流石にもう死に戻りたくない (Tena)
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プロローグ(1〜4)

習作として王道ファンタジーモノを書きました。
おそらく3話完結です。続きが出来次第投稿します。
対戦よろしくお願いします。


1.

 

 

 俺には前世の記憶がある。

 前世というより、未来かもしれないが。

 

 なんてことない、平凡な人生であった。

 田舎の小さな村で生まれ、出稼ぎに王都に出て、腕に自信があったから何やかんや流される内に兵士になっていて、城壁からの監視や城下町の警邏(けいら)といった単純な仕事をしながら安定した収入を得て、お袋に仕送りもしていたし、貯蓄も順調に貯まっていた。

 

 が、まぁ時代が悪かった。

 俺が30を迎えてしばらく経った頃、これまで一世紀に渡って保たれてきた平和が崩壊した。

 

 魔王が復活したのだ。

 

 予想されていたことであったし、そのために国は国力を蓄えていた。しかし、だからといって敵さんが攻め込むのをやめてくれるかと言えば、そんなわけがない。

 俺たち一般兵の役目は、勇者や聖女によって魔王が再度討ち滅ぼされるまで、無限に湧き出るかのようになだれ込んでくる魔物たちを国に入れてしまわないよう討伐し、たまにある大規模作戦において、勇者たちの引き立て役、もとい雑兵として仕事をするくらいのものだ。

 主人公は激戦を乗り越え、時に生死の境目を彷徨いながらも成長するとして、城下町の兵士Bには覚醒イベントはおろか活躍シーンさえ用意されていないものである。

 

 戦争が始まってから2年ほどが経った頃に大規模作戦で聖女サマが戦死して、奇跡じみた回復能力を失った我らが王国はジリ貧に。

 勇者という火力が存在したって、補給や回復が間に合わなければそもそも火力を活かす場面まで辿り着けないのだ。

 段々と苛烈さを増す敵の猛攻、……いや、単に俺達の戦力が削がれていただけなのだろうが、負け戦の増えたあるとき、ついに俺にもお鉢が回ってきた。

 

 同僚も半分くらい死んでいたし、なんなら戦線が後退したことで故郷は敵に滅ぼされた。

 失うものは自分の命くらいなもので、もはや何のためにそれを保たせているのか分からなかったが、痛いのも苦しいのもごめんなので頑張っていた。

 最期は油断していた大将首に忍び寄り、突貫して見事討ち取り、しかし兵士Bにすぎない俺では、その後の雑兵による数の暴力を切り抜けることができなかった。

 まあ、モブにしては割と華々しい死に方じゃないだろうか。雑魚達に恨みを込めるようにめった刺しにされてクソ痛かったけど。クソ痛かったけど!! あいつらマジでぶっ殺す。勇者サマが。

 

 その後の戦いは知らないが、もしかすれば勇者が単騎で魔王を討ち取ったのかもしれないし、王国から新たな人材が発掘されたかもしれないし、順当に、敵との物量差に負けてサラッと滅んだかもしれない。

 俺には計略は分からないが、まあ何が転換点だったかと問われれば、あの聖女を喪った戦いだろう。生きていれば全回復できる人間サイドに、たぶん敵さんもビビってたし。ゾンビ兵とかどっちが魔物かわからんなこれ。

 勇者サマは大怪我をしながらなんだかんだ勝って生き残るタイプだったから、奇跡じみた回復と相性も良かったし。

 

 そうこうして、死に際に後悔じみた振り返りをしていた。

 信心深い方ではなかったから、死んだらどこへ行くかなんて考えたこともなかったし、やはりその時も、頭にあったのは全身を刺す痛みへの苦悶くらいのものだった。

 

 ──痛ぇ、痛ぇよ、お袋。たぶん、もうすぐそっち行くわ。

 

 唐突にふっと体中から力が抜けて、思考もピタリと止まり、あらゆる感覚器官が使えなくなった。

 

 ここまでが、俺の持つ前世の記憶である。

 

 

 

 

*****

 

2.

 

 

 気が付いたときには、赤子になっていた。

 景色がよく見えるようになって理解したのは、幼少の頃に戻っているらしいということ。お袋がそこにいて、親父が元気に笑っていて、ただそれだけで、嬉しいのか悲しいのか分からないほど心が震えた。

 泣いてしまったけれど、赤子が泣くのはあたり前のことだからモーマンタイだろう。

 

 理由も何もわからないけれど、神様のイタズラか何か、死に際に大将首を取ったご褒美か、もう一度人生をやり直せるのだ。

 すぐに飲み込めるようなものでもなかったが、幸い赤子として時間は余っていたから、ハイハイをする頃にはすっかり現状を受け入れていた。

 ……この年になってお袋のおっぱいを吸わなければいけないのは少しキツかったが、まあ、人間なにごとも慣れるものだと勉強になった。

 

 生活が落ち着いて次に考えたことは、これから数十年後に待ち構えている魔王の復活をどうするかということであった。復活というより、侵攻か。

 ひとまずは、前と同じ流れにはしたくない。俺みたいな一般人に大きな流れを変えられるとは思わないが、それでも一つくらい変えられるのではないかと思う。

 

 一つ。つまり、聖女を死なせないことだ。

 

 俺の持つアドバンテージは、未来の知識と、戦争を数年間生き延びた経験。

 前世のような一兵卒でなく、今度は聖女のできるだけ側で戦えるようになりたい。彼女が死んだあの戦いを乗り切ることさえできれば、きっと戦争にも勝てるだろう。

 

 前世よりも少しだけ優秀な子供として少年時代を過ごし、幼馴染と野山を駆け回ったり川遊びをしたりしながら少しずつ体を鍛え、14歳で成人すると同時に王都へ向かった。

 ここで、今度は兵士にはならず、使い捨ての傭兵として戦果を稼いだ。聖女に最も近い戦力である聖騎士団に入るには、通常の経歴を積むよりこちらの方が手っ取り早いのだ。

 

 4年ほど経ち、異名を付けられたり顔馴染みのクソ傭兵共と酒を酌み交わすようになったりした頃、次の聖女も物心つく年齢まで育ち、来たるべき魔王復活に向け教会直属の騎士団──「聖騎士団」編成が囁かれるようになる。

 聖女は世襲制だ。かつて教会が保護した聖女がまるでお姫様のように育てられ、子供を作り、魔王のいない時代では教皇に次ぐ立場に据えられる。かつてとあるクソ聖女のせいで教会の権威が失墜しかけたことから、教育には細心の注意を払っているらしい。

 

 傭兵という荒くれ者でありながら教会へ足繁く通っていた俺は、シスターや牧師ともそれなりに仲が良い。前世の経験を活かしたことで弱冠の身でありながらそれなりの実力を携えているため、それを知っているシスターから騎士団の募集に応募してみてはどうかと声をかけられた。

 牧師からも推薦状を出してもらうことができ、選抜試験に一般出身でありながら参加。傭兵など、他の一般出身のやつは片手で数えるほどしかいなかった。

 若い体に、蓄えた経験と知識。あわよくば主席をと考えていたが、結局非才の身では越えられない壁が存在するらしく、合格ギリギリで滑り込むこととなった。もしかすると、推薦してくれた牧師の顔を立てたのかもしれない。

 が、合格は合格だ。いつの間にか息子が聖騎士団に入っているとお袋が手紙で驚いている様子に笑いながら、少しでも聖女の力になるべく鍛えていくことにした。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 拝啓、お袋、親父。

 

 以前手紙を送ってから半年ほどが経ちましたが、変わらずお元気でしょうか。

 俺はダメそうです。

 

 手紙の冒頭から弱音をこぼしてしまって申し訳ありません。ですが、聖騎士団の奴ら、鍛える量が頭オカシイです。あとは教官に選ばれたとかいう宮廷騎士団の副団長が、傭兵出身だからという理由だけで俺ともうひとりのやつにだけ厳しく当たってきます。というか特に俺への風当たりが強いです。

 聖騎士団では魔法も使うのですが、俺は試験にギリギリで合格するぐらい魔法が下手なので、それに目を付けられてあのクソ教官……失礼、おクソ教官にいびられています。

 聖騎士団の奴らは気の良い奴が多いので何とかなっているのですが、ただ一つ、信仰心が普通とは比較にならないくらい強く、以前どのように魔法を扱えばいいか助言を請うてみたところ、不思議そうな顔をして「神への感謝と畏怖の気持ちさえあれば自然とできるだろう?」とありがたい教示をくださいました。本当に理解ができませんありがとうございます。

 

 最近の心の癒やしは、たまの聖女様との会話です。

 聖女さまはまだ6歳でいらっしゃいますが、その無邪気な笑顔と純朴さに触れると、理不尽な教官への怒りと狂信者な同僚への辟易が緩和されます。

 と言っても、毎日聖女様と仲良く語らっているわけではありません。俺が聖騎士団の一員であるために一般市民よりは近くにいることができているだけで、実際には身分も、物理的な距離もかなりなものがあります。

 

 もっと近くで聖女様を助けられるよう、この地獄のような環境の中ですが、己を磨いていきたいと思います。

 年末年始には休みをいただけると思うので一度帰ります。また、申請すれば少しの休暇も作れるので、火急のしらせがあればご連絡ください。

 

 かしこ。

 

 

 追伸

 この間の手紙でディオネが不機嫌って聞いたけど、帰省するときにどんな土産を買っていけばいいか教えてくれると助かる。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

「お兄様!!」

 

 訓練という名の虐めを乗り越え楽しみにしていた警護任務の場へ来れば、聖女様、もといイリスが笑みを浮かべて駆け寄ってきた。

 教会の上層部は年寄りばかりだし、他の聖騎士も壮年の人物が多いので、比較的年齢の近い俺にはよく懐いてくれている。と言っても、俺は俺で聖騎士の下っ端なわけで、駆け寄られても抱きしめ返すような無礼ははたらけないのだが。

 

 お兄様という呼び名も当然俺が指定したわけではなく、兄弟姉妹が欲しかったというイリスの要望を叶えたものである。

 聖女が世襲制なのは、魔力が引き継がれるからだ。その折角の魔力を分散させてしまうことが無いよう子供は一人しか作ってはいけないとされている。だから、イリスは一人っ子であることが決まっており、それ故に俺に兄の姿を求めたのだ。

 あのクソ教官なんかは「聖女様に呼び方を強要しているのではないか」と疑いの目を向けてきたが、そこはイリスが庇ってくれた。流石聖女様だぜ!! もっとあのクソアマに言ってやってください!!

 

 時折、もしかしたらあの前世のことは夢だったのではないかと思うことがある。というか正直、夢でもいいのだ。夢だろうとなんだろうと魔王が復活するのは分かっているし、この少女をみすみす死なせるわけにはいかない。

 そんな風に、自分の指針を見つめ直していた頃に問われた。

 

「お兄様は、どうしてせーきしになろうと思われたのですか?」

 

 もしかしたら、聡明な彼女は俺の信仰心の薄さに気付いたのかもしれない。

 神を敬ってもいないのに、聖騎士になぜ、と。

 

「──聖女様を、救いたいのです」

 

 自然と答えていた。

 

 あの時、聖女様が死んだ戦いで。

 作戦に兵士として参加していた俺は、当然普段よりも近くで聖女を見た。

 

 それは、思っていたよりもずっと美しく、戦場にいてなお凛として咲く花のようで、その体に人類の命運を背負っているのだと思えば、小柄な少女なのに自分よりずっと大きく見えた。

 この人なら、俺達を救える。この人となら、俺達は勝てる。そう自然に思っていたら、結果、俺達よりもずっと先に、聖女様は救われない最期を迎えた。

 

 一万人を救える人間がいたとして、その人自身が救われるとは限らないのだ。

 

 だから、きっと俺は、「イリス」のためでなく、「あの時救えなかった聖女様」のためにここにいる。

 イリスはキョトンとした顔を浮かべたあと、微笑むようにありがとうと言った。

 

「……でも、自分のことも大切にしてくださいね」

 

 もちろん。

 道半ばで死んでしまっては、そもそも救うための瞬間まで辿り着けないのだから。

 

 

 

 


 

 

 

 

「……ついに、復活したのですね」

「えぇ。ですが、同時に勇者も見出されました。かの者によって、人類は救われることとなりましょう」

 

 美しく育った聖女様と、身を豚のように肥えさせた教皇が会話しているのを横で聞く。

 二人組で持ち回り制の警護任務中だ。出自による親近感から、俺とペアを組む聖騎士はもうひとりの傭兵出身の奴であることが多い。

 しかし、そうか。勇者サマはこのタイミングで現れるのか。前世ではいつの間にか戦線を引っ張っていたから、もっと前からいたのかと思っていた。

 

「──神の剣たちよ。聖戦は近いです。いついかなる時も戦えるよう備えなさい」

 

 魔王復活の報が人々の間を駆け抜けた頃、聖女様が聖騎士を集めて演説した。

 もう、イリスだなんて風に呼べるような幼さは残っていない。使命に従う覚悟を決めた、一人の統率者としての威厳を溢れさせている。

 

「アタシ達が神の剣なんて、笑えないか?」

 

 違いない。

 元傭兵の聖騎士と冗談を言い合って笑っていると、クソ教官に見つかった。

 罰走20周。解せぬ。悪態をつきながら走っていると、更に5周増やされた。アイツいつか絶対泣かす。

 

「……あなたを、頼りにしています」

 

 とある地方へ、味方の治療のために聖女様と一緒に向かっている途中、二人きりの時にポツリと零してくれた。

 言葉を交わす時間などほとんど取れていなかったから、久々の会話だった。もはや「お兄様」とは呼んでくれないことに一抹の寂しさを感じるが、ちゃんと見てくれているのだということに感激した。

 

 そうだ。神の剣なんかではない。俺は、キミの剣だ。

 

 そう同僚に伝えたら、概ね同意してくれた上でニヤニヤとした顔をされた。

 

「なんだ、ほの字か?」

「不遜すぎるわアホ。俺は、聖女様の役に立てればそれでいい」

 

 魔法だって、いるのかいないのか分からない神よりも、彼女のことを想って使ったら上手くいったのだ。

 同じ狂信者なら、見えない神よりも、今そこにいる彼女に狂うことを選ぶ。

 

「何でもいいけど、後悔はしないようにな」

 

 当たり前だ。

 

 聖女様の訃報は衝撃的だったから、おおよそどんな状況で亡くなったのかは覚えている。

 大規模作戦で勝利の熱に浮かれていた頃、野外病院に偽装された敵の隠れ家に連れ込まれ、周囲を大量の魔物に囲まれて聖女様は殺された。いくつもの野外病院を周っていた彼女は、それが偽装されたものであることに気付けなかったのだ。

 殺された上で、彼女の死体は陵辱の限りを尽くされて、ご丁寧にも教会に届けられたらしい。俺はただの兵士だったから直接見てはいないが、目も当てられない惨状だったと聞いている。士気の低下を狙ったのなら、これ以上ない成功と言っていいのだろう。

 

 ──ふざけんな。全員、ぶっ殺す。

 

 どのタイミング、どこの野外病院なのかは知らないが、聖女様の髪の毛一本にすら触れさせずにぶっ殺してやる。

 国のためとか、戦争に勝つためとか、そんなこと以前に。あの、無垢で健気な、一人の少女を、その尊厳を、誰にも貶めさせやしない。

 もしも、前世の記憶が夢でなく、何のために死に戻ったのかと問われれば、きっと、俺は彼女を救うために戻ってきたのだ。

 

 

 

 

……後悔って、アタシが言えたことじゃあないか

 

 

 

 


 

 

 

 

「ねえ、アンタがイリスの言ってた人?」

 

 誰だコイツ。変なやつに絡まれた。

 少年……だと思う。大規模作戦が始まり、俺達聖騎士団も前線へ駐在していると、声変わり前のハスキーな喋り声で話しかけられた。……なんか見覚えがあるな。

 というか、気安く聖女様のこと名前で呼び捨てにすんじゃねえよ。金玉もぎ取るぞ。

 

「こ、コイツって言われた……。一応、勇者なんだけど?」

 

 ああ、コイツが勇者か。前世では数回しか見なかったから、顔が記憶に残ってなかった。まあウチの聖女様が綺麗すぎるからね。彼女は一目でも見れば記憶に刻み込まれるが、他の有象無象に関してはその限りでない。というかむしろ、俺は他人の顔を覚えるのが苦手だ。

 

「ふんふん、べた惚れだね〜。こりゃ面白そうだ」

 

 なんか勘違いしているらしいが、めんどくさいので無視する。

 別に、勇者は俺が死んだ時も生き残っていたんだ。放置でいいはず。というか、余計な干渉をして前世と流れが変わるほうが怖い。

 

「に、ニケ!? 何をしているのですか!?」

「あ、イリスぅ。こないだ言ってた人、どんな人かなって見に来てたんだ。面白いね、ボク気に入っちゃったよ」

「な、ななな、ななぁっ!?」

 

 通りがかった聖女様が、俺と勇者……ニケ? の間に割り込んでくる。

 顔を真っ赤にして「あなたという人は!」ってニケにぷんすこ怒っているが、そんな姿も愛らしい。

 ……しかし、聖女様のこんな反応、初めて見るな。

 

 もしかして、もしかする?

 

 いや、まあ、勇者と聖女って、そりゃお似合いってレベルじゃないし、前世だってほぼセットみたいに思ってたけど。

 年だって確か近いはずだし、むしろ聖女様の隣に他に誰が立てるんですかって話だけど。

 けど、なんだ、このモヤモヤ。なんつーか、上手く言えんが、胸が苦しい。

 お兄様と慕ってくれていた妹分が取られた寂しさか、10以上年が離れているわけだし、むしろ娘を奪われる親の気分か。

 

「……職務に戻ります」

 

 親しげに言葉を交わす二人をこれ以上視界に入れたくなくて、仕事に戻る(てい)でその場をそっと離れた。

 あとは、若い二人でやってもろて。おっさんは仕事が恋人です。

 

「二番隊のたいちょーがなんか落ち込んでるぞ」

「元気出せよおっさん」

 

 うるせえ。

 聖騎士団にも若手が入ってきて、俺は新設された二番隊を任されている。やはり一番隊じゃないため舐められているのか、おっさんだのたいちょーだの馬鹿にした呼び方をされることが多い。

 自分で言う分にはいいけど、他人におっさんって言われるのはまだ受け入れらんねえんだよ! ……まあ、内部はおっさんどころかおじいさんの年齢だが。

 

 

 

 

「ボクのことコイツ呼ばわりする人初めて見たよ。誰かさんに夢中で、勇者の顔なんて興味ないんだろうね」

「……うるさいです」

 

 

 

 


 

 

 

 

「勇者達を回復させます! 皆さんは、その間攻め込もうとしてくる魔物を食い止めてください!」

「応ッ!!」

 

 敵の二人いる司令塔のうち片方を勇者が討ち取り、しかし勇者は代償に片目と片手を失い、足も千切れかけている。

 それを含め、味方を対象とした大規模な回復魔法の詠唱を聖女様が始め、それまで待機していた俺達はここぞとばかりに剣を握る。

 

 司令塔は双子の魔物だったらしく、思考の共有ができたため、その優れた知性と相まって非常に厄介であったが、片方を討ち取ったことで通常の戦いと同じ状況に持ち込めた。

 俺達がこの場を凌ぐことができれば、復活した勇者によってこの戦いは終結を迎えるだろう。

 

 聖騎士団はスイッチを基本とした綿密な連携を得意とする。

 一人が切り込み、スイッチして後方に一旦下がった後は回復魔法と攻撃魔法の同時詠唱。自分の回復をしながら、前で戦う味方のサポートをする。

 回復が済んだら再びスイッチして前線へ。敵の群れを殲滅したり、道を切り開いたりするのには向かないが、持久戦や防衛戦においては無類の強さを誇る。

 

「ダフネッ、スイッチ!!」

「ハハッ、アタシの出番が来たかァ!!」

 

 相棒に前を任せ、貫かれた腹の穴を癒やす。

 聖女様のように一瞬でとはいかないが、目視で治癒が分かるほど急速に傷が癒えていく。聖騎士団に魔法の扱いが必須なのはこういうわけだ。

 あのクソアマにやらされた吐き気を覚えるような魔力の持久力トレーニングも、こうして役に立つ瞬間を迎えれば、そう悪いものでなかったと知る。まぁそれでもアイツは絶対いつか泣かすけど。

 

「詠唱、完了いたしましたッ! 回復行きます──絶対聖域(イフミル・オリスヴオーサ)ッッ!!!」

 

 聖女様を中心として、黄金のドームが広がる。

 その輝きを視界の端に捉えて、俺達は勝利を確信するのであった。

 

「……ここからだぞ、俺」

 

 

 

 


 

 

 

 

「……あの、これほど奥にまで戦傷者が?」

 

 掃討戦を他の聖騎士がする傍ら、俺と聖女様、そして一番隊の副隊長は野外病院を回る。

 副隊長の案内でいくつもの病院をまるごと癒やしてきたが、この先のどこかで惨劇が起こされる。案内を申し出る怪しいやつが現れたら、その瞬間そいつを斬る覚悟でさえいる。間違って味方を斬ってしまったとして、後々処罰を受けたって構わない。

 

 今か今かと待ち構えていたが、怪しいやつはまるで現れる気配がない。

 いつの間にか人の声も聞こえないくらい奥地にまで来たところで、聖女様の不安げな声を聞いてようやく俺は思い至った。

 

「……クソッ、テメエが内通者か!!」

 

 前を歩く副隊長を斬り捨てようとして、瞬時に避けられてしまう。

 跳ぶようにして俺達から距離をとった副隊長は、ニヤニヤとした笑みを浮かべた。

 

「もう少しで着いたんダガ、マァ、こんだけ近くマデ連れて来れりゃ十分だよナァ?」

 

 いつから? 最初から? それともどこかで入れ替わっていた?

 副隊長の姿を象った魔物がドロリと体を溶かすのと、俺達のいる地面に巨大な魔法陣が輝くのは同時であった。

 

「こ、れは、一体……」

「オマエを確実に殺すためのとっておきダヨッ!」

 

 呆然とする聖女様に魔物が飛びかかる。俺が間に入って防ぐが、周りの気配から、待ち構えていた魔物たちが段々と近づいてきていることを知る。

 ……流石に、森の中で周囲から攻め込まれたら聖女様を守りきれねぇな。こっちの援軍が来るとしたら、いつまでも帰ってこない聖女に不信感を抱いて捜索隊を出してからだろうから、まあつまり一切期待できないということだ。

 

「場所を変えます!」

「え、わ、ひゃあぁっっ!」

 

 少しでも防衛戦として地形の利を得られる場所へ。

 運びやすいよう、しかし失礼の無いよう聖女様の膝と背中を抱え、敵の攻撃が彼女に当たらないように庇いながら森を駆け抜ける。

 

 最初は元来た方へ引き返そうと動いていたが、地面に輝く魔法陣の端まで来て気付いた。これ、内側からは出れねぇようになってやがる。クソめんどい。

 追ってくる魔物の群れを感じながら、結局たどり着いたのは、奴らが野外病院として偽装する予定だったであろう石造りの遺跡であった。

 その奥。辿り着くには一本道を通らなければならない小部屋にまで到達し、ここに聖女様を匿って迎え撃つことに決めた。

 

「決してここを出ないでください。流れ弾が当たるかもしれないから、顔も出さないこと」

「……わ、私も戦います!」

 

 無理だろう、そんな膝が震えている状態では。

 そもそも、彼女は支援職であり、矢面に立ったことはない。もしも戦い方を知っているのであれば、その膨大な魔力で無双し、前世で罠にかけられても死ぬことはなかっただろう。

 

「あなた一人を戦わせるわけには──」

「……では、敵が来る前に回復魔法をお願いしてもよいでしょうか? 聖女様の回復魔法をいただければ、どんな敵にも負けることないでしょう」

「は、はいっ。今すぐ────ぇ、あ、……え、あれ?」

 

 聖女様は困惑した声を上げる。

 ……まさか。

 

「……魔法が、使えません」

 

 震えた声。蒼白な顔色。

 この魔法陣、「オマエを確実に殺すためのとっておき」って、そういうことかよ……ッ。

 そりゃあ、魔法を封じて、逃げ場も奪ってしまえば、ただの人間に成り下がった少女一人、基礎ステータスの高い魔物なら簡単に殺せるだろうさ!

 

 ……つうか、魔法が使えないってことは、俺も回復魔法使いながら戦うことが出来なくなんのか。

 同時詠唱をしながら戦えば、魔物の群れ相手にも乗り切れると思ってたけれど、もしかしなくても、もしかする?

 

 あー、あー、はぁ、うん。……ふぅ。

 

「……聖女様。どうか、ここでお待ちを」

 

 弱い俺では、庇いながら戦うことはおろか、勝ち残ることさえできるか定かでない。

 だから、頼むから、隠れることに徹してほしい。それが一番、あなたを救うことに繋がるだろうから。

 

「ぁ……ぐ、ぅ、く、ぅぅ、うっ……」

 

 ギリギリと歯を噛み締めながら、涙を流しながら、悔しそうに彼女は頷く。

 彼女とて理解しているのだ。愚かな少女ではない。ただ、その優しすぎる心が、この場を俺一人に託すことを是としない。

 縋り付くように、葛藤を飲み下そうとするかのように、俺の胸元を握り締めて聖女様は言った。

 

「ぐぅっ、ふぅっ、わたっ、わたしの、私の剣よ……ッ。めい、命令、ですっ。勝ちなさい、勝って、私を救いなさい……ッッ!」

 

 嗚咽混じりのその(ことば)は、どんな魔法よりも強く、俺を奮い立たせた。

 あなたはとても強い人だ。俺なんかよりもよっぽど。だから、泣かないで。

 

「勿論。──キミを救うために、俺は死に戻った(生まれた)のだから」

 

 神の剣などではなく、キミの剣として。

 キミを救うためにやり直したこの生を、まっとうする。

 

 

 

 


 

 

 

 

 部屋の外が静かになって、どれほどの時間が経っただろう。

 恐る恐る外に顔を覗かせると、そこにはおびただしいほどの死体があった。

 

「終わったの……ですか?」

 

 返事はない。

 彼の姿を探すが、目に映るのは青色の液体とそれを垂れ流す怪物たちの亡骸ばかりで途方に暮れてしまう。

 

 魔物がいないということは戦いが終わったということだ。それも、彼の勝利で。

 なのにどこにも彼がいない。そもそも、防衛戦のはずなのに、死体を最初に見つけたところに彼がいないというのはおかしな話だ。普通は後退しながら戦うのだから。

 まさか、前進しながら戦い抜いたとでもいうのだろうか。

 

「……あっ!」

 

 見つけた。

 大量の死体を踏み越えた先、遺跡の石垣に腰掛けるようにして彼は座っていた。

 

 きっと、戦い終わって疲れたから休憩していたのだ。私を呼びに来られないくらい、歩くのも辛いほど疲弊しているのだろう。

 背中側しか見えないのがもどかしくて、駆け寄って──

 

「──ッ!」

 

 名前を呼ぼうとしたのと、彼が後ろに倒れ込むのは同時であった。

 咄嗟に支え、自分の太ももの上に彼の頭が乗るように、揺れに気をつけて寝かせた。

 

 その目は虚ろで、体中にべっとりと青色の血を浴び、腹からは穴が開いているかのように真紅の血が流れ出している。

 

「ぁ……、あぁ、どうすれば……っ、魔法、魔法を……っ!」

 

 自分の知っている全ての回復呪文を必死に唱える。

 けれど、いつもは自在に動く魔力が、いまはうんともすんとも言わない。

 

 当たり前だ。魔法陣による設置型の魔法術式なのだから、たとえ魔物たちが全滅していたとしても効果が終わることはない。

 外側からの干渉によって魔法陣を破壊する以外、この状況を打開する方法はない。

 いまこの場において、天才だの、聖女だのともてはやされてきた自分は、ただの無力な少女でしかなかった。

 

癒せ(エアライン)! 癒せ(エアライン)! 癒せ(エアライン)……!」

 

 何度唱えても、初歩中の初歩と言われる魔法ですら発動できない。

 奇跡の回復能力と褒めそやされてきたこの力は、本当の奇跡なんて起こせない。

 

癒、せ(エアライン)……。癒して、ください(エアライン)……ッ」

 

 神に縋っても、どんな加護も、奇跡も齎されやしない。

 彼がいつも言っていたように、「神は試練を与えるが、救いは与えない」。

 

「ふ、ぐぅ……っ、うぅ……。こんな、力……っ、ほしく、なかった……!」

 

 何が神だ。

 何が聖女だ。

 何が力だ……!

 

 肝心な時に、一番大切な人を助けられない力なんていらない。

 あなたが生きていてくれるなら、私はこの場所で死んだってよかった。

 

 頬を伝って落ちた涙が、ぽたりと彼の顔を濡らした。

 虚ろだった眼に少しの光が戻って、ゆっくりとこちらを視界に捉える。

 

「あれ……、おはようございます?」

 

 彼は、いまいち状況が読み取れていないかのように素っ頓狂な声を出した。

 

「……柔らかいなと思ったら、俺聖女様に膝枕されてるんですか。クソ教官……おっといけない、おクソ教官にまた叱られますね、こりゃ」

「……ばかっ。ばか、ばか、おばか……っ!!」

「聖女様に叱られるのは不思議と心地いいんだよなこれが」

 

 いつもの、仕事中のような硬い口調でなく、初めて会った頃のような砕けた言葉遣いで彼は笑う。

 それはきっと、もう役目に縛られなくていいと理解したから。

 

「ほら、泣かないで」

 

 上げようとした手は、思うように動かなかったのか、中途半端な高さまで上げられた後にポスリと再び地面に落ちる。

 それをそっと握って──彼のゴツゴツとした手を、自分の頬に添えた。

 

「死んだら、泣きます。大泣きします。絶対です。だから……っ、絶対に、死んではいけません……!」

「はは、こりゃ困った。……って、もう泣いてるじゃないですか。勝手に殺さないでくださいよ」

「これは大泣きではないから良いのです……ッ!」

「……意外と、強情なところは、昔から変わってないんですね」

 

 昔。彼をお兄様と呼んでいた頃。

 沢山わがままを言って困らせたから、きっとそのことを言っているのだろう。

 

「いやぁ……、しかし、俺すげぇなぁ……」

「……ぇ?」

「やれば、できるもんだ。聖女様を……救っちまったよ」

 

 どこか遠い目をして、彼は呟く。

 救ってしまった? 何を今更? これまでだって、色んな場面で救われてきたし、彼無しではここまで辿り着けなかったというのに。

 

「聖女様が生きてりゃぁ……、戦争も、勝っただろ……。勇者もいるし……あれ、もしかして、俺は人類を救っちまったのか?」

 

 ぶつぶつとうわ言のように言葉を紡ぐ。

 その身勝手な自己満足に、思わず怒りでぶるりと震えた。

 

「……て、ません」

「ん?」

「──救われて、いません!!」

 

 涙を滲ませながら、叫んだ。

 

「あなたが生きていなければ、私は救われません……ッ!!」

「へ……?」

 

 本当に、おばかな人だ。

 何のために「お兄様」と呼ぶのをやめたと思っているのか。

 妹分でいるのが嫌になったからだ。

 

 どうせ今だって、戦争に犠牲者はつきものなんだから、そんなに気にしなくても、とか何とか思っているに違いない。

 ばか。おばか。

 

「本当に、察しの悪いお方なんですから……」

 

 そう言って、そっと顔を近付けた。

 ぎゅっと目をつぶって、その感触と、口元から伝わる温もりだけを感じる。

 

 一秒、二秒、三秒……。

 

 長い時のあと、ゆっくりと顔を離し目を開くと、間抜けな顔で彼は呆けていた。

 本当に気付いていなかったのか、このおばかさんは。

 

「は、はは……、マジですか?」

 

 マジですよ。

 本気で、心の底から、あなただけを、愛してしまっているのです。

 そんな人が、最愛のあなたがいなくなってしまって、私が救われるはずがないでしょう。

 

「こりゃ……もったいないこと、したなぁ……」

 

 照れくささを誤魔化すかのように笑うあなたの声からは、段々と力が抜けていくのが分かって。

 声にならない泣き声を上げて、私は大泣きした。

 

「……泣かないで、イリス。あなたは、とても強い人だから」

 

 強くなんてない。

 弱い私が、あなたを殺した。

 私は、あなた一人を戦わせただけの、ちっぽけで無力な少女だ。

 

「私を、救ってくださるのでしょう……?」

 

 返事はなかった。

 泣き疲れ眠った私が捜索隊に保護されたのは、それから数刻ほど後のことであった。

 

 

 

 

*****

 

3.

 

 

 …………マジか。

 

 気が付いたときには、赤子になっていた。

 もはや、疑う余地はなかった。

 俺は、この状態を知っていたから。

 

 死に戻った。

 前回と同じく、生誕時の俺に。

 

 ……つまりこれは、クソみたいに俺らに地獄ばかり見せてくる神畜生が、もう一度チャンスをくれたということだろうか?

 結局、俺は彼女を救えなかった。彼女の気持ちに最後になって気付けたことは幸福であったけれど、だからこそ、彼女を救う方法は自己犠牲的なものではいけないのだと知った。

 自分の命を代償に彼女を救うなど、それこそ彼女の心優しい性格を考えれば間違った手段だと分かる。いやまあ、死ぬつもりはなかったんだけど。雑魚どもが想像以上に手強かったってだけで。

 やっぱりまあ、勇者だのと違って天才染みたバトルセンスのない俺では、たとえ雑魚相手でも、数で来られるとやられてしまうのだ。数の暴力は侮れない。

 ただ、一度聖女様の側で動けたことで、前々回彼女が死んだ時の状況がさらに詳しく分かった。何なら今度は、魔法陣の領域に入る前に一番隊副隊長に化けた魔物を斬り殺してしまえばいいわけだし。

 ……こんなことを最初の半年は考えていたが、次第に、俺の思考は別のことに占拠されるようになった。

 

 聖女様……イリスって、俺のことが好きだったのか。

 

 聖騎士と聖女が結ばれるってのは、まあ諸手を挙げて歓迎されるかは分からないが、一応聖騎士は優秀な人間の集団と思われているわけだし、余程の非難は受けないだろう。

 いや、どのタイミングで惚れられたかどころか、そもそも俺を好きになる理由が見当たらないが。死に際のお世辞とは思いたくない。いい思いを抱えて死なせてやろう的な聖女様の慈悲……うわ、ありそうで怖い。

 

 ……というか、柔らかかったな。唇。

 すらりと伸びた美しい脚。絹のように垂れる大海を写し取ったかのような蒼髪。修道服に僅かに起伏を作って主張してくる胸部の膨らみ。

 それらを意のままにできる様子を想像して、胸がドキドキと高鳴った。精神年齢70近いおじいさんなんだから、自重しろ俺。

 

 ……ダメだ。煩悩は捨てよう。

 そもそも、彼女が好きになったのは前回の俺だ。こんな邪な思いを抱えたまま関われば今度こそ好かれることはないだろうし、下手にセクハラすれば、教会に処分されかねない。

 とりあえず、前回と同じようにして近付く! 変装した魔物は早めに斬り殺す! 魔法陣は仲間にでも伝えておいてすぐ壊す! 俺も、聖女様も、みんなで生き延びて戦争に勝てればそれでいい!

 二回の人生分のアドバンテージがあるし、鍛錬前の聖騎士共なら抑えて、今度こそ主席合格できるんじゃねえかな!!

 

 

 

 


 

 

 

 

 早々に村を出て、傭兵としてキルムーブ。こいつを雇っておけば絶対に失敗しないとの評判も頂いたところで、聖騎士団の話が再度聞こえてきた。

 村ではかなり人付き合いを悪くしてしまった。正直鍛錬の時間は足りていないぐらいだし、しょうがない。前回や前々回では親しくしていた幼馴染とも、今回は顔見知りくらいの関係になってしまった。

 だがまあ、俺が生きて、人類も滅びないためにはしょうがない。聖騎士として王都を中心に生活することになるだろうし、村での人付き合いはあまり意味をなさない。

 別に人付き合いが苦手ってわけじゃねえしな。王都行ってから友達とか恋人を作ればいいだろう。

 

 結局、聖騎士団の入団試験は主席合格をした。

 そりゃまあそうだろう。大規模作戦で要となるような聖騎士団の一員が、編成当初のひよっこ共に劣るようでは話にならない。

 そも、身体能力では前回も悪くなかった。足りていなかった魔法の扱いについては殆ど知識さえあれば解決できるから、死に戻った俺にとって有利な試験だった。あと筆記の問題内容は知ってたしな……。ぎりぎりカンニングではないと思いたい。

 

「面倒なことにも、お前ら豚どもの教官に任命されたアグライアだ。しかし拝命とあれば役目はまっとうしよう。魔王が復活するまでに、お前らをナメクジから人間まで叩き上げる」

 

 眼帯で右目を覆い、髪を後ろで一つ結びにした美女に罵られる。出たなクソ教官。

 つか豚かナメクジかどっちだよ。ナメクジ叩いたら絶対潰れるだろ。

 

「まずはその枯れ木のような足をどうにかしてこい。外周を20本だ」

 

 出ましたよ外周。罰走として何度やらされたことか。

 しかし、俺は知っている。彼女はここにいる全員が20周出来ないと思って最初にこの課題を課す。そして、実際に誰も出来ないのをいいことに、また好き放題罵って俺らの自信を打ち砕くのだ。

 何がタチ悪いって、彼女は20周など片手間に走れるから、クソ教官の実力を疑ったやつは更に絶望させられることになる。……が、俺も前世を基準に特訓してきたから、今なら20周走り切れる。

 心、折れてないじゃないですか(笑) てか俺より強いんですか?(笑) やめたら教官(この仕事)

 

「……ほう。傭兵上がりというのは、躾がなっていなくてやはりダメだな。これだから外部者を受け入れるのはやめておけと言ったのだ」

 

 ほーら、ちょっと煽っただけでブチ切れてますよこのクソアマ。

 大丈夫? 脳味噌常時沸騰してない? その眼帯が灼熱の封印でも抑え込んでるんですかね(笑) ほら邪気眼って言ってみろよオタクくん。

 

「お前には、特別なメニューを用意してやろう。喜べ、私が直々に相手してやる」

 

 そう言ってクソ教官は刃を潰した訓練用の剣を投げてきた。

 泣かせてやんよぉ!!

