BOOK (ゴマ助@中村 繚)
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1月1日から3月31日まで
長靴を履いた猫×ピノッキオの冒険01


 日常が非日常になる1年間が始まる。

 その1年間を語るにあたり、物語の始まりをどう切り出せばよいか悩むところであるが、物語はいつも「昔々」から始まるのでこのフレーズから始めよう。

「昔々」――あるところに、不思議な白い【本】がありました。星の数ほどの【本】は、コノ世に存在する星の数ほどの物語を書き記した不思議な不思議な【本】でした。

 ある一冊の【本】に登場する姫は、月の世界からやって来た輝かんばかりの美しい姫。その姫がただ1人の勝者に与え賜るのは、不死の薬……50年に一度、人々は【本】を手に不死の薬を求めて非日常の中へと飛び込んでいく。

「昔々」――202X年1月某日。

 1年間は、新年を迎えたその瞬間から始まる。世界には物語が溢れ、読者が望めばそれは現れる。

 魔法のような現象も、架空の生物も化け物も、想像すれば創造される。

 

 陸を走る丸太のいかだも、人間の口から吐き出される無数の石も。

 真冬に萌える緑の植物も、銃口からぴょんと飛び出る初々しい若葉も。

 操り人形のように糸に絡まる人間も、巨大な鬼に相応しい巨大な金棒も。

 真夏の南半球の銀世界も、若い女性の腕の中でこと切れる小さなごんぎつねも。

 

 2人の【読み手】と二冊の【本】が邂逅すれば、日常は非日常の物語に塗り潰される。

 

「地の果てまでも、奴を狩る……!」

「こんなものなのかな。正直、拍子抜けした」

「思ったより、ハードだね」

「始まったばかりだよ。姫を巡る【戦い】は」

 

 物語の終わりは、この言葉で締められる。

 お決まりのフレーズとともに本は閉じられ、物語の世界から日常へと帰還するのだ。

 

「めでたし、めでたし」

 

 否、まだ【本】を閉じることはできない。

 非日常の1年間は、輝く姫を巡る物語は、始まったばかりだ。

 

 

 

***

 

 

 

 202X年1月14日――

 東京都こよみの市の外れに位置する月山寺において、黒文字(クロモジ)蔵人(クロウド)の葬儀が行われていた。

 喪主は故人の娘である(シオリ)。哀しみに塗れたその表情は、月の沈んでしまった空のように暗くもやがかかる。

 夫に支えられながら遺骨を大事そうに抱えるその隣で持つのは、彼女の息子であり故人の孫である彼――黒文字(クロモジ)読人(ヨミヒト)

 暦野北高校1年生。まだ16歳の彼にとって、葬儀に参列する機会と言うのは滅多になかった。以前に参列したのは10年前、蔵人の妻である祖母が亡くなった時だ。

 あの時はまだ幼かったため、祖母が亡くなったと言う実感もあまりなかった。両親と祖父が酷く悲しんでいる空気を感じ、祖母にはもう逢えないと言う事実を徐々に感じ取り……この月山寺にて大声で泣いてしまったことだけは覚えている。

 読人にとっては二度目の経験。敬愛していた――大好きだった祖父の死が、長い前髪で隠れた彼の目に暗い影を落としていた。

 黒文字家の墓に彫られている名前は、祖母の名前と読人が産まれる前に亡くなった伯父の名前だけ。もう少し経てば、ここに祖父の名前も並ぶ。まるで、新しい住居に表札を立てるように。そこが次の家であると言わんばかりに。

 今年の冬は暖冬と言われていたが、その日は雪が降っていた。パラパラと降る雪は、読人の制服にも落ちて来る。

 父の黒いネクタイを巻いた濃紺のブレザーに白い粒が落ちると、彼の体温によって一瞬で水になってしまった。

 

「読人、お前も」

「……うん」

 

 蔵人の死因は急性心不全であったが、何かがあった時のために言付けのような遺言を残していた。その中に、自分の骨は四十九日を待たずに墓へ納骨して欲しいと認めてあった。

 骨壺の中の遺骨を生前縁のあった人々が一つ一つ、箸で摘んで墓に納める。

 父から箸を受け取った読人も、バラバラの小さな欠片となってしまった祖父の、その中でも小さな一つを摘まみ……ゆっくり箸を動かして、ポッカリと空いた墓の中へと落とした。

 

「バイバイ、おじいちゃん」

 

 黒文字蔵人、享年77歳――

 生前は大学教授を長く勤め上げて文学に関する数々の本を出版し、その道では中々の有名人であった。

 引退後も本に囲まれながら孫を可愛がって余生を過ごした。

 読人も祖父が大好きだった。おじいちゃんっ子と言って差し支えないほど蔵人に懐いていた。読人が一番尊敬していたのは祖父の蔵人であったのは間違いない。

 だから、亡くなったと実感したその日は、自分の部屋でみっともなく大泣きした。

 あれだけ泣いたのだから、この納骨ではもう涙は流さないと決めていた。笑顔は無理だけど、せめて……幼いあの頃、祖父の家を去るあの時のように別れを告げたのだった。

 翌日、ちょっと遅めの時間に自室で目を覚ました読人は、ゆっくりと階段を下りて洗面所へ向かう。本来ならば、冬休みも成人の日もとっくに終わってしまった平日であるが、忌引きやその他諸々の後始末のため今週いっぱいは高校を休んでいた。

 顔を洗ってからリビングへ向かうと、母がボーっとテレビを眺めながら椅子に座っていた。父は昨日の後始末やらのために家を出た後のようだ。

 

「おはよう」

「おはよう読人。お味噌汁、温めるわね」

「うん」

 

 いつも通りに振る舞っているかもしれないが、やはり母に元気がない。父を亡くしたのだから当たり前だろうが、なんだかこちらの調子が狂ってしまう。

 朝食のおかずは思いっ切り手を抜いて、昨日の葬儀の食事会で出た折詰の中身をレンジで温めただけ。油まみれのべしゃべしゃになってしまった海老の天ぷらは、あんまり食べたくないので箸を付けないことにする。

 

「読人」

「何?」

「今日、先におじいちゃんの家に行って。お母さん、ちょっと調子が悪くて……少し、休んでから行くわ」

「……分かった。無理、しないでね」

「うん」

「母さん」

「何?」

「おじいちゃんの本、何冊かもらっても良い?」

「良いわよ。読人がもらってくれれば、おじいちゃんも喜ぶと思うわ。それも仏壇と一緒に運び込みましょう」

「うん。先に行って、どの本を持って来るか決めておくよ」

 

 今日の予定は祖父の家の片付けだ。家主の急死により、色々のところが手付かずのまま放置されてしまっている。それに、あそこに置いてある仏壇も移動するので、粗方片付け終わったらトラックでも借りて読人の家に運び入れなければならない。

 母が温め直した味噌汁に口を付けると、中から甘海老の頭がこんにちはと突き出ていた……他の具は細切りの大根、つまりツマである。どうやら刺身を再利用したらしい。意外と出汁が出ていて美味しかった。

 今日は昨日と比べて暖かいので、コート一枚で良いだろう。マフラーもいらない。

 昨日の雪は直ぐに溶けてしまって積もらなかったので、読人はいつものように自転車を引っ張り出して蔵人の家へと向かった。

 最寄りの駅から電車で一駅。車で10分足らず。自転車ならば……赤信号の連鎖に引っかからなければ、20分ぐらいで到着する。幼い頃から通った築30年の黒文字家の庭に自転車を置いた。

 読人の家にあるこの家の鍵には、貝でできた鈴のキーホルダーが付いている。それをからからと鳴らして家の鍵を開けると、玄関には主を喪った上質な皮靴がきっちりと並んでいた。何となく下駄箱にはしまいたくなかったので、母と読人は蔵人の靴をそのままにしておいたのだ。

 

「おじいちゃん、来たよー」

 

 いつも癖で……条件反射のようにその言葉が出て来て、読人は蔵人の家に入った。脱いだスニーカーはきちんと揃えた。

 蔵人は孫を可愛がったが、甘やかしはしなかった。

 スニーカーを脱いで揃えずに家に上がると、どこからともなく湧いて出て来るように玄関に現れては、「靴を揃えなさい」と言わんばかりの無言の圧力をかけていたものだ。

 祖父の躾はしっかりと身に沁み込んでいた。

 まさか、今もどこからか現れるのではないかと警戒したがそんなことはなかった。この家は無人だ。もう、そんなことはないのだ。

 スニーカーをきっちり揃えて読人は蔵人の書斎へと向かった。

 大学の文学部の教授であった彼の書斎は、出入口と窓を除いた壁の四方が本棚でできていると言っても過言ではないほど本に溢れていた。そこには一枚のローテーブルと、質の良い黒檀でできたデスクと座り心地の良さそうな大きな回転椅子が置いてある。

 幼い頃から、読人はこの書斎に入るのが好きだった。遊園地やゲームセンターに行くよりも、蔵人に導かれてこの書斎の扉を開ける方がよっぽど楽しかったのだ。

 

「全然変わってないな、おじいちゃんの仕事場は」

 

 学術論文にエッセイに小説。小説だって、推理小説にノンフィクション、コメディ、ホラーも恋愛小説も何でも揃っている。勿論、幼い頃の読人が読めるような童話も絵本も、ちゃんと読人専用本棚に几帳面に並べられていた。

 この書斎にない本は最近人気の漫画コミックぐらいだろう。蔵人は漫画を嫌ってはいなかったが、物語が文字の羅列のみで綴られた本その物が彼にとっての特別であったようだ。

 読人は何気なく、本棚に収められている一冊の本を手に取った。

 タイトルは『ライ麦畑でつかまえて』――中学生の頃に読んだきりで、大雑把なあらすじしか覚えていないその本をパラパラめくりながら、祖父の椅子に座り込む。

 書斎の椅子は小さくギシリと音を立てると……薄手のカーペットの上に、カランと何かが落ちた音がした。

 

「? 何か、落ちた……鍵?」

 

 落ちていたのは一本の鍵だった。家の鍵ではない。机やキャビネトの鍵のような小さな鍵には、黄色く変色したセロテープが貼られている。

 椅子の下を覗き込んでみると、キャスターの付け根にセロテープの跡を発見。どうやら此処に鍵を貼り付けていたようだ。

 何の鍵だろうか?まるで、隠されるようにしまわれていたこの鍵は?

 鍵のセロテープを剥がして鍵を見詰めていたら、甲高いインターフォンの音が読人の耳に飛び込んで来た。

 不意打ちの来客だったため、まだ椅子の下にいた読人は突然のインターフォンの音に驚いて椅子に頭をぶつける。

 頭の痛みに数秒悶絶し、慌てて玄関へ走り件の鍵は咄嗟にコートのポケットに入れておいた。

 

「黒文字さーん、宅急便でーす」

「宅急便? は、はーい。今開けます」

「おはようございます。荷物でーす」

「おはようございます……あの、荷物ってどこから?」

「海外からです。受取書にハンコかサイン、頂けますか?」

 

 伝票に書かれた国の名前は、なんとスイス……宛先は勿論、黒文字蔵人だった。

 どうしてヨーロッパから宅急便が届くのか疑問にも感じたが、宅配業者を待たせるのも悪いのでボールペンを借りて「黒文字」とサインして荷物を受け取る。

 しかし、本来この荷物を受け取るはずの人物はもういない。

 伝票には「本」と書いているが、わざわざヨーロッパから本を取り寄せたのか?

 読人は首を傾げた。ちょっと困った時とかに右手を首に添えてしまうのが彼の癖であるが、しっかりと右手を首に添えて困っていた。

 

「海外から取り寄せた本……あり得る、おじいちゃんなら。高価な初版本とかじゃないよね」

 

 高価そうな物だった場合、本人がいなくなってしまった今となっては扱いに困る。

 カッターを拝借して箱を開けると、中には本……ではなく、小型のジェラルミンケースが入っていた。ちょっぴり拍子抜けした。

 ならば、このケースの中に本があるのかと思ったが、鍵がかかっていて開けられない。箱の中を探してみても鍵らしき物は入っていない、荷物の中身はこのケースだけだ。

 

「……まさか」

 

 そのまさか、椅子の裏に貼られていたこの鍵がケースを開ける鍵なのでは?

 あまりにもタンミングが良すぎるが、鍵穴のサイズは一致している。

 コートのポケットから件の鍵を出した読人は、恐る恐るケースの鍵穴へ近付けて……ピッタリと合致した鍵を回せば、小さな音を立ててケースは口を開けた。

 

「やっぱり本だ」

 

 やっぱり中身は本だった。

 ケースを開けた読人が見た物は、B6版コミックと同じ大きさの白い装丁の本だった。立派で汚れ一つない白い裏表紙は金糸で縁取りされ、同じ金糸で本のサイズよりも二回り小さく長方形が描かれていた。

 触るのに躊躇しそうになるぐらい綺麗なその本をしばらく眺めていた読人は、手汗を服で拭ってからゆっくりとその本を持ち上げる。ひっくり返してみると、表紙には流暢な筆文字で本のタイトルが書かれていた。その物語は読人も知っていた。否、彼だけではなく、日本で生まれ育った者ならば一度はその名前を聞いて、読んだ事もある物語だろう。

 

「『竹取物語』――」

 

 それは、日本最古の物語……かぐや姫を巡る、『竹取物語』であった。

 

「にゃ~」

「っ、猫?」

「にゃ~お、にゃーん」

「この近所に猫なんていたかな?」

 

 玄関の扉の向こうから猫の鳴き声がする。磨り硝子の向こうに大きな身体の猫の影が見えたのだが、読人の記憶ではこの近所で猫を飼っている家はないし、野良猫の気配もないはずだ。

 哀情たっぷりな声で必死に鳴く猫を無視できない子である読人は、玄関の戸を開けた。

 そこにはやっぱりちょっと大きな黒と白のハチワレ猫がいた、猫がいたんだけど……読人が現状をしっかりと理解する前に、磨り硝子が盛大な音を立てて粉々に崩壊したのだった。



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長靴を履いた猫×ピノッキオの冒険02

「ひぃぃぃぃーーー?!」

『ニャニャニャニャニャ……やっぱり、可愛い猫ちゃんが可哀そうに鳴いていれば、手を伸ばしてあげちゃうのが男だよな、ボウズ』

「喋った?!」

「自分で可愛いとか言っちゃうんだ」

『ゴラァ!! このオレに猫撫で声出せるなんて……! くっ、猫生一生の恥だ!』

「だ、誰……?」

「そうだそうだ、【読み手】同士の決闘は先ず初めに名乗るのが礼儀だ」

『礼儀とか躾とか、【戦い】の前では腹の足しにもならねぇぞ。それより、オレはカリカリの方が良い。よっこいしょ』

「……猫? 喋って、立って、なんだかオヤジ臭い」

『ダンディと言え! ダンディと!』

 

 粉々に砕け散った磨り硝子が玄関に散乱し、きっちと並べていた蔵人の靴に大きな破片が突き刺さっていた。

 着ていたコートの生地が丈夫だったお陰で、読人は破片を被っても大きな怪我はなかったが現状を全く理解していない……でも猫はいた。

 黒と白のハチワレの猫が、年寄り臭い仕草で手に持っていた長靴を履いて二足歩行をしていた。しかも喋っていた。

 無駄にオヤジ臭いし(本人?弁では、ダンディらしい)、挙句の果てには煙草を喫い始めた……あ、マタタビの臭い。これ煙草じゃない、マタタビスティックだ。

 猫にばかり視線が向いてしまうが、猫の隣にいた青年だって目を引く容姿をしている。

 白い肌によく映えるプラチナブロンドにミントグリーンの瞳は、明らかに日本人ではない。日本語は話しているけれど、その大げさな身振り手振りはどう見てもアメリカやヨーロッパ諸国の住人だった。

 色々と理解しがたい単語が飛び交っているが、どうやら向こうは名乗ってくれるらしい。そりゃどうも。

 自分だけが置いてけぼりにされて何も解らない現状だったが、読人は妙に理性的だった。

 

「僕は、リオン・D・ディーン。生まれは愛と芸術の都・パリ。手にする【本】は『長靴を履いた猫』」

「『長靴を履いた猫』……あ、履いてる!」

「そして、僕のパートナーである賢く愛らしい長靴を履いた猫・シュバリエだ」

『悪いなボウズ。玄関を壊しちまって……だが、弁償はできねぇぜ』

「渡してもらおうか。美しい姫の宿る【本】を……前回の【戦い】の優勝者、黒文字蔵人!」

「??」

 

 有名な童話の主人公がそのまま抜け出て来たかのような、騎士の名を持つ長靴を履いた猫・シュバリエに、祖父の名前を口にした彼――リオン。

 彼の狙いはこの本なのか?

 ガラスの破片から守るために、咄嗟に胸にギュっと抱き締めた『竹取物語』が?

 この本は遠いフランスから日本に乗り込んで来るほど、他人の家の玄関を大破させるほど価値のある物だと言うのか?

 が、一つ訂正しておく必要がある。

 

「黒文字蔵人は、先日亡くなりました」

「……え? じゃあ、君は誰?」

『アホかてめぇ! このボウズが50年前の【戦い】の参加者な訳ねぇだろうが! ちっとは頭を使え頭を!』

「ちょ、ちょっと間違えただけだろう! 猫に頭を使えって言われたくない!」

『んだとゴラァ!』

『最初は怖いと思ったけど……いや、そうでもない』

 

 今なら逃げ出せる気がする。

 駅前の交番に逃げ込んで助けを求めよう。猫が喋って二足歩行して、しかも長靴を履いていると言う非現実的なことも起きているけれど、今の読人の中には「警察に駆け込む」と言う選択肢しか浮かばなかった。

 リオンとシュバリエがギャーギャーニャーニャー言い争っているその隙に、読人は『竹取物語』の本だけを抱えて逃げ出したのだ。

 

「っ! 逃げた!」

『追うぞリオン。優勝賞品を易々と逃がすんじゃねぇ!』

「だから! サッパリ話が分からないんだけど! 何だよ、優勝賞品って」

 

 庭に停めた自転車の存在も忘れて必死に走る。

 今は走るしかない。蔵人の家の周辺は都心に通勤する者たちのベットタウンで、平日の昼間は空き巣の注意報が出るほど人通りがない。大声で助けを求めるよりは、その分の酸素を肺に回して脚を動かせ。

 後ろを振り返る労力も使わないとしていたのに、一瞬だけでも気になって振り返ってしまったのが運の尽き。目を疑う光景を見てしまったのである。

 あの先の十字路に刺さっているような道路標識……あれぐらい巨大な槍を手に、西洋の騎士の鎧を着込んだ鬼――デモンが、読人の脚を狙って、投げ槍の如くコンクリートの地面に槍を突き刺した。

 読人に命中はしなかったが、抉れたコンクリートの破片が飛んで、バランスを崩した身体はゴロゴロと道路に転がった。

 

「ひぃぃぃぃーーー?!」

『また同じ悲鳴か……泣き叫んでばかりじゃ、男は上がらねぇぜボウズ』

「『その城には、姿を変える魔法を操り、領民たちを支配している恐ろしいデモンが住んでいました』――創造能力・魔法使いの鬼(マジシアンデモン)!」

「っ、『長靴を履いた猫』に登場する……城に住む、どんな姿にでもなれる魔法使いの鬼?」

「正解。僕が好きな物語を知っていたんだね。Merci」

 

 でも最後には、長靴を履いた猫に唆されて鼠に変身してしまい食べられてしまう鬼である。この鬼は全然そんなマヌケな気配はない。

 鬼の肩に乗るシュバリエも両手に爪を伸ばし、冬場の微かな太陽光でも十分に鋭く光っている。

 シュバリエに鬼に、彼らは全部『長靴を履いた猫』に登場するキャラクターたちだ。そして、リオンの手には『竹取物語』と全く同じ装丁の本がある……白くて綺麗なその本。

 違うところと言えば、タイトルが『長靴を履いた猫』である点と淡く光っている点。そして、裏表紙には黒い紋章のようなシルエットが描かれている。袋を担いで長靴を履いた猫のシルエットが、その本の物語を象徴するかのように白い裏表紙に刻まれているのだ。

 

「一体、一体なんだ!? 何でおじいちゃんの名前を知っている……それに、この本が何だって言うんだ!?」

「君は黒文字蔵人の孫か。【本】を持っているのに、何も知らなかったのか。なら、教えてあげよう。君は【読み手】ではないようだしね」

「【読み手】……?」

「今、世界中に僕のような【本】を持った人間がいる。想像力を創造力にする【読み手】同士が【戦い】を始めたのさ……その、『竹取物語』を巡ってね!」

「優勝賞品って、そういう意味か」

 

 リオンが見せびらかす『長靴を履いた猫』の【本】と同じような物を持つ者が、世界中に姿を見せている。

 彼らが『竹取物語』を狙うの理由は、これが彼の言う【戦い】の優勝賞品だからだ。読人がその本を抱き締める力が少しだけ強くなる。

 先ほどの会話の中で、彼は“前回”と言った。シュバリエは”50年前”と言った。

 前回の【戦い】の優勝者、黒文字蔵人……【読み手】同士の【戦い】とやらに、蔵人が関わっていたのだ。

 

「だから、僕に大人しく【本】を渡してくれれば、これ以上君に関わることはない。僕だって、【戦い】が始まってすぐに暴力沙汰を起こしたくないんだよ」

『の割には、玄関大破なんて無茶振りをオレに押し付けたじゃねぇか』

「時には思い切りが大切なんだよ、シュバリエ。それじゃあ、『竹取物語』を渡してくれ」

「……嫌だ」

「……聞こえなかったな。もう一度」

「嫌だ!!」

「っ!?」

 

 しっかりと本を抱き締めた読み人が一歩踏み込むと、ガクガク震える脚を気合で誤魔化してリオンへタックルを決めた。

 運動経験もない文学少年が、ありったけの力を込めて目の前の障害へ立ち向かったのだ。

 読人の急な反撃に驚いたリオンだったが、驚いただけだ。読人のタックルを受けても、すぐに体勢を立て直せる……そして、『竹取物語』の本がぼんやりと光った事には気付いていなかった。

 

「シュバリエ! デモン!」

『大人しくしてなボウズ!』

「っ!!?」

 

 鬼の持つ武器が槍から棍棒へ変化し、シュバリエの鋭い爪が読人を狙って振り下ろされる。

 先に爪がコートのフードを切り裂き、棍棒が足元を狙ってコンクリートを穿つと、読人の身体は再びゴロゴロと転がった。それでも、『竹取物語』の本はしっかりと腕に抱いたままだ。

 例え彼が車道に放り出されて、後ろから速度を上げたバイクが迫って来ようとも。

 

「っ、マズイ!」

「あ……」

 

 迫り来る黒いスポーツバイクにフルフェイスのヘルメット。あまりの唐突な出来事にリオンの反応が遅れ、読人もバイクを目の前にして身体が強張ってしまう。

 腕の力だけは抜かず、長い前髪の下にある目をギュっと瞑ってしまった。

 しかし、バイクは……当たり前と言うかなんと言うか、読人の存在に気付いてブレーキをかけた。タイヤとコンクリートの摩擦する甲高い音が響いてバイクの車体が斜めになると、読人の手前で土煙と共に止まったのだ。

 普通なら、このライダーは悪態を吐いてもう一度走り出すなり、読人を心配してバイクを降りたりするだろう。当然、読人はそんな反応(主に前者)をすると思っていた。あわよくばこの人に助けを求めようともした。

 だけど、ライダーの次の行動は読人の思惑からは外れていたのだ。

 グローブを嵌めた小さくて薄い手が読人の肩に置かれると、ライダースジャケットの下から三冊目の白い本が登場した。ライダーの反対側の手には、淡く光る白い【本】を開いていたのだ。

 

「『荒れ狂う海の底から姿を現した化け物は、渦巻く波と暴風と共にピノッキオを呑み込みました』――創造能力・荒波の鯨鮫(モンストロ)!」

「っ、新手か!」

「この【戦い】において、名乗るのが礼儀ならば名乗りましょう。名は小野寺桐乃、【本】のタイトルは『ピノッキオの冒険』。以後、お見知り置きを」

 

 白い本の表紙に書かれたタイトルは『ピノッキオの冒険』。裏表紙の紋章は長く伸びた鼻を持つ人形と、切られたマリオネットの糸。

 子供たちがよく知る絵本の『ピノキオ』の原典である『ピノッキオの冒険』の【本】を手にしたライダーは、ヘルメットを脱ぎ捨てその正体を顕にした。

 髪をバレッタできっちりとまとめた若い女性……名は、小野寺桐乃。しょっぱくて冷たい海の飛沫が舞う中で、彼女の背には人間もぺろりと呑み込めそうな巨大な鯨。物語の終盤で、ジェペット祖父さんやピノッキオを舟ごと呑み込んだ海の化け物が出現したのだ。

 

『リオン! 他の奴に見付かっちまったぞ!』

「しょうがない、優勝賞品を目の前にして戦闘は避けられない。悪く思わないでくれよ、Mademoiselle……! 僕はリオン・D・ディーン、【本】は『長靴を履いた猫』!」

 

 棍棒を手にした鬼の一撃が巨大な鯨の頭部へ放たれるが、惑星のようにぐるぐるとした瞳孔を持つ鯨はそんなのではびくともしない。

 鬼を足場にして爪を剥いたシュバリエが飛びかかっても焦ることはなく、ピノッキオもジェペット爺さんも呑み込める大きな口を開くと、その口からはこれまた巨大な鮫が魚雷の速度で飛び出て来たのだ。

 

「おいおい、魚は猫の好物だぜMademoiselle」

『こんな生臭い鮫は、可愛いキティが「あーん」してくれない限り食う気がしねぇぜ』

「それじゃあ、彼女には早々と退場して頂こう! デモン!」

「気を付けて! 相手の鬼には変身能力があります」

「っ」

 

 もう遅い。

 鯨と対峙していた鬼が姿を消したと思ったが、今度は大蛇に変身して桐乃の足元に現れたのである。ぬらぬらと光る鱗の大蛇の目はあの鬼と同じ、その蛇が鎌首を垂れながら桐乃の身体に巻き付いて牙を剥いたのだ。

 毒蛇か?それとも獲物を丸呑みする奴らか?

 顔の直ぐ横にいる大蛇がチロチロと舌を動かしながら、顎を裂いて大きく口を開けた。桐乃は手にある『ピノッキオの冒険』の別のページを開き、【本】には再び光が宿る。

 絶体絶命の場面だが、当事者的にはまだ絶体絶命ではない。だから彼女は冷静にページをめくったのだが、第三者から見ればとんでもないピンチだった。

 桐乃のピンチに、読人は叫んだ。

 

「止めろぉぉぉーー!!」

「っ、君!?」

「この光……まさか!? 嘘だろ、このタイミングで!?」

 

 桐乃を捕えた大蛇へ向けて、力の限り叫んだ……本当は、叫ぶだけでは何も変わらない。だけど、読人の叫びに呼応するかのように『竹取物語』が眩く光始めたのだ。

 輝く光と共にこの道路の一帯に炎が灯る。明るく轟々と燃える真紅の炎がユラユラと燃え盛り始めると、鬼が変身した大蛇は低い声で怯え始めたではないか。

 

「【本】を読んで!」

「え……?」

「早く! 開いて最初に目に付いた一文を!」

「は、はい!」

 

 桐乃に言われるまま光る【本】を開くと、最初に目に付いたのは「昔々」の始まりの一文ではなかった。

 それは、主人公であるかぐや姫が求婚する貴族へ、幻の宝を見せてくれと言う難題を吹っかける場面であった。

 

「『右大臣阿倍御主人様は、火にくべても燃える事のない火鼠の皮衣をお持ちになって下さい』……!」

 

 読人が最後までその一文を読み終わったその刹那、ユラユラと漂う炎が全て意志を持ち始めたように動き一か所に集まり始めた。

 炎と言えば良いのか、それとも火の玉と言えば良いのかよく解らないそれらは、呼吸をする暇もない一瞬で桐乃の身体に巻き付いている大蛇の身体だけに燃え移り生臭い煙を醸し出す。あまりにも高温の炎は、あまりにも素早く大蛇だけを焦がし、鬼が変身した大蛇はピギャアァァア!と言う太く苦しげな断末魔を上げて桐乃の身体からずり落ちたのだった。

 

「『竹取物語』で、炎か」

「な、何が起きたんだ今のは?!」

「炎……火……」

 

 黒焦げになった大蛇が元の鬼の姿に戻ると、そのまま煙も何も残さずに消えてしまう。

 桐乃はどこか感心したように呟き、リオンは焦り。読人は炎を目で追った。

 桐乃の周りから遠ざかった炎が読人の前に集まって来れば、それらは小さな一つの塊に形を整える。

 まるでボールのような丸い身体は小型犬くらいのサイズだろう、短い手足が伸びてコンクリートの地面に下ろされると、黒くて円らな双眸が上目使いに読人を捉えている。

 それを動物に例えるならば、鼠……鼠と言っても、ハツカネズミ等の鼠ではなく大きなハリネズミだった。針の代わりに背中に炎を滾らせた、巨大なハリネズミが読人の前に現れたのである。

 

『……お前が、今代の【読み手】か』

「え……」

 

 子供のようにあどけないが、はっきりと大人と分かる声が聞こえたその時までだった、読人の意識が保たれていたのは。

 祖父の死から始まって、リオンとシュバリエの襲撃、桐乃の登場……そして、炎のハリネズミ。

 それらが一気に雪崩れ込んだ彼の脳のキャバシティはとっくの昔にオーバーヒートしており、『竹取物語』を抱えたまま意識を失って倒れてしまったのだ。

 なので、この時は気付いていない。『竹取物語』の本の白い裏表紙に紋章が刻まれていた事を。雲がかかった満月が竹に囲まれたシルエットの紋章が、裏表紙に描かれた【本】となった事に。

 

 

 

「昔々」――あるところに、不思議な白い【本】がありました。星の数ほどの【本】は、コノ世に存在する星の数ほどの物語を書き記した不思議な不思議な【本】でした。

 ある一冊の【本】に登場する姫は、月の世界からやって来た輝かんばかりの美しい姫。光り輝く美しい姫は、白い手である薬を差し出した。その薬は、かつて日の出る国で最も高い山の頂で焼かれ、天へ捧げられたもの。

 その薬の名から、その山は「不死の山」と呼ばれるようになった。

 

 

 

 かぐや姫が帝に捧げた不死の薬を焼いた、富士の山と――

 

 

 

***

 

 

 夢を、視た――

 頭の中がぐちゃぐちゃになって、インフルエンザの高熱に魘されるようにフワフワと意識が浮上する。パラパラと本のページをめくるような音が聞こえて来た。

 もやがかってぼんやりした視界がだんだんはっきりして来ると、読人が見たのは飛行機だった。随分とレトロな空気を纏った飛行機が集まっている。それじゃあここは空港か。

 だけど、読人はこの空港内を探索している訳ではない。テレビ番組を見ているように自身の視界だけが動いている。

 本当に、ココはどこだろう?

 そもそも日本ではないかもしれない。先程からいくつかの看板や案内表示を目にするが、日本語が一つも見当たらない。看板の言語は全て英語。そしてその中に、Englandと言う地名を見付けたのだ。

 

「こんにちは」

「ようこそ、イングランドへの長旅お疲れ様」

 

 徐々に聴覚も動き出して来た。聞こえたのは英語……のはずだけど、読人にはしっかりとした日本語に聞こえた。でも、その言葉を口にしたのは顔の堀が深く、ブラウンの髪を撫で付けた異人だった。

 彼は「こんにちは」と挨拶をした、仕立ての良いスーツを来た男性からパスポートを受け取って表紙を開く。どうやら入国の手続きをしているようである。

 何故読人はこんな夢を視ているのだろうか?

 彼は海外に行った事がなければ、国内旅行も片手で数えるほどしか行った事がない。なのに何で、こんな異国情緒溢れるイングランド――つまり、イギリス(暫定)の夢なんて視ているのだろうか?

 

「クロード・クロモジ……1年も滞在するのか、長いな。目的は? まさか1年も観光する訳じゃないよな」

「ええ、この地には【戦い】に来ました」

 

 怪訝そうな表情の後に呆気に取られ、次はおかしそうに顔を綻ばせた入国管理官に対し、彼――若き日の黒文字蔵人は、苦笑いしながら首に左手を添えて首を傾げたのだった。




始まりはいつも突然。

Name:黒文字読人(クロモジヨミヒト)
Age:16歳
Height:172cm
Work:都立暦野北高等学校1年C組
Book:『竹取物語』


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竹取物語01

 黒文字読人は夢を視ていた。

 視ていた夢の内容をはっきりと口で語ることはできないけれど、頭の中ではどんな夢だったかをはっきりと把握しているという不思議な夢だった。

 先日亡くなった祖父・黒文字蔵人と同じ名前の青年が登場した、この夢は。

 

「……おじい、ちゃん」

『……』

「……」

『やっと起きたか?』

「……ひぃぃぃぃ~」

 

 プールの中から水面に顔を出す時にも似た感覚で目を開けた読人だったが、起床早々情けない声で腰を抜かすこととなった。

 だって、目の前に自分の胸の上にサイズが大きいハリネズミがいたんだ。しかも喋っているし、背中の針が燃えている。寝起きじゃなくても普通に驚くだろう。

 まさかまだ夢を視ているんじゃと思って首を左右に動かしてみると、ここは祖父の家ではなかった。

 和室の真ん中に布団が敷かれて、その上に自分は寝かされていた。そして、右側……朝顔が描かれた襖の前にちょこんと、小柄だが凛々しい空気を纏った老女が座っていたのに気が付いたのだ。

 

「ひぃぃぃーーー!?」

「失礼だね、お前さん」

「っ、ご、ごめんなさい! あの、ここは? 俺、何があったんです……か?」

「お前さん」

「はいっ」

「今も昔も、顔はじいさんには似ちゃいないが……癖は同じだね」

「っ!」

 

 無意識に癖が出ていた。申し訳なさそうにしている読人の頭が傾いて、右手が首に添えられている。

 老女の言葉で思い出した。確か、祖父――蔵人も読人と同じ癖があったと母から聞いたことがあったのだ。

 蔵人は左利きだったので、首に添える手は左手だった。

 寝起きの頭でそこまで思い出してから、読人の頭はしっかりはっきりと覚醒した。

 起き上がった彼の膝の上には、背中の炎が燃える大きなハリネズミ。知らない和室の布団の上で寝ていて、祖父を知っていると思われる老女が1人……これって本当に、どんな状況なんでしょうか?

 

「あ、あの……」

「腹は減っているかい? もうお昼だよ」

「え?」

「色々喋りたいこと、聞きたいことがあるだろう。私たちもお前さんに説明しなきゃならないことがある。だけど今は、腹を満たしなさい」

 

 読人の感覚では、ついさっき朝食を食べたばかりだが、部屋にある時計を目にして気付く。あれから時間近くも眠ってしまっていたのである。

 あれから……蔵人の家で長靴を履いた猫と本を手にした青年に襲われて、同じく本を手にした女性がバイクに乗って登場したあの出来事から。

 はっと気付いて辺りを見回すと、『竹取物語』――リオン、と名乗ったあの青年が言っていた優勝賞品とやらは、畳まれたコートやスマートフォンと一緒に読人の枕元にきちんと置いてあった。

 そして安心したのも束の間、食べ盛りの男子高校生の腹は空腹を訴えて鳴いた。空気を読まない内臓から情けない音が鳴ったのだ。

 

「焼きそば、好きかい?」

「……はい」

「それと」

「それと?」

「随分前からお前さんの電話が鳴っている。母親からだろう」

「あ」

 

 慌ててスマートフォンを手に取ると、30分前から何度も母から着信が入っている。蔵人の家に行ったら玄関大破しているし、読人はいない事態で突っ込みどころは満載だ。

 どうしよう、何て説明すれば良いんだろう……それが解らなくてリダイヤルをするのを躊躇っていたら、タイミング良く再び母からの着信が来た。しかも、うっかり条件反射的に電話に出てしまったのだ。

 

「も、もしもし……」

『読人! あんた今どこにいるの?! おじいちゃんの家は鍵が開いたままだし、自転車もそのままだし』

「ご、ごめん……えーと、その」

「貸しな」

「か、母さん。ちょっと電話変わるね」

 

 一言一句に冷や冷やしながらしどろもどろに母へ返事をしていたら、電話に代われと手を出した老女へ縋り付くようにスマートフォンを渡した。

 

「もしもし、黒文字さん? 私、奥島です。『若紫堂』の……はい、先日ぶりです。実はですね、蔵人さんの家の前を通りかかったら読人さんと会いましてね、話し相手になってくれたんですよ……はい、はい。ええ、折角だからお昼を一緒にとなりまして、私が引き留めてしまったんです。申し訳ありません。ええ、蔵人さんの話に花が咲いてしまいましてね。読人さんはちゃんとお帰ししますので……では、本人に代わりますよ。ほら」

「え、はい……母さん?」

『読人、奥島さんと一緒だったのね。お昼をご馳走になったら、ちゃんとお礼して、早めにお邪魔しなさいよ』

「うん、解った」

 

 じゃあね、と母からの電話が終わった。老女は奥島と名乗った。彼女は母と知り合いなのだろうか?

 

「ほら、顔を洗って来なさい。話はお昼を食べながらにしよう」

「はい」

 

 スマートフォンを手に未だぼんやりしている読人へ、奥島と名乗った老女は綺麗な仕草で和室を後にした。

 そして、やっと思い出した……この膝の上の、生温かい重みの原因であるハリネズミの存在を。ずっといたんだね、君。

 

「あ、あの……」

『今まで大人しくしていたオレを、褒めてくれ』

「はい」

『まあ、お前は何も知らないんだ。現状を理解できたら、またオレは現れる』

「待って! きみは、何者……?」

 

 のそのそと読人の膝から退いたハリネズミは、背中の針が炎になっているが火傷するほどの高熱ではなく、触れたらほんのり温かい。針と言いつつも硬くはなく、柔らかい灯が揺らめているようだった。

 だけど、何故こうやって喋って話ができているのかと言う疑問さえも吹っ飛ばし、ハリネズミはやっぱりのそのそした動きで『竹取物語』の本へと近付いた。その炎は、本に燃え移らない。

 

『何者と言われたら、オレには名前はまだない。しかし正体は、お前が創造した”火鼠の衣”だ』

 

 そう言って、火鼠の衣は鼻先で器用に『竹取物語』の表紙を開いてもぞもぞとその中へ潜り込み、パタンと表紙を閉じてしまったのである。

 火鼠、火の鼠、火の針を持つハリネズミ……何だろう、安直なのか捻っているのか解らない、お粗末な連想ゲームのような結果は。

 まだ頭の中がぐちゃぐちゃしている。奥島と名乗った老女からたくさん聞きたいことがあったし、夢で視た、黒文字蔵人と名乗った青年の事も気になっている。

 だけどそれ以上に今の読人に必要なもの。それは、腹の虫を黙らせる昼食である。

 空気を読め、胃。

 それから、色々なやり取りを省いて本題に入れば、読人は焼きそばをご馳走になって食後のお茶を啜っていた。

 樫のローテーブルの向こうには、奥島と名乗った老女と彼女の右隣にはあの時バイクで颯爽と登場した女性・小野寺桐乃が座っている。

 好きなだけ使いなさいと、セルフサービスでテーブルに置かれていた紅ショウガの瓶の蓋を桐乃が閉めたタイミングで、シンプルな絵柄の湯呑でお茶を飲んでいた老女が口を開いた。

 

「さて、先程は名字しか名乗っていなかったね。私は奥島(オクシマ)紫乃(シノ)。こっちは、うちのアルバイト……と言うより、私の弟子の小野寺桐乃。桐乃とは、さっき会ったね」

「はい。黒文字読人です……今朝は助けてくれてありがとうございました。お昼、ご馳走様でした」

「いいえ、私も君に助けられた」

 

 深々と頭を下げた読人に照れ臭そうに微笑んだ桐乃は、ライダースーツを着てヘルメットを手にしていた時とは随分印象が違う。薄手のセーターに細身のパンツを着たその姿は、化粧っ気はないけれど人の良さそうな普通の女子大生のイメージの方が強い。

 ご馳走になった焼きそばも彼女が作った物だった。

 キャベツに玉ねぎ、もやし等の野菜が豊富で、細切りのウインナーが具として入っていたのは初めての経験だ。黒文字家の焼きそばよりも甘めの味付けで、紅ショウガが良く合う……と、陶器に入った紅ショウガの入れ物を眺めながら、頭の片隅で思っていた。

 

「さて、どこから語ろうか? あまりにも多すぎるもんだからね……お前さんが一番訊きたいことは何だい?」

「一番訊きたいこと、ですか? あの……奥島さんは、祖父と知り合いなんですか?」

「そこからか訊くのかい。蔵人さんとは、知り合いと言うか腐れ縁だよ。もう50年になるね。先日の葬儀にも参加したんだけど、お前さんは覚えていないだろう」

「ご、ごめんなさい」

「良いさ。ずっと俯いていたしね」

 

 確かに、蔵人の葬儀の最中の読人はずっと俯いて上の空だった。蔵人の旧友が「この度は……」とお悔みの言葉を告げていても、その時のことはあまりよく覚えていない。

 彼女――奥島紫乃は蔵人の50年来の知人だった。故人の娘である読人の母も彼女の事を知っていたのだろう、だから先程の電話のやり取りに繋がったのだ。

 納得したと同時に新たな疑問が読人の中に生まれた。紫乃が言った「50年」と言うワードが引っかかったのだ。50年、その年数をついさっき聞いた気がする……そうだ、リオンがとシュバリエ言っていたんだ。

 

「もしかして、リオンと長靴を履いた猫が言っていたことに何か関係があるんですか? 祖父が、この本を所持していたことにも」

「中々鋭いね。桐乃」

「はい」

「これから私は、突拍子もない夢物語のような話がする。だけど、それは全て真実だ」

「真実……」

「そう、50年前の話と、何十世紀も昔から続いている馬鹿げた【戦い】の話だよ」

 

 桐乃がテーブルの上に二冊の本を置いた。一冊は、午前中の出来事で彼女が手にしていた『ピノッキオの冒険』の白い本。もう一冊は、これまた同じ白い本……タイトルは『源氏物語』とある。

 書かれた年代も国も違う二冊の物語だが、同じ装丁の本と言うのは共通していた。読人が守った『竹取物語』の本もまた、同じ姿をしている。

 

「世界中には、この白い【本】が何千冊と存在している。誰が作ったのか、どこから現れたのかは誰も分からない。だけど50年に一度、その中から百冊の【本】と【読み手】と呼ばれる使い手が選ばれ、1年に渡る【戦い】が行われるんだ……その、『竹取物語』を巡ってね」

 

 何千冊もの不思議な能力を持つ【本】には、何千話もの物語が刻まれている。【戦い】のある1年間以外では美しい本のままであるが、50年に一度だけ使い手に巡り合うと裏表紙に紋章が描かれて、魔法のような不思議な能力が溢れ出す。

 その能力とは、人間の想像力を創造力に変える能力。

 読人も既に目にしただろう。『長靴を履いた猫』が実体化し、同物語の鬼が魔法で姿を替え、桐乃の背後には化け物の鯨も鮫も現れた。

 空想の世界が、現実に顕現する。つまり、自分が手にしている【本】の物語のモチーフを顕現させて戦うと言うことだ。

 

「【本】に綴られた物語を読んだ【読み手】が想像したものが、現実に創造される。桐乃の【戦い】を見ただろう。『ピノッキオの冒険』に登場する化け物鮫を。この子なりに想像して創造したんだ」

「まあ、アニメ映画の印象が強くて外側は鯨ですけどね。君が見た荒波の鯨鮫(モンストロ)は、私の想像の中の、ピノッキオとジェペット爺さんを呑み込んだ化け物鮫だったの」

「想像して、創造する……まさか、あのハリネズミも?」

 

 そこまで頭の中で整理して、読人は思い当たる節があった。幼い頃、蔵人に『竹取物語』もとい『かぐや姫』の絵本を読んでもらった時のやり取りを思い出したのである。

 

「おじいちゃん、“ひねずみのかわごろも”ってなにー?」

「火鼠と言う生き物の毛皮だよ」

「ひねずみってなにー?」

「火を吐く鼠のだよ」

「ネズミが『かえんほうしゃ』するんだ!」

「何かのゲームのモンスターみたいだね」

「じゃあ、ハリネズミがもえてるの!」

「読人、おじいちゃんはさっきと同じ感想しか出ないよ」

 

 幼い頃の自分は、物語に出て来る「火鼠」をゲームに登場する炎タイプのモンスターか何かだと思っていたのだ。

 幼い頃の想像が無意識に反映され、あの燃えるハリネズミが創造されたのである。

 

『想像してた! 思いっ切り想像してたよ……!』

「お前さん、聞いているのかね?」

「はい! この、不思議な能力を持つ【本】で【読み手】同士が戦うことは理解しました。でも、この『竹取物語』が優勝賞品ですよね? 何で、この【本】が優勝賞品なんですか? これだけ、何か特別な物なんでしょうか」

「正確に言えば、その【本】から創造されるモノが優勝賞品さ。お前さん、『竹取物語』のラストは知っているかい?」

「はい……かぐや姫は帝の求婚を断り、満月の夜に月に帰ってしまう。ですよね?」

「その先の話さ。絵本じゃ省略されている物も多いが、『竹取物語』のラストはこのような形になっている……かぐや姫は月の世界の薬を一口舐め、残りを地上の帝に献上した。帝はその薬を口にはせず、かぐや姫に届くようにと日本で最も高い山の頂でその薬を燃やした。それ以来、その山は『富士の山』と呼ばれるようになった。【戦い】に参加する【読み手】たちが狙うモノ。それは、かぐや姫が最後の1人に与える不死の薬だ」

 

 不死――()()

 コノ世に生きる人間は、富める者も貧しい者も、善人にも悪人にも皆平等に死が訪れる。

 だからだろう、古代の権力者たちは死から逃れる方法を模索し続けていた。時には錬金術や黒魔術のような空想を駆使し、幻想の世界で存在する不老の薬に憧れ、それを実現しようとした。

 誰もが咽喉から手が出るほど欲するその薬が、【本】を手にする者たちの【戦い】の優勝賞品だ。

 50年に一度、100人の中から勝ち抜いた1人が、かぐや姫からその薬を授けられる……不死の権利を得ることができるのだ。

 

「不死……って、不老不死と考えれば良いんですか?」

「そう考えて構わない。人間の細胞の劣化が肉体的な死ならば、その劣化を止めて老いを止めることもまた不死さ。今年の1月1日から12月31日までの1年間、100人の【読み手】が戦い続け、残った1人に不老不死の薬が与えられる。50年前、お前さんのじいさんがその優勝者だった。私もこの『源氏物語』の【本】と共に【戦い】に参加していた」

「……」

「しかしまあ、分かってはいると思うが、蔵人さんは不老不死を選ばなかった。私たちやあの人は、薬を封印するために戦っていたんだよ」

 

 老いず、死なず。

 生者の理から逸脱した者が50年に一度ずつ増えていったら、世界の理そのものが崩壊してしまう……それを危惧した者たち。若き日の蔵人や紫乃を始めとした彼らもまた【読み手】として、【戦い】に参戦し続けていたのだ。

 そして50年前の【戦い】では、黒文字蔵人が100人の中の最後の1人となった。同時に、『竹取物語』の所有者となり【本】その物を異国の地に保管していたのである。

 50年の月日が流れ、また再び【戦い】の年が来た。

 蔵人は【本】を自分の手元に置いておこうとしたのだろう。しかし、日本に届く前に蔵人は急死してしまい、読人が偶然にも手に取ってしまったがために、彼は『竹取物語』の新たな【読み手】として選ばれてその能力を覚醒させたのだ。



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竹取物語02

「ここまで、理解できたかね?」

「はい……」

「桐乃、お茶のお替わりを」

「はい」

「ありがとう。桐乃を含めた他、99人の【読み手】はお前さんを狙って来る。必然的に1対99だ。もし、お前さんが欲に駆られて不老不死を望むならば……」

「私もまた、敵になる」

 

 桐乃は薄緑色のお茶を読人の湯呑に注ぎ、その言葉と共に差し出した。

 彼女は紫乃の弟子と言った。ならば、50年前の紫乃と同じように不老不死の薬を封印する意志を持つ者だろう。午前中の出来事の際に駆け付けたのは読人の危機を救うのではなく、リオンの手に『竹取物語』が渡るのを阻止するためだったのだ。

 

「そう言えば、彼、リオンはどうなったんですか?」

「彼と長靴を履いた猫は逃げたよ。脱落もしていないから、また君の前に現れるかもしれない」

 

 リオン・D・ディーン――『長靴を履いた猫』の【読み手】である青年は、どこから情報を仕入れたのか誰よりも早く『竹取物語』へ辿り着いてしまい、【読み手】のない本を手にするはずだった。

 だけどその時に、読人が【読み手】として覚醒しまったのは何たる皮肉。ちなみにその時、以下のようなやり取りで逃亡した。

 

「まずいぞシュバリエ! 彼が【読み手】になってしまった、どうしよう!?」

『落ち着けリオン! 2対1じゃ流石のオレでも無理だ! ズラかるぞ!』

「Oui!! 『王様の馬車が通りかかるのを発見した猫は、大声でこう叫んだのです』」

『大変だ! カラバ公爵様が川に流される!!』

 

 リオンが『長靴を履いた猫』の【本】を開いてシュバリエがそう叫ぶと、王族が乗るような華美で壮美な細工と模様が施された、立派な馬車が創造された。凛々しい二頭の駿馬も同時に現れ、リオンとシュバリエが馬車に乗り込むと時速80kmほどのスピードで駆け抜け、あっという間に逃げ去った。

 と、一部始終を目にしていた桐乃はそう証言した。

 桐乃が新しく淹れたお茶を一口啜った紫乃は、少し息を吐き出して再び語り始める。

 100人の【読み手】たちの【戦い】は1年に渡って繰り広げられると言ったが、今年に入って既に2週間が経過しているので何人かは早々と脱落している。それに、未だ【読み手】と出会えずに能力を覚醒できていない【本】もある。

 彼らが優勝賞品を勝ち取るために攻め入って来るのなら、『竹取物語』の【読み手】である読人は優勝賞品を守る立場にあるのだ。

 99人の中には、どんな卑劣で残酷な手段を使ってでも不老不死の薬を手に入れようとする者も現れるだろう。たった1年の短い期間だが、勿論生命の危険もある【戦い】だ。

 人間は【本】を選べない、【本】が人間を【読み手】として選ぶ。50年前の蔵人は勝ち残って『竹取物語』を手に入れたが、読人は選ばれてしまったのだ。

 かぐや姫の守り人として。

 

「これから先の1年間、お前さんは他の【読み手】に狙われる。中には話の通じない相手もいるだろうね、今朝のフランスの坊やと猫のように」

「俺は、不老不死になりたい訳じゃないです」

「お前さんにその気はなくとも、運命は止まってくれないのさ。もう既に、(ページ)は開かれているんだよ。お前さんの手の中に『竹取物語』の【本】がある今この状況が、紛れもない真実さ」

「……」

「尋ねようか、黒文字読人――お前さん、この【戦い】に身を投じる覚悟はあるのかい?」

 

 紫乃の凛とした重々しい声が、読人の耳の奥に何度も響いて胸の奥をズキズキと痛ませる。

 頭の中はぐちゃぐちゃで、何もかもきちんと整理できていない。ただそこら辺に、頭の片隅に適当に片付けているだけだ。

 蔵人の死から始まって、『竹取物語』の【本】が読人の目の前に現れ、図らずもその使い手=【読み手】になってしまった。

 普通なら、生命の危険がある多勢に無勢の1対99の【戦い】に巻き込まれたくない。そんなの嫌だと【本】を床に叩き付け、早々と脱落すれば良い。【本】は紫乃にでも桐乃にでも譲り、自分はいつも通りの平凡で日常的な高校生活に戻れば今までと何も変わらないのだ。

 これ以上母を悲しませたくない、父にも何て言えばいいのだろうか。

 2年生に進学すればコース選択によるクラス替えも行われるし、そろそろ進路も真剣に考え始めなければならない。夏休みにはオープンキャンパスにも行ってみたいし、それに……気になっている女の子だっている。そんな毎日を、手放したくはない。

 少なくとも読人はそんなタイプの人間だ。好き好んで刺激と危機一髪のスリルを求めて、映画や漫画の世界でありそうな世界に飛び込まない……平和万歳、平凡万歳、モブ人生万歳。

 だから、「覚悟はない」と告げれば良かった。

 なのに、彼の口から出たのはこの言葉だったのだ。

 

「……少し、考えさせて下さい」

「良いだろう。急かして返事をもらって良い話でもない。桐乃、帰る際には送って行ってやりな」

「いえ、大丈夫です。おじいちゃんの家に自転車、置いたままだし」

 

 バイクで送って行くと言った桐乃の申し出を断り、蔵人の家まで歩くことにした。

 冬の乾燥した冷たい風は、オーバーヒート寸前の読人の頭を程良く冷やしてくれるだろう。自分の中で色々整理するためにも、ちょっと歩くことにしたのだが……そう言えば、ここは一体どこだという質問をするのを忘れていた。

 

「すいません、小野寺さん。ここは奥島さんのお宅ですか?」

「そうだよ。師匠の住居兼お店。靴が置いているのは、こっち」

「っ、うわぁ」

 

 桐乃に玄関まで案内されて居間の奥にある木戸が開かれると、読人は思わず感嘆の声を上げた。上品な香とちょっと埃っぽい古い紙とインクの匂いが漂うその空間は、正に本の洪水だったのだ。

 年代物の本棚には数多の本が収められていた。日の当たらない位置にかけられた額縁には十数年前の音楽雑誌が大切に納められ、価値のありそうなハードカバーの分厚い本はビニールに包まれている。

 蔵人の書斎とは違う。ここは時代を経た本が辿り着き、次の読者を待つための宿だったのだ。

 

「ここは古書店『若紫堂』。大正時代創業のちょっとした老舗さ」

「古書店、『若紫堂』……ああ!」

 

 店と母屋を繋ぐ玄関に揃えられていた靴を履いた読人は、デジャブと懐かしさに襲われた。

 そのまま本棚の間を縫って外に出ると、店の前には『休憩中』の木札が下げられ年季の入った『若紫堂』の看板が下げられていた。

 

「俺、この店に来たことがあった……おじいちゃんが、連れて来てくれたんだ」

 

 幼い頃、小学校に入学する前の記憶が蘇る。あれは確か、暑い夏の日だった。

 蔵人と手を繋いてこの『若紫堂』を訪れ、先程のように感嘆の声を出してはしゃいだのだ。

 そうだ、紫乃はあの時確かにこう言った……今も昔も、顔は蔵人には似ていないと。それはつまり、幼い頃の読人を知っていたから出た台詞である。

 

「すっかり忘れていた」

「思い出したなら、蔵人さんの家まで帰れるね」

「はい。そんなに遠くないですよね」

「うん、歩いて10分もかからないよ。これ、お店の名刺。何かあったら電話でも良いから連絡して。もし君に戦う意志があるなら、きっと師匠は色々教授してくれると思う。言い方はちょっとキツいけど、基本的には優しい人だよ」

「はい、ありがとうございました」

 

 薄紫色のショップカードを桐乃から渡され、読人はペコリと頭を下げてから『若紫堂』を後にした。左手には『竹取物語』がしっかりと握られている。

 1月の寒空の下。白い息を吐きながら蔵人の家を目指し、コートのフードを被ろうと手を伸ばしたが止めた。フードはシュバリエに切り裂かれ、ボロボロになっていたのを思い出した。

 確かにボロボロだ。被れない。

 白い【本】の裏表紙に刻まれた物語を象徴する紋章。【本】が選んだ人間の手に渡ると、この紋章が現れて50年に一度の【戦い】への参加申し込みをしたことになるらしい。

 選ばれた時点で強制参加だ、辞退することもできない。何て人間に優しくないシステムだろう。

『竹取物語』の【本】の真っ白な裏表紙には、既に参加申し込みを受領してしまった紋章がしっかりと刻まれてしまっている。雲に隠れる満月が竹に縁取られた、家紋のような紋章だ。その紋章を眺めながら、読人は白く染まった溜息を吐いた。

 目の前の信号が青に変わったので横断歩道を渡り、右折すれば閑静な住宅地に入って蔵人の家が見えて来るはずだ。

 

「あー……そうだ、おじいちゃんの家の玄関、母さんに何て説明しよう」

『大丈夫だ、もう元に戻っている』

「え、本当?」

『ああ。【読み手】同士の戦いは、想像力が根源にある。【戦い】が終われば、創造されて実体化したものはただの想像・空想に戻り、それによってもたらされた結果も()()()()()()になる。ただし、生物の死はその限りではない』

「そうなんだ。じゃあ、おじいちゃんの家の玄関は壊れていないんだね」

『そのはずだ』

「良かった~……って!」

『よっ』

 

 何だか普通に会話をしてしまったが、読人の隣には誰もいない。

 そもそも、前も説明した通りお昼の時間帯においてこの近辺の人気のなさは異常だ……なのに、誰かと会話をしてしまった。ついでに、読人の右肩がホッカイロを貼り付けたようにぬくぬくと温かくなった。

 首を右に動かすと、そこにいたのは軽い挨拶をしながら短い手を伸ばしたハリネズミ――読人の想像力が創造した、火鼠の衣がいたのである。

 あれ、ちょっとサイズが小さくなってないか?

 カピバラサイズから肩に乗るぬいぐるみサイズになっているぞ。

 

「何だかさっきより小さくない?」

『大きさぐらい自由に変えられる。本気を出せば、軽自動車ぐらいの大きさにもなれるぞ』

「そうなんだ。あの、火鼠……君?」

『何だ、オレにも質問か?』

「まあ、他にも色々あるけれど……俺は、この【戦い】に参加して良いのかな?」

 

 読人の質問に火鼠の衣は円らな両目をパチパチと瞬きさせて彼の顔を見た。

 まだ子供の丸みを残した少年の顔、その長めの前髪は何とかならないのか?目が隠れているぞ。

 

『お前、変わっているな。歴代の【読み手】の中でもそんな事を言う奴はいなかった』

「歴代……君は、以前の戦いを覚えているんだ」

『ああ、この【本】が少々特殊だからな。創造されたオレみたいな奴らにも、多少の記憶が蓄積されている。前の【読み手】はイギリスってところにいた白人だったが、随分と欲の皮が突っ張った奴だったぞ。あいつよりは、優勝者だった蔵人の方がマシだった。大体の奴らは嬉々として参戦した。1年間、この【本】を守り通せば不老不死だ。事情を知らずに巻き込まれた奴も、直ぐに【本】を捨てて逃げた奴もいれば、初陣でぽっくり逝った奴もいた。その度に、この【本】は色々な人間の手に渡って来た』

「……俺、この【本】を守る理由も、手放す理由も分からないんだ」

『……』

「きっと、理由が欲しいんだ」

 

 覚悟と理想を背負って【戦い】に身を動じる理由か。それとも、罪悪感も後腐れもなくこの【本】を手放す理由が。

「不老不死の人間を生み出さないため」は、倫理的だけど彼の中では芯がない理由だ。「生命が惜しいから」では、罪悪感にも似た感情が湧き上がって来る。

 

「はっきり決められないんだよね。【戦い】に参加する勇気もないし、逃げる勇気だってない。どうしようって考えて、今も君に答えを求めている……50年前、おじいちゃんはどんな気持ちで【戦い】に参加したんだろう?」

 

 真上に広がる冬空を眺めても、蔵人は答えてくれないし火鼠の衣だって沈黙を保ったままだ。読人の中ではっきりとした答えが出る訳でもない。

 でも、これだけは解る。50年前、不老不死の薬を悪しき意志を持つ者へ渡らないように、若き日の紫乃が【戦い】に身を投じたのは正解だった。不老不死なんて幻想が実現するなんて、駄目なんだと……。

 

「そうだ、もう一つ訊いても良いかな?」

『今度は何だ?』

「君の姿って、俺だけに見えている……とか、そんな状況じゃないよね?」

『他の奴らにも見えているぞ』

「ええっ!?」

 

 それはそれで驚く。

 読人だって、今日の出来事がなければ燃えて喋るハリネズミがいれば仰天するし、言葉も失う。しかも、傍目から見れば今の読人は肩に乗せたぬいぐるみに話しかける、ちょっと可哀想な男子にも見えてしまう。

 

「変な目で見られてなかったかな?」

『安心しろ。お前が考えているより、他人はお前に興味がない』

「あーー! 本当に玄関が!?」

 

 蔵人の家に辿り着くと、大破して擦り硝子も粉々になったはずの玄関は何事もなかったかのように元に戻っていた。火鼠の衣の言った通りならば、玄関の破壊も最初から()()()()()()になったのだろう。

 俄かには信じられないが、本当に何事もなかったかのように蔵人の家は静寂を保っていたのである。

 

「何大声出しているの。奥島さんにお礼は言った?」

「っ、母さん……うん」

「ほら、片付けするわよ。それと、ちゃんと鍵は閉めなさい!」

「ごめん母さん。片付けよう」

 

 まだまだ悩みたいことはあるけれど、先ずは出迎えてくれた母と共に本来の予定であった蔵人の家の後片付けをしよう。

 ああ、そうだ。切り裂かれてしまったコートのフード、これは何と言って説明しようか。ってか、コートは()()()()()()にならないんかい。

 読人が再び蔵人の家を訪れると、火鼠の衣はもぞもぞと動いて、再び『竹取物語』の【本】の中へ消えてしまった。

 まだ、彼の中で答えは出ていない――




Name:小野寺桐乃(オノデラキリノ)
Age:20歳
Height:165cm
Work:私立墨筆芸術大学文学部2年生
Book:『ピノッキオの冒険』


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源氏物語×金の斧・銀の斧【Past】01

「つっ……かれた~」

 

 そう呟きながら、読人は自室のベッドに倒れ込んだ。

 今日は本当に疲れてしまった、肉体的にも精神的にも。

『若紫堂』から帰って来てからは蔵人の家の片付けと遺品整理をして、トラックを借りて来た父と合流してからは仏壇を自宅に運び入れた。男手が2人いれば十分でしょうと言う母のお言葉により、働き盛りの40代と男子高校生は、引っ越し業者の如く食器やら衣類やら本やらの入ったダンボールを夜になるまで延々と運び続けたのである。

 簡単な夕飯を済ませてからお風呂で温まるともう動けない。明日はまた片付けの続きだ、どうしても忌引きの最中に終わらせようと母はやる気だ。

 本当は、自室に戻ってから色々考えようと思っていたけれど、読人が実感している以上に身体が疲れていた。体育の時間ぐらいしか運動をしないインドアの帰宅部の身なのに、普段使わない筋肉を酷使してしまったのである。

 あ、駄目だ、気を抜くと睡魔が団体様で襲って来る。

 

「もう、寝よう」

 

 最後の力を振り絞って……のような動きで、ベッドサイドにある部屋の電灯のリモコンに手を伸ばして部屋の灯りを消した。そして、一瞬で夢の世界へ旅立った。

 

「zzz……」

『……幸せそうな顔をして、眠っているな』

 

 緊張感が微塵も感じられない顔で眠っている読人を、いつの間にか姿を現していた火鼠の衣が覗き込んでいる。

 祖父である蔵人には似ず、母――ひいては、蔵人の妻である祖母に似た容貌は童顔気味で幼く、伸びるのが早くてそれなりの長さになってしまった前髪がそれを際立たせていた。

 火鼠の衣による読人の観察が粗方終了すると、20cmほどのぬいぐるみサイズだった炎のハリネズミはベッドから下りて、ヒグマほどのサイズになってからその短い手で読人の身体に毛布を掛けた。いくら床暖房で室内が温かいと言っても、真冬の夜にベッドに倒れ込んで毛布も何も掛けないと風邪をひいてしまう。

 読人が寝返りを打って顔を毛布の中に入れたのを見計らい、今度は40cmほどに大きさになった火鼠の衣はもぞもぞとベッドをよじ登り、毛布の中に潜り込む。良い湯たんぽになるだろう。

 色々あり過ぎて悩みや疲れが飽和状態になっている読人はその日、随分と温かく快適に眠りに着いた。

 そして、また、夢を視た――

 

 

 

***

 

 

 

 これは夢だ!と、読人が断言した理由は、昼間の感覚と同じだったからである。

 お風呂から出てそそのまま深い眠りに落ちてしまった事は覚えている。身体や頭は眠っているはずなのに、耳にはパラパラと本のページを捲るような乾いた音が聞こえて来て、意識がふわふわと浮上して、視点は自分の意に反して動く。

 二度目ならばはっきり分かる。この不思議な感覚は、朝に気を失ってから『若紫堂』で目を覚ますまでの間に経験したのと全く同じだ。

 今朝の夢の舞台は空港(暫定)だった。否、空港で間違いないだろう。

 1人の青年がイギリスへの入国審査を受けている場面までは覚えている。黒文字蔵人――祖父と同じ名前のパスポートを持った、あの青年の姿も。

 次の舞台は、暗闇の町だった。石畳の道を橙色の光を灯すガス灯がぼんやりと照らし、空に浮かんでいるはずの月は鉛色の分厚い雲の向こうに隠れてしまっている。町の全体は灰色の霧に閉ざされ視界が悪く、これで触覚がきちんと機能しているならば水分が肌に纏わり付きそうな気配だ。

 ここはどこだろうかと、周りを見渡す余裕は読人にはなかった。目の前の景色は、物語は止まる事なく進んで流れて行く……霧の向こうには白い【本】を手にした男と、その男と距離を取って腕を組む帽子を被った女性がいたのだ。

 

「こんばんは、お嬢さん。霧の都・ロンドンへ。観光ですか?」

「……」

「ウエストミンスターが見える良いパブを知っていますよ。ご一緒にいかがですか?」

「……」

「おや、言葉が通じない? そんな事はないですよね。【本】を持つ【読み手】同士なら、言語を越えて意思疎通が可能だ。当然、【読み手】であるお嬢さんも」

 

 あ、そうだったんだ。外套の男の説明を聞いた読人は、素直に納得してしまった。

 通りで、出身はパリと言っていたリオンが流暢な日本語を話していた訳である。きっとあれ、【読み手】以外にはフランス語で聞こえていたんだな、もしくは英語。

 きっとあの時点で、読人は【読み手】として覚醒のしかけていたのだろう。だから、言葉が通じたのだ。

 思いがけないところで【本】の秘密を知ってしまったのだが、男がゆったりとした外套から白い【本】を取り出しても女性は一言も言葉を発しなかった。

 外套の男は明らかにヨーロッパの者だ。ギリシア彫刻のように堀の深い顔立ちで日本人とは艶が違う茶色がかった髪に、闇夜でもはっきりと解る青い目をしている。

 対して女性の方は、ほっそりと小柄でふんわりとパーマがかかった黒髪……明らかに、アジア系だ。紫色のリボンが付いた白いボーラーハットを深く被っているため顔は解らないが、生成色のワンピースと紺色のジャケットも肩にかけたバッグも、何だか一昔前の流行のように思える。

 

「戦いませんか? お互いの紋章をかけて」

「最初から、そうおっしゃって下さいませんか? 私は観光ではなく、戦うためにこのロンドンへやって来たのですから」

 

 氷と冷水が硝子のコップを鳴らすような、凛とした涼しい声が赤いルージュを差した薄い唇から零れ落ちる。

 ハンドバッグの中から出て来た白い【本】のタイトルは『源氏物語』。対して、男の【本】には『金の斧・銀の斧』。二冊の【本】の裏表紙には、それぞれの物語の紋章が刻まれて、闇夜に浮かぶ淡い光を湛えていた。

 

「名乗りましょう。我が名はナルキッソス・ミューズ。ギリシアがクレタ出身です。【本】のタイトルは『金の斧・銀の斧』」

「ご丁寧に、どうもありがとうございます。お初にお目にかかりますわ、日本から参りました、『源氏物語』が【読み手】……琴原(コトハラ)紫乃(シノ)と申します」

 

 どうぞ、お見知りおきを。

 光を讃える二冊の【本】。その裏表紙にはそれぞれの物語を象徴する紋章が刻まれ、彼らの言う作法に則り【読み手】の名前と【本】のタイトルが名乗られる。

 女性の名を耳にしてから数秒置いて、読人は「ん?」となった。『源氏物語』の【本】を手にする女性、彼女は今「琴原紫乃」と名乗った。

 ついさっき、同じ名前の人と出会った気がする……名字は違うけど。

 

「お嬢さん、貴女が落としたのはこちらの金の斧ですか? それとも、銀の斧ですか!」

「創造能力・青海波(せいがいは)

 

 ナルキッソスの背後の石畳が湖面のようにゆらりと波紋を描くと、その中からは彼の体躯ほど太く、厳つい手甲を着けた二本の腕が這い出て来る。

 右手にはその腕が持つに相応しい大きさの金の斧、左手も同じく銀の斧。価値のある宝の斧と言うよりは、その大きさで全てを叩き斬る武器が創造されたのだ。

 彼が想像「斧」は、日常で木を切る物ではなく13日の金曜日に活動するあの人のような、武器のイメージに近いかもしれない。

 一方、紫乃は非情に優美であった。

 か細く繊細な笛の音がゆったりとした旋律を奏で、それをBGMとして彼女の両脇に二体の浄瑠璃人形が創造された。全く同じ作りの人形は着ている衣装も全く同じ。雅楽・青海波の楽人が身に着ける装束は青海波と霞の模様が刺繍された下襲を始めとした、正式な衣装と太刀が揃っている。

『源氏物語』の中では、主人公の光源氏とライバルである頭中条の2人がこの舞を披露している。恐らく、そこからこの人形たちが想像し創造されたのだろう。人形とは思えない優美で滑らかな動きで太刀を抜いた青海波は、二本の斧へ斬りかかって行った。

 

「美しいですね。素敵だ!」

「口を包みなさいませ。怪我をしてからでは、遅くってよ」

「失礼。お嬢さんもとても美しかったので、つい。戦いの女神・アテネのように凛々しい剣の輝きのような美しさは、ゼウスも放っておかないでしょう!」

 

 二本の太刀と斧が斬り合う【戦い】が始まり、ボーラーハットの奥に隠れていた紫乃の顔は少しずつ、読人にも認識できるようになっていた。

 確かに、ナルキッソスが言うように美しい女性だった。

 凛とした光を備えた黒く艶のある双眸に、ほっそりとした小鼻と意志の少し釣り上がった柳眉には、ストイックな武家の女のような魅力がある。が、その顔……どこかで見た事あった。と言うか、読人の中でもう答えは出ていた。

 

『まさか……奥島さんんん?!』

 

 声には出さないが、読人の脳内でこの言葉が木霊した。

 同じ「紫乃」と言う名前。眉の形も同じであり、年齢が異なっていてもその凛とした空気と双眸に宿った光が全く同じ。そして、紫乃は読人にこう言った。「『源氏物語』の【本】と共に【戦い】に参加していた」と。

 つまり、目の前の彼女・琴原紫乃と『若紫堂』の店主・奥島紫乃は同一人物ということになる。名字が違うのは、結婚でも何でもすれば名字ぐらい変わるだろう。

 したがって、今読人が視ている夢――これは50年前、前回の【戦い】の記憶なのではないだろうか?

 読人の記憶にある紫乃が蔵人と同年代だとすれば、推定70代。対して、御簾と和歌の紋章が刻まれる『源氏物語』の【本】を手にする紫乃は推定20代……間違いない、これは過去の【戦い】の記憶だ。

 何故、夢の中で過去の記憶を視ているのかその理由は解らないが、読人が夢の中で色々と思考している中で目の前の【戦い】に変化が現れた。

 青海波の人形たちがそれぞれ、金の斧と銀の斧と刃を斬り交わしてした。しかし突如、金の斧一本で二振りの太刀を受け止めると、銀の斧は青海波の頭上、夜の空間を薙いだのである。

 それと同時にブチブチと髪の毛が引き千切られるような音がして、紫乃の表情が一瞬強張ったのだ。

 

「やはり、人形は貴女が操っていたのですね。マリオネットのように」

「っ! ご名答。しかし、全て私が操っている訳ではありません。青海波!」

 

 青海波は、多少の簡単な動きは自分たちで行えるようだ。だけど、細かい部分では融通が利かないらしく、目視し難い糸を伸ばして紫乃自身が青海波たちを操っていたのである。彼女の細い指先には銀の斧が絶ち切った糸が五本伸びている。

 紫乃の声に反応した青海波たちは、右手と左手それぞれに太刀を手にして鏡に映った己のように、寸分狂いのないシンクロした動きで【読み手】本人を狙った。

 

「『私が落としたのは、使い古してボロボロの鉄の斧です』!」

「っ!」

 

【本】が閉じられれば、物語が終結すれば現実に起きた事は全て()()()()()()になる……ただし、人間や生物の死を除く。

 なので、ある程度は容赦なく【読み手】本人を攻撃できた紫乃だったが、ナルキッソスもそう簡単に脱落する【読み手】ではなかった。

『金の斧・銀の斧』に登場する正直者の木こりのように、自分が落とした鉄の斧だと正直に申告すると背後にある石畳の湖面から鉄の斧が飛び出て来る。金の斧・銀の斧と同じ大きさのそれが回転しながら青海波たちの前に現れると、左右同じタイミングで振りかかって来た太刀を受け止め金属同士が衝突する甲高い音がした。

 鉄の斧は他の二本に比べれば刃がボロボロで切れ味が悪そうだが、実用性重視の分厚い鉄鋼で作られたそれは頑丈で二振りの太刀を受けてもびくともせず、青海波の攻撃を感知してはその刃を受け止める。

 あの鉄の斧は、自動防御装置のような物だろう。正直に自分の斧を申告すれば、女神の加護が宿った如く守ってくれるのである。

 

「ヘパイストスとアテネの加護は、私にあり!」

「っ! 出し惜しみは、できませんね!」

「……スイマセーン。トラファルガー・スクウェアにはどうやって行けば良いのでしょうか?」

 

【戦い】の舞台において、こんなにも脱力感に苛まれる気の抜けた言葉はないだろう。

 斧と太刀が斬り合うその間から顔を出した黒文字蔵人は、実に場違いなその台詞を2人に向けて言い放ったのである。

 読人の視点では、押しつ押されつの衝突を続けて刃を合わせる斧と太刀の間から、彼がひょっこりと顔を出したようにも見えた。

 彼――仕立ての良いスリーピースのスーツを着て、同じ生地の帽子を被ったこの青年は、空港で入国審査を受けていた彼だ。「黒文字蔵人」のパスポートを持ち、困ったように左手を首に添えた彼である。

 この夢が50年前の【戦い】の記憶であるならば、彼は読人の祖父で間違いないだろう。50年前の、青年時代の蔵人だ。

 場の空気を読まずにニコニコと微笑みを浮かべて道を尋ねている、この場違いな男は。

 

「……あれ? 私の英語、通じないかな?」

「アジア人?」

「あ、貴方……何ですか、一体?!」

「日本から参りました。昨日から色々と観光をしていて、今日はトラファルガー・スクウェアを訪れようとしたんですけど……道中の美しい街並みに夢中になっていたら、この時間まで迷子になってしまったんです。今もしっかり迷子です」

「そうじゃなくて!」

 

 あ、間違いない、彼は祖父だ。

 生前の蔵人は、自分の好きな事に夢中になると周りが見えなくなる事が多々あった。それは、目的地に向かう道中でも同じこと。

 ついでに方向音痴の気もあるので、慣れない土地を訪れると徘徊老人のように迷子になってしまうから、おじいちゃんと出かける時には気を付けなさいと母に言われたことが多々あった。

 確定した。年齢は違うが、中身がどう見ても蔵人だ。

 

「あの男、言葉が通じている。新たな【読み手】か!」

「っ、本当だ」

「あ、道を教えて下さるなら【戦い】が終わってからでよろしいので、どうぞ続きを」

 

 そんな事言われたって直ぐには再開できないよ、気持ち的な面で。

 蔵人は英語で尋ねたらしいが、ナルキッソスにも紫乃にも英語ではなくしっかりと母国語で彼の言葉が伝わっていた。【読み手】同士なら、言語を越えて意思疎通が可能……つまり、彼もまた【読み手】である。

 

「そこの貴方。私とお嬢さんの時間を、邪魔しないで頂きたい!」

「?」

「彼女から紋章を授けられたら、直ぐに相手をして差し上げます! なので、しばし大人しく!」

「っ、もーう!!」

 

 動きを止めてしばしの静寂を保っていた二本の斧が動き出す。目標は蔵人……そりゃ当たり前だ、これ以上現状をかき回して欲しくはないので、邪魔者には大人しくして頂きたい。

 女性は好きだが男には情けも容赦もかけないのだろう、このナルキッソス・ミューズと言う男は。

 蔵人の邪魔をされてしまった紫乃であるが、彼女はその様子を静観できるほど、ナルキッソスの意識が蔵人に向かっている隙に攻撃できるほど下種で薄情な性格ではないようだ。

 腕を動かして再び青海波たちに糸をくっつけると、鉄の斧から離れた二体の人形が蔵人の前に移動した。しかし、あまりにも突然だったために青海波たちの踏ん張りが利かず、そのまま斧に薙ぎ払われてしまう。

 だけど、彼らが身を挺してくれたので若干の時間が……紫乃が蔵人に駆け寄って彼の襟首を掴み、庇って石畳の上に転がる時間は取れたのだ。

 斧の直撃を避けた2人だったが、石畳の上をごろごろと転がるのは非常に痛い。咄嗟に蔵人が紫乃を庇い、自分が下になるように倒れ込んで彼女を抱き留めたが、現状ではあまり色っぽい空気にはならなかった。

 

「貴方、本当に何なんですか!」

「迷子の【読み手】です」

「じゃなくて!」

 

 こいつ、ぶん殴ってやろうか。

 苛立って柳眉を更に釣り上げる紫乃はきっと、そんなことを考えている。飄々、ぬらりくらりとした答えしか返って来ない蔵人に、彼女の堪忍袋の緒が切れそうだった。

 しかし、今はこいつをぶん殴っている場合ではない。我に返った紫乃が【本】を持ち直して起き上がろうとすると、既に二本の斧が目前に迫って来ているではないか。

 これでは間に合わない。紫乃が一瞬の焦りを見せたが、金の斧も銀の斧も彼女には届かなかった。

 斧で岩を叩いた時のような派手で火花が散りそうな音がして、紫乃の目の前で岩の扉が閉まったのである。

 

「こ、これは……」

「アジア人同士、共闘でもするつもりか!」

「いえ、自己防衛です。だって怖いじゃないですか」

「?」

「斧」

 

 こいつ、ぶん殴ってやろうか。

 淡々と真顔でそう言った蔵人に対し、顔に青筋を浮かべたナルキッソスも紫乃と同じ感想を持った。きっと。

 蔵人は、いつの間にか淡い光を発する白い【本】を手にしていた。タイトルや紋章の姿は、彼の大きな手に覆われていて確認できない。

 彼と紫乃の前で閉じられた岩の扉には、注連縄やらお札やら、宗教観がごちゃ混ぜだけどシャーマニズムっぽい物が色々を付属されている。しかも、前方だけではなく後方も見えないドームのような壁で覆われていると言う、防御に長けた創造能力のようだ。

 ナルキッソスの視界から2人が見えなくなったが、読人には内部の様子が見えていた。まるで神のような視点だ。

 

「何ですか、助太刀でもするつもりですか?」

「いいえ。先程も言いましたが、これは自己防衛です。()()()()()()になるとしても、怪我をするのは痛いじゃないですか。彼は、貴女の相手でしょう。どうぞ、続きを」

 

 蔵人は石畳に転がってしまった中折れ帽子を拾うと、砂埃を払ってから再び自分の頭に乗せる。そして、レディファーストをするような洗練された動きと共に穏やかな微笑みを浮かべ、紫乃へ一礼したのだった。




慇懃無礼と言う名の無礼者:黒文字蔵人


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源氏物語×金の斧・銀の斧【Past】02

 黒文字蔵人は見目麗しい青年だった。勿論、老年になってもハンサムなおじいちゃんだった。

 テレビドラマや映画に出演する俳優よりも、おじいちゃんの方がずっとカッコいい。幼少期の読人は本気でそう感じていた。

 しかもただ顔が良いだけではない。読人は蔵人がだらしない姿をしているところを見た事がなかった。

 いつもパリっとした仕立ての良いスーツを着て背筋を伸ばし、口調も丁寧で娘である栞にさえも敬語を使っていたほど。読人が小学生の頃、仕事が忙しかった両親に代わって蔵人が授業参観に来てくれた時も、クラスメイトや先生、保護者からも「カッコいいおじいちゃん」と言われて誇らしかったのを今でも覚えている。

 しかしご存じの通り、孫は祖父の顔は受け継がなかった。中学校の時、どうして祖父に似なかったのかと、祖父にそっくりだった亡き伯父の遺影を穴が開くほど恨めしい視線を送った頃もあった。

 あの頃は、思春期故に色々あったのです。

 蔵人はそんな、孫である読人から見ても現代の「イケメン」に分類される美形だ。

 日本人にしては色素が薄く、サラサラの流れる髪の下に隠れている垂れ目がちの双眸のみならず、顔のパーツが見事に左右対称に揃っており、その顔で優しく微笑まれれば初心な乙女ならば思わず赤面してしまうだろう。

 が、彼にそんな微笑みを向けられた紫乃は頬を紅潮させなかったし、ドキっと心臓がときめいたりもしなかった。

 むしろ彼の胡散臭さが倍増した。いくら美形でも、その直前の言動に問題があれば許されることも許されないのである。

 だけど、今は彼に構っている暇はない。今の紫乃は【戦い】の最中なのだ。

 

「“自己防衛”に感謝はします。お陰様で、じっくりと想像する時間ができましたからね」

「おやおや、それは何よりです」

 

 紫乃が『源氏物語』の【本】を開くと、その光は一層強くなっていた。

 斧が岩の扉と壁に振り下される耳障りな音に囲まれていても、彼女の想像力は止まらない……今の自分の最凶の一手を、創造したのだ。

 

「くっ、何て頑丈な岩のドームだ!」

「ドームじゃありませんよ。引き籠るための岩戸です」

「っ!」

 

 蔵人のその言葉で岩戸が開かれたのは、もう自己防衛する必要がなくなり引き籠りを終えた事を意味していた。

 一体何が出て来るのかと身構え、三本の斧を構え直したのだが、岩戸が開かれた瞬間にナルキッソスの嗅覚と第六感が異常を察知したのだ。

 岩戸の奥から漂って来たのは、異常なまでの芥子の匂いだった。しかもその匂いは、背筋に痛いほどの悪寒が突き刺さり、腹がずくりと痛むほどの緊張も連れて来た。

 それは呪いだ……神々が怒り狂って人間に与える天罰ではない、ちっぽけな存在である人間が恨み辛み嫉み妬みその他諸々の負の感情を爆発させて、その魂と引き換えに全てを破滅させるそれが、岩戸の奥から出て来てしまったのである。

 

「な、何だ……! 彼女の【本】の、登場人物か」

「女の愛憎の恐ろしさ、その身に刻みなさい。創造能力・六条御息所――」

 

 恋人であった光源氏の愛に溺れ、我を忘れ、嫉妬と愛憎に狂った美しき女性。彼女は生霊として彼の妻たちを殺害し、死しても尚、光源氏を苦しめる悪霊となった。

 あまりにも深いその恨みは、光源氏に降りかかった不義の結果に満足してコノ世を去ったと言われている……愛情が深く激しかった分、それが転化した憎悪もまた深く、激しく、かつての愛人を苦しめた。

 祈祷に使われる芥子の香を豪華絢爛な十二単に染み込ませ、艶やかな翡翠の黒髪は背の丈を越えるほど長く美しい。

 しかし、知的な魅力あふれたその(かんばせ)は見えなかった。顔からは般若の面が一枚、また一枚と剥がれ落ちているのだが、面が何枚落ちてもその下にまた般若の面が存在して素顔が見えない。落ちた般若は黒い雫となって地面に涙痕を作り、泣き止む気配もない。

 十二単に咲くのは乾いた血のように赤黒い薔薇の花。その薔薇と、単によく調和する何十本もの帯紐が彼女の全身を拘束し、解き放たれないように封印を施しているようにも見える

 。紫乃の背丈の倍はある六条御息所の怨念が、彼女の想像力で創造された姿だった。

 

『ア……ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙!!』

「……!!」

「……これは」

 

 心臓に刃を突き立てられ、脳を直接揺さぶられそうな甲高い叫びは、本来ならば飛び起きるほどの悪夢であった。

 あ、彼女の勝ちだ……自身の【本】を懐へしまった蔵人の表情は、既に六条御息所に呑まれているナルキッソスを見てそう感じているように見えた。

 ナルキッソスの表情が語るのは、恐怖と美しい悪霊への畏敬だ。怪しくとも美しいその姿と、憐憫を抱く感情も湧かない恐ろしさを併せ持つ彼女の存在に、完全に心を捕らわれている。

 相手が想像し創造した世界観に感動し、恐怖し、微笑し、畏怖を抱いた時点でもう、逃れられない。

 金の斧と銀の斧は戦意を喪失してしまい、ただ腕に握られたまま。鉄の斧は【読み手】の危機を察知して盾となり前に出て来たが、三本の斧は六条御息所が伸ばした帯紐が這い伸びる。細い腕と指が人間の首をじわじわと絞めるように、あまりにも静かに、帯紐は三本の斧に薔薇が咲いたようなヒビを入れながら縊り壊したのだ。

 金と銀と鉄の欠片が、ガラガラと崩れ落ちたのである。

 ナルキッソスの腰が砕けて石畳に尻餅を着き、身体は冷や汗だらけだ。しかも、大切な【本】まで落としてしまっていた。ページが開かれたままの『金の斧・銀の斧』の【本】は、紫乃の手の中にあったのだ。

 

「……参った。降参だ」

「随分、素直に敗北を認めるのですね」

「お嬢さん……シノ、貴女のような女性に引導を渡されるなら、早々と脱落しても悪くはない。貴女はアテネではなく、エリーニュスだったようだ」

「復讐の女神なんて、失礼ですわね……めでたし、めでたし」

 

 紫乃がその言葉と共に『金の斧・銀の斧』を閉じると、三本の斧を手にした女神の紋章が裏表紙から離れて空中に浮かび、光と共に『源氏物語』の【本】の中に吸い込まれた。これで【本】は不思議な能力を失う。『金の斧・銀の斧』は、ただの美しい装丁の本に戻ったのだ。

 

「どうもありがとうございました」

「ああ……お手は結構。これ以上、シノの前で醜態を曝せられない」

 

『金の斧・銀の斧』をナルキッソスへ返し、未だに石畳へ座り込んでいる彼へ手を伸ばせばやんわりと拒絶されてしまった。自分の力でゆっくりと立ち上がり、紫乃へ向かって紳士的に一礼すると晴れる気配を見せない霧の向こうへ、消えてしまった。

 

「……」

「……」

「何で、先程よりも後退しているのですか?」

「いやぁ、見事な方を創造したと思いまして……」

 

 ちょっと距離を取った蔵人が、苦笑いをしながら左手を首に添えていた。目は口ほどの物を言うとあるが、彼の目は確かにこう語っている……「よくまあ、あんなのを想像して創造できたね」、と。

 そりゃ、日本文学の中でも悪名高いあのお方を見ちゃったらこう思っちゃうだろう。超恐かった。

 

「貴方も、【戦い】のためにこのロンドンへ?」

「はい。『竹取物語』はこのイギリスの地にあると聞きましたので。それに、この国をこの目で見たかったので」

「理由は?」

「?」

「貴方が【戦い】に参加する理由は? まさか、不老不死になりたいなんて……本気で思っていないでしょうね」

 

 ボーラーハットの下から覗かれる紫乃の瞳に、射殺さんばかりの鋭い殺気が籠っていた。

 彼女がロンドンの地に来たのは、【戦い】の優勝賞品である『竹取物語』の【本】、ひいては不老不死の薬を愚者に渡さないためだ。自分自身が『源氏物語』の【本】と共に最後の1人に残り、『竹取物語』ごと封印すれば今回の【戦い】で不老不死になる者は現れない。

 そして、不老不死に目が眩んだ者を事前に止めるのもまた、彼女に降りかかった使命だ。回答次第では、この男からも紋章を取り上げられなければならい。

 

「私が【戦い】に参加する理由、ですか……そうですね。強いて言うならば、【戦い】が面白そうだからでしょうか」

「……はぁ?!」

「50年に一度しかない【戦い】でしょう。折角【読み手】となったなら、参加してみるのも悪くないと」

 

 呆れて物も言えないとは、こんな状況を言うのか。紫乃は何も言えなかった。目の前で嬉々として語るこの男が、言葉も常識も何も通じない異星人のように見えたのである。

 こいつ、ぶん殴ってやろうか。本日二度目のその思考も、再び頭の中に浮かんで来た。

 

「あ、申し遅れました。まだ名乗っていませんでしたね。私は黒文字蔵人。某大学で助手をしております。【本】のタイトルは――」

 

 

 

***

 

 

 

「……っ? え?? ええ?」

 

 蔵人が紫乃へ名乗ったタイミングで、読人の夢は覚めた。

 ベッドサイドの目覚まし時計を確認してみると、セットしたアラームが鳴る1分前。あまりにも突然目が覚めてしまい頭も意識も何も理解していない状況だが、彼は無意識に何かを抱き締めていた。

 ポカポカと温かくすやすやと寝息を立てている、40cmほどの大きさの火鼠の衣を抱き枕のように抱き締めて眠っていたのであった。

 

「ひぃぃぃぃ~~!」

『んー……五月蠅い』

 

 本日の黒文字家の朝は、読人の悲鳴と彼の目覚まし時計のアラームの二重奏で迎えられたのだった。

 今日の予定はやっぱり蔵人の家の片付けだ。仏壇は昨日の内に運んでしまったので、残りの細々した日用品を読人の家に運んでまたもや母にコキ使われたのだが、夕方の読人はお風呂に入ってベッドに倒れ込まず『若紫堂』に来ていた。

 あの『竹取物語』の【本】を手にして。

 

「いらっしゃい。お前さん、決めたのかい?」

「はい」

「なら、奥に来なさい」

 

 店に入ると、紫乃がレジカウンターに座っていた。

 改めて見ると、確かに彼女は読人の夢に出て来た「琴原紫乃」と同一人物だと分かる。寄る年波に揉まれても、弧を描く柳眉や瞳の凛々しさは若い頃も美人であったと教えてくれるのだ。

 紫乃がお店の入口に『休憩中』の札を下げてから、奥の茶の間へと導かれる。差し出された座布団に正座をして、その前に『竹取物語』を置いた。

 

「奥島さん。奥島さんの旧姓って、「琴原」ですか?」

「……蔵人さんから聞いたのかい?」

「いいえ……夢で、視ました。50年前のロンドンで、奥島さんと祖父が出会ったその時の」

「っ!?」

 

 読人は紫乃に全て話した。昨夜の夢の中で、50年前の【戦い】の記憶を視たこと……若かりし頃の彼女が『源氏物語』の【本】を手にして、『金の斧・銀の斧』の【読み手】と戦った事こと。その最中に、蔵人と出会ったことを。

 正直言うと、夢の記憶は時間が経つにつれて薄れてしまい朝ほど鮮明に覚えていない。紫乃とナルキッソスの【戦い】の具体的な内容も薄れかけているが、登場人物だけは未だにはっきりと覚えている。そして、若い頃の蔵人の姿も。

 

「奥島さん……50年前、祖父がご迷惑おかけして申し訳ありませんでしたー!」

「本当にさ」

 

 2人の【読み手】をイラ付かせた蔵人の言動を、50年経って孫が深々と頭を下げて謝罪したのだった。

 

「今となっちゃ、死ぬ前にもう一発ぐらいぶん殴っておけば良かったと思うよ」

「はあ」

「それで、お前さんは蔵人さんの愚行を謝りに来ただけかい?」

「いいえ、違います。俺……」

 

 昨日の読人は、はっきりした理由が欲しいと言った。生半可な気持ちで生命の危険がある【戦い】に参加するなんて、紫乃にも桐乃にも失礼なのではないかと心のどこかで考えていたのだ。

 だけど夢を視た。50年前の、青年だった頃の蔵人が「面白そうだから」を理由に【戦い】に参加したと言う過去を視て、もっと軽く考えても良いのではないかと思ったのである。

 

「50年前、黒文字蔵人が参加した【戦い】に俺も参加したいんです。俺、おじいちゃんのことが知りたい。おじいちゃんが何を思って、あの1年間を過ごしてこの【本】を手に入れたのかが知りたいんです」

「……蔵人さんが理由なのかい?」

「そんな強い理由じゃありません、けど」

「良いだろう」

「っ!」

「理由なんて、これから先にいくらでも付け足せるんだ」

 

 大切なのは、今日此処に来て身を投じると自分の口からはっきりと告げた意志だ。そう言って、紫乃は読人へ『竹取物語』の【本】を差し出したのである。

 

「良い、んですか?」

「お前さんの【本】だ。手放すんじゃないよ」

「っ、はい!」

 

 その大きくはっきりした返事と共に、白い【本】を逃がさないようにしっかりと抱きしめた。長い前髪の下にある双眸に、喜びと決意の光を宿しながら。

 

「それじゃあお前さん、親御さんにバイトの了承を取ってきな。うちが人手不足とか、色々理由を付けて」

「バイト、ですか?」

「桐乃と同じさ。バイト兼弟子……私は厳しいよ、読人」

「っ! ありがとうございます!」

 

 桐乃が言った事は確かだった。紫乃は「言い方はちょっとキツいけど、基本的には優しい人」。年齢を感じさせない凛々しい眼差しの中に、蔵人が読人に向けた視線と同じ愛しい孫を慈しむ感情が込められている。

 読人は再び、今度は謝るためではなく喜びを全身で表すために、紫乃へ深く深く頭を下げたのだった。

 

「それじゃあ、これから読人君が弟弟子って事になりますね」

「あんたも色々と鍛えてやりな。あの子は幸いにも、蔵人さんには似ていない……顔も性格も。素直な良い子だ」

 

 読人が帰った後に出勤した桐乃は、エプロンを着けて右手にハタキを持って本棚の埃を払いながら弟子入り兼バイトの話を説明された。

 働き手が増えるのはありがたい。『若紫堂』は店主である紫乃が1人で経営しており、従業員もバイトの桐乃だけで実際に人手不足だ。重い本を扱う機会も多いので男手があると助かる。

 

「確かに、素直そうな子でしたよね。と言うか、蔵人さんってそんなに性格に難ありだったんですか?」

「大ありだよ。いつも無自覚に慇懃無礼で、周りのことよりも自分の興味と好奇心で生きているような男だったさ。結婚すると聞いた時は耳を疑ったよ、嫁が可哀そうとも感じたさ」

『それって、自分に素直ってことにはならないのかな?』

「本当に、あんな能天気は絶対に100歳まで生きると思っていたのに……たった50年で、アッサリと逝っちまうなんて」

「……」

 

 50年分の愚痴を零しているが、紫乃が蔵人の事を本気で嫌いな訳ではなかったのは桐乃にも分かっている。でなければ、前回の【戦い】から50年経った今でも交流を持たないし、年賀状のやり取りもしないはずだから。

 今年も1月1日にお互いの年賀状がポストに届けられた。

 蔵人からの年賀状には、シンプルな干支のイラストと「謹賀新年」の文字に、蔵人の自筆で一筆書かれていた。紫乃は随分と達筆に書かれたそれを、レジカウンターの引き出しに入れたレターファイルから年賀状を取り出して眺めてみるが、その一筆は彼女に少しの謎を遺していたのだ。

 

 

 

 私は読人に託しました。

 どうか、あの子を導いてやってください。

 

 

 

「……あの子に、何を託したって言うんだい。蔵人――」

 

 

 

***

 

 

 

 イギリスの春の訪れは日本より遅く、3月になってもまだまだ肌寒い日が続くらしい。

 もう一枚ぐらい厚着をしておけば良かったかなと、中折れ帽子をテーブルに置いた青年はウエイトレスに運ばれて来たばかりの紅茶に手を伸ばす。折角イギリスに来たのだからアフタヌーンティーを体験しようと、自分の勘を頼りに目に付いた店に飛び込んでみたが、この紅茶の香りは当たりだ。

 

「……黒文字蔵人」

「おや、こんにちは紫乃さん。紫乃さんも、アフタヌーンティーですか?」

「いいえ、貴方を捜していました。何なんですか貴方? 面白そうだからって理由で、不老不死の薬をかけたこの【戦い】に身を投じるなんて!」

「?」

 

 あの日、霧の濃い夜の裏道で出会った時、名乗りついでに「自分は不老不死には興味ないです」と蔵人は宣言していたが、紫乃はそれがお気に召さなかったらしい。どこまでもフザケタ男、とでも映ったのだろう。

【戦い】の本質を軽く見て、好奇心でイギリス・ロンドンにまでやって来た愉悦者にまだまだ文句が言い足りないのだ。

 

「私、結構真面目に【戦い】に参加しているつもりですけど」

「はあ……もう良いです、きっと貴方とは根本的に解り合えないようですね。いつか、貴方とも戦う日が来るでしょう。それでは、失礼しました」

「待って下さい、紫乃さん」

「何ですか?」

「一緒にお茶でもどうですか?」

 

 アフタヌーンティー、1人じゃとても食べきれないんです。そう言って蔵人が指差したのは、タイミング良くテーブルに運ばれて来たケーキスタンドだった。

 下から、サーモンとキュウリのサンドイッチ。正方形に切られたチョコレートと生クリームのケーキ。まだ湯気が立つ熱々のスコーンとクッキー。クロデットクリームのお供はブルーベリーのジャム。確かに、1人で楽しむにしてはちょっとと量が多い。

「勿論、ご馳走します」……ちょっと困ったような笑顔で首に左手を沿えた蔵人に対し、紫乃は観念したかのよう再び溜息を一つ吐いた。

 帽子を脱いで蔵人が恭しく引いた椅子に彼女腰を下ろすと、彼は紅茶を注文もしてくれた。蔵人が飲んでいる物と同じ、ダージリンのファーストフラッシュである。

 黒文字蔵人と琴原紫乃。

 この時の紫乃は、まさかこの男との関係が50年も続く事になるとは思っていなかったのであった。




Name:黒文字蔵人(クロモジクロウド)
Age:27歳/享年77歳
Height:177cm
Work:某大学助手/大学教授
Book:『???』

Name:奥島紫乃(オクシマシノ)旧姓:琴原
Age:22歳/72歳
Height:152cm→148cm
Work:古書店『若紫堂』店主
Book:『源氏物語


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一休さん01

 都立暦野北高等学校1年C組。ついでに出席番号5番。これが、読人の社会的地位である。

 彼が暮らすこよみ野市内にある、名前の通り北側に位置するその学校は大正時代に女学校として開校された100年以上の歴史を持つ伝統校である。市内では一番の進学校でもあり、文武両道を目指してスポーツ等の部活動も盛ん……と言われているが、偏差値自体は中途半端な高校だ。

 大学進学率も市内では一番高いのは事実であるが、もっと上を目指したい優秀な生徒は迷わず23区内の有名校へ進学できる立地にあるため、そちらに志望者を取られているらしい。実際、年々生徒数が減っている。

 そんな高校の生徒である読人は、冬休み+忌引きと言う長めの休みを終えて久し振りに登校した。その日の放課後は図書室で友達から借りたノートを写し、始業式の日に行われた確認テスト代わりのプリント補習を行う陰で、授業では使わない真新しいノートを開いている。

 そのノートの中身は絶対に他の人には見せられない。

 もし見られたら、若気の至りの痛い妄想にでも思われるだろう……そこには、彼の師匠となった紫乃から教えられた、50年に一度の【戦い】と【本】の詳しい説明がメモされていたからだ。

 

『50年に一度、1年に渡って行われる【本】を手にした100人の【読み手】同士の【戦い】。最後に残った1人には、かぐや姫から不老不死の薬が与えられる……』

 

 無意識に、椅子にかけているリュックの中の『竹取物語』に手が伸びた。

【戦い】の起源ははっきりとは解らないが、少なくともこの【本】が最初の一冊ではないかと紫乃は言っていた。『竹取物語』の【本】があるからこそ、何世紀にも渡って不老不死を巡った1年が繰り返されて来たのだ。

 紫乃から教えてもらった、【本】にまつわる能力とこの【戦い】についてを几帳面にノートに整理する。ノートを取るのは好きだ。綺麗に読みやすく記す事ができたら、何だか頭の中もすっきりと整理されたように感じる。

 

 

 白い【本】に関する、【読み手】たちの【戦い】について

【本】:

・想像力を創造力へと変換する能力を持つ書籍の総称。外観は、白と金の装丁の立派な本

・全世界に千冊以上存在していて今でも増え続けている。誰が作ったのか、どこからやって来るのかも不明

・50年に一度、百冊の【本】に不思議な能力が宿り【読み手】を選ぶ

(その1年以外はちょっと不思議なだけの書籍。百冊の【本】は毎回ランダムに選出される)

・【読み手】と出会って能力が覚醒すると、裏表紙に物語を現した黒い紋章が現れる →紋章については後述

・【本】の物語は古い文学や各国のおとぎ話、童話が多い 例)『源氏物語』『ピノッキオの冒険』

・【本】自体の特徴…濡れない、破けない、燃えない、汚れない

(実際にやってみたが、湯船に沈めても濡れなかった)

 ※『竹取物語』だけは色々と特殊なので別物と考えた方がいい。

 

【読み手】:

・百冊の【本】に選ばれる100人の人間、【本】の能力で想像力を創造力に変える

 →その能力は大きく四つに分けられる

①創造能力

【本】の物語からインスピレーションを受けて、様々なものを創造する。

創造できるもの:主人公以外の登場人物、物語中の現象・アイテム等

 →広くカバーされている基本の能力。火鼠君もこの能力。

 

②武装能力

物語から想像して創造した武器を装備する。想像次第で【読み手】以外の人間も扱える

例えば……「絶対に折れない剣」も創造できる。しかし【読み手】の想像力次第なので、想像力が貧困だと十分に能力を発揮できない。師匠曰く、自分にしか扱えない武器等を創造した方が効率が良い。

 

③展開能力

【本】の物語の世界を現実に展開する。(結界のようなもの)

 →これも想像力次第でかなりの広範囲に展開する事ができる

 例)『ピノッキオの冒険』→化け物鮫の棲む嵐の海、『桃太郎』→鬼ヶ島

 

④召喚能力

物語の主人公を召喚する。初期の段階では難しい。

主人公は創造能力で創造した登場人物とは違い、はっきりとした自我を持っているためそう簡単には命令に従ってくれない

 ※【本】の物語に特別な思い入れがあったりすれば、かなりの初期から召喚できる

 →リオンは『長靴を履いた猫』に特別な思い入れがあったのかもしれない

物語を読み込んで経験を積めば、秋ぐらいには使えるようになる……かもしれない by師匠

 

他、【読み手】は異国語同士でも言葉が通じる 【本】=翻訳機?

