北条の野望 ~織田信奈の野望 The if story~ (tanuu)
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第1章 出仕と初陣
第1話 プロローグ


織田信奈の野望は外伝含めてしっかり全巻読破してるので設定とかは大丈夫だと思います。まぁ、変えるところもあると思いますが。

主人公の設定とかはオリキャラ集みたいなのを後で作るので、そこに書きます。

若干北条氏康のキャラが原作と違うかもしれませんが、許してくださるとありがたいです。


ここはどこだ?

 

頭の中は大混乱だった。

 

私こと一条兼音(かねなり)は困惑していた。それもそのはず、さっきまで箱根を観光していたにも関わらず、急に意識が遠のき気付いたらこんな所にいたのだ。周りは森。人影も見当たらない。

 

夢ではないだろう。夢にしては周りがリアルすぎる。土も木も草も本物と同じだ。次に考えられるのは誘拐だが、一介の高校生たる自分を誘拐するのに何のメリットがあるのだろうか。実は大富豪の遺産相続人だった…!という訳でも無いだろうし。

 

まさか流行りの異世界転生…非現実的すぎる。大体あれはトラックにひかれないといけないんじゃないのか?

 

考えていても埒があかない。道があるのだし、歩いていれば誰かに出会えるだろう。ここがどこかの確認はしたかった。植物を見た感じ東洋だろうとは思うけれど。

 

 

 

 

しばらく歩くと視界が開けてきた。そして唖然とした。

 

水田が広がっていた。別に水田なんて現代でも普通に目にするが、異常なのは農作業をしている人達の姿だ。

 

「おいおいマジか…」

 

口からため息が出るが仕方ない。彼らは皆、現代では目にしない格好をしていたのだ。明らかにあれは中世、近世の日本の農民の格好だ。中国とか朝鮮の農民の格好を知らないから確証は持てないものの、恐らく日本人だと思う。

 

見た感じ大河ドラマのセットでも無さそうだし。

 

頭を抱えたくなるがそんな事をしている場合ではない。もし、ここが本当に遥か昔の日本ならば、せめて今がいつなのかは特定しなくてはいけない。あとここはどこなのかも。農民より詳しいだろうと思う知識人に聞きたいが…。この時代の知識人なら寺社の人か?村に一つくらい寺があるだろう。

 

そう思って歩いていると、寺らしき建物が見えてきた。私服とはいえ、この格好はかなり不審がられてるし、早く情報を集めたい。えらく立派なので、何か聞けるだろう。

 

 

 

 

石段を登ると、見回りをしていらしい初老のお坊さんがいたので声をかける。

 

「あの…すみません。旅の者で道に迷ってしまいまして。ここがどこなのかお教え願えないでしょうか」

 

「おお、そうですか、それは災難でしたな。ここは早雲庵宗瑞様の菩提寺、早雲寺でございます」

 

早雲寺…?箱根湯本にある早雲寺か?なら良かった。元々いた場所からはそんなに離れていないようだ。

 

「かたじけない。ここが早雲寺ですと小田原城下は近くでしょうか」

 

「左様。ここからあちらに数里ですぞ。旅のお方、お疲れでしたら茶でもいかがですかな」

 

「ありがとうございます。お言葉に甘えて」

 

ここの住職が優しい方で良かった。何人か若い僧を見かける。早雲の菩提寺ともなれば、そこそこの規模のようだ。

 

「旅のお方はお侍ですかな。小田原に仕官を求めておられる」

 

「えぇ、まぁ、そんなところです」

 

「この乱世、仕官先は多くありましょうが、北条家は良いですぞ。家臣をしっかり大切にしておりますからなぁ」

 

「えぇ、その噂は遠国でも耳にしました」

 

「去年は公方様がやっと都にお戻りになられたのも束の間、前の古河公方の足利高基様はお亡くなりになられましたし…。世はどうなるのか…」

 

将軍が都に戻った…?と言うことは流浪将軍足利義晴だろうか。歴史的には花倉の乱や第一次国府台合戦の前か。

 

日本史含め色々とキチンと勉強していて良かった。日本史含む史学は一番の得意分野だ。

 

となると、北条は2代目氏綱の頃だ。まだ黎明期の北条。潜り込むのなら有りかもしれない。いずれにせよ、何らかの方法で金銭を獲得しないと野垂れ死にだ。ここが本当に戦国の世なら、帰る方法も無いのだし。元々もし戦国に行って仕えるなら北条とかがいいなと思っていたのだ。問題は果たしてどうやって仕官するか…。

 

 

 

 

住職の話す仏教の話に耳を傾けつつ、思考を巡らせていると、にわかに境内が騒がしくなる。

 

「どうしたのですか?」

 

その問いにはやって来た若い僧が答えてくれた。

 

「ご歓談中失礼致します。北条氏康様がご参拝です」

 

「おお、そうか。では迎えねば。旅のお方、絶好の機会ですぞ。ここで北条家の次期当主のお眼鏡にかなえば、取り立てて下さるかもしれません」

 

なんという幸運だろうか。仕官する方法を考えていたら仕えようとしてる家の次期当主に会えるのだから。

「それは願ってもない機会。是非お会いしたい」

 

「うむうむ。何かの縁じゃ。それに、わしの話をよく聴いておられた様子。信心も深そうじゃ。紹介だけはして差し上げましょうぞ。そこからは上手くやりなされ」

 

「かたじけない。感謝致します」

 

住職の後ろを着いて歩く。そして、今日一番の衝撃が走る。住職が恭しく接する北条氏康と思われる人物は、薄紫色の髪に割りとスレンダーな体型の控え目に言って美少女だった。あんまり顔色は良くないし、どことなく暗い雰囲気があるが。

 

「これはこれはようこそいらっしゃいました。して、他のお方が見えないようですが…?」

 

「今日は、私個人として参ったわ」

 

「そうでしたか。しかし、近頃は何かと物騒です。お気をつけ下され」

 

「分かっているわよ」

 

ポケッと立っていてもどうしようもない。目上に接する完璧な礼儀は分からないが、膝をつき頭を下げて敬意を表す。頭の中は滅茶苦茶混乱していた。

 

戦国に飛ばされたと思えば、超有名武将は女の子だし。これまた流行りの女体化…?となると人間関係が変わってる可能性もあるのか…。例えば織田信長が女の子だったら帰蝶と結婚できないし。

 

「で、和尚。そこの妙な服の男は誰?見ない顔だし、寺の者でも無いようだけれど」

 

「はい。この方は諸国を流浪されておられるようで、元は遠国の出らしいのですが、小田原城下の繁栄と北条家の徳政をきいて仕官せんと来られたようです。今の世に珍しく、信心もありそうでかつ知性もある方です」

 

お、和尚…!紹介を大分盛ってくれた。そんなに気に入ってくれたのか。ありがたい!!

 

「……そこの、面を上げなさい」

 

「はっ!」

 

指示に従い、顔をあげる。すごい不審者を見る目で見られていた。

 

「当家に仕官したいの?」

 

「はっ、願わくばご家中の末席に加えて頂ければと思っております」

 

「名は?それと、遠国って、どこの生まれなのかしら。」

 

「名は一条兼音。生まれは土佐でございます」

 

嘘ではない。出身は高知だ。今は既に亡くなった両親は四国の人だ。自分の普段の家は大阪だし、高校もそこの学校だったけれど。土佐で一条なら、勝手に土佐一条家の傍系と勘違いしてくれるだろうという打算込みだ。

 

「その服は何?見たことのない服だけど」

 

「南蛮の服でございます。堺で手に入れました。思いの外使い勝手がよく、常用しております」

 

むちゃくちゃだが、これで誤魔化すしかない。未来から来たなんて言ってみろ。頭がおかしいと思われる。あんまり信じては貰えないかもしれないが、一応中国製だし南蛮とも言えなくない。強引だが、仕方ない。

 

「ふぅん。それで、何で当家なの。畿内や四国にも名のある家は多いでしょうに」

 

「北条は民を重んじると聞きました。この乱世、願わくばそのような家に仕えたいと思った次第でございます。また、評定を重んじると聞きます。家臣の言葉に耳を傾けるのは名君の証。仕えるならば暗君より名君ですから」

 

北条家の善政は後世でも評価されている。その為民はよく懐き、後任の徳川家康が統治に苦労したらしい。評定はまぁ…その性で最後はアレだったけれども。

 

「そう。…肝心な所だけれど、何が出来るのかしら?」

 

「生憎と刀や槍は不得手でございます。弓は覚えがありますが…。代わりに内政や謀略、戦略築城物資の輸送、金子の調達など何でもやりましょう」

 

「大きく出たわね。その自信の根拠は何かしら」

 

「幼少より孫子始めとし、多くの漢学、兵法書や本朝(この王朝。日本のこと)の歴史書、各種思想等について学んで参りました」

 

これも一応本当。文系の中でも多分かなりの変人であろうが、これでもこういったものには詳しいつもりだ。

ガチ勢と呼ばれたその名は伊達じゃない。

 

「知識はあるようね。…今雇うか雇わないかで揺れているわ。幾つか質問するから答えなさい」

 

「はっ。何なりと」

 

「戦において最も重んずるべきは?」

 

「情報です。敵将は誰か。兵数は。補給はどうか。士気は高いか否か。味方にも同じことが言えますが。また戦場や外交的な情報も必要でしょう」

 

「戦とは最上の手段かしら」

 

「最後の手段です。戦わずして勝つことこそ上策。外交謀略交渉…。時には暗殺謀殺も躊躇うべきでは無いでしょう」

 

「裏切らない保証はあるかしら。雇った後に間者だと困るのだけれど」

 

「ご懸念はごもっともにございます。証しは何もありませぬ。弁舌をもって誓うは容易いですが、働きをもって証明するのが手早いかと存じます。それでも何か言えとおっしゃるなら…このまま行く宛も無いこの身です。路銀は尽き、刀剣もなく、このままでは野垂れ死ぬだけでしょう。そんなこの身をお救いくださったのなら平伏し感謝こそすれ、裏切るなどあり得ません」

 

「種子島という新しい武器が近頃堺で見られるようね。この武器は当家にも一挺だけあるのだけれど…。どう思うかしら」

 

鉄砲の伝来ってもう少し後だった気がするが、北条氏康が女の子の世界だ。多少変化があるのだろう。

 

「戦場の在り方は大きく変わるでしょう。今まで遠距離より攻撃出来るのは弓と投石でした。しかし、これを使えば、弓より強い威力の攻撃が行え、確実に敵を屠れます。また、轟音による混乱やまだそこまで一般的でない事から量産できれば他家に対する優位性も持てるでしょう。戦場の在り方も城の在り方もこれから変わっていくのではないでしょうか。勝利の為の決定的な力にはなれずとも、一定以上の効果は手に入るかと思われます。また、農民でも長期の訓練なく使えることからこれまで以上に農民に気を配る必要が生まれます」

 

さぁ、どうだ。出来る限りの解答はしたはず。

 

「…」

 

頼みますよ神様仏様氏康様。その美しいお姿なので心もさぞ美しいのでしょう(知らないけど)。是非お情けを…!

 

「まぁ、良いでしょう。最後の答えは私もあそこまでは考えていなかった。その思考、在り方も私と合っているように思う。良いわ。文官として雇ってあげます。私直属の配下にしてあげるから精々励みなさい。そして、その命を私に捧げることね」

 

「ありがたき幸せ。必ずやご期待に添うよう努めます」

 

「その代わり、何か少しでも不審な事をしたら斬るわ。良いわね?それと、他の私の近習ときちんと仲良くすること。向こうの方が先に仕官してたのだから、年下でも序列は理解しなさい。それと、序列は文官でも一番下よ。父上ではなく私の直臣だけれど調子にのらないように」

 

「こころえております」

 

「和尚、紙を」

 

「これに」

 

住職が紙と筆を差し出す。さらさらと何事か書いている。チラッと見たが身分を保証してくれているようだ。行書が読めて助かった。

 

「これを持って後で小田原まで来なさい。門で見せれば入れるわ」

 

「ははっ!」

 

「そうそう、最後に聞くわ。夢はある?当家に仕えてどうなりたいという望みはある?」

 

「願わくば、戦国乱世の日ノ本において、北条のお家に魂を捧げる今世の張子房とならん、と」

 

張子房とは、張良のことだ。今孔明も今鳳雛もいるので、それより前の偉大な軍師にあやかりたいと思った。

 

「そう。私が高祖となれる日を楽しみにしてるわ。励みなさい」

 

そう言って紙を渡すと我が新しき主は馬に乗って帰っていった。

 

「やりましたな。あのお方は気位が高く、そうそう他人をお認めにはなりませぬ。そんなお方の目にとまりあまつさえ直臣とは…。幸運ですな。旅のお方、いや一条殿」

 

「和尚もお口添え頂きありがとうございました。心より御礼申し上げます」

 

「うむうむ。励んでくだされ。ささ、早く行かれよ。小田原城下が貴殿を待っておられますぞ」

 

和尚に見送られ、私も寺を後にする。何から何までお世話になった。いつか恩返しをしたいものだ。

 

取り敢えず、何とか生きていく為の術は見つかった。北条家中がどんななのかは分からないが、必死にやっていこう。生き残る為に。そして出来るならば北条家を滅びの運命から…。そう決意した。

 

 

 

 

 

 

 

帰り道の馬上で北条氏康は先ほど会った浪人について考えていた。この前、一族の長老、北条幻庵の夢によると、氏康は近日中にこの早雲寺で運命と出会うらしい。その者は北条に繁栄をもたらし、滅びから救い、天命を変えると言うのだ。半信半疑だが、祖父、早雲が夢でネズミとなり二本の杉(北条の敵の二つの上杉家の暗示)をかじり倒したという話も聞いていた。

 

その話もあり、無視するのは気が引けたがそんな夢の話に家臣を付き合わせるのもあれなので、一応一人で行ってみたのだ。何も無ければ帰ろうと思ったが、人がいた。

 

まさか!と思って驚いたが、仕官を望んでいたため、一応幾つか質問をしてみた。すると、帰ってきたのは明晰かつ論拠のある解答だった。知は申し分ない。暗殺や謀略を疎まない点も自分に近く合っていると感じた。最後の大言壮語ともとれる発言も嫌いではない。

 

知性の無い人間をあまり好まない彼女にとっては好ましい相手だった。

 

この男なら或いは。もし、本当に北条に繁栄をもたらしてくれるなら、悲願の関東統一も叶うかもしれない。そう思って、またそうならば手元に置いておきたくなり、雇うことにしたのだ。

 

その心の中に、北条の悲願に押し潰されそうな未来の自分の心を支えてくれる存在を欲していた、もっと言えば恋できる存在になってほしいという思いがあることを彼女はまだ知らない。




ちなみに、自分は北条家は史実でも好きです。

多少ご都合主義的なのはお許し下さい。


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第2話 小田原城

史実で氏康の頃に居なかった人がいたり、逆にもういい年なのにまだ若かったり、赤ちゃんだった人が大人なのは見逃して下さい。ほら、伊達政宗がもう既にいたりする世界なので…ね?


寺の人々に見送られてからテクテクと歩くこと数十分。山が多かった景色が一気に開ける。鼻には海の香りが入り込む。

 

目の前には大きな城下町が広がっていた。その中心にはこれまた大規模な城郭が広がっている。あれが北条五代の本拠地。武田信玄や上杉謙信など名ただる名将も攻めあぐねた難攻不落の巨城だ。今はまだ豊臣秀吉来襲に備えて造られたとされる全長9キロの総構はないものの、その片鱗は見てとれる。

 

多くの船や人の姿が小さく見える。あそこが新しい居場所になると考えるとワクワクしてきた。今まで訳分からない事ばかりで混乱してたけど、いつまでも悩んでも仕方ない。

 

では、早速行くとしよう。スタスタと歩を軽やかに進めた。

 

街の中は活気で溢れていた。多くの人が行き来している。乱世では無いかのようなこの光景に、北条家の善政を見てとれる。

 

しかし、広い…。城は街のど真ん中にあるし、見えるのだが、全然たどり着けない。人が多すぎる…。

 

押し潰されそうになったりしつつも何とか城門近くまでこれた。まぁ、城門まで来れたからと言って入れる訳ではない。当然詰所があり、番兵に止められる。逆に止められなかったらヤバイ。

 

「止まれ!ここから先は家中の者でなければ通せぬ!」

 

「名と用向きを告げよ!」

 

「私は一条兼音。北条氏康様がこちらへ来るように仰せられ参った次第。こちらがその事をお書き下さった書状なり」

 

懐から先ほどもらった紙を出して渡す。しばらく目を通している。

 

「よし。確認出来た。通るが良い」

 

「ありがとうございます」

 

ただ一つ問題がある。

 

「どうした?入らぬのか?」

 

「あの…私は何処に行けば良いのでしょうか?」

 

「知らぬのに来たのか?うーむ我らもここを離れられぬし、どうしたものか…」

 

「どうした」

 

番兵たちと一緒に悩んでいると涼やかな声が響いた。目をやれば、馬上にこれまた本日二人目の美少女。何だこの城は。六条院(光源氏の邸宅。妻たちが住んでいた。)か何かか?

 

まぁ想像するに多分彼女も北条の武将なのだろう。

 

「あ、これはこれは元忠様。お帰りですか」

 

「ああ。それよりも何かあったか?そこの男は誰だ」

 

「はい、何でも氏康様に呼ばれたとか…。直筆らしき書状もありましたし、通しはしたのですがどこへ行けば良いのか分からないとのことで…」

 

状況説明をしてくれてる間に、この女性の身元の割り出しに入る。見た目は黒髪で長い一つ結び。いかにも武人といった雰囲気の知性のある感じだ。見た目はあてにならないけれど。先ほどの番兵の言葉から推察するに、元忠…多米(多目)元忠か?北条氏康、氏政の代の宿将だ。今はまだそこまでの地位は無いかもしれないが。

 

「そうか。ならば、私が連れていこう。丁度この後姫様のところへ向かうつもりだったからな」

 

「そうですか。おーい、お主。元忠様が案内してくれるそうだ。付いて行け」

 

「はい。承知しました。よろしくお願いします」

 

「こっちだ。遅れるなよ」

 

馬は預けるようだ。スッタスッタ歩いていってしまうので、何とか着いていく。

 

「お前は何をしに来た」

 

「仕官をしに参りました」

 

「…そうか。死なぬように励め」

 

「はっ」

 

会話する気はあまり無さそうだ。もっともそれが初対面の相手だからなのかは分からないけれど。

 

「着いたぞ。そこで待て。姫様。元忠、参りました」

 

「来たわね」

 

襖が開く。中には氏康様ともう一人知らない亜麻色の髪の穏やかな雰囲気の少女がお茶を飲んでいる。

 

「あら、一緒に来たのね。手間が省けて良いわね。元忠、盛昌、紹介するわ。私の三人目の直臣となる一条兼音よ。ほら、挨拶なさい」

 

促され、二人の方を向き頭を下げる。

 

「ご紹介にあずかりました一条兼音と申します。浅学非才の身かつ右も左も分かりませぬ。ご家中の事、ご指導ご鞭撻よろしくお願い致します」

 

そしてもう一度頭を下げる。

 

「多米元忠だ。よろしく」

 

「ちょっと、それだけじゃダメですよ…。私は大道寺盛昌です。普段は文官として主に台帳関連に携わっています。こっちの元忠さんは普段武器庫の管理をしてますよ。よろしくお願いします」

 

「ご丁寧にありがとうございます」

 

その様子を見て私の主は頷く。

 

「ま、見ての通り私の今の直臣はこれだけよ。他の家臣は皆、父の臣。今のうちから信のおける家臣が欲しかったのだけれど…。あまり見込みのある者がいなくて困っていたのよ。さて、あなたの処遇だけれど、盛昌の下で働きなさい。文官志望なのだし、その方が合っているでしょう?」

 

「ご配慮感謝します」

 

「それじゃあ私は父上に呼ばれているからもう行くわ。住まいはただの足軽より少し上の長屋に空きがあったからそこへ行きなさい。後は盛昌に聞いてちょうだい」

 

「承知しました」

 

氏康様が去った後、微妙な沈黙が続く。

 

「お前は、何か武芸は出来るのか?」

 

「弓は少々腕に覚えがありますが、それ以外は…」

 

「そうか。では、私が教えよう。盛昌、仕事はいつ終わる」

 

「昼下がりには、終わりに出来るけど」

 

「では、仕事終わりに来い」

 

「それは構わないのですが、よろしいのですか?そのような事をしていただいて」

 

「構わない。いざという時姫様を、守れないようでは話にならない。文官であろうとも、弓馬の道を怠けてはならない」

 

「もっともです。お言葉に甘えさせていただきます」

 

うん。というように頷いた元忠の顔はどこか満足そうだった。

 

「それでは、参りましょうか。城内と住まいまでの道を案内します。元忠さんは屋敷に戻りますか?」

 

「ああ」

 

「ありがとうございます。盛昌様」

 

「いえいえ。それと、様は結構ですよ。同輩となったのですから。それと、なるべく名で呼んで下さい。姓の同じ者が幾人か城内にいますので」

 

「分かりました盛昌殿」

 

その返事に満足した彼女はゆっくりと歩き始めたのだった。

 

 

 

 

つ、疲れた。

 

城中を歩き回って疲れた。今は用意された住まいで寝転んでいる。一応布団は一式あるようだ。城内の郭の一角にある少し大きめの長屋だ。現代で住んでた家よりは当然劣るが、住んで都にするしか無いだろう。

 

禄ことお給料はそんなに多くは無いものの、直臣の為足軽よりかは全然あるようだ。何の功績もないのでこれだが、功をあげれば増えるだろう。

 

案内されている最中、何人か武将クラスの人と遭遇した。中には北条一族の人や、重臣のおじ様方も多くいた。めちゃくちゃ緊張したのもあって、疲労がすごい。

 

明日からは早速仕事のようだし、しっかり寝なくちゃ。そう思いながら意識は暗転していった。

 

 

 

 

 

 

目覚めたら現代…!なんて事もなく、無事戦国時代二日目の朝を迎えた。

 

仕事自体は筆でやること以外はそんなに難しくはなかった。行書も書けるし⁉️元々こういう事務作業は苦手じゃない。エクセルがあればもっと楽なんだけど…。無い物ねだりしても仕方ない。

 

キチンと仕事は出来ていたようで、しかもノルマを予定より早く終わらせられたので褒められた。少しだけ見やすく分かりやすい表の作り方(現代式)を提案したら驚かれたものの、他の部署とも相談してみるそうだ。

 

鍛練の方は鬼のように厳しかった。刀剣と槍を教えてくれるようだ。あと馬術も。ただ、教え方は凄く分かりやすくて、やりやすかった。曰く基礎代謝と筋肉はあるので後はそれを上手く使うだけらしい。筋は良いからすぐに覚えられるそうだ。肺活量も問題ないらしい。弓は教えることが無いので免除だ。

 

ありがとう弓道部。君のお陰で生きられます。全国大会まで行ったのだ。そこら辺の人には負けたくない。

 

兎に角このまま何とか習得して討ち死にする確率を減らしたい。

 

同時平行で情報収集も進めている。あまり進まないが。他国の事を知るのは特に大変だ。風魔とかを使えたら楽なんだろうけど、今は地道にやるしかない。

 

女中さんたちとはそこそこ仲良くなれたので、城内や家中の事は大分分かってきた。どうやら氏康様の直臣が少ないのは信のおける云々以前に譜代の家臣が少ないことが原因らしい。加えて、氏綱様が娘を慈しむ為、あまり戦場に出ないのでそんなに直臣がいる必要も無いのだと言う。

 

関東統一という夢をいつか背負うことになるのだ。今くらいは自由に、という親心もあるのだろう。親の心子知らずと言った雰囲気だが。

 

元忠殿や盛昌殿とも少しずつ親密になれている気がする。数少ない同僚だし、是非とも仲良くして頂きたい。

 

 

 

 

 

 

 

そんなこんなで年も明けた。ここに来てから数ヶ月が立つ。

 

この世界はどうやら年号通りには進んでいないようだ。出来事の時系列は守られているようだが、間隔は狭い気がする。もう鉄砲が伝来しているのもその証拠だ。

 

年号が役に立たなくても、時系列が分かるのならある程度は大丈夫だろう。次に北条が関係ある大きな事象は…花倉の乱、か。

 

今川の内乱。北条家は今川義元側で参戦する。今川家の情報はすぐ手に入った。今の当主、今川氏輝は先代今川氏親ほどの才は無いようだ。家中には不穏な動きがあるらしい。氏輝の死因は現代でも不明だが、多分暗殺だろう。

 

これはある種のチャンスだ。ここで何らかの爪痕を残せれば、出世の道も見えてくる。もう少し良い家で暮らしたいし、非常時の為に金も貯めたいし。武具も必要だろう。

 

何か良い策は無いものか…と頭を廻らせながら今日も仕事を始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうかしら。兼音の様子は?」

 

「悪くありません。むしろ良い」

 

「はい。城内での評判も悪くありません。人当たりは良く、仕事には真面目に取り組んでいます。頭もキレるようです。重臣の方も何人か目をかけておいでのようで。女中衆にも好意的に見られているようです」

 

「そう。それは良いわね。鍛練はどうかしら」

 

「弓は完璧です。剣も槍も大分形になってきました。筋はかなり良いです。いずれ一人前の武将になれましょう。やや攻撃時に甘さがあるのは気になりますけれど」

 

「それはおいおい直るでしょう。戦場に出れば、ね」

 

「はい。その通りかと」

 

「まぁ、良いわ。楽しく見守りましょう。幻庵のおばば曰く、北条を救う者らしいのだし。それに、英雄とは人材集めに注力するものでしょう?」

 

そう笑う氏康の声に二人の臣下は顔を見合わせるのだった。




順調に北条家中で居場所を掴んでいます。

次は物語に動きがあります。花倉の乱中心に数話進める予定です。この乱は原作における桶狭間ポジションかな?

テンポよく行きたいですね。なにしろ原作前ですし。まだ川越夜戦も起きてないのですから。ただ、描写するべき所は省かないようにしたいと思います。


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第3話 乱世に生きる

一応ある程度史実は調べてます。

それと、主人公がチートになりすぎないようにしたいところ。匙加減が難しいですが、頑張ります。


もうすぐ隣国で大きな戦がある。これはほぼ確定事項だろう。調べた事によると、隣国今川家の現状は概ね現代で語られている状況と相違ない。玄広恵探と梅岳承芳(後の今川義元)が女性な事以外は。

 

相変わらず女性が多いが、そこはもう慣れつつある。小田原城内も姫武将が多い。そして、姫武将に関する幾つかの事を学べた。姫武将でも普通に当主になれること。ただ、その場合だと結婚相手に苦労することが多いこと。戦場ではなるべく討ち取らず、降伏したら仏門にぶちこむ事が多いこと。等々だ。

 

最後に関しては例外もあるらしく油断は出来ない。それと九州は討ち死多発らしい。それを聞いたときには流石に震えた。

 

ともかく、私は男。バリバリ討ち取られる危険性がある。そうならないためにも、より一層訓練しなくては。

 

自分の存在が歴史に介入することの問題も考えたが、そもそもこんなめちゃくちゃな世界で今さら感があったので、特に考えないことにした。考えると頭がパンクしそうなのもあるが。

 

 

 

今日も今日とて仕事に励んでいる。最近、前に提案した台帳の効率化の案が通ったようで、少し給料が増えた。盛昌はキチンと部下の提案だと報告してくれたようだ。理想的な上司じゃないか。現代社会のブラッククソ上司たちは見習え。

 

「兼音」

 

声をかけられ振り向く。

 

「元忠殿。どうかしましたか?」

「姫様がお呼びだ。至急参上するようにと」

 

「はて。何でしょうかね。分かりました。今参ります」

 

盛昌にアイコンタクトをして、詰所を離れる。氏康様の部屋はここからそこそこ距離がある。みっともなくない程度にちょっと小走りで向かう。

 

「ただいま参りました」

 

「入りなさい」

 

「失礼致します」

 

襖を開けて、中に入る。今日も今日とて少し疲れた顔をしている。現在でこれなら、当主になったらどうするのか。良い薬を今から探しておくかと思った。

 

「小田原には慣れたかしら」

 

「はい。皆様よくしていただいてるお陰で」

 

「時々耳にするわ。女中や重臣からも。父上の耳にも名が届いたようね。台帳の件、少し興味を持たれたようで、覚えておくと言っていたわ」

 

「ありがたい事です」

 

まさか氏綱まで話が回っているとか思わなかった。これはこれからも真面目にやっていこう。主の顔を潰さない為にも。

 

「さて、軍師を目指しているのよね」

 

「はい」

 

「願わくば、百万の軍勢を操りたいと」

 

「…はい」

 

百万は流石にまだまだ無理だが、否定するのも癪なので、肯定する。

 

「早速献策なさい」

 

「はっ。して、何についてでしょうか」

 

「先頃今川から使者が来たわ。当主氏輝とその弟彦五郎が死んだそうよ。風魔の情報では乱の兆しがあるそうよ」

 

兄弟が同日に死亡。これはどう考えても暗殺ですね。犯人は雪斎か福島か。真相は闇の中だ。

 

「当主の二人の妹の間でですね?」

 

「ええ。後継者候補の姉だけれど庶子の玄広恵探と妹だけれど嫡流の梅岳承芳はそれぞれ名を今川良真(ながさね)と今川義元を名乗ったそうよ。その上で乱になったら北条はどうするべきだと思う?あなたの考えを述べなさい」

 

これはチャンスだ。多分今チャンスが与えられている。これを逃す手は無い。

 

「今川義元に味方すべきかと存じます」

 

「その心は?」

 

「今川義元に付くべき理由は主に五つあります。

まず、嫡流たること。血は重く見られます。先権大納言中御門宣胤の血を引くのも大切な点でしょう。

二つ目に拠点が駿河で北条と接している事です。今川良真は擁立している福島(くしま)一族の拠点が遠江よりなので、補給の面で不便があります。

三つ目に、家中の中でおそらく有力な朝比奈や岡部などの諸氏は今川義元につくと思われるからです。福島一族特に福島越前守正成は家中で専横が目立ち、人望が薄いです。遠江は福島につくかもしれませんが、その辺りは太原雪斎が対策を立てていないはずがありません。

四つ目に武田が福島には味方しないということです。福島は幾度となく武田領内に侵入して狼藉を行いました。武田信虎が怨恨を無視してまで福島に味方する利点は無いかと。

五つ目に、義元の名の義は将軍義晴の名を貰った物である事です。正統性の主張には十分過ぎるほどです。

 

他にも叡智で知られる太原雪斎が義元側なことや、発言力のある寿桂尼は実子の義元側に立つことが予測される事も、あげられます」

 

「加えて、参戦しないという選択はあり得ません。万が一そうすると今川家内での当家の影響力は低下します。それを喜ぶのは…」

 

「武田信虎ということね」

 

「左様です」

 

「よく考えられてるわね…。幾つかは私と同じ意見ね」

 

そりゃそうだ。理由は後付けだけれど、経過やある程度の人となりは知っているのだから。完全に後だしだ。まぁ、それでも頑張って理由は捻り出したので、許してくださると欲しい。

 

「しかし、悔やまれるのはこちらが乱を主導出来なかった事。氏輝を亡きものにして、乱を人為的に起こし、いち早く介入すれば…」

 

自分でもクソ外道な事を言ってる自覚はあるものの、これも御家の為。

 

「駿河での領土も増えたかも知れないわね。ま、過ぎた事だけれど。…惜しかったわね。いずれにせよ、この後その件に関して評定があるからその時に述べてみるわ。ご苦労、下がって良いわよ」

 

「はっ。お役に立てたのならば幸いです」

 

礼をして部屋を退出する。これでどう転ぶかは分からないが、チャンスはいかせたと思う。おそらく参戦しないという事は無いだろう。氏綱は影が薄いものの、戦国黎明期の傑物であることに変わりはない。必ず賢明な判断をするだろう。

 

分かっていたことではあるが、我らの主は謀略を疎まず、世間から見れば悪辣な手を使ってでも勝利を求めている。外から見れば非道かつ卑怯かもしれないが、中から見ると、それは自分達を守るためだということがよく分かる。

 

ただ、根本は決して悪人などでは無いのは、ここ数ヵ月で判明している。本人の元来持っていた気性と周囲の環境、求められてきたそしてこの先求められているものが、今の性格を作り上げて来たのだと思う。その重圧を代わる事は出来ないが、支えることは出来る。戦う理由はそれで十分だ。

 

手段を選んでいてはいけない。自分にも他人にも厳しくしなければ。それこそが生き残る術だろう。

 

修羅にはなりたくないものだが、そうは言ってられない。この世界は、今まで自分がのうのうと過ごしてきた穏やかなぬるま湯のような世界とは違うのだ。戦いは身近であり、死はいつでも背後にいる。

 

国境地帯に時々起こる紛争を見た。戦場では無いが雰囲気は知った方が良いと、元忠に連れられた。数は多くはないが、何人も死んでいた。初めて見る死体に吐き気をこらえた。

 

腐臭と物言わぬ死体。その上空を飛ぶ烏。死に満ちていた。

 

戦場ではこの光景の何倍もの数が死んでいる。そう考えると恐ろしかった。自分の手で、或いは自分の策で多くが死ぬのかと思うと震えた。

 

吐き気に口を押さえる私に、元忠は厳しい顔で

 

「戦場はこれより悲惨だ。どうだ。侍を辞めるなら今だぞ。続けるならばお前はいつか、その手で誰かを殺めねばならない。どうする」

 

と言った。

 

考えた。期待してくれた主の顔が浮かんだ。同僚や城の人、城下の人たちの顔が浮かんだ。自分に出来ることがちっぽけでも、これがエゴでも良い。それでも…

 

「戦い、ます。たとえ、誰かをこの手で殺しても。守りたいものが、あるから」

 

その答えに彼女は満足そうに頷く。

 

「それが言えれば上出来だ」

 

 

甘さと優しさは違うのだ。だから自分に守れる物を守る。それが一番大事な事。全てを救うことは、私には出来ない。出来るやつがいたらそれは神か、真の英雄だろう。誰かを助けることは誰かを助けないことだと、誰かが言っていた。自分が守るべきもの、守れるようになりたいものはもう、分かっている。

 

助けられるのなら、助けたいとは当然思うけれど。全ては時と場合によるだろう。

 

助けたいものを助けられる、守りたいものを守れる為には、武芸を磨くことや内政をより知ることも大切だろう。自分の唯一の強み、未来の知識を生かすためにも、そこそこの発言権は必要だ。この先は多くの戦が北条を待っている。川越夜戦、小田原籠城、三船山に三増峠。そこで生き残る、或いは勝って、必ずや北条を関東の覇者に…。

 

覚悟はもう、出来た。

 

 

 

 

 

 

献策は受け入れられたようだ。どうやら我が主は、評定で話題が出た時にすかさず進言したらしい。現当主氏綱はこれを聞いて大いに納得した模様である。

 

評定の場で献策者の名前として、私の名を話してくれたようで、今度こそ本格的に氏綱に覚えられたようだ。現在、その当主の呼び出しで同僚二人と共に広間に向かっている。

 

元忠と盛昌の二人は多少は場に慣れているのだが、私は、そういった場は正真正銘これが初めて。めちゃくちゃ緊張している。慣れていると言ってもやはり緊張はするようで、二人も表示が硬い。

 

「多米権兵衛元忠以下二名、只今参りました」

 

「入れ」

 

「はっ」

 

すっーと襖が開き、中へ入る。多くの人の気配がある。視線が注がれるのを感じた。

 

「面を上げよ」

 

その言葉にゆっくりと頭を上げる。前には多くの諸将。顔と名前は何とか最近覚えきった。真ん前の上座には、中年の将が一人。あれが北条氏綱。戦国黎明期の名将である。

 

「多米権兵衛(元忠のこと)と大道寺太郎(盛昌のこと)はよく参った。それと…その方、知らぬ顔だな。名を申せ」

 

「はっ。某は、ご息女氏康様が臣。一条兼音と申します」

 

「ほほう。お主が一条か。話は娘や諸将より聞いておる。知に優れた名将の器とな」

 

「若輩の身にもったいなきお言葉であります。今はただ、宿将の皆様に一歩でも近付くため研鑽するのみでございます」

 

「うむ。そうか。謙虚な在り方、先程の献策も含め気に入った。励むがよい」

 

「ありがたきお言葉。感銘の至り」

 

「さて、その方達を呼んだのは他でもない。今川の事よ。つい前に今川の太原雪斎より文が参った。我らに助力を求めている。先程の一条の献策も相まって我ら北条は出兵を決めた。数は1500。大将は氏康に。補佐は間宮豊前守が務める」

 

間宮豊前守とは間宮康俊の事だ。史実では73歳の高齢にも関わらず、秀吉の小田原攻めに対して山中城の救援に向かう。一柳直末等を討ち取るなど奮戦するが、大軍には勝てず、「白髪首を敵に供するのは恥」と墨汁で髪を染め、敵中に突撃して戦死した猛将である。

 

正直敵に対してオーバーキルな気もするが、本気度を見せつける為にも妥当な人選と言えるかもしれない。

 

「そこで、氏康と、その直臣たるお主ら三人に豊前の寄騎として参陣を命じる。行ってくれるな?」

 

三人で目配せする。そして揃って頭を下げる。

 

「「「承りましてございます。必ずやご期待に添うよう奮闘致します」」」

 

「うむ。よいだろう。豊前もそれで良いな」

 

「はっ。氏康様に加えて、若い力が三つも加わるとは、百人力でございます。よろしくお頼み申す」

 

最後の台詞はこちらに向かってのものだろう。三人で一礼をする。若者と侮らない辺り、その人柄が見える。

 

氏綱は当主の継承を考えているらしいと小耳に挟んだ。その為の功績作りに、今回の乱を利用しようと考えているのだろう。それで宿将かつ経験豊富な間宮康俊を事実上の大将にして、名目上の大将を氏康様にすることで確実に勝てるものにしようとしているのだろう。

 

部下の手柄は必然的に主の名をも高める。これは、より一層頑張らなくてはならない。

 

そうだ。私は誓ったのだ。乱世で生きると。誰かを守れるようになると。

 

キュッと拳を握りしめる。

 

戦いの足音はすぐそこまで来ていた。




私、戦国もの書くのは始めてなんですよね。なので、何かおかしな所とか、変な所とか違和感とかあれば教えて下さい。後は、倫理的な話とかも。例えば主人公の戦う理由とかですね。

あと、感想とか意見、戦国の話とかがあればこっちも教えて下さい。内政の色々とかも…。よろしくお願いします。


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第4話 花倉の乱 前

部隊編成とかは細かいのは見逃して下さい。そもそも、原作がわりとその辺ガバい気がしたので…。


現在、馬に乗り、行軍中である。場所は現代の富士市の辺り。もう少し行けば、駿府へ到着するだろう。

 

富士川以東は現在北条領である。この地いわゆる駿東郡には、かの北条早雲の居城だったという興国寺城もある。駿東は戦略的にも要地であり、ここを押さえれば、甲斐や駿西への出兵も可能である。余談だが、駿河と遠江の境は大井川である。天竜川や富士川では無い。

 

馬というのは慣れないと腰がヤバい。訓練はしたけれど、こんな長時間の行軍は初めてだ。まぁ、徒歩よりはマシだと思いたい。あんな重い装備をつけて行軍とかしたら流石に体力が尽きる。今は軽い装備だから良いけれど。

 

戦国時代の馬は現代の競走馬みたいなサラブレッドとかじゃなく、ポニーちゃんみたいな物だという学説を聴いていたが、全然違う。普通に大きい馬だ。武田とかはこれをたくさん使ってるのか…。三増峠大丈夫かな…。あれは北条の敗戦だし。対策が必要だ。

 

今回の編成は1500人。通常の戦闘ではこれが大体一つの集団だと言う話を聴いたことがある。ただ、私の読んだ本は戦国末期なので、鉄砲組がいるが、当然今はいない。伝来してるのと量産かつ保持してるのとは違う。

 

昔の主武器は弓とか鉄砲とか刀ではなく、もっぱら槍と石である。石といって侮ってはいけない。石だって当たれば痛いし普通に死ぬこともある。

 

それに、昔の戦は現代の戦争とは違い、殺さずとも戦闘不能に追い込めれば割とOKである。殺す必要があるのは、一部の指揮官だけ。そうは言っても殺される確率の方が高いが。そういう意味でもやはり、戦争とは狂気だ。

 

今回は主力の騎馬部隊もいるし、かつ北条家きっての精鋭部隊なのでそう苦戦はしないだろう。それに、太原雪斎の事だ。我々は端か後方だろう。北条に戦功を材料に大きい顔をされたくは無いだろうからな。

だが、それでは困る。ここでは多少なりとも、我々が武功をあげなくては。今川良真と福島正成には悪いが、踏み台になってもらおう。そして、ここで駿東問題にこちらの有利となる状態を作りたい。後々ここは火種となる。そのときの戦いを少しでも楽にするために、布石は打ちたい。

 

「いやいや、初陣だというのに堂々たる姿。良いですぞ。某など、初陣では小便漏らして震えておりましたわ」

 

不意に間宮康俊が話し掛けてきた。

 

「いやいや、私などまだまだ。間宮殿と比べれば月とすっぽんでございます」

 

「ガハハハ、そう謙遜なさるな。若い男武者は少ない。こんな爺ばかりよ。この先もよしなに頼む」

 

「なんの、まだまだお若いではありませぬか。こちらこそ、伝え聞いたる武勇をこの目で見られると思うと、感動でございます」

 

「ハハハハ。そうか。そうか」

 

「ところで、間宮殿は敵将、福島越前守と会ったことがあるとか」

 

「おお、そうよ。武田信虎との戦の援軍に行った時に共に戦ったのぅ」

 

「いかなる人でしたか、越前守は」

 

「ふーむ、良くは知らぬが横柄さはあったな。しかし、実力は真のものぞ。将としても、武人としてもな。侮れる相手ではない。今までの相手が悪すぎたが、並みの将ならまず勝てん。今川最強の名を自他共に名乗っておったその力は伊達ではない」

 

「なるほど。易々と勝たせてはくれないようですね」

 

敵将を知るものに話を聞くのは大切なことだ。敵を知り、己を知れば百戦危うからず。その言葉通りだ。今回の戦、一筋縄ではいかないかもしれない。

 

「なーに、そう暗い顔をなさるな。此度は姫様も、お主のような若武者もおる。多米の娘も、大道寺の娘も、お主も死なせはせん。この間宮豊前守が必ずや小田原に連れ帰ってみせるわ!ハハハハ」

 

我々を不安にさせないためにこのように明るく振る舞っているのだろう。もちろん、経験からくる自信もあるのだろうけれど。少なくとも、この人はいい人だ。

 

「おお!見えて参ったぞ。あれが駿府よ。いや、戦の前というのに相変わらず賑わっとるな」

 

指の指された方には街とそこを行き交う人が見える。あれが駿府。今川の本拠地である。

 

 

 

 

 

 

今川館の前に着くと、黒衣の僧形の男が出迎えてくれた。あの人が太原雪斎だろう。鋭い眼光、叡知を感じる雰囲気。戦国軍師の中でも五本の指に入る名将の貫禄だった。

 

「よくぞ参られた。此度は参陣感謝致します。某は太原 崇孚。義元様の宰相でございます」

 

「私は北条左京大夫氏綱が名代、北条新九郎氏康でございます。1500の兵と共に助力せんと参りました」

 

ややこしい話だが、この時の今川は共通認識として、北条を下に見ている。元々早雲が今川の下にいたからだと思うが、これも後々問題になる。反対に北条は今川を対等な相手として見ているから厄介だ。

 

「ありがたきかな。ささ、中へ。間も無く評定が始まります。後ろの方々も」

 

我々もお呼びのようだ。中へ入るとしよう。

 

 

 

中には多くの将がいる。誰が誰かは分からないが、恐らくこの中のどこかにこの後有名になる名将たちがいるだろう。

 

主は割と上座にいるが、我々は末席だ。ま、それもそうだよね。仕方ない。

 

「それでは、お揃いになった事ですし、始めさせて頂きます」

 

雪斎の合図に一斉に頭を下げる。

 

「まずは、主、義元様よりのお言葉です」

 

上座の一番上。当主の座る席に堂々と現れたのは十二単に長い黒髪の少女。よく分からない龍の髪飾りをつけて扇を持っている。典型的な平安貴族風の格好だ。

 

「よく来ましたわね。わ・た・く・しが今川家の正当なる当主、今川義元ですわよ!おーほほほほ」

 

…帰って良いですか?ここまでどこかに帰りたくなったのは始めてだ。これの為に戦いたくは、ないですね。元忠も盛昌も顔が死んでる。いい人の間宮康俊も微妙な表情。氏康様はこめかみに青筋が出てる。

 

あ、これは死ぬほど気性が合わないタイプみたいですね。御愁傷様です。というか、これと本当に三国同盟結べるのかなぁ…。海道一の弓取りとか言われてるけど、弓どころか刀も持てなそうだが。

 

「それでは雪斎さん、後はよきにはからえですわ~」

 

「はっ」

 

えぇ…。今川の人たちは慣れているのか、無表情。諦めてるのかもしれないけど。動揺してるのは我々と…もう一組いる。あれはどこの家だ?

 

「此度の戦では北条左京大夫殿の名代、氏康殿以下の武将の方々と武田陸奥守(信虎のこと)の名代、信繁殿以下の武将の方々が参陣下さりました。代表し、御礼申し上げます」

 

あれは武田家の人たちか。代表の信繁は…信玄の妹か。信玄(今は晴信)と信繁は姉妹らしい。普通、こういう時は武勲を作るためにも跡継ぎを行かせるものでは…と思ったがそこで気づく。あ、信虎と信玄はクソ仲悪いんだ。あーなるほど、完全に理解したわ。

 

我々に出番が無いからボーッとしてたらどんどん話は進んでいた。

 

「それでは手筈通りに」

 

布陣を見ると、まずはメイン目標として、方上城を落とすらしい。その前に小城の制圧はあるが。

 

義元側は後手に回っている。福島は既に花倉、方上の両城を占領。対して今川館は平城かつ無防備。戦闘用の造りをしていないので、すぐ突破されるだろう。

 

電撃戦で叩くようだ。幸い、方上城の近くはこちら側の岡部一族の地盤。勝てないことは無いだろう。

 

「お待ち下さい」

 

ここで手筈通りに主は異を唱える。

 

「我ら北条は何処に布陣すればよろしいか」

 

「ふむ…北条殿は後軍にて不測の事態に備えて頂きたく」

 

「これは崇孚殿とは思えぬ言い様。我ら北条が福島に劣るとでも?」

 

「いえいえ、そうは申しておりませぬ。ただ、御身に万が一のことがありましたら左京大夫殿に申し訳が立ちませぬ。北条が参陣したというだけで、敵は恐れをなしましょう」

 

流石に簡単には許してはくれないか。

 

「武門の家に産まれたからは戦場にて果てるは本望!福島越前ごときに関東にて戦い抜きたる我らが精鋭1500は破れはしませぬ。わが祖父早雲の受けたる恩を我らは忘れてなどおりませぬ。今こそ報恩の時。元より逆賊福島に鉄槌を下したく思い馳せ参じましたのです!」

 

「うむむ、左様までに仰られるなら……花倉城を囲む際には、戦列に加わって頂きたく。恐らく福島越前は決戦を挑むでしょう。その報恩の志の慰めになるはずです」

 

「ありがたきかな。必ずや福島越前の首を献上致しましょう」

 

ふぅ、という顔になる氏康様。キャラじゃない事をやらせてしまったが、これで無事爪痕は残せそうだ。太原雪斎が一瞬だけ苦々しい顔になったのを見逃してはいない。こちらの読みは当たっていたな。そちらの良いように使われてたまるか。

 

「あ、あの!それでしたら武田も最前線の戦列に加えて下さいませんか?福島には幾度となく煮え湯を飲まされて参りました。ここで退くわけにはいきません!」

 

武田信繁が立ち上がり参陣を願う。おお、雪斎の目が笑ってない。怖いなぁ。

 

「分かりました。武田の方々には石脇城の攻略をお願いしたい」

 

「必ずや」

 

武田にも同じような事をさせてしまったのは予想外だったがまぁ、概ね予定通りだ。後は兵を損なわずに花倉城の戦いに参加するのみ。

 

三河やそれより西への援軍要請とか多分シャットアウトされてるはずだから、孤立無援。まぁ、多分勝てるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

凄まじい勢いの電撃戦で方上城は陥落した。岡部一族や朝比奈一族の猛攻により戦闘開始から僅か二時間で降伏した。

 

見ているだけだったが、凄いスピードなのは伝わった。流石は岡部元信や朝比奈泰朝を擁する家だ。他の将も名将揃いである。

 

石脇城もすぐに陥落した。武田の攻勢に敵うことはなく、結局城を明け渡した。城将は切腹し、兵の助命を乞うたらしい。こちらも電撃的である。

 

石脇城は僅かな城兵を残し、武田の兵もこちらに集まった。いよいよ、明日は花倉城攻めである。この間僅か一週間。速すぎる。ドイツ軍もかくやだ。

 

そして、正真正銘始めての戦いだ。北条は陣形の右翼の方に配置された。何としてでも生きて帰るぞ。

 

 

 

 

 

 

 

夜、武田の姫と遭遇した。あまりに突然でビックリしたが、どうやら夜風にあたりに来ていた所に同じ目的で来た私と偶然鉢合わせしたらしい。

 

「えーと、お名前は何でしたっけ…北条の…確かえー…」

 

「あー大丈夫です。武田様ほどのお方が覚えておられぬのも無理はありません。私は、北条氏康様が臣下、一条兼音と申します」

 

「あ、そうそう。一条さんでした。私の妹にも、同じ姓を持つ子がいます」

 

「信龍殿ですか?」

 

「よくご存じですね。その通りです」

 

「少し小耳に挟みまして、偶然」

 

「…一条さんは、戦は初めてでしょうか」

 

「はい」

 

「私も、そうなんです。武芸の鍛練はしてきましたが、実戦は初めてで…。本当はこの戦も姉上が出るべきなんです。でも、父上は軟弱な姉上には務まらないと、私を…。一体私はどうしたら…。このままでは姉上との関係も壊れてしまうのではと苦しくて、たまらないんです。……あ、今のは無しで、その忘れてください。こんな事他の家の人に言ったら怒られてしまいます」

 

「ご安心下さい。私の胸のうちに留めておきます。それと…差し出がましいかもしれませんが、大丈夫だと思いますよ」

 

「え?」

 

「今の武田様がご自身のままであられたなら、いつかまたお姉さまと元の関係に戻ることも出来ましょう。それまでの辛抱です。心を強くもって、寄り添ってあげれば、必ずその思いは届くものです」

 

私は知っている。間も無く武田信虎は追放される。信繁は信玄に従い、共に父親を追いやった。その後も不仲になったという話は聞かないので、ずっと仲良くやれていたのだろう。

 

「そう、ですね。ありがとうございます」

 

「いえ、礼には及びません。この身が武田様のお役に立てたのなら幸いです」

 

「そんな、謙遜しなくても。もう少し頑張ってみようと思えました。それと、私のことは信繁で良いです。武田様とは呼び慣れていなくて。…あぁ、そろそろ戻らなくては。それでは、またいつか。それと、先程の話はくれぐれも内密に」

 

「ええ、承知しておりますとも。またいつかお会いできる事を楽しみにしております。願わくば、良き間柄として」

 

「ご武運を祈っていますよ」

 

「っ!…信繁様もお気を付けて」

 

去り行く彼女を見送る。最後の笑顔に一瞬だけ言葉がつまった。あんな優しい顔の少女もいつか…。

 

そう、私は知っていた。武田信繁は第四次川中島の戦いで、上杉軍によって、その命を…。

その残酷な運命から目をそらしたくて、唇を噛み締めた。血の味が逃れられない残酷な乱世の宿業を告げていた。その運命に少しくらいは抗いたかった。




信繁ってこんなキャラで合ってたかな…。その辺は二次創作だからで押し通ります。ごめんなさい。私の世界ではこうなんだ!


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第5話 花倉の乱 後

夜が明ける。朝日は、戦場を煌々と照りつける。敵は城に籠らず、出撃することを選んだようだ。こちらの軍勢は8000。うち武田北条合わせて2500ほどである。

 

対する敵軍は限界までかき集めて4800。数の差はあれど、作戦次第では敵も巻き返しは可能であった。世界の中には11000で80000を撃破した戦闘も存在する。河越夜戦というのだが。もれなく主家、北条家の戦である。

 

とは言いつつ、太原雪斎以下今川の名将たち、武田信繁、北条氏康という面子を相手に状況をひっくり返せるほどの大勝利を掴むのは不可能に近いだろう。

 

現在の陣形は通常よく使われるスタンダードな横陣である。こちらの配置は大分中央よりの右翼。中央と言っても良かった。対する福島軍は偃月陣。大将が切り込み役を務める超絶攻撃的な戦法である。士気は上がりやすいものの、討ち死にの危険性がはね上がる。死を覚悟した陣だった。

 

今回は献策も特にない。何故ならば、そのまま流れに任せていればなんとかなるだろうからだ。太原雪斎が無策で挑む筈がない。氏康様も、私も参謀タイプだが、その頭脳も今日はお休みだ。

 

 

 

 

 

 

 

夜の城に老将が一人、苦々しい顔で思案していた。周りには悲壮な顔の将たち。福島越前守に味方した自分達の先見性の無さを恨んでいた。

 

「どうされるおつもりか!もはや城はここしかない。ここが落ちれば、すなわち死ですぞ!」

ヒステリックにわめく堀越貞元に舌打ちしたい気分を抑えながら福島越前守正成は策を考え続けていた。

 

「北条、北条が来れば或いは…。もしくは三河衆が…」

 

本心から言えば福島正成とて三河の田舎者どもに頼みたくはない。しかし、状況はそんな事を言っている場合ではなかった。北条が敵方な事も、雪斎の徹底的な情報封鎖のせいで今は知らない。

 

「申し上げます!」

 

「何か!」

 

「城を囲む敵に新手の軍勢が加わりました!」

 

「どこの手の者か!」

 

「旗は三つ鱗。北条家の軍勢でございます」

 

「なんと…」

 

最早望みは断たれた。こうなっては勝ち目はほぼ零に等しい。金山の金も、我々の河東における領土請求の放棄も、北条を動かすには足らなかった。唇を噛み締める。

 

堀越貞元の顔は真っ青である。それを冷めた目で見る遠江の諸将。彼らは次々と退席し、最後の夜を過ごそうとしていた。

 

「出る他に道はない。是非もなしか…」

 

今川最強と謳われたその実力を以てしても、覆すのは難しい。人生の終わりが戦場とは何とも自分らしかった。

 

思えば、長く生きた。この乱世では十分生きたと言えるだろう。かつては伊勢新九郎盛時に憧れを抱き、かのごとき下剋上はまさに乱世の習い、あっぱれと思った時もあった。いずれ我も男ならばかのような鮮烈な輝きを放ちたいと思った時もあった。

 

若気の至りと思っていたが、この年になってくすぶっていた思いが形になってしまった。その結果、かつての憧れの子孫たる北条にまで狙われるとは皮肉だ。

 

「お祖父様、わたくし達は勝てるのですわよね?死にはしませんわよね?」

 

おろおろしながら聞いてくる小娘に視線を向ける。その顔は今川義元と良く似ていた。黒く長い髪、豪華な着物、そして尊大な態度と口調、箸より重いものなど持ったことの無さそうな雰囲気。

 

かつて軟弱と切り捨て、邪魔者扱いした敵の大将とそっくりである。両方に会ったものは、母は違えど同じ血が流れているのが分かるだろう。

 

憎んだ義元とは違い不思議と孫娘には憎悪の感情は浮かばない。

 

「すまない」

 

その言葉が何に対する謝罪なのかは分からなかった。自分が祖父で無かったら、この子は…。そう思う自分に老いを感じた。今まで栄達のために傀儡の道具としてしか見てこなかった自分にそんな感傷に浸る資格はなかった。

 

「お祖父様?」

 

「万一敗れる事があれば、お前は逃げよ」

 

「そんな…」

 

「けして祖父の仇を討とうなどとは思うな。どんな形でも良い。逃げ延びよ。逃げる先は…北条にせよ。あそこなら、或いは匿ってくれるだろう。西国に逃げるのでも良い。生きよ。そして、乱世を見届けろ。良いな」

 

「ですが…お祖父様は…」

 

「良いな!」

 

聞き分けのない孫娘に怒鳴る。

 

「ひ、ひぃぃぃぃ。わ、分かりましたわ…」

 

情けない姿だ。だがそれを見ても苛立ちはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

決戦の火蓋は割とあっさりと切られた。法螺貝の音と共に敵軍が一斉に突撃を開始する。騎馬も歩兵も問わずに。

 

「凄まじい気迫だ…」

 

「はい…。死兵となっています」

 

元忠も盛昌もあまりの敵の気迫に気持ちは後ろ向きになりつつある。かくいう私も、帰れるものなら帰りたい。が、そうはいかないと分かっている。勇気を奮い立たせて戦場を見つめる。

 

折角戦場のど真ん中を勝ち取ったんだ。派手に活躍しなくては。

 

「気後れしてはなりませぬ。我らが堂々としていなくては」

 

「そうだな」

 

「ええ、はい。そうでした」

 

「しかし、初陣のお前に言われるとはな」

 

「はい。随分と武者姿が板についてきましたね」

 

「二人の教えのお陰です」

 

敵は弓の射程圏内に入った。

 

「射かけよ!!」

 

号令を下す。100を超える弓が一斉に放たれた。同時に投石(人力)も始まる。敵軍の中には倒れる者もいる。それでも進撃は止まらない。他家も同じように遠距離攻撃が行われている。

 

敵はもう間も無く我々などのいる中央部と接触する。全軍により一層の緊張感が走った。

 

そこに我々ではない軍団が敵と当たり始めた。おそらく朝比奈家の軍勢。ただし、朝比奈は朝比奈でも駿河朝比奈だ。参陣が遅れたため、手柄を立てようと必死なのだろう。敵の勢いが弱まる。しかし、敵も必死だ。しかも、突破部隊は精鋭のようで、朝比奈隊からは時々血煙が見える。

 

朝比奈隊は突破され、こちらを目指してくる。しかし、ここで状況は大きく変わる。

 

敵軍の横っ腹を突くように岡部隊と武田隊が出現した。なるほど、わざと敵軍から遠めの所に布陣したのは長細くするための場所がいるから。敵を追い詰めたのは乾坤一擲の攻撃に出させるため。

 

うっすらと後方で指揮を執っている信繁の姿も見える。流石は信玄の妹。才能はしっかりあるようだ。

 

しかし、太原雪斎恐るべし。猛将福島正成を掌の上で転がしている。このままでは何も出来ないまま終わってしまう。そろそろ動かなくては。

 

「武田今川なにするものぞ!我ら北条の戦を見せてやれぇ!」

声帯を盛大に震わせ、間宮康俊が叫ぶ。

 

「「「「「おおおおおおあお!」」」」」

 

「突撃ぃぃぃぃ!」

 

叫び声と共に精鋭騎馬部隊は突撃を開始する。混乱している敵軍には効果覿面だったようだ。次々と撃破し快進撃である。

 

「我々も出る。お前はどうする」

 

「ここで弓で援護しつつ、姫様を守ります。ある程度方がつきましたら加勢します」

 

「分かった!」

 

「お気を付けて」

 

「ええ、お二人も」

 

二人を見送る。まぁ、二人とも強いし大丈夫だと思うが。こちらはこちらで出来ることをしよう。

 

「弓の装填を速く!味方には当てないようより戦場後方を目指せ!」

 

少しずつ、だが確実に敵兵は数を減らしている。もはや我々の勝利は確定に近かった。もう頃合いだろう。そろそろ加勢に行くとするか。

 

氏康様の近衛部隊に後を託し、戦場の中央、死体の山の中を進む。どこもかしこも喧騒が聞こえる。間宮康俊や元忠、盛昌などと合流したいが、乱戦になっているこの状況では厳しいかもしれない。

 

戦場を更に進むと、同じように戦場の中を単騎駆ける老将がいた。様子を見ると、我が方の兵を殺して回っている。弓を構え、狙いを定める。誰かを意図して射つのは初めてだ。手が震える。だが、決めたのだ。もう、迷わない。

 

ヒュッ

 

風を切る音を鳴らし、放った矢は老将の左肩に当たる。思わず姿勢を崩した彼は落馬した。近づき人相を確認する。その鎧に彫られた紋所。まさかとは思うが…。

 

「福島越前守正成殿とお見受けいたすがいかがか」

 

「いかにも、わしこそが福島越前守正成よ。先程の弓はお主が射たのか」

 

「左様」

 

「見事な手前よ。味方であればどれだけ良かったか…。名を聞こう」

 

「北条左京大夫が嫡女、氏康様が臣、一条兼音なり」

 

「その名、冥府にて広めよう。もはやわしは戦えぬ。この腹切って死ぬとしよう。辞世の句は要らぬ。情けは無用。介錯を頼む」

 

「……承知」

 

「若いな。戦に出たならば躊躇うな。命取りぞ」

 

「ご忠告痛み入ります」

 

「我が首は汝が討ち取った事にせよ」

 

「しかしそれでは…」

 

「良い。その弓の腕へのせめてもの餞よ」

 

「はっ。ありがたく。…何か言い残す事はあるか」

 

「…我が一族の者が北条に行くやもしれぬ。その時は、守ってやってくれ。この大刀も渡してくれ」

 

身に付けていた刀を渡される。

 

「必ず」

 

「お主は、北条家中の者か…。もし、お主が花倉城を落としたならば、我が孫娘を救ってはくれぬか。あれはまだ世を知らぬ。我が欲のための傀儡として、しかもこのような形で生を終わらせるのは、あまりにも惨い」

 

「……」

 

「わしも老いたな。このような感傷を抱くなど」

 

その老人の目は死を前にした者でも、戦場に生きた将でもなく孫娘を思う一人の祖父だった。

 

「お約束は出来かねますが、善処しましょう」

 

出来るかは分からない。だが、この老将が思い残す事なく逝くためには、こう答えるしかなかった。

 

「それで良い。軽々しく確約するような者信じられぬわ」

 

短刀が抜かれる。私も刀を構える。

 

そして、諸肌を出し、刀を突き立て、ゆっくりと腹を切っていく。汗が流れ、血が迸る。

 

「御免っ!」

 

スッと刀を振り下ろし、確かな手応えがあった。綺麗に下ろすことの出来た刀は、猛将、福島正成の首をしっかりと落としていた。

 

最後は一思いに出来ただろうか。初めて、人を殺めた。その人が彼で良かったかもしれない。この人は最後の最後に私を戦国の人間にしてくれたのだ。福島越前守正成。私は生涯、その名を忘れないだろう。

 

「おおい!大丈夫かー!」

 

元忠が馬を走らせながらこちらに来る。

 

「どうした?…この首は、福島正成か!」

 

「その通りです。私が介錯を。見事な最期でした」

 

「そうか…これ、どうする気だ?」

 

「どうすれば?越前守は私が討った事にせよ、と」

 

「ならばそうしてやるのが弔いだろう」

 

「そう、ですね」

 

「やり方は分かるな?」

 

「ええ、勿論」

 

息を吸い込み、ありったけの声量で叫ぶ。戦場全てに届くように。

 

「敵大将、福島越前守正成、北条氏康が臣一条兼音が討ち取った!!」

 

喧騒が止む。そして、

 

「「「「うおおおおおおおお!」」」」

 

戦場のあちこちから叫びが聞こえる。味方の雄叫びだ。一方敵兵は我先にと城への撤退を開始していた。

 

この戦いの敵軍の死者、4800人中2750人。完勝に近い。残存兵は城へ逃げ込んだ。これから熾烈な最後の城攻めが行われようとしていた。




敵将であっても無条件で悪者にしてはいけないと思ってます。この時代は尚更ですよね。どちらにもどちらの正義や信じるものがある。

上杉なんかの何度も戦う敵でない敵についてもキチンと描写していけたらと思います。


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第6話 花倉城、落城

野戦は終わった。どこか夢見心地のまま、ひとまず本陣に帰還する。もう日暮れだ。これから攻城戦をしても今日中に落とせるかは定かではない。

 

敗走した兵は半分近くが城に籠った。あとの半分は逃亡したようだ。順当に行けば、明日に本格的な城攻めとなるだろう。

 

城主かつ大将の福島正成が死んだことで、今の指揮官は名目上堀越貞元らしい。と言うのも、他の名だたる武将は大半が討ち死にか降伏してしまったからだそうだ。まだ一応少しはいるようだが。

 

花倉城は近世の平城ではなく、典型的な中世の山城だ。山城はこの時代はまだまだスタンダードな城で、例えば毛利の居城の吉田郡山城や尼子の居城、月山富田城なんかも山城である。ちなみに、小田原城は平城に近い。と言うよりかは西洋の要塞都市のような感じで街ごと城なのである。

 

 

 

 

我が北条家の陣に戻ると、他の将は戻ってきているようだった。

 

「ただいま戻りました」

 

「お帰りなさい。あなたが最後よ。皆、無事に戻ってこれたようね」

 

「フハハハ。この程度でくたばるわしらではありませんぞ!」

 

こんな時でも豪快な間宮康俊。歴戦の武将だけあって傷は無さそうだ。鎧は返り血で染まっている。

 

「さて、此度の戦での勲功一等は一条兼音、あなたよ。私の見込みは間違って無かったわね」

 

「ありがとうございます」

 

「よくぞ、見事に福島越前守を討ち取りました。これで今川に大きい顔が出来るわ。岡部家の娘なんか歯ぎしりしながら悔しがっていたそうよ。鼻が高いわ」

 

「勿体なきお言葉」

 

「お主、初陣で大将首とはようやったぞ!わしの目も狂っとらんかったようだわ!見込みのあるものと思っとったんじゃ」

 

口々に称えられる。キチンとこの手で戦いの末に討ち取った訳ではないため、罪悪感はあるが、故人の頼みであるし、一応弓で倒した訳だしと言い訳する。あの後連射すれば息の根は止められたと思うし。

 

だけれども、いまいち自分の中で納得できていない所がある。もっとしっかりと自分の力で勝ち取ったもので評価されたいという思いがくすぶっていた。

 

そこで、福島正成の最後の頼みを思い出す。"孫娘を助けてくれ"と確かに彼はそう言った。しかし、無理してまで助ける義理は普通ならない。もし、本当にやるなら今川より先に見つけ出して、バレないように連れて行かねばならない。

 

そんな事何のためにしなくてはならないのだろうか。敗走寸前でボロボロとは言えまだ多くの兵が籠った城なのだ。密かに救援など、通常の手段ではまず無理だ。助ける理由付けなら無理矢理作れるが。

 

それでも諦めきれないのはまだ非情になりきれていないからか。死ぬ間際の老将の顔が脳裏にこびりついて離れない。私もまだまだ甘いことを痛感した。

 

とは言っても、物理的な面はいかんともしがたい……ん?

 

ピンと頭の中で策が閃く。そうだ。通常の手段では無理、ならば通常やらない事ならば…。これなら行けるやも知れぬ。あくまでも目的は別にあるが、ついでに連れてくるならば可能なのではないか?よし、やるしかない。

 

「それでは、恩賞を与えなくては。何か望みはあるかしら?」

 

「…あいやお待ちくだされ」

 

「どうしたのかしら。何か問題でもあった?」

 

「いえ、恩賞の前に一つお聞きしたいのですが」

 

「?何かしら」

 

「今、姫様の周りに風魔の方々は何人おられるので?」

 

「幻庵のおばばが35人付けてくれたはずだけど。それがどうかした?」

 

よし。我が策が実現できる可能性が高まった。

 

「それでは、ひとまずの恩賞として、風魔の方々30人の指揮権を一時的に頂戴したく存じます」

 

「風魔を?何をする気?」

 

訝しげに見つめる主や他の将の目に見られる。疑問を抱えた目だ。そりゃそうだろう。恩賞に忍の一時的な指揮権など常識はずれにも程がある。

 

「花倉城を落とします」

 

 

 

 

 

 

 

良かった。なんとか借りれた。氏康様は滅茶苦茶必死に止めてきたが、間宮康俊が助け船を出してくれた。お陰さまで作戦が可能である。盛昌も氏康様も、太原雪斎の所へ行かねばならないらしいので、誰も他に来てくれない。悲しい。

 

別に無意味にとか感傷や優しさでこの作戦を思いついた訳ではない。臣下の功績は主の功績。成功すれば氏康様の功績にもなるだろう。無論、私も出世への糸口を掴み、今後訪れるだろう苦難への対処がしやすくなる。今川に大きい貸しも作れる。今川良真がいれば、良い駒ができる。

 

と言うのも、嫡流ではないとは言え、今川の血を引く人間がいるのといないのとじゃ使えるカードの数が変わる。もし、歴史がある程度流れに沿うなら、しばらく後に今川義元は死ぬ。桶狭間で織田に負ける。そうなったときに、本来後を継ぐ氏真は、今現在まだ赤ちゃんらしいので、その時が来てもまだ幼少。家中をまとめるのは無理だろう。そこを武田に取られてはたまらない。血を引く傀儡を使って正統性を主張できるだろう。

 

正直凄い無茶苦茶かつ厳しいことをやろうとしてる自信はある。生きて帰れると良いが。目の前には集められた風魔が30人、無言で立っている。戦国有数の暗殺者たちだけあり、怖い。かなり。

 

「君たちには、今から花倉城を落城させる手伝いをしてもらいたい。まずは誰か、侵入できそうな所を探ってきてくれ。その後、全員でそこから侵入する。部隊を三つに分ける。12人の部隊を二つ。6人の部隊を一つ。12人の方にはそれぞれ二の丸と三の丸に行ってもらう。6人の方は私と本丸だ。そこでは放火と適度に城兵を殺害してくれ。三の丸勢は出来れば城門解放を頼む。何か、あるか」

 

「引き際はいつ頃にすればよろしいか」

 

「鏑矢で合図する。そうしたら、北条の旗を目立つように掲げて撤退しよう」

 

「承知」

 

「正直かなり滅茶苦茶な任務だ。だから、何も死をかけてやる必要はない。君たちならば撤退も可能だろう。最悪は私を置いてでも逃げろ」

 

「良いのですか」

 

「良い。君たちの役目は姫様を筆頭に北条一族の守護。私の守護ではないだろう?…さて、他に何かあるか。何もなければ、早速偵察に行ってほしい」

 

「分かりました」

何人かの忍が音もなく消える。うーん怖い。怖い上に物理法則無視してる気がするんだが。気にしないようにしよう。

 

「私を忘れてもらっては困るな」

 

「へ、元忠殿?何故ここに?」

 

「いちゃ悪いのか?流石に少なすぎる。加勢する。死なせたら姫様が悲しむからな」

 

「姫様が悲しむかはさておき、加勢はありがとうございます。助かります。本当に」

 

 

 

 

 

 

行かせた忍は30分くらいで戻ってきた。速いな。やっぱり物理法則無視してるだろ。

 

「警備の薄く、近くまで馬で行ける所がありました」

 

「よし。では、出撃だ。もし成功すれば我ら32人の働き、北条の歴史に刻まれるぞ」

 

「我ら忍は名を出さぬが使命。それ故目立たず影となるが道理なれど…今宵のみは派手に行きましょうぞ」

 

「多米家に元忠ありと知らしめてやる。お前ばかりに良い顔をさせられん」

 

頷き馬に乗り駆け出す。目標は前方黒い影を作る花倉城。付き従うは剛毅の侍たちではなく、名もなき忍たち。将は二人。奇妙な軍勢は密やかに城へ近づく。

 

馬を繋いで、何とか忍び込み、中へ入れた。幸い誰も気付いていない。

 

「では、手筈通りに」

 

全員が頷き、ほうぼうへ散る。すぐ後に爆発音と共に火の手が見えた。にわかに二の丸や三の丸が騒がしくなる。火を消そうと集まった者たちを殺害して回っているようだ。

 

「さ、我らも」

 

6人の風魔と二人の将が動き出す。まずは風魔たちが姿を消して、本丸の一部でも火災を発生させる。それを陽動としつつ、私と元忠の二人で城将を討ち取っていく予定だ。

 

元忠は手前の館を攻撃するらしい。私は奥の館を捜索する。何となく、ここにいそうだった。慎重に中に入る。いつ襲われるかは分からない。全神経を張りつめる。

 

 

 

 

 

 

一際豪華そうな部屋の入口についた。おそらく元々は城主の部屋。そして、今はおそらく真の大将の…。バッ!と扉を開け放つ。

 

「ヒッ!誰ですの!」

 

中には着物の少女が一人。そして後ろには侍女が一人。侍女は短刀を抜き放ち、殺気を出しながら虎視眈々と狙っているのが分かる。

 

「お前が今川良真か」

 

「い、いかにもわたくしが今川良真ですわ。そういうお前は何者!」

 

「北条氏康様が家臣、一条兼音」

 

「わ、わたくしを殺しに来たんですの!」

 

「さぁな、それはお前次第だ」

 

「…どういう事ですの」

 

「お前の祖父、福島越前守正成の遺言により参った。孫娘を助けてくれとな。ご立派な最期であった。が、お前が死を望むなら止めはしない。城を落とせただけでも十分な戦果。お前を助ける得などありはせん。それでも遺言は遺言よ。我が手にかけた将ともなれば聞こうと思うのが人情だ」

 

「お祖父様…」

 

「さぁ、どうする。選ぶがよい。誉れある死を望むなら叶えよう。降伏は許されない。降伏した姫は仏門に入れるが習いなれど、お前は一度還俗した身。同じ事をされたらたまったものではない。太原雪斎は必ずお前を殺すだろう。将来の禍根を絶つために。敵や命を惜しんだ味方の手にかかるくらいなら、或いは辱しめを受けるなら、死を求めるならそれもよいと私は思う」

 

「それとも、生を望むか?生まれの誇りも、血の高貴さも、名も名誉も全てを捨てて、泥をすすり地に這いつくばり我らに頭を垂れながら顎で使われてでも、生を欲するなら…叶えよう。その願いを」

 

「わ、わたくしは……生きろと命じられました!生きなくては、いけないのです!」

 

命じたのは、おそらく…。

 

「よろしい。ならば、手を取れ。その着物を最低限のもの以外全部脱いで、足元を動きやすくしろ」

 

「わ、分かりましたわ」

 

「急げ。火の手はまわり始めてる。急がねば丸焦げだ。それと、我が主に会って少しでも失礼な事をしたら叩き切るからな。心せよ」

 

「分かっておりますわ。……あ、あの動きやすくとはどうすれば…?」

 

あああこれだから世間知らずのお嬢様は!

 

「こうするんだ!あと、これをかぶれ」

 

思いっきり着物の足の部分を引きちぎる。そして、顔を隠せるように頭巾を渡す。あー、絶対こいつ足遅い。仕方ないので手を引っ張る事にした。

 

「侍女殿、お主はどうする」

 

「私は残ります。遺体が無いと不自然でしょうから」

 

脱ぎ捨てられた着物を着る侍女。良真はその姿を目に涙を浮かべながら見ていた。

 

「さ、早くお行きください」

 

「…さらば」

 

二人で部屋を出る。

 

「姫、お達者で」

 

「っ!」

 

隣のお嬢の声にならない声を無視して館を走る。

 

「来たからには身も心も私に、引いては北条に捧げて貰うぞ。良いな」

 

「は、はい」

 

更に館を進む。

 

「クソっ!とんだ貧乏くじだ。かくなるうえは、あの阿呆姫を差し出して助命を願うか…!」

 

ぶつぶつ呟きながら小走りに近付く音が曲がり角の向こうから聞こえる。一度止まらせ、下がらせる。内容からして声の主は良真を狙っている。このままでは危険だ。

 

「誰か分かるか?」

 

「この声は…堀越貞元だった筈ですわ。裏切ろうとするなんて…」

 

「人なんてそんなもんだ」

 

刀の鯉口を切る。

 

「うわっ!何だ貴様らは!」

 

「我が名は一条兼音。北条が臣なり」

 

刀を抜いて、構える。

 

「くそ、仕方ない、その姫を渡せ。その首を持って今から降伏するのだ」

 

「あいにくとそういう訳にはいかない。福島越前殿の頼みなのでな」

 

「あの男!裏切ったのかっ?ま、待て、金ならやる、だから命ばかりは…!」

 

「福島越前殿は立派な最期であった。貴様は違うようだがな。武士の風上にも置けぬ」

 

刀を振りかざす。抜きもせず、貴族風の格好の堀越貞元はへたりこむ。

 

「ひっ!死にたくない!」

 

「お命頂戴」

 

「我は、堀越、貞元な、るぞ…こんな、所で…」

 

断末魔を残して果てた。誰も、死にたくなんか無かったさ。ああ、刃傷沙汰に腰を抜かしている姫を助けねば。あぁ、つくづく手がかかる。

 

「血を見るのは初めてか?何人も死んだ。お前のためにな。先程の侍女も、お前の祖父も。それを忘れるな」

 

彼女は何も言わない。この残酷な世界を恨んでも、結局はこの乱世に産まれた自らを恨むしかないのだから。

 

館を出ると、城のあちこちから火柱が立っている。燃え盛る建物が眩しく目に映る。麓からは炎上する城がよく見えるはずだ。旗を立てていたら、それも炎に照らされてよく見えるはずだ。背負った弓を構えて宙へ鏑矢を撃つ。集合の合図だ。

 

 

直ぐに風魔たちが来る。少し遅れて元忠もやって来た。腰に首が三つくらい付いてるんだが…。

 

「遠江の諸将の首だ。そっちのは?」

 

「堀越貞元のだ」

 

「ちっ、こっちは外れか。またお前に取られたな」

 

「そう言うな」

 

「で、肝心な話だが、その女は誰だ」

 

「あー、後で話す。今は取り敢えず帰還するぞ。門は開けたか?旗は?欠員はいるか?」

 

「全て手筈通りに行いました。欠員もおりません。この程度でやられる我ら風魔ではないので」

 

欠員がいないのは良かった。

 

「よし!作戦は大成功だ。最後に仕上げを…」

 

またしても息を吸い込む。麓に、そして城兵に聞こえるように叫ぶ。

 

「花倉城の主将堀越貞元以下、北条氏康が臣下、一条兼音と多米元忠が討ち取ったり‼️‼️もはや抵抗は無意味!直ちに降伏せよ‼️」

 

それだけの声で叫ぶと喉が枯れそう。ともかく、これでやるべき事はやった。後は抜け道から帰還だ。

 

運動してなさそうなお姫様は足手まといも良いところだ。先に皆を行かせる。仕方ないので、いわゆるお姫様抱っこで抱えて獣道を下りる。

 

「危険だ。しっかり掴まれ」

 

「は、はいぃ」

 

何とか無事に下に降りて来られた。今一度いるかを確認して、繋いでいた馬を連れてくる。

 

「おい、乗馬は出来るのか?」

 

「乗ったことありませんの…」

 

「あー使えない。良いか、私の手に掴まれ。せーの!」

 

無理矢理引き上げて自分の前に座らせる。

 

「狭いが我慢しろ。それでは我らが主の元へ、堂々たる凱旋と行こう!」

 

「「「「おう!」」」」

 

馬の走らせる。朝日が登り始めた戦場を武者二人と姫一人と数十人の忍が走っていた。

 

数時間後、城兵全てが降伏を申し出てきた。太原雪斎と今川義元はこれを認める。花倉の乱はこれをもって終了したのだった。

 

本来、炎の城で死ぬはずの今川良真を救った事で、この後の歴史がとんでもないことになるのをまだ誰も知らなかった。

 

加えて"身も心も捧げよ"の台詞における肝心な部分"北条に"が聴こえておらず、一波乱あるとは誰も予想していなかった。




乱自体は終わりましたが、次回もその話を引っ張ります。

今川良真のイメージは劣化バージョンの義元ちゃん。蹴鞠もあそこまで上手くはなく、和歌くらいしか勝る所が無い。ただし、真っ白な紙みたいな状態なので今からいかようにも出来るというキャラです。

当初は死ぬ予定でしたが、一条殿に家臣が欲しかったので、こうしました。これから馬車馬のように働いて貰います。つまり、レギュラーメンバー入りです。おめでとう。


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キャラ集①

時々間に挟んで出します。オリキャラはそこそこいる予定。一話で退場の可能性もありますが、レギュラーメンバーになる場合もあります。




<主人公>

 

名前:一条兼音(かねなり)

 

性別:男

 

年齢:17

 

身長/体重:179センチ/71キロ。筋肉はキチンと付いている。

 

容姿:現代日本人のイメージする普通の高校生の男子。顔は美形とまではいかないものの、普通よりは少し良いくらい。黒髪。

 

以下、信長の野望風ステータス

 

統率:90 武力:85 知力:95 内政:90 外政:80

 

くらいと優秀。ただし、知力以外のステータスは北条氏康より下である。プロローグ時点では武力ステータスは73くらいだったが、半年近く死ぬもの狂いで習得して上げた。

 

個性は、家宰、教養人、国材運用、攻城心得、鉄砲知見といった所。

 

 

文系分野の知識が広く、歴史や文学に異常なくらい詳しい。また、社会学や法学などにも知識を持っている。数学や理科も多少は出来る。

 

原作主人公、相良良晴とは異なり、ハーレムの夢は抱いていない。ちゃんと女の子が好きだが、恋愛経験は皆無。また、主には敬語を崩さず、身分制度はきちんと遵守する。貴族や姫巫女にも敬意を持っている。

 

 

両親は既に死亡。高知県出身で、今は大阪在住。関東は箱根に観光に来ていたら戦国に飛ばされた。現代への未練はあまりない。

 

弓道部に所属。成績は全国大会優秀記録を持っている。鍛えている為、剣や槍も習得のスピードが速い。

 

 

 

 

<6話までの周囲の評価やカットされた裏話>

 

《第1話》

いきなり戦国に飛ばされてかなーり混乱している。飛ばされたのが関東で良かったと考えており、間違っても戦場のど真ん中とかでは無かった事に感謝している。

 

寺では、乱世における仏教のあり方を和尚から聞いていた。(勝手に話し出した和尚に相づちをしながら会話していた。)

 

氏康の事は超美人で綺麗だなぁとは考えているが、感覚的にアイドルとか国民的女優を見ている感覚。恋愛感情ではなく、美しいものを見た時の感嘆に近い。普通に現代の高校生よりバリバリ美人だと思っていた。

 

内政派を謳ったのはまだ武具を使えないのを理解しており、このまま戦場に送られても死ぬだけと分かっていたから。決してひ弱な文官ではない。

 

 

《第2話》

 

今のこじんまりとした小田原城ではなく、昔の総構持ちの巨大城塞を見れて若干感動している。

 

城下では、ただ物珍しい感じで見ているだけでなく、城下の様子や何が売られているのかとかを観察している。歴史に詳しくても、戦国時代の民衆の暮らしについて素晴らしく知っている訳ではないので、知識の補完をしたかったためである。

 

多米元忠や大道寺盛昌(今後もよく出てくる同期の仲間)に初めて会う。さっきの氏康と同じように、恋愛対象だとは思ってもいない。

 

結構な待遇で雇ってくれた主に感謝しており、忠誠心というものが芽生えている。今の住まいは1LDKくらいの長屋。これでも大分待遇は良い。また、武芸を教えてくれている元忠には特に感謝しており、いつかお礼をしたいと思っている。鍛練では、馬術、槍、短刀、剣術を教えて貰っていた。剣術は一番呑み込みが良いため、早くに教えられる段階を卒業した。

 

いざという時に使えるように、情報を集めている。お休みの日には、城下に出て商人に話を聞いたり、女中たちに他国の話や噂話を聞いている。何とか関東と駿河甲斐信濃くらいの範囲の情報は手に入った。

 

 

さらっと流したが、台帳の管理はかなり画期的な方法を伝授しており、他にも農業技術に関してや商業に関しての提案をいくつもしており、全て大道寺盛昌経由で評定衆こと宿老たちに伝えられている。幾つかは採用され、残りは精査して改良中である。その為、宿老からも認識されるようになってきた。

 

実は一番の功績はそれではなく、地図作成のノウハウを教えた事であった。伊能忠敬のパクりをしただけだが、戦国時代からしたら画期的な技術である。何しろ二百年近く後の技術なのだから当然なのだが。これにより

正確な検地や街道整備、建築築城が可能になり、土木工学や税収面で大きく進歩することとなる。が、まだ実用には今少し時間がかかりそうなので評価は保留となっている。

 

 

この頃からちょくちょく鍛練中や仕事中に小田原にいる宿老に声をかけられるようになる。彼らの主な目的はどんな人間か見定める為だが、きちんとした応対や上を立てる態度を取っており、また戦国武将に対して尊敬の念を持っているためそれが現れ、割と気に入られている。上記の理由により新参者だが、受け入れられている。

 

 

《第3話》

 

戦う理由と覚悟を見つける。本格的な戦国武将となるスタートを切った。

 

 

《第4話》

 

間宮康俊とはお互いに好感を持っている。今川義元は近年の評価で見直されてきているのを知っているが、本当にこれで大丈夫なのか不安になっている。これはむしろ今までの学説や評価で良いのでは?と考えていた。

 

太原雪斎に対してはいつか越えなくてはならないと考えている。

 

武田信繁に対しては、自分のような一武将の名前を覚えようとしていた事に嬉しさを感じている。北条の未来には障害にならないと考えて、アドバイスを行う。このような少女がいつか死ぬであろう運命があると考えて、悲しみや無情さを味わっていた。

 

 

《第5話》

 

福島正成とは完全な遭遇戦である。この手で直接死に至らしめた事で、自分でももう戻れない事を再確認した。

 

 

《第6話》

 

基本は後方に徹して突撃とかは止めたいと考えているが、この次の戦争の国府台合戦や河東争乱、川越夜戦に介入できるように一刻も早くなりたいという思いが功を焦らせ、普段はやらないような行動に出た。自分の為というよりあくまでも北条家の為である事は明記する。

 

とんでもない事をやってのけた訳だが、元忠もいたこともあり、戦功は分散しているものの、発案者を隠すわけにもいかず、この後北条家に激震をもって伝えられる。

 

実力主義と年功序列を良い感じに組み合わせられている北条家でも、半年前に来たばかりの新参がここまでの大功を立てることを想定しておらず、驚いていると共に混乱しかけている。

 

が、本人は多少お給料が上がるだけだと考えており、周囲の認識と本人の自己評価に差がある。詳しくは、次の話に描写されている。

 

 

 

 

 

 

<北条家>

 

北条氏康…本作の多分メインヒロイン。薄紫の髪の美人。顔は素晴らしく美形だが、スタイルの方は…。本人はお子さま体型な事を気にしている。原作では謀略を得意とし、有事の際は小田原に引きこもる戦法を取っていた。激務とストレスで胃を痛めていたが、今はまだそこまでではない。今作では、上杉謙信や武田信玄などと互角或いはあしらえるだけの能力を保持する主人公に支えられ、関東の覇王へと登り詰めていく。

 

ちなみに、顔は主人公のストライクゾーンど真ん中である。原作では相良良晴にお子さま体型を指摘され半ギレしたが…。

 

 

 

多米元忠…主人公の同僚。ステータスは92/87/87/66/77くらい。黒髪ポニーテールの和風美人。言葉少なな武人気質である。最初は主人公の事を訝しく思っていたが、主が認めるので、取り敢えず評価を保留にした。鍛練をつける時に死ぬもの狂いでやっている主人公を見て評価していく。

 

大道寺盛昌…主人公の同僚(上司)。普段の詰所のリーダー。課長的ポジション。ステータスは85/75/88/92/90と内政タイプより。亜麻色の髪をした優しげな美人。主人公の真面目に仕事をする姿勢や丁寧な態度を気に入った。また優秀な仕事姿とアイデアを好ましく思っている。

 

間宮康俊…主人公の上官。ステータスは85/88/62/75/72である。歴戦の武将で、経験豊富。普段は豪快な気の良いおじさんである。

 

北条氏綱…北条家の二代目。娘を溺愛しており、目に入れても痛くはない。早雲と氏康の陰になりがちだが、家を良く守って領土を広げた戦国黎明期の名将。主人公の事は優秀な新参と頭の中に入れている。娘に変なことしたら殺すとも思っているが、大丈夫そうで安心している。

 

北条幻庵…北条氏綱の妹とも、早雲の妹或いは母ではないかとも言われる年齢不詳の武将。確実に50年以上は生きているが、容姿は若かりし頃のままの若作り。風魔の統率を行っている。現在は名前だけ登場。主人公の存在を予言した。

 

 

<今川家>

 

太原雪斎…今川家の黒衣の宰相。僧形をしており、仏門に入っている。今川義元の補佐を行い、また幼い頃に今川家に人質としていた徳川家康にも多大なる影響を与えた。東国有数の切れ者であり、今川義元の全盛期を作り出した。桶狭間の前に急死。京に戻ることを夢に見ていた。

 

今川義元…原作&アニメ通り

 

今川良真…旧名は玄広恵探。寺にぶちこまれていた今川氏親の側室の娘。福島正成の孫娘。箱入りのため戦場や世間の常識を知らない。史実では花倉の乱で命を落とすが、福島正成との約束を重んじる主人公に城攻めのついでに助けられるが、それ以降こき使われる羽目になる。初期ステータスは35/20/55/50/70とお世辞にも名将とは言えなかったが……。

 

福島正成…今川家の武将。幾度となく武田信虎と対峙した今川きっての名将。かつて若い頃は北条早雲に憧れていた。花倉の乱を引き起こすも太原雪斎の戦略により追い詰められていく。最後は決戦を挑み、主人公によって介錯される。孫娘の無事を祈っていた。

 

堀越貞元…今川家の武将。今川本家と血が繋がっている事をアイデンティティーとする小心者。権謀術数は得意だが、戦は二流三流。欲望に流され福島正成に味方するも、敗戦直前に今川良真の首を持って助命を願いに行こうとしていた所を討ち取られる。

 

 

<武田家>

 

武田信繁…武田信玄の妹。父親の信虎からは姉よりも可愛がられていたが、本人は姉を尊敬しており、父の意向には従う気はなかった。家族のあり方と歪みそうになる姉との関係に悩んでいたが、自分のありのまま姉と接すれば良いとのアドバイスを受けて、少し気が楽になる。史実では第四次川中島の戦いで激戦の末討ち死にしたが…。

 

 

 

オリキャラはこの後もまだまだ登場する予定です。関東は武将が多いのに、原作だとほとんど出てきませんから。男も結構います。個人的なイメージですが、関東と四国、東北、北陸は姫武将がそこまでメジャーではなく、東海や甲信、近畿、中国、九州なんかはメジャーだと思ってます。理由は多分単純に都からの距離かなぁと。

 

北条に姫武将が多いのは、元々が京の伊勢家の出だからと理由づけをしてます。

 

この後も、黄地八幡こと北条綱成や北条シスターズ、北条家臣団、のぼうの城で有名になった成田一族。房総の反北条の代表格里見家、常陸の鬼の佐竹家、不死鳥こと小田家、権謀術数の名門古河公方足利家、関東の旧覇者山内上杉家と扇ヶ谷上杉家、上野の猛虎長野家なんかが登場します。他にも千葉家、結城家、大掾家、下総相馬家、上総武田家、小山家、佐野家、宇都宮家、那須家、上総土岐家、江戸家、多賀谷家等々メジャーな勢力からマイナーな国衆まで登場する予定です。

 

お楽しみに。




解説は今後は多分ないと思います。今回は自分で、説明が足りなかった部分があると反省したので付け足しました。

今後は大丈夫だと思いますが、もし何か分からないことや変だなと思ったら感想で教えて下さい。


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第7話 帰還

今回で花倉の乱関連は終わりです。


乱は終わった。正確には終わらせた。城は落ちたのである。

 

馬上の人となって、昨日は多くが殺しあった戦場の中央を突っ走っている。朝日に照らされて眩しい。前方には、自陣が見えてきた。そのまま陣中に駆け込み、馬を降りる。

 

「ひぇぇぇ乱暴ですわ~もうちょっと穏やかになりませんの~」

 

と騒ぐ姫はガン無視して陣の中央に向かう。

 

「ただ今戻りました。一条兼音と」

 

「多米元忠帰還いたしました」

 

「お約束通りに、花倉城は落として参りました。此度の争乱は終わりましてございます」

 

「……」

 

「氏康様?」

 

「本当に落としてくるなんて…いや、でも良くやったわ。元忠もお疲れ様。ゆっくり休みなさい。後はこちらが上手くやっておくわ」

 

「「はっ」」

 

「こんなに鮮やかに城が落ちるのは初めて見たわい。こりゃあ氏綱様にも報告せねばならんの」

 

「そうね。二人の軍功はきちんと父上に報告します。それ相応の恩賞が出ると思うから楽しみにしておきなさい。…それと、兼音」

 

「はっ」

 

「…そこの女は誰?」

 

「あー、これはその、福島越前守の遺言にて、出来れば孫娘を助けて欲しいと…」

 

「それで連れてきたと。何してるのよ…」

 

「あいや待たれよ。左様に思い悩むことはございませんぞ。今川とは此度は手を組みましたが、いつ敵になるやも分かりませぬ。今川の血を引く今川義元にとっての不安材料を我らが持つのはそう悪いことではないかと。特に義元が世嗣ぎを残さず死んだ場合は特に」

 

「…分かったわ。でも、それまでただ飯食らいを置いておく訳にもいかないわよ。ましてや箱入りの姫で武勇もない。知力も無さそうとくればますます気が乗らないのだけれど」

 

「それについてはご安心を。助けたのは私の一存。誠に不本意なれど、これを何とかして養っていきます。有事まで。まぁ、ただ飯を食わせる気はないので、最低でも仕事はこなせるように指導しますが」

 

「ならばよろしい。内緒にしておくくらいはやっておくから」

 

「ありがとうございます。ほれ、お前からも何か言わんか」

 

「ありがとうですわ」

 

「話し方から改善ね」

 

「……はい」

先は長そうだ。

 

「それでは私は先に休ませて頂きます」

 

と大あくびをしながら元忠は戻っていった。私はこれから氏康様、間宮康俊と共に今川義元と太原雪斎の所へ向かわねばならない。今回は元忠も盛昌のお休みらしい。あれ、これ私は睡眠出来ない感じ?

