あの日の約束を果たすために (ララパルーザ)
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 燦々と照り付ける太陽の下、二人の少年が向かい合う。

 片や、五歳前後。片や、十代後半。

 幼児から少年へと変わりつつある少年が吠える。

 

「いつか!僕はあなたにしょうぶしにいくよ!」

「…………」

「ぜったい、ぜったいにいくから!だから、あなたもまけないで!」

「…………ふっ、楽しみにしているよ、坊や」

 

 青年へと変わりつつある彼はそう言って笑うと、両手を上げてパタパタと暴れる少年の頭を撫でた。

 

 遠い、遠い二人の約束。果たされるのは、まだまだ先の話である。

 

 

 

 

 

 

 新人王トーナメント。それは、新人ボクサーの登竜門的存在であると同時に、ボクシング界隈における一種の目安ともなるトーナメント。

 出場資格はプロのライセンス取得後、一勝しており尚且つ四回戦以下の選手。アマチュア上がりならば四十勝未満であるボクサーが対象となる。

 かなり短いスパンで行われる過酷なトーナメントであるのだが、仮に勝ち上がり東西統一戦でも勝利し新人王へと至れば、賞金とランキング十位の席を自動的に得ることが出来るのだ。

 

 ここで脚光を浴びる選手といえば、例えばプロテスト前から注目を集めていたような者やアマチュアである程度の実績を既に有している者が大半だ。

 事実、例年このトーナメントを勝ち上がるのは注目を集めている選手が多い。

 ただし、何事にも例外と言うのは付き物。特にボクシングと言う競技ほど“確実”や“絶対”などという言葉が似合わないスポーツも無いだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今年は豊作と言われる新人王トーナメントフェザー級の部。

 カウンターパンチャーの宮田一郎。インターハイ三連覇の速水龍一。フリッカージャブの間柴了。

 その他にも粒揃いなのだが、優勝争いはこの三人であると考えられていた

 そう、()()()()()()()のだ。即ち過去形である。

 

 ソレが起きたのは、新人王トーナメントにおいてフェザー級屈指のハードパンチャーである幕ノ内一歩と、クリンチを活用した小橋健太の試合の後の事。

 優勝候補筆頭である速水龍一の試合に際して起きたことだった。

 

「けっ、相変わらずいけ好かないヤローだぜ!」

 

 吐き捨てるようにそう言い切るのは、鴨川ジム所属の木村だ。

 彼が見るのは、今まさにガウンを羽織り会場の黄色い声援を一身に受けるイケメン、速水。

 これから試合をする二人のうち、勝った方がその前の試合で勝利した後輩である幕ノ内の対戦相手となる為、その偵察とそれからこの後に予定されている身内の青木の試合を観戦しに来た次第。

 エンターテイナーのような面が目立つ速水は、その甘いマスクのお陰で女性受けはいい。だが、その一方でいまいち男性受けが悪いそんなボクサーだった。因みに、鴨川ジムの面々には受けが悪い。

 そうこうしているうちに、反対の入場口より速水の対戦相手が現れる。

 その姿を確認した瞬間、鷹村は感嘆の声を思わず漏らしていた。

 

「ほぉ……こいつは、分かんねぇかもしんねぇな」

「え?ど、どうしたんですか、鷹村さん」

「速水の対戦相手、見てみろよ」

 

 自身の尊敬するボクサーである鷹村に促され、幕之内は速水とは反対のコーナーへと目を向ける。

 そのボクサーは、パッと見では覇気に欠けると言う外ない。それもこれも、伸ばし放題の黒髪のせいかもしれないが。

 だが、その体つきとは雰囲気とは真逆。遠目からでも分かるほどに鍛え上げられた物だった。

 彼の名は、服部。服部十三(はっとりじゅうぞう)。この試合の前に、安川というボクサーを下して勝ち上がってきた。

 

「恐らく、この試合見てる大半の人間は気づいちゃいねぇ。ボクシング関係者、それも速水が勝つと最初から思い込んでない奴限定だな」

「ッ、鷹村さんはどっちが勝つと思いますか?」

「さてな、こればっかりは試合を見なけりゃ分からん。実績だけで見れば、間違いなく速水だ。インターハイ三連覇は伊達じゃねぇ。生半可なボクサーが勝ち残れるほど、甘くないからな。だが、体つきは服部だな。身長は、一歩。お前とそう変わらねぇだろ」

「そう、ですね。遠目ですからハッキリとは分かりませんけど…………」

 

 プロボクサーになって一年も経っていない幕之内には、未だ見ただけで相手の実力を察することが出来るような経験値は無い。

 それでも、真っ直ぐに見続ける。

 事件が起きるのは、この直ぐ後の事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その光景をいったい誰が予想しただろうか。

 

「はぁ……!はぁ……!」

「…………」

 

 息を荒く左右のコンビネーションラッシュを繰り出し続ける速水と、その拳をリングの中央からほとんど動くことなく躱し続ける服部の図。

 試合開始して、そろそろ二分。最初は余裕を見せていた速水の表情は厳しいと言う外ない程に苦々しい。

 そしてそれは、観客も同じ事。

 速水のハンドスピードは恐らく国内でも屈指の物。特に両腕のラッシュはショットガンとも呼ばれて数々の選手をマットに沈めてきた。

 その攻撃が一切通用しない。パーリングなどで逸らしているのではなく、純粋に見切られて躱されているという事実が、速水の精神を追い詰めるのには十分すぎた。

 そうして、時計は残り三十秒。

 

「三十秒ッ!」

 

 服部側のセコンドから秒数宣言。瞬間、試合が動いた。

 

(馬鹿が…………!)

 

 ショットガンを躱すばかりであった服部が深く突っ込んできたのだ。その姿を確認して、速水は内心で嘲笑う。

 上に攻撃を集めていやがった相手が、深く頭を下げて突っ込んでくるところで左のショートアッパーを合わせて顎をカチ上げ、ショットガンで仕留める。速水の常套手段である。

 

(ここだ!)

 

 狙い通り、その顎を―――――

 

(……………………え?)

 

 気付けば、照明を見上げていた。周囲の歓声は遠く、ガンガンと耳鳴りが響く。同時に、現状を認識しようとすると顔面に鈍い痛みが走った。

 耳がどうにか回復してくると、最初の聞こえてきたのは審判のカウント。現在4。

 ボクサーと言うのは、誰しも勝ちたいからリングに上がる。だからこそ、状況判断とかそれよりも先にカウントが聞こえれば立ち上がる。

 案の定、カウント7の所で速水は震える足のまま立ち上がることが出来た。

 何が起きたのか、理解できずに。把握できたのはセコンドや、観客など外から見ていたもの。そして、この状況を創り出した服部位か。

 

「…………マジかよ」

 

 その一人、木村は呆然とその言葉を呟くしかなかった。

 彼の隣では同じく幕之内が唖然としており、更に隣では鷹村が眉を顰めてその光景を見ている所。

 

「狙ってやがったな」

「狙って…………あ、あの左のショートアッパーをですか?」

「見たとおりだ。服部の野郎、潜り込めば速水がショートアッパーを出すことを知ってやがったんだ。そこにオーバーハンドの被せるような右をカウンターで合わせやがったんだ」

 

 あり得ない事が、起きた。

 ショットガンを掻い潜った服部は、そのまま速水のショートアッパーを首を逸らすだけで躱し空ぶった彼の顔面へと弧を描くような右を叩きこんだのだ。

 一発ダウン。何とか立ち上がった速水だったが、その膝は震えており状況把握も出来ていない。ただ、レフェリーの問いかけには答えた、答えてしまった事から試合は再開され、

 

「―――――終わったな」

 

 鷹村が呟いたと同時に、速水の顔面へと拳が突き刺さりその体はリングの外へと叩き出されるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

(これほどのボクサーが紛れ込んでおったとは…………)

 

 内心で呟きながら、鴨川ジム会長鴨川源二は常に険しい眉間に更に皴を寄せていた。

 彼が見るのは、懇意にしているボクシング雑誌の記者から貸し出された速水VS服部の試合テープだった。

 既に三度目。三分、一ラウンドにも満たない記録なのだが、その中身は濃密だ。

 明らかに初手から全てを見切っている事は、鴨川の目から見ても分かる事。それだけ目が良く、尚且つ研究を重ねてきたのだろうと思わせる。

 だがそれ以上に鴨川が気になったのが、服部の冷静さだった。

 

(速水のショットガンは、威力以上に相手の精神を揺さぶるパンチじゃ。あやつの過去の試合もみたが、それは明白。焦った相手の急所を的確につくボクシングじゃった。じゃが、この男は違う。どれだけ攻撃されようともその精神が崩れん。セコンドの指示か、それとも己のプランか。どちらにせよ、このトーナメントでは頭一つは愚か、体一つ、いやそれ以上に抜きんでておるわ)

 

 ボクサーとて人間だ。一方的に攻められ続ければどれだけ待てと言われていても、思わずやけっぱちに突っ込んでしまう事がある。それも試合経験の少ない新人ならば猶の事。

 でありながら、服部はラウンド終盤まで見に徹し続けていた。そしてそれが、自信家の速水の精神を揺さぶった。

 ボクサーにとって己のボクシングと言うのは、精神的な支柱であると同時に努力を重ねてきたというバックボーンでもある。これが無い選手は大事な場面で実に脆い。

 その点で言えば、服部の肉体は新人離れした鍛えっぷりだろう。それはイコールとして、それだけの鍛錬を積み重ねてきたという事。

 気になるとすれば、何故これほどの選手が今の今まで欠片も騒がれなかったのかという点。

 素行不良などで、ジム側がホープを表に出さない事は確かにある。だが彼は勝った後に観客へと礼を返し、倒した相手を煽る事も無く素直に控室へと戻っていった。

 ここまで見れば、特別素行に問題があるようには見えない。

 そこまで考えて、鴨川は首を振った。今は、必要のない考察まで行うところであったからだ。

 

(いかんな。今は、如何に小僧を勝たせる考えねば)

 

 そう、何を隠そう新人王トーナメントにおける幕之内の次の相手は、この服部なのだから。

 正直な所、勝ちの目は見えない。速水が相手でもギリギリであったというのに、その速水をわずか二発でKOしてしまう様な相手。勝ちの目を探せというのが、そもそも土台無理な話。

 それでも、セコンドとして会長として指導者として最初から勝負を投げるわけにはいかない。

 時間も情報も少ないが、それでも最善を尽くす。それが鴨川のスタンスなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 努力する天才。これ程までに厄介な存在はいない。

 ()()()天才ではない、()()()()天才である。

 既に持ち合わせてポテンシャルのみで一流へと至れるところを、努力と言う研磨を経て超一流、或いは更に先へと到達しうる可能性のある存在。

 それが、()()()()天才である。

 さて、そんな手の付けられない怪物は今、一心不乱にサンドバッグへと向かっていた。

 鉄骨に吊るされたソレは、くの字に折れ曲がっては腹の底まで響くような衝撃音を鳴らしており、吊るす鉄骨も軋みを上げている。

 

「服部ー!お前にお客さんだぞー!」

 

 そんな怪物、服部十三の拳を止めるのは、横合いからの声。

 最後の一発と、一際強く打ち込まれた右ストレートによってサンドバックがくの字にへし折れ吹っ飛び、鎖によって元の位置に揺れて戻ったことを確認し、彼は振り返った。

 

「やあ、服部十三君、だね。オレは、月間ボクシングファンの記者をしてる、藤井ていうんだ。少し、時間良いかな?」

「…………会長」

「ん?まあ、お前次第だ。話しても良いというなら、俺は止めんさ」

「……分かりました」

 

 コクリ、と頷き服部は徐につけっぱなしにしていた()()()()()()()を外した。

 ここで改めて、藤井は目の前の服部という選手を見た。

 身長は百七十前後。フェザー級の選手にしては比較的高い方だろう。だが、その体つきは類を見ない程に引き締まっており、パンチの破壊力も頷けるというもの。

 

「……柔軟をしながらでも良いですか?」

「あ、ああ、構わないよ。こっちも、急に押しかけているようなものだからね。この所、キミの所には記者が良く来るんじゃないか?」

「……そう、ですね。ええ、まあ」

 

 物静かな少年だ、と藤井はそんな感想を抱く。

 静かさなら、宮田や間柴も該当するのだが、彼ら以上に静か。それこそ、覇気の無さとでも言うべきか、そんな雰囲気。

 しかし、とそこまで考えて藤井が思い出すのは先程まで服部が付けていた二重の濡れマスクだ。

 マスクトレーニングというのは昔から存在する。心肺機能を鍛えるために、空気の量を制限するというものだ。

 単体の濡れマスクですらも相当に息苦しい。それが二重ともなれば、最早溺れているのでは錯覚するほどなのだが、彼は平気な顔をしてサンドバッグを相当な力で殴り続けていた。それも一発一発が杭でも打ち付けるような破壊力を有した上で、だ。

 

(尋常じゃない程、クレバーだ)

 

 藤井は戦慄が隠せない。

 明らかに目の前の選手には才能がある。あるのだが、そこに胡坐をかくことなく努力など生温いといわんばかりのトレーニングを積んでいると感じ取ったから。

 

「キミは一体、どこを見据えているんだ?」

 

 思わず、と言った様子で藤井の口からはそんな質問が零れる。

 柔軟をしていた服部は、確りと筋肉の筋を伸ばすとゆっくり顔を上げ、その無精ひげのある顔を見上げた。

 

「…………約束が、あるんです。それを果たすまで、自分は止まりません」

「ッ!」

 

 伸びた前髪の隙間から覗いたその目。その目を見た瞬間、藤井は息を呑んだ。

 静かな、それこそ凪の湖面の様な静けさしかなかった少年の内側に燻る途轍もない熱を、見た。そんな気がしたから。

 同時に、やっと腑に落ちる。目の前の少年の、奥を知った気がしたからだ。

 

「…………ふっ、そんな目も出来るんだな君は」

「…………」

「それじゃあ、ここからは対戦相手についてだ。次の君の相手、幕之内はフェザー級でも屈指のハードパンチャーだ。何か、攻略法でもあるのかな?」

「……そう、ですね…………まあ、どれだけ強くとも当たらなければ意味がありませんから」

「つまり、幕之内のパンチは当たらない、と?」

「……少なくとも、今のままなら」

 

 傲慢ともいえる物言いだが、それも、速水のラッシュをよけ続けた技量を見れば納得もいくというもの。

 

「なら、宮田、それから間柴はどうだい?彼らは、幕之内よりも技巧派でカウンターパンチャーとフリッカージャブの使い手だが?」

「…………そうですね……まあ、二人共打たれ弱そうだとは思いました」

「打たれ弱い?」

「……迎え撃つボクサーは、インファイター程タフじゃないので」

 

 実際の所、宮田、間柴揃って特別打たれ強いボクサーと言う訳では無い。どちらも言っては何だがシャープで、筋肉が付きにくい印象を覚えるだろう。

 対して、インファイターはアウトボクサーほどの器用さが無くとも、その分打たれ強かったりパンチが重かったりする。

 それから二三質疑応答をした藤井は、ジムを後にする。

 道を行きながら思い返すのは、ついさっき顔合わせを果たしたばかりのボクサーについて。

 正直な所、藤井はジム贔屓な部分がある。今は鴨川ジムを基本的に贔屓しており、幕之内に関する記事を書こうとしていた程だ。

 だが、そんな贔屓の気持ちをもってしても今回のトーナメント優勝は彼になるだろうと思わせるそんな男だった。

 一応、今回のインタビューというか取材は他に流しても良いと許可を得ている為、先方への手土産にしてもいいのだが、仮に伝えて勝率が上がるかと問われれば首を傾げざるを得ない。

 

「……はぁ……難儀なことだよ、全く」

 

 禁煙パイポを咥え、藤井はため息を吐き自分のデスクへの帰路へとつくのだった。

 



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 幕之内一歩は不器用なボクサーだ。

 天性の豪打を持ってはいるものの、フットワークの苦手なベタ足インファイター。裏を返せば、密着状態において真価を発揮するという事。

 

「良いか、小僧。これから二ヶ月。貴様の下半身を鍛える」

「はいっ!」

「ダッシュ力の強化じゃ。密着し、貴様のパンチをボディに集める」

「はいっ!…………?あの、それだけ、ですか?」

「何じゃ?不満でもあるのか?」

「あ、いや、その…………」

「…………まあ、お主が不安になるのも分かる」

 

 幕之内の不安を感じ取った鴨川ではあるが、それは彼自身にとって指導者としての力不足を痛感させる事でもあった。

 

「ハッキリ言っておく。お主の次の相手、服部は実力で言えば宮田を凌駕するじゃろう」

「ッ!み、宮田君をですか!?」

「ああ、そうじゃ。才能だけで見れば、鷹村にも匹敵するかもしれん。そのような相手に奇策は通じん。あの男は速水のラッシュを受けて尚、冷静さを失わなかったのだからな」

「…………」

「何をしょぼくれておるか!貴様は、宮田と戦うのだろう!?であるならば、早晩服部の様な才能あふれる男と戦う事にもなっておったわ!そして、最初から負けるつもりでリングに上がるボクサーなど居らん!そんな覇気の無さでは、勝つどころか何もさせてはもらえんぞ!」

「ッ、は、はいっ!」

 

 一応、元に戻ったのか顔を上げる幕之内。

 そんな彼をロードワークへと送り出し、鴨川は溜息をもう一つ。

 

「………どうしたもんか」

「にっひひひ、一歩の奴にしょぼくれるな、とかなんとか言いながらジジイもしょぼくれてんじゃねぇか」

「しょぼくれてなぞおらんわ、馬鹿者」

 

 お道化るように揶揄おうとしてくる鷹村をあしらおうとする鴨川。

 だが、鷹村とて単にふざけて口を出そうとした訳では無かった。

 

「本気でやらせるのか?」

「不安がってはおった。じゃが、あ奴自身が『諦める』と宣言せん限りはわしも引かせるつもりはない」

「頑固ジジイめ。それじゃあ、何だ。一歩の野郎がぶっ壊されるかもしれねぇだろ」

「引き際は弁えておる…………珍しいではないか、貴様がそこまで食い下がるとはな」

「ケッ、小物の事なぞ俺様には分んねぇよ…………だが、あの服部ってヤローはまだ何か持ってやがるぜ。ただのカウンターパンチャーな筈がねぇ」

 

 常ならば周りを見下した面もある鷹村の思いもよらぬ高評価に、鴨川は思わず顔を上げてしまった。

 

「断言するぜ、ジジイ。少なくとも今の一歩どころか、宮田も服部には勝てねぇ」

 

 鋭い目だった。それこそ、常日頃のふざけた態度ではなく、ボクシングに対する真摯な姿勢を見せるボクサーとしての鷹村の目だ。

 鷹村にここまで言わせる服部という新人。鴨川の眉間により深く皴が刻まれるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 対戦相手である鴨川ジムが対策に追われている頃、件のボクサー服部もまた練習に打ち込んでいた。

 

「分かってると思うが、幕之内はインファイターの上にハードパンチャーだ。黒人のボクサーとも真正面から殴り合える馬力がある。一発食らえば、その時点でアウトだと思っておけよ」

「……うす」

 

 二重の濡れマスクを付けながらのミット打ち。

 1ラウンド三分は愚か、慣れていなければ間違いなく一分も持たないであろう状態で服部は、拳を繰り出し、既に六ラウンドを消費していた。

 構えはオーソドックスなボクサースタイル。細かくリズムを刻みながら、風を切る左のジャブを的確に急所に構えられたミットへと打ち込んでいく。

 恐るべきは、その速度か。綿抜ミットでもない筈ながらかなりいい音を響かせ、尚且つ次の拳の出が異様に速い。相手によっては一度に二、三発ジャブを同時に受けたように錯覚するかもしれない。

 

「ラストッ!」

 

 声と共に顔面の前に両手を重ねるようにして構えられるミット。

 そこに突き刺さるのは踏み込みと体の回転を利用した右ストレート。

 文字通りミットへと突き刺さった拳は、その力を余すことなく相手に貫き通さんと言わんばかりの真っ直ぐっぷりだった。

 それは構えた側が踏ん張っても後ろに押されてしまう破壊力。

 

