fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ (七草探偵事務所)
しおりを挟む

設定紹介頁その①

美麗なイラストをご堪能いただくことをメインとしたページ。私の書いたフレーバーテキストを話半分に読みつつ、絵を見て欲しいなと思います。

各イラストは薄荷矢キナリ様(X:@kinari_13)に描いていただきました。大変善きものを描いていただきましたので、皆様是非ご覧くださいまし


立華藤丸(たちばなとうま)

 

【挿絵表示】

 

 身長:167.5cm

 体重:78kg

 属性:秩序・善

 本作主人公その1、16歳。異世界転生後、カルデアのマスターになる。サーヴァントはクロ。家族関係はそれなりに絶好調だったので哀愁もひとしお。

 

 

『顕性型令呪ブロック14ナンバー49 戦術呼称(タクティカルコード)”ブラックサレナ”』

 

【挿絵表示】

 

 

カルデアで開発された新型令呪、ブロック14。契約するサーヴァントとの心理的・物理的距離の近接性により、ステータスを向上させる魔術を組み込んでいる。

 

本来、聖杯戦争においてウィークポイントになりうるマスターは表立って戦闘に参加することは推奨されず、逆説的に”マスター殺し”が聖杯戦争の戦略として確立されるほどだった。フィニス・カルデアにおいて英霊召喚、ひいては令呪による境界記録帯(ゴーストライナー)の使役が可能となった際も、戦闘時はマスターは戦闘に参加しないことが基本方針とすべしとする意見が大多数であった。

 

しかし、マスター候補の中でもAチームに所属していたキリシュタリア・ヴォーダイムにより、「人理修復に参加するマスターたるもの、正々堂々たる姿で挑むべし」との提言により情勢は一変。オルガマリー・アニムスフィアを差し置いてアニムスフィア家の次期当主とすら目されていたキリシュタリアの発言は無視できないものだった。加えて、本氏より近接性に依るサーヴァントの機能向上を図る魔術式が提案。さらにヴォーダイム家の魔術刻印のデータ供与により、千年クラスの魔術刻印に編み込まれた術者蘇生術式を組み込むことに成功する。レイシフトにより特異点で戦闘に参加するマスターのサバイバビリティさえ確保した上でサーヴァントの性能を向上させる本案は採決され、カルデア式令呪ブロック13に組み込まれることとなった【※1】。

 

 

令呪発同時は霊子展開して装備するBDUからの頸椎注射による高濃度オレキシン及びオレキシン受容体促進剤の直接投与が行われ、クリアな意識により強力な令呪発動を円滑に支援する。令呪作動後は即座にオレキシン受容阻害薬の直接投与が行われ、バットトリップを防ぐとともに亢進状態から平常な精神状態への迅速な切り替えを可能とする。マスターの継戦能力を維持するうえで最大限配慮がなされている

 

 

【※1】マスターのサバイバビリティ向上案として、ロマニ・アーキマン及びレオナルド・ダ・ヴィンチ両氏より、各マスターの疑似生体をモジュール化してストックすることで、身体損傷時に現地にて迅速に治療することを可能とする方法が提案、採用されたことも理由として大きい。

 

 

『クロエ(序章時)』

 

【挿絵表示】

 

英霊召喚式”フェイト”を利用し強制的に外界から召喚後、マスターとの縁を辿って特異点Fにレイシフトしたクロエ・フォン・アインツベルンの姿。強制的な契約により、一時的に本来の性能を発揮できない。

 

『クロエ(オルレアン以降)』

 

【挿絵表示】

 

 

『クロエ(第三再臨形態)』

 

【挿絵表示】

 

 

【挿絵表示】

 

 

第三特異点オケアノスにて霊基再臨したクロエ・フォン・アインツベルンの姿。第二特異点で味方として戦ったアサシンのサーヴァントが使用した宝具を使用して強制的に霊基再臨を行っていることが確認されているものの、再臨プロセスは不明であり、本氏からも情報の聴衆が行えていない。また、本再臨状態において、Aランクの【神性】及びB++ランクの【怪力】、及び【鍵の仔】なる現時点で前例がなく効果不明の未知のスキルが発現し、アライメントが中立・悪に変化することが確認される。それが何を意味しているのかは現時点では不明だが、その戦闘能力は破格であり、ランサークラスのヘラクレスの【十二の試練】を単騎で削り切るほどの性能を発揮した。

 

 

 

藤丸立華(ふじまるりつか)

 

【挿絵表示】

 

 身長:149cm

 体重:63kg

 属性:混沌・悪

本作主人公その2、19歳。サーヴァントはマシュ・キリエライト。エナジードリンクを愛飲し、既に脂肪肝になっている。脂肪肝を愛嬌と誤解しているため、敢えて置換していない。検診でロマニにキレられるのが最近の苦痛。

本人自体は極東日本のしがない魔術師の家系の生まれのため、さして魔術師として秀でているわけではない。家族関係はそれなりに劣悪。家族のことは基本的にどうでもいいかなと思っている。嫌いなものは肝硬変と実存主義者。

 

 

 

【挿絵表示】

 

第三特異点踏破後から、「イメチェンした(本人談)」とのことで髪型が変わった。特に戦略上の意味はないが、マスター業務に携わる同僚とそのサーヴァントにのみ、「昔お世話になった人の真似。ガンバらなきゃだから」と漏らしたという。

 

『フジマルリツカが装備する魔術礼装』

 

【挿絵表示】

 

リツカが装備する魔術礼装。大きな効果がある魔術礼装ではなく、本人曰く「お守り」程度の効力しかないとのこと。

ガーネットのピアスにはエオローの、ダイアモンドのブレスレットにはウィルドのルーン文字がそれぞれ刻まれている。

ガーネットのイヤリングは大切な人からの贈り物だが、ダイアモンドのブレスレッドは自作のものである。曰く、ブレスレッドは”お返しとして、渡しそびれてしまったもの”。

 

 

『初期型令呪ブロック1Cナンバー48 戦術呼称(タクティカルコード)”セイクリッドソード”』

 

【挿絵表示】

 

 人理保障機関フィニス・カルデアにおいて、初期被検体が装備していた令呪の初期開発モデル。第五真説要素(真エーテル)を手のひらサイズの令呪として編み込む技術が完成されておらず、前腕を覆うほどに大型化している。開発当時は南極大陸高地に残存する高濃度第五真説要素(真エーテル)をただ令呪型に編み込んでいたため、真エーテルの身体循環時に生じる脱人間化作用防止策がとられていなかった【※2】

 

 立華が装備するブロック1C型はブロック14のフィードバックが行われ、顕性時のステータス向上機能と各種サバイバビリティ向上案を搭載。性能そのものは劣るものの、年単位で身体に癒着した令呪の運用性は高く、使用者の能力も加味し新型と謙遜ない力を発揮する。

 

 

 

【※2】ブロック1の被検体及び生存者のデータから、ブロック2以降は保護作用が付与された。

 

 

『セイバー・マルス(セイバー)』

 

【挿絵表示】

 

第二特異点セプテムにて、生前のネロ・クラウディウスが聖杯と軍神の剣を使用。自身を依り代にし、神霊マルスを降臨。疑似サーヴァントとして召喚された姿。

 

 

『メルトリリス(ランサー/アサシン)』

 

【挿絵表示】

 

第三特異点オケアノスにて召喚されたハイ・サーヴァント。第二特異点にてカルデアのマスター・サーヴァントが交流したアルテラの気配を察知したアルテミスの攻撃性が現身となって形を成したサーヴァントである。歪みから漏出したケース:CCCの情報をベースとした召喚となったため、アルテミスの召喚でありながら、メルトリリスの形をしていると推定される。召喚経緯から本来のメルトリリスとは異なった形質を持っており、各種ステータスやスキル、宝具にも差が生じている。

 

 

『エリザベス一世(キャスター)』

 

【挿絵表示】

 

 

 第四特異点ロンドンにて召喚された、本作のみに登場するサーヴァントである。

 

 本来、エリザベス一世は単独でサーヴァントとして成立しうるだけの霊基をもった人物であり、霊基補強を目的とした疑似サーヴァントとしての召喚は必要ないとされている。本作においては、ロンドンを舞台とし、外なる世界からの脅威に対抗すべく星の内海からの企図により、疑似サーヴァントとしてエリザベス一世は召喚された。

 

 依り代として選ばれた人物は克己心に強く一つ事を為さんとする強靭な意思の凛烈とした点が共通している。また金銭面において常ならず悩まされた人生であったことも、強い共通点であった。

 

 近現代寄りのサーヴァントということもあり本人自身のステータスは決して高くはないものの、【皇帝特権】の亜種となるスキル【女王特権】やBランクと高い【カリスマ】、宝具『薔薇の王笏よ、威光を示せ(グロリアーナ)』等によるステータスの底上げ、そしてスキル【女王の見識】及び宝具『黄金演説(ゴールデン・スピーチ)』による味方全体への支援など、多彩な支援をも可能とする。

 疑似的な単独顕現による特異点への単騎召喚を運用理念に据えられたエリザベス一世は依り代となる少女と共に、高い状況対応能力を有する疑似サーヴァントとして成立した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

設定紹介頁その②

立ち絵等を描いていただきましたので、それを公開するページその②です。
付随するフレーバーテキストを読みつつ、立ち絵を見て楽しんで頂ければと思います。

今回も薄荷矢キナリ様(X:@kinari_13)に描いていただきました。


極地対応型魔術礼装(PME-03)

 

【開発沿革──人的資源をいかに保護するか】

 本装備は、国際連合専門機関『人理保障機関(HSO)』における主要活動内容である、 レイシフトによる人理定礎崩壊事由解決のために開発された魔術礼装である。

 

 当初、人理定礎崩壊事由解決のために選抜された魔術師たちは各魔術師の家系の名家・実力者から募っており、魔術礼装の調達も各々に任されていた。これは魔術師・魔術使いにとって魔術礼装は個々人のために最適化されたものであるため、補給性を度外視して調達することは却って各魔術師の能力を低劣にさせる可能性が高かったためである。

 しかし、特異点fへのレイシフト直前に発生した自爆テロにより、レイシフト選抜チームは軒並み死亡。生存していた魔術師も昏睡状態になったことで、繰り上がりにより選抜チームの予備役として登録されていたスタッフ2名によるレイシフトを強行せざるを得なくなった。

 

 特異点fは無事解決したものの、カルデア技術部・戦闘用先進魔術礼装開発チーム“ウィング・ワークス”は当初より難問に直面することとなった。予備役として登録されていたスタッフは両名とも魔術師としての技術に優れず、特に登録ナンバー48bは魔術師としては素人と大差ないことが発覚。技術的に未熟なマスターを運用せざるを得ないカルデア管理部は、”ウィング・ワークス”に当該マスターの生存を最優先にしつつも、サーヴァントへの支援も可能とした魔術礼装の開発を指示した。

 

 ”ウィング・ワークス”はこれに対し、既存技術を応用した魔術礼装の改修による解決策『MERP:F』を提案。人理焼却により半永久的に補給物資が得られないという状況に加え、早期開発のために既存技術を元にした改修案を取らざるを得なかった。

 まず、”ウィング・ワークス”が開発に着手したのは、レイシフトを行う際コフィン内で装着。特異点において、霊子展開による仮想装備により運用される霊子強化装備の改修であった。既に緊急時の生命維持機能等や被弾時の生存性を担っていた当装備の機能は、顕性型令呪の持つ機能と併せて、マスターのサバイバビリティ向上を大きく担うものと目されていたためである。問題はマスターの魔術回路不足による魔力生成速度の低さによる、魔術行為の運用性の低さであり、この点さえ解決すれば第一の問題解決は可能であると判断された。

 ”ウィング・ワークス”は第一の問題解決にあたり、顕性型令呪が持つ疑似魔術刻印としての機能に着目。令呪に内蔵されたヴォーダイム家の魔術刻印機能を再精査し再建。さらに、冷凍保存される魔術師たちの魔術刻印も参照し、早々にマスター2名分の疑似魔術刻印の生産に至った。これを霊子強化装備に移植。統一されたアセットとして運用することでのマスターの魔術行為運用性の低さをカバー。さらに、疑似魔術刻印に組み込んだ強化型呪詛投射システム(SPS-E)により、「フィンの一撃」クラスのガンド投射を可能とすることで、マスターによる敵性エネミーへの攻撃手段及び攻撃支援によるサーヴァントの援護という問題も解決。MERP:F施行から僅か2週間で試作モデルが完成、大きな問題点もなく、霊子強化装備の改修モデルは完成に至った。

 

 霊子強化装備完成の直後、”ウィング・ワークス”は即座に次の魔術礼装の開発に着手した。霊子強化装備はマスターの生存性・攻撃性能を大きく向上させることを成功させた一方で、非戦闘時には過剰すぎる機能を有しており、それに伴う魔力消費も大きく、常時礼装を起動させることはマスター本人、ないしカルデアへの負担が無視できなかったためである。戦闘時に運用する霊子強化装備の代わりに、日常においてマスターの魔術行使のバックアップを行う魔術礼装が必要である──『MERP:F』スタート時点から、”ウィング・ワークス”はこの問題に気づいていた。

 霊子強化装備完成から僅か2日後に改修計画『MERP:S』を管理部に提案。当日中に、魔術礼装改修はスタートした。

 

【その銘は星の住まう座(トレミィ)──極地対応型魔術礼装(PME-03)

 

 ”ウィング・ワークス”は改修ベースモデルとして、マスター選抜チームの内、Bチーム以下に支給されていた魔術礼装を選考。これは、既に当礼装がマスターの魔術行使をサポートする術式を主に構築されていたため、魔術に未熟なマスターに最も適していると判断されたためである

 ”ウィング・ワークス”は当該礼装を改修するにあたり、大胆な改修計画を策定した。それは、攻撃補助の術式を全面的にオミット。魔術師としては極めて性能の劣るマスターが、サーヴァントの各種性能補助の魔術を行うことは極めて無駄が多く、消費魔力に対して得られる効果が少ないと判断したためであった。代わりに、マスターの恒常性維持機能の補助や平時でのバイタルデータ走査機能等を補助する術式へと切り替え、日常においてマスター本人の健康診断を行いつつ、軽度の生命維持機能に消費する魔力を低減するための礼装開発が行われた。さらに、霊子強化装備・疑似魔術刻印の統一アセットとは別に、マスターのオドをベースにして運用される魔術礼装として独立させることで、仮に霊子強化装備に不備が発生したとしても、マスターの生存性低下のリスクを下げる方策が執られた。

 『MERP:S』スタートから1週間。霊子強化装備よりもさらに短期間にてプロトタイプが完成。さらにもう一体の改修モデルPME-02を経た後、極地対応型魔術礼装、通称”トレミィ”は完成した。

 

【挿絵表示】

 

 

【サーヴァントへの”トレミィ”対応】

 マスターの日常時のステータスケアを行うために開発された”トレミィ”は当初マスターナンバー48bのために開発された魔術礼装だったものの、その汎用性の高さはサーヴァントにも活用し得るものだった。サーヴァントは現界するだけで大きく魔力を消費し、その大半がサーヴァントの基礎生命活動維持であったため、その消費魔力を抑えつつもサーヴァントのステータスケアを行える魔術礼装は、人理焼却下、スタンドアロンで活動せざるを得ないフィニス・カルデアには必要なものだった。

 『MERP:S』完了後。第二特異点セプテムの人理定礎修復と同時にカルデアのサーヴァントとして司馬懿仲達が現界するに併せ、”ウィング・ワークス”は”トレミィ”を各サーヴァントに対応したカスタムモデルの開発案『PD:GLCME』を提案した。

 

双剣使いの母衣(ソードフェンサーズ・バリアジャケット)──クロエ対応モデル:PME-03-C“プレアデス”】

 

【挿絵表示】

 

 アーチャーのサーヴァント、クロエに対応したモデル。クロエにとって本装備の意義は、ベースモデル“トレミィ”と同様、非戦闘時に着用。戦闘霊衣展開によるマスター、及び炉心への魔力負担を低減。さらには、低脅威度エネミーとの戦闘時に着用することで、戦闘時でも魔力消費削減を狙うものとして定められた(※①)

 

 基本機能は“トレミィ”と変わらないものの、接近戦を多用するサーヴァントが戦闘時に装備する都合、防御性能付与は必須であった。他方、フィニス・カルデアの現状からかけられるコストは限られていた。

 どの程度の防御性能を付与すべきか。“ウィング・ワークス”は特異点および施設内模擬戦闘のデータを精査。サーヴァントとして小柄なクロエは被弾率がそもそも低いことから、防御性能付与は後述する司馬懿の“ソンブレロ”に比して最低限で問題ないと結論付け、胴体部、すなわち霊核部位(バイタルパート)の防御性能向上のみが施された。

 

 

※①“ウィング・ワークス”は当初クロエの投影魔術のサポート機能付与も念頭にあったものの、彼女の投影魔術極めて独自なものであり、それを補助する魔術式を構築することは不可能であると断念された。また、”ソンブレロ”に開発リソースを割かなければならなかったため、あくまで最低限度の改修に留まらざるを得なかった。

 

戦場を閲する令嬢の正装(フルアーマー・バトルドレス)──司馬懿仲達(ライネス・エルメロイ・アーチゾルテ)対応モデル:PME-03-SR“ソンブレロ”】

 

【挿絵表示】

 

 第二特異点制圧後、カルデアの戦力として召喚された司馬懿仲達に対応したモデル。

 司馬懿にとって本装備の意義はクロエのものとは全く別のものであり、日常から戦闘時まで広く運用されることが想定された。これは、第二特異点で司馬懿の戦闘時の根幹を支えていた魔術礼装:月霊髄液の大部分が機能喪失し、戦闘霊衣を展開していても消費される魔力に対して本人の戦闘能力が見合ったものではなかったため、戦闘用の魔術礼装が必要だったのである。 

 戦闘時も、カルデアで開発された魔術礼装を装備した方が効果が大きい。技術部長を務めるレオナルド・ダ・ヴィンチ、“ウィング・ワークス”の開発主査。そして司馬懿仲達の三者はその結論に至ったのち、”トレミィ”の大規模改修を敢行。本礼装は誕生した。

 

戦闘にも対応する改修をするにあたり、“ウィング・ワークス”及び司馬懿仲達が、“トレミィ”の改修点を以下2点に定めた。

 

 

⑴:防御性能及びそれに伴う生存性能の向上

⑵:各種宝具・スキル発動を支援する魔術礼装の追加

 

