眼点は良い。確かに敵は敵わぬと見て渡河を諦めるかもしれないな。その場合はどうすれば良いと思う」

 

「敵を、釣る……?」

 

「どうやって?」

 

「えっと……まず一回油断させて、一気に?」

 

「ほう?かなり近いな」

 

「釣りをするとき、引きが強いなら一回緩めてから一気に釣り上げるって前に朝ちゃんが」

 

「朝定が?なるほど。良い友を持った」

 

 意外なところで交友関係が役に立つ事もあるようだ。彼女は私に連れ添ってよく釣りをしていたが、その際に掴んだコツを政景にも話したらしい。それ自体は兵法を語ったつもりではないだろうが、政景は自分でその話を応用した事になる。これは良いことであった。学んだこと、知っていることを活かす。日常の中にも兵法のエッセンスは存在している。応用力は大事な事であった。

 

「では、油断させるとするか。後退隊形二番!」

 

 二番は防御を固めながらゆるゆると後ろへ下がるやり方だ。一番は何でもいいから逃げてこいという意味なので、実質的にはこちらを使う事の方が多いかもしれない。

 

「退いたら背水の陣……!」

 

「妹様、ご安心ください。前にお教えしましたでしょう?背水の陣とは別の策と連動して行うもの。古の井脛においても韓信はこの策だけを用いたのではありません。わざと自軍を侮らせて敵軍を城の外へ誘い出す調虎離を行い、さらには空にさせた城を落とし、敵の動揺を突いて襲撃し勝機を逃さない、と最終的に勝つための方策も行っております。ただの運任せではありません。しっかりと準備をしたうえで臨んでいるのです」

 

「胤治の言う通り。此度の越軍は偶然その状況になったから利用しようとするだろう。だが、それは計画に基づいたものではなく、言うなれば行き当たりばったり。生兵法とはこのことよ」

 

「そ、そうなのね……」

 

 政景の不安は少しは解消されたようだ。後退する自軍に敵軍は追撃を開始したようだ。兵からすれば武具もしっかりしていて立派な我が軍は略奪の美味しい餌に見えるのだろう。だが、撤退と敗走は違うのだ。その差を分からせてやる必要がある。

 

「申し上げます!敵軍、渡河を完了!」

 

「よし!」

 

 もう一度台に上り鏑矢を放つ。待ってましたとばかりに馬場隊や奇襲隊は反転。真田隊、穴山隊、工藤隊も前進を開始し、敵軍を囲い込む。馬場隊と奇襲隊が完全に退路を断つまでにそう時間はかからなかった。敵兵は未だ状況を把握できておらず、目の前の敵軍目指して吶喊している。だがようやく逃げ場がないことを理解したようで、死に物狂いで後方の馬場隊などを叩きにかかった。

 

 しかしそうは問屋が卸させない。カンネーとまでは行かないが、戦史の大先輩・ハンニバルに倣いここで敵軍を殲滅させてもらう。

 

「両翼部隊、突撃陣形、一番。敵を逃がすな。一兵たりとも逃がすな」

 

 指示通りに太鼓の音が変わる。まずは我が隊の両翼が凄まじい勢いで突撃を開始した。この際の兵にもしっかり訓練を施してある。一対一で戦えば勝率は個人の練度に依存する。だが、一対複数ならばどうだろうか。連携がとれていれば、普通の兵同士であった場合無論複数の側が勝つだろう。それをやれば良いのだ。スリーマンセル、三人一組となり、これで行動する。一蓮托生の小隊だ。これが幾つも幾つも集まることで一つの足軽大将が率いる中隊が出来上がる。それを複数集めることで侍大将の率いる大隊が出来上がる。この侍大将とはイコールで山中殿と太田殿のことだ。

 

 さらに大隊が二つ以上集まると左近の率いるような大きな部隊になるのだ。無論例外もあり、騎馬武者はここに属さないし近侍の馬周りもこの法則には従わない。だが、一対複数で戦うのは効果が出ている。連携が取れているからこそ、しっかりと攻撃して敵戦力を削れるのだ。

 

 指揮する山中殿や太田殿も歴戦の名将。最初はこの奇妙なやり方に異を唱えてもいた。武士のやり方ではないと厳しく反論された事もある。この言い分は無論納得できるものであった。しかし、実際に死亡率は下がる。こうすることが勝利への近道である。今後は鉄砲の普及で個人戦は減るだろう。いかに集団で敵を殺せるかであり、首を多く獲ることではないのだ。そう言って説得を行った。

 

 納得してもらうには時間がかかったが、彼らも兵に死んでほしいと思っている訳ではない。死亡率の点で彼らは折れてくれた。長い時間をかけたが、その分両名とは胸襟を開いて話が出来たと思っている。今では彼らもこちらの指示に従ってくれていた。

 

 両翼の部隊は敵に容赦なく襲い掛かる。だがまだ決定打ではない。相手の心を折る為にはダメ押しが必要であった。

 

「左近を前へ」

 

 太鼓が鳴り、伝令が飛ぶ。左近率いる最精鋭が前に出た。すぐに銃声が戦場に響き渡る。一瞬だけ、越軍の怒号が止んだ。次の瞬間には悲鳴が響き渡る。騎馬の上の侍大将が討ち死にしたらしい。しかも頭を弾き飛ばされて。ゆっくりと倒れる首なしの死体。馬から転げ落ちるかつての上役を兵はどういう思いで見るのか。想像に難くなかった。鉄砲には殺傷能力以外にも音という見えない要素も兵器の性能に含まれているのだ。

 

 しかし、この頃の鉄砲で一発命中とは相当な腕を持っているようだ。流石畿内出身と言えるだろう。続けざまにもう一発鳴り響く。今度も誰か死んだのだろう。そして、絶叫が響き渡る。越軍は狂乱状態に陥り、てんでバラバラにとにかく逃げようと押し合いもがき始めた。狭い密集地帯でそんなことをすればどうなるか。押し倒された者は味方に踏みつけられ圧死する。ぶつかり合った相手を最悪殺してでも自分は生きるべく必死にもがく。そのせいでますます身動きが取れなくなる。

 

 恐怖が彼らを支配していた。最早殲滅は時間の問題だろう。我々の怒涛の攻勢に負けじと穴山隊も襲い掛かってる。その練度も高い。勝ったと思った。

 

「殿、大勢は決しましたな」

 

「あぁ。これで追撃に移れる。横山城を落として大手柄と……」

 

「申し上げます!」

 

「どうした」

 

「左近様より伝令!前方に毘の旗らしきものを確認。指示を乞うとのことです」

 

「なんだとッ!やはりか……」

 

 伝令の報を受け、台に上って確認すれば、確かに毘の旗が川向うにはためいている。私の目にはよく見えた。その下には、白い頭巾の将がいる。馬に乗って佇んでいる。その気配はここからでも感じ取れた。私はオカルトはそこまで信じないが、気というものがあるのだとすればああいうのを言うのかもしれない。

 

オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ。

オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ。

オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ。

 

 不気味な音が聞こえ始める。先ほどまで狂乱状態であった軍がこの言葉を唱えると一挙に秩序が戻り始めた。

 

「あれは……あんなものが……」

 

 胤治は絶句しながらこの状態を見ている。自軍にも動揺が走っている。それも当然だろう。先ほどまで自分たちに狩られるだけであった狂奔の徒たちが一斉におとなしくなったのだから。この異常性。鳴りやまぬマントラ。恐怖を感じるのもやむを得ない事であった。だが座視はできない。このままではこちらがやられる。

 

「馬を持て」

 

 私の命令にハッとした顔で胤治がこちらを見る。

 

「いけません、殿!今出てはなりません。直ちに退却命令を。そうすれば勝ちは拾えずとも負けはしません」

 

「いや、このままではあの異常な軍に叩かれてしまう。みすみす撤退させてくれるとも思えない。今危険なのは景虎と越軍に挟まれている馬場隊と奇襲隊だ。彼らを救わねばならない。私が前に出れば、少なくとも自軍の士気は戻る。そうでは無いか?」

 

「ですが……」

 

「案ずるな。これでも槍働きで身を立てた。叩き上げの武人であるぞ?信じて待っていろ」

 

「……承知いたしました。殿のお望みであれば致し方ありますまい。されど、危うしと見れば退却命令を出させて頂きます」

 

「任せた」

 

 馬が連れてこられる。急がねばあの軍神がやって来てしまう。その前に全軍の士気を立て直せねばならない。

 

「我こそと思う者は続け!」

 

 叫んで馬を走らせる。前線との距離はすぐ近くだ。後退を始めようとしていた自軍の中央に立つ。馬場隊と奇襲隊はもうすでに撤退を開始している。流石の判断力だ。武田軍の面目躍如といったところであろう。彼らの退却を支援しつつ、敵軍をここで抑える。我が軍の練度と技術は世界最高と自負している。そう言う風に鍛えてきた。

 

「あそこにおるのが長尾景虎ぞ!あれを討った者には恩賞自由となそう!小田原からも褒美が出る。いや、鎌倉公方からも出るであろう。あれは神か、否。人である!人であれば、我ら二千の精鋭が負ける道理があろうか!我はこれより全軍の先頭に立ち、鶴岡八幡宮・諏訪大社・関東の神仏の名において、偽神を討滅せん!」

 

 あらんばかりの大声で叫びながら全軍の先頭、すなわち敵の真正面に立った。私の背後には河越衆。眼前には長尾景虎が剣を持って馬上に佇んでいる。その後ろでは真言マントラが不気味に唱えられていた。怖気づいていた自軍の気配はもうない。総大将が前に出ることの意味はあったようだ。

 

 チラリと見れば、穴山隊、工藤隊、真田隊も退却をほぼほぼ終えている。穴山隊は事前の打ち合わせ通りに道を開けてくれた。

 

「偽神討滅!」

 

「「「「偽神討滅!」」」」

 

 全軍が声を張り上げる。真言マントラに負けぬ大音声が戦場に響いた。いいぞ、これで士気は回復してきている。足踏みをしながら私の声に合わせて叫ぶ。

 

「毘天鏖殺!」

 

「「「「毘天鏖殺!」」」」

 

「最早神の治める世は終わった。これより我らは、人の手で明日を拓く!全軍、続けェッ!!」

 

「「「「応ッ!」」」」

 

 愛剣を抜き放ち、敵軍を指示したまま突撃を開始する。背後からは私の後を追うように自軍が付いてくる。敵も負けじと応戦体制に入ったが、宗教的法悦は長持ちしない。先ほどまでの恐怖が蘇ってくる兵士もいる。

 

「ご主君を死なすな!全軍死を恐れず進め!」

 

「一条殿に後れを取るな、前へ前へ!」

 

「大将首はすぐそこぞ!」

 

 自軍の将たちが兵を鼓舞し、自らも先陣切って前へ進んでいる。両軍が激突する最中、敵の総大将が見えた。百発百中と余人に謳われた弓を取り出す。自軍が放った弓は当たらなかった。だが、狙いはそこまで正確ではないのでそれは当然といえば当然だろう。回避も撃墜も、巧者ならば可能だ。だが、私の弓から逃れられる者はいない。

 

 長尾景虎は真っすぐこちらを見据えている。その顔のど真ん中を目指して矢を放った。当たったと思った。確かに矢は彼女の顔を目掛けて飛んでいった。避けられるはずの無い速度。避けられるはずの無い距離。必中のはずであった。しかし実際はその白い髪を少し抉った程度。肝心の顔には傷一つついていない。それでいて意外そうな顔をしているのが無性に腹立たしかった。すぐさま次の矢を放つが何れも当たらない。もしくは剣で弾かれてしまう。

 

 最早直接戦うしかない。覚悟を決め、馬上で剣を構えた。数秒後、突進してきた長尾景虎と剣が交わる。その非力そうな身体のどこからこんな力があるのか。もしくはいなされているだけなのかもしれない。剣同士の金属が擦れる音が甲高く響く。火花が飛び散り、私と彼女の顔を照らした。

 

 確かにその顔は美しい。しかし、私からすれば憎悪の対象でしかないのだ。相手の顔は苦悶に歪んでいる。理屈は分からない。だが、私、或いはこの剣の力か。三度、四度打ち合う。これでも剣聖に剣を習っているのだ。そんじょそこらの者には負けはしない。私が振り下ろせば、すんでのところで躱される。隙を突いてきた突きを躱しながらこちらも今度は下から振り上げた。右に左に、幾度となく剣がぶつかる。しかし決定打が掴めない。

 

「軍神、口ほどにもないな!私一人に苦戦して、それでも武神か?汝の言う毘沙門天はやはり偽物か!」

 

 大声で言うのは敵の士気を挫くためだ。私に苦戦している。あの長尾政景も一瞬で敗れたという長尾景虎がこの私に苦戦している。その事実は我が精強なる兵と相対している彼らには強い衝撃になるはずであった。

 

「殿、加勢いたしますぞ!」

 

「助太刀無用ぞ、皆にも伝えい!」

 

「は、ははぁ!」

 

 複数で戦ってはおそらく私諸共死んでしまう。一対一であるからこそここまで持ち込めていた。興国寺から共に戦ってきた馬廻り達には敵将を狙いに行かせる。ここで私と長尾景虎が一対一であることにも重要な意味があるのだ。

 

「どうした、何も言えぬか?軍神、やはり口ほどにもなし!越軍の兵どもよ、これを見よ。汝らのすがる神は、ただの人一人も討てぬ腰抜けぞ!」

 

 少しだけ動揺が走った。そこを更に自軍が押していく。形成は徐々に変わりつつあった。戦力差で言えば向こうとこちらの初期兵数は向こうが二倍もいる。単純計算で、越軍は半数しかいない我が軍に押されていた。

 

「お前は、なんだ?」

 

「ほぅ、いう事に事欠いて、何を言うかと思えば」

 

「お前の剣はなんだ。分からない。どうして私が……」

 

「知らん。どうでもよいわ、そんな事。今大事なのはな、貴様を殺せるところにこの私がいるという事だけよ!」

 

 向こうがいかに武術の天才と言えど、どうも調子が悪そうなのに加えて性差もある。あの細腕で長時間戦闘は厳しいだろう。しかも今は日光がさんさんと照っている。アルビノ体質に日光は毒だ。敵が万全の状態であろうとなかろうと、そんなのは知った事ではない。万全の敵に勝ってこそ、というような思いも無い。殺せればそれが全てだ。どんな手段を使おうとも、死んだ者は蘇らない。勝ってしまえば、それが正義なのだ。

 

「死ね、我が怨敵!」

 

 渾身の想いを込めて、剣を振り下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

 兼音の読み通り、景虎は不思議な感覚に囚われていた。と言っても気分の良いものではない。自分に纏わりつくような、重く苦しい感覚。一つは相対している一条土佐守の怨念のようなものであると見当はついた。しかし、そんな怨念は普段であれば通じない。それだけでなく、もっと強い力が自分を縛っている。そう感じていた。熱を出した時のように身体が苦しく、思うように言う事をきかない。先ほどまでは普通であったのにだ。

 

 自分は確かに毘沙門天の加護を受けているはずである。実際に何度もそういう力に救われたし、力を振るってきた。しかしどうも今回は上手く行かない。兵の結束も緩い。まるで、毘沙門天が力を封じられているかのように。そんな困惑と共に出た言葉が「お前はなんだ」という言葉であった。だが当然兼音はそれを嘲笑う。

 

「死ね、我が怨敵!」

 

 振り下ろされた剣に一瞬景虎は死を覚悟する。その瞬間に時が止まったような感覚を味わった。目の前の景色がゆっくりと動いている。憎悪と歓喜の目で自分を見る兼音の顔を、景虎は初めてゆっくりと見た。その目の奥底には狂気と……わずかな悲しみがあるように思えた。本当の彼はもっと優しく温厚な人間なのであろうことが読み取れる。では、どうして、どうしてこんなにも……。走馬灯のような瞬間に彼女はそう思った。

 

『避けろ!避けねば私は死んでしまう!』

 

 頭の中に声が響く。いつも聞く声。毘沙門の声。珍しく切羽詰まったような声で神は叫んでいた。

 

「神が、死ぬのですか?」

 

『あれはただの剣に非ず。宙より来たりし星の鉄。あれに持ち手がその神秘を殺さんとする意思を持った状態で斬れば、あらゆる神秘はその力を失ってしまう!神も仏も妖も陰陽師や神官、僧に至るまでも……!のみならずただあるだけで神秘を弱らせる。逃げよ景虎。あれと戦ってはならぬ。戦で殺し合うはまだ良い。だが直接打ち合ってはならぬのだ!その時、お前の身体も共に死んでしまうだろう!』

 

「わかり、ました」

 

『やっと見えたぞ、あの男の正体。時渡りだと……。斬首された男風情が大人しく坂東に引き籠っておれば良いものを、己の神格を全てあ奴に託し時を渡らせたな。神の裏切り者め……!怨霊如きにやられてなるものか!』

 

 急速に世界の動きが戻っていく。彼女が一瞬だけ見えた光景では、あの親不知で見たような白い世界が広がっている。その中で、古風な甲冑を着た大柄な武者と毘沙門天が死闘を繰り広げていた。そして時は動き出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガンッ!という激しい音が響いた。確かに打ち込んだはずだった。彼女に防げるはずなどなかった。だが、何か妖術を使ったかのような身のこなしで避けられた。剣は僅かにその切っ先がそれ、あの白い肌に薄い切れ込みを入れるだけで終わってしまう。長尾景虎の病的に白い肌に、一筋の血が滴った。この至近距離でダメとなるとかなり厳しい。クソっと吐き捨てたくなるのを抑えて第二撃を行おうとしたがその前に衝撃が走り地面に叩き落とされる。

 

 馬を攻撃されたのだ。それは直にわかる。いつまでも倒れ伏している訳にもいかないので受け身を取りながら転がり、すぐさま立ち上がった。私が馬を失ったのを確認すると、景虎はくるりと反転して走り去ろうとする。逃がすかと弓を構えるが、どうも左腕が言う事をきかない。折れてはいないようだが、捻ったか擦ったか。いずれにしてもこれでは狙いが定まらない。

 

「殿!」

 

「私に構うな!あの偽神を逃がすな、追え!追わんか!」

 

「し、しかし……!」

 

「主命ぞ!」

 

 私を助けようとする周りの将兵を制止し、更なる突撃を命じる。その時であった。ガンガンと鐘が鳴らされる。最優先撤退命令の符丁だ。これが鳴らされた場合は、いかな戦局であろうとも直ちに戦闘行為を中断して撤退しなければならない。

 

「殿……」

 

「潮時か……。退くぞ!退けぇ!」

 

「拙者の馬をお使いください!」

 

「すまぬ……」

 

 配下に馬を借り、撤退の指揮を始める。敵軍の大半は追う気が無いようであった。総大将である長尾景虎は引っ込んでしまった。それに、どうも穴山隊が前進する素振りを見せてくれている。あれを警戒して動けないでいるようだった。

 

 平林城から我が軍撤退を狙い撃ちしようとした本庄隊が出てくるが、飯富三郎兵衛の隊に捕まって身動きできないでいる。どうやらあの部隊は我が軍の撤退を援護してくれるようであった。良いところで出てきてくれたものだ。流石は後の山県昌景。飯富虎昌亡き後の赤備えは伊達ではないか。

 

 飯富三郎兵衛隊の援護もあり、我々は粛々と撤退を行い、川から陸へと上がったのであった。馬を返し、その足で本陣へ向かう。戦闘中はアドレナリンが出ていて気付かなかったが、そこそこ手傷を負っている。額からも出血していた。確かにこれは心配されてしまうのも納得だ。左腕は動きが鈍いし、疲労も多い。何とか本陣へと帰還した。

 

「退却命令は私が、出しました」

 

 震える声で政景が言う。

 

「胤治に任せたはずだが?」

 

「横山城と平林城に動きがあり、長尾景虎救援に前に出ようとしていると報告があって、それで……。自軍は突出しすぎていました!加えて今回の主役は武田家にも拘らず、武田は川を境に籠ろうとしているので、このままでは突出したまま包囲される危険を感じました。だから……命令を出しました」

 

「そうか」

 

「当初は私が命令を出すはずでしたが、妹様が主命であると仰せられました。しかし私も同意しましたので責は私が」

 

「いや、責めずともよい。好判断だ。私も血が上っていたが、あそこで追撃してはいたずらに兵を損なうだけであった。武田の援護の望めぬ中で長尾とやり合うは得策ではない。随分と向こうの兵は減らせたし、心胆寒からしめたであろう。今はこれで十分とするべきであろう。政景、大儀」

 

「……あ、ありがとう、ございます」

 

 ヘナっとした顔でへたり込んでいる。まだまだ青い。だが、それでもしっかり状況判断はできている。今後は私がいない間の副将を任せても良い具合にはなっている。未熟な面も目立つが、そこは胤治がサポートしてくれるはずだ。

 

「負傷者の救護と人員の確認を急げ!重傷者を優先に、だが助からない者は見捨てよ。厳しい判断だが救える命を救うぞ。湯を沸かせ、消毒の酒を用意し、清潔な布を!」

 

 負傷兵の救護の指示を出す。この時代の衛生環境はお世辞にもいいとは言えない。であればこそ、ナイチンゲールではないが多少衛生環境を整備すれば死傷率はだいぶ下がる。例えば馬糞を塗るのをやめさせるとかだけでも効果はあるだろう。アルコールで消毒し、煮沸した湯で傷口を洗う。綺麗な布で覆って、毎回取り換える。その布は使ったら使い捨て。もったいないようではあるが、火種くらいにはなる。

 

 針や糸も用意させている。本陣待機の者の中には縫合を専門とする者も数名いる。消毒した傷口を縫えるようにである。外科手術とまでは行かないが、それでもできることはあるはずだと手を付けたのがこういうところであった。清潔さと多少はマシな医療技術。おかげで少し死傷者は減った。それでもまだ、現代の水準には届かないが。無論針は焼いた後アルコールで消毒させている。

 

 私も出血を抑え、しばらく待っていると報告が入ってくる。

 

「右陣・太田豊後守様よりご報告、死者三十七名、負傷者五十二名。負傷者はほぼ軽傷との事」

 

「左陣・山中内匠助様よりご報告、死者二十九名、負傷者四十八名」

 

「中央・島左近様よりご報告、死者百三十名、負傷者三百十八名。負傷者内重傷が二十一名です」

 

「馬廻り、死者はありません。負傷者は数名。しかしいずれも軽傷」

 

「分かった。重傷者は手当の後、様子を見る。ある程度回復すれば河越へ送れ。死者は名と出身を確認し……」

 

「私に、やらせて」

 

「政景……。分かった。政景に報せよ」

 

 伝令を出す。死者は二百人弱、か。大分死んでしまった。彼らの弔いは必ずせねばなるまい。損害は思ったよりも多い。今後、あまり無茶なことは出来ないだろう。河越に同様の練度を持っている兵は後五百ほどいるが、今からの補充は難しい。帰った後でまた募兵をしないといけないだろう。訓練もやり直しだ。

 

 負傷者ももう一度戦えるようになるレベルならまだいいが、もう戦えなくなってしまうほどの傷を負ったものは今後の生活を支援する必要がある。その代金も嵩む。景虎を討ち取れればギリギリ相殺できるくらいであったが、それも叶わなかった。武田晴信に金を集るとしよう。

 

「敵軍の損害、千は近いかと!中には侍大将級も多く混ざっております!」

 

「敵軍、横山城に籠って出る気配はありません!」

 

「相分かった。この戦、勝利ぞ。勝鬨を挙げよ!えい、えい、おう!」

 

「「「「えい、えい、おう!えい、えい、おう!」」」」

 

 自軍内に勝鬨が響き渡る。これは敵軍に対し示威行動をする目的も含まれていたし、奮戦したことを武田側にアピールする狙いもあった。損害は大きいが、見合った成果があれば凱旋はできる。何の成果も無いという訳にはいかないのだ。民は敗軍の将ではなく、戦勝の将を求めている。それに、事実敵軍の損害は多い。沼田・箕輪で削って今回も加味すればかなりの損害を被っているだろう。

 

 沈黙を保っている越軍を煽るように我が軍の勝鬨は響く。武田の部隊も幾つかこれに呼応して勝鬨をあげる。実態はどうであれ、勝ったと思わせることが大事なのだ。戦闘は終わっても戦争全体ではまだ終わっていない。このままでは史実よろしく千日手だ。次の策を考えねばならない。

 

 本陣に主だった将がやってくる。

 

「一条殿、ご無事か!」

 

「山中殿、ご心配には及びませぬ。この通り、ピンピンしておりますぞ」

 

「それは良かった。落馬されたときは肝を冷やしましたぞ」

 

「なんのこれしき。あの程度で死ぬほど、柔ではありませぬ」

 

「小田原や河越に待たせておる御仁がおられますからなぁ」

 

 山中殿に答えた私を揶揄うように後ろからやって来た左近が笑いながら言う。

 

「ガハハハ、なるほど、道理で強いわけですな!」

 

 大声で太田殿が笑っている。一応私を揶揄っている左近を軽くにらんでおいたが、確かにその通りだ。待たせている人がいる。それも一人ではなく、複数。私が死ぬ訳にはいかない。この強い生きたいという気持ちは、戦場での原動力になっていた。

 

 これから損害についての詳細確認、物資の確認などをしないといけない。また、手柄関連もまとめて河越へ送らないといけないのだ。恩賞を出さないとストライキを起こされてしまうし、最悪脱走される。

 

「伝令申し上げます!我が主、大膳大夫より土佐守様に言伝を仰せつかっております!」

 

「申せ」

 

「今後の策を練りたいので本陣まで来られたし。であります」

 

「相分かった。すぐ参ると返答したと伝えられよ」

 

「はっ!」

 

 戦が終わってすぐに呼び出しとは鬼なのだろうか。こちらにもこちらの都合があるのを考えて欲しい。本隊は無傷なのだからそういう事が出来るのかもしれないが。ともあれ、逆らう訳にもいかない。むしろここで手間取っているとみられるのは問題だ。行かねばならないのですぐ行くと返答した。

 

「胤治、仔細任せた」

 

「承知!」

 

 戦いで疲れた重い腰を上げ、武田の本陣へ向かって馬を進めた。

 

 

 

 

 のちに第二次川中島の戦いと呼ばれるこの一連の戦争における初戦は、大激戦の末に兵の損害も将の損害も共に長尾軍の方が多かった。その為、裾花川の戦いとも形容される初戦は甲相連合軍の勝利とされる。しかしながら両軍ともこれ以上の損害を恐れ川を挟んで睨み合いがしばらく続くことになる。




次回の本編は時系列が進行し、今回の戦闘の続きになります。後数話で川中島もおしまい。そうなると織田編です。どちらもお楽しみに!


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第103話 第二次川中島の戦い・中


【挿絵表示】


今回は色々な視点からお送ります。


 裾花川での激戦。これを辛くも制した北条・武田連合軍ではあったが肝心の長尾景虎を討ち取ることは出来ず、横山城の奪取も叶わなかった。長尾軍は兵数を減らしたものの未だ横山城にて旭山城に睨みをきかせながら武田軍を牽制している。

 

 激戦を終えたばかりではあったが、このままでは膠着状態に陥ってしまうのは目に見えている。それは避けたい事態であった。武田晴信は緊急で軍議を開催し、今後の策を練ることとする。その席には、今回の戦闘で最も勇壮に戦い大戦果を挙げた北条家の援軍総大将・一条兼音の姿も存在しているのであった。

 

 

 

 

 

 

 武田家の将は兼音を遠巻きに見ている。床几に座る彼は額に生々しい血の跡がまだ拭いきれず存在しており、鎧も大分傷付いている。左腕を若干痛そうに垂らしている辺りにも激戦の爪痕が見えたからであった。そして自分達武田の将は彼の総大将単騎駆けをあり得ぬと言い切った。中には嘲笑した者もいる。そういった者は申し訳なさを感じ、同時に己の見識の狭さを恥じ入っていた。尤も、これは戦国であろうともいつであろうとも大分非常識なので、そこまで恥じ入る事は無いのだが武士としてのプライドがそうさせるのである。

 

「一条殿、大事無いか」

 

「心配ご無用。むしろ、後一歩で総大将を討てたというのにすんでのところで逃げられ、おめおめとここにいるのを恥じ入る次第」

 

「そ、そうか……。いや、良くやってくれた。感謝申し上げる」

 

「この結果は我が兵の奮戦によるもの。感謝は我が兵に対するものと受け取るがよろしいか」

 

「構わない」

 

 武田晴信としては、援軍の将に死なれては困るのだ。まさか彼自身が突っ込んでいくとは思わなかった。どうも一条兼音と長尾景虎には自分と同等かそれ以上の因縁があるらしいと認識する。これに少しばかり嫌な感情を抱いたが、晴信はその理由までは分からなかった。それはさておき、ここでもし兼音が死ぬと北条家との関係悪化は避けられない。上手く長尾を討てたとしても背後から一突きされれば武田はおしまいなのである。なんとしても関係悪化は避けたいところだった。

 

「一条殿、そして皆々の奮戦で長尾の兵は削れた。しかし、状況はそう変わっていない。旭山城は相変わらず横山城や葛山城に囲まれている。敵はある程度健在だ。これをどうにかせねばならない」

 

「どうにかとは、どのような事でもよろしいので?」

 

「何か策が?」

 

「何でも良いといわれれば幾つかは。ではまず一つに絞って実行したいと思います。敵軍に一月足らずで不和を起こさせて御覧に入れよう。尤も、それしか出来ないくらいに我が軍は大きく傷ついておりますれば」

 

 事実、十分の一を損失した彼の軍は大規模な軍事行動はできなかった。現在報告を取りまとめており、それが終わり次第小田原と河越に送る。補給物資や代わりの人員も派遣されてくるだろうが、それも無尽蔵ではない。何より、精神的な疲弊を考えると連戦は避けたかったのだ。

 

 軍事的な面はやはり大きな手柄となる。これを当然知っている兼音はこれからの手柄は譲ると言ったのだ。これは今回の戦闘で大きな戦果を挙げたことが大きい。これ以上でしゃばると不興を買うと判断した結果であった。晴信もそれは敏感に掴んでいる。

 

「であれば調略面はお任せした。武田はその間に軍事的にどうにかする術を考える。勘助、策はあるか?」

 

「はっ!現状飯富兵部殿の赤備えは健在。更には真田隊もおります。地の利は真田殿が担ってくれましょうぞ。これを活かし神速で以て補給路を繰り返し断つのが最善かと」

 

「補給路か……具体的には?」

 

「長尾軍の補給線は二つ存在しております。一つは斑尾山の西を周って割ヶ嶽城を経由する道、もう一つは川沿いに飯山城や高梨館を経由する道でございます。前者は長尾の背後にございますれば、攻撃は難しい。されど、後者は未だ帰属の定まらぬ地も多くあり、この道沿いを攻撃し輜重隊を叩きます」

 

「つまり、赤備えに鼠の真似事をしろってのか?」

 

 飯富虎昌はギロっと勘助を睨む。神速で以てと言うから何かと思えば補給路叩きという地味な仕事。もっと華麗な大戦果かつ大手柄を望んでいる彼女らからすれば気に食わない事であった。補給というのはとかく軽視されがちであり、旧軍以前のこの時代からあまり好かれない仕事であった。特に最前線で手柄を挙げているタイプとは相いれないことが多い。

 

 有名な例で言えば、豊臣家内部の武断派・文知派の争いであろう。これがどういう結果を生んだのかを今更言う必要はないほどに有名である。石田三成のコミュニケーション能力が低いのはあったのかもしれないが、補給や財政を考える彼と加藤・福島らが合わないのはある程度納得のいくところではあった。補給の問題は最終的に敗戦まで日本を苦しめることになる。

 

 不満を隠せない虎昌に勘助も冷や汗である。虎昌とて補給の大事さは理解している。断つことの大事さもだ。ただし、それを自分がやる事が気に食わないのである。

 

「素人は戦略を語り、玄人は補給を語るとも申します」

 

「……その言葉は?」

 

「私の兵事における座右の銘であります」

 

 一条兼音の助け舟により、渋々ながら虎昌は頷いた。他の将も感心した様子で兼音の言葉を聞いている。この言葉の出典ははっきりとはしないが、軍事の本質を捉えている言葉の一つとして人口に膾炙していた。飯が無ければ壮大稀有な戦略であっても発動できないのだ。

 

 勘助も大いに共感する言葉である。バシッと短く言語化して伝えることができるのは大事な事であり、勘助もそれは理解している為今後己の中でも使用しようと心に留めていた。こういう軍事におけることで虎昌を納得させるには骨が折れるのは知っていたため、勘助も感謝しているところであった。

 

「では、飯富殿、真田殿、ご両名にお任せいたします。そして第二にでございますが、本陣から兵を五百ほど割きまする。加えて、尼厳城の原殿の隊を合わせて千を成し、千国街道を占拠し越後国境へと迫りまする。ここにある諸城で睨みをきかせれば、長尾は本国危うしと見て兵を退くこととなりましょう」

 

 千国街道とは現在の松本市方面から糸魚川方面へ延びる街道である。古来より塩の道として重視されてきた街道であり、ここの利権は現在武田の配下に入っている国衆の一人、仁科氏の支配下になっている。なので通行は無論できる。仁科氏は今回の戦役は免除されているので、駐留を断れるわけもない。

 

 補給をチマチマ潰し、国境部を脅かす。そして兼音が内部に揺さぶりをかける。こうすることで長尾軍の動揺、もっと言えば兵の動揺を誘う戦略であった。長尾景虎本人はどうしようも出来ずとも、他の兵や将は動かせる。将を射んとする者はまず馬を射よの理論であった。箕輪や沼田で越軍の兵糧の多くを北条軍が焼き払っていることも大きい。越後の国庫には現在大した量の備蓄が無かった。持って二月か三月ほどである。それも最低限しか使用しない仮定であった。

 

「各々方、ここからは持久戦が予想されまする。どうか、自軍の統制をしっかりと維持して頂きたい。内部よりの崩壊、これが最も恐るべきことでござますれば」 

 

 勘助の念押しに皆頷く。何だかんだとここまで長尾と張り合えているのは勘助が奮闘しているからでもあった。信頼は得ているのである。調略、お頼み申す。何かあればいつでも手助け致しまするぞ、と言われた兼音も感謝申し上げると頭を下げる。まだ将の闘志は消えていなかった。

 

「よし、皆ここが踏ん張りどころだ。必ず勝利を掴むぞ!」

 

「「「「応ッ!」」」」

 

 武田の将が応える中、自身も呼応しつつ兼音は長期戦の予感に頭を悩ませていた。

 

 

 

 

 

 

 軍議が終わった後、兼音は一人飯富三郎兵衛を訪ねていた。飯富三郎兵衛、後の山県昌景であるが、彼女は先の戦闘において一条隊の撤退を支援した。これに対する礼を申し入れるためである。本庄繁長が横を突こうとしていたのを妨害したのは三郎兵衛の隊であった。一番いいところで動いてくれたので、兼音からの好感度は高い。

 

「飯富殿、よろしいか」

 

「は、はい」

 

 三郎兵衛は身長が小さいスレンダーな少女であった。反面、兼音は戦国基準ではかなりの高身長に入る部類である。その為、そこそこ開いた身長差で兼音が見下ろす形になっていた。その威圧感に加え、まだそこまで戦場経験の無い三郎兵衛からすれば歴戦の武者である兼音からは独特のオーラのようなものを感じていた。

 

 元は晴信の小姓を務め、そこから出世して今の地位にいる彼女からすれば、兼音は目指すべき存在である。五百を率いるだけでもかなり破格ではあるのだが、兼音は四倍近い兵力を現在連れている。本国に帰ればもっといる。城持ちで関東管領の監視役も務めている信頼の厚さ。いずれにしても三郎兵衛からすれば尊敬に値する存在である。

 

 最初の軍議で単騎駆けなどと言い出して若干失望しかかっていたが全く予想通りになったために敬意は前まで以上になっていた。ただ、そんな存在が自分に話しかける謂れが無いので緊張しているのである。或いは先の勝手な支援を怒られるのかとも思っていた。

 

「先ほどは感謝申し上げる。あそこでの的確な支援無くば、我が軍は被害を被っていたでしょう。助力忝い」

 

 多くの被害や壊滅という言葉を使わないのは兼音なりのプライドの表れである。面子を重んじる武家社会。舐められないようにするには、謙遜すべきでないことはしない。これが鉄則である。

 

「や、役に立ったのなら良かったのだわ」

 

「流石は赤備えの妹御。将来は兵部殿に負けぬ武者となりましょうぞ」

 

「! ありがとうございます」

 

 これは兼音からすれば掛け値なしの本音であるというか、実際にそうなることを知っているので言った言葉だった。山県昌景は知っていても飯富虎昌はう~んという層は一定数存在している。武田四天王にランクインしている時点で並の将ではない。だからこそ言った言葉であり、本人には特にこれと言って深い意味はない誉め言葉であったのだが、言われた本人からすればそうもいかない。

 

 何しろ、まだまだ姉には追いつけないと必死になっているところに、その姉に負けないと言われたのである。しかも、言ったのは並の存在ではなく尊敬すべき存在。多くの武功軍略を以て東国に名を轟かす将である。説得力が違った。素直にありがとうと述べる以外に語彙力を消失させている三郎兵衛。いきなり固まった彼女に対して疑問符を浮かべながら、再度礼を言って兼音はその場を去った。後にはポーっとしている少女だけが取り残されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自軍に帰還した。軍議は消極策になったがまぁそれは想定内。こちらとしてももう一回突撃しようと言われても厳しいところがある。補給潰しと国境部への圧力と調略。この三本柱でやっていこう。こういう策も戦では必要な事だ。何も直接干戈を交えることだけが戦ではない。むしろ、こういう戦いの方が重要まである。

 

 飯富三郎兵衛に礼も言った。後で穴山信君にも言っておこう。人脈づくりは大事である。これを疎かにしてはならない。さて、武田の将との交流以上にやらねばならない事がある。本陣に帰還し、取りまとめている胤治に問うた。

 

「どうであるか」 

 

「損害は報告通りでございます。重傷者もあらかた治療が終わりました。後は峠を越せるかどうかでございましょう」

 

「一般の兵とは隔離させ、昼夜を問わず監視しろ。異変あればすぐ応対できるようにな」

 

「承知」

 

「兵の統制は出来ておるか」

 

「いずれの隊も秩序を回復しております。今は皆休息を取っている最中かと」

 

「分かった。半刻後、整列させてくれ」

 

「はっ!」

 

 政景の書いた被害報告書が置いてある。開けば、ずらずらと人名が書かれていた。人名だけでなく、出身地や年齢なども分かる範囲ではあるが記載されていた。そしてその死に様も。全てがこの通りではないだろう。こんなに全員が全員勇壮な死に様ではないはずだ。それでもせめて散り様は誇れるものであったと残すために敢えて嘘を書いたのだと分かった。

 

 それに、遺族がいる場合には勇敢に戦って死んだのだと伝えられる。遺族感情の配慮にも使えるのだった。戦死は仕方ないと戦国に生きる者は皆分かってはいる。だが、分かっているのと悲しくないのは別だ。そんな中でせめて、勇敢に戦って死に、国のために役に立ったのだと思いたいのが遺族の心情だ。何の成果も得られなかったなどと言う訳にはいかない。遺族には年金が出る。職の斡旋もある。それで生き延びてもらうしかなかった。

 

 やるせない気持ちになりながらも報告書にはすべて目を通す。そしてそれと併せて河越へ送る書状を書いた。ここには物資に関すること、滞陣が伸びること、プロパガンダを流して欲しいことを記載する。特に三番目も重要だった。自軍が敵軍に勝利し、この出兵には意味があったのだと銃後の民衆に伝えないといけない。それで税金の意味に理解をしてもらい、同時にナショナリズムの高揚を図る。戦争はそういう面では有効であった。非常に腹立たしいことに。

 

 書状を書き終わった頃に胤治が呼びに来る。

 

「殿、お時間です」

 

「分かった。ありがとう」

 

 陣幕の外に出れば、川沿いに軽症者やけがの無い元気な者たちがずらりと並んでいる。皆まだ戦える目をしていた。用意されていた壇の上に上り、ぐるりと軍勢を見渡す。二千の精兵の目が私を見ていた。

 

「皆、良く戦った。臆病な軍神は、川の向こうに籠ったまま出てこぬであろう。さしずめ、蝸牛のようにな!この戦場で最も勇壮であり、最も奮闘したのは我らであるぞ。これは、武田の将兵多く認めるところであり、武田の当主も皆に感謝すると頭を下げた!甲斐の虎も恐れる勇者が我らであるぞ!」

 

 歓声が巻き起こる。この軍は私への個人的忠誠と金払いの良さで成り立っている。それに日々の訓練や労働でいわゆる同じ釜の飯を食った者同士で連帯感を高めてもいた。家族を作ることを推奨し、守るべきものを作っている。とは言え、精神だけでは飯は食えない。

 

 足軽の年収相場は二~六貫文と言われている。一貫は現代円で約十二万円ほどなので、少ないと年収二十四万円ほどである。当然こんなのでは食ってはいけない。なので略奪だのがある。一方我らが河越衆の最低賃金は二十貫文ほど。現代円で二百四十万円ほどだ。相場が二貫文だとすると、その十倍近くは出している計算になる。そして河越衆は合計で三千人ほど。年間の給料だけで七十二億円。頭おかしい額が吹き飛んでいる。

 

 これには河越を警備している警邏隊などの含まれての数字だ。一般兵卒でこれなので、将帥にはもっと高額を渡さないといけない。とは言え、土地に執着の無い兼成や胤治にはそこまで高額を渡さなくていいので、大事なのはそれ以外の将たちである。彼らにはしっかり払わないと反乱されても文句は言えない。ここに更に公共事業やその他の戦費、子育てや出産の支援、士官教育制度の支援費まで嵩むので、河越の財政は結構自転車操業である。

 

 とは言え、商業の振興、貿易の利益、農地開発から得られる収入などで潤っているのでそこまで大ピンチではない。河越の農地は急拡大を続けており、区画整理による税収増加も合わせると昔の数倍、場所によっては十倍近い収入になっているのだ。だが軍事費という名の人件費が予算の半分近くを占めているので、会計報告はまるで大戦末期の国みたいな有り様。おかげ様で当主なのに私は超質素な生活をしている。そこら辺の豪商の方が多分裕福だろう。

 

 河越の予算は大体現代円で百五十億円ほど。貫高では一万二千五百、石高では二十五万石ほどである。史実での私の支配領域の石高はそこまで高くなかったので灌漑整備や農地開拓はかなりの効果を出している。前に見た松田家の収支では私の収支の1.25倍ほどあった。なお、当主直轄地は私の収支の三倍以上は確実にある。農法の改変も良い具合に作用していた。これが河越領のみならず北条家全体で施行されているので、石高は史実の数倍は固いだろう。ともあれ、精強な軍はこの凄まじい出費に支えられていた。

 

「だが……あの戦いの最中、百九十六の我が同士がその命を落とした。私はそれを悼む。彼らの冥福と、来世の幸福をここで祈らせてもらいたい」 

 

 黙とうする。これはパフォーマンスではない、本心からの哀悼の意であった。彼らの死を無駄にはしない。その意志で我々は戦わなくてはならないのだ。目を開き、再び軍に向き合う。

 

「私は懸命に戦った彼らを決して忘れない!それは皆も同じである。私は私の力では何も為せない。皆がいてこそ、初めて私は戦場に立てるのである。即ち、世に響く我が武功、我が功名はそれ即ち皆の功名に同じである!私はここに誓う。必ずあの偽神を討ち果たし、散っていった勇壮なる坂東武者たちの墓前にヤツの血を供えるまで決してあきらめる事は無いと。皆と共に同じ釜の飯を食べた者の仇を、皆も取りたいのではないか!?私は例え一人であろうとも、これを為さん!我も続かんと思う者は、己の武器を掲げて欲しい!」

 

 或る者は剣を、ある者は槍を。多くの将兵が次々に己が得物を天に掲げた。ぐるりと見渡せば、銀色の刃の海である。

 

「忠節感謝!義心見事!その猛々しい心と仇討に燃える魂は、まさに坂東武者である。例え生まれが農民であろうと、商人であろうと、名もなき氏素性知れぬ者であろうと私は皆の過去を知らない。私が知るのは、今、眼前に佇む二千の坂東武者のみである!古、源平の昔にも負けぬ誉れ高く勇敢なる武者のみである!勇壮なる強者共よ、我らの名、千年の後に語り継ごうぞ!」

 

「「「「応ッ!応ッ!応ーッ!」」」」

 

 軍勢が一斉に大地を揺らす声で呼応した。闘志を燃やし、戦意を滾らせている。日本という国は、好戦的な民族性である。平和主義に見えるのは戦後の七十年ばかりだけ。それ以外は基本けんかっ早いしバーサーカーな面もある。戦国では特にそういう気風があった。だがバーサーカーでも上手くまとめれば相当に強力な戦力となる。そのある種の完成形に近い軍がここにはいた。

 

 負傷兵は河越に戻し教官として働かせればいい。在郷軍人会のようなものだ。余らせておくほど当家に余裕はないのだ。

 

「まだ戦は続く。長丁場になるやもしれぬ。私も皆と同じ飯を食べ、同じ夜露に濡れよう。私は皆の忠節と誉れある魂を信じる。それ故皆も私を信じて付いて参れ!」

 

「「「「応ッ!」」」」

 

 金での繋がりであったとしても大義名分を与える事は大事だ。信じているや忠節という言葉も欠かせない。人は、金だけであると公言するのをあまり好まない。なるべく精神的で、大義名分に則ったものを好む。それで動いている自分は正しく、正義の側にあるという感情を抱けるからだ。だからそれを刺激するように煽る。ナショナリズムを高揚すべく、自軍の強さを強調する。ナチスは最悪の組織の一つであったが、こういうところでは役立つものを残していった。非常に業腹だが、あのちょび髭のやり口は効果的なのである。

 

 ともあれ、士気は高い。これで飯がしっかりしていれば士気は維持できるだろう。後は調略関連だけである。意気軒昂としている軍勢の前から去る。いつまでも居ては却って逆効果だ。後は下士官や各将がやってくれるだろう。これからは黒い場面の始まりである。

 

「段蔵、捕虜の準備は?」

 

 陰からヌッと彼女は現れる。戦場で捕まえた将兵を縛って捕虜にしているのである。陸戦条約などないので、この頃の捕虜の扱いは各軍の裁量に任されていた。売ることも出来るし、敵軍に金と引き換えに返却することも出来る。もちろん、尋問することも。やはり兜首と言われる騎乗クラスは情報面では色々持っている可能性がある。捕まえられたのは僥倖だった。

 

「既に完了しております」

 

「よろしい。では、始めるとしよう。案内してくれ」

 

「はっ!」

 

 これから越軍に不和を巻き起こす調略を始めるのである。

 

 越軍の将兵の数名は討ち取られずに捕縛され、拘束されている。尋問を担当しているのは忍び衆。そちらにも長けている集団だ。だが、欲しいのは情報ではない。無論あるに越した事は無いが、彼らの存在そのものが不和を巻き起こすのに必要な物であった。

 

 布をかぶせられた敵の将兵が水をかけられている。これも古くからある尋問、もっと言えば拷問用の道具だ。まずはここで最初にきつい尋問を行う。暴行も許可されている。

 

「なにをしておるか!」

 

「はっ!ただいまこの者どもから情報を吐かせようと……」

 

「愚か者、すぐに布を取れ。彼らは我らと堂々と戦いし武辺者なるぞ。捕えられる恥辱に負けず、再び忠孝を尽くさんと生きようとしている。この志を汚すこと許されぬ。速攻縄を緩め、布をはずせ!」

 

「も、申し訳ございませぬ……」

 

 尋問者が布を外す。疲れ切った顔が並んだ。兵は何でこんな目に……という顔をしている。しかし一緒に将官クラスが捕まっているので下手にしゃべると後が怖い。この時代、捕まえた兵は敵軍に売る事もある。それを期待しているのだろうが、その時に何か話したのが伝わると殺されかねない。なので黙っているのだろうが、本音は早く帰りたい一心だろう。一方の武将クラスは忠義からか誇りからかは知らないが、拷問にも屈さないという顔をしている。

 

「部下が済まないことをした。私が一条土佐守である。その方らは越軍に返還する心づもりではあるが、交渉をせねばならない。見張りを置き監視をするが許されよ」

 

 返事はない。露骨に唾を吐き捨てる者もいる。だが、ここでキレてはいけない。

 

「名と家中を述べてはくれぬか。何処の誰か分からねば、交渉も出来ぬ」

 

 不服そうにだが、名前とどこの家中かが述べられていく。その中で狙い通り大熊家の将がいた。

 

「相分かった。交渉がいつ終わるかは分からぬが、故郷へは帰れるよう取り計らう」

 

 返事の無い捕虜を無視して背を向け、陣を去る。その後、先ほど私が叱った尋問官と話をする。無論、先ほどのは示し合わせた演技だ。これから交代で演技をする。忍びでもある尋問官は食事に独自の薬を混ぜつつ、私に見えないように暴行を働く。その際にチラチラ偽情報を流す。ところどころ真実を混ぜるのもポイントだ。

 

 それと入れ替わるように私がやって来て、優しく対応する。相手の望んでいることを言うのは得意だ。これは俗に言う『良い警官・悪い警官』を狙ったものだ。「悪い警官」は対象者に対し、粗暴な行動や侮辱を攻撃的に行う。そして対象者との間に反感を作り上げる。反対に、「良い警官」は対象者に対し支援や理解を示すように見せかける。そして対象者への共感を演出する。対象者は「良い警官」への信頼感や「悪い警官」への恐怖から、「良い警官」と協力関係が結べるのではないかと思い込むという寸法だ。飴と鞭、北風と太陽と言える。

 

 この頃は当然そんな技術は確立してない。なので武将であっても知らないはずだ。更に、捕虜は色々な家中の者がいる。尋問官にはこれらに対する接し方を変えさせ、特定の家中を優遇する。そうすれば、他の者はその家と我々との繋がりを疑い始める。そこに粗暴でやや思慮が足りない人間を演じている尋問官が適当な情報を言ってしまうように見せる。

 

 最終的に彼らは解放するが、互いに疑心暗鬼に陥るだろう。それをそれぞれのを主に報告するはずだ。そこで疑念が生じる。それと同時に敵陣中で噂を流す。同時に大熊朝秀などの川中島出兵反対派に調略を送る。大熊朝秀が現在の体制と上手く行っていないのはすでに掴んでいる。彼がノイローゼ気味になっていることも。更には補給隊が武田によって脅かされるのも効いてくるだろう。誰かがそのルートを教えているのではないか、という風に。当然そういう噂もばらまく。十分にやる価値のある事であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 兼音との一騎討ちを辛くも逃れた景虎は、横山城へと帰還していた。その彼女を副将で一門衆筆頭の長尾政景。戦略戦術を補佐する、軍師の宇佐美定満。諜報と補給を担当する、宰相の直江実綱。戦場で景虎にとってもっとも信頼のおける三人の男が――いざ戦場を離れると政景の動きはとたんに怪しくなるが――景虎を出迎えた。

 

「フン。相変わらず無茶をやる。日の光に当たって疲れているだろう。少なくとも善光寺への夜襲はない。休め」

 

 近頃の政景はどうも気持ちが悪い、と景虎はいぶかしがった。最初の子を病で亡くしてすぐに、二人目の子を綾との間に授かった。それ以来、政景は景虎に対して直接牙を剥いてくる機会が少なくなった気がする。わが子の生死を経験しているうちに人格から角が取れて「景虎様の義兄」になりきられたのだ、と褒める国人衆も増えた。そのような簡単な男ではないことは、景虎も承知している。

 

 ただ……川中島で武田晴信と戦うことに、政景が「関東遠征派」だからという以上の思いで反対していることは確かだった。

 

「軒猿を用いて武田軍の陣容をある程度は調べたが、突撃するしか能がない男武者揃ぞろいの越軍とは違って、実に多才だぜ。村上の旦那が武田の古参武将を片っ端から討ち取ってきたはずなのに、かえって世代交代に成功しているようだ。欠点がねえ」

 

 と、「武田武将一覧」なる巻物を景虎に手渡してきた。天下の奇才とも言える「星を見る軍師」にして「山の民」に通じた築城の達人・山本勘助。その山本勘助と肝胆相照らす「山の民」出身の「真田忍び」頭領・真田幸隆。晴信以上の器量を持つと呼ばれる完璧なまでの副将・武田信繁。晴信と瓜二つの影武者、武田信廉。越後の武将によくいる「突撃一辺倒の猛将」だが無性に強い、武田義信。その義信と双璧、武田最強の攻撃隊長、「赤備え」の飯富虎昌。城に籠もって防衛戦をやれば驚異の粘りを誇る逃げ弾正こと春日弾正。「赤備え」と連動し、重騎馬隊を率いる馬場信房。神出鬼没、何時の間にか戦場の要所に出現する謎の姫武将・工藤昌秀。猿飛の術を用いる猿飛佐助、爆破専門の正体不明の忍び「地雷也」たち――真田が誇る忍び衆、通称「真田十勇士」。どんな命令もそつなくこなせる一門筆頭、穴山信君。将に将たると目される飯富三郎兵衛。他にも多士済々である。

 

「景虎。武田家に人材が次から次へと湧いてくるのは、人材の身分素性を問わない晴信の人物鑑定眼の賜物でもあるが、どうも軍師・山本勘助の教育力が高いためらしいな。しかも勘助は、信濃近辺の『山の民』にも顔が利く。真田が仇敵の武田についたのも、勘助の尽力があってこそらしい」

 

「……若い姫武将が多いな。さぞ、誠心誠意晴信に仕えてくれることだろう。隙あらば私を嫁にしようと暴れはじめる越後の国人たちとは随分違う……越後の武者は野戦となると強いが、皆我が強く、私を嫁候補と見ている者が多く、こうして戦でもしていなければ統制がとれない。羨ましいな」

 

 フン。それは俺のことか?と政景が景虎の杯に酒を注ぎながら、鼻先で笑った。

 

「大勢だ。関東の城を欲しがっている北条、軍費が惜しいと泣き言を繰り返す大熊、私に忠誠は誓うが国人としての独立性にこだわる下越の揚北衆……その上、それらの諸将が関東遠征派と川中島遠征派、非戦派に分かれている。越後の武家や忍びが全て男ばかりなのがよくない」

 

 小笠原長時に堺で襲われて以来、人間の性善説を信じる景虎も流石に自分の貞操を本気で心配するようになっている。信濃守護の座よりも私が欲しかったのかと思うと、人の業というものの重さ、熱さに、恐ろしくもなる。高野山で必死に修行を積んだのも、毘沙門天の化身として人の世に生きることに倦うみ疲れてきたからかもしれない。少なくとも小笠原長時は、景虎を毘沙門天だとは思っていなかった。だからこそ、襲えたのだ。戦場で毘沙門天の真言マントラを武将から足軽に至るまで唱えさせるという異様な「軍法」を景虎が閃めいたのも、戦での統率力を高めるためというよりも、あるいは、自分の身を守るためだったのかもしれない――。

 

「直江の旦那が、次世代の宰相候補を育てている。姫武将だぜ、景虎。あとしばらくの辛抱だ、元気を出せ」

 

「なにを言いだす、宇佐美?宇佐美も直江も政景もまだ若いし、元気ではないか。越後の武将の世代交代など、私が生きているうちにはないだろう。身体の弱い私のほうがお前たちより先に天に召される。むしろ、私が唐突に死んだあとの越後をどうするかをお前たちには考えておいてほしい」

 

 そいつはねえな、と宇佐美が「牛に引かれて善光寺参り兎の縫いぐるみ」を景虎の膝の上に載せながら笑っていた。

 

「俺も直江も見た目より案外歳食ってるぜ。気が若いだけさ。政景の旦那は見た目のとおり、殺しても死なない男だしな」

 

「だが宇佐美。武将はたいてい、戦場で命を落とす。しかしながら私が率いる越軍では、名のある武将を討ち死にさせることはない。それほどの覚悟を強いる決戦では、私自身が必ず先頭に立つからだ。手駒のように武将を戦場で死なせていく晴信とは違う」

 

「お嬢様。善光寺の秘仏を旭山城に持ち去られたことで、善光寺平の民がみな動揺しています。晴信は、可能ならば秘仏も戸隠の『石』もみな甲斐へと持ち去ってしまうつもりです。移動が不可能ならいっそ破壊しようとしている模様です。前者が最善手で、善光寺平の民心を押さえられます。後者は悪手ですが、民はみな心のよりどころを失い、そのうちのおよそ半分は武田方に奔ります」

 

 直江が、話を軍議へと引き戻した。

 

「それよりもお前が育成している姫武将はどんな娘だ、直江。嫌みばかり言って泣かせてはいないだろうな?」

 

「ある程度成長しましたらお嬢様の小姓としておつけしますよ。まだまだ、私はこんなところへきとうはなかった!と騒ぎたてる気位の高すぎる娘です。たった一人ですのに、とてつもなく手間がかかります。大勢の姫武将候補を育てている宇佐美様の気が知れません。独り身に戻りたいですよ……って、そんな話をしている場合ではないのです!」

 

 宇佐美のもとで育てても、釣りばかり教えられるからな……厳しくても直江のほうが教育者向きだろう、と景虎はうなずいていた。姫武将ばかりの小姓たちで本陣を固めれば、安心できるかもしれない。が、戦場に小姓たちを連れ出せば、さしもの景虎といえども彼女たち全員の命を守りきれるとは言いきれない。まして相手が戦巧者の武田晴信であれば、危険すぎる。どうにも、踏ん切りがつかなかった。

 

 しかも、一条兼音は容赦なく包囲殲滅を実行してくる。彼女は知らないが、カンネーの戦いに脳を焼かれている兼音は個人的に包囲を好む傾向にあった。本人すら気付いていないのであるが。

 

「現状の我々は、旭山城と犀川南岸に挟撃されております。お嬢様が全軍を率いて川を渡って決戦を挑めば、善光寺を奪われます。横山城をこのまま守らせながら半数の兵のみで川を渡れば、鉄壁の武田陣という罠に飛び込むこととなり、負けるとは言いませんが越軍もまた大損害を受けましょう。一条土佐守もなにをしでかすかわかりません。越軍の将兵を犠牲にしたくないというのであれば、どうにもなりません。もっとも、犠牲を払ってでも晴信と決戦するというのであれば、兵を二手に割って片方を渡河させることもできますが」

 

「……直江。それでは私は慈悲を捨てて晴信と同じ戦の鬼になることになる。私が死ぬのはいいが、柿崎、村上、北条たち渡河組のうち、多くの将兵が討ち死にすることに。それでは『義戦』にはならない」

 

「お嬢様が死ぬのが最悪の結末ですよ。家臣など、育成すれば出てきます。お嬢様には、代わりなどおりません」

 

「政景と姉上のお子がいる。私が死ねば、あのお子に越後守護の座を譲ればいいではないか」

 

「まだ幼すぎますよ。そもそもお嬢様が討ち死になどすれば、封印を解かれたかのように政景殿が荒れ狂います。越後も関東も信濃も、死屍累々となりましょう」

 

 そうなるだろうな、フン、と政景が杯に満たされた酒を飲み干しながら吐き捨てた。

 

「景虎の武がなくば、俺は本性を剥き出しにして、長尾為景の下克上の流儀を取ることになる。しかも、まだガキにすぎない俺の子が守護となれば、俺が越後の王だ。そうなれば、宇佐美と直江ごときに俺は止められん」

 

「では、私はまだまだ戦では死ねぬな。弱肉強食で越後が内紛に明け暮れていた父上の時代に逆戻りすれば、越後は晴信と北条氏康に滅ぼされてしまう……また、戦での縛りが増えた……宇佐美。旭山城を封じる策はないか。私は、城攻めは得意ではない……あと三日もすれば、月のものが来て寝込むことになる」

 

 策は練った、と宇佐美定満が珍しく軍師の表情を浮かべて、北信濃の地図を机の上に広げていた。

 

「旭山城は、戸隠山と善光寺の中間に位置し、両者を牽制し、機会を掴めばいずれをも奪えるという、武田方にすれば絶好の位置にある。ここを奪われたことが、今回の苦戦の原因だ。しかも春日弾正の守りは堅い。全軍で旭山城を攻めればいずれは落とせるだろうが、その隙すきに川の南岸の武田本隊がいっせいに渡河して善光寺へと押し寄せてくる――そこで」

 

「そこで?」

 

「こちらも山岳地帯に『付け城』を建てて、旭山城を封じる。ここだ。大峰城だ。これで、双方が迂闊に動けなくなって、睨み合いになる。もともとここには、簡素な要塞がすでにある。城普請を直江の旦那に任せれば、短期間で整備可能だ。むろん真田の忍びが邪魔をしようとするだろうが、そちらは軒猿衆たちを動かして封殺すればいい。連中が持ち去った秘仏も、こうなりゃあ山から迂闊に持ち出せねえ」

 

「おお。軍師らしい進言だな、宇佐美。私はちょっと感激している」

 

「長丁場になるが、耐えられるか?お前の体力が心配だ、景虎」

 

「私が倒れている間は、お前たち三人で軍を切り回してくれればいい。私不在の折に決戦がはじまればまずいが……持久戦になるのならば、問題なかろう。それに晴信は、私が不在の間に決戦を挑んではこない。それだけは、間違いない。あの女は勝つためならば手段を選ばないが、私のいない越軍に勝ってもそれは勝ちではないという信念だけは揺るがない」

 

 そしてそれは私も同じことだ、と景虎はうなずいていた。

 

「わたくしとしても、問題はありません。軍神・毘沙門天らしくもない気長な戦となりますが、武田晴信が徹底的に速戦を避ける戦略を採ってくる以上、付け城戦術を採ること、やむを得ますまい」

 

「慎重な春日弾正は動かぬだろう。晴信があやつを旭山城へ入れたのは、牽制こそが目的だからよ。それにもしも春日が動いても、この俺がいる。景虎が寝込んでいる間も、旭山城の兵だけが相手ならば、守るのは容易い」

 

「一条土佐守が心配ですが……」

 

「奴は動けないだろう。あくまで今回の戦の主体は武田だ。援軍の将はその意向には逆らえないだろう」

 

 景虎の言はその通りであるため、両名は頷いて城普請に入った。更に長丁場を予想し、大熊朝秀に更なる追加兵糧を発注する。無い袖は振れないのだと抗議したがそこを何とかと押し切られ、撤退を希求した大熊の諫言は一蹴される。悔し涙を流しながら、彼は補給構築に奔走するのだった。

 

 

 

 

 

 さて、そんな中実際に兼音の計画通り尋問は実行された。尋問官は厳しく当たり、時には飯を抜いたり殴る蹴るの暴行を与えた。だが、兼音が来るときにはそれを止める。そこで捕虜たちは考えた。自分たちが兼音と親しくなれれば尋問官が兼音の意に反して色々していることを訴えられるのではないかと。これにより少しずつ兼音に対して礼儀正しく振舞うようになっていった。同時に兼音も彼らの話を聞く。聞くのは情報などではなく越後の故郷の話やかつての武功の話。現在とは何の関係もない為景時代の話などであった。

 

 尋問官は思慮の足らない悪役を演じている為、時々ぽろっと情報を漏らす。例えば、暴行を加える際も大熊家の者や鮎川家の者にはしない。何故彼らだけされないのだ……と思っている他家の将兵の恨めし気な視線を理解しつつ、尋問官は大熊家の者などに向かって「お前たちはアレだからな、飯抜きだけで勘弁してやる」などと意味深な事を言って唾を吐き捨てる。自然と裏切りがあるのではないか、という疑念が沸き起こった。

 

 当然、大熊家の者や鮎川家の者は否定し、反発する。共にこの難局を乗り越えないといけないのにどうして仲間割れさせようという一条土佐守の策謀に引っかかるのかと。しかしその物言いがまた反発を生み、どんどんと不和が広まっていった。その辺は尋問官のセンスが光っている。更に言えば、将兵の中には尋問官とは別の忍びが数名混ざっていた。彼らは分裂させ団結を妨げるようなことを言い、空気を悪くする。内外からの心理戦に捕虜は翻弄されていた。

 

 運の悪いことに、交渉も難航していたのである。それを逆手に取り、尋問官は「お前ら、見捨てられたみたいだなぁ」とケラケラ笑い、絶望感を煽る。事実、待てど暮らせど解放される兆しはない。兼音も難航する交渉に嫌気がさしていたので、一計を案じた。ある日の夜、敢えて警備の兵を遠ざけたのである。尋問官もいないこの状況で脱出できる。そう考えた捕虜たちは脱出を開始した。

 

 だが、既に半分くらい懐柔されている者は大人しく待っていた方が良いという。そう言うのは大熊家の者や鮎川家の者。兼音が特に積極的に交流し、捕虜の中でも良い立場を得ている者だった。それらを置き捨て、強硬派は脱出。兼音の計略通りに越軍へと帰還を果たした。

 

 帰還した彼らは臆病な大熊・鮎川らの者とは違い一条隊に混乱を起こし脱出した。敵と戦い討ち死にするも考えたが、この情報を持ち帰らねばと思ったと盛んに主張する。聞けば、大熊朝秀などが一条兼音と内通している疑いありという。更に、真田と協力した兼音は越軍の陣内に同様の噂をばらまいた。無論、大熊だけでなく他の将もであるが。しかし、先ほど撤退を求めたことと重なり、大熊への疑いは急速に濃くなっていた。

 

 生理現象によってかなり体調の悪い景虎ではあったが、一応話は聞かねばならない。病床の中のまま、大熊を呼び出した。

 

「何用でございましょうか」

 

「大熊、私は先に言っておくがそうでは無いと思っている。しかし、軍内でとある噂が出回っている。お前が、一条土佐守と内通しているのではないかという噂だ」

 

「な!そのような事、事実無根の嘘八百でございます!私はこうしてお味方のために奔走しているではありませんか!内通しているなど、そのようなこと努々お信じなさりませぬよう、お願い申し上げます!」

 

「疑ってはいない。だが、形式的に話をした。その上で事実ではないと確信したという体にしなくてはいけない。理解して欲しい」

 

「……承知いたしました」

 

「お前の隊の虜囚交換も早めるように約束しよう。せめてもの詫びだ」

 

「忝いご配慮にございます……」

 

 頭を下げつつ、大熊は怒りと苦しみでぐちゃぐちゃであった。自分だけがどうしてこんな目に合わないといけないのか。どうして景虎は彼はそんな事はしないと一蹴して宣言してくれないのか。形式的に呼び出したと言っているが、そんなの建前で本当は自分を疑っているのではないか。そんな思いが内心を渦巻く。

 

 景虎はその後、大熊と話をして内通などしていないと確証を得たと宣言したものの、何しろ病身なので表には出れない。それを逆手に取られ、噂話はどんどんと拡大していった。思えば、先の箕輪でも大熊隊はほぼ無傷で撤退している。それもまずかった。

 

 そしてこの頃から荷駄隊が襲われるようになる。一応仕事は真面目にこなしている飯富虎昌の神速部隊が真田の先導を得て神出鬼没で出現するのだ。山中の戦闘やゲリラ戦ともなれば真田は強い。矢沢頼綱なども意気揚々と赤備えを先導していた。これにより、川沿いのルートはほぼ使用不可能になる。それによってルートを山道一本に絞ったのだが、それを見越した勘助は真田隊を移動。千国街道に陣取った軍と合流させ、今度はそちらのルートも攻撃し始めた。

 

 この頃兼音から調略の概要を聞かされた勘助はそれならばと時々襲わないようにし始めた。すると、荷駄隊のルートを敵軍に教えている者がいて、その情報がある時は襲われるのではないか。という言説が出始める。これも当然ばらまかれた噂であるが、どんどんと拡大していき、これまでの大熊内通の噂と合わさって、大熊が敵軍に兵糧隊のルートを教えているのではないかという話になっていく。

 

 噂はどんどんと拡大していくものだ。形を変え、内容を変え、伝播していく。止めようと思っても止められるものではない。長期の滞陣で倦んできている陣中にはこれしか楽しみが無かった。川向うでは兼音や穴山隊が酒を飲んでいるのがわかる。時々煽られる。しかし突撃も出来ない。鬱憤の溜まった陣中に、噂は唯一の清涼剤だったのだ。人は、敵がいないと団結できないのである。そして、その敵はなにも本当の敵軍だけとは限らなかった――――。

 

 

 

 

 大熊朝秀は病んでいた。噂は止まらない。朋輩にも冷たい目で見られ始め、諸将の目は冷たい。彼だけでなく、彼の隊が全てそういう目で見られ始めていた。必死に否定しても、それがかえって怪しいとみられる。頭脳派の少ない越軍に、兼音と勘助のタッグを組んだ心理戦は痛いほど効力を発揮していた。

 

 どうしてだ、と陣中で憤る。地面を踏みつけ、机を叩いた。やるせない怒りが心の中に湧いてくる。感謝されたいと思っている訳ではなかった。ただ、評価して欲しかった。自分の行いが必要なのだと認められたかった。軍の先頭で戦うのは勇敢だろう。それに褒賞を出すのは当然だ。しかし、その飯を支えている自分にも同じくらいの重要な役割があるのではないか。常々そう思っている。

 

 だが実際には評されるのはいつも武闘派ばかり。感謝の言葉もあまりないどころか対して評価もされない。領土を奪わぬが故に恩賞もなく、大熊家の財政は大赤字であった。けれど補填もない。保証もない。損害以外の何もない。どうしてこんな目に、と嘆くのも当然であった。

 

 先々代、為景のころはまだよかった。為景は驍将ではあったが、補給の大切さは理解していた。勲功一等とまでは言わないものの、戦が終われば必ず足を運び、礼を言われたものだった。越後随一の驍将も自分に頭を下げねば戦えない。それが密かな彼の自尊心であった。にも拘らずだ。これまで以上にこき使われ、これまで以上に搾り取られている。こんな事があって良いのか。そう思わずにはいられない。

 

 しかも、先の主である上杉定実は直江によって暗殺され、遺言は捏造され、それによって景虎は守護になれた、という風説も存在している。多くはそれを鼻で笑ったが、追い詰められている朝秀は今更ながらそれが真実に聞こえてきた。もしかしたら、本当にそうなのか。兼音の嫌らしいところは景虎ではなくその周囲を攻撃しているところであった。日頃から直江と朝秀は折り合いが悪い。元春日山派の直江と、元守護派の彼なので当然でもあるのだが。加えて、領地の問題では春日山派に有利な判決が出ることが多い。

 

 様々な不満や彼を追い詰める原因によって、朝秀は半分ノイローゼのようなうつ病のような状態になってた。ストレスによって胃が荒れ最近はよく眠れないことも多い。酒を飲んでも楽しめず、狂いそうであった。そんなある日の深夜、気配を感じ飛び起きる。これでも彼は剣の達人。文官、官僚と舐められているが、越後武士に恥じぬ使い手であった。

 

「何奴っ!」

 

「そう驚かれぬように」

 

 眼前に現れたのは朝秀も知った顔である。彼は信濃に縁がある。故に、その名も顔を知っていた。

 

「鳶加藤……!敵の忍びが何用か」

 

「殺気立たれるな。これをお持ちした次第」

 

 懐から取り出されたのは一通の書状。暫く睨んでいたが、読まない事には始まらない。彼は書状を開いた。

 

『こうして書状を差し上げるのは初めてと存ずる。現在貴軍が我らの連合に対し一歩も退かぬ戦いぶりを見せておられるのはひとえにその糧食の確かなることに起因すると察し申し上げる。それを差配する大熊殿の仕事ぶり、見事の一言。されど風の噂でその扱いよろしからずと聞き、愕然としておるところでありました。貴殿のような能吏を重んずることなく、越軍で重用されるは反復常無き上に色に狂う国衆ども。ほとほと呆れかえっておりまする。されどそのような者を支え、忠義を尽くす大熊殿は見事。その心意気に深く感じ入り、敵将からの賛美などいらぬでしょうが、せめて我が意をお伝えせんとこのような文をしたためた次第にあります。 一条土佐守兼音』

 

 と書かれている。これは寝返り云々を促すものではない。だが、朝秀もバカではない。一連の噂は大体一条土佐守と山本勘助の計略であるとは分かっている。その一環でこれが送られてきたことも。だが、今自分が苦境に立たされている原因からの称賛であったとしても彼からすれば嬉しいモノであった。

 

 先ごろ交渉が終わり、やっと自軍の捕虜が帰ってきた。しかし脱出した者たちが広めた言説によって、彼らは土佐守に媚を売り生き残った臆病者と罵られている。朝秀は自分の部下を必死に庇ったが、その言葉は届く気配もない。元々火種はあったのだ。それに土佐守と山本勘助が火をつけたに過ぎない。いつかきっと、彼らがやらずとも火は燃えていただろうと諦め半分に朝秀は思っている。

 

 だが、そう簡単に寝返る訳にはいかない。寝返りたい気持ちは正直なところかなりあった。だが、配下もいる。家族もいる。先祖代々の土地を手放すのにはそれ相応の勇気がいる。武士が逃げるとはそう言う事なのだ。境界の勢力ならばいい。だが、そうでない朝秀は簡単には寝返れないのだ。それこそ、危険を冒すだけの理由が無ければ。

 

「これは寝返りを誘う魂胆であろう。だが、そうはいかない。こちらにも誇りはある。例え臆病卑怯の誹りを受け、あらぬ噂を立てられようとも某はここに残る」

 

「そうですか。ですが、現在本陣では貴殿の処遇を巡って処分案も出ているようですが」

 

「……何だと?」

 

「大熊朝秀に叛意あり、と。讒言する者もいるのでしょう。貴殿の主は、どこまで貴殿を信じてくれますかな?」

 

「……」

 

 病身で体調が悪い景虎の判断能力には朝秀も疑問があった。下世話な話になるが、生理現象は女性とは切っても切れないものである。当然重い者もいれば、軽い者もいる。栄養状態などによっても左右されるようではあるが、景虎は特にこれが重かった。男性には本質的なところでは理解できないものであるが、重い生理というのは耐えがたいものであるとよく言われている。その最中は体調もかなり悪化し、判断能力も下がる。感情的になりやすいという事例はよく聞く話だ。

 

「それとこちらを」

 

 朝秀にダメ押しをするための書状である。

 

「これは?」

 

「小田原からでございます」

 

 小田原。それの意味するところは一つしかない。関東の女王からの書状であるという事であった。

 

『大熊備前守殿。貴殿の活躍は多く耳に入るところであります。その才を活かし、多くの戦で当代のみならず先代、先々代の長尾家並びに越後上杉家の戦を支えてきたと。にも拘らず、貴殿の今置かれている立場はその功績に見合ったものではないのは誰の目を以てしても明らか。私はその才がそれを理解しない愚か者によって不当に陥れられ、苦境に置かれているのを見過ごすことは出来ません。単刀直入に言えば、小田原へ来てはいただけないものでしょうか。それを伝えるべく、私はこうして自ら筆をとりました。

 

 もし、貴殿のその才を私のために使ってくれるとあれば、私は喜んで貴殿を迎え入れ、我が幕閣に参入させるでしょう。我が軍は補給を何より重んじ、民や兵の餓えるを憂い、略奪を憎みます。聞けば、貴殿は越軍の出兵を止めるよう幾度となく諫言した、と。民の負担を考え、それを慈しみ、己が疎まれるを覚悟で民生を成すべく奮闘する姿に、感動を禁じ得ないのです。我が筆頭家老・大道寺盛昌は先の箕輪での戦いで大きな勲功を上げました。それは武功ではなく、兵糧の運送によってです。我が配下・一条土佐守の筆頭家老も補給と財務をその任としているのです。貴殿の能力は、必ずや当家に必要であり、当家でこそ活かせるものであると確信しています。

 

 我が軍門へ下ってくれるというのであれば、春日山の人質は風魔全軍を挙げて救出しましょう。封土は越後の二倍出しましょう。当家は外様であろうと、城主にも、家老にもなれるのです。どうか、私と共に関東安寧の夢を見て下さいませんか? 鎌倉府執権・北条左京大夫氏康』

 

 直筆の書状で寝返りの打診をされている。明らかに自分を買ってくれている。北条は約束を破らないだろう。現に降伏した関東の国衆は皆その封土を安堵されている。それに、これで約束を破れば今度から寝返ってくれる者がいなくなってしまう。関東に行けば。関東に行けば約束通りの好待遇を受けられる。

 

 東国に名の知れた名将たちが己の朋輩だ。大道寺、松田、遠山、多米、そして一条。更には多くの優秀な一門衆。これらと轡を並べ、大軍の兵糧を差配する自分を朝秀は脳内に描いた。蝋燭の炎が揺れている。朝秀の手は微かに震えていた。その目には、先ほどまでには無かった暗い光が宿っている。

 

 朝秀の様子を見て、書状を運んだ段蔵は目を細める。その口角は僅かに上がっていた。




次回は第二次川中島の戦い・後です。第二次川中島の戦い・終まで行くかもわかりませんが、そうならないと良いなぁ。今年中に信奈編まで書き終えたいと個人的には思っております!


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第104話 第二次川中島の戦い・後


【挿絵表示】


めちゃんこ長くなっちゃいました……。

マシュマロ→https://marshmallow-qa.com/tanuu90004861
感想欄では聞けないけどメッセージ送るほどでも……みたいな質問あればどうぞ。他にも作品の事なら割と何でも答えるつもりです。



 勘助の策は一定数の成果を収めていた。兵糧輸送に手間取っている長尾軍の士気は低い。どんなに法悦があろうとも、飯が無ければ人は生きられないのだ。しかもその肝心の兵糧輸送役が兼音の調略によって機能不全に陥っている。今この時もすさまじい揺さぶりが大熊朝秀に降りかかっていた。

 

 千国街道からの威圧やいつ動くか分からない蘆名も越後勢にとっては悩みの種だ。しかも加えて言うのであれば上野の北条軍が援護射撃として長野領に侵攻しないとも限らない。もうすぐ長野家との停戦協定は切れるタイミングだった。 

 

 確かに彼らの行動は越軍を揺さぶっている。にも拘らず、敵軍に目立った動きは見られない。付け城を築こうとしていることくらいであった。この城の建造を阻むことは難しく、見ているしかできなかったが。というのも長尾軍が滞陣している付近に城を作っているのに加え、軒猿はほぼ全戦力をそこに投入して妨害を防いでいる。

 

 尤も、その軒猿全投入の結果大熊朝秀などに関する調略に対応できなくなっていたのだが。越軍が退く気配を見せないことに関して、晴信と次郎信繁の姉妹、山本勘助、真田幸隆が急遽軍議を開いた。晴信は元より持久戦を覚悟して出陣した。が、相手の越軍がさらなる持久戦に持ちこもうとしていることに「これでは千日手だ。甲越軍の対陣は百日を越えるぞ。景虎の体力が持たないのではないか」と少なからず動揺している。

 

 信繁は、敵の総大将の身体を案じている姉にもどかしさを覚えながらも、武田の副将として事態を打開する道を考え続けていた。むしろ晴信にこのような人間の少女らしい感情があるからこそ、妹として姉上を尊敬できるし、姉上を補佐したいと心から願えるのだ、と信繁は気づきはじめている。

 

 景虎は、姉上をなにか誤解している。姉上は戦に勝つために手段を選ばない「甲斐の虎」だが、長尾為景や我らが父上・武田信虎とは違う。姉上の戦には、個人としての欲望の範疇を超えた「理想」があり「目的」がある。父親を乗り越えたい、父が犯した暴虐の罪の数々を善政によって帳消しにしたいという想いがある。その想いは、景虎が背負っているものと同じなのだ。ただ、その「理想」へと至る道筋が、景虎とは異なるだけなのだ。

 

 どうしても、景虎に「正義は己だけではない。姉上にも姉上の正義があり、避けて通れぬ運命がある」ということを知らしめたかった。どうすれば知らしめることができるのだろうか。証明するためには、現実に結果を出すしかない。言葉をいくら重ねても無駄である。戦で景虎に勝てれば……と、晴信は信じている。が、本当に、勝てるのか。

 

 山本勘助が越軍を倒すために練った大包囲網作戦は、完璧なものだったはずだ。信繁も晴信もそう確信していた。が、越軍はその勘助が敷いた包囲網を次々と破ろうとしている。どんな策を用いても効果があるようには思えない。

 

「姉上。勘助。幸隆。旭山城を封じられてしまえば、武田軍は一歩も先に進めず、退くこともできなくなる…我らが撤退すれば、旭山城の二千の武田軍と春日弾正とを、捨て殺しにすることに。しかし川を越えれば、あの景虎を相手に正面からの問答無用の決戦となる。そうなれば、決着がどうなるにせよ、武田軍の将兵は凄まじい被害を」

 

 晴信と勘助とが人智を尽くして再編成し実戦で鍛え抜いた武田軍は、比類なく強くなった。これを打ち破るのには相当の数の軍が必要になるのは目に見えていた。もし武田が甲斐信濃の山中に引きこもれば、北条も今川も山また山の甲斐信濃の地形に苦戦し、補給線の維持が困難となり、結局は撤退するしかなくなる。だからこその「三国同盟」成立なのだ。北条・今川の両大国といえども、手を組んで晴信を倒そうとは考えない。そのような道を選択すれば、両家の悲願……関東平定も上洛も夢と終わってしまうからだ。武田は三国のうちでは圧倒的に国力に劣るが、甲斐信濃の地形とそして武田軍の異常な強さとが、その不利を補っていた。

 

 村上義清を乗り越えた時点で、武田晴信と山本勘助の主従は、天下をうかがう資格と能力とを得ていたはずだったのだ。ただ一人。長尾景虎という異形の天才さえ越後に生まれていなければ、今頃は勘助の初期戦略通りに武田こそが東国の覇者となり、上洛軍をも興せているはずだった。太郎義信と虎昌が引き裂かれることも……なかったはずだった。

 

「真田忍群と軒猿衆との全面決戦に出ればどうなるの、幸隆?」

 

 信繁の、苦渋の進言だった。

 

「残念ですが、戸隠・飯縄を戦場とすれば、向こうの方が有利ですわ。こちらの忍びが倒れても、あちらは新たな忍びを生みだすことができますもの。そもそもの数が違うのです。戸隠の連中は、戸隠の『石』を守護したいだけなのです。それ故に調略しても、諏訪家を問答無用で滅ぼした武田に降る可能性は薄く、厄介ですわ」

 

 武田方の橋頭堡・旭山城は、北の飯縄山・戸隠山、東西の葛山城と大峰城、南の善光寺・横山城の三カ所の拠点によって完全に結界を構築されて、ここに封じ込められてしまった。

 

「我らはこたび、景虎不在の隙に善光寺の背後の旭山城を奪い、景虎の動きを封じつつ諏訪から川を渡って善光寺へとまっすぐに北上する予定でしたが、その旭山城を宇佐美定満が構築した逆結界に封じられた今、川を渡る進路は用いることできませぬ。迂闊に渡河すれば、あの景虎が率いる越軍本隊と野戦で激突せねばならず……そうなれば、両軍ともに無数の犠牲が」

 

「さしもの真田も戸隠山への突入は難しいらしい。堂々巡りになったぞ、勘助。正面決戦では勝ち目が薄い。いかに敵軍の兵糧を断とうにも限界がある。川を越えずに北上し、景虎の背後へと回る新たな道を切り開く必要があるだろう」

 

「別働隊を送り込み、挟み撃ちとするのですな。真田の里と上田方面から善光寺平の東に出る山道を整備するのがよろしいでしょう。前回の戦いでは、はるばる上田まで越軍を釣りだして、南北に待ち構える我らと真田とでこれを挟撃するはずでした。この策は景虎に読まれました。ならば、武田の別働隊のほうが善光寺平を北上して善光寺に陣取る越軍の背後を奪えばよろしいのです」

 

「中入りの策か……が、諏訪の部隊はすでに参戦しているし、上田はあまりに遠すぎる」

 

「そこで上田から川中島へ入る東の玄関口にあたる海津に拠点を設けるのです。海津築城に成功すれば、諏訪と上田の二方面より兵を動かせますし、補給も楽となります。長期戦を戦い抜くなら、海津です――越軍から見れば、海津は西に流れる千曲川を天然の堀とし、三方に山々を抱えた自然の要塞。ここに、この勘助が全身全霊を込めた究極の防衛砦を構築すれば、川を渡らず善光寺平を北上できる『道』を確保できるというわけです」

 

「宇佐美定満が築かせている付け城はしょせん、旭山城を封じるための守りのための手。しかし海津城は――新たな攻めの一手だな、勘助」

 

「御意」

 

 だが、問題があった。景虎である。「神眼」を持っているとしか思えない景虎率いる越軍本隊が善光寺東に駐屯している限りは、いかなる動きも見破られて封じられてしまうということに、晴信と勘助はすぐに気づいた。海津での築城は、景虎がいる限りは不可能だった。景虎が戦場から退かない限り、善光寺平・川中島における大がかりな築城など、夢のまた夢だった。敵軍の目の前で大規模築城など狂気の沙汰でしかない。

 

 戦いは、完全に膠着状態に陥った。軍事的には大きな動きはない。補給隊を散発的に襲っても、敵軍は全く動く気配が無かった。五十日が過ぎ、百日が過ぎた。

 

 

 

 

 

 この間、そんな長尾軍内にも動きは存在していた。一条兼音並びに北条氏康から寝返りの打診を受けた大熊朝秀は、思いつめた表情で本陣を訪れている。彼にも心というものがある。できることならば、越後を捨てたくない。けれど、このままではどうしようもない。だからこそ心の中では裏切ることを決めている。

 

 しかし、もしここで撤退の具申を景虎が受け入れてくれたのなら。その時は寝返りの話を反故にしてでも仕えてみようと思っている。撤退を受け入れるというのは即ち朝秀の訴えを理解してくれたという事に他ならないからである。いわば、朝秀側から景虎に対する最後の試験のようなものであった。

 

 ダメだった時用に既に北条家に話はつけてある。一条兼音を介して小田原に急使が飛び、氏康から裁可を受けている。決意を示し次第、待機している風魔衆が全力で春日山にいる大熊一族を救出。郎党を護衛しつつ、上野まで退く。

 

 上田などを抑えている長尾政景は今川中島にいるため身動きが取れない。その隙を突いて峠を越え、沼田で回収されるという算段であった。沼田からは南下して船に乗り、小田原まで行くという行程になっている。ほぼ行動の準備を整えて、最後の望みをかけて本陣へ行った。

 

「景虎様。どうかお聞きください。我が軍の補給は最早限界でございます。武田の者共に襲われ、人足は更なる賃上げを要求しており、また越後の米もそろそろ限界でございます。赤字を何とかして商人に借りようにも、越後は最早信頼できぬと申す者ばかり。どうか、撤退を。義戦の志がいかに尊く、素晴らしいモノであろうとも、人は食無くして生きられないのでございます」

 

「……」

 

「この言、お聞き入れ頂けないというのでしたら、それがしは最早兵糧運送に責任を持つことは出来ませぬ。それ故、職を辞し兵を退かせて頂きます」

 

 宇佐美と直江は難しい顔をしている。宇佐美は付け城建築、直江は兵糧隊の安全確保に朝秀同様苦心していた為対応が後手に回ってしまっている。加えて直江は春日山派の首魁。旧守護派に味方しては家中のバランスが崩れてしまう恐れもある。政治的な対立と現実的な仕事量の関係で、朝秀の調略は防げなかった。

 

「大熊、ここを耐えれば光明は開ける。武田は国衆を力で抑えている。長期の滞陣ともなれば敵軍の中にも戦を倦み、返り忠をする者が現れるやもしれない」

 

「その前に我が軍が瓦解しますぞ!景虎様は、我らに死ねと仰せか!飢えて死ねと、そう仰せなのか!」

 

「大熊殿」

 

「黙れ!そもそも貴様ら二人がこの狂人を作りだした原因ではないか!貴様らが大人しくしておれば、まだ越後はマシだっただろうよ!」

 

「大熊の旦那、それはつまり政景の方がマシという事か?」

 

「政景殿は為景殿と似ておられる。傍若無人で己の武勇を頼む。されどどちらも飯が無ければ戦えぬことくらい理解しておったわ!為景殿は戦が終われば某に頭を下げた。戦が嫌なのではない。何の益も出せぬ戦が嫌なのだ。元来主とは、恩賞を以て家臣に奉公をさせるもの。鎌倉の昔よりそう決まっておる!それすらできぬ主に、最早仕える義理なし。某はここで失礼仕る!」

 

 兜を叩きつけ、朝秀は足早に立ち去っていく。

 

「……お嬢様。大熊殿は武田か北条か、いずれかに寝返りましょう。今ここで殺さねば、後の禍となります」

 

「いや……暗殺は出来ない。大熊は私にこれまで仕えてくれた。仕えるにたる主となれず、義の理解をしてもらえるように努めなかったのは、私の失態だろう。行かせてやるのが、せめてもの詫びかもしれない……。それに、あの北条氏康や武田晴信が折角の存在に護衛も付けないとは思えない。手練れが侍っているだろう」

 

「だが現実問題、越後の内情を知ってる奴が逃げるのは問題だぜ?大熊の旦那の状態に気付けなかった……いや気付いてもどうしようも出来無かったのは俺たちの失態だ。反省してもしきれない。だが、もう旦那は戻ってこないだろう。兵糧はどうする」

 

「それはわたくしが担いましょう。些か難しいですが、どうにかなるはずです」

 

 どうにかはなる。とは言え、今までと同じとはいかない。配る量を減らして食事の回数も減らさないといけない。現実は非情である。越軍は士気がどんどんと下がっていく。脱走兵も出始めた。それでも多くが耐えているのはこれを耐えれば勝利があると信じているからである。

 

 朝秀は陣を引き払い、とっとと撤退してしまった。そして救出された一族と合流。郎党五十騎近くを率いて上野へ逃亡。北条家へ寝返ってしまった。これはすぐさま兼音に伝えられ、兼音から武田家に伝えられる。武田はより兵糧隊への攻撃を加速させたが、敵軍は動じなかった。加えて最近では暇を持て余している越軍の兵を荷駄隊の護衛に付けている為、奇襲にも被害が出始めていた。

 

 これを受け、十分に敵の戦力を削れただろうと武田側は兵糧奇襲を一時中止。次の段階へと入ろうとしていた。それ即ち、一時的な和睦である。兵糧は少なく、重臣も裏切った。脱走兵も多く、噂が多く飛び交っている。そんな軍の状態を認識しているのならば、和睦に応じる可能性があると思ったからである。武田は今回の戦での決着を半ば諦めていた。

 

 大熊がいなくなったことで次回以降の遠征で長尾は相当苦労するだろうと見越している。今回兼音が植え付けた揚北衆との不和も残っている。激戦で多くの兵が死傷してもいる。次回の戦いで有利に進める条件が武田には揃っていた。また、これ以上滞陣しているとレンタルしている河越衆への褒賞がとんでもない額になりかねないからであった。

 