 

 

 

 

乱が始まった時に集められたように、参加武将一同が集結している。

 

武田信繁や誰が誰か教えてもらったので判別出来るようになった岡部元信や朝比奈泰朝なんかもいる。信繁はこちらに気付いたようで、少し笑いながら軽く手を振ってきた。こちらも礼で返す。

 

あくまでもまだ無位無官なので、末席に座り、謁見を待っている。あの義元の事だ。時間通りに来るわけがないのだが、もう結構またされている気がする。主がキレそうなので早く来てくれ。

 

「あいや待たせた。すまぬ。お揃いですな。それでは始めましょう。まずは義元様よりお言葉を」

 

「皆さま、わたくしの為にお疲れ様でしたわ。…それでは雪斎さん、後はよきにはからえですわ~」

 

「はっ」

 

またかよ。またこのパターンか。もう何も思わなくなってきた。これと良く似た人物がうちの陣内にいると考えると萎える。 

 

「まずは各々方の奮闘感謝いたします。無事、乱は終了いたしました。特に援軍の武田北条両家には厚く御礼申し上げます。今川良真は花倉城内で自決して果てたようです」

 

良かった。バレてない。あの侍女の人はちゃんと役目を果たしてくれたのか。帰ったらあの姫に侍女さんの事を忘れないようにきつく言っておくとしよう。

 

「さて、今回の勲功一等は当家の…と言いたい所ではありますが、我らの不甲斐なさ故に北条殿の家中の将に取られてしまいました」

 

芝居がかった声の態度に軽く笑いが起きる。

 

「北条氏康殿の家臣、一条兼音、前へ」

「はっ」

 

名前を呼ばれ、前に出る。諸将の目線が刺さる。特に岡部元信からは殺気を感じる。

 

「此度の働き誠に見事であった。敵将福島越前守と堀越貞元を討ち取り、花倉城を陥落させたるその武功、誠に称賛すべきなり。故に、ここに義元様よりの感状と太刀を贈る」

 

「ありがたき幸せ」

 

感状は普通は主より家臣に与えるものだが、稀に主と同等あるいはそれより上の相手よりもらえることもある。内容は武功を証明しており、履歴書に近い。効果は半永久的に保証され、例え主家が滅んでも新たな仕官先に役立つ。

 

「太刀は備州長船倫光の大太刀なり。これに」

 

「はっ」

 

差し出された大太刀を受け取る。普通の刀よりは大きいな。大きいというより"長い"が表現的に正しいのだろうが。これを使いこなせるように修練しなくては。今の剣はそんなに良いものではない。剣の良し悪しだけで勝敗が決まるわけではないが、悪いものよりは良いものだ。こんな良さげなものを貰える程の事なのかは今一つ分からない。戦国における手柄の評価基準と報酬の基準が分からない。

 

その後も、順調に進んだ。参戦のお礼は金らしい。そう言えば、甲斐や佐渡ほどではないが、今川領内にも金山があった事を思い出す。なるほど、資金源はそれと海運貿易か。塩の専売もあるな。今川が石高よりも多く兵を出せる理由がそれだ。

 

太原雪斎には警戒を含んだ目線で見つめられていた。どうやら黒衣の宰相の脳裏に名前が刻まれたようだ。これが果たして良いことなのか悪いことなのかは分からないが、いつか越えていきたい壁であることは間違いない。いつかまた会うこともあるだろう。そのときは果たして敵か味方か。それは分からないが、このままでは終わらない気がした。

 

 

 

 

 

 

全てが終われば、後は撤収のみ。陣は片付け終わりそうなので、そろそろ出発である。ここから2日ほどかけてまた北条領に戻る。

 

いやー、やっと帰れる。疲れた。色々濃すぎた。

 

「ちょっと良いかしら」

 

「あ、氏康様どうされましたか」

 

「兼音。あなたにお客よ」

 

「へ?あ、はい。誰だろう」

 

「あっちで待ってるわ。まったく、何をしたら武田の姫と縁が出来るのだか…」

 

「あはは、すみません。少し抜けます」

 

「分かっているとは思うけれど、武田は仮想敵よ。馴れ合わないでとは言わないけれど、余計な事は言わないように」

 

「心得ております」

撤収準備をしている陣の中を抜けて、外に出る。遠くにはいまだに黒い煙の立ち昇る花倉城が見える。隣の陣にいた今川の将は既に撤収したようで、その跡地に武田菱の旗が見える。この頃はまだ有名な風林火山ではない。

 

軍勢の中には、こちらに気付いて手を振る姫武将が一人。

 

「一条さん。まずはこんにちはです」

 

「こんにちは、信繁様。何か用がおありとか…?」

 

「はい。お礼を言おうと思いまして。姉上とのこともそうですが、何より私の目標となってくれた事をです」

 

「自分など、無位無官の弱将。信繁様は、私ごときよりももっと憧れるべき存在が多くいるのでありませんか?」

 

「そう、かもしれません。でも、私も決めたのです。あなたと同じように文武の道に優れ、その力を以て姉上をお支えしたいと」

 

「私が文武両道かはさておき、良き志と思います。となると、いつか戦場にて会うことになるやもしれませんな」

 

「はい。未来の武田と北条が末永く手を結んでいることを願います。…もう行かねば。また今度文を送ります。氏康様にお聞きしましたよ、様々な事にお詳しいとか。色々教えて下さいね。お返事待ってますから」

 

「私などで良ければ喜んで」

 

「それでは、またいつか」

 

「はい。またどこかで」

 

それだけ言うとお互いに馬の向きをくるりと変えて戻る。未来の武田家の中枢部、しかもNo.2の武田信繁と繋がりが出来たのは大きいことだと思う。まだ価値はあまりないが、甲相駿三国同盟が締結されれば、大いに使えるだろう。お互いに。

 

史実では、彼女は川中島で散る。この世界での運命がどのようなものかは分からないが、もしある程度流れに沿って進むなら、彼女もまた…。彼女が死んだことにより、武田信玄はより攻撃的になり、No.2を失った武田家もまた斜陽への第一歩を踏み出す。もし彼女が生きていたら、駿河を獲得するか否かで武田義信を切腹に追い込むことは無かったと言われている。

 

川中島の時は三国同盟はまだ生きている。それを口実に援軍を送るのもありだと思った。もし歴史がどう進むのか分からない以上、生き残る確率もあるのだろうけれど、介入してしまった方が確実だ。

 

まぁ、それはその時になってみないと分からない。援軍を出せる状況にない場合も考えられる。私自身が出陣出来ない場合も。まだ未来の話だと思って思考からは追い出した。むざむざ死なせるのに悲しみを覚えるほどには、関わってしまったのだと思った。

 

 

 

 

 

 

 

箱根の山を越えて、小田原が見えてきた。あんまり月日は経っていないのに、久々に感じる。駿河とは微妙に違う相模湾からの海風の匂いが鼻を満たす。

 

帰ってきたのだな。もはや、すっかりここが私の家となっている。

 

城に戻ると家の中が少し埃っぽい。こういうのがあるから誰か家政婦的なのが欲しい。誰もいないとあっという間に埃っぽくなるからなぁ。まぁいい、掃除は後回しだ。評定に出なくてはならない。報告会である。

 

 

 

 

「……以上、此度の戦の顛末でございます。花倉城は落城し、今川義元が後を継ぎ太原雪斎が補佐しております」

 

間宮康俊が代表して氏綱に報告している。我々はあくまで付属の与力なので、ここではその報告を黙って聞いている。

 

「うむ。委細良く分かった。北条の存在を今川に再認識させることができたようだな」

 

「はっ、それに関しては存分に。我らの名は深く刻まれたでしょう。若い者たちも大活躍でございました」

 

「話は娘より聞いておる。凄まじい活躍をしたものがいたようだな。こちらでも称さねばなるまい。一条兼音前へ」

 

「はっ」

 

諸将がガン見してきているのが伝わる。ちょっと緊張するからやめて欲しい。

 

「そう緊張するな。注目しておるのだ。何せ、お主の働きが知らされた時は皆驚愕のあまり腰を抜かしかけておったわ。小田原城内は大騒ぎだったのだ。甘んじて受け入れてくれ。さて、此度の戦の働き、大儀であった。大将首に城落とし、いずれも若年の者にそうそう成し遂げられる事に非ず。故に、褒美を出すが何か望みはあるか」

 

そう言えば、立身出世をせねばならんと思ってはいたけれど、具体的に何がどうなれば良いのか良く分かってない事に気付いた。

 

「…俸祿を上げて頂けると幸いです」

 

「それだけで良いのか?もっと他に要求しても良いのだぞ」

 

「でしたら、そのもう少し広い家を下さい。不本意ながら同居人が増えまして…」

 

「?同居人のう。まぁ良い。その程度ならいくらでも与えようぞ。ううむ謙虚なのは良いがこれではわしが吝嗇しとるみたいじゃな…」

 

「申し訳ございません。このような事に慣れておりませんで…。何をお願いしたら良いか分からず」

 

「謝る事ではないがの。しかし、そうか……ならば、二つから選ぶが良い。一つは小田原からは離れるが武蔵のどこかの城の城代、二つ目は小田原で普請方の奉行が異動で今空席故、その職に就く。いずれが良いか?」

 

どちらも魅力的ではあるが、今はまだ小田原から離れたくない。城持ちも悪くはないが…普請方となれば江戸時代だと城などに代表される土木系の統率を行っている役職のはず。こっちの方が良さそうだ。城造りのノウハウを実践する機会にもなる。

 

「後者を所望致します」

 

「うむ。そうか。では、励んでくれ。元忠には、加増を行う。良いな」

 

「はっ」

 

あ、そうかそうですよね。元忠は多米家の次期当主。知行持ちなのは当然か。

 

「万事片付いたようだな。これにて評定を終わりとする」

 

「「「「ははぁ」」」」

 

全員で頭を下げて、氏綱退出を待つ。いやはや仕事が変わるものの俸祿も増えるし、家も広くなるし良いことですね。頑張っていきましょう。

 

あ、あの姫を放置したまま来てしまった。やべぇ。回収しにいかないと何をしでかすか分かったものじゃない。

 

 

 

 

 

 

 

「えー、ここが新しい屋敷らしい」

 

「まぁ、前の屋敷よりはこじんまりとしてますけれど、悪くは無いですわね」

 

「こじんまりは余計だこじんまりは」

いくつか紹介してくれたが、そんなに広い必要は無いと告げるとここが用意された。現代の普通の家4つ分くらいの敷地だ。広いと思うかもしれないが、昔の建物はまず第一に基本平屋なので縦に積んでいた分が横になっている。あと、現代より設備をコンパクトに出来ない。

よって必然的に少し広めになるのだ。

 

中は普通の武家屋敷といった感じだ。女中を雇えるかはまだ不明だが、部屋はそんなに多くないので二人で掃除すれば意外となんとかなるかもしれない。ホワイト企業(殉職あり)の北条家は基本現代換算で午後6時退勤だ。

 

「助けた責任を取って仕方ないので、ここでお前と暮らす事になる。変な事したら追い出すが、普通に暮らしているのなら咎めはしない。あと、暇なときはこれを読んでいろ。ただ飯食らいをいつまでも置いておくほど物好きじゃない。城で働けるくらいは知識をつけろ。良いな」

 

「これ、全部ですの……?」

 

「そうだ。全部だ。肉体労働よりましだろう?試験もやるのできちんと学ぶように。唐天竺の書物や本朝の書物だ。全部揃えるのに結構な金が掛かったのだからものにしてくれ」

 

「うぅ…」

 

「あと、服とか寝具とかも買ったから感謝してくれ。寝る部屋はこればかりは申し訳ないが部屋が無いので同室だ。良いな?」

 

「え、え、殿方と同室ですの…」

 

「悪いがこうでもしないと私が廊下で寝るはめになる」

 

「あ、わたくしが廊下という選択肢は無いのですね」

 

…考えてもなかった。

 

「こほん。多少は家事もできて欲しいが、まぁ多くは望まない。取り敢えず、お互いに日々を普通に過ごせるように努めていこう」

 

「はい。分かりましたわ」

 

「ま、もし私が出世した暁には、お前は副将になれるやもしれん。頑張れ。あと、名前をなんとかせねばならん。今川良真のままでいるわけにもいかない。新たな名を考えてくれ」

 

「新たな名…」

 

「真剣に考えろよ。未来に名が知れ渡るやも分からぬしな」

 

「………」

 

真剣に考えている。名前とは自分を指し示す一番メジャーで重要なもの。現代人には想像しにくいが、この時代は名前を変えるのはわりと良くある。とはいっても真剣に考えないかと言われればノーだろうし。

 

「決めましたわ」

 

「ほう、そうか。何にした」

 

「花倉越前守兼成(かねしげ)はいかがでしょう。兼の字はあなた様から貰いまして、成と官位はお祖父様から貰いました」

 

「名字はそれで良いのか」

 

「はい。わたくしはあの城で一度死に、そして生まれ変わりましたわ。故にこの名なのでございます」

 

「分かった。主にはそう報告しておく」

 

「不束者ですが、これから何卒よしなに」

 

「こちらこそよろしく頼む」

 

笑顔だけは一級品だ、と思った。これからしばらく奇妙な二人組の奇々怪々な生活が始まると思うと疲れるが、ま、そう悪いものではあるまい。

 

そう思ったそばから早速障子を破った姿をみて、ため息しか出てこなかった。ここに飛ばされて早くも半年以上が経った。ここでの暮らしは退屈することは無さそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<未来における姫武将情報>

 

花倉越前守兼成。一条兼音に仕えた一条家の筆頭家老にして副将。一条家の最古参の武将である。一条兼音の出陣したほぼ全ての戦闘に参加している。仕えた時期は大体花倉の乱前後と考えられる。知勇兼備の名将と謳われ、北条家の直臣にもなれると言われたが、頑として兼音の家臣であり続けた。

 

ルーツは全く分かっていない。本人も黙して語らなかったと言うが、文献によれば今川義元の庶子の姉、今川良真ではないかと言われている。




次回以降は、河越城攻略戦と主人公のお仕事のフェーズです。(注意:河越夜戦ではありません。)



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第2章 河越と国府台
第8話 新任務


河越は表記間違いではなく、戦国ではこう呼ばれていたそうなので名前をそちらに統一しました。

北条綱成はもう少し後に登場します。


花倉の乱が終わった今、次なる北条家の戦は河越城攻略戦である。河越城と言っても、後世に有名な河越夜戦ではない。あの戦いでは河越城は既に北条家のものとなっている。

 

現在の河越城は扇谷上杉家の本拠地だ。上杉朝定が城主である。この人物は史実だと河越夜戦で討ち取られる。その結果扇谷上杉は滅亡。武蔵は北条家の手に渡る事となる。その前哨戦が河越城攻略戦なのだ。上杉朝定を武蔵松山城へ追い出して、北条家のものとする。

 

そしてここには北条家きっての勇将、北条綱成が…ってあれ?いないんだが…。え、ちょっとまずいですよ。何で北条綱成いないんですか?まだ来てないのかな。

 

北条綱成は元々北条一族の人間ではない。史実だと氏綱の娘を妻として、氏康の義弟であった。この世界では男か女かまだ分からないけど。そんな綱成の出自は福島家。花倉の乱で福島正成が殺られ逃げてきたと言う。正成との関係性は子とも親戚とも言われている。ってあー!福島正成討ち取ったの私じゃないか。

 

顔面蒼白になる。まずいまずい。このまま来なかったら当家は滅亡ぞ。頼むからやって来てくれ。ひたすら祈りを捧げる。来たら福島越前守から預かってた太刀を返さなくてはいけないし。

 

 

 

 

 

 

「一条様。こちら勘定方より返されました書類でございます」

 

「ああ、はい。受けとります」

 

思考を止め、現実に意識を向ける。短い休憩は終わりのようだ。

 

「橋の普請はこの通りの計画で予算を組めるとの事です」

 

「そのようですね…よろしい。では、そのまま作業に入るよう指示をお願いします」

 

「はっ」

 

普請方の仕事は多岐に渡る。街道や橋等のインフラ面の整備。村や街などの整備。寺社の整備。そして城の建築や補強、整備などである。インフラと言っても鉄道も水道も電気もネット回線もないのでその点現代よりは楽だが、反面重機が使えないので大変だ。

 

築城は基本我々ではない他の武将が縄張り(設計図)を作り、我々が実行する流れだ。

 

日々多くの普請依頼や命令が来る。鶴岡八幡宮や鎌倉五山の寺からも建て直しの依頼が来る。鶴岡八幡宮は数年前に再建しただろ。もう壊れたのか?腹立たしい。

 

「一条様…その、私の書類が勘定方から突っ返されてしまいまして…」

 

「どれ、少し見せて下さい」

 

「こちらです」

 

「どれどれ…あー、これはですね。曖昧だから突っ返されましたね。この内容は何をするかとだから金をくれの二つしか書いていません。これでは予算は出せません。工期や雇う職人の数、材料費や運送費なども考えなくては。金は無限に湧いてくる訳ではありませんよ」

 

「しかし、そのような事を精査していては仕事量が」

 

「皆、やっていますが?それに、きちんと真面目に勤務していれば終わる量を渡しているはずです。譜代の宿老の子弟だからと言って特別扱いは致しません。あなたの勤務態度は前任から聞いております。あまり、真面目とは言えないようでしたが?…それと、よもや、民から搾り取ろう、さすれば金などいくらでも湧いてくると思ってる訳ではありませんよね」

 

「それは…」

 

「馬鹿者。民あっての我らです。民が背けば、我らは生きていく事すら出来ないのですよ?民を蔑ろにした加賀はもはや百姓の持ちたる国となりました。武士は怒れる民の前では数に押されてあっという間に負けてしまいますよ。彼らの血税を無駄にすることは許しません。不服と思うなら、ご一族の笠原康勝殿に訴えて下さい。もしくは氏綱様ないし氏康様にでもよろしい。もっとも、皆さま我が考えにご同意下さると思いますが」

 

「申し訳ありませんでした。それがしが間違っておりました」

 

「分かればよろしい。仕事に励むように」

 

「はっ!」

 

ふぅ。官僚って大変だったんだなぁ。つくづくそう思う。

 

「一条様、こちらの書類が…。各地よりの陳情です」

 

「……精査します。置いておいて下さい」

 

「分かりました。よろしくお願いします」

 

またドサドサと…。仕方ないやるとしますか。ため息を尽きたくなるが堪えて紙に手を伸ばした。

 

 

 

 

 

特別賞与が出た。いや、正しい名前は違うが、本質は特別賞与、すなわちボーナスである。というのも、割りと真面目に働いていたら、素早い普請に感謝する者たちから城へ礼状が来たようで、それによる特別賞与である。

 

なんの事はない。重機が使えないのならプレハブに頼るのだ。現代でも使われている技術で、部品をいくつか作り、組み合わせて完成とする建築方法だ。スピードが必要な建築は基本これでいく。ただ、橋とかは安全性の為にもう少し時間をかけるが。城とかはこれで割となんとかなる。

 

さて、金はあっても使い道のない悲しい独身男性だ。恋人や家族でもいれば話は別なのだろうが、如何せん私はこの世界へ飛ばされた身。近親者などいようはずがない。同居人が約一名いるがあれは果たして家族枠なのか。まぁでもお互いにもう頼る相手がいないのは事実。向こうは向こうで両親も祖父も死去し、孤独なまま。私は私で一人。案外お似合いというか似た者同士だ。

 

ふーむ仕方ない。最近頑張っているようだし、何か買っていくか。服か装飾品か…。ま、街に行けば何かあるだろう。小田原の街ならな。これからの予定は決まった。

 

 

 

 

「ただいまー。おーい」

 

家に帰ったのに誰も返事しない。出かけてるのか?

 

屋敷の中を探すと、部屋の中で思いっきり寝てた。しかも座りながら。足痛くならないのだろうか。人が労働して帰ってくるとこれだ。頭を抱えたくなる。

 

が、周りをよく見ると、兵法書や歴史書が開かれている。注釈書も一緒にあるし、頑張って勉強していたのは伺える。最近は乗馬も習いに行ってるらしい。らしいというのは人に聞いた話で見たわけではないからだ。不器用なりに努力していると言う話だった。

 

ふぅと息をついて苦笑する。まぁ、努力は認めよう。起こさないように本を片付けた後、布団へ運ぶ。そのまま寝かせてふすまを閉める。さて、夜飯でも作るか。コキコキと肩を鳴らして作業に取りかかった。

 

 

 

 

 

 

「いにしえのいわゆる善く兵を用うる者はいかにするか?」

 

「えーと、あーよく敵人をして前後あい及ばず、集寡あい恃まず、貴賤あい救わず、上下あい扶(たす)けず、卒離れて集まらず……えー、兵合して斉(ひとし)からざしむ。利に合して動き、利に合せずして止まる。ですわ」

 

「その通り。してその意味は分かるか」

 

「要するに敵を烏合の衆とする。そして、有利なら戦い。不利ならば退く。ですわね」

 

「正解だ。よく出来たな。文字を覚えるだけではなく、意味を理解し叩き込む。これが大切だ」

 

「ですが、覚えても実際の戦で役立つのか分からないのですわ」

 

「いや、はっきり言うと使えないと思う」

 

「ええっ、ならわたくしの努力は何のために…」

 

「孫子呉子の兵法書はあくまでも一般論だ。当てはまらない事もある。心構えであり、ある種の常識であり、それを理解した上で戦を進めるのだ。故に無駄ではないがそれさえあれば百戦百勝ではない。まぁ、知らないより知ってる方が良いのだ。さて、次は…」

 

玄関が叩かれる音がした。

 

「ご免!一条殿は居られるか」

 

私を呼んでいるようだ。

 

「はい、ただいま!取り敢えず今日はここまでだ」

 

「はい」

 

片付け始めるのを見てから玄関へと向かう。

 

「いかがされたか?」

 

「伝令でございます。一条殿、至急参れと氏綱様の仰せでございます」

 

「承知した。直ちに登城する」

 

「よろしくお頼み申す。それでは拙者はこれで」

 

「ご苦労様です」

 

伝令を見送ってため息を一つ。今日は休みのはずだったのに…。しかし、呼ばれたなら仕方ない。とっとと行くとしますか。不満気な顔の姫に見送られながら気は乗らないながらに登城していった。

 

 

 

 

 

 

 

「すまぬな。休みだったと聞く前に伝令を出してしもうた」

 

「いえ、お気になさらずともよろしゅうございます。呼ばれたら何時であろうと駆けつける。それが武士でございます故」

 

「うむ。良き心がけよ。さて、お主に命じた普請方奉行の職はどうじゃ。捗っておるか?」

 

「はっ。今のところさしたる問題もなく過ごせております」

 

「そうかそうか。他の文官からも普請方の書類は素晴らしいと報告が来ておるぞ。さて、此度お主に新たなる役目を命じる為に呼んだ。我ら北条は関東八州制覇の野望を持っておるのは知っておるな?その大望成就の為、北武蔵への侵攻を開始することとなった。目標は扇谷上杉の本拠地、河越城である。しかし、河越城の前にはいくつか城がある。大抵は小城故、そこまで恐れることは無いが…」

 

「深大寺城でございますね」

 

「左様。深大寺城が厄介じゃ。そこで我らは深大寺城を迂回して攻める事とする。だが、後詰めを出されたり行軍中に横っ腹を突かれるのも困る。やつらを足止めするためには付城が必要であるとの結論になった」

 

付城とは、攻撃目標の敵城に対して築かれる最前線の基地のことである。

 

「お主にはその縄張りと普請共にやってもらいたい。場所は関戸じゃ」

 

「関戸…分倍河原の近くでございますね」

 

「その通り。やってくれるか」

 

「はっ。お任せ下さい」

 

「そうかそうか。使える資金についてはこちらに書いてある。よく読んで、取りかかるように」

 

「はっ。少し拝見致します」

 

「うむ。お主の提案した測量方法はかなり役立っておるぞ。その紙にも、関戸周辺の地形を正確かつ細かく書けておる」

 

「それはそれは。役にたっているならば幸いです」

 

関戸。現代ではその近くには京王線の聖蹟桜ヶ丘駅がある。小高い丘になっている箇所があり、その周りは平野がある。乞田川と大栗川に挟まれた地域であり、1キロ程先には多摩川が流れている。築城には問題無さそうだ。予算も十分にある。

 

「何か問題はあったか」

 

「いえ。素早く取りかかれるかと」

 

「よし。では励むがよい」

 

「ははぁ」

 

これはまた大きな仕事だ。ともかく、縄張りから始めなくては。

 

 

 

 

 

 

 

 

「という訳で、しばらく出張に行く。後はよろしく」

 

「えぇー困りますわ」

 

「何が」

 

「自慢ではありませんが、わたくし一人では確実に生きていけない自信がありますの。三日で飢え死にですわ」

 

「そんな事言われてもなぁ。連れてった所で何をするのさ」

 

「むぅ……あ、そこ数字間違ってますわ」

 

「え、嘘、そんなはずは……あ、ホントだ」

 

ドヤァァァという顔がウザい。しかし、計算は出来るのか?私より早くて正確で驚いたと同時に何か悔しい。

ちょっとテストしてみよう。

 

「7587×6829は何?」

 

「51811623ですわね」

 

問題だしておいて分からないからクズ紙に計算する。

 

「正解…だと…」

 

「そんなに難しい問題ではありませんわ。…なるほど、ここに川があるから守りやすいと。深大寺への抑えですわね…。あー、こっちと連携して動きを封じて迂回して河越が最終目標かしら」

 

何やら地図を見つつ自分なりに考察を始めた。頭の回転は悪くない。性格はアレだが、才能は秘めている。これはとんだ拾い物かもしれない。兵法書も無駄にはならなそうだ。河越が最終目標だということにも気付いている。

 

これは意外と役に立つかもしれない。

 

「あー、仕事はしてもらうが、着いてくるか?」

 

「はいですわ!」

 

まぁ、良いだろう。私の部下ということで連れていくか。所属は北条家なのだし、一応部下として北条家の武士の名を記した台帳には記載させてある。問題は無いだろう。

 

一応念のため、氏綱様に一名部下を同行させる旨を伝えると割とあっさり許された。出張にもう一人追加が決定した瞬間だった。

 

あいつ、馬ちゃんと乗れるのか…?不安だ。




めちゃくちゃ伸びててビックリしてます。ランキングにも載ってたし、腰を抜かしてます。皆さんの期待に応えられる作品となるよう精進して参りますので、応援よろしくお願いします。

何か感想とか意見、戦国の話とかがあればこっちも教えて下さい。内政の色々とかも…。まだまだ時系列的には原作開始の大分前なので、大事なところを守りつつ読みやすく進めて行こうと思います。


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第9話 築城

城の見取り図はあんまり詳しくなくてごめんなさい。頭の中でのイメージの助けになれば幸いです。


馬に乗りながら街道を北へ進んでいく。今までいた小田原や伊豆は北条領内でも安全な土地だ。しかし、今いる武蔵はそうではない。対上杉戦の最前線なのだ。

 

北条家と扇谷上杉&山内上杉との確執は深く長い。初代早雲の頃から争っている。それもそのはず、実力はともかく権威はある関東管領家の上杉とその領土を奪い、関東管領以前の権力者である北条の名を名乗る勢力の仲が良い訳ない。

 

そんな最前線なのだが…緊張感の無い奴が一名。あーもう締まらない。馬の乗り方が危なっかしい。そのせいでコントみたいになって緊張感が緩んでいく。まぁ、乗れなかった頃に比べれば大分マシだ。

 

武蔵、特にこの辺(海沿いでない)の地域は武蔵野と呼ばれるように、原野が殆どで、城や街道の周りだけに田畑がある。武蔵野の開拓は政情が安定した江戸時代以降の話らしい。ここを開拓できればかなりの収穫が見込めるだろう。武蔵の領有が完了したら進言するのも良いかもしれない。

 

ともかく、謙信が来るまでがタイムリミットだろう。そこまでに確実に武蔵、下総は抑えたい。武蔵と上野の国境と利根川辺りを防衛ラインにして踏みとどまるのが理想だ。生産体制の強化、ひいては富国強兵…やることは多い。

 

要するに、今は景色も何にも無い原野の中にある道を進んでいるのだ。結構暇である。

 

「暇ですわ。何かお話しましょう」

 

「あー、別に良いけど。何について?」

 

「では、上杉家についてお願いしますわ。わたくし、今一つ上杉家について理解できてませんし…これから敵対する家について無知なのはいかがなものかと思いましたの」

 

「明日は雨か雪か強風か…」

 

「ちょっとぉぉぉ!ひどいですわ…」

 

涙目になっているのを見て笑いをこらえる。まぁ、良いだろう。暇なのは事実だし。向学精神があるのは素晴らしい事だ。

 

「上杉家は祖先を遡ると公家に行き着く。鎌倉将軍宗尊親王に従って関東にやって来たらしい。足利尊氏の生母が上杉の娘だった事から栄光が始まった。かつては関東管領であると共に、越後、上野、武蔵、相模の守護で伊豆や下総、下野にも影響力を持つ関東の名門だったが、今はもはや没落寸前だ。越後は守護代の長尾家が牛耳ってる。相模は奪われ、南武蔵も失陥した。残るは北武蔵と上野だけ。しかし、権威は残っている上に一族を結集させれば侮れない敵となる」

 

「公家の武家化なんですのね。質問なのですけれど、山内上杉と扇谷上杉ってどちらが本流として正統性があるのか教えて下さいませ」

 

「ふむ、良い質問だ。どちらも権勢を争っていたが、本筋は上野が本拠地の山内上杉だろう。現在の関東管領も名目上はこの一族だ。昔は別の系統の犬懸上杉が権力を持っていたが…」

 

「上杉禅秀の乱ですわね」

 

「その通り。それで、没落した。他にも色々いるぞ。山内上杉に吸収されかかっている上に、他の一族と異なり我ら北条に仕えている宅間上杉。山内上杉の分家の深谷上杉。越後守護家に、かなり傍流の千秋上杉と山浦上杉。かなりの数が根深く関東と越後に根付いている。こいつら全てを排除するのは不可能だ。そこで、主な勢力の扇谷上杉と山内上杉に狙いを絞っているのさ。同じ一族だが、この二つの系統は不倶戴天の敵同士。今のところは各個撃破が可能だ。故に、今回は河越を落として、扇谷に王手をかけるという訳だ」

 

「そんなに上手くいくか分かりませんわよ?足元を掬われるやも…」

 

「まぁ、その危険性は大いにある。過去の遺恨も全て投げ捨て打倒北条で来られると厳しい」

 

実際そうなったのが河越夜戦だ。両上杉家に加え足利公方まで参戦した関東武将オールスターVS北条家というとんでもない戦いだ。史実では大勝利となるが、この世界ではどうなるかまだ分かったものではない。油断する訳にはいかない。

 

「そうならないようにするのが外交だろう…見えてきたぞ。おそらく、あそこが関戸だ」

 

「小田原よりかなり小さいですわ」

 

「あれと比べて勝てる町は日ノ本に無いだろう。普段いるところが規格外なだけだ」

 

関戸は街道沿いの宿場町として栄えている。元々、鎌倉時代末期に幕府によって造られた凄い古い城があったらしいが、もうその遺構は殆どない。僅かに石垣が旧関戸城の中央部分にあるだけ。その石は後で使おう。

 

相模から職人を引き連れて来ている。また、現地の人々も少しは労働力として加えられるようだ。元々整地が少しでもされているのはありがたい。スピーディーにやらなければ近くの深大寺城から兵を出されかねない。一応その対策のため、厚木や座間の方の城から兵が出ている。築城期間中の深大寺城の兵を引き付けてくれている。

 

また、近隣の土豪の佐伯一族も兵と労働力を連れてきてくれている。自分たちの城になるのだから張りきっているようで、労働力としては大いに期待出来るだろう。

 

潤沢な予算。十分な資材と立地と労働力。これは少し大がかりな工事でも大丈夫そうだ。

 

 

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

「この図面の通りにやろうと思う。出来そうか?」

 

「拝見します。…これはまた大がかりなものですな。ふむ、工期は二ヶ月以内。人数は予定よりも多くおりますので、問題ないかと」

 

「それは良かった。では、早速取りかかってほしい」

 

「はい、お任せあれ」

 

大工の頭に図面を見せても問題無さそうで良かった。急ぎの仕事のため通常より給金が高めなので頑張ってもらいたい。

 

郭の構成はこんな形になっている。一番大切なのは堅牢さではなく、兵が入り、最低限の防衛が出来ること。幸い地形は盛り上がった丘だったので、後は所々削って斜面を急にし、堀を掘った後、余裕があれば門や櫓、木の防壁や竹の柵を付け足す。

 

規模はそこそこだが、様式はまだまだ中世城郭である。近世城郭は建設に時間もコストもかかるので、流石にここでは使えない。もっと金と時間を使える時に披露するとするか。取り敢えず今はこの城を完成させねば。さぁ、取りかかって行こう。

 

 

 

 

 

城も半分くらいまで完成してきた。このまま行けば順調に…。

 

「申し上げます!」

 

「どうしました」

 

「大栗川の対岸に敵兵を確認。数は300ほど」

 

「なんと。直ちに工事は中止。戦闘に入る。厚木・座間両城の兵と佐伯の兵を合流。そうすれば250くらいにはなるはずだ。この城で防衛体勢に入る」

「それが…花倉様がまだ多摩川を渡河中の敵兵を見つけるや否や両城の兵を率いて大栗川側の郭に行きました」

 

え、マジか。不安だ。

 

「様子を見に行く」

 

「はっ」

 

作業中の天幕から出て城外に目をこらす。旗は…難波田か。深大寺の兵だな。川を越えると堀なので接近するか迷っているのだろう。

 

さて、どう対処する…おお!全員弓兵で揃えたか。良い判断だ。和弓の射程距離はおよそ400メートル。余裕で届く。

 

郭から矢が放たれる。敵部隊は撤退を始めた。力攻めには兵力が足りないと判断したのだろう。防衛成功だ。急いで郭へ向かう。そこでは兼成が果敢に指揮を執っていた。

「良くやった。素早く正しい判断だ」

 

「ふ、ふへぇ…。緊張で、腰が抜けましたわ」

 

「……」

最後まで締まらなかったが成長は感じられた。太原雪斎は擁するべき主を間違えたかもしれないぞ。これは可能性の塊だ。稀代の名将になれる要素を持っている。教え続ければ、きっと。やがては北条を支える将となってくれるだろう。

 

その後も工事の途中で何度か上杉方と思われる偵察隊が来ていたが、こちらの兵の数を見て撤退していった。

 

 

 

 

 

分かっていた事ではあるが、重機はやはり偉大だった。工事は人力だと凄い時間がかかる。今回は建造物は既に別の場所で形を作ってもらい、組み立てるのみにしているが、それでも土地の整備に時間を費やす事となる。それでも徐々に完成が見えてきて、先日やっと完成した。

 

石垣はそのまま整備して上にプレハブの櫓を乗っけた。他にも深大寺城に対抗するために施設を付けたので、そこそこの規模になった。

 

兼成はずっと書類作成と計算に追われていた。職人よりも圧倒的な速さで暗算を叩き出すせいで重宝されている。三角関数でも教えるか…。今後の建築の仕事でも役に立ちそうな予感。

 

 

 

 

 

一月くらい居た関戸の町ともお別れである。職人たちは別ルートで彼らの本拠地の小机城下に戻るので、また二人旅だ。馬なので数日で着くので、その点は楽だが。

そんなこんなで小田原へ帰還した。これから報告へ行かねばならない。旅帰りで疲れたので明日以降にしてほしいが、そうも言ってられないのが辛いところ。社畜根性で登城する。労基も労働組合もない戦国はある意味真のブラック企業だろう…。

 

「ただいま参上致しました」

 

「うむ。よく戻ってきた。首尾はいかがじゃ」

 

「はっ。一度敵の攻勢に逢いましたが、これは私の部下が撃退。城は完成致しました。図面はこれに」

 

「見よう。…よしよし。問題ない。これならば深大寺城の抑えとして大いに役立つだろう」

 

「ありがたきお言葉」

 

「褒賞は追って出す。お主の部下にもな」

 

「ありがとうございます」

 

「聞くところによると、その部下とやらは若き姫であり、お主と一つ屋根の下におるとか。なんじゃ、将来を誓いあった仲なのか?」

 

予期せぬ質問に驚いた。確かに世間的に見ればそう思われても仕方ない事してるなぁ…。あれが嫁とか疲れそうだが。決して悪い選択肢では無いが、そういう関係になるつもりはない。しかし、氏綱様め…完全に興味本位で聴いてきてるな。

 

「いえ、そのような事はございません。私は祝言など毛頭頭にございません。北条のお家が関東の王となるその日まで私にそのような出来事は起こらないでしょう」

 

「堅いのぅ。さて、ここからは真面目な話じゃ。お主が関戸に城を建てた事でいよいよ河越城を攻める事となった」

 

「左様にございますか」

 

「それで、お主にも仕事を与える。戻ってきたばかりですまぬが、出陣せよ」

 

「承知致しました」

 

「お主はわしではなく氏康の直臣。氏康指揮下の将として参戦せよ。面子はこの前、花倉の乱と同じだ。よいな」

 

「はっ」

 

「よし。それでは頼むぞ」

 

「御意」

 

退室する。また出陣か。今度は河越城攻略戦。この前の花倉の乱と比べると軍の規模も将の数も違う。そんなにすることは無いかもしれないが、主のために力を尽くすのみ。上杉家の小城を落とすときに武将としての仕事もあるかもしれないし、戦場で工事をせねばならないときもある。忙しくなりそうだ。

 

 

 

 

 

私を見送る北条氏綱の顔色が僅かに悪いことにこのときはまだ気付かなかった。

 

そして、関東全てを巻き込んだ大乱の足音はこの時より聴こえ始めていた。




河越城が落ちたら第一次国府台合戦か…。色々と調べなくては…。


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第10話 河越城陥落・大乱の予兆

ちなみに、この辺の時系列は原作には全く登場しないんですよね。なので、武将たちの自由度は滅茶苦茶高いです。勝手に何人か姫武将にしてます。まぁ、それでも男率は高いです。初期の上杉謙信の家臣団よりはマシですが…。


北条氏綱はかねてより敵対関係にあった扇谷上杉の本拠地、河越城攻略のため、軍を起こした。その数約三万。北条家の全力を注いだ行軍であった。

 

氏綱は既に武蔵の要衝、江戸城と岩槻城を陥落させており、残された扇谷上杉家の城は河越、松山、深大寺などに減少してしまった。ここで河越城を失えば、滅亡までの道を突き進むことになるのは目に見えていた。

 

現在は相も変わらず、長く多い行軍中の兵たちの中でも最後尾、氏康様の隊にいる。氏康様を戦闘の最前線に出す気は毛頭無いようで、氏綱様の可愛がりようが窺える。万が一にも娘が討たれる事など無いように万全の配慮を行っている。

 

「今回は出番が無いようだ。残念だったな」

 

「あのですね、元忠殿。それだとまるで私が血と戦に飢えた狂戦士みたいになってしまうではありませんか」

 

「実際そうだろう?でなくば、少数で城に潜入したりはしない」

 

「それは、まぁ…そうですが。しかし戦狂いと思われるは心外ですな」

 

「まぁまぁ元忠もからかうのはその辺で」

 

「盛昌が言うなら仕方ない。今日はこのくらいで勘弁してやる」

 

「それはどうも…。所で、先ほどから氏康様が憂鬱そうなのはなぜでしょうか」

 

「あー、それはだな…」

 

「姫様は小田原から出るのをあまり好まないのです。城の一室から相模の海を眺めているのがお好きな方で…。氏綱様の教育方針も相まってあのように戦場を厭う方になってしまわれたと言う訳です」

 

なるほど。そんな事情があるわけか。確かに、あの小田原城に居ればそんな考えになるというもの。あそこに籠れば基本的に誰も落とせない。武田も上杉も撤退した。最後は落城したが、あれは降伏開城であって激しい攻城戦に及んだ訳ではない。

 

だが、それでは困る。小田原に籠るのは最終手段だ。上杉が来たときにそれに立ち向かえないと彼らが小田原まで来る道中の武蔵や下総等の国人勢力は上杉に靡いてしまう。それは防がなくては。

 

「花倉の時はそのような顔は見せておられなかったですが何か理由がおありで?」

 

「あ、それは簡単だ。新参のお前に少しは威厳のある主君たる姿を見せようと努めて普通に過ごすようにしていた」

 

「あぁ見えて姫様は気位が高いですから、新参の方からも尊敬を得ようとしていたみたいですね。まぁ、もうそこそこ月日がたって兼音殿が自分を信頼し忠誠心を持っている様子を見て、本当の自分を見せても大丈夫と思われたみたいで、取り繕うのは止めたようですけれど。前は私たち二人や一族の方々以外にそのような姿を見せることはあまり無かったので、少なくとも私たちと同じくらいには信頼されていると思ってよろしいですよ」

 

「それは嬉しいですね」

 

信頼されていると考えれば嬉しいものだ。まさか向こうもこちらから戦国武将"北条氏康である"という理由で最初から一定数の信頼というか尊敬を向けられているとは思ってないだろうけど。

 

「こちらからすれば、お前に姫様を取られたような気もしないでは無いがな」

 

「それは違いますよ、元忠殿。私は取ったりなどしません。何より、私が仕えるより前から共にいらっしゃった三人には、私には入り込めぬ強い絆と深い思い出がありますでしょうに」

 

「確かに、その通りですね…。さて、話は変わりますが、あの拐ってきたお姫様は壮健ですか?姫様も少し気にしておりましたが」

 

「拐ってきた訳ではないのですけどね…。意外にも計算能力があることと、寺に居たためか知りませんが事務作業に少しは覚えがあるようなので、勘定方に臨時で雇って下さるようお願いしました。今も補給担当でここよりも後方にいるはずです」

 

寺で真面目に修行してた訳では無さそうだがな。

 

「最近ではやっと自炊も出来るようになってきましたし。生活力を身につけてもらわねば困るのでね」

 

「お、お前たち二人は、その、同じ家に住んでると聞くが実際どうなのだ…?」

 

「あ、それは私も気になります。普段二人で何してるんですか?」

 

そんな事言われても困るのだが。何をしてるのかと改まって聞かれても上手く表現できないものだな。

 

「何と言われましても…普通に暮らしております。飯を食べ、掃除をして、風呂に入り、寝てます。あぁ、空き時間は兵法軍学に古典教養、有職故実を叩き込んでいます。部屋の都合上同室で寝ておりますけど、特に何もありません」

 

「拍子抜けだな」

 

「もう少し色気のある話があると思ってましたが」

 

自分が誰かに恋い焦がれてる姿はあまり想像できない。

 

「そんなものは無いです。今はまだ色恋沙汰などにかまけている時間はありません」

 

「くそ真面目だな」

 

「お堅いですね」

 

「氏綱様も、同じ事を言っておられました」

 

他愛もない話。陣中であることを忘れそうだ。

 

「申し上げます!北条氏綱様、河越城を攻略なされました!現在城には臨時で弟君の氏時様が入城されております。故に、氏康様以下の隊は周辺諸城の接収を。拒否するならば攻め落とせとの伝令です!なお、氏綱様はこの後葛西城へ転戦するとの事です」

 

「委細承知しました」

 

「それでは、ご免」

 

戦闘は我々の関知していない所であっさりと終わった。この結末は史実通りとは言え、あまりのあっさりとした結果に拍子抜けしたのも事実。こうして北条家は悲願の武蔵統一に王手をかけたのだ。

 

だが、やはりこの世界は流れが早い。本来は葛西城攻略戦は河越城落城の数ヶ月後。こんな早くに始まらない。史実ではこの二城が落ちた事で、第一次国府台合戦の戦因が作られた。

 

第一次国府台合戦の原因は複雑だ。事の始まりは古河公方足利政氏の息子である足利義明が政氏と兄の高基と対立することからである。義明は真里谷信清の保護を受けて小弓城を攻略。ここを領土として小弓公方を名乗った。が、その後信清と対立する。信清が死ぬと真里谷家の内紛に介入して、信隆を追放。信応(のぶまさ)を当主とした。

 

しかし、追放されて大人しくしている信隆ではなかった。信隆は足利高基とその子・晴氏、そして北条氏綱と結び義明と敵対する。そして、義明は軍を起こして下総国国府台に出陣し、北条氏綱と決戦を行った。

 

加えて言えば、河越城が陥落すると、義明としても北条氏の脅威を感じるようになる。下総の千葉昌胤が義明から離反し、氏綱が武蔵・下総の国境にあった葛西城を攻めると義明が守勢の扇谷上杉家を支援したことから、氏綱と義明の対立は必至となった。更に足利晴氏も義明や山内上杉家との対抗上、氏綱と同盟を結び、この動きに千葉氏も合流した。一方、里見義堯がこれを機に氏綱と決別して義明方についた。以後里見とは敵対が続く。

 

そして鎌倉を目指す義明&里見連合軍とそれを防ぐ北条軍は下総の国府台(現在の千葉県市川市)で激突する。

 

これは少し警戒が必要かもしれない。まだ見ぬ下総の戦場に思いを馳せながら、そう考えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同じ頃の武蔵松山城。ここでは命からがら逃げ延びた上杉朝定以下、斜陽の扇谷上杉家の家臣団が揃っていた。目立つのは三人。元々のこの松山城の城主の難波田弾正憲重、その甥の上田能登守朝直、そして難波田憲重の娘婿の太田美濃守資正。いずれも譜代の将であった。

 

「美濃守殿、河越が落ちた失態どうつけるのだ!もはや我らに残されたは松山と深大寺の他数城になってしまったのだぞ!」

 

「お言葉だが、ここ松山で傍観しておった能登守殿には言われとうない!我らとて必死に防戦した。力及ばぬは認めるが、今はそれを論じる時では無かろう!」

 

「今論じずしていつ論じるのだ。この先の進退を城に籠り、主の援軍にも来ぬような臆病者に任せるわけにはいかぬ!」

 

「二人ともその辺にせぬか。主前であるぞ」

 

難波田憲重の制止に言い争いは止まった。

 

「朝直、何か策はあるか?」

 

「はっ。もはやこれ以上退くことは出来ませぬ。もしそうしたならば当方滅亡は必至。かくなるうえは仇敵山内上杉と足利公方、ひいては関東諸将へと呼び掛け、全力をもって北条を潰すより他ありますまい」

 

「能登守貴様、山内上杉等と手を組むと申すか!」

 

ざわめきが起こる。仇敵と組むという発想は、衝撃的であった。しかも公方まで巻き込むとは…。スケールの大きさに評定にいる上杉家臣団は呆気に取られたり、想像できずにいたりした。

 

「美濃守殿。気持ちは痛いほど分かるが、今一番の敵は北条でござろう!」

 

「うぬぬぬ…」

 

長年争い続けた山内上杉と組むことに難色を示す太田資正。しかし、上田朝直の言うことも理解できていた。北条を潰すにはもうこれしか道はない。それは自明であった。

 

「叔父上、いかがでしょうか。時はしばらくかかるやも知れませぬが、機を見て攻め入りましょう。幸い北条は敵が多い。我ら両上杉や公方のみならず、今川とも争いの火種を持つとか。その火種が弾けた時こそ、その時でござろう」

 

「うーむ、もはや是非もなし、か。致し方無いであろう」

 

その言葉に、他の将も頷く。皆、歴戦の将にして扇谷上杉最後の支柱、難波田憲重の意見ならば、と納得していた。

 

「朝定様、よろしゅうございますな?」

 

「………好きにしなさい」

 

「御意」

 

上杉朝定は何の情感もない声で答える。仰々しく礼をした難波田憲重は退席する。他の将も次々と評定の間を出ていった。

 

「ふぅ」

 

小さい体で小さくため息を吐いたのが、かつての大国扇谷上杉の当主、上杉朝定である。父、朝興が急死してしまった為、急遽当主となった年若い少女である。関東には姫武将の風習は一般的ではなく、北条家は例外であった。最近は少しずつ増えつつあるものの、西国に比べると数は少なかった。扇谷上杉家でも本来は男が当主を継ぐはずだったが、朝興に子供が一人しかいなかったため、仕方なく朝定を当主としたのである。

 

年齢はまだ9歳。当然まともに指揮や領国経営ができるはずもなく、難波田憲重が全てを取り仕切っていた。彼女は籠の中の鳥であり、難波田憲重や太田資正、上田朝直ら家臣の傀儡であった。

 

彼らに北条家のように下剋上を果たす勇気はなかったが、何の権限も与える気は無かった。ただ彼らの言うことに首を縦に振ることのみを求められていた。そして、朝定自身もそれに窮屈さや少しの鬱屈は感じつつも、自分は無力である事を知っていたため、諦めを以てその感情を閉じ込めていた。

 

それこそ、河越であのまま死ぬか、捕らえられても良かったと思うほどに。いっそそうなれば自由になれるだろうに。

 

大乱の予感が首筋にえもいわれぬ冷たさ、それこそ刃物を突き付けられたような感じをさせている事を知りつつ、人形のような幼き当主は館の奥へ消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

所は変わって房総は上総になる。この地には、かつて関東に大乱をもたらした元凶の足利公方の当主、足利晴氏の叔父にあたる小弓公方足利義明がいた。彼は荒ぶっていた。北条が勢力を伸ばし、旧秩序を破壊していたからである。旧秩序の破壊はそれすなわち自らの権威の否定である。そこへ河越城陥落、葛西城も陥落寸前の報が飛び込む。

 

そして足利義明は激怒した。必ずかの暴虐邪知な北条家を滅さねばならないと思った。

 

「信応、信応は何処だ!」

 

「ここにございます。義明様」

 

「おお、貴様そこにおったか。お主を呼ぶは他でもない、軍を興すからだ」

 

「はて、何処を討伐なさるので?」

 

「決まっておろう!あの忌々しき北条よ。余の支援する扇谷上杉を滅ぼそうとしている」

 

「はぁ」

 

「そこで、関東に平和をもたらすため、かの暴虐な北条は必ず滅ぼす事を望む。目指すは鎌倉!そこで鎌倉公方になり、これまた忌々しい古河公方に引導を渡せるわ!ハハハハ」

 

乱してるのはお前だろと真里谷信応は心のなかで思ったが、黙っておくこととした。流石に鎌倉までは無理でも、下総に進出してきている北条に対処するべきなのは事実だった。小弓公方方であった千葉家は今にも北条家になびきそうな有り様であった。

 

義明にくっついていけば利用価値はある。普段は脳筋の義明だが、大義名分は得やすい上に無駄に家の格が高いから弓引けるものは少なかった。下総へ権力拡大というのもありだなと納得し、戦支度を始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

安房では一人の男がほくそ笑んでいた。手に持つのは真里谷家ひいては足利義明からの文である。共に北条を討とうという文だった。北条氏綱には家督相続の際に後押しをしてもらった恩はあった。けれど、野望が、戦国武将としての野望がこの手紙を無視することを許さなかったのだ。

 

大した能も無いくせに名門意識は高く、猪武者のように突撃しかしない脳筋の義明には興味は無かったが、下総や上総の利権には興味が向いた。奴を奉じる姿勢を見せれば房総統一も夢ではないと笑いだしたい気分になる。

 

それにもし、小弓公方が死んだなら…。上総にいた自分を押さえつける存在が消える。それは自らの飛躍を意味していた。そして、安房でも戦支度が始まる。

 

中国の伝説上の皇帝、堯の名を持ち、安房の国主となった通称「万年君」、その名を里見義堯と言う。第一次国府台合戦の下地は着々と出来上がりつつあったのである。

 

 

 

 

 

 

そして、北条家でも一人の英雄の命の炎が消えかけていた。その事に気付いた者はまだ誰もいない。




国府台合戦もそこそこ話数が必要そう。資料漁りは終わったので、重厚な内容に出来るように頑張ります。

あ、それと何かリクエストあったら言ってください(メッセージとかで)。主に武将に関してですが。関東勢は大体出てくるかつ設定も固まってるので、それ以外の原作に出てこない越後、奥羽、甲信、東海、畿内、九州四国中国、琉球、南蛮、明や朝鮮等々ですね。この人出してほしいみたいなので本編に出せそうだったら設定考えて出します。よろしければどうぞ。


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第11話 新たな名将

小弓公方、兵を集める。その報告は直ちに小田原城に届けられた。河越、葛西の二城を落とし、遠山綱景を葛西城の城主とし、河越城に取り敢えず弟の北条氏時を置いた北条氏綱以下の軍勢が意気揚々と小田原へ帰還した三週間後の事であった。

 

風魔よりその報を受けた北条氏綱は評定衆を召集。これに対抗するべく対策を始めたのだった。この規模の戦闘を行うには評定衆全てをなるべく集める必要があった。河越城にて周辺の処理を行っている北条氏時と葛西城で最前線にいる遠山直景を除く主要な城主や小田原にて役に就いている者(奉行など)が集められた。

 

次期当主氏康様を筆頭に、多米元忠の父、多米元興や大道寺盛昌の父、大道寺重時を始めとして笠原信隆、娘の笠原康勝、間宮信元、息子の間宮康俊、狩野泰光、清水康英、石巻家貞、松田頼秀、娘の松田盛秀、一門の北条為昌、氏照、氏邦、氏尭、氏房、直重(全て氏康様の妹)、北条幻庵(妖怪若作り)、葛山氏広(氏康様の叔父)等そうそうたるメンバーである。

 

他にも数人奉行衆がいる。つまり、私も出席している。もっとも席順は末席だが。居れるだけありがたい北条家の最高意思決定機関である。ここでは身分によって席順はあるものの、発言権は平等に与えられている。また、目上の者に意見する事も許される。当主の判断にも異を唱えられるという訳だ。採用されるかは別として。

 

「これより、評定を始める」

 

氏綱様の号令にドミノ倒しのようにパタパタと頭が下げられていく。自分もタイミングを合わせる。

 

「知っての通り、小弓公方足利義明が我らを討たんと兵を集めている。いかなる策を用いるべきか述べよ。」

 

家中の勢力は一応二つ。籠城派(極少数)と出陣派(圧倒的多数)である。籠城派も心の底から言っている訳ではなく、一応こういう策もあるぞという案を出しているだけである。

 

正直、ここは出た方が良いというか出ないとダメだ。里見はここである程度勢力を削りたいし、小弓公方に至っては邪魔でしかない。早く退場してほしいものだ。

 

「申し上げます!里見刑部少輔義堯が小弓公方に付くと宣言しました。公方方と馬を揃え北上の構え!」

 

「里見め!」

 

「誰のお陰で当主になれたと思っておる!」

 

「不義理忘恩の塊よ!」

 

怒りを露にする皆様には申し訳ないが、ここまでは予定通りと言わざるをえない。房総統一を目論む里見は北条の軍門に下ることを許さない。だが、史実ではこの戦いは里見もある種の勝者と言えてしまう。戦では北条が勝ったのにだ。その理由は戦の首謀者、小弓公方が戦死したことにある。

 

武勇に優れていたが激情しやすく、プライドの高い足利義明は息子が討たれた事に激怒して総大将にあるまじき突撃を敢行する。その結果北条方の兵に弓で射られて戦死した。これにより、上総には空白が生じる。真里谷信応は追放した信隆が北条の手によって当主になったことで里見へ亡命。里見は上総へ勢力を拡張する。

 

この里見の勢力拡張が後に北条を苦しめる。苦しめる要因なら取り除かないといけない。里見に上総へ行く余裕があったのは、小弓公方に最前線に行かせ、自軍は割りと後ろの方にいて、公方敗死を聞いてとっとと撤退したからである。つまり、ここで里見を逃がさない事が今回のキーポイントだ。

 

そう誘導する方法を考えなくてはいけない。確か里見軍は主戦場の松戸市周辺ではなく、市川市周辺に陣を敷いていたはず。そこを奇襲するか…逃げられる前に。取り敢えずこの評定が終わらねば何にもできないが。

 

「ふぉっふぉっふぉ。白熱しとるのぉ」

 

ここまで沈黙を保ってきた北条一族の最長老、北条幻庵が突如として笑いだした。見た目こそ20代前半だが、その実年齢は60とも70とも言われている。まさしく妖怪ばばぁである。こんなこと言った日には死ぬから言わないが。風魔の統率も行っているらしい。

 

「たった今、足利義明の城に入れさせた風魔より報せがあった。義明は姫武将などが幅をきかせる北条など許さん。必ず攻め滅ぼし、その暁には氏康を我が側室にせんと息巻いとるそうな」

 

その瞬間、評定の間に殺気が満ちる。戦国の武者たちの本気の殺気が放たれている。当主が率先して目を修羅にしてるし。かくいう私も、そのような事を許すわけにはいかない。潰さなくてはならない理由がもう一つ増えたな。この際、里見より小弓公方を必ず抹殺しよう。

 

「ハハハ、姫様をのぅ」

 

「面白い事を言う敵じゃなぁ」

 

「そのような者が居ろうとはな」

 

「「「「…殺す」」」」

 

勝手にこちらの戦意をマックスにしてくれた足利義明が今回の最大の功労者かもしれない。余計な事を言って敵を利するとか…どうしようもないな。

 

「よし、皆心は決まったな!我が娘の貞節を守るため…ではなく我ら北条の野望の為、小弓公方とそれに与する里見を滅しようぞ!!」

 

「「「「「おう!」」」」」

 

「よし!それでは取り掛かろうぞ。おお、そうだ忘れるところであった。此度の戦より、我ら北条に新たなる戦力が加わる」

 

「一条殿のように新たなる家臣ですかな?」

 

「否、新参という点では同じだが対応は一条とは異なる。武勇をもって知られるも、駿河より流れ、我らに仕官せんと欲していた者じゃ。入るがよい」

 

「はっ」

 

襖の奥より声が聞こえる。開かれた襖では、一人の少女が頭を下げていた。黒髪にサイドポニーの少女。身長はそんなに高くなく、氏康様と同じくらい。年齢も同じくらいだろう。何となく誰か想像がつく。

 

「皆に名を伝えよ」

 

「福島改め北条孫九郎綱成でございます。この度は妹たち共々、氏綱様に召し抱えていただきました」

 

ざわめく一同。明らかに改名された名字に戸惑っている。

 

「殿、北条とは一体…」

 

「うむ。この者は、駿河今川の家臣福島越前守正成の孫で、後継者だったようだが先の乱の折りに越前守の命令により北条を頼り落ち延びて参ったのよ。わしが偶然外出より戻るとき直談判され大いに気に入ったので召し抱える事とした。わし亡き後、氏康の義妹として支えてやって欲しいと思えるほどの逸材である。故に、北条の姓を与えた。氏康に足りぬ純然たる武を担ってくれよう」

 

「よろしくお願い致します。先輩方」

 

戸惑いつつも、皆は頭を下げていく。私は顔面蒼白。こうなることは分かっていたのに、上手い対策を思い付く前に来てしまった。まぁ、その、関わりが無ければ大丈夫。刀は匿名で返せば…。

 

「よし、では綱成はこれよりしばらくは氏康の部隊に組み込まれる。なお、有望株とは言え、まだ新参。これから我が家に慣れるまでしばらくは直接氏康の配下ではなく、一条の部下とする。一条兼音」

 

「はっ!ここに」

 

「お主は同じ氏康の配下にして、先に召し抱えられしと言えどもこの家に来て日の浅い者よ。先達として諸々教えよ。よいな」

 

「…はっ。全て承知いたしました」

 

おおおおおい!このクソ主…。よりにもよって私に預けるとか何考えてるのだ。普通やらないだろ。我、死ぞ?流石に北条の武を担い続けた北条綱成には勝てない。どうしよう。努めてポーカーフェイスを貫くしか無いだろう。

 

「それでは此度の評定は終わりだ。さぁ、皆で北条の為に戦おうではないか!」

 

「「「「「おう!!!」」」」」

 

頭を抱えたいくらいの感情が渦巻いている。悩んでいたら皆それぞれ散ってしまったようだ。氏康様は氏綱様に話があるようでいない。

 

「一条先輩、私はどうすれば…」

 

「あ、はい。すみません。こちらです。着いてきて下さい」

 

案内するのは、最初に小田原に来たときに案内された部屋。その後も氏康様のお呼びだしがあると我々直臣三人衆はその部屋へ向かう。途中ですれ違った女中に仕事の詰め所に置いてある刀を持ってくるように頼んだ。城は広いからどれくらい時間がかかるか分からないが。

 

「ここでしばし待っていて下さい。間も無く、氏康様と他の直臣といっても私を除いて二名ですが、参りますので」

 

「はい。ありがとうございます」

 

会話が続かねぇ。向こうの思惑はよく分からないが、こちらは乱世故に仕方ないとは言え、祖父を討った引け目を感じている。乱の後苦労もしただろう。今気付いたが、我が家の兼成と綱成は従姉妹どうしか。綱成の方が下だけど。

 

「失礼致します。一条様、頼まれました物をお届けに参りました」

 

「ありがとうございます」

 

黒々とした鞘に包まれた立派な剣。自分の今川義元から貰ったやつと勝るとも劣らない。

 

「先輩、それは…!」

 

「お主の祖父、越前守正成殿の刀だ。最期の遺言に一族の者が北条を訪れたら渡して欲しいと頼まれていた。故に今渡す」

 

「遺言…それを聞いたと言うことは、先輩が…」

 

「いかにも。私が越前守殿を討った。花倉城を落としたのも私だ。……恨まれても仕方なかろうとは思っている」

 

「いえ…気にしてないと言えば嘘になりますが、先輩が正直にそれを話して下さり、かつ黙って懐へ納められた刀をきちんと下さったので、いいです。乱世故仕方ないのです。祖父も、先輩のような方に討たれて満足であったと思います」

 

「そうか…それは、良かった」

 

許された、のだろうか。責められてもおかしくは無かった。が、責めないでくれたのは彼女なりの優しさなのだろうか。後輩から信頼されるように努めなくては。

 

ふぅと一息ついているとドタドタ走る音が聞こえてくる。

 

「わたくし追い出されるんですのーーーっ?」

 

「へ、どうしたお前いきなり。やめろよ。今新しく来た後輩を接待してたのに」

 

「聞きましたわよ!新しい子と親密そうにしていたと!あの家は大人三人は狭い。つまり邪魔なわたくしは追い出されてあそこは二人の愛の巣に…」

 

「そんな訳あるか。綱成は綱成で屋敷はあるはずだ。第一追い出す理由もない。しかも、我々二人はそんな関係じゃない。失礼だろう」

 

「…あ、あぁなら良かったですわ。本当にどうなる事かと。女中さんたちが口々に言うのですから」

 

あの女中たちめ。

 

「あ、貴女は、貴女様は…!」

 

そうだ!黙るように言わなくては。

 

「今川良真様…」

 

「違いますわ」

 

思いがけない答えに驚く。まさか自分で言うとは。

 

「今川良真は死にましたわ。燃え盛る炎の城の中で。わたくしは一条兼音の臣下、花倉越前守兼成。それ以上でもそれ以下でもありませんわ」

 

「…………はい。以後お見知りおきを」

 

かなりの葛藤や迷いの末、旧主筋の従姉の事を受け入れる事にしたらしい。本当に出来た人間だ。納得した兼成はバイト中の勘定方へ帰っていった。

 

 

 

 

「そうだ。武勇に優れていると氏綱様が仰っていましたが?」

 

「お恥ずかしい事ですが従軍経験は少ないのです。野盗山賊の討伐が主な戦果です。武田や松平との戦には行ったことがありますが手柄は立てられず…。一騎討ちはしたこともあるのですが、ことごとく逃げられて首は取れませんでした。道場武術は得意なので氏綱様はそれを評価してくださったと思っています」

 

「なるほど…」

 

焦ることはない。この後ものすごい戦果を出していくから。

 

「まぁ、焦ることはありません。里見と小弓公方の勇士達が、貴女を待っています。此度、その武名が轟くでしょう」

 

「だと良いのですが。早く義姉上や義父上の期待に沿って活躍したいので」

 

 

 

 

綱成はしばらく私が面倒を見ることになっている。つまり臨時で私の部下だ。これで取れる戦略の幅が広がる。北条最強の強力な戦力を手に入れ、第一次国府台合戦が始まる。




北条綱成のキャラデザは何となくですが、『寄宿学校のジュリエット』の"狛井蓮季"です。

次回から戦闘が始まります。


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第12話 第一次国府台合戦 前

小弓公方、足利義明とそれを擁立する真里谷信応、そして里見義堯を討つべく、北条軍は二万の大軍を以て北上。江戸城を経由して下総に入ろうとしていた。対する反北条連合軍も国府台城に入城。江戸川を挟んで両軍は睨み合う事となる。

 

 

 

「江戸川を渡河する北条軍を討つべし」

 

国府台城にて行われた軍議はその方向で一応の合意を得ていた。川というのはなかなかに厄介で、足場も悪く、騎馬兵も歩兵もすべからく戦いづらい。濡れれば鎧は重くなるし体力も奪われる。また、進軍速度や襲われた際の対応スピードも減少する。

 

このように戦場において厄介な地形である川をわざわざ渡って行くよりは渡ってくるのを待った方が良いという結論になるのは当然の事であった。

 

だが、連合軍はこの後の細かい戦闘方法において揉める事となる。

 

「ですから、何回も申しました通り、敵軍が渡河中に攻撃を仕掛ければ、いかに大軍であろうとも殲滅は容易きこと!全軍をもって渡河中に攻撃するべきは必定かと!」

 

「否、否。刑部小輔(里見義堯のこと)よ、余は足利義明ぞ?かの足利尊氏公の血を引く日ノ本有数の高貴なる一族の余に、流れ者で血筋も不確かな下民の出たる北条ごときが真に弓引けると思うてか?余の家柄と武勇を以てすれば、渡河後に殲滅も容易かろう。それに、渡河中に攻撃するなど王の戦ではない。その様な振る舞い、どうして出来ようか」

 

「王の戦など、この戦いに勝って後好きなだけおやりになれば宜しい!此度は決戦。いかなる手を用いても勝つべしと心得まする!」

 

「なに、そう心配するな。余が出陣したともあれば勝利は疑いようもない。のう、信応」

 

「はっ。恐らくは」

 

「であろうであろう」

 

「ぐぎぎぎ…」

 

ダメだ。この戦い、負ける。歴戦の名将、里見義堯はこう悟っていた。もはや勝利は難しい。北条は決して馬鹿の集まりでも、弱兵の軍勢でもない。王の戦とかいうよく分からないものを戦場に持ち込むな。そう叫びたかった。

 

公方に至ってはもう勝った気なのか、とっとと酒宴を始めようとしている。既に酒も女も用意されている。この色ボケめ!悪態を押さえながら心で舌打ちする。多くの女を食い散らかしながらなお飽き足らぬか。しかも、北条氏康を側室になどと放言し、北条軍の士気を無駄に上げたという報告も入っている。

 

戦に勝つ者の共通点や特徴等はこの年でも未だに分からないが、負ける者の陣にはいつも同じ匂いがする。歴戦の勘がそう告げていた。

 

真里谷信応も役に立たない。こやつは当主にして貰った恩から足利義明の言うことに頷くばかり。しかも将としても平凡以外の何でもない。凡庸な男と傲慢な男。こんな奴等と組んだのは間違いだったやも知れぬ。歯ぎしりしながら義堯は考えていた。

 

しかし、こんな所で死ぬ気はない。武門に産まれ、下剋上で叔父と従兄弟を追い払い、当主についた。その日より死は覚悟しているが、こんな奴らの為に死ぬのは絶対嫌だった。かくなる上は自軍の損害を最小限に抑えよう。北条の相手は突撃馬鹿の公方に任せれば良い。自分たちは別の所へ行こう。公方を見殺しにして、その空白域を掠め取ってやる。主戦場は国府台の北、松戸と呼ばれる地域ではなく…

 

「分かり申した。これ以上は言いませぬ。されどお願いがございます」

 

「何か」

 

「北条は公方様と異なり王の戦を知らぬ野蛮かつ粗暴な田舎者。いかなる卑怯な手を用いて公方様を害さんと欲するか、分かったものではございません。つきましては、それがし率いる里見軍は主戦場ではないこの国府台城の南方、市川方面に陣を構える事をお許しください」

 

「良い。許す。務めを果たし北条の奇襲あらば必ず対処せよ」

 

「はっ」

 

馬鹿め、巻き添えを食らわないためにわざと陣を遠ざけている事に気付かないとは。これは房総制覇もあながち夢ではないな。安房の名将は暗い笑みを浮かべるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「里見軍が南方へ移動した?確かなのか、それは」

 

「はっ。確実かと」

偵察兵に確認をとる。これは史実通りに進行していると思ってよさそうだ。現在は江戸川を目の前にして横一列に陣を張っている。

その一番下流側の陣、六千の兵を擁する氏康様の指揮下の部隊だ。

 

隣には氏綱様以下の八千、その更に隣には北条幻庵四千、一番上流には遠山直景以下二千がそれぞれ待機している。明朝、一斉に渡河し、敵軍を叩くつもりである。

 

基本方針はそれだが、後の細かい所はどうなるか分からない。氏綱様の部隊は一番最後に来るので、先鋒は必然的に我々である。ただし、氏綱様の意向としては氏康様を前に出したくないようで、実際の前線指揮は家臣団に任されていると言っても過言ではない。

 

評定に出ていた有力な武将全員が出撃するわけではなく、間宮康俊や笠原信隆、清水康英、葛山氏広なんかは参加しているものの、他の将はそれぞれおいそれと居城を離れられない。加えて彼らは本陣にいる。ここは我々で支えなくてはならない。

 

里見ならともかく、足利義明なら大丈夫だろうと思うが、どうだろうか。おそらく、何の指示も来ないのは、我々で大丈夫だと思われているからだろう。いざというときは本隊が出てくるだろうし。北条綱成もいるから問題ないとも思われてそうだが。

 

こちらの将は私、盛昌、元忠、綱成そして何故か付いてきた兼成の五人。最後のはあんまり戦闘で役に立たなそうだが、一応人数にはカウントできる。多分後方で留守番だが。

 

綱成はあまり実戦での自信が持てていないようなので、今回は活躍の場を作ってあげたいものだ。祖父の仇である私とも仲良くしようとしてくれているのは好感だし、良い後輩であるから何かしら礼をしたい。それに、北条家にとっても彼女の覚醒はプラスだろうし。

 

さてさて、これらを盛り込んで、とるべき行動は…

 

 

 

 

 

 

「渡河が終了し次第、全軍による攻勢で敵軍を誘い出し、足利義明を討つべきかと。義明は短気で激昂しやすい性分と聞きます。臣下や一族を討ち取られれば、必ず誘いにのって出てきましょう」

 

「その作戦そのものは問題無いわね。認可します。では、突撃役は誰が?」

 

「はっ。ここは発案者たる私が…と思ったのですが、此度は綱成に行ってもらうのがよろしいかと存じます」

 

「ええっ?先輩、流石にそれは無理ですって…」

 

「不安ですか?家中でその才を示す良い機会かと。氏康様の義妹に相応しき技量の持ち主と知らしめる絶好の場です。それに、貴女なら出来ると思いますけど…。とは言っても流石に貴女一人に行かせるのも問題なので、私と元忠殿も付いていくことになるかと」

 

「あぁ、まぁ、それなら安心です」

 

「…つなに行かせるのは不安もあるけれど、信じるわ。兼音、元忠、つなを、私の妹を守ってね」

氏康様と綱成はかなり打ち解けて姉妹としての信頼関係も出来てきているようだ。良いこと良いこと。この関係が河越夜戦に活かされる。

 

「勿論でございます。私も数少ない後輩ですから、このような所で失う気は毛頭ございません」

 

「必ずや、綱成殿をお守りします」

 

我々二人でサポートすれば大丈夫だ。後に北条最強と謳われる武将だ。すぐにその才覚を見せるだろう。我々の支えもそのうちいらなくなるさ。

 

「先輩方、よろしくお願いします」

 

その言葉に頷く。さて、後は何かあったかな。

 

「あ、それと申し訳ないですが、盛昌殿はうちの兼成と一緒に氏康様の護衛をお願いします」

 

「了解しました。私にはそちらの方が向いてますから、戦場の中心で暴れるのは、そちらのお三方にお任せします」

 

「では、皆様、明日は手筈通りに」

 

全員が頷き、この場は解散となった。

 

 

 

 

 

 

 

夜更けに陣を尋ねて来た綱成と会った。

 

「どうしました。こんな夜更けに。明日はいよいよ戦です。しっかり休めるうちに休まないと」

 

「それは分かっているのです…。でも…」

 

「やはり不安ですか」

 

「…はい。戦場が怖いとか、そういうのでは無いんです。ただ、私に期待されるだけの価値があるのか分からないんです。北条の名を貰い、姉上のお役に立ちました北条家の皆様と共に戦い、先輩によくして頂くだけの資格があるのかと悩んでしまって」

 

「…資格、ですか」

 

北条の名を背負うのはかなりの重圧だったのかもしれない。しかも、いきなり。本人は、北条家中で武功を上げたわけでもないのにこの待遇であることを不安に思っているようだった。気付いてあげられなかったのは、私の落ち度だろう。

 

私とはスタートが違う。一族と共に逃げて、祖父の言いつけに従って北条家当主に声をかけたらいきなり次期当主の義妹になれと言われて。

 

とてもじゃないが、軽く流せるものでは無いだろう。故にスタートが違う。私は、背負っていたものは、無いわけでは無いけれど、彼女よりずっと少なかったから。

 

「貴女にはもう、あると思いますけど。その資格は」

 

「え」

 

「だって、氏康様が貴女を必要としてるじゃないですか。でなければ、貴女を妹として慈しみません。臣下たるもの、妹たるものそれだけでここにいる資格としては十分だと思いますけどね。私は。皆に対して何か思うところがあるのなら、それこそ手柄をとるしかありません。そして自らの存在が有益たることを示すのです。先程も言いましたが、今回は良い機会ですよ。これで良いと思います。貴女はもしかしたらそれじゃ納得出来ないかもしれませんが」

 

「分かり、ました。あ、でも先輩は?先輩へのお礼はどうしたら…」

 

思わず苦笑しそうになる。いい人なんだろうなと思う。お人好しと言い換えるべきか。根本に素直さがある。

 

「私はお礼されるような事なんて何もしてないです」

 

そうだ、私は何もしてない。貴女に親切にすれば、感じている流浪させてしまった事に対する罪悪感を払拭できると思ったから。それに、後輩に優しくするのは先輩として当然だと思っていたから。

 

「いいえ、先輩は、よくしてくれました。右も左も分からなかった私に、仕事や家中の事を教えてくれて…。不安に潰されそうだったのが、楽になったんです」

 

「私が、そうして貰ったというだけです。…まぁ、何かお礼をしたいというのなら、そうですね。私の夢を一緒に追いかける仲間になって欲しいですね」

 

「夢、ですか」

 

「野望と言うのが正しいかもしれませんね。私は貴女と同じような仕官方法なんですよ。相手が氏康様か氏綱様かの違いです。それで、その時にですね、"願わくば戦国乱世の日ノ本において、北条のお家に魂を捧げる今世の張子房とならん"と言ったんですよ」

 

「張子房…」

 

「ご存知ですか?漢の高祖の軍師、張良です」

 

「それは知ってます。でも、すごい夢ですね」

 

「まぁ、とんでもないことを言ってる自覚はあります。…それでですが、張良一人いても漢は天下を取れなかったでしょう。戦に勝つには軍師のみではなく、最強の武に補給を支える名官吏、忠義に満ちた近衛役が必要です。そこで我らの陣を見てください。良い感じにいるじゃないですか。張良が私だとするなら、蕭何は盛昌殿、夏侯嬰は元忠殿。そして、貴女は最強の武、国士無双の韓信だ。あぁ、誤解しないで下さいね。褒めてますから。あいつは晩年はアレでしたが、壮年は紛れもない名将だったのは事実ですし。貴女は絶対韓信本人より人柄が良いので、あんな末路は迎えないでしょうから」

「そ、そんな才は私には…」

 

「あります。私が保証します。…何の証明にもなりませんが。さて、韓信の武があればこそ、張良はその知恵を十分に使える。貴女は北条家最強になって下さい。韓信が嫌なら他の誰でも良いと思います。ともあれ貴女がそうなってくれれば、私は十分に頭を働かせられる。数多の戦術を駆使できる。もし、私に感謝してくれるのだったらこの夢を一緒に追いかけてくれると嬉しいです」

 

言っておいてあれだがなかなかに恥ずかしいことを言ってるものだ。真剣に考えてくれるのが救いだけど。

 

「…分かりました。浅学非才の身ですけれど、先輩の夢、一緒に見させて下さい!それがせめてもの恩返しです」

 

「ええ、よろしくお願いします。共に我らの主を関東の王へと導きましょう」

 

にこりと笑う姿はやっと心の底から安心出来たような、そんな顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

かくして後に北条家が誇る武と智の最強は真の意味で手を取り合った。共に夢を見る。それはその言葉を放った本人の意図以上に綱成の心に響いていた。そして、自分を肯定してくれる言葉は、自分を必要としてくれるのは、とても嬉しかった。見知らぬ地、見知らぬ人、背負う重圧…不安に満ちていた彼女は安心できる場所と人を見つけて心の枷の最後の鍵が開けられた。もはや縛るものは何もない。そして、その名を轟かせる事となる。

 

その最初の戦までにあと僅か。




最後の所が私の出せる恋愛(姫武将との交流)パートの限界です。一応原作リスペクトなんで、恋愛要素も必要だと思うので存在してます。


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第13話 第一次国府台合戦 中

夜が明ける。川の水面を朝日が照らす。対岸には、敵軍の旗が翻っている。

 

 

【挿絵表示】

 

 

昨夜のうちにある程度判明している布陣はこんな感じだ。兵数は大体ではあるが概ね合っているはず。数の面では向こうが一万二千に対してこちらは二万。数的有利はあるが、数だけが戦の行方を決めるわけではない。油断は禁物だ。

 

「先輩、準備完了しました」

 

「こちらも完了だ」

 

綱成と元忠より報告が来る。渡河の用意は出来たようだ。報告とほぼ同時に本陣から法螺貝の音が聞こえる。戦闘開始の合図だ。

 

「全軍、直ちに渡河を開始!」

 

こちらの号令と共にこちらの兵六千が渡河を始める。今は水量も少なく渡りやすい。敵軍は不気味なくらい静かだ。史実通り渡河が完了した我々を叩く気だろう。ここで敵軍がやって来て攻撃にさらされていたら、また結末も変わっただろうが…。

 

「申し上げます!部隊の先頭が渡河を終了し始めました」

 

「あぁ、そのようだな。よし!我らも渡河を始めるぞ。総員続け!」

 

「「「「「応!」」」」」

 

最初に渡河したのは歩兵の部隊だ。主力の騎兵隊はここから渡河を始める。

 

隣の氏綱様やよりその奥にある部隊も渡河を始めている。一斉に来るこちらに対してやはり敵軍は何のアクションもない。足利義明は戦術の初心者なのだろうか。個人の武勇の優劣と指揮官としての優劣は異なる。里見がいたら十中八九襲いかかられていただろう。つくづく運のない男だ、足利義明は。

 

馬上ならば水に浸かりはしないが、川底は滑りやすいので、馬の操縦は最大限の注意を払う必要があった。転倒したら洒落にならない。慎重に渡河を終える。全軍が渡河を終えた頃、やっと敵軍が動き始めた。

 

「敵が来るぞ!最初は防衛だ。守りを固めて付け入る隙を与えるな!敵を消耗させろ!」

 

「「「おう!」」」

 

数はこちらが上。とは言え、損害が多くならないように努めるのが大切だ。今当たっている敵は足利義明の弟足利基頼と息子の足利義純の二千だ。兵数差は圧倒的だが、何度も言うように損害は軽微に。こちらは前哨戦にすぎず、本命は里見だ。

 

「先輩、突撃するのでは…?」

 

「敵は勢いづいているもののその勢いは長続きしないでしょう。守りを固めて疲れと消耗を誘います。そうすると敵の攻めに突撃出来る隙が生まれる。それが見え次第、一気呵成に騎馬で攻勢します。」

 

「なるほど。がむしゃらに攻めるのではなく、穴を見つけると…」

 

「その通り」

 

敵の勢いは削がれている。我々に攻めかかって来た奴等は攻めあぐねているようだ。周りに数千もいると他の部隊が見えないが、撤退命令がないということは、概ね問題ないという事だろう。

 

数はいるのだ。敵の勢いを削げば反撃は容易い。元より北条家の軍勢は守りを得意としている。武田や上杉が攻めならば、北条は守りである。方針として力攻めより兵を損なわない戦いを好む。故に小田原に籠るのだろうな。そんなこんなで守りに重きをおく事に慣れたこの軍団なら、この程度の攻めなど大した事はない。現に敵の勢いを削ぎ、疲弊させつつある。

 

敵の中に手薄になりつつあるポイントが出来始めた。確実に攻勢にムラが出来ている。今がチャンスだ。

 

「綱成!あそこの隙から突破だ!」

 

「分かりました!者共、私に続けっ!」

 

五百の騎馬が一斉に突撃し始める。疲弊していた敵はその攻勢に驚きおののき、隙間が広がっていく。

 

…凄まじいな。先頭と思われる辺りから時々宙を舞う敵兵の姿が見えるのだが…。その姿、無人の野を行くが如し。こうしてはいられない。援護しなくては。

 

「防戦は終わりだ!綱成の開けた穴から一気に雪崩れ込め!」

 

「「「「応!」」」」

 

「元忠殿も突入をお願いしたい」

 

「任された。行くぞ!」

 

突撃していく兵と元忠の勢いに敵は押されている。

 

「敵を高地へ逃がすな!今ここで息の根を止めろ!」

 

彼らの背後には矢切台と言う台地がある。高いところを取られ、体勢を立て直されると不利だ。ここで殲滅しなくては。

 

崩壊した戦線を建て直すのはいつの時代でも難しい。開かれた突破口からこちらの兵が次々と侵入する。たちまち逃走を始める敵軍。すると、にわかに逃走の勢いが強まる。我先にと逃げ出す兵士。何があったのだろうか。そこへ遠くから喧騒の中を切り裂くように声が聞こえる。

 

「北条氏康が義妹、北条綱成、小弓公方が弟君の足利基頼とご子息足利義純を討ち取ったり!」

 

「北条家が臣、多米元忠、小弓公方が家臣の印東内記並びに土屋織部を討ち取ったり!」

 

これらの声によって敵兵は壊走を始めた。前線の小弓公方方の士気はがた落ち。指揮官の多くを失った彼らは軍隊としての形を保つことも難しいだろう。

 

「一条様、我ら弓兵隊はいかがしますか」

 

私には現在指揮下に自分の部隊として騎馬二百と弓兵七百が預けられている。

 

「よし、全員弓の先を国府台城の方へ向け、隊列を組み揃って待機。いつでも射てるようにしておくのだぞ。間も無く、敵総大将がおいでなさるからな」

 

「はっ!」

 

足利義明、待っていろ。必ずお前を蜂の巣にしてくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北条軍が動き始めた頃、国府台城の近くでは、足利義明が北条の渡河を待っていた。

 

「しかし、義明様、本当に宜しいので?今ならば…」

 

「くどいぞ信応。お主も里見と同じ事を申すか。余は高貴なる足利の者。我が軍勢は足利の軍ぞ。渡河した北条が対するは余の弟と息子の軍、すなわち足利の軍である。いかに北条が成り上がりの者共であろうとも、真に余に弓引くなど不可能であろう。フハハハハ」

 

真里谷信応は足利義明のイエスマンであったし凡庸としか言えない武将だったが、それでも一応戦国の世で今まで城を保ってきた。真に無能なら既に滅びている。定石とは言えないが、今まで義明の言うとおりにしてきたら割りと何とかなっていたのだし大丈夫だろうと思っていた。

 

「見よ信応、我らの勇士が北条を攻め立てているぞ!」

 

遠くでよく見えないが、確かに土煙が昇っている。戦闘は思いの外激しいようだ。

 

今回も勝てるかもしれん。下総の何処を自らの所領とすべきか…。里見にはなるべく土地をやりたくない。とらぬ狸の皮算用を始めていた。

 

足利義明は義明で"これは勝っただろう。これが王の戦よ。刑部少輔め、心配性な男よ。最後に余が出れば敵はたちまち壊滅するであろう。鎌倉へ行く日も近いな。そして小田原を落とし、美しいと噂の北条の姫を我が手に…。"等と調子に乗っていたまさにその時である。