 

 

 

 


 

 

 

 

「えぐ……っ、うぐ……っ、うぁぁぁぁぁああ……!!!」

「28……ほら、まだあと22周残っているぞ産廃」

「うゆぅぅぅぅぅぅうう……っ!!」

 

 傭兵界隈では敵なしと言われた男が、血の混じった鼻水を顔に貼り付けながらフラフラ走っている。

 そりゃあ、いくら主席とは言え、教官に付けられた人物に歯向かえばこうなるのは分かっていただろうに。

 

 ……一応、傭兵時代は少し憧れたりしていたのだが、この姿を見せられると、崇拝に近かった憧れは打ち砕かれた。

 

「……テメェは、アタシ以上にバカだなぁ」

「うるせ。……あのクソアマ、絶対いつか泣かす」

「おいバカ、懲りろバカ」

 

 結局、40周を過ぎたあたりで気絶するように倒れたコイツを、元傭兵仲間ということで私が宿舎まで連れ帰った。教官のコイツを見る目が、下等生物を見る目からゴミを見る目に変わっていたのが恐ろしい。

 初めて会ったときから旧知の仲のように会話が噛み合ったコイツとの関係は、アタシの崇拝じみた心象が無くなってさらに砕けたものとなった。

 

 こんな、死んでも治らなさそうなバカ野郎のくせに、聖女様への忠誠心だけは本物だ。

 お前誰だと言いたくなるくらい、聖女様の前では真面目で仕事熱心な男になる。そのときの真剣な眼差しは……まぁ、かつての憧れが蘇らないこともない。

 

「当たり前だ。俺は、彼女を救うために生まれたんだから」

「かぁ、ほの字かよ」

「はっ!? ち、違うが??」

 

 だがまあ……コイツは、聖女様しか見えていないんだろう。

 美しいもんな、あの人は。見た目も、言葉遣いも、何もかも。

 

 傷物のアタシが割り込む余地は、どこにもなかった。

 

 

 

 


 

 

 

 

「おっしゃああぁぁぁぁあ!! 勝ってやったぜぇぇぇええ!! 訓練兵に負けて恥ずかしくないんですかぁ? 辞めたらこの仕事ぉ?」

「……今のは、少し油断した。全力でやれば貴様など塵にできよう」

「え、ま、ちょっ、エンチャントはずるっ────アッー!!」

 

 驚いた。

 あの産業廃棄物が、まぐれだとしても私に打ち勝った。

 思わず、動揺と悔しさで冷静さを失い、全力で吹き飛ばしてしまった。まあ、あの男のしぶとさなら死ぬことはないだろう。

 

 剣を鞘に収めて、手をゆっくり開閉させる。

 

 ……まだ、冷静ではなかった。正確に言えば、まぐれでもないし、油断もしていなかった。

 それだけ、あの男が成長しているということだ。

 

「だが、上官にあのような口を利くのは別問題だ。おい、ダフネ。あの男に罰走10周を伝えておけ」

「は、はい! イエスマム!」

 

 傭兵上がりだからああ(・・)なのかと思っていたが、このダフネを見るにその限りでもないらしい。片目を使えなくなった私と同じで頬に大きな切り傷の残る彼女は、あの男と同じ元傭兵で、しかし公私の弁え方を知っている。砕けた口調も、仲間内だけでなら何も問題ないのだ。

 

あいつ絶対ぇ泣かすからなぁぁぁ

 

 罰走をしていると思われる場所から、恨みの込められた叫び声が響いて小さく聞こえた。

 思えば、片目を失う以前でも、己と切り結べる人間は一握りしかいなかった。それも、そういう猛者に限って戦線に身を投げ出し、命を粗末にするものだから、現在生きている者となれば片手で数えられてしまう。

 懲りずに立ち向かってくるあの男は……もはや、産廃ではないな。あまり評価をしても付け上がるだろうが。

 

 口元に手を当てて、アグライアは己でも気付かぬ内に口角が上がっていたことに気付いた。久しぶりの強者に、喜びが隠せなくなってしまったらしい。

 慌てて硬く引き結び、咳払いをする。

 

「ダフネ、あの男に伝えろ。罰走5周追加だ。魔法は禁止でな」

「はい! ……あんのバカ」

 

 それはそうと、上官をアイツ呼ばわりすることは許されない。

 

 

 

 


 

 

 

 

 はーもうマジであれだわ、キレちまったわ、俺。

 いやマジ俺さんキレさせるとか、あのクソアマ終わったな? 今から泣いて侘びても遅ぇからな? まぁ今でもたまにしか勝てないんですけどね。

 

 産廃呼びから変えたと思えば、今度はチンパンジー呼びだし。誰がチンパンだってッ!? ァア!?(ダミ声)

 聖騎士団の仲間たちも、俺がクソ教官に噛み付いてもいつものことかって顔だし……悔しくねえのかお前ら! あんな、毎日毎日おはようからおやすみまでナメクジだのチンパンだのそれはもう愉しそうな顔で呼んでくるクソ教官、見返してやろうと思わねぇのか!?

 日課の朝のランニングに出たら、たまたま鉢合わせて「朝から貴様の顔など拝みたくなかったが……仕方ない。後ろを走ることを許可する」だぁ? 調子乗るのも大概にしろよ? 俺だってお前の顔なんて見たくないんだが? それに、後ろ(・・)? 最前線を駆け抜けてやんよぉ!!

 

 あのクソアマ、足超速いよぅ……。

 

 別の日は、たまには部下との交流をしないと、上司からチームワークがどうこうと言われるなどとのたまって、食事に連れ出された。

 給料の大半を仕送りに回している身としては、あんな高そうな店で食事をする機会はなかったから少し緊張した。前世で、聖女様の警護として料亭に連れ出された経験がなかったら恥をかいていたと思う。というかあのアマそれが狙いか?

 

 ……ドレスコードに合わせて、いつもは雑にポニーテールにしている銀髪を丁寧に結い上げた姿には少し見惚れたが。

 素材も才能も最高級品を持ち合わせるとか、やっぱ神ってのはロクな配分をしねぇな。これだから信じる気にならねえんだクソ。

 

「……でも、見惚れたんですよね?」

「ええと、……いえ、本当に少しだけです。四捨五入すればゼロです」

 

 こんな話を、マイルドに包んで聖女様に話したら、ぷっくら頬を膨らませて不満そうな顔をされた。

 聖女相手に愚痴を話すのは、正直自分でもどうかと思うが、暇だから最近の話を聞かせてくださいとねだられれば、俺には最近の話などこれくらいしかない。

 

「お兄様。上官と部下が(つがい)になるというのは、そう少ない話でもないらしいですよ?」

 

 俺とあのクソアマの場合はありえません。

 

 まあ、軍人は出会いが無いからなあ。家柄が良ければ縁談も出るんだろうが、逆に言えばそうでない人間は本当に出会いがない。俺、今回の人生で聖女様に惚れてもらえなかったら、未婚のまま死ぬのでは?

 ……嫌われていることはないと思う。前回と同じで、お兄様と呼んで慕われている。聖騎士団でも実力がトップだから、関わる機会も増えた。

 けれど、この少女が自分に向ける感情が恋心かと問われればそれもまた違う気がする。まだ10歳にもなっていないしな。というか、幼女に好かれたがってる俺、危ない奴だな。自重しよう。

 

 

 

 


 

 

 

 

 あの大規模作戦の日は、すぐに来た。

 毎日を訓練と聖女様とのささやかな会話に費やしていれば、時間が溶けていくのは当然だった。

 

「は……、な、ンデ……?」

「人を騙すなら、人生3周くらいしてこい」

 

 一番隊副隊長に擬態した魔物から剣を引き抜き、飛び散る青い血が聖女様を汚さないようマントで防ぐ。

 一番隊隊長の話は最初に俺に来たが、人事が変化しても困るので断り、「新人が入ってきた時にその部隊を率います」と伝えておいた。

 あとは、副隊長でない奴が魔物に取って代わられるかもしれないので、人間と魔物を区別できる魔法を編み出した。敵に悟られてはいけないため、勿論こっそりと。

 

 あっけないな……。

 

 まあ、分かっていればこんなもんか。

 前回はあんなに苦労したことが、まるで流れ作業のように解決してしまった。

 当然、その後も一人で突貫などせず、味方に「敵が隠れている」と伝え、被害ゼロで偽の野外病院を制圧。

 

 一度撤退するために聖女様を抱きかかえてから、彼女から向けられる視線が熱っぽい気がする。

 前世でその可能性が十分にあることはよく分かっていたし、今更気付けないほど鈍感でもない。もしかしなくても、もしかしている。

 お互い、どこか意識してしまって、目が合うと顔を真っ赤にして逸らしてしまう。

 

「き、きれいな花が咲いていますねー」

「今日も、て、天気がいいなぁ、ハハッ、ハハハ」

 

 いや、本当に天気が良かったんだよ。太陽が輝いていて、真っ白な雲がいくつか漂う陽気だったんだよ。

 ……適当な丘で、聖女様とピクニックとかしたら楽しいだろうなぁ。食事はどうするのが良いんだろう。彼女の手作りの料理を食べてみたい気がするけど、俺が従者なのだし、俺が作っていくべきだろうか。それとも、朝に一緒に作るのがいいだろうか。キッチンで隣に立って、サンドイッチとかかなぁ……。

 

「信じられるか、あれで聖騎士のトップなんだぜ?」

「いまどき、スクールのガキだってあんなうぶ(・・)じゃあないでしょう」

「ロリコン! ロリコン! ロリコン!!」

 

 うるせえ。

 精神年齢が100になっても、童貞には越えられない壁というものがあった。

 妄想だってするし、なんならキスへの導入ひとつさえ分からない。

 もう一度、腹に穴開けて死にかければキスしてくれるだろうか……?

 

 

 

 


 

 

 

 

 空に光の柱が立った。

 曇天を貫き、光が消えたそこには、あの時見たような眩しい青空が広がっている。

 

 雨は、いつか止むのだ。

 青空は取り戻せるのだ。

 

勝鬨(かちどき)だぁぁぁぁああ!!」

『雄ォォォォォォォオオオ!!』

 

 先程まで魔王の支援魔法によって強化されていた魔物たちが、萎れるように力を失っていく。術者が死んだから、その術が解けた……つまり、魔王が死んだことを意味する。

 

 聖騎士団の戦いは、主人公らしいものでは決してない。

 回復時の防御役だったり、中央部隊が攻め込んでいる時の、雑魚達を押さえる役であったり。

 ひとりひとりの実力が優れていても、チームワークがどこの部隊よりも整っていても、たった一人で盤面を覆せるような壊れた力を持っていない。それが俺達だ。

 

 魔王の籠もっていた城、その外側だが、それでも精一杯の叫び声を出した。

 主人公でなくていい。覚醒だってできなくていい。大物を倒すような誉れだっていらない。

 脇役だった城下町の兵士Bは、脇役の聖騎士として蚊帳の外にいる。

 それでも、俺は確かに救ったのだ。彼女を……聖女様を。

 

 あの大規模作戦を越えても、苦難の連続であった。

 それでも、聖女様の命を繋いだことは、確実に人類の救済を生み出したと確信している。

 そうそう、彼女もやはりメインキャラらしく覚醒を果たし、仮死状態に陥った勇者を救ったのだ。覚醒してからは何でもありで、ぶっちゃけ魔王城に攻め込む前から勝利を確信していた。

 

「神の剣たちよ! 勇者のもとへ急ぎます、道を切り開きなさい!」

『応ッッ!!』

 

 そうだ。どうせ、今回も勇者様はズタボロでぶっ倒れていることだろう。

 勝ったのはいいが、立役者がいないのでは困ってしまう。まずは、聖女様を勇者のもとへ連れて行くために、雑魚とは言え、魔物たちを斬り倒していかなければいけない。

 

 聖女様自身を守る役、進路を塞ぐ敵を殺す役、それぞれが何も言わずとも役目を果たす。

 一番疾い俺は、勇者のもとまで真っ先に駆けつける。死にかけの奴に敵が向かってきてはかなわないからだ。

 

 案の定、勇者に群がろうとする魔物たちを見つける。

 勇者は床にぶっ倒れたまま、視線だけは敵を睨みつけてまだ諦めていない。その視線が俺を捉え、ほっと安心したかのように口元を緩めたのが見えた。

 

 ……そんな信頼されても困るんだが。

 

 まず真っ先に土塊でドームを生み出し、簡易的に勇者を覆う。余計な被害が出ないようにした上で、周囲の魔物を殲滅した。

 数の暴力に成すすべもなかった頃を思えば、俺も成長したなぁ。

 ドームを解除し、勇者を揺らさぬように、遮蔽の多い場所へ連れて行く。

 

「おい、ニケ。脱がすぞ」

「……!?」

 

 ほぼ全身が使い物にならなくなっているのだろうが、せめてもの応急手当をしようと、患部を見つけるために上の服をナイフで斬るようにして脱がそうとする。

 ……伝説の防具、衣類まで素材良すぎません? 全然斬れんから、面倒だがボタンを外していった。

 あ。

 

 ……こいつ、女だったのか。

 

 ま、まあ、知り合いとはいえ、救護の場で男も女も関係ない。オネエだって分け隔てなく治すのが癒やしの心得と覚えよ。オイだから顔を赤らめるなニケ。ばかおま、俺まで恥ずかしくなるから涙目になるな。いや、ならないでください。

 ……ひとまず、マントを被せて隠し、周囲を警戒しながら聖女様達が来るのを待つ。マントマジ万能。かっこつけの道具じゃねえんだよ。ちゃんと使い道があるから装備に入ってんだよ。オイばかニケ、臭いから匂い嗅いじゃいけません!!

 

 

 

 


 

 

 

 

「うわきもの! イリス、このひと浮気者だよ! ボクの裸、おっぱい見たんだよ!?」

「……職務でしたから」

「ふーん? へーぇ? ボクのおっぱいみた感想がそれなんだ? 責任とってもらうべきだと思うんだけどなぁ!?」

「……職務ですので」

 

 タスケテ!!(絶叫)

 不可抗力で裸を見てしまったため、よほど恥ずかしかったのかニケが騒いでいる。

 情状酌量の余地しかないと思っている。まあ、勇者が女と知っていればもう少し配慮のある介護ができたのかもしれない。でも誰も言ってくれなかったじゃん!(憤怒)

 

「……黙ってればつけ上がりやがって! 勇者、テメェだって俺のマントクンカクンカ嗅ぎやがってよぉ! 案外まんざらでもなかったんじゃないですかぁー? むしろ裸見せつける勢いだったんじゃないですかぁー??」

「な、ばっ、そっ、……嗅いでないし!! 妄想やめてもらえる!? あーあー、これだからロリコンは!」

「加齢臭嗅いで発情してるガキは黙っててもらっていいですかぁー??」

 

 突如反抗を見せた俺に、勇者は赤面しながらキレ散らかしてくる。

 かーっ、これだからチンパンは! 俺ロリコンじゃねえしな? 適当なこと言うのやめてもらっていいですかね??

 

 と、ここまでヒートアップした俺達だったが、沈黙を保っている聖女様が不穏で、段々と背筋が冷えてきた。

 普段温厚な人ほど怒らせると怖いというのは有名な話である。おそるおそる彼女の方を窺う俺達に、聖女様は声を震わせた。

 

「……と」

「「と……?」」

 

 とりあえず死ね?

 

「とっちゃ、やだぁ……」

「「……えっ」」

 

 そう言ってぽろぽろ涙をこぼし始めた少女に、俺達二人は動揺した。

 

「わたっ、しの、なの……。わたしの、つるぎ、とっちゃやだぁ……」

 

 あ、まただ。

 また、俺は彼女を泣かせてしまった。

 俺は、本当に、クソ野郎だ。

 

「取られて、いません。俺はあなたの、あなただけの剣です。これまでも、これからも。この命はあなたのものであり、この力はあなたを救うためのものです」

 

 真っ白な頭のまま、思ったことを一切の脚色をせずにそのまま叫んでいた。

 下手したら不敬罪ものだが、堪えきれずに、聖女様を強く抱きしめる。

 

「うわ、だいたん」

「ヒュウ! たいちょー、やりますねぇ!」

「両片想いが実っただと……!?」

 

 聖騎士団を始めとした、周りの奴らがやんややんやと叫びだす。

 ……あれ、俺の今のセリフ、もしかしなくても、もしかしている?

 

「聖騎士長が告ったぞ!!」

 

 その言葉を耳にして、俺と聖女様は、同時にボフッと顔を赤くした。

 

「……もっと、ちゃんと、分かりやすく言ってくれなきゃいやです」

 

 ワガママを言うように、腕の中から鈴のような声が聞こえた。

 分かりやすく……まぁ、そうだよな。ケジメというか。

 

「せ、聖女様……す、すすす、す──」

「……いやです」

 

 ピタッと、唇を指で塞がれた。

 え、振られた?

 

「……名前で呼んでくれないと、いやです」

 

 ……。

 ハードルを上げてくるな、このお姫様は。

 まあ、三周目だから余裕だが!?

 

「い、いいい、イリス! しゅきだ!!」

 

 アッーーーー!

 あああああああああああああああああっっ!!

 やっちまったぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああ!!!

 

「ふふっ……、私も、あなたが大好きです」

 

 ……。

 ……はっ、あぶね、意識飛んでた。

 

 聖女……イリスのはにかむ笑顔が可愛すぎて、遂に死に戻りをゴールしかけた。

 と、言うか。

 

 オレ、イリススキ。

 イリス、オレスキ。

 リョウオモイ?

 マジ?

 

「……はっ、蚊帳の外に出されてた! ちょっと待ちな! イリスと付き合うっていうなら、このボクを倒してからにしてもらおうか!」

 

 父親面して、なんかガキが乱入してきた。

 今、いいところだったでしょうが!!

 

 

 

 


 

 

 

 

 ……なんか、よくわからんが。

 両想い、はいハッピーエンド、結婚ねとはいかないらしく。

 

 一応、聖女って立場とか、なんやかんやが煩わしくも存在して。

 どうしてそんな結論になったのか問いただしたいが、イリスと結婚するために勇者と御前試合をしろという話になった。

 頭オカシイんじゃねえの? 民衆は民衆で、聖騎士団のトップと勇者の試合が見れるとか言って賭け始めてるし。儲けの1割俺によこせ。

 

「いやぁ、大事な仲間の伴侶を決めるとくればね、ボクも見極めさせてもらうよ」

「うるせえな無乳ガキ」

「無乳!? ちょっと、ちゃんとあったでしょ!? 見たでしょ!?」

「四捨五入したら大抵のものはゼロになりますから」

「あーもう手心加えてあげようと思ったけどやめた! キレたわ! やってらんないわ!」

 

 キレ過ぎだから。ちゃんとカルシウム取ってんのか? そんなんだからいつまで経っても四捨五入の対象なんだぞ? あと言外に俺は大切な仲間じゃないって伝えてくるのやめてもらっていいですかね。一緒に戦線を支えてきた年月はなんだったんですかね。

 というか、冷静に考えて欲しい。かたや神に選ばれた勇者、かたや前世の知識を活かしてひいこらこの立場に上り詰めたモブキャラ。御前試合って、結果見えてますやん。

 が、負ければイリスと結婚できないというならば、諦められない。負けたらどうしようか考える暇を削って、確実に倒すための道筋を何度もシミュレートしてきた。

 

 とりあえず、煽って冷静さを奪うところはクリア。

 試合前から戦いは始まっているのだよぉ!! 卑怯? 何とでも言え! というかこんなクソッタレな場を用意した奴らに言え!!

 さあ、試合が始まって──

 

 ──先程まで興奮していた勇者が、表情が抜け落ちたかのようにスッと戦闘態勢に入った。

 

 あ、負けましたわこれ。

 

 

 

 


 

 

 

 

「……懐かしいものを見ているのね。あなたとニケの、御前試合ですか」

「あぁ。まあ、まさか勝ち負け関係なく結婚が許されるとは思ってなかったけどな。賭博の儲けも、結婚式の資金集めだとは」

 

 シワを顔に刻んだ女性に声をかけられ、俺も昔を振り返りながら語った。

 

 結局、あの試合ではもうこれ以上ないってくらいに負けた。

 国が主導で賭けなんてやってるからなんのつもりかと思ったら、まさか、軍事費で消えた貯蓄の分、結婚式に使う金を集めてくれていたとは。

 一応、聖女は国の所属だからな。結婚式の資金は国が負担してきたらしく、しかし今回は金が無さすぎて困っていたらしい。

 

 教えてくれりゃあいいのにと思ったが、「だんちょー、知ってたら本気で試合しないでしょ」と言われたら黙るしかなかった。長年一緒に戦ってきただけあって、俺の腐った性根をよく理解している。仲間に恵まれて嬉しいなぁ!(血涙)

 

「少しくらい勝機はあったと思ったが、ありゃだめだ。あの頃の俺程度じゃあ、ニケには勝てないよ」

「ふふ……、でも、とても格好良かったです」

「……俺がぁ? 冗談だろ? あんな、ぼっこぼこに負けたんだぞ?」

「本当ですよ。あなたが私の剣になってくれたことを、心から誇らしく思いました」

 

 ……そりゃどうも。

 自分の剣ってなら、強い方が良い気もするけどな。最強の剣こそ選ばれるべきじゃないだろうか。

 

「……この手が、一番馴染むのです」

 

 そう言って、イリスは俺の手を握り、自分の頬に添えた。

 お互いシワだらけになってしまったが、俺の目には、前回の最期の時と同じ姿にイリスが見えていた。

 胸を締め付けるものに、震える言葉が漏れた。

 

「……俺は、……おれ、は、キミを、イリスを、救えた、かなぁ?」

「……えぇ。救われました。あなたのおかげで、私は救われました。人々は救われました。あなたが、私達に幸せをくださいました」

「そっか……。よかった。本当に……よかった」

 

 涙が堪えられなかった。

 与えられたチャンスを、キミを救うことに費やせて、俺は本当に幸せだった。

 

 俺は、勇者でないし、負けてばかりだし、きっと主人公なんかには程遠い、碌でもない人間だろうけれど。

 

 力がなんだ。

 主人公がなんだ。

 兵士Bがなんだってんだ。

 

 俺は、一番大切な人に出会って、その人を救って、幸せにしてやったぞコンチクショウ。

 

 ポタリと、頬を濡らすものがあった。

 

「……泣かないで、イリス」

 

 キミが泣いていては、逝くに逝けないよ。

 

「いいのです」

 

 俺達は、泣き虫な生き物だ。

 泣かないでと言っておきながら、俺だって泣いている。

 ああ、なんて弱い。けれど、それで良いのかもしれない。

 

「これは、嬉し泣きですから」

 

 そう言って微笑むキミは、今まで見てきたどんなキミよりも、美しかった。

 

 ……おやすみなさい。

 

 

 

 

*****

 

4.

 

 

 なあ。

 

 なあ。

 

 やめてくれよ、なあ。

 

 なんだってんだよ。

 

 俺が何したってんだよ。

 

 これ以上ない大団円だっただろ。

 

 なあ。

 

 本当に、頼むからさ。

 

 見えてないと思うけどさ、もう堪えきれないくらい涙が出てきてるからさ。

 

 150歳近いジジイが、号泣してるんだぜ?

 

 気持ち悪いだろ? ならさ、なあ、もうやめてくれよ。

 

 なあ!!!

 

 本当に……もう……。

 

 ゆるして。

 

 ゆるして、ください。

 

 終わらせて、ください……。

 

 

 

 


 

 

 

 

 気が付いたときには、赤子になっていた。

 

 流石にもう死に戻りたくない。

 

 

 

 



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4〜9

 最初の2回は、戦争の途中で死ぬという無念の残るものであったから、死に戻ったことには心から感謝した。

 知識、それを元にした立ち回り。ただそれだけで、変わるものもあるのだと知った。変えられるものがあるのだと知った。

 

 肉体の効率的な鍛え方を知った。

 武器の振り方を知った。

 膨大な種類の詠唱があることを知って、必死に覚えた。

 同時詠唱の方法を知った。

 生き物の最適な殺し方を知った。

 致命傷を受けない戦い方を知った。

 求められる役の演じ方を知った。

 気に入らない権力者の豚と笑顔で話す方法を知った。

 自己犠牲の無意味さを知った。

 人ひとりを救うことの難しさを知った。

 あなたの笑顔を知った。

 勝利の喜びと、平和の素晴らしさを知った。

 我が子の愛おしさを知った。

 未来ある若者を支える喜びを知った。

 柔らかな風を感じながら読書に耽る幸福を知った。

 最愛の人に看取られる安心感を知った。

 

 どれも、素晴らしいものだと思うし、どれかが欠けていては、俺は満たされることがないだろうと分かる。

 けれど、裏を返せばそれは……俺は、満たされていたのだ。

 満足していたのだ。

 安心して、未来を憂うことなく、死を恐れることもなく、長い眠りにつくことができる精神状態にあった。

 

「勘弁、してくれよ……ッ」

 

 途方に暮れた。

 何よりも怖いのは、次に死んだ時、果たして俺は死ねるのかという疑問である。

 答えを知るのが怖くて、自死を選ぶ気にもなれない。

 

 前世、あの人生以上の幸福を得られるとは、微塵も思えなかった。

 だから、ちっぽけで無力な俺は、前世と同じ人生を歩むことを決めた。それしか選びようがなかった。ボタンの掛け違いで何か不幸が生まれるくらいなら、慎重に慎重に、流れを変えてしまわないように立ち回ることを決めた。

 

「アンタ、若いのに凄いな! どうだい、この依頼を一緒にやってくれる相手を探しているんだけど、組まないか?」

「……ダフネ」

「あれ? アタシ名前教えたっけ?」

 

 誰も、覚えていないんだ。

 俺が前世でやったことも。一緒に話したことも、一緒に食った飯も。

 あの日と変わらない青空が、いっそ憎らしいくらいに美しかった。

 魔王が復活する前の平穏な国の雰囲気が、時折吹き抜ける爽やかな風が、ただただ、全て終わった後の、あの優しい日々を思い出させる。

 

「……噂で、聞いたんだ。いいよ、一緒にやろう」

「そうか! よしきた!」

 

 傭兵界隈で名前が上がるのにはそう時間がかからなかった。

 まだ未成熟な体だから前世と全く同じとはいかないが、それが問題にならないくらい、蓄えた経験がある。それに、依頼だって知っているものが多くて、失敗するほうが難しいのだ。

 

「……傭兵君。悩みがあるなら、聞かせてもらえないかい?」

「ありがとうございます。……ですが、大丈夫です」

 

 教会の牧師は、これまでの回と同じで、俺にも優しくしてくれた。

 毎日のように足繁く教会に通い、その上依頼を確実にこなす、信心深い凄腕の傭兵がいる。そんな話をよく耳にするようになった。

 

 これまでと違ったのは、その噂のおかげか、国の方から俺を中心とした聖騎士団を作りたいという打診を受けた。

 おおよその流れには影響しないだろうと思ったから、試験を受ける手間が省けるわけだし快諾した。

 

「貴公が噂の傭兵殿か。聖騎士団の指南役となるアグライアだ。よろしく頼む」

「……気持ちわりいな」

「は……?」

「罵声の一つくらい、出せねえのか」

「……噂よりも、礼儀を解さない男のようだな。信心深いと聞いていたが、やはり所詮は傭兵上がりか」

 

 アグライア……クソアマも、何も覚えていない。

 俺が吐き捨ててきた愚痴も、罰走とか言って俺を走らせた回数も、朝に憎まれ口をたたき合いながら一緒に走った時間も、あの食事会のことも。

 

 笑顔で、それこそ美女らしさを全面に出して手を差し出してきた彼女に、違和感以外の何の感想も抱けなかった。

 別に、被虐の癖があるわけではないが、罵倒を口にしている方が彼女らしい。だから、悪態をついた。

 ビジネスパートナーとか、お互い支え合うとか、そういう関係は、俺達はなんか違うだろ。

 

「……ようへー、さま」

 

 あとは、ミスったかもしれないのが、聖女様との出会いが少し早まった。

 教会だの王城だのに頻繁に出入りしてりゃそうなるか。まだ言葉もおぼつかない年齢の幼女を抱きしめたい衝動にかられながらも、それをなんとか堪えて、優しく接した。

 

 ……イリスも、何も覚えていない。

 

 彼女と過ごしたすべての日々は、遠い幻想だ。

 また同じだけの時間を過ごせばいい……そう笑い飛ばしてしまうには、あの60年は長過ぎる。

 

「聖女様の前であまり暗い顔をするな、クソ傭兵。我々はあの方の手足となるのだから、そんな顔をしていては信頼どころか信用もされんぞ」

「うっせえよ、クソ教官。これでも全力でやっとるわ」

 

 クソ教官と呼んでも、もはや罰走を与えられることはない。

 与えられる以上に俺が走り込んでいることをアグライアは理解しているし、たとえ与えたとしても簡単にこなすのでは罰の意味がない。俺が苦労する分走らせるとなれば、それこそ一日中となり、任務やその他諸々に支障をきたす。

 その代わりに、食事に連れ出されるようになった。もはや俺に負荷をかけるのは無理だから、アグライア自身が溜め込んだストレスを、どうでもいい存在である俺に吐き出すことで軽減しようというのだ。

 

「──宮廷騎士団の連中とて、貴様と渡り合えるものもそう多くない。奴らを更に鍛え上げなければいけないが、一体どうしたものか。……おい、聞いているのか。おい、クソ傭兵!」

「聞いてるわ。……聞くだけだけどな。それよりもこの肉すげえな、飲み物みたいだ」

「……すまないな、私の配慮が足りていなかった。貴様は脳味噌が空っぽだから、右耳に入った言葉が左耳から抜けてしまうのを忘れていた。……む、ほんとだ、おいしい」

 

 アグライアの奢りで高い飯屋。人の金で食う肉は最高だぜ!!

 ちなみに、「ほんとだ、おいしい」という言い方はコイツの素が少し出てしまっている。自分を律するように努めるアグライアだが、意外とガキっぽい面がある。

 老衰するまで生きたことで、こうした観察眼も磨かれた。なんなら全人類ガキに見えるまである。何考えてるかわからんかった教皇や王様も、まあ、何となく考えていることを察せられるようになった。

 

 そうこうして日常を過ごす内に、聖騎士団の選抜がおこなわれた。

 

「よっす! 久しぶりぃ! アンタも結構デカくなったな。アタシ、ちゃんと合格してやったぜ?」

「ああ。まぁ、ダフネが合格することは分かってたけどな」

「嬉しいこと言ってくれるねぇ! またしばらくよろしくな、相棒!」

「ああ」

 

 結局、メンバーに変化は無かったみたいだし、聖騎士に先に選ばれる流れでも問題無さそうだ。

 

「『相棒』……?」

「なんだよ、何かおかしかったですかい?」

 

 相棒という言葉に耳ざとく反応したアグライアに、ダフネが突っかかるようにムスッとした顔を向けた。

 一応、そいつお前の教官だぞ。俺が言えたことじゃないけど。

 

「貴様は……この男の能力を、理解しているのか?」

「コイツがスゲー強ぇことは知ってますよ!」

「そこまでにしてください。……いいんです、俺とコイツは『相棒』ですから」

「…………そうか」

 

 ずっと一緒にやってきたのだ。

 傭兵としても、聖騎士としても。

 たとえダフネが何も覚えていなかったとしても、俺は忘れない。

 

 俺達は相棒なのだ。

 

 

 

 


 

 

 

 

「お兄様ぁ」

 

 ちっちゃなイリスがトテトテと駆け寄って腰に抱きついてくる。

 今回は掴みが悪かったし好かれるの失敗したかと思っていたが、全然そんなことはなかった。むしろ、今まで以上に早く懐かれた。思春期はまだ先だし、しばらくはこの好感度と愛情表現が止むことはないだろう。

 

「アンタ、ロリコンは引くわ……」

「クソ性犯罪者、今すぐ聖女様から離れろ」

 

 冷めた目で女性二人に睨まれる。

 今見てたでしょ。俺何もしてないから。向こうから抱きついてきたから。

 

「ふたりは、意地悪だからキライです!」

 

 聖女様はあっかんべーをして俺の後ろに隠れる。

 ダフネはそこまで堪えていないが、アグライアは結構ショックを受けてるらしい。少しずつ分かってきたが、このクソアマ、立ち振舞いに反して可愛いものが大好きなのだ。

 ロリコンとか引くわ。犯罪者予備軍にやる仕事はねえぞ。

 

「私、大きくなったらお兄様と結婚します!」

「……そうですね。聖女様が10年後もそう思っていらっしゃるのでしたら、もう一度おっしゃってください」

 

 まあ、今のところはこんな返答が無難だろう。

 多分だけど、このまま行けば前世と同じく結婚することになるのだと思う。その時期なんかはズレるかもしれないが、聖女様のこれからの出会いと、現時点の俺への好感度を考えればきっと。……もしも、彼女の人生がもっと良い出会いに満たされていたら、俺を選ばない可能性は十二分にあるわけだが。

 

「むー……」

「どうかなさいましたか?」

「名前で呼んでくれなきゃ、いやです。クビにします」

「……職務中ですから」

 

 こういう駆け引きどこで覚えてくるんかなぁこのお姫様は!

 クビにしたら俺と会えなくなることまでは思い至ってないあたり、可愛らしい。

 

「むぅぅー……、じゃあ、少ししゃがんでください」

「……? これでよろしいでしょうか?」

「目も閉じてください!」

 

 主の命令だから、その通り瞼を下ろす。

 唇に、小さな物が触れる感覚。まさかと思って目を見開く。

 

「……えへへ、私のはじめて、さしあげます!」

 

 ──っ、あ。やばい、無理だ。

 

「お兄様!?」

「相棒!?」

 

 堰を切ったように、両の眼から大粒の涙が溢れ出した。

 堪えきれない愛情と、絶望に近い喪失感と、言葉にならない澱みがゴチャゴチャに混ざって心をかき乱し、自分が泣く理由にはいくつも心当たりがあるのに、この涙がそのうちのいずれから生まれたものか見当がつかない。

 

「……ぁ、ぅ、ご、めんなさい……。いや、でしたか……?」

 

 違うんです。

 嫌なわけがないんです。

 でも、わけが分かんないんです。

 だから、どうか、泣かないで。

 

「……すき、です」

 

 死にたい。

 

「好きです、聖女様。大好きです。これまでも、これからも。前世から……いえ、その更に前世から、ずっと、あなたをお慕い申しております。好きで、好きで、好きなのに…………俺はもう、この感情が誰に向けられたものかも分かりません。分かんないんです、何もかも」

 

 だから、どうか、誰か、俺を殺してほしい。

 でも、あなたはきっと。

 

「……ええと、お兄様も、私のことを好いてくれているということでよろしいのでしょうか?」

 

 あなたはきっと──どこまでも純粋だから。

 

「──両想い、ですね!」

 

 どんな俺でも愛してくれると、そう勘違いしてしまう。

 

「……そう、だね。……イリス」

 

 優しく微笑んだ。微笑んでいたはずだ。

 そんな俺を、いつもなら咎めるはずのアグライアは痛ましげに見つめ、ダフネは絶句するような顔をこちらに向けていた。

 

 

 

 


 

 

 

 

 全部、上手くやった。

 

 全部っていうか、実際のところ、俺が手助けする必要があるのは、本当にあの大規模作戦の罠についてだけだった。

 他のは、そりゃ俺がいれば死者も減るだろうし、何かしら円滑に行くところも生まれるだろうけれど、別にいなくてもなんとかなることが分かった。

 

 歴史にもし(・・)は無いと言うけれど、たった一つのことで結果が大きく変わってしまう時もあるのだ。

 

「……ぅお、ぇ……っ」

 

 変わったことと言えば、俺がよくゲロを吐くようになったぐらいか。

 俺のゲロで救われる世界があるってんなら大歓迎だ。

 

「……ぐぅっ、……うぐぅ、……ふっ、うぅ」

 

 だから、こうして涙が出るのは、ひとえに俺の心の弱さのせいだ。

 

 泣くな。悲しみなんて誰だって抱えてるものだし、自分が世界で一番不幸だって思ってるやつは、大抵そうでもないんだから。

 比べればきっと、俺より不幸な人間くらい掃いて捨てるほどいる。

 

 泣くな。こんなもの、体中を徹底的に壊される痛みに比べれば、大したことないんだから。

 ニケが何度死にかけたと思っている。毎回毎回、勇者ってだけで敵の一番強いやつと戦わされて、戦争が終わってもうなされ続けるくらいのトラウマに苛まれて、幻肢痛だって全体に起こるからもはや慣れただなんて笑ってみせて。

 それに比べれば、俺はいくらでも自分を安全な場所におけるのだから。ただ、終わりが見えないだけで。

 

 泣くな。俺は何一つ、尊厳を傷つけられていないのだから。

 1周目のイリスを思えば、こんなもの。魔物に孕まされたまま、全身の皮を剥がれ、代わりに猿の皮を縫い付けられて送り返されてきた彼女の無念を感じろ。怒りを、敵を滅ぼすための動力源にすればいい。同情を、彼女を救うための理由にすればいい。

 

「──1周目って、なんだよ」

 

 あと何回繰り返しゃあいいんだよ。

 なんだよこれ。どうなったら終わるんだよ。

 それとも、これが普通なのか? みんな繰り返しているのか? 苦しんでる俺が、ただただ心が弱いだけなのか?

 

 それでも。

 弱いからって理由をつけたところで、俺よりも不幸な連中がいるって慰めたところで、俺のこの痛みは、無くならないんだ。

 

「──死が二人を分かつまで、愛し合うことを誓いますか?」

「はい、誓います」

「……誓います」

 

 死が二人を分かつまでなんて、そんな短い時間じゃなくて。

 死が二人を分かつとも、俺はキミを愛するから。

 

 だから、どうか。

 

 どうか──俺を、救ってください(殺してください)

 

 

 

 


 

 

 

 

「隠し事、してますよね?」

「……してないよ」

 

 魔王も倒したので聖騎士団は解散となり、アグライアが団長となった宮廷騎士団の副団長、兼イリスの夫として生活も落ち着いてきた頃。

 イリスの作ってくれた夕食を食べていると、彼女から隠し事はないかと問われた。

 

「嘘。アグライアさんから聞きました。毎日のように、陰で吐いているって。アグライアさんじゃ力になれないから、私が助けてやってほしいって」

 

 ……あのクソアマめ。絶対にバレないようにしてたのに、ストーカーか何かか?