 既に大金が請求されている。その額は晴信が顔を引きつらせるくらいには大金だった。だが逆に言えば金さえ払えば東国最強クラスの軍隊が最強クラスの指揮官とセットで兵糧弾薬は自前で二千ほども来てくれる。そう考えればプラスであるのも間違いなかった。こういった理由も武田軍が和睦を申し出る理由になっていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 晴信が景虎と極秘会見を開いたのは、両軍の対陣からついに百五十日が経過した頃だった。すでに五ヶ月である。そろそろ、両軍ともに兵士たちを帰農させねばならなかった。越軍、武田軍ともに、兵の多くは半農の暮らしをしている。平時は田畑を耕し、戦時のみ武具を持ち出してそれぞれの主のもとに参戦するのである。むろん、時代の流れで専業の兵士も増えてはいる(「赤備え」の武田騎馬隊に所属する兵士たちはおおむね専業武家であった)し、足軽部隊には東国の各地から銭で集められた「傭兵」も大勢参加している。

 

「石」を巡る両軍忍びの争いが激化している戸隠へはもう入れない。晴信は飯縄山の神社で、景虎と落ち合った――両軍の軍師、宇佐美定満と山本勘助とが、鳥居の下で睨み合いながら二人の会談が成功裏に終わることを祈り続けている。

 

「おそらくは、正式にはお初にお目にかかる、宇佐美定満殿。三河牛窪出身の軍師、山本勘助晴幸にございます。某は五体満足な時代には真田に混じって忍び働きもし、足を壊して以後も『山の民』同様の暮らしをしていた者ゆえ、どこかですれ違ったことはあるやもしれませぬが――」

 

「越後柏崎の琵琶島城城主、宇佐美定満だ。趣味は釣り。そうだな……あんたとは対照的な『海の男』さ。信虎を追い落として晴信を甲斐の国主にした鬼謀の軍師とは、あんたか……直江の旦那の同席を許さなかったのは、なぜなんだぜ?」

 

「暗殺を恐れて。越後の冷血な宰相・直江殿は景虎様のためならば、主命に逆らってでもなんでもやるという噂ですからな。だが宇佐美殿は、そうではありますまい。景虎殿に『義』を教えた師匠なれば」

 

「あんたは、晴信になにを教えた?」

 

「御屋形様にそれがしが教えられるようなものなど、ございませぬ。御屋形様は文武両道、あらゆる能力に長けたお方。ただ――『野望』の炎に、火を灯し申した」

 

「おかげで、景虎は連年のように川中島で戦わねばならなくなった。正直言って、大迷惑だ。あんたたちが上洛を志していることは知っている。ならば、信濃征圧は東信濃、中信濃、南信濃までを奪うにとどめ、北信濃は武田と長尾との緩衝地帯にしておくべきだった。義将・景虎には信濃を侵略するつもりなどない。村上、小笠原に乞われて川中島へ出兵しているだけだ」

 

「越後を諦めて東山道を進み、美濃を奪って近江まで抜けよと?それは困難。甲斐は山国。東美濃もまた同様。海路と港なくば、武田上洛は困難でございましょう。山国かつ東国という不利。我らは、たとえ鉄砲を手に入れても火薬を買えませぬ。それどころか、甲斐は塩すら隣国からの輸入に頼る国なのです」

 

「東海道に出るか、直江津に出るかの二択、か。いずれにせよ、晴信には辛い選択肢だな。駿河に追いだして今川に身を寄せている父親を完全に捨てるか、あるいは景虎との友情を捨てるか、だ……」

 

「……左様。御屋形様は、景虎殿に並々ならぬ思い入れがございます。どうしても景虎殿に戦で勝ちたいと……そうでなければ、武田軍は日ノ本最強を名乗ることはかなわぬと。が、いかなる謀略も小細工も、武田の精密な軍制も、『赤備え』を中心とした集団騎馬戦術すらも、景虎殿には通じ申さぬ」

 

「それで、ついに会見か。もう善光寺に出てきて五ヶ月になる。これ以上は、景虎の身体はもたねえぜ」

 

「御屋形様も、景虎殿のお身体を案じておられる。ここで落としどころを見出し、撤兵していただきたいのです」

 

「そして海津に拠点を築き、次の戦でこそ善光寺平を奪取するつもりか。あんたらは外交に詐術を用いる。とてもじゃねえが、景虎は折れまい。どれほど衰弱しようともな」

 

「……この戦、いつか勝敗がつくのでしょうか、宇佐美殿。某は、この善光寺平・川中島での両者の戦いが、永遠に続くことを恐れております――文字通り、永遠に――御屋形様の限りあるお命が、この小さな盆地でその持ち時間のすべてを使い果たしてしまうことを」

 

 あの二人は鬼ごっこをしているのさ、と宇佐美定満は言った。

 

「こんな戦国の世でなければ、きっと二人は、いい友達になれただろうよ。境遇も似ている。互いに足りぬものを補い合える無二の親友になれただろう。だが、今は乱世だ」

 

「……川中島そのものはそれなりの収入が見込めるとはいえ、狭い土地にすぎませぬ。小笠原長時が逐電して信濃守護不在となった今、せめて戸隠の『石』の所有権がはっきりすれば、戦いは収まりましょう。が、それも、太原雪斎と今川義元が上洛を果たしてしまえば、それすら不可能ですぞ、宇佐美様。幕府と組んだ雪斎が三好を京から駆逐し、確固とした今川政権を畿内に築けば――武田はもはや東海道へは南下できず、越後の海を目指す他なくなりましょう。あくまでも武田が本来手に入れるべきは東海道。越後北上は最善手ではありませんが……」

 

 海という名の富を持たざる者の苦悩、越後の武将たちには理解できますまい、金山に捕虜を次々と送らねばならぬのもすべては甲斐が貧しいゆえなのです、と勘助はため息をついた。

 

「信濃の神々を殺しにかかった武田と、毘沙門天の力で人々の心を慰撫しようとする長尾。この戦いは宿命だろうよ、勘助の旦那」

 

「川中島という土地は動かせませぬ。だが、民の心は、移ろいやすいもの。善光寺だけでも、解体して分け取りにできませぬか?甲斐と越後とにそれぞれ新たな善光寺を開き、それぞれの派閥についた僧侶を招くのです。秘仏などは名ばかりのものにて、互いにうちの寺に迎えた秘仏が本物だと言い張ればよろしいでしょう」

 

「それはいい案だな、旦那。オレは神も仏も信用しちゃあいねえ男だ。直江もな。が、景虎が許すまい。嘘で、民を欺くことになる」

 

「戸隠を長尾が、この飯縄を武田が分け取りとして、戸隠忍群と真田忍群とが戸隠・飯縄をそれぞれの本拠として北信霊山を分割支配するという某の案も、景虎様はお認めにならぬでしょうな」

 

「だろうな。霊山を二つに割るなど、景虎の流儀じゃねえ。戸隠と真田。同じ祖を持つ忍び同士を、ひたすらに戦わせ続けることになるあらゆる獣も草木も、天とそして地も、景虎にとっては敵ではない――惜しむらくは、人間の姫も、そうであってくれたらな」

 

「天と地と、そして姫ですか……」

 

 勘助は隻眼を細めながら、飯縄神社のご神木「皇足穂命神社大杉」を見上げていた。信じがたいほどの巨木だった。なぜ、雷が落ちないのか、不思議でならなかった。某と御屋形様が挑んでいる相手は、この神の力を帯びた巨木にも等しい、と嘆息した。

 

 しかしその皇足穂命神社の大杉の幹のあちこちに、啄木鳥が止まり、嘴で穴を穿っている姿を見つけた勘助は、「ほう……」とうなりながら呟いていた。天の雷ですら倒せぬ神の木をも、あの小さな啄木鳥たちはいつか倒してしまうかもしれなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 宇佐美定満と山本勘助が鳥居の下で和睦交渉を続ける間――。境内で、景虎と晴信は、久々に二人きりの時間を過ごしていた。今、下界で繰り広げられている合戦について話し合うつもりはなかった。それは、二人の軍師の仕事である。言葉は少なかった。

 

 ただ、二人きりで北信の霊山を眺めていられれば、それでよかった。しかし、こうして二人で過ごせる時間もまた、少ない。

 

「……あなたを毘沙門天のもとから引きずり下ろすために、あらゆる手を用いてきた。けれども、無理かもしれない。堂々の決戦で、越軍を撃ち破る以外には、道はないのかもしれないわ」

 

 晴信が切りだした。

 

 晴信が煮てくれた「ほうとう」を小さな口にほおばりながら、景虎は、夢から覚まされたかのように赤い瞳を揺らしながら、

 

「それでは大勢の兵が死ぬわ。あなたの大切な人たちも、きっと」

 

 と、うなだれていた。

 

「どちらにしても、兵は死ぬことになるの。あたしたちが川中島に囚われている隙に、太原雪斎は上洛軍を興して尾張の織田と死闘を繰り広げ、そして織田家を滅ぼすことになる。尾張は複数の国人勢力が並立していて、織田弾正忠家はまだ尾張の半分も押さえていない。津島湊の経済力だけが唯一の武器……三河までを併呑し終えた今川の大軍に攻め込まれれば、もって、一月か、二月。背後に控える反織田派の国人たちが雪斎に調略されて、そこで詰みになるはず。あたしとあなたが和睦を結ぶならば、今川の上洛戦がはじまっていない今が最後の機会よ。景虎……」

 

「それは、下界での武家名よ。『けんしん』と呼んで。わたしも、あなたを晴信とは呼びたくない……それに」

 

「それに?」

 

「私との戦いをやめてしまえば、あなたは、お父上が軟禁されている駿河へと兵を向けるのでしょう。父殺しの大罪を犯すのでしょう……それならば、私はあと何百日でも、川中島にあなたを捕らえていたい」

 

 景虎は「こうしてお互いに川を挟んで睨み合っている限りは、決戦も起こらず、人も死なない」と晴信の着物の袖をそっと掴み取っていた。

 

「でも。長対陣が続けば、あなたの身体が弱っていく。ひどく痩せたわ、あなたは。これ以上は、もたないのでしょう?」

 

「……大丈夫。毘沙門天の化身が死ぬ時は――殿方に心を奪われた時、と定められているもの。あなたに囚われている限りは、定められた時はまだ来ない」

 

「それはあなたの思い込みよ。毘沙門天なんてものは……あなたの心が作りだした幻にすぎないの。善光寺の秘仏はただの木彫りの彫刻だし、戸隠の『石』だって、ただの石よ。大地に転がっている石と違うところは、天から落ちてきたというだけ」

 

「では、龍は?糸魚川から戸隠、飯縄、諏訪へと延びる、巨大な地龍もまたただの幻にすぎない?私は感じるわ。大地の奥底に眠る、龍の息吹を。砥石城であなたが真田忍びにやらせたように、地龍の眠りを乱してはならない」

 

「……戸隠の石がただの石にすぎず、地龍もまた大地の底に走る『地割れ』にすぎないことを、あたしはいずれ証明する……諏訪の神氏が、ただの人間だったのと同じに」

 

「その論法では、人間もまた、皮に詰まった血と肉の袋にすぎないことになるわ。美は幻で、醜だけが本物。義も愛も幻で、野望と欲だけが本物。そういうことに、なる。でも……それは違う。人の心に浮かび上がる感情に、なんの根拠もないだなんて。私が戸隠の山に感じる神聖さも。あなたに感じる好意も。あなたの横顔を見て、美しいと思うこの気持ちも……すべては私の頭の中に生まれた幻にすぎないというの?それは逆よ。山がなければ、そこに神聖さはなく、あなたがいなければ、そこに美しさもないのよ」

 

 卵と鶏、どちらが先なのかという堂々巡りの話よ、それは、と晴信は呟きながら思わず目を閉じていた。

 

 景虎の赤い瞳に捕らえられたら、「そうね。そのとおりだわ」とうなずいてしまう。あたしは、彼女ほどに美しい者を、見たことがない。今後も、ないだろう。この「美しい」という言葉にならない感動を、まるで神に邂逅したかのような法悦を、すべて「心が生んだ幻」で片付けることは、理が情に勝る思考法を身につけている晴信にすら、不可能だった。

 

 越後の男武将たちは、足軽たちは、この景虎の神秘的ですらある美しさに魂を奪われ、死兵と化し、戦法と道理と技術のすべてを注ぎ込んで勘助と晴信が構築した武田軍をも凌駕するのだ。ならば、「毘沙門天の化身」という「観念」もまた、人を突き動かし世界を変える力でありうるのだ。もはや神の時代が終わり、人間の時代が訪れつつある乱世においても、なお。

 

 だが晴信には、景虎は日ノ本の天と地と海の神々とが人間たちに置き捨てていった「最後のあだ花」のような気がしてならなかった。景虎は、望めばなにもかもを手に入れられる者として生まれながら、自ら決して報いはしない神々のために壮大な徒労を繰り返す者なのだという悲しみから、逃れられなかった。

 

 自分は、父上という自分を否定し縛ろうとした絶対君主から逃れるために戦っている。景虎は、その逆――生前はほとんど自分を愛さなかったであろう父親の鎮魂のために、神になりきろうとしている。

 

「『けんしん』。そろそろ、お別れの時間ね。次に会う時には……あなたを戦場から連れ去るために、迎えに行くわ。わたしは下界であなたに勝ち、あなたを姫武将の宿命から引き上げてただの女の子に戻してみせる。きっと」

 

「……待っているわ。『しんけん』ちゃん。私を戦で破れる者がいるとすれば、今の日ノ本を見渡してみてもあなたしかいない。でも、来てくれなければ、私のほうから行くかもしれない。私は、自分の欲を抑えるように自分をしつけてきたけれど……気が、短いの」

 

「あなたの体力が尽きて倒れてしまう前に、必ず。でも……『毘』の旗のもとへと辿りつくまでの道のりは、険しいわね……」

 

 晴信は、鳥居の下で神木をじっと凝視している山本勘助に視線を送り景虎の身体はもうあまりもたない。ほうとうも、ほとんど食べてくれなかった……どうか、景虎とこれ以上戦わせないで、と願っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は武田軍本陣を訪れていた。武田が越軍の荷駄隊奇襲を中止していることを疑問視して、その理由を尋ねようとしているのである。しかし、本陣に晴信も勘助もいない。これはどういうことだろうか。何の報告も受けていない。

 

 我らとしては滞陣はまだできる。長期の滞陣ではあるが、元々河越衆の中には例の河越夜戦の時に城に籠っていた者もいる。半年近く籠っていた彼らからすればこれくらいは大丈夫であったし、また他の兵もそれに負けるかと思い軍法を守りながら過ごしていた。私の軍は高い給料と手前みそのようだが私個人のカリスマで成り立っている。このままの滞陣でも構わないが、戦果を出せないのは問題であると思っていた。

 

「大膳太夫様はいずこにおわせられるか。もしくは山本殿でもよろしいが」

 

 総大将と軍師のいない本陣に対する問いを対応に出てきた信繁に告げる。

 

「姉上と勘助は今……和睦の交渉に行っています」

 

「和睦?武田は兵を退くのですか」

 

「まだ決定事項ではありませんが……その可能性もあるかと」

 

「左様ですか……」

 

 思わず渋い顔になる。私としてはもう一叩きくらい何らかの手段で以て長尾を叩いておきたかったのだ。しかし撤退か否かを決める権限は彼にはない。あるのは総大将である晴信だけだ。

 

「少し、相談してもよろしいでしょうか」

 

「私にできることであれば、何なりと」

 

「姉上は……どうしてしまったのでしょうか」

 

 二人しかいない陣内で、信繁は嘆息した。彼女の憧れており、尊敬している姉は景虎に憑りつかれたようになっている。この前も景虎の体調を案ずるようなことを繰り返し口にしていたという。敵軍の将の体調不良やその末の死など、最も喜ぶべきことであるというのに、姉はそうしていない。むしろ逆を行っている。それは信繁にとってショックなことであったのだろう。

 

「神に囚われてしまったのやもしれませぬな」

 

「やはり、そうなのでしょうか」

 

「景虎と晴信様は似ておられる。その育ちが。いずれも驍将の子として生まれ、その生を期待されず、十分な愛を受けられなかった。片や歪んだ教育をされ、かたや己では何も為せない男どもの偶像として祀り上げられてしまった。いずれも乱世が生んだ悲劇。故にどこかで共鳴しておるのやもしれませぬ」

 

「そうだとしても……そうだとしても!私は納得できないのです。姉上と私たちの理想のために多くの将兵が死に、傷つきました。板垣や横田は鬼籍に入り、甘利も一線を退いてしまった。多くの者の上に我らはいるはずなのに、なのに……」

 

「晴信様を恨んでおいでか?」

 

「いえ、その様な!けれど……悲しいのです」

 

 私は無言で信繁を見つめた。どうしたらこの少女を良い方向へ持っていけるか。それが思案するべき事項であった。理性的な理由を言えば、私と彼女の繋がりは大きい。これを失えば、私と北条家は武田家中内の親北条派最大の人物との繋がりが消える。感情的には、姉と比較され続けてきた少女の心を救いたかった。

 

「……晴信様のお心は晴れぬでしょう。景虎を討たぬ限りは景虎に囚われたまま。もし仮に景虎を討てたとしても、次は第二第三の存在がその心を捕えてしまうやもしれませぬな」

 

「そんな……それでは、姉上の心は救われないのでしょうか。もし私に出来る事があるのであれば、何でも!」

 

「それです。そこに全ての原因はあるのです」

 

「え……」

 

「貴女も、晴信様も、他の武田家中の方々もどうやらこう思っているようですね。晴信様は信虎殿によって虐げられてきた。貴女はそんな姉を支えようとしていると。ですが違うのですよ。無論、晴信様が被害者なのはその通り。されど貴女もなのですよ。貴女も、被害者なのです」

 

「私は違います。私は父上に不当に贔屓されていたのです。本来姉上が受けるべきだった称賛も、愛情も、全て!」

 

「不当に?私はそうは思いません。確かに信虎殿は晴信様の才を見抜けなかった。それは信虎殿の不明でしょう。しかし、貴女に対して信虎殿が下した評価は間違いとも言えないでしょう。事実、貴女は優秀なのだから」

 

 困惑している信繁。その様子を見て、この姉妹に横たわる問題の本質を私はある程度把握することに成功していた。過度な比較や姉妹差別も現代では虐待の一つだ。そして、そも虐待は往々にして被害者と目されている方(差別されていた方)だけでなく贔屓されていた方にも何らかの精神的な問題がみられることがある。

 

「晴信様が貶され、貴女が評価されるたびにこういう気持ちになった事はありませんか?『私なんかより、姉上の方がその言葉に相応しい』とか『私にはそんな評価を受ける資格は無いのだ……』など」

 

「それは……」

 

「もしくは『私は姉上の状態を知りながら何もできなかった。今も評価されるに値などしない』と思ったり、『私の生涯は姉上のためにあり、今までの分を補填するのだ』などと思ったり。どうですかな?」

 

「……あります」

 

「頻度は?」

 

「割と、よく。以前からずっとそう思っていました。私は姉上の影になる。それで良いのだと。父上に虐げられた姉上に仕えることが私の罪滅ぼしです」

 

「影?そんなわけないでしょう。貴女は一人の人だ。武田次郎信繁という人間ではないですか!」

 

「それではいけないのです。私が自立すれば家中を割ってしまうかもしれない……。そうなったら、私と姉上が争う事になる。そんな苦しみを与えたくないのです」

 

「それが既に間違いなのです。貴女と晴信様の間にあるその歪みはすべて信虎殿が作ってしまったもの。貴女が責を負わねばならない事など、どこにあるというのですか。貴女も、被害者なのです。貴女のその苦しみも大本を探せば信虎殿が悪いではありませんか。晴信様が景虎に囚われているのは事実。されど、それに貴女が憎悪を抱くのは景虎に姉を取られるのを恐れているからではありませんか?」

 

「……」

 

「そもそも、家中を割らないように努めるのは晴信様と山本殿の仕事でもあるはずだ。貴女が貴女として生きたからと言って、今はそう簡単に家が割れるような状態ではありますまい」

 

 彼女は何も答えない。その目が泳いでいた。触れられたくないところ、誰も武田の家中が触れないところに、今私は触れようとしている。

 

「今から貴女の恐らく最も言われたくないことを言います。どうかご容赦を」

 

「……はい」

 

「貴女が恐れているのは、姉を取られることも勿論ですが、それによって自分を失うことを恐れているのではありませんか?幼い頃、貴女の行動によって晴信様は信虎殿によって傷つけられたり虐げられた事があったはずだ。だから貴女は我を出さず、最初は父の望むようにしていた。そうすれば少なくとも信虎殿の目は貴女に注がれ、放っておかれる代わりに晴信様に危害は加えられない。だから貴女は影になりたいのです。自分の行動で己の姉を傷つけなくて済むから。その願いに応えていれば考えずに済むから。貴女は幼少期の記憶を忌避し、逃れるために敢えて影に甘んじているのではないでしょうか」

 

「私を、私を何だと思っているんですか!」

 

 彼女は私を殺さんばかりの目で睨みつけてくる。名門武田の娘の殺気立った目は思わず恐怖してしまいそうなものだった。けれど今はあまり恐ろしくない。その目元に光るものがあるからでもある。そしてそれ以上に、私には彼女が哀れな被害者に見えてならなかったからだ。

 

「影ならば怒るな!黙ってずっと従っていればいいのです。けれど貴女がしたいのはそう言う事ではないはずだ。貴女が本当に心の底から望んでいるのは、対等な人として、過去も父親も関係ない姉妹として向き合うことだ。違うか!」

 

「それ、は……」 

 

「確かに過去を切り離すことは難しい。けれど、縛られていては何も始まらない。貴女のするべきことは、駿河の信虎殿に向かって馬鹿野郎と怒鳴る事でしょう。そうでもしない限り、姉妹を縛る鎖は切れない。信虎殿という呪縛を切るには、二人がそれぞれ人として対等な存在として向き合い、共に過ごすことだけなのですから。それが、二人を引き離し、差をつけ、縛った信虎殿への最大の意趣返しとなるのです」

 

 信虎と彼女らが決別するには、信虎の行いを否定しないといけない。それも上辺だけでなく、本質的なところで。分かたれた姉妹を繋ぐためには、向き合うしかない。その心持ちに引け目なく、負い目もなく、ただの姉妹として向き合う以外に道はないと思っている。そうしなければ、分とうとした信虎の意思は砕けないだろう。

 

「確かに今を変えるのは怖いかもしれない。けれど、進まなくては何も得られない。己の無い者に、神は討てません。強い自我と意思が無ければ、簡単に呑み込まれてしまう。貴女がもし本当に景虎を討ちたいならば、まず足元から始めなくてはいけません」

 

「どうしたら、私は向き合えるのでしょうか……」

 

 彼女は伏せがちな目で言う。覚悟を決めるのは大変だろう。何しろ、幼い頃からずっと続く自分たちを縛る鎖なのだから。人格形成に影響を与えてきたのは言うまでもないだろう。幼少期、少年期、思春期。その多くを信虎の呪いが支配してきた。長年の軛はそう簡単には消えない。けれど出来ることはある。

 

「いきなり心持ちを変えるのは難しいかもしれません。しかし、少しずつでも変えては行けるはずです。それか、戦が終わったらどこかへ二人で行かれるとよろしい。温泉なら多くあるとお聞きしました。そこで話せば良いでしょう。本心を、包み隠さず。言葉にしなくては、伝わらないものというのは沢山あるのですから」

 

「……はい」

 

「勇気を出すのは難しいかもしれません。他の家中の方に相談するのも難しいでしょう。私が助けになれることは少ない。けれど、どうか忘れないで欲しい」

 

 私は彼女の手を取り、その目を見て告げる。

 

「私は貴女の味方です、だから負けないで。貴女はきっと、もっと輝けるはずだから」

 

「頑張って、みます」

 

 少しだけ声色が明るくなった。これならば少しはマシになったかもしれない。

 

「後は向き合えたら駿河を訪ねて姉妹で信虎殿を殴ってくるとよろしいでしょう」

 

「な、殴る……?」

 

「ええ。文字通り殴るのです。ボコボコにして良いと思います。なに、遅めの反抗期ですよ。因果応報という文字をしっかりあのジジ、じゃなかったあの方に刻んでくればよろしいかと。情けない悲鳴が聞けるでしょう」

 

 信繁は困惑していたようだが、少しだけ微笑んだ。気が晴れたのならば良し。概ねやるべきことは出来たと思っていいだろう。信繁は副将として武田を支えねばならない重要な人材だ。どうせ長尾とは一進一退の攻防が続く。ついでに言えば上方との間に縦深が欲しい。なので武田には駿河を取ってもらい、防波堤として生きてもらう必要がある。その間に北条は国力を蓄えるのだ。

 

 となると、義信事件はマズい。上手く駿河を分割して落としどころを見つけるために抑え役の信繁は必ず必要になる。そう見越して、私は彼女と親しくなろうとしているのだ。今川には申し訳ないが、武田が縦深として上方に抵抗できる国力を付けるために桶狭間で死んでもらう。奥州をどこまで早く抑えられるか。それがかなり鍵となるだろう。奥羽+関東に甲信駿ならば上方にも抵抗できると見ている。

 

「ご無礼を多く申し上げました事、お詫び申し上げます」

 

「い、いえ。私が聞いてもらった悩みですから。その解決に必要なことでしたから、全く気にしておりません。むしろこちらこそ睨んでしまったりして……」

 

 不意に彼女が私の手を取り、真剣な眼差しでこちらを見上げた。

 

「もし、もしよろしければ、私たちと……」

 

「折角のお誘いですが、それは出来ません。申し訳ない」

 

「そう、ですよね」

 

「ええ。私にはその夢を叶えると誓ったお方がいますので」

 

 私の発言に途端にどんよりした顔で信繁は何かを呟いている。「やっぱり…………恋……氏康の…………監き、いやダメ、それはダメ……嫁入りが…………」などと言っているが早口な上に声が小さく、下を向いているのであまりよく聞こえない。

 

「あ、あの。大丈夫ですかな?」

 

「ええ!大丈夫です。大丈夫ですよ?先ほどの発言は忘れて下さい。左京大夫様のお耳に入ったら両家の盟友関係を損ないかねませんので」

 

 若干濁った眼で信繁が言う。さっきまでキラキラしていたのに、何か急に濁り始めた。全く心当たりがないので、何か嫌なことを思い出したのかもしれない。ちょっと危機感を感じたので本陣を後にすることにした。

 

「和睦について結果が分かればお教えください」

 

「分かりました。連絡させます」

 

 見送り手を振る時はまた少し綺麗な目に戻っている。それにホッとしつつ、私は自陣へと帰還した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 飯縄山で景虎と晴信が極秘会見を開いたことが、越軍と武田軍の双方の陣営に漏れ伝わったのは、数日後のことだった。

 

 どこから漏れたのかは、わからない。会見中、飯縄に結界を張って相互を監視していた両軍の忍びも漏らしてはいない。あるいは、目撃者などはおらず、なんとなく飯縄から戻ってきた景虎と晴信が発する「空気」を周囲の者たちが察しただけなのかもしれなかった。

 

 二人は姫武将同士でありながら、「恋仲」なのではないか。川中島のこの長対陣の目的は、実は二人の「逢瀬」なのではないか、最初から決着などつけるつもりはどちらにもないのではないか。

 

 いつ果てるともわからない長対陣に疲れ果てて倦んでいた両軍の諸将と兵士たちが、いっせいに不満を口にしはじめた。憶測と妄想と疑心暗鬼が、噂をどんどん過激なものとした。

 

 武田の陣中ではめちゃくちゃに濁った眼の信繁と、怒り心頭の兼音が晴信をキツく問い詰めていた。兼音からすれば援軍に来て多くの兵が死んだ。そんな戦がまさか総大将同士の殺し愛だとしたらたまったものではない。激怒するのも当然であり、そうでないことを証言させるのも当然であった。

 

 一方の越軍は景虎がひたすら男性を遠ざけていて、「五年の後に祝言を挙げる」という約束を果たすつもりがどうやらなさそうだということは、すでに越後諸将の間では常識となっている。とりわけ、堺で夜這いをかけた小笠原長時が景虎に追い払われて三好家へと逐電したことが、大きかった。信濃守護の小笠原長時ですら拒絶されるのであれば、景虎を嫁に取れる可能性がある男は、家格的には関東管領・上杉憲政と、長尾家の郎党筆頭である上田長尾の政景くらいしかいない。

 

 が、政景は景虎の姉の綾を妻としているから、そうなれば「可能性」を残している者は上杉憲政一人だ。その上杉憲政は関東帰還のために派閥を作って越後で策動しており、当然、信濃の川中島戦線には出てきていない。

 

 武田晴信もまた、父親を駿河へ追放して以後、男を寄せ付けず、むしろ姫武将ばかりを育成しているという。例外は山本勘助という異形の軍師くらいだが、勘助はもともと大人の女人に興味がない奇人であるがためにそばに侍ることができるのだともいう。無論男武将も多く存在してはいるのだが、重用とは言えなかった。勘助が諏訪の幼い姫・四郎勝頼を神の如く崇拝していることは、越後でも「あれはいったい」「どういうことなのだろう」と話題になっていたのだ。

 

 武田晴信と長尾景虎とが、お互いに愛らしいあだなをつけて、呼び合っている……という話まで、出てきた。互いの名を交換して、「けんしん」「しんけん」と名乗っているのだとか。当然、川中島に駆り出されていた諸将から、不満が出た。

 

「景虎様はかような安っぽい同性愛趣味に走られるようなお方にあらず!父を裏切り野望に身を焦がす武田晴信殿のお心をも慈悲心で救おうとなされておられるのだ、南無阿弥陀仏!」と涙ながらに唱えて諸将を威圧してきた柿崎景家も、これにはいよいよ困り果てた。

 

 大熊朝秀が兵を退き、寝返ったという話もこれに拍車をかけている。遂には宰相の直江が、越後の諸将から「何年であろうとも武田軍と対峙いたします」という誓紙を取らねばならないほどだった。

 

 この「誓紙騒動」の折、直江がわざわざ、「陣中でいざこざを起こした者は誅します」と憎まれ役を買ってまで諸将の前で宣言したのも、すでに諸将間で内紛がはじまりつつあったからだ。足軽同士のケンカなどは、無数に起きている。越軍の絶対の統率力は、景虎ただ一人への信仰心によって成立している。これがなければ、越軍はたちまち不仲で協調性のない国人たちの寄せ集め軍団に堕す。

 

 宇佐美定満が「てめえら、長引く対陣で鬱憤が溜まっているんだ。景虎は遊女たちを陣に近づけさせたりしないからな。だが、目を覚ませ。ぎゃーぎゃーうるさくて銭がかかり手間もかかる女よりも、時代はかわいい兎だ!さあ、みんなで兎のぬいぐるみを作って心を癒やすんだ」とぬいぐるみ教室を開催しようとして危うく袋だたきにされかけたのも、この時である。

 

 この成り行きを本陣に籠もり、琵琶を弾きながらじっと見ていた景虎は、「男どもはどうして、こうも即物的なのか。私はつくづく、姫武将として越後を束ねることが、嫌になってきた……」と深く傷ついていた。

 

 晴信もまた武田軍の諸将たちが抱いた疑心に苦心しているというが、現実主義者の晴信ならば動じないだろう。むしろ、越軍を分裂させる好機とばかりに利用してくるかもしれない。

 

 晴信が「川中島での決戦」をあるいは放棄してでも美濃へと転身する道を真剣に探りはじめていることは、景虎にも伝わった。晴信にとって、景虎との決戦の結末は「勝利」でなければならない。勝利を掴む機会が訪れないのならば、木曾から美濃へと東山道を進んで海へ出ずに都を望むという細い「道」も視野に入れねばならない。が、東海道筋をほぼ制圧した太原雪斎が尾張を併呑するほうが、よほど早い。

 

 両者に残された時間は少ない。晴信は決戦に及ぶだろうか。景虎は、上杉憲政から教わった琵琶を一心不乱に弾きながら、武田軍が動き、そして「勝機」が訪れる瞬間を、待った。もはや体力は限界だった。酒も、喉を通らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、さらなる事態急変が、越軍のこれ以上の川中島対陣を困難とした。その急変とは――。

 

「加賀で一揆衆と決戦していた、越前の朝倉宗滴が……にわかに病死しやがった!あの爺さんの天命が、ついに尽きた……!到底、死にそうにない爺だったのによ。よりによって、こんな時に」

 

 対陣百八十日を過ぎたある夜、朝倉宗滴病死の一報を越前から入手した宇佐美定満が、慌てて直江と景虎のもとに駆け込んできたのだった。

 

「お嬢様。いけません。一揆衆は朝倉軍を破るでしょう。当主の朝倉義景は戦を嫌っています……朝倉軍は数十年にわたって宗滴どの一人が仕切っていましたから、宗滴殿の欠けた朝倉軍に勝てる道理はありません。朝倉軍は近いうちに加賀から引き上げ、一揆勢は越中へ戻ってきます。そして、糸魚川を越えて越後へ踏み込もうとするでしょう」

 

 直江が撤退を唱え、宇佐美もまた、「これで、これ以上の持久戦は不可能となった。長対陣に倦んでいる将兵たちのほうも、もう限界に来ている。こうなれば川を渡って決戦するか、撤退するかの二択だ、景虎」と景虎に選択を促さざるを得なかった。

 

「晴信は私を戦場で迎えに来ると言った。私が毘沙門天の化身ではなく、ただの人間の少女だと証明するために、と。だが、来ない……来てくれない。私は、どうすればいい」

 

「迎えに来たくとも、一万以上の大軍と一緒なんだぜ。武田軍と越軍が正面衝突すれば、どちらが勝つにしても、両軍に無数の犠牲が出る。晴信と勘助だって、勝機を掴めねば、動けねえ」

 

「もう誓紙は取ってしまいました。これ以上将兵が動揺すれば、もはや防ぎ止められません。唯一彼らの動揺を鎮める方法は、『決戦』です。お嬢様の勇姿を戦場で見れば、彼らも再び忠誠心を取り戻しましょう。ですが今のお嬢様には、もうその体力が」

 

「……直江……一刻で引き揚げると定めれば、あるいは、私は出陣できるやもしれぬ」

 

「いえ。武田晴信と真正面から激突するとなれば、合戦が一刻で終わる道理はありません!」

 

 この時。諸将から「景虎さまを狙う男」として警戒されている第三の男・長尾政景が、珍しく景虎のもとを訪れてきた。

 

「フン。宇佐美定満と直江実綱。軍師と宰相の二人が雁首揃えて固まっているとはな。三国同盟に加えて北陸の一揆。越後の諸将の心ももうばらばらだ。四面楚歌となったな、景虎よ……こういう時はな、『遠交近攻』だ。敵の敵は味方、よ。貴様は策略を嫌うが、策略なくば乱世は生き延びられんぞ」

 

 武田の眼を、太原雪斎のほうへ向けてやれ、東海道筋の方へな――その結果、武田晴信が「父殺しの娘」になろうが、俺たち越後人の知ったことではない、と政景はうそぶいた。景虎は、相変わらず慈悲がない。勝手なことを……と顔をしかめた。が、宇佐美定満が、「オレたちがなにもしなくても、今頃は武田の本陣も大騒ぎになっているだろうよ」と政景に答えていた。

 

「朝倉宗滴が死んだということは、畿内にも睨みを利かせていた軍事大国・越前が、惰弱な国に成り下がったということだ。越前一乗谷の絢爛たる文化は当主の朝倉義景がさらに守り立てるだろうが、もう軍事的には二流の国だ。つまりよ」

 

「目の上のこぶだった越前が一日にして弱体化した以上、近江の六角家に余裕ができた。六角と懇意にしてきた太原雪斎と今川義元が東海道を抜くにあたって、尾張の織田を踏み潰すことはいよいよ容易くなった――そういうわけですね、宇佐美様」

 

「フン。太原雪斎、いよいよ上洛か。景虎が不意を突いて単身で上洛し、将軍家・関白とよしみを結んだことに、雪斎も少々の焦りを感じているだろうしな。北陸一揆衆が道を塞いでいる以上、越後から軍団を率いての上洛は困難とはいえ、もはや不可能ではなくなったのだから」

 

「政景の旦那。その景虎が武田と戦っているうちに、先に上洛しなければならないと雪斎は焦りだしているぜ。そして、近江への道は今、完全に開いた。残るは尾張だけだ」

 

 

 

 

 

 

 宇佐美定満の読み通りとなった。長引く厭戦気分が蔓延していた武田陣営からも、本格的に「水入りにしよう」という声が上がっていた。北条氏康からも「そろそろうちの青備えには帰ってきて欲しいんだけど?」という連絡が晴信のところへ入っている。なお、兼音のところへは「帰ったらお話」という手紙が来ている。無論、そのお話が何なのか察しのついている兼音はがっくりとしていた。

 

 そして軍師・山本勘助は、朝倉宗滴の死によって一気に畿内情勢が変わったことで上洛をいよいよ急いでいた太原雪斎に「調停役」を依頼するという奇策を閃いていたのだった。

 

「これ以上の対陣は無理。景虎殿がさらなるご無理をなされて病死されては、決着は永遠につかなくなってしまいまする。それでは御屋形様のお志は果たせぬままに……しかし宗滴が死んだ今ならば、雪斎に甲越両軍を調停させることが可能ですぞ、御屋形様!雪斎は、某に調停役を乞われれば、すぐに乗って参ります!」

 

 だがそれは、今川義元の上洛を武田が全面的に支援せねばならぬ「借り」を作るということにもなる、と晴信はすぐにはうなずけなかった。

 

「あいや。それがしが宿曜道で星を読んだところ、宗滴の寿命の終わりはすでに近づいておりました。そしてその読み、的中いたしました。そして――太原雪斎の命もまた――調停役に駆り出して、上洛軍を興すまでの時間を雪斎に消費させますれば、あるいは上洛前に雪斎の天命が尽きるという可能性が生まれましょう」

 

 宿曜道とは恐ろしい術だな、と晴信は嘆息した。

 

「あたしや景虎の寿命も、読めるのか」

 

「某は武田家の軍師なれば、武田家の方々の星は見ませぬ。そして長尾景虎。あの者は特別……毘沙門天の星を背負う者なれば、勘助をもってしてもまるでその天命がわかりませぬな」

 

「では土佐守は?」

 

「アレは日輪でしょう。曙光、或いは旭日の如し。読もうとすればたちどころに我が目が焼かれてしまいまする。土佐守殿の話はともあれ、雪斎をこちらに釘付けにして寿命を消費させれば……!」

 

 それで景虎の身体と命も守れる。景虎の本陣に攻め込んで「毘沙門天」の幻から景虎をすくい上げるとは誓ったが、景虎をこのような持久戦で過労死させるなど、あたしは絶対にやりたくない。晴信は「勘助。お前はまさに、天下の奇才だ。雪斎を動かせ。景虎を迎えに行くという約束は伸びることになるが、この戦、和睦に持ちこむ。そしてあたしたちは――」

 

 雪斎亡きあと、いずれ駿河を盗る、という言葉を晴信はかろうじて飲み込んでいた。今川の姫と祝言を挙げた太郎義信がそのような言葉を聞けば、激高するだろう、とわかっていたからだ。義信はもともと一本気な好漢で、正義感が強い。そのような裏切りを、義信が喜ぶはずがなかった。

 

 だが今は、まだ駿河問題を表面化させるべき時ではない。川中島での対決を、いずれもう一度行わねばならないのだ。それが、景虎との約束を果たすことになる。野望のためにあらゆる同盟や約束を破り続けてもなお、景虎との約束だけは絶対に破りたくなかった。

 

「ご安心あれ、御屋形様。太原雪斎は、京にて学問を積んできた高僧なれば、それがしのような怪しの術を用いませぬ。軍師としての知力は雪斎殿のほうが上かもしれませぬが、その一点において、忍び崩れの『山の民』として漂白の人生を過ごしてきた某が、勝てます」

 

 山本勘助はすでに、川中島で越軍を破る戦術をも、その異形の頭脳の中で組み立てはじめているようだった――。




第二次川中島の戦い・終まで行くことになってしまいました。次回は逃げた大熊の話、和睦の話、雪斎の話、氏康に怒られる兼音の話などがメインかなぁと思います。お楽しみに!


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第105話 第二次川中島の戦い・終

やっと川中島編は終わりです……。


 駿河・遠江・三河の東海三国を支配する今川家の宰相・太原雪斎は、すでに上洛準備にかかっていた。流浪の将軍足利義輝を保護している近江の六角家と同盟を結んで上洛を果たし、今川義元を天下の副将軍あるいは細川に代わる新たな管領に。それが、雪斎の悲願だった。

 

 雪斎はもともと京の高僧である。義元にまだ今川家を継ぐ予定がなく、「芳菊丸」と名乗っていた幼女時代以来、今川家と縁の深い雪斎は請われて義元の家庭教師となり、京へ義元を連れて行って教育を施した。義元の風流癖と意外な博学は、この京時代に培われたものである。この頃には、義元はあくまでも今川家の「姫」であって武将として家督を継ぐ予定はなく、雪斎の教育が「文」に傾いていたのも当然だったし、雪斎自身、自分に軍師や宰相としての武才があることに気づいていなかっただろう。事実、雪斎はその知謀と見識の高さを買った今川家から切りだされた仕官の話を「拙僧は出家ゆえ、戦や(まつりごと)は不得手でございますれば」と丁重に断っている。

 

 しかし、義元の運命は急変した。今川家の当主で義元の実父である今川氏親が死去した後、家督を継いだ兄・氏輝も死去。これ以後の話が花倉の乱となり、その話は兼音の視点で読者諸兄もご存じであろう。越後でも「三分一原の合戦」が勃発して、長尾為景と長尾政景が越後守護代の座を巡って相争っていた頃のことだ。義元を当主に据えた時から、雪斎の目的はただ一つ。義元を、京の都へと帰還させることである――しかし、ただの姫として上洛することはもう難しい。ならば、東海道を制覇した堂々の「天下人」として。

 

 興国寺の戦いで大損害を被り、その立て直しに奔走することにはなったが、それでも数年の月日をかけて今川家は再び大国として復活を成し遂げていた。

 

 倒しても倒しても津島湊が生みだす無尽蔵の財力を元手に執拗に抵抗してくる尾張の織田信秀との戦いも圧倒的有利に進め、三河の松平氏・吉良氏を傘下に収めた雪斎は、三国同盟成立と同時に上洛軍の下準備にかかっていた。既に織田信秀は死去し、娘の信奈はうつけと評判。さしたる敵ではないと目されている。まさに出立し天下に号令を下す直前となったその時、山本勘助と宇佐美定満から「川中島での調停役」を依頼されたのだった。

 

 山本勘助と武田晴信による時間稼ぎだと雪斎はすぐに見抜いた。が、百八十日近くにも及ぶ対陣のために補給に難渋する武田軍が苦境に陥っていることは間違いなかった。断って上洛すれば、のちのち手薄となった駿河遠江へ向けて武田が牙を剥いてくるかもしれない。ここで恩を売れば、同盟破りをものともしない武田といえども、安易に今川を裏切れなくなるはずだ。

 

 なによりも、武田晴信と長尾景虎の実力は伯仲しており、川中島での合戦はまだ終わらない。第三回があり、第四回もあるだろう。永遠に戦わせておけばよいのだ。武田は川中島に永遠に囚われ、駿河へは南下できない。北条氏康はもとより関東制覇にしか興味がないし、こちらも長尾景虎の関東侵攻に備えないといけない。

 

「越後に『毘沙門天の化身』長尾景虎殿が出現してくれたおかげで、甲斐の虎と相模の獅子は駿河に手を出すことができなくなった。駿東も収まる。これもまた、義元さまの強運のなせるわざ……」

 

 黒衣の宰相・太原雪斎は、駿河・遠江・三河で進めていた上洛準備を一時中断して、川中島から善光寺へと入った。とはいえ、二ヶ月か三ヶ月、上洛が遅れるだけのことである。武田晴信と景虎の次の合戦は、すぐにはじまる。和睦など一年も持つまい。同じく父親の愛を求め父性の欠如に飢え渇きながら戦う姫武将でありながら、二人は決して相容れない。接すれば接するほど、交われば交わるほど、二人は「幸福」から遠ざかっていく。悲しいことではあったが、晴信にしても景虎にしても、自分自身で「壁」を乗り越えるしかないのだ。

 

 善光寺での和睦会見の席に――晴信と景虎は欠席していた。戸隠で、そして飯縄では無二の親友同士であり、互いを互いの半身であるかのように尊敬し合っている二人だった。しかし公の場で「越後守護」「甲斐守護」の立場を背負った二人を会わせると、そうはいかない。二人が己の「義」と「野望」とを激しくぶつけ合い、まとまるものもまとまらなくなる恐れがあった。

 

 越後からは、宇佐美定満と直江実綱が来ている。

 

「あんたが太原雪斎か……甲冑を着て戦をするような人物には見えねえ。戦う高僧、黒衣の宰相とはよく言ったもんだ。オレと直江の旦那なんぞよりも、雪斎殿が景虎の後見人を務めてくれていれば、景虎の義戦もやりやすくなっていたかもなあ」

 

「ですが雪斎殿がお嬢様を後見していれば、出家させてそのまま叡山から戻さないでしょう。義元様は戦嫌いゆえに、雪斎殿に戦を丸投げできるお方です。その点、うちのお嬢様は真逆ですから……」

 

「それもそうか」

 

 甲斐からは、山本勘助。

 

「雪斎殿、かたじけない。我らが御屋形様も本来出席すべきではありますが、こたびの交渉、拙者が御屋形様と典厩信繁様より全権を一任されております。どうか一刻も早く、和睦を。それがお互いのためです」

 

 それぞれの軍師と宰相とが、主君に代わって和睦会見に出席していた。もっとも、甲斐には軍師こそいるが「宰相」はいない。内政から外交、治水から開墾、金山発掘から町造り、道路建設に至るまで、およそ政治に関することはすべて的確にこなしてしまう万能型秀才である晴信自身が政を行うのがもっとも効率的だからだ。

 

 それにどうせ、武田晴信殿には、今日交わされる制約を守るつもりはなかろう。長対陣で衰弱しているという景虎殿のご体調を案じているのと、拙僧の上洛軍出陣宣言を遅らせるのとが晴信どのの目的。いずれにせよ、拙僧は急いで和睦を成立させねばならぬ……。

 

 黒衣の調停者――太原雪斎は、そこまで読んで、長尾方に圧倒的に有利な条件を提示した。勘助の隻眼が「どのような条件であれ武田は呑みまする。所詮は文面にすぎぬ。雪斎殿も上洛するならばお急ぎあれ」と語っていたからである。

 

「各々方、よろしいですかな。これより裾川の北岸を長尾方、南岸の川中島を武田方の領土として確定いたします。武田方が善光寺を奪取するために兵を入れている拠点・旭山城は、武田軍の手によって破却いたします。善光寺は引き続き長尾方の領内に。ただし、分裂している善光寺の別当・国人は、それぞれが望むほうの陣営につけばよろしいでしょう――そして、善光寺の奥の院にあたる戸隠山と飯縄山もむろん、長尾方として確定いたします」

 

 裾花川を国境線と画定し、問題の善光寺と戸隠山はいずれも長尾方とする。ただし犀川の南岸は武田方とする。それが、雪斎が出した和睦条件だった。

 

 宇佐美定満が、

 

「帰るべき土地を失う村上義清の旦那さえ頷けば、越後に有利だな。そして村上の旦那からは、『長期の滞陣。諸将にも我が主にも、もう十分に戦っていただいた。俺はもう長尾景虎殿の家臣だ。越後に生き、越後で死ぬ。祖国の信濃に未練なし』という言葉をもらっている。つまり――こちらは、雪斎殿の条件を丸呑みするぜ」

 

 と膝を叩いた。一日も早く、衰弱している景虎を春日山城へ戻してやりたいのだ。宇佐美もまた焦っていたし、村上義清もそうだった。直江はさすがに焦りを表情には出さず、「旭山城に持ち去った善光寺の秘仏の所属は如何いたします」と雪斎と勘助に釘を刺した。

 

 が、勘助は直江は切れ者だが、こたびは突っぱねられぬ。景虎殿のご体調が決定的に悪化してしまうことをなによりも内心恐れておられる。呑むだろう、と読んでいる。

 

「秘仏は、武田方についた善光寺の別当どもが甲斐へ持ち帰り、甲斐に新たな善光寺を建ててそこへ祀りまする」

 

「しかしそれでは、善光寺平の民心が」

 

「あいや。戸隠山のご神体である『石』は、引き続き長尾方のもの。痛み分けということですな」

 

「戸隠の『石』を崇めている者は修験道の山伏や戸隠忍びなど、わずかな『山の民』のみ。善光寺平の農民・商人たちは、あくまでも善光寺の秘仏を崇拝しています。なれば、痛み分けとはいえ、我ら越後方がいささか不利ではありませんか」

 

「そうですかな。景虎様は『義』と『神々』を守り、我らが御屋形様はあくまでも人間としての『実利』を取る。それらしい決着といえましょう」

 

 ここまで無言を貫いていた参加者がもう一人。先の晴信と景虎に密会、並びに和睦の交渉の話を何一つ聞かされていなかった一条兼音は、北条家の体面もあるため晴信に猛抗議。進退を共にする間柄でありながら、何一つ連絡が無いのはどういうことだ。我々は貴家の家臣ではない。と静かにキレられた晴信は謝罪の代わりとして今回の交渉への参加を斡旋したのであった。

 

「随分と余裕があるような仰りよう。まるで勝っているかのような言い草でありますな。我らは後数年でもここに踏ん張ってみせましょうぞ。その隙に我が主が関東勢十万を率いて上野へ駆けあがるでしょう。無論、今だ出仕せぬ長野業正を討伐するべく」 

 

「……貴殿は援軍の将。講和に口を出す権利はないのでは?」

 

「いいえ?私は主の名代であり、武田の盟友としてここに参加しております。私は武田の立場に立って、交渉にあたっているのです。そも、越後は直江殿と宇佐美殿の二人がいて、甲斐には山本殿だけでは人数的に不公平。故に私がこうして参加しておるのです。それはそうと、直江殿は顔色が優れぬようだ。目の下も隈が出来ておりますな。体調が優れぬようでしたら、お帰り頂いても構いませぬぞ?」

 

「どこかの妨害により、我が軍の将が一人いなくなってしまいましたので」

 

「おやまぁ、大変ですなぁ。しかし出奔される景虎殿に問題があるのでは?生憎当家では出奔騒ぎなど聞いた事がありませぬので。中々に興味深いものです。尤も、出奔してこられる方は時々おられますが」

 

 嘲笑うような声のトーンであるが、兼音の顔は真顔。絶妙な煽り方で越後方を激昂させ、判断力を落として詰めようとしている。それに気付いた宇佐美が、「直江の旦那。そこまででやめておけ」と直江の肩を叩いていた。

 

「いずれにせよ、戦は引き分けなんだ。痛み分け以外に、止める方法はねえ。善光寺の秘仏は特別な力を放っている戸隠の『石』とは違う。越後にも善光寺を建立し、こっちが本物の秘仏だ、と言い張ればそれで善光寺平の領民の半ばはこちらにつけられる」

 

「それもまた、お嬢様を怒らせるような詭弁めいた策ですがね。ですが雪斎殿にまで出張ってきていただいた以上、やむを得ませんね」

 

「村上の旦那に対する、景虎の忸怩たる思いのほうが心配だぜ、オレは。意地になって、村上領を取り戻すまでは何度でも川中島に出兵すると言いだすかもしれねえな……ただでさえ、晴信に対しては異様に感情的だ」

 

 それは困りますな。武田が雪斎殿の仲介で越後と和睦したということは、駿河も越後も攻められなくなった武田はこれより木曾から美濃へと西進せねばならぬことに。またぞろ川中島に出張ってこられれば、美濃攻めなど夢のまた夢となってしまいまする、と勘助が黒い笑顔を浮かべていた――この和睦で時間を稼ぐうちに、次の川中島の対決では必ず越軍に勝つ、そのための策はもうそれがしの脳梁のうちに閃いていると言いたげな、いっそ清々しいほどの悪相だった。

 

 兼音は勘助の顔を立て、彼がそれで良いのならばと黙っている。先ほどは越後が食い下がるのが面倒であったためにそれを止めるべく敢えて口を挟んだ。武田がある程度の条件は呑むことは示し合わせている為、ぐだぐだ言われない為に介入しただけである。あくまでも詳しい成り行きを知る為と宇佐美・直江の人物像と能力を知るために参加しているのだ。そしてその目的は凡そ果たされていた。

 

「ほう。美濃を……。拙僧が尾張を盗るのが先か、勘助どのが美濃を盗るのが先か、ですな。もしも先に美濃を塞がれれば、拙僧の上洛計画も少々面倒なことに。厄介な軍師どのを、甲斐に盗られてしまった」

 

 雪斎が酒を舐めながら、勘助に向けて仏のような微笑みを返していた。

 

「そうなりまする。それがしが駿河今川家に仕官できておれば、やはり東海道を突き進んで尾張をまっすぐに狙いましたでしょうが、身分卑しく面相も醜い某のうちに軍師の才を認めてくださったお方は、御屋形様のみでございました」

 

「それはお心得違い、勘助殿。義元様は……姫は、そなたが隻眼の醜男だから仕官を認めなかったのではありませぬ。生まれつき高貴で、天然に無礼なところがある姫ゆえに、誤解されやすいお方ではありますが……義元様は、『わらわの父親役は雪斎一人でじゅうぶんですわ、二人は要りませんわ』と拙僧に気遣ったのです」

 

「……なんと?」

 

「故に、駿河の軍師も宰相も、拙僧ただ一人なのです。ですが、これでよかったのでしょう、勘助殿。妻を娶らず子を持たなかった我ら二人ともども、己の才能のすべてを注ぎ込めるよき主君に巡り会えた……長尾景虎殿は生涯不犯を誓う身でほとんど出家のようなお方ですのに、己のもとにやってくる殿方をすべて家臣として召し抱えてしまうという少々風変わりな御仁ですが、不思議なものですな」

 

「雪斎殿。しかしよ、オレも直江の旦那も独り身だぜ。オレは束縛を嫌うただの遊び人だが、直江は律儀にも景虎に操を立てていやがる。景虎が不犯を通す限りは自分も通す、とな」

 

「ほう……」

 

 ここにいる男のほとんどは主に忠誠を尽くし、その為に生き死のうとしている。その為に独身を貫き、全能力を捧げようとしていた。兼音は中年男性たちの間にいながら、微妙な面持ちである。彼とて当然主に全能力を捧げる気概でいる。とは言え、その主と恋仲というここの男たちに露見すれば袋叩きに合いそうなことをしている。兼音からすれば、若い自分の出来ることでありかつ己の願いも叶える一挙両得な方法が恋仲しかなかったのであるが。

 

「……かぐや姫の如く大勢の男どもに囲まれながら不犯を貫く景虎殿も不思議な女人でございますが……己の運命のすべてを平然と雪斎殿一人に託してしまわれる今川の姫もまた、不思議な姫にございますな」

 

 勘助はそう呟く。ウチのかぐや姫は私が攫ってる。う~ん……と兼音はさらに顔が微妙なものになる。雪斎は、勘助殿も少々、拙僧を足止めしたことに良心が咎めているらしい。しかし構わぬ。我が姫が勘助どのを不当に扱ったという誤解が解けるならば、それで……と微笑みながら酒を煽っていた。たしかに上洛は少々遅れた。が、義元にとって真に必要なものは上洛ではないのだ。むしろ、誰よりも上洛したがっている者は、京を懐かしんでいる自分なのだ。

 

「勘助殿。我が姫は……軍才もまつりごとの才もなきゆえに、戦の天才である景虎殿や、文武両道の秀才である晴信殿よりもずっと、幸せに近いのです。姫は、途方もなく大きな『器』なのです」

 

「あいや。才なくば、天下に号令なすことも国を守ることも、難しいでしょう」

 

「そのために、拙僧がおります。器を満たす『才』は、拙僧が注ぎ込めばよい」

 

 不意に、勘助の顔色が、青くなっていた。

 

「しかし……その……もしも、雪斎殿が突然みまかられれば?」

 

 拙僧が次代の宰相と見込む姫武将・竹千代こと松平元康がおります、とは雪斎は言わずにおいた。自分が松平元康を今川家の次なる宰相と見込んでいることを、雪斎はなるべく目立たせずに隠しておきたかった。が、隠しても無駄だろうとも思っている。なにしろ次の世代の人材を育成する仕事は、宰相・軍師の主な仕事のひとつである。勘助は次代の武田家を担って立つ新四天王候補や四郎勝頼を育成しているし、宇佐美定満と直江大和も次代の宰相候補を育成しているのだという。敢えて言わずとも、知恵者の勘助ならば雪斎がすでに自分の「次」を準備していることくらいはわかることだろう。

 

 それなのに、拙僧亡きあとの今川家を勘助どのが憂慮するとは妙なことだ、と雪斎は思った。雪斎自身は、己の健康状態を鑑みればあと五年から十年は生きられる、将軍を連れて上洛して三好松永を畿内から追い落とし、事実上の「今川幕府」の体制を完全に固める時間はある、それだけの大仕事がざっと済んだのち、成長した松平元康にその体制を引き継がせれば義元の天下は揺るがぬものとなる、と信じていた。

 

 雪斎は、勘助殿もまた、いかめしい表情と露悪的な言葉とで武田家の鬼軍師役を演じてはいるが、やはり最後の最後にはついに鬼になりきれぬ御仁だ。晴信殿は、よき軍師に巡り会えた、と思い静かに微笑んでいた。

 

「勘助殿。たとえそうなっても、姫は幸福を掴まれる。最後の、最後には。それは戦での勝利でもなく天下ですらないかもしれませぬが、姫にとっての幸福とは、天下ではないのです」

 

「天下ではなく、幸福……」

 

「いったいなにが幸福か。それは、他人が決めるものではなく、父親や母親、ましてや拙僧が決めるものですらなく、その人自身が決めるもの。姫には、重ねてそう教えて参りました。姫を教え導く父親役として、拙僧、その点だけは自信がございます――今は晴信殿の野望のために悪鬼となって奔走している勘助殿も、いずれはご理解いただけるでしょう。景虎殿をこれまで導いてきた宇佐美殿と直江殿は、すでに、拙僧のこの言葉、おおむね理解してくださっております。それ故に、『毘沙門天の化身』として生き続ける道を降りようとしない景虎殿に対するお二人のお心の辛さと切なさ、拙僧、痛ましいほどにわかります。いずれ……いずれ、きっとお二人の思い、景虎殿に伝わりましょう。人の心の傷は、いつか、癒やされます。春になれば越後の雪が溶けるように、誰かが、愛情を注ぎ続ければ、必ず」

 

 宇佐美定満は、この坊さんこそが、天下一の宰相だ。オレなんぞ足下にも及ばねえ。駿河でなく越後に、来てくれていれば……と言葉を失っていた。直江は、わたくしと宇佐美様は、二人でようやく一人。ただ一人で景虎さまを補佐せねばならない与六が目指すべき宰相の姿が、ここにあった……と珍しく顔を赤らめていた。

 

「北条家はその幸せの掴み方をある程度ご存じのようですな」

 

 突然振られた話に面食らいつつ、兼音は頷いた。

 

「家族というのは最も近しく、同時に幸せと愛を与える存在。それに恵まれているという事は、幸せについて最も素直に理解できておられるのが北条家の当主一門の面々でございましょう」

 

「ええ。その点に関しては同意いたします」

 

「氏康殿は……拙僧の見立てでは関東統一はなるでしょう。良き主に良き家臣。今の氏康殿は有翼の獅子。その翼は一枚ではなく、幾重にもなっておりまする。それで飛べぬ空などありますまい。いずれ、悲願の叶いし時、その暁には、是非当家とも手を携えていただきたい」

 

「主に伝え申し送りましょう」

 

「土佐守殿が景虎殿に抱かれている憎しみも、いずれ溶けましょう。時が必ず。何より、貴殿の主がそのように導いてくれるはず」

 

 兼音は沈黙した。雪斎が適当なことを言っている訳ではない事は、その助言からわかった。兼音が景虎に憎しみを持っていることを彼は誰にも伝えていない。もちろん、察することは出来ようが雪斎が多くを知っているとは思えなかった。であれば、今この場で会っただけで察した事になる。そんな高僧が言うのであればそうなのかもしれないと、兼音は少しだけ思った。

 

「憎しみは人を鈍らせまする。貴殿は王佐の才を持っておられる。天下を武力で取るのは貴殿で無くとも出来ましょうが……天下を執れるのはそうはおりますまい。願わくば、当家に欲しかった」

 

 雪斎の寿命があと少しと知識で知っている兼音は、それに何と返答して良いのか分からなかった。彼は、雪斎も守りたいと思っている今川家を潰す戦略を考えている。彼らを踏み台にし、縦深として利用して、時間を稼ごうとしている。それが悲しくもあったが、兼音は感傷的になるほど優しくも無かった。「過分なお言葉恐悦至極」とだけ言って口をつぐむ。

 

 そして山本勘助は、雪斎殿。あなたの、お命は、もはや。それがしが……雪斎殿の夢を……上洛を、阻止したのです。そしていずれは義元様も、それがしが率いる武田兵が……とこみ上げてくる言葉と涙を抑え込み、耐えながら、

 

「これにて甲越和睦、成り申した。雪斎殿、このご恩は必ず」

 

 と、さほど飲めない酒を無理矢理に喉の奥へと流し込んでいた。

 

 

 

 

 

 川中島での対陣は終わり、そして。

 

 

 

 

 

 和睦の使者役を果たして義元のもとへ戻ろうとした太原雪斎は、駿河への帰路に、倒れた。急な脳溢血だった。

 

「……姫……拙僧のために、上洛を急いではなりませぬ……姫の幸福は……姫自身が」

 

 それが雪斎の最後の言葉だったという。雪斎は、義元に再会することなく、死んだ。勘助は、雪斎の宿星が流れていくさまを、帰国準備中だった川中島の夜空に見つけ、思わず合掌していた。

 

 やはり天命が尽きておられた。越後と甲斐の果てしなき戦いを止めてくださるお方は、もう、おられぬ。雪斎殿の寿命があと三年あれば、あるいは、武田家の運命も、景虎殿の運命も、ずっと良き方向に……これで、両者はみたび川中島で死闘を繰り広げるしか、道がなくなった。いつかそれがしも鬼から仏へと生まれ変わる時が来るのだろうか、と勘助は思った。御屋形様の幸福のためならば、たとえ軍師としての知謀のすべてを失ってでも、仏に生まれ変わりたい、と願った。

 

 

 

 

 

 

 病身の景虎を連れて、越後軍はやっと春日山へ帰還する。将も兵も皆へとへとであった。長尾政景を筆頭とする家臣団は皆それぞれの領地へ帰って行った。春日山では寝床に横たえられている景虎の前で宇佐美と直江が今後の展望を考えようとしていた。

 

「今回、確かに一時的な和睦は成立した。とは言え、そんなものが長く続くとは誰も思っちゃいねぇ。また武田は来るだろうよ。その時、どうするかだ」

 

「やはり大熊殿がいなくなったのは痛いとしか言いようがありません。しかし過ぎたことはもうどうしようもないもの。何とか対策を考えねば……」

 

 直江がそう言った瞬間、襖がバッと開けられた。そこに佇んでいるのは白髪に長い白髭の老人。しかしその目には鋭い光が宿っており、直江と宇佐美を睨みつけていた。

 

「な、中条殿……」

 

 直江が些か冷や汗を流しながら言う。中条殿とは、中条越前守藤資のことである。元は守護派の重鎮であった名将。政治感覚も確かであり、武勇も秀でている。晴景からの家督継承の際も色々と裏で景虎のために動いていた老将である。長尾家の一門衆に次ぐ待遇を受けているが、普段は若者の邪魔をするべきではないと口をつぐんでいる。また、景虎の婚姻問題も解決できないようでは頼むべき主君に非ずと声を上げていない。

 

 政景も出兵している今回の戦では本国を守れる存在がほかにおらず、春日山を守り越後に睨みをきかせていた。その中条の覇気は直江に冷や汗を流させるほどの物であった。

 

「二人もいて何をしておったのか!何故みすみす大熊を逃がした。魚が大きいどころではないぞ、大熊は必ず越後に必要な存在であった。それを調略され、武田の和睦に応じざるを得ず、奴らに時間を与えてしまったのだぞ。奴らはこの隙を突いて海津に城を築くであろう」

 

「爺さん、どうして武田の意図を」

 

「絵図を見れば分かるわい!二人もいて何をしていたと儂は聞いておる。宇佐美も直江も、貴様らの目は節穴で耳は飾りか!」

 

「お言葉ながら……」

 

「だまらっしゃい!戦は結果が全てじゃ。お言葉だと思っておるなら黙っておれ!」

 

 二人を叱責する中条に、横たわったまま景虎が声をかける。

 

「その辺にしてやって欲しい。直江も宇佐美も出来る限りで良くやってくれた。私の運びが良くなかった。それでも二人はよく私の要望の応えてくれたのだ」

 

「……景虎様もご自身の体調を把握して滞陣して頂きたい。主となった以上、配下の管理も自身の管理も大切な務めですぞ!」

 

「すまない……」

 

「次の戦より儂も出る。大熊もいなくなってしまった今、宇佐美と直江だけでは越後は持たん。直江、次の宰相が出来上がるのにあと何年だ」

 

「数年はかかるかと……」

 

「ではそれまで儂が政務を統轄しよう。直江は内政を、宇佐美は外政をしておれ。兵事は政景にでも出来よう。そうでもせねば、いずれ越後は武田か北条に食い物にされてしまう。よいな?」

 

 ギロリとした目で場を見渡す老将に、腹心二名は黙って頷くしかなかった、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雪がチラついている峠を越え、大熊朝秀一行は上野国内へ入国出来ていた。救出された一族を引き連れての逃避行であったが、いつ上田長尾の兵を差し向けられるか気が気ではなかった朝秀からすれば、ホッと一息入れられた瞬間である。彼の二人の息子は春日山に出仕していた為亡命を拒否されるかと思っていたが、その息子たちも父親の扱いに不満を持っていたために同調し、共に越後を去ることとしたのである。

 

 峠を越え、沼田城下に足を運ぶ。上野北東部の抑えである沼田城はそこそこに大きな城郭であり、街も上野では比較的大きい。沼田城は城主の沼田景義が家宰の金子泰清を頼りに収めている。元は景義の兄を殺し当主に返り咲いた山内上杉派の父親が当主であったのだが、先の沼田合戦の際に敗走する長尾兵を見て絶望。最早敵わぬと見て責任を取る訳でもなく自らの名誉のためにさっさと腹を切ってしまった。その為、仕方なく当主をしている。

 

 その景義の元には小田原から朝秀一行を受け入れるように指示がされており、城門で用件を確認された朝秀が名を名乗るとすぐに屋敷へ通され、少し逗留し疲れを癒すように勧められた。しかし、朝秀としてはいち早く小田原へ向かいたい。とは言え、好意を無下には出来ないため、数日滞在することにした。その三日目の出来事である。

 

 朝秀が逗留中の屋敷内で休息していると、沼田家の使いがやって来て城へ来て欲しいと告げられる。用件が分からなかったが、親切にしてもらっている以上断るわけにはいかない。すぐさま登城することにした。城へ着くと大広間へ通され、座るように促される。その上座、本来当主が座るべきところにいるのは滞在初日に顔を合わせた沼田景義ではなく、紫苑色の髪をした聡明そうな女性である。朝秀が着席すると同時に、その女性は語り始めた。

 

「ようこそ、私の国へ」

 

 その一言で朝秀は目の前の人物が誰かを察した。上野を私の国と言える女性は現状ただ一人。足利晴氏は男だし、上野の管理をしている北条氏時も男。つまり、ここにいるのは北条家の当主。自分がその庇護を求めた存在。つまりは北条氏康その人であるのだ。

 

「大熊備前守朝秀でいいわね?」

 

「は、ははぁ!」

 

「そう固くならずに。よく関東へ来てくれたわね。一族郎党引き連れての行軍はさぞ大変だったでしょう。骨は休められたかしら」

 

「おかげさまで、皆々安らかに過ごしております。左京大夫様におかれましては、わざわざ臣のためにお越しいただき、感謝の極み。何と申してよいのかわかりませぬ」

 

「さしたることではないわ。気にしないように。それで……これはしっかりと確認しないといけないので聞きます。貴方は本日今日この時を以て北条家の配下となり、その才を振るう。間違いないわね?」

 

「間違いございません。不肖この大熊朝秀、持てる才を全て使い、関東統一への礎が一つとならんと覚悟しております」

 

「よろしい!その覚悟、しかと受け取ったわ。では貴方にはどこへ行くかを選んでもらいましょう。選択肢は三つ。一つ、ここ上野にてその内政を行い発展に寄与する。二つ、下総へ行き、その内政を助ける。下総だと主に農政になるわね。最後に小田原へ来て働く。どれがいいか、己で選びなさい」

 

 選べと言われた選択肢はいずれも内政系のものであった。戦場はもうこりごりだと思っている朝秀からすれば、自分の適性をしっかりと知った上で選ばせてくれているというのでも好感が持てている。その上で考えた時、上野はやはり旧主・長尾家との最前線であり危険だ。下総は悪くないが、下総の農政となると川か埋め立てだろうと推測する。そして最後はおそらく直臣。それ以外だとそれぞれの国を治める北条家の一門の家臣という扱いになる可能性が高いし、直臣で与力であったとしても中央には食い込めない。

 

 そう考えれば、小田原にいればもしかしたら関東全軍の兵糧や勘定を差配することも可能かもしれない。それはかなり魅力的なことであった。そう考え、朝秀は小田原で働く道を選ぶ。

 

「小田原にて奉公致したく存じます」

 

「分かりました。では、これから小田原へ行ってもらいます。私は全く帰って来ないのが信濃にいるので、彼の居城に行かねばならないの。なので、小田原へ行けば松田盛秀がいるわ。彼に会えば今後の役割を示してくれるでしょう。勘定方へ行くことになるわね」

 

「恐れながら、申し上げたき儀がございます!」

 

「聞きましょう」

 

「臣はこれより誠心誠意お仕えする所存なれど、もし戦をせんと思われた際、反対を申し上げる事あるかと存じます。されど、それは某の翻意に非ず。北条家の財政的利を考えた故のことであると予めご承知おき頂きたい!」

 

「……はぁ、まぁ、普通はそうじゃないの?別に構わないし、むしろ反対意見が何一つ出ないのも問題よ。経済に明るい者は幾らいても良いし、兵糧を差配を盛昌と共にしてもらう時もあなたの負担は大きいわ。にも拘らずその者の意見を無視してはどうしようもないでしょう。当家の論功行賞はいつも兵糧関連の働きをした者が上位よ。先の箕輪での勲功一等は兵糧差配の功で盛昌だったのだし」

 

「なんと……」

 

「全員が私のいう事をハイハイと聞いてくれれば楽でしょうね。楽しいし、気分も良いでしょう。けれど、そうして出来ている集団は必ず腐っていくわ。だからこそ、厳しい意見を耳にして己を戒め、相手を納得させられるように弁舌と知識を磨き、日々精進しないといけないのよ。それが当主の役目。ふんぞり返っているだけでは、人は付いてきてくれないわ」

 

 この瞬間、朝秀は悟った。何故、里見や佐竹といった戦巧者が皆北条を恐れるのか。何故、今川や武田はここを同盟相手として選んだのか。何故、一条兼音を筆頭とする天下に名高き名将たちは頭を下げるのか。自分の選択は間違えていなかった。あの苦しい越後での日々で培った力を活かすのはここだ、と。

 

 彼自身も気付かぬうちに、彼の眼からは涙があふれ出ていた。何も、誰も理解してくれなかった自分の行いが、やっと報われた気がした。この人ならば諫言を聞いてくれるだろう。もし反論されるとしても、最後まで理知的に、論理的に反論してくれるはずだ。そして、この将に従っている朋輩となる者は皆優秀なのだろうと。性欲に突き動かされている越後の国衆とは天と地の差だと思った。

 

 氏康が困惑している中、朝秀は床板に突っ伏しながら号泣していた。いきなり仕事をさせるのはマズいか、と思った氏康はやっと涙を流し終えた朝秀に箱根で湯治をするように命令。心身ともに落ち着いたら仕事に励むように伝えた。この後、朝秀は一族郎党と共に南下。命令通り箱根で休息を取ることとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 長期の滞陣はやっと終わりを迎えようとしている。私の軍もそろそろ寒くなってきたため望郷を口にすることが多くなってきた。今はまだ宥められているが、口で越後の者にいったように何年でも滞陣というのは不可能だ。けれどハッタリをかます必要があったので仕方がない。本音を言えば、私もそろそろ帰りたい。

 

 懐には和睦交渉の後に雪斎から渡された刀の調査報告書が入っている。城に戻り次第、ゆっくり読ませてもらうとしようと思う。富士家の調査と浅間大社関連の話だそうだ。神道に関しては分かっていない事もあるが、それは諏訪頼重に聞けばいいだろう。

 

 そう言えば、その諏訪家には子供がやっと生まれたと随分前に報告があった。報告があったが見に行くわけにもいかず、直接は見れていない。帰還すれば対面することも叶うだろう。私も少しばかり医者に命じて母子ともに健康でいられるように気を配ったつもりである。それの効果が出たのかは分からないが、初産ではあったもののスムーズに産まれて母子ともに健康。元気な男の子らしい。

 

 そのことは武田の面々にも伝えている。晴信は叔母になったという事実に複雑な顔であったし、信繁と義信は妹の無事を喜んでいるようであった、諏訪と武田の血を引く名門の子である。しっかり庇護していかねばならないだろう。さて、今は陣を引き払うにあたってその武田の面々と話をしている。

 

「此度の滞陣と奮闘、更には調略の功、誠に感謝申し上げる」

 

「礼には及びませぬ。景虎を討ち果たさんという目的は達せられず、口惜しい次第です」

 

「いずれまた時は来よう。不躾な願いではあるが、その時はまたお頼み申す」

 

「必ずや、参陣致しましょう」

 

「貴殿の勇壮なる兵には後で礼金を送る。それとは別であるが、貴殿にも礼を渡したい」

 

 私の請求書に晴信の顔は少し青かったが、これくらい我慢して欲しい。兵糧代金とかも加味するともっと増えるのだから。それはそうと、晴信が小姓に命じて持ってこさせたのは紙と、一頭の馬が引かれてくる。黒毛の馬体をした良い馬だ。脚やトモの感じも悪くない。目を見る限り、賢そうだ。毛艶も良く、競馬なら走りそうな見た目をしている。

 

「こちらは感状だ。まぁ貴殿は多くの者から貰っているだろうが、私からも是非受け取って欲しい。そしてこれは甲州黒という名を持っている。名の通り我らが甲斐で育てられた馬で力も強く賢いのだが、如何せん些か気性難だ。とは言え、貴殿ならば乗りこなせるであろう」

 

「ありがたき幸せ」

 

 気性難なのか……と思ったが、気性難な名馬というのも存在はしている。断る訳にもいかないので、どうにか従えたいところだ。それに、先の戦闘でまたしても私の馬がいなくなってしまっていた。私の騎乗する馬は大体天寿を全うできない。その原因は私の戦い方に問題があるのはその通りなのだが。

 

 馬は私をじっと見ている。私も馬をじっと見つめ返した。

 

「左京大夫殿によろしく伝えていただきたい」

 

「承知いたしました」

 

「では、貴殿の壮健なることを祈っているぞ」

 

「はっ!」

 

 頭を下げて武田の陣中を後にした。後ろには渡された馬がいる。陣を離れたところで馬と向き合い、とりあえず対話を試みることにした。無論、私は動物とは喋れない。しかし馬は賢い。人間の言っていることも理解できるという。であれば、コミュニケーションを取ることも可能なはずだ。

 

「山国は嫌か」

 

 どことなく甲州黒はそうだと言っているような気がした。

 

「関東は平野が広がっている。何処まで行っても平だ。暴れ馬の末路は死あるのみ。私は扱えぬ馬に命は託せない。戦場で死ぬか、今ここで死ぬか、選べ」

 

 じっと見つめ合う。何分かは分からないが、そうしていた。すると彼は頭を下げる。そのまま動かなかった。完璧に意図は分からないが、別に苦しそうではないので多分服従の意思を示しているのかもしれない。ボス馬と言われるような存在はもっと強い馬が来ると従うという。であれば、彼は私の方が強いとみなしたのかもしれない。

 

「乗るぞ?」

 

 そう言いながら乗るが、特に抵抗はない。かなりの巨体であり、力強そうだ。スタミナも感じる。がっしりとしていて安定感もあるが、確かに暴れられて振り落とされたら大変そうだ。そう言えば、武田晴信の逸話に父信虎の持っていた名馬を完璧に乗りこなしたというものがあった。その馬も結構な気性難だったという。陣へ向かって進ませるが、特に逆らう様子は無く安定して闊歩していた。これならば安心かもしれない。何となく、この人馬間で主従関係を作れたような気がした。

 

 後になって思えば、これが始まりであった。この馬は戦国乱世の終わる最後の戦いまで私と共に戦場を駆け抜けることとなるのであった。

 

 

 

 

 

 陣に戻れば撤収の準備は完了している。そして整列したまま私の帰還を待っていた。私を見つめる四千の瞳。二千の顔。それを見つめ返す。よくここまでの長期の滞陣に付いてきてくれた。素直にそれには感謝する次第である。精強な配下に感謝の念を抱きながら、馬上より声を張り上げた。

 

「皆、良くここまで耐えてくれた。感謝申し上げる!無念なことに、景虎めの首を討つ事は叶わなかった……。されど、我らの行いは確かに意味のあるものであったぞ!敵軍はその糧食をほぼこの戦で使い切った。つまり、来年関東に襲来するのは困難という事!皆の戦いが、踏ん張りが、関東に住む全ての民の安寧を守ったのである。これは最大にして最高の戦果であろう!これより我らは、関東護国の将兵として故郷へ帰還する。立つ鳥跡を濁さず、甲州兵が度肝を抜くくらい綺麗に撤収してやろうぞ!武田晴信が感嘆し、頭を下げ、頼みにまでする我らの、鉄の結束を見せてやるのだ。最後になるが、皆の忠節に心より感謝する!」

 

「「「忠節こそ、我が命!」」」 

 

「では、行こうぞ!我らの愛すべき、関東の大地へ!」

 

「「「応ッ!」」」

 

 軍は秩序と共に行軍を開始する。一糸乱れぬ行軍を、武田の将兵は感嘆の目で見ていた。撤収であるのが嘘のような覇気と勢いを持っている。まるで、これから戦地に赴く集団かのようである。半年以上滞陣していた為、もうすっかり冬景色。川中島にも雪が降り始めている。これも撤退せねばならない理由の一つであった。冬の秩父を軍規模で行進するのは難しい。

 

 この長い期間で武田の将と多く交流することが出来た。馬場信房や飯富三郎兵衛、飯富虎昌、工藤昌秀などがそうである。また、前々から交流のあった穴山信君とも信頼関係を築けたように思う。これは今後の武田との外交・軍事・経済などの面において大きく役立つだろう。

 

 ただ一つ問題があるとすれば……武田信繫に関してだろう。姉妹間の問題解決のための糸口を示せたのは良かった。それは純粋に良いことだと思うし、北条家の役にも立つだろう。それはいいのだ。だが、どうもその際のアレコレが原因なのかは分からないけれどよく視線を感じるようになった。睨んでいる訳ではないので別に怒っているという事ではないようだが。

 

 胤治はもう呆れた顔をしていたし、政景は頭を抱えていた。その反応から察するに、まぁそう言う事なんだろう。とは言え、どうすることも出来はしない。私は関東に戻らないといけないし、彼女は武田を支え続けないといけない。もしそういう関係になったとしても、何一つ良い事は無いのだ。引き裂かれる運命ならば結ばない方がマシであろう。

 

 それに、私にはあまり彼女に対して恋愛感情は無い。どちらかといえば後輩を見ているような感覚でしかないのだ。周りに良い年の男が、DV父親か幼馴染に恋してる弟しかいないせいで、多分武田姉妹の男性観はかなり歪なものになっているのだろう。いつかもう少し大人になったらきっと今抱いている感情は麻疹みたいなものである事に気付いてくれるはずだ。

 

 たまにしか合わないからこそ、憧憬を抱きやすくなってしまうのかもしれない。そして私はクソ野郎な事に、半ば彼女の気持ちに見当をつけておきながら氏康様のことや兼成の事などを考えてしまっている。まぁ恋人のことを優先するのは正しいのかもしれないが、何とも言えない感情であった。川中島を去る時にも彼女と話をしたが、ちょっと目が濁っていたし泣きそうになっていた。罪悪感はあるが仕方ない。武田に仕えていればまた違った運命もあったのかもしれないが……私の今愛すべき一番は我が主である。

 

 そう心をしっかり引き締めて峠を越え、領内に入り、河越へ一週間以上かけて到着したのであった。あったのだが――。

 

「正座」

 

 到着するなり私は笑顔なのに全く目が笑っていない恋人に自室にてそう命じられたのであった。どういう訳か、河越まで出張って来ていたらしい。沼田まで行ったのは知っていたが、まさかいるとは思わず、びっくりしてしまった。

 

 

 

 

 

「いや、あの……」

 

 私の目の前には全く目が笑っていない氏康様が座っている。顔は笑っているのに、目だけ怖い。元々笑顔は攻撃的な顔であるという話を思い出した。今の状態はまさにそんな感じである。私の抗弁虚しく、座らされている。

 

「えっと……」

 

 私の顔を見ながら彼女はスーッと息を吸った。

 

「ねぇ、なんで突撃してるの?バカなの?死ぬの?あなたは総大将、分かる?どうして戦略も戦術も出来るのにこういうことは分からないの?確かに長尾景虎を押しとどめられたのも事実だし、敵軍に被害を与えたのも戦果。穴山隊を支援して、他の部隊も逃がせた。それは良いでしょう。で、なんであなたが突撃することになるのかさっぱり分からないのだけれど。川の岸で大人しくしていなさいよ!」

 

「お言葉ではありますが、長尾景虎の、ひいては越軍の異常な様子に我が方には動揺が見られました。その動揺を鎮めるべく、前に出たのです」

 

「なら前に出て突撃を命じてあなたは後ろに下がればいいじゃない」

 

「……」

 

 それはそう。いや、本当にその通りであった。今思えば、あのタイミングであそこまでやろうとしたのはどうかしていたとしか思えない。蛮勇であったと言われても仕方のないことであろう。もう少し感情を抑える訓練をしないといけないと心に決めた瞬間であった。

 

 申し訳ないと思い、下を向きながら反省する。今回の件でも反省することは多い。いつもいつも反省してばかりだ。自分の至らなさに嫌気がさす。もっとうまくやれるように研鑽を積まないといけない。そう思っていると、私を叱る声が止んでいた。顔を上げてギョッとする。私を見る目から、涙があふれていた。

 

 そこでやっと気付く。私の真に反省することは突撃したことそれ自体ではなく、無論それも大事だが、本当にすべきだったのは私を待っている人がいるにも拘わらず自ら死へと飛び込むようなことをしたことであった。私は生きる努力をしなくてはいけなかったのだ。あの時も、そして今も、これからも。

 

「バカ、アホ、たわけ!どうせ私のことなんて忘れてたんでしょ!あなたが敵の総大将と一騎打ちして落馬の上に手傷を負ったって聞いたときの私の気持ち、分からないでしょうね!」

 

 立ち上がって彼女に近付こうとした私の胸を殴りながら氏康様は泣いている。正直こんな顔を指せてしまっている自分に嫌気がさしてきた。同時に泣いている顔も綺麗だとか思っている自分の良くない部分をぶん殴る。

 

「申し訳ありませんでした」

 

「口ばっかり。またどうせやる気でしょ、分かってるわよ」

 

「いえ、以後はご下命無い時と危急存亡の(とき)以外は決してやりません」

 

「……あなたが死んだら、私は一生独り身のまま終わりなのよ。他に嫁ぐ気なんてサラサラないの。分かってる?私にあなたの菩提を弔うだけなんて悲しい残りの人生を送らせないで。私はあなたと一緒に生きていきたいの」

 

「はい。必ず生き延びてみせます。無用な心配をさせるようなことは致しません」

 

「じゃあ、示して。今までは口だけの関係だったけれど、形で示して」

 

「……分かりました」

 

 今までのそれは口だけで作られた関係であった。主従関係とは違い、恋愛関係というのはそう言う不確かさを持っている。例えば綱成とかは許嫁なので破ると問題が存在する。けれど恋人にはそういうものはない。いつ消えるとも分からないものだった。だから一線を越えて欲しいのだと思う。何でも良いから、主と恋仲である証左を示して、もう戻れない場所に私を置きたいのかもしれない。そうすれば、私を縛っていられるから。そして、私もそれは決して嫌なことではなかった。

 

 潤んだ瞳が私の覚悟を問うように、挑発するように私を見上げている。私はその顔にゆっくりと顔を近づけた。息遣いが耳を震わせてくる。なんだかおかしくなりそうだった。心臓の音まで聞こえそうな距離で、そっと唇を付ける。十八歳と二十一歳の恋人。現代だと少し微妙な目で見られそうなカップルだったが、年齢差を言ってくる存在はここにはいない。大人になるにつれてどんどん美人になっていく姿に、心は高鳴るだけだった。離れているのも、この関係性を燃え上がらせているように思える。

 

 長い時間が経って、ゆっくりと顔は離れた。その顔には涙の後が頬にくっきりと残っていて、罪悪感を誘う。泣かせないようにしたいと思っていたのにこれだ。これの何倍も幸せにしないといけない。

 

「禁忌に手を出したわね。もう、戻れないわよ?」

 

「戻る気など、元よりありません。必ず、私の隣で白無垢を着させて御覧にいれます」

 

「その言葉、嘘にしないでね」

 

 やっと少しだけ微笑んでくれる。やはり、泣き顔より笑顔の方が似合っている。どちらも綺麗ではあるけれど、笑っている方が良いに決まっているのだ。その後は特に何をするでも無かった。ただ、ずっと隣で座って手を繋ぎながら過ごしている。これだけでも幸福なのであった。

 

 なお、この後二回ほど別々に詰問され、その度に宥めることになるのである。後、信繫の件が政景の裏切りで露見し、本気で刺されかけたが取り敢えずまだ何もない!と弁明して事なきを得ることになる。

 

 そうして年は暮れ行き、また次の年が始まろうとしていた。




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感想欄では聞けないけどメッセージ送るほどでも……みたいな質問あればどうぞ。他にも作品の事なら割と何でも答えるつもりです。

次回はちょっとした番外編(本編時系列の話なので型月とかではないです)の予定。多分真冬にお送りする心霊回。戦国時代だしこういう話もアリかなと。その後織田回が数話あって人物紹介で章も終わりという予定です。


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第106話 宙より来たりて

 太原雪斎が死んだ。この情報はすぐに河越にも届けられた。怒り心頭だった氏康様をなだめて、何とか納得して帰ってもらったものの、溜まった仕事は山積みだ。戦に行っていた間止まっていたものを大々的に再開しないといけない。街道の件もそうだし、それ以外もそうだ。それに加えて、死んだ兵士の遺族がいればそれらへの見舞金も必要になってくる。武田から貰った我々へのお礼金をそこにつぎ込んでいく。手柄を立てた者には褒賞を渡さないといけないし、感状を配る必要もある。それらの処理に追われていた中での情報であった。

 

 黒衣の宰相として立派に勤め上げていた雪斎。彼の死は今川家に暗い影を落とすこととなるはずだ。しかし腐っても大国。重臣老臣はまだ存在しているし、おそらく西上作戦も予定はズレるだろうがいずれ敢行されるだろう。その時が彼らの運命の終わりなのだが……それは良い。

 

 雪斎の冥福を祈りつつ、そう言えばと思い出した。和睦交渉の後、帰り際の雪斎に渡されたものがある。三国同盟締結の際から頼んでいた私の刀の由来調査だ。これの調べた結果が出たので報告するという形で書簡は渡されている。結果的に雪斎が私に残した置き土産のようなものになってしまった。

 

 中を開けば、雪斎自身のものと思われる書簡と富士家の資料の写しと思われる文章が入っている。まずは雪斎のものから確認することとした。

 

『今川家の書物によれば、この刀は応永年間に作られたモノとの記載あり。応永年間、今川家の当主今川範国公が駿河守護にあらせられた頃に駿河の名族であった富士氏の元に宙より参りしと言う鋼ありと聞く。範国公は当時の富士の者にそれを献上せよと申す。富士は家中割れるも、遂には公へと献じた。その鋼を当代の名工と謳われた備州の長船倫光に作らせしがその剣なり』

 

 と記されている。今川範国は今川家の初代とされる人物だ。足利尊氏を支援し、幕府内でも大きな影響力を持っていた。その地盤と影響力は子の貞世に引き継がれることとなる人物。確かに今川家の初代であり勢いもあり、将軍と親しく同族でもある駿河守護に言われれば名門富士家も屈服したのかもしれない。今川家に伝わっているのはここまでであった。次は富士家のものである。かなり読みにくい字であったし古い字も多かったが何とか読み始められた。

 

『大宝年間ニ都ニテ変事アリ。曰ク、竹之林二程近キ館ニ輝ケル姫之産マレ給フ也ト』

 

 急に竹取物語が始まったため、目を疑った。富士家はこんなものをまともな史書として保管していたのだろうか。確かに竹取物語が古典の名作だが、あくまでフィクションのはず。富士家の発祥は大宝年間のもう少し後のはずなのだが。

 

『姫、美シキ事限リ無シ。多クノ公達、殿上人、果テハ主上ヲモ其之心ヲ動カス。サレド、姫、数多之貴公子二見向キモセズ。心動カシタルハ異人也。名ヲバ月氏ト云フ。波斯之出ト聞ク。遂ニハ恋仲ト成リテ船ニ乗リテ共二異国ヘト去リ給フ。其之時、父母ヘ孝行之至ラザル詫ビ、帝ヘ御寵愛ヲ拒ミシヲ詫ビ、波斯ニ伝ワリシ不老長命之薬ヲ渡シ給フ。サレド、帝之仰セラルル所ハ姫ノ非ザル世ニ生ヲ永ラエテ何ヲ為サント』

 

 全然話は違うが、何となく竹取物語の話になってきている気がする。不老長命の薬って、それまさかとは思うが水銀とかでは無かったのだろうか。だとしたら飲まなくて正解なのだが。

 

『帝、臣ニ長命之神タル木花之佐久夜毘売之在リシ不死之山ニ薬ヲ投ズル事ヲ命ズ。臣、投ゲ入レレバ忽チ煙之天ヲ焦ガス。是ヲ聞キシ帝、臣ニ命ズ。木花之佐久夜毘売ヲ祀ル社ヲ造リテ神事行フベシト。臣従イテ社ヲ建立セリ。落成之日、俄カニ天ヨリ数多之星之降ル事、雨之如シ。翌朝、見レバ社ニ鋼アリ。宙ヨリ来ル物カト。驚キテ如何ニスベキト迷イタル所、女神ト思シキ声、響キ給フ。其ノ云フニハ、何レ相応シキ者ガ時ヲ超エ来タリテ其ノ鋼ヨリ作リシ剣ニテ神之世ヲ終ワラスト。我ハ其レヲ悲シク思エド、其レガ人ノ子ノ為ナレバコソ、耐エル物也ト』

 