 

「も、申し上げます!北条幻庵並びに遠山直景の軍勢により、一色刑部様、椎津隼人佑様がお討死!また、北条本隊により高修理亮様、逸見三郎様、後藤内蔵助様がお討死!」

 

「な、何だと!あり得ぬ。北条の者共め、ま、まさかまことに我らに弓引くと申すのか!ええい北条め、許しておくべきか…!余も出る。馬を持てっ!」

 

「義明様、どうかご自重下さい。里見殿を呼び寄せればまだ勝機はございます。義明様は総大将。万が一にも御身に何かあれば、その時点で我らの敗けでございます。どうか、今しばらくの辛抱を」

 

「うむむ…すまぬな、信応」

 

「いえ、礼には及びませぬ。里見殿に使いを。一刻も早く救援に来られたしと」

 

「はっ!」

真里谷信応は配下に指示を出し、里見義堯の所へと行かせた。が、悪い報せとは重なるもので…

 

「も、も、申し上げます!弟君の基頼様並びにご子息の義純様、揃ってお討死!」

 

この時、足利義明の理性は完全に崩壊した。

 

「な、な、何だとぉ!!基頼が、義純が死んだと申すか貴様!!」

 

「北条氏康の義妹を名乗る北条綱成なる将によって瞬く間に…。そのすぐ後に印東内記様と土屋織部様も北条の多米元忠なる姫武将によって討ち取られたと…!」

 

「うぬぬぬ!おのれおのれおのれぇ!北条の成り上がり者め、姫武将め!もはや許さぬ。泣いて命乞いをしようとも姫不殺の慣例を叫ぼうとも知らぬ!必ず奴等を捕らえ、辱しめ、殺してやる!!我が弟と息子そして多くの家臣を殺した恨み、必ず晴らしてやる!」

 

足利義明の心の中には憎悪以外の何物もなかった。最早彼の頭には北条綱成と多米元忠を殺すことしかなかった。

 

この状況に一番焦ったのは、真里谷信応である。先程までは何とか止める事に成功していたが、今の報せで一気に総て無駄になった。こうなると手がつけられない。兎にも角にも早く里見に来てもらうしかなかった。

 

「今度こそ馬を持て‼️突撃する!」

 

もう、真里谷信応に足利義明を止めることは不可能だった。武を以て知られる足利義明は怒りに満ちたまま北条軍その最も近い位置にいた氏康隊に突撃を行った。その先に大量の弓が待ち構えているとは知らずに。

 

 

 

「…で、あるからして我らは苦戦しております。里見様の四千五百の勇士がいれば戦況は覆ると義明様は仰せです。直ちに救援に来られたしとの事であります」

 

「承知した。あいにくとこちらの予想は外れた模様。こちらには一兵たりとも向かい来る様子なし。刑部少輔一生の不覚よ。かくなる上は少しでもお役に立つのみ。直ちに向かうと言っていたとお伝え下され」

 

「はっ!くれぐれもお頼み致します」

 

去り行く伝令に冷たい表情を向ける里見義堯。

 

「誠に行くので?」

 

問うのは里見家随一の猛将、正木時茂。槍大膳の異名を持つ房総でも有数の武辺者である。

 

「まさか。誰が公方ごときのために骨を折るか。どうみても敗戦であろうに。何を血迷って勝てるなどと言うのやら。揃いも揃って無能の集まりよ」

 

「では、ここに留まると?」

 

「否否。流石に格好はつけねばなるまい。ゆるゆると行くぞ。あくまでゆるゆると、な」

 

「はっ」

 

そこへ足利義明が突撃を行おうとしているとの報が入る。

 

「殿。これは…」

 

「小弓公方め、死んだな。自害志願者とは知らなんだ。そんなに死にたいなら昨日殺してやったものを。そうすれば今頃敗走しておったのは北条であったろうに」

 

「いかがしますか」

 

「撤退準備を始めよ。義明敗死の報が入り次第、直ちに撤退する」

 

これはいよいよ我が野望、まことの物となるやもしれぬ。房総は我が手に納めてやる。北条なんぞにくれてはやらぬわ。笑いだすのを抑えながら、里見義堯は黒い陰謀を巡らせるのだった。

 

 

 

あちこちで策謀陰謀思惑が交差する。国府台の戦いはまだ、終わらない。




いよいよ本格的な戦闘です。見にくい鳥瞰図でごめんなさい。


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第14話 第一次国府台合戦 後

弟と息子を討たれた足利義明は、もはや誰の制止も意味をなさない状態であった。完全に逆上したまま、百騎あまりの手勢を率いて突撃を開始した。その目に映されているのは、遠くに見える北条家の旗印のみ。が、憎悪と憤怒に満ちた彼の脳は正常な判断力を失っていた。そして、怒りのあまり人生最大の失策を犯す。

 

 

 

 

 

「来たぞ。構えろ!」

弓兵隊に指揮を出す。遠くに土煙が見える。騎馬が向かってきてるようだ。徐々にその姿が鮮明になっていく。隊の中央を突き進むのは他とは少し違う装いの男。あれがおそらく足利義明だ。

 

怒りに任せて突撃など、大将にあるまじき行為だ。そうなるように誘導したとは言え、ここまで引っかかるのは流石にどうかと思う。器の問題なのだろうか。考える内にもどんどん近づいてくる。その顔も見えてきた。

 

「まだですか?」

 

「まだだ。もっと引き付ける」

 

あと少し。もう少し。敵が馬に乗っていると動いているため当てづらいと思われるかもしれないが、そんな事はない。特に、こちらに向かって縦に移動している場合は、真っ直ぐに射れば距離が近付いても当たる。横向きに移動されると、移動先を考えて射たねばならないが。

 

的は大きい。外すなどあり得ない。自分も弓を構える。弦を引き狙いを定めた。

 

「よし!今だ、放てぇ!!」

 

号令と共に数百の矢が一斉に突撃してくる敵に向かって放たれた。次々と落馬していく敵将たち。だがあいにくと本命は悪運強く未だ駆け続けている。

 

「うぉぉぉぉ!北条許すまじぃ!!」

 

その叫び声に兵が動揺する。修羅になった男は剣を抜き放ち、こちらへ迫り来る。その距離は益々近付く。

 

「狼狽えるな!第二射、放て!」

 

動揺が少し収まり、再び一斉に矢が放たれた。狙いは定まった。ふぅと息を吐き、一点を見つめ…その一射を放った。風切り音と共にその矢は真っ直ぐに進む。足利義明の額へと吸い寄せられるように飛んだ矢は、狙い通りの場所に深々と刺さった。

 

そして、一瞬動きが止まり、勢いそのまま後ろへ倒れ、落馬した。それを目の当たりにした敵兵の勢いが衰える。

 

「敵総大将、足利義明討ち取ったり!」

 

「「「「「おおおおお!!」」」」」

 

兵たちの勝鬨が天へ木霊する。あちらこちらで敵兵の投降や逃亡が始まった。足利義明は討ち取った。この手で。今度こそ、自分の力で。緊張が少し解け、肩の力が抜ける。ひとまず、目的は達した。史実ではここでこの場所での戦闘は終わる。が、今回はそうはいかない。里見を叩きに行かねば。その過程で途中にいるであろう真里谷信応や足利義明の残存兵を倒すこともしなくては。

 

味方が集まってきたようだ。先輩~と手を降りながらやってくる綱成。その後ろには元忠の姿も見える。

 

「先輩!お見事でした。この後は、どうしますか?」

 

「直ちに兵力を結集。最悪騎馬だけでも構いません。まずは南下して国府台城前の真里谷本陣を落とします。話はそれから」

 

「了解しました。騎馬衆集まれ!」

 

「私はどうする。着いていくか?」

 

「いえ、元忠殿はこれより姫様の元へ行って状況の報告をお願いしたいです。その後出来るなら氏綱様やその他の方にも早急に後に続いて欲しいですね。」

 

「よし分かった。伝令役受けよう。終わり次第合流する。先に行っててくれ!」

 

「お願いします!」

 

これで後詰めも来るだろう。里見は無傷。こちらの戦力では力不足だ。しかも指揮するのは並みの将では無いときた。備えあれば憂いなしだ。

 

「先輩、騎馬衆六百ほど集まりました」

 

「よし、これより我らは疾風となり、真里谷が本陣と足利義明の残党を片付ける。ここで逃がしては後々の憂いとなろう!続け!!」

 

「「「「「応!!」」」」

 

北条氏康隊の精鋭騎馬衆が突撃を開始した。目指すは国府台城。そこに陣を構える者たちである。

 

 

 

 

 

 

 

 

「なん、だと…。それは真か?」

 

「はっ!小弓公方足利義明様お討死!」

 

真里谷信応は息荒く帰って来た者の報告に愕然としていた。自分達の制止も聞かずに飛び出て行った時より嫌な予感はしていた。しかし、武勇には優れていたはず。並みの将では討ち取るどころか返り討ちにあうだろう。

 

「ど、どのような戦死を遂げられたか」

 

「騎馬にて突撃していらっしゃりましたところを北条方の矢が雨の如く降り注ぎ、味方が倒れて行きました。なおも義明様は馬を走らせ剣を抜いておりましたが、敵の大将の一人と思われる者の一矢が額へと当たりそのまま落馬され…乱戦のため遺体の回収はままならず…」

 

「そうか…」

 

ずいぶんと振り回されてきたが、そこそこ長い付き合いだった。思うところは多くある。だが、感傷に浸っている時間はなかった。この報せが入った時、既に兵をまとめた騎馬部隊が猛然と進撃してきていたのだ。

 

「申し上げます!北条方の騎馬兵多数こちらへ進軍して参ります!その勢い凄まじく兵は逃亡し始めております!!」

 

「殿、もはや負け戦です。お早く撤退を」

 

「う、うむ。ただちに退くぞ」

 

ここで真里谷信応に不幸があったとすれば北条軍は稀に見る勝ち戦の勢いに乗っていたこと。そして、その向かい来る騎馬兵は精鋭であり、かつその先頭を突っ走るのは後の地黄八幡、北条綱成であったこと。そして史実にはいないはずの人間がこの突撃を指揮しており、その上彼はここで逃がすつもりなど毛頭なかった事である。

 

史実では、真里谷信応はこの後勢いに乗る北条軍に城を追われ里見家へ逃げ込むものの、最後は里見義堯によって自刃に追い込まれる。最大の失策は、足利義明に逆らってでも里見義堯に同心し、渡河中の北条軍を奇襲しなかった事であるが、全ては後の祭り、覆水盆に返らずである。

 

逃走を図る本陣の外から馬の蹄の音が聞こえ始めた。同時に喧騒がにわかに大きくなる。真里谷信応は間に合わなかった。

 

「殿をお守りしろ!」

 

「決して討たせるな!」

 

兵たちが槍を構える。最早これまでか。敵に生かして帰すつもりはないらしい。真里谷信応は凡庸と言えども戦国武将。唇を噛みしめ、覚悟を決めた。どんどんと喧騒は近付き、陣を囲う幕が地に落ちる。

 

「真里谷信応殿とお見受けする」

 

「如何にも」

 

「言い残す事は」

 

「ない。敗軍の将なれど、せめて関東武士らしく討死するのみ」

 

「あい分かった。お覚悟」

 

最期に見たのは騎馬に乗り大太刀を振りかざす若武者の姿だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

敵兵は浮き足だっているようだった。足利義明敗死の報はもう伝わっているらしく、退却を始めようとしていた。逃がしてはならない。

 

「全軍、あれが真里谷本陣だ!かかれ!」

 

「「「「うおおおおおお!」」」」

 

戦意のない敵を倒す事ほど容易い事はない。そもそも立ち向かう意志がないし、勝手に逃げてくれる。攻撃も精度を欠く。

 

「ひ、怯むな!立ち向かえ!」

敵将たちは必死に鼓舞するも無駄のようだ。士気を立て直すのは容易ではない。とは言っても兵はこの有り様でも将は存在するわけで。

 

「貴様がここの大将だな!我が名は真里谷源三郎信常なりぃ!討ち取ってくれる!!」

 

敵将はこのように突撃してくる。実際問題、敵の将を討ち取るのは士気を立て直す数少ない手段である。直接的かつ誰でも見えわかるシンプルな方法故に、効果は大きい。

 

馬上で刀を抜く。日本刀の独特の反りは元々騎馬上で敵を切り裂く為に根元が反っていた。時代と共に馬上で敵を切り裂く事が減ったため中反り(刀身の真ん中が反っている)になり、そして先反り(先端が反っている)になっていく。この刀は中反りだ。南北朝時代に作られた名刀備州長船倫光、その力を見せてくれ。

 

馬上で使うことは減ったが使わない訳ではない。相手は騎馬で突撃してくる。こちらも騎乗し相手へ突撃で立ち向かう。綱成が来るまでは若い武闘派と言えば多米元忠だった。その元忠からみっちり稽古をつけられた。その腕はけっして劣らないと自負している。

 

「はぁぁぁぁ!」

 

迫り来る敵将。その剣が振り下ろされるより速く、こちらの剣で切り裂く。一瞬視線が交わり、馬がすれ違う。こちらの剣には確かに手応えがあった。傷を負っていないことから、敵の攻撃は宙を切ったらしい。

 

振り向けば、胴体から真っ二つの敵将であった亡骸があった。あまりの光景に自分の手を見る。刃こぼれ一つない刀身が血に濡れながらもそこにはあった。今川義元、何てものを渡してくれたんだ。鎧を貫き綺麗に胴体を切り裂く大太刀。凄まじい逸品だ。感謝するとしよう。使い方を誤ると自分が真っ二つになりそうだが。

 

あまりの切れ味に少し引いていたが、そんな事してる場合ではない。敵はまだ残っている。

 

敵本陣まであと少し。その前方では相変わらず敵兵が宙を舞っている。恐ろしい。

「貴様が北条綱成だな!小弓公方が臣武田一郎右衛門推参!!」

 

「義明様の仇、ここで取る!足利が臣鴻野修理である。その首貰うぞ!」

 

「信応様をやらせはせぬ。西弾正参る!」

 

敵将三人が一気に躍りかかる。一対三なら勝てると踏んだのだろう。だが、認識が甘かったな。相手は北条最強。関東でも五本の指に入るだろう武勇の持ち主。その辺の者では何人でかかろうと…

 

槍の一閃でことごとく首を切り落とされるだろう。現に、先程まで勢いよく名乗りをあげていた敵将三人は物言わぬ骸になっている。一呼吸の間に、何の声を出すこともなく討ち取った。流石と言わざるをえない。

 

敵はもう壊滅寸前だ。最後のだめ押しに本陣へ突っ込む。中にはもう殆ど人はいない。皆逃げ出したようだ。本陣中枢の大将がいるであろう場所へ向かう。幕を蹴散らし中に入れば、敵大将と思われる人物が床几に座っていた。とっくに逃げていた可能性もあったためいささか驚く。

 

助命嘆願でもするかと思ったが、その目は覚悟が出来ていた。

 

「真里谷信応殿とお見受けする」

 

「如何にも」

 

「言い残す事は」

 

「ない。敗軍の将なれど、せめて関東武士らしく討死するのみ」

 

「あい分かった。お覚悟」

刀を振りかざし、そして勢いよく下ろす。上総の名族は叫び声も苦悶ももらさず果てた。戦略はお粗末だし、決して名将とは言えないかもしれない。それでも立派な最期であった。彼らは生きていた。後世を生きる我々はそれを色々と論じるが、彼らはそれでも生きていた。必死に、この乱世を。改めてそれを感じる。

 

いつまでも無情を感じている訳にもいかない。大本命里見は無傷の軍を残したまま、まだ健在である。これを逃しては禍根になる。取り敢えず、一度部隊を整理しなくては。

 

 

 

 

「おおーい!」

 

伝令に出していた元忠が帰還してきたようだ。

 

「もう終わってしまったのか。早いな」

 

「綱成が蹴散らしてまして…。そのおかげで予想よりも手こずらずすみました」

 

「急いできたんだがなぁ。やれやれ。それでだ、氏綱様が全軍を急行させてお前たちの横を通り抜けて国府台城を落とした」

 

全く気付かなかったが、氏綱様以下の一万五千近い部隊が城を落としてくれたらしい。。

 

「一瞬で落城したぞ。今幻庵様を城に置いて氏綱様がこっちへ向かっている」

 

「遠山殿の部隊は?」

 

「そっちは北方の相模台城と根元城の確保に向かった」

 

「なるほど。ではこちらの残存は一万を超えると…」

 

「そうみたいだな。お、いらしたぞ」

 

土煙が見える。多くの騎馬がやって来る。氏綱様自らお越しのようだ。隣には氏康様も見える。安全の為に渡河すらさせず後方に置いてきて安全確保が出来たら渡河して下さいと頼んでいたが、無事合流できたようだ。

 

ちょっと過保護な気がするが、誰も何も言わないので通常運転なのだろう。万が一の事があってはどうしようもないのだし。北条家家臣団は基本的に氏康様に甘い上に過保護だから、その身は安全だ。今回の戦も足利義明が愚かな発言をしたため宿老達を本気モードにさせてしまったという面もあるし。

 

おおっとこのままでは馬上で挨拶になってしまう。失礼過ぎるし普通に打ち首なのでとっとと下馬する。

 

「よくやった。氏康の隊が此度の勲功一等であろう。皆よく戦ったが、この隊の者には特に目覚ましいものがある。まず綱成」

 

「はっ」

 

「我が目は誤っておらなんだな。足利義明の一族二人に加え、多くの大将、雑兵に至っては数えるに両手両足の指では足らぬ。氏康の義妹としてよく働いた。北条の名に恥じぬ働きであったぞ」

 

「ありがとうございます!」

 

他の将からも拍手がおこる。

 

「次に兼音」

 

「はっ」

 

「渡河の指揮、防戦からの反転攻撃そして敵の穴を突く戦術。見事であった。足利義明やその他にも幾人か討ち取ったと聞く。お主もよく働いた。特にこちらの被害を抑えたのは良き策である」

 

「ありがたきお言葉」

 

「そして元忠。お主も足利義明が配下の将を多く討ち取った。また、素早い伝令大儀である」

 

「ははぁ」

 

「三人には追って褒美を出す。それと盛昌もよく我が娘を守った」

 

「当然の事にございます」

 

「この部隊こそ北条の未来を担う若武者の集まりよ!皆も見習うが良い!!」

 

「「「「ありがたきお言葉。感謝の極みにございます」」」」

 

「うむうむ。これより城に入りて直景を待つ」

 

あ、待て待て。これで終わりの雰囲気だがそれはいささか不味い。

 

「あいやお待ち下され」

 

「む、いかがした」

 

「まだ敵は残っております」

 

「里見か…しかし奴等は少数ぞ。今更何が出来ようか」

 

「ここで戦局を覆すのは不可能でしょう。されど、無傷で里見を帰せば当家の災いとなるは必定。小弓公方ならびに真里谷が討たれたことにより上総には空白が生まれました。その隙を火事場泥棒出来るのは無傷の里見でございます」

 

「ふむ。一理ある。しかし、四千で上総の空白地帯すべての占領は不可能であろう」

 

「もし、その四千が総兵力で無かったとしたらいかがでございましょう。国許にまだ兵を隠しておるやもしれませぬ」

 

「…よし、分かった。お主らの三千に(笠原)信隆、(清水)康英の四千を合力させよう。指揮は言い出したお主がとるのだ。良いな」

 

「はっ!」

 

「皆も良いな!」

 

「「「「ははっ!」」」」

 

「深追いだけはするな。圧しきれぬなら直ぐに戻って参れ」

 

「はっ。承知しました」

 

逃げようと言ってもそうはいかない。里見義堯、首を洗って待っていろ。




次回、いよいよ里見との戦闘です。ある意味この戦いの本番かもしれない。


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第15話 第一次国府台合戦 終

「ふはははは」

 

行軍中の馬上にて、里見義堯は哄笑していた。

 

「その報、まことであろうな?」

 

「はっ。確かにこの目で見ました。小弓公方足利義明公はお討死。また、真里谷信応殿も同様と。真里谷並びに足利両家の将兵たちも多数討死。名だたる将がその首を地に落とされました」

 

「よしよし、ご苦労であった。下がってよいぞ」

 

「はっ!」

 

里見義堯は笑うしかなかった。遂に運が廻ってきたらしい。素晴らしい結末だ。彼の脳内には上総の地図が浮かんでいた。真里谷と足利の押さえていた土地は空白となる。奪うは容易い。この戦に参陣していない国人土豪もいるが、大した敵ではないし、恭順する可能性が高い。

 

房総は我が物となる。その日は近い。そうすれば、自分の夢は叶う。あわよくば、関東の覇者も見えてくる。そう考えていた。

 

実際、この考えは正解であり、史実では上総の国人はことごとく里見へ靡いていく。これは里見の勢力圏を拡大させ、北条家を苦しめる。今まで安房の小勢力だった里見家に飛翔のチャンスが来ていた。

 

「殿、お下知を」

 

「うむ。これより我らは全速力で安房へ帰還する。進路反転。急げ!」

 

「はっ!全軍、直ちに撤退だ!」

 

見事と言うべきは里見軍の統率で、急な反転命令であったが誰一人混乱することなく粛々とその命令に従っていた。

 

「良いぞ良いぞ。これで我らは房総の覇者よ」

 

「しかし、そう上手く行くでしょうか。北条軍が追撃してくるやもしれませぬぞ」

 

「であるからこのように急いでおる。兵を損なわぬ為に援軍にも行かなかったのだ。撤退途中に惨敗など、後世の笑い者よ。それに、氏綱は来ぬだろう。あれはそういう男だ。血気盛んな若武者が来るやもしれぬが…その時は返り討ちにしてくれようぞ」

 

若輩には負けはせぬわ、と口角を上げながら馬を走らせる。里見の家の家督を下克上で奪い取ってからもう何年にもなる。あの時より戦場を駆け巡って来た。その戦に彩られた生涯が生半可な若造には負けないという確固たる自信を作り上げていた。

 

 

 

 

余談ではあるが、上総の国は現在の千葉県中部に位置している。現在の東京湾側は市原市、君津市、木更津市、富津市、袖ヶ浦市などが領域であり、太平洋側は鴨川市、勝浦市、いすみ市、茂原市、東金市、山武市などを領域としている。千葉県民或いは千葉県を訪れた経験者ならわかるかと思うが、縦に長いこの地域は山岳が多いものの、結構な広さを持つ。

 

広さに反して先述したように山岳が多いので、石高にして42万石ほど。史実においては戦国時代は強大な勢力が出現せず、それに近かった小弓公方が討たれた後は北条と里見が争った。

 

現在では、酒井氏や土岐氏、武田氏などの国人が割拠している。彼らは今のところ大半が小弓公方に従っていたが、つい先ほど足利義明が戦死したため、実質上独立勢力と化していた。里見義堯の目的は個々の勢力となっているこれらを臣従させ、更に領地を北上させることである。南上総の正木氏は既に臣従しているので、後は残りを片付けるのみであったのだ。

 

 

閑話休題

 

 

 

 

 

 

「殿!後方に土煙が見えます!北条の追っ手かと」

 

「ほぅ?来るとはな」

 

北条軍は慎重な用兵と大胆な奇策を以て戦に挑む。これが里見義堯の北条の戦への評価であった。それの良し悪しについて彼は特に意見は無かったが、そういった評価を下している為にこの追っ手の存在は意外だった。若輩が来るだろうとは言ったが、心の中では北条氏綱はそれを許可しないだろうと思っていた。

 

「誰が大将かのぅ。間宮康俊か、笠原信隆か…」

 

三代目の小娘…はないな。と呟きながら髭を撫でる。自らの叔父と従兄弟を排斥する為に北条家に一時期身を寄せていた里見義堯からすれば、内部事情はある程度把握していた。攻めを主張しそうな将の名も、北条氏康の引きこもり癖も知っていた。

 

「ここまで執拗に追われるか。儂も、偉くなったものだな」

 

「殿!そのような事を仰っている場合ではありませぬぞ。逃走を続けるか、反撃するかしなくては」

 

「分かっておるわ。さて、どうしたものか」

 

答えながらも思考はフルスピードで回転していた。反撃することも出来なくは無いが、なるべく兵を損ないたくない。撃退不可能では無いだろうが、追っ手の数が分からない。ともすれば、迎え撃つのは少々危険だった。しかし、このまま逃げ切れるとは限らない。追い付かれる可能性もある。

 

「時茂。頼みがある」

 

「はっ。何なりと」

 

敵が知恵者か臆病なら退くであろうし、勇猛な者や脳筋なら突撃してきてかつそれを殲滅できる作戦を伝えた。正木時茂は一瞬驚いたが、直ぐにその首を縦に振る。北条よ、かかってくるが良い。貴様らの機嫌を取り助力を乞い媚を売り続けたかつての自分とは違う。一泡吹かせてやりたいものだ。そう思い、また笑うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

里見軍の追撃を続ける。向こうも必死に逃げているようでなかなか追い付かない。向こうは四千五百。こちらは八千。通常なら負けるはずは無かった。

 

「一条殿!敵はもう遠くへ逃げてしまったのではござらぬか?影も形も見えませぬぞ」

 

「あいや、清水殿。まだ遠くへは行っておらぬと思われます。足利、真里谷敗れるの報を聞いてから逃げ出したのでしょうが、だとしたら我らが追撃を始めた時とそこまで時は離れていません。まだ近くにいるはずです」

 

「しかし、そう遠くへは追えませぬぞ」

 

「ある程度行っても追い付けなかったら諦めましょう」

 

「ですな…。む!あれは!里見の軍勢では?」

 

清水康英の指す先に目をやる。確かに里見軍らしき軍勢が見える。

 

「者共かかれ!」

 

本陣で暇していたという清水隊が突撃していく。他の部隊も前進を開始した。小勢の敵だ。余裕で撃破してくれるだろう。だが、どうも嫌な予感がしてならない。

 

「里見軍恐るるに足らず!」

 

兵たちの戦意は高まっている。その為か、一気呵成に突撃していく。このまま押しきれるか…。そう思ったが、そう単純には行かなかった。

 

「押しきれない、か…」

 

のらりくらりとした用兵。押せているようで、その実敵の損害は少ないように見える。それどころか場所によっては苦戦し始めている。敵の倍近くの戦力を擁しているにも関わらず、この結果。苦しいかもしれない。

 

が、ある時を境に突如敵の勢いが弱まる。ともすれば、こちらは数がいる。瞬く間に押し始めた。敵は敗走していく。

だが、勝っているのは事実だが、どうもこの状況に作為的な何かを感じる。と言うのも、敵は敗走していると言いながら、武器はしっかり持っている上に隊列もそこまで乱れていない。

 

罠を疑うが、この短時間での設置は不可能だろう。伏兵が隠れられる場所も平野故に少ない。考えすぎだろうか。いや、疑わないのは危険か…。いずれにせよ、そろそろ潮時である。深追いは危険だ。目的の兵の損失を生むには少しだが成功している。ノーダメージで帰還とはいかないだろう。

 

 

 

 

 

遠くに橋が見えてきた。川があるのか。頭の中の地図を思い出す。確か、真間川。そこまで大きい河川では無かった気がする。この辺は現代だと京成中山駅か下総中山駅の近くだ。

 

敗走する敵の兵たちは次々と橋を渡っていく。

 

「む」

 

橋の上に誰か見える。逃げるでもなく、馬上に居てよく目立つ黒く大きな槍を持っている。敵兵はその横を通り抜け、橋の奥へと消えていく。

 

「なんと!あれは槍大膳!」

清水康英の声で敵将の正体が分かった。槍大膳、正木時茂に遭遇するとは運がない。正木時茂は畿内にまでその名を轟かせる勇者。かの朝倉宗滴の言行録に同時代の優れた武将の名前として織田信長や今川義元、毛利元就等と同列に語られているのだ。

 

そして、この状況は既視感があった。少し考え、既視感の正体に気が付く。橋。それを塞ぐ一人の豪傑。確認すると後方には雑木林。

 

「三國志かよ…」

 

思わず言葉がもれる。三國志で語られる張飛の名場面だ。荊州を曹操に追われる劉備の殿として橋の前に立ち一喝して曹操軍を震えさせ、幾人か挑むも誰も勝てず、また、橋の奥の林に伏兵のあることを恐れた曹操は遂に自らが撤退を開始。その後に張飛が橋を燃やしたので伏兵が無いことはバレるが、劉備は逃げ切った。この戦いは橋の名前を取って長坂橋の戦いと言う。

 

この戦いに良く似たこの地形。偶然では生まれないであろうし、意図的か。

 

「全軍止まれ!止まれ!!」

 

今にも橋にいる正木時茂に襲い係ろうとしていた兵たちを止める。正木時茂一人に多くの犠牲を出すのは割りに合わないし、そもそも損害を抑えろとの命を受けている。後ろの林も怪しい。槍大膳無双により、兵が恐慌状態になり収拾がつかなくなる前に止められたのは幸いだ。

 

正木時茂は進軍の止まった我々を見ても動こうとしない。それがますます計略のあるのではないかと疑う要因になっていた。里見義堯は三國志を知っていてこの状況を作り出したのだろう。いやはや性格の悪い奴だ。後ろの林に伏兵がいるか否か分からない以上、迂闊に突破はできない。居たら我々は大打撃だし、居なくても迷っている間に時間は稼がれる。

 

舌打ちしたいがそうもいかない。仕方ない。こちらも無駄に兵を損なうわけにはいかない。撤退の潮時か。

 

「全軍、撤退だ。直ちに撤退する」

 

「一条殿、臆されたか!敵は一人。かの槍大膳であろうともこの数ならば…!」

 

「いや、笠原殿。私の恐れるは後ろの林。この状況、古の三國志に記された長坂橋の戦いに酷似しております。三國志では伏兵はおらず、時間稼ぎでしたが、今回はどうか分かりませぬ。伏兵がいて、本隊も戻ってきたら袋叩きに合います。加えて、もし正木時茂を突破できてもそれに兵を多く損なうでしょう。氏綱様より深追い厳禁と仰せつかっております。撤退しましょう」

 

この戦術。まさかとは思ったが、島津の釣り野伏に似ている。名将ともなれば、考えることは同じか…。だが、引っ掛かってやる訳にもいかない。そう容易く騙されるものか。

 

「ううむ。仕方なしか…」

 

「先輩!ここは私が行きます。そうすれば、正木時茂に兵を損なう事にはなりません!」

 

最初はそう考えたが、敵の実力が未知数なのと、万が一の事があっては困る。綱成は伝家の宝刀。抜くタイミングは今じゃない。

 

「敵の実力が未知数な上、もし同格であっても経験は向こうの方が上。貴女に万が一があっては私の首は氏康様に撥ね飛ばされてしまいます。ここは自重して下さい」

 

「むぅ…。そう言うなら仕方ないです」

 

「清水殿にも撤退指示を。全軍後方に注意を払いつつ、後退!」

 

逆に向こうから追撃されたら笑えない事態になりかねない。そうなってもらっては困る。ここまで意気揚々と進軍してきた為か不満気な顔ではあるものの、全軍は撤退を開始した。振り返ると、橋の上で正木時茂はこちらを見つめていた。

 

次こそはもっと確実に追い詰めてやる。そう決意する。だが、同時に一筋縄ではいかないだろうという予感も存在していた。長いこと争う事になりそうだ。そう思うとため息が出てくる。史実から逸れた行動をすれば、知識通りとはいかない。分かっていた事ではあるが、改めてそれを痛感した。里見義堯。房総の覇者。そう簡単には勝たせてくれないようだ。

 

だが彼には悪いが、里見に翻弄されていたり苦戦しているようでは上杉謙信や佐竹義重、武田信玄なんかには敵わない。精進しなくてはいけない。

 

「この借り、いずれ必ず返す!それまで首を洗って待っていろ、里見刑部少輔義堯!!」

 

負け惜しみだが、これがせめてもの抵抗だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「帰ったか」

 

里見義堯は去り行く北条軍の背中を見つめていた。

 

「そう易々とは釣れぬか。難儀な事よ」

 

伏兵は無駄になってしまった。おそらく、敵もこちらの意図を、参考にした戦いを知っていたと見える。そこまでは想定通りだが、もっと悩むかと思っていた。が、予想に反してあっさりと撤退を決めたのはある意味拍子抜けであった。

 

それと同時にほっとしている自分もいた。突撃されれば、時茂のみでの防衛は不可能。伏兵を発動し、本隊も反転して袋叩きにするつもりだったが…。それでは上総攻略の兵が圧倒的に足りなくなる。それでは困るのだ。

 

「少なくとも、敵は愚将に非ず、か…」

 

即断即決は戦場でかなり大切な事だ。それにこちらの戦術を見破った上での退却。古典にも詳しいときた。これは厳しい戦いが続くかもしれぬ。彼の顔は渋かった。しかし諦める訳にもいかない。野望の火は未だ燃え尽きてはいなかった。

 

「殿。ただいま戻りました」

 

「おお、時茂。よくぞ戻った。此度は武を示させてやれなんだな。すまぬ」

 

「はっ。お気にならず。武士たるもの、いずれ機会は訪れましょうぞ。そう言えば敵将が捨て台詞を吐いておりましたぞ」

 

「ほほう。なんと申しておった」

 

「"この借り、いずれ必ず返す!それまで首を洗って待っていろ、里見刑部少輔義堯"と」

 

「ふはははは。随分嫌われたものよの。誰が吐いた文言か?」

 

「名は分かりませぬが、若くまだ十七、八歳と思われる男武者でございました」

 

「おそらく其奴が此度の追っ手の指揮官であろう。ふむ。面白い。我が首取れるものなら取ってみるが良いわ!」

 

高らかに笑いながら、好敵手となりうる将との次の邂逅に思いを馳せていた。まずは房総を抑え次こそは。その為にも中部上総を抑える。兵が足りぬ故、北上総は諦めねばならぬとは。残念だ。そう思いながら、彼は全軍に号令する。

 

「全軍、直ちに進撃を再開。上総の城を一つでも多く我らの手に納めようぞ!!」

 

「「「「応!!」」」」

 

源氏の子孫たる証を示す二つ引両の旗をはためかせ、里見軍は南下を開始した。

 

 

後世、一条兼音の伝記を読めば、またこいつかというレベルで登場して幾度も争い、上杉や佐竹よりも一条兼音の真のライバルは彼だったとまで呼ばれる万年君里見義堯との最初の対決はこうして幕を閉じた。

 

また、これを以て第一次国府台合戦は終了したのである。戦勝に湧く北条軍であったが、出る杭は打たれると言うように、飛ぶ鳥を落とす勢いの彼らに関東を揺るがす大嵐が訪れようとしていた。それに気付いた者は、まだいない。

 

そして、一人の英雄の命の灯火は消えようとしていた。かの灯火が消えた日こそ、北条を暗い陰が覆うのだが、その日は刻一刻と迫っていた。




結構登場人物が出てきましたが、キャラ集第二段は河越夜戦が終わった辺りに配置します。

どこかで時系列的に原作開始前の時に原作メインヒロインの織田信奈を出したいなと悩んでおります。

さて、匂わせていましたが、いよいよある人物の死が迫っています。誰かはもうお分かりの方が多いと思いますが。

次回、巨星墜つ。お楽しみに。


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第16話 巨星墜つ

完全勝利とは言えないまでも、里見軍を追いやり、真里谷&小弓公方連合軍を撃破した北条軍は意気揚々と凱旋をする。小田原に戻る道中で兵も将も皆顔は晴れ晴れしていた。誰もが勝利の歓喜に湧き、お祝いムードが流れていた。そんな時だった。

 

北条氏綱倒れる。

 

この報はたちまち北条家中ひいては関東全土に広まることとなる。馬上にて意識を失い、落馬しかけ、一命はとりとめ意識は回復したが依然として危険な状態にあると医者が宣告した。今まで北条家を導いてきた英傑の突然の病に家中にはお通夜のような雰囲気漂っていた。論功行賞は全て後回しになり、家臣一同の意識は当主の安否にあった。

 

自分が文系だった事が悔やまれる。多少は病について分かるし、戦国より医療の進んだ現代から来たんだからして病名くらいはわかる。ただ、治療法も薬もあまり詳しくはない。

 

思い返せばそれらしき兆候はあった。声の覇気が薄れ、顔色があまりよくない日があった。あの時休むように言えば或いは…。いや、それでも出陣しただろう。気づけなかった事は本当に忸怩たる思いだ。

 

病状は中風(脳内出血に伴う麻痺等を起こす病。脳卒中の類似)だろう。化学薬もないこの時代は例えばインフルエンザとかでも悪化して死に至る可能性がある。それが中風とか癌とか肺炎とかになればなおのことだ。内科は特に解剖や麻酔も無いのだ。ろくな診察は出来ない。血管とか心臓の病だともうおしまいだ。大人しく死を待つしかない。

 

 

 

 

「これからどうなってしまうのでしょうか。不安ですわ」

 

屋敷の囲炉裏で鍋を食べている時に兼成が呟いた。その気持ちは北条家中の全員が抱いているものだろう。回復するのか、もしくは…。

 

「祈るしか無いだろうが…いずれにせよ氏綱様はご老体。そろそろご隠居頂く時期なのかもしれないな」

 

「となると次代の当主は…」

 

「氏康様だ。まぁ、若いが問題は無いだろうさ。若さならお前の異母妹の方が若い。それに人望能力共にある。北条の三代目としては申し分無いだろう」

 

「それは重々承知しておりますわ。心配なのはそこではなくて…」

 

「外交か」

 

頷く姿を見つつ、同様の感想を抱く。対上杉の武蔵、対古河公方の北下総、対里見の南下総に加えて最近は今川が駿東の返還を要求しており、きな臭い。前々から火種になりつつあった所ではあるが、そろそろ危ないか。下総は今小康を得ている。里見は上総の安定に尽力したいらしく、こちらには大規模に手を出してこない。

 

「古来より、当主の代替わりは敵勢力を勢いづかせる事が多いと相場が決まっておりますわ。ここもそうならないと良いですけれど」

 

「そう上手く行かないのが悲しいところだ」

 

話を聞くところによると氏綱様はここ数年、つまり私がここに仕官する前から既に急に老け始めていたという。長年戦場を東奔西走した疲労がつもり積もった結果だろうか。

 

「或いは、氏綱様は自らの老いを予感していたのかもしれないな。だから氏康様の元服を早めた。それもかなり」

 

通常ならもう一、二年遅い元服を昨年の春頃に終わらせているのはそういう事なのかもしれない。ちなみに、氏康様の幼名は伊豆千代丸らしい。可愛い。

 

「他の妹たちも随時元服させて一門衆に加えたり、家臣の娘や息子を早くから登用してるのもこのような時の為の布石だったという事になりますわね。それはまた随分と壮大な計画ですけれど」

 

それからは二人で憂い気に火を見つめていた。未知数すぎる未来がどうなるのかは、まだ分からない事だらけだった。

 

 

 

 

 

重苦しい雰囲気に包まれた小田原城へ登城する。例え当主が病でも仕事は変わらずある。詰所の空気も暗いが。心のどこかで誰しもが不安を感じている。食も細くなり日に日に衰え痩せていく姿を見ては、そうなるのも無理はなかった。城下の賑わいも心なしか常より無いように見えた。

 

「一条様、よろしいでしょうか」

 

廊下を歩いていると、女中に声をかけられる。

 

「はて、どうされたか?」

 

「氏綱様がお会いしたいと、馬屋にてお待ちです」

 

「馬屋?何故そのようなところに…」

 

「それは私も伺っておりませんので分かりかねます」

 

「そうですか、伝令ありがとうございます」

 

礼をして足早に向かう。何の用かは分からないが、あまり良い内容の用事では無さそうな事は分かった。病人は大人しく寝ていて欲しい。何してるんだか。

 

5分くらい歩いて馬屋に着くと、既に馬に乗った氏綱様がいた。ここ最近では珍しくシャキッとしており、目も壮年の輝きを取り戻しているように思えた。

 

「おお、来たな」

 

「ただいま参りました。何用でござりましょうか。御体はもうよろしいのですか」

 

「うむ。今日はいささか気分が良い。少し出かける。着いて参れ」

 

「は、はぁ。仰せとあらば喜んで」

 

何処へ行く気なのだろうか。さっさと馬を進ませる主に置いていかれないように急いで馬上の人となるのだった。

 

街中を進んでいく。城下では病床に臥せっていると噂の城主の姿にあちらこちらから歓喜の声が聞こえる。それに応えながらゆっくりと南下していく。小田原城の南は海であるが、そこから更に南西つまり伊豆の方へ向かい始めた。小田原城近くの海岸は砂浜だが、少し伊豆に近付くと断崖絶壁が増える。

 

 

 

 

 

氏綱様は崖の上で馬を降り、海を見つめていた。

 

「綺麗な海だ。儂が幼き頃、亡き父上に連れられて見た伊豆の海と何一つ変わっておらぬ」

 

その目は目の前の海ではなく、どこか遠い追憶の彼方にある光景を見ていた。

 

「…のう」

 

「はっ」

 

「何故お主を連れ出したか疑問に思っとるだろうな」

 

「…はい」

 

「お主と話しておきたかったのはあるな。儂の家臣たちは昔から知っておる。そのあり方もな。お主とは巡りあってよりあまり時が経っておらぬからの。だが、本当はな、聞きたかったのよ、お主が何処から来たのか」

 

「それがしは土佐より…」

 

「取り繕わんでも良い。娘は気付いておらなんだが、儂は気付いておるぞ」

 

その言葉にハッとして顔を見る。その言葉に咎めるような気配はなく、静かにこちらを見ていた。

 

「何故、そう思われたのですか」

 

「勘じゃ。勘。長年生きとると不思議と勘が生まれる。それで、お主は誰だ。何処より来た。答え次第によっては斬らねばならぬ。間者であったら困るからな。なに、偽っておった事を咎める気はない。正直に申してくれ」

 

「…遥か彼方の遠い場所より」

 

「詳しくは言えぬか」

 

「…申し訳ございません。北条のお家に害とならない所であるとは誓いますが」

 

「その言葉、信じるぞ。我が娘の信じたお主の言葉をな」

 

「ありがとうございます」

 

「まぁ、儂には言わんでも良い。だが、いつか娘には、話してやってくれ」

 

「はい」

 

「お主には期待しておるぞ。きっと、娘を導いてくれるとな。確固たる理由無き勘だがな」

 

波が岩を打つ。その音だけがやけに大きく聞こえる。

 

「もし、万が一の事があれば北条の夢も、何もかも捨てて良い。ただ、娘達を守ってくれ。若き才ある者よ。その才に溺れてはならぬぞ。驕らずおれば必ずそれを生かせる」

 

「ご忠告、しかと受け止めましてございます」

 

「精進せよ」

 

そう言うと、崖の一番先まで歩んでいく。

 

「…のう」

 

「はっ」

 

「儂は何かを為せたのか。この世に残る何かを。武士として産まれたからには、何かを成したいという野望の炎が心を燃やすのよ。死に際してそれが一番気になっておった」

 

「死に際す等…滅多な事を申されてはなりませぬ」

 

「良い良い。自らの肉体の事は自分が一番よく分かっておるわ。我が命の灯火、そう長くはないであろう。…まぁ、よい。死に行く老人の独り言よ。忘れてくれ」

 

決して忘れられる筈など無かった。自分は北条氏綱のことを、英傑だと思ってきた。今川氏親や武田信虎、強大な上杉一族相手に戦い抜いてきた英雄だと思っていた。それは間違ってはいないかもしれないが、何処かで等身大の人物として見れていなかったのではないかと思った。文献や小説に書かれた人物として心の何処かで見ていたのではないかと。

 

当然の事なのだ。人は生きていれば悩むし、苦しむし、後悔もする。そんな当たり前の事を忘れかけていたのかもしれない。だからこそ、その悩みには真摯に答えるべきだと、そう思った。

 

「氏綱様の名は、永久に語り継がれるでしょう。初代関東王、北条氏康の父にして、その躍進の礎を築き上げ、民を重んじる心を教えた偉大なる英雄として、久遠に。世が変わり、人が変わり、時代が変わろうとも」

 

彼は、その言葉に驚いたように目を丸くしてこちらを振り返った。しばらくこちらを見つめていたが、ふっと小さく笑い腰の刀を取った。そしてそれを躊躇いもなく、海へ投げ入れる。その行いの意味を簡単にこれだと断言することは出来なくて、ただひたすらにその光景を見ていた。

 

「そうか……それは、良かった」

帰るか。そう言って笑いながら、馬へと戻っていく。慌ててそれを追いかけるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その晩、北条氏綱の容態は急変した。

 

 

 

 

 

 

 

 

夜間は静まっている城は煌々と明かりが灯り、慌ただしく女中たちが走り回る。一門衆や家臣団は大広間に集められた。誰もが身動きをとらない。まばたきの音さえ聞こえてきそうな静寂の中、上座に敷かれた布団に伏している氏綱様の荒い息が聞こえる。

 

城に戻って半刻もしないうちに再び倒れそれよりかれこれ半日近く意識を失ったままだ。このまま目覚めないのではないか。誰もが、その最悪の想定を行っていた。

 

あの時、こうなることを察していたから、私を連れ出したのかもしれない。己の最期に、まだ関わりの少なかった家臣と会い、その性根を確かめたかっただろうか。己の娘の為に。

 

 

「ここは…城か」

 

息苦しそうな声が聞こえる。その場にいる全員が顔を上げる。

 

「殿!」

 

「お目覚めですか!」

 

「良かった。良かったですぞ!」

 

「お主ら、うるさいわ。最期くらい静かにさせてくれ」

 

ゆっくりと言う声はどうしようもないほど衰えてが感じられて、否応なしに全員に終わりを実感させた。

 

「父上!お目覚めしたばかりです。あまりお話にならないで下さい。今医者を…」

 

「よい」

 

「でも、父上!」

 

「氏康…いや、伊豆千代…。もっと近くへ来てくれ。もう、目も霞んできた」

 

「はい…はい。私は、ここにおります」

 

「彦九(為昌)、菊王(氏尭)、松千代(氏政)、藤菊(氏照)、助五(氏規)、乙千代(氏邦)、三郎(後の上杉景虎)…。お主らで、ここにはおらぬ他の小さな妹たちと共に、北条の家を…伊豆千代を守ってくれ。よいな」

 

布団の周りに集められた氏康様の妹様たちが頷きながら涙を流している。

 

「父上、お願い。逝かないで。私には当主はまだ早すぎる」

 

「お主はもう、十分に当主になれる。優秀な家臣も多くおる。彼らを頼り、信じ、いつの日か北条の旗を、関東の大地全てに…。誰も苦しまぬ世を…必ず…」

 

「必ず、必ず成し遂げるから、生きてその日を見て!」

 

「すまんが、それはできぬ。…おばばも良いな、娘を頼む。儂は一足先に父上にお会いする」

 

「任せるがよい。おばばはまだ死ぬ気は毛頭ない」

 

「我が、家臣たちよ。我が亡きあとの家を頼む」

 

「「「「「「この命捧げましょう!」」」」」」

 

みんな泣いている。私も泣いている。

 

「ああ、安心した。儂は少し疲れた。眠る事とする」

 

その眠りはきっと…。誰もがそれを理解して、震えている。

 

「すまぬな…お主に、辛い重荷を背負わせた。父として、当主として残してやれる物は多くない。なおも二つの戦線で小競り合いが、続く。この乱世の宿業を押し付けてしまったな…。すまない…。お前たちには、姫としての幸せを掴んで欲しかった…。もし、夢叶わぬ時は…必ず生きて、幸せを掴め。北条の夢も捨てて良い。ただ生きて、幸せを…」

 

「父上!」

 

ゆっくりと痩せ細った手で、氏康様の頬に触れる。

 

「あぁ、儂はこの乱世一の果報者よ。愛する娘に囲まれて逝けるのだ。これ以上の幸せはない」

 

「お願い、お願い、死なないで!父上…」

 

「氏康…伊豆千代…私の、娘。私の、た、から…」

 

「父上!父上!!」

 

氏康様はゆっくりと力を失うその手を抱き締める。自分が流した涙を拭って見ると、そこには穏やかな笑みを浮かべて、生きているかのように眠る氏綱様の姿があった。

 

乱世の男たちは、姫を置いて、逝ってしまう。慟哭の満ちる大広間で、そう思った。偉大なる相模の英雄は家族を愛し、去っていった。

 

「お主には期待しておるぞ。必ず娘を導いてくれる」

 

その言葉が耳の中で響く。必ず、その期待に応えてみせる。娘を思う父親の自分に向けられた最後の言葉を無視など出来るはずもない。あらゆる手を使って、血も涙も無くしても、北条三代の夢を成し遂げるのだ。

 

だけれど、今日この時だけは、その死を悼んで涙を流させて欲しい。この悲しみの感情は消えてはいけないのかもしれないと、そう思った。

 

 

 

 

 

戦国関東の英傑、北条氏綱死去。戦に明け暮れた生涯だったが、その終わりは家族に囲まれた穏やかな死であった。享年54。

 

そして、時代は動き出す。



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第3章 暁の勝利
第17話 月下の誓い


ここより新章スタートです。


北条氏綱は死んだ。その事実は、北条家中全てに暗い影を落とす。城内も城下も領内全てに悲しみが溢れる。民に死を悼まれるのは紛れもなく名君の証。小田原城下に涙を溢さぬ者はいないとまで言われ、まるで親兄弟の死に際したように喪に服した。

 

だが、いつまでも悲嘆にくれている訳にはいかない。当主亡き北条家を放置してくれるほど、この戦国の世は優しくない。早く葬儀を行い、当主交代をしなくてはいけない。

 

葬儀はすぐに執り行われる事となる。現代とは違い、遺体の腐乱を止める術は無いので、早く葬儀を行う必要があった。初代北条早雲の菩提寺の早雲寺で葬儀は行われる事となった。遺骨は父親と同じ場所に葬られるだろう。喪主は亡き氏綱様の長女、氏康様。参列者は主要な家臣と一門衆、領内の有力者(商人など)、弔問の使者である。

 

戦国時代で葬儀と言えば、織田信長の父信秀の葬儀で信長が灰を撒き散らしたのは有名な話だが、我らが主はそんな事はしない。お願いなのでそのままでいて欲しい。織田信長は別に嫌いではないけれど、あんなホウレンソウ(報告連絡相談)の出来ない上司は勘弁して欲しい。あと、人使い荒いし…

 

 

 

葬式会場の早雲寺で弔問の使者を接待する仕事を任された。完全に業務外だが、手が空いていたのが少なかった事が原因だろう。それに、その辺の適当な人材にやらせるわけにはいかないのが現実だ。弔問外交という言葉があるように、葬式も決して無駄には出来ない。自惚れる気は無いが、任せるに相応しいと思われたが故の配置だろう。

 

「我が主、今川治部大輔義元の名代として参りました。この度はお悔やみ申し上げます」

 

「わざわざ駿河よりご参列感謝申し上げます。主がお待ちしております。あちらへどうぞ」

 

「かたじけない」

 

使者と言っても、今川と北条に従属してる国人土豪などからしか来ないのでそんなに数はいない。上杉から来るわけもなく、また幾度となく刃を交えたという武田家からも来ない。そんなに大変な仕事でもなかった。そろそろ終わるかと思っていると、新たに使者が来た。

 

「北条左京大夫殿の葬儀はこちらか?」

 

「はい。ようこそ遠路遥々お越しくださいました。何処のご家中の方でございますか」

 

「それがしは、里見刑部少輔義堯の名代です」

 

その言葉に周りが一気に殺気を放つ。私も刀の鯉口を切る。何をしに来たのか知らないが、主を殺される訳にはいかない。だが、普通は暗殺者なら出身を名乗らないが…?

 

「あいや、待たれよ。主義堯は害意あって葬列に参加し、弔意を示すに非ず。不幸なる行き違いと乱世の習い故先頃は刃を交える事となりけれど、優れたる名将の死を悼むは敵味方関係無き事なり。他意無く故人の死を悼みたい。と申しておりました。何とぞ、ご理解下さいませ」

 

…そういう事なら仕方ない。この使者もなかなかのメンタルの持ち主だが、里見義堯も半端ないな。ま、これだけ手練れの武将に囲まれては下手なことも出来ないだろうし。

 

「そのお申し出承った。あちらへどうぞ」

 

「おお、有り難きかな」

 

警戒されつつも、去っていく使者の人。周りからの目線が厳しめだが、何も気にしてなさそうなのは図太いのか無神経なのか…。

 

 

 

 

 

 

そんな騒動もありつつも、葬儀自体は粛々と行われた。多くの僧と参列者に見送られ、出棺していく。昔の光景が思い出された。自分の人生における二年前の自分の両親の葬式で見た光景と重なって見える。あの時は、どうしようもなく悲しくて、呆然としてて、脱け殻のようになっていた。葬式にくる人に気丈に対応しつつも、終わった後誰もいない会場で泣いていた。

 

かつて私が座っていた喪主席には、あの時の、15の私と同じ年の主のが座っている。その心境は共感できる気がした。家臣のみではなく、客の前で必死に涙を堪えているのだろう。手は固く握られ、目は赤かった。愛を注がれてきた故の悲しみ。それは、とてもとても痛ましい。

 

あぁ、我が主に幸福を。しかし、どうしたら良いのでしょう。娘の幸せを願い逝った氏綱様の棺を見て、その幸せとは何かを問いたくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初春の月はまだ光に冷たさを含んでいる。桜も咲かぬうちに逝ってしまわれた。花も月も、まだこれからなのに。もっと、話をしてみたかった。空から注がれる冷涼な月光がセンチメンタルな気分を起こさせていた。

 

接待は終わり、もう夜も更けてきた。つつがなく終わった事を報告しに、使者の宿所から城へ戻ってきた。明日でも良かったのだが、起きているなら今日中に済ませたかった。済ませたかったのだが…。先ほどからずっと探しているが、何時もの場所やいそうな所にもいない。こういう時に限って女中とも会わない。

 

出直すか…。そう考えながらも城を歩き回る。活気もなく寝静まった沈黙の城は別の世界のようだった。廊下を巡り、ある縁側に来て、庭を見ると探していた後ろ姿に出会った。

 

「氏康様、そのような薄着では御体に障りますよ」

 

彼女は私のかけた言葉に、まるで現世に魂を呼び戻されたかのようにピクリと体を震わせ、ゆっくりと振り返った。その目に光が宿っておらず、ギョッとした。

 

「あぁ、どうしたの。こんな夜更けに」

私の言葉には全く答えず、心ここに在らずというかのごとくポツリと返事が返ってきた。

 

「使者の接待が無事終わりましたので、ご報告に」

 

「そう…ご苦労様」

 

ここで帰るべきなのだろう。だが、どうもこのまま放置しては置けなかった。

 

「……大丈夫ですか」

 

「大丈夫に見える?」

 

「見えないからお聞きしたのです」

 

「…」

 

沈黙が返ってくる。視線を周りに向ければ、縁側の奥の座敷が誰の部屋かやっと分かった。そこは、亡き氏綱様の部屋。

 

「ここは…」

 

「そうよ。父上の部屋。小さい頃によくここに来て遊んでいた。懐かしい、思い出」

 

その目に少しだが光が戻り、月光は光るものを照らし出していた。

 

「泣いて良いと思いますよ。私も、二年前、両親を亡くしました。辛くて、悲しかったけれど泣けない方が辛いです。我慢する必要はありません。私は、今すぐ消えますし、誰にも言いませんから」

 

ハッとしたようにこちらを見上げてくる。頭の良い我が主の考えていることは普段は分からないこともあるが、今日だけは手に取るように分かった。

 

「私だけではありません。乱世で多くの者が愛する人を亡くしました。けれど、それは今は関係無いのです。貴女様が亡くしたのは、見ず知らずの名も無き死者ではなく、貴女様の愛した方なのですから。貴女様は氏綱様を想って涙を流す権利があると思いますよ」

 

そう言って優しく微笑みかける。普段は偉大なる三代目、北条氏康。けれど今は、まるで町娘のような気配さえ感じるほどに、普通の美しい少女だった。

 

堪えきれなくなったように、その目から涙が溢れる。突然、お腹に向かって突撃され、抱きつかれて焦る。いつもの調子が狂わされた。

 

「えっ、ちょっ」

 

「父上…父上…!」

 

嗚咽の混じる声で、私のお腹に顔をうずめながら、泣き続けている。それは、氏綱様の死からこれまで気丈に振る舞ってきた彼女の始めての涙だった。

 

その体は普段の気迫や雰囲気からは想像も出来ないほどに華奢で、弱々しくて、握ったら折れてしまいそうだった。まるで妹のようなその姿をそのままにも出来ず、ゆっくりと右手を頭に乗っけて、左手で背中をさする。

 

しばらく、その姿勢のまま、二人で月下の庭に立っていた。

 

 

 

 

「私は、怖い。自分がもう二度と心の底から笑うことが出来ないんじゃないかと思うと、とても怖い。北条の家は、その夢は綺麗事じゃ守れないわ。私は、心を殺して、痛みに耐えて、必ず家を守らなくてはいけない。覚悟は出来ていた筈なのに…駄目ね。いざそうなってみると、覚悟なんて露のように消えてしまったわ。心の中の自分が冷酷無比な鉄面皮になんてなりたくないって叫んでる。それがずっと私の中で木霊するの。私は、私は」

 

涙混じりの本音が吐露される。それは紛れもなく、彼女の本当の姿だった。

 

「貴女様がすべて背負い込む必要はありませんよ。我々は、その為におるのですから。貴女様の家臣はすべて、ね。確かに、戦国大名北条氏康としては、冷酷にならざるを得ないかもしれません。ですが、公でないなら、話は別。その時は、我々にまた笑顔を向けて下さい。そうできるように、万難を排しましょう」

 

「皆が…」

 

「ええそうですとも。私を含めた皆が、貴女様をお守りします。もし、辛くなったら、またいくらでも胸をお貸ししますよ」

 

ふっと空気が緩む。少しだけでも悩みは、苦しみは晴れたのだろうか。

 

「貴方はどうしてそこまでして私に…」

 

「最初に申し上げたではありませんか。願わくば日ノ本の張子房にならんと。貴女様はその願いを叶えるために、必要な覇者の素質をお持ちだからです」

 

「そうね、そう言っていたわね」

 

「それに…」

 

「それに?」

 

「貴女様の人柄そのものに惚れ込んだというのもあるかもしれませんけど」

 

一瞬の間。そしてボンっと顔が赤くなったのが暗い夜でも見えた。

 

「な、ななな何を言ってるの!…その、気持ちは嬉しいけれど、姫大名は臣下との間に恋情を通わせる仲にはなれないのよ」

 

「存じておりますとも。ですから、これは恋情ではなく忠誠です。それなら、問題無いでしょう?」

 

「それは、その、そうだけど…」

 

「さて、悲しみは少しは癒えましたか。私が、そして他の皆様が貴女様を関東王への道を支えます。我々を信じて、明日から当主として振る舞って下さいませ」

 

「分かった、分かったから、約束して。私が夢を叶えるまで、死なないって」

 

真剣にこちらを見上げる目に見つめられる。中途半端には出来ない。私が何故この時代に来たのかは分からないままだ。もしかしたら、永遠に分からないのかもしれない。けれど、やるべきことはもう、わかっている。

 

「誓いましょう。この命の炎燃え尽きる時は即ち我が主の大願が成就する時である。そして、我が主は生涯ただ一人であり、私は貴女の剣である!」

 

そう言って深々と頭を下げる。そして、やっと、笑ってくれた。

 

 

そうこれは、月の下の誰も知らない二人だけの誓い。そして、北条氏康の胸は確かにこの時、ドクンと激しく、大きく鼓動を鳴らした。自分を見下ろす優しい瞳に心が揺さぶられた。その気持ちに蓋をして、彼女は歩きだした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明くる朝、早速家臣が集められた。普段は小田原にいないような人も集められている。一門衆も勢揃いしている。これが北条家オールスターだった。その中に自分がいると思うと、感慨深いと同時に若干恐ろしくもある。

 

「皆、待たせたわね!」

 

そう言いながら、先日まで氏綱様のいた席へと座る。家臣団はいつものごとく、綺麗に礼をする。昨夜のような迷いはもうないようだった。

「父上の大願は私が継ぐ。私がこれより、相模の国主、北条の当主そして未来の関東王、北条氏康よ!異論あるものは直ちに申し出なさい」

 

誰一人として声をあげるものなどいない。いるはずがなかった。ここにいるのは皆、北条に忠誠を誓い、生涯を捧げると決めた者たちであるのだから。

 

「異論無くば、早速初仕事よ。先の国府台における戦いの論功行賞を行うわ。まずは遠山直景」

 

「はっ」

 

「これより下総方面を担うために、国府台城の城主に任じます。先頃臣従した千葉一族と協力して里見の侵攻を食い止めなさい」

 

「ははぁ。大任、必ずや果たしてみせましょう!」

 

「他の者たちも、随時加増や俸祿の増加を行うわ。それと、叔父上、河越城の預りご苦労様でした。もう自分の城に戻って良いわよ」

 

「おお、それは助かるな。長らく城を留守にするわけにもいかぬ。ありがたく戻らせてもらう。だが…儂の後は誰が入るのか?」

 

「それが悩み所だったのだけれど、決めたわ」

 

良かった良かった。ちゃんとここまでは史実通りに動いている。氏時様とて氏綱様の弟君。能力不足とは言わないし、無能なら一族でもそんな要所を任せない。とは言っても、流石に関東諸将の連合軍相手は荷が重いと思われる。そんなに若くないし、後方で頑張って貰おう。

 

ここで北条綱成を河越城主にすることで、北条家は河越夜戦を乗り切り関東に覇を唱えるのだ。彼女が一番相応しいと言えるだろう。十分に活躍していた。まだ来てから日が浅いが城を与えるには功績十分だろう。血は繋がって無いが、一族だし。河越城主は北条綱成で安泰…

 

「これまでの功績を鑑みて、一条兼音を新たに河越城主として任じます」

 

「はい…?」

 

え、ちょっと待て。これは予想外。

 

「あら、どうしたの?不服かしら?もっと寄越せって言いたいの?だとしたら贅沢ねぇ」

 

「いえ、まさかそのような滅相もない。しかし、それがしは若輩の新参。かような大任を担うにはまだ早いかと。それこそ、義妹にして暫定的に現在私の部下の綱成の方が…」

 

「綱成は貴方より若輩かつ新参よ」

 

「あ…」

 

「それに、評定衆の中で城持ちでないのは貴方だけだったの。流石にそれはどうかと言う意見が出たわ。足利義明に真里谷信応を討ち取り、作戦を立案し、里見に傷を負わせた。これは十分な戦果と考えるわ」

 

「一条殿、お受けなせれよ。我ら北条家臣に、妬み嫉むような愚か者はおりはせん。皆、大任を任せられると思うとる」

 

「間宮殿…。承知いたしました。必ずやその役目成し遂げましょう」

 

「北条家の武蔵領は貴方の双肩にかかっているわ。必ず、守り抜いて」

 

「はっ!」

 

仕方ない。なるようにしかならないだろう。城主というのは城代よりも権限が上。実質的にその地の支配者と言っても過言ではない。兵権も領内のある程度の統治権もある。それゆえに大任であり、特に河越城は上杉に対する備えとして一番大切な地。緊張で震えてきた。

 

「普請方の方はどうしたいかしら。後任が欲しければ手配するけれど」

 

「いえ、まぁ、大丈夫かと。私がいなくても職務を遂行できるような仕組みは作りましたので、小田原と河越の往復を繰り返せば問題無いでしょう」

 

「そう…負担が重ければすぐに言いなさい」

 

「ご配慮感謝します」

 

ああ、まぁ、何とかなる。仕事は増えるだろうが城主とて何でも一人でやるわけではないし。大丈夫だろう。

 

「綱成、貴女はどうする?」

 

「私は…先輩に着いて行きたいと思います」

 

「なるべく手元においておきたかったけれど…上杉への備えには強力な武が必要ね。よろしい。兼音に従い、河越城へ向かいなさい」

 

「はい!」

 

元気のよい返事を聞きながら、河越の地に思いを馳せる。どのような地かは分からないが、どうにも自分と縁深くなりそうな気がした。取り敢えず、帰って兼成に報告だな。喜ぶかは分からないが今よりは楽な暮らしになるだろう。そう思い、重圧を感じている己の思考を振り払った。

 

 

 

 

迫りくる大嵐。北条家の物語には欠かせない"二大"決戦のうちの一つ、河越夜戦はもう間も無く訪れる。




氏康様のヒロインムーブが始まります…!

二大決戦。一つは河越夜戦。さて、もう一つは…?三船山?三増峠?神流川?唐沢山城包囲戦?それとも……。何がもう一つの戦いなのかは大分後のお楽しみ。


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第18話 居城

税に関する話などは諸説あり、また内容も複雑なので、このお話ではかなり簡略化・単純化したり、俗説を採用して分かりやすくしています。その為、多少史実と合わないこともありますが、これはあくまでも"織田信奈の野望"の世界におけるお話であることをご理解の上、お読みくだされば幸いです。


「という訳で引っ越しだ」

 

「ちょっと何を仰ってるのかわかりませんわ。何が"という訳で"ですの。前後の脈絡なくよく分からないことを仰るのは止めて下さいますこと」

 

「本日の評定にて、任地が決まった。武蔵河越城へ行けとの仰せであった。こちらのこの屋敷はそのままだが、我々は普段住まいをあちらへ移す事になる」

 

「最初からそう言ってくださればよろしいのに…」

「ま、それはさておきだ。いつまでも空き城にするわけにもいかん。早速明日出立だ」

 

「持っていくものなどほとんどありませんが、かしこまりました」

 

「よろしい。では、とっとと寝て明日に備える。まぁ、数日で着くだろ」

 

このままとっとと寝てしまった為、

 

「河越ってそんなに近かったかしら…?」

という兼成の呟きを聞いていなかった。思えば、河越城落城の報せは江戸の辺りで聞いたため、現地に行った事がなく、この時はいまいち距離感を掴めていなかった。

 

 

 

 

 

「遠い。遠いなぁ…」

 

現在は街道を北上中。綱成は二日後に遅れて来るらしい。小田原を出発してはや七日。何度も思ったが遠いなぁ…。進む速度がそんなに速くないというのもあるけれど、意外と遠かった。

 

「だから申しあげましたのに」

 

「聞いてなかった。すまん」

 

「普段は頭脳明晰ですのに、こういうところは詰めが甘いですわね」

 

「面目ない…」

 

小田原から河越までは現代の単位で直線距離約75キロメートルほどある事が発覚した。そりゃ時間かかるわな。馬をかっ飛ばしてる訳でもないし。知らず知らずに現代の感覚で測っていたようだ。反省しかない。早く脳内をこっち側にしなくては…。

 

「小田原との往復は無理ですわね」

 

「はい…そうですね…。氏康様に謝って普請方には後任を入れてもらいます。本当に何をやってるんだか…」

 

「それがよろしいかと思いますわ」

 

完全に普段との立場が逆転してる。悔しいが、今回は自分のミスなので仕方ない。素直に過ちを認めよう。次から気を付ければ良いのだ。戦においてこんなとんでもないミスをしなかったことを幸運に思うべきか。

 

「大体新たな事を始めるのに既存のものと二つ同時平行など不可能か出来ても心労で倒れることになるということがちょっと考えればお分かりになるかと…」

 

これは少し長くなりそうだ。このお叱りを甘んじて受け入れるとしよう。格好がつかない…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ですから、次からよく分からない安請け合いをしない事です。お分かりですの?」

 

「はい…。よく骨身に染みて分かりました」

 

かれこれ一時間以上ずっと怒られていた。辛い。周りからの目線が痛い。

 

「まったく、貴方様に居なくなられたらわたくしはどうすればよろしいんですの。そこの辺りも考えて頂きたいですわ!以上です!」

 

「お話大変ありがとうございました。以後、気を付けます」

 

はぁ…。疲れた。でも、まぁ、悪気があってずーっと怒ってた訳ではないのだし。それに、注意してくれる人がいなくなったら終わりだ。イエスマンしかいない組織は腐敗する。それは歴史的事実だ。ここはむしろ感謝するべきだろう。

 

「ありがとう」

 

「へ?何を言ってらっしゃるの?色々言い過ぎておかしくなってしまわれたのかしら…」

 

普通に引かれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

それから三日後、やっと河越の町についた。向こうに見えるのが河越城だろう。なんというか大きいな。小田原にいると感覚が狂うが、あれは十分巨大と言うにふさわしい大きさだろう。流石は武蔵の要衝にして扇谷上杉の元居城だ。町も大きいし、これはかなり良い領地なのではないだろうか。

 

城の縄張り自体も、渡された図面によれば複数の郭に大きな水堀。櫓や門、土塀もしっかりと存在しており、この城の昔の主の権勢や栄華が伝わってくる造りだ。上杉朝定以下扇谷上杉家の勢力は碌に戦わず城を捨てて逃げたらしいが、この城に籠られたら厄介だった。とっとと逃げてくれたのは運が良かったというべきだろう。

 

やることは多そうだ。大変だが、一つ一つ着実にこなしていくしかないだろう。先は長そうだ。

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

河越城縄張り図

 

 

 

 

今、目の前にいるのはそこそこの数の配下たち。彼らは普段は城勤めの武士であり、非常時は農兵を指揮したりする侍大将である。

 

「私がこの度城主を拝命した一条兼音だ。よろしく頼む」

 

「「「「ははぁ」」」」

 

「こっちは勘定方並びに兵糧等蔵の物の取り締まり役、花倉兼成だ。もう一人、城代の北条綱成はもう数日したら来る。私の基本方針は氏康様と同じである。要衝、河越をまとめ、当家の発展の礎としようぞ」

 

「「「「はっ!」」」」

 

 

 

 

 

さて、挨拶も早々に何からやるべきか。というより、住む場所が広すぎて落ち着かない。河越城の本丸屋敷は普段住んでいる屋敷の何倍も広いんだが…如何せん今までこじんまりとした家だったのが急にこんな広さになっても困る。

 

元々敵の領地だったので、人(城勤めの武士)がいないため、小田原から何十人も連れてきている。そうしないと普通に仕事が終わらない。敵の領地だったからこそ、民衆の心を掴まねばならない。取り敢えず、民と武士お互いの生活に欠かせない食料について何とかせねばならない。この時代では食料とはつまりイコール税の事である。米が代表だが、米以外にも種類はある。例えば酒や木材、魚や特産品等だ。メインが米なのは疑いようもないが。

 

生産量並びに生産力を調べ、北条家全体の税の基準と合わせなくてはならない。北条家と言えば四公六民つまり四割を武士、六割を農民(この際の農民とは、各個人ではなく村単位)とするというものが一般的だが、おおむねその認識で正しい。

 

現代で聞きかじった話によれば、その概念は江戸以降の創作で、そもそも何割という概念が出来たのは太閤検地からだというが、どうやらこの世界はそうではないようだ。その方が楽だから良いけれど。

 

氏康様以前から税率はキチッと決められている。ちなみにこれは破格の安さのようで、他国ではもっと公の割合が高かったり、そもそもそんなきっちり決めないでガバガバに必要な分だけ持っていくというとんでもない所まであるらしい。酷いもんだ。ちなみに、不作だと税率が減ることもあるらしい。加えて、基本米を主な作物としている所は米しか回収しないので、税率のない副業がし放題のようだ。その為か北条家は領内の農民から絶大な支持を誇る。

 

また、中間搾取や二重搾取を無くすため、一度一括で税を回収した後、回収した分の税を更に半分に分けて小田原と各地の城や館に運ばれる。領主国人土豪の二重徴税は厳禁である。この農民に優しい政策にもキチンと飴と鞭の鞭に相当する部分があり、隠し田や税逃れ、それに伴う賄賂などは厳禁で、厳罰に処される。また、たまに追加で特殊な税が課されるが、別にそれもそんなに重くはない。

 

民こそ国家安泰の資本であり、彼らの安寧を妨げる不正は断固糾弾。それが統治の根本にある思想らしい。北条家の当主印の"禄寿応穏"はそれを上手く表した四字熟語だろう。意味は禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし。というものらしい。

 

 

何はともあれ、回収できる税の基本の量を出すためにも統計平均とかとらなくてはいけない。台帳があれば楽なのだが、残っているだろうか。普通は城を捨てる時に燃やすとかするのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

「あああああああああああ」

 

廊下から悲痛なというよりかは発狂した声が聴こえてくる。声の主は近付いてきている。来るぞ来るぞ。そして襖が開け放たれた。

 

「落ち着け」

 

「これが!落ち着いて!いられますかぁぁ!」

 

「どうした」

 

「これをご覧になって下さいまし!」

 

叩きつけられたのは古ぼけた台帳。どうやら残っていたらしい。これが発狂の原因か。そんなにヤバイのか?

 

「…おお、なんというか、酷いな」

 

虫食いや破れはまだ許せる。ただ、どう考えてもそうはならんやろという数値やガバガバさの分かる測定方法。加えて、年代が古すぎる。これ、十数年前のだぞ。

 

農民だって人だ。有事は兵ともなるが、普通に病気や老衰でお亡くなりになる。十年やそこらが過ぎていたら世代交代が起こっている可能性も大だ。つまり、ここに書かれているデータは殆どあてにならない。こんなの残していきやがって上杉め。嫌がらせか?もし、このボロいのが現役だったのなら相当まずい気がするが…。データの修正からか。疲れるな。

 

「こんなのでどうしろと言うんですのぉーー!」

 

「分かった。分かったから落ち着け。早急に何とかする。近日中に検地を行うから鎮まれ」

 

「はぁはぁ…。あと、一つだけありまして。実は米蔵に上杉が持っていけなかったと思われる大量の米がありますの」

 

「…使い道は検討し次第伝える」

 

「お願い致します。それでは、先程は粗相をしました。申し訳ありません。わたくしは引き続き色々見て廻ります」

 

「頼む」

 

部屋を出て行くのを見送りつつ、対応を考える。前の君主の負の遺産オンパレードだ。勘弁してくれ。

 

「失礼致します」

 

「何か」

「近隣の幾つかの村の名主がお目通りを願っております」

 

「分かった。すぐ行く」

 

何しに来たのだろうか。ただの挨拶なら別に構わないが、そうじゃないと困るなぁ。まだ、領内の事を把握しきれてないからして、土地関連の争いとかだとどうしようもない。近日中に視察に行かないとまずいか。

 

 

 

 

 

 

そういう訳で、会いたいと行ってきた客人と対面している。眼前に平伏しているのは初老の男性が三人。取り次ぎの話では、近くの村の名主だと言うが。

 

「私が城主、一条兼音である。してお主らは何者か」

 

「ははぁ。まずはご就任おめでとうございます。我々は城近くの村の名主共でございます。他の村とも協議の上、代表として我ら三名が参りましてございます」

 

「そなた達の事は分かった。して用向きは何か」

 

「はい…まずはこちらを…」

 

代表の一人が黒い大きめの箱を差し出す。

 

「これは…何だ?」

 

「我々の誠意でございます。これで、何とぞ、お慈悲を下さいます用、お願い申し上げます。我らは旧領主の上杉家に食うものを持っていかれ困窮しております。何とかかき集めたそちらで、どうか…」

 

なるほど。有り体に言えば賄賂か。つまり、これを送るから何とかしてほしいという事だろう。

 

「前の領主にもこのようにしておったのか」

 

「以前は代官様に…」

 

上の思惑は分からないが、上杉家の組織の下の方は真っ黒だった訳だ。報告の蔵の米も無理矢理持っていったのだろう。滅茶苦茶な徴税に合っていたら賄賂の一つも送って見逃して欲しくもなるか。それに、こんな状態が何年、下手したら何十年も続いていたのか…。

 

「それは受け取る訳にはいかぬ」

 

「な、何ゆえでございますか!額面が足りぬと仰せであれば、何とか致します!」

 

「どうか…お願い申し上げます!」

 

「何とぞ。何とぞ。」

 

ふぅ、とため息をつく。どうしたものか。取り敢えず、こちらの意図として、領民が苦しむのは歓迎しない。税は正しく取らないと小田原から怒られる。怒られるで済めば良いが、最悪刑場の露だ。やりたいことは検地。しかし、検地は歓迎されない傾向がある。領民の協力がないとスムーズな実施は難しい。隠し田等は許されていないが、この様子だとおそらくあるな。それを申告してもらうには、対価が必要だろう。

 

ちょうど良い。さっきの話だと、他の村の名主とも相談して三人で来ているのだという。なら、ここにいない村の名主を集めることもできるだろう。そこで一気に説明会をするか。よし、それで行こう。

 

「そう怯えるな。別に額面が足りぬという訳ではない。それは如何様にして集めた金であるか」

 

「村々の残された蓄えを何とか集めたものでございます」

 

「ならば尚更だ。困窮した者より金など貰えぬ。それに、貰ってみろ、私の首が無くなる。本来なら送った者も斬首だが、村の者の為に行ったことである上に、この前まで北条の領地ではなかった事を鑑みて此度は不問とする」

 

「な、何と」

 

「代わりと言っては何だが、ここにおらぬ他の村の名主を集めることは可能か」

 

「勿論でございます」

 

「その程度ならば」

 

「三日以内に行えます」

 

「そうか。では、四日後に、ここに集めてくれ。頼むぞ」

 

「「「ははぁ」」」

 

戸惑いながらも帰って行った。その後蔵の米の在庫を見たが、大量にあった。これは小田原に早馬を送らねば。これの処遇に関しては思うところがあるのでその許可を貰いたい。

 

早馬は乗り継ぎをするので、一日以内につくだろう。後は許可を貰うのに二日。帰ってくるのに一日。大丈夫のはずだ。

 

 

 

 

 

 

期日は来た。返事も返ってきたし、万全である。眼前には前よりももっと沢山の人の姿がある。見事に集めてきてくれた。こちらが座ると一斉に頭を下げてくる。

 

「よく集まってくれた。まずは感謝する」

 

「もったいないお言葉でございます。して、我々は一体どういったご用件で呼ばれたのでございましょうか」

 

「今日呼んだのは他でもない。年貢の事である」

 

その言葉に、彼らの顔に緊張の表情が浮かぶ。この問題は日々の暮らしに直結しているのだからして、当然だ。

 

「さて、何から話すか…。まずは、今年の秋の分だが、全て免除となった」

 

「「「はっ…?」」」

 

「何か聴こえなかったか?全て免除だ。払わんでよい。上杉がお主らよりぶん取った米が大量に残っておる。見たところ、使われておらぬようだ。故に、それで払ったものとみなす」

 

「あ、ありがとうございます」

 

「二つ目だが、検地を予定している。故に、それに協力してほしい。己の村にそれを伝え、検地の迅速な実施に手を貸して貰いたい。ただ、隠し田や不正があれば容赦なく裁くのでそれは覚悟せよ。三つ目、賄賂等はこれより一切禁止とする。我々は受け取らないし、お主らも贈ってはならぬ。私腹を肥やし、民を虐げ不正を行っておれば、問答無用で死罪だ。それはお主らも、例外では無いぞ。逆に、代官等か要求してきたのならば、速やかに申せ。事実ならば、即刻処罰する」

 

隠し田のところでは渋い顔をされたが、代官の不正を訴えられる制度は問題なさそうだ。と言っても、別に新しいことは言っておらず、全て相模や伊豆では行われていることである。

 

「検地を行い、翌年以降の年貢の量を定める。割合は総量の四分を我らに、六分をそちらにとなる。基本これで、未曾有の災害による不作・飢饉などの時は、減額される。この制度は北条がこの地を治める限り永久に変わることはない。たとい、私がこの城の主でなくなってもだ」

 

彼らの顔に喜色が浮かぶ。戦国時代ではやはりこの税制度はかなりの好条件なのだろう。

 

「それと、だ。上杉によって無理矢理集められた分は既に城内にあるが、検地を終え、払うべき量が定められて後、取りすぎている分を返却する。これは滅多に例なき事なれど、既に小田原より許しを得た決定事項である。各村で分けるように」

 

ざわめきが起こった。普通税金は返ってこない。それを返すと言い始めたのだから、インパクトはでかいだろう。勿論善意で言っているわけではなく、思惑もある。ここでインパクトのある善政と言える政策を示し、民心を掴み、要衝を完全に掌握するのだ。

 

「以上である。何か意見のある者は?」

 

「おろう筈がございません。これまでとは大違いの破格の待遇。感謝の極みでございます」

 

「そうか。では、これで話は終わりである。己の村に伝えよ」

 

「「「「「「ははぁ!」」」」」」

 

これでひとまずは大丈夫なのだろうか。これから検地を行って台帳の作成。それが完成し次第色々と出来るようになるだろう。商業についてもやらなくてはいけないし、城の増築や兵の募兵もしなくてはいけない。しばらくは休めなそうだ。小さくため息をついて、次の仕事について考え始めた。

 

 

 

 

 

領内の農村の代表者たちと会ってより数日、小田原よりようやく綱成がやって来た。

 

「や、やっと着きました…」

 

「氏康様は何か仰っていましたか。普請方の件はご迷惑をおかけしましたが…」

 

「まぁ、そうなるわよねと笑っておりました。これからは気を付けるように言っておきなさいと」

 

「あぁ、怒ってらっしゃらなくて良かった。年貢の件は」

 

「こちらも少し考えた後、仕方ないと承認されてました」

 

「こちらも問題無さそうですね。良かった良かった」

 

あぁ、これで私の首は繋がった。

 

「あー!それより先輩、今小田原城は大混乱でして!」

 

大混乱?何があったのか。頭をフル回転させるが、この時期に北条家に何らかの災害や問題は降り注がないはずなのだが。

 

「何があったか聞いても?」

 

「隣国、甲斐で政変です!」

 

…なるほど。納得した。

 

「陸奥守信虎が追放でもされましたか?」

 

「先輩?な、何でそれを知ってるんです?」

 

「いえ、以前武田家の方と少しお話を。予兆は感じてましたが、今ですか…。なるほど。それは大変だ」

 

「ともかく未曾有の事態に外交が動くと小田原はてんやわんやで…」

 

はぁとやっと一息つけた綱成を横目に、これからの展開を想像する。史実では、この後諏訪家の領土並びに高遠家の領土に侵攻する。その後は…。

 

意外と夜戦まで時がない。この世界では時の流れが速い。出来事と出来事との間はかなり短くなっている。猶予は後半年か、一年か…。そう考えた焦りからポタリと汗が一滴畳に落ちた。支配体制の確立を急がねば。甲斐の方角へ頭を向け、そう思った。




しばらく内政フェーズ&他国の視点です。


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第19話 臆病な虎児 甲

今回は武田家メインのお話です。ちょっと長め。

タイトルの横の"甲"は甲斐つまり武田家の話であることを指します。従って、今後この文字がタイトルの横にあったら、武田家メインのお話になります。

甲は武田、越は上杉(長尾)、駿は今川、尾は織田って感じですかね。

多分この話から数回は武田家の話になります。


ちなみに、今回の話の時系列の勢力概略図です。大まかなものですが、参考までに。

【挿絵表示】



時を一条兼音の河越城城主就任の少し前、時系列的には国府台の戦いの後、氏綱が死去する前に巻き戻す。

 

甲斐武田家。古くより続く名門である。彼らの本拠地、甲斐府中では、婚姻の宴が開かれていた。参加者は当主の信虎、娘の勝千代、次郎信繁、太郎義信、孫六(後の信廉)、いるんだかいないんだかよく分からないが武田一族の一条家の名を継いだ一条信龍、諏訪頼重である。

 

婚姻の相手は信州の名門にして、諏訪大社の神氏である諏訪家の当主、諏訪頼重であった。武田家当主、武田信虎は信濃制覇の野望を燃やし、幾度となく侵略を続けるも、諏訪の民の抵抗は激しくついに攻略は不可能と諦めた。そこで、娘の禰々を嫁がせ、一族に取り込もうと考えていた。事実、この同盟は一応成功であり、連合を組んで長年の敵であった佐久郡と小県郡の豪族たちを駆逐していた。

 

婚姻とは言っても、暗殺の危険などがあるため、普通大名の結婚は嫁の実家に顔を出して挨拶などはしない。にも関わらず、諏訪頼重がこうして甲斐にいるのには訳があった。縁戚として取り込めば害をなさない。一族は傷つけない。これが信虎の方針であった。身内に甘く、敵に厳しく。それが基本である。それは頼重も知っており、故に縁戚となることにしたのだが…その嫡女であり、順番的には次の当主候補の武田勝千代ー後の晴信であるーは違うらしい。また、彼女と父信虎は不仲と聞く。その実情を確かめるため、危険を承知で甲斐へ来たのだ。

 

 

 

 

 

 

 

宴は順調に進んでいるかに見えた。が、酔いの回った信虎が理性を失いつつあった。年齢のせいもあるだろうが、元来彼は酒乱の気がある。人見知りしている娘に我慢できなくなったため、その怒りを爆発させた。

 

「勝千代!お主は何を怯えとるか!頼重殿はお主の妹の夫、すなわち義弟ぞ!」

 

「ご、ごめんなさい、父上」

 

「本来なら、諏訪へはお主を嫁がせるはずだったものを…。それをなんだ、甲斐を出て他国で生きるのは怖いなどと言いおって!戦が怖いなら姫武将になんぞなるな!武田の家督は勇猛かつ冷静、まさに当主にふさわしい次郎が継ぐべきなのだ!惰弱なお主では到底つとまらん!」

 

「ひぃ…ごめんなさいごめんなさい…」

 

勝千代は幼い頃より父親に嫌われてきた。勝千代はいまだに幼名なのにも関わらず、次郎は信繁を名乗っていることからも、それはうかがえる。信虎は勝千代に厳しいぶん、次郎には甘かった。信虎が荒ぶっても顔色を変えない次郎に比べ常に怯えている勝千代の臆病さは鼻についてならなかった。

 

「父上。姉上の慎重さこそ、乱世では武器となります。それに、姉上の優しさは家臣に慕われております。姉上こそが、これからの武田家を支えてくださるでしょう」

 

勝千代が信虎と比べて圧倒的に家臣に慕われているのは事実だった。信虎は平然と家臣を手打ちにする。この日も宴に遅刻した家臣を一人斬っている。貧しい甲斐の農民たちも、貧しさに加えて相次ぐ戦によって疲弊していた。領民も家臣もとっとと信虎に隠居して、優しさを持つ勝千代に当主になって欲しいのだが、そんな事を言おうものなら即刻首が胴体に別れを告げるだろう。唯一勝千代への期待を述べられるのは信繁だけだった。

 

「次郎。お主は不徳の姉に対してまことに優しい。それにひきかえお前は何だ!妹の背に隠れ震えるだけとは何たる女々しさ。女であろうと武将たらんと志したのであれば、そのように振る舞わぬか!」

 

当たり散らす信虎の癇癪で座は完全に白けていた。

 

「信虎殿。宴の席です。今日はただ祝おうではありませぬか。」

 

諏訪頼重が取り成すが、当然勝千代への善意などはその行動の理由にはない。むしろ、武田はやはり噂通り父娘仲が不仲!これならばいずれ…。と心の中で暗い笑みを浮かべていた。

 

「いーやまだあるぞ。お前は家臣の教来石景政に勝手に甲斐の名門馬場家を継がせ、我が名から一字を与えて信房と改名させたではないか。自分の取り巻きを作り家中を二分させる気か⁉️」

 

「信房は、その、将来の武田家を担える若き逸材ですから…。武田の重臣になれるふさわしい家格を与えたくて…」

 

「馬場家は他ならぬ儂が断絶させたのだ!お前も覚えておろう!馬場虎貞、内藤虎資、山県虎清、工藤虎豊の四人は儂に対して無謀な戦は止めよなどと言いおった。故に切腹を命じたのだ!それを勝手に再興など…儂への当て付けか!」

 

由緒ある武田家は、戦は男のものという考えがまだ残っていた。そのためか現在の武田家の重鎮、通称四天王は三人が男である。唯一の例外は引退した小山田虎満からその地位を受け継いだ飯富兵部虎昌のみであり、その彼女も幼い頃から太郎義信の小姓をしており、いわば幼なじみであったため、実力を認められたという経緯を持っている。だが、そういった背景のない教来石景政は後ろ楯なく、やりづらそうにしていた。それをほうってはおけず、勝千代は名を与えたのだった。

 

「ち、父上。これからは男女区別なく人材を集める時代です。そのような武田家にしてこそ、その、戦国の世を生き残れると…」

 

理論的にはこの意見が正しい。これに近い考え方を持つ北条氏康に認められたからこそ、一条兼音は仕官できた。だがしかし、これで納得するようならこの親子関係はここまで拗れていない。娘婿の前で面目を潰されたと思った信虎は激怒した。

 

 

 

 

 

 

「黙れっ!賢しいわ!お主は既に当主を継いだ気でおる。故に増長しておるのだ!抜け。その刀を抜け!儂を斬ってみよ。それも出来ぬのに侍を名乗るでないわ!」

 

抜いたところで無礼討ちされることは明白であった。初老とは言え、信虎はまだまだ衰えてはいない。勝千代では勝ち目などなかった。

 

「なんで親父殿はそう姉上に厳しいんだ。さすがに無茶苦茶だぜ!」

と太郎は半ぎれ気味にがなりたてるが、

 

「武田家はそこいらの出来星大名ではない、甲斐源氏の嫡流ぞ!器量なくば当主はつとまらぬ!」

 

と怒声をあげ威圧する。

 

「お止めください父上。父上が姉上を無礼討ちにするとあれば、私も抜かなければなりませぬ」

 

次郎が勝千代を庇いつつ、殺気を放ちながら自らの太刀に手をかけた。その姿を見て、これこそが本物の武将だ、と信虎は勝手に納得している。一応信虎にも言い分はあり、今までの成果は信繁の方が顕著である。他の子供は皆当主には不向きだ。太郎義信は当主にするには知恵が足りない猪武者気質だし、孫六は風流人で武将には向かない。信龍は自己主張がなくぽーっと生きているため、もっと向いてない。その他にも子供はいるが、皆幼かったり武将の道を選ばなかった。文学に傾倒する勝千代も彼の中では失格だった。

 

とまあれ、今までも対立してきた二人が、馬場家の一件で完全に袂を別った。諏訪頼重になめられては今後向こうに強気に出られる。それをわかっているが故に信虎も強情だった。

 

今回ばかりは、次郎も薄氷を踏む思いだった。頭を抱えたくなりながらも解決策を模索していた。

 

ふと、彼女の頭にはあの花倉城で会った人ならば、どうするだろうという考えが浮かんだ。自分の信じる通りに自らの姉と率直に接することを推奨した彼ならばこの状況の打開策を思い付いたかもしれないと思った。花倉城を三十数名で落とし、先頃も国府台で足利義明を一射で撃ち殺したと聞いている。なんで北条家に行ってしまったのか…と嘆きたくなっていた。

 

もっとも、この宴会が行われるずっと前、まだ国府台の戦いが起こる前に氏康が冗談で『武田家に仕える気は無かったの?』と聞いた際には憮然とした顔で『あんな暴君に仕えるなど死んでも嫌です』と返しているためどのみち勧誘の成功は望み薄である。

 

まぁ、万が一勧誘に成功しても、信虎が追放された後の武田家の躍進を知っている彼は追放ではなく勝千代や次郎を唆し、事故に見せかけて暗殺するだろうが。戦国では他殺かどうか分からない殺し方は現代に溢れている。それを躊躇なく実行するだろう。さすがに父殺しは彼女たちの望むところではないので、いずれにせよろくな結末ではない。

 

ちなみに、『長女の方ならばまぁ、考えるかもしれませんね』と続け、『惰弱な文学の輩と聞くわよ?』と返されたのに対して『三年鳴かず飛ばず、と申しましょう』と言って『そんなに評価するのならそっちに行けば良いじゃない』と拗ねられていた。機嫌を直してもらうのに数日かかった。

 

 

 

「よいか次郎。勝千代は一門と家臣との間に境目を設けておらぬ。これは間違っておる。一門には崇高な血の絆があるが、家臣はどこまで行っても家臣。その道理もわからぬとは!こやつは伝統を壊す者ぞ!」

 

「う…うう……」

 

「ええい、何を怯えておるか。己が意見を妹に言わせる気か?」

 

「姉上、父上はかなりお酒を召しておられる様子。ここは一度引きましょう」

 

「……ううん。こういう機会は滅多にないし、あ、あたしの考えてることを父上に言ってみるわ。」

 

怯えながらも、その意志を伝えた。

 

「父上、甲斐は貧しい国です。米も塩も取れず、港も巨城もない甲斐の唯一の財産は人です。家臣団も領民も武田家という大きな家の一員であると考えています。あたしが国主となったあかつきには、生まれによる差も男女の区別もつけません。能力のある者はみな引き立て武田家の財産とします。馬場信房を取り立てたのはその決意を示すためです。」

 

彼女は血を重んじる信虎が一門とその他の人間を病的に差別する態度に疑問を感じていた。それは生来の優しさか、それとも己が一門であるにも関わらずそのように扱われず罵倒されてきたからか…。

 

だが、この思想は決して信虎に受け入れられる事はなかった。

 

「か、勝千代、貴様…神聖な武田の血を水呑百姓と同じと申すか!!」

 

「は、はい。武田も人なら領民も人。武田の血だけが赤いわけではありません…」

 

「き、貴様ぁぁ!!」

 

激昂した信虎を次郎が懸命に止める。

 

「勝千代よ!本来ならば切り捨てるところだが、今日は祝いの席。去れ!儂の前に顔を見せるな!儂が許すまで蟄居を命じる!」

 

「ち、蟄居…」

 

「それが嫌なら明日甲斐を発て。駿河に挨拶回りをしてこい。今川殿には既に話はつけておる。駿河におる妹の定もこの場に来れず残念に思っておるだろう。明日、迎えが来る」

 

 

勝千代と次郎はこの時、信虎は絡み酒をしていただけでなく、勝千代を駿河へ追いやるという策を巡らせ、完成させるつもりだったことに気付いた。勝千代はもっと父と話をしたかったが、これ以上祝いの席を乱しては妹の禰々が不憫であると思って泣く泣く退出した。

 

 

 

 

 

 

諏訪頼重は恐怖していた。

 

武田勝千代は気が弱い臆病者等ではない。恐ろしいほどの才人だ。まるで、虎だ。もしも奴が家督を継げば、信濃も諏訪も必ず滅ぼされる。武田勝千代は血というものを全く崇拝していない。血筋も家格も身分も『力』という機能的なものとして見ている。神仏も恐れてはいないだろう。ならば、「神氏」という血の力で生き延びてきた我ら諏訪家は…。奴の見る未来に、我らの居場所はない…。

 

 

 

 

勝千代が退出したあと、信虎は次郎を賞した。

 

「次郎よ。よくぞ父を制し姉を守った。今日そなたの見せた気概は武田家当主にふさわしい。決めたぞ。勝千代は廃嫡する。大方、板垣と甘利は反対するだろうが、そんなものは知らぬ。」

 

「父上、姉上は大変優秀なお方なの。私とは頭の出来が違う。もっと話し合ってくだされば、姉上を理解していただけるはず。」

 

「もう言うな。そなたと禰々に免じて無礼討ちだけは勘弁してやる。まずは板垣と甘利をうなずかせねばな。」

 

流石の信虎も板垣信方と甘利虎泰の二人を切腹させるわけにはいかなかった。板垣は政務を、甘利は軍務を司っている。二人とも信虎が若き頃より戦場を駆け巡ってきた宿将だった。だから信虎は勝千代の駿河出向の意思は伝えているが、そのまま追放する考えは打ち明けていない。駿河へ追いやれば何とでもなるのだ。

 

 

 

 

「姉上もああ言われて引っ込まねぇで一発かましてやれば良いのによ。なぁ、親父殿?」

 

いささか頭の残念な太郎は信虎の陰謀にまったくもって気付いていない。いつもの親子喧嘩だと思っている。流石の信虎も呆れ気味である。

 

「太郎、お主はそういうところがいかんのじゃ。本来ならば男であるお前に継がせたかったが、お前はつくづく儂の悪いところのみ継いでおる」

 

「そっか?一回斬ったくらいじゃ死なねぇだろ、親父殿は。二人で刀と刀で語り合えば親子の情もわくだろうよ」

 

「やはり、お主に当主は無理だな…」

 

「なんでだよ。拳の勝負なら兄弟で一番強いぜ」

 

「さすが太郎。拳と刀が同列なんだね。あーあ父上のせいで座が白けたよ。いじめってよくないね」

 

退屈そうにあくびをする孫六を信虎は睨み付ける。信龍は半分寝ている。完全に空気だった。

 

「これ次郎。板垣と甘利を今すぐ呼べ」

 

「ち、父上、まさか本当に姉上を廃嫡に?」

 

「既に今川方の迎えは国境へ来ている。明日駿河へ行かぬのなら廃す。儂は決めておるのだ。酒の席の戯れではない!おう、頼重殿はどう思われる?」

 

「何事も当主の信虎殿がお決めになることでしょう」

 

尋ねられた頼重は静かに頷く。

 

「今の当主は信虎殿です。さぁ、もう一献」

 

策士の頼重は、禰々を娶るだけでは安泰ではない。侵略者の素質を持っている勝千代を廃さなくては。会ってみてその思いは固まった。信虎は脳筋に近い故に、与しやすい。が、異端の勝千代は必ず我々を滅ぼそうとしてくる。駿河追放や廃嫡では生ぬるい。今だ!今こそが最大の好機。暗殺だ。今日決行しよう。もし失敗しても刺客を恐れて、駿河行きの決意を固める結果となるだろう。首謀者さえ発覚しなければ。いっそ父親からの刺客と誤解させれば良い。今なら騙せる!と考えていた。

 

次郎は、諏訪頼重が何かしらを企んでおり目的は最愛の姉、勝千代の排除であると気づいていた。

 

 

 

 

 

 

「父上。姉上に害をなさばたとえ父上であろうとも黙ってはおりません」

 

「おうおう。姉思いのそなたが勝千代を慕っておるのはわかっておる。命だけは奪わずに済ませてやろう。だがあれは臆病者故、多少渋るかもしれぬ。その時はこらしめてやらねばな」

 

「父上!武田一門を大切にすると言いながら何故姉上だけにはかように辛く当たるのです!」

 

「次郎よ、あれがおとなしく何処かに嫁いでおれば辛く当たることもなかった。器も気概もなく当主になろうとするから排除するのだ。戦乱の世であんな惰弱な当主では家を保てぬ。駿河の今川、小田原の北条、いずれも勝千代が家督を継げばあなどり甲斐へ攻めてくるだろう。甲斐は小国。戦もかけひきもできる有能なものでなくては保てぬ。…それがそなただ、次郎。すべては武田家を滅ぼさぬため」

 

その有能な人こそが姉上なのに、どうして父上は理解してくれないのか。次郎は恨めしかった。私は姉上がいるから一人前のように振る舞えるだけ。姉上がいなければ私など甘やかされた姫にすぎない、と。

 

「信虎殿、勝千代殿のことは一度忘れて、今宵は朝まで飲み明かしませぬか。お近づきの印に」

 

その時諏訪頼重が見せた狡猾な視線を次郎は敏感に感じていた。

 

横で今まで一言も喋らずあれだけの騒ぎの中寝ているかに見えた信龍が次郎にしか聞こえない声で小さく呟いた。

 

「死の匂い。暗い死の匂い。誰かが誰かを暗殺しようとしてる。殺すのはだぁれ?死ぬのは、だぁれ?」

 

目を鋭く細く開き、どこかこの世のものでは無いかのような低い声で話す妹に、次郎はぎょっとして顔を二度見する。そこにいたのはいつもと変わらぬ雰囲気をまとい、寝ている信龍だった。

 

顔を強ばらせた次郎は、状況の打開を図るため、ゆっくりと退出した。

 

 

 

 

 

 

この一連のやり取りを聞いていた者がいる。信虎は叫んでるし、次郎も大声を出しているしで会話の内容は筒抜けに近かった。"彼女"は武田家の祝宴の前段階たる婚礼の儀式の参加者として来ていた。

 

「これはこれは、ついに信虎のおじさんは勝千代さんの追放を決めましたか。もし、成功したら動きますねぇ。甲斐は。そしたら私にも…ふふ」

 

信虎はその昔叔父と争った事がある。その時は信虎の勝利だったが、甲斐は分断された。面従腹背の一門にとっては、本家にとって変わる大チャンスだったのだ。

 

私の領地は駿河に隣接してますしね。上手くすれば繋がりのある今川からの援護を得られるかもしれません。或いは北条からも…。そうなればガタガタの武田本家がどうなるかは、一目瞭然。

 

「でも、このまま勝千代さんが追放というのも面白くはありませんねぇ。私の台頭には理想的ですけど…能力を示せれば今以上に領地を得られる可能性もあるんですよねぇ。恩を売れれば…という可能性もあるわけで。悩ましいなぁ」

 

彼女は、信虎の企みが上手くいくのも面白くないと感じていた。胡散臭い笑みを浮かべて彼女は考える。

 

諏訪頼重は暗殺する気まんまんですねぇ。もし、勝千代さんが上手く逃げられて当主になれたら、従うのもやぶさかでは無いですねぇ、一応幼い頃よりの知り合いですし。少くとも、彼女が死ぬまでは、ね?