 

【戦い】:

・【読み手】同士が【本】の能力を使って戦う事をこう表現する

・【戦い】が終わると、その間にあった事は()()()()()()になる 例)建物の崩壊、怪我

ただし、生物の生死と小規模な損害は()()()()()()()にならない!

 →コートのフードぐらいの被害はしっかりと残る

・100人の中から残った1人には、『竹取物語』のかぐや姫から不老不死の薬が与えられる

 

 

 ここまで再確認した読人は、「不老不死の薬」の部分に黄色い蛍光ペンで線を引いた。

 ノートにも書かれているが、読人が持つ『竹取物語』の【本】だけは色々と特殊であると師匠――紫乃が言っていた。

 なので、④の召喚能力は使えないと考えた方が良いらしい。その代わりなのかどうかは解らないが、火鼠の衣のように創造能力で創造されたものがしっかりとした自我と今までの【戦い】に関する記憶を持っている。

 そして、肝心の【戦い】の勝敗の決め方であるが、相手の【本】を奪って「めでたしめでたし」と言いながら【本】を閉じれば良いだけだ。

 紫乃は言っていた、【読み手】同士の【戦い】はお互いの想像力のぶつけ合いであり、紋章の取り合いであると。「めでたしめでたし」と言いながら相手の【本】を閉じると、【本】は不思議な能力を失い紋章が自分の【本】へと移動する。白い裏表紙から紋章が消えた時点で、100人の中から脱落と言う事になるそうだ。

 そして、消えた紋章は勝ち残った【読み手】の【本】にストックされる。

 既に一つの紋章を持っていると言う桐乃の『ピノッキオの冒険』を見せてもらったら、裏表紙を開いたページに紋章が刻まれていた。金棒を振り上げる鬼の紋章は、年始に彼女が戦った『酒呑童子』の【本】の紋章だ。

 紋章の取り合いに何か意味があるのかと尋ねてみたら、紋章は【本】のエネルギー源と考えられていると紫乃は語った。

 紋章を集めれば集めるほど【本】にエネルギーが蓄積され、【本】そのものが強化される。桐乃に言わせてみれば、紋章はゲームで言うところの経験値で、それを集めれば【本】その物がレベルアップすると考えれば良いらしい……現代っ子には解りやすい説明である。

 つまり、【読み手】として強くなるには二通りの方法がある。

【戦い】に勝利して紋章を集め、【本】その物をレベルアップする方法。もう一つは、物語を読み込んで想像力を培い、【読み手】自身を研鑽する方法だ。

 読人はリュックの中から『竹取物語』を取り出した。決して汚れる事のない白の中に、達筆な筆文字が書かれたタイトルが堂々と鎮座している。

 日本文学、海外文学に関わらず右綴じの右開きで中身は現代語訳の明朝体。しかもふりがなまで振ってあり、【読み手】の母国語に対して言語も変わると言う。裏表紙にはこの【本】の紋章。少しの雲がかかった満月が伊達政宗の家紋のように竹に囲まれているそれを奪われると、読人は脱落だ。【本】その物も奪われ、誰かの手に不老不死が与えられてしまう。

 

「……脱落、したくない」

 

 ならば、強くなるしかない。ノートの写しと補習プリントを手早く片付けて、『竹取物語』を読み込もう。

 再びシャーペンを手に取ってプリントと向き合った読人だったが、顔をあげたその瞬間に本棚の向こうから現れた人影に気付くと……大きく心臓が跳ねた。

 

『っ! 彼女だ……図書委員の』

 

 返却された本を抱えて、一冊一冊丁寧に本棚に返している女子生徒――図書委員の彼女が、読人が気になっている女の子である。

 高校に入学して初めてこの図書館を訪れた時に、貸出しカウンターの向こうにいたその子を一目見た瞬間に顔が真っ赤になった。つまり、図書委員会の彼女に一目惚れしたのだ。

 と言っても、もう三学期に突入したと言うのに未だに名前も知らない。リボンの色から同じ一年生であることは分かるが、同じクラスではないし何組なのかも分からないのだ。

(北高の制服のネクタイ・リボンの色は学年によって違う。1年:深緑、2年:臙脂、2年:藍色)

 よくそれで、9か月近くも片想いしていたな。

 それでも、図書館に通い詰めて顔は覚えてもらったし何気ない挨拶ぐらいはするようにはなったので、進級前に名前だけでも!と彼女の後姿を眺めていたら、本棚への返却を終えた彼女がこちらを振り向いて読人と目が合ってしまったのだ。

 

「っ!!」

「こんにちは、今年に入ってからは初めてだね」

「そ、そうだね。お疲れ様」

 

 今日も話ができた!と、内心ガッツポーズをしているが、何を話せば良いのか分からない。でも、やっぱり顔が赤くなってしまう。

 彼女は特別に可愛い顔立ちと言う訳ではない、どちらかと言うと綺麗系だ。知的な銀縁眼鏡越しでも涼やかな印象を与える目元がはっきりと分かり、スラっと伸びた背筋と少し色素の薄い肩甲骨までのサラサラストレートがよく似合う。

 まさか高校生にもなって一目惚れするとは思っていなかったが、耳まで赤くなる自分はやっぱり、彼女が気になっているんだと実感した。

 

「あの、ずっと気になっていたんだけど」

「え?!」

「前髪、邪魔じゃない?」

「あ、ああ! 前髪、これ、昔から伸びるのが早くて。切ってもすぐこんな風になっちゃうんだよね!」

 

 妙に長くて目元を隠す読人の前髪であるが、故意に伸ばしているのではなく説明通り、彼は前髪が伸びるのが常人より早いのだ。

 後ろ髪は普通に伸びるのに、何故か前髪だけは切ってから1週間も経てば元通りになってしまう。この前髪も、年末に切り過ぎたぐらいまで切ったはずなのに、2週間で目元を隠すぐらい伸びてしまった。

 いくら自分で切っても直ぐ伸びてしまうので、常に前髪が長いのが学校内での読人の姿である。あまりにも伸びるのが早いので、外見に五月蠅い生徒指導の教師までもが諦めた。

 

「じゃあ、ヘアピン使ってみる?」

「ヘアピン?」

「うん、女物で悪いけど」

 

 彼女がブレザーのポケットから取り出したのは、ヘアピンだった。パチンと音がするそれはスリーピンと呼ばれる種類。黄色いちりめん細工の布をアクリルの板に挟んだ三日月が黒いピンについているだけと言う、あまり女の子っぽくないシンプルな作りである。

 彼女からヘアピンと鏡を受け取った読人は、前髪を掻き分けてまとめると左側に流してパチンと止める。確かに随分とスッキリした、ヘアアクセサリーも悪くない。

 

「スッキリした」

「良かったらそのヘアピン、使って」

「え、良いの?」

「うん。そんなに高い物じゃないから。嫌じゃなかったら、だけど」

「い、嫌じゃない。どうもありがとう、大切にするよ」

 

「じゃあね」と手を振ってカウンターに戻る彼女を見送って、ヘアピンを着けている箇所がカっと熱くなる。まだ名前も知らない女の子、気になっている女の子からまさかのプレゼント……!

 本人にしてみれば、パック詰めのヘアゴムを一つあげる感覚と同じかもしれないが、読人の方はよく見えるようになった顔がこれ以上ないほどに紅潮した。

 名前を聞く前にヘアピンをもらってしまった。心の中はガッツポーズどころか、喜びの舞いとしてサンバを激しく踊り狂っていのだった。

 

「ん、おーい読人」

「ん~マサ、部活終わり?」

「ああ、うん……お前どうした?」

「何が?」

「顔、スゲー気持ち悪い」

「ん~?」

 

 いや、顔よりは前髪を止めているヘアピンにも突っ込んだ方が良いかもしれないぞ。そのヘアピンで前髪がスッキリしたため、スゲー気持ち悪いくらい幸福そうな笑顔がはっきりと垂れ流しになっているのだ。

 今までは前髪でよく見えなかったが、読人は感情と表情筋が直結しているので非情に顔に出やすい。校内でそれを知っているのは、小学校からの付き合いである彼・マサぐらいだが。

 柔道部のジャージ姿で片手にはゴミ箱なので、部活が終わった後のゴミ出しの途中なのだろう。マサ――本名は松元(マツモト)正美(マサミ)。図書館を出て職員室へ向かう途中に彼と遭遇した。

 

「えへへへ……」

「嬉しいことがあったんだな。道場の掃除が終わったら、一緒に帰ろうぜ」

「うん。たい焼き食べて行こう。俺も、パインちゃんに補習プリント渡して来る」

 

 下駄箱で待ち合わせの約束をして、正美はゴミを捨てに向かい読人は補習プリントを担任教師((オオトリ)梨香子(リカコ)、30歳独身。担当教科:現国。あだ名:パインちゃん)へ提出しに職員室へ向かった。

 一応、正美の言う「スゲー気持ち悪い顔」になっていないかを確認してから、失礼しますと入室する。

 特に何も言われる事なくスムーズに提出を終えて、下駄箱で正美を待っていたら……また出会えたのだ、図書委員の彼女に。

 向こうは既に靴を履き替えて友人であると思われる小柄な女子生徒と玄関に出ていたが、読人を見付けると小さく手を振ってくれた。図書室にいた時と違い眼鏡はかけていなかったが、それもイイ。そう感じながら、軽く手を振り返した。




「松本」じゃなくて「松元」だし、「正美」だけど女子じゃない。
男子に「美」の字を使った亡き祖母に文句の一つも言いたいのはマサの談である。


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一休さん02

「……お前、竹原と知り合いだったのか?」

「ひぃ!? マ、マサ!」

「そんなに驚くなよ! お前の幸せそうな顔、竹原が原因だったとは……」

「え、タケハラ?」

「さっきお前に手を振っていた女子」

「 知 っ て い る の ? 」

「お、おう」

 

 いつの間にか現れた正美に驚かされた読人だったが、正美は読人の迫力に驚かされた。あまりにも必死な読人に威圧されてしまったのである。

 ま、立ち話もアレだから、続きはたい焼きを食べながらにしようとそのまま2人で下校した。北高生の間でたい焼きと言えば、最寄り駅の前にある『無問鯛(モウマンタイ)』という名前のたい焼き屋である。

 そこの、1月限定白玉小豆たい焼きを購入し店の前に設置されているベンチに座ってたい焼きに齧り付きながら、あの子についての話が再開された。

 

「あいつはB組の竹原(タケハラ)夏月(ナツキ)。剣薙で薙刀やってる。道場で時々顔を合わせるから、名前は知ってんだ」

「ナツキさん、か……薙刀やっているんだ」

 

 彼女は竹原夏月。剣薙、つまり剣道・薙刀サークルに所属している。

 北高には女学校時代の名残で薙刀部と言う部活があったが、長年インターハイ等の大会で結果を出しておらず人数不足と言う事もあり、同じ事情を抱えた剣道部と統合されて合同サークルとして活動している。練習場所が正美の柔道部と同じ道場なので、彼は名前を知っていたのだ。

 何だか凄く似合うと思った。綺麗に伸びた背筋はきっと武術による研鑽の結果だろう。

 思わぬ伝手で彼女――夏月の名前を知った読人は、再び自分の顔が熱くなるのを感じた。1月半ばの寒空の下なのに、耳も頬も熱い。

 

「お前、竹原みたいなのがタイプだったのか。今までこう言う話をしたことなかったな」

「うへへへへ……」

 

 2人で白玉小豆たい焼きを齧ると、もちもちの白玉の歯応えにちょっと苦戦する。

『無問鯛』のたい焼きは、甘さ控えめの小豆を使用した薄皮たい焼きと尻尾のカリカリした生地のバランスが取れていて、何個もペロリと食べる事ができる絶品だ。だが、毎月の限定商品として出すオリジナルたい焼きは当たり外れが大きい。

 今月の白玉小豆は……大粒の小豆を使用した粒餡がホクホクしていて甘さ控えめ、いつも通りの味だ。しかし白玉の部分が硬くて噛み切れない、中途半場な硬度を持つ白玉が粒餡の邪魔をしてしまい、はっきり言って微妙である。「咽喉に餅が詰まりやすい人は注意して下さい」と注意書きをした方が良いだろう。

 

「そうだ、俺バイト始めたんだ」

「へー、どこで?」

「おじいちゃんの知り合いの古書店。古本屋じゃないよ」

「何だか敷居高そうだな……読人」

「ん?」

「思っていた以上に元気そうだな、安心した。てっきり、じいちゃんが亡くなって沈んでいるかと思ったんだぜ」

「……ありがとう、マサ。最初は沈んでいたけど、色々あったんだ」

 

 本当に、色々あった。

 バイトを始めたのも読人の身に起きた変化であるが、それ以上に彼の日常が逃亡のための準備を始めたのが大きな変化だろう。【本】を開けば、日常が非日常になる。

 こんな風に、正美と一緒に他愛もない話でゲラゲラと笑いながらたい焼きを齧る日々も、どこかへ行ってしまうかもしれない。

 

「決めたんだ、この1年を頑張ってみようって」

「……読人?」

「あ、ああ、バイトの話ね」

「おう」

 

 正美には、【本】と【戦い】の事は伏せておこうと思った。彼は柔道部の重量級期待の選手だ、選手生命や部活のことを考えれば、あまり危険には巻き込みたくはない。

 白玉小豆たい焼きを食べ終わると包み紙を丸めて、店の前に設置されているゴミ箱に投げ入れる。

 それじゃあ帰るか、と言うタイミングで読人のコートのポケットに入れていたスマーフォンがメッセージを受信した音を鳴らした。

 

「……ごめん、マサ。バイト先から呼ばれている。行かないと」

「おう、バイト頑張れよ」

「うん、バイト代が入ったら牛丼でも奢るよ。じゃあね」

「また明日」

 

 手を振りながら正美と別れた読人は、彼の姿が見えなくなってから再びスマートフォンを確認する。メッセージを送って来たのは、先日連絡先を交換した桐乃だ。

 

「……『鼓草町で銀行強盗。犯人は虎と一緒に銀行に押し入った』……うわ、普通じゃ考えられないな」

 

 早速、非日常がやって来た。

 

『今すぐ迎えに行く』『駅の東口のロータリーで』

 次いで桐乃から連絡をもらった読人は、駅の中を抜けて『無問鯛』がある駅前とは反対側、東口のロータリーへやって来た。

 タクシー・バス乗り場の横を通って辺りを見回して見ると、向こう側に停まっていたバイクのライダーがコンコンとハンドルを叩いて音を鳴らしている。女性には珍しいあの大型のスポーツバイクは、連絡をくれた桐乃の物だ。

 

「桐乃さん!」

「直ぐに鼓草町へ行くよ……ん? そのヘアピン」

「コレ、ですか? もらったんです」

「良いね。顔が見えてスッキリする。さ、行くよ」

「はい!」

 

 読人にヘルメットを渡してバイクの後ろに乗せると、虎を使った銀行強盗が起きていると言う鼓草町へとバイクを走らせた。

『犯人は虎と一緒に銀行に押し入った』とメッセージにはあったが、犯人グループがタイガーマスクとかを被って押し入ったと言う訳ではないらしい。むしろ、銀行強盗は人間1人で残りは虎……動物園の檻の向こうにいる、本物の虎が銀行を襲ったのだ。

 

「本物の虎、って……どんな【本】の持ち主でしょうね?」

「まだ分からない。だけど、【本】をこんなにも分かりやすく悪用する【読み手】だ。あんまりロクな奴じゃないのは確かだろうね」

「……」

「恐いかい?」

「ちょっとだけ。でも、俺、やります」

 

 桐乃の肩に置いている両手が震えていたとか、声に恐怖が滲み出ていたとか言う訳ではなかったが、一応読人に訊いてみた。本格的に【戦い】に身を投じる事が、【読み手】と戦うことが恐くないのか、と。

 紫乃に弟子入りし、【本】に対する基礎知識を叩き込まれた後に言われたのだ。次に【読み手】が現れたら、それが読人の初陣だと……虎の銀行強盗は十中八九、創造能力で虎を創造した【読み手】による犯行だろう。

 相手の【本】の物語を「めでたしめでたし」で終わらせて、相手の紋章を手に入れろ。それが、師匠から課せられた第一の課題だった。

 桐乃のバイクが自動車の間をすり抜けて件の事件が起きているこのみ野市鼓草町へと到着すると、既にパトカーが銀行の周りを包囲していた。そして、猛獣等が動物園から逃げ出した時に出動する特殊部隊も、スタンバイ済みである。

 

「こんなに人が多い中で【戦い】を始めて大丈夫なんでしょうか?」

「師匠は大丈夫って言っていたけど、確かにこれじゃあ……っ!」

 

 フルフェイスのヘルメットを脱いだ桐乃が全てを言い終わる前に、取り囲まれている銀行の窓ガラスが派手な音を立てて破壊された。

 特殊部隊が突入したのではない、銀行内にいた犯人――巨大な虎が、外に出て来たのだ。ポストカードの写真のように美しい縞模様と虎目石の目を持った雄々しい虎が、都市のど真ん中に現れたのである。

 しかも一頭、二頭ではない。次々と現れた虎はなんと十頭。これは流石に、厳しい訓練を受けた特殊部隊も小さく悲鳴を上げて身体を強張らせる。

 そんな彼らの怖れを目にした虎たちは、低い唸り声と雄叫びを上げて一斉に襲い掛かって来た。

 

「総員退避ーー!」

「っ、桐乃さん、あれ!」

「っ! あいつが【読み手】だ!」

 

 襲い掛かってくる虎たちをシールドで必死に抑えつつも、2mを越える巨大な体躯と牙と爪に人間は歯が立たない。だが、何名かの隊員は手にした獣で虎を狙撃する事に成功した。虎は見事に眉間を撃ち抜かれたのだが、その場には虎の死体は残らず、隊員たちの足元にひらひらと落ちて来たのは穴の開いた虎のポストカードだった。

 そんな乱闘の影で、卑怯にも逃げ出そうとしている者を読人が発見する。

 虎の背に重そうなボストンバッグを何個も乗せ、同じく虎の背に跨ったニット帽の男が銀行から逃亡したのだ。

 間違いない、あいつが銀行強盗であり虎たちを創造した【読み手】だ。

 再びヘルメットを被った桐乃は、バイクを走らせて逃亡する犯人と虎を追う。銀行の前では、十頭いたはずの虎たちは全て狙撃され、ポストカードになっていた。

 

「待て! そこの虎!! お前、白い【本】を持つ【読み手】だな!」

 

 車道を走る二頭の虎に、それらと虎に乗る人間を追うバイク。本当に、普通ではありえない光景である。

 ニット帽の男は桐乃の声に気付いたらしく、一度後ろを振り返るとニヤリと笑った。

 虎たちの進路を変更してバイクもそれを追跡すれば、ビルとビルの間にある月極駐車場に誘い込まれてやる。

 駐車場に辿り着くと虎は姿を消した。札束等がパンパンに詰められているボストンバッグは地面に置かれ、銀行強盗はバイクを降りた桐乃と読人の前にあの白い【本】を見せたのだ。

 

「お前らも、俺と同じ【本】を持つ【読み手】って奴だろう。他の奴らを倒し続ければ、不老不死になれるっていう。良いな~不老不死、なりてぇな~」

「知っているなら話は早い。【戦い】を始めましょうか……この子が」

 

 相手も、てっきり桐乃が相手をすると思ったらしい。背負っていたリュックの中から【本】を取り出した読人を見た瞬間、小馬鹿にするように吹き出してゲラゲラと下品な笑みを浮かべたのだ。

 今回の桐乃は裏方に徹するように紫乃に言われているが、相手が1対1の正々堂々とした勝負をするに値しない人物であった場合は、2人で叩きのめせとも言われている。【本】の能力を悪用して私欲を満たすその姿を見れば、早々と桐乃もこの【戦い】を首に突っ込むことになるだろう……だけど、これはあくまで読人の初陣なのだ。

 

「このガキが? こんなガキが? こいつが??」

「ガキでも関係ないだろう。【読み手】同士の【戦い】は、想像力がものを言う」

「っち、じゃあ、さっさと倒して不老不死になってやろうか!!」

 

 忌々しそうに舌打をした男が持つ【本】を開くと、着ていたダウンジャケットのポケットから数枚のポストカードが取り出される。

 ポストカードの絵柄は虎だ。大きくて立派な、美しい縞模様の虎。ポストカードの虎が【本】の光と呼応するようにぬるぬると動き始めると、本物の虎がはがきサイズのカードの中から飛び出て来たのだ。

【本】のタイトルは『一休さん』……屏風から飛び出て来た、虎だった。

 5枚のポストカードから飛び出て来た五頭の虎を前にして、読人の頭は高速で回転し紫乃に教授された事を必死に思い出しながら自問自答をしていた。

 

問1 どうして相手は、不老不死の事を知っていた?

答→初めて【本】が光って紋章が現れた時に、【本】の最初のページにこの【戦い】の説明が浮き出るからそれを読んだ。(読人は気を失ったため、その説明を読んでいない)

 

問2 どうして相手は、【本】の文章を読まずに創造できたのか?

答→文章の朗読は【読み手】の中のイメージを固定するための予備動作に過ぎない。自身の中で創造したいモノのイメージがはっきりとしているならば、朗読の手間を省ける。

 

問3 相手は朗読なしに創造能力を発動させた、つまり?

答→屏風(ポストカード)の虎が実体化すると言うイメージが確立されている。つまり、それだけ【本】の能力を使用している。

 

 イコール……今回の銀行強盗だけではなく、【本】を悪用して他にも犯罪に手を染めている可能性が高い。

 五頭の虎を前にして、読人が手にした『竹取物語』も光が宿り彼はページを捲った。

 創造のイメージがはっきりしていない内は文章を朗読する動作が、創造能力を発動させるトリガーとなる……読人が想像した「火鼠の衣」を創造するため、声を紡いだ。

 

「『右大臣阿倍御主人様は、火にくべても燃える事のない火鼠の皮衣をお持ちになって下さい』……!」

『よっ、呼んだか?』

「お願いします!」

 

 読人の足元から炎が渦巻き塊として集まると、炎のハリネズミ……火鼠の衣が創造される。

 掌サイズのハリネズミに襲い掛かる五頭の虎を前にして、火鼠の衣はフンと鼻を鳴らした。虎なんて取るに足らない相手であると言わんばかりに、身体を丸めて火の玉と化して虎たちの間を縫うように転がれば、虎たちの自慢の縞模様の毛皮が燃え出したのだ。

 火でできた衣を纏っているかのように明るい赤と橙色の炎が虎たちの身体を包み、虎たちは苦しそうな声を上げる前にポストカードの燃えカスになって駐車場の地面に落ちた。

 

「やっぱり、虎が攻撃されれば元のカードに戻るんだ」

『何だか呆気ないな』

「何だそれはぁ? ゲームか何かのモンスターか?」

「彼は、火鼠の衣君。俺は黒文字読人、【本】のタイトルは『竹取物語』」

「『竹取物語』……って、不老不死のアイテムじゃねぇか! こんなに早く向こうから来てもらえるなんて、ラッキーだな俺は!」

「『一休さん』の【読み手】、読人君が名乗ったんだ。自分も名乗りなさい……【読み手】同士の【戦い】は先ず、名乗るのが礼儀だ」

「はぁ?! 誰に向かって口効いてるんだ、この女……」

「名乗りなさい!」

「……っ、寅井(トライ)満作(マンサク)だ! これで満足かよ!」

 

 桐乃の険しい言葉に気圧されたのか、『竹取物語』を目にして舌なめずりをしていた男は【読み手】の礼儀に従って吐き捨てるように自身の名を口に出す。

 寅井満作、【本】のタイトルは『一休さん』。




『無問鯛』
1月限定:白玉小豆たい焼き(120円+税)
『無問鯛』自慢のホクホク小豆餡の中に、もちもちの白玉が入った白玉ぜんざい風たい焼きです。


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一休さん03

 銀行強盗と言う分りやすい悪事に加担してしまったとなっては、モデルとなった一休禅僧も草場の陰で泣いているかもしれない。てっきり、とんちでも効かせた創造でもするかと思ったが、実際は数に物を言わせて猛獣を実体化させると言う力技だ。

 発想としては面白い。だが、【読み手】本人はとんちの一つでも吟じられる人間には見えない。

 

「読人君、さっきも言ったけれど【読み手】同士の【戦い】は想像力がものを言う。師匠から叩き込まれたことを念頭に入れて、想像力を広げて!」

「はい!」

「遊んでやるよ、ガキが!『このはし、わたるべからず』!!」

「っ!」

 

【本】を手にした【読み手】の頭の中で想像されたモノが創造され、現実に影響を及ぼす。頭の中で勝利への道筋がしっかりと想像できたならば、その道は現実にも拓かれるのだ。

 だけどそれは、相手――寅井も同じ事。【本】のページを捲って物語の場面が切り替わるのと同じく、現実世界の場面も変わろうとしていた。

 白いラインが引かれたコンクリートの地面に木目が現れ、サラサラと水が流れる音も聞こえて来る。続いて擬宝珠の付いた立派な欄干が両サイドから生えて来ると、その場に立派な橋が展開されたのだ。

 横幅5mはあるだろう、緩くアーチになっている橋の両端に寅井と読人が立っていた。

 これは展開能力だ。『一休さん』を知る者ならばお馴染みの場面だろう、端ではなく真ん中を渡った橋だ。『このはしわたるべからず』と書かれた立札も、読人の隣に創造されている。

 

「物語の場面を現実に展開する、これが展開能力」

「これはな、追って来る警察をまくためにちょーっと考えたらできたんだよ。渡ってみろよ、()()を!」

『来るぞ読人!』

「っ!?」

 

 再び、ポストカードがばら撒かれて五頭の虎が実体化する。

 先ずは一頭目の虎が橋の真ん中を渡り、読人に向かって襲い掛かって来た。あまりにも直線的な、真ん中を渡って真っ直ぐ読人に向かって来たので避けるのは簡単だったのだが……左に避けて欄干を背中にしたその瞬間に、足の下でカチっという音がした。

 嫌な予感がした。スイッチか何かを踏んづけたような音がしたその瞬間、橋の端が爆発したのである。

 

「え……っ!!?」

「読人君!」

「ほら、看板の通りだろ。『このはし、わたるべからず』って! 注意書きはちゃんと読めよ」

 

 背景に効果音を付けるとしたら、“ぎゃーっはっはっはっは!”だろう。読人が爆風に飛ばされて転がる姿を見た寅井が、ゲラゲラと笑い転げている音である。

『このはし、わたるべからず』、だから真ん中を歩いて来たというのが物語の中のとんちであるが、この橋の端は本当に危険だから渡るなと言う意味なのだ。

 真ん中以外は全て地雷原。しかし、唯一のセーフティゾーンである真ん中は虎たちが犇めき合い、涎を垂らしながら牙を剥いている。

 そんな虎たちの前に、爆発で吹っ飛んだ読人の身体がゴロゴロと転がって来ると、二頭の虎が一斉に襲い掛かって来たのだ。

 

「っ、火鼠君!」

『はいよ!』

「このガキ! 『屏風の中から、虎を追い出して下さい』!! 出て来い、虎!」

 

 読人が声を張って火鼠の衣を呼ぶと、彼の大きさは読人がイメージした通りの大きさに。虎たちと同じ2mにまで大きくなった。

 再び身体を丸くすれば、今度は大玉転がしで使う大玉ほどの火の玉となって橋の真ん中をゴロゴロと転がって虎たちの毛皮を燃やして行く。

 無駄に飛び散らず、揺らめかず、標的の表皮だけを燃やすかのように身体に張り付く炎は、本当に炎の衣を着ているかのようだ。

 虎たちは次々に橋の真ん中を渡り始めるが、それと同じく火鼠の衣によって次々とポストカードの燃えカスに代わって行く中で、読人は身体を起こして走り出した。

 木目の地面を蹴って橋の真ん中を真っ直ぐに飛び出し、一気に寅井と距離を詰めようとするが、まだまだポストカードの在庫があったようだ。

 寅井はヤケクソ気味にダウンジャケットのポケットに手を突っ込み、残り全てのポストカードをばら撒いて十五頭の虎が実体化した。

 

「大丈夫、大丈夫だ……あの大きさの虎が真ん中しか移動できないなら、大混雑になる!」

『お、良い感じだな読人!』

 

 やっぱりそうだ、自分が考えた事が火鼠の衣にも以心伝心で伝わる……読人が頭の中で想像した流れが、【本】の能力によって『火鼠の衣』として創造されている。だから、声に出して指示を出さずとも火鼠の衣も読人が想像した動きを、1mmの狂いもなく再現してくれているのだ。

 それだけ、読人の想像しているイメージがはっきりしているということだろう。

 彼のイメージはこうだ。

 本物のハリネズミサイズになった火鼠の衣が、橋の真ん中で渋滞を起こしている虎たちの足元をすり抜ける。そして、背中に背負った炎を滾らせて足元から一気に炎上させるのだ。

 

「『偽物の火鼠の衣は、火にくべた瞬間に燃えてしまいました』!」

『ファイヤーー!』

 

 一網打尽とはまさにこのこと。虎たちが混雑を起こしている橋の真ん中はバーベキュー状態だ。

 小さくなっても火鼠の衣の火力は変わらず、橋の上はあっと言う間に火の海に……そして、虎たちが熱さに悶えてポストカードの燃えカスに戻って行くその中を、読人は走った。

 開いたままの自分の【本】はコートの下にしまい、炎上に驚いて次の手に入るのが遅れている寅井めがけて走り出し、橋の真ん中を渡って向こう岸に辿り着いたのだ。

 そして、開いたままの『一休さん』の【本】に手をかけ、そのまま奪い取ろうとしたのである。

 

「っ! 放せ、このガキ!」

「嫌だ! もうポストカードはないんだろ。もう虎を実体化できないはずだ!」

「本当に、そう思うか……!?」

『読人!』

 

 そう、もうポストカードはない……しかし、“虎”がいなくなった訳ではなかった。寅井が着ていたダウンジャケットのファスナーを全て開けると、その下に来ていたアウターは虎がプリントされていたのだ。

 それに気付いた火鼠の衣が飛び出て来るが、タイミングが合わなかった。

 火鼠の衣が飛び込んだその瞬間に虎が実体化し、寅井の胸から飛び出て来た虎は小さなハリネズミを弾き飛ばしたのである。

 しかも着地点は橋の端。小さくなっていた身体は、地雷の爆発によって天高く吹っ飛ばされたのだ。

 

『みぎゃーー?!』

「火鼠くーーん!?」

 

 ハリネズミの体重は500~700g。簡単に爆風に乗るほど軽かった。

 そして、次は読人の危機である。

 アウターのプリントから実体化された虎はポストカードのものたちよりは小さいが、立派な牙も爪もある。その牙で読人の腕に噛み付き、【本】から引き離そうと小柄な身体をぶんぶんと振り回し橋に放り投げた。

 幸いにも真ん中部分に投げ捨てられたのだが、噛み付かれた左腕はじくじくと痛みコートには血が滲んでいる……厚手のコートを着ていなかったらもっと酷い有様だっただろう。季節が冬で良かった。

 

「い、っ……!」

「俺の、勝ちだな。このまま不老不死にならせてもらうぜ」

「……何が、したいの?」

「ああ?」

「不老不死になって、何がしたいの?」

「何って、決まってるだろ。若いまま、ずっと死なねえんだぜ! この金で、永遠に楽しく暮らすんだよ……こんなスゲェチャンス、逃す訳がなえだろ!!」

「……永遠なんて、ないよ」

 

 ゆらりと、左腕を抑えた読人が立ち上がったが腕の痛みを我慢しているのが息は荒く、膝が笑いかけている。だけど、その言葉を寅井に向けた時の視線があまりにも鋭く、冷たく……悲しい色だった。

 ヘアピンで長い前髪を上げた事によって、いつも隠れ気味の読人の顔がしっかりと見えているのだがその表情はつい最近、彼の顔にも宿っていたのだ。その時の、蔵人の葬儀の時に宿ったあまりにも悲しげな視線は、前髪に隠れて誰にも見られてはいなかったが。

 

「暮らせないよ、永遠に、楽しくなんて、暮らせるはずはないんだ。置いて逝く方も、行かれる方も……」

「何言ってんだお前! 訳分かんねえよ!! やれ!!」

「火鼠君!!」

 

 読人自身、頭の中が燃えているような感覚だった。

 腕の痛みを抑えるために脳内ではアドレナリンがドバドバと放出され、火鼠の衣が熾した炎の熱に浮かされる。何が言いたいのか自分でも分からない。思い付いた単語をぶつぶつと呟くしかできないのだ。

 でも、これだけは解る。

 不老不死の人間を、中途半端な覚悟で面白がってその薬を手にする人間を生み出していけないことは、何故か分かっていた。

 痺れを切らした寅井が、虎を嗾けようとした。

 橋の向こう側で傍観していた桐乃も危ないと思ったのか、自身の【本】に手をかけていたがその必要はなかった。

 寅井と虎の頭上に大きな影ができたかと思い上空を見上げた時には、もう遅い……そこにいたのは、火鼠の衣。

 爆風で吹っ飛ばされたハリネズミサイズの火鼠の衣が、今度は軽自動車と同じサイズと質量で盛大で派手で嫌な音を立てて上空から落下して来たのである。

 上から聞こえるのはヒュルルル~と言う、気の抜けるようでそれでいて、結構な重量を持った巨大な物体が落下して来る音だ。しかも重力を味方に付けてしまい、落下の際の破壊力は計り知れないほどにまで成長してしまっている。

 それが落ちて来た。火鼠の衣は大きさを自在に変化できると言っていた、吹っ飛んでいる最中にその中で一番大きな軽自動車サイズへ変化して寅井と虎の頭上に落下して来ると言うイメージが読人の中に浮かび、見事に現実となったのだ。

 

「……中々にエグイ」

 

 一部始終を見届けた桐乃の感想だが、確かにその通りである。

 火鼠の衣が落下したコンクリートは陥没し蜘蛛の巣状のヒビが入ってしまい、オマケに落下した時はボキボキボキっ!と言う音までした。

 例えるならば、棒状のお菓子を袋のまま叩き割るような……そんな音である。一体何の音であるかは、あえて言わない。

 

『おー……どうする読人、死んでないぞ』

「殺さないで!! 十分だから!」

 

 火鼠の衣(軽自動車サイズ)落下によって寅井が潰されてしまい、アウターから飛び出て来た虎は消えてしまう。そして『一休さん』の【本】は落下に巻き込まれた衝撃で【読み手】から離れてしまい、開いたまま放り出されていた。

 

「めでたしめでたし」

 

 そう言いながら『一休さん』の【本】のページを閉じると、白い【本】からは光が失われ裏表紙に刻まれていた紋章が宙に抜け出て来た。虎の描かれた屏風を前にして縄を構える一休がモチーフの紋章、それの行先は読人の本だ。

 紋章が『竹取物語』の【本】の中に吸い込まれ、後ろのページに同じそれが現れた。【読み手】同士の【戦い】で読人が勝利した証……初陣を白星で飾った証明である。

【本】が閉じられれば物語は終わる。創造されたものはただの想像に戻り、()()()()()()となりただの日常へと戻るのだ。

 火鼠の衣が小さくなって寅井の上からぴょんと跳び下りると、蜘蛛の巣状のヒビが入っていたコンクリートは元の状態に戻り、読人の腕の噛み傷から痛みが引いてコートの血も消えて行く。そして、月極駐車場に展開されていた『一休さん』の物語の風景も消え失せ、『このはし、わたるべからず』の看板も消えてしまったのだった。

 

「……チクショウ」

「っ」

「チクショウ……不老不死なんてモン、手に入れられれば……俺のクソみたいな人生、少しはマシになるかと思ったのによう……」

「……」

 

 地面に伏せたまま肩を震わせる寅井は、下敷きになった痛みに震えているのではない……火鼠の衣が落ちて来た際の怪我は、()()()()()()になっているはずだから。

 自分で「クソみたいな人生」と言い切った。彼の人生はどんなものだったのかは色々想像できるが、きっと子供である読人が想像し得ないほどのものだったのかもしれない。

 安易に不老不死を望むような、空想に近い逃げ道に足を踏み入れるような。

 読人は、裏表紙に紋章がなくなった『一休さん』を寅井の前に置いた。もう想像力を創造力に変える能力はない、汚れも燃えも破けもしないちょっと不思議な【本】になっている。

 

「もっと、この【本】を読んであげて下さい」

「……」

「クソみたいな人生をマシにするヒントが、あるかもしれないから。本は、読まないと意味がないから」

 

 そう言って、【戦い】の勝者はこちらに迫って来るパトカーのサイレンの音を背景に、駐車場から退場したのだった。

 

『……お前、素直と言うかお人好しと言うか、とんでもない甘ちゃんだな』

「自分でも、そうかな~って思うよ」

『でも、嫌いじゃないぜ。お前の甘ちゃん具合は』

「……ありがとう」

「読人君、取りあえず初陣、おめでとう」

「ありがとうございます」

 

 桐乃が出る場面はなく、読人と彼の肩に乗る火鼠の衣だけで初陣を勝利した。

 彼女から差し出された手を取って握手を交わすと、ヘルメットを被ってバイクの後ろに乗り込む。向かう先は彼らのバイト先である『若紫堂』だ。初陣の結果を師匠――紫乃に報告しに行かなくてはならない。

 だが、火鼠の衣が読人のコートの中に潜り込んでから桐乃の肩に手を置いたその時、気付いてしまった……虎の牙で空いてしまったコートの腕の部分の穴が、()()()()()()になっていなかった事に。

 

「またコートが!」

『ドンマイ』

「コート一枚で済んで良かったじゃないか」

 

 フードはボロボロで左腕には穴。このコート、次の冬は着られないとガックリ頭を垂れた読人を乗せて、桐乃のバイクは走り出した。

 こよみ野市鼓草町の銀行に、虎のハリボテを使って銀行強盗を働いたと言うニュースが放送されたのは夜の時間帯だった。しっかりと、寅井の名前も顔も画面に映ってしまっている。

 読人はそのニュースを直接観ていなかった。その時間帯は、湯船に浸かってぬくぬくと温まっていたからだ。しかも、【本】が濡れないのを良いことに湿気たっぷりの風呂場に持ち込んでいた。

 ついでに、火鼠の衣も一緒に温まっていたのである。温泉に浸かっているカピバラみたいだ。

 

『ぷはぁ~』

「火鼠君」

『何だ~?』

「やっぱりさ……君に名前があった方が良いよね」

『読人がオレの名前を付けてくれるのか?』

「嫌じゃなかったら」

『良いぜ』

 

 どんな名前を付けてくれるんだ?

 読人の方を向いた円らな双眸がそう語りかけると、彼に相応しいと思った名前を口にする。明るい炎が身体を這って、まるで火の衣を纏っているかのように燃えるその光景を表す名前を……。

 

「“火衣(ヒノエ)”って、どうかな?」

『……安直だな』

「ええ?!」

『でも、オレは好きだぜ。オレは、今から火衣だ』

「っ! よろしく、火衣」

『1年間よろしくな、読人』

 

 吾輩は火鼠の衣である。名前は火衣である。

 

『読人、知っているか? ハリネズミって鼠じゃなくて、モグラの仲間なんだぞ』

「え!? そうなの?」

 

 今回の1年間は、このお人好しの甘ちゃんと一緒なら退屈しなさそうである。




寅井万作(22)
アル中・ギャンブル狂・暴力とクソ役満な父親と、そんな父親の実家に彼を預けたまま失踪した母親という両親ガチャでクソを引いて人生をスタートさせた。
祖父母に育てられたが、祖父が亡くなってからは生活が困窮。
しかも、中学卒業のタイミングでクソ父が祖母を殴り倒して彼の高校入学の資金を持ち逃げ。
進学を諦め、中卒で職業訓練校に入学したが怪我が原因で祖母も亡くなる。
卒業はしたが、勝手にクソ父の借金の保証人にされたために仕事先で上手くいかず、クソみたいな人生を送る。
『一休さん』の【本】は祖父母の荷物を整理していたら見付けた。


創造能力・飛び出ろ虎!
屏風から夜な夜な脱け出して徘徊する虎……というホラが実現した能力。
ポストカードでもトレーナーでも、二次元の虎ならそこから抜け出て実体化する。が、耐久は元の素材に依存する。
ちなみに、虎のリアル具合も素材に依存するので、可愛い絵本の虎を出せば可愛い子が出て来る。


展開能力・このはしわたるべからず
端じゃなくて真ん中を渡れば良いというとんちの場面を現実に展開する。
この橋は端を踏めば危険が待っているのでマジで真ん中を歩かなければ危ない。戦略的には、橋の真中を虎が占領して端に寄らせるのを想定している。
攻撃は爆発のみだが、その内、橋の端から刃物が飛び出たりとか過激なものになっていたかもしれない。


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一寸法師×ジャックと豆の木【Past】01

 その夢は、毎晩読人の前に現れるという訳ではなかった。

 例えば、課題も予習も復習もきちんと終わらせてお風呂でポカポカに温まり、心配事も何もなくリラックスしてベッドに潜り込んだ夜になると耳の奥からパラパラとページを捲る音が聞こえて来たりする。

 これがきっと、例の夢を視ると言う合図なのだなと読人は寝ぼけた頭でそう思った。50年前、若き日の蔵人や紫乃が参戦した、イギリスを舞台とした【戦い】のアルバムが開かれる合図であると。

 この夢を視始めた時から、読人は1970年代のイギリスについて少しだけ調べてみた。

 この頃のイギリスは、英国病とも呼ばれた長期の不景気に悩まされ多くの人々が苦しい生活を余儀なくされた、労働者の時代らしい。1973年にはオイルショックの衝撃も受けた。1979年にサッチャーが首相に就任してやっと不景気から脱却できたと物の本には書かれている。

 一方、蔵人が青春を過ごした日本はと言うと、1964年の東京オリンピックや1970年の大阪万国博覧会に代表される戦後の高度経済成長を経た好景気の延長にあった。しかし、やはりオイルショックでその好景気には終止符が打たれ、徐々に下降して行ったらしい。

 オイルショック、恐るべし。

 そんな、調子に乗った日本から遥々イギリス・ロンドンまでやって来た蔵人は、同じく渡英して来た紫乃と出会った。そして彼は今、屋台が並ぶ夕暮れのロンドンでイギリス名物のフィッシュアンドチップスを購入していた。

 

「お待ちどう」

「どうもありがとうございます」

 

 読人には香ばしい匂いや新聞紙越しの熱は伝わらないが、揚げ立ての白身魚のフライとフライドポテトは見ているだけでも食欲をそそられる。蔵人は無愛想な店員に料金を支払ってから商品を受け取ると、屋台の前に置かれている塩とビネガーを軽く振り掛けてから帽子を取って会釈をした。

 フィッシュアンドチップスがイギリスの外食産業としての地位を確立したのは20世紀かららしい。

 労働者の時代はとにかく忙しい、食事なんてゆっくりとっていられない。なので、片手で直ぐに食べられてエネルギーになるファストフードが流行し、労働者たちが帰宅する時間帯になるとこんな風にたくさんの屋台が軒を連ねるのだ。

 ちなみに、味はピンからキリというのはやはりイギリスである。この時代は、イギリスの飯がマズイ事情に拍車をかけたとか、かけなかったとか。

 

「いただきます……うん、失敗。美味しいフィッシュアンドチップスを提供してくれるお店には、いつ巡り合えるのでしょうか」

 

 新聞紙で作られた包み紙を手に、屋台の周辺に置かれているテーブルの一つに座った蔵人はフライを一口食べてこう感想を言った。日本語なので、聞かれても多分大丈夫。

 彼はここ数日、美味しいフィッシュアンドチップスの屋台を探していた。色々と食べ比べていたのだが、今日のは今までで一番の失敗だったようである。

 白身魚のフライはゴムのような歯応えがあって味がない、フライドポテトは芯があってオマケにどちらの衣もギドギドのベトベト。サクっとした歯触りの欠片もない。油の質も良くないようだ、新聞紙に滲んだ油が右手を汚し酷くつやつやしてしまっている。

 一口食べただけで胃が油っぽくなり、二口目の勇気は削がれてしまった。この味の割には高かったなと辟易し、口直しにどこかのパブでジン・トニックでも飲んで帰ろうかと思い始めていた。

 

「だからよ、ヒースの奴が面白いもんを見せてやるって言っていたんだよ。なのに、アイツ、待ち合わせの場所にいたら腰を抜かして倒れていたんだ」

「どうした、死んだお袋さんがマリリン・モンローのドレスで化けて出たのか? あいつのお袋も、相当なダイナマイトだったろう」

「俺もヒースに訊いたんだよ、何があったんだって。そしたらあいつ、「フィッシュアンドチップスを持ったアジア人にやられた」ってよ。だから何があったんだって!? やられたって言っていた割には、あいつのズッキーニみたいな顔には青タン一つなかったんだぜ。しかも、勉強をすれば吐き気に襲われるとか何とか言っていたのに、本を持ち歩き始めたんだ」

「おお、不景気から脱却できる前兆だな! そんなトチ狂ったことが起きるなんて」

「高そうでキレーな白い本をだったぜ。確か童話だったはずだが、何の本だったかな……」

「で、結局ヒースの言っていた面白いもんは見れたのか?」

「それがよう、ヒースの奴誤魔化しやがった! 魔法が使えなくなったとか抜かしやがって」

 

 蔵人の後ろのテーブルでは、泥で汚れたズボンを履いた男たちが何やら盛り上がっている。

 揚げた豆とフライドポテトを肴に安いエールを咽喉に流し込みながら、今日一日の鬱憤を晴らすかのように声を高くして「ヒース」の話題を振っていた。

 勿論英語で話しているのだが、夢を視ている読人にもしっかりと日本語で理解できたのは不思議だ。

 盗み聞きは良くないが、あちらの大きな声が聞こえてしまったなら仕方がない。「高そうでキレーな白い本」、ねぇ……そのワードを耳に入れれば、蔵人だけではなくロンドンにいる【読み手】は勘付くだろう。「フィッシュアンドチップスを持ったアジア人」の【読み手】が、【戦い】に勝利したのだと。

 

「ふーん……ジン・トニックは、諦めますか」

 

 指に付いた塩を舐めながら呟いた蔵人の声は、誰にも聞こえていなかった。

 歴代で最高に不味いフィッシュアンドチップスを何とか平らげると、新聞紙をそこら辺のゴミ箱に捨ててから興味半分で「フィッシュアンドチップスを持ったアジア人」の【読み手】を探しに、夜のロンドンへと足を踏み入れた。

 今日のロンドンは珍しく霧がない。天気も良い。一年の半分が雨に覆われるこの都市にしては珍しく、ビッグ・ベンの文字盤が遠目にもしっかりと見えるほど空が澄んでいた。

 

「新月なのが残念ですね。さてと……八咫(ヤタ)君」

 

 蔵人が自身の【本】を開くと、光と共に彼の背後には巨大な鏡が出現した。歴史の資料集に載っていそうな太古の銅鏡に似た真円の鏡面が水面のように揺れると、鏡の中から一羽の烏が現れる。

 赤いビーダマのように透明な目と漆黒の羽根を持つ烏は、鷹を始めとした猛禽類とそう変わらない大きさだ。それだけでも普通は違うのだが、よく見れば脚が三本ある。三本の脚を器用に使って、蔵人の腕に止まっていた。

 

「八咫君、ちょっと偵察に行って来てもらえませんか? どこかで、【戦い】が起きているかどうか」

 

 八咫君と呼ばれたその烏は低く一声「カァ!」と鳴くと、蔵人の腕から飛び立ち真っ黒な新月の空へと染み込んで行く。彼は蔵人が想像して創造した存在なのだろう、八咫君と言う名前からして恐らくモデルは『八咫烏』だ。

 八咫君が空の彼方へ消えて数分後、まだ冷たい夜風の中を佇んでいた蔵人は彼が飛んで行った方向から見える羽根吹雪に気付いた。桜の大木が風に吹かれて花弁が散るように、漆黒の烏の羽根が深夜の空から地上へと降って来ているのがしっかり見えているのだ。

 あれが八咫君からの合図だ。八咫烏は導きの使者とも呼ばれている。八咫君は飛んで行った先で目当てのものを見付けたら、遠くにいる蔵人にこうやって教え導いてくれるのだ。

 

「八咫君の元へ一瞬で移動できる手段も、創造しておけば良かったですね……仕方ありません。走りますか」

 

 幸いにも距離はそう遠くない。あの方向は――ロンドン塔だ。

 テムズ河畔にあるこの城郭はかつて、イギリスの国事犯たちが何人も投獄されていた。確か、読人の記憶が確かならば世界文化遺産に登録されているはず……1988年、蔵人がイギリスを訪れた後の時代だ。

 普段は入場料を支払わなければ内部は見学できないが、深夜の時間帯に拷問器具が展示される城内を見物する物好きは少数派だろう。八咫君に導かれなければ昼間に来たかった。

 

「誰かいましたか八咫君? それとも、好みの大烏の女の子でもいました……痛い痛い。八咫君、君はいつから啄木鳥になったんですか?」

「ガ!!」

 

 ちょっと茶目っ気を出した声色でそう言ってみたら、八咫君が啄木鳥のように嘴で蔵人を連打した。

 彼は真面目に導いてやっているのに、こんな茶々は不愉快だったのだろう。お怒りだった。

 ちなみに、ロンドン塔では烏が飼育されている。ここから烏が消えてしまったらイギリスの崩壊と言われているので、風切羽を切られて飛べないようして飼育されているのだ。

 

「と言うのは冗談で。八咫君、ここなんですね……【読み手】がいるのは」

 

 そして、もう【戦い】は始まっているはずだ。

 何で解るかって?ロンドン塔入口を警備している警備員が、蔵人の隣でぐっすりと安眠しているからである。

 強制的に眠らされている。警備員たちに見られたくないことが城内で起きているからだ。

 では、この口髭の警備員をあちらのベンチに寝せておきましょうと、自分より体格の良いその人を背負った蔵人だったが、警備員を背負い上げた瞬間にロンドン塔の方から轟音が響いた。爆発音とも違う、大きな物理的力量を持った物質が壁に無理矢理突貫して来た崩壊の音が静寂な深夜に劈いたのだ。

 警備員を放り投げるようにベンチへ寝かせると、堀と街路を隔てる柵に身を乗り出して音の方へ視線を向ける。月のない夜でもはっきり見えた。

 絡み合う二つの色。うねり、流動する水流と蔦が。

 

「あれは、植物の蔦と水? 何の【本】でしょうか」

「カァ」

 

 水のない、草の生えていない堀に躍動する青と緑が飛び込んだ。鞭のように撓る水流が生き物のようにロンドン塔の周りを蛇行する。

 それを追うのは太く伸びる三本の太い蔦だ。所々に若葉が顔を出して、実に活き活きと水流を追いかけている。

 三本の蔦はお互いを絡ませ合って三つ編み状態になると、より一層太く硬くそして長く伸びた。追いかけられる水流は堀へ雪崩れ込み、鞭の状態から波となる。

 目が回るほどの高速で行われているこれらの一部始終を目にした蔵人は、水流を走る人物に気が付いた。

 否、走ると言うよりは水流を統べるように乗っていると言った方が良いだろう。サーフボードで大波に乗るようにうねる水流を走る姿は、サーフィンとはまた違う。あれは何と言っただろうか?

 両足にローラーを付いた靴……そうだ、ローラースケートだ。

 

「ローラースケートのようですね。体格的にも、彼が「フィッシュアンドチップスを持ったアジア人」でしょうか」

「カァ! カァ!」

「どうしました八咫君……あ」

 

 蔵人は暴れ回る水流と蔦を追うのに意識を集中しすぎて、それらがこちらに向かって来るのに気付かなかった。あ、これ駄目な奴だ……と、鉄砲水のような水の鞭と何本にも枝分かれしている蔦を前にして、夢を視ている読人までも恐怖した。

 おい八咫君、君1人(?)だけで飛んで逃げないで下さい。【読み手】を見捨てないで。

 蔵人は隣から飛んで行こうとした八咫君に手を伸ばすのも虚しく、水流と蔦は止まることもなく、柵を破壊して蔵人もその衝撃で吹っ飛ばされたのであった。

 だけど、吹っ飛ばされているその時に見たのだ。自在に水流に乗って滑り駆ける彼の存在に。

 吹っ飛ばされる蔵人とすれ違ったのは、確かに小柄で細身のアジア人の青年だった。

 少し長めの黒髪にハンチング帽を被ったその表情……蔵人の存在に驚いて目を見開いているのが、すれ違っただけでもよく解るほど接近していたのである。

 

「アンタ! 大丈夫か?」

「あー……はい。一応」

「早く逃げろ! 巻き込まれんぞ」

「はあ」

 

 やはりまだ若い。蔵人よりも、紫乃と年齢が近いかもしれない。

 蔵人を【戦い】に遭遇してしまった一般人とでも思っているのだろう。酷く険しく焦った表情をしていたが、目尻と眉尻が下がった顔はどこか飄々とした小僧の印象を与える。

 そして、青年を追って来た蔦の群れも蔵人の存在に気付いたようだ。先程までは暴れ回っていた蔦たちが急に大人しくなり、一本一本が絡まって天に届くほど長い蔦となっている。

 この光景は、どこかで見た事あるような気がする……雲の上まで伸びた木を登って、巨人の棲家に迷い込んでしまった少年の物語の中で。

 しかし、蔦の上一本にいたのは少年ではなく、赤毛の混ざるブルネットを撫で付けた口髭の男だった。夜空の色と同じ黒の執事服を身に纏い、優雅な仕草で蔵人に頭を下げた紳士が立っていたのである。

 

「こんばんは、異国の迷い人。出会って早速ではございますが、眠って頂きましょうか」

「お構いなく。私も【読み手】なので。貴方がたの【戦い】はあちらで見物していますので、どうぞご自由に」

「今、聞き捨てならねえこと言った!?」

「ほう、貴方様も【読み手】でしたか」

 

 執事服の紳士の足元には女神の彫刻が付いた竪琴がある。どうやら、あの音色で警備員を眠らせたらしい。一般人を眠らせて【戦い】の現場を見せないようにするための創造能力か……良いかもしれない。

 で、青年曰く「聞き捨てならねえこと言った」本人はこの場から退場し、ただの観客になろうとしたがそうは問屋が卸さない。

 現在は3月、【戦い】は序盤。多くの【読み手】たちは自身の【本】をレベルアップするために、紋章集めに集中する。そんな中で、現れた蔵人は絶好の鴨だろう。一気に2人分の紋章が手に入るのだ。




現在では衛生上の問題もあり、新聞紙を包装紙に使ったフィッシュアンドチップスの提供はされておりません。


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一寸法師×ジャックと豆の木【Past】02

 

 

 

「申し遅れました。私はドラセナ・ロックハートを申します。我が主の命により、この【戦い】へと馳せ参じました。手に取る【本】のタイトルは『ジャックと豆の木』でございます」

「これはどうも、ご丁寧に」

「こちらの少年の紋章を頂きましたら、次は貴方の番です。Mr.」

「少年じゃねえよ。もう21歳だ!」

 

 蔦と思っていたが、正確には豆の木だった。あの竪琴も、主人公のジャックが巨人から盗み取った自動演奏する防犯機能付きの竪琴からインスパイアされて創造されたのだろう。

 一見すると、ドラセナと言う人物は礼儀も仕草も洗練されておりとても好印象を受ける。だが、双眸を細めて蔵人へ向けたその視線の奥には、猟犬のような忠義と獰猛さが見え隠れしていた……彼の主というのも気になるものだ。ドラセナが忠義を尽くし、不老不死を願う主の存在が。

 一方、水流に乗る青年は少年と呼ばれたことがカチンと来たようである。

 アジア人、特に日本人は幼く見られるがドラセナの目にも彼はまだ成人もしていない少年に見えたらしい。大丈夫、日本人から見ればちゃんと年相応だ。顔立ちもファッションも。

 青年の方は、蔵人が【読み手】と分った後でも特に変化は見せなかった。目の前にいるドラセナを相手にする事に、全神経を集中している。

 彼の名はまだ解らないが、手にした白い【本】のタイトルと裏表紙の紋章ははっきりと見えていた。

 お椀を船に箸を櫂にして川を下る、小さな男の子のシルエットを持つ紋章が表すタイトルは、『一寸法師』。

 

「『お椀を船に乗った一寸法師は、箸を櫂にして都へと続く川を下って行きました』――武装能力・一寸法師の川下り!」

「続きをご所望ですか、少年。お望み通り【戦い】を再開しましょう。『夜の内に芽を出した豆の木は、あっと言う間に雲を貫くほど天高く成長したのです』――ジャックの豆の木(Beanstalk of Jack)!」

 

 それぞれが各々の【本】の朗読を皮切りに、青年の水流は怒涛の勢いを付けドラセナの豆の木は更に数を増やす。水流と豆の木の絡み合いになり、青年は再び水流に飛び乗った。

 よく見ると、彼の足元は革靴でなければ若者らしいスニーカーでもない。漆器のような光沢を持つ、黒塗りの雪駄を履いていたのだ。まるで一寸法師が船にしたお椀みたい……そう思ったのは、読人だけではなかった。蚊帳の外にされて見物し始めた蔵人も、顎に手を当てて冷静に青年の創造能力を分析していたのだ。

 

「ふむ……『一寸法師』がお椀で川を下る様子にインスピレーションを受けて、お椀のような雪駄で水流を自在に下る能力ですか。創造能力ではなく武装能力なのも、あくまでメインは雪駄なのですね。流石、若い方は発想が面白い」

「ガー」

「お帰りなさい、八咫君。酷いじゃないですか、私を置いて逃げてしまうなんて……君は本当に、私が創造した存在なんですか?」

「カァー」

「痛い痛い、嘴で突かないで下さい」

 

 むしろ蔵人が創造した存在だからこそ、八咫君はこんな感じなのかもしれない。そんな、誰にも聞かれることのない読人の独り言は夢の中に消えて行った。

 蔵人が八咫君に突かれている間にも、青年とドラセナの【戦い】は続いている。鞭のように撓る水流と、蔦のように無数に生えて来る豆の木の絡み合いは一見、似た系統の能力と思いきや戦法は違う。『一寸法師』の青年の方が、遥かに機動力に長けているのだ。

 安定感の欠片もない水流の上を自在に滑るその姿は、地上を移動するのと何の変わりもない。読人がテレビ番組で見るようなマリンスポーツの経験者以上に、彼は川の流れを操った。

【本】は人間の想像力を創造力に変える。青年が、「自在に水流を滑る」と想像すればそれが現実となり、どんなに運動神経が悪くとも体幹が弱くても一流のスポーツ選手のような動きができるのだ。

 圧倒的な手数で攻め入って来る豆の木の隙間をすり抜けて、時には水流が鞭から波に形を変えて、青年は距離を詰めて行く。

 幼く見える風貌で小柄な体躯の彼を一瞬でも侮ると、その自在な動きに翻弄されてあっと言う間に脱落だ。

 

「流石、成長著しい日本の少年ですな。軽く見ていたことを、謝らせて頂きます」

「軽く見ていたのかよ。そのまま油断していた方が良かっただろうな……これでも、イギリスさ来て早々紋章ば一個手に入れているんだ」

「ほう、奇遇ですね。私も、一つ手にしています。最も……少年、貴方のを手に入れたら合計三つとなりますが」

「この!」

 

 子供扱いもいい加減にしろ。いつまでも少年扱いするドラセナに対し、青年の感情が荒ぶりつつある。

 こんな挑発に乗る時点でまだまだ若いと、見学していた蔵人はそう零したが、彼は若い故に先に出た。

 取り出した二本の棒、棒手裏剣のようなそれをドラセナへ投擲したのだ。しかし、当たらない。目の前の紳士の横をすり抜けて二本とも豆の木が生える地面に突き刺さったのである。

 

「コントロールが、下手ですね」

「カー」

 

 読人も、喋れたのなら「そうだね」と同意するところだっただろう、八咫君のように。

 だが、最初から当てる気などなかったのだ。青年が投げたのは武器ではない、地面に突き刺さった棒をよく見れば黒塗りの食器だ……日本人にお馴染み、食事の絶対的相棒である箸である。

 箸、Chopstick――橋でなければ、端でもない。何だか、最近「はし」と言う言葉がゲシュタルト崩壊を起こしかけていると、読人は眠った頭が痛くなりかけた。

『一寸法師』において箸と言うアイテムは物語上大切な物だ。一寸法師はお椀を船に、箸を櫂にして都へと向かったのである。つまり、あの箸は青年の足にある漆器の雪駄と同じ役割を果たす物だったのである。

 

「下れ」

「っ」

「ガ!」

 

 地面に突き刺さった箸から巻き起こったのは白い飛沫を立てた水流だった。ドラセナが新しく豆の木を生やしたように、青年もまた新たな川を創造したのである。

 前門は青年が載った水流の鞭、後門こと足元からは溢れ出て来る怒涛の飛沫。箸が切っ掛けで氾濫した水流は、ドラセナも豆の木も呑み込もうとしたがそう簡単には呑み込ませてはくれなかった。

 

「食事の時間ですよ、若芽たち!」

 

 雲を突き抜ける豆の木とそれを登る少年……『ジャックと豆の木』の紋章が描かれた【本】の光がロンドンの夜に一層輝くと、豆の木たちがドラセナの足元の水流に群がり始めたのだ。

 餌箱に群がる家畜のように水流に集中した豆の木たちだったが、本当に餌を食べていた。

 相性が悪かったと言えば、簡単に片付くのだろうか。湧き出た水流を吸収し尽くした豆の木は一気に成長を遂げ、幹と強度を太く硬く成長させて、攻撃力を増加してしまったのである。

 

「え……?」

「今までは、そんな素振りを見せなかったとでも言いたい顔をしておりますね。水は植物の餌です。相性が悪かったと言うことで、諦めて下さい。Boy」

「っ!!?」

 

 ジャックが一本の斧で切り倒せないほどの大きさに成長してしまった豆の木は、空間を切り裂く甲高い音を立てて青年をロンドン塔の城壁へとめり込ませた。水流の上にあった身体が薙ぎ払われて石造りの壁へ一直線に突き刺さった身体から、ミシミシと言う嫌な音がする。

 

「……っ、っ」

「痛みますか? 大丈夫ですよ。死なない限り、【本】を閉じれば全て()()()()()()になります。Boyがどれだけ骨を折ろうが、歯を折ろうが、身体だけは元通りになります」

「……ぐ、駄目だ。こんな、ところで」

「無理をして口を動かすと、辛いだけですよ。Boyの持つ紋章は私が責任を持って管理しましょう。我が主の願いのために」

「願い、って、不老不死か? 永遠の生命さ、欲しいのか……アンタの、主は」

「……ええ、主の命令は絶対です」

「っ、そんな、駄目だ!」

 

 壁にめり込んだ身体が豆の木によって拘束されたが、青年は『一寸法師』の【本】を抱え込んで決して放さなかった。喋る度に苦しそうに息が切れている。これは肋を何本かやられていて、息をする度に激痛が走っているようだ。

 息絶え絶えと言う状況の中でも、声を張り上げて自身を拘束している豆の木に爪を立てて必死に抵抗する。何が、彼をそうさせるのか?

 彼が必死に、「駄目だ」と口にする理由とは何なのか?

 

「老いない、死なない……そんな人間がいたら、化け物だ。時間の中にたった1人で取り残された、可哀そうな、化け物だ……! 選んだらきっと、死にたくても死ねない身体に絶対に後悔する! わしは、そんな人らを出したくない!! 限りある時間の流れの中で、精一杯生きるのが人間だ!!」

「……っ!!」

 

 自身の中に残る全てのエネルギーを吐き出すかのように、青年は静寂の中でそう叫んだのだ。

 一体、どんな体験が彼にこんなことを言わせたのか?

 誰か後悔したのか、可哀そうな化け物になってしまったのか?

 青年のその言葉に対しドラセナは顔色一つ変えなかった。しかし、変わらない紳士然とした表情で早くその口を塞ごうと豆の木たちを一斉に青年に向か合わせた様は、どこか焦っているようにも見えたのだ。

 

「……稻羽(イナバ)君」

 

 迫り来る豆の木たちを前に、青年は全てを諦めて目を瞑り、委ねることはしなかった。そのお陰ではっきりと見えたのである。闇夜にただ一筋だけ鮮やかに浮き出た、白い直線が

 月のない異国の夜、珍しく霧も出ていないその空間。真っ黒なキャンバスに白い絵の具を描き入れたように、美しき白い直線が割り込んで来たのだ。

 その白い直線は豆の木たちを弾き返し、速度を上げて跳躍し、躍動する。自在に動く弾丸の如き白い直線を前にして、豆の木の大群たちは意志を持ったように怯み始めた。

 正確に言うと、急な乱入者の登場で【読み手】であるドラセナが面を食らったのである。

 

「……横槍は無粋ですよ。Mr.」

「これは申し訳ありません。えーと……ドラさん、でしたっけ?」

「そんな名前の猫型ロボットの漫画、読んだことある!」

「君、そういう突っ込みができるなら割と無事ですね。おいで、稻羽君」

 

 無粋な横槍を入れた乱入者は、見学者に徹していたはずの蔵人であった。

 蔵人が白い直線へ声をかけると、豆の木たちの相手をしていたその線は彼の元へ跳ね返り、帽子の上に着地する。

 帽子の上からひょっこり顔を出したのは、赤いビー玉のように円らで大きな目をした小さな白兎だった。両の掌に収まりそうな、小さくて丸いふわふわな兎が白い直線の正体である。

 八咫君と入れ替わって創造された白兎――稻羽君は、先程の弾丸のような勢いはどこへやら。蔵人の帽子にしっかりとしがみ付いて長い耳をピンと立て、鼻をピスピスと動かしていた。

 可愛い。

 

「確かに、横槍を入れるのは無粋で失礼な事ですね……それに関しては、謝ります。しかし、彼を生かしたいと感じた衝動的な感情は分かって頂きたい」

「……え?」

「Mr. 貴方はその少年を、生かしたいと?」

「はい。先程の彼の言葉を聞きまして、思案しました。貴方と彼、私がどちらかの味方に付くとしたら……『一寸法師』の青年が良いと。もっと言いますと、彼をここで脱落させるには惜しいと思ったのです」

「……?」

 

 ありきたりに言うと、蔵人は青年の言葉に心打たれたということになる。

 自身の主人のために【戦い】に参加して紋章を集めるドラセナと、自身に秘めた感情に突き動かされてこの異国までやって来た青年……どちらが魅力的かと尋ねられたら、蔵人は後者と断言した。

 彼とは違う、ただ「見てみたかった」と言う興味本位の理由で遥々ロンドンまでやって来たのでない、強い意志を孕んだその言葉と光が宿り続けるその目を、潰したくないと思ったのだ。

 

「申し遅れました。私は黒文字蔵人、【本】のタイトルは『古事記』……私がこの1年間へ首を突っ込む“理由”に、君の言葉を貸してくれませんか? 限りある時間の流れの中で、精一杯生きることを許して下さい」

「っ!!」

 

 矛・鏡・勾玉の三角形の真ん中には、燦々と輝く太陽――蔵人の【本】のタイトルは、日本の神話が納められた『古事記』

 その白い【本】を手に、蔵人は青年へ請うような視線を向けると、ドラセナの前に障害として立ち塞がったのだ。

 限りある時間の流れの中で、精一杯生きようと。

 

「……」

「どうします、ドラさん。私も紋章を一つ手にしています……私たちを相手にすれば、一気に四つが手に入りますよ」

「何気に頭数に入れられとる!?」

「……」

 

 大きく肩を竦めて、笑いを含んだ溜息と共に(かぶり)を振ったドラセナは自身の【本】を閉じた。『ジャックと豆の木』から光が消え、あちこち崩壊させたロンドン塔は徐々に元の姿に戻り、青年の身体の痛みも引いて行く。

 

「貴方様との【戦い】は、また次の機会にしましょう。Mr.クロード。その時まで、生き残っていたらの話ですが」

「そう簡単に脱落する気は更々ないので、きっとまた次の機会にお会いできますよ」

「ではそれまで、ロンドンをお楽しみ下さい。次にお会いできた時には、ジン・トニックでもご馳走しましょう」

「それは、楽しみですね」

 

 蔵人と青年に対し最小限の礼儀を尽くした挨拶で頭を下げたドラセナは、再び【本】を開いて彼の足元に豆の木を創造すると、その豆の木に包まれ姿を消してしまった。

 今夜の【戦い】に勝者はいない。勿論、敗者もいなかった。

 蔵人と青年もそれぞれの【本】を閉じると、稻羽君も漆器の雪駄も消えて創造力が想像力に戻ったのだった。

 

「お疲れ様でした稻羽君」

「……はぁ~」

「大丈夫ですか、君?」

「助けて頂いて、どうもありがとうございました。黒文字さん。わしは檜垣(ヒガキ)龍生(タツオ)。【本】はこの通り、『一寸法師』です。3日前に故郷の岩手から、このロンドンさ到着したばかりです」

 

 痛みが引いた身体をゴキゴキと動かしながら立ち上がった青年――龍生は、帽子を脱いでから蔵人に向けて深々と頭を下げる。年齢の割には中々礼儀正しく、仕草から見るに結構良いところの出身だろう。言葉の端々には、確かに東北の訛が見えていた。

 そして、彼は次の瞬間に赤面する。頭を上げたその瞬間に、胃が盛大な音を立てたからである。

 腹を押さえて真っ赤になったその表情は、21歳の割には幼く可愛らしく見えた。

 

「~~!」

「若いって良いですね。どうですか? 一緒に夜食でも。この時間帯では、屋台のフィッシュアンドチップスぐらいしかありませんが」

「フィッシュアンドチップス。あー……あれって、あんまり美味()くないですよね。わしは魚の天ぷらが好きで楽しみにしてたんですけど、三件別の店で買って全部不味かったんですよ」

「龍生君、アドバイスしましょう」

「はあ」

「フィッシュアンドチップスのみならず、ロンドンの屋台で食事を取る際には……イギリス人がやっていない店が、大体当たりです」

 

 やっぱり彼が、「フィッシュアンドチップスを持ったアジア人」だったようだ。

 ロンドンに来てからの食生活でぼんやり見えた極意をアドバイスすると、龍生は一瞬だけ垂れ気味の双眸を丸くしてから、人懐っこい笑顔を見せてくつくつと笑い始めたのだった。

 

「蔵人さん、アンタ面白い人だな!」

「それはどうもありがとうございます。では、夜食を食べに行きましょう。早く退散しないと警備員に怒られてしまいますからね」

「はーい」

 

 蔵人と龍生、日本からやって来た2人の【読み手】がロンドン塔から退散すると同時に、新月の夜に霧が出始める。ここで、読人の本日の夢は終わりを告げた。祖父の記憶に、新たな1ページと登場人物を追加して。

 しかし、少し疑問に残る事がある。

 蔵人はいつ、一つ目の紋章を手に入れたのだろうか?

 




某猫型ロボットの連載開始は1970年ですが、単行本第1巻はそれから4年後の1974年に発行されています。
待っていた読者は勿論のこと、連載当時に興味のなかった人たちも手に取るようになり、瞬く間に国民的漫画として浸透していったそうな。
でも最初のアニメ化は1973年だ。


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純喫茶『マザー・グース』01

 最近の読人の朝の日課は、家の仏壇に線香を上げて拝むことである。

 蔵人の家から持って来た黒文字家の仏壇は、物置代わりに使っていた和室を片付けてそこに設置された。読人は毎朝学校に行く前や朝食の前に手を合わせ、蔵人に【戦い】のことや夢の出来事を報告している。

 

「おじいちゃん、今日もまた頑張ります」

 

 心の中で、夢の中の登場人物が増えたことや今日も紫乃の店でバイトであることなどを報告する。そして顔を上げれば、仏壇の上に飾っていた遺影と目が合った……三枚の内の一番右側にある、読人と同い年ぐらいの少年の遺影だ。

 若い頃の蔵人によく似たその人は、母の兄であり読人の伯父。若くして亡くなった蔵人の長男・黒文字(クロモジ)書人(カキヒト)である。

 

「読人、ご飯ー」

「あ、はい。ねえ、母さん」

「どうしたの?」

「書人伯父さんって、俺と同じぐらいの年齢で亡くなったんだよね?」

「……そうね。伯父さんが亡くなった時、まだ17歳だったわ。今年で30年ね」

 

 伯父の書人は事故に遭って亡くなったと聞いているが、詳しくは知らない。読人が彼の話題を出すと、母も祖母も蔵人も酷く悲しい顔をするので、子供心に触れてはいけない話題だと感じ取ってから口に出すことはしなかった。

 17歳、まだ高校生の時に亡くなっている。もし書人が生きていたら、若い頃の蔵人のような上品な雰囲気を携えた紳士になっていただろう。それだけ、遺影の彼は蔵人に似ていたのだ。

 

「……そろそろ、兄さんの命日ね」

 

 やっぱり、朝からこの話題を口にすべきではなかった。キッチンに帰る母が廊下でポツリと、そう、呟いていたのを聞いてしまったのである。

 

「読人、今日は午前授業でしょ。お昼は?」

「適当に食べておく。あと、午後は6時までバイトだから」

「どうだ読人、慣れたか?」

「うん。最近は、楽しくなってきた」

「そりゃ良い。社会の勉強は、若い頃にしておいた方が良い」

 

 本日の朝食は、鮭の粕漬けを焼いた物に昨日の夕飯の残りのコールスローサラダ。冷凍食品のから揚げとパック詰めのタケノコの土佐煮。味噌汁の具は、豆腐とネギととろろ昆布である。

 実は、パック詰めのタケノコの土佐煮が一番美味しいと思っているのは秘密だ。

 今日の高校は午前授業。二週間後に迫った高校受験のための問題作成やらそれ関係の会議のため、在校生はとっととさっさと下校しなさいとのお達しだ。

 部活動も禁止なので、お昼ご飯は正美と一緒にファストフードかラーメンでも食べよう。その後は『若紫堂』でバイトである。

 紫乃の弟子兼古書店のバイトとなった読人の時給は、ちょっと低めの900円。まあ高校生ならこれで妥当だろう。

 特に金に困っている訳でもないし、勉強もさせてもらっているからむしろ高待遇だ。

 朝食を食べ終わって食器を水に漬けると、各々の身嗜みを整えてから黒文字家はそれぞれ出勤・登校する。読人はバスで高校へ。母は電車で勤め先である都心の大型書店へ。そして父は、自家用車で市役所へと出勤して行った。

 

「行って来まーす」

「「行ってらっしゃーい」」

 

 

 

***

 

 

 

 今日のお昼は、駅中のファストフードで期間限定のサンドでも食べようと思っていた。友人である正美と一緒に。

 そう考えていた読人だったが、朝から予定が狂ってしまった。昇段試験を控えていた正美たち柔道部が、市の会館を借りて部活をすることになったため読人と寄り道できなくなったのである。

 しょうがないから1人で食べて行こう。黒文字読人、1人で外食するのに特に抵抗はない男である。

 そう考えながら下駄箱に上履きをしまって靴を履き替えると、玄関に彼女――竹原夏月がいたのだ。

 

『た、竹原さん!? え、話しかけた方が良いのかな? ヘアピンのお礼に……でも、急に名前で話しかけたら失礼じゃ……!』

「あ、黒文字君」

「ひゃいっ!?」

 

 ひゃいって何だ、ひゃいって!?

 ここに正美がいたら、きっとそう突っ込んでいただろう。夏月に話しかけようかかけまいか、下駄箱の影でもだもだうじうじしていたらなんと、夏月の方から声をかけてくれたのだ。

 

「えーと……俺の名前」

「あ、ごめんね。図書館でカードを見た時に覚えていたの。「黒文字」って名前、珍しいから」

「そそそ、そっか。改めまして、1年C組の黒文字読人です」

「私は、1年B組の竹原夏月です」

 

 この時ほど、「黒文字」と言う珍しい名字であることに感謝したことはなかった。

 これってチャンスじゃないのか?夏月と話をする絶好のチャンスだ!

 

「ヘアピン、本当にどうもありがとう。重宝しているよ」

「どういたしまして」

「(終わっちゃった!)……そ、そうだ。竹原さん、お昼はどうするの?」

「家に帰るか、適当に買って帰ろうかな~って。本当は友達と一緒にどこかに寄って行こうかと思っていたんだけど、その友達が風邪を引いて学校を休んじゃって」

「っ、じゃ、じゃあ……一緒にお昼、行かない?」

 

 この時の読人は、「言えた!」と内心ガッツポーズをしていた。絶対に。

 

「ヘアピンのお礼に、奢るよ」

「え! 悪いよ、そんなに高い物じゃなかったし」

「なら、一緒に食べに行こうよ。俺もお昼1人なんだ」

「……お、お願いします」

 

 そう言って夏月が小さく頭を下げた瞬間に、読人の脳内でレベルアップを祝福するファンファーレが鳴り響いたのだった。

 行ってみたいお店があると言う夏月と一緒に、高校の最寄り駅から二駅ほど電車に乗ってやって来たのは『若紫堂』からそんなに距離がない住宅地だった。

 こんなところに飲食店はあったかと思った読人が連れられてきたのは、民家の間に立地したレンガ造りの建物……看板には、『純喫茶』の文字があった。

 

「純喫茶『マザー・グース』」

「ここ、入ってみたかったんだ」

 

 1985年創業と書かれた木目の看板がかけられた昭和雰囲気が漂う喫茶店は、大人には懐かしく高校生たちにとっては敷居の高そうな店構えであった。

 ガラス張りの全国チェーンのカフェとは違い、気軽に1人で入るには躊躇われてしまうだろう……もし、子供はお断りなんて言われてしまったらどうしようと、いらぬ杞憂もしてしまう。

 アルファベットではなく、レトロと言う言葉がしっくり来る書体のカタカナで書かれた看板の下を潜って店内へ入る。ドアを開けると、大きめのカウベルが来客を告げる音を立てた。

 

「いらっしゃい。お好きな席へどうぞ」

「黒文字君、窓際の席で良い?」

「うん」

「お兄ちゃんたち、デートかい? 若いって良いね~」

「こら、若い人たちをからかうんじゃないよ」

 

 カウンターの向こうで出迎えてくれたのは、ニット帽を被って白い口髭を蓄えた60代後半ぐらいのマスターだった。店内には3人組の婦人と、イヤホンを着けながらレポート用紙にシャーペンを動かす大学生っぽい青年と、カウンター席の端に座る老人だけだった。

 その老人は高校生の男女と言う初々しくも見える彼らに声をかけて来たが、手早くお冷とメニューを用意したマスターに窘められる。

 

「ごゆっくり。うちは紅茶が専門だけど、コーヒーも良い豆が揃っていますよ」

「ありがとうございます」

「凄く感じが良いお店だね」

「うん! 来て良かった」

 

 嬉しそうに笑う夏月を見ることができただけでも来て良かった、と読人の頭に浮かんで来た。絶対に口には出せない。

 最近流行の清潔感がある店内とは違い、濃い色の木材の壁に囲まれた空間はどこかアットホームな空気が流れていた。

 新規の飲食店を発掘するのはある意味賭けだ、それなりのリクスも伴って来る。だけど、夏月の中で『マザー・グース』の雰囲気は合格ラインに食い込んだようである。

 

「黒文字君は紅茶派? それともコーヒー?」

「紅茶かな。おじいちゃんが紅茶派だったから、昔から飲ませてもらってた」

「へぇ~カッコいいおじいちゃんね」

「ありがとう。竹原さんは?」

「私はコーヒー派かな。よくカフェラテとか飲むから……」

 

 夏月にメニューを向けて一緒に眺めていたら、彼女の視線が一点で数秒間停止したのを見逃さなかった。焼きそばやピラフ、グラタントースト等が並ぶフードメニューの中で、1ページ全部を使って載っていたそれはこの店の名物なのだろう。

 アフタヌーンティーセット(2名分)1,600円(税抜き)※ドリンクは以下の中からお選び頂けます。

 普通の飲食店では滅多にお目にかかれない、まるで英国貴族の持ち物のようなケーキスタンドにスコーンを始めとした軽食が並んでいる写真がそこには掲載されていた。2人前でこの値段でドリンクも付くなら、随分お得ではないのか?