「ッ、ふぅ……相変わらずのハードパンチだな。それも、腹の底にズンッと響く一発だ。並大抵の奴なら一ころだろ」

「…………」

「はっはっ!分かってる。まだまだお前の目指す高みには程遠いってな。だがよ、だからこそ何度でも言うぞ。オマエがもっと上に行きたいんなら、もっと別のジムに入っても良かったんじゃないか?それこそ、鴨川さんのとことかな。あそこは、世界にも手が届くって言われてる鷹村が居る。だから―――――」

「……走ってきます」

 

 言葉を連ねようとした会長のセリフを無理矢理断ち切り、服部は柔軟を済ませるとランニングへと向かってしまう。

 というのも、会長がこの手の話題を服部へと切り出すことはそう珍しい事ではないのだ。

 ぶっちゃけた話、このジムはそれほど活気がある場所ではない。

 対戦成績も服部を除いてしまえばパッとしない上に、上位ランカーも居ない。

 会長としても、期待の新人である服部を手放したい筈もない。無いのだが、同時に指導者としてよりよい環境を与えたいとも思うのだ。

 もっとも、今の所その度に服部自身にはぐらかされてしまっているのだが。

 

「会長も諦めないっすねぇ。良いじゃないですか、服部の好きにやらせれば」

「うっせぇ。俺だって手放したかねぇよ。だがなぁ……やっぱり、色々整っている方が鍛えやすいだろ?さっき言った鴨川さんの所や、元OPBFチャンピオンの伊達が居る仲代さんの所とかな。ここじゃあ、フェザー級のスパーすら真面にさせてやれねぇってのに」

「まあ、そっすね…………でも、服部の実力ならフェザー級に限定しなくても上の階級の奴らでもいい勝負するじゃないっすか」

「まあな。だが、いくら上の階級と戦えても、本命のフェザー級での経験が薄けりゃ意味がねぇ。リーチ、スピード、パワー。上の階級に慣れすぎるのも、考え物ってこった」

 

 階級が分けられているのは、体格のハンデをできうる限り無くすためにある。それでも、技術や筋肉のつき方、才能によってどうしても差が生まれるがそれら全てを飲み下して叩くのがボクサーだった。

 話を戻すが、階級が一つ違えばそれだけパワーが違う。スタミナが違う。リーチが違う。

 この差をデフォルトとして慣れてしまうと、いざ自分とほとんど同じ体格、或いは小さい相手と戦う場合に混乱を招きかねない。

 パンチを耐えられるという事は、裏を返せば油断し必要以上のダメージを蓄積させられるという事。

 リーチが届かないという事は、裏を返せば相手の距離と自分の距離を読み違う可能性があるという事。

 利点もあれば、欠点もある。

 

「はぁ…………」

 

 贅沢な悩み。優秀過ぎる逸材と言うのもまた、困り者であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 自身の会長がそんなため息を吐いている丁度その頃、件の困り者である服部はと言うとロードワークと言う名の全力疾走を行っていた。

 距離にすれば20キロ。ダッシュとジョグの切り替えで心肺機能に負荷をかけまくる地獄のランニングだ。

 下手な自転車よりも加速し、砂埃を巻き上げるような勢いで駆けながらも突然速度を落としジョギング、少し進めばまたダッシュと繰り返し、やがて辿り着くのは程々の大きさである公園。

 木陰へとゆっくり歩みを進め、近くの自販機からスポーツドリンクを一つ購入。

 相当息苦しいマスクを顎の方へとずらして、冷たいスポーツドリンクを一口含めば火照ったからだが冷えていく。

 冷たい飲み物で急激に冷やすのはあまり宜しくないのだが、ソレはソレ。イジメまくった体へのちょっとしたご褒美という事。

 

「…………」

 

 常の癖として水分補給の数も、量も少ない服部は木漏れ日の揺れる梢を見上げる。

 思い浮かべるのは、次の試合の事。

 相手は典型的なインファイターであり、尚且つ一発で相手の二、三発をチャラにしてしまう程の破壊力を秘めたハードパンチャー。

 技術面はまだまだ拙いと言う外ないが、それも言い方を変えれば一つの事に全てを懸けて挑んでくるという事。選択肢で迷う事も無く、最短最速で自分の出来ることをしてくるという事。

 迷わない相手と言うのは、それだけ厄介なのだ。

 スポーツドリンクのボトルを道と、垣根の境目に置かれたブロックの上に置いて、服部は構えをとる。

 ボクシングの構えは幾つかあるが、その中でも服部は比較的オーソドックスな構えを好んでいた。

 一応、その他にもヒットマンスタイルであったり、ピーカブースタイルであったりと色々存在するが基本の構えというのは、即ち手を出しやすいという利点があるから。

 繰り出すのは左のジャブ。

 最短にして最速。その上であっても、最弱であってはならない基本の技術。

 左を制すものは、世界を制する。服部自身、この格言を意識しているわけではないが、それでも目標とする選手のジャブへと迫る為の努力を惜しまなかったつもりだ。

 シャドーの相手は、自分よりも小柄なピーカブースタイルのインファイター。

 意地でも前進してくる。ならば、その機先を制するのが一番というもの。その上で重要になるのが、ジャブだ。

 手打ちの軽いものではいけない。しかし、威力を重視しすぎて回転を疎かにすれば拳を引き戻す間に距離を詰められるだろう。

 鋭く、素早く、数を打つ。尚且つ狙うのは常に同じ部位。

 ボクサーには二種類いて。単純に拳の痛みで悶絶する者と、如何なる痛みも精神で組み伏せて突貫して来る者。

 前者は兎も角、後者は完全に意識を断ち切るか、相手セコンドに試合続行不可であると思わせるしか終わらせる手段がない。

 だからこその、右。斜め上から斜め下へとテンプル、或いは顎骨を砕く勢いで振り抜く。

 ボクシングは“事故”が起きる。グローブで包んだとはいえ鍛えた拳を急所めがけて振るうのだから、当然といえば当然なのだが。

 体に染みついた三分間。服部は拳を振るい続けた。

 彼は基本的にシャドーをするとき、相手はどれだけ殴っても倒れない泥人形を想定している。

 

「…………ふぅ」

 

 最後に右ストレートを振り抜いて、一息。

 見据えるのは新人王の頂―――――ではない。

 もっと先、更なる先。全てが単なる足掛かりでしかない。

 ただ約束を果たす、その一つの理由の為に、彼はリングに上がるのだから。

 



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 ついにこの日がやって来た。

 東日本新人王トーナメント準決勝。

 

「ッ…………!」

「落ち着け、小僧。試合の前から緊張し続けても意味はないぞ」

「わ、分かってます!…………ッ」

 

 選手控室では、何度目かの鴨川からの指摘を受ける幕之内の姿があった。

 誰しも晴れ舞台が目前となれば、大なり小なり緊張するというもの。

 幕之内もまたその例に漏れることなく、緊張しているのか座っていた長椅子から立ち上がっては軽くシャドーをしたり、周囲を見渡したり落ち着きがない。

 

「幕之内選手、準備をお願いします」

「ッ、は、はいっ!」

 

 係員に呼ばれ返事をした幕之内。

 暗い通路を、セコンドである鴨川と八木に付き添われ進みやがて会場の目前へ。

 そこでふと、幕之内は壁を見た。

 ほんのり凹んだその場所は、ちょうど拳を突き出せば当たるであろう高さに在り、擦れたのか塗装が剥げかけていた。

 これは、この通路を通って来た歴代のボクサーたちが刻んできた跡だ。

 ボクサーとて、人間。ビッグマウスであったり、場を温めるために煽る者も少なくはないが、それでも試合が近づけば相応に緊張する。

 そんな時、軽く拳を添えるぐらいに壁を打って心を落ち着かせようとするのだ。壁の凹みはその跡。

 幕之内も数度、軽く壁を殴った。

 腰の入っていない手打ち、それもグローブのクッション性で相殺されそうなほどに弱いものではあったがそれでも十分。

 ほんの少しだけ落ち着くことが出来た。少なくとも、はやる心臓の鼓動がほんの少し収まった、そんな気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 多くの観客で賑わう後楽園ホール。

 メインの前座であろうとも、新人王トーナメントの準決勝だ。ここから未来のチャンピオンが生まれる事も珍しくない上に、今年のフェザー級は豊作。客を集めることが出来るボクサーが揃っていた。

 

「おっ、一歩の奴出てきましたよ鷹村さん」

「いっちょ前に怖い顔してるじゃないすか」

「ま、緊張の一つでもしてんだろ。結局、ジジイも基礎固め直す位しかやらなかったみたいだしな」

 

 後輩の応援の為に来た、鷹村、木村、そして青木の三人は談笑しながらもその目は鋭くリングへと向けられていた。

 凡そ二ヶ月ほど、幕之内はこの試合に向けての特訓を積んできた。そしてその特訓に大なり小なり三人もまた付き合ってきたのだ。

 強化したのは、基礎。主に下半身の強化であり、柔軟で尚且つしなやか、強靭な体作りをこだわってきた。

 実際の所、階級が上である木村や青木ですら直撃すれば悶絶するような破壊力を幕之内のパンチは秘めている。

 そんな相手とスパーリング。未だ二流ボクサーであるとはいえ、心臓に悪い事この上ない。

 そして、そこまでやっても件の新人には勝てるヴィジョンが見えないのだから、厳しい目の一つや二つ向けたくなるというもの。

 

「鷹村さんとしちゃ、どうなんです?一歩の勝算は」

「あ?んなもん、端からねぇだろうよ」

「でもですよ、鷹村さん。一歩が服部の懐に入り込めば…………」

「お前ら、あの男がインファイターを態々懐に入れると思ってんのか?」

 

 手摺に頬杖をついた鷹村の表情は呆れを含んでいる。

 インファイターは、字面そのままに接近戦に無類の強さを発揮するボクサーだ。重要になるのは、距離を詰めるための突進力。

 そして、対戦相手に求められるのはその突進を止める方法。そもそも、インファイターを懐に入れるなど余程の自信が無ければ自殺行為でしかない。

 

「服部がカウンターパンチャーなら、突っ込んだ時点でボカン。速水のカウンターのアッパーに更にカウンターを合わせるような奴だ。突っ込むだけの今の一歩じゃあ、相手にならん」

 

 厳しい物言いだが、鷹村の指摘する点は紛れもない事実でもある。

 諦めない気持ちは大切だ。その結果として、勝利を得られる事だって確かにあるのだから。だが、それだけでどうにかなるほどボクシングの世界は甘くない。

 技術があって、力があって、才能があって、その上で負けることもあるのがボクシング。

 気持ちだけではどうにもならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

「いつも通りだ。プランはお前に任せる。好きにやってこい」

「…………はい」

 

 淡白なやり取りだが、それだけで十分。

 会長の方針として、服部は自分で試合を組み立てるのだ。速水への耐久戦のようなやり口も彼が組んだことであり、三十秒のカウントだけを頼んでいた。

 今回の試合プランも、服部の頭の中にしかない。いや、もしかしたら彼の頭の中にもないかもしれない。

 それでもいい、と会長は思っている。

 ジムを立ち上げて十年以上。戦績はパッとしない。スポンサーにもいい加減、見放されそう。

 そんな中でやって来た金の卵。自分の色に染めるのは憚られる黄金に対して、会長は練習メニューのアドバイスと練習相手としてのスタンスのみを置くことにした。

 もしもの時があったとき、十全にその力を発揮できるようサポーターの様な立ち位置。

 勿論、指導者としての葛藤もあった。そして、そんな葛藤も目の前のボクサーが圧倒的な戦果と共に吹き飛ばしてしまったのだ。

 同時に考えを改めてもいた。

 指導者だからと言って、一から十まで引っ張るのではない、と。引っ張る相手によってスタンスを変えていいのだと。

 少なくとも、放任にも見える服部への対応は今の所間違っていない。

 

「―――――……いってきます」

 

 不意に小さく、服部の口から紡がれる言葉。

 答えは決まっている。

 

「おう、行ってこい!」

 

 背中を強く叩いて送り出す。それだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「バッティング、反則には十分注意して」

 

 レフェリーお決まりの注意を聞き、一度リングの中央辺りで顔を合わせる両雄。

 そうして、それぞれのコーナーへと戻され、ゴングが鳴るのを待つのだ。

 果たして、その時は訪れる。

 甲高いゴングの音。コーナーへと顔を向け、リング中央に背を向けていた服部はゆっくりと正面へと向き直り、ソレを見た。

 

『おおーっと、これはぁ!ゴングと同時に幕之内猛ダッシュだァ!!』

 

 反対のコーナーより突っ込んでくる小さな姿。ピーカブーの構えのまま猛ダッシュで距離を詰めた幕之内がそこには居た。

 インファイターの奇襲。それも、一発で悶絶させる破壊力を秘めた相手の奇襲を受ければ、大抵の相手は頭が真っ白になるというもの。

 もっとも、それは()()()相手ならば、だが。

 

「…………」

 

 伸びた前髪の下、服部は静かに前を見ていた。そして、その目を見てしまった幕之内は目を見開く。

 

(ッ、全く動揺して―――――)「ぶっ!?」

 

 ほんの僅かに、それこそ傍目からは分からない程度にブレたダッシュ。

 その瞬間、幕之内の顔面が後方へと仰け反っていた。

 前に進もうとする体と、それに反して後方へと行こうとする頭。自然とその足はその場に留まってしまう形となる。

 服部は、この隙を逃さない。

 本来ならば、コーナー脱出を狙ってフックを放つところを、再び左のジャブ。

 散々に扱かれ癖付けさせられた幕之内はこれを、咄嗟のピーカブーへと戻る事でガードすることが出来た。だが、頭の中は混乱している。

 

(な、なにを貰ったんだ?左のジャブ……僕が突っ込んできたのに合わせられた?)

 

 開幕ダッシュは、ある種の奇策。連発すれば効果は無くとも、初対面の相手ならば絶対的に面食らうはずの一手だったのだ。

 だが、蓋を開けてみれば一切焦ることなく服部は迎撃してみせた。

 カウンターとはいえ、左のジャブ。破壊力もそれほどなく、肉体へのダメージはストレートなどで迎撃されるよりも小さく済んだが、精神は別。

 どうすればいいのか、迷いは足を鈍らせた。

 

「…………」

 

 服部の左ジャブ。距離を測る様に、一度、二度と振るわれ三度目直前に僅かに左足が踏み込まれる。

 

「ッ!」(急に……伸びた!?)

 

 幕之内にはそう見えた。同時に、先程のものよりも破壊力が上がってもいた。

 幸いなのは、ピーカブーが防御に向いたスタイルな点か。ガードの上からの被弾であり、直撃はしていない。

 

「小僧ッ!手を出さねば、一方的に打たれるぞッ!」

 

 セコンドから檄が飛ぶ。

 不用意にガードを解けば、間違いなく被弾する。だからと言って亀の子の様にガードを固め続けて場が好転する事は先ずないのが、ボクシングだ。

 少なくとも、服部を相手にガス欠を期待するのはNG。

 鴨川の言葉を受けて、幕之内はハッとしたように再び引き締まった表情で前を見た。

 

(そうだ、守ってばかりじゃ、勝てない!宮田君との約束を果たすんだ!)

 

 ジリジリとにじり寄る様にして前へ。

 打たれるジャブは、ジャブとは思えない程に重く、鋭い。身長差によるリーチも手伝って、この状況で不用意に幕之内が手を出そうものならばカウンターで顔面を滅多打ちにされるだろう。

 それでも彼は前へと進む。

 幕之内の勇気は驚嘆に値するものだろう。だが、それと同じく集中力もまた優れている。

 ガードの下から、彼はある一点を凝視し続けていた。

 それは、服部の右脇腹。

 リバーブロー。肝臓打ちは、幕之内の搭載した数少ない武器であると同時に必殺技と言っても過言ではない破壊力を有している。

 服部の防御は特別薄い訳ではない。訳ではないがオーソドックスな構えである為、特筆するほど防御が厚い訳でもない。

 

(積み上げてきたもの。練習の成果を見せるんだ!)

 

 自分に出来ることを、精一杯やり遂げる。

 そう決めた幕之内は、振るわれる左ジャブの連打の中を進む、進む、進む。

 対して広くも無いリングの上。相手に近づき続ければ、自然距離は縮まるというもの。

 

(―――――ここだっ!)

 

 練習の距離。相手のジャブを潜る様にして身を沈めながら左腕を開き巻き込むように―――――

 

「…………」

 

 衝撃音。崩れる音。

 

 

 

 

 

 

 

 

 会場は、まるで水を打ったかのような静寂に包まれていた。

 

『誰がこれほど一方的な試合を予想したでしょうか……フェザー級屈指の破壊力と言っても過言ではない幕之内の豪打が解放されようとしたその瞬間に駆け抜けた右は、まるで閃光。カウンターが深々と突き刺ささったァッ!』

 

 解説の声が響く。

 そう、今まさにリバーブローを放とうとした幕之内左顔面。そこに服部の右がカウンターとして突き刺さり、そのままマットに沈めて見せたのだ。

 彼は待っていた。ピーカブーのガードが開くその瞬間を。

 防御の厚いピーカブースタイルだが、その実大ぶりな攻撃をしようとするとどうしても大きく開かなければならない弱点があった。

 一歩間違えれば、カウンターを入れる前に、豪打が脇腹へと突き刺さり肋を持っていかれた事だろう。

 ニュートラルコーナーへと向かった服部。

 その表情には、喜色は見られない。

 

「…………」

 

 見るのは、うつぶせに倒れる対戦相手。

 手応えはあった。だが、倒せていないだろう、と言うのが彼の所感。

 右を打ちおろしたあの瞬間、幕之内の体は若干沈み込もうとしていた。それは即ち、パンチの軌道に体の動きが僅かにでも連動していたという事。

 カウント8で起き上がろうとしている幕之内を確認し、服部は肩を回す。首を回す。

 幕之内が構え、レフェリーが試合の再開を宣言。同時に、服部はステップを踏みながらジグザグに距離を詰めていった。

 インファイター相手に距離を詰める。普通ならば自殺行為だが、彼にはしっかりとした狙いがあった。

 この会場で何人が気付くだろうか。服部の放つ左ジャブの質が若干変わっているという事に。

 先程までは、牽制と距離を測るためのジャブと、肩と腰を利用して威力を乗せたジャブの二種類を用いていた。

 それが今、若干のスナップを利かせて撓るようなジャブへと、擦り付けるようなジャブへと変化していたのだ。

 フリッカージャブに近くも思えるが、あれほど鞭の様には撓っていない。

 狙うのは、幕之内の右目。というのも、明らかに服部の右打ち下ろしを受けた彼の左の顔面は腫れていたのだ。

 威力はどうあれ、一発で腫れる。という事は、腫れやすい体質なのだろう。少なくとも、服部はそう判断を下し、その上でこのジャブへと切り替えた。

 無論、この仮説が誤りであった場合は距離を詰めるだけ無駄だったという事になる。だがそれも、ハンドスピードで勝る自分が一発当てて離脱するには十分という判断の上でもあった。

 幕之内のガードは硬い。しかし、だからと言って腕二本で全てを防げるかと問われれば、否。

 徐々に、徐々に、顔への被弾が増え、それに合わせるようにして彼の視界は塞がれていく。

 悪夢の様な第一ラウンドは、殆ど弄られるような形で終わりを告げるのだった。

 



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 叩くなら、折れるまで。

 どのスポーツでもそうだが、弱肉強食。強いものが勝ち、上へ行くのが世の常だ。

 

「むぅ……目を重点的にやられたな。見えておるか」

「み、見えません……」

 

 第一ラウンド。立ち上がれたことは称賛に値するだろう。だがその結果、服部に別の戦術を試させる場を提供してしまった事にも繋がってしまっていた。

 序盤は明らかにオーソドックスなボクサーとしての基本に立ち返った動きだった。だが、ダウンの後よりその動きは変わる。

 的確に、相手を不利に追い込んでいくような戦い方。現に今、幕之内の左の視界は完全に潰されている。

 

「八木ちゃん、氷を」

「は、はい!」

(恐らく、あの右を繰り出した後に小僧が腫れやすい体質だと見抜いたんじゃろう。恐ろしい観察眼と冷静さ、そして己の発想を実行に移すことが出来る胆力を持つ、か)

 

 指示を飛ばしながら、鴨川は後ろ目に反対のコーナーを確認、戦慄が隠せない。

 ボクサーの中には、実力差を理解した時点で短絡的に勝ちを拾おうとする者が少なくない。結果、かませ犬などの調整相手に食われる場合もあるのだが、とにかくそんなボクサーは後を絶たない。