 

「あー、大丈夫。ちょっと若い奴らに合わせて、毎回昼飯を食べすぎちゃってね。胃もたれするのを、恥ずかしいからこっそり……」

「下手な嘘は通じませんよ。あなただったら、食堂の方に申し訳ないからそんな勿体ないことしないはずです。それに、私が何年あなたと一緒にいると思っているんですか? 様子がおかしいことは、前々から気付いていました」

 

 それを言うなら、俺が何年イリスと一緒にいるかって話なんだけど。

 だけど、話したってしょうがないだろうこんなこと。

 

「──っ! なら、話してくれるまでお触り禁止令を出します!」

「は!?」

「はぐもちゅーも、えっちなのも全部ダメです! 期限はあなたが白状するまで!」

 

 嘘だろマイハニー。

 一日仕事するための動力源だぞ? お触り禁止とか正気か?

 

「お、おはようのキスは?」

「……っ、だめです。一緒に寝るのもしばらくだめです!」

「いってきますのキスは!?」

「〜〜っ、だ、……だめ、です! 仕方がないので、お見送りだけはしますが!」

「ただいまのぎゅーも……!?」

「ぅぅぅう……、あ、当たり前じゃないですか……っ」

 

 どうすれば、いい。

 そんなん、無理やん。できひんよ、普通。

 でも、話すにしたって、何を言えばいいのか……。

 

「……これでも、話してくれないんですね。分かりました、しばらくは、お触り禁止です」

「……」

 

 そこからの日々は、俺の抱えていた悩みなんて塵芥だったのではないかと思えるくらい地獄であった。

 目の前にイリスがいるのに、絶妙な距離感を開けられたまま何もさせてもらえない。

 限界を迎えるのに、そう時間はかからなかった。

 

 

 

 


 

 

 

 

「……おはよう、ございます」

「おはよう、イリス。酷い顔だな」

「あなたも、げっそりしていますよ」

「そうか……」

 

 朝食が喉を通らない。

 世界が灰色に見えるし、なんなら揺れて見える。

 それでも俺が日常生活を過ごせていたのは、きっと聖騎士として鍛えてきた地盤があったからで、逆に言えば、俺よりも体力のないイリスが先に限界を迎えるのは自明であった。

 

「──ぁ、れ?」

 

 俺の分も合わせて、使い終わった皿を重ねて下げようとしたイリスが、貧血のようにふらりと体勢を崩した。

 

「……イリスッ!」

 

 ガシャンと、皿の割れる甲高い音。

 皿は落としたが、イリスの身体だけはなんとか支えるのが間に合った。

 

 柔らかな肌。丸みを帯びた肩を支える手から伝わってきた温もりで、俺自身も限界を迎えた。

 

「──お触り……っ、きんし、ですよ……?」

「……」

 

 後ろから包み込むように抱きしめる。

 割れた皿や、その破片のことなど頭になかった。

 

 申し訳程度に、グッと力を込めてイリスが抜け出そうとするが、抱きしめる力を少し強めたら大人しくなった。

 

「……禁止、なんだろ? 逃げないのか?」

「……ずるいです」

 

 結局の所、お互い相手の温もりに焦がれていて。

 包む側も、包まれる側も、その状態が一番落ち着けてしまうのだ。

 

「……ごめん。話すよ。キミが目の前にいるのに手も繋げないなんて、俺には無理だ」

「わたしも、です」

「うん。……まずは、割れた破片を片そうか」

「……もう少しだけ、このまま」

「……ん」

 

 そうして、俺は苦しんでいる理由をイリスに話した。

 突拍子もない話だし、俺もどんな風に話せばいいか分からなかったから、色々順番がおかしくなりながらも、全部。

 

「あなたが次生まれ変わっても、私はあなたと過ごした時間を忘れません。そうすれば、寂しくないでしょう?」

 

 大の大人が、みっともなく泣いた。

 15も年下の女の子の胸の中で、鼻水も垂れていたと思う。

 そんな俺を、イリスは背中をさすって慰めた。

 

 話している間も、泣いている間も。

 俺は、ずっと彼女を抱きしめていた。

 

「……お触り、してしまいましたね」

「禁止令は、俺達には無理だよ」

「……そう、ですね。……その」

「ん?」

 

 落ち着いた俺の胸板に顔を乗せながら、イリスが言い淀む。

 どうかしたのだろうかと聞き返せば、顔を真っ赤にしてイリスは言った。

 

「……は、はしたないと、思わないでほしいのですが」

「う、うん」

「私、……その、今日、……あ、赤子を、宿せる日、なのです」

「……!!」

 

 そういえば、前回の子供が丁度この時期だった。

 ……俺は確実性を追い求めることにした。

 

 

 

 

「副団長、今日いないのか?」

「3日ほど休暇だってさ。実家にでも帰ってんのかね」

「聖女様もいないらしいし、案外そうかもな」

 

 

 

 


 

 

 

 

「お、副団長。奥さんのご懐妊おめでとーございます」

「ん? おー、さんきゅ」

「すいませんね、話は前から聞いていたんですが、なかなか副団長にお会いする機会がなくて」

「いやまあ気にすんな、みんな忙しいからな」

 

 あれから半年が経った。

 イリスはお腹が膨らんできたのが目で見て分かるほどになっている。お腹の中には次期聖女、あるいは聖人がいるわけで、国と教会の管理の元安全な場所で生活している。

 

「……おや、性騎士ではないか」

「クソ団長、相変わらず残念な頭をしていらっしゃるんですね。俺はもう聖騎士団でなく宮廷騎士団の所属ですが? もうご退任なさったほうがよろしいのでは」

 

 お触り禁止令の元凶であるクソアマ、アグライアが現れた。

 聖騎士団は解体されているし、それに立ち会った当人でもあるだろうに、我らが団長はよほど残念な脳味噌をしていらっしゃるらしい。

 

「何を言っている? 私が火を付けるなり三日三晩お盛んになるような猿は、性騎士と呼んで差し支えなかろう」

「おいてめぇ俺のことは良いがイリスのこと性女様とか呼んでたらぶっ殺すぞ」

「……? 聖女様は聖女様だろう?」

 

 ぶん殴りたい、このキョトン顔……。しかも、最後のセリフは天然で言ってそうなのがもう……。

 俺へのヘイトが高すぎるあまり、俺以外への暴言は思考回路から除外されるらしい。確かに、前回とかに比べて他の人への罵倒が少ないし、アグライアが可愛いとかほざく団員も少なくない。いや、顔は認めるけど。

 

「まさか一発とはな。聖女様は貴様みたいにバカげた体力はないのだから、もう少し手加減してやれ」

「うるせえ、余計なお世話だ。それともなんだ? 独り身の僻みか?」

「……いいや、貴様という最底辺を知っているからな。どんな男もマシに思えるし、かけられる声もそう少なくない」

 

 何だコイツ。私はモテますよって自慢かクソ。生まれて死んでを繰り返してこの方、イリス以外からモテたことねえよ。それで何も問題ねえけど。

 そんなにモテるなら早く身を固めたらどうですかね。売れ残りも目前だぞ。

 

「それこそ余計なお世話だ。よりどりみどりというのは、中々に困るものなのだよ」

 

 そう鼻で笑うように言い放って、アグライアは立ち去っていった。

 いやでも、前回は確か家の見合いで売れ残りギリギリに滑り込んでたし、割とマジで頑張ったほうが良いとは思うけどね。おじちゃん心配だよ。

 まぁ売れ残ったら指差して馬鹿笑いする予定だけど。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 親愛なる相棒へ。

 

 お元気ですか? 手紙のやり取りも、小さな箱では溢れてしまいそうな数になってきましたね。

 半年前、私とニケは長い旅を終えました。流石にもう、極寒の大地や灼熱の火山地帯、人食い獣の溢れる森林地帯を歩くには、身体がついてきません。

 長く旅をしていれば当たり前のことですが、それなりに名声も稼いだので、手紙以外でも私達の話は聞いているかもしれませんね。

 

 落ち着きのない私達二人でしたが、いまはとある街の孤児院を経営しています。やはり未開拓地域は治安が悪く、子供たちが簡単に死んでしまうのです。

 また、次に魔王が復活するとされる70年後、矢面に立たされるのはこの街です。私達二人が生きている間に、この街を防衛都市と呼べるくらい発展させることが次の目標となりました。なかなか楽な余生は過ごせなさそうです。

 

 ババア二人に何が、と笑う人もいましたが、ニケがとりあえず殴って黙らせていました。勇者の加護を失った彼女ですが、力強い側面は変わりありません。

 近日中のことで言えば、子供を攫おうとした連中を追う内にひとつの暴力団組織に繋がり、ババア二人ですが壊滅させてきました。壊滅という言い方は正しくないですね。彼らが守ってきた均衡もあり、それらを壊さないようにするために、懐柔したという言い方のほうが適切かもしれません。

 それでも、最後にモノを言うのは拳でした。あなたと共に闘った十数年間、あの時間が今の私を支えてくれています。

 

 相棒、という呼び方はもしかしたら変えたほうが良いかもしれませんね。一緒にやってきた時間で言えば、ニケの方がもうずっと長いです。

 それでもあなたのことを相棒と呼びたくなってしまうのは……なぜでしょうね? 若い頃の思い出が美化されているのか、はたまた別の理由かもしれません。

 

 というか、さきほどから「ババア」を強調しているのは、ちょっとした恨み言だったりします。

 あなたは心当たりが無いかもしれませんが、私達がババア二人でババアをやっているのは、大体があなたのせいなのです。

 困惑している顔が目に浮かぶようです。でも、覚えておいてください。あなたのせいで私達はババア二人なんですよ。どっかに手頃なジジイがいてくれると都合いいんですけれどね?

 

 あなたのせいで、私は教会所属の兵団などという似合わない役職につきました。あなたのせいで、私は魔王討伐に関わった重要なメンバーのひとりに数え上げられるようになりました。あなたのせいで、私はニケという生涯の悪友と出会う羽目になりました。あなたのせいで、私は遠い街で暴力団を飼い馴らす羽目になりました。

 

 あなたのおかげで、私はいま幸せです。

 

 願わくは、あなたのせいで幸せになれれば良かったんですけれど。

 でも、良い人生でした。

 

 これからもしばらくは手紙のやり取りが続きそうですね。お互い老い先短いかもしれませんが、元気にやっていきましょう。

 

 敬具

 

 

 追伸

 この手紙を聖女様(いまはイリス様と呼んだほうが良いですね)に見せてあげてください。きっと、可愛らしい顔でむくれますよ。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

「……イリス。俺との約束、覚えてるか?」

「えぇ。忘れたくても忘れられませんよ。あんな、突飛な話」

 

 寿命というのは、年単位では変わらないけれど、一ヶ月くらいは前後するらしく。

 前回は今頃死んだな、と思ってから一月が経ち、体感でそろそろ死ぬ頃かというのが分かってきた。

 まああれだ。飯を食えなくなったら死ぬ。人間、最期もそんなもんだ。だから飯を食おうぜっていうわけでもないけど、まあ食事ってのは大事なもんだな。

 

「絶対に、忘れません。あなたがくれたものも、あなたと作り出したものも、あなたにあげたものも。そして、あなたに救われてきた私がいることを」

「そりゃあ、心強い」

 

 一時期はあんなに怖かったこの瞬間も、いまでは安心して迎えることができた。

 救って救われて。与えたものは何倍にもなって返されるし、与えてもらったものは何倍にしても返し足りない。難儀な生き物だ、俺達人間は。

 お互い、泣くことはない。次があることを知っているからだ。

 

 時々弱くて、関係性は難しくて。そんな生き物として生きて、俺がこうも満足できるのは、きっと大切な人に出会えたからだろう。

 

「ありがとう、イリス」

 

 お礼なんて何回言っても足りることはない。

 それでも、伝えることは決して間違いではないのだ。

 

「いってきます」

「……ええ。また、次の世界で」

「うん。またね」

 

 何度も繰り返せば分かることだが、死の瞬間というのは大したことない。

 悔いが残っていればその限りではないのだろうが、亡者の声なんて一切聞こえないし、天界のラッパも迷信に違いない。

 ただ、眠るのと変わらないのだ。夜眠って、闇を越え、朝目覚めるように。

 俺の場合は、死の眠りについて、一瞬の暗転を越え、赤子として目覚めるだけだ。

 

 恐れることなど、何もない。

 

 

 

 

*****

 

5.

 

 

 気が付いたときには、赤子になっていた。

 そして、見覚えのある日々を過ごしながら、薄々と気付いていた。

 

 ──嗚呼。

 

 必死に子供を取り繕った。体を鍛えた。王都に出た。傭兵になった。何もかもこなした。戦争関連では雇わない契約が裏で結ばれるほどだ。

 死に際になって、言葉を重ねたのは安心していたからではない。何も覚えていない相棒に失望しなかったのは、イリスだけは覚えていると信じていたからではない。

 

 ──嗚呼。

 

 俺を中心とした聖騎士団が編成された。アグライアに出会った。もはや、憎まれ口を叩く気力はなかった。

 ただ、不安だったのだ。受け止めきれないくらい、不安だったのだ。上手く纏めて、良い流れを作って、それで万事解決することを願い、その裏で叶わないことも気付いていた。

 

 

 

 

「──ようへー、さま?」

 

 ──嗚呼。知っていたとも。

 

 

 

 


 

 

 

 

 ひとつ言わせてもらうと、俺は冷静ではない。

 頭の中は四六時中、神だの運命だのへの罵倒で満たされているし、多分一度口を開けば、声が枯れて血を吐くまで恨みつらみを叫べると思う。

 いや、怒りなのかもわからない。もしかしたら、多少怒りを発散したところで、今度は言いようのない不安にかられて、神に媚びへつらうように泣き出すかもしれない。

 一言でまとめてしまえば、情緒不安定。精神異常者。自分でも何が飛び出るかわからないブラックボックスだ。

 

 付け加えれば、イリスへの怒りも既に抱いていた。

 あれだけ忘れないと誓っておきながら、次会った時には「ようへーさま」だ。ふざけてんのか?

 だけど同時に、それが仕方ないことだというのも理解している。もう、この死に戻る現象は尋常のものではない。何なら人間が手を出せる代物ではないし、何だって俺が巻き込まれているのかは知らないが、感情論、特に気合なんかでどうにかなるものでもない。

 忘れない。それは結局、口約束だ。何の保証もなかった。気合や愛情でどうこうというやつだ。こんな超常に敵うわけがなかった。

 

 つまるところ、平時の俺の理解の通り、人間というのは大したことない生き物で、弱くてちっぽけで、世の中にはそんな弱者じゃどうしようもない物事が存在するというわけだ。

 誰か俺を許してほしい。投げやりになることを、思考停止だと責めないでほしい。だって、考えれば考えるだけ辛いのだ。

 

 何より辛いのは、毎回生き返る度に赤子になることである。

 赤子は誰かの庇護下でなければ生きられず、逆に死ぬこともひとりでは難しい。

 

 これが、毎回10歳の俺に戻るとかなら、もう戻った瞬間に石で頭を砕いてみせよう。発狂するまで死に戻りを繰り返せば、辛さはきっと誤魔化せる。

 けれど、赤子にできることなんて、母乳を飲まないことくらいしかないだろう。それで待っているのは飢餓と栄養失調による長く辛い死だ。

 

 逆に、生きるためには生きるための意思を持たなければいけないというのもキツい。

 俺は俺の意思で、みんな何もかも忘れていると分かった上で、母の母乳を必死に飲み、自らの命を繋がなければならない。

 

 本来ならば、野性的な本能が勝手にやってくれる、「赤子が生きる」という行為を、すべて己の意思によって行わなければならないのだ。

 死にたい。楽に死ねない。生きたい。楽に生きられない。ああもう、死にたい。

 

 そんな思いを抱え続けている内に、どっかで壊れた。

 どっかというか、タイミング自体は覚えている。

 

 本当に、何でもない瞬間。誕生日でも、誰かに会ったときでも、眠る前の頭が妙に冴え渡る時間でもなく。

 ただ、町を歩いている時に、「あ、こわれた」と自分の声でアナウンスが入った。

 

 でも、それは僥倖だった。

 壊れたと分かっていれば、己を操作することはそう難しくないのだ。

 

 だから、俺は他の方法を知らないから、前世と同じ流れをトレースすることにした。

 いくつか違った点はあるかもしれない。アグライアと喧嘩し合う仲にならなかったのもそのひとつだ。普通の同僚として、俺と彼女は互いに煽りのない丁寧な言葉で話した。

 

 物静かな人物のほうが演技が少なくて済むから、前世ほどひょうきんな人格にはならなかったと思う。それでもいつの間にかイリスが懐いてしまう様子には、一周回って、彼女が俺以外と出会うことのない不遇な人生を歩んでいるのだと気が付いた。

 

 それでも俺は、「俺」として生きた。

 「俺」ってなんだろうって何回も思った。みんなが見ている俺は、きっと「俺」だ。でも、俺が知っている俺は、もう壊れたナニカでしかなかった。

 みんなが俺を「俺」と思うから俺は俺なのか、俺が俺を「俺」と思わないから俺は俺じゃないのか、そもそも人格ってなんなのか、俺にはさっぱり分からなかった。

 「あなたらしくない」なんてセリフが存在するが、それが正しいなら、俺はきっとみんなが観測する俺らしい俺の集合なのだろう。本人がぶっ壊れているのだから、他者の評価をアテにするのは妥当だと思う。

 

 それはつまり、一番わかりやすく言ってしまえば、俺なんて存在しないのだ。

 

 少なくとも、言えることがある。

 人は、他者と同じ時間軸で生きるべきだ。人は誰かと「一緒に」生きなければいけない。

 歴史を共有できなければ、すぐに違和感が生まれる。自己の連続性が途端に疑わしくなる。世界に紛れ込んだ異物のように思えてくる。そしていつか、心が耐えきれなくなって壊れてしまう。

 

 俺が俺であるという証明をするには、俺一人では根拠が足りなくて、不安になってしまう。

 人は、そういう弱い生き物だから、ひとりでは生きられないのだ。

 誰かに見てほしいのだ。

 

 なあ。

 誰か、俺を見てくれよ。

 

 俺が冷静でないこと、これでよく分かってもらえたと思う。

 

 

 

 


 

 

 

 

 アグライアにとって、傭兵から選ばれた、新しい騎士団の中心となるその人物は、不思議の一言に尽きた。

 

 初めて会ったのは、彼が17、つまりアグライアが19のときである。

 お互い成人しているとはいえ、20にも満たなければまだまだ未熟者である。アグライアは元宮廷騎士団の父に育てられたため既に成熟していたが、彼は農村出身の傭兵であり、礼儀作法から戦闘技術まで、粗があってしかるべきであった。

 

 けれど、噂によればその傭兵は既に千の修羅場を乗り越え、ただ一度の失敗もなく、それでいて驕ることなく日々教会に通い詰めているらしい。

 その物腰も穏やかと聞いており、アグライアはよもや河原から原石が出てきたかと期待していた。

 そして、その期待は良い意味で裏切られた。

 

(物腰が穏やか? 間抜けか、盲目の言葉だったか。これほどまでに熱く燃えたぎり、寸分の緩みもなく、それでいて自然体のように息づく男がいるとは)

 

 何よりも惹かれたのは、その目であった。

 激情。憐憫。絶望。どんな言葉を形容しても似合ってしまいそうな、奥深いその瞳。

 その奥を覗きたいと思ったが、あいにく男は、会話の時も目を逸らし気味にする癖があった。

 

「貴公、話す時は相手の目を見るものだ。私は良いが、王や貴族は許すまい」

「……そうか? すまん、次からは気を付ける」

 

 後日、アグライアは自分の言った言葉を生まれて初めて後悔した。

 彼の眼に見つめられると、まるで自分が丸裸にされてしまったような、そんな心地になる。自分らしくもなく、まるで乙女のような恥じらいの感情を覚えさせられ、「見つめ合う」、行為そのものでなくこの言葉だけで胸が苦しくなるようになった。

 

「すまない。貴公、実は私は目を合わせるのが苦手だから、問題がない場では合わせないでくれると……いや、だがしかし……いや……合わせ……ううむ」

「ええと、どっちだ?」

「……ええい、既にすべて覗かれた身。腹をくくろう。目は合わせてくれて構わない。私が克服すべきであろう」

「克服できるといいな、頑張れ」

 

 ああもう、この男は!!

 アグライアはその傭兵が苦手になった。

 苦手だが、嫌いというわけではなかった。

 

 付け加えれば、己が隻眼……傷モノであることを、名誉の勲章でなく、初めて後悔した。

 

 

 

 


 

 

 

 

「貴公、研究所の所長の席を蹴ったというのは本当か?」

「ん? ああ、なんだかんだアグライアの下のほうが働きやすいからな。よく分からない施設を任されるくらいなら、宮廷騎士団副団長の方がしっくりくる」

「そ、そうか。……そうかぁ。それは、嬉しいがな、聖女様の(つがい)となったのだから、あまりそういった勘違いされそうなことを言うものではないぞ」

 

 お前の下のほうがやりやすいと言ったら、あからさまに嬉しそうにしながら注意してくるアグライア。

 なんか前回までと違いません?? 銀髪のポニテは相変わらずだが、嬉しそうにするとピコピコ揺れるのが子供っぽい。お互い良い年のはずなんだけどな。

 勘違い、というのがどういう意味かはよく分からなかったが、とりあえず面倒なのでそのままに。

 

 前世よりもより一層上手く立ち回ったからか、国営の研究機関のトップに据えられそうになった。聖騎士団率いたお礼のつもりなんだろうけれど、天下りとか嫌いだし、前回と違う役職につけられて仕事内容が変わるのが面倒だったので蹴った。

 謙虚じゃねえよバカ。奉仕精神でもねえよ。マジで違う流れって面倒なんだよ。いやまあ、同じ流れは逆にデジャブが多くて精神的に辛いけど。

 

 あ、魔王? 倒しました。勇者が。毎回同じ感じだしカットで。

 あとイリスもちゃんと助けました。大規模作戦のところ。

 

 やっぱりイリスは可愛いし、懐いてくれるちっちゃい子ってのは愛らしい。

 今回も前回までと同じく結婚し、新婚らしくイチャイチャしてますとも。

 ちょっと俺の趣味が荒ぶったかもしれないけれど、受け入れてくれたからセーフ。いやね、人生何周目になろうとも、男の性の探究心は終わりがないんですよ。

 

 あとは、勇者に結構絡まれた。

 人生繰り返す内に少しずつ強くなっているのは自覚してたけど(もちろんちゃんと鍛えたから)、その強さに目を付けられて、バトルジャンキー勇者が「戦おう!?」って絡んでくる。

 もちろん、基本的に負ける。それでも少しは保つし、そのぐらい近いレベルで戦える人が少ないらしくめちゃめちゃ絡まれる。

 まあ、魔王倒してさすらいの旅に出てくれたおかげで少し静かになったけど。

 

 なんだかんだ、毎回少しずつ流れが違うおかげでやっていけているのかもしれない。

 これで全部同じだってんなら、もう一瞬で病んでるだろうし。

 

 まあ、今が病んでないかと問われれば、病んでるんだろうけれど。

 

 

 

 


 

 

 

 

「隠し事、してますよね?」

「……」

 

 それでも、いくつかのことは同じ流れになる。もちろん、自分でそれを狙っているんだけど。

 前回はここで誤魔化そうとして禁止令が出された。相変わらずイチャイチャしているし、むしろ前回以上に性騎士してるから、お触り禁止令は辛い。

 

 ちゃんと話そう。話して、同じ流れでも、イリスには正直でいよう。

 それがきっと、「俺」らしいだろうから。

 

 ひとつひとつ、丁寧に話した。

 一度話したことだったから、前回よりもスムーズに話せたと思う。

 

「……私は、結局忘れてしまったのですね」

「ううん、いいんだ。もう、しょうがないよ。人にどうにかできるものでもない。それでも、俺は何回だってキミを救うし、キミを愛するよ」

「でも、それでは、それではあなたが……!」

 

 泣きじゃくるイリスを俺が抱きしめる。

 前回とは反対の役回りだ。

 

「──俺のことは、もういいよ」

 

 自分でも驚くくらい冷たい声が出た。

 俺は、これほどまでに俺を諦めていたのか。

 

「いやです……っ!」

「何を言っても、変わらないんだ」

「いや、です……。あなたが、救われないのでは、意味が……ッ」

 

 絞り出すような声でイリスは慟哭する。

 俺だって、泣いたさ。怒ったし、笑ったし、認めてみたし、諦めてもみた。

 でも、何も変わんないんだわ。

 

 もう俺の楽しみなんて、イリスといちゃついて、えっちなことして、快楽に耽るぐらいしか残っていない。

 

「それで、あなたが救われるのなら……」

 

 救われんのかなぁ。

 分かんないけど、それぐらいしか救いがないのも確かだ。

 

「──っ」

 

 イリスは泣きながらキスをしてきた。

 あどけなく、ぎこちなく、舌を絡め、でもそれがどこか妖艶で。

 少しだけ、しょっぱかった。

 

 前回は禁止令の分2日ロスがあったから……今回確実性を求めるなら、5日間か。

 その間だけ、俺は辛いことを忘れることができた。

 

 

 

 


 

 

 

 

「貴公のような性騎士が伴侶では、聖女様は大変だな」

 

 ……あ、その呼び方は変わらないんだ?

 

 5日間休暇を取り、その一ヶ月後におめでたの報告をしたところ、アグライアに詰られた。

 といっても、軽蔑の色は弱い。本当にイリスを心配している感じ。まあ、四日目あたりからイリス涙目だったしな。でもこれが俺達の夫婦の形だから、どうしようもない。

 

「その……不躾なことを聞くが、聖女様が身重となって、貴公は、その、溜まったりしないのか。……それだけ旺盛で」

「本当に不躾だな……。まあ、大丈夫だろう。多分」

 

 イリスはもしかしたら、俺とそういうことをするのを負担に思っていたりするのだろうか。流石に、5日間ぶっ通しはよくなかったかもしれない。

 俺が関わったせいで、イリスは不幸になっているのかな。なってるんだろうな。何なんだろうな、俺は。

 

 今回、早めに話したことで禁止令はなかった。

 でもこれって、何の意味があるんだろう。

 

 こうやって少しずつ、すべての物事が「俺」に都合よく回っていったとして。

 俺はそのことに、何の意味も見出だせないのだ。

 同じように出会って、同じように救って、同じように愛して。問題ごとだけは回避していって、それって何のためにやってるんだ?

 

 端的に言って、俺って何のために「生きて」いるんだ?

 そもそも、これは「生きて」いると呼べるのか?

 

 目的意識も、生への渇望もない。

 ただ、「前回と同じように」ということだけを掲げ、円滑に世の中が回るようにしたとして。

 そこには何の意味もない。

 

 みんな、「生きる」ために生きている。

 でも俺だけは、「前回と同じ」ようにするために生きている。

 

 なんだろう、この、言葉にならない感じ。

 ……虚無感。言葉にするならきっとそれだ。俺の人生には何もない。

 

 俺だって、生きたい。

 でも全部なかったことにされるんだ。何も変えられないんだ。

 

 そう、「生きる」ことってのは多分、「変える」ことだ。

 だから、「何も変えないように」生きている俺では、「生きて」いるとは言えないのだろう。

 何かを変えて、誰かに影響を与えて、その影響によって誰かが別の誰かに影響を与えて……。そういう、波紋の広がり、影響力、変化の持続、それらが人の生を評価する。

 

 ──じゃあ、俺はいったい何なんだ?

 

 

 

 

*****

 

6.

 

 

 気が付いたときには、赤子になっていた。

 もう、限界だった。同じ生を繰り返せばいいだなんて、口が裂けても、四肢をもがれても言えないだろう。

 

 一周目33年。

 二周目32年。

 三周目81年。

 四周目81年。

 五周目81年。

 

 三百年だ。

 いや、最初の2周はまだ内容が違ったからいいか。

 三周目から五周目、240年間、同じ生を繰り返した。

 

 確かに、俺は言った。何回だってイリスを救って愛すると。

 とんだ大馬鹿だ。

 

 こうして、赤子に戻って、それでも貫けるというのか?

 夢物語なら、勿論イエスだ。できるかと問われれば、誰だって最初はイエスだ。

 だけど……もう、無理だ。心が折れた。

 

 何の苦労もなく俺が同じ生を繰り返したとでも思うだろうか?

 何の苦労もなく傭兵界の伝説になれると思うだろうか?

 何の苦労もなくアグライアが呆れるほどの走り込みを続けられると思うだろうか?

 何の苦労もなく魔王によって強化された魔物たちを斃せると思うだろうか?

 何の苦労もなく勇者と肩を並べる強さを手に入れられると思うだろうか?

 

 もしそう思うなら、素直に死んでほしいと思う。

 ……おっと、死ねない俺なりのジョークだ。真に受けないでくれ。はは、ジョークになってるかももう分かんねえけど。だって頭働かねえもん。

 

 血反吐を吐く思いをして、その上で周回ごとにトレーニングの方法を改良して、そうしてようやく辿り着けたんだよ。

 

 そんで、その頑張りも全部、死んだ瞬間にガキにリセットされる。

 素養としては、何もしなければ平凡な兵士で終わる程度のガキに、だ。

 

 ふざけんな。

 やってられるか。

 こんなの、俺じゃ無理だ。

 

 何回も言ってるだろう。主人公じゃねえんだよ。折れない心なんて持ち合わせてねえんだよ。それでもここまで頑張ったんだよ。

 もう、いいよ。

 

 ……イリスは、たすける。

 あの大規模作戦のときだけは、忍び込んで、副隊長に化けたやつをぶった斬る。

 そうしなければ、そもそも人類が滅びるから。でも、それだけだ。

 

 だって、俺いらねえもん。

 勇者がいて、あの戦いをイリスが乗り切れさえすれば、人類は負けない。いらねえんだよ、俺。本当に。

 

 そこだけこっそり助けて、あとはもう故郷でのんびりやる。

 疲れたんだ。頑張ったんだ。限界なんだ。いいだろ、そんくらい。

 

 どうしようもなく苦しくて辛いのに、泣きたいのに、涙は一滴として出てこなかった。

 きっと人は、一生の内に流せる涙の量が決まっているのだ。

 

 

 

 


 

 

 

 

「兄さん、今日は何する?」

「んー、釣りでも行くか」

「いいね! 釣り! 私もやりたい!」

 

 幼馴染のディオネがキャッキャッと喜ぶ。

 同い年だけれど、俺の精神年齢のために兄と妹のような関係になっている。奇しくも、イリスと同じように俺を兄呼びしてくる。お兄様じゃなくて兄さんだけど。

 

 イリスが死ぬのは俺が32のとき。それまでに副隊長に化けていた魔物を殺す程度の実力をつけるのは造作もないことで、幼少期はゆっくりと過ごすことに決めた。

 

「兄さんズルしてない? 場所変わってよ」

 

 爆釣の俺を疑ったディオネがむくれている。場所の問題ではないのだが、可愛い妹分の頼みなら断る理由もない。

 

「ディオネ、場所じゃなくて釣り方にも注意してみよう。できるだけ、釣り竿に意思を乗せないんだ」

「何言ってるかわかんない!!」

 

 だよね。

 俺も何言ってるかわかんない。

 

 長年戦場にいると、武器だの道具だのが自分の身体の延長のように扱えるようになる。

 俺はその感覚のまま釣り竿を思うように扱えるが、この感覚を言語化しようとすると困ってしまう。

 

「なあディオネ」

「うん?」

「平和だなぁ」

「……? あったりまえじゃん」

 

 当たり前じゃない時代が、じきにやってくる。

 

 

 

 


 

 

 

 

 金が必要だと思った。

 大規模作戦に忍び込んだとて、魔物の皮を裂ける得物がなければ困ってしまうから。

 

 そんなわけで、少しずつ体を鍛えて、前世ほどではないが、16になってある程度体ができあがってから、休みの日に傭兵の依頼を受けるようになった。

 当然、そんな大口のものは受けない。小遣い稼ぎだ。

 

 ちなみに、ディオネとはもう結婚している。

 田舎の村では、結婚しない理由がなかったのだ。年が近くて、仲が良い。家の付き合いもあるし、10頃で話がまとまって、成人した時に初夜を迎えた。

 ついでに言えば、田舎は娯楽が少ない。そんなわけで、あとはお察しである。

 

 イリスへの申し訳無さを感じないわけではなかったが、そもそも今回はイリスにはほぼ関わらない予定なのだ。それに、理由もなく拒絶すればディオネや彼女の家族を傷付けることになる。

 行為の回数が増えるほど罪悪感は減った。結局、そんなものだ。

 

 白い肌のイリスとは対象的に、ディオネは日に焼け、小麦色の肌が眩しい。方向性は異なるが、肩ほどまで伸びた黒髪と笑顔が愛らしい、可憐な少女であった。

 240年間想ってきたイリスへの愛情が褪せるわけではないが、直近の10年間、肌を重ね、互いに助け合い、そばで仲睦まじく過ごしたディオネへの愛情も、ゆっくりと俺の中に根付きつつあった。

 

 終わらぬ休日のような村でのディオネとの日常は、突然の災禍にも見舞われることなく、ゆっくりと俺の心を癒やしていった。

 久しぶりに、意識せずとも自由に息を吸えるようになった。まあ、本来当たり前のことなんだが。

 

 

 

 


 

 

 

 

 その男を初めて見たのは、とある山賊討伐の任務だった。

 

 その山賊は、ある大きな組織崩れの者達によって構成され、討伐にはかなりの戦力が必要と見られていた。

 親の地位もあり、自身の実力もあり、あとは何かしらの戦功さえ上げれば宮廷騎士団の副団長の地位を約束されていた私は傭兵向けに出されたその依頼を受け、強者(つわもの)達とともに討伐の場へ向かっていた。

 

「貴公」

 

 その男は、粗末な身なりをしていた。

 装備だって貧弱で、周りにも溶け込んでいない様子で──それでいて、その場で一番戦い慣れている(・・・・・・・)ことにアグライアは気が付いた。

 強さで言えば、アグライアのほうが上だろう。膂力で言えば、他のいくらかの傭兵たちに劣っているだろう。だけれど、不思議と目を引いた。だから声をかけた。

 

「貴公だ、貴公」

「……俺?」

 

 ようやく振り向いたその男は、若く、しかし不思議な瞳をしていた。

 

「……アグ、ライア」

「なんだ? 私のことを知っているのか? ……できるだけ、内密に頼む」

「あー、いや……、あー、うん。少しだけな」

 

 口ごもるような話し方はハッキリしなかったが、話してる最中、目を逸らさないことには好感が持てた。

 そして何より、その瞳を覗き込んでいると、なんとも言えない深み、魅力に、少し惹かれるものがあった。

 

 そして、男が山賊の頭領を斃した。

 本来は、アグライアが得るはずの戦果であった。

 

「……アグライア、もしかしてコイツ、お前が倒したほうが良かったか……?」

「私が狙っていたことは認めよう。そして、私以外に勝てる者がいないとも思っていた。だが実際に首を取ったのは貴公だ。胸を張れ」

「えぇ……いやでもこれ、ここで戦果上げてないとお前困るだろ」

 

 男は、ひどく申し訳無さそうにアグライアを窺う。

 頭領を討ったという戦果が欲しかったのは事実だが、それは男にとって関係のない話だ。

 

「……いや、関係なくないんだよ。流れが……、あー、クソ、ミスったな。……この戦果、お前にやるわ。俺、金が欲しいだけだし」

「馬鹿にしているのか……?」

 

 アグライアからすれば、討伐者がその戦果を受け取らないというのは、金銭でなく名誉に関わる話であった。それを譲られるということも、同様に。

 が、話をすればするほど、男が名誉へのこだわりが一切なく、また同時に、どうしてもアグライアに戦果を譲りたいという意思を持っていることに気付いた。

 

「あぁ……もう、分かった分かった。貴公が折れそうにないし、私としても名誉を除けば悪い話ではない。ありがたく、その話に乗らせてもらおう」

 

 最終的にアグライアが折れると、男は心底ホッとした表情を浮かべた。

 

「その代わり、私からの礼も受け取れ。祝勝会……まあつまり、食事でもどうだ」

「……久しぶりだな」

 

 驚いたような顔をして「久しぶりだ」という男を見て、アグライアは「これだけの腕を持っていてロクに外食もしないのか」と少し呆れた。

 

 それからもしばらく、アグライアは傭兵向けの依頼にこっそりと参加するようになった。目立つ容姿であったため、甲冑なり、仮面なりをつけて隠しながらではあるが。

 男は必ずしもいるわけではなかった。本当に、たまに金を稼げれば十分なのだろう。

 気付けば、ダフネという女傭兵と三人、出会った時は固まって行動するようになっていた。

 

「貴公のことはなんと呼べばいい」

「あー……、俺は、誰なんだろうな。好きに呼んでくれていいよ」

「何だそれは? まぁ良い、傭兵殿と呼ぼう。貴公を超える傭兵には出会えなさそうだしな」

「やめろやめろ。大したことねえよ、俺なんて」

 

 アグライアにとって、その男は最高の傭兵であり、頼りになる仲間であり、心を休められる東屋であった。

 しかし男は、普段は大海のような落ち着きを見せるくせして、時おり少年のように恥じらうことがあり、それは見ていてアグライアを和ませた。

 

「アリア」

「なんだ」

「ダフネが呼んでいたぞ」

 

 アグライアは、ダフネと男に「アリア」と呼ぶことを許した。

 それは、傭兵としての偽名でもあり、また同時に、二人の仲間へ気を許している証拠でもあった。

 そのうちダフネが教会所属の騎士となり、己も教官としての仕事が忙しくなって、三人で傭兵の仕事をこなす機会も少なくなってきた。

 

 そして、戦争が始まって2年目のとある大規模作戦を区切りに、男は姿を消した。

 

 

 

 


 

 

 

 

「あなたは、誰なのですか?」

 

 イリスが震えを隠して俺に問うた。

 横には一番隊副隊長の服を着た魔物が両断されて倒れている。

 そりゃまあ、突然知らない人が仲間を斬って、でもその仲間は魔物でしたってなったら混乱するし恐怖で震えるよな。

 それでも誇りを失わないその姿は、やはりイリスは強い人だと俺に教えてくれる。

 全部投げ出した俺とは大違いだ。

 

「俺は、誰なんだろうな」

 

 俺が一番聞きたい。

 俺は「俺」か? ちゃんと「俺」をできているのか?