 

「竹原さん、俺、このアフタヌーンティーに興味があるんだけど……どうかな? 2名分だし」

「私も気になっていたんだ。じゃあ、これにしよう。すいませーん」

「はーい。ご注文は?」

「アフタヌーンティーセットを一つ。ドリンクは、私は紅茶で」

「俺も紅茶で」

「紅茶はどちらもストレートでよろしいですか?」

「はい」

「はい、しばらくお待ち下さい」

「ごめんね、何だか付き合せたみたいになって」

「良いよ。俺もアフタヌーンティーが気になっていたし」

 

 これは本当の話だ。夢で、若き日の蔵人と紫乃がアフタヌーンティーを共にしている場面を見てからちょっと気になっていたのである。

 さて、注文が終わったのは良いが……ここで気付く、アフタヌーンティーが来るまでの待ち時間をどうやって過ごせば良いのかと。

 何か話題を振ろうかと思って、お冷に口を付けながら色々と思考してみたがどうも上手く動かない。異性と会話するのは苦手と言う訳でもないのに、夏月の前ではドキドキして落ち着かないのだ。

 

「黒文字君って、部活とかやっているの?」

「いや、俺は帰宅部だよ。委員会にも入っていなくて……あ、竹原さんは剣薙サークルだったっけ? 友達から聞いたんだ。柔道部の、松元から」

「松元君と友達だったんだ。時々重い荷物とか持ってくれて、助けてもらっているの」

『おのれ、マサ……!』

 

 ちょっと正美にジェラシーを感じたりもしたが、夏月との会話はそんなに滞りなく進んでくれた。

 夏月は中学校の頃は剣道部で、高校になったら薙刀にも興味を持ったから今は薙刀を振るっているとか。読人はバイトを始めたと行ってみたら、彼女は「お勤めご苦労さまです」と言いながら頭を下げて悪戯が成功したように微笑んだ。

 あ、好き――夏月と言う少女は、読人が思っていた以上に無邪気な一面がある。この短い時間でそれに気付いて、そんな言葉が溢れて来た。

 

「竹原さん。連絡先、交換しない? LINEでも電話番号でも良いから。あ、これ、俺の……!」

「あ!」

 

 珍しく強気に出たと思ったら、スマートには行かなかった。夏月に自身の連絡先を渡そうとして、メモ帳とボールペンを取り出そうとしたらリュックをひっくり返してしまい、喫茶店の床に中身をぶちまけてしまったのだ。

 ノートや筆箱が夏月の足元にも滑り込んでしまっていて、店内の視線が集まってしまっている。嗚呼、今なら羞恥で死ねる気がする。

 

「大丈夫ですか、お客さん?」

「ハイ……ありがとうございます」

「お待たせしました。アフタヌーンティーセットと紅茶です」

 

 しかも、『竹取物語』の【本】まで床にぶちまけてしまっていた。

 マスターに手渡された【本】を受け取って急いでリュックにしまうと、小振りのワゴンに乗せられたケーキスタンドと白磁のポットとカップが二つずつ、テーブルに乗せられる。

 4人掛けのテーブルの真ん中に置かれたケーキスタンドの皿には、細い手足を組んで怒った顔をした卵が描かれていた。『鏡の国のアリス』に登場するハンプティ・ダンプティである。

 店名が『マザー・グース』であることに因んでいるだろう。確か、ハンプティ・ダンプティの歌は中学校の時の英語のテキストに載っていた。

 

「紅茶はセイロンティーです。上から、スコーン、チョコチップとドライフルーツのカップケーキ、胡桃のカップケーキ。サンドウィッチはツナとキュウリとトマト、ベーコンと卵になっています。スコーンには、こちらのクロデットクリームとマーマレードを付けてお召し上がり下さい」

「どうもありがとうございます」

「どうぞ、ごゆっくり」

 

 スコーン四個、カップケーキとサンドイッチは二種類が二個ずつ。説明をしてくれたマスターの「サンドイッチ」の発音が、やたらと良かった気がする。

 それぞれに置かれたティーポットとカップは、読人の物は白磁に青で紫陽花が描かれ、夏月の物は紅桃色のバラだ。どちらも、セイロンの茶葉が十分抽出され、飲み頃になっている。

 

「うわ~私、ティーバッグじゃない紅茶って初めてかも」

「俺も、久し振りかも。いただきます」

「いただきます」

 

 自然に手を合わせた2人は、カップにセイロンティーを注いでそれぞれシュガーポッドの角砂糖を一つずつ入れる。

 スコーンは横から二つに切ってクロデットクリームとマーマレードをたっぷり乗せて齧り付くと、ほろ苦いマーマレードとのバランスが良くクリームが甘くなり過ぎない。歯応えもさっくりと温かく、文句なしに美味しかった。

 

「美味しい!」

「うん、美味しい」

「紅茶も美味しいし、良いお店だね。また来ようか」

「っ、た、竹原さんが良いんだったら……」

「なら、連絡先を交換しよう」

「っ」

 

 夏月が鞄からパステルカラーの模様が描かれたメモ用紙と緑色のボールペンを取り出すと、小振りで丁寧な字が電話番号とメールアドレス、メッセージアプリのIDを紡いで行った。今度は失敗しないようにと、読人も自分のメモ用紙を取り出して三つの連絡先を書き、2人同時に相手へ差し出した。

 

「はい。SNSはやっていないから」

「俺も、やっていない。これどうぞ」

「ありがとう」

「今から登録するね」

 

 後から登録しても良かったが、一刻も早く彼女の連絡先を自分のスマートフォンの中に入れたかったのだ。焦るように滑る指で何とかフリップ入力をすると、電話帳の中に新しく『竹原夏月』のページが作成され、友達が増えた。

 無ことに連絡先を交換し、色々と話をしながらお茶を楽しんでいると鞄にしまっていた夏月にスマートフォンがメッセージを受信する。読人に一声かけてからメッセージを目にすると、どうやら風邪を引いて学校を休んでいた友人かららしい。

 電話をしてくると席を外す夏月を見送ると、一気に頬の筋肉が緩くなり彼女に見せられない顔になってしまう。両手で覆うと、顔は熱を持ち始めていた。

 それだけ夏月と話ができたことが嬉しかったのだ。しかも一緒にお茶をして、連絡先まで交換して、次にまたこの店を訪れる約束までしてしまったのだから。

 

「やべ……にやける」

「お兄ちゃん、良い子じゃないか」

「ひぃ?!」

「あれだね、ティーのセットが来ても写真を撮らないのが良いね~カッちゃんもそう思うだろ」

「だから、若い人をからかうんじゃないよ。すいませんね、この人常連なんだけどどうもお節介なところがあって」

「い、いえ……あれ?」

 

 コトン、と。常連客に「カッちゃん」と呼ばれたマスターが置いた一枚の皿には、揚げ物が乗っていた。

 櫛形のフライドポテトと一口サイズのきつね色のフライ。これってもしかして、フィッシュアンドチップスではないだろうか?

 夢で散々登場した。マスターが塩とビネガーの瓶も一緒に置いたので間違いないだろう。しかし、注文していない。

 

「あの、注文していませんけど」

「サービスです」

「サービス?」

「頑張れ」

「っ、はい」

 

 彼が読人の何に対して「頑張れ」とエールを送ったかは解らない。だけど、不意打ちに与えられたその言葉にカっと顔が赤くなる。

 よし、頑張ろう……何を、ではなく、何でも頑張ろう。

 

「お待たせ。あれ、これは?」

「サービスのフィッシュアンドチップスだって」

「サービス? どうもありがとうございます」

「お構いなく。塩とビネガーを振って召し上がって下さい」

 

 小振りで食べやすい白身魚のフライは、衣にもしっかり味が付いていて日本人の口に合わせた味付けになっていた。ケーキスタンドも皿も空にして、夏月が食べ切れなかったカップケーキはビニール袋に入れて持ち帰ることにする。

 それから、温い紅茶をゆっくり飲みつつ風邪を引いていた友達は大丈夫かとか、期末テストはどうなるのだろうかと高校生らしい話をしていたらあっと言う間に時間が来てしまう。『若紫堂』のバイトは2時からだ。

 

「ごめんね、駅まで送れなくて」

「良いよ、黒文字君のバイト先まで遠回りになっちゃうんでしょ。バイトに遅れちゃ駄目だよ」

「そうだね。じゃあ、また学校で」

「うん、今日は楽しかったよ」

「俺も……また、また連絡するから!」

 

『マザー・グース』の前で夏月と別れ、ちょっと大きめの声でそう告げた読人はあっと言う間に走り去ってしまう。

 夏月には見られてなかっただろうか?ヘアピンで前髪を上げたことにより、はっきり見えてしまうこの真っ赤な顔を。




ハンプティ・ダンプティが塀に座った
ハンプティ・ダンプティが落っこちた
80人の男にさらに80人が加わっても
ハンプティ・ダンプティを元いたところに戻せなかった


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純喫茶『マザー・グース』02

 ニヤニヤする。だらしなく緩む頬を、自分の意志ではコントロールできない。

 スボンの尻ポケットに入っているスマートフォンに夏月の連絡先が登録されていると言うだけで、高校入学と同時に買ってもらったそれがかけがえのない宝物のように感じられた。

 

「読人、何をニヤけているんだい」

「え、ニヤけていました?」

「締まりのない顔になっているよ」

『そうだ、キビキビと働け~』

「火衣の言う通りだよ。シャキっとしなさい」

「はい!」

 

 頭の上に飛び乗って来た火衣の小さな手に、ビシビシと額を叩かれた。そうだ、今はバイトの最中……『若紫堂』の店内で、書籍の整理をしている最中なのだ。

 この古書店は紫乃が1人で営んでいる。バイトは桐乃と読人だけだ。

 営業時間は朝の10時から夜8時まで。全国チェーンの古本屋とは違い、マンガの単行本やライトノベル、ゲームの攻略本等は取り扱っていない。

 今のご時世、そんな営業形態で儲かるのかどうかと疑問に思うが、紫乃曰く「生活に困らない程度」には儲かっているらしい。しかも、定期的に大口歳入もあるとか。

 つい数分前も売り上げがあった。30代前半ぐらいの男性が、古雑誌のコーナーに並んでいたビニールで梱包された雑誌を五冊ほど抱えて紫乃がいるレジへと持って行くと、嬉しそうに財布を開いて惜しげもなく諭吉を渡し、数人の野口が紫乃から手渡されていた。

 どうやらその雑誌は、昭和の終わりに廃刊となった物でマニアの間では高値で取引される物らしい。値段は当時の購入額の十倍となっていたが、それでも男性は「安い」と言って満足そうに店を後にしたのだ。

「ありゃ常連になるね」と、紫乃がちょっと悪い顔をして読人にこっそり呟いていた。うん、うちの師匠は中々に商人根性がたくましい。

 

「シャキっとするついでに、テープのりのカートリッジを持って来てくれないかい。居間の棚の、上の段にあるはずだ」

「はい、一つで良いですか?」

「頼むよ」

 

 紫乃は、よく新聞やネットニュースの記事をノートに切り貼りしてスクラップにしていた。趣味かどうかと訊いてみたら、今年限りの趣味らしい……【読み手】の気配がする記事を片っ端から集め、軽く情報収集をしているとか。

 

「どうぞ」

「ありがとさん」

『どうだ紫乃、【戦い】の情報は何かあるか?』

「ああ……どうも、派手にやっている輩がいるようだよ。読人、見てごらん」

 

 そう言って紫乃が開いたページにあったのは、邦人の女性がオーストラリアで怪死していたと言うこと件だった。そのページには、新聞の記ことだけではなく様々なネットニュースが、それこそ片っ端から集められて密集している。

 

「会社員の古賀(コガ)柚子(ユズコ)さんが、オーストラリアの海岸で死亡しているのが見付かった。死因は……凍死?」

「そう。不思議だろ。夏真っ盛りのオーストラリアのビーチで凍死だ。しかも彼女だけじゃない、その事件の10日後にフィリピンのホテルで韓国籍の男が亡くなっているが、そいつの死因も凍死だ」

「っ」

 

 別のページには、フィリピンを訪れていた韓国人の(ヨウ)洪瑤(コウヨウ)という男が、滞在していたホテルの部屋で死亡しているのが見付かったとある。死因は、先程のニュースと同じく凍死だった。

 どうやって人間を凍死に追い込んだ?夏のオーストラリアで、寒波に襲われることがないフィリピンで?

 非現実的な怪事件であるが、今年は日常が非日常になる一年だ。頭を抱えるようなニュースには、【本】を手にした【読み手】が関わっている可能性が高い。

 

「二度目は偶然かもしれないが、もし三度目が起きたらそれは確信さ。人間を凍死させるほどの冷たいナニかを創造した【読み手】が、倫理も何も関係なく好き勝手やっているということさ。凍死した2人も【読み手】だったはずだ」

「……死は、()()()()()()にならないのに」

「行きすぎた能力を持ってしまった人間は、想像できないほど傲慢で不遜になるもんだ。読人、警戒しておきな。ニュースにはよく目を通しておくんだね。微かな情報を事前に頭に入れておくだけで、無知な状況とは大きく変わるものさ」

「はい!」

 

 読人が持って来たテープのりを本体に付け替えて、また新しいページにネットから印刷した記ことを貼って行く。

 今の時代は、情報を手に入れるのに苦労しなくなったと紫乃は言っていた。こんな風に、まだ見ぬ【読み手】の不気味な気配を察知できるほど、世界中にネットワークと言う名の情報網が敷かれている。

 50年前の紫乃は一体どんな【戦い】をしていたのだろうか?

 インターネットも携帯電話も広く普及していない時代に、紫乃と蔵人はどうやって【戦い】を勝ち抜いたのだろうか?

 

「師匠。師匠とおじいちゃんが参加した50年前の【戦い】の話、聞かせてくれませんか」

「絶対に嫌だね」

「えー?!」

『そもそもお前、聞かなくても知る手段があるだろ』

「でも、朝起きると大体の内容は忘れちゃうし……実際に話を聞くのと、夢で視るのは違うことだし」

「聞いても参考にならないと思うよ。50年も間が開くんだ、【戦い】はその都度、全く違う物になる……読人、お前さんは自分の【戦い】をしなさい。現代に生きるのは、お前さんら若い世代なんだから」

 

 凛とした厳しい声が空気をピリピリと震わせるが、その声色には母親が子供を諭すような優しさも感じられた。

 紫乃は読人と桐乃にとっての師匠であるが、彼女は自分の意志を弟子兼バイトたちは押し付けなかった。あくまで自分の意志を貫き通せと、選択肢は自分で選べと言ってくれた。

 だた、人道の外れるようなことはあってはらないとだけキツくキツく言い渡されていたのだ。

 

「はい! じゃあ、聞かないことにします」

「そうしなさい」

「すいませーん」

「いらっしゃいませ」

「文庫本って、外のワゴンにあるだけですか?」

「いえ、中にもありますのでどうぞご覧下さい」

 

 今度は大学生と思われる女性のご来店だ。さあ、バイトモードに切り替えよう。

 特別忙しいとは感じず。書籍の整理をしたり本棚の埃を払ったり、小さな雪がちらほらと降って来ると外に出している文庫本のワゴンを店内に撤収したりしていたら、あっと言う間に夕方5時半を過ぎていた。

 読人のバイトは午後6時まで。あと30分もすれば終わりである。

 

「そう言えば師匠、桐乃さんはいつからバイトに復帰するんですか?」

「大学の試験が終わってからだから、2月には戻って来るよ。あの子は学業に対しても真面目さ。追試の心配はしなくても良さそうだ。それより読人、お前さんの期末試験はいつからだい?」

「2月の半ばです」

「試験期間はバイトを休んで勉強に集中しなさい。もし赤点でも採ったら、時給下げるよ」

「胆に銘じておきます!」

『頑張れ、高校生』

 

 うちの店長は、仕事も厳しいが学業にも厳しかった。高校生より早い時期に行われる大学生の期末試験のため、ここ一週間、桐乃は『若紫堂』に顔を見せていない。

 しかし、世の中には試験期間中でも出勤を強制されるブラックバイトなるものがあるため、それに比べれば時給が低くとも快適すぎる職場環境だ。赤点を採ったら、もっと時給が低くなってしまう可能性もあるけれど。

 再び、頭の上の火衣が額をビシビシペチペチと叩かれながらハタキを片手に本棚の掃除を再開させると、入口に人の気配がした。反射的に「いらっしゃいませ」と口からでると、上質なカシミアのコートを着た白いヒゲの紳士が小さく手を挙げながらにこやかに来店なさったのだ。

 

「こんばんは紫乃さん、しばらくぶり」

「どうも、久方ぶりです」

「最近どうも忙しくて、顔を出せずにいましてね。何か、良い本は入りましたか?」

「ええ、ありますよ。読人」

「はい」

「地下の23番の棚のもんを持って来ておくれ」

「分かりました」

 

『若紫堂』の地下には、書籍を保管しておくための倉庫がある。そこに収められているのは、気軽に店内に置いておけないほど高価な物たちで、本を傷ませないために温度や湿気が徹底管理されている。

 勿論鍵がかかっており、紫乃から鍵を受け取った読人は階段を下って倉庫に向かうと『二十三』と彫られた棚に収められている白木の箱を持って来た。

 バイトを始めた頃にこの地下を案内されたのだが、この倉庫に収められている本たちは、その価値の解る人間からしてみれば宝の山らしい。値段を付けるとしたら、数百万も下らないとか。

 

「どうぞ」

「ありがとう」

「新しい従業員?」

「はい、先日からお世話になっています」

「若いね、高校生? 紫乃さんが高校生を雇うなんて珍しい」

「ちょっとした縁があったのさ」

 

 両手に白い手袋を着けた紫乃が壊れ物を扱うように白木の箱の蓋を空けると、中からは油紙に包まれた二冊の本が姿を現した。和紙の表紙とページが糸で製本されており、墨で書かれたタイトルは崩れすぎていて読むことができない。

 紫乃は神妙な表情になったのとは反対に、お客は新しい玩具を見付けた子供のように表情が明るくなった。

 この本は、江戸時代の中頃の物だとか貸本で人気だったとか、これだけ状態の良い物は珍しいなどとの会話が2人の間でされていたが読人には半分以上理解できない。大人しく本棚の掃除に戻ってハタキを動かしていると、お客が懐から一枚の札状の紙を取り出した。

 あれは、ドラマとかでよく見る物だ……所謂、小切手である。

 

「いつものように、紫乃さんが望む値段を書いて下さいな」

「いつものように、この本に相応しい値段しか書かないよ」

 

 そう言っているが、万年筆を握った紫乃の手は0を何個も連ねている。0が五個……本日の、最高売上額となりました。

 嬉しそうに箱を抱えたお客……様を、「ありがとうございました!」と頭を下げてお見送りすると、彼は店の外に停められていた高級そうな自動車に乗り込みお帰りになった。後部座席のドアが勝手に開いてそちらに乗り込んだので、運転手付きのようである。

 

「師匠、さっきの人は?」

「関東の近辺で、いくつか会社を経営している人だよ。古書集めが趣味でうちがお気に入りなんだとか」

「はあ」

「つまり、定期的の大口歳入。パトロンさ」

 

 そう言って、五個の0が並ぶ小切手を見せた紫乃はどこかお茶目に微笑んだのだった。

 夢で視た彼女の若い頃よりも華やかなその表情を見て、きっとさっきのお客は店ではなく紫乃がお気に入りなんだろうな~っと、頭の片隅で思った読人であった。

 そんなこんなしている内に、町内で午後6時を知らせるチャイムが鳴り出した。これにて読人のバイトは終了。何だか今日は、1日の内容が濃かった気がする。主に昼から夕方にかけてが。

 

「それじゃあ、気を付けてお帰り」

「はい。お疲れ様でした」

『読人、メッセージ通知が来ているぞ……ん? ナツキって誰だ?』

「勝手に見ないでよ!?」

『ロックのパスワードは、誕生日以外にしておけ』

 

 いつの間にか読人のスマートフォンを手にリュックの中から顔を出した火衣は、勝手知ったる顔でロックを解除し、メッセージアプリを起動した。

 小さなハリネズミの手からそれを取り返すと、メッセージの送り主は確かに夏月である。『バイト終わった?』から、『今日は楽しかったよ』と来て、『また誘ってね』と言うメッセージの後に『Thanks』と書かれた旗を持った兎のスタンプが送られて来た。

 自分のバイトが午後6時に終わると聞いて、それに合わせてメッセージを送ってくれたんだと悟ると、胸の奥からジーンとしたナニかが湧き上がって来る。あ、やっぱり好き。

 

「うわ、うわあああ~!」

『頑張れよ、青少年……ふ、青春だな』

 

 両腕で顔を覆って道路の真ん中にしゃがみ込んだ読人は、確かに甘酸っぱい青春をしていたのだった。

 一方、彼にメッセージを送った夏月はと言うと。

 

「……送っちゃった。男の子に、またお茶に誘ってとか送っちゃったよ~~!」

 

 と、彼女もまた、読人に負けないぐらい顔を赤くしてクッションを抱き締めて、自室のベッドの上で丸くなっていた。

 火衣の言う通り、どちらも青春していたのだった。




Name:竹原夏月(タケハラナツキ)
Age:16歳
Height:162cm
Work:都立暦野北高等学校1年B組
Club:剣道・薙刀サークル


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赤い靴01

 年が明けて早一月、寒さもピークとなる如月の季節。肌に刺さるような冷たく乾燥した冬風に震えながら、桐乃は友人と一緒に異国情緒溢れる港町を散策していた。

 

「桐ちゃーん、見てみて結婚式しているよ~」

「本当だ。綺麗だな」

「もっと近くで見てみよう。ブーケトスもやってる!」

「待ってよ槙ちゃん」

 

 小野寺桐乃。私立墨筆芸術大学文学部2年生。

 本日の一時限目にて、受講している講義の全ての期末試験を終了させた。

 自作の短編小説をレポート代わりに提出するのには少々手こずったが、目に見える失敗もなく単位を落とす心配もなく3年生に進級できるだろう。

 なら、試験終了をお祝いしてパァーっと豪華なランチにしようと、友人である槙ちゃんこと槙乃に誘われる形で横浜にやって来たのだ。何でも、彼女が行きたいと思っていたお店が中華街にあるらしい。

 ステップを踏むように桐乃の前を歩く彼女、倉敷(クラシキ)槙乃(マキノ)とは同じ大学に在籍しているが、槙乃は芸術学部で油絵を選考しており桐乃とは学部が違った。しかし、1年生の時に食堂で同席してから妙に気が合い、お互いに時間ができればこうして一緒に出掛けることが多く大学では一番仲の良い友人である。

 朝一の試験を終えて横浜に来てみたが、お昼の時間にもまだ早いと言うことで繁華街から外れた町角を散策していた。何か有名な名所でもないかとネットで検索してみれば、この近くに有名なステンドグラスがある教会があると聞いたのでそこを訪れてみると結婚式の最中だった。

 白いタキシードと白いウェディングドレスを着た新郎新婦が幸せそうな笑顔で教会の扉から姿を現すと、参列者は彼らにライスシャワーをかけて一足早い春色の花弁を撒きながらたくさんの祝福を贈っている。

 残念ながら、結婚式をしていては教会内のステンドグラスは見ることができないだろう。しかも、幸せのお裾分けであるブーケトスには間に合わず、既に投げられて次の花嫁の手に渡ってしまったけれど、幸せそうな光景を目にすると新郎への憧れと神父への美しさで桐乃も槙乃も呆けた表情になってしまっていた。

 

「綺麗……良いな~素敵だな~」

「槙ちゃんは絶対ドレス似合うだろうね。可愛いし」

「桐ちゃんもきっと似合うよ! スレンダーなマーメイドラインとか……あっ」

「槙ちゃん!」

 

 うら若き女子大生たちが呆けた表情でウェディングドレスの話をしていたら、槙乃が足元の段差に気付かず足を踏み外して転倒してしまうそうになった。

 隣にいた桐乃が反射的に腕を伸ばしたが、槙乃の転倒を阻止したのは彼女ではなかった……槙乃の小柄な身体は、背の高い男性に支えられていたのである。

 

「ダイジョブ、デスカ?」

「はい。どうもありがとうございました」

「It’s okay.」

「クリムゾン神父、一緒に写真を撮りましょう~!」

「神父様ーー!」

 

 片言の日本語で槙乃へ話しかけたのは、首から十字架を下げた神父だった。参列者の女性に呼ばれて槙乃へ一礼してから式の方へ向かった彼がこの教会を管理する神父らしい。

 まだ若く、丁寧に撫で付けたブロンドの髪とパステルブルーの青い目を持った中々の美丈夫だ。支えられた槙乃が、若干頬を赤くして呆けて蕩けた表情をしている。

 

「槙ちゃん、大丈夫だった?」

「うん。桐ちゃん、あの神父さん……少女漫画から抜け出して来た人みたい」

「……そうだね」

 

 槙乃の言う通り、少女漫画の登場人物のような甘いマスクをしている彼は女性に人気のようだ。参列者の若い女性たちは神父が結婚できないことを知っているのかそれとも知らないのか、新郎新婦そっちのけでクリムゾン神父と一緒に自撮棒でツーショット写真を撮っている。

 ステンドグラスは残念だったが幸せそうな結婚式と素敵な神父さんを見ることができたし、じゃあランチへ行こうと教会を後にする。途中、道がちょっと解らなくなって交番に駆け込むと言うアクシデントもあったが、1時になる前には中華街へと到着できた。

 だけど、その駆け込んだ交番の老年の巡査が、彼女たちに気を付けてと言って来た。

 どうやらこの町の近辺では、年末から現在にかけて若い女性が行方不明となる事件が立て続けに起きているらしい。行方不明となっているのは分かるだけでも5人。

 これを受けて、県警でも夜中のパトロールや呼びかけを強化しているらしいが行方不明となった女性たちは未だに見付かっていないのだ。

 

「行方不明って、連続誘拐事件かな?」

「かもしれないね。でも身代金の要求とかないみたいだし……いなくなった人たち、無事だと良いんだけど」

 

 熱々の小龍包を囲んだランチは、何だかしんみりとした空気で迎えてしまった。

 槙乃が来てみたいと思っていたその中華料理屋は、ディナータイムになると一人前数万円となるコース料理を提供する高級店であるが、ランチは比較的良心的なお値段で提供しているところだった。

 槙乃の父が自分の名前で予約を入れていたらしく、店員から「お待ちしておりました」の言葉をもらい、待ち時間もなく個室に案内された……実は彼女、誘拐したら相当な身代金を取ることができるほどのお嬢様である。しかも件の父があまりにも過保護で、出かける時は出かけ先を報告しなければしつこく連絡を入れて来るため困っている。

 だが、折角の父の気遣いは有難く頂いておこう。

 白い蒸気を纏って蒸籠の中から顔を出した小龍包をレンゲに乗せ、モチモチの皮に箸を立てると琥珀色のスープが旨味を伴った香りと共に溢れ出す。それにフーフーと息を吹きかけながら冷まして、酢醤油と生姜と共に頬張れば、ちょっと熱いけれども肉と野菜の旨味がスープに乗って口の中に流し込まれ空きっ腹にじんわりと熱が伝わった。

 

「「~! 美味しい~」」

 

 物騒な事件の話をしばし忘れ、美味しい小龍包で再び蕩けた幸せな表情になる。が、はやり桐乃の頭の中からは、行方不明事件が消えることがなかった。

 あの教会で、微かに聞こえた呟きも。

 

「……あれ、何これ?」

「どうしたの?」

「何だか蚯蚓腫れっぽいのが」

 

 ランチを終えた後は2人でショッピングすることにした。お互いに、そろそろ春物の靴が欲しいと意見が一致したので靴を取り扱っている店舗を中心に、冷やかしたり熱心に吟味したりしていたのだが槙乃が自身の異変に気付いたのだ。

 気に入ったパンプスを見付け、試着してみようと靴屋のソファーに座って履いているショートブーツを脱いだ時にそれに気付いた。細身のパンツから覗く白い足首に、赤い線ができている。

 槙乃の言う通り、蚯蚓腫れかもしれない……だけど、桐乃には別の物に見えた。槙乃の両足首をぐるりと一周するそれは、赤いキリトリ線。工作の説明書に出て来る点線ができているのだ。

 

「何だろうこれ? かぶれちゃったかな?」

「……」

「桐ちゃん?」

「あ、ごめん。何でもない。帰ったら、薬を付けた方が良いかもね」

 

 その赤いキリトリ線を見た桐乃は、嫌な予感がした。

 あの時、幸せそうな結婚式を行っている教会の前で場違いな呟きを耳にしたのだ。低く、ぞっとするような厭らしい声が桐乃の耳にだけ届いていた……女性の連続行方不明事件。槙乃の足首に現れた謎の赤いキリトリ線。

 日常が非日常になるこの一年の二月目。この町の裏側でナニかが起きていると、桐乃は悟ったのだ。

 

 

 

***

 

 

 

 文明開化の頃に建設されたと言うその教会の天井には、美しいステンドグラスがあった。

 ヨーロッパ諸国の礼拝堂のように、豪華絢爛で息を飲む美しさと謳われるようなものではない。神への祈りを捧げたその時に、ふと天井を見上げてみるとそこには光に彩られた聖母がいるのだ。

 頭上十数mの場所にある天窓には、硝子の聖母に跪き足先にキスをする天使。淡い色の硝子で描かれたその美しい物語は太陽の光が差し込むと神々しい輝きを放つのだが、夜に月の光が差し込むと儚く幻想的な白い光がただ一筋だけ赤い天鵞絨のヴァージンロードに現れるのだ。

 もう直ぐ日付が変わる、23時51分。聖母の恩恵を受けた月の光に照らされて、クリムゾン神父はただ1人、そこに佇んでいた。

 彼女を待っているのだ。深夜0時に逢いましょうと、連絡をくれた可愛い女性を。

 鎹がきしむ音を立てて、オーク調の扉が開かれる。彼女が来たのかと顔を上げてそちらへ青い双眸を向けるが、そこにいたのは“彼女”の隣にいた女性――ライダースーツを身に纏った、桐乃がいたのだ。

 

「お誘い、どうもありがとう……槙ちゃんじゃなくて、残念だったな」

「……」

 

 そう言った桐乃が手にしていたのは、メッセージアプリのIDと名前が書かれたメモ用紙だった。

 これは槙乃のコートのポケットにいつのまにか忍ばされていた物だ。ショッピングを終えてカフェで休憩をしていた際、槙乃が化粧室に立ったその時に失礼して探らせてもらいこれを見付けた。

 メモに書かれていた名前は、Fr. Crimson――クリムゾン神父。

 神父は結婚を禁止されているが、別に神様の目を盗んで恋愛しても構わないさ。だけど、悪趣味な愛の囁きとプレゼントを友に贈るのならば、こちらとて容赦はしない。

 

「日本語は片言のはずなのに、あの時の呟きだけは妙にしっかりとした“日本語”で聞こえたよ……確か、「次の獲物だ」だったか? あんた、【読み手】だろう」

「……バレていましたか。誰かに気付かれてはいけないと思い極力口は開かないようにしていましたが、あの時はあまりにも嬉しくてつい」

 

 白い【本】を手にする【読み手】同士は、例え母国語が異なっていても言葉が通じる。神父が早口で英語をペラペラと話している今も、桐乃には流暢な日本語で聞こえるのだ。

 昼間の呟きも、本人は早口の英語で口にしたのだろう。だが、言葉が通じる【読み手】がそこにいたのは想定外だった。

 

「槙ちゃんに何をする気だった?」

「言ったでしょう、次の獲物にするつもりだったんですよ。私はね、不老不死とか【戦い】とかどうでも良いんですよ……ただ、偶然手に入れた能力を、自分の欲望のために使っているだけなんです」

「っ!」

「しかし、バレてしまったからには……貴女を生かして帰さない……!」

 

 教壇に置かれていたのは白い【本】だった。神父が淡い光を宿したその本を開くと、教壇の周りには赤黒く粘度の高い液体がゴボリと湧き出て来たのだ。

 

「『カーレンはその綺麗なダンス靴を履いている限り、一生踊り続けなければならない呪いを、赤い靴にかけられたのです』――創造能力・赤い舞踊(Crimson step)

「【本】のタイトルは『赤い靴』か!」

 

 赤黒い液体の中が形を変えて歪な翼になった。しかし、その翼の持ち主は天使でなければ鳥でもない……液体の中から這い出て来た白く小振りな、ほっそりとした女性の足だったのだ。

 足首から下にかけて、爪を整えてペディキュアを塗ったその足に液体が纏わり付いたその様は、ステップを踏む度に長いリボンが揺れる赤い靴のようだった。数は左右合わせて十四足、それらが神父を守るように周りに漂っているのである。

 名はテッド・クリムゾン

【本】のタイトルは『赤い靴』――神を怒らせたがために、履いていた赤い靴に死ぬまで踊らなければならない呪いを受けた少女は、呪いから逃れるために赤い靴ごと両足を切断した。

 背筋の凍る赤い靴を巡る物語が、桐乃を狙って飛んで来たのだ。

 

「っ、随分と素敵な能力ですね!」

 

 二足の赤い足先を前に『ピノッキオの冒険』の【本】を開いた桐乃は突如、心にもないことを口にした。すると、彼女の手元から木製の棒が伸びて飛んで来た足を払い床に叩き付ける。

 小さく狭い教会内では、巨大な鯨であるモンストロを創造すると動きが制限されて邪魔になる……ならば、自分自身で【戦い】に飛び込んだ方が良い。

 

「何て、言うはずないだろう――武装能力・嘘吐きの鼻。嘘を吐かないと伸びないのが、ちょっとした難点さ。お前がどんな外道でも下種でも、これが【読み手】同士の【戦い】ならば名乗りましょう。名は小野寺桐乃。【本】のタイトルは『ピノッキオの冒険』……じゃない!」

 

 再び、桐乃の手元から伸びた木の棒が右足の一つを打ち落とす。彼女の手にあるのは木製のトンファーのような武器であったが、その手元にはニタニタ笑いをするピノッキオの顔がある。

 嘘を吐けばピノッキオの鼻が伸びるのは有名だ。そのエピソードから発想を得て桐乃が創造した武装能力は、魔法にかかったように伸びるこのトンファーだ。ただし、あくまでピノッキオの鼻から発想を得たために、嘘を口にしなければ伸びないのが難点である。

 桐乃の身体能力は低くはない。常日頃から大型のスポーツバイクを乗り回せるぐらいの運動能力は身に着けている。それに、この【戦い】は自分自身で特攻したい気分だった……大切な友人を“獲物”と称して、厭らしい声を出して自身の欲望を満たすためのこの糞神父を、数十発ぐらいぶん殴りたいのだ。




激おこ桐乃さん


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赤い靴02

「キリノ、と言うのですか。残念、私の好みではない……しかし、貴女が媚びるなら可愛がってあげても良いですよ。この足の持ち主たちのように!」

「持ち主……?!」

 

 叩き落としても打ち落としても、白い足に痣ができるだけで歪な翼も赤黒い靴も消えることはない。神父の指示で桐乃を蹴りに飛んで来る足たちの追撃を『嘘吐きの鼻』で防ぐが、至近距離で目にしたその足首にあるそれに気付いた。

 切り落とされた足首の断面に、槙乃の足首に出現した赤いキリトリ線と同じ物がある。このキリトリ線に添って、人間の女性から足が切り取られたような跡だ。

 まさか、この十四足の足は神父によって創造された物ではない?

 桐乃が『嘘吐きの鼻』で殴打したことによって痛々しい青痣ができてしまったあの足は、本物の人間から切り取られたものなのか?

 桐乃の背筋に一瞬の悪寒が走り、動揺したその僅かな隙を敵は見逃さなかった。赤い靴が踊り狂うように木造の床の上でステップを踏み、二足の足が桐乃の脚を蹴り付ける。そして、歪な翼を生やして空を飛ぶ足は鳩尾に踵をめり込ませたのだ。

 

「……っ!」

 

 痛みを訴える声を上げる余裕もなく壁に叩き付けられた桐乃への追撃は止まらない。向かって来る足たちを避けて床に転がり、何足もの蹴りが壁に向かって刺さると身体を翻して教会内の左右に並ぶ長椅子の影に一旦身を潜ませた。

 

『もし、あの足が本当に人間のものだったとしたら、無暗に攻撃できない。でも、あの足の持ち主たちは……!』

 

 槙乃の足首にも、足たちにある赤いキリトリ線が現れた。『赤い靴』は、足を切断することによって踊りの呪いから逃れた。

 そして、交番で聞いた女性の連続行方不明事件……桐乃の中で点と点が微かに繋がって、「まさか」と言う考えた頭に浮かんだその時、床からか細い声が聞こえた気がしたのだ。

 否、気のせいではない。確かに足元から、小さく高い声が聞こえる。必死にこちらへ声を届けようとする、助けを求める声が。

 

「……そういうことか!」

 

 床に耳を寄せた桐乃の中で、点と点がしっかり繋がったと同時に足による追撃がなされた。十四足の足が一斉に雪崩れ込んで袋叩きにでもしようとしたのだろうが、間一髪で避けたために長椅子を一脚破壊しただけで終わったのだ。

 

「この“事件”に関して、怒っていないよ!」

「っ、何をする!?」

 

 盛大な嘘を吐いた。本当は、今までにないぐらい、桐乃の感情には怒りが込み上げている。

 勢いよく伸びた『嘘吐きの鼻』はヴァージンロードの真ん中に突き刺さり、床に穴を開ける。赤い絨毯を取り払ってその穴の中を覗き込んで見ると、そこにはおぞましい光景が広がっていたのだ。

 月明かりが差し込むその穴の中は地下室になっており、そこにいたのは猿轡を噛まされた若い女性だった。

 髪は乱れ顔には青痣が残り、ボロボロに破かれた服とかろうじて原型を留めている下着を身に着けているだけの状態で、後ろ手に腕を拘束されている。覗き込んだ桐乃を目にすると、必死に唸って助けを求めた……その両足は、ない。

 彼女だけではない。裸の女性も、ぐったりとして動く気配がない女性も、引き千切られた跡があるセーラー服を着た少女もいた。みんな両足がない。あの足は、彼女たちのものだったのだ。

 

「やっぱり……女性の連続行方不明事件の犯人は、お前だったのか!!」

 

 この女性たちの中に、次の獲物と定めた槙乃も加えようとしたのである。

 桐乃の怒りが爆発した。こんな畜生が聖職者を名乗って新郎新婦の門出を祝福したことも、桐乃の大切な友人を毒牙にかけようとしたことも……この、テッド・クリムゾンと言う存在そのものに、憤怒と軽蔑と嫌悪を爆発させたのだ。

 しかし、当の神父……否、もう神父と呼んで良い存在ではない。当のクリムゾンは桐乃の怒りなんてどこ吹く風で、少女漫画の登場人物のように整って書き込まれた顔を歪ませて、ニッコリと微笑んだのである。

 最初の“犯行”は、年も明けぬクリスマスの夜だった。

 教会で行われたクリスマス・バザーの後片付けを終えた深夜の時間帯、懺悔室に1人の女性がやって来たのだ。

 しかし彼女が語ったのは懺悔ではなく愚痴。酒に酔って教会に乗り込み誰でも良いから話を聞いてもらいたいと、幕一枚を隔てた向こうにいるクリゾンへ遠距離恋愛中の恋人への愚痴と言う名の罵詈雑言を吐き出した。

 仕事が忙しいからクリスマスは会えないし、年末年始も帰れない。怒りが酒と共に醒めると今度は哀しみに襲われ、顔の見えない女性の声は震えて嗚咽を吐き出した。

 この時に、神父にはあるまじきことをした。簡単に言えば、彼女を自室へ誘ったのだ。

 そして、同じベッドの上で朝を迎えると最初の被害者となる彼女は「帰りたくない」と零した……だから、永遠に帰れなくしてあげたのである。恐怖と暴力に怯えて抵抗することができず、それでも微かな快楽に顔を悦ばせる女性の白い肌にたまらなく興奮した。

 この、錯覚した性癖を可能にしてしまったのは、教会に誰も知らない地下室があったからだ。大戦時代、防空壕替わりに造られたそこは、強度にしばしの不安があったが見られてはいけない行為をして秘密を隠すには絶好の場所だった。

 年が明けるまでにもう1人増えた。それから、不可思議な手段を得てしまったクリムゾンの欲は加速することとなる。前任の神父が置いて行った荷物の中に、白い【本】を見付けたのだ。

 靴のリボンをくるくる揺らして踊るドレスの少女の紋章。『赤い靴』が語った不老不死を巡る【戦い】には、興味を持たなかった。ただ、この【本】の能力を自身の色欲と征服欲と独占欲に使ったのである。

 

「片言の日本語で少し話しかければ、どんな女も婀娜っぽい顔をして付いて来た。時には娼婦のように誘う女もいた。最高だな大和撫子は! どんなに身持ちの固そうな女でも、ブロンドの美形の誘いにはホイホイと乗って来るんだ!」

「黙れ……」

「大体の女は、朝になると「帰りたくない」と言ってくれる。だから、帰さなかっただけ。それの何が悪い? 帰りたくないと言ったから、こうして足を切り取って帰れなくしてあげたんだ」

「黙れ!!」

 

 目の前にいる男は神父服を着ただけの畜生だ。こう言っているが、実際のところは彼女たちを監禁しやすいように足を奪っただけだ。

 赤いキリトリ線に添って足首を切断すれば血も出ず、切り取った足は腐ることもなかった。切り取った足を、持ち主の目の前で愛でてやった時の彼女の表情は今思い出しただけでも身体が熱くなる……クリムゾン好みの、自身の顔に見惚れた可愛い女だったら尚更だ。

 足元にいる女性たちを散々凌辱して、侮辱して嘲笑うその声に吐き気がする。桐乃の中にはもう、怒りはない。もう怒りを通り越した。

 血が上っていた頭の熱がすぅっと冷めて、どうやってこいつを叩きのめそうかと脳細胞が冷静に、それでいて活発に動き始めた。

 

「お前だけは、許さない」

「許さなくて結構。お前は、遊んでやったら殺してやるよ!」

「創造能力――」

 

 桐乃はライダースーツの内ポケットに入れていた『ピノッキオの冒険』を取り出し、新たなページを捲る。再び、被害者たちの十四足の足が桐乃を攻撃するために一斉に飛んで来たが、桐乃は蹴り潰されなかった。

 身を翻して軽やかにその場から脱出すると、追撃として向かって来る足を『嘘吐きの鼻』で攻撃するのではなく、壁を駆け上ってそれを避け続けているのだ。

 

「っ! 何だ、その超人的な身体能力は!」

「さあね、教えてあげない!」

 

 赤黒い靴を履いた足を攻撃せず、ただただ避け続ける。この時の桐乃は、確かに超人的な身体能力をしていた。重力に逆らって壁を走り、長椅子を足場にして跳ねて、アクション映画のスタントマン顔負けの動きをしているのだ。

【本】を手にして、何をした?

 何を創造した?

 焦りを見せたクリムゾンだったが、身を翻した桐乃の身体がステンドグラス越しに差し込む月光の下に来て気付いた。彼女の腕や脚、肩と全身から伸びる細い糸の存在に。肉眼では捉え難いその糸は、天井に向かってピンと張られている。

 伸びた糸の先にあったのは、教会にあるはずはない劇場の暗幕。その暗幕の暗がりの中には、桐乃から伸びる糸を手にした仮面を被った二体の人形がいたのだ。

 それはまるで人形劇。人形が人間を操る、異色の劇が開幕していたのだ。

 

「まさか、あの人形に自分を操らせていたのか?!」

「創造能力・歓喜のマリオネット! 糸の支配から解放されて歓ぶマリオネットたち。今度は人間を、その手で操る!」

 

 不思議な能力が宿った木材から作られたピノッキオは、自分の意志で動くことができるしペラペラと喋ることもできる。あまりにも口が達者すぎて、ジェペット爺さんを警察に連行させるような糞ガキでもある。

 しかし、いくら糞ガキでも彼は糸に繋がれたマリオネットたちの憧れの存在だった。それこそ、ピノッキオが登場すればみんなで歓声を上げて演じるはずだった人形劇をボイコットするぐらい、マリオネットたちにとってのピノッキオは人気者のスターなのである。

 そのエピソードから発想を得た桐乃が想像して創造したのは、糸の支配から解放されたマリオネット。今度は逆に、自分たちを繋いでいた糸を器用に使って人間を絡め取ってしまう二体のマリオネットだった。

 道化のアルレッキノと老人のパンタロネがケタケタと木製の口を動かしながら、桐乃に繋がった糸を動かして足の攻撃を回避し、徐々にクリムゾンとの距離を縮めている。

 人間の手によって思うがままに操られる人形のように、人間にはあり得ない動きをしていたのだ。

 

「調子に乗るなよ、クソアマが……!」

「アルレッキノ! パンタロネ!」

 

 クリムゾンには、バック転状態で自身が創造した能力を説明した桐乃がドヤ顔にでも見えたようだ。少女漫画の主人公と例えられた整った顔が荒々しく歪み、怒声と共に足たちがラテンナンバーよりも激しいステップを踏みながら、桐乃を狙って蹴りを入れて来る。

 しかも今度は、足を操る赤黒い液体までもがボゴボゴと音を立てて湧き上がって来た。火にかけたスープから出て来る灰汁を連想させるその液体は床を這い回り、天井付近にいる桐乃へ赤い飛沫をかけて来たのである。

 逆の方向に降る雨のような飛沫は全部を避けられず、何粒かが桐乃の身体に付着したのだが腕に付着したその飛沫がぐるりと円を描き、ライダースーツに包まれた左腕に赤いキリトリ線ができた。

 左腕だけではない。右脚の太腿に胴体の臍から少し上の場所に左足首に、首に、ハサミを添えて切るためのキリトリ線が現れたのである。

 

「足置いてけクソアマーー!!」

「やって堪るかーー!!」

 

 クリムゾンは教壇に置いたままにしていた『赤い靴』の【本】を手に取っていた。

 別のページを開いて【本】に光が集中すると、創造されたのは巨大な十字架……材質は真鍮でも銀でもない。白い乱れ刃が厭味ったらしいほど美しい、刃でできた十字架が桐乃を狙って天井から降って来たのである。

 その姿はまるで、罪人の首を狙って落ちて来るギロチンのようだ。

 一昔前の子供向けの『赤い靴』の物語では、靴に呪いを受けた少女・カーレンの足を切断したのは森の木こりとも書かれているが、実際の物語では確か罪人の首を落とす処刑人だったはずだ。自分の思い通りに行かない女に対して、死刑を執行しようとでも言うのか。

 もう反吐も出ない。こんな奴に吐き捨てる罵詈雑言のための呼吸も言葉も、もったいない。

 前方には十字架のギロチンが降って来て、背後からは十四足の足が飛んで来る。あれらをすり抜けるには若干隙間が狭い。一か八かだ……!

 

「『処刑人に切り落とされた足は、そのまま踊りながら森の奥へ消えて行きました』――慈悲の執行(アシカリ)!!」

「『荒れ狂う海の底から姿を現した化け物は、渦巻く波と暴風と共にピノッキオを呑み込みました』――荒波の鯨鮫(モンストロ)!!」

 

 教会を内側から崩壊させてしまいそうなほど巨大な鯨が創造され、鮫が飛び出て来る口を大きく上げると十字架のギロチンを口に受け止めて、そのまま噛み砕く。海の捕食者に相応しい固い刃が、しょっぱい潮の飛沫とバキバキと言う音を立てて処刑の執行を阻止したのである。

 十字架のギロチンはモンストロに任せた。桐乃はアルレッキノとパンタロネの糸の動きに合わせ、背後から迫って来る足を回避するが、何足かが背中やら腕やらを蹴り付けて鈍痛が走る。頭を掠めた左足は、桐乃の髪を纏めているお気に入りのバレッタを破壊して、肩まで伸びた黒髪が乱れ舞った。

 後少しだ……あと少し近付けば、あの濁った青い目を見開かせて追い詰めることができるんだ。

 また、心にもない嘘を吐いた。「貴方のような男性、タイプなんですよ」という、天と地が引っ繰り返ったって真になることはない嘘を誰にも聞こえない小声で呟くと、手にしていた『嘘吐きの鼻』が高速で伸び出してクリムゾンの咽喉に突き刺さった。

 

「が、はっ……!?」

「そんなに、そんなに足が欲しいか? だったら、くれてやる!!」

 

 呼吸もままならない状態で伸びた鼻に手をかけるが、身体はそのまま背後にある祭壇の壁に叩き付けられて身動きが取れなくなった。その状態で、あれだけ欲しがっていた足が飛び込んで来たのである。

 ドンっ!!っと、大きな音を立てて桐乃の足が壁に蹴りを入れたのだ。クリムゾンの脚と脚の間の壁に。

 俗に「股ドン」と呼ばれる体勢であるが、彼女の脚が立てた音を聞く限り完全な暴力だ。あと少しだけ足の位置が上だったら、男の最大の急所を容赦なく潰されていた。

 その現実を認識したのだろう。クリムゾンの唇と腰と両脚がガクガクと震え出し、自身が女性たちへ散々与えて悦んでいた恐怖を目の前の桐乃に感じたのである。

 そして、力が入らなくなっている奴の右手から白い【本】を抜き取ると、ページを閉じた。

 

「めでたしめでたし」

 

 

 

***

 

 

 

「桐ちゃーん! おはよう!」

「おはよう、槙ちゃん」

「あれ、いつものバレッタはどうしたの?」

「壊れちゃったんだ」

「えー、桐ちゃんに似合っていたのに。そうだ、あの蚯蚓腫れね、すっかり消えちゃったんだ。桐ちゃんに言われた通り、薬を塗ったのが良かったみたい」

「良かった、消えてくれて」

 

 期末試験を終えた学生は一足早い春休みに入っていたが、桐乃は図書館から借りていた本を返却するために大学に登校し、キャンパスへ向かう道中で槙乃と出会った。彼女も本来ならば春休みに入っているのだが、制作中の絵を描き上げたいからと登校して来たらしい。

 彼女たち以外にも、本日の試験を控えている学生たちが行き交う大学の敷地内。ある者は音楽を聴きながら、ある者はテキストを読みながら、そして大多数の者はスマートフォンを操作しながら歩いている。

 その中の何人かは、ネットのニュースサイトでとある記事を目にしただろう。『変態神父、淫蕩鬼畜な所業!』と言うタイトルを。

『赤い靴』の【本】は閉じられて、紋章は桐乃の物になった。監禁されていた女性たちの足も元に戻り、半壊した教会も()()()()()()になった。が、壊れてしまった桐乃のバレッタだけは壊れたままだった。

 まあ、隣でニコニコと笑顔を見せてくれる友人を守れたなら、安い犠牲である。




テッド・クリムゾン(29)
アメリカ出身。ネグレクトの末に教会に預けられて育てられる。
外面がよく真面目にミサに参加している体を装うが、ミサの最中の頭の中は常に不真面目で神への祈りなど一度も真剣にやったことはない。
神父となったが、それは全て外面を整えるため。自身の容姿と神父という外面があれば、禁断の関係を勝手に解釈した女がホイホイ寄って来るため……これも全て救いだというのが、常套句の言い訳。
『赤い靴』の【本】は前任者の神父が置いて行ったものを地下の防空壕と共に見付けた。


創造能力・赤い舞踊(Crimson step)
主人公・カーレンから切り落とされても踊り続けて消えて行った赤い靴を履いた足。
人間から切り取った足を自由に使役する。足そのものではなく、足を操る赤黒い液体そのもの。
クリムゾンが獲物を見つけると獲物の足に赤い切り取り線が出現し、その線にそって切り取れば出血もなくショック死もない。工作気分とか言ってんじゃねーぞ。
ちなみに、足だけではなく腕とか首にも切り取り線は出る。


創造能力・慈悲の執行(アシカリ)
カーレンの足と切り落とした森のきこり……ではなく、原典の死刑執行人が使う仕事道具。
早い話が十字架の形をした巨大なギロチン。足を狩り、首を狩り、邪魔者を狩るための殺戮刃。
厭味ったらしいほど美しい姿に「慈悲」の名前が入っているのが盛大なる思い上がり。


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赤ずきん【Past】01

 その日の読人が視た50年前の【戦い】の記憶は、川を臨むことのできる広場から始まった。

 ロンドン市内から海へと繋がるテムズ川が見えるように設置されたベンチには、先日の夢で登場した『一寸法師』の【読み手】である龍生と、彼の話を熱心にメモを取っている蔵人が座っている。

 太陽が真上に見えるこの時間帯はランチタイムなのだろう。彼ら以外の人々は、フィッシュアンドチップスやサンドイッチを片手に、ファストフードを口に詰め込んでいた。

 

「……つまり、龍生君の実家に代々伝わっていたのがこの『一寸法師』の【本】なんですね」

「はい。うちは岩手の片隅で長年続いた神社です。その社を祀るきっかけさなったのが、檜垣の先祖の前に現れた1人の男と言われています」

 

 龍生の実家は、岩手県のとある神社だ。主に書籍供養を行っているらしいが、どんな氏神を祀っているかは話の流れではよく解らなかった。しかし、その神社の成り立ちは蔵人の興味をそそったようである。

【戦い】の歴史は、日本でいう平安時代から確認されている。優勝賞品である『竹取物語』の【本】がコノ世に現れた時期からだと蔵人は推測していた。つまりは約千年間、不老不死を巡る【戦い】が繰り返されているということになる。

 それからしばらく後の時代、龍生が語って蔵人がメモした内容は鎌倉時代手前まで遡る。奥州平泉・藤原氏……とかの時代、檜垣の先祖の前に1人の男が現れたそうな。その男は見た目こそ若い男であったが、百歳を超えた仙人のような人物だったとか。

 男が一晩の宿を所望したので、人の良い先祖は男を丁寧にもてなすとその男は見たこともないほどの金品を礼として払い、その夜には奇想天外・奇々怪々・摩訶不思議な御伽話を聞かせてくれた。

 

「書物に記された架空の物語が現実に飛び出して来る年がある。その年は、竜が空を飛び虎が火を噴き、天上の美しさを持つ姫が隣に現れる……そういう御伽話を語ったその男は、翌日には消えていた。宿代として先祖に払った金品と、何冊かの白い【本】を置いて。あの者は天の使いか何かだーって思った先祖は、その金品で祠を建てて男や白い【本】を祀って現代の檜垣家さ至るんですよ」

「ふーむ……ところで龍生君、その白い【本】と言うのは千年前でもこの本の形をしていたのですか? 右閉じ右開きの」

「へ?」

「その時代だったら書簡や巻物が一般的のはずですけど。もしその頃から【本】は現代の書籍の形をしていたら、まるで未来から迷い込んできた歴史の遺物のような気がしまして。オーパーツという物ですね」

「えーと……そこまでは、分らんです。でも、わしは小さい(ちゃっこい)頃からこう聞かされていました」

「成程成程」

「それと、その男は自分のことを化け物って言っていたって」

「“化け物”ですか……」

「うちの祖父()様は、天の使いであることが地上の人間に信じてもらえずそう呼ばれて迫害されたから、そう名乗ったんじゃないかって言っていますけどね」

「龍生君は、どう思いますか? その人は、“誰”だったのか」

「……その人、過去の【戦い】に勝利して不老不死さなった人間だとわしは思っています」

 

 老いることも死ぬこともできず、時間の流れに取り残されて孤独にただ存在し続けているだけの、可哀相な化け物――

 その者は、まだこの世界にいるのだろうか?

 あれから約900年もの間、放浪し続けて化け物と名乗り続けているのだろうか?

 だとしたら、あまりにも悲しすぎる。だから、龍生はそれを止めるためにイギリスまでやって来たのだろう。悲しい化け物をこれ以上に生み出さないために。人が人として死ねるように。

 

「私もそう思います。その身に不釣り合いな有り余る祝福は、呪いに近い」

「全世界の権力者が、血眼になって手に入れようとする不老不死は呪い……か。蔵人さんは良い表現を使いますね」

「どうもありがとうございます」

 

 龍生の話を一通りメモし終わると、蔵人は左手の万年筆ともにメモ帳をジャケットの内ポケットにしまった。

 2人が出会ったロンドン塔での夜の後、イギリスに来たばかりで拠点がなかった龍生は蔵人が借りているフラットに転がり込んで同居している。異国で同じ日本人がいると心強いと、人懐っこい笑顔でそう言った龍生と、まあ部屋は余っていますし、1人暮らしにしておくには広いフラットですしと言った蔵人の意見の一致で始まった生活は割と上手く行っていたようだ。

 今夜の読人の夢は、それから数日経った頃の過去の出来ことのようであるが……それから再び、蔵人のフラットに同居人が増えていた。

 

「蔵人さん! 龍生さん! ランチ買って来ました~!」

「おー! 待ってた!」

「ちゃんとマダム・ココのお店で買って来ました! 蔵人さんはシュリンプサンド、龍生さんはフィッシュアンドチップスですね。僕は、迷いましたけど卵にしました」

「お疲れ様、光孝君。龍生君、いくら魚のフライが好物でもそう毎回食べては身体に毒ですよ」

「はーい」

 

 テムズ川の流れに逆らう方向から、紙袋を抱えて走って来たのは声変わりしたばかりのボーイソプラノだった。新しい登場人物である彼は、色褪せたキャップを被った小柄な日本人の少年――名前は、(カエデ)光孝(ミツタカ)といった。

 光孝は先日、ロンドンのスラム街に迷い込んで襲われかけていたところを蔵人に助けられた。イギリスに来たばかりで宿も金もないと言っていたまだ16歳の少年を、じゃあうちのフラットに来ます?と軽く誘ってみたら、次の日から男3人暮らしになったのである。

 やはり50年と言う時代の差だろうか。夢の中の光孝は読人と同い年か一つ年下であるが、高校の同級生たちよりも随分と小柄で童顔で中学生ぐらいの年齢に見えた。蔵人と龍生に頼まれたランチを抱えて、冷めない内にと急いで運んで来た姿は後輩という感じである。

 ちなみに、最近の彼らにはお気に入りのお店がある。中東系フランス人の夫婦が経営する食堂は、蔵人の勘と龍生の舌を駆使してやっと探し当てた店だ。一般的に飯が不味いと言われるイギリス料理が美味く安く食べられるということで、ロンドンを訪れる諸外国の人間にとっての穴場のスポットだった。

 特に、マダム・ココと慕われる夫人が作るフィッシュアンドチップスは絶品だ。

 高温の油でサっと揚げたフライは、衣に混ぜたエールの麦の香ばしい風味が鼻に抜けふわふわの白身魚とホクホクの芋の、淡泊な味と絶妙に調和する。と、グルメ漫画の感想のように語っていた。

 初めてマダムの料理を食べた蔵人と龍生が、「今まで食べたフィッシュアンドチップスは何だったのでしょう」とか「イギリスに来て初めて美味い物食べた」とか真剣な声で言っていたのを見て、本当に美味しいんだな~っと思ったと同時に、どれだけ他の屋台の料理は不味かったんだと感じた読人であった。

 ちなみに、その次に美味いと感じた物はブレックファーストの定番、缶詰に入った豆のトマト煮だと先日の朝食の場面で龍生が言っていた。そして蔵人も小さく頷いて同感だと言っていた。

 そういえば、イギリスで美味い物を食べたかったら三食朝食食っていろ!とかいう、自虐のようなネタがあったのを思い出した。

 

「やっぱりマダム・ココのフィッシュアンドチップスは美味い!」

「日本に出店しても売れる味でしょうね。イギリスの伝統ファストフードだと謳えば、流行に敏感な若者が3時間は行列を作るんじゃないでしょうか」

「東京の人間って、飯食うのに3時間も並ぶんですか?」

「マクドナルドが初出店した時は、凄いことになっていましたよ」

「そもそも、Fast Foodを食べるためにそんなに行列を作ったら駄目じゃないですか」

 

 ちなみに、マクドナルドが日本に初上陸したのは1971年のことである。ハンバーガーの値段が一個80円の時代だ。

 光孝の「ファストフード」の発音がやけに上手いのが気になったが、日本にはまたアメリカの店が出店するとかどうとか話しながら、まだ若い男3人はペロリとランチを平らげる。

 この時代は、21世紀の現代に繋がるものがたくさん現れた。新しい道へ我武者羅に走り続けた時代だった。

 大阪万博でケンタッキーが日本初出店をして、同じ年に日本初のファミリーレストランがオープンし、長年愛されるお洒落雑誌も創刊された。カップヌードルが発売されテレビ通販が始まり、『仮面ライダー』が放送され、アニメーションがその地位を確立したのも1970年代である。

 オイルショックによるトイレットペーパーの買い占め、浅間山荘事件、チャップリンの死去、長嶋引退etc……21世紀生まれの読人にとっては、全て教科書の上の出来事だ。その時代が、祖父たちの青春だったのだ。

 そして、青春映画にはヒロインが付き物である。野球部のマネージャーとか。マネージャーではないしヒロインと言うほど可愛いイメージではないが、男3人の画面の中に彼女が再び現れたのである。

 

「またお会いしましたね、黒文字蔵人」

「こんにちは紫乃さん。今日は、暖かいお天気ですね」

「ええ。春の訪れも近いようです」

 

 確かに、今日は3月のロンドンにしては暖かい日のようだ。ヒールの低いパンプスを鳴らして広場を歩いていた紫乃も、厚手のカーディガンを脱いで腕にかけ、ブラウスと膝下のスカートに紫のリボンが付いたボーラーハットと言う服装であった。

 

「あれ、もしかして……蔵人さんの良い人だったりします?」

「決してそのようなことはありません」

「だそうです。彼女も【読み手】ですよ。紫乃さん、彼は『一寸法師』の【読み手】であり檜垣龍生君です」

「初めまして。綺麗なお姉さんと会えて嬉しいです」

「はあ……」

「座りますか? ベンチどうぞ」

「いいえ、結構です」

 

 本当に嬉しいのだろう。子供のように表情を明るくさせた龍生が、彼の武器である人懐っこい笑顔で紫乃に頭を下げた。

 一方、紫乃はそんな龍生へ懐疑的な視線を向けて品定めするように彼の全身に視線を動かす。最近の若者らしい長めの髪に、右手には挨拶の際に頭の上から取ったハンチング帽、服装は動きやすいジーンズ。

 紫乃の視線が脚まで動いて足元で止まる。龍生の足元はスニーカーでもなければ革靴でもない、素足にサンダル履きだったのだ。彼が『一寸法師』の【本】で創造するものとそのスタイルを見れば素足なのも納得が行くだろうが、それを目にしていない紫乃にしてみれば春口にサンダル履きのちょっと頭が湧いた存在にも見えなくない。

 龍生にあまり良い印象を抱かなかった紫乃に対し、龍生はそれを知って知らずか、立ち上がって譲ったベンチの席を断られてもニコニコと笑顔を絶やさなかった。

 

「琴原紫乃と申します」

「琴原さんも【読み手】なんですか! 【本】のタイトルは何ですか? 紋章はいくつ持っていますか?」

「光孝君、失礼ですよ」

「この子は?」

「あ、彼は【読み手】じゃありません。ただの一般人です」

「はい! 僕、楓光孝と言います! 【読み手】同士の【戦い】をどうしてもこの目で見てみたくて、ロンドンに来てしまいました!」

「【戦い】を見に来たって……そのために、1人で日本からロンドンへ?」

「いいえ、ブラジルからです。10年前に移住して実家はコーヒー農園をしています!」

 

 幼い頃、祖父から聞かされた【読み手】同士の【戦い】を御伽話のように憧れた。想像力が創造力になり、物語の登場人物が現実となり退屈な日常が破天荒な非日常へと変貌する……そんな、1年間。

 今年がその1年に該当すると知り、ブラジルに現れた【読み手】から主戦場がイギリスだと聞いたらいても立ってもいられず、なけなしの金を引っ掴んで渡英したらしい。数日前に、ロンドン郊外の貧民街で助けた少年は、ブラジル訛りのポルトガル語とたどたどしい英語と、教科書のお手本のような日本語で蔵人にそう語ったのだ。

 表記は「三等客室」のはずなのに、外見と待遇は八等ぐらいの客室という名のボロ船の倉庫にすし詰めにされて何日も波に揉まれ。ロンドンに着いたら着いたで貧民街に迷い込み、最近景気の良いアジア人だと目を付けられて身包み剥がされそうになった。

 それでも、蔵人に出会った時の光孝はそんな苦労を微塵も感じさせず、ただ、蔵人の持つ白い【本】をキラキラとした目を見詰めていたのである。

 

「祖父から聞かされていた通り、魔法にかかったような【戦い】ですね! 東京オリンピックと【読み手】の【戦い】を生で見ることが僕の野望だったんです! もう思い残すことはありません!」

「面白いでしょう、光孝君」

「この子を()()()と称する貴方の神経が不可解です」

 

 キャップ越しに光孝の頭を撫でる蔵人が、何故彼を自身のフラットに連れて来たのか。その理由は解ったが、紫乃の言う通り蔵人の神経はちょっと不可解である。

 要は光孝が気に入ったのだと、読人はそう解釈することにした。

 

「ところで、紫乃さんはこれからランチですか? それとも、ランチを終えて春の陽気に誘われたお散歩ですか?」

「昼食は終えましたが、ただの散歩ではありません。人を探していて、この広場を待ち合わせの場所に指定されたのです。蔵人、貴方も知っている方ですよ」

「おや、誰でしょうか?」

 

 そう言って左手を首に添えて微かに傾けるが、知り合って間もない蔵人と紫乃の共通の知人と言うのは限られて来る。「シノ!」と呼ぶ声に気付いて振り向くと、テムズ川の流れに沿ってこちらへ歩いて来るのは、あの日の夜に脱落した『金の斧・銀の斧』の【読み手】であった青年・ナルキッソスだった。

 

「シノ、来てくれて嬉しいよ。そして、君もいたのか。クロード」

「先日ぶりです、Mr.ミューズ」

「蔵人さん、誰ですか?」

「紫乃さんに負けた【読み手】の方です」

「【読み手】の方ですか!? 何の【本】だったんですか?」

「負けた人か~紫乃さん、強いんですね」

「クロードだけではなく、君たちもぶん殴りたい衝動に駆られるんだが……!」

「あれ、紫乃さんに負けて脱落したのに、言葉さ通じるんだな」

「本当ですね。どうやら、言語の疎通は紋章のある・なしに関わらないようですね」

「それは、私も驚いている。1年間だけの参加賞として受け取っておくよ。それより、シノ以外の【読み手】もいるのなら話を聞いた方がいい。随分と、過激なNymphがいるようだ」

 

 Nymph――ニンフとは、ギリシア神話に登場する美しい妖精たちのことだ。

 ギリシア人のナルキッソスの口から、流暢な日本語で紡がれたのは情報だった。随分と過激な、妖精と例えられる【読み手】がいると言う話である。

 先日、1人の【読み手】が闇討ちに合った。それは珍しいことではない、不老不死を咽喉から手が出るほど欲する【読み手】同士ならば目と目が合ったら直ぐに戦闘が開始される。だが、その戦闘スタイルが過激だった。脱落した方の【読み手】の悲鳴を聞き付けた夜回りの警官がその光景を目にすると、警官も同じく悲鳴を上げたと言う。

 

「その【読み手】……名は解らないが、『金のガチョウ』の【本】を手にしていたらしい。彼の腹が、バッサリと切り裂かれていたそうだよ。物語の中のガチョウのように、内臓が見えるほど」

「っ!」

「どったら【本】だよ、それって……」

「まあ、【戦い】が終わったらそれも()()()()()()になったが、『金のガチョウ』の【読み手】は精神的なショックで病院に運ばれたそうだ。頻りに呟いていたらしい、赤いキャップの子供にやられたと」

「子供? 腹を裂いた【読み手】は、子供だと言うのですか?」

「そうだ。それも、妖精のように可愛らしい少女だった」

 

 神々に愛を囁く妖精のように可愛らしい少女だったから油断でもしたのか、バッサリと腹を切り裂かれて精神的に重傷を負い、紋章を奪われて脱落した。ナルキッソスも人伝にその話を聞いた時は驚いたが、既に脱落した自分には関係ない話だと虚しさも感じた。だが、何を思ってか、自分に勝利した紫乃へこのことを伝えようと彼女を呼び出したのである。

 赤いキャップの殺戮妖精にご注意を、と。

 

「妖精と言うよりは、切り裂きジャックのようですね。ここ、ロンドンですし」

「何ですか、その切り裂きジャックって?」

「龍生君はご存じないですか? ロンドンを代表する有名な殺人鬼ですよ。フィクションの世界では、かのシャーロック・ホームズとの対決が実現したり……」

「Mr.ミューズ、貴重な情報をどうもありがとうございました」

「構わない。しかし、この話を聞いて思うが、シノのような美しい女性に敗れて私は幸せみたいだ。それと、しばらくこの店でピアノを弾かせてもらうことになった。是非来てくれ」

「ええ、その内に」

「おや、帰国はしないのですか?」

「本来ならば、こんなに早く脱落する予定ではなかったのでね。しばらく、君たちの【戦い】を観戦させて頂くよ。クロード、君にも」

 

 ナルキッソスが紫乃と蔵人に手渡したのは、ロンドン市内の三ツ星ホテル内にあるパブのカードだった。そして、紫乃の手を取って跪くと彼女の白い手にキスを贈る。音楽と女性を愛したギリシア神話の神・アポロンのように、気障な仕草であった。

 

「……蔵人さん、どう思います?」

「どうでしょうね」

 

 さて、どんな可愛らしい少女なのだろうか。赤いキャップの妖精改め、赤いキャップの切り裂き魔と言うのは。

 

 

 

***

 

 

 

 そしてこれは、読人が夢で視た訳ではないけれど、50年前のその日の夜に起きた出来事である。簡単に言うならば、蔵人が体験したものではなく紫乃の記憶だ。

 蔵人たちと遭遇し、龍生と光孝と自己紹介をして、ナルキッソスから情報を得たその日の夜、紫乃はもう1人の男性と会う約束をしていたのだ。

 待ち合わせ場所は駅前にあるレストラン。比較的庶民的な値段で、そこそこの料理を提供するその店で出て来たシェパードパイに手を付ける前に、紫乃は驚いてフォークとナイフを落としかけた。

 

「脱落したって……伊調さん」

「すまない琴原さん。ロンドンに来て1日で、このざまだ」

 

 紫乃の正面に座る男性。伊調(イチョウ)延一(エンイチ)は彼女の知人で、『四谷怪談』の【読み手】だ。紫乃より遅れてロンドンへやって来たのだが、悔しそうに語るその通り渡英して早々、【戦い】に敗れてしまったのである。

『四谷怪談』の白い【本】の裏表紙は真っ新だ。あったはずの紋章が奪われてしまっている。

 

「誰に敗れたのですか?」

「名は名乗らなかった。だけど、その姿はしっかりと見たよ。赤い帽子を被った白人の少女だった」

「っ!」

「自分の背丈ほどの巨大なハサミを手にして、夜道を襲われてね。()()()()()()になったが、バッサリと断ち切られてしまった」

 

 そう言って、伊調は左の肩をトントンと叩いた。左肩を断ち切られ、一時的に腕と胴体が離れ離れになっていたことを示している。

 昼にナルキッソスから聞いた【読み手】の情報を一致する……赤いキャップを被った、切り裂き魔の少女。紫乃が把握している範囲で、もう2人の【読み手】が襲われ紋章を勝ち取られている。

 

「伊調さん、少女の外見は? 巨大なハサミの他に創造した能力は? 【本】のタイトルは?」

「外見は……16、7歳ぐらいの白人で、目の色は青っぽかった。もしかしたら、実年齢はもう少し下かもしれない。恐らくゲルマン系だ。言葉は通じたが、節々にドイツ語が混ざっていた」

「ゲルマン系、ドイツ人?」

「それと、能力なんだが……」

 

 少女の身の丈ほどの巨大なハサミと、それから。紫乃へ【読み手】の情報を伝えようとする伊調だったが、炭酸水のグラスを持つ彼の手が小刻みに震えていた。

 赤いキャップの少女に襲われた【読み手】は、精神的ショックで病院に運び込まれた。彼と同じで、伊調にもその恐怖が染み付いてしまっている。

 一体どんな【本】の【読み手】なのだ?

 腹を裂くハサミ……この時の紫乃の頭の中には、数冊の物語が候補に挙がっていた。

 これが、蔵人たちの知らぬ場所で起きていた出来ことである。伊調はこの後、敗者として日本へ帰国した。




伊調延一(28)
紫乃さんの知人で『四谷怪談』の【読み手】……なのだが、参戦して早々に脱落してしまった。ぶっちゃけ相手が悪かった!
出身は青森県下北半島。実家はお寺に関係する古い家らしいが……?


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赤ずきん【Past】02

 切り裂きジャックは読人でも知っている。世界的に有名な殺人鬼だ。

 19世紀のロンドンで娼婦ばかりを何人も惨殺し、死体の一部分を持ち去ると言う凶行に手を染めたにも関わらず事件は迷宮入りとなってしまった。約100年が経過した過去の時代でも、読人が生きる現代になってもその謎は解明されていない。

 本物の切り裂きジャックの正体は未だに闇の中であるが、【読み手】たちを騒がせている赤いキャップの切り裂き魔の正体はまさかの少女らしい。しかも、可愛いと聞いてしまったら一回ぐらいこの目で拝んでみたいものだと軽口を叩いたのは、光孝と並んで夜道を歩く龍生である。

 

「龍生さんは怖くないんですか?容赦なくお腹を切り裂かれるんですよ……!」

「確かにおっかないが、死ぬ前に“なかったこと”になるなら元さ戻るし平気だろ」

「普通は、お腹を切り裂かれたらショックで死んでしまうものなんです!」

「大丈夫だ、お前は【読み手】じゃないから狙われねって」

「ううう……もう思い残すことはないって言ったけど、今年1年はしっかり生きていたいです」

 

【読み手】本人よりも光孝の方が怯えていた。

 紙袋を抱えて並んで歩く龍生と光孝であるが、地図を片手にうろうろと絶賛迷子中である。そろそろ冷蔵庫の中身が乏しくなって来たので買い出しに出た2人は、食材は無事に買えたが帰り道で迷い惑わされている内にあっという間に夜になってしまった。

 ロンドンに来て数日、未だに土地勘が芽生えていない。もう夕飯の時間を過ぎてしまったお腹も空いて来た。

 ちなみに、夕飯の時間と言うのは日本基準の時間のことで、現在は午後7時31分である。イギリスは夕飯の時間が7~9時と遅く、アフタヌーンティーのスコーンを詰め込まなければ胃袋が持たない時間帯だ。

 

「あ、電話BOXだ。一応、蔵人さんに連絡を入れましょう。迷子になっていますって」

「そうだな。頼む」

 

 ロンドン名物の赤い電話ボックスを発見すると、龍生が紙袋を預かって光孝は縦長の箱の中に入って行った。光孝が電話をかけている間にも龍生は地図を広げて辺りを見回しているが、よく分らずにハンチング帽ごと頭をガシガシと掻いた。

 誰か通行人に道を尋ねようとでも思ったのか、道路の方へ視線を移してもここは古い路地のために足元が悪くあまり人は通らないようである。彼ら以外、人っ子1人いなかった。しかし、読人は気付いた。別の細い路地から出て来た人影に。

 バスケットを手にした赤いキャスケット帽を目深に被った、ほっそりとした小柄な少女……彼女の姿が夢に浮き出た瞬間、声には出せない「あっ!」という読人の言葉は龍生には伝わらなかった。彼が再び地図へ視線を向けたその瞬間、少女はバスケットの中からハサミを取り出して龍生へ向けて投擲したのだ。

 布を裁断するための大振りなハサミ。刃先が鋭く尖った殺傷性の高そうなそれが、龍生に向かって一直線に飛んで来たのだが、命中することはなかった。サンダル履きの足元から湧き出て来た水が渦状の盾となってハサミを飲み込み、凹凸の多い石畳の上にカランと吐き出したのだ。

 

「赤い帽子? まさか、噂をすればの切り裂き魔か?」

「っ!」

「うわっ!?」

 

 赤いキャップの切り裂き魔――改め、赤いキャスケット帽の少女は次に、手にしたバスケットの中からマスケット銃を取り出した。

 

「え、え、龍生さん!?」

「光孝! そこさおれ!あと食いもん守っとれ!」

 

 サンドイッチやスコーン、ジャムなどの香ばしくて美味しそうな匂いがするはずの可愛いバスケット籠の中から、火薬臭い銃身が取り出され早速龍生に向かって一発撃って来た。

 どうやって収納していたのだろう?

 マスケット銃の大きさとバスケットの大きさが、物理法則的に噛み合わない。某国民的猫型ロボットの四次元ポケットみたいだと読人は思った。

 

「ド●えもんのポケットか?!」

 

 あ、龍生も同じことを思っていた。ちなみに、連載開始は1969年である。

 話を戻そう。火薬の爆発に弾かれた弾丸は龍生を狙ったが、渦から形状を変えた水の壁に飲み込まれて彼には届かなかった。水の壁は流動して波になると少女を取り囲み、龍生は『一寸法師』の【本】を片手にサンダルを脱ぎ、お椀の光沢を持つ雪駄を創造して両足に履いた。

 一方少女はと言うと、弾丸を撃ってしまったマスケット銃を放り捨てるとバスケットの中からもう一丁を取り出して引き金を引いた。今度は真っ直ぐ突き進む弾ではない、銃身から飛び出て四方に飛び散ったあれは散弾だ。水流の上を滑る龍生には当たらなかったが、その威力はやはり普通の散弾ではない。命中した水流を突き抜けて、一瞬だけポッカリと小さな穴が開いてしまったのである。

 

「あ、あわわわわわ……!」

『光孝君? 粟を買って来たんですか? 私、粟は苦手なんですよ。オートミールとかも独特の舌触りがどうも……』

「くくく、蔵人さん! 出ました! 赤いキャップの、切り裂き魔が!【読み手】が! 龍生さんが襲われています」

『おや、思った以上にお早い登場ですね。分かりました』

 

 光孝は食糧の入った紙袋を電話ボックスの中に引き込むと、固く扉を閉めてその中に立て籠もった。蔵人との電話も切らずに焦っていたため、蔵人も現場の状況の音をいくらか拾っていたのだが……確かに、まさか情報を聞き入れた当日に現れるとは誰も思わない。

 腹裂きと言う残虐行為に怯えていた光孝であったが、蔵人の声を聞いて幾分か落ち着いたようだ。電話ボックスの中から外を覗き込み、龍生と少女の一挙一動を目で追って時には唾を飲み込んで大きく息を吐いた。

 そう、彼はこの【戦い】が観たくてイギリスまでやって来たのだ。メルヘンやファンタジーの世界とは程遠い、あまりにも血腥い現場の状況を聞いて肝が冷えたが彼の目の前に広がる光景は、確かに現実には想像し得ない非日常的なものであった。

 

『ところで光孝君。赤いキャップのお嬢さんは、どんな物語の【読み手】でしょうか?』

「蔵人さん! 【本】のタイトルは見えません。お嬢さんと言うより、どこかの国の兵隊のようです! さっきから小さなバスケットの中から何本も鉄砲を取り出して、龍生さんを撃っています……わぁ!?」

『撃たれましたか?』

「電話BOXに! 流れ弾が来ました! 龍生さんは、水流に乗って逃げ回っています!」

『流石龍生君』

 

 チュイン!と音を立てて、光孝が立て籠もっている電話ボックスの上部に流れ弾が命中し、煙と共に穴が開いた。貫通したので二個も開いた。だけど、狙われている張本人である龍生には一発も当たっていない。少女を取り囲む水流を滑り乗る機動力で回避し続けているのだ。

 凹凸の多い石畳の裏路地は、龍生が創造した『一寸法師の川下り』に浸食されて冠水が発生し、路地がそのまま流れの速い川になってしまった状態だ。その川の上に、バランスを保って立つ『一寸法師』の【読み手】と流水によってブーツがすっかり水浸しになってしまった少女が向き合うと、彼女が切り裂き魔と呼ばれるには些か可憐すぎる容姿がはっきりと解ってしまった。

 

「こりゃ、随分とめんこい子だな。何であんたみたいな女子が、バカスカと銃ば撃ちまくっている?」

「……」

 

 赤いキャスケット帽の下には、ままごと人形のように可愛らしい少女がいたのだ。

 キャスケット帽の下から覗くのは緩くウェーブがかかったブロンドの髪、白い頬にはほんのりと桃色が差し込み小振りな鼻はスっと筋が通っていて形も良い。そして、アーモンド形の目に縁取られた瞳は紫がかった青だ。その色に気品さえ感じさせる、人形のように可愛い少女である。

 しかし、そんなにも可愛く、龍生に言わせてみれば「めんこい」少女なのだが、光孝が言った兵隊のようだと言うのもあながち間違ってはいない。少女が身に着けているのは、ふわりと裾が広がるワンピースでも活発な印象を与えるオーバーオールでもない。一見すると、軍服にも見える厳つい深緑色のジャケットだったのだ。

 そして、彼女はバカスカとマスケット銃を撃つのを止めた。手にしていたマスケット銃を捨て去ると、再びバスケットの中に手を入れて何かと取り出しそれを空中に放り投げる。

 何を投げたのかと、龍生の顔が上を向くと……夜なのでよく見えなかったが、巨大な質量を持ったナニかがヒュルルル~と音を立てて、彼の頭上に落下して来るのだけは見えたのだ。

 

「でぇぇぇーー!?」

「龍生さーん!?」

『実況の光孝君、龍生君はどうなっていますか?』

「あ! まだ蔵人さんと繋がっていた! えーと……龍生さんの頭上に、何やら巨大な鈍器のような物が落ちて来て……あ、あれって、ワインボトル?」

『バスケットから銃に、ワインボトルですか』

 

 間一髪。川の中に飛び込むようにして回避したが、龍生の頭上に落下して来たのは、人がすっぽり中に納まってしまうほど巨大なワインボトルだった。

 結構な重力を味方に付けて落下して来たはずなのに、砕けてもいなければヒビも入っていない。逆に石畳を粉々に破壊したその様は、もはやガラスの瓶ではなくただの鈍器である。

 そして、蔵人は光孝を実況呼ばわりし始めた。

 

「あ、危なっ……!」

「成程、ただの愚者という訳ではなさそうですわね」

「っ、やっぱり切り裂き魔か」

 

 少女のジャケットの胸元から白い【本】が発する淡い光が漏れ出した。そして、やはりバスケットの中に手を入れると、今度はマスケット銃以上に巨大な武器が姿を現す。

 少女の身の丈ほどもある、巨大な裁断ハサミだ。持ち手に白い布が巻かれて、手が滑らないようにしているそれが本気度を表しているようにも見える。

 水面に突き刺した刃先が石畳に突き刺さった甲高い音が耳に痛い。バスケットが消えたと言うことは、あのハサミが一番の武器と言うことか。

 ハンチング帽へ手を乗せてしっかりと被り直した龍生は、そのハサミの登場にゴクリと唾を飲んだ。確かに、目の前の少女は可愛い。恋愛感情等ではなく、頭を撫でで愛でたくなるような容姿をしている。だが、その紫がかった青い目には冷たい光があった。読人も理解した……光孝が、彼女のことを“兵隊”と称した理由を。

 どんな手段を使ってでも任務を遂行する、揺るぐことのない鋭く無機質な目をしていたのだ。

 

「創造能力・一寸法師の川下り!」

「武装能力・腹裂きのハサミ(Incision-Schere)!」

 

『一寸法師』の【本】が光を放ち、路地を川へと変化させていた水流が鎌首を上げて、十数頭の蛇のようにうねり少女に襲いかかる。一方、片手で軽々と巨大なハサミを持ち上げた少女は、ジャキン!と言う、心地良いほどの綺麗な金属音を立ててその水流を切ったのだ。

 蛇の頭のように上げた水流の先端が見ことに切り落とされ、巨大な雫となって地面にボタボタと落ちる。何でも切るハサミか。人や物だけではなく、水のような流動体までをも。

 襲いかかる水流を切り落として、ハサミの切っ先が向かうのはその奥にいる龍生だ。水流の群れを創造しても水の壁を創造しても、それをいとも容易く切り開いてしまう少女の冷徹な瞳に呑まれかけている。慌てて退行しようとする龍生の足首にハサミがかかり、電話ボックスの光孝が悲鳴を上げたが2人の【読み手】の間に割り込んで来た黒い影によって、龍生の足が胴体と離れるのを回避できた。

 

「蔵人さんの烏!」

『光孝くーん? もしもーし? 光孝君、聞こえます?』

「蔵人さん! 八咫烏さんが来てくれました!」

『八咫君は現場に到着したようですね。では、私も今からそちらに行きます』

「え?」

 

 両者の間に割って入って来た八咫君によって龍生と少女に距離ができた。

 光孝が電話越しに八咫君の到着を知らせると、その言葉と共に電話は切れてしまう。そして、八咫君が闇夜に同化しそうな黒い羽根吹雪を散らすと、三本脚の烏の姿は消えてそこにいたのはいつものように、揃いのスリーピースのスーツを着て帽子を被った蔵人だったのだ。

 

「蔵人さん!」

「どうですか龍生君。以前から移動が面倒だな~と思っていたんですけど、八咫君と私の居場所を交換することで、瞬間移動を可能にする術を創造してみました。見事に成功です!」

「凄く勝ち誇った顔をしていますね」

 

 羽根の向こうから姿を現した蔵人の表情は、読人に言わせてみればとんでもないドヤ顔だった。

 八咫君を介しての瞬間移動を成功させ、ドヤ顔と共にテンションが上々の蔵人を余所に八咫君によって【戦い】に水を差された少女は、苦虫を何匹も噛み潰したような顔になっていた。可愛い顔が台無しですよ、と声をかけても良いぐらい酷い表情である。

 

「ところで龍生君、彼女はどのような【読み手】でしょうか?」

「めんこい顔して苛烈な子ですよ。容赦ないです」

「むふむふ。ところでお嬢さんのお名前は?」

「あ、聞いてないです」

「駄目ですね。【読み手】同士の【戦い】は名乗るのが礼儀ですよ、リトル・レディ。切り裂きジャックのように誰それ構わず襲撃するのは、ベイカー街の探偵のお世話になる方々と同じです」

「……っ」

「と言うか、わしも名乗ってないな」

「今度から礼儀を弁えましょうね、龍生君」

 

 ほらまただ、また苦虫を噛み潰したような顔になった。

 丁寧な言葉使いの中に毒が数滴混ざっていることがよく分かる。と言うか、蔵人自身が隠す気がない。

 生前もこんな感じだったよな~と、在りし日の祖父との想い出が蘇りかけた読人の視界に、キャスケット帽を脱いで顔をはっきりと見せた少女の姿が移り込んだ。帽子の中に押し込んでいた背中まで伸びる綺麗なブロンドが、湿った夜風に吹かれてサラサラと揺れる。

 また、霧が出て来そうだ。

 

「ご無礼をお許し下さい。貴殿たちが、礼儀を尽くすのに相応しい者たちか判断しかねましたので。【本】が創り出す財宝に欲を出し、わたくしの姿に手を抜いた痴れ者たちとは違うとおっしゃりたいのですね」

「おっしゃりたいですか、龍生君?」

「わしに話を振らないで下さい。えーと、めんこい子だな~とは思いましたけど」

「ちょっと煩悩が出ていましたね」

「うん」

「では、わたくしのダンスのお相手は、そこの烏の羽根の殿方がして下さるのでしょうか」

 

 社交界デビューを果たした令嬢の初々しいダンスのお誘いなんかではない。蔵人に向けての挑発だ……少女の標的は完全に移行した。通り魔のように襲いかかった龍生から、正面から【戦い】の誘いをかけて来た蔵人へ。

 

「私なんかでよろしいのですか? お嬢さん」

「ええ、貴殿のその口に、岩を詰めて針と糸で縫ってしまいたい衝動に駆られます」

 

 ほらね、とっても物騒だ。

 

「わたくしは西ドイツが名門・アーベンシュタイン家が一員、イーリス・アーベンシュタインでございます。【本】のタイトルは『Rotkäppchen』!」

 

 日本語のタイトルは『赤ずきん』。少女――イーリスが手にする白い【本】の裏表紙には、頭巾を被った少女がナイトキャップを被ってベッドに寝る狼に近付くシルエットの紋章が刻まれていた。

 ほっそりとした腕に再びバスケットが現れると、距離をとって跳躍しそのバスケットの中身を蔵人へぶちまけるようして大きく振る。バスケットの中から出て来たのは焼き立てのパンでも、お見舞いのワインでもない。狼の腹に詰められた……と言うより、これから蔵人の口に詰め込まれる予定の岩が雪崩の如く降って来たのだ。

 だが、そんな痛そうで苦しそうな攻撃を素直にいただく訳にはいかない。口に入れたいのは、岩よりもローストビーフだ。

『古事記』の【本】を開いた蔵人と、隣にいた龍生及び光孝を電話ボックスごと呑み込んだのは、蔵人曰く引き籠るための岩戸。彼の手にする【本】が『古事記』だと判明した時点で、これが何か分かる。日本神話の最高神・天照大神が弟の蛮行にブチ切れて引き籠り、世界から太陽を消滅させてしまったあの神話に出て来る『天岩戸』だ。

 岩戸の中に引っ込んで降って来る岩雪崩を防御すると、再び戸が開かれて蔵人が中から出て来る。ちょっと困った時の癖で、左手を首に添えながら。

 

「日本から参りました、黒文字蔵人と申します。【本】は、『古事記』。一曲踊って頂けますか? お嬢さん」

 

 

 

***

 

 

 

 蔵人のその台詞を遮るように、目覚まし時計のけたたましいアラームが乱入して来た。

 読人を叩き起こそうとしている目覚まし時計の時間は6:30。母が買ってきたボタニカル柄のカーテンの向こうからは、微かな冬の朝日が差し込んでいる。読人はパジャマ、前髪には寝癖、ここはベッドの上。足元で丸くなって眠っている火衣が、湯たんぽみたいで温かい。

 つまり、起きた。

 蔵人とイーリスの【戦い】が始まったばかりの場面で。

 

「……、……まさかの、前後編?」

 

 はい、前後編です。




『レッドキャップ』とは。
イギリスの民間伝承に登場する、殺戮妖精。
所謂悪い妖精で、赤い帽子は犠牲者の血で真っ赤に染まっているとか……。


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銀河鉄道の夜×人魚姫01

 身体の芯まで冷え込みそうな2月の第二週目。読人の通う高校では、来週の期末試験に向けてのテスト週間に突入した。

 この一週間は勉学に集中しなさいと言うことで部活は禁止。部活動に所属していない読人は、バイトを休止して教科書やノートと格闘を続けていたのだが、何となく身に入らなかった。

 その理由は、例の過去の夢が良いところで終わってしまったからである。滅茶苦茶続きが気になる場面で強制終了、しかもあの後から過去の夢を視ていない。

 好きな漫画が急に長期休載に入ったような気分である。あの後、『赤ずきん』の【本】の読み手である少女と蔵人の【戦い】はどうなったのか?

 

「……その内、続きも視れるかな」

『読人~何回目の休憩だ? お前、物理ヤバいんじゃなかったのか?』

「そうだった!」

 

 右手を首に添えて傾げていたら、火衣がオレンジの蛍光ペンをコロコロと転がしながら手元にやって来た。

 基本的に文系の頭の作りをしている読人は、物理や理数系の計算が苦手だ。特に物理は、自分の飲み込みが悪いのか担当教師の教え方が悪いのか、サッパリ理解できずまさかの赤点になるやもしれないところまで追い詰められている。

 三学期末に赤点はまずいと、2時間ほど物理の教科書とノートを開いて勉強しているが、やっぱりサッパリ分からなかった。

 ベッドサイドの目覚まし時計を確認すると、時刻は午後9時の数分前。そろそろお風呂が開いたと、母か父が声をかける頃かなと思いながら椅子の上で大きく背伸びをした。

 

「あ、見て火衣。雪が降って来た」

『今日も寒かったからな。こりゃ積りそうだぞ』

 

 読人の勉強机は窓に面している。カーテンの隙間から白い綿雪がちらちらと待っているのに気付いてカーテンを開けると、真っ暗な空間に白い息が花のようにぽわっと咲いていた。

 明日の交通機関はどうなるのだろうとぼんやり考えながら冬の空を眺めていたら……突如、ソレが現れた。天から降って来る綿雪を掻き分けるように、静寂な冬の空をかき乱すように。甲高い汽笛が読人の心臓を跳ねさせて「ぼんやり」をどこかへ追いやったかと思うと、真っ暗な空の向こうから黒い汽車が走って来たのである。

 

「っ!! 汽車?!」

『あれは……!』

 

 円柱型の煙突からは真っ白な煙を吐き出し、レールの敷かれていない冬の空を道として車輪が忙しなく動いて、あっと言う間に読人の目の前を通過して行ったのだ。

 その姿は正に蒸気機関車。子供向けの絵本の挿絵やスチームパンクの小説、蒸気機関が最盛期を迎えた頃を舞台にした映画で見ることのできるレトロで懐かしい黒い汽車があっと言う間に現れて、あっと言う間に空の彼方へ消えて行ったのである。

 

「……空を走る汽車、銀河鉄道」

『宮沢賢治だな。と、言うことは』

「あれは、【読み手】に創造されたものだ!」

 

 この時の読人には、はっきりと【本】のタイトルが浮かんでいた。

 童話作家、宮沢賢治が書いた、美しくも儚く哀しい星の海の物語『銀河鉄道の夜』――きっとあの汽車は、その【本】から想像して創造されたものだろう。

 充電器に差しっぱなしにしていたスマートフォンと『竹取物語』の【本】、そしてこの冬で一気にボロボロになったコートを手にした読人は家を飛び出した。声をかけて来た母に、「コンビニに行って来る」とか適当な理由を付けて、肩に火衣を乗せてあの汽車を追い掛けたのだ。

 

『読人! お前、自分から【戦い】を仕掛けるつもりか?』

「いや、そんなんじゃない……だけど、あの汽車を見た瞬間、凄くわくわくしたんだ」

『わくわく?』

「うん! 何て言えば良いんだろう……もっとあの汽車――鉄道を、間近で見たい!」

 

 星の海を走る銀河鉄道――隠れることなく、星の見えない空を線路として威風堂々と汽笛を鳴らすその姿に、思わず心が躍った。わくわくして、酷く憧れたのだ。

『銀河鉄道の夜』の物語は何度も読んだ。それをモデルにした昔のアニメも、再放送で観たことがある。宇宙を旅する鉄道の物語と言うのは、どうも少年の心を擽る要素がたっぷり詰め込まれていて、読人もきっとそれに惹かれたのだろう。

 

「子供の頃に見た映画、銀河鉄道をモデルにしたその映画が大好きだったんだ! 何度もおじいちゃんに強請って、何度もDVDを再生してもらった! それを思い出した」

『子供か!』

「良いだろ。あんなにファンタジーな創造は、始めて見たんだ!」

『まあな』

 

 確かに、武器やら爆発する橋やらしか見ていない【本】による能力の中で、あんなにも素敵な鉄道が現れたら見惚れもする。あれはきっと、ただ単に『銀河鉄道の夜』への憧れを想像して創造した産物だ。

 でなければ、こんなにも胸が高鳴ることはないだから。

 家を飛び出した読人は、銀河鉄道が走って行った方角を目指して綿雪が散る夜道を走った。もし、銀河鉄道に追い付いて【読み手】と対面したら【戦い】になる可能性もあったが、どうにもこの衝動は抑えられなかったようである。

 息が切れそうなほど走り続けると、やがて町外れの丘までやって来てしまった。

 その丘には、市内の小学校や幼稚園が植樹した記念樹や、海外の姉妹都市から贈られた記念彫刻等が置かれてちょっとした公園のようになっているのだが……その丘の上に、あの銀河鉄道が停車していたのだ。

 シュシュシュと、いう煙突の音が風に抜けて機体は微かに振動している。人間が乗って旅ができる大きさの銀河鉄道が、駅の乗客を待っているかのようにそこにいたのである。

 

「うわ……本当に、銀河鉄道だ。凄い凄い! 写真撮って良いかな?」

『で、ここまで来てどうするんだ? 【読み手】を捜すのか?』

「あ、どうしよう? 別に、こっちから戦う意志はないんだけど……あ!」

 

 パシャーっと、フラッシュを焚いてスマートフォンのカメラで写真を一枚撮った読人だったが、その瞬間に銀河鉄道が車輪を回して動き始めたのである。

 まさか撮影はお断りだったのか?