 今回もその例には組み込めるだろう。事実、幕之内と服部の戦力差は歴然なのだから。仮に油断の一つでもしてくれていたならば、そのボディに一撃叩きこむことも出来たかもしれないが。

 だがしかし、服部は油断しなかった。強打を恐れて逃げに徹することも、逆に焦って倒そうともしなかった。

 ただ確実に、積み木を一から組み立てるように、難問な数式を解くように、一歩ずつ進む様な慎重さを見せていたのだ。

 これでは付け入る隙が無い。そして今、幕之内は片方の視界を奪われてしまった。

 

「会長……」

「ううむ……決めるのは小僧じゃ。儂は、こやつが諦めると言わん限りは、余程の事が無い限りは選手の気持ちを優先する」

「い、一歩君。今回は流石に…………」

「………い」

 

 止めようとする八木の言葉を遮ったのは小さな呟き。

 

「戦わせて、ください…………」

 

 片眼を塞がれながらも、真っ直ぐに幕之内は鴨川と八木を見ていた。

 怯えは無い、恐れも無い。あるのは、純粋なまでの闘志。

 

「あの人は……服部さんは、僕と真正面から戦ってくれたんです…………お願いします、戦わせて

ください」

 

 実力差など明らか。それでも、相対したからこそ分かる事もある。

 服部は明確に幕之内を“敵”として相手していた。それが相手にも確りと伝わるような集中力を発揮しながら。

 だからこそ、ここで終わりにしたくはなかった。少なくとも、幕之内はここで引く事が、そのまま逃げる事になる、と思ったから。

 

「逃げたく、ないんです」

 

 真っ直ぐにそんな目で言われ、鴨川も八木もこれ以上苦言を呈することなど出来るはずもない。

 

「…………良いじゃろう。じゃが、戦うというならば生半可な態度は許されん。これから貴様は、呆れるほどに殴られることになるじゃろう。それでも、やるか?」

「はいっ!」

「な、何ていい返事を…………」

「ふっ……しかしじゃ、小僧。一つだけ貴様に言っておくことがある」

「な、何でしょうか」

「儂はセコンドとして、試合続行が不可能じゃと判断した時点でタオルを投げる。これは、貴様を指導する者として最低限の務めだからな。分かったな?」

「わ、分かりました!」

 

 そんなやり取りが行われた対面では、

 

「あの豪打はお前でもキツイか、服部」

「…………」

 

 口を濯がせ、汗を拭った会長はそうお道化るように服部へと言葉を振る。

 件の彼は、真っ直ぐに反対のコーナーで座る対戦相手を見やり、そして一度首を縦に振った。

 人体構造はどれだけ鍛えようとも限界というものが存在する。その上、ボクサーは階級の制限により付けられる筋肉の量も限られてしまう。

 如何に持久力を備え、技術を有し、体を鍛えた服部と言えども骨の強度は人並みなのだ。そして幕之内の強打は一発で骨に罅を走らせる。

 骨だけではない。腹筋をどれだけ固めようとも、突き抜ける衝撃というものは軽減しきれず、内臓へのダメージは足に来る。

 インファイターがボディにパンチを集めるのはそういう事なのだ。ついでに人間は腹が痛むと身を屈める。そうなると顎が狙いやすくなるというのもある。

 

「……当たりたくはないです」

「ははっ!確かにそうだ。俺だって、あんなパンチ現役時代でも食らいたくねぇよ。まあ、奴さんはやる気みたいだがな」

「…………」

「お前との力量差も関係ないらしい。鴨川さんなら分かってそうだが、ボクサー、幕之内の意思って所か…………強い奴だよ」

「……そうですね」

「おっ、お前が認めるとは珍しいじゃねぇか。速水とは違うか?」

「……彼は、油断しきってましたから」

 

 幕之内の評価に対して、明らかに劣る速水の評価。

 服部が彼を気に入らないのは、最初から本気でこなかったから。

 余裕と油断は違う。どれだけ実績と、実力が身に付いていようともその点を疎かにする者は確実に足をすくわれると、彼はよく知っているから。

 もしも、速水が何の実績も無い服部に対して本気で最初から向かってくるようならば試合展開はもっと違ったものとなっていただろう。

 だからこそ、服部は幕之内を評価する。

 そこに強弱など、関係なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 両者様々な思いを乗せた第二ラウンド。その立ち上がりは、第一ラウンドの慌ただしさが嘘の様に静かなモノだった。

 ベタ足インファイターである幕之内は上体でリズムを取り、たいして服部は軽快にステップを刻む。

 睨み合いながらも、徐々に徐々にお互いの距離が縮まり、

 

「…………シッ」

 

 先制は、服部。第一ラウンドの擦り付けるようなジャブから、再び伸びと重さのあるジャブへと切り替えたものであり、的確に幕之内のガードの上から押し返さんとする。

 

(ッ、やっぱりジャブが重い……!もっと体を振って、少しでも躱さないと!いや、全部躱すつもりで体を振るんだ!)

 

 左ジャブのみでありながら回転率の良い服部に対して、幕之内はより激しく体を振る。

 彼の足腰は天然ものにして、強靭。それに加えて夏場の合宿で足の裏のどこに力を入れればより鋭くダッシュできるのかを、そしてシフトウェイトを学んだことによりその動きは実に軽快だ。

 全てを躱そうとする心意気。それは成果にも表れ始める。

 塞がってしまった右側は見えない為にやや被弾するものの、それでも徐々にだがガードの上からのクリーンヒットは減って来ていた。

 こうなれば、次にやるのは距離を詰める事。

 ジリジリと迫る幕之内。ピーカブースタイルという体を凝縮するような構えと左右に振られる体は実に厄介。

 

「…………」

 

 ジャブを繰り出しながら、服部は目を細める。

 目の前のボクサーは不器用だ。不器用だが、下手ではない。練習の成果を実戦で確りと発揮できる、そんなタイプ。

 この手のタイプは稀だ。どれだけ練習しようとも、どうしても発揮できない人間は珍しくない。

 だからこそ、敬意を表する。

 

「ぶっ!?」(さ、更に速く!?)

 

 幕之内の前進が、ここで初めて止められた。

 体を振る事で的を絞らせない作戦。それは、放たれるジャブの数が増えたことでその機能を半減させられてしまったのだ。

 威力は変わらない。ただ数が増えたジャブ。ダブル、トリプルとそのギアを上げるようにして逃げ道を的確に塞いでくる。

 徐々に頭を振れるスペースが削られていき、そのふり幅が小さくなった頃、

 

「…………フッ」

 

 大砲が撃ち放たれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「おいおいアイツ、どれだけの武器を搭載してやがるんだ!?」

 

 頭を抱えるようにして叫ぶ木村。その隣では唖然とした青木も似た様な感想だろう。

 逃げ場を封殺するようなジャブの嵐の中、幕之内の動きが鈍った瞬間そのガードごと沈めてしまわんと言わんばかりの右がステップインと同時に打ち放たれていたのだ。

 幸いと言うべきか、幕之内はギリギリ耐えて後方へと押し戻される程度で済んだ。だが、そのダメージは決して小さくはない。

 

「コークスクリューか。それも、随分と貫通力を高めてやがるな」

 

 冷静に見極める鷹村には驚きはそれほどない。

 隙の大きいパンチではあるが適切なタイミングで用いれば、その破壊力は通常の右ストレートよりも出る事があるからだ。何より、抉りこむ為緩んだ相手の防御の隙間から拳を捻じ込んで無理矢理防御を壊すことも出来る。

 服部のコークスクリューも幕之内の防御を崩す事に成功していたが、それ以上に周りを騒めかせたのは、その構え。

 

「「サ、サウスポー!?」」

 

 青木と木村の声が揃った。

 そう、今の服部は右半身が前に出たサウスポーの構え。右拳がジャブを放ち、左拳は大砲として後方に構えるあの状態だ。

 先程のステップイン。これは単に右の拳を捻じ込む為だけの動きではなかった。

 言うなれば、構のスイッチ。オーソドックスなボクサー、サウスポーのボクサーへと変化するためのもの。

 過去にも幕之内が瞼を切った際にサウスポーの真似事をしたが、そんな物とは比べ物にならない程にその姿は様になっている。

 そして放たれる右ジャブ。そのキレは左のジャブと遜色ない。まるで鏡に映った存在がそのままリングに現れたのではないか。そんな感想を抱かせる。

 

「おいおいおいおい、マジかあの野郎。サウスポーも出来ますってか?」

「相当なキレのジャブじゃねぇか。左と殆ど遜色ねぇぞ」

「それだけじゃねぇ。距離、ステップ、呼吸。どれも揃ってやがる付け焼刃じゃねぇ、マジのサウスポーだ。あの野郎、元々左利きだったって事か?」

「多分違うな」

「え?」

「どういう事っすか、鷹村さん」

「お前らもボクサーなら見てわかるだろう。服部のジャブは一朝一夕、思い付きでどうこうなるようなレベルじゃねぇ。恐らく、奴は両利きだ。あの慣れたスイッチからも考えて、相当な鍛錬を積んできたんだろうよ」

「で、でもですよ、鷹村さん!服部のボクシングは言っちゃあ何だが、八回戦、いや十回戦でも通用するようなもんすよ!?だったら、態々サウスポーへの切り替えなんざ―――――」

「確かに、無駄に思えるだろうな。実情で満足しちまった奴なら」

 

 鷹村はそこで言葉を切ると、手摺に頬杖をつく。

 

「見据えてやがるんだろ。日本の、東洋の、世界のベルトをな。その為の武器だ」

 

 一芸を極める事もボクサーにとっては重要になる。器用貧乏のボクサーは大成できない場合があるからだ。

 だがそれも、多芸を身につけるだけの才覚と、それに見合った努力を積むことが出来るものならば話は別となる。

 そして、試合は佳境へと差し掛かる。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つ、強い……まさか、サウスポーも出来るなんて…………!)

 

 ガードを固めるしかない幕之内は、残った視界である左目をどうにか守りながらどうにか反撃の糸口を探していた。

 

(サウスポーの対策は分からない………でも、基本に立ち返るんだ!試合の回数は少なくても、練習はちゃんとしてきたんだから!)

 

 そう思い至り、思い返すのはこれまでのまだまだ短いボクサー人生。

 

(アウトボクサーは足を使う。ステップの見切り方は、足を見てから!)

 

 軽快にフットワーク刻みながらガードを叩いてくる服部の足を注視。

 右に左に自在にステップを刻む足だが、その実どんなボクサーであろうとも自然と身に付いた呼吸というものは無意識の内に出てしまうもの。

 ガードの硬さが功を奏し、見る分には十分。体を振りながら、幕之内は行動を開始する。

 

(思い出すんだ、あの合宿の砂浜ダッシュを!足の裏、親指の付け根を意識して、前に出る!)

 

 何度目かの服部のステップ。足を見て、その動きを盗んだ幕之内は合わせるようにして前に出た。

 第二ラウンドが始まって、初めての接近戦。

 

(フックやリバーブローじゃダメだ。またカウンターが来る!小さく、速く、ジャブを打つ!)

 

 ピーカブースタイルからのジャブは、他のパンチと比べて隙が少なくコンパクトに放てる。その上、幕之内は殆ど左右の拳の威力差がないボクサーだ。ただのジャブでも、かなり重い。

 無論、当たればだが。

 ステップに合わせられようとも、服部は目が良い。そうでなくとも、スウェーバックやステップバックで躱してしまえばいい。

 しかし、彼はあえてその場に留まった。

 冷静に、着実に、目の前の急成長するインファイターがそんな手段で攻めてくるのか見極めようとしていた。

 服部は強くなることに貪欲だ。そして、その為ならば子供が相手であっても躊躇い無くその頭を下げる事だろう。

 今回も、その一つ。より正確に言ってしまえば、幕之内が学んだであろう技術を盗もうとしていた。

 そんな事を知る由もない幕之内は、ここにきて賭けに出る。

 

(あの時のパンチだ。宮田君とのスパーリングで出せた、あのパンチ!)

 

 それは今の彼にとって、必殺技ともいえるもの。

 最早、幕之内の頭の中にはこの試合に勝つことは無い。仮にあったとしても、それは今は目を逸らされている事だろう。

 全てを出し切る。ただその一意専心のみ。

 多少の被弾は気にしない。文字通り体でジャブのタイミングは覚えたのだ。無意識の内に、という但し書きが付くが。

 構えはストレート。斜め下より、突き抜けるようなパンチ。

 

(いけぇええええええええッ!!!)

 

 通常のスマッシュよりも更に速い、変則スマッシュ。足腰のバネも上乗せされた一撃は、直撃すれば階級が上の相手であろうとも一瞬で意識を空の彼方へ吹き飛ばす事だろう。

 乾坤一擲。渾身の一撃は、空気を突き抜けて―――――

 

 肉を打つ音が響いた。



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 その光景をセコンドとして見ていた鴨川は、驚愕を禁じえなかった。

 

(まさか、ここまであ奴の掌の上、という事か…………パフォーマンスではなく、全てが勝つための、布石。これ程の男が居ったとは…………)

 

 内心で唸りながらも、勝敗は決した。

 幕之内渾身の変則スマッシュは、しかし服部の頬を掠めるようにして突き抜け、そのがら空きとなった顎にカウンターとして左の斜め下からのフックが突き刺さったのだ。

 原因は、塞がった右目。

 人間は左右の目が揃っていないと遠近感が曖昧になってしまう。

 僅かにだが、幕之内のパンチは顔面直撃から逸れていたのだ。それを差し引いても、服部は見た上で躱したかもしれないが、それでも通常時避けるよりも楽に避けた。

 そしてサウスポースタイル。自然と左半身が後ろに下がる事から、相手の右を懐に呼び込みやすい点がある。

 相手が遠距離でも戦えるアウトボクサーは別として、インファイターならば突っ込ませるタイミングを自分で調整できるだろう。相手にもよるが。

 誘い込み、相手の大砲を放たせた上でカウンターを決める。

 担架で運ばれていく幕之内。その姿を見送りながら、服部は拳の掠めていった頬を撫でた。

 重くも鋭い拳だった。それこそ、直撃を許していたならば膝が震えるであろうと思えるほどに。そして、熱い拳でもあった。

 

「最後の一発は、ひやりとしたな」

 

 セコンドとして見ていたであろう会長も同意見なのか、パンチの掠めた彼の頬を眺めそう一言呟く。

 周りから見れば、服部の完勝だろう。だが、その実幕之内拳は一発でも当たれば場をひっくり返す、そんな可能性を秘めた拳だったのだ。

 終わったからこそ“もしも”という言葉を人々は思い浮かべる。

 もしもあの時、拳が当たっていたならば。

 もしもあの時、足を止めなかったならば。

 もしも、もしも、もしも、もしも―――――。

 それを人は、後悔と言う。そしてそれは、何も当人たちだけの感情ではないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 新人王トーナメント準決勝が終わり、次の試合は凡そ一ヶ月後となったその日、殆ど殴られる事の無かった服部はいつもの様にロードワークへと出ていた。

 やれることをやるだけ。やってきたことをやるだけ。どんな事にも言える事だが、練習で出来ない事が急に本番で可能になる、何てことはまずありえない。

 だが、そのやれる事をやる為には、基礎体力が必要だ。折角に効果的なタイミングでスタミナ切れなど洒落にもならない。

 いつも通り、ジョグとダッシュを組み合わせた地獄のランニング。コースも変わらず、いつも通り休憩の為に公園へと訪れ、

 

「―――――よぉ。ハジメマシテ、だな」

「?」

 

 そうして声を掛けられる。

 

「……貴方は」

「オレは、伊達。伊達英二だ。一応、フェザー級のチャンピオンやらせてもらってる」

 

 そう言って、伊達はニヒルな笑みと共に右手を差し出してくる。

 愛想のない服部だが、それでも最低限度のマナーは弁えているつもりだ。無言で同じく右手を出して、その手を握り返した。

 風が吹き、二人の視線が交錯する。先に手を離したのは伊達だった。

 

「オマエの試合、見せてもらったぜ。アウトボクサー、ハードパンチャー、歯牙にもかけずほぼ無傷で決勝まで上がったってな」

「……ええ、まあ」

「ふっ……愛想のねぇやつだ。まあ、良い。急に話しかけるのもどうかと思っちゃいたんだがな、()()()()()を見たらそうも言ってられなくてな」

 

 そこで言葉を切った伊達の雰囲気が急激に重くなる。

 まるでリングの上で相対したような臨戦態勢。だが、その覇気を一番に向けられているであろう服部はと言うと静かな雰囲気のままであり、マスクもつけたままだったりする。

 

(へぇ、ここまでやる気を見せても揺れねぇか)

 

 伊達は、冷静に目の前の少年を観察する。

 精神面の強さというのは、どのような場面でも役に立つ。それこそ、リングの上のみならず日常生活でもそうだろう。

 だからこそ、伊達は解せない。プロですら稀に見る精神力に加えて、そこら辺のプロは愚か上位ランカーすらも舌を巻くであろう技量を持ちながら、何故この新人王トーナメントが始まるまで日の目を見る事が無かったのか、という事を。

 リングの上ならば兎も角、日常生活で腹芸をするほど伊達は賢しくない。ついでに、勘ではあったが目の前の少年は真正面から突っ込むのが一番と思ったりもしたわけで、

 

「単刀直入に聞くぜ?お前さん、()()()()に居たことがあるか?」

「…………ええ」

「!なら、そのボクシングの腕も、そっち仕込みって訳だ」

「……いえ、向こうに居たのは一年だけです」

「…………」

 

 無言で続きを促せば、そこで初めて服部はマスクを顎へとずらした。話す気になったらしい。

 

「……自分の両親は、世界を回る人でした。自分も幼いころからついていろんな国に行ったんです。ボクシングと出会ったのは十年前位ですね。そこで二人のある人と出会いました。ボクシングは彼らから基礎とトレーニングメニューを。残りは独学です」

「独学、ねぇ…………今も、そのメニューは続けてるのか?」

「……はい。最初からは出来ませんでしたけど、今はマスクを付けて高負荷のものになってます」

「そう、か……」

 

 頷きながらも、伊達は改めて目の前の若い才能に冷や汗が流れる思いだ。

 どれほどのトレーニングメニューを渡されたのかは検討もつかないが、それを約十年間、毎日欠かさず途切れさせる事無く、尚且つ慣れてくれば高負荷の物へと切り替える真面目さをもって愚直に鍛えた結果が目の前の怪物。

 恐るべきはその真面目さか、それとも幼かったであろう彼の才能を的確に見抜いた誰かか。

 

「敢えて聞くが、お前はどこを目指してるんだ?」

「…………」

 

 問いかける伊達の目を真っすぐに見返した、服部。

 一際強く風が吹き抜けて梢が揺れる。

 

「……あの日した約束を果たすだけです」

 

 ただ静かに、その言葉は紡がれるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 現チャンピオンとダークホースが邂逅していた丁度その頃、精密検査を終え熱も引いた幕之内の姿が病院のベッドにあった。

 幸いと言うべきか、クリーンヒットは二発だけ。ジャブで瞼も腫れていたが、冷やせば引きも早かった。未だに、ボコボコ顔である事には変わりはないが。

 

「大事が無くて、何よりじゃ。暫くは安静にしておくんじゃな」

「は、はい……あの、会長」

「何じゃ」

「トーナメントの決勝は………」

「負けたお主が気にする事ではない……と言う所じゃが、無茶に動かれてもかなわん。決勝は、服部と()()じゃ」

「!み、宮田君が勝ったんですね!」

「騒ぐでないわ。間柴も善戦しておったがな、技術による差は覆らん」

 

 見舞いに来た鴨川は、ため息を一つ。

 ぶっ倒された幕之内に変わり、試合を観戦した彼はそこでハッキリと見たのだ。

 勝つことへの執念、というものを。

 カウンターを顎に貰い、それでも立ち上がり反則すらも辞さない態度で戦おうとした間柴。

 そして、そんな相手を前にしてそれ以上のキレを持って勝ちをもぎ取った宮田。

 今の幕之内には、お世辞にも二人に迫るような執念は無い。

 試合にも、練習にも真面目に取り組み、その真面目さが確りと結果に表れるからか、絶対的に勝ちたい、という意思がどうにも欠けているのだ。

 草食動物に肉食動物的闘争心を求めるのも間違っているといえば、間違っているのだが。

 