 何を失ったら「俺」じゃなくなるのか。何を保てれば「俺」なのか。

 

「この先に、敵のアジトがある。野戦病院に偽装されているんだ。一旦仲間のところへ帰って、それを報告すると良い」

「あなたは、一体、なぜ……」

 

 なぜ、のあとに続く言葉はたくさんあるんだろうけれど。

 ゆっくり、懇切丁寧に、何から何まで説明したら、俺は狂ってしまうだろう。

 だから、何も言わないことを選ぶのだ。

 

「イリス、幸せにな」

「……?」

 

 俺じゃ、もうだめだ。いつかキミを傷付けるだろうから。

 それでもただ、幸せを願うことだけは許してください。

 

「……傭兵殿。貴公は、一体誰なんだ?」

 

 帰り道をのんびり歩いていると、慌てて追ってきたのかそこら中に枝や葉を引っ掛けたアリアが息を切らして問うてきた。

 

「さあなぁ。俺は、誰なんだろうな」

 

 なんなら、俺は何なんだろうか。

 死ぬ度に赤子の頃に戻る存在がいたとして、果たしてそれを人間と呼んでいいのだろうか?

 

「ダフネによろしく。あと、アリアも行き遅れないようにな。ちゃんと好きな人と結婚してくれ」

「──っ! 傭兵殿、私は……!」

 

 ダフネはどうすんのかね。また何だかんだニケと仲良くなるんかな。

 何にしても、あっけねえなぁ。前回までの俺がやりたかったことって、こんな適当でもできちまうんだな。なんだったんだろうな、あの時間は。

 

「あ、パパやっと帰ってきたー」

「ママがカンカンだよー」

「よーへー? あぶないって怒ってた!」

 

 村へ帰ってきた。遂に、傭兵やってたことがディオネにバレたらしい。やべぇ。

 まあでも、許してくれよ。全部終わったからさ。

 

「──おかえりなさい、パパ」

 

 全部、終わったんだ。

 

 ──そしてまた、始まる。

 

 

 

 


 

 

 

 

 ……よし、いい加減向き合おう。

 

 50歳になった。前回までを鑑みれば、残り30年。今回はいつもより鍛えていないから、数年ほど短いかもしれない。

 もう、長男の子供、つまり俺の孫も生まれ、俺は田舎のおじいさんをやっている。長男はディオネが20の時の子だからなぁ。その後更に3人生んでもらったわけだが、それはまあ、イリスの場合は一人しか生んじゃいけなかった分の反動と、田舎の爛れた性生活のせいだと思う。精神年齢は、肉体年齢の前には簡単に膝を折った。おじいちゃんなんだけどな……。

 いつの間にか村の教師的な役職についた俺は、安定した生活を送っている。おかしいな、我が家は代々農家だったと思うんだけどな。畑は長男に譲りました。

 

 さて、こうした村でのゆったりとした生活は、今までの周回と内容が違って新鮮だったというのもあるのだろうが、俺の最底辺まで落ち込んでいたメンタルを癒やすのに非常に役立った。

 いや、一時期は自己同一性とか、人間の生きる意味についてまで思いを馳せていたからな。やべえよ。人間、メンタル落ち込むとどこまでも混沌に染まれるよ。

 

 精神疾患の患者に対して田舎の自然の中で療養というのはたまに聞く話だが、あながち間違いではないらしい。

 とりあえず、この抜け出し方の分からない死に戻りループに対して、少し真面目に向き合う気力は湧いてきた。

 

 まず、この超常の力に対して剣で対抗というのはナンセンスだろう。超常の力に一番近いもので俺がよく知っているものと言えば、魔法しかあるまい。

 だから、魔法的な観点から死に戻りについて考察してみるべきだ。

 

 聖騎士になるため勉強していた頃を思い出せば、人間というのは「肉体」、「精神」、「魂」の3つによって構成されているらしい。

 肉体は、言葉通り身体のこと。まあ、どこまでが肉体なのか、切り離した身体は肉体なのかってのは難しい話で、今も論争や実験が盛んらしいけれど。

 精神は、人格の部分だ。肉体だけならば、生者も死者も変わりない。散々上下した俺のメンタル、それこそが精神と呼べるものだ。

 そして、魂。あるいは意思と唱える人もいる。魂には性格や思考は無いらしい。ただその人の中核をなす部分。その人がその人であると証明する核の部分、というのが通説だ。意思と思考って違うんかね。魔法を扱うための魔力は、魂に付随しているらしい。

 

 たとえば、イリスを殺すための「とっておき」と呼ばれたあの魔法陣は、その魂に何らかの妨害を行ったのだろう。思考をする精神と、魔法を行使する魂の連携を解除したり妨害したりとか。

 

 そして、3つの構成要素の関係として、魂が肉体に宿ることで精神が生み出されるというものがある。

 そのため、その存在が生き物として活動する上では、精神の部分が重要視される。また、肉体が無ければ精神を保護する場所がなくなるから、生命活動に肉体は不可欠だ。

 一方、生き物が死んだ後は、肉体は放棄され、魂だけが別の場所へ行くとされる。そしてまた魂が別の肉体へ宿り、生命活動を終えるまで一つの生き物として振る舞うのだ。

 どれが本質か、というのは難しい話だ。実態は漂うだけの魂を本質と呼んでいいのか。しかし、魂がなければ肉袋でしかない身体を本質と呼んでいいのか。生きている間は中心部分ではあるけれど、魂と肉体なしには存在し得ない精神を本質と呼んでいいのか。

 

 俺の場合は、乖離した魂が何故か過去の肉体に宿っている。

 時間関連の魔法は……分かんないっすね。駄目じゃん。

 

 とりあえず、3つの構成要素にはたらきかける方法を知るべきかもしれない。

 今まで全然気にしてこなかったけど、イリスに使われたあの魔法陣やばくない? 明らかにぶっ壊れ技術だよね? 設置型だけど、設置したの魔物じゃなくて古代の人々の可能性が四捨五入しても残る?

 どうにかして調べたいけど……今回は、イリスを助ける前に念の為って壊しちゃったんだよな。俺のバカ!

 

 ……認めたくないが、もう一回死に戻る必要がありそうだ。

 寿命までに、今回は色んな書物を読んでおこう。特に、時間関連と、3つの構成要素関連のものを。

 

 

 

 

*****

 

7.

 

 

 気が付いたときには、赤子になっていた。

 ……よし、切り替えていこう。赤子の時間は、すべて思慮に回す。

 俺ほど真剣な表情でお乳を吸う赤子もいないと思う。

 

 自己嫌悪しそうになるのが、心のどこかで、次はイリスとディオネどちらを妻とするべきかと考えている自分がいるところだ。

 ディオネと共に一生涯を終えても、イリスへの愛情は無くなることがない。あれだけ辛くて苦しい思いをして、その先でようやく結ばれる相手だとしても、だ。

 けれど同時に、近しい思い出というのはそれだけ鮮やかに蘇る。イリスのような絶世の美とは種類が異なるが、ディオネもまた可愛らしく、男性の欲を十分に満たす魅力があり、また彼女だからこそ与えてくれる安心感がある。

 そして、二人の魅力的な女性と、俺は選択によって結ばれることができる。できてしまう。選択肢があるということは、流されることができないという意味だ。

 俺は俺自身の意思で、互いに愛し合った過去のある、大切な女性を選ばなければならない。……いや、彼女たちだけの話じゃない。その子供も、その孫も。俺はその顔を知っているし、ひとりひとりの性格をよく覚えているし、名前だって考えるために何日も費やした。

 片方を選ぶということは、もう片方をすべて捨てるということだ。子供たちの場合、存在を消し去ることに等しい。

 

「……まあ、去勢でもしろって話なんだが」

 

 そんなクズのような選択をするくらいなら、そもそも選択肢を一切選ばなければいい。

 俺は、一人で生きていくことを決めた。

 

 

 

 


 

 

 

 

 精神が老熟したって、肉体が若ければ、ホルモン諸々の関係で性欲は生まれる。

 だけど、そんなもん娼婦にでもぶつけてりゃあいいのだ。

 娼婦を抱くのは実は初めてだ。一、二周目は童貞、そのあともイリスかディオネのどちらかだけとしかそういうことをしなかったから、最初だけ緊張した。

 が、まあ行為自体は慣れているもので、最初にそういう場所に慣れさえすれば、それ以降は特に困らなかった。

 

 今は、傭兵として戦場に身を置いている。

 村にいればディオネと結ばれることになる。俺が一人で生きていくために手っ取り早いのは、村を出て、その上でイリスと出会わないよう聖騎士団に入団しないことであった。

 

「……んで、どうしてこうなった」

「あん?」

 

 気が付いたらダフネと関係を持っていた。

 お酒と若さって怖い。おじいちゃんはやくおじいちゃんになりたい。

 どうして性欲を増やす魔法はあるのに抑える魔法はないんですか? 必要性? なるほど、ブチ切れそう。

 

「ああそういや、ダフネ、聖騎士団合格おめでとう」

「いやー、どーもどーも!」

「それで、聖騎士団って一般人に酒と魔法使ってヤることを推奨してんのか? ぁあ? それとも合格したのは性騎士団か?」

「逸般人相手なら問題ねーだろ」

 

 あるわバカ。いやあるのかな。どうなんだろう。

 身元も怪しいような俺に、お酒と魔法の力をちょっと借りて抱かせて、果たしてそれはアウトなんだろうか。

 

「細けぇこと言うなよ。傭兵なんて、ヤッてない男女パーティーの方が珍しいって言うぜ?」

 

 もっと自分の希少価値を大事にしよう。それはもう立派なステータスだから。

 決して、関係を持ったから付き合うとか、結婚しろとか、そんなつもりはないのだろう。でも逆に、そういう関係のままという方が不健全な気もするが。

 というか、コイツこんなホイホイ男と寝るタイプだったのか。もっと身持ち固いかと思ってたんだが。

 

「……今はアンタとしか寝てねーし、他のやつと寝る予定もねえよ」

 

 相棒に裏切られた気分で沈んでいる俺に、プイとそっぽを向きながらダフネは言った。

 ……まあ、俺も溜まっていたから正直助かった面はあるが。それでも相棒がすぐ男と寝るやつっていうのは、あまり良い印象でない。……娼婦を抱くわ、死に戻りとはいえ別の女性と結婚するわ、そういう意味では俺もロクなやつではねえか。人のこと言えた立場じゃなかった。

 

「あーもう、わっかんねえやつだな!? 分かったよ、他のやつとは寝ねえし、アンタとアタシは仕事上の、性欲を処理し合うだけの合理的な関係だ。それでいいだろう?」

 

 何が良くて何が悪いか分からなくなって、「仕事」という傭兵の弱い言葉を出された俺はつい頷いてしまう。

 仕事なら仕方ない、そういう思考回路に染まってしまっているのだ。

 

「……アンタは、こんな、顔に傷跡ある女抱いて気持ち悪くねぇのか?」

「別に、ダフネは顔に傷あっても綺麗な顔してんだろ」

「……そういうところだから」

 

 そういうところらしい。

 

 

 

 


 

 

 

 

「……それで、傭兵殿は我らが聖騎士団の団員と爛れた関係にあると聞いたが」

「……事実無根です」

 

 ビジネス的な関係であって、爛れてはいないです。多分。四捨五入すればきっと。

 

 アリアとは、前回とほぼ同様の出会い方をした。

 山賊の手柄の下りは面倒だったからそもそも参加しないでいたが、別の依頼で被った。あなたそんな傭兵の依頼受けてたんですか? 騎士団の仕事しようよ。

 

「その事実無根の乱痴気騒ぎに誘われた私はどうすればいいと思う?」

「……高級な食事処で話す内容か、これ」

「ほう? つまり貴公は、続きはベッドの上で話そうと言うわけか?」

 

 タスケテ!!(絶叫)

 つかなんであのアホ相棒はアリアに声掛けてんの? 上官だろ? 上官にセフレ紹介とかやっぱお前性騎士だろ。いやバカだろ。

 

 アリアもいつになくイライラしているのが分かる。そりゃそうだ。誰だってそうなる。俺だってそうなる。

 前回がわりと友好的な関係を保てたから、より一層、その前の罵倒されまくっていた頃を思い出して胃が痛くなる。

 アリア! 自分を取り戻して! 闇に飲まれちゃ駄目!

 

「ところで、貴公は酒に弱いと聞いたが、本当だろうか?」

「……ぁ、うぇ?」

 

 薄く微笑むアリアの顔を最後に、俺の意識は闇に飲まれた。

 目が覚めたら、ダフネを合わせて3人で宿屋にいた。

 

「……」

 

 あのさあ。

 

「……どうしてこんなことをしたんですか?」

「ん? まあ、ストレス発散だ」

 

 ウソつけ。あんた、前回とか前々回はこんなん必要なしにメンタル管理できてたでしょ。

 

「貴公と関わることで生まれるストレスがあるからな」

 

 何だそれ。関わらなきゃええやん。

 

「そういうところだぞ」

 

 そういうところらしい。

 

 しかし、ダフネの言う通り一人で貴公の性欲に応えきるのは難しそうだ、とアリアは笑った。そのダフネは横でバカみたいに口を開けて眠っている。

 もう、仲間二人と関係を持ってしまったことに関しては気にしないことにした。……元々大して気にしていなかったのかもしれない。もはや、それだけの情動が残っていなかったから。

 

 最近は、もっぱら煙草を手放すことができなくなっている。

 

 

 

 


 

 

 

 

『あなたは、他の男性の方のようにお酒や煙草はしないのですか?』

『もちろん、イリスと長く一緒にいたいからな』

 

 煙草は嫌いだった。

 他にも、酒は弱いし、ギャンブルは苦手でむしろ安定を選んだし、女だって抱かなかった。

 

「……イリス」

「女二人を横に侍らせて、他の女の名前か?」

 

 そんなんじゃねえよ。

 ただ、煙草を吸ってる時は、幸福な思い出が鮮明に蘇る。

 あの頃は、いつかこいつを泣かすってキレ散らかしてたっけ。まさかこんな関係になるとは思っていなかったし、泣き顔も散々見たから恨みは残っていないけど。

 アリアの強さはハリボテだ。ちょっと虐めてやればすぐに泣き出す。事後は平気そうな顔でこうしてジョークも言えているが、数刻前の表情を思い出せばその喧嘩を買う気にもならない。

 

 しかし、国の騎士団員が二人も、こんなどこの馬の骨ともしれない男と寝てていいんですかね。うちの国の治安が心配だよ俺ぁ。

 

「別に、不特定多数を相手にしているわけでもあるまいし、さほど問題にはなるまい。それに貴公は、馬の骨と呼ぶには名が売れすぎているぞ」

 

 裏での話だろそれ。

 世間一般から見たら、ただのくたびれたオッサンに違いない。まだ30いってないけど。オッサンじゃないけど。

 

「しかし、騎士団の話、本当に良いのか?」

「あぁ。俺は魔王討伐にはほとんど関わる気がないし、俺がいなくても勝てるさ」

 

 ほとんど。イリスの時以外は。

 そうだな。こんなにやる気が湧かねえのも、俺が誰でもない存在だからだと思う。

 勇者みたいに替えの効かない立場なら、使命感ってやつに酔えたのだろうが、あいにく「何をしても大勢に影響がない」せいで、何でもできてしまう。いざなんでもしていいよと言われてみれば、人は途方に暮れてしまうものだ。

 

「……そうか。実は今日は、貴公に別の話を持ってきた」

「別の話?」

 

 どうやら、どこかの回で俺が所長に据えられかけた研究所が、このタイミングで設立されていたらしい。

 アリアは、俺が魔法関連の研究をひとりでしていることを知っている。隠していないしな。だがそれは個人でやるには限界があるし、人事に捩じ込んでやるから、傭兵などやめて研究所員になったらどうかという話だった。

 

「しばらくは戦争技術の研究をさせられるかもしれないが、空いた時間や戦後ならば個人的な研究もできるだろう」

 

 渡りに船であった。

 いくつかの確認ごとをし、書類を作り、俺に研究所の一席が与えられることが決まった。

 

 

 

 


 

 

 

 

 歴史を知っている側からすれば、5年ほど我慢すればその後は戦争も終わり、自由に研究できることが分かっている。

 少し前に進んだという実感があったからか、煙草の本数も半分程度に減った。

 

 そして、俺は死に戻りで初めて、わざとイリスを危険の一歩手前まで晒させた。

 

 イリスが野戦病院に連れ込まれ、魔法陣が発動させられるその時まで隠れていたのだ。

 もっとも、魔法陣を発動させた後の魔物たちはヘラヘラと油断しきっているし、イリスが泣く前に助けることはできたと思う。

 

「どなた、なのですか?」

「ええと、通りすがりの学者です」

 

 研究所員だしな。間違ってねえだろ。所属は言えないけど。

 呆けるイリスの傍ら、俺は魔法陣を記録すべくそこらを歩き回った。光っているから見やすいが、模様ひとつさえ見落とすことのないようじっくりと。

 クソデカ魔法陣を全て記録する頃には捜索隊が近くまで来ていたから、こっそりと消えるようにその場を去った。

 

 死に戻りを終わらせるために死に戻ることを利用しようと考えれば、肉体の研鑽にはさほど興味が持てなくなった。

 持ち越されているのは知識だけだ。それは、記憶という意味でもあるし、戦闘技術という意味でもあるし、詠唱技術など魔法への理解も含んでいる。

 もちろん、戦闘技術なんかは知っていてもすぐできるわけではない。ある程度体が思考に反応するまで慣れさせる必要もある。

 必要な強さは、三周目のときくらいであれば十分だ。ニケみたいな脳筋バケモンにはまったく勝てないけれど、世の中の荒事や危険な生き物を相手にしても困らない程度の実力。

 

 あとは、ただただ実験に費やした。過去の論文を読み漁り、他人の研究分野の話を聞き、最新の研究をしている人物を尋ね、虱潰しに検証と考察を繰り返す。

 天才的な発想もない。奇跡的な結果も得られない。失敗に次ぐ失敗を重ね、時には「失敗という結果を得られたのだ」だなんて風に自分を誤魔化しながら時間を溶かしていく。

 研究生活をすれば、基本的に昼夜の感覚を失う。ときたまダフネやアリアに誘われ飯を食べ、流れるように宿屋に行く。その時だけは、相手に合わせて朝に宿を出るから、体内時計がリセットされたような気分になる。

 

 魔王が討伐されたと所長から聞いて思ったのは、とりあえずこれで戦いのための研究以外にも資金が回されるだろうから、俺のやりたい研究も進むだろうな、といった実に冷めたものであった。

 いやまあ、知ってるし。とりあえず、しばらく寝よう。

 

 このとき抱えていたのは、一種の開き直りである。もはや、一生涯分ごときの研究で、今の俺の問題が解決するとは微塵も思っていなかった。

 仮に時間遡行ができなくても、記憶を持った精神を新しい肉体に移行できるようになったら、それこそ革命が起こる。そんなことすら人類には到底できないだろうし、俺のような非才の身で何か分かるとも思えない。

 それでも、俺は死に戻れる。仮に死に戻らなくなっても、それこそ俺の求めているものだ。ともかく、知識を集め、奪えるだけのものを全てここから吸収して、次の周回に繋ぐ。

 

 それは、ある意味で俺にとっての生の希望であった。

 知識が増えるということは、明らかに俺自身が「変わって」いることを示している。

 

 たとえ、誰のことも、何もかも変えられないとしても、俺自身のことだけは俺にも変えられるのだ。

 「変える」ことこそが「生きる」ことならば、俺はそこに生を見出せる。

 7度の死に戻りを経て俺が出した結論はそれであった。

 

 浅ましくも人間らしい「生」への執着は、中々無くならなさそうだ。

 

 

 

 


 

 

 

 

 魔王が討ち倒されて、数ヶ月経ったある日のこと。

 

「貴公は、結婚は考えていないのか?」

「……は?」

 

 思わず素の声が出た。

 今日は、爛れた感じではなく、アリアと二人で普通に食事をしている。

 結婚なんて言葉がコイツから出てくるとは思っていなかったから、こぼれ落ちた煙草の灰が手にかかる熱さも忘れて見つめ返した。

 

 そして、何かと思えば逆プロポーズである。

 

「ふざけんな、俺みたいな一般人がお前と結婚なんてしたら、その前にそっちの家に消されるわ」

「……いいや、問題はない。そのために、研究所に所属させたのだからな」

 

 な、所長殿? と、アリアは愉しむような目付きでニッコリと笑みを作った。

 

「……ダフネが黙ってないだろ」

「私は寛容だからな、第二夫人も認めよう。……と言うか正直、私と貴公で面倒を見ないと、あのバカはすぐに死ぬのではないか?」

 

 それは確かに……。まあ、前回まではニケと旅に出て元気にやってたみたいだし、死ぬことはないんだろうけど。

 

「ダフネのことも、家のことも気にしなくて良い。私は貴公の意思を聞いているのだよ」

 

 俺の、意思。

 だったら、俺はひとりで生きていくと決めたのだ。

 アリアとの関係も、ダフネとの関係も、そこらに転がっているものと同じく、よくある体だけの付き合い。

 不潔で、不信心で、純粋さとは対偶にある、汚い大人の関係。

 それは決して、縋り付くものではないはずだ。

 

「……ほう?」

 

 アリアは聞いているのか聞いていないのか分からない返事をする。

 そこには少しの余裕が見て取れて、俺は自分が劣勢にあることを知った。

 

「それでは、良いのだな? 貴公だけが知っている私は、どこの馬の骨ともしれない愚物に穢されることになるだろう」

「……別に、元々穢れのないものでもないだろう」

「ふふ、そうかもな。では貴公は、私の体も、地位も、権力も、……そして、情けのない泣き顔も、すべて他の男のものになっても構わないわけか」

 

 ……久しぶりだな、この感じ。端的に言って、クソアマらしさが。

 このクソアマは、自分の武器を分かっている。隻眼なんて気にならないぐらいの美貌を自覚している。キツい軍服では隠しきれない豊満な肉体を、それが男にどれだけ価値のあるものかを理解している。

 

「そうだな。普段カッコつけてるクソ団長殿が、安宿のボロいベッドの上で何度も晒してきた恥ずかしい姿も、涙を浮かべて喘ぎ声混じりに休憩をねだるサマも、全部知られちまうわけだ。可哀想に、同情するよ」

「クク、いつになく饒舌ではないか? その涙声に堪えきれずに何度も暴発した早漏殿は誰だったかな?」

「気になるな。お前の辞書では、早漏殿が果てるまでに二度は達する淫売殿のことをなんて呼ぶんだ?」

 

 なお、個室なので好き放題汚い言葉を吐くことができる。

 流石に公衆の面前で下ネタを漏らすような真似はできないからな。特にコイツは立場があるし。

 

「気になるか」

「研究者ってのは、知的好奇心が旺盛なもので」

「──アグライア、と呼ぶ。定義は『貴公のことが愛おしくてたまらない女』だ」

 

 ……。

 ……いや、あの。

 

「どうした。強がりは(しま)いか?」

「……よくもそんな、恥ずかしいことを堂々と」

「勿論、恥じ入る理由がないからだ。貴公は愛するに足る立派な人物だ。……フフ、色々な意味でな」

「下ネタかよふざけんな俺の純情を返せ」

 

 完全にしてやられた。実際、アリア自身もしてやったりという顔をしている。

 流石に、こうもまっすぐ愛情をぶつけられると困ってしまう。

 

「年甲斐もなく、どこぞの所長殿に乙女のように恋してしまったせいで、私は売れ残り寸前だ。責任をとってもらわねば困るな」

「バカお前そういうのはズルじゃん」

「焦ると口調が子供のようになる貴公も好きだぞ」

 

 ……あーだめだ。勝てるビジョンが浮かばない。

 結婚は人生の墓場っていう人がいるけれど、よく分かる。このクソアマ、俺を墓場に埋めに来ている。確実に殺す気マンマンである。

 

 というか、なんだ。いつからこんな好感度を稼いだ。お前昔から俺のこと大嫌いだっただろ。どうしてこの周回だけ好感度が高い。

 寝たからか? 一緒に寝たから好感度が高いのか? 大丈夫? そのうち変な人に騙されない?

 

「折れたいが、一縷の望みに賭けて逃げ道を探しているといったところか」

 

 どうして分かるんですかね。

 

「仕方がない、本当は卑怯だから言わないつもりだったのだが、最後のひと押しをしてやろう」

 

 タスケテ!!(絶叫)

 アリアは、いつものような挑戦的な笑みは浮かべていない。慈愛に満ちた、優しい微笑みを浮かべている。

 

 ……あの、どうしてお腹をゆっくり撫でていらっしゃるんですか?

 ご飯、美味しかったね。

 

「娘と、息子……どちらがいい、旦那様?」

 

 ……俺との約束だ。若い子のみんな、避妊はしような。

 相手が大丈夫と言っても関係ない。ちゃんと薬飲んでるからと言われても関係ない。

 追い詰められた時、弱いのはこちらだ。

 

 逃さぬよ、とカラカラ笑うアリアに、俺は降参の意を込めて両手を上げた。

 

 

 

 

「──分かった。幸せにするよ、アリア」

「その言葉だけで十分幸せだよ、旦那様」

 

 

 

 


 

 

 

 

「いや、アタシはいいや」

「いいのか? 私はずっと三人でいたかったのだが」

「ニケ……勇者に、誘われてるんだ。しばらく旅に出ようと思ってんだよね」

「そうか……」

 

 アリアが、身近な人物でなければ気付けない程度ではあるがしょんぼりとする。

 ダフネにこの間の話を持っていったところ、キッパリと断られたのだ。

 

 ダフネにとっては、仲間は仲間、体の関係は体の関係と割り切っていて、そこに恋愛感情はなかったのだろう。ちょっと自分のモテ期を疑ってたから、変にショックを受けてしまっている。俺のバカ。

 それにしたってニケとの旅を優先するのは少し奇妙な気もするが、あの二人は最終的にかなりソリが合っていたみたいだし、きっと一心同体みたいな何かなんだ。多分。女性同士だけど。

 

「いや、男同士の恋愛もありますし、女同士の恋愛もありますねぇ」

「マジで?」

 

 思案していたら、研究所の職員が教えてくれた。

 どちらもそう多い例ではないが、ゼロではないらしい。

 

 そうか、俺は普通……いや、この考えがいけないのか。俺は異性が好きだから、今までもイリスやディオネ、そしてアリアと結婚することに何の違和感もなかった。けれどそれはたまたま女性を選ぶ傾向にあっただけで、「女だから」選んだわけでなく、彼女らと過ごして、これからも一緒にいようと思ったから選んだのだ。

 

「所長は受けですかねぇ」

「……は?」

 

 それでも、用語が難しいのでこれ以上深く知る機会はないかもしれない。ただでさえ魔法とか歴史とかの知識で頭パンパンだからな。

 

「愛って、なんだろうな」

「哲学ですねぇ」

 

 けれどそれは、死に戻りの解明には不要なものだ。

 愛で解決する問題なら、イリスがすべてを忘れてしまったことに俺は納得ができない。

 もしも、それを「何かが足りなかった」と言うやつがいたら、俺がぶん殴る。イリスの願いは、意思は、立派で尊いものだった。

 そういう問題ではないのだ。

 

 人の意思はあらゆるを変えうるかもしれない。

 人の願いはあらゆるを救いうるかもしれない。

 人の呪いはあらゆるを殺しうるかもしれない。

 

 でも世界は、それだけじゃない。

 分かりやすい希望に縋ってはいけない。それは美しく見えるかもしれないけれど、美しいだけだ。

 きっと、世界はもっとどうしようもない。

 どうしようもないからこそ、美しいものが映えてしまうのだ。

 

「とまあ、そんな話を研究所でしたわけだ」

「愛とはなにか、か。……ッフ」

 

 同性愛あたりの話までをアリアに伝えたら、目を荒ませながら鼻で笑われた。

 なんだよ。

 

「貴公は元傭兵、私は軍人だ。当然、お互い人を手に掛けたこともあるだろう。愛について否定的なわけではないが……、人殺しが愛について思索するのは、どこか滑稽でないか?」

 

 まあ、それは思うけど。

 人を殺して、人を憎んで、人を制する。いつの時代も禁忌とされるその行為は、しかしいとも簡単に行われているし、俺も何度も経験している。

 言ってしまえば、俺達の手は穢れている。毒を吐くこの口は呪われている。それらにどこかで理由をつけて是としてしまう心は薄汚い。

 そんなものを抱えた人間が、同じ手で誰かを抱きしめ、同じ口で好きだと謳い、同じ心で愛を感じる。

 その矛盾じみた怪奇さを疑う気持はよく分かる。

 

 が、ここは400年生きたおじいちゃんとしてアドバイスをしておこう。

 

「そもそもが間違ってるんじゃないかな。愛だって、そんな綺麗なもんじゃないんだよ」

 

 人は、自分の好きなものには美しくあってほしいと望む傾向にある。あるいは、なんらかの価値を秘めていてほしいと望む。

 愛に付属してくるのは、勿論それだけじゃないけれど、幸せの色が多いだろう。

 自分を幸せにしてくれるものを嫌えるはずもない。だから人は、愛を好むし望む。

 

 俺が世界をどうしようもないと思うのは、そういうところだ。

 

 諦観ではない。むしろ逆だ。

 どうしようもない「愛」を、人は受け入れられるのだ。

 ならば、同様にどうしようもない「世界」だって、人は受け入れられるのだろう。

 

 落ち込んでいた心も回復して、このくらいの希望は抱けるようになった。

 死に戻りを終わらせるそのとき、笑顔で「愛してるぜ世界」くらいのことは言ってやろう。

 

 

 

 

「……だがその研究員は分かっていないな。旦那様はどう考えても攻めだよ」

「やっぱ勝つのは気持ちいいんだよ」

「ああ、これは今夜も沢山負かされそうだ」

 

 

 

 


 

 

 

 

「……結局、研究していたことにはケリが付いたの?」

 

 白いベッドに横になったアリアが、そういえばとでも言いたげに問うた。

 軍を退役してからかは忘れたが、昔を思い返せば口調も随分丸くなっている。

 

 研究所で研究をすることができて、俺の知識は非常に深まったと言っていいだろう。特に、禁書指定されているものも読ませてもらえる立場であったことがでかい。

 しかしそれでも、死に戻りに関する謎は分からず、むしろ深まるばかりであった。

 研究に付随して判明した理論などをいくつか論文にまとめている内に一端の研究者らしくはなっただろうが、周囲の天才達と比べられると少し肩身が狭い。

 

 話が逸れるが、特に生理学分野の発展は目覚ましかった。俺達の肉体の設計書、ゲノムという考え方が生まれたり、魔物や人体を解剖することで、その類似点や進化系統などについて多数の予想が打ち立てられた。

 もしかしたら前世の時も同じ発見がされていたのかもしれないけれど、あの頃は脳筋だったので研究者という生き物のやっていることをよく知らなかった。

 

「……俺が研究、してたことなんだけどさ」

 

 最後だから、俺はアリアに死に戻りについて簡単に打ち明けることに決めた。

 それは、死ぬ前に余計な心労をかけてしまうかもしれないけれど、彼女には話しておきたいと思った。

 

「死んで、赤子の頃に生まれ変わる……いいわね、私もそうなってみたいわ」

「そんないいものじゃないさ。何をやっても、みんなに忘れられてしまうんだ」

「そう? 私が生まれ変わったら、次はダフネを絶対に逃さないわ。あとはあなたをもっと早く掴まえて、三人で楽しく過ごすの」

 

 楽しく、か。

 

 俺も今回、結構楽しめたと思う。隣にいたのがアリアだったからなのか、打ち込むものがあったからなのかは分からないけれど。

 だけど同時に、「今回」だなんていう風に考えてしまう自分に嫌気も感じる。

 

 今までの、辛かったり、楽しかったりする周回があって、そしてこれからも、今まで以上に繰り返すことになるのかもしれない。

 それはやっぱり、楽しいという言葉では纏められないものになるだろう。

 

 もしかしたら、次の回でまた心が壊れるかもしれない。

 できることをやり尽くして、手詰まりになってしまうかもしれない。

 

 そんな風に未来(過去?)を憂いていると、アリアがわざとらしく不満げな声を出した。

 

「でも、半分以上イリス様に捧げたなんてひどいわ。次の生まれ変わりは、また私と共に過ごしてくれるんでしょうね?」

「……」

 

 か、返す言葉がねえ。

 というか、俺的にはイリスにもディオネにも、アリアにも申し訳無さを感じるわけでして。

 

「……冗談よ、そんなに困った顔をしないで。分かっていますよ。あなたは今度こそ、誰とも関わらないで生きていこうとしているのでしょう?」

「……そんなに分かりやすいか?」

「そういう人が好きなのよ、私」

 

 ……相変わらず、今回のアリアはデレデレで反応に困る。

 これでも慣れてきたほうだけれど、彼女に直接愛情をぶつけられると俺は弱い。

 まあ見た目で言えばすっかりおばあちゃんだけどな。でも、銀髪は白髪に変わって綺麗に生え揃っていて、眼光の鋭さだけは若い頃のままだ。

 

 次の死に戻りのあとは、本格的に誰とも関わらないで研究生活に明け暮れるつもりだ。

 傭兵になると、酔ったところをワンチャンされる。酩酊状態では理性が働かないから、そうなってからどうこうできるとは思わないほうがいいだろう。

 兵士でも、傭兵でも、騎士でもない。普通の学者として、どうにか研究所に所属させてもらおう。まあ正直なところ、整った形で今回研究で判明したことを提出すれば雇ってもらえるんじゃないかと思っている。ずるいけどな。知ったことか。

 イリスを救うために最低限鍛えなければならないが、そこは本当に最低限だ。

 

 正直に言えば、気持ちいいことは大好きだ。今回のように美女二人と同時に、なんて場を得られることは、普通の男から見ても奇跡のようなことだったのだと思う。

 そうやって色んな女性と寝ることを経験して、プレイボーイみたいに自由に女性をとっかえひっかえ、あるいはまとめて抱いてしまえるようになったとして、きっとその状態になった後であれば、俺は有頂天になってその幸福を享受するのだと思う。

 教会へ行って背徳感を得ながらイリスを抱いて、田舎に帰ってはディオネと行為に明け暮れて、時間が空いた時にはダフネとアリアを呼び出して宿でお盛り三昧。そんな状況を生み出すことすら可能なのかもしれない。

 

 だけど、俺は、そんな俺のことは嫌いになると思う。

 イリスと結ばれた俺も、ディオネと結ばれた俺も、あるいは童貞のまましがない兵士Bとして戦場で死んだ俺も。快楽を貪るだけの存在になった俺のことを、みんなして白けた目で見つめるだろう。

 

 だって、気持ちわりいよ。

 

 どんな過程を経ても、誰を選んだとしても、俺は自分に胸を張れる俺でありたい。

 今までのことは無駄じゃなかったって納得して、このクソッタレな終わらない人生を終わらせたい。

 

 だから、俺はひとりで生きていこうと思う。

 

「ひどい人よ、あなたは」

「……うん。すまん」

 

 俺もアリアも、カラカラと笑っている。

 もう笑うしかないのだ。

 

「でも、私はきっと、どのアグライアと比べても一番幸せね。あなたに一番愛してもらえたのですから」

 

 そりゃよかった。

 俺も、アリアのおかげで笑い方を思い出せたよ。

 ありがとう。

 

「……愛しているわ。私の、旦那様」

「……あぁ。俺もだよ」

 

 ……そういえば、見送るのは初めてだったかなぁ。

 みんな、こんな気持ちで俺のことを見送ってくれたんだろうか。……いや、俺はまた戻るし、少し違うかもしれない。

 それでも、「アリア」との時間はこれが最後なのだ。

 

「……眠ったのかい? ……おやすみ。本当に、ありがとう、アリア」

 

 そういえば、俺が死に戻るのは死んだ後のどのタイミングなのだろう。

 死んだ後っていうか、死に瀕したときっていうか、詳しくは分からんけど。

 

 そんな事を考えながら、アリアの死を確認して、一言呟いた。

 

 

 

 

 

「──発散(オルゴス)

 

 そうして、俺の頭が破裂した。

 

 

 

 

*****

 

8.

 

 

 気が付いたときには、赤子になっていた。

 

 ……いよし、体が痛覚処理する前に死ぬの、痛くなくて楽でいいな。

 普通にナイフとかで首かっ斬ろうかと思ってたけど、こっちの方が絶対いいわ。

 

 結局、研究の進捗はほぼゼロなんだよな。とりあえず赤子のうちは、学んで覚えたことを復習していよう。

 黙々と、脳内で前世の内に覚えたことを反芻しては、基礎理論から導出するまでを練習するなどして時間を使う。

 8周目ともなれば、授乳はそんなキツくない。あれだ、単純作業だと思ってやればええんや。恥もクソもない。クソは流れ出るが。

 

 しかし……、あーやっぱ赤ん坊ってすげぇなぁ。人間50越すと駄目だわ。全然頭回らん。そしてガキの脳味噌はマジ優秀。

 基本的に、頭の回転する速さってのはどんどん低下していく。20代頃まで自分の脳が発展しているように感じるのは結構勘違いがある。

 勿論、学ぶことで筋道立った考え方を知れるし、それによって思考の整理、高速化はできる。知識が増せば考えられることも増えるから、2〜30代くらいまでは思考力ってのは上がるように感じられる。

 が、既に知識を持った身であれば別だ。子供の頃のほうが頭がはたらく。

 

 そういえば記憶って脳に物理的に依存してるらしいけど、死に戻りで記憶引き継がれるのはどうなってんだ? 「精神」か「魂」にも記憶を残す機能があるのか?