 煙突から輪っかになった煙を吐き出しながらゆっくりと前進する銀河鉄道を追って、読人が走り出してしまった。

 

『読人! 乗るつもりか?』

「えーと! 一回くらい乗ってみたい!」

『いくらテスト週間だからって、現実逃避しすぎだろ!』

「あ! あの最後部、飛び乗れそう……火衣!」

『オイオイ、まさか……』

 

 読人が想像した時点で、その考えは火衣にも伝わる。

 読人が考えた通りに火衣の身体が最大まで大きくなると、ギリギリ最後部のデッキまで両手が伸びたので手すりをガッシリと掴み、読人が巨大化した火衣の身体に抱き着けば一気に中型犬サイズまで縮んだのである。

 大きさを自在に変えられる火衣をゴムのように使って乗車完了。いや、これって無賃乗車とか言われないか?

 

「の、乗れた!」

『乗れた! じゃねえよ! でも、乗っちまったもんはしょうがない……もう、途中下車はできないみたいだな』

「っ! うわ~!」

 

 感嘆の溜息。それしか出なかった。

 都会の空に星は出ない。けれど、下には確かに銀河があった。

 上空何百mの高度まで飛翔した銀河鉄道から見える景色は、駅前のカラオケ店や居酒屋、スナックのネオン看板が様々な色で混ざり合い、一般家庭から洩れるLED電球の光は白い洪水を起こしている。

 100万ドルの夜景という言葉があるが、流石にそれには及ばず宝石箱をひっくり返したと言うほどではない。しかし、綺麗に磨いたガラスの欠片をばら撒いて色と光が複雑に絡み合ったとか、そんな表現ができる銀河だ。

 こうして空から覗いて見ると、今まで何気なく目にしていた物がとても美しかったことに気付いた。

 

「すっげー……っえくしゅ!?」

『やっぱり二月は寒いな』

「中、入っちゃおうか?」

『無賃乗車する気か? 財布は持って来なかっただろう』

 

 高校生1人とハリネズミ1匹の運賃を払えなかったら、最悪の場合この上空から叩き落とされる覚悟は持った方が良いだろう。だけど、身に刺さる寒さには耐え切れなかったので読人は最後部の扉の、真鍮でできた冷たいドアノブに手をかけて車内へと侵入した。

 で、扉を開けて侵入したら……目の前に、赤い帽子を被った背の高い車掌がぬうっと現れたのだ。

 

「ひぃぃぃーー!?」

『みぎゃーー!?』

『……切符を、拝見』

「切符? え、持ってないけど……」

『切符』

『ん、読人。【本】だ』

「分かった」

 

 読人が手にしていた白い【本】にちらちらと視線を送っていたので、赤い帽子を深く被った車掌へ【本】を見せると小さくこくんと頷いた。

 

『ご乗車、ありがとうございます』

『どうやらこの鉄道の主は、【読み手】を歓迎しているみたいだな』

「うん、でも……どんな人なんだろう?」

『精神年齢は低そうだな』

 

 車掌に招かれて銀河鉄道へ正式に乗車してみると、中は暖房が効いていていた。窓の向こうには都会の夜景が映っている。

 読人と火衣以外にも乗客がいた。彼らの直ぐ隣のボックス席には、黒猫と柴犬。向こうの席には、窓に張り付いて離れない仔猫がニャーニャーと楽しそうに騒いでいる。そう、乗客は人間ではなかった。猫や犬が服を着て帽子を被って、獣の姿のまま擬人化されて二足歩行で社内を歩いている。

 きっとこの乗客たちも銀河鉄道と一緒に創造されたのだろう。随分と可愛らしく、そしてきっちり乗客まで想像して創造したこの鉄道の主に、ちょっと好感を持った。

 

「宮沢賢治の作品は、登場人物が猫でアニメ化されることが多いから、乗客が猫?なのかな」

『犬も混ざっているから、ただ単に【読み手】が動物好きかもしれないぞ』

「会ってみようか、車内のどこかにいる【読み手】に」

『おう』

 

 最後部の車両から先頭の運転席への一本道。見送る車掌に小さくお辞儀をしてから、読人は次の車両へと移動した。

 

『……切符を、拝見』

 

 

 

***

 

 

 

 乗客は二足歩行の猫と犬。楽しそうにお喋りしたり窓の外を眺めたり、うつらうつらと船を漕いで眠っていたりと、彼らは読人たちに興味を示さず乗客の役割を演じていた。

 銀河鉄道の車両は、外から数えてみれば八両編成だったがきっと内部はその限りではないのだろう。何枚も車両の扉を開けて、いくつもの座席を通り過ぎたが未だに先頭車両に辿り着けなかったのだ。

 

「ここは」

『食堂』

「ここは」

『展望車両』

「ここは……」

『座席がちょっと豪華だから、グリーン席だな』

「いつまで続くんだろう」

『知るか』

 

 もう八両以上移動しているはずなのに、様々な車両を目にしたのに運転席が見える先頭車両が見当たらない。

 時々、車内販売のワゴンを押すエプロン姿の三毛猫とすれ違ったりしたが、彼女に話しかけても「ニャー」としか答えてくれないので、「先頭車両まであとどれぐらいですか?」と尋ねることもできなかった。

 次の車両が外れだったら、少しだけ座席で休もうと読人は真鍮のドアノブに手をかける。が、実は次がゴールだったのだ。

 横開きの扉を開いた読人と火衣が見たのは、丸い硝子の向こうに見える石炭炉と、背の高いレバーが並んだ運転席だった。

 

「着いた!」

『乗客は……いないな』

「いるけど」

「ひぃっ!? ……っ、え?」

 

 猫の乗客も犬の乗客もいなかったので、先頭車両は空っぽだと思っていたら1人だけいた。座席からのっそりと起き上って読人の前に現れたのは、キャメルカラーのコートを着た自分と同じぐらいの年齢の少年だった。

 誰もいないと思っていたのに、人がいた。それだけで驚くこと案であるが、それ以上に読人を驚かせたのはその少年の顔だった。

 きっと、笑えば人懐っこそうな笑顔になるはずの鉄道に乗った少年に見覚えがあった。

 実際に会ったことはない。しかし、夢で一方的にその顔を見ている。

 

「……檜垣、龍生さん?」

 

 その少年は、50年前の『一寸法師』の【読み手】である檜垣龍生と瓜二つだったのだ。

 本人のはずはない。読人が知る「檜垣龍生」と言う人物は、もう50年も前に若者であった人物だ。それに、あの頃の龍生が21歳と言う青年に対して、小さく欠伸をして頭を掻く少年……そう、読人と同じ高校生ぐらいの少年は、龍生よりも幼さが残っているし髪の色も若干茶色がかかっている。

 普通に考えれば、彼はきっと龍生の血縁だ。むしろ、こんなに瓜二つの顔で血が繋がっていないと言う方が詐欺である。

 

「乗って来たの?」

「あっ! はい……」

「ようこそ、銀河鉄道へ! スゲーだろ、これ俺が創造したんだぜ! 遠慮しないで座りな。あ、ゼリー食べるか? めんこちゃんゼリー」

「うん! 凄かった。本当の物語の世界に来たみたい……って、君何者?! 名前は?」

「あ、自己紹介してなかったかー。俺、檜垣(ヒガキ)響平(キョウヘイ)

 

 少年――響平は、『銀河鉄道の夜』の白い【本】を手に、ニカっと人懐っこい笑顔を見せた。読人を向かいの席に招くと、袋から取り出した赤とオレンジの一口サイズのゼリーをコロンと読人の手に転がしたのだ。

 

「めんこちゃん、ゼリー?」

「もしかして知らない? 東京は売っていないって本当だったんだ。冷やした方が美味いんだけどさ~温くてごめん」

「どうもありがとう。あ、俺は黒文字読人」

「お前もさ、【読み手】だべ」

 

 緑色のゼリーのフィルムを剥がしてとゼリーを啜った響平の言葉に、読人は大きく肩を震わせ隣に座る火衣は威嚇するように静かに背中の炎を滾らせる。こんな派手な銀河鉄道を創造して、隠れる気配もなく夜空を運行しているのはまさか、読人のような【読み手】をおびき寄せるためなのか?

 一瞬、そんな戦略的な罠を張っていたのかと疑った。しかし、当の響平はゼリーを咀嚼し終わって殻を手持ちのビニール袋に入れると、眉尻と目尻を垂れた人懐っこい笑顔を見せたのだ。

 

「別に戦う気なんてないから、心配すんな。自分から【戦い】を仕掛けるようなことはしねぇって。こわぇし」

「怖い?」

「んー……疲れるってこと。テスト勉強の息抜きしてんのに、【戦い】で疲れるのも嫌だから」

「響平もテスト週間なんだ。ちなみに、ヤバい科目は?」

「物理」

「俺も同じ!」

「訳分かんないよな~。そう言えば、いくつ? 俺は高一」

「俺も高一だよ」

 

 欠伸を一つして頭を掻いた響平に拍子抜けしたが、苦手科目から話が弾み、気が付けば2人は幼い頃からの友人のように楽しくはしゃいでいたのだ。

 響平は昔から『銀河鉄道の夜』が大好きで、【読み手】として覚醒したら真っ先にこの鉄道を創造して、夜に家を脱け出しては色々な場所を走って回っているらしい。乗客が体感している以上の速度で飛行走行できるこの銀河鉄道は、彼の家がある岩手県から東京まで約30分もあれば到着できると言う。

 

「俺のじいちゃんが、元々賢治さん……宮沢賢治のファンでよ。ある日、凄く嬉しそうな顔でこの白い【本】を買って来たんだ。「賢治さんの物語が【本】になった!」って。小さい頃から、何回もじいちゃんに読んでもらった本にまさか、魔法みたいな能力があるなんて最初はビックリした」

「響平の【本】もおじいちゃんから……ねぇ、響平のおじいちゃんの名前って……」

 

 響平本人の口から確信を得ようとした読人だったが、響平の祖父と思われる人物の名前を出そうとしたタイミングで、先頭車両に新たな乗客がやって来たのだ。




Name:檜垣響平(ヒガキキョウヘイ)
Age:16歳
Height:170cm
Work:県立印束高等学校1年2組
Book:『銀河鉄道の夜』

Name:檜垣龍生(ヒガキタツオ)
Age:21歳/71歳
Height:168cm→162cm
Work:『天流神社』宮司
Book:『一寸法師』


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銀河鉄道の夜×人魚姫02

 車両と車両を繋ぐ扉を開けてやって来たのは、猫でも犬でもない。ちゃんとした人間の女性だった。

 

「……あら、2人もいる。貴方たちが【読み手】なのかしら?」

「ん、お姉さんも乗って来たの?」

「響平、待って……言葉が通じる」

『この女、【読み手】だ』

 

 読人と響平、2人の少年の前に現れたのはブロンドをスポーティなベリーショートに刈り込んだ、体格の良い白人女性だった。

 身長が高く肩幅が広く、コートを着た厚着の上からでもがっしりとした体躯は何かスポーツでもやっているのだろう。アスリート体型の女性と、発展途上の少年2人では前者の方があまりにも大きく見える。

 そして、彼女の口から出て来たのは流暢な日本語だった。

 

「正解。私も、白い【本】を持つ【読み手】よ。マーガレット・トンプソン。マギーって呼んで」

「その、マギーさん? 【戦い】さ来たの? 言っておくけど、俺の紋章を奪ったらこの鉄道も消えて落ちるよ……今、スカイツリーよりも高い場所を走行している」

「それは、怖いわね。航空こと故は二度と嫌よ……なら、そちらのキャメルカラーのコートの君じゃなくて、そちらのブラックコートの君に相手をしてもらおうかしら。ごめんなさいね、どうしても紋章を集めなければならないの」

『読人』

「うん、避けては通れない」

 

 どちらにしろ、夜空を走る銀河鉄道の中にいれば逃げ場はない。

 マギーことマーガレットが手にした白い【本】には淡い光、裏表紙には泡に囲まれた人魚の紋章。それを確認すると同時に、読人が手にする『竹取物語』の【本】に光が灯った。

 

「名前は黒文字読人、【本】のタイトルは『竹取物語』! 火衣!」

『おうよ!』

 

 火気厳禁の車内に炎が走った。火衣の背中に燃える火の針が、直線の炎となって木造の床を這ってマーガレットへと向かって行く。マーガレットも手にする【本】を開けば、想像によって創造された銀河鉄道車内が舞台の、異色の【戦い】が勃発する。

 火衣を前にしたマーガレットは真っ直ぐ迫って来る炎に驚きも怯みもせず、ただ黙って、その炎に飲み込まれたのだ。

 

「っ!? 避けなかった?」

『待て、オレの炎が消火されているぞ!』

 

 炎に飲み込まれたマーガレットの身体は燃えることはなかった。彼女の身体からブクブクと泡が溢れ出て来ると、パチンと弾ける音を立てて身体の表面に纏わり付く炎を消火したのである。

 

「私の【本】のタイトルは『The Little Mermaid』。創造能力・うたかたの尾びれ(Bubble Body)――捕まえてごらんなさい」

 

 日本のタイトルは『人魚姫』。

 人間の王子に恋をした人魚の姫は、声と引き換えに脚を得た。しかし、その恋は成就することなく、泡沫のように儚く消えて人魚姫の身体も泡となった。かの童話作家・アンデルセンによって紡がれた悲恋の【本】を持つマーガレットの身体もまた、泡となったのである。

 しかも、そのまま消えた。正確に言えば、マーガレットを取り巻く泡が床に染み込み彼女の身体も同じく、染み込むように消えてしまったのである。

 どこに消えたのかと見回すが、先頭車両には座席に座ったままの響平しかいない。読人に微かな焦りと戸惑いが生まれたその時、彼の頭上……古めかしい黄色い電燈が吊るされた天井に、ブクブクと白い泡が出現したのだ。

 

『読人、上だ!』

「っ!?」

「残念! でも、次は【本】を頂くわよ!」

 

 天井に出現した白い泡の中からマーガレットが飛び出て来ると、その指先が『竹取物語』の【本】に触れようとした。

 しなやかな筋肉が付いた脚を豪快に揺らすその動きは、人魚と言うよりは野生の鯱や鮫のような力強さがある。不意打ちと、【本】その物を狙ったが火衣の声で咄嗟に動いた読人が横の座席まで避けるとマーガレットの手は空振りに終わったのだ。

 そのまま床に着地するのかと思いきや、彼女の身体は木造の床の中にとぷんと泡と共に吸い込まれて行った。床が海面のように波紋を描き、泡が飛沫を立てて鍛えられた肢体が海ではない場所を自在に泳いでいたのである。

 そうか、こういう能力を創造したのか。

 泡となった人魚姫から着想を得て、泡と共に海ではない場所を泳ぐ能力だ。再び消えてしまったマーガレットを捜して車内を舐めるように見回すが、狭い空間の中に泡の気配はなかった。

 

『別の車両に移動したようだな。だけど油断するな、さっきみたいに不意打ちで出て来て【本】を奪う気だ』

「泡を目印にしてこちらから仕掛けないと。でも、何両もある中でどうやって捜せば」

「……『気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごとと、ジョバンニの乗っている小さな列車が走りつづけていたのでした』」

「響平?」

「『ほんとうのジョバンニは、夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈のならんだ者室に、窓から外を見ながら座っていたのです』……手伝うよ、読人。列車の中を“泳ぐ”のはマナー違反だ」

 

 響平が朗読する声に合わせて【本】から光が溢れ出ると、それと呼応するように天井に並んでいる電燈がチカチカと点灯し始めて、甲高く心地いい汽笛が鳴る。白い【本】の裏表紙には、白い煙を吐き出しながら天の川の線路を走る鉄道の紋章が刻まれていた。

 創造能力・銀河鉄道――銀河ステーションを経由して星座の停留所を巡る鉄道に憧れた響平が、想像して創造したこの鉄道は機動力に優れた創造能力でありながら、展開能力の特性も持った彼の庭でもある。

 

「創造能力・銀河鉄道……と、黒曜石の円盤地図! 車掌さーん!」

『はい』

「車内放送して。鉄道内を泳ぐって言う、マナー違反をしているお姉さんがいるから、見付けたら知らせるようにって」

『了解しました』

「さて、どこさいるかな……お、いたいた。読人、見てみろよ」

「これは、地図?」

「そ、この鉄道の中の地図な」

 

 先頭車両にやって来た、赤い帽子の背の高い車掌にマーガレットのことを伝えると、車掌はぺこりと頭を下げて直ぐに出て行ってしまう。すると、“ピンポンパンポーン”と言う鉄琴のチャイムが聞こえて、ノイズが混じる車内放送が流れたのだ。

 その放送を聞いた乗客たちは、「やだ、マナー違反ですって」「迷惑だわ~」「怖いわ~」とかの会話をニャーニャーとワンワン交わしていた。

 そして、読人と火衣は響平が差し出した地図を見た。『銀河鉄道の夜』の登場人物・カムパネルラが持っていた鉄道の経路が書かれた銀河の地図だ。夜の色をした黒曜石でできた円い地図には、チカチカと点灯する数々の光が散らばりその中の一つ、アクアマリンの色に似た青い光だけが直線的に動き回っているのである。

 

「この動いている青い光、これがマギー?」

「そうだ。えーと、こっちの緑が俺で、黄色が読人、小さな赤いのがそっちのハリネズミ君ね」

『火衣だ。それに、見た目はハリネズミだけど、これでも火鼠の衣なんだぜ……キョウヘイとか言ったな、お前。何で読人に協力するんだ?』

「火衣!」

なして(何で)って、俺の鉄道の中で好き勝手泳がれるのも迷惑だし。それに、読人は良い奴そうだから」

「良い奴、って。それが理由?」

「他に理由付けて欲しかったか? だって、読人はこの鉄道さ乗り込んで来ても、【読み手】である俺を探して車内で暴れたりもしなかっただろ。初戦でそれやられてさ、『猿カニ合戦』の【本】のオッサンだったんだけど、傭兵部隊みたいな臼・蜂・栗は嫌な敵だった……あと、伏兵の糞」

「なにそれ、見てみたい!」

 

 でも、結局響平が勝ったらしい。ちゃっかり紋章を一個所持していた。

 傭兵部隊みたいだったというカニの復讐代行一味はちょっと気になる。

 

「それに、この鉄道を見て凄いって言ってくれた。その時さ、読人とは仲良くなれる気がしたんだよ。戦い合う【読み手】同士が仲良しでも良いだろ。読人だって、不老不死に興味なさそうだし」

「まあ、興味はないけど……」

「俺は読人と友達になりたい。さっきみたいに、他愛のないことや好きな本のことで盛り上がって笑いたい。それじゃ駄目か?」

「駄目じゃない! だよね、火衣!」

『お、おう』

「ありがとう、響平!」

 

 響平からもらった黄色いめんこちゃんゼリー。それを一気に食べてゴミをコートのポケットに入れると、黒曜石の円盤地図を預かって火衣と共にマーガレットを追った。

 夢の中で、過去の時代に自分の祖父を慕ってくれた青年によく似たあの笑顔に、「友達になりたい」と言ってもらえたことが無償に嬉しかった。読人も思った、彼と――檜垣響平が何者であるかに関わらず、彼と友達になりたいと。

 

『……お前、本当に単純でお人好しだな』

「良いだろ。理由なんて、後からでも付けられる」

 

 だから今は、目の前の敵に集中したい。

 マーガレットが紋章を集めなければならないと言うのなら、『竹取物語』の【読み手】である読人だって脱落する訳には行かないのだから。

 

 

 

***

 

 

 

 車掌による車内放送が繰り返される中、響平によって創造された乗客たちは車内を見回して目印の泡を探していた。猫と犬の乗客たちは色々と特殊な火衣ほどの知能はなくとも、車内放送に反応して快くご協力してくれるぐらいには親切だったので、座席回りや電燈が光る天井を見回しながら「いないね~」とか「どこだろう」とかを、ニャーニャーワンワン話し合っている。

 マーガレットはそんな彼らの様子を、鉄道の床を透視する形で伺っていた。泡と共に床の海に潜り、両脚を人魚の尾びれのようにゆらゆらと動かしながら高速のバタフライで泳ぎ回っている。

 

『まさか、始めて出会った【読み手】が優勝賞品の持ち主だったなんて。不老不死には特に興味はないけれど……紋章を集めて【本】を強化しないと、私の背骨は完全には治らない』

 

 マーガレット・トンプソン。愛称はマギー。彼女は、50年に一度行われる【戦い】における、最終的な優勝賞品には興味がなかった。

 マーガレットは将来を期待された水泳選手だった。母国のアメリカでは、次のオリンピックの候補にも選出され、自慢のバタフライで水を押し退けては何個もメダルをもぎ取って来た。

 泳ぐと言うことは自分らしさ。

 マーガレットから“泳ぐ”ことを取ってしまったら何も残らないぐらい、水泳選手としてのマーガレット・トンプソンに誇りを持っていた。

 そう、それらは過去形である……つい1か月前まで、マーガレットは泳ぐことができなくなっていたのだ。

 1年前に飛行機事故に遭った。乗客乗員に死者はなかったが、数人の重軽傷者を出したその事故によって背骨を負傷し、選手生命が絶たれたのである。もう二度と泳ぐことができなくなった。

 この1年間、必死にリハビリを重ねても事故前のように泳ぐことはできず、むしろ日常の生活にも支障をきたすようになった自分の身体に絶望した。それでも、直ぐに復帰できるようにと身体の筋肉量を落とさないようにはしたが、結局はコーチにももう無理だと言われてしまった。

 これが、昨年の12月の始めの出来事だ。

 だけど、年が明けたら非日常が現れた。

 幼い頃によく読んでいた『人魚姫』の物語。それを読みながら、人魚姫に脚を与えた深海の魔女に会いたいと思った。対価を払って、この背骨を治してもらいたい……そんな非現実的な空想に浸っていたその時、光と共にしゃがれた老婆の声が聞こえたのである。

 

『お前さんの綺麗な髪をくれるなら、背骨を治してやろう』

 

 マーガレットは『人魚姫』の【読み手】に選ばれていた。そして、無意識に深海の魔女を創造してしまったのである。創造能力・深海の魔女(Witch in Under Sea)――薄暗い色の鱗を持つ老婆の人魚は、マーガレットに対価を求めた。肩甲骨付近にまで伸びた綺麗なブロンド、それを差し出せば背骨を治してくれると言ったのだ。

 最初は夢でも視ているのかと思った。しかし、魔女は現実に存在している。

 一筋の希望を見出したマーガレットは、自身の髪をベリーショートにまで刈り込んで切った髪を魔女に差し出し、背骨を治す薬を受け取った。そうすると、医者にも見放された背骨はあっと言う間に元通りになり事故前と変わらぬ泳ぎができたのだ。

 歓喜した、希望が灯った。これでまた泳げる、自分らしくあることができる。栄光ある世界的な舞台で、様々な好敵手たちと共にプールで踊るように競り合うその夢へ、飛び込んで行けると。

 だが、深海の魔女から聞かされた真実に再び、絶望の淵に突き落とされた。

 マーガレットの背骨は完治していない。このまま泳ぎ続ければ再び壊れてしまうと、しゃがれた声でそう告げたのだ。

 曰く、今の『人魚姫』の【本】の能力では一時的な治療しかできない。【戦い】に身を投じ、紋章を集めて【本】その物を強化すればもっと強力な能力となる。本当に背骨を完治させることができると、魔女が教えた。

 不老不死にも、それを巡る【戦い】にも興味はなかった。だが、【戦い】に勝ち抜いて紋章を集めなければ再び背骨が壊れてしまう、泳ぐことができなくなってしまう……こうして、マーガレットは【読み手】として参戦を決意したのである。

 水中を人魚のように泳ぎ回る、この幸福な瞬間を永遠に続けるために。

 

『……来た、ブラックコートの男の子!』

 

 何両目か解らない車両の海で、扉を開いてやって来た読人と火衣の姿を見付けた。あちらには自分の存在を捉え切れていないはず、再び不意を突いて【本】を奪い「めでたしめでたし」と言いながら表紙を閉じれば【戦い】は終わる。マーガレットは読人が持つ紋章を手に入れることができる。

 そう、誰も傷付かない。響平に手を出さなければ、この鉄道も墜落することだってない。

「覚悟を決めなさい」……世界的な大会で泳いだ時よりも緊張している頭にそう言い聞かせて、マーガレットの身体は読人の背後の壁に移動して、彼の右手にある【本】を狙ったのだ。

 

「火衣!」

『後ろか!』

「っ!?」

 

 壁の表面に泡が湧き出た瞬間、柴犬ほどの大きさになった火衣が、マーガレットが潜伏していた壁一面を燃やしたのである。煮え滾る熱湯に放り込まれたように周りが熱い、炎を消火する泡でも追い付かないぐらいの火力に耐え切れなくなり、壁から這い出て来てしまった。

 

「~~! な、何で私の場所が解ったの?」

「これ、響平から預かった地図でマギーさんの居場所が分かる」

「キャメルカラーの男の子……私は、完全にアウェイだったってことね。でも、私は! 紋章を集めなきゃいけないの!」

「っ!?」

「これからも泳ぎ続けるために!!」

 

 読人の方を掴んだマーガレットの全身から泡が溢れ出し、読人の身体までを浸食して車両全てが泡に呑み込まれてしまったのだ。

 

『お客様にお知らせします。弐八号車において【読み手】同士の【戦い】が発生しました。乗客のみなさんは直ちに他の車両へ避難して下さい。繰り返します……』

 

 車掌による緊急放送が繰り返される中、乗客たちはニャーニャー!ワンワン!と焦り、急ぎながら前後の車両からドタバタと避難をしていた。

 2人の【読み手】と1匹の火鼠が残された車両は泡だらけ、しかもこの泡に触れた座席がずぶずぶと床に沈んでいるではないか。そして同じく、マーガレットに肩を掴まれ泡だらけになっている読人も、足からずぶずぶと床に沈んでいるのだ。

 

「ごめんなさいね! この【戦い】は、私に勝たせて!」

「っ、俺だってここで負けたくない!」

 

 この【戦い】は、一度敗れたらそこで終わりだ。読人がここで脱落すれば、『竹取物語』と不老不死の薬は誰かの手に渡る。

 それだけは、できない。

 

「火衣!」

『っ、良いのか読人!?』

「お願い、やって!!」

「何をする気? 素直に【本】を渡してくれたら、解放してあげるから!」

『……やるしかないな!』

 

 泡だらけになって膝まで沈んだこの状況で、読人の頭の中には乱暴な打開策が想像されていた。火衣にも伝わったその策は実現できる、だが、危険だ……それでも、読人自身はやれと言う。

 こうなりゃ、自分も腹を括ろう。読人の頭の上に飛び乗った泡だらけの火衣は、背中の炎を更に燃え上がらせ読人の黒いコートに火を纏わせたのである。

 マーガレットの身体が泡になるのなら、その瞬間の読人の身体は炎になった。身体全部を這い回る炎の熱さに顔を顰めたのはマーガレットも同じ、湧き出る泡を読人に集中させて消火を試みようとするが泡と炎は相殺されるだけだ。

 

「~~~! 熱っ……!」

「君、どうしてそこまで…!?」

「強いて言えば、可哀相な化け物を生み出したくはないんだ!!」

 

 読人が纏った炎がより一層燃え滾ったその瞬間だった。車両を呑み込んだ泡を今度は炎を呑み込み、辺り一面に白い煙が発生したのだ。

 炎も泡も全てが相殺されて、生み出されたのは水蒸気の濃い白煙。視界を全て封じるこの中で、読人はマーガレットの手から逃れて煙の中に姿を暗ませていた。

 

「どこに行ったの!? こうなったら……っ!!」

 

 一旦、擬似的な海に隠れようと身体を捻らせたマーガレットの背中に激痛が走った。まさか、このタイミングで背骨に限界が来たのか?

 ズキズキと痛む背中に焦りと絶望が蘇り、震え始めた身体を両腕で抱き締めるために『人魚姫』の【本】から手を……放してしまったのだ。

 

「めでたしめでたし」

「あ……!」

 

 白い煙が晴れると、読人の手には『人魚姫』の【本】があった。

 泡に囲まれた人魚の紋章はもうない。『竹取物語』に吸い込まれ、読人は二個目の紋章を手に入れた。自身の物を合わせれば計三個となった。

【本】が閉じられて()()()()()()になった。読人のコートは丸焦げにはならなかったが、微かに焦げ臭さが残ってしまった。やっぱり、このコートはろくな扱いを受けていない。やっぱり次の冬は買い換えよう。

 

「あれ、マギーさん髪が……」

「……やっぱり、空想の存在に縋り付いちゃ駄目ってことなのね。痛っ」

「大丈夫ですか?」

 

 ベリーショートだったはずのマーガレットの髪が、肩甲骨の辺りにまで伸びた綺麗なブロンドになっていた。対価として深海の魔女に払った髪だったが、()()()()()()となったために髪を切ったことも、一時的に背骨が治ったこともリセットされてしまったのである。

 読人に肩を借りて座席に腰を下ろすと、背骨が酷く痛んだ。彼女の心もまた、ズキズキと痛んだ。

 

「ごめんなさい。この背骨を治したかったばかりに」

「【本】の能力で怪我を治療していたんですか。謝るのは俺の方ですよ、ね……()()()()()()にしちゃったし」

「良いの。スッパリ諦めるわ。人魚姫みたいに綺麗な心で競技人生を終わらせる」

「……でも、今までの経験や想い出は、泡になって消えませんよね」

「……そうね」

 

 消させはしないわ。小さくそう呟いて顔を俯いたマーガレットの表情が、最初よりも柔らかくなっていたのはきっと、気のせいではないだろう。

【本】を閉じれば空想も幻想も終わってしまう。そこから脱却してこれから、現実を生きよう。おとぎ話が与えてくれた夢の時間を原動力にして。

 

「読人~【戦い】はどうなった……って、マギーさん髪、増えてない?」

「響平! こうなった」

「そっか、おめでと。マギーさん、ドンマイ。そうだ、窓の外見てみろよ。凄いぞ」

 

 やって来た響平に、『竹取物語』の後ろのページを見せると、白いページには泡に囲まれた人魚の紋章が増えていた。この【戦い】は読人の勝利。次の【戦い】に駒を進めていた。

 そして、響平の言葉通りに窓の外から見える景色に目をやると、そこには天の川銀河が広がっていたのだ。

 

「……Wow」

「気付いたらさ、こんなところまで来ちゃった。日本三大夜景の内の一つ、札幌の夜景だ」

『本当に凄いな!』

 

 闇色の海に細々としたネオン光が、札幌の街を真冬の天の川へと変貌させていた。氷点下の空から落ちる小粒の雪は宇宙空間に流れる星のようだ。幾千、幾万もの人々が生きる光が作り出す、人間たちの天の川の美しさに感嘆の溜息も言葉も出ない。

 胸の内から痺れがゾクゾクと這い上がる。【戦い】を終えた後の興奮がサーっと頭から過ぎ去って、窓の外を眺めている響平と目が合うと、夢の中で視た青年と同じ笑顔で彼はニカっと笑ったのだ。

 

「響平、友達になってくれる?」

「良いよ。よろしくな、読人」

 

 スマートフォンって便利だと思う。東京と岩手と言う距離があっても、声も写真も動画も届くのだから。

 その日、読人のスマートフォンの中には新たに『檜垣響平』の名前が追加された。

 

 

 

 ***

 

 

 

 時刻は10時51分――あ、思った以上に夜遊びをしてしまった。夜遊びと言っても、東京や札幌まで夜景を見に行ったぐらいだけど。

 響平の地元である岩手県内陸中部は、他の地域に比べれば積雪量は少なめだが全く積もらない訳ではない。今日は朝から綿雪が降っていたから、履いているブーツがしっかりと雪に埋もれてしまうぐらいに積もってしまっている。

 読人とマーガレットをそれぞれの停留所で下車させた響平と、彼が創造した銀河鉄道は、白に染まった朱色の鳥居を跨いで雪の地面に着陸した。『天流神社』と書かれた石碑が建つここが、響平の家である。

 母屋から離れた場所に着陸して【本】を閉じ、両親に見付からないようにこっそりと裏口から自分の部屋に戻らなければならない。非現実的な夜の散歩がバレてしまったら色々と面倒なことになるだろう、きっと、祖父が説明したって理解してくれない。

 ちょっと慣れ始めた抜き足差し足で裏口の扉を開けた響平だったが、今夜は彼を出迎えてくれた人がいた。飼い猫を抱いた響平の祖父が、裏口にいたのである。

 

「響平、今日は遅いな」

「じいちゃん、もう寝てるかと思った……あ、そうだ。じいちゃんの知り合いの人、珍しい名字の人がいたよな?確か、クロモジって?」

「黒、文字……?!」

「同じ名前の奴と友達になったんだ。黒文字読人って言うの」

 

 孫からその名前が出ると、響平の祖父であり『天流神社』が宮司・檜垣龍生は、飼い猫の背を撫でる手も止めて大きく目を見開いたのだった。




マーガレット・トンプソン(24)
アメリカ出身、愛称はマギー
将来を有望された水泳選手だったが、飛行事故により背骨を負傷し選手引退を余儀なくされる。
幼い頃から愛読していた『人魚姫』の【本】で無意識に深海の魔女を創造してしまい、人魚姫が声と引き換えに脚を得たように、リハビリ生活で伸びきったブロンドと引き換えに背骨を治療してもらう。が、完治はしていない。
【戦い】から脱落し、背骨も髪も元に戻ってしまった後は吹っ切れたのか、競技生活に踏ん切りをつけて選手のメンタルケアの勉強を始める。

創造能力・深海の魔女(Witch in Under Sea)
『人魚姫』に登場する深海の魔女。物語の中と同じように、対価を払えば願いを叶える薬をくれる。
しかし、叶えられる願いは【本】の能力に依存するため、より難しい願いを叶えるためには紋章を得て【本】そのものをレベルアップしなければならない。


創造能力・うたかたの尾びれ(Bubble Body)
地面や鉄道の床などを海に変える泡を創造する。泡をその身にまとえば、地面や床の地中を泳ぐことができる。地面や壁も関係なく、天井さえも海になる。
マギーは彼女自身の水泳スキルで自由に移動することができるが、敵に泡をまとわせれば成す術もなく溺れるだろう。


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長靴を履いた猫【Returns】01

「……読人」

「ん~?」

「生きているか?」

「死んでる」

 

 返事をしている時点で生きているので大丈夫、死んでいない。

 机に突っ伏していた顔を上げた読人は、三日月のヘアピンで止めた前髪が乱れているしその表情も憔悴し切っている。声をかけた正美も同じく疲れ切っているが、その表情の中には重荷を捨て去ったような解放感が滲み出ていた。

 2月の中旬の金曜日、本日にて都立暦野北高等学校の期末試験の全日程が終了したのである。

 1週間をかけて全十五科目を終えて、もう精も根も尽きたと言わんばかり。だけどもう解放される……最終日の最後に立ちはだかった物理に苦しまされたが、もう色々な意味で試験は終了したのだ。

 

「駅中で昼飯にしようぜ」

「あれ、柔道部は部活ないの?」

「今日は自主練。暗黙の了解で出なきゃならない系のな。食ったら直ぐに学校戻るわ」

「ごめん、俺もう先約がある」

 

 そう、試験から解放されて次に訪れるのは楽しい時間だ。今日の午後、夏月と一緒にランチの約束をしているのである。試験勉強の最中に、激励のつもりでメッセージを送ったら彼女の方からお誘いしてくれたのだ。都心部に行ってみたい店があるから、一緒に行かないかと。

 夏月と読人の2人きりではなく彼女の友人も加えてのランチであるが、それを励みに今日まで頑張って来た。夏月と一緒にランチ、それだけで胸は高鳴りっぱなしだし顔は熱くなるし挙動不審になるしで、自然と顔がにやけてしまう。

 黒文字読人は感情が顔に出やすい。以前は伸びるのが長い前髪でよく見えなかったが、前髪をヘアピンで上げた今となっては分かりやすい表情が他人にも簡単に把握されてしまう。ましてや、小学校からの付き合いである正美には彼が何を考えているのか丸分かりである。

 幸せそうにへらへらによによしたその顔は、これから幸せな一大イベントが待っていますよ~っと語っていた。なので、締め上げて吐かせることにする。

 

「先約って誰だ? 何だ? まさか彼女ができたとか言わないだろうな!」

「ギブギブギブ!! ち、違う違う。竹原さんとご飯食べに行く約束をしていて……!」

「竹原と!? お前らいつの間にそんなに接近しているんだよ? デートか? それとも、「遅れたけれどはいこれ、バレンタインデーのチョコレート」じゃないだろうな!」

「デデデ、デートじゃないし……2人きりじゃなくて、竹原さんの友達も一緒だから! チョコは、もらえたら嬉しいな」

 

 柔道部の鍛え上げられた腕でアームロックをされたら本気で痛い。が、口では痛いと叫んで降参を訴えているが、読人の顔は幸せそうに綻び続けているではないか。

 青春真っ盛りの高校生たちにとっては、カレンダー上のイベントは何でも甘酸っぱい想い出になり得るはずなのに、進学校を名乗る北高はバレンタインデーと期末試験の日程を見事に被せて来やがったのである。期末試験の真っ最中にチョコレートを手作りする暇も、ハートが乱舞するラッピングの既製品を手に告白をする暇もない。

 精々、コンビニのチョコレート菓子をシェアして脳に糖分を送るぐらいだ。

 2月14日の当日、その日のことはよく覚えている。序盤の難所である数学連戦を終えた読人と正美は、男2人で侘しくたい焼きに被り付いていたのだ。

 しかも、『無問鯛』の2月限定チョコレートたい焼きが妙に美味いのが何だか寂しかった。中に甘さ控えめのチョコレートクリームを入れただけではなく、砕いた板チョコが入ったチョコレートたい焼きは、溶け切らないタイミングで鉄板から上げられた板チョコのポリポリした食感が癖になる大当たりの新商品だった。

 美味しいのに、切ない……その日の夜、母が買って来た駅地下のオペラを紅茶と一緒に食べた時も同じ心境だったのは、言うまでもない。

 そんな風に高校生活最初のバレンタインデーを過ごしたのだが、もし本当に夏月からちょっと遅いバレンタインデーチョコレートをもらえたなら、嬉しさでとんでもない顔になる自信がある。義理だって良い。夏月の友達込みのランチの約束だけで、すっかり溶けて甘ったるい匂いをまき散らすチョコレートのような顔をしているのだ。

 これ以上崩れるとしたら一体どうなるのだと、アームロックをかけ続ける正美はちょっと興味を持った。

 

「はいはい、お前は女子2人と楽しくランチして来いよ。俺は、駅前のコンビニで弁当を買って寒い道場で食って、この寂しさを自主練にぶつけるから」

「えー……じゃあ、マサも来る?」

「……っ」

 

 1年C組16番・松元正美。柔道部において重量級の期待のルーキーである彼は、この日初めて自主練を休んだ。

 

 

 

***

 

 

 

 夏月が来てみたいと言っていた店は、23区内にあるパンケーキの店だった。

 パンケーキと言っても、ふわふわで分厚いスフレ生地にクリームとアイスとフルーツをこれでもか!とトッピングした女性受けするスイーツではない。甘さ控えめで塩味の効いた生地にベーコンや目玉焼きを盛り付けた、所謂おかずパンケーキをメインメニューとしている店である。

 店内もモノクロを基準にしてスッキリまとめた、男性グループでも気軽に入れるシンプルな内装なのがありがたい。最近オープンしたばかりで、まだメディアや雑誌で紹介されていないために店内は左程混み合っておらず、ランチタイム真っ最中でも数分待っただけで席に座ることができた。

 

「見てこれ、和風チキン納豆だって」

「え~美味しいのかな? 試してみる?」

「ちょっと興味ある」

「竹原さんって、納豆が好きなの?」

「凄く好きって訳じゃないけれど、珍しい物は挑戦してみたくなっちゃうの」

「私はスタンダートが良いや。三種のチーズにしよう」

 

 パンケーキに納豆と言う前代未聞のメニューに目を輝かせた夏月は、ちょっとわくわくしたような表情で微笑んだ。

 軽い遠視だからと、メニューを見るためにかけた眼鏡でも隠し切れない彼女の笑顔に、ちょっと顔が熱くなるのを感じた読人はメニューを熟読するふりをして顔を隠す……あ、和風チキン納豆って、人気№5だ。

 期末試験が終了した後に合流した夏月とその時に紹介された彼女の友人、そして正美を加えた4人で電車に乗り、ランチにやって来ていた。4人掛けのテーブルに男女で分かれて2人ずつ、咄嗟に夏月の前の席に座ると隣に座った正美に苦笑されてしまった。

 ゴーダ・チェダー・モッツァレラの三種のチーズが嬉しいパンケーキを即決したのは、夏月と同じ1年B組の戸田(トダ)(アカネ)。夏月と並んでも頭一つ背の低い、小柄で可愛らしい少女だった。そんな彼女の前の席に高校1年生にして185cmもあって身幅も厚い正美が座っているのは、随分と両極端でアンバランスである。

 

「ん~……やっぱり和風チキン納豆に挑戦してみよう!」

「本気なの夏月?」

「じゃ、俺はビッグ・ミックスグリルパンケーキにしよう。これって、制限時間内に食べ切れば半額になるんだろ」

「それって2、3人前ぐらいのボリュームがあるって書いてあるよ。松元君大丈夫?」

「多分大丈夫。マサはめっちゃ食べるから」

「俺に限らず、柔道部は大体これぐらいは食うぞ。読人はどうする?」

「えーと……」

『ベーコンエッグ・マッシュポテト添え』

「じゃあ、それ……でぇ?!」

「どうしたの?」

「あ、いや、何でもない! 俺、ベーコンエッグ・マッシュポテトで! ちょっとトイレに行ってくるね!」

 

 いつの間に出て来たのだろうか?

 読人とメニューの間に座っている火衣が、人気№1!とポップで目立っているパンケーキの写真を指差して堂々と注文していたのである。掌サイズの火衣を両手で隠してトイレに駆け込む読人を、3人は不思議な視線で見送っていた。

 

「何で出て来たの?」

『ベーコンエッグパンケーキが食べたかったからだ』

「出てきちゃ駄目だよ。見付かったらどうするの?」

『それより、読人。向かいの女が例のナツキか? 中々良いな』

「良いよね」

 

 珍しい物好きと言うか、好奇心旺盛でチャレンジ精神が豊富な面を知った……例えその対象が納豆だとしても、果敢に攻め入る夏月に「良いな」と感じたのは読人が彼女に惚れているからだろうか。痘痕も笑窪とはよく言う。

 じゃなくて。子供向けアニメに出て来る妖精に近い存在である火衣が、こんな風に好き勝手登場して喋ってはいけないのである。

 また次の機会にこの店に連れて来ることを条件に、【本】の中に戻ってもらうように納得してもらったのと同じタイミングでブレザーのポケットに入れていたスマホが振動し、正美からのメッセージを受信していた。ベーコンエッグ・マッシュポテト添えを注文しておいたと言うメッセージに続き、「ズボンのチャックが開いていたか?」と来た。

 そっちも見られちゃ駄目な奴である。濁した返事を送信して、一応ズボンのチャックを確認してから苦笑いで席に戻ったのだった。

 それからは何こともなく時間が過ぎ、とにかく楽しいランチタイムを過ごせた。

 正美が制限時間内にビッグ・ミックスグリルパンケーキを食べ切って店員だけではなく他のお客からも拍手をもらい、記念にとインスタントカメラで4人の写真を撮り。和風チキン納豆が意外と美味しいと、ちょっとおすそ分けしてもらった時に顔が真っ赤になったのは店内の暖房が効きすぎていると言い訳して誤魔化した。

 精も根も尽き果てる期末試験を頑張れたのはこのためだったと、若干本気でそう感じるほど、夏月と一緒にいる時間は読人に幸福に満ちていたのだった。

 

 

 

***

 

 

 

 期末試験を終えてからやって来た週末は、普段より一層解放感に満ち溢れているのだろう。冬の寒さで冷たくなったタイルを踏み締めるブーツが若干リズミカルに聞こえる気がするのは、その解放感のために浮かれているからだ、きっと。

 足取り軽く、竹原夏月はフラフラとウインドウショッピングを楽しんでいた。

 金曜日は期末試験を終えて、前々から約束をしていた友達とのランチで楽しい時間を過ごした。土曜日は所属している剣道・薙刀サークルの活動で竹刀を振るい、良い汗をかいた。そして本日、日曜日は特に宛てもなく1人で自由気ままに街をふら付いている。

 友人とわいわい騒ぎながら買い物をするのも良いけれど、こんな風に自分のペースで好きなだけ勝手気ままができるお出かけも楽しい。店先のワゴンセールに積み重なっているインナーの山を掻き分けて物色してみたら、気に入った色のカットソーがあったので購入する。これだけでも今日は出かけて良かったと感じるで、自分はつくづく単純だとも感じてしまった。

 

「あ、古本屋にも寄って行こう」

 

 夏月は読書が好きである。

 小説も読むし童話も読む、漫画も読めばノンフィクション系のエッセイ集だって読む。好きなジャンルに特に拘りはないが、歴小説やミステリー系統をよく手に取り恋愛小説はちょっと苦手。理由は……読んでいると、恥ずかしくなってしまうから。少女漫画も同じで、漫画は少年漫画の方が読みやすくてよく手にするし弟たちと一緒に漫画の貸し借りもしている。

 有名どころは大体読んでいるし家にコミックもある。そろそろ新しい本を開拓しようかと大手チェーンの古本屋に入った夏月だったが、これと言ってピンと来る物はなかった。ならばと、100円の文庫本コーナーに何か良いのがないかと店内を散策していると、100円コーナーの後ろにある児童書のコーナーで思いがけない出会いをしたのだ。

 

「……この本、どこかで見たことがあるような?」

 

 小学生の頃に読んだ懐かしいタイトルの本の中に、一冊の真っ白な本が隠れるように紛れていた。

 表表紙にも裏表紙にも写真や挿絵が載っておらず、シンプルにタイトルだけが印字されているB6版サイズの白い表紙に金糸の縁取り……どこかで見たことがある気がして、ビニールで梱包されているそれを手に取ってみるとどこで見たのか思い出した。

 

「黒文字君が持っていた本と同じだ。同じ出版社のシリーズ物なのかな?」

 

 以前、読人と一緒に喫茶店に行った時に、彼の荷物からぶちまけられてしまった本と同じデザインだ。白と金の綺麗な表紙の本は夏月の印象に強く残っていたのだが、確かあの本は亡くなった祖父の形見だと読人はそう言っていた。

 値段のシールを確認してみると、こんなにも立派な装丁で汚れもないのにかなり安い。タイトルは……ちょっと季節外れだけど、夏月が好きな物語だ。素晴らしい宝物を見付けたような充足感が夏月の中から溢れて来て、一切悩む気配なくその白い本をレジに持って行ってお買い上げしたのである。そして、家に帰るのも待てずに古本屋の帰りにカフェに寄ってビニールの梱包を解き、白い本の写真と共に読人にメッセージを送った。

 この時の夏月は、新しく買った本の表紙を開くわくわくとドキドキに胸を高鳴らせていた、カフェで頼んだ抹茶オレの味もよく覚えていない。ましてや、その店内で彼女を観察していた人物の視線にも気付くはずはなかったのだ。

 ほんの数分だけ時は遡り、とあるカフェチェーン店内の窓際の席に座る男がいた。他の客の視線がチラチラと彼に向かうのは、彼が美しいプラチナブロンドとミントグリーンの瞳を持っていたからだろう……それもきっと、視線を集めた一因だろうが、それ以上に彼の連れに視線が集まった。

 

「折角一番で日本に乗り込めたと思ったのに、1か月でまだ紋章が一つだけって、おかしくないか? この僕が!」

『だから、さっきも言ったろう。最初っから大物狙いで動いていたからだ。男はな、でけぇ夢を視るのも良いが、それを叶えるためには辛い下積みにも耐えなきゃならねぇ時があるんだよ……っチ、近頃は嫌煙の風潮で嫌になるぜ』

 

 目の錯覚でなければ、プラチナブロンドの白人青年の向かいの椅子に長靴を履いた猫が座っている。しかも、テーブルの上にはアイスコーヒーが置かれている……。

 1人と1匹の姿を目にした者は幼い女の子がおままごとをしている光景を思い出し、可愛らしくともあんまり関わりたくないので早々と視線を逸らす。時には、こっそりと写真を撮る者もいたが向こうは気にしていないようだ。

 1月某日、黒文字蔵人宅を急襲して『竹取物語』の【本】を強奪しようとし、読人を襲った『長靴を履いた猫』の【読み手】であるリオン・D・ディーンと、その能力で召喚された長靴を履いた猫ことシュバリエがティータイムに興じていた。

 長靴を履いた短めの脚を組んでアイスコーヒーをストローで啜り、全席禁煙のためにマタタビスティックを吸えないと舌打ちをする猫……こんな行動をして、しかも喋っていると言うこと実を周りの人々は気付いていない。彼と同席している猫が本物とは思わないし、ましてや喋るはずなんてないと思い込んでいるからだ。

 それに、彼らの会話は普通の一般人にはフランス語のやり取りに聞こえるため、内容さえも理解できないのである。

 

「やっぱり、地道にレベル上げをした方が良いか。僕の嫌いな作業だ」

『それを地味にこなしさえすれば、その内良い夢が視られるぜ……不老不死を手に入れたいんだろ。リオン』

「ああ、勿論だ。僕が世界の全てを見るためには、人間の100年足らずの寿命なんて短すぎる」

 

 自信と誇りに満ち溢れた表情でカップを持ったリオンは、温くなりかけたカフェオレを口にすると一瞬顔を顰めた。やっぱりこのカフェオレはミルクが多すぎる……本物のカフェ・オ・レは、コーヒーとミルクが半々だ。これじゃあカフェ・ラ・テに近いではないか。

 日本のチェーン店はこんなレベルかと諦め半分に店内を見回してみると、当たり前であるが店内からは日本語しか聴こえない。【読み手】同士は言葉が通じるので不便はないが、あと10か月は日本にいる予定なのだからもっと日本語を勉強しておこうかと思ったリオンの視線が、ある一点で止まった。

 童顔が多い日本人にしては大人びた顔立ちの少女。楽しそうにゆらゆら揺れるショートブーツの爪先が可愛らしい。店員から飲み物を受け取って一口飲んで青い袋の中から本を取り出すと……白と金糸の装丁に表紙にはタイトルだけの、【読み手】同士の白い【本】を手にしていたのだ。

 

「シュバリエ、地道なレベルアップ作業をしよう。なぁに、可愛いMademoiselleが相手なら楽しめそうだ」

 

 それから数分後、読人のスマートフォンが夏月からのメッセージを受信した。




当店人気ベスト5!
No.1 ベーコンエッグ・マッシュポテト!
No.2 エビアボカド・トマト! 
No.3 ゴーダ・チェダー・モッツアレラ三種のチーズ!
No.4 ハニーマスタード・チキン!
No.5 和風チキン納豆!

番外編!
最下位 トロピカル・パイナップル酢豚!


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長靴を履いた猫【Returns】02

「ありがとうございました~」

「……桐乃」

「はい?」

「良い髪留めだね」

「ありがとうございます。槙ちゃん……友達がプレゼントしてくれたんですよ」

 

 先日の『赤い靴』との【戦い】で破損してしまったバレッタの代わりに、桐乃の髪は新しいバレッタで飾られていた。

 紫と透明の石が格子状に並んだシンプルなデザインは桐乃の黒髪によく映えるし、実質剛健な彼女のセンスにも調和する。贈った友達と言うのは、桐乃のことをよく分かっているのだろう……そして、あの石もガラスではなくそんなに高価でなくともきっと宝石だ。きっと押し付けがましく値段や価値を教えなかったのだ。じゃなければ普段使いするのに躊躇してしまう。

 弟子は大学で良い友人に恵まれていると、紫乃は老眼鏡のレンズを拭きながらそう感じていた。

 

「書庫の整理、終わりましたー」

「お疲れさん。やっぱり、男手があると違うね」

「そうですね」

「何ですかそれ~」

「さて、読人。期末試験も終わったことだ……次の能力の創造、どうなっている?」

「少し形になって来たものはあります。でも、実際に使ってみるイメージが想像できなくて何とも言えません」

 

 次の能力の創造……読人の【読み手】としての、新しい能力のことである。

 現在の彼の【本】の能力で創造できるのは、火鼠の衣である火衣だけだ。たった一つの能力で一年間を勝ち抜けるほど、この【戦い】は生易しくない。

 桐乃は既に三つの能力を創造している。創造能力の『モンストロ』と『歓喜のマリオネット』、武装能力の『嘘吐きの鼻』だ。紫乃曰く、あまりたくさんの能力を創造しても想像力とイメージが分散してしまうので、お勧めはできないとのこと。

 読人も桐乃も、手にしている紋章の数は自身の物を含めて三つずつ。今回の【戦い】が開幕して1か月半の現在では、中々良いペースだ。

 

「取りあえず、五つだ。お前さんの【本】の能力、火衣はかぐや姫が求婚の貴公子たちに所望した宝の一つをベースに想像して創造された物。ならば、次の能力も同じベースにすれば創造しやすいだろう。残りの宝……仏の御石の鉢、蓬莱の玉の枝、竜の首の珠、燕の子安貝。これらから想像できる四つの能力を創造してごらんなさい」

「あと四つ」

「無理にこれらにこだわる必要はない。重要なのは、お前さんの想像力だ」

「はい!」

 

 火衣は幼い頃の想い出から突発的に創造されたようなもの、ならばこれから創造する能力は読人がじっくりと想像して【戦い】を勝ち抜けるための能力にすれば良い。創造能力だけではなく、桐乃のような武装能力でも、物語の世界を召喚する展開能力でも良い。

 試験も終わったし、しばらくは【戦い】に集中できると気持ちを切り替えた読人は、取りあえず先にバイトの続きに戻ろうと緩くなったエプロンの腰紐を結び直した。

 

『おーい読人。例のナツキちゃんからメッセージが届いているぞ~』

「ちょ、火衣!」

「ナツキ、ちゃん?」

「何だい、彼女かい?」

「ちちち、違います! メッセージ……っ! 師匠!」

 

『若紫堂』の居住スペースに置いて来た火衣が、同じく鞄に突っ込んだままにしていたスマートフォンを背負ってちょこちょこと店にやって来た。炎の針の背中に乗せられても、スマートフォンは燃えもしないし熱くもならないから不思議だ。

 火衣を抱き上げてから急いで確認すると、20分ほど前に夏月からメッセージを受信している。一枚の写真とメッセージ……『クリスマス・キャロル』と言うタイトルの白い【本】が、写っていたのである。

 

「これ、これも【本】ですよね?!」

「っ、間違いない。『クリスマス・キャロル』……読人、このメッセージを送って来たのは誰だい?」

「と、友達です。高校の」

「直ぐに連絡を取りな。できたら、うちに来るように言っておくれ」

「はい!」

 

「黒文字君の本と同じのを見付けたよ~」と言うメッセージに、スマイルをした兎のスタンプ。まさか、夏月の手に【本】が渡ったと……?

 夏月も【読み手】となってしまうのかとか、そうしたら彼女も【戦い】に巻き込まれてしまうとか色々な思考が読人の中でぐちゃぐちゃと渦巻いたが、今は早く彼女に連絡を取らなければ。

 夏月の番号へ電話を掛けると、三回のコールで出てくれた。

 

『もしもし、黒文字君? もしかしてバイトだった……』

「竹原さん! 今、どこにいる?」

『え……今? 今は、豆桜町だけど……っ、え、何?! ちょ……っ! きゃぁっ!?』

「竹原さん?!」

 

 スピーカーの向こうから夏月の悲鳴が聞こえると、ガタンゴトンとスマートフォンを地面に落とす音が聞こえた。そして、ツーツーと通話終了の音が空虚に響く……夏月の身に、ナニかが起きたのだ。

 

「竹原さんの身に何かが……! 俺、行って来ます!」

「待ちな、読人。場所は?」

「豆桜町って」

「なら、走って行ける場所じゃあない。桐乃」

「勿論。乗って!」

「はい!」

 

 エプロンを脱ぐのも忘れて、桐乃のバイクの後ろに乗り込むと夏月がいると言う豆桜町へと急いだ。夏月は既に【戦い】に巻き込まれてしまっていた、誰か別の【読み手】に襲われたのかもしれない。ならば、彼女はもう『クリスマス・キャロル』の【読み手】として覚醒したのか?

 読人と桐乃が向かっている豆桜町は、某ショピングスーパーを中心に様々なショップや飲食店が密集する区域だ。今日の夏月は、その周辺をブラブラと散策して古本屋に紛れていた白い【本】を購入してしまったのである。

 読人からの電話が来た時、もう買い物を終えて家に帰ろうと駅への近道である幼稚園の前の道路を歩いていた途中だった。鋭い爪を剥き出しにした猫に襲われたのだ。

 猫だけではない、鎧を着込んだ巨大なデモンがこれまた巨大な毛むくじゃらの蜘蛛に変身すると、尻から吐き出した粘着性の高い糸で夏月を磔にしたのである。

 舞台は、誰もいない休日の幼稚園のグラウンドに移っていた……可愛い動物を模した遊具の間には巨大な蜘蛛の巣が張られ、獲物の蝶のように磔にされた夏月。恐怖による悲鳴も出ないのは、蜘蛛の糸の猿轡が彼女の口を塞いでいたからだった。

 

「ん、んー!」

「魔法使いの鬼、変身してAraignée(蜘蛛)。手荒な真似をして申し訳ない、Mademoiselle」

『お嬢ちゃんが持っている【本】を素直に渡してくれりゃ、直ぐに解放してやるぜ』

『何、この人たち……外国人? 猫? 何を言っているか、分からない』

 

 と言うか、夏月は自分の現状が全く呑み込めていない。

 読人と電話をしていたら猫に襲われ、その次に現れたのは鬼としか形容できない鎧の化け物だった。悲鳴も上げることなく、ガクガクと震える脚に力を入れて逃げようとしたら、鬼――デモンは巨大な蜘蛛に変身したのである。

 それからは、その蜘蛛の糸に絡め取られて幼稚園のグラウンドに引き摺り込まれ、声を出そうとしたら糸で口を塞がれた。それでも必死に抵抗して逃げ出したら、向こうも痺れを切らしたのか夏月の動きを封じて蜘蛛の巣にかかった蝶の状態にしたのである。

 長靴を履いた猫に、蜘蛛に変身したデモン。それらに指示を出しているのは、プラチナブロンドの青年らしいが彼の喋っているのは日本語ではない。何を言っているのか、夏月には理解できないのだ。

 それなのに、相手は夏月が言葉を理解できると言う前提で話を進めているかのようにフランス語でベラベラと捲し立てている。話の内容が分からないのに、返事なんてできるはずはない。

 

『何、これ? 夢でも、視ているんじゃないよね……喋る猫に、蜘蛛に変身する鬼に。猫がブーツを履いている。まるで……『長靴を履いた猫』?』

『お嬢ちゃん、小さく頷いてくれるだけでも良いんだぜ……ったく、駄目だ。可哀そうに、恐怖で震えているんじゃないのか? リオン、女の子はもうちっと丁寧に使え』

「すまないね、シュバリエ。でも、確かに可哀そうだ。しょうがない、こちらで勝手に【本】を閉じてしまおう。確か、あのバッグに【本】を入れていたはずだ」

 

 夏月の背負っている2WAYリュックの中には、財布や眼鏡、その他の持ち物の他に今日買ったインナーと『クリスマス・キャロル』が入っている。シュバリエが爪を伸ばしてリュックの肩紐を切れてドザリと落ちた……まさか、お金目当てなのか。

 感じた夏月の頭の中には、古本屋にて700円+税で購入した本が原因とはこれっぽっちもなかったのである。

 

「さて、記念すべき紋章だ」

『一体何なの……?! 誰か、誰か……!』

「……っ!! 竹原さん!!」

「っ!?」

 

 夏月の助けに答えるかのように飛び込んで来たその声は、先ほどまで電話で話していた彼の声だった……それと同時に、辺り一面が明るく暖かくなって、一気に炎が燃え上がったのだ。

 

「っ、炎!?」

「竹原さん! 大丈夫? 怪我は?」

「~~! はぁ、はぁ、はぁ……く、黒文字、君?」

『おう、無事みたいだな』

 

 突如上がった明るい色の炎は、夏月が囚われている蜘蛛の巣を燃やして彼女の身体を解放したが、全く熱くなかったし火傷の一つも負っていなかった。冷たいグラウンドの地面に落ちそうなった夏月の身体を支え、口を塞いでいた糸を取り払ってくれたのはエプロンの上にコートを羽織った読人だった。そして、気遣うように声をかけたのは、バスケットボールぐらいの大きさの炎の針を背負ったハリネズミだったのだ。

 

「っ、お前は……ヨミヒト・クロモジ!」

「確か、えーと……『長靴を履いた猫』の!」

「僕の名前は、リオン・D・ディーンだ! 何だ、君も彼女の紋章が欲しいのか?」

「何、さっきからあの人……言葉が通じなくて、何を言っているか分からない」

「え? っ、竹原さん、さっきの『クリスマス・キャロル』の【本】は?」

「本? あの、リュックの中に」

 

 弱々しい夏月の言葉で確信した。そして、肩紐が切られた夏月のリュックの中にある『クリスマス・キャロル』の【本】を確認すると、安心したと同時にリオンへの怒りが込み上げたのである。

 

「リオン! 竹原さんは【読み手】じゃない! 言葉が通じていないし、何より……これ!」

「何を言っているん、だ……?!」

 

【読み手】を見付けた【本】の裏表紙には、物語の内容を模した紋章が宿る。読人の【本】には竹に囲まれた雲間の月、リオンには袋を担いだ長靴を履いた猫……しかし、夏月のリュックの中から出て来た『クリスマス・キャロル』の【本】の裏表紙は真っ白。紋章がない。

 つまり、この【本】はまだ【読み手】と出会っていない。イコール、夏月は【読み手】ではないのだ。奪える紋章があるはずがない。

 

「……」

「……え? ええ?」

『リオン、お前』

 

 この状況を一言で表せば、「リオンの勘違い」である。

 

『お前! 早とちりはいい加減にしろとあれほど……!』

「で、でも! こうして『竹取物語』の【読み手】を誘き出せたんだ! やっぱり僕は大物を狙う! デモン!」

「火衣!」

「黒文字君……?」

「竹原さん、巻き込んじゃってごめん……俺が、守るから!」

「……っ」

 

 蜘蛛に変身したデモンが吐く糸を火衣の炎で燃やし、襲い掛かって来る八本の脚は小回りを利かせて回避する。そして、読人の中では一つのイメージが形作られていた。

【戦い】の中で想像力が活性化して、ぼんやりとしか想像できなかったその姿がはっきりと見えて来た……かつて、50年前の【戦い】で蔵人が創造した『天岩戸』のような防御系の能力が欲しいと思っていた。

 今なら、はっきりとそれが想像できる。

 守りたい人が――夏月が、隣にいるから。彼女を守るための能力を、創造できる。

 

「火衣!」

『読人!』

「『石作皇子様は、お釈迦様がお使いになった仏の御石の鉢をお持ちになって下さい』! 仏の御石の鉢!!」

 

 読人が開いた『竹取物語』の【本】が眩い光を放ち始め、物語の中の一文を読み上げると、読人と彼の隣の夏月とデモンと距離を取った火衣が地面からせり上がって来たドーム状の石……否、岩にすっぽりと覆われてしまったのだ。

 そのドームはまるで引っくり返した鉢だ。だけど、ゴツゴツとした岩肌が削られずに残っているところから見ると、石作皇子がかぐや姫に献上した偽物の石鉢かもしれない。

 

「何だ、そのドームは? 直ぐに砕いてやるよ! デモン!」

『待てリオン! 無暗に攻撃するな!』

 

 この時、シュバリエの制止を素直に受け入れておけば良かった。蜘蛛の八本の太い脚で一回、また一回と攻撃するがドームはヒビが入る気配がない。ならばもう一発と、先の二回よりも強力な攻撃が突き刺さった時、ドームは砕けた。

 引っくり返した鉢が砕けたその瞬間、その中から姿を現したのは読人たちだけではない。半透明の仏――奈良や鎌倉に鎮座する釈迦の姿が、彼らを守護するように立ちはだかったのである。

 だが、その目には慈愛も威厳も宿っていない。あるのは、怒りだけだった。

 

「日本には、『仏の顔も三度まで』って諺があるんだよ。三度目の後は、容赦しない! 『白山にあへば光も失するかと()を捨てても頼まるるかな』!」

 

 仏の御石の鉢が偽物だと看破された石作皇子の誤魔化しの一句を読んだその瞬間、釈迦の両目には鋭い光が宿りそのまま怒りのビームを放ったのである。

 ビームの矛先は勿論、怒りに満ちた釈迦の姿に呆けているリオンとシュバリエとデモンだ。三度の攻撃の全てをしっぺ返しする怒りのビームが発射されて命中すると、幼稚園のグラウンドで爆発が発生しその爆風に乗ってリオンたち御一行が吹っ飛ばされたのだった。

 それだけ、釈迦の怒り……と言うか、読人の怒りが頂点の達していたのだろう。あっと言う間に、流れ星のように空の彼方へ消えてしまったのだ。

 どうでも良いが、再びリオンを逃がしてしまった。悪運は強いようである。

 

『おー、面白い能力だな読人』

「竹原さん、あいつらはもう……っ!」

 

 リオンたちを吹っ飛ばして【本】を閉じると、【戦い】の被害は()()()()()()になる。残っていた蜘蛛の糸も、残っていた火衣の炎もなくなりシュバリエに切られた夏月のリュックの肩紐も元に戻っていた。

 そのリュックと『クリスマス・キャロル』の【本】を手に夏月に声をかけたのだが、彼女はボロボロと涙を零していたではないか。非現実的で非日常的な存在に襲われ、それを理解する間もなく恐怖に襲われて……それに解放されて安心した刹那、無意識に涙を零してしまったのだった。

 

「え、あ、あ……ごめん、そんなつもりじゃ、ないんだけど……っ、止まらない」

「あ、えーと、その……! は、はい、これ」

「っ」

「ぐちゃぐちゃで、ごめん。その、あの……泣かないで」

 

 鼻を啜って必死に涙を止めようとする夏月へ、ポケットに突っ込んでいたハンドタオルを差し出した読人の表情は焦っているのか、先日のランチの時以上に真っ赤に染まっていた。火衣に見守られていたそのやり取りは、夏月が小さく「ありがとう」と言ってハンドタオルを受け取って涙を拭くと言う形で、受け入れられた。

 そして、別の方面を探していた桐乃と合流し、夏月を連れて『若紫堂』へと向かったのだ。

 

「……と、言う訳なんだけど。そう簡単に、信じてもらえないよね」

「……」

「そりゃ、突拍子もない話だし。俺もにわかには信じられなかったし……」

「……黒文字君」

「はい!」

「助けてくれて、ありがとう」

「あ、いえ……」

「火衣ちゃんだっけ? どうもありがとう」

『ちゃん付けすんな。一応精神的には雄なんだぞ』

「ごめんね。じゃあ、火衣君って呼ぶ」

『良し』

 

 夏月に全てを話した。50年に一度の【戦い】と【本】と【読み手】と、亡くなった祖父が前回の戦いの優勝者であることも。日常が非日常へと変化する1年が、今年であることを。

 そう簡単に信じられることではない、夢物語のような真実だ。でも、現実に彼女は【読み手】を勘違いされて襲われた。否定されることも批判されるのも覚悟していた読人だったが、夏月の口から出て来たのは感謝の言葉であり、掌サイズの火衣と戯れる彼女の笑顔であったのだ。

 

「え、信じてくれる、の?」

「うん。そりゃ、普通は信じられないよ、そんな小説みたいなこと……でも、実際に体験しちゃったし。それに」

「それに?」

「黒文字君は、そんな嘘を吐かない人だと思っているし」

「っ! あ、ありがとう竹原さん!」

「で、そろそろ別の問題に入って良いかい?」

「あ、はいい! どうぞ、師匠」

「竹原、夏月さんと言ったね。悪いが、この【本】を買い取らせて欲しい」

 

 この【本】とは勿論、夏月の前に置かれた『クリスマス・キャロル』の【本】のことである。

『若紫堂』の住居スペースにて、店には一旦「休憩中」の札をかけてから夏月への説明が行われていた。桐乃が淹れたお茶を飲んで一息吐いた紫乃は、読人と夏月の話が落ち着いたタイミングでこの話を持ち出した。

 この『クリスマス・キャロル』の【本】の【読み手】はまだ現れない。それ以前に、この【本】が今回の【戦い】の中の百冊に選ばれているかも解らない。しかし、未知の能力を宿す【本】がそう簡単に一般人の手に渡ることは避けなければならない。夏月が手にした【本】を買い取り、『若紫堂』で保管しておくのが最善だろう。

 夏月にしてみれば、折角手に入れた美しい本を手放すこととなってしまうが、どうするか?

 

「勿論、買った時以上の値段で買い取らせてもらうつもりさ」

「はい、お願いします。お金は結構です。私が持っていたらいけない物みたいだし」

「ありがとう。責任をもってお預かりします」

 

【読み手】を持たぬ『クリスマス・キャロル』の【本】は、『若紫堂』で厳重に管理されることとなる。

 冬の太陽は沈むのが早い。夕方手前の時間帯のはずなのに、周囲は既に暗く染まりかけて街灯には光が灯り始めている。今日はもうバイトは良いから夏月を送って行ってやりなさいと言う紫乃の言葉に甘え、読人は夏月と共に駅に向かうこととなった。

 

「竹原さん、待たせてごめん。送るよ……何なら、駅までじゃなくて家にまで」

「じゃあ、お願いします……黒文字君」

「は、はい!」

「……【本】を手に戦っている時、カッコ良かったよ」

「っ!」

「安易に言っちゃ駄目かもしれないけど、頑張ってね」

「が、頑張ります! 竹原さんにカッコ良いところみせるから!!」

『……カッコ付けたがりだったのか』

 

 この日から読人は、精力的にバイトも【戦い】における勉強にも取り組むことになった。全ては、夏月に良い恰好見せたいために……その様子を見た紫乃は、やっぱり彼は蔵人に似ていないと感じたのだった。

 

 

 

***

 

 

 

「……小太郎(コタロウ)さん、申し訳ありませんがもう一冊預かって下さい」

 

 読人も桐乃も帰宅し、『若紫堂』を閉めた紫乃は仏壇の前にいた。

 仏壇に置かれた位牌と遺影は、20年ほど前に亡くなった彼女の夫の物だ。見合いで出会い、『若紫堂』を継ぎたいと言っても嫌な顔をせずにそれを受け入れてくれた優しい人だった。彼の位牌に手を合わせて線香を上げてから仏壇を動かすと、そこには隠し部屋のようなスペースがある。

 そこに、かつて彼女と共に英国へ渡った『源氏物語』の【本】や、古書店の仕ことの中で手に入れた【読み手】のいない白い【本】が保管されている。そこに、『クリスマス・キャロル』の【本】を収めてしっかりと隠された。




創造能力・仏の御石の鉢
「石作皇子様は、お釈迦様がお使いになった仏の御石の鉢をお持ちになって下さい」
かぐや姫の無茶振りその①から想像して創造された防御兼カウンター能力。
石の鉢型ドームが三度の攻撃を受けるとドームが崩れ、今までの攻撃を蓄積した仏様のスタンド(違)が出現し、両目から仏の顔も三度までビームを発射する。慈悲はない。


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赤ずきん【Past】②01

 例えば、週刊の漫画雑誌等において、長期までは行かなくとも作者急病を理由に数か月の休載を挟んで漫画の続きが再開する場合、前回のあらすじとか今までの流れとかを事前に掲載したりするだろう。

 読人的にはその掲載はありがたい。休載期間が長ければ、物語の大筋は覚えていれども細部や新しい登場人物を忘れてしまうことがあるからだ。

 だから、前編のプレイバックぐらいは視せてもらいたかった……ただでさえ、夢に現れる50年前の【戦い】の記憶は夢だからほとんど忘却してしまうのに。

 まさかの前後編となってしまった【戦い】の記憶――『古事記』と『赤ずきん』の対決は、読人の耳の奥に響くページをめくる音と共に夢の中に現れると、岩雪崩が『天岩戸』に降り注ぐ場面から始まったのだ。

 しかも、その時の読人の視点では自分に向かって岩が降って来るように見えたため、思わず悲鳴を上げそうになったが飛び起きることはなかった。そこのところが、少し不思議である。

 最初からクライマックスの後編は、ちょっと困った表情で左手を首に添えた蔵人が『天岩戸』から姿を現した場面から始まった。

 

「日本から参りました、黒文字蔵人と申します。【本】は、『古事記』。一曲踊って頂けますか? お嬢さん」

 

【読み手】同士の礼儀として名乗り、自身の【本】のタイトルをイーリスへ見せた蔵人の背後には真円の鏡面が創造されていた。

 水面のようにユラリと揺れた鏡面から飛沫を出す勢い飛び出て来たのは、暗闇の場面に白い直線を描き入れる稻羽君こと『稻羽の素兎』である。

 雷管を叩かれた弾丸の如く飛び出て来た小さくてふわふわの身体は、『一寸法師の川下り』によって水浸しなった道路に点在する岩を足場にして迫り来ると、イースリは再びバスケットの中から巨大な裁断バサミを取り出し、稻羽君を迎え撃ったのだ。

 

「武装能力・お見舞いの七つ道具(Ausrüstung der Sympathie)……腹裂きのハサミ(Incision-Schere)!!」

 

 金属同士が衝突し合った状況に似た、甲高い音が響くと稻羽君も腹裂きのハサミもそれぞれ跳ね返る。

 イースリの紫がかった青い瞳に一瞬の困惑を浮かべて腕が振るえた。どうやら稻羽君の体当たりの威力を見誤り、その衝撃によって腕に痺れが走ったのだろう。しかし、彼女はこの程度では怯まなかった。

 稻羽君――蔵人を相手にする武器はハサミではないと判断し、再びバスケットに手を突っ込んで別の武器を取り出したのだ。

 彼女の【本】のタイトルは『赤ずきん』。日本では幼稚園児でも知っている、ヨーロッパの童話だ。

 物語の中で、主人公である赤ずきんは森の向こうに住む祖母のお見舞いに出かけるのだが、その時手にしていたバスケットの中には裁断バサミもマスケット銃も岩雪崩も入っていないはず。ワインだって、巨大な鈍器ではなく普通の瓶詰の葡萄酒だったはずだ。

 そのお見舞いのバスケットから発想を得た創造したと思われる能力であるが、随分と戦闘に特化した能力であると読人も思わず感心してしまう。

 赤いキャスケット帽と相まって、イーリス自身が赤ずきんちゃんのように見える……最も、この赤ずきんちゃんはそう簡単に狼の甘言にも乗りそうにないし、猟師に助けてもらわなくとも自力で撃退しそうである。

 裁断バサミは猟師が食べられた2人を救出するために狼の腹を裂いたハサミ、岩雪崩はその後に詰め込んだ岩、マスケット銃は猟師の持ち物である猟銃でもイメージしたのだろう。そして、それらに連なる七つ道具の四つ目は、岩に小さな脚を付いて再び踏み込んだ稻羽君を絡め取ってその姿をお披露目した。

 一旦ハサミを仕舞い込んだバスケットの中に手を突っ込んで、白く細い指を夜間の空に流すと大きく跳躍した稻羽君の小さな身体が空中で硬直してしまったのだ。

 

「っ、稻羽君の身体が?!」

「……糸だ」

「え?」

「光孝、見えないか? 糸だ……」

 

 網にかかった野兎のようにもがく稻羽君は、肉眼では捕えきれないほど細い色によって絡め取られていたのである。

 よく目を凝らせば、微かにキラキラと光る糸が建物に渡って格子状に張り巡らされていたのだ。これは、岩を詰めた狼の腹を縫った赤ずきんの祖母の針と糸だ。

 

「武装能力・縫合の裁縫道具(Naht-Nähen)! 活きの良いHaseは、美味しいWildにして差し上げましょうか」

「それは勘弁してあげて下さい。美味しそうですけど」

 

 このままでは毛を毟り取られて料理されると悟ったのか、糸に絡め取られている稻羽君が必死にジタバタともがいて脱出しようとしている。

 ちなみに、よく『因幡の白兎』と表記されることが多い彼のモデルであるが、『古事記』における正式名称は『稻羽の素兎』だ。“素”は毛のない裸を示しているので、つまり毛を毟り取られるのはトラウマなのである。

 だが、読人が知る中で、蔵人の【本】における戦闘能力は弾丸の速度で跳ね回る稻羽君だけだ。彼が封じられた今、一体どうやって反撃するのだろうかと蔵人の一挙一動を追うと、手にしている『古事記』の【本】に再び光が灯り、真円の鏡が創造されたのだ。

 

「高天原の八百万の神々が天の安河に集まって、川上の堅石を金敷にして、金山の鉄を用いて作らせた八咫鏡――三種の神器の一つですが、こう言う使い方は如何でしょうか? 出ておいで、和邇(ワニ)君」

 

 再び波紋を描いた鏡――八咫鏡の中から飛び出て来たのは、身の丈3mはありそうな巨大な鮫だった。赤いビー玉のような円らな目は八咫君や稻羽君と同じ、しかし、烏と兎の2匹とは違い鋭い牙がいくつも連なった鮫はあまりにも異質。

 例えるなら、可愛いゆるいマスコット集団の中に、一体だけリアルに作りすぎた猛獣が混ざっているのである。

 蔵人をも呑み込んでしまいそうな巨大な鮫は水中でなくとも自由に動き回れるらしく、牙を剥き出しにして稻羽君へ突撃して行くと、その牙で細い糸を切断して稻羽君を救出。そしてそのまま自身の背中に稻羽君を乗せたが、救出された稻羽君は耳をへたりと垂らしてブルブル震えていた。

 蔵人が創造した能力を理解した。『古事記』に登場する三種の神器が一つ、『八咫鏡』を介して物語に登場する生物を次々と召喚できるのだ。

 今まで鏡から召喚された生物たちは全て、『古事記』のエピソードに登場し、神々の物語に置いて重要な役割を担っている存在である。

 

「『稻羽の素兎』に出て来る“和邇”と言う生き物は、鮫や鰐、海蛇と言う説がありますが、『山幸彦と海幸彦』のエピソードから、私は鮫説押したいですね。もっとロマンを言えば、現代では絶滅してしまった“ワニザメ”なる生き物かもしれませんし……」

「蔵人さん! 今はそう言う場合ではありません!!」

 

 そう、光孝が叫んだ通りそんな場合ではない。まだ【戦い】は続いている。和邇君の牙で切断された細い糸は直ぐに修復し、和邇君の巨大な身体を雁字搦めにしてしまった。

 肉眼でも捉えにくい糸が鮫肌に細い糸が食い込む様は、煮崩れしないようにとタコ糸で縛られた叉焼のようだ……だけど叉焼とは違い、少しでも糸に力が込められるとそのまま切り刻まれてしまうかのように食い込んでいた。

 

「糸、とは……紫乃さんの青海波を思い出しますね。和邇君、稻羽君」

 

 八咫烏の八咫君のように鳴き声で返事をしない2匹だったが、蔵人の言葉に反応して即座に動き始めた。

 叉焼の如く締め付けられる和邇君の身体が何匹もの小さな鮫に分裂して格子状になった糸の隙間から脱出すると、稻羽君は小さな鮫たちを飛び石のように足場にして跳躍し、再び白い直線を描いてイーリスへ向かって行ったのである。

 小さな鮫たちを数えるように次々と踏み抜いて行くその様子は、蔵人の【本】の物語の中にある『稻羽の素兎』の場面そのものだ。

 獲物を絡み取る蜘蛛の巣のように張り巡らされる糸を掻い潜って、弾丸の速度まで加速した稻羽君がイーリスの直前にまで迫っていた。が、彼女は一瞬の焦りを見せただけで甲高い叫び声なんて出さない。再びバスケットに手を入れて上空へ大きく振り上げると、自身と稻羽君の間に巨大なワインボトルが降って来たのだ。

 

鈍器のボトル(Schwer-Flasche)!」

「稻羽君!」

「さっきのワインボトル!?」

 

 ドイツ語が書かれたエチケットラベルが貼られた巨大なワインボトルは、先ほども龍生を狙って降って来た物だ。

 今度はそれを鈍器ではなく盾として使った。ギリギリのタイミングで両者の間に振って来たボトルに、稻羽君が衝突して弾き返される……痛かったようだ。

 白い直線を描く元気もなくひょろろろ~と言う感じの効果音が付きそうな、弱々しい動きで蔵人の帽子の上に着地して、彼の頭の上で不快を訴える足ダンことスタンピングを行っていた。

 

「痛い痛い、痛いですよ稻羽君。しかし……天晴れ、お見事としか言いようがありませんねFräulein. 素早い小さな兎である稻羽君を相手にするのは、巨大なハサミで切り刻むのではなく糸で捕えた方が最良の手段です。それを咄嗟に判断して行動に移し、稻羽君の攻撃の威力を知った後にはそれ以上の強度を持つ盾を用意した。まるで歴戦の軍人さんのような、迷いのない正確な判断ですね」

「お褒めに預かり、光栄でございます……と、今は返しておきましょう。この1年のために、【本】に選ばれるその時のために長年研鑽して参りましたので」

「……まるで、【本】に囚われているような口ぶりですね」

「っ、そろそろ終わらせましょうか!」

 

 蔵人の言葉を聞いたイーリスは、綺麗な線を描く眉を微かに顰めるとその変化と表情全部を隠すように赤いキャスケット帽を目深に被り直す。そして再び、バスケットの中から腹裂きのハサミを取り出すと自身の身の丈ほどあるそれを両手で握り大きく振り回したのだ。

 読人の耳にも聞こえたのは、「シャキン」と言うあまりにも澄んだ心地いいハサミの音だった。ナニかを切った時に出る、ハサミの刃が触れ合うその音が出たと言うことはナニかを切ったと言うことだ……まさか、蔵人が身体の一部を切られたのか?

 口に岩を詰めて針と糸で縫われるのではなく、腕の一本や二本が胴体からさようならしてしまったのかと思ったが、実際はそれ以上の被害規模だったのだ。

 裏路地を形成していた建物、光孝が立て籠もっている電話ボックスが置かれた側にあるフラットの壁が斜め30度の角度で切られてしまったのである。

 最初はゆっくりと断面を滑るフラットの倒壊部分だったが、元々ヒビが入っていた壁が音を立てて細やかな瓦礫が落ち始めると、建物全体が音を立てて盛大に崩壊するのは早かった。しかも、光孝が立て籠もっていた電話ボックスの上部まで巻き添えで切られてしまい、フラットよりも早く地面に落下すると窓ガラスが粉々に砕け散ってしまった。

 

「うわぁぁぁ!?」

「龍生君」

「はい?」

「支えられますか?」

「やってみます」

 

 いくら()()()()()()になるとは言え、此処までの崩壊は自分たちにも危害が及ぶと判断したらしい蔵人だったが、対処は龍生に任せたようである。

 電話ボックスの中で悲鳴を上げる光孝を余所に、蔵人と龍生が随分と軽いやり取りの後に『一寸法師』を開くと白い【本】には再び光が灯り、崩壊するフラット全部を飲み込んでしまいそうなほどの広範囲の水流がせり上がって来たのだ。

 龍生は「やってみます」と言っていたが、『一寸法師』の紋章が描かれた白い【本】を持つ手には力が込められ、飄々とした彼の表情とは逆に水流は怒涛の飛沫を上げて崩壊するフラットを押し返すその光景は「絶対にやってみせる」と語っているようだった。

 彼が創造した『一寸法師の川下り』は、川の如き水の流れを自在に乗りこなす駆動性に長けた能力であるが、【読み手】の中の創造が固まれば水流自体も自在に動かせる。せり上がって来た水流が崩れ落ちる瓦礫を飲み込んで石畳の路地で跳ねると、粒の大きい雫が降って来て蔵人やイーリスの服を濡らした。

 誰も瓦礫の下敷きになっていないし、光孝が立て籠もっている電話ボックスも上部を切られた以外は長方体の形を保ったままだ……崩れた瓦礫は全て、お椀の形に変形した水によって受け止められていたのである。

 イーリスのハサミに切られてから龍生の水に瓦礫が受け止められるまで、たった数秒の出来事であったが物語を目にする第三者の立場として見ていた読人には、何分もかけて状況を説明したスローモーションに見えた。そして、流石に派手にやり過ぎたのだろう。

 ロンドンの霧にも隠れないほどの建物の崩壊が、騒ぎに発展しかけていたらしく、パトカーのサイレンの音やざわざわと言う群衆の声が聞こえて来たのだ。ついでに、赤いキャップの切り裂き魔の姿を追って夜の街へ繰り出したもう1人の【読み手】も。

 

「誰か【戦い】をしているかと思えば……貴方たちですか、黒文字蔵人!」

「あ、こんばんは紫乃さん」

「紫乃さーーん!!」

「彼女が、例の切り裂き魔ですか?」

「はい。名前は確か……えーと、アーベンシュタイン? って」

「っ! アーベンシュタインですって!」

 

 イーリスを探していたらしい紫乃までも、この【戦い】に引き寄せられて現場に現れてしまったのだ。蔵人からは呑気な挨拶をかけられ、光孝からは援軍が来たと言わんばかりの呼びかけが向けられたのだが、龍生が口にしたイーリスの名前に狼狽えた。

 一方、イーリスの方も手を耳元に当てて何やら狼狽えた表情をして小さく呟いている。【戦い】の最中は髪やキャスケット帽で見えなかったが、よく見れば彼女の耳にはイヤホンに似た物が装着されてコードがジャケットにまで伸びていた。恐らく、無線の通信機なのだろう。

 何度か小さくボソボソと呟くと、腑に落ちないと言わんばかりの表情でハサミをバスケットの中に収納し、『赤ずきん』の【本】を閉じてバスケットそのものを消失させ、一方的に【戦い】を終えてしまったのだ。

 

「今宵はこれにて失礼します。またいずれ、お会いするかとは思いますが」

「待ちなさい、貴女はアーベンシュタインの……」

 

 イーリスを引き止めようとした紫乃の声は、腹に響く重苦しいエンジン音にかき消されてしまった。霧の向こうから眩しいライトの光が迫って来る。

 黒塗りのベンツが思いっ切りアクセルを踏み込んだ速度で乱入して来ると、イーリスの身体を隠すように彼女の隣に横付けしたのだ。そして、間髪入れずに運転席の窓から球体の何かが投げ込まれて石畳の上で破裂すると、狭い裏路地は目に痛いほどの激しい光によって真っ白に染まってしまったのである。どうやら、閃光弾だったようだ。

 視ている読人も驚いて飛び起きてしまいそうな閃光に紛れて、黒塗りのベンツはイーリスを回収して去って行ってしまった……赤いキャップの切り裂き魔に、逃げられてしまったのである。

 

「目が、目がチカチカする……」

「た、助かった~

「逃げられてしまいましたね。イーリス・アーベンシュタイン嬢、ですか……」

 

 蔵人が【本】を閉じて稻羽君も和邇君も消えてしまうと、【戦い】の間に起きた出来ことは()()()()()()になる。フラットの崩壊も斜めに切られた電話ボックスも元に戻って何ことも()()()()()()になったのだが、『一寸法師の川下り』で濡れた服は濡れたままだった。




・狼の腹を裂いた猟師の鋏
・狼の腹に詰め込んだ石礫
・石を詰めた狼の腹を縫合した糸
・猟師の持つマスケット銃
・お婆さんへのお見舞いワイン
その他あと二つ……。

信じられるか、これらを赤ずきんちゃんが持ってるんだぜ。


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赤ずきん【Past】②02

 イーリスが逃げたことによって、今夜の【戦い】は勝者なしで終わってしまった。このまま夢も覚めるだろうと思っていた読人だったが、後編はこれで終わらなかったのである。

 次のページが開かれると、夜が明けていた。蔵人たちが住むフラットに訪問者が来た場面で、次のエピソードが始まったのだ。

 

「Mr. クロード・クロモジは、いらっしゃいますか?」

「……あ、はい」

「私は、アルフレート・ガーベラ。主であるイーリス様の命によって、貴方がたをお迎えにあがりました」

 

 フラットのドアを開けた龍生によって来訪者の存在を知らされると、一般人である光孝を含めた3人は固めの英語を話す体格の良い執こと服の男――ガーベラが運転するリムジンによって、イーリスが待つと言う場所へ連れて行かれたのである。

 しかも、リムジンに乗っていたのは彼らだけではなかったのだ。

 

「紫乃さんもイーリス嬢にご招待を受けたのですか?」

「……ええ。どうやって調べたのか、私の住むアパルトメントまで訪ねて来ましたの」

「怖っ!」

 

 いつものボーラーハットを被った紫乃までもが、イーリスに招待されていたのだ。

 昨夜の【戦い】の現場にいた人間を集めて、彼女は一体どうしようと言うのか?