 

《⑴:防御性能・生存性向上による自衛力の確保》

 司馬懿仲達の存在意義の多くはスキル・宝具、ひいては本人の思考力によるものであり、直接的なサーヴァントのステータスに現れない場面で優秀なサーヴァントと言える。他方、低い各種ステータス値から、戦闘に巻き込まれた際の脆弱性が懸念される。後方支援に努める司馬懿であればある程度無視できる要素ではあるものの、宝具・スキルの有効射程が短く、敵性キャスター、アーチャーの射程内に留まらざるを得ない状況も考えられていた。

 効果的に司馬懿仲達というサーヴァントを運用するには、後方支援ながらある程度戦域を観測できる地点に陣取らなければならないが、前線が近づけばそれだけ彼女の脆弱性は際立ってしまう。このジレンマを解決する必要があったのである。

 当初、本人の戦闘能力向上等も案に上がったものの、これまでの戦闘データを再精査した結果、戦闘能力に劣る司馬懿を、限られた資材だけで開発する魔術礼装だけで許容値まで底上げすることは現実的ではないと判断。直接的な敵との戦闘は直掩に任せる、という自衛方法が最適であると判断した上で、味方が敵を排除するまで生存するだけの防御性能を付与するという手法が最も適当であるとの結論に至った。

 ”ウィング・ワークス”は防御性能向上策を施すにあたり、比較対象(ベンチマーク)として第一特異点にて味方となったサーヴァント、ジークフリードの宝具『悪竜の鎧(アーマー・オブ・ファブニール)』が選定した。常時発動型の防御宝具であり、且つマスターナンバー48bの詳細なレポートからその性能詳細の全容がほぼ判明しており、参照項とするのに最適だったためである。

 技術部の威信をかけて、かの大英雄が纏う鎧を上回る──”ウィング・ワークス”主査手動の下、改修はスタートした。

 防御性能においては霊核部(バイタルパート)を中心にした対物理・魔力防御術式を配置。「霊核に被弾し、即死する」という状況を可能な限り低くすることで、仮に敵と戦闘にもつれ込んだ場合でも、味方からの援護が開始されるまで生存することが期待された。

 さらに、防御性能に付随し、新機軸の礼装、これの搭載を決定した。他計画のために進展していた、司馬懿仲達の霊基に残存する月霊髄液の管制プログラムのリバース・エンジニアリングによる復元作業とその成果たる魔術礼装、“ケルキオン”の搭載するに至ったのである。

 頭部アクセサリとして搭載された当該礼装の役割は主に⑵を目的としていたものの、同時に防御面にも応用。敵性体の攻撃、特に頭部・心臓部霊核への被弾を察知すると同時に本人の魔力を使用し、防御フィールドを展開。極めて小規模ながら、ピンポイントでの相転移装甲フィールドを展開することで、致命的一撃への対処能力底上げを図った。さらに”ケルキオン”の搭載によりキル・宝具の効率的運用を可能とすることで、耐久値を引き上げる自身のスキル効果をさらに向上させることに成功。集中配備された魔術礼装、ピンポイントバリアフィールド発生による局所防御。さらにスキルによる耐久値の向上、という三要素の重ね掛けをした際の、瞬間防御性能は極めて高く、Aランクの宝具を受けきることすら可能であるとの試算もあった。

 恒常的な防御性能こそ劣るものの、瞬間的防御能力においては物理・魔力双方ともにAランク以下の宝具を受けきることを可能とし、総合的な防御性能において『悪竜の鎧(アーマー・オブ・ファブニール)』と同等ないし一部それを上回る性能を獲得することに成功した。

 

《⑵:魔術礼装の追加》

 後方支援型のサーヴァントに分類される司馬懿仲達にとって、スキルの回転数は他サーヴァントと比して重要であった。攻撃性能を引き上げる【宣帝の指揮:A】、【狼相のカリスマ:A】【軍略:A+】に加え、耐久値を引き上げる【軍師の忠言:A】、さらに【戦略:B】はそれぞれ宝具回転率・ランク向上の効果もあり、これらを他者付与することで戦況全体の安定を行うだけでなく、直掩のサーヴァントの性能底上げによる自衛という観点からも、その継続性の延伸・発動回転数増加は重要な要素であった。

 司馬懿、そして依り代であるライネス・エルメロイ・アーチゾルテの霊基から復元された月霊髄液の管制プログラムを基幹に据えた魔術行使支援型演算プログラム“ケルキオン”を利用し、本来魔術師ではなく、魔術行使を得手としない司馬懿のスキル・宝具発動を支援。スキル・宝具の並列発動に加え、疑似的な高速詠唱によるスキル発動にかかる時間の15%短縮を成功。迅速かつ多重の魔術行使を可能とすることで、司馬懿の強みであるスキルによる味方への支援の質をさらに底上げするとに成功した。(※②)

 

 

高い生存性能により戦場に居座り、各種スキルを駆使して自軍全体を強力に補助する──カルデアの魔術礼装”ソンブレロ”を纏う司馬懿仲達は、戦域支配(エリア・ドミナンス)と呼ぶに相応しい性能を持つに至った。

 

 

(※②)月霊髄液再建にあたっては物資不足などもあり、根幹たる演算器としての機能のみの復元となった。“ウィング・ワークス”の責任者及び技術部長を務めるレオナルド・ダ・ヴィンチをして、「この礼装の開発者は稀代の天才であろう」と称されるほどのものであった、という




マシュちゃんは本作の設定と私の趣味により、健康的になっていただきました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

序章 特異点f ~煉鉄の小悪魔~
プロローグ


初めまして、ワタクシども、七草探偵事務所と申します。
正気度ロールに失敗した二人の人間による創作、皆様に少しでも楽しんでいただけましたら幸いでございます。
お手柔らかにヨロシクネ!


 某年某日 日本

 

早朝、6時3分。いつも通り目覚めた少年は、いつも通りに、まず窓を見つめた。

ガラス窓から降り注ぐ、冷ややかな陽。曇天の時は陰鬱に、風の時は慄くように震える窓を、眺める。

いつも通りの、毎日。温和で、平坦な、毎日―――。

「ねぇ、今日は塾じゃないの?」

1階から、呼ぶ声がする。そうだった、と認識を新たにした彼は、ベッドから抜け出した。

あと1年と半年。高校生活が終わりを告げたら、大学生活が始まるのだろう。もちろんちゃんと勉強しなければ、大学入試は潜り抜けられないけれども。

「早く、ご飯できたよお兄ちゃん!」

「はいはい、今行くよ」

 

 2015年7月28日 日本 

 

 「えー、今日は転校生が居る」

 AM8:00。教壇に立ち、ホームルームを宣言した担任の教員が発した第一声が、それだった。

ざわ、と教室が動揺した。早朝ということもあってか、いつも死んだように沈んだ空気のホームルームが俄かに色めき立った。どんな人かな、と溌溂と語るバスケ部の女子生徒たちに、女かな、と囁きあう写真部の男子生徒たち。

そんな喧騒の中に、彼――――立華藤丸(タチバナトウマ)の姿もあった。

「全っ然聞いてなかったよな」大仰に身体を捻って藤丸の顔を覗き込む、前の席の男子生徒。高校に入学してから友人になった友達は、無邪気そうに笑っている。「女の子かな!」

「いや、別にそうとは決まってないでしょ」

「いや、だってこの中途半端な時期の転校生ですよ! エロゲなら絶対可愛い女の子が来ますよこれは!」

「そりゃそうだけどもさ」

「しかもほら!」

ビシ、と勢いよく指をさす友人。その指先は、窓際の空いた空間をありありと差していた。

「昨日まで不自然に空いた空間、そして用意されている席。ここに席を用意するに違いない。しかも席が近い! これはもうしっぽり行くしかないんじゃあないですかァ?」

「でもここ俺の隣の席だよ。仲良くなるなら俺じゃね? あと不自然ってか、人数の関係でただ空いてただけでしょ」

ちら、と藤丸は左を一瞥した。

藤丸が座る席は、窓際から2列目の最後尾。彼の左手には確かに席も何もない空間が広がっているが、何のことはない。30人入る教室に29人しか居ないため、1席分の空間が開いていただけのことだった。

図星を衝かれたみたいな、苦み走った顔で硬直する友人。身の内を震わせた友人は、恐る恐るスマートフォンを取り出して電源を入れると、画面に映った二次元の女の子の頭を撫で始めた。

「いいし、ワイにはアルトリアが居るし……」

「セイバーすこ」

「黙れ! セイバーは俺のもんだ!」

「月厨キッモ」

「お前もだろうが……!」

「式すこ」

「F●●k!」

わなわなと震える友人を後目に、藤丸は、内心でにやにやしていた。

友人の意見に乗るわけではなかったが、確かに、転校生というフレーズは魅力的だった。そりゃ女の子であればお近づきになりたい、と思うのは健やかな男子高校生の心情として、自然なものである。男であっても、あるいはそれ以外であっても、仲良くやっていけばいいや。藤丸は、そんな風に、極めてポジティブに考えていた。なんかやべー奴が来る、という予想は、特に抱いていなかった。

「静かに! 静かにせんか」ざわついた教室を一喝。ごほん、と厳めしく咳払いすると、「念のためだが、外国の方だ。日本語は話せるが、あまり驚かないようにな」

「うお、外人だってよ! 金髪のねーちゃんかな」

「そこ、黙っとれ」

「ハァイ」

「全くいつも……」再度、咳払い。じろりと友人を睨むと、教員は改めて声を張り上げた。「入りなさい」

さっと教室が静まった。誰しも、その瞬間を―—―教室のドアを潜るその瞬間を見逃すまい、と教室の前入口に食い入っているようだった。

がらがら、とドアの金具が軋んだ。瞬間ざわめきが膨れたが、それも一瞬だけのことだった。

ぱたん、ぱたん。学校指定の上履きがフローリングの床を踏むたび、間の抜けたような音が耳朶を打つ。

あるいは、その呼吸の音すら、教室の最後尾に聞こえてくるほどの静謐だった。

それも当然と言えば当然だった。黒々とした艶やかな髪に、健康的な浅黒い肌。そうして、その翡翠のような碧眼は、まるで妖精のようだな、と思った。

しゃん、と麗人が教壇に立つと、その浅黒い肌の女性は、ぐるりと青い目で教室を見回した。

妖艶。綺麗、という言葉より先に、そんな言葉が脳裏をよぎった。

「名前を」

促す教員の声は、小さく震えていた。気圧されるように、慄いていた。

「はぁい、それでは」

応えた女子生徒の声は、あんまりにも珠のように華やかな声だ。大人びた風貌に対して、どこか無邪気な感じのする声だ。

「えーと、ベルです。名字? は、ちょっと家庭の事情で言えないんです。宜しくお願いしますね」

ベル、と名乗った彼女は、滑らかに一連の言葉を喋った。外国人の話す日本語、というワードでイメージするものとは一線を画する、極めて流暢な日本語。それこそネイティブの日本人なのでは、と錯覚する言葉遣いだ。

前の席の友人が、物凄い勢いで振り返った。その回転だけで神砂……まぁともかく、迅速な回転でじろりと藤丸を覗き込むと、ぐ、と親指を上げる仕草をした。

「これは古代ローマ人が『それベネ』って人に与えられる仕草」

にやと口角を上げる友人。ちなみに藤丸も、親指が反れるほどにサムズアップを返した。

「えーと、それじゃあ」

教員はわざとらしく教室を見回すと、アッチ、と指さした。「あそこの席で」

教員の指さす先。その先は、案の定というべきか、間違いなく、藤丸の方を示していた。即ち――――。

「うお、マジかマジだ!」

「ウルサイぞ上林。あぁ立華、よろしく。仲良くな」

俄かに飛び上がった友人を素早く制圧すると、教員はあちらへ、と酷く丁寧にベルを促した。

彼女は丁寧にも一礼すると、しなやかな足取りで教室を横切る。

一歩、二歩。猫みたいな足取りの度彼女の姿が近づく。その度に友人ははしゃぎ、教員に黙らせられている。

他方。藤丸は、もう、絶句するしかなかった。当然である! なにせめたんこ可愛い。クッソ美人である。しかも隣の席に座るという、これが僥倖と言わずなんと言おう。彼女の蒼い目は、ただ自分を見ているではないか。ナイス教員。

――――これエロゲ始まるわ。藤丸は、極めてポジティブに、そう考えた。彼は割と前向きだった。常識的に考えて、たかだか隣の席になったからと言って、昵懇な仲になれるかは別問題である。にもかかわらず、そう考えた。立華藤丸は、よく言って楽観的というか、前向きだった。

「よいしょっと」

彼女が、椅子に座る。スクールバッグを机の脇のフックにかけると、物珍しそうに机を撫でた。初めて学校の机を見たかのような、そんな初な表情だった。

一頻り、物珍しそうに机やら椅子やら、窓辺に置かれた観葉植物やらを眺めてから、彼女は藤丸を見た。

蒼い目。妖精の目、という言葉が、頭蓋の奥でリフレインした。

「よろしくね、えぇと」

「あ、えと、立華です。立華藤丸」

慌てて0.3mm芯のシャープペンシルでルーズリーフの切れ端に名前を書くと、彼女に手渡した。

「え―—―っと」

彼女は一瞬だけ目を丸くすると、深々と眉間に皺を寄せた。漢字が読めないのでは、と思い至った藤丸は、慌ててひらがなで自分の名前を書きなおした。

「すみません、なんか」

彼は、自分の非礼を侘びた。純粋培養日本人の藤丸には、そうしたちょっとした気遣いが未熟だった。

こういうこともあるんだな――――藤丸は、なんだか出鼻をくじかれた様に肩を落とした。

「タチバナ・トーマ?」

「あ、はい」

「そう、わかった」ベルは、そう言った。なんだか、ちょっとだけ、悲しげだったように見えた。「よろしくね、立華くん」

珠のような、コロコロとした微笑。もう、彼女には、さっきの物悲しさは無かった。

 

 

2015年7月30日 日本

 

「いやぁ今日も眼福眼福」

ほっこり笑顔の友人。身長160の友人を見下ろす形の藤丸も、にこにこと「せやな」と返した。

話題はもちろん、2日前に転向してきた美少女について、である。

衝撃的な登場を飾った彼女は、この3日間も話題には事欠かなかった。

控えめに言って美人のベルは、男子生徒は無論女子生徒からも好意的に受け入れられた。案外茶目っ気のある性格が、高嶺の花といった印象を打ち消し、親しみやすさを感じさせてくれるのが理由だろう。

その上知的で、クソ真面目で有名な生徒会長と優雅に語らう姿も目撃されている。運動神経も抜群で、さらには172cmという高身長。早くもバスケ部やバレー部から声がかかっているようだ。

全てにおいてパーフェクト。それが、ベルという少女に対して、この2日での評価であった。

「俺、明日ちょっと遊ぶ約束でもしてみようかしら」

「気が早すぎない?」

「ばっかおめー、こういう時は3日以内になんらかのアクション起こさなきゃならないんだぜ? 知らんのけ? そんなんだから隣の席とかいう特等席なのに、何も起きないんだよ」

ふん、と誇らしげに語る友人。説得力があるような無いような話だったが、藤丸は「まぁそうかなぁ」とちょっと納得していた。

転向初日。確かに、ベルが初めて個人として認識したのは、立華藤丸その人であった。が、それ以降、特に関係は変わっていない。当然のように、まず仲良くなっていったのは周囲の女子生徒だったし、次いで懇意になっていった男子勢はバスケ部だった。そこから芋づる式に野球部、サッカー部の生徒はなんとなく話す関係にはなっていたが、それ以外はまだ、遠巻きに眺める程度の関係に過ぎなかった。

まぁ、よくあることである。文化部系の男子生徒は臍を噛む、テンプレート的展開。それは藤丸もまた例外に漏れないことであった。

「なぁそういやfgoやる?」階段を降りて踊り場へ。ショルダーバッグを抱えなおした友人は、スマホ片手に言った。「明日リリースだけど」

「明日だっけ」

「お前、あんまスマホゲーやらんよな」

「やんの?」

「まぁ一応。これでも月厨の端くれなので」

そうは言うが、友人は、あまり乗り気ではないようだ。

正式名称、Fate/Grand Order。企画段階でお蔵入りとなったApocryphaのリベンジ作として発表された、スマホゲーだ。映画しか映像が無かったUBWのアニメ化に合わせてリリース予定されていたゲームで、Zeroと併せ、俄かに脚光を浴び始めた『Fate』ブランドをバックボーンに売り出す目論見なのだろう、と思う。

とはいえ、流行り廃りの早いスマホゲー業界への進出を、友人はあまり快く思ってはいないらしい。精々1、2年続けばいいかなぁ、というのが、今のところの友人のスタンスのようだった。

「コラボとかやんのかな?」

「鋼の大地」藤丸はほぼ条件反射で応えた。特に考えてない。

「いやいや」

「プリヤありそう」

「らっきょとかやんねぇかな」

「空の境界コラボ来たらやるわwwwどうせ無いだろうけどなwww」

「言質取りましたで。あ、そういやプリヤの新刊そろそろか」

「あー俺アニメしか見てねぇや。ツヴァイヘルツ始まったよな――――」

階段を降りて、1階へ。玄関前の掲示板を通り過ぎ、ダンス部が1階ホールで練習する横を通れば、そこが下駄箱だ。

友人が前を行く。入学2年目にして未だ新品のようにきれいな上履きを脱ぐと、友人は下駄箱からニューバランスのスニーカーを取り出した。

藤丸は、しかし、その場で立ち止まった。

「どした?」

「あいや、そういや高橋先生に呼び出されてたの忘れてた」

「うわ、マジかよ」生活指導を担当する高橋教員は、皆から恐れられている先生だ。「お前何したんだ?」

「心当たりは特に……」

「こっわ」

「多分長くなるから、いいよ。先に帰ってて」

「ご愁傷様」哀れっぽく眉尻を下げた友人は、しかし次の瞬間には、にやにやと顔を歪めた。「明日詳しく」

「へいへい」

「ほいじゃあの、まぁガンバレや」

ひらひら、と手を振った友人は、だらけた足取りで校門をくぐっていった。その姿は、いつも一緒に帰るときと左程変わらない様子だ。

少なからず、何か疑念を抱いている様子ではない。数十秒、その場で佇んだ藤丸は、ホールの柱に身を隠すと、内ポケットから封筒を取り出した。

そこいらのコンビニで売っている、何の変哲もない長形3号の封筒。既に開封済みなのは、早朝登校するなり引き出しに入っていた封筒を開けたためだった。

封筒には、A4サイズの紙が3つ折りになって入っていた。紙を取り出して広げてみれば、ルーズリーフに2つのセンテンスがゆったりと、のんびりと横たわっていた。

 

