シャニマス幼馴染概念 (おこめ大統領)
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浅倉透
「面白かったよ。昨日おすすめしてくれた動画」


 透が前置きなくそんなことを言い出した。

 

 今は朝。より正確にいうと、登校中だ。

 

 俺も透も朝はぎりぎりまで寝てる派で、かつ家が近い。なので、登校するタイミングが被ることが結構ある。むしろ、会わなかったら起床確認のチェインを入れてしまうくらいだ。透にではなく、円香にだが。

 

「見てくれたのか。どうだった? あの芸人さんのネタ、俺は結構好きなんだけど」

 

 昨日、急に「好きなもの、ある?」と雑に聞かれたので、とりあえずおすすめの芸人さんの動画を教えたのを今になって思いだした。正しい回答をしてるかわからなかったが、こうして見たことを報告するということは、少なくとも誤答ではなかったようで安心した。

 

「え?」

「ん?」

 

 疑問符が出るような難しい質問をしたつもりはないが、何に引っかかったのだろうか。

 

「いま、芸人さんの話してたっけ?」

「あれ、昨日俺がおすすめしたお笑いの動画の話をしてたんじゃなかったの?」

 

 透がこてんと首をかしげて不思議そうに聞いてきた。ほかの人がするとあざとくなるような動作でも、透がすると自然で、なんというか、様になってる。

 

 昔は特に意識していなかったが、ここ数年は透のそういった立ち振る舞いにたじろいでしまいそうになることがしばしばあった。バレないように平静を装ってるつもりだが、雛菜ちゃんにニヤニヤ見られたりすることもあるあたり、悔しいけどかなり露骨なのだろう。

 

「あれ、間違えた。木こりの動画を見ちゃった」

「全然かすってもないんだが⁈」

 

 何をどう勘違いしたら芸人の動画と間違えて木こりの動画を見ることになるんだ!

 

「動画見よーと思ったらさ、なんかその動画がホーム画面にあって。ふふっ、ごめんごめん」

「いや、いいけど。なんでそんな動画がおすすめされんの?」

 

 そんな動画があったことさえ知らなかった。最近見た動画を参考にしたおすすめ動画がYoutubeのホーム画面に表示されるとどこかで見た気もするので、透は「木こりの動画」に近い何かを最近見ていることになるな。

 

 木こりの動画に近い何か、って何……?

 

「んー、わからん」

「ちょっとほかのおすすめ動画も気になるな。透のYoutube見てもいい?」

「いいよ。はい」

「ありがと」

 

 案外すんなり借りられてしまった。

 

 Youtubeのホーム画面を他人に見られるのは恥ずかしいという人も一定数いるらしいので、断られるか逡巡されるかは覚悟していたけど、透はなんの気なしにノータイムでスマホを貸してくれた。

 

 俺は透から受け取ったロックのかかってないスマホを受け取ると赤いアプリアイコンをタップした。

 

「なんか、ちょっと恥ずかしいかも」

 

 透は視線を少しそらしながらも、いつものように読めない表情でそういった。滅多に見せない恥じらいという感情を前に、俺も少しだけ罪悪感を覚えてしまった。

 

「すまん、別にそんな無理に見たいわけじゃないんだ」

「うん。いいよ、君だし」

 

 言葉少なく、それでいてわかりにくい言い回しをする透。

 そして、その言葉とともに、俺のシャツの裾をきゅっと左手で軽くつまんだ。

 

 今のは『ほかの人に見られると恥ずかしいけど、君になら見られてもいいよ』ということか?

 

 そう解釈したとたん、顔が熱くなっていくのがわかる。透に限ってそういうことは言わないと脳では分かってるが、心は違うようだ。

 

 うう、やばい。なんだかイケナイことをしている気になってきた……。

 

 そんなことを考えてしまったが、

 

「……、アリが巣を作る動画が一番上なんだな」

 

 透のYoutube画面を見た途端、何の感情もなくなってしまった。さっきまでの複雑な乙女心が嘘みたいだ。俺は乙女じゃないので、まぁ嘘ではあるんだが。

 

「あー、昨日アリがいっぱい出てくる動画も見たからかな」

「木こりの動画とアリの動画をみる女子高生ってどうよ」

「えー、見ちゃわない? そーゆーの」

 

 そう言いながら、透は俺が持ったままの自分のスマホを軽く操作する。操作するのはいいんだけど、わざわざ俺が持ってる時じゃなくていいのに。顔が近くてドギマギしちゃうからさ。まつ毛なっが。

 

 こいつのこういう行動は無意識なんだろうけど、俺だけが意識してるみたいで恥ずかしいな。

 

 なんとなく息を止めながら待っていると透は何かを終えたらしく、そっとスマホから離れた。どうやら「後でみる」のリストに入れたようだ。透の「後でみる」のリストは、結局見られることがなくてどんどん数だけ増えて行ってそうだな。

 

 まぁアリとか木こりの動画は俺には分からない世界ではあるが、正直どんな動画なのか気になりはする。でも、ハマってしまったらそれはそれで怖いので、たぶん見ることは無いだろう。

 

「そもそもそんな動画どうやって見つけるんだよ」

「気づいたらおすすめしてくれるんだ、Youtubeが」

 

 それが毎回面白くてさ、と付け加えながらスマホを受け取った彼女はどこか遠くを見ながら言葉を続けた。

 

「Youtubeが一番わかってくれてるのかも。私のこと」

 

 浅倉透は、自分のことを語らない。 

 

 多分、自分に対する理解や興味があまりないのだろう。

 

 だからこそ彼女は、”自分”を見出してくれる人を信頼し、友情や親愛を寄せる。

 

 俺は、浅倉透とはそういう人間なのだと思っていた。

 そんな彼女から出た「一番わかってくれてる」という言葉。

 

 俺はそれが、そのことが──

 

「なんか悔しいな」

「え?」

 

 無意識に呟いていた。

 

 透があまりにもジッとこちらを見るので、俺はドギマギし思わず取り繕ってしまった。

 

「あ、いや、俺のが透との付き合い長いのになーって思ってさ」

 

 これは本心だ。だが、本音ではない。

 

 だが、そんなセリフさえ面と向かって言うのは恥ずかしく、空に向けて放たれた俺の言葉に透は目をパチクリさせ歩みを止めた。透に数歩遅れて俺も歩くのをやめた。

 

「ふふっ、三角関係だね」

 

 少しだけ離れた場所からいつもの声量で発せられた言葉だが、俺にははっきりと聞こえた。

 

「ぶはっ、なんだそれ」

 

 俺と透とYoutubeの三角関係ってことか? 頭の中にその関係図が思い浮かび、俺は思わず吹き出してしまった。

 

 透はやがて手に持っていたスマホをカバンにしまい、少し早歩きで俺の隣に戻ってきた。どことなく嬉しそうで読み取りやすい表情をしていることが、俺は嬉しかった。

 

「勝ってよ。応援してるからさ」

 

 透の左手が、さっきよりも強く、俺のシャツの裾を掴んだ。




1話ごとの繋がりが弱いので、気になるお話だけ読んでいただいても大丈夫です


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「なんか、かわいい子と話してたね」

 クラスでの用事も終了し、カバンを手に取って教室から出たところで透に話しかけられた。

 

「ん? あぁ、会長のことか。ちょっと文化祭関係のことでな」

 

 俺は文化祭実行委員として、クラスメイトである生徒会長に時間を取ってもらって去年までの事例とか規約とかを色々確認したり相談に乗ってもらっていたのだ。

 

 ふーん、とあまり興味なさそうに、床に置いていたカバンを拾い上げる透。

 

「いいね」

「いいねって、何がだ?」

「なんていうんだろう。マドンナーって感じ」

「言われてみれば、確かにそうかも」

 

 マドンナなんて言葉、久しぶりに聞いた気がする。

 おしとやかな頭もよくてきれいな黒髪ロングが似合っている生徒会長は、一昔前ならばそう称されていてもおかしくはなかっただろう。今の時代は……、何て言うのが正解なんだろう。

 

「私も目指そうかな、マドンナ」

「透が? ──無理なんじゃないかな」

 

 透にマドンナと言う表現はなんとなく似合わないと思った。確かにこいつも、うーん、そう言うのは照れ臭いが、”綺麗”ではあるんだけど、オーラがありすぎて近づきがたいからな。

 

 実際今も、放課後と言うこともあり廊下には生徒がちらほらいたが、こいつの周囲にだけぽっかり穴が空いてるかのよう近寄られない。嫌われていないことは、周りの熱を持った視線を見ればわかる。

 

「えー、なにそれ」

 

 そんな視線を知ってか知らずか、透はかすかに笑いながら軽い返事をした。俺が眉をひそめ困惑した表情を作ると、透はそのまま言葉を続けた。

 

「なんかさ、君なら目指せるよとか、お前はもう俺のマドンナだよとか、そういうのないの?」

 

 マドンナって目指してなるようなものなのか?

 

「俺がそんなこと言い出したら透は絶対引くじゃん」

「どうだろう。んー、引くかも」

 

 引くんかい。

 

 まぁ前者ならともかく、後者を本気で言ってるやつがいたら痛すぎるし、さすがに俺でも引く。自分が言うとしたらなおさらだ。

 

 話はひと段落したが、透は依然俺のほうにただ目を向けている。あれ、教室の前にいたから、てっきり俺に何か用事でもあったのかと思ったけど、この反応からするに違うようだな。

 

「もしかして円香に用か?」

 

 透がうちのクラスに来る理由の9割は円香だ。最近は俺への用事も増えた気がするけど、依然として透、円香、雛菜ちゃん(なぜかなめられてる)、小糸ちゃん(なぜか怖がられてる)の4人組の関係性には遠く及ばない。

 

「樋口? あー、うん、そうそう。樋口いるかなーって」

 

 一瞬目が泳いだ気もするし随分と適当な返事だが、透が何を考えているかを考えることは無謀だしあまり意味もないことなのは、この10年で嫌と言うほど体感した。

 

「円香も委員会だぞ。メールとか来てるんじゃないか?」

「わかんない、充電なくて」

 

 確かに教室の入り口で待っていた時も、スマホとかをいじらずにボーっとしてたな。俺がひとりでに納得しながら歩き始めると、透も一緒に歩きだした。

 

「あ、私も帰る。樋口いないし」

「すまん、俺も委員会なんだ。そろそろ行かないと円香に殺されちゃう」

「あれ、同じ委員会なんだ」

「これ三回は言ってるぞ。寄り道しないでまっすぐ帰れよ」

「だいじょーぶ。それ、お母さんにも言われたから」

「大丈夫じゃないから言われてるんじゃない?」

 

 軽口をたたきながら委員会が行われる場所へ向かうも、なぜか透もついてくる。教室までは一緒に来るらしい。

 

「でもそっか。二人ともこれから忙しくなる感じか。マドンナ残念」

「ついにマドンナを自称し始めたか。初めて見たわ、そんな奴」

 

 なんなら一人称をマドンナにしてる人も初めて見た。俺がマドンナって言わなかったことを意外と気にしてたのか? まさかな。

 

「じゃあさ、他称してよ」

 

「他称って──」

 

 透は最近、こうやって俺をよくからかう。

 

 真面目に取り合うとすごく照れてしまうのは自分でもわかっていた。だから、毎回うまいことを言ってやりすごしているのだが、今回はいい返しが思いつかない。おふざけだと分かっていてもマドンナという言葉は恥ずかしすぎる。今風で、それでいて恥ずかしくなくて、冗談っぽくも取れるいい表現はないだろうか……。

 

 もう目的地に着いてしまったので何かしら返事はしないと。足りない語彙とわずかなラブコメの知識を総動員して、俺はそれっぽい返事をひねり出した。

 

「じゃあまた明日な、俺のフィアンセ」

 

 なんとなくマドンナみたいなニュアンスで使ったけど、フィアンセの意味合ってたっけ。やっぱり読書とかしないと、こういうときにウィットに富んだ返しができなくて辛いな。

 

 雛菜ちゃんにからかわれた時は「うるせー」とか「ほっとけ」とか適当に言っておけば万事解決なのに。透は無自覚っぽいから強気であしらいにくいんだよな。

 

「……やばい」

 

 そんな呑気なことを考えていると、ぼそっと透が言葉をこぼした。声のするほうへ目を向けると、さっきまで俺の隣にいたはずの透はいつの間にか俺の後ろにいた。耳を真っ赤にして下を向いていた。

 

「え?」

 

 想定していなかった反応を前に俺は少し固まってしまった。もしかして怒ってる? しまった、フィアンセって蔑称か何かだったのか。

 

「それ、だめだから。私以外に言うの」

「え、なんで?」

「なんでも」

 

 透がうつむいたまま俺の背中にぐりぐりと頭を押し付ける。

 

「ちょ……」

 

 大人っぽい透のそうした子供みたいな行動にただただ驚いた。

 

 そして、その反応から純粋な怒りでないことは分かったが、似合わぬ行動をさせるほどの何かをしたことは事実なので、ここは素直に謝ったほうがいいのだろうとも思った。

 

「ごめん。意味分かってないで言っちゃった。本気にしないで」

「うん、そうかなって思ってた」

 

 怒っていないことにひとまず胸をなでおろしたが、ぐりぐりは続く。安堵が通りすぎると、今度は透の子供じみた行動が、なんだかだんだんかわいらしく見えてきてしまった。このままいつまでもやられていると精神衛生上よくない気がしたので、俺はくるっと体を回転させて透を振り払った。

 

 突然支えを失った透は、おっとっと、っと言いながらよたよたと数歩進み、やがてこちらへ振り返った。

 

「でも、ありがと」

 

 月のような笑顔に、思わず顔が熱くなるのがわかった。俺の耳も赤くなっているに違いない。先ほどの透の紅潮とは違う意味だろうが、別にそれでもいいと思えた。

 

 




別サイトでもランキング入りしてました。ありがとうございます


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「お待たせ。待った?」

「いや、思ったよりは待たなかった」

 

 JRの改札の外でボケっとしていると、お目当ての透が軽く手を振りながらやってきた。改札を通過する前からお互い目が合ったが、透が全然急ぐそぶりも見せなくて、さすが透だと純粋に感心した。

 

「ふふっ、そこはさ、俺も今来たとこって言わないと」

「いや、20分前くらいに『今着いた』って送ったし」

「そっか。うん、確かに」

 

 自分で言っていて気が付いたが、アニメやマンガだと「待った?」「今着いたとこ」みたいなやりとりがよくあるけど、スマホやSNSが普及しまくった現代でそのやり取りはなかなか現実的じゃないよな。少なくとも俺は着いたら連絡いれる。

 

「よくわかったね」

「ん?」

「私がこの電車に乗ってるって」

「まぁ、そろそろかなーって思って」

 

 多分、改札前で目が合ったことを言っているんだと思う。正直言うと人がいっぱい出てくるたびに毎回改札のほうを見ていたので、透が何時の電車に乗っているかなんてわかっていなかった。

 

「いいね。こう、通じ合ってるって感じ」

「通じ合ってるならおんなじ電車に乗ってきてくれ。てか別に家の前とか最寄り駅の待ち合わせでもよかったのに」

「あー、そうかも」

 

 どうやらいま気が付いたようだ。俺もそのことを指摘しなかったし、別にどこ待ち合わせでもよかったので特に問題はない。ただ、現地で待ち合わせするのは、幼馴染というよりは……

 

「でもさ、現地で待ち合わせしたほうがそれっぽいじゃん」

 

 ……、もしかして透も同じことを考えていたのか?

 

 何がそれっぽいのかを聞こうとした瞬間、近くを通り過ぎたサラリーマンぽい人にあからさまな咳払いをされてしまった。確かに改札前で話すのは、平日のラッシュ時でないとはいえ少し邪魔だよな。

 

「とりあえず行こうぜ、円香の誕プレ買いに」

「うん」

 

 そう、今日は円香の誕生日プレゼントを買いにはるばる店がいっぱいある大きめの駅まで来たのだ。

 

 ちなみに俺は既に買ってある。将棋セットと詰将棋問題集だ。円香って家で黙々と将棋とかしてそうだなって思って買ってみたが、正直ネタなので透からの誕プレをその分ちゃんと選ぶつもりだ。

 

 適当に歩き出したが、さて、どこに向かえばいいのだろう。

 

「円香が何欲しがってるか聞いてみるって言ってたけど、何欲しいって言ってた?」

「んーなんか、もうちょっと考えて行動してほしいって言ってた」

 

 そんなとんちみたいなこと言われても。

 

 透は透なりに考えてはいると思うが、出力しなかったりズレていたりはやっぱりあるように思う。それが魅力ではあるんだろうけど、周りの人、特に円香みたいなまじめな奴にしわ寄せがいくのは明白だろう。

 

 ……円香の苦労を想像したら涙が出そうになってきた。

 

「よし、透の脳を改造する装置を買おう」

「え、私だけ?」

「さみしかったら雛菜ちゃんも道連れにしていいよ」

「雛菜は『雛菜は先輩が改造されたらいいのにーって思うー♡ おバカさんだしー♡』って言ってるよ」

「赤点は取ってないからバカではない!」

 

 ていうか、この瞬間に雛菜ちゃんにメッセ送った透もフリック入力早すぎるし、一瞬で返す雛菜ちゃんにもスマホにかじりつきすぎだな! 普段はどっちも、特に透は浮世離れしてるように感じるが、そういうところはしっかり女子高生なんだ。

 

「んで、どこ向かえばいいんだっけ」

「え、んー……、とりあえずお店入ろ? どっかでっかいところ」

「そうだな」

 

 円香ヒアリングの成果がないことが分かったので、とりあえず百貨店を目指すことにした。この付近にはいくつかあるので、とりあえず高校生向けのお店も入ってるリーズナブルなところに向かおうとするも、目の前の横断歩道がちょうど赤信号になってしまった。

 

「そういえばさ、円香が透に『考えて行動してほしい』なんて言うの、ずいぶん久しぶりな気がするんだけど、そうでもない感じ?」

「んー、どうだろ。最近あんまり聞かないかも」

 

 小学校高学年から中学の頃まではたまに言われているのを見聞きしていた。その頃の透は、今よりも透明でふわふわで、気が付いたらすぐにどこかへ行っていた。そんな透のことを誰かが「タンポポの綿毛みたい」って言っていたのを、俺は強く覚えている。

 

「俺はてっきり円香に諦められたのかと思ってた」

「あれ、そういうことだったの? ちゃんと考えて行動してるのに」

「ほんと?」

「考えてるよ。今もちゃんと」

 

 周りの人たちが動き出したことで、信号が変わったことに気が付いた。透が手を大きく前後に振りながら横断歩道の白い部分だけを踏んで渡っていて、人ごみの中なのにそこだけが世界から切り離されたかのようにハッキリと俺の目に映った。

 

「今も? どんなこと考えてるの」

 

 俺は透の元まで早歩きしながら聞いた。

 

「なんかさ、デートしてるみたいだなーって」

 

 それは、俺も待ち合わせの時に考えていたことだ。

 

 透も、同じことを考えていたんだ。

 

 その事実のほうが俺にとっては嬉しく、言葉に詰まっていると、透が続けて話した。

 

「あれ、私だけ? なんか恥ずかしいね」

「あ、いや、なんというか、俺もおんなじこと考えてたっていうか……」

 

 自分の感情を素直に出すことがこんなに恥ずかしいことだとは思わなかった。どうやって表現していいかわからないし、なんだかしどろもどろになってしまって余計に恥ずかしかった。

 

「そっか。ふふっ、嬉しい」

 

 そう言いながら透はさっきまで大振りをしていた左手を、俺の右手に優しく絡めた。

 

「っ⁉」

 

 心臓も目玉も何もかもが体から飛び出るかと思った。

 

 口の中はみるみる乾いていくが、その反面、握られている右手には汗をかいてきたかもしれない。

 

 指と指の隙間から感じる透の体温に応えるため、ゆっくりではあるが、俺も右手を握り返した。

 

 

 ──横断歩道、渡り切っていてよかった。

 

 

 じゃなかったらドギマギしてる隙に信号が変わって轢かれていたに違いない。

 

「いいじゃん。デートなんだし」

 

 俺の手を確かめるようににぎにぎと手を動かす透。

 

「……顔、真っ赤だぞ」

 

 透はいつものような軽い口調のままだが、その顔にはかすかに赤みがさしているのが分かった。俺は精一杯の強がりを言ったが、そういう俺も顔が真っ赤なことくらい自覚している。

 

「お互い様。嫌だった?」

 

 そんなわけがない。

 

「……嫌じゃない」

「うん、知ってた。握り返してくれてるし」

 

 誰かは透のことを「タンポポの綿毛みたいだ」と言っていた。それは今でも同意だ。でも、その意味は俺の中で少しだけ変わった。柔らかくて、暖かくて、安心感がある。俺は透の手からそれを感じた。

 

 円香に誕プレ渡すときに気を付けないと。

 

 俺たちが手を繋ぎながら選んだプレゼントだって知ったら、ブチギレるかもしれない。

 

 

 

 

 

 




10月27日は樋口円香の誕生日


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「え、近い? 大丈夫。全然気にしてないよ」

「いや、俺が気にするんだけど」

 

 準備を終えた俺が自分のベッドに寄りかかるように座ると、透が二の腕が当たるほど詰めて座ってきた。

 

 透が俺の部屋に来て早二時間。お互いようやく、当初の目的であった秋休みの宿題に取り掛かろうとしていたところだった。

 

 見た感じ細身な透だが、二の腕に伝わる感触は柔らかかった。それに気づいた途端、心臓がエンジンのように鼓動し、全身が熱を持ったのが分かった。10月も後半に差し掛かったが、上昇した体温を下げるために冷房でも入れようかと思った時には、すでに透がエアコンのリモコンを掴んでおり、スイッチを入れた。

 

「まぁいいや。んじゃさっき言った通り、このへんについて調べていい感じに資料化してくれ。フォーマットは作ってあるからそこにはめる感じで」

「りょーかい」

 

 兄のノートPCを透に渡し、調べようと思っていたことの共有もあらかた終わったので、いよいよ作業に取り掛かる。ちなみに宿題とは職業調査だ。来年高校3年生ということもあり、自分の興味ある職業について調べてレポートを出すというものだ。

 

 完成原稿の構成と下書きは概ね済んでいたので、後は根拠とかそれっぽいグラフとかを集めてくれば問題ない。あまり把握していない透でも作業に支障はないだろう。結構ちゃんと説明したのに何で把握していないのか疑問だが、いつものことなのであまり気にはならない。

 

「透、やっぱちょっと離れてくれ。パソコンの操作がしにくいわ」

「えー、いいって言ったじゃん、さっき」

 

 透はそしらぬ顔でPCが起動するのを待ちながら言った。

 

 離れる気は現状ないらしい。

 

 ……まぁ、先は長いし、気にしないようにいくか。

 居心地が悪いわけでもないし。

 

 俺は気持ちを切り替えて、宿題のことで無理やり頭を満たした。

 

「あ、そうだ。上書き保存だけはこまめにな。そのPC古いから急に落ちるかもしれないし」

「え、急に落ちるの? こわ」

 

 透は全然怖がっていなさそうに俺の枕を膝の上に持ってくる。多分、透の思ってる”落ちる”はちょっと違う気がする。そんな様子を見ていると、さっきまで俺だけが意識していたのが少しおかしくなった。

 

「あれ、上書き保存ってどれだっけ」

「左上のフロッピーのマーク押せば大丈夫よ」

「フロッピーね。うん、フロッピー……、フロッピー?」

 

 ドキュメントの周りでマウスカーソルを周回させながら怪訝な顔をする。その様子じゃ"落ちる"だけじゃなくフロッピーも通じてないな。俺も実際に見たことないし、当然と言えば当然か。ポケベル、MDに続く、三大見たことないけど知ってる機械だわ、フロッピー。

 

「コントロールエスでもいいよ。キーボードの左下のctrlって書いてるやつとSを押したら上書き保存されるから」

「こんとろーるえす、ね」

 

 キーボードの上を人差し指でなぞりながらお目当てのキーを探す透。

 

「これかな。あ、ほんとだ。保存されたっぽい」

 

 透はそのあと何度か、適当に文字を入力しctrl+Sを押して遊んでいた。そういえば、初めて自分のパソコンを買った時も、透がこうして遊んでいた気がする。……エンターキーを破壊してたのは、今となってはいい思い出だ。

 

「小学校ぶりかー」

「ん、何が?」

「自由研究、一緒にやるの」

「あれ、何かやったっけ」

 

 透に言われて、俺は自身の記憶の糸を手繰り寄せるも、特に思い当たるものはなかった。でもなんか、違和感はあるような無いような。というか透は職業調査を自由研究だと思ってるのか。

 

「ふーん、覚えてないんだ」

 

 透が自分の煌びやかな唇を指で軽くなぞりながら少しいじわるそうに言った。そんな仕草をするなよ、余計にドキドキするだろ。

 

 その振る舞いを見て気が付いたが、よく見たら薄く化粧をしているようだ。色っぽい仕草をしたり、化粧をしてきたり、普段の透らしくない様子に俺は疑問を覚えた。

 

 もしかして、誰かに恋してる、とか?

