天子様の無茶ぶりに、私は今日も血反吐を吐いた (沖縄の苦い野菜)
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賽は投げられた

 

 白亜の大理石の建造物と、レンガ造りの塀に囲まれた、足首ほどの水深の禊の場。その中央には一本、筋肉のごとく隆起する立派な幹の桃木がそびえたつ。

 吸い込めば胸のすくような清涼な空気が漂うその場所で、よっ、と桃に手を伸ばす。羽毛が風に舞うように跳ぶと、その手は見事魅惑の果実に届き、それをもぎって水滴が跳ねる音と共に着地する。

 

「ほら、食べなさい」

「空腹ではありませんが」

「魂は存外、身体に引っ張られるもの。脆弱な肉体に強靭な魂が定着するのは難しく、お前は魂ばかりが逞しい。まず己の弱さを自覚し、これを戴くことだ」

「……それでは、いただきます」

「よろしい」

 

 差し出された桃に嚙り付けば、鼻の奥までスッと果実の甘い香りが通り抜けて、続けざまに口の中に極上の甘味が広がった。まるで砂糖のような濃い甘味は、しかし水のように喉越しがさっぱりとしており、口の中に薄く膜を張るように果肉の後味を残す。

 

 天界の桃は至上のご馳走だ。食するだけでその身体を頑強にしていき、これを食い続けた者は修行を積まずとも刃も通らない肉体を手に入れることが出来る。食べるだけで身体能力を向上させる、地上では伝説に残るほどの代物だ。

 

 天界に住む者であれば、誰しもが食べる主食だ。

 主食なのだが、それを食してはならないと禁足事項として定められた例外が一人いる。

 

「他のヤツらはどうして、あんたのこと目の敵にするんだか。桃食ったって人間そう変わるもんか」

 

 呆れたように、しかしどこか誇らしげに口元を緩める少女。

 比那名居天子は、天人という種族に似合う傲慢な口ぶりで腕を組みながら鼻を鳴らす。山の天気よりもコロコロと変わる表情は、どれをとっても天上の華というに相応しい愛らしさを誇る。

 

「……私の能力のせいかもしれません」

「あぁ……貫く程度の能力、だっけ? そんな、そこらの仙人どころか、死神さえ撃退できない力のどこに価値があるんだか」

 

 仙人はピンキリと言わざるを得ないが、死神さえ撃退できないとは。さすが天人基準といったところか。

 普通の人間では、武器をもってどれだけ訓練しようが死神に勝つことはできない。お迎えに来た死神を撃退できる奴は、それはもう立派な仙人である。あるいは神仙や、それこそ天人という格に足を突っ込んでいるような、人外魔境の住人である。名のある大妖怪共と殺し合える、そんな今の時代には似つかわしくない、想像の埒外の話。

 

 能力だけで死神を撃退?

 そんなことが出来るのであれば、神代にでも生まれていれば英雄として持て囃されたことだろう。日ノ本であれば神として後世の信仰を集めたことだろう。

 

 生憎だが、『貫く程度の能力』は無制限に規格外の能力を発揮してくれるような、そんな代物ではなかった。

 射程無限。どんなものだろうと貫ける。その力は、別宇宙にある星さえも貫くだけの代物であることは間違いない。

 

 しかし――

 

「貫通力を上げれば攻撃範囲が狭くなり、攻撃範囲を広げれば貫通力が落ちるとは。片手落ちってのはまさにこのことね」

 

 呆れたように手のひらを上に向ける少女に、言われた本人としては曖昧な笑みを浮かべるしかない。

 

 射程が無限であろうと、必ず貫通が出来る力があろうとも。

 その威力は、まさしく皆無に等しい。

 

 どんなものでも貫通させるだけの力を持たせるとなれば、それこそ光よりも細い――視認どころか、月の都の技術をもってしてギリギリ見分けることのできる穴をあける程度に留まる。その穴は、水さえ通さない小さなもので、例え心臓を貫こうとも相手を害するには値しない。

 

 仮に人差し指ほどの範囲を貫通させようと思えば、その貫通力は現代兵器のライフルにも劣る。拳銃ほどの力が関の山、といったところか。

 これでは、中級妖怪相手にようやく戦いが出来る、といったところか。少なくとも、大妖怪と言われる相手には毛ほども通用しないのは明らかである。

 

 天人の少女からしてみれば、そんな能力はあってもなくても変わらない。何せ、天人の体に害を与えるなど夢のまた夢なのだから。

 

「……弁明の余地もなく」

「魂は立派なのにねぇ。天人よりよっぽど頑丈というか、芯が通っているというか。その丈夫さ、少しでも肉体に分け与えられれば、盾くらいにはなれそうだけど」

「犬死がオチですが」

「冗談よ。盾なんかより私の方がよっぽど丈夫だし。邪魔よ、邪魔」

 

 しっしっ、と手を払うポーズを見せる少女に、やはり言われた本人は曖昧な笑みで答えてみせる。

 

「その能力、両手で使えば万能とかないわけ? ……ないか。あったら今頃私の従者なんかやってないわね。はぁ」

 

 悩まし気に息を吐いたかと思うと、少女は「そうだ」と閃いたのか自信を顔に貼り付ける。

 

 そんな少女の太陽のようにまぶしい笑顔を見たら、天界の誰もが確信することだろう。

 ――また碌でもないことをするぞ、と。

 

「地上に降りようか。で、私が異変を起こすから、あんたはそれを解決すること」

「――は?」

「ちょうどいい訓練と、私の退屈しのぎを兼ねた最高の計画ね。ついでに地上を支配出来たら、管理はあんたに全部任せるから。私、そんなみみっちいことやりたくないの」

「あの、……正気、ですか?」

「正気って何よ。そんな発狂するような軟弱な心は持ってないわ。私の次に頑丈なあんたなら、私の元まで辿り着けるでしょ」

 

 本気で正気を疑う視線を向けられても、少女は気にした風もなく我を貫く。本気で意味が分からない哀れな従者は、心の底で「何言ってんだこいつ」と至極当然な感想が浮かぶだけで、思考は完全に停止していた。人はこれを現実逃避という。

 

「じゃあ、私が飽きる前に解決してね。飽きたら幻想郷の要石引っこ抜くから」

「……はぁ!?」

 

 要石とは、大地に挿し込むことで地震を鎮めるもの……ではあるが、それはただ地震の原因となるエネルギーを「抑えつけている」だけであり、根本の解決をしているわけではない、非常に厄介な代物。

 見た目の特徴は、注連縄のついた岩といったもので、大きさは様々。

 これの特筆して厄介な点は、これを引っこ抜くことで、今まで蓄積されていたエネルギー全てが一気に解放され、超大地震が起こる、ということだ。

 

 太古に、これによって地上の生物の実に九割五分死滅したという話が、物事の壮大さをよく表しているだろう。

 幻想郷の要石も例外ではない。もしも引っこ抜けば、幻想郷は――地上は、生物を残らず死滅させ、滅びることだろう。そこに、人間と妖怪の区別は一切ない。

 

「ほら。地上の虫ケラ一掃するには丁度良いし。生物が消えれば、穢れも減る一方でしょ? そうして浄土になったら、この“緋想の剣”を使って穢れを払うだけで、面倒な死神も来なくなるし。成功しても得。失敗してもあんたの訓練にはなるから目的達成。どっちに転んでも完璧ってわけ」

「……そんなことをなされば、今度こそ天界から追放されますよ」

「いいじゃない。追放されるときは既に地上は我が掌の上。そうでなければ、追放される謂れもなし」

「どうあっても、決定を変える気はない、と」

「だって暇だし」

「……」

 

 逡巡が空白を生む。暇を埋めるための何かを考えるも、良案は一個として浮かばない。考え得る限りの手段、その全ては棄却される。

 

 

 

「反論もないということで。ほら、これを使いなさい」

 

 そうして手渡されるのは、薄い桃色の、先が透き通って見える波打つ生地。天の羽衣と呼ばれる、天女が天帝より貸し与えられた品――ではなかった。

 

「これは、天女の?」

「んなわけあるか。これは月の羽衣。裏の月と地上とを行き来するための乗り物。これを使うことで、お前でも安全に地上に降り立つことができるだろう」

 

 降り立った後は知らないけど、と少女はついでのように呟いた。

 嫌に耳に残る言葉に顔を歪めていると、少女は虫でも追い払うように手を振って、「早くいけ」と促した。

 

 月の羽衣と天女の羽衣は、同じ羽衣といえども全く別の効力を持つものだ。

 天女の羽衣は硬化や伸縮性に秀でており、人間が纏えば空を飛べる品である。

 それに比べて月の羽衣は、本当にただ月の裏側と地上とを行き来するための代物なのである。戦闘に使えるということはない。そもそも天帝より貸し与えられるものではなく、これは月の技術を用いて作られた、人工物なのである。

 さらに言えば、これはあくまで裏の月と地上とを行き来するためのものであり、天界に戻るために使用できるものではない。

 

 綺麗な布の片道切符を渡されて、ええい、と自棄になると、その場で跳ねて羽衣の内に風を集める。ふわっ、と扇状に膨らむと、羽衣は人一人の重さを感じさせず、そのまま空高く巻き上がるのであった。

 

「……あれ、もしかして月の方行っちゃった?」

 

 だとすれば、それはそれで面白いとは思うが、月の民は穢れを酷く嫌うと耳にしたことがある。天の民とは呼べない、少女の従者が裏側の月に行けばどうなるか。

 

「うーん、ちょっと早いけど。ま、いっか」

 

 刀身のない紺碧の柄を握り込み、底から尻尾のように垂れる幻獣の毛束が揺れる。

 

「ふんっ」

 

 刹那。瞬きの間に、稲妻の如く柄の先から緋色が閃いた。青空が夕焼けのように染まるのも一瞬であった。

 振り終えた時には、刀身も、空の色も元に戻っていた。

 

「さ、私も行こうか。まずは」

 

 巫女にちょっかいを掛けましょう、と。

 悪気はない。こうでもしなければ、巫女はすぐに異変を調べないだろうと、地上を見てきた天子は知っていた。

 

 だから、これは暇つぶしのために必要なこと。

 ちょっとばかり、神社の下だけ地震を起こして、異変を実感してもらう。すぐに動いてもらって、停滞という暇に次ぐ暇を解消するための第一手。

 

「異変の解決者に、気付いてもらいましょう」

 

 これより始まる異変は、ただの異変ではない。

 無邪気な我儘と、欠片ほどの優しさによって引き起こされる、幻想郷の存亡を賭けたかつてない大異変。

 

 後に、とある烏天狗の新聞では、異変をこう名付けたのだとか。

 

 ――天変穿通異変――

 

 

 

 



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賽の河原は目に見えない

 

 葉っぱが地面に落ちるように、空から人が舞い降りる。羽衣を両手に、頭上に広げて。

 最初は舞い上がった身体も、合図を境に落ちるばかりだった。

 

 そうして、地面に足を着けば急に襲う加重に歯を食いしばる。ようやく浴びる重力が、何倍も強く感じて、その身体を上から襲うのだ。

 

「っ、地上、重っ……!」

 

 臓物が口から飛び出しそうな錯覚に陥る。顔を青くする中、口元を抑えて寸でのところで堪えたものの、頭の中を下に引っ張られるような気持ち悪さは抜けることがない。

 

「桃が、足りない……」

 

 すぐ先も見えない粉塵に囲まれながら、重たい空気に肩が落ちる。目をしっかり開けるには塵が多く、開けたとしても数歩先も見えない有様だ。やたらと強い向かい風も相まって、正面を向くことさえ厳しい環境。目じりに涙が浮かんでくる。

 

「とにかく情報……少しでも、攻略法を見つけないと」

 

 置かれた状況は最悪だ。どことも知れぬ場所に落とされて、どこに居るかもわからない天子を探し、これを何らかの方法を以て打倒しなければならない。

 

「全力を出すわけはない、と思うが」

 

 例え手加減をされたとしても、従者と天子の間には隔絶した力の差がある。もしも幻想郷の決闘方法を用いたとしても、地力の差が浮き彫りになるだけだろう。何もできず、敗北を待つだけのそれを、決闘とは呼ばない。ただの弱い者いじめである。

 

 天子を打倒するのは、従者の力だけでは不可能だ。

 ならば仲間を募るか。あるいは、異変を解決するだけというのであれば、“緋想天の剣”を奪うだけでもいいだろう。

 そのために為すべきことは、仲間集めが最善か。

 

 少なくとも、探し方自体は簡単なのである。“緋想天の剣”は気質を集める力があり、今も自身から漏れ出る気質の行方を追うだけで天子のもとには辿り着けるのだ。

 だからこそ、今必要なのは天子を打倒し、異変を解決できるだけの戦力である。

 

 方針が決まり、ならば、と足を踏み出したところで、頬がしっとりと濡れる。

 空を見上げると、相変わらずの砂塵で雲さえ見えないが、確かに頬を、顔を濡らす霞のような水滴が降り始めた。

 

「おお、砂嵐か? 如何にも、怪しいヤツだぜ」

「……雨?」

「おう、霧雨魔理沙様だぜ。そういうお前は見かけない顔だな」

 

 とん、と風と共に目の前に降り立つのは、黒を基調とした根元に白いリボンを付けたトンガリ帽子に、黒いドレスの上から白いエプロンを着けた金髪の少女。白い歯を見せてニヤリ、と笑う姿はあまりに眩しく、思わず視線を細くする。

 

 

 

「今、ここに到着したばかりですので。申し遅れましたが、私は長尾在人と申します。……この雨は霧雨嬢が?」

「なんだ、その歯に物が挟まるような呼び方は。魔理沙、魔理沙でいい」

「では、魔理沙嬢と」

「敬称もいらないって。背筋がムズムズするったらない」

「……では、魔理沙さん、と。お尋ねしますが、この雨は魔理沙さんの魔法によるものですか?」

 

 ほう、と金髪の少女魔理沙は感心したように声を上げると、今の悪天候を吹き飛ばすような笑顔の大輪を咲かせた。

 

「見どころあるやつだな! この私を魔法使いと初見から見破ったのは、アリトが初めてだ。いつも家政婦だのなんだの呼ばれてね。まさしく、普通の魔法使いの霧雨魔理沙さんだけど……この雨は、ずっとこんな感じだよ。梅雨が全然明けなくてな。きのこが良く育つのはいいんだが、家にカビまで生えていけないね」

 

 やれやれ、と芝居がかった仕草に、幾分か場の空気も弛緩する。

 

「外来人、ってわけでもなさそうだな。本当に初めて見る顔だ。どこの出身なんだ?」

「天界より参りました」

「天界! へぇ、そりゃまたお高いところに」

 

 なるほど、なるほど、と腕を組み訳知り顔で数度頷くと、魔理沙は箒を一回転。腰の位置でピタリと地面と水平に止めると、八卦炉を在人に見せつけるように取り出した。

 

「怪しいな。この異常気象の異変の中、羽衣にぶら下がって降りてくる天界人。怪しさだけで言えば数えて役満だ」

「お待ちを。大変恐縮なのですが、私に戦う力はそれほどありません」

「実力者はみんなそう言うんだぜ」

「いえ、本当に。中級の妖怪程度なら、死闘を繰り広げることもできますが……大妖怪や、魔法使いが相手となると、とても、とても」

「中級もピンキリだぜ」

「中級なりたてのほぼ弱小妖怪相手に死闘を繰り広げる程度の戦闘力です」

 

 魔理沙が目を丸くしたかと思うと、今度は訝しむように目を細めた。

 

「おいおい。天人ってのはみんな強い、って聞いたんだが」

「私は天人ではなく、ただの従者ですので」

「なんだ、家政夫なのか。どうりで砂嵐に巻かれるわけだ。そのまま人里で安住するのはどうだ? 私が紹介してやるからさ」

「ご厚意、痛み入ります。しかし、この身は主が健やかな生涯を送れるように、と誓った身の上故に。もしも主が大往生を果たしたのなら、考えさせていただきます」

「従者ってのは、みんな苦しくて仕方ない。お前のは重苦しくていけないな」

「主にもよく言われますが、こればっかりは性分なもので」

「だからお前の周りの空気は重いんだ。それに、ここにはお前と私しか居ない。肩の力でも抜いたらどうだ?」

「私の行動が主の品格に傷をつけてはいけませんので」

「重くて堅いときてる。お前みたいな従者の主は、自由奔放って相場が決まってるぜ」

 

 その言葉に、従者在人は苦笑をもって返すしかなかった。

 まさしく、今回の異変を「暇だから」などという理由で起こした少女が主なのだ。この少女を、自由奔放と言わずに何というのか。

 

「……経験がおありで」

「あぁ、経験ばかりだ。そして、そういうヤツの主は決まって――異変の首謀者なんだよ!」

 

 八卦炉と箒をそのままに、魔理沙は力強く言い放つ。

 

 

 

 なるほど、あれは臨戦態勢だったのか。と、ひとりのんきに納得しながら、その言葉に深く頷いた。

 

「おっしゃる通り、我が主は今回の異変……異常気象の異変の首謀者であることに、間違いはありません」

「やっぱりな! そこらの魔法使いの目は誤魔化せても、私の目は誤魔化せない!」

「しかし、魔理沙さんは一つだけ勘違いをなさっている」

「――勘違いだって?」

 

 ここでも従者在人は頷いた。神妙な面持ちで、そこに嘘など一切ないと言わんばかりに。

 

「私はこの異変を解決するために、地上に降り立ちました」

「はぁ?」

 

 素っ頓狂な声を上げる魔理沙に構わず、従者在人は言葉を続ける。

 

「今回は、さすがに事が大きいのです。その動機が、暇だから、という気まぐれだとしても。この異変は、一見ただの異常気象に見えて……その実、幻想郷の存亡を賭けた大異変なのです」

「大異変? なんだ、空が割れるとでも言うのか?」

「それならどれだけ平和なことか」

「おいおい。月がすり替えられた時だって大事だったってのに」

「それほどに、この異変は恐ろしい。いや、正確には我が主の力が大きすぎる。……魔理沙さんは、要石というものをご存知でしょうか」

「知らないな」

「では、ご説明をさせていただきます」

 

 

 

 要石は地震を抑えるためのものであり、地震を解消するための代物ではない。

 幻想郷にも要石が埋まっており、これを引っこ抜けば今まで溜めていた力が一息に解放され、類を見ない大地震が発生する。

 この大地震によって、遥か昔に地上の生物のおよそ九割五分が死滅した。

 異変を早期解決しなければ、我が主はこの要石を引っこ抜いてしまうかもしれない。

 そんなことになれば、この幻想郷は間違いなく滅びるだろう。

 

 

 

「おいおいおい! そんな、そんな大事が起きようとしてるのか!? 天界から来たのはお前ひとりなのか!?」

「天人は地上のことをよく思っていないのです。このことを知っても、動く者は居ないかと」

「……天候を操るだけじゃなく、大地まで操るだって? 馬鹿げてるぜ」

「だからこそ、人を集めたい。私一人では、手に余る」

「というか、お前は何か役に立つのか?」

「能力を持っています。“貫く程度の能力”と自称している力を」

「へぇ、その力で謀反を起こすのか?」

 

 魔理沙の言葉に力なく首を横に振る。

 

「私の能力では、主に傷をつけることはできない。貫けるとしても、それは目に見えないほど小さな穴をあける程度。毛穴よりも小さく、血液すら通らない小さな穴を」

「なんだそれ。無傷と変わらないだろ」

「しかし、そんな小さな穴でも。綻びとするには十分なのです」

 

 訳知り顔で、従者在人は親指と人差し指でわっかを作ると、その中に別の人差し指を入れてみせる。

 