【放課後、屋上で待ってます。お話ししたいことが、あって。】

 

間違いなく告られる。まめまめしい字で、そう書いてある。差出人の名義は無いが、心当たりはあった。ベルである。

――――エロゲ始まったわ。

確かに、友人の言う通り、藤丸は隣の席というアドバンテージを何も活かせないでいる。

だが、隣の席というのは、やはりそれだけでアドバンテージであった。授業中、ふと気が付くと、彼女は藤丸を見ていた。盗み見るように、思わし気な一瞥を、時々、投げてきた。

いやまさか、とは思っていたが、こうして手紙という形でこの手に来てしまっては、確信せざるを得ない。

そうと決まれば、行動は速く起こさねば。待たせて心証を損ねるのは、良くないだろう。逸る気持ちを抑えるように、丁寧に封筒に入れて内ポケットに入れると、藤丸は駆けだした。

1階から2階へ。生徒の教室が並ぶ2階を抜けて、次は3階。第1、第2理科室などが並ぶフロアは、放課後人通りが少ない。それでも少数活動する文系サークルの生徒の影が一つも無いことを確認すると、藤丸は1段飛ばしでさらに階段を駆け上がる。途中、踊り場に蒼估と佇む立ち入り禁止の看板を過ぎ越せば、物々しい寂れた扉が目の前に聳えた。

青い塗料はところどころ剥げ、錆びが顔をのぞかせている。厳粛な面持ちに気圧された藤丸は、しかし、ステンレスのドアノブへと手を伸ばした。

冷たい感触が、手のひらを衝く。ぞわ、と身震いしながらも、藤丸は、重いドアを、ゆっくりと開け放った。

さっと光が膨れ上がる。網膜に飛び込んだ陽の光に目を細めるも束の間、広がった光景に、思わず目を見張った。

天に、赤く登る太陽。透き通るように伸びる穹窿には、薄い白雲がすいすいと泳いでいる。フェンスが無いこともあってか、酷く、広く感じる。放課後の気怠さは、そこに無い。

彼女は、そこに居た。屋上の端、彼女は背を向けて佇んでいた。ちょっと背を押せば、真っ逆さまに墜落していってしまいそうだった。

藤丸は、わざと足音を立てて、彼女の背に近寄った。ざりざり、と上履きの靴底が吹きっ晒しの屋上を噛んだ。

「来てくれたんですね」彼女は身動ぎすらしなかった。「待っていました」

「手紙、入ってたから」

「はい、私です」

ひょこりと、彼女が振り返る。浅黒い肌に、人好きしそうな愛らしい微笑。間違いなく、ベルだった。さんさんと降り注ぐ太陽の光の下で見る彼女は、端的に、綺麗だなと思った。

「あの、それで」藤丸は心臓の拍動を感じながら、なんとなく、彼女の隣に並んだ。「話って」

「それがですね」

彼女は、空を仰いだ。果ての無い空を、取り留めも無く見上げていた。数秒言いあぐねたベルは、ごめんなさい、とうつむいた。

「私、謝らないといけません」

そう言って、彼女は藤丸を正視した。あの青い目が、妖精の目が、脳幹まで貫くように、藤丸を見た。

「えーっと、何が?」

「貴方を、大変な目に合わせてしまうので」

不意に、視界が飛んだ。背中に、衝撃が残った。突き飛ばされた、と思ったときには、もう遅かった。

俄かに、泣きたくなるほどの軽薄が心臓を突き上げる。吐息にすらならない悲鳴を上げた藤丸が最後に見たのは、屋上から見下ろす――――妖魔の姿だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

赤套の小悪魔

 

中央隔壁 閉鎖します。

館内洗浄開始まで あと 180秒です。

 

コフィン内マスターのバイタルデータ 基準値に到達せず。

 

レイシフト 定員に 達していません。

当該マスターを検索中

 

……2名発見

適応番号48号 藤丸立華 を マスターとして 再設定 します。

 

適応番号……未登録

マスター適性を確認

適性を認む マスターとして 再設定 します。

 

聖晶石残数検索

規定数を確認 サーヴァントを 召喚します。

 

アーチャーの召喚を 確認。

 

アンサモンプログラム スタート。

霊子変換を開始 します。

 

レイシフト開始まで あと

 

 

 

 

全工程 完了

ファーストオーダー 実証を 開始 します。

 

 

「あ、起きました」

ふと、目を覚ました藤丸が見たのは、自分を覗き込む女の子の顔2つだった。

赤胴色の髪の女の子に、前髪が長い銀髪の女の子。赤胴色の髪の女の子は、しゃがんだ格好で藤丸の顔を覗き込んでいた。前髪の長い女の子は、なんとなく怪訝な顔をしていた。

「痛いとこ無い?」

「え、まぁ…うん、特には」

当たり障りなく返答すると、藤丸は、のそりと上体を起こした。特別、痛みは感じない。酷く億劫な感じはするが、体調不良というわけでもない。

体調は左程悪くない。悪くは無いが、しかし、ここは一体何だろう――――周囲を見回した藤丸は、何の感情を湧き立たせる余裕も無く、思案した。

空には、分厚い黒雲が垂れこめている。果たして夜なのか昼なのかすらわからないほどだが、しかし周囲は妙に明るい。瓦礫の山から吹き出た炎が、赤々と燃えているせいだった。

「この人も、一緒にレイシフトしたのかな」

「どうでしょうか。あの時、管制室に誰か居た記憶は」

互いに眉を寄せて話をする二人。レイシフト、という言葉の意味もわからずにただ二人を見上げるばかりだった藤丸は、改めて、前髪の長い女の子の格好を、注視した。

……なんというか、スゴイ格好をしているなぁと思った。近未来的なような、中世的なような、不思議な意匠の鎧。左手に持った十字の盾は、彼女の身の丈を優に超える巨大さだ。

黒々とした空。燃える市街地、巨大な盾を持ったなんかスゴイ格好の少女。それらを総合してわかることと言えば――――。

――――まるで意味が解らないぞ?

とりあえず、藤丸は立つことにした。人を目の前にして、いつまでも寝転がっているのはなんとなく憚られたし、自分は負傷などしていないことの証明にもなるだろう。

「大丈夫? えーっと……」

立華(タチバナ)立華藤丸(タチバナトウマ)。うん、特に悪いところは無い、かな」

案の定、すっくと立ち上がって見せた藤丸は、ぐるぐると右肩をまわして見せる。改めて思うが、体調は悪くないなと思う。周囲のおどろおどろしい風景には、何か暗がり以上に気圧されるものがあるけれども―――。

「タチバナ……日本人、なのかな」

「一応?」

「フユキの人?」

「フユキ……?」

赤胴色の髪の少女は、そんな単語を、ごくさらりと口にした。

フユキ。日本人? という質問の文脈からするなら、日本のどこかの地名を指した単語、だろう。となるとフユキは冬木、といったところだろうか。そして、この燃え盛る都市の名前が、冬木、という名前の街、ということなのだろう。

「いや、違うんだけど……」

「そうかー。あ、そう言えば私は立華(リツカ)藤丸立華(フジマルリツカ)

「……マシュ・キリエライトです。先輩……いえ、マスターのサーヴァントです」

マシュ、と名乗った厳めしい少女は、どこか示威的に言った。特に、サーヴァント、という言葉は念押すような、脅すような色があった。

「それと、フォウくん」

ふぉう、と可愛らしい鳴き声が耳を衝いた。と、どこからともなくマシュの肩から、小動物らしき生き物が顔を出した。

犬のような、栗鼠のような。ヘンテコな生き物は、もう一度鳴くと、不思議そうに藤丸を眺めた。

リツカ、と名乗った女の子は、人の好さそうな笑みを浮かべている。たった数語だけの言葉を交わしたというのに、既に打ち解けた感がある。コミュ力が強い。

他方。

マシュは、相変わらず怪訝な顔をしていた。リツカと異なり、明らかにトウマのことを不審がっている様子だった。そんな取り付く島の無い視線は、のほほんと高校生活を過ごしてきた彼には馴染みのない視線であり、若干のショックを受けた。だが、それ以上に、彼女が言った言葉が、頭蓋の裏にびちゃりとこびりついた。

「サーヴァント、って」

「あー、えっと」リツカは若干困惑気に眉を顰めると、マシュを振り仰いだ。「なんて説明すればいいかな」

不明瞭な言葉の意味を尋ねた。

リツカとマシュからすれば、トウマの言動はそのように理解されただろう。が、その実、彼の疑念は全く別種のものだった。

―――燃える都市。

―――冬木。

―――サーヴァント。断片的な情報が、不意に固まった。

「えーっと、昔の凄い人を呼び出して」

「マスター」

「もー、マシュも説明してよぉ」

「マスター、殺されますよ」

朗らかに笑っていたリツカが、息を飲む。

マシュの視線は、既にトウマに無い。彼女の目が鋭く捉えるもの、それは。

「ガイコツ……?」

果たして、その呟きは誰のものだったか。

長く伸びる道路の先に、剣を携えた人骨が、ゆらゆらと蠢いていた。

「そこで停止してください。その標識より前に出た場合、敵対行為と見做します」

マシュが鋭く声を放つ。先ほどまでのおとなしい少女、という感は、既にない。サーヴァント、という言葉と彼女の声の圧が重なり、知らず、トウマは一歩後ずさった。

だが、蠢く人骨は、さして意に介していないようだった。からからと骨同士が擦りあうような耳障りな叫喚を響かせるや、それまで緩慢な動作だった骸骨が、不意に加速した。

「―――言語による意思疎通は不可能、敵性生物と断定。攻撃行動に移ります!」

ぐい、とマシュが沈み込む。膝を曲げて膂力を貯め、次の瞬間には、弾丸のように骸骨の群れへと猪突した。

攻性接敵(エンゲージ・オフェンシブ)!」

巨大な盾を振りぬく。骸骨が持ち上げた剣を振り下ろすより早く薙ぎ払われた盾は、軽々と骸骨1体を破砕し、その余波だけで周囲を吹き飛ばしていった。

次いで、襲い掛かった骸骨の槍の一撃を盾で弾く。敵がよろめくと見るや、突き立てた盾を支えに飛び上がり、左足でもって骸骨の上半身を蹴り飛ばした。

「すげぇ」

思わず、トウマは声を漏らした。

その敏捷、その腕力、明らかに人間のそれではなかった。軽々と巨大な盾を振るい、群がる骸骨を木の葉のように蹴散らしている。骸骨の正体がなんであれ、マシュの敵ではないことは明らかだった。

だが。

「敵が多い」

ぼそり、と声が耳朶を打った。

一瞬、トウマは誰の声かわからなかった。一拍して、それがリツカの声だと理解した。

イメージが、違った。なんとなく朗らかで人が好い、というイメージとは明らかに違う、冷ややかで頴悟な声音。

「マシュ、一旦撤退しよう!」

「えっでも」

応じたマシュは、明らかな困惑を滲ませていた。それは撤退の命令というよりは、リツカがそんなことを言うことへの、驚きのようにも見えた。

「状況も不明確なまま消耗するのは賢くない。遅滞戦闘をしながら陽動、折を見て撤退して! 合流地点はこっちで指示(マーク)するから!」

「わ、わかりました! マシュ・キリエライト、マスターの指示に従います!」

気圧されるように応えるや、マシュは斬りかかってきた骸骨めがけ、盾を叩きつけた。衝撃は軽々と足元のコンクリートを貫くと、土煙を巻き上げる。土砂を煙幕替わりに展開すると、マシュは素早くその場を離脱した。

「トウマくん、こっち!」

リツカが駆けだす。慌てて返答したトウマは走り出したリツカの背を――――。

「フォウくん!」

足元の青白い動物を、抱きかかえる。吃驚したようにもがき始めたフォウをしっかりと抱えたトウマは、先を行くリツカを追いかけた。

 

 

「次の曲がり角、左曲がるよ!」

リツカの声が、鋭く鼓膜に刺さる。猛然と先を走る彼女に、トウマはあまりの苦しさに応えるどころではなかった。

走り始めて、既に20分。ジョギング程度ならともかく、全力疾走を継続して20分続けるのは、帰宅部だったトウマにはあまりに過酷だった。心臓は今にも破裂しそうで、肺には孔が空きそうだった。苦しい、という思考だけが脳みそを埋め尽くし、頭が割れてしまいそうだった。息を吸い込もうと開きっぱなしの口からは、唾液が漏れた。

今すぐにでも道路に寝転がって、目いっぱい酸素を取り入れたかった。それでも彼がそうしなかったのは、目の前を走るリツカの背があったからだった。

信じられなかった。自分はこんなに辛いのに、彼女はものともしないで走り続けている。

なんでか、その背にはついていかなきゃと思わせる何かがあった。鼓舞されるような、真に迫るような、何か―――凄味があった。

さらに5分。坂道を駆け上がる途中、不意に視界がぐらついた。走らなきゃ、という強迫観念すら既に意味はなく、強張った身体はそのままコンクリートで舗装された地面に激突した。

ざくり、と鋭利な衝撃が右半身を裂いた。

受け身を取る余裕はあったのだろうが、彼にそんなことをする技倆は無い。できたことと言えば、咄嗟に抱きかかえていた小動物を放り投げることくらいだった。

「フォウ、フォーウ!」

「トウマくん!」

身体が燃えるようだ。肺が裂けそうだ。全身から冷えた汗が噴き出している。酸素が足りないせいか、頭が痛い。目を開けることすら億劫だった。

リツカが背を摩っている。大丈夫、とやせ我慢をする余裕すら無い―――。

彼女の手が肩と膝裏に回った。と思った次の瞬間、トウマの身体は、軽々と宙に浮いた。

「ごめん、ちょっと我慢してね。フォウくん、ちゃんとついてきてね」

苦もなくトウマを抱きかかえると、彼女は道沿いの民家の門を潜った。

家の作りは結構古く、トウマの祖父母の家のようだ。リツカは躊躇なくガラス戸の玄関を蹴破って入ると、そのまま敷居を跨いだ。

入るとすぐ右手、開けっ放しの襖を潜ると、リツカは立ち止まった。トウマをそっと床に下ろすと、「ちょっと、休もう」と小声で言った。

まだ、息が荒い。努力呼吸をしないと厳しい。だが、大分マシになったな、と思う。額から滴る汗を学生服の袖口で拭って、トウマは周囲を見回した。

薄暗がりでよくわからないが、床は畳張り、だろうか。中央のテーブルは、5人並んで食事できるほどには大きい。いわゆる、居間(リビング)だ。

しゃがんだリツカは、心配するようにトウマの顔を覗き込んでいた。いや、心配という表情ではなかった。心配という表情の中に、微かに、抑えきれない困惑が滲んでいた。

「いや速いね、リツカさん」肩で息をしながら、トウマは引き攣るように苦笑いした。身体は落ち着き始めたが、左腕が、酷くズキズキした。「俺、全然駄目で。中学生の頃は卓球やってたんだけど、高校になってからはやめちゃって」

「ごめん、なんか」

言って、リツカは顔を逸らした。言うべき言葉もわからずに押し黙った彼女は、膝を伸ばした。

「マシュ、もうちょっとでこっちに着くって言ってた。武器になるの探してくるね」

言うや否や、彼女は襖を開けて居間から出ていった。有無を言わさぬ雰囲気だった。

「俺、なんか、気に障ること言ったかな」

「フォウ、フォウフォウ」

傍にちょこなんと座るフォウの頭を撫でる。すっかり慣れたのか、特に厭がる様子もなく、猫みたいな動物は撫でられるがままにされていた。

束の間の、静寂。深く息を吐いたトウマは、瞑目した。

思い出せ。何故こんなことになったのか、思い出せ。

燃える都市。冬木。マスター。サーヴァント。そして、この居間。断片的な情報を繋ぎ合わせたトウマは、身震いした。

「Fateかよ……何、異世界転生って奴?」

自分がよく知るゲームの世界に、どうやら、自分は居る、らしい。そう、結論付けた。

馬鹿げた考えだ、と思った。時々見る夢に違いない、と思った。アニメやゲームの世界の夢を見ることは、珍しいことではない。なら、この光景も、所詮は夢に過ぎない。そう結論付けるほうが、理に適っているだろう。

だが、と思う。自分の光景を夢であると対自化して理解できる夢なんて、あるのだろうか。何より、この理不尽な状況に投げ込まれた時特有の、現実が壊乱する非現実感は、何よりも目の前の出来事が現実であることを証明してはいないか?