 ゾッとする。何百年も前の書物の中に、私らしき存在を示唆する文言が入っている。これはどういうことだ。ただの伝説に、たまたま私が合致してしまっているのか。アーサー王の選定の剣的なものなのか。だがそれにしては偶然過ぎる。時を超え、という表現が一番引っかかった。そんな言い回しをするのだろうか。もし、この時を超えというのが本当に私のことなのだとしたら。あり得ないと否定はできない。何故なら、私が最も科学と物理を無視した存在だからだ。

 

『神ノ思シ召シニ従イ、我ハ其ノ鋼ヲ宝トシテ子々孫々ヘト伝エル事ヲ決メリ。何レ、為スベキ事ヲ為ス者ニ渡ル用ニ。何レ担イ手現レテ人之世ヲ成スデアロウ。星之剣ハ、宙ヨリ来タリテ宙へ帰ル物也。神秘ヲ斬ル鋼ニ、運命ヲモ斬リ裂カン』

 

 空より来たりて、空へ帰る。どこかで聞いたことある言葉だと思い更にゾッとする。これは氏政様の史実における辞世の句と似ている。「我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば」これが辞世の句であった。この文章を書いた富士家の祖は何を伝えたかったのだ。氏政様がこの世界でも悲惨な結末を迎えるという事か、それとも違う何かなのか。

 

 運命を切り裂けるというのはどういうことなのか。ただ、分かった事もある。少なくともそれは二つ。この剣は隕鉄剣であるという事、そしてもう一つは神秘と呼ばれる存在に何らかの作用があるという事。これで諏訪頼重があまりこの剣を好かないのも理解できた。諏訪氏は建御名方神の血を引くと称している。もしこれが事実ならば。この国の建国神話が実話だったのだとしたら。諏訪氏は神の子孫、つまりは神秘になる。故に具合が悪くなってしまうのかもしれない。

 

 神秘を弱らせる力があるのだとしたら、私が危害を加える気が無いが故に具合が悪いだけで済んでいる可能性もあった。せっかく雪斎と富士氏に調べてもらったがむしろ分からないことの方が増えた。私のいた世界では神秘はほぼ根絶し、怪談話の中にだけ辛うじて生きているような感じであった。当然、竹取物語はフィクションとされ、建国神話はファンタジーとされている。

 

 だがこの世界では分からない。もしかしたら、本当に全て存在したのかもしれない。物語の内容も、神話も。そしてまだ神秘は残っている。信仰はまだ廃れていない。滅びゆく神秘の仇花が長尾景虎なのだとしたら、私はそれを滅ぼそうとしている。つまりは富士家の古文書通りな訳だ。そしてそれは約束された使命なのだと記されている。

 

 そこまで考えていると、雪斎の手紙に続きがあることが分かった。

 

『今だからこそ申し上げるが気を悪くしないで頂きたい。花倉の乱の際に渡したのは無論、恩賞の意味もあり申した。されど、もう一つ理由があり、それは刃こそ美麗なれど鈍らな刀の処分であった。一条殿が飾ってくれればよいと思い渡すも、その活躍を聞き、我らの扱いが悪かったものと存ずる。知らなかったであろうとは言え、その様な思惑で渡してしまい申し訳なかった。今回お調べするは、貴殿へのせめてもの罪滅ぼしである。どうか調査で以て非礼をお許し頂きたい』

 

 と書かれている。切れ味が悪かった?最初から抜群であったし、今でも時々気持ちが悪いくらい綺麗だ。何人も切っているし血を吸っているはず。鎧ごと切り裂いた事もある。斬鉄剣ではないのだが、相当切れ味が良いと思っていた。そしてそれが無くならない。もし雪斎の話が事実だとすれば、この剣は主を待っていたことになる。故に今川家では鈍らであったのか。とは言え蔵にあったので捨てられず、私に回ってきたという事になる。

 

 何から何まで古文書の通り。寒い冬の自室で読んでいるはずなのに、冷や汗が出る。暫く迷った後に、古文書と雪斎の手紙は箪笥の奥底にしまっておくことにした。外からは時間を告げる近習の声がする。この後先ほどの諏訪頼重のところへ行くことになっていたのだ。

 

「殿、お時間でございます」

 

「あぁ、今行く」

 

 私は無言で手紙をしまい、置かれている刀を眺める。これがどのような謂れであれ、長尾景虎を切ることは出来た。これまでも私の行動を助けてくれている。過去の人間がどのような思惑を持っていたのか知らないし、神がいたのかも知らない。だが、役に立つものは何であれ使うべきなのだ。そう考え、刀を掴む。

 

 その鍔と鞘は今日も黒く輝いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 冬の寒さはあるが、町は活気に溢れていた。多くの人が行きかい、商店は営業合戦をしている。もう間もなく年末。今年の締めくくりとして最後の売り尽くしをしたいのだろう。来年にはもっと色々な事があるだろう。平穏無事とはいかないはずだ。

 

 町の中を歩き、繁華街からは少し外れた住宅密集地の端っこに存在している大きな神社を訪れる。ここが諏訪大社の末社であり、現在諏訪家の夫婦が住んでいる場所でもなる。隣には詰所もあり、問題が起きないような配慮はされていた。

 

 この前産まれた子供と対面したが、随分とかわいらしかった。母子ともに健康そうで、特に母親の方は若くしての出産ではあったが何とか問題なく出産できたようであった。その祝いとして金一封と五月人形を送っておいた。私の名前で送るのだから当然豪勢なものとなっている。おかげ様で私の私的な数少ない資金はすっからかんだ。ともあれ、禰々殿には凄く感謝されたので悪い気はしない。烏帽子親を務めて欲しいと頼まれている子だ。元気に育って欲しい。

 

 そんな母子は今日は医者に診せに行き、異常がないかを確認してもらう日だそうでいない。では私は何故呼び出されたのかというと、少し相談があるという事だった。向こうに来るように言うことも出来たが、なるべく内密にという事であり、また頼重が相談の主体では無いそうなのでこうしてわざわざ赴いている。そんな私に付き合わせてしまっている段蔵はどこかに今日も隠れているのだろう。申し訳ないことだ。

 

 神社の石畳を歩けば、気配に感づいたようで頼重がやってくる。

 

「お越し下さりありがたき幸せ」

 

「いや、構わない。私も会いたいと思っていた。すっかり父親の顔だな。ここには巫女や禰宜もいるが、基本は神主であるお主と奥方殿で育てるのだ。怠ってはならんぞ」

 

「いやはや、肝に銘じておきまする」

 

「それで……今日はどうした」

 

「少し、会っていただきたい者がおりまして」

 

 案内されたのは社務所の中。畳敷きの部屋の中に、一人の男性が座っている。どこかで見たことある顔だなぁと思っていたが、すぐに思い出した。町一番の呉服屋の主人である。初老の域に達しているが、ダルマのような赤い丸顔が特徴の気のいい男であった。ウチの女性陣の御用達でもある。

 

「桐屋ではないか。どうした」

 

「これは城主様、ご無沙汰しております。本日は申し訳ございません……。されど、坂東一の知恵者と名高きお方に是非ともお知恵をお借りしたく、僭越ながらこうして宮司様にご相談した次第であり……」

 

「いやいや、民が困っておるならば、私の知恵でよければ幾らでも貸そうぞ。で、どうした」

 

「実は……」

 

 彼は話し出す。何でも、彼の店は彼の何代も前から営業しており、その昔は扇谷上杉家にも服を卸した事があるほどの豪商であったらしい。確かに、現在も高級向けの服を売っており、遊郭の高級遊女の服は皆この店が一手に背負っている。その彼の店だが、初代は河越の出身ではないという。武蔵の奥地にある山の中の村から一念発起して古河の豪商に丁稚奉公し興した店だという。それは中々に凄いが、ただのサクセスストーリーである。だが、話には続きがあった。

 

 今年、その初代の出身の村から人がやって来たらしい。曰く、約束の物を作ってくれ、時が来た、と。何のことかと思い、問いただすも、初代が伝えているはずの一点張り。訳が分からず追い返そうと思ったが初代関連の話が気になり蔵をひっくり返したのだそうだ。そうしたら中から巻物のようなものが出てきたという。

 

「それがこちらでございます」

 

「拝見しよう。……これは、私は素人だが、衣装の製法に見えるが?」

 

「ご慧眼の通りでございます」

 

 この衣装は白い布を元に作るのだが、製法が特殊で工程も多く、しかも何かの呪文のようなものを編み込まねばならないと書かれていたらしい。その布の材質なども細かく書かれており、極めつけには……。

 

「タダで行い、一切金品を要求してはならないと。そう書かれていました。されど、そんな事になっては当店も商売になりませぬ。それに加え、その村とも関わりが無く久しいのです。先代の若いころに同様の注文が一度あったらしいのですが、何しろ五十年も前のことで……。先代も城主様が入城される数年前に死去しまして、詳しい由来を知る者もなく、ただ神事で使うとのみ。そもそも先代である父も詳しい由来を知っていたのかは不明で……。何やら不気味なのです」

 

 彼は指で巻物の一部を指さす。そこには呪文が書いてあった。かなりの長文であり、読みにくい字の一部を読み解く限り、その文言を糸で服の中に編み込むようにと書いてある。これは相当な技術を要するのが分かった。田舎の村に払える金額ではないだろう。無料でやるように、というあたりに何らかの理由が隠されている気がする。

 

「一応品は出来たのです。とは言え届けるべきかどうなのか。悩んでおりました。その悩んでいる様子を宮司様がお気付きになり、渡りに船とこうして相談した次第なのです」

 

「なるほど。その品はあるのか?」

 

「はい。ただし、男には触れさせるな、女の手だけで作り、女の手だけで持って来いと書いてありました故、ここにはお持ちできませんでした。どんな祟りがあるのかも分かりませぬ故。なにせ神事、つまりは祭りなどで使うのでしょうからな。まぁ大方は巫女服の類であるとは思いますが……。後奇妙な話を一つ聞きまして」

 

「奇妙な話?」

 

「父の代から仕えているもう八十近い老婆がいるのですが、彼女が言うのです。前にこの衣装を送った店の娘が帰って来なかったと。耄碌しているのかも分からぬ老婆ですが、この時だけは妙にはっきりとモノを言っていたのも気になり……。店の者を犠牲にするわけにもいきませんのでほとほと参っております」

 

「……分かった。この件、少し頼重と話す。お主は一度店に戻れ。追って沙汰を出す」

 

「よろしくお願いします」

 

 店主は頭を何度も下げて神社を去って行った。社務所には私と頼重が残される。どちらも重い沈黙を放っていた。

 

「なぁ、頼重」

 

「言わんとしているところは分かりますぞ」

 

「これ、ただの衣装ではないな。巫女服にこんな凝った意匠はいらん。それに角隠しなど何に使う。神事と言うておるが、これはおそらく婚礼衣装ぞ?」

 

「やはり同じ見解でござるか」

 

「大方あの店主も気付いてはいるな。だが見たくない現実に目をそらした。これはきな臭い。どうも先ほどの巻物、嫌な気配がした。微かにだが、腐ったのような臭いもある。この神域でそのようなモノが来るという事は……やはり物の怪の類か、それとも生贄か。いずれにせよ、あの巻物とその神事で祀られている何かと縁があるのだろう。私はその手の類には詳しくないが……勘が囁いている。戦場の勘だがな」

 

「歴戦の名将には独自の勘があると聞き申す。貴殿にあっても不思議はなかろう」

 

「……段蔵。どう思う」

 

「嫌な気配がしますな。真っ当な神ではございますまい」

 

 彼女は恐らく潜んでいるであろう天井裏から返事を返す。彼女の出身は戸隠だ。まだ神秘の色濃く残る地。そこに生きていた者が言うのだから間違いないのかもしれない。

 

「私も戸隠で多くの神秘、人知の及ばざるものを見聞きしました。されど、どれもある程度は澄んだ気配であり、こういった類は……初めてです」

 

「頼重はどう思う」

 

「同意見ですな。私はただの神官。飛びぬけて霊力云々がある訳でもありませぬが、これでも神の血を引く者。気くらいは感じ取ることが出来るつもり。そしてこれはかなり強い。なにせ、分社とは言えこの諏訪神社の結界を食い破っているのですからな。尤もその食い破った原因は……その刀であるやもしれませんが」

 

「あぁ、かもしれん。だとしたらすまない」

 

「いや、身を守るには使い慣れた得物ではなくては」

 

 これは中々に厄介な問題かもしれない。予想する範囲でしかないが、この嫌な香り。そして婚礼衣装と思しき服に、謎の呪文。もしやあれは祝詞なのかもしれない。神に捧げる花嫁につけた、何らかの願いか交渉か。その正体ははっきりしないが。まぁどうせろくでもないものなのは確定的。肝心な問題はこれをどうするかという事だ。

 

「で、どうする」

 

「どうしたものか……。私は相談を受けた時よりこれはいかんと思っておったが、今こうして共に話して確信が持てましたぞ」

 

「退治するほかあるまい。村には悪いが、こんな者が近くにいるともなれば危うい。どんな厄災を持ってこられるか分かったものではないぞ」

 

 ホラーチックな話になってきたが、この時代はまだ神が色濃く残っている。だとすれば、そういう信仰を受けている存在は現代よりも大きな力を持っているだろう。現代ですら怪談話の多くに山の神が云々という話がある。それだけ山と人との関係性が深いという証拠でもあるだろうが……。ともあれ、生贄としての花嫁ならば止めさせないといけない。

 

 信仰は基本的に否定しないが、流血を伴うものは否定させてもらう。私は近代、理性崇拝の時代を早くもたらしたいと思っているのだからして、こんなものを放置している訳にはいかない。そもそも、この禍々しい何かが河越や北条領、ひいては氏康様などに牙を剥かないという確信などない。不穏分子は取り除かないといけなかった。

 

 ついでに言えば、私の剣が本当に神秘に対して効果があるのか。それを確認したいという思いもある。まさか戦国時代に来て妖怪退治をするとは思っていなかったが。

 

「場所は……奥秩父か。大勢連れていくにも理由がない。謀反を疑われかねん。少数精鋭で行くしかあるまい」

 

「行くと言っても、誰が」

 

「頼重と私、そして段蔵の三人組で行く他ないだろう。女の手で運べというのなら、段蔵に運搬役をしてもらい我らはその護衛役として商家が付けた浪人の用心棒。これでどうだ」

 

「……まぁ仕方ない、か。我らが放置すればどうなるか分かったものではない上に、他にこれを感じられてもどうにかできる存在がおるとは思えぬ」

 

「頼重は神官であるし、段蔵は神秘と触れていたことが多い。私の剣は神秘を殺すものだそうだ。今川家と富士家の書簡によれば、の話だがな。これは他言無用ぞ?」

 

「相分かった」

 

 頼重は頷く。そしてスッと立ち上がり荷づくりの準備を始めた。祭りとやらはもうすぐらしい。五十年に一度というのも中々に嫌らしいスパンだ。五十年ならば村の女がいないという事も無いのだから。寿命の短い戦国時代において、前の時にいたほとんどは死に絶えている。僅かに残った古老が継承するシステムなのだろう。或いは、祭りは毎年やっており、嫁を出すのが五十年に一度なのか。どの道ろくでもない話だ。

 

 秩父と書いてあるが知らない場所だ。地図でも見たことがない集落である。領内は秩父も含め、全部調査したはずだったのだが……おかしな話だ。もしかしたら何らかの結界で守られているのかもしれない。

 

「段蔵」

 

「はっ!」

 

「付いてきてくれるか」

 

「どこへなりと、お供します」

 

「すまない。では先ほどの主人の店に行って、服を貰い受けてきてくれ。箱に入れるように言ってな。我々で届けに行くことにしたと言っておけ。理由は言わんでいい。おそらく、厄介事とおさらばするためだとすぐに渡してくれるだろう」

 

「承知!」

 

 実際に行ってみないことには話も始まらない。しかし、どうも嫌な感じがするのは気のせいではない。先ほどの巻物にあった嫌な気配がまだ微かに感じ取れる。私は霊感があるつもりはなかったが、昔一回だけ幽霊と思しきものを見たことはある。そもそもあれが幽霊だったのかも定かではないが、私の母校の高校で、夜に廊下を歩いていると人影を見た。こんな時間に誰だと思ったが、用事があって残っているのだろうと気にも留めなかった。制服も来ていたし生徒だろうと思ったのだ。

 

 だが翌日学校に来て、友人にその話をしてから気付いた。その制服は、もう十年以上前に変更された女子のデザインだった。ではアレは誰だったのか。自殺者などがいたという話は聞かない。隠蔽されたという事も無いようだ。であれば、アレは何なのか。以後見る事は無かったが、今でも気になっている。そんな事を不意に思い出した。

 

 あの時は背筋が凍ったが、今の私にはこの謎の霊剣がある。本当に隕鉄剣なのか、本当にあの古文書が正しいのか、自信はない。ただ、頼重の体調が悪くなったりするのを考えると本物である可能性は高い。それにだ。俵藤太、源頼光や源頼政など、武士による妖怪退治の話は多く聞く。戦国時代でも、大阪の陣で橙武者と言われた薄田兼相や塙団右衛門直之、安東実泰などに妖怪退治の話はある。まぁ良くも悪くもそういうものが信じられていて、普通に受け入れられていたという事だろう。

 

 私を彼らと同格と言うつもりはないが、ともあれ出来ることはあるはずである。もうこの禍々しい存在とある種の縁が出来てしまった。そうなった以上、切らないと何があるか分からない。関東の治安維持のためでもある。また城の面子には怒られそうであるが、何とか説得せねばならない。中々に気が重い話であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 冬の街道を歩いている。街道拡充のおかげで歩きやすい。旅路を行くメンバーは三人。私と神官姿ではなくその道具などを大風呂敷に包んで持っている諏訪頼重。そして普段の姿ではなく町娘という感じに変装している段蔵である。彼女は例の衣装が入っている箱を持っていた。

 

 城に言い訳するのは大変であったが、秩父の視察に行く。頼重は神社関連で知見がある人物が必要だったと言うと、疑いながらではあるがある程度信じてくれた。ついでに秩父にいる者たちには口裏を合わせるように厳命している。神社関連なのは間違っていないので決してまるっきり嘘という訳でもない。それに段蔵がいるため変なことはしないだろうという事で行くことが許された。おかしい、私の方が立場は上のハズなのだが。

 

 諏訪頼重が出歩いても良い理由だが、人質は彼ではなくその奥方の方である。故に、まぁ頼重は良いか……という感じになっているのだ。一応奥方である禰々殿には話は通してある。ちゃんと生きて帰るつもりなので安心するようにも伝えておいた。ダメそうなら速攻で撤退して高名な寺社の僧侶神官を引き連れて殴り込みに行くつもりである。

 

「……結構遠いな。歩きだからか」

 

「もう間もなくです。ここを過ぎればもうすぐかと。ほら、ありました」

 

 段蔵の指差す先には山の合間の谷に作られた集落が見える。家の数はどれくらいあるのか、ここからでは全体像を把握することは出来ない。道は真っすぐ村の中心地に続いていた。その村の入り口らしきところに地蔵のような像がある。それの前の踏み越えた瞬間にピリリと何か電流の走るような感覚があった。

 

「……今のは?」

 

「結界、であろうか。おそらくその類であると推察するが……」

 

 頼重も歯切れ悪く答える。結界とはよく聞く言葉である。建物の敷地などもそういう性質があったりするし、鳥居や川などはそれを区切る性質があるともいう。城も一つの結界で守られた領域だ。神関連のものや禁足地と言った類のものから、もっと簡易的なものまで様々だが、今回のは初めて味わう感覚である。つまりは、ここの結界はかなりの強力なものである。もしくは呪術的に機能していることを示す。

 

「お二方、参りましょう。これは危害を加えるようなものではありません。おそらく、中の何かを出さないようにするものでしょうから」

 

 段蔵は言いながら前へ進んでいく。戸隠は存外魔境らしい。この程度の結界はありふれているという事か。前に聞いた石とやらと関係があるのかもしれない。何ともオカルティックな話だが、最早否定できない領域に来ている。この世界には、と言うよりこの国にはホラーや怪談で語られるようなオカルト的な存在がしっかりあるという事が分かった。分かりたくなど無かったが。少し身震いして、頼重を顔を見合わせて、段蔵の後に続いた。ここでは我らは彼女の護衛という設定である。

 

 村で一番大きな家の前に着く。戸を叩き、桐屋から来たと名乗ると歓迎するように中へ通された。この家の主らしき人物が現れて我々を舐めるように見つめる。どこか生気の無い目が印象的だった。

 

「桐屋の段子です。店主より命じられ、ご注文の品をお届けに参りました。これは用心棒の滝夜と輪須でございます」

 

「ふむ。決まりは守っておられたでしょうな」

 

「はい。全て」

 

「よろしい。確かに受け取りました。また五十年後にと店主にお伝えあれ。……さて、今宵は歓迎いたしましょう。貴殿らもお役目の一つ。泊って行かれるがよかろう」

 

「ありがとうございます」

 

「そちらのお侍二人も、どうぞ」

 

「忝い」

 

 招き入れられたのは好都合と、私が返事をして中へ入る。段蔵がまず屋敷に上げられ、我々も続く。広間のような場所では宴会が催されていた。しかし妙だ。山奥の寒村に此処までの品が揃うものなのか。中には肉や魚もある。それも鮮魚の類。海でしか取れないものが、どうして奥多摩の奥にある。いるのは大人の男たち。だがどうにもどこか生きているような感じはしない。子供の姿が無いが、まぁ宴会に参加するようなものではない。不意に嫌な予感が走った。

 

「段子様、今日はもうすでにここへ来る前に食事を済ませております。これ以上食べては体に毒。ここは……」 

 

「そうですね。ご主人、申し訳ないのですが、我々は旅路に疲れております。今日はもう、失礼したいのですが……」 

 

「それは残念ですが、仕方ありますまい。布団を用意しておりますので、そちらでお休みください。案内させます」

 

 段子は偽名である。超適当だが、本名は良くないという事で徹底的な対策をしての行動であった。私は()()()()()()()()を名乗っている。頼重は輪須(諏訪を単に反対にしただけ)という名前だった。呪術では相手の名前を知る事は大きな意味を持つ。故に諱という概念があるのだから。

 

 案内された部屋に通され、人の気配がないことを段蔵が確認すると頼重が問うてきた。

 

「何故、不参加を?」

 

「お主も店主の話を聞いていたであろう?老婆が言うには、帰って来なかったと」

 

「毒でも盛られていたと?」

 

「それならば私が気付きます。私は毒に耐性があります。並大抵のものでは聞きませんのでご安心なさってください」

 

「いや、あれが毒ならばまだいい。おかしいとは思わないか。こんな山奥にあんな豪勢な食事。食って生きて帰れればいいがな。最悪あの世の者、異界の者になりかねん」

 

「黄泉戸喫か……」

 

 イザナギイザナミの話やペルセポネの話にでも出てくる概念である。ここが異界でない証拠などどこにもない。あらゆる想定をしておくことに問題があろうはずがないのだ。我々は幻術使いの忍者と神官と侍。一見神官が強そうだが、別に妖怪や幽霊の退治をした事は無いという。私も無い。当然段蔵も。みんな心霊系は初心者だが、何とかできそうなのがこれしかいないからやっているのである。黄泉戸喫かどうかを見分ける術はなかった。

 

 こんなところで怪談噺の好きな友人の話を聞いていたことが助けになるとは思いもしなかった。元気にしていると良いのだが。後、私はsirenをプレイしている。アレもなんだかこんなような田舎が舞台だった気がする。というか、羽生蛇村って東京都の奥多摩だったような……。まぁアレは作り話だが、何とも嫌な偶然である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ともあれ、油断は禁物という話になり、我々は交代で見張りをしながら夜を明かすことにした。最初は私が起きている番だった。この村の中に漂う嫌な気配。そして生気のない村人。ここは何なのか。それを考えながらじっと揺れる蝋燭を見ていた。どれほど経ったのだろうか、トントンと庭に面した障子を叩く音がする。開けて外を見れば、一人の女性が寒空の下にも拘わらず立っていた。ギョッとして残りの二人を叩き起こした。

 

「夜分遅くに失礼いたします。お三方は外から参られた方でしょうか」

 

「いかにも」

 

「お食事はお食べになりましたか?」

 

「いや、遠慮しておりました」

 

「それは良かった。数日ならば大丈夫とは存じますが……。ともあれ良かったです」

 

 聞きたいことは色々あったが、とりあえず女性を中へ招き入れる。こちらもどこか幽霊のような顔をしていた。しかし一応心臓は動いているようで腕を触った際に鼓動があった。それだけでも少し安心できるところがある。どうしたもんかと思ったが、私が代表として質問をしていくことにする。

 

「やはりアレは食わんほうが良いのか」

 

「はい。あれは神の一部です」

 

「神!?」

 

 とんでもないものが出てきた。やはりそっち系とは思ったが本物の神とは。八百万というからには色々いるのだろうが……。驚いたり唸っている我々に、女性はこの村について話し始めた。

 

 曰く、この村は昔から存在しているが、山間故に対した収穫も見込めず、凶作が多かったという。ある時期、大飢饉が何年も続き、村は餓えて全員が餓死するところまで行った。もはやどうにもならないと感じた村の長は、古老に方策はないかと尋ねた。古老が言うには神仏に縋るしかないだろうという事であった。

 

 そこで生贄として長の娘を嫁に捧げることで神を呼ぼうとした。確かに呼び出されはしたらしい。召喚は成功したが、同時に失敗でもあった。呼ばれたのは神では無い、怨念のようなもの。どこの誰なのかは全く見当もつかない恨みを持った念であった。女性の想像では、どこかで同じように生贄に捧げられた者なのではないかという。ともあれ、そんなものを呼び出してしまい慌てる長に向かい怨念は取引を持ちかけた。

 

 己は神になりたい。しかし信仰が無くては神の座には至れない。信仰を持ち、何らかの願いを叶えれば神の末席に入れると。神道系の正式な手段を踏まないのならばそうするしかないらしい。ともあれ、それならばという事で長は豊穣と餓えぬことを願った。そして怨念は一時的な疑似神格を得て願いを叶えた。ただし、一回こっきりでは神には至れないという。なのでその念はさらに取引を持ちかけた。永久に自分を拝み、娘を五十年おきに差し出す事で豊穣を続けようではないかという事らしい。長はこれをも受け入れた。

 

 それ以後、村には山海の珍味やらがどこからともなく現れ、また米は作れば作るほど実っているらしい。ただ、無から物は生み出せない。それの出どころはその半分神で半分怨念の一部から生成されているという。それにより、村人はそれを食べてしまい身体に取り込む。じわじわ身体がその神もどきに染まっていき、最終的には魂も囚われてしまうという。そして死を迎えてもあの世に行けず、魂はこの村の中に虫かごのように保存されている。

 

 そして五十年前に帰って来なかった商家の人間はここに取り込まれてしまっているらしい。なんでも、あの食事を複数回摂取すると村から去る意思が無くなり、この中に留まろうとする。妙に生気がない顔だったのは、半ば神もどきの作っている異界と化したこの村で生きているため、現世の者では無くなりかけているからだそうだ。

 

「で、それを何故お主は知っている?」

 

「これを知っているのは本来村長、お三方もお会いになったこの家の主だけです。ですが、私は次の花嫁なのです。五十年に一回なのは寿命が来るからでしょう。花嫁だけがこの村のことを知らされるのです。神に必要なのは信仰と生贄、そして神がそれの代わりに払う代価だとその念は言ったそうです。私は生贄に当たるのでしょう。私は死に、そして村の皆は五十年餓えることなく生きながらえるのです」

 

「人柱か……。だがその話をして良いのか?」

 

「私は……この因果をどこかで切らねばと思っています。その念がもし本当に神になってしまったら、それこそどんな災いがあるかもわかりません」

 

「呉服屋の初代はここから来たそうだが、どうやってその輪から抜け出したのだ?」

 

「取引したようです。ここから出て、アレとの繋がりを断つ。その代わりに五十年に一度の婚礼衣装を必ず新品で持ってこさせる。花嫁の衣装に男の匂いはつけないように、女だけでやらせる。高級なものを使い、神を祝う祝詞を混ぜ込む、と。この提案をアレは受け入れ、外に出したようです。もう相当昔の話になるようですが……」

 

 神ではないにしても信仰を集め、半ば神と化した存在からの祟りが恐ろしかったのだろう。故に初代は巻物を残し、五十年に一度の祭りに際し必ず衣装を送らせた。一応契約でもあるこれを破れば、どんな代償が待っているか分からないのだから妥当とも言えよう。

 

「お三方は早くお逃げください。ここにいてはいずれ取り込まれます。あの食事も水も皆毒なのですから」 

 

「案ずるな。我らはその神もどきを退治するべくここへ来た。私は武士。そこの男は名高き大社の神官。そこの娘は商家の者ではなく忍び。いずれもそれぞれの生業における腕には自信がある。必ずやその神とやらを退治してみせよう。この関東にそんなものを放置は出来ん。それに、誰かを犠牲にせねばならない事などあるはずがない。神に頼らず、我らは生きねばならんのだ」

 

「……分かりました。私からはご武運を祈る事しかできませんが、どうか、どうかこの村の因習を解いてください。お願いいたします」

 

「任せておかれよ。皆もそれで良いか?」

 

「私は主殿の仰せに従うのみでございます」

 

「無論、構わない。私もその為に来たのだ」

 

「だそうだ」

 

「ありがとうございます……!」

 

「祭りと称した婚礼はいつ?」

 

「衣装が届きましたので、明日には行われるでしょう。村はずれの社に私が輿に乗って担がれ連れていかれ、酒と食事と共に放置されます。そして皆は帰るというのが儀式の手筈です」

 

「分かった。ではその社の近くで隠れているとしよう」

 

「よろしくお願いします……」

 

 ここにいたのが露見するとマズいと言って女性は帰っていく。俄かには信じがたい話で満ちていたが、そういうものだと思うしかない。嘘を言っているようには見えなかったし、やはり居心地の悪いというか気持ちの悪い空気は漂っている。それは村に入ったときから段蔵や頼重も感じているようだった。

 

「嘘か真かは分からぬが、嘘にしては出来過ぎているしこの妙な気配の理由にも説明がつかん。ともあれ、信じるしかなかろう。明朝、すぐに発つふりをするぞ」

 

「承知」

 

「相分かった」

 

「頼重、何か策はあるか?」

 

「一応存在はしている。いるが……不確実だ」

 

「構わん。私よりは詳しいだろう」

 

「……では話そう」 

 

 頼重の話を聞く。確かにそれは理にかなっているようであった。頼重の行う神事が成功するのかどうかにかかっているのだが、成功すれば確かに偽物の神であるのなら討滅できるであろう。作戦会議は終了し、段どりの確認をしていく。更け行く夜の中、一晩中話は続いた。

 

 

 

 

 

 

 明朝。主に命じられているとか適当なことを言ってすぐに屋敷をお暇した。残念そうな顔の村長であったがどこまで本心かは分からない。残念なのも取り込めなくて残念と思っている可能性もある。ともあれ、村から去ったフリをしつつ、山間に潜む。この辺は段蔵の得意分野であった。

 

 社の近くにある山中に潜伏する事が出来た。村の様子を見れたので確認すれば、飯炊きの煙があちこちから上がっており、人々が忙しそうに歩いている。やがて日が暮れる頃、無数の灯りの列が動いているのが見えた。真っすぐ近くにある社を目指している。提灯の灯りに照らされて、昨日の女性が輿に乗っていた。当然来ているのは持ってきた衣装。誰も何もしゃべらない無言の中、行列は粛々と社を目指している。

 

 これだけ言うと幻想的な感じがするが、誰も彼も生気がない顔をしているので婚礼行列ではなく葬送みたいな感じになっている。何とも不気味な感じであった。行列は社の階段を上り、女性を置いた。そして近くに酒と食事を置き、すぐに去って行く。まるで逃げるように素早い足取りであった。いよいよ本番である。我々男二人は村人がいなくなったのを確認して、社の中に躍り出た。段蔵は万が一に備えて脱出の準備をしている。

 

 その場は冷や汗がするくらい重い空気が漂っている。淀んでいるというか、とにかく重い。そして凄く臭い。腐臭のような臭いだ。怨念が生み出しているものなのかもしれない。重苦しい空気の中、女性は微かにこちらを見た。我々が頷くと彼女は少し安心したような顔をした。

 

 神殿の戸がバタンと音を立てて開く。嫌な音を立てながら、気味の悪い気配がどんどん濃くなっていく。そして、奥からのっそりとその姿が現れた。顔が一つの首に複数あり、手も足も首の下から四方八方に伸びている。それでいて胴体は虫のようであり、羽はアブのようだった。何とも気色の悪い姿である。元は人であったのだろうが、それが怨念だけで此処までになれるのかと思うとゾッとする。そして先ほどから脳内の危険信号が鳴りやまない。冷や汗が出て、震えも出てきた。

 

 後ろでは頼重が祝詞を唱え始めた。昨晩の作戦通りである。この呪文は神を降ろすためのものであるらしい。諏訪家は元々祭神である建御名方神の子孫という。そして、代々の大祝は現人神とされていた。その継承者だけに知らされる神を己の身に宿し、一時的な先祖返りを行い、神の力を引き出すための方法があれであるそうだ。疑似的な建御名方神の召喚式とも言える。これを利用する策であった。後は私の交渉力にかかっている。

 

「恐れ多くも言上仕る!」

 

 化物の大量にある顔がこちらを見据えた。

 

「我ら二人、この地を訪ねし旅人也。この地に大変強い神ありと聞き、そのご尊顔を拝し奉らんと欲した次第。畏くもその大神におかれては、ご婚礼を拝謁せんことをお許し願いたく存じ申し立て候。我が後ろの控えるは元は名のある神官。されど乱世に絶望し、信仰を一度捨てたる。しかし今ここに至りて御身の神気に当てられ信仰を取り戻したりと申し候。故にご婚礼を祝う祝詞を勝手なれど申し上げております次第にございます」

 

許す」「許す」「許す」 

 

 頭が幾つも答える。相当に気色が悪いが、それはおくびにも出さず、言葉を続ける。

 

「さぞ名のある神とお見受けする。某は一度、諏訪の大社に参じし事あれど、そこにて感じ受けた神気よりも遥かに優れたり。いずれは坂東を越え、日ノ本を覆う神になられると拝察致さん」

 

大社?」「大社?」「大社?

 

「諏訪大社、建御名方神を祀る社にござる」

 

良きかな」「良きかな」「良きかな

 

 どうやら機嫌を良くしたらしい。話を聞く限り、神になりたい存在だという。であれば、その神よりも強い、しかも名の知れた神より強いと聞けば機嫌も良くなるというもの。幾つもある顔が気持ち悪いくらいに笑顔になっている。花嫁が来て、強い神よりも上と言われ、さぞ上機嫌なのだろう。だが、怨霊には悪いがそれはここまでである。頼重の方をチラリと見れば、終わったらしく頷いている。そして私は本命の質問をぶつけた。引っかかってくれ。

 

「やはり、建御名方神よりも御身の方がお強いか?」

 

然り」「然り」「然り

 

「我が太祖にして水・蛇・風・狩猟・農耕・開拓、そして戦を司りし大神よ、我が眼前に立つは御身を超えんと称する不届き者である。神ならざる怨霊の分際でありながらも、分不相応に御身を上回ると妄言を弄する輩也。されど我に討滅の力なく。願わくば、我が身に代わりて討ち果たすことを願わん!」 

 

 途端に淀んだ空気の社に突風が吹き荒れる。社の前の鳥居が音を立てて崩れた。ここの神域を司っていた結界が崩壊したのだ。澄んだ空気が一気に流れ込んでくる。相対的に腐ったような臭いは消えていき、綺麗な清流のような臭いになった。

 

 頼重の顔は変わっていない。しかし、纏っている雰囲気がどこか人ではない何かのように思えた。

 

「不敬也。誅さん」

 

 頼重の口から、頼重ではない何かの声が響いた。突風は豪風に変化し、空には雷鳴が轟き始める。隙を突いて段蔵が花嫁の女性を救出。着ていた衣装を脱がし、燃やした。

 

騙したな」「騙したな」「騙したな

 

 怒りと憎しみに満ちた声が響き渡り、怨霊の長い腕や足が次々と私や頼重の方へと飛んでくる。その腕が巨大な鎌のようなもので切り落とされた。諏訪地方では暴風を鎮める道具として鎌を竿の先に結びつけて風の方向に立てる習慣があるという。そこから転じて鎌が諏訪明神(建御名方神)の御神体とみなされているとも言われている。  

 

 痛みにもだえ苦しむ化物。多くの血が滴っている。私も刀を構えていつでも攻撃出来るように備えた。

 

「当代はこれが限界か……」

 

 そういう声が響いたと共に頼重がフッと糸の切れた操り人形のように倒れる。神秘が弱っているこの時代、神が降りてくるのにも限界があったようだ。しかし、それでも淀んだ空気は吹き飛ばされ、聖域は破壊された。聖域にいる限りその存在はなんであれ強い。しかしそうでなくなってしまえばこちらの物だ。

 

あああああぁぁぁァァァ!

 

 悲鳴か雄叫びか分からない声を上げながらこちらに向かって突進を開始した。頼重は段蔵が回収してくれている。後は私とこの巨大な化物との戦いだった。とは言え、動きはとろい。綱成や上泉信綱の方がよっぽど早い。図体はデカいが、現在手傷を負い動きも緩慢。元々そこまで賢くも無いようだ。

 

 残っていた腕にある爪が微かに顔の前を掠る。先の川中島での傷が風圧で少し開いてしまった。血が額から滲んでいるのがわかる。

 

「我、天照大御神より百九代の後胤たる当代の帝よりこの地を賜りし北条左京大夫よりこの地を賜る者也。領主の責務として、帝と主の名において、汝を討滅致さん!神妙に覚悟せい!」

 

 そうは言ったものの、具体的に何かが出来るわけではなく、完全に剣頼りである。一方の化け物は、私の飛び散った血を舐めていた。血を舐めて回復するのはもう完全に化物となっている。曲がりなりにも神を名乗っていた頃の感じは完全にない。荒ぶる獣のようでもあった。だが舐めた瞬間に必死に吐き出そうとしている。何だかよくわからんが、チャンスであるのは事実。抜き身の刀を構え、足を踏み出す。

 

「消滅せよ」 

 

 のたうち回る化物に剣を振り下ろす。多数の顔は恐怖に染まり、私を見ていた。否、私の後ろにいる何かを見ていたような気がする。そして私の剣が化物に触れた瞬間、ソレは消滅した。悲鳴をあげる暇もなく、溶けるような感じすらなく、一瞬で塵のようになり消えていく。 

 

 断末魔も無かった。文字通り、消滅したのだ。神秘に対する何らかの特攻兵器なのは間違いないだろう。何故こんなものがあるのか。由来を知っていても、どうして神々がそれを承認しているのか。全く分からないが、ともあれこれの効果は確認できた。今後はオカルティックな出来事にもある程度は対応できるだろう。

 

 消滅を確認すると同時に地面が揺れ始める。見れば、社が倒壊しかかっていた。あの社も先ほどの化け物の力で存在を保っていたのだろう。それが無くなった今、この地は不安定化している。既に退避していた段蔵に先導され、慌てて社の敷地内から撤退した。振り返れば、建物も石畳も全て朽ち果て、周りの木や土に埋もれて行っている。

 

 轟音にやっと頼重も目を覚ましたようだ。崩れ行く社を眺めている。段蔵に救出された花嫁であった女性も無事そうである。我々四人はただただ何百年もこの地に巣食ったモノの末路を眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 しかしいつまでも眺めている訳にもいかない。この後のことを考える必要がある。私と段蔵、頼重の三人は任務が終わったので帰還する。しかし、この女性はそういう訳にもいかないだろう。この後村に残り続けるわけにはいかない。今回の儀式は失敗し、それどころか崇めていたものは消滅してしまった。ともすれば、この村に今まであった恩恵、すなわち飽食の恩恵も消滅するであろう。その責任を誰が負わされるのかと考えれば自明の理であった。

 

「お主」

 

「は、はい」

 

「このまま村には戻れまい。今回の件は衣装を作った呉服屋に依頼されてのものであったのだがな。その呉服屋、店の拡大に伴い人手を探しておるそうな。そこで働くがよかろう」

 

「ありがとう、ございます」

 

「お主とあの化物との縁も切れたであろう。これからは平穏無事に過ごせるはずだ」

 

 それを聞き、泣き出してしまった。いろいろな感情があっただろう。彼女がここまで育ったのは間違いなくあの化物が与えてくれる恩恵のおかげ。けれどそれは多くの犠牲を伴っていて、自分の後にも犠牲になる者が出る可能性が高い。だから我々を渡りに船と頼ったのだろうが、どこか半信半疑な所もあったのだろう。それがあっさりと成功してしまったのだから、感情が決壊しても無理はなかった。

 

 魂は解放されたものの、大混乱に陥っている村をよそに、脱出を敢行する。我々に追手が来ることもなく、そもそも我々が元凶とも把握できていないようであったが、ともあれ城には無事到着する。呉服屋には万事解決した事を告げ、あの巻物は焼き捨てるように命じる。ついでに、救出してきた女性を働かせてやるように伝えた。これで粗略にはされまい。

 

 兎に角、何とかこの件はある程度の決着を見せたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 頼重にも伝えなかった後日談がある。税金徴収を霊的な結界のせいで出来なかったあの村を帳簿に組み込むべく今度は兵を率いて向かったところ、その人口が半分ほどに減っていた。これでは食っていけないと絶望した者は一家心中を行い、そうでない者も責任のなすりつけ合いで争い合って殺し合っていたという。あの女性はそもそも身寄りがなく、故に選ばれたらしい。そんな争いの中で残っている村人も少しずつ減っていき半分ほどになってしまったそうだ。

 

 村長も自殺してしまった為、新たな代表を立てさせる。そして武蔵の神社から人を呼び、死んだ村人の鎮魂を兼ねて社を再建。ちゃんとした神を祭るようにした。今まで異常な中に生きていた彼らだが、徐々に普通の生活に戻っているという。これからは苦難もあるだろうが、何とか生き残れるように支援はするつもりである。

 

 今回の件、放置しておけばあの村はそのままだっただろう。五十年に一度、誰かを犠牲にするだけで皆が平和だった。ただ、それが正しいとは思えない。神無き世を作り、人の力で前へ進むためには、潰さなくてはいけなかった。やっていることはあの村を犠牲にしているので、犠牲を出しているという点では同じなのかもしれない。

 

 悩みどころではあったが、私は私の正しいと思う事を領民に対して行う義務があり、そうでないと思うものを排除する必要がある。それが私の責務であり、権利だ。私はそれを果たしたのだ。そう思って、この件を終わらせることにした。三鱗記にもつけないでおく。これは、きっと葬った方が良い歴史なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 兼音の思惑とは裏腹に、彼が救出した女性によって密かに伝承は伝えられていく。秩父地方に現代になっても伝わる民間伝承に『一条公悪神討滅』という話がある。多少話の内容は違うものの、村に巣食う悪神もどきの化け物を、諏訪頼重と加藤段蔵とのトリオで倒すというものであった。

 

 これにより、インターネット掲示板の怪談やライトノベルなどでこのコンビは怪異退治のプロとして扱われていくこととなり、講談なども発展。関東や諸国を周り怪異を退治する話が庶民の間に流布していった。「一条兼音・諏訪頼重・加藤段蔵の妖怪退治」と「一条政景・上杉朝定の世直し」、北条氏康が引退した後を描いた「氏康公捕り物推理潭」の三つは現代でも良く知られる講談やドラマの題材である。現代のネットでは、一条兼音の守護霊は凄まじい力を持った存在という風に語り継がれていくことになっていった。




<おまけ・未来、第二次世界大戦の世界情勢設定>

大亜細亜共栄圏……大日本帝国を盟主とする陣営。経済・軍事・教育などの面での協力を図った広域同盟圏。加入条件は内政不干渉・多文化尊重・対話主義の三つを守る事。加盟国:大日本帝国、大韓帝国、中華民国、チベット教国、フィリピン海上共和国、パプアニューギニア連邦共和国、インドネシア連邦、ビルマ連邦共和国、シャム帝国、カンボジア王国、ベトナム共和国、インド連邦帝国、ネパール王国、ブータン王国、アフガニスタン王国、ペルシャ帝国、オスマン連邦帝国、サウジアラビア王国、エチオピア帝国

枢軸国……ドイツ第三帝国を中心とするいわゆるファシズム国家の集合体。とは言え、中身はそれぞれ強大な敵を抱えているが故に仕方なく加盟している国家も多い。加盟国:ドイツ第三帝国(ノルウェー・スウェーデン・デンマーク占領)、イタリア王国、スペイン王国、スロバキア共和国(ドイツ傀儡)、クロアチア独立国、ギリシャ王国、フィンランド王国、セルビア救国政府、ルーマニア王国、ブルガリア王国、ヴィシー政府、ハンガリー王国、北米自由帝国(元英領新大陸植民地。現在のカナダとアメリカの領域を保持。なお、アラスカは日領)

モスクワ条約機構……ロシア帝国主導の陣営。加盟国は少ないが、歴然たる影響力を持っている。ただし、内情はかなり厳しい。加盟国:ロシア帝国、ウクライナ共和国(ロシア傀儡)、ポーランド共和国、モンゴル共和国、大満州帝国、東トルキスタン共和国

連合国……イギリス主導の陣営。大日本帝国とは協力関係にある。盟主の英国は日本と永久同盟を結んでいる。加盟国:大英帝国、自由フランス政府、ポルトガル共和国、アイルランド共和国、オーストラリア連邦、ニュージーランド、中南米諸国、メキシコ合衆国、ベルギー王国亡命政府、オランダ王国亡命政府、デンマーク王国亡命政府、ノルウェー王国亡命政府、ルクセンブルク公国亡命政府、南アフリカ連邦共和国、リベリア共和国

マシュマロ→https://marshmallow-qa.com/tanuu90004861
感想欄では聞けないけどメッセージ送るほどでも……みたいな質問あればどうぞ。他にも作品の事なら割と何でも答えるつもりです(定型文)。

次回からはお待たせしました織田回です!感想返信は章末まで終わってからやります。


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第107話 萱津の戦い 尾

基本話は信長公記の通りに進んでいきます。とは言え、解釈や背景、合戦の経過などは自説だったりを使っています。ご留意ください。

萱津の戦いにここまで描写を割いている信奈二次なんてほとんどないと個人的には思ってます。そもそも桶狭間前の合戦の知名度がね……。強いて言えば長良川と稲生くらいか?


【挿絵表示】

織田家家系図


 時期は上杉朝定の関東管領就任から北伐の開始、第一次川中島合戦の頃にまでさかのぼる。それまでの織田家は織田弾正忠家の織田信秀が大きな勢力を持っていた。この弾正忠家は土地を中心とした戦国で珍しく、津島と熱田を中心とした商業区域を牛耳っている勢力であった。この経済力が何度も斎藤・今川に挑める資金源となったのだった。

 

 しかし、その梟雄信秀も年には勝てず死去。その後は嫡女である織田信奈が継承することとなった。実は兄である信広もいるのだが、庶子であるために継承権は無い。これで信広が激烈に優秀ならば話は変わっただろうが、そんな事も無かった。だが家中は割れている。この信奈を支持する勢力とその弟信勝(信行)を支持する勢力に割れていたのだ。

 

 大勢力では佐久間氏が信奈を支持し、林氏や柴田氏は信勝支持である。その代わり信奈には長年仕えている小姓や弱小勢力が味方に付いており、多士済々であった。また、叔父であり家中有数の権力者である信光が信奈を支持している為、表立った混乱は起きていない。とは言え、北条家とは違いこの信光は信奈の家臣ではない。この辺りはまだ親族を家臣化出来ていない現状があった。

 

 葬儀での混乱を見た山口教継が裏切るものの赤塚の戦いで寡兵ながら奮闘。伝え聞く河越夜戦を参考に計略を実行し、赤塚の戦いで大きな戦果を挙げ、尾張国内に武勇を示した。だがまだ敵は多い。その統一事業はやっと幕を開けたばかりであった。

 

 

 

 

 さて、この織田家だが、織田大和守家という家がいる。別名は守護代清州織田家ともいう。この当主は織田信友。先の当主、織田達勝の養子であり、元は大和守家から分裂した分家の出であった。彼は家中での実権は無いものの、織田信勝を支援している。理由は簡単であり、武勇を示しており信秀の遺訓を継いでいる信奈よりも暗愚で扱いやすいと考えたからであった。

 

 とは言え、その当主自体も傀儡に等しく、大和守家の実権は坂井大膳・川尻与一・坂井甚介・織田三位らが握っていた。中でも坂井大膳の権勢は主をしのぐと囁かれるほどである。だからと言って人望も大望もない平均的な武将ではあるのだが。

 

 この坂井大膳はこれ以上信奈の声望が高まるのを恐れた。そうなる前に叩かねばならないと感じている。最近では熱田や津島に北条家の船が大量に寄港するようになっている。また、織田弾正忠家を守護・斯波家の家臣として認め、その弾正忠家に対し尾張国内での便宜を要請したりしている為家格も上がりつつある。その鼻っ柱をへし折ろうという考えであった。

 

「あの信奈とかいう小娘、放置しては取り返しのつかぬ事になる」

 

 大膳は膝を打ちながらそう切り出した。軍議の席には他の家老も当然参列している。しかし発言権があるのはほぼ大膳とその徒党のみである。主の信友は一応聞いてはいるものの、興味は無さげであった。

 

「最近では北条左京大夫と誼を通じておるとか……」

 

「だがむしろそれが誠ならばマズいのでは?北条は大国。もし攻め入ってきたら、そこまでせずとも援軍を送ってきたらどうする」

 

「信奈と戦わずに済む道はないか……」

 

 どこか弱腰の朋輩に大膳は語気を荒げて反論する。彼らの恐れの背景には信奈が吹聴した氏康との交流があり、土佐守とも交流があるという言説であった。どこまで真実か分からない以上、恐れるのも無理はない。だが、大膳はあり得ないと踏んでいた。

 

「各々方、良く考えられよ。関東からここまでどれほど離れておるのか。船に乗って来ようにも時間がかかる。それに北条に何の大義名分があろうや。我らは守護を奉じる身。守護を使えば大国北条も手出しは出来ぬ!しかもである。あの娘、我らが何とか取りまとめようと奔走しておった今川との和睦を破談にしおった。これ以上奴に振り回されてはならん。うつけ信奈を叩かねばならんのだ!なんとしても、徹底的に、今こそ!」

 

 大膳の大声が広間に響く。顔を顰めながらも他の将もその言い分に一定数の理があることを認めていた。尾張の守護代両家は相談し、今川との和睦を考えていた。守護は反対であったが、どうすることも出来ない。そのため何とか交渉が成りそうであったのに先の赤坂での戦いで破談になってしまった。山口の裏切りは今川と両守護代家の間で取り決められていたことだったのである。

 

 というのが坂井大膳らの視点の話であり、今川家は当然そんな約束を守る気はない。山口を取り込み、その後殺害。鳴海に猛将岡部元信を入れ、そこから三河衆を使い潰しながら西へ向かう算段であった。和睦は一時的な時間稼ぎと尾張国内に楔を打ち込むために過ぎない。だが当然そんなことを大膳らは知らなかった。

 

「では、坂井殿にはどのような策がおありか」

 

「まずは深田城と松葉城を襲い、人質を取り申す。さすれば熱田と津島は分断され、上手く行けば弾正忠家を弱らせることも出来るやもしれぬ。そうでなくとも、信奈を釣ることは出来よう。いかがでしょうか、信友様」

 

「大膳に任す」

 

「ありがたき幸せ。各々方、よろしいか、ここで信奈を叩かねば、必ず当家に害をなす!一気呵成に潰そうぞ!」

 

 応ッ!と声が響き、出陣の支度が始まる。その数日後、織田大和守家の軍勢が出陣した。朝早く襲撃計画を実行に移したため、深田・松葉の両城は大した抵抗も出来ずあっさりと陥落してしまう。この結果、松葉城主織田伊賀守と深田城主織田信次(信次は信奈の叔父で信秀の弟)を人質としてしまう。なお、この信次は紆余曲折の果て、史実では長島合戦で戦死している。ともあれ、織田大和守家はここで明らかに信奈への挑発行動へと打って出たのである。

 

 

 

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尾張・地図

 

 

 

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戦場周辺図

 

 

 

 

 この報はすぐ様那古野にいた信奈の元へと届けられる。中々従わない家臣、北の斎藤東の今川西の長島。しかも織田家でも内ゲバばかり。尾張で団結しないと何処にも勝てないと分かり切っているのに……と歯がゆい思いをしていた信奈からすれば千載一遇の好機である。わざわざ向こうから来てくれるのであれば、大義名分をひねり出す必要もない。

 

「申し上げます!織田大和守家俄かに軍を興し、松葉・深田の両城を占拠した模様にございます。両城城主は人質とされている模様!」

 

「デアルカ」

 

 短く答え、信奈はその頭を働かせる。とりあえず、叔父は助けないといけない。織田伊賀守はそこまで大身では無いが、それでも一門。助けないといけないのには変わりはない。とは言え、このまま単身挑むのは心もとない。その為、援軍を乞うことにした。

 

 信奈は即座に家臣を集め、出陣を告げる。馬廻りやその他のすぐに動かせる兵だけを連れ出陣した。家臣団が大慌てになっているのをよそにの行動であった。林氏などは何と言う破天荒なと顔を顰めたが、ともかく出陣要請が来ているのは無視できない。今度こそ無視できない理由としては、流石に津島と熱田の分断はマズいと誰もが分かっているからであった。

 

 信光も駆けつけ、また信勝の家老である柴田勝家も信勝の命を受けて参陣していた。信勝本人は土田御前の強い要望と本人のやる気の無さゆえに参加していない。なので名代として最強格の勝家を送ったのであった。

 

 那古野を出た信奈は織田信光の居城でもある稲葉地城周辺に集結。ここに織田大和守家に対処するための軍勢が出来上がった。

 

「六、参陣大儀!」

 

「ははっ!」

 

「それで、勘十郎は?」

 

「信勝様は……その……」

 

「はぁ……また母上ね。全く余計なことしかしないんだから。それに勘十郎もいい加減親離れしなさいよね」

 

「信奈、その辺にせい。勝家も困っておる」

 

 愚痴を言い始めた信奈を止めたのは信光。まだまだ若く青い。才はあるものの先走り気味だったり人心掌握がいまいちだったりする信奈のフォローをしていた。普段あまり信奈に強気に出れない平手政秀も恐縮しきりである。この信光、実は彼の創建した凌雲寺という寺があり、幼少期の信奈はここに手習いに出ていた。真面目に勉強せず遊んでばかりの悪童であった信奈だが、信光はそのやんちゃも好ましいと思い微笑ましく見ていたのである。その為、信奈を支えようと悪戦苦闘しているのであった。

 

「それでじゃ。我らはどう進む」

 

「それはもう決めてあるわ。まず、隊を三つに分けるわよ。爺(政秀のこと)は松葉口から松葉城の救援に、右衛門(佐久間信盛)は深田口から深田城の救援に向かって」

 

「承知いたしましたぞ」

 

「ほっほっほ。任せて下され」

 

 指名された両名は返答する。前者が政秀、後者が信盛である。政秀は既に老境。それでも弾正忠家筆頭家老としてその辣腕をふるっていた。戦でも大きく働ける能臣である。信盛は大勢力・佐久間氏の当主であり、土豪集からあまり好かれていない信奈の心強い味方であった。

 

 現在、信奈方の兵糧は那古野に残っている万千代こと丹羽長秀と優れた行政官である村井貞勝が差配している。抜かりはなかった。

 

「だがそれでは坂井大膳らに各個撃破されてしまうぞ」

 

「そうね。だから三つ目の本隊で萱津を急襲するわ。そうすれば、相手は全軍で以てでも萱津へ向かわざるを得ないでしょう。叔父上と私、六もここに置きましょう。他の馬廻りなども連れて行けば、大きな戦力となるはずよ」

 

 萱津の町は昔から鎌倉街道における庄内川への渡しとして栄えた町である。大和守家からすれば大事な収入源であり、おひざ元。そこを攻撃されたとあれば落とした二城を捨ててでもそこへ向かわないといけない。さもなくば、萱津の町が信奈に寝返ってしまう可能性も高いからだ。信光は頷き、信奈の策を了承する。

 

「とにかく速さよ。神速で以て、敵軍に思考の隙を与えない。これこそが肝要。皆、一気呵成に大和守家を討つわよ!」

 

「「「応ッ!」」」

 

 徐々に大将の気風を身にまとっていく信奈に、信光は感慨深いものを感じていた。

 

 

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信奈・作戦図

 

 

 

 

 

 

 稲葉地で一晩を明かし、翌日作戦通り三方面に分かれて進軍が始まった。予定通り、松葉城方面の松葉口には平手政秀が。深田城方面の三本木口には佐久間信盛が進軍している。そして本隊はこれも予定通り、清州口方面、萱津を目指し行軍していた。

 

 萱津へ進軍していることに驚いた大和守家方は松葉・深田両城に守備隊を少し残し、ほぼ全軍を率いて転進。萱津の近くに到着することに成功する。だがその時既に町は信奈方に占拠されていた。これには大和守家の軍勢にも動揺が走る。

 

「大膳殿、マズいのではないか。思った以上織田信奈は手強いようだ」

 

「分かっておる。だが軍勢の数が思ったよりも少ない。こちらにも甚介始め、剛の者が多い。一気呵成に叩き潰してやろう」

 

「しかし……」

 

「三位殿、怖気づかれたか。それともよもや、うつけ姫に……」

 

「な、内通などしておらん!なんであの娘に組せねばならんのだ。父親の葬儀で抹香を投げる気狂いになぞ付いていてはこちらまで狂ってしまうわ!」

 

「ならばよろしいのでござる。大和守家を盛り立てるため、我ら家老が一致団結せねばならぬ時でござるぞ」

 

「分かっておるとも……」

 

 織田三位はどうも嫌な予感がすると思いながら陣を張っていた。というのも、坂井大膳の自信の原因は信勝派の調略にあった。信勝派の中に内通者を潜ませ、此度の戦に信勝派からは兵を出さぬように進言させていたのである。だが、大膳も知らないのだがその調略は失敗に終わり、柴田勝家が強引に押し通して出陣している。それに、信勝とて自身の財布を分断されるのはマズいと思っている。大膳が思っているほどはバカでは無いのであった。

 

 だが大膳はあくまでも信奈を侮っている。赤塚はまぐれだと信じているし、今川は実はそこまででは無いのかもしれないとも思っている。信秀についていた程度の山口など取るに足らない存在と認識していた。その上、北条家云々も嘘と決めつけているので、自信満々だったのだ。世の中にはこうして自分の見たいことしか見ず、聞きたいことしか聞かず、信じたいことを信じている者も多くいるのである。

 

 それもこれも、やはり葬儀が大きかった。あれでもう少しマシな態度をしていれば、ここまで舐められることも無かったのである。しかし後の祭りであった。だが最近は信奈の運のなせる技か、信奈のうつけという評判は敵が侮ってくれるプラスの作用をしていることが多かった。これで鳴かず飛ばず的な話なら信奈は名君待ったなしなのだが、別にそういう訳ではない。何ともしまらない話であった。

 

「小娘、この坂井大膳が捻り潰してくれるわ!」

 

 攻め立てよ!と大膳は軍配を振り下ろした。

 

 

 

 

 

 戦場は信奈に厳しい情勢だった。特に敵の勇将・坂井甚介というのが大暴れしている。勝家は自分が出ることを進言したが、信奈としては迷いどころであった。確かにここで勝家を出せば勝てる。とは言え、勝家は信勝派。勝家が坂井甚介を討ち取れば、信勝派は間違いなく勢いづくし、どんな行動をするかも分からない。派閥関係で即断できずにいた。それならばと信光は己の小姓上がりの武将に行けと命ずる。

 

 名を赤瀬清六といい、これまでの戦で幾度か武功をあげていた。彼ならば腕に覚えがある。甚介にも対応できるだろうと踏んでの信光の指示であった。これの期待に応えんと、赤瀬も勇んで出陣する。

 

「我こそは、織田豊後守信光が家臣、赤瀬清六なり!坂井甚介殿とお見受けする、いざ勝負!」 

 

「下郎、推参也!儂が名も知らぬような小童に討ち取れるような甚介様ではない。大和守家が家老の槍の味食らうがよい!」

 

 数度打ち合う。しかし、実力の差は確かに存在しており、徐々に赤瀬は押されていく。大和守家の筆頭家老である坂井大膳の縁戚であるとは言え、それだけでは家老までは来れない。逆に縁戚だからこそ警戒される可能性もあった。にも拘らず現にこうして家老として大和守家を差配する一人となっているだけのことはあり、その実力は尾張内でも猛将として知られていた。いくつかの戦いで手柄を挙げたとはいえ、赤瀬には荷の重い相手である。

 

 ブンっとその力に任せて振るわれた槍が無惨にも赤瀬の腹を貫き、無念!と絶叫して彼は地に倒れ伏した。この戦果に大和守家方は大いに勢いづく。戦場で高らかに嗤う甚介を見ながら、信光は肩を落とした。それを横目で見つつ、信奈は勝家の投入を決意する。

 

「六、頼んだわ」

 

「承知!」

 

 猛将・柴田勝家が出陣する。これにより信奈方は俄かに勢いづいた。猛将の誉れ高い存在の出現は、味方を勢いづかせるのに十分である。

 

「坂井甚介、尋常に勝負ッ!」

 

「何ッ!何故柴田がここに……。大膳め、しくじったな。信勝方は来ないという話であったのに。止むを得んか……」

 

「どうした、怖気づいたか!」

 

「吠えるな小娘。貴様の血で、我が槍濡らしてみせようぞ!」

 

 両将の激突が始まる。重たい槍を振り回す勝家。甚介も負けじと応戦している。だが勝負は互角。中々決着がつく様子がない。これがもう少し後の勝家であれば瞬殺とはいかずとも数合打ち合う後には甚介を血祭りにあげていただろう。しかしまだ彼女も年若く、本格化していない。筋量も後年よりは当然少なく、また場数も踏んでいない。その為、そこまで圧倒することは出来なかった。

 

 対する甚介はこれでも歴戦。まだまだ実戦には不慣れな勝家の弱点を的確に突き、幾度となく冷や汗をかかせていた。

 

「猛将柴田もこの程度!やはりうつけの将はうつけよ!」

 

 吠える甚介。本陣は暗い空気であった。信光が自信を持って送り出した赤瀬清六は討ち取られ、いわば秘密兵器の勝家も五分五分。長引くのは得策では無い。やはり、軍の中核にいる甚介を討ち取るないし戦闘不能しなくてはいけない。信奈が次の一手を考えている時、出陣を申し出る者がいた。

 

「姫!某に行かせて頂きたい。柴田殿の助太刀に参らん!」

 

「小一郎ね……。分かったわ。行きなさい!ここで甚介を討ち取れば、敵方の勢いはそがれる。どんなことをしてでも討ち取るのよ」

 

「はっ!」

 

 小一郎、本名は中条家忠。本家本元は武蔵七党横山党であり、その流れを汲む男である。信奈に早い頃から仕え、馬廻りとしてその実力を発揮していた。史実でも多くの戦いに参陣している男である。まだ若い彼であるが、馬廻りになるだけのことはあり、実力は確か。そもそも信奈は無能は嫌いであり、武にしろ文にしろ両方にしろ、何らかの秀でたところの無い者は側にはおかない。そういう観点で見れば家忠は多少なりとも信奈の目に留まるところがあったのだ。

 

 その家忠は今こそ武勲を立てんと言う思いと、このまま勝家が押し切れば総大将が参加もしていない信勝方の大手柄になってしまう。せめて自分と半々にして信奈の面子を保とうという思いがあった。馬を走らせ、なおも戦闘を続ける勝家の元を訪れた。

 

「柴田殿!助太刀いたす!」

 

 言うや否や、家忠は刀を抜き放ち甚介に挑みかかる。さしもの甚介も勝家の重たい槍から繰り出される連撃と、上手くそれに合わせて連携をしてくる家忠の剣戟には苦戦を強いられる。しかし、それでもまだ戦えている辺りに曲がりなりにも歴戦の将である実力があった。勝家と家忠の連携攻撃は確かに甚介を疲弊はさせていたが、決め手に欠けている。このまま逃げられてしまえば、討ち取ることは出来ない。両名はどうしたものかと思いながら打ち合っていた。

 

 

 

 

 

 勝家・家忠と甚介の打ち合いが千日手になりかかっているその時。戦場を犬のように走り回る小柄な姿があった。名を前田犬千代。後の名を又左衛門利家。槍の又左と後世に名高き将の一人であり、史実では加賀百万石の祖としてその名を知られている名将であった。だがこの頃はまだ無名。信奈に仕える小姓の一人に過ぎない。

 

 前田家の当主である兄・前田利久は病弱であるが故に主である信奈からそれとなく引退を勧められている。信奈としては自分の息のかかった犬千代をそのまま当主に据え、伊勢湾にほど近い荒子城周辺を確実な勢力圏に組み込みたいのだ。しかし利久としては「はい、分かりました」と受け入れられるような話ではない。それに、犬千代自身もそこまで目立った将ではない。譲ることは拒否していた。

 

 犬千代としては兄には申し訳ない物の、主の方が大事である。故にここで手柄を取って少しでもその名を高め、当主交代に問題が無いようにしたいのであった。そんな思いを秘めながら彼女はその痩身と低身長を活かし、人の波の間を縫うように進んでいる。目指すは兜首。虎視眈々と機会をうかがう少女の前に、坂井家の家紋の入った旗印を背負う男が現れる。犬千代には気付かず、部下に下知を飛ばしていた。

 

 獲物が来た、と目をギラリと光らせた彼女はそのまま一気に距離を詰め、将の前に躍り出る。

 

「貴様、何奴ッ!儂を坂井大膳が一門衆・坂井彦左衛門と知っての狼藉か!」

 

「坂井彦左衛門。名は分かった。後はもう、用はない」

 

「なんだと、舐め腐りおって、儂自ら成敗してく、れ……」

 

 それ以上坂井彦左衛門が言葉を紡ぐ事は無かった。その胴体を目にも止まらぬ速さで槍が貫いているのである。周りの近侍も止めに入れぬ速度であった。犬千代の槍はまだ完成していない。例えば北条綱成とやり合えば、犬千代が十秒と持たずに敗れてしまうだろう。しかし坂井彦左衛門はそこまで将ではなく、一門であるが故に取り立てられているだけであり、武勇も人並みかそれ以下の侍大将であった。

 

 近侍は犬千代に恐れをなして逃げ散ってしまう。彼女は特段何かを口にすることもなく、彦左衛門の身体が刺さったままの槍を高々と突き上げ、普段の数倍の大声で叫んだ。

 

「織田大和守家が侍大将・坂井彦左衛門。織田信奈が家臣、前田犬千代が討ち取ったり!」

 

 

 

 

 

 この名乗りが未だに勝家・家忠と打ち合っている甚介の命運を分けた。同族の者の討ち死にに一瞬だけ動揺し、甚介の視線が声のした方へと移る。その隙は非常に僅かな物であったが、勝家と家忠のしてみれば十分すぎるほどの時間であった。余所見など出来ないと視線を戻した時には既に遅かった。

 

 豪槍一突、勝家の槍が甚介の心臓を鎧ごと貫く。それとほぼ同時に閃光のような剣が煌めき、家忠の刀が甚介の首を跳ね飛ばした。織田大和守家が誇る猛将は二人の将を前に言葉を漏らす暇もなく討ち取られる。主を失った馬がどこへともなく逃げ去る。飛び散った血が大地を染めていた。

 

 この手柄を挙げた勝家と家忠は互いに顔を見合わせる。お互いに協力したからこその戦果であり、どちらかが奪うのは道理に欠けると両名は言葉なしに通じ合っていた。武人の誇りでもあり、僅かではあるが共に死線の中戦った者同士の絆のようなものであった。そもそも勝家は心は信奈にある。旧主・信秀の命で仕方なく信勝についているだけだ。故に、わだかまりもない。両名は共に討ち取ったと宣言することにした。

 

「織田大和守家が家老、坂井甚介が首!織田弾正忠家の柴田勝家と」

 

「織田信奈が臣・中条家忠が討ち取ったりぃぃ!!」

 

 戦場に響き渡る大音声。これまで暴れまわっていた強敵の死に信奈方は大いに勢いづき、同時に大和守家方は一気に崩れた。こうなってはもう戦いどころではない。坂井大膳や織田三位などはすぐさま逃亡を開始する。逃げようとする大和守家方に対して信奈は追撃を命じた。必死に食い止めようとする者たちの奮戦もむなしく、大和守家方は敗走。対する信奈方は散々に敵を打ち負かす結果となった。

 

 最終的に、この萱津口においては坂井甚介・坂井彦左衛門の坂井一族の他に黒部源介・野村某・海老半兵衛・乾丹波守・山口勘兵衛・堤伊与などを始め数十騎が枕を並べて討ち死にすることになる。

 

 

 

 

 ほぼ同じ頃、別働隊でも戦闘が起きていた。松葉城奪還と人質の救出に向かった平手政秀に対抗し、松葉城の守備隊は寡兵ながらも打って出る。城から二キロほど離れた馬島という地で決戦に挑もうとしたが、将の差も兵の数も歴然としている。先代信秀と共にあちらこちらを転戦した実力者相手に敵うはずもなく、あえなく敗走。矢による遠隔攻撃を執拗に行う政秀に対し大和守家方はなすすべなく、赤林孫七・土蔵弥介・足立清六などが討たれる。散々なまま敗走することとなってしまった。

 

 そのまま政秀は松葉城に入城。混乱の中囚われていたまま放置されていた織田伊賀守を救出することに成功する。

 

 

 

 また、同様に深田口でも戦闘が発生している。深田城の守備隊は城から三キロほどの地点に打って出る。ここにある三本木の町に守備の陣を敷く構えであった。とは言え、これと言って防ぐための防塁のようなものがある訳でもない。急ごしらえの陣地でどうにか戦おうとしたが、寄せ手は佐久間信盛。もし史実で信長に追放されなければ今頃大河の主役を務めていたかもしれないような大物だ。退き佐久間で知られるが、実際は撤退戦を指揮した事は少なく、攻城戦の方が得意である。そんな彼にこのようなお粗末な防衛は通じるはずもなかった。

 

 あっという間に攻め崩され、伊東弥三郎・小坂井久蔵をはじめとする大和守家方の屈強な武士三十騎ほどが討ち死にする結果となった。信盛は空き城となった深田城に入り織田信次を救出することになる。かくして織田弾正忠家領の分断を図った坂井大膳の策は、家老級や侍大将、足軽大将多数の討ち死にという最悪の結果で以て終結することとなる。

 

 松葉城を奪還した平手政秀、深田城を奪還した佐久間信盛と合流した信奈は、首実検の後清州城へ攻め寄せる。狙いは一気呵成に大和守家を滅ぼす事であった。

 

 

 

 

 

 

 

 軍議の席、信奈は喜色満面である。戦果としては大戦果に近い。大和守家方の兵は多くが逃亡し、残存兵もやる気がない。信奈の兵は戦勝で勢いに乗っていた。この調子で清州城を攻め落とせるかもしれない。そこまで彼女の脳内では青写真が描かれている。

 

「皆の者、良くやってくれたわ!敵将多く討ち死にし、こちらは被害軽微。松葉城と深田城も奪還し、弾正忠家の危機は脱した。城将の救出も成り、弾正忠家の武勇は尾張国内に轟いているでしょう。このまま一気呵成に大和守家を――」

 

「姫様、それはなりませぬぞ」

 

「……爺」

 

「此度の戦は大和守家より両城を奪うが目的。元より大和守家を倒すことは意図しておりませぬ。それに、大和守家を討たんと清州を囲えば伊勢守家もやって来ましょう。清州は堅城。また、清州には武衛様もおられまする。武衛様がおられる城に弓引いて万が一があれば……当家は逆賊でございます」

 

 政秀の言う武衛とは、斯波義統のことである。彼は正真正銘の尾張守護であり、また足利の血を引く名門、斯波家の当主でもある。斯波一族は奥羽などにいるのだが、彼が本家筋であった。実権は織田大和守家などに奪われているものの、尾張国内では尊敬を集める人物であった。

 

 そして彼と弾正忠家、つまりは信秀・信奈との関係は悪くない。と言うよりむしろ良好であった。元々斯波家の東海における領土は尾張と遠江である。しかし知っての通り、遠江は今川領。言ってしまえば応仁の乱の混乱期に火事場泥棒されたのだが、それ以来斯波と今川は不俱戴天。その今川と積極的に争っている信秀を義統が頼もしく思うのも無理はない話である。

 

 また、義統は破天荒な信奈を良く思っており、それくらいの勢いなくば今川は倒せん!と息巻いている。利害の一致、また義統自身の個人的心情によって弾正忠家と武衛家は親密な関係を築いていた。

 

「武衛様ね……」

 

 信奈も苦い顔である。彼女は旧権威が嫌いだ。それこそ、斯波家などはいなくなって欲しいと思っている。無論朝廷や皇室を否定したいわけではないのだが、室町幕府系の権威が嫌いであった。後は宗教勢力もであるが。ともあれ、心情的には斯波武衛家は排除したい。しかし義統のことは嫌いではないし、そもそも数少ない権威側の味方である。また、いずれ来るであろう今川との戦いの際の大義名分となるので大事であった。そんな板挟みの感情を悩ませた末、信奈は決断を下す。

 

「取り敢えず城を包囲しましょう。そうすれば信友なり坂井大膳は何らかの形で和議を乞うてくるはず。それを受けて、矛を収めることにするわ。爺の言う通り、武衛様に手を出すのは問題。今回は諦めるとする。それで良いわね?」

 

「はっ!」

 

 政秀は安堵したように頷く。実は彼の置かれている立場は思った以上によろしくない。彼は今川との和睦を探っていた。それは両守護代家との関係性を考えてのものである。信秀が死んでからというもの、弾正忠家は二つに割れかかっている。即ち、末森城の信勝派と那古野城の信奈派である。前者は両守護代家と結んで今川との和睦を模索していた。

 

 そして政秀は弾正忠家の家老なので信勝の家臣でもある。主筋の命に逆らえず、信奈の意思に反して今川との和睦を取りまとめようとしていたのは政秀なのであった。しかし、赤塚の戦いでこれは破談。政秀は信勝派からの信用を失い、両守護代家からは和睦を破談にした信奈を抑えられなかった責任を追及され、信奈からは勝手に信勝派の指示で和睦を行おうとしたことで不興を買い、今川への顔役も出来なくなるという四面楚歌の状況に陥っていた。

 

 信奈の意思と反して信勝派の意見を押し通そうとしたのはこちらも時間稼ぎのためであった。両守護代家も含めた織田家全部で一旦今川と和睦。東の脅威を少しでもいいので排除し、その間に信勝派との対立を解消し、尾張を統一し、今川に備える策であった。無論これは信奈にも話している。しかし信奈はあくまでも和睦はせず、また信勝派には強硬に臨むように主張。ここで対立が生まれていたのである。政秀なりの考えと親心のようなものを働かせて交渉をしようとしていたものの、それは裏目に出てしまった。

 

 そんな背景もあり、ここで武衛家を攻撃して余計な敵を増やしてはならないと諫言したのであった。信奈が取り敢えずは受け入れてくれたために一息つけたものの、顔は暗い。このままでは明るい未来は見えない。自分の行動は信奈を追い詰めているだけなのではないか。自分の存在が両守護代家や今川家の不興を買うのではないか。そんな感情が政秀の心中を渦巻いている。それを巧妙に隠していることに気付けるほど、信奈は大人では無かったし人心の機微にも敏感では無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 萱津の戦いと呼ばれるこの一連の戦いは信奈の勝利という形で、大和守家が和議を乞うたことで終結する。しかし、意趣返しと言わんばかりに大和守家は和睦の使者に来た政秀を追い返し、他の者を寄越すように信奈に要求。政秀は面目を失う形となってしまう。

 

 和議は何とか成立するも、政秀の家中での立場は悪くなる。そんな時に息子の五郎右衛門が父を不遇にしていることを信奈に抗議。これは出過ぎた行為と家中で問題となり、ますます政秀の居場所はなくなっていった。

 

 そして一月の十三日。寝ていた信奈の元に急報が届けられる。

 

「ご就寝中失礼いたします!緊急でお知らせしたき儀これにあり!」

 

「なにか」

 

 寝ぼけ眼を擦りつつ、信奈は使者の報を聞く。

 

「先ごろ、ご家老平手政秀様が居城・志賀城にてご自害あそばされました!」

 

 俯きながらも答える使者に、信奈は何も返せない。

 

「うそ……」

 

 ただそう呟きながら、へたりこむしか無い。こうして戦勝の湧く弾正忠家に不穏の灯が揺れ始めるのであった。




マシュマロ→https://marshmallow-qa.com/tanuu90004861
感想欄では聞けないけどメッセージ送るほどでも……みたいな質問あればどうぞ。他にも作品の事なら割と何でも答えるつもりです(定型文)。

萱津の戦いで一万字……。これ、桶狭間とか大丈夫かな。この後も織田回です。中市場とか村木砦とか書く予定。お楽しみに!

後、色々なご意見を反映して、これまで書いた型月コラボとか、設定集とかを活動報告に上げるつもりなので、良ければご覧ください。なんかあればそこに感想下さると幸いです。


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第108話 邂逅 尾

えー正徳寺の会見の後にある村木砦の戦いで良晴を出そうと思ったのですが、思いっきりミスりました。村木砦の方が後やんけ!という事でそこを史実と時系列を合わせるために何とか色々アレコレしたのが今回の話になります。あ、義元はいません。そんなホイホイ出てこねぇんだわ、あの人。

……というか、原作(ラノベ・アニメ)での良晴と信奈の出会いの場面、今川と戦ってるし義元もいるのこれ何の戦いなんですかね。多分村木砦(1554年)がモデルなんでしょうけど、正徳寺(1553年)と時系列が……。もうなんも分かんねぇ!(発狂)

と思って天と地と姫との五巻を調べたら村木砦って採点おばさ……長秀が指摘してますね。だとしたらマジで時系列ぅぅ!(泣き)あと、村木砦は普通にノッブの勝ちなんだが……。少なくとも総大将がそんなピンチになっていない。もうなんも分かんねぇよぉ!(二回目)

いつも感想ありがとうございます。楽しく読んでおります。返信はこの章が全部終わったらやります。必ずやります。なので、書いて下さると嬉しいです。私も書いていただけるくらいのお話にするべく頑張らないとですが……。


 

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尾張・地図

 

 

 

 萱津の戦いで織田大和守家に勝利し、勢いに乗るかに見えた織田弾正忠家。だが、冬の日に信奈へ届けられた凶報によりその勢いはそがれてしまう。平手政秀自害。これは織田弾正忠家の根幹を揺るがす大事件であった。

 

 これまで信秀の死後からずっと弾正忠家内は二つの派閥が存在している。当主である信奈派とその弟・信勝の派閥のである。両派閥はことあるごとに対立をしており、それは止む気配がなかった。また、信勝派は亡き信秀の正室である土田御前がバックについており、織田弾正忠家内でも大勢力である林氏などが味方するなど無視できない存在だった。

 

 一方の信奈派は新興勢力や商人集団、小身の武士などをバックにつけており、また佐久間一族が大勢力としては支援に入っている。一般的に丹羽家も大勢力とされがちだが、長秀の実家はそこまで大した家柄ではない。どちらかと言うと下層階級であったが、長秀個人の能力で何とか上位に食い込んでいる感じであった。

 

 この分たれた両者を取り持っていたのが平手政秀であった。いわば要石であったのだ。信奈の叔父である信光も積極的に動いてはいるが、あまりやり過ぎると信光の権威が信奈を上回ってしまう可能性があり、それを考慮して強権的な手段には出れない。別の叔父たちはそこまでの能力がなく、事態を静観する、もしくは当主ではある信奈に従う姿勢を見せるしかなかった。

 

 そんな状況を何とか一触即発寸前で食い止めていた政秀だが、今川との和睦交渉の失敗、両派閥からの信頼の失墜、両守護代家との確執、息子の行いなど様々な問題に圧迫され、自分がこれ以上いることは信奈のためにならないと思いつめてしまう。そして自ら腹を切ることによって信奈に無闇に敵を作ってはいけないと諫言すると共に事態の解決を託したのであった。

 

 事実、政秀の死は尾張国内に大きな動揺を生む。ただ、それは彼の思っていたようにいい方向へは転じなかった。むしろ、織田弾正忠家内の問題を加速させてしまったとも言えよう。しかしそれで政秀を責めるのは酷である。或いは、最早六十近い老将には、あまりに大きな心労であったのかもしれない。ノイローゼ、もしくは鬱病に近い状態だった可能性も高い。真実は政秀しか知りえないが、ともあれ彼は最後まで弾正忠家と信奈を思い生涯を閉じたのであった。

 

 切腹した政秀は、信奈に諫言する書状を残していた。そこには現在までの不手際で弾正忠家を追い込んだ責任を感じる文言と、今後の信奈の行いを注意する文言。そして最後にひたすらに申し訳ないと書き綴ってあった。

 

「爺……どうして……」

 

 信奈はどうして言ってくれなかったのかと呟きながら、後悔するばかりであった。彼女は昔から人間関係はあまり上手ではない。政秀の悩みにも気付けなかった自分の未熟さを恥じるばかり。

 

 政秀の葬儀では派閥を超えて多くの将が参列し、中には斎藤家の者もいる。一応敵対関係ではあるものの守護代家や今川からも使者が来るなど、その実力は多くに知られていた。悲しんでばかりもいられない信奈は唇を噛み締めたまま葬儀に臨むのであった。

 

 その後、信奈は春日井郡に政秀寺を建立。自身の幼年期を支えた守り役の死を弔ったのである。

 

 

 

 

 

 しかし先ほども書いたように悲しんでばかりもいられない。今回の政秀の諌死の責任は信奈にあるのではないかと家中で問題となったのだ。それはある意味では真実であり、家臣の行いの責任は主君に帰する。主君である信奈を諫めるべく腹を切ったとなればそれは信奈の責任だ。とは言え、実際は諫言のみではなくこれまでの不手際の責任を取っての物であったため、そこまで信奈のせいかと言われれば微妙ではあった。

 

 だがそんな事は信勝派にしてみれば知った事ではない。己の主が当主となれば織田弾正忠家内で大きな権勢を振るえるようになる。そうなればこの世の春と思っている者が多い。今川への具体的な戦略が和睦しかない時点でその見識は大いに誤りと言わざるを得ないが、ともあれ信勝派は信奈の追い落としに走るのであった。

 

 弾正忠家内の動揺を敏感に悟った今川家は、ここでまず尾張国内への楔を増やそうと行動を開始したのであった。南の鳴海城は抑えてある。先の戦いで桜中村館こそ信奈方に奪われたものの、鳴海はまだ健在であった。そして北には品野城という城がある。ここは今川方の城であり、犬山方面へ睨みをきかせている。この近くに楽田館(城とも)という城館がある。ここは織田大和守家の一族、楽田織田家が支配しているのだが、この楽田織田家は本家とは疎遠である独自勢力であった。大和守家・弾正忠家のどちらとも距離があるここに今川は狙いを定めたのであった。

 

 今川家は品野城の酒井忠尚と桜井松平家の松平家次、東条松平家の松平忠茂、遠州の小豪族などに出兵を命じる。総大将は松平家次。桜井松平家は一時弾正忠家に与していたこともあるため、その力を削ぎ疲弊させる目的もあった。兵数は七百ほどを率い、彼らは楽田へ攻め寄せたのであった。

 

 仰天したのは楽田織田家の織田寛貞*1であった。慌てて周辺に救援を要請するが、本家の大和守家は今川との和睦路線を探っており、戦う訳にはいかないと拒否。犬山織田家は斎藤家が北にそびえているため動けない。残った弾正忠家が最後の希望と、楽田織田家の使者は那古野城を訪れたのであった。

 

「尾張の危急存亡の秋は今でございます。何卒どうか救援を、救援をよろしくお願い致します!」

 

 那古野城にて平伏している楽田織田家の使者を、弾正忠家の家臣団は渋い顔で見つめている。確かに楽田織田家が降伏してしまえば尾張の内部へ更に今川家の勢力が食い込んでくる可能性は大きかった。しかし楽田織田家がこれまで独立路線を取りどことも組むことなくやって来たのが原因で孤立しており、そこを狙われたという側面も大きい。つまり自業自得と考える者も多かった。

 

 それに加え、楽田織田家を救援したとしても防戦。防戦では手柄を挙げても褒美は少ない。それに信奈は基本ケチである。ただでさえブラック労働薄給なのにも拘わらず何の利益も無いのは困ると考えている者も多い。

 

 信奈は一度使者を下がらせ、評定に入ることにした。参加しているのは家臣団では林秀貞・林通具の兄弟に柴田勝家、佐久間信盛、佐久間盛重、森可成、丹羽長秀、村井貞勝、池田恒興、佐々政次*2。一門衆からは織田信光、織田信次の二名であった。

 

「唇亡びて歯寒し、よ。楽田織田家を救援しなくては必ず当家は滅びるわ。いずれ今川と対峙する際に味方は一人でも多い方が良いのは自明の理ね」

 

「お言葉ながら、今川と事を構えるはよろしからずと拝察致します。今川は大国。此度の派遣軍は今川の国力からすれば少数なれど、藪をつついて蛇を出すとの故事もございます」

 

「では新五郎(林秀貞のこと)は見殺しにしろと言う訳ね」

 

「お言葉が悪うございますな。某は無駄な戦を避けるべしと述べたまで。そも、楽田織田家の自業自得。自分で抗戦してからならばいざ知らず、端から他家を頼るなど矜持が無いにもほどがあるではありませぬか」

 

「しかし、頼りにしてきた者を見殺しにしたとあっては名が廃りましょうぞ。それでは今後、当家を頼ってくる者はいなくなってしまう」

 

 あくまでも非戦を唱える秀貞に対し、佐久間盛重が反論する。

 

「左様。ここで楽田織田家に恩を売り、大和守家より引き離して当家の被官に組み込むべし!」

 

 森可成も高らかに主張する。信奈の乳姉妹である池田恒興もこれに賛同し、佐々政次も続く。他の者は会議の趨勢を見守っていた。丹羽長秀はまだ年若い上に元々さしたる家の出ではない。一般には柴田丹羽は並んでいるように思われがちだが、そんな事は無く、長秀の生家は小身である。村井貞勝は元々そこまで主張をしないタイプであるため、現在も沈黙を貫いていた。そもそも彼は後方支援担当。前線に出ることは少ない。

 

「頼ってきたと言うても、最後に仕方なく泣きついてきただけではないか。使者は当てにならないと分かっている本家の大和守家を頼ろうとし、次いで力のある弾正忠家ではなく犬山へ行った。最初に頼ってこなかったのは、頼むべき大将が当家を差配しておらぬと思うたからでは無いでしょうかな」

 

美作殿(林通具)。少々お言葉が過ぎるようですぞ」

 

「これは失敬。つい勢いで心にもないことを口にしてしまい申した」

 

 信盛が通具を窘めるが、その目は笑っていない。林家と佐久間家。尾張内での大きな勢力を持つ二家の勢力争いがここに波及していた。林氏は伊予河野氏の一族で、水運などでも大きな影響力を持っている。佐久間氏は三浦氏の流れを汲む一族であり、熱田神宮の荘園などを管理する過程で大きな力を持つようになっている。

 

 明らかに自分を軽んじている通具の様相に信奈は顔を引きつらせピキピキと怒りを滲ませているものの、まだ爆発させていない。

 

「そも、大人しく今川と和睦しておくべきだったのでござる。それをせずにここまで引っ張ったのがこの評定を招いた原因。死者に鞭打つ気はござらんが平手殿の失策でござったな」

 

「……美作。出て行きなさい」

 

「は?」

 

「早く出て行きなさい!爺を貶めるのは許せないわ。私の前から早く姿を消しなさい!林家が反対なのは分かった。此度の戦は参陣しなくて結構!大人しく自領で引きこもって勘十郎の機嫌でも取っておきなさい、この臆病者!」

 

「……そのご発言、後悔召されるな」

 

 林通具は恨めし気な顔をしながら退出していく。衆目の面前で痛罵され、臆病と言われたことは許しがたいことであった。最初に侮辱したのは通具の方なのだが、彼からすれば主・信勝の方が当主に相応しいと思っている。なのでその聡明なる主を差し置いて不当に当主の座に座っている信奈を貶めるのは正義の行いなのであった。

 

 通具が座を追われてしまったので、秀貞も退出する。秀貞はそこまで信勝過激派は無いが、それでもやはり信奈よりは主に担ぐべきと思っている。それは扱いやすいからである。加えて言えば、彼はこう見えても平手政秀亡き後の弾正忠家筆頭家老。見るべき物は見えている。おそらく今川に降伏すれば信勝は殺されるか幽閉される。だが秀貞は助かるだろうと見ていた。そしてそれは事実である。

 

 信勝は利用価値が薄い。確かに織田家だが、弾正忠家は所詮傍流。だが林氏は尾張に大きな影響力を持っている。信勝の家臣ではあるが、実際にその地を治め兵を集めているのは秀貞である。尾張を統治する上で国衆はある程度残さねばならない。松平家のような立場になるとしても、今川家が天下を差配するようになれば入ってくる利益も大きい。それに加え、西美濃の稲葉氏は同族。そのコネクションも使えるので、今川家が美濃へ触手を伸ばした場合、役立つ可能性が高い。また、美濃や尾張の地形を良く知っているので水先案内人にもなる。

 

 なので秀貞としては信勝に今は忠義を尽くしつつ、いざ今川と和睦という名の併合をされる際は直臣になれるように立ち回るつもりであった。信奈が嫌なのは、奇行が原因である。また、性格も苛烈で癇癪を起すこともあるので、付き合いきれないと思っていた。それならば雪斎の方が理知的だからである。

 

 秀貞が退出し、息を荒くしている信奈を諫めるように信光が声をかける。

 

「信奈。落ち着くのじゃ。ここで暴れてもどうにもならん。それよりも刻一刻を争う楽田織田家の件が先ぞ」

 

「……そうね。叔父上の言う通り。さっきの二人以外に救援に反対の者は?――いないようね。ならば今すぐに出陣するわよ!今川方に落とされる前に、その出鼻を挫きましょう!」

 

「「「応ッ!」」」 

 

 諸将が呼応する中、林一族が本格的に信奈の敵に回ったことに対し、長秀は周りに聞こえぬようにポツリと「五点です……」と呟いた。

 

 

 

 

 

 かくして織田弾正忠家は楽田織田家の救援をすべく、楽田館へ向けて出兵を行うこととなった。しかし、林氏の援軍は無く、末森城の援軍も少ない。辛うじて勝家を貸し出してくれただけだった。佐久間の兵は連戦で疲れている。森の兵や池田の兵なども動員し、どうにか五百を確保した。信光を伴いたかった信奈だが、留守の隙に末森城方に奇襲をされてはたまらない。睨みをきかせるため、信光は動けないのであった。信次はそもそもあまり戦力にならないので当てにされていない。

 

 信奈は次の一手を考えなければならない状況だった。その聡明な頭脳は、敵を味方に変えるしかないという結論を導き出す。では、誰と組めるか。織田家の一族が論外であった。長島は組むための利が無い。今川は自分たちが進路にふたをしている以上無理。であれば、見ている向きが同じでかつ進路の被らない斎藤家。美濃の蝮が支配する大国。ここと組む以外の選択肢が無い。

 

 危険な賭けだ。最近では融和路線になっているとはいえ、斎藤家は強敵。信奈の父も敗れ、守り役だった家老の一人も戦死させられている。名うての戦上手に加え、謀略も厭わない道三相手では殺される可能性すらあるのだ。

 

 しかし、実母と実弟よりも父の宿敵の方が己の志と野望を理解してくれる可能性が高い。たしかに最初は信奈も言葉を尽くし、理解してもらおうと試みた。だが、誰もそれを分かってはくれない。次第に彼女は言っても無駄なんだと思うようになってしまった。それが尾を引き、今もなおあまり説明をしない悪癖となっている。

 

 何たることだ、と彼女は悲嘆した。敵の方がまだ分かり合える。敵に縋らねば、己の弟すら御せない。雪斎のような名宰相も、山本勘助のような鬼謀の士も、一条土佐守のような救世主も自分にはいない。父は死んだ。爺も死んだ。彼女に大海原の潮騒を聞かせた宣教師も死んだ。弟は家督の魔力に引き寄せられ、遠くへ行ってしまった。かつて共に遊んだ松平竹千代は敵方だ。忠実に仕えてくれる者も、自分を理解してはくれていない。

 

 勘十郎を殺すなんて出来ない。林の兄弟だって、本当は対立したくない。尾張はいつでもずっと内輪揉めばかりで前に進もうとしない。……どうして父上の葬儀で暴れてしまったのかしら。どうして、母上に見放されるような、あんな愚かな真似を……。私には……もう誰も……誰か、私を助けて……お願い!