「正面から衝突すると勝てない威力でも、内側から引き裂くと存外に脆いものです。それが先まで貫通しているのなら、基点とするには十分」

「おいおい。血さえ通らない穴に何を入れるっていうんだ」

「光なら、曲がらず通ります」

「なるほどな」

 

 納得したような声を上げながら、魔理沙は口を「へ」の字に曲げ、眉をひそめた。

 

「この私が火力で負けるというんだな」

「むしろ、我が主に勝てると?」

 

 今度は従者在人が眉をひそめる番だった。

 魔理沙は指の表側で鼻をひとかきすると、その顔に自信を貼り付けた。

 

「やってみなきゃわからないぜ」

「全人類の気質を集めた、極大の一撃を超えられますか?」

「何だそのデタラメ!」

「我が主が持ち出した天界の秘宝、“緋想天の剣”の力です。天人にしか扱えない代物ですが、それを持つことにより気質を自在に扱えるようになる」

「おいおい。じゃあ、お前から、他のヤツから出ている気は……」

「我が主に通じる道となる。同時に、かき集めている気質になります」

 

 なんてこった! と魔理沙は叫ぶ。こうしてはいられない、と慌てて身を翻したところで。

 

 

 

 従者在人は「お待ちください」と落ち着き払った声をかける。

 

「時期尚早です」

「何言ってんだ! 時間を掛ければ掛けるだけ、相手が有利になるってことだろ!? なら、早いところとっちめて――」

「魔理沙さん一人では、我が主に勝つ術はない」

「叩くなら異変が起こり始めた今しかない!」

「我が主を攻略するためには、あと二人の力が必要です。文字通り、天・地・人、を自在に操る我が主を倒すには、“人”を攻略するだけでは事足りない」

 

 天と地を攻略する必要がある、と従者在人は魔理沙に説く。天に上がれば嵐と雷雨に見舞われて、地に降りれば大地震に足場を奪われる。

 

「だが、気質をこれ以上集められたらそれどころじゃない!」

「いいえ。気質とは、即ち人。人の攻略手段は、先に述べた通り。私が綻びを生み、魔理沙さんが引き裂けば良い」

「だけどな」

 

 

 

 渋る魔理沙に対して、在人は「まさか」と驚いたように目を丸くして、素っ頓狂な声で口にする。

 

「出来ないのですか。人を攻略することさえ、出来ないと?」

「違う。それを無尽蔵に撃たれたら話にならん」

「何度でも引き裂けばいいだけのこと。それに、撃つときの隙はそれなりに大きい。その間に、ほかの誰かが主を攻撃すれば良い」

「お前はどうなんだ。私は問題なくできるが、綻びとやらを毎回生み出せなかったら終わりだ」

「場数だけは一人前なものでして。主の攻撃を、誰よりも知っているのはこの私です」

「言ったな。よし、保険として使ってやるぜ」

 

 あくまでも、自分の勝ちを疑わない姿勢に、従者在人は小さく笑みを浮かべて頷いた。

 

「では、次は天と地の攻略ですが……こちらは巫女様に協力を仰ぎたく」

「巫女ってどっちだ? つい最近に新しい巫女が出てきたんだが」

「実力に足るのであれば、どちらとも。巫女とは元来、神意をうかがい信託を告げる者。神に願い奉ることも多いでしょう。それは、災害によって凶作となった時にも、五穀豊穣を祈る時にも通じます。神を鎮めるとはこれ即ち、大地を鎮め、天を鎮めること。天と地の攻略には巫女様が不可欠なのです」

 

 それを聞いた魔理沙は件の二人を想像して……思わず顔を歪める。何せあの二人である。

 

「……、どっちもそんな上等なものじゃないと思うけどな。それなら、守矢の巫女が両方できるだろ。何せあそこの神様は、片方は天候を操り、片方は大地を操るとか聞いたぜ」

「では、博麗の巫女様には主人本体を倒していただきましょう」

 

 仕方ない、と魔理沙は肩をすくめて頷いた。

 異変の首謀者をこの手で直接倒したいのは間違いない。他の誰かに手柄を取られるのは面白くない。

 しかし、こと火力勝負を引き合いに出されては、引き下がれないのが霧雨魔理沙という少女であった。火力に絶対の自信を持つ少女のプライドは、嵐よりも大きな音を立てて燃え上がっている。

 

「では、急いで協力を結びましょう。異変解決が遅くなっても旨味はありません」

「初めからそのつもりだぜ。じゃあ、私は守矢の方に行く。お前の実力じゃ、妖怪の山は登れないだろ」

「……確かに。危険な方をお任せしてしまいますが、どうか、お気をつけて」

「はいよ。じゃあ、巫女連れて博麗神社で合流な。遅いと血気盛んな巫女が先走るから、遅れるなよ」

「えぇ。必ず博麗神社にて」

 

 

 

 魔理沙は箒に跨って、旋風を巻き起こしてどこかに飛んで行ってしまった。

 霞がかった景色が旋風に吹き飛ぶのも一瞬だった。すぐにまた視界が悪くなり、数歩先までしか見えやしない。

 

 それでも、従者在人は踏み出した。すぐ先のことさえわからぬ道中でも、彼は迷いなく、大胆に足を運ぶのであった。

 



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積み上がる屍、崩れ去る

 あと一歩を踏み込めと、空っぽの腹に力を込めて血反吐をまき散らす。

 緋想の天より赤く、紅く、朱く。淡さの欠片もない血糊化粧に身を染めるのは、泥だらけの道を這い進む者にはお似合いの色づきだ。悪鬼の如き妄執に独り囚われて、それでも尚、と雄叫びを上げて一歩を進めた。

 

 唯独り。

 その頂に挑むは、唯一無二の独り者。

 

 不折(おれず)不曲(まがらず)不退(しりぞかず)

 這い蹲っても邁進し、己が信じる道から外れない。

 

「必ずッ」

 

 手を伸ばす。あと少しのところまで迫った到達点に向けて、何の力もない男の腕が向けられる。

 

「見えたぞ、見つけたぞ。己を貫く矛を、見つけたぞッ!」

 

 力の限り強がった。張り裂けんばかりに、金切声のような騒音を立てながら笑ってみせた。

 

「場数は踏んだッ! 誤答は蹴ったッ! 答えは手にしたッ!」

 

 雨が降ろうと、嵐に見舞われようと、砂塵に巻かれて先が見えなくなろうとも。吹雪に肉を凍らせ皮膚を割ろうと、飛来物に五体を砕かれ痛みに燃え上がろうとも。

 彼は決して、道を見失うことはない。

 

「今だけの有頂天に酔いしれろッ! 見下げてばかりで腐ってろッ! 我が非想非非想天に、貴様の席も、姿も、映りはしないッ!」

 

 ついに、手を取った。

 だらりと垂れ下がった、か細い手を。天に浮かぶ雲のように色をなくしてしまったその手を、両手で包み込むように握りしめた。

 力を込めず、気持ちを籠めて、強く、強く。想いと共に握るのだ。

 

「今だけはどうか」

 

 安らかに、お休みくださいませ。

 

 たった一滴の雨が、雲の上で跳ねた時。

 その意識は容易く刈り取られ、全ては霞むようにかき消えた。

 

 

 

 従者在人が博麗神社に着いた時には、もう巫女の姿はどこにもなかった。綺麗に縦折りに崩れた神社の残骸が哀れな姿を見せるだけだ。遅かった、と思い知らせるには十分な惨状である。

 

 博麗の巫女は既に異変解決に乗り出した後なのは、もぬけの殻の境内を見るだけで事足りた。

 ならば、その博麗の巫女はどこに向かったのか? それを知る者は、かのスキマ妖怪くらいのものだろう。この従者にはおおよその検討くらいしかつかない。

 

 空模様は、相も変わらず霞んでいる。砂塵に巻かれるようなことはないが、少し先も見えない視界不良においては、慣れるのに大きなロスをしたといっていいだろう。

 しかし、それでも従者在人は急いだほうだ。妖怪に出くわさず、妖精にいたずらをされることもなく、辻斬りのように怪しい者に片っ端から絡む異変解決者たちに新しく出会うこともなく。ほぼ最短の道を進んで尚、巫女とは合流が出来ないのだ。

 

 それだけ巫女の行動が早いのも、すべては神社が局地的な地震によって倒壊したせいだ。これがなければ、今頃「今日もいい天気ね」などと縁側で茶でも啜っていたか、あるいは境内の掃除に精を出していたことだろう。

 

 からん、からん、と石畳の上を何かが打ち付ける。頭の上にぽろぽろとごく小さな固形物が降ってくる。

 突然の出来事に手のひらを上に空模様を確かめてみれば、その手には冷たい、本当に小さな氷……雹である。

 

「あら、人間? こんなところでどうしたの」

 

 

 

 鈴を転がしたような声に振り返ると、金糸のような肩口ほどで切られた髪に、精巧なる人形のような顔つきの少女が従者在人を見ていた。表情と呼べるものをどこかに置き忘れたのか、あるいはそれほど友好的な存在ではないのか。

 

「初めまして。私は長尾在人と申します。この度は、博麗の巫女様に異変へのご協力を得たいと思い、こうして来たのですが……既に、この有様でして」

 

 何も言わず棒立ちなのも体裁が悪い。ならば、と己の腹の内を速やかに曝け出す。

 

「ご丁寧にありがとう。私はアリス。早速で悪いのだけれど、この異変について何かご存知、ということでよろしいのかしら」

 

 人形のような少女、アリスは変わることのない表情で語りかけてくる。腹の内を探らせないその姿は、意図的なものなのか、それとも自然体なのか。

 先ほど出会った霧雨魔理沙とは対照的な少女に対しても、従者在人は己の姿勢を貫き、口を開く。

 

「はい。失礼ですが、アリス嬢は異変を解決するだけのお力はお持ちなのでしょうか」

「えぇ、一応は。そういう貴方はどうかしら」

「力には期待しないでいただきたく。しかし、今回の事に関して言えば、誰よりも事態を理解しております」

 

 ここで初めて、アリスは口元に手を当てて考えるような仕草を見せた。それは逡巡か、あるいは一瞬の熟慮であったのか。

 

「……つまり、貴方は黒幕を知っている。その上で、異変解決を希望するのね」

「明晰な頭脳、恐れ入りました」

「本当に思ってるの? なんか、貴方の態度を見ていると。私の答えがわかっていた風だけど」

「予測はいくつか。そして答え合わせと相成った。それだけでございます」

「そう。なら、私にも情報を提供してくださらない?」

「喜んで」

 

 

 

 説明は驚くほどスラスラと進んでいった。要石、緋想天の剣、に関して説明したときは「だとすると、これは……」と自分の世界に入り込みそうになったりもしていたが。魔理沙を説得するよりも、時間は掛からなかった。

 

「貴方が霊夢……博麗の巫女を当てにしたのも納得ね。相手が相手。私でも、相応の準備がなければ単独の解決は難しそうだもの」

 

 相応の準備さえあれば単独で解決可能、という少女の言葉。それは負け惜しみか、それともその頭脳をもって導き出された答えなのか。

 従者在人には知り得ないことだった。ないものねだりをしても意味がない。現状を踏まえて、ならば、と提案を投げかける。

 

「アリス嬢。もしよろしければ、私たちにご協力いただけないでしょうか」

「他にはどなたと?」

「霧雨魔理沙さんと、守矢神社の巫女様と」

「あぁ」

 

 得心がいったように声が転がった。すぐ後に、今まで変わらなかった表情に気苦労のような色が表れ、彼女は小さく息を吐いた。

 

「確かに、話を聞いた限りでは役者は十分。天地を鎮めるのは巫女の役目だもの。つまり、本体を叩くのは私、というわけね」

「……度々、恐れ入りました」

「弾幕はブレインが命。当然の事よ」

 

 何でもない風に言ってのける少女の表情は、ほんの少しだけ雪解けを感じさせた。

 

「おーい! そっちは――なんだ、アリスか」

 

 遠くから声が聞こえたかと思うと、ゴウ! と突風に霞は吹き飛び、雹が舞い、頬を薄く濡らす霧雨が降り始める。

 気を抜けば身体が浮きそうなほどの風だった。腰を落とし、両腕で顔を守り、踏ん張りをきかせてようやく無傷を保てた従者在人は、アリスを見やり――無用な心配であったことに息を吐く。髪の乱れもなければ、ひるんだ様子もなく、極めて自然体でそこに立っていた。

 

「なんだ、とは失礼な言い草ね。作戦の要を請け負うことになったのに」

「おいおい。霊夢は……あぁ、もぬけの殻か。怒髪天を衝く、とはこのことだぜ」

「博麗神社が潰れてる……一体、誰がこんなありがた――こほん。罰当たりなことを!」

「商売敵が減ったな」

「えぇ! これで守矢神社もさらなる信仰を獲得できるかもしれません!」

 

 るんるん、と鼻歌を歌いそうなほど上機嫌に顔を綻ばせる、浅緑の長髪にカエルの髪留めが特徴的な少女。

 そんな少女を見て、「な?」と同意を求めるような視線をよこす魔理沙に対して、従者在人はただ苦笑を返すしかなかった。

 

「随分と破天荒な巫女ね」

「破天荒というか、正直者といいますか」

 

 感想を交換したところで、ようやく守矢の巫女はアリスと従者在人の存在に気が付いたのか、「あっ」と声を上げると、打って変わって礼儀正しく地上に降りてから頭を下げた。

 

「初めまして! 守矢神社の風祝を務めている、東風谷早苗と申します!」

「……すこぶる元気ね。初めまして。私はアリス。こう見えて魔法使いなの。今回の異変の詳細、もう聞いたのかしら?」

「はい! 幻想郷の存亡を賭けた大異変だとか。ここで武勇を、功績を上げれば守矢神社に信仰が集まることは間違いなし! 全力で頑張りますね!」

 

 ところで守矢神社に入信してみる気は、と早速の宗教勧誘に対してアリスは「研究で忙しいの」と一蹴してみせた。しゅん、と早苗が落ち込んで沈黙が生まれたところで、従者在人が一歩前に出た。

 

「初めまして。私は長尾在人と申します。東風谷様、この度のご協力、まことにありがとうございます」

「あっ、貴方が魔理沙さんの言っていた。……えっと、本当に信用していいんですか? 黒幕の従者って聞きましたけど」

 

 早苗は意見を求めるように魔理沙とアリスの二人に視線を配ると、魔理沙は快活に頷き、アリスはどこか納得がいったように頷いて見せる。

 

「従者ってのは苦労人なんだぜ」

「主人の気まぐれに付き合わされて、本当に大変ね。私たちも大変なのだけど」

「……申し訳のしようもなく」

 

 ばつが悪く、しかし事実であるために言い返すすべもなく、ただ頭を下げるしかなかった。

 あまりにも当たり前のように振舞っている二人に、早苗は目を白黒させ、その反応から察したのか。――目を輝かせて「つまり!」と声高らかにしゃべり始めた。

 

「幻想郷では、従者はみんな苦労人気質な方というわけですね! わぁ、アニメや漫画だけだと思っていたのに、本当にそんな分類が出来ちゃうんですね!」

 

 とてつもなく不名誉且つ微妙なところに反応されて、従者としては「ははは……」と空笑いをするしかなかった。苦労しているのは間違いない事実で、否定できる要素は微塵もない。これまでの記憶を思い返し、ついつい口の端が引きつり頭痛と吐き気を催し、とっさに口元を手で覆う。

 

「……顔色が悪いけど、大丈夫?」

「……」

 

 目敏く気付いたアリスに聞かれ、従者在人はそれに無言で手をひらひらと振って答える。

 大丈夫だ、なんて思い込みはしなかった。そんな言葉は気休めどころか、ただ病を悪化させる毒にしかなり得ない。

 だから思い浮かべるのは、主人のことであった。無茶ぶりされた日々を、修行と称し叩きのめされた日を、同じ釜で庶民の料理を食べたことを。何より、その健やかな成長と、太陽のよりも眩しい笑顔の記憶を掘り起こし。

 

 己の務めを思い出し、気持ちを持ち直す。

 やるべきことは、目の前まで迫っている。

 

「……役者も揃いました。作戦のおさらいの後、我が主のもとに向かいましょう」

 

 こんなことは早々に終わらせるんだ、と。

 従者は主攻略のための作戦を、失敗のないよう綿密に話し込んだ。

 

 

 

「えっ、早。まだ地上に降りてから二刻経ってないじゃない。飽きる前に、って確かに言ったけど。一日そこらで飽きるわけないじゃない」

 

 天界のとある場所。早速異変解決者か、と息巻いて緋想天の剣を構えたところで、天子は従者在人の姿を認めて愚痴を吐いた。早く来いとは言ったが、これほど速攻で来いとは言っていない。

 何より、まさかたったあれだけの時間で、3人もの異変解決者を連れてくるとは、天子といえども思ってもみなかった。しばし瞠目した後に、先の言葉である。

 

「へっ、気質とやらを集め続けられたら、不利になるのはこっちだからな! 早期解決、これに限るぜ」

「……在人がすべて話したのね。よくもまぁ、黒幕の従者の言葉をおいそれと信じるものだわ」

 

 そういって天子が3人を一瞥するが、誰も驚いた様子は見受けられなかった。

 

「幻想郷の従者ってのは、どいつもこいつも苦労人だからな」

「あぁ、確かに。私は在人に苦労を掛けてばかりだろう。だが、それは彼にとっては必要なこと。中身ばかり大きければ、それを容れる器は破裂する。桃を食していなければ、とっくに幽霊となっていただろう」

「やっぱり似てるぜ。従者を想って、どいつもこいつも苦労を掛ける!」

「傲慢な主人が多いのね」

 

 お前が言うな、と思わず魔理沙が吐くと、天子はその口元に笑みを貼り付けて首を横に振る。

 

「私だから言うの。人を、天を、地を操れるこの私が傲慢でなければ、誰も傲慢になどなれないってものでしょう」

「鏡を見てもう一度言えるのか、それ」

「あら、鏡にはそれを言うに相応しい絶世の美少女しか映らないもの」

 

 そこまで聞いて、魔理沙は「処置無し」と言いたげに肩をすくめて首を横に振った。

 

「それで? 幻想郷を滅亡させるような大地震を起こそうとして。全く悪いとは思わない。全力で止めさせてもらうわよ」

「別に、大地震自体が目的なわけではないけどね。お前たちの悉くが失敗すれば、幻想郷を滅ぼす。私は寛大だからね。一週間は待ってあげる」

「本当に自分勝手。力を持ったお馬鹿さんほど手に負えないものもないわ」

「頭脳というのは刀鍛冶と一緒だ。元となる玉鋼を手に入れ、これを鍛錬することで堅実な硬さと粘りが生まれる。ただ硬いだけの鋼など、すぐにへし折れ、粉々に砕け散る」

「あら。頭脳戦がお好みなら、いつでも乗ってあげるわよ」

「お前は水にでも倣うか、あるいは私の従者に倣うといい。よっぽど、独学よりも勉強になるだろう」

 

 驚きに目を開き、アリスは従者在人の方を見て、天子を見て、もう一度在人を見て、ほんの少しだけ見つめた。

 贔屓目に見ても、礼儀の正しい男性というだけで、何かに優れている印象は見受けられなかった。精々、従者として培ってきた身のこなし、程度であろうか。

 

 しかし、もしもここに来る前に作戦が現実のものとなった時には。

 アリスは彼への評価を改めざるを得ない。

 

「随分と高く評価しているのね」

「少なくとも。ここに居る誰よりも買っている」

「つまりこれは……そう! ツンデレ! ツンデレ主人ということですね!?」

「……巫女。お前が私を馬鹿にしているということだけはよくわかるわよ」

 