 今回はそこらへんも調べてみたら面白いかな。時間があればだが。

 

 あとは、多少色々学んで批判的思考にも慣れたから思うようになったが、この現象を解決する最大の鍵は、その始まり方と終わり方にあるだろう。

 言ってしまえば、生まれた時と死んだ時だ。しかし命がいつ始まりいつ終わるかというものはひどく曖昧らしいし(知り合いの医者に聞いた)、人によっては胎児の頃の記憶を持って生まれる者もいるらしいから、俺が産後の状態に死に戻っているのはなにか意味があるのかもしれない。

 それに、死んだ後すぐに戻っているという保証もない。ゆっくりと体の器官が動かなくなっていく感覚はよく覚えているが、明確に死に戻った瞬間を感じたことはない。だからもしかしたら、俺の死後100年くらいして人を生き返らせる研究でも始めたマッドサイエンティストがいて、たまたま検体に俺を選んだのかもしれない。……まあ、一周目の死に方から考えればその線は薄いだろうが。

 

 とまあ、考えなければならないことは山ほどある。

 だが頭の中でできることは仮説を列挙することだけで、実際にどうなっているのかを考えるには、やはり実験を基盤とした生命や魔法への理解が必要だろう。

 

「兄さーん、あそぼーよー」

「まてまて。いま論文書いてるところだから」

「またそれぇ? なにが楽しいのか全然わかんない」

 

 俺もわかんない。

 まあ、楽しくはないですよ。基本的に辛いっす。

 俺の手元には実験データなんてないわけだから、十分な論拠となりうるものは、基本論理から順に話を追っていって導き出される理論でしかない。とりあえず研究所に入るまではこうした理論によるアプローチしか取れない。

 そして、大して来歴も立場もはっきりしていない人物が提出する論文というのは、少しでも体裁が整っていないだけでゴミ箱行きだ。まあ精査・精読する側も大変なのだ。

 

 俺が少年と呼べる程度まで育って初めて親にねだったのが紙とインクというのは、彼らからすれば奇妙なものだろう。俺も親になったことはあるから容易に想像できる。

 でも俺は馬鹿げた記憶能力とかは保持していないから、こうやって覚えている内に色々と書き出してしまうほうが良いのだ。今ならまだ、過去に書いた文をほぼトレースする感覚で書けるしな。

 

 俺の背中にグリグリ頭を擦りつけてくるディオネに微笑ましさを覚える。

 まだ、小さな少女だ。それでも、一生涯分愛した時間の影響は強く、時々無性に抱きしめたくなることがある。

 だけど、駄目だ。一度甘えてしまえばきっと、愛することの心地よさを思い出してしまう。

 ディオネにとって俺は、小さい頃よく一緒にいたお兄さん、で終わらせなければいけない。

 

 

 

 


 

 

 

 

「聞いたか、例の話」

「ええ。ですがまあ、もう何を聞いても驚きませんね」

 

 その日、スクールの学生達、いや教員たちも含め、誰もがとある噂について話していた。

 田舎者(ジーラ)、と呼ばれる男のことだ。

 

 スクールには階級がある。平たく言えば、庶民向けのスクールと、上級国民向けのスクールだ。

 そこには、入学の要項にも、スクールの理念にも、大きな違いは存在しない。スクールは学徒のために開かれていなければいけないからだ。

 だが実際のところは、たとえば入学に必要なお金であったり、面接における恣意的な合否の出し方であったりと、結果的に住み分けがなされているのは確かであった。それは貴族にとっての選民意識をより身近なものとさせたが、直そうとする者はおらず、また特に問題が出ていないというのも事実である。

 無意識におこなわれる適切な住み分けは、往々にして社会の円滑な運びに寄与することがある。

 

 しかし、ジーラは違った。彼は、名前も知られぬ農村の出でありながら、国で最も上位のスクールに突如として現れた。

 しかし、スクールには無視しきれぬ理由があった。彼が携えてきた論文だ。それは、少なくとも50年分は国の学問を進ませる内容であった。

 会議を重ね、メリットとデメリットを正確に見つめ、結果的にジーラは入学を許された。そして次の年には、二年分の飛び級を果たしていた。

 いつしか、田舎者(ジーラ)という呼び名は蔑みの意味を失い、親しみと敬意をもってそう呼ぶようになっていた。

 

 そんなジーラであるが、今度は国営研究所の設立を国に求めているらしい。

 彼の出してきた成果は無視できないものがある。魔王の復活前に戦争への準備をさらに万全なものにできる、という言葉に押される形で決まることとなった。そもそも、そういった施設に関する話は彼の登場以前からも何度も繰り返されており、彼が求めたから作られたというよりかは、たまたま彼が現れたから設立が数年早まったという見方が正しいだろう。

 

 彼の有名な話であれば、息をするように論文や簡易的な予想を生み出すことがある。早い時は一ヶ月にひとつを発表していた。最近は実験を主体とする研究をしているために少し緩和されたが、一時期は読む側が追いつかない、理解できないという事態に陥っていた。

 彼は資料調査の時間をほとんど必要としない。いつのまにか過去の文献を取り揃え、特に読み耽っている様子もないのにしっかりと内容を踏まえた取り扱いをする。

 ひとつの論文を書いているとき、ジーラは次の論文を頭の中で作っている。教授の間で度々口にされるジョークだ。

 

 いつこのテーマを思いついたのか?

 どこでこの資料を知ったのか?

 どうして結果を知っているような実験をおこなえるのか?

 

 こんな風に尋ねると、彼は決まってこう答える。

 

「生まれた時には、この論文は完成していたんだ」

 

 それをジョークだと捉える人もいるし、真に受けて自分の研究内容の結果は分かるかと尋ねる者もいる。

 人当たりも悪くない。自らの知性を誇り傲慢に陥るわけでもない。不思議な落ち着きを払いながら、自然体で学びに没頭する。身分も弁えているし、屈辱を与えようとする者には毅然とした態度で接する。

 理由もなく嫌うのは簡単であったが、一度接してしまえばどうにも憎めなくなってしまうのが、この田舎者(ジーラ)であった。

 

 もっとも、一部の女性陣からは女心を解さない唐変木と揶揄されたが。

 だが、彼をある程度知る者からすれば、彼があえて色事から距離を取っているのは明白であった。そしてそれは、学問に情熱を捧ぐ者ほど好意的に受け取った。

 

 

 

 


 

 

 

 

 少し、気になっていることがあった。

 俺の知識を天才達に使ってもらったらどうなるか、ということだ。

 

 結果、やりすぎました。いや求めてたことだけど。

 前回俺が50を過ぎてから発表された、ゲノムだの進化系統だのといった話が、今回は既に研究の山を越え、発表間近というところまで来てしまっている。

 が、まあ、俺が求めているのは更にその先の話なのだ。「知っている」だけの俺とは違って、彼ら天才達はその話をさらに発展させていくことができる。ならまあ、多少のブレイクスルーも必要だろう。フハハ、愚民ども俺のためにその頭を使うのだ! 愚民は俺だけども!

 やっぱ、良い遺伝子継いで、良い飯食って、良い教師のもとで学んで、そうやってるからあいつらは頭良いんかなぁ。世知辛いなぁ。どうでもいいけど美味いもの食いたいなぁ。前回までのアリアのせいで、舌がかなり肥えてしまっている気がする。

 

 ちなみに、俺が最初に学会に持ち込んだのは、俺が持ちうる中でも一番インパクトのある話だ。

 つまり、人の持てる魔力の量は拡張することができる、と。

 

 これは俺の研究の副産物だ。

 回路だか器だかは知らないが、人の持てる魔力量というのは決まっている。聖女様はそれが飛び抜けて多いし、魔法が使えない人間というのは総じてその量が少なすぎるだけだったりする。

 単純に言えば、生き物は魔法を身体に受けることで、微量ではあるが保有可能魔力量が上昇する。魔力を貯める器官が可塑性なのだ。しかし同時に、期間をおけばゆっくりと元の量まで戻ってしまう。

 また、その変化の量が大きすぎれば、ある種の「痛み」を感じる。それは肉体のシグナルではないから、切り傷や打撲、頭痛などといった痛みとは種類が異なるが、到底人に受容できるようなものではないし、体が慣れるまで味わうなどすれば、人体実験はしていないので分からないが、何かしら体を壊すだろう。

 

 この発見は、俺の求めていたものではないけれど、国からすればかなり嬉しいらしい。

 使える魔力の量が増せば、魔法がより一層身近なものとなる。日常生活は勿論、これから起こる戦争にも利用できる。順調に増やし、魔法を主体とした戦いができるようになれば、魔導騎士団なんかも作られるだろう。

 まあ、流石に間に合わないと思うけど。

 

 ちょっと使っておしまいだった魔法が、もしかしたら何回でも使えるようになるかもしれない、というのはそれだけでロマンだったのだ。

 俺もその気持ちは分かる。たとえば、聖騎士団はスイッチで後衛に入ったやつが魔法をチマチマ使い、火力としては剣による武力行使が主体であったが、いくらでも魔法が使えるのなら、それこそ常に回復魔法を発動させながら攻撃し続ければ良い。まあそれはそれで集中力が持たないだろうけれど、敵からすれば恐怖そのものだろう。

 

 ……逆に、大規模魔法がいくらでも撃てるようになったら戦争の形が変わってしまうだろうけれどな。

 己の命を賭けて相手の命を奪う、というものから、一方的に、そして無作為に多数の命を奪うものに変わってしまう。

 そしてそれは、命に対する考え方を曲げてしまうだろう。既に曲がりかけている俺が言うんだから間違いない。

 

 命の価値ってのは、きっかけさえ与えられれば簡単に低くなる。

 誤解を恐れずに言えば、下げることは悪いことじゃないし、よくあることだ。騎士団は名誉を理由に命を勝利の代償にまで下げるし、金のために、それこそ生きるために傭兵たちは命の価値を下げる。

 だけどきっと、これ以上下げてはいけない位置というのがあり、戦争が温度を失ったものになるとき、命の価値はその位置を大きく下回るだろう。

 それは、なんか、嫌だ。

 

 学問の発展と、命の価値の低下。

 かなり近い位置にあるこれらは、しかし使う側の理念を信じるしか、対応としてできることはないだろう。

 8回繰り返したって、まだ人生にはやれることが残されているのだ。一度しかないそれを大切にしてほしいと思うのは、果たして俺の傲慢だろうか?

 

 最近やっているのは、魔法陣の研究だ。

 もう、何度も書いて覚えてしまった魔法陣。対イリス用に起動されたそれは、調べれば調べるほど、やはり普通の魔物共では知るはずのない言語、術式で構成されている。

 俺自身、解読できない部分が何箇所もある。逆に理解できる部分もあるからこそ、解読できない部分のうち、ここはこの目的で使われているのだろうという仮説を立てることができた。

 発展さえさせれば、魔法陣の技術は非常に強力なものになる。一般兵が、魔法を使って戦えるようになるかもしれないからだ。そんなわけで予算も多く、自由に調べることができている。

 

 正直言って、それでも進捗は芳しくない。

 ひとつ打開策として考えていることはあるが、それを実行しようとは思えなかった。

 

 もしも上手くいけば、それは、人類そのものに対する裏切りであるだろうから。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 ふざけんな。

 

 ふざけんな。

 

 ふざけんな。

 

 

 

 


 

 

 

 

 もしも神がいるというのなら。

 

 俺はそいつをころすだろう。

 

 だけどどこにもいないから。

 

 やはり世界はどうしようもない。

 

 

 

 


 

 

 

 

「……発散(オルゴス)

 

 そうして、俺の頭が破裂した。

 

 

 

 

*****

 

9.

 

 

 気が付いたときには、赤子になっていた。

 

 どうでもよかった。

 何もかも、どうでもよかった。

 意味なんてないのだから。

 何事にも、意味なんてない。

 

 気付きは唐突であった。

 ある科学者との会話だ。

 

『魔法に関する情報って、ゲノムに含まれていないのか?』

『そーですね。肉体の情報だけです。……あれ、なーんか変ですね?』

 

 そうやって設立された共同研究会は、非常に優秀な研究者達が参加してくれた。

 そして、たったの10年で、それは見つかった。

 というより、既に見つかっていたものだった。

 

 遺伝情報を記録しているとされるゲノム。

 それには、実際に遺伝に必要な部分と、不要とされる部分が縞になって交互に存在している。

 ()()()()()()()不要であったその部分は、しかし不自然なほどに多く存在した。

 そして、魔法的に調べて判明した。

 

 人間の魔法に関する情報もまた、ゲノムに記述されている。

 

 「肉体」に関する情報は、物質的に見て遺伝に必要とされる部分に。

 魔法、「魂」に関する情報は、物質的に見て遺伝に不要とされる部分に。

 それらの情報を元に構築された「精神」が、身体を動かし、魔法を行使する。

 

 最初、俺は歓喜した。

 死に戻りは、俺に関する現象だ。ならば、「俺」という存在の構造を隈なく調べれば、なぜその現象が起こるかもはっきりと分かる。

 

 そして、絶望した。

 

 ただただ、その現象は純粋なものであった。

 それゆえに、残酷であった。

 

 神が与えたチャンスでもなければ、試練でもない。

 誰かの呪いでもなく、奇跡でもない。

 そこには、どんな悪意も善意もなく、ただただ無意味という言葉に修飾される。

 

 転写ミスである。

 遺伝の失敗。

 

 分かりやすい言葉で言えば、突然変異というやつだ。

 

 人は、ひいては生き物全般は、生まれ変わる。

 肉体が朽ち、魂が乖離し、精神を失った後、物理的な条件に従わない魂は、時空すら超えて次の肉体を探す。

 そういう行動をするよう遺伝情報に刻まれている。

 あらゆる魂は、その行き先の指定がされていないから、確率論でどんな生き物にも生まれ変わりうる。もしかしたらそこに神の采配が存在するのかもしれない。

 

 だが俺の魂は、行き先が指定されてしまっていた。

 つまり、死んでも、次に肉体を得た「俺」に生まれ変わるのである。

 

 死んでから次の俺の肉体に入るまで、時間的な隔絶は存在しないのだろう。

 だから、「肉体」と「精神」は「魂」が乖離したと認識しないから、記憶が引き継がれる。

 そんな、実に単純な現象であった。

 

 単純であるからこそ、俺にはどうすることもできない。

 

 だからもう、何もしないことにした。

 生を放棄する。待っているのは飢餓の苦しみだが、それこそ四捨五入すればゼロになる程度の苦しみだ。

 

 こんなクソッタレな世界──生きてたまるか。

 

 

 

 


 

 

 

 

 あなたの名前は何と言うのだろうか。

 

 あなたは、男の子だろうか。それとも女の子だろうか。

 

 子と付けるにはもしかしたら、年を食いすぎているかもしれない。

 

 友達はいるだろうか。

 

 恋人はいるだろうか。

 

 親がいない場合だってありえるのか。親はいるんだろうか。

 

 子供を抱えて、毎日精一杯働く立派な人間かもしれないね。

 

 人を愛したことはあるだろうか。

 

 愛することは……うん、余計なお世話かもしれないけれど、やっぱりいいものだ。

 

 やろうと思えば、道ですれ違っただけの人を愛することだってできる。

 

 多くの人が思っているほど、愛って大したものじゃあない。

 

 それは自然な、ごくごく自然な、誰でもやっていることの延長にしかない。

 

 空を見上げて、新鮮な空気を吸って、こういう天気が明日も来ると良いなと思えたら、そこにはもう愛が存在する。

 

 だから、もしも愛が分からなくても、気にすることはない。

 

 泳ぎ方を知らなくたって、それだけで絶望してしまうような人はそういないだろう?

 

 ただ、好きなものには好きと言って、嫌いなものとは距離をとって。

 

 そうする内に、自然とできてしまえると思う。

 

 そうやって、時間を使って、誰かに触れて、いつしか老い朽ちていく。

 

 そこにはきっと、意味はない。

 

 その生涯にはきっと、役割なんて与えられていない。

 

 だってそれは、「人」が選び取るものだろうから。

 

 あなた自身が意味を見出して、時に誰かに意味を与えられる。

 あなた自身が役割を見出して、時に誰かに役割を与えられる。

 

 世界にはきっと主人公が存在するけれど、あなたが主人公になる必要はない。

 

 あなたは主人公なんかじゃあない。

 あなたには覚醒イベントなんて用意されていない。

 

 あなたはきっと、誰よりも自由だ。

 

 それは、残酷な事実だろうけど。

 

 でも、自分の選択を後悔してはいけない。

 

 決して、やり直せたらなんて思ってはいけない。

 

 もしも、始めからやり直せると言うのなら、前よりもずっと上手く人生をこなせるのだろう。

 

 だけど、もしも、始めからやり直せと世界が言うのなら。

 

 そこにはもはや、意味を見出すことすら不可能な「死」しか存在しない。

 

 

 

 


 

 

 

 

 母親が泣いている。

 毎日泣いている。

 俺の母親……お袋だ。

 

 親父は死んだ瞳をしている。

 世界に絶望したあの色は、俺が一番馴染みが深い。

 

 無理もないだろう。赤子が、何を与えても食べようとしないのだから。そもそも、生まれて以降産声を上げてすらいない。

 

 田舎の農家に、衰弱した赤子を救う方法はない。

 俺が乳を拒絶する限り、死はゆっくりと近付いてくる。

 

 ほらな。

 

 衰弱死なんて、大したことねえよ。

 腹が減った。目がかすむ。頭痛が止まらない。だからなんだ?

 こんなに……こんなに、楽じゃないか。

 

 ゆっくりした死の中では、そう複雑なことは考えられない。

 頭が働かないから、脳裏に浮かぶのは今までのことで、まるで走馬灯のようである。

 

 母親は、毎朝起きると俺の元へやってきて、張った乳房をおもむろに出し、そしてそっと抱きかかえる。

 

「ねぇ、お願い……。飲んで。飲まないと、死んじゃうの……」

 

 泣きながらそう懇願する。

 

 死んじゃう?

 もう、死んでるよ。何をしたって「生き」られない俺は、生まれたときから死んでいる。

 

 あんたらが、この死骸を世界に生み出したんだ。

 あんたらが余計なことをしてくれたせいで、俺はこうも苦しんでいる。

 

 400年以上だ。そしてこの苦しみは、永遠に終わることがないのだろう。

 報いを受けろ。ざまあみろ。

 

 クソッタレな世界。ふざけんな。何だってんだ、本当に。

 俺は、俺だって、ただ……。

 

 もう、なあ……。

 

 大したことなんて、望んでいない。

 俺は、ただ……。

 

 嗚呼、こんな世界。

 こんな、どうしようもない世界に生まれたくなんて……。

 

『お兄様』

 

 俺はさあ、本当に、嫌いだよこんな世界。

 

『私の、剣』

 

 大嫌いなんだ。

 憎んでいる。俺なんかを生み出したことを、到底許せそうにない。

 

『──私も、あなたが大好きです』

 

 幸せそうな顔で生きているやつらはムカつくし、自分が一番不幸だって顔で生きているやつらは同じ苦しみを味わえばいいのにと思う。

 

『兄さん』

 

 こんな救えない世界に住んでる奴ら、全員死んじまえって叫んでやりたい。

 

『──おかえりなさい、パパ』

 

 俺のことを救えないお前ら、全員死んじまえって叫んでやりたい。

 

『貴公』

 

 胸倉掴んで、ぶん殴って、罵倒の限りを吐いて、めちゃくちゃにしてやりたい。

 

『傭兵殿』

 

 なのに。

 

『……愛しているわ。私の、旦那様』

 

 なのに、声がチラつく。

 どうしようもないくらい、愛おしい声が。

 

 ──キミたちの声が。

 

 言えねえよ。

 こんな世界に生まれたくなかった、だなんて。

 

 言えねえんだよ、俺は。

 

 キミたちと過ごしたあの時間が、どうやったって消えないんだよ。

 キミたちを選んだ俺自身を、どうやったって否定できないんだよ。

 

「……ぁぁ」

 

 俺はただ、幸せになりたくて。

 キミたちが、俺を、幸せにしてくれたんだ。

 

「ぅぁあ……」

「……ぇ?」

「泣い、た……?」

 

 ごめん。ごめん……。ごめんなさい。

 

「うあぁぁぁぁん、あぁ、うあぁぁぁあ……!」

「え、っと、どうすれば、いいの?」

「ばか、抱くなり乳あげるなり……ってもう抱いてるのか。それじゃあ、きっと腹が減ったんだろうから、乳を」

 

 親父と、お袋が、俺をこの世界に生んでくれて。

 生きた時間は違えど、キミたちを愛して、キミたちも愛してくれて。

 

「ああぁぁぁぁぁん……! うあぁ、あぁぁん……!」

「待ってね、……ほら、良い子、良い子」

 

 俺は、たしかに幸せだった。

 心の底から、感謝していた。

 

 好きなんだ。みんなが。このどうしようもない世界が。

 

 大嫌いだし、憎んでさえいるけれど、その上で、どうしようもなく愛している。

 

「ああっ、ああぁぁぁぁぁぁぁぁっ…………!!」

 

 ただ嫌ってしまうには、この世界は卑怯なほどに美しい。

 嫌いで、嫌いで、心底どうしようもないと思えるこの世界。

 どうしようもないからこそ美しさが映えているだけというのも、とうに理解している。

 

 そんな世界で「生きる」ために、俺はもう一度だけ産声を上げた。

 

 大粒の涙は、止まることなく溢れ続けた。

 

 

 

 



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9〜

 幸せってなんだろう。

 

 俺は確かに、幸せであった。

 みんなのおかげで、幸せになれた。

 過去形だ。

 

 じゃあ、俺がこれから幸せになるにはどうすればいいのだろう。

 ここまで考えれば、自然と気付くことができる。

 

 そもそも、どうして俺は、俺達は、幸せを目指すのだろう。

 まるで呪いのように、それを求めて彷徨うのは。

 

 ──そして、俺はその答えをもう知っている。

 

 

 

 

「──よし、行くか」

 

 

 

 


 

 

 

 

 8度の死に戻りを経て、これまでの何周かが嘘のように俺は涙もろくなった。

 あるいは情緒が乱れてしまっていたのかもしれないが、それは泣けないということよりもよほど健全なことであるように思った。

 

 たとえば、たまの贅沢に鳥を丸々一羽焼いて食べる時。

 首を折るのも羽を毟るのも、お袋よりは力の強い俺が代わりにやってあげた。別に行為としてはなんら特別なことではなかったのだが、夕飯でおもむろに口に運んだ瞬間、ぽろぽろと唐突に涙が溢れはじめたのだ。

 

 罪悪感ではない。あえて言葉を与えるとするなら「感謝」なのだろうが、あまりにも淡く澄んだその感情は、軽率に名前を付けるべきでないと思った。

 俺の命なんかよりも、この肥えた鳥一羽の命の方がよほど尊い。この世界にただ一つの命として生まれて、たとえそこが管理された鳥小屋だったとしても、生きるという行為を全うした。

 じゃあ、それを限りなく価値の低い存在である俺が食むのはどうなのかと思うかもしれないが、「食べる」という行為は、いまや食べる側と食べられる側の話だけではない。

 この鳥を育てた人間は、誰かの腹を膨らませて幸せにしてやりたいという願いを込めて育てた。売った人間も、調理したお袋もまた然り。命が大切だから食べないなどという主張は視野の狭い倒錯に違いなく、命のためなら願いは蔑ろにされていいのかと問われれば、多くの人は首を横に振るだろう。

 

 だから、善悪ではないのだ。

 命を繋ぐために命を糧とする。互いの命に優劣はなく、結果がそうであっただけだ。そこには犠牲があるし、願いがあるし、感謝がある。それを不味いなどと言えるはずもなく、あるいはただ美味しくて感動したから涙が出たという実に単純な話なのかもしれない。

 まあ、突然泣いたもんだから親には驚かれたけど。

 

「兄さんはほんと泣き虫だねー」

「泣き虫じゃない。涙もろいんだ」

 

 怪我をしたって、辛いことがあったって、そうそう泣くことはない。

 もっと「痛い」ことを俺は知っているからだ。

 ただ、純粋なものに触れた時、美しいものに触れた時、優しいものに触れた時。

 そうやって泣くのは、何度だって許されてほしいと思う。

 

「あなたはとても穏やかな目をしている。私よりもよほど、悟っていらっしゃるようだ」

「俺が? まさか。俺はきっと、この国で最も浅ましい人間のひとりですよ」

 

 傭兵になってから、いつもの牧師さんに変なことを言われた。

 誰かのために生きても無駄になると知っているから、俺は自分のためにしか生きない。ロクな結末に繋がっていないと分かった上で、浅ましく生にしがみつく。

 俺は自分の幸せのためにしか生きていない。誰かを導くことも出来ないだろうし、いずれ訪れる「死」を心の底から恐れている。悟りからは一番遠いところにいるだろう。

 

 教会に来るのも、神に祈るためなどではない。ただ、ここを訪れる人間が好きなのだ。

 多くの人が誰かのために純粋な気持ちを捧げて祈る。そうした「願い」を眺めることが好きだった。

 時たま俺を牧師と間違えて相談してくるやつがいたが、彼らの話を聞くのも楽しかった。まあ、どう見ても神父の格好ではないと思うんだけど。藁にもすがる思いなのだろうか。

 

「彼氏が母親に手を出していて……!」

「あ、それは専門外です」

 

 恋愛相談だけはやめてくれ。

 まともな恋愛観してるやつだったら、人生繰り返す度に女の子とっかえひっかえしたり、仲間二人と同時に関係持ったりしないから。

 

 

 

 


 

 

 

 

 傭兵になったのは、結局、こちらの方が強くなるのに都合良いからだ。

 戦場に身を置けば、必要な勘が磨かれる。自由な時間も多いから好きなだけ鍛えられるし、生き残り方というものを理解していれば金だって荒稼ぎできる。

 まあ、使わないから大抵仕送りか教会経営の孤児院に流したが。

 

 代わりに、時折孤児院の方で夕飯を頂いている。

 子供というのは不思議なほどに純粋な生き物だ。深い闇を抱えてしまった子だって当然存在するが、心のケアは孤児院が十分にしているし、子供たちを眺めていると優しい気持ちになれる。愛おしい小さな命が、必死に生を繋ごうとしているのだ。

 あとは、自炊はしていないから食事は基本外食になるのだが、外食を選ぶとどうしても騒がしい環境で食う羽目になる。たまにはゆっくり静かに食いたい。

 

「アンタ、ロリコンなのか?」

「なわけねえだろバカ」

「そっか。ロリコンだってんならぶった斬るか距離おいてたわ」

「あ、じゃあロリコンなんで距離おいてもらっていいですか?」

「厄介払いしようとすんな!!」

 

 というかまあ、こいつのことだ。

 

 ダフネには、もうどうやっても絡まれるから諦めた。

 どんなに孤独を貫こうとしたって、隅っこで飯を食ってたら勝手に絡んでくるのだ。まあ孤独ってのも特別いいもんではないしな。彼女がうるさく騒いでくれるお陰で、俺は変にひねくれたやつにならずに済んでいるのかもしれない。

 酒だけは絶対一緒に飲まねえけど。

 

「けどさ、流石にガキが飯食ってる姿見て泣き出すのはやべぇ奴だと思うぜ?」

「あーうん……、この年になるとあの光景だけで、な」

「アタシの方が年上なんだが」

 

 まだ20にも満たねえだろ。こちとら400歳じゃぞ。ワンチャン500いってるかも。

 つか、爺さん婆さんが語尾に「じゃ」って付けるのってアレいつからやればいいの? いまいちタイミング分からんから、結局何回生まれ変わっても口調が変わらん。

 人格だって、何百歳っていうおとぎ話みたいな年齢に達したというのに、ちっとも成熟していない。そりゃあ色々な人を見たし、様々なことを考えて、種々の世界に触れてきた。こんな簡単な言葉遊びだってお手の物だ。

 だけど、誰もが想像するような、理知的で深みのある心優しい賢者になんてなれそうにない。それどころか、頭のどっかにはやっぱり世界への怨嗟が渦巻いているし、判断力が向上した分打算的な行動だって増えている。

 

 今回俺がやろうとしてることなんて、打算の中でも最底辺にクソッタレなことなのだから。

 

 

 

 


 

 

 

 

「誰だ?」

「……」

 

 ジッと立ち尽くしてこちらを見つめる老夫に深く一礼をした。

 深い森の中。王国の辺境に位置し、魔王の本拠地に一番近い街の外れにその家屋はある。

 つまりは、魔王の復活と同時に勇者が発見された場所である。

 

「なんだ、それじゃあ、あの子が次の勇者だと? そんな話誰が信じるものか」

「信じなくとも、それは直に起こります。王都には未来を識る者がおりますゆえ」

「……嘘はついていないようだな。不気味な目をしていて、本心は見えんが」

 

 勇者の育ての親と思われる老夫は、ジロリとこちらを睨みながら納得した。……え、早くない? もっと説得の材料持ってきてたんだけど?

 「嘘はついていない」って、見抜ける能力でも持ってるのか? 魔法、それとも仕草から判別しているのだろうか。サッパリ分からん。

 

 勇者の発見場所を訪れたのは、今回やりたいことが、彼女との信頼関係が十分でなければ難しいことであったからだ。

 魔王が復活したとき同時に勇者の力が覚醒し、その膨大な力が観測されることで勇者は発見される。そして、彼女が魔王を倒すことで、その与えられた力が徐々に失われていく。現象だけ見ると魔王絶対殺すマン(ウーマン)が降臨してるみたいでなんか怖いな。

 さて、ここで「与えられた」というのと、「失われる」というのが重要だ。勇者の力は、肉体が進化したわけではなく、やはりこれも魔法的な部分での変化によるものだろう。肉体が進化しただけで雷操るとか素直に無理だと思うので。

 と、いうことはだ。つまるところ、個人の魔法的な部分には、「書き換える」という行為が存在する。それも、自身の存在のあり方を大きく変えてしまえるほどに。

 俺みたいに、生命に許される範囲を飛び越えるような変化はしていない。だがそれでも、死に戻りを解決する手がかりになると思う。

 

「なあ、傭兵君」

「なんでしょう」

「儂には、どう見てもあの子はひとりの子供にしか見えんよ」

「……そうですね」

 

 定期的に老夫の元を訪れ、野山の獣たちと戯れる勇者を眺めながら少し語らった。

 その姿は勇者などという大業を背負わされている者からは程遠く、反射神経や運動能力の高さに血の片鱗は現れているけれど、どこからどうみても幼いひとりの少女であった。

 と、ぼうっと勇者と自然を眺めていると、意外そうな顔をして老夫が俺を見つめていた。

 

「なんですか?」

「……いや、そのような優しい眼差しもできるのだな、君は」

 

 なんだそりゃ。

 いや、まあ、庇護者の眼差しってやつかもしれない。親とか、神父とかが浮かべるアレ。

 

 どう考えたって、血という理由だけでこの純粋な少女が血で血を洗う世界に身を捧げなければいけなくなるのは間違っている。

 腕が付け根から吹き飛んでもピクリとも反応しないような、魔物を殺すためだけの存在を生み出してしまったのは、加護ではなく俺達自身だ。というか、こうして幼少期の勇者を見るまで、俺も何ら疑うことなくそういうものだと受け入れてしまっていた。

 勇者は機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)ではない。ひとつの命を持った、ひとりの人間だ。

 なら、彼女が負ってきた傷を、今度は俺が代わりに引き受けるから。人間じゃない、俺が。

 

「……その気味の悪い眼差しは君らしいが、儂は好きになれそうにない。先程のようなものの方がよい」

 

 なんだそりゃ。

 そういや、爺さんはいつから一人称変えました? あ、最初から儂? キャラ濃いっすね。

 

 

 

 


 

 

 

 

「じいちゃん、死んじゃった」

「そうだな」

 

 不格好な、手作りの墓の前で勇者が座り込んでいる。

 初めての他者の死ということもあり、実感がないのだろう。泣いていないのはもちろんのこと、人が死ぬということがどういうことか測りかねているように見える。

 

 まだ12歳か。ここから魔王が復活するまで3年ほど、己の力だけでここで生活していたのだろうか。そりゃあんな自由気ままな性格に育つわ。

 

「死ぬって、どういうことなの?」

 

 それを俺に聞くか。

 多分この世界で一番それから遠い存在なんですが。

 

「……まあ、大したことないよ、自分自身にとってはな。死を恐れるのは、他者だ。会えなくなるから悲しい。声が聞けなくなるから寂しい。そういう感情に共感するから人は死を恐れるけど、実際には単なる生き物の『生』の一部だ」

 

 だからまあ、俺が生き物かどうかが怪しいわけでして。

 死ぬことで初めて生き物になれるってのは皮肉な話である。

 

 死ぬ理由なんてない。

 生きる理由だってもちろんない。

 生きるということそれ自体に、一切の意味はない。

 自然に与えられる意味なんて、この世界にはどこにもない。

 

「でも、ボク、じいちゃんとまだ一緒に居たかった」

 

 それでいい。

 何がしたい。何が欲しい。

 一度きりしかないから、そこには後悔が生まれ、時に満足する。

 

 死を恐れないことになんて何の価値もない。

 修行僧が悟りを開くために人間関係を断つとして、それで生への執着が薄れるのは当然だ。先に述べた通り、繋がりがあるからこそ死は恐ろしくなるのだから。

 そんなことで得られる悟りに興味はない。

 俺が興味あるのは、俺が好きなのは、嬉しい時に笑って、悲しい時に泣いて、人並みにみっともなく後悔できる「人」だ。

 

「……、……っ、ふぐっ、うぁ、ぁぁあ……」

「お前は、美しいよ。ニケ」

 

 こみ上げるように嗚咽する少女の頭をガシガシと撫でながら、俺も涙を浮かべて微笑した。

 この涙は、知己を失った悲しみのものではない。誰かのために泣ける少女の純粋さへの感動と、もはやそれができない自分自身の不甲斐なさだ。

 

 生きるんだ。

 生きろ。生きろ。生きろ。

 自分の生を取り戻せ。

 

 ──そのために、俺は、お前だって利用する。

 

 

 

 


 

 

 

 

 魔導の研究が盛んであるのは、機械技術よりも研究が容易なことにある。

 

 機械技術は物質に依存する。そのために空間的な制約が生まれてしまうし、何らかの小さな物体を観測しようとしたとして、物体を観測するための機械はまた全く別の知識と技術によって作られる必要がある。

 まあ端的に言って、科学技術は単体の分野では成立し得ないのだ。複数の分野が順調に育って、それらを組み合わせることで今まで触れられなかった世界に手が届く。

 

 反面、魔法の研究をしたければ、必要なものは知識と魔力くらいのものである。薬学など魔導と科学の間にある分野はその限りではないが、必要な計測なんかも、魔法陣を描くことさえできれば後は何もいらない。

 魔法陣を描く技術はただ魔法を扱うのとは若干異なる知識が必要になるが、そもそも描けるだけの知識がなければ専門の研究などおこなえない。

 つまるところ、知識さえ持ち越せていれば、死に戻ったとて魔法の研究は引き継げるのである。

 

「ねえ師匠、ちゃんと寝てる?」

「寝てる寝てる。四捨五入すれば熟睡してる」

「いや四捨五入したら一切寝てないよね!? け、研究が大変なのは分かるんだけど、もっと手軽にできないの?」

 

 爺さんの代わりに面倒を見つつ、定期的に採血させてもらって研究をする。

 保護者と言うよりかは同居人。生活リズムは俺が壊れているから、食事の時間なんかもたまにしか合わない。

 

 勇者には、彼女が勇者に覚醒することを伝えてある。

 死に戻りについて話したわけではない。勇者もどうやって自分が選ばれると分かったのかについては興味ないらしく、散々驚いた後に勝手に修行モドキを始めた。中々どうして適応能力が高い。

 

 そして、彼女が勇者を受け入れたところで、俺が呪われているということについて話した。その呪いを解除するために、勇者の肉体を調べたいとも。

 勇者としての加護がいつ与えられるのか、それは徐々に体が変化するのか、はたまた一瞬の出来事なのか。その判断がつかなかったから、定期的に調査を継続する必要があるのである。

 知らない人間に血を寄越せと言われて何度も渡すような奴はいないだろう。だから、知っている人間……勇者の身内になった。言葉を選ばなければ、彼女の「情」を利用して協力させた。血も涙もない話である。

 

 魔法的情報を調べるのは生体情報を調べるのに比べてよほど簡易である。だからこそ前回一度だけで自分自身の構造を理解できたのだが、果たしてそれを幸運と呼んで良いのかは分からない。

 勇者から血液をもらった後は、魔法陣の定位置にそれを塗り、あとはひたすら示される情報群の中から必要な部分を記録する。大体これに丸一日使い、その精査にもう一日使う。魔法陣が起動するのに結構時間が空くので、その合間の時間に勇者に稽古をつけていたら師匠と呼ばれるようになった。

 

「手軽……お前が魔法陣の上で全裸で寝転がるってんならもうちょい速くやれるけど、流石にそれはなぁ」

 

 その方法なら、魔法陣を書き換えて必要な部分だけ確認するようにできるけど、勇者からすれば時間的にも精神的にも負担が大きい。

 いつの間にかふらっと現れて、いつの間にかふらっと保護者やってるようなオッサン相手にそこまでは期待できないだろう。

 

「別にいいけど」

「……はぁ!?」

「それって、お昼寝代わりに魔法陣のところで寝てれば良いんでしょ?」

 

 拝啓、爺さん。

 あなたの育てたガキンチョは、無事脳筋へと成長を遂げました。

 願わくは、もう少し淑女の嗜みも教えてあげてほしかったです。

 

「あのな、女の子がむやみやたらと男に肌を晒すもんじゃない」

「え、師匠ロリコンなの──」

「──違うが?」

「食い気味だね……」

 

 お前の裸なんて、12だろうが20だろうが興奮しないが?