わけがわからない、という言葉が鎌首を擡げてくる。なんで、自分がこんな目にあっているんだっけ、と思う。だが、考えても詮の無いこと、と今は置いておかなければ―――。

であれば、時代はどっちだろう。冬木が舞台になった作品は、大別するなら2つ。

Stay nightか、Zeroか。街を覆う火を見れば、Zeroの終盤と理解するのが―――。

あれ、と思った。確かに、冬木は大火に襲われた。溢れ出した聖杯の泥が、街を焼き尽くしたのだ。

だが、それは大橋を挟んだ対岸―――新都のほうであって、深山町のほうでは、なかったような。

トウマは視線を彷徨わせた。居間なら、カレンダーがあって然るべきだろう。

目的のものは、すぐに見つかった。細長いカレンダー、その日付は、

2004年2月。

時間的には、まさしくstay nightの時期だ。

だが、どのルートにもこんな展開は無かった。であれば、この光景は、この世界は、自分の知っている何かとは致命的にズレを起こしている、ということだろうか。

――― 一瞬、思った。これが知っている世界なら、状況と展開を先読みすればなんとかなるだろうか、と。だが、知識を活用して有利になれるような都合の良い話では、ないらしい。ずきずきする左腕の痛みが、甘い考えから現実に引き戻すかのようだった。

いや、それだけじゃない。何か、体が、妙に熱い。全身の血管に溶けた鉛を流し込まれているような、そんな錯覚すら覚えるほどに、熱い。そのせいか、思考が鈍い。幻聴すら聞こえてくる、遠くで、カランカラン、と音がする。

不意に、襖が開いた。木と木が擦れ合う。滑らかな雑音。リツカが帰ってきたのか、それともすぐに戻ると言っていたマシュか。どちらにせよ安堵を感じながら顔を上げた。

そうして、ぞっとした。襖を開けたのは、そのどちらでもなかった。

骸骨、だった。だが、さっきまでマシュが戦っていたものとは、何か違った。

先ほど見たのは、あくまで人の骸骨といった風貌だった。だが、目の前で槍を構えていた骸骨は、人型をしていたが人間のそれではなかった。

「―――!?」

咄嗟に躱せたのは、単なる偶然だった。

ぎょっとして、腰を抜かした。ただそんな偶然だけで、投擲された短剣を躱した。

頭上の壁に突き刺さる、骨状の短剣。ぞっとしながらも、トウマは、その姿を克明に見た。

竜牙兵。Stay nightにて、キャスター(メディア)が使役していたものだ。それこそシナリオや映像作品では単なるやられ役に過ぎない雑魚『モブ』だが、それはあくまで、士郎(主人公)セイバー(ヒロイン)だから、軽々と倒していたにすぎない。所詮ただの高校生で、別に運動部でもなく、ほどほどにアニメやゲーム等を愉しみながら、あての無い日々を送っていた立華藤丸(タチバナトウマ)にとっては、脅威以外の何物でもなかった。

蛇に睨まれた蛙。そんな言葉が、脳裏を過る。疲労のせいもあった。だが何より、目と鼻の先に突き付けられた死という終わりはあまりに虚ろで、身体を強張らせるしか、なかった。

竜牙兵が踏み込む。握られた獲物は槍。遠い間合いから襲来する死に対し、トウマはほとんど何もできなかった。

だが、ついぞその穂先がトウマを貫くことはなかった。錆びた槍の先端が心臓に突き刺さるその数瞬前、テーブルに上がった竜牙兵が、粉々に砕けた。

「トウマくん、大丈夫!?」

トウマに駆け寄る赤銅色の髪の少女。リツカの右手には、使い古された木刀が握られていた。彼女は、ただの木刀の一振りで、さっきの竜牙兵を打ち砕いたのだ。

「見られてた。いや、読まれてた。鷹の目が指揮してる」

彼女が口走る。リツカの鼻頭に脂汗が浮かんでいる。顔色も、良くない。何より、あの困惑の表情が、べたりと張り付いている。

「トウマくん、中庭を出たら土蔵がある。マシュが来るまで私が囮になる、そこに逃げてて。フォウくん、着いててあげて」

「フォウフォウ、フォウ」

「そろそろだから大丈夫。なんとかする」

でも、と言おうとした。言おうとしたが、口が上手く動かせなかった。

リツカは、困ったように微笑した。そっと差し出された手が、トウマの頭を撫でた。

この女の子は、優しいんだなぁ、と思った。泣きたくなる程に優しくて、強いんだなぁと思った。でなければ、こんな辛そうに、笑わないよなぁ―――。

「早く!」

「わ、わかった!」

責め立てるような声に立ち上がる。左腕の痛みは相変わらず、熱に浮かされたようにぼーっとしてきている上に全身の倦怠感も酷い。それでも、トウマは走った。背後から骨が砕ける音がした、慌てて振り返りかけて―――。

「振り返るな! 足を止めるな!」

―――走った。居間を出て中庭へ、そうして土蔵へ。距離にして50m、馬鹿みたいに広い中庭を駆け抜けて、トウマは土蔵の扉に突っ込んだ。

扉は、存外に軽かった。体当たりの気勢のまま床に転がったトウマは、喘ぎながら、もうピクリとも動けなかった。

左腕が、痛い。酷く痛い。殴られた様にも、切り裂かれたようにも、痛い。恐る恐る左腕を見ると、手の甲が血まみれになっていた。

この家に入るときに、すっ転んだ時か。それとも、さっき竜牙兵の短剣を躱した時か? まるで拍動するような痛みは、それだけで、気絶してしまいそうだ―――。

何故、と思った。何故、こんなことになっているんだったか。どうしてこんなに苦しい目にあっているんだったか。答えの無い疑問だけが脳みその中を、延々と、ぐるぐると、巡っている―――。

―――ねぇ。

ずるずる、と引きずる音がした。全身に力を込めて寝返りを打ったトウマは、ただ、その光景を眺めた。眺めるほかなかった。

―――ねぇ、マスター。

槍を持った、竜牙兵。動くたびにカラカラと乾いた音が響く。まるで、嘲笑しているかのようだった。

遠くで、リツカの声が聞こえる。やられたわけではないらしい、と理解して、ちょっとだけ安堵した。

―――ねぇ、マスターは、どうしたい?

竜牙兵が、槍を掲げる。

氷の様な、切っ先だった。心臓を串刺しにせんと繰り出される、槍の一撃。今度は紛れなどなく、確実に、死ぬ。

―――死にたくない、と思った。

だって、おかしい。こんなわけもわからないまま消えるなんて、納得いかない。こんな風に、わけもわからないまま、殺されるなんて、死ぬなんて。何もわからないまま終わるなんて、絶対に、間違ってる―――!

「こんなところで、終われるか―――!」

瞬間。

紅蓮の疾風が吹き抜けた。

疾駆したはずの氷の一撃は、庇わんと振り下ろされた岩の一撃で、竜牙兵ごと叩き潰された。

しゃらん、という、華奢な音。

目前に聳える岩の如き斧剣に似つかわしくない、軽やかな音だった。

赤い外套の少女が、大剣の側に居た。雪の妖精のような少女。ルビーのような赤い目が、トウマを見つめた。

「貴方が、私のマスターよね」

弾むような声で、彼女は言った。健やかな浅黒い肌の少女は、雪のように可憐でありながら、溌溂とした健やかさを感じさせる。

風が、吹いた。闇を打ち払うような冷たい風に、白無垢の髪が靡いた。

「サーヴァント、アーチャー。貴方に呼ばれて来たわ。よろしくね、マスター」

「―――――ク、ロ?」

 

 

ここは、どこだろう。

それは、周囲の景色を、茫然と見回した。

憔悴した視線は、縋るようにあたり一面を探った。だが、目に映るのはただただ、焼き尽くされた都市のみ。焦げ落ちた街のみ。

何故、何故、何故。答えの無い自問だけが脳裏にこびりつく。

名前を呼んだ。何度か叫んで、それでも返ってくる答えは無かった。

途方に暮れたそれは、空を見上げた。

ぽっかりと浮かぶ黒い太陽。その遥か向こうで煌めく、光の帯。

原罪の咆哮。獣の吐息に、それは奇妙な戦きを覚えた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二人の48番目

風が、吹いている。

冷たい銀の月光を背に、弓兵(アーチャー)と名乗った少女が、トウマを見下ろしていた。

知っている人だった。否、知っている()()()()()()だった。聖骸布で構成される魔術礼装、赤原礼装を装備する浅黒い肌の少女。人懐っこそうだが、どこか底知れない微笑。

クロエ・フォン・アインツベルン。それが、彼女の真名(なまえ)だった。

ゆらりと身を翻した彼女の手には、1対の双剣が握られていた。

亀甲模様を刻まれた片刃の剣。

水面の波紋が波打つ片刃の剣。

干将莫邪。

古き中華の刀鍛冶が作り出した雌雄一対の双剣の刃先が、妖しく煌めいた。

「それじゃ、ひとまず暴れましょうか!」

鈴を鳴らすような声が耳朶を打った。と思った次の瞬間に、彼女の矮躯が跳躍した。

接近された竜牙兵は、およそ何が起きたか理解できなかっただろう。頸を斬り飛ばされたまま、朽木のように倒れ込んでいった。

迅い。マシュも大概人の域を外れた速さだったが、クロのそれはさらにその上だ。

いや、単なる速度、ではない。

戦闘への慣れ、それによる無駄な動作の省略。最適な武装の選択、そして火力投射。彼女の核を形成する英霊から引き出した戦闘経験を由来とするスキル【心眼(偽)】による戦闘理論は、その幼い外見と相反するが如くに精緻だった。

あとは、単なる殺戮だった。双剣で屋敷内の敵を制圧し終えると屋根へ、弓を取り出した後は、一方的な鴨撃ちで野外の敵を全滅させた。彼女、アーチャー(クロエ)が現れておよそ1分で、周辺は制圧された。

「弱すぎ。でも、デモンストレーションとしては良かった?」

蠱惑的に破顔するクロエ。両の手に握られていた双剣は既になく、土蔵の前に突き立てられた岩のような斧剣も、砂に解けるように崩れていった。

「あ、カワイイ! 何これ、猫?」

「え、あぁうん。フォウくん」

「フォウくん? 抱っこしていい?」

「フォウ、フォウフォウ!」

威勢よく応えると、青白い獣は勢いよくクロエの胸元へと飛び込んでいった。小さな獣はいつも女の子に愛されているものなのだろう。機敏に小さな肩に乗っかると、クロエに頬擦りをしていた。

しかし、クロとは。Fate―――というよりTYPE-MOONの世界に来た、という予測がいよいよ真実味を帯びてきた。

いや、よく見ると、見知ったクロそのものじゃない、と気づいた。彼女の纏う赤い礼装は、英霊エミヤのようでかなりデザインが違う。もっと小悪魔っぽいというか、砕けたハートのようなそんなデザインのはずだ。だが、今の彼女は、比較的元のデザインに近い。というより、イリヤがアーチャーのクラスカードを夢幻召喚(インストール)したときの姿、そのものだ。

「ねぇ、味方?」

くい、とクロが顎をしゃくる。つられてそちらを見れば、大盾を持った少女と赤銅色の髪の少女。リツカとマシュ、だ。

「おーい、トーマ君!」

ぶんぶんと手を振るリツカ。どこか子ども染みた仕草の隣で、マシュはなんとなく戸惑っているようだった。

―――木刀を構えた、リツカの姿が脳裏を過る。

彼女は自分を救おうとしてくれた、それは紛れもない事実だ。

「うん、味方」

そう、と応えたクロエは、ふ、と息を吐いた。僅かに力んでいた身体が脱力する。朗らかな顔をしながら、いざとなれば即座に戦闘に移る準備をしていた。サーヴァント、という言葉を思い出さずにはいられなかった。

「良かったぁ、無事で」

「なんとか……」

ぎこちなく笑い返す。なんとなく、隣で聞いてるクロは得意げな顔だ。

「トーマ君もマスターだったんだね!」

「え」

―――リツカは、ニコニコと笑顔で言った。

マスター。それはそうだ。サーヴァントを召喚したなら、自分がマスターなのだろう。7騎のサーヴァントで殺し合う、聖杯戦争。そのマスターになった、ということだろう。

そう言えば。慌てて左手の甲を見れば、赤い紋章が刻まれていた。

「セイバーかアーチャー? それともキャスター?」

「アーチャーよ。まぁ基本は剣で戦ってるけどね。そっちのおねーさんは?」

「え、あ。シールダー……です。マシュです、マシュ・キリエライト」

「シールダーなんてクラスあるんだ。私も防御系の宝具持ってるよ」

「本当ですか!? えっと、差し支えなければ……」

「んーちょっと差し支えあるかなぁ」

「ですよね……」

当たり前にワイワイ会話する3人。いやいいんだろうか、そんな当たり前にクラスとかバラしちゃって。大丈夫なんだろうか……?

「大丈夫ですよ、所長ー!」

と、リツカが声を上げる。彼女の声の先を見れば、左手の建物―――多分、道場―――から、誰かが顔を覗かせている。

「この人、仲間です!」

「わ、わかったわよ! 今行くから」

酷く棘のある返答を返すと、所長、と呼ばれた人物が恐る恐るといった様子で、こちらへと歩いてきた。

「この人が、タチバナトーマ君です」

リツカが紹介した人物……どことなく品のある出で立ちをした女性は、さっきの声色の通りの険のある表情でトウマを見返した。というより、睨み返した。

「それで、この人が」

「オルガマリーよ。オルガマリー・アニムスフィア。フジマルに話は聴きました」

所長―――オルガマリーは酷く丁寧に名前を述べた。丁寧すぎて、明らかに快く思っていないことが明らかだ。

「あの……どうも」

……トウマにできたことは、そんな物凄く無難な挨拶だけだった。それもそうである。彼は17年間生きてきて、訝し気な顔すら向けられたことの無い青年である。家庭は円満、そこそこ友人にも恵まれてきた。叱られたことと言えば、中学の時に宿題を忘れて以来。明確な敵意を真正面からぶつけられることなど、とてもじゃないが慣れていなかった。

「何なのよ」

オルガマリーはそんなトウマのことなど知ってか知らずか、さらに鋭い視線を向けた。思わずたじろいだ彼は、精々吃ることしかできなかった。

「何なのよ馬鹿にして! いつの間にかデミ・サーヴァントは成功してるし! どこぞの馬の骨ともわからない三流がマスターになってるし! しかも何なのよ、コイツは! 折角仲間が居ると思えば三流以下のド三流! しかもそのド三流すらマスター! なんでこんな目にあってるのよ!? 私が一体何をしたのよ!」

まるで、鼓膜にアイスピックを突き刺すような金切り声だった。感情的としか言いようのない怒気に思わず委縮した。

だが、トウマはクロを目で制した。咄嗟に間に入ろうとしたクロは踏みとどまると、ちょっと不満そうに肩を竦めた。

トウマは、ただオルガマリーを見返した。慄く彼女を、そしてその慄きをかみ殺すように食いしばる彼女を、ただ見返した。

「レフが居ない……私は、何なのよ」

彼女は小さく呟くと、既にぼさぼさになり始めた髪を掻き毟った。不快そうに舌を打つと、オルガマリーは感情を吐き出すように溜息を吐いた。

「ロマニ・アーキマン。トーマ・タチバナのデータ確認は」

吐き捨てるように言う。

誰に話しかけてるのだろう、という疑問への回答は、1秒後に解決した。どこからともなく(確認終えたよ)と、棘の無い声が耳朶に触れた。

と思った瞬間、不意にトウマの目の前に青い光が薄く広がった。まるで液晶画面のように広がった光の中に、男の顔が映っていた。

「うお、映像投影……」

(結果から言おう。トーマ・タチバナ。リツカくんと同じ一般公募で日本から来てくれたマスター候補の1人だ。登録ナンバーは48番。年齢はリツカくんと同じだね)

「一般、ね」オルガマリーは胡乱げに目を細めると、リストに巻いた何か……スマートウォッチのような機器を操作し始めた。「こんな奴居たかしら。というか、フジマルも48じゃなかった?」

(こっちの手違いみたいだね。最後のマスター候補者のスカウトが同時だったらしく、1枠で2人取っちゃったみたいだ。トーマくん、これからライブラリに登録する予定だったみたいだからまだパーソナルデーターが無い)

「はぁ? 仮にも国連機関でしょうが……まあいいわ」

呆れたように声を漏らすと、オルガマリーはトウマを一瞥した。

それにしても、何の話だろう―――なんとなくリツカに顔を向けると、彼女は含み笑いを返した。次いで空中に投影されたモニターに、目をやる。ぶつぶつと思案し始めたオルガマリーの目を盗んでトウマに目を合わせてきた、モニターの男。ロマニ・アーキマンと名乗った男も、にへら、と軟弱そうに笑った。

(僕はロマニ・アーキマン。ロマン、ってみんなから呼ばれてる。宜しくね)

「あ、はい。トーマ、です」

(いやあ、男の子が増えてくれて嬉しいよ。いやほらね? 女の子に囲まれるのもいいけどさ、気が休まらないからさ)

「はぁ……」

何の話をしているんだろう、この人は。それとなく相槌を打って話を合わせながらも、状況に困惑していた。

てっきりマスターになって冬木の聖杯戦争を戦え、ということなのかと思ったが、なんとなく状況は違うらしい。

現状を整理するなら。とりあえず、リツカと、ロマンから味方と思われてる……ということ、だろうか。何故味方と思ってくれているのかはよくわからないが、ありがたいことだ

と思う。

オルガマリーがどう思っているのかは不明だが……。多分、敵とは見做されていないのだろう。

「緊急事態、ね。わかりました、両名をカルデアのマスターと認めます。これよりマスター2名及びマシュと、えーっと」

「アーチャーだって、所長」

「アーチャーの計4名を探索員として特異点Fの調査を開始します。良いわね?」

「はーい」

元気よく手を挙げるリツカ。呑気な声だなぁと思う。緊張感がない、というか。オルガマリーも呆れたように何か言いかけたが、諦めたように口を塞いだ。なんとなく、2人は仲が良いように、見える。

「それで? 探索、って何をするわけ?」

「うぇ!? えーっと、そうね。良い質問です」

何故かたじろぐオルガマリー。なんとなく、彼女はクロとどう接していいか距離感を掴みかねているらしい。それこそ小学生の女の子の外見のサーヴァント、というのがやりにくいのか、丁寧なのか砕けているのか、よくわからない喋り方をしている。

「貴女、カルデアで登録されているサーヴァント、なのよね。5例目ってことかしら。どこまで知識のフィードバックがあるの、座からは」

「全然? すっぽり」

「うー。そこからね、わかりました。前提知識の共有も兼ねて再度説明します。フジマル、貴女もちゃんと聴きなさい。ブリーフィングの時寝てたでしょ」

「えー覚えてますよ」

「本当かしら……じゃあ説明しなさい」

「えっ……っと。所長が5歳の時おねしょしたとかなんとかで」

「何で知ってるのよ!? いやじゃなくて、そんな話してないわよ、覚えてないんじゃない! 思い出しなさい! おーもーいーだーしーなーさーい!」

「やーめーてー!」

ぶんぶんとリツカの頭を揺さぶるオルガマリー。と。ぎろり、とオルガマリーがトウマを睨みつける。特に何を言うわけでもなく、無言で睨みつけている。

「ナニモキイテマセン」

トウマは首を横に振った。とにかく、首を横に振った。

「仲が良いのは構わないんだけど、早く話してくれる?」

「仲が良いだって所長ー」

「暑苦しいから抱きつこうとしないでよ」

ぐいぐいとリツカの顔を押さえつけながら、オルガマリーは咳払いした。否定しないあたり、まんざらではない、ということなのだろうか。

「そうね、それじゃあカルデア目的と今回のレイシフト実験の概要だけ話します。一度だけしか話さないのでよく聴きなさいよ」

「はーい」

「貴女に言ってるんですけど? なんでそんな能天気なの?」

―――そんなこんなで、時折リツカからの茶々が入りながらも、オルガマリーの説明が始まった。

カルデアという組織のそもそもの運用目的。未来を観測する機器の不調、それに伴う原因の究明としての過去への転送。そして爆破事故と、偶然の過去への転送。

およそ5分、手短簡潔かつ、平易な説明だ。たった5分だけだというのに、ズブの素人にすら理解できるように説明できるのは、中々至難の業だ。

オルガマリー・アニムスフィア。感情的だが、同時に知的な人だなと思った。頼りになることは、間違いなさそうだ。

「ふーん、大体わかったわ」

「なら良かったです」オルガマリーはちょっと安堵したように言った。「フジマルは? ちゃんと聴いてた?」

「聞いてたよー」

「……」

「ほ、ほら! 特異点Fの探索! ですよね!」

「そうね。あと、それに関して補足です。当初予定ではあくまで原因の探査・究明にとどめるつもりでしたが、原因の解析・排除も念頭に置きます」

(随分思い切るね? らしくないんじゃないかな)

「五月蠅いわね……単に戦力が揃ってるってだけよ。マスターはともかく、アーチャーは頼りになりそうでしょ」

言われたクロは、取り澄ましたように鼻を鳴らした。ちょっと得意げだ。

「それで、どう動きますか?」

マシュが恐る恐る言うと、じゃあ、とクロが手を挙げた。

「私から提案。弓兵(アーチャー)の私が斥候(コンバット・パトロール)として動くわ。敏捷にも自信あるしね」

「戦力分散すべきかしら?」

「それなら大丈夫じゃないかなぁ。アーチャーなら遠距離からの掩護もできるだろうし」

「わ、わかってるわよ!」

思わず、といったようにリツカに言い返すと、オルガマリーは咳払いした。

「今は何より情報が大事、か。わかりました、許可します。アーチャーは、進発後無線閉鎖状態で索敵にあたりなさい。手に負えない敵に遭遇した場合のみ連絡を」

「了解、所長さん。じゃ、行こ。マスター」

さも当然。小悪魔めいた(サキュっとした)笑みを見せたクロは、トウマの手を取った。

え、俺もいくの?