 突然話に割って入った早苗を睨みつけるも、彼女は目を輝かせ鼻息を荒くして「いいえ!」と強い口調でまくしたてる。

 

「馬鹿になんてそんな! 王道、王道じゃないですか! 桃色の髪をしていないのは残念ですけど、異世界物といえばやっぱりこれですよね!」

「……何を言っているのか私にはさっぱりなんですけど」

「そう、これは恋! 身分差のある報われないけど、純粋な愛情によってなせる――」

 

 暴走気味の早苗の言葉を、声にならない金切りのような音が遮った。緋色の閃光が奔り、晴天は瞬く間に緋想に染まり、世界が変わった。

 

「人の緋色の心は今此処に。

 私は天界に住む比那名居の者。

 湿った気質、凍り付いた気質、没個性の凪の気質……

 そして、未だに重い霧の中に囚われた私の従者。

 さぁ、異変解決の幕開けだ。私はまだ、異変を終わらせる気はない」

 

 いっそ清々しいほど膨大な気質が、空に緋色の雲を生み出した。雷が鳴り、雹が降り、霧雨に大地が濡れ、視界は霧によって霞みがかる。

 そんな中で、ひとしきり大きな地震が世界を揺らす。空に飛んでいた者さえ感じるほどの揺れに、三人は思わず「わっ」と声を上げ、従者は動じることなく天子を見つめた。

 

「だから、柄にもないけど全力で迎え撃つわ。

 ――精々死なないように足掻け、地上の虫ケラ共よ!」

 

 大地を一度踏み込めば、大木の如き隆起が彼女を中心に巻き起こる。

 凄まじい能力。まさしく奇跡と呼べるその力に、誰よりも素早く反応したのは――従者在人であった。

 

「東風谷様ッ!」

「出番ですね!」

 

 そして在人の声にさも当然のように反応する早苗も、恐ろしく肝が据わっている。断崖絶壁が迫り来るその光景を前にして、彼女は涼しい顔で地面に手を当てると、「はぁっ!」と気合の掛け声一つ。

 

「……へぇ、少しはやるじゃない」

 

 それだけで、大地の隆起は容易く止まった。

 感心したように声をかけたのは、自身の能力で作った崖の上から四人を見下ろす天子だ。もう一度足を鳴らして能力を行使するも、大地は沈黙したままだった。神の権能のような力に、彼女は舌を巻いて「ならば」と緋想天の剣を天に掲げた。

 

「大地が鎮まるなら、天を従えるだけだ!」

「させると思うの?」

 

 突き刺すような冷たい言葉が耳を打った時には、既に天子の肉体に人形の刃が届いていた。布を擦る小さな音と共に、ピン、と甲高く糸が張り詰め、彼女の手が後ろに引っ張られる。糸を辿ってみれば、いつの間にか天子の真後ろに陣取るアリスの姿がある。

 おかしい、ならばと先程四人が固まっていた場所を見れば、そこにはアリスに似た姿が見られる。

 

「……あぁ、在人の入れ知恵ね?」

「ゲームメイクは本来私の仕事だけど、貴方のことを熟知してたのは彼だった。それだけのことよ」

 

 確かにアリスに似た姿はあった。しかし、それは精巧にできたおとり人形であり、決してアリス本人ではなかった。遠目、初対面に加えて、気質を込めて騙しを入れる徹底ぶりだ。初見では、いくら天子といえども看破できるはずもなかった。

 

「そうか。だが、お前たちはひとつ、過ちを犯した。それは――」

「火力不足? 知ってるわ」

 

 ――レベルティターニア――

 

 その詠唱が紡がれた瞬間、天子を黒い影が覆い隠し、続けざまに二度も風を切り裂いた。

 一振りは、天子の持っていた緋想天の剣の柄を彼方に弾き飛ばす。

 一振りは、動けない天子の脇腹に直撃し、まるでゴム毬を蹴り付けたかのように彼女はあっけなく跳ね飛ばされた。

 

 下手人は魔力を瞬間的に増幅させ人型ほどまで巨大化した二体の人形であった。天の川のようにその背に魔力の粒子を飛び散らせ、推進力として加速する。その手に持つのは、光の粒子を集めて反物質化させた、聖剣と言われても信じるほどのきらびやかなロングソードだ。極限まで薄く、庭師の刀ほどの切れ味を持たせたそれに、本来であれば斬れないものなどほとんどないのだが――

 

「――っ! 今のは、効いたッ!」

「……胴体を切断するつもりでやったけど、確かにこれなら手加減は要らないわね」

 

 天子は飛ばされた勢いを要石を足場にすることで相殺すると、唾と一緒に血を吐き捨てて吠えた。

 美しかった脇腹に青黒い打撲痕を残しながら、出血は飛ばされた瞬間に口の中を誤って噛んでしまったときのそれだけである。

 いくら糸による拘束と不意打ちであったといえども、彼女も反応できなかった速度の一撃。人体を切断するなら容易く、樹齢数千年の霊樹であろうと一刀両断する一太刀を、大した傷もなく生身で受け切った。

 

 本来であれば、その驚きの事実に呆然自失として隙を晒していただろう。アリスからしてみれば必殺の一撃を、こうも容易く受け切ってみせたのだから。

 しかし、彼女は冷静に分析を進めながら、負け惜しみとも冷徹ともとれる言葉を呟き、人形たちと共に宙を泳いだ。

 

「面白いッ! まずはお前を撃ち落として――」

「おっと、落ちるのはお前だぜ」

 

 白光に世界が照らされたかと思うと、その光は大岩ほどの束となって天子の目前で爆ぜ、彼女の周囲が土煙に覆われる。

 

「……今のに反応できるのかよ」

 

 しかし、直撃ではない。天子は魔理沙の不意打ちに対して、要石を盾にすることで凌いでいた。その上、服にかかった粉塵を払う余裕まであるときた。

 

「こんな豆鉄砲、当たろうと関係なかったわね。いいわ、まとめて撃ち落としてやるッ!」

 

 天子の声高な宣言と共に、天界の大地が円形に白く輝き始める。見上げれば、空からは人を覆いつくすほどの白光の球体が木の葉のように無数に舞い落ち、照らされた地面からは注連縄の巻かれた岩――要石が生えて宙に浮かぶ。

 

「ダメです! これは大地を操っているわけではありません!」

「なら――早苗! アリスは耐えてくれ!」

「はい!」

「人使いが荒いわね」

 

 宙に浮く要石から放たれるのは、針のような細長い緋色の弾幕だった。早苗は結界を展開することで魔理沙と従者在人を守り、アリスは迫りくる緋色を踊るようにふわり、ふわりと避けていく。幻想郷の住民にとっては慣れたものだった。

 

「へっ! どっちが豆鉄砲なのか、その身で味わってみやがれ!」

 

 魔理沙の両手にいつの間にか握られた八卦炉が中央から極光を帯びる。彼女の声を合図に、早苗は結界を自ら爆散させ近くの弾幕を吹き飛ばした上で後衛に下がった。

 

「――マスタースパークッ!」

 

 目の前の弾幕含め、一切合切を光の砲撃が呑みこんだ。聞こえてくるのは八卦炉から響く、ブオオン、という烏天狗が高速で飛び去った時に残すような音だけだ。

 光の砲撃は、確かに天子を呑みこんだ。魔理沙自身も手応えを感じていた。敵の弾幕に手応えはなかったが……。

 

「ふんっ!」

 

 魔理沙の代名詞とも呼べる火力の一撃、マスタースパークを受け切って。しかし天子は塵でも払うように腕を振るって魔理沙たちにまで届く豪風を起こし、何事もなかったかのように宙に浮かぶ要石を足場にして立っていた。

 

「っ、おいおい。……呆れた丈夫さだぜ」

「密度を疎かにすれば威力は落ちる。派手な力と威力は一致しないものと知るがいい!」

 

 天子が魔理沙に向けて指を向ければ、その先から緋色が閃いた。

 

「結ッ!」

 

 あわや、天子の放った光が魔理沙を貫くかといったところで、魔理沙の前に鏡面を持つ結界が結ばれる。ほんの少し、斜めに傾けられた結界に当たった光は、鏡面に反射して空の彼方に消えていった。

 

「はぁ!? 都合良すぎ……主人の手の内どんだけ話してるのよこのバカッ!」

 

 必殺を確信した一撃をあっさりと、あまりにも的確に対処されて初めて、天子に動揺が走る。

 先の一撃は天子が集めた気質を凝縮して作り出した超高威力のレーザーだ。一点火力であれば、魔理沙のファイナルスパークにさえ匹敵するそれの唯一の弱点は、光の性質を纏っていること。つまり、屈折や反射があまりにも容易であることだ。

 しかし、容易であるといっても正面から受け止めれば、いくら早苗の作った結界といえども瞬きする間もなく貫通していたことだろう。受け止めるのではなく、逸らすことに注力して角度をつけた上で鏡面に当てたからこそ、今の一撃を防げたわけであり――初見且つ猶予のない後出しの防御では、それだけの条件を満たすことさえ本来は不可能なのだ。例え超人的な勘で答えに辿り着いたとしても、術の行使が間に合う筈がない。

 

 それが出来たのは、間違いない。対処法を事前に知っていたからだと。それを従者在人から聞いていたのだと天子が考え至るのは、当然の帰結であった。

 同時に、あれだけ短時間の間に3人も味方をつけた上で、天子の手の内をこれだけ盛大に伝えられていることに。動揺するな、という方が無理な話だった。

 

「へっ、派手と威力は結び付く――最高に派手な究極のパワー、見せてやるぜ!」

 

 空気のうねりが音を上げる。まるで、竜が目覚めと共にあくびをするかのように。低く、重く、決して小さくない音がこの場の誰しもの耳に届く。

 魔理沙が目の前にかざす八卦炉からだった。その中央にはこれでもかと光が凝縮されているにも関わらず、その光は眩しくなかった。眩しくないとは即ち、光が外に漏れ出ぬほど圧縮され、高密度の状態にあるということ。

 

 放心していた天子が我に返り、その事実に気が付いた時にはすでに遅かった。

 

「――ファイナルマスタースパーク――ッ!」

 

 光の柱が、音さえ消し去り空の彼方に突き立った。

 放出の余波に大地が抉れ土が吹き飛び、草木は空に巻かれる。凝視しても目に痛くない虹の魔砲は、天子を呑みこんで尚、究極の威力を誇り緋色の天を穿ち続けた。

 

 ただの余波だけで、天界の大地はぺんぺん草も生えない――剥き出しの焦げ茶色の土に覆われた――隆起の激しい無残な姿に変わり果てた。

 天子以外に直撃こそしなかったが、もしもそれが大地に向けて撃ち込まれていたら……その威力がどれほどのものだったか。計り知れるのは――

 

「……認めよう」

 

 それを受けて尚、宙に立つ天子だけだった。

 満身創痍だ。天の素材で出来た服は所々が焼き切れて、痛々しい打撲痕も、その処女雪のような色の引き締まった腹も、かつては母と繋がっていた窪みさえ晒している。緋色の天を映したスカートには穴が開き、破れたブーツは彼女自身が脱ぎ捨てた。穢れを、外を知らないたおやかな素足には、傷ひとつなし。

 

 その手には、いつの間にか握られている緋想天の剣が、緋色の刃を顕現させ足元の宙を刺す。切っ先が、まるで空に埋まっているかのように見えない。

 

「その力を認めよう。その戦略を讃えよう。迅速に行動した勇気に敬意を表そう」

 

 重く、堅く、豪胆な声音が天界を制した。

 天子の声以外に、音はない。風も凪ぎ、大地は鎮まり、天はただ緋色に染まって出番を待った。

 

「ならば私は、この異変の黒幕として、この異変に色づいた幕を下ろそう」

 

 その言葉が終わると同時に、異変は最終局面に至る。

 緋想天の剣から、溜め込んだ緋色の気質が滝のように溢れ出る。それが天界の大地に触れれば、立つことすら難しい揺れが起こり、大地が大きな音で鳴いた。大地の震えは空に広がり、空は苦しみのたうち回るように揺れ――血を流すように、その景色さえ緋色に染まる。

 

「私が勝てば死ぬが良い。私に勝てば生きるが良い」

 

 耳が痛くなるほどの自然の悲鳴が木霊しているにも関わらず、天子の凪のような声音はよく耳に届いた。

 だからこそ、対峙していた誰もが感じ取る。

 

 勝てど負けれど、ここを越えれば、異変は決着するのだと。

 

「お前たちの緋想天――天に、私に映して見せろッ!」

 

 

 

 “全人類の緋想天ッ!”

 

 

 

「魔理沙さんッ!」

「失敗するなよ!」

 

 啖呵を切られ、宣言を受け、各々は弾かれるように動き出した。

 緋想天の剣よりばら撒かれる緋色の閃光を、早苗は率先して引き受ける。結界を張り、鏡面を以て逸らし、弾幕同士で相殺させ。異変解決者の盾として空を駆る。

 

 そんな早苗に、全幅の信頼を預けて。

 魔理沙は八卦炉を、在人は人差し指を構えて天子に狙いを定める。

 

「異変が解決したら博麗神社に、お前の主人連れて来いよ?」

「それはまた、どうして」

「当然――宴会だッ!」

 

 その言葉に、在人は口角を上げて頷いた。

 

 八卦炉には、蛍のような小さな光が収束している。

 それに対して緋想天の剣は、もはやその全容を覆い隠すほどの緋色に呑まれ、今にも暴発しそうな力の塊となって、二人の視界に焼き付いた。

 

「これが、私の緋想天。全身全霊――その身をもって受けるがいいッ!」

 

 

 それはもはや、世界そのものを包み込むような、ただ目の前いっぱいに広がる緋色であった。

 色の塊が押し寄せる。何に攻撃されているのかさえ分からなくなるほど、巨大な一撃。ともすれば、それは幻想郷ひとつを丸ごと覆いつくすのではないだろうか。

 

 逃げ場はない。そんなものは必要ない。

 震える手をもう片方の手で必死に抑えた。抑えながら、狙いを定める。

 

 今相手にしているのは、世界そのものか。全人類を世界と呼ぶならば、彼女たちが相手にしているのはまさしく、世界なのだろう。

 

「たかが一点。されどその綻びが、世界を切り裂くッ!」

 

 世界のたった一点。羽虫にさえ劣るその一点が、黒く染まる。

 そこに、光を挿し込んだ。針の穴に糸を通すように、光は曲がらず、屈さず、黒点の先まで貫いて。

 

「いっけぇぇぇぇぇッ!」

 

 魔理沙の咆哮と共に、緋色の世界に亀裂が走る。

 積み重ねた努力の成果は、世界を穿ち、――引き裂いた。

 

 たった小さな一点に光を通し、その光を膨張させて内側から引き裂く力技。内側から無理やり食い破るだけの力に、針の孔に糸を通すような技の二つが合わさって初めて成立する。

 これこそが、霧雨魔理沙の力技。

 

 全人類の一撃を、霧雨魔理沙が引き裂いた。

 緋色に染まった景色は元に戻り、しかし天は――

 

「私がいる限り、この緋想天は終わらない!」

 

 依然緋色に染まったまま、第二射が準備されていた。

 

 天子の弾幕を打ち消すだけのマスタースパークに、全身全霊のファイナルマスタースパーク。これだけでも魔力の消費が激しいというのに、力と技の両方を要求される緋想天の打破をやってのけた魔理沙。もはや余力などある筈もなく、「もう煙も出ないぜ」と清々しい笑顔で言い切った。

 

「だから、後は任せたぜ!」

「任されたわ」

 

 ――完全形態・ゴリアテ――

 

「――っ!?」

 

 緋色の天が影に覆われた。天子が慌てて見上げてみれば、そこにはただ巨大な……もはやどこが終わりなのかわからない。空を完全に覆って隠してしまうほど巨大な天井がある。

 

「守矢の巫女もやるものね。おかげで、完全詠唱のこの術を行使できた」

 

 天を覆うその正体は、巨大な人形であった。

 全容の見えない、まさしくスケールの違う怪物。地上を覗き込む赤い瞳が、ギョロリと天子のことを見つめ、目が合った時。

 

 体が強張り、思考が停止する。

 まさしくこの世のものと思えぬ怪物を前にして初めて、恐怖に身体が竦んでしまった。

 

「終わりよ」

 

 ゴッ、と空が唸る。その怪物は動くだけで、空気を軋ませる。

 そして目を見張るのは、その速度。巨体の重苦しさなど微塵も感じさせぬ速さ。その人形だけが加速しているかのような理不尽さ。

 

 たった一瞬、恐怖に身を固まらせただけだというのに。

 天子の目の前を一色に染める拳が、回避不可能な距離まで迫っていた。

 

 ――あっ、負けた。

 敗北は、攻撃を受ける前から受け入れられた。

 

 この一撃を食らえば、もはや立ち上がったところで、戦う力は残っていないだろう。

 戦えたとして、あの怪物を相手に余力で勝てるのか?

 

 ――むりむり。あんな理不尽に勝てるかっての。

 たかが魔法使いとは思えない理不尽だ。もしかすれば、この怪物は他の世界の理をもって動いているのかもしれない。調べる術などある筈もないが。

 

 だが、さすがに直撃は不味い。五体が千切れ飛ぶような激痛に襲われるのは容易に想像が出来た。いくら我慢強いといえども、そんな痛みを受けたいと思うような、特殊なモノは持ち合わせていないのだ。

 

 仕方なく、両腕を交差して身を守る。

 早く終わらないかなぁ、とか。次は何しよう、とか。

 他愛のないことを考えて、終わりに脱力したその時に。

 

「――こふっ、……えっ?」

 

 少女はその口から、鮮血をまき散らした。続いて感じたのは、胸の中心から焼かれるような熱さだった。

 思わず視線を下げてみれば……。

 

 

 

 自身の胸を貫通する、赤色の染まった人型の腕と――とくん、と鼓動し、ピュと音を立てて赤色を噴出する、初めて見るモノがその手に握られていた。

 

 

 

 

 獣というよりも、赤子が感情のままに泣き出すような、そんな絶叫が静寂を切り裂いた。

 天から降り注ぐ人形の部品に紛れて落ちてくる人影を必死で追いかけた。少女たちの静止の声さえ振り切って、遅れてやってくる風の暴力に耳を、肺を、勢いの増した部品の雨に五体を打ち付けられようと。その男は歩みを止めなかった。

 

 積み重ねてきたものが、バラバラになって崩れ落ちていく。まるで、人形の残骸が降り注ぐこの天のように。

 

 最速の解決だったのだ。

 異変の解決は、歴代においても最速といって過言ではない短い時間で解決したのだ。

 

 要した時間は二刻と少し。本来、どれだけ急ごうと黒幕に辿り着くまで三刻は掛かるこの異変。それまでは絶対に、第三者の介入などあり得ないはずで、そんなことは今までに一度もなかったことなのに。

 お前の出番はない筈だった。お前が出る前にすべてを片付けた筈だった。

 

 ――我が非想非非想天に、貴様の席も、姿も、映りはしない、筈だった。

 

 時間が原因ではない。

 では、お前はどうして此処に現れる? どうして現れる時がバラバラなんだ?

 

 お前は四刻使うはずだろう? 博麗の巫女と私が一緒に行動した場合に限って、お前は三刻でこの場に辿り着ける。そんな筈だろう?