 イリスの真っ白ぼでぃと、ディオネの褐色ぼでぃと、アリアのぐらまらすぼでぃで鍛えられた童貞なめないでもろて。脳筋のお猿さんになんて欲情しねえから。

 

「別に、お風呂だって、水浴びだって、散々裸見られてるし今更じゃん」

「まあ確かにそうだが、少なくとも魔王を倒すまでは俺はこの研究を続けるつもりだし、成長してから恥ずかしいからヤダって言われても困る」

「その頃はもう師匠おじいちゃんでしょ。恥もクソもないよ」

 

 長期的な戦いと思っているらしいが、あいにく5年程度で終わる。おじいちゃんまではいかん。

 あとクソって言うな。丁寧な言葉で喋りなさい。おクソって。

 

「はいはい……。恥もおクソもないし、あとボクとしては、師匠の研究時間が縮まって、師匠がちゃんと寝て、稽古の時間ももっと増えてくれれば嬉しいよ」

「お前……、良い子に育ったなぁ……」

「えへへ、良いじいちゃんと良い師匠に育てられたものでして」

 

 なんで、定期的に血を寄越せって言ってくる老害吸血鬼みたいな俺の健康にまで気を配ってくれてんだろう。勇者という名のもう一人の聖女だったか。これはたまげた。

 自分のために人間の心も利用するような俺になんて、優しさを分けてやる必要ないのに。

 

「さ、流石に少し恥ずかしいかもしれない……」

 

 一糸纏わず、魔法陣の中心に体を寝かした勇者が顔を覆う。

 人並みの羞恥心はあったか。良かった。

 当然ながら一切興奮はしなかった。やはり俺はロリコンじゃない。良かった。

 というかぶっちゃけ、罪悪感で興奮どころじゃないのだが。

 

 勇者の肚、へその下の部分には、この魔法陣と連動させるための小さな紋様が描いてある。これによって、対象を素材としてではなく、スキャンをおこなうように情報を調べることができる。

 魔法陣を起動。このまま一時間ほど放置。室温は少し高めにしてあるし、風邪を引くことはないだろう。

 

「……あ、こいつマジで寝やがった」

 

 こんな男を疑わないなど、どこまでも脳筋馬鹿な弟子である。

 

 

 

 


 

 

 

 

「聖女様、恋バナしましょうよ、恋バナ」

「こいばな、ですか……?」

 

 部下の一人、聖騎士のダフネが聖女様に話しかける。

 任務中であれば咎めるところであるが、あいにくと休憩時間であり、また護衛対象である聖女様も興味を示しているようだから、アグライアは成り行きを眺めることにした。

 ダフネも礼は失していないようであるし、蝶よ花よと育てられた聖女様が恋の話をしてそう長続きするとも思えなかった。

 もし盛り上がったとて、男ばかりの聖騎士団で聖女様と恋愛ごとの話をできるような人物はダフネくらいしかいないであろうし、アグライア自身、自分がそういった話題は不得手だから、彼女に任せるのが良いであろうと考えた。

 

(魔法が得意とは言え、男衆に劣らぬ実力を備えたダフネは流石だな。本人からすれば傭兵時代とさほど変わらないのだろうが……そもそも女が一人で傭兵をやっていた時点で異常、傑物のそれだ)

 

 とは言え、アグライアとて剣の才に愛されていたため、膂力で男に敵わなくとも戦う術が存在しているのは理解していたが。

 自分は家柄上戦う運命にあったが、ダフネはどうやって己の才を見出したのやら。

 

「──ですよねぇ。教官はどうなんすか?」

「……ん? 何の話だ?」

「勇者サマの師匠、強くて渋くてイイ男だって話してたんですよ」

「わっ、私はそこまでは言っておりませんが……!?」

 

 聖女様が赤面しながら否定する。さっき耳に入った言葉に「顔を見るとドキドキする」というものがあった気がするが。親と子の年齢差なのに大したお姫様である。

 勇者の師匠……あの男か。確か、聖騎士団の団長になることを断って、傭兵を続けることを選んだとかいう。名前と簡単な経歴だけはアグライアも知っていたが、いつの間に勇者と巡り会っていたのやら。

 

「実力は認めるが……あの男、中々顔を出そうとしないからな。ロクに話したこともなければ、異性として見ることはない」

 

 興味がないと言えば嘘になるが。

 それでも、見た目や雰囲気だけに釣られる乙女のような思考回路は流石に持ち合わせていない。

 

「ですよねえ。実はアタシ、あいつと傭兵の頃よくつるんでたんですよ。一方的にでしたけど。アタシのことに気付いてんのかいないのか、特に聖女様には全然近付こうとしないですよね。聖女様、嫌われてんじゃないですか?」

「え、えぇ!?」

「ダフネ、失礼が過ぎるぞ。弁えろ」

「私、勇者のお師匠様に嫌われているのでしょうか……?」

 

 不安げな顔をして聖女様が泣きそうな声を出す。

 休憩中とは言え、自らの役職と身分差を理解しない行動は認められない。アグライアは手を広げてパーの形にした。

 

「あ、じょ、冗談ですってば! 待って、教官、その指はなんすか!? 5!? 罰走5周!?」

「50周だ」

「いや死ぬ!!」

「冗談だ」

 

 分かりにくい! とダフネが叫んだ。まあ、半ば本気だったからな。

 走らせなかったのは、ひとつ気になることがあったからだ。

 

「しかし、かつて一緒に傭兵をしていたというのは本当か?」

「ほんとですよ。ま、アタシの依頼押し付けて一緒にやらせてた感じですかね。あいつ優秀なんで、それだけですげえ楽なんですよ。それこそ報酬半分貰うのが申し訳ないくらい」

「それは……凄いな。傭兵の仕事と一口に言っても、厳しいものも多かったろう」

 

 アグライアも、戦功稼ぎ、あるいは実戦の勘を鈍らせないために何度か傭兵向けの依頼を受けたことがあるが、気の抜けない、激しいものばかりであった。

 確かに、ひとり飛び抜けて優秀な傭兵がいた。よくよく考えればあの男であったか。

 あの頃もアグライアとはわざとらしいくらい距離をとっていたし、孤独を愛すか、あるいは脛に傷を持つ人物なのかもしれない。経歴上は、確かただの農村出身であるはずだが。

 

「優しすぎるんですよね、あいつ。傭兵としてもしばらく姿を見せてませんでしたが、勇者の師匠やってる方がまだ似合ってます。できれば、一緒に聖騎士やれたら良かったんですけど」

 

 優しいのか、あの男は。

 癒えない悲しみを湛えたようなその眼差しの奥では、一体何を思っているのだろう。

 

「……出会い方によっては、私達の隣に立っていたのかもしれないな」

 

 そうして、もしかすれば、惹かれ合うことさえあったのかもしれない。

 もしも、の話である。

 

 

 

 


 

 

 

 

 おっぱい!!!!

 

 疲れた。流石に性欲がやばいから山奥でおっぱいって叫んで鬱憤を晴らしてきた。

 どうも俺は、三十代から四十代までの間の性欲の(さか)り具合がひどいらしい。まあ周回するうちに気付いてはいたけど。

 特に前々回でアリアの豊満な肉体を隅々まで知ってしまったため、おっぱいが人類の救済になり得るということを理解してしまった。しかし今回はその救いがどこにもない。

 

 故に俺は叫ぶ。

 

「おぉぉっぱぁい!!!」

「師匠うるさい!!」

「うるさい一枚岩! 石は石らしく黙っていなさい!」

「はぁぁっ!? いいもんね、そんなこと言うならもう研究付き合ってあげなーい!」

「ごめんなさい許してくださいつい魔が差したんです」

 

 魔王との戦いを目前に控えた野営にて。

 いや、あれだよ、初めての魔王との直接対決だから、緊張してつい荒ぶったんだよ。

 魔物を呼び寄せてしまうから、実のところマジで静かにしたほうが良かったりする。まあ、寄ってきたら脳筋弟子が殺してくれるけど。

 

「……だいたいさぁ、おっぱいならさっきだって見てたじゃんか」

「……?」

「ムカつくなぁその不思議そうな顔! ボクのおっぱい! いつも見てるでしょ!」

「……?」

 

 俺の胸筋より膨らみのないそれはおっぱいではなく虚無と呼ぶのではなかろうか。

 胸部でなく、虚無。

 

「へー、そんな朴念仁ぶっちゃって。いいんだ? 本気でゆーわくしちゃおっかなー?」

「……ははっ」

「やめて。乾いた笑いやめて。一番刺さる」

 

 本気で苦しそうな顔をする勇者。情緒豊かな子に育ってくれて師匠嬉しいよ。

 

 研究は相変わらず続けている。とある神樹の一部を元に作らせてもらった紙に竜の血で魔法陣を描き、実験の際はそのスクロールを広げて真ん中に勇者を寝かす。

 とりあえず、加護を得るときの魔法的情報の変化を調べて分かったことは、変化は一度に起こるものでなく、連続的に起こる変化ということだ。世界そのものから魔力が流れ込み、新しい部品が取り付けられるかのように、魔法的情報の記述が増えていく。

 また、同時に体中の情報が書き換えられるわけでなく、ひとつひとつのゲノムについて変わっていっているようで、時間が経つほど書き換えられたゲノムの割合が増す。勇者の力が成長したり覚醒したりするのは、この辺りのことに起因すると考えてよいだろう。おっぱいが覚醒しないのもこのためだ。おっぱいの情報は変わらないからね。

 

 あとは、勇者の力が削がれていく過程を調べられれば研究は終わる。

 与えられた力の失い方。それさえ分かれば、俺の死に戻りの力を失う方法に近付けるはずだ。

 

「いいもん。どうせ師匠の雄っぱいに負ける汚っぱいだもん」

「いや、綺麗だとは思うぞ」

「……っ、あのっ、さあ! ……ああもう、この、胸筋モンスターめ!」

「あっ、やめっ、胸触っちゃ……アンっ」

「え……、キモ……」

 

 戯れだ。師匠と弟子の。

 そんな名前すら、本当は似つかわしくない関係であるけれど。

 

 身内だと刷り込み、隣にいることを当たり前と思わせ、自分の目的のために利用する。無自覚であるならともかく、それを意識的におこなう。

 ただの、屑だ。だから。

 

「師匠、気持ち悪っ! ぷっ、あははっ!」

 

 だから、そんな、心を許しきったような目を向けないでほしい。

 

 

 

 


 

 

 

 

maosama……oyurushi、wo……

 

 人間よりは巨大な、しかし他の魔物を考えれば巨体とは呼べない程度の大きさの騎士が崩れる。

 一息つきたいところだが、その間にも他の雑魚敵たちが集まってくる。外で戦っている仲間たちのことを考えれば時間を取られている暇はないし、回復をしながら駆ける。

 二人がかりで戦ったことで、勇者の損耗が殆どないのは僥倖だ。元々ひとりでこいつと魔王を倒しているのだから、俺が余計なことをしなければ勝てるのは当然である。

 

「ししょー、ボクも回復―」

「自分でやれと言いたいところだが……お前の魔力は少しでも魔王用に残しておきたいし、仕方ない」

「ありがと! ……えへへ、師匠の魔力だ」

 

 ふてぶてしく回復を要求する勇者に魔法をかけてやれば、素直に礼が返ってくる。俺はロクな教育をした覚えがないし、爺さんの努力の賜物である。

 

「誰の魔力とか分からんだろ」

「分かるよ? 匂いというか、温度というか……触り心地?」

 

 勇者の力か、天性のものか、魔力の違いが分かるらしい。凄い。

 無駄口を叩く内に、大きな扉の前に到達する。ヤバそうな気配がするし、この奥にいるのだろう。

 

「「扉は蹴り破るものォ!!」」

 

 二人して、左右の扉を同時に蹴り飛ばす。

 飛距離、測定。はい、四捨五入しても俺の勝ち!

 

「師匠助走つけてた! ずるいよ!」

「レギュレーション遵守なんで」

 

 そもそもレギュレーションねえし。

 

……sawagashina

 

 女がいた。

 騒がしい俺らと対称的に、空気そのものが凍っているかのような静けさを纏った女。

 

「なぜ来た、人間」

「──ボクたちの、平和を取り戻すため」

「ハッ、さんざ我が同胞を殺しておいて、平和を唱えるか」

 

 10代の少女のような、美しさと愛らしさを両立させた相貌だが、何よりも深く澱みきった瞳が印象的であった。その色は、見覚えのあるもので。人類に向けたものか、底知れぬ憤怒と絶望、失意が読み取れる。

 あくまで部外者である俺は、勇者と魔王の掛け合いに口を挟まない。魔王が人語を使ったことに驚きを覚えたが、この場では些細な問題だろう。

 

「放っておけば、魔物は人を傷付ける。それも、あなたの加護を受けて強大な力を備えて。だからボクは、あなたを殺しに来た」

「諦めろ、人間。どうせ我は復活する。キサマに我は殺せぬよ」

「殺すよ──そのための、力だ」

 

 与えられた力。

 神の加護か、あるいはただの自然現象なのか、今の俺には判別がつかない。

 

「カカ、前回の勇者もそう言っておったぞ。その結果がこれだ」

「それでもあなたは勝てなかったんだろう? 負け犬の遠吠えなんて興味ないね。100年限りだろうと、平和のために勇者(ボク達)は何度でもあなたを殺すよ」

「……その先に待つのも、結局キサマらの敗北なのだがな」

 

 魔王が予言するように吐き捨てる。

 その言葉は、思い込みや意気込みなどではなく、どこかで人類の敗北を確信している者のそれであった。

 

「嗚呼。本当に愚かじゃよ、キサマらは」

 

 そう呟いて細められた目は、やはりこの世のあらゆるもの、あるいは世界そのものに対する憎しみが込められていて、俺はどうしようもなく既視感に囚われた。

 既視感──つまり、まるで鏡を見ているようで。

 

koroserunara……koroshitekure

 

 ──魔王を中心として、黒い炎が放たれるッ!!

 

 

 

 


 

 

 

 

 空に光の柱が立った。

 

 ──いや、正確には、立っているのだろう。外から見れば。

 近くにいるだけで焼かれているような感覚に陥るほどの熱量。俺の眼前で放たれたその技は、直視すれば視力をいくらか失うことになっただろうから、俺は顔を腕で覆いながら背けていた。

 ただただ全身の毛が逆立つようなその輝きに、俺は勇者や魔王といった理外の存在との隔絶を感じるばかりであった。

 

雄ォォォォォォォオオオ!!

 

 外からは歓声が聞こえてくる。勝鬨だ。

 ニケの負傷はかつて俺が見たものよりはよほど浅い。俺がサポートとしてチマチマ回復やバフをかけてたからな。ぶっ倒れずに、剣を支えにして魔王の方を油断なく見据えている。

 

 天に穴を開けたままスウッと消えていく光の柱の中からは、最初のときのような人型でなく、巨大な黒龍の姿が現れ、そしてドサリと大地に伏した。

 人型のときは技巧的な戦いで俺も混ざることができたのだが、この第二形態になってからは無理だった。巨大な体躯から放たれる攻撃は物理・魔法どちらも絶望的な破壊力を伴い、体を覆う龍鱗はどんな攻撃も弾いてみせた。

 圧倒的な力はあらゆるを捻じ伏せる。それを打ち破るには、やはり同等以上の力でゴリ押すしかなかった。

 

「師っっ匠ぉぉぉおおおおおうう!!」

「はぶっっっ!?」

 

 魔王の死を見届けた勇者が俺にタックルしてきた。痛い。やめれ。

 

「師匠、師匠っ、ししょーっ!!」

「ええい、人の言葉を喋れワンコ!!」

 

 お互い体がバキバキだろうに、頭をグリグリ擦り付けてくる。

 勇者はすわ呪いかと疑うレベルでシショーとしか言わなくなっているが、勇者の勝利を確信していた俺はそこまでの興奮を覚えてはいない。むしろ、俺からすればここからが本番なのだ。如何にして勇者はその力を失うか。

 

「ご無事ですか、勇者御一行!」

 

 ひっついてくる勇者を引き離していると、イリスを連れた聖騎士団が姿を現す。ダフネもおり、魔王の敵討ちをばと俺達に群がろうとする雑魚達を斬り伏せている。

 ……どうしよう。気まずいな。某大規模作戦の時以外にも、いくつか大きな怪我を治してもらう時にイリスには世話になってるんだが、あんまり関わりすぎないよう会話も控えてたから非常にやりづらい。情を深めないほうが良いのだ。お互いに。

 

 勇者をイリスに押し付け、俺は自分自身に治癒の魔法をかけながら隠れるように魔王の骸に近寄った。サンプル回収のためである。

 勇者の能力は、魔王の復活に伴って目覚め、次第に成長し、魔王が倒されるとともに失われていく。十中八九、勇者と魔王の力には相関関係があると考えて問題ないだろう。魔王を倒して今後勇者のゲノムに変化があるとして、同時に魔王側でも何か情報が得られるかもしれない。

 まあ、それだけじゃないんだけど。

 

──失敗じゃ! 失敗じゃ! 失敗じゃ!

「……は?」

 

 何だこの声。

 サンプルを回収しようと魔王の骸に触れた瞬間、音というよりは頭に思念が流れ込むように聞こえてきた。

 

「お前、まだ生きてんのか……?」

──……。……勇者、のオマケか。言ったじゃろう、我は死なぬよ。いいや、死ねぬ。この身体が朽ちようとも、どうせまた次の身体に生まれる。

 

 そりゃまあ、従来の流れからしてそうなんだろうけど。

 不倶戴天の敵。人類にとって永遠の災禍。それが魔王という存在だ。

 死という生命の絶対を無視しているという点では、俺とそう変わらない。……その秘密についてなにか知っているなら、教えてほしいものだが。

 

──人間の欲しがる智慧など、ひとつたりともやるものか。我は更に力を得て舞い戻るぞ。此度の勇者の使った雷撃は、次に会うときにはもう効かなくなっていることじゃろう。絶望しろ。絶望しろ、絶望しろ! キサマらが死力を尽くすほど、次の我は力を得ることじゃろう

「はあ……凄いっすね」

 

 なんだ、つまり、死ぬ度に前世で受けた攻撃への耐性を得て復活すると? そりゃ凄い。人類の未来は暗そうだ。

 だが、まあ、俺は死ねば生まれた時に戻るわけでして。そんな俺の死んだ未来の人類の話なんてされても、そもそもそこに流れ着く時間軸に生きてないんだよなぁとしか。

 俺は俺にできることをするだけで、人ひとり救うことすら苦労しているのだから、未来の人類の命運なんて託されても困る。

 

──なんじゃ、つまらん。もっと怯えよ。もっと畏れよ。キサマら人間の浅ましさをここに示せ

「俺は、俺のいない世界のことまでは考えらんねえよ」

──ハッ、仲間意識すら希薄なのか。どこまでも哀れな生き物じゃな

 

 浅ましいのも哀れなのも否定しないけどさ。

 ……やっぱ、こいつなんだろうなあ。

 

「……覚悟しとけよ、魔王。俺はお前も利用するぞ。たとえ人類を裏切ったって、お前がその尻尾を振るまで懐柔してやる」

──何を、言っている? そもそも、我は誰にも気を許さん

「どうだろうな。俺のことを産業廃棄物呼ばわりした女は、気付けば嫁さんになってたぞ」

 

 結局、人と人の関係は出会い方や関わり方次第でどんな風にも変わるのだ。

 魔王だって、これだけ意思疎通ができるのなら、問題ない。

 

──傲慢だな、ニンゲ──

 

 ……えっ。

 落ちた。首が。黒龍の首が、ズルリと胴体から離れた。

 切り口の向こう側に立っていたのは……怪我を全て癒やし終わった勇者である。

 

「良かった、雌蜥蜴が師匠に何してるのかと思った」

 

 えっ、あの。

 無慈悲な確殺を入れておきながらニッコリ笑っている勇者が怖いです。

 いやまあ、敵だからそれが正しいんだろうけど。

 

「さ、師匠。帰ろ?」

「……はい」

 

 

 

 


 

 

 

 

 魔王を二人きりで倒した勇者様とその師匠は、宴で散々腹を満たしたあと、「パレードと授賞式がめんどくさいので旅に出ます、探さないでください」という書き置きを残して姿を消した。

 国民の感情を考えれば探し出すべきなのだが、聖女様の進言もあり、彼女らの望み通りそっとしておこうという結論に落ち着いた。

 二人のために用意されていた席があったらしいのだが、そこには他の人物が据えられた。たとえば宮廷騎士団団長の席には、副団長であった教官、もといアリアが、という風に。

 

 自分勝手なアイツらしいな、と思いながらアタシは森を歩いていた。

 確かな役職も、実力も、金も手に入れ、魔王という人類全体の仇敵もいなくなったので、自分の過去に立ち返っていたのだ。

 生きていれば、今頃勇者様や聖女様と同じくらいの年だ。少女期を終えて、ひとりの人間として自立を始めた頃。今更アタシが会いに行っても、追い返されるだけかもしれない。もしかすれば、野垂れ死んでしまっているかもしれない。

 それでも向き合いに行こうと思えたのは、自分が無力な少女から成長できた証拠だと信じたい。

 

「あれ、聖騎士団の……ええと、ダフネさんじゃん」

「……え、マジ? なに、やっぱパレード逃げ出したのやばかった? うわマジじゃん。すいませんつい出来心だったんです逮捕だけは……」

「……」

 

 森の奥へ入って、ひとつのロッジに辿り着いて(まみ)えたのは勇者とアイツだった。

 ぽかんと口を開けたまま、アタシはひとつの当然な問いかけをした。

 

「ええと、アンタら、旅に出るって、ここ?」

「ううん。えっとね、ボクが元々ここで育ったんだ」

 

 なんだ、逮捕じゃないのか? などと呟くアイツは放っておいて、アタシは一旦思考の整理をする。

 あの子を捨てたのは、ここで間違いないと思う。この家には子供がいないと分かって、老夫に託したのだ。しかし、勇者様はここで育ったと言う。

 つまり──

 

「──なんだ、そういうことか! アハハハハッ、なんてこった!」

 

 アタシにも、勇者の血が流れているってわけか!

 

「え、こわ……」

「いや、ダフネは元々こういう壊れた感じだぞ」

「ぶっ飛ばすよアンタ」

 

 まあ、アタシじゃアンタには勝てないだろうけど。優しいコイツなら、不意を付けば一発くらいは入れられるか。

 それから、少し話があると言って家の中に入らせてもらった。話した結果どうなろうと構わなかった。たとえ嫌われようと、この子が無事に成長してくれて、魔王まで倒したとなれば母親冥利に尽きる。心残りはないし、好きに生きて好きに死ねる。

 

「アタシはさ、ガキの頃人攫いに遭ったんだ」

 

 思い返すだけで吐き気を催す。

 かすかな記憶を辿れば、幼少期はお嬢様みたいな生活をしていたような気もする。どこかで見た夢かと思っていたが、勇者一族ならそのくらいの富もあったのかもしれない。

 

 人攫いと言うか、街の元締めとかの方が正しいのかもしれない。旅行で訪れた、身なりの良い格好をしたアタシらがカモに見えたのだろう。父親も母親も殺され、ボスに見初められたアタシはその女となった。

 クソッタレなそのロリコン野郎は、他にも数人の少女を囲っていた。気に入らない所があれば殺すし、成長すれば当然殺す。少しでも長く良い思いをしたければ、必死に奉仕をして気に入られなければいけない。

 少女を孕ますのも趣味のひとつらしく、月のものが始まった途端アタシはそれまで以上に執拗に抱かれた。そうして生まれたのが勇者──ニケだ。

 

「……っと、ごめんよ。知りたくないか、こんな話」

「いや遅いし……まあ、いいよ。ボクの話なんだ、聞くよ」

 

 じゃあ続けさせてもらって……。

 月のものが始まったということはつまり、アタシの「使用期限」が近いということでもある。ゆっくりと迫るその時に、少しずつアタシの精神は削られていった。

 結局、アタシは逃げ出すことを決めた。そう簡単なことじゃあなかったし、小娘一人で追手を殺せたのは勇者の血が助けてくれたのかもしれない。

 

 ニケを連れ出した理由はよく分からない。母親の情なんてものじゃないことは確かだ。

 強いて言えば、その時のアタシはボスを愛していると思い込んでいたんだろう。そう思っていなければやっていられないような環境にずっと身を置いていたから。愛しい人との子なら、自分の手元に置いておきたいし、助けたいと思うものだ。

 まあ端的に言って、狂っていたんだろう。「愛しい」のに逃げ出したんだから。マトモじゃない環境にいれば、人の思考なんて簡単にマトモじゃなくなる。

 

 一人じゃ子供を育てられないと思ったアタシは、森を彷徨った結果この家に辿り着いた。そして、赤子だけ置いて自分は更に逃げていった。ちゃんと育ててくれたあの老夫には感謝してもしきれないけど……そうだよね、流石にもう亡くなっているか。

 いつしか王都に辿り着いて、傭兵なんてのに成り下がって、アンタと出会って。そこからは大体知っているだろう。

 

「女性なのによくやるもんだと思ったら、お前も勇者一族だったのか。そりゃ強いし聖騎士団入れますわ」

「勇者の条件が血だけとは限らないけどね。アタシは魔王が復活しても特に力に目覚めなかったわけだし、過去には血に関係なく突然現れた勇者もいる」

「まあボクだし?」

「バカ、調子に乗るなバカ」

「痛い! 叩かないでよバカ師匠! 背が縮む!」

 

 ……本当に、良かった。

 こうやってまっすぐ育ってくれて。偶然か運命か、この人に出会ってくれて。

 そして、幸せそうに笑っている。

 

「……おお、ダフネが母親の眼差しになっている」

「そんなこと言うなら、アンタだって時々父親みたいな眼差しになってるよ」

「あん? なわけないだろ、それはアレだ、ちょっと違うんだよ」

「ぷぷ、師匠がお父さんだって!」

 

 からかうニケを見てひとしきり笑ってから、ボソリと呟いた。

 

「……お母さんって、呼んでほしいなぁ

 

 それに気付いてか気付かずか、キョトンとした顔でニケがアタシを見た。

 

「──どうしたの、お母さん?」

 

 ──嗚呼。

 

 駄目だ。景色が、滲む。

 そんな、母を名乗る資格もない女なのに。

 

 逃げ続けたアタシを、まだ母と呼んでくれるのか。

 

「……ごめん、ごめん、ごめん。……あり、がとぅ。本当に、よく、よく……っ」

「い、た……痛いよ、お母さん」

 

 少女のように泣いた。いや、少女として泣いた。

 あの時老夫に手放したニケを抱きしめながら、幼かったひとりの少女として泣いた。

 痛いと言いながら、突き放して拒絶しないニケがどうにも愛おしかった。

 

 しばらくして落ち着いてから、隣で気まずそうに頬を掻いている存在に気付いて笑った。

 

「気まずそうにしてどうしたんだい、()()()()?」

「は? お父さんじゃないが?」

 

 あくまでも拒絶する姿にカラカラと笑う。流されたっていいだろうに。

 と、抱かれるままになっていたニケが、ピクリと反応してアタシの腕をするりと離れた。

 

「……駄目だよ、お母さん。この人は、ボクのだから」

「は? お前のじゃないが?」

 

 そう言ってアイツの腕に抱きつく。拒絶されてるけど。

 ……へぇ?

 

「知らないのかい? 子供のものは全部親のものなんだよ?」

「なんだそのトンデモ理論」

「アンタは黙ってて」

「えぇ……」

 

 そもそも、見つけたのだってアタシが先だ。

 しばらくいくつかの依頼を一緒にこなす内に気に入った。それと同時に、アタシがボスに抱いていた感情が、恋愛感情などでなく恐怖に矯正された欺瞞であることに気付いた。

 悪党に孕まされたって、傭兵に身を(やつ)したって、心の中に少女のような理想はある。一度くらい好きな奴に抱かれながら愛を噛み締めてみたいし、なんならその子を孕んでみたい。

 

「何度か酔ったところを狙おうとしたんだけど、アンタ全然酒飲まないから」

「……狙われていて飲む奴がいるか」

「気付いてたのか?」

 

 流石はトップクラスの傭兵をやっていただけある。気付かれていたのか。

 だけど、ここまでの身の上話を聞いた上でも拒絶するだろうか。この優しい人は。

 

「一度だけでいいんだ。好きな男に、抱かれたい」

「ちょっとお母さん!? ……師匠、断るよね!?」

 

 ニケの反対側の腕を取って、ねだる彼女のように囁いた。

 けれど……まあ、無駄だろう。

 

 こちらを見つめながら様々な表情を浮かべてから、苦しそうな声が絞り出された。

 

「……駄目だよ、ダフネ。それは同情で買うものじゃないし、与えられるべきものじゃない」

「……知ってたさ。そう言うアンタだから、好きになったんだ」

「なら、諦めろ」

 

 アンタが受け入れる義理なんてどこにもない。

 だというのに、本当に辛そうに答える姿が、それだけでアタシを大切に思ってくれていることが伝わって嬉しくなる。

 だから諦められないんだ。

 

「……お母さん。ほんとは師匠だけ誘うつもりだったんだけどさ、一緒に旅に出ない?」

「「へ?」」

 

 突然のニケの提案に、アタシ達は素っ頓狂な声を出した。

 

「師匠はボクのだけど……お母さんも、時間かけてじっくり攻めれば堕とせるよ」

「は? お前のじゃないが? 堕ちないが? そもそも、ならお前ら二人で旅行けよ。親子の絆元通りにしてこい。そしたらいつも通りの流れだし」

 

 旅。そうか、書き置きのあれは一応本気だったのか。

 いいかもしれない。元々ろくでもない育ちだし、聖騎士団の解体後に王都で正規の仕事をさせられても堅苦しい。

 傭兵の頃のような、それよりももっと自由な、そんな旅を娘と好きな人とする。とても楽しそうだ。

 

「よしきた、みんなで旅に行こう!」

「いや俺行かないよ? 研究あるし」

「残念! 師匠はボクがいないと研究進まないんだから、一生ボクから離れられないのでした! 知らなかった?」

「……」

 

 苦々しげな、笑ってしまうくらい悔しそうな顔を浮かべてから、ゆっくりと溜息をつくのが分かった。

 

「──分かったよ、行こうか」

 

 そうやって、最後には優しい微笑みを浮かべてしまうのが好きだ。

 ニケと一緒に笑いながら、これは簡単に堕とせそうだな、と予想するのであった。

 

 

 

 


 

 

 

 

「とんだクソ野郎だ俺ぁ……」

 

 嘆きの声を漏らした。

 旅も終わり、帰ってきてからしばらく経ったある日のことである。

 

 母娘(おやこ)同時攻めの誘惑には勝てなかったよ……。

 

 いや、正確に言えば3年ほどは耐えた。最初の1年を耐えた辺りで二人が結託を始め、旅の多くは野宿であるから、プライバシーもクソもない環境で美女二人の誘惑に晒された。

 「クスクス、水浴び覗いちゃ駄目だよ?」みたいな誘惑はかなり程度が低い。当たり前のように毎日やってくる。個人的にキツかったのは、極寒の大地で「暖を取るため」という大義名分を掲げられた状態で抱きつかれながら寝たときとか。脚を絡められて、前後挟まれて、「これだけやっても手を出さないの? どーてーさん」と煽られた時は、コイツ喘ぎ泣かせたろうかとキレかけたが、それもなんとか耐えた。二人が巨乳だったらやられてた。

 決め手はやはり理性の喪失である。とある森林地帯で、催淫性の花粉を吸った後がヤバかった。二人も発情していたし、俺もほとんど記憶が残っていない。気付いた時にはすべてが終わっていた。というか、前回までの周回の、俺無しで旅してた頃は、二人はどうしていたんだろう。

 

 とりあえずイリスやディオネ、アリアのいるであろう王都の方角に土下座し、腹を括った。最初は普通に結婚していたのに、セフレだったり親子丼だったりと死に戻る度に業が増している気がするのはどうしてだろう。気の所為であってほしい。

 

「お母さんの夫だからお父さんって呼ばれるのと、ボクの夫だからお父さんって呼ばれるのどっちがいい?」

「師匠のままでいいよ」

「師匠と弟子の禁断の関係がお好みと……メモメモ」

「もうやだこの弟子」

 

 当初は利用し尽くすつもりであったニケも、逆に研究対象であることを利用して俺を旅に引っ張り出したし、罪悪感がほぼ無くなっている。

 本当にクソッタレな野郎である。俺という人間は。その上主体性がない。一度掴まえられたとて、本当に嫌なら逃げ出してしまえばいいのだ。それができないくらいダフネやニケという女性の人間性に惹かれてしまっているのだから話にならない。

 あの二人は俺の女だ、手放せない、と執着してしまっているのだ。

 

「その方が、ギャングの親玉っぽくていいと思いますよ」

 

 皺を刻んだ、立ち姿の美しい女性が述べる。お互い老いたが、ダフネは俺よりずっと正しく老熟したように見える。特に、言葉遣いが丁寧になった。まあこれは前までも手紙でやり取りしてたし知ってたけど。

 

 帰郷した俺達は、森のロッジでなく麓の街で暮らすことにした。つまり、ダフネが人攫いに遭った街だ。辺境の街にしては整備されているように思ったが、街の孤児院の経営を助けている内に気付いた。

 この街の平和は、裏にいる元締めの組織によって保たれている。つまり、ダフネを玩具にしたクソ野郎とその組織がまだ生き残っているのだ。

 それでもダフネが「終わったことだからもう良い」と言うから関わっていなかったが、息子に遺伝したのか本人が爺になっても懲りないのか、孤児院の少女に手を出そうとしたから叩いた。

 結果、そこの頭になってた。訳分からん。

 

 まあ、かつての手紙にも書いてあったが、元締めがいなくなると均衡が崩れて困ることが生まれるのだ。成長してしまった組織は飼い殺したほうが問題が少なかったりする。

 

「いまが幸せで、死ぬのが少し怖いですね。ニケと、あなたのせいですよ」

「せいって何さ、せいって」

 

 ニケが口を尖らせる

 おかげはお陰。何かが、嫌なことや悪いことを遮ってくれている。けれどそこに意思は介在しない。

 だからせい……いや、所為。俺がダフネと一緒にいることを選んだ。俺の選択で誰かが幸せになったと言うなら、それはとても嬉しいことだと思う。

 選ばなかったことで不幸になった人もいるかもしれないが。

 

「……なあダフネ。幸せってなんだと思う? もっと言うなら、俺達はどうして幸せを目指すんだと思う?」

「変な問いかけですね。……私にとっての幸せはあなたと一緒になることでしたが、でも、そもそも私は幸せを目指していませんよ。あなたの隣にいられれば、それだけで」

「……そうだよな」

 

 俺は力を抜いてふっと笑った。

 きっとダフネは知っている。俺も知っている。ニケはどうだろう。

 

 俺が分からないのは、俺の幸せだけだ。

 

 ──あるいはきっと、それは死ぬことで。

 

 

 

 

*****

 

10.

 

 

 気が付いたときには、赤子になっていた。

 

 ……はぁ、ふぅ。

 色々な思いが渦巻いている。

 

 達成感。あの辺境の街は、十分に活性化された。必要な技術者だって雇ったり呼び寄せたりしたし、王都までも二本の道路と一つの街を経由すればすぐに到達する。開墾も進み、未開拓地域だった場所への進出もおこなわれた。

 きっと、次に魔王が蘇る頃までには戦える街になるはずだ。魔王も強化されてるらしいけど。人間は最終的にはどうなんのかね。勇者の成長に上限があって魔王が無限に強化されるんだったら、負けてしまうんだろう。

 

 後悔。あれだけかつての妻達に操を立てておきながら、今度は勇者一族の貧乳親子丼とか刺されても文句言えない。多分世界で一番潔癖から遠い場所にいるぜ、俺。いやでも少女を集めて玩具にしていたクソ野郎も存在する世界か。一番かは分からないな。

 

 罪悪感。畜生なことを言えば、知りたくなかった。どうやったって、俺があの男を殺せるより先にダフネは穢されるし、それがなければニケは生まれないかもしれない。そもそも、殺せたとしてもそれはあの街を丸ごと混乱させることに繋がる。

 世界に不幸なんて溢れている。手の届く限り救おうとしたって、死に戻る度に他者の「不幸」を知る俺では手が足りない。それに、誰かにとっての不幸はもっぱら誰かにとっての幸せなのだ。

 結局は流石にもう死に戻りたくないという結論に辿り着くのだが、それを言ってもしょうがないし、違う生を送るほど俺の中の罪悪感は増していくのだろう。ともすれば、世界がまるごと滅びてしまえという考えにすら繋がりかねない。

 

 希望。勇者の体を調べたことで、また魔王のサンプルを調べたことで、死に戻りの解決には一歩前進した。勇者の力の失われ方は、中和とでも呼ぶべきものであった。

 魔王が死んだことで、その体から大量のエネルギー、というか魔力が放たれる。それはゆっくりと勇者に取り込まれ、打ち消し合うように覚醒した力が失われていくのだ。より正確に言えば、その力に直結するゲノムの魔力的な部分が。

 勇者が殺されれば、逆に魔王の力が中和されるのだろう。だから、魔王が無限に強くなることはないんじゃないかと思っている。まあ無限に強くなるなら諦めましょう。

 俺にとって重要なことは、魔力的情報の書き換え、もとい消去は、中和という手段を取れば少なくとも部分的に可能であるということだ。

 

 そして、絶望。大したことあるのかないのかは分からないが、まあ、いつもの。前回勇者の横に並べ立てたような「師匠」はもういない。練り上げられた、全能感すら感じたあの力は失われた。そういうものだと割り切れたつもりになっていても、気を抜けば生への意思を根こそぎ奪われそうな絶望がある。

 早く死に戻りを終わらせなければ、俺はこの絶望に飲まれてしまうだろう。そうやって「生きる」ことすら諦めるのは嫌だ。「生きて」、そうやって、死にたい。

 

 最後に、不安。これはもうどうしようもない。前々回の時がトラウマとして刻まれている。調べて調べて、最終的に辿り着いた場所で理不尽を突きつけられたあの絶望感。

 たとえ進めたとて、結論が「死に戻りは治せません」だったらどうすればいい。勇者のように中和を目指すというのなら、死に戻りの対となる魔力を秘めている人物を探し出せというのだろうか。勇者のように宿命付けられた相手もいないというのに、この広い世界で。

 

 他にも、世界そのものへの憎しみだのといった様々なくだらない感情もある。ありきたりだし、言っても仕方ないし、挙げんけど。

 兎にも角にも、これらを飲み込んでぐっちゃぐちゃになっている俺の頭はとっくに狂っているんだと思う。いつもの「発散(オルゴス)」で自殺をするのも特に躊躇しないし、自分の目的のためならどんな犠牲も厭わないのではないだろうか。

 どんな犠牲も、というか。

 

 犠牲になってくれ────人類。

 

 俺の大好きな人達が生きている時代は救うからさ。

 未来の人類がどうなるかなんて、知ったこっちゃねえよ。

 手が届く限りを救うって、つまりこういうことだろう?