 女の子は恋をするとキレイになるっていうし、ない話じゃない。

 

 告白された以外の透の()()()()話は聞いたことないけど、もしかしたら俺が知らないだけで、すでに誰かと付き合ったりしてたのかも。そう思うと、なんだか、こう、胸がぎゅっとなって、先ほどまでの薄甘い感情がみるみると塗りつぶされていくのが分かった。

 

 これは、嫉妬だ。

 

 この感情が”幼馴染だから”とか、そういうのとは違うことは、もう自分でもわかっていた。

 

 俺が眉をひそめている様子を見て、自由研究の話について合点がいっていないと思ったのだろう透が言葉を続けた。

 

「私にキスしたでしょ」

「ぶほっ⁉」

 

 思考が彼方に飛んでいってたことに加え、予想もしていなかった言葉の襲撃に、思わずむせ返ってしまった。

 

 キス⁈ きすって、ちゅーのことだよな⁈ 今って自由研究の話をしてたんじゃないのか⁈ ってか全然身に覚えが……? 自由研究、キス、小学校時代……って。

 

「あぁぁぁぁぁぁああ‼」

「あ、思い出した? なんだっけ、男同士でちゅーしたらどっちに子供ができるか、だっけ?」

 

 おおおお思いだした! ってかあれって小学生の頃だったっけか⁈ 幼稚園くらいだっただろ! 透を男と勘違いしてたとか、ちゅーで子供ができると思ってたとか、あらゆる勘違いが絡まってて何重にも恥ずかしいエピソードなんだけどそれ!

 

 唐突な告発による大ダメージにより虫けらみたく転がってる俺をつんつんと突っつきながら透は小首を傾げる。

 

「そんなに?」

 

 思っていた以上にもがいてる俺に驚いているのだろう。いや、ほんとはこれでも足りないくらいなんだけど。窓から飛び降りたい衝動を必死に我慢してる俺を褒めてほしい。下手な中二病エピソードよりもこういう幼少期の天然エピソードを暴露されるほうがよっぽど恥ずかしいということを齢17にして知れてよかったよ! あぁぁぁぁぁぁああ!

 

 心の中で絶叫することで少し落ち着きを取り戻した俺は、何事もなかったかのようにカーペットの上に体育座りする。

 

「ふふっ、かお真っ赤」

 

 全然平静を装えてなかったらしい。残念。

 

 俺は首をがくっと落とし、弱弱しい溜息を吐いた。

 

「まじで恥ずかしかった……。逆に透はよく平気で話せるな」

「あー、なんか慣れちゃった」

「慣れるほど話してるの⁈」

 

 やめて! そんな話が広まってるとしたら学校に行けなくなっちゃう! 学校に行かなくても円香あたりに殺されちゃう!

 

「違くて。たまに夢で見ててさ」

 

 ……それはそれで恥ずかしい告白な気がするんだけど、なんで透は平気そうな顔なんだ。俺はさっきの黒歴史告発よりも顔が赤くなってる気がする。

 

「でも、ショックだなー。人の初ちゅーを黒歴史にしてるなんて」

「それは……!」

 

 透を男だと思ってたとか、昔すぎてそもそも覚えてなかっただけとか色々弁明しようと思ったけど、見透かすような透の瞳が俺を貫いたため、言葉に詰まってうつむいてしまった。

 

「そうだよな。なんというか、ごめん」

「だいじょーぶ」

 

 果たして謝罪をしていいのか俺には分からなかったが、透からはお許しをもらえた。

 

 そのことに一安心して顔を上げると、こぶし一つも入らないほどのすぐ横に透の顔があった。

 

 驚いて思わず身を引きながらそちらを振り向くと、ぐいっと体が引っ張られる感覚があった。シャツの裾を透に抑えられていたようだ。後ろに手をついて、何とか倒れずにいられた。

 

 幾ばくかの間、じっと無言で見つめられる。

 

 俺の体は、甘い毒が全身に回ったかのように痺れて動けない。

 

 沈み込む深い海のような透の瞳が、俺はずっと好きだった。そんな場違いなことを考えた。

 

 秒針が刻まれ、エアコンからは冷風が吐き出されている。その音よりも遥かに小さいはずの透の息遣いだけが、俺の耳を打つのが分かった。

 

「え?」

 

 唇に何かが触れた感覚があった。

 

 それが何かとか、どんな感触だったかとか、そういったことを知覚するよりもまず、心臓がぎゅっと縮こまったのが分かった。

 

 でも、それでいて心はふわっとした気がする。

 

 こんがらがってる脳内に、花のような甘い香りが届いたことで少し我に返った。懐かしい、それでいて常にそばにあった香り。

 

 そこでようやく、自分が何をされているのかが分かった。俺の唇に、透の柔らかいそれが重なっていた。

 

 瞳を閉じてる透の長いまつげ。吸い込まれそうなきめ細かな肌。強すぎる刺激が頭の中をかき回しきる前に、俺も目を閉じた。目を閉じたことで、唇に触れる柔らかさがより鮮明に体中を満たしていくのが分かった。

 

 かすかに甘いそれが離れようとしたとき、俺は終ぞバランスを崩し後ろに倒れてしまう。

 

 透はさっきまでと変わらぬ位置にいるため、結果的に押し倒されたような姿勢になっていた。

 

 無言の時間が、またも続く。

 

 心臓だけが鳴り響き、早すぎるその鼓動で死んでしまいそうだと思った。

 

 

 いつも透明な透が、赤く色づいた顔でにっこりと笑った。

 

 

「じゃあ、今のがファーストキスってことで」

 

 返事もできずに固まってる俺の胸に、透の右手の人差し指が優しく触れた。

 

「こんとろーるえす、ね」

 

 

 

 

 

 




浅倉透編はいったんここで終わりです。思いついたら足していきます。
感想や評価などありましたら、ぜひお願いします!

次は樋口円香編です。
雰囲気は多分近しいですが、透編とは完全に違う世界のお話だと思っていただければ!


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「すきあり。いただきます」

浅倉編アフター
(※二人は付き合ってるので、その関係が苦手は人は飛ばしてください)


「あー! 俺のチョコ小豆クレープが!」

 

 ベンチの隣に腰かけていた透が、まだ一口も食べてない俺のクレープに大きくかじりついた。俺がクレープを遠ざけると、透はもぐもぐと咀嚼しながら残念そうに眉を垂らした。クレープの販売車の店員さんもそれを見ていたようで、晴れやかに微笑んでいたのがちょっとだけムカついた。

 

 てか、こういうのって互いにもうちょっと食ってからやるもんじゃないのか? それで『間接キスがー!』みたいになるのが漫画とかだと定番な気がする。初手ではあまりやらないだろ。

 

 しかし、そういった常識で透のことを考えようとするのがあまり得策ではないということは、この十年で嫌というほど理解はしていた。

 

「いいじゃん。私のおごりなんだし」

「正確には、俺が前回奢った分のお返しだろ!」

「あはは、いふぁいいふぁい」

 

 咎めるように透の柔らかい頬を引っ張ると、透は楽しそうに笑った。その様はなんだか、先生にかまってほしくていたずらをする幼稚園児と重なって見えて、いつもより可愛らしく見えた。

 

「うーん、あんまりないね。味」

「そんなことも無いだろ。変な味だけど」

 

 頬を摘ままれたまま俺のクレープを味わっていたようで、透はもぐもぐと咀嚼を続けながらそんな感想を漏らした。

 

「でもさ、もったいないじゃん。美味しくないのも "味" だったらさ」

「そうか?」

「そうだよ、きっと」

 

 掴み所のない、雲のような言葉。抽象的な発言をよくする透だったが、俺は正直よくわからないことの方が多い。重要な意味を婉曲的に伝えようとしているのか、ほんとに何も考えてないのか、それすら分からないことがままあった。

 

 俺がボケッとそんなことを考えてると、透の視線が俺を捉えてることに気がついた。何かあったのかと聞こうとするより前に、彼女が口を開いた。

 

「仕方ない。一口あげるよ、私のクレープ」

「え、いや」

 

 どうやら、物欲しそうな顔をしてるとでも思われていたようだ。

 

「あれ。嫌いだっけ。生クリームとか、イチゴとか」

「そういう訳じゃないけど……」

 

 ちらりと透の持つクレープに目を向ける。俺のと同様に──どちらも透が付けたものだが──一口だけ齧った跡がついている。先程、間接キスがどうこうと考えてしまったこともあり、気恥ずかしくなってしまった。

 

 しかし、俺もそこまで子供じゃない。今どき間接キスくらいでそこまではしゃいだり照れたりなんてしない……はずだ。ただでさえ俺たちは幼馴染で、間接キスなんて、その言葉を知らないことから無意識下で何度もやってきた。

 

 だが、()()()()。俺たちの関係は変わった。周りから見たらわずかな変化かもしれないが、俺にとっては、俺たちにとっては、それはとても大きなものだった。

 

「……たいむあーっぷ」

「……あっ」

 

 俺の思考は彼女の言葉によって中断することとなった。

 

「せっかく()()がクレープを差し出してるのに」

 

 怒っているのか、呆れているのか、はたまた別の感情か、透がわずかに沈んだ声でそう呟いた。食べたくなかったわけじゃない。間接キスだってそんなに気にならないし、なんなら少しテンションがあがっていた気もする。うだうだと考え事をしたせいで、彼女に変な誤解を与えてしまったかと思い、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 

 その後も、だらだらと他愛ない話をしながらクレープを食べ進めた。円香がそんなに知らない先輩に告白されそうになってるから逃げまわってるとか、雛菜ちゃんがそれを裏で操ってるんじゃないかとか、小糸ちゃんが何か知ってるようでずっとあわあわしてるとか、そんな話だ。

 

 二人とも食べ終わり、会話も終わり、何をするでもない時間が訪れる。

 

 俺は、こういう時間も好きだった。

 

 こういうとき、透がどこか遠くを見て何かを考えてることが多くて、その光景は浮世離れしていて、どこか絵画めいた芸術性を感じさせてくれるから。

 

 そんなことを考えながら隣に目を向けると、透は俺をじっと見つめていた。

 

 いつもと違う視線の向きと熱量。予想していたなかった光景に思わず肩をびくつかせてしまった。

 

「ねぇ」

「あ、どうした?」

「好き」

 

 俺は、息を飲んだ。

 

 一瞬にして顔がゆでだこのように真っ赤になったかもしれない。

 

 言葉が何度も脳で反芻され、高鳴る心臓によって、ゆっくりと全身に送られていく。

 

 そして、その目は、未だに俺を捉えてた。

 無機質な声色だが、いつも透明な頬はわずかに紅潮していた。

 

「……え、何、突然」

「なんか、言いたくなっちゃって」

「……そっか」

 

 先ほど、俺が透から差し出されたクレープを食べなかったことで、彼女を不安な気持ちにさせてしまったのかもしれない。小さな事かもしれないけど、大事なのは事柄の大小ではなく、彼女がどう受け取ったかだ。

 

 俺は透の頭に手を置き、周囲の視線や行為そのものから感じるこそばゆさに蓋をして優しく撫でる。抵抗の少ないその感触は、さながら高級な絹織物のようで、撫でているこちらも心地よくなった。

 

 透は気持ちよさそうに目を少し細めた……と思いきや、撫でていた俺の手に自らの手のひらを重ねた。互いの動きが完全に止まり、しばし無言の間が生まれた。不思議に思い眉を顰める俺とは対照的に、透は真剣な面持ちだった。

 

「まだ、聞いてないよ」

「何をだ?」

「好き」

「……えっと」

「だから、好き」

「……ん?」

 

 先ほどと同じ言葉。だが、今度は困惑が勝ってしまった。

 

 ストレートに愛情をぶつけてくれるのは嬉しいが、俺は透が何を言いたいのかが分からずに表情をさらに難しくする。俺の合点の行かない表情を見てか、透は不機嫌そうに頬を膨らませ、上目遣いで俺にジト目を向けた。

 

「もしかして、からかってる?」

「奇遇だ。俺も同じこと言おうとしてた」

「へー、言っちゃうんだー。そういうこと」

 

 透が、先ほどまで優しく重ねていた俺の手を強く握りしめた。痛くはないが、俺は焦っていた。このままいったら透の機嫌はどんどん悪くなるというのが分かり切っていたからだ。

 

 そして、そこでようやく俺は彼女が何を言おうとしているのかが分かった。

 

 違うな。俺は、俺の愚かさが分かっただけだ。

 

 透はずっと言っていた。俺が心地よく受け入れていたそれを。彼女自身が言ってもらいたいそれを。俺が言わなかったそれを。

 

 透は、ずっと口にしてくれていた。

 

「好きだよ、透」

 

 自分だけが一方的に愛を受け続けるなんて、そんな都合のいいことはあっちゃいけないな。

 

 俺は透が好きだ。

 

 だったら、ちゃんと伝えないと。

 

 彼女がしてくれたのと、同じように。

 

 透はそれを聞くと満足したかのように笑みを浮かべ、俺の膝へ倒れ込んできた。透に膝枕をしてる体勢となり、俺はその光景に思わず笑ってしまった。

 

 いつもなら、なんならさっきまでは周囲の視線も気にしていたけど、今どうでもいいと、そう思えていたから。

 

「今度はならなかったね。たいむあーっぷって」

「危なかった……。でも、もう──」

「あ、チョコついてる」

「聞けよおわっ!」

 

 透に俺の顎の下あたりを指でなぞられて、思わず変な声を出してしまった。普段人に触られることのない場所なため、反射的に背筋がぞわっとしてしまう。

 

 透は自分の指に付着したチョコを数秒じっと見つめた後、そのまま口に運んだ。

 

「おい、やめとけって。美味しくないんだろ」

「でも、あるよ。味」

「あれ、さっきはないって言ってなかった?」

「うん。でも、今はある」

 

 透はチョコのついた手の逆の手を、俺の頬に持ってきた。優しく添えられた透の手に誘導される形で、俺は彼女の目をじっと見つめる。

 

「今は、あるよ」

 

 大空のように青く澄んだ彼女の瞳に、俺だけが映りこんでいた。

 

 

 

 

 

 



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樋口円香
「ねぇ、ゴミ」 「え……?」 幼馴染視点


日間ランキング入りしました!ありがとうございます!
評価や感想も非常に励みになります!


今回から樋口円香編開始です。
浅倉編とは違った世界で、幼馴染も別人です。


「ねぇ、ゴミ」

「え……?」

 

 樋口が唐突に罵倒してきたんだけど!

 

「ついにそんな直接的な暴言を吐くなんて! 今の僕は珍しくほんとに何もしてないよ!」

 

 そう言いながら僕はさながら走馬灯のように、ここ数分の出来事を振り返る。

 

 授業が終わって校舎を出たらたまたま樋口がいたので『一緒に帰ろう!』と大声で誘ったのが悪かったのかな。確かに『なんで? 一人で帰れば?』と言われたけど当たり前のように一緒に帰ってくれてるし問題ないと思ってたな。

 

 じゃあ、車道側を歩いてることかな。そういえば前に一緒に帰ったときも『そんなことで優しくしたつもり?』と言われた気がする。もしかしたら樋口は車がすごい好きだから車道側を歩きたいのかもしれない。

 

 う~ん、思い当たることはあるけど、やっぱりゴミと言われるようなことは特にしてない気がするな~。けど何もしてない人にそういうことを言う人じゃないし、きっと何か理由があるんだろう。

 

 僕が一人で納得して樋口のほうに顔を向けると、珍しいことにほんの少し素っ頓狂な表情を浮かべていた。

 

「え?」

 

 え?

 

 なんで樋口が驚いてるの? もしや無意識レベルで暴言を吐いた?

 

 いやいや、さすがにそんなことはないでしょ。樋口は根が優しいことは知ってるし、口が悪いのも愛情の裏返しみたいなものだしね。ん? つまりこれは無意識で僕に愛情を向けてると言い換えることもできなくはない! ……できないか、さすがに。

 

「違くて。ゴミ、ついてる」

 

 樋口の反応を勝手に好意的に解釈してみたものの、結果は違ったみたいだ。

 

「あ、ゴミって本当のゴミのことね。なんだ、びっくりさせないでよー」

 

 よかった。樋口に嫌われたらどうしようかと思ったよ。

 家が隣同士なこともあり、物心ついたころには既に付き合いがあった樋口とは、もはや家族のようなものだ。なので、出来ることならこのまま仲良く老後を迎えたい。

 

 あ、いいな、そのライフプラン。樋口も、もう一人の幼馴染である透も縁側とか似合いそうだし、3人でまったりお茶でも飲みながらしりとりでもしたい。おや、今と変わらないぞ

 

「……ていうか、私がそんなこと言うように思う?」

 

 何気なく樋口が聞いてくる。少し不安気にも見えるが、樋口は自身の情動を限りなく隠そうとするので確信はない。

 

 樋口は自分が何を考え、どう思っているかを悟られるのが嫌いなんだと思う。そのためナチュラルに考えが読めない透よりも、何を考えているかが分からない。

 

 まぁだからこそ、本心を素直にぶつけるに限る!

 

「本気では言わないと思うなー。樋口、意外と優しいし」

「ふっ、何それ」

 

 あ、笑った。

 笑った顔、ほんとにかわいいなー。

 

 樋口の笑顔を何回も見たことあるというのは、僕の小さな自慢の一つだ。樋口に憧れているクラスメイトは男女問わず何人もいるが、彼らではこうもいかないだろう。

 

 あれ、何の話をしてたんだっけ? 樋口がとってもかわいい話?

 

 違うか、いや、違わないけど。あ、ゴミがついてるとかなんとか、そんな話だったな。

 

「どのへん?」

「何が?」

「だから、ゴミ。どの辺についてる?」

 

 今日はやたらと横顔を見られていた気もするので、髪の毛についてるのかなーと何となく当たりはつけていた。肩とか腕には見当たらないしね。

 

「耳の上の……、一帯」

 

 適当過ぎない⁈

 

「いや、絶対伝えるの諦めたでしょ! 耳の上全域についてたらさすがにほかの人も教えてくれるって!」

 

 樋口の気だるげな指摘を受け、髪を数回乱暴にかき上げてみる。やってから気が付いたけど、この方法だと取れたかどうかがわかりにくいね。

 

「違う。もっと後ろのほう」

「この辺?」

 

 僕は髪の毛を摘まんでは確認し摘まんでは確認しを繰り返す。

 しかし、成果はなし。

 

「行き過ぎ。あともう少し上」

「えー、難しい。どうせなら卵くらいのデカいゴミなら取りやすかったのに」

「つくわけないでしょ、そんな大きなの」

 

 せっかくゴミがついてることを教えてもらったのでこの場で取りたかったが、鏡なしなのは正直かなり難しい。家に帰って洗面所で確認しようかな。

 

 僕が半ば諦めモードに入ったところで樋口がため息を吐いた。

 

「貸して」

 

 そう言って彼女は僕の頭の横で彷徨っていた左手を優しく包むように掴んだ。

 

「え、ちょ」

 

 樋口の急な行動に僕は慌てた声を出すも樋口には届いてないようだ。

 

 そのまま僕の手を操作し、僕の人差し指と親指に樋口の優しくて細い指が覆いかぶさり、そのまま摘まむようにほこりを取ってくれた。ほこりを取ったのは正確には僕の指なので、ほこりを取らせてくれたという表現が正しいのかな。いや、そんなことはどうでもよくて!