(インファイターとしての、素質は十分。じゃが、こやつは打たれ過ぎる。激しい殴り合いは、客の望むところではあるが、ボクサーの寿命を著しく削ってしまう。何とかせねばな)

 

 昔は、鴨川も打たれるボクサーだった。相手の二発や三発を一発で打ち返すような、そんなボクサー。

 今の幕之内にも近いものがある。あるが、大成するには荊どころか、灼熱の溶岩の上を歩き続けるような不可能な苦難が待ち受けている事だろう。

 

「良いか、小僧。貴様がボクサーとして生きていくためには、まず防御能力を上げる事じゃ」

「防御、ですか?」

「そうじゃ。前進しか出来ぬボクサーなど、その間にアウトボクサーにタコ殴りにされてしまう。服部との試合でも痛感したのではないか?」

「…………はい」

 

 鴨川に言われ、幕之内は試合を思い出す。

 一方的だった。殆どジャブだけで抑えられ、決めようとしたパンチは二つともカウンターを決められ、マットに沈んだのだから。

 

「無論、全ての拳を避けられるほどボクシングは甘くはない。じゃが、なるべく被弾を抑え続ければ相手も焦れてくる。その隙をつき、懐に潜り込み貴様の拳をボディへ集め顎を下げさせる。まずはそこからじゃ」

「まずは?」

「貴様がボクサーとして生き残りたいのならば、打たれる数を減らさねばならん。特に頭はな」

「頭、ですか」

「打たれる前に、打つ。それが出来れば苦労はせん。いや、儂もこの試合が無ければそう考えておったじゃろう。じゃが、特攻させることに意味はない。故に、小僧。貴様が退院し、ボクサーを続けるというならばまずは防御を徹底的に仕込む。良いな?」

「……分かり、ました」

 

 頷く、幕之内を確認し鴨川はプランを練る。

 防御を強くするという事は、そのまま試合が長引くという事であり、同時に打たれる可能性が増すという事でもある。

 だが、逆に打たれる前に打つ。短期決戦を意識させ続けるのも問題なのだ。早い試合展開は、そのまま意識の加速、ひいては焦りへと繋がってしまう事も珍しくは無いから。

 そこで思いだすのは、新人とは思えない試合運びをした冷静なボクサー。彼の様に先手を打とうとしても、更にその上から潰してくるようなボクサーがこの先も現れる可能性は決して低くはない。

 だからこそ、防御。とはいえ、それは取っ掛かりに過ぎないのだが。

 

(自分のスタイルを見つける。まずはそこからじゃ。その為の基礎を今一度固め直さねば)

 

 指導者として、一度導くと決めたならば最後まで面倒を見る。

 幸い、今回の敗北は小休止となった。今一度、実情を見返す為のチャンスなのだから。

 幕之内一歩のボクサー人生は、まだまだ続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――――おい、何でこんな事になってる」

「……スパーリングの相手をしてくれるらしいです」

「んなもん、見りゃ分かる!何でその相手が、チャンピオン(伊達英二)なんだよ!?」

「…………話の流れ、ですかね?」



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 仲代ボクシングジム。

 日本フェザー級チャンピオンである伊達英二擁するジムであり、昨年度のフェザー級全日本新人王に輝いた沖田佳五なども所属している。

 そんなジムにて、相対する二人のボクサー。

 青コーナー、服部十三。赤コーナー、伊達英二。

 新進気鋭の若手と、ベテランの日本チャンプ。本来ならば、マッチメイクは愚か、こうしてスパーリングを組むことすらも無いだろう組み合わせ。それも違うジム同士ならば更にあり得ない。

 それでもこうして相対しているのだから、拳を交える以外に選択肢は無いのだが。

 

「おい、英二。良いのか?相手は腕はあるが新人だぞ」

「おやっさんもアイツの試合見ただろ。ありゃ、メキシカンのジャブだ。これから先、あの男と戦おうってんならもう一度体感しとくのも悪くない」

「だがなぁ…………」

「何より、服部は未だに底を見せちゃいない。まあ、新人王トーナメントじゃ仕方ねぇがな」

 

 渋る仲代から視線を外して、伊達はコーナーの反対側でヘッドギアを着ける服部を見る。

 メキシカンのジャブ、チョッピングライト、コークスクリューブロー、左右のスイッチ、カウンター。搭載してる武器の量が頭おかしいが伊達はそれだけではないと睨んでいたのだ。

 

(もしも、服部があの男を目標としているなら()()()()の筈がねぇ)

 

 知りたい、と思う。そう、これは単純な興味からの行動だ。

 正直な所、今の日本に伊達に迫るボクサーは片手で足りる程居るかどうか、と言った所。

 追いつこうとする後輩は居る。しかし、()()()()()()()()者は、心のどこかで諦めていない者は少なかった。

 だからこそ、興味と同時に期待がある。目の前のボクサーはそれだけの物を持っているのではないか、と胸が高鳴る。

 若くもないのに、と心の隅の方から冷めた声が聞こえる気がしないでもないが、そこには蓋をした。

 爛々と獰猛な光を宿した目で、スパーリングとは思えない雰囲気を発する伊達。対して、対面する服部の表情はと言うと、凪。

 ヘッドギアを着けるために掻き上げられた髪の下、いつもよく見えるその顔は無表情。表情筋が鉄で出来ているのではと思えるほどに無表情だった。

 服部にしてみれば、相手が誰であろうとも関係ないからだ。

 それが例え、素人丸出しであろうとも、ベテランであろうとも、ランカーであろうとも、チャンピオンであろうとも。もっと言えば、客が盛り上がろうと盛り下がろうとも勝つための戦いをする、その一点に終始しているから。

 

「良いか、服部。相手は日本チャンピオンの肩書を持っちゃいるが、その実力は世界の上位ランカーに食い込んでもおかしくないレベルだ。今はまだ本調子じゃなくとも、強いんだからな?」

「……分かってます」

 

 故に、会長に言われるまでもない。

 マウスピースを咥え、肩を回し、首を回し、前を見る。

 それぞれの思惑を乗せたゴングが今、鳴り響く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 沖田佳吾が、仲代ジムへと入門したのは彼が伊達英二のファンであったからだ。

 その憧れっぷりは筋金入りで、階級のみならずそのボクサーとしてのスタイルも寄せているほど。最早、尊敬を通り越して崇拝しているのではと思われそうなほど。

 だからこそ、今日のスパーリングは気に入らない。そもそも、伊達のスパーリングの相手は沖田が務めることが多いからだ。

 その役目を、デビューしたての新人に奪われる。これほど、彼のプライドを傷つけるものはない。

 

(いっちょ前に、様子見かよ)

 

 だからこそ、自然とその目にも色眼鏡が掛けられる。

 リングの上で睨み合う新人(服部)憧憬(伊達)

 どちらもゴングが鳴って接近すらもしていないのだから、拳を出さないのは当たり前なのだがそれでも沖田には服部が悪く見えてしまう。

 スポーツのみならず、自分が贔屓している相手だと自然と評価と言うか、見る基準が甘くなる。それと同じこと。

 内面穏やかではない沖田を置いて、二人は漸く互いの間合いに入り込む。

 

「…………」

 

 仕掛けたのは、服部。手を伸ばせば届く距離。まるで探るような、威力は無くとも速度の乗った左のジャブ。

 手打ちにも見えたが、伊達はあえてソレを防御の上から受ける、何てことはしない。

 ヘッドスリップを利用してジャブの内側へと潜り込み、ボディを―――――

 

「ッ!」(そう簡単に潜らせちゃくれねぇか……!)

 

 それは長年の勘。咄嗟に左腕を上げれば、容赦の無い右の振り下ろしが間髪入れず叩き込まれる。

 後一瞬、それこそ半拍でも反応が遅れていたならば、そのままマットに叩きつけられていたかもしれないそんな拳。

 バックステップで距離を取りながら、伊達は己の浅慮さを内心で恥じた。

 服部と、幕之内の試合は見ていたのだ。その際に、これと似たような場面、即ちジャブからのチョッピングライト、という流れもあった。あったにも関わらず、少し揶揄い混じりに突っ込み、そして反撃を貰った。

 

(防げたのは、偶々…………いや、あの目が見れたからか)

 

 未だに衝撃の残る左腕を軽く振って握り直し、思い返すのは潜り込んだ瞬間の事。

 ヘッドギアの下、服部の冷静な目。その目を見た瞬間、昂った心に冷や水が浴びせられ頭も冷え、その結果勘が働いたお陰で今がある。

 

(欠片も、焦っちゃいなかった。反撃する手段があったから?いや、違う。反撃する手段があろうとも、誰だって初撃で懐に潜り込まれちゃあ、焦るってもんだ。つー事は、こいつ。インファイトもいける口か?)

 

 左右の拳でフェイントを掛けつつ距離を詰める伊達は、至極冷静だ。

 彼と服部の間にある明確な差。それは経験値。如何に才能あふれていようとも、どうしても蓄積した年月は壁になりやすい。

 そして、その壁を無効化、ないしは軽減するのが服部の冷静な目だった。

 

(フェイントに引っかからねぇか。右か、左か。カウンターを狙ってるようには見えねぇが)「シッ!」

 

 考えながら今度は伊達のジャブが繰り出される。

 ウィービングによってソレは空を切り、返すように再び服部のジャブが飛ぶ。

 そこから始まるのは、ジャブの応酬。交差しまくる左の乱舞。

 当たりこそしないものの空を切る音がその鋭さを物語る。

 

「…………」

 

 そして、その光景を見た沖田の色眼鏡も外れた。

 あれほど、伊達のジャブを躱すボクサーも、あれほど、伊達にジャブを避けさせるボクサーも見たことが無かったから。

 殆どリングの中央から動くことなく、拳が空を切る音とそれに合わせたシューズの底とマットがこすれる音が響き続ける。

 膠着状態。打破したのは、服部。

 何度目かの伊達のジャブが空を切った瞬間、ステップイン。その勢いを殺すことなくリバーブローを叩きこみに掛かった。

 無論、ここまでモーションが大きいとベテランである伊達には折りたたまれた右腕によって防がれてしまう。だが、ここまではまだ序の口。

 何の躊躇いもなく放たれる右。左腕を引き戻す反動を利用した覆いかぶさるような軌道は、顔面を狙う。

 直撃の軌道。しかしここで、惜しくもゴングが鳴り響いた。

 誰からともなく零れる溜め息。まるで試合、それもタイトルマッチでも見たかのようなプレッシャーが周囲には立ち込めていたからだった。

 それぞれコーナーへと戻っていくボクサーたち。セコンドが声を掛ける。

 

「スゲェ奴が出てきたもんだな。英二、ヘッドギアを着けるか?」

「要らねぇよ……ふぅ、スパーリングって事を忘れちまうな、こりゃあ」

「ああ、見てるこっちも息が詰まりそうだったぜ。特に、あの左の応酬。ありゃ、早々お目にかかれるもんじゃねぇ」

「それだけじゃねぇよ。アイツ、最後の右に関しては狙ってあのタイミングで出しやがった」

「あ?どういうことだ?」

「時間を計ってやがったんだろ。相打ちになる前にゴングが鳴るタイミングを、な」

 

 椅子に腰かけた伊達が思い出すのは、最後の交差。

 あの瞬間、服部の右は伊達の頭部を捉えていたが、同時に伊達の左アッパーもまた服部の顎を捉えていた。

 コンマ一秒。ほんの一瞬、ゴングが鳴るのが遅ければそれぞれの顔が吹っ飛ばされていた事だろう。

 

「面白れぇな。スパーリングで終わっちまうのが勿体ないぐらいだぜ」

「これが試合なら、セコンドの俺は冷や汗もんだ。どうする、まだ続けるか?」

「当たり前だろ、ここからだぜおやっさん。なあに、俺もアッチも試合にダメージ残すようなヘマはしねぇさ」

 

 ニヤリと笑う伊達。

 そんな彼の纏う雰囲気の変化を、長年見てきた仲代は敏感に感じ取っていた。

 今でこそ、落ち着いた試合運びをする伊達だが、その実元のスタイルは相手を力で捻じ伏せるような荒々しいもの。

 

(眠ってたもんが、目覚めたか。感謝するぜ、ルーキー(服部)

 

 内心でそう呟き、仲代は流れる伊達の汗を拭き上げる。

 一方、反対のコーナーの側も慌ただしい。

 

「流石は、日本チャンピオンだな。お前と、真っ向から打ち合ってくるとは思わなかったぜ」

「…………」

 

 薄く頬を流れた汗を拭いながら、会長が思い返すのはジャブの差し合い。

 日本チャンピオンを舐めていた訳ではない。寧ろ、その凄さを対戦している服部以上に知っているつもりではあったが、それでも彼の才覚を目の前で見続けてきた彼はどうしても期待してしまっていた。

 もしかすると、予想外の結果を見られるのではないか、と。

 だが、その結果はある意味予想の範疇。

 チャンピオンの伊達の技量に驚嘆すべきか、それとも服部の才覚に唸るべきか。そんな結果。

 勿論、スパーリングで実力の底が測れるほど二人は弱くは無いだろう。少なくとも、試合の全力全開にはどうしても劣る。

 しかし、裏を返せば今の服部の実力は全力ではないとはいえ、伊達に食らいつける程度にはあるという事。本人も全力ではない為試合になれば、更に白熱した展開となる事だろう。

 見てみたい、と思うのはボクシングに深く携わる人種だからか。

 程なくして、スパーリングの第二ラウンドが始まる。

 その先に待つのは、果たして―――――

 

 

 

 

 

 

 

 

「一郎、ラストだ」

「……フッ!」

 

 キレのある右ストレートがミットを打ち、ブザーが響く。

 川原ボクシングジムのリングにて、宮田一郎は、父であり同時に専属トレーナーと共に練習に汗を流していた。

 

「随分と気合が入っているな」

「まあね……」

「幕之内の事が原因ならば、止めるところ何だがな。その目は、違うな?」

 

 長年息子として、そしてボクサーとして見てきた父の目には仇討や八つ当たり、ではなく純粋な闘志がその目に見えた。

 かくいう宮田も否定する気は無いのか、少し間を空けて、小さくうなずく。

 

「仇討……オレ達の約束が潰されたのは、思う所があるさ。けど、ボクシングは強いから、勝つんじゃない。勝った方が強いんだ。あの服部が、幕之内よりも強かった。それだけだ」

「……ふっ、その割には表情が強張っているぞ。それだけではあるまい。あの男、服部のカウンターは見事なものだったからな。幕之内の強打を前に、冷静に拳を合わせていた」

 

 思い出すのは、幕之内戦の最初のダウン。

 少し調べれば分かるが、幕之内のボディブローは、肋をへし折る。如何にボクサーと言えども真正面から受けるのは遠慮願いたい相手が彼なのだ。

 そんな拳を前に、服部は狙いすまして右を合わせ、結果マットに一撃で沈めて見せた。二度目のカウンターも同じくだ。

 カウンターパンチャーとしてのプライドがある宮田をして、見蕩れる一撃。その見蕩れてしまった、という事実が、この練習への熱の入れようにも繋がっている、と宮田父は理解してもいた。

 クレバーで冷めた見た目に反して、中身は熱くそして負けず嫌い。

 その負けん気こそが、宮田の原動力でもあり向上心にも一役買っているといえよう。

 

「勝算はあるのか?」

「勝算、ね……最初から安易に行く気は無いけど、一つ狙ってる事はあるよ」

「ほう。それは、何だ?」

「左さ。服部は、必ず左ジャブから試合に入る。多用するのも、左のジャブだ」

「そこにカウンターを合わせる、と。問題は、服部の耐久度か。速水、幕之内と決して弱くはないボクサーを相手に被弾を0で抑えてきたことを考えると、打たれ弱いボクサーなのか……いや、先入観は持つべきではないか」

 

 思い出すのは、準決勝の間柴の事。

 突き出た顎は諸に弱点だった。そこにカウンターが入り、倒せるはずだったのだ。

 だが、想定外の執念により間柴は耐え、その上で反撃もする始末。この瞬間だけは、さしもの宮田もリズムを崩し、あわや被弾といったところで間一髪バックステップが間に合い事なきを得た。

 その点、服部は未知数。弱点らしい弱点も無ければ、寧ろ手札の多さに対策が間に合わない程。

 だからこそ、出来ることをやる。出来るまでやる。

 更なる鋭さを求め、宮田の拳は空を切った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、運命の日はやって来る



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『ただいまより、東日本新人王トーナメントフェザー級、決勝戦を開始いたします』

 

 会場内に響く司会の声。合わせるように、騒めいていた会場の空気もピンッと張り詰めていく。

 彼らのお目当ての試合であると同時に、今年度のトーナメントでも最も技量が高いといっても過言ではない対戦カードであったから。

 

『赤コーナー。125パウンド二分の一、川原ジム所属宮田一郎』

 

 最初に現れるのは、カウンターの貴公子。会場の女性陣が沸き立つ。ついでに、宮田大好きなハードパンチャーも声援を送る。

 

『続いて、青コーナー。126パウンド。徳川ジム所属服部十三』

 

 対して、反対の入場口より現れる冷静な観察者に対しては目の肥えたボクシングファンより声援が飛んだ。

 素人目にもその技量の高さを物語る戦績を叩き出しており、静かな試合運びは唸らせるものがある。

 そんな観客の中には、未来のライバルを見ようとボクサーも何人か混じっていた。

 

「あの、鷹村さん」

「んー?」

「鷹村さんから見て、宮田君と服部さんはその……どっちが―――――」

「カウンターの技量なら、宮田が上だろうな」

「そ、そうなんですか!?」

「だが、それ以外は別だ。宮田はストレート系のパンチは強い、だがその分フック系のパンチに関しちゃ練度が劣ってる。少なくとも全体的なバランスで見れば、俺様は服部を推すな」

 

 鷹村の言葉を受けて、幕之内は改めてリングへと目を向ける。

 リングの上で晒された二人のボクサーの体つきで見れば、服部が上だろうか。身長はそれほど差はない。

 では、ボクシングのスタイルはどうだろうか。

 幕之内が知るところで考えれば、宮田のスタイルはカウンターパンチャー。パンチの質は決して重くはないが、その分切れ味鋭いカウンターが一撃で相手の意識を刈り取る、そんなイメージ。

 対して服部。彼のカウンターは剃刀ではなく、鈍器。刈り取るというよりも意識そのものを肉体ごと叩き潰す。

 そこでふと、幕之内はある事を思い出す。

 

「……そう言えば、服部さんのパンチはすごく効いたような気がします。まるで、石で殴りつけられたみたいな…………」

「石だと?………とすると、この試合。宮田が不利だな」

「ッ!?な、何でですか!?」

「お前がさっき言ったじゃねぇか、一歩。服部のパンチが痛かったってな」

「え?」

「拳が、グローブ越しでも硬い。つまり服部の野郎は、拳を鍛えてやがるんだよ」

「拳を、鍛える…………」

「空手やってる奴の拳が硬い話、知ってるか?アイツ等は、巻き藁殴ったりして拳を硬く鍛えていくんだとよ。こいつは、ボクサーにも有効だ。特に一歩。お前みたいなハードパンチャーには、特にな」

「僕ですか?」

「重い拳ってのは相手にも効くが、それと同じぐらい自分にもダメージ跳ね返って来てんだよ。それで硬い、肘や額ぶん殴ってみろ、下手すりゃ拳が砕けるぜ」

 

 硬いものと、硬いもの。ぶつけ合わせれば自然、砕けるのは道理。それも、硬度で劣る側がより粉々になる事だろう。

 それらを防ぐために、拳を鍛える。そして、拳の握り方を意識する必要があった。

 

「詳しくは、ジジイに聞け。俺様の拳は、軟じゃねぇが小物のお前は別だろ。拳の怪我は、癖になりやすいしな」

「癖、ですか?」

「おうよ。それだけじゃねぇ、拳を砕いちまったトラウマで変なフォームになって戦力ガタ落ちする奴もいる。それどころか、スパーリングですら真面に熟せなくなったり、な。そうなりゃ、引退。ボクシング業界からもおさらばってこった」

 

 若干最後の方で冗談めかした鷹村だが、これは実際にあり得る事。

 人は痛みを伴う記憶を忘れない。いや、頭では忘れていても怪我した部位が痛みを発すれば思い出す。

 その痛みが強烈であればあるほど、根は深くなりトラウマとなる。

 遠まわしではあるが、これは鷹村なりの後輩への気配り。特に幕之内は彼が、ボクシングの世界へと導いたようなものなのだから猶更だ。

 割と鈍い幕之内は、この先輩の気遣いには気づかない。気付かないが、拳の重要性に関して再確認できた気がしていた。

 そんな観客席の会話の一方で、リングではそろそろ試合が開始される頃合い。

 セコンドが降り、審判からの注意が行われ、選手は互いのコーナーへ。

 運命のゴングが、鳴り響く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 生唾を飲み込む音が、嫌に大きく感じられる静まり返った観客席。

 カウンターパンチャーの試合というのは、一瞬の間に終わってしまう事が珍しくない。観客たちもそれが分っているからこそ、文字通り固唾を飲んで一挙手一投足に神経を集中し続けていた。

 試合の立ち上がりは、静かなものだ。服部も、宮田も己のリズムを刻みながら徐々に徐々に間合いを詰め、

 

「……シッ」

 

 間合いに入ったと察知した瞬間、服部の左が飛び出した。

 恐るべきは、その間合いを見極める目。本当に僅かだが、どうやら服部の方が宮田よりも間合いが広いらしい。

 突き抜けてくる左ジャブ。対して宮田に焦りはなかった。

 冷静に見切り、お返しと言うように若干前に出ながら左のジャブを差し返す。

 

(よし、見切れる。手打ちのジャブと、それから伸びるジャブ。後、二発か三発か)

 

 互いにジャブを見切りながら、宮田は内心でタイミングを計る

 不用意な接近は、右の餌食になる。かといって、カウンターパンチャーがビビっていては話にならないというのが彼の言い分だったりする。

 伸びるジャブと、通常のジャブ。宮田が狙うのは、前者。

 

(ステップインと肩。この二つのせいか、伸びるジャブは戻しに若干の遅さがある。そこを突く!)