 

 

 

 


 

 

 

 

「いい天気だな門番くん! 俺、人類裏切ってきたから、魔王に会わせてくんね?」

 

 王都の守衛にでも声をかけるかのように挨拶をした。相手は魔王城の入り口にいる石像。返事は凝縮された熱線である。熱い気持ちが伝わってきた。

 

 魔王が誕生する、俺が30になる頃までにかつての力を取り戻すのは不可能ではなかった。四捨五入すれば可能であった。

 実際、到達点というものが分かっていれば、何も知らない頃よりもそこに早く到達することができる。俺に必要な力は魔王とタイマンを張れるだけのものではなく、この城まで到達し、即座に殺されてしまわない程度のものであった。

 それに、ある程度以上の戦闘能力というのは、単純な力ではなく意識の差によるところが大きい。引き際、攻めどころ、癖や技の見極め、遮蔽物の利用。それらは鍛え上げると言うよりかは「取り戻す」もので、十年以上戦場に身を置けば問題にならなかった。

 

 だがそれでも、もう一度同じ時間を過ごしたいとは思えない。既に精神は擦り切れている。それこそ笑顔で人類裏切り宣言を叫べるくらいには。

 今回で終わらなければ、自分がどうなるか分かったもんじゃない。魔王の協力を得たとして、それで死に戻りが解決しないことが分かれば絶対に壊れる。あはははははってひたすら笑い転げて、その後はアーしか言わない物体になると思う。

 というか既にそうしたい。ひひぁ。うひひ。

 

aishiteru!! aishiteru!! aishiteruuuu!!」

 

 集まってきた魔物たちの攻撃を交わしつつ、今回のために覚えた魔物の標準的な言葉を話す。友好を示す言葉だ。

 人間とて、無害な魔物が「仲良くしよう! 仲良くしよう!」って叫んでれば気を許すと思うんだ。いやどうだろう。不安になってきた。むしろ怪しいな。

 

 流石に一時間ほど繰り返してウンザリしたのか、困惑したような門番や魔物たちは攻撃をやめ、一人の兵士らしき魔物を連絡に走らせ俺にジェスチャーで待つように示した。

 いい奴やんお前ら!

 

 しばらく待って、通してくれることになったらしい。

 武器は没収された。

 両手も拘束された。

 それでもヘラヘラ笑っていたら、後頭部からガツンという衝撃。

 気が付いたら、牢屋にぶち込まれていた。

 

 ……だよなぁ!(納得)

 

 

 

 


 

 

 

 

 そりゃまあ、常識に照らし合わせればこうなる。

 まず第一に、怪しい。というかむしろそれに尽きる。「味方裏切ったから王様に会わせてー」とか直球で言ってきたらそりゃもう警戒される。というか門番たちはこっちの言葉理解してないのか。敵対勢力が友好的な顔して近寄ってきたらそりゃ捕らえられますわ。

 正直なところ、マトモに思考が働いていない。特攻くらいか思いつかなかった。なんか他にいい方法とかあるのだろうか。ありそうだけど……駄目だな、脳がイカれてるからか愉快な方面の手段しか思いつかん。人間の王様の首持ってくとか。HAHAHA!

 

「不気味とは聞いたが……捕らえられて笑いこけるか、人間よ」

 

 やっべ、ニヤニヤしてるとこ見られた。

 声をかけてきたのは仮面を着けた女。流暢な人間の言葉を使いながら、俺の様子にドン引きしているようである。

 というか、魔王じゃん。

 

「魔王じゃん。なにやってんの?」

「……!?」

 

 仮面の奥でわずかに動揺をした気配。

 しかし、振る舞いにはほとんどそれを漏らさないのだ。流石は敵の総大将。

 

「……魔王様は、人間などに姿を見せない」

「いや、魔王じゃん。なにやってんの?」

「……」

「なにやってんの?」

 

 押し黙った魔王に、俺は友好的態度を崩さぬよう笑顔をキープしながら問いかける。

 流石に怪しい奴の前に総大将出しちゃ駄目だと思うんだけど。

 

「……なぜ気付いたかは、今は置いておこう。人間の言葉など理解できる者の方が少ないからこそ、尋問役として我が直々に相手をしてやることにした。名誉に思え、人間」

 

 なるほど。人手不足。世知辛いねぇ。

 そもそも出現したばかりだろうに、実に勤労な魔王様だな。

 まあ、尋問するならなんだって聞いてくれ。人類を裏切ることに決めたのだ。知っていることなら全部答えよう。

 

「キサマは本当に気味悪いな……。だがまあ、裏切ったというのなら洗いざらい吐いてもらおう。まずは……そうじゃな、当代の聖女と勇者について」

「あ、それは無理です」

 

 嫁なので。

 そう答えるが早いか、地面から一本の細い棘が飛び出して俺の右足を貫いた。

 

「い゛ひ゛っ」

 

 痛みに悶えたわけではないのだが、喋っている途中に衝撃が来たもんだから変な声が出た。

 魔王の仮面の隙間から、見下すような冷めた視線を向けられる。

 

「聞こえなかったか? これは対話でなく、尋問だ」

「言わなかったっけ? 俺は交渉をしに来たんだけど」

「そうか」

 

 どこまでも冷たい声。俺に何も期待していないのが分かる。

 次の瞬間、景色が白くなり一瞬意識が飛んだ。

 

「あまり図に乗るな、人間。元々大した情報が得られるとは思っていないが、勢い余って殺してしまいかねん」

 

 どこからか変な声が聞こえるなと思い、意識が現実に戻って、自分の叫び声であることに気が付いた。

 目だ。麗しの魔王様は、俺の右目をピンポイントで炙ったらしい。右側がてんで見えないが、目の痛みよりは割れるような頭痛の方がキツい。

 

「……クヒッ」

 

 それでも自然と笑ってしまうのは、不思議と生を実感できたからだ。

 生きているからこそ、痛みは新鮮に映える。

 もしかしたら、今回は何もできずにこのまま尋問もとい拷問で殺されてしまうかもしれない。そうなると、死ぬ気で取り戻した戦闘の勘もリセットされてしまうかなぁ……。それはやだなぁ。

 

「……気持ち悪い」

 

 そりゃまあ、痛めつけられて笑ってるやつがいたら俺だってキモいと思うけどさ。

 そんな心底怯えるような声音で言わなくったっていいじゃないか。流石に傷つく。

 

 俺としては魔王に教えてやりたいことが山ほどあるというのに、まずは脅威の排除だとばかりに魔王がイリスやニケの情報ばかり集めたがるものだから、その度に俺がジョークで答えて、致命傷とならない部位を破壊された。

 あるいは、程々に殺し、程々に回復させる。もしも回復魔法のない世界があったら、その世界の尋問官は相手を殺さないように加減するのが難しいだろうなぁなどと思案。いやまあ、人間みたいな強かな生き物だったら、そういう殺さずにいたぶる手法を考え出すか。

 暴力的な手段一辺倒による尋問というのは、ある種耐えやすいものであった。

 

 心が限界を迎えたのは、俺が魔王の元を訪ねてから半月経った頃のことである。

 俺? 俺の心は多分とっくに壊れてるさ。耐えきれなくなったのは、魔王の方だ。存外、まともな思考回路をしているらしい。

 

「おはよう魔王。俺考えたんだけどさ、今日は酸を使ってみたらどうかな。部位ごとに、どの程度弄ったら壊れるかはもう分かっただろ? でも溶かされるって経験はしたことないし、俺も結構辛いと思うんだ」

「……もう、よい」

「え、待て待て。殺すのはもうちょっと耐えてくれ。やり直すのは本当に大変なんだ、もうちょっと親交を深めてからその上で考えてくれ」

 

 そこまで言い切ったところで、俺は魔王の仮面から除く目が、心底怯えきっていることに気付いた。

 

「人間。キサマは、弱い。キサマに我を殺すことはできないであろうし、我が望めば、たとえどのような装備をしていてもキサマ程度なら殺せよう」

「何だ藪から棒に。失礼だぞ」

「……それじゃ。その心の強さだけ、理解出来ん。端的に言って、気持ち悪い。関わり合いになりたくない」

 

 そう言って、魔王の白く美しい手が俺に向けられた。

 すわ殺されるか!? と身構えたが、パキリという音の後に、拘束用の枷が全て解かれる。

 

魔王城(ここ)に来たのは何か目的があるのじゃろう。もし本当に人類を裏切ったというのなら、好きに過ごすが良い。そうでないと分かったら、即座に殺す」

「今殺さないのか?」

「キサマらと一緒にするな」

 

 ふえぇ……。なんか自由の身になったらしい。シャバの空気が美味い。

 好きに過ごせと言われても困るのだが。

 

 それに、俺の目的って魔王とお話することなんですけど。

 それを伝えると、最後に、魔王は仮面を外してから震える声を漏らした。

 

「……あまり、残酷なことを言うな」

 

 そうやって立ち去る少女の顔立ちはやはり秀麗で、しかしその眼差しは凍てつくようであった。

 

 

 

 


 

 

 

 

 晴れて自由の身となり、次の日。

 太っ腹なのか何なのか、寝床と飯まで用意されている。あいつが何したいのか分からん。あいつも俺が何したいのか分からないんだろう。

 一応は客人扱いなのだろうかなどと考えていたが、そんなことはなかった。

 

 今、目の前にいるのは三人の魔物。ニヤニヤと笑いながら連れ込まれた物陰で、俺は彼らに囲まれている。

 まさか異種男色姦とかいうニッチな趣味の三人組ではあるまい。察するに、むかつく人間にリンチをしようといったところか。

 要するに、分からせである。

 

 しかし、多対一で狭い場所に連れ込むのは馬鹿なのだろうか。分かってねえな、やるなら広い場所でやらんと数の利が息してないぞ。

 そう言う意味合いを込めて、俺は広場の方を親指でクイクイっと指す。憤慨する魔物たちだが、幹部レベルならともかく、こんなクソ雑魚ナメクジには負ける気がしない。どちらが格上か教えてやる必要がある。

 要するに、分からせである。

 

bukkorose!!」

「異種族平等パンチ!!」

 

 分 か ら せ 完 了(ミッション・コンプリート)

 

 マッチョポーズを取り勝利の余韻に浸っていた俺だが、下手に広場で騒いだのが悪かった。

 音を聞きつけた他の魔物たちが、同胞が人間にやられているのを見て襲いかかってきた。

 

aitsu chousinotteruzo!」

kakome kakome!!」

「オラ全員分からせてやんよぉ!!」

 

 次第に分からせの効果が出てきたのか、殴りかかってくる魔物の数は減っていく。

 ……と、言うより、ギャラリーが集まり、一人倒される度に別のやつが名乗りを上げ挑戦し、また次のやつが……という見世物みたいになってきている。

 

「……tsugiha sessyaga

a areha……!」

 

 ほらなんか「次は某が……」みたいなノリでまた一人出てきたし。

 解説役っぽいモブが新しい魔物が名乗りを上げる度に何か紹介している。言葉分かんねえから何言ってんのかサッパリだけど。

 オイそこ賭け始めてんじゃねえよ。やるなら俺にも分け前よこせ。

 

washinodebanka……」

 

 やめろ!! なんか重鎮っぽく腰を上げるムーブやめろ!!

 どうせぶっ飛ばされるんだから大人しくしとけおじいちゃん!!

 最初にリンチしようとしてきた三人組の一人が「アイツはこんなんでやられるタマじゃねえぜ」みたいな顔で、俺を顎で指してくるのもムカつく!! 誰だよお前!!

 

yacchimae!」

bukkorose!!」

 

 観客の声援も何種類か覚えてきた。

 多分、世界一物騒な言語教室だと思う。

 おおよそのノリは分かる。要するに闘技場みたいなもんで、「やれ」だの「ぶっ殺せ」だの叫んでいるのだろう。

 サービスだ。俺も魔物の言葉で挑発してやろう。

 

aishiteru!!」

aitsu nametennoka!」

bukkorose!!」

 

 異種族平等パンチ!!

 

 

 

 


 

 

 

 

「……っぁ、……あー、あぁ?」

 

 目を開くと、何処か見覚えのある天井。

 魔王から与えられた部屋のベッドにいた。

 

 ……あぁ、気絶したのか。んで誰かがご丁寧にも部屋まで運んでくれたと。怪我も治ってるし、回復魔法まで使ってくれたらしい。

 最後に覚えている相手は、俺が1周目のときに刺し違えた大将首の奴だ。その時点で割とボロボロだったのもあるが、やはり正面からの殴り合いだと勝ちようがなかった。だって俺が殴っても意に介さず殴り返してくるんだもん。質量差的に、大抵俺はふっ飛ばされるし。

 畜生、良いように殴りやがって。ボコボコにしてやる。いつかニケが。

 

「……おい」

「うわぇい!? ま、魔王」

 

 突然横から声がしたので驚いて顔を向けると、いつもの冷たい瞳をした魔王がいた。人型がデフォなんだろうか。

 

「昨日の騒ぎは、なんのつもりじゃ? 人類を裏切っても、我らの仲間になる気はないと? ……ならば、殺すまでなのじゃが」

「待て待て。あれは魔物のやつから喧嘩をふっかけてきたんだ。正当防衛だ!」

 

 禍々しいまでの殺気に当てられ、焦りながら弁明に走る。

 喧嘩を売られたから買ったというのに、それで殺されてはたまらない。そもそも、結局ボロ雑巾になるまで叩きのめされたのだ。それを、最初から抵抗せずサンドバッグになれというなら流石に文句を言いたい。

 俺の焦る姿を見てか、そもそも本気でなかったのか、そこまで聞いて魔王はフッと威圧を解いた。

 

「だろうな。死者も出ていないし、何よりあいつらが殺気立っていなかった。じゃがまあ、我はキサマとあまり関わり合いになりたくないのでな、問題は極力起こすな」

「安心しろ、俺は手加減を知る男だ。なんなら俺が死にかけたまである」

「そのまま死んでくれれば手間が省けたのう」

 

 部下の教育なってないんじゃないすか魔王さん、と言いそうになったのは流石に我慢した。あんまり調子乗ると普通に殺される気がする。

 正直なところ、どうして生かされているのかは分かっていない。魔王博愛主義者説を唱えるか。

 とは言っても、そのまま死ねと言われて不満がないわけもなく、ジロリと責めるような視線を送る。

 

「……冗談さ。まあ、あやつらも楽しそうであったし、また相手をしてやってくれ」

「次はマジで死ぬと思う」

 

 俺の返事を聞いているのかいないのか、役目は終えたとばかりに魔王はするりと部屋を出ていった。魔物たちのことを話すときだけ眼差しの温度が幾分か上がるのは、きっと気のせいではないのだろう。

 

oi yaruzo!!」

「ファッ!?」

 

 部屋を出た途端また魔物に絡まれた。解せぬ。

 

 

 

 


 

 

 

 

「魔王様、あの人間のことは、結局どうなさるつもりですか」

 

 投げかけられた声に振り返れば、鎧をまとった巨体。魔王に次ぐ実力を持つ黒騎士だ。参謀と呼ぶには能力が戦闘面にばかり振られてしまっているため、侵入者に対する最後の迎撃役として任命されている。

 

「お前はどう思う?」

「……気を許してしまうにはあまりに危険ですが、内通者と考えるにはあまりに気が抜けていて、こちらが戸惑ってしまいます。現に今では、昼に彼と殴り合った魔物が夜は肩を組んで一緒に酒を飲んでいますね」

「カカ、『彼』、とな」

 

 黒騎士の述べた通り、始めの頃は生意気な人間に痛い目を見せてやろうと意気込んでいた魔物たちだが、その確かな実力と曲がりない信念のようなものを感じ取ったのか、人魔の境も忘れて杯を交わすようになった。

 最初の数日は、ボコボコにされた後にボロ雑巾のようにいつまでも広間の隅に転がっていたものだが、今では程々に殴り合ったあとには仲良く会話して、そのまま晩餐に連れられる。どこまで言葉が通じているのか分かったものではないが、あの人間はこちらの言葉を理解しようと意欲を見せているし、カタコトなら話せるのかもしれない。

 黒騎士とて、「彼」と呼んでしまう程度には愛着を抱きつつあるのだ。

 

「……失礼しました、私も気付かぬうちに(ほだ)されていたようです」

「まあ、よい。人間との戦い方を覚える良い機会と言えるじゃろうし、毎晩ボロ雑巾のまま放置されては我が……」

「我が?」

「……なんでもない。気にするな」

 

 毎回部屋まで運ぶ身にもなってほしいと言いかけたが、やめた。わざわざ黒騎士に話すことでもないだろう。

 

「まあ、面白い人間じゃよ、アレは」

「魔王様の悠久の時に刺激をもたらすのであれば、それは喜ばしいことですね」

「……ああ、そういえばお前は知っていたな」

 

 魔物と笑顔で肩を組み、酒を酌み交わすことのできる人間。

 かつての時に、すべての人間があのようであれば争いなど必要なかったのだろう。

 

 けれどそれは、無意味な仮定だ。

 だって、あの人間は狂ってしまっているのだから。

 狂っているから()()なのだ。正常な人間はあの人間のようにはなれないし、ならない。

 

 思い出すだけで体が震える。勇者を前にした時のそれとは種類の異なる、理解不能な存在への恐怖。

 人並みに痛覚は存在していたはずだ。尋問の過程で泡を吹いて気絶することもあれば、痛みに絶叫を上げることも度々あった。

 

 なぜ怒らないのか? 恨みの籠もった目をこちらへ向けないのか?

 分からなくて、不安で、いっそ殺してしまったほうが気が楽になるのではと思い浮かべながら、それでもこれほどの異常者だからこそ握っている鍵があるのではないかと疑いもした。

 そして、何もかも理解できない中で、一つだけ理解した。

 

 怒りだ。

 この人間は、自分や魔物、あるいは他の人間などではなく、もっと別のなにかに対して憎悪という憎悪を煮詰めたかのような怒りを抱え続けているのだ。

 

 尋問をする──痛みを与える魔王など、端から眼中にない。

 そんなものへぶつけられるほど、あの人間の抱く怒りは安くはなかった。

 あの人間はあの人間なりの信念があって、意志があって、そのためになら何もかも笑い飛ばしてみせるほどの覚悟があった。その覚悟のために、魔王城(ここ)を訪れたのだ。

 

 途端に、自分のしていることがとても陳腐に思えた。

 あるいは、奴らがしたことと同じことを、今自分はやっているのではないかとさえ思えた。

 

 だから、あの人間を解放した。

 自由な身で何をするのか興味があった。今まで不当に傷付けたことに対し侘びの一つでも入れるべきであったが、それは魔王という立場故に憚られた。

 そも、魔物を束ねる王としてなら、怪しい人間は殺してしまうべきで、自分は魔王失格なのかもしれない。気付けば座っていたこの場所に自分は不釣り合いではないか、そう思うことは何度もある。

 けれど、それを問えば誰もが決まってこう返すのだ。

 

「だって、魔王様が一番強いじゃないですか」

 

 まったく、単純な話である。

 そう言ってしまえる魔物たちだからこそ、あの人間といま笑い合っていられるのだろう。

 

 

 

 

「──だけどさ、こんな力……

 

 

 

 


 

 

 

 

 ──ああ、人間と変わんねえんだな。

 

 そう気付いた瞬間、背中がゾクリと冷えた気がした。

 それは、途端に、今まで「人間を救う」という大義名分を掲げて殺してきた魔物の命に、無垢な価値が与えられたからだ。

 

「なあ、おまえ、よめ、あるか?」

「嫁ぇ? そうだな、ざっと5人くらいか。一人はいま腹に子供がいる」

「……そっか」

 

 ようやく覚えつつある魔物たちの言葉、カタコトで所帯の有無を問えば、人間の感覚としては少々多いが答えが返ってきた。

 獣にさえ脳はあるのだから、言語や戦術を解している魔物に意思や感情があるのは当然であった。当然であるけれど、俺達人間はそのことに気付かなかったし、たとえ気付いたとしても切り捨ててきた。

 それはきっと、「善」や「正義」ではなかったのだろう。

 

「……あぁ、だけど、『人間を救う』ってのは違ぇか」

 

 俺の大義名分は、もっと別のものだった。

 最初は、人間を救おうと思っていたのかもしれない。今となってはしがない兵士一人になにがという笑い話だが、当時はその綺麗な言葉に酔いしれていた。

 次のときは、イリスを救おうと、ただそれだけを思っていた。実際それは果たされたのだ。ただし、「その先」が存在していたせいで、俺の大義名分は意味を失った。

 今となっては、ただ自分を救うため、それだけだ。人類とか、イリスとか、あるいは別の誰か。たとえそれらを救おうと、最後に自分が救われなければ満足しないのが俺という奴で、あるいは人間という生き物なのだろう。

 

 誰かを救うのも、突き詰めれば利己に辿り着く。

 だから、誰かのために生きようとする人を見ると涙が溢れる。

 それは、哀れみか歓喜か、羨望か感動か──はたまた怒りか。

 

「さて、流石にそろそろ魔王と話したいな」

 

 魔王城に来て一月。城内の動向を見るにまだ侵攻は始めていなさそうだが、戦火が上がる前に魔王に交渉しなければならない。

 なのだが、どうも魔王に避けられていて話す機会も得られない。いや、そもそも王ってそんな暇なのか分かんないけど、たまにブラブラしてる姿見るし暇なんじゃないだろうか。

 おかしいな。取り調べの期間中フレンドリーに接したから、好感度はそれなりに稼げていると思ったんだけど。俺の想像だと既にマブダチになっている計算だったのだが、蛇蝎のごとく嫌われている。

 フレンドリーさが足りていなかったのかもしれない。マオマオって呼んだら仲良くなれるかな。絶対なれないよな。もう俺悪くないよ、あいつ絶対友達少ないって。

 

 顔を見るたび逃げられてしまうのなら、どうすればよいか。

 人間の生み出してきた文化の一つに、答えがあった。

 

 

 

 


 

 

 

 

「入れ」

「おはよう、魔王」

 

 扉を軽くノックして入室してから、挨拶は人生の基本だからと朗らかに声をかけたのだが、魔王は気まずそうな、どこか余所余所しい態度で顔を顰めただけであった。

 魔物の世界にも挨拶の文化はあるみたいなんだけどな。魔王のパパ上とママ上はちゃんと教育しなかったのかな。

 

「……手紙は読んだ。まあ、座ると良い」

「ああ、わざわざ時間を取ってくれてありがとう」

「別に、くだらない話であればすぐにでも蹴り出すし、何なら今晩から宿も無くなると思え。どれだけの時間を割くかはキサマ次第じゃよ」

 

 そう、俺が選んだのは手紙という手段である。

 これまでの何度かの人生でも文通は様々な相手とおこなってきた。それは家族だったりダフネだったり、普通に職務上の手紙をしたためたことも何度もある。

 すぐ側にいる人物に送ったのは初めてだが、そういう手紙があってもいいだろう。なお、内容については余白が足りないので割愛する。ざっくり言えば、魔王自身にも関わることで一つ話があるから時間がほしい程度の内容だ。あとは仲良くなるための冗句(ジョーク)いくつか。ウケたかは知らん。

 

 あとは、脅しているつもりなんだろうけれど、むしろどうして今日まで客人扱いを受けているのか不思議である。まあその客人ボコボコに虐められてるけど。体の良いサンドバッグを設置したぐらいのつもりなのかもしれない。

 だがまあ、そうした細々とした違和感を鑑みるに、この魔王はお人好しというやつなのだろう。言い換えれば、無駄に優しい。

 ある意味、俺がギリギリまだ死に戻っていないのも、それどころかそこそこ上手く懐に入り込めているのも、魔王の優しさにつけ込んでいる部分が多い。が、特に気にするつもりはない。とことん堕ちるつもりなのだから。

 

 それに、彼女は随分と理知的であると思われる。

 ほとんどの魔物は直情的かつ能力至上主義。強い奴は偉い。その程度の価値観しか無く、戦況の判断をできるような人材もほとんどいないように思われる。

 ならば、あれだけ人類を脅かしたのもすべてこの魔王の策謀によるものなのだろう。参謀でもいるのかもしれないが、見たことないし。側付きみたいなあの黒騎士は脳筋成分多めだし。

 それだけ賢ければ、俺が彼女の優しさもとい甘さを利用していることにも何らかの形で勘付いていることだろう。その上で許容するというのなら、それは俺ではなく彼女の問題だ。俺が気に病む必要はあるまい。

 

 そんなことを思い浮かべながら表情を緩ませた。

 どこから話そうかな、だなんて。もうずっと前から何を話すか散々考えてきたくせに、わざとらしく心の中で唱える。

 

「長くなるかもしれないんだけど」

「構わん。飽きたら叩き出す。正直今は、力を蓄えること優先で他にすべきことも少ない」

 

 全部。全部だ。

 賭けとも言えるし、死に戻れることを思えば賭けではないのかもしれない。

 とにもかくにも、俺は一人では駄目な人間だ。いつだってそうだった。他者が己を導いてくれた。

 ならば、知恵を借りる、利用するくらいの気持ちで。

 

「一言でまとめると、流石にもう死に戻りたくないって話なんだけど──」

 

 

 

 


 

 

 

 

 いつの間にか、陽がすっかり傾いてしまっていた。

 

 それに気付いたのは、空腹を知らせる虫が俺の腹で鳴いたからであった。

 不思議と、それだけ長い時間自分が話していることが負担にならなかった。

 叩き出すなどと言っていた魔王も、話を遮ること無く、冷ややかだがどこか聞き心地の良い声音で相槌を打つのみであった。

 

「人は食わねば死ぬというのをつい忘れておった。食事をここに持ってこさせよう」

 

 そう言って、魔王は虚空に囁く。

 誰かに呼びかけているらしいが、彼女は念話か何かでも使えるのかもしれない。

 

「凄いな、それ。魔法か?」

「風の魔法の一種だな。魔法はもとは我々のものであるから、人間よりこういった小技に長けているのじゃよ」

「そうか。食事はありがたいんだが、俺の分だけか?」

「我に食事は必要ない」

「一緒に食おう。そっちのほうが美味い」

 

 俺が真顔で主張すると、魔王は「我らの食料なのだが」と呆れた顔をしてから、少し顔を緩めてもう一度声を伝える魔法を使った。

 もしかしたらあれは、彼女の笑顔だったのかもしれない。

 

「散々話したけどさ、俺は沢山の魔物を……お前も、殺したんだ」

「そうみたいじゃな」

「俺を殺そうとは思わないのか?」

「思わんな」

 

 二つ、と魔王は指を立てた。

 一つは、そもそも、俺の話を丸っきり信じるわけではないから。狂人の言葉と切り捨てたほうが無難なのはよく分かる。しかしそうできないのは、俺の知識が明らかに尋常のものではないから。

 もう一つは、俺が本当に死に戻るというのなら「殺す」ということが一番危険だから。死に戻りを繰り返して最終的には懐に入られるのなら、あるいは、開き直られて延々と嫌がらせでもされたら堪らないから。

 殺すとしたら、不都合があるからだ。しかしいま俺を抱え込むことにさほどの負担はなく、いわゆる「期待値」の考え方で言えば生かしておくべきなのだとか。

 

「まあ正直、そんな打算はどうでもよい。まだ飽きておらんから、続きを話せ」

「そうだな、それじゃあ……」

 

 そうして、会話と言うにはかなり一方的なその交流は続いた。

 途中、喋りすぎて疲れていると、見かねた魔王が代わりに魔物たちの文化なんかについて話してくれた。それはとても興味深いものであったし、魔物という生き物と人間の思考回路の違いだとか、その総称があまりに一括りにしてしまっていることだとか、彼らを理解する一助となる知識を得られた。

 

 次第に、互いの語りは会話と呼べるものへと変わっていく。決して交流が深まったとは言えないと思う。友好度がマイナスからゼロに辿り着いたというところだろう。魔王は俺の個人的な話まで知っているが、俺が知ったのはあくまで魔物という生き物の話で、彼女についてはほとんど知らない。

 知っていることと言えば、食事がいらないことと、睡眠もいらなさそうなことか。

 

「なぁ、マオマオって呼んだら怒るか」

「怒りはしないが、心底気持ち悪いと思うし、軽蔑するな」

「一番キツいやつじゃん」

 

 あくびを噛み殺しながら尋ねた質問への答えは実に彼女らしい、冷ややかなものであった。

 先程からまぶたが重く垂れ下がってきている。そろそろ終えたほうが良いのかもしれない。

 

「眠そうだな人間。最後に一つ、質問として尋ねよう」

「ん」

「キサマが死ぬ度生まれ直すという話は、疑うが、信憑性は高いものとして覚えよう。それで、その上で、キサマは何を求めてここへ来た?」

 

 一番したかった話を、魔王が最後に尋ねた。あるいは、気付いていたのかもしれない。

 

「俺は、自分勝手な人間だから。だからさ、俺の大切な人達を、どうか、傷付けないでほしい……争わないでほしいんだ」

「人間共と争うなということなら、無理な相談だ」

「……違うよ。100年間、俺が愛した人達が死に絶えるその日までは、和平でもなんでも、どうか争いを止めてほしいんだ。──その後の人類は、知ったこっちゃない」

「……傲慢で、強欲で、夢見がちな提案じゃな」

 

 分かっている。

 そんな事は分かっているけれど、もしこれで彼女たちが傷付くのなら、俺はもう二度と魔王に付くことはないし、これから先何度だって魔王を殺す側に立つ。

 

「もはや、脅迫まがいのものであることには気付いているか?」

「……」

「しかしその脅迫、失敗しておるぞ」

「……は?」

 

 そう言って、魔王はわざとらしく作ったような、酷薄な笑みを浮かべる。

 

「キサマの『大切な人達』とやらへの想いはよく理解した。……ならそれだけ話して、そやつらが人質となる可能性は考えなかったか? たとえばディオネという村娘。あるいは、アグライアとやらであれば、今の我でも確実に殺せるし、四肢をもいだまま生かして捕らえてもよいなぁ」

 

 瞬間、眠気など覚めるほど、頭が真っ白になった。

 それは見落としかもしれない。あるいは、俺にすら甘い魔王だからと油断していたのかもしれない。

 

「……そう怯えた顔をするな、もっと虐めたくなる。キサマは恐怖という感情を失くしてしまっているのかと思っていたが、安心したよ」

「……頼む、それだけは──」

「──馬鹿者。せんわ、そのようなこと。我が一番嫌いな類の卑劣じゃからな。そも、我を睨むぐらいなら、先にそのような発想を生み出したキサマの先祖共を恨め」

 

 キョトンとする俺に、魔王は肩をすくめる。

 

「更に人間、もう一度同朋を恨め──和平を結ぶ上で一番の障害となるのは、キサマら人間自身じゃぞ」

「どういうことだ?」

「さあな。それでも目指すというのなら、キサマに任せよう」

 

 それを最後に、終日続いた魔王との対話は終わりとなった。

 疲労を覚えながら倒れ込む寝床の中で、俺は彼女の言葉の意味を反芻し、ゆっくりと瞼を下ろした。

 朝日はどこで見ようとも美しい。

 

 

 

 


 

 

 

 

 驚くぐらい和平の交渉が上手く行ったのは、仲介役の俺が、傭兵として稼いでいた名声が思っていた以上に大きなものであったことと、同時に各方面の権力者の性格を熟知していたことが影響しているのだと思う。あとは、無駄にガタイの良くなったこの身体も、何らかの威圧感をもたらしたのかもしれない。

 

「おい魔王普通に上手く行ったぞどういうことだ」

「知らん知らん。別に和平が成立せんとは言っとらんじゃろう」

 

 うーんこの。

 ……まあ、いいか。これからは、頑張って魔王に気に入られて、死に戻りを終わらせる手伝いをしてもらおう。

 魔王の方からも、色々と厄介な俺が死ねば楽になるとの理解を得ているので、俺を殺すための手伝いは受けられると思う。もっとも、俺が死んだあと世界は続くのかとか、俺が死に戻るのは世界も一緒に戻っているのか(俺の人生が本流で、世界がそれに付き合わされているのか)とか不明なことはあるが、少なくとも俺を殺せることによる魔王へのデメリットはないだろう。

 

「魔王せんせぇ、まほーじんについておちえて!」

「……心底気持ち悪いと思う」

「それでも教えてくれるあたりその優しさの源泉が気になる」

「うるさい」

 

 アリアに散々罵られ冷たい目で見られてきた俺からすれば、魔王のポーズのようなSっ気は可愛いものである。そも魔王は大抵の相手に対し目線が冷ややかであるし、単に表情筋が死んでいる可能性が考えられる。

 俺はと言えば何度発狂して鬱になって躁になっても表情筋まで死に戻るらしく、今日もプリティな笑顔を浮かべて魔物たちと殴り合っている。

 

 和平を許し、また俺の研究への協力をする条件として、俺は自殺することを封じられた。

 魔法陣による「契約」という種類の魔法らしいが、俺は自分の意志が伴う形で死ぬことができない。他人に頼んだり、意図的に悪意を集めることもおそらくできない。やろうとしたことがないので実際にどうなるのかは分からないが。この魔法は、「精神」に干渉する魔法らしい。

 今回の人生に関してはかなり魔王に委ねなければどうにも進まないことが多すぎるので、この条件は飲むほかなかった。死に戻りという手段を奪われたのはキツいし、この上で魔王に裏切られたらどうしようもないが、魔王は信じられると決めての行動である。

 

 件の魔法を封じる魔法陣のように、「精神」だったり「魂」だったりという非物質的なものに対し制限をかけるのは非常に複雑で、そうした魔法をおこなう際は、緻密な計算と入念な準備を重ねた幾つもの魔法陣を重ねることによってようやく可能になるらしい。

 どうして魔法陣を選ぶのか聞くと、10桁×10桁の暗算を10個並列でできるか、と問われた。つまりそういうことらしい。想像できん。

 「魂」にはたらきかけるものともなれば魔王でも作るのが難しいらしく、件の魔法陣はかつて高度な技術を持った存在によって設置されたもので、たまたま魔王が見つけたのだとか。

 

 俺は魔法陣全体の模様は知っていたが、それが幾つのどのような魔法陣を重ねた結果生まれた魔法陣なのか分からなかったため使うことができなかった。それは魔王も同様なようで、先人の偉大さに感服するのみである。

 

「先人が真に立派であれば、世界は今このように荒れておらん。あまり信仰するのはやめておけ」

 

 とは、魔王の言である。もっともだ。俺の尊敬を返せ。

 

 

 

 


 

 

 

 

「人間。勇者と魔王はどちらが先に生まれると思う?」

「トリと卵みたいな話か? あれってどっちが正解なんだっけ」

 

 城内でたまたま魔王に会ったので話をしていると、なにやら哲学的な質問をされた。

 研究所時代にそういう話大好きな同僚がいたんだよな……。俺は空想力があまりないから苦手だが。

 たしか、遺伝的形質の決定されるタイミングからして、卵が先なんだっけか。

 

「その話は知らんが……」

「ああ、すまん。でもまあ、魔王が先なんじゃないか? 魔王のいない世界の勇者ってなんだか想像できないけれど、勇者のいない世界の魔王はいそうだ」

「そうじゃな。実際、我が魔王であるなどとは他者が決めたことで、我が魔王でなかった時代もある」

 

 へぇ。つかこいつ、いつから生きてるんだろう。

 先代魔王がいたという話は聞いたことがない。それだけこいつが長生きなのか、そもそも先代魔王自体存在しないのか。

 魔王は、勇者によって封印されるもの。それでもなお、100年の後に復活する存在。それが俺たち人間の共通認識で、逆に言えば、それ以外のことはまったくと言っていいほど知らなかった。ともすれば、教皇くらい偉ければ知っていることもあったのかもしれないが、魔王に今直接聞いてしまったほうが早いだろう。

 

「お前はいつから魔王なんだ? まさか生まれた時からじゃあないだろう」

「いつか……明確な区切りはないが、強いて挙げるなら、人間と魔物が争いをやめるため、魔物側の旗頭として立ったときじゃろうか」

「今回の和平ではなく?」

「それよりもずっと前さ。人間が初めて国などというものを持った頃の話じゃ」

 

 そもそも国がない世界というのが想像できん。

 国ってのはどうやってできるんだろうか。領土とか誰が誰に対して決めてるんだ? 「ここ俺の陣地ね!」って先に言ったほうが勝ち? あぁでも、貴族ってのは建国時の主要メンバーの血統が多いんだっけか。アリアが言ってた気もする。

 何度人生を繰り返しても、その度に新しい知識が出てくるし、自分が随分と曖昧な土台の上に生きているものだと思い知らされる。

 「絶対」は絶対じゃない。どれだけ言い聞かせても、「絶対」の中にいる内は気付けないものである。ただ、自分の信じ切っていることにノイズを感じたら、それを追うことだけは忘れないようにする。それくらいしかできることはないように思う。

 

「当時の和平がどうなったか、興味はないのか?」

 

 魔王が小首を傾げる。

 興味はあるが、そもそも問う意味がない。ついこの間まで争い合っていたこと、それが答えだろうから。

 それよりも。

 

「それよりも……じゃあ、ニケが、勇者が死んでも、魔王は力を失わないのか」

「──あぁ、勿論」

 

 ……どうやら、将来的な人類の敗北は決定事項だったようである。

 

 

 

 