 

 そういえば昔は手を繋いで走り回ったりしてたなぁなんて、懐かしいことを思い出してしまった。

 

 その頃に比べたら樋口の手も大きくなっていて、でも僕の手より小さくて柔らかくて、そして、変わらず温かかった。

 

 樋口が僕の手を取ってくれてから、僕の中の時計が急速に回転しているのが分かる。でないと、この数瞬でこんなに物事を考えられない。柄にもなく動揺しているのかもしれない。

 

 いけないいけない、樋口は家族みたいなものなのに。

 

「はい。これで終わり」

 

 樋口のその言葉で、僕はハッと正気を取り戻す。いつもより早い鼓動から意識を背けるように樋口のほうに目を向ける。

 

 彼女はいつもと同じく若干不機嫌そうな表情をしている。そう、いつも通り。僕だけが意識してるみたいで少し恥ずかしかった。

 

 ……それにしてもいつまで手を握っているんだろう。

 

「感謝の一つくらい言ったら?」

「え、あ、そうだね。ありがとう!」

 

 いつもの調子すぎる樋口の声を聴いて僕もようやく落ち着くことが出来た。僕のへんてこな返事に疑問を抱いたのか、樋口が少し怪訝な顔をしている。無論、僕の手は握ったままだ。

 

 もしかして、握ってることを忘れてる? いや、まさかね。

 

「いや、樋口の手、温かいなと思ってさ」

 

 僕はそう言いながら樋口に一方的に握られている手を開閉してみる。握るというより包んでいるくらいの力加減なので、それくらいは問題なくできた。

 

 僕の言葉を聞いて、樋口はフリーズした。

 

「あぎゃっ‼」

 

 しかし次の瞬間、自分の顔に何かが飛来してきた。自分の手だ。いや、千切られたとかではなく、握られていた手を投げつけられたのだ。さすがにそんなリアクションを取るとは思っていなかったので、腕にはそこまで力が入っていなかった。なので、回避も静止もできずに顔に直撃してしまったのだ。

 

 いきなりの暴挙にさすがに今度こそ抗議をしようと樋口のほうを見ると、件の樋口は顔を背け、手の仕舞われた袖を口に当てていた。耳も真っ赤だし、ちょっと寒いのかもしれない。

 

 何事もなかったかのようにふるまいすぎじゃない? 結構な物理的ダメージを与えられたんだけど?!

 

 いや、もしかしたら樋口も恥ずかしかったのかもしれない。こういうときは下手に刺激しないように、手を握ってたことには触れないようにしたほうがいいかな。

 

「樋口はぶーぶー言いながら結局助けてくれるよね」

 

 うん。さりげなく違う話題に切り替えられた。

 

「別に助けてない」

 

 樋口は不機嫌そうにそう呟く。心なしか、言葉に覇気がない。

 

 助けてない、か。

 

 そんなことは無いよ。

 

 僕はいつも樋口に助けられている。

 

 僕は昔から人に頼るのが苦手だった。迷惑になるんじゃないかとか、断られたらどうしようとか考えてしまうのだ。

 

 でも、樋口はそんな僕を無理やり助けてくれる。やれやれとため息を吐きながら、僕のことを気にかけてくれる。そのことが、僕にとっては何よりありがたかった。

 

「樋口のそういうとこ、ほんと好きだな」

 

 だからこそ、僕も樋口に困ったことがあれば力になりたい。友人として、家族のような存在として。

 

 

 

 ……あれ、もしかして今会話の流れで恥ずかしいことを言っちゃった? もとから思っていたことではあるけど、口に出すとこうも恥ずかしいんだね。

 

 というよりは、なんか、こう「好き」って言葉にむずがゆさを覚えてしまう。好きって言葉はとても広義だからその違和感のせいかもしれない。

 

 そのむずがゆさ故か、樋口を直視することが出来なかった。

 

「なんというか、お母さんみたいでさ」

 

 自分の中の違和感を解消するために、自分でそう付け加えた。

 

 付け加えたものの、どこかしこりは残る。以前までしっくりきていた樋口に対するそのイメージが、今はどこか噛み合わないと感じてしまった。

 

 胸につっかえる何か、もやもやしているようで、でも不快じゃない何か、それを探ろうとするとどうも息苦しくて、居心地が悪くなる。

 

 上気しているような感覚に陥ったので顔を触ってみると、かなり火照っていた。樋口はあんなに寒がっていたのに、なんでだろう。

 

 まだ寒がっているようなら自販機でも寄ろうかな、とか呑気に考えていると、隣から異様なプレッシャーを感じた。そのプレッシャーに一瞬空腹の獅子が見えるほどだった。

 

「え、どうした樋口。ついに目力で人を殺す術を習得したの?」

 

 プレッシャーの正体はもちろん樋口だ。先ほどまでの紅潮は嘘のように引いており、代わりに怒りの炎が引き攣ったその目に宿っていた。

 

「……ゴミ」

「えぇ⁈ 本気のトーンじゃん⁈ 待って、殺さないで!」

 

 あまりの怒気に思わず後退りをすると同時に、数m先に見知った顔の女子生徒が現れた。対樋口決戦兵器こと小糸ちゃんだ。小糸ちゃんの可愛さを前にしたら、樋口は怒ることができないはず。

 

「あ、小糸ちゃん! 助けて、樋口に殺される!」

「ぴぇ⁉」

 

 僕は小糸ちゃんに助けを求めるため、なぜか怒ってる樋口から逃げるため、一目散に駆け出した。

 

 いや、怒ってる樋口から逃げたかったんじゃない。

 

 僕は、自分から逃げただけだ。自分の発言に自分で居心地が悪くなって、でもその理由が分からない自分から、逃げた。

 

「……期待した私、ほんとゴミ」

 

 後ろから聞こえた樋口の弱弱しい言葉、先ほどまでの力強い瞳からは想像できないくらいか細い声を無視した僕を、どうか許してほしい。

 

 ただの空耳だったかもしれない。風が切る音を聞き間違えただけかもしれない。むしろ一瞬、そう願ってしまった。そして、願ってすぐに後悔した。

 

 そんな弱い僕を、どうか許してほしい。

 

 今日がこんなに風の強い日だとは、()()といるときは気が付かなかっただけなんだ。

 

 

 

 




次回は今話の樋口円香視点です。樋口の心情等を見たくない方は飛ばしていただければと思います。


樋口円香さん、お誕生日おめでとうございます。


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「ねぇ、ゴミ」 「え……?」 樋口円香視点

前話も日間ランキング入りしました!
ありがとうございます!!

今回は前話の樋口円香視点です。樋口の内面を読みたくない方は飛ばしてください(今後読み進めるに当たって支障はないです)



「ねぇ、ゴミ」

「え……?」

 

 私が彼の髪に小さなほこりがついていることを指摘する。

 

 今日の6限目は体育だったので、その着替えの時についたのだろう。いつもなら放っておいたかもしれないが、一緒に下校している人物が頭にゴミを乗せたままのアホなのは少し嫌だったので指摘をした。

 

 いつものつまらない小ボケでも返ってくるかと思ったが、私の予想に反して彼は眉を八の字にして抗議の目線を向けてきた。

 

「ついにそんな直接的な暴言を吐くなんて! 今の僕は珍しくほんとに何もしてないよ!」

「え?」

 

 暴言? この人は一体何を言っているの?

 むしろ親切な行いをした直後に咎められてる私のほうが抗議をしたいんだけど。

 

 と思ったが、確かに言葉が少し足りなかったかもしれない。彼のしょうもない勘違いを正すのは少し面倒だが、このテンションのままいられるのはもっと面倒だ。

 

「違くて。ゴミ、ついてる」

「あ、ゴミって本当のゴミのことね。なんだ、びっくりさせないでよー」

 

 別に、びっくりさせようとなんてしてない。勝手に勘違いしただけでしょ。

 

「……ていうか、私がそんなこと言うように思う?」

 

 どうでもいいけど、と心の中で付け加える

 

 普段の私はそこまで攻撃的な言葉は言っていないつもりだ。礼儀正しいとは思うし、他人とも最低限のコミュニケーションはとっている。

 

 しかし、よくよく考えたら彼と話してる時はどうも毒を吐いてる気がする。ひとえに、彼が馬鹿でドジなせいだと、私は即座に結論付ける。

 

「本気では言わないと思うなー。樋口、意外と優しいし」

「ふっ、何それ」

 

 彼は馬鹿でドジだが正直だ。嘘をついているところなんて、10年以上の付き合いの中で一度も見たことがない。つまり、これは本心だろう。

 

 意外と優しいとか持ち上げてくれているが、”本気では言わない” という部分に引っ張られて素直に喜べない。つまり、言いはすると思われているということ。

 

 ……そもそも彼に何を言われようが喜ぶことはないけど。

 

「どのへん?」

「何が?」

「だから、ゴミ。どの辺についてる?」

 

 あぁ、その話に戻ったの。彼にとっては人を褒めることなんて日常茶飯事に過ぎないから、そうやって何事もなかったかのように切り替えられる。いつものこと。

 

 そう、いつものこと。

 

「耳の上の……、一帯」

「いや、絶対伝えるの諦めたでしょ! 耳の上全域についてたらさすがにほかの人も教えてくれるって!」

 

 文句を言いながら左耳の上あたりを手でわしゃわしゃと払う。しかし微妙に場所が外れているため、ほこりは見事に微動だにしない。

 

「違う。もっと後ろのほう」

「この辺?」

「行き過ぎ。あともう少し上」

「えー、難しい。どうせなら卵くらいのデカいゴミなら取りやすかったのに」

「つくわけないでしょ、そんな大きなの」

 

 しっかりめに付着してると思ったのだろう。先ほどまでと違って摘まんで取る戦法に変えたようだ。しかし見事外している。正直、見ていてじれったい。頼まれたら手伝おうとは思っていたが、いっこうにお願いされる気配もない。これもいつものこと。

 

 彼は人を頼らない。醤油を取るくらいの小さなことから、到底一人で持ち運べないような大きなものを持つことまで、彼はなんでも一人でやろうとする。

 

 それが少しだけ不快だった。

 

 私なんかじゃ彼を助けることができないと言外に示されている気がして。

 

 私は小さくため息を吐いた。

 

「貸して」

 

 頭の横でさまよっていた彼の手を右手で掴んだ。そのまま彼の手を目的地まで場所まで案内し、彼の人差し指と親指を私のそれらで挟んでゴミを取った。

 

「はい。これで終わり」

 

 最初からこうしていればよかった。そうすれば彼の程度の低い誉め言葉も聞くことも、身勝手な嫌悪に陥ることも無かったのに。

 

 彼は呆けたような表情で私を見てくる。

 

 ──今度は何?

 

「感謝の一つくらい言ったら?」

「え、あ、そうだね。ありがとう!」

 

 私に言われて感謝を述べる彼は、どことなく歯切れが悪い。私が眉をひそめたのに気が付いたのか、彼は言葉を続けた。

 

「いや、樋口の手、温かいなと思ってさ」

 

 彼はそう言いながら手をぐーぱーと開閉した。

 それと連動するように私の右手も開閉する。彼の感触がそのまま私の手にも伝わっている。

 

 そう、手を掴んだままだった。

 

 というか、握りしめていた。

 

「──っ!」

 

 私はとっさに手を振り払った。

 

「あぎゃっ‼」

 

 その拍子に彼の手が彼自身の顔に直撃したが、そんなことはどうでもいい。

 

 無意識だった。私はもしかしたらとても恥ずかしいことをしていたのではないか。

 

 平均より低めで、私と変わらない程度の身長にも拘わらず、大きくてごつごつとしていた彼の手を、私はあろうことか優しく握りしめていた。

 

 私はそのまま顔を彼から背け、袖で顔を隠した。

 

 顔を彼に見られたくなかった。もしも紅潮でもしてるようなら勘違いされると思ったから。そして、その判断は正解だったと、自分の顔に触れてから思った。

 

 心臓が高鳴っている。そのことに気が付いた自分にまたもや嫌気がさした。

 

「樋口はぶーぶー言いながら結局助けてくれるよね」

 

 数回深く呼吸をし何事もなかったかのように彼のほうへ顔を向けると、あっけらかんとそんなことを言った。彼の表情も声も変わらない。

 

 変わったのは、私だけ。

 

 ほんと嫌になる。

 

「別に助けてない」

 

 本心だ。あれは私が私のために勝手にやったことだ。

 

 それに、いつも助けてるのは彼のほう。自分からは助けを求めないくせに、他人には大いにおせっかいを焼く。

 

 重い荷物を持ってるときにひょっこり現れて持ってくれる。何か失くしたときは私よりも一生懸命探してくれる。今だって、さりげなく車道側を歩いてる。

 

 多分、彼には助けてる自覚がない。そうしていろんな人を手助けしてる。たちが悪いことこの上ない。

 

 彼のそういうところ、ほんと嫌い。

 

「樋口のそういうとこ、ほんと好きだな」

 

「──え?」

 

 心臓が、大きな音を立てて跳ね上がった。

 

 今までにないくらい目も見開いてるに違いない。

 

 熱い。

 

 体の芯から何かが湧き上がってくる気がする。

 その熱にやられたのか、喉もやたらとカラカラに思えた。

 

 スき? スキって、好き? 私のこと?

 なんでこのタイミングで? なんでそういうこと言うの? ありえない。

 

 先ほどまで掴んでいた彼の手の感触が無意識に思い出されて、自然と手に力が入った。しかし、そこにあるのは自分の手だけ。彼の温かみは、もう記憶以外には残っていない。

 

 何か、何か返事をしないと。少しばかり動揺していることさえ悟られたくない。

 でも、何て言えば……。

 

 私は彼が嫌い。

 

 今まさにそう考えていた。ありのままにそれを、ただ言えばいいだけ。

 

 脳みそがぐるぐるとかき回されている私に追い打ちをかけるように彼は言葉を続ける。

 

 勘弁して。

 

「なんというか、お母さんみたいでさ」

 

 

 

 

 ……は?

 

 

 

 

 

 

 …………は?

 

 

 

 

 

「え、どうした樋口。ついに目力で人を殺す術を習得したの?」

「……ゴミ」

「えぇ⁈ 本気のトーンじゃん⁈ 待って、殺さないで!」

 

 彼は私から数歩距離を取り、わたわたと慌てふためいている。そんな時、少し先の路地から見知った顔が出てきた。こちらには気が付いていないようだ。

 

「あ、小糸ちゃん! 助けて、樋口に殺される!」

「ぴぇ⁉」

 

 彼も小糸に気が付いたようで、半泣きになりながら小糸のほうに駆けて行った。状況を一切把握していない小糸は、急に猛ダッシュしてくる彼にビビッてそのまま走ってどこかへ行ってしまった。

 

 風の音が耳に届き、髪がたなびく。

 

 こんなに風が強かったんだと、今更ながら気が付いた。

 

「期待した私、ほんとゴミ」

 

 

 自分の口から無意識に出たその言葉を、私は聞かなかったことにした。

 

 

 伝えなければ、言葉にしなければ、聞かなければ、思いは誰にも届かないと知っていたから。

 

 

 



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「好きなの? 雛菜のこと」

 黙ってお弁当を食べていた樋口が、お箸でコロッケをつつきながら唐突に聞いてきた。

 

 僕は質問の脈絡のなさに、本当に自分に投げかけられた言葉なのか疑問に思ってあたりを見渡した。だけど、この昼休みの空き教室には、僕と僕の正面の机に座る樋口の二人が存在してるだけだった。

 僕が合点のいかない顔をしているからか、樋口はため息交じりに箸をおいて言葉を続けた。

 

「最近いつも目で追ってる。バレてないとでも思った?」

「あー、いや、それは……」

 

 目で追っている、か。

 

 自覚はあまりなかった反面、そう思われる心当たりはあった。だけど、正直あまりそのことには触れたくなかった。そのせいか、僕は今すごい複雑な顔をしてる気がする。目をせわしなく動かしたり、口をもごもごさせたりしてる自覚は大いにあった。

 

「何? はっきり喋ることもできないの?」

「ひぃっ!」

 

 かすかな苛立ちが籠められた声に、我にもなく小さな悲鳴を上げてしまった。

 

 仕方ないかな。正直に白状しよう。

 

「うーん、あんまり言わないでほしいんだけど、実は雛菜のことが気になってるんだよね」

「……」

 

 僕がそう答えると、樋口は口元をかすかに力ませて目を閉じた。

 大事な幼馴染が男につけ狙われてると知って、少し怒りを覚えてるのかもしれない。ここから先は言葉を選ばないと、僕が殺されちゃいそうだ。

 

「あ、でも僕の弟はすっごいいいやつだしそんなに不安にならなくても大丈夫だよ! むしろ雛菜の尻に敷かれないかとかが不安で仕方ないくらいで!」

「……何の話?」

「え? だから、僕の弟が最近雛菜のことが気になってるって話。それを聞いて以降僕も雛菜を見ると弟の姿がチラついちゃって目で追っちゃってたかもなーって」

 

 弟とはいえ、さすがに人の色恋を吹聴するのは双方に悪いなーと思ったけど、まぁ樋口になら知られても大丈夫でしょ。言いふらしたり、余計な茶々を入れたりするような人じゃないからね。

 

 特に口止めをされていたわけではないが、弟にはお詫びに何か美味しいフルーツでも買って帰ろう。そんなことを考えていると、僕の脳が急に警戒信号を出してきた。コードレッド! 攻撃を受けてるっぽい!

 

「樋口さん? 樋口円香さん?」

「何? 急にフルネームで呼んだりして。私はあなたと違って、自分の名前を忘れるようなおバカさんじゃないんだけど」

「僕も自分の名前くらいは忘れないよ! 違くて、足! めちゃくちゃ踏んでるんだけど!」

 

 机の下をのぞき込むと、樋口のかかとが僕の足の甲に突き刺さっていた。ねじる様に丹念に力を入れてる様は、さながら嫌いな虫を踏みつけてるようだった。

 

 呑気に考え事をしてる場合じゃないんだけど、何か考えてないと余計に痛いんだよ!

 

「踏まれてるのには気づくんだ。ミスター鈍感でも」

「踏まれてると言うには殺意が籠められすぎてるよ! まもなく踏み千切られるよ!」

 

 僕は机を軽くタップして降参の意を示すと、樋口は踏みつけるのをやめてゆるりと机に頬杖を突いた。

 

「心配して損した」

 

 ため息交じりに樋口はそうこぼした。台詞のわりには、安心よりも呆れを強く感じてしまったけど、意図的なのかな。

 お弁当はもういいのだろうか、箸に再び手を付ける様子はない。

 

「心配って?」

「雛菜が悪い男に捕まらないか。決まってるでしょ?」

 

 決まってるんだ……。

 

 あの子はあの子で結構したたかだし、悪い男の子に引っかかるイメージはあまりないけど、樋口は保護者気質なところがあるからなー。雛菜のことを手のかかる幼児か何かだと思ってるのかもしれない。そう考えると、その心配にも納得がいった。

 

「じゃあ大丈夫だね。弟はいいやつだよ! 優しいし、腹筋も割れてる!」

「弟くんがいい子なのは知ってる」

 

 とはいえ、一応弟が悪い男ではないことを言葉を尽くして説明しようと思ったが、どうやら不要だったようだ。樋口は僕の弟とは数年程ちゃんと会っていないはずだが、しっかりと彼の人となりを覚えてくれていたみたいだ。

 僕はそのことが少しうれしく、思わず口角が上がってしまった。

 

「何笑ってるの? 私はあなたのことを言ったんだけど」

「え、僕?」

 

 僕が雛菜を捕まえる”悪い男”だってこと?

 今まで一切考えたことなかったけど、それを聞いて僕が雛菜に告白するシーンを無意識に想像してしまった。

 

『やは~、先輩って~雛菜のこと好きだったの~? いつから~? でもごめんね~、先輩と付き合ってもしあわせ~って感じにはならなさそーかな~』

 

 ……勝手に想像して、勝手に振られ、勝手にダメージを受けてしまった。本物はもう少しマイルドに振ってくれると思うけど、なんかごめんね、雛菜。

 

 それ以前に、樋口からしたら僕ってそんな悪い男に見えてたんだ。

 

 まぁ、僕が雛菜のことが好きだと勘違いしていたとしたら、そう考えるのもわからなくはないかも。もし十年来の幼馴染に急に告白して関係性を壊したりなんてしたら、他の人たちは少し気を使っちゃうもんね。樋口もきっとそういうのは望んでいないんだろう。

 

 そう。

 樋口はきっと、望まない。

 

 想像雛菜ダメージや樋口からの悪い人認定のダブルパンチよりも、何故かそのことが心に深く刺さった。

 

「あるんだ、心当たり」

 

 肩を落とした僕を見てそう思ったのだろう。樋口の追撃で我に返った僕は、何事もなかったかのように言葉を返す。

 

「あ、いや、今のとこ悪い人と言われる心当たりはあまりないというか、勝手に凹んでただけというか」

「ふーん、じゃあもっとよく考えたら? 自分の胸に手でもあてて」

 

 てっきり未遂の犯行(というより濡れ衣)のことで悪い人認定していると思っていたけど、どうやら僕はしっかりと罪を犯していたみたいだ。樋口の辛辣な言葉を聞いて、僕は首を傾げ自分のした悪行を思い出そうと胸に手を当て目を閉じる。

 

 うーん、僕が何気なくやってることも周りから見たら悪い行いに見えてたのかな……。だとしたらちょっと生活態度を改めないといけないな。でも、どうやったらいいんだろう。そもそも悪って何なんだろう。

 ……これを考え詰めると泥沼にはまりそうだし、深く話を掘り下げられたら最悪泣かされちゃうかもしれない。

 

 僕はそう考えて、先ほどの話で少し気になった点に話を戻すことにした。

 

「ていうか、雛菜のことちゃんと心配してるんだね。いつもバトってるのに」

 

 雛菜のことを心配していること自体には驚きはない。樋口はなんやかんや友達や家族は大事にするタイプだ。

 

 ただ、心配してることを明言したことには少し驚いた。

 

 特に雛菜とは普段から言葉のプロレスを交わす間柄だ。間違っても本人には知られたくないことだろうし、そもそもそういうことは口に出さないタイプだと僕は思っていた。

 

「……バトってない。雛菜が突っかかってくるだけ」

「あ、否定するのそっちなんだね」

 

 心配してない、とは決して言わない。

 はぐらかしたり言葉にしなかったりはするが、自分にも他人にも嘘はつかない。

 

 いや、逆かな。

 嘘はつけないから、はぐらかし、ほのめかす。

 

 そしてそれは、嘘が嫌いなのでなく、嘘が怖いものだと思っているからではないか。僕は勝手にそう推測している。

 嘘は容易く信頼を打ち砕く。嘘は容易く自己を否定する。嘘は容易く心を蝕む。

 

 家族や友達を大事にしているが、自己肯定感が低く自分をあまり大事にしていない樋口にとって、それはただの毒であって薬にはなりえない。

 

 樋口のいいところでもあり、同時に悪いところでもある。

 

 僕は樋口のそういう繊細さが好きだった。

 

 だからこそ、危うさに転じる前に手助けが出来ればと思っていた。

 

「……何が言いたいの?」

「いーや、樋口もやっぱりあの幼馴染3人のことが大好きなんだなーって」

 

 睨みを聞かせる樋口に僕は笑いながらそう返した。さすがに先ほど考えていたことをそのまま口に出すのは憚られたので、少しばかりかいつまんだ内容だけど。

 

「うるさい」

 

 これも否定しない。思えば、樋口って意外とツンデレの素養があるのかもしれない。

 

「えぇい、かわいいやつめー!」

 

 そう考えると、綺麗な顔立ちが途端にかわいらしく見えてきて、気が付いたら樋口の頬杖付いていないほうの頬っぺたを指でツンツン突っついていた。

 

「ちょっと、触らないで」

「はーい」

 

 手で払いのけたり顔を引いたりはせず、眼力と嫌そうな表情だけで制止を促す樋口に僕は素直に従った。僕が突いてたところを元に戻すかのように揉んだり引っ張ったりしてる樋口はやはりかわいらしくて、また頬を突きたくなってきた。

 

 樋口頬っぺた無限ループに入っちゃいそうだ。

 

「てか、あなたもでしょ」

 

 樋口は自分の頬をむにむに触りながらそう呟いた。

 僕もって何が? 僕もかわいいってこと? やったね。

 

「幼馴染。──どうでもいいけど」

「あぁ、そっちね。言われてみれば、確かにそうだね」

「忘れてたの? 本当におめでたい人」

「いや、別にそういうわけじゃないんだけど」

 

 本当に忘れてたわけじゃないけど、樋口にとって、あの3人と僕が同じ幼馴染のカテゴリなのかは疑問だった。

 

 ……ん?