 

あーどうなるんだろう楽しみだなぁ。と愉快そうに唇を歪めながら、彼女はこぼす。

 

 

 

 

 

 

彼女の名は様々。彦六とも、信君とも呼ばれる。武田信玄に「欲深く血気の勇あり。果ては当家の怨となるべし」と評されることとなる武田家最悪の裏切り者。後世の人々は彼女をこう呼んだ。

 

 

 

穴山梅雪、と。




すっごいどうでも良いかもしれませんが、作者は思ったんです。原作(本編&外伝『天と地と姫と』)の武田家の面子増やしてくれないかなぁと。出てきたのは旧四天王の板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌、横田高松と、新四天王の馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、高坂昌信に山本勘助、武田信繁、武田義信、武田信廉、武田(諏訪)勝頼、諸角虎貞、真田幸隆くらい。

一条信龍、穴山信君、木曾義昌、小山田信茂、三枝昌貞、多田満頼、土屋昌次、原虎胤、小幡昌盛、秋山信友、松尾信是、武田信基、河窪信実、浅利信種、跡部勝資くらいは登場してほしいなぁと思った訳で。まぁ、あくまでも原作は織田家メインの話かつ司馬遼太郎みたいな歴史小説ではないんで、流れのためには仕方ないとはわかっていますが。

そういう経緯もあって、これからもちょくちょく武田家の話になると、上記のメンバーが結構出てくるかと。武田、上杉は北条と絡む上でかなり重要な家なので、しっかり描写します。お楽しみに。


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第20話 運命の出会い 甲

傷心の勝千代は、一人狭い山道を武田家の本拠地躑躅ヶ崎館の北にある積水寺温泉へと向かっていた。勝千代はここで産湯につかった。幼い頃から体調を崩したときはよくこの山の麓の温泉に入っていた。それに加え、誰にも会わずに長考するには便利だったのだ。

 

駿河に出向すれば、おそらく二度と甲斐の土は踏めない。せめて思い出深い積水寺温泉で最後の一夜を過ごしたかった。しかし、護衛も付けず単騎なのが災いする。諏訪頼重より放たれた刺客がその命を虎視眈々と狙っていた。

 

山道をのぼる途上でいきなり一人の忍が来襲する。

 

「武田勝千代どの、お命ちょうだい致すっ!」

 

忍の声は陽気そうな少女のもの。しかし、その体より放たれる殺気はただ者ではない。間違いなく強者の気配であった。勝千代も武家の娘。武芸は取得している。しかし、この忍はまるで猿のごとき身のこなしで直上より迫り来る。騎馬武者の剣術は馬上攻撃並びに敵は同じ騎馬武者であることを想定しているので頭上よりの攻撃は想定外であった。

 

「な、何者?どうして?」

 

「これから死に行く者に教える義理は無いでござる!」

 

忍が容赦なく手裏剣を放つ。逃れようのない死が迫る。

 

 

 

 

だが、この時。勝千代の瞳の奥に猛然と燃え上がる何かがあった。瞳がまるで別人のように獰猛に光る。それは何なのか。あるいは、恐れている父信虎より受け継いだ血の持つ闘争本能なのかもしれない。『愚か者!死の意味もわからぬまま、死ぬな!抗え、戦え!』

 

彼女の耳には確かにその言葉が聞こえていた。

 

「あああああっ!」

叫び声をあげ、空を舞う忍から放たれた手裏剣を太刀で凪ぎ払う。そして、いささかも躊躇わず頭上から落ちてくる忍を殺すべくもう一閃。凄まじい太刀捌きだった。

 

「う、うわぁぁぁぁぁ!並々ならぬ殺気!危ないでござるっ⁉️」

 

真っ直ぐに落下していたはずの忍は冷や汗をかきながらふわりと浮き上がりその太刀をかわした。

 

気がつくと忍は勝千代のまたがった馬の首の上に立っている。そんなところに立てば馬の首がやられるのだが、まるで重力などそこには無いかのようにすらりと佇んでいた。

 

「あなたは、な、何者っ!」

 

「ふっふっふっ。忍は雇い主の名を明かさぬでござる。拙者、猿飛佐助はちと仕事にあぶれておりましてな。たまたま甲斐で宴の用心棒に雇われただけでござる。さんざん飲み食いして信濃に戻るつもりが、いきなりお主を殺せと言われたでござる。奴は最初から刺客として拙者を雇ったのでござるな。暗殺仕事は苦手なれど、前賃は貰ってしまったのでござる。不運と思い諦めるのでござるな。」

 

「猿飛?」

 

信濃の真田の里の忍がそのような技を用いると聞いたことがある。それがこれか、と勝千代は気づいた。太刀を放った瞬間にこの忍びはあたしの頭上から移動した。ただの体術じゃない、もっと不可思議な何かだわ…と震えた。

 

「しまったぁ!うっかり名乗ってしまったでござる!い、一体いつの間に拙者に秘密を暴露させる術を⁉️」

 

「あ、あなたが勝手に喋ったのよ?」

 

「うぬぅ。誤解しないで欲しいでござる。拙者は真田の庄を根城としておりますが、今回の仕事は主の真田幸隆殿とは無関係でござる。そもそも幸隆殿は現在城を奪われ、上野に落ち延びているでござる」

 

「あなたを雇ったのは真田じゃない…なら首謀者は北信の村上義清?でも村上義清は常に戦で勝敗を決する人間。ということは…もしかして、諏訪頼重があたしを暗殺しようと?禰々との祝言の日なのに、そんな…」

 

「うわぁ!な、なぜ拙者の雇い主を⁉️」

 

どうやらこの忍は身のこなしだけでなく、口も軽いようだ。技は超人的だけど、忍としてはどうなのかしら…と勝千代は首をかしげた。

 

「泣き虫と聞いていたのに意外にも聡い奴でござる。万が一殺し損ねた場合はお父上の仕業に見せよとの命でござったが…かくなる上は、今度こそお命きっちり頂くでござる!」

 

しかし、黙ってやられる勝千代ではない。

 

「でも、この距離なら…!猿飛の技は使えない!」

 

目の前の忍の急所を狙い短刀を真っ直ぐに突き立てる。普段の文弱な少女とはまるで別人のような眼光で。

 

「ふん!この程度!」

 

突き立てたはずの短刀は空を切る。

 

「嘘っ⁉️」

 

気づけば、短刀の上に佐助が乗っていた。こんな技は人間のものではない。まるで手品だ。その不可思議さ故に勝千代は思わず野獣の闘志を忘れて、猿飛の術のからくりを暴こうと頭を動かしてしまった。だが、理性を取り戻すと恐怖心が突如として湧いてきて、それが勝千代の心を怯ませた。

 

「あれま。元の気弱な姫に戻ってしまったでござる?」

 

その隙をつかれた。佐助は再び宙へ舞い、白い粉を投げつける。

 

「けほっ、けほっ、けほっ!ひ、卑怯な…」

 

「忍の術は武士の剣法とは違うでござる。まさに外道!」

 

視界を塞がれた。

 

「卑怯卑劣でも勝てればよかろうでござる。お命頂戴!」

 

「けほっ、けほっ」

 

一度気弱な姫に戻ってしまった勝千代はもう抵抗できなかった。このまま死んじゃった方が良いんじゃないかしら…父上には厄介払いが出来たと喜ばれるだろうし…次郎ちゃんが、後を継いだ方が…。

 

心は折れかけていたが、体が生きることを欲していた。無意識のうちに、クナイを避けるため咄嗟に手綱から手を放して馬を飛び降りていた。

 

「なかなかの執念、落馬を恐れぬ英断!だが、拙者の前には無力っ…!」

 

クナイを振りかざし仕留めにかかる。刃が迫る。が、その時。

 

 

 

 

「だ、だめ~っ!姫様、逃げて~!」

 

その声と共に佐助の背後より小刀が飛んできた。恐るべき正確性のある投擲は見事に佐助のクナイを割っていた。

 

「む、拙者ともあろうものが!」

 

慌てながらもなおも勝千代を仕留めんとその身体を追うが、今度は真正面から巨大な鎚が振り下ろされてきた。あの宴会の後、次郎より『姉上を守って』と命じられた馬場信房が間に合ったのである。

 

「……やらせない」

 

無表情なまま阿修羅のごとき殺気を放つ信房。片手で勝千代を抱えながらもう片方の手で鎚を操る剛力は姫武将のものとは思えなかった。

 

更に、後ろからはなおも小刀が飛んで来る。片方だけならまだしも、両方を相手にして戦うのは流石の佐助であろうとも不可能に近かった。加えて、これは雇われの仕事。諏訪頼重のために命を張る義理など毛頭ない。

 

初手で殺れなかった時点で拙者の負けか…と悟った佐助は離脱を決め、広範囲に白い粉塵を巻き上げる。

 

「今宵はこれにて御免!」

 

「むっ、目眩まし…」

 

「今です!逃げましょう!」

 

佐助は僅かな隙に完全に姿を消し去っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「二人とも、命を助けてくれてありがとう。ここは密談には丁度良い場所。殿方は入ってこれないし」

 

積水寺温泉に浸かり、城下を見ながら勝千代は二人に告げた。右隣には馬場信房。左隣には小刀投げの術で勝千代の命を救った少女。

 

「あ、でも…百姓娘の私が武田の姫様と一緒に温泉に入って良いのでしょうか?」

 

あどけない笑顔が妹の禰々に似ていた。

 

「いいのよ。あなたはあたしを救ってくれたんだから」

 

「小刀を手裏剣のように…正確に投げていた…立派な武術」

 

少女は照れ臭そうに鼻まで湯に浸かる。

 

「ええっと、あなたのお名前は…?」

 

「か、春日村の百姓で源五郎と言います。狩りをしていたところ、憧れの姫様が忍に襲われているところに出くわしまして…い、いつもなら逃げてるところですけど、憧れの人を助けるためなので頑張りました!いやー、食い扶持が足りなくて野山を駆け巡ってきた成果が出せて嬉しいです」

 

さらりと告げられた食い扶持が足りないという言葉で、勝千代は改めて甲斐の現状を突き付けられた。

 

「…ごめんなさい。連年、武田が無茶な戦を続けて、その度に村から強引に食糧を巻き上げているからなのね」

 

「いえっ、姫様のせいではありません!」

 

「それにしても、見事な技。春日源五郎…あー、今より…姫の小姓として、その、姫様をお守りするように」

 

「ええっ!わかりましたっ!あぁ、憧れの姫様と共に居られるなんて、夢のよう!」

 

食い気味に答え舞い上がる源五郎。この少女、いわゆる百合の気があるのだが、その単語を知るのは現状この世界にただ一人である。

 

「この者の姫様への想いは…ある意味本物。…信用できる」

 

「信房がそういうなら安心ね。でも、あたしといると危険が多いわよ?」

 

「…その件について、次郎様よりお伝えすべきお話が」

 

馬場信房がゆっくりと語りだす。諏訪頼重が勝千代暗殺の刺客を放ったこと。次郎がこれを防ぎ、姉を守るように信房に命じたこと。次郎は打開策を練るため、板垣、甘利らの四天王を召集したこと。

 

「婚儀の日に…これじゃああんまりにも禰々が可哀想だから内密にね?」

 

「…承知。次郎様よりも同じお言葉を」

 

「頼重は最初からあたしを暗殺するために甲斐へ来たのかしら」

 

「準備だけはしてきたはず…おそらく姫様と大殿の抜き差しならぬ対立を見ていけると判断したのかと。失敗しても…姫様は駿河へ逃げるだろうと…。あれは、策士」

 

「血筋を重んじない考えが警戒されたのね…」

 

「難を逃れるには駿河に逃げるしか無いです!最近の大殿様は滅茶苦茶です。実の娘でも廃嫡…最悪は切り捨てもありえますっ!逃げましょう!」

 

「諏訪頼重に報復すれば、今度は禰々様が悲しむ……。八方塞がり…」

 

勝千代の命運はもはや尽きかけていた。

 

「ごめんなさい。信房、源五郎。あたしは決断力に欠ける性格だから…どうすれば良いか一晩じっくり考えさせて。明日の朝までには必ず答えを出すわ。だから今だけ一人にさせてちょうだい」

 

「…承知」

 

「私たちはお側に宿を取りますので、何かあったら直ぐにお知らせ下さい!あのお猿もまだこの辺を彷徨いていると思うので」

 

「……長考の時間は少ないです」

 

「わかってるわ。朝までには必ず」

 

勝千代は頭を下げながら、何故自らが怯えているのか、その答えを得るため、自らと向き合おうとした。

 

 

 

 

 

 

 

一人きりで湯に浸かり、自分との対話を続ける。父上が怖い。己の無力が怖い。合戦も、人が死ぬのも、諏訪頼重の悪意も、忍に狙われるのも、何もかもが怖い。しかし、死か廃嫡かの瀬戸際だからこそ、見えるものがあった。

 

 

 

…甲斐は四方を山に囲まれた山国。米は取れず、国力は弱く、土地もない。海も港も産業もない。人が生きるために必要な塩もない。こんな片田舎から京に上洛して、あまねく天下に号令するのは不可能。足掛かりになれそうな信濃は、諏訪家との同盟のせいで侵入路が閉ざされた…。武田家の天下への道は詰んだ。あたしは……

 

 

 

ここまで考え、勝千代は愕然とする。

 

 

 

天下?天下ってなに?もしかして、あたしは、天下を欲してるの?父上以上の悪業を背負ってでも戦国最強の武将になりたいの?そんな野望があたしの胸のなかにいるなら…あたしは自分が恐ろしい。

 

佐助を斬ろうとしたあの時、あたしは確かに生きていると実感できた。もう一人のあたしが内側に巣食っている。それは、父上にそっくりで、野望に満ちていて、命を屁とも思わぬ残虐な武士で、もしかしたら父上以上に…。

 

「無理よ。何もない甲斐から始めて、他国を奪い上洛して天下に号令するなんて。できっこない。沢山の人の血が流れるだけ。父上だって戦い続けて多くの民を苦しめて結局信濃さえ取れなかった。こんな野望を抱いてる私より真っ当な次郎ちゃんが、甲斐の平和を守る。それでいいはず。いいはずなのに…」

 

 

それでも、心のどこかで逃げることを、駿河へ去ることを拒否する感情があった。そして、野望の根底にも気付きつつあった。

 

 

そうか、あたしは父上に認めて貰いたいのね。信濃を奪ってもっと先へ行ったら、父上にも認めてもらえるかもしれない。褒めてもらえるのかもしれない。それなのに、現実は非情。上洛なんて、現実味のないあたし個人の憐れな妄想。心が弱いあたしじゃ、足掻く内に命が尽きる。だから、いつまでも認められない。無能な臆病者のまま。知恵を言い訳にして勇気を出せない。だから愛されない。せめて、駿河の今川義元のような生まれだったら…。

 

 

 

 

それは、産まれてこのかた父親に愛された記憶のない一人の少女の悲しき夢だった。父親に愛されたい。そんな肉親からの愛を欲するのに一体何の罪があろうか。これが現代なら努力でどうにかなったかもしれない。現代なら、勉学もスポーツも努力すればそのリターンはある。だが、ここは乱世。平和な現代とは求められるものが違かった。これもまた、乱世が生んだ悲しき運命だった。

 

賢い勝千代には、儚いこの夢が叶うわけもないことをわかってしまっていた。湯気に混じってハラハラと涙が零れる。彼女は野望を夢見るには利発すぎる。その上、多くの命を奪うことをひどく恐れていた。一国の主になるには優しすぎたのだ。

 

父親に認められたいという気持ち。そして、残忍な獣のような生き方はしたくないという気持ち。相反する気持ちがせめぎあっていた。そして、それが終わらない恐怖心の原因でもあった。

 

やっぱり駿河へ去ろう。それが、多くの幸福のためだ。これ以上、武田家の和を乱してはならない。勝千代が決断しかけたその時。

 

一人の男のしわがれた声が、勝千代の運命を変えた。

 

 

 

 

 

「あいや待たれい、娘よ。お前に天下を盗らせてやろう」

 

 

 

 

かくして運命は変わりゆく。




武田家のお話は予定では後二話くらいで終わります。そうしたらまた北条家(河越城)に戻ります。

この小説はIfストーリーな訳ですが、無事完結出来たらIfストーリーのIfストーリーを書いてみたい気もする。北条じゃなくて他の家に仕えた場合の話も面白そう。武田家の瀬田に武田菱をはためかせるルート、上杉家の軍神の望む静謐を目指す血塗られたルート、伊達家の奥州覇王への道を突き進むルート、毛利家の中国地方制圧RTAルート、大友家の宗麟にかけられた弟殺しの呪いを解く修羅ルート、島津四姉妹の野望・九州制覇ルートとか。尼子に仕えて毛利と死闘とか、松平清康と打倒今川とか、三好長慶と行く天下の副将軍ルートとかも悪くない…妄想のみが膨らむ。


まずは本編完結出来るように頑張ります。……何時になることやら。


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第21話 嵐吹く 甲

今回はかなり長いです。短く過ぎると話数が増えるので…。武田家メインの小説ではないですからね。次回で一旦武田家の視点は終わりです。


この人里離れた温泉に、突如として侵入者が現れた。年齢不詳、ぼさぼさの髪、薄汚れた衣服、片目には眼帯。輝いている片方の目は餓狼のごとき光を放っていた。口元には不適な笑みを浮かべ片足を引きずりながら歩いている。

 

「きゃっ!な、何奴⁉️」

 

突然現れた得体のしれない男に勝千代は驚く。

 

「あ、あたしを武田勝千代と知っての狼藉っ?」

 

勝千代は思わず湯船に身を沈める。現代だろうと戦国だろうと、男の行動は普通にアウトなので、当然と言えば当然の行動である。しかしながら、男は困ったように首を横に振った。

 

「あいや、それがしは刺客ではござらん。この足ゆえに満足に槍も扱えませぬ。そなたは、先程既に刺客に襲われておったようでござるが」

 

「そ、それもそうね。あなたは刺客には見えないわね。と言うことは……あ、あたしの身体を覗きに来たのね!」

 

「かーっ!それがし、年頃の娘の裸体になど興味はなーい!」

 

「……え?」

 

「それがしは全人生を軍師としての知略を積み上げることに費やしてきた、天下一の大軍師・山本勘助晴幸にござりまする!月のものがある乙女などにはこれっぽっちも惹かれ申さぬ!」

 

「じゃあ…衆道の者?」

 

「そうでもなーい!」

 

「で、でもあなたはどう見ても欲望にぎらぎらとまみれている。鬱積した初老男だわ!全身から煮えたぎる黒いなにかを発してるもの」

 

「まったくその通りではあるが、それがしの欲望は天下人の軍師として兵を動かし、戦に勝つことのみ!俗な欲望への執着など既に長年の暮らしで解脱いたしたっ!」

 

勝千代の身体には微塵の興味もない様子で、あぁ、またこの面妖な容貌故に信用されぬ!今川義元に続いて武田勝千代にも相手にされぬかっ!と浪人男は地団駄を踏む。

 

「それがしは足の古傷を癒すために温泉をさがしておった。決して覗きではない」

 

「それじゃ偶然ここに?都合が良すぎるわ」

 

「偶然ではない。それがしは天下を担う器を持つ者を探して諸国を流浪していたが、甲斐の武田勝千代にその才気ありと見て機会をうかがっておった。しかし、それがしは宴の席などには顔を出せぬ下郎。故に、そなたが一人きりになるのを待っておった」

 

変態じみているが、これも仕方のないことなのかもしれない。新参者や仕官希望者が己の力を示すのは戦場が多い。しかし、文官肌の人間や軍師志望者はそれが難しい。それゆえにこのような突飛な行動に出ざるを得ないという面もあった。

 

そう考えれば、一条兼音の仕官はかなりの綱渡りかつ幸運によるものであった。北条氏康の人物鑑定眼が良かった事と、本人の頭の回転の素早さによる勝利だった。

 

「とは言え、そなたは廃嫡寸前。それゆえにそれがしも駿河へ行ったが、この醜悪な面相と身分の低さゆえに相手にされなんだ」

 

と言いながら、悔しげに泣き始めた。

 

「諸国の情勢に通じているのね」

 

「左様。若い頃は忍まがいの真似もしておりましてな。信濃の真田などにもツテがございます。治水・築城から忍術・金山掘りまでなんでもごされ。更には天の星から人の運命を読む『宿曜道』なる秘術も修めてございます。自分の運命は読めぬ故に仕官には苦労しておりますが」

 

宿曜道などと怪しげな、と思われがちだし、現代では星占いでは?と言われそうなものだが、この時代の軍師の役目にはそういった吉凶を占うという儀式も含まれていた。

 

「運命が読めるなら、あたしの命運が尽きかけていることもわかるでしょう」

 

「このままでは、そうでしょうな」

 

「あたしは廃嫡を待つ身。駿河行きを命じられ、行けば二度と甲斐へは戻れない。あなたを雇うのは無理よ」

 

「それより、勝千代様はそれがしの容貌を気にかけませぬか」

 

「え?醜いも美しいもないわ。男はみな同じよ。人間の美醜など、皮一枚だけのこと。人間にとって大事なのは、心根であり頭脳であり能力」

 

「なんと!男の美醜など皮一枚のことに過ぎぬとっ!」

 

それがしの見立てよりもずっと聡明なお方だ!と勘助は感激していた。

「それがしをお雇いくだされ!それがしは古今東西あらゆる兵法書に通じ、それを縦横無尽に戦場にて駆使できます!にも関わらず何処にも仕官できぬまま、はや初老の身。このまま朽ち果てたくはないのです。どうか我が才をお使いくだされ!」

 

鼻水と涙にまみれながら必死に叫ぶ。おおよそ、大名家に仕官を許されるような男ではなかった。非礼にもほどがあった。頭のネジが幾つか外れているらしい。並みの姫武将なら貞操の危機を感じて逃げ出すだろう。どこの馬の骨とも知れぬ男だった。

 

だが、勝千代はこの山本勘助というおかしな男にどこか親近感を覚えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「そう…天下人の軍師になりたいの。なら、父上の軍師になりなさい」

 

「あいや。信虎殿は軍師を必要とされぬお方。すべて己の心の中で下した決断で動かれます。器も足りませぬ。器があれば、勝千代様を廃嫡になどいたしませぬ。それに」

 

「それに?」

 

「信虎殿は悪名を背負いすぎました。その残忍さは他国にも知れ渡っております。天下取りのためには悪事も必要ではありますが…それを全て自分でやってはならないのです。多くの人を殺し、謀を巡らせ、義理人情を踏みにじらねばなりませぬ。これを信虎殿は一人でやった。生け贄となる家臣を用意しなかったがため…天下人とはあくまでも民に崇拝されなくてはならないのです。徳なくば民を治められぬは必定。ですから、悪事を背負いこむそれがしのような軍師が必要なのです!」

 

凄まじい形相で勘助はまくしたてる。

 

「おそれながら、それがしが勝千代様を天下人に育てまする!」

 

この男には、天下人の軍師として死ぬ覚悟がある。勝千代はこの時そう悟った。この者は余りある才能の行き場を見出だせず、何十年も悶々としてきたのだ。それ故に狂人に見えるが…しかし、その実狂ってはいない。むしろ正気すぎる。速すぎる頭の回転についていけていないだけだ、と勘助の本質を理解した。慎重派の自分とは好対照だった。

 

「でも勘助。甲斐は山国。海は今川義元に押さえられ東の関東には北条がいる。唯一の侵攻先たりえる信濃も海はない。その上信濃は広大かつ高い山々に分断され統一は困難。現に信濃には多くの国人が割拠してる。天下を目指すにはもう遅いのよ。しかも信濃の中央の要地、諏訪には禰々が嫁に行ってしまった。諏訪頼重はあたしを殺そうとしている。どうしようもないのよ」

 

「あいや。たとえ地の利がなくてもあなた様は人の和を得られる天性の持ち主。お父上さえどうにか出来れば優秀な次郎さまをはじめとする一族、そして有能な家臣団がその力を発揮しましょう。国外へ追放となった優秀な者も続々戻って参りましょう。人を育てなされ。あとは天の時をそれがしが読みまする」

 

「では、地の利はどう補うの?」

 

「まず駿河の今川義元は足利将軍の分家。必ずや東海道を進んで上洛し、幕府の実権を握り天下へ号令しようしまする。東海道の三河、尾張、北伊勢を下せばあとは近江の六角のみ。六角も名門故に歩調を合わせましょう。あとは織田信秀のいる尾張を併吞すれば、京まで直ぐです。今川は上洛と無縁の山国に関わりたくない。故に義妹を迎え同盟したのです」

 

と勘助。朗々と告げられる言葉はまるで頭の中に地図が暗記されているかのようにスラスラと話されていた。

 

「ですが、今川義元にも問題があります。相模の北条です。北条と今川は近頃駿河東部をめぐって不仲。今川義元にとってすれば、家臣筋の伊勢新九郎が伊豆を乗っ取った結果出来た家。下郎とでも思っているのでしょう」

 

「そうね。そもそも『北条』を名乗ったのも今はなき鎌倉幕府の執権、北条家の威光を借りるためと言われているわね」

 

「本来、今川は西の都へ。北条は東の関東へ。争う理由は無いのです。故に両者に同盟を結ばせまする」

 

「けれど、今川義元と北条はどんどんと険悪な仲になっているわ。今川義元は北条氏綱を家臣と見下し、北条氏綱は今川義元を京かぶれと嘲笑っているわ。花倉の折りに誰のお陰で当主になれたと思っているのだと公言していると聞くけれど。手を取り合う可能性はないわ」

 

「同盟を監視し機能させる立会人を入れまする。三国同盟です。武田の家督を継がれた勝千代様が両者の仲をとりもち、不可侵の三国同盟を締結するのです。さすれば今川は西に。北条は東に。武田は信濃に。三者それぞれに得がございます。故に、同盟は成るでしょう」

 

「三国同盟!」

 

勝千代はあまりの壮大さに身が震える思いがした。

 

「ただ、このままでは今川・北条とは対等に振る舞えませぬ。故に力を示さねばなりませぬ。そこで、諏訪を滅ぼします」

 

「…えっ、婚姻同盟は?禰々は?」

 

「大事の前の小事。諏訪を取らねば、信濃侵攻は不可能。信濃の中央を押さえれば諸地方…伊那、佐久、小県、木曾、そして北信濃をことごとく呑み込めます。ですが、信濃も山国。各地域を素早く移動するため、街道の整備をするのがよろしいかと。孫子曰く、疾きこと風の如く。戦の勝敗は速度で決まります。諏訪頼重を殺さねば信濃は奪えませぬ。なに、神氏としての諏訪家は残し、丁重に扱えばよいだけのこと。」

 

涼しい顔でとんでもないことを言い始める勘助を勝千代はまじまじと見つめていた。街道の整備をせよという献策は、常識はずれだった。山国で『行軍速度』を重んじるのも、また常識と逆だった。

 

 

 

 

 

 

 

この思考に賛同するのは現世においてたった一人。その者は今小田原にいる。機動力は重要であると理解している。最も、兼音の場合は数千年分の歴史がそれの裏付けであるため、純粋な思いつきではない。そう考えれば、自分でこの策にたどり着いた勘助はやはり異常と言えた。

 

山本勘助と一条兼音の軍師としての違いは何かと言われれば色々あるが、根本の目的が違う。勘助は天下人の兵を動かすという根っからの戦場思考だったが、兼音は今張良になりたいという願いの根底には戦場ではなく内政を重んじたいという考えがあった。

 

ただ一つ言えることがあるならば、一条兼音は武田の騎馬隊には対処可能な手段があると思っている。その機動力を封じる手段を知っていた。答えは簡単。文字通りの人海戦術である。関東は日本唯一の超大型の平野。人口が多い。その人的資源をいかせば騎馬隊の圧倒的機動力を理論上封じられると思っていた。やるつもりは無いが。彼は知っている。1940年代に北の雪原で行われた地獄のような戦いを。その結末も。未来の戦術が過去のものを参考にしたならばその逆もまた可能だと考えていた。

 

良くも悪くも常識はずれと括られるこの二人が激突するのはまだ先の未来の話である。なおこの後の未来で常識はずれな内政術に外交・軍事の施策を提出され、あまりのとんでもなさに北条氏康が卒倒しぶっ倒れたのは別の話。

 

 

 

閑話休題

 

 

 

「勝千代様。いえ、御屋形様。戦法とは総じて逆張りです。他人がやらぬことをやるのです。人間の縛られている常識やしきたり。その裏をつけば勝てます。孫子曰く、兵は詭道なり、と。」

勘助が仕官できない訳だ。戦での常識をことごとく裏返して勝つことのみに執着してるもの。きっと、今まで本当に誰にも理解されなかったのね、と勝千代は勘助の心情を察して顔を伏せた。

 

「わかったわ、勘助。でも、禰々は?父上は?」

 

「禰々様にはお痛わしいですが新たな良縁をあてがえばよろしい」

 

「…勘助は乙女心がわからないのね。」

 

「それがしにそのようなものは不要。御屋形様がその器でもってお慰めすれば結構でしょう。全てはこの勘助のやられたことになさいませ。」

 

勝千代は、「その件は後で考えましょう」と話題を逸らす。先に手を出したのは向こうだ。正当性はこちらにあった。それでも、勝千代は妹のことを考えると簡単には決断できなかった。

 

「……父上は」

 

「罠に乗ったふりをなさいませ。そして、刺客の件を告げ、今生の別れとばかりに信虎殿と重臣に見送らせるのです。そして、今川の使者とは国境で落ち合います」

 

「見送らせて…まさか!」

 

勝千代は己の考えたシナリオに冷や汗をかいた。

 

「左様。その場で駿河に引き渡すのです」

 

ニタリと勘助は犬歯を剥き出しにして笑う。

 

「武田の重臣は御屋形様と次郎様が説得し、今川義元にはこちらから使者を送って話をつければよろしい。今川義元からすれば父親まで預かれば武田は今川に逆らえないと考え、この誘いを受け入れましょう。むろん、三国同盟の話をちらつかせ、武田勝千代が当主となれば上洛を実現可能と煽るのです。武田勝千代は臆病者。三国同盟にすがり付き戦を避けたがっているとでも吹き込めばあの世間知らずのお姫様は騙せましょう」

 

同じだった。勝千代がひらめいた策と寸分違わない。

 

「……悪人ね、勘助は」

 

「御屋形様のお心も同じでございます。北条の方は簡単には騙せませぬ故、諏訪を滅ぼし武威を見せつけてから同盟を切り出します。武田が関東に出てくれば厄介になると怯えさせるのです。」

 

勝千代は迷った。実行すれば武田家の和は壊れる。父親を追放すれば武田勝千代は悪名を背負う。いくら勘助が肩代わりすると言ってもやるのは勝千代なのだ。

 

「こうして信濃を押さえれば国力ははね上がります。そして満を持して駿河を奪います。三国同盟を成立させ、今川が上洛した時こそ好機。空っぽの駿河を掠めとるのです。そうすれば駿河の海と港が御屋形様の手に。駿河を平定すれば後は西進するのみ。北条には関東管領の地位でも与えて関東に閉じ込めればよろしい。北条は決して関東から出ませぬ。無限に終わらぬ改築を続ける小田原城が何よりの証拠。東海道と将軍を押さえれば東国はどうとでもなります。かくして御屋形様は天下人に…」

 

勘助の策は何から何まで欺きであり、偽りであり騙しであった。

 

「無論、このような真似はやらぬにこしたことはありませぬが…おそれながら詭道なくして天下を奪うは難しいかと。それほど甲斐は天下を争うのに不利でございます」

 

「でも、同盟を二度も破棄すれば諸国の信頼を失うわ」

 

「いえ、勝者のみが歴史を語る資格を持つのでござる。天下を奪えば誰も何も言えませぬ」

 

「武田家の掟は一門を守る、よ。父上は言うまでもなく、諏訪に嫁いだ禰々も、駿河にいる定も、裏切ることに」

 

「あいや。御屋形様にとって武田家とは血を引く者のみではないはず。むろん一門を犠牲にするのはお辛いでしょうが、殺さなければ良いのです。後々まで礼を尽くせばよろしい。これも武田家存続のため。宿老たちにはこの勘助を恨ませればよいのです。このままでは甲斐は未曾有の混乱が起こるでしょう。次郎様は決して国主にはなりませぬ。老いた者は去るのみなのです」

 

どうして、こんなにも父上との仲はこじれてしまったのか。勝千代は心の中で涙を流した。

 

「おそれながら、御屋形様は涙を流された。それは自らを不幸とお思いだからです。何故不幸なのか。天下を奪えるだけの才を持ちながら、その才を認めてもらえず、機会を与えられず終わろうとしているからです。並みの人間でもその境遇は不幸なれど、万人分にも匹敵する才をお持ちの御屋形様にとってすれば、それは万人分の不幸!諦めてはなりませぬ!」

 

「…勘助」

 

「最後に死ぬからこそ、生きねばならぬのです。この現世に産まれたからには己の才能と野望の炎を燃やし尽くし、生き尽くさねばならないのです!野望を恐れるならば、我が身を燃やされませ。悪鬼になりたくないのなら、我が身を身代わりになさいませ。前へ進むのです!」

 

勘助の前では、もう今までのような泣き虫ではいられなかった。勝千代は勘助のささくれだった手を握り「お願いするわね」と頭を下げた。それを受け勘助はまたしても涙を混じりの鼻水を吹き出す。

 

「お、御屋形様!我が策をお認めいただき感謝いたします。それがしは御屋形様が真の天下人となるその日まで決して死にません。いかなる悪名を背負おうとも、必ずやその身を京へ!」

 

勝千代は決断した。己の運命を変える、この陰謀に乗ることを。

 

「皆を説得するわ。幸いにも次郎が一同を集めてくれている」

 

「おそらく、御屋形様を追放するという策は漏れていないはず。そこに乗じます。自ら顔を出さずとも、大物らしくただ座って吉報を待つのです。会議の席で頃合いをはかり『勝千代様にお味方いたす!』と誰かに叫ばせれば勝ちです。それで流れを決めてしまうのです」

 

「次郎ね。辛い役目だけれど……」

 

無言で頷く勘助に、勝千代はまるで霊媒師のようだと感じた。己の封じ込めた着想を解き放ってくれる、と。

 

「勘助。今川からの使者は明日、国境に到着するわ。今から間に合うかしら」

 

「ただ者では無理でしょう。ですが、幸運にも近くには間に合う者がおりまする。奇怪なる忍術を用い神速で駈ける者が」

 

猿飛佐助を雇えという提案だった。元々勝千代暗殺に乗り気ではない彼女ならば、報酬次第では仕事をするだろう。

 

「いるわね。一人」

 

「これも天の時でございましょう」

 

二人は頷き合う。

この時こそが甲斐の虎が長き眠りより覚めた瞬間だった。




遅くなりました。恨むべきはテストです。ホントに。ちなみにどうでもいいですが、私はバリバリ日本史の話を投稿してるにも関わらず、世界史選択です。皆さんはどっちが好きなんですかね?

この戦国時代の世界史は大航海時代やらエリザベス女王やらの辺りなので、面白いです。世界史は中世の真ん中くらいから面白くなる印象です。


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第22話 訣別の時 甲

今回で武田家編は一旦終わりです。次回から、川越に視点が戻ります。


この間、次郎は武田家の重臣たち、通称四天王を密かに召集していた。武田家の家臣団の頂点に君臨するのが彼らであった。本当は一門も呼びたいが、甲斐の各地の守りで不在である。次郎から勝千代の駿河出向は事実上の追放であると聞かされた四天王は悩んでいた。何分寝耳に水であったため、驚きもそれなりのものである。

 

「よもやそこまで溝が…大殿も水くさい」

 

信虎股肱の臣の一人、板垣信方は勝千代の守役として今まで懸命に両者を取り持ってきただけあって苦り切っていた。

 

「儂と板垣は大殿とは兄弟同然の長い長い腐れ縁。勝千代様がお産まれになった日は大殿も大喜びであったのに…」

 

猛将甘利虎泰は酒が回ったのか昔を懐かしみながら男泣きしている。

 

「…俺たちが仕えるのはただ一人。大殿に従うのみ」

 

こちらも命知らずの猛将である横田高松は、ぶっきらぼうに盃を傾けながら呟いた。

 

「なんじゃと。横田、お主はあのお優しいお方を駿河へ追いやると言うのか!」

 

「感情でものを言うな。家臣など所詮は主君の犬よ」

 

横田高松は感情よりもしきたりを優先するようで、態度を変えることはなかった。一対二で勝千代が優勢だが、次郎は今晩のうちに全員を説得しなくてはいけなかった。

 

「飯富、あなたはどう?」

 

次郎は四天王最年少にしてただ一人の姫武将、飯富虎昌に問う。飯富兵部虎昌は姫武将に懐疑的な信虎がその腕前を認める程の卓越した槍術と馬術の腕を持っていた。戦場では自らの徒党の鎧を赤く染め、中央を突破していく。「血で染まる鎧だ。始めから染めておけば手間が省ける」と語り、その色について問うた信虎を沈黙させたと言う。

 

「あたしゃ興味ないね。誰が親分だろうと、あたしの役目は変わらないさ。なんなら、親子で合戦するかい?太郎はどっちにつくね?」

 

戦闘狂ならではの鋭い笑みを浮かべ、楽しそうに太郎に聞く。

 

「え、そんなの決められるかよ。親父殿は俺の親父で、姉上は俺の姉さんだぞ?どっちも裏切れるかよ」

 

「…聞いたあたしが馬鹿だったよ」

 

優柔不断な解答に呆れたように飯富兵部は頭を振った。

 

「だがよぅ、諏訪頼重は許せねぇ!禰々を嫁にしておきながら姉上を殺そうと企むなんて一門とは認めねぇ!今からぶっ殺しに行きてぇ‼️」

 

「あんたはもう黙ってな。会議が終わらなくなる」

 

飯富兵部は中立を選んだ。このままでは説得は難しい。皆、一人一人考えや性格、立場が違いすぎる。信虎がこの面子を使いこなせていたのは意見を求めなかったと言う面もあるのかもしれなかった。家臣団同士で大事を話し合うという行為自体に彼らは慣れていないのである。

 

次郎が頭を抱えていると、席を外していた孫六が室内に入り、何事かを囁く。その言葉を聞いた途端、次郎の表情は一変した。

 

そして、四天王に向かって言い放つ。

 

「私の、武田次郎信繁の心は決まっている。私は誰が何と言おうと姉上に自分の命を託す!武田の当主は姉上しかいないと信じている!明日、駿河より来る使者には父上を引き取らせる。そして、そのまま甲斐には帰さない。これは、決定事項よ!」

 

既に勝千代が今川と接触していると、次郎は宣言していた。そして、さらりとだが、この時元服していても自らの名を次郎で通してきた彼女が、最初に信繁を自ら公的な場で名乗った瞬間だった。彼女は彼女なりに、様々な物との訣別を果たそうとしていたのである。

 

「今、孫六から姉上よりの伝言をいただいたの。『父上は甲斐の統一という偉業を成し遂げられたが信濃攻略で行き詰まられた。この戦乱の世で武田家の甲斐の民が生き延びるためには、父上の古いやり方を改め甲斐を生まれ変わらせなくてはならない。これより、この武田勝千代が甲斐の守護となり、身命を賭してこの仕事をやり遂げる』と。明日より、武田家の当主は姉上よ!」

 

四天王は、信繁の熱く激しい熱意と、勝千代の素早い行動に驚いていた。

 

「何ですと、あの勝千代様が既に動いたと」

 

「慎重なお方だと思っていたが、いざとなれば神速じゃな」

 

「ふ、だとすれば宴での泣き虫ぶりは演技か。実は食えないお人のようだ」

 

「うわ、信じられねぇ。謀ってるんじゃないのか?あたしたちを」

 

四天王は四者それぞれの驚きをする。話に付いていけてない太郎は頭を抱えていた。

 

「偽りではないわ。姉上は忍の者を用いて甲斐へ向かっている今川の使者と交渉して内諾を得たの」

 

そう説明する信繁だが、流石の彼女も真田幸隆と知り合いの山本勘助が猿飛佐助を逆に雇い返したとは知るよしもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時は少し戻り、温泉での邂逅のやや後になる。勘助は佐助を雇うべく昔の忍仕事をしていた要領で佐助を発見した。

 

「見つけたぞ、佐助」

 

「ぬ?山本勘助殿ではござらぬか。拙者に何用にござるか」

 

「お主は武田勝千代様を暗殺しようとしてしくじったな。それがしはその勝千代様の軍師として雇われたのだ」

 

「まさか、拙者を成敗に?まだ死にたくはないでござるからなぁ。猿飛の術で逃げさせてもらうでござる」

 

「それよ、お主の術に銭を払いたい!諏訪頼重の倍の銭を払おうぞ」

 

主君を暗殺しようとしていた忍を雇い返すなど、まっとうな武士のやることではない。が、勘助は駿河からの使者に勝千代の書状を渡すのにその術が必要だとわかっていた。

 

「勝千代様からの念書を預かっておる。これを上野に落ち延びている真田幸隆殿に。勝千代様が信濃に進出されたあかつきには必ずや真田の旧領を約束しようぞ」

 

「ふーむ、勘助殿はあの姫の器にすっかり参ったようでござるな。確かに面白い姫でござる」

 

面白そうだと佐助はこの仕事を受けることにした。去り際にふと、真田幸隆の言葉を思い出す。

 

「そうそう、勘助殿を見いだせる者が『人の王』だと幸隆殿が言っていたでござるよ」

 

そう言って笑いながら人ならざる技で空を駆けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「四天王!今すぐどちらに付くか、答えなさい!」

 

凄まじい気迫をもって信繁が毅然と言葉を発する。例え四天王であろうとも、味方しないならこの屋敷より出さないという覚悟が滲み出ていた。

 

意外にも、最初に頷いたのは横田だった。

 

「承知した。俺は勝千代の姫様に仕える。策略に策略で返す。一晩で大逆転とは大したタマだ。優秀な軍師でもついてるのかもしれんな。何にせよ、大殿の敗けだ」

横田高松は傭兵だったこともあり、見切りが速いのだ。元々勝千代を推していた板垣信方は断腸の思いで

 

「拙者も勝千代様にお味方いたそう。次郎様が付いた以上、最早大殿は甲斐を保てぬ。これも安寧のため」

 

と涙目で頷いた。甘利虎泰も、

 

「姫様は今宵勇気を振り絞って甲斐の若虎となられた。大殿もいつかわかってくれるはずじゃぁ!」

 

と叫ぶ。飯富兵部は何かを口にはしないが、その目はぎらりと輝き、その意思がどうなったかは明白だった。太郎も、何とかやっと飲み込んだようだった。

 

「父上には駿河で何不自由ない隠居生活を過ごしていただくわ。姉上曰く、武田家が上洛したあかつきには都に邸宅を建ててお出迎えすると」

 

「「「「上洛…!」」」」

 

四天王は目を丸くしている。だが、決してそこに不満の色はなかった。むしろ、諏訪家との同盟に不満を募らせていたのだ。この上洛という途方もない目標は彼らの心に火をつけるには十分だった。

 

板垣と甘利は信濃攻略に人生を捧げていた。諦めきれないものがそこにはあった。横田と飯富はそこまでの感慨はないが、戦闘狂の性質を持つ彼らは、甲斐に籠るよりは暴れられそうだ、と息巻いていた。停滞していた武田家に光が差すと、皆が信じていた。

 

信繁は姉の命運を託されたことでその重さに震えると共に、信頼されていることへの感激から長い迷いから覚めた。かつて言われた言葉がよみがえる。

 

「自身のままであられたなら、いつかまたお姉さまと元の関係に戻ることも出来ましょう。それまでの辛抱です。心を強くもって、寄り添ってあげれば、必ずその思いは届くものです。」

 

その時は来ましたよ。彼女は小田原の方角を向きながら、涙をこらえていた。

 

「私は信じる。家臣が皆で姉上を支えれば、可能よ。明日から武田家に一門と家臣団との区別は消える。皆が武田家の家族となるのよ」

 

「ははっ!拙者たち老骨には過分なお言葉」

 

「時代は変わっていくのじゃのう」

 

板垣と甘利は長年の主・信虎を追放する罪滅ぼしとして人生の最期は戦場で散ることを誓った。

 

 

 

 

 

 

この会話の全てを盗み聞く者が一人。穴山信君である。

 

「勝千代さんは暗殺から逃れましたか。加えてこの四天王たちの反応。信虎様の敗けですね」

 

ふぅ、とため息をつきながら考える。上洛など微塵の興味もないが、退屈な日々よりは面白そうだ。それに、負け馬に賭けるほど愚かじゃない。彼女はそう思った。一門の中では一条信龍に続いて上位にいる彼女なら、他の一門への影響力もあった。

 

「ここで、恩を売っておきますか」

 

そう呟き、彼女は会議の場へと躍り出る。

 

 

 

 

 

 

パチパチパチと拍手の音が突如として響いた。

 

「いやはやお見事なお手並み。感服しました」

 

「……信君」

 

「はい、信繁さん。お久しぶりですねぇ。ご壮健そうで何より」

 

「ご託は良いわ。聞いていたのね?貴女も去就を明らかにしなさい。もし、姉上に敵対するのなら貴女でも…」

 

今にも刀を抜こうとする信繁に対し信君はちろりと赤い舌を覗かせ酷薄に笑う。

 

「いえいーえ敵対するなど滅相もない。信虎様の敗けは確定です。ただご提案に参ったのですよ」

 

「提案ね」

 

「ええ、ええ!私は一門の中でも上位。一門や武田家にあまり協力的でない豪族国人にも顔が利きます。根回しをしようかと思いまして」

 

胡散臭い笑みで彼女は答える。信繁は本能で、この女は信用ならないと感じとっていた。

 

「見返りは?」

 

「海」

 

間髪入れずに信君は答える。聡明な彼女はその知謀から上洛には海が不可欠。海とは駿河のこと。いつか必ず武田は駿河を奪うと確信していた。逆にそうしなくては上洛など夢のまた夢であるとも。

 

「その日が来たなら、必ず」

 

「その言葉、お忘れなきように。フフフフ」

 

これは楽しくなりそうだ、と信君は頬を染め嬉しそうに笑う。それは美形の武田家の血筋であるとわかる美しさだが、信繁はとても恐ろしかった。

 

「賽は投げられた。刀は抜かれ、弓は放たれた。覆水二度と盆には返らず。それでもやる?」

 

存在感を消していた信龍が問う。全員の視線は信繁に集まった。

 

「もう、後戻りは出来ないわ」

 

「そう。死の匂いは今はしない。これが正しい選択なのかもしれないね」

 

信龍はそう言いながら立ち上がる。

 

「おや、どちらに?」

 

「貴女に関係ある?貴女からは熟しすぎた果実のような匂いがする。裏切りの匂い」

 

「まぁ、酷い。いつ私がそのような事を?」

 

「まだ。でもこれからする。必ず。私は貴女を信用しない。例え姉上たちが信用しても」

 

「あらあら嫌われたものですねぇ」

 

それには答えず信龍は普段の眠そうな雰囲気など消し飛んだ冷たい目のまま、信君の横を通り抜けていった。

信龍の勘は鋭い。あの子の"匂い"は正確だ。信君には注意が必要なのかもしれない、と信繁は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

信虎追放の陰謀は周到に進められた。成功の要因は四つ。一つは山本勘助と猿飛佐助が旧知の仲だったこと。二つ目は信繁が四天王を説得できたこと。三つ目は信虎が諏訪頼重に引き留められ飲み続けていたこと。これはかなり大きな原因で、飲み続けていたため二人は張り巡らされている陰謀に気付かなかった。そして、四つ目。最後の要因は、太原雪斎と今川義元のところへギリギリで書状が届いた事であった。

 

雪斎は男に乱世は任せられない。可憐で雅な姫こそが、天下を治めるには相応しいと考え、姫武将に泰平の望みをかけていた。そして、それに相応しいと見出だされたのが今川義元だったのである。能力の不足は自分が補えばいいと自信家の彼は割りきっている。

 

「これは親子喧嘩ですなぁ」

 

大酒飲みの雪斎はこの日も遅くまで飲んでいた。

 

「あらあら、でも勝千代さんは気弱な女の子なのでしょう?やられたらやり返すなんて、らしくありませんわね」

 

「窮鼠かえって、とも言います。父娘いずれかを選ばざるをえなくなった家臣団が勝千代殿を選んだのでしょう」

 

「どこの大名家も家督を巡って争うのね。けれど、妾が目指すは京!甲斐などに興味はないですわ。どうしましょう」

 

「信虎殿を引き取れば、武田はこちらへは攻めてこないでしょう。父親と妹を預けた家を攻めるなど、あってはならないこと」

 

「じゃあ、信虎さんを引き取りましょう」

 

「ただ、勝千代殿の急変ぷりがいささか気がかりですが」

 

「いえいえ、あの子は追い詰められて切れただけですわ。甘くて気弱だからこそここまで追い詰められたのですもの」

 

確かにそうだが…と雪斎はいぶかしむ。勝千代が化ければ上洛は厳しくなる。そもそも、これほどの献策ができる者が甲斐にいたのか?信虎殿を除いて。と雪斎は不安を感じないでもなかったが、信虎が自らを犠牲にした罠を張るとも考えにくかった。彼の警戒はむしろ北条に向いている。

 

「ふうむ。甲斐の若虎を野放しにするよりも駿河で猫にしてしまいたかったのですが…。だがあの才を腐らせるのは惜しい。武人になりきれぬ拙僧は迷いますな」

 

「簡単なことですわ。考えてもごらんなさい。信虎さんは初老。娘の勝千代さんの方が長生きするでしょう?長生きする方に恩を売った方が得ではなくて?」

 

必ずしもそうとは限らないが、確かに常識的に考えれば信虎の寿命の方が先に尽きるはずだった。

 

「勝千代殿が駿河に目を向ける余裕ができる前に上洛してしまえばこちらのもの。拙僧もキリキリ働かねば」

 

雪斎は、危険でも天下を治めるには賭けも必要だ、と頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜は明けた。すべての準備は整った。甲斐と駿河を繋ぐ中道往還の右左口峠にて、両家の手勢は接触する。

 

武田方には勝千代を始め、信繁・太郎・孫六・信龍、そして四天王と穴山信君が勢揃いしている。その一行の中には不機嫌そうな顔の信虎も混ざっていた。

 

信繁から「姉上は駿河行きを承諾され、私に家督を譲る決心をなさいました。これが今生の別れ。どうか、共に見送っては下さりませんか。もし叶わぬのなら、私も共に駿河に参ります。」 とまで言われればさしもの信虎も断ることは出来なかった。勝千代に厳しい分、信繁には甘かった。

 

だが、用心深い信虎は勝千代が何事か企んでいた時の対策と、当主が出る事への警備の意味を兼ねて四天王にも出馬を命じていた。信君はどこからか情報を聞きつけ勝手に付いてきたが、大方自分に媚を売るためだろうと考えていた。

 

よもや、四天王も子供たちも勝千代を支持しており、自らを追放する陰謀を巡らせているなど、毛頭考えていなかった。しかも、黒幕とも言える勘助は諏訪頼重を送り返す任務についており、いない。怪しげな新参がいれば信虎も警戒したが、そうでない以上気付ける筈がなかった。暗殺失敗を知った諏訪頼重は慌てて甲斐を出発した。

 

「だが……よくぞ決心した。勝千代よ。しばらく駿河の海を楽しんでくるとよい」

 

自分の娘を見つめる瞳には、意外にも瞳を潤ませている。娘を殺さずに済んだと安堵しているのだろうか、と勝千代は思った。一門は殺さない。それが武田家の掟である。

 

「父上。あたしは駿河の太原雪斎殿のもとでまつりごとについて学んで参ります」

 

「そうするがよい。あれは酔狂な坊主で姫武将の育成を己の生き甲斐としておる」

 

「海を堪能してきます。海とは風光明媚なものだとか」

 

「うむ、好きにせよ。心身をすり減らす武将稼業などやめて、定と共に駿河にてのんびりと過ごすがよい。お主の好きな読書も好きなだけせよ。それがお主の為だ」

 

「父上……?」

 

「儂にはわかっておる。戦とは狂わねば出来ぬ。狂い続ければ、お主は心を蝕まれ命を縮める。息災に生きたければ、戦の事など忘れよ。」

 

初めて聞く父親からの優しい言葉だった。だが、もう迷ってはいけない。引き返せないところまで来てしまったのだ。父上は感傷的になってるだけだと勝千代は自らに言い聞かせた。

 

「……父上。あたしは」

 

「もうよい。行け」

 

信虎が目を伏せたその時だった。

 

 

 

 

「武田陸奥守信虎殿。これより駿河に来ていただく」

 

 

今川方の侍は信虎の乗った馬を囲んでいた。信虎は訳がわからず思考が停止していた。

 

「これは、どういう事だ?約束が違うぞ。駿河へ参るは儂ではなく勝千代のはず」

 

「主命は、信虎殿を迎えよとのことでございました」

 

「次郎?勝千代?これはいかなることぞ?」

 

勝千代は胸に込み上げる様々な感情が邪魔をして言葉が出ない。察した信繁が「父上には隠居していただきます」と告げた。

 

「何だと、どういう事だ太郎?」

 

「親父殿、すまねぇ。駿河には俺も遊びに行くからよ。しばらく定のところで遊んでてくれや」

 

太郎は手を合わせて信虎を拝む。

 

「姉上とよりが戻るまで駿河で頭を冷やしてくれや」

 

「な、なんたること!孫六っお主はどうした!」

 

「えーと、ごめんね。姉上が毎月銭を送るからさ。駿河で後妻でも見つけたらどうかな」

 

信虎は、この二人では話にならないと憤る。最後の望みを賭けて信龍に目をやる。

 

「父上。さようなら。いつか、優しさを取り戻せたら、また会いましょう」

 

「ええいっ!勝千代よ、どういう事だこれは!このような真似…ただで済むと思っとるのかっ?」

 

「これより武田家は私が守ります。家臣を次々粛清し、信濃一国も切り取れなかった父上には隠居していただきます。」

 

勝千代は意を決した。信繁ではなく、勝千代自身がはっきりと口にした。その視線の猛々しさに、信虎は震えた。

 

「四天王!そなたたちは何をぼんやりしておる!これは謀反ぞ、勝千代の乱心ぞ!」

 

最後の頼みの四天王に声をかけるも、全員が勝千代を支持していると知った。娘の手際のよさに信虎は唖然とするしかなかった。

 

「大殿。我ら四人は皆、武田家と勝千代様のため戦場で死ぬ所存。どうか、お許し下さい」

 

「儂が不甲斐ないばかりにこんなことになってしもうた。かくなる上は百まで生きて下され!」

 

「子供はいつまでも子供ではないと言うことだ」

 

「あんたは殺し過ぎたのさ。ごめんな」

 

秘密主義がここで仇をなしたことを信虎は思いしらされた。諏訪頼重がいなければ気付けたものを!儂の最大の過ちはあのような輩を一族に引き入れたことよ。あやつは討たねばならなかった、と信虎は歯軋りした。

 

「穴山、お主は…!」

 

「私も死にたくはないのです。生き残るため最良の道を選んだまで」

 

腕に覚えはある。しかし、一門不殺の掟は破れなかった。

 

「諫言した家臣を殺す悪習は今日で終わりです。いずれ内藤や山県も復活させます」

 

「勝千代よ!何が望みか。父を追放してまで何を成すのか!」

 

勝千代は答えなかった。だが、その目には確かな炎を見た。まさか、今川に聞かれたくないような大望を持っているのか。こやつ、上洛を…考えているのか。いつの間に我が子はここまで成長した?儂の叱咤のせいか?

 

それに信繁も…。無欲な娘だった。親孝行な子だった。それがどうして…

 

「出来ることならもっと姉上と話し合っていただきたかった。そうすれば姉上の器を理解していただけたはず。おさらばです」

 

次郎よ、それは違う。こやつは合戦の地獄のような有り様に耐えられぬ。臆病者とはそういう意味だっ!と信虎は叫びたかった。今川方の侍が馬をせき立てる。最早甲斐へは戻れないのだろうか。

 

「おさらばです。父上。これからあたしは武田晴信と名乗ります」

 

「ええいっ!儂を追放したからには必ずその野望を成し遂げよ。死ぬなど許さぬ。お主より生きて、その帰結を見てやるわっ!四天王、お主らは武田家の為に死ね。よいなぁっ!」

 

信虎最後の咆哮だった。武田勝千代改めて晴信。策略と人望。相反するとも言えるこの二つを一度に示していた。

 

次は頼重ね…と晴信は呟く。禰々を泣かせるが、自分を殺そうとした男を放置は出来ない。

 

自らの重石だった信虎は去った。だが、晴信の心には寂寞たる風が吹いていた。この悪行は千年先まで伝わるだろう。果たして武田家は団結を保てるのか?あたしは大切な何かを失ったのではないだろうか?

 

爽快感ではなく、喪失感のみが残った。

 

「これで、本当に良かったの?」

 

空を見上げて呟く。答えは返ってこない。だが、時は戻せない。信虎が自分を認めるその日まで走り続けるしかないのだ。己の野望で自らを焼きながら。信繁が寄り添うように駒を進める。ずっと隣にいてくれた出来すぎた妹だった。

 

「姉上。私は自分の意思で姉上を選んだの。姉上は臆病者なんかじゃない。私には、後悔はないわ」

 

この追放劇を成功させた功労者は、家督を望まなかった信繁であることは明白だった。これから二人で天下への道を歩むのね。そう考えると心に温かい光が差し込むようだった。

 

もう、二人を引き裂く信虎はいない。やっと、姉妹が共に歩める時が来たのだと思うと、もう何もかもどうでもよかった。

 

「次郎にはこれからも苦労をかけるわ」

 

「四天王と同じよ。私も姉上のために戦場で散る覚悟はできているわ」

 

「……あなたはだめ。死なないで」

 

「依怙贔屓よ、姉上」

 

「贔屓するわ。あなたが死んでしまったら、こうして父上を追放した意味がなくなる。死なないと、約束して」

 

「はいはい」

 

もう泣き虫はやめましょうね、と信繁は姉小路手を握りながら、涙交じりの笑顔を浮かべた。空は晴れ渡っていた。




いつか信虎視点の物語も書いてみたいですね。


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第23話 忍

今回からまた北条視点に戻ります。
キャラの姿やイメージにクロスオーバー要素があるので一応タグを追加しました。


小田原は大混乱だという。それもそのはず、隣国は甲斐で政変が起こり、国主武田陸奥守信虎が娘の武田勝千代改め武田晴信によって追放されたと言うのだ。

 

父親と子供が争うという例は戦国の世でとてつもなく珍しい訳ではないが、それでも突然起これば他国も国内も動揺はする。そして、大抵は悪名を背負うものだ。親子の対立と言えば、斎藤道三と息子の義龍の対立や伊達天文の乱、最上義光も父親と仲が悪かったと聞く。今回は無血クーデターなのが救いだろうか。大方の争いでは敗れた方は死んでいる。

 

武田のこれからの方針が読めない以上、小田原が混乱するのは仕方のないことだった。未来知識がある自分だからこそ動揺せずにいられるのだから。もし、武田晴信が関東に野心を見せたら?義妹同盟を結んだ今川と共に攻めてきたら?そういう想定は容易にできる。直接的に手を下して来なくても、上杉や古河公方等の関東諸将と組まれたら厄介だ。史実では信濃、具体的には諏訪・高遠へ進出するのだが、この世界ではどうなるかわからない。

 

そして、今回の件を受けて思ったが、諜報網が欲しい。確かに、北条家には戦国トップクラスの忍集団の風魔がいる。しかし、彼らは北条幻庵と当主氏康様の直属部隊だ。こちらに情報が回ってくるのはどうしても遅くなる。

 

だが、それでは困るのだ。ここは対上杉のいわば最前線基地。それが万が一起こった不足の事態に際して、情報を知りませんでしたではお話にならない。それに、今後ここが最前線として機能していくうちに自由に使える忍が欲しいとなるのは必定だった。個人的にも、越後や甲斐信濃、北関東などの情勢は知りたかった。小田原に引きこもる前にここら辺で足止めするためにも、諜報要員は必要だ。

 

しかし、小田原から風魔の人員を割いて貰うのも厳しいだろう。それとなく打診してみたが、人数をフルで使用していると言われた。氏康様の護衛役にも人員をかなり使っている。一人でも良いから欲しいんだがなぁ。こちらだけに特別に戦力を回せるほど余裕があるわけでも無いようだ。風魔も大概ブラックだな。

 

 

 

 

こうなっては仕方ない。雇うか、忍。一応この城の人事権は私にあるのだ。流石に小田原には報告するけれど。問題はどこから呼び寄せるかという事だ。おそらく今後の侵入先は高度な防諜能力を持つ武田や長尾等になるだろう。その際にキチンと任務を果たせそうな人材は…そもそも忍は表舞台に出てこないからな…。

 

だが一応一つだけ心当たりがあるのでそれに賭けるとした。彼もしくは彼女ならば十分に役目を果たしてくれるだろう。仕えてくれるかは"神のみぞ知る"だが。風魔よりの情報で所在地だけは掴んでいる。

 

 

 

 

 

 

「貴殿には伝令を頼みたい」

 

呼んだ若武者にそう告げる。

 

「承りました。して、それがしは何処へ参れば良いのでしょうか」

 

「信濃は戸隠に行って、この文の宛名に書かれた人物に会い、文を渡してきて欲しいのです。くれぐれも、無礼な態度をとらぬようにして、丁寧な対応を心がけて下さい」

 

「はっ。して、このご仁はどのようなお方で?」

 

「忍です。それも腕利きの」

 

「なるほど忍…わかり申した。早速出立致します」

 

「頼みました」

 

さて、手紙は送ったから後は向こうから何かしらのアクションがあるまで待つとするか。それまで遊んでいるわけにもいかない。さぁ、早速今日の仕事に取り掛かろうか。

 

 

 

 

 

 

 

使者を送って二週間近く過ぎた。ここに来てから一月が経過しようとしている。これまで当然遊んでいた訳ではなく、城下の商人等と会合を開いたり周辺の元々いた小領主たちと会ったりもしていた。

 

河越城主の支配領域は広い。前線基地という危険を伴う事のリターンとも言うべきか、管理区域の面積はそこそこの広さを誇っている。所沢や飯能の辺りも一部支配地域であるということからも、それが伺える。

 

前領主、上杉家は土地開発にはあまり熱心で無かったようで、余らせている土地は一定数存在する。こちらとしてはとっとと開墾したいのだが、余剰人員が少ない現状ではそれは厳しい。何処かから持ってきたいが難しいだろう。

 

農業改革をしたくても、搾取が続き困窮していた農民に改革は早急すぎるだろう。お気軽に内政チート…等とは当然いかないのである。とは言え、やれることはやらなくてはいけない。取り敢えず、現状の確認からやるとしよう。自分の目で見てこそ、気付ける事があるというものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「これはこれは城主様が自らいらっしゃるとは。大したおもてなしも出来ませんで、申し訳ございません」

 

「気にするな。はじめより、そのような目的で参ったのではない。皆にも、気にせず作業を続けるよう言ってくれ。邪魔しては意味が無いからな」

 

「はっ、そう仰せであれば、そのように」

 

季節は春。農作業の始まりの時期である。この時代の田んぼは大きさが不揃いだ。重機が無いのだから、現代のようにピシッと四角い水田になるわけがないのは重々承知している。それに、今の形を変えるには手間がかかりすぎる。仕方ない。せめて、新しく開墾するのなら綺麗な形にしよう。その方が検知や作業も楽だろう。

 

「村長。何か困った事はないか」

 

「おかげさまで特にはございません。女子供も飢えることなく元気に過ごしております」

 

「そうか。それは良かった」

 

そこで、ふと直ぐに何とか実行出来そうな改革を思い出した。

 

「田に流す水を水路から汲み上げる作業はどのように行っている?」

 

「水でございますか?それはまぁ、人力で色々と…」

 

「ふむ。では、それが楽になれば作業も捗るか」

 

「まぁ、そうでございましょうなぁ」

 

村長は生返事である。そんなものあったらとっくにやっとるがなと言いたげだ。城下の職人に作って貰うとしよう。まずは図面を何とか書かねばならないが。

 

「村長。汲み上げる道具を近日中に持ってくる。この村で試してもよいか」

 

「構いませぬが…」

 

疑われているのは仕方ない。まだまだ信頼してもらうには実績が足りない。ここから少しずつ積み重ねていくしかないだろう。

 

「あぁ、そうそう。隣のそのまた隣の村の者から聞いたのですが…その…」

 

「何だ。はっきり言ってくれ」

 

「恐れながら申し上げると、野盗が出たようでございます」

 

「野盗、か」

 

それで"恐れながら"か。野盗が出るということは、領主の取り締まりが緩いということに他ならない。場合によっては領主への政治批判ともとられる可能性がある。故に、恐る恐る言ったのだろう。しかし、これは盲点だった。至急対策に乗り出さねば。

 

「事実ならば一大事だ。早急に対策を打つ。何か情報があれば報せてくれ」

 

「は、はい。わかりました」

 

まずは情報収集から。根城を見つけて一網打尽にしたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

城に戻り次第、手の空いている者を何人か召集して、根城の調査に向かわせた。この広い領内から見つけられるだろうか。北条家の領内ならともかく、他家の領地だと厄介だ。上杉が雇った連中だという可能性もある。私掠船みたいな公認盗賊だったら困るのだが。

 

流石に一日での発見は不可能だったようで、夜になって皆戻ってきた。少なくとも城の近くにはそれらしき場所は無かったという事だ。人数を増やすことを考えた方が良いかもしれない。

 

 

 

夜更けに城内の自室にて、チリリと首筋に何かが焼きつくような感覚を覚えた。これは戦場で感じるもの。殺気。ただ、本気の殺気では無いな。気配は後ろから。不気味なのは事実だ。放置は出来ない。振り向きざまに太刀を抜き放つ。

 

「何奴っ!」

 

放った太刀の刃は殺気を放つ何者かの手にあるクナイで止められた。金属の擦れる音が響く。太刀の勢いから生じた風で灯火が消える。窓から差し込む月明かりが刺客の顔を照らす。

 

金色の目に黒い髪。黒と赤、それも血のように濃い赤を基調とした服に身を包み、長い髪は赤いリボンで一つに括られている。その美しい姿とは裏腹に表情と手にあるものは物騒だ。服や武器から察するに普通の武将ではなく忍に相違ないだろう。

 

「私の気配に気付き、攻撃してくるとはおやりになる」

 

「よく言う。殺す気など無かった癖に」

 

「そこまで見抜いて、それでも太刀を抜いたのか」

 

「そのような舐めた真似をされるのはいささか癪だ。武士らしからぬ思考の我が身ではあるが、誇りを失くした訳ではない。…それで貴様は誰だ。答えぬとあらば、残念だが斬らねばならぬ。」

 

「当ててみろ。知恵者を名乗るならな」

 

ふむ…。外見からは忍ということしかわからない。となればその他の要素から見抜くしかないだろう。

 

「刺客…にしては殺す気がないのはおかしいな」

 

「さてどうかな?風魔の手の者でお前を監視していたかもしれないぞ。事実、私は風魔の技を使える。或いは場合によっては殺せ、と北条氏康に命令されていたかもしれない」

 

「それはない」

 

「ほぅ?なぜそう言いきれる」

 

「あのお方は敵にはともかく味方には決してそのような事はなさらない。それは、家中の誰もが知っていることだ。我が主を愚弄するのはやめて貰おう」

 

「……良い信頼関係だな」

 

「それはどうも。そして今のでわかった。お前は風魔ではないな。技を使えるということは、もしや、私の招いた…」

 

ふぅ、とため息を吐き出し、女忍は武器をしまう。

 

「いかにも。私が貴殿、河越城主一条兼音殿に招かれた忍、加藤段蔵だ」

 

やっぱり。加藤段蔵には風魔の元で忍術を習ったという説がある。しかしとなると、先程のやり取りは試されていたと考えるのが自然か。こちらも武器を収める。

 

「これはこれは遠路遥々ようこそ。随分なご挨拶でしたが。それと、貴女に会ったはずの使者はまだ帰ってこないのですが」

 

「途中で追い越した。試したのは悪かったと思っている。が、忍と言えど未熟な主に仕えるのは嫌なのでな。一つやらせてもらった」

 

「まぁ、それは良いでしょう。こちらが招いた身だ。ご足労いただいたのだからそれくらいは見逃すというものです」

 

「ふん。そうか。では、問おう。貴殿が私を雇う訳は何か」

 

「我が主のため。ひいては、主の望む関東静謐のため」

 

「はっ!どうだかな。侍は口だけは達者な者が多い。そのように貴殿と同じ事を言いながら反故にした者を私は多く知っている。静謐を謳いながら人を殺す」

 

「自らも人を殺す忍でありながらそれを言うのか?」

 

「矛盾している事は受け入れよう。だが私はそれでもこの乱世を憎んでいる。殺さねば生きられぬ世の中を。それを終わらせられない、侍たちを」

 

彼女は鋭い眼差しでこちらを睨んでいる。お前もそうだろう?と言うように。彼女の話しは確かに矛盾している。だが、その気持ちも理解できる気がした。誰かも守るためには誰かを殺さなくてはいけない。今の世界はそんな不条理に満ちている。平和を作るためには多くの屍を作らなくてはならない。その事実に対する憎しみや怒りは全うなものだと感じた。

 

「死にたくなくて、戦っていた。風魔の技にも手を出した。いつしか戸隠忍の頭目になった。殺しの果てに平和があると信じていた。だがどうだ。結局何一つ変わりはしない。今日も何処かで戦だ。平和は、泰平は訪れる気配などない。何もすべてを救えとは言わない。だからせめて、戸隠にだけでも何者にも理不尽な死を与えられぬ隠れ里を作ろうと思った。その為にまた殺した。私は、そんな自分が、大嫌いだ。それでも止められない。私は理想のために生きると決めたのだ。両親を目の前で殺された、あの日から」

 

そこで彼女は一旦言葉を切る。

 

「貴殿に、北条家に作れるのか。私の望む泰平を」

 

その覚悟の籠った目にこちらも覚悟で返す。生憎と、ここで引き下がる訳にはいかない。これは彼女の問いに答えると共に、自分達のあり方を見直す場だ。

 

「掌よりこぼれ落ちる水を無くすことは出来ないでしょうが、少なくともその水を減らすために努め成し遂げる事が出来るのは日ノ本広しと言えど、ここだけでしょう。それは自信をもって言えます。税は安く、民は安らぎを得ている。民に寄り添い、共に生きる。それが北条の、私のあり方です。我々の目指す世界と貴女の目指す理想が完璧に同じかはわかりません。ですが、我々は流した血の果てに望む世界があると信じています。日ノ本全ての民を救えなくても、せめて関東の民は救える世界があると。信じろとは言いません。言葉で言うより、見てもらった方が早いでしょう?」

 

「…………承知した。見極めさせてもらう。北条の、貴殿のあり方を。」

 

「それでは早速一つお願いが」

 

「…貴殿、相当にあれだな」

 

「はい?まぁ、それは良いとして、野盗が領内に出るとの報告を受けました。根城を一網打尽にしたいのですが、肝心の場所が不明です。探してきて頂きたい」

 

「了解。数刻後に戻る」

 

そう言って彼女は音もなく消えた。相変わらずこの世界の忍は物理法則をガン無視している。何はともあれ、問題だった野盗は対処できそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明け方に戻ってきた彼女から報告を聞く。何でも、城から馬で二時間ほどの所にある古城跡に根城があるらしい。巧妙に擬態していて、分かりにくくなっていたそうだ。しかし、場所が特定できれば話は早い。城の武士を四十人ほど引き連れ、朝方に出立する。

 

道を駆け、少しずつ目的地に近付く。段蔵も姿は見えないが付いてきているようだ。

 

「申し上げます!前方の村が襲われている模様。おそらく例の野盗かと!」

 

先に偵察に行かせた者からの報告にざわめく。

 

「わかった。直ちに救援に向かう。続けっ!」

 

「「「はっ!」」」

 

全員騎馬で構成してきたのが幸いした。あっという間に襲われているという村に着く。抵抗を選んだらしいこの村からは争う声が聞こえる。

 

「遠慮はいらない。全員抜刀。敵を殲滅せよ!」

 

「「「「応っ!」」」」

 

野盗が掛け声に気付く。侍の登場にやや狼狽えているようだ。

 

「狼狽えるな!俺は元上杉家足軽大将だ!恐れるな、北条の武士ごとき一捻りだ。俺より強いのは頭だけよ!」

 

叫びながら統率をとっている男がこの襲撃の主犯だろう。話の中身からするに野盗全体のリーダーでは無いようだが。

しかし、舐められたものだ。よろしい。その北条の武士の武威、しかと見せてやろう。狙いやすい的だ。弓を構える。

 

一射。我ながら見事に命中し、男は地に倒れ伏した。途端に恐慌状態になる野盗たち。こうなってしまえば歴戦の武士たちには敵わない。次々討ち取られていった。私も弓による遠距離射撃で援護する。

 

その時だった。突如として聞こえた悲鳴に振り返れば、女性が襲われかけている。人質を取ろうとしたのだろう。そこへ彼女の子供らしき少年が、野盗の前に立ち塞がる。男は焦りと苛立ちから今にも太刀を振り下ろそうとしている。

 

慌てて馬から飛び降り全速力で駆け寄る。間に合えっ!刀を抜きそれで相手の刀を抑え、片膝をつきながら何とか防いだ。

 

ギリギリ間に合ったようだ。雄叫びをあげながら再度襲い掛かる男。が、次の瞬間首元に無数のクナイが刺さり、声をあげる暇もなく絶命した。どうやら段蔵が始末してくれたようだ。助太刀感謝の念を送る。

 

「あ、ありがとうございました!この子を助けて頂き、なんと感謝申し上げればよいか…」

 

女性が子供を抱き締めながらそう言う。勇敢な少年は気が抜けたようで放心している。

 

「気にするな。むしろ、あのような輩、もっと早く退治すべきだったのだ」

 

それでもペコペコお辞儀をする女性に苦笑しながら、やっと意識が帰って来た少年に声をかける。

 

「素晴らしい勇気だった。武士もかくやという気迫だったぞ。そのあり方を損なわぬようにな」

 

私の言葉に、彼は少年らしい笑みを返した。

 

 

 

 

 

「被害はどうか」

 

「軽微でございます。問題ありません」

 

「よし、このような者達を放置するわけにはいかん!早急に片をつけるぞ!」

 

「「「応っ!」」」

 

村の被害の確認や後始末をした後、再び馬に乗り、村人に見送られながら先を急いだ。とっとと始末してやる。覚悟を決めるがいい。

 

 

 

 

「ここか、確かに一目見ただけでは気付かぬな…」

 

誰も欠けること無くここまで来た。このまま一気に落としてやる。色々とゴタゴタしていたら既に日も暮れてしまった。まだほのかに明るいがそれも時間の問題だろう。丁度いいので夜襲をかけて混乱した所を叩くつもりだった。が、ここで思わぬ展開となる。

 

「私が敵をこちらへ来させよう」

 

突然現れそんなことを言う段蔵に、皆が驚く。

 

「このお方は一体…?」

 

「こちらへ来させるとは…?」

 

北条は風魔の影響で忍への偏見はない。段蔵はそれにやや戸惑ったようだった。

 

「私の招いた忍だ。それでこちらへ来させるとは?」

 

「見ていろ。こうする」

 

その言葉と共にどこからともなく霧が出始める。それも、古城を囲むように。そして、何事かを唱えると手の平からガラスの破片のような物を吹き飛ばす。何が起こるのかと一同固唾を飲んで見る。

 

すると、突然轟音がなり、古城のど真ん中に背の丈十メートルはあろうかという巨大な鬼が現れた。勇敢な武士たちも一瞬唖然として、その後現実を認識して後ずさっている。逃げ出さないのは流石か。さしもの私も、驚きのあまり声も出ない。一体どういう技を用いればこうなるのだ。

 

「これが私の幻術だ。そら、来るぞ」

 

そう言われて見れば、古城からわらわらと野盗らしき者たちが裸に近い格好で武器も持たず飛び出してくる。そうだ、ここで呆けている訳にもいかない。

 

「全員引っ捕らえろ!」

 

ハッとした様子で皆が野盗を捕らえ、縛っていく。野盗退治は思わぬ形で幕を閉じた。

 

 

 

 

 

「貴殿は幻術が恐ろしくないのか?これのせいで私は生き長らえたが、どんな大名にも信頼されなかった。危険視され恐れられた」

 

「驚きはしましたが、恐れるほどのものでもないですし、信頼しない要素とはなり得ないのでは?それは貴女の出会った大名たちの器が小さいだけのこと。気にしなくても良いと思いますが。私は使えるものは何でも使う主義なので」

 

「…何故、あの少年を助けた。城主ともあろうものが、己の身を危険にさらしてまで」

 

「何故って、そこに守るべき者がいて、それを助ける力を持っていたからですよ。それ以上でも、それ以下でもありません。言ったでしょう?これが私のあり方。ここにいる私の部下も、民のために命をかけている。それが北条のあり方です」

 

取り繕っても意味はないだろう。ならば本音で返すだけのこと。

 

「…………」

 

長い沈黙。その後に彼女はこう言った。

 