 

 果たして、僅かな踏み込み、と共に初手のジャブよりも伸びる服部の左ジャブが繰り出された。

 瞬間、宮田が踏み込んて行く。

 撃つのは、左ショートアッパー。狙うは、顎。タイミングも文句なし。

 そして、着弾する。

 

(…………な、に……?)

 

 ()()()()()()()

 殴られた本人も何が起きたのかが分からない。

 ジャブは避けたはずだ。そして、右拳にも十分注意していたし、何より右で殴られたのならば正面に服部の体があるのだから宮田の体は、宮田から見て右側へと倒れる筈。

 惚けながらも、致命傷ではないらしく無意識の内に宮田の体は踏ん張る事を選択していた。だが、混乱する頭は未だ追いつかない。

 

「一郎ォッ!正面から来るぞッ!」

 

 追いつかないながらも、セコンドである父の必死の声に体は反応した。

 脇を閉め、体に染みついたガードの姿勢。直後にガードの上から衝撃が突き抜けて、その体は後方へと押し込まれる。

 それ以上の追撃は無い、だが場内はざわめきが広がっていた。

 

「た、鷹村さん、今…………」

「ジャブの軌道が変わったな。真っ直ぐから、フックかありゃ」

 

 目を見開く幕之内と、目を細め見極める鷹村。二人の驚きの違いは、その技量と経験の差からの物だろう。

 そして、漸く混乱から抜け出した宮田もまた、状況から思考を纏めにかかっていた。

 

(オレのカウンターに更にカウンターを合わせてきたって訳か……!あの左、まだ何かしら種があるな)

 

 思わず、奥歯を噛み締めながら宮田は前を睨みつけた。

 彼にとってカウンターは、プライドその物。そして、ボクシングの全てでもある。

 そのカウンターを真正面から潰されたのだ。胸中が荒れてもおかしくは無いだろう。

 それでも試合を投げ出すわけにはいかない。ここで自棄を起こして、特攻する訳にもいかない。ただ勝つことに集中する。

 再び始まる間の攻防。今回先に仕掛けたのは、宮田だった。

 先程起きた、何か。その何かをもう一度起こさせるべく、左のジャブを果敢に連射していく。

 

(真っ直ぐは変わってない。さっきと同じタイミングだ。これなら……!)

 

 2、3とジャブを躱し四度目に一気に潜り込む。先程迎撃された手前、二の足を踏んでしまいそうなものだが、宮田には一切恐れはなかった。

 もっとも、今回はカウンター狙いではなく相手のパンチを引き出すことが目的。

 

(ここだ!)

 

 体で覚えたタイミング。それに合わせてガードを固める。

 案の定と言うべきか、折り曲げ顔のガードにした右前腕に衝撃が訪れた。横目に確認すれば、そこには服部の左フック。

 その腕は直ぐに引き戻され、放たれるのは左ジャブのダブル。

 それだけではない。

 

(ジャブの二連打……!躱せ―――――なにっ!?)

 

 二連打からの、左フック。それだけではない。左アッパー、左ジャブ、左フック。まるで左腕が鞭の様に撓りながら、手首の捻りで縦横無尽にその軌道を変えてくる。

 多彩だ。殆ど拳を振るわなかった速水戦や真っ直ぐのジャブしか放たなかった幕之内戦とは違う。場を制圧するような、そんな左。

 辛うじて、宮田はこの猛攻を凌いでいた。だが、そこまでだ。反撃するには至らない。

 カウンターを取るとか、タイミングを計るだとか、そんなレベルではないのだ。

 ジャブ、フック、アッパーが出鱈目なタイミングで牙を剥く。いや、リズムはあるのかもしれないが単調な左の真っ直ぐのみだった時とは違う。

 何より、

 

「ぐっ!?」(くそっ!合間合間で伸びるジャブが混じってやがる……!)

 

 宮田の被弾が増える要因。伸びのある重いジャブが要所要所で挟まれることで、より一層反撃を妨げてきていた。

 この左のコンビネーション。編み出したのは日本人だ。

 圧倒的な才覚と、野生を兼ね備えたライバルに立ち向かうために、場を整えるために生み出したキレのあるこのパンチ。

 名を【飛燕】という。

 

 

 

 

 

 

 

 

「よしよし、完全にこっちのペースだな」

 

 服部の汗を拭いながら、徳川は声を掛ける。

 観客や対戦相手と違って、彼は服部の練習にも付き合う事から手の内をある程度知っている。そこで飛燕の存在も確認済みだ。

 なんでも、メキシコに居た際に偏屈な爺さんに教わったらしい。その切れは長年の練習と当人の才覚によって凄まじい物となっている。

 

「お前から見てどうだ、服部。宮田は、強いか?」

「……そう、ですね。強い、と思います」

 

 徳川に言われて思い出すのは、左ジャブに対してカウンターを合わせようとした瞬間の事。

 生粋のカウンターパンチャーと言うのは前情報で知っていたが、それと同じく目の良さと度胸、勝負強さを持ち合わせた強いボクサーである、と言うのが服部の宮田評だ。

 因みに、一番評価が高いのは伊達。次いで宮田、幕之内と来る。

 

「どうだ?このまま第二ラウンドKOを狙うか?」

「……いえ、次のラウンドから恐らく合わせてきます」

「合わせるって、飛燕にか?」

「……はい。恐らく、左のストレート系にはそろそろ」

「ならギアをもう一段上げるか。宮田相手だと、アレは使え無さそうだが」

「…………」

 

 頷く服部。

 そんな徳川陣営に対して、川原陣営、もとい宮田陣営の空気は重い。

 

「かなり、打たれたな。意識ははっきりしてるか?」

「大丈夫……ッ、はぁ……まだまだいけるさ」

 

 返事をしながらも、宮田の体には打たれた跡が目立つ。

 直撃こそ避けているものの、それでも一方的に打たれ続けるというのはストレスになる。何より、宮田自身打たれ強いボクサーではないのだから。

 

「あの左が厄介だな。単調なストレート系だけでなく、フック、アッパーを流れるように織り交ぜてくる」

「それだけじゃない。ずっと最短距離を撃ち抜くつもりなのか、右が構えられてた」

「アレか…………迂闊に飛び込めば、右が撃ち込まれる。かといって距離を取れば左の餌食。実に厄介だな」

 

 父の言葉を聞きながら、宮田が真に厄介だと考えていたのが服部の冷静さだった。

 観察眼。常に相手の姿を捉え続け、僅かな隙を一切見逃さず武器を効率よく取捨選択。的確に相手のやりたいことを潰し続ける。

 変幻自在の左と、常に最短距離を撃ち抜く構えの右。

 何より、服部の拳が硬い。防御しようとも、その防御に回した腕にすら芯に響くような衝撃を伝えてくるのだから。

 避ける事を強いられ、生半可な防御では撃ち抜かれる。

 

「…………面白れぇ……!」

「!一郎……」

 

 過去最高の敵を前にして、宮田は日和るような男ではなかった。インファイターが相手でも真っ向から打ち合い、打ち勝とうとするようなそんなボクサーなのだ。

 相手が強い、それがどうした。相手が上手、それがどうした。

 壁が高い程、燃える。

 

「もう、後の事は考えない。次のラウンドで全て出し切る」

「…………本気なんだな?」

「出し惜しみして勝ちをもぎ取れる相手じゃないってのは、父さんも分かるだろ」

 

 自分を見返してくる息子の目は、本気だった。ならば、父として、トレーナーとして背を押すというもの。

 

「分かった。ならば、服部の手首には注意しておけ」

「手首」

「左手首だ。あのコンビネーションは手首から先の捻りを利用したもの。裏を返せば、捻りの向きさえ把握できればある程度、どのパンチが来るのか予想できるだろう。だが……」

「相手は気づいたことに、()()()。そのレベルって事だろ」

「ああ。一度か二度、見切って躱せばまず間違いなくあの男(服部)は気付くだろう。無論、種が分ってもそう易々と攻略できる技じゃない。その点を確りと肝に銘じておけ」

「OK、父さん」

 

 互いの拳を合わせて送り出す。

 第二ラウンドのゴングが鳴り響く



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 第一ラウンドの一方的な雰囲気を払拭するように、切り込んだのは宮田。

 パンチの全てを見切るような気迫のダッキングやステップを組み合わせて接近、左を放つ。

 自棄になった特攻にも見えたが、そのパンチのキレは過去一番。それどころか、全てを出し切るようなエンジン全開によるラッシュだ。

 勿論、ラッシュを貰う側となった服部も反撃している。

 飛燕による多彩な左のコンビネーション。だが、その攻略法の様なモノを、既に宮田は見出しつつあった。

 

(確かに、この左は多彩だ。だが、裏を返せば左は左でしかない!)

 

 そう、飛燕はあくまでも左手一本で放つ。体を正中線で左右に分けた場合、右側から突然飛んでくるようなことは無いのだ。

 無論、左に意思を割き過ぎて右の一撃を受けるなど間抜けと言わざるを得ないが、少なくとも左のコンビネーションの捌き方はセオリー通りで可能。

 ジャブ、フックはダッキング。アッパーはスウェーバック。最短距離を撃ち抜く右に関しては、頭かボディかを見極めて下がれば良い。

 一度、二度、宮田は見事に飛燕を躱して見せた。そして、飛燕を見切られ始めていると服部側も気づく。

 

「…………」

 

 前髪の下、僅かに細められる目。同時に、飛燕と伸びるジャブ、更に撓るジャブの三種が入り混じった左が加速した。

 鞭の様に撓るジャブ、からの肩を入れた伸びるジャブ。左フックの二連打、左アッパー。左ジャブの三連打。

 

「くっ……!」(更に速く…………!)

 

 躱し、受け止め、反撃する宮田だがその攻め手は僅かに減ってくる。

 少なくとも、今の彼の技量ではここが精一杯。

 加速していく、服部の攻め。どれだけ、心が戦おうと前に出ても、実際に動かす肉体が付いてこない。それが現実だ。

 攻め手に欠ける己の実力に歯噛みし、どうにか活路を見出そうとする宮田。

 そして、服部はそんな宮田の様子をじっくりと観察していた。

 飛燕を攻略しようとするその姿は、好感が持てる。だが、そう易々と攻略させる気もまた、彼にはないのだ。

 覇気がない。凄みが無い。言っては何だが、やる気も無さそうに見える。

 しかし、それは仮初に過ぎない。

 

(―――――………?攻撃が止んだ?)

 

 猛攻を凌いでいた宮田は、突然の圧力の霧散に合わせるようにしてその動きも止まってしまう。

 不信に思い、ガードのままそのスキマより目の前を確認し、

 

「おごっ!?」

 

 突然の鈍痛が腹部より襲い掛かった。

 くの字に折れる体。明滅する視界。

 何が起きたのか、それは当事者よりも観客の立場からよりハッキリと確認することが出来た。

 

「意識の空白と、斜めへの移動か。やっぱり上手いなアイツ」

「な、何でいきなり宮田君が被弾するんだ……!?」

「意識の空白さ。一歩、お前も見ただろう。服部の奴が、急にラッシュを止めたのを、よ」

「え?ええ、見ました…………そう言えば、何で急に…………」

「それが、奴の狙いだ」

「え?」

「大雨の中で傘を差してるイメージをしてみろ。傘さしてもうるせぇ雨だ」

「は、はい」

「そんな雨の中で急に雨が止んでみろ。急に傘を閉じるか?」

「………い、いえ、まずは傘の下から空とか確認すると思います」

「それと同じだ。服部は、宮田が一際ガードを固めた瞬間にラッシュの密度を増してやがった。そして、唐突に止めた。恐らく、宮田が焦れるタイミングを待ってたんだ。その直前でラッシュを止め、ガードの隙間から確認するように仕向ける」

「…………斜めへの移動、ですか?」

「ジジイに聞いた話だけどな。人間の目って奴は上下左右の動きには強いが、その逆に斜めへの移動には弱いんだとよ。それに加えてガードの隙間。宮田の視界はいつもより狭かっただろうぜ」

 

 鷹村の説明を聞き、改めて幕之内は息を呑む。

 彼の説明通りなのだが、服部はわざと宮田が回避ではなくガードするタイミングを狙ってラッシュを加速させていた。

 ガードの上からでもお構いなしに打ち放ち、気づかれない程度に体を外へと動かして、唐突にラッシュを打ち切る。

 一方的に攻め立てる状況は、ボクサーから見れば優位その物。仮にクリーンヒットがなかろうとも、判定にまで持ち込めれば審判を味方につけることが出来るだろう。

 そんな圧倒的な優位性を自分から捨てる。傍目からはそう見える。

 だが、生憎と服部はアウトボクサー()()()()。それどころか、カウンターパンチャー()()()()()

 距離を詰めた服部は、体を押し付けるようにして左のボディを三連打。そのまま強引に宮田の体をコーナーへと追いつめていった。

 

(重い……!その上、全く同じ場所を叩いてきやがる………!)

 

 どうにか脱出しようとする宮田だが、完全に懐に潜り込んでいる服部の背中しか今の彼には見えない。

 相手が自分と同格程度ならば、頭の位置を予想してアッパーをカウンターとして合わせて逆にダウンを奪えるかもしれない。だが、相手は目が良い。見切られる可能性があるせいで迂闊に手が出せなかった。

 この間にも服部の攻め口は、クレバーだ。ガードの上からでもお構いなしにボディへとパンチを集めて、その機動力を奪う動きに徹している。

 

(そう、か…………!コイツ(服部)は、()()()()()()()()()!距離関係なく戦えるって事かよ……!)

 

 内心で歯噛みする宮田。とはいえ、服部に騙そうとする裏は特にない。

 彼は常に()()()()()()()をしている。オーソドックスな構えのカウンターパンチャーの顔も、アウトボクサーの顔も、インファイターの顔も、その全てが勝つための手段。

 派手さは、要らない。観客受けすらも気にしない。

 ただ、勝つ。

 

 

 

 

 

 

 

 悪夢のような第二ラウンド。そうとしか言えない程に、試合は一方的な展開を見せていた。

 何度か、フックを引っ掻けて脱出しようとする宮田だったが、その都度完全に見切られ、距離を取られたかと思えば再び詰められてコーナーへと釘付け。

 ゴングが鳴るまで、徹底してボディを打たれ続けた。それこそ、ゴング後に自陣コーナーへと戻る事が億劫になる程度には。

 レベルの高いボクサーファイター。宮田陣営が思い浮かべたのは、世界のベルトすらも夢ではないと言われる一人の男。

 対策のたの字も無い。遠近中と全距離対応してくる相手を前に、それもスキルで負けているのならば、最早敗北は秒読み。

 それでも、宮田の目は死んではいなかった。

 そして始まった、第三ラウンド。

 ここで、彼らは一種のボクシングの完成形。その片鱗を目撃する。

 

『あ、当たらない!宮田の鋭いジャブが尽く空を切る!いや、それだけではありません!フック、アッパー、ストレート!それら全てが空を切る!』

 

 実況の頬を冷たい汗が伝う。彼もまた、多くの試合を見てきた。だからこそ、宮田のレベルもある程度は把握しているつもりだ。

 フック系は別にしても、ストレート系のパンチは新人離れした切れを持っている。破壊力には劣るが、その辺を補うカウンターも凄まじい。

 そのパンチが、当たらない。スウェーバックとダッキング、いや完全に見切り首を傾けるだけでパンチは空を切っていた。

 見ていたのは、宮田だけではない。服部もまた、左の飛燕を用いながら観察していた。

 パンチのタイミング、種類、()()()()()()

 相手の足運びや視線、思考。得意な状況から狙い、あらゆる全ての粗を探す。

 

(左ジャブ、左ストレート、フェイント、左ジャブ、左ジャブ、右フック―――――)

 

 結果、服部はまるで全てを見通すように宮田のパンチを見切っていく。パーリングなどの技術すら用いることなく、躱す、躱す、躱す。

 そして、拳を返す。

 

「うっ、ぐっ…………!」

 

 見えるパンチは耐えられるが、見えないパンチは耐えられない。

 これは視覚的な問題以上に、精神的な問題が大きく絡んでくる。

 来る、と分かっている何かに対して、人は肉体的にも精神的にも身構えることが出来、尚且つ無意識の内に痛みが最小限になるように動く。

 だが、不意打ちに関してはその限りではないのだ。その痛みは芯に響き、その響きは心を折―――――

 

「うぉおおおおおッ!!!」

「!」

 

 既に足が利かなくなっている状態からの宮田の左ストレート。

 難なく躱した服部だが、その拳から彼は折れない心の在り方というものを感じた。

 この瞬間、この刹那の交差限定だが、僅かに宮田が気迫で服部を上回る。

 

(―――――ここだ!)