 

 あれ、なんでそんなこと思ったんだろう。付き合いの長さも深さもそう変わらないはずなのに。いまだに5人で遊んだりもするのに。特に樋口のことは家族同然のように思っているのに。

 

 なぜかそんな風に思ってしまった。

 

 彼女にとって、僕はどんな存在なのだろうか。

 

「なんか分かんないけど、ちょっと違う感じがしちゃってたかも」

 

 最近の僕は変だ。

 

「ふーん……」

 

 じろりと僕の目をにらみつける樋口に、僕は品定めをされてるような感じがて少し背筋が伸びてしまった。

 

 樋口の手が、静かに僕のほうに伸びる。

 

 蛇に睨まれた蛙のように動けない僕は、ゆっくりと僕の顔に迫るその手から逃れられない。1cm、2cmと少しずつ近づくにつれて、動悸がしてくるのが分かる。

 

 そして、目の前でその優しい手のひらを大きく開いた。

 

 僕は思わず呼吸を止めた。

 

 そのままその手は、僕の頬を挟むように力強く閉じられた。

 

「おごぇ‼」

 

 あまりに唐突な攻撃に思わず聞くに堪えない悲鳴を上げてしまった。悲鳴と同時に、久しぶりに呼吸を吸い込んだ肺がむせ返った。

 

「ひょ、ひぐひ、いたいんだけど!」

 

 

「──じゃあ、どんな関係?」

 

 

 頬を掴まれているため、満足に話すことができない。

 樋口はまだ、僕の目をじっと見つめている。

 

 

 どんな関係?

 

 

 樋口の言葉が脳内にリフレインする。当たり前の質問。10年以上変わらぬ関係性だった僕たちにとっては、そんな質問はする意味すら存在しないはずのものだった。

 

 しかし、彼女は問うた。

 

 そして僕自身も言葉に詰まっていた。今の僕にとって、その質問はドロドロの原油のように何よりも重く、そして深く沈み込むものだった。

 

 当たり前の質問には、当たり前の回答をする。1+1は2であると答えるようなもののはずなのに、僕の口からはその回答がしばらくでなかった。

 

 彼女にとって、僕はどんな存在なのだろうか。

 

 僕は再度、自分に投げかける。

 

「え、お、おさななじヴウゥ」

 

 幼馴染だと答えようとしたが、その途中で樋口が握る力を強めたため、最後まで言い切ることが出来なかった。

 

 彼女は、僕のことをどう思っているのだろうか。

 

「あ、えっと、か、かぞグフェ」

 

 再び力が入る。

 樋口の表情は依然変わらない。

 

 

 僕は彼女と、()()とどんな関係でいたいんだろうか。

 

 

「え、えっと……」

 

 次の答えを言うことが出来なかった。今度は樋口が止めたからじゃない。冗談混じりの答えを言おうとしたら、喉がキュッと狭くなったのだ。

 

 やがて樋口は力を緩め、僕を開放した。

 

「ほら、やっぱり悪い男」

 

 その小さな声が、今までのどんな罵倒よりも僕の脳を打った。

 

 なぜ、こんなにもその声が重く聞こえたのか。

 なぜ、樋口は僕に答えさせてくれなかったのか。

 

 口に出せなかったある答えとともに、僕はその疑問を飲み込んだ。

 

 樋口は、それを望んでいない。

 勝手にそう思っていたから。

 

 

 樋口の言ったとおりだ。

 

 僕は、本当に悪い人だ。

 

 

 

 




感想や高評価ありがとうございます! とても励みになります!

樋口編は一週間に1本ペースで上げていきます。



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「浅倉のこと、なんで名前で呼んでるの?」

「なんでもいいけど」

 

 僕たちの乗っている遊園地発の高速シャトルバスの振動にかき消されそうな小さな声で樋口が言った。周りには遊び疲れて寝ている乗客もいるので、樋口なりの配慮なのだろう。

 

「え、う~ん。特に意味は考えたことなかったな~。なんか透は『透!』って感じしない?」

 

 僕も樋口同様に細い声でそう答える。透の『透』っぽさは半端じゃないと思う。透-1グランプリがあったら、少なくともシード権は獲得できると思う。

 

「なにそれ。──でも、言えてる」

 

 窓の外を眺めながら樋口は微笑んだ。高速で通り過ぎる夜景とテールランプ、そして僕たちを見つめるように佇む月と相まって、それは一つの作品のように見えた。

 

「まぁ最初は透くんって呼んでたし、それに比べたら自然じゃない?」

「浅倉は、今でも透くんって呼ばれても気にしないんじゃない? 知らないけど」

 

 樋口の言葉を聞いて、何気なく自分の座ってる座席の隙間から後ろを覗き込む。そこには他の乗客同様に、疲れて眠っている透と雛菜と小糸ちゃんがいた。行きのバスではあんなに楽しそうに話していたのが嘘のようだ。

 

 まぁ久しぶりの遠出で、しかも絶叫系の遊園地だったからね。無理もないか。ひときわテンションの高かった透と雛菜はともかく、その二人に振り回されていた絶叫苦手の小糸ちゃんはとばっちりな気がする。まぁなんやかんや本人も楽しそうだったけど。

 

 そんな3人を見て、僕はあることに気が付いた。

 

「よく考えたら、小糸ちゃんと雛菜のことも名前呼びだね」

「それが?」

「いや、樋口が最初に振った話じゃん! そんなそっけなくしないでよ!」

 

 僕が小声で責め立てると、樋口は明確に迷惑そうな顔をしてこちらに意識を向けたので、僕はぐぬぬ……と三下のような素振りで押し黙った。

 そんな踏んだり蹴ったりな出来事にしょんぼりしていると、突然前の席から大きなくしゃみが聞こえてきた。唐突な大音量に僕は目を見開き、首を縮こませていた。樋口も少し驚いたのか、前のほうに目をやり、しばらくして僕を横目で見た。目が合って、僕たちはほんの小さく笑いあった。

 

「そういえばさ、昔は円香ちゃんって呼んでた気がするんだけど気のせいかな」

「さぁ。あなたがそう思うんなら、そうなんじゃない?」

「あれ、樋口も覚えてない感じ?」

 

 僕は腕を組んで記憶の糸を辿る。うんと小さい頃、まだ樋口と出会って間もない幼稚園児の頃は、お互い下の名前で呼び合っていたというセピア色の記憶がかすかに残っていた。

 あの頃の樋口は素直でかわいかったな~。今も素直といえば素直だけど、ちょっとばかりパンチがきいちゃってるからね。

 

「人の幼稚園時代、勝手に思い出さないでくれる?」

「そんな無茶な! 僕の小さい頃の記憶にはだいたい樋口もいるんだから……ん? なんで幼稚園の頃を思い出してるってわかったの?」

「その頃でしょ。円香ちゃんなんて、似合わない呼び方してたの」

「覚えてるじゃん!」

 

 ここで声を荒げなかった僕を褒めてほしいくらいだ。僕をからかえてご満悦なのか、樋口は小さく笑っている。普段はあまり見せない無邪気な姿に一瞬ドギマギとし、次いで疑問が押し寄せた。

 

 樋口のテンション、なんかちょっと高くない?

 

 普段よりも毒が控えめだし、よく笑うし、言葉数も3割増しな気がする。樋口さんも実は遊園地でみんなと遊べて大満足なのかな。だとしたら、企画者としてこんなに喜ばしいことはないね。

 

 そんな一抹の無邪気さを抱えたかわいらしい樋口を見て、僕は真に無邪気だった幼稚園時代の樋口の記憶が津波のように思い出されてきた。

 

「あ、そうだ。確か樋口に言われたんだよ。ちゃん付けで呼ばないでって」

「私が? なんでまた」

「そこまでは覚えてないなー。そういうお年頃だったんじゃない?」

「勝手に黒歴史みたいに言うの、やめてくれない?」

 

 うむ、いつもならもう数撃の毒が飛んできそうだけど、やはり今日は少し控えめだ。テンションが上がっているのに加え、純粋に疲れてるのかもしれない。

 

 それにしても、樋口が名前呼びを拒んだ理由かぁ。なんだっけなー。

 

 確か、樋口は僕を呼び捨てするのに、僕がちゃん付けで呼んでくるのが気にくわないとか、そんなことを言われた気がする。曖昧な記憶なので確信はない。ただ、いまだに僕と樋口は苗字を呼び捨て合っていることを考えると、あながちただの妄想というわけでもないかも。

 

 樋口は会話に飽きたのか、ポケットからスマホを取り出して操作しだした。しかし、大きく息を吐くとそれを仕舞い、再び窓の外に目を向ける。どことなく落ち着きのないその様子に、僕はうっすらと抱いていた疑問を投げかけた。

 

「もしかして、樋口も名前で呼んでほしいとか?」

 

 僕は別に樋口と呼ぼうが円香と呼ぼうがどちらでもよいので、からかい半分恐れ半分でそう聞いた。普段の樋口なら『あなたに名前で呼ばれるなんて、どんな罰ゲーム?』くらいは最低でも言われそうだなと思ったけど、今の樋口なら単純なイエスノーで返してくれるかもしれない。

 

「あなたに名前で呼ばれるなんて、どんな罰ゲーム?」

 

 ……悪いほうの予想通り過ぎてちょっと面白くなっちゃった。

 

「ちょっと、何笑ってんの?」

「いやいや、笑ってませんよ……円香」

 

 名前を口にした瞬間、バスはトンネルの中へと入っていった。ナトリウムランプのオレンジ色が車内を染め上げる。

 

 からかうつもりだった。

 

 なんてことない、ただ名前で呼ぶだけ。

 

 透や雛菜、小糸ちゃんにしているのと同じことを、樋口にするだけ。

 

 そのはずだったのに、その名前を口に出しただけで顔が火照っていったのが分かった。今にも噴火しそうなほどに熱を帯びた僕は、樋口の驚いた眼をただただ見つめることしかできなかった。

 

 ここがトンネルでよかった。

 きっと、僕の顔色の変化に、樋口は気づいてない。

 

「……は?」

 

 僕の言葉からしばらく遅れて樋口は眉を顰めた。いや、もしかしたら数瞬で返していたのかもしれない。それほどまでに、僕にとって今の時間は長く引き伸ばされているように感じた。

 

 樋口の言葉には、いつものような活力は籠められていなかった。

 息を吐くように、零れ落ちるように、その柔らかな唇から言葉を漏らした。

 

 樋口は、どうなんだろう。

 

 僕に名前を呼ばれて、どう思っているのだろう。

 

 トンネルのおかげで僕の顔色は樋口にはバレていないが、その逆もまた然り。ただでさえ隠される樋口の本音を、この環境で読み解くことは難しかった。

 

 しばらくの沈黙。

 反響する重い走行音だけがこの場に残っていた。

 

「呼んでみただけ、って言おうと思ったんだけど、なんかちょっと恥ずかしいね! やっぱり今のなし!」

 

 僕はおどけたように、大きく身振りをしながら言った。空気を変えたかった、というよりは、僕自身の気持ちをリセットしたかった。

 

 それこそ幼稚園の頃まで。

 僕は気持ちをリセットしたかった。

 

 最近の僕はやはりおかしい。自分でもわかっていた。

 

 樋口の笑顔を見ると胸が弾む。樋口が近づくと胸が締まる。樋口のことを考えると胸が躍る。今までなかった情緒の糸が、僕を複雑に絡めとっていた。

 

 大事な幼馴染なのに。

 家族同然の存在なのに。

 

 僕は毎回、そう自戒していた。

 

「はぁ、なに自爆してんの」

 

 呆れたような樋口の声に、僕は内心安堵していた。

 家族に近い関係性の男が急に馴れ馴れしく名前で呼び、あまつさえそのことに自分で照れていると知られてしまったら、気持ち悪がられてしまうと少しだけ思ったからだ。

 

 いつも通りのそのトゲは、今の僕にとっては心地よいものだった。

 

 樋口は正面を向き、背もたれに深く体重を預ける。首だけは少し上を向いており、傍から見たら何か考え事をしているようだった。

 

 もしかして無理やり会話につき合わせちゃってたかな。樋口も疲れてるだろうし、ちょっとそっとしておこう。僕もちょっと落ち着きたいし。

 

 そう考え、僕も樋口に倣い、椅子に深く座りなおして全身を脱力させた。シャトルバスにしては悪くない、柔らかな座り心地に包まれて、僕はどっと疲れが体にあふれ出てきたのを感じた。ホントは窓でも開けて火照った体を冷ましたいが、窓の使用権は通路側に座る僕にはなかった。

 

 

 ……こてん

 

 

 そんな幻聴とともに、僕の右肩に何かが乗った。

 

 肩だけじゃない。

 

 僕の右半身には、軽くもなく重くもなく、それでいて確かに存在を感じる柔らかな圧力があった。

 

 先ほどまで重苦しく感じていた自分の身体が、急にふわふわとした浮遊感に包まれた気がした。同時に胸は締め付けられて、息も苦しくなったように感じる。

 

 夢かもしれない。

 

 僕は先ほど椅子に深く座ったときに眠ってしまったのかもしれない。

 

 

 

 でないと、樋口が甘えるように僕に体を預けるわけがないのだから。

 

 

 

 樋口が眠っていないのはわかる。位置関係的に顔は見えないが、僕のほうに崩れ落ちてきたわけではなく、ゆっくりと、じっくりと、噛みしめるように僕のほうに寄りかかってきたから。

 

 僕はただ口をパクパクさせることしかできなかった。口は乾ききっていて、到底言葉なんて話せなかった。

 

 右肩に頭を預ける樋口にも、きっと僕の心臓の音は聞こえてしまっているのだろう。それほどまでに、胸は激しく鼓動していた。

 

 そして、その激しい鼓動にかき消されそうなほど小さな声で、

 

 

 ──樋口は僕の()()を呼んだ。

 

 

「え?」

 

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 聞きなれたはずの声から不自然に紡がれる、僕の名前。

 

 その声からは、これまで一度も発せられることのなかった、僕の下の名前。

 

 そのことを何度も何度も反芻し、やがて脳が正しく認識すると、今度は痺れたかのように体が動かなくなった。呼吸の仕方さえ分からなくなり、溢れんばかりの思いだけが喉元を通り過ぎていく。

 

 両親や弟、仲の良い友達に呼ばれるのとは全く違った。名前を呼んでもらえるだけでこんなに幸せに思ったことなんて、これまで一度たりともなかった。

 

 樋口と触れ合っている肩、腕、そして、握るでも掴むでもなくただかすかに触れ合っているだけの小指。いつも強い口調で自分を守ろうとする彼女のそれは、細身でありながらも柔らかくて、いつも以上に愛おしく思えた。

 

「……呼んでみただけ」

 

 樋口がそう言うと、ぶおんと空気を押し出す音が聞こえた。バスがトンネルを抜けたようだ。辺りを包んでいたオレンジ色が晴れ、こもっていた走行音はクリアになり、どことなく開放感に包まれた。

 

「樋口」

「……」

 

 僕の呼びかけに、反応はない。

 

「……円香」

「……なに? さっきから」

「耳、真っ赤だよ」

 

 トンネル内ではわからなかったその色が僕の目に入った。赤みがかった樋口の髪よりも更に真っ赤な耳は、この暖かな車内においては明らかに不自然だった。

 

 相変わらず顔は見えない。

 けれど、どんな顔色をしてるかだけは、想像できてしまった。

 

「うるさい。黙って」

「うん」

「罰ゲーム。名前で呼んだから」

「それは……」

 

 それは、誰への罰?

 

「……何も、言わないで」

「……分かった」

 

 バスを降りるまで、樋口はそこから何も話さなかった。

 

 

 

 

 樋口の何気ない言葉が、ただ嬉しい。

 樋口と一緒にいると、それだけで楽しい。

 

 それらは元からあった感情だ。

 しかし、次第に変化した。

 

 樋口の何気ない言葉が、ただ嬉しい。

 けれど、他の人にはもっと優しい言葉をかけているのかもしれない。

 

 樋口と一緒にいると、それだけで楽しい。

 けれど、樋口は僕以外の人といたほうが楽しめてるのかもしれない。

 

 そんな暗い感情もいつからか付きまとうようになった。それから目を背け、見て見ぬふりをしながら、いつも通りに樋口と付き合ってきた。 

 

 今日までは。

 

 優しく、温かい、緋色の心に包まれて、そんな悪感情なんてどこかに吹き飛んで行ってしまった。ここに残るは、ただの幸せ。この場所に、彼女の隣に入れてよかったという純粋な幸せだった。

 

 

 

 

 思い出した。

 

 僕は幼稚園の頃、円香が好きだったんだ。

 

 僕の気持ちは、確かに幼稚園の頃までリセットされていた。

 

 




次回で樋口編はいったんラストです。
書き終わるのが先か、樋口のかわいさにやられて死ぬのが先か


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「お邪魔します」

「うん、どうぞどうぞ~」

 

 玄関で円香を迎えながら、手に持っていた袋から数粒ポップコーンを取り出して自分の口に放り込んだ。そんな僕を一瞥して淡々と靴を脱ぎ始めたのを確認すると、僕は袋を輪ゴムで止めてキッチンへ向かう。

 

 飲み物の準備を終え部屋に向かう頃には円香は既に僕の部屋に入ったようで、扉が開きっぱなしになっていた。手足の指で数えきれないほどうちには来ているので、流石に案内するまでもないみたい。

 

「相も変わらず、汚い部屋」

 

 入って数歩のところに突っ立ってる円香に心外なことを言われた。

 

「え、片付いてない? この前結構ガッツリ掃除したんだけど」

 

 全く失礼しちゃうよ。まるで人の部屋がゴミ屋敷みたいに言うんだもんな。確かに前までは足の踏み場がないこともたまーにあったけど、最近はそんなことないんだから。

 今だって、床にはもの一つ見当たらない。テーブルとカーペットがあるくらいだよ。

 

「机の上、プリントの山積み。勉強してないの丸出しで、恥ずかしくないの?」

「いやー、今更円香に見られて恥ずかしいとこなんてないよ」

「でしょうね。そんなセリフを言えるあなたに、恥じらいがあるほうが驚く」

 

 ため息を吐きながら不機嫌そうに僕のベッドに腰かける円香。同時に小さなカバンからDVDのケースを取り出して僕に渡してきた。

 

「はい、浅倉から借りたやつ。1枚目のディスクが映画本編ね」

「ありがと! 準備するね!」

 

 そう言ってケースを受け取り、僕はベッドの反対側に鎮座してるTVのほうに向かった。映画を結構な数見てる透が面白すぎて思わず買ってしまったと言っていた一本を円香と見れる日を、実はけっこう楽しみにしていた。

 

 すっかりDVDプレイヤーと化しているゲーム機にディスクを挿入し、円香の隣に腰かけた。クッションを抱えて、ベッドと隣接する壁にもたれかかっている円香は、心なしかわくわくしているように見えた。

 

 ……そのクッション、僕が枕代わりに使ってるやつなんだけど、まぁ今それを言って余計に不機嫌になられても困るから黙っておこう。

 

 雰囲気を出すために電気も消す。カーテンも閉める。テレビの音量もいつもより3割増しにした。これで準備万端。僕は再生ボタンを押した。

 

 

 

 

 

 やばい……、思ったよりも涙腺に来た……。

 

 開始から156分経ちエンディングロールが始まると、僕はポロポロと零れていた涙を袖で拭った。

 

 映画の内容自体はなんて事のない悲恋の物語。好きな人がいる、でも一緒になれない理由がある。溢れるほどの”だいすき”を伝えることができないもどかしさに縛られているうちに、別の人が意中の人を射止め、当人は姿形も消えてしまうというお話だ。現代版の人魚姫みたいなオーソドックスな話だった。

 大きなひねりがない分、ストーリーの巧さや映像技法などがより目立ち、それでグイっと引き込まれた。ハッピーエンドではなかったが、めちゃくちゃ面白かった。透がハマるのも納得だ。

 

 僕が天に息を吐いて満足感に浸っていると、隣から鼻をすする音が聞こえた。

 

 何気なしに視線を向けると、円香がクッションをギュっと抱きしめて、顔を半分ほどうずめていた。エンドロール中──つまりこの部屋唯一の光源であるテレビ画面がほとんど真っ暗に近い──ということもあり確信はないが、その瞳には涙が溜まっているように見える。

 

 潤んだその瞳は光を乱反射していて、宝石のようにきれいで、そしてなにより貴重だった。

 