 

 涙を浮かべながら彼女は天を見上げた。彼女の齢はこの時十四。中学生ほどの年齢の少女に、のしかかっているのは苦しすぎる現実であった。閉塞した尾張は、彼女には狭すぎる。目を眩ませるような満天の星々の輝きの中に、碧く煌めく奇妙なほうき星が見えた。どこか優しく、暖かい色をしている。

 

 彼女はそっと天に手を伸ばした。その星を、捕まえてみるかのように。星は落ちる。尾張の大地、丁度今から向かおうとしている楽田の方へ。戦が終われば、星を探してみよう。彼女はそう思い、床についた。流していた涙は、いつの間にか消えていることを、本人すら気付かぬままに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 相良良晴、高校二年生は慌てている。気が付くとそこは、戦場であった。余りにも荒唐無稽。余りにも信じがたい光景。だが彼の眼前に広がるのはどう考えても戦場の風景であった。馬蹄が響く。弓の放たれる音、長槍を持つ足軽の雄叫び。必死に采配を振るう指揮官たちの怒号。

 

「せ、戦国武将!?ゆ、夢か、いや寝てはいないはず……。ここは関ケ原?それとも三方ヶ原?待てよ、両軍の旗指物は……家紋は!」

 

 目は家紋を探しつつ、彼は身体を確認する。異常はない。ポケットにはスマホが入っているし、自分の格好は学生服だ。そして背負っていたリュックにはほとんど置き勉しているためにほぼ入っていないが僅かだけある教科書とノートの厚み。そして学校の図書館で借りていた()()()()()()()()()。水筒もある。とりあえず五体満足であり荷物もあることにホッとした良晴だが、旗指物を見ても片方しか分からない。

 

「あ、あれは織田家か!?もう一方は……分かんねぇ!」

 

 さもありなん、もう一方の旗指物は桜井松平家の桜の家紋。分かる方がおかしい。彼は戦国ゲームをこよなく愛するオタク気質の青年。横浜生まれ横浜育ちの都会っ子。動体視力が良く、回避がうまい以外に特に特技の無い平凡な男であった。

 

 だがここは戦場。突如現れた良く分からん存在に取り敢えず今川軍(実態は松平軍)の兵士は攻撃を開始する。回避は得意であっても流石に幾重にも繰り出される攻撃全てを避けきれはしない。一本の槍が肩をかすめる。金属で切られる痛みが走った。それは彼が今までで経験したことの無い痛み。激痛に叫びそうになるも、必死にこらえる。今は叫んでいる場合ではない。このままでは死ぬ。彼の頭はそう危険信号を鳴らしていた。

 

 死にたくない。この思いで彼は必死に逃げ出す。痛みは興奮に伴うアドレナリンで何とかかき消されていた。

 

「おい、お前、何してるんだみゃ!さっさとこっちに来い!」

 

 走っている途中に首根っこを掴まれ、頭をぽかりと殴られる。その人物は追ってきた兵士に向かって叫んだ。

 

「すまねぇ、コイツは儂の兄弟分。味方じゃ。初めての戦で混乱しておったんじゃ」

 

 なんだよ……と言いながら兵たちは去って行く。良晴は助けてくれたことを察し、お礼を言うべく立ち上がった。小柄な男であった。そしてその顔は良晴からするとどこかで見たことあるような顔であった。

 

「坊主、お前、織田方か?あの身のこなし、忍びと見た!」

 

「えっ?」

 

「儂は今川家の松下様っちゅうところに仕えておったがどうも朋輩に嫉妬されてなぁ。この戦で最後とお暇を貰っておる。坊主、織田に紹介してくれんか」

 

 松下?どっかで聞いたような……と思いながら良晴はこれは今川と織田の戦いだったのかと呟く。

 

「どうじゃ?」

 

「助けてくれたのに申し訳ないんだけど、俺は織田の忍びじゃないんだ」

 

「なんと?」

 

「俺は武士でも何でもねぇんだ。ただの高校生だよ」

 

「孝行せい?儂も故郷に残してきた母やら弟やらがおってなぁ。元気にやっとるじゃろか。それはともかく、儂も農民の子。じゃが今は乱世。戦で手柄さえ立てれば一国一城の主も夢ではないんじゃあ。儂の野望もそれよ」

 

「一国一城の主……」

 

「おうよ。男として生まれたからには一国一城の主を望まずして何とする!儂も一条土佐守のように高速立身出世よ!城の主ともなれば、女子にモテること間違いなし!」

 

 土佐守?誰だそれとは思ったものの、良晴はもっと深いところに着目していた。その通りだ!と良晴はサル顔の足軽の手を掴んで叫んでいた。転生したらハーレムを。オタクが夢見る境地。それが手に入るならばやらねば損!良晴の中の何かが燃え上がっていた。半分は性欲であろうが。

 

「おっさん、気が合うな!」

 

「儂もそう思う!どうじゃ、二人で織田へ行こうではないか。儂が兄で、お主が弟。支えつつ立身出世しようぞ!そして天下の傾城を二人で欲しいままじゃ!」

 

「おう!」

 

 二人の男はいきり立って走りだそうとした。その時である。どこからともなく飛んできた矢がぐさりと足軽の胸に刺さる。鎧の内側から赤い血が漏れ出している。良晴は初めて人間が矢で射られるところを見た。ゲームやドラマでは良く見る光景。だがそれは画面の向こうにあるフィクションでしかなかった。戦場のリアル。それを今やっと彼は身をもって知ろうとしている。

 

「……儂はもうこれまでじゃ。心の臓近くをやられておる。お主だけでも行けい」

 

「おっさんを置いては行けねぇ!医者に診せればきっと、きっと!」

 

「もう手遅れじゃ。儂も多くの死に行く者を見た。それくらいは分かる。野望に憑かれればいつ死ぬか分からぬのも戦国の常。儂の相方で蜂須賀五右衛門というのがおる。そ奴と組め。儂の夢、お主に託した」

 

「おっさん……!そ、そうだ、名前!名前だけでも教えてくれ!俺が出世したら必ずおっさんの墓を建てるから!」

 

「儂の名は……木下……藤吉郎……」

 

「え、えええッ!?」

 

「……さらばじゃ、坊主。死ぬなよ。もし出世できたならば墓などいらん。おっ母と小一郎を、頼む……」

 

 木下藤吉郎って豊臣秀吉じゃねぇか!じゃあさっきの松下様ってのは松下嘉兵衛でおっ母は大政所、小一郎は豊臣秀長!?織田信長に仕え、木綿藤吉とも謳われた五名臣の一人。後の天下人、太閤秀吉。農民からのし上がった英雄中の英雄。そんな存在がこんな片田舎の戦場で足軽のまま無名で死ぬなんて!と良晴は大混乱している。

 

 しかし、今にも息を引き取ろうとしている藤吉郎を前にそんなことを言っている場合ではない。必ず約束を守ると宣言した。それを聞き、安心したように藤吉郎は目を閉じる。豊臣秀吉となるはずだった男は、その生涯に幕を閉じたのであった。そして、この世界でそれを知っているのは良晴ただ一人である。必ず出世して、木下家の人たちを助けて、墓を建てると彼は誓う。

 

 だが腕の中にあるのはまだ温かい死体。死体など触ったこともない。震える手で、良晴は藤吉郎の亡骸を横たえる。どうしたら良いのかも分からず、途方に暮れていると何処からともなく少女が現れた。彼女は黒装束に鎖帷子。良晴も良く知る忍者スタイルである。子猫のように華奢な見た目をしている。彼女は横たわっている藤吉郎の亡骸に手を合わせた。

 

「少し偵察に出ていた間に……木下(うじ)、どうか安らかに。南無阿弥陀仏でござる」

 

 幼い声はどこか舌足らずに思えた。口元は覆われているが、目元だけが露出している。その瞳はゾッとするくらい赤く、まつ毛はかなり長かった。

 

「拙者の名は蜂須賀五右衛門でござる」

 

「あ、さっき五右衛門を頼れって……」

 

「そうでござるか。では、これより木下氏に代わり貴殿にお仕えするといたちゅ」

 

 口調は忍びらしいものの、最後は舌が廻っておらず噛んでいる。

 

「失敬。長台詞は苦手故」

 

「藤吉郎さんのお友達か?」

 

「相方のようなものでござる。足軽の木下氏が三木となり、拙者が枝となって表裏で支えていき、出世をはたちょう、そういう約束でござった」

 

「三十文字くらいが限界か……」

 

「う、煩い。名を何と申される?」

 

「相良良晴だ」

 

「では拙者、これより郎党川並衆を率いて相良氏にお仕え致す」

 

「いいけど、俺は一文無しだぜ?俸禄なんか出せないし、まして帰る家すらない」

 

「織田家に行けばいいでござる。少なくとも、今川よりは雇ってくれるでござるよ」

 

 そう言うと五右衛門は良晴の髪を一本抜いた。そして胸元から出した藁人形にそれを詰める。

 

「な、なんだい、そりゃ。俺を呪うのか?」

 

「我が主となっていただく為の契約でござる。術的な効果もあるでござるよ。これが身代わりとなってくれる……かもしれないかと。ともあれ、相良氏には是非とも出世して頂く。それがきのちた氏とのやくちょくでござろう?」

 

「あぁ、それが俺とおっさんとの約束だ――俺がおっさんの分まで活躍してみせるぜ!」

 

 実際藤吉郎の読みは正しかった。これから僅か数十年で織田家は天下へと駆け上がっていく。だが、藤吉郎を欠いた今、それがどうなるかは分からない。評価は分かれる人物だが、間違いなく将校として、政治家として豊臣秀吉は優秀だった。それこそ、日本史どころか世界史を動かすくらいの大人物である。しかしそんな男はもういない。

 

 やれるところまでやろう。どうなるかは分からない。自分に、戦の中で誰かの命を奪うようなことが出来るのか、それはまだ分からない。でも自分を助けてくれた藤吉郎の恩には報いなければいけない。彼はそう思った。相良良晴は平凡な男だ。しかし、それでも筋は通す男であった。それに、生きてさえいれば両親のいる現代への帰還方法が分かるかもしれない。

 

「相良氏、戦はまだ続いている。織田弾正忠家の旗竿を持って槍働きをするがよい。鎧は……その辺の足軽から拝借」

 

 五右衛門は別の足軽からはぎ取った鎧を良晴に渡す。良晴は当然鎧なんて着た事は無い。それでも何とか見様見真似でそれっぽく装着した。

 

「いっちょやるぜ!」

 

「流石木下氏の目。若いのに見どころのある御仁だ」

 

「ただのバカかもしれねーぞ?」

 

「案外、馬鹿の方が生き残れるのでござるよ」

 

 某は忍でござる。危機となれば参上しましょうぞ。木下氏のようなことは繰り返しませぬと言って五右衛門は宙へ消えていった。一瞬やはりゲームなのではないかと良晴は思った。だがすぐにそれは現実逃避だと頭を振って切り替える。やらなければ、自分が死ぬ。怯えている場合じゃない。

 

 戦況は織田軍の有利に進んでいた。織田軍の旗竿を背負った良晴は今川軍(正確には松平・遠州国衆連合軍)の中に突撃していく。唐突に現れた変な存在に今川軍の足軽も困惑する。なにせ、殺そうとする意志は感じられず、ただ闇雲に振り回しているだけなのだから。とは言え、こういう素人の方が案外刃物系統は危なかったりする。玄人と違い筋が見えないのだ。次の動きが予測できないのは危険である。

 

 加えて、この頃の足軽は栄養状態がそこまで良くない。武将級はともかく、一般兵卒は身長も低い。良晴も現代では高身長では無いが、この時代では十分大きい方であり、その威圧感もあるのだ。ともあれ、良晴が暴れているのにも意味はあり、今川軍に少し混乱しているところが生まれる。そこを見逃さない織田軍の将が突撃を命じる。

 

 そんな中、良晴は泣きたかった。意気揚々と走り出したはいいものの、人を殺す覚悟などない。リアルな人。息遣いも、声も聞こえる。ゲームとは全然違う。そんな当たり前ではあるが平和な日本ではまず感じないことを考えながら彼は必死に生き残ろうと槍を振る。敵の攻撃は持ち前の回避力で避けるが、それでも小さな傷は少しずつ出来る。

 

「あの足軽に続け!怯むな!」

 

 鶴に丸、森家か!と良晴は地獄に仏のような気持になる。森家の名前と家紋くらいは彼も知っていた。鬼武蔵は有名である。とは言え、この時代はまだ鬼武蔵ではなくその父・可成の時代なのだが。可成の号令と共に一気呵成に織田軍が突っ込む。戦勝は近かった。

 

「誰でも良い、手隙の者、本陣へ行き御主君をお守りせよ!」

 

 可成の命令だが誰も手柄に夢中で引き返さない。織田軍の勝ちは固いようだ。だが本陣が手薄というのはよくないと良晴でも理解できた。本陣へ向かおう!と彼は決める。本陣ならば織田信長もいるはずだ。そうなれば雇ってくれるよう交渉も出来る。

 

「俺が行きます!」

 

「良し、行け!」

 

 命令を受け、良晴は走り出した。よほどの乱戦であったのか、一気に押すためか、本陣はがら空き。近侍も多くが命令で前に出ていたらしい。だが今は勝っている。それならば問題ないはずであった。しかしそうは問屋が卸さない。敗走寸前でも粘り強い三河武士は踏ん張っている。そしてその中の一団が大将さえ死ねば一気にひっくり返るのだと決死の覚悟で突撃してきていたのだった。

 

 信長を死なせてなるかっ!と良晴は走り出す。幸い、足は遅くない。日本のためにも、信長は守らないといけない。そんな使命感が彼を支配していた。織田信長と思しき人物が決死隊に四方から囲まれているのを確認し、良晴は何としてでも止めるべくややへっぴり腰ながらも果敢に突進した。その時だけは、彼も英雄のような気迫を放っている。

 

 大将の兜へ飛んできた槍も叩き落とし、背後に信長を庇うようにして立ち塞がった。歴史を何とか守れたと感動したのもつかの間、突然の邪魔者とは言え一人であると分かった敵は再び自分たちを囲む。繰り出される槍を次々躱しながら、良晴は叫んだ。

 

「織田家に仕官するため、素浪人・相良良晴、ここに見参!」

 

「新手か!」

 

「たった一人ぞ、殺せ!」

 

 良晴を殺そうと敵がまた迫ってくる。今度こそ絶体絶命の窮地。しかし良晴を天は見放さなかった。

 

「ご無事ですかッ!」

 

 大槍を片手に、馬を走らせ騎馬武者が本陣に戻ってくる。その槍が一閃すると、良晴を囲んでいた敵兵は悉く血しぶきをあげて倒れた。あまりの手際に良晴が俺の頑張りは何だったのだろうか……とポカンとしながら口を開けていると、勇ましい少女が良晴とその後ろにいるであろう信長の方を見る。

 

 少女!?と良晴は目が点になっていた。今時流行りの姫武将ってやつか?エロゲとかで見たような感じなのか!戦国〇姫とか戦〇姫みたいな……と良晴は頭を回す。しかしその目は馬上の少女の胸元に吸い込まれている。そこら辺はどうしようもないところであり、また良晴らしいところでもあった。おおよそ現代の女性陣には不評だったのだが。残念でもないし当然である。

 

「何だお前は!私をジロジロと見て……敵の生き残りか?」

 

「やめなさい、六!そいつは私の命を救った恩人よ、一応ね。褒美を挙げないといけないわ」

 

「なんと、それは真ですか」

 

「ええ。槍でやられそうになったところを何とかね。本陣を空けるものではないと学習したわ。ともあれ、そいつがいなければ私は今頃槍の餌食ね」

 

「……左様ですか」

 

 そうだ、この本陣には織田の大将が。危なかった。どういう訳か女性が戦っているが、まさか織田信長が女性なんて……。妙に甲高い声の気がするが、信長は声が高い男だったというし、大丈夫なはず!と良晴は振り返ると共に頭を下げた。

 

「信長様!是非この俺を足軽として雇ってくれ!」

 

 顔を上げると同時に、顔面めがけて蹴りが飛ぶ。

 

「誰よ、信長って。私の諱候補じゃない。私の名前は信奈よ、の・ぶ・な!これから仕えようとする主の名前も知らないなんて、あんたホントに馬鹿じゃない?それに足軽風情が私を諱で呼ぶな!」

 

 踏まれながら姿を見上げると、そこにいたのは魔王と謳われる男の青年期の姿ではない。茶色がかった髪。でたらめな茶筅結。頬とおでこは煤で汚れ、鎧など着ていない。腰には巻いた藁縄に太刀と脇差を差し、湯帷子を片袖脱ぎだ。火打石とヒョウタンをぶら下げ、そして輿と足を覆う袴の上には虎の腰巻。不良のようなスタイル。まさに良晴の知る信長青年期のファッション。しかし……。

 

 どう考えても女性であった。高い声、細い腰、柔らかそうな胸元。全てが女性の特徴。上杉謙信女性説は知っていてもまさか信長に女性説があったなんて……。と良晴は思う。それなりに可愛いとも思っていた。尤も、その態度で大幅減点ではあったが。

 

 そして、この日少年は運命に出会ったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 良晴が戦場にて目覚める少し前に時は戻る。戦況はあまり芳しくなかった。尾張の兵は弱兵。そう謳われて久しい。反対に三河兵は強い。三河武士は忠誠に厚く云々というのは後世の創作、はっきり言ってしまえば江戸幕府のプロパガンダなのだが、強さだけは本物である。それはまごうことなき事実。現在も寡兵な織田軍を圧倒していた。

 

 兵の多寡は戦の勝敗に直結しないものの、大きな要素ではある。信奈は迷っていた。このままではじり貧。押されてしまう。ここで負ければどうなるか分かったものではない。斎藤も、両守護代家も牙を剥くだろう。そして、身内の勘十郎すら。加えて林兄弟を見返すためにも絶対に負けられなかった。しかも相手は今川軍の先鋒。太原雪斎や岡部元信、朝比奈泰朝などの主だった将はおらず、総大将も桜井松平家としょっぱい。そんな相手に負けていては今後やっていけないのは明白だった。天下を目指すならば、ここで躓けない。

 

 では機動力で以て一気に本陣を突く。それしか信奈には選べる選択肢は無かった。機動力はある。勝家などの猛将もいるし、騎兵は織田軍の方が多かった。馬の運用には金がかかるが、その金を津島・熱田から捻出できる織田軍は現在今川軍に比べて騎馬保有数は多かった。これを活かすしかないだろう。本陣護衛の森可成なども出すしかない。

 

 最前線では佐久間や池田の兵が死闘を繰り広げている。無論館から引っ張り出してきた楽田織田家の兵もだ。だが数が足りない。押すには柴田・森を出さねばならない。本陣を手薄にしてでも、楔を打つ。信奈はそう決意した。

 

「六!騎馬を率いて戦場の左翼に穴を開けて!敵は数に任せて鶴翼を取っている。そのまま押し潰す気でしょうけど、そうはいかないわ。左翼に僅かに綻びがある。そこを突くのよ。三左衛門*3も右翼を突いて!」

 

「しかしそれでは本陣は手薄になりますぞ」

 

「ここで押し返せないと、どのみちおしまいよ。弾正忠家の武威を示すためには私の安全より今ここで賭けるべきものがあるわ」

 

「御意!」

 

 信奈は左右に少しだけある綻びを敏感に感じ取っていた。右翼は戦線が伸びていることによる統率の取れなさであり、左翼は良晴が暴れているのだが、それを彼女はまだ知らない。

 

「もう何が何でも勝つしかないの。近侍も全部前に出なさい。数で負けているけど、勢いはこちらにあるわ。撤退に追い込めばこちらの勝ち!行きなさい!」 

 

「はっ!」

 

「ご武運を!」

 

 勝家と可成が駆けて行く。その後に馬蹄を響かせて、配下の騎馬武者が突撃していった。今川軍は新手の攻撃に混乱している。勝てる見込みが見えた時に現れる新手というのは戦意を衰えさせるのに十分であった。

 

 これを見て焦ったのが桜井松平家の松平家次である。元々父親が今川を裏切って弾正忠家と組んだために桜井松平家は今川家中では他の松平と比べて家格が下に見られている。ここで敗走しては、松平元康の風下に立ってしまう。松平家は多くの一族がおり、元康(のちの家康)でさえ本家ではない。その祖父・清康が英雄であったが故に松平の代表のような顔をしているが、そうでは無いのだ。他の松平と元康の松平との間には何とも言えない微妙な空気があるのであった。

 

 織田の小娘に負けられない家次は、兵の少ない弾正忠家がここまで新手を繰り出せるという事は、本陣ががら空きである可能性に気付く。であれば総大将討ち取りの好機。弾正忠家のタカ派である信奈を排除できれば、後は御しやすい愚かな信勝しか残らない。そうなれば和睦と称して両守護代家共々食える。そういう心づもりが今川家の総意であった。

 

 ならば、ここで突く他なしと家次も近侍や馬廻りを全て投入して隠密に信奈を奇襲する策を立てたのであった。そしてそれは成功を収める。可成や勝家に合わせて犬千代なども出撃している。本当に数人の小姓のみが本陣に残っていた。ほぼ人のいないまさにそのタイミングを見計らったかのように家次配下の精鋭は信奈の本陣に躍り出たのであった。

 

 信奈は今川家の層の厚さを思い知る。腐っても大国。父・信秀が勝てなかった理由を悟った。一条土佐守がおかしいだけで、普通は今川に勝つのは相当難しい話であることも思い知る。彼らは今川家の中核を占める将ではない。三河の一部将、使い走りに近い。それでもこの判断力を持った将がいる。信奈は先鋒の遠・三の兵ならば勝てると思った自分の甘さを呪う。

 

 だがそうしている時間もない。甘さを悟り、噛み締めた唇から血が流れる。信奈のやるべきことは生き残る事。そうしなくては、家は滅ぶ。多くが路頭に迷う。敗れてしまえば何もできない。死んでしまえばそこで終わり。不殺の掟も乱戦では無意味。

 

 当たり前のことに気付いても、時は巻き戻らない。もう手遅れである。数少ない小姓が信奈を庇って死んでいく。皆顔なじみだ。昔城下をうろついていた時につるんでいた面々である。信勝と同年代、中にはそれより下の者もいた。若く、将来ある彼らが無惨にも戦場の露と消えていく。勝ち戦がほとんどであった信奈の人生において、初めて衝撃を受ける瞬間であった。

 

 ごめんなさい、と涙を流しながら呟いてももう遅い。本陣内に残されているのは自分一人。松平の兵も必死である。あの尾張の虎の娘、弾正忠家の当主を討てればそれこそどんな褒美も思いのまま。城持ちも夢ではない。足軽も将も目が血走っていた。一条土佐守のように。あの彗星のような男も、花倉城を落とす戦果より始まった。ならば自分たちも……!と息巻いている。

 

「織田信奈殿とお見受けする!」

 

「御首頂戴仕る!」

 

 戦場で泣く事など許されない。私は尾張の大名として、弾正忠家の当主としてもっと強くならねばならなかった。信奈は悔いた。何が天下布武か。何が世界か。そんな事を語る前に、その覚悟すらできていなかったじゃないか。自ら傷付き戦う覚悟を持たぬ者に、そんな夢物語を語る資格などありはしなかったのに!

 

 信奈は食いしばりながらも凄まじい眼光で敵を睨んだ。もう、涙は流れない。全てへの怒りと後悔。自分へ、周囲へ、敵へ。全てへの怒り。そして、己の行動への後悔。それに加え、生命への執着。それがこの戦場で確かに放たれていた。英雄だけが持ちうる覇気に、功を逸る敵兵の動きが止まる。誰も動けなかった。誰かが息を飲んだ。

 

「出家すれば命だけはお助け致す!降伏するや否や!」

 

 奇襲隊の指揮官と思しき将が叫んだ。

 

 考えるまでもなかった。全身が降伏を拒否していた。誰かに屈することを拒否していた。運命に抗えと何かが叫んでいた。魂に、精神に、全身に。お前になど降るものかという感情が迸っている。彼女のすべてが吠えていた。

 

 否ッ!と答えると同時に敵兵の一人が槍を突き出す。その槍を、一人のボロボロの鎧を微妙に間違って着たへんてこな少年が弾き落とす。信奈を守るように前に立ち、素人丸出しの槍さばきで敵兵を凌いでいく。間一髪であった。信奈にはその背中しか見えない。変な恰好、タコ踊りみたいな動き方。まるで様になどなっていないし、カッコよさの欠片もない。私がいつか現れてくれると信じていた「誰か」とは全く違う。

 

 きっと顔はサルっぽい。美形なんかではないだろう。性格は下品、野暮、鈍感。加えて口が悪い。まず間違いなく格好良くなんかない。けれど、それでも――――!

 

 いつの日か、那古野の城下で見た辻講釈を思い出した。そこで語られていた、北条氏康と一条兼音の出会いの物語。事実は早雲寺で出会ったのだが、物語では脚色され、丁度今の信奈のように氏康が敵に奇襲を受けそれを唐突に現れた兼音が救うという流れになっている。

 

『氏康公、敵に囲まれお命危うしと見えし時、一条の矢煌めきてその御首へ下賤なる刀を振り下ろさんとした足軽の首を跳ね飛ばしたり。何処の猛者ぞ我を救うかと公顔をお上げになりて見給へば、月毛の馬に跨りたる蒼き鎧の偉丈夫あり!「此の御方を討たんとする者はまず我を倒せ。しかれど、我が首取らんと欲すれば万余の軍勢以てかかるべし!」と叫ぶ偉丈夫、強弓幾度となく放ちたる。その矢、まさに流星の如き速さにて、敵兵悉くそれに射抜かれぬ者なし!地より見上げる公、その御尊顔は羞月閉花。偉丈夫も忽ち尊顔に魅入られ給う。「名は何と」と問い給う公に偉丈夫答えて曰く、「我こそ一条土佐守兼音也」と。これこそ天下に名を轟かせ給う名将が御二方の邂逅であった!』

 

 高らかに謳うその文言に、若き日の信奈は憧れた。いつか自分にも、そんな風に。多くの姫武将の憧れとなったこの伝説を、彼女もまた憧憬の目と共に聞いていた。そして今、夢にまで見た舞台がこうしてやって来ている。きっと土佐守はもっと理知的で上品で、美形なのだろう。けれどそんな二人といるんだか分からないようにな存在よりも、どうしてか目の前の少年の方が彼女にとっては温かみがあった。

 

「織田家に仕官するため、素浪人・相良良晴、ここに見参!」

 

 信奈の心の臓の鼓動が、一瞬爆発しそうな勢いで、ドンッ!と跳ねた。少女はその日、運命に出会う。

*1
この織田寛貞は史実で信長に仕え、武田との外交を担当する織田忠寛の父である。

*2
佐々成政の兄

*3
森可成のこと




今になって初めて脚注機能を知りました。今後使っていきます。

マシュマロ→https://marshmallow-qa.com/tanuu90004861
感想欄では聞けないけどメッセージ送るほどでも……みたいな質問あればどうぞ。他にも作品の事なら割と何でも答えるつもりです(定型文)。

楽田の戦いは創作です。リアルに存在しないです。豊臣家の家臣団について調べましたが、秀長優秀過ぎない?田舎の農村から天下人が出るのは百歩譲って良いですよ、明の初代とかもそうですし。でもさぁ、その弟も優秀っておかしいだろ。秀吉は享年61で1598年死去。秀長は享年51で1591年死去。その死後に朝鮮出兵とかやってるんですが、これ秀長死んでなかったらどうなってたんでしょうね。

後10年以上は生きられる可能性がある訳で、もし70まで生きられたら1610年に死ぬことになる訳で。朝鮮出兵や関ケ原、大阪の陣は丸っと回避じゃないですかね。少なくとも秀頼が成人するまで豊臣政権を維持できれば勝ちですから、やっぱり秀長の死は痛かったか……。何故か原作に全く出てきませんが、今作では出します。ちゃんと男です。

松平さんもたくさんいるんで大変ですが、今後も元康以外の松平も出てくるかなぁと思います。知り合いというかに徳川さんいるんであんまり滅多なことは書けないんですが。一応徳川家は私の家の元主筋ですしね……。

それはともかく、あと少しは織田回です。引き続きお楽しみください。活動報告に設定集や型月コラボなんかを投下するので興味があれば見てやってください。コメントもお暇なら是非。時々松平家とか尼子家とかの信奈世界での解説とかも書いたりするかも。


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第109話 正徳寺 尾

今回も織田家の話になります。というか、織田家のイベントが多いんじゃ……。次回、村木砦まで書いて今章は終わりにしようかと思います。理由はいろいろあるんですが、年末までにこの章を終わらせたいので……。


 美濃。濃尾平野の北に位置し、多くの大河を要する豊かな国である。尾張ほどではないとはいえ、その平野面積はかなりのものがあり、生産力は高い。東には峻険な山々が立ち並び、そこに割拠する遠山一族が防波堤となって緩衝地帯を形成。北の飛騨は統一政権が誕生しておらず、また誕生したとしても国力の乏しい地であるが故に脅威にはならず。伊勢や近江との国境にも山が多いため、実質的な敵は南の尾張のみ。そんな大国を治めていたのは土岐家であった。

 

 しかし、土岐家は斎藤道三によって既に国を追われて久しい。『主を斬り婿を殺すは身のおはり 昔は長田今は山城』と落首に謳われるような陰謀を駆使した末の話であった。長田とは長田忠致のことで、その昔平治の乱に敗れて助けを乞うた源義朝(頼朝の父)をだまし討ちした卑怯者の代名詞である。山城は道三の官位である。身のおはりは美濃と尾張をかけており、それは長田忠致の逸話とも関連しているのだが、それはともかく。美濃は今斎藤家のものなのであった。

 

 道三は戦上手として知られ、織田信秀を幾度となく打ち破り、極めつけは加納口の戦いで大敗させるに至っている。このあたりの経過、守護追放の経過などは大河ドラマ『麒麟が来る』に詳しく描かれていたのでそちらを参照されたい。ともあれ、道三は名うての梟雄なのである。その道三は近頃台頭している南の脅威を感じていた。

 

 名を織田信奈。破天荒なうつけで知られるが、裏切り者を成敗し清州織田家を討ち破り、今川の先遣隊も排除したという。武勇に優れているようではあるが、とは言えお家騒動は未だ解決していない。家中の評判も二分されており、近頃筆頭家老の平手政秀も自害してしまったという。安定しているのか不安定なのか。有能なのか無能なのか。その判断が道三を以てしても難しいところであった。

 

 もし有能ならば、美濃に目線を向けられてはマズい。かと言って今川の道路にされるのも困る。出来れば今川を討ち、伊勢方面に目を向けて欲しい。これが道三の本音である。これは家中も凡そ同じ考えを持っていた。道三はその陰謀故に家中での信頼はほぼない。明智家など少しの家の者だけが真の忠誠を誓っている。他は怪しいものであった。この辺りは同じ梟雄でも宇喜多家などとは違うところであろう。そんな斎藤家でも方針はある程度定まっているためそこまで不安定ではない。

 

 早く道三は隠居してくれ。子の義龍になれば急進過ぎる改革が止まり、自分たちの利権も尊重されるであろう。これが美濃の国衆の多くが抱く感情である。だが道三は戦上手。戦っても勝ち目はない。なので黙っているのであった。

 

 道三は考える。利用すべきか、敵視すべきか。信秀とはなし崩し的に戦うこととなったが、信奈とはそうならずに済む道もあるかもしれない。上手く今川との緩衝地帯になってくれるのではないか。そういう期待もある。いずれにしても会ってからでも遅くはない、この目で見極めてやろうと彼は決めた。そして尾張へ遣いを出すのである。斎藤山城守は織田上総介に会見を申し込む、と。

 

 

 

 

 

 

 織田家に仕官した相良良晴はその身柄についての査問を受けることとなった。即ち、どこの誰であるか、である。確かに彼が織田信奈を辛くも救出したのは事実。信奈自身がそれを証言しており、彼がいなければ総大将敗死に伴う全軍潰走であったため、真の意味での功労者は良晴であるとも言えた。自身の失態になるところであった森可成などからはいたく感謝されたものの、良晴はいまいちその辺をまだしっかり理解していない。ともあれ、今後の扱いについて協議すべく那古野の城で話し合いが行われていた。

 

 参加者はいわゆる信奈派の面々。佐久間信盛や丹羽長秀、前田犬千代(最近利家を名乗り始めたが、犬千代の方が通りがいい)、森可成、佐々成次、池田恒興などである。

 

「で、そこの……サル」

 

「俺の名前は相良良晴だ!」

 

「良いでしょ何でも。サルみたいな顔してるんだし、サルで決定」

 

 そんな横暴な……と思いつつ、そう言えば信長は変なあだ名をつける趣味があったなと良晴は思い返す。とは言えサルと呼ばれるのは些か気に障ることであった。流石に現代社会で人を表立ってサル呼ばわりする者はいない。しかし元々彼の性質は少々性欲に素直な所があり、女子などからは裏で呼ばれていることはあるのだが、彼はそれを知らない。

 

「で、そのサル、どうしたものかしら。一応私の恩人ではある訳だし、仕官を望んではいるようなんだけど……」

 

「この者、某の失態を取り返してくれた者でござる。こ奴がおらねば、儂は姫様をむざむざ討たせた愚将として後世に伝わっていたところでございました。どうか某の顔を立ててお召し抱え下さいませ」

 

 森可成が頭を下げて願い出る。彼からすれば良晴は言わば恩人。無論前に出たのは信奈の命令とは言え、総大将が討たれる可能性があった作戦にも拘わらず止めることもなく、残りの兵を万が一のために作るでもなくともあれば立つ瀬がない。信勝が当主となった後、森家の居場所はないだろうことは明白だった。

 

「ほっほっほ、当主の恩人、それに報いぬ訳にも参りますまい。それに、一条土佐守の例もある故、召し抱えても問題なかろうと存じますぞ」

 

「右衛門、これが土佐守と同じは土佐守に失礼じゃないかしら……。流石にこんな助平な顔はしてないでしょうし」

 

「俺は未来から来たんだ!必ず織田家のために役に立てるはずだぜ!」

 

 堂々と良晴は叫ぶ。その発言に場にいた織田家の面々は何言ってんだこいつという目になる。残念でもないし当然。こうなるのを避けるために兼音は必死に隠し通しているのである。

 

「サル……ごめんなさい。私を守るために頭を打ったのね……」

 

「違うわ!別に俺はどこもおかしくねぇ!ちゃんと未来から来たことを証明してやるさ」

 

 良晴はバッグをゴソゴソと探り、中から携帯を取り出した。日本でもよく見るリンゴのマークがついたスマートフォンである。電源は決して残り多くはないものの、起動くらいは出来る量があった。過去に転移する系ならスマホは必須だろ!という謎の自信と共に良晴は信奈にスマホを見せつけた。黒い板にピカピカと光る画面。ネットは繋がっていないものの、一応カメラなどは使えるし、音楽も保存しているものは流せる。写真も撮れる状態だった。

 

 流石にこんなものが作れるほど南蛮も進んでいないのは信奈も分かっている。未来云々はまだ信じられていないが、ともあれ技術力の高いところから来たのであろうと察しは付いた。他の家臣団も驚いたり半信半疑であったりする。しかし幾人かはこれを戦略に利用できないかと考えていた。

 

「姫、尾張統一を進める機会かもしれません」

 

「どういう事?」

 

「未来から来た云々の話の真偽はここでは捨て置きましょう。大事なのは相良殿が我らよりも進んだ国より参ったという事。そのような者が姫に仕えたいとやって来た。これは他国に対し、姫が勝っていると示せる機会ではないでしょうか。すぐにどうなるという訳ではないとは思いますが、少しずつ聞いてくる可能性もあるかと。どのみち恩には応えねばなりませんので、これを応用すれば八十点くらいにはなるかと存じます」

 

「先ず隗より始めよ、という訳ね、万千代」

 

「はい、その通りでございます」

 

 なんだか難しそうな話だなぁと良晴は首をひねっている。だが彼には強い武器があると自覚している。信長公記の現代語訳。社会科の先生に勧められて借り、今日読もうと持って帰っていた時であった。今後の展開はある程度予想できるはずだと彼は思っている。知識がゲームくらいしかないので、それの補完になるものが偶然あることに良晴は産まれて初めて本当に神に感謝していた。

 

「皆の献策、分かったわ。サル、良く聞きなさい!取り敢えず私を助けた恩、その他諸々、特に森家の顔を立ててあんたを私の近侍にしてあげる。上司は犬千代よ。犬千代、良いわね?」

 

「御意」

 

「分かった!聞いてるの?」

 

「お、おう、任せておけ!」

 

「口調は直した方が良いですが、元気は良い。五十点」と長秀が呟く。自領を脅かす事は無いだろうと信盛は笑っている。他の者も前田犬千代の下からのスタートならば自身の出世に響くこともないと警戒はしてない。

 

「あんたが未来から来たというのは一応信じてあげる。とは言え、私の前で未来を言うのは基本禁止よ!私の力で切り拓かないと意味はないわ。あそこで私を助けたのも何かの縁。私の土佐守となるべく尽力しなさい!」

 

「分かったぜ!って言いたいところだけど……土佐守って誰だ?」

 

「……あんた、やっぱり嘘吐いてるでしょ」

 

 信奈は冷たい目で良晴を見下ろす。良晴は本当に分かっていないので必死に頭を動かした。そもそも彼は何とかの守という名前で武将を呼んでいない。普通に名字と諱だけでゲームをやっていた。知っているのは羽柴筑前や惟任日向とかくらいである。そう言えば琉球守がいたような……というどうでも良いことも知っているのもオタクっぽい要素であった。なお、琉球守は実際にいるので決して間違いではない。

 

 しかしこの時代の人間からすればそうはいかない。一条土佐守兼音の名は既に諸国に知れている。箕輪の戦いがついこの前終わったばかりという時系列であるが、既に北の長尾軍を打ち破った話は伝わり始めている。そうでなくても花倉・国府台・興国寺・河越と数々の戦いで戦果を挙げてきたその名を知らない者は少ない。多くの武将は憧れとし、多くの大名は己の配下としたいと夢見ている。そんな状態であった。

 

「はぁ……万千代、適当に説明してあげなさい。確かに考えてみれば、未来を知っているからと言ってこの時代に詳しいとも限らないし、このサルの知能が高いとも限らないわよね」

 

「どの辺りからに致しましょうか」

 

「そうね……まぁ花倉あたりからでいいでしょ」

 

「御意。時に相良殿、関東北条家についてどのような見識をお持ちですか?」

 

 長秀は元々生来温厚なのであまり怒らない。皆が知っているようなことを解説させられることとなっても不快には思っていなかった。知らないならばこれから知ればいい。彼女はそう思っている。池田恒興などは説明しろと言われれば難しいので、改めて状況整理も兼ねて聞こうとしている。そして当の良晴は聞いたこともない人名に頭から煙を出しそうになっていた。ゆっくり解説とかでも聞いたことが無い。そんなに有名なら絶対後世の教科書に名前が出てるはずなんだけど、それも太字とか赤字で……と思っているのであった。

 

「北条家か……。確か早雲が一代で身を興したんだよな。いや、最近では伊勢盛時だったっけ?でその後氏綱がいて、今は氏康?確か民政を重んじる名君って話だったけど……河越夜戦以外はゲームで見たことないなぁ」

 

「芸無?私の採点は決して芸ではありません。……コホン!ともあれ、その知識で大枠はあっています。伊勢宗瑞殿は京の名門伊勢家に連なる者であるので、決して一代でとは言えませんし公方様の名を受けての下向、茶々丸成敗ですので決して徒手空拳でも無いのですが、関東においては地縁はほぼありませんので実質成り上がりといっても過言では無いでしょう」

 

 この辺の下向は大変複雑な事情があるのだが、大体の認識はこの程度である。長秀も大分物知りな方であり、同時代でも他国の事、ましてや過去のことは知らない者も多い。

 

「当代の左京大夫殿の先代、氏綱公の時分に突如綺羅星の如く登場したのが一条土佐守兼音殿です。その才覚、溢れる知恵、優れた軍略と武勇など多くの傑出した部分を持つ土佐守殿は瞬く間にその出世階段を駆け上がりました。そして今川家の跡目争いである花倉の乱に介入した北条軍に従軍。敵総大将の福島正成を討ち取り名を上げ、その後朋輩と共に三十余名で花倉城を陥落させたことでその名声は東海関東で不動のものとなりました。その後国府台では小弓公方を強弓で以て射殺。当主が代わり左京大夫氏康殿の治世となるとその功績を以て河越城の主となったのです。しかし関東管領が古河公方などと計り数万の大軍で河越城を来襲。土佐守は留守でしたが、小田原にて自身の配下が守り通すことを信じ同時に攻め寄せた今川を叩くことを進言。興国寺にて数倍の敵相手に華麗なる計略で以て勝利。今川と一郡の割譲のみで講和となります。そして単身配下の花倉越前守兼成と与力であった北条綱成の籠る河越城へ帰還。その後救援に来た左京大夫殿と阿吽の呼吸で城の内外から夜襲を仕掛け、見事軍勢を撃破。この時扇谷上杉の幼当主・上杉朝定を捕縛することに成功。最早知らぬ者なき左京大夫の懐刀として名声は天下に響き渡る。それが一条土佐守です。ご理解いただけましたか?」

 

「お、おう。凄い奴って事は分かったぜ。今川相手に勝てるのか……。でもそんな奴ならなおさら北条家プレイの時にいなかったのはおかしいな……」

 

「左様。当家でも未だ叶わぬ今川家に大勝しておるのも、我らが土佐守殿を崇敬する理由にあります。また、現在関東は古河公方足利晴氏様が鎌倉へ移され、そこで関東公方として本来の任についているのです。そして左京大夫殿は先に話した上杉朝定を傀儡の関東管領とし腹心の土佐守に河越にて監視させ、自らは小田原にて執権として鎌倉府を取り仕切り、名目上は古河公方を戴いた政権を誕生させております。現在その版図は駿東・伊豆・相模・武蔵・上野の多く・西下総に及んでおり、関東全土のみならず奥羽、甲信、東海、畿内、西国にまで影響力を持っている大勢力にございます」

 

 なんか俺がゲームでやってるみたいな領土の広げ方だなぁ。にしても鎌倉府?そんなの全く聞いたことが無い。鎌倉幕府なら知ってるんだけど……。北条氏康は執権?義時とか泰時、時宗じゃなくて?()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ますますおかしいなぁ。信長はいないし、女の子ばっかりだし、どうもこの世界は俺のいた世界と同じと思ったらダメみたいだ、と良晴は気付いた。同時に自身の信長公記がいまいちあてにならない資料となったことを確信し、がっくりしている。とは言え、信長公記は尾張統一以前、言い換えれば桶狭間以前のマイナーな時期をしっかり描写しているので使い道はまだある。 

 

「ありがとう、万千代。分かった?あんた、微妙に頭が弱いみたいね。これまでの日ノ本の歴史をしっかり覚えているのかも怪しいわ。適当な時間を見つけて誰かにしっかり聞いておきなさい。さて、今日はサルのことだけじゃないの。こっちが本題ね。先の戦勝は良かったのだけれど、それを聞きつけた美濃から伝令よ。同盟の可能性を模索したい。会見を望むと蝮が寄越してきたわ」

 

 何と……。と場にいた良晴以外がざわめく。蝮の道三は彼らの先代・信秀が一生かかっても倒せなかった強敵。史実の信長も道三亡き後の美濃を取るのに足かけ七年も要している。それほど斎藤一族は織田弾正忠家にとってライバルなのである。

 

 しかし良晴は知っている。これは有名な正徳寺の会見だな!と。濃姫との婚姻は……まぁ信奈が女の子だから無理だろうけど、同盟なら結べるはずと彼は思っている。上がフリーになったら東の今川に対処できるんだからな、と自信満々であった。事実その通りである。ゲームも案外馬鹿にならない。

 

「蝮は守護を弑しています。危険かと」

 

「左様、今川以上に信用ならん相手ですぞ!」

 

 森可成と佐々成次が相次いで反対する。信盛は思案顔だが悪くないと思っていた。池田恒興は衝撃的すぎて固まっているが、気持ちは反対に近いか。

 

「過去の遺恨を流し、あの戦上手と組めるならば今後の尾張統一に大きく寄与しましょう。危険はありますが、成立出来れば九十点を出せるかと」

 

「使えるものは、使うべき」

 

 長秀と犬千代は賛成派であった。本来は信勝派にも諮るべきなのだが呼んだのに来なかった(勝家は妨害で来れなかった)方が悪いという事で話は進んでいる。信光は今日は来ていないものの一応賛成派であった。彼は兄弟である信康を失っているがそれでも現実が見えている。今川や両守護代と戦うには援軍が必要であった。犬山を離反させず抑えるにも道三は役に立つ。

 

「俺も受けるべきだと思うぜ!」

 

「サル、あんたは私の直属の足軽とは言えここで色々言えるような立場じゃないのよ。黙って聞いてなさい」

 

「いや、受けた方が良いだろ。斎藤道三がどんな奴でも、人呼んでおいていきなり殺すはマズいんじゃないか?」

 

「……でも守護殺しよ?」

 

「その前段階に色々あったんじゃないのか?いきなりズバって事は無いだろ」

 

 事実その通りで、守護を殺し傀儡を立てることになったときもしっかり段取りは踏んでいる。守護側にも引き返せる機会はあったし、実際に融和を試みている時もあった。しかし最終的に土岐家が折れなかったために土岐頼純は殺されている。いきなり謀殺は流石に大義名分が立たない。いくら敵対関係が長かったとはいえ、それは道理に反することであった。

 

 良晴は知らないが、美濃は意外と内情が不安定。その為、今度道三がそんな事をすれば一気に反乱が頻発する可能性があった。同盟を模索といって呼び出してだまし討ちともなれば明日は我が身だからである。故に道三に信奈を殺す選択肢は取れない。脅しには使えても、実行は無理なのであった。

 

「確かに一理あるわね……サルのくせに。ムカつくけど」

 

「ほっほっほ、確かに、相良殿の申すことも間違いではありませんな。美濃も決して一枚岩では無いでしょう。道三も老いた今ここで更なる悪評を立て足元を不安定にするのは避けたいはず。中立地帯の寺社を借りて行えば、下手な手も打てますまい」

 

「……佐久間殿がそう申されるのであれば、某は何も申しますまい」

 

 信盛は賛成を表明し、可成も賛同した。佐々成次も同意を示す。池田恒興は流れに合わせて賛成した。これにより、斎藤道三との会見が決定したのである。

 

「場所も指定されてたはずよ、えーっと」

 

「正徳寺だろ!」

 

「……サルの言う通りね。まぁ正徳寺なら大丈夫か。蝮の会談受けることにしましょう!」

 

「「「御意!」」」

 

 信奈の声で号令される。こうして織田弾正忠家は両守護代家、今川家などに対抗するための策として、先代の仇敵である斎藤道三との和平、ひいては同盟を模索するべく会見に臨むのであった。

 

 正徳寺に信奈が安心していたのにはしっかりと理由がある。ここは浄土真宗系の大きな寺院であった。この当時、寺社は半ば独自勢力として大きな影響を持っている。ここで戦闘に及ぼうものならば同系列の寺院に総スカンを食らうこととなる。そうなれば領土の統治に大きな弊害をもたらすことは必定である。寺社は今のように宗教だけをやっている訳ではない。武装もしているし、武家と戦闘になることもしばしばであった。

 

 良晴はドラマで見た逸話を思い出し、信奈に対し火縄に火をつけるように進言。道三はきっとどこかから見ているという発言には一定数の信ぴょう性があったためそれは受け入れられ、火縄に火が灯されある種の臨戦態勢の状態となった。そして道三はしっかりとそれを目撃しており、その鉄砲の数と火縄に火をつけたまま行軍できる練度に対して驚嘆することとなった。しかし物資があってもそれを使う人が愚かではどうしようもない。まだ分からぬ……と派手な格好のままの信奈を監視しつつ隠れていた小屋を後にしたのであった。

 

 身分の足りない良晴は会見には参加できない。代わりに上司でもある犬千代と一緒に本堂前の広い庭で警護に当たることとなる。道三側には彼をここまで手引きした商人でもあり武装した津島衆の一人でもある堀田道空が侍っている。道空は道三の家臣ではなくどちらかといえば信奈側の人間ではあるが、ここは商人の顔の広さを使い両者を取り持つために来ていた。

 

 木曽川や揖斐川の上流に美濃はあり、河口付近に津島がある。津島衆からすれば美濃も大きな取引先。尾張美濃が手を結べば今以上に商売が繁盛すると見込んでいる。その為商人集団は両家が同盟を結ぶことを切に願っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 歴戦の戦国大名。堂々たる風格だ……。と良晴は感嘆の息を漏らした。顔は老いているものの、肉体は全く緩んだところが無い。今でも槍働きが出来そうな雰囲気を纏っていた。重大な会見ではあるが、信奈がかぶいた衣装で行軍しているのをのぞき見していた為略式の装いをしている。恥をかかせないようにする、という名目は立てているがその実軽んじていることは言うまでもない。

 

 信奈が本堂の奥に引っ込んで一時間近くが経過した。いくらなんでも遅いのではないか。待たせ過ぎだと道三が痺れを切らし始めていた頃である。

 

「待たせたわね、蝮!」

 

 突然信奈が本堂に姿を現す。その艶姿に良晴は唖然とした。それは彼が今まで生きてきた中で見てきたどんな美少女キャラクターよりも美しく見え、テレビの中で見た芸能人たちよりも輝いて見える。その輝きは単なる美しさというより生命力としての美しさに近いものがある、と彼は思った。

 

 あの奇妙なうつけ姿じゃない!長髪を垂らして越後上布を着た姿は間違いなく織田家の姫君!すっぴんでこれかよ……。信じられねぇ。俺の高校にも、いやそもそも現代に此処までの美人がいるのか……?おおおと声が漏れそうになるのを抑えている。彼の現代人的な語彙力では形容する言葉が出てこなかった。素晴らしい美術品を前にした人の気持ちがやっとわかったような気分になっている。

 

「なッ……!」

 

 道三も良晴と同じように絶句している。余りにも姿が違い過ぎる。一杯食わされた。全て演技、三年鳴かず飛ばずという事か……!と彼の頭脳は驚きながらも回転している。

 

「私が織田弾正忠家当主。先代・信秀より家督を受け継いだ正当な後継者、織田上総介信奈よ。幼名は吉だけど、貴方に吉と呼ばれたくはないわね」

 

「儂が斎藤山城守である……」

 

「デアルカ」

 

 甲高い声の信奈はそのまま茶を飲み始める。彼女は礼儀作法は嫌いだが、嫌いと知らないは別物。やるべき時はしっかりやらないと葬儀の時のようになると学習している。その為実に礼儀作法にかなった美しい所作での動きであった。

 

「蝮、私には美濃の力が必要よ。私と同盟、してくれるわよね?」

 

「さぁ、それはどうかのう」

 

 道三も伊達に数十年戦国で生き抜いていない。多少の先制パンチを食らっても普通に立ち直れるくらいには場数を踏んでいる。良晴はその姿に思わず震えあがる。

 

「過去の遺恨云々を持ちだす気はない。とは言え、弾正忠家が頼れる同盟者であると分からねば、ホイホイと味方は出来んな。まずはお主の家の内紛。これはどう片を付ける。両守護代家との戦いは、今川とはどうするつもりじゃ?加えて、そのうつけという評判。如何なるわけがあるか説明してもらおうか」

 

「最初のは簡単よ。勘十郎は確かに品行方正だけれど家臣を御し尾張を統べる器も大望もないわ。だけれど家中での影響力はある。だからそれを美濃の力を借りて排除するの。尤も、何かをしてもらう訳ではないわ。私に強力な後ろ盾がいるとなれば迂闊に手は出せない。その間に両守護代家を制圧してしまう。そうすれば勘十郎は手も足も出ないでしょう」

 

「両守護代家はどう倒す。お主の父が人生をかけて倒せなんだ相手ぞ?」

 

「武衛様はこちらに近付いているわ。両守護代家は今川と和平の動きがある。武衛様は和平には猛反対で私と立場は近い。幾度か顔を合わせているからある程度は信用できる。武衛様の権威を元にして両守護代家の討伐を行うのよ。幸い、軍才はこちらの方がある上に将の質もこちらが上よ」

 

「ほう。斯波家を使うか。単純じゃが、効果的じゃろう。傀儡として動いてくれるのであれば、守護もまた道具と出来よう。して、お主の信を貶めているうつけという評判。これはいかに説明する」

 

「それは理論が逆よ。私がうつけなんじゃない。周りが私を理解できないだけよ」

 

「そうかのう」

 

「全ては合理的に動くためよ。時間を短縮し、他のことに使う。まどろっこしい手段は嫌い。種子島と多く触れ合うのはこの新兵器をいち早く理解して取り入れるため。これは必ず戦を変えるわ。刀や弓よりも訓練次第で誰でも使えるようになる。戦はいずれ、これを主体の集団戦に変わるでしょうから!」

 

「しかし、金が嵩むぞ?お主はいかほど持っておる」

 

「五百よ!」

 

「五百……。ハッタリでないとすれば当家の何倍か……。十兵衛の献策受けるべきだったか……」

 

 道三は苦々しい顔でつぶやく。数を揃えていることに関しては織田家の右に出る者はいない。それを分かっている兼音はこの頃何としてでも鉄砲を確保し、かつ改良するべく日夜時間を費やしているのだ。その北条家も数ではまだ織田弾正忠家に勝てない。国力では圧倒的に北条家が上なのにである。

 

「商いこそ国の要よ。津島も熱田も、私の覇道を支える大事な財布になるんだから。そうでしょ、道空!」

 

「はっ!弾正忠様には先代様より引き続きのご愛顧を賜っております」

 

 道空は慇懃に頭を下げる。堀田家や有力者の大橋家などは弾正忠家と縁を繋いだり、家臣団と縁繋ぎになったり中には武家となって軍役に参加する者もいる。相当長い付き合いであった。高度に取り交わされるやり取りに良晴は武者震いが止まらない。

 

「ある程度お主のことは分かった。されどもう一つ問おうか。何故お主の父は美濃を攻めた」

 

「父上の本心は知らないわ。けれど私でもそうする」

 

「ほう」

 

「それは蝮、貴方が美濃を狙ったのと同じよ!」

 

「――なんじゃと?」

 

「貴方は美濃を奪いたかったのではない。天下を盗りたかった。だからこそ美濃を抑え、国力を高め、その軍勢で以て六角や細川を破って畿内に駆け上ろうとした。東は山、飛騨に敵は無し。尾張も統一されていない。そんな状況だったからこそ、若い頃の貴方は美濃を盗った。元商人として商いの自由なる国を広げるために。違う?」

 

「参ったのう。儂の奥底に秘めた野望まで見抜かれてしもうた」

 

 道三の声は明るい。それは自信の野望を見抜かれた不快感ではなく、同志を見つけたような達成感のある声であった。

 

「最初に美濃に目を付けるのは大層な策略家よ。土岐家は軟弱で中も分裂状態。畿内に近い他の国よりも盗りやすかった上に国力も高い。けれど貴方は武士ではなく商人の産まれだった。だから美濃を奪うのに全生涯を費やす必要があった。地縁も血縁もない中からのし上がるためにね。天は不公平よ」

 

「おお、その通りよ。何度天運を呪ったか」

 

「蝮。天というものを私は信じないけれど、もしあるとするならばそれに愛されているのは私よ。生まれがある。財もある。まだ齢十六だけれど既に大名。私にはまだ貴方にない時間があるわ。だから私が天下を盗る。その為にまず、敵を排除する。蝮、力を貸しなさい」

 

「お主に出来るのか?」

 

「天下も何もかも治めて、日ノ本をこんな風にした原因を全て叩き切るわ。そうして南蛮に抵抗できる強い国へと生まれ変わらせる。私は世界を見ているのよ!」

 

「世界、か」

 

 信奈の夢はまさに世界進出である。しかしその具体的な方策や国家改造の大綱は存在していない。とりあえず大望があるというのは何とも思春期らしいと言えばらしいのだが、まだまだ詰めが甘いところと言えた。関東には完全版明治維新をやろうとしているヤバイ人間がいるのだが、流石の信奈もそこまでは知らない。

 

「お主を理解できる者は少ないじゃろうな。されど一人でも増やさねば、高転びに転ぶこととなろうぞ」

 

「心には留めておきましょう」

 

「同盟したいと申したな。尾張統一まではそれでよかろう。じゃがその後はどうする。今川はやって来るぞ。それも必ず。後ろの北条武田も期待は出来まい。おそらく早晩三国同盟が結ばれるはずじゃ。儂ならばそうする。山本勘助、一条土佐、太原雪斎などの輩が気付かぬ訳もあるまい。ともすれば今川は後顧の憂いなくやってくるであろう」

 

「無論、迎え撃つわ。それまでに尾張をまとめる。それに美濃の軍勢が合わされば十分今川にも抵抗できるはずよ」

 

「ではその後は?確かに雪斎は老境。奴のいない今川は弱るじゃろう。それも相まって仮に今川を追い返せたとしてどうする。美濃はいずれ敵に変わる、もしくは伊勢路から京へ上ってしまえば儂は、もし儂がその頃既に死んでおれば我が家臣や子はお主の臣下になってしまうぞ。それは出来んなぁ」

 

「いや、それは嘘だ!」

 

 道三が同盟を拒否する方向に走り始めていることを察知した良晴は無礼と分かっていながらも声を張り上げた。ギョッとする周囲。犬千代は慌てて抑えようとし、道空は冷や汗をかいている。

 

「斎藤道三!俺はあんたの考えが読めるぜ!」

 

「サル!詫びなさい、今ならまだっ!」

 

「座興じゃ。言わせてみようぞ。小僧、儂は何を考えておる?」

 

 何してるの、早く!と信奈が声を張り上げるが良晴は止まらず道三を見つめる。道三は老境。自分の人生がもうすぐ終わる事を悟っている。けれどその人生を一瞬で信奈に抜かされるのがどこか心に引っかかっている。それを良晴は天性の勘で敏感に感じ取っていた。だからここで道三の度肝を抜いて、信奈を認めていると公言させるつもりである。

 

「道三はこの後家臣にこう言うはずだ!『無念なり。我が子・家臣はうつけが門前に轡を並べるであろう』ってな!」

 

 信奈の顔はいよいよ真っ青になる。それは即ち道三の子や家臣が信奈に臣従することを意味している。道三の顔は驚きのあまり凍り付いている。敏い人間は多く見てきた。しかしここまでぴったりと自分の心を読んだ者を彼は知らなかった。

 

「如何なる妖術じゃッ!」

 

「いいや、妖術なんかじゃない。見てれば分かる!本当は信奈との戦なんかしたくない。天下統一を叶えられるのは信奈しかいないからだ!信奈が飛躍できなきゃ、道三、あんたの夢は誰も知らないまま朽ち果てていく。この国は混乱のまま!だから譲りたい。しかし主君を裏切り続けた蝮ともあろうものがそんなお人好しなことは出来ない。沽券に関わるし、家臣団にだって示しがつかない。老人と思われるのも癪だ。だから言い出せない。そうだろ!」

 

 道三はしばらくの間良晴の顔を見つめて沈黙していたが、小さく息を吐いて再び座った。

 

「尾張に人無しと思っておったが足軽でこれか。儂が同盟せんでもそのうち美濃は尾張の治める所となっていたであろう。戦の末か否かの問題、か……。相分かった。同盟、受けようぞ。そちらに我が娘を送ろう。義妹とせよ。もし兄弟で誰ぞおればそのまま娶らせてやってくれ」

 

「ま、蝮……?」

 

「我が夢、そなたに託そうぞ」

 

「……ありがとう」

 

 孤独であった少女はやっと理解者を手に入れた。それは彼女にとって救いとなっていることを、この場の誰も知らない。本人すら分かっていないかもしれなかった。良晴は感動している。歴史の舞台に自分がいること、そして自分の手で歴史が動いたこと。この感動はかなりのものだった。歴史の場面に居合わせたことはある。()()()()()()()()()()()()でも、映像で見た昔のそれと同じようにいつかこうして()()()()()()見ている自分が歴史の中になるのか……と思った。けれどそれ以上にもっともっと凄いことのように思えている。

 

 藤吉郎の恩返しのために雇われている、という受動的な彼であったが、今ここに熱いものが燃え滾っていた。ゲームで憧れ、漫画を読みふけり、ドラマを夢中で見てきた。しかし何と言ってもやはり本物は違う。圧倒的な迫力。正真正銘本物の斎藤道三。乱世の平定を夢見る織田家の当主。帰る方法が分からない以上、しばらく俺も信奈の夢に協力してもいいかもしれない。良晴は心の中でそう呟いた。

 

 そこからの会談はある程度スムーズに進んでいく。大まかな合意さえできてしまえば後は細かいところを詰めるだけだ。交渉は締結し、弾正忠家と美濃は数十年の遺恨を捨て、軍事同盟を締結することとなる。

 

「信奈殿。儂はそなたに夢を託す。しかし、例え今川を倒し、都へ上ったとしても敵は多いぞ」

 

「でしょうね。武田に長尾、三好に大内、尼子や九州の諸勢力、そして……」

 

「坂東北条。あそこは三好に次いで恐らく今日ノ本で二番目に天下に近い勢力じゃ。畿内の大樹に何かあれば、おそらく鎌倉公方を抑えている奴らが強い。しかも当代の左京大夫氏康は相当なやり手じゃ。あの家中戦略は弟を御せぬお主も見倣うべきじゃぞ」

 

「耳の痛い話ね。でも北条家が家中に問題があるとは聞かないけれど?」

 

「一門はそうじゃ。されどおるであろう、一番危ないのが」

 

「あぁ、そういう事」

 

 この頃まだ一条兼音に義妹が入ったという情報は流れていない。それ以前の状態であると、兼音が一番危ない状態であった。能力は高い分持っている権限も大きい。家臣も優秀な者を多く抱えているが、彼が万が一家族の無い状態で死んだ場合、その領地と家臣団が宙ぶらりんになってしまう。故に義妹を送り込むという話でまとまったのであった。遠山家は裏で三家老筆頭が大道寺に移り、その後また移る時に松田に戻すという約束で一条家に娘を送り込んだ。縁戚となることでもし兼音がそもまま死去すると遠山家に大きな利益が入る。そうでなくても一条家と縁戚である時点で大きなアドバンテージとなる。三家老筆頭になるのを捨てる代わりに得た大きな利点であったのだ。

 

「河越を囲むように一門が配置されておる。しかも内にも一門がおる。重臣も近くに多く配置されている。これは明らかに土佐守を警戒しての動きであろうな。その上で閨閥に取り込もうとしておる」

 

「閨閥?誰か嫁にでも送るの?」

 

「ふふふ、信奈殿はその辺の婚姻政策などはまだまだじゃな。答えは簡単よ。氏康が行けばよい」

 

「はぁ?左京大夫氏康は当主でしょう」

 

「何のために側に妹の氏政を置いておるのじゃ。代替わりで降嫁。あり得る話じゃろう?どのみち男系の北条は当代で終わり。であればせめて優秀な男の血を引っ張って来ようとするのが妥当な戦略。同時に関東一と称えられる美貌で土佐守を骨抜きにすれば完璧じゃ。遺領はそのまま北条家の物となろうぞ」

 

「なるほど……」

 

 なお、確かにそういう側面があるのは事実だが、そこの二人はバッチリ恋愛結婚になるのが確定的である。まだこの頃は恋愛関係では無いが、これより割とすぐ後にそうなるのだった。なので道三や朝倉宗滴の考えは的外れではないものの、決して真実ではない。とは言えこの頃恋愛結婚など武家社会ではほぼあり得ない話なので、無理もないことであったが。

 

「信奈殿は言葉は悪いがまだ未熟。じゃがそれは成長の余地もあるという事。その未熟さに賭けてみようぞ。くれぐれも、志果たさず死ぬでないぞ」

 

 道三はそう言い残すと堂々と寺を後にする。その後、美濃との同盟は瞬く間に尾張中に知れ渡り、両守護代家などはいつ道三が攻撃してくるかと怯える日々を過ごすことになるのである。だが今川も負けていない。この数か月後、善徳寺にて三国同盟が締結。兼音や武田家が長期の滞陣を始める。そして西上を目論む今川は尾張攻略の前哨戦として水野家を踏みつぶす作戦行動を開始するのであった。

 

 雪斎の寿命が尽きるまであと少し。時は第二次川中島の真っ最中。講和で雪斎を呼びつける前の話である。




次回、村木砦の戦い。それが終われば章末人物紹介でこの章は終わりです。あと少しですね。お楽しみに!人物紹介の短編はイギリスの話と兼音の過去の話を予定中です。

マシュマロ→https://marshmallow-qa.com/tanuu90004861
感想欄では聞けないけどメッセージ送るほどでも……みたいな質問あればどうぞ。他にも作品の事なら割と何でも答えるつもりです(定型文)。

<ちょっとした解説>

斎藤道三は一般には国盗り物語に知られるように京の油商人・松波庄九郎から身を立て、西村勘九郎正利を名乗り土岐家に潜りこむと守護家の跡目争いに介入し土岐頼芸の信を得て長井長弘を排除。長井新九郎規秀と名乗る。その後守護代の斎藤利良が死ぬとその名跡を継いで斎藤新九郎利政を称するようになる……というストーリーが有名。しかし近年の研究によると父親である新左衛門尉の話と混ざっており、実際は親子二代で美濃を治めるに至ったという話のようです。

とは言え、この作品では(原作もそうですが)国盗り物語リスペクトで斎藤道三は一代で身を興した梟雄という設定にしております。


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第110話 村木砦の戦い 尾

これで織田編は一回終わりになります。その他の戦いとかは次章に持ち越し。尤も次章でどこまで行くかは不明ですが……。


 美濃斎藤家と同盟を結び、背後を盤石にした織田弾正忠家。残っている敵対勢力である織田大和守家・伊勢守家はいずれも信奈に数度の敗北を喫しており、戦になれば勝てない見込みが高くなっていた。加えてそこに斎藤家の援軍も加わるとなれば鬼に金棒。早晩尾張は織田信奈によって統一され、その後末森城の信勝も下らざるを得ない状況になるだろう。それが多くの者の予想であった。

 

 しかも尾張で今なお権威を持っている武衛こと斯波義統は信奈の統一を支持している。信奈は反今川を鮮明にしている。それ故に信奈を使って遠江を簒奪した今川に一泡吹かせたいという欲望を持っていた。今更守護として権力を振るうのはもう諦めている。隣国の土岐は国を追われ、吉良は死に体。北畠はもう南部にしか勢力を残しておらず、六角も衰退が激しい。守護の時代は過ぎたと理解できるくらいには能力のある男であった。

 

 そんな武衛の間接的な支援を受けて信奈は次の一手を繰り出そうとしたがそうはさせまいとする勢力が存在している。何を隠そう今川家である。雪斎は織田信奈の台頭を警戒し、三国同盟を締結した後じわじわと信奈を締め上げる作戦をとっていた。楽田での戦いの結果を得て一挙に尾張南部を抑える必要性を感じた雪斎は対信奈の一手としてその同盟国を攻める選択をしたのである。

 

 同盟国と言っても斎藤家ではない。陸続きではあるものの、三河の山と東美濃の山々を越えて大軍を送るのは厳しい。そうでは無いもう一方の同盟国である。その名は水野家。知立・刈谷に勢力を持ち、衣浦湾の水上交通の利権を抑える一族である。そして何を隠そうあの徳川家康の生母・於大の方の生家でもある。

 

 ここの当主は水野信元。織田信秀の代から弾正忠家と道を同じくしている。同時に今川家との最前線に位置している勢力でもあった。昔は松平と協力していたのだが、織田に寝返った際に家康――今はまだ元康――は母と離別することになっている。なお、この母親は後に久松氏と再婚した。この久松氏は史実では松平の姓を賜り、譜代の扱いを受けている。

 

 ともあれ、今川はこの最前線を抑える水野家を滅ぼすことで織田弾正忠家への大きな楔としようと試みたのであった。時期は秋。三国同盟が結ばれた後。雪斎は間もなく第二次川中島の戦いの仲介に行こうとしている時であった。

 

 

【挿絵表示】

 

尾張・地図

 

 

【挿絵表示】

 

尾張地図・南部

 

 

 

 

 

 

 

 楽田の戦いで織田弾正忠家に加入した良晴ではあるが、その身分は決して高くはない。信奈の近侍とは言え足軽であることに変わりはなく、前田犬千代の配下として生を過ごす日々である。とは言え無一文でありツテも何もない彼からすれば寝床と食事があるだけでも万々歳。世話をしてくれる浅野又右エ門長勝の好意もあり、色々とこの時代の常識を叩きこまれていた。また、又右エ門もかつては槍働きで武功をあげた身である。故に戦場でのいろはや槍に関する諸々を教えてくれている。良晴の対人コミュニケーション能力は一般よりは高いので、素直に頑張る姿勢も相まって好意的に見てくれる存在もいるのである。

 

 浅野家では史実における北政所である寧々(まだ幼女)と対面したり、その義姉の養子であるまだ幼い浅野長政に遭遇している。又右エ門は実子が無く、家名を残すために養子をとっていた。そのため寧々も実子ではなく杉原家の出身であった。浅野長政は後の五奉行である。

 

「サル殿、起きておりますか!」 

 

 寧々は子供らしく元気な声で朝叩き起こしに来る。良晴も一刻も早くこの時代に慣れて出世する。そして死んだ藤吉郎の恩に報いその家族を養えるようにする。そういう目的があった。その為に訓練しないといけないことは分かっているのだが、筋肉痛は辛い上に運動部でも無い彼はスパルタが苦手であった。

 

「だから俺はサルじゃねぇ、相良良晴だ!」

 

「ですが皆信奈様のサルと呼んでおりますぞ」

 

「むぐぐ」

 

「そんなに言うのであればこの寧々が試してあげましょう!鶴と亀の問題ですぞ。池に鶴と亀が合わせて八匹おります。八匹全部の足を合わせると三十本ですぞ。さて、鶴と亀は何匹ずつおるでしょうか!」

 

 これは連立方程式!と良晴はピンときた。正確には現代でも鶴亀算であるが、理論的にはそれでも解答可能である。彼の脳内は未来人らしく方程式でビビっと解いてやろうと意気込んでいる。九歳の女の子に得意げになってもしょうがないのだが、挑まれた勝負は負けたくないのが彼の性。

 

 まず【「鶴の総数」+「甕の総数」=8】となる。ここで鶴を【x】匹、亀を【y】匹とすると【x+y=8】となりこれが第一の方程式。また【鶴一羽の足の数=2本】【亀一匹の足の数=4本】だから【「鶴一羽の足の数」×「鶴の総数」+「亀一匹の足の数」×「亀の総数」=30】こちらの第二の方程式は【2x+4y=30】となる。ここら辺で暗算が厳しくなってきた彼の頭はそれでも必死に動いている。元々文系人間の彼に数学は難しい話であった。

 

 第一の式を動かして【y=8-x】が導かれるからこれを第二の式に代入して、ええと【2x+4(8-x)=30】だ。即ち【2x+32-x=30】!これを解くと【x=-2】!

 

「分かったぞ、鶴がマイナス二羽。合計で十匹だから亀が十匹だ!」

 

「米茄子とは何ですぞ?正解は鶴が一羽、亀が七匹ですぞ」

 

「え、そんな訳……ギャーッ!俺はどこかで計算ミスしてる!?クッソ、幼女に負けた……」 

 

 良晴は寧々に負けた悔しさからがっくりと膝を着いて地面にへたり込む。なお、何をどう間違えたのか彼はずっと分からないまま放置しており、この話を後年された兼音は呆れた目をしつつ「生物がマイナスな時点でおかしいと思いたまえ」と言った。兼音は元々高校時代家庭教師のアルバイト(時給五千円)をしていたためこれくらいは暗算余裕であった。そうでないとそもそも第一志望が京大にはならないのだが。

 

「やはりサル殿はサル殿ですな!童も解ける計算ですぞ」 

 

「うぅ……俺、バカすぎる……」

 

「人類未満のケダモノとは言え寧々よりも年上ですからこれからは「サル様」と呼ばせていただきますぞ」

 

 良晴は、俺は本当にサル並の頭の持ち主だったのかもしれない、と涙を浮かべながら考えるのが精一杯だった。

 

「サル様!そのようなたわけ者では信奈様の家臣は務まりませぬ。いずれサル鍋の具にされてしまいますぞ!」

 

「だよなぁ……」

 

「寧々が思うに、サル様は答えを出す前に一度考える癖をつけた方が良いと思いますぞ!」

 

 確かに思ったことを口に出すのは俺の悪癖……と良晴は思う。しかし幾度となく同じような事は思い考え注意しようとしているのだが中々うまく行かない。もう染みついてるんだろうなぁと諦めかけているところだった。女子からは避けられてばっかだったのはやっぱりそのせいだよなと分かり切っていることを思い直す。だが彼にがっくりと自信喪失している暇はない。未来の能吏の面影はこれっぽっちもない浅野長政に槍の勝負を挑まれている。これまで負け越しの良晴は今日こそ勝つぞと意気込んで長屋を後にするのであった。

 

 

 

 

 

 

 良晴が小学生に知力を馬鹿にされている中、織田弾正忠家には激震が走っていた。

 

「もう一度、言いなさい」

 

「はっ!今川軍が当家の重原城を急襲。同日落城いたしました!また調略により配下であった寺本城の花井も寝返り、当家は窮地に立たされております!のみならず敵は村木砦を奪い、当家を囲まんとする勢い。弾正忠様におかれましては先代の頃よりの両家の絆、今こそ示すときと存じまする!何卒主信元を救援していただきたく!」

 

 水野家の使者・清水家重は額を擦りつけながら要求を述べる。信奈にしてみれば現状の今川戦線は芳しくない。先の楽田の戦いでは勝利したものの、あくまでも辛勝。それも自身の身が危うくなるほどのギリギリの勝利であった。にも拘らず防戦であったためさして利益は無い。楽田織田家は臣従したが、それくらいであり今川家に対する有効打では無いのは明白であった。

 

 水野家は衣浦湾を抑える要衝の家だが、知立・沓掛・大高・そして重原を抑えられたことで完全に弾正忠家の支配領域から断絶されていた。しかも花井氏の裏切りにより知多半島での海上接触も厳しくなっている。このままでは早晩水野家が呑み込まれるのは自明の理であった。信奈からすればもう少し待って欲しいと思うところ。しかし敵は待ってくれない。これに救援を送るべきか、否か。それが目下の課題であった。

 

 楽田の時よりも一層の重大事と弾正忠家の評定を行おうとしたが、林兄弟が出仕しない。もう林家は諦めている信奈はせめて勝家が来てくれたことをプラスに捉えることでなんとか自身の溜飲を下げようとしていた。尤も弾正忠家全体の大事、同盟者の大事の分からない林兄弟に対しては腸が煮えくり返っているのだが。

 

 参加者は佐久間盛重、同信盛、柴田勝家、佐々成次、丹羽長秀、池田恒興、森可成、村井貞勝、更にはまだ若いが塙直政、川尻秀隆、梁田広正なども参加を許されている。一門衆では叔父の信光、信次、大叔父の秀敏がいる。信勝は呼んだが来なかった。

 

「聞いたわね。楽田との連戦で疲れているとは思うけれど、これを助けなければ当家は滅亡よ。中からではなく外から滅びることになるわ」

 

 救援に行かないという選択肢は最もとってはいけない選択肢であった。これはこの場にいる全ての参加者が理解している。後詰という概念がある。籠城する味方、或いは敵中で孤立してしまった味方を助けるために出陣するというのがざっくりとした意味だ。そしてこれは戦国時代において何よりも重要と言っても過言ではない。

 

 特に籠城の際は非常に大事なことであり、今現在敵である今川に領土を包囲されいわば籠城状態である水野家も後詰をすべき対象であった。同盟相手であるというのもそうだし後詰の観点からもしないといけない。籠城というのは大変なストレスになる。逃げ場が無く、いつ死ぬかもわからない。今の水野家も今川がいつ総攻撃をかけてくるか分からない。水野信元は気が気ではなかった。

 

 この後詰は我々が想像している以上に大事なことであり、それをしない主は頼むべきに非ずと見なされ降伏されたり裏切られても文句は言えない立場になってしまう。この成功例は河越夜戦であり、あの時は城に籠る面々は氏康の援軍は来る、兼音が今川戦線を片付けて必ず帰ってくると信じて半年耐え抜いた。その結果見事大勝利を収めた。長篠の戦における長篠城もそうであろう。水の手を断たれ、降伏するか否かを迷う奥平家を勇気づけたのは鳥居強右衛門の後詰は来る!という決死の叫びであったのは有名であろう。

 

 反対にしなかったが故にお家滅亡に繋がったケースも存在している。大きいのは高天神城であろう。武田の領国になっていた堅城高天神ではあるが、徳川軍に包囲され、降伏も拒否された挙句城将岡部元信は悲惨な死を遂げた。これによって勝頼の落ちた名声はさらに失墜し、武田家滅亡の大きな引き金となってしまう。

 

 ともあれ、水野家は助けなければいけない。そうしなければ諸国の信を失い、国衆にも離反されてしまう。そうなれば御家は滅亡するだろう。それが分かっていて来ないのは信勝もどうかと思う……というのがこの場にいる全員の意見であった。こうして信勝派は徐々にその数を減らしている。しかも相手は先ほど同盟した斎藤家ではなく父の代からの盟友である水野家なのだ。これを見捨てる事などどうやっても出来ない。

 

 無論、水野家も覚悟しているところはある。いつかはこうなるとは思っていた。それでも信奈と結ぶと決めていたのは赤塚での素早い行軍、諸々の戦でも戦勝、そして無関係であった楽田織田家を助けたという事。これらの要素を総合的に見て同盟を切らないと決めている。とは言え、自力ではどうしようもないのも事実。なのでこうして信奈に救援を頼んでいるのであった。

 

「助けたいのはやまやまじゃが、やはり大高・鳴海が邪魔じゃな」

 

「な、鳴海には岡部元信がこ、籠っている。これはつ、強いぞ」

 

 信光がため息混じりに意見を述べ、信次がどもりながら言う。信次は元々そこまで気が強くなく、信奈の覇気をいつも恐れていた。その上先の萱津の戦いで城を落とされ助けてもらった恩もある。それ故に強く出れない。別に信奈は信次のことが嫌いではないし干渉してこない気弱な叔父くらいにしか思っていない。何も言ってこないのでむしろ好感度は高い方であるし先の戦での件も無事でよかったと思っているくらいなのだが、信次の方は姪を怖がっていた。

 

「叔父上たちの言う通り。まともに前から行こうとするとまず間違いなく大高や鳴海とぶつかるでしょうね。大叔父上、鳴海と当たった際の勝率は?」

 

「戦は勝つか負けるかのどちらか。今川の本隊が動いておらず、三河の兵のみに加え鳴海大高ならば勝ちは拾えよう。されど……その後水野を助けに行く余力が残るかは怪しいところじゃな」

 

「そうよね……」

 

 最前線である桜中村館に籠っている長老織田秀敏の発言に信奈は唸る。何とか打開策を考えねばならない。村木砦を何とかしてしまい、同時に花井氏を叩けば水野家の包囲網は解ける。伊勢湾を経由して知多半島から連携が取れるからだ。今川家はじわじわと水野家を締め上げて降伏するのを待っている。次の狙いは緒川城であると信奈の脳内には想像がついていた。村木砦の近くにある緒川城が落ちれば水野家の知多半島における勢力は消滅する。残りでは抵抗は難しかった。

 

 織田弾正忠家は軍師がいない。なので軍師役も信奈が自分でやらないといけない。明晰な頭脳を働かせ、信奈は打開策を考える。大高城、鳴海城を経由せずに知多半島に行く方法。目は伊勢湾にスライドする。伊勢湾を経由すれば行けるかもしれない。電撃的な進撃も可能だ。そして彼女の研究している北条の戦にも強襲上陸作戦は存在している。今川を完膚なきまでに破った戦い、興国寺の戦いである。

 

「船、しかないわね」

 

「ですが姫、流石の今川も警戒しておるのでは?興国寺と同じ轍を踏むほど愚かでは無いでしょう」

 

 佐久間盛重が反論する。事実、今川は奇襲を何よりも警戒していた。先の戦いが相当なトラウマになっていることは確実である。鳴海城などと戦い真正面から行くか、それとも警戒されているのを覚悟で上陸を敢行するか。二択が信奈の脳内で点滅していた。しかし、天運は彼女に存在していた。

 

「も、申し上げます!」

 

 今回の評定には北条家の大船団が丁度津島に来航しており、その彼らとの商談があると参加を見送っていた大橋重長が飛び込んできた。その顔色は真っ赤であり真っ青でもある。大橋重長は津島の商人でもあり付近の領主でもある商人兼武士であった。津島の商人の中でも抜きんでた存在であり、織田一族の娘を娶っている。そんな彼の姿に一同は大いに驚いた。

 

「どうしたの重長。そんなに慌てて。まずは水を」

 

「それどころではございません。朗報、朗報ですぞ!」

 

「朗報?」

 

「左様。先ほど北条の商人より伝え聞いた話によりますれば、太原雪斎死去!」

 

「何ですって!?」

 

 場は大騒ぎになる。先代信秀を苦しめ、織田家の前に立ちはだかり、今回の戦の筋書きを書いたであろう男。黒衣の宰相太原雪斎は織田弾正忠家にとって越えねばならない高い壁であった。そして彼がいる以上対今川線は苦戦必至であったのだ。しかしその彼が死んだ。今川は多くを彼に委ねていた。今後混乱が予測されるであろうことは必然。そして雪斎は自分がまだ死ぬとは全く思っていなかったので引継ぎも十分ではない。

 

「静かに、静かに!本当なのね?」

 

「はっ!川中島にて行われていた越後甲斐両軍の戦を仲介した帰りに突然倒れて死去したと。駿河は大混乱だそうですぞ!」

 

「北条は今川の同盟相手のハズよ?その情報、偽の可能性は?」

 

「商人は信用が命。情報も商品なれば信用を重んじねばならないのです。それに、同盟締結後も明らかに小田原の息のかかった商船が大量に津島・熱田に来航しておりました。北条は今川と与する一方で当家にも利を求めているのは明らか。北条からすれば当家と今川が長く争っているのが得なのでしょう」

 

「……筋道は立っているわね。だとするならば今が好機、か」

 

「敵の混乱はまたとない好機。黒衣の宰相亡き今、織田弾正忠家に風が吹いております。一気呵成に行くのが満点の策かと」

 

「その通りね!最早ここで退く選択肢はなし。何としてでも水野家を救援し、今川の出鼻を挫くわよ。全軍、直ちに動員を開始!知多半島に上陸を仕掛けるわ。重長、船の用意は?」

 

「既にある程度揃えておりまする」

 

「兵糧弾薬は?」

 

「僥倖でございましたな。軍事物資は此度の北条の商船に満載。やや値は張りますが、すぐにご用意できまする」

 

「金に糸目はつけないわ。何としてでもそろえて万全の態勢で行くわよ!」

 

「ははぁ!」

 

 津島衆は長く自分たちと道を同じくする弾正忠家に忠誠を誓っている。信秀も信奈も商人的な思考をする人間であり、相性はいい。津島衆、そして熱田衆はいずれも半士半商の集団であり、動員兵数もバカにならない。うつけ姫時代には不安を抱いていたもののこれまでの勝利や政策で彼らの心は信奈に傾いている。大きな財政的支持を得ながら信奈の統治は進行しているのであった。

 

「此度敗れれば今川に勝てる好機は二度と訪れないでしょう。必ず勝つわよ!」

 

「水を差すようで悪いが、那古野の守りはどうする。末森もそうじゃが、守護代家が不安要素であるが」

 

「問題ないわ叔父上。既に策は考えてあるの。せっかく結んだ同盟、生かさない手はないわ!」

 

「蝮を呼ぶか……。良いじゃろう。含むところはあるが、おぬしを信じる」

 

「ありがとう。では皆、行くわよ!」

 

「「「応ッ!」」」

 

 かくして織田弾正忠家は末森城や林一族の助力は無いもののそれ以外のほぼ総力を挙げて水野家救援に向かう事で合意する。そして要請を受けた斎藤道三は配下の西美濃三人衆が一人である安藤守就を派遣。那古野城の外に駐屯させ、末森城や清州城などとの抑えに活用した。また、先ごろ臣従した楽田織田家にも兵を預け、楽田館の北東にある品野城を見張らせる。その上で信奈は津島衆などに大量の船を用意させ上陸を敢行しようと試みたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 出陣命令はすぐさま家中を駆け巡り、それは当然良晴の元にもやって来る。五右衛門も今回手伝ってくれるという事で、五右衛門の仲間を織田家に雇ってもらうためにも自分自身が頑張るしかないと良晴は張り切っている。その上で今の情勢を確認すべく信長公記をめくった。すると村木砦という地名が出てくる。楽田の戦いについては史実に存在していないので載っていなかったが、水野家の救援などの文言、船で渡ったなども書いてある。即ちこれは村木砦の戦いかと確認したのである。

 

 よしやるぞと気合を入れた良晴。上司の犬千代や信奈なども大いにやる気であった。しかしそう事は簡単には進まない。安藤の軍勢の到着を確認し、熱田の湊より出航しようとしたその日は運悪く暴風雨だったのである。良晴のいる本陣には雨風が吹き荒れていた。

 

「信奈様、船頭など皆今日は出航できないと申しておりまする」

 

「やはり渡海は明日以降の方がよろしいかと。今日出てはそもそも無事に着けるやも分かりませぬ」

 

 森可成や池田恒興は渡海に反対する。叔父の信光もそれに賛同気味であった。大叔父である秀敏は佐久間盛重と共に鳴海の抑えに行っていた。

 

「……」

 

「姫様、お考え直し下さい」

 

「……そうね」

 

 信奈も陸上移動ならいざ知らず、場所は海上。そして自分は海に関しては素人。ならば大人しく船頭の言う事に従った方が良いかと思い唇を噛みながら諦めかけていた。しかし困ったのは良晴である。信長公記には雨の中まさかの渡海を敢行して意表を突き勝利と書いてあった。つまりここで渡海しなくては勝利できるはずの戦いに勝てるかも分からない。

 

 また、ここで雨中の行軍に心理的なストップがかかった場合桶狭間も怪しくなってしまう。それは織田家にとっても良晴にとってもよろしくない。だが信奈が諦めたという態度を変える様子は無い。ここで自分が奮起せねばと彼は再びでしゃばることにした。

 

「やい、信奈!」

 

「さ、サル?」

 

「いつも偉そうにして色々言ってるくせにこんなところで諦めるのかよ!」

 

 唐突に敬語も無く主に暴言を吐き始めた良晴に織田家の諸将は目が点になっている。常識の範囲外の行動は信奈で慣れているとはいえ、常識の中でもかなり深いところにあるものを平気で無視してくる者はそういない。だが誰も邪魔してこないのをチャンスととらえた良晴は更なる発破をかけることにした。

 

「今川は大国なんだろ?今からそれを倒そうって言うのに海一つ越えられないでどうやって勝つんだよ!臆病になっちまったのか!?俺の知ってる織田信奈はいつだって勇敢で革命的で滅茶苦茶だけど諦めない奴のハズだ!武士ならビビらず行けッ!」

 

 唖然としている信奈ではなく、この言葉には周りの諸将がカチンときていた。武士ならビビらず、という事は今ここにいる武士である自分たちは臆している。主君の命を救ったとは言え足軽風情にそこまで言われている。そんなことを言われて黙っているような人物たちでは無かった。

 

「何を言うか!」 

 

 まず勝家が大声で怒鳴る。

 

「我らが臆しているというのか!」

 

「違うなら証明してみろっ」

 

「そこまで言うのならやってやろうじゃないか!姫様、このままサルに言いたい放題言われて黙ってはおれませぬ。我らの勇気を見せるべく、どうか渡海を!」

 

「柴田殿の申す通り。古の屋島でも義経は風雨を超えて奇襲を仕掛けました。義経に出来てなんぞ我らに出来ん事がありましょうや!」

 

 佐々政次が大きな声で進言する。屋島とは文字通り屋島の戦い。この戦いで義経は梶原景時の反対を押し切り暴風の中出航。屋島に滞陣する平家軍を急襲した。その故事になぞらえているのである。信奈は空気が自分の望む方に傾いているのが分かった。しかしいくら武士がやれと言っても船頭が頷かなくては船は出ない。

 

 何やら出航という話になっていると聞きつけた船頭衆は無理だというべく本陣へ急いでやって来ていた。だが待っていたのは信奈ではなく次は船頭たちを説得するべく待っていた良晴である。彼は説得のうまいやり方は知らない。加えて恩賞などを出せる立場ではない。しかしそれでもと彼の出来る範囲での説得を実行する。

 

「どいてくれ、俺たちはまだ死にたくない。こんな海に出るのは自殺行為だ」

 

「俺は行くぜ。一人でも」

 

「はぁ?正気か。命あっての物種だぞ」

 

「正気だ。今行かないと行けない」

 

「何故」

 

「それが今必要なことだからだ」

 

 船頭衆は互いに顔を見合わせる。目の前に立っているサル顔の足軽がなぜそこまで命を懸けるのか。足軽など金で雇われているだけの関係。そこまで義理立てする必要などない。だが目の前の男は違った。使命感のようなものに燃えている目をしていた。雨の中で、そこだけ熱いかのような感覚。それを船頭たちは味わっている。

 

「でも俺一人じゃ何の役にも立たねぇ。海を一番知ってるのは、海で生きてるアンタ達だ。頼む」

 

「……」

 

「この海で生まれて、育ってきたからこそ無理だってのは多分真実なんだと思う。けど、それでも行かないといけないんだ。ここで行かなきゃ、織田家は終わっちまう。アイツの夢も、終わっちまう」

 

 奥で腕を組んでいた老境に近い船頭が良晴に近付く。筋骨隆々であり、肌は赤く焼けている。潮と共に生きてきたと主張するような姿をしている。白い髭を張りながら、老人は良晴の前に立った。

 

「なんでそこまで命を賭す。相手はあのうつけ姫だろう?」

 

「分かんねぇ。まだその答えは見つかってない。けど、それでもその答えを見つけるために、戦わないといけない。それに恩を返さないといけない人もいる。その人の願いを叶えるために、俺は走るぜ」

 

「……そうか」

 

 老人は小さく頷いた。

 

「おい、お前ら!漢一人がここで命懸けようとしてんだ。それに応えないで海の漢名乗れねえだろ!俺たちは伊勢湾で育った。海鳴りが子守唄!嵐くらい何度も超えただろう!」

 

「おやっさんが言うなら負けらんねぇなぁ」

 

「おい、坊主。姫さんに言っとけ。無事は保証しねぇってな」

 

「それと給金も倍出してもらうぜ!」

 

「いっちょ行くかぁ!」

 

「「「応ッ!」」」

 

 船頭たちがそれぞれの船に戻っていく。閉じていた帆を張りだした。風雨の中でも手慣れた手つきで彼らは動いている。

 

「お前の答え、見つけるまで死ぬなよ」

 

 赤銅色の太い腕で良晴の肩を叩き、老人は戻っていく。何とか説得できた、怖かった……と半分放心状態の良晴だったが、説得できたことを信奈に報告しないといけない。急いで本陣の中に戻った。本陣内は熱気が渦巻いている。先ほどの良晴の発破が奇跡的に上手く機能し、諸将のやる気に火が付いたのである。

 

 良晴を無礼と切るのは簡単だった。だがそれでは自身が臆病でない証拠にはならない。むしろ臆病を嗤われたが故に斬ったしょうもない輩になってしまう。それは彼らのプライドが許さない。賢い長秀や信光などはあれが良晴なりの信奈への助太刀、発破であったと理解している。

 

「あ、サル!あんたどこ行ってたのよ。今どうにかして船を出させる相談をしてたのよ!誰かさんが行けって言うから」

 

「その説得はもういらないぜ!俺が済ませてきた。賃金二倍で出してくれるってよ!」

 

「相良とやら、ようやった!皆、すぐ発とうぞ。信奈、それでよいな?」

 

「え、ええ……」

 

 信光が大きく叫ぶ。諸将も色めき立ち、すぐに準備するべく各々の部隊へと走って行った。船頭が説得できたのであればすぐ行動に移さないといけない。彼らの気が変わる前に海に出る必要があるからだ。本陣には信奈と犬千代、他数名の近侍、そして良晴が残された。

 

「サル、あんた……思ってたよりやるじゃない」

 

「へへ、どんなもんだ。恩賞、頼んだぜ」

 

「ふ、ふん。それとこれとは話が別よ。調子に乗らないことね」

 

「なんだよケチくせぇなぁ」

 

「あんたねぇ、主に向かってケチくさいとは何よ!」

 

 半ギレの信奈が刀を抜き放って良晴を追いかける。慌てて逃げる良晴。犬千代や近侍はそれを黙って見つめていた。その目には生暖かいものがある。信奈が本気で良晴を討とうとしている訳ではないことも、追いかけている信奈の目が近年稀にみるほど、それこそ信秀が死んで以来の輝きがあることを分かっているからであった。とは言え自分たちに出来なかったことを平然とやってのけ、信奈に分かりにくいながらも気に入られているのが若干イラっとするので助け舟は出さない。この追いかけっこは船の出港準備が出来るまで続いた。

 

「かつて今川を破った一条土佐守は海より来たりて奴らを殲滅したわ!そして今、私たちは同じく海より今川を討たんとしている。同じ状況は天佑神助!けれど嵐なのは興国寺の戦での北条よりも我らの兵数が少ないが故の不利を表してるのよ!この嵐乗り越えられずして、今川を倒せる道理なし。いざ行かん、我らの友の助太刀に!」

 

 信奈は船の舳先に足をかけ、刀で以て進路を指し叫ぶ。そして荒れ狂う海の中織田家の兵が出航した。

 

 

 

 

 

 

 

 荒れ狂う風雨の中織田軍は出航し船団は知多半島に残った数少ない織田家の拠点である木川城近くの可家湊に入った。その後雨の中突然の織田軍来襲に仰天する花井氏の籠る寺本城下を威圧して山を越え、水野忠分の籠る緒川城に入城する。これに驚いた忠分は直ちに当主でもあり兄もでもある信元に使者を飛ばした。衣浦湾の対岸に位置している刈谷城で信奈の救援を待っていた信元は一報を聞くや否や大急ぎで僅かな手勢と共に緒川城を訪れる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「織田殿、良く来て下された。この風雨の中を突破され、しかもご無事とは……まさに天の助けがあるとしか言えませぬ。水野家当主、水野下野守信元にござる」

 

「で、あるか。織田上総介信奈よ。父上の代からの盟約、しっかりと果たしに来たわ」

 

「ありがたき事!百人力でござる」

 

 良晴は頭を下げて感謝している信元を見ながら、水野家の名前をどっかで聞いた事があると思って必死に頭の中の記憶を探っていた。アレは確か大河ドラマの中で……家康関連で出てきたような……とそこまで考えて思い出した。

 

「於大の方か……」

 

「む、於大は確かに某の妹でござるが」

 

「あ、あぁ、そこのサルの独り言は気にしなくて良いわよ」

 

 気にしなくて良いと信奈は言うが、信元にしてみれば気にしない訳にはいかない。大国の狭間に生きる国衆として、信奈の近侍が自身の妹の名を出した意味を探っていた。そして一つの可能性に思い至る。

 

「なるほど、確かに某の妹は元康の母。今や姪たる元康は今川の家臣。されど某はその縁を捨て織田殿と共に今川と戦うと決めておりまする。於大は既に知多の久松家に嫁いでおりますれば、元康との縁も切れているでしょう。織田殿からすれば確かに同盟継続をするには不安要素。気付かぬ某の不明でございました。そこの御家来も言いにくいことを言わせてしまいましたな」

 

「だ、大丈夫よ。疑ってなどいないから」

 

 信奈は何とかなったと冷や汗をかきながら、不用意なことを口にした良晴を軽くにらみつける。今回は水野信元が本心から織田と組んで今川と戦う気があったが故に問題なかったが、そうでなかった場合外交問題になっていた可能性がある。運よく「信奈がどこかで自分を疑っていて、それを家臣が代弁しただけである。頼れるのは信奈だけであるからして、彼女の信を得る必要がある」と信元が捉えてくれたに過ぎない。とは言え結果良ければではないが、信元は織田家との一層の関係強化を決めたので最終的にはプラスに転んでいるのが良晴の幸運であろう。

 

「さて、まずはこちらの緒川城に打ち込まれた楔である村木砦を叩かねばなりますまい。何か算段などございまするか」

 

 村木砦は衣浦湾に突き出た要害で、北と東は海に面している。北は崖になっており、東は湿地帯で軍の行軍は難しい。その東側に大手門などはあった。西は搦手であり、南は大きな空堀があるなど堅固な備えの砦になっている。砦の主将は松平甚太郎忠茂。東条松平家の二代目当主である。

 

「水野の水軍は動かせる?」

 

「今日は厳しいですが、明日ならば」

 

「ではまず砦の東側から水軍で以て攻撃。その間私たちは兵を隠しておきましょう。今日の内に天王山付近に移動するわよ。そして敵の目が水軍に向いたら一気に仕掛ける」

 

「今日の内にですかな?」

 

「そう。敵は私たちの来襲に気付いていないわ。寺本からの連絡線は全て遮断したし、その他の敵城もこの雨風の中私たちが渡海したとは考えていないはず。砦は今油断しているわ。雪斎の死も相まって、敵は思うように動けないはず。敵を全て指揮していた存在の死は、代わりとなる総指揮を執る者が無いまま来てしまった。今こそ一気呵成に、そして電撃的に砦を落とすわよ」

 

「承知した!直ちに準備に入りまする」

 

 信元は信奈の作戦に深く頷き、準備をするべく水野家の諸将に下知を飛ばし始める。信奈も配下の面々に指示を出し、まだ雨の降る中天王山や後廻場などに布陣を開始した。水軍は明け方早く、雨が止み海が落ち着いた段階で出航。飯喰場には信元の手勢数十騎も合流し、態勢が整う。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 準備は出来た。しかし信奈としては兵を損ねたくはない。この前の楽田館の戦いで大きな損害が出てしまった。今回はそうならないようにしたい。そう考えている。夜闇に紛れ、敵砦から見えにくい位置に設置された本陣で信奈は思案していた。

 

「敵砦はかなり固い。松平の武士は寡兵でも強い。どうするべきか……」

 

「松平の武士ってそんなに強いのか?」

 

「そうよ。ってサルか」

 

「『か』とはなんだよ『か』とは!」

 

「あんたはそれで十分よ。……とは言え松平が強いのは本当。尾張兵は最弱と有名だから余計に強く見えるわ」

 

「どんなに強いって言っても人間なんだし、絶対勝てない数とかならビビりそうだけどなぁ」

 

「……絶対勝てない数?」

 

 良晴の何気ない一言が信奈の脳内にある策を思いつかせた。やるリスクは特になく、成功すればリターンは大きい。上手く行けば犠牲を少なく砦を降伏させられるかもしれない。信奈はすぐに配下の諸将に命令を出した。

 

 

 

 

 

 

 

 そして、朝の日が昇ると共に水野水軍の総攻撃が始まった。砦方は敵水軍の来襲には警戒していたものの、朝っぱらであったので対応に遅れが出る。とは言え、東は湿地帯。水軍が上陸しても容易には動けない。十分叩けるであろうと松平忠茂は兵を東方面に差し向ける。

 

 水軍を率いるのは緒川城主の水野忠分、水野家家臣の清水家重と清水政晴。砦の東側より矢を射かけ、盛んに敵を引き付けるべく動いていた。良い感じに敵が引き付けられたと思しき段階で鏑矢が飛ぶ。その音を確認した信奈が軍勢に下知を飛ばし、織田軍が一気に山の中から現れ駆け下り始める。

 

 これに仰天したのは砦の兵士たちである。何を隠そう、織田軍の突撃を始めている前方の軍の後ろには数千の旗が立っているからであった。これは信奈の策であり、山の中や森の中という数がはっきりわかりにくいところに沢山の旗がはためいていれば自軍の数が大軍であると盛れるというものであった。更に織田家の旗以外にも斎藤家の物を使用することで、道三が本気で援軍を出していると思わせられる。

 

 斎藤家と織田弾正忠家の同盟は東海を激震させていた。当然砦を守る松平忠茂も既知の事実。戦上手の道三と新進気鋭の信奈の軍勢目算数千に対し砦に籠る自軍は数百。しかも援軍要請をしようにも自軍の周りは全て敵。しかも太原雪斎死去により軍の指揮系統に混乱が生じており、水野家関連の作戦が続行なのか停止なのかの指示すら来ていない。そんなガタガタの状態であった。

 

「鉄砲隊、放て!」

 

 信奈が軍勢の先頭で山を駆け下り、下知する。良晴は犬千代の後にくっついて必死に信奈の後を追っていた。織田軍鉄砲隊による援護射撃が西側に僅かに残った搦手守備兵に降る。命中精度は低いが威力は高い。数打てば薄い砦の壁には多くの穴が開く有様であった。

 

 信奈の軍勢は西に射撃を加えた後転進し南の堀を超えるべく猛攻を仕掛け、西には信光の軍勢が襲い掛かる。信光配下には勝家や可成などの猛将も多く入っている。三方から激しい攻撃を仕掛けられ、山にはまだ道三の軍勢と思しき兵が多数いる(ように見える)。松平忠茂はこれ以上抗戦をしたところで勝利は得られないとたまらず降伏を宣言。良晴は無我夢中で槍を振り回していただけだったが、何とか勝利できたのは事実であり、戦場での高揚感と疲労感に満たされながらも鬨の声を挙げるのだった。

 

 交渉の末、砦の主将であった松平忠茂は数騎の馬廻りと共に落ち延びて行った。これに伴い村木砦は多くの被害を出すことなく水野家の統治下に戻ることとなる。同時にこれは水野家包囲網の一角が崩れたことを意味する。目的を達成し帰還する途中、信奈は寺本城の花井氏を攻撃。これを下し再び知多半島西岸に織田弾正忠家の大きな勢力を築くことに成功する。

 

 対する今川にとってこの結果は大問題であり、これによって雪斎の遺した作戦は破綻。しかもこの敗戦によって織田弾正忠家は再びその威信を取り戻した。動乱の予兆を感じ取った信奈は道三に三河をかき乱すよう依頼。道三はこれを受け従属下の遠山氏に奥三河出兵を命令した。また水野家も松平一族や戸田家などに接近し反今川工作を実行。雪斎亡き今川恐るるに足らずと見た三河の豪族が一斉に決起。後に三河忩劇と呼ばれるこの一連の反乱は、今川家の西進に大きな障害となり立ち塞がることとなるのであった。

 

 今川家は反乱鎮圧に手間取り、上洛は大きく遅れることとなる。そして、この戦いで今川に対して時間を確保した信奈は、いよいよ尾張の統一に動き出すのであった。




な、なんとか投稿出来た……。後はキャラ紹介だけ……!