 

 放たれる左ストレートに対して、宮田は前へと突っ込む。

 首を左に倒して拳を顔の脇へと通し、被せるように放つのは右。

 クロスカウンター。文字通り、渾身の一撃であり後先を考えない最後の一発。

 そして―――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 始まりがあれば、何事であろうとも終わりはやって来る。

 

「…………」

「何、しけた面してやがる」

「いえ、その…………」

 

 鷹村と共に帰路についた幕之内の表情は、良いとは到底言えない。当然その表情は鷹村にも分かるが、しかし励ますなどはしない。

 

「ボクシングは結果が全てだ。例えリングで何があろうと、な」

「それは、分かってます…………でも、その…………」

「宮田よりも服部の方が上だった。それだけだ」

 

 言って、鷹村が思い出すのは最後の瞬間。

 宮田のクロスカウンターは見事と言う外ない程に完璧なタイミングだった。当たれば、劣勢な試合内容をひっくり返せると断言出来たほどの出来。

 だが、その状況であっても服部は冷静そのもの。迫るカウンターを前にして、彼は僅かに左ひじを外側へと動かしたのだ。

 たったそれだけで、宮田のカウンターは逸れて服部の顔には届かない。その空白に叩き込まれた右アッパーは、カウンターの更にカウンターとして突き刺さり、その意識を刈り取った。

 

「地味な見た目だが、高等技術だぞ。それを咄嗟にやってのけた。宮田の気迫を服部が上回ったって訳だな」

「…………」

「ま、宮田贔屓のお前さんには受け入れられねぇか。だがな、一歩。お前がもし、宮田と戦うってんなら最低でも今の服部と真正面から遣り合えるだけの実力が要るだろうぜ」

「!ど、どういう事ですか?」

「考えりゃ、分かるだろ。今回の負けで宮田は再起不能になった訳じゃない。なら、より一層の鍛錬を積んでリベンジを果たすだろうさ。より鋭いカウンターを引っ提げてな」

 

 それはいうなれば、確信。宮田という男を知っているからこその言葉だ。

 因みに、ちょうど後楽園ホールの控室にて更なる高みを目指すと、宮田が父に宣言したのと同じタイミングであったとここに記す。

 一方、幕之内もまた今回の試合を思い返す。

 最初に浮かんだのは、服部の突然のインファイト。執拗なまでにボディを叩き続けた姿。

 

(僕ならあそこで、顎を狙いたくなる…………でも、服部さんは宮田君のボディ叩き続けてた。勝つための、次のラウンドに繋げるボクシング、か)

 

 インファイターは一撃の破壊力に目が行きがちだが、その実我慢強さも必要な要素。耐えるにも、詰め寄るにも、最後に物を言うのは精神力。相手より先に音を上げていてはお話にならない。

 まだまだ寡黙なボクサーは、注目の的であるらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

「こいつが、ワイの次の相手っちゅうこっちゃ。強いんか?」

「強い、何てもんやあらへん。新人っちゅう、経歴を疑わなあかん、そんなレベルや」

 

 自分をボクシングの世界に引き入れたトレーナーの言葉を受けて、浪速の虎はその写真を食い入るように見つめる。

 私見になるが、強そうには到底見えない。少なくとも、写真で見た限りでは。

 

「…………まあ、どっちでもエエ。ワイが勝つ。それだけや」

 

 深くは考えない。考える頭が無い、と言うのは指摘してはいけない。

 何せ彼は、西日本新人王。そして相手は、東日本新人王。

 全日本の舞台は、これより二ヶ月後の事である。


















関西弁が分からないので、虎さんに頭の中で喋ってもらいました
違和感あるかもです


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 サンドバッグを叩く。意外にも思われそうだが、グローブを着けていても割と痛い。それも慣れていなければ猶更であるし、ガムテープなどで補強してある物ならば、余計にだ。

 

「スゲーな、あのストイックさは、見てて逆にこえーよ」

「だな。ついでに、アイツ見てるともっとやらねぇと!って焦る気がしねぇ?」

「するする。こう、何と言うか限界はまだまだ先だ!って気になるよな!」

「まあ、それは幻でその数分後にはダウンしてるんだけども」

「それを言うんじゃねぇよ」

 

 談笑する彼らが見る先に居るのは、黙々とサンドバッグを殴る服部。

 ただその場に留まって殴るのではない。フットワークを織り交ぜてあらゆる角度から左右のラッシュを叩きこむ物で、その集中力は試合に臨んでいるかの様。

 服部が、ここ徳川ジムに所属してから活気、というよりもピリッとした緊張感が周りも伝播するようになった。

 緩んだ空気の蔓延は、衰退の第一歩。特にボクシングは選手生命が短く、リングで戦える時間と言うのは本当に一瞬の事。下手すれば、デビュー戦で壊されることも珍しくはない。

 だからこそ、緩んだ空気は致命的。負けを悔やまない、もしくは一瞬悔やんでも直ぐに忘れるような事になってしまえば、最早試合の勝利など夢のまた夢。

 そうなりそうだった。そこまで崖っぷちであったのだ、徳川ジムは。

 しかし、それも服部が来てから変わった。

 彼は、周りに自分と同じメニューを課すような事はしない。ただ只管に、自分の肉体を苛め抜くストイックさを持っているだけで、手を抜く者たちに注意をしたりもしない。

 只管に、ただ只管に、愚直に、誠実に、一直線に鍛え続けるだけ。

 その姿が、周りを動かした。否、動かざるを得ない空気を創り出した、と言うべきか。

 何故なら服部は強かったから。少なくとも、徳川ジムのボクサーが束で掛かってもごぼう抜きされる程度には強かったから。これで彼が弱ければ、そんな変わろうとする空気にはならなかっただろう。

 

「お前ら何やってる。見学するぐらいなら、走ってきやがれ」

「!う、うっす!」

「いってきまーーーす!」

 

 送り出すのは、服部の影響で変わったジムの空気に充てられたのか戦績を上げている男、山崎。愛称はザキさん。階級は、ライト級。

 一応、ボクサーファイターとして戦えるのだが、インファイトに持ち込んで殴り合う事の方が多いタイプであり、パンチ力もある。もっとも、服部の様にカウンターを見切ってカウンターするような目を持ち合わせている訳では無い為、勝者の顔じゃないといわれる程度には打たれることも珍しくはなかったが。

 そんな彼は、よく服部とスパーリングを行う。階級の差こそあるものの、技量的には服部が上。始めた当初は左手一本で完封されることも珍しくはなかった。

 

「服部ー、そろそろお前もサンドバッグを叩くの止めとけー!拳痛めるからなぁ」

「…………うす」

 

 返事と共に、走るのは閃光。

 左の二連ジャブが突き刺さり、直後に右腕を一閃。

 一瞬、動きを止めたサンドバッグはその直後にくの字に折れて奥へと揺れた。

 やっている事は基本のコンビネーションでしかない。左ジャブで距離を測り、ベストなタイミングで右のストレートを放つ、ただこれだけ。

 ただその練度が、異様に高い。破壊力と速度を両立したソレは、一種の必殺技の様。

 同じボクサーとして山崎も、その技量に嫉妬の念を覚えたこともあったが、それも直ぐに霧散した過去がある。

 何故なら、努力しているから。それはもう、生半可なレベルではない努力をしているから。

 一度、山崎は服部に、何故そこまで努力をするのか聞いたことがある。

 

―――――約束を果たす為

 

 返ってきたのは、小さなしかし力強い芯を感じる短い言葉。

 同時に理解する。服部にとって、その約束はどんなものよりも重いのだろう、と。

 だからこそ、山崎は力不足であることを理解しながらも彼の練習、主にスパーリングの相手をする。どれだけの助けになっているのか、そもそも助けになっていると思う事が烏滸がましいのか、それは分からない。もしかすると、単なる自己満足で彼の時間を浪費させているだけかもしれない。

 それでも山崎にはそれ位しか出来ないのだから、出来ることを全力でやる、それだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 出来ない事を出来るまでやれば、それは出来る事にカウントしても良いだろう。

 そんな言葉が似合いそうなほどに、練習に打ち込むのはフェザー級ボクサー、幕之内一歩。

 彼は生来の生真面目さを持って呆れかえるほどの反復練習にも弱音の一つも吐きはしない。

 

「頭を振れ!的を絞らせるな!」

「はいっ!」

 

 ピーカブースタイルの体勢から左右に体を振り、加えて頭を振る事で更にその動きを大きくする。

 そして、目の前でミットを構える鴨川へと振るうのは、左右の連打。

 一発の被弾もせず、相手を倒す。そんな器用なことは、幕之内には出来ない。出来るならばそもそも時代に逆行したようなインファイター一本に絞ったりしないのだから。

 それでも戦える手段として今まさに身につけようとしているのが、この回避と攻撃を両立した動き。

 基本、ウィービングで回避を優先し体を揺らした反動を利用しながら二門の大砲とも評される左右を叩きつけるというもの。

 ミソとなるのは、幕之内の強靭な下半身と自然と身に付いた三半規管によるバランス感覚。

 左右に上体を揺らすだけでは不十分。相手のパンチの威力を僅かにでも弱める為に、後ろにも下がれるようにしなければならない。

 イメージするのは、マニュアル車のシフトレバー。左右前後と、根っこを支点に自由自在だ。

 そして、鴨川もまた、この戦法には手ごたえを感じていた。

 元々、それほど大きくはない幕之内がウィービングを行うと、通常のボクサー以上に沈み込むのだ。加えてそこに相手のパンチを躱す、という条件が加わるとより一層、凶悪。

 腕を前に出すと分かりやすいが、突き出した腕が邪魔をして視界の邪魔になってしまうのだ。それが、フックやアッパーなどの体の動きも連動したパンチならばより一層見づらくなる。

 そこに、幕之内の強打が突き刺さるのだ。大抵の相手は、それで沈む。

 

「小さく、細かく、じゃ。貴様の拳ならばそれだけでも十二分に威力を発揮する!」

「はいっ!」

「大振りはするでない!服部との試合を思い出せ!」

「ッ!はいっ!」

 

 鴨川に言われ、幕之内の脳裏を過るのは大振りのフックにカウンターを合わせられた瞬間。

 カウンターを食らうまでの瞬間、圧縮された時間の中で彼は絶望にも似た感覚を味わっていた。縋りついた糸を目の前で切られたカンダタの気分か。

 大振りのパンチは派手だ。だが、その実体の開いたパンチは隙が大きく、威力が逃げてしまうという欠点がある。

 何より、カウンターパンチャーにとっては餌だ。

 幕之内も学んだ。何故、鴨川が小さく細かく、連打を勧めてくるのかを。

 そして、ブザーが鳴り響く。

 

「ここまでじゃ。柔軟を忘れるでないぞ」

「は、はいっ!……ッ、はぁ……はぁ…………!」

 

 大きく息を切らせる幕之内。彼の体力面もまた、これからの課題だ。

 尖った性能だからと言って、全てを削り落として尖らせすぎる必要などない。そんな物、先に進んだ時アッサリと折れてしまうのだから。

 問題は、

 

「…………小僧の相手が足らんな」

 

 ミットを外した手を冷やしながら、鴨川は呻くように呟く。

 鴨川ジムも決して恵まれた環境ではないのだ。鷹村という才能あふれるボクサーが居り、その後輩ともいえる青木や木村もベルトが十分狙えるだけの素質もある。

 問題は、その三人が幕之内よりも上の階級であり今彼に必要なのは、同階級の相手。

 宮田が居ればよかったのだが、彼はジムを離れてしまった。

 蛇口を閉め、どうしたものかと思考を回す。

 思いつく手段としては他所のジムからスパーリングの相手を探すというもの。だが、この方法は金がかかる。

 大事なボクサーの為だろう、と言われても人間社会、生きていくにはどうしても金銭面は必要になるのが世の常だ。

 世知辛い事に、ボクシングは稼げない。正確には、日本でのボクシングは、だが。

 ボクシング一本で食べていける人間など、ほんの一握り。基本的には、ボクサーとその他別の職業という二足の草鞋で生活していかなければならない。

 そして、ボクサーが金欠ならば、ジムもまた金欠。

 グローブ、テーピング、サンドバッグの修繕、光熱費、水道代、トレーナーの給料、その他諸々etc.。場合によっては、テナント料も払わなければならない。

 その上、国内に対戦相手が居なくて海外から招く場合、その分の費用もかかる。

 だからこそ、ジムにはスポンサーが必要なのだ。

 

「むぅ、いかんな。今は、小僧の事じゃ」

 

 頭を振り、逸れた思考を巻き戻す。どうしても、無い物ねだりをしてしまうのは人間の性というものだ。

 どうしてものかと再び考え込みながら、会長室へと戻るとそこでは八木が電話の対応をしている所だった。

 

「はい、はい…………あ、少し待ってください。会長、お電話です」

「誰じゃ?」

「徳川ジムの徳川会長からですよ」

「なに?」

 

 思ってもみない相手からの電話。

 受話器を受け取り、耳へと押し当てる。

 

『お久しぶりです、鴨川会長。徳川です』

「ああ、こちらもな。して、何の様じゃ」

『ええ、実はそちらの幕之内君とうちの服部のスパーリングを組めないか、と思いまして』

「!ほう、それは察するに新人王戦の相手を見据えての物じゃな?」

『さすがは鴨川会長、情報取集も終えていますか』

「世辞はいい。こちらとしても、小僧のスパーリング相手が見つかるのは願ったり叶ったりと言った所なのでな」

『それは良かった。細かいところは、追々決めようとは思いますが、場所はそちらをお借りしても良いでしょうか?』

「む?まあ、構わんが………」

 

 何故、と言葉の外の雰囲気で鴨川は問う。

 徳川としても隠し通す必要もない為に素直に口を開いた。

 

『その……そちらの、鷹村選手と服部を会わせたいな、と思いまして』

「鷹村じゃと?」

『はい。お恥ずかしながら、うちのジムは特別活気がある訳じゃないんです。何より、服部より強い選手が居ません。そこで―――――』

「鷹村をぶつける事で、より高みへと昇らせる、と」

『その通りです。服部は真面目な奴ですが、やはり刺激があるのと無いのとではモチベーションなども違いますからね』

 

 因みに、幕之内にスパーリングを依頼する件に関して徳川は服部含めたジム生に話していたりする。と言うかむしろ、後押しを受けた。

 鴨川からしても、この件は渡りに船だ。強い選手が顔を覗かせるというのも、ジム生にいい刺激となる事だろう。

 

「スパーリングの件は、受けよう。こちらとしても、小僧の相手を探しておったのでな」

『本当ですか!ありがとうございます!では日程を―――――』

 



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10

転職やら何やらで地獄見てました。待っていた方々、本当に申し訳ないです















 鴨川ボクシングジム。通りに面した立地であり、ランカー三名を有する。中堅どころとも言えるジムだろうか。

 有名と言えば、デビュー戦より全戦全勝KO勝ちばかりのリーゼントなハードパンチャー、鷹村守だろう。

 そんな鴨川ボクシングジムはこの日、緊張感に満ちていた。

 何故なら今日は、特別な日。外部からの客が訪ねてくる日だったから。

 

「おい、ジジイ。いつになったら、あの野郎は来るんだ?」

「もう少し待っておれ。子供かお主は」

「ルッセェ!最初が肝心だろうがよ!」

 

 ギャンギャン騒がしい鷹村を適当にいなしながら、鴨川はため息を吐く。

 今日のジムは、どこか浮ついていた空気に満ちていた。原因は言わずもがな、今回場所を提供する側として招く形となった相手の事。

 よくよく見れば、鷹村だけでなく、木村や青木などもそわそわとしており幕之内に至っては、何度となく入口へと目を向けては逸らしてを繰り返している。どこの乙女だ。

 いまいち身の入っていないジム生達に、そろそろ一喝入れようか。鴨川がそう考えて杖を手に掛けたのと時を同じくして、ジムの窓に影が差した。

 引き戸が開けられ、入ってきたのはもさもさ頭の青年と少年の中間のような男。

 

「……おはようございます。徳川ジムから来ました、服部です。今日はよろしくお願いします」

 

 腰を九十度に曲げて頭を下げた服部。静かなものだが、何と言えばいいのかその内側には確かな熱を感じさせるそんな姿だった。

 顔を上げた彼に、早速絡みに行くのは今回のホスト側でもある鴨川……ではなく、プレゼントを待ちきれない子供のようにそわそわしていた鷹村だ。

 

「よぅ、このオレ様を待たせるとは随分じゃねぇか?」

「……初めまして、鷹村選手。時間に関しては、約束の十分前ですから」

 

 巨漢とも言える体格をした鷹村を前にして、服部は一歩も引く気は無いらしい。真っ向から見上げるようにして目を合わせて、逸らさない。

 一定以上の実力者ともなれば、その体つきを見ただけでも相手の技量を測れる。

 だが、この睨み合いは技量を測る、等という生易しいものではなかった。寧ろ、この場でそのまま拳を交えてしまいそうな、そんな重さがあったのだ。

 とはいえ、ここはリングではないし、そもそも戦争しに来たのではなく練習を共にしに来たのだ。

 

「止めんか、お主ら。鷹村も、下がらんか。お前は後じゃ、後」

「ぬ!邪魔すんじゃねぇーよジジイ!」

「戯けが!時間は有限で、それも態々相手から小僧をスパーリング相手に選んでくれたんじゃぞ。下がらんか」

「チッ………おい、服部。後でスパーやるぞ忘れんなよ」

「よろしくお願いします」

 

 肩を怒らせるような堂々とした後ろ姿で奥へと引っ込んでいった鷹村。入れ替わるようにして、鴨川が服部の前へとやって来た。

 

「すまんな、服部よ。鷹村がしつこくてな」

「いえ、大丈夫です」

「そうか………早速じゃが、小僧とのスパーから入ろう。アップは問題ないか?」

「……少し、シャドーを挟んでもいいでしょうか?1ラウンド分で良いので」

「勿論じゃ。リングを使うか?」

「いいえ、角を貸していただければ、十分です」

「そうか…………ならば、地下に行くかの。そこならば、周りの目も気にならんじゃろう」

 

 踵を返して案内するように先に行く鴨川の背を追い、服部もまたジム内に歩を進めていく。

 

「小僧、お主も来んか」

「は、はい!」

 

 鴨川に呼ばれた幕之内も続き、三人は奥の扉へと消えていった。同時に、漂っていた緊迫感とでも言うべき圧力も霧散する。

 

「…………ぶはーっ!マジで焦ったぜ。あのまま、鷹村さんと服部の殴り合いになるかと思った」

 

 息を吐き出すついでにそう漏らした青木の言葉は、この場に居た周りの心情もそのまま表している。

 そこに鼻を鳴らしたのは、鷹村本人だった。

 

「はっ、オレ様も服部もリングでもねぇのに拳合わせる訳ねぇだろ」

「でもですよ、鷹村さん。アンタ、服部とスパーするのは否定しないんすよね」

「まあな」

「珍しいっすよね。俺らは兎も角、一歩だって余程の事じゃなけりゃスパー相手にしないってのに」

「そりゃ、ジジイが止めてきやがるからな。心配すんな、壊しゃしねぇよ」

 

 そう言う鷹村の表情は、実に楽し気だ。

 実際の所、彼の相手を務められる国内の選手は居ないと言っても過言ではない。これは、鷹村自身の恵まれた体格も相まっての事。

 仮に相手になるとすれば、チャンピオンクラスでどうにか。そんなレベル。

 そんな時に現れたのが、服部だ。その引き出しの多さは、僅か数試合でも明らかであり未だに底を見せてもいない。

 階級に差があれども、技量の高さは実力の高さだ。スパーリングであろうとも、期待せざるを得ないというもの。

 時を同じくして、地下ではその片鱗を幕之内が味わっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

(す、すごい……!)