 最初の一粒が瞳から零れ落ちた瞬間、彼女は人差し指の腹で優しくそれを受けた。そんな美しい所作から、僕は目を離せないでいた。

 

「……何? いつまでもジロジロ」

 

 声をかけられて我に返った。

 気が付くと、円香は目を細めて僕に視線だけを向けていた。

 

 僕はどれだけの時間、僕は彼女を見つめていたのか。

 なぜ、僕はこれほどまでに彼女に釘付けになっていたのか。

 

 円香のことが好きだから。

 もちろんそれもある。けれど、それだけでは説明がつかない。

 

 ここ数日で自覚した恋愛感情ではなく、もっと深く、そして重い感情が言葉になろうと、体の芯から染み出してきていた。

 

 映画を見て、感動して、涙を流す。そんな彼女に──

 

「見惚れてて……」

「みと……え?」

 

 無意識にそう口にしていた。だけど、言った瞬間、自分のその言葉が胃にすとんと落ちた。

 

 見惚れていた。

 

 十数年一緒に過ごしてきて初めて目にした、円香の涙。

 決して、彼女が悲しんでいることを喜んでいるわけではない。ただ、その雫に籠められている数多の意味の美しさに、僕は思わず心奪われていた。

 

 そう自覚すると、ついに言葉は溢れだした。言葉では足りない、思いと一緒に。 

 

「初めて見たから。今まであんまりさ、喜んだり感動したりとか見せてくれなかったから。だから、嬉しくて、綺麗で、見惚れてた」

 

 ──やっと円香の心に触れられたみたいで

 

「……本当に無いんだ。あなたには恥ずかしさってものが……」

 

 彼女は気まずそうに、シラウオのようなその手で自分の口を軽く覆った。視線の定まらない彼女からは、いつものような余裕は感じられない。頬がわずかに紅潮していることも相まって、少しだけ幼く見えた。

 

 円香に見られて恥ずかしいものなんてない。

 手痛い失敗も、汚い勉強机も、僕の本心も、何一つ。

 

 カーテンから漏れ出る光だけが、この無音の部屋を装飾する。いつの間にか、映画のエンドロールも終わっていたみたいだ。画面は真っ暗で、そこには何も映っていない。ただ、黒い光だけを垂れ流していた。

 

「円香」

 

「……なに?」

 

「好きだ」

 

「──っ!」

 

 今日、告げようとは思っていた。

 

 ほんとはこの後のデートプランもきちんと考えていた。でも、どうしても今言いたかった。彼女の心に少しでも近づけた今こそ、この思いの丈を伝えたかった。

 

 言葉にした途端、緊張のあまり内臓がぐっと圧迫されたような息苦しさに襲われた。思わず拳にも力が入る。言う前にすべきだった緊張がまとめて体に圧し掛かってきた。でも同時に、ちゃんと緊張している自分に、円香との関係の変化を覚悟できてる自分に、少しだけ安心した。

 

 円香は声を出さず、目を真ん丸に開いてこちらに体を向けた。わずかに頬に赤みもさしていたが、やがていつもの表情に戻り、大きくため息をついた。

 

「知ってる。家族みたいなものだって、恥ずかしげもなくいつも言ってたでしょ」

「違うよ。いや、もちろんそれもあるけど。それ以上に、僕は円香のことが大好きなんだ。僕の、恋人になってほしい」

「……何、今更」

 

 勇気を出して告げた言葉に、円香は低い声でそう返すと、クッションをかなぐり捨てて僕のほうへその体をずいっと近づけた。吐息が顔に触れるほどの近さ。ベッドについた円香の手が、かすかに僕の手に触れた。

 

 重ならない、ただ皮膚と皮膚が触れているだけなのに、それがたまらなく愛おしく思えた。

 

 円香の鋭い眼差しを見るまでは。

 

「友達、幼馴染、家族。そんな都合のいい関係を散々押し付けて、今度は恋人になりたい? 勝手すぎ。ふざけないで」

「……ごめん。でも、ふざけてないよ。僕は本気だ」

 

 僕も円香を見つめ返す。互いに見透かそうとするような、そんな無言の視線の交差がしばらく続く。胸のバクバクは未だに止まらず、むしろ次第に強くなる。

 

 先に目を逸らしたのは、円香のほうだった。

 ゆっくりと視線を下げて、僕の胸のあたりにそれを止める。

 

 しばらくの無言の後、彼女の手は自分の視線の先、僕の左胸に優しく触れた。

 

 彼女のその行為と思いふけるような耽美な表情は、僕の動悸をより速め、体を火照らす。

 

「心臓、早すぎ。らしくもない」

「うん、このまま死んじゃいそう」

「そう」

 

 円香の手は僕に触れたまま、左胸から肩へ、肘へ、そして手の甲へとゆっくりと移動した。

 そしてその手が、じわじわと僕の指に、僕の手に、深く絡まっていく。

 

 温もりが広がっていく。

 

 あのとき、バスの中では触れあっていただけだった手が繋がれ、今度は僕が目を見開く番となった。高鳴る心臓が僕のわずかな余裕さえも失わせ、身体を停止させる。何か言葉が出そうで、何も出ず、ただ吐息だけを漏らす。そんなことを僕は繰り返した。

 

「ほんと、勝手。強引。理解した気になって、それで満足している」

 

 こぼれるような弱弱しい言葉だった。

 

 しかし、ふわふわと浮かれていた僕の胸に刺さるには十分すぎるほど、鋭利な言葉。思わず目を閉じた。

 

 理解した気になってる。

 まさにその通りだと思った。

 

 10年以上の長い付き合いの中で、彼女のことで知らないことは殆どないと思っていた。先程の円香の涙を見て、僕は彼女の心を知った気になった。

 

 しかし、そうではなかった。

 

 円香が僕との関係性を“押し付けられている”と思っていたとは露とも思っていなかった。彼女の望む関係性が、今の僕たちのそれよりも進んだものか退いたものなのか、その判断は僕にはできない。彼女がどんな思いで僕と過ごしていたのか、どんな思いでその言葉を口にしたのか、僕には推し量ることはできない。

 ただ一つ言えることは、僕は彼女を傷つけていたということだけだ。

 

 強気な言葉、拒絶するような口振り。

 それとは正反対に、弱弱しい声色と、絡まる指。

 

 僕はただ、応えるように、伝えるように、握り返すことしかできなかった。

 

 絡まった僕たちの指は、最初から一つだったかのように、融解していく。混ざり合う。

 

 円香の温かい手は、時折僕の存在を確かめるように力を入れたり、握ったままの指で僕の甲をなぞったりしていた。そのこそばゆさは、手から感じただけではなかったと思う。

 

 その手は、少し濡れていた。拭かれた涙が残っていたのだろう。

 

 彼女は、いったい何を考えているのだろうか。

 喜び? 不安? 苦痛? 怒り? 幸福?

 繋がれた手のひらから、近づいたはずの心から、それらを感じることが出来なかった。

 

 

 僕は、円香に思いを伝えてしまって良かったのかな──。

 

 

 円香をより苦しめるだけになってしまったのではないかと思い、微かな後悔が胸に宿った。

 

 その時、部屋に光が指した。

 

 反射的にそちらへ目を向けると、テレビ画面に2人の男女が映っていた。どうやらエンドロール後に本編の続きがあるタイプの映画だったようだ。

 嫌でも映像と音声が頭の中に入ってくる。結局この2人が結ばれた。エンドロール前に女性はどこかへ消えていたし、男性も別に恋人がいたはず。あまりに予想外の展開であった。

 

「……駄作。あのまま女の人が消えて、この男がどこの誰だか分らない人と幸せになってたほうがよかったんじゃない」

 

 樋口も映画のほうに注意を向けてたらしく、芯のない声で呟き、同時にわずかに手に力が入った。

 

 何か返事をしたほうがいいのだろうか。冷静に返せるだろうか。

 告白したときの勇気はどこへやら、すっかり弱った僕はそんなことさえ不安に思った。

 

「言えてるかもしれない」

 

 僕はなるべく平静を装って、言葉を返す。繋がれた手にも、力を籠める。

 

「でも僕はこれでよかったと思うよ。ハッピーエンドのほうが、なんというか、安心する」

 

 彼女のそれは独り言だったかもしれない。返事なんて望んでいないかもしれないのに、あまつさえそれを否定するなんて、僕は何をしてるんだろう。

 

「この男の人、流されてるだけでしょ。恋人が別にいるのに、ただ雰囲気で結ばれて、それって本当にハッピーエンドって言える?」

 

 突然の展開に、確かに男性が雰囲気に流されて女性と結ばれたように見える。僕もご都合主義的に感じた。けれど、それでも良いって思えた。

 きっと、場面の外では素敵なドラマが多数あって、その末のこの結末なんだと。だから、今はこのハッピーエンドを祝福しようと。その言葉は、僕の口から出る前に消えることとなった。

 

「今のあなたも、同じ。流されてるだけ。映画の雰囲気に呑まれて、思ってもいないことをつらつら喋ってる」

「そんなこと……!」

 

 僕が即座に否定しようとするも、それは叶わなかった。

 

 今度は円香に手を強引に引っ張られ、ベッドに寝転がってしまったのだ。

 

 当の円香は、それを見下(みお)ろすように、見下(みくだ)すように、僕の頭の隣に手をついた。傍から見たら、まるで僕が円香に押し倒されているように映るかもしれない。

 

 突然の状況に僕は固唾を飲んだ。僕の胸を強く打つ動悸は、円香に押し倒されていることからきている高揚ではなく、彼女の行動や発言の目まぐるしさに対する不安からきていた。

 自分自身が原因ではあるが、乱高下する自身の感情に振り回されて、僕もかなりいっぱいいっぱいになっているというのもある。

 

「誰でもいいって、あなたはそう思ってる。この場にいたら、映画を見たのが私じゃなかったら、あなたはどうしてた?」

 

「ま、まどか……」

 

「優しさのつもり? それとも同情? あなたのそういうところ、ほんと嫌い」

 

 その声は、語気こそ強いが震えていた。

 その顔は、今にも泣きだしそうに見えた。

 

 それは、僕が作ってしまったものだ。

 

 僕がもっと円香のことを考えていたら。もっと早くに自分の恋心に自覚していたら。円香が僕のことをどう考えているかは未だに確信はないが、少なくとも、そんなもしもがあれば、円香に辛い思いをさせることは無かった。

 

 以前、円香は僕のことを悪い人だと言った。まさしくそうだと思う。

 

 今の僕にできることは、ひたすら伝えること。過去をなかったことにはできないが、現在の飾らない本心を伝えることなら出来る。

 

 本当は今すぐにでも抱きしめたい思いを堪えて、僕は思いの丈をぶつける。

 

「ごめんなさい。今まで、僕は何もわかってなかった。円香にどんな苦しみを強いていたか。でも、これだけは言える。僕は円香が好きだ。この状況じゃなくても、それは変わらない。明日も明後日も、おじいちゃんになっても、僕は言い続けるよ」

 

 今の円香は、多分何を言っても信じてもらえない。それは、今までの不誠実の積み重ねだ。今何を言っても、僕の言の葉は軽い。だから、何度も何度も何度も僕は言う。その結果フラれてしまっても、嫌われても、後悔はない。

 互いの思いが伝わらず、曖昧な関係性でいる。そんな状態から脱しないと、彼女は今後も苦しむかもしれない。

 

「ほんと、嫌い」

「それでもいい。円香に好きって言ってもらえるように頑張るから」

 

 円香はだらりと首から力を抜き、僕から視線を外した。

 

「優しいところ、その日あったことを嬉しそうに話してくれるところ、いつも私のことを助けてくれるところ、そのくせ人の気持ちに全然気が付かないこと、全部嫌い」

「優しいところ、僕の話を黙って聞いてくれるところ、いつも僕を助けてくれるところ、口下手だけどみんなのことをちゃんと想ってるところ、全部好きだよ」

 

 再び円香から力が抜ける。

 

 僕の胸に優しく額を乗せて、深く呼吸をした。

 

「……どうして、そう言えるの?」

「好きだから。言葉にしないとさ、やっぱり伝わらないこともあるなって思って」

「……同感。でも、私はあなたじゃない。あなたみたいには出来ない」

 

 円香は僕の襟元をきゅっと軽く掴んだ。額がより強く、僕の胸に押し付けられる。

 

「心臓、やっぱりうるさい」

「耳当てなくても伝わっちゃう?」

「全部、聞こえてる。全部、何もかも──」

 

 襟元を掴む手が離れた。

 

 代わりに、僕の両耳にその手が優しく覆いかぶさる。

 

 途端、音が消えた。

 

 映画の結末も、僕の心臓の音も、円香の声も、何もかもが聞こえなくなった。

 

 先ほどまで僕の胸に額を押し付けていた円香は顔を上げ、僕をじっと見つめる。久しぶりに、意思のこもった強い目をした彼女を見た気がした。

 

 目に見える整った笑顔、体に乗る重み、親しみ深くもときめく花のような香り、僕の全てが円香に支配された。

 

 

 

「──だいすき」

 

 

 

 耳が塞がれていた僕の耳に、ごくわずかに届いた声。

 

 胸へ吸い込まれて、そのまま鼓動の早い心臓によって全身へと巡っていった。

 

 僕はそのまま円香を抱きしめた。

 

 その存在を確かめるように。消えてしまわないように。応えるように。

 

 

 

 




お待たせしてしまい、ほんとにすみません。

彼女のデレはむしろ恋人関係になってから分かりにくく加速しそうな感じもあるので、そっちも書きたい感じはありますが、樋口編はいったんここで終わります。(一応幼馴染ものを謳ってるので恋人になった後の話も書いていいのかなという葛藤)

次回からは黛冬優子編を開始します。
ただ、以前取ったアンケートとは違う展開になるかも。

よろしければ評価や感想もお願いします。


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「誕生日おめでと」

樋口編アフター
※二人は付き合ってます


「誕生日おめでと」

 

 カラオケボックスについて1時間くらい経った頃、円香が唐突に小包を渡してくれた。手触りの良い布袋が金色のリボンで止められており、一目見てプレゼント用に準備してくれたものだと分かった。

 

「え、ありがとう! 開けてもいい?」

「開けないと見れないでしょ」

 

 十数年の幼馴染生活によって培われた円香翻訳辞典によると、今の発言は『早く開けてほしいな♡』という意味なので、遠慮なく包みのリボンを解くことにする。……ただしこの辞書はよく誤訳するので、ほんとうに呆れられてる可能性もそれなりに高い。

 

「わー! かっこいい!」

「色々と幼いんだから、たまにはこういうの着たら?」

 

 プレゼントを広げると、それは質のよさそうなネイビーのジャケットだった。同じような服を着回しがちな僕がずいぶん前に『新しい服とか買わないとなぁ』って言ったのを覚えていてくれたのかな。プレゼント自体もすごい嬉しいが、そのことがなにより僕を笑顔にさせた。

 

「ありがと! 大事にするね! これで僕もオシャレさんだ!」

「なんでもいいけど。隣を歩く私に恥をかかせなかったら」

 

 早速着ていた上着を脱ぎ、円香から貰ったジャケットを丁寧に羽織ってみる。今日はシンプルな──オシャレな人のシンプルさと言うよりは、ただ無難な服を着てるだけだが──服装をしていたので、コーディネート的には全然問題ない。というより、僕の今持っている服に合いやすいものを彼女が選んでくれたのだろう。最高か? 

 円香、なんやかんや僕のことをちゃんと見てくれてたんだ。僕も円香のことをちゃんと見ないと。そう思い、感謝の意も含めて、僕は彼女に熱のこもったキラキラした視線を向けた。

 

「……何? それじゃ足りない?」

「あ、いやいや! そうじゃなくて!」

 

 変な勘違いをさせてしまった。流石に奇行だったかなと思ったところで、僕の脳にあるアイデアが下りてきた。もしかしたら僕も天才なのかもしれない。

 

「そうだ! せっかく誕生日なんだし、僕から何かお願い事してもいい?」

「は?」

 

 円香は眉間に皺を寄せて、ゲテモノを見るような不機嫌な顔を浮かべた。少しだけ心が折れそうになるが、ここで負ける僕ではない。

 

「ねーいいでしょ! 1つだけだから!」

 

 僕の狙いは1つ。年に一回のせっかくの誕生日を利用して円香にうんと甘えてもらいたい! 自分から甘えるのが苦手な円香がそんなことをしたら……、うん、可愛すぎて僕は死んでしまうかもしれない。

 

「え、普通に嫌だけど」

「お願い!」

 

 両手の皺を合わせ、必死にお願いしてみる。意外と円香は押しに弱いから、気持ちを込めてちゃんとお願いしたら折れてくれるかもしれない。

 彼女は僕をしばらく見つめ、やがて諦めたかのように大きくため息をついた。

 

「……何するか、私が決めてもいいなら」

「……趣旨違くない?」

「あなたの自由にさせるとか、ありえないから。とんでもないものが来そう」

「うーん、まぁいっか!」

 

 思ったよりも信用がなかったことに凹みつつも、気持ちを切り替えていく。当初の思惑とは違う形にはなったが、むしろ円香がどういうお願いをするかは気になるので結果オーライだ。

 

「じゃあ、頭撫でるとか、そんなのでいい? ……もしあなたがしたいならだけど」

 

 尻すぼみに声が小さくなっていったが、あまり乗り気ではないのだろうか。もしそうなら無理やりやらせるのは忍びないので、取りやめようと思うのだが、どうだろうか。でも──ただの僕の願望かもしれないけど──今のは乗り気じゃなかったというよりは、別の感情のような気がした。

 

「……円香、頭撫でてほしかったの?」

「嫌なの?」

「いや! 全く!」

 

 否定はされなかった。自覚の有無はともかく、自分の中にそういう願望が多少なりともあったのかもしれない。彼女に撤回される前に、僕は円香の頭に手を差し出し、優しく撫でた。力強い緋色の髪であるが手触りは繊細で、撫でているこちらも心地よくなっていった。円香は特に何も言葉を出さず、ただジッと撫でられ続けていた。

 

 3分ほど経った頃だろうか、彼女の口から弱弱しい言葉が漏れた。

 

「めんどうくさい女だって、そう思ってるでしょ?」

「え? いや、思ってないけど」

 

 咄嗟(とっさ)に本心をそのまま告げてしまったことを、僕は少しだけ後悔した。これはきっと、彼女が長いこと貯めこんでいた負の感情だ。

 

 マイナスであり、負い目の感情。

 もっとしっかり話を聞いて、正面からちゃんと受け止めてあげないといけなかったかもしれない。

 僕の後悔をよそに、言葉は続けられる。

 

「嘘。私があなただったら、とっくに私を見放してる」

 

 その言葉を聞いて、僕は思わず奥歯を噛み締めた。彼女から震えが伝わってきて、思わず強く目を閉じた。

 

 心が痛くなった。

 涙が溢れそうになった。

 

 僕の言葉が有無を言わさず切り捨てられたことはどうでもいい。ただ、円香が自分自身のことをそこまで卑下していること、そして、自分のことを見放そうとしていることが、どうしようもなく辛かった。

 この言葉はきっと、自分自身に向けられた刃だ。吐き出せば吐き出すほど、円香は自分を傷つけてしまう。

 

 僕は円香の頭においた、動きの止まった手を下ろし、そっと彼女の手に重ねた。

 

「ちょ……っ!」

「見放したり、嫌いになったりなんてしないよ。僕は円香が()()()()()大好きなんだ」

 

 目を見つめ、精いっぱい心を込めて伝えた。

 

「感情を出すのが苦手でついついトゲのあることを言っちゃうけど、心の底は誰よりも優しくて、いつもみんなを、そして僕を見てくれている、そんな円香のことが大好きだから」

 

 気の利いたことなんて言えない。

 後世に語り継がれるような名言なんて言えない。

 

 僕はただ、思っていることをまっすぐにぶつけることしかできない。そんな無力な自分でも、円香にさえ思いが届けば、それでよかった。

 僕の言葉を聞き、円香は目を逸らして俯いた。ショートヘアーの隙間から垣間見える頬はわずかに紅潮しているような気もした。彼女の煌びやかな髪が、そう映したのだろうか。

 

「……閉じて」

「え?」

「目、閉じて」

 

 呟かれた言葉に従い、僕は訳も分からないままに目を瞑った。他にもサプライズプレゼントでもあってその準備でもするのかなとか、この流れで渡されたものに対して大きな声で喜んでいいものだろうかとか、そんな呑気なことを一瞬考えていた。

 しかし、一向にアクションがない。何なら、音も特にしない。目の前にいるはずの円香は、特に動いてもいないみたいだ。

 

 疑問に思い、何か言葉を出そうとしたが、それをすることは出来なかった。

 

 僕は、温かい感触に包まれたから。

 

 僕は、抱きしめられていたから。

 

 背中に回された腕は、決して僕から離れまいと強い力が込められていた。

 

「開けないで」

「……うん」

 

 僕の肩に乗せられた顎が揺れ、声が体に染み渡った。

 

 僕のすっかり速くなった鼓動が伝わってしまっているのではないかと思うと恥ずかしくて仕方ないが、顔が熱くなっているのはその恥ずかしさが由来ではないだろう。

 

「あなたがその目を開けなければ、どこにも残らない。私が私だって証拠は、誰も確認できない」

「……哲学的だね」

 

 僕は今、何をすべき何だろうか。

 

 ぶらりと垂れ下がった腕と閉じられた瞼に力に、無意識に力を入れていた。

 

 このハグは、円香の精いっぱいの愛情表現だ。

 

 僕はこの愛を正面から受け止めてしまっていいのだろうか。それとも、彼女の言葉に従い、『誰でもない存在』の愛として、なされるがままに従うべきなのだろうか。

 

 色々な可能性について考えを巡らし、そして、やめた。

 

 僕が今すべきことは、考えることじゃない。伝えることだ。円香が僕にとって、どれだけ大事な人なのかを。

 

「でも、抱きしめかえしたらきっと誰かわかっちゃうよ。その人はきっと、僕が大好きな人だからさ」

「きっと気づかない。あなたはバカで、鈍感だから」

「……気づくよ」

 

 彼女の背中に腕を回した。ビクッと動揺する感触が腕に伝わったが、僕は気にせず力を込めた。

 

「やっぱり、円香だ」

「なんで……」

 

 円香のその疑問は、僕が彼女の意向を無視して抱きしめ返したことについてだろうか。でも、そうするに決まってるじゃないか。僕は器用な人間じゃない。思いをストレートに伝える以外のコミュニケーションは、僕には出来ない。

 

「あたりまえだよ、恋人なんだから。大好きな人に抱きしめてもらって、分からないわけないよ」

 

 『誰でもない存在』からの愛を、僕は受け取ることが出来ない。僕が大好きなのは、ずっとずっと、ただ一人だ。

 

「僕は、円香が好きなんだ。だからこの気持ちは、正体の分からない『誰か』じゃなくて、円香に受け取ってほしい」

 

 抱きしめてる腕に力が入りすぎていたことに気が付き、少しだけ緩めた。その際、円香が少しだけ寂しそうに声を漏らした気がするのは、気のせいだろうか。

 円香は僕の胸に顔をうずめ、服の背中部分をぐいっと引っ張った。彼女は、自分がどうすればいいのか悩んでいるのかもしれない。

 

 僕はいつまでも待つよ。

 

 だから──

 

「ゆっくり進もう。二人で、ちょっとずつ」

「……」

 

 額を僕の胸に押し付けた円香が、しばらくして離れた。未だに目を閉じたままなので、彼女がどんな表情をしているかが僕には分からない。笑顔でいてくれればいいなと、そう思った。

 

「……開けて」

 

 その声に従い、僕は目を開ける。久しぶりに見た円香は、僕の記憶の中の彼女よりも赤く染まっており、まっすぐな瞳をしていた。わずかに潤んだ瞳は、宝石のように輝いていて、そして儚かった。

 

 こぶし一つも空いていない距離にあったその顔が、徐々に近づいてくる。

 

 そのまま彼女との距離が0になるまで、そう時間は掛からなかった。

 

 0のまま、時間は流れる。

 

 そして、優しく触れあっていた唇が、離れた。

 

「私も、あなたが好き」

 

 重なった手のひらが、絡み合うように、溶けあうようにつながれていく。指と指の隙間から感じる円香の体温を通じて、僕の心に彼女の言葉が染み渡る。

 

「受け取ったよ、あなたの気持ち」

 

 

 

 

 

 




樋口のソロ曲、めちゃくちゃいい~

『重ねた 手のひらに 今さら言葉はいらない』って歌詞が、「いつだって僕らは」の樋口パート『手と手をほら 重ねていこう 気持ち全部 ぶつけてみよう』の部分からの(彼女と周りの人たちとの関係性の)進歩進展を感じられて最高でした(オタク早口)


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黛冬優子
「はぁ? 好きな人が出来たぁ?」


冬優子おたおめ!ということで、今日から黛冬優子編に入ります!