「わかった。信じよう。あの動きは打算で出来るものではない。貴殿の家臣の表情も、嘘偽り無いものだ。この関東に泰平をもたらす為に、私の力が必要だと言うならそれに応えよう。血塗られた道でも、貴殿たちならば必ず静謐をもたらせると信じて戦うと決めた。私の率いる忍衆が二十人程いる。いずれも手練れだ。彼らと共に、貴殿に仕えよう」

 

認めてくれたという事だろうか。それにほっとしつつ、答えを返す。

 

「必ず成し遂げよう。その為に力を貸してくれ。共にこの地に泰平を。北条に繁栄と栄光をもたらそう」

 

「承知いたしました、我が主。私は鳶加藤こと加藤段蔵。貴殿を主とし、いかなる命令にも従いましょう」

 

そう言いながら、彼女は頭を垂れた。

 

かくして、史実ではその幻術により上杉謙信にも武田信玄にも危険視され信玄によって討たれた忍、加藤段蔵が河越城の家臣団に加わる。これがいかなる影響をもたらすか、それはまだこの先のお話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ところで、家臣に丁寧語はお止めになった方がよろしいかと。主たるもの、威厳は必要です」

 

「そういうものですか…いやものか。わかった。そうしよう」

 

元々この時代の者でなかったための遠慮か、今までは家臣に対しては丁寧語、同僚と主筋には敬語、敵と民には普通にという話し方をしてきた。流石に民に丁寧語は武士としていかがなものかという話をこの世界に来たばかりの頃に言われたからだ。

 

が、確かに家臣に必要以上に丁寧にするのはかえって逆効果かもしれない。その助言はもっともだ。今度からそうしよう。

 

「これからそうするとしよう」

 

「ええ、その方が仕え甲斐があるというもの」

 

そう言いながら彼女は小さく笑った。




新たな仲間の加入です。これも夜戦への布石です。具体的にどうなるのかはお楽しみに。

原作主人公における蜂須賀五右衛門ポジションのキャラが欲しかったのです。

加藤段蔵のキャラデザはFate/Grand Orderの加藤段蔵です。あのキャラは個人的に好きなので、そうしました。リクエストもありましたし。ゲームやってる方はご存じかもしれませんが、あの世界だと段蔵はオートマタですがこの世界では普通の人間なので悪しからず。

ふと思ったんですが、この世界が進んだ先の未来に放映されてるであろう大河ドラマってどんな感じなんですかね。撮影現場の女優率がとんでもないことになってそう。

絶対北条家の大河ドラマとかある。葵三代ならぬ鱗三代みたいな感じで。そんな妄想です。


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第24話 蠢動

領内を荒らし回っていた賊は拍子抜けするほどあっという間に捕らえられた。頭目以下百人弱の集団である。その場でどうこうするわけにもいかず、連行することとなった。彼らは段蔵の妖術にすっかり魂を抜かれたようで、抵抗することなく大人しく連れていけた。

 

裁判権はこちらが握っている。有り体に言えば生殺与奪は思いのままという事だ。ここに中世ならではの怖さを感じる。戦場で人を殺めるのと同じくらいには、緊張していた。

 

「引っ捕らえたこの者たちはいかが致しますか」

 

「通常ならどうなる」

 

「全員死罪が妥当かと」

 

そうだろうとは思った。ただ、死罪はメリットが少ない。苦労して捕まえたのに易々と死なせては割りに合わない。さて、どうするか。折角百人近くいるんだ、これだけ人数がいれば労働力としては十分だろう。

 

「頭目は死罪。残りは殺さぬ」

 

「しかし、それでは…」

 

現金なものだ、自分達が死なないとわかった途端に元気になっている者が大勢いる。

 

「まぁ、待て。誰が無罪放免と言った?そのままお咎めなしな訳ないだろう」

 

「では、この者たちは何を?」

 

「幸いこの地にはまだまだ開墾できそうな土地が余っている。加えて城の改修もせねばなるまい。よい労働力になるとは思わないか?」

 

「なるほど!それは妙案ですな」

 

そんなに絶望した顔をしないでくれ。なに、シベリアよりは快適だろうよ。

 

「いつか罪の清算が終われば許される日も来るだろう。連れていけ!」

 

「はっ!」

 

連行されていく。これは存外いいシステムなのではないだろうか。逃亡したら待っているのは確実な死だ。しかし、少なくとも働いている間は死なない。加えて、いつか罪が許させるかもしれない。そうなったら多少はまともに働くだろう。現代における犯罪者(収監者)は労働に従事している。彼らの食事は国民の税金なのだから当然と言えば当然ではあるが。働かざる者食うべからず、だ。税をただ飯ぐらいの囚人に使う余裕はない。働いて役にたってくれ。兎に角、取り敢えずこの件はこれで一件落着だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

台帳が完成したとの報告を受ける。分厚い冊子だ。薄っぺらい上杉時代のものと比べると大分差がある。しかし、この短期間でよくやってくれたものだ。兼成は燃え尽きているらしい。後で休暇でも出しておこう。

 

中身を見ていくと、やはりというべきかかなりの生産力があることがわかる。武蔵は原野というイメージを持たれがちだが、その実そうではない。勿論、武蔵野と言うように草原もある。だが、町は発展しているし、田畑も広がっている。徳川家康のせいで江戸ド田舎説がまことしなやかに話されていたが、江戸は港町としてこの時代では十分な発展ぶりだった。絶対話を盛ったに違いない。あの狸め。

 

ここからは生産力の底上げだな。農法改革が必要だろう。まずはこの前持っていくと言った用水路の設備からだ。農業。取り敢えず農業である。林業ができるほどの山はないし、海がないので漁業もできない。ともなれば優先は農業だ。工業も大事だが、工業の発展には農業が上手く回っており、人々の生活が安定しているというのが条件になる。食えなければ何もできないからな。

 

 

 

 

 

 

 

城下の木工職人のもとを訪れ、自作の設計図を渡す。

 

「こういう形のものだが作れるか?」

 

「ふーむむむ、なるほど…ここに人が乗るので?」

 

「左様」

 

「まぁ、作れないってこたぁ無いと思います。しかし、何分初めてなもので、少しお時間頂くかと」

 

「構わない。出来たら報せてくれ」

 

「はい」

 

頼んだものは『踏車(ふみぐるま、とうしゃ)』である。これは簡単に言えば水車で、日本において江戸時代中期以降に普及した足踏み揚水機だ。人が車の羽根の上に乗り、羽根の角を歩くことで車を回し、水を押し上げるというシステムになっている。

 

これは江戸時代に農業が発展した時に誕生した製品である。他にもいくつか江戸時代に考案された農業器具はあるが、取り敢えずこれが一番手っ取り早く作れて特にリスクもない。脱穀に使う千歯こきとかは有名だが、あれは夫に先立たれた後家さんたちの仕事を奪うという欠点がある。失われた雇用の補填先を見つけられない以上、広めるべきではないだろう。

 

あと、千歯こきは鉄を使うが、そんなものに鉄を使ってるくらいなら鍬や鋤に使った方がよっぽど効率的に生産率を上げられる。鎌に使えば収穫スピードを上げられて、労働力の効率的な使用が可能だ。脱穀は結局頑張れば人力でなんとかなるものなのだ。

 

まずはここから。ここから一歩一歩着実に進んでいこう。速すぎる変革は反発を産む。無用な軋轢は避けて、円滑な領国経営を心掛けるべきだろう。

 

さて、続いては鍛治屋かな。

 

 

 

 

続いて注文するのは備中鍬だ。これは鉄製の刃先が3~4本に分かれた鍬である。田畑の荒起こしや深耕に適していて、中世の平鍬(平らな鉄刃を木台にはめこんだ鍬)とは異なり、堅くしまった土を細かく砕き、しかも深く耕すことができるようになって、土中に十分な空気・水・肥料などをとどめることができるようになっている。また、大根や蕪(かぶ)などの根菜類が、深く根を成長させることができるようになる。

 

この道具も量産できれば生産能力の向上が見込めるだろう。鉄を使うためお値段はそこそこするから、最初はこちら側からの貸与がいいだろう。いずれは購入してもらうとして、その為には商品作物が必要である。

 

どういうメカニズムかというと、そんなに難しい話ではなく、農民は農具を自作できない。ので、買う必要があるが、それには貨幣が必要である。貨幣を手に入れるためには、商品作物を栽培してこれを売る必要があった。代表的な商品作物に「四木三草」がある。

 

 「四木」とは桑(蚕の飼料)、楮(こうぞ。和紙の原材料)、漆(蝋や塗料として使用)、茶であり、「三草」は麻(衣料の原料)、藍(染料。藍玉にして出荷)、紅花(口紅・染料などの原料。紅餅にして出荷)をいう。

 

 このほかにも、衣料原料としての木綿、燈火用の菜種・蝋、嗜好品としての煙草などの栽培がある。これらを推奨して、彼らの生活にゆとりを持たせる。貨幣経済の浸透にも役立つだろう。

 

取り敢えずやってみよう。江戸時代には成功してるから、歴史的にみて不可能な行為ではないはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

一週間後、出来上がった試作品たちを持って、この前持っていくと言った村へきた。

 

「これはこれは城主様。賊を退治してくださったとか。ありがとうございます」

 

「気にすることではない。至極当然のことだ。それよりもだ、本日来たのは他でもない前に申した農具が出来たのだ」

 

「はぁ、それはようございましたな。ここでお試しを?」

 

あんまり乗り気ではないな。それもそうか。信憑性にかけるのは事実だろう。

 

「あぁ、手の空いてるものはおるか」

 

「幾人かおります。ただいま呼んで参ります」

 

呼ばれてやって来た男たちに、幾つか指示を出す。まずは踏車のセットから。いつしか村の人々が遠巻きに見つめていた。

 

「よし、これで動くはずだ。そこの上に乗って…そうそう。その通りだ。さぁ、動いてみてくれ」

 

その指示に従って、踏車の上にいた一人がゆっくりと歩き出す。すると、水車は回転して揚水されていく。実験は大成功だ。壊れそうな雰囲気もない。

 

「おおおっ!」

 

「すげぇなぁ…」

 

「こりゃ大分楽になんぞぉ」

 

周りからそんな声が聞こえてくる。だがまだこれで終わりではない。

 

「次はこれだ。この鍬を使って適当にその辺を耕してみてくれ」

 

鍬を渡す。こちらも問題なく使えてるようだ。

 

「どんな感じだ。使ってみて」

 

「はい。とっても深く耕せます。これは使い勝手がいいや」

 

「そうかそうか。よしわかった。ありがとう。これで改革にも着手できそうだ」

 

「これを、普及させるので?」

 

「そうだ、村長。この領内、ひいては北条家全体にな」

 

「これらがあれば農作業は格段に進化しましょう。ありがたいことでございます」

 

民が豊かになれば武士も豊かになれる。上手く行けば生産力が爆発的に上がる可能性もある。期待大だ。予算をこれに割くとしよう。足りなければ小田原に泣きついてみる。ここが瀬戸際かもしれない。資本金を確保して、普及させなくては。

 

 

 

 

 

城に戻り、担当官に指令を出す。農政改革を行い、さしあたっては、踏車と備中鍬の普及、商品作物の生産強化の二本柱とする、という旨を伝えた。予算は見積りを見てから決定するがよっぽど非常識な額でなければ基本的に承認する旨も。

 

まずはこちらから大量注文をして、一定量を生産させる。それを村ごとに分配。これは配布としよう。これでは配ったリターンは無いが、初期投資だ。惜しむわけにはいかない。後は商品作物を売った金で農具が壊れたら買って貰おう。これで何とかなるはずだ。

 

経理担当や城下の管理の担当官にも連絡する。これでひとまずこちらからの働きかけは終わりだ。後は吉報を待とう。上手く行けば、今後の戦闘を優位に進められる可能性が高いしな。

 

農業面ではまだまだやることはある。農具の開発や肥料の改良の他にも、新田開発に治水工事もしなくてはいけない。火薬なんかも生産したいし、特産品も欲しい。やるべき事は盛りだくさんだ。一歩一歩やっていこう。そう思って、ひとまず目の前の書類の山を片付ける事にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

農政改革の評判は悪くない。と言うより、むしろ称賛を浴びているようだ。無料配布が良かったのかとも思ったが、その他にも楽になった等の意見が多いという。成功にホッとしつつ、次の問題に着手する。

 

それはこの城の本来の役目、最前線基地としてのものだった。そろそろ河越夜戦に備えなくてはいけない。その為の話をするために、城の幹部二人を呼んだ。イコールこちらの直属の部下兼もっとも親しいものたちである。

 

二人とは、軍事担当の城代:北条綱成と、内政担当の副将:花倉兼成の事である。加えて今は段蔵もいる。

 

内政が一段落したら、次は前々から計画していた事を実行に移す。忍が必要不可欠な計画だったが、幸いにもこちらには史実において武田上杉両家に恐れられた関東有数の手練れな忍、加藤段蔵が仕えてくれた。その配下たちも少数ながら精鋭と言うし、これは諜報網に関しては他をリードできるかもしれない。風魔との合同作戦も視野に入れている。

 

「段蔵、どうだ、城には慣れたか」

 

「はい。皆様良くして下さっております」

 

「そうか。早速だが、少し調べてきて欲しい。場所は信州諏訪並びに甲州躑躅ヶ崎館」

 

「承知。されど、具体的には何を調べればよろしいでしょうか」

 

「諏訪と武田の現状における関係と、武田の今後の動きが知りたい。これらに類似するものは何でも構わない。教えてくれ。」

 

「わかりました。早速行って参ります」

 

「頼むぞ」

 

「はっ!」

 

音もなく消える。残された二人は訝しげな目でこちらを見てきた。

 

「次は信州で事が起こるぞ。それが波及して今川や関東管領等が動きだすやもわからん。情報は命だ」

 

「それはわかってます。しかし先輩。武田は本当に諏訪へ行くでしょうか?」

 

「行かないと?」

 

「諏訪頼重は武田晴信の義弟では?」

 

「そんな事に配慮するような者はもとより父親を追放しない」

 

「確かにそうですね…」

 

史実では武田家は諏訪へ侵攻する。その後に今川が駿東へ進軍してくる。そちらに主力を張り付けたタイミングで関東管領率いる大軍がやってくる。一連の流れはこうなので、最初の武田家諏訪侵攻がいつなのかで大分こちらの予定は変わってくる。未来知識があるが故にできる行動だが、諸刃の剣でもある。取り扱いは細心の注意を払わなくてはいけない。

 

加えて、今後武田家との関係性を考える上で、向こうの方針を知ることは大切になるだろう。人となりがわからなければ、策もたてられないと言うもの。小田原でも何かしらアクションを起こしているだろうが、こちらでも知りたい。職務違反ではないので大丈夫だろう。

 

「さて、小田原から伝達が来た。今川に不審な動きあり、だそうだ」

 

その言葉に、二人は少し表情を歪める。今川に多少なりとも含むところがあるのだ。当然と言えよう。

 

「事と次第によっては一度小田原へ出向かねばならないかもしれない」

 

「何故ですの?河越城主が今川との戦に何の関係が?」

 

「そうです。先輩が行く必要があるのですか?」

 

「良くも悪くも、これが北条家の性質だ。どうしようもない。評定が無くては動けないのだ」

 

本当は行きたくないが、そういう訳にもいかないだろう。理由もなく拒否できない。軍が実際に来たなら話は別だろうけれど…。このまま史実通りに進めば、必ず今川は攻めてくる。関東管領より先に。その時には小田原へ出向かねばならない。河越に二人を残して、な。綱成なら守りきれると信じているし、民衆に離反されないようにもしてきた。出来ることはしてきたつもりだ。

 

最近は練兵と新規募兵も行っている。周囲の領主の兵も含めれば四千は捻出出来るだろう。史実では三千で籠っていたはずなので、大分楽になるはずだ。兵糧も準備している。上杉はよっぽど大量に取っていったようで、蔵の米を税分だけ取っても四千が半年は籠れる量はあった。城に少しだけ改修も施した。これだけすればいけるはずだ。

 

一応、管領家や古河公方家、扇谷上杉にも忍を放っているがあまり意味はない。と言うのも、如何せん防諜の精度が高い。段蔵ならいけるだろうが、直近に起こるだろう出来事を優先して武田家に送っている。流石に、戦支度を始めればわかるだろうが、それではやや遅い。まぁ来るのは確定事項だ。過剰に情報収集する必要性は感じなかった。タイミングくらいは掴みたいが。

 

「もし、私が不在の折りに一大事があれば、二人だけが頼りだ。この城を守り抜いてくれ。必ず戻ってくる。何があってもだ。頼むぞ。」

 

「お任せ下さいまし。全部綱成さんがやってくださいます。わたくしは兵糧の管理でもしておりますから」

 

「自信満々に言っておいて結局丸投げじゃないですか…。まぁ、それはともかく承知しております」

 

「すまない…。周辺の領主たちには自分の城を放棄して一番堅固なこの城に籠るように伝えてある。万が一の際には、赤い狼煙が上がる。それを見たら直ちに城に籠れ。良いな?」

 

「「はっ!」」

 

その返事に頷きながら、運命の分かれ道が近いことを知って少し震えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上野、平井城にて貴公子のような出で立ちの男が不機嫌そうに座っていた。彼の名前は上杉憲政。関東管領である。幼くしてその地位を譲り受け、それ以来権謀術数に手腕を発揮し、関東の伏魔殿で生き延びてきた。関東最大にして最後の旧世界の権力者である。侍るのは彼の忠臣、長野業政。斜陽の管領家に仕える名将だった。

 

「管領様、松山城から書状が参りました」

 

「松山城?あの小娘が僕に何の用があるというのさ」

 

「それは中身を見てみないことにはわかりかねます」

 

「仕方ないね。読んでやるとするか」

 

「いかがでしたか?」

 

「……送り主は小娘じゃないな。難波多弾正だろう。」

 

「して、なんと」

 

「北条を征伐するため、過去の遺恨を流して管領様が関東に号令をかけてくれ、だそうだ」

 

「なんと…関東中にですか!」

 

「発想は悪くない。僕に相応しい戦だね。…あの姫武将どもに一泡ふかせてやる。業政、準備をするよ」

 

「…はっ!」

 

誇り高い彼は関東管領の自分がこんな上野なんかにひっそりとしているのが許せなかった。そして、その原因たる北条家を嫌悪していた。また、姫武将の制度も嫌っていた。姫が当主の北条家は、彼の憎むものの集合体であった。

 

この日を境に、関東中に密書が飛び回る。古河へ、下野へ、常陸へ、安房へ、下総へ、北武蔵へ。決戦の日はすぐそこまで来ていた。




遂に河越夜戦がやって来ました。北条家きっての大舞台。怒濤の展開です。こう御期待。


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第25話 運命の刻来たれり

いよいよ始まります。運命の戦いが。


駿河今川館。ここでは太原雪斎主導で対北条家の軍議が開かれていた。先に挙兵して駿河戦線に北条家主力を引き付ける事を関東管領上杉憲政より要請され、これを受諾するか否かの会議だった。

 

「受諾一択でしょう。何処に断る理由があると言うのか、逆にお聞かせいただきたいぐらいです」

 

激しく主張するのは岡部元信。史実においては桶狭間の戦いの際、鳴海城に籠り、他の今川軍が敗走するなか踏みとどまって主君義元の首を交渉によって奪い返した。最期は武田家に仕え、高天神城に籠り徳川家康相手に善戦するも討死した。今川家きっての名将である。

 

「それがしも同意ですな。とっとと我らの領土を取り返さねば」

こちらは朝比奈泰朝。名門朝比奈家の生まれであり、史実では斜陽の今川氏真を最後まで見限ることなく、氏真が小田原へ逃げる時も同行した忠臣である。

 

花倉の乱以後、この二人の姫は新たな今川家の重鎮として大きな発言権を持っていた。この場には他にも朝比奈元長、朝比奈泰長、朝比奈元智、安部元真、庵原元政、鵜殿長照、孕石元泰、久能宗能、関口親永、松井宗信など今川家のそうそうたる武将が勢揃いしている。

 

「そう焦らずとも。関東管領の申し出では、彼らはほぼ空き城同然の城を攻め落とすのだろう?それでは北条家の主力と戦う我らが損ではござらぬか」

 

「しかし、いつまでも河東を北条に占拠されているというのもいかがなものかと」

 

「左様左様。御屋形様は当主になられて日が浅い。ここで武威を示さねば遠江、三河の豪族どもがまた暴れだすやもしれませぬぞ」

 

「しかしなぁ、花倉の折りに味方してもろうた恩は返さねばなるまい」

 

「そんなものとっくに払ったわ!」

 

「その通り。河東占拠は受けた恩と比べても重い咎ぞ!」

 

今のところ会議は賛成多数であった。当主の今川義元は相変わらず『よきにはからえ』と言って興味なさげに眺めるだけである。

 

「どうあれ、河東は取り戻さねばならない。管領の申し出を受ける方針としたい」

 

「兵の損失はいかに抑えますかな」

 

「武田を使う。陸奥守殿を引き取ってやった恩を返して貰おうではないか」

 

太原雪斎は盛っていた扇をパチリと鳴らし、諸将を見つめる。脳内には花倉の乱における北条家の姿が浮かんでいた。氏綱が残した軍団に精強な家臣。恐れるべき存在だった。

 

特に…と雪斎は回想する。知謀に優れた当代の当主、氏康。とんでもない奇策で城を落とした男、一条兼音。聞けば後者は関東の要衝、河越城に配置されたという。氏康の並々ならぬ信頼がうかがえた。このまま放置してはまずい。長年の経験による危険信号が脳内でけたたましく音を鳴らしていた。

 

「戦支度を。北条の娘をここで叩く」

 

諸将は頭を垂れる。雪斎の命令は最早義元の命令と同じだった。

 

完全に潰すのはいささか気が引けるが、これも主のため。此方は適当な所で講和してしまえばよいのだ。後は関東管領が勝手にやってくれるだろう。それで損失は減らせる。

 

真の目的は西の都。東国に興味などない。武田はいい駒だ。せいぜい利用させて貰うとするか。

 

黒衣の宰相は、その目を光らせ立ち上がる。海道の名門が牙を剥こうとしていた。

 

 

 

 

 

 今川家の戦支度の少し前、武田晴信は信州諏訪に侵攻。これに大勝し、諏訪領一帯を支配下に置いていた。この勝利の原因には山本勘助の高遠家調略並びに軍事改革によってより統率の執れるようになった軍団の存在、そして諏訪頼重の”たとえ敗北しても一門であるから殺されはしないだろう”という認識による早期降伏があった。

 

 これにより武田家の信濃における勢力は拡大することとなるが、それは同時に他家からの反発と敵視を買うことになる。加えて諏訪の民も信虎時代の甲斐の暴政を知っているため、容易には心服しなかった。

 

 そしてこの侵攻は同時に、武田家内においてある不和を生む原因ともなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 関東中に密書は飛び回る。北条家の日本随一と言える諜報網を潜り抜けて、諸将の元へ届いていた。中でも大身と言えるのは、衰えたとはいえ古河城にて未だ一定の権威を持っていた古河公方足利晴氏である。彼は北条家の人間を妻としており、半分北条家の傀儡状態であった。先の第一次国府台の戦いでは北条氏綱を支援し、自らに敵対する縁戚の足利義明を討たせた。

 

 古河城は関東管領上杉憲政の暗躍を知っていたが、縁戚であるため、親北条の立場をとっていた。関東管領は元々古河公方ひいてはその本来の地位である鎌倉公方の補佐役であった。しかし室町幕府の政権下で幾度となく対立。その仲は決して良好とはいえないというのも理由にあった。

 

 とはいえ彼も戦国の雄の一角。北条家にわざわざ教えてあげるほど親切ではなかったが。そこへ飛び込んできた一枚の書状。差出人は関東管領上杉憲政。曰く、

 

『伊勢の流れ者、ふてぶてしくもかつての執権北条の名を名乗る。かのごとき成り上がり物はいずれ、関東全土の支配を目指すに相違なし。ともなれば、権勢亡き公方様はいかなる憂き目にあうか、賢明なる公方様は容易くご理解いただける筈に候。我ら管領家の衰勢がその証。我らが滅ぶ日が公方様の滅ぶ日。唇死すれば歯寒しと申します。もし公方様が当方にお味方下さるならば、御所を鎌倉に移して、以前のような権威を復活させましょうぞ。関東静謐は御身の手によって実現されるのです。』

 

 これは足利晴氏の心を動かすには十分だった。特に心を惹いたのは「鎌倉」の文字。戦乱によってかつての本拠地鎌倉を追われて幾星霜。そこに戻れるのではないかという希望は、北条家を裏切るに足る理由なのである。古河城はひっそりと臨戦態勢になっていった。

 

 

 

 

 

 

 所は変わって上総は久留里城。上総にて房総切り取りに躍起になっている里見義堯の元にも密書は届いていた。前線に出ている正木時茂に代替で、現在義堯の相談には安西実元が担っていた。

 

「殿、書状にはなんと」

 

「管領は関東全土を巻き込んで北条征伐を始めるらしい。我らにもその戦列に加われだそうだ」

 

「で、いかがするのです」

 

「悩みどころよな。管領は上総支配の容認と引き換えに参陣を要請してきておる」

 

「いかなる勢力が加わるのでしょうか」

 

「書状を持って参った使者の話では、管領山内上杉、扇谷上杉、下野の佐野・小山・宇都宮・壬生・那須、常陸の江戸、小田・土岐・結城・大掾・鹿島、下総の相馬、梁田…あとは古河公方」

 

「足利晴氏様が参陣するのでございますか。しかし、古河公方と北条は縁戚ではございませんでしたかな?」

 

「大方鎌倉に戻してやるとでも言われたのであろうよ。馬鹿め、若年でありながら関東管領の座にとどまり続けておるあの権謀術数の化け物が容易く約定を守ると思うか?そんな体たらくだからいつまでたっても北条の傀儡から逃れられぬのよ」

 

「とはいえ、それだけの数の将が参陣するとなれば、数は五万六万では収まらぬでしょう。七万、八万は集まるかと。これだけの数に攻められては流石の北条もひとたまりもありますまい。古の項羽、韓世中でもおれば話は別でしょうが」

 

「さてどうであろうなぁ…」

 

 己の見解に疑問を示す義堯に安西実元はムッとしたような視線を向ける。

 

「窮鼠猫を噛むとも言うぞ?管領軍は力攻めはできまい。諸将の間に手柄の差などでもめ事が起きても困るしのう。それに熱心なのは管領や扇谷上杉など今日明日にも北条に押されて滅亡するやもしれぬという家だけよ。その他は烏合の衆。容易に分断できよう」

 

「それは確かに一理ございますなぁ」

 

「……半年だな。半年持ちこたえられれば北条の小娘の勝ちよ」

 

「持ちこたえられるでしょうか」

 

「河越城。ここが落ちるか否かが運命の分かれ目であろうな…」

 

 我が野望、房総制圧には古き権威は邪魔だ。これを除いてくれるなら北条に援軍さえ出してやっても良いかもしれない。義堯はそう考えていた。両上杉が敗走すれば、北条はその残党狩りに北武蔵そして上野へ向かうだろう。その間に下総へ進出できるやもしれぬ…。思考は巡り、回る。

 

「賭けてみるか。北条に」

 

「は?恐れながら申し上げると気でも触れましたか?」

 

「お主も歯に衣着せず言うな…。だがもし管領方が敗れればどうなる。時には賭けも必要よ。かなり分の悪い大博打だがな…」

 

 決して里見義堯も無謀な賭けに出た訳ではなかった。両上杉に比べ、北条の国は富んでおり、民は安寧を享受している。万年君と呼ばれた義堯は北条家をライバル視しながらもその内政を高く評価していた。国が富んでいる家は強い。それが彼の持論であり、経験だった。入ってくる河越城下の農政改革の情報。彼は知らないが、小田原城にまだいた時代に一条兼音が提案した測量法の改善によって建設されている街道網。そこを使い活発化し始めている商業。着実になされている史実よりもハイペースでの内政革命は里見家を史実とは全く異なる道へと歩ませていた。

 

 加えて言えば、現在は管領を始め、諸将は北条に危機感を抱いている。しかしもし北条が滅べば次に打たれる出る杭は里見家なのは目に見えて明らかであった。

 

「北条に有事があれば、千葉利胤と真里谷信隆に伝令を送れ。あそこは古河公方よりも北条に縁が深い。最早その版図に組み込まれるのも時間の問題だ。必ずや北条につくだろうよ。共に下総にて共同戦線を張る。少しくらいは、兵をこちらに引き付けてやろう。そこから立ち直れるかは小娘次第よ。実元、兵は幾ら出せる」

 

「千葉、真里谷と併せて、約一万強かと」

 

「それだけあれば十分だろう。あくまで本来の戦場は河越であろうしな」

 

「…承知しました。危険な賭けではございますが、殿の仰せとあれば従いましょうぞ」

 

 危険な賭けに出る主君を通常の大名家であればもっと強く諫めるが、里見家家臣団は義堯の事を信頼していた。こうして、房総半島の雄・里見義堯と真里谷、千葉の連合軍が下総に共同戦線を張ることとなる。必然的にそこに兵を張らねばならないため、将来的に河越城を囲む兵は減ることとなる。これがいかなる未来を招くのかはまだ誰にも分らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今川家からの最後通牒が相模小田原城へと届いた。これを受けた北条氏康は、領内の有力家臣を招集。臨時の評定を開いた。多米元興、大道寺重時を始めとして笠原信隆、笠原康勝、間宮信元、間宮康俊、狩野泰光、清水康英、石巻家貞、松田頼秀、娘の松田盛秀、一門の北条為昌、氏照、氏邦、氏尭、氏房、直重、そして一条兼音である。本来は評定のメンバーである北条幻庵と葛山氏広はそれぞれ長久保城と吉原城に籠り今川の動きを見張っている。

 

「遂にこの時が来た。今川家が動いたために私は小田原へ向かう。その間の城はお前たち二人が頼りだ。くれぐれもよろしく頼む。赤い狼煙が見えた時は…」

 

「全軍で城に籠る、でございますわね」

 

「左様。応戦してはならぬぞ。必ず私は戻ってくる」

 

「信じて待っております」

 

「わたくしもです」

 

 いつか来ると分かっていたこの時のために様々な準備をしてきた。十分に耐えられると思っている。

 

「では私は出立する。生きてまた会おう」

 

「「ご武運を」」

 

 見送られ、城門を出る。運命が我々に味方する事を祈ろう。人事を尽くして天命を待つばかりだ。

 

 

 

「主様。ただいま帰還しました。何とかご出立に間に合いましたな」

 

「段蔵か。どうであった」

 

「は。武田晴信は諏訪へ侵攻。これを既に攻略しております。武田家内においては、夫を殺されることを恐れる諏訪頼重に嫁した晴信の妹、禰々殿と当主晴信との姉妹関係に亀裂が走っておりました。他の一門衆や家臣団もこれに苦慮しておるようです。諏訪頼重と禰々殿、そして頼重の妹の諏訪四郎は甲斐躑躅ヶ崎へ護送されました」

 

「ふむ……武田も一枚岩ではない、か」

 

 この後、諏訪頼重は殺される。禰々御寮人も亡くなるはずだ。四郎、おそらくは勝頼が既に誕生しているのは想定外だが、彼女は生き残れるだろう。諏訪の血を根絶やしにしては、武田家による諏訪支配は不可能になるだろうからな。

 

「よしご苦労。これより城に戻り、城に一大事が起こった時は私の元へ駆けてくれ。お前の神速ならば、馬より早く小田原へたどり着けるだろう。」

 

「承知しました。ご無事を祈っております」

 

「ああ、ありがとう」

 

 武田が既に動いていたか…。諏訪の生き残り、そして妹たるその妻と武田晴信との不和は何かにつけるかもしれない。覚えておこう。しかし、今は今川だ。これを処理して一刻も早く城に戻らねば。そう思い馬を走らせる。曇天の空さえも、不吉に見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 居城を出立して二週間が過ぎた。評定の場に来るのは河越赴任以来だ。何人かいない面子は、駿東にて今川の備えに当たっているのだろう。氏康様の顔色はお世辞にもいいとは言えない。元々のメンタルが強いお方ではない。心労が降りかかってきた為こうなっておられるのだろう。精一杯の虚勢からくる仮面も今は張り切れていなかった。

 

「知っての通り、今川から最後通牒が来たわ。内容は駿東、つまり富士郡と駿東郡の引き渡し。従わない場合は武力を以て頂戴しに参る、と。諸将の意見を聞きたい。単刀直入に聞きましょう。戦闘か、受諾か」

 

 ここまでは史実通りの展開だ。確か、今川軍には武田晴信本人が率いる武田軍が参陣していたはず。厳しい戦いになるだろう。

 

「姉上、易々引き渡すなどという屈辱に甘んじてよいはずがありません!北条はもう今川の家臣筋ではないことを示しましょう!」

 

 北条氏邦のこの発言に多くの将が頷く。北条氏邦か…主筋に文句は言いたくないがお前が短慮でキレやすいから名胡桃城を攻めて北条家滅亡の原因を作ったためあんまり好印象ではない。

 

「富士川で防衛線を張れば負けることはありますまい!」

 

「北条家の力を見せてやりましょうぞ!」

 

 多くの将が今川との開戦に賛成のようだ。こちらは1万弱は出せる。向こうが幾ら出せるかは知らないが、立ち向かえない兵力差ではないだろう。長期で陣を張れば、まだ十分に心服していない遠江、三河の豪族が反乱し始めるだろう。加えて尾張から織田信秀が攻めてくる可能性が高い。

 

「よろしい、では賛成多数とみなし、今川家の最後通牒に対し断固拒否を示すとします。それでは、陣触れを…!」

 

氏康様が青白い顔で号令をかけようとしたその時だった。

 

「申し上げます!」

 

評定の場に声が響く。

 

「誰かしら」

 

「河越城主、一条兼音様の臣下、加藤段蔵にございます」

 

「段蔵…鳶加藤ね」

 

「段蔵殿、お久しぶりでございます!それがしの事を覚えてございますか、最後にお会いしたときはまだそれがしは幼少でございました…」

 

「ええ、覚えておりますとも、三代目風魔小太郎。しかし今は昔を懐かしむ暇はありません。評定の場に押し入る無礼は重々承知なれど、火急の事で伝令がありこうした次第!」

 

「一条殿、貴殿の家臣であろう。報告させよ」

 

「狩野殿、仰せはもっともでございます。段蔵、皆様にも伝えよ」

 

「はっ!申し上げます。主様が発たれてより数日後、今日から数えて三日前に関東管領率いる八万の軍勢が、河越城を包囲しましてございます!」

 

告げられた運命の戦の始まり。歴史を左右する重大局面に唇を噛みしめ、身震いする。

 

前を見れば、より一層顔面蒼白となった氏康様が、ポトリと手にしていた扇を落とした。今にも倒れそうな様子でふらつき、腕を力なく落とす。

 

「そんな…」

 

虚ろな目で何とか絞り出されたその声がこの場の全員の声を代弁していた。



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第26話 興国寺城の戦い 前

 評定の場は大荒れだった。ざわめく者、嘆く者、失神しそうな者様々だ。私も史実を知らなかったら果たして全く動揺せずにいられたかは分からない。多分不可能だろう。しかし、気になるのは八万もの大軍がポンと出現するのだろうか。

 

「段蔵」

 

「は」

 

「八万もの大軍、いずこから出で来たのか。そうそう容易く短時間で揃えられる数ではないぞ」

 

「私が城を出ました時は先鋒の扇谷上杉軍一万五千ほどが接近しておりました。我が配下に周囲を調べさせましたところ、後方に山内上杉軍三万、足利晴氏軍二万五千、その他諸将も数千から数百の手勢を率いてゆっくりではありましたが城を目標に進軍しておりました。故に、それら全てを集計し八万と計上した次第」

 

「なるほど」

 

「赤の狼煙が上げられし後、兼成様並びに綱成様の両名が陣頭指揮を執り籠城を開始。周辺の土豪の兵力もかき集め戦闘要員四千ほどで籠っております。城下の民も収容しており、こちらも入れると五千ほど。城の兵糧は半年ほどは何とかなると、兼成様が…」

 

「ひとまず最悪の事態は避けられたか…それだけでも僥倖だ」

 

 まったく戦えないという状況は避けられた。状況は限りなく最悪に近いが、まだ救いはある。

 

「み、皆の者、静まりなさい!」

 

 何とか現実を受け止め回復した氏康様の号令により恐慌状態になっていた場は一旦静まる。

 

「嘆いていても現実は変わらない。絶望的な状況を変える策を出す方が賢明よ。こうしている間にも河越は囲まれ、駿河には今川が迫っている。早急に対応策を出しなさい」

 

「駿東を捨ててでも河越の救援に行くべきだ!」

 

「では貴殿は、今川が折角集めた軍勢をむざむざ一戦もせず解散させるという確信がどこにあるのか。我らが武蔵に注力する間に箱根を越えて小田原を囲まれればその時点で我らの滅亡は必定!」

 

「では、お主、河越に籠る四千を見捨てるおつもりか。城主の一条殿の前でよくぞ申せたものよなぁ!」

 

「そうは言うておらん!しかし一戦もせずに河東を捨てては我らの威信に関わるぞ」

 

「威信云々は今後がある前提の話でござろう!我らは今この時も滅亡の憂き目にあっておるのだ!」

 

 二正面作戦は厳しいことが多い。勝てる例もあるが、勝てないパターンも多い。結局は条件次第なのだが、今回が我々に有利な二正面作戦であるとは言い難い。どちらかの戦線を何らかの形で放棄せざるをえない。

 

「一条殿にお聞きしたい。城主なき城ではあるが貴殿の居城はいったいどれほどの期間戦えるのか」

 

「力攻めされなければ、兵糧の続く限りは」

 

「されないという根拠はおありか」

 

「我が城は囮でしょう。氏康様旗下の精鋭をおびき出し殲滅するための。本隊が来るまで強攻しないでしょう。諸将の手柄争いもありますので管領としては面倒を避けるためにもやらないかと」

 

 強攻されても多少は持ちこたえられるように改修をしてきたつもりだ。もっともその場合勝利は難しいだろうが。

 

「兼成様も、綱成様も信じて待つと。たとえいかなることがあろうとも絶対に降伏はせず、お戻りになるまでたとえ一年でも十年でもお待ち申し上げると仰っておりました」

 

「そうか……」

 

 段蔵の補足によってもたらされた城の悲壮な覚悟に場が沈む。信頼されていることに安堵しつつ、すぐに向かえないのがもどかしかった。

 

「こう揉めていても埒があかない。どちらを先に片付けるか、決めねばな」

 

 評定ではまだ若手のため黙っていることが多かった元忠が口を開く。誰もが沈黙している今、それはありがたかった。が、それでも誰も重苦しい表情を浮かべ押し黙る。どちらを選んでも片方を捨て置く非情な決断。そんなことを誰も言いたくはない。だからこそ、当事者が言わねばならないだろう。城に置いてきた者たちの顔が頭をよぎる。今すぐにでも救援を!と叫びたい気持ちを押し殺して、口を開く。

 

「申し上げます」

 

「何か」

 

「僭越ながら提案させていただきますと、直ちに全軍を駿河に差し向けるべきかと存じます」

 

 正気を疑うような視線がこちらに突き刺さる。段蔵からも厳しい目線が飛んでくるのが伝わった。

 

「お前、ふざけてるのか!囲まれてるのはお前の兵と将だろ!そんなお前が、何で…」

 

「氏邦様、恐れながら申し上げる!私の心の底から駿河を優先するべきと考えているとお思いか!」

 

 胸倉を掴まれながら怒鳴られる。本当はこんな事言いたくなんかない。だが、私情を優先させてはいけない。私の悲しさによる怒りをこめた視線に、氏邦様は手を離す。

 

「すまない…。悪かった」

 

「いえ、お気になさらず」

 

 そう返し、軽く心の中でため息をつく。義妹を捨て置けと言われあまり気分のよろしく無いであろう氏康様が軽く嫌味をこめた口調で問いかける。

 

「そこまで言うという事は何か明確な根拠があって河越を後回しにするという事ね」

 

「勿論でございます。無策でこのようなことは申しません」

 

「では聞きましょう」

 

「単純に敵方のやる気の問題にございます。今川方は当方の滅亡までは求めていないでしょう。最後通牒を突き付けてきたのがその証。交渉の余地はあるという事です。しかし管領方はそうはいかぬでしょう。彼らの最終的な目的地はここ小田原。目指すは勿論、当方の滅亡。ともなれば交渉の余地がある方を相手にするのが先でございましょう。先ほど申しました理由により管領方は力攻めはしてこない筈ですので」

 

「…河東を捨てるのね」

 

「そうならないのが最上ですが…最悪はそれも致し方ないでしょう」

 

「……」

 

 河東は広く、経済的・農業的にも大切な土地だ。易々とは捨てられないだろう。しかし、ここで耐えなくてはこの先生き残れない。

 

「よろしい。苦渋の決断だけれど最悪河東は放棄。けれど、そうならないためにも駿河へ全軍を差し向ける。異存あるものは!」

 

「一番心苦しいはずの一条殿がわざわざ我らの代わりに提言してくださったのです。反対の者はいますまい」

 

 大道寺重時の言葉に一同が頷く。

 

「しかし、長期の滞陣はこちらに不利。今川が兵を引き返さなくてはいけない状況を作りましょう」

 

「引き返す…という事は三河で蜂起を起こさせるのかしら。あそこはまだ義元に、というより今川に忠誠を誓ってはいないでしょうし。隙あれば独立の機会を窺っているはず」

 

「それもありますがもう一つ、尾張へ」

 

「尾張…隆盛の織田弾正忠信秀ね」

 

「その通りでございます」

 

「早速使者を向かわせるわ。では陣触れを。直ちに駿河へ向かう!」

 

 評定の間の全員が頭を垂れる。苦しい戦いが始まろうとしていた。

 

「氏康様、この後少々お時間よろしいでしょうか」

 

こちらも考え出した策を、使うときが来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「北条軍は戦うことを選んだようです。先鋒が既に箱根を越え、興国寺城付近に陣を張っております」

 

「数は」

 

「約三千」

 

 少ないな、と報告を大石寺(富士宮市に存在する寺院。日蓮宗)で聞いた雪斎は考えた。北条家の国力的にはもう少し出せるはずであるからだ。先鋒なのか、それとも捨て石か。判断しかねる所だった。判断しかねる理由はもう一つあり、北条家の防諜能力の高さにあった。北条幻庵の必死の働きにより、今川方の諜報網は機能不全の状態であった。もっとも、そちらに全振りした結果上杉軍の集結を許してしまったが。

 

 いずれにしろ前衛部隊であることは明白だ。ここまでの北条方の城に一兵も籠っていなかったことを鑑みても、かき集めて三千なのだろう。本隊の損耗を抑え、自らの主君に万が一が無いようにするためにもこの場にとどまってよかろう、と雪斎は判断する。派遣する部隊の大将は朝比奈泰朝。まだ頑強に抵抗する吉原城には岡部元信を当てることとした。二人とも発言力はあるものの、具体的な武功はまだ足りなかった。ここで稼いでもらうつもりである。将来の義元を支えるためにも必要なことだった。

 

 ただ、氏康の本隊が出てこなければ意味はない。前衛に消耗して、本隊にやられては元も子もない。本隊が出てくるまで待つ。もし三か月以内に出てこなければ前衛に総攻撃だ。そうすれば氏康も重い腰を上げるだろう。半年が滞陣の限界。それを見越して動かねばならない。とは言え、負けはしないだろうさ。本隊が出てきても。

 

雪斎は全軍に配置命令を出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

河東騒乱、概略図

 

 

【挿絵表示】

 

興国寺城の戦い布陣図

 

 

 箱根を越え、興国寺城の前に布陣した。まもなく敵が来るだろう。

 

「三千で勝てる訳がないぞ。どうする気だ。進言したのだからして策くらいあるのだろう?」

 

「我々に必要なのは耐えることです。今川勢が撤退しなくてはならない状況に追い込まれるまで」

 

「だがなあ…」

 

 元忠の疑問ももっともだった。言いだしっぺだから今この前衛部隊三千の指揮をやらされているが、実際は誰も志願しなかったからお鉢が回ってきたとしか言いようがない。でなければこんな若造に指揮官の座は回ってこない。とりあえず、吉原城に松田頼秀殿を急行させたが、本当に申し訳ないことをした。理由があってあそこに送ったが、死地に近い。感謝以外の感情がない。

 

 あそこ以外はほぼ空き城だ。今手元にいる兵力は、籠城するはずだった河東の兵をかき集めている。本当だったら私の手勢は三千近くいるのだが、全員もれなく河越に封じ込められている。

 

 こちらの読みが正しければ、今川軍も力攻めはしてこない筈だ。彼らは三河に行きたがっている。正確には太原雪斎が、だが。河東を奪うのに大きな損害を負っては困るのだ。彼らが総攻撃をするなら、もっと時期が過ぎてから。読みが外れたら破綻する戦略なのでかなりの綱渡りだ。

 

情報戦では勝っているのがこちらの強みだ。それを活かせるかが命運の分かれ目だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 布陣してから一月近くが経過した。いまだに今川軍に動きはない。小競り合いは何度も発生しているが、本格的戦闘に発展したことはついぞなかった。まだか。まだ尾張は動かないか。風魔と一緒に段蔵も派遣している。動きがあれば戻ってくるはずだ。一方で作戦発動に必要な道具の数揃えもあまり上手くいかない。

 

「船の数が足りない…」

 

「駿東だけでは限度がありましょうな。北条家中の軍船をかき集めて、兵糧輸送船に偽装し沼津城に送っておりますが輸送も大変なようで。なにせ一番小型の小早とは言え、そこそこの大きさはありますからな。夜間の作業故いまのところ今川の軍船には見つかっておらぬのが幸いですが」

 

「漁師の小舟でもいいので一艘でも多く船が欲しいのですがね…」

 

「申し上げます。長久保城より書状です」

 

 清水康英殿との会話を切り上げ書状に目を通す。中身はかなり予想外の内容だった。

 

「なんと書かれておりましたかな」 

 

「里見が援軍を申し出てきたと」

 

「…それがしも老いましたかな。もう一度お願いいたす」

 

「里見が我らに与すると」

 

「そんな馬鹿な」

 

「私も同感ですが、確かのようです。里見軍は真里谷並びに千葉と合流し、一万二千で下総関宿城を包囲したと。古河公方はそちらに兵を割くために河越から撤退したようです」

 

「そんなことが…」

 

 もはや知識は完全に頼りにならなくなりつつある。こんな展開は全く予想してなかった。だが、光明も一つ見えた。里見家はかなりの水軍力を持つ。吹っ掛けられるだろうがこの際仕方ない。急いで書状を送り返し、里見家から軍船の借り入れを行うように頼む。勝てる見込みが見えてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 里見家に関する書状を受け取って更に一か月。いまだ両軍睨み合ったまま。

 

「ただいま戻りました」

 

「おお、どうだった」

 

「は、織田信秀の説得に成功。直ちに軍を起こし、三河へ侵入しています。これに感化された三河の国衆が蜂起しております」

 

「よし、この情報は…」

 

「小太郎が氏康様に。敵陣にはまだ伝わっていないかと」

 

「段蔵、一刻後、敵陣に侵入し朝比奈泰朝に意図的に情報を流せ。こちらは長久保城に早馬を送る」

 

「承知」

 

来た。遂に作戦の発動タイミングが。雪斎がいればともかく、いないなら成功の可能性は高い。武田の援軍は怖いが、信濃攻めに注力したい彼らは損耗を押さえるため全力では戦わないだろう。時期も最高。間も無く新月の今日は十分暗い。行けるはずだ。

 

成功を祈りつつ、命令を下す。

 

「全軍に告ぐ。時は来たれり。これより作戦を開始する。全軍直ちに、突撃!」

 

 

 

 

 

 

朝比奈泰朝は少し焦っていた。まったく出てくる気配のない氏康本隊。動きのないことに、陣中にも不満が溜まっていた。雪斎に書状を送っても、本隊が来るまで待てとしか返ってこない。同僚の岡部元信は今にも吉原城に攻撃を仕掛けそうな雰囲気だ。悩みの種は尽きない。

 

不気味に沈黙する北条軍の前衛を見ながら、何度目ともわからないため息を吐き出す。そこへある報が飛び込む。

 

「申し上げます!火急ゆえ伝令のみですが、大石寺の雪斎様よりでございます」

 

「何か!」

 

「尾張の織田信秀が攻撃を開始。合わせて三河の国衆が蜂起。河東攻略は中止し、直ちに撤退する。夜闇に紛れ、ひそかに撤退せよ、との仰せでございます」

 

泰朝の顔は真っ青になる。それが本当なら今川家は大変な事になるのは明白だった。

 

「し、承知しました。全軍に撤退命令を出します」

 

「ありがとうございます。それがしはこれより戻ります」

 

「ご苦労です」

 

朝比奈泰朝も凡庸な武将ではない。だが、まだ若かった。実戦経験の少なさともたらされた情報の重大さが、情報の裏付けをしないという致命的なミスを犯す要因となった。段蔵の演技もまったく自然である。今川軍の鎧を奪取し、完全に今川軍の将に扮していた。

 

今川軍はひそかに撤退を開始する。だが、虎視眈々と狙っている軍勢があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝比奈泰朝に情報がもたらされる少し前、早馬が長久保城と沼津城に着く。それを受け、北条軍の本隊六千が沼津を一斉に

 

『出港』

 

した。

 

そう、これこそが一条兼音が捻り出した起死回生の博打に近い策。情報戦で圧倒している為、今川軍の諜報網が機能していない事により意図的に織田軍来る並びに三河蜂起の情報をこちらに都合のいいタイミングで敵へ与えられる。

 

それを受け、ひっそりと撤退するはずの今川軍を前衛が強襲。戦闘せざるをえない今川軍のその背後の海岸線に夜間に本隊が強襲上陸をかける。そこでこちらの元忠隊(騎馬を全て預けてある)が敵を突破。岡部元信は吉原城の隊が懸命にしがみつき動けなくする。そして、本隊が敵の背後に陣取り包囲殲滅する。これが作戦だった。

 

情報戦に勝っている事と、水軍に一定以上の練度があることがこの作戦に踏み切った要因である。氏康も、状況打開のため、このある意味無茶苦茶な奇襲策に乗った。逆包囲の危険性もあるが、夜間ならば混乱に乗じられるだろうというのが北条軍の見解だった。

 

さながら東洋のノルマンディー上陸作戦。軍船はおろか、漁師の船まで徴収した一大作戦。劣勢下からの逆転を狙った状況的には仁川上陸作戦だろうか。いずれにせよ、失敗すれば北条家の命運は尽きる。まさに乾坤一擲。

 

更に、水軍にかなりの戦力を持つ里見家の軍船を借りられたことも北条家にとっていい状況だった。かくして、北条軍は渡海を試みる。新月に近く、月の光りも僅か。夜襲にはもってこい。反面、渡海には確実に向いてないが、今まで兵糧輸送を夜間に行い続けた事が味方した。夜間操船の技術はかなり高まっていた。

 

今川軍の水軍は昼間こそ活動しているが、夜間は港に帰っている。駿河湾は北条軍の勢力下であった。このため、戦闘用でない船を使っての輸送が可能だった。

 

今川軍は撤退することに意識が向けられており、灯りもつけず僅かな星の瞬きを頼りに渡海してくる北条軍に気づかない。

 

この策を告げられてから数ヶ月。ずっと今か今かと待ち構えていた本隊が気合い十分で行動を始める。

 

 

 

暗夜に紛れ、駿河を舞台に、史実では発生しなかった戦闘が始まろうとしていた。



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第27話 興国寺城の戦い 後

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。


「まったく動かないな」

 

「はい…ここまで長期の滞陣とは予想しておりませんでした。北条は挟撃されております故、すぐに片が付くと思っておりましたが…」

 

 今川軍の一角に武田菱が翻っている。援軍要請に応えた武田晴信以下三千の軍勢だった。陣中にあって晴信とその異形の軍師、山本勘助の表情は暗い。いまだ武田家の完全統治下にあるとは言い難い諏訪の支配、敗将諏訪頼重とその妻にして晴信の実妹、禰々の処遇、対高遠家の戦略…彼らの頭を悩ませるものは多かった。

 

 こんなところにいつまでも留まっている訳にはいかなかった。今回の要請を受けた理由は信虎を引き取ってくれたことへの返礼の意味や戦国の世への公式デビューの意図もあったが、真意はそこではない。勘助のアイデアである三国、すなわち駿河の今川・相模の北条・甲斐の武田での連携を実現させるためであった。そのために武田は今川・北条間の講和の仲介人となり、あわよくば不可侵を結びたいと思って要請を受諾した。どちらかが劣勢になったタイミングで講和の打診をするという策だった。

 

 武田としては、信濃に領地を持ち、争うのは必定の関東管領より、北条の方が都合がよかったのだ。だが、予想に反してまったく本格的な戦闘は起こらないまま時は過ぎていく。そろそろ講和の打診をしても良かったが、全く動かない北条の前衛並びに本隊に、晴信は底知れぬ寒気を感じていた。

 

 そんな陣中に様子見の信繁がやってくる。甲斐本国は信龍と信君に任せてきた。普段は反目している二人だが信繁に説得されて渋々協力している。四天王に彼らの補佐を任せ、陣中見舞いも兼ねてやって来たのだ。

 

「姉上、お久しぶりです。お変わりありませんか」

 

「次郎、久しぶりね。こっちは相変わらず何の動きも無しよ」

 

「そう…おかしいわね。そんな長期間陣を張れるほど余裕はないはずなのに。前衛の総大将は誰?」

 

「現在関東管領に囲まれている河越城主、一条兼音と申す者だそうで」

 

「一条…」

 

 信繁の疑問に勘助が答える。それは益々もって変だ、と信繁は思った。あの人がそんな風にぼーっとしているとは考えにくかった。彼女の脳裏には花倉の乱の記憶が鮮明に染みついている。僅か三十人で落とされた城。煌々と燃え上げある花倉城。炎に照らされながら翻る三つ鱗の旗。敬意さえ感じた鮮やかな手口。その記憶があるからこそ、信繁は無策で北条軍が陣を張っているとは思えなかった。

 

「姉上、勘助、用心して。向こうが無策とは考えにくいわ」

 

「しかしですなあ、一条兼音というものがいかほどの者でも雪斎には勝てますまい。不肖この勘助もそのような者に負けるとは思いたくありませんな」

 

「次郎、あたしもそう思う。確かに花倉の時の話は聞かされたが、あれは風魔という戦国の世でも類を見ない忍び集団の力があってこそではないのか」

 

「それはそうだけれど…」

 

 少し違う。二人は思い違いをしている。そう信繁は言いたかった。あの人の本当の怖さはそこじゃない。そういう策を思いついてなおかつそれを実行してしまうところなの、と。だが、諏訪戦におけるあっさりと得られた勝利のせいでいささか二人は自信過剰になっているきらいがあった。二人とも初陣だったため、それも仕方がないことだろうが。

 

 そこへ、駆け足の使者が飛び込んでくる。

 

「も、申し上げます。我が主、朝比奈備中守泰朝よりの伝令でございます。先ごろ、大石寺の雪斎様よりの報せによれば、尾張の織田信秀が国境より侵攻。同時に三河で国衆が蜂起とのこと。故に、夜間に早期撤退せよとの命が下りました。武田様におかれましても、我々と共に撤退をお願いしたいとのことです!」

 

「承知した。伝令ご苦労」

 

「はっ!」

 

 伝令を見送り、晴信は撤退指示を出そうとする。

 

「しかし、拍子抜けだな。こんな終わりとは。勘助これなら講和の打診を出来るかもしれないぞ」

 

「……」

 

「勘助?」

 

「おかしいとは思いませぬか。諜報に関しては北条の方が圧倒的に上。ならばこのような北条に有利な情報がなぜここまで伝わったのか…まさか!」

 

「意図的にこの状況を作りだしたと?」

 

「あり得るわ。だとしたら慌てて撤退してる私たちに彼らがすることは…」

 

 奇襲。三人がその最悪の予想に青ざめる。それと同時に前方、松井宗信が陣を張っている方向から喧騒が聞こえる。明らかにそれは戦によるもの。だが、未来にも名高き三人も次の報せの内容までは予想できなかった。

 

「申し上げます!北条軍本隊、海より来襲!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「全軍、作戦行動を開始。突撃!」

 

 指示を聞き、軍が突撃を開始する。士気は十分。反面焦りのある今川軍はこの奇襲にスムーズに対応できないはずだ。

 

 海岸線に一番近い元忠隊の千人が前方にいる鵜殿隊にまず突撃する。騎馬部隊を預けてあり、突破力の高い軍団がまず敵陣に穴をこじ開ける。それに続き、こちらの部隊八百人と清水隊六百人が突撃する。盛昌隊六百は側面から回り込み松井隊を叩く。普段なら敵軍との数の差によって瞬殺だろうが、奇襲・夜間・敵の混乱の三要素によってこちらの優位に戦闘が進んでいる。

 

「申し上げます!多米隊、鵜殿長照隊を蹴散らし海岸線を制圧!」

 

「よし、我らも出るぞ!かかれ!」

 

「「「「応っ!!」」」」

 

 前方の松井宗信隊に襲い掛かる。予想通り敵軍は大混乱に陥っているようだ。

 

「首は捨て置け!一兵でも多く殲滅するのだ!」

 

「申し上げます!本隊が上陸を開始しました!」 

 

 今夜最大の吉報に口角を上げる。勝ちが見えてきた。

 

 

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 夜闇の中に大船団が進んでいる。真っ暗な駿河湾の海上に、闘志をみなぎらせた精兵六千がいた。沼津城の港を出港した彼らは間もなく海岸線に到着しようとしていた。船団を自ら指揮している氏康の記憶には、数ヶ月前に前衛を引き受けた彼の言葉が克明に残っていた。

 

「この賭けに乗りますか?」

 

 自分が青ざめた顔をしているのがわかった。だが賭けに乗らなければどうしようもないこともよくわかっていた。

 

「勝てるの?」

 

「成功すれば、必ず」

 

「そう……」

 

 しばらく目を閉じ沈黙する。自分の人生において最大級の決断を迫られていることを自覚する。

 

「乗りましょう。その賭けに。あなたを、信じます」

 

「ありがとうございます」

 

「気をつけて、死なないでね」

 

「勿論ですとも。約束は忘れておりませんので」

 

 微笑み出ていく姿に感じる僅かな高揚感。ダメ、ダメなの。この感情は決して抱いてはいけないもの。私は氷の女、戦国大名北条氏康。そうあらねばならないの。そう思って気持ちを振り払うように頭を横に振った。

 

「今となっては数か月前の記憶も懐かしいわね…」

 

 夜風に当たりながら小さく呟く。

 

「上陸準備整いました」

 

「よろしい。全軍上陸開始!」

 

 号令に従い、六千の兵が上陸を始める。主力は氏邦に預けてある。数は三千。この部隊には孤立無援で奮闘している吉原城の救援に向かわせる。笠原康勝の二千と間宮康俊の八百は多米元忠の千と合流して、敵の包囲を始める。こちらに気付いた敵軍は恐慌状態になっている。勝利の予感に氏康の手は震えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何が起こっているの!早く報告を!」

 

「無理です!左の松井様の部隊並びに右の鵜殿様の部隊が潰走しておるとしか!」

 

 朝比奈泰朝は混乱していた。撤退を始めた矢先に突如奇襲を受けた。状況の打開を図ろうにも、まったく情報は入ってこない。やはり、彼女は若すぎた。あるいは雪斎がここにいれば状況は変わっただろうが、それはあり得ない夢想だった。

 

「と、とにかく一刻も早くこの場から撤退を!」

 

「関口様を見捨てるのですか!」

 

「死にたくないなら走りなさい!」

 

 朝比奈隊が逃走を始める。鵜殿隊はもはや壊滅寸前だった。前方からは多米元忠の騎馬隊。右手側からは間宮康俊が、後方には笠原康勝の部隊がいる。元々千五百しかいない彼の部隊は、持ちこたえるには数が足りなかった。鵜殿長照とて凡庸な武将ではない。応戦を試みるも多勢に無勢。潰走する。

 

 勢いそのまま、笠原隊と多米隊は関口親永隊に襲い掛かる。関口隊には潰走して逃げてきた鵜殿隊の残党が後ろから迫ってきており、まともな軍事行動が出来る状態ではなかった。関口隊もあえなく敗走を始める。どれだけ将が奮闘しようとも、兵士の士気は皆無。抵抗できるはずもない。その敗走する姿は古、富士川にて源氏軍と鳥の飛び立つ音を間違え逃走した平家の軍勢の如し。一つ違いがあるとすれば、ほとんど死者が出なかった富士川の戦いとは違い、おびただしい数の今川軍の死体が転がっていることだろうか。

 

 一方で吉原城を囲んでいる岡部元信隊は今川軍本隊の方角から聞こえる音で奇襲を悟り、態勢を整えていた。そこへ北条氏邦隊三千と、城内の松田頼秀隊五百が襲い掛かる。

 

 まさに激戦であった。今川軍において一番活躍しているのは誰がどう見てもこの部隊だった。

 

「岡部元信!どこだ、出てこいっ!」

 

「騒ぐな!私はここにいる。貴様は誰だ!」

 

「北条左京大夫の妹、北条新太郎氏邦!」

 

「相手にとって不足なし。今川治部大輔義元が家臣、岡部丹波守元信、参る!」

 

 猛将同士の一騎打ちが始まった。打ち合うこと数十合。決着はつかない。岡部元信の目に潰走して死にそうな顔をした関口親永の姿が見えた。

 

「チッ、あのお坊ちゃんはまともに逃げられやしないのか」

 

「戦闘中に余所見とはいい度胸だな、そのそっ首もらい受ける」

 

「あいにくとまだ死ぬ訳にはいかないのさ。この勝負、しばらくお預けだ!」

 

「あっ、逃げるな、卑怯者!!」

 

 叫ぶ氏邦を後目に、岡部元信は関口親永救援のために馬を走らせた。噛みしめた唇から流れる血が彼女の悔しさの証だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鵜殿隊壊滅。関口隊、朝比奈隊、松井隊潰走。岡部隊、残存部隊を何とか引っ張り逃走中。次々舞い込んでくる報告は素晴らしいものだった。数時間前に誰がこの展開を予想しただろうか。一万八千近い今川軍は、約半分の九千に翻弄され、潰走するなど。

 

 だが、まだ障害は残っている。潰走する部隊の中、整然と撤退し始めている部隊が一つ。旗は武田菱。武田晴信の率いる部隊だった。流石武田と舌を巻きつつ、今後について考える。勝ちは揺るがないだろう。しかし、このまま放置という訳にはいかない。一瞬だけ信繁の顔が脳内をよぎるが、それを振り払う。

 

 段蔵が逐一もたらしてくれる情報によれば、多米隊、笠原隊、間宮隊、氏邦隊、松田隊は合流し、敵の敗残兵を殲滅しているようだ。こちらには清水隊、大道寺隊が合流し、数は約千八百ほど。軽く戦闘して撤退してもらうのが一番だろう。ここで武田を殲滅しては、戦闘を仲介してくれる人間がいなくなってしまう。

 

「これからどうするのですかな」

 

「これよりこの軍で敵に当たります。目標、武田隊」

 

「承知!」 

 

 清水康英が駆けていく。盛昌に後方を任せ、私も続く。武田家の軍勢が見えてきた。武田の軍勢の前に一人、人影がわずかに見えた。

 

「全軍、止まれ!」

 

 こちらの指示に軍がかろうじて停止する。ぎりぎり理性が残ってくれていたようだ。

 

「そちらの大将は誰か!」

 

 聞き覚えのある声がする。

 

「北条氏康が家臣、一条兼音!武田家当主、晴信殿の妹君、信繁殿とお見受けする。何故我が名を問う!」

 

「貴殿と交渉したい」

 

「…よろしい。聴こう!」

 

「感謝する。我が姉、晴信は北条氏康殿と心の底より争いたいと思ってはいない。今川に恩があった故、援軍要請に応じたまで。こちらには今川家と北条家の和睦を仲介する意思がある。ここをお見逃し頂ければ、必ずや和睦の斡旋をすることを約束しましょう!約束の担保に我が身を差し出します。和睦の斡旋叶わぬ時は、この身を煮るなり焼くなり好きになされよ!」

 

 思わぬ申し出だった。受ければおそらく和睦できるだろう。晴信も妹を見殺しにはしない。こちらはもう片方の戦線を抱えている。それに、ここでは勝利したが、今川家の全領土を平らげられるほどの力はない。このあたりで河越に向かいたい。断ればどうなるか。武田軍との戦闘で損耗するのは明白だ。無用な争いは避けるべきだろう。河越に回せる兵を残すためにも。

 

「…承った。御身と引き換えに、武田軍全軍の撤退を邪魔しないこととしよう。和睦についても、主・氏康と相談いたそう」

 

「ありがとうございます」

 

 これで、河越に戻れる。意識はすでに武蔵の大地に向いていた。

 

 

 

 

 

 一条兼音は知る由も無いが、この交渉に至るまですさまじい争いが姉妹間で行われていた。が、最後に晴信が信繁の「私一人と武田軍三千とでは天秤は釣り合わない。どちらが重いかは姉上自身がよくお分かりのはず。一条殿は必ず受けてくれます」という言葉に折れ、信繁を送り出した。

 

 かくして、武田軍三千はこの戦いの中唯一無傷の部隊として撤退することとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 武田軍の撤退を見ながら、一条兼音は北条氏康と氏邦に使いを出し、深追いしないようにと諫める。これを受け、北条軍は戦闘を終了。

 今川軍、死者行方不明者約四千八百。北条軍死者行方不明者九百三十。北条の圧勝であった。これにより、今川家は武田家を仲介に北条家への講和を打診する。

 

 関東に覇を唱える北条家の戦の中でも稀にみる大勝利。後世の人々はこの戦を一条兼音飛躍の戦として、『興国寺城の戦い』と呼んだ。奇しくも戦場となった興国寺城は北条家の始祖、早雲の飛躍を支えた城だった。

 

北条家は新たな展開を迎えようとしていた。



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第28話 興国寺城の戦い 終

「今、何と申した」

 

まだ夜も明けない深夜に悲惨な身形で自分に土下座する少女に、雪斎は信じられない事を聞いたように問う。

 

「で、ですから、当方大敗と」

 

「…………」

 

雪斎にはこの現実は受け入れ難かった。大敗?九千の軍に、武田の援軍も含めた一万八千もの軍勢が大敗したと言うのか?

 

ここに来て黒衣の宰相は自分の過ちを認識するに至る。敵の方が一枚も二枚も上手だったか、今回の敵は若手武将の手柄稼ぎになるような相手ではなかったのだ、と。そして、兵法を叩き込んで来たはずの期待の将だった朝比奈泰朝の敗走は自らの教育の至らなさの証明だった。

 

しかし、彼は腐っても僧侶。自らを律し、ここで朝比奈泰朝を怒鳴りつけないだけの自制心は持っていた。それでも怒鳴りつけたい気持ちは心の中でかなり膨らんでいた。そして、それは敵の力量を正しく見切れなかった自分へも向いていた。

 

この敗北は同時に対北条戦のプランを完全に見直さなくてはならなくなった事をも意味していた。

 

「何故負けた。敵の大将は誰だ。氏康直々に指揮したのか」

 

「何がなんだかさっぱりわかりません…。突如敵の大軍が海より来て、撤退中の我らを強襲してきたのです。おそらく敵前衛は囮。囮の大将は一条兼音という若者で、多くの将は恐るるに足らずと侮っておりました」

 

海よりの強襲というのは雪斎の兵法家としての脳を刺激し興味を湧かせたが、それより気になる単語が言い訳の中に含まれていた。

 

「撤退中?お主らは何故撤退などしておったのだ」

 

何を言っているのか、と言いたげな目で見つめながら泰朝は答える。

 

「お言葉ですが、禅師から撤退せよと命令を受けたのですが」

 

「何だと、拙僧はそのような命を出してはおらんぞ」

 

「ですが、尾張にて織田信秀が挙兵し、三河の国衆もそれに続いた故に至急戻れと確かに伝令が…」

 

その言葉に、彼はしてやられた事に気付く。

 

「お主、見事に謀られたな。大方その伝令は風魔の手の者だろうよ」

 

事実は風魔ではなく加藤段蔵なのだが、雪斎にそれを知る術はない。

 

「お話中失礼する」

 

「飯尾殿か、何かご用か。今取り込み中であるのだが」

 

「火急の事にて失礼。尾張の織田信秀が挙兵し、三河もそれに続いた。今遠江衆が抑えているがいつまで持つかはわかりかねる。それがしは遠江国衆の代表として直接援軍をお願いすべく参った次第」

 

「何と、その情報は真実だったか…」

 

確かにこれを聞けば焦る。そこへ撤退せよと囁けば多少強引な嘘であっても真実味が出る、か。敵将は末恐ろしいものだ。と雪斎は思った。そう思いつつも、彼もかなりまずい展開になったとは思っている。

 

報告によれば兵は四千近く討ち取られ、残存兵は傷ついた者が多い。士気も低い。遠江衆と合流すれば立て直せるし、三河の対処も出来るとは思っているものの、北条をそのままにはしておけなかった。

 

「おい、入るぜ」

 

無遠慮に陣中に来たのはこちらも少し傷を負い、薄汚れている岡部元信である。関口親永に肩を支えられ歩いている。関口親永を見た瞬間泰朝の顔は青くなる。何せ、泰朝には親永を焦りや恐怖でぐちゃぐちゃになった感情のせいで冷静に判断が出来ず、戦場に見捨ててきてしまったという罪がある。

 

「お前が見捨てたこいつを何とか拾ってきたぜ。オレがいなけりゃ、こいつは今頃北条の奴等の前で首になってるだろうさ」

 

そう言うと彼女は不貞腐れたように座る。当の親永は困ったように青ざめる泰朝と半ギレの元信を見ていた。

 

「てめえ、鵜殿の爺やら松井のおっさんも放置してきただろ。みんなギリギリ生きてたから良いものを。偉そうにふんぞり返ってその様か、え?」

 

「……」

 

「何とか言ったらどうなんだよ!お前は大人しく城でも囲んでろと言ってた朝比奈のお嬢さんよ!」

 

「本当に、申し訳ありませんでした」

 

「謝ったら死んだ奴が帰ってくるのかよ」

 

「元信殿」

 

「あ!?」

 

「そこまでです。私も、鵜殿殿も松井殿も恨んではおりませんよ。敵が我らを上回っていただけです。勝敗は兵家の常と申します」

 

「けっ、お前がそれでいいならこれ以上は言わねぇよ」

 

ギロリと睨まれ、縮こまる泰朝。大将級の将の討ち死にがないのが唯一の救いだと雪斎は嘆息しながら、今後について考える。と言っても結論は一つだけ。

 

「和睦するしかない、か」

 

それを口にすれば場の空気は重くなる。どう考えてもここで和睦を申し出ても蹴られるか、もしくはかなり向こうに有利な条件で講和させられるかの未来しか見えなかった。

 

泰朝はますます縮こまり、元信は舌打ちする。何でもいいから早く救援に来てほしい飯尾連達は焦り、親永は眉をハの字にしていた。ちなみに、満身創痍の鵜殿長照と松井宗信は手当てを受けている。義元はまだ寝ている。主を叩き起こす必要を雪斎が感じていた時に更なる来客があった。

 

「これはこれは武田殿。この度はこのような事態となりまことに申し訳なく思っております」

 

雪斎はひたすらに頭を下げて謝る。国力は今川の方が上とは言え、流石に今回の件は今川家の将の失態。彼も頭を下げるしかなかった。加えて言えば、あくまでも立場が晴信より上なのは彼の主である今川義元であって彼本人ではない。腰も低くなるのだ。

 

「いや、構わない。幸いあたしの兵は一人も死んではいないからな」

 

その発言に元信がキッと目を鋭くする。だが、彼女が口を開くそれより先にまともに思考の働いていない泰朝が晴信を問い詰め始めた。

 

「あ、貴女、まさかとは思いますが北条と通じていたのではありますまいな!でしたら此度の敗戦は…」

 

が、彼女はそれ以上言葉を続けられなかった。理由は簡単。雪斎が持っていた扇で彼女の後頭部を強打したからである。ここに来て雪斎の鋼の自制心にも限界が来た。

 

「この愚か者っ!自らの敗戦を恥じるでもなく臆面もなく責任転嫁とは…恥を知れ。武田殿が兵を損なわなかったのはご自身の優れた用兵によるもの。偽報に踊らされ夜襲に逃げ惑い味方を置き去りにするお主とは違うのだお主とは!」

 

「いや、別にあたしの用兵が優れていた訳じゃないんだがな…」

 

あまりの剣幕に、最初は泰朝の物言いにムッとしていた晴信も苦笑気味である。怒気を無理やり抑え、雪斎は晴信に問う。

 

「では、貴殿はどのようにして北条の夜襲の最中一兵も損なわず撤退が出来たのですかな?」

 

「簡単なことだ。取り引きをした」

 

「して、その内容とは」

 

「和睦の仲介」

 

これで雪斎は悟る。この姫は最初からそれが目的で援軍に参加したのだと。怒りに身を震わせながらも、彼の叡知は健在だった。

 

「それは…」

 

「武田が北条と今川の和睦を仲介し、北条が河越へ向かえるようにする。それが北条が武田を見逃す条件だ。あたしの妹、次郎信繁は武田がこの約束を守るまでの間証として北条に自ら進んで人質になりにいった」

 

まさか、援軍の将の妹を見殺しにはさせまいな?敗戦はそちらの責任であるのに。と言う無言の問いかけに、雪斎は折れるしかなかった。

 

「和睦なさるか?」

この問いに雪斎はやむを得ず頷く。こうして三国の主たる三人の姫が会見する場が設けられようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「貴女は元気ですね…」

 

「そうでしょうか?」

 

小首をかしげながら尋ね返す少女に少し疲れを覚えながら、馬を進める。時刻は夜中。おそらくは現代時間で午前3時頃。松明の灯りが煌々と戦場を照らしている。

 

今川軍は敗走し、今は北条軍がその陣を使っている。上陸部隊と前衛部隊は合流して、軍議を行おうとしていた。彼女、武田次郎信繁は武田晴信から約束(講和の斡旋を行うことの代わりに武田軍の撤退を見逃す)の証明の人質としてここにいる。そして今ここでその約束を引き受けた身として、彼女を紹介しなくてはならない。加えて、主・氏康様にこの約束に同意していただかねばならない。

 

何故か楽しそうな信繁に、やはり、やや頭痛を覚える。ここは一応まだ敵地なのだが…名門の姫とはみんなこんな感じなのだろうか。

 

「言っておきますが、妙な事はなさいませんように。呼びますのでそれまではここで待機を」

 

「わかっておりますとも」

 

大丈夫かなと思いつつも、陣の幕をくぐる。

 

「遅くなり申した。一条兼音参りました」

 

陣内には既に他の将が揃っている。空いてる席が一つしかない。そこが自分の席なのは見ればわかるが、場所が少々問題だった。

 

「あの、もっと下座では?宿老の方々を差し置きその位置は些か問題かと…」

 

場所は氏康様のすぐ近く。長いテーブル席をイメージした時に、お誕生日席が氏康様だとしたら、そのすぐ隣である。向かい側には幻庵様が座っている。どう考えてもおかしい。

 

「良いじゃない。此度の戦いの一番の大手柄をあげたもの。誰も文句は言わないわ」

 

いつになく上機嫌な氏康様に同調するように諸将が頷く。

 

「そ、そうですか。では、畏れ多いですが失礼します」

 

こちらが腰かけると氏康様がスッと立ち上がり、口上を述べる。

 

「まずは、此度の勝利に感謝するわ。これにより、今川に打撃を与えられた。長期の陣を張った甲斐があったと言うものよ。まだ窮地を逃れられてはいないけれど、少しばかりは祝いましょう!」

 

拍手が鳴り響く。私自身もホッとしたのは事実。これで河越に戻れる。

 

「論功行賞は全てが片付いてから。けれど、皆も思っているだろうことを私が代表して言うわ」

 

そこで一度言葉は区切られる。何を言うのかと待つと、主はこちらを見つめながら再び口を開く。

 

「一条兼音、大儀であった」

 

咄嗟に言葉が出ないが、何とか返す。

 

「はっ、もったいなきお言葉」

 

「貴方がいなければ、私達は決して勝てなかったでしょう。それどころか雪斎と武田の援軍にこっぴどくやられ、屈辱的な講和を結ばされていたかもしれなかった。この勝利で北条の意地を、今川の家臣には戻らないという確固たる意思を見せつけられたわ。本当にありがとう」

 

「過分なお言葉恐悦至極に存じます。ひとえに皆様のお力添えの賜物。私一人の力ではございません」

 

「謙遜せずともその功は皆が理解しているわ。さて、この感謝は後で全てが片付いてから示すとして、次の行動を考えなくてはならないわ。ここいらで早く河越へ向かいたいけど…」

 

「あぁ、それに関して一人ご紹介したい人物がおります」

 

「よろしい。紹介しなさい」

 

「はっ。お入りあれ」

 

「失礼します」

 

声をかけると、陣の外から幕をくぐり、先程とはまったく違う凛とした様子で信繁が入ってくる。

 

「武田家当主・晴信が妹、武田次郎信繁と申します。北条家の方々におかれましては以後、お見知りおきを」

 

予想外のビックネームに場がややざわめく。

 

「武田とは此度の戦において敵対していたはず。何用でここにいる」

 

「一条様とのお約束によってです。それを北条家の当主に承認して頂くべく、ここにいます」

 

「約束、ね。何のことかしら。聞いてないのだけれど」

 

「申し訳ありません。ここは私から説明させて頂きます」

 

「話しなさい」

 

「はっ。先程の戦の最中、武田家の部隊と遭遇しました。混乱から敗走する今川兵とは異なり、武田の兵は整然と並んでおりました。これを相手取るのは些か骨が折れると思っておりましたところ、信繁殿より提案がありました。聞けば、もとより此度の戦に参戦したのは義理立てであり、北条と事を構えるつもりはない。ここで撤退を見逃して貰えるなら、和睦の斡旋を行う。その証として信繁殿を人質として引き渡す、と。当家は河越で関東管領とも事を構えており、ここで今川戦を本格的に進めるのは不可能であり、ここが潮時であると僭越ながら判断し、約定を交わした次第。越権行為であり、本来なら伺いを立てるべきではございましたが、火急の事ゆえこちらで判断させて頂きました」

 

今となっては越権行為な気もするので、弁明する。

 

「…まぁいいわ。戦場ではいちいち上の伺いを立てられないことの方が多いのだし、多少の越権行為は認めましょう。それに、前衛の総大将は貴方であるしね。結果的にここで和睦したいのはこちらも同じだし、状況判断をキチンとした上の事なら許しましょう」

許されたようだ。助かった。事情を理解してくれる理性的な君主は本当にありがたい。他の将もここが潮時なのは理解してくれるようで、反対意見は無さそうだ。

 

「ありがとうございます」

 

「さて、次郎信繁殿」

 

「はい」

 

「和睦は受けるわ。ここで停戦して、河越に向かいたいのは事実。元より北条の野望は関東制覇。駿河ではないわ。貴殿の姉君か雪斎がその話を持ちかけてくるまで兼音の陣中にいなさい。良いわね」

 

「はい、よろしくお願いします」

 

「貴方もそれで良いわね」

 

「異論ございません」

 

「しっかりともてなしなさい。色々とね。…では、解散。皆、関東に戻るまでの少しの間だけれど、疲れをとりなさい」

 

「「「「「はっ」」」」」

 

さて、このお姫様の世話をしなくてはな。殺風景な陣だ。普段はいる綱成も兼成もいない今、完全に男しかいない私の陣で武田の姫を接待するのは気がひけるが、やるしかないだろう。

 

いつ寝るかを考えながら、ため息を吐き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

武田次郎信繁から見て、一条兼音は不思議な人だった。同時に憧れる人でもある。『憧れ』とはアイドルに憧れるようなものではなくベクトル的には尊敬に近かった。彼女の知っている軍師は彼と山本勘助しかいないが、それでも彼女は思考的には刹那的な勘助よりも彼に好感を抱いていた。勘助が嫌いな訳ではなかったが。

 

少し機嫌が良かった理由は、そんな人物に近づく機会を得たのが一つ。そしてもう一つは、愛する姉とその軍師に自分の尊敬する人物の偉業を見せつけられた、すなわち自分の目の正しかったことを証明できたからであった。勿論、武田の将兵が傷ついていないことも大切だったが。

 

そして彼女は一条兼音から、彼から見た武田家や信濃攻略についても聞いてみたかった。勘助を信用していない訳ではないが、他の意見を聞くのは悪いことではない。視野を多角的に持ち、広げることは重要だと思っていた。

 

「一条さんは武田家についてどう思われますか?」

 

突然の問いかけに、何事か書き留めていた彼は顔を上げる。少し考える素振りをしてから口を開く。

 

「強い家でしょう。国はまだ貧しくとも、人は多くいる。人材がいれば国は広がり、富んでいくでしょう」

 

あぁ、それと、少し関係ありませんが、と前置きして続ける。

 

「姉君殿と元通りになれたようで何より」

 

その声音は少し優しそうだった。多忙な生活をしているだろうに、小娘の愚痴を覚えていたのか、と思うと同時に恥ずかしさも込み上げてきた。

 

「…では、武田の信濃攻略についてはどうお考えですか?今後の展望など」

 

どうしてそのような事を私に。隻眼の軍師殿に怒られますよ、と笑いながら告げつつ、答えてくれた。

 

「真面目に答えるなら高遠やらそこらは直ぐに降伏へ持っていけるでしょう。守護は話にならないでしょう。ただの好色漢に武田は倒せない。関東管領も相手にはならないでしょうね」

 

そこまで告げられ信繁は疑問を覚える。

 

「関東管領?上杉憲政は今そちらの居城を囲んでいるはずですが…」

 

「彼らは来ますよ。信濃へ。関東武者は武あるものに従う。その失ないかけの武威を取り戻しに」

 

微妙に話が噛み合っていないことを感じ、信繁は首をかしげた。その様子を見て食い違いに気付いたらしき彼は納得したように頷き、衝撃の一言を放つ。

 

「あぁ、これは失礼。何故武威を取り戻す必要があるか、ですね。簡単です。関東管領の軍勢は河越で消滅するのですから。我らの手により。これは夢想でも希望的観測でもなく、確定事項です」

 

ま、そちらさんも勝てるでしょうが。と続ける彼に信繁は少し面食らった。おかしな事を言ってからかっているような素振りも、冗談を言っているような雰囲気もない。本気で言っているのだ、と彼女は思った。不思議と夢物語と笑う感情ではなく、そうなるのだろうな、と自然に思った。それほどまでに堂々と言い切っていたのだ。

 

「注意すべきは村上ですかね。あの男は怖そうだ。彼について気になることがあるなら段蔵に聞いてみますかね。貴女に教えてくれるかは、運次第ですが」

 

この発言は少し軽い口調だった彼は、次に急に雰囲気を重苦しくし、こう言った。

 

「勘助殿と私とどちらが上かはわかりかねる。だが一つ私が確実に上回っていることがあるならば、それは実戦経験の数です。知識は知っているだけでは意味はない。知識は将、実践は兵です。将が一人で喚いていても、兵がいなくては戦には勝てないでしょう?盲信してはいけませんよ」

 

「騎馬の弱点を理解してから挑むことです。己を知り、敵を知れば百戦危うからず。されど、己も敵も知らざれば、戦う度に危うい。村上を倒すにはそれが要でしょう。何が弱点かは、自分でお考え下さい」

 

「逸らず、焦らず、油断せず、奢らず、侮らず。結局全てこれなんでしょうね」

真剣な空気にのまれ、信繁はいつしか呼吸さえも忘れかけていた。目の前の人間が本当に人間なのか疑いたくなった。まるで、知の神であるかのように感じた。一つ一つの言葉がスッと心の中に入り、刻まれるのを感じた。これを聞いたことは必ず役に立つはずだ、と彼女は思った。

 

「まぁ、兵法や思想、国政について学びたいなら古書を読むことでしょう。知識は将で実践は兵。しかし、将なくして兵は勝ちを得られない。これを差し上げましょう。私にはもう必要ないので」

 

渡されたのは古ぼけた孫子と呉子。存在は知っているが、思えばキチンと教育された覚えはなかった。

 

「基本からですよ。何事も。これを読んで自分なりの活かし方や意見を考えてみてください」

 

尊敬する人物から貰ったのだ、嬉しくないはずがない。

 

「ありがとうございます!大切にしますね」

 

「そう言って頂けると幸いです」

 

「さて、そろそろ私は行きます。陣の外に使いが来たようです。大方、講和についてでしょう」

 

そう言って立ち上がり、陣を出ていこうとする。ふと振り返り、彼はこう言った。

 

「今後は武田と北条は協力関係になるでしょう。今より関係は良くなり、交流も活発になるでしょう。何か、わからないことでもありましたら文でも送って下さい。もしくは、信濃でお困りの事があれば何なりと。主に怒られない程度にお返ししますよ」

 

そう言って彼は笑いながら陣を出ていった。果たして最後の言葉をどこまで信用して良いのかはわからなかったが、読み終わったら色々書いて送ってみようと思った。そんな未来を楽しげに思い描き、彼女はボロい本を抱き締めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やれやれ、どうもやりにくい。信繁が自分を慕ってくれているのはよく分かる。あれが憧れに近い感情であることも、何となくわかっている。本来はどこまでいっても他国の人間。色々アドバイスしすぎたのは事実だし、最後の言葉はあまり良くない事だと反省している。同盟国になったとしても、だ。

 

ただ…ただ、一つだけ言うのなら。あの子が川中島で辿る運命を知っているから、情が湧いてしまったのかもしれない。

 

北条に利が無いわけではない。信濃攻略がスムーズに進めば越後の軍神とそれだけ長く渡り合ってくれる。と言うか、現状北条に害はない。だから許されるかと言えば、別問題だが。

 

氏康様も、出来れば仲良くなり交流を深め、自然に甲斐の情報を抜き取れ、その為なら多少文のやり取りくらいは許可する、と言われている。と言うより推奨されている。騙すようで気がひけるが、別に悪いことしてる訳じゃないのだから、と言い訳する。

 

そんな事に悩みつつ、馬を進める。和睦の打診が来たのだろう。雪斎も動きの早いことだ。

 

心を河越に飛ばしながら、理性は講和の条件を考えていた。




次回は里見家へ視点をシフト…とも考えましたが、このまま会談まではそのまま続けます。里見家は河越に戻る前に書きますので、今しばらくお待ちを。


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第29話 三雄会談

少し長くなりました。キリがいいところまで書いたので。


 一条兼音が氏康に呼び出され、信繁との会話を切り上げ馬上の人となった少し前、当の氏康は自らの一族でもはや年齢不詳の北条幻庵と会談していた。

 

 北条幻庵。幻庵は号であり、諱は長綱。北条早雲こと伊勢新九郎の娘だとも妹だともあるいは母であるとも囁かれる見た目は若い老人である。自身の戦闘力は皆無に等しく、戦も上手いとは言い難いが、風魔を束ねており北条家の情報面を担当している。また、外交や謀略などの智を担ってきた。最近は一条兼音の存在により外交戦略を考える負担が減りつつあったが、興国寺城の戦いで風魔を酷使する作戦を提案されていたため少し疲れ気味である。

 

「なんとか一難は取り払えましたのう」

 

「ええ、取り敢えずは、ね」

 

 氏康は小さくため息をつく。彼女の色白な肌が証明しているが、彼女は戦争が得意ではない。正確には戦闘が苦手である。乗馬は出来るものの、剣術・弓術・槍術などおおよそ武芸は不得手であった。万が一に備え、最低限の小刀戦術と鞭術を習得しているが、おおよそ武人とは言い難かった。謀略や外交によって戦わずして勝つことが彼女の目標であった。

 

 引きこもり癖の持ち主だが、公家趣味ではない。そこが今川義元との大きな違いだった。彼女は北条家の当主としてその重圧を一手に引き受けるはずであったが、一条兼音の功績によりそのストレスはやや緩和されている。それは彼女自身も認識しており、今回の戦においてよりそれを認識していた。

 

 元々彼女の信条は小田原に籠城し、耐える。そして兵站が厳しくなったタイミングで敵を調略。そして勝ちを得る。というものである。ただ、今回の件で籠城は最終手段として考えた方がいいかもしれない、と思い始めていた。それくらいこの勝利は大きかった。

 

「さてさて、若軍師殿のおかげで何とか勝ちを得られましたがな、これからが問題じゃ。ここでグダグダしていては、河越に向かえないでなぁ。ある程度は譲歩を示さねばならんぞ」

 

「わかっているわ。こちらが寛容であり、”今川に譲歩してあげた”という体をとりましょう。それでこちらの体面も立つでしょう」

 

「そこは腕の見せ所じゃな。若軍師殿はその辺も考えてはおろうが、雪斎と武田の新たな軍師になったという山本勘助なる怪しげな男と張り合うにはやや不安があるでな。おばばも付いて行くぞ」

 

「好きにしなさい」

 

 早く戻りたい…と氏康はもう一度ため息をつく。陣幕をくぐり自らが呼び出した一条兼音がやってきたことに気付き顔を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 善徳寺に三国の代表たる姫が集まっていた。甲斐の武田晴信、駿河の今川義元、そして相模の北条氏康。