 ハンドルを握るガーベラに訳を尋ねてみても、彼は頑なに口を閉ざしたままだった。

 

「そう言えば紫乃さん、昨日、あのめんこい女の子の名前を知っていたみたいでしたけど。知り合いですか?」

「彼女本人は存じ上げませんが、“アーベンシュタイン”の名は覚えがあります……西ドイツが名門・アーベンシュタイン家。何世代にも渡り、不老不死を求めて【戦い】に参戦し続けた【読み手】の家系です」

「【読み手】の家系?」

「アーベンシュタイン家は不老不死を求めた神聖ローマ皇帝の命を受け、50年に一度の【戦い】に参加した騎士を祖とする家系と聞いています。以来、国のトップが変わる度に参戦し続けているそうです。かつての【戦い】に参戦した琴原の先祖とも、一戦交えたとか」

「へえ、わしの家みたいだな」

「ですが、ここ二世紀ほどは姿を見かけなくなっているそうです。戦争や国内のいざこざによる疲弊もそうですが、アーベンシュタイン家の人間が【本】に選ばれなくなったとも聞いています」

 

 つまり彼女、久方ぶりのアーベンシュタイン家の【読み手】であるイーリスは【読み手】のサラブレットとも言える存在なのだろう。不老不死を手に入れるための【戦い】によって成立し、何世代もの【読み手】によって紡がれ【本】を伝え続けた家系なのだ。

 紫乃の話を聞いた龍生は感心したような顔をして、光孝はさっきまでの怯えた表情がどこへ行ったのか、目にはキラキラとした光が出現し始めた。

 4人を乗せたリムジンは無口な運転手によってウエストミンスター大聖堂の前を通り過ぎ、バッキンガム宮殿へと走らせる。読人の目には、ガイドマップで見るような代表的なイギリスの街並みが広がっていた。

 

「あれ、もしかして……ベルグレイヴィア地区へ向かっていませんか?」

「ベルグレイヴィア?」

「頭に“超”が付く高級住宅街ですよ。住宅価格は世界一とも言われています」

「まさか、あの子……相当なお嬢様だったんじゃ?」

 

 フロントガラスに映るガーベラが微かに頷いた気がした。しかも、なんとなくドヤ顔に見える。

 ホワイトスタッコのアパートや石造りの教会、各国の大使館が並ぶ地区へと入ると、あちらこちらにはこのリムジンに負けず劣らずの高級車が走っている。しかも、道を歩く人々はこの時代のイギリスの不況知らずと言う顔をした、身形の良い紳士淑女ばかりだ。

 ヒエラルキー頂点の者しか住むことのできない地区に平然と入ってしまったことに気付いたのは、龍生と光孝の顔に緊張の色が出始めた。そりゃ緊張するだろう、明らかに庶民は場違いなのだ。

 その緊張が程よく高まったタイミングで、リムジンは超高級住宅地にある屋敷へと到着した。物凄い大豪邸……と言う訳ではなく、軽井沢辺りにある別荘と言う感じの屋敷だったが門が開いた先の庭園は見事な敷地面積だった。リムジンの窓から見えるだけでも、ちょっとした公園ぐらいの広さがある。

 一行だけではなく、視ている読人までもが緊張して来た時にリムジンは屋敷の前で停車すると、出迎えてくれたのはギンガムチェックの可愛らしいワンピースを着たイーリスが出迎えたのだ。

 

「Guten Tag. ようこそ、いらっしゃいました」

「こんにちは、イーリス嬢。お招きありがとうございます。急なものでしたから、手土産も何も持たず申し訳ありません」

「いいえ、お気になさらず。アルフレート、お茶とトルテの準備を」

「Ja」

 

 丸襟の青いギンガムチェックのワンピースに、赤のベルベッド生地のリボンでブロンドを結ったイーリスの姿に呆気に取られている。昨夜とは別人のような淑女然とした彼女と、狼さえも狩ってしまいそうなハサミを片手にした姿とのギャップに戸惑っているのだろう。

 ドイツの老舗紅茶ブランド・ロンネフェルトの紅茶と、チョコレートとピスタチオのトルテが振る舞われたが、龍生と光孝は緊張と戸惑いからか勧められても手を付けられていない。紫乃も手を付けていなかったが、彼女の場合は何か薬でも盛られるかと警戒しているようだった。一方、蔵人は……戸惑いも警戒も何も感じずに、振る舞われた紅茶を楽しんでいたのだ。

 

「フッチェンロイターのカップですね。綺麗なアイリスです」

「それは良かった。わたくしのお気に入りのカップですの」

「……それで、私たちを招待したのは何かの目的があってのことでしょうか?」

「紫乃さん」

「昨日の今日です。それに、私の知人も彼女に敗れています。この場で【戦い】を始めるならば、お相手して差し上げてもよろしいですよ。ですが、何で私まで呼ばれたのでしょうか?」

 

 紫乃の手はずっと自分の横に置いたショルダーバッグに添われていた。その中には、彼女の『源氏物語』の【本】が入っているのだろう……ガーベラの迎えが来たその時から、警戒し続けていたのだ。

 凛々しい眼差しに闘志が宿る。その視線を浴びせられたイーリスだったが、何こともないようにゆっくりを紅茶を飲みトルテを一口食べてと優雅なティータイムを過ごしていたが、カップをソーサーに置くと真っ直ぐに4人に視線を向けた。

 

「同じ日本人だったので、お仲間かと思いました」

「違います。むしろ相容れない存在だと認識しています」

「酷いなぁ、紫乃さん」

「貴殿たちをお呼びしたのは、ただお茶会に招待した訳ではありません。クロード・クロモジ」

「はい」

「貴殿……貴方に言いたいことがありまして、今日はお呼びしました」

「はあ……」

 

 左手を首にそえて首を傾げる蔵人に対し、イーリスはキっと眉尻を上げて昨夜と同じ眼差しで蔵人を睨み付ける。まさか、昨夜の【戦い】で何か失礼なことでも失言でもしてしまったのか……そう言えば、結構色々隠さないで毒を吐いていたような気がする。言葉は多少のオブラートや八つ橋に包むのが日本人の美徳とは言うが、蔵人にそれは当て嵌まらないのはこの頃からのようだ。

 

「昨日、貴方はわたくしのことを「【本】に囚われている」と言いましたね」

「そう言えばそんなことも……」

「言っていましたよ」

「言ってたな」

「失言でしたら、謝ります」

「……わたくしたち、アーベンシュタイン家は【戦い】のために成り立った一族です」

「紫乃さんからお聞きしました。近年では、【読み手】が排出されないため【戦い】に参加できていないとか」

「ええ。アーベンシュタインの人間が【戦い】に参加できずにいた空白の期間で、貴族の称号を得て事業を成功させ、政財界や軍部でも名の知れた家系となりました。親戚筋の中には、もう【本】のことなど忘れて、【戦い】などどうでも良いと思っている者たちが数多います。今回も、わたくしが【読み手】になったと知らせても、難色を示す者ばかりでした。もう、わたくしたちが仕える皇帝も指導者もいない、【本】に囚われてはいけない。【戦い】に自身の存在意義を、アイデンティティを求めるな、過去を追わずに未来を見据えなさいとも言われましたわ。もう、メルヘンの時代ではないと。しかし、わたくしたちは勝っていないのです!」

 

 一際大きく、凛々しく、険しい声がクリスタルのシャンデリアの下がった客間に響いた。

 主君に不老不死を捧げるために生まれた一族……それが、アーベンシュタイン家。しかし、先の大戦の復興と近代化が進む中で、二世紀ほど【戦い】から遠ざかっていた中で一族の者たちにも変化が起きてしまったのだろう。

 その者たちから見れば、イーリスは自身の存在意義を一族の成り立ちに同調させた、思春期の承認欲求にも見えたのかもしれない。

 選ばれた者を非日常へと誘う【本】は、最早傍迷惑な存在でしかなくなっていたのだ。

 だけど、イーリスは言った。まだ、勝っていないと。

 

「長い歴史のあるアーベンシュタイン家ですが、何度も【戦い】に参加しても一度として『竹取物語』を、勝利と不老不死を手にしたことはないのです。主君に捧げる勝利を一度も手にせず、敗北を重ね続けたまま【戦い】から身を引くなど、できるはずがありません! 不老不死は興味がありません……わたくしは、一族の、アーベンシュタインの誇りのためにこの【戦い】に参加したのです」

「……」

「【本】に囚われていると言う発言を、撤回しなさい。クロード」

 

 望むのは先祖たちが得られなかった勝利。突き動かす理由は一族の誇り……敗者のまま歴史に埋没されるのを許さなかった少女は、『赤ずきん』と共に【戦い】主戦場であるイギリスへわたって来たのだ。

 イーリスの瞳に強い意志が宿っているのは夢越しで過去を視ている読人にも伝わった。同じく、強い意志が宿った瞳を持つ紫乃とは違う、若さとプライドに突き動かされた情熱的な瞳だ。

 その眼光は、可愛らしいギンガムチェックのワンピースが似合わない。今の彼女に似合うのは、軍服に見える仕立てがされた深緑色のジャケットとあの赤いキャスケット帽だ。

 興奮からか、ソファーから立ち上がったイーリスに対し蔵人は少しの沈黙を置いた後、彼女へ向けて深々と頭を下げたのだった。

 

「申し訳ありませんでした、イーリスさん」

「っ、撤回なさるのなら、それで良いです」

「お許し頂き、どうもありがとうございます」

「ですが、わたくしたちは『竹取物語』を取り合う敵同士なのです! 今日は見逃しますので、どうぞ……ランチも、食べて行きなさいな。アルフレート!」

「Ja」

 

 まさか、蔵人がこんな簡単に頭を下げて謝罪するとは思っていなかったようである。ちょっと呆気に取られて少し顔を赤くしたイーリスは、自分だけがヒートアップしたことを恥じているようにも見えた。

 そして、どうやらこのまま優雅なティータイムと、豪華なランチにあり付けるようである。殺伐とした雰囲気が和らいで蔵人以外の面々はやっと紅茶やトルテを手に取ったのだ。

 

「どうも、いただきます。そうだ、昨日は色々とどうもすいません。イーリスさん、お強いですね」

「そうですよね!『赤ずきん』の【本】からあんな風に想像するなんて、凄いですよ!」

「ところで……貴女、おいくつ? まだ学生ではありませんか?」

「春に14になります」

「……14っ?!」×4

 

 紫乃の素朴な疑問にとんでもない答えが返って来て、思わず読人も声を揃えそうになってしまった。春で14歳、つまり今は13歳と言うことである。

 見えない……欧米人は日本人よりも大人びて見えると言うが、イーリス読人や驚いている4人の目から見ても日本の高校生ぐらいにしか見えないのだ。それがまさかの13歳。日本で言えば、中学生の年齢ではないか。

 

「13……歳? まさか、この子に伊調さんは」

「外国の子は大人っぽいんだな」

「まさかの、年下……」

「……スイマセン、お茶のおかわりを頂けますか?」

 

 驚愕の真実(?)が明らかになり、過去の記憶に新たな登場人物を加えて、前後編から成る赤いキャップの切り裂き魔の夢はこの場面で覚めてしまった。

 50年経った現在、紫乃以外の彼らは一体どうしているのかと言う疑問を、寝起きの読人に浮かばせながら。




~イーリスさんにざっくり腹裂きをされた『金のガチョウ』の人~
【本】によって普通の卵を金の卵にする能力を得て金儲けを企んでいたが、イーリスに紋章狩りの鴨にされて即脱落した。ガチョウなのに……。
ちなみに名前は、リチャード・ライス(43)


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みにくいアヒルの子01

 残されたカードの内、どちらを選ぶかが運命の分かれ目だ。

 格子模様の背に隠された数字は幸運の証、それを手に入れた者が勝者となる……迷う掌が左右に動き、それに合わせて敵対する者の顔が歪んだ。悪魔は彼の手中にある。悪魔をこちら側に送り込まれてしまったら、相手に反撃のチャンスを与えてしまう。

 あまりにも長く感じた短い攻防戦を経て、伸びた手が一枚のカードを選ぶと敵の表情が強張った。開いたカードはダイヤの7……そして、彼の手元にあるカードはスペードの7だった。

 

「勝った!」

「負けたあぁぁぁ!!」

「読人ババ抜き弱すぎだろ!」

「この間から負けっ放しじゃねぇか」

「だから言っただろ、ババ抜きの時だけでも前髪を下ろせって」

「う~~!」

 

 読人の手には、悪魔を模したジョーカーが残ってしまい見事にババ抜き連敗記録を更新してしまったのだった。

 期末テストを終えた2月下旬、都立暦野北高等学校1年C組――読人のクラスでは、何故かババ抜きが流行っていた。他のクラスでは、昼休みに人が集まってアプリゲームの協力プレイ等をしている中で、何故ポピュラーなトランプゲームが流行ってしまったのか。その理由は、ジョーカーを片手に机へと突っ伏した読人にある。

 今まで短く切っても直ぐに伸びて来る前髪を放置していた彼は、所謂メカクレキャラとしてクラスで定着していた。それが1か月ほど前からヘアピンで前髪を上げるようになり、今まで隠れていた顔がはっきり見えるようになると、読人が随分と表情豊かな人間であることがクラスメイトに知れ渡ったのだ。

 と言うより、読人は顔に出やすい。

 良いことや嬉しいことがあれば明るく綻び、その反対のことが起きると焦り慄き、目が泳ぐetc……と、素直に顔が変化しているのだ。

 特にババ抜きをすれば非常に面白かった。トランプを見ずに読人の顔を観察していれば、掴んだカードがジョーカーかどうか直ぐ解るので必然的に連敗が重なっていったのである。

 そろそろこのクラスも終わってしまう2月の下旬に来て、クラス内の読人の総評が決定した。こいつとババ抜きするとスッゲー面白い、である。小学校からの仲である正美にしてみれば、凄く今更感があるけれど。

 

「まだ時間あるし、もう一回やろーぜ」

「次は前髪下ろす!」

「よーし、今度は勝てよ!」

「おーい、順位が貼り出されてるぞ~!」

「マジか? 見に行こう」

 

 昼休み終了15分前と言うところで、教員の手により学年ごとの掲示板に先日の期末試験の順位が貼り出されていた。

 暦野北高校は地域に根付く伝統校と言うポジションだったが、今年から進学校へとジョブチェンジをし始めた。

 どうやら、読人たちが入学して来る前の複数名の生徒が有名国立大の医学部に合格してしまい、それに味を占めてこれからは高偏差値の大学への進学を目標にするとか何とかと指標を出してしまったのである。この学校、一度調子に乗ると際限なく乗り続けるため強力なブレーキがないと極端に突っ走ってしまう。

 具体的な例で言うと、正美の所属する柔道部だ。3年前に何の弾みかインターハイに初出場してしまい、そのまま勝ち進んでベスト16にまで上り詰めてしまったのが当時の部員たちだった。それからと言うもの、外部から有段者のコーチを呼んで設備を整えて、遠方からのスポーツ推薦枠まで作ってしまい常勝の強豪校化へまっしぐら。柔道部ばかり贔屓しすぎだと、他の部活や保護者からクレームが来るほどだったと言う。

 そして、学業面では調子に乗っている最中だ。今までは期末・中間試験の順位を貼り出すなんて行為はしなかったのに、現在では学年上位20名の順位と名前、点数を貼り出している。生徒のモチベーションの向上と言う理由らしい。公開されてしまった方は、人によっては酷く迷惑に感じる行為である。

 そんな学年上位20名が貼り出されたと聞いて、読人や正美を始めとしたC組の男子何名かが掲示板に向かった。

 別に彼らの中の誰かが上位に食い込んでいるという訳ではない、学年1位の名前を確かめに行ったのだ。

 実は、今年度の1年生において学年1位及び2位に変動が起きていない。3位以下は毎回入れ替わるのに、1位と2位は2人の生徒が不動の地位としているのだ。

 先日の期末試験で1学年における試験は全て終了し、最後まで彼らの順位は入れ替わることがないのかどうかを確かめに、読人たちだけではなく他の生徒たちも掲示板を除きにやって来ていた。

 A3サイズの用紙に印刷された一覧の、1位の隣には見覚えのある名前があった。そこには、冬休み明けに行われたテスト(読人は忌引きで受けていない)の時と同じ、「浜名洸輔」の名前があったのだ。

 

「スゲーな浜名、1年間ずっと1位じゃん!」

「うわー……部活の奴らと賭けてたのに。たい焼き奢らないと」

「十五科目の合計点が1,462点、って……」

「本当にスゲーな。此処まで来ると、どこを減点されたのか気になるレベルだ」

「絶対に何教科か100点取っているよな。あいつマジ超人だよ」

 

 高校入学直後に行われた確認テスト以降、読人たちの学年では1年A組の男子生徒がトップを爆走し続けていた。浜名(ハマナ)洸輔(コウスケ)――今年度の1学年において最も優秀な生徒であるが、彼はそれ以上の偉業を成していたために色々と有名人であった。

 年間1位の地位を保っただけではなく、入試の点数も1位だったらしい。しかもサッカー部に所属し、1年生ながらスタメンに選ばれてグラウンドを駆け回っている。ついでに、とても背が高いという訳ではない細身であるが、顔は男前という部類に入るイケメンだ……女子生徒の注目を集め、試験期間中だったと言うのにバレンタインデーで相当な数をもらっていたと言う噂が立っている。

 これで性格に難があったなら嫌味の一つでも飛んで来るだろうが、浜名は物静かで職人気質に近い性格のため、男子に僻みの視線を飛ばされることはないのである。

 

「凄いな浜名君。漫画とか小説の主人公みたい」

「こんなに勉強できるのに、あいつ大学受験しないんだろ? 実家の洋食屋を継ぐために、専門学校に行きたいって」

「聞いた聞いた。小杉がなんとかして受験させようとしているって」

「『ハマナス』だよな、あいつの家って」

「そうだよ。あそこのオニオングラタンスープ、美味いよな」

「あ、戸田さん18位だって」

「本当だ。頭良いんだな~」

 

 一覧の下の方に、先日一緒にパンケーキを食べに行った夏月の友人・戸田茜の名前を見付けた。合計点を見ると読人や正美よりもずっと高く、素直に感心する。

 ちなみに今回の期末試験において、読人は167人中77位と言うめでたい順位を取った。少し上がった。文系はかなりの点数が採れる読人だったが、理数系が壊滅的のために成績は中の上である。心配要素であった物理は、何とか平均点は採れたがそもそも平均点が著しく低かった。

 そして、正美は88位だった。これまためでたいが、親に色々と小言を言われたらしい。

 上位20名の名前を見に来た生徒たちは、大体が「浜名スゲー」と言う感想を抱いて掲示板を離れて、読人たちもクラスに戻ろうとしたのだが、その時に1人の男子生徒をすれ違った。レンズの大きな黒縁眼鏡に、所謂マッシュルームカットをした色白の生徒には見覚えがある。あの上位20名の中にも名前があった。

 

「朝霞じゃん、今回も浜名に勝てなかったな」

「それに、今回は3位とそんなに差がなかったよな。2年になったら3位に転落するんじゃね?」

「やめろよ、本人がいるところで」

 

 正美に諌められて軽く謝ったクラスメイトだったが、掲示板前にいた彼には聞こえてしまったらしい。黒縁眼鏡と切り揃えられた前髪に隠れて表情は見えなかったが、拳を握りしめて悔しそうに口を歪め……早足にその場からいなくなってしまう。

 彼は1年A組の朝霞(アサカ)賢哉(ケンヤ)。浜名が1年間を通しての学年1位ならば、彼は1年間を通しての学年2位だ。今回の期末試験の結果にも浜名の下に彼の名前があったが。合計点には結構な差が付いている。

 一学期の段階では浜名とあまり差がなかったはずなのに。1年最後の試験でその差が決定的になってしまっただけではなく、他の生徒たちにもこう感じただろう。朝霞が浜名に勝つことはない、と。

 

「朝霞って、23区の進学校に落ちたからうちに来たって話だろ。国立大付属とか狙ってたって」

「浜名に勝とうと躍起になって、何時間も勉強しているみたいだけど、結局1年勝てなかったか」

「2位でも十分凄いのに」

 

 読人のその呟きは、昼休みの終了を告げる鐘の音によってかき消されてしまった。

 

 

 

***

 

 

 

 朝霞賢哉は浜名洸輔に勝つことはできない。

 一学年最後に試験の上位20名が公開されたことにより、殆どの生徒がそう思っただろう……否、きっとそうだ。

 みんな、朝霞は永遠に1位にはなれないと認識してしまったはずだ。朝霞本人の頭の中では、浜名洸輔>朝霞賢哉と言う式が出来上がってしまった。

 

「何でまた2位なの!? 何であんな都立高校で学年1位が取れないのよ! 勉強しなかったの?! 頑張らなかったの」

「し、したよ。予備校にもあんなに、通って夜遅くまで……」

「いくら時間をかけても身になっていないんでしょ! こんな成績で大学受験はどうするつもり……? ただでさえ高校受験に失敗して、遅れを取っているのよ!! もっと頑張りなさい!」

 

 学校を終えた後に予備校に行き、夜の10時に帰って来た朝霞を出迎えたのはキンキンと甲高い金切り声を上げた母親だった。手には学校から送付された期末試験の結果表がある。朝霞賢哉、2位と言う結果が母親にも知られてしまったのだ。

 

「良いわね、たくさん頑張って絶対に帝国大に入るのよ! お母さんの家もお父さんの家も、みんな帝国大を出ているの。お兄ちゃんだってそうでしょう、帝国大を優秀な成績で卒業できたからフィリックス・フランネルみたいな世界的企業に就職できたの。分かっている?」

「分かっている、よ」

「なら、もっともっと頑張って勉強しなさい! あんたは呑み込みが悪いんだから、もっと努力して頑張らなきゃ駄目なのよ。ママは、賢哉に期待しているの……ママもパパも応援しているから、頑張りなさい。たくさん頑張れば選択肢がたくさん広がるのよ。賢哉が進みたい進路への近道は、勉強を頑張って帝国大へ入学することなのよ」

「……はい」

 

 七回……今夜、母が彼に向かって「頑張れ」と言った回数だ。

 朝霞は自室に戻ると、着替えをする暇もなく机に向かって予備校でやった内容の復習を始めた。が、全く頭に入っては来ない。

 母がヒステリックに喚き散らして、何度も何度も「頑張れ」と言われた後はいつもこうだ。やらなければならないと頭の中では理解しているはずなのに、意識は全然集中できずにもやもやしてしまう。

 

 こんなに頑張っているのに、これ以上どうやって頑張れば良いのだろうか。

 

 朝霞賢哉――彼の家庭は、財閥銀行に勤める父親に教育ママの母親。そして、有名な国立大学を卒業し世界的な有名企業の日本支社に就職した兄がいる。

 常に世界の技術の最前線に立つフィリックス・フランネルの名前ならば、誰しも一度は聞いたことがある。全世界のSOソフトの70%以上をシェアする会社だ。そんな大企業に就職した兄のことを、父も母も褒めちぎって誇りだと讃えた。そして、特に偏差値も高くない都立高校で学年1位を取れない弟には、もっと頑張りなさいと叱咤し続けた。

 学校で流れている噂通り、朝霞は23区内にある国立大付属の進学校の受験に失敗した。暦野北高校は本番の予行練習にと受けたはずだったが、結局そちらに進学したのだ。母にとって、志望校の受験に失敗するよりも高校浪人になる方が恥に映ったらしい。

 一応、徐々にではあるが進学校へのカリキュラムへシフトチェンジしている高校だ、国立大医学部への進学者も出したと言うことでギリギリ母の許容範囲に入ったのである。

 暦野北高校で年間学年1位を獲り続けていれば、母はこんなにも荒れることはなかったかもしれない……浜名と言う超人が同学年であったために、朝霞は万年2位の地位から動けず母の「頑張れ」口撃は一年間止むことはなかった。

 朝霞は机に齧り付いたまま頭を掻き毟る。美容室に行く時間が勿体ない、下品が髪型にされたら困ると言う母が切った髪型が学校で嘲笑されているのは知っている。昔からそうだった、髪型一つでさえ母の決定に従い、母の顔色を窺っていた。

 昔はまだ良かった。出来の良い兄を可愛がる母に振り向いてもらいたくて、母に「頑張れ」と言われたら素直に頑張れたし、自分を見てくれた母が与えてくれるものが堅苦しく自由のないものであるとは考えもしなかった。

 今はどうだ……母の「頑張れ」が、苦痛とプレッシャーとなって朝霞の胸に重く突き刺さる。

 これで、兄や浜名を恨み憎み嫉み僻むことができたのなら少しは楽になっただろう。しかし、兄も浜名も人間として出来ている人だったから、負の感情なんてぶつけられなかった。兄はただ1人の弟であった自分に優しく接してくれて勉強を教えてくれた、母との間に仲裁にも入ってくれた。浜名はクラスメイトとして、普通に仲良くしてくれるし嫌味のない人間だった。

 それ以前に、朝霞は誰それ構わず僻み続けるような荒々しい性格をしていなかった。内に溜め込み続けてしまう人間だったから、1人で素直に頷いて机の上に展開される教科書とノートの世界にログインするしかできなかったのである。

 だが、今の彼はその世界で集中することなんてできなかった。

 だけど、やらなければならない。もっと頑張らなければ、母は側にあるティッシュ箱を投げて来るだろう……あれは、当たると痛いから嫌だ。

 集中なんてできないまま時間だけが過ぎて行く。別の参考書を出して気分転換でもしよう、兄が置いて行ってくれた奴が良い。あれは、兄の丁寧な書き込みが分かりやすいのだ。

 兄の参考書を取り出そうと本棚を調べた朝霞だったが、目当ての一冊が見付らない。しばらく本棚の整理をしていなかったので、たくさんの参考書がぎゅうぎゅう詰めになっていたのだ。

 折り重なる表紙の中でやっと目当ての一冊を見付けたが、その使い込んだ一冊を本棚から取り出せなかった。本棚に参考書を詰めすぎていた。

 何とか取り出そうと力任せに引っ張り続け、ようやく半分ほど出て来たと思ったその時……朝霞の頭上に、悲劇が起きた。力任せに参考書を引っ張ったために本棚が揺れてしまい、上に積んでいたダンボール箱がその振動で落ちて来てしまったのである。

 加湿器の音だけが響く室内に、何冊もの本が落下する大きな音がやって来た。これだけ大きな音がしても、リビングにいる母は気にしていないのか一声かけても来なかった。もしかしたら、入浴しているかもしれない。

 朝霞は大きく溜息を吐いた。踏んだり蹴ったりとは正にこのこと。床に散らばった本を片付けようと足元にあった白い本を手に取ったら、それは懐かしい一冊であった。

 

「『みにくいアヒルの子』……」

 

 ダンボール箱の中身は、朝霞が幼い頃に読んだ児童書だった。

 幼い頃からたくさんの本を買い与えられていたが、両親に読み聞かせをしてもらったことはほとんどないと思う。朝霞があらかた文字を覚えてからは、学習のために自分で読みないと言われていたから。

 この本だって、真っ白な『みにくいアヒルの子』だってそうだ。挿絵が1ページもない、近年の絵本のマイルドな描写もないこの本を読み聞かせてくれたのは、兄だけだった。

 

「……良いよな、お前は。どんなに虐められても、辛い目に遭っても、最後は綺麗な白鳥になれるんだから」

 

 幼い頃は、みにくいアヒルの子が可哀想だと思った。兄弟に虐められて攻撃され、自分の親であるはずの母アヒルにも見捨てられた。彼が白鳥の子供だと言うことが分かってからは、実の親と生き別れてアヒルの卵の中に紛れ込んでいたこと実を可愛そうだと思った。

 それでも、みにくいアヒルの子は美しい白鳥に成長した。同じ白鳥に仲間ができた。

 自分は、白鳥になれるのだろうか……?

 

 そう思った朝霞であったが、それは一瞬だけ。直ぐに馬鹿馬鹿しくなったが、『みにくいアヒルの子』の本は他の絵本と共にダンボールへ片付けるのではなく、ベッドの上に放り投げた。少し懐かしくなっただけ、息抜きに読むだけ。現実逃避なんてしていないと自分に言い聞かせて、参考書を手に再び机に向き合った。

 素晴らしい才能が突如開花して誰もが羨む姿へと変身できるなんて、そんな、存在すると言い切れない不確定な幻想に願い続けるよりも、1分でも1秒でも多く知識を詰め込んだ方がきっと自身の役に立つはずだ。

 だから、気付かなかった。

 ベッドに放り投げて引っ繰り返った本の裏表紙に、昔は真っ白だったはずのそこに絵が浮かんでいたことを。下を俯いて涙を流すみにくいアヒルの子と、翼を広げて優雅に空を及ぶ白鳥の紋章が光と共に【本】に現れたことに……それが朝霞の前に出て来たのは、丑三つ時も過ぎた深夜であった。

 

『全く、何でお前みたいなデキの悪い子が産まれて来たのかしら。お兄ちゃんはあんなに良い子なのに、それに比べて……』

「っ!?」

 

 結局、兄の参考書を使っても勉強が捗らず、軽くシャワーを浴びてからベッドに潜り込んだ。

 うつらうつらと睡魔がやって来て、そのまま眠ってしまうかと思った矢先に、耳元に母の声が聞こえたのである。

 

『もしかしたら賢哉はうちの子じゃないかもしれないわ。病院で取り違えられたに決まっているわ』

「……お母、さん?」

 

 薄暗い部屋を見回してみたが、母の姿はない。でも、声はしっかりと聞こえるのだ。朝霞が一番聞きたくない言葉をベラベラと吐き出す、あの甲高い声が。

 

『次は頑張るからって、いつも口先ばかり。結局いつも頑張らないで、2位しか取れないじゃない』

「嘘だろ、何でアヒルが喋っているんだ? 何で、アヒルがお母さんの姿をしているんだ?!」

 

 母の声は向こうからその姿を現してくれたベッドをよじ登って朝霞の腹の上に着地したのは、母が好きな色のワンピースを着て彼女と同じくきっちりヘアセットをしたウィッグを被り、銀縁の三角眼鏡をかけたアヒルだったのだ。

 アヒルが母の真似をしていると言うよりは、母がアヒルになってしまったかのようなその存在の黄色い嘴から、甲高い金切り声が聞こえて来た。

 アヒルが喋っている……母の声で、母に言われたくない言葉で朝霞の胸を突き刺して来る。

 これは夢だ、悪い夢なのだ。『みにくいアヒルの子』の本を見付けてしまったから、母に怒鳴られてしまって嫌な気分になったからこんな夢を視てしまったのだ。

 そう言い聞かせようとした朝霞は両手で耳を塞ぐが、アヒルの口撃は隙間をすり抜けて耳に入り脳に届いてしまう。しかも、アヒルは1羽だけではない。もう2羽のアヒルがベッドをよじ登って、母アヒルを中心に並ぶと朝霞は小さく悲鳴を上げた。

 兄と同じ四角い眼鏡をかけて、朝霞が就職祝いにプレゼントしたネクタイを締めた兄アヒル。嘴の上に灰色のヒゲを蓄えて、皺一つないスーツを着た父アヒルが増えたのだ。

 

『本当に嫌になるよ、こんな奴が俺の弟なんて。そろそろ尻拭いにも飽きて来たな。頭が悪くてかわいそうだから構ってやっているだけなのに、あいつはベタベタ付いて来るし』

「っ、お兄さん……?」

『私がお前に対して口出しをしないのは、最初から何も期待していないからだ。お前が何を頑張ったかなんて、興味はない』

「お父さん……? 何で、どうして?」

 

 兄はいつも自分の味方でいてくれた。父は寡黙な仕こと人間で、勉学に対して口は出さなかったけれども母のやり方に同意する素振りも見せなかったので、隠れた味方だと思っていた……なのに、兄と父の姿をしたアヒルまで、朝霞に対する非難と否定を垂れ流し始めたのである。

 聞きたくない、聞きたくない!

 家族の声で、朝霞が最も恐れていた言葉を聞きたくない。頭まで布団を被って目を閉じて、夢だ夢だ夢だ夢だ早く覚めろ、これは悪い夢なんだと必死に念じてもアヒルたちは消えることなく朝霞を取り囲んで口撃を続ける。

 結局一睡もできなかった。アヒルたちの声も、降り続けていた。




完璧超人浜名君のモデル:実弟


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みにくいアヒルの子02

 浜名を見かけたら、進路相談室に来るように言ってくれ。読人と正美にそう言ってきたのは、生徒たちの間で「薄杉」と呼ばれている1年A組の担任教師だった。

 本名は小杉(コスギ)だが、頭の天辺の髪の毛がかなり乏しいため「濃すぎではなく髪が薄すぎ」と言う誰かの発言から一気にこのあだ名が定着してしまい、生徒間の会話において彼が本名で呼ばれることが限りなく少ない事態に成り果てている。

 しかも、髪の毛だけではなく生徒人気も乏しかった。英語を担当しているが英文を読む際の発音がヤバいキモいと騒がれ、あからさまに成績上位者を気に入って贔屓をする等の行動に始まり、とにかく学力主義で生徒たちを偏差値の高い大学へ進学させたがっている。

 その薄杉――小杉にロックオンされているのが、我らが学年主席・浜名だった。

 彼は再三、進学は調理系の専門学校にすると言っているのに、小杉は何とかしてでも浜名を国立大へと進学させたがっているらしい、今日だってまた説得のために呼び出そうとしていたのだろう。だが、先手を取った浜名は既に部活に行ってしまったのだ。

 

「薄杉先生もしつこいね」

「だな。浜名を追いかけている暇があったら、他の奴らの進路相談すれば良いのに。来年、薄杉が担任になったら嫌だな」

 

 HRが終了して放課後となった暦野北高校にて、部活に行く前に購買で食料を補給する正美に付いて行った帰りの出来事だった。

 購買で買ったアンパンとパック牛乳を片手にバイトのためのエネルギーを蓄えながら、浜名を見かけても絶対にこのことは言わないでおこうと話し合う。あと、本日のサッカー部は近隣の高校との練習試合のため、放課後は学校にいないことも小杉には黙っていようと思った。

 

「大学か。この間高校に入ったばっかりなのに、もう進路決定しなきゃいけないとか早すぎないか?」

「と言っても、もう直ぐ2年だよ。早いな……マサは、大学でも柔道続けるの?」

「そのつもり。どこかの体育大学に、推薦で入れりゃ良いんだけど。読人は何か考えているのか? じいちゃんみたいに、大学で文学の勉強をするとか」

「いや、まだ……何がやりたいのか、分からないから」

 

 答えに詰まってしまった口を塞ぐように、アンパンを頬張って咀嚼する。あ、このアンパン、こし餡だった。自分は粒餡派なのに。

 そんな風に食べ歩き喋り歩きをしながら廊下を歩いていたため、曲がり角の影から飛び出て来た人物への反応が遅れてしまった。幸いにも正面衝突は免れたのだが、正美が肩にかけていた大きなスポーツバッグにぶつかってしまう。ぶつかったその人物は少しよろけてしまったが、ぶつかったのを詫びることなくその場から立ち去ってしまった。

 

「な、何だあいつ……」

「あれって、朝霞君だよね? どうしたんだ、ろう……!」

 

 あの特徴的な丸い髪型は朝霞だ、間違いない。

 浜名の話をしていたところに朝霞が現れるなんて奇妙な偶然だったが、この場から立ち去った朝霞を追いかけるように、曲がり角から押し寄せて来た奴らに読人は瞠目した。向こうに走り去って行った朝霞を追いかけて行ったのは、人間のように服を着てぺちゃくちゃと口――ってか、嘴?を動かすアヒルの集団だったのである。

 

『どうして1人だけ、こんなに出来が悪いのかしら!』

『本当にお前は弱虫だな。何も成果を出せない癖に、逃げ足だけは一人前だ』

『誰もお前になんか期待していない。家族も教師も、お前なんか認めない』

『どんなに頑張ったって無駄だ。お前は一生、出来損ないのままだ』

 

 喋ることのないアヒルたちが、こんな非難と否定の言葉を繰り返して翼をバサバサと動かしながら、朝霞の後を追って行ったのだ。

 何だあれ?

 暦野北高校では生物は飼っていない、近くにアヒルが生息している池なんてない。と言うか、アヒルが服を着て喋っているなんて非現実的なことが起きるはずはないのだ……じゃあ、あれは。

 

「まさか、あれ……」

「読人……今、アヒルが通らなかったか?」

「っ!?」

「今、服着たアヒルが喋りながら……」

「え、ええ? そ、そんなのいたっけ? 俺には見えなかったよ! アヒル? アヒルがいたの?」

「っ、そうだよな! アヒルが服着て喋るなんて、そんな漫画みたいなことある訳ないよな! やっべ、腹減って幻覚見たかも!」

「あはははは!」

 

 そう言ってアンパンを口に詰め込んだ正美は、購買の袋の中から更にカレーパンの袋を取り出した。

 正美にも見えていた。日常の中へ突如現れた、非日常の存在が……服を着た喋るアヒルなんて、【本】の能力がなければ創造し得ないものだ。

 

「……と、言うことがあったんです。さっき」

『人間の真似事をして、罵詈雑言を吐くアヒル、か。妙なモンを創造した奴がいたね。お前さんの同級生が、どこかの【読み手】に襲われているって状況かい』

「う~ん……」

 

 アヒルの目撃を適当に誤魔化して正美とは生徒玄関で別れた読人だったが、そのままバイトへ向かわずに朝霞を捜して校舎へと戻り紫乃へ連絡を入れた。

 読人の予想通り、あのアヒルたちが【本】の能力で創造されたものだとしたら、朝霞はアヒルたちに追われ逃げていたということだろうか。あれは、偶然ばったり出会ってしまって攻撃されているというよりは、朝霞自身をピンポイントに狙った攻撃のように見えた。

 しかし、あんな風に、精神をガリガリと削って心に突き刺さる言葉で追いかけ回すほどの恨みを朝霞が買ったと言うのかと自問自答してみれば、何だか腑に落ちないのだ。

 

「朝霞君って、そんな感じの人じゃない気がするんです」

『知り合いかい?』

「俺が一方的に彼を知っているだけです。学校の図書室の自習室で、よく顔を見かけるんで。周りからは色々言われているけれど、彼は……良い奴、だと勝手に思っていて。朝霞君、必ず消しゴムのカスをきちんと纏めて捨てるんです」

『はあ』

 

 朝霞は気付いていないかもしれないが、読人は図書館で何度か彼の姿を目撃してすれ違ってもいるし、隣の席に座ったこともある。ちょっとだけ会話をしたこともある。名前と顔が一致する前から、「あ、見たことある」と言う顔だった。

 図書室という限られた空間の中だけのささやかな交流を持っているだけ、殆ど赤の他人同然の同級生だが、図書館内で目にした行動から朝霞は良い奴だと感じている。

 それが、消しゴムのカスだった。

 自習室の使用が自由なのを良いことに、同室の机を使用する生徒の中には横着して後片付けを怠る者が多い。消しゴムのカスがその代表例であり、机の上に散らかっている状態の時もあれば床にばら撒かれている時もあった……そんな中で、自習室常連の朝霞はきちんと消しゴムのカスを片付けている光景を読人は目にしている。たくさんのカスをティッシュでまとめてゴミ箱へ。

 消しゴムだけではない、朝霞は使用した机の後片付けをしっかりやってから自習室を去って行く。きちんと会話をしたことはないし、向こうは読人のことを知らないだろうけれど、読人は朝霞の行動を快く感じていたのである。

 

「そんな行動する人が、誰かに恨まれるなんてことはないと俺は思っています」

『……本当、お前さんは人が良すぎるね。なら、こう言う可能性はないかい。【本】で創造してしまった能力を制御できていないと言う状況だ』

「制御できていない?」

『だとしたら、急いでその子を捜しな。通話はこのままにしておきなさい』

「はい!」

 

 紫乃と繋がったままのスマートフォンをコートのポケットに突っ込んで、朝霞の姿を捜す。彼が走り去って行ったのは生徒玄関とは反対方向だったので、外に出たと言うことはないだろう。一応、A組の下駄箱を確認してみたら、朝霞の靴は残ったままだったので校舎の中にいる可能性が高い。

 朝霞を、彼を追って行ったアヒルを捜す読人だったが案外簡単に足跡を追えた。アヒルの白い羽根が廊下のあちらこちらに落ちていたため、その羽根を辿れば直ぐに見付けることができたのだ……屋上に続く、生徒立ち入り禁止の階段の踊り場に、座り込んで頭を抱える朝霞の姿がそこにあった。

 

『誰もお前に期待していない。お前の進路なんて、下らないものに時間を裂きたくないよな!』

『朝霞って何も取り柄がないよな。外見はキモいし、運動もできないし、浜名に勝つこともできない!』

『本当に、生きていて恥ずかしくないの? 何も出来ない癖に、結果も出せない癖に!』

『お前の存在意義なんて、最初からなかったんだ』

 

 深夜から朝霞の前に現れたアヒルたちは、親がいる前や授業の最中には現れなかったが、朝霞が1人になった途端に何羽も湧き出て来たのだ。家族の姿と声を模したアヒルだけではなく、暦野北高校の制服を着たアヒルに担任の小杉に似たアヒル、一度も成績で勝ったことのない浜名の姿と声をしたアヒルが現れて、口撃を開始したのである。

 逃げても逃げても、逃れられなかった。屋上に追い込められて、でも屋上の鍵は閉まっていて、後ろを振り返れば階段にはびっしりとアヒルの群れが規則正しく並んで押し寄せていたのだ。

 真っ白な翼を広げて、聞き覚えのある声が次々と突き刺さる。家族のアヒルは勉学で結果を出せない朝霞を責め、同級生や教師のアヒルは外見や普段の行いを非難して、浜名のアヒルは存在そのものを否定した。

 誰も助けてくれない。

 アヒルたちに追い詰められて踊り場に座り込んでしまった朝霞に、手を差し伸べる者は誰もいないのだ。

 

「幻覚だ、これは幻覚だ……全部、僕の頭が作り、出した……! 統合失調症だっけ、きっとそれだ。頑張りすぎて、見えないものが見えたり聞こえたりしているんだよきっと!! 消えろよ! 早く消えろ!!」

『幻覚じゃない、これは……お前が創り出した、真実だ』

「っ!」

 

 兄の姿をしたアヒルが、兄の声でそう告げたその時……朝霞の胸から、ポキっと、爪楊枝を折った時に出る音がした。

 そして、アヒルの群れは彼を取り囲み、翼を広げて襲い掛かって来たのである。

 

「火衣!」

『どけ鳥頭ども!!』

『熱っ! 熱っーー!!』

『丸焼きになるーー!』

『北京ダックになるーー!』

『自分たちが高級食材とでも思っているみたいだぞ、このアヒルら』

「朝霞君! 大丈……ぶっ?!」

 

 だが、アヒルたちが朝霞を呑み込もうとしたその時、階段の下から真っ赤な炎が這い上がってアヒルたちを攻撃して来た。急な炎の襲来でパニックに陥ったアヒルたちは、バサバサと羽根を落としながら逃げ惑う。

 こいつらは北京ダックになっても不味そうである。

 炎の主は火衣、そして頭を抱えて蹲る朝霞へと手を差し出したのは『竹取物語』の【本】を手にした読人だったが、彼の手は朝霞に拒絶されてしまった。たくさんのテキストや参考書が詰め込まれた、かなりの重量がありそうな朝霞のリュックが読人に投げ付けられてしまったのだ。

 地味に痛い。

 

「来るな! 来るな、来るな……どうせ、どうせみんな僕を見下しているんだろ……! 高校受験に負けて公立に入って、ここでも浜名に勝てない! あいつみたいにスポーツもできないし、人の輪の中に入れる訳でもない、友達だって……いないよ!」

「朝霞君? お、落ち着いて!」

『そうだ! お前友達いないもんなー!』

『あっち行ってろ!』

『ギャース!?』

 

 読人の手を拒絶した朝霞は、自分を守るように両腕で頭を抱えて踊り場の隅へと身体を押し込める。

 彼がネガティブな発言をする度にアヒルが元気になって、嬉々として彼を口撃して来るが火衣が燃やすとバタバタと逃げ出した。

 そして、気付いた……朝霞が投げ付けたリュックから、様々な参考書とノートが飛び出て散乱してしまった中に、裏表紙に紋章が刻まれた白い【本】が飛び出て来たのを。

 

「【本】?! 朝霞君のリュックの中にあったってことは、まさか……」

『【読み手】はその子自身だったみたいだね』

「師匠! やっぱり、朝霞君が【本】の能力を制御できていないってことですか?」

『無意識の創造。己の深層心理にあったモノが、創造能力に反映されてしまったみたいだね。さっき、お前さんに言った言葉が、その子が危惧して腹の底に溜めていた“本音”さ。いや、被害妄想とでも言った方が正しいかもしれない』

「本音……被害、妄想」

 

 読人が火衣を創造した時、幼い頃に思い描いた『火鼠』のイメージが反映されて炎のハリネズミが創造された。「これを創造しよう!」と具体的にイメージを練ったのではなく、幼い頃の記憶・深層心理にあったイメージを無意識に創造してしまったのである。

 それと似たような事例、と言えば良いのだろう。計らずもこの白い【本】――『みにくいアヒルの子』の【読み手】となってしまった朝霞は、意識せずにこのアヒルたちを創造してしまった。

 この群れは物語の登場人物の中の、みにくいアヒルの子をいじめる兄弟アヒルたちがモチーフになっている。

 無意識に人の目を気にして、本当は口に出さないだけでみんな自分に対してこう思っているのではないか……何かきっかけがあれば、周囲と馴染めていない朝霞を排斥にかかるのではないか。朝霞自身も気付かない内に溜め込んでいた、周囲に対する疑念が被害妄想の塊のアヒルが現れたのだ。

 一番言われたくはない言葉を自分自身で創り出して、自分自身を傷付けていたのである。

 

「朝霞君がみにくいアヒルの子で、こいつらがアヒル……」

『読人、早く【本】を閉じろ。紋章を奪っちまえば、こいつらは消える』

「でも、それだけじゃめでたしめでたしにならないよ」

 

 アヒルたちは消えてしまいました、朝霞賢哉は心の深い傷を負いました。めでたしめでたし……なんて、ハッピーエンド、あってたまるか。

 きっと、彼の“傷”は【本】を閉じても()()()()()()にもならないはずだ。

 だけど、読人が手にしている『みにくいアヒルの子』の【本】を閉じなければ、アヒルたちは延々と非難と否定を繰り返すだけである。

 ぺちゃくちゃと、色々な人間の声で朝霞を罵倒し続けて実に五月蠅い。黙れと声を張り上げようとしたら、より一層声のボリュームを上げて派手に翼を羽ばたかせて読人の声を遮ろうとしたのだ。

 

『朝霞賢哉はいらない子!』

『朝霞賢哉は役に立たない駄目な子!』

『朝霞賢哉は存在しても意味がない!』

『朝霞賢哉は誰にも見られない、認められない!』

「そんなことない!! 俺は、俺は朝霞君のことを知っている! 朝霞君は図書館の自習室を使った後、ちゃんと後片付けして机を綺麗にして行くし、俺が図書カードを落とした時に拾ってくれた。踏み台がどこにあるか捜していたら、あっちにあるって教えてくれた! 朝霞君が良い奴だって知っているし、毎回試験で学年2位を獲り続けることが凄いことだって知っている! 俺なんて、今までの最高順位はこの間の77位だよ! 77位!! 2位と比べたらずっと低い! 2位だって十分凄いよ! 1位じゃないと意味がないって言う人もいるかもしれないけれど、ずっと1位に張り付いて頑張ることなんてそう簡単にできないじゃないか!!」

「……っ」

「さっき、友達がいないって言ったけど……なら、俺と友達になってよ! 朝霞……賢哉!」

 

 そう叫んで手を差し出した読人の顔を、朝霞は腕の隙間から覗き見た。

 先程の図書カードや踏み台のエピソードで思い出した、何度か図書館で顔を合わせる前髪の長い同級生の姿を。前髪の下は、そんな顔をしていたんだ……何でそんなに必死に怒って、読人自身が貶されたみたいに哀しい顔をしているのだろうか。

 ヘアピンによって前髪が上げられた読人の顔は、彼の感情をストレートに語っていた。

 アヒルから出て来る非難と否定にのみ込まれないほどの大声で叫んだその言葉に、朝霞は頭を上げてしかと彼の姿を目にするとそこには、炎の針を逆立てて燃え滾らせるハリネズミと炎の衣に包まれた読人の姿があったのだ。

 

『こいつら全部、丸焦げにしてやろうぜ。読人』

「やれ、火衣!」

『こいつなんかと友達なんて、悪趣味だな!』

『どうせ社交辞令だろ!』

『試験期間の間だけの友達だ!』

「勝手に言っていろ」

 

 階段を埋め尽くさんばかりに増えたアヒルたちは、読人をターゲットとして一斉に襲い掛かって来る。だが、今の彼に近付くと言うのは、自らオーブンの中に突っ込んで美味しくローストされに行くような行為だった。

 読人の頭の上に飛び乗った火衣から燃え盛る炎は、彼がアヒルたちに抱いた怒りの感情のように大きく燃え上がり、一瞬でアヒルの群れを全て呑み込んでしまったのである。

 悲鳴を上げて逃げ出したアヒルもいたが、家畜としての進化を遂げてしまったアヒルたちの翼は退化してしまい、白鳥のように大空に羽ばたくことはできない……階段も踊り場も侵略して炎の海としてしまうほどの火力からは逃れられず、真っ白な羽根は瞬く間に黒焦げとなり消し炭となって消えてしまったのだ。

 

「めでたしめでたし」

『想像力と言うより、妄想との戦いだったな』

「朝霞君、大丈夫?」

「……」

「朝霞、君」

 

 そして、『みにくいアヒルの子』の【本】を閉じられると、裏表紙の紋章は『竹取物語』へと移動した。これで朝霞は脱落となってしまったが、この様子では【戦い】のことも不老不死のことも知らなかったように見えた……実際、朝霞は何も知らなかったし、どうしてアヒルたちが現れたかも理解できなかった。

 けれど、なんとなく理解はしてしまったのだろう。自分の奥底にあった、無意識の内に感じてしまった被害妄想が表に出て来てしまったことを。

 読人が心配そうな顔で朝霞を覗き込んだが、彼はそのまま読人の顔を見ずに俯いたままリュックを拾い、そのまま立ち去ってしまったのだ。読人と頭の上の火衣が、何事も()()()()()()になった踊り場に残されてしまい、返しそびれてしまった『みにくいアヒルの子』の白い【本】はまだ彼の手の中にあった。

 

 

 

***

 

 

 

 読人が四つ目の紋章を手に入れた翌日。その日は、真冬並みの寒波に襲われた寒い日だった。

 小春日和が続いてすっかり油断していたところで、1月に逆戻りしたかのような風の冷たさに震える生徒たちが食堂に駆け込めば、温かい麺類メニューがよく売れる。

 暦野北高校の食堂は、不味い訳ではないが凄く美味い訳でもない。小・中学校で出た給食によく似た味だと言う感想が随分と多い。

 特にラーメン。カップラーメンやお店で食べるラーメンとは違うけれど、醤油・味噌・塩の味だとしっかり分かるスープに妙に柔らかく煮込まれた野菜。桃色の渦巻のナルト。そして、1人前ずつ袋に入ったソフト麺が食堂のおばちゃんたちの手で湯がかれて、次々と食券と交換されて行った。

 

「さっむ~!」

「もう一枚着て来れば良かった」

「この寒さ、明日も続くみたいだよ。明日はきつね蕎麦にしよう」

「げっ、明日って卒業式の予行練習があるじゃねぇか」

「体育館絶対寒い!」

 

 そう言う読人と正美も、それぞれ味噌ラーメンを注文して丼の熱で悴んだ手を温めていた。考えるのは皆同じらしく、この寒さに耐えかねて温かい麺類や汁物を求めた生徒たちによって、本日の食堂は随分と込み合いテーブルの空席が見当たらない状態になっている。

 読人たちは、授業が終わって直ぐに駆け込んで来たのでまだ込み合う前に4人掛けのテーブルを確保することができていた。しかし、テーブルの上には正美の昼食――ラーメンを汁物として、他に親子丼とパック売りのサラダ、朝にコンビニで買ったパン数種類のために、一見するともう2人ぐらい席に着いているような有様になっていた。柔道部は、よく食べる。

 もそもそとラーメンを啜りながら体育館にも暖房を付けてくれと、2人でぶつくさ言っていると、彼らのテーブルに湯気を立てた塩ラーメンが乗ったお盆を手にする1人の男子生徒が近付いて来た。何だか食堂に馴染まない雰囲気の彼が読人たちのテーブルまでやって来ると、大きく深呼吸をしてから味噌ラーメンのナルトを咥えた読人に声をかけたのである。

 

「あっ、あの!」

「え?」

「合席しても、良い?」

「あれ、誰だっけ?」

「その眼鏡、まさか……朝霞君?」

「朝霞っ!?」

 

 レンズの大きい眼鏡は確かに朝霞の物だったが、丸いフォルムの頭はスポーツ刈りと言えるほど髪が短くなってしまっていた。

 あの後……昨日、読人が『みにくいアヒルの子』の【本】を閉じた後、その場から逃げ出してしまった朝霞は、千円札を握り締めて駅中にあるクイックカットに駆け込んでいたのだ。

 彼が何を思って髪を切ってしまったのかは、読人には分からない。だけど、こうして話しかけてくれたのが嬉しいということは、自分の隣の椅子を引いて朝霞を迎え入れることで表現したのだった。

 ねぇ、知ってる?

 虐められて仲間外れにされて、居場所を失くしたみにくいアヒルの子は最終的には美しい白鳥になったけれども、その間に世界に絶望して死のうと思ったことがあったのを。それでも、みにくいアヒルの子のままで死なずに、仲間の白鳥たちを見付けることができたのは……彼は、希望を探すことを諦めなかったからだよ。




創造能力・お池のアヒル
朝霞賢哉が無意識に想像して創造してしまった、精神攻撃特化能力。
みにくいアヒルの子をいじめたアヒルたちが、対象者の最も聞きたくないことを口撃してくる。もとい、対象者の被害妄想を引き出し・誇大化させて心を折る。
普通に使っていたらある意味最強だったんじゃあないかな?

数字の2はなぁに?
お池のアヒル~♪(うちのオカンはこう歌っていた)


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 しおりを挟む~閑話①

「ヨミヒトクンって、呼び辛くね?」

 

「そういえば」で始まった正美の疑問に、読人本人も尋ねられた朝霞も首を傾げてクエスチョンマークを返した。

 場所は暦野北高生にはお馴染み、『無問鯛』の前。今日は今月の期間限定商品ではなく、ノーマルな小倉たい焼きに齧り付いていた。ぶっちゃけ、これが一番美味で何度も食べたくなる味である。

 で、話に戻ろう。たい焼きの話は特に関係ない。

 

「呼び辛いかな?」

「“読人”って四文字だろ。“君”付けすると六文字だ、正直言うと俺は呼び辛い。小学校の頃は“君”付けしたけど、呼び辛かったから直ぐに止めたんだよな」

「だから次の日から呼び捨てになったんだ、正美ちゃん」

「ちゃん付けすんな!!」

 

 名前だけを見れば十中八九女の子に間違われる正美は、“ちゃん”付けされるのが嫌だった。男の名前に「美」の字を入れた亡き祖母に、恨み言の一つでも言いたいぐらいである。

 頭から半分が消えたたい焼きを片手に、読人と正美がギャーギャーワーワーやり合っている。彼らの隣でその様子を見ていた朝霞の顔には、自然と笑みが零れていた。

 

「2人とも、仲が良いね」

「何だかんだ言って、小3からの付き合いだもんな」

「小学校じゃ一回も同じクラスになったことなかったのに、中学3年間一緒で高校でも一緒になったしね」

「何だか良いね、そんな関係」

「で、さっきの話の続きだけど。多分、マサは呼び捨てで良いじゃんって言いたかったんだと思う。だから、俺のことは“読人”って呼び捨てにして良いよ。俺も賢哉って呼ぶから」

「うん、少しずつやってみるよ」

「呼び捨てに抵抗があるなら、あだ名で呼んでみろよ。こいつ、昔はよっくんって呼ばれてたし」

「よっくん言うな!!」

 

 その昔、読人は両親と祖母に「よっくん」の愛称で呼ばれていたが。が、本人はそれが嫌だった。某駄菓子みたいだし。

 あだ名で呼ぶなら名前で呼んでくれ、呼び捨てで良いから。

 彼は「読人」と言う名前が好きだ。祖父が付けてくれて、生前は必ず「読人」と呼んで“君”付けもあだ名も付けなかったこの名前が良いのだ。

 

「よっくん嫌だよーー! イカは嫌だよーー!」

「わ、分った。読人」

「うん、賢哉!」

 

 朝霞――賢哉と共に昼食を食べたり、こんな風に下校時に寄り道をするようになった。簡単に言えば、友達になったのだ。

 前髪を上げた読人を見習ったと言った彼は、髪をバッサリ切ってしまった。何だか少し明るくなったような気がする。

 天気予報によると、逆戻りした冬の寒さは今日までらしい。短い2月は昨日で終わってしまい今日から3月、日曜日になれば卒業式だ。今年度の3年生にお世話になった先輩はいないが、何となく寂しくなるのは春が別れの季節だからなのかもしれない。

 正美はこれから、卒業する柔道部の先輩たちの送迎会の打ち合わせだと言っていた。1年生が企画するのが柔道部の伝統だと言う。残っていたたい焼きを一口で食べてしまってから、「また明日な」と言って手を振る彼を見送りながら、読人と賢哉も残ったたい焼きを口に詰めた。

 

「ところで読人、本当にあの【本】は僕が持っていて良いの?」

「うん。小さい頃から読んでいる大切な物だろ。それに、『みにくいアヒルの子』を一番大切に思っているのは、賢哉だと思っているし」

「……ありがとう、読人」

 

 そう言って横に置いた鞄に手を添えた賢哉は、照れ臭さを誤魔化すようにたい焼きを一気に口に頬張ってしまう。

 既に紋章がなくなり、【戦い】からは脱落してしまった【本】ならばこちらで保護する必要はないと紫乃は言っていた。だから、賢哉が持っていても特に問題はないだろう。

 あの時の辛い記憶を思い出してしまうかもしれないが、それ以上に賢哉は『みにくいアヒルの子』を大切にしていた……だから、あの白い【本】は今でも彼の手の中にあるのだ。

 

「あ、そろそろ予備校に行かなきゃ」

「じゃ、俺も帰ろう。じゃ、また明日」

「うん、また明日」

 

『無問鯛』の前で別れると、賢哉は電車で予備校へ向かい読人は駅の停留所からバスに乗り込んだ。今日はバイトがないので、このまま帰路に着く……かと思いきや、自宅の最寄り駅の一つ手前の駅の停留所で降りてしまった。

 バスのタラップを踏む足取りがどこか軽やかなのは、内心浮かれているからだろう。

 実は昨日、始めてのバイト代が出たのである。『若紫堂』の給料日は月の最終日。しかも、紫乃のポリシー故か銀行の口座へ振り込むのではなく現金の入った封筒を1人1人手渡しされて、しっかりとその存在感を噛み締めさせられた。

 バイトを始めた1月の分と、今月の分。2か月分の労働時間と時給を換算したバイト代が入った茶封筒は、隣の桐乃の物よりもちょっと厚く、掌の上に乗せられた時は実際よりも随分と重く感じた。家事のお手伝いをした時にもらうお駄賃とは違う、読人の労働が正当に評価された対価としての給料――初めて、自分で稼いだ金だった。

 深々と頭を下げてその給料袋を受け取った時の紫乃の表情は、いつも通り厳しくとも成長した孫に向けるような優しげな色を含んでいた。初給料で両親に孝行してやりなさいと、そう言った師匠の言葉に何度も頷いた読人は本日、封がされたままの給料袋を手に両親へお土産を買って帰るつもりだったのだ。

 

「ただいま~」

「お帰り」

「今日のご飯、うどんで良い? 冷凍庫にしまっていたうどんの賞味期限、すっかり忘れていて……あら、下弦堂の箱」

「あ、それ……お土産のフルーツロール。バイト代、出たから」

「……ありがとう。夕飯後に頂きましょう」

 

 ネギが二本飛び出たエコバッグを片手に仕事から帰って来た母が、読人にそう尋ねながら冷蔵庫を開けると中には清楚な色をしたケーキ箱が入っていた。

 それは、こよみ野市内でも有名な老舗洋菓子店『下弦堂』のフルーツロール。

 苺にメロンに蜜柑、パイナップルにバナナ、マンゴー、キウイの七種類のフルーツが甘さ控えめの生クリームの海に沈められ、ふわふわに焼き上げられたスポンジ生地に包まれた人気商品だ。読人も好きだが彼の両親の好物でもあるそれを、いつも買うハーフサイズではなく一本丸ごと買って来たのである。

 両親に孝行してやんなよ、と言われても、父の日や母の日にプレゼントをしたりいつもより多くお手伝いをしたりと小学生のような発想しかできなかった。正直ロールケーキは喜んでもらえるかと不安だったが、母の反応を見ればそんなのは杞憂だったようだ。

 

「そうだ読人、これを渡しておくわ」

「どれ? え、通帳とカード」

「その口座にバイト代を貯めておきなさい」

 

 冷蔵庫に買って来た食材等を詰め終った母が、居間のダッシュボードの中から取り出して読人に手渡したのは、古ぼけた預金通帳と同じ銀行のカードだった。

 口座名義人の名前は「黒文字読人」となっていて、通帳の中を開いてみたら定期的に入金がされており結構な額が印字されている。これは何かと尋ねれば、この口座は亡き祖母が作った口座だと母は答えたのだ。

 

「読人が産まれた時から、おばあちゃんが毎月貯金していたの。読人の将来のためにって。おばあちゃんが亡くなっていてからは、おじいちゃんが」

「おばあちゃんが……これ、最初に入った2,984円って?」

「読人が産まれた時の体重よ。あと、その通帳にはおじいちゃんが書いた本の印税が入って来るからありがたく使わせてもらいなさい」

「印税?!」

 

 聞けば、母も祖父――蔵人の葬儀で出版社の人から聞かされて始めて知ったらしい。蔵人が昨年の終わりに、自身が出版した本の印税の振込先を読人の口座に変更したと言うのだ。

 何百万冊をも売り上げる人気漫画のように高額な印税が入って来る訳ではないが、蔵人が書いた本は大学の文学部等の講義における教科書として使用されているためそれなりに売れているらしい。なので、全く入って来ないと言う訳ではない。それでもお金はお金、蔵人が読人に遺した……否、祖父母が遺してくれた遺産のようなものである。

 

「……頂戴、致します」

 

 それを知ったら、とても軽いはずの通帳とカードがとてつもなく重く感じた。

 紫乃から手渡されたバイト代の紙袋以上にずっしりと読人の両手に沈み込んだその重量は、物質としての重さではないだろう。それに込められた、家族の想いだ。

 

「あとそうだ。おじいちゃんの家、梅村さんにお貸しすることになったから」

「……え、何それ」

「言ってなかったかしら? あのままにしておくのも勿体ないし、残っている本も梅村さんなら上手く使って下さるかと思ってお父さんと決めたのよ。欲しい本が残っていたら、早めに持ち出しておいてね」

「……」

 

 ついで、というニュアンスが込められた口調で母が語ったお知らせに、読人は酷く焦りを覚えた。

 あまりにも急に家主を失ってしまった蔵人の家は、築30年が経過しているが老朽化の気配を見せず都心へのアクセスも良い立地の一軒家だ。大きな家具や電化製品は持ち出していないし、蔵人が研究のために集めた様々な蔵書も手付かずのまま本棚に並べられている。

 だから、ただ無人で放置しておくよりも誰かに貸し出した方が家も腐らないと判断したのだろう。4月から母の名義で、他人に貸し出すことになったのだ。

 

『ん~……どうした読人、そんなに慌てて』

「おじいちゃんの家に行って来る!」

『ふ~ん。付いて行ってやるよ』

「うん、火衣も手伝って」

『って、何する気だ?』

「探し物!」

 

 焦った様子で自室に飛び込めば、『下弦堂』のフルーツロール(ハーフサイズ)に齧り付いている火衣がいた。

 丸ごとじゃなくて切って食べようよ、などとの苦言をする暇もなく読人はコートと蔵人の家の合鍵だけを引っ掴み、フルーツロールを丸呑みした火衣をフードの中に入れて家を飛び出した。

 家を貸す相手は、梅村(ウメムラ)(ジュン)と言う人物だ。蔵人が現役で教鞭を採っていた頃の最後のゼミ生の1人で、読人も顔を知っているし遊んでもらったことのある人だった。蔵人の葬儀にも出席していたのを微かに覚えている。

 大学院を卒業後、地方で教師をしていると聞いていたが来年度から都内の大学の非常勤講師として勤めることになったらしく、その縁で蔵人の家を借り受けることになったらしい。

 確かに彼ならば、残された本を有効活用してくれるだろう。だが、読人も蔵人の家で【本】を探そうとしていたのだ。誰かに先に発見される前に、自分が保護したかった一冊の【本】を。

 

「な、い」

『お前、さっきから何を捜しているんだ?』

「おじいちゃんの【本】だよ。50年前の戦いで、おじいちゃんが選ばれた『古事記』の【本】……それが、見付からないんだ」

 

 蔵人の書斎の本棚を全て引っくり返しても、白い装丁の美しい【本】は一冊も見当たらなかった。

 紫乃のようにどこか秘密の隠し場所にでも保管しているのかもしれないと色々と家探しをしてみたが、これと言った成果は得られずただ家の中が散らかっただけで終わってしまった。

 

「……どこにあるんだろう? おじいちゃんの『古事記』は」




Where are THE Claude's BOOK?


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 しおりを挟む~閑話②

 毎年3~4月にかけて、黒文字読人(式典の姿)と言う珍しい姿を確認することができる。

 卒業式及び入学式・始業式等の式典へ参加するために、この時期になると長い前髪をしっかり切るため式の前後では前髪が短い読人が見られるのだ。

 しかし、前髪を眉の上まで切っても1週間もすれば目に届く長さまで伸びてしまうので、1週間しか見ることのできないレアな姿であると主に正美から言われている。

 なので、すっかり伸びきって鼻先まで届きそうになってしまった前髪を、行き付けの美容院でばっさりと切ってきた。

 最近はヘアピンが便利すぎて切るのを忘れていたのだが、これだけ伸びてしまったのは新記録である。ちなみに、式典へ参加する際に使用するヘアピンはシンプルな黒い物のみが認められています。

 ということで、3年生の門出を祝福して送り出してから1週間ほどは、ヘアピンがない読人の姿を見られるのだった。

 

「髪が短い黒文字君って、なんだか不思議な感じだね」

「そうかな。これだけ切っても直ぐに伸びちゃうんだよね」

 

 だから、ヘアピンで前髪を上げずとも夏月にデレデレしている様子がしっかり確認できるのである。

 3年生は卒業してしまったが、在校生にはしっかりと授業も部活もある3月の暦野北高校。

 バイトまでの時間を潰していた読人は、時間潰し先である図書館を出て校舎内をブラブラしていると、道着姿の夏月と出会ったのだ。

 黒い袴に白い道着、それと彼女の身の丈以上もある薙刀型の竹刀を手にした夏月の姿は初めて見た。制服時とはまた違う、凛々しい雰囲気の彼女に思わず頬が熱くなる。

 夏月は前髪が短い読人を不思議だと言ったが、彼にしてみれば道着姿の夏月が不思議で……凄く素敵に感じたのだ。

 

「長いね、それ。薙刀でも竹刀って言うの?」

「そう。これで2mあるんだ。始めた頃は何度もぶつけちゃって、備品の竹刀を折っちゃって怒られちゃったんだ」

「折っちゃったんだ……」

「うん、だからこれはマイ竹刀」

 

 薙刀用の竹刀を置いているスポーツショップが見付からず、都内のショップを何軒もはしごして買ってしまったと、ちょっと照れ臭そうに笑って竹刀を握る。そんな夏月の表情に見惚れていた読人だったが、「しっかりしろ」と気付けをするかのように制服のポケットに入れていたスマートフォンがメッセージを受信した。

「ポーン!」と言う甲高い音が連続でやって来るのに驚いてビクっと身体が跳ねる。夏月に断ってから、一体誰が何のメッセージを送って来たのか確認すると、随分と可愛らしい画像が送信されていたのだ。

 

「竹原さん、これ」

「どうしたの? っ、可愛い~!」

 

 自然と顔が綻んでほっこりしてしまう可愛い画像というのは、黒い日本犬と黒猫が仲良く寄り添って重なり合いながら気持ち良さそうに眠っている光景だった。

 この可愛い画像の送り主は、最近になって読人と友達になった少年だ。岩手県に住む、過去の登場人物とよく似た彼――檜垣響平が、「うちの子たち」と送ってきたのである。

 ここで、時間は少々遡って場面は本日の朝へと切り替わる。東京から新幹線で約1時間半、盛岡駅から電車を乗り継いで50分ほどかかる地方都市の片隅に、『天流神社』と言う神社がある。

 1月の初詣や8月の夏祭り以外では閑散としていて散歩に出た老人や子供たちの遊び場になるこの神社は、東北の図書供養の場として有名だ。最近はそれだけではなく、その他の要因で有名になりつつあるのだがそれはまた後に説明しよう。

 この社を代々守り続けているのは、檜垣の一族……ここは、檜垣響平の実家である。

 

「響へーい! 今日はごへの散歩当番でしょ。もう6時半よーー!」

「へーい、今行くー」

 

 寝癖が付いてボサボサになってしまった頭をかきながら、寝ぼけ眼の響平が二階から降りて来た。母に呼び起された通り、今日は妹と分担している愛犬の散歩当番の日である。

 洗面所へ向かう途中に玄関を通りかかると、愛犬の五平餅(雑種の雄・4歳)が落着きのなさそうにうろうろしていた。毎朝のことであるが、随分と散歩が待ち遠しいようである。

 黒い毛並が五平餅に塗る味噌の色に似ているから「五平餅」。通称「ごへ」。そう名付けたのは響平だ。命名権を争っていた妹が噛み付いたのは、言うまでもない。

 この時間に家の誰かが玄関に来れば散歩の合図だと認識している五平餅は、自身の傍にやって来た響平の周りで尻尾を振りながらぐるぐると回っている。散歩に連れて行ってくれという訴えであるが、取りあえずこの場ではその訴えを棄却し、顔を洗って歯を磨いてから受け入れてあげよう。

 ちょっと待っていろと、五平餅の両頬を伸ばせば柔らかい頬がよく伸びた。

 

「はよー」

「おはよう。あっちの洗面所使って、まだかかる」

「えー」

「良いでばな、お兄ちゃんはどうせワックスもスプレーも使わないんだし」

 

 毎朝のように洗面所を占領している妹の千歌(チカ)に追い出された。

 昨年から中学生になった彼女は、どうも最近お洒落に目覚め始め、今年になってからは毎朝のように癖っ毛をヘアアイロンでストレートに整えてから学校に行っている。

 お年玉で買った大型のヘアアイロンを手に、大きな鏡があってコンセントが近いと言う理由で家の洗面所を20~30分は占領してしまう。

 母が何度注意しても止めるは更々ないようで、今日もまだまだ癖っ毛との戦いが続くだろう……兄は大人しく、別所にある洗面所で顔を洗うことにした。そこまで行くのに廊下が寒い、東北の3月は未だに冬の最中である。

 それなりの歴史のある、一応由緒正しい神社の母屋に当たる檜垣家は、幾度の増改築を繰り返したお陰で洗面所が二つある。

 千歌が使っているのは新しくて大きい方。響平が使うことになったのは、古くて若干狭い方だ。そこは祖父母の寝室に近いので普段は2人の専用となっているが、今年から千歌が洗面所を占領し始めたので追い出された響平と父がお邪魔するようになったのである。

 

「じいちゃんおはよ」

「おはよう。また千歌に追い出されたのか?」

「うん」

「まあ、年頃だからしょうがねえでば。うちのめんこちゃんは」

「んー」

 

 先に顔を洗っていた祖父を入れ替わりに洗面所の前に立つと、ヘアバンドで前髪を上げて顔を洗い始めた。

 響平と祖父――龍生が並んで鏡に映ったが、2人の顔は随分と似ている。龍生の顔には、生きた年月を象徴する皺がいくつも刻まれているが、顔立ちや眉の形は本当に瓜二つの隔世遺伝だ。近所に住む龍生の旧友のご老人たちは口を揃えて「若い頃の祖父さんにそっくりだ」と言われる。実際、祖母に祖父の若い頃の写真を見せてもらったら本当にそっくりだった。

 若い頃はイギリスへ語学留学に行ったり、サーフィンを趣味にしていたらしい。すっかり太ましい体型になり、高血圧や痛風に悩まされて好物の白身魚の天ぷらも滅多に食べられなくなってしまった現在では、考えられないハイカラな趣味である。

 

「今日は暖かい?」

「どうだろう。お天道様さ入って来れば小春日和だな」

「じゃあ、コートの他にマフラーもしてく」

「ついでに【本】も持って行け」

「はーい」

 

 顔を洗ってサッパリしてから歯を磨き、ヘアブラシで軽く髪を整えれば響平の朝の支度はほぼほぼ完了する。妹と違って、随分と適当なのだ。

 

「ごへー、散歩さ行くぞ」

 

 寝間着からジャージに着替え、祖父のアドバイス通りにコートを着てマフラーも巻いて、小ぶりのボディバッグに入れた『銀河鉄道の夜』の【本】を持って外に出れば、日差しは温かいが風がまだ冷たい冬の天気だった。

 先日、響平が通う高校で行われた卒業式は寒波に襲われ、早朝から雪がちらつく銀世界の良い日旅立ちになったところから見るに東北の春はまだまだ先だろう。

 お行儀良く玄関の前でおすわりをしている五平餅に犬用のコートを着せ、首輪に使い古したリードを引っかければ待っていましたと言わんばかりに尻尾を振る五平餅が響平を引っ張って散歩が始まった。

 道路の両脇に雪が残る町内をぐるりと一周するのが彼の朝の日課である。時間にして15分ほどしかかからない散歩に【本】はいらないかもしれないが、備えあれば憂いなし。何かあった時では遅いので肌身離さず持って行けと言うのが、祖父からのアドバイスその②だ。

 ちなみに、響平が初陣を果たした最初の【戦い】がこの散歩中の出来ことだった。『猿カニ合戦』の【読み手】が、傭兵部隊のようなカニの復讐代行一味と共に朝っぱらから襲撃して来たのは、約1か月前の話である。五平餅も巻き込まれたのだ。

 こうして、檜垣響平の1日は愛犬の散歩から始まった。

 

「響平、次の土曜日って空いてる? みんなで盛岡に遊びに行くんだけど」

「次の土曜は、じいちゃんと一緒に映画観さ行く約束しているからパス」

「何の映画?」

「『ドラ●もん』」

「小学生か!」

「じゃ、俺帰る」

「私も行く。猫が気になるし」

「おはぎなら元気だけど」

 

 良いではないか、面白いのだから。ちなみに、幼い頃から新作が上映される度に祖父と共に鑑賞へと出かけている。祖父は響平の父が幼い頃から共に出かけていたらしい。その当時に親子で見た作品が、40年近くの年月を経て現代に蘇ったのだ。次の土曜日が公開初日である。

 響平の通う県立印束(シツシヅカ)高等学校は、進学校でも何でもない地方都市の中規模の学校だ。同級生の三割が同じ中学校から持ち上がりの顔見知りで、中には遊びに誘って来た少女――萩原(ハギワラ)(モエ)のように、保育園・小学校まで同じだった友人もいる。

 特に彼女とは家が近所であり、ついでにお互いの母親のパート先が同じなので幼い頃からそれなりに仲良くはしている方である。

 そんな10年以上の付き合いである友人たちとの遊びを断り、響平が祖父との約束を優先するのは今に始まったことがない。基本的に、檜垣響平と言う人間はじいちゃんっ子なのだ。

 そんなじいちゃんっ子は、週二、三回しか活動のない文化部に所属しているので放課後は真っ直ぐ帰って愛犬たちの散歩へ向かう。神社までの帰路を今日は萌も一緒。そして、彼女が響平と一緒に帰る理由と言うのが、2か月前から檜垣家の一員になった猫にある。

 檜垣家には犬の五平餅の他に猫のおはぎがいる。推定半年の雌、一見すると全身真っ黒な黒猫であるが実はお腹だけが白いと言う、珍しい毛色をしていた。

 おはぎは元々、萩原家で保護された野良猫だった。2か月前の冬の日に、萩原家の車の下に潜り込んでしまって出て来られなくなったのを発見されたのだ。少しの怪我だけで無事に救出され、このまま萩原家で飼われる予定だったのだが、萌の母が重度の猫アレルギーであったことが発覚したために檜垣家に引き取られることになったのである。

 以来、おはぎは怪我もすっかり完治して家族にも懐き、同居犬である五平餅とも仲良くして暮らしていた。

 そんなおはぎのお気に入りの場所が、『天流神社』の境内に入って真っ直ぐ行ったところにある賽銭箱の上だ。屋根があるそこは、夕方前になると西日が差し込む絶好の昼寝スポットなのである。響平と萌が、母屋の檜垣家へは行かずに鳥居の横を抜けて境内に入ればおはぎは賽銭箱の上で丸くなっていた。

 賽銭箱の前に猫用のおやつが何個か置かれているのは、彼女へのお賽銭兼貢物だろう。神様、涙目である……どんな神様が祀られているのか、よく理解していないけれど。

 

「ただいま~おはぎ。今日もたくさんお賽銭もらったな」

「人気者ね」

 

 萌がおはぎの頭を撫でると、気持ち良さそうに喉を鳴らしながら丸めていた身体を伸ばし賽銭箱の上にごろんと身体を投げ出した。こんな風に、猫にしては愛嬌がある仕草の仔猫は、神社にやって来たその日からアイドル状態になっていた。特に、祖父母は言葉通りに猫可愛がりをしている。

 

「そう言えば、何で「おはぎ」って名前にしたの?」

「ん?」

「まさか、私の名字が萩原だからじゃないよね……」

「こいつ、お腹が白いだろ。丸まったらこし餡のおはぎみたいだっきゃ」

「……」

 

 身体の黒がこし餡でお腹の白がもち米と言うことで、響平が彼女の名前を付けたのだった。おはぎの身体を持ち上げて白いお腹を萌に見せれば、持ち上げられたおはぎは小さく欠伸をしてから「にゃあ」と鳴く。

 そして、響平はお怒りモードの萌にトートバッグで背中を叩かれた。

 

 

 

***

 

 

 

 響平の祖父――檜垣龍生は、自身に届いた年賀状や暑中見舞いを収めるはがきファイルの中で、最も新しく収納された一枚を取り出した。

 この人からの便りは、もう二度と届かない。

 50年来の親友であり、50年前の【戦い】の相棒であり、その50年前に右も左も分からなかった自分を導いてくれた教師とも言える人――黒文字蔵人は、もうコノ世にはいない。

 いくら彼の方が年上でも、絶対に自分の方が先に逝ってしまうと思っていた。

 高血圧や通風を患ってかかりつけ医もできてしまい、50年前と比べれば体重も20kg以上増加してしまった自分と、病魔の気配もなく体型も50年前と変わらない蔵人は絶対100歳まで生きると信じて疑わなかった。

 それに、あの人はそう簡単にくたばらないし。放っておいたら120歳ぐらい生きそうな人だったし……人の一生と言うのは、よく分からない。

 

「……蔵人さんは、気苦労が多かったからな」

 

 達筆の筆文字で記された神社の住所と龍生の名前を、感慨深くそっと撫でてから年賀はがきを引っ繰り返す。シンプルな絵柄の今年の干支のイラストに、「謹賀新年」の文字。その下には、蔵人が龍生を気遣う一言と謎の一筆が認められていた。

 

 

 

 幸せ太りは咎めませんが、お互いに古希も過ぎました。体調には十分お気を付け下さい。

 龍生君のお孫さんと私の孫・読人が、君と私のように終生の友となりますように。

 

 

 

 この年賀状が届いて10日も経たぬ内に、蔵人の訃報を聞いた。

 夜中の東北新幹線に飛び乗って東京へ向かい、そのまま彼の葬儀に出席して久し振りに紫乃とも対面して、死んでも死なないと思っていた人が誰よりも先に亡くなってしまった現実と50年前の想い出を語り合う。主に龍生が一歩的に話し、紫乃は彼の言葉に小さく頷いていただけであったが。

 蔵人の葬儀で哀しみに暮れていた彼の孫は見ていて痛々しかった。きっと龍生がもっと若かったら、蔵人の死を受け入れられなかっただろう。歳を取れば身体も衰えてできないことも増えてマイナスなことばかりであるが、こんな風に友人の死を受け入れられるだけ老成してしまう面は助かったと、上野から盛岡駅へと向かう新幹線の中で感じたものだ。

 

「じいちゃーん」

「どうした、響平?」

「いやさ、悲しそうな顔しているから。ばあちゃんから聞いたぜ。さっき買い物に行った時、こっそり籠の中に芋ようかん入れて怒られたって」

「はは、偶に無償に食いたくなるんだ」

「駄目だろ。甘い物と油物は控えるように言われてるんだからさ。これ、一個だけで我慢して」

「ありがとう、響平」

 

 そう言って、己にそっくりな孫が差し出したのは彼が好きなめんこちゃんゼリーだった。

 緑色だからメロン味だが、このゼリーは無果汁なので実際にメロンの味がしない。でも響平は、幼い頃からこのゼリーが大好きで、クーラーボックスで冷やしたこのゼリーを小学校の運動会に持って行けばいつも大喜びしていた。

 

「そうだ、良い写真は撮れた?」

「撮れた撮れた。ほれ、良いべさ」

「お、良いな」

 

 龍生がノートパソコンを開くと、自身が管理している『天流神社』の公式HPと公式SNSを開く。先程撮った写真を、スマートフォンからパソコンに移動させて響平にそれを見せれば、あまりに可愛らしさに同じ顔で破顔してしまった。

 五平餅とおはぎが仲良く寄り添って重なり合いながら気持ち良さそうに眠っている光景だった。この2匹は犬と猫の垣根を越えて自分と仲良しなのだ。

 こんな風に寄り添い合うのも、おはぎが五平餅の首に両腕を回して抱き締めるのも、2匹並んでお腹を出しながら伸びをしているのも、最初は驚いたが今では癒しの光景となっている。そして、龍生が冗談半分で彼らの写真をSNSへと投稿したら、1日も立たずに「イイネ」嵐が巻き起こり神社のHPのアクセス数が爆上がりしてしまった。今では、彼ら目当てに遠方からやって来る参拝客も増え、犬猫界では「仲良しすぎる2匹」としてちょっとした有名人……有名犬?猫?となっているのだ。

 ちなみに余談であるが、HPとSNSの管理もコメントの返信も写真の加工・投稿も全て龍生がやっている。最近では動画の編集にも手を出し始め、スマートフォンもパソコンもしっかりと使いこなすハイテクジジィなのだ。

 

「せば、今日はこれをアップさしよう」

「俺もこの写真欲しい。友達に送りたい」

「おう」

 

 響平の言う“友達”と言うのが、銀河鉄道の夜に出会った少年だ……黒文字読人。黒文字蔵人の孫であり、現代の【戦い】における『竹取物語』の【読み手】の少年である。響平から「黒文字」の名前が出たあの夜は、酷く驚いて抱いていたおはぎを落っことしそうになった。

 偶然なのか必然なのか。響平と読人は、50年前に龍生と蔵人が出会ったように【戦い】の最中で出会い、友となった。

 ファイルの中から取り出して読み返した年賀状。蔵人が書いた言葉は、まるでこの未来を――2人の出会いを予知していたかのようだった。




~カニの復讐代行一味について~
『猿カニ合戦』で創造された傭兵部隊みたいな奴ら。臼・蜂・栗が標的を徹底的に攻撃し、伏兵の糞がトドメを差して精神的にもフルボッコにして【読み手】はザマァと笑う。
自分を見下す同僚への復讐中に五平餅と散歩中の響平とエンカウトしてしまった。
ちなみに、名前は柿埜哲矢(36)


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しっかりもののスズの兵隊01

 来年度への切り替え準備が始まる3月中旬、空港の国際線滑走路に一機のプライベートジェット機が着陸した。

 ドイツのベルリン・テーゲル空港から遥々やって着たその飛行機は、操縦士や客室乗務員に当たる人々を除けばたった3名の乗客しか乗っていない。機体の規模から見れば十分すぎるが、それでも贅沢な空の旅を終えた飛行機だ。

 少し早いイースター休暇を楽しむために来日なさった、ドイツのお金持ち家族なのだろう。そう思って乗客名簿を目にした航空管制員は、その名前に納得した。赤い頭巾を被っているかのように機体の先頭天辺が赤く塗られているあの飛行機は、ドイツの不動産女帝と呼ばれる有名人の持ち物だったのだ。

 

「ここが、今回の【戦い】の主戦場となる日本……50年前、前回の【戦い】に勝利したクロード・クロモジが生まれ育った国です」

「……」

「貴方には期待していますよ、ハインリヒ」

「……Ja, Lehrerin」

「こら、ここはドイツではありません。ローマに来たらローマ人になれ。郷に入ったら郷に従え。何のために日本語を覚えたのですか」

 

「どうせ【読み手】同士ならば言語が通じるのだろう」と、母国語で口から出かけてしまったが寸でのところで実際に声にするのを止めた。彼女に、60歳を過ぎたとは思えない威圧感を与えて来るこの老婦人に口答えしても言い負かされるのが目に見えているからだ。

 日本語は――日本は嫌いではない。しかし、まだ上手に日本語の発音ができないので、口に出すのは少々気恥ずかしいのである。

 

「おばあ様、こよみ野市への車の準備も完了しているようです」

「解りました。行きますよ、ハインリヒ」

「……ハイ、先生」

 

 その日、一台のフォルクス・ワーゲンが鳴田空港から東京都こよみ野市へと向かった。

 一方、こよみ野市内にある『若紫堂』では、学校を終えた読人が鏡に向かっていた。

 

「……今回も短期間だった」

『お前、本当に前髪伸びるの早いな』

 

 今回も、前髪を短すぎるほど切ってからたった2週間足らずで元通りになってしまったので、鏡を見ながら邪魔になった前髪をヘアピンでパチンと止めた。読人の前髪が短い期間は本当に短期なのは今に始まったことではないし、火衣の言う通り伸びるが早いのは今更だ。

 かつてはしょちゅう前髪を切らなければならない手間にうんざりしていたが、今はちょっと違う。今は、夏月からもらった三日月のヘアピンで前髪を上げるのが楽しみにもなっていた。

 好きな女の子からもらったヘアピンを身に着ける生活に戻るのが嬉しくて、前髪を上げた読人の顔がだらしなく緩んでしまう。その状態で、鼻歌なんか歌いながらエプロンを結ぶその様子は、火衣だけに目撃されていた。

 それじゃあ、今日も張り切って働こうか。

 

「桐乃、読人、今日の夕方は臨時休業にするよ」

 

 と思ったら、出鼻を挫かれた。

 

「え、ええ? 休み、ですか?」

「何かありましたか?」

「昔馴染みがこっちに来ていると、さっき電話があってね。20年ぶりだから会って来ようと思ったのさ。老い先短いんだ、会える奴には会っておかないとね……絶対に死なないと思っていた奴も、ポックリ逝っちまう歳になっちまったし」

「そ、そうですね」

 

 先ほど『若紫堂』の固定電話にかかって来たのは、その昔馴染みからのお誘いだったようである。

 本気か冗談か判断しかねる紫乃の発言の通り、会える知人には今の内に会っておいた方が良いだろう。聞けば、その昔馴染みとやらは遠路遥々東京を訪ねて来たようである。

 と言う訳で、バイトは休みになって読人は暇になったのだった。

 

「どうしよう、やっぱり真っ直ぐ帰ろうかな」

『この間のパンケーキ食べに行こうぜ。ベーコンエッグ・マッシュポテト添え』

「まだ食べるの? さっきたい焼き食べたじゃん」

『甘い物としょっぱい物は別腹だ』

 

「もう食べられない」と言いながらデザートに手を伸ばす女子のような理論を展開した火衣であるが、このハリネズミもとい火鼠の衣は読人の言う通り先ほど『無問鯛』でたい焼きを三匹平らげている。

 3月限定、抹茶クリームたい焼き。抹茶を練り込んだ深緑の生地で小倉餡と香り高い抹茶クリームを半々に包んだ期間限定商品は、小倉の粒餡の甘さと抹茶クリームのほろ苦さのバランスが見ことだと火衣のお気に入りになったようだ

 確かに美味しかった。口に入れた瞬間に抹茶の香りが鼻に抜け、頭部に詰められた熱々のクリームの苦味と旨味が口の中に広がって来る。その口で食べ進めれば、腹部から尻尾にかけての粒餡ゾーンがじんわりと舌に浸透して、しつこくない餡の甘さが楽しめる。

 2月、3月と期間限定商品は当たりだった。しかし、たかがたい焼きでも1日にいくつも購入することを躊躇するのが、高校生の財布事情である。例えバイトで稼いでいても、例え一個100円のたい焼きでも、財布から出て行くお金は極力少数にしたいのだ。

 やはり桐乃の誘いを断らずに、彼女のバイクに乗せてもらって帰宅した方が良かったかもしれない。何となく、今日は寄り道をする気が起きないのだ。

 それじゃあ真っ直ぐ帰ろうと、頭の上に火衣を乗せたまま家路を急ぐ読人はアパートとマンションに囲まれた公園へと入って行った。最近発見したことだが、『若紫堂』と自宅の途中にあるこの公園を突っ切れば近道になるのだ。

 塗装の禿げた滑り台と鉄棒の横を通って、反対側の出入り口へ。

 昼間には近所の保育園の子供たちや、親に連れられて来た子供たちが元気に遊ぶこの公園であるが、この時間帯では小学生以上の子供はあまり見かけない。少し足を延ばした隣町に本格的なアスレチック遊具を設置した別な公園があるため、彼らは学校を終えるとそちらに行ってしまうからだ。

 だから、今日もこの公園には誰もいないと思っていた。いてもジャージ姿でストレッチをする老人ぐらいだったので、ブランコの柵に座っていた彼を見た時は思わず足を止めてしまう。

 背の高い、銀色と言えるほど色の薄い髪の白人男性……本当に大きい。もしかしたら、正美よりも背が高いかもしれない。勿論体格も良く、日本人と比べれば何回りも大きく見えるため、彼の後ろにある子供用に小さく造られたブランコが余計に小さく見えた。

 この近辺で彼の姿に見覚えはない。もしかして道に迷ってしまったのかと彼の様子をこっそり窺っていたら、がっつりと視線が噛み合ってしまった。日本人のものとは違う鮮やかなブルーの目が、こちらに向いていたのだ。

 

「お前、ヨミヒト・クロモジだな」

「っ!?」

「婆さ……先生が言った通り、本当にこの公園に来たな。まあ良い」

「……貴方は、【読み手】ですか」

 

 外見に似合わぬ流暢な日本語で読人の名前を呼んだ彼は、質問の答えの変わりに一冊の白い【本】を見せて表紙を開いた。

 恐らくあちらには、読人の発した言語は自身の母国語に聞こえているのだろう。再三思うが、【読み手】同士の言語の翻訳・疎通は本当に便利である。

 そんな、翻訳機の役割も果たす淡い光を灯した【本】を開くと同時に、彼の手には二本の銀色の匙――つまり、スプーンが握られていた。その二本の匙を落とせばカランと言う金属の音がして地面に落ちる……はずだった。

 地面に落ちた匙は軽やかな金属音ではなく、ガチャガチャと言ういくつもの音源から発せられる金属の擦れ合う音が聞こえて来たのだ。その音は、詳しく描写すれば金属の間接が起き上がって両腕両足がしっかりと組み立てられる音だった。

 彼の目の前に、金属でできた兵隊の軍勢が姿を現したのである。

 

「『一本の匙から作られた25体の兵隊人形たちの内、材料の錫が足りなくなって1体だけ片脚になってしまったのでした』……創造能力・24人のスズの兵隊(24 Zinnsoldat)

「っ!」

「【戦い】の前には名乗れって言われているから、名乗っておくぜ。オレは、アーベンシュタイン家代表ハインリヒ・エッシェ。【本】のタイトルは『しっかりもののスズの兵隊』だ」

「アーベンシュタイン!?」

 

 その名前は、夢の中で聞いた。

 ドイツが名門・アーベンシュタイン家。かつて、主君のために不老不死を求めて幾度となく【戦い】に参戦し続けた【読み手】の家系にして、50年前の【戦い】で蔵人が出会った少女の家。

 その家の代表を名乗る青年が、まるで夢から飛び出て来たかのように読人の前に現れた。彼が創造した計48体の錫の兵隊たちは、同じく錫でできたマスケット銃やサーベルを片手に襲いかかって来たのである。