前回までと毛色が少し違います。どう違うかは割とタイトルの通りで、ちょっと面倒くさい感じです。なので浅倉樋口みたいないちゃらぶはあんまないかも。

文中でもさりげなく説明してますが、高2の設定です。


「あ、あんまり大きい声で言わないで……」

「え、あぁ、ごめん……じゃなくて!」

 

 ドリンクバーから取ってきたホットココアが少し零れるほどに、机を叩いて勢いよく立ち上がる冬優子ちゃんだったが、周りのお客さんたちの注目を集めたことに気が付いてこそこそと座った。そんなアニメみたいな状況を見て、僕は思わず笑い声がこぼれてしまった。

 

「……笑ってんじゃないわよ。ったく、誰のせいだと思ってるんだか」

「え、僕のせい?」

「そうに決まってるでしょ。いきなり変なこと言って……。んで、誰なの? その、好きな人って」

 

 気だるげさを隠さずに頬杖をつく冬優子ちゃんだったが、ハッと何かに気が付いたような表情を浮かべると、ニマニマと不気味に笑って上目遣いをしてきた。

 

「もしかして~、ふゆのこと、とうとう好きになっちゃった~?」

 

 あぁ、ふゆモードに入っちゃった。今はクラスが別だし久しぶりにふゆモードを見たけど、なんか練度が上がってる気がする。もはや1人格として成立しちゃってるくらい。あと、とうとうって、そんな悲願みたく言われても。

 

「もしそうだとしたら、然るべき場所と流れで言うよ。ファミレスじゃなくて」

「……然るべき場所で言ってくれるのね」

「? 告白ってそういうものじゃないの?」

「そーねー、そーいうものよねー」

 

 いつの間にかふゆモードも解けて、テーブルにうなだれてジト目を向けてきた。冬優子ちゃん以外にこんな雑な反応をされたら少し傷つく気がするけど、彼女にやられる分にはむしろ心地いいと思えた。僕にMっ気があるとかそういうのではなく、彼女は家族と僕にしかこういう面を見せていないからだ。

 

 信頼の証だと、勝手に思ってる。

 

 僕はそのことがたまらなく嬉しかった。

 

「そういえば、2人で外食なんてすごい久しぶりな気がするね」

「ん? あー、そうね。高校に上がってすぐの頃に行ったっきりだから、1年ぶりくらい?」

「もうそんな経つんだ。よく覚えてるね」

「覚えてるわよ、これくらい」

 

 冬優子ちゃんの記憶力に尊敬の念を抱きつつ、僕も当時の記憶を思い返す。ちなみに外食自体は1年のブランクはあるが、別に疎遠になってたというわけでもない。流石に高校2年にもなると、幼馴染とはいえ女子と2人でご飯に行くのは恥ずかしかっただけだ、と思う。……疎遠になってないよね? 今でもたまにチェインもしてるし。

 

「なによ。急に黙ったりして」

「い、いや、えーと、今日の冬優子ちゃんはいつもに増して投げやりだなーって思っててさ」

「そんなことないわよ。わざわざあんたのために、こんな遠いとこまで来てあげたんじゃない」

「あ、あははは、ごめんね、わざわざ遠くまで来てもらっちゃって。クラスの人とかに聞かれたくなくて……」

 

 今僕たちは、僕らの家や学校の最寄り駅から5つほど進んだ駅にあるファミレスにいる。クラスの人に聞かれたら恥ずかしいと言うのもあるけど、冬優子ちゃんは学校では猫を被っているので、僕と素で話しているところを万が一にでも見られるのは嫌そうだなと言うのも理由の一つだ。

 

「……悪いわね、変に気を遣わせて」

 

 どうやら冬優子ちゃんには僕の余計なお世話が見抜かれていたみたいだ。とはいえ、勝手に呼び出して勝手に気を遣って、それで手間をかけさせてしまっているので謝らないといけないのはむしろ僕の方だ。

 

「こっちこそ、ごめんね。わざわざこんなとこまで」

「だーかーら、別にそれは構わないって。ってか、あんたん家でもよかったんだけど。隣だし」

「あー、僕も迷ったんだけどね。でも今日親いなくって」

 

 突然、冬優子ちゃんはカップを持ったまま固まった。表情も、時間が止まったかのように貼りついて動かない。彼女の纏う空気が僅かにぴりついた感じもした。

 もしかして、怒らせちゃった? え、今のやり取りに怒る要素ってあったかな。説明が足りてなかっただけかもしれないとも思い、ひとまず言葉を続けることにした。

 

「ほ、ほら! 流石に冬優子ちゃんとはいえ、女子と家で2人っきりになるのもまずいというか、気が引けるというかさ。冬優子ちゃんも嫌でしょ?」

 

 僕が言葉を終えても数秒ほど固まったままだった冬優子ちゃんは、やがて持っていたココアをぐいっと一気に飲み干した。いい飲みっぷりだなぁ。大人になったらビールとかぐびぐび飲みそう。

 

「いいに決まってるでしょ。あんたと2人でも」

 

 こちらを一瞥し、ぼそっと小さな声でそう零す。先ほどホットココアを煽ったせいか、若干頬が紅潮していることにも気が付いた。

 

 瞬間、僕は言葉に詰まった。

 

 一言一句を脳内リピートし、その意味をくみ取ろうと出来の悪い脳みそをフル回転させる。

 

 なんて言葉を返していいか逡巡していると、冬優子ちゃんは先ほどとは打って変わり鋭い目線を向けて、僕の額に人差し指を押し当てた。

 

「あんたに私をどうこうする度胸がないことなんて分かりきってるし! ってかそれよりも! 『流石の冬優子ちゃんとはいえ』ってどういう意味よ! ふゆは女子じゃないっていうの⁈」

「うぐっ!」

 

 力強い言葉と共に冬優子ちゃんに額を何度も小突かれて、僕は自分の中にあるゲージがみるみる減っていくのが分かった。

 

 それは、慚愧であり、悔悟であり、ようするに自己嫌悪だ。

 

 好きな人がいるにも拘わらず冬優子ちゃんの言葉を勘違いしたこと、そしてほんのわずかによからぬ期待感を抱いてしまったこと、挙句彼女にも誤解をさせてしまったこと。

 

 冬優子ちゃんにも、僕の好きな人にも、誠実さを持ち切れていなかった自分がどんどん嫌になっていった。

 

 しかし、そんな自己嫌悪をひとまず押しのけて、まずは冬優子ちゃんにちゃんと説明をしないといけない。わざわざ僕のために時間を割いてくれた大事な幼馴染を不快にさせたままでは、彼女に対してあまりにも失礼だ。

 

「ごめんね、そんなつもりじゃなくて! 幼馴染って言う無二の関係で、小さい時からずっと一緒だったって意味だよ! 親しき仲にも礼儀ありって言うし、あと普通に恥ずかしいし!」

 

 あまりに何度も小突かれていたため目を閉じていたが、僕が口を閉じると同時に額に指が止まった状態で静止した。恐る恐る目を開けると、すぐさまデコピンをされ、小さく悲鳴を上げ少しだけのけぞってしまった。

 

「50点ね」

「何が⁈」

 

 唐突な採点に驚きを隠せず、先ほどまでのマイナス感情も忘れてツッコんでしまった。そんな僕に気分がよくなったのか、楽しそうに、そして少しだけ意地悪そうに笑みを冬優子ちゃんは浮かべた。

 

「あんた落としたい女がいるんでしょー。だったら『君だけは特別~』とか『どうも君の前だと緊張しちゃって~』くらい言ってみせなさいよ。思わせぶりなことをいっぱいしてたら『あれ、こいつ私のこと好きなんじゃね?』って勝手に意識するんだから」

「お、女の子もそういうものなの? てっきり男子だけだと思ってたよ」

 

 唐突に始まった黛先生の恋愛教室だったが、初っ端から知らなかったアドバイスが頂けて、思わず普通に感心してしまった。消しゴム拾ってもらったり挨拶してくれたりボディタッチされたり程度で好きになってしまう、と言うのはてっきり男子のあるあるだと思ってたんだけど、意外と万人共通なのかもしれない。

 

 僕は小さい頃から(当時は距離感が今よりも近めだった)冬優子ちゃんと仲良かったということもあり比較的その辺りの耐性はあるので、余計な勘違いはせずにここまで成長できた。ありがとう冬優子ちゃん。君のボディタッチのおかげで僕は強い男になれたよ。

 

「まぁ全員がそうってわけじゃないだろうけど、意外とそういう人も多いわよ。もちろん、嫌われてないことが前提だけどね。あんたは……、どうかしらね」

「そこは明言してよ!」

「いやほら、無責任なことは言えないじゃない? うーん、良い奴ではあるんだけど、あんた別にイケメンってわけでもないし、モテてもないし、さっき言った戦法は普通に無理かもね」

「ただ現実を思い知らされた⁈」

 

 止めの一撃がクリティカルヒットし、僕は思わず机に突っ伏してしまった。

 

 確かに僕の顔はいたって普通だし、性格も内気で陰気な面が強いし、そもそもあまり女の子と喋ったことすらないけど、そんな抉るような言葉をぶつけなくたっていいのに。いや、このストレートな言い草はもしかしたら、そんな僕が告白してもただ傷ついて終わるだけだという、冬優子ちゃんなりの忠告なのかもしれない。

 

「でも、その女子も災難よねー。あんたに惚れられるなんて」

「うっ、やっぱりそうだよね……。僕に好かれるなんて、罰ゲームみたいなものだよね」

 

 何事もなかったかのように会話を続ける冬優子ちゃんだったが、今の僕にはそんな元気はない。今まさに追い打ちをかけられた僕は、まだ顔を上げることができずにいた。

 

 そんな僕の肩に、そっと誰かの手が置かれた。予想外の感触に、体力を振り絞りゆっくりと顔を上げると、先ほどまで目の前に座っていたはずの冬優子ちゃんがいつの間にか立ち上がり僕の後ろに回っていたことに気が付いた。そして、肩に優しく置かれた手も、むろん彼女のものだと。

 

「ごめんごめん、そういう意味じゃないわ。あんたに惚れられるってことは──」

 

 何気なく言って、冬優子ちゃんは僕の耳元までゆっくりと顔を近づける。彼女の瞳には、僕だけが映りこんでいた。

 

 

「──ふゆを敵に回すってことじゃない」

 

 

 消え入りそうな音量で囁かれたそれは、しかし僕の耳を強烈に打った。

 

 耳に掛かる息に煽られるように、全身に力が入り、顔が熱くなった。

 

 緊張で心臓の鼓動が早くなっていくのに合わせて、僕は昔のことを少しずつ思い出していった。

 

 彼女は、冬優子ちゃんは、小さい時からこうして思わせぶりなことをする人だった。

 

 触れ合うほど近くに座ったり、後ろから抱き着いて来たり、僕に「好き」って言わせようとしたり、昔はそんないたずらをしてよく僕をからかっていた。僕が困惑しているのを見て、最後には「冗談よ」とほほ笑むのがお決まりだった。

 

 中学に上がる頃には流石にそこまで大胆なことはしなくなり、高校に上がってからは少しだけ距離が出来たことで完全になりを潜めていた。

 

 思いを馳せた僕の心に残っていたのは、照れや緊張ではなく、『昔の関係に完全に戻れた』『疎遠になんてなっていなかった』という安堵だった。連絡を取ったり遊んだりする機会は確かに昔よりは減ったけれど、僕たちの関係性は昔のままだった。

 

「そ、それってどういう……アイタ⁉」

 

 やっとこさ乾いた喉から出たのは、とびきりかすかすの弱い声だった。疑問を口にしながら振り返るも、冬優子ちゃんに額をぺしりと叩かれ、思わずひるんでしまう。その隙に彼女は、レシートを手に取り、僕に背を向けてレジに向かっていった。

 

「さぁね。その子の攻略法、ちゃんと考えておいてあげるから、あんたも食べ終わったらさっさと帰りなさいよー」

 

 立ち去ってゆく華奢な背中は、力強くも、弱弱しくも見えた。見えてしまった。

 

 ただ見送ることしかできなかった。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、少しだけ、ほんの少しだけ、僕は自分の心が揺れたのが分かってしまった。

 

 ゲージは再び、下降する。

 

 

 

 

 



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「……なんであんたがうちにいんのよ」

 飾り気のない灰色のスウェットに丸眼鏡を装備した、完全オフモードの冬優子ちゃんがリビングの入り口に突っ立っていた。長く艶やかな髪には寝ぐせ一つ見当たらなく、常に気を張っているでお馴染みの冬優子ちゃんらしいなと思ってしまった。

 

「親戚から梨いっぱいもらってさ。冬優子ちゃんちにも分けようと思ってきたら、おばさんが『せっかくだからあがってけ』って」

 

 僕の説明を聞いて大きくため息をついた冬優子ちゃんは、重い足取りでキッチンに行きお湯を沸かし始めた。

 

「んでー、当の()()()()はどこにいんのよ」

 

 こぽこぽとお湯を注ぐ心地よい音を響く。瓶を開けたり陶器の蓋が閉まるような音も聞こえる。おそらく紅茶を入れているのだろう。

 

「買い物行ってくるって」

「お客と娘だけを残して買い物行くなっての。ってか、何かしらもてなしなさいよねー」

「もてなすで思い出したけど、お昼ごはんもここで食べて行ってって」

「……お昼までまだあと3時間くらいあるんだけど」

 

 ソーサーに乗せたカップを二つ持ってきて僕の隣に腰かける。どうやら僕の分も淹れてくれたみたい。ありがとうと素直に感謝を述べつつ、小さじ一杯の砂糖を入れて口元に運ぶ。あ、美味しい。

 その時、軽快な音楽が隣から、つまり冬優子ちゃんの方から聞こえてきた。メールか何かだろう。

 

「あれ、お母さんからだ。忘れ物か…しら……」

 

 スマホを確認した冬優子ちゃんは、語調が弱まるのに比例して顔が赤く染まっていく。

 

「え、どうかしたの?」

「な、なんでもないわよ!」

 

 依然顔を赤くしたまま、彼女はソファに自分のスマホを叩きつけた。なんて書いてあったんだろう……。

 

「あーもう、あっつ」

「あ、あはは、朝から元気だね」

 

 手をパタパタとさせ顔を仰ぐ冬優子ちゃんをみて、素直に思ったことを口にしてしまった。言った後にしまったと後悔したが、時すでに遅く、気が付いたら冬優子ちゃんに両ほっぺをつねられていた。

 

「あんたがこんな朝っぱらから家に来るからでしょうが!」

「いふぁいいふぁい! ギブギブ!」

 

 腕をタップして間もなく解放され、ジンジンと軽く痛む頬をさすりながら彼女を見ると「全く……」と零しながら紅茶を一口飲んだ。まるで典型的なツンデレみたいだと思ったけど、さすがにそれを口にすることは無かった。

 

「それで、どうなったのよ?」

「え、何が? 梨?」

「違うわよ。あんたの彼女よ、カ・ノ・ジョ。上手くいってんの?」

「彼女じゃないよ……。ま、まだ……」

 

 僕がそう言うと、冬優子ちゃんは意地悪に笑った。

 

 ファミレスで冬優子ちゃんに好きな子がいると打ち明けてから、既に2か月は経っていた。あれから何度か冬優子ちゃんに相談し、その度に的確なアドバイスやサポートをしてもらっていた。おかげで、その子とは少しだけ仲良くなれてきた。……気がする。

 

「あら、『まだ』とは言うじゃない。ってことは、進展はあるってことね」

「まぁ、ないこともないかな……」

「なによ、煮え切らないわねー。告白くらいはもうしたの?」

「え゛っ? コクハク⁉」

「はぁ? あんた、まだ告白してなかったわけ⁈」

 

 僕の顔を覗き込むように睨みつける冬優子ちゃんに、僕は思わず唾を飲み込んだ。

 

「あー、えっと、実はそのことなんだけど……」

「何よ。怖気づいて告白できないとか、そんなヘタレたことぬかすんじゃないわよね?」

「えー、あー……」

 

 そんなふざけたことをぬかすつもりだった。

 

 生まれてこの方、人様に告白したことが僕にとって、告白は非日常の最たるものとなっていた。そのため告白するのことを考えるだけで緊張してしまい、頭が真っ白になるほどだ。告白されたことも当然の如くなく、そもそもどうやって告白したらいいかさえ分からないというのも原因の一つだろう。

 

「ま、そんなことだろうと思った」

「よ、よくわかったね」

「そりゃ分かるわよ。何年あんたの幼馴染やってると思ってんのよ」

 

 冬優子ちゃんはそう言って、だらけていた足を折り畳み、ソファの上に体育座りをする。膝に顎を乗せて、視線を正面に向けてリラックスしてはいるものの、言葉も少し柔らかくなり、相談に乗ってくれるモードに入ったように見えた。

 

「こ、告白ってさ、どうやってすればいいと思う?」

 

 告白という言葉を口にするだけで顔が火照っているのが分かり、そのこと自体に恥ずかしさを覚えた自分が情けなくなった。

 

「そう言うのは自分で考えなさいよ。どんなものだろうと精いっぱい考えたやつの方が向こうも嬉しいわよ」

 

 膝を抱えている彼女の拳が、きゅっとズボンを握っていた。

 

 今までのどのアドバイスよりも、どこか力強さを感じた。もちろん今までのも真摯でためになるものだったが、今日のは魂が籠っていた。

 

「まぁしいて言うなら、まっすぐぶつけなさい」

 

 冬優子ちゃんは膝に頭をこてんと乗せ、隣にいる僕の目を見つめる。その瞳には確かに僕が映っているが、どこか遠くを見ているようで、なんだか見透かされているようで、僕は気恥ずかしくなり目を背けた。

 僕は紅茶を一口飲み、背もたれに体重を預ける。

 

「そういうものなのかな」

「少なくとも、ふゆはそうだわ」

 

 重たく瞬く彼女に、どことなく既視感を覚える。しかしその正体に思い当たりがなく、まさしくデジャブだろうと自分を納得させた。

 

 ぽた、ぽた、と一定の間隔でシンクを打つ水の音がやけに気になる。

 

 喉元まで出かかった言葉は、一度飲み込まれ、そして結局押し返されるように口から飛び出した。

 

「……冬優子ちゃんはさ、どういう言葉で告白されることが多いの?」

「やめなさいよ、告白されまくってるみたいな前提で言うの」

「されてなかったっけ?」

 

 ジト目を向ける彼女をよそに、僕は記憶を掘り起こす。これには思いあたりがいっぱいあった。

 

 中学生の時から数えても、少なくとも片手じゃ足りないくらいには告白されていたような覚えがあるんだけど。冬優子ちゃんは見た目もすごい可愛いし、ふゆモードのときなら人当たりもいいしで、モテない要素は無いと思う。もちろん、素の冬優子ちゃんも素敵だけど。

 

「告白され……てるのかしら? そりゃまぁ、されたことくらいはあるけど、他の人がどれくらい告られてるか分からないから比べようがないわね」

「へーやっぱすごいなぁ。ちなみに告白したことは?」

「……ある、けど」

 

 目を背け、前髪をくるくるといじる冬優子ちゃんの横で、僕は開いた口が塞がらなかった。15年ほど付き合ってるが、彼女から誰かに矢印を向けているところを見たことがなかった。

 

「そうなんだ! 僕の知ってる人……って聞くのは流石に失礼だね。ちょっと参考までにさ、何て告白したかを聞いてみたいんだけど、どうかな?」

 

 とは言ったものの半分は興味本位だ。恐る恐ると言った調子で冬優子ちゃんの調子を伺うと、「あー」とか「うー」とか呻きながら視線をあちこちに移動させていた。

 当時のことを思い出しているのか、頬をわずかに紅潮させていて、それはまさしく恋する乙女と言って差し支えないものだった。

 

「気軽に言ってくれるけど、ふゆにも恥じらいってものがねー……」

「そうだよね。ごめんね、変なこと聞いちゃって」

 