 

「どうして」

 

 お前が現れる時が早まるのは、決まって私が痕跡を残したせいだった。そのせいで、監視の目が巫女から私に移り、正解までの道のりを短縮しているものだと思っていた。

 だが、今回は違う。妖怪には接触しなかった。交渉に時間を掛けなかった。道中に一戦も交えなかった。派手な行動は一瞬もなかった。

 

 天界から降りた私を見ていなかったのは知っている。その時まだ異変が起きていなかったのだから、私を見る必要などある筈がないのだ。

 

 空間の割れ目を睨みつけても、答えが返ってくるはずなどない。

 主のもとに辿り着いたが、息も絶え絶えで――心臓が、なくなっている。

 

 天人は、あくまで人間と身体構造が同じなのだ。

 妖怪などと違い、肉体を拠り所に生きている天人では心臓がなければ死ぬのは自明の理なのだ。

 

 心の臓を再生させる手段など、ある筈がない。

 

「しっかり、しっかりしてください!」

 

 無駄だとわかっていても、止血する手を止められなかった。もしかすれば、終わりを引き延ばせば、何か奇跡が起きるのではないかと、縋るしかなかった。

 

「あり、と……」

「意識をしっかり保って! すぐに、すぐに医者に! 腕のいい医者がいると、人里で聞いたことがあります! だから、どうか辛抱を……!」

「どこ、から……そんな、こと。知るん、だか」

 

 穴の開いた胸を押さえても、血が止まることはなかった。むしろ、押さえつけるだけ溢れてくる鮮血に。涙が溢れて目の前が霞む。

 

「……そう、だ。これ、餞別に。あげる」

 

 そう言って差し出してきたのは――天界の桃の実だった。

 もう、ぐちゃぐちゃだった。

 

 目の前の人の顔すら満足に見られず、それでも、何とか報いたくて。

 桃を乗せた手を、私は必死に両手で握り締めた。

 

「――あったかい」

 

 ひどく安心した声音が耳に届いたかと思うと、とうとう世界が霞の中に消え始める。

 力を失い、垂れる手を握り締めながら。

 

 

 

 私は、喉が張り裂けんばかりに声にならない感情を叫び。

 プツン、と糸が切れるように意識を失った。

 

 




こんなに早く解決してしまうなんて。
貴方は一体、何人目の貴方なのかしら?


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無意識の奇跡

 比那名居天子の従者、長尾在人には大きな秘密がある。

 一言でそれを表すのであれば“時間逆行”をしている、といえばわかるだろう。

 

 砂嵐に巻かれていた彼が、次の場面では霧に包まれていた。それは気質の変化であり、彼は生物が元来持ち合わせる気質が変質するほど時間逆行を繰り返していた。

 気質とは本来、輪廻の輪を潜りでもしない限り変わるものではない。それほどに、気質というものは正直者で、根底を的確に突いたものなのだ。

 

 その気質が変化してしまうほどの事態とは……もはや、言葉にするのさえおぞましい。

 

 しかし、それでも在人は折れなかった。一回たりとも無駄にするものかと、屍と狂気を積み重ね続け、何度となく絶望を味わい、繰り返した数だけ情報を持ってふりだしに戻り、ついに攻略方法を見つけ、見えていた問題すべてを解決したのが前回であった。

 

 第一の関門は、霧雨魔理沙と即座に出会える場所に着地し、且つ彼女と戦わず仲間に引き入れることだった。

 ここで話し合いに失敗し、弾幕ごっこをしようものなら、在人は魔理沙に負けてもう二度と相手にされなくなる。そうなれば、“全人類の緋想天”の攻略は、このルートでは不可能になる。

 

 第二の関門は博麗神社までの道中にあった。

 交戦はおろか誰にも出会わないことが絶対条件。その上で、ほんの少しだけロスをすることで、博麗霊夢との邂逅を回避することが必要だった。

 神社を倒壊させられた博麗霊夢の機嫌はすこぶる悪い。その状態で天性の勘が働けば、邂逅しただけで在人に向けて黒幕について詰問することだろう。そうなれば、霊夢は最速で天子のもとにたどり着き、こちらが準備を終えた時にはすべてが終わっているのである。忌々しい怨敵の手によって。

 少しだけのロスが肝なのは、アリスとの邂逅を果たすためだ。遅すぎてはアリスは単独で異変解決に赴いてしまい、合流はできなくなる。早すぎては、霊夢に遭遇してバッドエンドに直行だ。そのタイミングが、非常にシビアだった。

 

 第三の関門はアリスの説得だ。ここで下手を打てば、アリスとの弾幕ごっこにもつれ込み、在人ではどうあっても敗北は必至。味方に引き入れることもできず、最終決戦の天子打倒は不可能な状況に陥る。

 

 最後の関門は“全人類の緋想天”の攻略だ。

 世界を緋色に染める極大の一撃を防ぐには、在人がたった一点ほどの穴を作り、魔理沙がこれに光を通し、それを基点に緋色を引き裂き無力化する必要がある。

 しかし、ここで霧雨魔理沙はミスをする。もともと針の孔に糸を通すような技に加えて、チャンスは一回。そして大地は大気をも振るわせる大地震に見舞われている状況。まともに狙いをつけるのは難しく、ほんの10㎛ほど狙いがズレて、失敗するのだ。

 これを、事前に在人の方で修正しなければならなかった。そして修正が成功した前回は、まさしく全てが予定調和の如くうまくいった世界、だった筈なのに。

 

 他にも積み重ねがあった。アリス、魔理沙、早苗の役割分担や攻撃タイミングの判断は、以前の世界から拾ってきた情報を参考にした。天子からの攻撃の対応策にしてもそうだ。各個人ごとに向けて話し、詰みにならないために行動手順まで、天子の心理状況を含めて解説したのだ。

 失敗したパターンすべてを潰して回り、ようやく手に入った成果であったのに。

 

 

 

 あの怨敵が、積み重ねてきたすべてを根底から崩し去った。

 そもそもあの場に、怨敵……いや。

 

 スキマ妖怪、八雲紫は現れるはずがないのだ。決戦に失敗したところで異変は続き、最後は巫女が隙を作り、八雲紫が天子を殺す。

 決戦の場で戦おうと、八雲紫は飛んでこない。今まではずっとそうだったのに。

 

 ひどいちゃぶ台返しだ。

 八雲紫は姿を現したら最後、必ず天子を殺してしまう死神のような存在だ。歪んだ世界をすべて元に戻すような、ギリシャのデウスエクスマキナに似た、理不尽の権化だ。

 

 八雲紫を直接打倒することは不可能だ。天子の異変解決を後回しに、在人は何度も試した。

 しかし、八雲紫を相手に取ってくれるような味方は誰もいなかった。

 

 在人はあくまで黒幕の従者であり、幻想郷では顔の知られていない新参者と変わらない。そんな彼の言葉を……八雲紫の打倒を掲げられて、一体誰がついてくるというのか。

 ならばせめて命だけは、と八雲紫が現れた時に天子を殺させないでほしいと嘆願しても――消耗した少女たちでは間に合わない。

 

 異変を解決すれば、天子は八雲紫に殺される。

 八雲紫に注力しようにも、戦力は到底集まるものではない。

 異変解決後に八雲紫に対処しようとすれば、全員が消耗しているために天子を守り切れない。

 

 在人が少女たちから信頼を勝ち取った時とは、即ちすべてが終わった後なのだ。

 博麗霊夢に頼ろうとも、八雲紫とセットになる彼女は死神の遣いのようなもの。頼れば最後、必ず八雲紫が現れることが――敗北が確定してしまうのだ。霊夢に告げ口しようにも、八雲紫の耳に入ればそれだけで、未来が潰える。

 

 出会えるだけの人物に接触して、一分の可能性でもあれば説得して、開拓可能な道を模索して。

 

 

 長尾在人の万策は、とうとう底を尽きたのだ。

 

 

 

 彼は気が付いたら地上に降りていた。

 ふらふらと、気力や活力を微塵も感じさせない動く死体のような姿で。当てもなく、目的もなく、重たい空気と黒い濃霧に包まれながら。時計の分針のように、油の切れたブリキのおもちゃのように、カクリ、カクリと。

 

 どこに居るかもわからない。どれくらい時間が経ったかもわからない。今の自分の目的がわからない。目標は見えない。一寸先さえ暗闇の中に。

 

「お前は……食べてもいい人間だなー?」

 

 幼い少女の声には、どこか聞き覚えがあった。

 曖昧な意識の中で気まぐれに考えて、ふと「あぁ、あの妖怪か」と思い出す。

 

 常闇の妖怪ルーミア。

 独りの時に出会えば必ず在人を食い殺す、幼い少女の姿をした人食い妖怪。前に出会った場所は、霧の湖の近くだった。

 

「ここは何処か、ご存知ですか」

「さぁ? 真っ暗で何も見えないもの」

「霧の湖はどちらですか」

「湖? 何も見えないからわからない」

 

 まともな情報がないのなら用はない。

 何かを見つけるために、どこかに向かう。止まれば何もないとわかっているから、彼は絶望の中でも歩みだけは決して止めない。

 

 偶然でもいい。奇跡でもいい。

 次につながる光明を。今までにない未知の何かを。

 

 手詰まりになったこの状況。情報の出切ったと思われる現状を。動かすだけの未知を求めて、彼は無警戒に足だけは運び続ける。

 

「じゃあ、いただきます」

 

 グチャグチャ、ボリボリ、と不快な音は彼の耳にも届いていたが。

 彼は呼吸でもするように、足を進めるだけだった。もはやルーミアのことなど彼は認識していなかった。自分が何かに遭っていることさえ気付けなかった。

 

 その視野は、自分の身さえ見えない暗闇の中に。

 狭すぎる彼の視点には何も映らない。自分の意識が遠のくことさえわからず、前後不覚のまま――プツン、と頭の中で糸が弾けた。

 

「ごちそうさまでした」

 

 

 

 幻想郷に降りた時、長尾在人にとって寄ってはならない場所が三つある。今まで意図的に避けてきた場所ではあったが、無意識の状態ではそこを避けるなど出来るはずもなく。

 

「数奇な運命と思って来てみれば……お前、本当に人間なのか?」

 

 紅魔館の屋根の上。昨今の不安定な天気のせいで引きこもることを余儀なくされた吸血鬼が、近づいてきた運命に引き寄せられた。

 真紅の瞳に、群青色の癖毛、幼いフリルの多いドレスに、頭の上にはナイトキャップを被ったまま。

 

 刃の如く鋭い視線に、鉛のように重たい空気。吸い込めば吐きそうなほどの妖気に侵された大気の中。

 彼女、レミリア・スカーレットが前にしているのは、闇に呑まれたかのような、黒色に全身を包まれた何かであった。気配から、気質から、感じる驚異の低さから。そして己の能力から。相手が人間であることはわかっていた。

 

 しかし、それらの情報をもって尚、人間とは言えない異様な光景に、彼女はそう聞いてしまった。

 

「此処は何処ですか」

「霧の湖の畔に立つ私の館。紅魔館だ。……ところで、私の質問は無視かい?」

「フランドール様は地下におられますか」

「……おい。私はお前が人間なのか、と聞いている。そして質問を付け加える。フランに何の用だ」

「しかし、どうして。貴方は屋敷の中から外に飛び出すことはなかった筈だ。どれだけ近づこうと、十六夜様が律儀に館の中へ招待した筈だ」

「もう一度聞く。最後の慈悲だ。お前は人間なのか?」

「私が直接此処に降りたから? だとすると、今、十六夜様は外で犯人を見て回っていることになる。仕方なく? 感知が出来ない? 門番は? 妖精のいたずらも飛ばした? ……わからない。貴方がこちらに現れる条件は一体――」

 

 闇を、真紅の光が貫いた。

 

「無礼者め。次私の前に現れるなら、礼節をもって接することだ」

 

 飛び散るように、彼を覆う闇が晴れると、そこには首から上がなくなった死体が転がっていた。飛び散る血液が館の屋根を濡らすが、もともと真っ赤な館のせいもあり、雨に濡れた、くらいの違いしかない。

 

 

 

 些細な違いこそが。

 闇の中に包まれた彼の前に、光明をもたらすのであった。

 

 



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悪魔の契約


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「お前の運命は、実に面白い」

 

 吸血鬼レミリア・スカーレットが紅魔館の屋根の上で、その翼を広げて尊大に言い放つ。

 彼女を前に、長尾在人は顔を強張らせている。何度会おうと、何度繰り返そうと、彼女を前にして緊張が解けることはなかった。

 

「私は、お前に再び会う気で、お前を殺す未来があった。不死でもないただの人間を、再会する気で殺すなど、支離滅裂で実に面白いと思わないかい?」

「……悪魔としての感性、という話であれば。私には理解の及ばぬ範疇です」

「だろうな。理解は求めていないよ」

 

 ところで、とレミリアは何の前触れもなく、まるで明日の天気でも聞くように。

 

「悪魔と契約してみる気はないかい?」

 

 その言葉に、在人は目を見張った。

 レミリア・スカーレットという幼く傲慢な吸血鬼……悪魔が、契約などと持ち出してくるなど、思ってもみなかったのだ。

 

 悪魔にとって、契約とは絶対のもの。それを違えるなど悪魔自身にとっては以ての外であり、破れば悪魔側は格落ちどころでは済まないデメリットが待っている。

 

「……内容を、お聞きしても」

「話が早くて助かるよ。なに、お前にとってはそう難しいことでもない」

 

 ――フランの狂気をどうにかしてくれ。

 

「フランドール様は着実に正気に戻っている筈です。私が手を下すことなど、もはやありません」

「墓穴を掘ったな? お前、フランに何をした」

 

 その言葉に、在人は首をかしげて、ついで口を一文字に結び、最後には唇を震わせながら彼女に聞く。

 

「……紅霧異変の際。私は誰よりも早く、この紅魔館に侵入したのはご存知ですか」

「いいや? 私に伝わっていないということは、門番も、魔女も、メイドも知らないだろうな」

「……重ねての質問をお許しください。現状を、把握する必要がございます」

「礼節をわきまえているようだな。許可する」

 

 何を聞くべきか考えた。あれもこれも聞いては、目の前の強大な存在をいつ怒らせるかわかったものではない。

 やり直したとして、次も彼女が現れてくれる保証はどこにもない。せっかく差し込んだ光を、見失うわけにはいかなかった。

 

 聞くべきは、フランドールの現状だろうか。

 それとも、本来はレミリアしか知り得ない情報を聞き出すべきか。

 あるいは、あの紅霧異変のことについて聞くべきか。

 

「……紅霧異変の後、フランドール様は博麗の巫女か、白黒の魔法使いと弾幕ごっこをいたしましたか?」

「あぁ、していたよ。うちの魔女が雨を降らせなければ、フランは外に飛び出していただろう。おかげで私も館を出られなくてね。そのガス抜きをしてくれたことは評価している」

「どちらと」

「――博麗の巫女だ」

 

 耳の奥から、歯車が軋むような不快な音が鳴りだした。

 頭が割れるように痛い。

 

 そう言えば、と思い出して、吐き気まで催してきた。

 決定的に己がズレていることを自覚して、涙がこぼれ落ちる。心がまた悲鳴を上げる。声を出して今すぐ何もかも投げ出したい衝動を、どうにか抑え込む。

 この情報だけは持って帰らねば、という狂気の妄執が、彼の心に虚飾の勇気を植え付ける。

 

「最後に。フランドール様に何をしたのか、というご質問にお答えするために。ひとつだけ、お聞き入れいただきたく」

「聞こうか」

 

 これを言ってしまえば、もはや後戻りなど出来ないだろう。

 元より後戻りなど出来る立場ではなかったが。既定路線が、世界がガラリと変わってしまうほどの変化が訪れて。

 今まで積み上げてきたものが文字通り形骸と化してしまうことになるかもしれない。

 より絶望的な状況に追い込まれるかもしれない。

 

 それでも、この光届かぬ螺旋のどこかから、光が漏れ出ているというのなら。

 確認しないわけにはいかないのだ。

 

「私を、紅魔館にご招待いただきたく」

「フランの部屋に招待するが、それでもいいのかい?」

「構いません」

 

 悪魔はその口元を三日月に裂いた。人間は持たぬ鋭い犬歯が、今はその大口に似合う牙のように見えた。

 

「お前はもう逃れられないぞ。しかし、約束しよう。フランの狂気をどうにかしようとしている内は、我が館が異変解決の妨げになってやる。契約を果たした暁には、お前の願いを叶えられる範囲でひとつだけ、叶えてやろう」

「……気まぐれですか」

 

 何と無しに彼が聞くと、吸血鬼は「いいや」と尊大に首を振って肩を竦めてみせると、あっけらかんと言い放つ。

 

「暇なのだよ、ワトソン君」

 

 彼女はその手のひらに赤色の毛玉のような魔力を乗せたかと思うと、ギュッとそれを握り潰すのであった。

 

 

 

 目に痛い外観の館の中に入った時、迎え入れたのは静寂だけであった。

 妖精がいたずらをしてくるということもなければ、メイド長が時を止めて現れることもなく。門番が慌ててすっ飛んでくることもなければ、屋敷を破壊する喧騒に包まれるわけでもない。

 

 その静けさが返って不気味であり、人間100人が集まっても立食会が出来そうなホールにポツンと立たされれば、なおさら気味の悪さが引き立った。

 外観以上に中の広さを感じさせることも、それに拍車をかけているだろう。悪魔の館としては、ある意味正しい姿なのかもしれないが……。

 

「……静かですね」

「メイドには犯人捜しをしてもらっていてね。門番にはこの館の入り口を死守してもらっている。魔女は今も調べ物にご執心でね」

「フランドール様は今も地下に?」

「案内するといっただろう? その耳は何かい、飾りだったりするのかい? それとも頭の中身が空っぽなのか……」

「確認、です。ここでフランドール様と邂逅しないということは……私がフランドール様に“何も関与していない”可能性が高まりました」

「ふむ? おかしな事を言う。フランの運命に、お前の運命に、ここで双方が(まみ)えるものなどないのだがね」

 

 まるで羅針盤でも覗き込むかのように、手のひらに浮かべた赤い毛玉のような魔力を覗き込むレミリア。話を聞きながら、彼女は自身の力“運命を操る程度の能力”を用いていた。その上で、彼女は考え込むように、真っ赤なネイルに染めた爪の先を、その桜色の唇に当てた。

 

 その反応に、やはり、と在人は目敏く確信と新しい情報を手に入れた。

 

「なんだい、その目は。探るようなことはやめたまえ。どのみち君は、もう私の運命に囚われの身だ。いわば捕虜だよ、捕虜」

「捕虜は丁重に扱うもの、と聞き及んでいます」

「残念、それは人間の常識さ。……人間もそれほど守るわけでもないがね。それが私にもなれば、過度な期待は止した方が身のため、というものだ」

 

 いやに鋭く、いやに声を弾ませて、まるで教鞭をとるステレオタイプのように指を天に向けて語るレミリアに、在人は上がっていた肩を落とした。

 

「私の期待値はどれほどにお見積りで」

「またおかしなことを聞くね? そもそも、期待値などという、決まった回数しか起こらないことを前提にした話に何の意味があるのかね?」

「っ……」

 

 あまりにも上機嫌な彼女の言葉に、在人は背筋が凍る思いで体を震わせた。頭は熱く、腹の奥から熱が抜けていく、とても正常では居られなくなりそうな感覚に襲われる。

 

「賽は確かに振るさ。でも、気に入らない数字が出れば振りなおせばいい」

 

 化け物だ、と在人は改めて目の前の存在を認識した。

 魔法使いでもない。魔女でもない。天人でもない。半人半霊でもなく、幽霊とも違う。正真正銘の、人間とは相容れることのない化け物――妖怪。

 彼女の言葉は、どこまでも残酷であった。残酷なことではあるが、それを顔色ひとつ変えず、むしろ上機嫌に言い放つその感性は、決して人間と相容れることはないだろう。

 

「恐いかい? 結構。それが我々、妖怪なのだよ」

 