 

「火衣!」

『本当、急だな!』

 

 彼――ハインリヒと名乗った青年の【本】は、『しっかりもののスズの兵隊』。片脚のスズの兵隊人形と、彼が恋をした紙でできた踊り子人形との物語。

 確かあの物語では、一本の錫でできた匙から25体の兵隊人形が作られたが、材料が足りずに一体だけ片脚になってしまったと言う筋書きだったはず。

 片脚のスズの兵隊は、片脚を高く上げて一本足で立っている踊り子人形が自分と同じだ、自分たちはお似合いだと感じて恋をした。障害多き恋をした片脚の兵隊は、窓から落とされて、紙の船に乗せられて用水路に沈み、大きな魚に食べられると言う冒険を果たしたが見事に彼女の元に戻って来る。

 これでハッピーエンドかと思いきや、片脚の兵隊は火が燃え盛る暖炉に捨てられてしまった……そして、風に飛ばされた踊り子人形も、彼を追うかのように暖炉の火の中へと消えてしまったのだ。火が燃え尽きた暖炉の灰の中には、ハートの形をしたスズの塊が残された。

 片脚のスズの兵隊と紙の踊り子人形が共に溶けて一つになった姿だった。

 その物語通りならば、ハインリヒが投げた匙一つで両脚が揃った24体の兵隊人形(実寸大)が現れるのだろう。匙が二本だったから、全部で48体だ。そして彼らの材質は錫、つまり火で燃える。

 相変わらず【戦い】の始まりは急だと愚痴を垂れる火衣であったが、読人の頭の上から飛び降りると背中の針はすでに轟々と音を立てて燃え盛り始めていた。瞬時に日本犬ほどの大きさに変化した火衣は、ガチャガチャと錫の音を立てながらこちらへ進軍して来る兵隊たちを背中の炎を迎え撃つと、炎の波に飲み込まれた兵隊たちはあっという間にどろどろに溶けてしまった。

 

「アーベンシュタイン家、代表……! 俺は黒文字読人、【本】のタイトルは『竹取物語』!」

「お前に恨みはないが、オレも戦わなきゃならなねぇ!」

 

 再び匙を取り出してスズの軍勢を創造したハインリヒは、火衣の炎の熱さに飲まれていない。人気のない住宅地の狭間にある静かな公園で、【戦い】が始まった。

 

 

 

***

 

 

 

 閉店の後始末を桐乃と読人に任せた紫乃は、余所行きの着物に着替えて深い赤紫色の帯を締めると、昔馴染みとの待ち合わせ場所を訪れた。『若紫堂』からそんなに距離がない純喫茶へ向かうと、店主の気遣いからか曇りガラスの入り口の扉には『本日貸切り』の札が下げられている。

 この店に来るのも久しぶりだ。ほとんど1人で客商売をしていれば気軽に喫茶店でお茶をするなんてできないのもあるが、冬の季節は寒いからあまり外には出たくないのである。自分も歳を取ったものだ。

 そろそろこの店に通うのも再開してやろうかと思いながら扉を開けば、紫乃を呼び出した昔馴染みは最奥のテーブルに座り紫の菖蒲が描かれた白いカップを手にしていた。

 

「本当に久しぶりだ。お前さんの長女が日本で式を挙げた年以来だから、もう21年も昔か。お互い歳を取ったね、イーリス」

「お久しぶりです、シノ」

 

 カップをソーサに置いてから淑やかに頭を下げた紫乃とそう変わらない老婦人が、かつては13歳の少女だったのだから時の流れと言うのは本当に早いものだ。紫乃の記憶で最も色濃い彼女の姿は、自分より10歳も年下の可愛らしくも凛々しく雄々しい少女であった。

 あれから50年、自分も歳を取って婆さんになったし彼女もまた還暦を超えて婆さんとなった。

 それでも、紫がかった青い瞳に宿る闘志にも似たその光は少女時代から変わることがない。上品な黒のワンピースに赤ずきんのような赤いケープを羽織った老婦人――イーリス・アーベンシュタインと、20年以上ぶりの再会を果たしたのだった。

 

「そちらは、お孫さんかい?」

「ええ、次男の長女です。ご挨拶なさい」

「初めまして。ビルネ・アーベンシュタインと申します。Frau. シノのお話は、祖母からかねがねお聞きしておりました」

「おやまあ、綺麗な日本語だ。それに、50年前のお祖母さんにそっくりだね。昔の記憶の通りだ」

「恐れ、入ります」

 

 少し発音がたどたどしいが、そこら辺の日本人よりも綺麗で丁寧な日本語を話す少女――イーリスの隣で、大人しく物静かに座っていた孫娘のビルネは、紫乃の記憶にある少女の姿によく似ている。ほとんど瓜二つだ。

 違うところと言えば、若草色の瞳の色と左眦にぽつんと置かれた泣きボクロぐらいだろう。

 聞けば、50年前のイーリスと同じくビルネも13歳だと言う。もしかしたら、淑やかに振る舞っていても本当はかつての祖母と同じようなじゃじゃ馬かもしれない。紫乃はこっそりとそう思った。

 

「この年に遥々日本までやって来たってことは、アーベンシュタインも【戦い】に参戦すると言うことか」

「ええ、お察しの通りです。急ごしらえでしたが、それなりに戦えるようにはなりましたわ。手始めに……クロードの孫の元へ向かわせました」

「おや、せっかちだね。【読み手】は別の孫かい?」

「Nein. お恥ずかしい話、アーベンシュタインとは縁もゆかりもない者が代表となってしまいました」

 

 成程、だから()()()()()か。本当はもっと早くに来日をしたかったが、縁もゆかりもないと言う【読み手】を鍛え上げるために時間を食ってしまったので、この3月になってしまったのだろう。

 イーリスは厳しかっただろうに。きっと、ドイツ軍の訓練にも負けないスパルタ方式だったはずだ。

 

「シノ、貴女はクロードの孫を教えているとお聞きしました」

「情報がお早いね」

「……どんな子ですか」

「安心しな、お前さんが嫌いな蔵人さんには似ちゃいないよ。あの子は祖母似の素直な子だ」

「それなら安心ですわ」

「今でも、蔵人さんが嫌いかい?」

「ええ、大嫌いですわ。天国へ勝ち逃げされてしまいましたから!」

「同感だ」

 

 シュガーポットの角砂糖をカップに落としたイーリスは、少し乱暴にスプーンを動かしてカチャカチャ音を出しながら紅茶をかき回した。蔵人のことになるとムキになるのも、昔と変わらないね……彼の訃報を聞いても来日せず、手紙と献花を送って来たのはイーリスの意地なのだろう。

 紫乃は、蔵人の葬儀のために岩手から上京して来た龍生とこの店で長い昔話をした時のことを思い出す。もう2か月も経ってしまった。

 もしあの場にイーリスもいたのなら、きっと一晩では語り尽くせなかっただろう。好きと嫌いが入り混じった偲ぶ会は、色々なものがごっちゃになって酷いことになっていたはずだ。

 

「お待たせしました、当店自慢のアフタヌーンティーセットです。上から、スコーン、コーヒークリームとマロンのカップケーキ。サンドウィッチはソーセージとレタス、卵とポテトサラダになっております。スコーンには、こちらのクロデットクリームと苺ジャムを付けてお召し上がり下さい。紫乃さん、ご注文は何になさいますか?」

「アッサムのミルクティーを頂こう。こちらさんに来るのも、久しぶりだ」

「ええ、蔵人さんのお葬式以来ですね。そうだ、お孫さんの読人君がこの間、女の子と一緒にいらっしゃったんですよ。彼も立派に勝ち進んでいるようですね」

「お前さん、また【戦い】に首を突っ込む気かい」

「ええ、折角日本が主戦場ですからね。東京オリンピックと【読み手】の【戦い】を生で見ることができれば、もう思い残すことはないと思っていたんですがね……二度目の東京オリンピックをこの目で見てしまったら、欲が出て来てしまいました。二度目の【読み手】の【戦い】も、こっそりこの目で見させてもらいますよ」

 

 ハンプティ・ダンプティ柄の皿が乗せられたケーキスタンドを持って来た、純喫茶『マザー・グース』のマスター。常連客には「カッちゃん」と呼ばれている楓光孝は、50年前は欠片も見当たらなかった顎鬚を撫でながら、少年のように笑ったのだった。




Name:イーリス・アーベンシュタイン(Iris Abenstein)
Age:13歳/63歳
Height:150cm→160cm
Work:アーベンシュタイン家当主(不動産会社他経営)
Book:『赤ずきん』

ちなみに、12歳年上の夫との間に三男五女を儲けている。


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しっかりもののスズの兵隊02

 ハインリヒ・エッシェと言う青年の人生は、平坦からの急転直下。からの迷走、であると自負し始めたのは最近のことだ。

 この急転直下が発生せずに人生を送っていたら、【本】にも【戦い】にもアーベンシュタイン家にも関わらずに一生を終えていただろう。しかし、物語の筋書きと言う名の運命は彼を放っておいてはくれなかったのだ。

 事の発端は、1年前に起きた父親の急死だった。

 突発的な事故による世帯主の喪失は、エッシェ家の生活――残されたハインリヒと母に困窮をもたらした。ハインリヒは大学に進学せず、教育機関を卒業した後は自動車の部品工場で働いていていたため、直ぐに稼ぎに困ると言うことはなく細々と母子2人の生活を続けていたが、その母から目を離したのが失敗だった。

 そう言えば母は元々お嬢様育ちだったなと、事件が起きたその瞬間に思い出す。もっと早く思い出しておけば良かった……40歳も後半になった母が、あまりにも世間知らずの箱入り娘であったことに、息子が自覚しておけば良かったのである。

 彼女は必ず儲けが出る投資という名の詐欺に騙され、多額の借金を負ってしまったのだ。

 息子が借金に気付いた時には既に遅く、最初に負った借金をどうにかこうにかしようと母なりに模索した結果、昨年の秋の段階では当初の何倍にも借金が膨れ上がっていたのである。

 儲けが出る投資というのは、普通に聞けばありえない馬鹿馬鹿しいものであったが、世間知らずの元お嬢様は簡単に信じ込んでしまったのだ。詐欺師たちにとって母は良い鴨だっただろう、向こうが呆気に取られるぐらい簡単に金を落としてくれたのだから。

 さて、そこからがどうしようも行かなくなった。ハインリヒはドイツの基準では成人しているとは言え、まだ十代の若者だ。社会に出てからそう年数も重ねていないガキが1人で何とかしようとしても、直ぐに頓挫してしまうのは目に見えている。

 いくら我武者羅に頑張っても1人でできることは限られていたし、相談できる誰かもいなかった……だから、道を外しかけてしまった。

 昨年の冬、かつての学校の先輩たちの誘いに乗ってしまったのだ。

 その先輩というのが所謂不良であり、通っていたスクールも早々と退学になった悪童の部類に入る者たちである。

 向こうは体格の良いハインリヒを気に入ったのか、在学中に何度も仲間に誘い入れようとしていたが、ハインリヒ自身は彼らとはあまり関わりたくなかったので極力避けていた。その内に彼らは退学となり、もう二度と会うことはないと思っていたのだが、昨年のクリスマス・マーケットで再会してしまったのである。

 しかも、一体どこの風の噂を耳にしたのか、ハインリヒが金に困っていることをしっかりと把握していた。それを前提で誘いをかけてきたのだろう、金持ちの家に盗みに入ると言う窃盗犯罪の誘いを。

 追い詰められていたと言えばまだ聞こえは良い。しかし実際は、楽な逃げ道があったのでそちらを選んだまでのこと……ハインリヒは、その窃盗に加担してしまったのだ。

 決行は大晦日の夜。新年の喜びに浮かれているその隙に、ベルリンでも指折りの富豪の屋敷に忍び込んで金品を盗み出す犯罪計画だった。

 仲間の1人にターゲットとなる屋敷の警備会社で働いていたという者がいた。その者が警備システムの解除方法を知っているから、その隙間を縫って侵入・窃盗・逃走までを行う行き当たりばったりの計画だ。

 さて、彼らが忍び込むベルリンでも指折りの富豪というのが、ドイツの有名な不動産会社の経営者一族の屋敷だった。最近では、新たに立ち上げた警備会社も成功を収めてがっぽりと儲けているという話なので、成果は期待できると先輩の悪童たちは嬉しそうに笑っていたのを覚えている。

 そして、昨年の12月31日の午後11時の終わりの時刻に犯行は開始された。

 が、邪な企みと言うのはそう簡単に行かないのが世の常である。悪行を成功させたいのなら、それなりの権力と運と根回しその他を徹底しておかなければならない。

 警備システムの解除は一瞬だけ成功し、窃盗犯たちが屋敷に――アーベンシュタイン家の書庫に忍び込んでからしっかりと起動して、不届き者たちの存在を知らせたのである。警備システムの解除が失敗したことに慌てた先輩の悪童たちは、金品も貴重品も何も盗らずに逃げた……ハインリヒを生贄として。

 トカゲの尻尾のように切り捨てられたハインリヒは、雪崩れ込んで来る警備員と使用人たちによって本棚へ叩き付けられる形で拘束された。それと同時に新年を祝う花火が上がった。

 実に最悪なGlückliches Neues Jahrである。どこがめでたい。これっぽっちもめでたくない。

 そんな中で、状況が変化したのは新年になった瞬間だった。ハインリヒが取り押さえられていた本棚の向こうから、白い光が漏れていたのを目にした使用人の1人が酷く驚愕した表情で書庫を飛び出して行ったのだ。

 それから直ぐに何人もの人間が再び書庫へと押し寄せ、ハインリヒは自分の運命を悟った……このまま私刑コースから警察に突き出されるのだろうか。実に馬鹿なことをしたと諦めたその時、警備員たちの拘束から解放される。

 解放されたハインリヒの目の前に現れたのは、威厳と威圧のある老婦人――後に、先生と呼ばされることとなるイーリスが、腰を抜かしたハインリヒを見下ろしていたのだ。

 実はこの書庫の本棚の向こうには、隠し金庫が存在している。そこに収められているのは現金や宝石等の金目の物ではない、そこにはアーベンシュタイン家が現在に至るまで集め続けた白い【本】が収められていたのだ。

 その中の一冊に光が灯った。真っ白だった裏表紙には、ハートを中心にして並んだ片脚の兵隊と踊り子人形が炎に囲まれた紋章が現れていた……つまり、ハインリヒは『しっかりもののスズの兵隊』の【読み手】に選ばれてしまったのである。

 

「なんと言うことでしょう。アーベンシュタイン家の人間ではなく、こんな盗人風情が【読み手】になってしまうなんて……!」

「大奥様」

 

 イーリスへと耳打ちをした使用人が首を小さく横に振ったのは、新年のお祝いのために屋敷に集まっていたアーベンシュタイン家の人間が、1人も保管されている【本】たちに選ばれなかったことを意味していた。

 主君のために不老不死を求めた【読み手】をルーツとする家であるが、ここ数世紀にかけて【読み手】は1人しか排出されていない。今度の【戦い】でアーベンシュタインの人間に【読み手】が出るかどうかの賭けは惨敗してしまった……ただ1人、イレギュラーな乱入者を除いては。

 

「貴方、名前は?」

「え……」

「名乗りなさい!」

「っ、ハインリヒ・エッシェ……」

「アルノルト、直ぐにこの者の身辺を調査しなさい」

「承知しました」

「ハインリヒとやら、我らがアーベンシュタイン家に忍び込んだ目的はなんですか? 馬鹿な小童の戯ことか、それとも金目的か」

「ギクっ」

「金に困った故の犯行、ですか。どうせ多額の借金を負ってしまったとかの理由でしょう」

「ギクっ!」

「図星のようですわね。良いでしょう……我らの条件を飲んで下さるのなら、貴方の借金を全てアーベンシュタイン家で完済しましょう」

 

 この婆さんは一体何を言っているんだ?

 この時点でイーリスが言う“条件”がどんなものなのかは分からなかった。もしかしたらとんでもない非常識なものだった可能性もあったが、ドイツの不動産女帝と謳われる女傑のオーラに当てられてしまったハインリヒは、彼女の取引に小さく頷いて応じてしまったのだ。

 その、イーリスの言う“条件”の正体が、アーベンシュタイン家代表の【読み手】として『しっかりもののスズの兵隊』を手に【戦い】に参加し、あわよくば不老不死を手に入れろと言う条件だったのである。

 こうしてハインリヒは借金を全て肩代わりしてもらっただけではなく、ドイツに残された母親の生活や就職の世話までしてもらいその見返りに【戦い】へ参戦することとなったのだ。ある意味、金で雇われたような形となる。

 ついでに、彼を窃盗に誘った先輩たちとも縁を切っておいたと言われ、本当に消息不明になったためそこはあまり詳しく訊かないことにした。怖いから。

 それからと言うもの、1月1日の正月からアーベンシュタイン家に連れて来られて【本】の使い方をイーリスによってみっちり仕込まれ、想像力を創造力に変えるその能力で『24人のスズの兵隊』を創造し、その能力をベースにした戦略までをも叩き込まれた。そして、今回の主戦場は日本になるので、現地で意志の疎通に困らないようにと日本語や日本のマナーまで詰め込まれる羽目になった。

 日本語の先生は教師をやっていたと言うイーリスの夫だった。妻よりは優しい授業だったので、こちらの勉強の方が好きだった。

 それから2カ月余り、ドイツで『親指姫』の【読み手】との【戦い】に勝利して一つ目の紋章を手に入れたハインリヒは、ようやく及第点を与えられて【読み手】となった。そして、イーリスに連れられて日本へとやって来た。彼女の指示に従い、前回の【戦い】の優勝者の孫であり優勝賞品の【読み手】である読人と接触を図ったのである。

 

「『24人のスズの兵隊』、第七師団!」

「火衣!」

 

 一本の匙で24体のスズの兵隊人形。材質が錫であるがために、火を操る火衣相手では圧倒的に不利かと思われたが24人一組が溶けてしまったら次の24人。それが溶けたらもう24人と、匙を一本投げるだけで次々と兵隊が出現し、遂には100体以上の兵隊が投入される。

 一本の匙から24体の兵隊人形を創造できるその創造能力は、単純な物量作戦だ。質より量、読人が火衣だけに対してあちらは一度に24人。いくら相性は読人側に傾いていても、数で押されてしまっては流石に対応し切れない。

 そして、ハインリヒの『24人のスズの兵隊』はシンプルな能力故に応用が利いた。

 地面を走る火衣の炎に包まれて24人×匙六本分の兵隊たちは溶けてしまったが、ドロドロに溶けてしまった錫が一か所に集まって巨大な塊を形成し始める。

『しっかりもののスズの兵隊』の物語のラストでは、暖炉で溶けてしまった片脚のスズの兵隊はハートの形になってしまった。それと同じく、溶けてしまった錫はもう一度形成し直せば良いとでも想像したのだろう。

【本】を手にして想像すれば、現実に創造される。ハインリヒの頭の中で組み立てられた想像と同じく、兵隊たちが一つに集まった錫の塊は付近にあるブランコの倍以上もの身の丈を持つ巨大な兵隊に生まれ変わってしまったのだ。

 

「デカっ!?」

『日曜日の朝に出てきそうだな』

「これならそう簡単に燃やせねぇだろ!」

「っ、だったら受け止める!」

 

 よく見たら、巨大な兵隊は切れ味が良さそうな巨大な斧を持っていた。

 ハインリヒのいう通り、これだけ巨大ならばそう簡単に燃やし尽くすことはできないだろう。しかし、読人が創造した能力は火衣だけではない。【本】ページをめくって朗読すれば、1人と1匹をすっぽり覆ってしまう岩のドームが出現して兵隊の攻撃を防ぐ。

 錫の斧とゴツゴツした岩肌が接触し合って火花が散った。それほどまでに重い攻撃が三回、仏の顔も三度まで……岩のドームが割れて仏の姿が現れれば、怒りのカウンター攻撃が待っていたのだ。

 

「創造能力・仏の御石の鉢!」

「っ、させるか!!」

 

 三度もの攻撃で怒りが頂点に達した仏の両目に光が宿り、斧を手にした不届き者の兵隊へと反撃のビームが発射される。その威力は、巨大な蜘蛛と【読み手】プラス召喚された猫を彼方へと吹っ飛ばしてお星さまにするほどの熱量だ。

 命中したビームによって爆発が起き、それに伴う爆風で巨大なスズの兵隊も吹っ飛ばされて同じ運命を辿るかと思いきや、そうはいかなかった。両目のビームには両肩を貫通し、そのままぐらついた巨大なスズの兵隊を支えるようにハインリヒが投下した何本もの匙から100人を超える兵隊が出現して群がって来たのだ。

 巨大なスズの兵隊が爆風の盾となって背後の【読み手】を守るだけではなく、盾が倒れそうになったらたくさんの兵隊たちが押し返して踏ん張らせる。しかも、兵隊たちの働きはそれだけではない、何人かが仏のビームカウンターによって焼き空いた穴の中に潜り込むと、そのまま溶けて穴を修復したのだ。

 更に、他の兵隊たちが巨大なスズの兵隊の右腕に密集すれば、巨大な腕に変化する。何十人もの人型が溶けて接合され、巨大なスズの兵隊の身の丈の半分以上に肥大した異形の腕が大きく振り下されると、読人たちを守るはずの仏は光の粒子となって霧散してしまい、読人にまで届きそうになってしまったのだ。

 

「っ、火衣!」

『おう!』

「そのまま押せ! Zinnsoldat!!」

 

 異形の腕の前に出て来た火衣は自身の最大サイズである軽自動車ほどの大きさに変化すると、背中の炎を轟々と滾らせて落ちて来る拳――アームハンマーと言うべき攻撃を受け止めたのである。散る火花と熱風と、錫が高温の炎で燃えることによって起きた炎色反応により真っ白な光が発せられて思わず瞼を閉じてしまう。

 落ちる拳とそれを跳ね返そうとする炎の衝突の行方は、読人とハインリヒ、どちらの頭の中に勝利へのヴィジョンが浮かび上がっているかが分かれ目だった。

 だが、今の読人にはそんな余裕なんてない……目の前の拳を、今そこにある目の前の【読み手】を乗り越えて、巨大なスズの兵隊をどうにか打ち砕くしか意識が集中していない。

 次なんて、その時に乗り越える。

 今はただ、火衣の炎から目を逸らさずに、眩しいと言って閉じた瞼を開けるだけだった。

 

「いっけぇぇぇ!!」

「押し負けるな!!」

 

 取り巻く熱風に長い前髪がはためき、三日月のペアピンが白い光に照らされる。

 火衣の背中がより一層燃え盛れば、両者は磁石のS極とN極が反発するように弾き飛ばされて小さくなった火衣は読人の腕の中に転がり込む。そして巨大なスズの兵隊は、他の兵隊たちが蠢いて集まった異形の腕の半分以上が溶けてしまい、弾かれた反動で膝を着いた。

 

『あのノッポ、結構根性あるぞ』

「アーベンシュタイン家、代表……一筋縄じゃ行かないのは、おじいちゃんの時代から分かっている!」

「こっちだってよ、そう簡単に負ける訳には行かねぇんだよ……!」

 

 膝を着いた巨大なスズの兵隊が立ち上がり、ハインリヒと共に立ち塞がる。ギラギラとした光が湧き上がる青い鋭い視線は、今までの【読み手】とはどこか違った。

 不老不死を求め、【本】の恩恵を欲して……そんなものとは違う、ハインリヒの目にあるのはもっと、違うものだ。

 

「散々施し受けてもらって、世話焼いてもらって、ここまで来ちまって……! 簡単に負けてベソかきながら逃げ帰るなんて、できるはずねぇだろうが!!」

「っ!」

「ここまで来ちまったオレだって、ちっぽけなプライドぐらいあるんだよ……!」

 

 最後の言葉は、読人に聞こえないほどの小さな声だったが巨大なスズの兵隊の背後に見え隠れする彼の表情はしっかり見えていた。

 欲に塗れない、戦う顔……それは、夢で見た幼い頃のアーベンシュタイン家の少女――イーリスの印象と、被ってしまったのだ。

 

『読人、まだ行けるか?』

「勿論。行くよ、火衣」

『ああ』

「婆さんに嫌味を言われない戦果、出してやるよ!」

 

 再び立つ火柱と増えるスズの兵隊。【本】はまだ閉じられていない……なら、【戦い】はまだ続く。読人とハインリヒが手にしたそれぞれの物語の【本】の光が消えるまで、どちらかの物語が「めでたしめでたし」で終わってしまうまで、引く訳には行かない。

 白い【本】に手をかけた両者の間で再び【戦い】が始まろうとしたその刹那、巨大なスズの兵隊の米神に弾丸が撃ち込まれて金属音が鳴ったのだ。

 

「新手?!」

「ビルネ! 止めるな!」

「Halt, もう良いのです。Herr, クロモジの能力を肌で知ることができたならば、それが一番の授業。おばあ様のお言葉です」

「おばあ様……って、ことは」

 

 静止の意味の弾丸を撃ち込んだのは、掌サイズのデリンジャーを構えた少女――ブロンドを靡かせた小柄な少女は、夢で視たイーリスの姿によく似ている。

 そんな彼女、ハインリヒにビルネと呼ばれたその子がおばあ様と呼んだその人がきっと、50年前の【戦い】において『赤ずきん』の【読み手】であるイーリス・アーベンシュタインなのだろう。

 祖母は巨大なハサミ、そして孫はデリンジャー銃か……見た目に反して手にしている得物が物騒なのは、血筋なのだろうか。そういえば、イーリスはイギリスの殺戮妖精とも謳われてしまったのだ。

 

「初めてお目にかかります。ワタシの名前は、ビルネ・アーベンシュタイン。こちらの、ハインリヒのお目付け役として、これから貴方とは顔を合わせることになるでしょう」

「あ、はい……」

『お目付け役?』

「2人とも、この1年は日本に滞在するらしいよ」

「師匠! と……」

 

 いつの間にか公園の入り口には一台のフォルクス・ワーゲンが停められており、昔馴染みと会うために出かけたはずの紫乃と黒いワンピースを着た欧州系の老婦人が立っていたのである。

 年を重ねても凛とした厳格な雰囲気を失わない2人の老淑女が並んでいると、思わず気圧されてしまう。2人とも纏うオーラがただのおばあちゃんではないのだ。紫乃の隣の女性が、ビルネの祖母であるイーリス・アーベンシュタインだ。

 絶対そうだ、間違いない。

 

「初めまして、クロードの孫。アーベンシュタイン家が当主、イーリス・アーベンシュタインでございます」

「は、初めまして。黒文字読人です」

「ほう……」

「??」

 

 ドイツ人とは思えないほど流暢な日本語を口にしたイーリスへ、火衣を抱えたまましっかり90度腰を折って頭を下げれば、紫がかった青い瞳は読人の頭の天辺からつま先まで鋭い視線が浴びせられる。

 老いてなお美しく凛々しく、それでいて攻撃的な眼力に思わず視線を逸らしてしまいそうになってしまった読人を、当の彼女は安心したかのように息を吐いたのだ。

 

「安心しましたわ。確かに、クロードに似ていません」

「え?」

「だろう」

「ヨミヒト・クロモジ。我らがアーベンシュタイン家代表として、このハリンリヒが1年間の【戦い】に参戦致します。半人前とも言えないはみ出し者ですが、先ほどの【戦い】で実力は目にしましたでしょう」

「半人前とも言えないって……」

「今、とは言いません。しかし、今回の【戦い】では我らアーベンシュタインが勝ちます。何世紀に渡って果たせなかった我らが悲願を、誇りを、手に入れましょう」

「……っ」

「ですからどうかそのことを、ゆめゆめお忘れなきよう、心に留めて置いて下さいな」

 

 やはり彼女は、50年前に蔵人に敗北しても決して諦めていなかったのだ。

 一度も勝利を奪い取れないアーベンシュタインの誇りを手に入れるために、一族とは無関係の青年を【読み手】として送り込んででも手にしたい勝利のために、今世の『竹取物語』の【読み手】である読人の前に現れた。

 ドイツから日本まで、何時間もの時間の壁と海を乗り越えてこの言葉を告げに来たのである。

 かつて、彼の祖父である蔵人へ告げた時のように情熱的に、感情に任せた言葉ではない。イーリスが口を開いたその瞬間に冬に逆戻りしてしまったかのように空気が冷たく、硬く張り詰めたのだ。

 年月を重ねて老熟した彼女の言葉には、並々ならぬ執念とも言える重さがあった……静かに淡々と読人に突き刺された宣戦布告に、腹を裂かれて心臓をわし掴まれたような感覚に支配される。

 咄嗟に抱えていた火衣を顔の前に持って来てガードの体勢を取れば、盾にされた火衣に「止めろ」と肩を足蹴りにされてしまった。

 

「日本にはハインリヒと、お目付け役としてわたくしの孫のビルネを置いて行きます。勝ち抜きなさいな。わたくしたちを下して勝利を手に入れた男の孫が、そう簡単に脱落するのは許しませんよ」

「は、はい!」

「ハインリヒ、貴方もです」

「……Ja」

 

 日本にいる間は日本語を話せと行ったイーリスに多少の抵抗を示すため、ドイツ語で返ことをしたら隣のビルネに小突かれた。2人の身長差が30cm以上もあるために、並んでいると遠近感が狂って妙な気分になる。

 これは、登場人物が増えたと言うことで良いのだろう。ハインリヒ・エッシェとビルネ・アーベンシュタイン……西の異国から現れた【読み手】とそのお目付け役が、日本を主戦場とする【戦い】の舞台へ現れたのである。




Name:ハインリヒ・エッシェ(Heinrich Esche)
Age:19歳
Height:190cm
Work:自動車部品工場技師見習い→日本語学校入学予定
Book:『しっかりもののスズの兵隊』

Name:ビルネ・アーベンシュタイン(Birne Abenstein)
Age:13歳
Height:154cm
Work:私立彩姫学園中等部編入予定
Club:???

Name:楓 光孝(カエデミツタカ)
Age:16歳/66歳
Height:165cm→170cm
Work:純喫茶『マザー・グース』店長

~ハインリヒが紋章を頂いた『親指姫』の人~
ドールハウス職人のおじいちゃん。通常の人間が親指サイズに見える巨大な化け物バラをパックンフラワーみたいに操る。
結構強かったが、敗北後は清々しく握手を求めた。少年漫画か。
ちなみに名前は、ゲオルグ・キルシェ(61)


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肉じゃが【Past】+α

 今夜はちょっと系統が違う夢を視た。

 50年前の蔵人の手にあるのが『古事記』の【本】ではなく銀色のフォークであり、場所は霧深きロンドン市内ではなく椅子とテーブルが置かれたダイニングだ。もっと言えば、蔵人がイギリス滞在の拠点としているフラットであり、龍生と光孝も共にテーブルを囲んでいる。

 年期の入った飴色の木製テーブルの上には、硬そうな麦パンと出来合いのマッシュポテト、濃い橙色に煮込まれたトマト味のビーンズが一枚の白い皿に乗っている。皿の隣には、木製のボウルに入ったキャベルのサラダ。日本の物よりは色味が濃くて葉質がくしゃくしゃしている。

 今夜の夢は、朝食の風景だった。夜なのに朝の夢とは、これいかに。

 肉々しいタンパク質が少ない朝食を前にして、誰も手にしているフォークを伸ばさずにどこかうんざりしたような表情をしていた。

 

「……飽きました」

「白米と味噌汁が食いたい。蕎麦でも良い」

「イギリスのご飯は、不味いです」

 

 どうやら、イギリスの飯が不味いことに嫌気が差して来た頃の記憶のようである。

 読人の時代では改善が見られつつあるイギリス料理であるが、蔵人たちが滞在した頃の時代では不味いままなのだ。それは、以前に視たフィッシュ・アンド・チップスの夢でも証明されており、この頃のイギリス人たちにとって食ことの味は二の次で手っ取り早く腹が膨れればいいのである。

 そのせいで、世界でもあまり類を見ない食にアグレッシブな日本国民の胃袋が、悲しい悲鳴を上げていた。

 

「何でしょうかね、イギリスの料理……と言うか、食材に手を加えただけの、料理とは言えない中途半端な食べ物たちは。付け合わせのホウレンソウは茹ですぎてペースト状で、鶏肉は焼きすぎでパサパサとした食感で。イワシが飛び出たパイとは、二度とお会いしたくはない」

「あれは狂気の沙汰ですよ。シェパードパイは、まあ美味いですけど店には当たり外れあるし。フィッシュ・アンド・チップスばかり食っていたら、たまには刺身とか淡泊なもんが食いたくなるし」

「贅沢は言いません。でもせめて、お肉が柔らかいシュラスコが食べたいです」

「光孝君、それはかなり贅沢なお願いですよ。仕方ありませんね……日本の最先端技術の結晶にお湯を注ぎましょう」

「イカンです蔵人さん! そのチキンラーメンとカップラーメンは、いざと言う時の非常食です! 気持ちは分かりますけど手さ付けたら駄目です!!」

 

 濁った両目で日本から持ち込んだチキンラーメンとカップラーメンを手にする蔵人を、龍生が必死に止める。じゃあボンカレーを温めましょうと言ったが、そういう問題ではない。ラーメンが駄目でカレーはOKと言うことではない。そもそも日本米がない。

 今ここで、まだ春の訪れも実感できない時点で胃袋が折れてそれら非常食に手を出してしまったら、本当の非常事態の時に泣きを見る羽目になるのだ。【戦い】は長い、こんな序の口で日本の最先端技術の結晶に助けを求めることはできないのである。

 ちなみに、日本人のみならず全世界の人間の胃を3分と言うお手軽短時間で満たしてくれるカップラーメンは、1970年代に誕生した。アメリカ人がチキンラーメンを小さく割って、紙コップに入れてフォークで食べていたところから発送を得たと言われている。

 発売当初はさっぱり売れなかったが、1972年に発生した浅間山荘事件が切っ掛けで世間に知れ渡り、読人たちが暮らす現代に至るまで人気商品の座に君臨し続けているのだ。

 そんな大変貴重な日本の非常食は、大事に大事に段ボールの奥にしまっておかなければならない。なので、蔵人たち3人は、観念して大人しく硬い麦パンを齧って朝食を終えた。

 

「昼はマダム・ココのお店のカレーにしませんか」

「そうしたいのは山々ですが、あまり外食ばかりでは懐具合が気になってしまうんですよね」

「うっ……確かに」

「でも、日本的なカレーライスも食べたいですね。マダム・ココがお作りになるココナッツ風味のカリーも美味しいですけど……」

 

 駄目だ、すっかりホームシックだ。しかも胃袋から来たものだ。

 朝食後は、せめて美味しい食材がないかと感じたのか、彼らはフラットからほど近いマーケットにやって来ていた。

 海外のマーケットは日本のスーパーマーケットや市場とは違う風景だ、まるで縁日の屋台が連なる神社の境内に見える。

 まだ泥が残る採れたれの野菜が無造作に積まれ、肉や魚もむき出しのままで店先に重ねられ時々猫が泥棒して行く。日本から一歩も出たことがない読人にしてみれば、本の中やテレビの向こうの光景としてでしか見たことがない風景だ。

 周囲から聞こえるマーケットの店員たちも呼び込みが日本語で聞こえるのは不可思議な体験だが、初めて見る野菜やハーブ類には、どうやって食べれば良いのか首を傾げてしまいそうになる。実際には、枕の上の頭を捻っているだけだが。

 

「そう言えば龍生君、料理はされますか?」

「できないです。台所さ入れば猛烈に叱られました」

「おや、男児厨房に入るべからずですか?」

「んにゃ、邪魔だちょす(触る)なって理由で、直ぐに叩き出されました。野菜の皮さ剥いたり、切ったりはできると思いますけど料理はできません。蔵人さんは?」

「簡単な自炊なら日本でもやっていましたけれど、あくまで日本の家庭料理に限ります。醤油も味噌もない現状では、聞きかじった西洋料理もできるかどうか……光孝君は」

「……」

「あ、無理そうですね」

 

 蔵人が光孝へ視線を移せば、彼は冷や汗をかきそうな真っ青な顔と虚ろな視線で屋台の店先にぶら下がっているエシャロットの束を眺めていた。1970年代、男性の家事・育児も広く浸透しない時代の日本男児たちに、慣れぬ異国の地で自炊しろと言うのは難易度が高い要求である。

 しかし、イギリス・ロンドンは三食外食するにも覚悟がいる都市だ。懐具合を鑑みても、これからは自炊に着手しなければならないのである……この、妙な色をした野菜は、どう料理したら良いのだろうか。

 なるべく日本でも目にするような食材と、それっぽい調味料を探しながらマーケットを冷かしていた3人だったが、その道中で見知った食材ではなく見知った女性を発見した。

 

「あ、紫乃さーん」

「貴方たち……はぁ、もう諦めましたわ」

 

 紫色のリボンが付いた白いボーラーハットを被った小柄な女性が魚屋の屋台の前にいたのを龍生が発見した。茶色い紙袋を抱えた紫乃である。

 龍生が人懐っこい笑顔で彼女を呼べば、こちらを向いた紫乃の柳眉が少々吊り上った。彼女にしてみれば、同じ日本人と言うだけで仲間でも味方でもない、思いっ切り敵の立場なのにこんな風に友好的に声をかけられるのはいささか迷惑だ。

 だけど、いくら言ってもこいつらは改めないと感じたのだろう……龍生と蔵人、そして光孝を視界に入れた彼女は、諦めたような呆れたような表情で溜息を吐いた。

 

「こんにちは紫乃さん、お買い物ですか?」

「ええ、そうですが」

「紫乃さんは、こちらでの食事はどうなさっているのですか?」

「私は、基本的に自炊しておりますが」

「えっ、イギリスの食べ物で自炊ばしているんですか?」

「紫乃さん料理上手なんですね。メニューはヨーロッパの料理ですか?」

「いえ……日本食です。日本から、醤油や味噌などの調味料は送ってもらえるので」

 

 紫乃の口から、欲して止まない調味料の名前が出てしまったらもう駄目だったらしい。日本食に飢えた3人の喉が分かりやすくゴクリと鳴った。醤油、味噌、ついでに梅干しも。鰹節でも可。

 不老不死と『竹取物語』を巡る【戦い】は始まったばかり、完全なる勝利を手に入れるのは1人だけ……紫乃が言った通り、周りの者は全て敵だと噛み付くことは間違ってはいない。同じ日本人でも、慣れ合うのは良しとしないのだろう。

 が、背に腹は代えられない。胃袋の欲求には、素直に従わなければストレスが溜まるのである。

 

「紫乃さん……ご飯、作って下さい」

「「お願いします」」

 

 マーケットのど真ん中、日本人らしく腰を90度に曲げて紫乃に頭を下げた男3人に対し、紫乃は呆れるのでも迷惑がるのでもなく……ただただ、仰天して戸惑っていたのだった。

 今までの夢の中で、彼女のこのような表情――あまりにも隙だらけな、焦りを見せたのは初めてだった。

 

「……何で、こんなことに」

 

 そして、次の場面では紫乃は蔵人たちのフラットのキッチンに立っていた。

 使い込んでいる感じの見られないそこに並んでいるのは、龍生と光孝が先ほどのマーケットで買って来た食材が並べられている。大振りのジャガイモに長い葉のニンジン、掌に収まるほど小さなタマネギにカブに、ホウレンソウやよく分からないハーブ。肉は、ちょっとオマケしてもらった。

 その前に並んでいるのは、紫乃に頼み込んで譲ってもらった日本の醤油と味噌だ。日本米は……流石にそこまで厚かましくはないので、マーケットを駆け回って何とか発見したタイ米を代わりに茶碗に盛ろう。だが、このキッチンに炊飯器はないのである。

 

「蓋付きのお鍋はありますか?」

「えーと……こちらでよろしいですか」

「結構。それにしても、貴方たち。少しは自炊をしなさいな。今の時代、男も台所に立たなければならなくなりますよ」

「確かに、女性たちも今以上に社会へ躍進するでしょうね。肝に銘じておきます」

「ですが、今は邪魔なので出て行って下さい」

「……はーい」

 

 包丁を手にした女性に逆らってはいけないのは、古今東西変わらないのである。

 ブラウスの袖を捲り上げた紫乃に、素直に従った蔵人はそそくさキッチンを退出した。綺麗にウェーブのかかった髪をまとめて三角巾の中にしまい込み、調味料を取りに帰った時に一緒に持って来た自前のエプロンを着けるとタイ米を研ぎ始めた。蔵人が出した鍋に米と水を入れる、どうやら鍋で米を炊こうとしているようだ。

 米を炊いている間におかずの準備。多種多様な野菜を数秒眺め、何を作るか決めた紫乃は米を炊いている鍋よりは小ぶりな物でお湯を沸かし始めた。

 

「紫乃さーん、何かすけ……手伝いことあります?」

「結構です」

「はーい……」

 

 龍生がキッチンに顔を出したら、にべもなく断られてしまった。

 それでもそのままいなくなる訳ではなく、紫乃が料理する後ろ姿を黙って見詰めながらうろちょろしていた……これは、アレだ。お手伝いがしたくてたまらない小さな子供だ。

「一緒にやりたい」と言う、無邪気な好奇心が駄々洩れで背中に突き刺さっているのである。

 

「……」

「……」

「……お暇でしたら、ジャガイモの皮を剥いて下さいませんか」

「っ! はい!」

 

 ほら、居心地が悪くなった紫乃が声をかければパァっと顔が明るくなって嬉しそうにキッチンに入って来た。

 包丁が一本しかなかったのでナイフを手にしたが、龍生は器用にジャガイモの皮を剥いて行く。ピーラーを使わなければ野菜の皮を剥けない読人とは、エライ違いである……あ、変色しないように水に漬けろと紫乃に注意されている。

 

「紫乃さん、芋で何を作ってくれるんですか?」

「肉じゃがにします」

「肉じゃが、イギリス生活にピッタリですね」

「え、何故ですか?」

「肉じゃがとは、イギリスのビーフシチューを日本で再現しようとして誕生してしまった料理なんですよ。よく見れば似ていませんか。ジャガイモとニンジンと牛肉が、茶色く煮込まれていますよ」

「そういえば!」

「手伝わない人は出て行って下さい」

「ごご、ごめんない!」

「配膳はお手伝いしますね」

 

 光孝に蘊蓄を披露していた蔵人が叩き出された。

 紫乃と龍生が並んで野菜の皮を剥き、適当な大きさに切っているその姿。

 若い男女がキッチンに並ぶその姿は通常、夫婦にも見えるかもしれない。だが、龍生が器用にジャガイモの皮を剥いて、その仕上がりを紫乃に確認を取ってから冷水に浸す姿が母親のお手伝いをするやんちゃな息子にしか見えないのは何故だろうか……。

 

「んー、出汁の匂い。紫乃さん、それ何ですか?」

「顆粒出汁です。鰹節で取った出汁より味は劣りますが、お湯に入れるだけで出汁の味が付くので時間の短縮になります」

「へー、そんなもんがあるんですか。便利な世の中になったっきゃ」

 

 現代ではお馴染みになった顆粒出汁は、この時期に発売され始めたが世間に浸透し始めたのはもう少し先である。鰹節で出汁を取る手間もコストも省けるため、日本の食材が手に入り難い海外生活には強い味方だ。

 カブを煮る鍋の中に顆粒出汁を入れれば、その様子を見ていた龍生の顔が懐かしそうに緩む。読人に匂いは伝わらないが、過去の彼には懐かしい出汁の香りが鼻を抜けて脳に響いているのだろう……キッチンの向こうからも、蔵人の感嘆の声が聞えて来た。

 湯掻いたホウレンソウは胡麻和えにして、出汁の中のカブに遅れて葉を投入して煮込んで味噌を溶かせば、カブの味噌汁が完成。

 深めのフライパンでは、遂に肉じゃがの調理が始まった。タマネギと牛肉に火を通し、ニンジンとジャガイモ、水、そしてここでも顆粒出汁を入れて煮込み始める。本当は味醂も欲しいところだが、残念ながら紫乃が持ち込んだ調味料の中に味醂はないので、砂糖を少し多めに入れていよいよ醤油の登場だ。

 フライパンより小さめの鍋の蓋を落とし蓋とし、沸騰したところでガスを弱火にしてグツグツと煮込む。肉じゃがにしっかり味が染み込んで最高の食べ頃になれば、蒸らしていたタイ米もふっくら炊き上がった頃であった。

 イギリス・ロンドン生活最初の日本食フルコースは、紫乃特性の肉じゃがとホウレンソウの胡麻和え、カブの味噌汁。そして、炊き立ての白米である。

 

「うわあぁぁ……! 銀シャリに味噌汁、醤油……!」

「副菜を作って下さるとは、紫乃さん素敵です」

「美味しそうです……いいえ、絶対に美味しいです!」

「では、いただきます」

「「いただきます!」」

「……召し上がれ」

 

 やはりと言うべきか、フライパンごと出された肉じゃがに一斉に箸が集中する。

 醤油と砂糖の甘じょっぱい汁が絡んだ肉と、ほっくり煮込まれたジャガイモを湯気が立つ米の上に乗せてそのまま頬張れば、胃袋が死んでいる顔をしていた3人には生気が戻ったのだった。

 

「っ、うめじゃーー!」

「あああ……美味ひいです、紫乃ひゃん」

「紫乃さん、本当に……ありがとうございます」

「どういたしまして」

 

 龍生は肉じゃがと米をかっ込んで、光孝は身に沁みる故郷の味に感涙し、蔵人は最初に一口を何度も噛み締めて飲み込んでから紫乃へ深々と頭を下げる。そして紫乃は、自身が作った料理を絶賛されても照れることはなく、まるで腹を空かせた子供に向けるような眼差しでそう返したのだった。

 

 

 

***

 

 

 

 深めのフライパンに油を引いてタマネギと牛肉に火を通し、適当に切ったジャガイモとニンジンを入れて少しだけ炒めてから水を注ぐ。そこに、事前に取っておいた鰹出汁と砂糖、味醂、醤油を加えてから落とし蓋をして煮込み、沸騰したらさやいんげんを追加して弱火にする。

 50年以上も作り続けた肉じゃがのレシピであるが、かつての物とは少々違う。若い頃に作っていたレシピよりも味醂が多く、甘めの味付けになってしまったのは亡き夫がその味付けを好んでいたからだ。

 自分から申告して来た訳ではない。ただ、おやつに大学芋やみたらし団子を作れば、早々と食べてしまったその姿を見て、この人は甘党なんだと感じたからちょっとだけ味醂を多くしたのだ。

 糖質の取りすぎは身体に悪いと口酸っぱく言いつつも、大匙一杯増の味醂は許してしまっていたのだから、若い頃と比べれば随分と焼きが回って来てしまったものである。

 40年以上作り続けた肉じゃがは、ホックリ甘く仕上げたジャガイモに甘じょっぱい汁を吸い込んだ牛肉と、ニンジンの赤とやさいんげんの緑のコントラストが目に美味しい。このまま蓋をして蒸らしておけば、もっと味が浸み込んで美味しくなる。

 日が経ってしまった牛肉を使い切ろうとしたら、老人の1人暮らしでは食べ切れない量になってしまった。冷めたら桐乃と読人に持たせてやろう。割烹着タイプのエプロンを脱いだ紫乃は、ついでにタッパーも準備しつつバイトたちに任せている店へと戻って行った。

 

「読人」

「はい」

「お前さん、肉じゃがは好きかい」

「肉じゃが、ですか? 好きです」

「作りすぎたから、持って行きなさい」

「ありがとうございます」

 

 紫乃の肉じゃが。50年前、異国の食材で作られた肉じゃがは夢の中でも湯気の温かさや醤油と出汁の匂いが伝わって来そうなほど美味しそうだった。

 夢を視た翌日の夕飯は思わず肉じゃがをリクエストするぐらい、食べ盛りの胃袋に非常に優しくない過去の出来事だったが……まさか、その肉じゃがを食べられるなんて、思ってもいなかった。

 藤色の風呂敷に包まれた少し大きめのタッパーがバイト上がりの読人に手渡された。まだほんのり温かい。家族3人だから、少し大めにお裾分けしてくれたのだろう。だが、実は本日の黒文字家は2人家族である。

 今日は、母が職場の飲み会のため男2人で侘しい惣菜ディナーなのだ。この肉じゃがはかなり有り難い。

 夕飯を買うついでに、バイト上がりの読人も拾って行くと言っていた父を『若紫堂』の最寄駅で待っていると、父の職場方面からやって来た銀の自動車がロータリーに入って来た。

 

「ただいま」

「お帰り、読人」

「これ、肉じゃが。奥島さんからもらった」

「美味しそうな匂いだ。後でお礼の連絡をしておこう」

「母さん、何時ぐらいに帰って来るかな?」

「出版社さんとの飲み会でそんなに長居はしないはずだから、9時前には帰って来るはずさ」

 

 助手席にはエコバッグに入った惣菜が置いてあったので、読人は後部座席へと乗り込んだ。エコバッグの中身はきっと、市役所の近くにあるスーパーマーケットの惣菜だろう。あそこは、弁当やおにぎりに使われる白米は固くてあまり美味しくはないが、惣菜は下手な駅地下のデリより美味しいのだ。

 父が好きなリンゴの細切り入りのポテトサラダとニンジンサラダ、2割引きシールが貼られたマグロとサーモンの刺身、パック詰めのから揚げとエビチリも入っている。

 このエビチリは、幼い頃の読人が好きだった物だ。

 お店で食べるエビチリとは違い、一口サイズの海老が分厚い衣で二回りほどかさ増しされているし辛味もあまりないが、その衣がアメリカンドックの衣のようにほんのり甘く、控えめの甘辛いタレと相まって子供の舌に美味しいのである。

 そのことを覚えているからか、父はこのスーパーで惣菜を買う時はこのエビチリは必ず買って来るのだ。

 自宅に到着すれば、父が乾燥器の中の洗濯物を取り込んでいる間に読人は惣菜を皿に移して電子レンジへ。紫乃からもらった肉じゃがは、牛肉を摘まみ食いする火衣を追い払ってからタッパーごとテーブルに置く。赤と茶色に偏ってしまった夕食の出来上がりだ。緑の要素が刺身の大葉ぐらいしかない。

 まあ、母が不在の日ぐらいは良いか。父は発泡酒を用意して読人は白米を茶碗に盛っていざ、いただきます。

 

「あ、肉じゃが美味しい!」

「読人、ポテトサラダ食べるか?」

「うん」

 

 牛肉とジャガイモを白米の上に乗せて汁を浸み込ませ、そのまま頬張れば糖分の甘さと牛脂の美味さが舌を刺激する。甘めでしっかりとした味付けなのが意外に感じたが、それでも母が作る肉じゃがとは違う美味さだ。

 肉じゃがを食べてポテトサラダも勧められてと、芋ばかり食べているように見えるがニンジンサラダや父が買って来てくれたエビチリから揚げもしっかりいただいた。

 男2人のちょっとだらしがない食卓は、茶碗の中の白米がなくなり二本目の発泡酒が半分以下になってしまっても、テレビのバラエティを観ながらだらだらと続いていた。

 

『当時、喫茶店のウエイトレスとして働いていたのだが……偶然来店した大物プロデューサーTの目に留まり、翌年アイドルデビュー。同時に発表したデビュー曲『シンデレラの忘れ物』は、オリコンチャート初登場1位に輝くなど、正に昭和のシンデレラガールと言うべき伝説のアイドルなのだ』

「シンデレラか……そう言えば、読人には言ったっけ?」

「何を?」

「母さん、昔のあだ名はシンデレラだったんだ」

「初めて聞いた」

 

 何となくチャンネルを回したバラエティ番組は、往年の名曲を現代のアーティストがカバーして披露すると言う歌番組。その中で、両親の世代よりももう少し昔に大活躍したアイドルの紹介をしている中で有名な物語のヒロインの名前が出た。

 灰被りと呼ばれて苛められていた少女が魔法使いに素直で純粋な心を評価され、魔法をかけられ舞踏会で王子様に見初められ、ガラスの靴にカボチャの馬車と誰でも知っている要素が詰め込まれたおとぎ話『シンデレラ』。彼女のように、一夜にして大逆転の成功を者はシンデレラガール・ボーイと呼ばれることがあるが、まさか読人の母がそう呼ばれていたのは初耳だった。

 

「母さんとは、友達の友達みたいな繋がりで、飲み会で出会ったんだ。当時はみんな若かったからな、日を跨いで何軒もハシゴするのはざらにあったけれど、母さんはいつも12時前には帰っていた。翌日が休日でも、友達に引き留められても帰ってしまう」

「それで、シンデレラ?」

「そう。おじいちゃんが厳しかったから、12時まで門限があったんだよ。母さんも、それをきちんと守っていた人だった。それに、父さんも助かっていたよ。あの頃の父さんは、一般の会社に勤めていて早朝の現場とか多かったから、母さんに乗っかって飲み会を抜け出していた」

「へー」

 

 それが、2人の馴れ初めらしい。元々、早々と帰ってしまう母を気になっていたが、一緒に早い時間に飲み会を抜け出して帰りに駅まで送る短時間を積み上げて結婚に至ったのである。

 今でこそ市役所に勤めている父であるが、大学を卒業してから数年は一般の建設会社に勤務していた。市役所に入ったのも母と結婚して黒文字家に入り、読人が産まれて将来のことを考えてだそうだ。

 優しい気質の父であるが、色々と苦労して来たのだ。

 母の、かつてのあだ名はシンデレラ。埃塗れの灰色の少女は一転、シャンデリアの如くキラキラ光り輝くプリンセスへと変身した。そんな、物語の大きな変化は起きなかったけれど、シンデレラは12時の鐘が鳴る前に華やかな席を抜け出して勤労な青年と出会い、幸せに……過ごして、いるのだろうか。

 

「ただいま~」

「お帰り。どうだった、飲み会?」

「んー……長年、営業に来てくれた人が春から異動になるって。ちょっと残念」

「あの、気が利くって言っていた人か。何か食べる? 奥島さんから肉じゃがを頂いたよ」

「じゃあ、お茶漬けと肉じゃが食べたい」

「了解」

 

 読人が入浴中に、母はタクシーに乗って帰宅した。何杯か飲んだのだろう、頬がほんのり薄紅色に染まってほろ酔い気味だった。

 母は酒が入ればちょっと甘えたになる。こんな風に、皿洗いをしていた父にお茶漬けを強請ってジャケットが皺になるのも気にせずにソファーに半身を横たえる。

 シンデレラは12時の鐘が鳴る前に華やかな席を抜け出して勤労な青年と出会い、ほろ酔いで美味しいお茶漬けと肉じゃが食べてとても幸せに暮らしているのである。

 取りあえず、その幸せの大切なピースである読人は、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してから母を「お帰り」と出迎えることとしよう。




基本的には、顔も体格も母親似なよっくんだが、おでこや眉の形は父と瓜二つ。耳の形はおじいちゃんに瓜二つ。


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青髭01

 薄暗い部屋の唯一の光は、パソコンのディスプレイだった。

 映るのは、最近人気のオンラインゲームの画面だ。

 ゲームの敵モンスターが襲いかかって来ては、プレイヤーの分身であるキャラクターが銃やら鈍器やらで徹底的にモンスターを殲滅する。イヤホンから漏れる音は、緊張感漂うBGMとモンスターの断末魔と、外野のモブキャラクターの悲鳴だ。

 それ以外に、この薄暗い部屋から聞こえるのはキーボードが規則的に叩かれるタイピングの音である。単調な音は、ある種のモンスターとエンカウントすればタイピングの音が激しく乱れた。

 美しく若々しく、目が大きくて肌の露出が多い、可愛い少女の姿に設定された女性型のモンスター……それらが現れれば、激しく、容赦なく、持てる限り全てのアイテムと火力を駆使して徹底的に殲滅された。レベルに見合わない。

 人気声優が声を充てているため、断末魔さえも可愛らしい。しかもビジュアル面からの問題か、いくら力を込めてキーボードを叩いても、ステージボスに挑むほどの高火力武装でオーバーキルに至っても彼女たちは光の粒子になって消えるだけ。

 鈍器で殴打しても、ピンクのツインテールが生える小さな頭は潰れない。サブマシンガンで弾丸を全て撃ち込んでも肉片にはならず、ナイフで滅多切りにしても血さえ飛び散らない。

 このゲームはR-15でもR-18でもないので当然であるが、喘ぎ声にも似た断末魔と共に綺麗に消えるその姿はどうしようもなく苛々する。舌打ちとタイピングの音が酷くなる。

 窓から通じる外界と、この部屋を隔てる分厚いカーテンの隙間から黄昏時の光が侵入して来た。それと同時に、キャピキャピという形容ができる甲高い少女たちの声が侵入して来るのは、近隣に高校があるからだろう。

 長年男子校だったはずなのに、昨年の春から共学となって何人もの女子高生が増えたせいでこの耳触りな声を聞くようになった。

 若くて美しいだけで、女子高生と言うだけで『JK』と言うブランドが与えられ、通常の人間と比べて無意味に価値が高騰する小娘たち……嗚呼、苛々する。

 

「ぐちゃぐちゃになれ、ぐちゃぐちゃになれ、ぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれよ!!」

 

 ブツブツとそう呟きながら、キーボードが壊れそうになるぐらい叩いて画面向こうの敵に攻撃をしても、モンスター――両腕に翼を持つ少女は、はぐちゃぐちゃにならない。

 そして、ベッドの上にある白い【本】が、ディスプレイの光源しかない薄暗い部屋の中でボウっと、光を灯していた。

 

 

 

***

 

 

 

 高校生の春休みなんてあってもなくても同じだと言ったのは、確か、正美だったはずだ。

 冬の寒さは通り過ぎ、すっかり春の陽気に包まれた3月の下旬。卒業生を見送った暦野北高校では終業式が行われ、在校生たちは春休みを迎えたが……そう簡単に休ませてくれないのが、発展途上進学校である。

 平日は毎日のように講習が行われ、部活動に所属している生徒たちは午後に練習。これでも、1年生はまだマシな方だろう。

 来年は最高学年、そして受験を迎える現在の2年生は午後の講習も待ち構えて部活の時間まで削られているため、部活動の顧問・コーチ集団とひと悶着起こしたらしい。

 平日は講習と部活動、休日は春季大会前の練習試合で隙間のない正美のスケジュールを目にしたら、帰宅部である読人もげんなりしてしまった。

 

「ただいま~」

「お帰り」

「読人、これお土産」

「ありがとう」

 

 黒文字家において、最初に帰宅した者に割り振られている家事(朝に乾燥機へ放り込んだ洗濯物の取り込み・畳み)をしていた読人に、仕事から帰って来た母から一枚の細長い封筒が手渡された。

 商品券か何かでも入っていそうな封筒を開けてみれば、中から出て来たのはイベントチケット――参加者体感ゲームの参加チケットだった。

 

「トリック・脱獄ゲーム feat ダンジョン・プリズン……これって、最近CMやっているよね?」

「そ、出版社枠の招待チケットが余ったからって、営業の人がくれたのよ。こういうのは、若い人が参加した方が盛り上がるでしょ」

 

 イベントに参加するゲストたちは実際の建物内に閉じ込められたり、悪漢に扮したキャスト襲われたりしながら僅かなヒントを基に散りばめられた謎を解き、クエストをクリアして脱出・逃走を目指すゲームイベントだ。よくCMも放映している。

 この手のイベントは主に有名なアニメやゲームとタイアップすることが多いが、今回は最近人気のオンラインゲームのようだ。

 で、何故この手のイベントの参加チケットが読人の母の手に渡ったかと言えば、彼女の就労状況から説明しよう。

 読人の母こと栞は、都心の駅ビルに入る大手書店で働いており、外国書や翻訳書籍を担当している。本人曰く、専門性は高いがコミック・ライトノベル担当に比べれば平和な部署らしい……他は平和じゃないのか。

 確か、このオンラインゲームの原作はアメリカのファンタジー小説だったはず。その日本語訳を出版しているのは、母が担当している出版社。そして、その出版社の営業は母の大学の後輩……成程、このチケットが読人の手に渡った経緯が読めた。

 

「マサ君を誘って行ってみたら?」

「開催日は、次の日曜日……あ、駄目だ」

 

 正美はその日、埼玉の高校との練習試合を控えている。

 折角のチケットなので、誰か誘って行ってみようかと2人分のチケットを手に脳内で誰かを検索してみる。

 しかし、この手のイベントに誘うような友人たちは軒並み部活だったり、既に遊びの予定が入っていると事前告知がされた者ばかり。賢哉も予備校の新学期テストがあると言っていた、桐乃は……こんな風に、気軽にイベントに誘える関係では、まだない。

 と、選択肢に異性である桐乃を入れた瞬間に、閃いてしまったのだ。夏月を誘ってみようかと。

 

「うー……ん」

『いつまで唸っているつもりだ? さっさとかけちまえよ』

「いや、でも、断られたら……」

『ほれ』

「あ゙ーーー!!?」

 

 夕食も入浴も済ませたこの時間帯になっても、読人は悩み・唸っていた。

 ゲームイベントに夏月を誘ってみようかと閃いて浮足立ったが、いざ連絡を入れるとなると動悸が激しくなってしまう。メッセージボックスに入力した「今、電話しても良いですか?」の一言が送信できずに、あれこれ20分以上悩んでいるのだ。ベッドの上でだらだらしている火衣に呆れられている。

 断られたらどうしよう、興味がなかったらどうしようと決心が付かずにうだうだしていたら、火衣に「送信」をタップされてしまった。しかも直ぐに「既読」が付いた、もう逃げられない!

「大丈夫だよ~」と返って来た。うわぁ!

 

「どどど、どうしよう!?」

『腹を括れ。さっさととっとと電話しろ』

「わ゙ーーー!! 何してんの火衣!!?」

 

 そして火衣は再び勝手にスマートフォンを操作して夏月へと電話をかけてしまった。

 呼び出し中の画面を目にして慌てて飛び付いた読人であったが、既に通話中になってしまい夏月の「もしもし」と言う声が聞こえた……覚悟を決めなければ、腹を括らなければならなくなった。

 

「こんばんは、竹原さん。あの、『ダンジョン・プリズン』って小説かオンラインゲーム、知っている? そのイベントが次の日曜日にあるんだけど……参加者体感ゲームっていう、建物から脱出する奴」

『参加者体感ゲーム……ああ、テレビのCMで観たことがあるよ。本当に閉じ込められたり、リアルな事件が起きたりして、結構難易度が高いって聞いたよ』

「その、イベントのチケットが2人分あるんだけど、マサが用事で行けないみたいだから……一緒に、一緒に行きませんか!」

 

 少し早口で捲し立てて、最後になると語尾が上がってしまい、かなり挙動不審なお誘いになってしまったのには気付いていた。こいつ、もし断られたら屍になるんじゃないかと、様子を見守っていた(?)火衣も夏月の動きを待つ。

 そして、少しの沈黙……なんてものもなく、すぐに明るい声が聞こえて来たのだ。

 

『え、良いの? ありがとう、一回参加してみたかったんだ!』

「っ、本当、ですか?」

『うん。あ、原作あんまり知らないから予習しておくね』

 

 読人の背後に花が咲いた。

 次の日曜日は、夏月と一緒にお出かけ。つまり、デート……え、これってデートになるの?交際している訳ではないが、気になっている女の子と2人きりで出かけるなんて、読人の16年と少しの人生の間で経験したことなんてない。

 バクバク鼓動する心臓の音が夏月にも聞こえていないかと少しの杞憂を感じながら、当日の詳しい場所や時間は後でメッセージを送るとの連絡事項と、少しの雑談を終えて電話を切る。心臓は未だにバクバクし続けているけれど、頭の中はふわふわしていて何だか現実味がない。だけれど、夏月へ電話した着信履歴と彼女からの「YES」の返事をもらえたのは真実だ。

 次の日曜日は、夏月と一緒にデート……。

 

「っしゃぁ!!」

『おめでとさん』

 

 と、大きく両腕を掲げるガッツポーズをした読人だったが、次の瞬間に我に返って現実的な問題に直面した。

 

「服、何着て行こう!?」

 

 これが、正美や男友達と出かけるならば、適当なインナーにカジュアルなアウターを合わせて、下はジーンズにスニーカーと気楽な服装で出かけるだろう。しかし、今回は一応女の子とデートなのだ。

 一体何を着て行けば良いのか、そもそも着て行く服があるのか。

 黒文字読人、16歳――特にファッションには興味を抱かず、所有する衣服も十人並み。

 強いて言えばシンプルで少し綺麗めな服装を好むが、お洒落に敏感な同級生たちが好むブランド品の類は片手で数えるほどしかない。

 制服を伴わないデートの場合、男子の私服と言うのはポイントの配分が高い。ここでダサい服なんて着て行ったら、次のデートはおろか学校での接点もなくなる可能性があるのだ。

 

「どうしよう、着て行く服あるかな? 新しく買うか、雑誌も買うかおうか……?」

「読人」

「ひぃっ?! って、父さん」

「ごめん、聞こえていた」

 

 廊下にも聞こえてしまうほど派手に盛大に騒いでいたらしい。控え目のノックの後に開けられたドアの隙間からお風呂上りの父が覗き込んでいたため、火衣は急いで枕の下に隠れた。

 一部始終を聞いていたらしい父の登場に驚いたが、その父はこっちこっちと手招きをして読人を自室へ招き入れると、クローゼットの奥からスーツカバーに入った一着を取り出した。

 

「読人、テーラーって知っているかい?」

「うん、スーツの仕立て屋だよね。本で読んだことある」

「そうだ。昔は安価な専門店とかなかったから、自分の身体に合った一点物のスーツをテーラーに仕立ててもらっていたんだ。おじいちゃんが着ていたスーツも全て、有名な老舗仕立て屋のテーラーに作ってもらっていたんだよ」

「おじいちゃんのスーツ、凄く高そうな物ばっかりだったよね」

 

 教壇上や学会の場のみならず、日常生活の中でもカッチリしたスリーピースのスーツを愛用していた蔵人のクローゼットには、一着何万もしそうな美しいスーツが並んでいた。

 今では遺品となってしまったそれらは全て蔵人の身体に合ったサイズで仕立てられていたため、誰かに譲ろうにも父や読人が着るにもサイズが合わない。父は上半身がパツパツだし、読人はパンツの裾が余るしと、今考えれば随分とスタイルの良い老人だった。

 青年時代のスーツも、時たま着こなしていたらしいし。

 

「これ、母さんと結婚した時におじいちゃんからもらったんだ。おじいちゃんが贔屓にしていたテーラーさんに仕立ててもらった一点物だぞ。読人にあげよう」

「え、良いの? これ、父さんがもらったんじゃ」

「もう、この腹じゃ着れないしな。箪笥の肥やしになるよりは、読人が着た方がおじいちゃんも喜ぶだろう」

「結婚してから10kg太ったんだっけ?」

「惜しい、12kgな」

 

 そう言って、愉快そうに腹をポンと叩いた父ではもう着ることができなくなったのだろう。蔵人が娘婿のために注文して、新人時代の父のスーツの着こなしの手伝いをしてくれたと言う。このダークグレーのベストは。

 スーツカバーの中から出て来たそれは、一つ一つの縫い目が均等に並び、それでいてしっかりと布と布を繋ぎ合わせている。お洒落にそれほど興味のない読人でも分かる。これ、高い奴だ。

 首元のVゾーンが広いボタンの五つ掛け。腰にはサイズ調整のための少し大きめの武骨なバックルと、シンプルなデザインが読人の好みにピッタリ合致している。

 本当はスーツに合わせて着る物だが、あまりフォーマル過ぎないデザインと材質はカジュアルに着回すこともできるだろう。

 

「ありがとう父さん。大切にする」

 

 また一つ、祖父から受け継いだ物を得て、また一つ嬉しくなった。

 読人はデートに来て行く服として、父から受け継いだテーラー仕立てのベストを手に入れた。

 一方その頃、読人とデートの約束をした夏月はと言うと……。

 

「もしもし、茜? 男の子と遊びに行く時って、どんな格好して行けば良いの!? 新しい服を買った方が良い? 何を着て行けば良いの!!?」

 

 同じく、着て行く服に悩んでいた。




父の体重増加、それは幸せ太りと言う。


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青髭02

 待ち合わせ場所は学校の最寄り駅の西口。夏月の家から電車で一本、イベント会場がある詩舞谷(シブヤ)区まで電車で一本。その後は地下鉄に乗り換えて、徒歩数分だ。

 集合時間の20分前に到着してしまった読人は、はっきり言うと相当張り切って落ち着きがなかった。遠足の前日の小学生と揶揄されても構わない。

 あれだけ騒いだ本日のコーディネイトとは言うと、暖かい春の気候を鑑みてアウターを羽織らない身軽なスタイル。襟付きの青いシャツに細身のチノパン、前日に汚れがないか細かくチェックしたコンンバースのスニーカーに、持ち物は【本】が入るサイズのボディバッグのみ。

 そして、父から譲り受けたベストは、見事に読人の身体にフィットしたベストサイズだったため、ボタンを閉めてカッチリと着込んだ。相変わらず長い前髪はワックスで整えて、いつも通りヘアピンでまとめて顔を出して、歯磨きはいつも以上に念入りにした。

 服に皺はできていないか、ベストの裾をパンツに巻き込んでいないかと色々な心配ことをチェックしながら夏月を待っていると、彼女も約束の時間の10分前には改札を通り抜けていたのだ。

 

「ごめん、黒文字君! 待った?」

「大丈夫。俺も今来たところだから」

「良かった。おはよう、今日はよろしくね」

「よろしくお願いします」

 

 慌てて読人に駆け寄った夏月は、可愛かった。

 彼女の姿は、明るいチェック柄の襟シャツにスポーティな赤いスタジャン。膝上のハーフパンツに動きやすそうなスニーカーと、本日のイベントは歩きやすい恰好が推奨されることをしっかりとリサーチしていたようである。

 髪は降ろしていたが、読人がもらった物とよく似たデザインのシンプルなスクウェアのヘアピンを着けていて、荷物は以前も背負っていた2WAYバッグをリュックにしている。

 やっぱり私服、可愛い。

 以前、私服姿を見た時も思ったが、ふわふわのワンピースでTHE女の子しているコーディネイトよりも、すっきりとした印象の彼女に好感度を持つ。好きな服装の系統が似ているのかもしれない。そんな接点が嬉しくなって、平常を装っていても心の中では浮足立ちまくっている。

 今日は、夏月と2人きり……。

 

『よ、夏月。元気か?』

「おはよう、火衣君。火衣君もよろしくね」

 

 訂正、2人+火衣である。

 いくらデートと言えども、いつどこで【戦い】に巻き込まれるか解らないこの一年の間は常に【本】を携帯しておかなければならない。なので、必然的に火衣も付いて来ることになるのだ。

 まあ良いか。本当に2人きりになってしまったら、まともにおしゃべりできるかも分からないし。

 夏月と火衣が挨拶を交わしたところで、電車に乗って詩舞谷区を目指す。電車に揺られている間、読人と夏月の話題は本日のイベントとタイアップしたオンラインゲームと、その原作となった小説についてだった。

 夏月も予習して来たと言う原作小説と言うのは、ゲームのタイトルにもなった『ダンジョン・プリズン』。本国ではあまりメジャーではなかったその物語のあらすじはと言うと、アメリカの刑務所が何故か異世界のダンジョンと繋がってしまったと言うものだ。

 舞台は脱出不可能とされる刑務所。アルカトラズのような島の刑務所ではなく、天高く伸びる塔として作られた天空の刑務所の最上階がダンジョンの最下層と繋がり、そこから地上目指して様々なモンスターが侵入して受刑者たちとのバトルを繰り広げる。

 無実の罪で収容されていた主人公は、モンスターたちが侵入した騒ぎで独房から脱出し自分を貶めた連中への復讐を慣行すべく、モンスターが蔓延る刑務所を脱獄すると言うのが大まかなストーリーだ。

 

「原作の小説を少し調べてみたけど、面白い構成になっているよね。主人公は名前も容姿も描写されないで、物語は看守のミハエルの視点で進んで行くって」

「もう狂言回しと言うよりは、ミハエルが主人公だよね」

 

 主人公は名前ではなく番号で呼ばれ、無実の罪で投獄されたこととその罪の内容以外は何も描写されないため、彼はゲームプレイヤーたちの分身としては打って付けだった。

 物語の語り部である、生まれてこの方不運に見舞われ続ける看守のミハエル。対戦相手を殴り殺してついでにモンスターたちも素手で殴って撃退する、元ボクサーのディラン。かつては米軍の特殊部隊にいて、自分の罪状を語ろうとしないハンス。そして、女子刑務所エリアから逃げ出して来た、ベッドを共にした男を何十人も殺害したと言う死刑囚のヒロイン(?)のサリバンと、個性豊かな脇役たち。

 現実世界を目指して進行してくるモンスターの中には、美麗な女性型もいて中には主人公に好意を抱く者も現れると言う展開が日本人の感性に上手く適合したらしい。

 ゲームがリリースされると同時に原作小説の人気にも火が点き、日本語訳の小説は一気に重版を重ねたという。チケットをくれた出版社の人はウハウハ状態だと、母が語っていた。

 

「『ダンジョン・プリズン』って、10年以上前に出版された作品だけど、設定や内容的に流行を先取りしすぎた感じがあるよね。異世界系のラノベと同じ雰囲気があるって言うか」

「私もそれ思った。作者さんも、アメリカ人とは思えないほど日本人のツボを押さえているよね」

「あ、それ分かる!」

 

 電車移動の最中は、原作小説の話で盛り上がり。詩舞谷駅に到着して地下鉄へと乗り換えてからは、2年生への進学に係るクラス替えの話題になった。

 2年生になると、つい最近提出した希望選択コースでクラス分けがされる。偏差値の高い大学への進学を目標とする特進のA組、文系のB・C組等と得意分野と目指す大学部によって振り分けられる。

 読人は文系を選択した。はっきりと進路は決めていないが、今の時代、英会話や他国の言語を学んでおいた方が良いかなと考えて英語を集中的にするカリキュラムを希望した。では、夏月はどうかと訊いてみたら、彼女も文系を選択したと言う。「同じクラスになれれば良いね」と夏月が言った途端、胸がときめいた。

 夏月と同じクラス……文系クラスは二つしかない。確率は二分の一だ、同じクラスになれる可能性は遥かに高い。同じクラスになりたいと言う意味を込めて、たくさん頷いて共に歩いていたら会場となるビルに到着していた。

 ゲームの目的が天空の塔=ビルの刑務所からの脱出だからだろう、ゲーム舞台となる会場は地上24階建てのビルを丸々貸し切って行われる。メインキャタクターや、ユーザーからの人気が高い美少女モンスターのイラストのポスターや全身パネルに出迎えられた2人と火衣は、看守服のスタッフにチケットを渡して会場入りをした。

 

「未成年の方は、こちらに学校名と緊急連絡先をご記入下さい。身分確認のための証書はお持ちですか?」

「あ、学生証で良いですか?」

「結構です。では、参加者の皆様にはこちらの番号札を着けて頂くことになりますので、目立つ場所に着けましたらエレベーターで最上階の大会議室へ集合して下さい。スマートフォンや電子機器は、カンニング防止のためこちらの袋に入れて会議室のスタッフへお渡しください。10時からゲームが始まります」

 

 スタッフから渡されたのは、安全ピンと首から下げるストラップが付いたネームプレートだった。

 参加者が番号を割り振られるのは、彼らが脱獄を目指す受刑者だからなのだろう。読人は1027番、夏月は1028番だ。何故か、裏面には丸に囲まれたKとプリントされている。スマートフォン用のビニール袋にも、同じ番号がプリントされていた。

 受け取ったパンフレットを読みながら、他の参加者たちと共にエレベーターに乗り込んでゲームのスタート地点となる最上階を目指す。見たところ、今人気のゲームのイベントのためか若い参加者が多い。読人たちと同じ高校生のグループや、それよりも幼い子供たちも大会議室に集まっていた。

 

「脱獄を成功させるために、色々な謎を解かなきゃならないんだよね。これでもパズルとか暗号とか得意だから、任せて。メモ用紙と筆記用具があった方が良いって、体験レポートに書いてあったから持って来た……あ、ごめん」

「え、何が?」

「何か、1人だけ張り切っているみたいで……」

「そんなことないよ! よろしくね、竹原さん」

「うん!」

『……青春だな』

 

 時計の針がゲームスタートの10時を刻む。

 スタッフから注意事項と事前説明がされ、会場となるビルは本当に入り口をロックされて封鎖されると説明されれば参加者は少しの戸惑いと、期待の声を上げた。そして、別の体感ゲームで出たと言う最短クリアタイムが発表されれば、今度は感嘆の声が上がる。

 このタイムを塗り替えれば、ゲーム主催会社のHPに新記録として掲載されるらしい。そして、タイム関係なく、見事に脱獄を成功させたグループにも商品があるのだ。その商品と、監獄に見立てられたビルからの脱獄を目指し……ゲームスタートを告げる非常ベルが、鳴り響いた。

 

『緊急事態発生、緊急事態発生! 最上階より未知の生命体が確認された。モンスターだ! 趣味の悪いソフトビニール製の人形でも、あれだけグロテスクなデザインはねぇ! いいか! 俺は酒も薬もやっていない! 幻覚なんて見ていねぇぞ! これは現実だ……うわぁぁぁぁ!!?』

「ダンプリのOP!」

「じゃあ次はチュートリアル?」

「ミハエル出るの?」

『放送の通り、緊急事態が発生した。本日から当監獄に収監される受刑者諸君は、事態が収束するまでここで待機してもらおう。逃げ出そうなんて変な気は起こすな。ここは、今まで誰1人として脱獄者を出したことのなら天空の監獄だ。当初の予定通りに気持ちよく出所して、娑婆のバーボンを味わいたければ、大人しく刑期を終えることだ』

 

 スタッフが原作小説とゲームの冒頭で出て来た看守の台詞を言えば、ゲームファンの参加者たちは色めき立った。

 読人と夏月を含めた彼らは今、これから監獄に収監される受刑者と言う立場だ。慌てて会議室から出て行ったスタッフ、もとい看守の言葉を素直に守るのならこの場から動いてはいけないのだが、このゲームのクリア条件はビル=監獄そのものからの脱獄である。素直に模範囚を勤めていては、異世界から侵攻して来たモンスターの餌食になるだろう。

 非常ベルと参加者たちのざわめきが鳴り止まぬ中、正面スクリーンにメッセージが映し出されたのだ。

 

「……『生きてこの監獄から脱出したいのなら、チームを組み手元の地図に記されている緊急避難場所へ向かえ』」

「『チームは番号の裏に記されている、同じ記号を持つ者たちだ』……あ、番号札の裏のアルファベットって、チーム分けだったんだ」

「手元の地図、って、このパンフのことかな? ビルの地図が載っているし」

 

 スクリーンのメッセージは1分ほどで消えてしまい、次に登場したのはカウントダウン――最初の試練の、制限時間だった。

 5分から1秒1秒と時間が減り続け、これが00:00になってしまったら一体どうなるのか……流石に、爆弾がドガーン!と言うことにはならないだろうが、参加者たちは慌てて同じアルファベットの者を集めて4~5人のチームを作り始めた。

 読人と夏月はKなので、同じくKの番号札を持つ者を探していたら彼らと同じアルファベットの札を手に呼び掛けていた2人組と合流できた。

 

「Kの人、いませんかー?」

「俺たち、Kです」

「よろしく。頑張ろう」

「お願いしまーす」

「俺は柘植(ツゲ)です。こっちは、妹の爽香(サヤカ)

「黒文字って言います」

「竹原です。よろしくお願いします」

 

 同じKチームとなる柘植兄妹。大学生と思われる兄と読人たちと同じぐらいの妹、この4人で脱獄を目指すこととなる。

 だが、メッセージに記されていた“緊急避難場所”とは、一体どこなのだろうか?