浅野家は忠臣蔵の浅野内匠頭の浅野家です。最近は忠臣蔵あんまりテレビでやらないですね……。年末の風物詩だったんですが。まぁあれ普通に吉良さんが可哀想な話なんですけどね……。

マシュマロ→https://marshmallow-qa.com/tanuu90004861
感想欄では聞けないけどメッセージ送るほどでも……みたいな質問あればどうぞ。他にも作品の事なら割と何でも答えるつもりです(定型文)。


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キャラ集➄

あけましておめでとうございます!2022年中に終わらせると言っておいて大遅刻!キャラクターが多すぎるんや……。

再び章末なのでキャラ集です。前回のキャラ集から今回までの新キャラと既出のキャラの追加項目を書いています。いつも通り、こんな作者の備忘録だけだと申し訳ないので短編も載せています。こいついないんだけど…ってのがあれば教えて頂けると助かります。

イメージキャラクターというのは、容姿ではなくこんな感じの子をイメージしてますという指標です。顔とかは違うのですが、声や言動などの想像の助けになったらと思っております。一部キャラクターに要望があったので載せた能力値は左から統率/武勇/知略/内政/外政の順です。基本ヒロインとかにしか書いていませんが、要望があれば次回以降のキャラ紹介ではもっと人数を増やしていきます。


<北条家>

 

北条氏康……北条家当主。小田原城城主にして、相模守、相模・伊豆・武蔵の守護、左京大夫、鎌倉府執権を兼任する。伊豆、駿東、相模、武蔵、上野、西下総を支配し、東下総や南常陸に影響力を持つ大大名。諜報網は広く、日ノ本ほぼ全土をカバーしており、その名を知らぬ者はいないと謳われている。今作のメインヒロイン。

 

 今章では会議などで出番が多かった。評定などにおいてはイニシアティブを発揮し、中央集権とまでは行かないもののその下地を確実に取り揃えている。史実に比べ収入が圧倒的に多いので、それも相まって積極的な開発計画を取り行った。街道整備、玉川上水の開発、新田開発など多岐に渡り、小田原は今や堺とまではいかないまでも駿府を上回る東日本の大都市と化している。

 

 風魔によって家臣団を監視しており、これは裏切りに備えるためでもあるが万が一讒言などがあったときにその対象者を守れるようにするためと言う側面も持っている。一方で兼音を抑えるために周囲に自身の家族を配置し、宿老も多く配するなど個人的感情とは切り離して考え、為政者としての警戒は怠らない。

 

 兼音の存在によって原作と比較して精神的な余裕が大きいため、三国同盟締結の際には義元の無自覚な煽りをスルー。逆に鎌倉公方の名を出すことで今川家の牽制を行うなど、その政治力は健在といえる。領国の全土を視察し、同時に財政状況や市井の様子を確認するなど領国支配の安定化に努めた一年となった。これにより地理的なものを自分の目で見て確認し、開発計画や戦闘時の地形把握が進むこととなる。歴史の古い家柄の多い関東で硬軟織り交ぜた政策で少しずつその取り込みを図り、東関東の名族・結城家を閥族化することに成功した。敵は多いが、戦略を駆使して出来る限り流血を抑えながら配下に加えていきたいと思っており、小田家とも和解の方法を探っている。

 

 現在の年齢は18。河越視察の際に思い切ってアプローチをかけるもスルーされ若干凹んでいたところに追い打ちをかけるが如く義妹との婚約許可を求められ泣きそうになった。そんな状態でも古河での評定はまともにこなしたのは流石の精神力といえる。そこから駿河行きの船の中で告白を受け、今風に言えば付き合い始める事に。とは言え遠距離恋愛なので苦労は多く、自分の彼氏が勝手に突撃を始めたことには怒り心頭であった。世間的には有能な家臣を自身を使って取り込もうとしているように見えているが、実態は本物の恋愛関係。逃がさないように囲い込み始めている。男性の好みは頭がよくて腕も立ち自分と話が合うけれどイエスマンではない感じが良いと結構うるさい。

 

 恋愛ダービーで先頭を走っている不動のメインヒロイン。今後も地位は揺らがない。声はそこまで高くなく、落ち着いた系統である。なので基本文中で「!」がついている時も金切声ではない。ゲーム風能力値は95/70/99/96/97で設定身長は152㎝。スリーサイズは77/53/90(割と適当)。イメージCV、雨宮天。

 

 

北条氏政…氏康の妹。武蔵守。今章ではあまり出番がなかったがしっかり視察にはくっついている。決して無能ではなく、のほほんとした雰囲気に反してしっかり政治は出来る。とは言え姉に比べるとまだまだ力不足は否めず、兼音と氏康をくっつけようと諏訪頼重や成田長親に働きかけるも却って裏目に出て綱成とくっついてしまうという結果を生み、反省した。だが止める気はない模様。

 

 北条スタートの地である伊豆を任されており、重臣の笠原信為を付けられるなどかなり期待されている。本人も早く心労の絶えない姉を引退させるために奮闘中。鎌倉や下向してくる貴族連中と顔を繋いで次代への継承の足場を固め始めている。また、やらかした松田憲秀の後始末として彼に先んじて謝罪したり若手層の話を聞くなど家中の分裂を防ぐために奔走している。好みの男性はちょっとバカっぽい方が好き。ゲーム風能力値は80/66/89/90/88。イメージCV、悠木碧

 

 

北条為昌……北条家の一門。氏康の妹。伊豆守。目立たないが次女。己の当主としての能力に早々に見切りをつけて、氏政に後継者の枠を譲っている。今章では都へ上り朝廷工作や三好家との関係強化などを行い、また雑賀衆より土橋一族を引き抜くことに成功。都や堺において北条家のネームバリューの強化、イメージ改善に貢献した。小田家との交渉の際には恫喝も含めた柔軟な外交で上手く小田氏治を誘導することに成功。また、近衛家の次期当主である近衛信尹から十年以内に関白になれた際には婚姻して欲しいと求婚されている。好みは年下美少年というちょっと危ない趣味なので内心は結構ときめいていた。イメージCV、石川由依

 

 

北条幻庵……北条家の元老。若づくりのため、見た目は二十代の美人。風魔の統率を担う北条家中の宿老。今章にてその過去の一部が明かされた。夫に一般には悪逆と称される足利茶々丸を持つ。この時代には珍しく恋愛結婚の要素が強い……というよりは惚れている人を殺せず、殺したことにして自宅に半ば監禁していた。決して夫婦仲は悪くなく、子供も数人誕生しているが本人は生涯自宅に閉じ込め続けたことを後悔している。兼音と氏康の関係に関して長老の立場から助言をするために、この話を兼音の質問に答える形で打ち明けた。イメージCV、田中理恵

 

 

北条氏邦……北条家の一門。氏康の妹。出羽守。武闘派であり決して馬鹿では無いのだが、やや短慮なところがある。義理や人情、道理を重んじる。ザ・姫騎士と言った感じの少女である。藤田家に養子に行ったため、藤田の姓を名乗っている。今章での出番は少なかったが、裏でしっかりと武蔵開発計画は進行しており、林業の拡充や生糸産業の開発など仕事はこなしている。兼音のサポートに頼るところは大きいが、それでも己の職責を果たしていた。古河評定では無意識に弱そうと松田憲秀に対して言ってしまう。イメージCV、大地葉

 

 

北条氏照……北条家の一門。氏康の妹。陸奥守。今章では大石家を手玉にとった様子が描かれた。魔性というと少し大げさではあるが、その人心掌握術は本物。男所帯の中での紅一点、オタサーの姫的な存在になっているのは越後と同じなのにどこで差がついたのか。越後が哀れなくらいである。演技と本心が入り混じった態度により、従順な義妹(義娘)となっていた。結果として大石家は彼女の善性に折れ、屈服することになる。その為大石家は外様家臣の中で最も安定した家となってる。その能力は4分の3が女子で占められている元女子高出身の兼音が取り込まれそうになるほど。

 

 兼音関連では大石と三田の水争いの際に介入を要請。しかし兼音の発案により太田資正を使う事を了承した。顎で使って言う事を聞いてくれるかを心配していたが、太田資正はあっさり要求を受諾。見事三田家より譲歩を引き出した。これにより兼音の能力を垣間見て利用できると確信。自身の統治にこき使いながらも姉・氏康との間を取り持ったり重臣たちを説得する役を担ったりと持ちつ持たれつである。また、ガラス製品が好き。男性の好みとかは特にない。強いて言えば、からかい甲斐のある人。イメージキャラクター、カレンチャン。イメージCV、篠原侑

 

 

北条氏規……北条家の一門。氏康の妹。近江守。今章での出番は少なかったが、三国同盟に際し今川家への人質として送られることが決定する。史実でも今川家の人質であり、徳川家康と隣の屋敷だった。今川家には一門待遇の姫武将としての活躍を期待されている。イメージCV、門脇舞似

 

 

北条氏堯…北条家の一門。氏康の妹。上野介。下総から常陸南部を管理している。性格はあまり明るくなく、どちらかといえば暗め。ネガティブ思考で心配性な所がある。その反面真面目で堅実であり、何でもかんでも一人で抱え込もうする側面もある。姉妹の中ではもっとも堅実かつ確実に統治と開発を進めており、兼音から伝達されている開発方法を忠実に実行しかなりの成果を出していた。軍事的に目立った成果が少ないのがコンプレックスであったが、姉の説得により多少改善される。精神的に不安定な面が多かったが何とか克服して反抗的であった結城家臣団を心服させ、しまいには結城晴朝より当主位の禅譲を請われるようになった。男性の好みは真面目な人。イメージCV、真野あゆみ

 

 

北条三郎、氏秀、氏光、氏忠……北条シスターズの幼年組。まだまだ出番は遠い。

 

 

北条氏時……北条家の一門。氏康の叔父。北条家の宿老として氏康を見守っている。古河評定の際には剣を抜き放った兼音に対し即座に謹慎で収めるなど素早い対応を見せた。またこれを機に氏康との話を進められるようにという配慮もあり、臨機応変さや能力は姪や兄に劣らない。もうとっくに死んでいるはずの人間なのだが……?イメージCV、中田譲治

 

 

松田盛秀……北条家譜代の中でも一際大きな勢力を持つ松田家の当主。尾張守。そろそろ引退の時期も近いと古河での評定に息子を連れて行ったが盛大にやらかした結果胃痛を発症し始めている。ある程度教えて敢えて放置していたが、まさかここまでとは思っておらず再教育の必要に迫られている。本人は非常に立派なので、周囲からは父親に比べて息子は……いくら父親が立派でも元がダメでは……と囁かれてしまっていた。家庭の事情はよろしくないが、武将としての能力は確かで三国同盟の際も交渉役として太原雪斎や山本勘助と対峙した。イメージCV、田中秀幸

 

 

松田憲秀……北条家の三家老筆頭、松田家の嫡男。父盛秀の引退が近い事もあって古河評定に参加したが、そこで疑心より兼音に対し讒言、詰問を行い激怒を買う。諸将より冷淡な目で見られ、忠誠を疑われた兼音に斬れと脅されることとなる。その後笠原信為や氏康よりの説教を食らい、謝罪&顔見せ行脚に向かう。その道中で不注意から子供に接触。自身の不注意を身分で押し切ろうとしたが、朝定&政景コンビに懲らしめられる羽目になる。悪いことばかりのようだが若手世代からの人望はあり、文知主義に移行しようとしている家中で武功をあげたいと願う層の顔役という側面もあるので迂闊にはどうにもできないのがまた厄介。イメージCV、岩瀬周平

 

 

大道寺盛昌……北条家の中でも大きな勢力を持つ三家老家の次席。下野守。補給役や評定の進行役など裏方を担う事が多いがその分評価も高い。松田盛秀の引退が近いことも相まって、大道寺党の権勢が強まっている。上野は最前線の一つであり、佐竹や里見よりも強い長尾という強大な敵が迫る可能性が高く、また長野業正が近くにいるという難しい土地ではあるが見事氏時の補佐をしながら治めている。イメージCV、茅野愛衣

 

 

多米元忠……北条家の黒備えを担当する文武両道、知勇兼備の将。周防守。兼音が来るまでは次代の笠原信為と謳われており、その能力は非常に高い。何をやらせても一級品の才能を発揮しており、結城領鎮圧の際の手際の良さは島左近を感服せしめるものがあった。精神が不安定であった頃の氏尭をよく支え、古河城を治めるという大役を果たしている。学びの姿勢に貪欲であり、嫉妬よりも自らの能力を高めることに時間を使うストイックさが強さの秘訣であろう。女子高で間違いなくモテるカッコいい系。イメージCV、日笠陽子

 

 

野田弘朝……下総栗橋城の城主。多米元忠の配下であり、腹心となっている。元々親北条派であり、その姿勢故に北条討伐に参加しなかったことで関宿の戦いを免れた。一族がほとんど消えてしまった為、傍流であったが家督を継ぎ、北条家に出仕している。

 

 

笠原信為……北条家の宿老。加賀介。伊豆の要衝、下田を任されており、五色備えの白を担当している。文武の道に優れ、相当高い能力を持つと共に伊豆討ち入り時代から勲功を立てている本物の戦巧者にして武士の鑑と呼ぶべき人物。人徳もあり、初期の兼音を認め出世するために必要な後ろ立てとなっていた。大評定では兼音に絡む太田康資を追い払う。古河では松田憲秀の一喝し、その覇気は歴戦の諸将が恐れをなしたり目を逸らすほどであった。兼音の頭が上がらない相手である。イメージCV、大塚芳忠

 

 

遠山綱景……北条家の宿老。三家老の三席。甲斐守。カイゼル髭をした武闘派の将であり、江戸城を抑えている人物の一人である。本拠地は葛西城であるが太田康資の監視役を務めているので江戸城配置となっている。三家老の筆頭は持ち回りであったが、次の回をスキップする代わりに兼音の元に娘を義妹として送り込むという約束をしており、それに基づいて遠山政景を送り込んだ。わがまま娘に育ててしまい、失敗したと少し思っていたので厳しくすると言った兼音は渡りに船であった。そのため大半のことはスルーするつもりである。イメージCV、大友龍三郎

 

 

北条綱高……北条家の宿老。赤備えを担当している。玉縄城に任じられており水軍に一家言ある存在。房総の抑えとして長らく同地におり、里見水軍とは幾度となく戦いを挑んでいる。今章では兼音の説得もあり大型艦建造に同意した。寡黙な人間であるが思慮深く、一門であるが一歩引いて姉妹たちを見守っている。和歌を能くするので兼成を借りて和歌の会を開催したいと兼音に申し出ていた。イメージCv、安井邦彦

 

 

上田朝直…旧扇谷上杉家家臣。能登守。官僚風の冷たい容姿だが、その実はそこまで冷たい男ではなく、旧主の朝定との関係に関しては案じていた。兼音の与力として活躍している。今章での出番は無かったが、武蔵の開発に従事していた。イメージCV、子安武人

 

 

太田資正…旧扇谷上杉家家臣。美濃守。寡黙な武人。口下手のきらいがあるが、その心には主への忠誠が存在していた。兼音の与力として活躍している。今章での出番は少なかったが、武蔵の開発に従事していた。また、三田家と大石家の水争いの際には兼音の依頼で三田家に対し譲歩するように仲介役を担い見事成功している。イメージCV、井上剛

 

 

上杉憲盛…旧扇谷上杉家家臣。能登守。深谷上杉家の当主。上杉家の傍流であり、扇谷上杉家に従属していた。そのまま北条家にスライドして仕えている。兼音の与力であり、今章での出番はなかったが武蔵開発に従事している。イメージCV、池田秀一

 

 

成田長泰…旧山内上杉家家臣。武蔵介。忍城に一大勢力を持つ成田家の当主。北伐では東上野の将の多くを北条方に引きずり込んだあたり名ばかりの名門ではない事が伺える。今章での出番はあまり無かったが武蔵開発に従事しつつ上野の安定化にも一役買っている。また、武蔵開発にいち早く賛成したことで印象アップを図っていた。イメージCV、北川勝博

 

 

太田康資……北条家の重臣の一人。江戸城に置かれており、交通の要衝を抑え遠山家と縁を繋いでいることから実は兼音とも縁戚という関係になった。年初めの評定では兼音相手に太田家の自慢話をするなど、道灌の家系であることを誇りに思っている。自尊心が強く、また裏切りそうな顔・雰囲気と多くに思われており、快くは思われていない。イメージキャラクターはハリー・ポッターのロックハート

 

 

伊勢康弘……北条家の客将扱いの家臣。伊勢家の出身であり、北条家とは同族。都や畿内とのやり取りを担っている。

 

 

小笠原康広……北条家の客将扱いの家臣。小笠原家の一族であり、礼法指南役。いわばマナー講師である。都や畿内とのやり取りを担っている。

 

 

吉良頼康……北条家とはまた別格の存在。家臣と言えば家臣だが、出兵も要請であるなど相当気を遣われた存在である。通称は世田谷御所。氏康の偏諱を貰い受け、かつそれを吉良家の通字の後におけるというところからも特別性がある。

 

 

玉川庄右衛門・玉川清右衛門……通称玉川兄弟。玉川上水の開発計画を企画し、提出した。結果大評定で受理されたため責任者に抜擢される。元々は武士ではない市井の出身。兼音の助言で史実では土層の関係で難航した部分をスキップ出来ており、間もなく完成する。

 

 

大藤信基……北条家の重臣。紀伊出身であり、鉄砲の扱いに長けている。足軽隊を率いており、北条家の中では精鋭に近い。古河評定では持ち前の知見を活かして北条家における鉄砲導入に一役買った。

 

 

富永直勝……本来青備えになるはずだった重臣の一人。本人は全く知らないので気にしてない。古河評定では硝石の輸入に関して意見を述べた。

 

 

清水康英……北条家の重臣。水軍を率いるのに長けている。興国寺で兼音と共闘した為仲間意識がある。古河評定では水軍の知見を活かすべく参加していた。

 

 

梶原景宗……北条家の重臣。備前守。元は海賊出身であり、伊勢湾や紀伊沖などで活躍した商人という一面もある。先代のヘッドハンティングされて仕官した。兼音の大型艦建造は外国貿易で大きな利益を上げられるため賛成している。商家との顔役も務めており、経済面にも明るい。

 

 

垪和氏続……北条家の重臣。伊豫守。幕府の奉公衆出身であり伊勢家とは朋輩の間柄であった。その為プライドも高く、元々は成り上がりである兼音を嫌っていたが彼の地道な努力によってついには胸襟を開くに至った。その後は交わりを続け、兼音を河越に置くことに強く賛同するまでになる。

 

 

足利晴氏……関東公方。鎌倉に居を構える傀儡公方である。元は古河にいたが敗戦で鎌倉へ移動し悠々自適な生活を送っている。とは言え権威は有しており、大評定などでは姿を見せた。また、日本を去るイングランド船の見送りに非公式ながら参加するなど開明的な所も存在している。イメージCV、浪川大輔

 

 

大石定久……大石家の前当主。大石家は守護代を務めるような家柄であったが河越で捕縛されてしまった為に北条家より義娘を迎える羽目になる。当初は化けの皮を剥いでやると思っていたが氏照の策略に引っかかり善性攻撃に屈服してしまい、最後には受け入れるに至る。正直な話、可愛い妙齢の女の子にお父様と呼ばれるのは悪い気がしていないのも事実。

 

 

大石定仲……大石家の当主になるはずであった男。氏照の義兄であるが、当主は取られてしまった。しかしファーストコンタクトで上目遣い謝罪攻撃を食らい半死半生になる。その後の善性攻撃でタジタジになっており、最後には父親と共に氏照を受け入れるに至る。正直な話、可愛い子にお義兄様と呼ばれるには悪い気がしない。単純な奴である。

 

 

三田綱秀……北条家の家臣。しかし本心では北条家を認めておらず、反骨心からなかなか心服しようとしない。大石家との水争いの際には当主の妹相手に一歩も退かず強情に交渉を拒否したが最後には武蔵の顔役である太田資正の説得によって渋々双方が譲歩する案に合意した。

 

 

水谷全芳……北下総、南常陸に影響を持つ水谷家の当主。一応北条の被官なのだが指令を無視して小田家に仕えていた多賀谷家に誘いをかけ裏切らせてしまい、外交問題に発展する。後に結城家やその他からも凄まじい詰問を受けることとなってしまった。氏尭の大立ち回りの後は心服し忠誠を誓う。

 

 

結城晴朝……北下総、南常陸、南下野に影響を及ぼす名族・結城家の当主。結城家は結城合戦で主役となった名家であるが、家臣団の統率に苦労していた。水谷による外交問題発生時は多米元忠に相談し、後に氏尭にも相談に行くがそこで粛清を仄めかされ慄くこととなる。反発するであろう家臣団を抑えるために領内に古河衆の駐屯を許可。結城館で大立ち回りを見せた氏尭に当主位を譲る旨を打診した。体のいい押し付けともいう。

 

 

多賀谷重経・山川朝信・岩上朝堅……水谷を除く結城四天王の残りの三人。最初は氏尭を舐めていたが、大立ち回りの後は感服し忠誠を誓う。

 

 

山川晴重……結城家家臣団の一人。氏尭と背後にいるであろう氏康を指して小娘と吐き捨て氏尭に決闘を挑まれる。いなしてやると受けたものの、結果としてはあしらわれ続け最後には髻を落とされる屈辱を味わう。敗北に愕然としつつも頼むべき主と見なし忠誠を誓った。

 

 

北条綱成……北条家の一門。氏康の義妹。兼音の監視役の一人。尤もこれに関してはあまりする必要がないと感じている模様。上総介。元々は河越衆の一人であったが、今章にてその任を解かれ杉山城へ任ぜられた。家中きっての武闘派として知られ、その槍の技術は日本での有数を誇っている。関東ではその名を知らないものはいないというほどの達人である。黄備えに配属されており、一層の活躍を期待されている。河越衆に配属されていたのは兼音の元での研修のようなものであったため、それが終わったので移封となるのは自然な話であったが本人は最初それを拒否してしまうほどには河越に染まっていた。

 

 恋心を抑えきれず、島左近の登用も相まって爆発。兼音にキツイことを言って走り去ってしまう。結果的にこれが兼音の心の防波堤を決壊させるに至った。最終的には告白を受け入れ、ファーストキスまで奪っていく。実は初告白も初キスも彼女が独占しており、最初に出会った、過ごした時間が長いという大きなアドバンテージを持つ義姉と従姉に対してのアドバンテージを有することとなる。杉山に派遣されたのちは研修の内容を活かしつつしっかりと武蔵開発に従事していた。ゲーム風能力値は94/100/85/87/78。身長は154㎝でスリーサイズは79/59/87。最近は義姉と比べ発育がよくなってきた。イメージCV佐倉綾音

 

 

北条綱房……綱成の実妹にして、氏康の義妹。左近の登用により河越城にいる必要性が薄れたため、兼音によって姉の支えとするべく杉山城に派遣された。イメージCV、矢野妃菜喜

 

 

土橋守重……紀伊、雑賀衆の中で大きな勢力を持ち、雑賀孫一らと並んでいた土橋一族の代表。雑賀衆の中での水利権などの問題があり、為昌の説得も相まって関東下向を決意。雑賀としては畿内に残る勢力と日の昇る勢いでありかつ風魔などを重用している北条に行く勢力とに分かれ、技術や魂を残す方針として合意した。その為関東に下向し、北条家の臣下となって鉄砲作成に従事していくこととなる。

 

 

 

 

 

 

<河越衆>

 

 

一条兼音……不動の我らが主人公。現在21歳。具体的な功績は本編参照。土佐守。農業政策や対外国外交、軍事面においても大きな成果を挙げている。経済・軍事の重要拠点の要衝である河越の支配者である。年初めの大評定では玉川上水の開発に際して関東の土層に関するアドバイスを行い、工期の短縮に貢献。対越大同盟や三国同盟締結の際にも甲斐との外交役を担い、顔役として活躍している。領内に関しては開発を続行。秩父に行った際は豪族たちをまとめ、賊と戦う事でその能力を示した。五色備えの青に据えられており、武蔵の中でも大きな勢力を持っている存在となった。また、氏邦より秩父の管理も任されている。

 

 川中島への援軍として赴いた際は高度な練度を誇る軍隊を見せつける事に成功。武田家中における北条家の印象を上げることになった。また、長尾景虎相手に一歩も退かぬ打ち合いを行い、同時に卓越した指揮能力を見せることになる。とは言えこの突撃は後に氏康などによってこっぴどく怒られることとなってしまった。また、策略によって内部分裂を起こさせ大熊朝秀を北条領に逃亡させるに至る。領内開発は順調であり、小田原に次ぐ大都市としての発展が行われている。街の治安は極めてよく、その水準は現代を目指しているため、町を女子供が出歩いても問題ない、夜でも人が出歩けるなど相当に強化された安全都市となっている。その結果、不夜城とも言うべき灯りの絶えない巨大都市が誕生し常に膨張を続けている。

 

 最近は将軍としての役割が目立つが、古河での評定では小田家に対する策略を披露するなど軍師としての才能もしっかりと保持していることを顕示することが出来た。反面同じく古河評定では松田憲秀に云われなき中傷を受けた結果それを無実と晴らすべく己を斬るように要求するなど過激な所も存在している。また長尾景虎相手では理性が飛びやすいなど、決して完璧超人ではない。

 

 領民・家中からの信頼は厚い。が同時に恋愛関係はへっぽこ。綱成を泣かせ、兼成に翻弄され、氏康に遅まきながらやっと告白するなど後手後手に回っているがなんとかなっているのは氏照などの助けあってのこと。また義妹の政景も助けになってくれている。諏訪頼重や成田長親のおかげで恋愛面の倫理観は吹っ切ることに成功し、辛うじて残っていた現代人としての矜持にほぼ別れを告げ戦国の人間として生きることを決意した。大分直ったとは言えへっぽこさは健在であり、武田姉妹の内部問題に介入した結果半分病んだ愛を向けられ始めているがあまり気付いてない。講和交渉の際には雪斎から幸福論についての説法を聞く。その際ほとんどの参加者が主のために命や幸福を捧げているのに対し自分だけイチャイチャしてるのを知り針の筵状態であった。

 

 義妹との関係は最初は劣悪であったがお互いがそこそこ歩み寄る努力をしているため最近ではそこそこ良好。川中島では撤退指示を恐れずに敢行したことに対して非常に高く評価しており万が一自分が死去してしまった際には当主位を速やかに引き継がせることを決意した。過去の回想で兼成が熱を出した際に必死に看病し、当主お抱えの薬師を借りるべく夜間の小田原の門を叩き、氏綱を叩き起こして借り受けたという逸話を持っている。一見無礼なこの行動だが、大胆かつ誠実な姿勢は逆に氏綱の好感を得ることに繋がる。策謀家ではあるが、実は約束を破った事はほとんどなく、敵であっても味方となればしっかり育てているため誠実な人間として家中では扱われることが多い。

 

 現代では男子が四分の一ほどしかいない元女子高の名門私立高校出身。特待生であるため学費を払わず、生活費は家庭教師のバイトなどで暮らしていた。学力面では日本有数ではあり国公立大学を志望して勉学に励む非常にまじめな生徒であった。生年は1988年(昭和63年)7月19日。ペレストロイカ開始、青函トンネル開通、ドラクエⅢ発売の年であり、浅田舞や新垣結衣と同年生まれ。ぎりぎり昭和の産まれである。作者は影も形もない。なお競馬界ではこの時平成三強の全盛期であり、かなり湧いていた。戦国へ来たのは2006年の春休みの最中の事。まだ小泉内閣、ブッシュ政権の時である。競馬界はディープインパクト旋風の真っただ中であった。趣味は弓道、歴史、釣り、競馬と凡そ大体おじさんくさい趣味であるが、前者二つは両親、後者二つは祖父から受け継いだものだった。その為彼の家には弓道の道具が置かれ、壁には往年の騎手のサインと名馬の写真、本棚には大量の本があり、部屋の隅には釣竿が置いてある。審馬眼は確かであり晴信より貰った馬の価値をしっかり見抜いていた。

 

 ホラーは割と平気であり、特別編では段蔵・頼重とトリオを結成し化物退治に当たった。怪異系の知識も民俗学として割と持っいる。実は過去に一度高校内で幽霊(?)を目撃した経験もある。

 

 父親は自衛官。母親は病院で看護師をしていた。登場する機会はほとんどないが、一応両親の名前も定まっており、父親は一条兼治(かねはる)、母親は一条五月(さつき)(旧姓滝夜)となっている。高校時代に体験できなかった愛や恋のある日々に温もりを感じており、気を張り続けている男の微かな安らぎがこの時間なのかもしれない。ゲーム風能力値は97/95/99/97/90で身長は179㎝。イメージCV、中村悠一

 

 

花倉兼成……河越衆の副将。越前守。また、輜重隊の統括を担っており、抜群のセンスを見せ最早欠かせない存在になっている。財政を握っているため、兼音すらもその点に関しては頭が上がらない。今章での出番は少なかったが、しっかりと活躍自体はしており財政状況が余裕綽々とは言えない河越城の状況に頭を痛めつつも破綻させないように努めている。その甲斐あって河越衆は非常に練度の高い高給取りの集団とすることが出来ているのである。優れた管理能力と業務執行能力で文官の尊敬を密かに集めている。

 

 今川家の姫であり出自は隠しているがその生まれの誇りは捨てておらず、政景に似非姫扱いされた際にはショックを受けていた。その後はしばらく主の義妹となる政景とぎくしゃくしていた。

 

 恋愛関係に関しては兼音の把握している中では一番の年長で21歳。そろそろ何とかしたいと思っていた矢先、綱成に先を越された。それに関しては悔しいと一瞬思ったものの、それをうまく利用して兼音を問い詰め自ら告白させることに成功。しっかりと居場所を確保した策士でもある。また、過去の回想で熱を出した際に兼音に介抱されていたことが発覚。そのお返しとばかりに秩父の帰りに風邪を引いた兼音を優しく看病した。主の呼び方は「兼音様」。ゲーム風能力値は80/60/83/99/81で身長は166㎝。この時代ではかなりの高身長である。スリーサイズは95/56/86。イメージCV、能登麻美子

 

 

 

加藤段蔵……元戸隠忍び改め河越忍びの頭領。この作品では珍しく、非科学的な技を用いることが可能。様々な場面で活躍し、重要情報を探ったり伝達したりしている。関東はおろか東日本でも有数の忍びであり、彼女を超える存在を見つけるのは困難。自分の防備に割と無頓着な兼音の護衛役を務めることが多い。実は亡国の姫君であり、年齢も兼音より上。秩父などで幾度となく兼音の危機を救っており、いなくてはならない存在と化している。いついかなる時でも助けてくれるであろうという暴力的なまでの兼音からの信頼があるが故に苦労する場面も多いが、その環境にやりがいを感じている。主の呼び方は「主殿」。ゲーム風能力値は60/89/88/50/68。身長は165㎝とこちらもかなりの高身長。スリーサイズは可変。イメージCV、明坂聡美

 

 

白井胤治……下総の田舎武士の家の産まれ。鳶が鷹を生むと言わんばかりの存在であり、臼井城でも浮いた存在であった。かつて一度だけ三好家に仕えていた事もあるが、関西の水が体に合わず辞職した。その際に三好長逸よりの感状を貰っている。今までの境遇によって自己評価の低いきらいがある。政景がやって来た際のひと騒動では兼音の意思をくみ取り、命じられた牢ではなく城の一室に送るなど非常に優秀。普段は文官をしたり政景や朝定の教育係りをしたり、賢人館の講師をしたりと多忙。旧三好家時代のツテを活かして島左近を勧誘する呼び水となった。かなり仲が良く、清ちゃんと呼んでいる。川中島では主の突撃を最終的には許可してしまったことを後悔していた。次からは絶対にやらせないつもりでいる。また、政景の命令で行った撤退が兼音の不興を買う可能性を考え、政景を庇い責任を取ろうとするなど弟子である彼女への愛情めいた物も確かに存在している。主の呼び方は「殿」。身長は148㎝。スリーサイズは79/56/80。イメージCv、諸星すみれ

 

 

島左近……正式な諱は清興。元は大和の筒井家の武士であり、右近左近と並べられる家老であった。しかし父親が継母を偏愛し義弟に後を継がせようと画策。挙句の果てに継母が自身の暗殺を企てたためにクーデターを決行。父親は取り逃がしたもののそれ以外の人物を抹殺した。兼音にも語っていない真実だが、まだ小さく分別の付いていない義弟を殺す気はなく、自身で育てようとしていた。しかし継母がこの子を盾に逃走を図ったために誤って切り殺してしまう。軽薄そうな口調や芝居がかった仕草をするナルシスト的側面もあるが、こういった仕草で後悔を誤魔化しているという側面も存在していた。畿内出身である為流行にも詳しく、また鉄砲の扱いも上手い。自信過剰のきらいがあったが元忠の手際を見てやや落ち着いた。川中島では大きく活躍し、その武名を高めることになる。両性愛者であり、胤治のことはまぁ、そういうこと。主への呼び方は「ご主君」。ゲーム風能力値は90/91/85/60/71。イメージCV、種田梨沙

 

 

一条政景……旧姓は遠山。兼音の義妹として遠山家より派遣。元の家での続柄は末娘。わがまま放題に育てられたため自制心が少なく尊大な自尊心を持った状態で兼音に預けられる。その際無礼な発言をしたという事でいきなり牢へ入れろ宣言をされる。実際に入れられる事は無かったが、兼音に言いくるめられそのまま城での日々を送り始めることになる。義兄への私的な呼び名「クソ兄貴」は一応反骨心の現れ。味方が少なく、目的を持てないつまらない日々を送っていたが第一次川中島の跡地へ連れられ、そこで多くの凍り付く死体を見たことでそこにいる彼らの生きた意味とは何だろうかと考えるようになる。最終的に自身が彼らの生きた意味を見つけられるようにする、という目標を得ることとなる。

 

 とは言え、さぼり癖は消えていないが最近では友人となった関東管領上杉朝定の影響で渋々ではあるが努力している。剣の腕では呑み込みは早いものの地道な努力をあまりしないため姉弟子である朝定に抜かされる日はすぐ来るだろうと師である剣聖には予測されていた。朝定とのコンビで街へよく出歩き、多くの問題を水戸黄門のように解決して回っている。この一環で前方不注意を身分で押し切ろうとした松田憲秀を成敗することとなる。剣聖や義兄を苦手としているがそれは尊敬の裏返しでもありなかなか素直になれない性格。

 

 第二次川中島の戦いでは兵と交流して多くの生きざまを記録。戦いの終了後は死者に関する記録をまとめる仕事を買って出た。また戦闘中は的確な状況判断で最優先撤退命令を出し、兼音から高く評価されることになる。何だかんだでかなりの知識階層ではあり、源氏物語なども読破している。その知識と耳年増であること、遊郭の女郎からも可愛がられている過程で得た知識で兼音のへっぽこな恋愛を助けている。わがままは変わっていないが、それでも個性として受け入れられつつある。イメージキャラクターはスイープトウショウ。身長は140㎝でスリーサイズは72/53/73。イメージCV、杉浦しおり

 

 

上杉朝定……扇谷上杉家当主。領土は全くないが、現在も当主の座にいる。関東管領に就任したことにより、事実上全上杉家のトップに立つ。家臣団との間に誤解から軋轢が生じていたが、兼音の尽力によりそれが解消される。今章では戦に出る事は無いものの、政景とコンビを組んで街中に出ている。現在こそ伸び悩んでいるが、伸びしろ面では妹弟子よりもあると剣聖よりの評価を受けている。幼いながらも剣豪としての覚醒を見せ始めている存在。オドオドした性格はあまり改善されていないが、友人が引っ張っていくタイプなので釣り合いが取れている。身長142㎝でスリーサイズは75/51/73。イメージCV、名塚佳織

 

 

諏訪頼重……諏訪家の元当主にして、城下の神社の神官。氏政の強制命令により兼音の恋路をアシストしたが考えと裏腹に綱成とゴールインするアシストとなってしまう。待望の第一子が誕生し、長男を得ることとなる。最近では父親としての自覚も芽生えてきた。特別編では兼音・段蔵と共に怪物退治を決行。祖先でもある神を自らに降ろして退治を行うなど神官としても活躍を見せた。普段は街の顔役として過ごしている。神社の境内は子供たちの遊び場となっている模様。イメージCV、三木眞一郎

 

 

諏訪禰々……頼重の妻。旧姓武田。晴信や信繁の妹。今章では待望の第一子を出産。長男であったことから諏訪家の次代を生むことが出来たと一安心している。兼音より派遣された畿内の名医などに診察されながら産後を過ごしている。誕生した長男には兼音より名を貰い烏帽子親となってもらう事を兼音と約束している。イメージCV、小倉唯

 

 

成田長親……成田家からの人質。とは言え、人質らしからぬ自由な生活を送っており、普段は農政の担当官として仕事を行っている。氏政の強制命令により兼音の恋路をアシストしたが考えと裏腹に綱成とゴールインするアシストとなってしまった。イメージCV、野村萬斎

 

 

成田甲斐……成田家からの人質。とは言え、人質らしからぬ自由な生活を送っており、普段は警邏隊の隊長として日々河越の治安維持に貢献している。警察組織である警邏隊は街全域をカバーし、治安向上に務めており、事実として設置以後辻斬りなどの犯罪行為は激減。極めて治安のいい都市が完成した。また、氏康の視察の際にはその行列の出迎え役を務める。イメージCV、鈴木真仁

 

 

上泉信綱…元上泉城の城主。伊勢守。剣聖と呼ばれる剣客。無双の強さを誇るリアル戦国無双。扇谷上杉の剣術指南役として仕官している。河越城全体の剣術指南も担っており、新たにやって来た政景にも教えている。逃亡しようとした政景をどこからともなく現れひっ捕まえると拳骨を食らわせたことにより畏怖されさぼらなくなっている。イメージCV、山路和弘

 

 

霧隠才蔵…元戸隠忍び。朝定の警護役を求める兼音の発案によって行動した段蔵により勧誘される。朝定の臣下であるため滅多に兼音の指揮系統には入らない。今章での出番は少なかったが、しっかり関東管領の護衛役を務めていた。イメージCV、川澄綾子

 

 

山中頼次…北条家の家臣。内匠助。元は玉縄に所属していたが、人事異動の結果氏康に命じられ河越城の与力になる。見た目は亀仙人のような低身長かつ禿頭。豊かな口ひげを持っている。川中島では先陣を切って行動。前線指揮官としての務めを見事に果たしてみせた。イメージCV、佐藤正治

 

 

太田泰昌…北条家の家臣。豊前守。太田道灌や資正とは別系統。元は玉縄に所属していたが、人事異動の結果氏康に命じられ河越城の与力になる。見た目は両目に切り傷があり、痩せ型で細長い顎を持っている。川中島では先陣を切って行動。前線指揮官としての務めを見事に果たしてみせた。イメージCV、置鮎龍太郎

 

 

笠原能登守……兼音の配下。信濃の出身であり、武田家によって落城させられた志賀城にいた。自身の一族は殆どがなで斬りに合い、信濃では生きていけないことを悟って関東へ亡命した。怨恨を飲み込む姿勢が評価され、侍大将として召し抱えられる。兼音の数少ない直臣の一人。川中島では武田と揉めるとマズいという配慮によって河越に残留することとなる。

 

 

大井貞清・貞重……小笠原家の一門、大井家の当主父子。史実では武田に仕えていたが、高い税金と相次ぐ出兵に業を煮やし、逃亡した。尊大な態度を崩そうとしなかったが、後がないところでそれをやるのは悪手であり、最早行き場がないことを知っている兼音に虚勢を看破されてしまう。結果的に平謝りし、数百の兵を率いる侍大将として召し抱えられることとなった。川中島では揉めるとマズいので残留している。小県郡にその領地を持っていたが、放棄された領地は現在武田の直轄&真田の領地として分配された。

 

 

芦田信守……信濃の出身。史実では武田に仕えていたが、高い税金と相次ぐ出兵に業を煮やし、逃亡した。故国を捨て、領民も連れての逃亡であったために覚悟を決めている。息子の才能もあり、秩父奉行に任ぜられた。以後は兼音の指示に従い現地の国衆らと共に開発を進めている。

 

 

依田信蕃……信濃の出身。名字は違うが芦田信守の子。史実では武田に仕え、天正壬午の乱では徳川に味方し北条軍相手にゲリラ戦の遅滞戦術を敢行し見事成功させた将。この世界では父と共に兼音に仕官。その際ゲリラ戦に関する指南書を作成し手渡したところ、それが評価され秩父に置かれることとなる。以後は父と共に開発に従事している。

 

 

逸見若狭守……高松城城主。秩父の国衆。兼音の交渉の結果その配下に加わり開発に従事していくこととなる。

 

 

渡辺監物……根小屋城の城主。秩父の国衆。兼音の交渉の結果、その配下として開発に従事していくこととなる。

 

 

用土新左衛門……千馬山城の城主。秩父の国衆。鉢形城にいる用土氏の一族であり、元々は反北条派であった。兼音の交渉の結果渋々従う姿勢を見せていたが、その時襲ってきた賊に対応するために出陣。彼からすれば敵は大軍であり苦戦していたが兼音の加勢の結果九死に一生を得る。その後は親北条に転じ協力を約束した。

 

 

諏訪部定勝……日尾城の城主。秩父の国衆。元々親北条派であり、兼音の交渉の結果配下として開発に従事していくこととなる。久長但馬守が先んじて兼音と親密になっていることを知り、何とか縁を繋ごうと賊退治の際に残留を命じられた政景に働きかける。その結果、政景と共にロケット砲もどきの秩父龍勢を発射し兼音の窮地を救うことに成功する。最終的には秩父龍勢に関する技術管理を任され、秩父国衆では久長但馬と並んで抜きんでた存在となった。

 

 

久長但馬守……龍ヶ谷城城主。秩父の国衆。早くから兼音と顔を繋ぎ、秩父の国衆の中では頭一つ抜きんでた存在となる。最終的には兼音の信を得て、やって来た秩父奉行の元開発に従事していくこととなる。また、兼音と秩父の国衆の交渉の際は己の城を使わせることで他の国衆に優位性を示した。

 

 

黒澤民部……宮崎城城主。秩父の国衆。兼音の交渉の結果その配下に加わり開発に従事していくこととなる。

 

 

橋久保大膳守……下橋城城主。秩父の国衆。兼音の交渉の結果その配下に加わり開発に従事していくこととなる。

 

 

永田林四郎……永田城城主。秩父の国衆。兼音の交渉の結果その配下に加わり開発に従事していくこととなる。

 

 

■■■……兼音の■■。第二次川中島では長尾景虎と毘沙門天(?)と戦闘を繰り広げた。イメージCV、杉田智和

 

 

甲州黒……武田家より兼音に送られた馬。非常に気性難であるが賢さもあり、兼音のことを認めたために大人しくしている。

 

 

 

 

<武田家>

 

 

武田晴信…甲斐の虎。大膳太夫。甲斐の守護。信濃侵攻を行っていたがその途中で南下してきた長尾景虎と衝突することとなる。戸隠にてその長尾景虎と邂逅。互いの本心を吐露したが、戦国の無情さゆえに友人として出会い、宿敵として別れることとなる。何としてでも景虎を打ち破り、己の野望を達するとともに景虎を解放したいと願っていたが、第一次川中島の戦いでは膠着状態に陥り決着をつけることなく終わってしまう。これによって打開策を考え始めるが、その矢先に兼音の提案に乗って対越大同盟に参加する。この見返りとして塩の値段が下がり、財政面で少しだけ楽になった。

 

 父親の幻影に憑りつかれ、家族を失うことを恐れている。家臣をこれ以上損なわないようにと行動しているが、それが裏目に出てしまう事も。とは言え外征を行い続ける中甲斐への投資を続け、甲斐では名君と称えられている。尤もそのしわ寄せがどこに来ているかと言えば……。税金の取り立てが厳しく、金山の収入と他国の略奪で経済を回している某鍵十字国家のように戦争ありきの国家体制となってしまった。

 

 三国同盟締結の際には雪斎に思考の隙を突かれ、弟・義信に松姫を嫁がせることを了承してしまう。弟の淡い恋を破壊してしまったことを悔い、その分川中島にて取り返そうと出兵。兼音の助力を得て勝利こそできなかったものの長尾軍に手痛い攻撃を食らわせることは出来た。しかしその後の勘助の策略を以てしても長尾軍は退却せず、当主同士の会談も決別。最終的に兵が倦み始めたことで撤退を決意した。その際兼音に礼という事で名馬を進呈する。最も請求された金額は減額されることはなく、多額のレンタル料を河越衆に払うこととなった。

 

 

 長尾景虎に対しては神がかりの偽善者と罵っており、その政治思想や行動にまったくもって共感することが出来ないでいる。また、彼女が海への道を塞いでいるので戦う事は必定。母親を失った日に景虎について知ったのもあいまって激しい憎悪を向けている。その実は親の正しい愛を知らないのは同じなので、皮肉的な運命としか言いようがない。身長は163㎝でスリーサイズは84/58/82。原作CV、岡村明美

 

 

武田信繁……晴信の妹。姉と共に信濃侵攻作戦に従事。信濃をとっとと制圧して対越共同戦線を張りたい兼音の思惑によって助言されている。多くの国衆を説得し、時に脅し、配下に加えることに成功。結果的に信濃での抵抗勢力は最北の高梨氏を除いて消滅した。彼女の精神性にも信虎の偏愛が影を差しており、その経験のせいで姉に対し強く出る事が出来ないという致命的な弱点を抱えている。真面目で実直だが、やや真面目に考えすぎるきらいがある。第一次川中島では景虎に囚われている姉に対し激しく抗議。諸角豊後の説得で退却したものの、激しい憎しみを景虎にぶつけた。

 

 第二次では本陣の出陣を進言。しかし却下されてしまい苛立ちを見せていた。交渉に行ってしまった姉の留守を訪ねてきた兼音に本心を吐露。その際に触れられたくなかった一番底を掘り起こされ、一時激昂するも兼音の説得により落ち着きを取り戻す。少しだけ身体が軽くなったような感覚を覚えており、また誰も触れてこなかった部分に始めて触られたことで好意を抱く。ただし生来の性質か、それとも信虎による歪みか、その愛は少しばかり病んでいる。身長は159㎝。スリーサイズは80/55/83。イメージCV、東山奈央

 

 

武田義信……晴信の弟。武田家の本家では唯一の男子ではあるが、粗野なため後継者候補からは外されていた。前衛で戦うタイプの人間であるため、各地での戦いでも先陣切って戦っている。義理人情に厚い一方で向こう見ずで考えなしなところが欠点とも言える。三国同盟締結の結果、今川家の松姫と婚姻関係となり、淡い少年の恋は終了を迎えた。その分第二次川中島では活躍せんと息巻いて出陣。飯富虎昌と共に奇襲部隊を率いて善戦。多くの将兵を討ち取るが最終的には逆包囲の危険性を察知して撤退することとなる。イメージCV、遊佐浩二

 

 

武田信廉……通称孫六。晴信の妹。絵描きを自称する風流人な変わり者。容姿は晴信にそっくりだが、双子ではない。お気楽に生きているように見えるが、その実色々と考えている。各地の戦いでは毎回晴信の影武者として出陣しているが、本陣にいるため目立った軍功などはない。イメージCV、遠藤綾

 

 

一条信龍……晴信の妹。武田家本家の出ではあるが、一条家に養子に出されている。なお、兼音の家や京・土佐の一条とは特に関係ない。存在感が薄く、眠っているように見えるが独特の嗅覚を持っている。それにより、人の性質や戦の機運なども嗅ぎとれる。基本的には甲斐・躑躅ヶ崎館で留守居役を担っていることが多い。イメージCV、影山灯

 

 

武田信虎……晴信の父。駿河に追われ、同地で隠居生活を営む。新しい側室を迎えるなど割と好き勝手に過ごしているが、不甲斐ない戦いを見せる娘に不満が溜まっている。今章では出番が無かったが、武田姉妹に残した悪影響をこれでもかというほどに見せつける事となる。この後恐らく晴信と信繁に殴られることが確定している。残念でもないし当然。とは言え悪人かと言われると微妙な所なのがまた面倒な爺。イメージCV、津嘉山正種

 

 

飯富虎昌……武田四天王の紅一点。色恋沙汰の話は大の苦手である。また、幼馴染でもある義信の結婚問題に関してかなり否定的な意見を持っており、一応万が一駿河侵攻になった際の義信の立場について言及しているもののかなり個人的な理由。だが三国同盟締結によって婚姻を余儀なくされた際は笑って送り出し、淡い恋に別れを告げた。その分の奮闘をという事で第二次川中島では奇襲隊を率いて善戦。活躍を見せるが本人としては不服であり、その後赤備えで兵糧隊を潰す策を勘助に提案された際は不機嫌になったが、兼音の言葉によって受け入れる。イメージCV、沢城みゆき

 

 

山本勘助……武田家の軍師。諱は晴幸。第一次川中島の戦いでは景虎の出現によって策が崩壊。何とか取り返そうと戦を仕掛けるも、景虎に策を悉く見破られてしまう。その後の話し合いでは晴信に信繁を景虎に送らず、かつ美濃にも駿河にも行かず勝つ方法を探し、更には北条・今川の躍進をも防げというかなり無茶苦茶な命令をされてしまった。三国同盟締結の際にも外交役として派遣される。交渉は成功したが、義信と虎昌を引き裂くことになったことを深く悔やむ結果になった。

 

 第二次川中島ではまずは栗田氏を寝返らせ、善光寺を味方につけることに成功。敵を釣りだし、敢えて背水の陣にさせ、生兵法を突いて包囲殲滅する作戦を立案。景虎が単騎突撃をしなければ成功していた策であり、また古今東西多くの将が失敗してきた作戦をほぼ成功させるところまでいった為彼自身決して無能ではなくむしろ日本でも有数の軍師であることが証明される。また、その策が景虎の単騎突撃で失敗した際もすぐさま代案として兵糧の遮断、千国街道を使った圧迫などの策を思いつくなど非凡な才、適応能力を見せる。講和交渉の際には己の幸福を全て捧げて主の幸福を勝ち取ると決意する。イメージCV、清川元夢

 

 

馬場信房……晴信の近臣。後の四天王。板垣信方亡き後の信濃統治を任された。現在は深志城にいる。第二次川中島では最初に越軍を釣りだす役として活躍。見事に敵軍を渡河させることに成功した。かつては敵わなかった村上義清相手にも一歩も退かぬ戦いを見せるなど成長を感じさせている。無口だが決して愛想が悪いわけではない。イメージCV、ブリドカットセーラ恵美

 

 

山県昌景……晴信の近臣。後の四天王。飯富虎昌の妹。姉とは違い色恋沙汰には詳しいが、貧相なスタイルを気にしている。第二次川中島では最初栗田城に配置され平林城・中沢城の抑えとなる。戦闘中は城から出て、一条隊を急襲しようとした本条繁長を足止めすることに成功。戦闘後に兼音から直接礼を言われ、その際に未来の名将となれると太鼓判を押される。憧れともいえる存在に背中を押され、放心状態になってしまった。イメージCV、大西沙織

 

 

春日源五郎……晴信の近臣。後の四天王・高坂昌信。よく消極策を口にしているが、彼女がそうすることで消極的な提案がしやすいというメリットもある。第二次川中島では旭山城に入城。二千の兵と共に横山城の抑えにあたり、数か月に渡って死守し続けることに成功した。ある意味で最も大変だった役職を見事に務め切る。イメージCV、内田真礼

 

 

工藤昌秀……晴信の近臣。後の四天王・内藤昌豊。影が薄い所があるが、史実において信繁亡き後の武田の副将を務めていたこともあり、将としての実力は確か。第二次川中島では小柴見城に置かれ、その後戦闘中に包囲殲滅の一角に加勢した。イメージCV、喜多村英梨

 

 

原虎胤……武田重臣。美濃守。元は下総出身ではあるが、故あって武田に仕官している。第二次川中島では後方・尼厳城で待機していたが、勘助の命により兵を率いて千国街道を北信。仁科氏と共に越後国境を脅かし越軍を圧迫する役目を任された。

 

 

秋山信元……武田重臣。第二次川中島では窪寺城に配置され、後方の守りを固めた。

 

 

諸角虎定……武田重臣。豊後守。信繁の守り役であり、その配下として活躍する老将。第一次川中島では長尾軍の異常さに気付き、信繁を守るべく奮闘した。

 

 

真田幸隆……小県郡の国衆。元は山の民の出であるが、その祖は海野家であり、山の民から再び真田家を復権させ信濃に公界を作ることを夢見ている。真田忍群は武田の情報網・情報戦に大きく貢献しており、調略や連絡に役立っている。第二次川中島では先方に配置され、越軍を釣りだす任務を任される。イメージCV、真田アサミ

 

 

矢沢頼綱……真田幸隆の弟。真田隊に配属されており、第二次川中島では勘助の兵糧を断つための戦略に駆り出される。赤備えに協力し山間部を案内。幾度となく奇襲を成功させた。

 

 

穴山信君……武田一門の筆頭。甲斐でも大きな影響力を持つ穴山氏の当主。武闘派の多い武田家中にあって数少ない頭脳派。とは言っても武芸が出来ないわけでは無い。今一つ締まらないことの多い軍議に苛立つことも多い。対越大同盟の交渉に甲斐を訪れた兼音を接待した。その際に自身の感情を一部吐露し、出家したら梅雪と名乗りたいと洩らす。その後も対越作戦を話し合う晴信の元へ兼音を案内し、その思考を隠れてみさせることで交渉を進めやすくするなど、武田家中でも指折りの親北条派。しかし塩の割引はもっとできるはずであったことに気付くなど、一筋縄では行かないところを見せる。第二次川中島では兼音の長尾景虎単騎駆けを否定しなかった数少ない人物。前線を任せられ、兼音と話し合い連携を密にして攻撃を行った。河越衆の飛びぬけた練度に驚愕しながらもそれに合わせ、見事作戦を完遂してみせる。また、兼音の撤退時の支援を行うなど、非常に臨機応変。イメージCV、上坂すみれ

 

 

駒井高白斎……武田家の外交役。三国同盟締結の際は勘助と共に交渉に当たった。

 

 

猿飛佐助……武田家の忍び。武田の防諜役を担い、また有数の実力者として戦場の情報を知らせるなど欠かせない存在となっている。イメージCV、田中あいみ

 

 

栗田寛安……善光寺・戸隠の別当。当初は長尾家に屈していたが第二次川中島の折に武田側に寝返った。

 

 

 

 

 

<今川家>

 

 

今川義元……東海三国を束ねる名門今川家の当主。兼成の義妹。お気楽な性格であり、あまり大名に向いているとは言えないが、決して無能でもない。というより日本では有数の知識階層である。三国同盟締結の際は特に悪気はないが晴信や氏康を煽ってしまう。心根は真っすぐな存在であり、ある意味で最も己の欲望に忠実ともいえるかもしれない。父親にあまり愛情を注がれなかった分、雪斎を父親代わりに思っており、その愛を受けて育った。それ故に、雪斎が病死した際は取り乱し政務を放棄するという事態になる。これにより信奈に村木砦を急襲され、三河反乱を招くこととなってしまった。原作CV、能登麻美子

 

 

太原雪斎……今川家の黒衣の宰相。元は京都の高僧であり、先々代当主にして義元の父である氏親の要請で下向し義元の教育に当たっていた。自身の幸福を掴むことが何よりも大切と教え、彼女を育てる。義元が家督を相続した後は宰相として辣腕を披露し、今川家の発展に寄与。興国寺で敗戦するもその立て直しをすぐに行うなど非凡な才能を見せる。三国同盟締結の際は今川家が天下への道に最も近いことを確信し、調印した。そして織田家への策謀として水野家を包囲し周りからそぎ落としつつ、末森城や両守護代家に働き替え尾張統一を防ぐ策を取る。満を持して出兵となる前に甲越の講和交渉の仲介役を担う。そこで姫武将の幸福について語り、両家の将を感服させた。また、そこで兼音を天下を執れる人材と評し己と共に今川にいないことを惜しむ。交渉を成立させ、兼音に頼まれていた剣の来歴も渡し、いざ義元の上洛を、というところで急死。後継者の未完成は後に今川家に暗い影を落とすこととなる。イメージCV、立木文彦

 

 

酒井忠尚……品野城城主。今川家の配下。楽田館の戦いに参陣するも敗走してしまう。

 

 

松平家次……桜井松平家当主。楽田館の戦いにおける今川家の総大将。尾張へ楔を打ちこむべく派遣され、織田信奈と対峙。奮戦し、一時は決死隊によって信奈を追い詰めるが、良晴の活躍などもあり最終的に敗走することになってしまう。

 

 

松平忠茂……東条松平家当主。今川家の配下。楽田館の戦いに参陣するも敗走してしまう。その後は村木砦に配属になるが、雨中を渡海した信奈の奇襲を受け、また策略にかかってしまい奮戦虚しく降伏。三河へと落ち延びて行った。

 

 

松下嘉兵衛……今川家の配下。遠州頭陀寺城城主。諱は之綱。名前だけ登場し、木下藤吉郎の主として楽田館の戦いに参陣するも敗走。戦前、藤吉郎を重用していたがそれを妬んだほかの家臣に多くの讒言をされる。信じていなかったが、これでは藤吉郎が活躍できないだろうと、他家への仕官を勧めていた。

 

 

葛山長嘉・岡部元信・三浦義就・飯尾乗連・浅井政敏……山口教継によって鳴海城に入城した今川家の家臣団。代表者は岡部元信であり、教継戦死後は鳴海城城主になっている。

 

 

 

 

 

<長尾家>

 

 

長尾景虎……ある意味本作のもう一人の主人公。人造の正義。機械仕掛けの偽神。アルビノでアレルギー体質と言う虚弱な身体で生を受ける。また何がアレルギー物質か分からないため偏食気味であり、かつ生理がかなり重度であるというハンデを負っている。神がかりの美貌を誇っており、その身を妻にせんと越後の武者が息巻いているため、三年は未婚であるという誓いを立てている。嘘や阿諛追従が嫌いであり、正直さや清廉さを好んでいる。ビジュアルはみやま先生バージョンと深谷先生バージョンがある(ググれば出てくるが是非原作を買って欲しい)が個人的な好みで深谷先生バージョンをイメージしている。その辺はご自由に。

 

 亡命してきた村上義清らを受け入れ、同時に高梨氏の要請によって信濃へ出陣する。第一次川中島の前に戸隠にて晴信と邂逅。お互いの本心を吐露するも、戦国時代の非情さゆえに友として出会い敵として別れることとなる。その後の第一次川中島では山本勘助の策を看破し、その神がかりの実力で以て晴信と膠着状態に陥る。その際、姉の心を惑わす存在として信繁より大きな敵意を向けられてしまい、初めて浴びる憎悪という感情に戸惑いを隠せないでいた。

 

 川中島より引き上げた後は朝廷工作のために上洛。朽木谷にいた将軍・足利義輝と戦闘をし、ある程度の理解を深めることに成功する。力こそ正義と信じていた将軍にとって、それに義を加える景虎の存在は非常にきれいなものとして映り、同時に景虎もこの零落してしまった旧秩序の代表である足利将軍を復権させる、その手伝いをすることが義であると信じる結果となった。その後は都にて近衛前久と対面。武闘派関白であり、公武合体という先進的な思想を持っていながらも理解されずにいた前久に景虎がその為の武の側面を担う北畠顕家の再来となることを期待される。

 

 工作は上手く行き、越後守護としての地位を確立。堺へ赴き三好長慶・松永久秀と会談した。その際復讐を終えてしまった長慶の心の空虚さ、久秀の心の渇きを知るが、それを解決する術を知らない彼女はただ嘆き、理解してしまったことを憂うしかないまま終わる。堺では久秀に一服盛られた小笠原長時によって貞操を奪われかけるが撃退。以後男嫌いが加速していくこととなる。

 

 まだ滞在し高野山などで仏教の教えを知りたかったが北条高広の反乱などによりやむを得ず帰国。この乱を制圧した後は北上を始めていた晴信を討つべく出陣。第二次川中島となる。この戦いでは横山城に入城。そのまま動かないつもりであったが前線部隊が丸っと包囲されてしまうと単騎にて突撃。戦線の立て直しに成功した。ここで一条兼音と初の直接対面、並びに初の直接対決を果たす。この際普段通りの実力が出せずに苦戦。僅かではあるが生涯初めての傷を負う事になる。毘沙門天(?)の必死の要請もあり何とか脱出に成功したが、その後は陣中で体調を崩す。

 

 この間大熊朝秀が離反してしまうなど、多くの問題を抱え、政治力の無さが露呈してしまう。当主会談でも結論は出ず、最終的には朝倉宗滴の死によって撤退を余儀なくされる。帰還後は中条藤資に諫言を受け、その剣幕に押され今後の彼の出陣を認めることとなった。本人は無双の戦闘力を誇るのだが、一条兼音が天敵であるのと同時に兵糧や政略などは苦手としており、その辺を補って貰わないことにはその天性の才能は発揮できないという問題点も抱えている。イメージCV、早見沙織

 

 

長尾政景……分家の上田長尾家の当主。史実における上杉景勝の父。虎千代に異常な執着を見せる。その根本には己の家柄に対する劣等感が存在していた。景虎が上洛する際は留守を任され、渋々ながらも引き受けた。第一次川中島では自身の子が死にかけていた為出陣できず、第二次川中島では横山城の防御に徹さざるを得なかった。ある意味で最も景虎の異常性を理解している存在だが、その性質ゆえに解決することは出来無いであろう。イメージCV、水中雅章

 

 

宇佐美定満……景虎の自称軍師。戦争の天才たる彼女にはあまり必要ないが助言役として参陣している。幼少期の彼女に大きな影響を与えた人物。飄々としているが独自の正義感を持っており、それが無いが故に越後は動乱が続くと考えている。各所各所で交渉を行い、景虎の政治力の無さを補おうとしている。上洛の際は景虎を北畠顕家のようにしようと考えている近衛前久に諫言し、その可能性の難しさを指摘しつつ景虎が無用な争いに首を突っ込まなくてもいいようにと働きかけた。第一次川中島では相談役のような立場で参陣。晴信に苛立つ景虎を抑え役を行い、被害を最小限で撤退させた。第二次川中島でも同じく相談役のような形で参陣。勘助の一揆勢を使う策を封じるべく朝倉と交渉を行い加賀へ出兵させることに成功した。だがその後は相次ぐ勘助や兼音の策略の対処をしている間に大熊朝秀が離反。朝倉宗滴も死去してしまい、撤退を余儀なくされる。帰還後は中条藤資に直江実綱共々説教を受けることとなってしまった。イメージCV、櫻井孝宏

 

 

直江実綱……大和と呼ばれることの多い青白い顔の男。為景の小姓をしていた。景虎を仏門に進ませようとしていたがこれはその方面で彼女が越後のメサイアになることを期待していたからである。畿内では三条西家との交渉を行い、先々代為景の遺した負の遺産の消去にあたっていた。府中派閥のトップとして大きな権勢を持っているがそれが災いして旧守護家派閥と対立を内包した状態で第二次川中島に出兵することとなり、大熊朝秀が離反する原因の一つとなってしまった。普段は後方で兵糧支援をしているが、第二次川中島の際にはその多くが襲われたことで消失。苦戦しながらもなんとか飢え死にしない程度には補給を繋いだ。しかし失態は大きく、帰還後は宇佐美共々中条藤資に説教を受ける。己の屋敷で宇佐美が見出してきた樋口兼豊の娘・与六(後の直江兼続)を育てている。イメージCV、緑川光

 

 

柿崎景家…貴公子風の男であったが初陣で覚醒。武闘派になってしまった。仏門に造詣が深く、数珠を持っている。政景とはそりが合わない。高潔な人材であり、領民にも優しい。上洛の際は護衛役として二千の兵を率い景虎の身辺警護を担った。実直な人間であるため、怪しい存在である松永久秀とはソリが合わない。非常に警戒しており、身を震わせるほどであった。第二次川中島では出兵し前線に配置されるが兼音や勘助の策に引っかかり包囲されてしまう。何とか救出されたものの、兵の多くは満身創痍であった。景虎に同性愛説や晴信との逢瀬に戦を利用しているとの風説が流れた際は大きく否定していたが、その効果もむなしく士気は下がっていく一方であった。イメージCV、銀河万丈

 

 

北条高広…名門の北条家の出身。打算的で利己的な性格。景虎が高野山に籠ったまま出てこないという事態を防ぐためにわざと反乱を起こして呼び戻すなど、越後が景虎がいなくなれば強国の草刈り場と化してしまう事を理解している。出兵のたびにどこかの城代に任ぜられたいと申し出ているが却下され続け、利益が無いことを不満に思っている。第二次川中島では包囲されかけ、何とか脱出できたものの兵は満身創痍となってしまった。イメージCV、藤原啓治

 

 

斎藤朝信……越後の重臣。越後では理性的な方であるが、それでも景虎の出兵には賛同してしまうなど、今一つ決め切れない所がある。第二次川中島では出兵したものの包囲されかけ、何とか脱出したが兵は満身創痍となってしまった。イメージCV、若本規夫

 

 

本庄繁長……越後の重臣。景虎に狂信的な愛情を抱いており、その為には死をも惜しまない。とは言えこれまでの戦で大きな損耗をしてしまっているため、家臣団より今回は大人しくしてほしいと頼まれ渋々平林城に入城。兼音が包囲を終え撤退する際に横っ腹を突こうとしたが飯富三郎兵衛によって妨害され、大した手柄を挙げることは出来なかった。

 

 

色部勝長……越後の重臣。揚北衆の一人。兼音が包囲を終え撤退する際に攻撃を仕掛けようとしたが本庄隊と同じく飯富三郎兵衛によって妨害され戦果の無いまま持ち場の中沢城に引き返していった。

 

 

甘粕景持……越後の重臣。名前だけ登場。景虎単騎駆けの後も横山城の防衛に努めた。

 

 

村上義清……越後の重臣。旧葛尾城城主。晴信相手に幾度も苦戦を強い、多くの将兵を討ち取ったが陰謀と策略には勝てず砥石城を失陥。それによって配下の国衆が相次いで離反した為形勢不利を悟り一縷の望みを託して越後へ亡命することになる。亡命後は忠実な臣下として景虎に仕え、武田の軍法を多く伝授した。第一次川中島では景虎に対し武田の深追いをしないように忠告。第二次川中島では奮戦するが逆に包囲されてしまい、かつて打ち破った馬場信房に押される。辛くも包囲を脱出できたが、兵は満身創痍となってしまった。最早故国の奪還は諦めており、長尾家の発展に寄与することを戦う目的としている。イメージCV、速水奨

 

 

高梨政頼……北信の中でも更に最北、越後との国境沿いに勢力を持っている。その為春日山の府中長尾氏とは関係が深く縁戚である。景虎とは従兄弟の関係にある。多くの勢力が武田に降る中、一人で必死に耐えており、それが幾度となく行われる景虎南下の呼び水となっている。春日山から見れば戦略的要地であるため、失陥されると非常にまずい。景虎には感謝と信仰を抱いており、第一次川中島では彼女を死なせないようにと前線で必死に指揮を執った。イメージCV、飛田展男

 

 

大熊朝秀……越後の重臣。財務官僚も担っており、越後の財政を支えている。ついでに金貸しも行っているので何かと金のかかる戦争の際は多くの者が彼から金を借りている。その結果商人気質であり損得で戦場を判断する。金にならない信濃出兵を忌避したいと思っているが、果たせないまま第一次川中島では多額の損失を負う。その結果更に強く第二次川中島では出兵を中止するように要請するが受け入れられる事は無かった。それでも必死に兵糧や軍資金を支えていたが、兼音の策略により離間の計に見事に引っかかった長尾軍の将兵によって裏切り者扱いを受けてしまう。それを払しょくするべく奮闘していたが心が折れかけ、その際に氏康と兼音からの引き抜きの書状を見て離反を決意。最後に改心してくれないかと淡い期待をして本陣を訪ねたが徒労に終わり、兜を地面に叩きつけて去った。その後は風魔の手助けもあり一族郎党と共に上野に亡命。小田原にて官僚として働くことになり、労働条件の良さに号泣することとなった。イメージCV、川原慶久

 

 

中条藤資……越後の重臣。政治感覚も確かであり、武勇も秀でている。晴景からの家督継承の際も色々と裏で景虎のために動いていた老将。長尾家の一門衆に次ぐ待遇を受けているが、普段は若者の邪魔をするべきではないと口をつぐんでいる。また、景虎の婚姻問題も解決できないようでは頼むべき主君に非ずと声を上げていない。政景も出兵させてしまった第二次川中島では留守居役を担っていたが不甲斐ない結果をもたらしたばかりか能吏であった大熊をみすみす逃した宇佐美・直江を激しく詰問。二人を庇う景虎にも体調管理をするように諫言。以後は自信も出陣すると告げ、場の面子を震え上がらせた。イメージCV、石森達幸

 

 

小笠原長時……信濃守護。小笠原礼法と言う礼法の名門の当主でありながらその存在は礼法とは程遠い女好き。美女美少女によるハーレムを夢見ており、信州の美人を集めて遊興に耽っていた。しかし実力はありその剣の腕は本物。上洛に同行し、同じ小笠原一族の顔つなぎを期待されていたが堺で松永久秀によって一服盛られ、性欲の赴くままに景虎に夜這を結構。見事なまでに撃退されるが、これによって世話になった長尾家を出奔してしまう。イメージCV、松岡禎丞

 

 

小田切幸長……長尾家家臣。第二次川中島では葛尾城を守っていた。

 

 

 

 

<朝倉家>

 

 

朝倉宗滴……越前朝倉家が誇る千国有数の名将。諱は教景。九頭竜川の戦いで一揆軍数十万を屠ったという伝説を持つリアルチートの一人。若き日の信奈(信長)を評価していたことでも知られる。宇佐美定満による交渉に応じ、越後の援護のために加賀へ侵攻。しかしその陣中で没することとなる。武士とは犬畜生であると自称し、戦乱の中で汚いことをすることも、多くを殺すことも躊躇しない羅刹。その反面文化人としての側面も持つ。今章のみの出番ではあるが、大きな存在感を示した。腐りきり最早天下を統べる力の無い細川・大器だけで中身のない義輝・性根が戦国で致命的に向かない軟弱な義景・優れた戦略眼と商才をもつ未来の天下人信奈・自分と同じかその先を見る兼音・兼音の一門取込を狙う北条家など、多くの人物・勢力の評価を正しく下せる見識と目を持っている。兼音も密かに尊敬していた将の一人。イメージCV、大塚周夫

 

 

朝倉景鏡、朝倉景紀、朝倉景建、山崎吉家、魚住景固、真柄直隆、前波景定、河合吉統……越前の重臣。宗滴率いる一揆討伐軍に参加したが、宗滴の死後撤退を余儀なくされる。

 

 

 

 

 

<斎藤家>

 

 

斎藤道三……一代で油売りの商人より身を興した稀代の怪物。しかし寄る年波には勝てず、間もなく引退を控えている。謀略と暗殺で美濃を乗っ取り、守護を殺したり追放したりを繰り返した結果、国衆からの人望は絶望的。商人からは支持されているが、国内はそこまで安定しているとは言い難い状況である。しかしそれでも治め切っているのは卓越した政治力とその戦巧者という事実によってであろう。織田信秀を加納口の戦いで破り、朝倉や六角とも戦い勝利している辺り、本物の古強者。正徳寺の会談では信奈の才能を見抜きながら己の半生を無駄だった、小娘一人に抜かされるようなものであったと思いたくないが故に最初は同盟を拒否しようとしていた。しかし良晴に自身の心情を看破され、折れることとなり、織田弾正忠家と同盟を結び娘を義妹として送り込んだ。また、村木砦の戦いに際しては同盟の約定を守り安藤守就を尾張に派遣。那古野の防衛にあたらせた。原作CV、麦人

 

 

明智光秀……土岐源氏の名門、美濃明智家の人間。トレードマークは金柑の髪飾りと広めのおでこ。和装に女袴、革靴と、明治・大正時代の女学生を思わせる衣装を着ている。明智の血を誇りに思っているが、当主は叔父の光安が務めている。道三の小姓として侍っており、今章では越前との交渉に出ていた。また、その後は大河ドラマリスペクトとして畿内に鉄砲関連の買い付けに出ている。原作とは違い正徳寺の会談に参加していないのもこのため。越前で宇佐美定満に遭遇した際は織田信奈を酷評し、兼音を褒めたたえる発言をしていた。いつか自分にも王子様的な存在が来ることを夢見ている辺り、まだまだ子供である。原作CV、矢作紗友里

 

 

安藤守就……美濃の大物・西美濃三人衆の一人。名前だけ登場。道三に命じられて那古野城へ赴き、その守護に当たった。原作CV、滝知史

 

 

 

 

<三好家>

 

 

三好長慶……畿内を統べる大勢力の当主。日本の副王とも言うべき、信奈の前の天下人。元々は小さな家柄であったが、父親までの先祖が細川に忠義を尽くし、勢力を拡大。しかしそれを恐れた細川によって父が殺されると幼い長慶は復讐を決意。以後はそれだけを生きがいに人生を過ごす。しかしいざ細川を討ち果たしたのちは目標を見失い、京に巣食う魔物たちの相手をし続けることで精神が疲弊。まだ若年ではあるが最早老境の域にまで至っており、その目にある生気は薄れかけている。もし北条に仕える未来人が彼女の元を訪れていたならば未来は大きく変わっていたのだが……現実は無情である。

 

 なお、これは裏話になるが実は北条家と並んで筆者が最後までどちらをメインにするか悩んでいた勢力である。その為色々調べ、結構思い入れも深い。なのでif√を本編に出すなどかなり優遇されている。なので長慶は氏康プロトタイプみたいなイメージに儚さを追加したようなキャラクターになってしまった。こっちの√のメインテーマは『愛と復讐』になる予定であり、『正義とは何か』をメインに据えた本編とはまた違ったテイストとなる。三好家が成り上がりに近いため、入りこみやすいというのも選ばれた理由であった。活かすか殺すか最後まで悩み、泣きそうになりながら死ぬ√で本編は仮決定する。じゃないと義輝を襲撃できないので……。苦渋の決断であり、最後の最後までヒロイン候補になっていた。もしかしたら何かいい方法が思いついたら気分で変えるかもしれない。その時はよろしくお願いします。イメージCV、高野麻里佳

 

 

松永久秀……大和を治める怪人。浅黒い肌をしており、顔立ちは中東系の美女。怪しい雰囲気をしており、実際に毒殺や暗殺を躊躇しない性格をしている。しかし決してそれは悪辣という訳ではなく、優しい長慶の心を守ろうとしての策略であった。その結果背負ってしまった悪名に長慶が心を痛めるという悪循環に陥っている。景虎を呪縛から解こうと小笠原長時に一服盛るが逆効果になってしまう。また、景虎に対し兼音を蜘蛛と表現して注意を促した。原作CV、浅野真澄

 

 

三好長逸……三好三人衆の一人である重臣。白井胤治の元主君でもある。胤治を十分に使いきれなかった後悔を抱いており、それを使いこなしている兼音には感謝の心を持っていた。その為、堺で手に入れた名物を送りせめてもの礼を示す。それがまさかの曜変天目であったために兼音を心底仰天させたのだが、それを本人は知らない。また、為昌との窓口を担っており、北条家との交渉を任されている。原作CV、岩瀬周平

 

 

 

 

 

<畿内>

 

 

足利義輝……現在の室町幕府将軍。三好家と協力体制を築いていたが、途中で三好家の専横を警戒し対立。京を追われ朽木谷に逃れた。現在はそこで幕府再建、三好討伐のための策謀を巡らせている。武闘派の将軍であり、剣豪と名高い。不殺で義を謳う景虎に対し不信感から勝負を申し込む。結果としては敗戦してしまい、その際の有り様から景虎の信じるものに対し理解を示すようになった。

 

 

細川藤孝……義輝の側近。細川家の中でも傍流の出であり、兄の三淵藤英と共に義輝に仕えている。女性のような顔立ちをしており、景虎を義輝の元まで案内した。また三条西家より古今伝授を受けている国内有数の文化人である。

 

 

三条西実枝……三条西家の当主。古今伝授を細川藤孝に施した人物。古今伝授は三条西家の秘伝であったが解読できないままであり、天才として名高かった藤孝ならばという事で特別に一子相伝のものを伝授した。約定では藤孝から彼の息子へと伝授されることになっている。上洛した景虎を自邸に泊めたが裏では関東や甲斐と繋がっており、また先々代為景の影響で青苧座の利権をめぐり長尾家とは潜在的な対立が存在している。

 

 

近衛前久……五摂家の筆頭・近衛家の当主。当代の関白でもある。美しい顔立ちをしており、武家関白として名高い。公武合体という高い理想を持っていたが、実行する手立てを持たず悶々と日々を過ごしていた。そんな折に義兄弟でもある義輝よりの紹介で景虎と対面。その神性を目の当たりにして、己の理想体現のために役立つ存在と確信。景虎を北畠顕家の如き存在として公武合体を為そうと試みている。一方で息子の自由行動を容認し、どうあっても近衛家が生き残れるようにしているなど粗忽者ながら策士でもある。原作CV,

荻野晴朗

 

 

近衛信尹……近衛前久の長男。父親とは違いやや武人めいた所があるが、顔立ちは父親譲りの美少年。活発な性格であり、多くの貴族の屋敷に潜り込んでは交流を増やしていた。親北条派、というより北条家の外交官である為昌に一目惚れしており、恋い慕っていた。今章では長尾景虎が二千の兵と共に上洛していることをいち早く伝え、安全な旅となるように警護。その際十年以内に関白になれれば迎えに行くという約束を交わす。イメージCV、花江夏樹