 会話が止まり閑かさが残る。

 

 家の外からバイクが通りすぎる低い音が響く。手持ち無沙汰になり頭を軽く掻いたところで、冬優子ちゃんも全く同じ動作をしているのが見えた。彼女もそれに気が付いたようで、互いに目を見合わせて、二人して笑った。

 

 なんてことない、たまたまシンクロしただけ。

 

 でもきっと、こういうのの積み重ねが今の僕たちの関係を作っているんだろう。

 

「それにしても、なんで色んな人の告白断ってきたの」

「なんでかしらね。なーんかどれもいまいちピンとこなかったのよねー。はぁ、ふゆもそろそろ青春したいわー。あんたのお守りなんてしてないで」

「あはは、冬優子ちゃんならすぐできるよ。かわいいし優しいし、今まで色んな人に告白されてるくらい魅力的な人だもん。僕が保証するよ」

 

 あんたの保証なんて役に立たないわよ。

 

 そんな軽口が飛んでくるだろうと思っていた。そういうつもりで言葉を発した。

 

 しかし返ってきたものは、まったく違うものだった。

 

 ソファについた僕の手、その甲に何やら柔らかい感触を繰り返し感じた。

 

 そちらに目を向けると、冬優子ちゃんに人差し指で軽く小突かれていた。

 

「ねぇ──」

 

 そのまま、僕はゆっくり、ゆっくりと、彼女の顔の方へ視線を上げる。視線を上げるにつれ、喉が閉まっていくのが知覚できた。胸の底の、奥深くに沈み込んでいた何か、その存在感は主張され、僕はそれを無視した。

 

 目の前に在るのは、抱えた膝に乗った、わずかに僕を見上げている端正な顔立ち。

 その頬は赤く染まり、目もわずかに潤んでいる。先程恋する乙女と形容した表情、それよりも遥かに深く焦がれていた。

 

 

「──だったらふゆと付き合ってみる?」

 

 

 優しく、切なく、言葉が彼女の口から零れ落ちた。

 

 その瞳から目が離せない。締まった喉は息すら許さない。指の一本さえ感覚がない。

 

 僕は、完全に動けなかった。

 早鐘のように打つ心臓以外は。

 

「……あ、っと……」

 

 情けない、言葉とも呼べないようなものが喉から転がり落ちた。

 

 その瞳に僕を映し続けていた冬優子ちゃんはやがて足をソファから投げ出し、背もたれに体を預けた。見上げた顔からは、当然のように表情は読み取れない。

 

「……告白のセリフよ。昔、一度だけ言ったっていう」

 

「え? あっ、えっと……あ、なるほど!」

 

 一瞬、いや数秒間、彼女が何を言っているのか分からなかった。しかし、少しだけ冷静になった僕のポンコツな頭は、やがて一つの記憶を最近のフォルダから引っ張り出した。

 

『ちょっと参考までにさ、何て告白したかを聞いてみたいんだけど、どうかな?』

 

 誰でもない、僕自身が聞いたことだったじゃないか。

 

「どう、少しはドキドキした?」

「いや、なんというか、……はい、ドキドキしました」

「ふふ~そうでしょ」

 

 赤みのさした冬優子ちゃんの頬がくいっと上がる。してやったり、とでも言いたげだ。僕は上気した顔を冷ますように頬を軽く叩いた。鼓動の早さに目を瞑れば、いつもの僕に戻っただろう。

 

「ドキドキしといてなんだけど、あんまり、その……告白っぽくなくない? まっすぐぶつけなさいって言った割にはなんか…」

「誰がどう聞いても告白でしょうが! 直接言うのは恥ずかしいけど精いっぱい思いを伝えたっていう、乙女のいじらしい告白場面でしょ! アニメとかでもよくあるでしょ!」

「あんまり恋愛が絡むアニメ見ないしなぁ」

 

 照れ隠しでしかない僕の言葉に、握りこぶしを作り高々と語る冬優子ちゃん。どこか他人事に語るその熱量に押されつつも、普段からサブカルチャーにそこまで触れていない僕にはあまり分からないものだった。

 好きな人が出来て若干ながら恋愛についても敏感になる前の自分だったら、それがそもそも告白であることにすら気が付かなさそうだな。

 

「……ほんとは、もうちょっとちゃんと言うつもりだったのよ。でも、あんたが……」

「え、僕?」

 

 もしかして、ちゃんと告白しようとしてた冬優子ちゃんを僕が変にからかってしまった、とか? 正直そんな記憶がないけど、もしそうだとしたら本当に最悪なことをしたことになる。今の冬優子ちゃんの様子から考えると、その恋は実っていないようだし、謝っても謝り切れない。

 

 でも、僕は気が付いてしまった。

 

 心の奥の、底深くにいる、最悪の自分。

 

 その恋が実ってないことで、どこか安心してしまっている自分もいることを。

 

 長年の幼馴染が誰かのものになってしまうのが少し寂しいという、僕のみみっちい独占欲だろうか。

 

 本当に、みみっちい。僕の恋愛相談を真摯に聞いてくれている冬優子ちゃんと比べたら、よっぽど矮小で下種で、哀れな人間だ。本当にいやになる。

 

「やっぱなんでもないわ。ともかく、ふゆがした告白はこれだけね。相手との関係値ないとただのヤバい奴になるし、参考にならなさそうで悪いわね」

「あ、いやいや! そういうパターンもあるんだって知れてよかったよ! すごい、こう、グッときたし!」

「……一応言っておくけど、例えふゆがあんたを好きだったとしても、好きな人がいて、あまつさえその相談を受けてる状況下で告白なんてしないからね」

「大丈夫! 分かってるよ!」

 

 冬優子ちゃんはやれやれと呆れたような、でもどこか喜んでいるような笑顔を小さく見せた。

 

 分かってる。

 

 冬優子ちゃんは義理堅い。約束は必ず守るし、裏切らない。例え好きな人がいたとしても、その人の弱みに付け込んだりしないだろう。

 冬優子ちゃんは優しい。卑劣な策略を張り巡らせて、自分だけが幸せになるような道は選ばないだろう。

 

 でも、分からない。

 

 なぜ、今の彼女の笑顔からは「無理している」と感じてしまうのか。

 

 分からない。

 

 僕は、僕の心臓は、なんでまだ早いのだろうか。

 

 分からない。

 分かれない。

 

「ちなみにさ、それって誰に言ったの?」

 

 無意識だった。気が付いたら、言い終わっていた。

 

 僕の質問を聞いて、冬優子ちゃんは眉をひそめて人差し指を顎に当てて少しだけ考えるような動作をした。

 口を半開きにして、いかにも失敗しましたと考えているような僕の表情には気が付いていない様子だ。

 

 やがて、彼女はその指を自分の唇に軽く押し当てた。

 

「秘密♡ 一回聞くの辞めたのにもう一回聞くなんて~男らしくないですよ~」

 

 ふゆモード特有の甘い声。しかし言っていることは非常に痛いところをついていた。

 

「う、それもそうか…」

「気になるの~?」

「う、うん、まぁ」

 

 なぜ気になるのか、分からない。

 

「……へぇ」

 

 彼女は目を見開き、驚いたような感心したような表情を浮かべるも、それ以上は何も言わず、いつの間にか空になった2つのカップを持ち、流しへ向かった。カップがシンクに置かれる音の後、少し開いていることに気が付いたのか、彼女が水道をキュッと固く締めて、こちらへ戻ってきた。

 

「まぁ、今は自分のことに集中しなさい。ふゆの終わった恋なんて、成人してからのんびりお酒でも飲みながら話しましょう」

 

 

 

 

 直後、冬優子ちゃんの母親が帰ってきた。

 

 いつの間にか1時間以上も話していたみたいだ。結構な時間買い物に出ていた母親に対して冬優子ちゃんは恨めしそうな視線を向けていたのがやたらと印象に残っている。

 

 そのままお昼ごはんを一緒に食べ、僕の持ってきた梨を食べ、3人で少しだけ昔の話をして、僕は帰った。

 

『ねぇ、だったらふゆと付き合ってみる?』

 

 その言葉が、頭の中でリフレインしていた。

 

 それがなぜかは、分からない。

 

 

 




幼馴染冬優子あるある

幼馴染に好きな人がいると分かったらボディタッチとかをしないようにするけど、今までの癖でついやってしまって自己嫌悪する。


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「せっかくの花火大会なのにため息なんかつかないでくれる?」





「え、ため息ついてた?」

「ついてたわよー、バカみたいに大きいの」

 

 無意識の行為に僕は思わず口に手を当て、それを見て今度は冬優子ちゃんが鬱陶しげに小さくため息をついたが、それは祭りで賑わう人々の雑踏の中へと消えていった。

 

「ご、ごめんね……」

「まぁ今回は許してあげるわ。傷心中のあんたを励ますために来てるんだしね。ただ、ため息つくならふゆにバレないようにしなさい」

「うん、分かった。そうするよ」

 

 そう言いながら僕は手に持っていた綿菓子を冬優子ちゃんの方に差し出し、彼女はそれを適当に手でちぎり口に運んだ。市内のお祭りが開かれたエリアに到着してまだ10分ほどしか経っていないが、既に満喫していると言っていい程度には買い食いをしていた。

 

「それにしても、一緒にお祭りに来るのなんて何年ぶりかしらね。浴衣も、随分と久しぶりに着た気がするわ」

 

 冬優子ちゃんが腕を少し開き自分の浴衣を改めて見回した。最後に一緒に来たのは多分小学校6年生の時であったので、さすがに着ている浴衣もその時のとは違うものだった。

 

「確かにお互い友達と行ったりしてたしねー」

 

 僕は中学時代の友達に想いを馳せた。特に仲の良かった人たちは受験で地元から離れて行き、それに伴って疎遠になってしまっていた。みんな元気にしてるかな。

 

「いやあんた、他に言うことがあるでしょ」

「え、言うこと?」

 

 腕を広げたままジト目を向ける冬優子ちゃんだったが、今の流れで特に言わないといけない話題が思い当たらず、僕は顎に手を当てて考え込む。

 

「……まぁいいわ。流石にフラれたばかりの男にそれを言わせるのは悪いわよね」

 

 その言葉を聞いて、冬優子ちゃんが何を言わんとしているかがわかった。しかし、同時に言葉の槍が僕の胸に深く突き刺さった。

 

 僕は先日、好きだった子に告白した。

 

 そして、見事に玉砕した。

 

『ごめんね、その、いい人だとは思うんだけど、そういう目で見れないというか……。友達のままじゃだめ、かな?』

 

 僕はその言葉に何とも返せず、約半年にわたる僕の恋はここで終了した。

 

 あれから1週間経ち、沈みっぱなしだった僕を見かねた冬優子ちゃんがこうしてお祭りに誘ってくれたというわけだ。

 

 そんなスーパーいい人幼馴染がこうして浴衣で着飾ってきてくれたわけで、そんなときに僕が掛けるべき言葉は一つしかないことは、よく考えると明白だった。

 

「うん、似合ってるよ、冬優子ちゃん。いつにも増してかわいいよ」

「っ! 別に、無理して言わなくていいのに」

「無理になんて言ってないよ。ほんとにそう思ってるって」

「……ありがと」

 

 口を尖らせるいじらしい冬優子ちゃんであったが、直後訪れた沈黙に耐えかねてか僕の背中に軽く平手打ちをしてきた。

 

「だぁ! こういうのはふゆたちじゃなくて適当なカップルがやっとけばいいのよ! ほら、たこ焼き売ってるわよ! 次はあれ食べましょ!」

「そういえばあの子、たこ焼きが好きって言ってたなぁ……」

「だからそういう辛気臭いのはやめなさいって」

「うん、さすがに冗談だよ。行こっか」

 

 僕と冬優子ちゃんは年齢も忘れ、無邪気に祭りを満喫した。射撃で無双する冬優子ちゃんや、金魚すくいで一匹も掬えずに凹む冬優子ちゃんなど、見ていて面白いものはいっぱいあったが、それはまたいつかの機会に。

 

 

 それから、数時間後。

 この祭りの目玉である花火の時間が目前に迫っていた。

 

 

 僕たちは、それを見るために人気の少ない神社まで来ていた。

 

「ごめんね、昔花火見てたあそこが今はもう入れないなんて知らなくて……」

「ほとんど整備されてない場所だったし、仕方ないわね。なーんか時代を感じちゃうわー」

 

 僕の予定では、小学生時代によく花火を見ていた秘密基地的な雑木林に行くつもりだった。あそこは花火会場からも近く、その割に人が全くいなかったので、花火を見るには最高の場所だった。しかし、それも昔の話のようだ。

 現在は封鎖されており、冬優子ちゃんに教えてもらった別の穴場である神社に来ていた。

 

「足、大丈夫? 結構歩かせちゃったよね」

 

 僕は神社の縁側のようなところに腰かける彼女の足に目を向ける。神社に到着したときに少し庇ったような歩き方をしていたので気になっていたのだが、やはり鼻緒の部分にこすれたような跡があった。

 この神社は、当初行こうとしてた雑木林から多少離れており結構歩かせてしまった。彼女の足にダメージを与えてしまったと、僕は自身の計画性の無さと気遣いの出来なさに肩を落とした。

 

「あぁ、これ? まぁ確かに痛くないことはないけど、そんなのこの格好する時点で覚悟してたからヘーキよ、ヘーキ」

 

 興味なさそうに手を軽く振ったのは、おそらく僕を落ち込ませないためだろう。しかし、そんな気遣いもまた、今の自分にはダメージとなってしまった。そして、そんな面倒な思考をしている自分が、また嫌になる。完全に負のスパイラルに入ってしまった。

 

「はぁ……、上手くいかないな。せっかく久しぶりに冬優子ちゃんとお祭りきたのに……」

「ため息厳禁」

 

 萎んでいく僕の言葉を遮るように、冬優子ちゃんは肘で僕を小突いて注意した。

 

「それに、別に上手くいくもいかないもないでしょ。幼馴染とのお出かけなんて、そんな重苦しくとらえなくていいのよ。ていうか、誘ったのふゆだし」

 

 冬優子ちゃんは、しゃくりと右手に持っていたりんご飴の最後の一口を食べる。買っていた食べ物はこれで無くなった。

 

 この場に存在するのは、僕と、冬優子ちゃん。

 そして、僕のどうしようもない劣等感だけ。

 

「なんかさ……」

「……うん」

「もう、ずっと、自信がなくて。告白が上手くいったら、少しは自信が持てるんじゃないかって。自分のこと、もっと好きになれるんじゃないかって、淡く期待してた節もあるんだ。結局フラれちゃったけど」

 

 自分の根底にあった醜い感情の一つを吐露した。

 

 こんなもの、人に言わないほうがいいということは自分でも分かっていた。彼女を好きになった気持ちは本当だったけど、そんな打算めいた思惑が自分の中にあったと自覚したとき、僕はどうしようもなく自分が嫌いになった。

 

 人を好きになろうとして、ほんとは自分を好きになろうとしていた。それを知って、僕は自分が、もっと嫌いになった。

 

 パキッ

 

 何かが折れる音が隣から聞こえ、渦巻く負の感情から少し気が逸れた。

 

 それは、冬優子ちゃんがりんご飴が刺さっていた割りばしを折った音だ。彼女の視線もそこに向いている。僕は、彼女の目の中にはいなかった。

 

「周りの存在を自信の拠り所にするのは、おすすめできないわね」

 

 冬優子ちゃんにしては珍しい、感情の読み取れない平坦な口調だった。

 

 重々しく、砕けた割りばしをゴミ袋にしまう。彼女のスマホがバイブするが、それを片手間で停止させる。そして、一拍置いて言葉を続けた。

 

「自信ってのは読んで字のごとく、自分を信じるってことなのよ。告白して自信をつけるんじゃなくて、告白を成功させるような努力をして自信をつけなさいって」

 

 ぐぅの音も出なかった。

 自分の中に強い芯を持っており、完成された理想像である『ふゆ』を貫き続ける彼女から出たその言葉には、到底高校生が出せるものとは思えない重みが存在していた。

 

 そして、その重みに、僕は圧し潰されそうになった。

 

 項垂れた僕は膝に腕を乗せ、地面に向かって言葉を吐き出す。

 

「そうだよね……。その通りだ。やっぱ冬優子ちゃんはすごいね」

「……すごいのは、あんたよ」

 

 思いもよらぬ返しに彼女の方を振り向くと、そこには澄んだ琥珀色の瞳が、貫くようにこちらに向けられていた。

 

 潤んだ瞳は辺りの少ない光を受け入れ、乱反射している。

 

 その美しさに、僕は思わず息を飲んだ。

 

「あんたがいてくれたから、ふゆは頑張れてるの。あんたのおかげで、ふゆはふゆでいられるの」

「僕の、おかげ……?」

「あんたってば、ほんっとに何も覚えてないのね……」

 

 話が掴めず混乱する僕に、呆れるように息を漏らす冬優子ちゃんだった。

 

 しかし次の瞬間、優しく、どこか憂いに帯びた表情で笑っていた。

 

「あんたよ」

「な、なにが?」

 

「ふゆが告白した、唯一の人」

 

「え?」

 

 何を、言っているのだろうか。

 

 聞き間違え、ではなさそうだ。言葉ははっきりと聞き取れた。となると、おかしいのは僕の頭なのか。

 

 だって、そんなはずない。冬優子ちゃんが、僕に告白していた……?

 

「ふゆはさっき自信の拠り所がどうとか言ったけど、せめてあんたがそう思えるきっかけくらいはくれてやるわ」

 

 未だ混乱を続け、声すら出せなくなっている僕。

 

 確かな声で、力強く、僕に向かって言葉を投げかける冬優子ちゃん。

 

 まもなく花火が上がるのだろうか、遠くから賑やかな声や祭囃子が微かに聞こえてくる。日はとっくの昔に落ちており、昼間は煩わしいセミの鳴き声も、今は鳴りを潜めている。

 

 この場には、()()()()()()()()()()が、確かに存在していた。

 

「ふゆが、あんたにどれだけ助けられたか知らないでしょ? クラスの女子に陰湿なちょっかい掛けられた時、あんたにどれだけ励まされたか。私の夢がちょっとしたことで潰えたとき、あんたにどれだけ支えられたか」

 

 冬優子ちゃんは浴衣の胸元を強く握りしめる。奇しくも同時に、僕は自分のズボンを握り締めていた。呼吸のタイミングさえも重なり、僕らの境界は曖昧になっていく。

 

 震える言葉と共に脳内に流れ込むのは、彼女との思い出。

 

 冬優子ちゃんにとっては、苦しいはずの思い出だった。

 

 忘れるわけがない。

 あんなに憔悴した冬優子ちゃんを、もう二度と見たくない、もう二度とそんな目に会わせないと、僕は固く誓ったから。

 

「最初、あんたが恋愛相談を持ち掛けてきたとき、ふゆは嫉妬したわ。でも、次第にそんな気持ちはなくなっていった。好きな人のことを考えぬいて、一生懸命になれるあんたを、やっぱりすごいと思った。そんなあんたを、いや、そんなあんただからかっこいいって思った」

 

 止まらない。

 僕だけじゃない。同期する二人の間を、走馬灯のように十数年分の思い出が交差する。

 

「少なくとも、自分の感情なんてどうでもよくて、あんたがあんたの好きな人と結ばれるために本気で応援できるくらいに、あの時のあんたは輝いてたわ」

 

 僕が、輝いてた?

 僕が、かっこよかった?