 手元にある地図と言えば、夏月が言ったようにビル内の案内が書かれたパンフレットが彼らの手元にある。

 

「そう言えば、一か所袋綴じになっているところがあったな」

「……何でしょう、これ?」

 

 受付で配布されたパンフレットには、何故か最後のページが目立たない厚さの袋綴じになっていた。明らかに怪しいそれを丁寧に開いてみれば、確かにそこには緊急避難場所が……書かれては、なかったのである。

 そこにあったのは、暗号……と言えばいいのだろうか。四つの枠の中にいくつものアルファベットが散らばり、それぞれの枠の上には動物のシルエットが乗っている。

 

「えー……ナニコレ?」

「それぞれの枠の動物は、象にフラミンゴにハリネズミに、ワニかな?」

 

 四つの枠の上に乗る動物は、左上が象、右上がワニ、左下がフラミンゴ、右下がハリネズミだ。中のアルファベットにも規則性はなく、一文字が一つずつでもなく重複もしている。

 一見すると、これに場所が隠されているとは思えない。爽香は早速首を傾げていたが、兄の柘植は、これは初歩中の初歩であると言いたげにペンを手にしてアルファベットを塗り潰し始めた。

 

「ヒントは動物のシルエットだ。この動物たちを英語に直して、そのスペルを消しせば……」

「象はELEPHANT, フラミンゴはFLAMINGOで」

「ワニって、何だったっけ? クロコダイル?」

「文字から見るに、ALLIGATORかな。余った文字を並べ替えれば、場所が出て来るって寸法だ」

「お兄ちゃん、ハリネズミって英語で何て言うの?」

「ハリネズミは、HEDGEHOGです」

「それだ!」

 

 柘植以外にも、暗号解読系のゲームに慣れている他の参加者たちもチーム内で相談しながら動物の現すスペルを消して行く。しかし、CATとDOG等の初歩的な英単語とは違い、微妙に難しい動物たちのスペルに苦戦しているらしい。正しいスペルが解らなければ、正しい答えが出て来ないのだ。

 スマートフォンが取り上げられているのでカンニングもできない中、Kチームは読人が「ハリネズミ」のスペルを知っていたことですんなりとアルファベットが塗り潰されている。

 柘植がそれぞれの枠の中のアルファベットを動物のスペル通りに消して行き、残ったアルファベットを並び替えてできた単語は四つ。BLUE, MAN, RED, WOMANの四つだった。

 

「え、え? どう言うこと、お兄ちゃん?」

「えーと……」

「っ、分かった! 行こう」

 

 夏月や他の勘が良い者も、この四つの単語が示す場所にピンと来たのだろう。

 謎解きを終えたチームは急いで会議室を脱出し、“緊急避難場所”へと向かった。BLUE MANとRED WOMAN……毎日無意識に目にしているこの2人の存在に気付けば、後は簡単だろう。

 青い男と赤い女が並んで立つ緊急避難場所とは、会議室から出て右手の奥。非常階段の隣にあるトイレである。

 

「青い男と、赤い女……そっか、トイレのマーク。竹原さん凄い」

「たまたまだよ」

 

 見事に最初の謎を解き明かし、混乱する牢獄の片隅にある“緊急避難場所”へと逃げることができたチームは待ち構えていたスタッフ兼看守から鍵のイラストが描かれたカードを受け取った。裏面には、ゲームに登場するモンスターが描かれている。

 最終的な脱獄でこのアイテムが必要らしい。全ての謎を解き、迫り来るアクシデントを潜り抜けて全ての鍵を揃え、1階のエントランスに辿り着ければ完璧に脱獄成功だ。

 ちなみに、あの会議室で5分以内に謎を解けなかったチームはと言うと……スクリーンのタイムが00:00になった瞬間に、部屋には白い煙が充満して悲鳴が上がる。本当に異世界にモンスターに襲われることはないが、煙に巻かれたチームは一定時間会議室に閉じ込められてしまい、時間をロスして脱獄の成功率は徐々に下がってしまうのだ。

 順調に謎を解いて脱獄への足掛かりを掴めたチームは、スタッフの指示に従って階段を使って下の階へと向かって行った。

 この途中で、再び危険なイベントが起きるのだろう。ハラハラしながら、階段の手すりをしっかり掴みながらゆっくりと一段一段下りて行った。

 

「ねえ、竹原さんって下の名前って何て言うの?」

「あ、夏月です」

「ため口で良いよ。同じぐらいでしょ? 何年?」

「高校1年です」

「同じだ! 私も1年だよ。夏月ちゃんって呼んでいい? 私も爽香で良いよ」

「うん」

「黒文字君って夏月ちゃんの彼氏?」

「えっ、違うよ。友達」

「ふーん。でも良いな、男友達と一緒なんて。私はさ、お兄ちゃんに頼まれて来ちゃった口なの。一緒に来るはずだった友達が急なバイトで来られなくなったからって、カラオケ奢りで付き合ってあげたんだ。こういうイベントばっかり参加しているよりも、彼女の1人くらい作れば良いのにね~」

「聞こえているぞ」

「はーい。ごめんなさい」

「仲が良いね」

「フツウだよ~」

 

 女子たちは早速仲良くなったようだが、読人が思わず階段を踏み外しそうになる会話をしていた。実際本当に一段踏み外しかけてしまった。

 本当にビルの中に閉じ込められている状況であるが、本当に危機的な状況でもないため、読人たちと同じく順調に謎解きを続ける人々は少しの緊張感と和気藹々とした雰囲気で下層を目指す。

 次は何が起きるのか。どんな謎解きをすればいいのだろうか、これから先はゲームのキャラクターたちも絡んで来るのだろうか。

 日常の中で疑似的に作られた非日常を楽しむ人々であったが……まさか、本物の非日常が迫って来ているなんて思いもしない。

 

 本当に、平和のど真ん中にあるこのビルが闖入者に襲われるなんて、誰も考えもしなかったのだ。

 

 その闖入者とらやらが異質だったのは、誰もが一目見て解った。

 春晴れの空の下、休日を楽しむ人々で賑わう都会の真ん中でただ1人、薄い部屋着一枚とボサボサの長い髪を下ろした状態でふらふらとアスファルトの道路を歩いていたのである。

 その足元は、靴も靴下さえも履いていない裸足の状態だ。足の裏を擦り傷だらけにしながら歩いている様子を、すれ違う人々にひそひそと陰口を叩かれているのにも気付いていないのだろうか。

 そのまま、胸に一冊の本を抱えて幽鬼のように、『トリック・脱獄ゲーム feat ダンジョン・プリズン』の会場となっているビルの前に現れたのである。

 

「ん、何だあの女……?」

「申し訳ありません。本日、このビルはイベントのために一般の方は立ち入り禁止になっています」

「……」

「警察呼んだ方が良いんじゃないか?」

 

 ビルの封鎖を担っているイベントスタッフたちの前に現れた、幽鬼のような女は何も喋らなかった。だが、彼女が胸に抱えていた白い本は主張するように眩しい光を放つ。

 警察を呼ぶか否かを話し合っていたスタッフたちが女へ視線を戻した瞬間に、瞠目することとなる。彼女の背後に、何百もの兵力の騎兵隊が出現していたのだ。

 

「なっ、何だ?!」

『進っ軍ーーー!! 罪人を捕らえろ!!』

 

 先頭の隊長が雄々しく叫べば、騎兵隊たちは逃げ出したスタッフたちを無視して封鎖されたガラス戸を破りエントランスへと侵入して来る。そして、闖入者の女は散らばったガラスを躊躇なく踏み付け、足の裏が出血するのにも関わらず騎兵隊が作り出した一本の道をふらふらと前進する。

 目指したのは、未だに参加者たちが残る最上階――イベントのスタート地点。

 最上階に到着したエレベーターの中から、何百もの騎兵隊がぞろぞろと現れた光景はシュール極まりなく、その光景を目にした参加者は思わず失笑してしまった。これも催しの一環なのだろう、こんなキャラクターはゲームには出ていたかと首を傾げながら、次は何が起きるのかワクワクしていた人々は……本物の悲鳴を上げることとなる。

 こんなの、タイムスケジュールに載っていない。スタッフが焦り出した次の瞬間、騎兵隊による蹂躙が始まった。

 

「……ぐちゃぐちゃになれ、ぐちゃぐちゃになれ、ぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれ!! 同じブランド品のお前らだ、みんな敵だ!!」

 

 創造能力・無慈悲な騎兵隊

 狂気しか感じることのできない掠れ声で女がそう叫べば、背後には重々しい鉄の扉が出現し、錆び付いた音と共に扉が開くとそこからは鉄の――血の臭いがした。

 騎兵隊が捕らえた“罪人”は、この扉の向こうに放り込まれることとなる……女が手にした白い【本】のタイトルは『青髭』。

 この扉は、『開けてはいけない拷問の小部屋』




柘植兄妹、兄の名前は充生(ミツキ)
由来は赤川次郎先生の『杉原爽香シリーズ』からです。


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青髭03

 よい子のための物語の中には、歴史上の事件や人物をモデルにしたものが多い。

 その中に、身の毛も弥立つような悪行に手を染めた狂人がいたことを、大人になってから知ったという読者も少なくない。その、物語のモデルとなった人物を1人紹介しよう。

 何人もの妻を娶りながら、彼女たちを次々と殺害した血塗られた貴族・青髭――ジル・ド・レェというかつてのフランス貴族がそのモデルとされている。かのジャンヌ・ダルクの戦友としても知られている彼であるが、ジャンヌ処刑後の彼は何千にも及ぶ数の少年を虐殺し、凌辱し、冒涜し、屍の山を築いた罪で処刑された。

 聖女の側近からの堕落は多くのサブカルチャーのモデルにもなっているため、現代日本で彼の名を知る者は多いだろう。それと同時に、血と闇の色に染まった事件と物語の背景にあるモデルを知って、それを想像して創造する者もまた、少なくない。

 白い【本】のタイトルは『青髭』

 仄暗い歴史から創造された世界から飛び出て来たのは、青髭の城へ突入したフランス軍の騎兵隊……創造能力・無慈悲なる騎兵隊

 彼らは一切の慈悲は持たず、“罪人”と定められた者を炙り出し、捕えるためだけに進軍する。尚、その“罪人”とは【読み手】の裁量に委ねられるので、罪を犯していようがいまいが一定の範疇に片脚を突っ込めば罪人のレッテルを貼られてしまう。

 例えば、髪が赤ければ罪人、20歳なら罪人、などという意味不明な線引きをしても暴虐がまかり通ってしまう。

 この【読み手】の裁量の場合、現在高等学校に在学中の女子生徒であり、JKの肩書を名乗れる少女は皆、【読み手】の裁量によって“罪人”のレッテルを貼られるのである。

 

「嫌、やめっ……っ、嫌あぁぁぁぁぁぁ!!!」

 

 絹を裂くような女の悲鳴、なんて生易しいものではない。窓ガラスをビリビリと揺らして、木端微塵に砕いてしまいそうな悲鳴が空間に突き刺さる。

 最初は、この脱獄イベントの一環だと思った。

 だけど、騎兵隊を模した登場人物もモンスターも『ダンジョン・プリズン』には登場しないし、騎兵隊に恭しくエスコートされている青白い女だって見たこともない。むしろ、外見的には関わり合いたくない。

 最初の謎解きができずに居残ってしまった参加者たちの脳裏に一瞬の疑問が過って、一拍置いた次の瞬間……蹂躙が始まった。

 スタッフのコスプレかと思った少女の1人が、騎兵隊に髪を鷲掴みにされて壁に叩き付けられたのである。ざわめく会場と少女の悲鳴が響く中、他の騎兵隊が次々と会場内の少女のみを捕え始めて、人々はことの異常さに気付き始めた。

 阿鼻叫喚、地獄絵図……次々と少女たちが捕えられ、引き摺られ、床に叩き伏せられる。彼女たちを助けようと、勇猛果敢にも騎兵隊へと立ち向かった者もいたが、彼らも悉く返り討ちにされ鉄の鎧を着た足に蹴り飛ばされた。

 中には、恋人を見捨てて情けない声を上げながら逃げ出した男もいたが、騎兵隊たちはそんな小物には目もくれない。何人かが会議室から逃げ出したその矢先に、白い【本】を抱えた女がブツブツと呟けば……騎兵隊の背後に、巨大な鉄の扉が出現したのだ。

 小さな鍵穴があるだけの分厚い無骨な扉が開かれれば、奥から鉄臭く腥い異臭がする。その異臭の発信源である扉の向こうは、何も見えない暗闇だった。

 暗闇の中では更なる地獄が待っていた。

 殴られ、引き摺り回され、何十本か髪が引き千切られた少女が扉の向こうへ放り込まれれば異臭の正体が明らかになる。薄暗く冷たい部屋の中には、罪人を拘束するための鎖と痛め付けるための無数の拷問器具。

 時代も国も違うはずなのに鋼鉄の処女が置かれていたのは、その器具がうら若き乙女への拷問と言う印象が強すぎるせいだろう……そんな冷静な分析をする暇なんて、少女たちには与えられていないけれど。

 少女たちを待ち構えていたのは、『青髭』の挿絵に描かれる青々とした髭を蓄えた男のマスクを被ったモノたち――何人もの妻を惨殺したとされている、青髭の技能を持つプロフェッショナルたちである。

 そのプロたちの手と鎖が少女たちにかけられて、部屋の扉は閉じられてしまった。

 

「ぐちゃぐちゃになれ、ぐちゃぐちゃになれ……ぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれ……!!」

 

 創造能力・開けてはいけない拷問の小部屋

 新たに青髭の妻となった少女は夫から城の部屋の鍵束を預かっていたが、ただ一つだけ開けてはならぬと言い付けられた小部屋があった。小さな鍵で開くその部屋は、青髭の歴代の妻たちの殺害現場であり、未だに血の臭いと溜まりと先妻の死体が残る恐怖の部屋である。

 好奇心は猫をも殺す。要らぬ好奇心に負けて開けてはならぬ扉を開けてしまえば、恐怖が襲いかかって来る。

 物語の中の部屋から想像されて創造したのは、何かを吐かせるためではなく、痛みを与えて屈服させ、悲鳴で満たすためだけの拷問部屋……。

 その部屋に閉じ込められた罪人は、死よりも恐ろしい目に合わせられるが死ぬことはない。そう簡単には、死なせてくれない。死よりも酷い拷問が、延々と続くのである。

『青髭』の【本】を抱えた女の狂気に満ちた叫びにかき消され、部屋に閉じ込められた少女たちの助けを求める声は、聞こえなかった。

 

『罪人、捕縛、完了しました!』

『しかし! 何名かが、発見ならず!』

『今、確認した。計4名、番号は、1005! 1028! 1066! 1071! 残りの罪人は、まだこの中にいる……探せ! 探し出して捕え、柔肌を串刺し、目玉を抉り、頭を凹ませ、縊り落とせ』

「あいつらを……ぐちゃぐちゃにしろ!」

 

『無慈悲な騎兵隊』の隊長が手にしていたのは、受付で記入した参加者名簿。1階に突入した際にスタッフから奪い取ったのだろう、その名簿の内容から“罪人”――部屋の中に閉じ込めた少女たちの番号を特定したのだ。

 参加者名簿には参加者の名前と年齢と職業と、配付したネームプレートの番号と、学生の場合は通っている学校名もしっかりと記入されている。

 騎兵隊が、その創造主である『青髭』の【読み手】である女が“罪人”と呼ぶ少女たちは皆、現役で高等学校に通う女子高生。所謂、JKに分類される者たちだった。

 残りの少女たちを部屋に放り込むべく、騎兵隊によるJK狩りが始まったのだ。

 一方、知らず知らずの内に非日常的な、狂った事件に巻き込まれている読人たちはと言うと。二つ目の謎解きを終えて順調に脱獄を進めている途中で、本当の異常事態を知らせるサイレンによって中断されたところだった。

 

「お、今度は何だ?」

「あれ、さっきと音が違うよ」

『読人』

「火衣?」

『……来る』

「っ!」

 

 この時、彼らがいたのはビルの20階。

 普段は数社のオフィスが入っており、それぞれの企業フロアの内部はガラスの壁で仕切られ、大きめの窓からはビルの風景が眺められる開放的な仕事場だ。

 そこの空きスペースを使って三番目の謎解きが行われていたのだが、火衣が読人のボディバッグから顔を出して数秒後、東京スカイツリーを眺めることができるオフィスの窓が全て粉々に砕け散った。

 

「きゃぁっ!?」

「演出にしちゃ過激じゃないか?!」

『演出じゃねぇぞ!!』

「【読み手】っ!?」

 

 イベントに使われているエマージェンシーのアラームとは違う、()()の異常事態を知らせるサイレンは「ビービー!」と言う低めの音をしている。

 そのサイレンをかき消すようにガラスの割れる音と闖入者がフロアに降り立つ音が押し寄せて来れば、一足早く脱獄に足をかけていた者たちも『青髭』の騎兵隊の存在が認知されたのだ。

 奴らは再び蹂躙に入ろうと、1071番のネームプレートを首から下げた少女に向かって行ったのである。

 

「やぁぁ!! 何、何なの!?」

『罪人、発見した!』

『捕縛しろ、拷問しろ、処刑しろ!!』

「止めろ!!」

「黒文字君!」

 

 砕けた窓ガラスの破片を踏み付ける音と、鉄の甲冑が派手な音を立てる中でコンバースのスニーカーが駆け出した音も加わって、読人の体当たりが炸裂した。勿論、効果は抜群だ!など言う訳もなく、1071番の少女に手を伸ばした騎兵隊をよろけさせただけであったがそれだけで十分だ。

 読人のボディバッグから飛び出した火衣によって、騎兵隊たちは炎に巻かれたからだ。

 

「きゃぁぁぁ!!?」

「今度は火事!?」

「みなさん、早く逃げて!! これは、イベントじゃない!」

 

 悲鳴と炎と、読人の叫びで人々も異変に気が付いた。

 目の前の出来事がノンフィクションであると理解してしまったら行動は早い。悲鳴を上げて逃げ出す者も1071番の少女に手を差し伸べて引っ張る少年も、読人に「君も逃げろ」と叫ぶ柘植も、爽香と夏月を庇いながら一目散に非常階段へ向かった。

 本来ならば、エレベーターで地上まで逃げて警察に助けを求めたいが、イベントのために1階からの直通エレベーター以外は停止されてしまっている。

 20階と19階の境目にある踊り場で待機していたイベントスタッフも、必死でこちらに駆けて来る参加者たちと、その背後で燃え盛る火鼠の炎に気付いてしまったのだろう。

 緊急事態連絡を無線に通す暇もなく、悲鳴を上げて階段を駆け下りて行った。

 

『罪人を、逃がすな!』

『捕らえろ! 罪人を!』

『罪人は、1005! 1028! 1066! 1071!』

「っ、竹原さんに、爽香さん!?」

 

 騎兵隊たちの狙いは、1071番の少女だけではない。1028番は夏月、1005番は爽香の番号。1066番は、帽子を被った同年代の少女の番号……奴らは、彼女たちに襲い掛かって来たのである。

 それを理解したと同時に、読人はボディバッグから『竹取物語』を取り出した。だが、【戦い】はしない、ここは逃亡する。

 この場に【読み手】の姿はない。ならば、この場で戦闘を続けるのはただの体力の消費でしかない。

 彼の行動はこれで正しかった。騎兵隊たちは威嚇程度の炎で足止めなどできず、炎に巻かれながらもこちらに進軍して来る。

 読人がビルの廊下に抜け出して、火衣の炎に反応した火災警報器が発動し始めたところで、騎兵隊に変化が現れた。今までは、普通の甲冑を着込んだ人型の創造能力であった。どこに“騎兵隊”の要素があるのか不思議であったが、ここでやっと馬の要素が現れ始める……騎兵隊たちの下半身は馬のそれに変化し、甲冑を着込んだケンタウロスのようになったのだ。

 甲冑のガチャガチャ言う鉄の音と、床を踏み抜きそうになるほど力強い蹄の音は火災警報器のアラームにもスプリンクラーの飛沫の音にもかき消されることはなく向かって来たのである。

 

「火衣! この廊下いっぱいまで巨大化して!」

『防御は石鉢使えよ!』

 

 そう言いつつも、火衣が廊下の封鎖する大きさまで巨大化すると、短い前足を伸ばして向かって来た騎兵隊を叩き潰した。背後には非常階段の踊り場があり、まだ柘植兄妹や夏月が階段まで辿り着けていない。

 夏月が読人と火衣を心配してか、こちらを振り向きながら足を緩めていたが……そう簡単には、逃がしてはくれなかったようである。階段を下ろうとした爽香のスカートが下から引っ張られ、危うく踏み外して転倒しかけたのだ。

 そのスカートを引っ張った者の正体と言うのが、上階へ至る階段に這い蹲って腕を伸ばす髪を振り乱した青白い女だったのである。

 

「いやぁぁ!? 何この人!!」

「見付けた、見付けた……! お前も、ぐちゃぐちゃになれ!!」

「爽香!!」

「お兄ちゃん、助けて!」

「放せこの!!」

 

 掠れた低い声と、骨が浮き上がった細く不健康な肌の色をした腕がしがみ付いて来る。

 爽香が必死に振り払おうとしても、スカートに生地にギリギリと爪を立ててシューズの紐に噛み付いて来たところで爽香の背筋に悪寒は走った。

 幸いにも女は柘植に蹴り飛ばされ廊下に転がって行ったが、その左腕には淡く光を放つ白い【本】……【読み手】だ、そう気付いた夏月はスプリンクラーが降りしきり廊下へと、声を張り上げた。

 

「読人君! 火衣君! 早くこっちに!!」

「火衣、最大出力!」

 

 スプリンクラーの雨では消火することが不可能なほどの大火力を狭い廊下に滾り放ち、極小に戻った火衣を肩に乗せた読人がこちらに駆けだしたタイミングで、夏月が防火扉のスイッチを押した。

 薄いプラスチック板に覆われた普段は押してはいけないスイッチを拳で叩き押せば、上から下りて来るタイプの防火扉が数枚、フロアと非常階段を隔離し始める。騎兵隊を炎が満ちた空間に閉じ込め、そこで防火扉で蓋をした。

 フロアと非常階段を隔てる最後の一枚の防火扉が半分ほど下りてしまっていたが、そのまま体勢を低くして下に滑り込めば読人たちを脱出させて20階が封鎖されたのだ。

 

「行こう、黒文字君!」

「うん!」

 

 夏月が差し出した手を無意識に取ってギュっと握り、そのまま他の参加者を追って非常階段を下り始める。が、これで「めでたしめでたし」まで行けるほど楽な【戦い】ではなかったのだ、この『青髭』の【読み手】は。

 柘植に蹴り飛ばされてフロアの廊下に転がり、夏月が下した防火扉の内部に閉じ込められた女はのったりと起き上がれば、左腕に抱いていた【本】を再び開く。すると、炎と共に閉じ込められたはずの騎兵隊が再び現れて非常階段へ続く防火扉を手にした槍で突き破ったのである。

 人間の想像力は無限大だ。一度やられたからと言って二度と想像して創造できない訳はない。

 そして、どんな能力を使ったのか、騎兵隊によって無理矢理拓かれた道には赤黒い血の色をした少女たちの足跡が残されていたのだ。

 

「……逃がざない……! お前らは全員、()()()と同じぐ、ぐちゃぐちゃにしてやる……っ」

 

 できる限り階段を下りて、少し息が切れて来たところで行く手が塞がれてしまった。

 ビルの構造上の問題で、非常階段が連続で繋がっていないのである。24階から18階で止まってしまった階段の続きは、18階のフロアを突っ切った反対側にある。あの階段が1階の出口まで繋がっているのだ。

 

「2人とも!」

「柘植さん」

「早く、こっちに隠れよう」

 

 先行していた柘植に手招きされ、彼らが一旦逃げ込んだのは少し広めの用具庫。掃除機や電動ポリッシャー、段ボールが詰め込まれた薄暗い用具庫に逃げ込んだ。

 一息吐くことはできたが、床に座り込んでいた爽香は荒い呼吸を繰り返しながら兄に縋り付いている。

 

「爽香ちゃん……」

「……何、あの人。怖い……! マジで何なの……!」

「黒文字君、君もさっきの何だったの?」

「えーと、説明すれば長くなるので割愛でお願いします」

『スタンド使い同士のバトルとでも思ってくれ』

「いや、スタンドと言うよりその本! 魔物の子供とそのパートナーっぽいから! 何だよ、あいつら……っ、思い出した」

「え、何を?」

「爽香を襲ったあの女、(シバ)昭奈(アキナ)だ!」

「知り合い、ですか?」

「冗談じゃない。あの女、殺人犯だ」

「っ!?」

 

 話を聞けば、柘植は埼玉の大学の法学部に通っていて、勉強の一環としてよく刑事事件裁判の傍聴に行くらしい。その傍聴の記憶の中に、妹のスカートを引っ張った女の顔があったのだ……それは、1年前の裁判だ。事件自体は、2年前に起きていた。

 

「芝昭奈。2年前に婚約者を殺害して逮捕されている。だけど、去年の裁判じゃ心神耗弱で執行猶予が付いていたはずだ」

「心神耗弱……その人が、どうして爽香ちゃんたちを?」

「もしかしたら……」

 

 新聞やニュースでも色々報道された、芝昭奈と言う女性が殺人犯となった経緯。

 彼女は、結婚を約束していた男がいた。が、その婚約者に結婚の約束を反故にされて激昂し、重たい置時計で撲殺した。

 婚約者――被害者が絶命しても、執拗に何度も何度も頭を殴り付けた……その音を不審に思った被害者のマンションの住民が犯行現場を目撃してしまい、現行犯逮捕となったのだ。

 被害者の死体は、あまりにも無残な姿であったという。何度も頭を殴られたため、顔面だけではなく上半身全部が血塗れになり、頭蓋骨は粉々に砕けて頭は変形し、脳の一部も飛び出して文字通り「ぐちゃぐちゃ」になっていたのだ。

 柘植たち傍聴人にも、彼女を裁く立場にいる裁判員たちにも死体の写真を見せるのが躊躇されるほどの酷い死に様に死刑を望む声も大きかったが、結果は執行猶予。精神耗弱と情状酌量を、弁護士が主張したのである。

 

「婚約破棄の原因は、被害者が別の女に乗り換えたのが原因だった。浮気相手を妊娠させたからって……その浮気相手が、当時17歳の女子高生だったのが、ネットじゃ随分と話題になったんだ」

「うわ、サイテー」

「芝も精神的に随分と病んでいたのは確かだった。裁判の時、凄いヤバかったし……」

 

 被告人質問で、彼女は裁判所の外に聞こえるほどの甲高い叫び声を上げた。殺害の寸前まで被害者が被疑者に投げ付けた言葉を、一言一句なぞって叫び続けた。

 お前とJKなら、JKを選ぶに決まっているだろう。お前みたいな女、ブランド価値なんかこれっぽっちもないんだよ……と、それが嘘か真かは定かではなかったが、ぐちゃぐちゃにされた被害者はゲス男として裁判員たちにしっかり印象付けられたようだ。

 ちなみに、浮気相手である女子高生は未成年と言うことで、その身元を隠されて裁判にも出廷しなかったがネットでは簡単に身元を特定された。援助交際をしていたとか、子供は既に堕したとか色々とネットで噂は蔓延っていたというのはまた別の話である。



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青髭04

 話は長くなったが、本題に戻ろう。

 幽鬼のような青白い女が、執行猶予中の芝昭奈であることは間違いない。そして、白い【本】を手にしていたのは夏月が目撃している。

 その目的は、【戦い】を勝ち抜いて不老不死を手に入れることではない。かつての婚約者を寝取った女への憎悪が、女子高生への憎悪へと変換されて暴走している。勿論、精神の狂いも酷くなっている。

 未成年と言うことで身元を隠され、対面が叶わなかった“敵”と同じJKたちを婚約者と同じくぐちゃぐちゃにしようと、狂った頭で想像力を働かせてしまったのだ。なまじ、白い【本】と言う能力を得てしまったために。

 

「だとしたら、狙いは女子高生。竹原さんや、爽香さんだ」

『こりゃ、さっさと【本】を閉じないといけないな』

「柘植さん、2人を連れて早く脱出して下さい。俺たちが、何とか」

「待って黒文字君、あの大軍に黒文字君と火衣君だけじゃ危ないよ!」

「心配してくれてありがとう。でも、これはもう【戦い】じゃない」

『夏月を巻き込めないってさ。カッコ付けだ』

「火衣!」

 

 カッコ付けでも良い。男はこんなギリギリの状態でこそ、カッコ付けて歯を食い縛って、無理矢理にでも自身を奮い立たせなければならないのだ。

 他の参加者の中にも女子高生は何人もいたはずだ。彼女たちは一体どうなったのかと頭をよぎったその時、床にある不自然な染みに気付いた。

 夏月と爽香に向かって伸びるそれは、黒い……否、乾いた血の色をした足跡だった。まるで、自分たちの隠れ場所を教えているかのように外に伸びていたのである。

 

「柘植さん、逃げて!!」

 

 自分たちの居場所は、芝に筒抜けだったのだ。2人の女子高生の血の足跡を追って、直ぐそこまで近付いていた。

 ギギギギと、建付けが悪そうな音を立てて用具庫の扉が外側から開けられれば……新聞やニュースで報道されていた写真の面影が消え失せた、虚ろな双眸の芝の姿があったのだ。

 

「みー、つけた……!!」

「っ、逃げろ!」

「待って、お兄ちゃん……立てない!」

 

 スカートを掴まれた恐怖を思い出したのか、脚が震えて立つことができない爽香は兄に抱えられ芝を押しのけて逃亡しようとした。しかし、獲物にみすみす逃げられるようなへまはしなかった。

 開きっぱなしの白い【本】の別のページを捲り、誰にも聞こえない音量でぶつぶつどこかの一節を朗読すれば芝の背後に現れたのは鉄の扉。

 騎兵隊たちは、今ここにはいない。

 別の足跡を追って、先に脱出した他の女子高生たちを捕らえに向かっていたのだ。だから、今度の相手は騎兵隊ではなくこの扉の向こうに存在する物たちだった。拷問部屋へ誘う扉が開かれると、そこから半身だけ出て来たのは血が付いた鋸を手にした青髭マスクだったのだ。

 

「仏の御石の鉢!」

 

 今度もまた、狭い廊下の通路を塞ぐように石のドームが現れて鋸の一撃を防いだ。

 続け様の第二撃は、別の青髭マスクの半身が扉の向こうから飛び出て来てその手に持っていたバラ鞭を振り下ろす。鞭の先端には鋭い鉤爪が取り付けられており、これが人間の柔肌に当たれば皮を引き裂かれるのだ。だが、その鞭でも石のドーム……この場合は壁であるが、それを貫通することもできない。

 ならばと、次に暗闇の中から現れたのは最もメジャーな拷問器具・鋼鉄の処女。自律して胸を開き、鋭く伸ばした内部の棘が石に食い込んだがこれで三度目の攻撃のため、カウンター攻撃が炸裂した。

 

「仏の顔も、三度まで!」

 

 が、やはりそう簡単にも行かないものである。人生も、【戦い】も。

 怒りのカウンター攻撃を返した仏であるが、両目から発射されたビームは扉の向こうに吸い込まれてそのまま無効化されてしまったのである。

 あの暗闇の中は、ブラックホールにでもなっているのか?

 そんな訳はない。読人は知らないだけで、あの扉の暗闇の中では青髭マスクによる女子高生たちへの狂った拷問の宴が続けられているのだ。

 

「あのマスク、確か……そうだ、ペローの童話集の挿絵に出ていた。【本】のタイトルは『青髭』だ」

『ヤバい【本】が、ヤバい【読み手】を選んじまったな』

「だとしたら、あの騎兵隊は青髭の城を包囲したフランス軍、あの扉は……妻の殺害現場」

 

 そして、夏月たちの居場所を教えていたあの足跡は、開けてはいけない小部屋の鍵に付着してしまった血から創造されたのだろう。拭いても洗っても落とせない血のせいで、小部屋を開けてしまったことが青髭にバレてしまったのだ。

 創造能力・血溜まりの導……決して雪げない、罪の証のようだった。

 

「ぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれ!! どけ!!」

「嫌だ!」

「お前も、あのガキを庇うのか!! 男はどうせ、若い女が良いんだろう……! JKが良いんだろう! ブランド品にしか興味がないんだろぉぉぉ!!」

「そんなこと、DKだから解らないよ! 火衣!」

『言ってやれ、現役DK!』

 

 扉の向こうから次々現れる、数々の拷問器具を手にした青髭マスクと鋼鉄の処女だったが、火衣が炎を球体に形成してファイヤー・ボールの如く撃ち出せば簡単に火が点いて暗闇に逃げ帰る。

 機動力と集団戦術に長けた騎兵隊よりは、特定の状況下でその真価を発揮するタイプの能力なのだろう。

 だが、こちらも数だけはいくらでも創造できるのだ。一体の青髭マスクが逃げ帰る度に、まるでバトンタッチするかの如くまた別の青髭マスクやら使い捨てと思わしき鋼鉄の処女が現れて読人たちを取り囲む。

 胸を開いた鋼鉄の処女が大胆に迫って来たので、お断りの意味を込めて炎の壁を築いたが一体の青髭マスクが半身を猫のように伸ばして読人の頭上に現れた。

 脂でぬらぬらと光る斧を構え、そのまま振り落として頭を狙う……火衣の直線的な炎で焼いてしまおうかとしたが、それよりも素早い一太刀が文字通り、青髭マスクの顔面を薙ぎ払ったのである。

 

「面!」

 

 薙刀代わりにデッキブラシを手にした夏月によって、綺麗に面が一本決まったのだ。

 

「竹原さん?! 何で……」

「彼女の狙いは、私たち女子でしょう。私、少しぐらいは戦えるから。黒文字君を残して逃げられないよ!」

「っ」

『割とじゃじゃ馬だったな。こんな状況下に、飛び込んで来るなんて』

 

 デッキブラシを半身に構え、読人の背後を守るように背中合わせになった夏月は手にまとわりつく汗を拭ってから再び得物に添わせる。

 こんな状況下……周囲は火衣の炎が燃え盛り、拷問器具を手にした青髭マスクに自律可動式の鋼鉄の処女。その大元である【読み手】は、精神が病んだ殺人犯だ。

 普通ならば、何で戻って来たと怒声も飛びそうな行動だ。

 彼女の身の安全を考えるならば、力ずくでも逃がした方が良いはずなのに……読人と背中合わせになる夏月は、この上なく頼もしかった。

 読人の胸の奥から甘酸っぱいナニかと、身体を奮い立たせる熱いモノがせり上がって来る。

 この人を、何としてでも守る――まだ、16歳の少年にははっきりとは自覚できないけれど、微かに芽生え始めた感情であった。

 

「どうすれば、この【戦い】は終わるの?」

「彼女が手にしている【本】を、俺が「めでたしめでたし」で閉じれば良い」

「じゃあ、【本】を落とせば良いんだね。私がすり抜けて斬り込めば、小手を入れられる」

「いや、駄目だよ! 狙いは、竹原さんだ」

『んなこと言っている場合じゃないみたいだぞ、読人!』

 

 目の前に得物が現れれば、マンネリになっていたテンションも一気に上昇する。実際、捕まえ損ねたJKが視界に入った芝は、血走った目を大きく見開いて【本】に爪を立てた。黄ばんだ前歯を見せてにんまりと口が緩み、その悦びを隠し切れずに感情と殺意を爆発させたのである。

 

「ぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれぐちゃぐちゃになれ……!」

「たった3年の高校生活が、ぐちゃぐちゃにされてたまるもんか!!」

「っ、夏月さん! 行って!!」

 

 拷問部屋の向こうからは、一気に10人もの青髭マスクが登場して今度は大掛かりな拷問器具まで持ち出して来た。三角木馬に……棘だらけの椅子は、何だか分からん。だが、それらに夏月を捕えさせる訳には行かない。

 火衣の炎は読人のイメージ通り動いて青髭マスクと拷問道具たちを包み、抑え込み、夏月が芝へと向かう一本の道を作り出す。

 その道を踏み込んだ夏月の薙ぎは芝の手を狙って小手を決めようとするが、未だに扉が開いている小部屋から次に出て来たのは、王妃の首を刎ねたギロチンだ。

 あんなもの、デッキブラシで太刀打ちできるはずない。だが、夏月をこのままぐちゃぐちゃにさせる訳にも行かない。

 何の作戦も、思惑もなしに夏月の元へ飛び出そうとした読人であったが……その時、『竹取物語』の光が強くなった。

 新しいページが開かれたのだ。

 

「何でも良い、夏月さんの力に! なって!! 『中納言石上麻呂様は、燕が産んだ子安貝を持って来て下さい』!」

 

 かぐや姫が5人目の貴公子出した難題を朗読すれば、白い【本】から小さな燕が飛び立った。

 電光石火の素早さで真っすぐ夏月の手元に止まった燕は、ビルの備品であるデッキブラシを消失させ、彼女のための武器へと変化する。

 落ちて来たギロチンの刃を切り捨てたのは、貝殻の光沢を連想させる美しい刃紋。螺鈿のように小さな白い星が散りばめられた黒い得に、夏月の両手がしっかりと添えられて胴の位置へ斬り込めば、ギロチンの刃は紙よりも簡単にスッパリ切断されたのだ。

 燕が消えて、夏月の手に現れた美しい薙刀。ギロチンを薙ぎ払った美しい武器は夏月の頭上でくるりと翻り、先ほどの燕の飛翔と同じぐらい素早く芝の脛に斬り込んだのである。

 

「脛!」

「っ、斬れた……?」

 

 流れるように下段から上段への攻撃を決めた夏月だったが、脛に攻撃をされた芝の身体が斜めになって崩れ落ちればなんと、彼女の右足首がすっぱり身体から斬り放されていたのだ。

 出血などしていない、ソフトビニールのフィギアの脚がすっぱり斬られてかのように、卵の殻の色に似た白い断面を残していた。

 芝は何が何だか解らない内に廊下に倒れ込み、小手への攻撃もせずに手から【本】がすり落ちる。この【本】を閉じれば、悪夢は終わる……青髭の城は、狂った城主の物語は閉じなければならない。

 

「めでたしめでたし」

 

 裏表紙には、豊かな髭を蓄えた男のシルエットが囲まれた城の紋章。その紋章が『竹取物語』へと移動し、【本】能力を失えば全ては()()()()()()になるのだが……刻まれた傷は、そう簡単に癒えることはない。

 騎兵隊によって破壊されたエントランスも20階の窓ガラスも、何もなかったかのように元通りになった。しかし、『開けてはいけない拷問の小部屋』に閉じ込められて拷問を与えられ続けていた少女たち……芝の周りに倒れていた彼女たちに夏月が駆け寄るが、外傷はなく気絶しているようだった。

 だが、1人の少女が悲鳴を上げて跳ね起きれば、両腕で身体を抱えてガタガタと震え出す。

 何が起きたのか、何をされたのかは曖昧になっていたため彼女たちの記憶の中では拷問の小部屋での出来事が()()()()()()にされたのだろう。だが、与えられた“恐怖”だけは心の傷としてしっかりと残ってしまったのだ。

【戦い】から脱落した芝は、読人がボディバッグの肩紐を使って両腕を拘束しても未だに暴れ続けて少女たちや夏月の脚に噛み付こうと歯をガチガチと鳴らせている。そのまま、駆け付けた警察官によって逮捕されたのだが、あの様子では一生病院から出ることはできないかもしれない。

 狂った物語が終わっても、現実の狂いは終わることはなかったのである。

 

「夏月さん、下に降りよう」

「うん……ごめん、手を貸してくれない?」

「どうしたの。まさか、怪我?!」

「違う。足腰、立たなくなっちゃって……」

 

 この間、リオンに勘違いで襲撃された時と同じ。終わった後に、興奮も冷めてアドレナインも引いてしまってから、恐怖やら震えが追ってやって来てしまい夏月の脚が動かなくなっていた。

 手にした美しい薙刀――読人が創造した『燕が産んだ子安貝』を、申し訳なさそうに杖として使って歩こうとしたが上手く進めないようである。

 手を差し出そうとした読人だったが、火衣に脛を蹴られ意味ありげな視線を投げられる。ガンガン行け、と言う合図だ。このハリネズミ、人の気も知らないで……!

 意を決した読人は、手ではなく背中を差し出した。その背中に、乗ってくれと言う赤面のお願いである。

 

「ごめんね、勝手に戻って来ちゃって」

「ううん、夏月さんのお陰だよ」

「そういえば、名前……」

「あっ!」

 

 いつから彼女を名前で呼んでいただろうか?

 少し前までは「竹原さん」と名字で呼んでいたはずなのに、気が付けば名前呼びだ。無意識だったと、夏月を背負っている読人の横顔が更に赤くなる。まるで火衣の炎のようだ。きっと、その炎と同じぐらい熱くもなっているはずである。

 心の中では名前で呼んでみたことがあったが、実際に口に出すのはもっと先のはずでした。と、問い詰めたらきっとこんな弁論をするに決まっている。

 

「良いよ、夏月で。私も、読人君って呼ぶから」

「っ、ありがとう。夏月、さん」

 

 こうして、夏月との距離が縮まって五個目の紋章を手に入れて、めでたしめでたし……と、言う終わりにはならないんだよ!

 

「全く、お前さんと来たら。しっかりこの子を【戦い】に巻き込んでいるじゃあないか!」

「ごめん、なさい! ごめんなさいぃぃぃ!! お願いしますから、この膝の上の百科事典をどけて下さいぃぃ!」

「桐乃、もう一冊追加!」

「……はい」

 

 とんだ脱獄ゲームの後、警察で事情情聴取を終えて、折角だからと柘植兄妹と連絡先を交換した。爽香も芝の恐怖を味わったが、兄のお陰で大きなトラウマを負った様子もないようだ。

 そして、そのまま夏月を送って行こうかとしたその前に『若紫堂』へ寄り、ことの成り行きを説明後に紫乃による折檻タイムが始まってしまったのである。

 紫乃が愛用する足ツボマットの上に正座させられて、両手は後ろに回して結束バンドで拘束された。そして、その膝の上に分厚い百科事典を何冊も乗せられて、石抱きの刑ならぬ本抱きの刑に処されている……もう一冊百科事典が追加されれば、マットのボールが脛に突き刺さってとんでもなく痛いのだ。

 

「【本】で創造される能力で他人のために武器を創造すると言うのは、私らの間では“組み込まれる”と言う。もう、夏月さんはお前さんが作り出す『竹取物語』の物語の登場人物として、組み込まれちまったんだよ。一度創造してしまったものは、【読み手】の都合で消してしまうこともできない。だから、創造は慎重にしろとあれほど言っただろうに……」

「つまり、夏月ちゃんも否応なく【戦い】に巻き込まれるってことですか?」

「えーー!」

 

 つまり、そういうことである。夏月は読人が創造した能力の一部となったと言う方が正しいだろう。

 武装能力・燕が産んだ子安貝

 読人が夏月のために想像して創造した薙刀は、装飾品として使われる貝たちが詰め込まれた美しい武器だった。今、その薙刀は小さな二枚貝のキーホルダーのようになっている。蔵人の家の合鍵に付いている、貝の鈴のキーホルダーに少しだけ似ていた。

 竹刀と同じぐらい軽くて手に馴染んだその薙刀は、試しに桐乃が手にしてみれば彼女は持つことができなかった。桐乃が夏月から受け取ると、薙刀は燕の大群になって手からすり抜けてしまい夏月の手に戻って来てしまったからである。

 夏月のための武器、夏月しか扱えない武器……勿論、【読み手】である読人が手にしても同じく燕の大群が飛翔した。

 

「読人」

「はい」

「お前さん、覚悟するかい?」

「……」

「この先、今日の【読み手】のように気が違っている奴らも出て来るはずさ。そんな連中から、夏月さんを守り抜く覚悟は持っているのかい」

「いっ……!」

 

 どすんと、今度は国語辞典が膝の上に乗せられた。

 紫乃の言葉が耳に突き刺さり、足ツボマットも脛骨に突き刺さる。【読み手】に選ばれた人間は、全てが全て不老不死を求めている訳ではない。ただ単に、【本】の能力を暴力として使い欲望を叶えようとする者だって、話が通じないぐらい狂った者もいるはずだ。

 夏月を巻き込んでしまったのは、呼び込んでしまったのは自分だ……だったら、責任を取るしかない。

 

「覚悟……あります! 夏月さんを巻き込んだ責任は、俺が取ります!!」

「……結構。それじゃあ、早く彼女を送って行ってやりなさい」

 

 膝の上の百科事典らを取り払われ、結束バンドも切られて足ツボマットの上から解放されたが、思った以上にダメージが蓄積されていたので上手く歩けない。足ツボマットは正しい使い方をしなければならないと感じてよろける読人に、夏月が再び、手を差し伸べてくれたのだ。

 

「帰ろう、読人君」

「うん」

 

 しっかりと、取り零さないように、放さないように。彼女の小さな手を握ったのである。




芝昭奈(34)
2年前に裏切られた婚約者をぐちゃぐちゃになるまで撲殺し、現行犯逮捕された殺人犯。その際に精神を病み、裁判では責任能力なしと判断され執行猶予が付いた。
両親も持て余し、祖父母の家にほぼ軟禁状態で預けられていたが……近所の男子校が共学になって「JK」の姿をよく見るようになり、精神の狂いが絶望的になる。
「JK」のように可愛いモンスターを合法的にぐちゃぐちゃにできると聞いて『ダンジョン・プリズン』に手を出し、本当にぐちゃぐちゃにするため、天空の監獄へと乗り込んで来た。
『青髭』の【本】は、中学生時代に古本屋で見付けて購入した。

創造能力・無慈悲な鉄騎兵
『青髭』の登場する、青髭の城に乗り込んだフランス軍の一団。夫の正体を見てしまった少女があわや殺されそうになったその時に駆け付け、少女の兄たちと共に青髭を殺害した。
主からの大義名分を盾に、どこまでも冷酷になれる無慈悲の軍隊。もとい、命令一つ徹底的に蹂躙する便利戦力。
人間体の歩兵やケンタウロス形態の重騎兵など、ファンタジーに登場するモンスターっぽい姿で創造される。


創造能力・開けてはいけない拷問の小部屋
青髭の妻たちの殺害現場である小部屋に獲物を引き入れ、絶対に殺されはしないが苦痛と恐怖に塗れた拷問を与える。
拷問スタッフである青髭マスクを被ったモノたちは多種多様な拷問器具を操るが、どう見ても『青髭』の時代の物じゃないのまで混ざっている。大体は芝が中学生時代に読んだ『拷問大全』という本が元ネタだ!


創造能力・血溜まりの導
少女は拷問の小部屋を見てしまい、同様のあまり鍵の束を小部屋の血溜まりに落としてしまった。血の汚れは魔法のように落ちず、それが原因で小部屋を除いてしまったことが青髭にバレてしまう。言い付けを破った決定的証拠になってしまった。
小部屋の血溜まりと同じく、付いたら最後、決して落ちない血の汚れを付着させる。主に追跡に使えるが、ここまで来ると恐ろしい執念である。


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 しおりを挟む~閑話③

 春うらら。

 桜前線が日本列島に顔を出し始め、西日本ではお花見のシーズンへと突入した。景色が薄桃色に色付く、咲みの季節である。

 今年の東京の桜は少しだけ寝坊助のようだ。

 現在の様子は六分咲き。布団に引き籠るかのように、つぼみを固く閉じた薄桃色の花たちは顔を見せずにいた。

 暦の上はすっかり春。春風の到来を出迎えた蔵人の自宅前には見知った宅急便のトラックが停まり、コンテナからはいくつもの段ボールを運び出されていた。

 

「お疲れ様でしたー」

「梅村さん、全部運んでも良いですか?」

「うん。頼むよ、読人君」

 

 唐突に家主を喪って2か月以上、蔵人の家に新しい住人がやって来たのである。

 彼――黒縁眼鏡と少々腕がだらけたカーディガンを着た青年が、蔵人の元教え子であり黒文字家に家賃を支払うこととなった梅村(ウメムラ)(ジュン)だ。

 梅村は、蔵人が大学教授として教鞭を採っていた頃の最後のゼミ生の1人である。彼と読人は幼い頃から面識があり、ちょっとした理由で他の教え子たちよりは印象が色濃く残っている。

 ぼんやりとした記憶しかなかった蔵人の葬儀を抜かせば会うのは5年以上ぶりだったが、梅村は大学時代とほとんど容姿が変わっていなかった。元々年齢不詳気味であったが、三十路になった今も下手をすれば大学生でも通用するかし、三十路と言われれば納得する外見をしている。人畜無害そうな表情と、男性にしては円い目をした童顔気味な顔立ちのせいで脳が混乱するのだろう。

 大学院を出た後に地方で非常勤講師をしていた彼は、来年度からめでたく正規講師として某国立大学に雇われることとなったのだ。

 

「悪いね、引っ越しを手伝ってもらっちゃって。バイト代はきちんと支払うよ。大して出せないけれど」

「いえ、今年からバイトを始めたから大丈夫です。手の怪我、お大事に」

「ありがとう。紙でスパっとやっちゃってね……あれ、痛いよね」

 

 うん、確かに痛い。切ってしまった瞬間はあまり気付かないのに、後からじわじわと痛みがやって来るタイプの怪我である。

 段ボールを運ぶ梅村の左手には、紙でスパっと切ってしまった傷を隠す白い包帯が巻かれていた。

 引っ越し先はテレビも冷蔵庫も洗濯機も備え付けられ、しかも独身の1人暮らしとなれば業者に頼むほどの荷物でもない。本来ならば梅村1人でも片付くはずだったが、手の負傷してしまったことにより読人にバイトと言う名の手伝いが梅村から申し込まれたのは1週間前のことだ。

 実印を持って黒文字家を訪れて、母と正式な賃貸契約を交わした時も包帯をしていたが、どうも治りが遅いようである。

 

「先生の家、昔と全く変わってないな……でも、あんなに小さかった読人君が、もう高校生だもんな。道理で、僕も歳を取るはずだよ」

「梅村さんは、10年以上前とそんな変わらない気がしますけど」

「読人君、覚えている? 昔、みんなで百人一首をやったこと。詠み人知らずの札を、自分のだって意固地になって取ろうとしていたよね」

「お、覚えていませんよ! そんな昔のこと……」

 

 否、はっきりと覚えている。あれは小学校に進学する前、まだ祖母も存命だった頃だ。

 蔵人や祖母は、年始や卒業等の節目に教え子たちを自宅に招き、新年会等を催したりしていた。その中に読人も混ぜてもらっていたのだが、教授の可愛い孫は大学生たちにも随分と可愛がられた記憶がある。

 そして、年始の恒例行事として『百人一首かるた大会~黒文字ゼミ杯』が行われ、読人もちゃっかり参加していた。と言っても、齢一桁の幼児が百人一首をできるかと問われれば無理である。いろはかるたじゃないんだから。それでも、数枚ならば覚えている札はある。

 その中で読人がなんちゃって得意札としていたのは、一番と五番の札だ。特に五番と言うのが、自分の札であると意固地になって、どうにかしてでも取ろうとした一枚だった。

 

「『奥山の 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき』……百人一首の五番、蝉丸が詠んだ歌とされているけれど作者不明の説もある詠み人知らずの歌だ。“詠み人”知らずだから“読人”のだ~って。先に取った僕の手をどかそうとしていたのも、懐かしいな」

「だから、昔の話ですって……」

 

 今、読人が運んでいた段ボールが『食器類』と書かれていなければ、これを放り出して梅村を止めに行っただろう。

 きちんと記憶にある。おぼろげになって忘却してしまう50年前の記憶よりも、はっきり覚えている。

 蔵人が読み上げた上の句から、下の句の札を取った梅村の手に飛び付いてその手をどかそうとしたのだ。「これは自分の札だから、取っちゃ駄目」と、詠み人知らずは自分の物だと駄々を捏ねた姿を、蔵人にも他のゼミ生にも苦笑されていた。

 そのため、梅村の印象は随分濃く残っていた……と、言う訳でもない。また、かるたとは別の理由がある。

 

「今日はどうもありがとう。はい、バイト代」

「良いですよ。ただ運んだだけですし」

「良いの良いの、取っておいて。学生時代は五百円とか千円とか、しょっぱいお年玉しかあげられなかったんだから。先生のお孫さんをただ働きさせたとなったら、夢枕に立たれてしまう」

「それじゃあ、ありがたく頂きます」

 

 そう言って、和紙でできたポチ袋をありがたく頂戴したのだが、読人にとって梅村が印象深かった理由がこれだ。このポチ袋に理由がある。

 話は黒文字ゼミの新年会に戻るが、その新年会に参加していた当時の読人はゼミ生たちからお年玉をもらっていた。

 お年玉と言っても、大学生の身分ではそう高額なお年玉は出せないし、読人もお金の価値を理解できるほどの年齢でもない。もらっても千円程度のささやかなお年玉だ。しかも、読人にとってはお年玉本体よりもお金が入っているポチ袋の方が嬉しかったのである。

 そのポチ袋であるが、大体のゼミ生は新幹線や特撮ヒーローなど小さな子供向けの、柄が大きい全体的に青く黄色い物を使用していた。要するに男児向けである。

 その中で、梅村だけは違っていた。自動車もヒーローも印刷されていない、生成り色の和紙に梅が描かれたポチ袋でお年玉をくれたのが梅村だった。

 その当時は、お兄さん扱いしてくれたと感じてとても嬉しかったのだ。他のとは違う、祖父母に届く手紙が包まれた封筒にも似た雅やかなポチ袋は、一際立派に見えた。

 だから、梅村の印象が他のゼミ生たちと比べ、読人の中で色濃く残っていたのである。大人っぽいお年玉の学生さん、と。

 

「そうだ、梅村さん。俺、おじいちゃんの本の中で探している一冊があるんです。でも見付からなくて……もしあったら、連絡くれませんか?」

「良いよ。どんな本? タイトルは?」

「真っ白な装丁の『古事記』です」

「分った、見付けたら連絡するよ。先生の形見、かい?」

「そんな感じです」

 

 読人の家にあった合鍵は、貝の鈴のキーホルダーが外されて梅村の手に渡った。これでもう、自由に蔵人の家に出入りはできなくなってしまい、此処は他人の家となる。

 蔵人が50年前に手にしていた白い【本】は結局、発見することはできなかった。

 

 

 

***

 

 

 

 日本では春の訪れで新しい季節の幕開けを感じ、4月から何もかもが新しくスタートを切る。学生たちは4月1日から入学・進学となり、社会人も4月1日に入社式を迎えるのが殆どだ。

 春の季節の到来と同時に、新年度という新しい生活が始まるのだと聞いて……母国とのズレを感じたと、ハインリヒはそう語った。

 日本は全てが春から始まるが、ドイツで年度初めと言えば夏真っ盛りの8月から。ドイツのみならず、欧州諸国の殆どは8~9月からが新年度である。某有名な魔法学校の小説でも語られていただろう、9月1日に入学式があるのだ。国際的に見れば、日本のように4月からの年度初めと言うのは珍しいのである。

 しかし、母国がどうとかこうとか今は関係ない。郷に入ったら郷に従えと言うことで、日本に滞在しているならば日本式で行動しなければならないというのが、師の教えなのだ。

 が、この鍛錬は勘弁して欲しい。二本の棒を片手に、右手が吊りそうになりながら硬いヒヨコ豆を皿に移し替えながら頭の片隅で辟易していた。ちなみに、上手く移し替えることができずにヒヨコ豆はテーブルに散乱しまくっていた。

 

「日本人って、手先が器用だな。自動車もゲームもアニメも凄い物を作るし、こんな棒で飯を食うし」

「棒ではありません、箸です。Brückeを意味する橋とは発音が違うので、気を付けなさい」

「先生! 別に食事も日本式にしなくても良いだろう! きちんと言葉は覚え始めた」

「箸は日本の食事のマナーです。国際化の昨今と言えども、海外の者だからと言って常に無償でフォークやスプーンを提供していただけると思ってはいけません。もし、貴方が学友に誘われて和食や中華の店舗で食事をする際に恥をかきたくなければ、精進することですね」

「……ビルネ、ショージンって何だ?」

「とても頑張る、とても努力する、です」

 

 日本語、難しい。ついでにこの箸も難しい。やはり日本人の手先の器用さはクレイジーだ。

 こよみ野市の最も外側、23区に隣接して交通の便が良い東側の松露(ショウロ)町。そこは地価が高めの、市内の住民には高級住宅地と認識されている地区である。

 かつては、電車一本で都心に出られる割に、こよみ野市内へのアクセスが不便で商店街等の商業施設が少ないと言う理由で安い物件であった。だが、隣県に住むよりは都民でいたいと言う者たちの間で穴場として知られ始め、新しいマンションや新しい一軒家が増えつつある。

 そのマンション群の中で昨年末、外資系企業が建てた外国人向けの小奇麗なマンションが建った。ドイツの不動産女帝と呼ばれるイーリスが用意していたマンションだ。ハインリヒと彼のお目付け役であるビルネは、ここを拠点として読人の『竹取物語』を虎視眈々と狙うこととなる。

 

「奥様、お時間です」

「分かりました。では、身の回りの世話はアルノルトに任せます。学業と【戦い】にしっかり励みなさい」

「ハイ、先生」

「何かあった時は時差など考えずに連絡をしなさい。こちらも、他国の【戦い】の情勢に何かありましたら、情報を回しましょう」

「了解しました、おばあ様」

「それと、もう一つ……この【戦い】に参戦した、もう一つの()()を忘れてはいないでしょうね?」

「『Rotkäppchen』……50年前のあんたの【本】を、探せば良いんだろう」

「ええ、日本語のタイトルは『赤ずきん』。行方知れずとなっている、わたくしの【本】です」

 

 今から45年前、アーベンシュタイン家で窃盗事件が起きている。

 犯行があったその日はイーリスの結婚式が開かれ、アーベンシュタインと繋がりのある各界著名人たちが何人も祝賀パーティに参加していたため、人の出入りが激しい1日であった。参加者たちの財布や貴重品を狙ったのだろう、祝福の空気と慶事の浮かれでできた警備の隙間をすり抜けて、招いてもいない窃盗犯が紛れ込んでしまったのだ。

 その窃盗犯は、参加者の金品をいくつかとアーベンシュタイン家の美術品を数点盗み出したのだが、その美術品の中に『赤ずきん』の【本】があった。鍵がかかった豪華な箱に入れられていたため、宝石箱か何かと勘違いして盗まれてしまったというのが当時の警備主任の見解だ。勿論その人物はクビになった。

 イーリスにとっては美しい絵画やダイヤのネックレス、銀食器よりも価値がある【本】を盗まれ、あらゆる手を使って取り戻そうとしたが結局は現在に至るまで『赤ずきん』は保護されてはいない。それから45年の月日は流れ、イーリスにとっては二回目の【戦い】が開かれた。

 もし、今回の【戦い】においても『赤ずきん』の【本】が能力に覚醒し、真の価値に気付いている者が【読み手】に選ばれているのならば参戦して来るはず。必然的にこの日本に【本】が集まって来るはずだ。そう考えて、ハインリヒとビルネにもう一つの任務を課した。

【戦い】を勝ち抜いて『竹取物語』と不老不死を手に入れることともう一つ、行方知らずとなった『赤ずきん』を取り戻すことである。

 かつての相棒の捜索任務を孫と教え子にそう述べてから、イーリスは執事のガーベラが運転するフォルクス・ワーゲンに乗り込んで空港へと向かったのだった。

 

「アルノルト、あの子たちを頼みましたよ」

「承知しました。しかし奥様、ビルネお嬢様はともかく、あのような者に奥様の【本】の捜索を任せてもよろしいのでしょうか? 奥様の決定であることは重々承知ですが……」

「ハインリヒ……あの子は、根は真面目で素直ですが、困難に突き当たると楽な道に逃げる悪癖があります。ズッキーニのように曲がりかけた根性を、箸のように真っ直ぐ矯正できたらあるいは……」

「確かに。思い出してみれば、奥様の授業も旦那様の授業も、逃げ出したことは一度もありませんでした」

「そちらの矯正も、任せます」

「然るべく」

「苦労をかけさせますね。貴方にも、伯父のアルフレートにも」

「いいえ。アーベンシュタイン家にお仕えすることが、我がガーベラ一族の喜びです。ビルネお嬢様もハインリヒ様も、このアルノルトにお任せ下さい」

 

 郷に入っては郷に従え。日本に来たなら日本語を話せと言う教え子に語ったその言葉通り、空港へ向かう車内でガーベラと2人きりになってもイーリスの口からはドイツ語が出ることはなかった。

 教え子と孫と、彼らをサポートする執事を日本に残してイーリスはドイツへと帰国する。

 1月1日から始まった【戦い】は、もう直ぐ開始から3カ月が経過する。

 早々と脱落した者、浮上せずに好機を窺う者。そして、未だに【読み手】と巡り合えずに参戦すらも許されていない【本】……極寒の冬から芽吹きの春へと移り替わる季節の中で、彼の者の登場が再びの寒波をもたらすこととなる。

 横浜の中華街のとある飲食店。業務用の巨大な冷凍庫の中で、女性従業員の凍死体が発見された。誤って閉じ込められてしまった事故として処理されることとなる。

 女性は数時間前、背の高い男性とホテルへ入るところを目撃されていたにも関わらず。




不穏の到来は冬風と共に


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4月1日から6月30日まで
雪の女王01


「アナタ、観光ですか? それとも、仕事? いいところに案内できます。一緒に行きませんか」

 

 3月28日、神奈川県横浜市。

 横浜中華街として親しまれる飲食店が並ぶ一角の中華料理店の冷凍室において、女性従業員・(コン)沐婧(ムージン)の遺体が発見された。

 死因は凍死。遺体からは争った形跡やその他暴行の痕跡が見付からず、現場となった冷凍室が鍵の故障で開かなくなっていたことから、被害者は誤って中に閉じ込められて死亡したと判断された。

 警察は事故と結論付けた。他殺の可能性を欠片も考えなかった。

 しかし、彼女は背の高い男性と腕を組みながら付近のホテルへと入っていったのを目撃されていた。

 

「ねぇ、何でコート、着ているの?」

「冷え症なんだよ」

「本当だ。冷たい身体ね……温めてあげる」

 

 その日は、今年一番の暖かさを迎えた春の日だった。

 こんな暖かい日なのに、沐婧と共にホテルで休憩していた男性は冬物の黒いロングコートを着ていた。警察に調べられることはなかったが、ホテル内の監視カメラにも季節外れな姿がしっかりと映っている。

 ベッドに雪崩れ込んだ男女は密着し合い、沐婧は男の衣服を脱がそうとコートに手をかけた。シャツの上から胸に手を置けば、ひんやりと冷たい体温が伝わってくる。まるで冬の記憶を呼び起こすような冷たい身体だ。

 男の身体に細い腕を回してごそごそと衣服をまさぐり、男の手も女の服に伸びて邪魔な隔たりをゼロにする……かと思われた。

 そのまま濡れ場にシーン突入するかと思ったか。残念でした。

 女の手が男の背に伸びて硬いナニかが指を掠めたその瞬間、冷たい大きな手で口を塞がれ、ベッドに頭を叩き付けられて拘束される。

 必死にもがいて抜け出そうとするがそれが叶わず、身体はガタガタと震え始め背筋は凍った。比喩ではない。本当に、氷の槍で突き刺されたかのような冷たい痛みが走ったのだ。

 

「いけない人だ。僕の服ではなく、隠していた【本】に興味を持ってしまうなんて」

「……っ!」

「まあ、最初からそのつもりだったんだろう。僕が【読み手】と知って誘って来た、僕は君の不恰好な誘惑に誘われてあげた。甘いねぇ、君の容姿でそう簡単に男を誘えると思っていたのかな。それとも、僕は穴があれば何でもいいと考える男にでも見えたのかな。業腹だね」

「~~っ、~~!」

「休憩だから時間がない、単刀直入に言おう。君の【本】はどこにある? 大人しく紋章を渡してくれれば、凍えずに済むんだけど」

 

 この男は、最初から知っていた。

 沐婧はこの男が【読み手】だと知っていて近付いたことを。そして、男も彼女が【読み手】だと知っていた。

 浅はかな企みほど直ぐに露見する。【戦い】を経ることなく、服を脱がせるだけで勝者になろうなんて甘すぎる考えだ。

 唇に触れている男の手が氷のように冷たい。唇から頬へ、頬から顔全体へ、顔から首を経由して身体まで冷気が浸透して体温が奪われる。

 抵抗のために男の手に爪を立てようとするが、冷気によってガタガタと震える指先は満足に動かずに抵抗もできない。自身の持つ【本】の在り処を白状すれば、この冷たさから逃れられるだろう……しかしもう、口すらも動かない。

 青紫色に変色した唇は凍りつき、上下に動かして言葉を発することも喘ぐことすらもできなくなっていた。

 

「もう一度訊こうかな。君の【本】はどこにある? タイトルは別に興味はないよ。紋章さえあればそれでいいんだ……さあ、答えなさい」

 

 優しく、甘く、生娘を安心させるが如く問いかける男だが、その目からは温もりが感じられない。

 まるで氷のように、透き通った冷たい目を最期に……金沐婧は、冬の眠りに付いた。【本】を閉じられて脱落した後、凍死体となって冷凍室に遺棄されることとなる。

 最も美しい死体は凍死体であると、誰かが言った。

 生を凍りつかせて氷の中に閉じ込めて、死の眠りへと誘う。凍傷で指が腐り落ちる暇もなく、身体の芯まで凍えてしまえば光の粒に抱かれた白い死体ができるだろう。

 だがしかし、死体が美しいなんてことはあり得ない。

 後は腐るのを待つだけの人間なんて、美しくはない。

 

 

 

***

 

 

 

「紫乃さん、お祝いして下さい」

「嫌です」

 

 何故そんなことを言い出したか。理由を聞く前にバッサリと切り捨てたら、蔵人は解りやすくショボンとした表情になった。

 同情してやるものか、そんなワザとらしい悲しい顔なんて。

 お気に入りのカフェでティータイムを楽しんでいた紫乃は、後から来店した蔵人に遭遇してしまい、出会い頭でこう告げられた。勝手に相席をして、勝手に自分も紅茶を一杯注文する。

 イギリスにもやっと春が訪れた頃の話だ。温かい春風の到来とイースター休暇を控えたロンドンは、どこか浮足立って少しだけ陽気が飛んでいる気がしていた。

 

「今日、誕生日なんですよ」

「どちら様の?」

「私の」

「……」

「嘘ではありませんよ。正真正銘、4月1日が誕生日なんです。それに、もう午後ですよ」

 

 4月1日、エイプリールフール――四月馬鹿。それが、暦の上での日付である。

 こんな日に突拍子もない発言をして来たら嘘と疑ってしまうが、時計の短針が「12」を過ぎているので時刻は午後だ。エイプリールフールは好き勝手に嘘を吐く日ではない、きちんと明確なルールがあり嘘を吐いて良いのはその日の正午までだ。

 既に正午は過ぎ去って、今はアフタヌーンティーの時間。なので、これは嘘ではありませんと、蔵人は腕時計を指示して現時刻をアピールした。

 

「今日で28歳になりました。龍生君と光孝君から、「おめでとう」のお祝いの言葉をいただきました。嬉しいですね、誰かに生まれた日をお祝いしてもらうのは」

「……知ってしまったからには、無視はできませんね。お誕生日、おめでとうございます」

「ありがとうございます、紫乃さん」

 

 それが、ちょうど50年前のロンドンでのやり取りだった。

 

「懐かしいことを、思い出しちまったね」

 

 不意に、50年前の4月1日を思い出した。

 あれから年号が二回変わった。紫乃が日本で迎える七十数回目の4月1日。

 点けっぱなしのテレビからは、真新しい社会人たちの様子やどこかの会社で行われた入社式の映像が流れている。

 今日から新年度だ、他愛もない嘘で楽しんではしゃぐのは子供たちぐらいだろう。それぐらい、社会人の4月1日は忙しい。

 けれど、自由気ままな自営業には日常の1ページにしか過ぎない。今日も今日とて、本と人間の出会いを斡旋するのが紫乃の仕事だ。

 そう言えば、今日のバイトは桐乃だけ。件の4月1日生まれの孫は、本日はお休みである。

 

「……何で、今年に限って思い出してしまったのでしょうか」

 

 今年が、【戦い】の年だからだろうか。

 

 

 

***

 

 

 

 本来ならば、今年の4月1日は黒文字蔵人の78歳の誕生日だった。

 毎年この日になると家族全員でお祝いをする。おじいちゃん誕生日おめでとうと、蔵人の家に集まってみんなでささやかな食事会をしてプレゼントを贈っていた。60歳を過ぎても70歳を過ぎても、祖父は誕生日をお祝いされるのをとても楽しみにしていたのだ。

 生まれて来たことを祝福されるのは、とても嬉しいことなのだと幼い読人にそう語っていた。勿論読人も、祖父の誕生日を心から祝福していた。

 

「読人、今日はおじいちゃんの誕生日だし、チーズケーキを買って来てくれない? お金はここに置いておくから」

「はーい」

 

 久し振りにスーツで出勤する母が、財布から5千円札を出してテーブルに置いた。

 蔵人の誕生日を祝う際のケーキは、毎年同じ物である。『いせのや』と言うケーキ屋のチーズケーキだ。

 ベイクドでもなくレアでもなく、マスカルポーネのチーズムースが柔らかいスポンジに挟まれ、上にはアプリコットジャムが塗られたケーキが祖父の好物だった。

 ふわふわのスポンジケーキと甘さ控えめの、それでいてしっかりとチーズの風味が利いたムースはとても軽い口当たり。そこに甘酸っぱいアプリコットジャムが乗せられることで、口の中がサッパリ爽快になるため、3ピースほどペロリと食べてしまう美味しさだ。火衣ならば、2ホールぐらい食べてしまうかもしれない。

 幼い頃の読人は、チーズケーキと言えばこのケーキしか食べたことがなかったので、小学校の給食でベイクドチーズケーキが出て来て驚いたことを覚えている。『いせのや』のチーズケーキが出てくると思っていたのに、全然違う物が出て来て困惑したのだ。

 昨年は、このチーズケーキを蔵人宅に持ち寄ってちょっと良いお寿司を出前して、ついでに読人の高校進学も一緒にお祝いをした。今年から家族のイベントがなくなったことに久し振りの焦燥感を抱きつつも、母を見送った後に読人は火衣を連れてケーキを買いに出かけたのだ。

 

「すっかり春だ」

『風も温かいな~』

 

 すっかりお気に入りになったベストを薄手の長袖のパーカーインナーの上に羽織って、ボディバッグに財布と【本】を突っ込んだだけで家を出た。

 本日の最高気温は20度越え。気圧配置の影響で場所によっては強風注意報が出ているが、その風も先月発生した春一番のように温かく吹き荒れている。

 パーカーフードの中に火衣を入れて春の風に誘われながらふらふらと町を歩いていると、『いせのや』がある商店街へ向かうための橋の真ん中で脚が止まった。

 橋が架かる小さな川の縁には、大きな桜の木が一本だけ植えられている。その桜の枝は橋の中にまで伸びているのだが、今日は薄桃色の桜がお邪魔していたのだ。

 東京の桜は今週が見頃とニュースの天気予報士は言っていた。満開の桜が、春の風に揺られて圧倒的な存在感を誇っているのである。

 

「うわ~、いつの間にか満開になっている」

『春になったら、桜の下でお花見をするんだろ。稲荷寿司と巻寿司の弁当を持って、飲んで食って大騒ぎ』

「見てない、食べているだけ!」

『桜餅も季節だな~』

 

 このハリネズミの頭の中は、どっちに転んでも花より団子のようだ。でも、確かに桜餅は食べたい。稲荷寿司はひじき入りの酢飯が良い。

 最後にお花見をしたのはいつだったかと、橋の高欄にもたれかかって桜の花を眺めていた読人だったが……そこで突如、今日一番の突風が何の前触れもなく巻き起こった。

 小さな薄桃色の欠片を舞い上げて、橋を歩行中の女性の髪も読人の髪もボサボサに舞い上げて、火衣の小さな身体を吹っ飛ばしていったのである。

 

「うわっぷ!?」

『みぎゃっ!?』

 

 不意打ちの突風は読人の長い前髪をぐしゃぐしゃにして通り過ぎ、その衝撃で前髪を止めていた三日月のヘアピンが外れてしまったのだ。きっちりセットした前髪がぐしゃぐしゃのボサボサになって視界が塞がり、しかも絡まって元に戻らない。ついでにいうと、桜の花弁が二、三枚ほど頭に乗っている。

 前が見えない状態で絡まった髪に悪戦苦闘していたら、米神にヒヤリと冷たい指が触れて来た。

 

「っ!」

「落ち着いて。ゆっくり」

「……はい」

 

 心地の良い低音が旋毛に振って来て、その声の主の手が読人の髪をゆっくりと梳いた。その指が随分冷たいのに驚いたが、困っていた読人に手を差し伸べてくれた良い人だ。多分。

 絡んだ髪が解かれ、両目を覆う長い前髪を横に流せば手を差し伸べてくれた人の顔が見える。けれど、最初に目に飛び込んで来たのは顔ではなく、コートを着た腕だった。春の季節に似合わない黒いオーバーコート……左腕のボタンが、一つない。

 その腕に沿うように視線を上へと移動させれば、冷たい指先の主の顔がはっきりと見えたのだ。

 

「大丈夫かい?」

「はい」

「桜が付いているよ」

 

 そう言って、その人は読人の頭に乗っていた花弁を取り払ってくれた。

 背の高い、壮年の男性だった。歳の頃は読人の父親よりも上、50歳ぐらいだろうか……先日還暦を迎えたのに、全然そうは見えない若々しい俳優にどこか似ている気がした。

 というのも、俳優のようにハンサムな男性だったのだ。

 白髪交じりで綺麗なグレーになった髪は丁寧にセットされ、顔に刻まれた皺は深くなく大人の男性の渋みを強調させる働きしかしていない。声も、とてもダンディだ。憂いと色気が混在している。

 だが、読人に触れた指と頭一つ上から見下ろしていた視線が……磨かれた氷のように、鋭く冷たかった。

 

「ありがとうございました」

「どういたしまして。それでは、失礼」

 

 背の高い男性は読人の頭から取り払った桜の花弁を春風に乗せて、橋を渡り切ってその場から去って行った。

 何だったんだろうか、今の一連の流れは?

 まるで一昔前の少女漫画だ。少し大人向けの。

 もし読人が女子高生だったら、地味な女の子がダンディな年上の男性と出会って一時的な触れ合いを経て別れ……その後、思いもよらぬ再会を果たして物語が開幕するだろう。

 が、現実は頁の上の物語のようには行かない。読人は男子高校生だし、年上のオジサマにときめいたりもしない。そして、運命を感じた奇跡的な再会が訪れるなんてとんでもない低確率だ。

 きっと、あの人とは一期一会。少しだけ、助けてもらってさようならのはずだ。

 

『凄かったな、さっきの風』

「火衣、大丈夫」

『おう。ほらよ、落ちてたぜ』

「あっ! ありがとう」

 

 飛ばされた火衣が、前髪から外れてしまった三日月のヘアピンを咥えて帰って来た。何でも、さっきの強風で高欄から川に落ちかけたらしい。マスコットの極小サイズでは、簡単に飛ばされてしまうのである。

 火衣からヘアピンを受け取って適当に前髪を止めた。また強風の餌食になる前に早く『いせのや』へ向かおう。火衣を再びフードの中に入れた読人は、男性とは逆方向へ向かって花弁が舞う橋を渡り切った。

 本日の強風で満開の桜が散ってしまう恐れがあるため、お花見をするならば今週中がオススメです。




ベイクドでもないレアでもない、スフレチーズケーキ!


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雪の女王02

「……また、凍死体か」

「けれど、これは事故……ですよね? でも、今年に入って凍死が四件もあるのは流石に」

 

 流石に、不自然。桐乃が小さく呟いた言葉に、紫乃も同意して頷いた。

 紫乃の今年限りの趣味。全世界で起きた不可思議で非日常的な事件のスクラップの中に、第四の凍死事件が並んだ。オーストラリア、フィリピンときて、先月は香港。そして、遂に日本で凍死体が発見された。

 が、横浜で発見された凍死体は事故として処理された。香港で起きた事件も、迷子になった少女がデパートの食品部の冷凍室に迷い込んで閉じ込められた事故であったが……後者二つがどちらも、冷凍室で起きたというのは出来すぎていないか?

 香港の事件は、亡くなった少女の両親がデパートを相手取った訴訟に発展して日本にまでニュースが流れて来たが、横浜の事件は地元紙の片隅で埋もれてしまいそうなほど小さな記事である。

 冷凍室で起きる事故に、どこか作為を感じた。

 

「この四つの事件、同一犯の犯行だろうね。あくまで、私の勘だが」

「連続殺人、ってことですか。凍結の能力を創造した【読み手】による……あ、いらっしゃいませ」

「こんにちは。大きい荷物があるんですけど、良いですか?」

 

 2人の会話を遮って、『若紫堂』に来客があった。2m近くもの竹刀袋を背負い、頭上に注意しながら入って来た夏月を出迎えて、通常営業へ戻ったのである。

 

「その薙刀はこちらに置いておきなさい。今日も、練習かい?」

「はい。コーチの紹介で、都内の道場で振るってきました。何となく、お遊びじゃいけないかな~って」

 

 レジカウンターのそばに竹刀を置かせてもらった夏月は、少し照れ臭そうにそう言った。彼女の鞄には『燕が産んだ子安貝』のキーホルダーが着いている。

 彼女なりに、『竹取物語』へ組み込まれたことへの覚悟をしているのだろう。古本を吟味する手には真新しい絆創膏が貼られていた。

 

「奥島さんって、50年前の【戦い】の参加者だったんですよね?」

「そうだよ」

「読人君のお祖父さん、前回の優勝者はどうやって勝ち抜いたんですか?」

「……どう、って言われてもね。あの人は結果的にそうなっちまっただけさ。ただ単に【戦い】を見てみたかったと言うだけで渡英したとんでもない人だったよ……ああ、そう言や今日は蔵人さんの誕生日だった」

「誕生日?」

「訊いてもいないのに突然、「祝ってくれ」と言い出してティータイムに同席して来るような図々しい男でもあったね。あの子が似なくて良かったよ、本当に」

「師匠、それは私怨です」

「けれど、どうしてか……そうだ。あの人は、「()()()()()()()()()()()」と言ったことがあった」

「……?」

 

 昔の記憶が甦って、突如紫乃の脳裏に50年前の蔵人の幻影が浮かび上がる。

 彼は何故、あんなことを言ったのだろうか?

「私が優勝するみたいです」……それはまるで、他人事。蔵人の意志を伴わない、まるで誰かにそう指図されたかのようなことを、50年前の蔵人は言っていたのだ。

 確かに、結果的には蔵人は50年前の優勝者となり『竹取物語』を手にした。けれど、不老不死は手に入れなかった。

 そして今世の【戦い】では、蔵人の孫が【読み手】として選ばれた。

 近親者内に【読み手】が重なることは少なくない。紫乃の実家である琴原家も、一昔前は世代ごとに【読み手】を排出してきた。

 だが……今考えれば、あの時の蔵人はまるで、物語か何かの結末で()を知っていたかのような口ぶりだった。

 それを飲み込んで、紫乃は再びあの時代のロンドンを思い出す。蔵人のそばにいた2人の少年――今ジジイな昔馴染みたち。

 

「ああ……あと、変なところでお人好しだったねぇ。2人も妙なのを拾っていたし」

「拾った?」

 

 今でも交流のある彼らの話題が出て来たのと同じタイミングで、再び来客がやって来た。大体この時間帯にやって来る常連客の1人かと思って出迎えたのだが、来店したのは新規だがよく見る顔だったのだ。

 

「えーと、ここでバイトしている黒文字読人って、いますか?」

「いや、今日は休みだけど。君、読人君の友達?」

「はい、そうです」

「お前さん……あぁ、そうか。孫か」

 

 と、昔馴染みの若い頃によく似た少年――檜垣響平を目にした紫乃は、溜息と共に頭を押さえたのだった。

 

「お前さん、龍生さんの孫だろ。長男の息子の」

「はい、檜垣龍生は俺のじいちゃんですけど。知り合いですか?」

「読人が友人になったと言っていたが……いつの間に、そこまで似ちまったんだい」

 

 紫乃の記憶にある若い頃の檜垣龍生とその孫は、頭を抱えたくなるほどよく似ていたのだ。

 最後に彼の顔を見たのは数年前の年賀状の写真。当時小学生だった響平の顔もよく似ていると感じていたが、成長したら本当に瓜二つだ。祖父と似ていない読人とは正反対である。

 響平も、50年前の祖父と同じく【読み手】に選ばれている。龍生の孫が【読み手】だと読人から聞いた。

 タイトルは『銀河鉄道の夜』。前回以前の【戦い】には存在していなかった、ここ50年の間に新しく創造された新しい物語だ。

 

「お前さん、読人に会いにわざわざ岩手から東京まで来たのかい? 新幹線で?」

「空の散歩がてらに寄りました。銀河鉄道に乗って」

「貴方は馬鹿ですか」

 

 昔の口調で、50年前の龍生を叱るようにそう言ってしまった。檜垣家はDNAが仕事しすぎである。

 

「師匠、彼は?」

「桐乃、夏月。この子は、『銀河鉄道の夜』の【読み手】だ」

「初めまして。檜垣響平です」

 

 人懐っこそうな、へらっと緩む表情まで似ていて困ったもんだ。

 折角東京に来てみたので、読人のバイト先に突撃して驚かそうとしたらしいが肝心の読人が休みで宛てが外れてしまった。なので、自分がこちらに来ていることを読人に連絡しようとLINEでメッセージを送ったが……何時間も、「既読」は付かなかった。

 だって、この時の彼はそれどころではなかったから。

 

 

 

***

 

 

 

 場面は変わって、『いせのや』がある商店街。定員の「ありがとうございました~」の声を背中に受けて、チーズケーキ入りの箱を手にした読人は菩提寺へ向かうための市内バスへ乗り込んだ。

 チーズケーキのサイズは4号にしょうか5号にしようか、少し迷った。昨年までは5号サイズだったが、今年は3人+火衣で食べるので5号では大きいかと悩み小さなサイズにしようかと考えていた。しかもフードの中から火衣が7号にしろと囁いて来る、6号が飛んで7号では流石に3人家族では不自然だ。

 なので、耳元の囁きは無視して昨年と同じ5号サイズのホールチーズケーキを購入して黒文字家の墓がある月山寺へと向かった。

 祖父が亡くなってまだ百日も経っていないのに、あの雪の日がまるで遠い昔のことのように思えた。だけども、今の方が祖父を身近に感じているのは、やはり【本】と【戦い】が影響しているためだろうか。

 チーズケーキが傾かないように注意しながら、バスに揺られてこのみ野市の外れにある月山寺近くのバス停で降りる。それと同時に、線香の一本でも持ってくればよかったと感じながら寺への階段を登って行った。

 月山寺に植えられている桜の木も満開だ。春風に揺れる枝から落ちる花弁が白い玉砂利に落ちて、墓苑へ至る白い道に薄桃色の星が光っている。

 初めて1人で月山寺に来たが、平日のお寺は随分と人気がなかった。新年度の1日目、平日の4月1日はこんなものなのだろう。時間も12時50分、昼休みもそろそろ終わりだ。

 

「……何だか、寒くない?」

『山の近くだからじゃないか』

「そうかな」

 

 吹き抜ける春風が、少しだけ冷たく感じて読人は身震いをする。冬の寒さを思い出した。

 雪の中で遺影を抱えながら歩いた道を、今度は火衣と共に祖父の好物であったチーズケーキを持って歩く。次の角を曲がれば黒文字家の墓があるが、そちらの方角からまた、冷たい風が吹いた。

 

「……? 線香の匂いが」

『誰かいるぞ』

 

 冷たい風に乗って鼻を擽った線香の匂い。読人が向かっていた黒文字家の墓には、先客がいた。

 黒いオーバーコートを着た背の高い男性。線香に火を点けて、黒文字家の墓石の前にしゃがみこんでいたその人は、先ほど出会ったあの人だ。

 

「っ、あの人さっきの。あの、おじいちゃんのお知り合いですか?」

「……おじいちゃん? そうか、君が黒文字蔵人の孫だったのか。黒文字蔵人にも、()にも似ていないから気付かなかったよ。それじゃあ、君が『竹取物語』の【読み手】で間違いないかな」

「っ!」

 

 ゆっくりと立ち上がった男性はこちらを振り向いた。どこか、嬉しそうな表情をしている。

 彼がオーバーコートの内側から白い【本】を取り出すと同時に、彼の背後から極寒の冷気が吹きすさんで肌に突き刺さった。そして一瞬で、視界がホワイトアウトしたのだ。

 手に取った【本】の光は、他の【読み手】が持つ物と同じ光のはずなのに……何故か、鋭く痛い光だった。

 

「くれないかい。僕に、かぐや姫を」

「そう簡単に、あげない!!」

 

 春が到来したはずなのに、一気に冬に逆戻り。何も見えない、真っ白に潰された世界。それを切り裂いたのは、燦々と降り注ぐ太陽の如き明るい炎だった。

 霧散した吹雪が火衣の炎に照らされてキラキラと輝き、粉雪はちらほらと読人の頭に降り落ちる。【読み手】の不文律のマナーも礼儀もへったくれもなく攻撃して来たその人が持つ【本】のタイトルは、一目見れば直ぐに理解できた。

 男性の首に回された色白で長く艶めかしい腕。腰から足先にかけて魅力的な曲線が描かれ、絹で織られた純白のドレスが肌を覆う。銀の分厚い外套を身に着けているが温かそうには感じられない。豊かな巻き毛は外套と同じ銀色で、頭の上には氷の結晶で作られたかのような華奢なティアラが乗せられている。

 全身真っ白。銀世界から飛び出て来た美しさ。だけど、その視線は透明な湖に張った早朝の氷よりも冷たく、クスクスと嘲笑う唇だけは真っ赤な色が染まっている。

 氷雪の支配者。冬を司る、冷たい心の女王――彼女の名前は、雪の女王。

 白い【本】のタイトルは、『雪の女王』

 

「失礼。どうやら君は、一瞬で凍ってはくれないみたいだね。流石はかぐや姫の守り人と言うべきか、癪に障るが。では改めまして、【読み手】の礼儀として名乗らせて頂こう。僕は櫻庭(サクラバ)聖一朗(セイイチロウ)、【本】のタイトルは『雪の女王』……パートナーは、彼女だ」

「っ、火衣!」

 

 櫻庭へ抱擁を続ける雪の女王が指を淑やかに動かせば、読人と火衣の足場に切っ先の鋭い氷柱が生えて来た。

 火衣の炎が1秒でも遅れていたら脚から串刺しになっていただろう。同じく、火衣の足元から湧き出て来た炎の壁に突き当たると一瞬にして溶けて気化して、墓苑一体を支配している冷気が少しだけ弱まった。

 だが、櫻庭は少しだけ主導権を取り返しただけで屈するような相手ではなかったのだ。

 か細く擦り切れた音を立てて吹く風が、雪の女王の甲高い笑い声に聞こえる。彼女は櫻庭から離れ、外套からダイヤモンドダストを散らして凍空に塗り替えられた空に舞う。

 絹のドレスのスリットから除く白い脚に見とれていたら、次の瞬間には氷人形にされてコレクションされてしまうだろう。櫻庭の持つ【本】の光が一層強くなると同時に、冷気が一層強くなった。

 

『っ、読人! オレから離れるな!!』

「火衣?!」

「……氷河」

 

 嫌な予感がした火衣が火力を上げようとする刹那、絶対零度の大技が創造された。月山寺そのものを包み込んで、古代の氷河の中に閉じ込めてしまうほどの大氷壁が天高くそそり立ったのである。

 

「……っ、ひ、のえ! 火柱!!」

『うがぁ!!』

 

 だが、大氷壁の中に閉じ込められたのも束の間、内側から氷を突き破る巨大な火柱が立ち昇る。今の最大サイズ、軽自動車ほどの大きさに巨大化した火衣の火柱の向こうからは、鼻の頭を少し赤くした読人が現れる。

 彼はまだ凍死体になっていないし、目も死んではいなかった。

 

「俺は、黒文字読人。【本】のタイトルは『竹取物語』……相棒は、火鼠の衣の火衣だ!」

『よくも、折角のチーズケーキを台無しにしてくれたな!』

 

 蔵人のために買って来たチーズケーキは、箱ごと吹き飛ばされて凍らされて、とっくの昔にぐじゃぐじゃになってしまっていた。



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雪の女王03

 

古賀(コガ)柚子(ユズコ)(25):日本国籍

 社会人3年目。念願叶って初の海外旅行、及び夢見た海外での年越しのためにオーストラリアへ渡航。

 現地のフリーマーケットで『ごんぎつね』の白い【本】を発見し、迷わず購入。小学生の頃、国語の教科書にこの物語が掲載されていたのだが、授業中に泣いてしまったのを今でも覚えている。

 

(ヤン)洪瑶(グヨウ)(35):韓国籍

 一児の父、シングルファーザー。某医療機器メーカーの営業部勤務。本社上層部の密命により、息子の好きな『ジャングルブック』の【本】を手にフィリピンへ向かう。

 息子は免疫系等の難病が発覚したばかり。会社からは、多額の治療費を肩代わりしてもらう契約だった。

 

メアリー・コットン(10):アメリカ国籍

 アメリカの裕福な家庭の娘であるが実は養子。2年前に現在の両親に引き取られたがその愛情に疑問を持っていた。

 香港旅行の最中、養父母の愛情を確かめるべく家出を決行。荷物の中には財布とお気に入りのぬいぐるみと、孤児院から持って来た『ナイチンゲール』の【本】があった。

 

金沐婧(21):中国籍

 中国の貧しい農村の産まれ。金のために日本に密国。暴力団系列の風俗店で働く予定だったが、容姿を理由に低賃金の飲食店の下働きへ回された。

 村のゴミ捨て場に埋もれていた『小公女』の【本】の物語に憧れ、いつか自分も物語のヒロインのように希望を捨てなければ幸せになれると信じていた。

 

 以上が、今年に入って起きた連続凍死事件の被害者たち。【読み手】の名前と【本】のタイトル以外のことは、知る由のない者たちである。

 

 

 

***

 

 

 

 春の陽気に似合わない巨大な氷河が如き大氷壁は、新生活が始まる4月1日に突如出現した非日常だった。

 時間は正午を過ぎていたので、エイプリールフールはとっくに終わってしまっている。嘘を吐いたって、こんな非現実的な嘘なんて誰も信じないだろう……その目でしかと大氷壁を捉えたって、夢だと思って頬を抓るだけだ。

【読み手】以外は。

 

「……【読み手】が現れた。ハインリヒ!」

「ん?」

「行きましょう。【戦い】が、始まっています」

「氷……Ja」

 

 こよみ野市の外れ、小高い山の上にある寺に出現した巨大な大氷壁はハインリヒとビルネの住むマンションのベランダからもよく見えた。気のせいか、窓から吹き込んで来る東風が冷たくなっている。

 

「へっ……くしょ!」

「一瞬で、氷の壁が……」

「氷の【読み手】、か。嫌な予感がする」

 

 勿論、『若紫堂』からも大氷壁の姿を確認できていた。

 冬の匂いを含んだ風が響平の鼻を擽ってくしゃみを一つさせれば、大氷壁を目にした夏月の背筋には嫌な悪寒が襲ってきた。無意識に『燕の産んだ子安貝』を握り閉める。

 そして、桐乃と紫乃の脳裏に蘇ったのは、今年から各国で起きている連続凍死事件だった。

 

「桐乃!」

「はい!」

「桐乃さん、私も行きます!」

「良いよ、乗って!」

「待って。送って行きますよ……これで」

 

 エプロンを脱ぎ捨ててバイクに乗り込もうとした桐乃は、予備のヘルメットを夏月に投げて大氷壁の元へ急行しようとした。

 が、山の麓の民家までをも飲み込んで氷の世界と化している現場へ、バイク一台では無理だろう。

 それを察したのか、それとも本当にただの善意からなのか。響平が開いた『銀河鉄道の夜』の【本】が光り輝き、裏表紙の紋章と同じ空の線路を走るSLが北空の彼方から汽笛を上げて『若紫堂』の前で停車する。

 この白昼堂々と……なんて、呆れている時ではない。響平に誘われ2人は銀河鉄道に乗車した。

 

「……何が起きているって言うんだい。今年の【戦い】は」

 

 明確な殺意と、自身の欲望に従った冷徹さ……かつてのロンドンでも感じたがソレが、だけども、50年前よりも冷酷なソレが紫乃の肌に突き刺さった。

 大氷壁は瞬く間に人々の注目の的となる。スマートフォンを向けて写真・動画を撮る者、SNSを発信する者、現場へ向かおうとする者などが行動を始めていたが、原因の正体を拝むことはできないだろう。

 人々の注目の的となった大氷壁の根本、現場となった月山寺の墓苑は氷点下マイナス二桁の極寒世界に変貌していた。遠目と違わない分厚い大氷壁と、凶器にもなる鋭い氷柱に阻まれたそこは敵の侵入を許さない城壁とも化していたのだ。

 息は白くなり涙も凍り、身体は痺れんばかりの冷たさに襲われてガチガチと歯が噛み合って音を立てる。春の装いではとっくの昔に凍え死にしていただろうが、読人には火衣がいる。炎を滾らせる火鼠の衣が冷気を和らげてくれていた。

 

「火衣、来る!」

『おう!』

 

 氷河に飲み込まれかけた読人が火衣の火柱によって脱出できたのも束の間、間髪入れずに次の攻撃が始まった。

 櫻庭と彼に寄り添う雪の女王が薄っすらと微笑むと同時に、白い吹雪が巻き起こる。雪を孕んだ小さな旋風が実体を持てば、雪でできた狼の群れが飛び出して来たのだ。

 

雪狼(せつろう)、行きなさい」

「っ! 火衣、あれと同じこと、できる?」

『全てはお前の想像力次第だぜ、読人!』

「なら、できる!」

『想像できたら名前を叫べ。名付ければ意味を持つ、真名を核として空想が形と姿を持って顕現する……姿と真名を持った攻撃は、今まで以上の威力になる!』

 

 櫻庭を前にして感じた。彼は、今までの【戦い】と同じやり方で勝てる相手ではないと。

 抽象的では駄目だ。もっと具体的に、形を作って想像して創造したものに名前を付ける。櫻庭と雪の女王がやったように、雪が狼になったようにこちらも炎をナニかに変化させた。

 

鼠花火(ねずみはなび)!」

 

 攻撃名を叫ぶなんて、少年漫画の主人公のようだが不思議と羞恥は感じなかった。読人の中で想像した攻撃に名前を付け、その名前から姿を確立させた攻撃は言わば力を凝縮させた形だ。

 ただの炎と、炎を凝縮させた弾丸ではどちらの威力が上かと尋ねたら断然後者である。雪の狼を真似して、読人に創造された炎の鼠の群れが狼と衝突すると雪と火花が弾け飛んだ。その攻撃はまるで散弾銃だ。

 何発もの弾丸として撃ち出された小さな鼠たちが狼の眉間を貫き、それによって散った粉雪の幕を突き破ったのは一点集中の巨大な炎の針だった。

 

火針(ひばり)!」

氷針(ひばり)

 

 針なんて生温い。櫻庭を貫こうと火衣の背中から発射されたのは巨大な炎の槍だ。高温を凝縮させた、刺されば燃える炎の槍が冷気を貫いたが櫻庭もほとんど同じ物を創造していた。

 こちらは、巨大な氷柱と言えばいいのだろうか。火針とほぼ同じ大きさ・直径の鋭い氷柱が火針を迎え撃ち、熱気と冷気は相殺し合って一瞬にして蒸発してしまう。

 再び白く染まる視界、だけど鼻から入って来る匂いは未だに冬の乾燥を孕んだままだった。

 まだ、雪解けを迎えていない。

 

「正直、簡単に奪えると舐めていたが、それなりにやるみたいだね」

「これでも、いくつかの【戦い】を潜り抜けて来ましたから! 貴方みたいに不老不死を欲した人や、【本】の能力に溺れた人と」

「不老不死を欲した、か……少し、違うな」

 

 櫻庭の頬を撫でた白い手が宙を舞い、地面からは氷の剣山が飛び出て来て危うくスニーカーが串刺しになるところだった。寸でのところで『斎藤』さんの墓石の土台へと、避難のために失礼した。

 

「僕が欲しいのは、不老不死なんかじゃあない。欲しいのは、『竹取物語』に眠る美しい姫――かぐや姫だ」

「え?」

『かぐや姫……?』

「なよ竹のかぐや姫……しなやかな竹の、揺れ光る輝く姫」

「っ!」

 

 最初に創造された大氷壁が櫻庭の背後で動き出し、氷の塊からバラバラと氷の粒が降り落ちれば、氷は巨大なトナカイの姿を写し取る。無数の氷柱が垂れ下がった角が読人たちへ向かって突進してくれば、最大サイズまで巨大化した火衣が受け止めた。

 

「君のお祖父さんが優勝者となった50年前の【戦い】……幼い頃の僕は、その【戦い】の終結をこの目で見た。最後の2人として残った黒文字蔵人と、僕の父による最後の【戦い】の勝者は黒文字蔵人だった。そして、優勝賞品を手にした彼は、君が持つ『竹取物語』の【本】でかぐや姫を召喚した。勝者へ不老不死の妙薬を授けてくれる、美しい姫をね」

 

 氷が揺れる冷たい音をBGMにして櫻庭は語る。一点の曇りのない、冷たい目で彼は少年のような表情で言葉を、“想い”を紡いだのだ。

 

「闇をかき消してしまうほどの眩い光の中で、僕は見たんだ……コノ世のモノとは思えない美しさを、太陽も月も星も、どんな光も霞んでしまうほどの美しい光の輝きを見にまとった彼女を。たった一言、「美しい」としか表現することのできない圧倒的な美を持った姫だった……当時5歳の僕は、彼女に心を奪われた。否、今でも奪われ続けているよ。かぐや姫に!」

 

 初めて、櫻庭が自身の言葉に感情を込めた。

 淡々と、まるで感情を凍り付かせたかのような口調で胡散臭い言葉を並べた印象を持った彼が初めて、語尾を上げた。熱っぽい愛の告白の如き言葉を叫んだのだ。

 50年前に目にしたかぐや姫に心を奪われた。否、今でも奪われ続けている……当時5歳だった男児は、美しい姫に心を捕らわれ続けている。

 

「恋を、してしまったんだ……かぐや姫に。年齢を重ねても、50年の月日を経ても、どんな女と寝てもこの胸のざわめきが収まることはなかった! そうだよ、僕は! 愛しているんだ……彼女を」

「……はぁ?」

『オイ読人、コイツ……ヤバい奴だ』

 

 正直、読人も火衣と同じ感想しか抱けなかった。ヤバい奴だ。

 櫻庭聖一朗と言う男は、黒文字蔵人が召喚した『竹取物語』の主人公・かぐや姫に恋をした。

 幼い頃の初恋は未だに彼の心を捉え続け、50年間拗らせ、60歳をあと少しのところで……狂愛にレベルアップしてしまったのだ。

 確かにヤバい奴ではあるが、こんな理由で【戦い】に身を投じている人間の方が危険ではないかと、読人の脳内で警告音が鳴る。富や名声のために不老不死を求める者よりも、【本】の能力を己の欲望のために使おうとする者よりも、頭が完全にイカれてしまった者よりも。

 初恋とか言う、純情で純真な理由でここまで冷徹になれる人間の方が、遥かに危険ではないだろうか。

 

「初恋の人に、もう一度会いたいってこと? あの人の動機は」

『言葉にしたら随分と綺麗な響きだな』

「手段は全く、綺麗じゃないけどね! むしろ、自分を正当化していて厄介にも見えるよ」

『理由が綺麗だから、大義名分で何でもできるんだろう!』

 

 櫻庭は自身の心の内を吐露して墓苑と氷壁の中心で愛を叫ぶと、火針が氷の巨大トナカイを貫いて撃破する。

 読人は【本】を持ち直してベストのボタンを全て閉めた。初恋の女性に会いたいと言う、死期を悟ったご隠居のような願いは叶えさせられない。

 次の一手は、こちらが先に動く……【本】の光を一層輝かせて、読人も火衣も臨戦態勢に入ったその時、上空から汽笛が聞えて来た。見覚えのあるSLが大氷壁へ盛大に突っ込んで来たのである。

 

『えー、前方突っ込みますので、お客様はしっかりとシートベルトをお締め下さい』

「車掌さーん、この列車吊革しかなかったわ」

「きちんと創造しておきなさい!」

「え、え、え、ええええぇぇぇーーー!?」

 

 読人には聞こえなかった3人分(+創造された車掌さん)の声がドップラー効果を生み出して、大氷壁へ突っ込んで行った。

 

「……響平?」

『何しに来たんだ、アイツ』

「【戦い】の最中に余所見とは、余裕だね」

「っ!!?」

 

 住宅地の方から暴走して来た銀河鉄道に気を取られていたら、既に背後を取られてしまっていた。雪の女王によって、極寒の抱擁が贈られたのだ。

 脳まで凍りつきそうな冷たい吐息が読人の耳へと伝わる。細く白い身体が背中に密着して豊満な胸が当たるが、柔らかさよりも刺さるほどの冷たさしかない。艶やかな仕草で腕が回されて胸をまさぐられても、指先が触れた部分から氷が張って行く。

 本当の意味で、背中が凍りついたのだ。

 

『読人!!』

 

 雪の女王が密着した背中に感覚がない。頬に触れた冷たい指先から霜が付着して、嘲笑が降る髪には氷柱が垂れ下がり始める。

 読人の氷像が、できつつあった。

 

「勢いに任せて突っ込んじゃって、ごめんなさい」

「分ればよろしい」

「……寒い」

 

 一方、盛大に大氷壁へ突っ込んで来た銀河鉄道はと言うと……響平が桐乃に説教を食らって謝っていたところだった。

 大氷壁へ衝突事故の痕跡を残した銀河鉄道は無傷であったが、乗客はしっかりとその衝撃を受けてしまっている。これでも、安全装置でも作動したのか、リアルの衝撃よりも大分軽減されたけれど。

 夏月が氷の世界に降り立てば、冬に逆戻りした冷たい風が身に染みた。それと同時に、女王の世界に侵入して来た闖入者を出迎えるべく、雪狼の群れが降り積もった雪から湧き出て来たのだ。

 

「早速敵のお出ましか」

「嘘吐きの鼻!」

「燕が産んだ子安貝!」

「……」

 

 響平が【本】を開くよりも、桐乃と夏月の方が早かった。

 ピノッキオの鼻のトンファーが伸びて雪狼を砕き、燕が飛翔したと同時に出現した薙刀が同じく斬り・薙ぎ払う。そして、ちまちま相手をするのは面倒だと言わんばかりに創造された、『ピノッキオの冒険』のモンストロによって雪狼は一掃されてついでに進路が拓けてしまった。

 

「行こう!」

「はい!」

「……はい」

 

 女性陣の勢いに押されかけた響平も、彼女たちを追って氷の欠片が散らばる石畳を駈け出した。大氷壁の中心部となっている墓苑では、【戦い】に興じている2人の姿が確認できる。

 季節外れの、それでいてこの場ではとても温かそうな黒のオーバーコートを着た男性と、彼の肩に白魚のような白い手を乗せた雪の女王。そして……大氷壁に磔刑の如く磔にされていたのは、真っ白な霜が纏わり付いた読人と火衣だったのだ。

 

「っ、読人!!」

「「読人君!?」」

「邪魔をしないでおくれ」

 

 口調は柔らかでも、声質があまりにも冷たい声が発せられたと同時に、駆け出した夏月の前に氷の茨が生い茂り進路を塞ぐ。今度の氷は、雪狼のように斬られても霧散してそのままではなく、直ぐに再生して茨には氷のバラが咲いた。

 これで、邪魔者はいない……櫻庭の腕が真っ白になった読人に伸びて『竹取物語』を奪おうとしたが、霜まみれの身体が微かに動き必死に右腕の【本】を庇ってもがく。

 まだ、少しの体温が残っている。まだ死んでいないから、抵抗ができる。

 

「がっ……はぁ」

「冷たいかい? 苦しいかい? でも、まだ死ぬほどの寒さでじゃあない。安心しなさい、もう少ししたら感覚も脳も麻痺を起こし、温かく気持ちよく錯覚して苦しむことはない。そのまま、気付けばアノ世だ」

「はぁ、はぁ……っ」

「かぐや姫は、僕が守ろう」

「……や、やぁ……だっ」

 

 身体に力が入らない、頭も正常に動かない。櫻庭の声も、今の読人には遠くから叫ばれる木霊のようにしか聞こえない。

 そんな状態でも『竹取物語』を渡すまいと必死に手を動かそうとするが、小さな氷の欠片が落ちるだけで動かすことすらできなくなっている。火衣も、小さな身体を氷に飲み込まれて閉じ込められてしまっている。

 これが、絶体絶命と言うことか。昔、四文字熟語を間違えて小テストで×をもらったのを、何故かこんな時に想い出した。

 

「そうだ、想い出した。最期に一つだけ、僕は君に謝らなければならないことがあったんだ」

「……?」

 

 櫻庭と読人、お互いの顔が至近距離にまで迫った。

 午前中、橋の上で起きた邂逅のように。今、空に散るのは温かい風に乗った桜吹雪ではない。極寒の風の中で遊ぶ氷の粒だった。

 

「僕なんだ。30年前、君の伯父を……黒文字書人を殺したのは――」

 

 殺害の告白と共に、白い息が口から洩れる。

 今日は何月何日なのか錯覚してしまう季節の中で、櫻庭はその告白に感情も何も込めなかった。

 本の一文をただ朗読するだけの口調でそう、言ったのだ。




黒文字書人、享年17歳


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雪の女王04

「……っ、? ……??」

「今日は4月1日だが、もう正午も過ぎた。嘘ではないよ。30年前、僕は黒文字書人を殺害してしまった」

 

 何て、言った?