 背中に異形の翼を生やした小さな少女の背中が、何よりも巨大に感じられた。妖力を意図的に出しているわけでも、特別感情を向けられているわけでもない。ただ何の気ないその言葉が、プレッシャーとなって彼の肩に降りかかる。

 

 そうして場面は移り変わり。

 見上げるほどの二枚扉を潜った先は、そびえたつ本棚の森の中であった。

 

 樹海、と呼んで差し支えないその場所は、まるで迷路のように通路が入り乱れており、光源は各所に引っ掛けられたランタンだけだ。仄かに本棚の周りを照らしているが、曲り角は本棚の角を残すだけで先は暗闇に包まれている。ここから奇襲でもされれば、初見では間違いなく対処できないだろう。

 

「ついてきたまえ。私を見失えば、この図書館の何処かで餓死するかもしれないね」

 

 クスクス、と何がおかしいのか笑っているレミリアの後に慌ててついていく。

 曲り角に入るたびに、影の中に隠れてしまうその小さな姿を見失いかけながら、彼はつかず離れず、必死に足を運び続けるのであった。

 

 

 

 本棚の樹海を抜けた先には、大きなラウンドテーブルと椅子が置かれていた。

 テーブルの上には本の山が出来上がっており、まるで波のようにテーブルの下にまで積み上がっている。その山にほとんど隠れる形で、その少女は本に向かい合っていた。

 

「やぁ、パチェ。早速で悪いのだけど、また紅い霧を幻想郷中に出してくれないかい?」

「……あら、レミィ。もう探偵ごっこはおしまい?」

「新しい暇つぶしさ。この男と、ちょっとした契約を交わしてね。フランの狂気の矯正さ」

 

 紫紺の長髪をした寝間着のような明らかに大きいサイズの服に身を包んだ魔女は、レミリアの言葉に「ふうん?」と、彼女の隣に立つ在人を一瞥して、すぐに本へ視線を落とした。

 

「いいんじゃない。それで、霧の方はどういう風の吹き回し?」

「異変の解決を遅らせてやろうと思ってね。それに、私も暇だ。自主的にこの館に入り込む輩がいるなら、退屈しのぎにはなるだろう?」

「……はぁ。ほんと、退屈しない友人を持ったものね」

「そうだろう、そうだろう。……さて、お前はあっちの扉から下に降りろ。アプローチの仕方は、お前に一任するとしよう」

「……お任せください。報酬も、御忘れずに」

「悪魔の契約は絶対なのさ。どんな格下相手にでもね」

 

 そうして、指示された扉のドアノブに手を掛けたところで、「そうそう」とレミリアが彼の背中から声をかけた。

 

「――迷子の感想を聞いてもいいかね?」

「もう、慣れましたよ」

「なんだ、つまらん」

 

 扉を潜り、音を立てて閉め切った。

 もはや、後戻りのできない回廊の中。

 

 やっぱり此処は訪れちゃいけない場所だったんだ、と。

 彼は一寸先も闇の、地下に続く石階段を降り続ける。この先に待っているのが希望か、それとも絶望かなどわからないが。

 

 ――コンコン、と部屋の扉をノックする。

 

「誰?」

 

 幼い少女の声に、在人は一度息を詰まらせる。しかし、すぐにいつも通りを振舞うと、扉越しに彼女に声をかけた。

 

「長尾在人と申します。……レミリア様より、こちらへご招待を預かりました」

「あいつが? ……ま、いっか。人間の扱いなんて慣れてないけど、死んでもいいならどうぞー」

 

 逡巡は一瞬だった。

 ドアノブに手を掛けた在人は、その扉を開けて部屋の中に足を踏み入れ――

 

「きゅっとして」

 

 ――ドカーン、と。

 

 そんな能天気な声と共に。

 在人の意識は、呆気なく霞となって消し飛ぶのであった。

 

 





制限時間付きフランドール正気化計画とかいうルナティック課題を出されました
貴方ならどうする?


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禁じ手「秘密を破る魔法のメッセージ」

 

「あいつが? ……ま、いっか。人間の扱いなんて慣れてないけど、死んでもいいならどうぞー」

「……死にたくないので帰っても?」

「あはは! 冗談、ってわけじゃないけど。自殺志願者ってわけじゃないんだ。うん、殺さないから入っていいよー」

 

 知っていた。つい先ほど殺されたばかりだ、と在人は出そうになる溜息を呑みこんだ。

 即死であった。声からして、フランドールが“ありとあらゆるものを破壊する程度の能力”を使ったのは間違いない。しかし、一体どこを破壊されて即死させられたのか。そこまで詳細なことはわからなかった。

 

「それでは、失礼いたします」

「本当に失礼したら知らないよー?」

「……ご忠告、痛み入ります」

 

 部屋に踏み込んで早々、くぎを刺されるような発言に彼は無難に返して、まずはフランドールの方に向いて一礼する。くぎを刺されて早々にフランクに接するほど、在人は命知らずではなかった。

 

「ふーん。なんか平凡。ね、お姉様から何を言われたの」

「狂気をどうにかしてくれ、とのことで」

「えぇ……? 貴方、カウンセラーなの?」

「いいえ。私は天界に住まわれる方の従者です」

 

 えー、とつまらなさそうに唇を尖らせ不満を声にのせる彼女に、在人は困ったように笑みを浮かべる。

 

「ドカーン」

 

 

 

 ……は? と、声が漏れたのはフランドールの部屋の前でのことだった。

 まるで先ほどの光景が夢幻だったかのように、いつの間にか巻き戻っていた。ドカーン、などと緊張感のない間の抜けた声だけが、最後に得られた情報。

 

 おそらく能力を行使されたのだろう。

 問題は、どうして能力を行使されたのか全く分からないことだった。

 

 ここまで唐突な死は、過去を顧みても珍しいことだった。こんなことが出来るのは大抵が大妖怪、その逆鱗に訳も分からず触れてしまった時くらいだ。

 

 奇襲によって一瞬で首を取られようとも、数秒は意識が残っている。だから原因は自然とわかるものなのだが。

 幸いなのは、痛みさえ感じる暇もないほどの即死であることか。精神としてのダメージは、嬲られて殺されるよりよほど軽微なものだ。

 

「……」

 

 思考に耽るも、答えは出てこない。ならば仕方ない、と彼は割り切って、前回を焼き回す。

 フランドールは、特別何か変化を起こしたわけでもなく、ついに第一のデッドポイントがやってきた。

 

「えぇ……? 貴方、カウンセラーなの?」

「いいえ。私は天界に住まわれる方の従者です」

 

 見極める。その覚悟を固めて、表情が自然と強張った。

 えー、とつまらなさそうにするフランドールは前回と一緒。それに愛想笑いを浮かべる余裕などなく、彼が表情を固めたままでいると――

 

「何で貴方なんだろうね。私の気まぐれひとつで死んじゃいそうだし。……あっ、もしかして潰れた目がいっぱいあるから、私が目を見つけられないと思ったのかな?」

「……それは、フランドール様の能力、でしたね?」

「うん! 貴方は目が潰れすぎてて気持ち悪い。泥の中に手を突っ込んで探し物してるみたい」

 

 ひどい言われ様であると同時に、何故かデッドポイントを過ぎ去っていた。

 余裕があるのが気に食わなかったのか、それとも狂気が発作的に、それこそ前後関係なく発生するのか。後者だとすれば、在人にはお手上げだ。

 

「それでね、もしかして、なんだけど」

「何なりと」

「じゃあ、死にたくなかったら、次に私の言う言葉を五秒以内に言って。ほら」

「……は?」

「ドカーン」

 

 

 

 人の命とはこうも安っぽいものだったのか、とどこか達観した目でしみじみと思う。

 

「じゃあ、死にたくなかったら、次に私の言う言葉を五秒以内に言って。ほら」

「ドカーン」

「わっ、正解! でも、偶然ってこともあるよね! 私ってワンパターンだから。じゃあ、次の問題! 死にたくなかったら、また私が次にいう言葉を当てること! 五秒以内に答えてね、ほら!」

「……まだ続けるのですか?」

「端数7個と1000以上の潰れた目の海に、また一個、目玉が潰れました。ドカーン」

 

 

 

「端数7個と1000以上の潰れた目の海に、また一個、目玉が潰れました。ドカーン」

「わっ、ほんとだ! 数がぴったり! 本当に“死んでるんだ”!」

「ッ!?」

 

 すぐさま舌を噛み切って自害しようと口をあけて閉じようとしたところに、異物が突っ込まれる。まるで鋼でも噛んだかのように、歯が軋みギャリと嫌な音を立てる。歯と頭に痛みが響き、その眉がしかめられる。

 

「あははは! 死んでる! 殺した! 心を読むんじゃなくて、本当に死んでる! 私が知らないところで私が貴方を殺してる! ねえ、私は貴方を何回殺したの? 何回で此処にたどり着いたの?」

 

(まずいまずいまずい! 取り返しがつかない! 早く死なないと――!)

 

 怪しく光る深紅の瞳が、彼の瞳の奥まで覗き込む。眼前まで近づいた顔に、口の中に突っ込まれた彼女の手。どこかに向くことも、逃れることも出来ない彼は、ただ彼女の狂気の瞳を見つめることしかできない。瞼を閉じようとも、何かの暗示に掛けられたかのように動いてくれない。

 魅入られる。幼い少女の瞳が血のようにぬらりとした光沢をもち、彼の頭を狂わせようとする。瞳の奥から、ミミズが這うように少しずつ、頭の中へ狂気が蝕む。本来なら震える唇も、歯も動かせず、ただ無防備なまま狂乱の瞳に晒されて――

 

「あっ、そっか。これじゃあ喋れないね。でも、手を抜いたら貴方、死んじゃうでしょ? ……だから、壊してあげる!」

 

 やめろ、やめてくれ、と絶叫に喉を震わせるが、お構いなしだった。涙を流しても、その腕を噛み千切ろうとしても、能力を彼女に向けて使っても――

 

 冷静な思考を、狂気の瞳に犯され失っていた彼に、能力による自殺の選択肢は浮かんでこなかった。

 ただ自分の頭に指を向けるだけで死ねるのに、そんな簡単なことさえ出来ないほど混乱して。

 

「きゅっとして」

 

 ――ドカーン、と。

 パリン、と彼の中の何かがガラス細工のように音を立てて崩れ落ちていき。

 

「貴方はもう、コンティニュー出来ないのさ!」

 

 フランドールが彼の口から手を引き抜き、口元を三日月に歪めながら高らかに宣言する。

 そんな狂気の笑みを貼り付けながら、ぬらりと彼の唾液と少しの血に濡れる手に、ちろり、と小さな赤い舌を這わせた。付着した血を舐め取るその仕草は、幼い少女の姿をしているとは思えない、狂気に犯されているとは思えない、怪しい艶をもっていて。

 

 何より、その見た目不相応な獲物を狙いすました様な深紅の瞳の流し目を向けられて。在人は身体をぶるりと震わせた。

 狂気に染まりながら、色を覚えそれを求めるような視線。それが幼い少女の姿から繰り出され、見た目と中身のギャップが背徳的に浮き上がる。

 

 それが、どうしようもなく人外なのだと認めるには十分で。

 長尾在人は膝をつき、もはや自殺しようなどと考えられないほど、目の前の現実に打ちひしがれるのであった。

 




今日の死因:
 失敗を笑われたような気がした。失礼だから死ね!(意訳)




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アームチェアディテクティブ(安楽椅子探偵)

評価も感想もありがたく、励みにさせていただく所存。
モチベアップになっており、大変助けられております。
暖かく見守ってくださり、ありがとうございます。





 

 

 たった一度のミスも許されなくなった。

 今まではどれだけミスをしようと、もう一回、が許されていた。むしろ、もう一回が前提の上に成り立った難題であった。それがなければ、到底一回でたどり着くことのできない場所にあったのだから。いや、事実今もなお到達できていないことを考えれば、それだけでは不当な難しさ。不可能に限りなく近い螺旋に囚われていた。

 

 しかし、今や在人の中で螺旋は崩れ去った。螺旋ではなく、先の見えない無数に枝分かれした道が続いている。その無数の中からひとつを選んで進めば、またも無数の枝分かれした道が。それが、連綿と続いているのだ。

 

「……どうして、そのようなことを」

「死んで逃げるって不当だもん。貴方が死ねば私は忘れる。そして貴方は私に悟られないように次を試す。ズルよ、ズル。だから、平等にする必要があるの」

 

 平等。それを言うなら妖怪と人間との力の関係こそズルだろう。

 長尾在人に戦う力はほとんどない。大妖怪の視点から見れば、そこらの人間と彼の間に差などないも同然なのだ。

 

 そんな彼が、特別な力を剥奪された上で、今まで通りのことを、たった一回で切り抜けろと。

 

「それは……もはや、駆け引きも何もない」

 

 須臾に等しい勝ち筋を引けるだけの勝ち運など、彼は持ち合わせていないのだ。持っているなら、彼はこんなにも苦労などしていない。

 

 そんなことはお構いなしとばかりに、フランドールは訳知り顔で「うんうん」と何度も頷いて、ズイッと彼の顔に自分の顔を近づけた。

 その深紅の瞳がぬらり、と怪しい光沢に輝き、瞳の奥で闇がキュッと絞られたのを、彼は見逃さなかった。

 

「うん。つまらないよね? だから、私も私自身を制限してあげる。何の力もなくなった貴方と、契約してあげる!」

 

 ここでも契約。在人はどうしようもなく冷静になっていく思考で、追い込まれたというのに相応しくない、場違いな疑問が生まれてきた。

 

「……他の方と契約していても、契約は出来るのですか」

「うーん、禁則事項に接触しなければ大丈夫だよ? 悪魔との契約って、人間が思ってるよりパパっと出来るから」

「そんなに簡単に?」

「うん。私がちょっと説明して、貴方がここで契約に了承すれば、すぐにでも結べるくらい簡単かな。効力は絶対だけど」

 

 そう言えば、とレミリアと契約を結んだ時のことを思い返す。いつ正式に結ばれたのかはわからないが、少なくとも何か血液を提供したり契約書に筆を走らせたわけではない。在人はただ喋っているだけで、契約は完了したのだと言っていた。

 

 フランドールはパッと弾かれるように在人から離れると、どこかで見たような、人差し指を天に向けたステレオタイプな姿勢で説明を始めた。

 

「パパっと出来る契約は、魔法を使った契約だね。お互いの魂をその契約に拠出することで成立とする。魂を使ったものだから、これが一番効力があって、絶対に逆らえない契約。お互いに契約の内容を理解して、どんな形であれお互いが同意すれば、その時点で魂が拠出されて契約成立とする。ちなみに死んでも有効」

「それは、期日、契約を意図せず守れなかった時の罰則、何をして何を返すのか。すべてを理解した上でなければ、契約は出来ないと?」

「当然。じゃないと、イカサマがいくらでもできるじゃない。知らない内に、なんて口が裂けても言えない。一番簡単で一番束縛が強いけど、契約時に一番しっかりしてるのも魔法の契約。だから、破る気のない契約は魔法を以て行われる」

「それ以外は?」

「紙を使ったり、血を使ったりするやつ。これは相手を貶めるために使うものだから、気を付けた方がいいよ? 魔法以外の契約方法は悪意しかないから」

 

 これほど懇切丁寧に教えてくれるフランドールは、一体何が目的だというのか。

 

「……どうして、そこまで詳細に?」

「ん? あぁ、説明するのか、ってこと? だって、情報の偏りは不公平だからね。一般常識くらい、教えてあげないとかわいそうだし」

 

 495年の超引きこもりを相手に、一般常識を教えてあげないとかわいそう、などと言われた在人の心境は、筆舌に尽くしがたい葛藤に燻っていた。

 そんな彼の心境など、悪魔には知ったことではない。彼女は早速、とその瞳にルビーのきらめきを纏わせ声を弾ませる。

 

「契約内容の確認ね! 

 私は貴方を、長尾在人を契約期間中は私、フランドール・スカーレットの手で殺しません。以後、フランドール・スカーレットは“私”とします。私は長尾在人との二者間の問題を、契約期間中は不当な暴力をもって解決はしません。

 代わりに貴方は、長尾在人は自らの意思では死ねません。他でもないこの契約を結んだ長尾在人は死ねませんし壊れません。

 契約期間は、今起きている異変が解決するまでとします。期間中に契約を破った者は、契約期間中において相手への絶対服従を、罰則として受けることにします。以上」

 

 その内容は、本当に両者の行動の制限をするだけのものに思える。

 だが、魚の小骨が喉に引っかかったような、違和感があった。

 

「……異変のことを、どこで?」

「えっ? だって、前から異変だらけじゃない。気づくな、って方が無理でしょ?」

 

 しかし、その疑問は「当然でしょ?」と小首を傾げて一蹴された。

 なるほど、吸血鬼ほどの大妖怪になれば、異変を感知する能力に優れているのかもしれない。レミリアも、メイド長に犯人捜しを命じたと言っていた。彼女が気づいていたのなら、妹のフランドールが気づいていても、おかしなことはないのだろう。

 

「……ところで、私の制限に契約期間中、という文言をつけなかったのは?」

「あっ、そこ気づくんだ。ふーん……ちょっと偉くなったの? あれ、もしかして巻き戻った……わけないか。魔法の契約は不可逆のものだし」

 

 んー、とフランドールはその白い指をぷくりと膨らんだ唇に当てて考えている。

 言い訳だろうか、それとも説明の仕方だろうか。説得の方法だろうか。どれにしても、在人にフランドールはどうしようもなく油断ならない相手だと、再三にわたって植え付けるには十分だった。

 

「そうね。例えば、知り合いだと思って再会したら、全くの別人でした! って時、何だかすごくやるせないよね?」

「……それは、確かに」

 

 やるせない、というよりは勘違いから羞恥心の方が増しそうな気はしたが、在人はそれもあるかと同意しておくことにした。

 

「私の手の届く内はどうにでもなるけど。契約満了の後が問題でねー。お互いを平等にするために、貴方には一生契約を背負ってもらう必要があるの。また有耶無耶にされても嫌だもの」

「……では、具体的にどのような効果がある内容なのですか」

 

 それは簡単、と彼女はまた人差し指を天に向けて、嬉々として語る。

 

「要するに、もう貴方の“目”は壊れません、ってこと。仮に壊せても、契約に拠出した魂があるから、それによって絶対に再生する、みたいな。すっごく単純に言うと、精神的な死とはおさらば、ってことだね。ほんとはもっと複雑だけど」

「待て……待ってください。フランドール様」

「あれ、焦ることって何かあった?」

 

 焦らないはずがなかった。彼女の言う“目”とは、もっと単純なものなのではないかと、在人は考えていた。

 だが、フランドールに見えている“目”とは、長尾在人が考えているよりもずっと本質的なものではないのか。

 

 だとすると、まさか、この少女は――

 

「気付いて、いらっしゃるのですか」

「そんなのもう関係ないじゃない。だって、私は貴方を知らないもの」

 

 耳鳴りがしてくる。頭を割るような軋んだ音が、耳の奥から響くのだ。

 顔が爆発しそうな熱を持つ。腹の奥底から熱が引く。頭は熱いのに体はますます寒くなる。キンキン、とどこかから音がし始める。

 

「それで、どうするの? 私としては、ここで死ぬのが一番楽でオススメだけど」

「それだけは、あり得ません」

「そっか。だったら契約成立?」

「……時間を、ください。考える時間を」

 

 今すぐに決められるほど、この問題は小さくなかった。

 長尾在人は知っている。知っているだけだが。狂えないことが、壊れないことが、常に正気で在り続けることの苦痛を。どれほどの困難に苛まれようと、狂うことさえ出来ない、逃げ場のない絶望を知っている。

 