「ちょ、ちょっと待ちなさ―――」

「それじゃあまたねー」

ぐい、と身体が引っ張られる。オルガマリーの制止も無視した赤い小悪魔は一息で武家屋敷の塀を飛び越えると、炎の闇夜へと消えていった。

「あわ、んにゃー! 死ぬゥ!?」

……情けない叫び声を引き連れながら。

 

 

「大丈夫でしょうか……タチバナさん」

「大丈夫じゃないかなぁ」

「あー! もうこれだから!! 勝手に動いて!!」

「こっちの方が大丈夫じゃないと思う」

「ソウデスネ」

 

 

新都を彷徨うこと、どれくらいの時間か。夜が淀んだ燃える都市に気が滅入ってきたときだった。

ふと、目の前の暗闇が身動ぎした。黒い淀みの中に、ぽかりと白い髑髏が浮かんだ。

ころころと薄弱な音がした。髑髏が再び身動ぎしている。まるで……怖がっているように、見えた。

ゆらゆらと、黒い淀みから何かが延びる。先端には、5本の突端がある。

それは、腕だった。細く削げたそれは、長い腕だった。燃えるように赤く染まった、その、腕は。

「苦悶を零せ―――」

地の獄に繋がれた悪霊(シャイターン)の手を想起させた。

「―――『』!」

ぐ、し、ゃ、り。潰された。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

小悪魔との逢瀬

「おしっこ漏れるかと思った」

「所長さんのこと、とやかく言えなくない?」

「漏らしたわけではないので、一緒にはしていただきたくありません」

「ビビりすぎ。こどもみたい」

けらけら。見た目通り、クロは子供っぽく笑う。サーヴァントは全盛期の姿で召喚される、というが、彼女にとっての全盛期はこの姿、ということか。原作が完結していない以上、彼女たちの行く末はわからないが……クロエ・フォン・アインツベルンにとって、あの物語が善い出来事だった、ということなのだろう。なんとなく、安堵する。

そんなトウマの心情を知ってか知らずか、クロは、周囲を見回していた。

周囲に、ここより高い建造物は見当たらない。深山町の穂群原学園高等部の屋上は、ここ周辺で頭一つ抜けた建物だ。

周囲を見回す視線は伺い知れない。弓兵(アーチャー)というだけあって、いわゆる千里眼かそれに類するスキルを有しているのだろう。その視力は、彼女の大本になった英霊……エミヤシロウであれば、新都のビルから冬木大橋のボルトの1個までを識別していたはずだ。

「やっぱ、十中八九大聖杯なんだろうけど」

ぽつり、と彼女が呟く。ギリギリ、聞こえるか聞こえないか、くらいの声だ。

彼女が、向き直る。彼女の手には、いつの間にか、双剣が握られていた。

「ねぇ、トーマ」

そう言うクロは、柔和な表情をしていた―――が。目だけは、笑っていなかった。鋭い視線は、縄張り争いをする猛禽を想起させた。

彼女の姿が消えた。と思った次の瞬間、視界がぐるりと動いた。足場を失ったトウマは、あっさりと尻もちをついた。

痛い、と思っている暇は、無かった。安定した視界の中で真っ先に飛び込んできたのは、白い片刃の剣先だった。

ざわと肌が粟立つ。剣を首筋に突き付けるクロの視線が、ぐさりと突き刺さった。

「アナタ、何者?」

「何者って」

「どうして私の名前を知ってるの、って訊いてるの」

詰問する声の鋭さは変わらず。ひた、と喉元に冷たいものが触れた。『莫邪』の冷たい刃が触れたのだ。

「変だなと思ったの。私がサーヴァントとして召喚される可能性は限りなくゼロに近い。カルデアの召喚式なら可能性が無くはないけど、それでもかなり低い。なのに、私が呼ばれた。しかも、マスターは私のことを知ってる。そんなこと、あり得ない」

「いや、それは」

「とぼけないで!」

白い剣を振り上げる。そのまま振り下ろされた剣は、丁度トウマの股の間に突き刺さった。分厚いコンクリートを、まるで豆腐のように貫いた。

もう、それだけで気絶しそうだった。全身から冷や汗が噴き出し、覚えず身震いした。

今度は、もう片方の黒い剣を鼻先に掲げた。干将の刃よりも鋭利な視線は、早く言えと雄弁に語っていた。

言うべき、なのか。君はアニメのキャラクターです、私はそれを見て知りました、などと。

荒唐無稽にも程がある。却って反感を買うのではないか、それらしい嘘をでっちあげるべきではないか―――。

―――いや。言うべきだ、と思った。彼女は、聡い。生半の嘘など、バレるに決まっている。それに、この一瞬で完璧な嘘など吐けそうもなかった。立華藤丸(タチバナトウマ)は、至って普通の高校生に過ぎなかった。

無茶苦茶な話でも、信じてもらうしか、ない。

「わかった」

トウマは、正座に姿勢を変えた。そんなことをしたからと言って彼女の態度は変わらなかったが、やらないよりはマシだと思った。

「あのー、いや本当に信じてもらえるかわかんないんだけども」

「何?」

「魔法少女アニメがありまして……プリズマ☆イリヤ、というんですけども」

「……はい?」

 諸々を説明するのにかかった時間は、18分、だった。わざわざTYPE-MOONから魔法使いの夜やら、あっちゃこっちゃと話が飛んでは、別に要らない話をしたせいだった。

それでも根強く話を聴き続けたクロは、表情をぴくりとも変えなかった。険しい視線のまま、思案しているらしかった。

トウマは、石像のように動かなかった。下手に動いたら、鼻先で煌めく刃がそのまま顔面に食い込む気がした。

俄かに、クロの表情が険しくなった。剣先が、微かに揺れ―――。

「わかった」

クロは、剣を下ろした。表情から棘が抜けると、困惑のような、悩むような―――どうしていいかわからない顔をしていた。

「信じるの」

「信じるわけじゃない。わけじゃないけど」

突き立てた剣を引き抜く。さりとて構えるわけでもなく、脱力したまま、クロは考え事をするように目を細めた。

「あり得なくない―――と思った。なら、それって『魔法事象』かなって」

「『空想し得ることは全て魔法事象である』……」

「そんなことも知ってるのね。宝石翁の言葉、ね。確かに私たちが漫画のキャラクター、というのはちょっと信じられないけど、考え方を変えればあり得なくない。そして、トーマ。アナタ、私たちのことをちょっと知りすぎてる。名前はまぁ……わかるけど、私が生まれた経緯を知ってるのは、あのお風呂に居た人だけ。他の人が、知っているはずがない。他にも色々総合して考えれば……トーマの言ったことは、理屈は通ってる」

さらさらと、クロは考えを述べていく。てっきり、戯言と一蹴されるとばかり思っていただけに、トウマ自身がリアクションに戸惑っていた。

いや……あるいは、元から魔術や平行世界、と言った事象が身近なものであるからこそ、馬鹿げたことでも、有り得る事象と理解するのだろう。

「正直、信じられないけど。でも、わかった。今は、それで保留」

ほら、と彼女が手を差し伸べる。もう、彼女の表情に険は無い。さりとて子供っぽい徒な顔もそこには無く。その大人びた微笑は、まるで、姉のようだな、と思った。

……彼は一人っ子だったが。

「いてて」

「ごめんね、さっき痛かった?」

「まぁ、ちょっと。大したことはないです」

なら良かった、と口にしたクロは、両の手に、双剣を握らせた。

ふと、彼女が虚空を見つめる。屋上の反対側……丁度フェンスの上あたりを、見た。まるで地を這う蛇を見つけた鷲のような目だ、と思った瞬間、彼女は剣を投擲した。

右手に握っていた白亜の剣、莫邪。矢のように飛んでいった剣は、しかし、甲高い音とともに虚空で弾かれた。

「覗き見なんて良い趣味ね? でも女の子の逢瀬を盗み見するのはダメって、そんなことも忘れた?」

もう片方、黒刃の干将の切っ先を虚空に向ける。既に空いた手には莫邪……ではなく、赤い両刃の西洋剣が握られていた。見たことのない、剣だった。

ゆら、と。

虚空が歪んだ。朧気に人型の輪郭が浮き上がると、まるで風景画のシミのように、それが姿を現していった。

黒いローブの、女だった。深く被ったフードからは、長い毒の様な髪が垂れている。むき出しになった左足の大腿部には、何かに侵されるように、赤く明滅する紋様が奔っていた。

サーヴァント、だ。黒々とした影そのもののようなサーヴァントが、トウマの目の前に居た。

獲物は、鎌だった。大鎌、と言うより草刈り鎌のようなそれは、見覚えがあった。stay night、Fateルートであの英雄王が使った『不死殺し(ハルペー)』に、よく似ていた。

槍兵(ランサー)。恐らく、その獲物から推察されるクラスは槍使いだ。

「小娘の分際で色恋沙汰か? 子どもは子どもらしく、虫のように土に塗れて戯れておればよかろうが」

「はぁ? いつの時代の話よ。アナタ、も大分老けてるのね。年増」

「安い挑発を。貴様のようなちんちくりん、誰も何とも思わんぞ」

「恋は()()()()()じゃなくて()()()()でしょ。ホンットババアね、そんなことも忘れるなんて」

クロは、にこりと笑った。嫣然とした『サキュっとした』微笑の中、ただ目だけは、射抜くようだった。

「年を食っただけのデカ女」

その声が、合図だった。

何かが、膨れ上がる。フードから除く金の目に、敵意が宿る。いや、敵意などという温いものではない。それは、いわゆる殺意と呼ばれる純粋な意志だった。

「その減らず口、いつまでも利けると思うな雌餓鬼(メスガキ)が!」

「やってみなさいよ年増の根暗女(スカジ)!」

鎌を持った女が踏み込む。それだけでフェンスがひしゃげ、空気が慄かせた突風が、赤い外套の少女に襲い掛かった。

視認できる速度を超えた、まさに疾風。クロの敏捷よりもなお速い猪突とともに繰り出される刺突が、壁となって殺到する。鋭利に尖った石突による刺突。槍の穂先と変わらない一撃一撃が致命傷になり得る。あまりの速さにか、応戦するクロは、防御に徹するので精一杯に見えた。

僅か5秒。既に何十と突き出された刺突は攻め立てるが如く。

―――だが、それだけだった。必殺を以て放たれるはずの攻撃は、一撃たりともクロに届いていない。掠めすらしない。一撃を叩き落とし、一撃を撃ち払い、一撃を切り飛ばす。津波となって押し寄せたはずの刺突、その悉くを彼女は防ぎきっていた。

「じゃあ、今度は私の番!」

クロの矮躯が踏み込む。裂帛の気勢と共に放たれる逆袈裟の一撃。すくい上げるように放たれた黒と赤の双剣が鎌の太刀打ちに直撃するや、ランサーは突き飛ばされるように体勢を崩した。

さらに一撃。剣を振りぬいたカウンターウェイトを利用して身を翻したクロは、ランサーの腹めがけて回し蹴りを叩き込んだ。

床に転がるランサー。追撃とばかりに左手の干将を床に突き立てるや、クロは漆黒の洋弓をどこからともなく取り出し、右手に持った赤い剣を構えた。

「双剣使いの弓兵(アーチャー)―――!?」

「剣士『セイバー』じゃなくて残念ね―――『激情の細波(ベガ・ルタ)』!」

矢となって放たれた魔剣、過たずに放たれた狙撃―――もはや砲撃とすら呼べる『宝具』による火力投射は床を貫き校舎の3階から2階までをまとめて破砕し尽くした。

だが、まだやってない。舌打ち一つ、黒い剣を引き抜いてフェンスを切り裂き、屋上から身を乗り出すと、校庭めがけて投擲した。

「逃がさない!」

追い打ちの一撃とばかりに、もう一本、彼女は剣を引き出した。

手のひらに浮かぶ剣の骨格。瞬く間に現出した、捩じれた赤い剣。血が滴るがごとき紅蓮の魔剣の柄を握り締めると、即座に弓へと番えた。

「―――『赤原猟犬(フルンディング)』!」

真名解放とともに放たれた赤い軌跡が光軸を刻む。校庭めがけて迸った赤い閃光は、ぐにゃりと歪んだ。切っ先を捻じ曲げた赤い矢の向かう先は弓道場の先。走る黒い影に追いついたのは、だが、赤い矢だけではなかった。

挟み込むように飛来した2つの剣光。その逸話から、互いに引かれ合う夫婦剣に挟撃されたランサーは、潰された蛇みたいな鋭い悲鳴を上げた。

一拍、静寂が風となって吹き抜けていく。トウマの目では、弓道場の前に蹲る黒い影がどんな状態なのか、よくわからない。

「倒したのかな?」

「結構頑丈。頸も切ったし腹にも致命傷を撃ち込んだけど、まだ生きてる」

「反英雄だから、とかなのかな」

「知ってるの? あれも出てたの?」

「うん。メドゥーサ、だと思う。見た目とか声とか。でもランサークラスは初めて見た。ランサーだと魔眼(キュベレイ)が別な効果なのかな」

「見た目と声で真名喝破って反則じゃない? 裁定者(ルーラー)じゃないんだから」

軽口も一つ、クロは剣を弓に番えた。

剣が、矢へと形を変える。狙いは頭部。いかに怪物とは言え、頭に直撃を喰らえば、流石に終いだ。

案外、呆気なく終わったな、と思った。サーヴァント同士の戦闘の苛烈さは、各作品の醍醐味とすら呼べる要素だ。いざ、目の前で行われるとなったらどれほど激しいのか、と覚悟したものだが……。ひとまず、一安心だ。

クロが、弦を引く。ぎりぎりと引き絞った砲弾が打ち出されるまで、あと、1秒―――。

「待って。メドゥーサ、ってことは美遊が使った―――」

赤い弓兵の姿が、白い閃光に食われた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

小悪魔は天馬と踊る

「もー、なんで、アイツ、連絡、寄越さない、のよ!!」

オルガマリーがキリキリと声を上げる。走りながら怒っているせいか、なんだか声が続いていない。魔術師としては優秀でも、彼女は身体を動かすことには慣れていないらしい。走りながら宥めるリツカが息一つ切らしていないのと、対照的だった。

彼女―――マシュもまた、走りながら、疲れ一つ感じていなかった。デミ・サーヴァント……サーヴァントの能力をその身に宿した彼女は、まさにサーヴァントそのものになったと言っていい。研究所で生まれ、研究所で育ち、外すら見たことがない彼女に、これほどの運動を行うことは通常不可能だ。大盾を持つことなど、それこそ叶わぬことである。

(さっきの衝撃は間違いなく宝具だった。しかもあの白い光、とんでもない数値の魔力が検知されてる)

「勝手に、やられてるんじゃ、ないでしょうね、あのチビガキ! 偉そうな口、利いといて!」

「でもあの白い光、敵の宝具だとしたら、ずっと展開してるのおかしいんじゃないですか。あ、ほら。また落下してる。対処できてるのでは、アーちゃん」

「アーちゃん……」

(かわいい)

「なおさら、ピンチって、こと、じゃない! 宝具を、何発も、喰らってるってことでしょう!」

「盾の宝具持ってるって言ったし、それで防いでるのかな」

「アンタ、なんでそんな、冷静なのよ!?」

盾の、宝具―――。

あの赤い小さな女の子のサーヴァントは、それを持っていると言った。どんな宝具なのか、話を聴きたかった。だって、まだ、私は―――。

「あ、ほら。また白い光が空に上がった」

「実況してる場合!?」

「先輩」

「ちゃんと整理しないと所長がテンパっちゃいますし」

「先輩!」

「だ、誰が、パニクってるって!?」

「いやだから所長が」

「先輩! 前!」

「え」

咄嗟に、マシュは二人の前に出た。

視線は真正面。細い道路のずっと向こう、古い電柱の蛍光灯が明滅するその直下。

影が、居た。黒い影がゆらりと見せつけるように道路の中央へ歩み出ると、ぎょろりとマシュを睨みつけた。

(気を付けて、サーヴァントだ!)

ロマンの声が耳朶を打つ。間違いない、あれは、サーヴァントだ。味方じゃない、敵のサーヴァント。

ぞっと、冷や汗が背筋に滲んだ。それでもマシュは顔には出さず、努めて冷静な素振りのまま、相手を観察した。

黒い髪の、女。そのほかに特徴らしい特徴は、見られない。引いて特徴を述べるなら、その出で立ちは、奇妙な正装のようだった。カルデアのライブラリで調べたことがある。あれは、いわゆる、日本の女学生の制服ではないか?