 

 氏康様の右隣には長老北条幻庵。左隣には一条兼音である。今川義元の隣には黒衣の宰相、太原雪斎。武田晴信の隣には山本勘助。氏康と兼音にとっては武田晴信と山本勘助は初めて会う相手である。反面雪斎と義元は以前会ったことがある。

 

 が、その義元と氏康は以前とは違い対等な関係として相対したその瞬間、露骨に不機嫌になっていた。二人はある意味対照的であり、領土問題をめぐり感情的にも拗れているのだろう。その対照性は本人たちがより敏感に気づいているようだった。

 

 その仲介人たる武田晴信は、文人の姫との前評判とは違い威風堂々としている。顔は信繁によく似ており、雰囲気こそ違えど姉妹であることを物語っていた。義元は、というより雪斎は武田家への敗戦の責任から、北条家は妹を差し出す本気さを見たためこの場についている。

 

「お初にお目にかかる。あたしが甲斐の国の新たなる守護、武田晴信だ」

 

 余談だが、武田家は今川などと同じで守護大名から戦国大名になった家である。そのため名目上はまだ室町幕府の存在している今は甲斐の国の守護であった。

 

 その姿に氏康は「甲斐に引きこもっていそうな人間には見えない。いかにも戦好きの野蛮人だわ」という感想を抱く。反面義元は「もっと山猿のような姫かと思っていましたが、意外にも雅な一面もありますのね」と真逆の感想を抱いていた。その晴信自身は演技が効きすぎていると少し泣き言を言いたかった。しかし、勘助に『英雄を演じよ、心を読まれるな』と言い聞かされているため泣く泣く我慢している。

 

「それがし、御屋形様にお仕えする軍師、山本勘助晴幸。今川と北条の戦をこの辺りで終わらせるべく、御屋形様は出陣なされました」

 

「どこかで見た顔と思えばそなた、かつて今川家に仕官を願いに来たことが。武田家に召し抱えられていたとは」

 

「は。今川様にはどうにも怪しげであると袖にされましたが、我が御屋形様には拾っていただけました」

 

「信虎殿の追放劇の裏にはそなたの策謀があったか。なるほど、甲斐で何があったか、概ね理解した」

 

 今川家の宰相と武田家の軍師の視線が交わり、見えない火花が飛び交う。牽制をしあう二人に流石という感想を抱く。

 

「ふぉふぉふぉ。流石に二人とも智謀の士。無言で牽制し合っているとはの」

 

 幻庵は実年齢にそぐわない美貌に妖艶な笑みを浮かべる。対照的に兼音は沈黙を保っていた。他の人間の動きを把握し、絶好のタイミングを図っているのである。ただ、タイミングを図っていると言っても他の人はそれぞれに牽制し合っているため、このままではいたずらに時が流れていく。そう考え、兼音は口を開く。

 

「さて、武田殿においては今川家を巻き込み、我ら北条に何かお話があるとか。いったい何用でしょうか」

 

 まったくもって白々しい言い方ではあるが、あくまで北条家としては今のところ勝ち戦である。故にここで戦を切り上げるには家臣団に面目を保つためにも今川側から和睦要請が来た、というポーズが必要だった。まだ大義名分や正当性、誇りや誉、体面の持つ力の多い時代である。例示するならば、下克上にも前君の暴政という簒奪の大義名分が必要であった。北条早雲における堀越公方、三好長慶における細川家である。

 

 ともあれ、これにより場の雰囲気は変化し、緊迫感からは脱した。雪斎から漏れ出る苦々しい空気が代わりに室内を満たし始めたが。

 

「初代早雲公以来、北条家の悲願は関東制圧。対する今川家の望みは街道の西進。にも拘わらず我が父・信虎が今川と結んだことが無用の混乱をもたらした。加えて、北条家が占領した河東を遅々として返還しなかったことにより、西進する上で国府のすぐ近くが他家の領土であることに不安を感じた今川家は開戦に踏み切らざるを得なくなった。その北条家も河越城を囲まれ、その城も落城寸前。お家は滅亡間際であった。まずは両家の志に変化がないことを確かめたい。いかがか」

 

 交渉の前段階の口上を述べる晴信の表情は、口を開く前のどこか柔和さを感じさせる少女勝千代のものから戦国の世に産まれた甲斐の虎・武田晴信のものに変わる。芝居ではあろうが、この野望の炎はただ者ではないな…と雪斎は驚愕し、幻庵もうちの姫にもこれくらいの覇気があれば…と肩を落としている。氏康はそんな幻庵に冷たい目線を送る。最後の一人、兼音は悪く言えば値踏みするような目線、よく言えば真価を見定めるような目線を送っている。

 

 もっともその心の内には晴信の将器を見定める気持ちもあるが、純粋に武田信玄と対面したことへの感動も混ざっていた。本人も忘れかけていたが、彼は生粋の戦国好き。オタクを通り越して研究者の域であった。実際に現代では大学の講義に潜り込んだりしていたほどである。

 

 自身の感動を振り払い、彼は晴信の口上の一節に思うところがあり、口を開く。氏康は取り敢えず様子を見ている。

 

「武田殿、一つ訂正を」

 

 間違っていたところがあっただろうかと眉を顰める晴信を見ながら兼音は続ける。

 

「河越城は落城寸前などではございません。私の城とそれに籠る我が将兵を侮らないでいただきたい。それに、河東を不当に占拠しているというかの如き言い方は止めていただこう。我ら北条はどこかのお家とは違い、民をよく治め、無駄に家中に流血を伴う争いを生じさせたりなどしませんので」 

 

 けんか腰の兼音に氏康はギョッとするが、晴信はそこまで気を悪くはしていなかった。むしろ、妹・信繁の評価する人物がこのようにはっきりと物を言うことにそこそこ好印象を抱いていた。

 

「これは失礼した。決して貴殿の配下を侮っていたわけではないので、どうか気を悪くなさらず」

 

「いえ、こちらも言い過ぎました。失礼いたしました」

 

 逃がしてもらった恩義があるので、晴信は少し兼音に気を使っている。加えて妹の生殺与奪の権を握られている。それを察しているものの、利用しないという選択肢をとるほど、彼は甘くなかった。

 

「私の軍師が失礼しました。さて、答えるならば、私たち北条の野望は不変。関東制覇の為ならば、怨恨を捨てることも考えましょう」

 

 氏康は晴信に対し『武田晴信。流石父親を甲斐から追放しただけのことはある。まるで餓えた虎ね。決して心を許してはならない。しかし、感情より”利”を優先して動ける能力がある。後はこの女の望みを知って、うまく誘導すれば…』と思いながら答えた。この素早い判断は流石知将である。

 

「でしたら…」

 

「ですが、河東とそれとは別問題。我が方の犠牲になった兵の為にもただで退くことは出来かねるわ!」

 

 氏康にもプライドや死んだ者への責任感がある。おいそれと返還要請に応じることは出来なかった。やや強い口調で氏康は晴信の言葉を遮った。ここで無言の雪斎が口を開く。義元はなるべく黙っているように言われているので無言。なお、「北条が河東を占領していて邪魔だから早く返せ」と言いそうになっていたが、今川軍が敗れたことを思い出し、すんでのところで言葉を飲み込んだ。それくらいの芸当は出来るのである。

 

「それにつきましては、こちらより提案がございます。単刀直入に申し上げる。河東と引き換えに不可侵を結びたく存ずる」

 

 雪斎もこれを受け入れてくれるとは毛頭考えていない。それでも吹っ掛けてそこから徐々に妥協点へもっていく腹づもりであった。

 

「提案、提案ですか…ではこちらも単刀直入に申し上げると、もう一度殲滅されたいのですかな。なに、あの程度の事、幾度であろうとも成し遂げて見せましょうぞ」

 

 兼音は半分嘲笑気味に言う。無意味に煽っている訳ではなく、妥協する気はあまりないという意思の表れであった。加えて言えばあくまでもこの状況、この会談は今川が窮地(具体的には東の北条西の三河国衆&織田信秀)にあるため、それを改善するために今川から持ち掛けられたものである。立場を明確にする必要があった。例え北条の経戦能力が乏しく、河越に戦線を作っているとしても、だ。勝者は北条であり、敗者は今川そして敗者寄りの中立が武田である。ここで北条がごねれば危機に陥っていくのは今川なのである。数か月前とは打って変わって、時間が無いのは今川であった。

 

 それを雪斎も察し、言葉を変える。

 

「失礼、お願いでございました」

 

「だ、そうですが。氏康様。どうしますか」

 

「……富士郡の割譲が妥協点ね。不可侵の代わりにそれくらいは譲歩してあげましょう。それ以上は小石一粒、田畑の面積の一欠片であっても応じないわ」

 

「承知しました。寛大なお心遣いに感謝いたします」

 

 この雪斎の発言により、取り敢えず今川と北条の関係は何とかなった。そして雪斎のこの発言に一番密かに感動していたのは幻庵である。北条の黎明期からその屋台骨を支えてきた彼女であるからこそ、今川の家臣のような扱いを受け、屈辱を感じたことも多かった。雪斎の姿勢はもはやかつてのそれではない。北条はここに初めて今川と対等になった。その感動に幻庵は思わず泣きそうになっていた。

 

 雪斎は疲れ切った感情と苦々しい思いが混ざり合い、死んだ魚のような目になっている。

 

「これにて両家の和はなり、我が武田も古き怨恨を捨てて北条を支援する。我が家の悲願は信濃平定。それに邪魔な関東管領は北条と共通の敵である」

 

 関東管領は信濃にも領土を持っている。

 

「我らの利害は見事に一致している。いずれはこの三国が縁戚となり、三国同盟を結ぶべきであると思う」

 

 晴信の言葉に義元が食いつく。

 

「そのような展開になれば背後の憂いは消えますわ!都への上洛も簡単になりますわね、雪斎さん!」

 

「……御意」

 

「で、武田晴信。信濃を獲ったあとはどうするの?関東は北条が、都は今川が。貴女の野望の終わりはどこにあるのかしら」

 

 鋭い!と晴信は思ったが、これは勘助との想定問答集の中に答えがあった。最早丁寧語や張り付けた仮面も剥がれつつあった。

 

「そこからさらに北に進んで越後へ。甲斐は山国。塩と貿易港をどうしても確保したい」

 

 まだ越後の主は長尾晴景である。病弱惰弱な彼は越後をまとめ切れていない。元々越後は団結しない国。各個撃破は容易いと踏んでいた。この時のこの発言が晴信の運命を大きく変えるが、それを知るものはこの地上にただ一人しかいない。その本人はまあ精々義狂いの軍神を引き付けてくれ、うまくいくように一応願っているよ、と傍観している。

 

 北条氏康。怖い女だ。あたしと同じくらいの年頃なのに、氷のような心の持ち主。人の心の奥底を平然と覗き込める恐ろしい女。でもこれで乗り切れた。三国同盟の布石はなった。両家に対等の格を認められた、信濃攻略も軌道に乗った、と晴信がホッと一息つこうとした時、氏康は不意を突いた。

 

「越後?それは甲斐にとって必要なものを奪うというだけの話。貴女自身の野望の終わりではないわ。貴女の本当の夢は何?それを教えて頂戴」

 

 勘助は顔色を変えて氏康の静止をしようとするが、兼音にギロリとにらまれる。氏康の細い目をしっかりと見つめながら晴信は答える。

 

「氏康。あたしは父上の逆を行く。武田晴信が臆病者ではなかったと天下に証明する。父上に認められる、古今無双の名将になり、戦国最強の軍団を造る」

 

「そう…父親の志は継がないのね」

 

「父上に志などなかった。だから諏訪などと同盟したのだ。甲斐統一で父上の役割は終わった。父親に甘やかされたお前にはわからないかもしれないがな」

 

「どうかしらね。それは戦ってみなければ、わからないわ」

 

「最初からあたしと戦う気などないだろう。甲斐のような貧しい国など奪っても、北条には何の利益もないからな」

 

 氏康は酷薄な笑みを浮かべる。兼音と幻庵は主の判断に任せ、場を見守っている。

 

「その通りよ、武田晴信。貴女の秘めた志は確かに聞いたわ。信用はしないけれど、利で結びついている間だけは信頼してあげる」

 

 その言葉に晴信は今度こそ安堵した。勘助は末恐ろしい娘が世の中にはおるものだな…とため息をつく。それを横目に兼音は切り出した。

 

「さあて、我が主は納得したようですが、私から一つ大切なお話が」

 

「はて、何だろうか」

 

「妹君についてでございます。和議が成り、北条と武田の関係も改善した今、お返しいたします」

 

「かたじけない」

 

「ですが……やや信用に欠けるというのが私の所感でありまして。今川は信虎公という質を得ている。ただ、武田北条間にそのようなものはない。これでは些か、ね?」

 

 人質を寄越せ、と言外に要求していた。繰り返すが、武田は見逃してもらった恩があり、敗者の今川方の援軍であったため、立場的には北条より下だった。国力的にもであるが。人質を出すのが武田なのは妥当であった。なお、北条から武田への対価は関東管領への共同戦線。加えて一条兼音の心中では、信繁への指南と信濃攻略のアドバイスもそれに追加しているつもりである。

 

「ですが、当家には質に出せるような者は…。御屋形様の妹君たちはまだ幼少。母の下を離れられませぬ」

 

 勘助の応答に兼音は我が意を得たりという顔になり、口角を上げる。

 

「おや、そうですか?どうやら扱いに困ってらっしゃるご夫婦が甲斐躑躅ヶ崎にはおられるようで」

 

 その言葉に晴信は瞬時に禰々と諏訪頼重の事であると察する。

 

「禰々を送れと言うのか…」

 

「ご夫婦一緒でも構いませんよ。諏訪頼重が何を囁こうと、そんな誘いに乗るより貴殿と組む利の方が遥かに大きい」

 

「……」

 

 晴信は迷っていた。妹との関係は冷え込んでいる。好き同士の婚姻ではなかったが、晴信にはわからない夫婦の情が禰々にはあるようで、夫・諏訪頼重を攻めたことを詰ってくるのである。最近では頼重を殺されるかもしれないと恐れているようであった。いっそ甲斐から隣国に送った方がいいかもしれないと晴信は思った。北条は人質を殺したりしない。こちらが願っても彼らの暗殺を行う汚れ仕事のために引き取ったのではないと言われ、またその誇りから拒否されるだろう、と告げれば行ってくれるのではないか。諏訪家は頼重の妹の四郎に継がせればいいのだから。

 

 晴信の腹の内は固まった。

 

「承知した。直に禰々と諏訪頼重を小田原へ送り届けよう」

 

「ご英断感謝いたす」

 

 氏康は思わぬ土産にやや喜色を浮かべ、兼音は平然と頷く。幻庵は自らの出る幕がないことに時代の流れを感じつつも頼もしさを感じホッとしていた。送り出す晴信と勘助も無用な家中の争いを減らせるとどこか安堵している。

 

「よくわからないですけど、これで円満に治まったようですわね。素晴らしいことですわ。おーっほっほほ!」

 

 黙らせろよという視線が雪斎に降り注ぐが、雪斎はどこ吹く風。理詰めで生きていないから拙僧が止めても無駄、などと考えている。ある意味、こういう相手の方が思考が読みづらく、厄介かもしれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「さて、これで河越に迎えるわね」

 

「ええ。まったくです」

 

「ふぉふぉふぉ。良かったのう」

 

 北条家は帰り支度を始める。兼音は指をパチリと鳴らした。

 

「これに」

 

 どこからともなく段蔵が現れ、兼音の前に跪いた。

 

「一条殿、その者は?」

 

 勘助が問う。

 

「我が配下、加藤段蔵でございます。万が一があれば、我が主だけでもお救いするべく、風魔と共に待機させておりました。使わずに済んだのは僥倖。姫を殺す趣味はありませんでな」

 

「あいや、武田もこの寺の周囲に真田忍群を忍ばせております。それは不可能だったかと」

 

 すると、段蔵は兼音の耳元に何かを囁く。それを聞き、どこか嬉しそうに兼音は続けた。

 

「はて、それはどうですかな。そちらの忍び衆は風魔には気付いていたようですが、段蔵には気付いていなかったようですが。外では風魔と真田忍群が睨み合っていましたが、私は気づかれず素通り出来たと申しておりますが」

 

 それにギョッとした勘助のところに真田忍群の一人がやってきて耳打ちする。それを聞き勘助の顔には苦々しい表情が浮かんだ。

 

「なるほど、これが北条の力ですか…」

 

「そうよ。莫大な、そして精密な情報こそ北条の力よ」

 

 氏康が告げる。それを痛感している雪斎はいよいよもって渋面である。

 

「今川の忍びは真田忍群や風魔とは違い、少し甘い。ただの人間では彼らには勝てないわ。雪斎、上品なあなたらしいけれど注意した方がいいわよ。この世界には人間の常識ではわからない力を持つ者がいる。彼らは歴史の表舞台には出ないけれど、確かにいる。あるいはこの世界の彼方から来る者もいたりしてね」

 

 兼音はビクリとなり、心の中でダラダラ冷や汗を掻いている。この氏康の発言で未来から来たと言っても頭がおかしいとは思われないようだが、それでもリスクが高かった。亡き氏綱の言葉を思い出し、いつかは言うべきだろうが、今では無いと思いなおした。

 

「これは冷めた氏康殿とも思えぬお言葉。この世界の彼方から来るなど、それはもはや神仏の類ではございませんか」

 

 目の前にそれがいるとは知らず、雪斎は告げる。見ようによってはやや滑稽であった。

 

「幼い頃から風魔を見ていれば誰でもそうなるわよ。私は現実にあるものは、それがどれだけ不合理であっても否定しないわ。否定して目を塞ぎ、耳を閉じていても、そこにあるモノが消える訳じゃないもの。これほど世俗に塗れ、血が流れ続ける世界にも、まだ神秘が満ちている。」

 

「拙僧は信仰の場ではともかく、戦場では神秘も異形の力も信じませぬ」

 

 まあ、北条家のおばばは異形というに相応しいが…と雪斎は思ったが口には出さない。

 

「では、氏康様。一足先に失礼します。私もさっさと河越に戻らねば。兵は元忠に預けてきました。信繁殿も一緒です。丁重に送り届けてあげて下さい。それでは御免」

 

「ええ、私も必ず向かいます。それまで何とかあと少し持ちこたえて頂戴」

 

「御意」

 

 そう言うと、兼音は段蔵に「頼む」と言う。段蔵は無言で頷き、彼を抱きかかえた。そこそこ体重のある男性を易々と持ち上げる段蔵もなかなか人外だが、兼音的には大の男が忍びとは言え女の子に抱きかかえられているのが恥ずかしかった。段蔵は氏康と幻庵に一礼し、その場からまるで蜃気楼のように消える。

 

 それを見送り、氏康と幻庵も立ち上がり、礼をしてその場を去る。その後軍団に戻った氏康は直ちに全軍の転進を命じた。雪斎も急いで軍を再編するべく立ち上がる。晴信と勘助も禰々の説得と信濃攻略を続けるため、自軍に戻っていった。なお、すでに送り返されていた信繁がいつになく上機嫌であったため、晴信はやや驚いた。

 

 

 

 

 

 

 

 直に自分達を破った将に出会った朝比奈泰朝と岡部元信は恨みよりも悔しさを感じていた。寺の警護のため駆り出されていた彼女たちは寺へ来た氏康と兼音そして幻庵に名を名乗り案内した。情報戦に優れた北条家が破った敵将の名を知らないわけがない。そのため、嘲笑や侮辱も覚悟していた彼女たちだが、三人とも、特に彼女たちが自分たちを破った相手として意識している兼音は何一つ感情を見せることなくスルーした。それがまるでお前たちなど歯牙にかけていないと言われているようで無性に悔しかった。いつか名を轟かせ、眼中に入るようにしてやると彼女たちは奮起した。

 

 その奮起は直後の三河征伐でいかんなく発揮されることとなる。

 

 

 

 

 一方で、北条軍は意気軒高。領土を一部割譲こそしたが、旧主今川家に頭を下げさせたことでその留飲は下がっていた。氏康は「雪斎はこちらに頭を深々と下げ、和を乞い寛大な処置を願った」とあえて誇張して告げ、将兵の士気を上げた。勢いそのまま、北条軍は怒涛の進撃を開始。河越城に神速の行軍を始めた。いわば河越大返しである。

 

 そして、それより早く、今川の敗戦をまったくもって知らない管領方の陣を突破し一条兼音が河越城に帰還する。そして真の伝説は始まろうとしていた。



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第30話 関宿城攻防戦

ちょっと長くなり過ぎました。一万文字越えたのは初めてです。すみません。筆が乗り過ぎました。


 北条軍九千が二倍の数を誇る今川・武田連合軍に歴史上稀に見る反転強襲をしかけ、大敗させたのとほぼ時を同じくして、遥か東、下総の北側に位置する江戸川と利根川の分岐点である関宿では、古河公方足利晴氏率いる二万五千と里見義堯・真里谷信隆・千葉利胤の三家連合軍一万二千がにらみ合っていた。

 

 真里谷信隆。現代でその名を知る人間は一部の戦国超ガチ勢ぐらいなものであろう。そんなマイナーと言っても問題ない男は、これでも一応名家真里谷(別名、上総武田家)の産まれである。先ごろ国府台で一条兼音の手で討たれた真里谷信応は彼の実弟である。ただ、家督を争うようになってから、兄弟の情など捨てていたが。彼は弟に上総の地を追われることとなる。その背後には都合のいい部下を欲した故・足利義明の存在があった。

 

 頑強に義明並びに信応に抵抗していたが、結局は敗れ、峰上城を明け渡し足利義明に降伏した。その後、造海城に籠城したが歌を百首詠むことを条件に開城する。そして、支援していた北条家の下に逃れた。そのまま燻ったまま生涯を終えるかと思っていたが、恩人の北条家の家臣、一条兼音がにっくき実弟をこの世から追放してくれたおかげで、真里谷家の当主に返り咲けた。

 

 願望は果たせたが、その後復讐が終わったらやるべき事が無くなって燃え尽きた人の典型例を発動して真っ白になっていた。が、今回の戦においては義理を通すべく参戦している。加えて言えば、自分を追放した足利義明と同じ足利家の古河公方に嫌悪感を抱いていたというのもあるが。ともあれそこそこやる気はある。今回の指揮をする里見義堯にも特に含む所はない。彼の野望は知っているが、最近は真里谷の家名を保てれば何でもいいと思っており、最悪は上総を離れ、北条家の臣下となるのも悪くないと考えている。

 

 

 

 

 千葉利胤。現在の千葉市にある亥鼻をかつては治めていたが、今はその支配権すら失いつつあり、佐倉城を本拠地にしている。病弱な少女であり、名門千葉家の名跡は重過ぎると言えた。彼女なりに責務を果たそうと考えており、その一環で北条家に近づいた。至上命題は黄昏の名家、千葉家の延命。名前を残せるならと、最近は病弱な自分に代わり北条の血を引き入れる事を計画していた。

 

 千葉家はかつて平安末期に源頼朝に仕えた御家人、千葉常胤の子孫である。常胤は初期の頼朝と合力し、その政権を支えた。なお、元々は平家の一族である。多くの一族を持つ古い名族だ。

 

 弟の臼井胤寿と争ったり、発言権を原胤清らの重臣に奪われつつあった。重臣たちの中で、北条に付くことを主張したものと関東管領に付くことを主張したものとで争っていたが、利胤の強い主張によって千葉家の命運を賭けて北条側で参戦した。北上している里見義堯に危機感を抱いてはいるが、勝てなかった場合、待つのは滅亡のみであることを理解している彼女は経験豊富な里見義堯の指示に従うことにしている。

 

 

 

 

 

 

 対するは関東の旧主、足利晴氏。それに従う結城晴朝、梁田晴助。そして籠城するのは梁田晴助の息子持助である。

 

 梁田氏は平家の血を引く名家である。鎌倉公方、そして古河公方の家臣として仕えている。筆頭家老として古河公方を支える彼らにとって北条家は倒すべき敵だった。今回の戦にも主、足利晴氏の望みがあったため参戦している。勝ち戦だと思って当主は息子持助に僅かな兵を預けて河越へ出兵していたが、戻る羽目になりやや苛立っている。自分の居城と息子を囲まれていればそれもやむを得ないだろう。

 

 一方の結城氏も名家の出である。藤原家の出であるが、頼朝のご落胤説も存在している。関東八屋形に数えられる名門であった。かつて結城氏は結城合戦を行い幕府などと対立。一時は滅亡した。その後何とか復活を果たしたが、家臣の相次ぐ分離独立で衰亡の一途をたどる。分国法の「結城氏新法度」はそれなりに有名だ。古くから古河公方を支持しており、今回の戦にも古河公方の命で参戦している。

 

 結城氏は普段佐竹や宇都宮、小田などと争い合っている。しかし、今回は同じ軍門に集い反北条で結集している。北条家に特にこれといった恨みはないが、大勢を読み、また古いつながりから兵を率いていた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 両軍は睨み合っている。関宿城がもうすぐ陥落寸前というところで古河公方がやってきたため、現在は攻城戦を中止している。

 

陣中で里見義堯は舌打ちをする。

 

「ちっ、無駄に足の速い奴め。あと少しで関宿城は落ちたものを」

 

「まぁまぁ、そうカッカなさらず」

 

「あの小娘もまだ駿河から戻らぬのか…。いい加減にせぬと河越も落ちるぞ」

 

「その時が殿と我らの命日ですな」

 

「滅多な事を言うな!縁起でもない」

 

「先に始めたのはそちらでしょうに」

 

やり取りをするのは安西実元。彼のほかには正木時茂率いる正木一族、多賀高明、加藤信景、土岐為頼、秋元義久、酒井敏房、岡本氏元率いる岡本一族、市川玄東斎ら里見家が誇る将たち。義堯の息子義弘は現在幽閉されている、という事になっている。義堯も滅亡を回避するための保険はしっかりと用意しておいた。事実は反北条派の義弘を義堯が強引に幽閉したということにして、いざというときは義堯が切腹し、家の命脈を保つつもりであった。

 

「しかし、動きが無いのもまずいでしょう。幸い敵は寡兵を侮り陣中の風紀は乱れておるようです。この機を逃しては、勝利は厳しいやもしれませぬぞ」 

 

「陣中の様子は回ってきておる。風魔が手をまわしてかき乱しているらしい」

 

 義堯の言葉に複雑な顔の諸将。普段は最重要警戒対象の風魔が味方であることに対する色々な感情が混ざっていた。ともあれ、味方になると役に立つもので、古河公方側の陣中の様子は筒抜けであった。遊女や白拍子などの陣中風俗に携わる女性に扮した風魔も多数潜入している。これは、河越城を囲む軍勢も同じだが。

 

 そこへ一つの報せが敵陣に侵入していた風魔によって舞い込む。

 

「申し上げます。敵軍、夜襲を立案中にてございます。今晩に実行すると」

 

「なんだと!それは真か」

 

「は。我が手の者が陣中より盗み出した情報にございます」

 

「よし分かった。ご苦労、下がってよいぞ」

 

「は!」

 

 義堯からすれば実に僥倖なことであった。埒が明かないことにしびれを切らしたのであろう。一気に状況打開を図るため、夜襲を計画したのだな、と彼は考えた。そして、その情報が伝わったことで、敵軍の優位性は一気に崩れた。今晩ならば、まだ時間はある。義堯は顎髭を撫でながら、どう料理するか思案し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 場面は変わって、その古河公方の陣中である。風紀は乱れているというだけのことはあり、酒の匂いと嬌声が響いていた。流石に、総大将足利晴氏などは油断せずにいたが、一般の雑兵たちはそうもいかない。彼らは別に闘志に燃えている訳でもなんでもなかった。早く故郷に帰りたくなっている。溜まった不満は酒と女で解消するしか手はなかったのだ。おそらく禁止すれば暴動が起きる。

 

 元の、上杉や古河公方の治世には戻りたくないと心の底から思っている兵で構成され、救国の意思が固い北条軍の兵士とはそこが違った。必死さが段違いなのである。早雲より続く北条家の善政の成果が確実に出ていた。

 

 このままではどうしようもない。ここで釘付けになり、その間に河越が落ちれば、上杉が幅を利かせるようになるのは明白であった。そうなっては関東での権勢は取り戻せない。加えて言えば、北条家を皆殺しにする勢いなのは関東管領だけであり、扇谷上杉はそこまで憎悪に燃えている訳ではなく、足利晴氏もそうであった。今更相模伊豆が戻ってきても統治が難しいだけであろうことは想像がついている。彼の脳内では、武蔵を扇谷上杉、相模伊豆を北条家、安房を里見家、上総・上野を上杉憲政、下総と常陸は自分という何となくの国分けがあった。勿論小領主が多数いるため、実際はこの通りにはならないかもしれないが。

 

 彼自身は悪人でもなく、北条家に凄まじい敵意も無かった。事実、北条家の娘である妻も離縁してはいなかった。彼女は夫が自らの一族に敵すると決めた時、ショックを受けたが、離縁しろとは言わなかった。彼自身もする気はなかった。政略結婚だが、謎の名門意識を働かせ偉そうにしている梁田家の出である正妻より愛していた。自らを侮る正妻より、優しく気立てのよく、氏康の血縁であることが良くわかる美人顔の妻の方が好きだった。珍しいことである。まぁ、こんなこと口が裂けても言えないが。ともかく、彼自身は北条に壮大な恨みつらみはなかった。むしろ、敗軍の北条に講和の斡旋くらいはする気だった。なお、自分が負けるという発想はないが。

 

 長期間の出陣は彼の心に疲れを生み出していた。最初あった情熱もだんだん失われていた。関東が北条のものになったら鎌倉に行きたいと要請すればいいのではないか、と今更気付いた。それに気付くと、途端にやる気が失せていく。ただ彼も二万五千の総大将。投げ出して帰るわけにはいかない。せめて、鮮やかに勝たねばならなかった。

 

 長時間の滞陣は、雑兵たちにもあまりよろしくない。凡庸な彼でもそこはよくわかっていた。そのため、陣に旗下の将を集め、策を練ることとした。そして辿り着いた結論が夜襲である。長期の陣張りに倦んでいるのは向こうも同じはずだった。大規模な勝利を掴めば、停滞した流れを覆せる。足利軍の将たちは、そう考えていた。残念ながら、彼らはそこまで防諜に意識が向いていなかったため、それが筒抜けであるとは夢にも思っていないが。

 

 かくして足利軍は、全軍でもって奇襲を計画したのである。この作戦は関宿城にも伝えられ、彼らも夜襲が始まれば、城を開けて打って出ることとなった。こうして粛々と両軍の準備は整えられていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時刻は真夜中。普段ならば草木も眠る時間ではあるが、水音を抑えつつ行軍する集団がある。結城軍三千五百と足利軍二万が一斉に渡河を開始した。この季節は水も少ない。渡河は簡単だった。梁田軍は、城の援軍として別行動である。

 

 対岸の里見軍らまであとほんの少し。そう先頭集団が思った矢先のことであった。里見軍、そして千葉軍の陣からかなりの数の松明が一斉に灯される。その光量は現代の電気の明かりよりは格段に落ちるものの、月も細く空も曇っていて星のない夜中に夜目を慣らしていた足利軍にはかなりのダメージだった。瞳孔の開いていた彼らにはその炎の明かりであっても目がくらんだ。

 

 そこへ一斉に矢が放たれる。ここに至って足利軍の指揮官たちは夜襲の失敗を悟った。

 

 

 

 

 

 

 時はやや戻り、里見義堯のもとに敵が夜襲を計画している旨の情報が入った少し後になる。千葉利胤や真里谷信隆も集められ、今後の方針が話し合われていた。

 

「先ごろ報せがあった。公方は夜襲を計画している。今夜だ。各々方、ここが正念場と心得られよ」

 

 義堯の言葉に利胤と信隆が頷く。ここで敗れればどちらとも命運は尽きるのだ。顔も真剣そのものである。

 

「敵が夜襲をするつもりなら、こちらは当然それに乗ずる。夜になるのを待ち、川岸へ移動する。奴らが攻めて来たらば、火を灯せ。多く、出来るだけ多くだ。奴らの目をつぶす。そうしたらば、弓を射かけ、混乱したところを叩く。これを千葉軍と里見軍でやる」

 

「我ら真里谷はいかがしましょう」

 

「城にこの情報が届いていないとは考えにくい。大方こちらがやられているのを見て混乱したそちらを城を開け放ち城兵で奇襲するつもりであろう。貴殿らは城門の前に張り付き、城兵がまんまと門を開けた時に一気呵成に攻め上られよ。さすれば城は瞬く間に落ちるであろう」

 

「承知いたした」

 

 城兵は七百、真里谷軍は二千。数は元よりこちら側にあった。真里谷軍は他の二家の部隊とは異なり、橋を渡った城側に陣を張っている。

 

「敵は城兵以外は全軍でこちらへ来るでしょうか。城兵と真里谷殿の隊の兵数差があるのは向こうも承知のはず。まったく救援を寄越さないとは考えにくくはありませんか」

 

 利胤が口を開く。この姫は病弱であったが暗愚ではない。長い黒髪を結うことなく垂らしながら、目の下に長期の滞陣による疲れから生じたであろう色濃い隈を残す彼女の姿に義堯はやや同情した。

 

「千葉殿の申されることもっとも。その可能性は大いにあり得る。然らば……真里谷殿」

 

「はい」

 

「電撃的に城を落とすことは可能か?一度城を落としてから迎え撃っていただきたいのだが」

 

「善処致しましょう」

 

「お頼み申す」

 

 信隆は無言で頷く。確かな勝算が義堯に生まれていた。もしうまく行けば、かなりの戦果を挙げられるだろう。遥か川の対岸に見える足利家の陣を眺めながら、義堯はほくそ笑んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 かくして里見・千葉軍は一万をもって全力で攻勢を開始する。射かけられる弓に大軍であること、川の中であることが理由で身動きがとれない。次々と射抜かれていった。前方の部隊の有り様を見て、後方部隊は慌てて撤退を始める。しかし規律が乱れ、士気も落ちていた所に無理やり始めた夜襲でこうなっていては兵の統率が執れる訳がない。なりふり構わず逃亡する兵を叱咤する将たち。しかし残念ながらその声は恐慌状態の彼らの耳には届かない。

 

 大混乱の様子を見た義堯は、利胤に僅かな手勢を預け後衛を任せ先陣切って突撃を敢行する。足利軍の前衛はまともに戦闘も出来ず次々討ち取られていく。

 

「進め!進め!見よあの敗走する足利の弱兵を!もはや我らに敵う訳もなし。全軍進めぇぇ!」

 

「「「「応!!!」」」」 

 

 川は虐殺の場と化していた。その様はある意味興国寺城の戦いにおける今川軍よりもひどかった。首は捨て置かれ、遺体は川を流れていく。最前線では正木時茂が無双の槍を振るう。穂先が敵兵に触れた瞬間に敵兵は物言わぬ死体となって血煙を川にまき散らす。安西実元らの里見家臣もその剣を、槍を、戦斧を振りまわす。千葉家の家臣団とて負けてはいない。

 

 下総一の名門、千葉家の将が里見に後れをとるなど彼らのプライドが許さない。原胤清、原胤貞、高城胤辰、相馬治胤、豊島明重など里見家臣団にも負けない将たちがいる。千葉軍は里見家よりも兵数が少ないながらも奮戦する。彼らはかつて病弱な姫を侮って反乱が勃発した時にも利胤に従い続けてきた忠臣である。普段は意見の違いなどから対立しており、主・利胤の発言権も奪いつつあったが、それでも主への忠誠心は残している。たとえ自分と意見は違っていても、主が古河公方や関東管領との決別を決意したのなら、それに従うだけであった。

 

 古い名門、旧権力の代表として北条家に認識されている古河公方、関東管領であるが、彼らは所詮室町幕府の支配体制になってからの権力者である。対する千葉家は鎌倉時代、もっと言えば平安時代の武士団からの権力者である。その血の系譜は圧倒的である。本来ならば北条には敵対するのが普通であった。だがそれでも利胤は新たな力・北条家に未来を見出した。最初は反対していた家臣たちも、それを感じ同じ力に希望を見出すことにした。

 

 競争心から里見軍は益々奮起する。足利軍の戦線は完全に崩壊した。まさしく潰走という他はなかった。 

 

 

 

 

 

 

 関宿城では里見軍と足利軍の戦闘が始まる少し前に城門を開け放つ。まさか敵が万全の態勢で待ち構えているとは夢にも思わない。

 

「かかれぇ!」

 

 城将、梁田持助自らが指揮を執る。城門から一気呵成に出陣した梁田軍は一路真里谷家の陣を目指す。奇しくも里見軍とほぼ同じタイミングで真里谷家の陣に一斉に灯火が灯る。

 

「なんだと…!まずい、退け、退け!」

 

 一瞬にして梁田持助は状況を悟るが、軍は急には止まれない。先頭が止まろうとするも後ろから突き上げが来る。ゴタゴタしている状況など襲ってくれと言っているようなもの。元より数は真里谷軍の方が上。信隆はここまでは想定通り、と全軍に前進を命ずる。敵兵を殲滅しつつ、中央を突破。がら空きの城門を何者にも妨げられることなく抜け、城内に侵入する。かつては頑強に抵抗していた関宿城の郭群も誰も守兵がいなくては意味をなさない。瞬く間に占拠されていった。同時進行で城外に出ていた城の軍は次々と屍を晒す。間もなくして信隆の下に城将・梁田持助の首が届けられた。

 

 ホッと一息つこうとした信隆であったが、ここで義堯の言葉を思い出す。

 

「そうだ、里見殿よりの伝言である。関宿城には救援部隊が来るはずだ、と。警戒せよ」

 

 これにより、急遽真里谷軍は警戒態勢に入る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方、足利軍別働部隊として関宿城に向かっていた梁田晴助は燃え上がる火や煙を自らの居城に見た。これにより、少なくとも関宿城においての作戦は失敗したことを知る。しかし、ここで引き下がるわけにはいかなかった。そこで彼は、関宿城を攻略している敵軍(真里谷家の部隊)はおそらく攻略に夢中になっているはずだ、と考える。敵軍が夢中になっている間に、息子を見殺しにしてでも勝ちを得ることを優先することにした。その策とは単純で、関宿城の後方を素通りし、利根川を渡河し敵陣を急襲する作戦である。

 

 なお、梁田晴助は主・足利晴氏の軍と同僚の結城晴朝の軍が里見義堯によって敗走させられていることを知らない。関宿城は放棄して、連携して挟撃することにしたのである。そこで晴助はおそらく命は無いであろう息子のことを思い流れる涙を拭い去る。そして、彼が目指している地点には現在少数しか兵のいない利胤隊がいるのである。

 

 

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 一方、警戒し続けている信隆はおかしいと感じていた。いつまでたっても襲撃がないからである。

 

「殿、本当に襲撃はあるのでしょうか」

 

「ううむ……」

 

「もし襲撃が無いのでありましたら、里見殿の援助に向かうべきではありませぬか」

 

 その家臣の発言に対して信隆は考え込む。別働隊がいるのなら、既に関宿城の状態は把握しているのであろう。そのうえでなお来ないのはこちらの出方を窺っているからであろうか。だがそうする必要が敵にあるのだろうか。別働隊であるならそこまでの大軍ではないはずだ。少なくとも本隊より少ないはずである。敵の数は二万五千。たとえ四分の一であっても、こちらより多い。敵もこちらのある程度の数は把握しているであろうから、数の多寡は分かっているだろう。では、敵が来ない理由は何か。

 

 そこで、信隆はふと気付く。現在最も手薄な部隊は誰の部隊か。里見軍?最も兵数の多い部隊だ。千葉軍も合わさり一万はいる。自軍は兵数は多少減っていても二千弱。残る最後の部隊、千葉利胤の後衛部隊は……僅か二百。

 

「まずいぞ!もし敵がこの城を迂回していたら!」

 

「危ないのは千葉殿ですか!」

 

「それがまことなら、直ちに救援に向かわねば!」

 

「万が一のため、五百を残す。残る全軍で千葉殿の保護に向かう。直ちに反転。橋を渡れ!」

 

「「「「「応!」」」」」

 

 急遽真里谷軍は数百を城に残し、橋を渡り始めた。

 

 

 

 

 

 

 果たしてその予想は的中していた。梁田晴助の部隊は関宿城の真里谷軍に作戦通り気付かれないまま利根川を渡り、そこで利胤の二百の部隊を発見する。僅かしかいない利胤隊は、格好の獲物であった。梁田晴助は全軍に突撃を命じる。

 

 後衛部隊として気を張ってはいたため、利胤は襲撃にはすぐに対応できたものの多勢に無勢。次々利胤の護衛は討ち取られていく。息子の復讐に燃える梁田晴助は、攻撃の手を止めない。最後の一兵まで殲滅するつもりであった。

 

「姫様、もはや防ぎきれません。お逃げください、ここは我らが時間を稼ぎます。里見殿に合流すればお命を長らえられましょう!」

 

「そうです。我らにも限界があります。我らは千葉家の家臣。ここで果てるとも姫様のために死ぬならば本望!我が先祖や子々孫々も誉れとするでしょうぞ!」

 

 村上綱清、大須賀政常らの近衛の武将が次々と叫ぶ。利胤は、それに答えず、小姓に持たせていた刀を受け取り、抜き放つ。

 

「ここで逃げては関東の武門の名門、千葉家当主としての名折れ。里見殿なら勝利を掴めましょう。私一人の力など大したものではありませんが、せめてもの時間稼ぎを致します。退くわけには参りません」

 

 利胤は傍らにいた馬にまたがり、剣を構える。

 

「ごめんなさい。私が北条に付くなどと言わなければ…」

 

「姫様!」

 

 利胤の呟こうとした懺悔は宿老の一人、井田胤徳によって遮られる。

 

「我らは名誉と誇りの為に死ぬのです。そこに悔いはござらん!姫様は懺悔などなさらず、私の為に死ねとでも仰せになればよろしい!我らにとってすれば、それこそが一番の名誉なれば!」

 

「…そうね。それでは、行きましょう」

 

「「「いずこまででもお供仕ります」」」

 

 利胤の本陣にも敵兵が入りだす。病弱なその身を叱咤して、刀を振るう。その表情は、思わず梁田軍の兵がたじろぐ程悲壮であり、また鬼気迫る顔であった。共に戦う将兵も歴戦の強者揃い。それでもジリジリと押されていく。時間稼ぎの限界を悟った利胤は義堯と信隆に希望を託した。北条は自らの為に当主が戦死した千葉家を決して粗略には扱わないだろうという確信があった。

 

「関東八屋形、千葉家当主、千葉中務大輔利胤はここにいる!私の首が欲しければ取りに来なさい!」

 

 その言葉に多くの兵が群がり始める。彼女が死を覚悟したその時であった。

 

 

 

 

 

「千葉殿を死なせるな!全軍突撃!」 

 

 信隆の号令に雄たけびを上げながら、真里谷軍が突撃を始める。少数の兵に群がっていた梁田家の兵士は突然襲い掛かられ、大混乱に陥る。

 

「助かった…、の?」

 

「千葉殿、ご無事ですか!救援が遅くなって申し訳ない」

 

「い、いえ、助かりました」

 

 慣れない行動に疲弊している利胤は咳き込みながら、よろめく。それを馬に乗りながら駆けよった信隆が支える。

 

「申し訳ありません、お手数おかけしました」

 

「お気になさらず」

 

 両軍の当主が邂逅している間に、千葉軍に襲い掛かり、殲滅できる、勝てると確信していた梁田隊の兵たちは統率は崩れていく。千葉家の近衛も負けずに最後の力を振り絞り反撃する。真里谷隊によって崩れた戦列は立て直せず、梁田隊は壊滅する。梁田晴助はついに敗れたこと、息子の仇を討てなかったことに呆然としているところを周囲を真里谷兵に囲まれ、引きずり下ろされ捕らえられる。殺されなかったのは信隆の命令であった。今後交渉する際に使える材料が欲しかったのである。繰り返すが、まだ彼らは義堯の勝利を知らない。その上で交渉材料が必要だと判断している。

 

 かろうじて利胤の救援に間に合ったため、梁田晴助率いる別働隊が壊滅したことにより房総連合軍の勝利が確定した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 足利晴氏は愕然として、激しく後悔していた。敗戦。その文字が脳内に染みつく。なぜこうなった。即戦闘せず兵の士気を下げたこと、夜戦などという手段に頼ったこと、慢心、油断、情報の洩れ…。あの万全の備えは完全にこちらの情報が漏れていたしか思えなかった。これが風魔か。知っていたが、その力を侮っていた。それとも、自らの野望の為に、愛する妻の実家を攻めると決めたその時からか。野望に呑まれ裏切りを決めた罰か…。

 

 だが、晴氏はここで死ぬ訳にはいかなかった。馬に乗り、全軍に撤退命令を出したのち一心不乱に近習と共に古河城へ駆け始める。背後で死んでいく兵たちの断末魔を聞きながら、彼は馬を走らせ続ける。里見軍も深追いを禁じており、追撃してこなかった。自分たちの見た目が完全に落ち武者であることを自覚している晴氏は早く帰る必要があった。さもなくば落ち武者狩りにあう可能性がある。

 

 帰りたい。帰らなくては、帰らねばならない。古河公方としての地位も、その面目も、最初抱いていた野望も最早どうでもよかった。ただ、自らの城に帰り、彼女に会いたかった。自分の実家を攻めると聞いた時も、自分の武運を祈り、無理して浮かべた笑顔で待っていると言ってくれたその姿をもう一度見たかった。古河公方としては、間違いなく間違った想い。だが、それを自覚しつつも、彼はその想いを消せなかった。無事に帰れたら、北条に許しを乞おう。誇りも捨てて良い。あんな罵倒しかしてこない正妻はとっとと離縁してやる。北条に筋を通すためなら正当性があるだろう。たとえ古河城を追われても、二人でいられたら良かった。

 

 駆け続けた末に、何とか古河城にたどり着いた時、先に逃亡した家臣に敗戦の情報を聞き、顔を青くしながら城の家臣に止められるのも聞かずに待ち続けた彼女の顔を見た時、緊張の糸が切れた晴氏は馬から落ちる。泣きながら駆け寄り、着物が汚れるのも気にしない彼女に抱き締められた時、晴氏は疲労により意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かくして関宿城の戦いは帰結した。結城晴朝は降伏。梁田晴助は捕らえられ、足利晴氏は逃亡。関宿城の守将、梁田持助は死亡し、足利軍の将も多くが死傷した。二万五千の軍は四散した。対する里見・千葉・真里谷連合軍は要地、関宿城を落とし、夜襲をはねのけ大勝。足利軍死者行方不明者五千三百。里見軍死者行方不明者千二百。西の興国寺城で北条軍が大勝するのと時を同じくして、東の関宿城で里見連合軍が大勝する。関東管領の趨勢は着実に敗北に傾きつつあった。

 

 だが、河越城包囲部隊はこの事実を知らない。北条家の情報封鎖は完璧であった。

 

 古河公方、足利晴氏は、降伏の準備を始める。里見軍は兵をまとめ、更なる北上を始め、南常陸を荒らし始める。

 

 

 

 河越夜戦まで、あと十日。




次回、河越夜戦です。長かった。前半の山場です。これを迎えられたのも、皆さまの応援のおかげです。感想や評価に力を貰ってます。これからもよろしくお願いします。


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第31話 河越夜戦 序

今回からいよいよこの章のラストパートです。


 時はさかのぼり、約半年前。河越城の主、一条兼音が小田原へ出立して数日後の事であった。河越城の城代、北条綱成は同僚であり、兼音の副将であり、自らの従姉である花倉兼成と共に政務に励んでいた。内政は兼成が一手に引き受けており、軍務は綱成が担っている。有事の際の統帥権は綱成が有している。故に城代なのである。

 

 ただ、軍団を組織する際はそれが変わってくる。例えば、河越城の兵力を率いてどこかへ出征する軍団を組織した場合、ナンバーワンはあくまで兼音であるが、兼音が指揮を出来ない状況になった際は兼成が指揮を執る。

 

 現在、主は今川との対決の為、小田原へ出ている。くれぐれも留守を頼むと言われた以上、全力で励むつもりであった。そこへ、慌てた様子の兵が飛び込んでくる。

 

「も、申し上げます!」

 

 息が上がりきった状態で叫ぶ兵の様子に二人はただならぬものを感じる。

 

「何事です!」

 

 綱成が問いかける。兼成は水を持ってくるよう女中に指示していた。耳はしっかり聞いている。

 

「あ、あ、赤い、赤い狼煙が上がりましてございます!!」

 

 その報告に、二人の目線は一気にキツくなる。それもそのはず、彼女たちの主、一条兼音が残した伝言によれば赤い狼煙が上がった時は味方の小領主が緊急事態を知らせたという事である。

 

「段蔵さん!段蔵さぁん!」

 

 兼成は段蔵を呼ぶ。二人は新しい仲間を割と歓迎していた。主が実力を認め、わざわざヘットハンティングしにいったという事は、それに見合う実力なのだろうと判断している。戦国期の武家には忍びを下賤の者として差別するところもあるが、北条家においてはそのようなことはあり得なかった。何しろ、風魔忍びたちは北条家黎明期から共に戦ってきたのである。その情報収集能力や暗殺術など数々の能力に助けられてきた北条家の面々に、忍びを差別するという思考が生まれようもなかった。

 

「これに」

 

「非常事態が起こったようですわ。配下と共に事態の詳細を調べてきてくださいませ」

 

「承知」

 

 補足すれば、段蔵は兼音の直臣であるがそれは兼成も同じことであり、仕えてきた期間の長さや今の立場、家格などから兼成の方が立場は上である。綱成は氏康の家臣であり、兼音の下へ出向している形なので、本来の序列的には綱成がこのメンバーの中で一番偉いのだが、特に気にしていない。

 

 段蔵が去った後、二人は万が一に備えての対策を始める。

 

「籠城態勢に移行します。周りの土豪たちにも声をかけ、四千は籠れましょう」

 

「その数なら兵糧は一年ほどならば持つと思われますわ。城下にも触れを出さなくてはね。兎にも角にも…」

 

 急がなくては。言葉にしないが二人は頷き合い、それぞれ歩き出した。

 

 

 

 

 その少し後、段蔵が帰還する。城には徐々に兵が集まりつつあった。数時間後には配置に付けるだろう。城下の民の収納も終わりつつある。民を収容すると籠城できる期間は大きく減り、半年ほどになってしまう。だが、見捨てるという選択肢はなかった。自らの思想に反する上に、主に激怒されるのは目に見えていることである。この城に籠れない農民たちは、避難を命じてある。返した兵糧は元隠し田に隠せと指令を出した。現在・北条家はこの元隠し田の存在知っているが、旧領主・扇谷上杉は知らないからである。

 

「調べ終わりました」

 

「どうでしたか」

 

 綱成の問いに答えんとする段蔵の顔色はよろしくない。

 

「状況は最悪に近いかと。関東管領・上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方・足利晴氏、その他結城、小田、土岐、相馬、江戸、大掾、鹿島、佐野、小山、宇都宮、壬生、那須など関東中の諸将が、八万の軍勢となりこの城を目指し進軍中でございます。明日にも、この城は囲まれるかと」

 

「八万…まさか、そんなに…」

 

「これはまずいですわね」

 

 二人の顔はもはや真っ青である。他の城の将たちも顔色は良くない。

 

「どうしますの」

 

「どうとは?」

 

「籠城か、降伏か」

 

 真剣な問いだが、その目の奥に見える兼成の真意を見て取った綱成は口角を上げる。

 

「後者はあり得ません。それは同じ思いでしょう。意地悪な仰せですね」

 

 それを聞き、兼成の顔にも微笑みが浮かんだ。

 

「ごめんなさい。けれど、聞かなくてはと思ったのですわ」

 

 そこへ報告が入る。

 

「申し上げます。城兵の収容完了いたしました。今は馬場に集まっております」

 

 その報を聞き、綱成は立ち上がった。

 

 

 

 

 綱成の眼前には約四千の兵が集まっている。

 

「皆!聞きなさい。これより我らは城に籠る!逃げたいものは逃げよ。けれど、武士として、北条の民として生きるというのなら、兼音様のお戻りまでいかなる艱難辛苦が待ち構えていようとも決して屈さず戦いなさい!」

 

 彼女の号令に一拍あけ、凄まじい雄叫びが響く。誰一人として、逃げ出すものなどいなかった。彼らのほとんどは在地の兵である。かつては扇谷上杉の兵であった。しかしながら、彼らの心には旧主扇谷上杉ではなく、新たな主たる北条の善政が根付いていた。河越城に一条兼音が入ってよりまだ一年も経っていない。にも拘らず、民の心は既に北条と共にあった。

 

 この兵たちの反応を見た兼成は静かに段蔵に告げる。

 

「ただちにこの状況を小田原へ。そして、兼音様に伝えて下さいまし。籠城兵は四千。兵糧は持って半年。けれどわたくしも、綱成も、決して降伏は致しません。お戻りになるまで、一年でも、十年でも籠ってみせます、と。良いですわね」

 

「はい…必ず!」

 

 兼成の悲壮な覚悟を感じ取り、段蔵は言葉に詰まりそうになりながらも頷いた。兼成の脳裏には、過去の記憶が蘇る。燃え盛る城、死んでいく兵たち。亡骸となった祖父。そして、自らの身代わりになった幼き頃からの侍女。片時たりとも忘れたことはなかった。今でも鮮明に思い出せる。御達者でという言葉、優しくも哀しい笑顔。そうだ、自分はこんなところで死んではいけない。あの子の分も、生きて、生きて生き続けなくてはいけない。

 

 そして、あの城から救い出してくれた彼の姿も、その後抱えられながら朝日の中馬で駆けた記憶も。きっとまた、わたくしを助けて下さりますよね。信じております。あの日から、ずっとずっと。

 

彼女は遠く、小田原の方角を見つめ祈った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 駿河での三雄会談が終わった後、段蔵に抱えられ河越城に急行していたはずだ。なのだが…

 

「お、おい、大丈夫なのか。この道なき道をさっきからずっと進んでるが」

 

「問題ありません。あまりお話にならない方がよろしいかと存じます。舌を噛みますよ」

 

「は、はい」

 

 速い。滅茶苦茶速い。風を切って進んでいる。これ大丈夫なんだろうなあ。ここはどこだかよくわからない。時々休憩しながら三日ほど走りっぱなしだ。

 

「ここはどこだ」

 

「武蔵の国の南部です。今晩中には戻れるかと」

 

「そうか」

 

 本当に舌を噛みそうなので黙る。風魔と言い、段蔵と言い、物理法則をガン無視してる。助かっているのだから良いのだが。

 

 

 体感で数時間経っただろうか。日も暮れた。しばらく平野を駆けていたが、今は小高い丘の上だ。

 

「主様。間もなくでございます。領内には既に入りました。あそこに見えます光がおそらくは敵軍かと」

 

 目をこらせば遠くにチロチロと光の粒が見える。それもかなりの数が。古河公方は撤退したそうだが、それでも五万五千はいる。

 

「あと少しだ。頼む」

 

「はい。お任せを」

 

 再び抱きかかえられ運ばれる。やっぱりこの態勢はどうかと思う。普通は逆ではないだろうか。通称お姫様抱っこで運ばれる城主。うん、情けないな。

 

 敵軍は陣を街道上には敷いていないようで、警備兵もいないがら空きの街道を走る。割とあっさり突破できた。数か月ぶりの自分の城に、懐かしくなる。城門の前で降ろされる。

 

「段蔵。ここまで助かった。ありがとう」

 

「当然のことを致したまで。さ、早くお戻りを。皆さまお待ちでございましょうから」

 

「ああ」

 

 段蔵は体力を使い果たした様子で、休みに行った。城下町に入るための門を見る限り、どうやら攻勢は行われていないようで傷はない。この様子だと城下も無事だろう。それに安堵しつつ、門の前に立つ。

 

「何者だ!止まれ!」

 

 警告と共に十人ほどの弓兵が弓を構えて門の上の櫓から顔を覗かせる。

 

「皆、待たせたな!私だ、一条兼音である」

 

「じょ、城主様!おい、早く開門しろ!」

 

「本当に城主様か?名を騙る刺客やもしれんぞ」

 

「ばか、お前、俺はご尊顔を見たことがあるんだぞ。間違えるわけねえだろ!おい、とにかく開門!」

 

「りょ、了解!」

 

 ギーっと音をたて、門がゆっくりと開く。

 

「こちらの馬をお使いください。城代様以下皆、お帰りをお待ちしておりました。本当に、よく、お戻りに…」

 

「すまない。待たせてしまったな」 

 

「い、いえ、いつかお戻りになると信じておりました。さあ、お早く」

 

 泣きながら言う門の守備隊長の様子から、言葉が真実であると悟る。半年。本当に長い期間待たせてしまった。だがそれもこれまでだ。これから行うは古今東西類無き無双の奇襲戦。そして北条の名は日ノ本全土にとどろくのだ。

 

 そう思いながら、貸された馬で城下の道を駆け、城へ向かう。深夜でも煌々と灯された明かりが臨戦態勢であることを伺わせる。大手門へ続く橋の上には少女が二人。その後ろには多くの兵や民の気配がする。馬を降りて、橋へ歩き出す。数か月ぶりに見る二人の姿に、涙がこみ上げる。私の姿を視認し、顔を見たであろう綱成は、こちらへ駆け寄ってくる。思いっきり抱き付かれてちょっと吹き飛ばされそうになる。

 

「先輩!先輩っ!!よかった、よかったです!本当に、本当に……!」

 

 涙と嗚咽で言葉の出ないまましがみつく彼女の頭を左手で抱えながら、視線を上げれば、兼成がゆっくりとこちらへ近づいてくる。

 

「よく、お戻りに、なられましたわ…!ずっとお待ち申し上げておりました」

 

 気丈に振舞いながらも涙で顔を歪ませた彼女の頭を撫でる。

 

「よく、耐えてくれた。ありがとう、本当に、ありがとう。もう、大丈夫だ。だから安心しろ」

 

「はい、はい……!」

 

 流れ続ける涙を拭うことも、止めようとすることもなく、彼女たちは泣き続ける。自分よりも年下の、しかも女の子に背負わせてしまった重圧の重さに罪悪感を抱きながらも、自分の心は二人の無事を安堵していた。

 

 

 

 

 

 

 泣き続ける二人を落ち着かせ、城の広間に連れていく。他の城の者達も多くが集まっている。大広間はすし詰め状態だ。赤くウサギのようになった目をしながら、綱成が皆を代表して口を開く。

 

「それで、先輩。お戻りになったという事は、駿河戦線は決着したという事でしょうか」

 

「ああ。その認識で間違いない。皆がここで耐えてくれている間に、我らはあの今川の大軍を完膚なきまでに叩き潰した。太原雪斎は我らに寛大な処置を乞い、頭を下げた。誰が何と言おうと、勝利である!」

 

 この言葉に、広間は沸き立つ。表情に喜色を浮かべ、口々に祝辞を述べている。手を上げ、騒がしい広間を一度鎮める。

 

「これにより、駿河戦線は消滅した。そして、氏康様旗下の本隊が八千の精鋭でこちらへ急行している。間もなく到着するだろう。あと十日だ。十日のうちに、関東管領はその屍をこの河越の大地に晒すだろう!」

 

 今度は広間を越え、城中が震えるような歓声が響いた。

 

「後詰めが、来るのか…!」

 

「我らは見捨てられたわけではなかった」

 

「数か月分の鬱憤ぶつけてくれる!」

 

 こちらの士気は十分だ。何とか持ちこたえてくれていたらしい。反面、敵は長期の陣でダレている。兵の士気は低く、軍紀も乱れているのだ。大軍に油断した敵軍など恐れることはない。今川の軍の方が恐ろしかったまである。

 

「あと少しだ。あと少しだけ、私に力を貸してくれ!」

 

「「「「「「おう!!!」」」」」」

 

 威勢の良い返事に頷く。首を洗って待っていろ関東管領。貴様は絶対に逃がさない。血が出そうなほど拳を握りしめて決意を固めた。

 

 

 

 

 多くの改革を実行し、不正は断固として糾弾し、多忙な中農民や城下の民の生活を視察し、細かに民や兵と接し続けていた彼の努力はまさにこの時実っていた。領民は皆、この領主をひいては北条の支配を歓迎していた。平和な暮らし。素晴らしいまでの治安の良さ。誰も餓えない生活。産まれて初めて享受するこの環境は彼らにとってユートピアの如しであったのだ。誰一人の逃亡者もなく、籠城を続けられたのはこれらの要素によって引き起こされたある意味必然とも言うべき結末であった。

 

 半年が経ち、弱気になる者もいたが、それでも逃げるものはいなかった。彼らは信じている。きっと勝てるんだと。最初城を囲んだ八万の軍勢を前にしてもなお彼らは信じていた。きっと自らの主は自分たちを勝利へと導いてくれるはずだと。そして、彼らの信じた未来は間もなく現実になろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 河越城が城主の帰還に沸き立っていた時、北条氏康率いる八千の軍勢は武蔵国滝野川城付近にいた。滝野川城は現代の北区に位置している。かつては豊島氏の城だったが、彼らは太田道灌に敗れ、現在は北条家の支城になっており、兵站の補給などに使われている。この城で一時の休息をとっている。ほぼ休みなく強行軍をしてきたが、駿河での大勝によって、将兵共に士気は高い。

 

 時系列的には関宿城で足利軍が大敗してから三日が経過している。明日には河越に着けるというのが氏康の予測だった。情報は既に手元に集まっており、河越城周辺には情報封鎖をかけている。関東管領以下、陣中の誰もその事実を知らない。関宿城周辺で睨み合っていると思っている。その実、二万五千の足利軍は里見軍に大敗を喫し軍勢は四散していた。足利晴氏は命からがら古河城に戻っている。その事実を知っている氏康はそろそろ何らかの書状が来るであろうと踏んでいる。その予想は正しく、足利晴氏は迅速に行動しており、今まさに文が到着していた。

 

「おばば、見なさい。足利晴氏から命乞いの手紙が来たわ。北条と縁を結んでいながら、よくも裏切ってくれたわね。どうしてくれましょうか」

 

「じゃがなぁ氏康。そう厳しい処分は下せんぞ。衰えたとはいえ、奴はいまだ古河公方としての地位を保っておる。京の幕府が滅びぬ限り、権威は不滅であろうて。関東武士の棟梁は名目上は奴。主殺しの汚名を被るは避けねばならんぞ」

 

「わかっているわ。まったく厄介なことだけれどね…」

 

「出来て幽閉と当主交代であろうな。多少は強気には出れるが、ここら辺が限界じゃろう」

 

「そうね。どうやら鎌倉に戻りたかったようだし、そんなに鎌倉がお好きならご要望通り鎌倉で生涯を終えてもらいましょう」

 

 楽しそうに冷たい笑顔で氏康は言う。自らの敵が順調に消えていっていることに、彼女は喜びを感じられずにはいられなかった。残るは最後の敵、両上杉である。彼らが関東より退場したその日が、北条早雲以来の夢が叶う日だろう。武蔵、下総、上野を抑えれば、残る巨大な敵は常陸の佐竹と安房・上総の里見だけである。下野は諸将が乱立しており、まとまりに欠ける。大きな敵にはなりえない。

 

 彼女の胸中には必勝の策があった。兼音には伝達する時間がなかった、というより、行軍中に思いついた策であったのだが。彼女の心には、彼ならばこれくらいの策は既に思いついており、自分たちの到着を待っているはずだという確信めいた信頼があった。

 

 興国寺城における大勝は彼女の思考を大きく変えつつあった。いくら敵軍の士気は低いとはいえ、昼間では撃破されてしまう。ではどうするか。答えは簡単である。それとは即ち夜襲だ。単純明快な理論である。氏康は意識していないが、興国寺城の戦い、関宿城攻防戦、そしてこれから河越城で起ころうとしている戦いの三つは全て夜戦なのである。この時代の誰も知る由はないが、後世にこの三つの戦いは関東三夜戦と呼称されることとなる。

 

「敵の様子はどうかしら」 

 

「我らを侮り、酒宴三昧であるようじゃ。せっせと書き続けた命乞いが役にたってきたのう」

 

「まったくよ。心にもない講和を願う書状を書き続けるのはなかなかに苦痛だったわ」

 

「じゃが、おかげで敵は油断しきっておる。これは勝機があろうて」

 

「そうね。そしてそこへ、最後のダメ押しと行きましょう」

 

「ほう?」

 

 幻庵は興味深そうに氏康に視線を向ける。

 

「古河公方に伝令を出すわ。死にたくなければこちらの命令を聞けと」

 

「何を命じるんじゃ」

 

「こちらから降伏要請を出すわ。それを痛烈に拒否するようにと」

 

「む?ああ、なるほどそういう事か」

 

 知将である幻庵はこれだけで察した。氏康の真意は、こうである。まずは北条方から命と引き換えに降伏の意思を古河公方に伝える。そして、古河公方にそれを拒否させ、上杉憲政に情報を流させる。これによって、上杉憲政は勝利を確信し、益々もって油断するであろう。そうなったところを乾坤一擲の夜襲で奇襲し、敵を殲滅するという作戦である。

 

「さあ、時間よ。取り敢えず、今は河越へ急がなくては」

 

「おや、もうそんな時間か。では行くとするかのう。老骨にはちと堪えるがな」

 

 二人は立ち上がり、それぞれの部隊へと赴く。その五分後、北条軍の全軍が進撃を再開した。

 

 その数時間後、日付が変わり朝早くに八千の軍勢は河越城に到着した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところは変わり北武蔵の忍城。この城は成田氏の居城である。城の主、成田長泰とその子、氏長は山内上杉の与力として参陣していた。現在城の留守居は成田一族の長親が行っていた。この長親、現代においてはそこそこの知名度を得ている。彼は史実において、石田三成旗下の大軍から忍城を守り抜き、小田原城が落ちるまで持ちこたえた。

 

 その彼の最大の特徴は圧倒的なまでの農民からの人気であろう。普段は武蔵国の武家の名門に産まれた異端児としてその素質を理解されず愚鈍と思われている。当主長泰の甥であり、氏長の従兄であるものの、扱いは低かった。それでも一門であり、彼の父親・成田泰季が病気がちであることから留守居役になっている。そんな彼ではあるが、現在は城におらず、農民と戯れていた。そこへ馬に乗った少女が近付いていく。

 

「おおい、長親!まーたこんなところにおったのか。皆が出払っておるのだからお主が城にいなくてどうする!一応留守居役なのだろう」

 

「戻らずともお前がおればいいではないか」

 

「そういう問題ではない…」

 

 この少女は甲斐姫。史実では武勇をもって知られ、最終的に豊臣秀吉の側室になった女性である。彼女は当主・長泰が姫武将という制度に理解がなかったため、武将として生きていけず、当初は嫁に出されるはずであった。だが、長親の介入によって何とか輿入れだけは回避した。もっとも頑なな長泰はいまだそれを認めてはいない。この出来事以来、彼女は長親に対して仄かな好意を持っていた。

 

「どうせ勝てる戦とは言え、戦は戦だ。何が起こるかは未知数だぞ。万が一に備えるのは当然だろう」

 

「勝てる…ね。このまますんなり勝てるとは思えんな」

 

「お前、ついに数も数えられなくなったのか?」

 

 なかなかの皮肉を甲斐姫は長親にぶつける。長親は特に怒るでも苛立つでもなく、苦笑いしていた。

 

「半年。半年だ。そんなにも長い期間、八万の軍勢を維持するのに一体どれだけの兵糧をむしり取ったのだろうな」

 

「それは、そうだが…」

 

「半年、士気を維持したまま城を囲めるとは思えんがな」

 

「それは城側も同じではないか」

 

 それはまったくもってその通りである。だが、こと北条家に関して言えばそれは当てはまらなかった。

 

「扇谷上杉が民から奪い取った兵糧を北条は民に返した。税も安く、安寧を享受している民が、旧主の支配に戻りたいとは死んでも思わんだろうさ。士気の差に加え、管領は慢心してるはずだ。民を重んじぬ国は亡びる。必ず」

 

「……では、負けると?」

 

「陣中を行き来する商人に聞けば、北条の軍勢は戻ってきたという。駿河から戻ったということは、何らかの方法で今川と決着をつけたのさ。里見もそういうところに賭けたのだろう」

 

「大軍だから勝てる、は安易という事か」

 

「そういう事だ。さーて、丁度いい。北条が戻ってきたという事は何かしら行動をとるだろうさ。一つやるとするか」

 

「おい待て、何をする気だ」

 

 甲斐姫は嫌な予感が激しくしており、長親を問い詰める。

 

「父上が死んだとでも言って呼び戻す。大軍だ、我らがちょっと抜けても問題ないと思われ、許されるだろう」

 

「正気か?遅かれ早かれ嘘はバレるぞ。もし露見したらさしものお前も許されるかは分からないぞ!」

 

「その時はその時さ」

 

 飄々と言う長親に言い返そうにもうまい言葉が見つからず、甲斐姫はただ心配するしかできなかった。長親は言葉通り独断でこれを実行。その書状を受け取った長泰は一度戻り葬儀だけ執り行いたいと上杉憲政に告げ、憲政は油断や慢心から問題ないと判断し、長泰の一度帰城を認めた。これにより、成田家は一度河越から撤退することとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 河越城に氏康の軍勢は到着した。しかし、まったく動きはない。これは益々諸将の油断を誘った。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 上杉憲政の本陣では、山内上杉家臣による合議が行われていた。

 

「小田原方の負けは目に見えている。そう急がなくとも、このまま兵糧攻めで河越城は落ちる。もうじき城の兵糧も尽きる頃だろうさ」

 

 この憲政の発言に、家老の女妻鹿新介が追随する。

 

「はっ。城兵は既に餓え始めているものと存じます」

 

 この予測はそこまで的外れなものではなく、実際河越城の兵糧は後二週間前後が限界だった。

 

「その今をもって城攻めにかかれば、北条の後詰めもなす術なく我らに降伏するでしょう。これ以上に時を無駄にして北条が何らかの策を講じますれば、城内の兵も息を吹き返すやもしれませぬ。そうなる前に一気に勝敗を決するべきかと存じます」

 

「業正。何をそのように恐れることがある。敵は八千。城には四千。僕らは古河公方がいなくても五万五千はいる。その公方も時流の読めない馬鹿な里見を討てば戻ってくるさ。この戦は、公方が小田原方を見限った時に勝敗はついたのさ。今川にも和を乞うたのだろうし、もう降伏以外に道はないね」

 

「恐れながら、北条は今川に和を乞うたというのはいささか希望的観測ではございませぬか。もし、仮に彼らが和睦したというのなら、それは北条の、我らより今川を引き離す策に他なりませぬ」

 

「業正!何べんも言わせないでくれ。前から言ってるだろう、北条ではない、伊勢だ!もとは伊勢のあぶれ者が伊豆相模をかすめ取った、言わば盗人だ。それを厚かましくもかつての執権北条の姓を名乗るとはその名を聞くだけで虫唾が走る」

 

「今は左様な名跡にこだわる時ではありませぬ!」

 

「こだわる時だ!今こだわらずしていつこだわる」

 

「長野殿。敵は策を講じようにも、城に使者を送ることも叶わんのじゃ。このまま小田原へ兵を退くか、討ち死に覚悟で我らに攻めかかるか。我らはそれを見極めてから動けばよかろう。もっとも、後者を臆病者の小娘ができるとは思えぬがな」

 

 嘲笑交じりで言うのは業正と同じく山内上杉家の家老である倉賀野直行である。

 

「うん、直行の言う通りだ。それにね」

 

 そう言うと憲政は一通の書状を業正へ投げ渡す。

 

「見な。これが小田原方の策さ。公方に命乞いをしてきた。籠城している兵の命を助けていただければ、城と周りの領地は公方様に差し上げますってね。憐れみを乞うてきたのさ、ハハハハハ」

 

「公方様は?」

 

 業正の案ずるような問いにやや不機嫌になりながら憲政は答える。

 

「むろん退けたさ。一人でも生かしておけば後々の禍になると言ってね。小田原の小娘が、まさかここまでの恥知らずの臆病者とはね」

 

「侮ってはなりません」

 

「業正」

 

 業正の名を言う憲政の顔は険しい。

 

「僕を侮ってるのは、君じゃないか…?」

 

 その鋭い視線に業正は返答できなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「管領様は敵を侮っておられる。このままでは勝てるかわからんぞ」

 

「あの人は昔からそんな感じであっただろう。今更さ」

 

「…ふむむ」

 

 渋い顔の業正に淡々と答えるのは上州一の武人にして、現代にも続く剣術流派・新陰流の祖。剣聖・上泉伊勢守信綱。長野業正の古い盟友である。

 

「ま、何にせよ。私のやることはただ一つ。目の前の敵を斬る。それのみだ」

 

「お主も城の主なのだからそれだけという訳にもいかんであろうに」

 

「そんなものは臣下や娘がやるさ」

 

 髭を撫でながら、信綱は剣を振るう。一陣の風と共に舞い落ちていた木の葉が一瞬にして四分五裂する。その凄まじい剣術に業正は相変わらずだな、と舌を巻く。

 

「さて、今回は何人死ぬのだろうな」

 

 辟易したように言う信綱に業正は何もいう事は出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 軍紀の乱れきった陣中を一人の小さな少女が歩いている。顔から何かの感情を読み取ることは出来ない。無表情なまま、彼女は歩き続ける。

 

「姫、こんなところにおられましたか」 

 

「憲重」

 

「そう勝手に出歩かれては警護の者が苦労しますので、お控え頂けると幸いです」

 

「…そう。分かった」

 

 彼女は一万五千の兵を擁する扇谷上杉家の当主・上杉朝定である。まだ子供である彼女に実権はなく、筆頭家老・難波田憲重や上田朝直、太田資正などが家中を動かしている。籠の中の鳥であることは、幼少ながら彼女が一番わかっており、大人しく感情を消して日々を送っている。

 

「戦はまだ終わらないの」

 

「そうですなあ。いかんせん河越城の兵たちはしぶとく籠っておりますので。ま、それも後一、二週間でしょう。さすれば、あの城にまた戻れますぞ」

 

「…そうね」

 

 難波田憲重は戦の残り期間を問う朝定に、彼女が早く自らの元々の居城である河越城に戻りたいと思ったようであった。しかし、彼女からすれば、河越城は自らを閉じ込める檻にしか思えない。けれども、この陣中にいる状況も、彼女の望むものではなかった。願わくば、すべてを捨ててゆっくりと過ごしたかった。十歳になったとは言え、扇谷上杉当主の地位は、その小さな身体には重すぎた。

 

 曇天の中、河越城にはためく三つ鱗の旗が彼女の目に映される。北条家中になら自由はあるのだろうか。あり得ない夢想をしながら、城に背を向け、彼女は陣幕の中に消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 運命の夜まで、後二日。




序・破・急ってしようと思ったらまさかの元ネタたる劇場版・新世紀エヴァンゲリオンが延期…。まあ仕方ないですね。

最近やや話が長くなる傾向にあるのですが、直したほうがいいですかね。今回も一万超えちゃいましたし。何かあれば感想・メッセージなど下さい。

オンライン授業期間になったので、投稿速度は上がると思います。


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第32話 河越夜戦 破

 河越城を囲む上杉憲政の陣には笛の音と陣中には本来聞こえないであろう女性の声が多く聞こえる。そこに混じり、笑い声も響く。関東の貴公子と呼ばれ、女好きで知られる憲政の呼び寄せた遊び女であった。彼はもはや戦に勝った気分でおり、あろうことか戦勝の宴を催していた。それを長野業正は苦々しい顔で眺める。

 

「ふうむ…」

 

「そう唸るな。今に始まった事ではあるまいに」

 

「何回もこのようなことがあるから儂はこういう態度なのだ。しかも此度は今までの戦とは桁違いの大戦だと言うのに……」

 

「諫めたのか?」

 

「諫めて聞いて下さっていたらどれだけ良かったか」

 

「だろうな」

 

「はぁ…」

 

「ため息を漏らすな。酒がまずくなる」

 

 業正の悩みなどどこ吹く風で剣聖・上泉信綱は酒杯を呷る。酔った様子はない。その様子を見て業正はより深いため息をつく。

 

「なに、殺し合いになれば役目は果たすさ。貴様に死なれては困る。管領はまぁ…どうでもよいが」

 

「そう言わずに管領様も守ってくれまいか」

 

「貴様がそう言うならそうするさ」

 

 どうも今夜は嫌な風が吹く。何も起きなければ良いが…、と業正は皺の深く刻まれた顔を渋めながら空を眺めた。

 

「風から殺意がするな。妙に血が騒ぐ夜だ」

 

 信綱もそう呟き、自分の中にある戦が、殺し合いが近いことを感じ取ったことによる火照りを鎮めるためもう一度酒を呷るのだった。

 

 

 

 

 

 

 扇谷上杉家の陣中にも宴の誘いが来ていた。それを家臣から聞いた上杉朝定は一言呆れたように言う。

 

「勝ってないのに戦勝の宴とは…?」

 

 そのド正論にちょっと興味があった家臣たちは決まりの悪い顔をする。そもそも扇谷上杉家と山内上杉家は仲が悪い。それを抜きにしても、上杉朝定は上杉憲政のことが好きではなかった。会ったことは数回しかないが、会うたび会うたび小馬鹿にされているのは気付いていた。憲政の姫武将を侮る態度は昔からである。

 

 加えて言えば、女好きで見境のない憲政は、子供とは言え割と良いものを食べていた為そこそこ発育のいい朝定のことをそういう目線で見ることが何度かあった。その度に朝定は不快感を抱く。それはある意味女性として当然の事であった。

 

「そもそも夜襲の警戒くらいするべき」

 

「まあまあ、姫様。そこら辺でご勘弁下さい。あの臆病者で有名な氏康にそんな芸当が出来ようはずもありません」

 

「そう…」

 

 朝定は自らの意見が一蹴されたことへの不満感を表に出すこともなく無表情である。

 

「人が死ぬ戦で、しかもまだ終わってすらいないのに酒宴なんて…」

 

 せめて終わってからにしろ、戦の最中くらい気を引き締められないものか。憲政に対しても、戦勝の宴とは言わないでも酒や女に興じている自分の家の陣中に対してもそう思っていた。敏い子である。しかし、その賢さが彼女を悲観的にしていた。風が陣幕をはためかせ、頬を撫でる。河越城の方から吹いてくる風にうすら寒さを感じ、彼女は陣幕の奥深くへと入っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 更け行く夜。上杉憲政の陣中は既に静まりかえっている。憲政は既に就寝しており、彼ほどの大身ならば護衛の兵が多くいるはずであるが、その者達も酔って寝てしまっている。多くの関東諸将の陣中が似たような状態である。扇谷上杉家の陣も流石に酒宴は慎んだものの、寝静まっている。完全に油断しきっていると言っても過言ではなかった。

 

 そんな陣中から、黒い影が複数そろりそろりと離脱していく。彼らは風魔忍びである。遊び女に扮して諸将の陣中に潜り込んでいた。警備が厳しく、警戒態勢が他の陣に比べ厳しい長野家の陣には忍び込めなかったものの、その他の家の情報は筒抜けである。氏康の命令により、今夜夜討ちを行うための布石として、各将兵を酔わせて戦闘能力を削がせる目的で侵入していた。決行可能と氏康に報告するため、北条家の陣に戻ろうとしているのである。

 

 

 

 

 時刻は既に真夜中。今夜は暗夜という訳ではない。が、雲が多く星影も見えにくい。月の光も僅かだ。静かな闘志を燃やす北条家の陣では氏康を筆頭とした諸将が今か今かと風魔の帰還を待っていた。なお、今夜夜襲という情報は既に河越城の内部にも伝わっており、一条兼音が万全の準備を整えて本隊の行動を待っている。

 

「全忍びが帰還いたしました。いずれの陣も油断しきっており、警戒態勢は無いに等しい模様でございます」 

 

 この報告に沸き立つ北条家の将たち。その視線は自らの主である氏康に向けられていた。氏康は静かに一度目を閉じる。思い出すは父、そして祖父の記憶。一代で身を起こし、今川家の客将から伊豆相模を奪い取った祖父・早雲庵盛時。その後を継ぎ、領土の安定化と南武蔵、下総、駿東に領土を拡大させた父・氏綱。その両名にとって目の上のたんこぶであり、生涯を費やしても滅せなかったのが上杉家だった。その彼らの滅亡がすぐそこまで来ている。悲願を果たせる時が来たのだ。祖父早雲が鼠が二本の杉の木をかじり倒し、虎になる夢をみてから幾星霜。ついに関東に三つ鱗がはためく時である、と氏康は万感の思いであった。最早負ける要素はない。策謀を張り巡らした。敗走はあり得ない。それでも震える手をきゅっと握りしめ、彼女は鋭い視線で諸将を見つめた。

 

「苦節幾星霜。ついにこの日が来た。かつての強敵上杉はもはやいない。弱兵だけ集めた烏合の衆に、負ける道理がどこにあるというのか。そしてこれまで、よく私や、父上、お爺様に仕えてくれたわ」

 

 その言葉に老将たちは涙をこらえる。関東の大地を駆け巡ってきた思い出が鮮やかによみがえった。

 

「今日、私たちは関東の覇者になる。その為に上杉は邪魔よ。ここに必ず奴らを殲滅する。我ら北条の目指した泰平を目指し、これより夜襲をしかける!」

 

「「「「「おう!!!」」」」」」

 

「北条の興廃、この一戦にあり。皆は心を一つにその力を合わせ…」 

 

 言葉を区切った彼女は普段めったに抜かれることのない己の剣を抜き放つ。

 

「ただ、私の向かうところを見よ!!」

 

 その威厳、その威容、まさに関東の覇王にふさわしい姿。小田原の引きこもり娘は今、やがて遥か未来において相模の獅子と呼ばれるにたる名将として開花した。

 

 恐怖心がない訳ではない。それはきっとどれだけ戦場に立とうと消えないだろうと氏康は思っていた。それでも、あぁそれでも。譲れないものはある。自分を信じてくれるものの為に、自分の亡き先祖の為に、そして、自分自身の為に。たとえどれだけ辛く苦しい道でも私は進まねばならない。そう誓ったのだから。私は一人じゃない。皆がいる。彼がいる。私を素晴らしい主だと、そう言ってくれたのだから、その期待には応えなくては。

 

 雲が僅かに晴れ、雲間から月光が差し込む。剣の刃は白銀に光り、その煌きに氏康の白い顔が照らされる。紫苑色の髪が靡く。その姿には凄絶なまでの美しさがあった。

 

 将たちは一斉に己の剣を抜き、胸の前で構える。

 

「「「「この命を捧げるとも、必ず勝利を!!」」」」

 

 全ての武将が唱えたその言葉を合図にするように、彼らは勝利を目指し駆けだした。

 

 微かな足音が響いては消えていく。腕に白い布を巻き付け、敵味方を判別できるようにした兵が一心不乱に駆けている。数は八千。騎馬も歩兵も今は混じりながら進軍する。目指すはただ一地点。関東管領上杉憲政の陣。軽装にさせたためほぼ無音に近い彼らの行軍に、敵はまったく気づかない。

 

 

 

 

 上杉憲政の陣はまだ酒の匂いが残っている。警備の兵たちも酔っ払いながら雑魚寝していた。

 

「おおい、酒は、酒はもうないのか」

 

「お前、まだ飲むのか。もういい加減にしとけ。身体を壊すぞ」 

 

「うるせえ、飲まなきゃやってられねぇよ」

 

「ま、それもそうか」 

 

 敵が数十メートルほどの距離のところにいる事にも気付かずに、彼らは再び酒盛りをしようとしている。

 

「おい、待て。何か聞こえないか」

 

「ああん?獣か何かだろう?」

 

「だよな」

 

 そういった瞬間、陣幕が切り裂かれる。輝く無数の白刃。背負われた三つ鱗の旗。盃がポトリと手から滑り落ちる。敵襲を叫ぶ間もなく、目の前に振り下ろされる剣。それらが彼らの見た最後の光景だった。

 

 

「全軍、突撃!」

 

 馬上で高らかに叫ぶ氏康。それを聞いた北条軍全軍が突撃を敢行する。その数分後、上杉軍一万五千は大混乱に陥る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 河越城には風魔の手の者から使者が来る。曰く、全軍出撃せり。これを聞き、臨戦態勢であった城兵は城門前に集合する。誰もが手ぐすね引いて今か今かと眼前の城門が開かれる時を待っていた。彼らの前の櫓の上に城主・兼音が現れる。

 

 

 

 ついに、この時が来た。河越夜戦。北条家の運命を決定づける戦いが。この日の為に出来る限り、ありとあらゆる備えをしてきた。それを全て出し切って、今こそ決着をつける。

 

 戦国の世にやって来て、慣れない生活に戸惑うこともあった。現代の倫理観を乗り越えるのにも苦労した。それでも、戦い続けてきた。目を閉じれば、もう脳内の現代の記憶は戦国の世での記憶に更新されつつあるのが分かった。最初は生き残るために。今は、そう、理由付けをするならば。

 

「見つけた生きる意味を守り続けるために、だろうかな」

 

 ひとり呟く。暗く、顔は見えなくてもこちらを見つめてくる八千の瞳。燃え滾る四千の闘志。それが伝わってくる。月下で誓ったものを守る為に。あの人を輝かせると誓ったのだから。私の生きる意味はそこにある。それを貫くためにもこの戦いには何としてでも勝たなくてはいけない。

 

 さて、既に高まっている士気だが、それを最高潮にしなくては。こういう場合何を言えばいいのか、まだ今一つわからない。だが、やらない訳にもいかないだろう。ふう、と息を吐きだす。

 

「これまでの半年間良く耐えてくれた。今夜、ようやくその恨みを晴らす時が来た。雑兵の首に拘るな。ただ一路、扇谷上杉の本陣を目指し駆け抜けろ。既に本隊は関東管領の陣に攻撃を始めている。後れをとるな!全軍、己の槍を、剣を、弓を構えよ。朝日の昇る時、この大地には奴らの骸が転がっているだろう!先鋒は綱成に任せる。必ずや、暁の空の下、勝利を謳おうぞ!!」

 

「「「「うおおお!」」」」

 

 兵の叫びと共に城門が開け放たれる。騎乗した綱成が全軍の先頭で槍を振るう。 

 

「全軍、私に付いてこい!」

 

 凄まじい速さで綱成が駆け行く。その後ろを騎馬隊とそれに負けず劣らずのスピードで走る歩兵隊が続く。櫓から駆け下り、自らの馬に乗る。城を空っぽにして、全軍での攻勢である。先鋒は綱成。その後に私の部隊。後衛部隊は兼成が率いている。段蔵は私の護衛役。姿は見えないが、守ってくれている。

 

 先頭を突っ走る綱成の背中には地黄八幡の旗。夜叉の如く、風の如く。河越城の騎馬隊が夜闇を疾走するのが、後ろからもありありと見える。その更に前方には寝静まった扇谷上杉家の陣。一万五千の大軍もこうなっては人形と同じ。早く追いつくために馬を走らせる。ここまで無言で走り続けた全軍に先頭から綱成が激励を行う。

 

「見ろ!そこに敵がいるぞ!私に続け。この地黄八幡の旗に続けば必ずや我らは勝利する!勝った勝った、勝ち戦だ!!」

 

 北条家の武の象徴、北条綱成の後世まで伝わる伝説。勝った勝ったと叫びながら敵へ突っ込む姿を見ることができたことに感動を覚える。この綱成の叫びに、全軍が咆哮し、扇谷上杉の陣幕を蹴散らし勢いそのまま進軍する。勝利を確信しながら、先頭に続くべく更に馬に鞭打ち大地を進んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 扇谷上杉家の軍勢は突然の奇襲に飛び起きる。慌てて戦闘態勢に入り目を擦れば、その眼前にあったのは殺戮の光景だった。闇夜の中に血しぶきが飛び散る。大混乱の中、からくも北条軍の魔の手を逃れた兵が本陣に走る。

 

「申し上げます!申し上げます!敵襲、敵襲にございます!」

 

 この注進に難波田憲重は仰天しつつも必死に思考を働かせる。彼の縁戚の太田資正や上田朝直は別の部隊として川を越えた北側に陣取っている。使える将がほとんどいない。かろうじてまともな将は藤田康邦か大石定久くらいなものである。残りは皆凡将であり、酔いつぶれているだろうし、そもそも危機対応能力があるとは考えにくかった。割と辛辣な評価を朋輩に向かって下しながら、彼は最優先事項を遂行する。それは主・扇谷上杉朝定を逃がすことだった。彼は急ぎ本陣の最奥、朝定の眠る場所を目指す。

 

「姫様!姫様!」

 

「起きてる」

 

 目の前に見えるのは小さな少女。ここに来て憲重は自らの不明を悟る。敵を侮り過ぎた。自らの主は齢十にして既に夜襲の警戒を促していたというのに。何もわからない幼子であった時代は過ぎ去っていたのか、と。彼は悔しさに唇を噛み締める。最初は重責を背負う事となった小さな主を守りたかっただけなのだ。孫ほどの年齢差のある彼女を。しかし、いつからだろうか、笑い顔を見なくなったのは。いつしか、我々は閉じ込めてしまっていたのか。もう、嫌われてしまっているのだろう。死は怖くなくても、それだけが無性に悲しかった。