 あれは例えるなら、餓死する未来を、腹部にジクジクと空腹による激痛を感じながら迎えるような。

 ただ独り、暗闇の中を永遠に、自分の肉体がどうなっているのかさえ忘れるほどの時間歩かされるような。

 狂えないとは、壊れないとは、そんな絶望にひどく似ているのだ。

 

「時間って、そんなに残されてないよ?」

「承知しています。ですが、それでも……」

 

 違う違う、と頑なに考えこもうとする在人に向けて彼女は首を振る。そして、その人差し指を上に差し、彼女自身も上を向いて語るのだ。

 

「もう、来るよ?」

「……来る?」

 

 来るとは、八雲紫か。それとも異変解決組の誰かがこの地下室に訪れるということか。

 戦えない、力を封じられたも同然の今の状況で、そんなことになれば……と、最悪の状況に顔を青ざめさせる在人を見たフランはまた首を横に振る。

 

「違うって。異変の元凶、来るよ」

「……はい?」

 

 異変の元凶……それは紛れもなく、彼の主。比那名居天子のことだろう。

 だが、それはおかしいと彼は眉をひそめる。何せ、比那名居天子は期日を過ぎた場合と神社を倒壊させる場合を除いて、地上に降り立つことは今までに一度もなかったのだから。

 

「うーん……私としては、別に貴方を殺したいわけじゃないし。かといって見ず知らずの貴方を助ける気もないし。トカゲの尻尾を切っても何にもなんないし」

 

 首を傾げて、口をへの字に曲げて、唸り、枯れ枝のような羽に吊り下がった七色の宝石のようなそれを揺らしながら。

 少女はふと、そうだ、とその表情を輝かせた。

 

「貴方の主人を殺しちゃえばいいんだね」

「――は?」

「だって、諸悪の根源じゃない。うん、そうしよっか。恨まれたってやったげる。死んじゃえば、もうそこで終わりだもの。良かったね、これで自由だよ。起きたら存分に、私を恨むといいさ」

 

 ――全身の毛が逆立つような怖気が奔った。

 起きたら、その言葉が聞こえた瞬間、反射的に彼は能力を使った。意識を保てるように、意識を失わないように、断固たる意志を固めて貫いた。

 

「がっ――!」

 

 刹那、首に強い衝撃を受け顔面から床に叩きつけられた。その事実に、背中に風のような寒気が奔ると同時に、頭の中と視界をグチャグチャにかき乱す衝撃に襲われる。

 

「あれ、もっと強く……? いや、能力だね」

 

 もっと強かったらトマトよ、トマト。などと能天気なのか真面目なのかわからないことを口にしつつ、彼女は部屋の出口へ向かっていく。

 そんな彼女の足を、這いずりながら彼が掴む。人間程度の力、振り払うなど簡単なことだった。しかし、495年間も引きこもっていた吸血鬼には、力の加減というものが非常に難しい。

 

「もしかして変態なの? 這い蹲って縋っちゃって」

 

 見た目不相応な、嗜虐と愉悦に笑みを深め、ちろり、と唇に赤い舌を這わせる。見下すように、嘲るように、幼い顔は罪深く歪んでいき――

 

「殺させる、ものか……!」

 

 すぐにその表情は冷めて、感情が嘘のように消え失せ能面と化す。続いて出てきたのは、困惑の表情だった。

 

「あー、頑固だね。死ぬまで抵抗するつもりなんだ。どうしてこう、そこまで意固地になるの? そんなにご主人様がいい人なの?」

 

 彼は鼻血に顔をぐしゃぐしゃに汚して、その眉は怒りにひそめられ、面持ちは般若の如く深い皴を刻んで歪ませている。おぞましいのは、その底の見えない執着に、瞳が黒く濁っていることか。奈落のような瞳が、フランドールのことを突き刺すのだ。

 

「何でもへったくれも、あるものか」

「なにそれ。感情論? ……あははは! 感情論!? 貴方が!? なにそれ、なにそれ! どこの誰とも知らない貴方に、何が出来るって?」

 

 ケタケタと、あるいは高らかに声を上げて少女は笑う。深紅色に怪しくきらめく瞳の奥は黒く染まり、蔑んだ視線が彼の視線とぶつかった。

 ニンマリ、とその口元は三日月に大きく割れる。

 

 パリン、と部屋の照明が壊れ、灯は部屋の四隅に飾られる蝋燭だけとなり、ほとんどが黒に染まる。

 フランドールの顔が影に隠れる。ただ、その深紅の瞳だけは月の如く淡く輝き、その存在を主張する。不気味な瞳だけが、暗闇の中に浮いている。

 

「調子に乗るな、偽善者が」

「――っ、がっ」

 

 在人は背中から、壁に叩きつけられる。うつぶせに倒れていたというのに一瞬で。彼女を掴んでいた手はだらりと垂れ、痛みに視界が暗闇にも関わらず白黒と点滅を繰り返す。息が詰まり、けほごぼ、と血塊を吐き出しながらむせ込んだ。

 

「ほんと、誰よ。誰? いいけど別に。気に食わない。イライラする。ほんとちっぽけ。……ううん、小さくもない。紛い物。偽物。価値もない。振り回されて馬鹿みたい」

 

 最後の言葉は一体、誰のことを指していたというのか。

 フランドールは今度こそ彼に背を向けて、歩き出した。

 

「じゃあね、どこかの誰かさん。私、お姉様に加勢するわ」

 

 そう言うと、彼女は扉を木っ端微塵に破壊して部屋から出ていった。カツカツ、と階段を上がって遠ざかる音。しかし、ふとした瞬間にそれは逆再生の如く近づいてきた。

 

「そうそう。言い忘れてた」

 

 ひょこっ、と部屋の入口から顔だけ出したフランドールが、淡く光る深紅の瞳を彼に向けながら。

 

「また逢いましょう。ちゃんとピンチの時に駆けつけてくれたら、お姫様がキスしてあげる」

 

 私は妹様だけど、などと自分自身で茶々を入れながら。

 今度こそ、フランドールは階段を上って行った。ケタケタと大きく反響する声で笑いながら。

 

 頭の中に残響するような甲高い笑い声に、頭が割れそうな思いだった。

 壁を背に膝をつきながら、それでも決して沈みはしなかった。

 しかし、短い間に彼はフランドールに打ちのめされていた。声の刃が、耳から千の針となって体の中に降り注ぐのだ。まるで、その針で何かを破ろうとするように。

 

「……こんなの」

 

 あんまりだろう、と。

 何もかもを打ちのめされて、それでも彼の心は凪の如く静かによく動く。

 

 だから、次に何をするのかももう決まっていて。意志を貫くために動き出す。

 身体を半ば引きずるように、彼は一段、また一段と。

 

 有頂天を目指して、片時も休むことなく歩むのだった。

 

 






そうね、強いて言うなら。
狂っているのは歯車だった。
だから、歯車を取り換える必要があったのよ。




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天子は地上に降り立った

 

 

 青い星が、紅魔館の目と鼻の先に落ちた。

 衝撃波に館が震え、窓が割れ、大地はささくれ立って花弁のように円形上に広く抉れた。どう考えても、自然にできたクレーターではない。

 

 その光景を見ていた館の門番、紅美鈴は毅然と腕を組んで門の前に佇みながら、背中に冷たい汗を流した。

 

(……これはまた、厄介なことになりましたね)

 

 許される限り事前に練丹を行い気を研いだ。指一本一本の感触を確かめて、拳を開き、握りを繰り返す。

 

「天は寛容ながらも、全てを許すわけではない。

 ある時は、怒り猛って豪雨によって全てを流す。

 ある時は、雷によりその怒声を鳴らし、力を落として鬱憤を晴らす。

 ある時は、豪雪をもって冷たく生き埋めた。

 緋想の天は龍よりも寛容だが――お前たちは、数少ない私の逆鱗に触れた」

 

 チリチリと、肌を表面から焼くような荒々しい気を、美鈴は感じ取っていた。

 いや、文字通り当てられた気によって肌が少しずつ爛れていくのだ。血肉を焼いた時のような錆臭さが鼻につき、今なお焼かれるような痛みさえ無視して、その身に気を纏う。痛みは少しだけ和らいだ。

 

「くすんだ極彩色では私は塗れない。真に安寧を求めるなら、昼寝でもするがいい。そのきらめきを取り戻したいのなら、井の中から飛び出し、闘争に身を置くといい。死にたいなら、ここで私に立ち向かえ」

 

 嫌というほど伝わってくる。差し迫る殺し合いの足音が。

 およそこの世に斬れぬものはない、と思えるほど鋭くなった真紅の瞳。

 刃の無い柄を握り込む手が、少しずつ力んでいく様子。

 かつ、かつ、と苛立つように地面を蹴りつけるブーツの踵。

 

「……返答は聞かない。死にたければ邪魔をしろ」

 

 美鈴の答えを待たず、少女は大胆に足を運ぶ。剣呑な様子を隠す気などなく、まるで嵐が近づいてくるかのようだった。

 彼女を中心に、気質が乱れ狂う。ふと気を抜けば、美鈴自身の扱う気さえ根こそぎ持っていかれるかもしれない。理不尽としか言い表せない力が、彼女を中心に荒れている。

 

 すぅ、と細く息を吸い、その空気を頭に染み渡らせる。思考は澄み渡り、心は凪いで、静の姿勢をとった後。

 

「……本気でいこう」

 

 もう一つの嵐が、その気を極彩色に染めて天まで渦巻く。守っていた鉄の門はぐしゃぐしゃに潰れて吹き飛び、解放の余波だけで魔法で強化されていた塀が半ばまで……まるで噛み抜かれたようにごっそりと削れ落ちた。

 

 

 

 紅美鈴は門番ではあるが、よく博麗霊夢や霧雨魔理沙の侵入を許している。異変の時も、時折魔導書を盗みに来る魔理沙も、みすみす通すことがある。

 弾幕ごっこの勝敗のせい、というのも確かにあるだろう。事実、異変において美鈴はどう頑張っても二人を追い返すことなどできない。弾幕ごっこを強要される異変では、彼女の本領はどうしても発揮できない。

 

 しかし、平常時には話が別なのだ。

 異変ならともかく、殺さないのであれば、スペルカードルールを用いない力づくでの物事の解決も許されている。例えば、泥棒していく魔法使いを片手間に捕まえて叩き出すくらい、訳はないのである。

 

 ここで問題になるのは、主人であるレミリアの意向であった。

 彼女は常に暇を持て余している。まだ若輩の、遊びたい盛りの少女だ。平穏無事より好奇心が勝り、常に変化を求めてやまない飽き性のきらいがある、わがままな大妖怪だ。

 そんな彼女が、せっかく館に侵入して変化を起こしそうな相手を前にして。変化どころか館への侵入さえ許さず追い返すことを、よしとするのか。

 

 答えは、否。

 もちろん、有象無象はふるいにかける。そんなのが館に侵入できたとあっては、紅魔館の沽券に関わる。変化を起こす見込みさえないものにまで寛容になる気は毛頭ない。

 

 紅美鈴。その門番としての役割は、何人たりとも館へ通さないなどという、つまらないことではない。

 紅魔館に通してもいいと思える実力者を程よく通し、有象無象を追い返す。

 不落の門ではない。試練の門、その門番としての役割を、彼女はその身に請け負っている。

 

 そして、真に主人へ危険が及ぶ相手において。

 

「紅魔館が門番、紅美鈴――参るッ!」

 

 彼女は抑えていた力の全てを解放し、侵入者に全力をもって立ち向かうのだ。

 

 

 

 酷く緩慢な動きだった。

 まるで水を掻くように振られる両腕に、清流の如く近づいてくる少女の姿。

 

 決して、気を抜いたわけではなかった。むしろ、全神経を襲撃に備えて張り巡らせていた。どうせ戦うことになるだろう、といつでもその首を刎ねられるように気構えは完璧だった。

 

「二の打ち要らず」

 

 それなのに、まるで微細な意識の隙間に入り込むように、天子の注意全てを掻い潜り、紅美鈴の拳は彼女の腹部に優しく添えられていた。

 

「は――ッ!?」

 

 何が二の打ち要らずか。

 そう口にしようとした瞬間に、天子の体内が荒れ狂う。まるで、体の中に嵐をおさめ込んだかのように、内臓が、血潮が、ぐちゃぐちゃにかき乱されて止まらない。体は未だ美鈴の拳と密着したままだというのに、体内に収められた衝撃が容赦なく彼女を襲うのだ。

 

「――ふぅ」

 

 細く息を吐いたのは美鈴だった。彼女自身が絶対の自信をもつ、一撃必殺の武術。

 妖怪とは本来、その理不尽な身体能力と異形の力をもって強さを誇示するものだ。故に、その力というものは額縁通りのものであることが多く、間違っても“効率的に人体を破壊する”などという行為には傾倒しないのだ。何せ、妖怪同士の闘争において、人体の破壊を要とすることに意味などほとんどないのだから。

 

 その一方で、紅美鈴という妖怪は特異な存在だと言える。何せ対人間が絶対条件の、弱者が強者に対抗するために生み出された技を、自ら積極的に学んでいった妖怪なのだから。それは即ち、己の弱さを受け入れてでも前に進もうとする、確固たる意志がなければ不可能な所業。

 そしてその研鑽を続けていった先に奥義を修め、極意を見出し……いつしか、人類史において伝説とまで呼ばれる拳法家たちに並び、あるいは凌ぐほどの技を身に着けた。

 

 紅美鈴の能力は“気を使う程度の能力”だ。文字通り、“気”という武術において重要な生命エネルギーを扱う力のこと。彼女が研鑽と共に獲得した、努力によって身に着けた後天的な能力。

 彼女は、その極彩色の“気”を身に纏い、これを拳に乗せて直接相手の中に送り込み――送り込んだ“気”を以て相手の“気”を呑みこみ、生命エネルギーを簒奪しショック死させる。

 

 彼女の「二の打ち要らず」とは、生命エネルギーたる“気”を残らず奪い取る、即死の拳であった。もはや何者でさえ凌駕し得ない、最高峰の“気”を練り上げ、修めたからこそできる、紅美鈴だけの力技。

 これに付け加えて、敵の体内にのみ衝撃を通し人体を破壊する技を用いることにより、肉体的な即死にも至らしめる。

 

 生命の簒奪と肉体の破壊、この二つを以て、“必殺”とする。

 紅美鈴の武術とは、人間ではどうしようもない理不尽であり、如何なる防御の上からも当たれば即死。まさしく「二の打ち要らず」を体現する拳なのである。それは、人間と構造の同じ天人にも言えること。

 

 気配から、見た目から、手応えから。

 紅美鈴が培ってきたすべての経験から、目の前の敵が妖怪ではないことはわかっていた。人間にしては嫌に頑丈だとは思ったが、防御力を無意味と化す彼女の拳の前には些末なこと。何より、彼女の五感が敵は人間に類する者である、と確信に至らしめる。何万という人間と手合わせを行ってきた彼女が、間違えるはずもない。

 

 だからこそ。

 紅美鈴は――その虚を突かれた。

 

「効いたッ、効いたぞ、小娘ッ!」

 

 動くはずがない、そう思っていた相手が、刃の無い柄を返しの刃として振るってみせた。

 

「――えっ」

 

 左肩から右の腹まで斜めに斬り払われた肉体から鮮血が飛び散り、彼女の纏う“気”が消し飛んだ。

 紅美鈴は、自分が何をされたのか、理解に及ぶ前に大地を舐めていた。

 

「あぁ、本当に効いた。私が天人でなければ、この“緋想天の剣”を持っていなければ。今の一撃を以て間違いなく死んでいた」

 

 彼女が、比那名居天子が助かった理由は単純であった。

 “気”の簒奪を、紅美鈴の特権さえ上回る“緋想天の剣”を以て寸前のところで妨害し。

 人体破壊の技を、呆れた頑丈さをもって耐え抜いただけなのだ。

 

 天子の頑丈さは、何も外面だけではない。内臓や血管に至るまで、まさしく人外と呼べるほどに丈夫なのである。

 

「虫ケラにしてはよくやった」

 

 比那名居天子は、傲慢な賛辞を残して紅美鈴を通り過ぎ。

 

 

 

 ついに、紅魔館の敷居を跨いだ。

 

「おや、うちの門番を倒したか。少しは手応えがありそうだね」

「……蝙蝠風情が。この私を見下ろすなんて、良い度胸をしている」

 

 刃の無い柄の先が、パチっと刹那のひらめきを見せる。まるで火花が弾けるかのように。

 空に浮く吸血鬼、レミリア・スカーレットに向ける眼光は、それだけで全てを切り刻むかのような激情に満ちている。

 

「怖い怖い。あぁ、太陽かい? 必ず相手の弱点を突けるのかい? 掠り傷でも灰になってしまうね」

「……その感じ。何か引っかかると思ったら、私の従者に似ている。何もしないのに万事知っているかのような、その態度がな」

 

 そんな視線を受けても、レミリアは涼しく微笑んで見せた。

 

「お前の従者は随分と面白い。うちで引き取ってもいいかね?」

「ふざけろ、愚鈍な蛭め」

「何か言ったかい、未熟な小娘」

 

 禍々しい紅の妖力と、緋色の気質が双方の中間で激突し、空間が歪める。場は既に戦場といった有様で、感情の鉛が空気に溶け込み、より一層、重圧が増していく。

 

「いつまでも部下がついてくるとは思わないことだな、寄生虫」

「いや、それお前が言うのかい? お前の従者、私でも哀れに思うほどボロボロだったけど」

「魂だけは逞しい奴だよ」

 

 その言葉に、レミリアは目を瞬かせる。愛らしく、童女のように目を丸くした彼女は、ついで眉をひそめ、そして眉間を解した後、その手のひらに赤い毛玉のような魔力を編む。

 

「……あぁ、そうかい。全ての元凶はお前か。何というか、そうだな」

 

 言葉に窮する。そうして深紅の瞳が映した感情は――憐憫であった。

 上から目線であり、傲慢であり、自分を信じて疑わない。相手が間違っていることを確信している。処置無しの相手に向ける、どうしようもなく無礼な感情。

 

「お前の従者。いっそ殺した方が彼の為ではないかい? お前自身の手でな」

 

 その言葉はレミリアにしては珍しく、真摯に向き合った助言であった。からかいも、遊び心も、気まぐれも含まない。幼い心からこぼれ落ちた純然たる善意の代物。100年に一度もない、運命から読み取った間違いのない助言。

 

 しかし、そんな言葉を向けられた天子は――その顔から表情を落とした。瞳孔を見開き、殺意だけに染まった瞳をレミリアに向けて瞬きもしなくなる。

 

「そうすれば、全て収まるさ。今ならお前の従者も、魂は無事なまま輪廻の輪に加われる。この大妖怪、吸血鬼たるレミリア・スカーレットの名において保証しよう。……不服そうだね」

 

 緋想天の剣がその刃を雷の如く猛らせ、烈火のごとく揺らめいた。

 

「従者の働きに、報いてやるのが主の務めだ」

「……やれやれ。どうやら、我々は通過点に過ぎないらしい」

 

 紅い魔力がレミリアの手に形を作り、槍と化す。

 神鎗グングニル。本人がそう誇示してやまない紅い魔槍は、彼女の能力も合わさり、その名に恥じない力を誇る。

 余談だが、傷が癒えぬ効果もあれば、彼女はゲイボルグ、とでも名乗っていたのだろうか。

 

「お前を殺すことは契約違反ではないのでね。精々、私の暇つぶしに付き合ってもらおうか。お嬢さん?」

「抜かせ。無事、私の従者を返してもらう。――お前たち悪魔を、切り刻んだ後でな!」

 

 紅い魔力と、緋色の気質が激突したとき。

 空は紅く緋に染まり、力の猛りに世界がひときわ大きく、みしり、と唸りを上げるのであった。

 





楔は打たれました
後はその因果を手繰り寄せるだけ
負けない貴方に勝つために、私たちは手を取り合いましょう
誰しもが望む、幸福な未来のために、ね?