「おかしい」

リツカの声だった、と思う。何が、という主語を欠いたその言葉の意味を問い返す暇は、もう無かった。

踏み込み一つ。一足で距離をゼロにした黒髪の女の拳が、マシュのシールドに直撃した。

「―――重!?」

 

 

投影、開始(トレース・オン)!」

脳裏の描く剣戟は3つ。瞬く間に手中に3本の剣を現出させるや、左の洋弓に番える。

網膜投影された戦域マップの光点(ブリップ)と気象条件、相対距離、その他もろもろの条件と勘案することコンマ数秒。直上めがけて、矢を放った。

反射した炎の煌めきが光軸となって曇天を駆ける。真上に放たれたかに見えた3本の矢は放物線軌道を描き、鉛直落下していく。

狙いはサーヴァント。だが、目の前の敵ではない。飛来した矢は、まさにマシュの盾に殴りかかろうとしていた黒衣のサーヴァントの脳天へと殺到した。

(―――1発弾かれた! とんでもなく頑丈だぞ、あのサーヴァント!?)

網膜投影されたウィンドウが立ち上がる。ロマンの悲鳴に応えている暇は、クロには無かった。

曲射の直後、襲い掛かってきた白銀の疾駆をギリギリのところで躱すや、さらに1撃、投影と同時にそれへと矢を放った。

Cランクの名剣。岩をも貫いた逸話を持つ剣は、しかしその白無垢の威容の前に、呆気なく叩き落されていった。

「楽に勝てると思ったんだけど」

こめかみを冷や汗が伝う。さらにもう1本剣を投影しながらも、彼女は、空に浮かぶそれを、ただ眺めた。

翼撃が大気を慄かせている。現れた神威に世界そのものが畏怖に震えているかのようだ。

翼ある白馬。ギリシャの伝説に聞こえる魔獣、天馬『ペガサス』が、鋭い嘶きを上げた。

「ランサーなのにライダーの宝具を使えるなんて」

《あれ、宝具じゃない》

「嘘でしょ」パスを介してのトウマからの念話に、思わず応える。既に倒壊寸前の校舎から退避したトウマは、それでも1階には居るらしい。「あれが宝具なんじゃないの?」

《宝具は手綱、だった気がする。ペガサスの召喚は彼女の血によるものだからランサーでもできた、ってことだと思う》

「手綱の宝具の効果は?」

《威力と防御力の増強。原作だと、エクスカリバーで倒してた》

「『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』―――」

視界の奥で、言葉が形を取る。

エクスカリバー。かのアーサー王が振るったとされる神造兵装。対城宝具にも匹敵する星光の轢断を以てすれば、確かにあのペガサスを撃ち落とせる、と思う。だから、トーマもそれを提案した。彼の話が仮に本当だとしたら、クロがあの星の聖剣を作り出せることを、知っているのだろう。

だが、無理だ。彼女が作るエクスカリバーは偽物の偽物。まさに真作のエクスカリバーとは比べるべくもない。

それに―――そもそも、今の彼女に、あの剣は作れない。今の霊基の錬鉄可能条件では、神造りの宝具は投影できない。

時間はかけられない。まだ宝具の使えないマシュに、サーヴァント戦は荷が重すぎる。遠距離からの掩護でなんとか均衡を保っているが、相手が宝具を切れば一溜りもない。

速攻でカタを付ける手段を検索する。

生半な一撃では、怪物メドゥーサは仕留めきれない。

ゲイ・ボルグで心臓を破壊したところで仕留められるか不明。

ならば――――。

《クロ、あの、もしかしたらなんだけど―――》

念話越しに、恐る恐るトーマが言う。

彼が口にした宝具、そしてそれを確実に首に叩き込む戦術。獣染みた嫣然を浮かべたクロは、弓を召還した。

「いいわ。とっておき、見せてあげる!」

 

 

メドゥーサは、思わずせき込んだ。

咳に混じって、どす黒い血が噴き出す。びちゃり、と白馬の鬣を汚した血に顔を歪めた彼女は、憎々し気に、校舎の屋上に陣取るアーチャーを睨みつけた。

あの赤いアーチャーによく似た小娘。侮りは無かったつもりだったが、結局、今の今まで、あの小さなアーチャーに傷一つを与えられずにいる。あまつさえ、彼女は後方の味方に掩護射撃を行いながら、メドゥーサと戦っていた。余裕の微笑すらも浮かべて。

もし、これがライダークラスの召喚であったら。そして、マスターすら不在のまま魔力だけ供給される不完全な状態でなければ。詮の無い思案だけがぐるぐると駆け巡り、怒りだけで身体が震えるようだった。

ペガサスが、僅かに首を振る。乗り手たるメドゥーサを気にしているらしい。既に霊核を貫かれ、やっとのことで現界を維持するメドゥーサを、慮っている様子だ。

わかっている、どうあがいてもあと十数秒で消滅する。その前に、せめてあの小娘だけでも葬らなければ―――!

天馬が嘶きを迸らせる。翼をはためかせて虚空を駆け上がった白馬の頭に、頭絡が浮かび上がる。馬銜から伸びた光の手綱を握りしめれば―――あとは、終わりだった。

「―――『騎英の手綱(ベルレフォーン)』!」

真名を解放する。

右手の鞭を打ち込む。さながら竜種もかくやといった咆哮一撃、流星の如き気勢でもって、白亜の幻想が猪突した。

幻想種すらも制御し、その能力を向上させる黄金の手綱と鞭、その具現たる『騎英の手綱(ベルレフォーン)』。本来ライダークラスでなければ所持しえない宝具を、ランサーの彼女も有していた。そのデメリットは重く、霊核の崩壊と引き換えに使用可能な自爆覚悟の殲滅宝具として、登録されていた。

本来であれば使用を躊躇う宝具だった。が、既に消滅寸前の彼女には、関係の無い話だった。

その天馬の速度、時速にして500km/h。光の鉄槌と化した突撃は一瞬で大気を焼き払い、あとコンマ数秒以内に、屋上に立ち尽くす小娘を粗挽き肉団子にするはずだった。

校舎を破砕する、その、数瞬だった。

メドゥーサの目は、それを、見た。

赤い衣のアーチャーが、何かを構える。どこからともなく取り出した長物、その、武器は。

ふ、とアーチャーの姿が掻き消えた。と思った次の瞬間、視界が揺らいだ。ぐらりと支えを失った視界が、彼女の意とは無関係に上を向き、そのままぐるりと背後に転がった。

メドゥーサが最後に見たのは、禍つ大鎌を振りぬいた、真紅の少女の姿だった。




この話を先に友人に呼んでもらったところ、「俺のアナを大人化させやがって」というコメントが飛んできました。この(21)め


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

クランの猛犬

 (こっち、ランサーを仕留めた。今からそっちに向かうわ!)

 網膜投影されたウィンドウにアーチャーの姿が映る。

 倒した。僅か接敵から10分で、敵のサーヴァントを仕留めた。しかも、こちらに掩護射撃を撃ち込みながら―――衝撃と共に了解の返答を返しかけた刹那、マシュは上空を奔る閃光を捉えた。

 アーチャーの掩護射撃―――否、まさに砲撃とすら呼べる矢の曲射が、拳を振るわんとしていたサーヴァントに食らいつく。

 それすら、宝具。ランクは低いが、その矢は歴とした宝具だった。

 なんらかの魔術―――恐らく、投影と呼ばれるもの―――を使用し、多種多様な宝具―――特に剣を作り出しては、矢として弓に番え、打ち出す。それが、あの少女の戦術だった。

 必殺の武具、宝具を駆使して戦う超常の使い魔。それが、サーヴァントと言うものの在り様。

 なら―――歯を軋ませたマシュは、飛来した宝具の迎撃のため、後方へと飛びのいた黒衣のサーヴァントの懐へと飛び込んだ。

敵影が空中で身体を捩らせる。さながら蛇のようにぐにゃりと身体を翻すや、その勢いを載せた回し蹴りが迸った。

 狙いはマシュの側頭部。その外見にはそぐわない怪力から放たれる蹴りは、いかにサーヴァントと言えども、ただでは済まない一撃だった。

 「それは、読んでます!」

 さらに、一歩。回し蹴りが直撃するより数舜早く踏み込んだマシュは、その大盾でもって。放たれた蹴りごと敵を叩き潰した。

 サーヴァントの膂力を以て振り下ろされる盾は、質量兵器とすら呼べよう。人の英霊、その影法師たるサーヴァントと言えども、間違いなく撲殺する一撃だった。

倒した。両腕に残る手応えに、放心にも似た安堵が痺れとなって身体を駆けた。

 だが、それも一瞬の出来事だった。あ、と思った次の瞬間、突き上げるような衝撃が爆発した。

 盾が吹き飛ぶ。まるで8トントラックが真正面からぶち当たってきたような、気が遠くなるような衝撃だった。

 敵は、生きていた。生きていただけではない。僅かに傷と言えば頭部の軽い裂傷だけで、その他にダメージらしいダメージは無い。

 敵のサーヴァントが右の拳を突き出す。大ぶりの一撃は喰らえば致命傷だが、大ぶり故に対処可能だ、と判断する。

 体勢を崩されながらも、なんとか離さなかった盾で防ぎながら、殴打の衝撃を推力に転換して後方に飛びのく。まずは距離を取って戦況を立て直す―――。

「あ」

彼女の思考は、そこで停止した。

頸元に、日本刀の刃が迫っていた。いつの間にか現れた白い背広のような恰好の何かが、マシュの頸めがけて刀を振り抜いていた。

躱さなきゃ、という思考すら掠めなかった。あまりに唐突に表れた剣戟を躱せるほど、彼女の敏捷は高くなく、またそれを可能にするスキルも有していなかった。

だから、その横薙ぎの一閃を回避できたのは、マシュ自身にも理解不能だった。見えない力で無理やり引きずられるように後方に飛び退き、コンクリートの大地に激突するように着地した。

着地の衝撃でコンクリートが捲れ上がり、土煙が巻きあがる。

息が荒い。全身が汗ばむ。汗にまみれて、首元から、どろりとした熱い液体が流れている。僅かに掠めた刀が、薄皮一枚を切り裂いたのだ。

「いやー今のは仕留めた、と思ったんだけどね。そこで令呪を使うんだなぁ、スゴイマスターだ」

どこか軽薄な声が、ぴしゃりと耳朶を跳ねる。

土煙の晴れた先―――日本刀を持った人間が、ニコニコと笑みを浮かべていた。

「二体目のサーヴァント!?」

(違う、サーヴァントの反応は1騎だけだ。そのサーヴァント、2人で1騎なんだ!)

応じるように、刀のサーヴァントがハットを持ち上げる。喋り方と良い、妙な人の好さを醸し出す男だ。底知れない不気味さを纏う黒衣のサーヴァントとは、対照的だった。

「最初はマスターを狙うつもりだったんだけどね、全然隙を見せないから予定を変えてサーヴァントから始末しようかと思ったんだけど。何なんだい、君のマスターは?」

男は、相も変わらずニコニコと微笑を浮かべている。マシュは、知らず、自分のマスターを一瞥した。赤銅色の髪の少女は、困惑するような目で、男を見返していた。

「おいリ……ライダー、ランサーの奴(クソザコナメクジ)、死んだみたいだぞ。同じ爬虫類として情けない」

 「あのアーチャーに加勢されると不味い。一気に決めよう―――」

ちょっと出かけてくる、とでも言うように、男が口にした。

瞬間、世界が凍り付いた。

何かが、男の下に集約していく。大気に満ちる大源(マナ)を根こそぎに食らい尽くし、黒衣のサーヴァントへと収斂していく。

宝具の真名解放。即座に思い至ったマシュは、されど、どうしていいかわからなかった。

こちらが防御系の武装を主武装に据えた上で、なお必殺の宣誓とともに放たれる宝具。それがどれだけの火力を有するのか―――果たして宝具抜きで防ぎきれるのか。

思わず、マシュはリツカを振り返った。

彼女なら、なんとかしてくれるかもしれない。これまでのように、ついさっきのように。だって、先輩は、頼りに―――。

天逆鉾(あまさかほこ)()われし、国津の大蛇―――」

「せんぱ―――!」

「―――リョーマ!」

――― 一瞬の、出来事だった。

マシュの6時方向から飛来した火焔弾、その数4発。神性に変成しかけた黒衣のサーヴァントが咄嗟に迎撃したが、遅かった。2発までは拳で防いだが、さらに1発が頭に直撃。ぎゃ、と悲鳴を上げるのも束の間、さらにもう1発被弾。全身に燃え広がった炎は、怪物じみた絶叫ごと焼き尽くしていく。

「お竜さん!」

「戦場で女の名前を叫んでる暇があんのか、優男!」

踏み込みは。まさに四足獣のようだった。

戌のように低く、早く、鋭い肉薄。乱入した蒼い影は、マシュの隣を擦過するや、瞬く間にライダーとの相対距離を零にした。

ライダーが振り下ろした刀をすくい上げたオークの杖でもって弾き返し、続けざまに石突でもって突き飛ばす。毬のように吹き飛ぶのも束の間、ライダーは見えない壁に叩きつけられた。

「テメエはこれで終いだ、優男」

「そういうことか。やれやれ、たまには、楽しい仕事がしたいもんだけどね」

乾いた声を漏らした直後、ライダーは破裂した。身体の内側から膨れ上がった炎に貫かれ、飲み込まれ、食いつくされ―――炎が終息した頃には、跡形も無く消尽していた。

「キャスター、お前……どうして漂流者の肩を持つ」

「よお、流石竜の端くれだな。ただ燃やしただけじゃ死なないか」

杖を持った男は、さして感情の波も無く応えた。地面に転がる黒焦げのサーヴァントは、もうくぐもった声を漏らすことしかできないで居た。

「どうして肩入れするかって? そりゃ簡単だ。テメエらよりマシだからに決まってんだろ」

杖の男―――キャスターは、杖の石突を地面に叩いた。杖を起点に何かの文字が浮かび上がる。

「また、守れ―――」

「じゃあな」

言い終わるや否や、コンクリートを割って突如現れた巨大な手が黒焦げの身体を握りつぶした。

血の一滴すら燃やし尽くされたサーヴァントは何も残さず。塵となって、消滅した。

「やっと1騎撃破か。やっぱキャスターは性に合わねぇな。やっぱランサーの方が良い」

独り言のように呟く男。くるりと向き直ったキャスターがフードを取ると、獰猛だがどこか人懐こいような笑みを浮かべていた。

とりあえず、敵ではない。一度オルガマリーとリツカとアイコンタクトを取ったのち、マシュは盾を構える手の力を抜いた。

「よお、おつかれさん。よく一人であのライダーとやりあったな。あの蛇女と真正面から殴り合って生きてるたぁ大したもんだ」

「いえ、助けてもらわなかったら、駄目でした」

「そうでもないと思うぜ? ま、それよりマスターの心配だな。ライダーの野郎に執拗に狙われてただろう」

すっとキャスターの目が細まる。見透かすような視線に思わず気圧されたが、それよりも、キャスターが口にした言葉が気になった。

ライダーに狙われていた。そう言えば、ライダー自身もそんなことを言っていた、気がする。

マシュは、全く気付いていなかった。盾を握る手が、汗ばんだ。

「そんなデカい的じゃないからな、狙いにくかったんだろうぜ」

途端、野卑た笑みを浮かべたキャスターが臀部に手を伸ばした。

「んきゃ!? 痴漢だ! ポリスメェーン! セクハラオヤジがここに居ます!」

「おお? 細いと思ったがちゃんとハリがあっていいじゃねぇか、役得役得」

へらへらと笑うキャスター。なんというか、怒涛の攻撃でライダーを制圧したサーヴァントと同一人物とは到底思えない。それとも、こういう余裕が必要なのだろうか―――?