 

 

 

 

「なぁ人間。なぜ我の部屋で寛いでいる」

「我の部屋って……執務室みたいなもんだろ、ここ」

「だとしても、キサマにはキサマの部屋が与えてあるじゃろう」

「お前にあまりにも庶務をさせられるものだから、こっちにいた方が都合良いかな、と」

 

 某日。執務室で茶を飲む俺に魔王が溜息をつく。

 魔物たち……魔王軍とでも呼ぶべき軍団には、どうやら本格的にブレインが足りていないらしい。

 

「お前を手伝えるのが一人もいないってヤバくないか?」

「いないわけではない。が、そういう者には前線など地方で動いてもらう必要がある」

「結果中央がお前一人になるって……」

「睡眠が必要ないから、意外と時間は余るぞ」

 

 まあ俺と喋ってる時間があるくらいだし本当なんだろうけど……。

 あるいは、そもそも組織というものが魔王軍内部にハッキリと存在していないから、戦いの時の指揮さえできれば問題ないのかもしれない。元騎士団勤めとしては想像の外の世界の話だ。

 

「てか、食わない寝ない、死んでも復活するって、お前本当に生物かよ」

「エロいことはできるぞ」

「マジか」

「マジだ」

 

 じゃあ生物なんだろうか。

 けれど、俺は知っている。世の中にはとんでもない変態が存在するし、非生物に興奮する奴なんてごまんといる。五万いたら困るな。

 ともかく、非生物とでもエロいことができる人間は存在するのだ。ならば、このエロいことはできると言う美少女だって、もしかすると非生物なのかもしれない。

 

「人間は度し難い一面があるな」

「探せば魔物にもいるだろう。しかし、魔王ともなればやっぱりエロいこと仕放題なのか?」

「仕放題じゃろうな。だが、自分が勝ったら嫁になれと挑む輩はいても、全員返り討ちにしてきたから実のところしたことがない。逆に、キサマこそ何人も妻がいたのならエロいこと仕放題じゃったろう」

「仕放題だったな。うん、仕放題だった。…………仕放題だったな」

 

 特に、絶望に打ちひしがれているときほど人は単純な快楽を求める。

 だから、俺は弱いのだ。そのくせ妙にしぶといから、楽になることもできない。

 

「話を戻すが……、神を喰らったことがあるから、もしかすれば、我は生物の域を超えているやもしれんな」

「はい?」

 

 魔王が涼しい顔で言い放った言葉に戸惑う。基本的に無表情な少女なので、涼しい心象かどうかは分からない。

 

「古代には、神を名乗る上位者が多く地上にいたからな。我はその内の死にかけていた一匹を喰らって、気付いたらこのような体質じゃ」

「上位者?」

「この世界には、我など比べ物にならないほどの力を持つ存在がいる。今はもう姿も現さないし、知る者も少ないが、だからこそ神と呼ぶほかあるまい」

 

 神っていうと、教会なんかで信仰されている、俺にとって役に立たないアレのことしか分からない。

 魔王の言うソレは、きっとまた別の存在だ。分かりやすい呼び方をすると「神」と呼ぶほかなくなるだけで。

 

「いいや、もしかすると変わらないかもしれないよ」

「魔王?」

「……すまん、気にするな。じゃが、キサマらの神も、我が喰らったアレも、今となっては空想上の存在ということに変わりないさ」

 

 まあ、空想上の存在であってほしいね。

 実在しているというなら、一発殴ってやりたい。けれどそれは土台無理な話であるし、ならば存在しないほうがありがたい。

 

 

 

 


 

 

 

 

 平和条約と言うよりかは、休戦協定。

 魔王と人間の王の間でなされた和平はそのようなものだ。

 

 そもそも、文化的な発展の度合いがまるで違う。人間の社会が王都を中心として商業に農業、その他芸術家まで細分化されているのに対し、魔物が蔓延る領土のほとんどは、村というよりも生息地という呼び方のほうが似合う具合だ。

 魔王とて、人が想像する「王」というよりはむしろ、生態系の頂点に君臨する絶対者という立場なのだ。それに魔物が従うのは「強いのが偉い」という思想のためであり、気に入らないことがあれば殴り込みに来る。

 

 そんなわけで最近の魔王の仕事は、もっぱら和平に納得行かない魔物をシバくことに終止している。

 人間が国力の増強に努めている横で、魔物たちは喧嘩に明け暮れているというわけだ。

 

 人間と魔物の間に争いはなくなった。

 野生動物レベルで知性のない魔物は魔王の管理から外れているから、領土の境界付近では戦闘があるらしいけれど、カテゴリで言えば狩りみたいなものだ。

 

 けれども、争わないということは、仲良くするという意味では決してなかった。

 お互いに関わらない。握手も、挨拶も、言葉も覚えない。

 俺からすれば、目的には沿っているわけで問題はないのだけれど。

 

 人間は魔物がどう過ごしているかを知らない。

 当然、魔物も人間がどう過ごしているか知らない。

 端的に言って、その平和は気味が悪かった。

 

 

 

 


 

 

 

 

 そして、驚くほど簡単に、和平は破棄された。

 

 

 

 


 

 

 

 

 なんなんだよ。

 

 なんで、そんな。

 

 そりゃ、よく分かんねえ奴が隣で生きてたら怖えよな。

 自分とチガウ奴と手を取り合うなんて恐ろしくてたまんねえよな。

 

 見た目が違う。

 言葉が通じない。

 そもそも考え方が違う。

 ──いままで散々殺し合ってきた。

 

 じゃあそれ、生きてるあんたら自身よりも大切なことかよ。

 大切なことなんだろうな。

 誰かの命なんかよりよっぽど、自分が安心して過ごせる日々が。

 

 命は平等じゃない。自分の命の価値は高いし、大切な人の命の価値は高いし、どうでもいい人の命の価値は微塵もない。

 だから俺も、人間を売ったのだ。

 

「全部救うなんて、無理なんだから」

 

 そもそも、「救う」なんて言葉が烏滸がましい。

 

「もう、分かんねぇよ」

 

 人間に、魔物に、関われば関わるほど、惨めになる。

 だって、どうしようもない。俺の言葉になんて、大した力もない。

 

「いや、違うか」

 

 そんなまともなこと思ってなんかいない。

 俺はそんな立派な人間じゃない。

 

 お前ら、勝手に争ってんじゃねえよ。

 殺し合ってんじゃねえよ。憎み合ってんじゃねえよ。

 んなことしてる暇あんなら俺を救えよ。

 お前ら全員、下らねえことで小競り合ってんじゃねえよ。

 

 それを本心から思っている。

 だから、俺はこの世界で最も浅ましい人間のひとりだ。

 

 それだけを語った俺に、魔王は一言問うた。

 

「他に言い残すことは?」

「ない」

「そうか。次の人生は、上手く死ねるといいな」

 

 

 

 


 

 

 

 

 先に戦線の火蓋を切ったのがどちらだったのか、本当のところを俺は知らない。

 

 人類は魔物が先に襲ってきたと主張し、魔物は人間が軍を投入したと主張した。

 

 おそらくは、人類側が先だったのだと思う。けれども、それを予期していたかのように、魔王は見事なまでに迎え撃った。

 俺が結んだ和平など、端から期待していなかったのだろう。

 結局、争いは混戦となり、俺が知っているような戦争の流れに段々と近づいた。

 

 知っている運命を、成り行きに任せるわけには行かなかった。

 イリスのことを救わなければならなかった。救った。救えたはずだ。彼女にとっての救いとは果たして何だったか。

 彼女を襲った魔物たちをぐちゃぐちゃにして、温かい血に塗れて、死骸の中に見知った顔を見つけた。

 

「何も、わかんない」

 

 そう呟いて自殺した。死んだつもりの俺の目の前には、魔王がいた。

 彼女が俺に施した自殺防止の魔法は、ただ食い止めるだけでなく、同時に俺を彼女の元へ召喚する効果があった。

 彼女はいつもと変わらぬ冷めた目で、頭を抱えてうずくまる俺を眺めた。

 

「誰にも死んでほしくないんだ」

「ああ。その手で、我が同胞を沢山殺したな」

「どうしてみんな争うんだ」

「お前が一番知っておるじゃろう」

 

 そこから、浅ましく救いだの命の価値だのを語って。

 最後には、彼女の手で首を落とされた。

 

 温情か、同情か。ほとんど痛みも感じないくらい、綺麗にスッパリと。

 ものすごい気持ちが楽になった。

 

 全部どうでもよくなった。

 

 

 

 

*****

 

11.

 

 

 気が付いたときには、赤子になっていた。

 

 言葉が話せなくなった。

 息が上手く吸えなくなった。

 

 なんだ。鬱期か。

 

 いいや、じゃあ、このままで。

 

 どうせそのうち、元気になる。

 勝手に立ち直れる。悩もうが悩むまいが、いつしかどこかに希望を見出して、前へ歩こうだなんて決意する。

 

 壊れたら直るしかない。世界は俺に壊れたままでいることを許さない。

 何にも意味がないって分かっていたって、いつしかどこかに意味を見出して、それを(よすが)にまた飽きるまで生きるのだ。

 

 限界を迎えそうなのは分かっている。

 でも、俺は、その迎えた先の世界を知っている。

 限界を迎えて折れたとしても、その先が続く限り、必ず修繕される。

 それに絶望しても、またいつか。

 壊れるのは簡単だ。けれど、壊れたら直るしかないのだから、俺は絶対に壊れる寸前でこらえる。直るくらいなら、「壊れそう」を維持するほうがマシだ。

 

 声を出して嗚咽したいというのに、喉は言うことを聞かない。

 音を出すことを、世界と関わることを本能が拒否するのだ。

 関われば関わるほど、辛くなるのだから。

 

 助けて。

 

 そう呟くことすら、今は許されない。

 だというのに、なぜ。

 

 

 

 

「──助けようか、人間」

 

 

 

 

 ここにいるはずのない少女が。

 

「長い物語も、ここで終わりにしよう」

 

 復活も迎えていないはずの彼女が、なぜ現れたのか。

 

 

 

 


 

 

 

 

「このような愛い赤子が筋骨隆々の戦士になるなど、想像もつかんなぁ」

 

 突如我が家に現れて、暴虐のごとく俺を連れ去った魔王は、暇をつぶすように俺の頬をつついた。親父やお袋がどう思うかなんてことは考えていないように見える。あるいは、人攫い程度のありふれた不幸は気にするまでもないという姿勢なのかもしれない。

 赤子の俺に取れる意思疎通など頷くか首を振るくらいのもので、ほとんど状況を理解できていない。

 

「我の言葉が理解できているのなら、人間、首を縦に一度振れ」

 

 その指示に従い、コクリと一度頷く。

 

「よし。キサマは我に首を刎ねられて、11度目の人生が始まった。間違いないか?」

 

 もう一度頷いた。

 

「それでは、キサマが死んだ後の『それから』について話すとしよう。赤子に無理は言わん。気の遠くなるような長い話じゃから、眠くなったら眠るがよい」

 

 そう言って、魔王は俺が死んだ世界の話を始めた。

 流石にもう死に戻りたくない。その想いの、向こう側の話を。

 

 俺を殺した後、魔王は俺の遺骸を喰らった。その意図するところについては、初め語らなかった。

 俺が最後に果たしたイリスを生かすという仕事は、他の回と同じく人類側の勝利に著しく貢献したらしく、その戦争において魔王はニケに倒された。当然、死んだわけではないが。

 

 倒される度に耐性をつけて蘇る魔王は、その後数度の戦争を経て、遂にどんな能力を持つ勇者にも負けることがなくなった。

 そうして訪れたのが、魔物の時代である。人間は奴隷としての扱いを受け、人間よりも数段遅い歩みで養われていた魔物たちの文化も、次第に花開いていった。

 科学的な考え方も培われ、倫理観や哲学もだんだんと変わっていく。

 

「するとなぁ、不思議と、人間にも権利を認めるよう主張する者が出てくるのじゃ」

 

 最初は異端とされたその活動も、100年200年と時が経つ内に広まっていき、妥当な考え方ではないかと思われるようになり、遂には人間を奴隷として扱うことが禁じられた。

 その頃の人間といえば、過去の栄光も忘れ去られ、魔物の言葉を話し、違いといえば見た目程度のものしかなかったのだ。種族的な差は、力か知恵かといったもの程度。

 

 そうして、差別、怨恨、様々な問題を残しながらも、平和は成った。

 

 発展する技術は魔法すら科学し、500年ほど経つ頃にはその成長速度を異常なものとしていた。魔王曰く、人々の認知すら超える瞬間、技術的特異点というものに達そうとしていたらしい。

 達したか、達していないか。その判断は人にはつかない。ただ、「時間遡行の技術が開発されてからしばらくして、酷い戦争が起きた」と魔王は言った。

 そうして、発展した文明は、今の俺達の時代程度のものまで後退した。

 それが3度繰り返された。

 

「なぁ、どうして我が何もしなかったと思う?」

 

 魔王は顔を伏せて呟いた。

 赤子の俺から見ても、その姿はひどくちっぽけなものに見えた。

 

「自由に過去に戻れるというのなら、どうして何もかも思いのままにしなかったと思う?」

 

 俺は黙って見つめることしかできなかった。

 抱き締めたくなるような弱々しい少女に、この身ができることはなかった。

 

「したんじゃよ、我は。何もかも自分の都合の良いようにした。キサマが生まれることすら捻じ曲げた。世界を掌握したし、半恒久的な平和も実現した」

 

 吐き捨てるように言う。

 そこには誇るような態度の一切もなく、まるで罪を告白する盗人のようであった。

 

「それで、どうなったと思う」

 

 もしも、魔王が何度も過去に戻ったというのなら。

 

「キサマなら分かるじゃろう。……いや、キサマにしか分かるまい」

 

 その先に待ち受けているものは、優に想像できた。

 

 

 

 

「──なぁんにもなかったんじゃ。そこには」

 

 

 

 

 何も待ってなどいない。震えるほどの孤独だけが残る。

 だってそれは、不死性など関係のない、「生」の放棄であるから。

 

 せめて何か、と思い、俺は彼女の指を握った。

 それに気付いて小さく微笑み返す少女に、初めての笑みを見せる彼女に、魔王がそれだけ変わってしまったということを実感した。

 

「なぜ、神が、上位者共がこの世界から去ったか。あるいは、どこにも存在しなくなってしまったか。……きっと、孤独に耐えきれなくなって、死んじゃったんじゃないかなって思うんだ」

 

 魔王の口調からは威厳が失われ、俺の目の前にいるのは、もはやただの少女であった。

 

「この世界はつまらない。この世界には意味がない。こんな世界で生きるのなんて嫌になる。だから死んじゃおって思って……、キミのことを思い出したんだ」

 

 この世界はつまらない。

 この世界には意味がない。

 それは、そうかもしれないけれど。

 

「キミに出会った頃は、稀有な体験をしている人間って、そんな風にしか思ってなかった。……でも、違うね。独りで歩む人生は、こんなにも苦しいんだ。これでも、当時も何かしら助けてやろうとは思ってたんだよ? だから死んだキミを食べて、私の一部にしてあった。それが功を奏してね、今こうして、君の死に戻り先にやってきたんだ」

 

 魔王はクシャリと笑った。

 寂しさと優しさの詰まった悲しい笑顔だった。

 

「──助けてあげるよ、人間。キミの魔法的な遺伝情報を書き換えてあげる。それでキミが死ぬのを見送ったら、私も死のうと思う」

 

 突如現れた野生の魔王によって齎されたのは、その宣言通り、長い物語の終幕であった。

 求めていたものを前にして、俺はひどく、体のどこかが渇いているような気がした。

 

 

 

 


 

 

 

 

 20になった。

 魔王との二人での生活は、魔王城ではなく、どことも知れない山奥でひっそりとしたものであった。

 

 少年にまで成長した頃にようやく、魔王は俺が失声症を患っていることに気が付いた。

 

『まあ、治るまで気長に待とうではないか』

 

 魔法で治せるのではないか、筆談だってできる。そんな風に思ったが、魔王は随分と気長な性格になったようである。

 

 俺は俺で、与えられたチャンスを受け入れることができないでいた。

 だって、俺はもっと、発見と発展を繰り返して、命が果てるギリギリに解法を見出して、達成感なんかを味わいながら死を受け入れるものだと思っていたのだ。

 それが、死に戻ってすぐに「いつでも言えば終われるよ」なんていう状況になったのだ。

 こんな呆気なくていいのか。そう思った途端、足がすくんでしまった。

 

 死ねるようになった瞬間、死に方を選ぶようになったのである。

 

「なあ、人間。何を悩む? この世界には意味などないのじゃから、どんな死に方にも違いはないじゃろうに」

 

 確認を取るように魔王が問うた。

 特段、答えは求めていないようであった。

 

「……俺、は」

 

 掠れた声が出た。

 ほとんど生まれてから初めてとも言える発声は、か細く、汚く、聞くに堪えないものであった。

 けれど、魔王はその続きを興味深そうに待った。

 

「俺は、さ……」

 

 前回の最期。「何も、わかんない」と言って、俺はぐちゃぐちゃになった思考回路を無理やり止めた。

 自分が何を救いたいのか分からなくなった。

 イリスを救うことの意味を初めて疑問視した。

 そんな自分に気が付いて絶望した。

 もはや、自分自身を救うことすら不可能だと気付いた。

 だけど、それでも。

 

「俺は、幸せになりたい」

 

 言葉にしてしまえば、ありふれた、誰もが思っているようなことだ。

 自信満々に言えば、何を当たり前のことをと困惑した目で見られることだろう。

 

 けれど、違うのだ。

 なぜ人は幸せを追い求めるのか、という問い。

 それはきっと、間違っている。

 

 人は、幸せを求める必要なんてない。

 それは、全然当たり前のことなんかじゃない。

 だって、この世界に自然に与えられる意味なんてないんだから。

 

「魔王、この世界に意味はあるよ。それは、俺達が自分で世界に与えるものだ」

 

 当たり前のことなんて、全然当たり前じゃない。

 

 言え。叫べ。声に出せ。

 一度だって本気でそれを願ったか。渇望して叫んだか。

 

 思っているだけのことなんて。口に出せない願いなんて。

 誰かに伝えることを恥じらうのならば、それはまだ偽物だ。

 

 俺は、俺だけは本気で願うのだ。

 

「俺は、幸せになる」

 

 かつて、俺を幸せにしてくれた人達がいた。

 その幸福すら塗りつぶそうと、世界は絶望を与える。

 

 それを乗り越えるには、どうすればいい。

 俺にとっての幸せは一体何だ?

 

 それが分かるまで、この物語を終わらせるわけにはいかない。

 

「一人では死に戻りすら乗り越えられん人間が、本当に幸せになれると思うか?」

「なれるとか、なれないとかじゃないんだ。なる。それをいま、俺の根っこに据えた」

 

 幸せになりたい。

 「生きて」みたい。

 「死んで」いたくない。

 

 ぼんやりと思っていた。

 死に戻る度にそのことについて思いを巡らせた。

 けれど、それじゃあ足りない。

 声に出して。世界にぶつけて。大気を吐息一つ分震わせて。

 

「俺は幸せになるよ、魔王。それが俺の、世界に与える意味だ」

「……キサマの幸せも、意味も、意思もすべて、数千年の後には何もかもその意味を失うのじゃぞ。この世界は広い。(そら)は果てしない。けれど、何もない。キサマも我も巨大な情報の海に漂う塵のひとつで、塵がどれだけ変わろうと何の影響もない」

 

 きっと魔王は正しい。

 彼女は正しく絶望している。

 

 最果てまで覗いてきて、その上で何もないと絶望するのならそれは真実なのだろう。

 

 だから、絶望するなとか、希望を持てとか、お前も幸せになれなんて言葉は、ただの押しつけでしかない。

 

「……けどさ、悔しいだろ。このどうしようもない世界で、どうしようもないからって絶望して、絶望を理由にして死んでたら、悔しいだろ」

「それはきっと、キサマが『強い』からじゃよ。悔しさなど残っておらん。あるのは、諦めにも似た自嘲だけじゃ」

「俺は、強くなんてないよ。しぶといだけだ」

「いいや、強いよ、強い。そのしぶとさこそ、強さと呼べる。だから、弱き者のことを想像できない。……よかろう。キサマが幸せになるのを見届けたら、すべてを終わらすとしよう」

 

 それは。

 それが、彼女の選択だというのなら。俺が口を出せることなんてないのだろう。

 

 諦めてしまった姿は、あまりにも悲しいものであるけれど。

 

 

 

 


 

 

 

 

「まずな、美味しい飯が幸せの第一条件なんだ」

「そうか」

 

 俺がそう言うと、魔王は指をパチンと鳴らした。

 美しく彩られた、王城でしか見ることのないような豪勢な食事が現れた。

 

「……んまい」

 

 絶品である。

 なんか……、なんか違う気がするんだけど……。

 てか今日までの食事ってもしかして全部こうやって用意されてた?

 

「しょ、食事の他には、安心できる寝床とか」

「なるほど」

 

 指パッチン。

 なんかめちゃめちゃフニャフニャしたベッドが現れた。に、人間工学?

 

「だめになるぅ……」

 

 体が溶け込むかのような寝心地である。

 なんか……、うん、凄い寝やすそうなのは分かるんだけど、なんか。

 

「あとは、適度な娯楽?」

「ふむ」

 

 指ン。

 謎の箱が現れた。え、分からん。何これ。げぇむ? なにそれ。

 

「ボタンが多い……!」

 

 操作が分からなかった。キャラクターを動かすところまでは良かったが、すぐ死ぬ。俺より死ぬ。とても業の深い遊戯である。

 

 未来人マオマオは「これで幸せか?」と問い、俺は首を捻った。

 

「とりあえず、あれだ。魔法を禁止にしよう。そこからな気がする」

「……しかし、そうすると食料も用意しなければいけなくなるし、家だって老朽化に備える必要が出てくるぞ?」

「一時期は農民やってたんだ。土いじりは得意さ。家だって、古くなったら修理するよ」

 

 そうして、少しずつ魔王の魔法に頼らない生活へとシフトしていった。

 不便そうにするかと思っていたが、生活の機微に頓着しなくなっているらしく、魔王は平然とした態度で俺が畑を耕すのを眺めていた。

 

「……んまい。生っぽいが」

「ああ、美味いな」

 

 初めての収穫物によるシチューは、魔王が魔法で出したものよりずっと劣るけれど、どこか懐かしい味がした。

 

「農家を見るのは初めてかもしれん」

「俺別に農家じゃないけどな」

「畑で何かしているのは知っていたが、こうして目の前で一連の仕事を見たのは初めてだ」

 

 生物離れした体質の魔王サマは、存外、生き物の営みというものを深く知らないで生きてきたようである。

 まあ、必要なければ知ることもないよな。俺も、漁師が何やってるかとか知らないし。

 

「寝床はまあ、多少固いけどしょうがないよな。家の中で寝れるってだけで上出来だ」

「屋根がそんなに大切か」

「そりゃまあ」

 

 フム、と顎を押さえた魔王は、しばらく考え込んでから俺の手を引いて外に出た。

 少女の手の小ささに一瞬ドキリとし、続いてその温度がほとんどないことに気が付いた。こういうところも生物離れしてるんだな、魔王は。

 

 芝の上に座り込んだ魔王は、ポンポンと自分の太ももを叩いた。

 HIZAMAKURA?

 

「待て」

「芝の上で眠るのは気持ちが良いと、黒騎士が昔言っていた。枕代わりにはなるじゃろう」

「いや待て」

 

 そんな真面目な顔で提案されても困る。

 というか、心の中の嫁達が「浮気?」って聞いてきている気がする。

 

「なんだ、お前、俺のこと好きなのか」

「唯一同じ苦しみを知っている者同士じゃからな。協力は惜しまぬつもりだ」

 

 うーん……。これは……。

 多分、人として好きってやつだ。ラブじゃなくてライク。つまりセーフ。

 俺も別にこいつのことラブじゃないし、膝枕されてもセーフ。浮気じゃない。

 

 それじゃあ失礼して……、あっ、柔らかぁい……。

 

「寝心地はどうじゃ」

「正直、畏れ多くて落ち着かん」

 

 魔王の膝枕である。自分の首を瞬時に吹き飛ばせる存在の膝の上である。断頭台か?

 まあ、よく考えたら、膝の上であろうとなかろうと首はいつでも飛ばされうるのか。ならいつもと変わんないな。

 

 いつもと変わんない状況で、柔らかな感触に頭を包まれて、風のそよぐ芝の上。

 柔らかな日差しに、意識はたちまち蕩かされた。

 

 

 

 

「こやつ、寝おった……」

 

 

 

 


 

 

 

 

「なぁ、ここって地図で言うどこなんだ?」

「聖女が気になるか」

 

 なんで分かるんだよ。

 

 日々を過ごしながら気になっていたのは、結局、俺がどうにかしなければイリスが傷付けられるということであった。

 逆に、無邪気に、何も考えずあの場の魔物を殺すことが、本当に俺のするべきことかどうかも分からなくなってしまったが。

 

「復活するはずの我がおらんからな。もしかすると、戦争自体ロクに起こらないかもしれんな」

「え」

 

 イリスを殺すための計略を練ったのは魔王だ。だが、こうして俺の死に戻り先へやってくるために、彼女はこの世界で生まれるはずだった彼女の存在を上書きしたのだという。実際にはもう少し複雑らしいが。

 そも、戦いを率いる彼女がいなければ、戦争にならないかもしれないとのこと。

 では何になるのかと言えば、力を蓄えた人間による、魔物たちの領土への侵攻と虐殺だろうが。

 

「お前は、いいのか。魔物は仲間だろう」

「考え方が変わるんじゃよ。我がいようがいまいが、千年後の世界はほとんど変わらん。一万年後にはすべて消え失せるじゃろう。我はもう、この世界にいたくない。我がいた証拠すら消し去りたい。意思を残すことを望まない」

 

 その気持ちはよく理解できた。

 魔王は、この世界に生まれたことすらなかったことにしたいのだ。

 俺がそう思えなかったのは、この世界で生きたいと思ったのは、それでも大切な人達に出会えたからだ。

 

 ……ああ、そうか。

 

 だから、彼女の姿はとても悲しく見えるのだ。

 

 

 

 


 

 

 

 

「それで、幸せにはなれたのか」

 

 35。魔王が倒され、戦争が終わるはずの年になって魔王が問うた。

 不思議と鳥獣に好かれる魔王は、小鳥に餌付けをしている。最近は農作業も覚え、手伝ってくれている。

 ちなみに、俺も鳥獣には好かれる。長生きが秘訣なのかもしれない。

 

「どうかな」

 

 結局、戦争は起こらなかった。

 人間は首を傾げて、その後、先代の勇者を大きく称えた。

 

「分からないけどさ、だから、確かめに行こうと思うんだ」

 

 この年になっても戦争が起こらないのなら。

 あの大規模作戦が無くなるのなら。

 

 その時、俺と彼女達の繋がりは途絶える。

 関わる必要がなくなる。赤の他人になる。

 

 そうしてやっと、俺は最後の人生を、一度きりの人生を歩むのだと思った。

 

「魔王も、来ないか。一緒に」

「ふむ。よかろう」

 

 とっくに死を受け入れていた。

 

 

 

 


 

 

 

 

「やぁ、あなたも祝言に?」

「ええ、めでたいことですから。遠くから駆けつけてきましたよ」

「一言でも、聖女様と言葉を交わせるなど一生モノの思い出になりますからね。おや、お連れは奥様ですかな」

「はは、まあそんなところです。九生の思い出に、ケリを付けに来ました」

 

 聖女の出産が無事成功した。赤子は女の子であるから、次期聖女だ。

 国はこれを祝うために祭りを開き、一定額以上の祝儀を送った者へは聖女と話す機会を設けた。

 

「二度目に時計が鳴ったら終了です。初めは挨拶からお願いいたします」

 

 注意事項を受け、壮年の男とその幼妻は入室していった。

 一足先に聖女に挨拶できる二人の背中を、男は羨ましげに見送る。

 

「はじめまして、聖女様。この度は、ご出産おめでとうございます」

「ええ、ありがとうございます。沢山の方に祝っていただけて、本当に嬉しいです」

「はは、それにしてはややお顔が優れないようだ。連続して初対面の人と話すのは疲れるでしょう、私は手短に終えさせていただこうと思います」

 

 肉体的な疲労は魔法で癒やすことができる。だというのに、精神面での疲労を顔色から読み取った男にイリスは驚いた。

 

「凄いのですね……。お医者様でしょうか?」

「まさか、そんな大した者ではありません。……ただ、このくらい分からなければ叱られてしまいます」

 

 誰に、とは言わなかった。

 けれど、自分を見つめる眼差しがとても柔らかくて、大切な人を思い浮かべているのだろう、とイリスは悟った。

 

「色々話したいことはあるけど、言いたいことは一つなんだ」

 

 口調を変えて、どこか親しげに男は微笑んだ。

 それがどこか懐かしくて、イリスは動揺した。

 

「──ありがとう。キミに逢えてよかった」

 

 今まで、何度もお礼を言われたことはあった。

 治してくれて、守ってくれて、助けてくれて、生まれてきてくれて。

 

 言われ慣れていた。

 

 顔も知らぬ相手に突然お礼を言われても、その理由はなんとなく予想がつくし、笑って返した。

 当然嬉しかったはずだけれど、初めて誰かに感謝されたときよりずっと、その喜びは弱くなっていた。

 

 ただ、この人のお礼だけは理由が分からなくて、意味が分からなくて、困惑と、動揺と、言葉にならない何かが混じって、途端に涙が溢れた。

 

「──え、……ごめっ、なさ……。なんで……。そんな、ごめん、なさっ……、泣くつもりなんて、なかったのです……!」

 

 ぽろぽろと流れ落ちる宝石に、その場にいる誰もが固まった。

 いや、ただ一人だけ、困ったような笑みを浮かべていた。

 

「泣かないで、イリス」

「泣いて……っ、ません……っ、これは、ちょっと、驚いた、だけです……!」

「はは、やっぱり強情だ」

 

 ぽんぽん、と頭を撫でられた。

 少しも不快に感じなかった。

 けれど、涙はより一層湧き出た。

 

「ぶ、無礼者!」

「あ、やべ」

 

 聖女の頭に触れた男は、当然警備にしょっぴかれていった。

 相も変わらず、困り顔のままで。

 

「あの馬鹿者め……。聖女、愛されておるな」

「訳が分かりません!」

 

 呆れたような顔をして、男の連れはのんびり退室していった。

 時間は優に余っていて、次の挨拶が来るまでの時間、イリスは自分を落ち着かせるのに終始するのであった。

 

 

 

 


 

 

 

 

 無礼な男を叩き出そうとしたアグライアは、その体幹の強さに驚いていた。

 この程度の男、振り回せるものかと思っていたのだ。だというのに、引き摺るどころか、男が自分の意志で動かなければ部屋から連れ出すこともできなかった。

 

「……なぜ、素直に追い出された」

「いやあれは俺が悪いよ。一般人が聖女を泣かせて頭撫でたんだ。祝いの最中でもなけりゃ首刎ねていいと思う」

 

 当然、という顔で男が答える。

 そのトンチンカンな態度に、アグライアも困惑してしまう。

 

「それにさ、こうしてお前とも話す時間が取れたし、むしろ追い出されてよかったんだ」

「……? なんだ、実力者かと思っていたが、卑劣な悪漢であったか? 私の権限であれば、今ここで貴様を斬り殺すこともできるのだぞ」

「うるせえクソ教官。悪漢殺す暇があるなら、弱すぎるケツ穴鍛えとけ」

「分かった。今殺そう」

「待って待て待て待て待って下さいごめんなさい出来心だったんです!!」

 

 言い訳を聞くつもりはなかった。

 神速で引き抜かれた直剣は、常人ならば反応できない速度のまま男の首が存在していた場所を通過する。

 だが、そこに手応えはなかった。

 男はアグライアの剣を躱し、そのまま土下座したのである。

 

 躱した上で己の尊厳を投げ捨てるその行為に苛立ちが募り、しかしここでもう一度この男を殺そうとすることは、もはや自分の剣の価値を下げる行為であると考え納刀した。

 

「何なのだ、貴様は。無礼の権化か? 今なら見逃してやるから、さっさとこの街を出ていけ」

「一つ訂正させてくれ」

「なんだ」

「クソ教官じゃなくておクソ教官だった、すまん」

「分かった。今殺──」

「──ごめんなさい!!」

 

 いや、やっぱ殺しておいたほうが世のため人のためなのではないだろうか。

 アグライアは長く逡巡してから、もう一度だけため息と共に納刀した。

 

「……なんてな。懐かしくてつい、調子に乗った。本当にすまん」

「懐かしい? 初対面だろう」

 

 男は何も言わず、穏やかな瞳を浮かべていた。

 それが気持ち悪くて、しかし、それ以上にこのやりとりに自分まで懐かしさを感じてしまっていることが気持ち悪くて、アグライアはそっぽを向いた。

 

「おいおい、人と話すときは相手の目を見るもんだぞ」

「……ぐっ、正しいが、貴様に言われると無性に腹が立つな」

 

 もはや、初対面だとは思えなくなっていた。

 が、その目を見つめ返して、後悔する。

 

「──ありがとう、アリア。お前のおかげで笑えるようになった」

 

 顔が熱い。よく分からないけれど、これ以上この男と一緒にいたくない。

 

「……っ、もういい! 早く出ていけ!」

「はいはい。……あ、お前、マジで急がないと行き遅れるからな。今年の内に相手見つけといたほうが──」

 

 うん。

 顔が熱いのは怒りで、一緒にいたくないのは不快感からだ。

 殺そう。

 

 

 

 

「どうした、人間。土に埋まるのがお前の幸せか?」

「……女の婚期は、触れたらいかんな」

「それはそうじゃな」

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 雪が舞って、花が咲い、若葉がざわめいて、すべて散った。

 

 月明かりを集めて唄にして、時折り清流に足をさらす。

 

 揺蕩う雲を数えては風を食み、青草に横たわっては微睡んだ。

 

 幾人かの知己と初めて出会い、ただ一人記憶を噛み締める。

 

 それは物語と呼ぶにはあまりに寂しく、淡々と為される確認事項のよう。

 

 けれどもそこに孤独はなく、隣にはいつも人がいた。

 

 気付けば顔に刻まれた皺も増え、私ばかりが立ち止まっている。

 

 

 

 

 そうしてキミは満足気に、勝手に死んでいった。

 

 

 

 


 

 

 

 

「少年」

 

 呼び止められて、思わず立ち止まった。

 涼やかで、ずっと聞いていたくなるような声だった。

 振り返ると、大人びた黒髪の女の子がいた。18よりは若いだろうか。

 年上の美しい女性との会話に緊張しながら、子供はハイと元気よく返事した。

 

「キミはいま、幸せかい」

 

 初対面でかけられる質問ではないことに少年は戸惑った。

 怪しい宗教の勧誘かもしれない。そうでないにせよ、こんな綺麗な人と話していて不幸な訳がないから、少年はもう一度ハイと返事した。

 

 そう答えるなり、女性はニコリと微笑んで立ち去った。

 角を曲がった女性を慌てて追いかけて、その先には誰もおらず、少年は首をかしげるばかりであった。

 

 

 

 

「──上手く死ねたんだね」

 

 

 

 


 

 

 

 

 首をかしげる少年を眼下に捉えながら、最後の会話を振り返った。

 

『本当はさ、多分。お前が赤子の俺の元に来てくれたとき、その時もう死んでよかったんだ』

 

 会話と言っても、ほとんど一方的なものであったけれど。

 あれだけうじうじ悩んでいたくせに、人間は最初から答えは出ていたと話した。

 

『だってさ、俺の幸せは、一緒に歩いてくれる誰かがいることだったんだから』

 

 いつか、彼が語っていた。

 人は、歴史の共有ができなければ生きてゆくことができない。

 たったひとりでは存在証明ができない、どこまでも弱い生き物なのだと。

 

『お前は、恋人じゃないし、友達でもないし、仇敵ってほどいがみ合ってもいない、なんて名前をつけたらいいか分からない関係だけどさ』

 

 そう前置きをしてから、人間は明朗な笑顔を浮かべた。

 

『それでも、俺と一緒に歩んで(死に戻って)くれた。それで十分だ。ありがとう、魔王』

 

 何もかもを得て、その度に何もかもを失って。

 そうやって彼が最後に望んだのが、もう何もいらないから、ずっと(・・・)隣りにいてくれる人なのだろう。

 それは、ありふれた存在のようであって、彼にとっては一番得難い存在であった。

 

『言ってしまえば、誰でも良かったんだ。一緒に歩んでくれる誰か。それが俺の幸せで、こんな最低で身勝手な願い、そりゃあ自力で気付けるはずもない』

 

 幾度となく重なった死に戻りを通して、何度も何度も自分という人間を見つめさせられて、どうにも彼には自己否定的な側面が生まれてしまっていた。

 自嘲して魔王に問いかける。

 

『軽蔑するか?』

 

 しないさ。

 よく分かるから。

 

『身勝手な願いだけどさ、魔王、お前にも幸せになってほしいよ』

 

 そう願う人間を見て己の幸せについて考えないというのは、魔王には些か難しいことであった。

 

『それでさ、最後にこう言うんだ』

 

 ざまあみろ、という副音声が聞こえてそうなくらい恨みをたっぷり込めて、男はニヤリと笑う。

 

『──愛してるぜ、世界』

 

 

 

 


 

 

 

 

 時が経った。

 

 あとしばらくもすれば、年も明け、また新たな一年が始まる。

 

 私は一人で歩いている。

 

 きっと、ずっと一人で歩いている。

 

 でも、色々な人と笑って話をしよう。

 

 色々な仕事をこの手でやってみよう。

 

 キミが教えてくれた、畑の耕し方のように。

 

 知らない人と知り合って、知らないことを知りにいこう。

 

 キミが願った私の幸せを探しに行こう。

 

 そうして、愛してるぜ世界、と言ってやろう。

 

 恨みと感謝をたっぷり込めて。

 

 

 

 

 

 

 

 




対戦ありがとうございました。
後書き諸々は活動報告に投げておきます。


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