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撒いた種は開花する

 

 

 比那名居天子は長尾在人を高く評価している。

 それでも、彼女は自分の従者に対して散々な無理難題を吹っかけている自覚はある。それはいじわるだとか、遊び心だとか。暇を持て余した彼女の余興だとか。そんな心は少ししかない。

 彼女だって目的をもって動いている。暇だとか、退屈だからとか。そんなことを恥ずかしげもなく理由に掲げているのは、真の目的を晒さないための演技であった。自由人の皮を被っていた。

 

 皮を被って誰を騙すのか――そんなものは決まっている。

 

 

 

 比那名居天子が最初に違和感を覚えたのは、“緋想天の剣”をくすねて勝手に使ってしばらくした後。ちょうど、地上では紅霧異変が解決した後でのことだった。

 “緋想天の剣”を以て“気質を操る程度の力”を行使できるようになっていた彼女は、暇つぶしとばかりに様々な相手の“気質”というものを見ていた。それは、従者在人も例外ではない。

 

 それがある時。地上から帰ってきた在人の“気質”を見ると、前回見た時よりも変化していたのだ。

 それはまさしく、青天の霹靂というべき変化であった。あるいは、ある日突然に空の色が青から緑に変わったかのような、そんな衝撃を受けたことを彼女はよく覚えている。

 

 元来“気質”とは、生涯に渡って早々に変化することがない。少なくとも、比那名居天子は同一人物の“気質”が変化した様を見たことは、一度としてなかった。

 だから、まさか偽物か、と様々な機転を利かせて質問、あるいは調べてみるも。それらは全て空振りだ。正真正銘、“気質”の変化した目の前の人物は彼女の従者たる“長尾在人”であった。

 

 ならば、と天子はある仮説を立てる。

 天界には天人と天女などが居るが、純然たる人間は存在しない。もしかすれば、人間が困難を乗り越えた時に、“気質”は成長と共に変化するのではないか、と。

 何分、天界というのは変化の少ない場所である。満たされた場所であり、常に満たされているからこそ変化を望まない。

 

 ――なるほど、確かにこんな場所では“気質”が変化することはないだろう。

 

 しかし、次に問題となったのはその観察対象である。

 幻想郷の人里という場所は、一種の安全地帯となっており、早々に困難が訪れる場所でもない。村八分にされれば、最後は妖怪の餌になるのがオチだというのは、長尾在人からよく聞いた話である。そんな場所では、天界より足りないところが大いにあるといっても、似たり寄ったりが実情だ。

 

 そこで白羽の矢が立ったのは、人間の身でありながら化け物共が起こす異変なるものを解決するという、博麗霊夢と霧雨魔理沙の存在であった。

 純然たる人間でありながら、両者は見事異変解決をして、ないし異変解決の大きな功労者になったと在人に聞く。

 

 ――異変解決という困難、人間を成長させるには十分だろう。

 

 異変はそれからというもの、五回も起きた。

 

 訪れない春に季節外れの雪を起こした“春雪異変”がひとつ。

 三日置きに誰もが目的を忘れ宴会を起こす“三日置きの百鬼夜行”がひとつ。

 本物の月が隠され明けない夜が訪れた“永夜異変”がひとつ。

 幻想郷中の花が咲き乱れ枯れなくなった“六十年周期の大結界異変”がひとつ。

 妖怪の山に新興勢力となる神社が転移してきた騒動“守矢神社の建立”がひとつ。

 

 いや、正確には異変と呼べないものも紛れているのだが、今は置いておく。どちらにしても、博麗霊夢と霧雨魔理沙が解決に乗り出したことは事実なのだから。

 

 この全てを、比那名居天子はよく観察していた。長尾在人にも調査に出させた。

 その結果、分かったことは……。

 

「人も妖怪も、“気質”なんて欠片も変わらないじゃない」

 

 と、いうことと。

 

「でも、あいつだけは変わり続けた」

 

 そして、やはり変化する長尾在人。

 そうなれば、異分子は決まった。

 

 そういった経緯から。

 長尾在人こそ異分子であり、彼そのものがもはや異変といって遜色のない何かを抱えていることが、比那名居天子の中で確定した。

 

 

 

 

 長尾在人は弱い。木っ端妖怪であれば遅れは取らないが、中級以上となれば話が変わる。それは、天子自身がよくわかっていることだった。

 そのため、天子は異変の調査を命じた時から、危険に晒されないように、監視の術式を掛けていた。精度というのはそれほどよろしくないが、命の危機と場所を知らせるには十分なものを。

 そして、少しでも生存能力を上げるために天界の桃を与え続けた。許される限り、監視の目を誤魔化して。気休め程度だとしても、意味があると願いを込めて。どうして禁止されていたのか、その理由も知らないまま。

 

 まぁ、余談ではあるのだが。

 そんな粗悪な術式では、急ごしらえの桃程度では、長尾在人の命を助けるには至らなかったわけであるのだが。

 

 今回だけは話が違った。

 術式が、在人を守れるようにと掛けていた警報器のようなそれが、何者かによって“破壊”されたのである。

 

 そうして、即座に天界から飛び降り着地した先が、紅魔館の前であった。

 気が立っていたのも、在人が命の危機に晒されているかもしれない、という危機感に由来するものであった。

 間に合ったのはひとえに、元から相手に在人を殺す気がないからこそ……いや、正確には。

 

 

 

 フランドール・スカーレットは、比那名居天子を誘き寄せるために、彼に仕掛けられた警報器を破壊したのである。

 

 

 

 

「あっ、来たんだねー。いらっしゃーい」

 

 血生臭いというよりは、煙のような濁った空気が鼻につくといった戦場の中で、場違いに明るい声が天子とレミリアの動きを止めた。

 

「……また、蝙蝠か」

 

 忌々しそうに、天子が鬼の形相で吐き捨てる。

 そんな忌避と殺意に満ちた対応にも、フランドールはカラカラと鈴のような笑い声を転がした。

 レミリアはフランドールの様子を見て、やれやれ、と肩を竦めてみせる。

 

「うん、蝙蝠。哺乳類だよ。あ、安心してね。貴方の従者は瀕死だけど、死んではいないよ」

「……いや、フラン。あいつの従者、ここに来てもらわないと困るんだけど」

「えぇー? だって、誰かさんが居たんじゃ、絶対邪魔されるよ」

「それもそうだが……まぁ、その辺りは調整すれば問題ないか」

 

 レミリアは武器を降ろすと、フランドールの隣に並んで天子と対峙する。それを見た天子は心底、といった様子で舌打ちを繰り出す。不良も真っ青な柄の悪さである。

 

「何が目的だ」

「いや、何。君の従者のことについて、話しておこうと思ったのだよ」

「お姉様、その口調すっごい変」

「……うるさい妹ね」

 

 せっかく黒幕感出してるのに、と愚痴を吐くレミリア。そして気の抜けたフランドールの様子にピキリ、と天子のこめかみに青筋が奔る。

 

「あぁ、待て。短気を起こすな。時間も限られているんだ、本題に入ろう」

「……さっきからお前ら斬り殺したくて仕方がないのに、律儀に待っていたんだが」

「それは失礼。いや、それより本題だ、本題。君の従者についてだが……フランはどこまで把握しているの?」

「全部」

「なるほど。ならば話は早い」

 

 単刀直入に言おうか、とレミリアは苛立つ天子の視線を真っ直ぐ見つめ返して、あくまで平坦な声音で、当然のことを言うように口にする。

 

「長尾在人が奇妙な存在であることはご存知かい?」

「知ってまーす。さっき確認しました!」

「それがどうした?」

 

 これに天子は動じない。

 レミリアにとって想定内の反応に、彼女は「結構」と大仰に頷いた。

 

「私は人の運命を見ることが出来てね。そこから今日、初めて知ったのさ。いやはや、奇跡だったよ? 何せ、彼は本来。こんな最も正体が明るみに出る場所に訪れることはなかったのだから」

「私はあらゆる物の緊張している部分……“目”を見ることが出来るの。それは、壊れてしまった“目”でも、その残骸を見ることが出来ちゃうんだけどね」

 

 それを聞いた天子は全身に“気”を張り巡らせた。警戒心が一段階上がり、いつでもその柄を振るえるように構えを取った。

 

「まぁ、落ち着け。私はその力を以て、おかしいと思ったのさ。どうして、未来に足を踏み入れた跡があるのか、とね」

「私はまぁ、さっき言った通り。“目”の残骸が数千個単位であったからね。質問を決めたの。今見えている“目”の残骸のざっくりした単位と、その端数を質問しよう、って」

「……フラン、貴方えぐい質問するわね」

「もう、お姉様。今は私のターンよ。……それでね、私はこう言ったの。次に私の考えていることを当ててみて、って。当てられなかったら殺すから、って」

 

 それでね、それでね、と見た目相応にはしゃいだ様子で、彼女はあまりにも特大の爆弾を落とす。

 

「ほら、心を読む能力ってあれじゃない? 私の考えを当ててって言われたら、私が“今”見えている“目”の数と端数を当てちゃうじゃない? その時は、『端数8個と1000以上の潰れた目の海に、また一個、目玉が潰れました。ドカーン』、っていうのが答えだったの。でも、あいつはね。こう答えたの」

 

 ――端数7個と1000以上の潰れた目の海に、また一個、目玉が潰れました。ドカーン。

 

「……それが、どうした」

「おかしいよね? だって心を読んだのなら、端数は7個じゃなくて8個よね? でも、1個少なかった。あっ、目玉が潰れました、っていうのは私が質問に答えられなかったら“目”を潰そうと思ったから。ドカーン、っていうのはそれの裏付けね」

 

 天子の唇が、わなわなと震えを帯び始めた。

 そのことを目敏く見たレミリアは、しかし何をするでもなくフランの話に耳を傾ける。

 

「つまり、あいつは――今の長尾在人は、潰れた目が1個少ない世界からやってきた。――外の世界だと、タイムパラドックスとか、タイムリープって呼ばれてるやつ。条件は、あいつ本人の死。じゃないと、潰れた目玉があいつの発言とピッタリになるのはおかしいもの」

 

 あっ、補足するとね、と彼女は付け加える。

 

「私は絶対に、殺す前に“答えを言おう”と決めていたわ。じゃないと、見極められないから。そして――あいつはまんまと引っかかった」

 

 その口元が三日月に裂ける。

 神算鬼謀の悪魔が、ケタケタと笑い声をあげる。

 

「だから、私の結論はね! 長尾在人は数千回死にながら、今まで世界をやり直してきたってこと! その過程で、その精神は――」

 

 風を斬る音と共に、緋色が閃き、咄嗟にレミリアとフランドールはそれを避けるため退いた。

 

「あぁ。確かにあいつの“気質”は何度も変わった。それは、認めよう」

 

 だが、と天子は己を奮い立たせるように、声を張って宣言する。

 

「だが、あいつの能力はそんなものではない! その力は“貫く程度の能力”であり、決して世界を巻き戻せるような大層な物ではないッ!」

「あ、なーんだ。仮説、大体合ってるじゃない」

 

 そんな天子を嘲笑うように。

 フランドールはあっけらかんと口にする。

 

「じゃあ、貫くってさ。ね、何か約束したんじゃない?」

「……約束?」

「うん。約束を貫く、とかだったらさ。それが達成不可能になった時、世界の方を巻き戻しちゃえ! ってなってもおかしくないよね?」

「いやそれはおかしい」

 

 どんな拡大解釈だ、と天子は至極まともに反論する。そんな世界を変えられるような力があるのなら、長尾在人はどうしてあんなにも弱いのか。

 

「在人は弱い。霊力も、気力も、魔力も。力という力が足りない奴だ」

「何それ。自己弁護のつもり?」

 

 しかし、フランドールは知っている。レミリアだってわかっている。

 他でもない、幻想郷屈指の強力な能力を持って生まれたこの二人だからこそ、わかるのだ。

 

「能力っていうのはね、本人の力とイコールじゃない。能力だけは一人前に強力なヤツ、いくらでも居るよ。お姉様みたいにね」

「おい。……私は種族として優秀だがね。例えば冥界の亡霊姫はその部類だろう? 死を操る程度の能力、だったか。あぁ、おっかないね」

 

 能力は、本人の資質に依存しない。

 わかりやすい例でいえば、レミリアの言った通り西行寺幽々子の“死を操る程度の能力”は、本人の能力抜きの戦闘能力に対して、あまりに過分な力といえるだろう。

 その反例としては、風見幽香の“花を操る程度の能力”だ。幻想郷屈指の大妖怪だというのに、その能力はあまりにも牧歌的なのだ。

 

 まぁ、それを含めたとしても。

 確かに長尾在人の能力が世界を巻き戻せるなどというのは、拡大解釈の過ぎる暴論だ。

 

 だが、そこに更なる状況証拠が加わるとすれば。

 

「能力が弱くなるという要素はなかなかないが――能力を強くする、という要素は幾らでも存在する」

「意志を強く持つこと。もっと言えば魂の逞しさが、それに当たるね」

「黙れッ!」

 

 全て、天子には覚えのあることだった。

 だからこそ、叫び、拒絶するしかその心を守る術がなかった。

 

「“貫く程度の能力”だっけ? それをどれだけ扱えるかは知らないけど――可能性がゼロじゃないなら、能力はどんなことでも起こし得る。それが能力の、理不尽なところよ」

「それを、本人が望んでいようと望んでいまいと、な」

「何が言いたい! お前たちは何を言っている!?」

 

 今までの威厳は、怒気は、あれほどの鋭い殺意は何処に行ったのか。

 その瞳に涙を溜めて、動揺に瞳を揺らし、女々しく叫び散らすことの、何たる人間らしいことか。

 

 あまりの光景に、口角の上がる口元を、手で隠しながらくすり、と上品ぶって笑うことでレミリアは湧いてきた感情を誤魔化す。フランドールは、隠す気もないのか口元を大きく三日月に歪め、その牙を見せている。

 

「つまり、真の異変とは君が起こしているわけではないのだよ。お嬢さん?」

「だから、解決しようよってこと。元凶さん?」

 

 二人の言葉に、比那名居天子はとうとう、その顔を伏せてしまう。腕を震わせ、体を震わせ、纏っている気が風に吹かれる焚火のように不安定になる。

 

 

 

 ――認めるわけにはいかない。

 比那名居天子は聡明だ。無知な状態から、“気質”というものだけを頼りに、長尾在人の異常に確信をもち、観測だけで裏付けを取るくらいは、遊び半分にも出来たことだった。

 

 彼女だって気づいていたのだ。“気質”が変化するという意味を。

 ただ、目を逸らしていた。気付かないふりをした。そうするしか、彼女は自分を保つことが出来なかった。

 

 死者蘇生の術なら用意できた。

 死神ならば小細工を弄して追い払えた。

 権力者たちの発言など、彼女の従者という立場を利用して突っぱねた。

 

 だが、しかし。

 比那名居天子がいくら優秀だといっても。

 消滅してしまった精神を取り戻す術は持ち合わせていなかった。

 

 だから、認めるわけにはいかなかった。

 自分自身が導き出した結論を。

 

 ――自分が大好きだった長尾在人は、もう何処にもいない。

 などと、認められるはずがなかった。

 

 だって、もしもこれを認めてしまえば。

 

 ――長尾在人を殺したのは、他でもない私だ。

 と、その現実さえも認めることになってしまうから。

 

 

 

 

「――荒唐無稽もそこまでいけば、いっそ笑い話というものだ」

 

 だから、比那名居天子はいつも通り強がり、開き直った。

 乱れていた気は途端に堅牢な牙城の如く隙がなくなり、身体の震えは既に止まった。

 

「……ふむ。これは詰みというやつか?」

「まぁ、いいんじゃない? 情報の共有はできたもの」

「業腹ね。私たちが記憶を保持できれば、あんなのに頼ることもなかったのに」

「でも、あいつは情報を集められない。そうでなきゃ盗み聞きなんてしないだろうし」

「まぁいいさ。楔は打ったのだからな」

「お姉様はずるいわ。私は後回しにされたのに」

「そうなのかい。まぁ、そろそろだろう」

 

 能天気に姉妹だけで会話する二人に、しかし天子は手出しをしなかった。

 いや、出来なかった、というべきか。

 

 比那名居天子といえども、太陽の届かない場所で、吸血鬼二体を相手にするのは非常に厳しい。レミリアだけでさえ、両者傷を与えることの出来ない拮抗状態となったのだ。

 それと同格か、あるいはそれ以上の危険度を誇る吸血鬼が追加で一体。猪武者の如く突っ込むには、状況が悪すぎた。

 

 そんな悪い状況を最悪に変えるかのように。

 

「どうして、こちらに……」

 

 口の端に拭い切れていない血の跡を残し、肩で息をして引きずるようにして、長尾在人が紅魔館の中から出てくるのであった。

 

 

 

「――ッ!」

 

 その姿を認めた瞬間、比那名居天子は弾かれるように在人の方に飛び出した。“緋想天の剣”を片手に、その姿に手を伸ばして、流れ星のように青い閃きを残して。

 

「おや、何処に行こうと言うのかね?」

 

 それを阻む紅色に、天子は「邪魔だ!」と吠えて“緋想天の剣”を振るが、その刃は彼女の魔槍に止められて、拮抗状態に陥った。

 

「蝙蝠がッ!」

「よく喚く小娘だね」

 

 拮抗した状態では何もできない。急いで距離を取ろうと後ろに飛ぶのに合わせて、レミリアも天子との間合いを詰める。

 意地でも距離を詰めてくるレミリアに、天子は苛立ちに歯噛みする。天候を操作しようにも隙が出来ない。

 

 例え隙が出来たとしても、雲と霧による二重の紅色を突破することは出来ないだろうが。

 

「待っていろ、すぐに片をつけるッ!」

「その前にこちらの用事を済ませるがね」

 

 その睨み合いは、未だ終わりが見えそうにない。

 

 

 

「天子様ッ!」

「そんなにご主人様が心配?」

「っ!?」

 

 いつの間にか、長尾在人の隣にはフランドールが立っていた。横に並んで、花火でも眺めるかのように、紅い瞳は天子とレミリアの戦闘を眺めている。

 

「でも、アレはもうダメじゃないかな。心が壊れてるもん」

「心が、壊れてる? 何を――」

「別に、私は何もやってないよ」

 

 詰問に先んじて、フランドールは答える。

 その瞳に、在人は映っていなかった。

 

「壊したのは貴方よ。ご主人様に全部バレてるよ? 貴方は長尾在人じゃないんだ、って」

 

 ヒュ、と細い息を呑みこんだ。気道が一瞬詰まり、体が固まる。わななく唇に、回らない舌。何とか「どうして」と蚊の鳴くような声は出たが、それ以上は息が詰まって何も出なかった。

 

「紅霧異変の時、長尾在人は私の元にやってきた」

 

 それは比那名居天子に、異変の調査をして来いという無茶ぶりをされたとき。その最初の話であった。

 

「長尾在人はメイド長に先導されてやってきた。招待されるように。お姉様からの伝言は、カウンセラーを捕まえた、だったかしら。本の虫も知っているでしょうね。そう、長尾在人は紅魔館の住人に認知されていた」

 

 それはおかしい、と在人は首を横に振った。

 レミリアとは、今回の異変で初対面のような対応をされた。紅魔館の魔女パチュリーには、興味もないかのような対応をされた。フランドールは、まるで知っているかのような口ぶりをしながら、狂っているようにしか聞こえない言動ばかりであった。

 