(とりあえず、事情を聴こう。彼はまともに意思疎通ができそうだ)

「おっ、話の早いヤツがいるじゃねえか、ってなんだこりゃ」キャスターは目の前に浮かぶ投影されたディスプレイを物珍し気に眺めると、触ろうと手を伸ばしては空を切った。「遠見の魔術の亜種か?」

(えぇ、そんなところです)

ロマンは愛想笑いをしながらも、何故かモニターの向こうで手を避けていた。

(えーと、はじめまして。キャスターのサーヴァント。御身がどこの英霊か存じ上げませんが―――)

「まぁ待ちな、早漏。折角練習したセリフをお披露目したい気持ちはわかるが、もう一組お仲間がいるんだろ? そっちと合流してから話そうや」

(うっ……そうですね、はい。それにしても早漏……)

割と容赦無く跳ねつけられたロマンは、傷ついたようにモニターを閉じた。

「あの、所長」

「何、マシュ」

「ソウロウ、という言葉は何でしょう。初めて聞いたのですが」

「うぇ!? えーと」

何故か顔を赤くしたオルガマリーが硬直すること1分。大げさに咳払いすると、厳粛な表情でマシュの肩に手を添えた。

「知らなくていいことです、マシュ・キリエライト。デミ・サーヴァントには不要な知識です」

「アッハイ」

「全く―――そこ! ニヤつかない!」

「はーい」

キャスターとリツカは思わせぶりに顔を見合わせては、ニヤニヤと顔を歪めている。

どうやら、自分だけがその言葉の意味を理解していないらしい―――。

マシュは、さしてその状況に不満を感じたわけではなかった。ただ、自分の知るべき言葉ではない、と理解しただけだった。

「お、来たぜ」キャスターが顎をしゃくる。「なんだ? あの野郎じゃあないのか」

よく目を凝らす。緩い坂の下から、確かに人影が登ってくるのが見えた。

赤い外套を思わせる魔術礼装を着たサーヴァントの女の子とどこか垢抜けない学生服の少年。あの二人だ。

「よお、ランサーを()ったんだってな」キャスターはしゃがんでアーチャーと視線を合わせると、ぐしゃぐしゃと頭を撫でつけた。「ちんまい割に、結構な兵『ツワモノ』じゃねぇか」

「別に? 単なるデカいだけの年増女でしょ、あんなの」

「なんだ、アイツにデカいって言ったのか? こりゃ小気味良い嬢ちゃんだ。んで、なんでお前はそんなキラキラした目で俺を見てんだ?」

「え!? いやー。カッコイイなぁって」

「見る目があんなぁ、お前? 日本じゃ俺なんて無名だと思ってたが、俺も捨てたもんじゃねぇな。まぁでも安心しろや、お前のハーレムにゃ手は出さねぇよ」

アーチャーに手を振り回されながらも、キャスターは上機嫌な様子だ。不機嫌そうに髪を結い直している少女も、つんとはしているがキャスターには気を許しているようだ。トウマはなんだかドギマギしているような奇妙な顔をしているが、特段気負うところもないらしい。

 

悪くない関係。そう、マシュは理解した。

「じゃあ、情報共有でもしましょうか」

「そうだな、じゃあ俺から現状の報告と行こうか―――」

キャスターの話は二転三転しながらも、手短に終わった。情報をまとめれば、この冬木で行われていた聖杯戦争の最中に原因不明の黒泥と炎が街を覆い、サーヴァントだけが残されたこと。その時点でセイバーのサーヴァントが聖杯戦争を再開、瞬く間のキャスター以外の五騎を打倒。泥に汚染された霊基がとなって活動開始。骸骨の怪物とともにキャスターの索敵・殲滅のために動き出した―――ということのようだ。

「冬木の聖杯戦争はいわばバトルロワイヤル―――ということは、貴方かセイバーの消滅が聖杯戦争の終結、ということかしら」

「じゃあ、キャスターと仲間になってもらって、3人でセイバーを倒せばいいんじゃない?」

「おう、そういうこった。あの野郎と違って嬢ちゃんは素直で物分かりが良いな」

キャスターはまたアーチャーに手を伸ばしたが、今度は素早く跳ねのけた。アーチャーは、美意識が高い、らしい。

「セイバー打倒のために私たちを利用する、というわけ?」

「素直に言えばそうなるな。アンタらにとっても悪い話じゃないだろ? このおかしな状況を制圧したいって言ってるが、正直アンタらだけじゃセイバーには勝てねぇ。アーチャーはいいが、そこの盾の嬢ちゃんは戦力外だ」

そうだろ、とキャスターがマシュに槍のように鋭い視線を指した。ざくりと刺さった言葉にマシュは思わずぐっと身体を縮めた。

「キャスター」

「おうおう、睨むな。確かに自分のサーヴァントを貶されてむっつりするのはわかる。すまない、悪かった。だが、宝具が使えねぇサーヴァントなんて馬の居ない戦車と同じだ。さっきのライダー(雑魚)ならまだなんとかなったろうが、セイバーは段違いだ」

「―――キリエライト、貴女宝具が使えないの?」

マシュは、ただ頷きを返すことしかできなかった。

特異点Fの探索が始まって、戦闘は2回。どう戦えばいいか、なんとなくわかってきた。だが、宝具だけは、使えなかった。

宝具(ノーブル・ファンタズム)。人間の幻想を骨子に練り上げられた、英雄たちの装備。英雄の象徴であると共に、サーヴァントが持つ切り札だ。ある意味、サーヴァントの本体とすら呼べる宝具を、マシュはまだ使えないで居た。

デミ・サーヴァントという特異な存在故か、はたまた自分が未熟で、力を貸してくれたサーヴァントに認められていないが故か。どちらにせよ、宝具が使えないことには変わりない。

マシュはただ、俯いたまま押し黙る他無かった。リツカ(センパイ)が慰めのように背を撫でてくれていることが、ただ情けなかった。周囲に圧し掛かった沈黙だけが、ただ痛ましかった。

「ちなみに」恐る恐る、といったようにトウマが挙手した。「セイバーというのはお強いので」

「間違いなく最強のサーヴァントだ。聖剣エクスカリバーの担い手、アーサー王。ランサーで召喚されていても勝てるかどうか」

「oh―――え、黒くなってるの? マジ?」

「マジもマジだ。剣からビーム連射してきやがる。剣士じゃなくて砲台だぜ、あれ」

「アルト……アーサー王か……しかもオルタかぁ……」

トウマは青ざめたように小さく呟くと、何か思案するように慄いた。

アーサー王。かのアーサー王伝説に名を連ねる、最強の聖剣使い。歴戦のサーヴァントらしいキャスターですら勝てないというほどの英霊。アーチャーも、何か険しい顔をしている。アーサー王とは、それほどに強大な敵、らしい。自分が居ても、確かに、単なる足手まといにしか、ならないだろう。マシュは、努めて冷静に、そう理解した。

「あの、バーサーカーはもう居ないんですか」

「いや、あれもまだ残ってる。セイバー以上の強敵だが、特に動く気配が無い。こっちは、とりあえず考えないでいいだろう」

ぴくりと、アーチャーが肩を揺らした。険しい表情は変わらず―――いや、違う。あれは険しい顔なんじゃなくて―――。

「でも、そんなに気にすることではないのではないかしら。宝具と言えば英霊の象徴。一朝一夕で使えるようになるものではないと思うのですけれど」

「あぁ? んなわけねーだろ。英霊と宝具ってのは同じもんだ。お嬢ちゃんがサーヴァントとして戦えるなら、もうその時点で宝具は使えるんだよ。なぁ?」

キャスターがアーチャーに同意を求める。が、アーチャーは応えなかった。何か思案するような顔はそのまま―――首筋に、脂汗が滴っていた。

アーチャーが、空を見上げた。釣られてアーチャーと同じように顔を上げたマシュは、ふと、それを見た。

赤い光軸が、空を割っている。2本、3本、次々と増えていった光の矢、その数、26本。

27本の閃光が、ぐにゃりと進路を歪める。切っ先を変えた矢のその狙いは―――。

「―――チッ、そういうことかよ!」

「攻撃が来る! トーマ、令呪一個!」

「え、あ、うん!」

「何、いきなり!?」

「所長、敵の宝具です! 一気にこっちを撃滅するつもりだ―――キャスター!」

「あぁ! 俺の真名()はクー・フーリン、お前をマスターとして契約する!」

「───I am the bone of my sowrd(体は、剣で出来ている)!」

敵の、宝具だった。26本の剣、槍、矢。その全てが、必殺の宝具だった。

「嬢ちゃん、気張れや!」

キャスターが石突を地面に叩きつける。呼応するようにコンクリートを割って這い出た巨大な樹木の腕がその場で交錯し、さながら城壁の如くに蟠踞と構えた。

だが、それでは足らない。26本の宝具を防ぎきるには、その防御をして、あまりに脆い。

「―――『熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)』!」

だから、守りを加える。

掲げるは左腕、広げる五指を起点に、それは啓いた。

光臨の如き7つの花弁、一枚一枚が城壁のそれに匹敵する強度の概念防御。アーチャーが言っていた防御宝具、大アイアスの盾が具現した。

必殺の宝具が怒涛となって殺到する。

一撃弾き二撃も弾く。かのヘクトールの投擲すら防いだとされる大楯は、生半の宝具など当然のように弾き返す。

はずだった。

にべもなく弾かれるはずだった3発目が着弾するや、突き刺さった剣が炸裂した。さらに4発も着弾と同時に爆破。ついに耐えきれなかった花弁の一枚が四散した。

「『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』―――!」

苦く、誰かが口にする。幻想を炸薬にして起爆する、さながら対戦車ミサイル。切り札を破棄して使用される捨て身のはずの攻撃が雨霰と盾を爆撃する。

2枚、3枚、4枚。堅牢だったはずの盾が加速度的に消滅していく。宝具が着弾する衝撃、吹きすさぶ魔力の本流、爆撃の怒号が、徐々に、迫る。

「死ぬ! こんなところで、こんなところで私、死ぬの!? 嫌よレフ、私まだ死にたくない!」

「死なせない! こんなところで終わらせない!」

「でももうあと3―――2枚しか無いじゃない! デカい口叩いてないでなんとかしなさいよ!」

「ちょっとは静かに掩護できねぇのかオイ!?」

「あと一画、令呪使う!」

ぎゃんぎゃん泣きながら―――それでも、オルガマリーはアーチャーの盾の強度を上げている。宝具相手になけなしとわかっていても、それでも彼女は、何かをしている。

オルガマリーだけじゃない。キャスターも、リツカも、トウマも。アーチャーの盾を守り切ろうと、あがいている。フォウもいつの間にかアーチャーの肩に乗って、頻りに何か叫んでいる。

何かしなきゃ。でも何ができる、自分に何ができる―――!?

「あ、耐えきった! 生きてる、私生きてる!」

「―――違う! 最後が本命!」

「野郎、アレは―――!」

襤褸になった盾、一枚。その盾越しに、マシュは、見た。

27本目の、槍だった。呪詛のように赤く濁った槍。キャスター……クー・フーリンが持っているはずの、最強の槍。

ダメだ、と思った。とてもアイアス一枚で防げる代物じゃない。キャスターが展開した衛すら、濡れ紙を破るが如くに貫通するだろう。

マシュは、知らず、マスターの姿を目で追った。

ぁ。

赤銅色の髪の少女は、目の前に居た。トウマと並び、アーチャーの背を必死に支えている。焼石に水とわかっていても、それでも、リツカは、手を伸ばしている。あの時と、同じように。

じゃないと、みんな消える。リツカも、オルガマリーも。トウマも、アーチャーも、キャスターも。あの槍で串刺しにされて、みんな、終わってしまう。無くなってしまう。

彼女は駆けた。アーチャーの前に躍り出るや、あとコンマ数秒後に飛来するその呪いの槍を、捉えた。

「―――マシュ!」

私が、守らなきゃ!

 

 

突き穿つ死翔の槍(ゲイ・ボルグ)

ケルト神話に謳われる大英雄、クー・フーリンが振るう魔槍。心臓を必ず貫く『刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルグ)』と比して大軍を吹き飛ばす火力を有する、本来の使用法。その破壊力の凄まじさは、男のよく知るところだった。

「やったか」

冬木大橋、そのアーチの上から深山町を眺望する男―――赤い外套の男は、色も無く呟いた。

自分と同じ能力を持ったアーチャーが居ることは、既に周知していた。撃ち合いになれば、苦戦は必至。キャスターも厄介。盾のサーヴァントは戦力不明。倒すなら一撃で、まとめて撃破するのが望ましい。故に集まったところで最大火力を投射、奥の手も使用しての一掃する手筈だった。そして、その通り、戦術は移行した。

それにしても、あのアーチャーは何者だったのか。“漂流者”の1人なのはわかっていたが。

詮の無い話だ、と思った。ゲイ・ボルグを爆破した際の噴煙はまだ晴れないが、あの槍はアイアスの盾を貫き得る。あれ以上の盾を、他の2人のサーヴァントが用意できるとも思えない。漂流者たちは、消えた。

「奴の宝具を使うのは癪に障るがね。そう思わんかね、君も」

男は、皮肉っぽく顔を歪めると、背後を振り返った。

黒いローブが、蹲っていた。ローブの隙間から覗く獣染みた黄金の目―――洞のような双眸が、男を見据えていた。

「貴様だろう? アサシンを()ったのは」

ローブの人物は何も答えぬまま、一歩、踏み出した。

それが合図だった。

男の足元を起点に、炎が巻きあがる。竜のようにのたうちながら、ローブの人物をも巻き込んで広がっていく。

世界が塗りつぶされていく。つい数瞬前までアーチの上だったはずが―――気が付くと、乾いた荒野が広がっていた。

赤く焼けた空。錆びだらけになりながら、軋みを上げて空転する歯車。無限のように広がる剣の丘の只中に、男は居た。

「貴様が何者かは知らん。知る気も無いし必要も無い」

男が手を掲げる。その仕草は、さしずめオーケストラの指揮者もかくやといったところだ。

大地から、剣が抜ける。無限の剣、その全ての切っ先が、ローブの人物を捉えた。

「早速だが―――ご退場願おうか」

剣が奔る。

ローブの人物は身動ぎすらなく、その剣の群れを、漠と眺めた。

剣戟が、切り裂いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

束の間の休息

高校

屋上にて

 

「よお、何やってんだ?」

声が肩を叩く。思わず「ヒィ!?」と悲鳴を上げながら飛びのいたオルガマリーは、呆れたように見返してくるキャスターの視線に、安堵の溜息を吐いた。

「いるならいるって言いなさいよ」

「だから今声かけたじゃねぇか」

キャスターが煩わし気に後頭部を掻く。やれやれと嘆息一つすると、キャスターは床に転がっていた石を手に取った。「なんだ? あんた、ルーンなんてやってんのか?」

「そうよ、悪い? 原初のルーンに比べれば子供の遊びみたいなものでしょ?」

「あんたは、間違いなく一流だろ。所詮、俺は師匠から習ったものを便利だから使ってるだけだからな。ずっと真面目で良い」

「そうですか、それはどうも」

ふん、と鼻を鳴らす。奪うようにキャスターから石を取ると、せっせとウェストポーチに詰め始めた。

ふん、ともう一度鼻を鳴らす。鳴らすが、その実、オルガマリーは照れたように顔を赤くしていた。

当然と言えば当然である。口では便利だから使っているだけ、などと言うが、事実キャスタークラスで召喚される英霊には違いない。失われた大神のルーンを使うキャスターに認められる、という事実が嬉しくないわけはなかった。

ただ、彼女は素直ではなかった。紆余曲折、屈折した彼女の精神性は、内心の嬉しさをごまかすように、キャスターの言葉を皮肉と理解した。

「こんなオモチャでも、無いよりはマシでしょ」

「ま、そうかもな」

「あ、なんでまだ持ってるのよ」

「いいじゃねぇか、減るもんでもなし」

「減るもんでしょう!」

ほれほれ、とルーンの刻まれた石をちらつかせるキャスター。キャスターが高く掲げた石を取り返そうと飛んだり跳ねたり背伸びしたりすること10秒、オルガマリーは苛立たし気に、されどその実安堵したように、「もう、いいわよ」と吐き捨てた。

オルガマリーは、肩を落とした。

フェンスに身体を預ける。半壊したフェンスは、彼女の体重だけでぎりぎりと軋んだ。

「これでも大分マシなのよ」

「あぁ?」

「気分。キツイのはキツイけど、まだ余裕はあるの。フジマルが思ったより冷静で助かるわ。アーチャーも……あの見た目だけど、動いてくれるし」

「ほう? 意外だな、あんた、他人の評価なんでできるのか」

「感情的である自覚はあります。ですが、私は一応人の上に立つ人間です」

「確かに、リツカは良い目してる」

キャスターもローブのどこかへ石を仕舞い込むと、オルガマリーの隣でフェンスに寄りかかった。

「ライダーが狙撃しようとしてたの、気づいたか?」

オルガマリーは、キャスターの横顔を見上げた。

ライダー。あの白い背広のような恰好をしていたライダーだ。確かに、そんなことを言っていた気がする。

「上手く掩蔽物を利用して死角に回り、お嬢ちゃんと離れすぎないように動いてた。自分が狙われているとわかってて、顔色一つ変えずに動いてる。歴戦の猛者でもあんな平常心では動けねぇ、大したタマだ」

「知らないわよ、そんなの」

知らず、声が強張る。

オルガマリーは、全くそんな気配に気付かなかった。なのに、あの一般公募の半端者は気づいていた。

何か、不快な情動が脳裏で鎌首を擡げる。だがそれ以上に、間の抜けたようなリツカの顔が網膜にへばりついた。

選抜チームのマスターに比肩し得る戦場の嗅覚。たかだか数合わせの一般公募のマスター候補生が何故そんなセンスを持っているのか。それとも、腐ってもマスター適性がある、ということなのだろうか。

どんな経歴の持ち主なのだろう。そんなこと思ったが、思い出せなかった。マスター候補の受け入れ・採用に関しては、成績優秀者以外は人事に任せきりだった。

事態を制圧し、無事帰還したら調べてみようか―――ふと、そんな考えが過る。

オルガマリーは、我が事ながら、虚を突かれた。自分に利益も無いのに、他人に関心を持つなど。単に経歴に関心を持ったに過ぎないのか、それともあの間延びした彼女の笑顔が気になったのか、オルガマリーにはよくわからなかった。

「トーマはよくわかんねぇな。これから成長すんのか、ぼんやりしたままなのか」

あのマスター……もう一人の48番目の一般公募だという立華藤丸(タチバナトウマ)の経歴を調べる序でにでも、調べてみよう。

「生きて帰らなきゃね」

空を仰ぐ。

焼け焦げたように曇天は黒く、重苦しく垂れこめていた。

 

 

「あ」

「あ」

互いに、顔を見合わせる。友達の友達と街中で遭遇したかのような、気まずいような気恥ずかしいような奇妙な雰囲気になりながらも、トウマは、マシュに「あ、どうも」と如何にもな挨拶をした。

「あ、いえ、はい」

マシュもなんだかよくわからない相槌を打つ。互いに顔を見合わせること数秒、2人は、ぎこちなく、それでいて素直な笑みを交わした。

「先ほどは、すみませんでした」

マシュは、丁寧に頭を下げた。

多分、最初に顔を合わせた時のことだろう。いきなり目の前に正体不明の人間が現れれば、警戒するのは当然だと思う。

「いや、別にいいよ。気にはしてないし」

「大らかなんですね、タチバナ先輩は」

小さく微笑を浮かべると、マシュは廊下の窓から外を見下ろした。なんとなくトウマもつられて廊下から顔を出せば、なんのことはない、至って普通の高校の校庭が広がっている。異常があると言えば、さっき天馬が駆けたあたりが黒く焦げている点だろうか。

にしても、先輩とは。

「はい、先輩です。皆さん、人生の先輩ですから」

マシュは屈託ない笑顔を見せる。そうかぁ、と分かったようなわからないような返答をしながらも、トウマは内心で、首をかしげる。

この世界がTYPE-MOONの世界観そのもの―――あるいは極めて近似した世界なのは、もう確定だ。クー・フーリンを生で見た感動と同時に、否が応も無く理解できた。自分は、ほぼ間違いなく、TYPE-MOONの世界に居る。