 今、櫻庭は何を、どんなことを、一体どうしてそんなことを言ったのだ??

 理解できなかった。否、櫻庭が口に出した一言一句の単語の意味も、それが作り上げた一文の意味は理解できる。

 しかし、それを咀嚼して飲み込めなかった。自分に降りかかって来たモノだと言うのに、その言葉は身に沁みることはなく、読人の周囲をぷかぷかと漂っていた。

 こんな時に、こんな告白をしたこの男のことも……理解できなかった。

 30年前、君の伯父を……黒文字書人を殺した――

 目の前の男、櫻庭聖一朗が。

 読人の伯父であり、読人の母の兄であり、蔵人の息子である黒文字書人を……。

 

 殺した。

 

「僕もまだ若かった。感情で先走り、気が逸り、未熟故に過ちを犯した。本当に、申し訳なく思っているよ」

 

 櫻庭は他人事のように、反省の気持ちなどこれっぽっちも感じられない声色でそう、言ったのだ。

 

「……」

「さあ、これで僕の懺悔は終わった。今日、君の家の墓に来たのは謝罪と、感謝と、宣戦布告のためだ。黒文字蔵人は50年間、姫の身を狙う暴漢から【本】を隠し通してくれた。それだけは感謝する」

「……」

「今世の最後の1人は、かぐや姫の祝福を受けるのは……この僕だ!」

「……っ!!」

 

 櫻庭の腕が磔にされた読人に伸びる。

 彼が抱えている【本】を奪い、「めでたしめでたし」と言いながら表紙を閉じれば『竹取物語』は彼の物になる。後は今年の12月31日まで【戦い】を勝ち抜けば良い、最後の1人の優勝者としてかぐや姫と対面するだけだ。

 白い息の向こうに見える櫻庭の目は勝利を確信している、低体温症で虫の息となっている読人なんて既に眼中にはないようだった。

 だが、目の前でまだ息が残る獲物を無視して勝利の美酒に酔い痴れるなんてなんて考えは甘い。犠牲になったチーズケーキの何十倍も甘い話である。

 櫻庭との距離が最も近付いたその瞬間、読人は頭を力一杯剥がして渾身の頭突きを食らわせたのだ。

 しかし、身体の芯まで冷え切って力の抜けている頭突きなど大したダメージにはならなかった。櫻庭が小さく舌打ちをすると、読人の身体は蹴り飛ばされ、大氷壁から無理矢理剥がされる。雪が積もった地面に転がされて、痛みと寒さに荒く息を吐きながら立ち上がろうとするが、再び上質な革靴で蹴られた。

 蹴られた拍子に、夏月からもらったヘアピンが前髪から外れて地面に転がる。凍って脆くなったプラスチックの三日月は、櫻庭に踏まれてパキンと音を立てて粉々になってしまった。

 

「がっ、はぁ……はっ……!」

「手間をかけさせないでくれるかい」

「っ、あ、はっ……がぁ!」

 

 身体の下に【本】を隠してうつ伏せに転がる読人へ再び櫻庭の左腕が伸びたが、読人はその左腕に思いっ切り噛み付いたのだ。

 手負いの獣でもここまで醜く、無様な抵抗はしないだろう。指一本も動かない極寒の中で、頭を大きく振ってオーバーコートの厚い生地に大して鋭くもない歯を立てる。残る力を全て歯に集中させるが如く、死にかけの呼吸を繰り返して櫻庭の腕を噛み続けた。

 抵抗を続けている訳ではい。これが攻撃になるなんて思ってもいない。

 けれど……この男を野放しにしてはいけないと、本能的に察したのだ。

 雪と氷で真っ白になって、体温を奪われて真っ青になった読人が櫻庭を睨み付ける。そんな読人を一瞥した櫻庭は、しつこく噛み付いている少年の身体を再び蹴り飛ばして左腕から引き離し、『雪の女王』の【本】の別なページを開く。

 しつこい子供が鬱陶しくでもなったのか。雪の女王が自身の下に戻り、肩に腰かけたと同時に別の創造を始めようとした……今度こそ、こんな呆れる抵抗をさせないために、体中の血を凍りつかせんばかりの冷気を浴びせてやろう。

 

「殺しはしないよ。()はね。仮死状態になるだけだ……凍死するのは、僕が『竹取物語』と紋章を手に入れてからにしてあげよう」

「……」

 

 もういい加減、終わりにしようとした櫻庭だったが、この場にいるのは2人の【読み手】だけではない。

 読人を守るように、彼と櫻庭の間に滑り込んで来たのは氷の中から脱出した火鼠の衣――炎の勢いが衰えつつある、火衣だった。

 

「どきたまえ」

『嫌だ』

「どけ」

『嫌だ!』

「ただの創造物が、【読み手】に義理立てでもしているつもりか」

『義理立てじゃあない、拒否だ……お前は、嫌だ!』

「……」

『オレたちは、他の【本】とは少し違う。創造能力として創造されたオレでさえ、こうやって意志と感情がある。物語の登場人物モドキの意志は、『竹取物語』の【本】――かぐや姫の世界の意志でもある! お前が惚れている姫の世界は、お前を拒絶する! お前は嫌なんだよ!!』

 

 火鼠の衣は、背中の炎の針が鎮火してしまうほどの吹雪の中で、櫻庭を拒絶した。

 小さな身体で自身の背後で倒れている読人を守りながら、『竹取物語』の意志を告げた……櫻庭聖一朗は、嫌だと。

 

『お前よりは、甘ちゃんでお人好しで、思春期で悩んで惚れた女の前で恰好付けたいこいつが良い! オレたちは、黒文字読人の【本】だ!!』

 

 残る力を振り絞って炎を滾らせた火衣を前に、櫻庭は怯みもせず戸惑いもせずただ黙って火衣と読人を見下していた。雪の女王微笑を浮かべて頬擦りしても、その表情は変わらない。

 火衣の……『竹取物語』の拒絶と同時に、再び、大氷壁が砕け散った。

 吹雪を汽笛でかき消し、いくら破壊しても絶えず出現する氷の茨を一気にぶち壊した銀河鉄道が背後に停車した。それと同じタイミングで、また別方向から氷の砕ける音がすれば、巨大なスズの兵隊が乱入して来て櫻庭を取り囲んだのである。

 別に読人を助けるつもりはなかったが、流れ的に現場に到着して合流してしまったハインリヒとビルネだった。

 

「読人君!」

「おじさんさぁ、こんな風に高校生を殺しにかかるって。大人としてどうだっきゃ」

「アンタがどこの誰かは知らねぇが、黒文字読人はオレたち得物だ」

「『竹取物語』は、渡しません。ワタクシたち、アーベンシュタインの前で横取りはさせません」

「二、三お尋ねしたいことがあるのですが……過去四件の凍死事件の犯人は、お前か」

 

 桐乃が自身の【本】を手に櫻庭を問い質そうとすれば、彼女の頭上には船をも飲み込んでしまうモンストロが創造され、この場は銀河鉄道と巨大なスズの兵隊と化け物鯨に囲まれてしまう。

 前者3人は嫌な予感に突き動かされ、読人の身を案じた。後者2人は、味方と言う訳ではないが櫻庭が『竹取物語』の【本】を手にするのを良しとはしていない。

 この場にいる他の【読み手】は皆敵だ。火衣が「嫌だ」と拒絶を示している今、櫻庭に分が悪すぎる。

 

「……疲れる【戦い】はしないようにしているんだ。歳だからね。『竹取物語』は、一旦君に預けよう。僕のかぐや姫がどこぞの馬鹿者に辱められないように、【戦い】を勝ち抜くことだね。それと、僕の能力をもう一つ教えておこう」

「……?」

「『雪の女王』の物語の、悪魔が作った鏡を知っているかい? 美しいものを憎たらしく映す、何もかもを歪んだ姿にする鏡のことさ。カイはこの鏡の欠片が目に刺さり、心が歪み、ひねくれた。僕はその鏡を想像して創造したんだ」

 

 殆どはっきり機能していない、少しでも気を抜けば意識が彼方へ消えてしまいそうな読人の耳に櫻庭の声が届く。櫻庭の冷たい声に冷たい手、そして……氷のように澄んだ双眸には、冷たい光が宿っていた。

 

「創造能力・悪魔の鏡の欠片。僕はこの欠片を両目と心臓に刺している。この欠片のおかげで、僕は良心とか優しさとか、人道とか言う生温い感情を抱かなくなっている。冷酷に冷徹に冷静に、【戦い】に……かぐや姫と再会することにだけ、集中することができるんだ。僕は本気だ。かぐや姫を手に入れるためならば……殺人だって厭わない。勝つのは、僕だ」

 

 その言葉を残し、雪の女王が呼んだ北風に連れられて櫻庭は姿を消した。吹雪の中で佇む氷の殿の紋章を持つ【本】がそっと閉じられ、過ぎ去った冬の物語は一旦幕が閉じられたのだ。

 

「読人君!!」

「読人!」

『読人! 目ぇ開けろ、オイ!』

 

 冬に塗り潰された春が戻って来た。

 大氷壁も降り積もった雪も、雪解け水など残さずに()()()()()()にされて綺麗サッパリ消え去った。しかし、ひっくり返った箱の中のチーズケーキは、ぐちゃぐちゃになったままでもう食べられない。三日月のヘアピンも粉々になった。

 駆け寄って来る声と、必死に炎を燃やす火衣の声が耳の奥で木霊する中で……読人の頭は無意識に伯父の姿を思い出していた。

 写真でしか、遺影でしか見たことのない、祖父にそっくりな顔をした少年は、母によく似た表情で読人に笑いかける。

 黒文字書人

 そこで、読人の意識は途切れたのだった。

 

 

 

***

 

 

 

 神田川沿いの桜並木が艶やかで幻想的な姿へと変貌する。闇空を背景にした桜は、提灯の橙色の灯りに照らされ昼間とはまた違う姿を魅せていた。

 満開の夜桜に足を止めた櫻庭は左腕に目を向けた。長年愛用している黒のオーバーコートは、本来ならば両腕に大きめのボタンが付いているのだが、左腕のボタンをどこかで無くしてしまっていた。

 その左腕に、解れた二つの穴ができている。コートとシャツの袖を捲って素肌を曝せば、男のものにしては白い肌に薄っすらと赤く噛み痕ができている。

 コートの穴は、読人の歯によって付けられた。冬用のオーバーコートの生地を噛み抜いて貫通させるなんて、一体どれだけの力を込めて櫻庭に噛み付いていたのか。

 怪我とも言えない噛み痕を指でなぞった櫻庭は小さく笑みを浮かべ、神田川に垂れる桜の枝を見上げた。

 

「黒文字蔵人にも、その息子にも似ていないと思ったが……やはり、血筋か。コートは買い替えようと思っていたが、やめるとしよう。買い替えるのは来年だ」

 

櫻庭聖一朗

【本】のタイトル:『雪の女王』

所有する紋章の数:五個

・『雪の女王』

・『ごんぎつね』

・『ジャングルブック』

・『ナイチンゲール』

・『小公女』

備考:良心と人道を捨て去った、初恋こじらせたモンスター。

 

 噛み付いて抵抗して来た読人の目が、死に間際の抵抗を見せた書人の目と……30年前に見た目と、よく似ていた。




四月馬鹿に初恋馬鹿
同じ馬鹿なら求めにゃ損々


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黒文字書人

 もしもその人が身近にいたならば、一体どんな存在になっていたのだろうか?

 黒文字(クロモジ)書人(カキヒト)――読人の伯父。母の兄で、蔵人の息子。享年17歳。

 読人が産まれる前に亡くなった伯父は、過去の人物であった。想い出の中の存在。顔を知っているだけの伯父さん。血が繋がっているだけの赤の他人だ。

 だが、その伯父を殺したと櫻庭の口から告げられたその瞬間に、頭の中がぐちゃぐちゃになった。

 ぐちゃぐちゃになった頭のままで身体は冷え続けて、読人の意識は途切れた。写真でしか見たことのない、書人の顔が脳裏に過りながら。

 

「…………、……っ?!」

『気が付いたか?』

「火衣! あの、人は……? 櫻庭は?」

『落ち着け。あいつは消えた、お前は生き残った。それで、ここは若紫堂だ』

「若紫堂……」

 

 妙なデジャブを覚えたのは、今の読人の状況がつい3か月前と同じだったからだろう。『若紫堂』の同じ部屋で布団に寝かされて、目が覚めたら火衣がいた。

 そして、朝顔が描かれた襖が開けられて色々な物が乗せられたお盆を手にした紫乃が入って来た。

 

「師匠……」

「今度は、驚かなかったようだね。身体はどうだい? 熱や怠さは?」

「大丈夫、です」

「そうか。異変を感じたら直ぐに医者にかかりなさい。凍死寸前だったんだ」

 

 読人の体調を確認した紫乃が、お盆に乗せられていた熱めのおしぼりを手渡してくれた。だが、おしぼりで顔を拭いても一向に頭の中も顔もスッキリしない……理由は分かっている。

 櫻庭の告白が原因だ。

 

「師匠」

「何だい」

「伯父さん……黒文字蔵人の息子の、書人さんを知っていますか?」

「……」

「知っているんですよね?! どうして死んだか、何故死んだか、何で殺されたか……!」

「……知ってはいるけれど、お前さんはそれを、私の口から聞きたいのかい?」

「あ」

「お前さんに、過去の真実を語らなければならないのは、私じゃあない」

 

 誰かが読人に過去を語るのか……その“誰か”は、もう理解しているはずだ。

 そう言った紫乃は、お盆に乗せられたピッチャーから冷たい緑茶をコップに注いでくれた。おしぼりと引き換えに緑茶を受け取って一気に飲み干せば、まだたくさん残っていた言いたいことが、一旦喉の位置に留められた気がした。

 

「これだけは言っておくよ。どんな酷く哀しい過去でも、それはすでに起きちまったことだ。戻せないしやり直せない、ただ飲み込むしかない。だけどね……そんな過去でも、これからの(しるべ)になってくれるはずさ」

「導……」

「考えなさい。お前さんが書人さんの真実を知って、それからどうするかを」

「……」

「……台所の冷蔵庫に、蔵人さんが好きだったケーキが入っている。もっていきなさい」

「え?」

「今更意味がないかもしれないけれど、私から蔵人さんへの誕生日プレゼントだよ」

 

 初めてあげたけどね。ぬるくなったおしぼりと空になったコップをお盆に乗せた紫乃は、少し照れ臭そうに早口でそう言って、さっさと部屋を出て行ってしまった。

 そうだ。結局、蔵人の誕生日のために買ったチーズケーキは、ひっくりかえってぐちゃぐちゃになってしまったんだった。

 

「……火衣」

『どうした?』

「俺、伯父さんは、書人さんは事故で亡くなったって……ずっと、そう聞いていたんだ」

 

 遺影の中で優しく微笑むその顔は祖父に似ていたが、祖母にも母にも似ていた不思議な人だった。

 もし、彼が生きていたら……蔵人によく似た、上品で美しい紳士となっていたら、読人にとってどんな伯父だったのだろう。

 きっと優しくて、凄くカッコいい。蔵人や母よりも読人に甘くて、強請ったら綺麗な車でドライブに連れて行ってくれる大好きな伯父さん。かつて同級生が語った優しい伯父像を元に、大人になれなかった伯父を空想してみたことはあったが、長くは続かなかったのを覚えている。

 現実味がなかったからだ。

 読人にとって「伯父さん」という存在は、最初からいなかったし、いてもいなくても大きな変化はない存在だと思っていたからだ。

 

「書人さんが17歳で亡くなったって聞いた時、何故って感じた。どうして、そんなに若くしてって。でも、彼を語る母さんやおばあちゃんが凄く悲しそうだったから、みんなを悲しませちゃいけないってあまり口には出さなかった……俺は、書人さん自身に対して、親しみの感情は何も抱かなかった。だって、知らない人だったから」

『……だけど、今はどうだ?』

「頭の中がぐちゃぐちゃで、お茶を飲んだはずなのに口の中がカラカラに乾いて……喉の辺りが、ざわざわする」

『悲しいってことだろう、つまり』

 

 火衣の言葉で実感した。

 そうだ、自分は悲しいんだ……伯父が殺されたと聞いて、悲しいし悔しいし、怒っているんだ。

 蔵人が亡くなった時、読人は悲しかった。

 書人を殺したという櫻庭の言葉を聞いた今、この瞬間も悲しいんだ。そして、悔しいんだ。腹立たしいんだ。

 書人について何も知らなかったことが。櫻庭に対して何もできなかったことが。何もできなかった自分が。

 

「俺、思った以上に書人さんのこと、好きだったみたい。会ったことがなくても、彼のことを知らなくても、俺の伯父さんだったんだ。おじいちゃんの、おばあちゃんの、母さんの大切な人だったんだ」

『じゃあ、行くか』

「うん」

 

 過去を……黒文字書人を知る者のところへ、彼の真実を尋ねに行く。

 紫乃が言っていた彼女からの誕生日プレゼントは、ひっくり返ってしまったケーキと同じ『いせのや』のチーズケーキ。読人が買った物よりも一回り大きい6号のホールケーキが、箱のまま冷蔵庫に入っていた。

 チーズケーキを持って、紫乃に頭を下げてから読人と火衣は帰路に着いた。

 もう時刻は夕方だ。思った以上に眠っていた彼の背中を見送った紫乃は、読人が寝ていた部屋と廊下を挟んで反対側にある、屋の夕顔の襖を開ける。そこには、ぬるくなったお茶と粗方消費されたお茶菓子と共に、5人もの少年少女が詰め込まれていたのだ。

 

「読人は帰ったよ」

「どうでした?」

「こちらがあまり口出ししなくてもよさそうだね」

「良かった……」

 

 無意識に小さく呟いたのは夏月だったが、何が良かったのか自分でもよく分かっていないようにも見えた。

 櫻庭が【戦い】を中断させて、ついさっきまで雪だるまのように冷たくなっていた読人を『若紫堂』に運び込んだのは、現場にいたその他の面々である。

 成り行きで読人の搬入を手伝ってしまったハインリヒとビルネもいた。落ち着いてお茶を手にした時に、響平に「誰?」と問われて少し焦っていたのを桐乃と夏月にしっかり目撃されていた。

 

「読人に会いに来たけど、今日は会わない方が良さそうっスね」

「響平、お前さんも早く岩手にお帰り。龍生さんたちを、あんまり心配させてやりなさんな」

「はーい」

「夏月も送ろうか?」

「いいえ、大丈夫です」

「では、私たちもお暇します。シノ様、お茶とお菓子ごちそうさまでした。美味しかったです。帰りましょう、ハインリヒ」

 

 マンションで待っている執ことに連絡して、途中まで迎えに来てもらおうと座布団の上から立ち上がったビルネに続いてハインリヒも立ち上がら……なかった。両手を膝の上に乗せたまま、首を傾げたビルネに彼はこう言ったのだ。

 

「……足が痛い」

 

 慣れぬ正座で痺れていた。

 

 

 

***

 

 

 

「ただいま~」

「お帰り」

「三豚家の豚まん、今日で最後だって言うから買ってきちゃった。夕飯前だけど、食べる?」

「あ、うん」

「おじいちゃんにもお供えしちゃおっか」

「……母さん」

「なーにー?」

「書人さんって……殺されたの?」

 

 4月1日午後6時21分頃、通勤に使う駅にあるとんかつ屋の袋を手に母が帰宅した。袋の中身は冬季限定の豚まんである。

 スーツを着替えずに豚まんを温めよう台所に立つ母へ、思い切って声をかけてみればべしゃっという音が台所から聞こえた。母が豚まんを床に落とした音だった。

 

「読人……っ、どうして」

「事故じゃ、なかったんだ」

「……っ、誰から聞いたの?」

「お店に、若紫堂に来たお客さん」

 

 まさか書人を殺害したと言う張本人から聞いたなどと言えずに適当に濁したが、母は観念したような表情で(かぶり)を振る。

 落とした豚まんを拾って皮のカスが付いてしまった床を拭いて、豚まんの床に接してしまった皮は千切って捨てた。豚まんの処理を無言で行ってから読人へ座るように促した後、お気に入りのカップに紅茶を淹れる。

 ブルーオニオンのマイセンは、結婚祝いに祖父母から贈られた物。自分へのご褒美や、何か特別なことがあった日にだけ使用される母の宝物のカップだ。

 カップに口を付けて紅茶を一口飲んだ後、遂に母は閉ざしていた口を開いたのである。

 

「書人伯父さんのことは、お父さんやおじいちゃんたちと決めたの。読人には話さないでおこうって。でも、知ってしまったのね……」

「何があったの?」

「……30年前の3月21日、うちに強盗が入ったの」

「強盗……」

「その日は、兄さん――書人さんの17歳の誕生日でもあったわ。急に、冬に逆戻りしたかのように寒くなった日だった。あの頃、母さんたちは横浜に住んでいたわ。母さんがまだ中学生だった頃よ。その日は前々から外出する予定で、お祖父ちゃんの知人の方が来日して、都内のホテルであちらの家族も交えてみんなで食事をすることになっていた……書人さんの誕生日祝いもかねて」

 

 その年の春一番は早かった。うららかな突風の到来と共に冷たい季節にさよならを告げたはずなのに、冬が踵を返して帰って来たかのように関東地方に寒波が到来した。

 彼女は、当時は中学生であった栞はそのことをよく覚えている。急な気温の変化で体調を崩さないようにと学校の教師が言っていた。栞本人は何ともなかったが、書人が急な寒さで風邪をひいて高熱を出してしまったのだ。

 

「書人さんが風邪をひいてしまったら、食事会は中止にしようかとおじいちゃんが言ったんだけど、書人さんは自分に構わずに行ってこいと言ったの。だから、母さんたちは書人さんを置いて食事に出かけた……それが、兄さんを交わした、最期の会話だった」

「……」

 

 未だに、その時の会話を覚えている……否、忘れるはずがない。

 その日の食事会のために、ドレスコードがあるホテルのレストランへ来店するために買ってもらった、素敵なワンピースを書人に見せようと部屋を訪れたのだ。風邪が伝染るよと注意されたが、それでも彼は苦笑しながら妹を部屋に招き入れてくれた。

「似合う?」と尋ねれば、兄は「似合う」と答えてくれた。

「可愛い?」と尋ねれば、次は「可愛い」と言ってくれた。その受け答えが雑、適当だと文句を言えば少し掠れた声が笑った……その声で、書人は栞を送り出してくれた。

 

「食事を終えて、お土産にケーキを買ったの。誕生日ケーキ。それを持って、家に、帰ったらね……家の前には、パトカーとたくさんの野次馬がいた」

「パトカー……」

「ええ……家に強盗が入って、兄さんが殺されていた」

「……」

 

 栞の表情が曇ると同時に、彼女の脳裏に当時の記憶がフラッシュバックする。書人に関する記憶の中で、これだけは忘れてしまいたい……けれど、忘れられない記憶。

 寒い黒色に浮かぶ赤いパトランプ。自宅に押し寄せた近所の野次馬。引っくり返された本棚。散乱したたくさんの本と紙。その上に落ちた、赤い斑の染み……赤黒い血痕に囲まれた、兄の身体。

 外出前に見送ってくれた書人は、確かクリーム色のカーディガンを着ていたはず。なのに、冷たくなった身体が羽織っていたのはクリーム色と臙脂の二色に変貌していた。

 微かに現場を覗き見てしまった当時の栞がそう感じてしまうほど、書人の遺体は血に塗れていたのだ。

 

「犯人は、うちが留守だと思って侵入して、盗みを働いていたら兄さんに気付かれて……そこで、揉み合いになって刺されたっていうのが、警察の見立てだった。死因は出血死。刺された後に、凄く苦しんで亡くなったんじゃないかって……」

「母さん、もう……」

「でも、兄さんは犯人に抵抗したんだって。そのお陰で、犯人の物と思われる証拠もあったから、直ぐに見付かると思っていたのに……」

 

 読人の静止も聞かず、30年前の記憶を必死に掘り起こす栞は、震える声で語り続けた。

 母は泣いた。栞も、泣いた……やっぱり、書人だけを残さずに食事になんて行かなければ良かったと後悔した。蔵人は、警察署のロビーで泣く栞を抱き締めて胸を貸してくれた。

 蔵人の表情は見えなかったけれど、栞を抱き締める腕が微かに震えていたのを今でも覚えている。ぎゅっと抱き締める腕の力は、いつもよりも強かった。

 

「……犯人は、逮捕されたの?」

「……」

 

 栞は小さく頭を振る。

 多くはなかったが、現場には証拠が残っていた。それでも捜査は難航してしまい、何年経っても犯人は見付からなかったのだ。

 

「当時の強盗殺人の時効は25年。時効廃止の目前に、成立してしまって……事件は、未解決になってしまったの。あれから、兄さんと暮らした横浜には居辛くなって、奥島さんの紹介でこよみ野の今のお祖父ちゃんの家に引っ越したの。お墓も、こっちに建てて」

「そう、だったんだ……」

 

 祖父母は、何を思って息子が入る墓を建てたのだろう。自分たちよりも先に、息子が死後の住処に引っ越すことはどれだけ悲しかっただろうか、無念だっただろうか。

 

「強盗は、何かを探していたの?」

「警察の捜査では、金銭目的で盗みに入ったんだろうって。入った先がおじいちゃんの書斎で、そこで金目の物を物色していたところで兄さんに見付かって。そのまま、書斎にあった本を何冊か盗んで逃げたみたい」

「本……その本、タイトルは解る?」

「さあ。おじいちゃんはたくさん本を持っていたから。タイトルは覚えていないけれど……そうだ、白い背表紙の揃いの本だったわ」

「っ!」

 

 白い背表紙の【本】……これで、繋がった。30年前、黒文字家に押し入った強盗というのは櫻庭で間違いない。彼は蔵人の持つ【本】を手に入れようとしたのだ。

 櫻庭は、かぐや姫に恋をしたと言っていた。愛した、焦がれた。30年前、それが一度頂点に達して、蔵人が持つ『竹取物語』を手に入れようとしたのだろう。白い【本】目当てに書斎に侵入したが、書人と鉢合わせて揉み合いになり、ナイフで刺した。

 その後は動揺したのだろうか、書斎の中で目に付いた白い【本】を手あたり次第盗んで逃げた。もしかしたら、盗まれた【本】の中には蔵人が手にしていた『古事記』もあったかもしれない。

 読人の頭の中で、バラバラだった情報がピースになって一気に形作られた。

 書人が亡くなったのも、櫻庭が書人殺しの犯人だと告白したのも、蔵人の『古事記』の【本】が見当たらないのも。ついでに、蔵人の家が築30年ほどなのも、全てが一つの事件に結び付いたのだ。

 

「これが、兄さんの死の真相よ」

「ねぇ、母さん」

「なに?」

「もし、もしだよ……今になって、犯人が名乗り出て来たら、どうする?」

 

 時効が成立し、罪に問われなくなった現在で犯人が堂々と往来を闊歩し、しかも更なる罪に手を染めているなら……被害者遺族である彼女は、どうするのだろうか。

 どうするか、それを母に尋ねてみれば、彼女はどこか悟ったような目をしてから大きく息を吐き、少し俯き気味だった読人の頭を撫でたのだ。

 

「実際に犯人が現れたら、怒るでしょうね。悔しくて悔しくて、この手で兄さんと同じ目に合わせてやろうって思うかもしれない。だけどね、頭の中でおじいちゃんがこう言うのよ、きっと」

「おじいちゃんが?」

「『犯人と同じ下種に成り下がるつもりですか』って……きっと生きていたら、それぐらい言っていたはずよ。きっと厚司さんにも止められる。あの人と読人を棄ててまで、これ以上あの犯人に人生を狂わされたくはない……あんな下種と同じにはなりたくない。だから母さんは、どうもしない。」

「母さん……」

「でも……やっぱり、しっかりと罪を償って欲しいな」

 

 書人を殺害し、黒文字家の平穏を奪って傷を負わせた罪を深く受け止めて、贖罪の道を歩んで欲しい。

 30年……少女が大人の女性となり、母になるほどの長い時間。栞が、復讐や憎悪よりも誇らしいものを手に入れるほどの長い時間が経っていた。

 

「あと、もう一つだけ教えて。何で、伯父さんの事件は母さんたちが家に帰って来る前に発覚したの?」

「それがね、近所の公衆電話から匿名の通報があったんですって」

「匿名の通報?」

 

「黒文字という表札の家で、人が死んでいる」。その通報で警察が現場に急行して、書人の遺体を発見した。しかもその公衆電話には、現場にあったある証拠と同じものが残っていたのだ。

 

「……伯父さんの事件には、もう1人、第三者がいた?」

「かもしれないって話よ。兄さんの瞼には、指紋が付いた血痕が残っていて、その指紋と兄さんの血が通報した公衆電話にも付いていたって」

 

 書人の瞼に飛び散った血痕の上に指を乗せた……つまり、開いていた遺体の瞼を閉じた。そしてその足で公衆電話に向かい、通報したということになる。

 思いがけず人を刺してしまい、家を荒らしたまま逃げ去った犯人がそんなことをするのだろうか。遺体の瞼を閉じるという、自分が殺した人間への憐れみを向けるような人間なのだろうか……櫻庭という男は。

 当時の警察でも、その指紋と血痕の存在で捜査が難航した。指紋は犯人の物かもしれないし、新たに浮上した第三者の物かもしれない。だったら、その第三者とは誰なのか?

 黒文字書人は、櫻庭聖一朗に殺害された。櫻庭は、蔵人が所有していた白い【本】を奪って行った。お目当ての『竹取物語』は見付けられなかった。

 30年前の事件の大まかな筋書きはこの通りだろう。だけど、まだナニかが残っている……姿の見えない、スッキリと解決させてくれない楔が一本、残っているのである。

 スッキリしないモヤモヤを無理矢理にでも飲み込もうと、すっかりぬるくなった紅茶を一気に飲み干したが、喉の辺りも頭も晴れなかった。

 

「この話は、これでおしまい」

「……ありがとう、教えてくれて」

 

 そう言って深々と頭を下げれば、あまりにも丁寧な仕草をする息子へ母はちょっと困ったように笑いながらマイセンのカップを片付ける。水で軽く洗い終わったそのタイミングで父が帰宅する。少し足を延ばした先にあるリカーショップの袋に入った、タンカレー・ジンとウィルキンソンのトニックウォーターを手にしていた。

 その日の黒文字家の仏壇には、チーズケーキと豚まん、ジントニックというハイカロリーな供え物が並んだ。生前の蔵人が好きだった物である。だが、豚まんは母の好物である。

 夕飯のちらし寿司を平らげ、一番風呂の権利を母に譲ったその足で自室に戻った読人はノートパソコン(父のお古)を立ち上げた。

 

『どうした? 血相変えて』

「伯父さんの事件、もっと詳しく調べようと思うんだ。櫻庭が犯人であることには間違いない……だけど、目に見ない誰かがいる」

 

 少し強めにエンターキーを押せば、「黒文字書人」の検索結果が出て来た。未解決事件を集めて管理人独自の推理・推測を行うサイトに辿り着き、30年前の事件のページをブックマークする。ページの上部で点滅している古いアイコン……「時効成立」の文字が、何だか切なかった。

 

「火衣……俺さ、許せない奴が1人できた」

『櫻庭か。あいつ、どうする?』

「時効が成立しているから、現段階じゃ櫻庭を法で裁くことはできない。伯父さん殺しの犯人として告発することはできないけれど、企みを阻止することはできる……!」

 

 50年もの間憧れ、焦がれ、強盗殺人まで犯してのうのうと生きている櫻庭を狂わせた、『竹取物語』のかぐや姫……彼女との再会を阻止すること。

 櫻庭を今年の【戦い】から蹴落とすことが、読人ができることだ。

 

「あいつに、『竹取物語』も火衣も渡さない。かぐや姫に会わせない……!」

 

 また、キーボードのキーが強く叩かれた。否、力任せに殴り付けたと言わんばかりの乾いた音が自室に響く。

 50年に一度の【戦い】が訪れた今年の4月1日は、過去の到来で夜が更けた。




祖母や母と同じ黒髪の少年は、右の口元にホクロがある以外は祖父に瓜二つだった。


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クローバー01

 凶悪犯罪における時効が撤廃されたのが数年前。本当はもっと早く話が出ていたのに、国の中心で揉めたために施行が遅れたと、中学時代の公民の授業で習った覚えがある。

 5年前、母たちは何を思って時効の成立を迎えたのだろうか?

 彼女たちは当たり前の日常の裏に身を穿つような苦痛を必死に隠し、読人に悟られまいとしていたのである。

 黒文字書人が殺害されて30年。時効は既に成立し、犯人を法で裁くことはできなくなってしまった。

 その犯人とは、櫻庭聖一朗。現代の【戦い】における『雪の女王』の【読み手】である。

 かぐや姫に遭いたいがために当時の黒文字家に侵入し、蔵人が所持しているはずの『竹取物語』を探している現場を書人に目撃され、彼を殺害。蔵人の書斎にあった『竹取物語』以外の白い【本】の数冊を強奪して、30年を逃げ切った……。

 

「告発もあるのに、証拠は何もないの……?」

『みんな、書人の瞼と公衆電話にあった指紋に気を取られていたみたいだな。ここ。初期の報道じゃ、指紋の持ち主が犯人だってメディアが騒ぎ立てていたって書いてあるぞ』

「強盗殺人の犯人が、自分が殺した相手に“あんなこと”をするって……色々、推測できるからね」

 

 まるで小説かドラマのようだ。

 遺体の見開いた目を、冷たい瞼で覆い隠すその行動は死者への憐憫を意味する。犯罪心理学では、犯人と被害者は知人関係であるとプロファイリングできるらしい……だから、犯人は被害者と親しかった人物だと、素人プロファイラーは自説を語っている。読人が最近ブックマークした、未解決事件のファイリングサイトにおける考察の一つだ。

 だが、実際は面識もなにもない。けれど、行きずりの犯行でもない。もっと根深い、20年もの時を経た執着がもたらした事件だった。

 4月1日――蔵人の誕生日に、書人の死の真相と櫻庭という敵を知った。それから読人は、30年前の事件についてできる限り情報を集め始めたのだ。

 現代は情報化社会だ。インターネットに接続すれば、必要な情報もいらない情報も、知りたくなかった事実にもすぐに辿り着ける。話題にもなった未解決事件を調べるのは、学校のレポートの文献を検索するよりも簡単だった。

 

「火衣。もし本当に、伯父さんの瞼の指紋の持ち主が櫻庭じゃない第三者なら、彼はどうして現場から姿を消したんだろう?」

『そりゃ、殺人事件なんて物騒なものに関わりたくなかったんじゃないか。けれど、後ろ冷たいから匿名で通報した』

「の割には、家に侵入した伯父さんの瞼を閉じるっていう、肝が据わった行動をしている。一般人が血塗れの家に入って同じく血塗れの死体と対面して、こんなに冷静な判断はできるのかな?」

『一般人じゃ、なかったのかもしれないな……長年修羅場をくぐった、歴戦の猛者とかだったのかもしれない』

「そんな人が、二十世紀末の日本にいたの?」

 

 いや、もしかしたらいたかもしれない。1990年代なら、先の大戦で出兵した元軍人たちもまだまだ元気だった頃だ。

 読人の疑問や考察の殆どは今も見ているサイトの受け売りだが、やはり謎の第三者の存在が一番気になる点だった。やはり、犯人の正体を知っている分、姿の見えない謎に疑問の矛先が集中してしまうのだろう。

 ちなみに、サイトに収集されていた情報の中に櫻庭――つまり、強盗殺人犯と思われる者が残した遺留品もあった。だが、市販のスニーカーの足跡やら凶器のナイフやらは全国で流通されているありふれた物であったために個人は特定できず、証拠能力は低かった。

 そして、謎の指紋以外にも採取された重大な遺留品があった。書人の爪から犯人のものと思われる皮膚片が採取されたのだ。

 しかし、当時の鑑定技術の限界もあって、それで個人を特定するには至らずに結果迷宮入りだ。そのため、警察による最終的な判断は、金に困った行きずりの強盗による犯行で幕が下ろされたようである。

 当時の社会情勢は荒れていた。バブル経済の崩壊により二十一世紀まで続く長い長い不景気のスタートダッシュが強烈で、多くの混乱を招いていたらしい。

 新たな証拠や、有力な情報・被疑者が現れなかったために再捜査も難航したのは、母の様子を見れば分かることだ。

 

「あと、もう一つ。櫻庭は多分、おじいちゃんの『古事記』を盗んで行ったはずだ」

『あれか、お前がこの間まで探していた【本】か』

「師匠に聞いたんだ。やっぱり、あの事件でおじいちゃんが保管していた何冊かの白い【本】が盗まれたって。その盗まれた【本】の中に、『古事記』もあったんだよきっと。できるなら、櫻庭から『古事記』も取り戻したい。おじいちゃんの【本】だもん」

『……読人』

「ん?」

『お前、好きな本のジャンルの中に、推理小説があるだろ』

「……まあ、結構好きだけど」

 

 火衣がそう零せば、読人は苦笑しながら首に手を当てた。無意識故の癖は、本人はその仕草をやっているという自覚はない。バイト中や数学の小テストの最中など、困っている時に何度もこの癖が登場しているのを、火衣は知っている。

 いつもの長い前髪を母のヘアゴムでちょんまげにしている姿でやるのは、実に滑稽だ。子供の愛くるしくもお馬鹿な行動を見守っている気分になる。

 ヘアピン亡き後の後任が決まっていないため、やっぱり前髪が鬱陶しい。始業式もあるからそろそろ切らなければと読人が零したその時、充電中のスマートフォンがメッセージを受信した。

 内容は、「電話しても良い?」。送り主は夏月だった。

 

「ななな、夏月さん?!」

「この間ぶりだな。ほれ、OKと」

「わ゙ーーー!!」

 

 再び、読人の動揺を無視して火衣がスマートフォンを操作した。ハリネズミのキャラクターと「OK」のイラストスタンプが送信されればすぐに「既読」が表示され、読人の思考が追い付く前に着信が入る。

 その電話にも出ようとする火衣からスマートフォンを取り戻し、一呼吸おいてから夏月の電話に出たのだ。

 

「もしもし、夏月さん?」

『読人君、この間ぶり』

「うん。この間……ぶり」

『明日、時間ある? ヘアピンが壊れちゃったでしょう。もし、時間があるんだったら新しいものを買いに行こう』

「ヘアピン」

『新しいの、一緒に選ぼう……、ううん。私に、選ばせて』

「……っ、よ、よろしくお願いします!」

 

 こうして、明日の予定が決まった。夏月とのショッピング――鬱陶しい前髪を上げるために、新しいヘアピンを買いに行くのだ。

 

「……っ、デートだぁぁ!!」

『明日はちゃんとデートできればいいな。前のは、台無しになったもんな』

「何着て行こう!?」

『お前、またそれかぁ?』

 

 色々悩んでいたことが吹っ飛んだ。夏月の声で読人は日常に引き戻された。が、それと同時に新たな、そして以前と同じ悩みが湧き出ていたのである。

 明日の集合は春休み最後の日、明日の午後10時。待ち合わせ場所は、こよみ野市内にあるショッピングモールにある二宮ポン次郎像の前。

 薪を背負って本を読むタヌキの像は、二宮金次郎を愛らしくイメージさせた物らしいが、来客者たちには更生した『かちかち山』のタヌキと呼ばれていた。

 製作者……プレートでしか知らない名前の誰かさん、涙目である。

 

「読人君」

「夏月さん。こんにちは」

「また読人君の方が早かったね。今日は、読人君より先に来て待っていようと思っていたのに」

『よっ、夏月』

「火衣君も、こんにちは」

 

 夏月がポン次郎像前にやって来たのは、10時の12分前。読人は9時半過ぎからここで火衣と共に待っていた。夏月を待たせる訳にもいかなかたのもそうだが、楽しみすぎて待ちきれなかったからだ。

 服装は色々悩んだ結果、結局再び祖父のベストに頼ることにした。

 クリーム色のロングTシャツにジーンズといつものボディバッグ、ハイカットスニーカーでカジュアルベースに決めて、その上にベストを着込んだ。普通はフォーマルに合わせるアウターであったが、ベルトの遊び心が上手い具合にカジュアルと馴染んでくれた。

 母も出かけ際に「良いじゃない」と言ってくれたので、変ではないはずだ。長い前髪は、母がくれた黒いアメリカピンで申し訳ない程度に上げて顔を見せていた。

 

「急に誘っちゃってごめんね」

「ううん、夏月さんから電話もらって……その、嬉しかったから。迷惑とかじゃないから!」

「……うん。それじゃあ、ショップに行こう。まずは一階の端から見てみよう」

 

 普段も買い物に行くショッピングモールは、西から東まで長く伸びた三階建ての中にスーパーもコンビニも映画館も、小さな銀行も入っている。全国展開されているインテリアショップもスポーツショップも百円均一もるし、ちょっとしたブランドショップも入っている。

 その中で夏月に連れられてやって来たのは、女性向けにアクセサリーショップたち。ヘアピンを買うのだから当たり前のチョイスなのだが、普段は視線を向けることもない女性向けのショップを見て回るのは少々気恥しい。

 ピンクと白とパステルカラーに囲まれたショップには、ヘアアクセサリーだけではなく、優美で可憐なアクセサリーが並んでいた。

 

「こういうお店、初めて入ったけど……何だか、目がちかちかする」

「スパンコールやジュエリーが付いたアクセじゃ、男子も気軽に使えないよね。もっとシンプルが良いかな」

 

 最初のショップの店先、来客の目に触れる場所には、プラスチックのジュエルやキラキラのスパンコールが使われたバレッタやカチューシャが並んでいた。

 ヘアピンもたくさんあったが、どうやって使うか分からないピンや金のワイヤーの花が咲いた物ばかりで、読人が使うには少々勇気がいる物ばかりである。

 以前、夏月からもらった三日月のヘアピンは、可愛らしくもシンプルで男性も使いやすいものだったが同じ系統のアクセサリーはこのショップにはないようだ。

 

「読人君、これはどうかな?」

「可愛いね。でも、前と同じタイプのヘアピンが良いかな。このピン、1人じゃ上手く使えなくて」

「了解。別のお店も見てみよう」

 

 夏月が見せてくれたのは、トルコ石を模したストーンが付いた銀のアメリカピンタイプの物だった。自分では上手く使えないかもしれない、けれど夏月には似合いそうなシンプルなデザインだ。

 否、似合い“そう”ではなく、似合うはずだ。今日の夏月の服装にも。

 今日の彼女は、デニム生地のシャツワンピースの上にクリーム色のカーディガン。黒いストッキングの足には、ヒールが小気味良く鳴るローファーを履いていた。

 シンプルなヘアピンが似合うと感じた髪は、低い位置でポニーテールを結んでおり、彼女が読人を振り向く度にぴょこんと揺れて愛らしい。

 あ、好き……揺れるポニーテールに見とれていたら、ボディバッグの上に乗る火衣に後ろから頭突きをされた。

 

「……本当はね、ヘアピンを買いに行こうなんてただの口実だったんだ」

「え?」

「読人君を、元気付けられたら良いな~って、思って誘ったの」

 

 天然石のショップにて。以前と同じスリーピンタイプのアクセサリーを眺めている横で、夏月が小さくそう言った。

 あの場にどうしてか夏月がいた。響平の『銀河鉄道』に乗って彼と桐乃と共に櫻庭の氷壁を切り裂いてやって来て、氷漬けになった読人を目にしてしまっていたのだ。

 勿論、櫻庭が彼の伯父を殺害したという告白も、彼女を含めたその場の全員が聞いていた。それでもって、ハインリヒとビルネもいた気がする……ぼんやりとしか覚えていない。

 気を使ってくれたのだろう。身内を殺したと告げられた読人の心境を。

 四色の石を寄せ木細工のように組み合わせた、スクウェアの飾りが付いたヘアピン。それを手にした夏月の横顔をちらりと見れば、何だか申し訳なさそうな表情をしていた。

 

「夏月さん、ありがとう。さっきも言ったけれど、迷惑とかじゃないよ。俺さ、う……嬉しかったから。夏月さんが誘ってくれて」

「……良かった。あ、これ……。読人君、誕生日はいつ?」

「え、10月。10月27日」

「誕生石じゃないけど、これはどうかな?」

 

 ストーンのアクセサリーの中から夏月が選んだのは、緑と白、二色のストーンでできた四葉のクローバーのヘアピンだった。

 ストーンはペリドットとムーンストーン。それぞれ、8月と6月の誕生石である。そしてパワーストーンのとしての効果は、前者は太陽の明るさのように憂鬱を払い。後者は、永遠の愛をもたらす月の石であると、ストーンの説明ポップにそう書いてあった。

 

「可愛い、クローバーだ。ペリドットは太陽の石、ムーンストーンは月の石。太陽と、月か」

「ね、知ってる? 四葉のクローバーって、それぞれの葉っぱに意味があるんだって。えーと、確か……「幸運」「愛情」「誠実」と」

「「希望」、だよね。おじいちゃんに教えてもらったことがある……これにする。これが良い」

 

 モール内のショップを梯子して四軒目。たくさんの加護を受けたヘアピンが読人の前髪を飾ることになった。

 購入した早速、夏月から鏡を借りて前髪にパチンと着けてみる。学生らしくフードコートでランチにしようとしたその前に、四葉のクローバーは長く伸びる前髪を上げる任務に就いたのだ。




ペリドットの「幸運」と「誠実」
ムーンストーンの「愛情」と「希望」


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クローバー02

「似合う似合う。やっぱり、読人君は前髪を上げていた方が良いよ」

「そう?」

「うん。初めて読人君を見た時も、そう思っていた」

「初めて?」

「実はね、読人君のことは5月の頃から知っていたの。私が一方的に。図書委員になって初めてのカウンター当番だった日、読人君、図書館に来たよね。前髪が長い状態で」

 

 夏月の言葉で、読人の記憶がとき解かれる。高校に入学して、入学式のために長い前髪を切った。だが、2週間ほどで目にかかるぐらいまで伸びてしまって、生徒の身だしなみに厳しい学年主任が目を付け始めた頃だ。学校の図書館に足しげく通い始めたのは。

 

「初めて見た時に、「前髪、邪魔じゃないかな」って思ったの。でもね、GWが明けたらその前髪がバッサリ短くなって初めて読人君の顔がはっきり見えて、びっくりしたんだよ。図書カードの名前が、あのメカクレ君だったんだもん」

「メカクレ君?」

「あ、ごめん。勝手にそう呼んでいたの。心の中で呼んでいただけ」

「大丈夫。中学校時代からよくそう呼ばれていたから」

「その時ね、前髪を切った読人君の顔がはっきり見えた時、私の中で「黒文字読人」という人をはっきり認識した感じがしたんだ。前髪が伸びるのが早い、黒文字君。6月になる前に、前髪が元通りになったのにも驚いたな」

「いつもそんな感じだよ。今回も、ヘアピンがなくなってこんなに不便だとは思わなかった」

「その黒文字君……読人君とこんな風に出かけて、おしゃべりして、火衣君と出会うなんてあの時は思ってもみなかった。デリケートなことも聞いちゃったし」

「……夏月さん」

 

 人の死というのは、特に、身内の死というものはとてもデリケートな問題だ。外部の者はあまり話題に上げず、ただただ「お悔やみ申し上げます」と小さく頭を下げるしかできないだろう。

 しかも、殺人となればもっと触れられない。哀悼の言葉でも、風船を破裂させる針の先のように張り詰めたモノを壊してしまうこともあるからだ。

 読人が夏月に告げた言葉は全て彼の本心だ。夏月が誘ってくれて嬉しい、ありがとう、と紡いだ言葉は無理もしていないし気を使ってもいない。

 突如現れた冬の嵐で心を乱されて思考は荒れかけたけれども、心はへし折れてはいないのだ。

 

「俺さ、櫻庭が現れて、ようやく【戦い】のスタート地点に立てた気がするんだ。師匠……紫乃さんが言ってくれた。「理由なんて、これから先いくらでも付け足せるんだ」って。俺がこの【戦い】に参加する理由は、おじいちゃんと書人伯父さん。2人がいて、やっと形になった。あ、復讐とかじゃないよ。復讐しようとかは、考えていないから」

 

 読人の右手が、無意識に自身の首に触れた。

 あ、またこの癖か。と、ボディバッグから抜け出してテーブルの上に移動した火衣が、そう思った。

 

「櫻庭がやったことはもう法で裁けないけれど、これからやろうとしていることを、俺が止めることはできる。きっと、過去と昨日が背中を押してくれるから……どんなに辛い出来事も、泣き出しそうになる酷い想い出も、明日への導になってくれるはずだって」

 

 蔵人が手招いた1年に、書人が芯を示してくれた……黒文字読人にとっての不老不死を巡る1年は、序章を終えてやっと始まったのだ。

 

「なんて、恰好つけたことを言ったけれど、これほとんど師匠の受け売りなんだ。フードコートが混んで来たね。夏月さん、お昼は何食べる?」

『読人。オレ、ラーメンに餃子とライスセットと、その隣のカットステーキと、デザートに向かいのクレープな。アイスクリーム乗っている奴で』

「そんなに買わない!」

「……カッコいいよ、読人君は」

「えっ!?」

「火衣君、クレープは一緒に食べよう。私、苺チーズケーキが良いな」

『夏月、一口くれ!』

 

 結局、火衣分の食事が読人のちゃんぽんより高くついてしまった。

 野菜ちゃんぽんが680円なのに対し、焦がし味噌ラーメン+餃子ライスセットは900円だった。ドリンクがセットで890円するカットステーキなんて、追加で食べさせられる訳がない。いくらバイトをしていても、学生の財布事情はシビアなのである。

 目的の買い物は午前中に終了し、ランチを終えてデザートのクレープも食べてからは、特に当てもなくショッピングモール内をみんなで散策する。

 映画館前では、特に観たい映画もなかったがGWに公開予定の作品のポスターを眺めた。

 

「映画でも観ようか? 夏月さん、どんな映画が好き?」

「ミステリーとアクション。アメコミのヒーロー物やホラーもよく観るよ。来月公開されるあのシリーズも全部観た」

「俺も観た。原作も揃えているよ」

「公開されたら観に行こう」

 

 ゲームセンターでは、得意でもないUFOキャッチャーに白熱してしまい千円を砕いてつぎ込んで、結局何も獲得することはできなかった。

 

「見て、あのハリネズミのぬいぐるみ、火衣君に似ていない?」

『んー? オレはあんなマヌケ顔じゃないぜ』

「本当だ、似てる」

『読人!』

「取れたら隣に並べよう」

『似てない!』

 

 CDショップに入って、好きなアーティストのアルバムの発売情報を見付けて財布に相談を持ちかけ、そのアルバムの視聴ブースでは夏月と少し密着しかけてドキドキした。

 

「和楽器バンドの『迅雷神風』が好きなんだ。知っている?」

「聴いたことあるかも。読人君って、CD派なんだね」

「シングルはダウンロードだけど、アルバムは買うんだ。このバンド、アルバムのジャケットもカッコいいし」

 

 現代風にアレンジされた風神雷神と和柄のジャケットに収められた楽曲は、アニメのOPにも抜擢されたこともあるからそんなにマイナーなバンドでもないだろう。ヘッドフォンから流れる和太鼓と三味線が奏でるロックを耳にした夏月が、「カッコいい」と言ってくれたことが嬉しかった。

 自分が好きな物を好きになってもらうのは、何だか胸の奥にジンと来る。

 その他、色々なショップを見て回った。CDショップに隣接している本屋も覗いてみると、入り口の目立つ場所に『ダンジョン・プリズン』の原作翻訳本がポップ付きで積み上げられていて、思わずこの間のイベントを想い出した。

 つい1週間前の出来事のはずなのに、何だか随分と昔のことと思えるのは今月が怒涛の開幕になったからだろうか。だけど、それらがなければ読人の現在は――こんな風に、夏月と一緒に遊びに来る切っ掛けもなかったかもしれないのだ。

 

「そう言えば、夏月さんの誕生日はいつ?」

「私は9月15日」

「9月なんだ。てっきり、夏生まれかと思った」

「名前に「夏」が入っているからね。よく言われるよ。私が産まれた年は残暑が酷くて、十五夜も近いのに真夏日だったからってこの名前になったみたい」

「9月の誕生石って、サファイアだよね。お祝い、するから。9月だね、覚えるよ!」

『ほれ、もう一息』

「火衣っ?!」

「ありがとう。楽しみにしているね」

「っ、うん!」

 

 帰りのシャトルバスの中で、夏月の誕生日も知ることができた。少し前までは、それこそ昨年末までは彼女とこうして距離を縮められるなんて考えもしていなかったし、実行にも移していなかったかもしれない。

 次の12月31日までのこれからに、始業式から始まる高校2年生の日々に……17歳の日々を生きられなかった伯父の分まで、明日に希望を持とう。

 また明日、始業式で。

 そう言って夏月と別れた読人は、新しくなったヘアピンのクローバーに、未だに自身の手の中にある『竹取物語』の【本】に、新たに誓いを立てたのだ。

 

 

 

***

 

 

 

 黒地に臙脂色のラインが刺繍されたネクタイは、暦野北高校男子生徒の2年生専用ネクタイだ。

 先日の終業式でパインちゃんこと鳳先生から配布され、4月の始業式からはこれを締めてくるようにと言われた一本を締め、着慣れたブレザーを上に羽織る。

 ワックスとスプレーで軽く整えた前髪をパチンと、クローパーのヘアピンで邪魔にならないようにまとめたら登校準備は完了だ。

 黒文字読人、本日から高校2年生に進学します。

 

「いってきます」

「いってらっしゃい……何だか、感慨深いわね」

「ん?」

「ついこの間は、新品のランドセルを背負っていたのに。もう高校も2年目なのね」

「ランドセルって、10年も昔じゃん」

「お母さんにとっては、ついこの間の出来事なのよ。ほら、今日から自転車にするんでしょう。急がないと遅刻よ」

「はーい」

 

 4月1日よりはラフな服装で出勤準備をする母に見送られ、タイヤに空気をパンパンに入れた自転車に跨りペダルを踏み込んだ。

 新学期から、思い切って自転車通学に切り替えた。理由は体力作り。これからの【戦い】に備えて、少しは体力をつけたいと考えてのちょっとした変化であった。

 

「クラス替えの発表は正門前。クラス替え……文系クラスは、二つだけ……!」

『夏月と一緒になれると良いな』

「確率は二分の一!!」

『それ、進めーー!』

 

 自転車の前籠の中に鎮座した火衣が指し示す先、目指すはクラス替えが貼り出されている北高の正門前だ。

 当校でクラス替えが行われるのは2年のコース選択時のみ、3年生は2年生のクラスが持ち上がる。

 夏月と同じクラスになるチャンスは今年だけだ。読人も彼女も二クラスしかない文系を希望しており、同じクラスになる確率は二分の一……期待せずにはいられない!

 心なしか、その期待に胸をときめかせてペダルを踏む脚に力が籠る。昨年の合格発表を目にするよりも緊張しながら、駐輪場から正門前の人だかりへ走ったのだ。

 

「読人、おはよう」

「はよー、読人」

「賢哉、マサ、おはよう! クラス替えは……」

「賢哉は特進、オレとお前は……やったな、3年間同じだぞ」

「2人ともB組だったよ」

「B組」

 

 これにて、読人と正美の同クラス連続6年が決定したが、気になるのは夏月のクラスだ。賢哉の特別進学Aクラス、文系クラスはBとC。夏月の名前は……。

 

<文系Ⅰ類>

 2年B組7番 黒文字 読人

 

<文系Ⅱ類>

 2年C組28番 竹原 夏月

 

 彼女のクラスを目にした瞬間、絶望によって膝から崩れ落ちた。

 

「竹原と戸田さんはC組か」

「あ、浜名君はB組なんだ」

「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!!」

「うるせぇ!」

 

 二分の一の確率。デッド・オア・アライブに敗れてしまい、始業のチャイムが鳴る間際になっても立ち直れなかった。

 その後、読人は正美と賢哉によって捕獲された宇宙人のように教室まで引きずられていったのだった。

 

「おはよう読人。結局3年間一緒になったね~」

「うん……よろしく、峻弥」

「物凄く酷い顔しているけどどうした? 嫌か、オイ。それより聞いた? うちの学校の新入生に、『フェアリーテイル』の子がいたって!」

「……誰?」

「アイドルグループだよ! Hey! Tubeを中心に活動していたけれど、去年の秋頃から地上波にも登場し始めた今キている5人組さ」

「へー」

 

 前の席の彼、熊谷(クマガイ)峻弥(シュンヤ)とは、名簿の関係上昨年の一学期も同じ席順だった。テディベアのような雰囲気の彼が嫌な訳はない、結局彼女と同じクラスになれなかったからこんな物凄く酷い顔なのだ。動画投稿サイトのアイドルよりも、身近な図書委員だ。

 昨年度も同じクラスだった彼や正美、中学校も同じだった者に某有名人・浜名と、2年B組のクラスメイトたちの一部は知っている顔だ。

 このクラスで卒業まで。もう一度言うが、嫌な訳はない。

 だがしかし、このクラスを担任する教師はまだ発表されてはいなかった。

 

「担任、誰だろうな~?」

「薄杉はやだわ」

「あいつ、特進に立候補するだろどうせ」

「でも、今年から特進用に有名進学校から先生が来たって話だぜ」

「そっか、パインちゃんじゃなかったんだ」

 

 残念ながら、昨年度に読人の担任だった鳳は再度1年生を受け持つこととなった。では、一体誰なのか。

 あの人、彼の人が良いが、あいつは絶対嫌だと好き勝手言い合うクラスの中へ、前方の扉が開いて入って来た担任は……薄い頭だった。

 

「えー、今年度より2年B組の担任となった小杉だ。みんな、よろしく」

「嫌だぁーーー!!」

 

 噂で流れていた話通り、都内の進学校から異動してきた教師に特進クラスの担任を奪われた小杉が、2年B組の担任になってしまった。

 それと同時に、2年B組全体からブーイングが飛ぶ……本日の午後、『無問鯛』前ではたい焼きをやけ食いする彼ら数名によって4月限定桜たい焼きがよく売れた。桜餡は、塩漬けのしょっぱさがよく調和する。

 桜もそろそろ散り始めた東京。一方その頃、桜前線が最も早く上陸する沖縄では、とっくの昔に薄桃色の木々は若葉色になってしまっていた。

 

『Hi, Thomas. Did you come to check in advance for a vacation? For pretty little baby girls. Here is only the sea, California would be better. The children are……』

(よう、トマス。沖縄にまで家族サービスの下見か? 可愛い愛娘たちのために。こんな海しかない場所より、カルフォルニアの方が子供たちも喜ぶだろ……っ)

 

 見知った元同僚に軽口を叩けば、叩ききる前に喉元に得物を突き付けられた。現役の軍人でも、警戒も何もしていない無防備な状態で喉元に一撃を入れられたらひとたまりもないだろう。

 突き付けられた当人は、今更になって気付いた。元同僚が別人のような形相になっているのを……まるで一度死んで埋葬された死体が、墓の下から這い出て来たかのような土色の肌に無精ひげ。射殺さんとばかりに尖る両目は、殺意に満ちて血走っていた。

 

『Do not you see the news of your country to say bad about this place? Never say again. You will shoot and split your belly……! Prepare as much bullet as you can. You will accuse the crime you committed in the Middle East.』

(ここをそんな風に言う割には、自国の事件に目を通していないんだな。二度と、オレの前でその話はするな。射殺して腹を裂くぞ……! ありったけの弾を用意しろ。貴様が中東でやったことをバラされたくなったからな)

 

『Thomas ……Did you have something?』

(トマス……お前、何があった?)

 

 在日米軍基地に、革のケースに包まれた得物と『Little Red Riding Hood』の白い【本】を背負った男が降り立った。

 彼は桜前線を追いかける。彼の登場により、1年の物語に二度目の不穏な風が吹き込まれた。




メカクレ君からヘアピン君になり、始業式後では時々「捕らえられた宇宙人」と呼ばれるようになった。


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白雪姫【Past】01

 修学旅行も待っている新年度。

 高校生として最後に全力で遊べる高校2年生のスタートで、夏月と一緒のクラスになれなかった悔しさを抱いてベッドで不貞寝をしたら、例のページがめくる音が読人の耳の奥に聞こえて来た。

 この状態で過去の夢を視るのか?

 こんな日はぐっすり眠れないような気もしたが、意外と眠気に呑まれた。夢の中で視たのは50年前のロンドン……龍生の顔のアップで、蔵人の記憶が流れ込んで来た。

 

「聞いていますか、蔵人さん」

「はい、はい。イーリスさんの屋敷の台所で、野菜の下処理の仕ことを始めた、でしたよね?」

「はい! 午前中、ずっと芋とリンゴの皮剥きばしていましたけど、アルフレートさんさ上手いって誉められました」

「紫乃さんに肉じゃがを作っていただいた時もそうでしたが、龍生君は手先が器用ですね。きちんと勉強すれば、料理も上手になるのでは? これからの時代、男性も積極的に台所へ立たなければ」

 

 新聞から目を離した蔵人の言葉に、龍生が嬉しそうに顔を輝かせた。

 どうやら、先日紫乃と一緒に台所から立った時から龍生は料理に興味を持ち始めたようだ。

 今度、響平に聞いてみよう。彼の祖父は台所に立って家族に料理を振舞うのかどうか……と、随分中途半端なところから始まってしまったが、どうやら今回の記憶は蔵人が滞在しているフラットから始まっている。

 家主は現地のメジャーな新聞に目を通し記事を追いながら、アーベンシュタイン家での出来事を楽しそうに語る龍生の言葉にも耳を傾けていた。

 

「それにしても、よくイーリスさんが君を雇い入れることを許しましたね。一応、敵対していませんか? 私たち」

「ん~……イーリスちゃんとはそんな顔ば合わせません。基本的に、台所の裏しかいませんし。寝首を搔こうとも思わないし」

「敵認定、されていないのかもしれませんね」

「あ、そっか」

 

 納得したよう手をポンと叩いた龍生だったが、「それで良いのか」と突っ込みを入れたい。夢の中だけど。

 確かに、イーリスは蔵人に対しては敵意バリバリだったが、龍生には特に警戒していないような気がする。

 まあ、龍生本人もイーリスと敵対する気もなさそうだからアーベンシュタイン邸で【戦い】が起こることもないだろう。精々、調子に乗って皮を剥きすぎた芋がテーブルに増えるぐらいだ。

 

「でも、手伝いでも雇ってくれたアルフレートさんには感謝していますよ。親からの仕送りがあるけど、頼ってばかりはできませんし。(じぇんこ)ぐらい自分で稼がないと」

「殊勝な心がけですね」

「そうだ、前々から聞きたかったんですけど、蔵人さんもわしらと同じなんですか?」

「同じ、とは?」

「わしや紫乃さんの家は、代々【本】を守って【戦い】に備えて来た家だから、こうして異国で家族の仕送りやフォローば受けられますけど。蔵人さんも同じかなって、このフラットだって外国人にそう簡単に貸してくれないじゃないですか」

「私は違いますよ。そもそも、私は龍生君や紫乃さんのような伝統ある家の出ではありませんし、元々は【本】との関わりもありません。戦争で一族は離散。父は私が産まれる前に戦場で、母は幼い頃に亡くなりました」

「……ごめんなさい」

「いいえ。気になさらないで」

 

 初めて、蔵人の――祖父の身の上話を聞いた気がする。

 祖父が天涯孤独の身だったことを読人は母から聞いていたが、自分の曾祖父母にあたる蔵人の両親の話は初めて聞いた。

 蔵人が産まれる前に戦死した父、幼い彼を残して先立った母。何もなくなった蔵人は、隣人であり恩師である某有名大学の教授の後見を受けながらありがたいことに大学にも通わせてもらい、今も助手として在籍しているらしい

 そして、ここにいる。50年に一度の【戦い】のためにイギリスへ赴いたと同時に、「面白そうだったから」という紫乃を腹立たせた理由で今ここにいる。

 

「なら、どうして(なして)蔵人さんはロンドンまで来れたんですか? 大学の助手って、そんなに給料ば良いんですか?」

「まさか。半分は私情で、もう半分は依頼と後援を受けて渡英しました」

「半分? その、半分って?」

「…………それは」

 

 私情は、50年に一度の【戦い】が面白そうだったから。もう半分――依頼と後援を受けて渡英した、その理由。

 新聞を畳み、使い込まれた飴色のテーブルに置かれたぬるい紅茶を手にして“理由”を語ろうとした……しかしその瞬間、窓の外で爆発音が轟いた。薄い窓ガラスをビリビリと震わせて、空気が人間を劈くような爆風と共に発生した轟音はロンドンじゅうの人々の心臓を驚かせたのだ。

 窓を背にしていた蔵人は振り返る。赤い熱を孕んだ黒い煙が噴き出すその瞬間を目にした龍生は呆気に取られ、何が起きたか理解できない表情をしていた。

 

「な、何だ」

「あの方角は、ソーホーですね。何か、あったようだ」

 

 この地で、【戦い】の優勝賞品である『竹取物語』があるこの都市では、必然的に【本】も【読み手】も集まって来る。意図もせずに、運命に引き寄せられるように。

 だからこそ、この都市で何か起きてしまえば何でもかんでも疑ってしまうのだ。この爆発も、おとぎ話の中から出現した現象なのではと。

 スリーピースのジャケットを着込み、愛用している中折れ帽を手に蔵人は龍生と共に爆発現場へ向かった。

 ソーホー――ロンドンの中心、ウェストミンスター自治地区に位置している。

 後の世では、チャイナタウンの通称で知られ星を与えられた中華料理屋を始めとした高級レストランが集まる街であるが、この頃は風俗と芸術の街として知られていた。

 歩いているのは娼婦と酔っ払いと芸術家。そして、外国人。安価な飲食店と娯楽と快楽が集まりつつその地は、21世紀には歓楽街としてロンドンだけではなく、アメリカと香港にも人々が集まり同じ名前の街が拓かれる。

 その未来の姿は欠片しか見えず、蔵人たちが現場に到着した時には立ち上がる黒煙から逃れようと、多くの野次馬と警察と消防士でごった返していた。

 爆発したのは中国系の飲食店。その隣には、同じ系列と思われる風俗店もあったらしく、騒動の混乱に巻き込まれたらしい娼婦たちは千切れかけたランジェリー姿で男に縋っている光景が野次馬の隙間から見える。

 

「うわ~派手にやりおったな。これ、【読み手】の仕業でしょうか、蔵人さん。蔵人さん?」

 

 自分より背の高い野次馬たちの後ろから現場をみようと、ハンチング帽を押さえながらぴょんぴょん飛び跳ねる龍生が声をかけたが、蔵人の視線は爆発現場に向いていなかった。風下の、黒い爆風が流るるその先にいた背の高い人影を見ていた。

 その先にいたのは、大きな広つば帽子を被った白い細身のドレスを着た黒髪の女性……しなやかな痩身と、その背中にかかる豊かな黒髪は遠目からも魅力的だと分かる。だが、深く被る帽子のつばによってその顔は見えない。

 身体の他に見えるのは、真っ白なテーブルクロスに零れた赤ワインのような真っ赤な唇だけだ。

 その唇が、妖艶に誘うように少し微笑むと、未だ燻り続ける黒煙に紛れて立ち去ってしまった。

 

「ありゃまぁ……蔵人さんも隅に置けないでがんすねぇ」

「不埒な感情で眺めていた訳ではありませんよ。ただ、気になりましてね……龍生君、気になりませんか?」

「身体から、美人とは思いますけど。やっぱり顔が見えないと」

「いえ、あちらではなく、爆発された建物です。爆音を伴って炎上したのはチャイニーズレストランですが、これだけ建物が密集しているのに隣接している娼館は延焼もしていなければ、窓ガラスにヒビ一つ入っていません。不思議ですね、まるで魔法の仕業のようだ」

「と、いうことは」

「もうひと爆発、あるかもしれませんね。シンデレラが帰った後にでも探ってみましょうか。それに」

「それに?」

「あの方は……いえ、私の勘違いかもしれません」

「?」

 

 蔵人は別に積極的に紋章狩りを行っている訳ではない。

 けれど、興味をそそられる非日常が起きてしまえば首を突っ込まずにいられない質なのかもしれない。だって、そのために渡英したのだから。

 龍生と出会った時もそうだった。【読み手】が絡んでいるかもしれない現場には積極的に脚を運んで、()が起きて()を想像して創造されたのかを双眸に焼き付けた。

 蔵人は――50年前の読人の祖父はそうして、自身の私情・私欲を満たすためにロンドンの街を駆け回り、時には八咫君や同居人たちを巻き込んで来たようだ。

 意外と振り回しているし、結構……というか、やっていることはかなり傍若無人だ。口調も仕草も丁寧で上品なだけに、その場で誤魔化されても後になって腹が立って来る。

 その傍若無人に連れられて、シンデレラも帰宅してしまった深夜。日付が過ぎた頃に霧が立ち込める夜に繰り出した。半端者が生き残ることを良しとしない龍生も、蔵人とほぼ同じ私情の光孝も揃って、3人で未だ活気が残るソーホーの外れに来ていた。

 

「最近、ソーホーのチャイニーズレストランが物騒になったと聞きました。それに関係しているんでしょうか?」

「物騒?」

「マダム・ココのお店で、他のお客さんの話を小耳に挟んだだけなんですけど……立ち退きとか、中国がどうとか」

「立ち退き? 余所者は国に帰れって?」

「と言うよりは、帰りたくないんでしょうね。あと、昼間に爆発したお店は便宜上、チャイニーズレストランと呼んでいますが店主は香港の方らしいですよ」

「香港?」

「そう、中国であって中国ではない場所。どうも最近、中国側が香港を始めとしたイギリス領の返還を求める動きがあるようです」

「そうか、中国の一部はイギリス領でしたね」

「その通り。では、香港の他のイギリス領はどこでしょうか?」

 

 蔵人は、まるで教育番組の講師のように龍生と光孝へと問題を出す。

 1970年代、香港はイギリスだった。その地以外にもイギリスは中国に植民地を持っていた。

 戦利品として持っていたのは香港島と、九龍半島。そして半島の一部である新界という地域だが、この地域は中国から期限付きで借りているだけ。1898年から99年間、イギリスは中国から新界を租借し、1997年の返還の際に一緒に他の二か所も戻って来たと読人は授業で習った記憶がある。

 祖父たちの若い頃は、まだ中国の一部にイギリスがあり99年の租借にもまだ20年以上の期限が残っていたが、20年を待たずに声高らかに返還を求めている者もいたようだ。

 

「九龍半島と、その一部の新界ですね」

「はい。光孝君、正解です」

「蔵人さん、なしてそんな話を?」

「中国が返還に向けて動いているという話は、先週の新聞に載っていましたよ」

「ニュースでもやっていました」

「ゔっ」

「龍生君、折角なんですから現地の新聞やニュースにも目を通してみましょう。英語の勉強にもなりますよ。とまあ、イギリス国内外で盛り上がりつつある植民地返還の話題ですが……タイミングが良すぎると思いませんか。返還要求が持ち上がり始めたところで、香港のお店が爆発するなんて」

 

 蔵人先生による引率で辿り着いたのは、爆発の被害にあった店舗からから少し離れた場所だった。ソーホーの端にある、何か怪しげな店である。

 壁には複雑なのか適当なのかよく分らない落書きがされているだけではなく、中国語と思わしく漢字の羅列も書かれていた。時間が時間なので店内の明かりは消えているが、微かに見える窓ガラスの向こうには干からびた根っこや吊るされた葉が見えているので、どうやら漢方でも取り扱っているらしい。

 否、もしかしたらもっと危険な物かも……きっと、夜でも昼間でも、気軽に立ち入れない店に間違いない。

 蔵人は何故こんな店に?

 過去の龍生も光孝も読人を同じ疑問を感じているところで、店の屋根の上から蔵人の腕に向かって大きな烏が舞い降りた。

 

「こんばんは、八咫君。偵察、ご苦労様でした」

「カァ!」

「いつの間に八咫烏を」

「八咫君には、定期的にロンドンの街を探ってもらっているんです。それで、少々気になる動きがありましてね……ここや、爆発したお店を始めとしたソーホーの香港系のお店は、とある組織のみかじめ料。所謂ショバ代を払って商売をしています」

「蔵人さん。その話、聞いてはいけないような話のような気が……」

「日本におけるみかじめ料の支払先は……まあ、ヤの付く自由業ですが、この場合はどこだと思います?」

「イギリス……じゃなくて、香港の同じ職種の人?」

 

 はい。龍生君、正解です。と、蔵人が告げようとしたそのタイミングで、彼らの目の前にある怪しい店が爆発した。

 耳を劈く轟音を立てて、爆風に舞い上げられて吹っ飛ぶぐらいの衝撃が彼ら3人を襲う……はずの大爆発だったのに、近距離で起きた爆発は、各々が被っていた帽子を静寂な霧空に飛ばして足元に転がす程度のそよ風で済んだのだ。

 まるで、爆発と彼らの間に見えない壁があるようだった。

 計算し尽くされた爆発が華麗に、民間人を巻き込まず、気付かれもせず。迅速な動きで爆発を遂行し、丁寧に後始末をしていたのは……7人の小人たちだった。



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白雪姫【Past】02

『目標、粉砕! 火薬、使用量、適切!』

『消音、完璧♪』

『衝撃、無……zzz』

『爆風、消……失……阿嚔!』

『周囲、被害、無! 無!』

『任務、完了。掃除、隠滅、撤退、迅速、駈足!』

『……っ!!』

 

 不気味で静寂な爆発によって瓦礫と化した店舗は、幼児に破壊された積み木のようだった。

 当然だが、崩された後には積み木のその物が残る。城を崩したら後片付けだと言わんばかりに、彼らは店舗だった物を機敏な動きで片付け始める。

 せっかちに、陽気に、眠そうに、鼻がむず痒そうに、照れ臭そうに全てを更地にしてしまい、厳格な声を発した1人の引率でその場から立ち去ろうとしていた。が、最後尾の千鳥足が、一部始終を目撃していた蔵人たちを発見して焦り出したのだ。

 ってか、今まで気付かなかったんかい。

 

『目撃者! 発見!』

『消去?』

『消滅! 削除!』

『隠滅♪』

『阿嚔!』

『虐殺……zzz』

『……!』

「今! 言葉よく分がんねけど、くしゃみの後に凄ぇ物騒なこと言った! 確実に!」

「しかも、眠たそうに言われると……そんな人が、一番危険人物だったりするんですよね。特に何も感じずに殺人を犯すとか」

「怖い! 怖いです蔵人さん!! で、この人たちなんですか!?」

 

 霧の中から出現した7人の小人たち――京劇にも似た特徴的な赤いメイクをしていて、各々の表情が決定的に異なっている。その顔と行動と、しかも7人いることが決定的となり読人には彼らを創造した【読み手】が持つ【本】のタイトルが予測できた。

 だが、読人が予測できたところで過去の記憶に干渉できない。目撃者という証拠を隠滅しようと、7人の小人たちはツルハシやらスコップやら、右手にダイナマイトに左手に火種やらの物騒な物を手にして襲い掛かって来たのだ。

 

「蔵人さん!」

「ええ」

『カァ!!』

「停止!」

 

 凛――と、霧の中から声が聞こえた。

 一本の槍のような静止の声が、静寂を突きや打つ。声によって7人の小人たちはピタリと動きを止め、7人中6人がへこへこと低姿勢で声の主の顔色を窺う。おとぼけな1人だけは、声の主に嬉しそうにまとわりついていた。

 闇に相応しい、淫靡な光を宿した真紅の唇。細い腰に流れる豊かな黒髪は蔵人が昼間に目撃した艶だった。

 石畳にヒールを鳴らすのは、一歩一歩を踏み出す度に深いスリットから覗く黒いストッキングに包まれた長い脚。霧の向こうから少しずつ姿が現れるその様は、纏っている薄絹を一枚一枚脱いで裸体を魅せる様子を思い起こすような……こんな状況でなければ、思わず生唾を呑み込んでしまいそうになるほどの光景だ。

 だが、虐殺一歩手前だったこの状況で、のんきに興奮なんてしていられないだろう。登場したのが、白いチャイナドレスのとびきりの麗人だったとしても。

 手にしている【本】の裏表紙には、林檎に唇を寄せる黒髪の姫と彼女を囲んで円を描く7人の小人のシルエット。タイトルは『白雪姫』――その名を知らぬ者はいない、姫の物語だった。

 

晩上好(こんばんは)、良い夜ね。何もかも、隠してくれそうな、素敵な闇」

「こんばんは。昼間、お会いしましたね」

「熱の籠った視線、いただきましたわ。でも残念、まだ仕事の最中なのでお誘いは受け取れないの。代わりに……気持ちよく殺してあげる」

 

 麗人の黒髪を飾る二枚の櫛がするりと抜けた。縄のように編み込まれた長い黒髪が独りでにうねり、腰以上の長さまで伸びて大きく掲げられる。

 手にした【本】が光る度に二枚の櫛の歯がどろりと濁り、官能的な香を纏った髪が牙を剥いて来た。

 

「武装能力・黑髮装饰毒的梳子(黒髪を飾る毒櫛)

「……龍生君、光孝君を連れてお逃げなさい」

「蔵人さん!」

「そろそろ、真面目に紋章集めをしようかと思います」

 

 一撃目は威嚇。石畳を砕ければ、櫛から滴り落ちた濁りがジュ!という音と煙を出して、石の欠片をドロドロに溶かしてしまう。ただの櫛ではない、【読み手】の髪で自在に操る、毒の櫛だ。

 これでは、麗人が言うように気持ちよく死ぬことはできないだろう。気持ち良いと感じた時は既に、肉も骨も溶け切っているはずだから。

 だが、蔵人はそう簡単に毒殺されない人種なのはよく知っている。犯行現場を見てしまったからと言って、そう簡単に始末されないはずだ。

 音なき爆風で飛ばされた中折れ帽子を、砂埃を払ってから頭に乗せる。『古事記』を手に龍生と光孝を遠ざけ、【戦い】が始まった。

 

「申し遅れました。黒文字蔵人と申します。【本】のタイトルは『古事記』、どうぞお見知りおきを」

「あら、【読み手】だったの。自分から名乗るなんて……正直な男、好きよ。【本】は『白雪公主』、名は(ジン)英蕣(インシュン)。楽しませてね、靚仔(色男)

 

 気怠そうな低めの声を紡ぐ真紅の唇から、ちろりと濃桃色の舌が艶めかしく顔を出したと同時に、三つ編みの縄となった黒髪と毒の櫛が蔵人へ襲い掛かる。

『白雪公主』――『白雪姫』。その物語において、最終的に姫を殺害したのは毒リンゴであるためその殺害方法(?)が有名すぎるが、実は白雪姫は三度に渡って魔女の継母に命を狙われている。

 一度目は、綺麗なリボンを胸にきつく締められて窒息死したが発見が早かったので息を吹き返した。そして二度目は、毒を染み込ませた櫛を髪に刺して毒殺したが、これもまた発見が早かったので櫛を抜いたら再び息を吹き返した。

 魔女の想像以上に白雪姫の生命力が強かったため、毒リンゴは三度目の正直だったのだ。

 この創造の元となっているのは、二度目の犯行。白雪姫の黒髪に突き刺された毒の櫛だが、これには抜いても生き返らない即死の猛毒が染み込んでいる。その攻撃を、蔵人はどう防ぐのか、反撃するのか。

『天岩戸』か、それとも『八咫鏡』で物語の獣たちを召喚するのか。『古事記』を開いた蔵人の迫る毒の櫛、その歯をぽっきりへし折らんとばかりに弾き返したのは、霧の中に灯る赤い光。

 一つ、二つ、三つ。赤、赤、赤……蔵人の周りを浮遊する三つの赤が、甲高い音を立てて櫛を打ち返す。

 徐々に収まり始めた霧の向こうで彼を守護していたのは、赤く光る勾玉。蔵人の手の動きに合わせて、飛行ユニットのように浮遊し、くるくると回っていたのだ。

 

「武装能力・八尺瓊勾玉――ヤサカとは、長さを意味する「八尺」。「瓊」は赤い玉を意味します。つまり、巨大な赤い勾玉ということです。ですが、現在の大きさに合わせると約180cmになってしまいまして、それでは流石に大きすぎるでしょう。ですから、私が使いやすい大きさで創造したのですが……」

「蔵人さん! 説明しているバヤイじゃありませんって!!」

 

 逃亡の最中である光孝が、思わず突っ込み染みた注意喚起をしてしまうほどのんきな蔵人の説明を、敵こと英蕣が大人しく聞いてくれるはずがなかった。

 蔵人の『八尺瓊勾玉』に驚くことも感心することも、じっくり観察して解析でもしようという素振りも見せず、黒髪の乱舞の猛ラッシュが始まったのだ。

 毒の櫛は二つしかないが、櫛が繋がっている英蕣の黒髪は無尽蔵に伸び続ける。しかも長さだけではなく、ある程度の硬化も可能なようだ……瞬時に編み込まれた三つ編みの縄が、蔵人の隣にあった消火栓を薙ぎ払えば、ぽっきり折れて水が噴き出した。

 

「場所を変えましょうか。八咫君」

「カー」

「待ってよ、遊びましょう」

 

 流石に接近戦は無理だと判断したのか、蔵人は八咫君に運んでもらって周囲を浮遊する『八尺瓊勾玉』ごと近くの建物の屋根の上に舞い上がる。それを追って、英蕣も黒髪をバネにして自身の痩身を持ち上げて屋根に着地すれば、細いヒールが煉瓦を鳴らす。

 そして、一息吐く暇もなく、色っぽいお誘いもなく、櫛のラッシュとそれを受け止めて光速に動き回る赤い勾玉の応酬が始まったのだ。

 黒髪の連獅子――と言うには、あまりにも妖しく、美しすぎた。編み込まれた黒髪が猛毒の飛沫を散らしながら薙ぎ、払い、突き、乱れる。

 一方、蔵人も彼が手を払えばその動きに合わせて勾玉が守って、攻めて、闇を赤く照らす。勾玉は徐々に小さくなり、増殖する……分裂するかのように赤い勾玉の数が増え続け、気付けば数十個もの赤い勾玉に2人の【読み手】が囲まれていた。というか、包囲されていた。

 

「大きさか、数か。貴女の場合は数で包囲した方が確実かと思いまして」

「あら、見くびってもらっちゃぁ、困るわ」

 

 勾玉の包囲網を突破するために新しい創造をするのかと、白い手は【本】に移るかと思いきや……そんなことはなかった。解かれた髪が舞い散って広がり、勾玉は黒髪に飲み込まれてほとんどの数が地面に叩き付けられた。正面突破。脳筋だ。

 と、その光景を目にしてしまった読人だったが、思った以上にゴリ押してはなかった。暗闇に乱れた黒髪が手櫛で梳かれて落ち着きを取り戻せば、英蕣の背後には7人の小人に囲まれた光孝が、簀巻きの逆さ吊りにされていたのである。

 

「蔵人さん! ごめんなばい、捕まりまじた……」

「あー……有能な小人たちですね」

多謝(ありがとう)。信頼する仕事人たちよ」

 

 白雪姫を守護する7人の小人たち。それを元に創造された彼らは非常に優秀だった。

 創造能力・七專家(7人の仕事人)――元々は鉱山で働くドワーフという解釈もあるので、発掘に係る発破は得意なのだろう。英蕣と共に()()をする彼らは、火薬の量や爆破の方法を熟知したプロフェッショナル集団なのだ。

 無関係な周囲の店舗を巻き込まず、一軒だけのターゲットを的確に爆破するのもお手の物。時には音もなく被害もなく仕事を遂行できる彼らは見事であるが、爆破に限らず普通に有能だった。

 逃げた光孝を捕まえ、簀巻きにして巨大なツルハシから吊るして首元にノコギリを添えている。見事な人質だった。

 

「このボウヤ、どうする?」

『消去!』

『目撃者! 消去!!』

『消・去~!』

『消・去♪』

『消……去zzz』

『消、去っ!』

『……!』

「だって」

「嫌あぁぁ!!」

「光孝君……私はでは無理です」

「……えっ」

 

 光孝の顔が絶望に染まった。だが、助けないとは言っていない。蔵人の距離では彼の救出は無理だが、こっちにはもう1人いる。

 消去消去と盛り上がる小人たちの背後で、再び水柱が噴き上がった。また消火栓がへし折られたのかと思ったのか、7人が一斉に背後を振り向いて屋根の下を覗いてみれば、一気に屋根までせり上がった激流に仰天して7人中4人がひっくり返った。

 激流を足場にして駆けて来たのは漆塗りの下駄を履いた龍生、その手には『一寸法師の川下り』を巻き起こす箸が握られている。小人たちがひっくり返ったその隙に箸を彼らの足音に突き刺せば、突如発生した噴水によって7人が各々の方向に吹っ飛んだのだ。

 

「龍生ざーん!!」

「泣ぐな泣ぐな。ごめんなさいね、綺麗なおねーさん。小人たち吹っ飛ばしてまって」

「あら、あらららら……私、お姉さん? うふふふ」

「え、わし、何か変なこと言った?」

「嬉しいわ、綺麗な女と言ってくれて」

 

 ころころと、鈴……と言うよりは、土鈴が出す少し低くとも心地の良い声で笑う英蕣。龍生へ向けてニコリと、妖艶な微笑みを向けてチャイナドレスの首元へ手を伸ばす。

 月も隠れてしまった闇夜だというのに、霧が晴れた良いタイミングだったのか。チャイナカラーを開けた真っ白な首が浮かび上がれば、そこには違和感が待っていた。女性の物にしては少しがっしりとしたその首には、くっきりと喉仏が出ていたのである。

 

「え、それ……」

「まさか」

「やはり、男性だったのですね。けれど、白いドレスがよくお似合いだ」

「白が好きなの。肌ざわりの良いシルクも、光を孕んだ赤も、翡翠色の黒髪も。女でいるのが、好きなのよ」

 

 見た目は完全に美しい女性だ。しかし、よくよく見て見れば喉仏の下の胸元には豊満な膨らみがない。ヒールを脱いでもその身長は龍生よりも大きいだろう。

 女でいるのが好きと言う英蕣の本来の性別は男。だけど、本人は龍生に「おねーさん」と言われて心の底から喜んでいるようにも見えた。

 

「えー……けんど、どう見てもおねーさんだから、おにーさんとは呼びたくはないな」

「龍生さん、それで良いんですか?」

「だってさー」

「昼間にお目にかけた時から違和感があったのですが、本当に男性とは思いませんでした。私の直感も捨てたものではありませんねぇ。八咫君」

「カァ! カァ!」

「痛い痛い、蹴らないで八咫君」

 

 八咫君は相変わらず手厳しい。三本の脚で蔵人を蹴り、時には嘴で突いて来る。

 

「では、もう一つ直感を語ってもよろしいでしょうか? 昨日と先ほどの爆破は、貴女と小人たちの仕業です。見せしめと、粛清、なんでしょう」

「……何が言いたいの?」

「貴女、先ほど「多謝」と言いましたね。「ありがとう」と。【本】の能力で言葉の疎通が可能となっていますが、言葉の端々には一般の中国語である北京語ではなく広東語が見える。広東語が一般的なのは香港だ。そして、爆破された店舗二軒はどちらも香港の方が経営しています。そして、彼らがみかじめ料を支払って庇護してもらっているのは香港系のマフィアです。貴女のお勤め先では?」

 

 蔵人の直感――昼間と夜間、二件の爆発はそれぞれ見せしめと粛清であると感じたのだ。そして、何故そう感じたのか。八咫君がもたらしてくれる情報やら、英国現地で得た情勢を総合した結果、蔵人は一つの仮説を立てた。

 あまりにも突拍子もないそれは、人に話せば苦笑いでもされて「小説家にでもなったら? もしくは漫画家とか」とでも言われてしまいそうな、その仮説。

 

「最近、中国側が香港その他のイギリス領の返還を求めています。けれど、今の香港が中国へ返還されても香港側にメリットはありません」

「え、なして? 故郷に帰りたいもんじゃないんですか? 沖縄とか」

「今、香港はベトナム戦争やその他の戦争特需で絶賛の好景気です。わざわざ中国の、もっと言えばイギリス政党の支配下にならずとも自分たちの足で国際情勢を歩いて行ける。そう、お考えでは?」

「……」

「あくまで私の戯言としてお聞き下さい。貴女方の目的は、中国への帰還でもなければイギリス支配の継続でもない。香港独立……では、ないのでしょうか?」

 

 蔵人の予測が正しいのだとしたら、爆破された二店舗は香港独立に反対したが故の爆破だったのかもしれない。

 その独立は、英蕣の所属している組織が積極的に推し進めているために、彼女は()()をした。奇しくも【戦い】の年だったため、英蕣が【読み手】だったために、摩訶不思議で非日常的な()()ができたのだ。

 まあ、全ては蔵人の頭の中で立てられた突拍子のない直感かつ戯言のため、それが真実であるのかは分かりっこない。

 だけど、彼の予測を一通り聞き終わった英蕣の唇が弧を描くと、『白雪姫』の表紙を閉じて小人たちも【本】の中へ撤退してしまった。

 

「そういうことにしておいてあげる。ここで貴方とやりあって紋章を手に入れるのも良いけれど、逆に奪われたら私が殺されちゃうもの。今夜のお仕事はきちんと終わらせたから、見逃してあげる」

「あ、あの……っ、あのお店の人たちは、どうなったんですか?」

「しっかり始末して、テムズ川に流しておいたわ」

 

 光孝が再び悲鳴を上げた。香港人がテムズ川に浮かんでいたと新聞に載るのは、時間の問題かもしれない。

 英蕣が【本】を閉じたので、これ以上【戦い】を続ける必要はないと判断したか蔵人も『古事記』を閉じた。

 すると、英蕣のヒールの音が蔵人に近付いて白い指先が蔵人の左頬に伸びると同時に、右頬には真紅の唇が触れた。近距離にいる2人にしか聞こえないほど小さなリップ音と、薄い唇のキスマークを残して英蕣は再び微笑んだ。

 

「またね、靚仔(色男)

「ええ。今度は、もっとゆっくりお話しできる場所で。再見(また会いましょう)小姐(お嬢さん)

 

「翡翠の髪状」とは、カワセミの羽のように艶やかで長く美しい黒髪のことを言う。

 その名に相応しい英蕣の黒髪が本来の長さに戻り、毒が抜けきった櫛が飾られると今夜はもうおしまいと言う決定的な合図だった。

 黒髪を翻した白いチャイナドレスが蔵人の傍から離れ、再び立ち込み始めた白い霧の中に消えて行く場面で、本日の夢は終わりだ。匂いなんて感じないのに、英蕣の――彼女が纏っていた香水の匂いなんて、全く知らないのに。

 何故か凄く良い匂いが、甘く、それでいてどこか寂しい残り香が鼻を擽った気がした。




オカマキャラが好き、おネエさんが好き。
美人で綺麗なお兄さんはもっと好き!


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