 

 冬優子ちゃんの言葉に遅れて、顔が熱くなる。

 

 顔だけじゃない。体も、心も、眩むほどに熱い。

 

 熱が、僕の心の中にある ”僕” を溶かしていった。

 

「自信持ちなさい。あんたはすごいやつよ」

 

 冬優子ちゃんはこちらに身を乗り出して、僕のすぐ傍に手をついた。

 

 夏に溶けた冬優子ちゃんの香りが、僕の鼻をくすぐった。わずかに重なった指先に感じる熱は、果たしてどちらのものだろう。

 

「なによりあんたは、あんたがすごいって思ってるふゆが惚れてた男なのよ。あんたが自信持たなかったら、ふゆまで恥かくんだから。しょうもない男に惚れた女にしないでほしいわ」

 

「ふ、ふゆこ、ちゃん……」

 

 やっとの思いで出した声は、弱弱しくかすれており、彼女の耳に届いたかさえ怪しい。

 

「何も言わなくていいわ」

 

 冬優子ちゃんは僕の声に反応してか、僕の左胸に軽く手を置いた。触れているのか触れていないのかさえ、見ていなければ感じ取れないほど優しく、だが、その存在は何よりも強かった。

 

 しかし、まっすぐと僕に向けられた瞳には、果たして僕が映っているのだろうか。そう思わせるほど、彼女は儚く、弱弱しく、遠くを見ていた。

 

「昔のことよ。別にフラれて傷ついてるあんたを横から掻っ攫おうなんて思ってないわ」

 

 触れあっていた冬優子ちゃんの指が離れていく。接点が徐々に小さくなり、やがて0になる。

 

「……っ」

 

 息を漏らす。精いっぱいの、僕の感情。

 

 花火開始のアナウンスが、僕たちの耳に届く。

 

「もうすぐね」

 

 花火のことだろう。彼女は花火が上がる方角へと顔を向ける。

 

 明かりの乏しいこの神社では、彼女の横顔からは何も読み取れない。

 

「こういうのってさ、花火が上がるのと同時に言って、聞こえなかったことにするのが定番よね」

 

 

 遠くで重い破裂音が鳴り、何かが打ち上げられる。

 

 

「でも、ふゆの言葉は消させない。ごまかしたりなんてしない。なかったことになんてしない」

 

 

 空気を斬る音が響き、天高くにそれが届く。

 

 

 

「だから、あんたも忘れないで」

 

 

 

 花火が、宙に咲く。

 

 

 音が、空に轟く。

 

 

 

 

 照らされた君の儚い笑顔を、僕は忘れられるわけがなかった。

 

 

 

 

 




次回、黛冬優子編最終回


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「すみませーん、うちの子にブランコ譲ってもらってもいいですかー?」

「うわっ! す、すみません!」

 

 放課後、公園のブランコに揺られながら考え事をしていた僕は、背後から唐突にかけられた声に思わず肩を跳ね上げて後ろを振り向いた。既に夕方を告げるチャイムが鳴った後だとか、隣のブランコはまだ空いているだとか、そう言ったことには一切頭が回っていなかった。

 

 瞬間、頭に軽い衝撃が走った。

 

「冗談よ」

「ふ、冬優子ちゃん……」

 

 10年来の幼馴染である冬優子ちゃんが僕の頭にチョップしたまま、嬉しそうに笑みを浮かべていた。

 

 念のため周囲を見回すが、ブランコを譲ってほしそうにしている子供もその親も、もちろんどこにもいない。それどころか、人っ子一人いなかった。「隣、失礼するわね」と言い、僕の隣のブランコに腰かけ、ゆらゆらと軽く漕ぎ始めた。

 

「びっくりさせないでよ。てっきり知らない人に怒られるかと思ったよ」

「あんたの背中を見るとどうも驚かせたくなっちゃうのよねー。悪いかしら?」

「いや、悪いんじゃないかな……」

 

 僕の抗議の視線を無視するかのように、冬優子ちゃんは足を大きく振って漕ぐ力を強めた。冬優子ちゃんの長い脚では漕ぎにくいようで、不自然に脚を折り折り畳んだりしていた。ブランコは子供用なので当然と言えば当然だ。

 

 僕たちも、すっかり成長してしまった。そう強く実感した。

 

 ある程度の高さまで到達した彼女は、無言に耐えかねてか、はたまた喋らない僕に気を遣ってか、漕ぎながら、風邪を斬る音に負けないように大きめの声で僕に言葉を投げかけてきた。

 

「今度は何考え込んでんのー? また好きな人が出来た? あんたも浮気者ねー」

 

 その発言にぎくりと体を硬直させた。

 

 彼女がここにきてから考え込んでいる仕草は見せてはいないつもりだったが、見破られていたようだ。十数年の付き合いのなせる業かなと思ったけど、男子高校生が夕方の公園で一人ブランコに乗っていたらそう取られてもおかしくはないか。

 

「……考えてたんだ。冬優子ちゃんのこと」

「……ふーん?」

 

 漕ぐ足を止め、徐々に減速していくブランコ。鎖がたわみ、金具が軋む不健康な音が響く。

 

「あれからずっと、考えてた。僕にとって、冬優子ちゃんはどんな存在なんだろうって」

 

 昔告白をしていた、という告白を受けた時、嬉しさよりも先に驚きが来た。その後、胸がバクバクと高鳴った。彼女のことを意識するようになった気もするし、変わらない気もする。もしもこれが冬優子ちゃん以外の誰かから言われたことだとしたら、ただの思い出になって終わっていただろう。

 

 しかし、心の中に蠢く何かがそうはさせなかった。これが、「誰でもない誰か」と「黛冬優子」の違いだ。だから、あれから今日までの1か月、僕はその正体について考えていた。

 

 ほどよくブランコの振り子の幅が短くなったタイミングで、冬優子ちゃんはローファーを地面に刺すように滑らせて、その動きを完全に止めた。舞い上がる土煙は夕陽に照らされながら、ゆっくりと漂い、次第に地表に落ちてゆく。

 

「大層な言いぶりね。それで、結論は出たの?」

 

 チェーンを掴みながら体を倒し覗き込むように僕に顔を向ける。軽い調子で聞いてきたが、その顔はわずかに強張っていた。

 

「うん、出たよ。今ちょうど」

 

 いや、違う。

 

 もっと昔から、ずっと前から、僕の中に答えはあった。

 

 気づかなかったのか、気づかないふりをしていたのか、それとも、それが何か分からなかったのか。僕には、今の僕には確かめようのないことだ。

 

「あら、そんないいタイミングでふゆは登場したのね」

「うん。というか、冬優子ちゃんの顔を見て、声を聴いて、分かったって感じかな」

「顔なら、()()から何回か合わせたじゃない」

「でも、ちゃんと喋ったのは久しぶりだよ」

「そうだったかしら?」

「そうだよ」

 

 互いに避けていた訳では無い、と思う。僕が恋愛相談を持ちかける直前は、むしろこれくらいの距離感だった気さえする。

 

 そして、久しぶりの邂逅。10年以上隣で見続けていた顔を、聞き続けていた声を、真正面から受け止めた。その瞬間、この1ヶ月の僕はなんて簡単なことに悩み続けていたんだろう、なんで分からなかったんだろうと、そう思えた。

 

 そうして見つけた答えは、きっと言うことに意味なんてない。冬優子ちゃんも返事は望んでいない。

 

 それでも──。

 

「小さい時からずっと一緒だったよね」

「あんたが隣に越してきたのが5歳んときだっけ? もう12、3年になるのね」

「もうそんなになるんだね。そりゃいつの頃を思い出しても冬優子ちゃんがいるわけだ」

 

 僕のアルバムは、同時に冬優子ちゃんのアルバムとも言えるくらいには一緒に写っているものばかりだ。僕の母が冬優子ちゃんに「そんなによく来るんならうちのカギ渡しておくわよ~」と言い出すくらいには、深い関係だった(冬優子ちゃんは小さい頃からまじめだったので流石に受け取らなかった)。

 

「悪かったわね、あんたの思い出に居座ってて」

「悪くなんてないよ。けど、それが当たり前になりすぎてて、冬優子ちゃんに対するこの気持ちがなんなのか、考えたことも無かったんだ」

 

 冬優子ちゃんとは、一緒にいるだけで楽しかった。離れていても、僕は常に彼女のことを考えていたのかもしれない。一人で買い物に行ったときに、「これ冬優子ちゃん好きそうだなー」とか「今度会った時これのこと教えてあげよー」とかは頻繁に頭によぎっていた。

 

 今までは気にも留めなかった感情。もし気に留めていたとしても、当時はそれが分からなかったかもしれない。

 

 

 けど、恋をして、恋だと分かって、恋が終わって、気が付いた。

 

 

「僕も、冬優子ちゃんが好き()()()

 

 そして、きっと今も──

 

「そう……」

 

 陽が沈む音が聞こえそうなほど、辺りはぴたりと静かになった。生温い秋風が肌を撫でつけ、不快感が体の芯を巡った。

 

 これは自己満足だ。

 

 彼女が僕にかつての思いをぶつけてくれたのには、僕を励まし自信をつけさせるためという理由があった。しかし、僕の告白には、彼女にとって何の意味も持たない。

 

 そんなことは分かってる。けれど、言いたかった。前に進みたかった。この気持ちを僕1人が持ったまま老いていけるほど、きっと僕は強くないから。

 

 そして、僕は今でも、以前告白したあの子のことが好きでもある。僕が告白してから時間も経ってもいない。そんな状況で、僕は冬優子ちゃんに全てを告げることはできなかった。

 

 僕は、最低の男だ。

 

 僕のエゴに彼女を巻き込んで、そのまま轢き殺してしまうのではと不安でいっぱいになる。先ほどまで普通に見れていた彼女の顔に、急に(もや)がかかったような気がした。彼女がどんな顔をしているのかが、怖くて見れなくなってしまっていた。

 

「気に病む必要はないわ。あんたが忘れちゃうような、気が付かないようなへっぽこな告白しか出来なかった私に問題があるだけ」

「そんな、違うよ。僕が、僕が自分の気持ちにもっと目を向けてたら……」

 

 気づいてないだけでなく覚えてすらいない。僕が言うのは本当の本当におこがましいが、10年一緒にいた幼馴染に告白をして、それが相手の記憶にすら残っていないというのは、一体どれだけの苦しみを彼女に与えてしまったのだろうか。

 

 そして、このことを悔いていること自体が彼女を傷つける。悩めば悩むほど、彼女にとってはそれが茨のごとく締め付ける。

 

 自分の愚かさ、弱さ、幼さ。そういったものを握る潰すかのように、僕は拳に力を込めていた。

 

「もう、遅いわよ……」

「……ごめん」

「……お互い様ね」

 

 彼女は大きく息を吐いた。

 

 空の色が橙から藍に変わっていく。先ほどよりも冷えた風が砂と彼女の髪を巻き上げる。夕焼けが薄れた現在、彼女の頬に赤みなどなく、ただ透き通るような肌色があるだけだった。

 

「あんたが、さ。もしまだ……」

「ん?」

「いや、何でもないわ」

 

 止まっていたブランコから勢いよく降りて、僕の正面にあった手すりのような囲いに腰かける。

 

「ちゃーんと言えるようになったじゃない。好きだって。前は()()って言葉を言うのにも緊張してたのにね」

「うん、言えた」

 

 言われてみれば、確かにそうだ。思い人に告白した時は緊張のあまり噛みすぎて、ちゃんと伝えるのに5分はかかった程だ。

 

 でも、言えた。すんなりと、自然に、言葉に出来た。

 

「ふゆが、相手だから?」

「……分かんない。この前、一世一代の告白をしたからかも」

「そう。失恋が成長させた、ってやつかしらね」

 

 失恋が成長、か。

 よく聞くフレーズではあるが、実に勝手な言葉だと思う。

 

 勝手に好きになって、相手に「人を振る」という重荷を押し付けた挙句、その行為を正当化する。相手からしたら勝手に踏み台にされたも同然だ。

 

 そして、僕がそう思っていることを分かっていながら冬優子ちゃんはそのフレーズを選んだのだろう。いつもの、信頼が根底にある冗談だ。ほんとにいい性格してるよ。そういうところが好きだし、好きだった。

 

「もしそうなら、相手に申し訳ないね」

 

 冗談めいた口調で、僕は言った。一瞬目を見開いた冬優子ちゃんだったが、すぐに揶揄うような軽い笑みを浮かべた。

 

「あら、言うようになったじゃない」

「冬優子ちゃんのおかげだよ」

 

 そう言いながら改めて正面にいる冬優子ちゃんを見据える。まもなく地平線に沈む夕日をその背に隠し顔が陰になっている彼女だが、けれども表情は晴れやかなものだった。

 

 その表情に、僕は少しだけ救われた。

 

 失恋が強くするというのが勝手な言葉だとするならば、振ったことさえ覚えていない少女の笑顔に安心している僕は、一体なんと形容すればいいのだろうか。

 冬優子ちゃんへの思いも、告白してフラれたあの子に対する思いも、違った種類の好きを持ち続けてハッキリ出来ない自分は、一体なんと形容すればよいのだろうか。

 

 彼女の影の中で、僕は自分を嘲笑う。

 

「前話したこと、覚えてる?」

「前って、どのこと?」

 

 不意に変わった話題に驚きつつも心当たりを探すが、曖昧な検索条件では引っかかるものも引っかからない。またしても何かを忘れているのかと、僕は少し冷汗をかいた。

 

「二十歳になったら、お酒でも飲みながら恋バナしましょうってやつよ」

「それのことね。もちろん覚えてるよ」

 

 覚えてる。

 

 彼女に好きな人がいて、告白もしていて、フラれていたという話を、その時初めて聞いた。気がつけば、あれから季節はもう二度も変わった。

 

 でも、僕はもうその相手が僕だったというのも知ってしまっているわけで、今更何を言おうとしているのか、僕にはよく分からなかった。

 

「そん時になったら、言いたいことがあるわ」

「……今じゃ──」

 

 ──今じゃダメなの?

 

 その言葉を、僕は飲み込んだ。

 

 だって彼女の、冬優子ちゃんの目は高校生になって初めて、()()()を見ている気がしたから。

 

「今はダメ。今は、ダメなの」

 

 いつの間にか彼女の手は拳を作っていた。俯いた視線の先には、ただ何もない地面が広がっているだけ。だが突然ぐいっと突然顔を上げた。その目はじっと僕を捉えて離さない。透き通るガラス玉のような瞳は、力強さと裏に哀しさを内包してるように見えた。

 

「あんたは、今までの殻を脱ぎ捨てて、前に進もうとしてる。いつまでも私の後ろで丸くなってたあんたじゃなくなった。でも、私は違う。私には出来ない。私には、まだ、できないの……」

 

「……冬優子ちゃん」

 

 それは違うと、僕は言いたかった。けれど、彼女が一睨みを利かせてそれを阻止した。

 

「だから、これはケジメ。20歳までに、私は、私の生き方を決める。あんたに顔向けできる人間になる。だから、その時になったら、もう一度だけ言わせてほしい」

 

 何を、とは聞かなかった。

 

「……うん、ありがとう」

 

 僕も同じだ。

 

 冬優子ちゃんと並んで歩いても恥ずかしくない男になりたい。彼女のように、強さと優しさを兼ね備えた人になりたい。そして、彼女が弱ったときに、真に助けてあげられる人になりたい。

 

 この思いに嘘はない。

 

 だが、僕たちの関係に時間が必要なのも事実だ。互いが互いに抱える後ろめたさを、溶かす時間が。

 

「だから、さ」

 

 冬優子ちゃんがボソッと声をこぼした。さっきまでの力強さが嘘のように、小さな声だ。彼女は腕を組んだり頭を抱えたりと忙しそうに体を動かした。

 

 しばらくそれが続き、やがて決心したかのように僕に向かって小さく手招きした。

 

 不思議に思いつつブランコから立ち上がり、正面の冬優子ちゃんに向けてゆっくりを歩み始めた。

 

「それまで、せいぜいその辺の女でも侍らせてなさい」

「うわっ!」

 

 あと1歩で冬優子ちゃんの真ん前に到着するというとき、彼女はそう言って僕の制服のネクタイをグイっと力強く引っ張った。あまりの突然さに、僕は思わず目を閉じてしまった。

 

 直後、柔らかい感触が、頬に触れた。

 

 ゆっくりと目を開けると、すぐ目の前にはこちらをじっと見つめ、自分の唇を手の甲で軽く抑えている冬優子ちゃんがいた。

 

 僕のほうまで熱が伝わってくるくらいに顔が真っ赤なのは、きっと夕陽のせいではないと思う。

 

 いや、熱が伝わってきていたわけではない。僕自身が火照っていた。僕が何をされたのか、分かってしまったから。

 

 高鳴る動悸が体を地面に縫い付けてるような感覚に陥った。硬直している僕は、ひと際熱を持った頬を触れることさえできなかった。

 

 口をパクパクさせる僕に代わって、彼女の人差し指が僕の頬に触れた。そのまま3度、その指は優しく僕を打った。

 

 

「よ、や、く」

 

 

 その甘い声は、彼女の指に打たれて僕にゆっくりと溶けていった。

 

 僕が我に返った頃には、冬優子ちゃんは既に立ち去っていた。

 

 

 

 

 それから、1年と数カ月後。

 

 黛冬優子は、アイドルになる。

 

 

 

 

 




冬優子編、いったん終わりです。

色んなシチュエーションを考えた中で、既に終わった恋に感情が振り回される冬優子ちゃんが一番筆が乗ったのでこの形にしました。誰のせいでもないモヤモヤを抱えた幼馴染2人の青春もそれはそれでリアルかなって思います

コメントや評価も本当にありがとうございます。結構人を選ぶかもと思った冬優子編に対して肯定的だったので嬉しかったです。

次は誰にするか迷ったんですが、今回あまり恋愛成分を補充できなかったので、今まで書いた3人のアフターないしパラレルをちょっと書こうと思います。いちゃこらしてもらうぜ。

次回もよろしくお願いします。


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風野灯織
「ちょ、ちょっと、さっきのアレ、なに……⁈」


灯織編開始です。

主人公は灯織大好きマンです


 入学式とクラスでのオリエンテーションも終わり高校生になって初めての休み時間が訪れたタイミングで、灯織は俺の机のとこにコソコソと腰を低くしてやってきて言った。周りの目を気にしての行動なのだろうが、かえって目立っている気がする点についてはそっとしておこう。

 

 それにしても()()()()()()ね。まぁ()()のことなんだろうけど、何と言われても俺にとっては呼吸するも同然のことだし、まさか詰められるとは思ってなかった。

 

「いやさ、うちの中学からこの高校にきたやつってあんまいないじゃん?」

「え、うん、そうだね」

「だったら、気持ち新たに宣言しないとでしょ!」

「だからって、自己紹介の時に、あ、あんなはずかしいこと言わなくたって……!」

 

 勢いよく起立した俺に対して、髪を指でくるくるといじる灯織は小さく抗議する。

 

 それにしても、恥ずかしいこととは心外だな。自己紹介と言うなら、あれ以上に自分がどんな人間かを伝える手法を俺は知らないぞ。

 

『俺はそこにいる風野灯織さんが大好きです!』

 

 まぁクラスでの自己紹介の時に名前よりも先にそういうことを言うのは……、うん、ちょっとやりすぎたかもしれない。柄にもなく昂ってしまい、普通に自己紹介をするつもりが開口一番にそう叫び、そのまま終了してしまった。

 

 だけれども!

 

「俺が灯織を好きだという気持ちに恥ずかしさなんてない!」

「私が恥ずかしいんだけど……」

 

 俺の腕の当たりをグイっと引っ張り頬を膨らます灯織。可愛すぎるぞ。国宝か? 

 やがて国宝はハッと何かに気が付いたような顔をしたと思うと、顎に手を添えて考え事をし始めた。情緒が忙しいやつだな。そういうところも最高にかわいいんだけど。

 

「──ねぇ……この会話、中学上がるときもしなかった……?」

「え、そうだっけか?」

 

 灯織の言葉を受け、俺は腕を組んで記憶の糸を手繰り寄せてみる。言われてみれば、今回みたいなことをして怒られた記憶があるような……ないような……?

 

「……なんなら、小学校にあがったときも」

「……まぁ、灯織は小さい時からずっとかわいくてきれいだったからな。致し方ないか」

「そ、そういう話じゃなくて……!」

 

 顔を紅くしながら呟いた灯織は、やがて胸に手を当てて深く呼吸し、いつもの冷静な彼女に戻った。

 

「……とにかく、ああいうのはもうやめて」

「ああいうの……」

「みんなの前で、好きとか、そういうことを言うの」

 

 いつになく真剣な面持ちの灯織に俺は少し気圧されてしまった。彼女の中で俺の発言がそこまでの嫌悪感を生み出してしまったのかとは、正直考えが及んでいなかった。しかし、冷静に考えるとそれはあまりにも想像力が欠如している思考だった。自分本位過ぎた。人の迷惑なんて、考え切れていなかった。

 

「そう、だよね。恋人同士ならまだしも、ただの幼馴染にそういうこと言われるのは迷惑だよね……。というか冷静に考えて、10年以上好きだって言い続けて返事をもらえてないんだし、さすがに気づくべきだった。灯織の気持ち、考えられてなかった」

 

 思い返せば、ずいぶんと自分本位なことをしていた。

 

 あふれ出る灯織への愛を衝動のままに吐き出していた。それに対して返事が欲しいというより、ただの自己の欲求解消に近かった。それを言うことで灯織が照れたりすることもあり、それを見ることが楽しいというのもあった。

 

 本当に灯織を大事にしたいんだったら、そんなことをするべきではなかったのかもしれない。

 

「え、あ、えっと」

 

 肩を落とし内省に内省を重ねていると、灯織が慌てたように声を漏らした。

 

「違うの、そうじゃなくて、その……」

 

 言葉を選んでいるのだろうか、あわあわと慌てながら視線が泳いでる。クラスメイトにはあまり見せていない、俺だけがよく知ってる光景だった。周りの誰も知らないその姿に、普段なら若干の優越感さえ覚えるが、今心にあるのは『灯織を傷つけてしまっていた』という子供じみた後悔だけだたった。

 

「──周りに人がいないとこだったら、言ってもいい……」

 

 赤らめた顔を隠すように俯きながら言う灯織は、あまりにもかわいく、そして美しかった。

 

 言葉が耳を通じて頭の中に染み渡っていく。呼吸さえ忘れて、時間が完全に止まってしまったかのような錯覚に陥った。

 

 反面、心臓だけが加速した時の中にいるかのように高く鼓動する。送り出された甘い血液が全身を熱くする。

 

「ひ、灯織……、それって……」

「あ……ごめん、もしかしてまた何か変なこと言っちゃった……?」

 

 不安そうな面持ちでこちらを覗き込む灯織。頭がいっぱいいっぱいだからか、いつもよりも距離も近くなってる気がする。ほんの少しでも前に動いたら鼻と鼻がぶつかってしまうような距離にある端正な顔立ちに、俺は息を飲んだ。

 

 何年も見続けたこの顔に、緊張するようになってしまったのはいつからだろうか。

 

 分かってる。灯織の気持ちは、俺には向いてない。今の言葉も、本当に()()()()()()を持たせるつもりなく言ったものだろう。でも、いつかは……。 

 

「ごめん、私もまだ整理しきれてなくて。その、私のことにかまい続けてたら、あなたの株もさがっちゃうというか、あまり私にかまわないほうがいいってことを言いたくて……」

 

 再び俯き、小さく呟く灯織。

 

「幼馴染だからって、私に気を遣わなくていいん──」

 

「幼馴染だから一緒にいるんじゃない! 俺が灯織を大好きだから、灯織ともっと仲良くなりたいから一緒にいるんだ! 俺から感謝することはあれど、灯織が後ろめたい思いをする必要なんて何一つない! もし仮にそんなことで下がる株があったら下げとけばいいんだって!」

 

 反射的に大きな声を出してしまった。

 

 大好きな灯織のことをマイナスに言われるのは、たとえ灯織本人でも苦しかった。エゴでしかないのは分かっているけど、俺にはそれが辛かった。

 

 灯織は目をぱちくりと開閉させ驚いたように声を漏らした。

 

「……ふふ」

 

 しばらくして、彼女は意地悪そうに小さく笑った。

 

「え、なんか笑うところあった?」

「いや、もうそういうこと言わないって言っておきながら、すぐ言っちゃったなって」

 

 言われて気づいた。普通に「大好き」って言ってしまった。自分から宣言しておいて、1分も守れていないじゃん。

 

 

「あ、ごめん! そんなつもりじゃ……!」

 

 弁解するためにあわあわと振られていた俺の手は、次の瞬間には動きを止めていた。

 

 灯織の両手が、俺の手を包み込むように優しく握っていた。

 

「ううん、こっちこそごめん

 

 

 ──それから」

 

 

 灯織は月明かりのような笑みを浮かべた。

 それは儚く、優しく、何よりも美しかった。

 

 

「──ありがとう」

 

 

 言葉が終わると同時に始業のチャイムが鳴るも、俺は未だ、現に戻れずにいた。

 

 

 

 




にちか編を書いたら必然的にはづきさんとも幼馴染になれる……?


明日から新社会人になってしまうので更新頻度ががっつり落ちてしまうかもです。灯織編は絶対に終わらせます。


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