「私、言ったよね? “誰?”って。“前から異変だらけじゃない”って。“私は貴方を知らない”って。全部、本当の事よ。だって、私は後から出てきた紛い物の精神のことなんて知らないし、私が知っているのは本物の長尾在人だけ。前から異変だらけなのも本当。だって、お姉様たち、長尾在人について何も覚えていないのよ?」

 

 じゃあどうして、フランドールは長尾在人を覚えているのか。矛盾している発言だ。フランドールが狂っているとしか思えなかった。

 狂っているとしか思えないのに、彼女の瞳はどこまで理性的に落ち着いている。

 

「世知辛いよね。だって、例え正常だとしても、異常者の方が多ければ狂っているのは正常者の方になるもの。多数決って残酷よね」

 

 狂っている。

 彼はあまりの痛みに頭を抱える。

 

「ずっと前からの大異変。世界の認識を歪めているのか、それとも都合の悪いことは剪定されちゃうのかしら? どっちにしたって、狂ってるのはこの世界」

 

 苦しむ彼をしり目に、フランドールは言葉を続ける。

 

「私が覚えているのは、長尾在人が手を尽くしてくれたから。狂気の矯正はとっくに終わっているの」

 

 狂気の矯正が終わっている。狂気をどうにかする必要など初めから存在しなかった。

 ならば、レミリアとの契約は一体どうなるというのか。

 

「本題はここから。もしもご主人様を助けたいのなら、私と契約しましょう?」

 

 比那名居天子を助ける。

 その言葉に、ピクリ、と彼は反応を示した。

 

「長尾在人が死んでいるなら手なんてなかったけど。生きているなら話は早いの。表に出て、この問題をすべて丸く解決するだけ。そして、その時間逆行の力を解除すれば、もう終わり。口うるさいのが出てくるかもしれないけど、それは貴方の交渉でどうにかすればいいわ」

 

 じゃあ、契約内容の確認ね、と彼女はまたあの文言を口にする。

 

「私は貴方を、長尾在人を契約期間中は私、フランドール・スカーレットの手で殺しません。以後、フランドール・スカーレットは“私”とします。私は長尾在人との二者間の問題を、契約期間中は不当な暴力をもって解決はしません。

 代わりに貴方は、長尾在人は自らの意思では死ねません。他でもないこの契約を結んだ長尾在人は死ねませんし壊れません。

 契約期間は、今起きている異変が解決するまでとします。期間中に契約を破った者は、契約期間中において相手への絶対服従を、罰則として受けることにします。以上」

 

 

 

 悪魔だと、何度目かわからない実感をもって、彼はフランドールのことをそう認めた。

 もしもフランドールのこの契約を彼が承諾してしまった場合――彼は、長尾在人はどうしようもなく詰んでしまうことを理解した。

 

 この契約のみそはフランドールの能力と、契約内容中の文言に起因する。

 

 まず、「フランドール・スカーレットの手で殺しません」という文言。これは一見、長尾在人のことを殺さないことを担保する制約のように見えるが――それは違うのだ。

 これはフランドールが自分自身を解決策に使わせないための巧妙な罠である。その理由は、深層意識に眠った長尾在人の存在にある。

 

 これは彼自身も自覚していることだ。自分の奥底に眠った長尾在人の精神。魂の根幹とも呼ぶべきそれは、度重なる時間逆行に耐え切れず、自らは休眠に入り、能力を維持するだけの存在となった。

 しかし、精神が眠りに入ってしまえば、身体を動かすための意識までなくなり、永遠に寝たきりとなってしまう。そうなっては、時間逆行の条件を満たしてしまう。しかしこれ以上時間逆行をして表に本体の精神が出てしまえば、魂そのものが消滅してしまいかねない。

 それらの解決方法として取られた選択が――まるで神の如く自身の精神を分霊と化して、自らの肉体を動かすのに使うことだった。

 

 この分霊化のような状態がまた厄介であり、一度生み出された分霊は、自らの意思で消滅することが出来ないのだ。肉体を動かす権利を、本体の精神に移譲することも出来ない。

 

 ならば本体の精神に入れ替わるためにはどうすればいいか。

 それは、分霊の方が消滅して、本体が表に出ようという意志があった時にのみ、権利の譲渡が出来る。

 分霊が消滅する条件は、分霊自身が精神の負荷に耐え切れず消滅したときか、外部からの衝撃によって消滅させられた時しかない。

 

 即ち。

 フランドールは、鍵なのである。長尾在人を呼び起こすための能力を、彼女は偶然にも保有しているのだ。

 

 

 

 次に罠というべき点が、「他でもないこの契約を結んだ長尾在人は死ねませんし壊れません」という文言である。

 これが一番在人を詰みに追い込む文言だ。もしもこれを、長尾在人の分霊が行ってしまった場合――長尾在人本体の精神は、二度と表に出られなくなってしまう。たとえどのような能力を用いたとしても分霊は消滅せず、表に居座り続けることとなる。

 

 “他でもないこの契約を結んだ長尾在人”とは、本体の精神ではない。この契約に了承をした精神のことを指している。これを彼が結んでしまった場合は――もはや、取り返しのつかないことになっていただろう。

 

 

 

 フランドール・スカーレットは決して信を置ける味方などではない。

 むしろ、彼女は正しく悪魔であった。人間が思い浮かべる、人を食い物にし絶望させる存在。契約には忠実ながらも、その契約を以て人間を貶めようとする、人間には理解の及ばない化け物。

 

 人間から見れば、間違いない。

 フランドール・スカーレットは狂っている。心の隙に付け入り人を貶めようとする、まさしく最悪の悪魔。

 だからこそ、悪魔であるフランドール・スカーレットは正常なのである。

 

 

 

 話の全てを理解した。

 理解したからこそ、彼はその心に烈火を燃やし、やらせるものかと瞳の奥に火が灯る。

 

「――お断りいたします」

 

 これほどの封殺の目論見を向けられたのは、生まれて初めての経験だった。

 自身のことであったのなら、まだ炎を灯すほどの激情に駆られることはなかった。

 

「どうして? これはその身の安全を保証するための、可愛い悪魔の手助けなのに」

 

 だが、それが間接的にも、比那名居天子を害することになるのであれば。

 例え紛い物だろうと。本体でなかろうと。

 

「天子様を害する者に、与するつもりは微塵もないッ!」

 

 彼は全力を以てこれを拒み続ける。

 どれだけ擦り切れ、どれだけ消えて、どれだけの苦境に立たされていようとも。

 

 諦めることだけは決してない。

 歩みを止めるなどあり得ない。

 そこに例え一筋の希望さえないとしても。

 

 彼は何があろうと止まらない。

 これまでも、これからも、血反吐を吐いて進むのだ。

 

「レミリア・スカーレットッ!」

 

 声を張り上げる。

 バレているのなら開き直ろう。

 今の状態で決してたどり着けないなら、今できる精一杯を尽くして次に繋げる。

 

「契約は果たしたッ! 今この場で、報酬を要求する!」

 

 口から血をこぼしながら、枯れかけた声でも届けと叫ぶ。

 私はここに居るぞ、と存在感を示す。

 

「私と共に、この異変を解決しろッ!」

 

 耳の奥を風が抜ける。

 

「契約の報酬。悪魔、レミリア・スカーレットが確かに聞き入れた。あぁ、業腹だ。業腹だが――」

 

 彼の隣に降り立ったレミリアが、ニヤリ、と口角を上げて、彼と共に同じ空を見上げる。

 まるで歴戦の友の如く並び立ち、紅い魔槍をその先に向けて、心底楽しそうに声を上げた。

 

「あいつに一泡吹かせられるなら――我が全力を以て、世界を違えようと、この大異変を解決してやろう!」

 

 その啖呵を聞き、彼はしっかりと頷いた。

 そして、次に語り掛けるべき相手に声を張り上げる。

 

「天子様!」

「――吸血鬼に与するかッ!」

 

 怒りに緋想天の剣を向けて大声を放つ天子に、彼は力強く首を振った。

 

「与する? 御冗談を! 例え百万回の死を経ても、私が天子様を裏切ることなどあり得ないッ! これより貴方のお望み通り――異変解決を実行します!」

 

 彼に勝算?

 そんなものがあれば苦労しない。

 勝利など手探りだ。最初は誰だって手探りで、勝ち筋を見つけ出す。

 

 今此処から、彼は全力で走り出すのだ。

 

「こんな荒れた場で、味方もほとんどいない状態で、私を倒すと? そう言うのか!」

「味方? そんなもの――最初はいつだって、一人しかいなかったッ!」

 

 その言葉に、天子が目を見開き息を呑み、身体を固まらせた。

 その間にも、彼とレミリアはお互いに視線を合わせて、言葉をかける。

 

「私は小娘を食い止めよう。お前は――お前の為すべきことを為せ」

「元より、そのつもりです」

 

 さぁ、最後の仕上げだと。

 彼は拳を握り、その瞳に焔を宿す。

 レミリアは、その槍を真っ直ぐ標的に構えて、踏み込んだ。

 

「不屈の誰かさんと」

「運命を手繰り寄せる、このレミリア・スカーレットが」

 

『この異変を綺麗さっぱり解決しよう!』

 

 彼は駆け出し、レミリアは天子に飛び掛かり。

 再び、決戦の火蓋が切って落とされる。

 

 

 

 ――有頂天は。

 もうすぐ、目の前にまで迫っている。

 

 



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根絶か、延命か

 

 

 紅と緋色が空で激突し、空気を軋ませ暴風を起こす中。

 彼が一目散に向かった先は、フランドールの元であった。

 

「ふーん、振った女の子にいきなり頼るの? 節操なし」

 

 つん、と不機嫌そうに頬を膨らませる彼女は、どうにも見た目相応の愛らしさがあって、緊張していた彼の毒気も抜かれていく。

 悪魔としての残酷な一面と、見た目相応な少女の一面。狙って使い分けているのか、それとも気分屋なのか。彼にそれを見破る術はなかった。

 

「ご容赦を。そして、そんな鬱憤を晴らす素敵な提案をお持ちしました」

「やだ」

 

 にべもない。取り付く島もない即答に、あー、と彼は言葉を詰まらせた。

 それでも、話さなければ始まらない。彼は意味があると信じて口を開く。

 

「……私が合図したら、この私の精神だけを壊してください。肉体は壊さないように、細心の注意を払って」

「しーらない」

 

 返事をしてくれるだけ、まだ情けのある対応だと考えるべきなのだろうか。そっぽを向いたフランドールは、視線を合わせようともしてくれない。

 

「どのみち最後の機会です。だから、この一回に全てを委ねます。どうか、お付き合いいただければ幸いです」

「……」

 

 今度こそ、フランドールは口を開かなかった。助勢は期待できないかもしれない。それでも、彼はフランドールが味方してくれる未来を信じるしかない。

 もうやり直せない。そう考える彼は、少女の気まぐれに未来を委ねるしかないのだ。

 

「別に、やり直せばいいじゃない」

「……はい?」

 

 一体何を、と彼は思わず聞き返す。キョトンと呆けて、目を瞬かせる間抜け面に、フランドールは唇を尖らせ細い息を吐く。

 

「今ならコンティニュー出来るの。私が壊したのは、貴方のご主人様が仕掛けた警報器だもの。だから、血相変えてすっ飛んできたわけだし」

 

 不満そうに、不貞腐れたようにぶっきらぼうに口にする様子に、彼はただ瞬きをするしかなかった。

 

「だから、もっと安全に、何度もやり直せばいいじゃない」

 

 彼が気づいていないそれを、どうしてフランドールは口にしてくれたのか。

 味方になってくれることの証明か。それともまた、狡猾な罠なのか。

 

 しかし、どちらにしても。

 

「やり直しは、不可能です」

 

 彼にとって自発的にやり直すことは不可能であるという事実は変わらない。

 例えやり直しが出来ない、というのがハッタリなのだとしても、彼にそれを試すだけの無鉄砲な肝っ玉はなかった。それこそ、死んでみなければ何もわからないのだ。

 

 加えて、結局最後に一発勝負をしなければならない事実は変わらない。

 長尾在人の精神は、たった一度さえもやり直せないほどボロボロだ。どれだけ不屈を貫こうとも、やせ我慢では魂の崩壊は止められない。

 

「ま、そっか」

 

 フランドールは納得したように頷くと、トコトコと小さな歩幅に軽い足取りで、門の方に向かった。

 

「門番、起こしてくるね。貴方は本の虫と話してくるといいわ」

「……パチュリー様と?」

 

 どうしてそこで、紅魔館の魔女の名前が出てくるのか。

 フランドールが名指しをする意味が、彼には理解できなかった。

 

「急いで。早くしないと、時間切れになるよ?」

「――ご助言、ありがとうございます」

 

 しかし、どちらにしても総当たりをしていくしかない状況だ。

 ならば、その助言に従って優先して会いに行くのも、悪くないだろう。

 

 加えて、時間切れ、というワードも引っかかる。

 フランドールはまだ何かを知っているのか。それとも質問をさせないための悪知恵だろうか。やはり、彼に真実を見極めることは出来ない。

 

 ただ、どちらにしても。

 無意味に時間を掛けることが愚策であるのは間違いない。

 

 だから、彼は素直にその助言に従い、フランドールに一礼をした後、紅魔館へと駆け出した。来た道を走って戻っていく姿は、まるで役者がおどけて舞台袖に退場していくかのようで滑稽だった。

 

「もう、この世界がもたないもの」

 

 紅に覆われた空を見上げて、フランドールは小さく呟いた。

 ぼうっと、気のない空虚な瞳は深紅ばかりに染まっている。

 

 とん、とん、と濡れそぼった葉っぱから水滴が落ちるかのようなリズムで足を運び。

 その後ろ姿は、風に巻かれた砂煙の中に消えるのであった。

 

 

 

 図書館、というよりも巨大迷路と称した方が良いのではないだろうか。

 紅魔館の大図書館に足を踏み入れた彼は、記憶の通りに道を進んでいきながら、そんなどうでもいいことを考えていた。本棚を、本の背表紙をちらちらと観察しながら。かつ、かつと足を鳴らす。

 

「あれ。珍しいお客様ですね。……うわぁ、お嬢様と契約? 御可哀そうに」

 

 しばらくすると、再びあのラウンドテーブルのある地点にたどり着く。紫の髪の魔女、パチュリーはまるで根でも生えているかのように、一歩たりとも動いていなかった。

 しかし、相違点もある。彼女の隣に、本を抱えた赤髪の少女が立っていたのだ。側頭部から小さな黒い翼のようなものを、それを大きくしたものを背中からも生やしている少女は――典型的な悪魔、といった風体である。

 白いシャツの上から黒のベストを身に纏い、同じく黒のロングスカートを穿く彼女は、側近ともいえるような立派な装いに整っている。初対面でいきなり露骨な憐れみを向けた発言をしたことで、全てを台無しにしていたが。

 

「フランドール様のご助言により、参上しました。パチュリー様と話してこい、と」

「……そう」

 

 抑揚のない声であった。声音自体は空のように澄んでいる。ただ、そこに感情など介在していないのか、凪の海のような静寂を思わせるのだ。

 本から一瞬視線を外して、パチュリーは彼を認めると――パタン、と今度は本を閉じて、しっかりと彼の方を見た。

 

「単刀直入に聞くわ。博麗大結界が壊れかけているのはご存知?」

「……いえ」

「原因は貴方ね。それも能力のせい。だから、スキマ妖怪が積極的になった。綻びは、スペルカードルール制定となった紅霧異変の時から徐々に表れ始めた。その時から、あの子もいつに増しておかしかったけど……それも貴方が原因。すべてが繋がった」

 

 決して早口でしゃべっているわけではなかった。むしろ、清流のような穏やかな流れで、淡々と口にしていた。

 しかし、そんな新しい情報を説明もなく、唐突に、ただ結果だけ口にされても頭がパンクしそうだった。

 

 待った、と声を掛けようとするも、パチュリーはそれを読んでか自分の口元に人差し指を当てて、彼を黙らせる。

 

「私は貴方に手を出さない。解決策がないから。これはきっと誰もが同じ。その能力の対抗策は詳細を知って尚、無い、としか言えない。蓬莱人を殺す方法くらいに難題ね。更に厄介なのは、私たちが実際に覚えていられないこと。そもそも幻想郷から逃げられたら、探す術もなかった。だからこそ、スキマ妖怪は貴方のご主人様の異変を、貴方を囲む檻として使った。ここで確実に、解決するために」

 

 目の前の少女は丁寧に、異変を解決したのに、比那名居天子が殺される理由を説明しているのだ

 

 長尾在人の能力が原因で、博麗大結界に支障が生じた。それに気づいた八雲紫はようやく原因の彼を見つけて、比那名居天子の起こす異変にかこつけて解決しようと試みた。

 

 ざっくりまとめると、こんな感じなのだろう。

 もっと複雑な事情は絡んでいるのだろうが、彼の視点からすれば、それだけの情報で十分だった。

 

 八雲紫がいつから気づいていたとか、記憶を保持しているのか、どうやって保持しているのか、とか。そんなことは、彼にとっては不純物である。彼にはどうしようもないのだから。

 

「スキマ妖怪は絶対に来る。貴方の能力が解除されてすぐに、貴方を確実に殺すでしょうね」

 

 どうして博麗霊夢と行動を共にしていないのか。そもそも、記憶を保持していることから、逆行を逆手に取ってそう思い込ませるように行動したのか。

 

 分からないことだらけだが、必要な情報がこれだけ出揃った。

 

「でも、私は反対」

「……えっと」

「貴方を殺すことに」

 

 どうして、それほど八雲紫と対立しようとするのか。彼には思い当たる節が全くない。長尾在人にもない。

 

「だって、それで終わるとは限らないでしょう? それに、博麗大結界も限界。指で数えられる程度、能力が発動すれば壊れるわ。その貴重な一回を、そんな短絡的な手で潰すわけにはいかない」

 

 なら、と古ぼけて表紙の擦れた本を小脇に抱えて、彼女はようやく椅子から立ち上がる。

 

「原因を断つよりも穏便に。私は、結界の修復の方に向かうわ。巫女と、後は人形遣いも借りる。スキマ妖怪にはこう言いなさい。腐る前にこっちに来て添え木でもしなさいな、って」

 

 スタスタと、人柄を表すかのように、入り込む余地のない無機質な歩き方。声を掛けることさえ躊躇わせるその後ろ姿を、彼はただ見送るしかなかった。

 

「……あれ、私だけお留守番ですか?」

「……留守を守るのも簡単ではありませんので」

「そんなぁー!」

 

 今まで黙ってパチュリーの傍に控えていた小悪魔が、よよよ、とわかりやすい演技で崩れ落ちる。案外、こんな状況を楽しんでいるのかもしれない、と彼はくだらない予想を頭に浮かべる。

 

「それでは、私はこれで失礼します」

「こんな広くてかび臭い図書館で、私はひとり朽ち果てるのでした……」

 

 やっぱり悪魔の感性はわからない。

 悪魔特有の故事だろうが、冗談だろうが。

 

 彼にとっては、それはあまり笑い事ではない。

 それをわかって口にしているのは、彼女の上がった口角からも間違いない。

 

「悪魔はやはり、理解できません」

「あっ、理解とか求めてないんで」

 

 辛辣すぎる。そのきっぱりとした物言いに、親しみなど無縁のものであることがよくわかる。

 やはり、人間と悪魔は分かり合えるものではないのだろう、と。

 

 彼もまた、パチュリーの後を追うように、紅魔館の大図書館から出ていくのであった。

 

 





延命?
冗談はよしてくださいな。
必ず未来に起こる問題なのだから。
根絶をするのは、幻想郷の賢者として、当然の務めですわ


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