 

 

二条晴良・一条内基……いずれも反近衛派の貴族にしてそれぞれ五摂家の当主。信尹の情報により前久の野望を挫くべく北条家に対して好意的な態度を取っている。

 

 

 

 

 

<織田家>

 

 

織田信奈……原作メインヒロイン。織田弾正忠家当主、那古野城城主。上野介。父信秀を亡くし、悲しみと葬儀の席で誰も真剣に父の死を悲しんでいないことへの苛立ちから有名な抹香投げ付け事件を引き起こし、山口教継の謀反を誘発する。その謀反人との戦いである赤塚の戦いでは北条家を参考にした作戦を立て、見事に敵兵の心理を突いて勝利することに成功。史実では奪われていた桜中村館まで今川との戦線を押し上げた。その際家臣の蜂谷頼孝を支援して鉄砲を発射。これが実は最初の対人射撃であった。

 

 赤塚で勝利できたはいいものの、家中は信勝を頼む末森派と分裂状態にある。叔父・信光の助けもあって信奈が当主であると定められているが信勝派はそれを認めず分裂状態は続いた。信秀の死を好機と見、また信奈の台頭を防ごうとした坂井大膳らによって萱津の戦いが起こるが素早い対応と優れた戦術で撃破。奪われた城を奪回し、見事に凱旋した。だがその後すぐに様々な立場からの板挟みにあった平手政秀が自害。心に大きな傷を負う。傷心の中楽田織田家の救援要請により楽田館に出陣。今川家の先鋒と戦う。その際本陣をがら空きにしてでも敵の撃破を優先した為決死隊によって命の危機に瀕するが、良晴によって九死に一生を得る。

 

 その後は良晴を拾い、己の近侍として雇った。正徳寺ではうつけ姿で行軍し艶やかな姿で登場することで道三の動揺を誘い、良晴の機転も相まって同盟に成功した。この際、道三同様美濃を狙うことが天下を盗るのに一番であるという思想を語り、同時に世界を見据える己の思考を披露した。同盟後村木砦の戦いでは嵐の中を渡海し水野家を救援。村木砦を策謀によって攻め落とし今川家の侵攻を頓挫させることに成功。三河を混乱状態にして更にその侵攻速度を遅らせる策を取った。

 

 幼少期より母親から愛されず、また特異な思考、視野により理解者も少ないまま育つ。可愛がってくれる存在はそこそこいたが、それでも理解はされていないことに寂しさを覚え、その可愛がってくれた存在も相次いで死去していく中孤独を深く感じていた。いつの日か救ってくれる人が来るんじゃないかと夢見ていたが、それが叶うことになる。ケチで短期で粗野な所があるが、その裏には人一倍愛を求める精神性も隠れている難しい少女。旧権威を嫌うが、それは宗教勢力や室町幕府系のものであり朝廷にはしっかり敬意を払っている。原作CV、伊藤かな恵

 

 

相良良晴……原作主人公。未来よりやって来た青年。横浜出身であり、下校中に突如意識を失い目を覚ますと戦国時代のど真ん中であった。楽田館の戦いの最中に戦場に転移し、右も左も分からない中木下藤吉郎に救われる。意気投合し共に戦国を駆けようと誓ったがその矢先に藤吉郎は戦死。初めての死に大きく取り乱しながらも、藤吉郎の夢を叶え、その家族を養うことを誓った。その後本陣を急襲された信奈の窮地を救う。

 

 近侍として雇われたのちは犬千代(利家)の部下の一人として働くことになる。正徳寺の会談では道三の本心をその天性の勘から見抜き、所持品にあった現代語訳版信長公記より引用した道三の言葉を伝える。これにより道三は折れ、同盟締結に一役買った。村木砦の戦いでは渡海を怯んでいた諸将を煽り、船頭たちに一歩も退かぬ要請を行ったことで渡海を成功させ、戦勝に大きく貢献する。中々無礼なふるまい、出しゃばりも目立つが上手く転がって事が運ぶなど、幸運に恵まれている。また、信奈が主だからこそ突飛なことを言い出してもそこまで変に思われない、寛大に許して貰えるなどの側面も強いため、やはり割れ鍋に綴じ蓋。

 

 直前まで過ごしていたのは2021年。2()0()2()0()()()()()()()()()()()()()()()()()世界線である。それに関連して新型コロナウイルスは当初の見立て通り最初この爆発的な感染で世界を席巻したものの、夏前には感染が落ち着き以後終息に向かった。原作CV、江口拓也

 

 

織田信勝……末森城城主。信奈の弟。母親である土田御前も共に住んでいる。台詞は殆どなかったが、信奈の軍事行動の悉くに不参加をきめこみ、勝家を派遣するにとどまっている。これは本人の意思よりも母親の意思の方が強く、林兄弟を後ろ立てにして織田弾正忠家の家督を狙っている。しかし本人に当主の器はなく、礼儀だけでは生きていけない戦国には不向き。今川との和平交渉を狙う方針であるが、それは林秀貞の方針であり彼の意思はここにも反映されていない。原作CV、加藤英美里

 

 

織田信光……守山城城主。信奈の叔父。織田弾正忠家内有数の実力者であり、信奈を支えている。赤塚の戦いでは信勝を抑えるために不参加であったが、続く萱津の戦いには参加。信奈と共に奮戦して織田大和守家を討ち破った。楽田館の戦いには赤塚と同じ理由で不参加。村木砦の戦いでは美濃の援軍もあり出陣。良晴の発破を理解しつつ乗ったフリをして渡海。寄せ手の大将の一人として活躍を見せた。将としてもすぐれており、年長者として時に信奈を諫めつつ、信奈の足りないところを補いつつ上手く弾正忠家が発展するようにと願い働きかけている。イメージCV、小山力也

 

 

織田信次……深田城城主。信奈の叔父。織田弾正忠家内では一門衆として高い地位にあるが、臆病な性格をしており目立った軍功はない。萱津の戦いの際も城を攻め落とされて、自身が人質となる失態を犯す。信奈との仲は悪くないが、彼が一方的に信奈を怖がっている。信奈からは煩くない叔父さんとして好感度高めなのだが、それには気付いておらず、責められないかどうかを気にしている小心者な側面が目立つ。とは言え信奈派であるのは変わりなく、彼女の大きな助けになっている。

 

 

織田伊賀守……織田家の一門。松葉城城主であったが、萱津の戦いの際に攻め落とされて自身も人質となる失態を犯す。その後救出された。

 

 

織田秀敏……織田家の一門。信奈の大叔父。一門の長老であり、その豊かな経験から対今川の最前線を任せられている。村木砦の戦いの前の軍議では鳴海・大高を抜けての救援は難しいとの助言を行った。彼の信奈を支持しており、一門の多くが信奈支持であることが彼女の大きな力となっている。

 

 

平手政秀……織田家の筆頭家老。信秀時代から織田弾正忠家を支えてきた老臣。信奈の守り役として奇天烈な行動に頭を悩ませつつも支えてきた。しかし今川との和睦交渉の失敗、信奈派信勝派の両者の食い違う意見の調整失敗による両派閥からの信頼の失墜、両守護代家との確執、息子の行いなど様々な問題に圧迫され、自分がこれ以上いることは信奈のためにならないと思いつめてしまい、自害。その自死は信奈の心に深い影を落とすこととなる。この死によって調停役が不在となり、織田弾正忠家の分裂は加速してしまう結果となった。イメージCV、辻村真人

 

 

内藤勝介……信奈の家老。赤塚の戦いではバックレた林秀貞と交渉でいない平手政秀に代わり信奈の補佐を行った。

 

 

林秀貞……織田弾正忠家家老。政秀亡き後は筆頭家老。しかしながら信奈の気性の荒さに辟易しており、信勝を支持している。その裏では例え織田弾正忠家が滅んでも自分は生き残れるようにと画策している等、腹黒い一面もある。しかしそれを表に出す事は無く、普段はあまり表情が見えない。幾度の戦いで参陣要請が来ているがほとんどを無視したままにしている。イメージCV、藤本譲

 

 

林美作守……秀貞の弟。信奈を嫌い、舐め腐っている。その為軽んじる発言や貶める発言をしばしば行い、村木砦の戦いを前にした軍議では政秀を陥れる発言をし死者に鞭打つ行為をしたため信奈の逆鱗に触れ退席を命じられた。

 

 

柴田勝家……末森城の家老。織田弾正忠家でも尾張国内でも有数の武力を持つ猛将。しかしまだ未成熟であり坂井甚介相手に苦戦してしまった。本人は信勝よりも信奈を支持しているのだが、置かれた立場がそれを許さない。謀反を考える末森衆を抑えながら信勝の代わりに色んな戦に参陣している。楽田館の戦い後は良晴を一瞬曲者と思い殺害しかけた。また、自身の胸を凝視してくる彼を快く思っていない。原作CV、生天目仁美

 

 

中条家忠……中条家の当主。普段は信奈の馬廻をしている。萱津の戦いでは勝家が苦戦している様を見て政治的な思惑や軍事的な狙いから加勢に行きたいと意見具申。これが通り勝家と共に坂井甚介と打ち合うこととなる。互角の戦いであったが甚介の隙を突き、見事その首を切り落とした。

 

 

森可成……森家の当主。信奈の家臣であり、勇猛果敢で知られる武闘派の将。萱津の戦いなどで戦果を挙げる。楽田館の戦いでは信奈に命じられ本陣を空けて突撃したがそれを不安に思っておりある程度勝ちが見えた段階で誰か本陣を守るように要求。これを受け良晴が本陣へ走ったため信奈が救われることとなった。

 

 

丹羽長秀……信奈の側近。文官肌の人間であり、多くの戦いで村井貞勝と共に兵糧などの差配を行っている。温厚な性格であり、苛立つことは少ない。世情にも明るく、北条家についての解説を良晴に行った。状況を採点をする癖がある。原作CV、松嵜麗

 

 

蜂谷頼孝……信奈の側近。赤塚の戦いでは山口教継と一騎打ちを行い、信奈の加勢もあって教継を討ち取ることに成功した。

 

 

前田利久……織田家の家臣。荒子城城主。前田家の当主なのだが病弱であり、信奈より妹の犬千代に譲るように勧められているためあまり兄妹仲はよろしくない。

 

 

前田犬千代……信奈の近侍。良晴の上司。前田家の当主問題で兄とはぎくしゃくしており、自身にもっと武功があればいいと考え萱津の戦いに参陣。戦場を駆け巡り見事坂井彦左衛門の首を挙げることに成功した。口数は少なく寡黙な性格。発育が悪いことを気にしている。萱津の戦いの後利家と名を改めた。原作CV、福圓美里

 

 

村井貞勝……織田家家臣。今章では名前だけ登場。多くの戦いにおいて那古野城にて物資の差配を行っていた。イメージCV、中博史

 

 

佐久間信盛……佐久間家当主。佐久間家は尾張内で有数の勢力であるため、信奈の力強い後ろ盾となっている。家中分裂初期より信奈の味方であるため、信任は厚い。温厚な人柄ではあるが、決して無能ではなくむしろ優秀な武将。萱津の戦いでは一手の大将を任せられるほどであった。林兄弟とは対立関係にあり、それも分断を加速させる遠因となってしまっている。原作CV、松本忍

 

 

池田恒興……池田家当主。信奈の乳姉妹。信奈の乳母が恒興の母である。その為側近として侍っているがそこまで賢将ではないため、評定での発言回数は少ない。原作CV、日岡なつみ

 

 

佐々成次……佐々成政の兄。佐々家の当主。佐々家は尾張内でも比較的大きな勢力であり、この家が信奈派であることは非常に大きな影響を与えている。勇猛果敢な武将であり、多くの戦場で手柄を立てた。

 

 

塙直政……信奈の側近。名前だけ登場。まだ若いが後学のためと村木砦の戦いの際の軍議に参加を許可されていた。

 

 

川尻秀隆……信奈の側近。名前だけ登場。まだ若いが後学のためと村木砦の戦いの際の軍議に参加を許可されていた。

 

 

梁田広正……信奈の側近。名前だけ登場。まだ若いが後学のためと村木砦の戦いの際の軍議に参加を許可されていた。

 

 

大橋重長……津島衆の代表的な商人であり、武士でもある存在。信奈とは縁戚であり、彼女を支持するように津島衆に働きかけ、財政面で大きな支えとなっている。いわばナチスドイツ初期に実業家青年団をヒトラー支持に傾けたシャハトのような存在。今章では商人の網を駆使した太原雪斎死去の急報を信奈に届け、軍事行動を決意させるきっかけの一つを作った。

 

 

蜂須賀五右衛門……川賊、川並衆の頭領。忍び。木下藤吉郎と契約していたが、戦場全体を俯瞰している隙に藤吉郎が戦死。彼の意思を汲んで良晴と再契約を行った。その際に藁人形に彼の髪を入れて契約の証としている。原作CV、金田朋子

 

 

浅野長勝……浅野家当主。老境の域に入っているが、良晴の面倒を見ている。槍を教えるなど、最低限良晴が生きていけるような技術を伝授した。原作CV、広瀬正志

 

 

浅野長政……史実における五奉行の一人。寧々の甥。今はまだ小さいが、将来を期待されている。良晴を兄のように見ており、仲は非常に良好。

 

 

浅野寧々……浅野長勝の義娘。杉原家の出身であり、浅野家の願いで養子に出されていた。良晴をサル様と呼び、色々と世話を焼いている。揶揄う事が多いが慕っている模様。言葉に出す前に一度考える癖をつけた方が良いと良晴に忠告した。原作CV、北方奈月

 

 

赤瀬清六……信光の小姓上がりの武将。萱津の戦いで敵方にて猛威を振るっている坂井甚介を討つべく信光に命じられ打ち合ったが力及ばず敗死してしまった。

 

 

織田寛貞……楽田織田家の当主。今川家の孤立外交をしていたところ先鋒に攻められ同族である織田大和守家に救援を要請するも今川融和政策をとる彼らに無視され、信奈に泣きついた。その後救援された見返りに信奈に臣従し配下として活動することとなる。

 

 

 

 

 

<水野家>

 

 

水野信元……水野家当主。刈谷城城主。太原雪斎の策略により、村木砦を奪われ重原城も落とされる危機に瀕していた。そのため同盟者である信奈に救援を要請。これが叶いなんとか辛くも危機を脱することになる。緒川城での軍議の際は良晴の発言を聞き逃さず、己の姪である松平元康との関係がないことをアピール。信奈に裏が無いこと、同盟者として信頼できる存在であることをアピールした。戦後は三河に工作をしかけ、今川家の侵攻を頓挫させるのに一役買う。

 

 

水野忠分……水野家の一門。緒川城城主。信奈の救援に仰天しつつも迎え入れ、その後は水軍を率いて村木砦を海上から攻撃した。

 

 

清水家重……水野家の武将。信奈に救援を要請する使者として赴き、後に水軍を率いて村木砦を海上から攻撃した。

 

 

清水政晴……水野家の武将。水軍を率いて村木砦を海上から攻撃した。

 

 

 

 

<尾張その他>

 

 

斯波義統……尾張国守護。武衛様と呼ばれる貴人であり、普段は清州城にいる。実権はもうないが、権威だけはまだ高々と存在している。今川家とは遠江を奪われた関係で犬猿の仲。そのため今川家との和睦を狙う大和守家とはソリが合わず、対今川強硬派の信奈に接近を図っている。

 

 

山口教継……元織田家家臣。信秀亡き後の織田弾正忠家に見切りをつけ、今川に寝返る。鳴海城城主であったため、その影響は大きく、赤塚の戦いを引き起こした。世間の言う信奈はうつけであるという世評を信じ、油断していたところを策に引っ掛けられ、信奈と蜂谷頼孝の連携で討ち取られてしまう。なお、史実では駿河に呼ばれ謀殺されているのであまり運命に差はないのが悲しいところ。

 

 

山口教吉……元織田家家臣。父と共に裏切り、鳴海城に今川方を入城させた。しかし父が戦死した為その影響力は非常に小さくなり、岡部元信配下の一部将までに成り下がってしまう。

 

 

織田信友……織田大和守家当主。傀儡の当主であり、大膳の意思によって動かされるだけの存在である。

 

 

坂井大膳……織田大和守家内で権勢を振るう奸臣の一人。信奈を叩くべく萱津の戦いを引き起こしたが敗走。一門を二人も討ち取られる大敗となってしまった。今川家との和睦を探っており、好感触を得ている気になっているが今川に約束を守る気などさらさらない。良くいる見たいものだけを見ている将。

 

 

坂井甚介……織田大和守家内で権勢を振るう奸臣の一人。武勇に優れており、大和守家の中では武闘派筆頭。萱津の戦いでもそれは遺憾なく発揮され、弾正忠家の兵の士気を下げていた。信光の派遣した赤瀬清六を打ち破り気炎万丈のまま柴田勝家と戦闘。まだ未成熟な勝家に対し優位を保っていた。その後中条家忠が加勢に来たが、これでも互角を維持するなど高い戦闘能力を見せるも、同族の坂井彦左衛門が討ち取られたとの報を聞き一瞬注意が逸れた隙を突かれてしまい、勝家に胴を串刺しにされ家忠には首を切り落とされた。

 

 

坂井彦左衛門……坂井甚介や大膳の一門。手柄首を欲する犬千代によって槍で貫かれ討ち取られてしまった。

 

 

織田三位……織田大和守家内で権勢を振るう奸臣の一人。非常に凡庸な将であるが、危機察知能力は高く、信奈に大膳が敵わないのではないかと予感。撤退を進言するが裏切りを疑われ仕方なく戦うこととなった。

 

 

川尻与一……名前だけ登場。織田大和守家内で権勢を振るう奸臣の一人。

 

 

 

<房総>

 

 

小田氏治……常陸の名門小田家の当主。父である政治の急死に伴い、当主に就任した若手の武将。性は勇猛果敢であり、また和歌なども能くする名家に相応しい当主。実は足利家の血を引いており、堀越公方足利政和の孫にあたる。水谷全芳によって多賀谷氏に裏切られ、怒り心頭であり、北条家からの外交交渉にも強気の姿勢で臨んでいたが兼音の策によって周囲の勢力が一斉に攻撃を開始してきた事によって妥協せざるを得なくなった。領民からはかなり慕われており、その治世は安定している。戦国界隈では知る人ぞ知る不死鳥。

 

 

菅谷政貞……小田四天王の一人。名将として知られる小田家の家老。交渉の席では裏切られた側にも問題があると主張する為昌を制止しようとしたが逆にやり込められてしまった。

 

 

信太伊勢守……小田家家臣。木余田城の城主であり、鹿島氏の攻撃に際して小田城に救援要請を行った。

 

 

相馬整胤……守谷城城主。下総相馬氏の当主であり、兼音の策略に乗って小田領侵攻作戦に加担したが氏治によって破られる。

 

 

真壁久幹……中常陸に影響力を持つ大型の国衆。兼音の策略に乗って小田領侵攻作戦に加担したが氏治によって破られる。

 

 

豊島頼重……豊島氏の当主。布河城城主。兼音の策略に乗って小田領侵攻作戦に加担したが氏治によって破られる。

 

 

土岐治頼……土岐家の当主。江戸崎城城主。現在の土岐家の宗家の当主でもある。本来の当主・土岐頼芸は道三によって故国美濃を追われており、関東に身を寄せ弟であり関東土岐家の当主であった治頼に当主位を譲った。兼音の策略に乗って小田領侵攻作戦に加担したが氏治によって破られる。

 

 

鹿島治幹……鹿島神宮の宮司を務める国衆。鹿島城城主。霞ヶ浦に大きな利権を持っており、対岸に位置する小田家を攻撃するべく土浦城を目指し渡海したが氏治と対陣し決着のつかないまま退却を余儀なくされる。

 

 

大掾貞国……府中城城主。中常陸に大きな勢力を持つ。兼音の策略に乗って小田領侵攻作戦に加担。木余田城に進軍したが戦果のないまま退却を余儀なくされる。

 

 

里見義堯……房総の大部分を治める関東で二番目に大きな勢力を持つ大名。小田氏包囲の際の策の一環として江戸衆が国境付近で演習を行った為、その対応に追われ小田家に救援を送る事が出来なかった。イメージCV、土師孝也

 

 

 

 

 

<他>

 

 

オリバー・エヴァンズ……イングランド人の船長。長らく小田原に滞在していたが、満を持して帰国することとなった。その際に兼音と固い握手を交わす。その際、氏康に英語にて見送りの言葉をかけられ、自文化を学ぼうとしている姿勢に非常に感動し最敬礼で以て応えた。また、イングランド人の水夫などを幾人か残しており、北条家の南蛮船建造に一役買う。当初は怖がられていたイングランド人であったが交流を経て日本に好感を持っている。多くの小田原の民衆や、関東管領・関東公方などの見送りのある中、旅立っていった。半年の航海を経て母国へ帰還する。

 

 

蘆名盛氏……岩代、蘆名家の当主。名前だけ登場。対越大同盟に加わり度々揚北の国境を脅かした。

 

 

桐屋……特別編に登場。河越を本拠とする呉服屋。高級衣服を扱う。謎の製法書に関しての相談をするべく神社を訪れた。

 

 

村長……特別編に登場。悪霊の手によって豊穣を得ている村の正体を知りながら隠していた。兼音たちによって討伐されてしまうと自殺。

 

 

生贄……特別編に登場。身寄りがない為に生贄として花嫁に出されそうになっていた娘。兼音たちによって救出され、河越の呉服屋で働くことになる。後に兼音の悪神退治を後世に伝えるきっかけとなった。

 

 

怨霊……特別編に登場。飢餓で死んだ者の怨念が気の流れの良くないところに集まって出来た集合体。恨みや憎しみを経て神となり災いを起こそうとたくらんでいる。その為に閉鎖的な山奥の村を選び、神として振舞う事で昇華しようと目論んだ。兼音と頼重の合わせ技でダメージを受け、兼音の血を舐めてのたうち回っているところを一刀両断され塵も残さず消滅した。

 

 

 

 

 

<超短編Ⅶ・極西の女王>

 

 

 イングランド船の船長・オリバー・エヴァンズは半年近い航海を経て自国へと帰還していた。アフリカの喜望峰を回らないといけないこのルートが変わるのはスエズ運河の開通を待たねばならない。そして彼は祖国へ帰るなり一目散にロンドンを目指した。この地に君臨するイングランド女王・エリザベス1世と会うためである。謁見の間に通されると、彼は荘厳な衣服を身に纏った若き女王の前に跪く。

 

「よく帰還した」

 

「ありがたき幸せ」

 

「何ぞ、得るものはあったか?」

 

 女王はあまり期待せずに聞いた。香辛料貿易はポルトガルが独占。その他の世界におけるおおよその貿易網はスペインによって支配されているのだ。極東にもスペインの手が及んでいるのは想像に難くない。また、メキシコ銀はアカプルコを出港し太平洋を横断してフィリピンへと送られている。イングランドの入り込む隙は殆どなさそうに見えた。

 

「極東にありますジパングに接触することが出来ました」

 

「黄金の国か?」

 

「その通りでございます。尤も、黄金はございませんでしたが……こちらをお納めください」

 

「これは?」

 

「ジパング、彼らの名称では日本についての史書、並びに我々が同盟関係を結ぶに値する勢力からの親書でございます。日本の東部に巨大な影響力を持つ貴族の家であり、我々の感覚で言えば侯爵あるいは公爵相当かと。私の感覚では王に近いのですが、彼らは王ではないと主張しました。日本の西部には既にスペイン・ポルトガル・イタリアの手が及んでおりますが、東部は未開拓。大きな市場があり、かつ理性的な君主が治めております。そして、その君主の配下である将軍の一人が我らの言語を介したのです」

 

「なんだと!?」

 

 冷静沈着な女王は目を丸くさせ、玉座から立ち上がった。これは非常に驚くべくことであった。明らかに文化圏も言語圏も違う場所に、それもスペイン語やフランス語ではなくイングランド語を介する人間がいるなどあり得ない話だと思ったからだ。大方エヴァンズ船長のハッタリであろうと考えている。

 

「その親書も史書も、全てその将軍が書いたものです。その男は姓をイチジョウと言い多くの戦いで戦功をあげ勇猛果敢知勇兼備で知られる名将でありました。その彼の求めに応じ、我々は地球儀と望遠鏡を一つずつ、ガレオン船の設計図と技師数人。そして大砲一門を譲渡しました。サー・イチジョウはスペインを始めとするヨーロッパ情勢を掴んでおり、アカプルコ貿易を阻害すると約束し、またプロテスタントや国教会を支持しカトリックを支持しない方針を示しています。君主であるもデューク・ホウジョウもそれに同意。我々とのより緊密なやり取りを望んでいます」

 

「……嘘ではないだろうな」

 

「無論です。神に誓って、女王陛下に嘘偽りを申すはずがありません」

 

「分かった。史書や親書を精査する。お前は家族の元へ行き、身体を休めると良い」

 

「ご配慮感謝します。女王陛下万歳!」

 

 船長は深々とお辞儀をして退出する。残された謁見の間には運び込まれた日本からの贈り物と書物が二つのみ残される。女王は刀を抜き、その刃紋に驚いたり水墨画を見てその技巧の高さに目を楽しませた。そして問題の親書を開く。でたらめな英語である可能性もありえた。しかしそこに書かれていたのはアルファベット。綺麗な筆記体である。この頃の英文法は現代とは少し違うが、それでも読めない訳ではない。現代ならば問答無用で満点を貰える作文をしている文面に、女王は目を通し始めた。

 

『親愛なる女王陛下へ。突然このような書を送る無礼をお許しください。私は日本国皇帝の配下であり東部地域の管轄を託されている貴族であり軍人である北条家の当主氏康と申します。女王陛下の来歴、またその御家の歴史は我が配下より聞き及んでおります故、今回は私の家の来歴を簡単にご紹介させていただきます。我が国はその昔、皇帝の元で宮廷貴族が支配しておりました。しかし時の流れと共に軍人貴族が台頭。政権を奪うに至ります。その後政権をまとめたのが我が先祖、北条義時でした。我々の力を恐れた皇帝の軍も倒し、軍人政権を打ち立てた先祖は数代に渡って長く我が国を統治します。しかし、平和を愛し、法の下生きる我が国にモンゴルの侵略が迫っていました。我が先祖の一人である時宗は諸国の軍人を糾合。軍人・宮廷貴族・僧侶・皇帝・市井の民全てを束ね、あらゆる知略軍略を以てこれを迎え撃ち、二度の侵攻をはねのけ優れた指揮の元モンゴル軍14万を海の底に沈めたのであります。しかしその数代の後に逆賊が現れ、北条による軍事政権は倒れ、僅かな皇帝親政を経て、足利による政権が始まりました。我々の一族は在野にて雌伏し、今は治まっている天下を乱すことの無いように努めておりましたが足利の政権は百年の後に崩壊を始め、今やその権威は地に落ちております。故に私たちは再び再起し父祖の地で皇帝を奉りつつ独自の政権を築くに至ったのです。

 

我々は平和を愛し、法治を愛し、豊国を愛しておりますが国内は今乱れ切っているのです。これを受け、せめて我が領内だけでも平穏をと願っていますが、諸侯によってなかなかそれは実現しません。この難しさは女王陛下も同じではないかと拝察します。さて、我々は貴国との同盟を願っております。貴国はカトリックではなく独自の道を歩まれました。バチカンの教皇庁は王権にとって大いなる敵。叙任権闘争に代表されるように教皇権を上回る事は王権の命題でもあると存じます。我が国もまた、大きな宗教権力が跋扈する地でありますが故にその悩みは同じではないでしょうか。陛下の臣より聞けば非常に英邁であり果断であり英傑と呼ぶにふさわしい女王であるとのことです。益々私たちと同じ方向を向いて歩いて行けるのではないでしょうか。私は貴国の技術を欲しています。そしてその分、我らはスペインの東方覇権を脅かしましょう。フェリペの鼻を折る為には、我らと組む事こそ、賢明なことであるのです。どうぞ、お返事をお待ちしております。 日本帝国東国全権委任宰相・北条氏康』

 

 鎌倉府執権と言っても伝わらないので、帝国の元にある諸王国の宰相である存在ですよとアピールしているのである。事実、帝を皇帝とすれば鎌倉公方は東国の国王に近い。その宰相でありかつ国王から全権委任をされていると聞けばある程度北条家の影響力は伝わるであろうという兼音の意訳であった。色々はしょったり盛っているところもあるが、嘘でもない話を書き連ねてある。また、もう片方の史書にはローマがエトルリア人の王国だった頃に皇室がスタートしたというとんでもない話から始まり、延々と西欧・中東史などと絡めて日本史を書いている。日本独自の政体や宗教観についても記されており、日本を理解してもらうために苦心して書かれていた。

 

 女王は全てに目を通した後、黙ってため息を吐く。欧州史をここまで詳しく把握し、同時に教養の高さも伺える。聖書の文言をところどころで引用していることから異教徒ではあるがキリストの教えに詳しいことも伝わってきた。自国語を介し、フィリピンからの距離も丁度いい。もし言っている通りの勢力を誇っているのならば、十分に同盟相手として相応しいだろうと彼女は考えた。何より驚かせたのは絵図。兼音渾身の世界地図は、未だに不正確なアフリカやアジアの図を綺麗に書いてあり、日本の形や東シナ海などの状況も手に取るようにわかる。それによって日本の関東がフィリピンを伺える位置にあることも理解できた。

 

 女王は配下に命じ、己の腹心である国王秘書長官のウィリアム・セシルを呼び出した。

 

「お呼びでしょうか、陛下」

 

「ただちに船団を組織しなさい。数は最低五隻」

 

「理由をお聞きしても?」

 

「極東にスペインを叩ける可能性のある国家が現れ、向こうからコンタクトを取ってきた。これを活かさない手はない。エヴァンズを呼び戻して。すぐにやるわよ」

 

「承知」

 

 北のスコットランドは治まらない。ネーデルランドはきな臭い。フランスもカルヴァン派とそれ以外の対立がある。スペインの銀はいずれ尽きるだろうし、そもそもネーデルランドなしにスペイン経済は成り立たない。ロシアは脅威に非ず、ドイツは未だぐちゃぐちゃ。オーストリアはトルコのせいで動けない。

 

「日本、北条……使える」

 

 後に数百年継続する日英同盟の端緒が今開かれようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

<超短編Ⅷ・かつての栄光>

 

 

 賑やかな喧騒が周りに満ちている。屋台の匂いが充満し、色とりどりの飾り付けが学内を満たしている。私立・難波瀬学園高等部の文化祭当日であった。去年までの死ぬほど面白くないと学内外から不評だったものとは打って変わり、名門私立らしからぬ雑多な賑わいを見せている。

 

「随分変わったね」

 

 弓道部の出し物のところに行かねばならないので早歩きで歩く私に、副部長はしみじみと言った。黒い長髪なのはよくいる高校生っぽいが、大きく輝いているおでこが眩しい。先輩がよくペチペチ叩いていたのを思い出した。

 

「これならば目標売上も達成できるはずだ」

 

「大変革の立役者としてはそれが気になるか」

 

「大変革、ね」

 

「私は初等部からここにいるけど、全然そんな話出てこなかったもん」

 

「それは出ていたけれど実現しなかっただけの可能性もあるけれどな」

 

「行事運営委員会の委員長さんがどういう風にして実現させたのか、興味はあるけどなぁ」

 

 彼女は見上げるように私に向って言う。

 

「そう難しいことじゃない。心の底から反対という人は少ない。大半は今まででいいと思ってる大多数だ。だからこそ、そこを引きずり込みつつ反対派を崩す。何故反対なのか、どこに目的があるのか。それを意識すれば大したことじゃない。一手一手少しずつ、先輩や同級生、その保護者。使えるコネは何でも使って、使える道具は何でも使う。そうすれば一年もあればあっという間にこの通りだ」

 

 去年の全然面白くない研究発表がメインの文字通りの()()祭では人は来ない。今後少子高齢化の進む中でどうやって選んでもらえるか、生徒の自主性を云々と言っておけば学校はある程度説き伏せられる。保護者会は誰が言うかが問題だ。保護者間にも力関係がある。特に上流階級と一般に言われる家が多い弊校ではその傾向が強い。そこをうまく使い、力関係において上位の人を数人説き伏せれば後は下におろしてもらうだけ。大体どこの親も我が子がかわいい物。そうでない場合は利益を出せるようにする、とまでは行かずともメリットを提示できればいい。忙しい人が多いので、生徒を使うか或いは生徒に仲介してもらい自分で訪ねて交渉する。また、家庭教師をしている後輩の家が運よく有力者であったためそこの保護者=私の雇い主の人脈も頼れる。

 

 保護者会が終わればOG会だ。ウチの学校が共学になったのはつい数年前。卒業生の会は圧倒的に女性が多い。そして弊校には元ではあるが、お嬢さま学校の例にもれず派閥がある。いくつか存在していて別に争っている訳ではないのだが親同士のつながりや個人的な友誼の結果複数の派閥が存在しており○○会などといわれていた。まぁ実態は週に数回茶をシバいて駄弁ってるだけの集まりなのだが。

 

 それはさておき、入っていてよかったね最大派閥。元々外部入学生は少ないのだが、中でも新入生総代(例年高校進学時のテスト&外部生の入試――問題は同じ――から最も成績の良い生徒が選ばれる)に外部生がなることは百年近い歴史でも前例が二回しかないレベルだったようで、囲い込まれていた。何だかんだ色々あり、私が今その派閥のトップをやっている。と言っても週に一回くらい部活の休みに顔を出して勉強を教えたりお悩み相談会をおしゃべりな女学生相手にやる羽目になるくらいなのだが。ともあれその人脈を使えば説得は容易だった。

 

 他にもメディアやインターネットなど色々駆使してこの集客を誇っているのだ。警備も万全。その辺は流石に抜かりなくやる。元々秘密のベールの向こう側にあった学校。故に興味から押し寄せる人は多いと予想したけれど、その通りだった。

 

「いやー謙遜しないで。頑張ってたじゃん。ほとんど寝てなかったでしょ」

 

「ま、多少はね。部活に支障はきたさないで学業も問題なくをしないといけないからそこまで根を詰めたわけではないが……ちょっと疲れたのは事実。これが終われば休めるだろう。尤も、明日もあるけど」

 

「それなんだけどさ……。明日、空いてる?一緒に回らない?」

 

「明日?明日は……委員会の仕事があって、それをところどころに挟みつつ……午後二時くらいなら空いてるけど」

 

「それ以外は?」

 

「先約がある。今日は丸一日ほとんど空き時間は会長に埋められて、明日は後輩から誘われてるから、そこだけしか空いてない。もっと他に友達と行ってくれば?」

 

「そーゆー問題じゃないんだけどなぁ!まぁいいや、じゃ、そこ入れておいてね」

 

「はいはい」

 

 正直もっと他の人と楽しんで来ればいいのにと思う。私といても大して面白くもないだろう。私自身が面白みのない人間だし。顔もまぁ、醜くはないだろうけれど二枚目でもない。とは言え副部長にはお世話になっている。弓道部でも男女比が女性優位なので、頼らざるを得ないところも多い。なのでその彼女からの要請とあれば従うまでだ。財布は心もとないけれど、少しくらいは奢れるように用意した方が良いか。今月の食費は計算しないといけない。

 

「あのさ……後夜祭は空いてる?」 

 

「運営側だから空いてない。後、梓先輩と美月先輩に挨拶しないといけないからどっちにしろ無理かなぁ」

 

「でしょうね、そんな事だろうと思ってました」

 

 少し不貞腐れたような顔で彼女は言う。そうこうしているうちに弓道部の出し物のブースに付く。弓道体験とか無難なのにしようと言ったのだが、何故かタコを焼くことになった。これ大丈夫かなぁ、いいとこのお嬢さまたちにタコ焼かせてるって相当ヤバいのではと今更ながら思えてきた。ブースは長蛇の列。後輩たちが汗だくで店を回していた。彼女らの親に殺されないかが心配になりつつ、後輩たちの挨拶を受けながらシフトに入ることにした。

 

 タコは死ぬほど売れた。




どんどん長くなっていく……。

マシュマロ→https://marshmallow-qa.com/tanuu90004861
感想欄では聞けないけどメッセージ送るほどでも……みたいな質問あればどうぞ。他にも作品の事、私のことなら割と何でも答えるつもりです(定型文)

昨年は拙作に多くの感想やメッセージ、高評価をお寄せくださいましてありがとうございます。おかげ様で拙作は投稿開始から二年以上が経過。累計で141万文字を数え、感想も千件以上いただきました。感想下さる方、いつも読んでます。というよりそれを栄養素にして書いています。読んでくださる読者の皆様が何より心の支えです。それでは本年も拙作をよろしくお願いいたします!!


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第7章 独立独歩
第111話 謀臣の宴


新章だぜぇ!


 年が明ける。もう何度目かになろうかというこの年越し。毎度毎度実感するのは、確かに自分は今ここで生きているのだという事。血で血を洗い、人が人を当たり前のように殺していく世界の中で何とか生き延びられていること。それを毎年のように思うのだ。

 

 今年の年賀の挨拶は1月の初頭より小田原で行うが、去年よりは少し遅いらしい。1月の最初の三が日近くにしたところ、あまり評判が良くなかったそうで国衆などからもう少し遅めでお願いしたいと陳情が入ったと聞いている。年越しくらいは一族や家臣と過ごしたいという要望だろう。これを受け、小田原はずらすことを決定したらしい。なので少しばかりの平穏だ。

 

 城の大広間には百官勇士が揃っている。私の仕える家臣団一同。与力である山中頼次・太田泰昌や秩父衆も今日はここまでやって来て挨拶を行うのだ。序列順に並べられたその先頭には兼成が座っている。私の家臣の中でも最古参。出自もおそらく最も高貴。押しも押されぬ筆頭家老だ。私の横には一人しかいない一門である政景が緊張した面持ちで座っている。彼女が全員と会うのは初めてだろう。

 

「明けまして、おめでとうございます」

 

「「「「「おめでとうございます!」」」」」

 

 兼成の声に続き、家臣団が声をあげ一斉に首を垂れる。

 

「面を上げよ」

 

「はっ。皆を代表して年賀のご挨拶を申し上げます。昨年多くの御恩を賜りし事、誠に恐悦至極。本年も昨年に負けぬ御奉公を致す所存でございます」

 

「そなたらの忠孝あってこその我が統治である。より一層の活躍を期待しておるぞ」

 

「頂きました御期待に沿うよう、昨年を上回る奮励努力をして参ります」

 

 年賀の挨拶は大事だ。これは現代でも変わらないだろう。そして当然現代よりもこういった四季折々の出来事や礼節が重んじられる時代ではその重要度は増す。普段私に会う事も少ない家臣もこうして当主に拝することでその忠誠心を高められるようにしているのだ。家によっては個別で挨拶を受けることもあるだろうし、実際江戸幕府の将軍への年賀拝謁はランクごとに差がついていた。しかし敢えてそれを設けないことで一体感の創出を狙っている。元々が寄せ集めだからこその方策だ。

 

「今年は、皆に伝えたき儀がある。これにあるは遠山家よりお預かりした我が妹。皆も知っているだろう。この政景を去年迎え入れた後、私は一年の猶予を設けた。それが彼女の進退を決める期間であった。そして私は決断を下した。この者を正式に我が後継者として認める。故に、私に子無く、私が当主の任を行う事相ならぬ時は、政景を主と仰ぎ変わらぬ忠節を期待する。良いな!」

 

「「「「ははぁ」」」」

 

 諸士が一斉に頭を下げる。取り敢えずこれで後継者問題は一応の解決を見せた。こういう場でしっかり宣言をしておくことがスムーズな継承に繋がる。河越衆の多くは私を頼みにしている。そう言った存在は政景が当主代行、ないし新当主となった際に職を辞したり働きが悪くなることもある。それを防ぐためにこうして前もって予防線を張り、万が一の際には私の遺訓という事にするのだ。

 

「皆の忠節に感謝する。私も安心する事が出来た。今年は昨年を超える飛躍の年となろう!では、その門出を祝おうではないか!」

 

 料理が運ばれ始め、宴会の開始を告げる。飲みニケーションというヤツだったか。とにかくこういった場では飲んで食ってが大原則。市井は今日も騒がしく、また飲食店は立ち並んで競うように販売している。正月は財布のひもが緩む。そこを突くように特価で販売中だ。他国の情勢は予断を許さないが、関東の多くは平和そのもの。これを守るべく、今年も謀略知略を巡らせねばならないだろう。尤も、それが私に与えられた役目であり私のなすべきことである。そして、私の望む事なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 コーンコーンと城の庭には羽突きの音が響いている。運動神経が凄まじい人同士でやるとどうなるかのいい例だと思う。政景と朝定の対決は全く終わる気配がない。白い息を上気させ、赤く頬を染めながらまだまだやる気のようだ。元気で何より。城の若い衆で餅を突いて民衆に配ったりもしている。こういうイベントごとも積極的になることで支持を増やしていく。大事な政治的作業だ。

 

 晴れ着姿の少女二人が激しい戦いを演じている中ではあるが、いつまでもそれを見ている訳には行かない。取次などをしている国衆は続々と挨拶に来る。年賀の顔合わせは終わったとは言え、まだまだやるべきことは残っていてそれが結構面倒だ。とは言え飲めるので問題ない。それだけが数少ない楽しみと言っても良いだろう。

 

 簡易版のお節料理を作るべく城の台所は朝から大忙し。何でもコンビニで売っている現代とは大違い。餅一つでも自分で用意しないといけない。年末年始は忙しい。のんびりという言葉とは正反対だ。神事もある。また酒か……。兼成が怒るのであんまり飲んではいないのだが、正月だし……まぁ良いだろう。多分。

 

 卓球もかくやのスマッシュが政景の手から放たれ、スピンしながら羽が飛んでいった。一歩間に合わず朝定が取り落とす。む~と悔しそうな顔をしている彼女の顔に容赦なく墨で丸が描かれた。関東管領相手に接待プレイをしないで罰ゲームまで実行しているのは大物なのかその辺考えていないだけなのか。まず間違いなく後者なのだろう。公式の場ではないのだし好きにすればいい……いや人前でもあんな感じか……。何とも言えない気分になる。

 

「勝ったわ」

 

「お前、もう少しこう、手心というものをだな」

 

「良いんです、私がそうしてくださいってお願いしているので」

 

「それならいいが……」

 

 墨で顔に●を作られた朝定は楽しそうにしている。ふんす、と息を出している小生意気な妹も、大分明るくなったのではないだろうか。やはり友達というのは大事な存在である。良い友に出会えれば一生良い影響を受けることも出来る。支え合って生きて行って欲しい。

 

 決して煌びやかな生活をしている訳では無いが、やはり普通の人よりはずっと豪華な金銭状態にあるのは疑い難い。事実、年少組二名の着ている晴れ着はかなり艶やかなものに仕上がっている。女性がファッションを好きであると一律に言うのも違う気がするが、お洒落でいることを好む傾向があるのは間違いないと思っている。おとなしめなデザインではあるがシックに決めている朝定は背伸びをしたいお年頃なのだろうか。真っ赤に染めている政景は目立ちたがりな感じがよく出ている。どちらにしても髪型も変わって随分と大人っぽくなった。

 

「お前も、随分大きくなったな」

 

「はい、兼音様のおかげです。でもまだまだ兼成様などと比べると……」

 

「あいつと比べたら大体皆低くなってしまう」

 

 兼成の身長は大体160cm後半くらいだろうか。結構高い。この時代でもそうだし、現代でも女子の中では割と高身長にあたるんじゃないだろうか。それにあのスタイルなので、現代ならアイドルとかでも十分通用すると思う。20代前半だし。あんまりテレビとか見なかったので何が流行っていたのかよく覚えていないけど。

 

「まぁ身長もそうなのだが、中身だ中身。立派な姫になってきたじゃないか」

 

 そう言いながら朝定の頭の上に手を置く。昔は大分小さかったがもう出会って二、三年近くは経っている。元々小学生真ん中くらいの年齢だったのがもう中学生くらいにまでなった。そりゃ成長するわけだ。今がまさに成長期のど真ん中なのだから当たり前の話だった。子供はずっと子供のままではない。分かってはいるけれど、少し寂しい所がある。

 

 手をポンポンしていると朝定が顔を俯かせたままにしている。流石に年頃の子にはマズかったか。あんまりやると嫌われそうだし、現代ならこれくらいの子は反抗期に入り始めるものだ。特に女子は精神年齢が成長するのが早い傾向にあるので、反抗期も早いと聞く。今度からは控えるようにしようと思いつつ、妙に黙ったままの義妹を見れば、頭を押さえている。心なしかダメだこりゃ見たいな風に口が動いていたように見えた。何がダメなのかよくわからない。何だかんだで心理面ではこの義妹にお世話になっている事実に気付かされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昨年は内政に注力した一年となった。いや、何か私だけ戦争にずっと従軍していたような気もするし実際にそうなのだが北条家全体としては内政期間であったと言える。早雲時代の伊豆討ち入り以来割と駆け足で拡大を続けている当家としては珍しい平穏な期間であったと言えるかもしれない。だが今年はそれによって高めた国力を使って外部へと拡大していくことになるだろう。一部の施策はまだ効果が出ていない、途中であるものもあるが、それでも全国力を内政に傾注という訳ではないだろうと察しが付く。それに、時系列が1550年代半ばを進んでいるとすれば桶狭間まで後五年を切っている。

 

 という訳で、今年は外へ出ていく年になる。しかしその方針はまだ決まっていない。国家方針は年始の大評定で、これに参加した国衆などの普段は評定に出ない勢力にも伝えられる。その為には方針を定める必要があるがそれを一人で決定するのは問題があるという事で他の家臣団や勢力よりも一足早く三家老・五色備え・一門衆は小田原に馳せ参じるようにと命令が下っていた。正月に急ぎ足で休めなかったのはこのせいである。

 

 参加メンバーはいつも通り……だったら良かったのだが、謝罪行脚を終え一応禊は済んだことになっている松田憲秀が父・盛秀殿に代わって今回から参加している。性格が終わっているものの、無能とまでは言えないのでそれ相応に冷静になっていることを期待したい。というかそうでないと困る。兼成や朝定は後からやって来るので先に小田原入りを果たし、憂鬱な気分になりつつそう思った。

 

 小田原は相も変わらず賑やかである。正月明けで人が大勢行きかい、船が大量に見える。城の中も活気で溢れていた。去年は確かここでイングランド船を見送ったのだったか。無事に着いただろうか。異国の友のことを考え、面倒な奴(松田憲秀)のことを現実逃避した。

 

 

 

 

 

 

 

「愚娘の様子は如何ですかな」

 

 小田原城内を歩いていると、政景の父である遠山綱景殿と遭遇した。偶然ではあるが、向かう先は同じ。歩きながら話を進めていく。小田原は規模で言えば戦国でも随一の大きさを誇っている城であるため、城内も相当に広い。最初は迷ったりもしたものだ。

 

「信濃で地獄を見ましたからな。まだまだではありますが、じきに将としての任をこなすことも可能でしょう」

 

「それは良かった。いやはや、これでどうにもならんと言われてしまったらどうしようかと案じておったのでな。儂の不安も解消されるというもの」

 

 もし本当にダメそうでも、無理ですとかダメそうっすねとか言えるわけない。一応上司なんだぞ。気を遣わないという事は出来るはずがない。向こうが年上。しかも一応縁戚という事になっている。つくづくしっかり成長してくれて助かった。何が一番効果的だったのかはまだいまいちわからない所があるが、いろんな要素が重なり合った末の幸運であると解釈している。川中島へ連れ出したのは無駄ではないだろう。

 

 この数日後に行われる予定の年始大評定の後、政景を連れてあっちこっちへと顔を見せる予定である。これは無論、暫定次期当主としての顔見せだ。彼女は今まで遠山家では部屋住み、と言えば聞こえはいいが実態はほぼニート。こっちに来てからも河越から出る機会は少なかった。私の持っている外交パイプを繋ぐために武田との交渉とかに連れ出しているが、北条家中では無名に近い。

 

 会おうと思っても会ってくれないような身分の人もあら不思議。私が一緒に行くとすぐ通してくれるようになる。私の既に持っている影響力を駆使してほぼ無名の彼女に人脈を作る必要があるのだ。もし私に子供が生まれても、彼女の武将としての働きは変化しない。むしろ、義理ではあるが叔母として補佐してくれる頼もしい一門になってくれるはずだ。なので、人脈作りはどうあっても無駄ではないのだ。それに、松田家というある種の失敗例を見ているので、反面教師なのである。

 

「信濃はそこまで地獄か」 

 

「酷いものです。猫の額のような土地をめぐって血みどろの抗争を繰り広げ、その上両者ともに実力伯仲。これでは何も決着がつきませぬな。もっと大きな動き、或いは両家を上回る権威による支持とそれに伴う両家の利害の一致を見ない限りは、延々と続くことになるでしょう」

 

「争い続けると、何処が勝つと見る」

 

「両家だけなら越後。しかし当家の支援あれば甲斐も互角になれるかと。支援できなくば、早晩武田の目は南に向くでしょう。即ち……」

 

「駿河、か」

 

「左様でございます。実際、越後と今川のどちらが楽かと言えば、当家のことを無視すれば今川でしょう。雪斎も死んだ今、武田に勝てる将はおりますまい」

 

 武田が晴信の代である間は、であるが。松平元康、後の徳川家康くらいではないだろうか。辛うじて互角と言えるのは。他ではいまいち……何とも言えない。史実の今川義元ならば互角以上に持ち込めるだろうが。

 

「どちらにせよ、鍵を握るのは当家、という事だな」

 

「最早我らは一戦国大名よりもう一段上の存在になりつつあります。その証左かと」

 

 ただの一地方勢力、地方軍閥というよりも一種の独立国家じみた勢力に昇華しつつある。真面目な話、将軍義輝は死んでくれた方がありがたい。ついでに義昭も。そうすれば、京足利の一門は全滅する。一応平島公方がいるが……彼らの影響力は皆無に等しい。上手くすれば足利晴氏を抑えている我々が一気に室町幕府正統政府を名乗って基盤を関東に移せるかもしれない。

 

 とまぁ、それは些か出来すぎだとしても地域大国としての地位を確立しつつあるのは事実だ。実際に今川武田長尾佐竹里見奥羽いずれの勢力もこちらの動きを注視しているし、しないといけない状況になっている。東国の政局を握っているに等しいと思っても、決して驕りでは無いだろう。

 

 

 

 

 

 

「それでは、これより当家の今後の行くべき道についての評定を始める。皆、忌憚なく意見を述べるように」

 

 私の彼女(氏康様)の号令で評定が始まる。北条家からは今川に行った氏規様を除きほぼ全員が参加している。幻庵様の子供たちは何でいないのかと聞いたことがあるが、どうも経験値が足りないようなことを言われた。なんだかんだで幻庵様は優秀な人間なので、母親から見ると足りなく見えるのかもしれない。各種奉行をしていたり、駿東や伊豆で城を守っている任に当たっているそうだ。

 

「盛昌、現状の説明を」

 

「はっ!」

 

 盛秀殿の引退で三家老の筆頭となった盛昌。現在は大道寺党が家中の第一派閥である。上野に根を張っているので今後も最前線で活躍を期待されることとなるだろう。盛昌、元忠、私の三人が同期三人衆である。そんな中で頭一つ抜けている彼女は絵図を広げた。

 

 

【挿絵表示】

 

関東勢力図

 

 

【挿絵表示】

 

常陸周辺地図

 

「現状の領土はこの絵図の通りです。他家の内、武田、今川とは新たに三国同盟を結びその関係を強化。蘆名とも対越の観点で利害が一致しており、対越大同盟の一員として友軍勢力と言っていいでしょう。目下領土を接している敵対可能性の高い勢力は三つ。長野、小田、里見。佐竹はまだ間に緩衝地帯を残しております。そして昨年の大きな外交成果としては、氏尭様が結城家の養子となられたことで常陸・下総に誇る名門結城家が完全に傘下に入りました。これに伴い北条家の領土は一気に常陸へ前進。加えて結城が下野内に持っていた所領も引き継いだ形になります。小山家はこれに抗議しているようですが、現状戦端が開かれる様子はありません。更に水谷、真壁、多賀谷なども参加となり、楔を打ち込んだ形になります。また、南常陸では小田氏治に敗れた相馬、豊島がそれぞれ臣従を申し出ており、昨年の暮れにこれを受諾。小田家を南北より挟む形になっております。また、近くの土岐は去就を迷っており、取り込める可能性は大いにあります。以上が大まかな現状になります」

 

「ありがとう。聞いた通り、味方が増えたわ。特に結城の取り込みは非常に大きい。最近は影響を低下させていたとは言え、源平の昔よりの名門。結城合戦で名高き結城でのこの動きは、関東に巣食う古き名門たちに大いに動揺を走らせたことでしょう。改めてよくやったわ、氏尭」

 

「ありがたきお言葉。名門の家名に恥じぬよう、励む次第です」

 

 氏康様の言った以外の効果もあり、結城家の同族である白河結城家が奥州にいる。一時は伊達氏を凌ぐほどでであったこともある古い家柄だ。まぁ最後は奥州仕置きで改易なんですがね。奥州仕置きが何で実行できたかと言えば……これ以上は止めておこう。居城、小峰城は後に丹羽長重の城となる。この白河結城と結べれば、北から佐竹に圧を加えられる。一族とは言え関係が断絶しているような家(例:千葉家。九州にも一門がいる)などもいるが、この結城家は割とそうでもないようで関係が継続している。今回の氏尭様の結城家継承にも祝意を示しているそうだ。味方に出来るだろう。

 

 というより、結城家はどの道史実でも徳川秀康に乗っ取られるんだから遅いか早いかの問題な気もするが。

 

「さて、現状確認が済んだところで本命の話よ。今年一年でもし戦を起こすならば何処を攻めるべきか。これを述べなさい」

 

「臣が思うに、長野を落とすべきと存じます!」

 

 松田憲秀が堂々と胸を張って言う。家の序列的には真っ先に発言するのは不自然では無いが、かなりメンタル強いな。割とアウェーな空間であると思うが。

 

「その心は?」

 

「長野は我らの仇なす、或いはその危険を孕んだ者の中で唯一孤立しておりまする。また山国故に国力も低く、長尾の援軍ありと言えども、その長尾は川中島で疲弊。また三国峠は我らが抑えておりますれば、山越えも厳しいでしょう。小田は佐竹などと大同団結される恐れあり、里見は強国。故に一番叩きやすきを叩き、目を東に向けられるようにするのです!」

 

 割と筋は通っている。というより同じ考えだ。現状北の長野、東の房総・常陸、北東の下野の中で唯一位置している場所の方角が違う。やはり戦力の集中運用の観点から見て、この状況はよろしくない。本当に一人で考えたのかは知らないが、悪くないアイデアであるように見える。長野は小勢だから自分でも勝機は十分にあり、というような舐めた思考が見えない訳では無いが。

 

「長野は北信、つまりは長尾領とつなぐ渋峠を抑えておりますが……」

 

「そこはほれ、武田がおるじゃろ」

 

 元忠の疑問を解消するかのように氏時様が助け舟を出す。確かに、上野をまとめている氏時様からすれば長野は真っ先に叩きたいだろう。安全上もそうだし、自分の利益の面から見てもそうだ。だからこそここで憲秀に助け舟を出した。そう見て良いはずだ。

 

 当家を発展させたい。氏康様に関東の王の座を。その思いは同じである我々だが、その方向性は違いが存在している。それぞれの利害関係もある。そういう意味では決して皆同じ方向を見えているかというとそうでもない。とは言え、同じ方向に歩いているので最終的なゴールは同じなのだが。なので、こういうところでそれは見えてくる。

 

 氏照様・氏邦様・私・北武蔵の国衆は別にこだわりがない。前線ではないからだ。氏時様と大道寺党、東上野の国衆は長野を叩きたい。そうすれば峠を守れば越軍を排除できるようになり、安全が確保されるからだ。氏尭様・信為殿・綱高殿・綱景殿は里見を叩きたい。先代以来の遺恨があり、なおかつ目下一番の大敵だからだ。そして元忠は小田を攻撃したい。自身が一番最前線である古河にいるからだ。このように各配置場所によって思惑が違う。尤も、私利私欲というよりは領内発展のために戦場を遠ざけたいという意思が強いのでその点は信用できるのだが。

 

「大道寺は松田殿を支持します」

 

「古河衆は依然変わらず、小田家への攻勢を主張致します。現状、結城家とそれに臣従する国衆の領土は常陸への楔。されどそれは逆に言えば分断も容易いという事。小田家を傘下に加えるなり滅ぼすなりすることで、土岐も下りましょう。南常陸に確固たる地盤を作り、佐竹に相対することが出来ます」 

 

 元忠の提案も理解できるところは大きい。古河衆が最前線であるのを嫌がっているというのもあるだろうが、それ以上に分断の危険のある領地なのも事実だ。こういう飛び地や細長い回廊のようになっている部分は狙われやすい。例としてはインドのシリグリ回廊だろうか。

 

「玉縄衆は里見を排除したい。これも変わり申さず。相模湾と内海(東京湾)を我が物にすることで、海上交易を握れるというもの」

 

 綱高殿はどちらかと言えば海の人間であるし、玉縄は真っ先に里見水軍に攻撃される場所だ。里見との戦いと言うと房総半島でやっているイメージがあるが、彼らの水軍は強い。鎌倉が焼かれたこともあるのだ。とは言え、相模に上陸してノルマンディーよろしく第二戦線を作れるのかと言えばそんな戦力は無いと思うのだが。

 

「儂も綱高殿と同じだ。儂らが内政に勤める間、奴らもそうしてきた。里見義堯は万年聖君と言われておるそうな。強い敵がより強くなる前に、戦わねばならぬ」

 

「伊豆衆も綱景殿、綱高殿と同じ意見である」 

 

 信為殿の意見が出る。重鎮の意見に流れが少し動く。現状優勢なのは長野討伐派と里見遠征派。小田家は後回しにされそうな雰囲気を察し、元忠が肩を落としている。自然と流れは私の意見を待つ感じになっていた。大きな兵力を擁し、戦略眼があると思われているからだろう。影響力的には綱成も同じくらいなのだが、彼女はこういう戦略系は苦手なのであんまり声を出さないことが多い。

 

「私は松田殿に賛同致す。上野こそ、叩くべき」

 

 ここが仲悪いと知っている周囲からは驚きの視線が飛んでくる。フォローに入るとは思わなかったのだろう。当の憲秀が一番驚いていた。

 

「戦略的理由は概ね松田殿と同じ。敢えて付け加えるのだとすれば、大義名分の創出が最も楽であることが挙げられるかと。長野業正とそれに従う山内上杉残党は関東管領の就任式の参加を拒否しました。あの式は形式上は関東公方の命で行われたものなのにも拘わらずです。つまりは、彼らは関東公方・足利晴氏様の命に背いた逆賊。討伐に何の支障もございますまい。これを非難するは関東公方を非難するに同じ。足利の権威を盾に、一気に叩くべきかと」

 

「では里見は放置と?」

 

「里見討伐派の御懸念御尤も。されど否でございます。里見への手はありまする。具体的には二つ。まず一つは土岐、鹿島両家への早急な調略。こうすることで房総半島に蓋をしこれ以上の拡大を防ぐとともに小田を半ば包囲する形となります。これで両家への領土的な抑えは出来ましょう。そして二つ目。万が一里見側がこちらが調略する前に何らかの開戦事由を作りだして鹿島などに攻め入るのを防ぐべく、関東に惣無事令を出すべきかと」

 

「惣無事令、とは?」

 

 ここで氏康様が問いかけてくる。豊臣秀吉が行ったとされるこの政策だが、実は具体的にこれ!という法令がある訳ではない。幾つかの法令をまとめてこう呼んでいる総称的なものだ。停戦令なら存在していたようだが、惣無事という言葉が使われたのは確か信長による甲州征伐の時だったか。

 

「簡単に言ってしまえば私闘の禁令でございます。関八州、即ち伊豆・相模・武蔵・上野・下野・常陸・下総・上総・安房。これらの諸国において大名間の私闘の一切を禁ず。こう命じた法令を関東公方と氏康様、関東管領の連名でお出しなさるのです。さすれば、これに背き関八州内で戦を起こした者は悉くが逆臣。堂々と大義名分を引っ提げて討伐出来ましょう。逆に我らはこれを発した側。幾らでも事由を作りだし、好きな所へ遠征出来るのです」

 

 別名、難癖付け放題法である。というか、そもそも関東全域が関東公方、鎌倉府の行政権の範囲内である。これは名前こそ違えど、室町幕府成立以来ずっとそうだ。故に、関東における統治は室町幕府というよりは実質的に関東公方とその旗下組織が担っている。なので、私闘とかは絶対禁止、なのだが守られている訳もなくというのが現状だ。だがそれを許していてはいつまで経っても戦が終わらない。関東の行政権は鎌倉府が持っているのは現在の将軍・義輝も嫌々ではあろうが認識しているところだろう。なので、上方から文句を言われる筋合いもない。恨むならお前の親父を恨んでくれ。

 

 もっと言えば室町幕府の統治能力が無いのが悪い。将軍も三好と協力すれば復権もあり得ると思うのだが……。聞く限り、三好長慶に将軍排斥の意図はないだろう。三好を管領にしてお飾りに甘んじられれば権威を持った存在としての延命は出来ると思われる。やっぱりいまいち役に立たないが権威面では排除できない厄介な存在だ。

 

「……なるほど。大枠は理解しました。とは言えこればかりは流石に私の独断では決められないわ。故に、関東公方と協議します」

 

「ありがとうございます」

 

 ひとまずはこれで良い。やるかやらないか判断するのは上の人だ。私は案を出す役目。決定権はない。やるならやるで全力で支え、やらないならやらないで他の案を考える。それが策を出す人間のやることだ。

 

「さて、大方意見は出揃ったようね。他に何か意見のある者は?……いないようね。では、決を採りましょう。盛昌、よろしく」

 

「はっ。それでは各々方、よろしいですな。まず、長野を叩くべしと思われる方は?」

 

 憲秀、私がまず挙手をする。続くように氏時様・氏邦様・氏照様・為昌様が挙げた。おそらく前回の遠征で慣れているという点からであろうが、綱成も挙げる。多分今回も遠征しないであろう葛山氏広様もこちら側になることを決めたようだ。氏政様はこういう時は手を挙げない。次期当主という事で、こういう時に手を挙げると一票の重みがぐんと変わってきてしまうからだ。

 

「分かりました。では、里見を叩くべしと思われる方は?」

 

 信為殿・綱景殿・綱高殿が手を挙げる。

 

「最後に小田の方は?」

 

 氏尭様と元忠のニ名。多数決での大勢は決した。

 

「私も長野を優先すべしと考えます。決は出ました」

 

「よろしい。それぞれ思うところはあると思うけれど、皆の意見に従いましょう。長野を叩くことに、私も異存はないわ。ただし、他について無策というのは余りにも下策。よって兼音の策をまずは用いてみましょう。今年こそ、あの長野業正を軍門に降らせるのよ。第二次北伐で以て、上野の完全支配を!」

 

「「「「ははぁ!」」」」

 

 今年の方針は大まかにではあるが決定された。南蛮船はほぼ完成し、後は航海を待つばかりと聞く。玉川上水の工事もあと半年あれば終わるそうだ。やはり、土層を探る必要性が減った分工期を短縮できている。武蔵の街道整備もそう時間はかかるまい。今年いっぱいで終わるはずだ。内政面でも問題なく各プロジェクトが進んでいる。

 

 そうなれば残された内政面での一番大きな課題は氏尭様が必死に計画を練っている利根川水系の治水になるだろう。これができれば新田開発が一気に進むと見ている。その為には……下野。鬼怒川や渡良瀬川の上流を擁するこの地も必要になってくるだろう。ここは今大分裂時代を迎え、さながら奥州のようなありさまになっている。下野関連の上奏をしてみる必要があるかもしれない。しかし私も部下も下野情勢には詳しくない。誰か、人を呼ぶ必要がある。検討することにした。

 

 そしてまだ出そうか迷っている構想がある。戦略的縦深の観点からは外せないと考えているが、やはり革新的すぎるかもしれないという懸念もある。また、既得権益の観点から反発は避けられないだろう。とは言え、どこかで出さないことには今後の発展はないと考えている。その構想の名は……『首都移転計画』。唯一の懸念は海だが、その為に強大な海軍を揃えようと主張してきた部分も大きい。候補地は江戸。大都市になる素養を含めた、関東の中心地である。




今年はどこまで進めるだろうか……。景虎家出編とかもあるんですよね。出来れば第四次川中島まで行きたいが……。どうだろうか。

後、次回かその次以降時系列を揃えるために織田回や今川の話を挟んでいきます。現在の史実時系列が大体1556年とかなので、清州炎上~中市場くらいまで駆け抜けます。今川回は三河忩劇の話とかを予定中。そうしないと本編で外交情勢を話すときに辻褄がおかしくなってしまうので。よろしくご承知おき下さいませ。

マシュマロ→https://marshmallow-qa.com/tanuu90004861
感想欄では聞けないけどメッセージ送るほどでも……みたいな質問あればどうぞ。他にも作品の事、私のことなら割と何でも答えるつもりです(定型文)


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第112話 開陽丸

多くの応援を頂きましたのでご報告を、と思います。おかげ様で、無事志望大学に合格する事が出来ました。第一志望でこそなかったものの、しっかりと自身の進路実現に役立つ大学・学部になりました。史学科で教免目指して頑張ります。この4月以降は大学生として気持ちを新たにしつつ、引き続き連載を続けていきたいと思います。これからも、当作をよろしくお願いいたします!


「補正予算がつく。小田原からの大幅な出資が期待できるぞ。これで以て、内政の一層の進展を図るつもりだ。現状、不足が目立つのはどこだ」

 

「街道の拡張は現状通りで問題ないかと。ただ、新田開発にはやはり相当な額が飛んでいきますので、そちらへの予算の拡充をお願いしたく思いますわ」

 

「分かった。上から使える額が降りてくるはずだ。そうしたらすぐそちらへ回す。精査してくれ」

 

「ありがとうございます」

 

 小田原での内密な評定を終え、与えられている屋敷内で兼成と今後の予算編成の話をする。胤治は留守居役を任しているので今回も河越に残ったままだ。他に任せられるのも少ないので仕方ない話ではあるが。

 

「今年は打って出るのではなくて?」

 

「あぁ。だがそれはまだ内密な話だ。敵に動きを悟られたくない」

 

「ですが出兵は……」

 

「案ずるな。今回は我らは国元の守りを固めるだけ。私は出るかもしれないが、軍の動員は無い。河越衆の川中島での働きは認められている。これ以上の連戦は厳しいという見方は家中で共有されていた」

 

「それは安心しました。これ以上は正直、財政が持たないかもしれないと危惧しておりましたので。川中島が存外に長引いた上に損害も大きかったですもの」

 

 兼成は少し恨めしそうな顔でこちらを見てくる。申し訳なかったとは思っている。どんどん物資を輸送してくれと命じてはいたが、実際にそれをやるのは後方支援担当の者たちである。輸送にだって莫大なコストがかかるし、遺族への見舞金もバカにならない。物資は文字通り無尽蔵に近く存在しているが、それを運搬するのは簡単ではないのだ。兵站限界では無いものの、結構な負担を強いてしまった。しかも半年ほども。

 

「我らばかり出血を強いられることはない。最強部隊と名高き青備えが財政難で動けません、というようなあほらしい状況は上も望んでいないだろう。いるだけで我らは大きな抑止力となっているのだからな。それはそうと、歌会に行ったらしいな」

 

「あぁ、そんなこともございましたわね。行ってみれば、公卿の方もいらっしゃり、大変でしたわ。陪臣風情が参加するものではない場でしたので」

 

「何か成果はあったか?」

 

「次の姫巫女様がご即位遊ばされる折、歌屏風を作るそうなのですけれど、そこに載せる一首を作る者に推挙されるそうですわね」

 

「あぁそう。……えぇッ!?」

 

 とんでもないことになってきたような気がする。これはかなりの大事だ。「箱根を超えた先の歌人は道灌の後は二度と現れぬと思っていた。しかし陪臣でこの歌を詠むとは、北条は文にも秀でたる者多し」と言われたらしい。名の知れた公家にそう言われたのだからよっぽどだったのだろう。私は創意工夫が苦手なのか何なのか、あまり歌は得意ではない。一回練習してみませんかといわれて兼成の指導で作って見たものの、微妙な顔をされた。

 

「大変名誉なことだ。必ず名歌を謹呈するように」 

 

「分かっておりますわよ。そのせいで色々とああでもないこうでもないと頭を捻る日々ですの」

 

「頼むぞ……当家の名を高める良い機会だ」

 

 朝廷が得意とする和歌や蹴鞠などで認められることはかなりの腕前が必要になる。逆に認められたという事は藤原の一族が認める実力を持っているという事。文化面の世界では多大なる尊敬を得られるだろう。そう言えば、今川氏真は史実だと蹴鞠や和歌で大層素晴らしい成果を収めている。今川の血のなせる技なのだろうか。

 

 感心していると、女中がやって来る。

 

「申し上げます。大熊備前守様がお見えでございます。お会いになられますか?」

 

「大熊備前?会おう。すぐ通してくれ」

 

「はっ!御家老様も共にお会いしたいとの由でございましたので、お二人で広間へおいで下さい」

 

「分かった」

 

 女中がすぐ下がる。大熊朝秀は越後から私と段蔵と氏康様の連携で引き抜いた存在だ。箱根で心身の疲れを取るように命じられ、その後は小田原に配属されていたと聞く。何でも、小田原で氏康様に直属となり兵糧の差配や財務の仕事、輸送業務などを担う事になっているそうだ。直接対面するのはなんだかんだでこれが初めてである。

 

「なんの御用でしょうか」

 

「分からん。だが、会わない理由もない。大方顔合わせの挨拶であろうさ」

 

 二人していそいそと広間に行けば、既に大熊朝秀が待機していた。なんというかザ・官僚というイメージを持っていたのだがそうでもない。意外と普通の中年男性だ。やり手のサラリーマン(体育会系出身)という雰囲気を感じる。ガタイも決して悪くない。越後での仕事は専ら内政系であったそうだが、実際は武芸にも結構自信があるそうだ。そう言えば、史実でも剣聖に勝っている。ともすると相当強いのだろう。

 

「大熊殿、よう参られた。私が一条土佐守兼音でござる。こちらに控えるのが我が筆頭家老の花倉越前守兼成でございます。どうぞよしなに」

 

「こちらこそ、知勇兼備文武両道の誉れ高き土佐守様にお会いできたこと、光栄でございます。某をお誘い頂けたこと、一生に一度の幸運でございました。これも何かの縁。先達としてどうぞご指導ご鞭撻頂きたく」

 

「なんのなんの。大熊殿は越軍の兵糧、これを一手に差配しておられたとか。一国の軍の物資を支えるほどの大事業、しかも峠越えも数知れず。そのような経験を持つ将なぞ坂東広しといえども片手の数もおりませんぞ。むしろ、我らの方こそ兵糧差配勘定差配の何たるかをご教授いただかねば」

 

「勿体ないお言葉でございます」

 

「して、当家の家老とも会いたいと言っておられたようですが、いかなる用向きですかな?」

 

「そこまで大それた用事ではないのです。しかし、越軍において知恵ある者の多くがその存在を重要視しておられた土佐守様の懐刀、一条土佐の蕭何と名高きお方のご尊顔を拝せればと思った次第」

 

「なるほど。良かったな、大熊殿といえば越軍の中でも特に我らが重きを置いた存在。そんな方にも名が知れているそうだぞ」

 

「ありがたいことでございますわ」

 

 大熊朝秀は非常に優秀であると聞いている。これから北条家のために忠誠を尽くしてくれるよう、こうして色々言って印象を良くしているのである。相手がへりくだっているからといってこちらが傲慢になるのは悪手でしかない。

 

「大熊殿、此度当家に来て共に関東の安定に寄与できるは大変嬉しき事。昨日の敵は今日の友。共に坂東の民に恒久的平和をもたらせるよう、ひいては氏康様の御為に骨を折ってまいりましょうぞ。我らが戦うためには貴殿のような存在こそが肝要。お頼み申し上げましたぞ」

 

「土佐守様にかような言葉、誠にありがたきかな。この備前、いち早く御家のために役立てるよう奉公する次第!」

 

「うむ。目指すべきところは同じ。共に参りましょうぞ」

 

 元々彼と北条家を取り次いだのは私。その影響もあって恩義を感じてくれているようだ。これは良いことである。彼は有能な人物であるはずなので、今後財務方で出世することも大いにあり得る。そうなった場合、予算面で味方になってくれる人物として彼の存在は家中での勢力図に大きく影響を与える事が出来る。

 

 また、対越において戦う際にも敵将のことを良く知っているのは彼であろう。情報面でも役立つはずだ。深く深く頭を下げる彼の手を取りながらそんな事を考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 正月の大評定は去年とさほど変わらない。むしろ、去年よりも穏やかな雰囲気で終わった。理由は簡単であり、去年は内政面で大きな拡張をする旨が通達された。掲げられたスローガンである『不攻内安』と『農地豊楽』の二つ。これに伴う諸制度や命令などが伝達され、実際その通りに一年間内政政策が行われてきた。

 

 だが今年は表向き、現在は大きな方針転換はないように見せている。というのも、こういう大きな場で戦争計画を話すと相手に動員の隙を与えてしまう事に繋がりかねない。それ故に、今年も内政重視という風に見せかけているのだ。長野へ外征をするという事を知っている人間は家中の中でも限られている。特に国衆には伝える訳にはいかないのだ。

 

 ただ、そんな中でも動員をかけられた際にいつでも対処できるよう日々軍を鍛え、兵を鼓舞し、速やかなる動員完了が出来るような体制づくりを進めていくという宣言があった。その上で諸将は一層努力を怠らないようにせよというお達しである。ついでに、依然関東を取り巻く対外情勢は変わらず、敵対勢力は未だのさばっているという発言もあった。それ故に、賢い者や敏い者はそろそろ遠征があると察していることであろう。

 

 表向きは平和で終わった大評定。各種事業の進展報告も存在した。船がいよいよ就航できるらしい。ついでに、上水も完成が近いという話だった。工期短縮が大きい。これが終われば次はいよいよ各河川の治水が始まることだろう。大規模な予算が動いている。その陰で遠征用の予算も計上され始めた。戦前の日本のように、別の事業と偽って予算を偽装する手口である。情報を重んじる相手にはこれが結構効果的だったりもするのだ。

 

 北条家のことも無論大事。しかし一方で我が一条家(二名)の進退も結構大事な事である。その一環として、鎌倉にいる関東公方・足利晴氏を訪ねた。訪ねたと言っても、ごめん下さいと言えばはいはいと会えるような存在ではない。しっかりアポは取っている。アポなし訪問しても許されるのは、よほど近しいか緊急時くらいだろう。しかも、私は名目上は彼の家臣であり陪臣なので、おいそれとはいかないのだった。

 

 大きな広間に私が座り、そこそこ遠い上座にいる公方と相対していた。政景の顔見せのために来ているのだが、向こうの許可なく入室はさせられない。私も功績あるが故にこうしてアポを取れたのだから致し方のないことではある。つくづく権威は厄介だ。

 

「ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じ申し奉ります。御身の臣・一条土佐守兼音参上仕りました」

 

「面を上げよ」

 

「はっ!」

 

「管領は息災か」

 

「はい。無事、成長しております」

 

「そうか。励め。して、本日は何用だ。足利の姓を欲するか?」

 

 足利晴氏の目がこちらを射抜く。何事にも興味の無さそうな顔ではあるが、これでも金沢文庫の管理をしていたり、文人として日々を過ごしているという。そう言えば、イングランド船帰還の時も見送りに来ていた。知識欲はあるという事なのだろう。足利晴氏とはそういう人物だ。とは言え、無能ではない。

 

 足利の姓を欲する。それは即ち、何らかの手段で以て私が足利家に婿入り、或いは養子・猶子となることを指している。それは確かに私の抱えている問題を解決するのには有効な手段かもしれない。足利は関東で恐らく一番権威のある名だ。各種の名家も、将軍家の連枝には敵わない。今川や斯波、吉良など足利一門は散見されるが、同じ姓を名乗っているというのは別格だ。室町幕府の始まりから幾星霜、幾度乱を起こそうともずっと関東に居続けた最後の権威。もし猶子となれるならばそれだけで私の身分的問題は一気に解決する。大手を振って……と考え、見定めるような視線を感じ取る。だとするならば。

 

「滅相もないお話にございます。臣のような若輩者には相応しからず。その様な事あれば、私の逆心を疑われてしまいます。むしろ、我が主にこそ、そのお話はお持ちくださいませ」

 

「そう焦るな、戯れよ。お主からすれば、足利は敵であろう。京の大樹など早くくたばって欲しいのではないか?さすれば幕府は東国へ移る大義名分を得るからのう。鎌倉は頼朝公ゆかりの地。違うか?」

 

「公方様弑逆なぞ、考えすら及びませぬ事でした」

 

「心にもないことを。……それで、本題は何か」

 

「畏れ多い事でございますが、お会いして頂きたい者がおります」

 

「よかろう」

 

「入って参れ」

 

 廊下に待機させていた政景を呼びつける。流石に普段は傲岸不遜というか割と偉そうな態度をとっている彼女も、染みついた権威が醸し出す空気に少しあてられているようだった。武田晴信は割と大丈夫だったことを考えると、やはりこの辺りに経験の差があるのかどうなのか。何とも言えない。武田晴信が舐められているだけかもしれないが。関東に住む存在にとって甲斐源氏よりも足利の方が身近で偉大な権威なのだから。

 

 彼女は震える足で進み出て、私の斜め後ろにひれ伏す。普段よりも一層しっかりとした正装をさせている。

 

「これに控えますは、我が妹であります。此度、正式に我が一条家の後継者として定めました故、ご挨拶させたく思います」

 

「一条土佐守兼音が妹、一条政景でございます。身命を賭してお仕えし、御奉公申し上げる次第であります。そのお記憶の片隅に留置き頂けましたら無上の喜びでございます」

 

 深々と頭を下げた。礼儀にはうるさい兼成が叩き込んだおかげで見てくれと振舞いは立派な武士の娘だ。少し声が震えていることを除けば、だが。

 

「遠山からの義妹であったな。間違いないか、土佐守」

 

「はっ。当家の内情もご存じとは、感服致す次第でございます」

 

「余を守る盾の中身も知らずには身を任せられぬでな」

 

「仰せの通りかと」

 

「河越は要地ぞ、任に能うか」

 

「若年なれど見どころあり。父に恥じぬ娘でございましょう。私も良き者を貰えたと日々遠山殿に感謝しているところであります。必ずや、御心を悩ます奸物共を討伐することでしょう。まだ武功は少なき身ですが、その才は私の保証するところでございます」

 

「そうか。坂東にその人ありと都雀にも囁かれるお主の申すならば間違いもそうそう起らぬであろうよ。尤も、尾張守の子息は些か閉口した故、最近では功績と後継者を見る目は別であると思い始めているところであったがな」

 

 何と返したら良いのか分からないことを平然と言っている。多分私がなんて返せば良いのか分からないであろうことも分かった上で言っている。結構面倒だな、この人。

 

「政景と申したな。少し近くに参れ」

 

「は、はい」

 

 何をする気かは知らないが、呼ばれた政景は恐る恐ると言った様子で近付いていく。スッと立った晴氏がその政景に近付いて、見下ろすような位置に立った。

 

「面を上げ、右手を見せよ」

 

「手、手を?」

 

「左様」

 

「承りました」

 

 彼女の白い手が掲げられる。それを数秒ほど見た晴氏は視線を一点に集中させたのち、少し瞑目した。

 

「下がってよい。土佐守」

 

「はっ」

 

「手に労苦の跡あり。然れども、未だ白し。お主が導き、武士たらしめるべし」

 

「ははっ!」

 

 深く頭を下げる私を、政景は混乱したような目で見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 鎌倉の古刹に溢れた街を二頭の馬が行く。綱成や甲斐姫にしごかれて乗馬は出来るようになった政景が少し小さめの栗毛の馬に乗っている。私は漆黒の貰った甲州黒だ。名前を付けようと考えてはいるのだが、ろくに思いつかない。まさか私にネーミングセンスがなかったとは。こんな時代に来て知りたい事実では無かった。思えば美術の創意工夫とかが苦手な人生だった。型どおりにやるのは大得意なんだが。悩ましいことだ。

 

「あれ……何だったの?」

 

「なんだ、分からなんだか。まだまだ修行が足りないな」

 

「なによそれ、偉そうに」

 

「私は偉いんだ。だからお前は今日面会の場を設けられたし、名前も覚えてくれるようになったのだぞ。と言うより、私が言わんでも公方はお前の名前を知っていた。だが、知ってくれているのと会ったことがあるの間には猛烈な差がある。この差が理解できんようでは、当主にはなれんぞ」

 

「そんな政争みたいなことしないといけないわけ?」

 

「そうだ。敵はなにも他国だけではない。中にもいる。むしろ中の方が危ない。何かあった際に味方になってくれる勢力、己の意見に賛同してくれる勢力、対立する意見を言っても悪印象を持たれにくい勢力。こういった勢力を事前に用意できなくては、勝てる戦も勝てん。それどころか命令系統の崩壊、てんでバラバラの挙動や進軍、讒言による左遷もあり得る。有能な敵より無能な味方の方が何倍も怖い。敵は倒せば消えるが、味方は消せん。だが使い道はある。使えるように日頃から関係を作り、人となりを見極め動く。これが正しい行動だ。御家を思うならば、なおの事必要な事であろうな」

 

 耳川の戦いの大友軍なんかはこの二番目であったような記憶がある。

 

「それは分かってるけど……最後の手は何だったの」

 

「あぁ、アレか。剣、ないし槍や弓。こう言った武芸に通じているかを見ていたのだろう。手の感じを見れば成熟具合が分かることもある」

 

「え、そんなに強いの、公方様は。師匠より弱そうだったけど……」

 

「剣聖と比べれば坂東で勝てるのは塚原卜伝か綱成しかいないがな。もしそこまで上手くなくとも、教えるのであったり批評するのは上手いという者もいる。私は公方の腕は知らないが、そういう存在なのかもしれないな。ともあれ、それが労苦の跡ありという言葉に繋がっている。武芸の腕はある程度認められたみたいだな。良かったじゃないか」

 

 そう言うと、彼女は少しだけ年相応に子供っぽい嬉しそうな顔をした。

 

「私も努力は知っている。もっとサボらなければなお良いのだがな」

 

「う、うっさい。で、白いってのは?」

 

「あぁ、それは人を斬ったことがない白い手であると見抜かれたのだろうな。そうでなければきっと違う事を言っていただろう。それ故に、武士として導くようにと言われてしまった。万が一の際に人を斬ることに躊躇しない武士であれるようにせよ、とな。いやはや、厄介な所まで見抜いてくる。流石にただの凡人ではないと思っていたが……」

 

「……」

 

 政景は沈黙しながら下を向く。髪の隙間から垣間見える表情には、色んな葛藤があるようにも思えた。

 

「人斬りは嫌か」

 

「……」

 

「気持ちは分かるさ。私も、つい数年前まで白い手であった。だが……それでは生き残れない。大事を成せない。何より、守りたいものを守れない。そう思って血に染めた。とは言えだ。お前がどうするかはお前が決めろ。なにせ、人を斬った瞬間にお前の剣は血で染まる。それは一生拭いきれない。斬った時点で殺人者だ。その点では剣聖殿もそうだろう。求道だけを追い求めるならば、斬らない道もある。純粋に剣技のみを鍛え、その技を極める。それも良いだろう。どうするかは、己で決めろ」

 

「そんな事、言われても……」

 

「そうだろうな。大いに迷え。その迷いが、お前を育てる。私は運命など信じてはいないが……もしあるとするのならば、お前を導くだろう。その進むべき道へ。その日まで、考え続けるのだな」

 

「……分かった」

 

 納得いっているようないかないような顔をしている。ちょっとだけ気分が落ち込んでしまったようだ。葛藤というのはあってしかるべきだろう。この世界ではそうも言っていられない層が多いが、彼女はこれまでほとんど戦場を知らなかった。ちゃんと出陣したのもこの前の川中島が最初だ。初陣が川中島とは、北条家内でも異色の経歴になっているだろう。ともあれ、彼女はずっと蝶よ花よと育てられる立場だったのだ。血を知らないのも無理はない。焦ることはないと思っている。きっといつの日か、自分で答えを出すだろう。

 

「分かればよろしい。さて、どこか寄りたいのだが?このまま公方の顔だけ見て帰るのもつまらん」

 

「……しっかたないわね!付き合ってあげる」

 

「それはどうも。江の島でも行くか。まだ海は寒いが、景色は見れるだろう」

 

 なんだかんだで現代にいた時江の島に行く機会はなかった。関東に来てからも忙しかったせいで行けていない。いい機会なので目に収めておこう。観光客も少ないし、そういう意味ではいいかもしれない。まぁ関東の北条領は特に治安が良く近年平和なため観光も行われているため多少はいるとは思うが。

 

 大分明るくなった顔を見て、私も随分甘いものだと思う。とは言え、そう悪い気分ではない。兄弟姉妹と縁のない人生であったが、悪くないものだ。随分と機嫌がよくなった馬上の妹を見て笑みをこぼした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遠洋航海。これは世界を拡大させた技術である。特に西洋世界はこれによって大きく外へと飛び出した。エンリケ航海王子に代表されるポルトガルの航海者はアフリカ大陸沿岸を南下し、インドを目指した。一方で出遅れたスペインはコロンブスによる西廻り航路開拓によってその遅れを大きく取り戻す。新大陸の富は、スペインを一気に強国へと押し上げた。

 

 その背景には『世界の記述』による東方世界の知識の伝来、プトレマイオス著の『地理誌』の翻訳、オスマン帝国の圧迫、造船技術の変化などが挙げられる。これらの背景を持ち、金や香辛料を求め多くの船乗りは旅立ったのであった。更に、宗教的な熱狂として、アジアあるいはアフリカに存在すると考えられていた、伝説上のキリスト教国の国王であるプレスタ―・ジョン伝説があるだろう。

 

 ともあれ、多種多様な要因と思惑に突き動かされ、大航海時代は始まった。そしてここから数百年に渡る西洋世界の覇権も開始するのである。本来であれば、日本という国家はその枠組みに入っていた。鎖国前は石見銀山などで産出された銀を取引する目的でアカプルコ貿易の中に組み込まれていたのだ。戦国時代であってもけっして孤立して内戦祭りであったのではなく、しっかりと世界史は日本と絡んでいる。だがその後二百年ほどは世界から半ば消えかけていた。尤も、これが維新後の爆発的な成長を生む原動力となったのだから歴史は分からない。

 

 そして今、史実ではありえなかった事が現実となろうとしている。武蔵の造船所。ここで半年以上をかけ地元の職人と船大工、そして英国人の技師たちにより作られたガレオン船が出航の時を迎えようとしていたのだ。戦国大名が、それも桶狭間すら起きていないこの時期にここまで大規模な造船を行えたこと自体が、現代にいたならば信じられないことだっただろう。北条家の確かな発展を感じ、これまでの行動は無駄ではなかったと感動している。

 

 歴史をこの手で作れた。その途方もない達成感と多幸感は、私を包み込んでいたのだ。

 

「本日、この晴天の中、我らは新たなる一歩を踏み出すのです!」

 

 氏康様の声が響き渡る。造船所の構造は、地面を掘った部分で船体下部を建造する。そしてその地面は斜めになっており、諸々の制御を外すと海面に向かってすべり落ちていく構造だ。とは言え、現代の造船所のように海と距離がある訳ではなく、すぐそばが海なのだが。やはり材質は木なので、鉄より脆い。衝撃が強すぎると壊れる危険性があるからだろう。バシャーンと海に滑っていく感じではないのだ。

 

 昔見たサン・ファン・バウティスタ号の展示を思い出す。行っておいてよかったね宮城県。

 

「北条水軍にとって、これが大いなる門出となるでしょう。これより、当家は関東や日ノ本を超え、世界に漕ぎ出でるのです」

 

 その造船所、船のすぐ近くに当家の諸将は床几を並べて座っている。和船とは全く違う構造と、大きさ。これに大きな衝撃を受けている層が多い。特に国衆なんかは大規模な船を見るのもこれが初めてという人もいる。山奥から出てきた秩父衆は目を丸くしていた。

 

「この良き日に、関東公方・足利晴氏様よりお言葉を賜る栄誉を得ました。お願い致します」

 

「異国を恐れず、知を取り入れ、以て坂東の恒久的平和に寄与することを願う。四海を統べるに値する船となり、護国鎮守の先駆けとなることを切に期待し、言祝ぎの言葉とする」

 

「ありがとうございました」

 

 関東公方の言葉はまぁ、ある種の訓示というか祝いの言葉的なものだ。卒業式とかでよくある来賓の祝辞に近いだろう。権威の利用として呼ばれていることは明白だった。実際問題この就航式は北条家の内内の問題である。けれどこれに公方を呼ぶことで、もっと言えば呼びつけることで、我々の力関係を誇示できる。即ち、我らは関東公方を呼びつける事が出来て、こういう行事に参加させる事が出来るのだと見せつけられるのだ。

 

「当家初の南蛮船、これを当家の未来を託す船として、開陽丸と名付ける。それでは、進水!」

 

 氏康様の言葉を待っていたように、船の前方に用意された台に立っていた氏政様が酒瓶をぶつける。それと同時に船を固定していた綱が切れ、各種ストッパー類も外されていき、少しずつ船が海に向かって坂を下り落ちていく。そして数十秒後、水しぶきをあげながら船体が海の中に入った。三本マストが天高くそびえ立ち、その上には北条家の三鱗旗が風に棚引いている。

 

 諸将からどよめきの声が上がった。これから同様の船が何隻も就航することになるだろう。ガレオン船は外洋航行が出来る。小笠原諸島や沖縄などの南西諸島、もっと先の台湾や中国沿岸部、東南アジアにインド、果てはオスマン帝国まで行けることだろう。南方の物資を輸送するうえで大事になってくるはずだ。

 

 そしてもう一つ。大事な用途がある。スペイン船はメキシコのアカプルコより銀を満載にしてフィリピンを目指し航海してくる。ルートを特定するのは難しいが、最終的にフィリピンを目指すのだからしてフィリピン近海で根を張っていればいずれ引っかかる。後は簡単だ。何をするかといえばパイレーツ・オブ・フィリピンをするだけである。ブラックパール号は無いものの、似たような船を今作っているのだからね。大艦隊を編成して貿易船を襲えば、イングランドの私掠戦と同じ効果が見込めるだろう。奪った銀は相当な量になるだろうから、国内発展に使える。

 

 そうだとも。銀は経済の発展、商業や産業の振興、軍事の増大に使うべきなのだ。聞いてるかフェリペ二世。お前のことだぞ。スペイン没落の原因はいろいろあるが、アマルダ海戦で大敗した事は実はそこまで大きくはない。無論軽いとも言えない傷ではあるが、直接の原因はネーデルランドの反乱であろう。あそこが産業の中心だったスペインは、大量の銀を自国の発展に使うことなく貴族や王族のために費やした。その結果、オランダが離反し、ベルギーも他国に渡ってしまった後は産業がろくに存在しない国になり、大航海時代の牽引者だったのは過去の栄光となる。最終的にはフランスの情勢に振り回され、内戦までつながっていくのだ。