 

 風を切る拳の音と、フットワークのキレ。基本を踏襲したシャドーではあるのだが、だからこそその凄さというものが際立つ。

 服部のシャドーは、第三者の視点から見ても対戦相手の影が見えるような、そんな出来栄えだった。

 少なくとも、幕之内には影のような物と相対する服部の姿がその目には映っていた。

 鋭い服部のジャブを、しかし影は軽快に躱しそれどころか二発目以降には交差するようにカウンターを返してくる。飛燕を交えてもそれは変わらない。

 左右のスイッチ、そこからの右ストレートも変わらずカウンターが被せられてくる。

 対戦したからこそ、幕之内は服部が強いという事をよく知っていた。そして、会長や先輩に補足を受けてその肉体が尋常ではないレベルで鍛え上げられている事も知った。

 その上で、彼のシャドーの相手は()()()()。勿論、弱い相手をシャドーに据える理由など無い。無いが、だからといって化け物のような相手を積み上げる事もまた違う。

 

「―――――…………お待たせしました」

 

 濃密な三分間。シャドーを切り上げた服部が振り返る。

 見蕩れていた幕之内も正気へと戻り、二人はスパーの準備へと向かっていく。この間に、鴨川も地下へと降りてきていた。

 オマケを連れて。

 

「なぜ、お主らまで付いてくる」

「良いじゃねぇか、ジジイ。見物だって、練習だぜ?」

「減らず口を………まあ、良いわ。服部よ、ヘッドギアはどうする」

「………無しでお願いします」

「………良かろう。して、何か要望はあるか。もっとも、小僧に出来る事などそうないが」

「いえ、特には………いつも通り、お願いします」

 

 頭を下げてくる服部に対して、鴨川は目を細めて幕之内へと一つ頷きを送った。

 ヘッドギアは、防具であるのだがパンチ力がある相手の場合は意味を為さない場合が珍しくない。そして、幕之内はパンチ力のある男だ。

 何より、服部の回避能力は群を抜いている。当人もダメージを残すような馬鹿な真似はしないだろうという判断から無理強いはしない。

 一方で、幕之内はというとヘッドギアを着けていつものピーカブースタイル。アップは終えているものの、こうして相対するとあの時の試合を思い出す。

 一方的にやられた。最早、動くサンドバッグを殴っていたと言われてもおかしくない程度には一方的すぎる、試合内容。

 あの敗北があったからこそ、防御の大切さを身に染みて理解したし、もっと上へと昇りたいとも思えた。

 幕之内は感謝している。あの日の敗北を教えてくれた服部に対して。

 だからこそ、今回のスパーリングではその感謝も含めて、全力で応えるつもりだった。

 ゴングが鳴り、幕之内がコーナーより飛び出す。

 迎撃するように放たれた手打ちの左ジャブ。幕之内はその一発を潜り抜けるようにして潜り込み、服部の懐へ。

 放つのは、左のボディフック。

 鈍い音が響く。

 

 

 

 

 

 

 予想外の光景に、鴨川はその目を見開いていた。

 確かに、ここ二ヶ月近くは幕之内の防御を重点的に見ながらも更なる強化を行ってはいた。だからといって格上に対して一発かませるほどの実力にはまだまだ程遠い。

 その筈なのだが、幕之内の左拳は、確かに服部の腹筋を捉えていた。

 圧倒的なまでの違和感。そして、その答えは直ぐに分かった。

 

「………打たせおったか」

 

 そう結論を出せば、そうとしか思えなくなる。

 左のジャブを態と真っ直ぐに限定し、そこを潜らせて腹を打たせる。普通ならば、やらない。それも相手が幕之内というハードパンチャーならば猶更。

 だが、()()()()()()と見るならばこの見解は変わってくる。

 何故打たせるのか。

 

(成程………場の制御に加えて、打たせる位置、タイミングに至るまで小僧の全てがあ奴の掌の上という訳か)

 

 そう内心で結論付ければ、戦慄を隠すことが出来ない。

 文字通り、釈迦の掌。ここまで相手の事を制御できるボクサーなど世界にどれほどいる事だろうか。

 無論、相手が幕之内という武器が極端に少なく、尚且つ馬鹿真面目で馬鹿正直な男でなければそこまで上手く嵌るような事ではないだろう。

 服部が想定しているのは、直情型の相手。そして、今の自分の体が同階級のハードパンチャー相手にどこまで耐えられるのか再確認。

 そうして、態とボディを打たせる三分間が終わりを告げる。

 

「………凄い」

 

 コーナーへと戻ってヘッドギアを外した幕之内の第一声がコレだった。

 彼が目を輝かせてみるのは、反対コーナーの服部。

 幾ら真面目堅物な幕之内であろうとも、あそこまで()()()()()()()()分かる。自分はボディを打たされていたと。

 その上で、感動したのはその腹筋の堅さ。まるで、鉄板。鍛え上げられた腹筋というのはあそこまで硬くなるのか、と。

 

「よっしゃ!次はオレ様とやるぞ!」

「………お願いします」

 

 意気揚々とリングへと上がっていく鷹村に押し出されるようにしてリングを降りた幕之内。

 たった一ラウンドではあったものの、濃密すぎる時間だった。正直な所、一息入れたいと思ってしまっていた為に特に食い下がるようなことは無い。

 

「操られた気分はどうじゃ、小僧」

「会長」

「お主も分かったじゃろう。自分が打たされている、と」

「はい」

「どう思った」

「えっと………ただただ、凄いなって。服部さんが強いのは分かります。僕じゃ、まだまだ及ばないのも分かります。だから、その…………」

 

 純粋な称賛。そして、自分に何が足りないのかハッキリとその口でいう事ができるのもまた、一つの才能だ。

 腐ることなく、落ち込むことなく、前へと一歩ずつ着実に進む為の力になるだろう。

 

「………今度の試合、見に行くぞ」

「今度?」

「新人王戦じゃ。服部の相手は、お主に勝るとも劣らぬフェザー級屈指のハードパンチャー。その上、今年は相手のホームグラウンドで戦う事になる。敵地戦がどういうものか、お主も外野とは言え知っておくべきじゃろうて」

「………試合は、二月の末でしたよね?………行きます」

 

 試合を見る事もまた練習。それも、自分と同等かもしかするとそれ以上のハードパンチャーの試合と言われて、興味がわかない訳がない。

 各々の思惑はどうあれ、時間は進む。その時が来るまでの努力を積み上げる、ただそれだけだった。



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11

 ボクシングにおいて重要なこと。

 弛まぬ鍛錬。純粋な才能。そして、数多くの経験。主にこの三つだろうか。無論、諦めない根性などの精神論なども存在するが、どれだけ心が強くとも体がついてこなければ意味がない。

 

「―――――シッ!」

 

 鋭く放たれる左ジャブ。1、2、3、と数が積み重なるがクリーンヒットはない。

 重量級の体格に見合った、いや世界でも屈指レベルのパンチ力に加えて、その大柄な体格をものともしない圧倒的なフットワーク。スパーリング相手としてこれ以上の怪物は、そうそう居ない。

 一方で、相手としてもこれだけの技巧派はそうそう居ないと言って良いだろう。

 左のパンチの種類だけでも目が回りそうなほど。回転も速く、ダブル、トリプルなどザラ。一瞬の油断で2、3発貰うことになっても不思議じゃない。

 幾つもの階級差のあるスパーリングは、そして多くの人々を魅了していた。

 

「やっぱり、凄い……!」

「だな。あの鷹村さんのラッシュを最小限以下のダメージで抑えてる」

「それだけじゃねぇよ。服部の左ジャブ。鷹村さんだからこそあそこまで躱せちゃいるが………俺らだったらボコボコにされてたかもしれねぇな」

 

 見るのも練習である、と幕之内、青木、木村の三人はリングの外から鷹村VS服部のスパーリングを観戦していた。

 同門であるからこそ、彼らは鷹村の強さをよく知っている。それこそ、国内では収まりきらないほどの大器を有していることも。

 一方で、服部に対する色眼鏡も彼らは掛けていない。何故なら、事実彼は強いから。

 鷹村の体重がヘビー級に対して、服部はフェザー級。体重差は三十キロを超えている。これに加えて、二人の身長差はそのままリーチの差にも繋がり、リーチ差はそのままパンチが届くか否かの差になる。

 小回りでは、服部。破壊力、リーチでは鷹村。スピードは服部に軍配が上がれども、鷹村の速度はヘビー級のソレではない。

 目まぐるしくポジションを変えながら拳が交差し合い、しかしどちらもクリーンヒットは譲らない。

 そして、ゴングが響く。

 

「いいパンチだったぜ」

「……ありがとうございます」

「だがな、服部。お前は、左の飛燕に頼りすぎてる」

「………」

「キレも威力もある。だがな、お前の器用さが活かしきれてねぇ。その辺、もう少し煮詰めとけ」

「はい」

 

 リングの中央でグローブを外しながらの反省会。凡そ四ラウンドを戦い抜いたというのに、この二人の体力は底無しなのではなかろうか。

 一応、疲労が無いわけではない。服部も鷹村も、着ていたシャツの色が変わる程度には汗を掻いているし、息も若干荒れてはいた。

 だが、それだけ。疲労困憊で一歩も動けない、なんていう状況はまだまだ遠い。

 

「………鷹村さんは、ガードを下げた方が動きが良いですよね」

「まあ、喧嘩なれってやつだ」

「なら、拳を置く場所を少し変えてみては?こう、出しやすい場所に拳を置くんです」

「拳の位置か」

「はい」

 

 二人だけの反省会。服部が鷹村からグローブを預かれば、キレのあるシャドーが数発刻まれる。

 何かを掴んだのか、鷹村は頷き、次は服部の番。こちらもシャドーを少し振るって拳を何度か、握って開く。

 そして、二人は何もそれ以上言葉を交わさずに再びグローブを着け直していくではないか。

 

「一歩ォッ!ゴング鳴らせぇ!」

「ま、またスパーリングですか!?」

「つべこべ言わずに鳴らしやがれ!」

 

 鬼の形相でリングの上から見てくる鷹村に、半ば舎弟のような幕之内も逆らえない。

 だが、ゴングが鳴る直前その腕は止められた。

 

「そこまでじゃ、馬鹿者。オーバーワークになっちまうわ」

「ジジイ!止めんじゃねぇよ!」

「止めるに決まっておろうが。何より、服部は二週間後に試合じゃ。余分な疲労を溜めて、先方さんに顔向けできんわい」

 

 いかに傍若無人な鷹村でも、鴨川には止められる。それも、試合に直結するような事ならば猶更だ。

 

「チッ、仕方ねぇ………おい、服部」

「はい」

「次のスパーで試すぞ」

「はい」

 

 頷く服部に満足したのか、そのまま鷹村はシャワーを浴びに向かってしまう。残った側である服部も、シャドーを再確認の様に少し挟んでグローブを外していく。

 傑物、それが鴨川から服部に対する評価だ。トレーナーとして、コーチとして、育てるものとして、その身に宿したポテンシャルというものは惹かれるものがある。

 

(鷹村との四ラウンド分のスパーリング。それに加えて、こやつは小僧とのスパーリングも熟し外周にも精を出しておる………正しく、ダイヤ。徳川が持てあますのも分かるというものよ)

 

 才能があり、ストイックで、その上器用。鷹村を初めて見つけた時に見惚れた圧倒的なポテンシャルにも似た予感。

 即ち、世界へと通じる器という事。

 

「服部よ」

「はい、何でしょうか」

「お主の目指す展望を、聞かせてもらっても良いか?」

「………」

 

 鴨川の言葉に、真っ直ぐ見返す服部。その目には、静かだが轟轟と音を立てて燃え上がるような炎が隠されているように見えた。

 

「ある人と、戦うために。そして、勝ちます」

「その頂は、遠いぞ」

「望むところですから」

 

 たとえ、修羅の道であろうとも服部は突き進む。その為に作り上げた体であり、同時に身に着けた技術の数々。そして、モチベーション。

 進むために立ちはだかる全てを薙ぎ倒す。それが、服部十三という男だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 時、流れる。甘い二月の風習を超えた月末。

 舞台は大阪府立体育館。

 

「す、凄いですね………皆、千堂さんの応援ですか」

「新人王戦の決勝戦は、東京、大阪と交互に行う。小僧、覚えておけ。貴様が上を目指すというならばこの場のようなアウェイのリングは必ずある」

「服部さんは、大丈夫ですかね………」

「あ奴ならば、問題なかろう。どれだけ追い込まれようとも、あの鉄面皮が揺らぐとはわしには思えんからな」

 

 西日本新人トーナメント覇者である千堂の応援団を尻目に、鴨川は今回の服部の対戦相手の事を思い出していた。

 千堂武士。西日本新人トーナメント覇者であり、幕之内と同じくインファイター。だが、その戦い方は野生そのもので喧嘩慣れしている点を生かした豪快なもの。

 まだまだ新人であるし、穴も多数見受けられたがそれでも強くなる才能とでもいうべきか、伸びしろを十全に感じさせるそんな期待の新星。

 ただ、ボクシング記者である藤井に集めてもらった情報も加味して鴨川のはじき出した予想は9:1で服部の勝利であった。十割ではないのは、ボクシングに絶対は存在しないから。

 因みに、この予想を幕之内に伝えてはいない。彼には先入観なく試合を己の眼で見てほしいと考えていたからだ。

 そうこうしている内に、時間は近づいてくる。

 最初に姿を見せたのは、服部。会場内からはヤジが飛ぶが、ヤジられる当人も付き添いの徳川も気にした様子が欠片もないというのは流石だろう。

 そして、大多数の観客からすれば本日の主役の登場だ。

 右腕を上げて観客へと応える千堂。鋭い獣のような目つきと、新人ではあるが鍛え上げられた体つきをした仕上がりの良いボクサーだ。

 リングに両雄、相対する。レフェリーからのお決まりの注意が行われ、両陣営は互いのコーナーへ。

 

「いいか、服部。いつも通り、プランはお前に任せる。目一杯、ぶちかましてこい」

「………はい」

 

 徳川のいつものセリフだ。丸投げではない、信頼。お前の全てを信じているという気持ちをそのまま、言葉にした形。

 服部も服部で、頭の中のプランに変更はない。

 ただひたすらに、勝つこと。それのみに終始するだけ。相手の見せ場など、知ったことではない。

 何より今回の新人王とて、足掛かりに過ぎない。求めるのは、更に上だ。

 

「―――――…………行ってきます」

「ああ、かましてこい!」

 

 いつも通りに送り出す。

 そして、ゴングは高らかに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 千堂武士がボクシングを始めたのは、スカウトを受けてからのものだった。

 闘争心旺盛ではあるものの、当人は暴力を至上とするような質な訳ではない。寧ろ、普段は気のいいお兄さん。子供たちからも近所の兄ちゃん程度の感覚で付き合いがある。

 そんな彼がボクシングに求めるのは、単なる勝利ではない。いや、負けることを是とするタイプではないが、ただ勝つだけではない。

 どつき合い。殴って、殴られて。激闘の上で、その上で相手を上回ること。

 要は、試合の内容が激しければ激しいほどに、噛み合えば噛み合うほどに力を発揮するタイプのボクサーだった。

 今回の西の新人王トーナメント。正直言って、当てが外れたというほかない。どいつもこいつも軟弱者、とは千堂自身の感想だ。

 では、東はどうか。

 アマ優勝者。天性のハードパンチャー。カウンターの貴公子。フリッカーの死神。そして、完璧超人。

 新人としては破格のメンツだった。その中でも千堂が目をつけていたのは、天性のハードパンチャー、幕之内一歩。

 典型的なべた足インファイターであり、フットワークは皆無であるがその分、どっしりと構えて強打を返してくる。

 この男なら、殴り合い出来るのではないか。そんな期待。

 だが、その期待は叶う事はない。上がってきたのは、圧倒的な実力を示した男だったから。

 

(向き合って初めて分かる。この男の実力……!半端ないやんけ………!)

 

 アップで火照った頬を一筋の冷や汗が伝う。

 相対する相手は、典型的なオーソドックススタイル。垂れた前髪の隙間から覗く眼光は無機質ながらも鋭く、冷ややか。

 試合開始から、まだ十秒と経っていないにも拘らず千堂は異様に濃密な時間を味わっていた。

 

(ッ!飲まれとる場合やない!ワイから仕掛けにいかんでどないすんねん!)

 

 一際強く、マットを踏みしめて千堂は腹を括る。

 数度のタイミングを計って前へ。

 一歩、二歩、と踏み込んだ瞬間繰り出される迎撃。

 お決まりとなりつつある、左のジャブ。とっさにガードした千堂だったが、小手調べとは思えないその重さに若干目をむいた。

 そこから更に重ねられる左。まるで測るようなそんな意図が見え隠れする。

 

(~~~~ッ!!調子に乗んなやっ!!!)

 

 元々、闘争本能で戦うようなタイプの千堂。明らかに、測っているようなジャブに対して直ぐにとさかに来ていた。

 何発目かのジャブ。最早本能でそれを躱して、飛び込むのは懐。放つのは、アッパーとフックの中間、斜め下から突き上げるという独特な軌道を描く左の強打。

 スマッシュ。サンデーパンチにもなりうる一撃であり、同時に千堂の得意技。

 だが、この場合は性急すぎるというもの。空を切り裂く大振りが、服部の目と鼻の先を通り過ぎていく。

 スウェーバック。上体を後方へと引くことで、パンチを躱す技術の一つ。服部は、これによって千堂のスマッシュを文字通り紙一重で躱し、そのがら空きとなった左わき腹へと右拳を突き刺していく。

 アウトボクサーならば、ここからジャブなりなんなり打って距離を取りに行くだろう。だが、生憎と服部はボクサーファイター。この隙を逃す、などという甘い事はしない。

 左わき腹を打たれ、悶絶した千堂の空いたボディへと左ボディアッパーが突き刺さる。

 たった二発のボディ。だが、その破壊力と爪痕は、常軌を逸した代物だった。

 トレーナーであり、セコンドとして千堂についていた柳岡はその光景に目を見開く。

 

(千堂の腹は、軟やない。それこそ、現役ランカーのボディブローでも問題なく打ち返せる。せやけど、何なんやあのごっついパンチ……!?たった二発で、あの千堂を完全に黙らせおった!)「前を見るんや千堂ーッ!次が来よる!!」

 

 セコンドからの声に反射的に顔面をガードした千堂。瞬間、間髪入れずにガードの上から衝撃が襲い掛かり後ろに数歩たたらを踏まされた。

 服部の、右。ボディ二発で前のめりにさせて顔を前に出させ、そこを右で貫く。非常にシンプルなコンビネーションだ。

 仕切り直し。右の大砲を打ったのだから、いったん間を置く。誰しもがそう考える。

 ()()()()()()()

 

(ぐっ………突っ込んで―――――ッ!)

 

 体勢を立て直す隙など与えない。そういわんばかりの、服部の突進。

 飛燕ではない。純粋な、真っ直ぐの左の連打。だが、その速度は、幕之内、宮田戦などでは見せなかったレベルで、速い。

 ガードする千堂。だが、反撃の糸口など欠片も掴めない。掴ませない。

 

(調子に―――――)「ぶっ!?」

 

 仮に反撃しようとも、今の様に開いたガードの隙間をすり抜けるようにして左ジャブが顔面へと突き刺さる。

 いつしか、会場が静まり返っていた。未だ、一ラウンド目にもかかわらず。

 

「―――――終わりだ」

 

 小さく、誰にも。それこそラッシュにさらされている千堂にすらも聞こえないように、小さくつぶやかれた言葉。

 

 

 ゴングが鳴り響く。



















to be continued


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12

 絶望。少なくとも、この試合会場においてその姿を形容する言葉は、正にこれだった。

 

「1!……2!……3!―――――」

 

 レフェリーのカウントが進む。

 殆どロープに押し込まれるようにしてダウンした千堂。そして、そんな彼をニュートラルコーナーより息を乱すことなく見下ろす服部。

 ゴングが鳴る寸前に叩き込まれた一発により、千堂はダウンを奪われていた。

 ボディと顔面の三重奏。それに加えて、顔面の一発の前には何度もジャブを受けていた。ダメージは大きすぎるといっても過言ではないだろう。

 だが、

 

「ッ、ぐっ………!」

 

 千堂は、動いた。

 顔を殴られて吹っ飛んだマウスピースをその手で掴み、咥えなおし。未だにぐにゃぐにゃの視界と直ぐにでも戻しそうな吐き気を意志の力で捻じ伏せて、体を起こしていく。

 ロープに縋ってみっともない?そんな言葉で大人しく眠れるほど、千堂武士という男は大人しくないし諦めよくない。

 いや、寧ろ体はヘロヘロでもその心は、今まで以上に煮えたぎるマグマの様に燃えていた。

 ここまで一方的に殴り倒されたのは、喧嘩を始めた時以来だろうか。いや、不良時代にも無かったかもしれない。

 

(面白いやんけ………!)