 

 このままでは確実に扇谷上杉家は終わる。朝定が死んでしまったら、もう扇谷上杉家を継げる人物はいない。死なずとももう戦国大名としては終わりだろう。兵も将も多くが死ぬはずだ。主の将器を開花させられなかったことは生涯最大の過ちだ。それでも何とか生き延びてもらわなくては。それが自らの罪滅ぼしであると。

 

「姫様。良くお聞きください。それがしの不明でした。夜襲を受けております。多くの将兵が死ぬでしょう。この弾正も死ぬでしょう。このまま馬に乗り、北へ駆けて下さい。武蔵はもう危険です。上野あるいは信濃、越後、この際どこでも構いません。とにかくお逃げください。私が時間を稼ぎます」

 

「弾正は、あなたも逃げないの」

 

「今生の別れでございます。どうかお引止めくださるな」

 

「…分かった」

 

「さ、お早く。どうか生きて下され」

 

 朝定の感情を写すことのなかった目には涙が浮かんでいた。彼女にとって憲重は自らを閉じ込めていた鳥籠の番人。それでも幼い頃から見知った人物との、おそらくこれが最後となるであろう会話にはこみ上げるものがあった。彼女は、心の中で自分がここで死に、憲重が生きればいいではないかと考えていた。それでも、逃げろと言われてしまった。思想は変わらなくても無駄死にさせるわけにはいかない。彼女は当主としての義務感から駆け出した。

 

 

 

 

 走り去る幼い背中を見送り、憲重は嘆息する。その背中はいつか見たものよりだいぶ大きくなっていた。いつからかしっかりとその姿を見ていなかったな、と彼は後悔しつつ、もし生き残れたら今度は…と考える。その彼の元に、北条軍最強が迫りつつあった。最奥の陣幕が破られ、騎馬武者が侵入してくる。

 

「貴殿は扇谷上杉家家宰、難波田弾正忠憲重殿とお見受けする。私は河越城城代にして当主氏康姉様の義妹、北条綱成!尋常に勝負!」

 

「小娘に負けるほど落ちぶれておらん!来い!」

 

「参る!」

 

 剣と槍が交錯する。伊達に家宰を勤めてはいない。憲重も決して弱くない豪の者である。しかしやんぬるかな、相手が悪すぎた。しかも馬上と地上では圧倒的に馬上有利。ジリジリ押されながら、憲重は死を覚悟した。その視線をわずかに綱成から逸らし、朝定の逃げた方角を見る。時間は稼げただろうか。そんな心配が命取りとなり、彼の肉体は綱成の槍で弾き飛ばされる。暗転する視界の中で、憲重は主の無事を祈り続けていた。

 

 

 

 

 綱成は難波田憲重を討ち取った後、掃討戦に移行する。そこへ兼成がやって来る。

 

「先輩!難波田憲重はこの通りです」

 

「よし、よくやった。上杉朝定は?」

 

「それらしき姿は見えません。逃亡したのではないかと」

 

「それはマズい。しかし、他にも敵はいるな…よし、綱成。お前はこれから三千五百で南下せよ。諸将の寄せ集めの五千がいるが、大した問題にはならないだろう。そこを突破し、長野業正の七千五百を撃破せよ」

 

「了解しました。先輩はいかがされますか」

 

「私は五百を率いて上杉朝定を探す。そう遠くへは行っていない。おそらく北の方角だな。逃げるならそちら方面しかあるまい」

 

「分かりました。それではご武運を!」

 

「ああ、そちらもな」

 

 ある程度殲滅したのち、綱成は兼成に言われたように南下を開始する。そこには下野の諸将が陣取っているものの、大した問題にはならず、混乱の中を突破。長野隊を目指した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 チッ。どこに行ったのさ。そう思いながら前後左右を見渡す。そう遠くには行ってないはずなのにどうも見当たらない。

 

「城主様!こちらにそれらしき人影を見た者がおります!」

 

「何っ!どこだ」

 

「私です。雑兵や騎馬武者とは異なる装いの小柄な人間があちらの方角に!」

 

「よし、よく知らせてくれた!」

 

 指の指された方角に向かって馬を走らせる。すると、前方に確かに小さな人影がある。

 

「そこにいるのは扇谷上杉家当主、上杉朝定か!その首もらい受ける!いざ尋常に勝負!」

 

 そう叫ぶがまったくもって止まる気配はない。仕方ない。正々堂々行くべきかと思ったが、相手がこの態度なら致し方ないだろう。背負っていた弓を構える。やや風が強いな。弦を引き絞る。一瞬だけ風が止む。その瞬間を逃さずすかさず手を放つ。そして放たれた矢の行方を注視する。脳天ど真ん中コースだから当たる……はずだった。

 

 

 

 

 上杉朝定は必死に馬を走らせていた。小柄な彼女には扱いづらいが今はそんな事は気にしていられない。大将が単騎で駆けているというこの異常さがある意味扇谷上杉軍の混乱を示していた。生きろと言われた以上、憲重の死を無駄には出来なかった。自分の中の感情がそう言っていた。一心不乱に駆けていると、後ろから自らを呼び止める追手の声が聞こえる。

 

 殺される。本能的に彼女は悟る。それは生物が持っている原初的な死への恐怖。それには抗いがたかった。実際のところは投降すれば姫なので死は免れるが、それを知識で知っていても死を前にして冷静に考えられるほど彼女は大人ではなかったし、戦場慣れしていなかった。ちらりと後ろを見れば追手の男は弓を構えている。追いかけるより弓を選んだ。なぜ。そっちの方が確実だから。そう思考回路を何とか働かせた彼女は何とかして避けようとした。

 

 そして、その馬から勢いよく飛び降りたのだ。

 

 まったくもって正常な判断とは言えない。馬は全速力で走ればちょっとした自動車並みのスピードは出る。そこから飛び降りるのだ。無事では勿論いられない。

 

「痛い…痛いよ…」

 

 泣きながら、彼女は腕や足を抑える。弓を放った男が近付くのが分かった。最早死にたいなどこれっぽちも思っていなかった。閉じ込めていた感情があふれ出す。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!こんなところで、このまま死にたくなどない!だって、だって私はまだ何も成せていない。鳥籠の中に閉じ込められたまま死にたくなんかない。私だって、飛びたい。辛くても、苦しくても、広い世界に飛びたかった。何もできないまま死ぬ方が、きっともっと辛くて苦しいから。

 

 生への渇望を強く抱きながら、彼女はか細い声を絞り出す。

 

「死にたく、ない…」

 

 

 

 

 

 死にたくない。その言葉に近づく足を停止する。

 

「おいおい、上杉朝定ってこんな子供なのか…。しかも女の子…」

 

 子供だから、情けをかけられるほど戦場は甘くはない。そんなことは分かっている。それでも自分の中の微かに残った倫理観が子供殺しを拒否させている。上杉朝定が年若いのは知っていたが、こんな子供でしかも女の子だとは知らなかった。必要ない情報だと思って誰も伝えなかったな…。いや、調べなかったこちらの落ち度か。とにかく、この子が女の子なら、投降すれば死を逃れられる。いつかどこかでかけたような言葉を、彼女に向かってかける。

 

「生を望むか。産まれの誇りも、血の高貴さも、名誉も何もかも捨てて、泥を啜り地に這いつくばり我らに頭を垂れ、蔑まれようとも生を欲するなら…叶えよう。その願いを」

 

 あの時私の副官は何を言ったんだったかな。ああ、そうだ。生きろと命じられたのだから、私は生きなければならない、だったか。この子は何を答えるのだろうか。あの出来事が、もう随分昔のことに感じられた。目の前の少女は落馬による痛みに耐えながら、涙ながらに答えた。

 

「私は、生きたい。鳥籠の中で、死にたくない。どんな目にあっても、空を飛びたいの!お願い、お願い。私に、自由を教えて…!」

 

 その言葉に目を見張る。自由になりたい、か。上杉朝定が傀儡状態なのは把握していた。おそらくこの子は賢く、それ故に自らを殺して傀儡に徹していたのだろう。そんな状態から生まれた言葉が自由を教えて、か。しかしまあ、生きたいという要望は受け取った。抜いていた刀をしまう。

 

「確認するぞ。上杉朝定だな?」

 

「はい。そうです。…っ痛い」

 

「見せろ。……ああ、これは折れてるな。手当が必要だな。その様子だと足もやられてるな。さて、どうするか。連れていくわけにもいかないし」

 

 なるべく戦闘終結後の評定まで隠したほうがいいだろう。皆どこかしら狂っている戦場では因縁深い敵の当主に対して何を行うか分かったもんじゃない。私はそこまで恨みがないから冷静に対処できる。取り敢えず、城に隠すか。

 

「段蔵!」

 

「これに」

 

「この子供を私の自室に運べ。手足が折れてる。応急処置くらいはしておけ。良いな」

 

「よろしいので?これは北条の怨敵ですぞ」

 

「まだ子供だ。それに、姫不殺の慣例を破るわけにもいくまい。どんな目にあっても生きたいと渇望したのだ。なおのこと殺せん。それはお前とて同じだろう?」

 

「…そうですね。命じられればともかく、私も好き好んでやりたいとは思いません。承知しました。この子を置き次第再び護衛に戻らせていただきます。その間は、我が配下が代わりを務めますのでご安心を」

 

「そんなに心配せんでもいいのだがな」

 

「いえ、そういう訳にはいきません。主様は私が戦国乱世に見出した太平への希望なのですから」

 

「そうか…。では頼んだぞ」

 

「はっ!」

 

「大人しくしておれよ。さすれば死にはせん」

 

「はい」

 

 小さく答える声を聴き、段蔵を促す。首肯した段蔵は、上杉朝定を抱えたまま蜃気楼のように消えた。さて、綱成と合流しなくては。付近をまだ捜索中の兵に、一人でも多くここで殲滅するために上杉朝定一人に構ってばかりもいられないと告げ、捜索中止を命じて集結させ反転する。目指すは上州の虎、長野業正の陣。強敵の予感に武者震いしながら再び馬を走らせた。

 

 

 

 

 

 私は生きられる。その確かな予感に震えつつも、助かったことへの安堵から朝定は少し放心していた。前で男とその部下らしき女が話しているがその内容も良くわからない。段々痛みが増してきた。

 

 気付けば、黒服の女に抱きかかえられていた。

 

「大人しくしておれよ。さすれば死にはせん」

 

 そうかけられた声に、小さく答え了承を示す。恐怖やその他の感情から声が小さい訳ではなく、単純に痛みがひどく、話すと痛いからだ。自分を抱える女はそれを知ってか知らずか揺らさないようにしてくれるらしい。生きられることへの安心と、ひどい痛みから朝定は意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 扇谷上杉家の軍勢が壊滅しているその時、城を挟んだ反対側では関東管領上杉憲政の陣で殺戮が続いていた。就寝中の上杉憲政の元に腹心の本間近江守が駆け寄る。

 

「上様!敵の、小田原方の夜襲でございます!」

 

 その言葉に思考が一瞬追いつかない上杉憲政は硬直し、そして目に見えて狼狽し始めた。

 

「そ、そんなまさか!あり得ない…あの小娘にそんな度胸があるはずが…!」

 

「しかし、事実我らの兵はこうしている間にも死んでおります。お逃げください。早く!」

 

「あ、ああ」

 

 慌てながら軽装のまま憲政は騎乗する。焦りからもたつく。彼の耳には兵の断末魔がはっきりと聞こえていた。

 

 

 

 

 

 

 

 北条軍の誰もが目に激しい殺意を滾らせ、己の武器を振るう。容赦なく、呵責なく、命の価値に区別なく。敵の兵とみれば、その命を刈り取っている。その姿を形容するならば、死神の軍勢とでも言えようか。比喩でもなんでもなく、上杉軍からすれば、かれらはまさしく死神であった。北条一族の者が。多米一族が、大道寺一族が、富永・笠原・間宮・遠山・狩野・松田・清水などの諸将が。止まることなく進軍を続ける。怨恨続くこともはや数十年。ついにそれに決着をつけられるとあれば、この有様も納得であった。軍中で氏康は叫ぶ。

 

「雑魚に構うな。狙うは上杉憲政の首ただ一つ!決して逃がすな!」

 

 端正な顔は鮮血に染まり、白い肌とあわせ残酷なコントラストをなしていた。綺麗な目も血走っている。その眼は視界の隅に逃げ行く軽装の男を捉えた。

 

「いたわっ!あそこにいるのが上杉憲政よ!私に続け!必ず討ち取るわ!!」

 

 その言葉に反応した数十騎が続く。なかなか速く、追いつけない事に苛立った彼女は追随する騎馬隊に騎馬上からの行軍射撃を命じる。それに応え、弓が放たれる。憲政の周辺の騎馬から兵が落馬するが、本命はまだ馬上だ。だが、徐々に敵のスピードは落ちている。護衛も最早数騎だ。護衛を周りに任せ、氏康は己の太刀を抜く。

 

「上杉憲政!死ねええぇぇっっ!!」

 

 駆けながらも僅かに振り返った憲政目掛け刀を振り上げた。しかし、憲政は男。体格差はいかんともしがたい。その刃は首元を狙うには僅かに足りず、憲政の左目を切り裂く。慣れない戦闘に氏康の体力は限界に近く、二回目をするのは厳しかった。

 

「逃げるなぁ!大人しく私に殺されろ!!」

 

 それでも力を振り絞り、最後の剣を振るう。だが、憲政にとっては幸運な、そして氏康にとっては不幸な事態が起こる。本間近江守が己の命を投げ打ち、割り込んだのだ。氏康の振り下ろした刃に致命傷を負いながら止まりかけていた憲政の馬の尻をひっぱたき、最期の言葉を叫ぶ。

 

「今です、上様、早くお逃げを!」

 

「すまないっ!」

 

 その言葉に満足したように本間近江守は絶命する。山内上杉家にも忠臣はいたのだ。

 

「待てっ!逃げるな、卑怯者!!」

 

 氏康はその忠臣の屍を踏みつけ追撃しようとするが、それを元忠に止められる。

 

「姫様。大局を見誤られるな。敵はまだおります。最早関東に上杉憲政の逃げ場所は無いでしょう。あとからいかようにも出来ます」

 

 その言葉に氏康はやっと従来の冷静さを取り戻し、剣をしまう。

 

「そうね…。後で必ず、殺してやるわ」

 

 そう呟き、馬を反転させた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 憲政は血に滲む視界と走る激痛に苛立ち、絶叫しながら武蔵の大地を走っていた。

 

「この僕の顔を傷つけ、恥辱を与えるなんて…絶対に許さない。認めてやる。北条家、北条氏康!今はお前が強い。だが、僕は必ずお前たちに復讐する。この地に戻ってきてやる!どんな手を使ってもだ!!」

 

 叫びながらも、何とかして居城の平井城に戻らなければ復讐も出来ないと知っている憲政はひたすら走った。

 

 

 

 

 関東の旧主上杉はついに倒れる。しかし、戦場にはまだ恐れるべき敵が残っていた。上州の虎と剣聖。この両名がこの絶望的な状況下でなお、その力を振るおうとしていた。




上杉朝定の容姿はFate/kaleid liner プリズマ☆イリヤより、美遊・エーデルフェルト(朔月美遊)です。参考までに。

文庫本一冊の文字数平均って10万~12万文字だそうですね。拙作も、文庫本二冊分くらいは書いてきましたね。今後もよろしくお願いします。


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第33話 河越夜戦 急

北条綱成は、暗夜の中を駆けていた。目指すは長野業正の陣ただ一つ。街道を越えた先には関東諸将の寄せ集め部隊がいるが、この部隊は所詮寄せ集め。扇谷上杉家の陣への夜襲に気付いて逃亡した者も多く、相手にはならない。各個撃破され、いとも容易く壊滅した。こうなっては五千いようが一万いようが、あまり意味はない。ただ死体予備軍となるだけである。加えて言えば、この軍団には本格的な殲滅行動をとっていない。あくまでも北条家の主目標は両上杉家の打倒であり、この戦場にいる五万五千全軍の殲滅ではない。というより、それが不可能であることを知っていた。あと一万北条家の兵がいれば展開も違ったであろうが、ない物ねだりをしても仕方がない。

 

 既に山内上杉家並びに扇谷上杉家の本陣は潰走。扇谷上杉朝定は捕縛され、関東管領上杉憲政は逃亡した。この戦場に残る両上杉の軍勢は長野業正の七千五百と倉賀野直行の七千五百である。この軍勢を潰走せしめた時が北条家の勝利であると言えた。そのため、綱成は三千五百で突撃している。兵力差はおよそ二倍。だが、綱成の心中にはこの状況ならば二倍の戦力差も覆せるだろうと言う思いがあった。なお、兼音も同様の考えである。

 

 だが、戦場に絶対はあり得ず、都合のいいことばかりが起こるとは限らない。綱成を虎視眈々と待ち構える男がいた。当代剣聖・上泉信綱である。今回の戦には、娘の上泉秀胤と共に参加している。迫りくる気迫から、この男は敵の大将が娘には荷の重い相手だと悟る。久方ぶりにその剣が人を斬るために抜かれようとしていた。

 

 それを知らない綱成は勝利を確信し突撃している。その後方には、やや遅れながら周囲の警戒を続けつつ進軍する綱成の従姉・花倉兼成の姿もあった。この時、兼音は朝定を段蔵に預け、綱成の元に急行している。今、剣聖と地黄八幡の対決が行われる。

 

 

 

 

 

 

 

「見えたぞ、長野の陣だ!総員、突撃!」

 

「「「「おおう!」」」」」

 

 綱成の槍の指し示す先に多くの兵が進む。それを見て、勝利を確信した綱成は、部下と共に騎馬で駆けた。その時であった。悪寒が彼女の背筋を鋭く走る。それは武人としての勘だった。彼女は自らの直感に従い、身体を馬上でのけぞらせた。瞬きする間もなく、ついコンマ数秒前まで頭のあった位置を一陣の風が吹く。身体の急な動きによってふわりと浮いていた髪の毛が切り裂かれ、空中を舞う。

 

「ほう?」

 

 戦場という狂奔に満ちた世界に似つかわしくないほど冷静な声が響く。その言葉を発した人物の態度はあまりにも自然体であった。

 

「その首、七度は落としたつもりだったが…よもや繋がっていようとはな」

 

「貴殿、何者だ。その剣技、その気配。ただ者ではあるまい」

 

「そう大層なものではないさ。ただの剣客だ」

 

「戯けたことを。我が名は河越城城代にして、北条家当主・氏康姉上の義妹、北条綱成である」

 

「…名乗られたからには名乗り返さねばな。私は上泉伊勢守信綱。剣に生き、剣に死なんと欲する者だ」

 

 会話をしながらも一向に止まらない汗と悪寒に綱成は心中で震えていた。槍を握る手にも力が入る。剣聖の名は関東では有名である。その顔は知らずとも、その名は熟知していた。付けられたその二つ名が凄まじいまでの技巧を示している。

 

「北条の武士は仕合う時に地上の相手に対し馬上で挑むのか。それは知らなんだ」

 

「ッ…!」

 

 挑発であることは重々承知していた。先輩の兼音だったらば、そうだが何か?とでも嘯き容赦なく馬上から攻撃するだろう。だが、綱成は武人として誇りを捨てられなかった。配下の兵には既に突撃を命じている。もし、ここで剣聖を逃せば被害が増えるのは確実だった。彼女は覚悟を決める。武人としての闘志が戦えと命じていた。

 

「いいでしょう。私も地上に降ります」

 

 それをやや意外そうな目で見ながら、信綱も攻撃はしない。彼もまた誇りのある武人だった。

 

「これで対等でしょう」

 

「いやはや、乗って来るとは思わなんだ。これは失礼した。こちらの非礼を詫びよう。貴君は本気で相手にすべき武人のようだ」

 

 その言葉と共に信綱の周りの気配が一変する。だが綱成も負けてはいない。その目は勇気に満ち、その身には闘気が渦巻く。刹那、金属の触れ合う鋭い音が響いた。動いたのはどちらが先か。あるいは同時だったかもしれない。おおよそ常人の目では捉えられぬ速度で両名の体は動いていた。

 

 一合、二合、三合…数えるのも難しい速度で幾度となく剣と槍は交差する。綱成が踏み込めば信綱が弾き、信綱が刃を一閃すれば綱成が抑える。千日手にも近い状況。だが、おおよそ剣の道を窮めたと言って差し支えない信綱と弱冠十六歳の綱成が渡り合えていることの方が異常なのである。とは言え、手数場数には大きな差が存在する。徐々に信綱が押し始めている。

 

「厳しいか…!」

 

「戦闘中にお喋りとは感心せぬな」

 

「そちらこそ、そんな事を言って牽制しつつも手がブレているぞ!」

 

「フッ。それは貴殿の見誤りであろう。槍術は見事だが、目はまだまだだな」

 

 なおも決闘は続く。その周囲には誰も近付けない。中途半端な武術しか修めていない者が不用意に近付けば、一瞬にして肉片すら残らぬ血煙に変わるだろう。重い綱成の一撃も信綱は剣で軽くいなす。比例するように綱成の一撃一撃はどんどん重くなっていく。技術は信綱が上。体力と腕力は綱成が上だった。

 

 いまだ決着はつかない。信綱もそこそこ長い時間を生きてはいたが、こんなことは久しぶりだった。しかも、こんな少女相手にここまで苦戦するとは…、と彼は嘆息する。気迫も体力も向こうが上。ともなれば技術で攻めるしかないが、必殺の一撃を繰り出そうにも間合いを詰められてはそうもいかない。そろそろ決着をつけたかった。ここでこの強者を逃せば、北条の武として大いに盟友・長野業正に害をなすだろうことは明らか。関東管領など心の底からどうでも良かったし、くたばっても何一つ困りはしないが、業正に死なれるのは嫌だった。

 

「そろそろ終いにしようではないか」

 

「望むところ」

 

「姫不殺の習いはあれど、武人の戦いにそれは不要のことと考えるがいかに」

 

「同意しよう。気遣いをされるなどご免だ」

 

 両名とも相手をこの一撃で確実に屠るという心持ちでいる。一度両名離れて得物を構える。一歩先に信綱が動く。その速さは風の如く。それに綱成も反応するも、やや遅れる。経験と鍛練を積み重ねてきた年月の差が綱成を追い詰める。剣の切っ先が針のように鋭く自分の首元に迫る。繰り出した自分の槍は信綱に躱される。首筋に近づく刃に綱成は死を覚悟する。目に映る光景はゆっくりとして見える。走馬灯が見える。短い生涯。だが、北条家に来てからは幸福だった。しかし、最期に先輩に会いたかった。そう思い彼女は目を閉じようとした。

 

 しかし、天運は信綱には微笑まなかった。

 

 キンッ!という金属が金属に当たる音が信綱の刀から鳴り響く。それにより僅かに彼の剣筋がズレ、綱成の首筋をすんでのところでかすめる。綱成の首の薄皮が少し切れ、すっと一筋血が流れる。毛細血管の血なので大事ではない。

 

「何奴!」 

 

 信綱は何が起こったか何とか理解していた。おそらく自分の刀に矢が当たったのだろうと。戦場に矢が転がっているのは通常の光景だが、さっきまでなかった矢が自分の足元に刺さっている。それを認識したうえで、あと少しで殺せたところを邪魔した者を探す。加えて、勝負を邪魔されたことに無粋さを感じ苛立っていた。 

 

 一方の綱成は命を長らえたことに安堵していた。武人としての誇りはあれど、別に死にたい訳ではない。助かったのならば、自分が卑怯卑劣な行いを働いた訳ではないのだからして、それはそれでいいと思っていた。この辺りの認識の差は両名の決定的な差である。

 

 そして、綱成には矢を撃った相手に心当たりがあった。射手の技量は凄まじいものがある。日本刀の細い刀身に正確に矢を当てるのがどれだけ難しいか。もっと言えば、信綱の剣を振るう速さは尋常ではなかった。高速で動く細い物体に矢を的確に当てられる人物は知り合いでただ一人。自らの先輩である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 上杉朝定を捕えて急いでUターンしている。綱成が心配だった。恐慌状態の敵軍とは言え、率いる将はあの武田家の攻勢を七度に渡り跳ねのけた名将長野業正。それにおそらくこの時期ならば、剣聖・上泉信綱が陣内にいる可能性が高い。とにかく急がなくては。

 

「よし、追いついたぞ、合流して敵を叩け!」

 

「「「「応!」」」」

 

 指示を出し、朝定探しに従事していた兵が一斉に合流しにかかる。さて、綱成はどこだ。目を皿にして探すが、夜であり、長野陣の松明の明かりはあれど、それも少ない。煙も所々に出ており、探すのは難しい。

 

 何事もなければよいが…。嫌な予感がする。

 

「おい、どこかに綱成はいないか!」

 

「先ほど、敵将らしき男と戦っておりましたが…」

 

「それはどこだ」

 

「あちらの方角でございます」

 

 質問をした兵が指さす方向に目をやる。

 

「助かった!」

 

「お役に立てましたならば幸いです。ご武運を!」

 

 見送る兵に手を上げ、その方角を目指す。喧騒の中、一際激しい音がする。金属のこすれ合う剣戟の音。尋常ならざる闘気が肌を刺す。そして見えた。十数メートル先。先ほどの兵が言っていたように、剣を持った男と槍を持った綱成とが争っている。下手に介入すれば、自分が死ぬだけだろう。

 

 固唾をのみながら見守る。一度戦闘が止まり、二人は構え直す。おそらく、次で決めるため。万が一に備え、男の持つ剣を狙うように弓を構える。男は動く。あの速さ、あれが剣聖か。動体視力には自信がある。剣の切っ先はまっすぐに綱成の首へ吸い込まれる。咄嗟に指を離した。

 

 矢は一直線に飛んでいく。そして、剣が綱成の首を切り裂こうとした瞬間に命中し、剣を弾く。当たったことに安堵する。

 

「何奴!」

 

 上泉信綱が叫ぶ。答えるべきか否か迷うが、結局答えることにした。無視したところで、自分が発射したと露見する可能性が高かった。弓も持ったままなので余計そうなる可能性が高い。これ以上剣聖とやり合うのはいささか分が悪い。二人がかりでも斬られかねない。退かせるためにもあえて尊大さと余裕を演出する。

 

「これはこれは剣聖殿。失礼致した。されど、我が配下をみすみす殺される訳にもいかぬでな。無粋とは思えど、介入させていただいた」

 

「では、貴殿がお相手いただけるのか」

 

「否否。私程度の剣の腕前では、そちらに瞬殺されるのが関の山。此度はここいらでお引き取り願えぬか」

 

「それを呑まねばならぬ理由がどこにある。二人とも斬り殺せば良いだけの事。折角の強者との仕合いを妨げられ、当方はやや虫の居所が悪い」

 

 この発言で交渉の突破口が見えた。その時、長野家の陣が徐々に撤退を始める。退き鐘や太鼓が鳴る。

 

「長野隊は退くようですぞ。貴殿はよろしいのか」

 

「貴殿らを斬った後に合流しても間に合うだろう」

 

「そうか。では、一つ提案と行こう」

 

「聞くだけ聞こうか」

 

「強者と仕合うのが貴殿の望みならば、今は退き、しばし待たれよ。いずれ、また戦場でこの綱成が貴殿と相対した時、今夜よりも強くなった彼女と戦えるだろう」

 

「…」

 

 上泉信綱は思考を始める。その立ち姿に寸分の油断もないが、理性を保って戦場にいるとんでもない人間だ。だが、それ故に交渉の余地はある。

 

「承知した。北条殿」

 

「…何でしょうか」

 

「いずれまた」

 

「……次はその首もらい受けます」

 

「ハハハ威勢の良いことで。次は貴殿の過保護な主のおらぬところでやり合いましょうぞ。では私はここいらでご免。河越城主・一条殿もいずれまた。貴殿ともいつか刃を交わしてみたいですな」

 

 そう言い残して、剣聖・上泉信綱は風のように消えた。名乗ってもいない自分の正体をあっさり見破られたが、よくよく考えれば、綱成のことを配下と呼べるのは私か氏康様のみ。消去法で素性を見破ったということか。

 

「しかし、良く聞いているものだ。あの冷静沈着とした姿と戦場で狂わず、理性を残したままのあり方。怖いものだ…」

 

 思わず、そう呟く。しかし、なんとかこの場は撤退させられた。急に長野家の軍勢が撤退を始めた理由が今一つ分からないが、とにかく重要なのは彼らに損害を与え、撤退させたという事実。南方に退いたので、氏康様の隊を背後から急襲、という訳でもなさそうだ。おそらくは、飯能か狭山の辺りまで退いて、秩父を経由して上州に戻る算段なのだろう。あの辺なら確かに山道はあるものの、撤退は可能だろう。あそこは北条領ではないので、襲われることもないはずだ。落ち武者狩りをしようにも、あの数では無理だ。推定で四千くらいはいるように思える。元々七千五百いたので、残りはおそらく屍となったか逃げたかだ。 

 

 いつまでも突っ立ったまま思考している訳にもいかない。半分呆然としている綱成に声をかける。

 

「おい、おーい。綱成、綱成!生きてるか!」

 

「あ、は、はい。先輩。生きてます。ちょっと助かったと思ってぼうっとしてしまいました。まだまだですね」

 

「いや、仕方ないさ」

 

「あの時、確かに死ぬ、と思ってました。ありがとうございます」

 

「今は助かったが、次はどうかわからない。あの男はまた我らの前に現れるだろう。その時は、助けられないかもしれん」

 

「大丈夫です。次は必ず勝ちます。戦が終わったら鍛練を一からやり直すつもりですので」

 

「そうか…」 

 

 心身にダメージはなさそうで安心した。この調子なら大丈夫だろう。さて、もう一人、手のかかる姫がどっかにいるはずなのだが。

 

「いやっほー!お二人ともお元気ですー?」

 

 噂すればというか、呑気な声がする。何してるんだ、緊張感を持て、と言いたくなって口を開こうとした時に彼女の放った一言で、驚愕することとなる。

 

「わたくし、長野軍を撤退させましたわ!」

 

「は…?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なぜ、内政官になりつつある彼女が長野軍を退かせるに至ったのか。それを語るには綱成と信綱が戦い始めた頃に時間を戻さねばならない。

 

 この時、兼成は護衛数騎と共に、長野家の陣の内部にいた。先に突撃した兵の後に続いたのである。綱成がいない理由を彼女らは知らなかったが、ともかく綱成がいないならば、自分が指揮をしなくてはならないと思い陣頭指揮を執っていた。

 

「しかし、戦の空気には相変わらず慣れませんわね」

 

 ぼやきながら、進んでいく。陣内は混乱しており、堂々と進めた。彼女は無為無策でここにいるわけではない。彼女は彼女なりに熟考したうえでここにいる。その考えを現実のものにするには、ある人物を探す必要があるのだが、なかなか見当たらない。

 

「はてさて、どこにいるのやら。何となく目星は付いておりますが、外れれば無駄骨。居て下さればよろしいですが」

 

 

 

 

 

 そのお目当ての人物こと長野業正は撤退か抗戦かで決断を強いられていた。抗戦する場合は主の上杉憲政を放置することになる。加えて、兵も混乱しておりどこまで抵抗できるかは未知数だった。最悪、相打ち覚悟なら今攻めてきている軍勢を潰すくらいは出来るはずだ、と業正は考えていた。

 

 息子、吉業は抗戦を主張して譲らない。冷静さを保てる上泉信綱は強者の気配を感じたと言って出て行ってしまった。北条軍はおそらく、本隊の数ではない。となれば、城の軍勢だろう。ここにあの軍勢がいるという事は、河越城の城門近くに陣取っていた扇谷上杉家が敗れたという事を示している。迷っていたところ、陣幕が突如としてめくられる。息子・吉業を始め、この場にいる将が一斉に抜刀した。

 

「探しましたわ。長野信濃守業正様。こんばんわ、ごきげんよう」

 

「誰だ!貴様!我が手の者ではないな。面妖な。敵の刺客か。ならばこの場で斬り捨てる!」

 

「ええ、わたくしは確かに長野家の者ではありませんが…短気は損ですわよ。いついかなる時にも冷静に、ねぇ?」

 

「誰かと聞いてるんだ!」

 

「あらあらまあまあ、仕方ありませんわね。わたくしは、河越城城主・一条兼音様の副将・花倉越前守兼成と申します」

 

 敵将ではないか!と諸将は色めき立つ。予想外の大物に業正もやや驚く。

 

「のこのこと現れて、何をしに来たのかはしらんが斬ってやる!」

 

「待て!」

 

 業正は逸る息子を抑える。パッと見た所、強者には見えないが、こういう手合いが一番危険だ。どんな手を隠しているかわからない。この謎の余裕の理由が不明な以上、下手な手は打てなかった。得物は目視できるところ、何の変哲もない刀と小刀。手元の鉄扇のみ。

 

 だが、吉業は静止を聞かず刀を振り降ろそうとする。が、その剣が降ろされることはなかった。構えたまま固まっている。理由は簡単。喉元に鉄扇が突き付けられてるからである。彼女は元々は箱入り娘。武術など使えない。その点では鞭術は使える氏康以下の戦闘力であった。しかし、このままでは主に受けた恩を返せない上に自衛も出来ないため、綱成や配下の武士たちに頼んで武術を教わっていた。その結果、鉄扇と小刀を使って最低限の自衛が出来るようになっていた。吉業が固まっている中、優雅に彼女は微笑み続ける。

 

「だから申しましたでしょう?いついかなる時も冷静に。怒りに呑まれ我を忘れると、わたくしのような者にこうもあっさりとやられるのですわ」

 

「っ!」

 

「下がれ、吉業」

 

 業正は再度制止する。その命令に従い、吉業はゆっくりと構えた剣を下した。同時に兼成も鉄扇をしまう。業正は息を深く吐きながら兼成に問いかける。

 

「それで、貴殿は何をしに参ったのか」

 

「ええ、ええそうでしたわね。わたくしが参った理由は一つ。長野軍の撤退を提案しに参りました」

 

「撤退だと!ふざけるな!」

 

 吉業はなおも威勢よく兼成に突っかかる。しかし彼女はどこ吹く風。軽く受け流す。軽く口角を吊り上げ妖艶な笑みを浮かべる。流石は海道において一の美人と名高い今川義元の姉である。まだ幼さの残る義元とは異なり、大人の色香を身につけている。加えて、そこそこ死線をくぐっている。義元とは違う凄絶な美しさを持っていた。この笑みとトパーズ色の瞳に呑まれ、吉業は言葉を失う。

 

「威勢が良いのはよろしいですが、北条家の本隊は既に山内上杉家の陣を急襲しています。関東管領が今頃その生を保っているか否かは保証出来かねますわ。扇谷上杉家も我らが蹴散らしました。合流は難しいと考えますわ。聡明な信濃守様ならば、自軍の兵を一人でも多く生かすためにも、どうするのが最善かはお分かりいただけるでしょう。ここまで抵抗したことで、関東管領への義理忠節は果たせたのではないでしょうか」

 

 家を保ち、兵を生かすためには最善なのが何か。それを考えれば、答えは目の前の少女が話していたことがそのままである。

 

「南下し、狭山を抜けて秩父を目指せばよろしいですわ。そこなら、無事帰れるでしょう。わたくしとしても、これ以上兵を損なうのはよろしくないと考えております。長野様相手では、扇谷上杉家のように易々とはいかないでしょうし、今後の領国支配のため生き残る兵が少しでも多い方がよろしいのですわ」

 

 呻きながら熟考した業正はこの口車に乗ることにした。その心中には敗戦の原因は主・憲政の慢心が主要因なのは事実だ。ここで退いてもこれまで抵抗したため面目は立つだろう。これ以上義理を立てて玉砕する必要もないだろうと思ったのである。その心中の本人も気付いていない奥底には憲政への意趣返しも存在していた。

 

「わかった。その提案を受けよう」

 

「ありがとうございます。流石は聡明なお方ですわ」

 

「世辞はいい。全軍、直ちに撤退!退き鐘を鳴らせ!」

 

「父上!」

 

「吉業。もはや勝ちを望むのは難しい。ここは退いて、再起を図ればよい。今は耐えて黙って退くのだ」

 

「……承知しました」

 

 吉業は鋭い視線で兼成を睨む。しかし相変わらず効果はなく、兼成は優雅に微笑んでいる。それに舌打ちをしながら吉業は撤退の準備を始めた。すぐに退き鐘が鳴り響く。それを聞いた長野家の軍勢は撤退を始める。始めより深追いを禁じられている兵たちは追い回すことなくある程度のところで追撃を中止した。かくして、弁舌を以て兼成は長野軍を撤退させることに成功した。

 

 兼成は撤退してゆく長野家の軍勢を目を細めて眺めながら一つの命令を配下に下した。

 

「趨勢は決しました。河越城の支配下にある全農村に伝達。逃亡兵を皆殺しにしなさい。大将首ならば、武士に取り立て、報奨金、年貢免除などの報酬を与えると」

 

 この命令を受け取り、配下の武士たちは各地に散り、農村に命令を伝える。完全な独断だが、城の財政を握っている彼女だから出来る事であった。

 

「こんな事はきっとよろしくはないでしょう。けれど、きっと兼音様のお役に立つはず。ここで一人でも敵兵を減らせれば、今後の戦で有利に戦える。独断を叱責されたらまぁ、その時は甘んじて受け入れましょう。あのお方がわたくしを罰するならそれはそれで構いません。元より、この身はあのお方に捧げた物ですから、どう使われてもいいのです」

 

 残酷なことを命じる罪悪感に心を痛めつつも、彼女は一人呟く。その声は喧騒にまぎれ、夜の中に消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「とまぁ、ざっとこれが事の顛末ですわ」

 

「そうか…」

 

 兼成の言葉に瞑目する。やや独断専行が目立つが、考えてもこちらの不利益はない。長野家の軍勢もある程度は撃破できたし、まだ南方にいるはずの諸将の寄せ集め部隊三千も撃破したい。ここらで終わらせるのは良い判断だと言わざるを得ない。長野業正と真正面からやり合えばどれだけの損害が出るか分かったもんじゃない。落ち武者狩りも非常に合理的な判断と言える。勝手に褒賞を約束したのはいただけないが。

 

「独断が過ぎましたことは重々承知でございます。どのような処罰も受け入れますわ」

 

「…私はお前が交渉していた時上泉信綱と対峙していて軍の指揮を執れる状況になかった。以上だ」

 

「ありがとうございます」

 

 これが落としどころというか、処罰せずに済む方法だろう。私が指揮を執れない時の全権は兼成に移譲する。やや強引だが、そういう状況だったという事にすれば言い訳は可能だろう。その代わり、この場でこの件に関する彼女への褒賞はなしになる。もっとも、籠城中の功績に関してはまた別の褒賞があるので、それに色をつけるか、個人的な願いを聞くとかで何とかしよう。そう思いながら、全軍に南下を命じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もう一つの戦線では、氏康率いる北条軍本隊が奮戦していた。上杉憲政を撃破した後、その北方に陣取る倉賀野直行の陣を急襲する。この陣は憲政の本陣が攻撃されているのを見て、救援するでもなく撤退をしようとしていた。だが、それを逃がす氏康ではない。憲政に斬りかかったその刀で兵に道を示しながら、果敢に指揮をしていた。これに従う八千弱の兵は更なる突撃をする。兵数的にはほぼ同じ。ともなれば奇襲側に負ける要素があろうはずもない。あえなく七千五百の部隊は壊滅。倉賀野直行は多米元忠によって討ち取られた。長野軍の南方にいた諸将の寄せ集め部隊もあっという間に撃破され、散り散りになる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 これにて河越城の戦いは終了する。関東諸将連合軍五万五千。内、死者行方不明者三万五千。多くは夜襲による混乱でまともに戦う事も出来なかった。命からがら逃げだした兵も北条に心服している農民たちによって次々殺されていく。無傷で帰れたのは三千にも満たなかった。扇谷上杉家家宰・難波田弾正忠憲重、山内上杉家家老・倉賀野直行、同本間近江守は討ち死。総大将の関東管領・上杉憲政は片目の視力を奪われ、美男子と評判だった顔には大きな傷が出来る。扇谷上杉家当主・上杉朝定は捕縛。扇谷上杉家家臣・大石定久、藤田康邦は投降。太田資正、上田朝直は居城に撤退。その他の関東諸将は殲滅対象ではなかったため、討ち死にこそ少ないが、それでも兵を損失しており、何とか帰国するも数年は軍事行動が不可能になる。

 

 北条軍一万二千。内、死者行方不明者三百五十。あまりの損害の少なさに後世にその資料の正確性を疑わせることとなる。

 

大勝の報は南常陸を荒らし回っていた房総連合軍にも届く。これを受け、彼らは後退を開始。下総まで退き、古河城を監視する体勢に入った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 かくして、関東の覇権は一夜で塗り替わった。興国寺城の戦いと関宿城の戦い、そして今回の河越城の戦いを総称して北条大乱や関東大乱と呼称される。その全てが夜戦であったことから、後世では関東三夜戦とも言われる。旧権力の失墜は北条家の隆盛の、そしてここから始まる覇道の幕開けの象徴となる。そして、氏康はこの戦いで相模の獅子の名を得る。獅子の覚醒はこの伝説的大勝利と共に日ノ本中を駆け巡る。また、この軍師兼河越城城主として一条兼音の名も関東中に広がる。

 

 この後数百年間、この戦いは伝説として日本、さらには世界にまで広がる。それは様々な将に多くの影響を与えた。

 

 この戦いを人は今なおこう呼んで称える。「河越夜戦」と。




これにていよいよこの章は終わりです。次回はキャラ紹介して、新章にいきたいと思います。


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キャラ集➁

前回のキャラ集から今回までの新キャラと既出のキャラの追加項目を書いています。

流石にこんな作者の備忘録みたいなものだけで終わらせるのはアレなので、一応超短編を二本載せましたので許して…。


<北条家>

北条氏康…引きこもり癖のある少女だったが、一連の戦闘における華麗なる勝利で徐々にその性質は緩和されつつある。興国寺城の戦いにおいては、生来の性質から、耐え続けるのは得意なため我慢強く機会を待ち続けた。船団を用いた強襲揚陸作戦など、彼女の知る兵法の中には存在していなかったが、兼音を信頼し作戦を許可した。河越夜戦の基礎作戦を考案するなど、知将としての名采配を見せた。

 

 河越夜戦では、普段はやらない自ら剣を振るうという行為を行い、関東管領・上杉憲政の片目を奪った。その隠されていた勇猛さから「相模の獅子」の異名を得た。これにより、関東の覇権は彼女に移行し始めた。

 

 

北条幻庵…北条家随一の長老。年齢不詳。若づくりのため、見た目は二十代の美人。実は子供もいる。風魔の統率を行っている。その統率力は一連の戦闘でいかんなく発揮された。三雄会談では、今川に頭を下げさせたことに感激し、時代は兼音や氏康のような若者が引っ張るようなものに変化しつつあると寂しさと頼もしさを抱いている。まだまだ死ぬ気はないが、これからは一歩引いて見守ろうと思っている。

 

北条氏綱…故人。娘を兼音や家臣に託し穏やかに亡くなった。その最後の交流は兼音に多大な影響を与える。愛する娘に手を握られ、幸せなまま逝った。戦国黎明期の英雄。彼の遺した負の遺産である二正面戦線は娘・氏康が解決した。後世の評価は高い。

 

北条氏邦…氏康の妹。血気盛んでやや頭で考えるよりも先に手が出る性質がある。激情しやすいが、道義や義理を重んじる一面もある。兼音に対しては、最初は自分の城を見捨てようとしているのかと憤慨したが、彼の苦悩を読み取り謝罪した。興国寺城の戦いでは武功第一であった。(全体の戦功では兼音が第一。)壮大な作戦に感動しており、兼音への見方はかなり好意的。

 

北条綱成…氏康の義妹。河越城城代。河越城では武の面を担っている。兵の調練や武具の管理を担当。その武で扇谷上杉家の家宰・難波田憲重を討ち取るも剣聖との戦闘で事実上敗北。鍛練のやり直しを決意した。名台詞の「勝った勝った」は今後彼女の持ち台詞になる。

 

加藤段蔵…兼音に仕える戸隠の忍び。兼音の勧誘を受け、彼の目指すものに未来を見出し出仕する。優れた幻術使いで、異形の術も多く使える。情報収集や伝令などに優れた働きを示す。河越城の影の守り人である。

 

松田憲秀…北条家家臣。兼音の指示に従い、駿東へ急行。絶望的な状況下で半年間五百の兵をもって吉原城に籠城。見事役目を果たした。

 

多米元忠…北条家家臣。父から家老職を受け継ぐことが内定している。第一次国府台合戦では多くの首級をあげ、興国寺城の戦いでは騎馬隊を率いて活躍。その武勇を示した。河越夜戦では、逸る氏康を制止するなど、知力も高い。

 

大道寺盛昌…北条家家臣。元忠と同じく、父から家老職を受け継ぐことが内定している。多くの合戦では本陣の守衛など目立ないはたらきをしているが、興国寺城の戦いでは側面から松井宗信隊を急襲。見事敗走させた。

 

花倉兼成…兼音の副将。綱成は氏康の直臣のため、段蔵と並び数少ない兼音の直臣。北条家に来た頃はお世辞にも良将、名将とは言えなかったが研鑽を積み、その能力値は飛躍的に上がっている。河越城では内政を担当。優れた管理能力と業務執行能力で文官の尊敬を密かに集めている。河越夜戦では、長野業正を弁舌をもって撤退させた。現在のステータスは統率:70、武力:45、知力:78、内政:90、外政:85とかなりの高値を持つ。普通に美人なので、兵や民からの人気も高い。

 

遠山直景…北条家家臣。下総側の国境地帯であった葛西城を治める。第一次国府台合戦では、足利義明の家臣を多く討ち取る。

 

 

 

 

 

<里見家>

 

里見義堯…里見家当主。房総制覇に野望を燃やす安房の名将。第一次国府台合戦では小弓公方を支持するが敗退。その後北条家と抗争を続ける。関東管領の呼びかけには答えず、北条家に賭ける。関宿城の戦いでは古河公方を撃破。その強さを見せつけた。

 

正木時茂…里見家家臣。槍大膳の名を持つ勇将。関宿城の戦いでは多くの首級をあげる。

 

安西実元…里見家家臣。どちらかと言えば、知将よりの将であり、義堯の腹心として活躍する。

 

多賀高明・加藤信景・土岐為頼・秋元義久・酒井敏房・岡本氏元・市川玄東斎…里見家家臣。関宿城の戦いでは多くの古河公方の兵を討ち取る。

 

里見義弘…里見義堯の息子。万が一の際の保険として、反北条を唱えるも父・義堯に理解されず幽閉されているという事になっていた。

 

 

 

 

 

<足利家>

 

足利晴氏…古河公方。上杉憲政に唆され、反北条の軍勢を興す。しかし、関宿城で里見軍に大敗。古河城へ逃亡した。北条家から側室を迎えており、正室の梁田家の娘よりもこちらの方を愛していた。戦に出る前に、離縁を拒み無事の帰還を祈った彼女への罪悪感を心に抱き続けていたが、敗戦によって完全に自らの愛情を悟る。命からがら帰還した後、その愛する彼女に涙ながらに抱き締められ、気絶した。その後は氏康に対し、命乞いをし、上杉憲政を油断させる作戦に一役買う。

 

梁田晴助…古河公方家家臣。関宿城の城主。息子を討たれ、仇討ちとばかりに寡兵の千葉利胤隊に突撃するも、すんでのところで救援に来た真里谷信隆によって敗れ、捕縛される。

 

梁田持助…古河公方家家臣。故人。作戦に従い、関宿城を囲んでいた真里谷軍を攻撃するも、作戦が漏れていたことにより返り討ちにされ討ち死に。

 

結城晴朝…古河公方家家臣。関東の名門、結城家の当主。大した活躍も出来ないまま関宿城にて敗走した。

 

足利義明…小弓公方。故人。扇谷上杉家を支援し、古河公方・北条家と対立していたが、河越城の落城により追い込まれた扇谷上杉家の支援のため挙兵。真里谷信応・里見義堯と共に第一次国府台合戦を起こす。武勇に優れていたが、弟と息子を討たれたことに激昂し突撃したところを射殺された。氏康を我が物にしようとしており、北条家からのヘイトを無駄に買っていた。

 

足利基頼…足利義明の弟。北条綱成に討ち取られる。

 

足利義純…足利義明の息子。北条綱成に討ち取られる。

 

印東内記・土屋織部・一色刑部・椎津隼人佑・高修理亮・逸見三郎・後藤内蔵助・鴻野修理…足利義明家臣。いずれも、第一次国府台合戦で北条家によって討たれる。

 

 

 

 

<真里谷家>

 

真里谷信応…凡将であり、油断し、暴走する足利義明を止められず、第一次国府台合戦で敗北。兼音によって討たれた。

 

真里谷信隆…真里谷信応の兄。足利義明の思惑によって追放される。関宿城の戦いでは梁田持助を破り、同城を制圧。その後、千葉利胤を救援し、梁田晴助を捕らえた。

 

真里谷信常…真里谷信応家臣。兼音に一騎打ちを挑むも、今川家より下賜された剣によって胴体を一刀両断された。

 

西弾正・武田一郎右衛門…真里谷信応家臣。前述の鴻野修理と共に三人がかりで綱成に勝負を挑むも、まとめて討たれた。

 

 

 

<千葉家>

 

千葉利胤…北条家の傘の下で自らの血の命脈を保とうとしている名門・千葉家の当主。元々の居城亥鼻城を追われ、佐倉城を本拠地にしている。病弱ながら、関宿城の戦いでは自ら奮戦。しかし、多勢に無勢で討たれかけたが、そこを真里谷信隆に救われた。

 

原胤清・原胤貞・高城胤辰・相馬治胤・豊島明重・村上綱清・大須賀政常・井田胤徳…千葉家家臣。関宿城の戦いでは多くの兵を討ち取ったり、主・利胤の危機に奮闘したりと活躍を見せる。

 

 

 

 

<扇谷上杉家>

 

上杉朝定…扇谷上杉家当主。幼くして当主となっていたため、実権はない。賢い少女だが、その賢さゆえに自らを殺し傀儡に徹してきた。割と常識人であり、勝ってもいないのに戦勝の宴を催す上杉憲政に疑問を抱いたり、戦で浮かれるべきではないと思うなどと、名将の片鱗はある。兼音によって射殺されそうになるも、自ら落馬する荒業で回避。自由を渇望し、生を欲したため捕らえられる。

 

難波田憲重…扇谷上杉家家臣。故人。家宰を務め、斜陽の扇谷上杉家を支える。上杉朝定には自らを傀儡にして縛り付ける存在であるように思われていたが、彼自身としては朝定を大切に思っており、それゆえに過保護になっていた。悲しいすれ違いに最期の時に気付くが時すでに遅く、彼女の無事を祈りながら綱成によって討たれた。

 

太田資正…扇谷上杉家家臣。岩槻城城主。難波田憲重の娘婿。武断派的一面があり、知将タイプの上田朝直とは対立することも多かった。河越夜戦では、敗戦を悟り撤退した。

 

上田朝直…扇谷上杉家家臣。松山城城主。難波田憲重の甥。太田資正とは対立することも多かった。河越夜戦では敗戦により撤退。関東中を巻き込むことを計画した。河越夜戦の発案者とも見ることができる。

 

大石定久・藤田康邦…扇谷上杉家家臣。河越夜戦では投降した。

 

 

 

 

<山内上杉家>

 

上杉憲政…関東管領。貴公子と呼ばれる女好きであり、権謀術数は得意だが、武力や統率力はないに等しい。上杉朝定には嫌われていた。河越夜戦では油断しきっており、酒宴を催す。その後寝ているところを奇襲される。本間近江守によって救われるも、氏康によって左目の視力を奪われ端正な顔には大きな切り傷が出来ることになる。

 

長野業正…山内上杉家の家老。上州の虎と呼ばれる老将。慎重で緻密な作戦を好むが、憲政にはやや口うるさいと疎まれていた。河越夜戦では城への強攻を主張して却下される。急襲してきた綱成たちにもうまく対処して損害を減らすが、兼成の説得により撤退を決意。秩父方面へ退いて行った。

 

長野吉業…業正の息子。奇襲されてもなお抵抗を主張する。兼成に煽られ激昂し斬ろうとするも、鉄扇を喉元に突き付けられ身動きが取れなくなる。場数が足りないせいで兼成の雰囲気に呑まれ、タジタジになる。

 

上泉信綱…一応山内上杉家の家臣。上泉城の城主。剣聖と呼ばれる剣客。無双の強さを誇るリアル戦国無双。綱成との一騎打ちではあと一歩のところまで追い込むことに成功するが、最後の最後で兼音によって邪魔される。その際により強くなった綱成と再戦すれば良いという発案を受けて撤退した。

 

上泉秀胤…上泉信綱の娘。名前だけ言及されるも、特に出番なし。

 

本間近江守…山内上杉家家老。故人。上杉憲政を叩き起こし、撤退させる。また、氏康によって斬られかけた憲政を救い、代わりに氏康に斬られた。

 

女妻鹿新介…山内上杉家家老。河越夜戦では敗戦により逃亡した。

 

倉賀野直行…山内上杉家家老。故人。河越夜戦では北条の動きを見極めてから行動するように進言し、憲政に採用される。その結果奇襲を受け混乱の最中に元忠によって討たれた。

 

 

 

<今川家>

 

今川義元…前回登場から目立った活躍なし。強いて言えば武田信虎の受け入れを認めたくらい。見せ場は果たして来るのやら。

 

太原雪斎…今川家の家宰。黒衣の宰相。興国寺城の戦いでは、義元政権への移行並びに将来への地盤固めのために弟子でもあり、若手の朝比奈泰朝を前線司令官に据える。その結果、大敗。自らの不明を悟り、泰朝を叱責せずにしようとしていたところに、彼女が放った武田晴信への失言を聞きキレる。その後は三雄会談にて終始北条側に押され気味だった。最終的には北条に頭を下げ今川の面子を何とか守った後三河へ遠征しに行った。

 

朝比奈泰朝…興国寺城の戦い最大の戦犯。若さゆえの実戦経験不足から情報戦において翻弄され見事なまでに兼音の策に引っかかる。恐怖のあまり関口親永を見捨ててきた事を岡部元信に糾弾され縮こまっていた。不用意な失言から雪斎に後頭部を殴られる。

 

岡部元信…興国寺城の戦いでは吉原城を囲んでいたところを北条氏規率いる部隊に急襲される。同時に城内から松田憲秀にも攻撃されたが、奮戦していた。北条氏規と一騎打ちをするも命からがら逃亡を続ける関口親永を見捨てられず、一騎打ちを放棄する。その後責任者の朝比奈泰朝を糾弾したが、関口親永に窘められ、不貞腐れた。

 

飯尾連龍…遠江の武将。三河で起きた反乱と進行する織田軍の対処に追われていた同地域の今川方の将を代表して雪斎に救援要請をしに行った。

 

鵜殿長照・松井宗信…今川家家臣。興国寺城の戦いで敗走。満身創痍になった。

 

関口親永…今川家家臣。一門衆である。朝比奈泰朝に見捨てられ置き去りにされ逃げまどっていたところを岡部元信に救われた。その後、朝比奈泰朝を糾弾する彼女を諫める。

 

 

 

 

<成田家>

 

成田長親…忍城の留守居役を命じられた当主・長泰の甥。農民と分け隔てなく接し、人望に厚い。成田家の家中からは評価されていないその才能は未知数。河越夜戦ではその数日前に北条の勝利を確信。長泰を自らの父であり、長泰の弟である成田泰季が死んだという嘘の伝令でだまし、帰城させた。

 

成田甲斐…成田家の姫。当主の方針により、成田家は姫武将を認めていないため、名乗りが通常の姫武将とは異なる。武勇に優れており、美人と聞こえが高い。実は長親に好意を抱いているが、突飛な行動を繰り返す長親の行く末を心配している。

 

成田長泰…成田家当主。長親に騙され帰城した。臆病で猜疑心の強い性格で、妻や一族からはあまり好かれていない。

 

 

 

<武田家>

 

武田晴信…幼名勝千代。後の信玄。甲斐の虎。温和で知的な将であったが度重なる父親からの人格否定、諏訪頼重による暗殺未遂で心を病みかけていたが、山本勘助によって天下への道を意識するに至る。罪悪感を感じながらも、己の進むべき道を見出し、父・信虎を駿河へ追放する。その後は妹婿の諏訪頼重を攻める。諏訪攻略戦後、今川の援軍に赴く。初陣の大成功からやや慢心気味であったが、その緩んだ心は興国寺城の戦いで根本からぶち壊される。妹の様子に戸惑いを覚えるが、幸せならそれでいいかと思っている。

 

武田信繁…父・信虎に姉よりもずっと期待をかけられてきたことに負い目を感じていたため、信虎追放では率先してそれを先導し、重要な役目を果たす。姉と、今まで触れられなかった時間を取り戻そうとしている。その行動を後押ししたのは兼音の存在だった。花倉の乱以後、彼の動きに注視してきた。興国寺城の戦いではその危険性を説くも疑問視される。敗走が決定した時は、武田軍の無傷の撤退と引き換えに自らの身を差し出す。三雄会談が無事終わった後は、陣中で兼音より貰った孫氏・呉氏を大事に抱えながら甲斐へ帰国した。さながらその心情は推しの地下アイドルが全国区になった際のファン一号のそれ。教えを乞うべく、手紙を書こうと考えている。

 

武田義信…武田信虎の唯一の息子。武勇は優れているが、粗野で考えなしなところがあるため、信虎も早々に当主継承は無理だと判断した。ちなみに、長男だが産まれたのは晴信、信繁に次いで三番目。

 

武田信廉…通称孫六。絵描きを自称する風流人な変わり者。容姿は晴信にそっくりだが、双子ではない。お気楽に生きているように見えるが、その実色々と考えている。

 

一条信龍…姓は違うが、彼女も信虎の娘。甲斐の名門にして祖先を同じくする一条の名跡を継がされた。存在感が薄く、眠っているように見えるが独特の嗅覚を持っている。それにより、人の性質や戦の機運なども嗅ぎとれる。腐った果実のような裏切りの匂いがすると穴山信君を警戒していた。

 

武田信虎…武田家の先代当主。晴信を文弱の輩と蔑視していた。かつては彼女に大きな期待を抱いていたが、その大きすぎる将器を感じられずいつしか罵倒するようになっていた。鬱屈した愛情が歪みに歪んだすれ違いの果てに追放される。娘と共に自らを裏切った老臣たちに武田の為に死ぬようにと叫び、駿河へ連れていかれた。

 

禰々…信虎の娘。信濃攻略を断念した父親によって諏訪頼重と政略結婚をする。政略結婚ながら、夫に対しては愛情を抱いており、姉を裏切った夫に対し悲しみを覚えているが、それ以上に夫を許さず諏訪家を事実上滅ぼした姉に対して怒りを感じている。何とか再興のために尽力していた。最終的には、夫・諏訪頼重と共に北条家への人質として相模へ送られる。

 

穴山信君…武田家一門衆筆頭の姫武将。腹黒く、権謀術数を好む。もっとも軍才が無い訳でもなく、そつのない用兵をする。信虎父子の諍いや家臣団の追放決定の流れを盗み聞きし、いいタイミングで自分を売りつけることで地位を確保する。信龍に警戒されるもとぼけることでそれ以上の追及を逃れた。彼女的には裏切るのは衰勢が見えてからなので、今はまだその心配はない。ただ、いざとなれば容赦なく裏切るので、信龍の嗅覚もあながち間違いとは言えない。

 

山本勘助…異形の軍師。諱は晴幸。長らく流浪の生活を送っていた。かつては忍び働きもしており、山の民とも交流がある。真田幸隆とは旧知。天下人の軍師となり大戦をしたいという野望を抱いており、その天下人として晴信を見出す。非道な策を好む。兼音との優劣はまだ不明。心の底で若くして北条家で活躍する彼に嫉妬している。人の運命を見る占星術である宿曜道に通じている。

 

板垣信方…武田家四天王。長らく武田家の中核を担ってきた老臣。晴信の守り役を務めており、彼女には同情的であった。甘利虎泰と共に武田家のために死ぬことを決意した。

 

甘利虎泰…武田家四天王。板垣と同じ老臣。涙もろい性格で、最後は武田家のために死ぬことを決意した。

 

横田高松…武田家四天王。元は伊賀からの流れ者であり、信虎に拾われた。利に敏く、見切りの早い性格であり、信繁を味方につけた晴信に付くことを素早く決めた。

 

飯富虎昌…武田家四天王。四天王では唯一の姫武将。赤備えで知られる戦狂い。赤い理由はどうせ敵の血で染まるのだから、遅いか早いかの問題だから。これには流石の信虎もドン引きしていた。義信とはいわゆる幼馴染。

 

馬場信房…旧名教来石景昌。晴信の指示で未来の武田家を担う姫武将になるべく、信虎によって滅ぼされた名門馬場家の名跡を継ぐ。信虎はこれにも苛立っていた。怪力の持ち主で巨大な槌を武器にする。

 

春日源五郎…春日村の農民の娘。貧乏で食うものにも困っていたため、山野を駆け巡り、狩猟にいそしんでいた。その影響で優れた小刀の投擲術を持つ。後の高坂昌信。

 

小山田虎満…旧四天王の一人。飯富虎昌にその座を譲り引退した。

 

馬場虎貞・内藤虎資・山県虎清・工藤虎豊…故人。暴政を続ける信虎に諫言し、そろって切腹を申し付けられた。

 

 

 

 

 

<その他>

 

諏訪頼重…婚礼の儀で甲斐まで赴き、そこで目にした晴信の将器に恐れを抱き暗殺をもくろむ。最終的に失敗するが、これが理由で攻められた。甲斐へ護送され、妻の禰々と共に軟禁生活を強いられていた。最後は相模へ人質として送られることとなる。プライドが高く、この人質となることも嫌であったが死ぬ勇気もなく従わざるをえなかった。

 

諏訪四郎…本編完全未登場。存在だけは言及されている。頼重の妹であり、現在は兄夫婦と共に軟禁中。

 

織田信秀…本編完全未登場。存在だけは言及されている。今川を嵌めるための策として兼音に利用される。三河へ攻め込むが、大きな戦果は得られなかった。これには不満を抱いていたが、興国寺城の戦いで今川が完膚なきまでに叩きのめされたのを聞き溜飲を下げた。

 

猿飛佐助…真田忍び。諏訪頼重に雇われて晴信の暗殺を目論むが失敗する。

 

軍神ちゃん…感想欄で大人気の少女。まったく話には出てきてないが、作者が感想欄でのあまりの人気(違う)故にここに載せた。彼女の状態的には河越夜戦に前後して長尾為景が死亡。晴景は家督を(家臣に脅され半ば強制的に)譲り、当主になっている。もっとも、内憂外患が山積みで反覆常無き越後の国衆の統率に苦労している。兼音の最重要警戒対象。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

≪超短編Ⅰ・山中の小城にて≫

 

 関東で行われた三つの大きな戦いは、いずれも北条家とそれに与する勢力の勝利で幕を閉じた。その中でも興国寺城の戦いと河越夜戦は一際大規模な殲滅戦として諸国に広まる。北条家側も終わってしまえば情報統制をする必要性は皆無。むしろ、武威の喧伝のため積極的に他国に広めた。陸奥から都まで。四国の辺境から日ノ本の最南端まで。これを誇張だと思う者、信じる者様々であった。そして、この伝説的な戦の一連の顛末は吟遊詩人のような形をとった北条家の息のかかった商人たちによって事細かに伝えられた。美濃は菩提山城という小城にて、一人の病弱な少女がその北条家の影響下の商人の話を熱心に聞いていた。

 

「迫りくるは関東管領・古河公方率いる連合軍その数驚天動地の八万。同時に駿河よりは海道の雄・今川が精兵一万八千を動かし迫りくる。まさしく国難。絶体絶命。されど、相模の獅子は動じず。その相貌を寸分たりとも変化させず己の軍師に策を用意させる。そこで若軍師一条兼音がひらめきたるは古今東西類無き大奇襲。聞こえ名高き鵯越もこれには勝てぬと小田原では評判のこの策こそ軍船数百艘を使った上陸だ!」

 

「今川は偽計に欺かれ夜間に慌てて撤退を始めた。それを聞くや否や港より北条の大軍が大海へ漕ぎ出す。燃やすは闘志、握るは己の得物。月無き海より来る敵と半年自分の軍を引き付けていた別働隊が突如としてはじめた大攻勢に今川は敗走。太原雪斎は和を乞うた!」

 

「これを受け、獅子はその身を反転させ義妹の地黄八幡の籠る河越城を救援に向かう。一条兼音は己の居城であるこの城に無敗の戸隠忍び・鳶加藤に導かれ戻った。関東、否、日ノ本有数の知者二人に挟まれた関東管領に勝ち目なし。夜襲に意図も容易く敗走。だが、ただ逃げるのを許しては北条氏康の名が廃る。その美しき眼に炎を灯し、月下一閃関東管領の喉元を狙う。そして刃はこの男の目を片方奪い取る。すかさず二の太刀を振るも、敗軍にも忠臣あり。忠臣の命を引き換えにした護衛にすんでのところで取り逃がす」

 

「しかし、勝利は勝利。三つ鱗の行くところ遮れる者なし。軍勢は四散し、関東はもはや彼の家の治るところになる日もそう遠くはなし。暁の空に刻まれた勝利の雄叫びがそれを物語っているのだ…」

 

 端折ってはいるものの、概ねこの調子で話が進んでいく。

 

 話を終えた商人が退出すると、彼女は咳き込みながら、先ほどまでの話を反芻していた。戯曲風に語っていたので多少の誇張はあれど、おそらく大部分は真実であると彼女は思っていた。

 

「一条兼音さん…一体どんな方なのでしょうか…」

 

 彼女の知る兵法に上陸作戦などというものはない。しかも海戦ではなく、あくまで戦場は陸戦。夜襲を軍船を用いてかくも大規模にやるというのは衝撃だった。

 

 まだ見ぬ東の地にいる軍師の姿に思いを馳せ、どこか心の中で彼といつの日か戦う日が来ると不思議な予感を感じていた。彼女の名前は竹中半兵衛重虎。今孔明と現代でも名高い名軍師。陰陽師という側面もある。果たして彼女の予感は本当のものになるのか。それはまだ誰も知らない。時代が生み出した真の天才と全世界の戦争がその頭脳に収められた知識の男。その二人が知恵比べをしたとき、どちらに軍配が上がるか。その結果を断言できるものもまた、いないのだった。

 

 

 

 

 

 

 

≪超短編Ⅱ・現代side≫

 

「来年の大河のモデル・主役決定」

 

 TwitterにNHK公式アカウントが出したこのツイートは多くの反響を産む。近年落ち目だった大河ドラマの人気を上げるために、NHKは予算をふんだんに掛けたドラマの作成を決定する。舞台は戦国にすることは決定していた。人気なのがこの時代なのだから仕方ない。

 

 この発表された20××年の大河ドラマは少し話題を呼んでいた。と言うのも、放送の数年前に通常だったら人物とキャストが発表される。だが、この年に限っては放送の半年前・つまり情報が公開された今日まで完全シークレットだったのだ。この異常事態にネットは少し湧いていた。近年は戦国がブームになりつつある。選ばれる武将が誰なのか。掲示板では予想合戦が行われていた。その結果発表されたのは

 

タイトル『はためく三鱗』

 

 これにネットは大歓喜にした。いままで凄まじい人気を誇りながら一回も採用されなかった北条家の大河ドラマがやっと来る。川越市と小田原市以下、関東の市町村が歓喜に沸く。しかも、原作は新進気鋭の作家が書いた長編歴史小説でもありながら恋愛小説としても知られている作品だった。俳優&女優は実力揃い。神脚本と神キャストに加え武将たちも有名どころ勢ぞろいである。

 

 更に注目を集めたのは今回の作品が原作通りなら一条兼音と北条氏康のダブル主人公になる。この発表の少し前にテレビで行われた戦国武将総選挙にて、一位は惜しくも織田信奈に譲るも、堂々の二位につけたのがこの北条氏康だった。ちなみに三位は武田信玄、四位は一条兼音である。ビックネーム二人を使ったあたり制作陣も本気だった。

 

 

 

 そして、半年後に放送された初回は驚異の視聴率をたたき出す。かつての名作、「風林火山」と「邪気眼龍政宗」を上回る戦果に日本中が注目した。氏康と兼音の関係性、そして魅力的な北条・武田・上杉の姫武将や兼音をはじめとしたカッコよく演じられた男武将に多くのファンが生まれた。その視聴率はほとんど落ちず、最終回では驚異の56%を記録する。これはあのビートルズの公演と並ぶ数字だった。ちなみに、織田信奈を扱った「野望の火」も視聴率は30%代と悪くはないが、これには遠く及ばなかった。兼音の予期しないところで北条家は天下を取ったのである。




その大河ドラマの内容が何か。それはこの先の物語で語られます。気になる方はぜひともこれからもこの作品にお付き合いください。



…ただの宣伝です。すみません。次回はすぐに投稿します。具体的には今週中。

武将たちもこれからまだまだ出てきます。リクエストはメッセージ等で常時募集中。あと、戦国時代の貿易に関して知識のある方は教えてください…。


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第4章 北方からの来訪者
第34話 戦後処理


今回はちょっと短めです。


 河越城の戦いをもって、関東中を巻き込んだ大戦は終了した。上杉方は敗走し、古河公方は謹慎する。勝者となった北条家は戦後処理に入ろうとしていた。河越城では、論功行賞が行われようとしていた。兼音は大広間を整え、本来は城主用の席を空けて氏康を迎え入れた。関東中を巻き込んだ大戦の完全勝利を受けて、北条家は戦勝ムードで満ちている。市勢も喜色に溢れていた。 

 

 

 

 

 

 

 ひっ捕らえた上杉朝定を自室に放置しているので、それを何とかしなくてはいけない。段蔵によれば、運ばれている最中に気絶したらしいので、様子見が必要だ。骨も折れていたし、治療も必要だろう。昔、中学生時代に学校の階段から滑って見事に手足を折ったことがあるので、治療のやり方はわかる。

 

「起きてるか」 

 

 襖を開けて、室内に入る。敷かれた布団の上に、仰向けで寝ている。起きてもらわないと治せないので、ペチペチと軽く頬を叩く。

 

「ん…ううん…」

 

「起きてくれないか?早く治したいのだが」

 

「あ!は、はい。う、痛い…」

 

「無理に起きるな。じっとしてろ。手足は伸ばせるか?触るから痛かったら言いなさい」

 

「はい」

 

 ゆっくり触っていく。左腕と左足が折れてる。ただ、そんなに複雑には折れてない。添え木でなんとかなるかな。傷もあるので、消毒もしなくては。念のため持ってきた治療セットを用意する。

 

「動くなよ」

 

「は、はい」

 

 腕に添え木をして、包帯もどきで巻く。三角巾で吊って、固定する。足も同じように添え木と包帯で固定する。あとは、焼酎を染み込ませた綿を傷に当てる。

 

「よし、ゆっくり起き上がれ。歩けるか」

 

「何とか、なりそうです」

 

「大丈夫そうでなにより。これより、私は論功行賞の場へ向かう。そこでお前の助命を何とか頼んでみる。北条の老臣には、お前に悪印象を抱いているものも多い。頑張って説得してみるから、大人しくしててくれ」

 

「分かりました」

 

 朝定を連れて、廊下を進む。すれ違う女中が怪訝そうな目で見てくる。違いますよ。隠し子とかじゃないですよ。本当に誤解されてそうなので後で何とかしなくては…。大広間に到着する。朝定に壁に寄っかかって待つように指示して、中へ入る。

 

「一条兼音、参りました」

 

「中へ」

 

「失礼いたします」

 

 中には諸将が集合している。思えば私、いつも最後だな。

 

「揃ったわね。では、始めましょう」

 

 一同が頭を下げる。

 

「まずは、戦勝を祝いましょう!皆、半年間本当によく耐えてくれたわ。ありがとう!」

 

「「「「「ははぁ!」」」」」

 

「我ら北条家はこれをもって負の遺産だった二正面戦線を打破したわ。まずは状況を今一度整理しましょう。盛昌。頼んだわ」

 

「はい。かしこまりました」

 

 盛昌が中央に出る。ドンと巨大な地図を中央において、その前に座る。

 

「まずは駿河戦線。興国寺城の戦いで我々は奇襲作戦で大勝。これの勝利によって、富士郡の割譲の代価に今川との対等な不可侵条約を結び、武田家とも協力体制を築き人質の確保にも成功しました」

 

「その人質ですが、小田原留守居の氏政様から伝令があり、禰々御寮人と諏訪頼重殿が到着したとのことです。氏政様は指示を求めております」

 

 補足するように清水康英が告げる。着いたのか。意外と早かったな。

 

「次に里見家並びに千葉家・真里谷家の軍勢です。彼らは関宿城で古河公方足利晴氏旗下の軍勢を撃破。古河公方は我らに和を乞うています。里見家からは真里谷家の上総からの退去と三年の不可侵、貸した軍船の返却と貸し賃の支払い、香取郡・匝瑳郡・海上郡(東下総)の割譲を要求してきております。真里谷家は代替地を用意してくれるのならば、退去も可能と。また、古河公方はあらゆる条件を呑むと申しております」

 

「最後に河越城で敗れた関東諸将ですが、まず扇谷上杉家当主・上杉朝定は行方不明。投降者は牢に入れております。関東管領は沈黙を保っていますが、上州平井城へ逃げたようです。これから旧扇谷上杉家家臣団の残党が相次いで和を乞うてくるかと思われます」

 

 地図を見れば、北条の影響圏はかなり広い。駿東郡、相模、武蔵のほぼ全土、下総半国。豊かな大地を抑えた。これで後は残党狩りが終われば北から厄介なのが来る前に備えが出来るだろう。

 

「ご苦労様。さて、今盛昌がした説明は聞いていたわね。これより論功行賞と今後の方針を決めるわ。皆意見を出しなさい」

 

 ここでいくしかないか。廊下に待機させている少女(幼女?)を呼び出す機会だろう。場の雰囲気が盛り上がっている時になら何とか交渉がうまく行く可能性が高いだろう。

 

「氏康様。よろしいでしょうか」

 

「何かしら」

 

「…ご紹介すべき者がおります。廊下に待たせておりますので、中へ入れてもよろしいでしょうか」

 

「凄く既視感があるし、何なら嫌な予感がするけれど、許可します」

 

 遠くを見ながら頭に手を当て、ため息をつくように氏康様は言う。申し訳ないなぁと思いながら、朝定を招き入れる。

 

「中へ!」

 

「し、失礼いたします…」

 

 襖がゆっくりと開いて、よいしょよいしょと足を何とか動かしながら朝定が入ってくる。

 

「あなた…まさか!」

 

 何事か察した氏康様を罪悪感を感じながら無視して、自己紹介を促す。

 

「自己紹介を」

 

「お初にお目にかかります。扇谷上杉家当主・上杉朝定です」

 

 この言葉に、大広間は大混乱に陥った。

 

 

 

 

 

 

 まぁ無理もないだろう。いきなり行方不明の敵の大物が痛々しい包帯姿で出現したら誰だって腰を抜かす。インパクトと言うか衝撃が強すぎたのか、皆口をポカンと開けたまま唖然としている。

 

「説明」

 

「…はい」

 

 若干ドスのきいた低い声で命じられ、ヒエッとなりながら説明を始める。

 

「戦場で保護しました…というのは正確ではないですね。弓で射ようとしたら自ら落馬して回避するという荒業で避けられたので、慣例に従い降伏か死かを選択させたところ、降伏を選んだので連れてきました」

 

「あなたはまたそうやって…」

 

 おそらく我が副将の顔が頭に浮かんでいるであろう氏康様は、目を抑えている。重ね重ね申し訳ない。氏康様が疲れている間に、皆が現実世界に戻ってきた。

 

「お前!どういう事だよ!上杉は怨敵。その当主を取り逃がすでも殺すでもなく、捕らえるって何考えてるんだ!興国寺城でちょっと見直したのに…」

 

「そうですぞ!いくら姫不殺と言ってもあくまで慣習は慣習。場合によっては守らずとも良く、乱戦ではいかようにも出来ましょうぞ」

 

「一条殿には申し訳ないが、処刑すべし!」

 

「優しさだけでは生き残れませんぞ!」

 

「その通り!」

 

 予想通り、氏邦様筆頭に非難轟々だ。しかし、人格攻撃してこない辺り、現代人よりよっぽど理性的かもしれない。

 

「まぁまぁ皆様。一度落ち着いて下され。私も何の利益も無いのにこんな小娘を生かしておいたりなどしません。真の役立たずなら、とっとと殺しております。優しさから助けたなどと思われるのは心外ですな」

 

 

 朝定には申し訳ないが、別に本心でなくともこう言わないと本当に今すぐ叩っ斬られてしまう。敢えて厳しいことを言って生かす利益をアピールしなくてはいけない。何を言うかは、こうなることは展開予想していたので、既に考えてある。

 

「上杉朝定を生かす利益は三つ。一つは正当性の主張です。関東管領の武威は地に落ちました。諸将は揺らいでおります。ですので、ここで対抗馬を持ち出すことで、”北条家と関東管領の争いに北条家側で参戦した”よりも諸将の靡きやすいであろう”扇谷上杉家と関東管領の上杉家の主導権争いに扇谷上杉家側で参戦した”という状態が作れます。もっと言えば、都合のいい傀儡の誕生ですな」

 

「二つ目に、旧扇谷上杉家家臣団の円満な吸収でしょう。扇谷上杉家家臣団はまだ健在です。各地に散った彼らが我らの元を訪れなくてはならない理由が出来ます。人望厚き家宰・難波田憲重が命を賭して守った彼女を見捨てることは彼らにはできますまい。家臣団の中でも勢力の大きい松山城の上田朝直と岩槻城の太田資正は難波田憲重の縁戚。彼の遺志を壊さぬためにも一層帰順しやすくなりましょう」

 

「最後に、将の育成です。どうやら、彼女は扇谷上杉家での発言権は皆無に等しかった模様。家臣の独断を目の当たりにしてきており、自由なき日々を送ってきた彼女は、今までとは異なる環境を求めております。ここで恩を売り、若き彼女に次世代の北条家の為に粉骨砕身してもらいましょう。怨敵扇谷上杉家の当主が我らに膝を屈しながら日々奉公していると考えれば、皆々様の溜飲も下がると考えますがいかがか」

 

 ここまで一気に言うと、皆が黙り込む。損得勘定をしているのか、己の感情に整理をつけているのか。それは分からないが、取り敢えず即刻処刑ムードからは解放された。

 

「確かに、筋は通っておるが…」

 

「しかしなぁ…」

 

 今一つ納得していない様子。どうしたもんかと思っていれば、元忠から助け船が入った。

 

「ここで上杉朝定を助命すれば、長年の敵対関係を知っている関東の諸将は驚き、北条の寛大さを見てこちらに靡く者も出るのでは?今後の敵も降伏しやすくなるかもしれない」

 

 この発言が決定打となり、場の空気は助命に流れる。小さく元忠に頭を下げれば、気にするなと言うように手をひらひらさせていた。朝定は無言で頭を下げる。どこか安堵したようにも見えた。

 

「まぁ、一度助けてしまったものは仕方ないわね。もう諦めて利用し倒してしまいましょう。あなたが責任を持って監視する事!良いわね?」

 

「ははぁ!」

 

「ならばよし!この件は終わり。あぁそうだ、今ので私の心労が増えたから、ついでに武田からの人質も監視しなさい」

 

「え」

 

「”え”じゃないわ。あなたが武田に要求した人質じゃない。それに、話を聞く限り私と諏訪頼重は確実に相性が悪いわ。諏訪頼重は武田晴信という姫武将に敗れた。似たような存在の私との相性は最悪でしょうね。河越で戦乱を忘れて余生を送らせなさい。それに、あなたは武田と繋がりが当家で一番深い。その点からも置いておいて損はないと思うわ」

 

「…承知しました」

 

 厄介なのが三人も同時に来るのか。勘弁してほしいが、これくらいは甘んじて受け入れよう。期待されていると考えれば悪い気はしない。

 

「次は里見ね。貸しが大きい分譲歩を迫られるのは仕方ないとしましょう。私としては、向こうの要求を全て呑むつもりだけれど、この約定に何か意見のある者は?」

 

「真里谷家の代替地は武蔵内に用意すればよろしいでしょうか」

 

「そうね。南武蔵の辺りに見繕いましょう」

 

 盛昌の質問に氏康様は頷く。房総方面の安定が得られればしばらくは北に専念できる。上野、下野の切り取りが可能になる。強いて言うなら付け足したいことが一つ。

 

「里見家に海上交易に関する協定を行えますでしょうか。民間の商船への攻撃を永久的に相互禁止する契約を交わすのはいかがでしょうか。互いに海上封鎖で孤立する事態を防げるうえ、交易の活発化を推進可能と存じます」

 

 実際のところどこまで有効かは不明だが、少なくとも抑止力になる。里見は海上戦力が強い。東京湾や伊豆沖を封鎖されてはたまったもんじゃない。最悪この時代の数百年後の軍船を造ればいいのだが、私は船舶の専門家じゃないので大体しか分からない。密かな目論見としては南蛮船や明の商船を呼び寄せたいのだが…。そのためにも安全な航路と港は必要だろう。向こうにもメリットがある話だ。

 

「堺や九州に来ている異国の船などを呼び込めれば、内陸国の関東諸将に経済的・軍事的に大きな差をつけられるかと」

 

 出来れば帆船の設計とか大砲の設計図とか売ってほしい。スペイン語はほんの少しだけ分かるから是非とも来てほしいが。本当はイングランドの船が一番いいんだが。

 

「里見は数年は外征をする気はないのでしょう。房総は後回しにするのでしたら、良いのではないかと」

 

「港の活発化は我らも望む所です」

 

「当家に利が多いわね。よろしい。その策を採用し里見家と交渉に入るわ。おばば、葛西城の遠山直景と共に交渉にあたってちょうだい」

 

「ふぉふぉ。年寄遣いの荒い当主じゃなぁ。承知したぞ」

 

 これで房総は片付く。越後からお客様が呼ばれてもないのに土足で侵入してくるので、その対策をしなくては。

 

 

 

 

 

 

 

「問題は古河公方ね。滅多なことは出来ないし困ったものだわ」

 

 これを受け、場は扱いに関し議論を始める。

 

「鎌倉に送るべし」

 

「引退させ、息子に継がせるべきでござろう」

 

「しかし、あまりやり過ぎては反発が強まる恐れが…」

 

「いや、ここで一気に軍権を奪い取るのが最上。古河城以下、領土の明け渡しを要求致しましょう」

 

「領土明け渡しはマズいのでは…?」

 

「結城家は講和を望んでおり、梁田家は当主を捕縛中。古河公方の二大家臣がこの有様ならば大丈夫でござろう」

 

「領土明け渡し、鎌倉で事実上の軟禁の代わりに生命の保障、加えて公方はそのまま足利晴氏の続行が妥当ではないでしょうか」

 

 最後の盛昌の意見で議論は収束する。こちらとしても、ここで古河公方を手元に押えておきたい。正当性の主張には役立つだろう。

 

「一つ要請するとしたら、上杉憲政から関東管領の位階を取り上げて貰いたいですな。ついでに次の関東管領を上杉朝定に継がせれば、こちらの正当性は完璧でございましょう。本来の人事権は都の公方にありますが、今やそれも形骸化しつつあります。事後承諾でも問題ないでしょう」

 

「それは良い案でござるな」

 

「これならば領国支配も安定化できますぞ」

 

「加えて、領土拡張の正当性も確保できますな」

 

 賛同多数。うまく行った。これには言った通りの目的もあるが、ただの人質よりもしっかり位階を与えることは朝定を守ることに繋がるだろう。預かった命ならば最後まで責任を持たなくてはいけない。

 

「では、先ほどの盛昌の言った案の通りとしましょう。兼音の意見も伝えるわ」

 

 氏康様が頷き、この問題にも片が付く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後の会議は順当に続いた。まだ戦闘終了から時間が経っていないので、そう大きなことは出来ない。多くの関東諸将はまだ自領に戻っていない。その為交渉も出来ないのでそんなに決めることは無いのだ。千葉家の臣従要請を受け入れる事、捕らえた藤田康邦と大石定久にはそれぞれ氏邦様と氏照様を養子として送り込む事が決定する。我々河越城の立ち位置としては、前述の取り込んだ両家の統制と扇谷上杉家旧領の統治代理を命じられた。北条家の名目上の武蔵方面の指揮官は氏邦様。実質的な指揮官は私。周辺領土の加増と大規模な資金援助が認められた。これにて河越城の軍事的地位はかなり上昇する。武蔵を完全支配するための中核基地となるのだろう。氏照様は滝山城に入るらしいが、あそこは現代で言うところの東京都。氏邦様は鉢形城に入る予定らしいが、時期はもう少し先になりそうだ。

 

まだ未支配領域が広がっているのは埼玉県部である北武蔵なので、こちらが主導権を持っていると考えてまず間違いない。

 

 個人的な見解だが、上田朝直と太田資正は朝定の名前を出せば降伏してくるはずだ。その他の北武蔵諸将も、頼るべき相手がいない現状、降伏か死かを選ばざるを得ないだろう。唯一不気味なのは身内の葬儀と称して決戦数日前に突如陣を引き払った成田家だが、あそことは交渉次第になりそうだ。

 

 平穏が訪れれば、内政に取り掛かれる。農業改革、商業改革などやることは盛り沢山だ。招かれざる客が来るまでに準備を整えたい。

 

 

 

 

 

 

 

 これから忙しくなりそうだ。なんにせよ、しばらくは平穏が手に入るだろう。しばらくは、な。




次回は北武蔵の攻略です。それが終われば武田、そして長尾家の話になっていきます。お楽しみに。


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第35話 鳥籠の鳥を愛した人

今回は扇谷上杉家の話です。


 河越城で上杉連合軍に大勝した北条家は戦後処理を実施。その後祝宴が開かれ、街も城も大いに賑わった。そして、軍勢は帰還。河越城は平穏を取り戻しつつあった。

 

 そんな河越城では降将であり、一条兼音に命を救われた上杉朝定の処置が行われていた。

 

 

 

 

 

「これより、この河越城に住むこととなる扇谷上杉家当主・上杉朝定だ。立場は私の与力であるが、まだ戦働きは不可能であろう。その為しばらくは教育期間を置く。彼女の存在は今後の北条家の領国経営において非常に重要なものとなる。丁重に、とまでは行かないが普通の暮らしを送らせてやるように」

 

 広間には困惑が広がる。それもそうだろう。数日前まで敵だった、しかもその大将の一人だった少女が包帯姿で頭を下げている光景を見て、平静でいられる奴はなかなかの変人だろう。

 

 綱成は目頭を抑えながら何やら唸っているし、兼成はどういう訳か笑っている。

 

「納得いかないこともあるかもしれぬし、困惑しておるだろうが、どうか頼む。上杉家は怨敵だが、真に大事なのは北条家の繁栄。その為ならかつての敵ですら利用せねばならぬのだ。近々古河公方は鎌倉へ移る。それが完了し次第都の将軍に使者が送られる。その使者が将軍に述べる文言の内容が許可されれば、朝定は新たな関東管領に就任する。これの意味は言わずともわかるな?」

 

 この言葉に納得したのか、一同静かに頭を下げた。

 

 幕府の復権を望む足利義輝が将軍だったら危なかったかもしれないが、今の将軍は弱腰の足利義晴。困窮しているとも聞くし、金を送れば承認するだろう。そうすれば、上杉憲政は逆賊。堂々と上野を征伐できる。加えて従わない勢力は関東管領と鎌倉公方(旧古河公方)の名の下に戦争を吹っ掛けられる。もっと言うなら越後の軍神の正当性も減るだろう。伝承通り、義と正当性を重んじる人間ならこの展開に苦悩するはずだ。義はともかく、圧倒的な正当性がこちらにはある。もっとも、私は上杉謙信の人間性をそこまで評価していないので、何とも言えない。それに、実際の謙信がどんな人物かわかるまでは安易な推測は危険だろう。依然、警戒と対策は続けるべきだな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数日が経ち、二名の人物が城を訪ねてきた。一人は松山城城主・上田能登守朝直。官吏風の細身の男だ。もう一人は大槻城城主・太田美濃守資正だ。風貌は戦国武将らしい筋骨隆々である。この二名は援軍もなく、これ以上の抵抗は不可能と判断した。難波田憲重は死に、主である上杉朝定が降伏したことは知れ渡っていた。ともすれば、いち早く降伏することで自らの勢力を保たねばならなかった。加えて、死んだ憲重の願いは主・朝定の安寧であったためそれを叶えなくてはならない。このような経緯を経て、両名とも数騎の手勢と共に河越城にやって来たのだ。

 

 

 

 目の前の二人の男は、深々と頭を下げている。一応、朝定も横に椅子を持ってきて座らせている。彼らの主はまだ朝定だ。北条家への臣従を誓っていない以上、現在の力関係をはっきりと目に見える形でアピールする必要があった。

 

「この度は、私どもを受け入れていただき、誠に感謝の極みであります」

 

「朝定様を処刑することなく、生かしていただいたことは、旧家臣団を代表して御礼申し上げます」

 

 朝直と資正は口上を述べる。

 

「両名とも、よくぞ参られた。私が河越城城主にして、北武蔵の鎮圧司令官・北条氏邦様の代理として貴殿らの対応を務めさせていただく一条兼音である。まず両名に問いたいのは、ここにこうして参ったという事は、当家に恭順する意志ありと見てよろしいか」

 

「いえ、扇谷上杉家が未だ存続している以上、私どもの主は朝定様でございます。裏切るわけには参りません」

 

「なるほど、それはごもっとも」

 

 こう来たか。まぁ、これは予想通り。そう簡単に裏切っては沽券に関わる。大義名分はまだ大きな力を持っている。関東武士は武勇を重んじるが、正当性や大義名分もまた重んじる。

 

「扇谷上杉家がこの先どのように扱われるかによって、我らの行動も変わります」

 

「そう簡単に膝を屈しては関東武士の名折れ。いざという時には貴殿を斬ってでも朝定様をお救いするまで」

 

 資正が殺気を放ってくる。当の朝定は無表情。

 

「まぁまぁ、そう興奮なされるな。では、お望み通り扇谷上杉家の扱いを言おう。端的に申せば、扇谷上杉家は関東管領になる。こちらには古河公方・足利晴氏がいる。彼に都への書状を書かせ、現関東管領の上杉憲政の罷免と新管領として上杉朝定の任命を公方にやらせる」

 

「なんと…」

 

「朝定様が…関東管領?」

 

 信じられないような顔で二人は驚きを露わにする。

 

「当然、都合の良い事ばかりではない。有体にいえば、彼女には我らのこの城で過ごしてもらう。申し訳ないが、傀儡だ。しかしながら、これは蔑ろにするという訳ではない。北条の扇谷上杉家に対する恨みは深けれど、それは水に流し関東の新秩序の形成に尽力するまで。彼女にはその象徴になってもらう。もし両名がここで我らの軍門に下ったとしても面目は保てよう。形式上は上杉朝定に仕えるということにして、内政軍事に関してはこちらの方針に従ってもらうこととはなるが、そう悪い相談ではあるまい。こちらでしっかりと一人前の武将として教育もしよう。扇谷上杉家は存続できる」

 

「これならば、扇谷上杉家の立場も守れるか…。加えてこの処置ならば我らも…」

 

「……」

 

 思考を口にする朝直とは対照的に資正は無言で瞑目している、心情的には納得しづらいところがあるのだろう。

 

「あまりこういう事は言いたくはないが、ここで貴殿らが反旗を翻すと、もっと言えば北武蔵の平定が上手くいかない場合彼女の立場がどうなるか…。私は外様故に上杉に恨みはなけれど、宿老の方々はそうではない。彼らを説得するのには骨が折れるのです」

 

「ふむむむ…」

 

「……」

 

「朝直、資正」

 

 ここで不意に朝定が声を発する。

 

「北条は私を殺さず、受け入れた。死を与えず、生きる道をくれた。私は、北条で生きていく。二人にもそうして欲しい。……私はもう、鳥籠には戻らない」

 

 最後の言葉に二人の顔が一瞬だけ悲しげに歪む。ここにどうもすれ違いがあるのかもしれない。少し、聞く必要があるかもしれない。ともかく、彼女の言葉に二人は腹をくくったようだ。

 

「これよりは、北条家の軍門に下りましょう」

 

「こちらも同意する」

 

「よし。無駄な血を流さずに済みそうだ。配慮に感謝する。これより貴殿らの領内に代官を送る。また、領土縮小は無し。その代わりに今後の武蔵統治のために尽力せよ。当然、外征時には兵を出してもらう。よろしいか」

 

「「承知」」

 

「よろしい。朝定は下がってくれ。少し、両名と内密な話がある」

 

「はい」

 

 少し怪訝そうな顔をしつつ、彼女は私の自作の松葉杖を突きながらゆっくりと退出していった。足音が聞こえなくなったところで顔に疑問を浮かべている二人に再度声をかける。

 

「ここからは別にお家のことでも何でもない。少し楽にしていただいて結構。少し個人的な疑問があったので、少し残ってもらった」

 

「はぁ」

 

「…」

 

 胡乱げな視線を向けられる。

 

「疑問と言うか聞きたいことなのだが、朝定のことだ。彼女は私に降伏するときこう言った。『鳥籠の中で、死にたくない。どんな目にあっても、空を飛びたいの!お願い、お願い。私に、自由を教えて…!』とな。それで噂通り、扇谷上杉家は家臣によって主・朝定は傀儡と化していたと思っていた。だが、様子を見る限りどうもそうではなさそうだ。それで、真実を知りたいと思った。彼女は自分が傀儡として閉じ込められていたと思っている。聞かせてはくれまいか」

 

 両名は沈黙する。二人は小さくアイコンタクトをしあう。どう話すべきか迷っているように見えた。結果、朝直が話すことになったようだ。

 

「…そういう側面があったのは事実でしょう。ですが、亡き憲重様も我らも、決して朝定様を蔑ろにして専横するつもりなどございませんでした」

 

「では、朝定は傀儡などではなかったと?」

 

「我らの心の内ではそのつもりでした。結果的にすれ違ってしまいましたが…」

 

「元々我らと朝定様は良好な関係だったのだ。まだ、先代の朝興様が生存されていた頃だが」

 

「先代様がお亡くなりになられた際、朝定様は心をとても痛められてしまったのです。憲重様も我らも、それを見ていることが出来ず、どうにか苦しみを減らして差し上げようとなるべく政務に関わらせぬようにしていたのですが、どうもそれが朝定様には閉じ込められているという風に感じられてしまったのでしょう。気付いた時にはもう、我らの間柄にはどうしようもない壁が存在していました。それをどうしたらよいのか、我らにはわからず気付いた時には朝定様はまったく笑わなくなっておいででした」

 

 悲しい背景が少しずつ見えてきた。思いやり故のすれ違いなのだろう。

 

「憲重様は心より朝定様のことを考えておいででした。河越城を取り返そうとやっきになっていたのも、朝定様に安息の地であり、亡き先代様との思い出の残るこの城にいて欲しいと考えたからです」

 

「死ぬ間際まで朝定様のことを考えていただろうな。あのお方のことだ。不器用な方だったよ。それでも、朝定様への愛は本物だったはずだ」

 

 嘆息するように朝直は言い、資正は亡き難波田憲重のことを悼むように言葉を続けた。二人の目には光るものがある。

 

「そうか…。よく話してくれた」

 

「いえ、どうか、朝定様をよろしくお願いいたします。我らには見せることのできなかった世界を朝定様に見せて下さい」

 

「頼む。あのお方にはきっとわれらでは気付けぬ才があるはずだ。それを開花させてやってほしい」

 

「お任せあれ。助けると決めた時より覚悟はしている。さて…両名とも本日は泊まっていかれるとよい。ささやかながら宴を設けましょう」

 

「かたじけない」

 

「感謝する」

 

「それと、半刻ほど経ったら使いを送る。その者がある場所へ案内する。ついて行ってくれ。暗殺とかではないから安心してくれ」

 

「承知しましたが、いったい何処へ」

 

「行けば分かる」

 

 疑問を抱きつつ、両名は頭を下げて退出していった。少し、朝定と話さなくてはいけないな。ここまでする義理はないが、聞いた以上は何かしてやりたいと思うのが人情だ。それに、このまま一生すれ違ってしまっては亡き難波田憲重が浮かばれない。小さく息を吐きながら、立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 包帯を巻いた足を引きずりながら、ゆっくりと杖をついて廊下を歩く。あまり会いたくない顔を見たせいでイライラしていた。今更なんなのだ。そんなに私を閉じ込めておきたかったのか。朝直と資正の顔が悲しげになったことを思い出し、余計にイライラした。

 

 与えられた部屋に戻ると、椅子に座った。足が治るまで地べたには座れない。情けなくて悲しかった。襖の向こうから声がした。

 

「入るぞ。いいか?」

 

「はい」

 

 私を助けてくれた兼音様がその顔を覗かせる。助けてくれたというのもおかしな言い方だけれど、他の北条家の将に会っていたら私は問答無用で殺されていただろう。だから、私は幸運なのかもしれない。兼音様はどこか困ったような顔で部屋に入っていた。

 

「少し、行きたいところがあるのだが、良いか」

 

「はい。何処へでも」

 

「そうか。では掴まれ」

 

 そういって兼音様は私を抱きかかえる。まるで赤子のような抱き方だったけれど、不思議と嫌ではなかった。腕の中で揺られながら景色を見れば、城の屋敷を出てゆっくりとどこかへ向かっている。ゆらりゆらりと揺れていると少しずつ眠くなっていき、気付けば目を閉じていた。

 

「着いたぞ」

 

 その言葉に目を開け、辺りを見回す。ここは、多分城下の寺。そしてここは墓地だった。目の前には一つの墓石。そこには扇谷上杉家之忠臣難波田憲重之墓と書かれていた。

 

「ここって…」

 

「そうだ。難波田憲重の墓だ」

 

「なんでこんなところに私を連れてきたのですか。私は…!」

 

 強い口調で兼音様に突っかかる。やりきれない思いが渦巻く。嫌がらせかと思った。

 

「この人にずっと縛られていたのに…か?」

 

「……そうです」

 

 そこで兼音様はふぅとため息を吐く。そのため息の意味が分からず、睨む。

 

「この人は、本当にお前を縛っていたのか?ずっとずっと産まれてこの方ずっとそういう風に扱われてきたのか」

 

 何を言っているの、と戸惑う。

 

「朝直と資正より話を聞いた。彼らはお前を閉じ込める意思などなかったと言っていた」

 

「だったら、だったらどうして!」

 

「守りたかったんだそうだ。先代の遺児でまだ幼少だったお前を守るためだったんだ。不器用な彼らはそうする以外に策を思いつけなかったんだ」

 

「うそ、そんなの嘘っ!」

 

「嘘じゃないさ。お前はどうやってあの混迷極まる本陣から逃げ出した?あのままあそこにいたら、うちの綱成に斬られていたと思うが。死んだ難波田憲重は死ぬ間際に綱成ではなく、全く違う方角を見続けていたと綱成から聞いたぞ」

 

 そんなこと、信じたくなかった。確かに憲重には助けられた。でも、それは義務感からのはずだ。違う、違うんだ。兼音様は勘違いしている。訂正しようとしたところを遮られた。

 

「義務や忠誠じゃない。だったらどうしてこんなものを懐に入れたまま戦っていたんだ。いままでこれの意味は分からなかったが、先ほどやっとわかった。彼は、お前との思い出を大事にしていたのさ」

 

 差し出された紙には、大分色あせた墨の線。辛うじて人の顔に見えなくもない。それを見て一気に昔の忘れかけていた記憶を思い出す。遠い遠い昔の古ぼけた思い出。

 

 

 

 

 

「これ、これあげる!」

 

「おや、五郎様。これは…顔の絵ですかな」

 

「うん!のりしげのかお!かいたの」

 

「ははは、拙者ですか。ふむ、大分男前に描いて下さいましたな」

 

「じょうずでしょ!」

 

「ええ、ええ。お上手です。この憲重、一生の宝でございます…」

 

 

 

 

 

 

 

 どうして忘れていたんだろう。あんなに楽しかった日のことを。死の間際までこれを持って、こんな落書きを本当に一生の宝にして、最期の時まで持っていたなんて。こんなもの、何度だって描いてあげるのに。もっと上手い絵を、何度でも。でも、もう、かなわないんだ。だって、だって…!