 

「凄いものだな……」

 

「まだ序の口だ。これは相当小型だぞ。最終的にはこれの更に大きくなった版を建造することを目指している」

 

「うむむ……」

 

 隣に座っていた元忠は難しい顔をしている。ガレオン船は時代と共に廃れ、より大型で武装を多く搭載でき、安定性の高い戦列艦へと変化していく。その戦列艦を時代に先駆けて建造してしまいたい。基本構造はガレオン船と同じであるのだから発展形に持っていくのはそう難しくないと踏んでいる。実際、英国人の技師と設計図を作って話し合いをしている最中にアイデアを話してある。これを受け、設計をしてみるという約束を得ている。実装できれば、他国に大きく海軍力で差を付けられるだろう。スペインと戦闘しても勝てるはずだ。

 

 同時に、キャラベル船などの貿易特化の快速船も要求していた。こちらはガレオン船よりも小型である為現在量産体制に入れるよう小田原の財務方と交渉中だそうだ。既に何隻かは完成しているが、メインである開陽丸の進水を待って就航し、航海訓練を経て実際に使用するそうだ。

 

 この開陽丸もこの後実践訓練をする。まだ大砲などはほとんど積まれていないので、大砲の量産も始めないといけない。諸々の手続きは多くの人が関わっているものの、肝心の大砲に関する知識や船に関する知識を所持しているのが日本人だと私しかいない。その為結構苦労していた。まぁ仕方ない。一朝一夕では上手くいかないのは分かっている。地道に一歩一歩やっていくしかない。

 

 ともかく、まずはこの船を使いこなせるようになるのを目指してもらう。英国の航海士や技師から聞いた操船方法は日本語に書き起こして、水軍の将である梶原殿や綱高殿に渡してある。ただ、実際にやってみないことには分からないこともある。何とか実践の中で体系化していって欲しい。私は船に関しては門外漢に近いので、そうするしかないのだ。

 

 大きい期待を持っている。この船がきっと、我々の未来を切り拓く第一歩となるであろうことを確信していた。




私、あの江の島のタワーあんまり好きじゃなくて……。昔の方が景色としては良かった気がする懐古厨です。

あ、そうだ。三好長慶関連のプロットある程度できました。楽しみに待っててください。次回は今川or織田のどっちかです。ご期待あれ!去年浪人決定のせいで失われたのも含め、二年分の春休みなので満喫しつつ投稿頻度もあげられるように頑張ります。

マシュマロ→https://marshmallow-qa.com/tanuu90004861
感想欄では聞けないけどメッセージ送るほどでも……みたいな質問あればどうぞ。他にも作品の事、私のことなら割と何でも答えるつもりです(定型文)


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第113話 椿の島

え~長らくお待たせしました。お待たせしておいて、今川家の話がなんも思いつかなかったので、普通に時系列を進めます。アイデアが降ってきたら今川の話に行きます。

大分空いたので前回までのあらすじ。北伐第二弾決定+新造艦就航!以上です。


 

【挿絵表示】

 

関東勢力図

 

 

 

 寒風が吹きすさぶ。二月の海は寒い。その風の中を帆船は出航しようとしていた。

 

「帆を張れ!」 

 

 元イングランド人の船員が若干なまりのある日本語で叫ぶ。それに合わせ、これまで訓練を積んできた水夫が一斉に動き出した。彼らは北条家の所有する水軍の中からえりすぐりの精鋭を選んでいる。日本に今まで存在しなかった船舶の動かし方を習得するにあたり、そこいらの船員では時間がかかるために選ばれた。中には興国寺城の戦いにおいて夜間の駿河湾を航行した猛者もいる。

 

 先日武蔵にある造船所にて完成式典が行われた開陽丸。その処女航海は既に行われた。武蔵の造船所から伊豆へ回航してきたのである。場所は真鶴港。小田原にほど近い港町である。小田原にも港はあるが、軍事機密上の問題から商船の集まる場所ではないところを選ぼうという話になり、小田原からの距離も鑑みてこの場所になったのだ。

 

 帆船は揚力によって進む。帆を風の向きに対して、平行に近い角度で向けると風で膨らむ。そうすると、膨らんだ帆を境にして空気の流れが変化する。すると膨らんだ側の空気の流れが反対側の空気の流れよりも速くなる。空気は流れが速くなると気圧が低くなる性質を持っているので、ここに気圧の差が発生し、揚力が発生する……というシステムで正解であるはずだ。

 

 ただし、何もしないと帆船はそのままだと帆の膨らんだ方へと勝手にドンドンと進んでいき、目的地にたどり着けない。それを防ぐために帆船には、底の部分にキールという板を取り付けている。これは日本語で言えば竜骨。船の背骨にあたる場所だ。これで横方向へ流れる力を抑えた結果、帆が膨らんだ方向から見て斜めの方向に船は進んでいく。

 

 しかし、斜めのままだとこれまた明後日の方向へ進んでしまう。ゆえに、一定の距離を進むと方向を変える。向かい風に向かってジグザグに進んでいくのだ。帆の向きを変えることで方向変換は可能になる。プロペラ船に比べればかなり非効率だが、機関が存在しない以上これが最善の手段である。

 

 あとはワイヤーが開発できれば一気に時代を19世紀まですっ飛ばし、クリッパー船を作ることができる。シドニーからロンドンを70日前後で行き来できるとかいう化け物みたいな帆船だ。積載量は些か劣るが、とにかく早いので量産できれば輸送革命レベルの技術進化をこの16世紀にもたらすことができる。まぁ、それはまだ遠い夢の話なのだが。多分ワイヤーがなくてもどうにかする術はあるはずなのだが、私がそもそもクリッパー船の設計図をよく知らないので、研究してもらうしかないだろう。

 

 船体を細くし、船首の水切りの部分を水面に対して大きく前に傾斜させ、凹形に湾曲させたクリッパー船首とし、マストを異常に高くして帆桁をできるだけ長大にという注文で現在研究してもらっているので開発待ちだ。イングランド人技師も頭を悩ませながら頑張ってくれている。

 

「錨上げ、出航!」

 

 法螺貝が鳴らされ、少しずつ船体が動き始める。それにつれて風も心なしか強くなったように感じた。

 

「我らの船とは違う部分が多いですな。東洋の船とは、やはり思想が異なるのでしょう」

 

 少しずつ速度が上がり、船が洋上を滑っていく。波の音が響き、水夫がせわしなく動いていた。縁に手を沿わせ、三本マストを見上げながらこの船の責任者である梶原景宗殿がやって来る。

 

「明船も決して劣りはしないのですが、まぁ国家機密でしょうからな。朝貢しても、教えてはくれないでしょう」 

 

「土佐守殿は、いずこで南蛮……失敬西洋の船の知識を?」

 

「堺にはイスパニアの船も多く来ておりますから。見よう見まねでございます。教えろと言っても教えてくれるものでもない故、出航する様などを観察しておりますれば、大体の構造や動きなどは把握できました」

 

「ふむ……」

 

 あんまり納得してくれていない可能性があるが、私は堺にいた時期があるという設定になっている。嘘は言ってない。私は確かに(21世紀の)大阪にいたのだから。尤も、大阪市のやや南方に位置する堺ではなく大阪市だが、この時代なら大した違いはないだろう。

 

 というより、豊臣秀吉が天下統一出来ないと大阪は多分現代ほど発展しない可能性があるので、私の住んでいた場所もどうなるか……。高校は住吉区にあったのだが、私の家はそんな場所にはない。天王寺駅のちょっと先、最寄り駅は桃谷だった。

 

 まぁ天下統一などされてもらっては困る。それをするのは我々だ。一応しっかりそのための道筋は考えてはある。この世界が史実通りに進んでくれるのなら、の話だが。現在かなり逸れているが、それはあくまでも関東、もっと大きくとも東国規模の話。西国は特に何か私の知らない事項が発生しているという話は聞いていない。小さい違いは多々あるのだろうが、流石に把握しきれないのが現状だった。

 

 ともあれ、私の過去にあまり触れられると都合が悪い。どこかで設定にボロが出る可能性もある。話を逸らすために、別の話題を振った。

 

「氏康様はいかがされたかご存知ですか」

 

「先ほど、船内に行かれました。お身体が冷えてはいけないと某が申しましたゆえに」

 

「なるほど。風は堪えますからな。風邪などひいては一大事」

 

「左様。御家の舵取りは、氏康様が担っておいでですからな」

 

 景宗殿はそう言うと顎髭を撫でた。海賊兼商人出身ということもあり、理財に長け機を見るに敏だ。算盤を弾くように生きている様をあまりよく思わない層もいるようだが、私は一向に気にならない。使える人材をくだらない感情論や儒学的価値観で排除するのは愚かしいことであるからだ。ついでに、難波出身で商人を見下すわけもない。

 

「面舵一杯!」

 

 航海長や総舵手は帰化したイングランド人が務めている。彼らはもう一年近くこの国に住んでいた。元々家族もおらず、祖国に未練が少ないという理由で残留している。妻を娶り、家族を設けた者もいる。数年後には小田原周辺に青い目をした日本人が見られるようになるかもしれない。

 

 世界に目を向ける。国を閉ざさず、国際交流を促進させる。これが日本の未来を大きく変えるための方法であると、私は信じていた。

 

「伊豆大島、北条家の当主が訪れるのは初めてだそうですな。梶原殿は、いかがか」

 

「某も数えるほどしか。先年の査察における最後の場所、という位置づけにするのが目的でしょう。あそこの椿油はよく売れる」

 

「今がちょうど……」 

 

「開花の時期でござるな」

 

 船が進んでいく。大体伊豆大島までは直線距離で32キロほどのはず。帆船ならば一日ほどでたどり着ける。今日は比較的風もあるので、もう少し早く着けるかもしれない。私の勝手な短期目標は小笠原諸島を領土として組み込むことだ。あそこは関東とは気候が違い、亜熱帯である。ならば、そこでしか育てられない植物を育てられる可能性が高い。具体的にはサトウキビなど。成功すれば、大きな事業になるはずなのだ。

 

「それはそうと……アレは大丈夫ですかな?」

 

 景宗殿の示す先には甲板で死にそうになっているウチの義妹である政景。船酔いの真っ最中だった。海の男である以上景宗殿は平気だし、私も三半規管は強い方だ。氏康様も船酔いは問題ないらしい。寒いのが嫌なだけで。政景はおそらくこれが外洋初航行なので、仕方ない部分もあるだろう。乙女のしてはいけない顔をしながら、今にも戻しそうだ。

 

「……駄目かもしれませんな。後で助けます」

 

「それがよろしかろう。そうそう、貴殿に申し伝えたい儀がございましてな」

 

「何でしょうか」

 

「惚れた女子は奪い取れ、というのが海賊の流儀でございます」

 

「……」

 

「しかし某は今や武家として奉公する身。易々とこれを押し通すわけには参りませぬ」

 

「……何が望みですかな」

 

「流石、お話の早い。やはり貴殿は堺の出というのは真のようですな」

 

「疑っておいででしたか」

 

「いやいや。さて、某の望みはさしたるものではございませぬ。ただ一つ、イングランドの知識、特に言葉に関するものをお渡しくだされ。字引きのようなものがあると、大変助かる次第」

 

「それを求める所以をお聞きしても?」

 

「簡単なことでござる。これよりは外に出る時代。商船は南ば、おっと西洋を目指し行くでしょう。その際に必要となるは必定」

 

「ヨーロッパではイスパニア語が主流ですが」

 

「存じております。されど、盟友をまずは重んじねば。商人は信を重んじ、その上で利を得るのが一流のすること。ゆえに友好的なイングランドをこそ重んずるべきなのです。イスパニアは二の次三の次。御身の話によればイスパニアの銀輸送船は日ノ本の近海を通るとか。さすれば、某の出番でござる」

 

 最後の言葉は、幾分声が低くなっていた。荒くれ者の海賊出身者だからこそ出せる、武士とは違った修羅場を知る声であった。算盤を弾くその手も、かつては櫓櫂を操り、大海原へ漕ぎだしたのだろうか。

 

 彼が言うのは、自身が利益を得るために私と取引したいということだ。言語を習得することは、異文化コミュニケーションにおいて重要な要素であることは間違いない。ビジネスにおいてもそれは変わらないだろう。そして字引き、か。和英・英和の辞書を寄こせということか。それも売れば儲けになる。その対価に、彼は私の恋路を支援する。こちらが慣習に背こうとしている以上、それを支持するにもある程度のリスクが伴う。そう考えれば、割のいい取引なのかもしれない。

 

「すぐには出来ませぬぞ」

 

「無論、それは承知」

 

「しからば、お受けする」

 

「そう仰ると思うておりました」

 

 にやり、と彼は笑う。契約成立だった。

 

「備前守様!」

 

「それでは土佐守殿、これにて」

 

「ええ」

 

 二人しか知らない取引を行った我々は分かれる。景宗殿は注進に来た水夫に矢継ぎ早に指示を出していた。私もそれを見送りながら、縁でへたり込んでいる義妹を助けるべく向かう。

 

 この後、指を喉に突っ込んで中身を全部吐かせるという荒業を行う羽目になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 船はその後、無事に伊豆大島に到着した。この火山島は、あまり目立たないが伊豆国の一部である。元々は配流地で、役小角や源為朝が流されてきたという。椿説弓張月にも登場している。戦国期に入った今では北条家がここを支配していた。伊豆討ち入り後、支配権が早雲公に移動した時、一緒に配下に入った。尤も、大きな産業は無く人口も少ない。椿油が大きな生産品であり、後は漁業で暮らしている島はそこまで大きくクローズアップされることも無く、目立たない存在だった。

 

 しかし、海軍が本格的に創設され始めた今、この島は歴史上恐らく初めて軍事的な役割を見出された。則ち、寄港地としての役割である。伊豆大島から南の神津島や三宅島、御蔵島までの伊豆諸島は太平洋に向かう上で重要な場所だ。更に南にいけば宇喜多秀家の流された八丈島と続く。それより南は小笠原諸島まで大きな島は無い。

 

 ゆえに、伊豆大島を始めとする伊豆諸島は海上政策において欠かせない場所なのだ。ガレオン船建造と共に伊豆大島にも寄港できる港の整備が行われ、現在そこに停泊している。当主の代官が支配するこの地は直轄領ではあるが今まで当主が訪れた記録がない。実感の薄かった支配者である北条家当主の来訪に、島民は驚いている様子である。

 

 そして、私はこの島と南方に位置する小笠原諸島を逃亡先として選んでいる。万が一、御家滅亡となった際にはこの地を経由して小笠原諸島まで脱出する。再起は不可能だろうが、命は助かる。北条家の面々の生命が助かるならば、それに越したことはない。小笠原諸島は一応有人島だが、記録に出てくるのは江戸時代。中央の人間に把握されていない、未開の島だ。そこで余生を過ごしていただく。だがそうなってしまったということは、恐らく私は既に死去していることだろう。それでも守るべき人が生命を永らえているのならばそれで構わない。

 

 湯に浸かりながらそんなことを考えた。どうなるか分からない乱世だ。万が一の手段など幾らあっても困るものでもない。伊豆大島は火山島。なので温泉が存在した。茶色い湯から湯気が上る。夜空には月が輝き、遠くには海の音が聞こえる。

 

 この頃の温泉は現代のような宿ではないので、ある程度整備されているだけといった状態。いわば山中で猿が入っているお湯のような感じだ。それで十分なので特に不満はない。椿の花がそこら中に咲き乱れていた。政景はダウンしたまま部屋で寝転んでいる。帰りの船は大丈夫だろうか。興味本位で付いてきたようだが、後悔していることだろう。

 

「はぁぁぁぁ……」 

 

 久々に休めたような気がして、深い息を吐く。なんでこんなに疲れてるのだろうか。多分半分くらい川中島のせいだ。戦は疲れる。気を張っているし、ずっと外にいるのだから当然ではあるのだが。戦が終わった後に死んでしまう人が古今東西多いのはこれが原因なのだろう。体感しないと分からないことだ。

 

「箱根に行った時の父上に似た声になってきたわね」

 

「やめてください、私はまだ二十かそこらの……うわぁぁ!な、何してるんですか!」

 

「何してるも何も、ここにきてすることなんて一つじゃない」

 

 白い湯気の向こうから声をかけられ、思わず普通に返してしまった。しかし、そんな冷静でいられる状況ではない。声の主は分かりきっている。今回の航海は氏康様の伊豆大島来訪と開陽丸の航海演習が目的。その氏康様がこうしてここにいるのだ。周囲には人の気配がない。風魔が常にいるはずなのだが、気を遣われているのだろうか。そういうのは良いから、止めて欲しかった。

 

 中世の風呂は裸では入らない。そもそもこういう形式の湯舟が少ないが、裸で入るのは江戸時代からの風習だった。この時代には湯帷子という薄くて白い和服を着る。濡れていない状態ならいいのだが、濡れると肌が透けて見える。当然私も着ているわけだが、だからと言ってOKかと言われるとそんなことも無く。

 

「隣、入るわよ」

 

「どうぞ……」

 

 なるべく姿を見ないようにして、前を見据える。夜の闇が広がっていた。広がっていたのだが……視界の隅に白い物がチラチラしていて落ち着かない。

 

「どうしたの?十九にもなってかなり貧相な身体の私に興奮してる?」 

 

「……」

 

「……」

 

 私が無言で目を逸らす。向こうも自分で言っておいて恥ずかしくなったのか、無言になった。何とも気まずい沈黙が場を満たす。現代にいたころは女性の好みというのはあまり考えたことがなかった。しかし、ここに来てよくよく考えてみると、スレンダーな方が好みであると言うことに気付いたのだ。戦国時代に来て性癖を知るという何とも不可思議な状況。逆に考えればそういうことを考える余裕が生まれたのかもしれない。これまでは、同世代が興じる色恋に見向きもせず生きてきたのに対し、少しは自分を見つめることができるようになったのかもしれない。

 

 知的で、色白で、髪が長く、スレンダー。まさに私の好みのド真ん中なのだ。別に他の子が嫌いなわけではないが、一番好みはと言われれば隣の彼女を指すだろう。

 

「皐月かもう少し前に、北へ行くわ」

 

「このような場で、よろしいのですか?」

 

「こんな島に間者は来ないでしょう。それに、今日の動きは極秘。私は小田原城にいることになっているから」

 

「それならば構いませぬが……。御身がお出になるので?」

 

「いえ、今回は氏政が総大将よ」

 

「氏政様、でございますか。……麾下は?」

 

「氏政を総大将に、氏邦と氏照、氏時叔父上の三名が副将ね。それぞれ北武蔵、南武蔵、上野の諸将を引き連れてもらうわ。氏邦の補佐は綱成、氏照は憲秀、叔父上は盛昌が担当する。そして各国衆を引き連れて総勢一万五千から二万ほどを想定中よ。氏政の麾下には垪和氏続、大藤信基ら私の馬廻りもつける。これならば長野業政にも後れを取らないでしょう」

 

「若手が多いですな」

 

「下からの突き上げが多くて、それを解消するためにね。多くの若い世代が手柄を立てる場所を欲している。戦国の宿命とはいえ、中々に難しいところよ。氏政は上手く宥めているけれど、どこかで不満のはけ口を用意しないといけなかった。そうしないと、忠誠心を維持できるか……。もっと小勢に仕掛けることも考えたけれど、ある程度は大物でないと納得しないでしょう」

 

「我儘な話ですな」

 

「しょうがないわね。これも領主の務めよ。御家と私への忠誠はある。けれど、だからと言って手柄がいらないわけではない。皆、そういう心情なのよ。むしろ、無私の貴方の方が珍しいくらい」

 

「無私ではありません。私は、ある意味では他の誰よりも我儘であり、強欲かもしれません。何せ、欲するは関東の主なのですから」

 

「確かに、そうだったわね。……ここまでで、何か不安は?」

 

「松田殿」

 

「あぁ、それは大丈夫。抑える役は沢山用意してあるから。あれでも若手の神輿なのよね。だから上手く叔父上あたりが誘導してくれるでしょう。そうすれば十分使えるはずよ」

 

 氏政様の能力に不安があるわけではないが、氏康様より経験が少ない。できれば氏時様以外にも経験のある将、例えば笠原信為殿や遠山綱景殿に出てもらった方が良いようにも思うが……そうなるとまたどこかでバランスが成り立たなくなるのだろう。

 

 ベテランの将という意味であれば、恐らく出兵するであろう太田資正にも頼れるはずだ。成田長泰や上田朝直も十分ベテランではある。後は……

 

「氏政様の側仕えで我が義妹を出しては頂けないでしょうか。兵二、三百を供とさせます」

 

「政景は確か川中島に出ていたわね」

 

「左様でございます」

 

「激戦の川中島を経験して、長尾景虎と武田晴信を見ているか……。良いでしょう。そんじょそこらの若手よりよほど経験があるわ」

 

「ありがとうございます」

 

「後、河越城は補給の経由地として設定するつもりだから、その処理をお願いしたいの」

 

「承知致しました。大道寺党は今回大きな戦力として出陣するとのことですが、その代わりの小田原における兵糧差配はどなたが?」

 

「新たに良いのが来てくれたから、彼に任せるわ」

 

「あぁ、大熊殿」

 

「ええ。彼が送り、貴方たちを中継して、盛昌に送る。こういう道筋を計画中よ」

 

 長野業政は上野衆二万を率い、幾度となく武田や北条の侵攻を跳ねのけた、と伝わっている。しかしそれは後世の創作によるところが大きい。国人領主の頭目、というのが正確な立ち位置だろう。その史実で抵抗した国人領主の内、多くが既に北条の配下に与している。和田業繁や小幡氏、安中氏などはこちら側。箕輪城は北条領の目と鼻の先だ。ならば大軍で一気に踏みつぶせる。

 

 当主が出る、というのも確かに良いことばかりではない。上野の四分の一程度の勢力にそこまでしないといけないのか、という風な印象を与えてしまう可能性もある。それを考慮すれば、大国の力を見せつけるという意味では今回の案で良いように思える。

 

「最初に降伏勧告を送るわ。足利の名でね。これに万が一応じるようならば出兵は取りやめる」

 

「されど、送ってから出陣では敵に準備の時間を与えてしまうのでは?」

 

「それは抜かりないわ。事前に用意は万全にするつもり。武蔵の兵は密かに鉢形に集めた状態で勧告を出すの。そうすれば、拒否したと分かったのと時を置かずに敵領に侵攻できる。貴方の作らせた街道は上野に延伸している。ならば、電撃の如き速さでの行軍が可能なはずよ」

 

「武田に援軍を要請せずともよろしいので?長尾の牽制にもなりましょう」

 

「長尾は来ないわ」

 

「と、仰いますと」

 

「長尾家は先の川中島の傷が癒えていない。あの戦で兵粮を枯らしてしまった彼らは、来年まで動けないでしょうね。近場の信濃ならまだしも、山越えの関東へは入れない」

 

「では、我らの粘りも意味があったということですな」

 

「そうね。だからと言って突撃していい理由にはならないけれど」

 

「それは……はい」

 

 言い訳しようとしたが、笑顔で封殺された。あれは言い訳などさせないという意味での笑顔だ。本来攻撃的な意味であるとされる理由がなんとなく分かる。これは怖い。

 

「ともあれ、今のところはこういう予定だからよろしく」

 

「承知いたしました」

 

「さて、堅い話はこれでおしまい。というわけで今周りに誰もいないわけだけど……どうする?」

 

「長く入りすぎてもよくないでしょう。お早めにお戻りください」

 

「……そうね」

 

 ざばぁ、と立ち上がった彼女の袖からお湯が零れ落ちる。多分、ちょっと機嫌が悪くなっているのだろう。だからと言って私が手を出すわけにはいかない。それに相応しい立場に、私はまだなれていないのだ。

 

 しかし……

 

「生殺しっていうのはこういうことだよ……」

 

 誰もいなくなった闇夜の中で、小さく呟く。そろそろ私ものぼせそうだ。部屋に置いてきた義妹はちょっと元気になっているといいのだが。お湯の熱だけではない火照りは、水面に映る顔を椿の如く赤く染めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 南の孤島で逢瀬があれば、北の雪城の中で蝋燭が揺らめく。しんしんと降り積もる雪は、上野の大地を白く染めていた。上野の反北条最後にして最大の抵抗勢力長野家。その居城箕輪城では密かな軍議が行われていた。

 

「北条は来る。今年中に間違いなく」

 

 老将・長野業政の言葉に、ある程度の覚悟はしていたとはいえ、諸将はざわめいた。

 

「何故、そう思われるのです」

 

「我らが孤立しておるからだ。長尾とは山で閉ざされ、西は武田。東と南は北条に囲まれておる。他方里見や佐竹はそうではない。我らだけが、ここに取り残されておる。ゆえに、潰すに最も容易い。儂が氏康ならば、ここを選ぶ。それだけではない。上野の米の値段が上がっている。まだ僅かだが、武蔵も同様だ。されど相模や下総はそうではない。おそらく、少しずつ物資を貯め込んでおるのよ。武蔵と上野の兵で以て攻めかかる気であろう」

 

 抵抗する理由は、実はほとんどない。御家を守る事だけを考えれば降るのが上策だった。これ以上抵抗したとて、勝ち目は多くない。長尾の援軍があれば話は違うが、川中島の傷で動けないことは業政も承知していた。本音を言えば、関東か信濃かどちらかに絞って欲しい。主である憲政を支援すると引き受けたならば関東に注力してほしいというのが率直な願いだ。

 

 だが、他家を充てにして自勢力を守れないというのは武士の恥である。最初から他力本願な戦など、勝てるものも勝てない。そう考えていた。

 

 上野人の性質というものであろうか、元来容易には強者に肯ぜず、先取の気概があるのだ。北条何するものぞ、と息巻いている。それは誇りでもあり、意地でもあった。

 

「然れども、北条は強敵。いかにして打ち破るか、策はございますか」

 

 客将となっている山上氏秀が問う。先の北条による上野侵攻で開城する城が多い中、数少ない抵抗した存在だった。衆寡敵せず敗れたが、その命は奪われず僅かな供や細君、父や弟などと共にこうして長野家に身を寄せている。

 

「ある」

 

 業政の返答に、おお!と場はどよめく。北条家は多士済々。当主氏康は無論のこと、剣聖を破った地黄八幡に河越の一条土佐守など多くの将がいる。これらを破ることができる、と業政の考える策があるというだけでも彼らにとっては希望であった。

 

「毒は撒いた。獅子は虎の喉奥で滅ぶであろうよ」

 

 外から見える雪景色のその彼方。遠く相模の小田原城。そこを睨みつけるようにして、上州の黄斑は静かに唸り声をあげた。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

<おまけ>

 

 

一条兼音史実存在バージョン

 

もし、兼音が史実(私たちの生きている世界線、当然武将は男)にいた場合の人生です。一部業績が変化しています。まぁ史実だから多少はね?

 

 

 

一条 兼音(いちじょう かねなり)は、室町時代後期(戦国時代)から安土桃山時代末期の日本の武将、戦国大名。土佐守、中納言(最終官位)。藤原北家一条家の流れ、土佐一条家の分流、河越一条家の始祖。北条氏綱、氏康、氏政、氏直の四代に仕える。北条家の関東統一に寄与。朝鮮出兵に際し朝鮮・明軍を撃破し、日本の朝鮮統治を礎を築く。

 

 

<略年表>

 

1521年:土佐にて誕生。父は一条家分家の当主。同年生まれは武田信玄。

 

1528年:7歳の時、土地争いから発展した抗争で父が戦死。母は同時期に病没し、家臣の手引きで堺へ逃亡。以後数年間堺で研鑽を積む。花倉兼成はこの頃より近侍として仕えていたものと推定される。

 

1533年:本家・一条家の紹介で関東へ下向。次期当主である北条氏康の近侍として仕える。

 

1536年:花倉の乱で初陣を飾る。この時15歳である。北条家の援軍として今川義元方に派遣され、敵大将の福島正成を討ち取り、猛攻の末花倉城を陥落させる大功を挙げる。奮戦に感謝する今川義元より備州長船倫光を賜る。同年主・氏康が今川氏輝の妹・瑞渓院と婚姻。

 

1537年:河東一乱において、先の花倉の乱に際して把握した地理を活かし各地で連戦。史実通り北条家が駿東を確保し今川からの独立となる。

 

1538年:第一次国府台合戦において、足利義明を射殺し討ち取る功績を挙げる。この功績により関東一円に名が轟く。北条の房総進出は小弓公方と対立する古河公方の利害と一致するものであり、古河公方を簒奪しようとする義明を討ったことにより、足利晴氏より感状を賜る。

 

1539年:氏綱の娘・芳春院が足利晴氏に嫁ぐ。同年対上杉最前線の河越城に入城。河越は北条為昌の管轄であったが、その為昌よりの推挙での事であった。蕨城、深大寺城攻略、河越付近に支城建設など精力的に氏康の武蔵侵攻を支える。

 

1540年:19歳の時、北条氏綱の息女・崎姫と婚姻。故国を追われたとはいえ、五摂家に連なる家柄であるため、家格は申し分なく、以後は一門衆として国政に携わる。

 

1541年:氏綱死去。北条五代記に「一条殿御涙止まることを知らず」と記される。

 

1542年:長男・康兼が誕生。

 

1544年:長女・秋姫が誕生。

 

1545年:24歳の時、第二次河東争乱が発生。上杉・足利連合軍の迫る河越に手勢を残し、北条軍の一軍を指揮し興国寺に陣取る。長期戦の末、兼音の計略に従い氏康が上陸戦を仕掛け、同時に夜戦を挑み、大勝。今川軍は潰走し、以後数年間軍事行動が制限される。以後禍根を残さぬために武田の仲介で富士郡の割譲を以て和睦。後に興国寺の戦いと称される。

 

1546年:包囲を密かに突破し河越に帰還。残していた北条綱成と合流。氏康の本隊と合わせて夜襲を敢行。連合軍は多くの将兵が討ち死にし、敗走。扇谷上杉は上杉朝定の戦死によって滅亡。上杉憲政も上野へ命からがら逃亡した。

 

1547年:成田長泰に調略を仕掛け、寝返らせることに成功。上田朝直を攻撃させる。松山城は降伏し、上田朝直は北条に降った。

 

1548年:次男・兼盛が誕生。同年、土佐守に任官される。

 

1549年:藤田氏・深谷上杉氏を寝返らせることに成功。年末には三男・兼親が誕生。

 

1550年:氏康の工作の一環として、芳春院とその所生である梅千代王丸(足利義氏)を河越城に迎え入れる。以後、義氏の養育を行う。同時に氏康長子・氏親と次子・氏政に軍学や民政の指南を行う。

 

1552年:教育を行っていた氏親が死去。兼音は悲嘆にくれるも、その後も氏政に帝王学を叩き込んだ。悲しみの中上野攻めに参加。東上野諸将を降伏させ、翌年には上野を制圧する。本来はここから数年かかる完全制圧だが、1553年中に完了することに成功。53年には二女・照姫が誕生。

 

1554年:甲相駿三国同盟が成立。

 

1555年:古河御所が陥落。足利晴氏と藤氏は捕らえられ秦野に幽閉された。長女・秋姫が11歳で足利義氏の元に嫁ぐ。

 

1557年:足利義輝が晴氏らを解放するように動いていることを知り、上洛。氏康の代理で朝廷工作を行い、命令を未然に阻止。同年義氏を元服させ、古河公方に就任させる。義氏は兼音を生涯師と仰ぎ続けた。

 

1559年:氏康は永禄大飢饉の影響で隠居。氏政との二頭体制に移行。体制下での兼音(38歳)は両名とのつながりから大きな発言権を持っていた。

 

1560年:桶狭間の戦い。信長公記には信長が兼音の武功に対し尊敬の念を持っていたことが記されている。信長は戦に際し、大雨の熱田神宮で「土佐守が夜襲せし月無き夜の海に比ぶれば、この雨などいかほどのことであろうや。死中に活を求めぬ者に、彼の如き勝利は無し!」と叫び諸将を鼓舞したと伝わる。同年、上杉謙信が関東へ侵攻。上野箕輪において大合戦となる。関東中が趨勢を見守る中、これに勝利。謙信を岩櫃に閉じ込めることに成功する。兼音は引き続き上野に留まり、その間氏康は下総・常陸・下野方面を転戦。氏政は房総の里見に対し攻勢を仕掛け、関東全土の蜂起を阻止した。この氏政の軍事行動には長子・康兼も参加し大いに手柄を挙げた。

 

1564年:第二次国府台の戦いにて遠山綱景が戦死。復讐に燃える諸将を制止し、冷静な行動で以て戦に臨むことを進言。氏政はこれを聞き入れ、緻密な戦略の元里見軍を撃破。上総下総を失った里見義堯は失意の中安房へ撤退。

 

1565年:謙信が再度の侵攻を試みるも再び上野で膠着。この出陣は次男・兼盛の初陣となっている。以後数回に渡る越山はいずれもさしたる戦果なく終了することになる。

 

1566年:上洛途中に尾張へ寄り、織田信長と密かに面会。常人ならぬ気配を感じ、今後に備え関係を保ち始める。

 

1567年:氏政を総大将に里見家と決戦に及び、三船山で勝利。里見家は降伏し、房総全土が北条領となる。降伏した里見家は安房一国のみを安堵され、当主義堯は引退。息子の義弘の元には兼音二女の照姫が嫁ぐ。

 

1568年:越相同盟締結。同時期に武田家の今川侵攻が始まり、北条軍は氏真救出のために駿河へ出兵する。ここでは三男・兼親が初陣を果たし、戦果を出していく。

 

1569年:三増峠の戦いに際し、追撃戦を避けることを主張。武田と手打ちし、佐竹を攻略せんとする兼音の考えであったが却下され、北条軍は久しぶりの敗北。氏政は兼音に至らなさを謝そうとしたが、兼音はそれを制止し、綸言汗の如しと告げる。48歳の彼は既に家中において長老格を得ていた。

 

1570年:駿河へ出兵。駿東郡・富士郡の確保に成功。信玄は兼音との戦闘を避け、和睦し西進する道を選択した。

 

1571年:氏康没。生涯仕えた主を失ったことに悲嘆した兼音は一切の職を辞し、菩提を弔おうとするも氏政に引き留められる。「願わくば、父の世の如く我が蕭何、我が張子房たれ」と屋敷を訪れた氏政が直々に頼み頭を下げたことで遺留。再び政権中枢に復帰する。同年、甲相同盟が復活。

 

1575年:小山氏を降伏させ、下野制圧に乗り出す。既に謙信の関心は越中に向いており、関東へはやってこなかった。兼音は老将に近くなりながらも最前線で指揮を続け、宇都宮氏を攻撃。堅城であった宇都宮城などを陥落させ、下野の大半を征服する。この間に氏直が初陣。

 

1578年:上杉景虎と上杉景勝の対立である御館の乱が発生。氏政は下野の制圧中並びに佐竹と対峙している最中であり、氏照・氏邦らと共に兼音が派遣される。景虎方の敗色が濃厚になると、越後へ侵攻しない代わりに景虎とその妻子を無事に返還させよ、という内容の交渉を景勝方に突きつける。大国北条と一国で渡り合う危険性を考えた景勝はこれを了承。冬の雪山越えでいくばくかの犠牲を出しながらも景虎は故国関東へ帰還した。

 

1580年:御館の乱時の裏切りなどを鑑み、甲相同盟は破棄。北条家はこれまで幾度か上洛している兼音の勧めに従って織田信長に臣従。この時兼音59歳。

 

1582年:甲州征伐。兼音を高く評価し尊敬の念を抱いていた信長は、前年に東へ行く意思を彼に漏らす。それを受け、情報収集を怠らぬように進言。そのため準備万端の状態で甲信へ侵攻を開始した。信濃へ入った後兼音の軍勢と相対した信長は軍勢の乱れなさに感服する。関東から出すことを渋る氏政を説得し、氏直と信忠の顔合わせの場を設けた。偉大な父に対しての比較心を持つ者同士親密な関係になることに成功。このタイミングで北条家は氏直に織田家から姫を迎えて婚姻することを条件にして、織田の分国として関東一括統治を願い出る。信長は前向きな返答を行い、上野の割譲のみを条件に、その他の支配権を容認する旨を伝える。上野には滝川一益を関東管領として置き、東北へ睨みをきかせる役目+北条家との連絡役とした。

 

 同年6月、本能寺の変。情報が伝わったのち、氏政・氏直父子は極秘の評定を開く。滝川一益を攻撃するか否かが話し合われたが、兼音は「信義を守ることこそ、第一なり。また、信長討たれるとの報せの真偽確かならざる処なり。いまだ家臣団健在なれば、軽挙妄動慎むべし。むしろ、滝川を無事送り届けてこそ、北条の名が立つものである。義を守りての滅亡と、義を疎かにしての繁栄とは天地格別に候」と氏綱の遺言を引用し発言。これを受け入れ、一益の帰国を支援することが決定した。この旨を伝えられた一益は感激し、泣いて感謝したと伝わる。上野を返還した一益は、北条の兵千近くに護送され海上で伊勢へ帰国した。

 

 また、空白地帯に上杉が進軍することを防ぐという名目で信濃へ出兵。石高の実り少ない甲斐をあえて家康に渡し、南下した上杉と対峙することを勧める。氏直は祖父の代より仕え、自身の幼少期をよく知っている61歳となった兼音の意見を受け入れ、上杉軍と対峙。上杉景勝は新発田氏の反乱で撤退を余儀なくされるが、その際に追撃戦を仕掛け成功。氏直の武名を大きく轟かせるお膳立てを行い、次期当主継承への憂いを無くし、氏直に自信をつけさせる役目を担った。その後南信濃の依田・小笠原が徳川に臣従し、北信濃の真田などが北条に臣従することで決着がつき、天正壬午の乱は終わりを迎えた。

 

1583年:関東水系の完全な掌握に成功。常陸に追い詰められていた佐竹は降伏か死かの二択を突き付けられる。同年、娘婿の足利義氏が死去。子供世代に先立たれたことは兼音にとって大きな衝撃であった。同年江戸城の大改築工事が開始。関東平野の埋め立てや河川の整備も始められ、佐竹を無視した大規模工事で内政を高めようとした。江戸城は年末にはある程度形になり、小田原を超える巨大城塞の形を成し始める。ここに氏直が入り、関東を統治。小田原は副都として氏政が支配する体制が形を成した。

 

1585年:佐竹氏の居城・太田城を包囲。翌年、遂に佐竹氏が降伏。兼音は長らく相手にし、自身相手に奮戦した佐竹義重らの助命を願い、佐竹氏は常陸北部に追いやられるも家としては存続。以後江戸へ出仕することとなる。これを以て関東統一がなされ、名実ともに関東は北条家の支配下に入る。

 

1588年:豊臣秀吉から氏政・氏直親子の聚楽第行幸への列席を求められたため、上洛。信長の後を継いだ秀吉を兼音は非常に警戒しており、その警戒心ゆえに無用な行動を起こさないように注進していた。そのため、父子は農民に頭を下げるのかと漏らしながらも上洛。臣従を示す。この際、秀吉は北九州全土ないし四国全土で以て兼音を直臣にと願い出るが、兼音は拒否。氏政・氏直父子には東北南部の支配権を渡すから手放さないかと誘うも、父子側も拒否。「坂東全土を明け渡すとも、忠臣失い難し」と言い放った氏直に対し秀吉は好感を示し、様々な物品を送った。

 

1590年:東北仕置きが実行され、伊達政宗などが大幅に領土を削られたほか、幾人かの領主が改易処分となった。これにて秀吉による全国統一が達成される。領土配分は関東が全域北条家なのを除けば大体一緒。徳川家は東海三国+甲斐+南信濃を所領としていた。また、里見と佐竹は大きな家臣として半独立国状態にすることが決められる。加えてこれまでの信濃における働きを評価され、北条家から真田昌幸が独立。とはいえ、名目上は関八州は全て北条の領土であった。52歳の氏政は隠居。69歳の兼音は既に家督などは譲っていたが、持っていた軍権などもすべて手放し、引退した。

 

1591年:長年連れ添った崎姫が死去。北条氏綱の娘として生き抜き、三男二女を残した。娘は足利と里見に嫁ぎ、息子たちも栄達を遂げ、母親としての役目を終えた後の死であった。兼音は深く悲しみ、その菩提を弔うべく寺を建立させる。側室は無く、その夫婦関係は良好であったと伝わる。同年には最古参の家臣である兼成も死去。家臣の死が相次ぎ、兼音も死後を意識するようになる。

 

1592年:文禄の役が始まる。意見を求められた兼音は公然と猛反対したものの、秀吉は押し切る。北条家にも出兵を命じられたが最後の奉公として、氏直を名目上の総大将として九州へ行ったが、実際には兼音が旗下の軍勢を率い渡海した。その数1万。中には里見・佐竹の家臣団も入っていた。水軍による補給こそ要とし、秀吉を動かして大量の水軍を揃えさせた。

 

 渡海した将の中に兼音(71歳)より年下しかいないので、諸将の実質的な指揮権が彼に委ねられることになる。一時は鴨緑江付近まで押すことに成功し、朝鮮国王に降伏を決意させるに至ったがここで遂に苦しくなった補給問題や厭戦感情、住民による蜂起に苦しめられ粛々と撤退。しかし南方では補給も行き届いており、現在の38度線付近で膠着させることに成功する。

 

 同年、羽柴秀俊(史実の小早川秀秋)が息子の康兼の養子に入る。アル中になりかかっていたこの養孫をぶん殴りながら酒抜きを実行。泣きわめく十代の少年に鉄剣制裁を加えながら、何とか武将として一人前に成長できるように指導を行っていった。また、これにより兼音は中納言に昇任し、清華成を果たす。

 

1593年:明軍の援軍20万を文字通り壊滅させる。北京に戻ったのは数千のみという有様であった。しかしこれ以上の戦争継続は不可能と判断し、秀吉の判断を待たず切腹覚悟で和平交渉を開始。結果、朝鮮南部(韓国領域)の割譲で手打ちとなる。朝鮮王国は抵抗したが、満州族との同盟締結をチラつかせる兼音に、明側が激しく反応。彼らにとっての真の脅威である満州族に備えるべく手打ちとなった。

 

 その後、統治機構を担うべく日本軍の指揮官として在朝。この頃から病気がちになる。秀吉はこの和平に対し、「一条土佐ともあろうものが、北京を落とせないのか」と不満を漏らした。これを聞かされた兼音は鼻で笑ったという。70を超えてまだ壮健であると自負する自分と、秀吉の衰えを比べ嘲笑ったとも、英雄豪傑もいずれはこうなるという悲しみの笑顔であったとも伝わる。

 

1595年:秀次が切腹。この時足利義氏の娘であり、自身の孫である姫が秀次に嫁ごうとしており、流石にこれを処刑するわけにはいかず秀吉がまごついている間に、諸家に根回しを済ませた康兼が妻子の助命を嘆願。秀吉が折れ、妻子処刑は中止された。これにより最上家を始め、多くの諸家からの信望を集める。

 

1597年:秀吉は今度こそ朝鮮全土を征服するべく慶長の役を始める。総大将は一条秀秋だが、実質的な総大将は兼音であった。この頃既に南朝鮮では大規模なインフラ開発、徹底的なレジスタンス鎮圧、社会福祉的な政策、税金の大規模緩和などを行い、朝鮮の統治を上回る治世という名の飴と反逆者への報復という鞭で対処し、ある程度の成功を収めていた。

 

 重圧に苦しむ秀秋に対し、その支えとなるべく行動。怖い養祖父ではあったが、「自身」というものをしっかりと見てくれる戦国を体現した存在は大きな支柱となった。加藤清正や福島正則らの武断派には「補給・官吏の何たるかを知らずして文治を笑うべからず」とくぎを刺し、石田三成には「正論のみが人を動かすに非ず」と書状にて注意するなど、両者のバランス維持に苦心した。

 

1598年:隠居していた氏政も援軍に駆け付け、北条軍やその他の軍勢が相次いで援軍として渡海。同時に明・朝鮮軍の大反攻作戦が始まる。最早自身が長くないことを悟った兼音は海外領土を確保し日本の利益を増やすことこそ自身にできる最後の奉公と考え、最前線で指揮を執る。朝鮮の名将・李舜臣の水軍を破るべく島津・北条・小西の三軍を率い決戦に挑み見事に勝利。この際、60年前の第一次国府台合戦を再現するかの如く、78の老体を動かし一射を放つ。その弓は乱戦の中李舜臣の額に命中し、朝鮮敗走の一因となった。以後、朝鮮軍は立て直しができず、十数万を失った明軍は機能不全に陥る。軍事費は嵩み、増税が相次いだため明国内は疲弊。「何故朝鮮のために死なねばならないのか」という厭戦ムードが漂う。そこに満州のヌルハチが侵攻を開始。荒れ果てる国内を見た守将により山海関が開け放たれ満州軍が南下。これに伴い明が撤退し、朝鮮残党は連敗を続けた。その中で秀吉が死去。

 

1599年:春先に朝鮮王国降伏。北京は落ち、南京まで押し込められた明は宗主権を放棄。朝鮮全土が日本の統治下に入る。豊臣政権に事後承諾を得る形で日本国としてヌルハチとも同盟を結び、琉球・台湾・海南島などを抑えるよう各所に指示を出す。朝鮮統治を息子たちに委ね、自身は12月に帰国。数年ぶりに河越に帰還した。

 

1600年:4月6日に死去。享年80。戦国時代では化け物に近いレベルの長寿であり、半ば伝説と化していた。今後の北条家の行方、未来の展望、豊臣家の揺らいでいる地盤を憂い、もう一度大乱があると言い残す。また、国を開き知識を蓄え、民を安んじ異国に立ち向かうべしと伝え、最後まで国政を見つめていた。氏政と昔を懐かしみ氏直を激励した数日後、妻の墓参りへ行く。その際、墓石に寄り添うように満開の桜の下で静かに息を引き取っていた。翌月、後を追うように氏政も死去する。




隻狼を買いました。ビジュアル綺麗だなぁ……と思いながら沼っています。

それはそうと、大河ドラマにも北条家出てきましたね。主人公化はまだですか?ずっと待ってるんだけどなぁ。一部で話題になってる氏政の台詞、聞いたときは「君が言うのかい?君が……」となりました。


なお、この世界線だと

氏康「我らは侵さず侵されず、我らの民と豊かに穏やかに暮らしていたかっただけです。え、上野・房総・常陸への侵攻?あれは鎌倉府の秩序に従わない逆賊を討伐しただけなので我欲による侵攻ではありません。足利晴氏様の命による忠誠の戦です」

という感じでしょうか。大義名分を握ってると強いですね。


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第114話 箕輪籠城

このお話と同時に、第1話の前に参考文献などを記載したものを投下しました。深い意図はありませんが、もし気になる方がいたら参考にしてみてください。

あと、前に書いたガバガバ上野の地図をある程度修正したので、そちらも冒頭に載せておきました。勢力図の色分けと合わせてご覧ください。

前話に載せた史実バージョン、ちょうどその終わりらへんに現在の大河ドラマが来ていますね。武田信玄と同じ年に生まれ、北条氏康が重んじ、上杉謙信を破り、織田信長が崇敬し、豊臣秀吉が恐れたヤツが朝鮮渡海軍の総司令官とか、現地軍の士気が爆上がりしてそう。加藤清正とか福島正則からしたら伝説みたいな存在ですし。


 

【挿絵表示】

 

関東勢力図

 

【挿絵表示】

 

上野周辺主要城塞

 

【挿絵表示】

 

上野支配領域

 

 

「鉢形、平井、厩橋、杉山、滝山の五城、いずれも早馬の出入りが増えております」

 

 黒い衣をまとい、深編笠を被った虚無僧は静かに報告を行う。雪の箕輪城、時は如月の終わりである。一年で最も冷え込むこの時期は、平時であれば大人しく家屋に籠り炭にあたる。しかし今はそうしている場合ではなかった。あと何年、春を迎えられるか。老境の域にある長野業正は心中で呟く。

 

 この虚無僧は業正の持つ数少ない諜報要員だった。風魔や軒猿、真田に比べれば小勢である上に戦闘能力は決して高くない。それでも彼にとっては貴重な戦力だった。少ない情報でも、無いよりはマシ。その限られた手札の中で勝負するのが、上野という国の小勢力の宿命である。

 

「同時に沼田、金山、那波、安中、鷹巣へも幾度となく連絡が入っておるようです」

 

「他の城はどうか」

 

「依然、変わりなく」

 

「河越は」

 

「河越と小田原を行き来する者は多くありますが、河越から上野への使者は数えるほどしかおりませぬ。普段と変わり無いように見受けられまする」

 

「左様か」

 

 人目につかない山道を利用している可能性もあったが、そうだとすると上野内のやり取りがそうしてない理由が付かない。使者の数が増え、連絡が密になるとき。それは何らかの軍事行動を起こそうとしている可能性が高い。

 

 昨年の冬前に和議を結んで以来、業正はずっと北条家内の交流に絞って監視を行ってきた。どうせ家中に忍び込もうにも上手く行かないに決まっている。小田原は特にだ。あそこに行って帰って来た忍びはいない、と関東の諸勢力は慄いている。ゆえに、せめて軍事行動を起こす時期だけでも把握しようとしてきたのだ。内部に潜入せずとも戦の情報が分かる手段として、最善を選んだのである。

 

「一条土佐守は来ないな。多米周防も来んのだろう。警戒すべきは北条上総介(網成)と太田美濃守(資正)らの武蔵国衆よ。厄介なことだ」

 

「調略、致しますか」

 

「いや、それには及ばぬ。奴らの本心は分からぬが、太田も上田も玉を抑えられておる。河越に扇谷上杉の当主がおる限り、北条に謀反は出来ぬ。それをすれば、主を敵中に見捨てた不義理者とそしられるであろう。そのような愚を犯す者らではない」

 

「出過ぎたことを申しました」

 

「よい。お主らは引き続き、伝達と監視を頼む。奴らの進む道、決して見逃すな」

 

「はっ!」

 

 虚無僧は頭を下げ、白銀の庭に消えていく。広げた絵図には、上野の地図が広げられていた。そこに記された半分以上の城が敵の色に染まっている。松井田、後閑、箕輪、白井などの数少ない自軍・友軍の諸城はいずれも敵領の目と鼻の先だ。軍神は来れない。友軍も近くにいない。武田領は敵領同然。

 

 絶望的状況であるが、業正の目にまだ絶望の色は無い。まだ戦いになる目は残っていた。

 

「三年、よう耐えたわ……」

 

 三年。これはあの河越夜戦からの日々だった。これが彼の耐えなくてはいけなかった年数であった。それももう、終わる。

 

 これを逃せば、恐らくもう二度と好機は来ない。最後の機会だった。北条に黙って滅ぼされるか、或いは挑むか。後者を選んだ以上、無謀な賭けであっても身を投じねばならなかった。大国に抗うという行為は常道の手段であっては成しえない。大国は兵の数も、質も、物資の数も何もかもが違う。地の利だけしかない小国は文字通り、死力を尽くしてあらゆる手段を取る必要がある。

 

 乾坤一擲の大博打が始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 伊豆大島への航海は成功となる。ガレオン船の能力の把握やその有用性はいよいよ実感を持ったものとして現出されてくる。当主の心中で、西洋技術の有用性が認められれば今後の技術研究や開発がやりやすくなる。これは家の発展のために必要なことだ。

 

 小田原に別れを告げて、約一ヵ月ぶりに河越に帰還する。最早ここが私の第三の故郷となりつつなる今、やっと帰ってこれたという思いも存在している。自分の家にいる時が一番安心するのは人間ならば当然のことだろう。

 

 家臣団の大半は、航海に先立ち帰国させていたので、身軽な帰国となった。間もなく動員令が来るだろう。それに備えて、準備をしないといけない。家臣団を集め、内々の事項を伝達するのだ。既に編制は伝えられている。

 

 北武蔵において、鉢形と河越が二大拠点だ。中でも鉢形は北方にあるため、中央に存在する河越がより中央の役目を担っている。そして、ここを中継して色々な情報や物資が移動するのだ。いわば、首都と大都市が別であるという感じだろう。首都はアンカラでも最大都市はイスタンブールなトルコのイメージだろうか。政治的中心が鉢形で、経済的中心は河越なのだ。ゆえに、次の戦役でも確実に重要拠点となる。

 

「皆、集まりましてございます」

 

 大広間にて、一同に会する。普段はいない秩父の芦田信守と依田信蕃も呼ばれている。彼らにも役目が存在する。出兵はしない約束なので、秩父衆の出陣はないが、物資の供出はしてもらう可能性が高い。また、万が一上野で敗走した場合は敗軍の逃亡先になるだろう。考えたくないことであるが、考えないわけにはいかない。

 

「大儀である。これより、来る今春に行われる一大事業について伝達を行う。これは御家の威信をかけ行われることである。皆においても一層の奮励を期待する。兼成、読み上げよ」

 

「はい」

 

 河越一条家の当主は私。当然一番上座に座っている。家臣団は二列縦列で互いに向かい合うように座る。家臣団の上座は一門の政景。そしてその反対に筆頭家老の兼成がいる。その兼成に、動員における編成が書かれた書状を渡した。

 

「僭越ながら、拝読させていただきますわ。『鎌倉府公方足利晴氏様の名において行われし参集要請を、再三に渡り拒否したる長野信濃守業政に対し、来る春に最後の勧告を行うものとする。それに従わざる場合において、以下の如き編成によって、これを討滅する。総大将・北条武蔵守氏政。副将は大石陸奥守氏照、藤田出羽守氏邦、北条左馬助氏時とする。それぞれの補佐に、松田尾張守憲秀、北条上総介網成、大道寺下野守盛昌を置く。氏照隊は六千、氏邦隊は五千、氏時隊は六千を以て、攻め上るべし。また、氏政隊には垪和伊予守氏続、大藤式部少輔信基を付けて三千とする。氏政隊・氏邦隊・氏照隊は鉢形にて合流し、西上野諸城を落とし、箕輪へ向かうべし。氏時隊は一路箕輪へ向かい、これを囲むべし。また、氏政隊には一条政景を随行させるべし』とのことでございます」

 

「よろしい。皆、聞いたな。これが此度の陣容である。政景、お主に当家の家名がかかっている。氏政様に無礼無きようにせよ」

 

「え……他には?」

 

「私は行かない。ここで後方支援だ。兼成や胤治も同じである。朝定も今回は出兵はしない。無論、兵は三百ほどつける」

 

「そんな、いきなり私一人なんて……」

 

 政景は何とかして私を翻意させようとする。目が泳いでいるのが分かった。確かに、これまでの出陣経歴は第二次川中島の戦いしかない。とはいえ、激戦となったあの戦いに出ているならばそこらの将より全然経験はある。何せ、長尾景虎と武田信玄という後世まで語り継がれる名将同士の激戦だ。そこの駆け引きや戦闘を経験しているだけでかなりの財産となっているはずだ。

 

「案ずるな。太田殿などの歴戦の将もいる。それに、先の川中島に出ておるだろう?あれに出ておればそこいらの敵ならさして問題ない。堂々としていればいい。口だけデカい松田の倅に比べれば、お前も百戦錬磨の将である。当家のため、行ってくれるな」

 

「……承知しました」

 

「これはお前の名を高める良い機会だ。諸将に学び、勲功を立てて参れ」

 

「はっ!」

 

 政景は渋々と言った感じではあるが、頭を下げた。実際、彼女は結構いい教育を受けているはずだ。状況判断も悪くない。やや臆病ではあるが、それも経験の少なさに起因するところだろう。氏政様の本隊ならば、他にも将は多くいる。なのでいい勉強にもなるだろうしそこまで危険も無いだろう。川中島では一軍として最前線に出ていたために死の危険も近かったが、そこまで危ないことも無いはずである。上手くやって帰ってきてくれるだろう。

 

「では、各々戦の支度に励むべし」

 

「恐れながら、言上申し上げます!」

 

「貞清か、いかがした」

 

「先ごろお話にありました政景様御付きの兵、某と配下の三百にやらせては頂きたく!」

 

「ふむ……」

 

 大井貞清は信濃から亡命してきた者だった。ファーストコンタクトでは尊大さを見せていたが、その後は態度を改めたので召し抱えた。あの頃はまだ綱成がいたので、彼女に預けて訓練を受けさせていた。その際に兵三百を預けていた。そして綱成が去った後はその後釜である左近の配下にいた。

 

 ここで手柄を、という思惑があるのは分かった。今回の戦役であれば、氏政様の近くにも行ける。政景配下になれば、こういう栄誉が手に入るのだ。是が非でも欲しいところだろう。綱成や左近の厳しい調練を受けて、兵の実力は問題ないだろう。

 

「良いだろう。任せる」

 

「恐悦至極に存じます!」

 

 貞清は史実でも武田の将として幾つも戦いに出ている。それ相応の実力はあると踏んでいる。ついでに言えば、信濃出身なので山間での戦いにも慣れているはずだ。実は江戸生まれの政景とは違い、山についても詳しいはずである。それらも期待しての許可だった。

 

 政景との仲は別に可もなく不可もない。そもそもそこまで関りがなかったはずだ。そういう意味では、政景に近しい家臣が必要ではあるのは事実だから今回を良い機会と出来るかもしれない。

 

「それでは、評定を終わる。各々、励め!」

 

「「「「ははぁ!」」」」

 

 

 

 

「それで、だ。此度の戦、どう思う」

 

 真の評定はここからだ。多くがいなくなった広間で、輪になり顔を近づける。いる面子はこの城の上層部。当然城主である私、財務を担う兼成、軍務を担う左近、目付である太田泰昌・山中頼次、参謀である胤治、諜報を担う段蔵である。もっと言えば、政策決定権を持っている面々だ。政景に政策決定権はないし、朝定も同様だ。そもそも朝定はこの城の住人ではあるが支配層ではない。

 

「かなり堅実ではありますが、確実に信濃守の心を折る戦略になっているかと。氏時様の率いる六千は、それだけで長野家の動員兵力を超えております。仮に箕輪に籠城して、氏時様がそれを囲んでしまえば後は本隊が後閑、松井田、岩櫃などを落としていくことになります。さすれば、箕輪は孤立無援。長尾も先日の傷が癒えない今、長野は為すすべなく和を乞うか……」

 

「或いは城を枕に討ち死にか、だな」

 

「左様でございます」

 

 胤治の読みは自分と同じものだった。もし今年中に箕輪を落としきれなくても、それ以外全部が降ってしまえば箕輪城は包囲されたことになり、逃げ場もなくなった長野業正はいずれ降伏か死を選ばざるを得なくなる。

 

 敵の選択肢をいかに奪うか。それが戦略の根幹に存在している。そう考えれば、今回の戦略は実に王道であり、常識的だった。地味に、小田原征伐で北条家がやられたことに似ている。まさか我々がする側になるとは、何とも皮肉な話だ。それに、囲われた側だった氏政様が総大将というも皮肉めいている。

 

「で、あれば問題ないか……」

 

 何度も地図を見返す。上野の大半は抑えた今、何も心配することはないように思えた。氏康様も江戸城まで出てくる。下総勢も臨戦態勢のまま待機だそうだ。後方支援の体制は十分に作られている。警戒は怠ってはならないが、過剰に恐れることでもないように思えた。

 

「よし……であれば太田殿、山中殿。両名は鉢形城に後詰として入って頂く」

 

「「承知!」」

 

「左近は松山城に出て欲しい」

 

「了解」

 

「私と兼成、胤治はここに残り兵粮輸送に従事する。万が一の際には、伺い立てず己の判断で行動するように」

 

 四分の三がこちらの色に塗られた上野の地図。この状況で以て、まだ降伏しない長野業正は何を考えているのだろうか。文字通り、玉砕して果てるつもりなのかそれとも……。ぬぐえない不安を感じながら、それを理論で押しとどめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして時は流れ、瞬く間に雪解けとなり、関東に初春の風が吹く。まだ桜は咲かないが桃の時期に差し掛かっている。この間にも街道の整備や兵糧運搬に関する大熊朝秀との打ち合わせ、武田家への使者往来など色々あった。そしてついに、三月初頭に氏康様から長野業正へ勧告が出た。

 

 曰く、「長野信濃守業正に告ぐ。再三に渡る鎌倉への出頭命令を受けざるは不敬の極み。然れども、鎌倉公方足利晴氏様の慈悲により、これを最後の勧告とする。長野業正は速やかに鎌倉に出頭あるべし。また、長野業正は剃髪し隠居、長男吉業は鎌倉にて公方様奉公衆となり、家督は次男業盛に継がせるべし。廿日以内にいずれかの手段で以て返答なき場合、長野家への征伐を敢行する」と送ったらしい。

 

 これに対し、業正は黙殺。期限の日に「降伏されるか!」と城門の外から尋ねた盛昌の家臣に対し、己の家臣に「馬鹿め」と返答させたと聞いている。幾度に渡る降伏・出頭の要請を拒否した挙句痛罵したことに対し、遂に堪忍袋の緒が切れた形で出兵となった。という建前らしい。まぁそんなの嘘だろうと大体の人は気付いているはずだ。行軍速度や準備の出来具合が明らかに前々から計画されていないと出来ない動きだからである。

 

 ともあれ、各軍は動き出していた。氏政様の本隊も数日前に河越を通過して鉢形に着いている。岩付や忍も移動を始めていた。集合日は三日後。そして、河越から出兵する政景の三百も今日出陣しようとしていた。

 

「それじゃあ、行くから」

 

「あぁ、武運長久を祈る」

 

 馬上の人となった政景はこれから鉢形城に向かう。指令では、氏政様の本隊は鉢形城に集合し、そののち御嶽城、平井城、国峰城、安中城を経由して後閑城を攻めに向かう。その後は松井田、岩櫃と向かって越後からの道を遮断し、そののちに白井城を攻めて箕輪城へ向かうという寸法だ。それが出来るだけの兵力は揃えてある。堅城箕輪城を落とすには城にいる将兵の心を折る必要がある。そのためには、友軍の城が悉く落ちたという状況が必要だった。

 

「貞清、貞重、両名頼んだぞ」

 

「必ずや、政景様を御守り致します」

 

「よろしい。……政景、大事ないか」

 

「……」

 

「己が百戦錬磨の将とは思っていないだろう。それでいい。驕りは必ず敗北へ繋がる。己の至らざるを知り、他を頼れ。そして決して諦めるな。戦場では諦めた者から死んでいく。地を這い、泥を啜るとも必ず戻れ。分かったな」

 

「……はいッ!」

 

 若干やけくそ気味に彼女は叫び、全軍に行軍を命じる。三百の兵と共に、彼女は鉢形へ向かっていった。少数とはいえ、河越からの出兵であり、かつ市井に多く触れている政景の出兵であることから多くの見送りが来ていた。その歓声に送られながら、多分引き攣った顔で城を出ていくのだろう。

 

「大丈夫でしょうか……」

 

 一緒に見送りに来ていた朝定も不安そうな顔をしながら遠くなる背中に手を振っている。普段から共に研鑽を積んでいる友人同士ということもあり、心配なのだろう。絆がしっかり芽生えているようで微笑ましくも思う。

 

「なに、あれで意外と敏い。自身の危機察知も上手い。上手くやるだろう。それより、先ごろ何か渡していたな」

 

「諏訪神社の御守りです。武運と無事の帰還を祈って渡しました」

 

「そうか。良い友情だな」

 

 ポンポンと頭を撫でれば、彼女は少しだけ目を細める。心なしか楽しそうだった。

  

 政景は意外と危機回避能力が高い。その割に私に対していつも口論で負けていると思っていたが、朝定曰くあれはせめてもの反骨心であり、意地であるらしい。なので普段の生活、特に鍛錬においては危機回避が上手い傾向にあった。それは特に剣術に現れており、軽さと速さで以て圧倒する剣が得意であるとの剣聖の談である。

 

 一方の朝定は受け身の剣であり、一瞬の隙を狙ってずっと耐え続ける剣であるとのことだ。ゆえに模擬戦闘を見ていると、政景が翻弄して終わるときもあれば、長丁場でわずかに剣先が鈍った隙を朝定が一瞬で突くということもあった。どちらも一長一短ある姿勢であるが、よきライバルとして競っているらしい。やはり、同年代であるということは大きいだろう。

 

 そんなことを思っていると、見えなくなっていく政景と入れ違うように早馬がやって来た。

 

「某、小田原よりの使いでございます!氏康様より至急の伝あり!」 

 

「馬上でよい、何であるか」

 

「しからばここにて失礼!下野宇都宮広綱が佐野豊綱を攻め始めたとのこと。また、常陸佐竹義昭も陸奥へ向けて出兵したとのこと」

 

「そうか……此度の戦に影響は?」

 

「佐竹は放置とのことです。奥羽は我らの管轄ではありませぬ故、大義名分が無いと」

 

「道理であるな。下野は?」

 

「佐野より救援要請が入っておりませぬ。それがない以上、動けぬと。また、唐沢山城は堅城ゆえに家中の安定しない宇都宮では攻め落とせないであろうとのことで、両者共倒れを狙う方針でございます」

 

「相分かった、伝令ご苦労である」

 

「確かにお伝え申し上げました。それでは御免!」

 

 あっと言う間に早馬は去っていく。仕事熱心なようだ。感心する。少し休んでいくように言おうと思ったが、その暇さえなかった。街道が大きくなり整備されたことで、こういう情報伝達も早くなっているのだろう。

 

 しかし、宇都宮か。壬生家に引っ掻き回されて内乱状態であったはずだが、何らかの手段で和睦したのだろう。宇都宮城を占拠されたままでは権威に瑕がつくので、適当な国衆を攻撃しておこうとしている節が見える。元々宇都宮家は下野の守護。零落したとはいえ、まだまだ大勢力だ。しかも今は謀臣である芳賀高定もいる。芳賀は現当主広綱の父の仇である那須高資を謀殺している。

 

 そのような謀臣が行けると判断するための材料が何かあったのだろう。まぁ唐沢山城は堅城であるから、軍事行動を起こして当主健在ということを見せつける意味があるのかもしれない。或いは、守護として治安運動を行ってます、鎌倉公方様という意思表示かもしれない。執権である北条家の下部に入るにしても、守護であるのと無いのとでは大きく変わるからだ。

 

 反対に、今まで動きを見せなかった佐竹が動いたのは驚いた。どうやら、関東を先にどうこうするより背後を固めるべく奥州に行くことにしたらしい。奥羽は鎌倉府の管轄であるらしいのだが、伊達や最上、大崎葛西南部など諸勢力がひしめいている。氏康様も管轄であることは理解しているらしいのだが、正直闇鍋すぎて手を出したくないらしい。

 

 現在、奥羽で我々と繋がっている勢力は多くない。最上や出羽の国衆の数家は対越である程度協力関係である。伊達家はノータッチ。蘆名は友好勢力。白河結城は半家臣扱いだ。主家である結城家は先ごろ氏尭様が当主となり、北条家の勢力圏に収まった。なお、一門衆扱いであり、家内でもかなり特別な地位を築いている。

 

「どこも動き出したな……」

 

「北条が上野に注力すると見たから、でしょうか」

 

「であろうな。もし佐野が臣従と引き換えに援軍を願い出た場合、我々が出る可能性がある。その際は関東管領であるお前にも出てもらうぞ」

 

「分かりました」

 

 まぁそうそうそんなことにはならないだろう。佐野豊綱は河越夜戦でこっぴどく敗戦し、多くの将兵を失っている。北条家とは敵対姿勢を持っていて、前回の北伐でも山上家などに援軍を出すという姿勢を見せていた。北条に頼るのは最後の最後までしない可能性が高い。

 

 やはり敗戦の傷が大きいようで動きは鈍化している。それが桐生が降伏する理由になったようだ。桐生家は佐野一族の支流である。

 

 戦乱が加速していく。現在の時系列はおそらく1556年頃を推移している。桶狭間まであと数年。ここで万が一義元が勝つと、何のために氏規様を送り込んだのか分からなくなる。そう考えると、時間は多くない。早く関東を統一したかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 一条政景が鉢形に到着し、本隊が動き始めた頃。長野業正の動きを封じるべく、電光石火の如く上野の氏時軍六千は動きだしていた。

 

 大将は北条氏時。副将に大道寺盛昌以下の大道寺党。上野の国衆としては、尻高城の尻高佐馬助、中山城の中山玄蕃、沼田城の沼田景義、館林城の赤井照康、小泉城の富岡秀信、金山城の由良成繁、惣社城の長尾景総、那波城の那波宗俊、角渕城の宇津木氏久である。桐生城の桐生介綱も本来は陣に加わるはずであったが、宗家の佐野家と宇都宮との戦いの情勢に備えるため、数百の兵と共に桐生城に残留し東上野を守る役目を任されている。

 

 また、安中城の安中重繁と高崎城の和田業繁は氏政の本隊に加わるべく、自城で待機中である。これらの諸将を引き連れて、氏時は自身の居城である厩橋城にいた。

 

「諸将、よく集まった。これより、一気呵成に箕輪を突く。城を囲むのが我らの役目。奴らが動く前に、包囲する。蟻の子一匹逃がすでないぞ!」

 

「「「「応っ!」」」」

 

「いざ、出陣!」

 

 老将の域に入っている氏時。現在すでに六十を過ぎている。おそらくこれが最後の出陣になるのではないか。奇しくも長野業正と同じような感慨を抱きながら、軍を進めていた。

 

 厩橋から箕輪までは一日もかからない。速い行軍ならば半日経たずに到着する。そして今回もさして苦労することなく、箕輪城の眼前に来ていた。

 

「氏時様、各部隊配置完了いたしました」

 

「後方、那波に任せた兵糧はどうか」

 

「滞りなく」

 

 那波家のいる那波城は街道の中継点であり、厩橋までの中継でもある。そのため、厩橋に残し兵糧の運搬を任せていた。

 

「よし……。此度の戦は定石通りにやればさして苦戦することもあるまい。されど、油断はするな。信濃守は老獪。いかなる戦略を取るか分かったもんではない」

 

「氏時様も劣らぬ老獪さをお持ちと心得ますが」

 

「盛昌よ、それは褒めておるのか……?まぁ良い。儂は奴には恐らく及ばぬ。ずっと、才ある者に従って流されるように生きて参った。どういうわけか、こんな年まで生きてしまったがな。父に従い、兄に従い関東を転戦したが結局儂は二人には遠く及ばぬ。今とて、儂より才ある姪に従うのみ。せめて家中を引き締めるのにこの年を使うのみよ」

 

 ため息を吐きながら、氏時は空を見上げる。どういうわけか自分だけが生きていた。叔母も生きているが、あれはあれで妖怪。比べるのも変だろうと思っていた。彼は自分が決して名将ではないと思っている。むしろ、凡人であった。それゆえに、父・兄・姪と三代の背中を見続けていた。それを卑屈に思ったことも劣等感を感じたこともあまりない。何故兄ではなく自分が生き残っているのか。その意味を見いだせずにいることだけが数少ない心残りなのだった。

 

「申し上げます!」

 

「いかがした」

 

「我が主、由良成繁が物見を行いましたところ、箕輪がもぬけの殻と!」

 

「……なんだと?」

 

「まさか、そのような。敵の本城ですよ。本当に、間違いないのですか」

 

「はっ!しかとこの目で見ましてございます。城も町も、人っ子一人おりませぬ」

 

「うむむ……。相分かった。ひとまず、下手に動かず待機するべしと伝えよ」

 

「承知!」

 

 伝令が下がる。異常事態に、両名の顔はあまり良い色ではなかった。箕輪は上野に残った山内上杉残党(という名の長野家)にとっていわば象徴。北条で言えば小田原、武田で言えば躑躅ヶ崎、今川で言えば駿府だ。本城でもあり最大規模に近い城郭を放棄してどうする気なのか。それが読めない以上、下手なことはできないのだ。

 

「どうする。真にいないのであれば、箕輪の城を接収するか」

 

「……空城の計なるものがあると聞き及んでおりまする。空き城に見せかけ、敵を誘い込む策であると。私も土佐守殿よりの伝聞ゆえにさして詳しくはありませぬ故、此度の箕輪城がこれに当たるのかは分かりかねますが、少なくとも何ら謀無きとは考え難く。或いは城内奥深くに兵を忍ばせ、我らの来るのを待っておるのやもしれませぬ。罠でないとすれば時間稼ぎを行い雪が降るまで越後にほど近き岩櫃などで籠城する腹づもりやもしれませぬが……。いかがいたしますか」

 

「町はしらみつぶしに調べ、真に誰もおらぬのか確かめるのだ」

 

「はっ!」

 

「その結果次第で今後の策を立てようぞ。今はひとまず、それしか出来ぬ。そう言えば、前々より箕輪に忍ばせておった風魔はどうなった。数人いたはずであるが」

 

「それが、全員連絡が途絶えたままになっております」

 

「やられた、か。仕方あるまい。先も言うたように、まずは城下を改めよ。すべてはそれからじゃ」

 

「承知いたしました」

 

 盛昌は急ぎ全軍に指示を伝える。氏時は困惑しながら、なんとか長野業正の狙いを読み解こうとしていた。城の奥で罠を張っている可能性が一番大きい。しかし、それであるならばわざわざ町の者まで収容する意味が分からない。

 

 全軍を率いて氏政率いる本隊に奇襲を仕掛けに行った可能性もある。しかし、軍の量が違いすぎる上に、箕輪を文字通り開けっ放しにしていく意味が分からない。

 

「何を考えておる、長野信濃守……」

 

 足を揺すりながら氏時は考えるが、ピンとくる理由は浮かばない。そして、数時間後に伝達が来た。

 

「……城下ももぬけの殻でございました」

 

「左様か……」

 

「攻め上りますか」

 

「いや、待つのだ。下手に動いては敵の術中にハマるも同じぞ」

 

 氏時はここで一度慎重策を採用する。下手に動くよりも現在の大軍を保持したままでいた方が良いに決まっているからだ。それに、氏政率いる本隊の動向を見てからでも遅くない。状況だけは江戸まで来ている氏康に報告する書簡を出した。だがしかし、状況は少しづつ悪い方向へ進んでいく。

 

「申し上げます!一部の国衆が空城ならば攻め取るべしと言い、城門へ殺到しております」

 

「何だと!今すぐ戻すのだ」

 

「しかし勢い凄まじく、我先にと向かっております!とても止められそうにはありませぬ!」

 

「ええい、やむを得ん。ここで無理に止めては士気にかかわるか。盛昌、我らも出よう。一気に箕輪を落とし、ここを新たな拠点とするのだ」

 

「不本意ではありますが、致し方ありませんでしょう」

 

 上野は北武蔵とは違う。個人的な友誼と強さ、更には関東管領を保持しているなどの政治的理由からも雁字搦めになっている彼らと上野の国衆とは温度差に圧倒的な違いがあった。上野衆はあくまでも利と益を重んずる戦国武士としてはごく当たり前な存在である。ゆえに、大きな空城とあってはそれを座して包囲するなど出来ない。誰か城兵がいるのならばまた違った可能性もあるが、まったくその姿も見えないとなれば逸るのももっともであった。

 

 氏時は特段特技を持たない。特異なカリスマも無い。武勇に優れる氏邦や網成は関東武士の手本であったし、人間関係に優れる氏照も家臣団統制は上手い。兼音は言うまでもない。権威や特別な何かで国衆を統制すると言うことが氏時には難しい。それゆえに、こういう事態になってしまうのだった。 

 

「まことに何もないとはな……」

 

 広い山城の中には、何も残っていない。文字通り、何もないのだ。氏時に少しだけ嫌な予感が走る。国衆らは大いに湧いている。長野業正は逃げたのだと大いに湧きたっていた。そして、箕輪城を新たな前線基地とするべく兵糧の搬入が進んでいる。何かがおかしい。伊達に戦国初期を駆け抜けていない。長年の経験が、仕組まれた何かを感じさせた。

 

「申し上げます!先ほどから病人が多数出ております」

 

「何だと、何があった」

 

「分かりませぬ。急に泡を吹いて倒れる者が多数と……」

 

「泡……水を呑んだか?」

 

「はっ、井戸の水を。まさか!」

 

「毒を投げ込んでおったか。全軍に通達せよ。井戸の水を飲むな、とな」

 

「ははっ!」

 

 慌てて飛び出していく伝令。浮かれている将兵。毒の投げ込まれた井戸。何もない町。誰もいない城。こんな状況で籠城したくはないな。氏時の頭の中にそんな感想が浮かぶ。その時、全ての欠片がつながった音がした。

 

 常なる手段では勝てない。兵数の多寡を覆すには、それこそ大胆な策を用いねばならない。新月の駿河湾を渡ったように、暗夜に城の内外から襲い掛かったように。奇策を用いねば勝てない。そして北条はかつては幾度となくそれをする側であった。しかし今、勢力を拡大した北条家がそれをされる立場になったのだとしたら。

 

「氏時様、ひとまず後方に箕輪を落としたため兵糧の搬送先を変えるようにと伝達致しました」

 

「盛昌、それどころではない」

 

「いかがなされました」

 

「今すぐ城から出るのだ。井戸に毒が投げ込まれておる。我らはまんまと誘い込まれた。この城そのものが巨大な囮であったのだ。ここを今囲まれればどうなる。一転して我らが籠城側よ。米やら味噌やらがどれほどあろうと、水が無ければたちまち渇いてしまう。しかも、ここは敵の城。我らの知らぬ道や攻め手を熟知しておろう。全軍に撤退、急げ!」

 

「は、ははっ!」

 

 してやられた。おそらく長野業正は近辺の山に潜んでいる。地の利が向こうにある以上致し方ないことではあるが、特定は難しい。既に日は落ち、夜に突入していた。今から探すのは無理である。何とか城を捨て、予定通りに城の周りで野営を行う。警戒態勢を取っていれば襲ってはこない。そののちは後方や本隊と連絡を取りながら上手く連携をする。これで巻き返せる。氏時の算段はこうであった。

 

 しかし、状況は彼の想像の何倍も悪かった。撤退準備を始めようとした盛昌と氏時の元に、血相を変えた伝令が飛び込んでくる。

 

「も、申し上げます!」

 

「何か!」

 

「近隣の山々にゆらゆらと灯が揺れております。その数約一万!」

 

「案ずるな、兵だけではなかろう。民草も混じっておるはず。急ぎ撤退すれば、まだ間に合う……」

 

「そ、それだけではございませぬ。遠くより灯の群れが帯のようにこちらに向かっておるのです!その数約一万五千ほど!」

 

「どこからそんな数が……。いやまずは兎にも角にもこの城から出ねばならぬ。こんなところに留まっていては!」

 

「申し上げます!既に城から出ていた富岡隊と宇津木隊が襲われましてございます!両部隊共に城に逃げ込んで参りました!」

 

「遅かったか……」

 

 氏時と盛昌は悟った。自分たちはまんまと釣られてしまったのだと。彼らは功を逸った訳ではなかった。しかし、箕輪城というあまりに大きな餌に国衆を制御しきれなかったのだ。まだ統治して一年しか経っていない。北条の軍法も染みついていない。これが最大の敗因だったのやもしれない。

 

 箕輪城を抑えれば戦略的要衝を征することになる。そんな場所が空いていれば、抑えたとしても不思議はない。長野業政の動員兵力は四千ほど。であれば万が一野戦になっても勝機は十二分にある。罠であっても破れる自信があった。しかし敵はもっと多かったのだ。それは上野だけではない。

 

「かくなる上は致し方なし。城に籠る。しかし長野はどうやってそんな兵力を……」

 

「敵の家紋、見えましてございます!」

 

「どこか、長野であるか!」

 

「いえ、あれは……三つ巴と左三つ巴!」

 

「佐野だと……それに桐生め、裏切ったか」

 

「その後ろに……右廻りの巴、上には一の字がございます!」

 

「宇都宮家?どうしてこんなところに。そもそも、宇都宮と佐野は唐沢山で攻防戦をしているはず」

 

「それすらも狂言であったのだろうよ。誰が描いたのか、儂らはこの上野を舞台にした大きな絵の中で踊らされておったのだ。信濃守の中では、儂らの足並みが揃わぬのも承知の上であったのだろう。抜かったわ……」

 

「ですが宇都宮と佐野は対立関係であったはず。そもそも下野国内は共闘できるような状況ではないはず。壬生、芳賀、那須、大田原、日光山など諸勢力が割拠する乱世そのもの。そんな有様をどうやって……。長野は所詮上野の豪族。そこまでの求心力はないはずでございます」

 

「誰かが繋ぎとめたのであろうよ。そしてそれが出来るのはおそらく、奴しかおるまい」

 

「まさか……」

 

「あぁ、同時期に軍事行動を起こしたもう片方。常陸の雄、佐竹じゃ」

 

「最後尾に扇の紋章!」

 

「下野を駆け、儂らを囲いに来たか」

 

「氏時様……」

 

「まだ奴らの包囲は完成しておらぬ。急ぎ、伝令を!」

 

「承知!」

 

 冷静に指示を出しているようで、氏時の顔は真っ青だ。これまでの人生の中で、彼自身が受ける最大の危機が、まさに今なのである。伝令が何とか城を脱出したのとほぼ同時期に佐野・宇都宮・佐竹の連合軍が箕輪城を包囲する。

 

 籠城戦の始まりであった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 パチリ、と碁石の音が響く。小さく燃える松明。周りは全て闇だ。上野の山中で、虚無僧からの報せを受け長野業正は碁石を置いた。

 

「第一の策は実った。しかるに次は、第二の策……」

 

 もう一度、碁石の音が虚空へ消える。

 

「安中まで来るがよい。そこがお主らの墓場だ。そして……」

 

 パチパチと木が弾ける音の中、業政は南東を見つめた。

 

「我らは動いた。さぁどうする?」

 

 暗夜に消えたその声に、応える者はいない。

 

 

 

 

 

 その視線の遥か数十里先。南海の風が吹く城で、二人の男が相対していた。

 

「実元、我らは律義者であるなぁ」

 

「ははっ」

 

「三年待ったぞ。約定通りよな」

 

「まことに」

 

「その間に我らは国力を付けた。今やかつてよりも精悍な兵と精強な国になった。早雲の背中を追う日々も、間もなく終わりだ。……では行くぞ。準備はよいな」

 

「抜かりなく」

 

「よろしい。房総の王、出陣である」

 

 時は弘治、戦国乱世。遥か西国では陶が滅び、濃尾では蝮が国を追われる。そして今再び、関東に大乱が巻き起ころうとしていた。




河越夜戦のあと、第34話を書いたときからの伏線をやっと回収できた。2021年1月からなので、実に2年を経ました。良かった……。

またしてものんびりしてしまいました。申し訳ございません。感想等々、お待ちしております。

マシュマロ→https://marshmallow-qa.com/tanuu90004861
感想欄では聞けないけどメッセージ送るほどでも……みたいな質問あればどうぞ。他にも作品の事、私のことなら割と何でも答えるつもりです(定型文)
色々あってこれまでの答えられてませんが、ぼちぼち回答します。よろしければ。


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第115話 一条政景

 箕輪城にて攻守の逆転した籠城戦が展開される数日前。北条氏政率いる本隊が鉢形に集合していた。氏政は垪和氏続と大藤信基を引き連れて三千の兵を指揮する。それに松田憲秀を従えた氏照が六千。南武蔵の兵力動員を行っていた。そして氏邦が網成を従えて五千。北武蔵の有力国衆たちもはせ参じていた。

 

 総計一万四千。一国を滅ぼすに十分な兵力の動員が行われていた。この時代、一万を超える兵力を簡単に動かせる勢力は多くない。それも、各城の守備隊やまだ動いていない河越衆、そして後方にいる氏康などの部隊など大量に部隊を残したうえでもこの数である。全軍をなりふり構わず一カ所に集合させれば、既に六、七万は軽く集まるだろう。

 

 三好、大友、大内、尼子、長尾、武田、今川などが一万を集められる数少ない勢力たちだ。いかに北条家の勢力が強いかを物語っている。なお、諸説あるが小田原征伐で動員された北条家の兵は、友軍勢力も含めれば八万前後という。まだ史実の最大版図には至っていないが、史実以上に内政改革が行われているため史実末期に近い動員は可能になっている。

 

 その大国の次期当主が直々に指揮するにあたって、一見すると不足の無い人員にである。しかし、内実はそう上手く行くものでもないのであった。

 

 

 

 

 

 三百の配下と共に鉢形に到着した一条政景は、早速氏政に呼び出しを受けていた。到着の挨拶をする目的があった政景としては渡りに船である。

 

「一条土佐守兼音の名代としてまかり越しました、一条政景でございます。氏政様におかれましては……」

 

「あぁ、そういうの全然いいから、ね? 今回はよろしく! お兄様は何か言ってた?」

 

「お、お兄様?」

 

「うん。貴女の義兄は私の姉といい関係じゃない? つまり、将来の私の義兄ということなの。同じ妹同士、仲良くしようね! 優秀な上を持つと苦労すること、沢山あるだろうしさ。それに、あなたの政っていう字は私から取っているわけだし」

 

 どう?と尋ねる氏政に、政景は取り敢えず頷く。確かに言われてみれば、妹という立場は同じだ。政景は実家の遠山家でも、現在の一条家でもどっちにしろ妹。それに、どちらも兄は優秀。対する氏政も優秀な姉である氏康を持っている。境遇的には共感できる部分も多かった。

 

「お姉ちゃん、そろそろ年齢的にねぇ……やっぱり、早めに結婚しないとその後に差し支えるし」

 

「ウチの義兄(あに)上が申し訳ありません。河越衆にあまり色恋沙汰を得意とする者がいないので……なんなら市井の遊女の方がこの点においては上とすら言えます」

 

 人の集まる所に妓楼あり。例に漏れず、河越にも立派な遊郭が存在している。色街には揉め事もつきもの。大体面倒な客がいるのだ。現代にもキャバ嬢にガチ恋してストーカーする客がいる。いつになっても人間は進化しない。ともあれ、そういう面倒な客を見つけ次第ぶちのめして裁きの場に引きずり出しているのが政景と朝定のコンビである。

 

 おかげか、治安は大分いい。元々警邏隊が存在しているので、それと合わせて河越の治安は相当に良い。この二人はある意味で広告塔的な存在と言えるかもしれない。そんなこんなで、色街にも顔が利く政景は、そこのお姉様方とも仲が良く、源氏物語などを嗜んでいることもあり色恋に関しては河越衆の中で一番優秀である。

 

「あははは、まったく変わんないなぁ。まぁでもこの前伊豆大島に行ったとき、帰ってきたお姉ちゃんがなんか妙にニコニコしてたから多分ちょっとは進展したんじゃないかな。あんまり時間はないし、お姉ちゃんが二十半ばまでには何としてでも輿入れしてほしいんだよね。……早く、休ませてあげたい。だから、ここで一気に方を付けて安心させてあげたいんだ」

 

 真剣な口調で、氏政は言う。その目力は非常に力強いものであり、先ほどまでの緩く朗らかな雰囲気は霧散していた。これまでずっと部屋住みであり、あまり当主一族と近しくなかった政景からしてみれば、初めて見る氏政の姿であった。

 

「北武蔵の国衆は多分、貴女を一番重んじてると思うから。そこもよろしく」

 

「そんなことは……」

 

「ううん、一条の名前がこの辺で持っている意味っていうのは凄い大きいと思うよ。川中島っていう激戦に出て、あのお兄様の薫陶を受けているっていう時点で大きく扱ってくれる。だから、お願いするね」

 

「はっ!」

 

 氏政の周りにはあまり同年代がいない。いるのは逸る若手だけ。そういう面倒な存在ではなく、もっと楽しく話せる存在を彼女は欲していた。その点、政景はほぼ同年代であり、氏政の欲していた存在である。なので、氏政はこうして政景と積極的にコミュニケーションを取ろうとしているのだ。

 

 退出するときに見送る際の彼女の顔は、少し寂しそうなものだった。

 

 氏政の呼び出しから帰って来た政景であるが、まったく休む暇はない。鉢形に集合したら、すぐにするべきことを兄である兼音より指示されている。まずは氏政に挨拶することであったが、これは既に終わらせた。その後するべきこともすべて言い渡されていた。次にするべきことは今回の友軍との挨拶である。例えば氏政と一緒にやって来た垪和氏続や、北武蔵の国衆がそれにあたる。無論、網成もいるが元々知り合いなので優先順位は最後の方でいいというお達しである。

 

 政景は優先順位に悩んだが、とりあえず同じ北条譜代である垪和氏続と大藤信基に会いに行くことにした。

 

「おぉ、貴殿が土佐守殿の! よく参られた。某が垪和伊予守氏続である。土佐守殿とは親しくさせてもらっておりますゆえ、貴殿とも良き関係を築きたい。此度の戦、共に尽力しようぞ」

 

「垪和殿、勢いが強いですぞ。儂は大藤信基。土佐守殿には鉄砲の導入にご尽力いただいた。これからの戦を変えるのは鉄砲であると思うておりまする。どうか、政景殿にもぜひ! 鉄砲に関する知見を深めて頂きたく!」

 

 両者ともに好意的なコンタクトをしてくれていることに政景は安堵する。一条兼音の義妹であり、遠山家の娘を邪険に出来る人の方が少ないのだが、それでも事務的な対応ではないのは兼音が築き上げてきた家臣団内での人間関係に起因するものである。上役や先任に気に入られやすい特性を持っている兼音の力であった。

 

「お二人から多くを学ぶようにと義兄(あに)より言われております。私としても、そのお手並みを学ばせて頂きたく思いますので、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」

 

 あまり頭を下げるのが好きではない政景だが、そんなことを言っている場合ではないのはわかっている。自分一人ではなく、家の名を背負っているという自覚が芽生えていた。今までは遠山家といっても端っこにいるだけだったのが、今や関東随一の武名を持つ家の後継者である。その事実が大きく彼女を変えていた。

 

「某こそ、貴殿にお聞きしたいことが多くありましてな。よろしければ、川中島での戦に関してお聞きしたい。武田晴信やその家臣団について、実際に邂逅した者の話を聞きたいのです。貴殿もそうであろう、大藤殿」 

 

「それは無論」

 

「分かりました。私はひたすらに義兄の活躍を見ていただけでしたが、それでもよろしければお話しさせて頂きます」

 

 実際の所、政景はしっかりするべきことをしているのだ。激戦の中で退き鐘を鳴らしたのもそうであるが、兵士の治療や戦没者の把握に努めていた。これらの行為は、実際に最前線で戦った兵からは絶大な支持を得ている。兼音の指揮官としてのカリスマとはまた別種のカリスマであろう。

 

 だが、それを威張ったり誇示したりしてはいけない。成果を誇らず謙虚であることが大事である。実に日本的ではあるが、それが実際効果的なので何とも言い難い部分ではある。政景としてはしっかり自分のやったことを言いたいところではあるが、グッとこらえて謙遜しながら語るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「はぁぁぁぁ……」

 

 歩きながら、政景はため息を吐く。色々質問され、どっと疲れた。何が悲しくて、義兄や武田家の活躍を話さないといけないのか。ありていに言えば、面倒くさかった。しかし、これで終わりではない。まだ北武蔵衆の面々が残っている。助かることがあるとすれば、個々人の攻略法を兼音が教えてくれているということと、皆バラバラではなくある程度まとまっていることだった。同じ北武蔵衆同士の連携を深めるために、よく集まっているのである。