 

 その目に宿る剣呑な光。レフェリーの問いに答える声も、どこか重い。

 コーナーへと戻る二人のボクサー。その足取りは、まさしく対照的だがその体から放つ気迫というべきか、覇気とも形容できそうな圧力は遜色ない。

 

「………随分と性急だったんじゃないか?」

「………」

「それとも、()()()()()()()のか?」

「………勝ちますよ」

「馬鹿野郎。んなことは、心配してねぇよ。ただ、お前の主義も変わってると思ってな」

 

 やれやれ、とため息を吐きながらも徳川の顔には笑みがあった。

 服部は、勝利に邁進するボクサーだ。だが、それと同時に自分の気に入った相手の場合はその力の底まで引き出そうとする悪癖がある。

 宮田戦、幕之内戦もその癖が顔を覗かせていた。しかし今回は、それ以上。

 一方的にボコボコにしたように見えた、寧ろボコボコにしていたがその結果、ダウンと引き換えに千堂の内側に眠っていた野生というべきか、殺意ともいうべきか圧が顔を出してしまったのだから。

 徳川としても服部が負けるなどとは毛頭思っていない。そもそも国内でこの男を負かせる事はおろか、ダウンすらもあり得ないのではないか。そう思わされる。

 そう思わされたうえでも、今の千堂は危うく見えた。

 枷を外した猛獣との逃げ場のない場所でのタイマン。少なくとも、今の千堂とのボクシングはこれに尽きる。

 時を同じくして、千堂陣営にもまた動き有り。

 

「意識ハッキリしとるか、千堂」

「はぁ……はぁ……」

「一応、聞こか。止めるか、この試合」

「はぁ…………止めるわけ、あらへん。こっからって所で引けるかい………」

「言うておくが、これ以上続けるっちゅうことは、これ以上にボコボコに殴られるっちゅう事や。それでもエエんやな?」

「二度言わせんなや、柳岡はん………ようやく、強い男に会えたんや……それもとびっきりの強い男に………止めるんやったら………一生、恨む」

「………はぁ、降参や。お前がそのつもりなら、こっちも腹括らないかんな……ただ、もしもの時はタオルを投げる。恨まれようと、殺されようともな。その辺は、理解しとけよ」

「上等……どつき回したるわ………」

 

 虎のような気迫を発しながら、千堂は対面のコーナーを睨む。

 自分と相手の間にある差は、嫌というほどに理解させられた。現状ではどう頑張ったとしても、十中八九KO負けしかねないことも。

 それでも、引き下がれるほど千堂は軟弱ではなかった。

 

 

 

 

 

 

 始まる、第二ラウンド。

 立ち上がりは、静かなものだ。ただ、リングと観客席ではその静かさに差がある。

 観客席に滲む静かさというのは、単純にその力量差を目の当たりにした為。ファンである、応援している、そう声を大にして言いたいというのにそれすらも黙らせる力が服部の戦う姿にあった。

 一方でリングの静けさというのは、単純に両者の様子見にある。

 オーソドックスなライトアップスタイルな服部に対して、千堂はというと完全にガードを下げている。

 試合を投げ出したわけではない。その姿は宛ら、冬眠から目覚めたばかりで気の立った熊。若干の前傾姿勢で、腫れの目立つ顔だがその目は爛々と輝いていた。

 手負いの獣ほど、恐ろしい物はない。

 そんな獣が、動き出す。

 技もへったくれもない、単純な前への一歩。前に垂らされた両腕が踏み出した一歩によって左右に揺れる。この揺れが独特なリズムを刻んでくる。

 一見ふらついているだけにも見える。だが、その揺れが大きくなった時ソレは起きた。

 

「ドラァッ!」

 

 つんのめった様な頭の振りを利用した加速ステップイン。からの、左スマッシュ。それはもはや、ボクシングの動きではない。

 喧嘩。単なる殴り合いの喧嘩の動きだ。

 だが、皮肉にもこの加速は現状の千堂における最速。そして喧嘩慣れという武器を最も活かすに足りうる攻撃でもあった。

 迫る拳は会心の一撃。第一ラウンドで死に体であったとは思えない出来だ。

 高まる観客の期待。ただ、()を知る者たちからすれば、それはあまりにも淡かった。

 

「………」

 

 迫る拳を見下ろしながら、圧縮された時間の中に服部は居た。

 極限の集中力。人が死に際に、己の人生を振り返るように人間にはそれだけの能力が備わっている。

 服部の場合、これはゾーンだ。

 圧倒的なまでの没入感により到達する集中の極致。一流のアスリートたちが己の勝因としても挙げることのある現象。

 服部は、前に出た。

 上体を後ろに反らすようにしながら、前へとステップイン。千堂のスマッシュを空振りさせその無防備な顎めがけて、アッパー気味の左フックを叩き込む。

 跳ね上がる千堂の頭。その勢いに負けて体が後ろへと倒れ掛かる。だが、完全に倒れる前に彼自身の右足が待ったをかける。

 

「オオオオオオオッッッ!!!」

 

 それはまさしく、獣の咆哮。のけぞった体を戻す反動をそのまま攻撃へと転化した右のぶん殴り。

 迫る千堂を確認し、服部は内心で成る程、と頷いた。

 彼は、鷹村と似たようなタイプ。生来のポテンシャルをそのままに、喧嘩によって磨かれたスキルを内包した存在である、と。

 鷹村との違いは、元々持ち合わせた潜在能力によるところもあるが、何より基礎の基礎にまで染みついた基本の有無。

 ただただ暴れるだけの野生は、確かに強い。現に今、暴れ回っている千堂が相手ならば、大抵のボクサーはその気迫に飲まれて一方的にボコられる。

 だが、それだけで勝ち続けられることは無い。確実に、どこかしらで躓く。

 今もそうだ。出鱈目に振るわれる喧嘩の拳は、しかし一発も当たらない。モーションが大きすぎるからだ。

 躱すこと、一分。パンチは十分見ることができた。

 反撃開始。服部は、グローブの中で拳を握り直す。

 

「ぐっ………!」

 

 跳ね上がる、千堂の顔面。乱雑なパンチが空を切った瞬間に、鋭い服部の左ジャブがその顔を強かに叩いたのだ。

 無論、半ば暴走状態の千堂はジャブ一発で大人しくなるほど温くはない。跳ね上がった顔を戻す反動を利用しながら、さらに殴りかかっていく。

 大振りなフック軌道の左右。からの、左ストレートのようなぶん殴り。

 そして、左ストレートをくぐる様に前へと突っ込む服部。放つのは、右のボディアッパーだ。

 くの字に折れ曲がる千堂の体。その顔を狙うのは、服部の左フック。

 だが、ここで彼の中に誤算が生まれた。

 

「オオオオオオオッ!!!」

 

 それは、意志の力。根性とも呼ばれる心の力。そしてついでに、崩れかかった姿勢もまた次のパンチを打つ動きを助けていた。

 ボディを強かに打たれて左足が一歩下がった体勢であった千堂。そうなると自然と利き足である右足が前に出ている形となる。

 この形。実はとあるパンチを出す体勢に実に似ている。お誂え向きに、左ストレートを放ったことで利き腕である右は後ろに下がっていることもこの一発の呼び水となっていた。

 意図していないカウンター。それが右スマッシュという形で服部へと襲い掛かる。

 左フックを放つ、否フックを放つ格好というのは実際のところかなり隙が大きいものであったりする。上体を開かなければならないし、真横から拳を振るうために振り抜くまではカウンターも取られやすい。

 その一撃は、見事服部の顔面を捉え―――――

 

(ッ!?)

 

 打った本人が一番わかる、分かってしまう。

 渾身の破壊力だった。そして相手はフックを打つために前へと出ていたのだからその分の衝撃も加味すればまず間違いなく一発ダウン、KOすらも夢ではなかっただろう。

 ()()()()()()()()()()()()

 沸き立つ観客。何せ、今までまともに一発も貰わなかった新人の顔面が()()()吹き飛んだのだから。違和感を覚えたのは、ボクシング経験者と腕のある指導者ぐらいか。

 

「………大きすぎませんか?」

「首ひねりじゃ」

「首ひねり?」

「スリッピングアウェーともいわれる技術でな。パンチの当たる瞬間に首を捻ることで、軌道を逸らす高等テクニックじゃ。もっとも、首を大きく逸らす姿から、ジャッジからの判定が悪くなるリスクもある。多用するならば判定勝ちではなく、KOを確実に狙わねばならんだろう」

「首ひねり………じゃあ、千堂さんの右スマッシュは………」

「服部へのダメージは、ほぼゼロと言っていい。会心の当たりが文字通り水泡へと帰した」

 

 冷静に試合を分析していた鴨川の見つめる先では、今まさに首ひねりによって千堂の豪打をいなした服部の左フックがそのテンプルを見事に捉え、キャンバスへと叩きつけている光景が広がっていた。

 反撃開始だ、と沸き立っていた観客を凍り付かせる一発。うつ伏せで倒れる千堂へと駆け寄ったレフェリーは確認し、そして両手を挙げて振った。

 水を打ったような会場内に、空しくゴングの音だけが響く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 意識が浮上して、最初に感じたのは嗅ぎなれた消毒液のニオイ。

 

「………ここは」

「ん?気ぃついたか、千堂」

「柳岡はん………試合は」

「完敗や。何もさせてもらえんかったわ」

 

 柳岡に言われ、千堂の記憶は少し前まで遡る。

 圧倒的な男だった。それこそ、西日本の新人王となった自分が完全な子ども扱いで一方的にボコボコにされる程度には。何より、病院送りなど初めての経験。喧嘩三昧の時ですらもなかったかもしれない。

 

「………強い男や……ごっつ強い………でも、あれでも最強やないんやろ?」

「さてな。少なくとも、今の服部と正面切ってどつき合えるボクサーなんぞ日本には片手の数で居るかどうかっちゅーレベルや。お前の右スマッシュ(とっておき)もスカされたしの」

「アレか………えらく軽い手応えやったからな………アレも、技なんか?」

「スリッピング・アウェー。首ひねりともいわれる、高等テクニックや。同時に、その場凌ぎの緊急回避でもある。使う選手はほとんど居らん」

「なんでや?」

「ジャッジの心証を悪くしてしまうから、やな。お前も見たやろ。派手に首が吹き飛ぶ様を」

 

 そう言われ、千堂が思い出すのは渾身の右の手ごたえが、宛ら空中に吊られたティッシュでも殴ったかのように軽かったあの瞬間。

 渾身が殆ど空打ちになったあの瞬間、意識の空白が生まれていたその次の瞬間には千堂の意識は完全に千切れてしまっていた。

 力の差だけが際立った試合だった。それこそ、心折れても仕方がないほどに。

 しかし、千堂というボクサーは、千堂武士という男はこの程度でへし折れてしまうほどか弱くない。

 

「柳岡はん」

「どうした」

「ワイは、あの男に勝ちたい」

「………本気なんか?」

「本気も、本気。あの男に負けたまま、ベルトなんぞ巻いたところで意味なんてあらへん」

 

 千堂自身、日本国内だけで満足する気は更々ない。無いが、だからと言って国内の強敵をそのまま放置して雄飛できるほど彼は、達観してはいなかった。

 未だベッドから起き上がることもできない千堂を見下ろして、柳岡は一つ溜息を吐いた。

 ギラギラと滾る様に揺らめく光を内包した目。まるで、溶鉱炉。

 

「なら、まずは基礎を徹底的に叩き込む」

「基礎?」

「せや。お前の喧嘩ボクシングは確かに強い。スマッシュも当たれば一発が取れる。ただそれは、()()()()の話や。今回の試合で、それを実感したんやないか?」

「………」

「ただ、同時に違う可能性も見た。千堂、これからお前の野生を飼い慣らすで」

「は?」

「本能と理性、野生と科学の融合や。目下の目標は、鷹村守。もっとも、ファイトスタイルをまるっきり同じにするちゅう事やない。あのレベルには最低でも到達する。その指標や」

「それで、服部に勝てるんか?」

「それは分からん。現状、服部はお前の先を行っとる。その背中が朧げに見えるかどうかのな。その背に追いついて追い越せるかは、お前次第や、千堂」

「………上等や。血反吐撒き散らしてでも強なるわ。そして、あの男に、勝つッ!」

「ま、その前に体を休めるの先やけどな」

「分かっとるわ!お休み!」

 

 勢いよくシーツをかぶって丸くなる千堂を見やり、柳岡は息を吐きだした。

 これから、彼が歩くのは修羅の道だ。そのゴールへとたどり着けるかもわからない。

 それでも、指導者としては選手の気持ちを優先したいというもの。それこそ、千堂が折れるその時まで。

 



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13

お久しぶりです。仕事とその他諸々に振り回されてました

今回のおはなしは、アニメの閑話のような感じになってますので。苦手な方はブラウザバック推奨です


















 新人王の獲得。これはそのまま日本のランカーとしてランキング入りを果たすことにもつながっている。

 

「休養期間中にすまないね。歴代最強の新人王、なんて騒がれてるからこっちとしても独占取材を組まざるを得なくて」

「いえ、大丈夫です」

 

 この日、月刊ボクシングファンの記者である藤井は歴代フェザー級の中でも最強の新人王とも呼ばれ始めている服部の取材に臨んでいた。

 本来ならばダメージなど毛ほどもない服部は、この日も練習に明け暮れる筈であった。だが、全日本新人王決定戦において千堂の右スマッシュを貰ったことを理由に会長から休養日を設けられていたのだ。

 彼としても、練習漬けであることだけが偉い、というわけではないことは理解している。何より、自分の我儘を許してもらっている徳川会長に反発する気などサラサラ無い。

 では、今回の取材は良いのか、と問われれば会長の判断は許可。服部は、元々緊張するような質ではないし。藤井の為人に関してもある程度理解していたからだ。

 

「それじゃあ、インタビューを始めていこうか。まずは基本的な部分から。生年月日と、名前かな」

「………服部十三。1973年11月13日生まれです」

「ありがとう。基本事項とはいえ、君の情報でページを埋めるからね。読者にもその手の情報はあった方がいい」

「そうですか」

「ああ、そうだ。それはそうと、君は宮田君や幕之内君と同い年なんだね。月は違えど、彼らも1973年の生まれだよ」

「はあ………」

 

 藤井にそう言われても、服部としては興味がない。ボクサーは、選手生命が短いがだからと言って年齢で判断できるほど簡単なスポーツ、格闘技ではないのだから。

 

「前振りはこのぐらいで良いだろう。まずは、新人王の獲得に関してだ。率直な、君の言葉を聞きたい」

「言葉、ですか」

「ああ。新人王をとってどう思ったのか。対戦相手への感想があるのなら、それも交えて話してくれると嬉しい」

「感想……」

 

 藤井に言われ、服部は新人王戦で対戦してきたボクサーたちを思い返す。

 速水、幕之内、宮田、千堂。いずれも、新人とは思えないほどに強いボクサーばかりであった。服部さえいなければこの四人のうちの何れかが、新人王を取っていたとも言われている。

 だが、当の答えるべき彼の反応は芳しいとは言えない。

 

「何もないのかい?」

「……弱点を露呈するのは、良くないのでは?」

「弱点、かい?それは、新人王戦で君の相手だった四人の?」

「はい」

 

 事も無げに頷く服部に、藤井は目を瞬かせた。

 腕のいい選手というのは、そのスポーツに精通しているものだ。ボクシングであるならば、対戦せずとも観戦してその癖を丸裸にしてしまう者も居る。

 元ボクサーとして、そして現ボクシング雑誌記者としての好奇心がむくむくと膨らんでくる。

 

「これはオフレコなんだが、聞かせてもらえないかい。君からの評価を」

「…………速水選手は、全体的に高水準なアウトボクサーよりのボクサーファイターでした。ただ、パンチの破壊力のないソリッドパンチャー。足に関しても宮田選手の方が上でしょう。何より、決め技がありません」

「ショットガンはどうなんだい?アレで、速水はインターハイを制しているんだが」

「世界を狙うのなら、形勢を返せるパンチが欲しいです。カウンターも取りやすい」

「カウンター、ね」

 

 速水のショットガンは、左右のハンドスピードによって成されるもの。だが、世界には彼以上のハンドスピードを持つ者も普通に存在するだろう。そんな相手にハンドスピード勝負を挑むなど愚の骨頂。やるだけ、無駄だ。

 藤井はメモを走らせながら、頭の中で何度とみた速水の試合を思い返す。

 才能に裏打ちされた技量を持ち、甘いマスクを用いたエンターテイナー。同格、格下が相手ならばほとんど快勝するが、格上が相手では一方的にやられかねないことを今回の新人王戦で露呈した。

 何より小耳に挟んだことだが、速水は顎が脆かったらしい。元々、顔面を殴られることが無かった彼の弱点。

 顔面を正面から殴られて顎?とも思われそうだが、顔が左右どちらかを僅かに向いているだけでも、顎骨に致命的なダメージを与えられる。

 何より、服部の拳は鉄拳だ。グローブ越しでも骨を折る。

 

「……それじゃあ次は、幕之内だね。彼はどうだい?国内フェザー級では屈指の破壊力だと思うけど」

「…………確かに、破壊力はありました。ですが、防御のスキルがない。打って打たれてでは、早晩限界があります」

「相手を沈めるのが先、とは考えないのかい?」

「インファイターの彼は距離を詰めなければいけません。その間に殴られ続ければ、後遺症が残っても不思議ではないかと」

 

 殴られて発症すると言えば、パンチドランカーだろうか。殴られ続けることで脳の障害となり、引退はおろかその後の人生にも暗い影を落とすことになる。

 殴られて踏ん張り、殴り返すボクサーは客を呼ぶ。だが、その選手生命は短いのが常。

 

「べた足インファイターの弱点か……それじゃあ、防御を改善すれば幕之内は化けると思うかい?」

「分かりません。彼は、引き出しの多いボクサーではありませんから」

「……まあ、そりゃ、君から見ればな」

 

 藤井が濁すのも仕方ない。

 幕之内は決して器用なボクサーではないが、その一方で服部はというと技術の底が見えないほどに手札が豊富だ。比べるのは酷だろう。

 同時に、藤井としては目が覚める思いでもあった。

 幕之内のボクシングは、泥臭さがあれども同時に見ている者を引き込むような魅力があった。特に、殴って殴られての豪打爆発は見ていてスカッとする。

 だが、ソレはあくまでも観客の視点。同じボクサーや当人、トレーナーからすれば冷や汗もの。

 幸いと言えば、幕之内に減量苦が無い点だろう。ナチュラルウェイトで試合に臨めるという事は、それだけエネルギーの貯蔵が可能で削られる必要が無い。そして、ため込んだエネルギーはそのまま回復力にも、スタミナの総量にも繋がるのだから。

 メモを書き込み、藤井は更にインタビューを進めていく。

 

「それじゃあ、宮田君はどうだろうか。今回の新人王は、宮田、速水が優勝候補の筆頭に挙げられていたんだ。次点で、間柴辺りだったんだけどね」

「……彼は、カウンターパンチャーとしてまだまだ強くなると思いますよ。ストレート系のパンチは、重さはありませんが、キレがありましたから」

「ストレート系は、ね。それじゃあ、課題はフック系かな?」

「…………あとは、カウンターに固執し過ぎていると思いました」

「それは……だが、あそこまでのカウンター使いは滅多に居ない。宮田の動体視力なら仕方がないんじゃないかい?」

「当たらないパンチは、恐ろしくないので」

 

 それは、極論だ。

 ボクシングで一発も被弾しないというのは、理想論ではあるが基本的に不可能。だからこそ、パーリングなどの相手のパンチを叩き落とす技術などがあるのだから。

 話を戻そう。宮田のカウンターは確かにすごい。迂闊に攻撃すれば、それが手痛いダメージとなって、下手をすれば意識ごと刈り取っていく事になるだろう。

 だが、服部からすれば宮田はカウンターに()()()()()()()

 宮田と言えば、カウンター。だからこそ、違うパンチが欲しいと服部は考える。

 奇襲でしかないが、だからこそ効果がある。例え、対策をされても、ならばその対策を逆手にとってカウンターを取ればいいのだから。

 この意見は、服部からの一種の宮田に対する期待でもあるのかもしれない。

 彼なら、出来ると。少なくとも、藤井にはそう思えた。

 

「最後は、千堂か。彼についてはどうかな?」

「……鷹村選手に似た、ボクサーだと思います」

「鷹村君?知り合いなのか」

「少し前に、鴨川ボクシングジムでお世話になりましたから」

「スパーリングの依頼か……それにしても、鷹村君とは大きく出たね」

「……そうですか?」

「ああ。何せ、今日本で明確に世界に通用するであろうボクサーの筆頭格だ。デビュー戦から、未だに負けなし。日本のベルトも直ぐに巻けるだろうって話だからね」

「……ボクシングのスタイルが似ているだけです。野生、本能に従ったボクシング。鷹村選手は、そこに技術が染み込んだボクシングです。ただ暴れるだけなら、勝てません」

 

 服部から見て、千堂に足りないのは反復練習。無意識であろうとも、骨身に刻み込んだ基礎を体が熟せるレベルに到達して、初めて本能によるボクシングは完成する。

 その点、生来の才能と弛まぬ努力によって磨き上げられた鷹村は、一種のボクサーとしての到達点の一つであるかもしれない。

 

「暴れる、ね。確かに、新人王の決勝での千堂は、まるで暴力をそのままにリング上で発揮していたように見えたよ。もっとも、君は涼しい顔で対処していたけど」

「焦って勝てるのなら、焦りますよ」

「まあ、それもそうか」

 

 藤井もその言葉には頷ける。

 焦って勝てるのなら、苦労しない。むしろ、焦った者から負けていくのがボクシングだ。焦りは力みを、力みは硬さを、硬さは敗北を連れてくる。

 ソレからも、インタビューは続いた。

 日頃のトレーニングや、ある程度のプライベートなど。

 そして、今後の展望も。

 

「君の、最終到達目標は、世界チャンピオン。この分で何かあるかい?」

「……狙うのは、WBAですね」

「!最強のフェザー級ボクサーに挑む、と」

「ええ……もっとも、まずは日本のベルトが無ければ足掛かりもありませんけど」

「ビッグマウスだな……伊達英二にも勝つ気満々って訳だ」

「……最初から、負けるつもりで戦う人は居ないでしょう?」

「その通りだ。ボクシング雑誌の記者としても、そして一ファンとしても君の今後の活躍を期待するよ」

「……ありがとうございます」

 

 



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