 

心はいっぱいになって、涙があふれてきた。

 

「愛する故にすれ違ってしまったのさ。どうしようもないほど悲しくて、誰も悪くなんかない。彼の行いは褒められたものじゃないかもしれないが、優しさゆえのものだったのだ。だからこそ、救われないな…。ただ一つ言えることは」

 

 そこで言葉を区切りながら、兼音様は私のぼやけた視界の中でこう言った。

 

「どれだけ嫌われ、疎まれていても、彼はお前を愛していたよ」

 

 もう限界だった。あふれるものを抑えられなくて、物言わぬ墓石にしがみつく。腕と足の痛みなど、気にならなかった。 

 

「憲重、憲重ぇ!ごめんなさい、ごめんなさい!私がもっと、しっかりしてたら。賢かったら。あなたの想いに気付けていたら…!あなたは死ななかったかもしれないのに…!あんな絵なんて何度でも描いてあげるから、また、私と、話してよ!もう、嫌ったりなんかしないから!」

 

 その私の肩に手を置きながら、兼音様は呟く。

 

「もう死者は蘇らない。けれど、愛する人はたとえ冥界からでも、お前を見守っているんだ」

 

「ああああああああああっ!」

 

 抑えられない涙と叫びを墓石にぶつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 叫びながら泣いている朝定を見守る。

 

「朝定様!?」

 

「貴様、何を!」

 

 泣き声を聞きつけたであろう朝直と資正が走ってくる。丁度予定通りだな。凄い剣幕の二人に無言で墓石を指さす。

 

「これは…」

 

「あのお方の、墓地…」

 

 二人は言葉を失いながら、視線をさ迷わせる。そして、朝定の握りしめていた紙を見つけた。

 

「これは…昔、見せられました。これは儂の宝だと。何度も何度もしつこいほどに」

 

「ああ、よく覚えてるぜ。よく眺めてたよな…」

 

 この紙と朝定の様子で二人は何があったのか察したらしい。長年のすれ違いは、今終わったという事に。

 

「心より、感謝申し上げます」

 

 こちらに背を向け、口元を抑えながら嗚咽を殺して朝直は言う。資正はグッと拳を握りしめ、こちらを見据えた後、手を地について深々と頭を下げて

 

「すまない。そして、感謝する」

 

 と言った。それを見た後くるりと背を向ける。ここに私は不要だ。語らうべきはあの三人なのだから。彼らを背にしたまま黙って手を振る。

 

 

 

 

 

 

 

 朝定はあの二人が回収してくれるだろう。万が一にもあり得ないとは思うが、その万が一に備えてこの寺は忍びが警護している。しかし、朝定も要人だ。専用の護衛が必要だな。そんな事を考える。

 

「あーあしかし、慣れないことはするもんじゃないな」 

 

 寺の門前で一人呟く。

 

「なかなか粋なことをなさいますね」

 

 いきなり現れた段蔵にやや驚くが、最近は慣れてきてしまっている自分がいることに気が付いた。慣れとは怖いものだ。

 

「なに、少し気が向いただけだ」

 

「そうですか。では、そういう事にしておきますね」

 

 含みのある笑みを浮かべる彼女を横目でチラリと見る。

 

「是非、そうしてくれ」

 

「御意」 

 

 金色の瞳が楽しそうにこちらを見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「本当に何から何まで、ありがとうございました。このご恩は一生忘れません。これより、この上田能登守朝直、誠心誠意励んで参ります」

 

「ああ、よろしく頼む」

 

「ほら、あなたもですよ」

 

「分かっている。太田美濃守資正。これより朝定様と共に北条家の発展に尽力しよう。命をかけてでも、礼は返す」

 

「期待している」

 

 二人から礼を受け取る。宴ではあの後どうなったかは聞かなかった。聞かずとも、どうなったかは様子からわかるし、何より聞くべきではないと思ったからだ。今は朝定も一緒に見送りをしている。これが、関係がどうなったかの何よりの証拠だろう。

 

「それでは朝定様、兼音殿、またお会いしましょう」

 

「それじゃあな」

 

「ええ。次お会いできるのを楽しみにしております」 

 

 頭を下げて、二人は馬に乗り、供の数騎と共に駆けて行った。地平線の果てに見えなくなるまで、朝定とそれを見送る。

 

 

 

 

 

 

 

「兼音様」

 

 不意に朝定が呼びかける。

 

「なんだ」

 

「私、ずっと間違ってました。私のいた鳥籠は冷たくて固くて暗いと思ってました。でも、本当は私が気付けなかっただけで、そこには暖かさもあったんですね」

 

「それに気付けたのなら、難波田憲重も浮かばれるさ」

 

「はい。…私はずっと逃げ出したいという気持ちから外の世界を知りたいと思ってきました。でも今は、前向きな気持ちで外を知りたいと思うのです。兼音様、どうか私に、世界を教えてください」

 

 暗い顔をして、人形のようだった彼女の瞳はいつしか輝きを放っていた。そこにあるのは好奇心か、それとも別の何かか。それは分からなかったが、とても輝いていた。ここまで変わるか、と驚きつつも子供の成長とはそんなものなのだろうと親のような感想を抱く。

 

「辛いことも、苦しいこともたくさんあるぞ」

 

「覚悟はしました。私は、もっと広い世界を知って、そしていつか憲重にも話すのです。きっと憲重が見ることのなかった光景を。その為に私は、今生きているんです。生きてる者の勝手な言い分かもしれませんが、それが、私が憲重にできる恩返しだと思います」

 

「そうか。ではよろしい。私の知識、叩き込んでやろう」

 

「よろしく、お願い致します」

 

 そう言ってぺこりと頭を下げる朝定の頭をポンポンと撫でる。

 

「さ、帰るぞ。やることは多いんだ」

 

「はい!」

 

 少しづつ治りつつある足を動かしながら、朝定は歩いていく。それを一方後ろから見守る。鳥籠に囚われていたと思っていた姫は今、真実を知り、そして飛び立った。その行く末は誰も知らないが、もしその未来を想像して語るのなら。

 

 きっと大空を舞っているだろう。美しく、雄大に。鳥籠の鳥を愛し続けた不器用な誰かに見せるように。

 

 そう、思ったのだ。



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第36話 北武蔵

英語弱者が露呈し、感想欄でご指摘を受けたので、タイトルを少し変更しました。ご了承下さい。


 ここでやや時間を戻す。時は河越夜戦の後すぐである。北武蔵は忍城にて怒り心頭の男が怒鳴り散らしていた。男の名は成田長泰。成田家の当主にして、忍城の主である。彼が激怒しているのは弟が死んだという嘘の報せによって兵を引き上げる羽目になったことが原因だった。そしてそんな嘘を長泰に伝えたのは彼の弟の子、つまり甥の長親であった。日頃からでくの坊の役立たずのうつけ者として知られていた彼のこの行動には今まで我慢してきた長泰も堪忍袋の緒が切れていた。

 

「貴様ぁぁ!何という事をしてくれたのだ。このこと、どのように管領様に伝えればいいのだ!そもそも何故こんな事をしでかした!」

 

「命を救ったのだ。感謝されこそすれ、怒鳴られるいわれはないな」

 

 怒髪衝天の長泰の言葉もどこ吹く風。長親は飄々と受け流す。

 

「命を救う…?何を戯けたことを!ついに気でも狂ったか。我らは万が一にも負けるはずのない戦いをしておったのだぞ」

 

「いいや、管領は負けるさ。天地がそう言っている。民を苦しめた家に隆盛はない」

 

「…いよいよ頭がおかしくなったようだなっ!よいか、我らは五万五千、敵は高々一万と少しぞ。偽りの報せまで用いて、本当に何を考えておるのだ!もう埒が明かん。長親、お前はしばらく拘束する。管領様より沙汰が下るまで大人しく待て!」

 

「好きになされるがいい。じきに結果はわかる」

 

「ああ言えばこう言いおって。そうだ、甲斐。お主も何をしていた。しっかり止めぬか!やはり、女に武家のよしなし事は務まらん」

 

 甲斐姫は反論できず、黙りこくっている。静かに頭を下げながら、目ではチラチラと長親の方を見ながらその身を案じている。苛立ちの収まらない様子で長泰は話を切り上げ長親を牢獄へぶち込もうとしていた。そこへ大慌ての兵が駆け込んでくる。

 

「申し上げます!」

 

「どうした。今は取り込み中だ」

 

「それが、緊急事態でございます。河越城にてお味方大敗!管領様は逃亡中。扇谷上杉家当主も行方不明!連合軍は損害多数。各地へ四散しました!」

 

「なん、だと……」

 

 長泰は顔面蒼白で視線をさ迷わせる。あの数の軍勢が負けるなど、彼の常識ではありえない事だった。そして長親に目線を向ければ、ほら見ろと言わんばかりに座っていた。長泰の目は、自らの知力では計り知れぬものを見る恐怖に染まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 河越城の城内の一室では、少しづつ回復に向かいつつある朝定に兼音による講義が行われていた。まだ小田原の小さい屋敷で兼成と二人で暮らしていた頃に彼女に行っていたのと同じことをしているのである。ちなみに、あの屋敷は未だに彼の持ち物であり人を雇って定期的に清掃させている。あまり小田原に長期滞在しないが、滞在するときにはまだ使っている。

 

 それはともかく、朝定はまだ小学校五年生くらいの年齢ではあるが、この時代は賢い子供が多い。またその中でも朝定は特に優秀であった。その為、兼音の多少難しい話もどんどん吸収している。彼も彼できちんと分かりやすいように教えているので、結構なスピードで講義は進んでいる。

 

「良いか、お前は今後大人になった時に武蔵の統治の一端を担う事になるかもしれない。加えて、私の後継者候補である。兼成は補佐の方が向いているし、兵法しかしっかりと教えていない。政治思想に関しては深く教えていないのだ。綱成は槍働きが向いている。その為、私の代わりに統治者になれるように鍛えるのだ。分かったか」

 

「はい」

 

「知識は持っているだけでは何の役にも立たない。正しく機を見て己の知恵の泉より引き出すのだ」

 

「はい」

 

「ではまず、統治者に大切なことは何か。仁義だの礼考などではない。忠は主に対するものであり、為政には必要としない。まず民を重んじる事。そして法を重んじる事だ。この二つを守らねばならない」

 

「仁義はいらないのですか」

 

「いらない訳ではないが、それを重んじるあまりその他が疎かになってはいけない。民無くして国は保てず、法を軽んじ容易に破れば、国は乱れる。実利を取り、理想は二の次だ。古の仁義では国を治められぬと韓非子にはある。あの書は時折過激なことも書いてあるが、これは真実だろう」

 

「どうして仁義を守っては国を保てぬのですか」

 

「仁義を守るとは、人々のかくありたいと願った生き方の理想の集合体だ。人はそうなれないからこそ夢想を抱く。そんなもの、実行不可能だろう」

 

 冷たい声で兼音は言う。その目にはある種の暗さがあった。朝定はそれに少し怯える。だがそれを知ってか知らずか、兼音は言葉を続けた。

 

「そもそも仁義、特に義など己の主観に過ぎない。立ち位置が変わればそれは容易に牙を剥くだろう。この世に絶対的な義などなく、あるとするのならそれは空想の産物か妄想だ。空想のものを信ずるなど馬鹿馬鹿しい。この世は全て正義と正義のぶつかり合いなのだ。それ故に戦乱は続き、末法の世を救うはずの仏教も宗派で争っている」

 

 吐き捨てるように言う言葉に、恐る恐る朝定は問いかけた。

 

「兼音様は、正義はお嫌いなのですか」

 

「いや。自分が絶対に正しいと信じてるやつが嫌いなんだよ。私は自分の行いがどこまで行っても人殺しであることを知っている。その行いに正しさなどないとさえ思っている。私が戦うのは氏康様の為でもあり、この地に住まう民の為である。正しいかどうかではなく、己が何を為したいか。それが己の信念と相反してはいないか。それが重要である、と私は考える」

 

「…」

 

「剣は殺すことも生かすことも出来る。どうするかはお前次第だ。結局、誰かを守り助けるという事は誰かを傷つけ、助けないという事であるからな。お前の進む道を義だのなんだのと言った曖昧模糊なもので肯定しようとするな。己の信ずる道を行け。そこに肯定を求めるな」

 

「……はい」

 

 その返事に満足したのか、兼音は目線を朝定から逸らし、遠くを見つめた。

 

「兼音様」

 

「何だ」

 

「もし、もしも、自らは義の化身だと謳う者が敵に現れたらどうなされますか」

 

 彼女は長尾景虎のことを全く知らないが、知的好奇心からこの問いが出てきた。そして兼音はこれに当てはまる人物が長尾景虎であると思った。

 

「殺す。それだけだ。我らは、いや私はそのような者とは絶対に相容れない。どこか我らの知らぬ地で妄言をまき散らすだけならともかく、敵として立ち塞がるなら殺してやろう」

 

「そ、そうですか…」

 

「そうだ。いい年になって絶対の正義を妄信している奴はただの愚か者だ」

 

 だが…、と彼は言葉を区切って言葉を選んでいるように口ごもる。

 

「だが…?」

 

「一度も正義を信じたことのない奴はただの人非人か臆病者だ」

 

 その言葉に朝定は答える術を持たなかった。あまりにもそれを言う兼音の目が悲しそうであったから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一条兼音とてこんな悲しい思想を産まれた時から持ち合わせていたわけではなかった。だが彼はある意味正義に裏切られたのである。

 

 彼は高知県に産まれた。父親は自衛官。母親は看護師。人を助け、守る仕事を生業とする親。そんな家系に産まれたからだろうか、彼は両親に強い憧れを抱き、強い正義感を持ち合わせていた。幼き頃は正義の味方に憧れた。そして、今はその在り方を憎んでいると言っても過言ではない長尾景虎は、彼のかつての好きな武将だった。なお、歴史好きは父親の、弓道は母親の影響が強い。

 

 概ね幸運な人生を送っていた彼の人生は十五歳の時に一変する。両親の死であった。

 

 病死ならまだ呑み込めたであろう。けれど現実は非情だった。彼の両親は事故死だったのである。それも、逃走する車を追っているパトカーのハンドルミスによって起こされたものだった。己の信じていた両親という名の正義は犯罪者を追い治安を守るはずの警察と言う正義によって殺された。この時に思春期と言う多感な時期の真っただ中だった彼の心は一度壊れることになる。

 

 この事件は大きなニュースになり、日本中を騒がせたが、そんなことは彼にとってはどうでも良かった。信じていたものに裏切られたと感じた彼は己の心中に警察への、そして正義への憎しみを抱き始めた。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと言うように、彼のぐちゃぐちゃの思考は理不尽に対する怒りの捌け口を求めたのである。独りぼっちとなった彼は両親との思い出にすがるように史学と弓道に没頭していった。そのどちらも極めたと言えるまでに。彼の異常ともいえる技量と知識はここに由縁がある。そして、いつしか長尾景虎も彼の憧れではなくなっていった。調べれば調べるほど幻滅していった。勝手に幻滅された本人からしたら知らんがなという感じであろうが、それでも彼にとっては大きなことだったのである。

 

 

 

 そんな彼が戦乱の世に飛ばされたのはこの出来事から大体二年が経過した十七歳の時であった。

 

 

 であるからして、彼に敵対する者は気を付けなくてはいけない。相手するのはただの十代の青年ではない。その頭脳に収められているのは、狂気に近い執念によって蓄えられたまさしく人類史そのもの。現在過去未来の英雄豪傑、名将知将が彼の味方であるのと同義だ。義の体現者とそれに裏切られた者。因縁の対決は、もう間もなくのところまで来ていた。己の過去を見せられたようなものである彼が何を思うのか。それはまだ誰も分からない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小田原からの客人が到着した。正確には小田原からと言うより甲斐からの客人なのだが。既に広間に通したと言われ、少し急ぎ足で向かう。

 

「お待たせした」

 

 室内に入り着座すれば若い男女が座っている。

 

「貴殿らが諏訪左近大輔頼重殿とその奥方、禰々御寮人で間違いないか」

 

「相違なし」

 

 線の細い神経質そうな男が答える。目の生気が薄く、諦観の面持ちであった。隣の禰々御寮人は顔が武田晴信や信繁に似ている。流石は実の姉妹。そっくりだ。

 

「遠路はるばるご苦労。これよりはこの河越で過ごしていただく。不自由のないようにと武田家から金子が送られてきている。後でお渡ししよう」

 

「…ありがたい」

 

「我が信条の一つに働かざる者食うべからずというのがある。という事で貴殿らには神官として働いてもらおう。この地には元々神社があったらしいのだが、長年の戦乱で燃えた。その後整備する者もおらず、最早何の社であったかもわからん。その為再建した。これを諏訪大社の分社とする。そこの神官を務めるように。良いな」

 

「まことですか!やりましたね、頼重様。これでここで子供を授かれましたら、異国の地ではありますが諏訪家の再興も叶います。本家は四郎様が継いでくださるようですし、諏訪家は安泰です!」

 

「……あぁ」

 

「ちょっと、頼重様!せっかくのご厚意です。逃す手はありませんよ!」

 

「まぁまぁ奥方殿。頼重殿は長旅でお疲れなのだろう。新居へお送りするように護衛を付けるので、早速行かれるがよい」

 

「左様ですか!ありがとうございます。さ、頼重様行きましょう」

 

「分かった」

 

 二人は案内役に付いて行った。あれで大丈夫なのだろうか。家庭内不和とか勘弁してほしい。調停の仕方なんぞ知らんぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで、貴様は何故ここにいるのだ。今は折角久方ぶりにこうして飲んでいたのに」

 

 煙草は体に毒でしかないので絶対にやらないが、酒はこの世界に来てちょくちょく飲んでいた。現代の酒を飲んだことがないのでここのものしか基準がない。その為上手いともマズイとも言えないのだが。それはさておき、ストレス解消のために一人で酒を呷っていたら、顔色の悪い諏訪頼重が駆け込んできた。

 

「何しに来た。用がないなら帰れ」 

 

「…匿ってくれ」

 

「何した。奥方を怒らせて殺されそうにでもなったか」

 

「禰々を殴りつけてしまった」

 

「…は?」

 

「ずっと閉じ込められ監視されていた反動から酒に溺れていた。そこに禰々が延々と諏訪家の再興云々の話をしたり、新しい居場所でしっかりやって行こうだのと繰り返し言い続けるので、つい苛立ち、それで…」

 

 私の目は多分ゴミを見る目になっていると思う。流石に腹に据えかねたというか、あまりの仕打ちに腹が立った。捨てきれない現代の倫理観と酔いによってやや鈍った思考が、私の手を動かした。酒を頼重の顔面目掛けぶっかける。

 

「ゲホッゲホッ!な、なにを」

 

「この大馬鹿者!こんなところで何をウジウジと愚痴っておるか!貴様がそもそも裏切らねばこうならなかった話であろう。加えて言えば、誰のおかげで貴様は今、生を長らえている!奥方殿は貴様ととっとと離縁して、晴信殿に貴様を殺させることも出来た。しかし、彼女はそうせずに何度も何度も平身低頭して晴信殿や家臣団・一門衆に頭を下げ続けたと言うぞ!貴様が一人監禁された屋敷で死ぬ勇気もなく腐っていた時にな。それがあったから貴様は今ここにいるのだろう。そして今もなお貴様を愛そうと努力し、尽くしてくれておるではないか。貴様、何たる果報者ぞ!本来足を向けて寝られぬはずだ。それをまさか殴りつけるなど…!言語道断にもほどがあろうっ!!」

 

 胸倉掴みながら顔面で怒鳴りつけている為か、頼重は完全に委縮している。

 

「今すべきはここで我相手にウダウダ愚痴をすることではないだろう。とっとと帰って奥方殿に土下座して来い!」

 

「わ、わかった。今すぐ帰る」

 

「何が悪かったのかしっかり頭冷やして帰り道に真剣に考えやがれ。後でキチンと貴様が謝ったかどうか確認に行くからな。こんなことが続くようなら武田家にも連絡せねばなるまい。貴様はあくまで人質としてはおまけだ。大切なのは晴信殿の実妹である貴様の奥方殿だけ。それをわきまえるがよろしい」

 

 コクコクと勢いよく首を縦に振る頼重の胸元から手を離し、とっとと出て行けとジェスチャーする。慌てて退出する頼重を横目に見ながら、酒瓶を覗く。ほとんど残っていない酒がぽたりと一滴垂れた。何だか腹が立ち、今夜は寝ることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 兼音が不貞寝することにした時、諏訪頼重は城下町を走っていた。兼音に思いっきり酒をぶっかけられ、彼の頭は大分冷静になってきた、その上、滅茶苦茶怒鳴られたその中の言葉は頼重を目覚めさせた。言われたことは全て正論。禰々がいなければ、自分は今ここにいない。誇りの為に死ぬことも出来なかった臆病者にはもったいない妻であることをようやく自覚するに至る。だいぶ酷いことを言ってしまった。早く戻らなければ、取り返しがつかないことになる気がした。そう思い一層その足を動かした。

 

 新築のやたら綺麗な境内に戻り、本殿の奥にある住まいへ急ぐ。その姿を探して走った。襖を開ければ、暗い部屋の中で、ポツンと一人座りながら呆然自失としている禰々の姿を見つける。

 

「あ、頼重様。お帰りなさいませ。今お布団を準備しますね」

 

 頼重の姿を確認すると、空虚な目で壊れた機械音声のように言う彼女の異常を察した頼重は渾身の土下座を敢行する。突然の奇行に禰々の死んだ魚のようになっていた目と声が蘇る。

 

「あ、あの、頼重様…?」

 

「すまなかったっ!!」

 

「え、え、あのお顔をお上げください」

 

「先ほど一条殿に痛罵されてやっと気が付けた!すべて俺が間違っていた。今生きていられるのもすべてお前の力によるものだった。にも拘らず、お前を殴ってしまった。許してくれ!どうか、この通りだ!これから諏訪家再興のために尽力する。ここでしっかりと勤めを果たそう。お前の言う事を聞こう。次同じことは絶対にしない。したら武田に言いつけても構わない!だからどうか見捨てないでくれっ!!」

 

 全力のお願いだった。頼重は断られたら死ぬつもりである。やっと想いが通じた禰々の目に涙があふれてきた。

 

「勿論でございます…!ここに来た時から添い遂げる覚悟です!」

 

「ゆ、許してくれるのか…?」

 

「はい。はい。私も頼重様のお気持ちを考えず、自分勝手に話し続けてしまいました。お許し下さい」

 

「ありがとう、ありがとう!」

 

 二人とも大粒の涙を流しながら抱き合っている。この夜、彼らは初めて、本当の意味で一つになれた。

 

 この顛末を後日神社を訪れた際に禰々からの報告で聞いた兼音は自分の犠牲にした酒で一組の夫婦の仲を調停できたのは良かったと思いつつも、犠牲になった結構な量の酒を思い出し、いまいち釈然としない気分になっていた。それをお構いなしに惚気話を続ける禰々に兼音はこの後二時間ほど拘束される羽目になった。

 

 かくして史実において若くして命を失う運命にあった夫婦は河越にて第二の人生をスタートさせる。翌年には第一子が誕生し、河越城の面々を大いに慌てさせるのだが、それはまた別の話。そして頼重が喧伝したのか何なのか、兼音に酒をぶっかけられると夫婦仲が改善するという良くわからない風説が流れることになる。幸か不幸か、この噂は数百年後にも伝わり、河越諏訪神社は縁結びと夫婦円満の神社として知られることとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 北武蔵の帰属不明勢力はあと大きく二つ。忍城の成田長泰。そして羽生城の広田直繁である。これをどうするべきかと案じていれば、成田から帰属を願う文が来た。成田家は関東管領を見限ったと見て間違いないだろう。その証となる使者がやって来た。

 

「貴殿が成田下総守長泰殿の名代か」

 

「成田大蔵大輔長親でござる。この度はこちらへ馳せ参じるのが遅れまして、申し訳ございません」

 

「それで、成田家はどういう方針にするのか。改めて口頭で聞きたい」

 

「は、これより成田家は北条家に臣従したいと思います。つきましては、小田原への取り成しをお願いしたく」

 

「了承した。後日追って沙汰を出す」

 

「ありがとうございます。それでは、拙者は今後ともこちらでよろしくお願い申し上げます」

 

「む?帰らぬのか?」

 

「おや、文はご覧になっておりませぬのか?」

 

 え、嘘だろと思いながら受け取った文をもう一度読み直す。延々と書き連ねられている言い訳にうんざりして最後の方が流し読みになっていた。それによれば、人質として使者の長親とその護衛の甲斐姫をお送りすると書かれてある。これは随分と面倒なことになった。この城は人質収容所ではないのだが。成田長親と言えば、忍城籠城戦において豊臣軍に対して退くことなく、小田原が落ちた後も籠り続けたことで知られる。奇策をもって石田三成を翻弄したとも言うし、変人であったらしいが馬鹿と天才は紙一重とも言うし…。評価に困るな。甲斐姫は秀吉の側室となるが、元々は武にも優れていたらしいし、こちらは姫武将として活用できるか。綱成と馬が合いそうだ。

 

「体のいい厄介払いですな。いい迷惑だ」

 

「ほぅ、厄介払いとな。貴殿ら、家中に居場所がないのか」

 

 成田家の実情に興味がわき、問いかける。

 

「長泰は当主の器じゃあない。家中は皆そう思っている。本人もそれに気付いている。そのせいで猜疑心が強く臆病でその癖功名心と名誉欲の強い人間になってしまった。元々拙者は嫌われておりましたが、今回の嘘のせいでいよいよもって嫌われたようですな。甲斐は姫武将嫌いの長泰によって武将としての道を閉ざされておりました。どうか使ってやって下され」

 

「嘘、嘘とな。それは、成田家が先の決戦前に不審に陣を引き払ったことと関連しておるのか」

 

「左様。我が父が死んだと虚報を伝えさせた」

 

「なぜ、そのようなことを?数は圧倒的に関東管領が勝っていたであろうに」

 

「負ける。天と地がそう言っていた。民を苦しめ、長期の陣を強いた怨嗟はこの世を満たしていた」

 

「それだけか?」

 

「他に何の要素が必要であろうか」

 

 これは、なかなかの逸材だ。天才型の人物なのだろう。そして先ほどの話を聞いた限り、成田長泰はそれを使いこなせるような人物ではなかったという事だろう。それ故に小田原征伐まで埋もれていたのか。その才能が輝く場が訪れなかったのだ。思わずほくそ笑む。すまないな、成田長泰。貴殿のところの才人は私が頂いた。

 

「それはさぞ生きづらかったであろう。ここは才ある者は取り立てられる。人質の件、承知したと伝えてくれ。あと、今から申し伝えることを一言一句違わず、成田長泰に伝えよ。良いな」

 

 伝達事項を聞いた長親は頭を下げ、甲斐姫を置いて一度帰っていった。その数週間後、再三にわたる降伏勧告・帰属要請を拒否し続けていた、羽生城の最後の抵抗勢力であった広田直繁の首が届けられた。私が伝えさせたのは単純なこと。

 

「成田家は兵を損なっていないと聞く。最後まで去就を明らかにしなかった成田家を北条は疑っている。忠義を示すなら、羽生城を献上せよ」

 

 である。これで北条は己の兵を損なわず、成田家の力を良い感じに削ぎつつ北武蔵の完全統治に成功した。ひとまずは任務完了だろう。後は、代官を派遣し、北条家の制度を導入させ、検地を行い民心を服属させる。城郭を整え、防衛網を構築する。生産が安定したら上州征伐だろう。軍神が来るまでの備えがようやく本格的に始められそうだ。来るなら来い。相手になってやる。

 

 

 

 

 

 

 

 これにて北条家の版図は伊豆・相模・武蔵・下総半国となり、文字通り関東の最大勢力へと躍り出た。兼音によって北武蔵や秩父などの未帰属地域も服属し、同時並行で氏邦が深大寺城周辺の接収を行っていた。多くの領主は帰属を選び、まとめて小田原へ一度赴くこととなった。

 

 ここで大きく発展した城下町や港湾、そして巨大な城郭を誇る小田原城を見たことで彼らの心の反抗心は完全に消滅する。圧倒的なまでの発展の差は逆らうという選択肢を消したのである。加えて、捕らえておいた上杉朝定がここで効果的に働いた。彼女が積極的に声明を発表し、それを見聞きした扇谷上杉家家臣団は北条家の庇護下で朝定を支えることで団結することとなる。

 

 この後、様々な手続きの関係で河越城の事務方は大忙しであった。同時に多くの資料が複製され送られてくる小田原城もその管理にてんやわんやとなる。凄まじいまでに増加した影響圏と仕事。氏康はこれに嬉しい悲鳴を上げることとなる。

 

 そして、鎌倉にいる足利晴氏のところより都の将軍に向けて使者が派遣される。内容は関東管領の交代に関して。陸路は危険なので堺まで海路で赴き、そこから陸路となる。多額の金銭も一緒に送られた。幕臣に渡し、円滑に取り次ぎと決裁を行ってもらうための心付けである。また公家へのロビー活動も行うためである。荒れ果てた京にうんざりした公家を風光明媚な小田原もしくは鎌倉に呼び寄せるのである。成功すれば色々と役に立つのだ。

 

 和平の仲介役や有識故実の伝授、都とのパイプ役など多岐にわたる。そこそこ金もかかるが十分なリターンがある。これは兼音による提案であり、当初は氏康は乗り気ではなかったものの、とにかく長尾景虎に正当性で負けるのを恐れる兼音は朝廷とのパイプを欲したのである。熱心な説得に氏康も折れて承認するに至る。ちなみに兼音の指示で、将来長尾景虎と組むことになる近衛家とは接点を持たず、近衛家と対立する一条家(本当の貴族の一条家)と当代の関白二条晴良が当主の二条家をメインに支援活動をすることになる。

 

 この時、兼音はまた今度でいいと思っていたが、前に彼が南蛮船を呼びたいという趣旨の発言をしていた事を思い出した氏康は、忠勤の報酬として堺にいる南蛮船に小田原までこられないか交渉するように命じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その氏康の下に兼音より「超重要。春から使えるであろう農業改善策」と書かれた書状が届く。氏康はたまたま小田原城にいた盛昌と共にその書状を開封する。

 

「どのような内容でしょうか。超重要とまで言うからにはそれなりの物でしょうけれど…」

 

「また何か思いついたのよ。もう何が来ても驚きはしないわ」

 

 ペらりと紙をめくれば、長文の文章と所々絵が描いてある。これを読み、両名は目から鱗が落ちるような気分になった。

 

 兼音が送り付けた改善案は簡単に言うならば「正条植え」のやり方である。この頃の、と言うよりは明治頃までは乱雑植えという植え方であった。正条植えとは、現代の水田と同じように苗を縦横そろえた位置に植えることである。これにより日光が等しく当たり、風通しも良くなる。加えて、苗を踏みつける危険性が減り、水田に入って病気の苗などを取り除くことが出来る。これで生産量は上げることができる。

 

 加えて、塩水選と言う良い種籾を選別する方法も書かれている。ただ塩は高いのでこちら側(つまり武士)がキチンと配給する事という旨の内容が書かれている。また、種籾をいきなり直植えするのではなく、一度発芽させて苗にする播種作業のやり方や、正条植えを楽に行うための六角形の木組みで、線を付ける「枠まわし」という道具のつくり方と使い方。同じく正条植えに使う除草の為の道具「回転式田草取り機」の図面もあった。兼音は城下の職人と協力してちまちま試行錯誤を繰り返し、朧げな記憶を掘り起こし、脳内の資料にあったこれらの道具を再現するに至る。また、田植え後は米ぬかを散布するなどの肥料面の話も書かれていた。その他にも細々と注意事項や細かいやり方などが書き連ねてあった。

 

 彼は別に農家でもなんでもないので、必死に知識を総動員した結果がこれである。うろ覚えではあったが各作業のメリットも何とかまとめて氏康のところに送ったのである。

 

 

 

 

 

 あまりの情報量に氏康と盛昌は眩暈がしたが、しかし書いてあるのはどれも効果のありそうなことである。植物の成長に水と日光がいるのは知っているし、蒸れると腐るのも知っている。虫と雑草が成長を阻害することも、光合成だの養分だのの理論は知らなくても理解はしていた。デメリットが見出せないものの、そこは慎重派の氏康。データをとるために、河越城の領地、つまり兼音の領地で試すことを命じる。これの結果次第で採用するか否かを決定することにした。

 

 これは兼音も予想済み。城下の職人を総動員して道具を作らせる。この時、前に彼が考案した踏み車は多くの農村に普及していた。その恩恵を受けた農民は、彼の新案に協力する。また、城の手の空いている者にやり方を教え、指導員として農村へ派遣した。

 

 これの結末がどうなるかは秋を待つ必要がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 北条家が武蔵を完全制圧し、改革に動き出す中、隣国甲斐の武田家は己の勢力拡大のために動いていた。その様を知るには、時を河越夜戦のすぐ後に戻さねばなるまい……




 この辺が私の農業知識の限界です。何かお知恵があれば拝借したく存じます。

 私は謙信ちゃん好きです。個人的には天と地と姫との謙信ちゃんの作画が大変好みです。別に貶めたい訳じゃないんです。誤解しないでください。ちゃんと見せ場はあります。謙信ちゃんファンの人も安心してね!

 どうでもいいんですが、私、Fateシリーズ好きなんですよね。それで、この世界線だとFGOとかに一条兼音と北条氏康は参戦出来そうだなぁと思いました。妄想です。
 もう一つどうでもいい話をすると、これが書き終わった遠い未来に恋姫無双の話とかも書いてみたいですね。私が書く三国志ものがどういう作風になるか、ここまでお読みいただいた皆さんならわかると思いますが(笑)。ともかく、今はこれに集中したいと思います。手を広げ過ぎても収拾つかなくなるので。

 この作品の主人公の兼音君って他のジャンルの作品でも一定数活躍できそう。異世界にクラス転移とかでも何とかなりそうですね。


 次回は武田家の話です。


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第37話 焦燥 甲

今回は武田家の話です。


 北条家が河越にて上杉軍と対峙している時。信州でも動きがあった。甲斐へ帰国した晴信は、そのまま兵を率いて信濃は諏訪・伊那地方に侵攻していた。諏訪大社上社の矢嶋満清・高遠城の高遠頼継・福与城の藤沢頼親は連合軍を組んで宮川橋にて武田軍と対峙するも、諏訪頼重の妹・諏訪四郎を担いだ武田軍に兵が相次いで離反。大敗北を喫した。

 

 その後、信繁は藤沢方の荒神山城を攻略。同時進行で晴信の本隊が高遠城を攻略。高遠頼継は落ち延びて行った。最後の攻勢で城から打って出た藤沢頼親は松島原で信繁に完膚なきまでに叩きのめされ、降伏する。主のいない福与城は一瞬で落城していった。諏訪湖畔に建つ有賀城の有賀昌武は戦わず降伏した。藤沢頼親の救援に来た小笠原長時は竜ケ崎城までやってくるも板垣信方に蹴散らされ撤退した。

 

 かくして、諏訪・伊那の両地方は武田家の支配下に入った。この時期、諏訪頼重とその妻で晴信の妹、禰々を小田原に送り出した。最初は禰々の猛烈な抗議にあうが、根気よく説得し最終的には禰々も渋々小田原行きを承諾した。決め手になったのは諏訪頼重も一緒に連れて行っていいというところであった。諏訪頼重に抵抗する意思も力もなく、唯々諾々と従わざるを得ない。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、晴信たちが東信濃の佐久郡に目を向け始めた頃、関東では「河越夜戦」が勃発していた。板垣・甘利らの諸将は「関東管領の地位も名誉も地に落ちたか」「まことに下克上の世が来たのう。御屋形様が諏訪家から兵権を奪ったのは正解であったか」と唸る佐久の陣中で、山本勘助は河越夜戦の経緯を詳細に報告していた。武田家は密かに忍びを放ち、河越城で起こるはずの決戦の行く末を見極めようとしていた。北条家側はそれに気付いていたが、合戦の経緯を見られるくらいならば問題ない、むしろ広めてくれた方が助かると思い黙殺していた。勝つ自信があるが故の判断である。

 

 この行く末は武田家家中も大いに注目するところであったが、家中の予測は半々だった。古くからの老将・宿将は北条家の勝利は難しいと考えていたが、新たな世代の将は勝利すると考えていた。急激な体制変化はこのような小さな分裂を密かに生み出しつつあった。信繁は小さく走る亀裂を案じ、革新派の旗頭として祭り上げられていることに苦悩しつつも思想的にはやはり北条家の勝利を確信していた。

 

 勘助は、「上杉憲政は気障な優男ですが、関東管領の名と権威を利用して諸将を動かす策謀にかけては一流。侮れません」とうなずく。

 

「かくて上杉憲政率いる八万の関東連合軍は、北条方の関東における最重要拠点・河越城を包囲しておりました。本来の城主・一条兼音は駿河に出兵しており、河越城を守る北条綱成は北条氏康の義妹。北条最強の武勇の持ち主と名高いとはいえ、わずか三千の守兵で八万の包囲陣を蹴散らすことはかないませんでした」

 

「ところが御屋形様が、北条と今川を和睦させた。駿河に釘付けになっていた北条氏康は、兵をとって返して河越城への救援に向かうことができた。そういうわけだな、勘助」

 

 と、宿老の板垣信方。ちなみに、真に関東全土を巻き込むことを考えたのは扇谷上杉家の家臣・松山城城主の上田朝直ではあるが、それは一般に流布されていないので大抵の人間の認識では、関東管領・上杉憲政が発起人であると捉えていた。

 

「ここで一つ連合軍側に異変が起きたのでございます。房総の雄・里見が反連合を掲げ挙兵。関宿城を目指し前進したのです。里見軍は北条家の傘下の千葉・真里谷両家と連合し、関宿を囲みました。それを聞きつけた古河公方は兵を退き、関宿城の救援に向かったのです。この軍勢を里見軍は撃破。古河公方の兵力は使い物にならなくなりました。されど、なおも河越城を囲む軍は大軍で、五万五千を擁しておりました」

 

「しかし氏康率いる北条の本軍とて、わずか八千。城兵合わせても一万二千。どうやってそれほどの大軍に勝ったのじゃ?」

 

 これは、猛将の甘利虎泰。

 

「北条氏康は戦場においては上杉憲政をはるかに上回る策士。援軍を率いて戦場に現れておきながら全く戦おうとせず、『多勢に無勢なので河越城に籠もる兵の命とひきかえに全面降伏する』と古河公方に土下座せんばかりの勢いで言い、それを拒否させ諸将の油断を誘ったのでござる。この時すでに古河公方は敗走しており、降伏要求を拒否するように言われたことに逆らう事は出来ませんでした」

 

「相変わらず小ずるい女狐じゃな」

 

「みな、本気にしたのか?」

 

「本気にした者が大半でございました。なにしろ北条氏康の臆病と戦嫌いは関東では有名でござる。とてもあの北条早雲の孫とは思えぬ。下克上の雄・北条家も三代目で堕落してただの自称名門貴族に成り下がったか、と言われておりましたゆえ。ただ、上杉憲政に仕える名将・長野業正などは、あの女は絶対に他人に頭を下げたりしない、といっさい取り合わなかったということでござる」

 

「勝ってもいないのに戦勝の酒宴に興じていた上杉憲政は完全に油断しきっておりました。この一瞬の隙を、北条氏康が突いたのでござる。自ら全軍を率いて夜襲をかけて、関東連合軍を完膚なきまでに殲滅したのでございます」

 

「乾坤一擲の勝負に出て、勝ったのか。あの臆病な氏康が。当人は初陣で敵に堂々と立ち向かい立派な刀傷を顔に負ったと吹聴しておれど、実は傷ひとつない真っ白い顔の持ち主だと物笑いの種になっておったが」

 

「甘利殿。その『臆病者』という評判こそ、この夜戦のために氏康自身がせっせと築き上げてきた風聞だとしたら?」

 

「ううむ…」

 

「城主・一条兼音も東国有数の忍び・加藤段蔵によって既に河越城に帰還済み。彼自ら弓を取り、扇谷上杉朝定を捕縛。扇谷上杉家の家宰・難波田憲重は北条綱成によって討ち取られ、山内上杉家の家老・倉賀野直行は多米元忠によって、同じく家老の本間近江守は氏康自らの手によって斬られたとのことです。さらに、上州の虎・長野業正は一条兼音の副将・花倉越前守兼成によって説得され撤退。上杉憲政は氏康によって左目を斬られました」

 

「あの氏康自ら斬ったのか…。しかも河越城の将は名将揃いという訳だな」

 

「は。花倉兼成は今まで無名の将でございましたが、かの今川軍を完膚なきまでに叩きのめし、駿河を血で染めた一条兼音の副将。ただの凡将ではございませんでした。華麗に長野軍の陣奥深くに潜り込み、長野業正を諭したと」

 

 信繁は最早ルンルンの気分である。尊敬する一条兼音の発言が真実となり、関東管領が敗れたのである。彼女の中の兼音に対する信頼はうなぎ上りである。

 

 横田高松が「女狐とはあいつのためにある言葉だな。北条氏康を見捨てておいたほうが武田にとってはよかったんじゃないか」と呟いた。

 

「いえ。横田殿。関東においても甲信においても、古き秩序は新しき力によって滅ぼされねばなりませぬ。われら武田家もこれまで上杉家だの古河公方だのの内輪揉めにさんざんつきあわされて時を浪費してきました。関東に直接関わっていれば上洛は遠のくばかり。厄介な関東の平定は、北条にやらせておいたほうがよいでしょう」

 

「そんなものかね。戦場でもの狂いになるだけが取り柄の俺にはわからんな」

 

「関東管領の息の根は、なんとしてもここで止めねばなりません。その面倒な上杉憲政を、北条が半ば片付けてくれました。上杉憲政の関東管領としての威光は、河越夜戦で敗れたことで凋落。もはやあのような関東連合の大軍勢を率いることはできますまい。扇谷上杉家は断絶。古河公方は北条に降伏し、関東公方の名分を北条に完全に乗っ取られました」

 

 ここで信繁は兼音の発言を思い出す。関東管領は信濃に来ると言っていた。そして口を挟んだ。

 

「汚名返上の為に信濃に来るという事ね」

 

「左様でございます。かくして関東にて追い詰められた上杉憲政は名誉挽回のために、信濃に押し寄せて参りました。すなわち、われらが今、侵略しているこの佐久に」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高松は疑問を抱きながら勘助に問いかける。

 

「佐久に? こんどは武田と戦うつもりか? そんな元気があるのか?」

 

「上杉憲政は、この敗戦によって武蔵から事実上撤退。今後は、北関東の上州を根拠地とするしかありませぬ。関東の諸将は武威になびきまする。河越夜戦で名をあげた北条がいる限り、上杉憲政の武蔵への再進出は困難。となれば、上州と碓氷峠を経て隣接している北信濃・佐久地方を押さえることで衰えた国力の回復を図り、関東管領の健在ぶりを喧伝する。あの男が生き延びるには、それしかございません」

 

「そうか。あの諏訪頼重が以前、佐久にあった自領を上杉憲政に譲り渡していたからな。そして俺たちは今、その佐久を猟犬のように荒らし回っている」

 

「はっ。とはいえ、あの大敗からまもない上杉憲政本人はよもや出陣できるまい、あと一年は動けまいとそれがしも甘く考えておりましたが、どうやら関東管領自らが佐久へ出兵してきたようですな。二度と姫武将などには負けぬと、河越での恨みを佐久で晴らすつもりらしゅうございます」

 

 地図を見ればわかるが、碓氷峠は上州との連絡口である。現代においては、群馬側から碓氷峠を越えると避暑地で有名な軽井沢がある。軽井沢から長野中央に向かうと佐久がある。「関東管領・上杉憲政率いる三千の軍は佐久衆に援軍を乞われ出陣、既にその碓氷峠を越えて武田と決戦に及ぼうとしている」と勘助は告げた。

 

「我らは佐久の要・志賀城を攻略する予定でしたが如何いかがなさりまするか、御屋形さま。撤退いたしますか、それとも」

 

勘助の問いに、それまでじっと押し黙っていた武田家当主・武田晴信がついに口を開いた。

 

「勘助。天の時は上杉憲政のもとを去った。関東を統治する能力も持たずいたずらに戦乱を長びかせてきた関東管領などという室町幕府の亡霊を、今こそ滅ぼすべき時だ。関東管領を討ち、その軍は徹底的に蹂躙し、殺し尽くす。上杉軍から捕虜は取るな。みな斬首せよ。二度と、甲斐信濃の地には関東の軍勢を踏み込ませぬ」

 

 板垣と甘利、二人の老将が「それはやりすぎでは?」「まるで越後の長尾為景じゃ」と異を唱えたが、晴信は「関東管領などもはや存在しない。ただの他国からの侵略者にすぎない。この機に乗じて、北条に叩きのめされて震えている関東の連中に『甲信に二度と手を出してはならない』と知らしめるのだ。関東管領・上杉憲政の首を獲れ」と目を血走らせて猛っていた。

 

 他国からの侵略者というのは完全にブーメランなのだが、その辺は気にしていない。信濃国の住民からすればお互いに侵略者であり、その侵略者同士が勝手に争っているという感覚である。あまり性格のよろしくない兼音がここにいれば爆笑してしまうだろうが、いないのでどうしようもない。彼がいた場合、虐殺はよろしくないという観念を持っているので何が何でも止めるだろう。晴信に逆らいまくってでも冷静にその不利益を説く。主が相手でも一歩も引かないので独断型の主とは相性が悪い。その為限界までキレずに冷静に話を聞き、自分を律することが出来る氏康は抜群のコンビであると言えた。しかも氏康もかなりの知力があり、兼音にカウンターできるので一方的に家臣の言う事を聞いている訳ではない。やはりベストコンビだった。

 

 

 それはともかく

 

「板垣。あたしは平明な世をもたらす。武田家は、血筋よりも能力を重んじる。神氏も関東管領もこの乱世を長びかせるための要因でしかない以上、最早不要だ。あたしは過去のしがらみをことごとく一掃し、身分に関わりなく有能な者に活躍の場を与え、立身させる。諏訪家も上杉家も同じだ」

 

「ですが。衰えたりとはいえ関東管領の威光は生半可なものではありませんぞ御屋形様。殺さずに幽閉し、名を奪い取ることを考えたほうが得策かと存じます。北条が、敗残の古河公方と扇谷上杉朝定を手に入れてその名を我が物にしたのと同様に」

 

「上杉憲政など要らぬ。あたしはもう、諏訪頼重で懲りている。あの時以上に厄介な火種を家中に抱えるつもりはない。しかも、上杉憲政は権謀術数に長けている上に、左目を斬られたと言え女好きな若く美しい貴公子という。姫武将たちを育成している武田家にとっては、そのような厄介者は有害無益だ」

 

「むしろ上杉憲政を婿に迎えれば、御屋形さまが関東管領に。敗残の今ならば、今は武田と雌雄を決する覚悟でいる上杉憲政もあるいは飛びつきましょう」

 

「……愚かなことを言うな板垣! あたしはまだ婿など取るつもりはないし、北条に叩きのめされた負け犬を夫にするなどありえん!」

 

「はっ! 申し訳ございませぬ。ですが、河越で追い詰められた上杉をさらに佐久でいたぶるのは、得策とは申せませぬ。窮鼠反ってということも」

 

「だから、反らせる前に討ち果たすだけだ」

 

 

 

 

 

晴信の隣に侍っていた副将の信繁は、姉上は、自分と似た文弱な姫武将である北条氏康が河越夜戦で名をあげ武辺の実力を見せつけたことに、焦りを感じているんだわ、と気付いた。ただ、東国の旧秩序の頂点に立つ関東管領家をここで断絶させられれば困難を極める信濃平定は数年を経ずして終わるという姉上の冷徹な読みもまた正しい、と思った。

 

 しかし、なにかが危うい。

 

 やはり海を持たず港を持てない姉上は焦られているのだ、北条があの広大な関東平野を丸ごと手に入れつつあるというのにご自分はいまだに信濃の山中を駆け回っているという現実に焦じれているのだ、そう思う

と不安を感じずにはいられなかった。兼音の言葉を思い出す。

 

「逸らず、焦らず、油断せず、奢らず、侮らず。結局全てこれなんでしょうね」

 

 この発言がスッと頭をよぎる。焦りは禁物だと彼は真剣な口調で言っていた。貰った書物でもそう書かれている。それを考えると、このまま座して見ている訳にもいかなかった。

 

「御屋形様。急ぎ奇襲をかければ勝てまする。決戦の地は小田井原(おたいはら)になりましょう。諏訪での合戦とは異なり、血生臭い戦いになりますぞ」

 

「覚悟の上だ勘助。板垣。甘利。横田。そして飯富。武田家が誇る四天王全員をこの決戦に注ぎ込む。必ず、上杉憲政の首を獲れ。やつはこの戦に敗れれば、二度と最前線へは出てこなくなるだろう。以後は強敵を前にすればヤドカリのように隠れる男になる。今回の戦が関東管領を討ち東国の旧秩序を永久に一掃する、最初で最後の好機だ」

 

北条氏康め。どうせならば上杉憲政の首を河越で獲っておけ。あたしが尻ぬぐいをさせられて関東管領殺しの汚名まで着せられるのは割に合わない、と晴信はいつになく苛立っていた。

 

 苛立っている晴信にあまり声を掛けたくないとは思いつつも、止められそうな人が他にいないので仕方なしに声をかける。好戦的な飯富虎昌は暴れられる、と楽しそうにいるし、他の四天王は黙っている。一門衆筆頭の穴山信君は胡散臭い笑みを浮かべながら事態の推移を見守っており、助けにはならない。信龍は寝てる。

 

「あの…姉上、あんまり焦るのは良くないわ。私たちは私たちのやり方で堅実に行きましょう?」 

 

「大丈夫よ、次郎ちゃん。焦ってなんかいないわ」

 

「そう、それなら…良いのですが…」

 

 やっと元に戻れた関係を壊したくない信繁は、関係の壊れることを恐れて、これ以上は踏み込めなかった。自分の心の弱さに忸怩たる思いを抱きながら信繁は唇を噛んだ。勝てるはずと言っていた兼音の言葉を信じ、無理矢理気持ちを前向きにすることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 進軍する上杉憲政は怒りに満ちていた。左目にはまだ包帯で覆われている。ズキズキ痛む傷は、彼のプライドを傷つけていた。

 

「武田晴信。北条氏康。今川義元。姫武将どもが、貴公子である僕に逆らうだなんて。許されることじゃないよ」

 

 幼少時より「上杉家の在原業平」と呼ばれ、関東一の美男子の誉れ高い上杉憲政にとって、戦に敗れたことよりも「姫武将に翻弄された」ことのほうがはるかに屈辱的だった。そんなこと考えてるからお前は負けるんだと兼音の嘲笑いそうな事を考えながらもなお進軍する。

 

 とりわけ、武田晴信だ。あれはいったい何者なのだ? 父親を甲斐から追放して国を奪った女だという。信濃の名族・諏訪家を滅ぼしたという。名門甲斐源氏の出身でありながら、野望のためなら日ノ本の秩序を破壊せんとする下克上の魂の持ち主らしい。この姫武将さえ倒せば、今川と北条は再び対立するはずだった。関東管領復権という志のためには、誅しなければならなかった。

 

「なんだ、あれは?」

 

 小田井原にさしかかったところで、上杉憲政は見た。

 

 自分を待ち構えていたかのように翻る諏訪大明神の旗印と、御諏訪太鼓を。

 

「なんだと? 待ち伏せされていた!?」

 

 僕の采配は姫武将にも及ばぬのか、九歳で関東管領を継いだこの選ばれた僕が、と憲政は血を吐くような屈辱の思いに震えていた。北条氏康も、武田晴信も、まるで同質だった。彼女たちは関東管領という偉大な役職が持つ威光にも、上杉家の高貴な血筋にも、まったくひるまない。むしろ、倒すべき敵とみなして打ちかかってくる。関東管領と関東公方。この重大な役職と美しい血筋が持つ「力」を手にするために、関東の諸将はこれまで果てしない戦を続けてきたはずだった。

 

 しかし、北条氏康と武田晴信は、違うらしい。関東管領などに、いささかの価値も、見ていないらしい。

そのような古きものが亡霊のように生き延びているからこそ、関東は平穏にならないのだと信じているらしい。

 

 これは、下克上だ。

 

 室町幕府が関東に残していった体制そのものを、北条と武田は潰してしまうつもりらしい。

 

「姫武将どもめ! 上杉の血も足利の世もなにもかも否定するか!」

 

 上杉憲政はこの時になって、ようやく自分が河越夜戦で敗れたほんとうの理由を悟った。

 

「野望だ。野望の質の違いだ。やつらを女と甘く見ていた僕の失敗だった。顔かたちは女でも、やつらの魂は長尾為景の如き野獣だ。礼節もしきたりも血筋もなにもかも無視して獣のように戦ってよいというのならば、古の権威を回復しようとする者よりも、秩序を破壊する無法者のほうが、圧倒的に強い」

 

 僕に、あの北信濃の雄・村上義清のような武勇さえあれば――。

 

 しかし、ないものを悔いても手に入るわけではなかった。憲政はまるで都の公家のような色白で細面の貴公子として生まれてきたのだ。関東最大の武家の名門・上杉家も、代を重ねれば貴族化して当然なのだ。よくよく考えれば、元々上杉家の祖先は都からやって来た藤原系の貴族なので、先祖返りとも言えるが。

 

「殿! 敵は武田軍の主力、その数は三千! わが軍と同数です!」

 

「先頭に、宿将・板垣信方と甘利虎泰! 左翼に横田備中、右翼に飯富兵部の赤備え! まことに当たらざる勢い!」

 

「我が軍は河越での疲労が抜けておらず、到底勝ち目はありませぬ!」

 

 容赦のない襲撃を、関東管領軍は受けた。降伏すら認めない、という徹底的な殲滅戦だった。先の越後守護代・長尾為景が数代前の関東管領を合戦で討ち果たした時ですら、これほどの容赦ない殺戮戦はやらなかったであろう。長尾為景は荒れ狂う巨凶ではあったが、関東管領というものをこの世から消し去ろうという野望は抱いていなかった。頼みの綱の長野業正はまたしても諫言を聞かない憲政に半分愛想を尽かし、勝手に謹慎してしまった。この行動で思いとどまって欲しいと思ったが、憲政にはまったく効果がなかった。

 

 

 

 

 武田晴信は他とは違うらしかった。あの、諏訪家を滅ぼしたのだ。関東管領など何程のものでもない、と本気で信じているに違いなかった。

 

「殿、お逃げください!」

 

「武田は、殿の首だけを狙っております!」

 

「扇谷上杉家、古河公方が絶えた今、関東管領の殿だけが関東における最後の名族!」

 

「なんとしても逃げ延びてくだされ!」

 

「時代は変わったのだな。時代は……」

 

 ここで死ねば関東管領・上杉家は僕の代で滅びる、と上杉憲政は恐怖に駆られながらまたしても遁走した。思えば、あの越後の長尾為景が時の関東管領を殺した時点で、上杉家の命運は尽きていたのだ。僕がやっていることは所詮は過ぎ去った時間を巻き戻そうとしているだけにすぎないのかもしれない。そう思いつつも憲政は諦めようとはしなかった。何もかもを置き捨てて、懸命に逃げた。

 

「しかし僕はまだ死なないよ。河越でも生き延びたんだ。武力はなくても、僕には関東管領上杉家の血筋と名と策略がある。武田晴信! 北条氏康! この借りは必ず返すよ!」

 

 捨て台詞を吐きながら上杉憲政は上野に逃げていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上杉軍は壊滅し、武田晴信は佐久を平定した。武田軍はこの戦いで討ち取った上杉軍の兵士の首を佐久の志賀城前に並べて、「関東管領の後詰めなど来ない」と守備兵たちを絶望させたともいう。すべては鬼の軍師・山本勘助が選んだ非情の策だったとも。ともあれ、晴信に抵抗を続けてきた佐久の諸将はついに降伏した。

 

 兼音は後にこれを聞き、効果的だが下策と評価を下した。武将の首だけでも問題ないはずなので後は交渉でどうにかするべきというのが彼の考える上策だった。彼の脳内にあるのはワラキワの串刺し公・ヴラド三世だった。彼はオスマン軍の前に彼らの同胞の首を串刺しにして並べ、絶望させた。結果、地元ではともかく他国では悪評が広まった。最後はワラキア貴族に裏切られる事となる。もっとも悪評はハンガリーによるプロパガンダの側面はあったが。

 

 ともかく、そういう悪評が流される要素はなるべく減らし、恭順する勢力を増やすことが大切だというのが彼の考えであった。特にヴラド三世は防戦だったが、攻勢をする武田家は特に悪評はマズいと思っている。戦わずして勝つを実行すべきというのが彼の信条である。一応戦わずに城は落としてはいるが、残虐な行いをするなら切り札にすべきであり、こんなところで使うべきではないと考えていた。それ故下策としたのである。

 

 

 

 閑話休題

 

 佐久衆のうち、捕らわれた者たちは武田家が運営する金山へと送られた。晴信は金山を熱心に開発していた。次々と新しい金山を開き、既存の金山でも新たな金脈を掘り進めていた。そのため、甲斐では金掘り人が不足していたのである。

 

「禰々は、父上が戦で捕らえた捕虜を奴隷として売りさばくことに心を痛めていた。だが、甲斐では米が穫れない。大幅に規模を拡大した金山を回転させるにも、働き手がいない。捕虜を送り込むしかない…」

 

 いずれ肥沃な平野と港を手に入れればこのような野蛮な真似はしなくてもすむようになる。だがまだ東海道も越後もはるかに遠い。勘助にも、金山における労働力不足を解決する秘策はなかった。賃上げを行っても、好きこのんで金山で働こうとする者が少ないのだ。むしろ彼らは足軽として合戦に参加しようとする。同じ命がけの仕事ならば、立身出世の可能性がある槍働きを選ぶのだろうか。貧国の甲斐が外征を繰り返して連戦を行う。しかし甲斐や諏訪の領民に対しては信虎時代とは桁違いの善政を敷く。信濃全域を治めて経済を潤わせるまでの期間に生じるこの矛盾は、佐久の犠牲によって埋めるしかなかった。

 

これしか国を保つ術が無かったのである。戦争ありきの国家経営。どことなく二次大戦のドイツを思わせる政策だった。

 

 勘助にできることは、可能な限り佐久の人々の恨みを自分に向けることだった。兼音に聞けば色々策を出してくれるし、何なら半自動化して少数で運営する方法や待遇の効果的な改善の方法、健康被害を減らす方法などを知っているが、勘助にそれを求めるのは酷であろう。未来知識はやはり圧倒的なアドバンテージなのである。

 

 次郎や板垣たちが

 

「佐久衆に対してだけ、あまりにもむごい」

 

「昨日までの敵とはいえ、すでに佐久も武田の一員となりましたぞ」

 

 と反対したが、晴信は

 

「諏訪衆は諏訪家のために戦ったのだ。だから許した。わが父には服従していたにもかかわらずあたしが甲斐の当主となるやいなや離反し、こともあろうに他国から関東管領を引き込んだ佐久衆は、諏訪衆のように寛大には扱わない。信濃の者たちが二度と関東管領などと結託しないよう、佐久衆には貧乏くじをひいてもらうしかない」

 

 と突っぱねた。突っぱねざるを得なかった。

 

「関東管領などもはや甲斐にも信濃にも、そして関東にも不要なものだと諸将や民に知らしめるためだ。あの、権威と血筋だけを振りかざして人々を戦にいざなう男は、まさしく『貧乏くじ』にすぎないのだと」

 

 板垣信方は、引き下がらなかった。

 

「たしかに理屈ではそうなりましょうが、御屋形様。それは利口な御屋形様と勘助の中でだけ通じる理屈でございます。素朴な民たちはもっと単純に考え、感じますぞ。諏訪と佐久とで依怙贔屓がある、諏訪の民は丁重に扱われているのに、自分たちは武田に虐げられている、と」

 

「もう言うな板垣。武田が降伏を許さず打ち殺したのは、関東管領軍の軍勢だけだ。武田領となった佐久衆の命は獲らない。佐久衆に押しつけた金山での負担も、領土を拡大するごとに減らしていく。このことを繰り返して言い伝え、理解させよ」

 

「焦ってはなりませぬぞ御屋形様。北条氏康が河越で大勝利を収めたことに、御屋形様は柄にもなく焦りを感じておられます。その焦りが、佐久でのやりように表れております。しかし武田家は三代続いた北条とは異なり、その国力の基盤は脆弱なのです」

 

「そうだな。あたしが、父を追放したからな。北条氏康は幸運だ。祖父と父に甘やかされ、盤石の政権をつつがなく引き継ぎ、広大な関東平野と海と港とを与えられた。無理をして人を狩り、金山など掘る必要もあるまい。おまけに家臣団は団結し優秀。雪斎などにも後れをとらぬ軍師まで擁している」

 

 実際は氏康が無能であれば一瞬で国は滅びるし、民の忠誠は離れるし、政権は終わるし、持っている領土的優位性も活かせない。努力しない暗愚な主であれば、家臣も付いて行かないし、兼音も裏切っていた。氏康とて悩み苦しみながら努力しているのである。民を生活を重んじ重圧に苦しみながらも懸命に頑張っている。加えて別に甘やかされたわけではない。愛されてはいたがそれは甘やかすとは違った。ただ、親の愛を受けられなかった晴信はその違いを知らなかった。

 

 と言う風に晴信の発言を河越城城主の氏康大好き人間を筆頭とする家臣団が聞いたら猛烈に反論したであろうが、幸か不幸か彼らはいない。

 

「御屋形様。人の和を見失ってはなりませぬぞ」

 

「わかっている板垣。氏康のことはただの愚痴だ。あたしはただ、上杉憲政という大魚を取り逃がしたことが悔しくてならなかったのだ。信濃統一事業が、あの男を逃がしたことで三年は遅れた気がする。それでつい激高したのだろう。あたしは冷静さを欠いていたかもしれない。許せ」

 

 実際は三年どころではなく、彼がこの後越後に逃げたことで、晴信の予想できない事態になる。

 

「……左様でございましたか。拙者も、余計なことを申してしまいました」

 

「佐久を平定したはずなのに、心が鬱々と塞がる。佐久という土地は手に入れたが、佐久の民の忠誠心を手に入れられそうにないからだろう。あたしは自分が思っているよりも完璧主義者なのかもしれない」

 

「十割の勝ちは戦にはございません。八割の勝ちをもって満足なされませ」

 

 晴信は、板垣が姿を消した後、本陣内で一人「勝てなかった」と歯がみしていた。関東管領・上杉憲政の首を、獲れなかった。あの男は河越に続いて佐久でも大敗しながら生き延びた。なにか、そういう才覚があるのかもしれない。あの男の取り柄は、血と美しい顔立ちだけではない。「負けても生き延びる」。これは大いなる才能だ、と思った。あれを取り逃がしたことが後々、巨大な災いになる。そんな予感に襲われながら、晴信は北信濃の雄・村上義清との対決に踏み切ろうとしていた。

 

 残る信濃の強敵は、二家。中信濃の小笠原長時。信濃守護職という名分を持っている。北信濃の村上義清。信濃最強の、圧倒的な武を誇る。諏訪を奪い南信濃を固めた武田家は、順序からいけば中信濃の小笠原長時と雌雄を決するべきだった。他の有力勢力の木曽家は武田に臣従の姿勢をとっている。

 

 地理的にも、また敵の強さを比べても、諏訪に近い小笠原をまず滅ぼすべきだった。それが兵法の常道と言えた。また、関東管領軍を撃ち破り殲滅した晴信が倒すべき次の敵は、名ばかりとなった「信濃守護」すなわち小笠原長時であるべきだった。村上義清は有能な武人ではあるが信濃における家格という点では小笠原長時に数段劣る。

 

 勘助の戦略も、諏訪を起点に徐々に信濃を北上していくというものだった。しかし関東管領軍を破って北信濃へ連なる佐久地方をも平定した晴信は、敢えて先に強敵・村上義清との戦いを選ぼうとしていた。急がなければ上杉憲政が村上との連合策動するかもしれず、それより前に叩かねばならなかった。佐久での強引な戦いぶりも、これを恐れてのことだった。

 

 それともうひとつ、理由はあった。勘助が見たところ、晴信と同年代の若き小笠原家当主・小笠原長時は、武勇という点では優れているが、信濃守護という高貴な役職を鼻に掛けているところがあり、武断主義の村上義清とは異なり日和見をする男だった。先に小笠原を攻めれば村上が小笠原に加勢するかもしれない。だが先に村上と戦えば、小笠原は勝敗が決するまで日和見を決め込むに違いなかった。

 

 そして事実、武田軍が対村上戦に着手しても、小笠原長時は動かなかったのだ。

 

 

 かくして武田家は強敵・村上義清との戦いに挑む事となる。戦国史を少しかじった人間は彼の名を知る者も多い。彼の名は後世にこの事実と共に伝えられる。「武田晴信に黒星を与えた男」として。長尾景虎より前の晴信の強敵として、知られる。

 

 そんな未来のことなど知る由も無い晴信は、村上義清との戦いに及ぼうとしていた。そして、焦りを隠せない姉の様子に不安を感じた信繁は河越城の兼音に助言を求めるべく、筆をとったのであった。

 

 

 

 

 

—————上田原の戦いまであと僅か。




図に書いた守屋山って東方projectが好きな人ならピンとくるんじゃないでしょうか。それはさておき、次回も武田の話です。


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第38話 月影宿せ 甲

遅くなってすみません。


【挿絵表示】


信濃の郡の色分けです。参考にどうぞ。

黄色…伊那郡
緑色…諏訪郡
橙色…佐久郡
青色…小県郡
桃色…筑摩郡
濃桃…埴科郡
水色…更級郡
黄緑…安曇郡
紫色…高井郡
茶色…水内郡


 先の小田井原の戦いと志賀城包囲戦の後、晴信の焦りを感じた信繁は河越に密かに速達の手紙を依頼した。当主の妹ともなれば逆らう訳にもいかない。早馬は秩父の方を通って河越に到着した。何やら凄い勢いでやって来た早馬に兼音はギョッとしたが、武蔵統一も終わり、少し手が空いていたので訝しみつつも手紙を読み始めた。

 

 

 

 突然このような形で文をお送りする無礼をお許しください。いかがお過ごしでしょうか。北条家におかれましては、河越にて大勝を得たと聞き及んでおります。本来でしたらその功名話を後学のためにお聞きし、戦勝をお祝い申し上げるところではありますが、火急の用故、ご容赦ください。陣中にて急ですが何卒お力添え下さる事を願います。

 

 信濃攻略も進み、残るは強敵は村上・小笠原の両者になりました。しかしながら、姉上は北条家の躍進に焦燥を感じておられるようでございます。家中にも、信濃は最早武田のものという緩んだ空気が蔓延しております。古い因習を否定し、改革をもたらすのは立派なことであると思っておりますが、いささか性急すぎるきらいがあるのです。村上義清はそのような状態で容易に勝ちを得られる相手ではないのは私も承知しています。以前お会いいたしました時に、村上義清に注意するようにと仰せられていたのを思い出し、この現状をどうにかする為の術を教えていただくため、こうして文をお送りしています。

 

 そちらからすれば他家のことでありますし、不躾なお願いとは重々承知しておりますが、このままでは何か不吉なことが起こる予感があるのです。浅学菲才の身ではありますが、どうかお知恵をお貸しいただけませんでしょうか。

 

 武田次郎信繁

 

 

 

 文面を見ながら兼音は面倒なことになったと唸っていた。しかし、約束は守らなくてはいけない。そう思って墨のついていない筆をクルクルと回す。彼の知識からこの展開と一致する史実の戦いが引っ張り出された。その名は「上田原の戦い」。多くの重臣を失う事となる武田家でも大きな戦だった。逸る姉を抑え、村上義清に勝てる策を用意しろとはまた無茶苦茶な。しかもその場にいないのに…。とため息をつきつつ、出来ることはすると言ってしまった手前致し方なく彼は紙を引っ張り出した。

 

ただ、珍しく文章を書く手は遅い。自分が援軍に行ければ話は別だろうがそれがかなわないこの状況では、いかんともしがたい部分があった。出来るだけのことはしたが…と渋い顔をしながら再び続きを書き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 村上左衛門尉義清は信濃埴科郡葛尾城の主である。南北朝時代には足利尊氏に与し、大いに権勢を振るった。義清の代になると、佐久郡の一部・小県郡・更科郡・埴科郡・高井郡・水内郡を支配し、守護の小笠原家を越え、信濃最大の勢力となっていた。

 

 千曲川沿いを上流から中流にかけて進むと、佐久から村上義清の本拠地・葛尾城まで一直線に街道が連なっている。佐久を平定した武田晴信は、この葛尾城攻略のために満を持して八千の兵を動員した。中信濃を支配する小笠原長時は、信濃の運命を決するこの合戦を前にしても、動かない。小笠原長時は同盟相手である村上義清に援軍を送るべきだったが、奇策を弄して合戦らしい合戦もせずに勝ちを収めてきた文弱の姫武将と侮っていた武田晴信が佐久で関東管領軍を容赦なく撃破する苛烈な戦いを繰り広げたことを警戒したのか、あるいは天性の日和見主義者なのか、居城の林城にヤドカリのように籠りきりだった。しかし、ここで小笠原長時はどう考えても動くべきであった。村上・小笠原の連合軍が成立すれば面倒だったが、各個撃破していけば勝率ははるかに高まる。それが分からないから小笠原長時は愚か者として後世に名を残すのだが。

 

 ともかく、ここまでは勘助と晴信の思惑通りに事態が進行していた。小笠原長時の出陣を止めると同時に、孤立した村上義清の本拠・葛尾城を晴信率いる本隊と次郎信繁率いる別働隊とが南北から挟撃する、そういう目算だった。しかし、勘助得意の挟撃策は破れた。村上義清には葛尾城に籠城するつもりはいささかもなく、城を出て千曲川北岸の岩鼻へと布陣したのだ。兵力は五千。その中には、特に何度も義清が使者を送り援軍を依頼した高梨政頼、須田満国、島津忠直、井上清政、小田切清定などの姿もあった。

 

 対する武田軍は、千曲川を挟み南岸の上田原に陣を構えた。この上田原のあたりは、遮るもののない広大な平野である。伏兵・奇兵の類は配置できない。岩鼻に布陣した村上軍の背後へ別働隊を回り込ませることも地図の上では不可能ではないが、実際には山地の長く厳しい間道を越えねばならず、あまりにも時間と労力がかかりすぎる。それでは別働隊の奇襲を事前に気取られるし、それ以前に村上義清に決戦を挑むに及んで到着が間に合わない。このため、遂に勘助は武田軍を二手に割ることができなかった。

 

 平野は騎兵にとって絶好の戦場であったが、千曲川がネックとなる。川を挟んだ戦闘だと直近では第一次国府台合戦がそうだが、あれは足利義明がお世辞にも名将とは言えなかったため、みすみす北条軍を渡河させてしまった。あまり参考にはならない。村上義清は足利義明とは違い、名将である。

 

 村上義清は、奇策を弄しない。兵数が不利であろうとも、堂々の正面衝突で雌雄を決するつもりだった。別働隊を動かして敵城を挟撃するという勘助得意の奇策が、村上義清の無策の前に封じられたという形になる。晴信は信濃統一を焦っていた。「あちらが無策ならば、正攻法で戦うのみ」と決める。勘助も、晴信の意を汲んで新たな陣立てを考えた。

 

 

 

 

 

 

 

 信繁は今か今かと返事の来るのを待っていた。早くしなければ、姉は攻撃を命じてしまう。その前に何とかしなくてはいけなかった。最後の軍議に間に合えばいいけれど。そう思いながら彼女は自分の陣の天幕の中をグルグルと徘徊していた。そこへ早馬が戻ってくる。思わずグッと拳を握り俗に言うガッツポーズをした信繁は慌てて返事の書状を受け取る。開いた彼女の目に飛び込んできたのは圧倒的な情報量であった。その量に眩暈がしたが、ここまでしてくれたのだと感動もしていた。感謝の念を深く抱きつつ、目を通し始めるのだった。

 

 そこに記されているのは信濃攻略の言わば指南書。細かい勢力図や戦略の詳細まで書かれていた。籠城戦をされた場合の兵糧の必要数まで書いてある辺り、書いた人物がかなり完璧なものを作り上げたことがわかる。加えて最近はすっかり関東の風土に慣れているが、段蔵は元々戸隠に住んでいた。信濃は庭のようなものである。その段蔵から聞いた信濃の実情から導き出された結論の集合体。それがこの返信だった。

 

 晴信の説得方法や上田原での会戦の注意点なども記されている。ただ、これらに関してはうまく行かない可能性大と書かれていた。聡明な人物ほど自らの過ちを認め難いからである。また、戦場は思い描いた通りには進まないのである。また上田原の戦いの詳しい経過が不明なところも兼音の書面の内容を抽象的にさせた。やはり安楽椅子探偵ならぬ安楽椅子軍師は無理があるのである。敗北しても彼に責任を求めるのは酷だろう。

 

 これを承知しつつも、元々無茶苦茶な要求だったのだからここまでしてくれたことに感謝しなくては、と信繁は思った。軍議の始まるタイムリミットギリギリに読み終わった信繁は脳内で膨大な量の情報を整理していた。そして自分の頬をパチリと叩き決意を決めて軍議に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 村上義清率いる五千の敵軍と川を隔てて対峙した晴信は、重臣たちを本陣に召集して、「時は来た」と告げる。

 

「信濃最強の村上義清を破れば、小笠原などは戦わずして武田に降る。これが信濃統一のための最後の合戦となる。勝てば、宿老の板垣信方と甘利虎泰にはそれぞれ信濃の一城を知行地として与える。手柄を立てたそれぞれの将にも、知行を約束しよう。信濃全域を手に入れれば武田の国力は増す。越後にも東海道にも進出することができる。海に出られるぞ。甲斐は、一変する」

 

 板垣と甘利。二人の老将は、

 

「戦に勝つ前に大盤振る舞いをするのは不吉でございます。論功行賞は、勝ち戦の後に行うもの」

 

「城など要らぬ。儂はただ甲斐に武田晴信あり、と天下に示すことができればそれでいい。駿河の大殿、晴信さまのご活躍をなにとぞご覧あれ! うおおおおん!」

 

 と落ち着き払い、あるいは豪快に騒ぎ、いつもと変わらない。佐久では国人・豪族・領民たちの執拗な抵抗に遭って手こずったが、晴信は家督を継いで以来ただの一度の負け戦も経験していない。晴信の留守中に反旗を翻した者たちも、晴信自身が出兵すればことごとく敗れ去った。

 

 だが、歴史は証明している。勝っている時が一番危険であると。勝利の余韻に酔った将が容易く敗れるのはこれまでも、これからもよくあることなのである。しかも、老獪な武将の常勝とこの武田家の常勝の質は大きく異なる。武田家は、特に晴信は敗戦を知らない。加えて、経験が圧倒的に足りない。これらの要素は聡明な晴信の目を確実に曇らせていた。

 

 兼音も敗戦は知らないのだが、彼はその狂気じみた知識がある。人類史に刻まれた戦いの敗者のことも当然熟知している。何故負けたのか。勝てる方法は無かったのか。実体験に劣らないだけの知識がある為決して油断はしなかった。だが、晴信はそんな知識はない。

 

「御屋形様。こたびの戦、正面から衝突して押し切れればよろしいのですが、武田軍は連戦続きで疲弊しております。数で圧倒しているとはいえ村上軍を侮ってはなりませんぞ」

 

「板垣は心配性だな。焦ってはいない。今更に村上義清個人の武勇で覆せるような戦力差ではなかろう。なにも問題はない」

 

「軍師どのは如何お考えか?」

 

 勘助が「左様ですな」と顔を上げた。

 

「別働隊を出して挟撃するが最上の策なれど、己の武を頼む村上義清は籠城を選びませんでした。しかも意外にも村上陣営の諜報網は強うござる。各地へ物見に出した兵たちが戻ってきませぬ」

 

「おおかた、戸隠の忍びと結んだのであろうな」

 

「こちらも多くの忍びを抱える真田の者どもを雇えればよかったのですが、まだ上州を去る決意ができぬ模様。すでに関東管領の権威は地に落ち、上州も滅びを待つばかりなのですが」

 

「真田は、御屋形さまにご不信があるのかもしれぬな」

 

「いえ。真田はかつて、信虎さまと村上義清、諏訪家の連合軍に城を奪われておりますれば、武田と村上が再び同盟する可能性が消えるまでは信濃には戻らぬが得策と用心深く考えているようです。真田幸隆はなかなかの狸」

 

「今の真田は本領を失い上州の食客になっておる身だ。ここで上州を飛びだしたはいいが信濃の本領にも戻れなかったとあらば真田の一族は行き場を失い四分五裂する。慎重にもなろう。こたびの戦いで両軍が壮絶な死闘を繰り広げれば、真田は武田方につくであろうか? 勘助」

 

「板垣殿、それは間違いありますまい。武田と村上の関係が破綻すれば、旧領の真田の庄を回復する絶好の機会となりましょうからな」

 

「真田を帰順させたのちに村上との決戦に及ぶべきだと拙者は考えておったが、そういうことであれば村上とこの場で戦うしかあるまいな」

 

 ここで不幸なことが何かあるとするならば、勘助は戸隠忍びの実力を知らない。現在は最強だった加藤段蔵とその一味がいないものの、それでも侮っていい相手ではなかった。風魔には劣るが、真田忍びなしに挑むにはいささか戸隠忍びは強すぎる。

 

 更に、興国寺城の戦いに参加していない将がほとんどの武田軍の将はかの戦の北条家の勝因が情報戦における勝利であることを未だ気付けないでいた。情報戦と言う概念が明確に認識され始めるのは20世紀の終わりごろに米国によってである。この数世紀前に情報戦を展開している北条家の戦略に理解が及ばないのはある意味仕方の