 

「義兄に代わりまして参陣致しました、一条政景でございます。皆様方におかれましては、どうぞご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます」

 

 北武蔵衆とはすなわち、太田資正・上田朝直・上杉憲盛・成田長泰の四名を指している。そして、この四人それぞれに個別の攻略法を教えられていた。それぞれ、触れられたくない地雷と触れて欲しい部分が存在している。前者を上手く躱し、後者をしっかり回収すればおのずと友好的になれるというのが兼音の助言である。

 

 まずは、自分の方が軍歴が下である以上学ぶ姿勢を見せること。これが第一の助言である。そして次に行くべきはまとめ役ともいうべき太田資正。政景は知らないが、史実で彼が敵になったことで北条家が被った被害はかなりのものであり、彼がこうして北条家の遠征や要望、命令の類に唯々諾々と従っているという状況が非常に幸運なことであるのだ。

 

「太田殿のご高名は、義兄より多く聞かされております。何かあれば、必ず一にも二にも太田殿をお頼りするようにと、厳命されておりますれば、何卒」

 

「おお、そうであるか。土佐守殿にそうまで言われては期待に応えられぬというのは某の名折れ。何でも、お聞きあれ。初陣を経て数十年。負けも勝ちも多く知っておりますれば、如何なる事あろうともお力になれるでありましょう」

 

「頼もしいお言葉です」

 

 太田資正を立てても誰も文句は言わない。だからこそ、最初に声をかけ、そして兼音が最も頼りにしているという話をする。これが太田資正対応の根幹であった。無論、資正もある程度兼音の意思を察している。自分を繋ぎとめておきたいという思惑も分かっているし、それだけの価値があるとも自負している。なので、その自負を肯定しておくことがここで肝心なことだった。則ち、北条家は貴方を大切にしていますよ~というアピールである。

 

「成田殿、甲斐殿には日々鍛錬をつけて頂いております。名門成田家の血を引くお方だけあり、私もかくあらんと欲しております。その成田家の御当主にお会いでき、光栄でございます」

 

「うむ、うむッ! あのじゃじゃ馬も多少の役には立っておりまするか。それは良かった」

 

「日頃よりお世話になっております。誠、成田家の御教育の賜物かと」

 

「なんのなんの。しかし左様ですか……。あ奴には忍は狭かったのやもしれませんな……」

 

 成田長泰は気位が高い。史実で上杉謙信に下馬しなかったと言われるだけはある。これが事実であるかはともかく、実際彼は非常に名門であることを誇っている。太田や上田よりも上であるとすらうっすら思っている。当然、血筋では余所者の兼音よりも上だ。しかし従っているのは兼音の実力によるところが大きい。なので、その自尊心をしっかりくすぐってあげる。これが彼の攻略法であった。一族である甲斐姫を持ち上げ、そのうえで育てた成田家を持ち上げるという話法である。

 

「また、此度の戦には名高き正木丹波殿も来ておられるとか。義兄も欲しがる強者(つわもの)と聞いております。そのようなものが成田家にお仕えしているのは、貴殿の御人徳によるものかと」

 

「ははは、あまり持ち上げるものではありませぬぞ、はは」

 

 口と顔が全然一致してないなぁ、と政景は密かに思ったが、表には出さないで一緒に合わせて軽く笑っておく。これで協力してくれるようになるならば安いものだと思っての行動だ。それに、まだ自分には兼音のように多少砕けた態度でも相手を納得させるほどの軍功がない。それを得るまでは……という腹づもりだ。

 

「上田殿には街道の件でよくよく世話になっております故、必ずその旨申し上げるようにと義兄が申しておりました。その行政手腕には学ぶところ多い故、機を見て教えを乞うようにと。私自身も、義兄や当家の筆頭家老のように優れた手腕を手にし御家に貢献したいと思う次第。お手並み、拝見させて頂きたく」

 

「ふむ。よろしいでしょう。土佐守殿や花倉殿に比べればまだまだ未熟と思わされる今日この頃ではありますが、松山城を預かる身としてそのような期待をして頂いたとあれば、退くわけには参りませんね。拙い技ではありますが、心ゆくまでご覧あれ」

 

「ありがとうございます」

 

 上田朝直は松山城を持っている。これが彼の誇りである。また、武将としての槍働きよりも内政・行政手腕の方を評価されることを好んでいた。その実力は決して兼音などに劣るものではなく、氏康も認める技術であった。松山城は本来杉山城などよりも大きい。網成と入れ替わりで転封になる可能性もあったが、視察の際に松山城の行政の様子や書類などを見た氏康がその話を白紙にしたという経緯もある。網成を入れるより、朝直にそのまま統治させた方が効率的と判断されたのだった。なお、その後は網成の内政のフォローを兼音と共同で行っている。

 

 だからこそ、内政官としての実力を学びたいですという方向に持っていくことを兼音に指示されたのだった。また、跳ねっかえり娘の要素を見せることや、或いは元気いっぱいという感じの演技をしないで行くようにと兼音が伝えた理由も彼に存在している。理知的に礼儀正しく見せることで、朝直からの受けを良くする目的がある。なお、政景本来の性格に近い生意気な感じを出すと資正にはウケるが朝直や長泰には反感を与える。逆に元気っ娘という感じだと憲盛にウケるが他はいまいちである。

 

「上杉殿には朝定様より言伝があります。『常より上杉の家名を守るべく働いてくれていることに感謝する。私は兵を持たないため、上杉家としては貴殿が頼りである。どうか、これからも変わらぬ働きを頼みたい』とのことです」

 

 上杉憲盛は上杉家の家名を誇っている。元々史実では彼も割と反北条として活動していた時期の方が長い人物である。家臣にも岡谷清英や秋元景朝という優秀な重臣を持っている。彼が兵権のない朝定に代わり、関東管領として兵を出さないといけない場合の兵力を担っている。元々は分家の深谷上杉というあまり大きくない家であるが、扇谷上杉が事実上の傀儡である以上、関東に存在する上杉としては最大になった。一応他にもいるにはいるのだが、一番の大身は深谷上杉となっている。

 

 であるため、敢えて兼音よりも朝定の言葉を採用しておけば機嫌を取れるという兼音のアドバイスであった。事実、ここまですべてドンピシャで嵌っており、全てにおいて好感触であることを政景は実感していた。それは、これまで兼音が数年かけて築き上げた人間関係における洞察力と観察力、判断力によるところが大きい。この事実を改めて突き付けられ、兼音が功績だけで今の地位にいるわけではないことを改めて思い知らされたのだった。

 

 義兄の偉大さを噛みしめている政景に、資正が声をかける。

 

「それで、だ。朝定様はいかがお過ごしか」

 

「あ、元気に過ごしております。僭越ながら、私はよく行動を共にさせていただいております。武芸の稽古や軍略政略の教導を受け、時々市井にも顔を出しています。まぁ後者は私が無理を言ってることも多いのですが……」

 

 関東管領に何をしてるんだ!と怒られることも覚悟していたが、その予想に反して資正らの反応はかなり良いものだった。むしろ、嬉しそうにしていたり感慨深そうにしている。

 

「それは良かった、まことに……。我らは愚かにも朝定様を城の奥に閉じ込めて、それで守れると思うておりました。然れども、それは過ちでありました。朝定様には年頃の知己もおらず、これまで市井に赴いたこともほぼありませんでした。貴殿さえよろしければ、引き続き朝定様の友となって頂きたい。お頼み申す」

 

 資正は深く頭を下げる。続いて朝直や憲盛という旧扇谷上杉の家臣が頭を下げた。長泰は関係ないと言えば関係ないが、そこには触れずに状況を見守っている。彼らの願いは政景からすれば断る理由のないことである。

 

「頼まれずとも、そうする所存です」

 

 そう力強く言う政景に、扇谷上杉旧臣は安堵したように頷いた。

 

「しかし、剣聖殿に師事とは羨ましい限り……願わくば、一手お手合わせ願いたいが」

 

「太田殿、大人げないですぞ」

 

「左様」

 

「あまり無理を言うものではありませんな」

 

 資正の冗談なのか本気なのか分からない言葉に、周りは口々に諫める。しかし、元来政景は気が強い。舐められたくないし、侮られるのは嫌いだ。これが義兄相手ならば、こんな諫めはなかっただろう。自分がまだ小娘だから、無意識か意識的かは分からないが配慮されていると感じた。そして、それは彼女の好まないことである。

 

「……分かりました。私でよろしければ、お相手致します。胸をお借りしたく」

 

「よい度胸をお持ちだ。どなたか、立ち合いを」

 

「承った」

 

 長泰が答える。実は、成田長泰は剣聖・上泉信綱の弟子である。時系列的に言えば、政景の兄弟子だ。それゆえにどの程度の実力なのかを見極めたいという思いもあった。だからこそこうして審判を引き受けたのだ。

 

 与えられている陣の外に出て、両者が向き合う。周りには資正の家臣や政景についてきた大井貞清、他にも北武蔵衆の家臣団も観戦している。多くが見守る中、試合が始まろうとしていた。両名真剣である。資正は大振りなもの、政景は軽さと速さに注力するため軽いもの。両者の戦い方の特徴をよく表していた。

 

 場を遠巻きに見ているのは、何事かあったのかと思ってやってきた北条家の三人、すなわち氏邦・氏照・網成である。このうち、氏照は関東武士らしいなぁと苦笑気味。氏邦と網成は武人として似た者同士なので、どっちが勝つのかを楽しみに見守っている。両名とも資正の強さは把握しているが、政景についてはそこまで知らない。網成は関係もそこそこあるが、彼女が知っているのはまだ河越に来たばかりの頃の政景である。どこまで成長しているのか、それを見たいという思いも持っている。

 

「それでは、初め!」

 

 長泰の声が響く。資正がまず剣を抜いた。隙を見せない構えは歴戦のそれだった。反対に政景はまだ腰に佩いたまま。抜き放つタイミングを見計らっている。抜刀術を使う気であるのは明らかだった。日本刀を鞘に収めて帯刀した状態より、鞘から刀を抜き放つ動作で相手に一撃を与え、続く太刀捌きでさらに攻撃を加える。これが抜刀術。神速を極めれば、目にもとまらぬ速度で相手を切り伏せられる。

 

 当然それは資正とて百も承知。ならば、と抜刀される前に懐に入ろうとする。その体躯に似合わぬ速度で踏み込んだ資正により、政景に鋭い突きが繰り出される。踏みしめた大地が衝撃で土煙をあげた。これは敵わなかったかと誰もが思った。突き入れた資正を除いて。

 

 突き入れられた剣先の僅か数ミリ横。あと少しズレていればまもとに食らってしまうであろう位置に政景が立っている。当然、かすり傷一つない。最小限の動作で回避する。そうして体力を消費しないようにする。これは、持久力のある朝定相手に体力不足で負けてしまうことが多かった政景が、対策として行っていることだった。

 

 それを資正が認識するのは一瞬。その刹那に地面をけり上げ、政景の軽い身体が空に浮く。そして重力が彼女を地上に落とすその前。物理法則の力を借りた抜刀が資正の頭上に降りかかる。氏邦は目を丸くし、網成は感嘆の声を漏らす。氏邦にはその剣筋を辛うじてしか追えなかった。網成は普通に見えているが、アレは中々苦戦すると考えている。

 

 しかし資正も関東に名を馳せる武人。そう簡単には敗れてくれない。渾身の抜刀は防がれる。後は落下するだけとなった政景は無防備。そこに再度の突きが出される。それを読んでいた政景は身体を捻り、足を突き出された資正の剣の背に付け、蹴り上げた。反動で資正は剣の勢いで前に倒れる。政景は上手く着地する時間をこれで稼いだのだった。

 

「中々やりますな」

 

「これは光栄なお言葉です」

 

 両者睨み合ったまま動かない。今度は政景が先に動いた。土ぼこりを敢えて起こしながら、資正の周りを走る。立ち込める煙。軽やかに、しなやかに走る政景。右か、いや左か。前か、いや後ろか。資正の顔に汗がにじむ。どこにいるのか。それが分からない。だが、彼はここでこの動きの攻略法を見つけた。敢えて剣を下ろし、立ち止まる。目を閉じ、息を止めた。余計な情報を遮断した。鼓動の音が響く。そしてそれに交じって聞こえる、政景の刀が風を切る音と、政景本人の呼吸音。

 

「見つけたり!」

 

 叫びながら下段斬りしたその剣は、政景の刀を弾き飛ばした。彼女の剣は軽い。こうして弾き返されやすいという弱点も内包している。

 

「それまで! 勝者、太田美濃守資正殿!」

 

 長泰の審判が下り、荒い息をしている政景を見下ろす形で資正は納刀する。

 

「貴殿は速い。されど音がまだある。音を置き去りにすれば、その剣術は極まりましょう」

 

「ご教授感謝申し上げます」

 

 ほう、と資正は内心で感心していた。口では感謝の口上を述べながら、政景の目は悔しさに満ち溢れている。絶対負けたくなかった、次は必ず勝つ、コイツをボコボコにしてやる!という意思を感じる。先ほどまでの礼儀正しい姿より、こちらが真実かと気付くが、不快なわけではない。むしろ、闘争心と向上心があるならばより強くなれるだろうと思っている。

 

「貴殿は人を斬ったことがありませぬな?」

 

「……はい」

 

「やはり。今はただの手合わせ。されど戦場での斬り合いともなれば、一手誤れば冥途行き。その違いは大きい。努々お忘れあるな。殺す覚悟無き者から殺されると」

 

 政景が頷いた時、両名に大きな拍手が鳴り響く。網成や氏邦を筆頭に、多くの将兵が健闘をたたえていた。関東は武を重んじる。例えそう見えない者でも、剛の者であることも少なくない。そして、今そうした多くの武蔵武士に政景が認められた瞬間であった。それは同時に、対外的に一条家の後継者に相応しい存在であると認知されたことも意味していた。

 

 この後、久しぶりに再会した網成にべったりしたり、北武蔵衆や氏邦などと宴会していた政景は完全に忘れていた。資正と政景がちょうど手合わせをしているころに到着し、まったく誰とも会えないままになってしまい、苛立ちを隠せない松田憲秀の存在を。

 

 

 

 

 

 

「それでは、軍議を始めるよ」

 

 氏政の号令で軍議が始まる。鉢形から数刻進めばもう上野だ。それゆえに、先にこうして鉢形で軍議をするのである。改めてここで鉢形に揃った軍勢の内容を詳しく整理しよう。

 

①総大将の北条氏政が垪和氏続・大藤信基を補佐に兵三千

②北条氏照が松田憲秀を副将に大石家の兵を含めて兵六千

③北条氏邦が北条網成を副将に北武蔵衆を含めて兵五千

④一条政景が大井貞清を副将に兵三百

 

 以上の四つである。合わせて兵一万四千五百が全容だ。

 

「氏続、お願い」

 

「はっ! 我らはこれより御嶽城を経由し、平井城を経て、国峯城、安中城と移動し、まずは後閑城、次いで松井田城を攻略いたします。その後、岩櫃城を目指し、越後との接続点を完全に断ち切り、箕輪を囲む軍と合流します」

 

「ありがとう。まぁ、今言った通りではあるんだけど……」

 

「先鋒は、我らにお任せあれ!」

 

 ここで堂々と主張する松田憲秀。彼の後ろには、彼の取り巻きが多くいる。大半は家を継げない次男・次女以下の武将だ。手柄を欲し、活躍の場を求めている。それゆえに、憲秀は担ぎやすい神輿であり、ちょうどいい代弁者だった。この戦はそう難しくないと感じている若手の多くは憲秀の陣に参加し、功績を挙げようとしている。それを分かっている憲秀はここで先鋒を主張するしかないのだ。

 

「他に誰か先鋒を望む者は?」

 

 氏政の問いに皆黙りこくる。明らかに見えている地雷を踏みに行くほど皆馬鹿ではない。血気盛んな若手は不安要素ではあるが、それを指摘して面倒なことになってはもっと困る。それゆえに、黙っておくことにしたのだった。

 

「じゃ、じゃあ憲秀お願いね」

 

「ははっ!」

 

 政景の方を見る憲秀の目線は厳しい。かつて河越で朝定と一緒に揉めたことをお互いにまだ覚えている。しょうがないので流しているが、両名共にわだかまりがないとは言い難い状況だった。北武蔵衆は政景とは違い、手柄に奔る憲秀たち若手にあまり良い感情を持っていない。反対に憲秀たちも北武蔵衆は外様の国衆であると思っているため、軽んじている部分が多い。どことなくギスギスした雰囲気を持ちながらも、軍は北へと出発したのだった。

 

 

 

 

 

 

 出発してから一日。一万四千の軍隊は安中城手前まで到着した。もう既に夜間になっていたため休息を取ることとなり、軍は停止。ここで一度今後の流れを確認するべく、諸将が集められた。だが、思わぬ報せが飛び込んでくる。

 

「我が主氏時より伝令! 我らは箕輪城を占領致しました!」

 

 にわかにどよめく本陣。一番反応したのは憲秀であった。箕輪が落ちてしまえば、後は消化試合。降伏してしまう城も多い。そうなってしまえば、功績はないに等しいのだ。折角の機会であったというのに……と歯噛みしながら床几から立ち上がる。

 

「それはどういうことだ! 上野衆は箕輪を囲むだけであったはずだ!」

 

「は、しかしながら箕輪は空城となっており……」

 

「何だと、そのようなことあり得るものか! 敵の本城であろう!」

 

「そう仰せられましても、嘘偽りはございません!」

 

「そこまで! 憲秀、伝令役を責めてもどうしようもないでしょう。ご苦労、下がって休みなさい」

 

「はっ!」

 

 伝令役が退出すると、憤懣やるかたないという顔の憲秀が顔を赤くしながら床几を蹴り飛ばそうとし、氏政に睨まれて座りなおす。腕を組みながら、露骨に不機嫌な顔になっている。

 

「朗報、とも言えませぬな。これは敵の罠である可能性が高い」

 

「太田殿に賛同いたす。今こそ、慎重に動くべきと心得る」

 

 太田資正と上田朝直は慎重論を唱える。これには憲秀を抑える意図もあったが、逆に火に油を注ぐ結果となる。

 

「臆したか両名! ここで一気呵成に責めねばどうなる!」

 

「勇ましさと蛮勇の違いをお心得あれ」

 

 成田長泰が面倒そうに諫めの言葉を口にする。反論しようとした憲秀だが、周りを見ても味方がいないことが分かった。氏政は頭を抱えているし、氏邦や綱成は何をそこまで焦っているのかと不審げな顔である。氏照は逸る理由も理解はしているが、もう少し言い方があるだろうと思って助け舟を出さない。政景は当然助けるわけもない。

 

「ぐぬぬぬぬ……手柄取られて良いのですかな、各々方!」

 

「長野の兵がどこに行ったのか分からない以上、下手に動くわけにはいかないのではないでしょうか。情報を集めてから動くべきと心得ます」

 

「政景殿に賛同致す!」

 

「右に同じ!」

 

「左様」

 

「正論である」

 

 垪和氏続が言い、諸将も追随する。流石に場の雰囲気が険悪となったため、氏照が密かに氏政に幕引きを要請する。それを受けて、氏政は手を叩いて白熱する議論を中断させた。

 

「取り敢えず、今日はもう遅いからここで休もう。まず明け方になったら鷹巣城・高崎城に伝令を出して、合流するように伝えて。安中城にも伝令を出して、明日の午前に城に入れてもらおう。皆、ここで争ってもしょうがないよ。箕輪城を占領できたことが本当なら、兵の損失を抑えられたことは喜ばしいからね。連携を密にして残存掃討に当たればいいから。異論ある?」

 

 最後の言葉は主に憲秀に向けられたものである。総大将に言われてはもう抗弁しようがない。うなだれた様子で、憲秀は軽く頷いた。

 

「じゃ、解散!」

 

 強引に締めくくり、氏政は退出する諸将を見送りながら大きくため息を吐く。

 

「なんでこうなるのかなぁ……お姉ちゃんならもっとまとめられるのに……」

 

 自分の能力が足りないから、上手く諸将をまとめられない。北武蔵衆は政景や兼音、姉には従っているけれど自分はまだ不足していると思われている。統率力が足りないから憲秀を暴走させてしまう。氏照や氏邦のような頼りになる妹、或いは氏続・信基などの家臣を頼ってばかり。情けなくなってしまった。

 

 一人で泣きそうになっている氏政の元に近づく影。顔を上げると、政景が心配そうな顔で立っていた。

 

「あの、大丈夫ですか……?」

 

「あ、ごめんね。どうした?」

 

「いえ、それはこちらの言葉です」

 

「……駄目だなぁ。お姉ちゃんならこんな姿を見せないと思うんだけど。あぁ、でもお兄様は見てるか。アハハ、ハハ……はぁ……。総大将は失格だね」

 

「……私には、氏政様の苦悩は完全には分かりません。総大将の苦悩は、私のそれとは大きく異なると思います。でも氏政様は大将として相応しくないとは思いません。『己の至らざるを知り、他を頼れ』と義兄(あに)は言いました。義兄ですらきっと、そう思って生きているのです。私はまだ経験不足。偉そうなことは言えません。ですが、他を使いこなすのもまた総大将に必要な力なのではないかと、愚考いたします」

 

 精一杯言葉を考えながら、たどたどしくも政景は言う。困っている同じ年頃の少女が泣いているのを、放置できるほど彼女は酷な人間ではなかった。泣いている氏政の姿が、上手く行かないことだらけで泣いていたかつての自分に重なったことにも由来するかもしれない。

 

 この陣に、氏政そのものの味方はそう多くはない。多くの将兵は、総大将として氏政を見ているが、その本人に寄り添ってくれる人は少ない。これは上に立つ者の孤独であった。氏康の幸運は同じ視座に立て、寄り添ってくれる兼音がいたこと。そして氏政には今までそれがいなかった。

 

 それは凄く孤独なことなのではないか、と政景は思った。かつて河越に味方などいなかった自分と似ている。ふと、そう思ってしまったのだ。無論、自業自得でそうなった自分と、氏政とは違うと理解している。それでも、重なってしまった以上放ってはおけない。ここで放っていたら、友にも怒られてしまいそうだった。

 

「私などでよければ、幾らでもお力になります。どうか、ご自分を卑下なさらないでください。氏政様は氏康様にはなれないと思います。ならなくて良いとも思います。お二人は姉妹なれど、同じ人ではないのですから」

 

 義兄の受け売りですが……と言う政景。氏政は、その言葉に少しだけ救われたような気分になった。主に憲秀たち若手のせいで積み重なっていたストレスが緩和されたことが大きい。同じ若い世代なのにこうも違うのはやはり環境の差か、と内心で嘆息せざるを得ない。大国となったことが由来の驕りが確実に沁み込み始めている。それが氏政の危惧する所だった。

 

 「消え候わんとて、光増すと申す」という言葉がある。要約すれば滅びる前が最大版図かつ最大勢力であったという意味だ。この状況で滅んだ国は数知れない。例えばそう、まさに史実の北条家のように。そうなることを危惧しての氏政の配慮は今のところ、あまり実を結ぶ気配を見せていなかった。

 

 政景のおかげで少しだけ楽になりつつも、氏政の心は完全には晴れないままである。このままでは、どこか取り返しのつかないところで、取り返しのつかない失敗を犯しそうだった。何事も無く終わってくれればいい。そう思いながら僅かな眠りについた彼女は、数刻で叩き起こされることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、明け方にほぼ同時でやって来た複数の伝令によってであった。

 

「申し上げます! 安中城の安中重繁は城門を閉ざし、長野家の旗を翻らせております!」

 

「同じく国峯城の小幡憲重、一宮神社の一宮神太郎、高崎城の和田業繁、茶臼山城の寺尾豊後守、高山城の高山行重も同心して反旗を翻した模様!」

 

「箕輪城を占拠した我が軍は、水の手を断たれ佐竹・宇都宮・佐野率いる万を超える軍勢に包囲されております。このままでは、壊滅は必至。至急救援を!」

 

 未だ行方の知れない長野業政率いる数千の軍勢の去就も分からぬまま、氏政率いる一万四千は敵中に孤立することとなったのである。

 

 

 

【挿絵表示】

 

色無し=敵陣営

 

 

 

 

 

 

 

 

<時系列整理>

 

三月一日……氏康から長野業政に降伏勧告

 

三月二十日……業政、勧告を拒絶

 

三月二十三日午前……氏政・氏邦・氏照・政景らは鉢形に集合

 

三月二十三日午後……松田憲秀が鉢形に到着

 

三月二十四日日中……北条氏時率いる上野衆が集結し、箕輪城へ到着

 

三月二十四日午後……上野衆、箕輪城を制圧

 

三月二十四日夜……上野衆、包囲される

 

三月二十五日朝……上野衆が包囲された状況を氏政が受け取る。同時に、周辺が寝返った状況も把握する。




弘治大戦

かねてから予想されていたこととは言え、遂にこの時が来た。新たな鎌倉の秩序に従わない旧体制の残骸は、春の風と共に、古き秩序の埃に塗れた姿を取り除かれようとしている。坂東女王は既に裁可を下し、下知に従い万軍が動き出せば自ずと灰燼に帰すであろうと思われていた。

我らの奉じる新秩序の到来は疑いようも無いことであったが、我々の行く手は平坦とは言い難い。船を山に登らせるとの故事を知らず、小国は手を取り合う。蟻の一噛みが果たして巨象を怯ませるに足るだろうか? いずれにせよ、この戦いで最後の勝者が決まることは明白であろう。最早戻れぬ分水嶺の先に我々は進んだ。剣と血による、最終的解決を目指して。

賽は投げられた





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感想欄では聞けないけどメッセージ送るほどでも……みたいな質問あればどうぞ。他にも作品の事、私のことなら割と何でも答えるつもりです(定型文)
色々あってこれまでの答えられてませんが、ぼちぼち回答します。よろしければ。

次回はもう少し早めに出せるようにします。


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第116話 弘治大戦・Ⅰ


【挿絵表示】

色無し=敵陣営
薄水色=友軍


【挿絵表示】

関東勢力図


「どうなっておる……何故我らが、包囲されているのだッ!」

 

 軍議の場で呆然としながらも叫ぶ憲秀の言葉は、奇しくもこの場にいるすべての人員の心情を代弁していた。軍内に不和はあれど、ここまでは全て順調に進んでいた。この調子でいけば、問題なく勝利して経験値を積める。そういう理想的な展開で終了できるはずであった。しかしもはやそれは夢と化したのだ。

 

「今、どこまで分かっているの?」

 

「情報が錯綜しております。かくなる上は、今存在しているものを頼り行動を起こす他ありませぬ」

 

 氏政の問いに、垪和氏続は苦しい表情で言う。これまでの北条家は綿密な情報量で敵を圧倒し、時には裏をかき時には誘い出し、勝利を得てきた。これまでの必勝パターンが今や使えなくなっている。

 

「手を広げ過ぎましたな」

 

 ポツリと呟くように太田資正が言う。これはまごうことなき事実であった。多方面に手を広げ、人員は変わらないのに関東全土だけでなく周辺諸国まで諜報することになった風魔はそろそろキャパシティーオーバーになりつつあった。ただ、人員を急に増やせるものでもなく、だましだまし進行してしまった。急拡大する勢力に追い付けなくなっている。本来、北条家はもっとゆっくり拡大していく家であったし日本全国規模への諜報もしていなかった。だが歴史の変化は確実にそれを変えていた。

 

「取れる方策は?」

 

「現状を打破する必要があります。取れる選択肢はそう多くないと思いまするが……」

 

「一つはこのまま全軍で平井城まで退却することではないかと。平井城ならば大道寺周勝殿など、大道寺党を残しているので兵力が最低限いるはず。されど、これをすれば恐らく箕輪城は……」

 

 氏続の言葉を引き取って、綱成が口を開く。しかしながら、退却することが出来たとしても箕輪城を見捨てるという選択肢になる。

 

「もう一つはこのまま全軍危険を顧みず箕輪城へ向かうこと。しかしこれは失敗すれば壊滅必至。おそらく……半分も帰れないかと。成功しても沼田以北との接続を取り戻せるかは不明。どちらにしても最悪の中ではありまするが、それでも最善を探す他ないかと」

 

 留まるのは下策。であれば退くか進むかしかない。綱成の発言に誰もが唸る。彼女は一時期兼音に師事していたし、共に戦ってその戦術・戦略を学んでいる。ゆえに、発言には重みがあるし、彼女の武功や身分は十分に発言権を持っていた。

 

 迷っていられる時間は決して長くない。こうしている間にも、刻一刻と状況は悪くなる。

 

「後詰をしないっていう選択肢は無いよ」

 

 氏政の言葉に、どこか喧騒としていた陣幕内で一瞬の静寂が走る。総大将からなされた重い意思決定は、場の空気を静まらせるには十分であった。逃げるという選択肢は氏政にはない。姉である氏康も、河越城の後詰を諦めなかった。そのために今川を倒すべく半年を費やしたが、それでも必ず今川を破って河越城を助けるという意思を持っていた。

 

 後詰をしなければ、家は滅ぶ。武田の高天神城はこれが出来ずに滅亡の遠因になった。桶狭間は大高城の後詰から発生した戦いだった。織田信奈は数カ月前に水野家を救援した。決戦は往々にして後詰と共に起きる。それくらい、後詰という行為は戦国の世において重要な行為であった。それに、今回箕輪に籠っているのは北条氏時。氏政にとっては自らの叔父であり、一門衆である。これを見捨てるというのは、北条家の滅亡を意味する。

 

「氏照と氏邦、異論は?」

 

「ありません!」

 

「まぁ、しょうがないよね。良い結果をもたらすのは難しいけれど、ここで退いたら御家は終わりだし。負けは決まっていても、最悪は回避しないと」

 

「綱成はどう?」

 

「無論、異論はありません。黄備えは仰せの命を全力で遂行するのみです」

 

 氏邦は力強く、氏照は淡々と承諾する。総大将と一門が全員で了承した以上、従わざるを得ない。諸将の内心はどうあれ、強引ではあるが方針は決定した。早朝に報せを受けてから数刻が経過している。ここで再度出していた斥候が戻って来た。

 

「申し上げます! 敵、長野業政本軍はおそらく国峰城に入っていると思われます。数は四千ほど!」 

 

「国峰……回り込まれましたな。我らの退路を断つ目的であると心得る」

 

「腰兵糧はあるとは言え、長くはもちませんぞ。数日で決着をつけざるを得ませぬ」

 

「しかし、兵数も分からぬ佐竹や下野の軍勢を果たして破れるものなのか。長陣して勝機を探ることができない以上、短期決戦とするしかないのは……」

 

 口々に言葉が飛び出る。結論はまとまらないし、議論は長いままだ。同じところをめぐったりもする。明確に主導権を握れる人がいない。政景はこの場を見てそう思った。氏政はまだ経験値が足りない。氏続や大藤信基は他の将たちとの意見調整に忙殺されている。昨日まではうるさかった憲秀は無言のまま。主導権を取るべき人が今一つ踏み切れていなかった。

 

 綱成も戦略に特化しているわけではない。どちらかと言えば、命令を着実に遂行するタイプの指揮官である。やる方針が明確に決定しない状況においては、能力を十全に発揮できない。義兄とは言わない、せめて兼成か胤治がいれば。政景は心の底から思った。河越城の副将である兼成は兵糧差配や勘定差配が多いが、戦略もしっかりできる。胤治は言わずもがなだ。

 

 知っていたことではあれど、河越城の幹部がいかに優秀であるかをまじまじと見せつけられている。彼ら彼女らは兼音の下でなくても一国一城を任せられるに足る人材であり、己の置かれた環境はいかに恵まれたものであるかと言うことを、こんな時に学ぶ羽目になっている自分を、政景は少しだけ悔いる。もっと見ておけば良かった、そうすればこんな状況なんて華麗に打破して見せるのに、と。

 

「氏政様、恐らく長野は国峰城よりこちらの退路を断ちながら迫って来ると思われます。ここは彼らに地の利があります。後方から迫る彼らをどうにかしなくては、例え箕輪にたどり着けても挟み撃ちとなりましょう」

 

 大藤信基は苦しい面持ちで進言する。彼の言うようになってしまっては決死の行軍も意味をなさない。四千ほどは存在している長野軍をどうにかする必要があった。たとえそれが時間稼ぎでも構わないのだ。そうすれば、一時的でも箕輪城の包囲を解ける。僅かな時間でも包囲が解除されれば、城に取り残された軍勢が脱出し氏政たちに合流できる。そうなれば二万以上になり、数では連合軍に優位となるのだ。

 

 水分を補給すれば食料はあるので継続戦闘が可能になる。水の手を断たれていることが箕輪城にいる軍勢の最大の問題点なのだ。

 

「少数を残し、長野業政を食い止めねばなりますまい。その隙に本隊で包囲軍を突き、攻撃している間に城から挟撃させましょう。さすれば、連合軍に勝てずとも箕輪城にいる軍の状況は改善し、数の面でも有利になれまする。ここで決戦をすることも出来まするが、それでは時間がかかりすぎる。その間に、箕輪は渇いていく」

 

 言外に、誰を捨て石にするのか。提言した太田資正はそう氏政に迫っていた。ここで誰かを切り捨てられなければ、お前の器はそれまでだ。そう言う意思を強く込めて、歴戦の鋭い眼光が氏政を貫く。その氏政は迷っていた。仕方ないことであろう。少数で残すべき人員の選定など、総大将として初めての戦で行うような行為ではないのだ。だが迷っている間にも時間は失われていく。

 

 死地に、少数で、歴戦の老将を相手せよというのは死ねというのに同義だ。氏政の目が泳ぐ。誰もがその一挙手一投足を見ていた。誰がなるのか、誰を選ぶのか。その重苦しい空気は、或いは包囲されたという情報が伝わった時以上であるかもしれない。

 

「そんな……私は……」

 

「私が残ります」

 

 選べない。そう言おうとした氏政を遮るように、声が響いた。やや震えているが、けれど確かにその声は己が残ると宣言した。諸将の目が一斉に声の主へと向けられる。彼女はたった三百でこの戦に赴いた。本来は氏政の護衛をするべく派遣された存在である。その名は一条政景。河越衆青備え一条土佐守兼音の義妹である。

 

「私が、残ります。我ら三百で長野軍四千を引きつけ、本隊が箕輪へ向かう時間稼ぎを行います。それが貴殿の策でよろしいでしょうか、太田殿」

 

「……左様」

 

「であれば、なおのこと私が適任です。氏政様は総大将、氏照様・氏邦様・綱成様は一門衆、いずれも残すわけには参りません。大藤殿や垪和殿も譜代の重臣、松田殿は三家老、北武蔵の国衆の方々はいずれも今後の北武蔵統治に欠かせぬ御仁。大石家や藤田家のお歴々も統治には欠かせません。一番死んでも問題ないのは、私です。義兄である土佐守兼音がいれば一条家も青備えも問題ありません。義妹はまた別に迎えればいい。私が時間を稼ぎ、皆様が箕輪を救いに行けば、その分だけ我らに有利になっていく。後は江戸にいる氏康様と、私の義兄がどうにかしてくれるでしょう」

 

 目を伏せながら彼女は語った。一番死んでもいい存在。そんな存在などいるはずがない。だがもし選ばないという選択肢が許されないなら。自分がそうであろうと政景は思っていた。だからこそ志願した。選ばないという選択肢は亡国に繋がると判断したから。

 

「精一杯、時間を稼ぎます。次期当主たる総大将のお役に立ち戦場の露となったのならば、武門の誉れ。父も義兄も喜びましょう。遠山家の名も立つというもの。どうか、お命じ下さい」

 

「お待ちあれ、であれば某が残り申す」 

 

「否、この窮地を切り抜けるは我ら成田家にこそ相応しい」

 

「若き娘では不足であろう。不肖この太田資正が残り申す」

 

「戦働きはやや他のお歴々に劣りまするが、この上田朝直にお任せあれ」

 

 上杉憲盛、成田長泰、太田資正、上田朝直の四名が口々に政景を死地に送ることを防ぐべく声を張り上げる。彼女をここで死なせては、北武蔵衆の面目が立たない。兼音にどんな顔をして会えばいいのか。武蔵武士が命運を少女に託しておめおめと死なせたなどという風聞になれば、死ぬよりも恥ずべきことである。関東武士の血が、彼女を死なせてはいけないと叫んでいたのだ。

 

「いいえ、皆様はまだこれからの御家に必要な存在。そういうわけには参りませぬ。どうか、大局を見て私を残してくださいませ」

 

「しかし……」

 

「これでも遠山綱景の娘として生まれ、一条兼音の義妹となった者でございます。武家と生きる決意をしたその日より、覚悟はできております」

 

 食い下がる資正に政景は答えた。その額には汗がつたい、手は震えている。それでも、目だけは真っ直ぐ前を見ていた。その目には確かに覚悟が決まっている。彼女は他の若手とは違う。雪の信濃に、氷漬けになった死体を多く見た。激流の千曲が血で染まったのを知っている。地獄と形容するのが相応しい龍虎激突を体験している。経験値が違う。

 

 誰も言葉を発せない。この覚悟を見て取ったからだ。綱成や北武蔵衆は瞑目しながら、唇を噛みしめる。年下の姫に殿を任せて行かねばならないことへの後悔と忸怩たる思いが彼等を満たす。それ以外の将も、その悲壮なまでの意思を目の前にして、ただただ沈黙するしかなかった。氏政は決断を迫られる。自分の理解者になってくれるかもしれなかった存在を、ここで切り捨てる決断を。

 

「当家も残る」

 

 ポツリと呟いた男がいた。これまで黙り続けていた松田憲秀。若手の筆頭が声をあげた。陣幕内がざわめく。彼がこのようなことを言うというのが信じられなかったからだ。彼の後ろにいる若手も驚愕した目をしながら、彼を見ている。正気を疑う表情をする者が多い。彼らの目的は戦果を挙げること。こんな死地で決死の戦をすることではない。

 

「ま、松田様!」

 

「何を申しておられるのです」

 

「ここに残れば、その御命が……」

 

「黙れッ!」

 

 憲秀は後方で叫ぶ朋輩に怒鳴る。下を向き、両手の拳を握りしめながらの言葉であった。

 

「この作戦を立てたのは誰だと思っている! 氏康様に最初に進言したのは誰と思っている! こんな、こんな結末で終わってみろ、こちらの面子はどうなるっ! 分かっている、嫌というほどわからされた。俺に煌びやかな才はない。才人はもっと違う奴だった。だが、己よりも年若き者を残して逃げるほど、落ちぶれてもいないわッ!」

 

 上野を攻めるべきと言った自分の進言が発端で、この事態を招いた。憲秀の中には、そのことへの恐れと焦り、そして悔いが満ちていた。そこに政景の覚悟を見た。ここで何もしない選択を取るのは容易だった。しかし、それではもう何者にもなることはできない。少なくとも、面子は立たない。若さゆえの、ある意味では無鉄砲で馬鹿馬鹿しい判断だ。だが、彼のこれまでの行いの中で最も誰かの心を動かすに足るものであるのは事実だった。

 

「俺は一人でも残る。家中郎党朋輩、氏政様と行きたい者は行くがいい。それは逃亡ではない。次の戦への一手だろう。だが俺はここに残る」

 

「お覚悟はありがたく思います。ですが、どうか貴殿も氏政様と共に行ってください」

 

「しかし!」

 

「ハッキリ言えば、足手まといです。それに下野勢と対峙するには数が肝要。一人でも多く行くべきと存じます」

 

 敢えて憲秀を貶し、そうすることで自分と共に心中する選択肢を排除する。それが政景の発言の意図であった。

 

「それに貴殿は三家老家の当主なのです。当主が討ち死と相成れば、それこそ御家の一大事。氏政様、ご決断を」

 

「……一条政景に命じる。この地に留まり、その兵で以て長野業政を足止めせよ。松田憲秀は私と共に来ること。ここに残ることは許さない」

 

「はっ!」

 

 政景は小さく頭を下げる。はらりと垂れた髪に隠れ、その表情はうかがえない。だが、身体は小さく震えている。言ってしまったが、本当に命令されると死への恐怖が襲ってきた。だが今更覆すことはできない。一応勝算が無いわけではなかった。取り敢えず足止めをし、その間に本隊が箕輪城籠城部隊を開放してくれればいいのだ。憲秀はクソっと小さく呟きながら、それでも総大将の命令に服した意思表示として頭を下げた。かくして、北条家の本隊の行動は決定した。

 

 打開策は用意できたが、諸将の顔に明るい色はない。唇を噛みしめながら、彼らは転進準備を始めた。

 

 

 

 

 

 

「ごめんなさい……」

 

 小さな声で、政景は自身と共にこの戦役に参加した大井貞清に謝った。貞清からすれば最悪な話であった。元々総大将の護衛という楽な仕事であると思っていた。戦働きをすることなく戦果を報告できる美味しい役目であると。しかしながらその目論見は崩壊してしまう。政景が勝手に陽動作戦に志願したことが原因であった。

 

 寝耳に水なこの話。しかし彼も武功を求める武士。こうなっては仕方がない。ここで逃げ出しては武士の恥。それに、彼は一度武田家から逃げてきた身であった。もう一度ここで逃げれば、政景がどういう結末になろうとも二度と仕官は出来ないだろう。それどころか、追討軍を差し向けられて、草の根かき分けてでも探し出されることは必定。義の武将という長尾景虎ですら引き取ってはくれないだろう。

 

「かくなる上は致し方ありますまい。総大将を御守りし、北条の御家を守るためには誰かが捨て鉢となる必要があり申した」

 

「せめて、貞重だけは……」

 

「否、大井家には次子の貞景がおりまする。貞景はまだ若く、この戦には連れてきていません。ゆえに、家が絶えることはありませぬ。ご案じ召されるな」

 

「本当に……ごめんなさい。ここでどうなろうとも、必ず義兄上は大井家を厚遇してくれるはず。それがせめてもの罪滅ぼし。それに……一応方策は考えてあるから」

 

「如何なる計をお使いになりまするか」

 

 貞清が尋ねた時、ガチャガチャと鎧の鳴る音がする。陣幕の向こうから、長い槍を持った若い男が数十の兵と共に顔をのぞかせた。

 

「その話、当方にもお聞かせ願えますかな」

 

「貴殿、どこの家中の者であるか」

 

「某は成田武蔵介長泰が家老、正木丹波守利英。我が主より、政景様に加勢するべしとの命により参陣致した。某がまとめ役を担ってはおりますが、臨時の麾下として太田・上田・上杉などの家中より将兵を数十ずつ預かっておりまする。ゆえに、我は総勢で七十五名。いずれもここに露となる覚悟を決めた兵でござる。どうか、お使いあれ」

 

「誠か! 政景様、心強い味方が来てくれましたぞ」

 

 貞清に言われるまでもなく、政景は歓喜していた。流石に三百かそこらでは戦力に不安がある。七十五人でも増えれば立派な戦力だ。四百弱と四千で兵力差は十倍。だが、それに勝った例は存在する。ならばやれる……と勝率が上がったくらいにとらえていた。

 

「感謝申し上げます」

 

「それで、政景様の策とは」

 

「我らの役目は長野隊を引き付けること。そして奴らにも弱点はあるはず。恐らくだけれど、彼らは寄せ集めの国衆が中心。となれば、陣形を崩すも容易い。そのために、我々は虚偽の敗走を行うの」

 

「しかし、敵は乗って来ましょうか」

 

「そのために……これを使う」

 

「これは?」

 

「総大将・氏政様の兜。これを使って、氏政様がこちらにいると偽装させる。目的は同盟国である武田領への撤退。碓氷峠を目指していると誤解させ、長野軍を追撃させる。敵に、どちらに氏政様がいるか見分けることはできないはず。目の前の脅威を排除するべく、業政本人が望まずとも配下が襲いかかってくる。四千の内、半分でも引き付けて時間を稼げれば上出来。そして私たちは実際に碓氷峠を目指して走るの。武田領に逃げ込めば……後はどうにかなるはず」

 

「どのような道筋でお進みになりまするか」

 

「碓氷川をさかのぼる形で、谷間の隘路を通る。そうすれば、敵は大軍を布陣できない。少数対少数ならば、こちらにも分があるはず……」

 

 碓氷川近くは谷間になっており、現代でも大軍が布陣出来るような場所ではない。後方から迫る敵軍を漸減邀撃しながら撤退するには最適な地形であった。後は怖いのは落ち武者狩りのような農民集団であるが、流石に数百の軍勢に吶喊してくる農民はいない。

 

 軽井沢まで抜けられれば、小諸城はすぐそこだ。その近くには真田家などの小県郡の武将たちも割拠している。いずれも武田家中の人間。しかも政景は先の川中島での戦いに参戦し、武田家の諸将と共闘している。迎え入れてくれることは明白だった。

 

「何としてでも釣りだして見せましょう」

 

 政景の言葉に一同が頷く。本隊が危機を打開するには、彼らがどれだけ奮戦できるかにかかっていた。

 

「申し上げます! 本隊全軍、駆け足で方向を転換。全軍で箕輪城へ急行しています」

 

「分かった。では、やるしかないわね……」

 

 政景は震える手を握りしめながら、立ち上がる。土煙が立ち昇り、全軍が転進を始めていた。それを見送りながら、彼女はこれが最後の機会であると自問する。まだ逃げられる。己の命だけを優先すれば、まだ。だが、それは出来ないと自答した。自分は一条土佐守兼音の義妹にして、遠山尾張守綱景の娘。逃げ出すわけにはいかない。それに、そんなことをして生き残った自分をこの先きっと許せない。

 

 彼女の目の前には、この地で死するかもしれない三百七十五名の兵が立っていた。いずれも、壮観な相貌をしながら、闘気と纏わせ槍を持っている。彼らにどんな言葉をかければいいか、政景は分からなかった。だが、義兄ならどうするだろうか。その考えが彼女の脳内によぎる。己の義兄ならば、どんな言葉をかけるだろう。その思考法をトレースしていく。近くで見続けた、関東最強の男ならば……と。

 

「此度の戦、生き残れはしないものと心得よ。皆、逃げたいならば逃げると良い。誰も咎めはしない。これは、我らの至らなさにより引き起こされた危機であるから。けれどもし、この地に骨を埋めるとも名誉ある戦を望むならば、私と共に来て欲しい。この先に待つのは、死と隣り合わせで、泥を啜り雨風に晒されるとも逃げ延び続ける戦いである。だがもし皆が勇壮にして、勇敢にして、武名の誉れ高き関東武士ならば、この坂東に生まれた勇者ならば、その流れる血が為すべき使命を知っているはずだ! 総大将は、北条家は我らを必要としている。いかなる結末に終わろうとも、我らの血族は百年の栄華を得、我らの名誉は千年に報われるはずだ。大義の為に散った猛き者の名は、万年に渡り語り継がれるであろう。その栄誉を得たい者は私に続け! いざ行かん、兵士諸君。我らの手で、老虎の首を狩ろうではないか!」

 

 少女の渾身の叫びが響き渡る。名誉。それは戦場に出た全ての者が欲する称号。確かに、兵は金目当てで来ている。給料が高いからこそ、河越衆は精強である。他家の兵も、禄を食んでいるからこそ来ている。だが、金だけで人は動くのか。それは否である。武功、名誉、誉れ。それらが男たちを突き動かす。

 

 勇ましき少女に負けていられるかという、戦場の高揚と男としてのプライドが彼らの闘志を燃やさせる。一条政景の放った言葉は、確かに彼らを動かした。普段より、それこそ兼音よりも親密に市井の者や一般兵士に接しているからこそ彼女は理解していた。金は必要だが、それだけでは軍隊は強くならない。必要なのは、名誉を用意すること。奇しくも、フランスが生んだ天才・ナポレオンと同じ思想にたどり着きつつあった。

 

「「「「応っ!!」」」」

 

 呼応するように響き渡る、数百の怒号。彼らは猛っている。それは或いは、少女を守り生かすために戦うという騎士道の発露であったのかもしれない。

 

「全軍、前進せよ!」

 

 政景の号令で軍は動き出す。目標は国峰城。そこで行動を起こそうとしている長野軍四千を引きつけ、本隊と反対の方向に持っていく。その絶望的な陽動戦が始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 朝靄の煙る武蔵の大地。その中心部に位置する大都会河越。不夜城と謳われる大城塞都市も、朝ともなれば静まり返っている。喧騒激しい商業区画も、夜通し灯りの灯る遊郭も、子供の声が響く神社や路地裏も、今は無音のままだ。

 

 うっすらと空が白む中、まだ寒い縁側で大きく伸びをする。コキコキと肩を鳴らして桜花のほころび始めた庭を眺めた。政景は出征したが、銃後は平穏そのものである。

 

 武家の朝は早い。四時起きだ。尤も、寝るのも夜の十時くらいなので最低限六時間は確保できている。これくらいは寝ないと、流石に身体がもたない。早雲公の家訓の中にもさっさと起きてさっさと寝ろという趣旨のものがある。早寝早起きで健康的な生活リズムを作ろうということなのだろう。

 

 そして、着替えを済ませれば鍛錬を行う。その後、大体六時半ごろに朝食だ。寝るのが仕事の子供に合わせて少し遅めに設定してある。この時間ならばあまり身体の成長に影響がないと踏んでの判断である。それに、基本一日中仕事している兼成などは泥のように寝ているので、四時に起こそうとしても全然起きない。なので、こうしているのだ。ついでに言えば、作る側の負担も考えている。

 

 鍛錬を終えればちょうどいい感じの時間になっている。城に住んでいる面子は基本揃って食事をすることになっている。その方が効率的だし、会話してコミュニケーションを取ることもできる。家族のいない人間の寄せ集めである河越では、こういう部分から団結を作っていきたいと考えての判断だ。

 

「おはようございます」 

 

 皆を代表して、兼成により挨拶される。これもまぁ、別にやらなくてもいいのだけれど挨拶は大事なのでやっている。身分制社会の強いこの時代、現代以上に上下関係をはっきりさせておかないといけないのが辛いところだ。

 

「あぁ、おはよう。皆、大事なさそうだな。しかし、朝に弱い政景は今頃しっかり起きているだろうか」

 

「まだ夢の中やもしれませんわね」

 

 ハハハ、と笑いが起きる。いつも五月蠅いくらい存在感のあるので、いないといないで喪失感がある。なんだかんだあの子も受け入れられているのだろう。この笑いは、そういう喪失感をかき消すためのもののように感じた。

 

「さぁ、食べよう」

 

 本日のメニュー……と言っても毎回あんまり変わらない。麦飯、汁物、野菜の煮物、魚の干物、漬物である。超質素である。市井の商人や豪農の方が多分良い物を食べている。今川家出身のお嬢様や、関東管領が食べる食事ではないのだが、あまり豪華な食事をする予算もない。なので抑えられる場所は抑えているのだ。

 

 とはいえ、兼成は私と生活していた頃に慣れてしまったようだし、胤治は元々こんな感じだったらしい。さぁ食べようと思っていた矢先、ドタドタと慌ただしく音が響く。

 

「なんだ、朝っぱらから騒々しい」

 

 私の言葉と前後するように、広間に駆け込んでくる人物が一人。杉山城に派遣して、前線との連絡役を担わせていた左近だった。激しく息を切らしている。おそらく私が起きたのと同時刻くらいに城を出て、駆けてきたのだろう。

 

「どうした、何があった」

 

「ご主君、大変なことになりました。先ごろ、鉢形より伝令が入り、箕輪城が包囲されたと」

 

「どういう意味だ。敵城を包囲して、何の問題が?」

 

「北条氏時様率いる上野衆が箕輪を囲んだ際、空き城になっていたと。これは好機と占領したところ、水の手は断たれており、気付いた際には時すでに遅く佐竹・宇都宮・佐野らの連合軍が一万とも、それ以上とも分からぬ軍勢で包囲していたと。現在、上野衆の八千は文字通り敵中に孤立しております!」

 

「偽報の可能性は」

 

「恐らくないかと。入念に確認は行いました」

 

「……分かった。非常事態と判断する。兼成、全軍総動員だ。皆を叩き起こせ!」

 

「承知いたしました」

 

 マズいことになった。朝飯をのんびり食べている場合ではない。腹に適当に詰め込むためにガーっと掻きこんで立ち上がる。

 

「兼成、すぐに動けるように物資の差配を頼む。左近、悪いが休んでいる暇はない。すぐに動けるようにせよ。胤治はこれから戦略を話し合う。事態は一刻を争う。総員己の職掌を正しく果たせ!」

 

 城内にガンガンガンと鐘の音が響く。非常呼集の際に鳴らされる鐘だ。普段の動員はもっとゆっくりしたものであるが、万が一の際に緊急で軍を動員するための措置である。これは城下町でも鳴らされ、音を伝播させる形で城外の農村にも響く。すると、その農村の者も鐘を鳴らしたり狼煙を挙げて他所に知らせる。普段は常備兵だけでどうにかしているウチの軍隊だが、それでも足りなそうな場合は農兵を招集する。この非常時呼集は農兵も招集するので城外に分かるようにするのだ。

 

 常備兵で三千、農兵で千ほど。他にも警邏隊が五百ほど。これが河越に残っている全戦力だ。農兵はもっと出せるが、それ以上やると国家が破綻する。これでも限界に近い数なのだ。兵糧や武具も限りがある。十全な状態の軍隊にするためにはこの四千五百に政景の三百を足した五千弱という数字が最大と思って良い。

 

 慌ただしく城内外が動き出していく。城下町に人の気配がぐんと増えた。呼集に合わせ城下も動き出していく。非戦闘員には非戦闘員の役目があるのだ。にわかに騒がしくなった朝の空気を感じながら、絵図や資料を広げる。上野はこちらの担当ではないから、最低限の情報しかないのがつらかった。

 

「朝定……いや、関東管領上杉朝定様」

 

「は、はい」

 

「今この時において、一時河越城をお返し申し上げる。我らの出陣中にこの城を託したい」

 

「承りました。必ず、留守を守ります」

 

「頼みます」

 

 元々は朝定の城なのだ、問題はないだろう。今回は電撃戦がカギとなる。出し惜しみはしていられない。将として使える人間は全部出す。当家の副将でもあり筆頭家老でもある兼成を出さないということは、戦力面からして出来ない。全員連れて行って方を付ける必要があった。

 

 そして戦力は存在している。成田甲斐率いる警邏隊は、こういう事態の際の非常兵力として養成していたのだ。ただの治安維持機関ではない。朝定もそれは承知しているので、文官連中と警邏隊に指示を出すべく走っていった。残されたのは胤治と私だけ。こんな事なら段蔵を越後へやるんじゃなかった。失敗したと悔やむが、後の祭りだった。

 

「胤治、江戸にいる氏康様の指示を待っている暇はない。取り敢えず我々だけで動く」

 

「よろしいのですか」

 

「構わん。五色備えはそういう役割もあるのだ。ダメだったとしても腹切って詫びればいい。今はかかる事態の解決が最も優先すべきことだ。しかし下野に佐竹まで動かしたか。この絵図、誰が描いたか知らんが相当に大きな戦略眼を持っていると見える。……おそらく里見義堯か佐竹義昭だろうな。我らには如何なる戦略がある」

 

「はい。まず第一に上野へ援軍へ馳せ参じること。これを行えば、箕輪城の包囲を解くことができます。しかしながら、そこに至るまでに存在している城のうち、どこが寝返ったのかは分かりません。襲撃を警戒しながら進めば速度が落ち、我らの強みが消えます。第二に、古河城の多米様と合力し佐竹領へ進行すること。こうすれば包囲軍の主力たる佐竹を退かせることができますが、小田家に背後を突かれる可能性が高いかと。また、此度の絵図を書いたものが小田家を使わないとは考えにくく、恐らくは今頃結城城方面に迫っているかと。結城家と古河城はこれに応対するべく時間を取られるでしょうから、現実的とは言えませぬ。第三にこれが本命ですが……下野を陥落させます」

 

「下野を、か。唐沢山など、どこかの城ではなく?」

 

「はい。下野の諸将一人一人が出せる兵は多くありません。それでも出兵している以上、恐らく唐沢山や宇都宮などの堅城も少数だけが守っているかと。佐野・小山・足利長尾・宇都宮・壬生・皆川・芳賀・日光など多くの勢力が割拠しており、今まで後回しになっていた下野をまとめて叩き潰す好機でございます。また、事実上こちらの影響下にある白河結城を使い、那須などの牽制を行わせれば……一気に叩けるかと。さすれば、佐竹も下野連合軍も共に補給と退路を断たれ、厳しい戦況を強いられるは必定でございます」

 

「なるほど……」

 

 実際、彼女の考えは私と同じであった。恐らく古河や結城は動かせない。もし私ならば小田家を動かす。そして里見家も。里見がどう動くかは分からないが、恐らく海上で鎌倉や小田原、三崎などを急襲。あくまでも占領はせず放火などをして戦意を削ぎ、本隊は陸上で決戦と言う流れだろう。氏尭様が佐竹の残存兵力や小田家に注力するならば、相手をするのは遠山殿や江戸城の太田康資、千葉家や原家、そして江戸城にいる氏康様の本隊となるだろう。

 

 我々は比較的どの戦線にも近く、どう動くかは御家の趨勢を左右する可能性が高い。賢く動かねば、それこそ北条家全体に危機をもたらす。政景や氏政様が心配ではあるが、ここは戦局全体を見て下野を陥落させるしかないだろう。

 

「分かった。第三の策を採用する。下野へ出陣し、国一つ落として包囲軍の退路を断つ。至急、詳しい作戦を用意せよ。街道の地図もあるはずだ。急ぎつつ、然れども焦ること無きように」

 

「はっ! しかし、随分と大きな絵を広げたものですね。まさか本拠地を餌にするとは」

 

「功を逸る者には眩しかろう。されど、それに目をくらませたが最後とはな……。中々に釣りを心得ている者が策を練ったようだ」

 

「ですが、長野業政本人が包囲軍の中にいないのが気がかりです」

 

「それよ。恐らく、業政本人は氏政様を狙いに行った。氏時様よりも大きな、当主の妹にして次期当主。一門衆の中でも最も大きな首。これを得れば、形成が逆転しかねない。そうさな、恐らく退路を断つべく……国峰か鷹巣辺りに布陣したであろう。私ならばそうする。その上で箕輪へ後詰に行けないようにして、氏政様を討つ。さすれば、当主の妹が敗戦し後詰も出来ないという状況だ。北条の名声は地に堕ちる。嫌な手だ」

 

「政景様は大丈夫でしょうか」

 

「分からん。変なところで思い切りが良いからな。とち狂ったことをし始めないと良いのだが……。この状況から氏政様が脱するには、逃げるか箕輪へ行くしかない。だがそれには長野軍が邪魔……となればできることは二つか」

 

「軍を分け、片方を陽動にして長野軍を釣るか、或いは決戦か」

 

「そういうことだ」

 

 どちらにしてもリスキーでしかないが、これ以外にパッとは思いつかない。どっちも包囲されているとか、スターリングラードより酷いぞこれは。このままでは我々がドイツ軍になってしまう。何とかして包囲を解除するためには、やはり下野をどうにかするほかないだろう。

 

「出来ることは全部やるしかあるまい。背に腹は代えられぬ。武田にも援軍を要請しよう」

 

「命じられぬ外交を個人で行うのは越権行為ではありますが」

 

「かかる危急の事態にそんな事を言ってもいられまい。川中島での借りは返してもらおう。戦支度が整うまでどれほどかかる」

 

「一刻はかかるかと」

 

「遅い。半刻とは言わぬが、可能な限り早くせよ。私はその間に武田への書状を書く」

 

「承知いたしました」

 

 胤治も急いで準備を行う。参謀の仕事は作戦を立てることがメインだが、当然それ以外にも色々と多岐に渡る。補給と物資は兼成が担っているが、それでも彼女の仕事は多い。それでもよくやってくれている。感謝の念に堪えない。

 

 しかし状況は最悪だ。だが、まだ壊滅したわけではない。巻き返せる目は残っている。各々が最善の行動を尽くせば、逆転の目はあるだろう。もし上手くいけば、上野・下野両国が手に入り、佐竹・里見を弱体化させられる。桶狭間が近い。こんなところで停滞している場合ではないのだ。今川を分割し、奥羽を下し、越後と甲斐を臣従させ、永禄の変に合わせて足利義輝・義昭と義栄を殺害し、晴氏に将軍になってもらう。そうすれば、室町幕府正当政府はこちらだ。これを使えば、織田家とも渡り合える。

 

 そのためには、ここで負けるわけにはいかない。筆を執り、大急ぎで武田への書状を書いていく。碓氷峠より上野に入り、氏政様の部隊を救援してくれるように、と。どれほど時間がかかるかは分からないが、武田は拙速を尊ぶ。恐らく、数日以内には援軍が上野国内に入ってくれるはずだ。動いてくれるかどうかも賭けであるが、私の理解した武田晴信像に賭けるしかない。何とか動いてくれと願いながら、筆を進めた。




勇者たち

恐るべきことだ。

我らの歩みを妨げる小さな虫けらはその巣穴より這い出て顎を我らに突き付けた。夜にしか生きられぬかの如く小田原より響く威光に隠れ伏すばかりであった存在の思わぬ抵抗は、新体制に対して不本意ながらも確かにその抵抗性を示している。しかしながら、巨象は倒れることはない。我らはその精強なる幾本もの手足によって迫りくる脅威を全て払いのけるであろう。

土佐守の名の陰に隠れ、一条政景の存在はさほど知れ渡りはしなかった。然れども、今この時においてその勇敢さが彼女を護国の英雄にしようとしている。彼女がどのような成果を挙げるのかは分からないが、その献身が少なくとも無駄であったとはならないような戦局に、ことを運ばねばならない。

駆け行く375の勇者が奏でる行軍の吐息は、上野を吹き荒れる北風により確かに南の地へと運ばれた。壊れ行く老いた虎の最期の軋みとも言える攻勢は、それの最も忌むべき敵を叩き起こす。偽りの勝利に酔う咆哮が鶏声の如く頭蓋に響き渡った関東最強が、その安穏たる眠りを妨げる者を叩き潰すことに疑いはない。放たれる光は、そして我らに立ち塞がった夜しか生きられぬの虫けらを焼き尽くすであろう!

そして、太陽は昇る




遅くなってごめんなさい。これから感想返信もします。ちゃんと読んでますし、いつも参考にしてますし、励みになってます!ですので、ドシドシ下さい!!クリスマスプレゼントってことで、ね?待ってますよ!


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第117話 弘治大戦・Ⅱ


【挿絵表示】

色無し=敵陣営
薄水色=友軍


【挿絵表示】

関東勢力図


 東西南北に広がる坂東。その中央部に位置する武蔵江戸城。今日には東京と名を改め、一億人の住む国家の首都たるこの地には現在北条家当主である氏康が入っていた。現在行われている上野侵攻作戦に際し、何らかの問題が起こった際や戦後処理を行う際に近場にいるべきであるとの判断であった。そしてこれは、思わぬ形で功を奏することとなる。尤もそれは、彼女にとって最悪の形であったが。

 

 一条兼音が下野へ向け出発した数刻後。江戸城にも多くの情報が届けられる。それは上野からのものだけではなく、文字通り関東全土からのものであった。分散してしまった風魔であるが、その分の数少ないメリットとして大局を把握するに必要な情報は入って来るという面がある。それが活かされていた。

 

 今回の戦はそう難しいものではないだろうと思い、江戸の海を眺めながら政務を行っていた氏康の元に幻庵が駆け込んでくる。

 

「お、お嬢、一大事じゃ!」

 

「どうしたの。腰でも逝った?」

 

「そんなこと言っとる場合ではない。方々から報告が上がってきておる。どれも悪い報告じゃ。心せよ」

 

 軽口を飛ばしている場合ではないと察した氏康は真剣な眼差しに変わる。いつでも不測の事態と言うのは起こりうるもの。しかしながら、今回のそれは彼女の予測を超えていた。

 

「まず、箕輪城へ向かっておった氏時と盛昌率いる六千が包囲された。箕輪城を敢えて空き城にして餌とする戦術であろう。まんまと嵌められたようじゃ。水の手は断たれ、そこに敵が襲いかかって参った。その数、詳細不明なれど一万以上。敵将は佐竹義重、宇都宮広綱、芳賀高定、佐野豊綱、足利長尾当景、他宇都宮配下の国衆多数じゃ」

 

 佐竹が来たこともさることながら、下野勢が合力しているということが信じられない事であった。下野はこれまで群雄割拠の乱戦状態。河越夜戦の時ですらボイコットを決め込んだ勢力がいたくらいには乱れていた。それを恐らく佐竹がまとめたというのは、にわかには信じがたいことだったのだ。

 

「それだけではない。結城家の氏尭よりの報では佐竹義昭・小田氏治・小山秀綱の連合軍が五千ほどで攻めてきておる。千葉と遠山の報では里見義堯率いる一万五千が亥鼻城に接近中、綱高によれば里見水軍が相模湾を目指し進軍中であるとのことじゃ。河越を超える危機ぞ、我らは多方面からの戦闘を仕掛けられておる!」

 

「里見が……ついに動いたのね」

 

「最後にもっと悪い報告じゃ。上野の多くの国衆が離反した。安中や和田、桐生などが該当する。これにより、氏政・氏照・氏邦・綱成らの率いる一万四千が上野国内で敵中に孤立したことになる」

 

「そんな……そんな、嘘よ!」

 

「嘘ではない! 現実を直視せよ、氏政も、他の多くも死に瀕しておるのじゃぞ!」

 

「いやぁぁぁ!」

 

 叫びながら氏康は倒れ込む。胃の中の物が逆流しそうであった。目の前が真っ暗になる。

 

 上野の兵は動かせず、相模・伊豆の兵も里見水軍対策に使用しなくてはいけない。残る兵力の内、武蔵と下総の兵だけで里見に当たらないといけないが後者は小田軍などにも対処しなくてはいけない。事実上、自由に動けるのは武蔵中央の河越衆と甲斐国境の三田家などのみ。自身の率いる一万弱も江戸城にいるが、これをどこに振り分けるかで御家の趨勢が左右される。

 

 それに何より、氏政を始めとする大切な妹たちが包囲されている。この状況では、いつ死んでもおかしくない。頼れるはずの存在も、側にいない。これまでに存在した幾つもの危機を颯爽と解決してくれた人は、ここにはいないのだ。その事実もまた、認識した途端に彼女の心労を増やしていく。

 

 しかも、この事態を招いたのは自分だった。氏康の敷いた円滑な統治体制は、一度軍を起こすとその編制がある程度読めてしまうという最悪の弱点を伴っていたのである。それさえ読めれば十分と、長野業政や里見義堯は誘い出す策を考えた。結果として、次期当主を始めとする一門衆の大量殲滅を狙った作戦の敢行を許してしまった。しかも三家老など重臣の動向も読めてしまう。このままでは三家老からの二人討ち死が発生しかねない。そうなれば御家はおしまいだ。家臣団もガタガタになってしまう。最早、二度と関東の覇権はうかがえないだろう。

 

「私が、私がこの事態を……そんな、嘘よ。私はただ、禄寿応穏のため、円滑な統治を敷いて、そうすれば……そうすれば理想の実現に近づくと……」

 

 彼女の統治方法は間違ってはいなかった。ただ、それは関東内部に外敵を抱えた状態でやるべきものではなかった。関東はその外縁を山々に囲まれている。その外からの敵ならば、対処に時間を作れる。だが内部の敵ではそうはいかない。結論、彼女は急ぎ過ぎたのである。敵を抱えた状態で行うべき統治から、敵を排除した後の安定期への切り替えが早かったのだ。

 

 妹も、家臣も、愛する人も。何もかもが失われる恐怖が一気に襲ってくる。だが、得てして英雄の真価と言うものは危機の中において発せられるもの。ここで折れていては北条家当主の名が廃る。自分が折れてしまっては、いよいよもってその悪夢が現実になる。何とかできるのは、当主である自分しかいない。これまでだって幾度も危機を乗り越えてきた。今回も、そうするしかない。今にも吐きそうなのをこらえ、彼女は自身を案じる幻庵の手を掴みながら再び立ち上がった。

 

「第一優先は包囲の解除。里見や佐竹は足止めしながらでも構わないわ。その間に、何としても箕輪城と上野国内に孤立した軍の包囲を解く。これが先決よ。その旨を河越に。どうせ武田とかに情報を飛ばしているんでしょうから、それも使って救援させるように。元忠と古河衆は出陣して結城城に。籠城の支度を。結城城を下さない限り、奴らは南下できない。結城武士団には……結城合戦の再来なるぞ、と伝えなさい」

 

「委細承知」 

 

「水軍に関しては、信為と綱高で対処できるでしょう。伊豆衆や駿東の兵も全部出して。もし足りないなら、駿河に援軍要請を。対価の交渉は任せると伝えて。全て当主の追認とする旨も。大事なのは小田原と鎌倉。この二都市を守るのよ。晴氏は?」

 

「玉が動くは最後である。これは現体制に対する挑戦、すなわち余に対する挑戦であると言うておる。現在鎌倉にて籠城する構えじゃ。小田原に残した為昌らが鎌倉の防衛をするべく由比ヶ浜に展開しておる」

 

「よし、良い判断ね。玉を守れればそれでいいの。晴氏が逃げないのは予想外だけれど……士気高揚に使えるわね。危なそうなら小田原か津久井まで退けばいいわ。とは言え、鎌倉だけは守らなくては。父上の再建した町を、もう一度焼かせるわけにはいかない」

 

 そして、この言葉の裏には当然敵はそれを狙ってくるであろうという考えがある。鎌倉やその象徴たる鶴岡八幡宮は一度里見軍により焼き討ちされている。それを再建したのが先代の氏綱であった。巨額の資金を投じて復活させた、まさに民政を重んじる北条家の象徴とも言える事業。これを破壊できれば、その権威は失墜する。里見義堯が狙わないはずも無かった。

 

「景宗などもおる。上手くやってくれようぞ」

 

「そう期待しましょう。小田原の留守居は……引退したばかりで申し訳ないけど盛秀を使いましょう。それと、直勝と康資を呼んで。ここ江戸城にいる兵と、綱景の葛西城・千葉家の本佐倉城の兵を合わせて里見義堯に対峙するわよ」

 

「決戦の地はいずことなろうか」

 

「亥鼻には間に合わないでしょうね。となれば……敵の狙い次第だけれど、彼らが房総制覇を狙うならばまずこちらとの接続点を切りたいはず。葛西城を狙うでしょう。そうなると決戦の地は……因果なことね」

 

「国府台、と言うわけか」

 

「恐らくは。まだ決まったわけではないけれど」

 

「相分かった。全ての命、漏らすことなく各人に伝えようぞ」

 

 幻庵は頷くと、急いで退出する。風魔は今回の件で失態を演じてしまった。その名誉挽回の機会はここしかない。一日でも、一時間でも早く情報を伝える。それだけが今できる最善の行動であった。

 

 氏康はひとまずの方策を立てられたことに安堵しながらも唇を噛みしめる。里見か佐竹か長野かは分からないが、壮大な絵図を描かれた。これで越後が来ていたらいよいよ終わっていただろう。そうならなかったのは武田のおかげであった。これには感謝せざるを得ない。

 

 水軍が片付けられればその兵力もこちらに回せる。そうなれば、里見に優位に立てるし結城城へ援軍を送れる。上野の軍は兼音ならばどうにかしてくれるだろう。その強い信頼感に裏付けられて、彼女は一息つくことができていた。その信頼する相手が現在下野方面へ進軍中とは思いもよらず。

 

 落ち着けても顔は青白いままだ。生来薄い彼女の肌は、今にも血管が浮き出てしまいそうなほど白くなっている。嫌な想像をしないようにして必死に頭から追い払う。氏政や妹たちが死体になって返って来る光景。小田原や鎌倉が燃え落ちる光景。自身の愛した人が大敗する光景。守り抜いた国が、壊れていく光景。幾つもの地獄が彼女の頭に浮かんでいく。消そうとすればするほど、それは濃く、強く浮かんできた。

 

「富永直勝、まかり越しました」

 

「太田康資、参上でござる。いかなる用向きでございますかな?」

 

「二人とも、よく来てくれたわ。現在、上野国内の軍が全て孤立し、結城城へは佐竹と小田・小山の連合軍が攻め寄せている。それに加えて里見家が攻めてきている。水軍は南方の者たちに任せるとして、私たちは一万五千ほどの敵軍を処理する必要があるわ。ここにいる一万弱と遠山・千葉の軍勢を合わせてことに当たる腹づもりでいる。あなた達にも、奮戦を期待したい」

 

「ははっ!」

 

 直勝は譜代の忠臣である。現在の状況が危機的なことを察し、己の最善を尽くすべく頭を下げた。一方の康資はしばし沈黙したまま氏康を見ている。

 

「康資も、頼んだわよ」

 

「ははぁ! この康資、道灌の血脈に恥じぬ戦をしてご覧にいれまする」

 

 大仰な振る舞いはいつも通り。一瞬だけ違和感を覚えた氏康だが、普段通りの行動をする康資に気のせいと思い、移動の準備を開始する。だがその時、彼女は焦りと心労により注視できなかった。床に頭を下げた康資の、その表情に。

 

 彼は気付いてしまったのだ。今現在、氏照・氏邦・綱成・氏政・氏時の一門五人に加え、大道寺盛昌と松田憲秀が上野にいる。多米元忠と結城氏尭は籠城。北条綱高と笠原信為は南方。一条兼音も北上しようとしている。ここで自分が富永直勝と氏康・幻庵を屠れば、北条家に残っているのは為昌だけ。彼女では国は守れない。遠山と千葉は里見が処理してくれる。当主謀殺の報を聞けば、上野軍の戦意も崩れる。恐らく崩壊し、一門衆のほとんどは討ち死にする。

 

 そうなれば、残るは一条兼音くらい。しかしいかに彼が優秀でも、多勢に無勢。懇意にしている甲斐に逃げ込めば再起を狙えるかもしれないが、その前に討ち取れる可能性もある。その結果出来上がった関東の秩序において、氏康を討った自分の功績は高い。武蔵の国主、そこまで行かずとも江戸城を中心に地域に確固たる影響力を築くことはできるはずだ。かつての道灌の再来。まさにそれになれる。関東の名将として、箱根の関を超えた都からも尊崇を集められる存在に。

 

 彼の野望が浮かび上がってきた。北条の足を舐め、江戸城は今や遠山綱景と富永直勝の城になりつつある。本来は自分の城であったのに、年々権限は縮小していく。溜まっていた小さな不満に、今回の事態は一気に火をつけた。太田康資の目に、黒い光が灯り始めた。

 

 

 

 

 

 

 そして事態は悪い方向に進んでいく。甲斐との国境。ここに国境警備のために残されていた国衆がいる。名を三田弾正小弼綱秀。元々は関東管領に従っていた勢力である。河越夜戦の後に北条家に臣従した。特段領地没収や家督剥奪の憂き目には合わなかったが、現在の待遇は普通レベル。これまで関東管領山内上杉家内ではそこそこの地位にいたため彼は不満を持っていた。

 

 元々は平将門の子孫を称し、現在の八王子や青梅周辺に古くより勢力を持っていた。それは鎌倉の頃にまでさかのぼる。最盛期には現在の埼玉県内にある高麗郡や入間方面にまで勢力を持っていたのだ。それが現在新参である北条に屈従している。三田綱秀はそれを許せなかった。

 

 大石家のように順応した家もある。太田資正などのように、兼音の尽力により友軍となった家もある。だが彼にはそうできなかった。無論、氏照や兼音も幾度となく交流しようと試みたが、その度に突っぱねてきたのは綱秀の側であった。水利権の争いでも調停を聞かず、最後には武蔵の実力者太田資正の説得でやっと頷いたくらいなのである。

 

 とはいえ、ちょくちょく面倒な以外は特段危険ではなかったので放置されていた。罪が無ければ裁けない。それが仇となった。鬱屈としている彼のもとに、一通の書状が届く。差出人は里見義堯。今回の北条包囲網の仕掛け人の一人である。上野国内の戦術は長野業政が考えたものだが、それ以外の部分は里見義堯が手配した部分が大きい。

 

 その彼は、現在上野や関東全土の情勢を記し綱秀に送り付けたのである。無論、多少の誇張は入っているが、綱秀にそれを確認する術はない。読み進めるうちに、彼の顔はどんどんと紅くなり興奮の色を隠せなくなった。

 

「殿、いかがされましたか……?」

 

「全軍を参集せよ」

 

「は? 執権様より出陣命令でも?」

 

「違うわっ! 誰があんな陰気な小娘の命なんぞに従うか。これを見よ。北条は今、かつてない危機に瀕しておる。我らが後方を脅かせば、いよいよ持って危なくなる。河越、滝山なぞのにっくき城は今がら空きぞ。大いに荒らせば、働き次第で武蔵守護代もあり得ると書かれておる。今こそ好機、好機ぞ! 逃す手はない。全軍出陣じゃッ!」

 

「殿、お待ちください」

 

「左様ですぞ、これは何かの罠やも……」

 

「うるさいッ! この機を逃せば、我らは一生奴らの風下で怯えながら暮らさねばならぬ。我らは坂東武士ぞ。伊勢なんぞの都人に従ってたまるか! 分かったら早く支度せよ!」

 

「は、ははぁ……」

 

 乗り気ではない三田家家臣団ではあるが、当主がやると言っている以上やるしかない。渋々ではあるが戦の支度を始めた。綱秀も理解しているが、彼らに求められているのは後方の攪乱。その隙に里見軍などが侵攻するというモノである。

 

 だが綱秀は知らない。どういう結果になろうとも、里見義堯に約束を守る気などさらさらないということを。それどころか、恐らく三田家は北条家に露見し叩き潰されるであろうことも、義堯には織り込み済みである。ここで多少なりとも時間稼ぎになってくれればそれでいい。本気で戦力をあてにしているわけではなかった。知らぬは本人ばかりなりの言葉通り、綱秀は甘い夢に踊らされているのである。

 

 そしてそれを天井裏から眺める者が一人存在していた。ニヤニヤと笑いながら戦支度をする綱秀を見届けると、その影はスッと消えていく。綱秀の命の蝋燭は、間もなく消えようとしていた。

 

 

 

 

 

 

「仰せの通りでございました」

 

「では、やはり三田綱秀は……」

 

「はい。既に裏切りを決めている模様です。今にも戦支度をする構えでした」

 

「……なるほど。であれば、ごめんなさい。もう一回三田家へ行ってください。今度は忍んでではなく、私の使者として。そしてこの書状を彼に」

 

「承知!」

 

 言葉少なく、金髪を棚引かせながら霧隠才蔵は消えていく。月の光のようなその髪も、一度姿を消してしまえば分からなくなる。青い目のフランス人。それが関東管領の護衛を務める彼女の正体であった。故郷で迫害され、その結果逃げてきた異端の者。当時の信仰は既に捨てたが、流れ着いた戸隠でも居場所は無く、親切にしていた段蔵に引き抜かれる形で河越へ来ていた。

 

 彼女は朝定が使える数少ない戦力である。その主である朝定が三田家を見張るように命令を下していた。そのため、普段の任を置いて勝沼城へ忍び込んでいたのである。

 

「三田家が動けば、後方は一気に危うくなる。武田の援軍を頼るにも、できれば上野へ向かって欲しい。となれば……」 

 

「しかし、よろしいのですか。執権様に話を通す前に事を進めて……」

 

 朝定の言葉に、側に侍る甲斐姫は不安そうな顔をする。城に残された武闘派戦力の筆頭が彼女であるため、こうして朝定の側に近侍しているのだ。

 

「問題ない……とは言えません。ですが、江戸城まで使者を往復させている時間は無いでしょう。それに、里見が来ている以上、私たちで処理できる部分は処理しないと。滝山城は僅かな守備兵しかいない。となれば、悲惨な事態になりかねない。それを防げるならば許されるでしょう」

 

「分かりました。そこまでのお覚悟ならば、何も申しません。この城を預けられたのは、朝定様ですから」

 

「兼音様のご期待に沿えるようにしなくては……。それに、氏康様はそこまで多くは物申せないでしょう」

 

「と、仰ると?」

 

「私は関東管領。格の上では氏康様と同格です。坂東に起きたことに対処する権利は本来私にもあるのですから、それを利用しただけにすぎません。いざという時は、こう弁明しますから」

 

「なるほど、それならば道理は立ちます」

 

 甲斐姫は深く頷く。朝定からしても、これからやろうとしていることは積極的に行いたいことではない。しかしながらやらねばもっと多くが危機に瀕する。城下の者も、自身の敬愛する兼音も。更には現在上野で包囲されている友の救援も遅れるかもしれない。

 

「どうか、ご無事で……」

 

 手を痛いほどに握りしめながら、彼女は上野の方に向けて祈る。その痛々しいまでの姿を甲斐姫はただ見守り続けていた。

 

 

 

 

 そして関東管領からの書状は勝沼城へ届けられる。夜半になっていたが、戦支度を終えた綱秀は滝山城に夜襲を仕掛けるべく出陣しようとしていたところであった。

 

「殿、河越から来た者が殿にお会いしたいと」

 

「何だと? 追い返せ……いや殺せ。今我らの動きが露見しては都合が悪い」

 

「それが、関東管領様の使者と」

 

「関東管領?憲政様か?」

 

「いえ、朝定様の方です」

 

「扇谷上杉か……。一応会おう。いつでも殺れるようにしておけ。良いな」

 

「ははっ!」

 

 もう露見したのか、いや流石に早すぎる。であれば何の用だ。傀儡の関東管領如きが、何の用事があってこんな夜更けに使者を送って来たのか。綱秀は頭を捻った。暫くして、使者が案内されてくる。

 

「お連れしました」

 

「通せ」

 

「はっ!」

 

 開け放たれた襖の向こうには、金髪碧眼の少女……ではなく変装した黒髪黒目の才蔵が座っていた。普段の異国姿は奇怪に映ってしまう。交渉うんぬんよりそっちに注目されては困る上に、色々と差別を受けることもあるためこうして日本人風の恰好をしているのだ。それでも目鼻立ちなどは日本人とは違うため、些か変わった印象を与えることは否めない。

 

「夜分遅くに失礼致します」

 

「う、うむ」

 

「関東管領、上杉朝定様の書状をお持ち致しました。ですが……戦支度をされているようですね」

 

「あ、あぁ。丁度江戸の主より命が入ってな。里見に対処するべく出兵せよとのお達しだ。一にも二にも参陣するべく、こうして夜ではあるが戦支度を始めておったところよ」

 

「左様でしか。出過ぎたことを申しました」

 

「よい。で、管領様は何用であるか」

 

「はっ! 詳しくはこの書状に」

 

 綱秀は渡された書状を読み進める。みるみる内に顔色は七変化していた。朝定からの言葉は端的に言えば、河越城に来るように、と言うものである。しかしそれは詰問としてでもかかる事態解決のための援軍としてでもない。挙兵の誘いであった。

 

 曰く、傀儡として生きることに対する不満がある。曰く、一条土佐守の下に押さえつけられている日々は苦痛である。曰く、この事態は里見義堯に命じて練らせたものである。己はなるべく北条側として振舞い、ここぞという時に裏切る算段であったが、今がその時と判断した。河越城の守備兵は皆手の内であるから、是非貴殿も参陣して私の配下として戦って欲しい。勝利の暁には南武蔵半分と秩父や入間などの旧領回復、武蔵守護代を約束する。このように書かれていた。

 

「こ、これは誠なのか」

 

「はい。我が主は三田様の参陣を切に求めておりまする。現在、上野で主力が包囲されているのはご存知でしょうか」

 

「そのように聞き及んでおる」

 

「それもこちらの計略通りでございます。氏政の麾下には太田資正や上田朝直など扇谷上杉家臣団が多数おりますれば、機を見て謀反する算段となっております。そして長野軍と合流し氏政以下一門重臣を討ち取り、南下するという計略。されど、それまでの間に一条土佐守が帰国してしまうかもしれません。そうなれば、計略はご破算。そうなる前に、管領様は河越城を守れる兵力を欲しております」

 

「な、なるほどなるほど……」

 

 綱秀は考える。しかしこれは嘘であるやもしれなかった。のこのこと出向けば、土佐守の計略でありそこで我らは討ち取られる……ということもあり得るのだ。そのためにはどうすればいいか。彼は策士ではないが、それでも乱世を生きる者。頭を回す。

 

 その結果、一つの答えにたどり着いた。

 

「よし、相分かった。某は管領様にお味方いたす」

 

「よきご決断です」

 

「だが、その前にお前を捕らえさせえてもらう。万が一のためにな。もし管領様の仰せが誠ならば、お前は解放しよう。されどもし土佐守の罠であれば、この女を突き出しに来たと言ってお前を引き渡したうえで土佐守の軍勢に加わればよい。それで儂はどちらに転ぼうとも忠臣よ。手荒なことはしたくない。大人しく縄についてくれ」

 

「……承知いたしました」

 

 才蔵は忍び。ここから脱出することも、縄を抜けることも容易にできる。しかしそれをしてしまえば何らかの計略であると見抜かれてしまう。綱秀は馬鹿ではない。乗せるためにはここで捕まっておく必要があった。そしてそれを彼女も理解しているため、大人しく捕縛されることにする。

 

 これでよし、と綱秀は頷く。確かに彼は馬鹿ではない。だが目の前にぶら下げられた絶好の機会と恩賞に目がくらんでいるのも事実。冷静ならば見落とさなかったはずの幾つもの小さな齟齬や違和感に全く気付かないまま、軍を進めようとしていた。小人閑居して不善を為す。そしてこういう手合いは往々にして目先の欲につられやすく、大局を見ることが少ない。

 

 大きな餌で、大局を見れない者を釣りだす。上野で長野業政が使った戦術と全く同じものを、上杉朝定は使用していた。長野業政が使えたのだから、自分にもできるはずである。そういう確信のもと、事に及んだ。その決断の背景に、これまで兼音や胤治に鍛えられていた戦術眼・戦略眼が存在したことは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 そして翌朝。夜通し行軍し、三田綱秀率いる八百の軍勢は河越城に到着していた。一番軍勢の駐屯しやすい裏門方面から中に入ることを求められ、綱秀はそちらに馬を進める。ここまで全て順調に行っていた。城は静まり返っている。既に朝日が昇って久しい。

 

 民が起きて各々の生活を営んでいてもおかしくない時間帯であったが、誰一人として外に出る様子はない。存在はしているようだが、家に籠ったままジッと綱秀たちの行軍を見ているようであった。その姿に若干の不気味さを感じながらも、彼は気にせずに城の中に入る。

 

 裏門から入ったところにある郭は常部門と丑部門と言う二つの門で別の郭と繋がっている。内堀の向こうには富士見櫓があり、その奥には兼音や朝定の住む本丸屋敷がある。この郭に全軍が侵入すると同時に裏門が静かに閉まる。

 

 異様な気配が漂い始め、流石に何かがおかしいと感じた綱秀が周囲に目をやると、富士見櫓の上に佇む人影が二つ。片方は何度か見たことがある関東管領上杉朝定。その横にいる女のことは知らなかったが、恐らく成田家の甲斐姫辺りではないかと察しを付ける。

 

「関東管領、上杉朝定様とお見受けする。ご命令に応じ馳せ参じた! 軍勢はここで待機させる。某を本丸の中に入れて頂きたい」

 

「相分かった。直ちに貴殿を招き入れよう」

 

 甲斐姫はそう言うと、手を高く天に挙げる。それに呼応するように、大量の液体が綱秀たちに降り注いだ。これは江戸時代に開発された木製放水機が兼音により先取り研究された結果生み出された放水機によるものである。尤も、綱秀はそんなことは知らない。突然の出来事に混乱していた。そんな中、兵の誰かが呟く。

 

「これは……油?」

 

「しまった!」 

 

 ここで全ては計略の中にあったことを察する。捕縛した人質を脅しに使おうとするも、いつの間にかその姿を消している。その技は恐らく忍び。だがそんな分析をしている猶予が彼にあろうはずが無かった。甲斐姫が手を振り下ろす。土塀の向こうや内堀の向こうにある本丸から多数の火矢が放たれた。赤い炎が弧を描き、自身に向かってくる。

 

「おのれ、おのれ謀ったなァァッ!」

 

 それを最期の言葉とし、次の瞬間に綱秀の身体は炎に包まれた。

 

「うわぁぁ!」

 

「熱い、熱いぃ!」

 

「助けてくれぇ!」

 

 悲鳴が幾つも木霊する。何とか油をあまり被らず炎を避けて門を開けようとした者は、櫓の上から矢や投石、槍により攻撃されその命を奪われていく。燃え盛る人、人、人。それはまるで地獄にあるという灼熱地獄の如く。阿鼻叫喚の絵図は人の焼ける匂いに彩られながら河越城の郭を赤く染めあげていた。

 

 一刻後、やっと収まった火の中から焦げた綱秀の遺骸を発見する。既に炭化しているが、大事なのは鎧兜。これらを以てすれば首級の代わりになる。あまりの惨状に思わず手を合わせながら、甲斐姫は綱秀や三田家臣団の兜を回収すると朝定に届けていた。

 

「朝定様、三田綱秀討ち取ったようにございます」

 

「……全て終わった後は、遺灰を供養するように」

 

「はっ! して、これからいかがしますか」

 

「城の残存兵力を集めて。事態が露見する前に勝沼城を落とす」

 

「承知いたしました」

 

 甲斐姫は頷き、自身の配下である警邏隊を招集する。先ほどの攻撃も、これから行う攻城戦も主体を担うのは警邏隊だ。彼らは警察機関ではあるが、身分は武士階級。しっかり軍事訓練を受けた精鋭部隊と言う側面も持っている。籠城において真価を発揮するように訓練されているが、攻城戦が出来ないわけではない。

 

 この数時間後、電光石火で行軍した河越城の軍、そして三田家謀反の話を知らされていた滝玉城の守備兵が合力し、勝沼城へ総攻撃を開始。ほとんどの兵が河越に向かってしまった勝沼城は成すすべなく陥落。辛垣城や椚田城などの支城も相次いで陥落し、武蔵三田家は粛正。滅亡したのであった。

 

 三田家謀反から粛正までの流れを氏康が把握したのは全てが終了した後であったが、ここで三田家に立たれると大変なことになっていたのは間違いなく、それを認識している氏康はこの行為を追認。元々関東管領と鎌倉府執権は同格ということになっている。建前ではあるが、この建前は犯せない以上強くは言い出せなかった。そのため相談してほしかったと”忠告”するにとどめる。ただし、これを機に関東管領の権威が高まる可能性が出てきてしまい、頭を抱えることになった。

 

 追認の旨を受け取った朝定は、灰燼と帰した勝沼城を引き払い、虜囚とした三田家の残存一族を江戸城に送り付けた後に河越へと帰還していった。帰還後は独断専行を理由に自主謹慎を敢行し、氏康に対して他意が無いことを示すことになる。

 

 いずれにしても、里見義堯の計略はまず一つ、頓挫したのだ。




2023年もありがとうございました。投稿量の少なさが心残りとなってしまいました。大変申し訳なく思います。来年こそは、来年こそはもっと書きたい……!そんな中でも高評価・登録を沢山頂きました。感想も沢山いただいて、いつも読み返しております。年始の間に返信もしますので、少々お待ちください。来年も、引き続きよろしくお願いいたします。それでは、よいお年を!


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