だが、と思う。

この世界は、何なのだろう。確かにあの世界観の延長にあるのは間違いないのだが、少なからず、トウマは知らない世界だった。

それがどういう意味を持つのか、トウマにはよくわからなかった。わからないから、あまり考えないようにした。

「さっきの凄かったね。盾が宝具なんだ」

トウマは自分の頭から詮の無い思考を締め出すと、素直な感想を口にした。

「さっきは無我夢中で」

マシュは照れたように肩を竦める。聞けばトウマよりも若い……と言うより幼い彼女の仕草からは、到底自分の身の丈以上の巨大な盾を振るう姿はイメージできない。

「皆さんの力になれて、良かったです。私、あまり役に立てないので」

「そうかな」

「はい。私、カルデアに居た頃は、あまり成績は良い方ではありませんでしたから。今も、先輩に頼ってばかりで、上手くできなくて」

「さっきは、上手くいった?」

「はい、できました。皆さんを守れて、良かった」

深いため息のように、マシュは呟いた。どこともしれない虚空を見上げる彼女は、その自分の淵から零れた声を、よく咀嚼反芻しているようだった。

「私、まだちょっと、不安なんです」

マシュは、自分に言い聞かせるように呟く。トウマは特に、応えなかった。

「アーサー王。伝承に曰く、煌めく剣で何百という兵を打ち倒す聖剣を振るう騎士王。そんな英霊の剣を、私が防げるのでしょうか」

「アーサー王、かぁ」

トウマも、呟かずにはいられなかった。

アーサー王。TYPE-MOONという会社の顔は何か、と言われれば三択が思い浮かぶだろう。その内の1人こそアーサー王―――アルトリア・ペンドラゴン。原作のヒロインでもあるアーサー王の強さは、言語に絶する。直感による回避性能の高さ、他の追随を許さない純粋な格闘戦性能の高さ、火力の高さ、基礎スペックの高さ。原作主人公の相棒、という立ち位置は伊達じゃない。

「正直ですね、タチバナ先輩は」

沈黙を肯定と理解したらしい。マシュは、左手に持った十字架状の盾を揺らした。

「え。や、そういう意味じゃ」

「いえ、いいんです。私も、自分が伝説の英霊に敵うとは、思っていません」

でも、と続けたマシュは、しっかりと、トウマの目を見つめ返した。

「皆のことは、きっと守ります」

 

 

保健室にて。

「すぴー、すぴー……んがが」

「スッゴイ寝てる……」

それはもう、気持ちよさそうにベッドで寝ているリツカを見ながら、クロは保健の教員が座る椅子に腰かけていた。割に年代物ながら、オフィスチェアは身体を預けても軋み一つしない。誰だか知らないが、よく整備されているんだろう。

教員用のデスクには、紅茶の入ったボトルやら、ハンカチに残ったドライフルーツなんかが広げたままにしてある。目的地……円蔵山の中腹、大聖杯が格納された地下空洞への進発までの、束の間の休憩の跡だ。

ひょい、とクロも手を伸ばす。乾燥したオレンジ一つをつまむと、口腔内に放り込む。濃い酸味の中に、明確な輪郭を持った甘味が舌の上に溶けるように広がる。堅物でヒスっ気の癖に、センスはあるな、と思った。ドライフルーツを持ち込んだのは、オルガマリーだった。

水筒の蓋に、紅茶を注ぐ。既に冷めたストレートティーを一息で呷ると、これまたオルガマリーの所持品だというハンカチで口を拭いた。

天上を見上げる。既に電気の供給は無いのだろう、割れた蛍光灯からは、豆電球が露出している。アーチャーのクラスで召喚された彼女―――そしてある意味、アーチャーというクラスそのものを体現する彼女にとって、月の灯りさえ差し込めば、夜目はよく利くものだった。

やはり年期モノながら、よく掃除の行き届いた天井を見上げながら、思う。

トウマ(マスター)が言った言葉の意味を、思う。

自分たちが―――いや、自分たちを形作っていた世界観そのものが、創作物であるという話。荒唐無稽と言えば荒唐無稽で、さりとてあり得ない話ではないとも思う。そもそもクロが存在すること自体が奇跡のようなもの―――いや、奇跡のようなものだったのだ。あり得ないことの一つや二つで、彼女は動じなかった。そして何より、平行世界という現実を前提にすれば、そこそこ、現実味のある話だろう、とは思う。

そして、彼は、その事実を証明しつつある。

さっきの、ランサーとの戦闘。彼女はメドゥーサの弱点である不死殺し(ハルペー)の使用を提案し、敵の宝具を正確に予見し、あまつさえクロエの空間転移の魔術すら知っていた。

多分、本当のことなのだ。どことも知れない世界から、何故かこの世界のことを知っている彼は、なんらかの方法で投げ込まれたのだ。

でも、と思う。

もし本当ならそれは、なんて―――。

クロは、椅子の上で片膝を抱いた。膝小僧に額を押し当てて、そういうことなんだな、と思う。そもそもどうして自分が英霊の座に登録されているのかすら記憶があやふやだけど、自分が召喚された意味は、よく、わかる―――。

ドアを開ける音が耳朶を衝く。顔を上げると、青いローブの男―――キャスターが居た。

「よおどうした、考え事か」

「別に、大したことじゃないわ」

クロは抱えていた膝を離すと、ぶらりと足を投げ出した。

「何かしら?」

「セイバーを()る。その算段をつけようかと思ってな」

セイバー。『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』の担い手たるセイバーは、クロも心当たりがある相手だ。

アーチャーを夢幻召喚(インストール)したイリヤ越しではあるが、彼女は確かにセイバーと戦った。

何をやっても太刀打ちできない圧倒的な暴力。そういったものの存在を刻みつけられた、最初の敵。

しかも、今戦うのは、あの敵のいわば原典(オリジナル)。ただ力を行使するだけの黒化英霊ではなく、人格を持ち、戦術を練る英霊の影法師(現身)。それこそ、8番目のカードかそれ以上―――いや、それこそ……。

「正直今の駒じゃあ勝ち目は薄い。サーヴァント3()()が寄ってたかったところで返り討ちだろうな」

「そうね。私たち3人、防御に優れていても攻勢には向かない。防御はマシュに任せてアナタと私で攻める?」

「そんじょそこいらのサーヴァントならそれで勝ち切れるだろうな。だが相手はあのアーサー王だ。俺と嬢ちゃんの連携練度じゃあ、心もとない」

むぅ、と腕を組む。

心眼(偽)を備えるクロと、光の御子と謳われるクー・フーリン。互いの技倆ならば、即席の編成であっても戦況判断に大きな差は無いはずだ。それこそ、古なじみの相棒のように背中を任せられるだろう。

それでも、届かない。音に聞こえた騎士王、そして星の聖剣に挑むには、精鋭というだけではダメなのだ。

では―――?

「策はある」

そんなクロの思案を遮るように、キャスターは膝を折った。クロと視線を合わせたキャスター……キャスターは、猛犬のように鋭い笑みを浮かべた。

「んで、その策だが―――」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

始まりと終わりの洞

短めです。話を切る区切りって難しいですね


「こんなモンがありやがったのか」

感心するやらなにやら、キャスターは眼前に穿たれた洞穴をじろじろと眺めた。

円蔵山、その中腹。

正門である柳洞寺の山門ではなく、獣道を歩くこと1時間。大聖杯へと続く地下大空洞が、虚ろに口を開けていた。

「にしてもビビりすぎだろ、アンタ」

「うるさいわね、山登りなんて初体験なのよ!?」

「最近の若いもんはこれだからいけねぇ」

(まぁ時計塔の秀才だからねぇ。インドアもインドアだよね)

「ねぇ、トーマくん大丈夫?」

「あ、本当です! タチバナ先輩の顔色が!」

「ウン、マァダイジョウブ」

「あのくらいでへばりすぎ」

―――若干2名、山登りですっかり疲弊していた。

一歩踏み外せば滑落する山道を、しかも夜に歩く。その危険性たるや、先導するキャスターの姿が遠ざかればオルガマリーは悲鳴を上げて抗議していたし、トウマは顔面蒼白になりながらロボットみたいに身体を強張らせていた。

「おいおい、これから本番だぜ。大丈夫かよ」

「なんとか」

ふぅ、と深く息を吐く。続いて肺一杯に息を吸うと、トウマも、洞窟の口を見上げた。

原作のHFルートで登場する、大聖杯への入り口。凛とライダー、そして士郎の3人で向かった入口に、トウマも、立っていた。

奇しくもと言うべきか必然的と言うべきか。この洞窟の奥で待ち構える敵も、原作と同じだ。

呪われた聖杯に汚染された、漆黒の騎士王―――セイバー・オルタ。

そして大聖杯そのものも、この向こうに居るのだろう。ラスボスそのものと言わざるを得ないでしょ、とトウマは思う。原作のグランドフィナーレへと向かう、その直前のボス。こんなに早く相まみえて果たして大丈夫なのか、と不安だけが募る。

黒桜も居るのだろうか、それとも別な何かが居るのだろうか―――怖気を惹起させて洞窟の口を見つめたが、ただ黒いだけのが見つめ返してくるばかりだ。

「洞窟内のデータは?」

(ライブラリにはありません。冬木のセカンドオーナーから照会してみましたが、こちらもこの洞窟に関しては。天然の洞窟を流用したものだと思ったので日本の林野庁のデータベースにアクセスしてはみましたが、洞窟そのもののデータが見つかりませんね)

「んじゃあ、俺の番かね」

そう言うと、キャスターは空中に文字を書いた。

宙に書いた文字は2つ。書き終わるや否や、宙に浮かんだ文字が燃焼を始める。花火のように火花をまき散らし始めた炎塊がひと際大きく閃いた。

閃光が収まると、炎塊が既に消えていた。その代わり、炎で形成された雀のように小さな鳥が、すいすいと周囲を飛んでいた。

「綺麗、ですね」

小鳥がマシュの周囲を飛び始める。彼女の肩に乗ったフォウは、なんとなく面白くない顔で眺めていた。

「探索のルーン。洞窟用に特化した奴だな」

「もっと色々種類があるの?」

「用途別にな。よく使うのはまぁ広域索敵用のルーンだな、気配遮断持ち以外なら補足できる」

(結構反則じゃない、それ)

「キャスターなんて外れクラスなんだぜ? こんくらいできなきゃ割に合わねぇよ」

キャスターは心底げんなりした様子で声を吐くと、ふと、周囲を見回した。一瞬、訝るように目を細めた意味は、トウマにはよくわからなかった。

「それでは、洞窟に入ります。マシュ、キャスターは前に。アーチャー、後衛に」

オルガマリーの号令に、皆が頷きを返した。彼女はいつものような厳めしい顔で総意を確認すると、前を歩き始めたリツカのすぐ後ろについていった。

トウマも倣って歩き始めて、ふと気づいた。

クロは、佇立したままだった。

「どうしたの、アーチャー」

クロはその声に我に返ると、いつものように表情を緩めた。

「何でもないわ」

 

 

ただ、静謐だけが蜷局を撒いていた。

ごろりと、赤い外套のアーチャーの体躯が転がる。身体には目立った損傷はない。ただ唯一目立つ損壊と言えば、胴から首が千切れている点だった。

彼女は特に感慨も無く、塵のように消えるサーヴァントを見下ろした。完全に四散するまでじっくり眺めると、彼女は、眼下を睥睨した。

アーチから見下ろす大橋。乗り捨てられた自動車が、点々と転がっている。

その車両の内、1両が軽々と宙に浮いた。

ボックスタイプの赤の軽自動車。軽とは言え500kgを超える金属塊が、玩具のように宙を舞うと、真っ逆さまに河へと墜落していった。

何の奇術か、と思われた。だが、その空中浮遊は、ただ筋力だけで行使された放擲だった。

黒い、巨大な肉塊が大橋を踏みしめる。赤い単眼を煌めかせ、巨大な斧剣を引きずる狂気の肉塊。時に進路上の自動車を投げ飛ばし、斧剣で打ち飛ばしながら、着々と、黒い塊は古い町へと向かっていた。

彼女は、それに近づこうとはしなかった。言語の通じない狂戦士に、用は無かった。

彼女は、自分の背後で淀む影を見返した。黝い影はなんとなく退屈そうにしながらも、彼女の指示に従っている様子だった。

困ったなぁ、と思った。アーチの上で座り込んだ彼女は、腕組みした。

色々わからないことが多いが―――まずは、ここから降りないとなぁ、と思った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黒衣の騎士王

「これが聖杯―――」

オルガマリーの呟きが、地鳴りに飲まれて溶けていく。

円蔵山をくり抜くように広がる伽藍洞の地下空間。巨大な黒い柱のような何かが屹立し、その突端に黝い孔がぽかりと浮かんでいた。

「こんなの、超抜級の魔術炉心じゃない。たかだか極東の島国よ、なんでこんなところにこんなものがあったのよ」

オルガマリーは、明らかに動揺している。恐れというより畏れに身をすくませながら、あの黒い泥の柱に目を奪われている。

いや、彼女だけじゃない。ここに居る全員が、畏怖と呼ばれる原初的な情動を惹起させていた。目の前に横たわる、人智を超えた沙汰との遭遇、限界状況。

そして、彼―――トウマは、目の前の光景をある意味で誰よりもよく理解していた。

世界の危機。まるでハリウッド映画か特撮映画みたいな見慣れたフレーズが、不気味なほどの現実味を以て肌をなぞる。ぞわぞわと肌を粟立たせた。肌を粟立たせたが、彼は何はともあれ、《大丈夫?》とクロにパスで念話を送った。

《あんまり、ここは良い場所じゃあないよね。無理してないかな》

何と言っていいかわからず、トウマは曖昧にしか言えなかった。

大聖杯『魔法陣』の作成には当然アインツベルンが関わっているのだろうし、そしてクロ自身、小聖杯としてやはり作られた存在だ。だとしたら、何らかの影響があって然るべきだろう。大聖杯を開き、固定させる錨こそ小聖杯なのだから。

さりとて、そんなプライベートなことにとやかく言っていいかも、トウマには判断しかねた。

《大丈夫、もう開いちゃえば、私は特に関係ないから》

いつもみたいに莞爾と笑って、クロは応えた。彼女はそれだけ、聡かった。

「何か情報は無いの?」

(冬木の聖杯戦争に関しては、データに乏しくてよくわかっていません。セカンドオーナーの遠坂を中心に術式を構築した、ってことぐらいしか情報が無いもので)

「―――おっと悪いな、ご歓談はここまでのようだぜ」

キャスターが槍のように杖を構える。それを合図に、周囲を飛んでいた2羽の鴉は消滅した。

彼の睨む視線の先、黒い柱を悠然と見上げる人影が、ゆっくりと振り返った。

血管のように赤く血走った鎧に身を包んだ、黒い騎士。青年というより少年といった風采の若い顔立ちながら、死蝋のような生気の無い肌は、人間性と呼ばれる情動を削ぎ落した冷徹さを感じないわけにはいかなかった。

臓腑が凍えて壊死するかのような、不快感にも恐怖にも似た戦慄。場違いに脳裏に過る、高校の友人の顔が過った。

―――セイバー・オルタ。間違いなくあれは、アルトリア・ペンドラゴンそのもの、だ。

「ちんまいからって油断すんなよ。セイバーの魔力放出は一級線なんてもんじゃねえ、気を抜けば防御越しにぶった切られる」

「き、気を付けます!」

「奴を倒せばこの街の異変は消える。いいか、それは俺も奴も例外じゃあない。そのあとのことは、しっかりやれよ」

がちゃり、と思い足取りが大地を抉る。

黒く濁った剣を大地に突き立てたセイバー・オルタは、睥睨するように視線を投げつける。表情の無いはずの死蝋のかんばせが、微笑するような嘲笑に歪んだ。

「3騎か。キャスターに、アーチャー、か―――」ひたと、金色の目がマシュを見据える。思わず一歩後ずさるマシュを見る彼女の目は、何故か、無邪気に見えた。「面白いサーヴァントが居るな。さしずめシールダー、といったところか」

「テメエ、喋れんのか? てっきり案山子だと思ってたんだがな」

「粗忽な物見が居るのでな。狂化のふりをしていた」

「物見ねぇ。一体何を守ってやがるかは知らねえが、いい加減決着つけようや。永遠に終わらないゲームなんざ退屈だろう? 良きにつけ悪しきにつけ、駒を先に進めないとな」

「流石アイルランドの光の御子、よく見えている。だが、それでいて己が欲望に熱中するか。貴卿は変わらんな」

ひたとした微笑は、そこで終い。

怜悧に表情を変えたセイバー・オルタが、地面に突き立てた剣を引き抜いた。

王の選定の剣、その2振り目。脈打つように赤く明滅する剣を掲げた。まるで外敵との開戦を宣する如く、星の聖剣の刃が鈍く煌めいた。

「光の御子よ、赤き天の嬰児よ、そして名も知れぬ小娘よ。我が剣こそは聖剣エクスカリバー、星の内海より来るもの。貴君らの未来が真実か否か、この剣で選定し『確かめ』よう―――恐れず挑むが良い!」

「―――先輩、行きます!」

 

 

横薙ぎに剣を払う。黒い聖剣の切っ先はキャスターの頸へと延び、そのまま行けば間違いなく跳ね飛ばすはずだった。

だが、届かない。頸を跳ねる一瞬前、間に割って入った大盾がセイバーの放った斬撃を寸で受け止めた。

ならば、とセイバー・オルタはさらに足を踏み込む。魔力放出によって強化された一撃は盾の防御ごと少女の矮躯を突き上げ、がら空きになった頭めがけ、かち割るように剣を振り下ろす。

こちらも必殺の一撃。間違いなく頭蓋を砕き、咽頭を切り裂き、股まで両断するはずの切り下ろし。

だが、届かない。脳天を打ち砕く寸前、10時方向から4発の矢が飛来した。

3発は鎧どころか纏った魔力そのものが弾く程度の攻撃だ、無視していい。だがその中の一発、破魔の紅い矢だけは無視できない攻撃だ。

矢に作り替えられているが、彼女がかつて相まみえた武器に違いない。フィオナ騎士団の無双の騎士、ディルムッド・オディナが振るった呪いの朱槍『破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)』、あの矢はその宝具を作り替えた産物だ。高い魔力でもって強固な鎧を編むセイバー・オルタにとって、あの槍は鬼門の一つだった。何故、あのアーチャーがその宝具を弱点と見抜いたのか―――思案の暇は、無い。咄嗟に攻撃を辞めて半身を捩り、飛来した矢を叩き落す。粉々に砕けた破魔の矢には目もくれず、ただ彼女は、視線の先の赤い小さな弓兵を睨みつける。

相対距離を確認。魔力放出で一気に距離を詰め、首を跳ねるのに1.5秒。アーチャーの応戦を含めても2秒ほど。騎士王の名を恣にする彼女にとり、あのアーチャーの接近戦能力は論ずるに値しない。

だが、届かない。魔力放出でもって吹き飛ぼうとした刹那、地面を割って沸いた巨大な樹の手が行く手を阻むように拳を振るう。同時、6時方向に回り込んだ少女が圧し潰す気勢でもって盾を振り下ろした。

防御―――不可。回避する方が賢明。そうと判断すれば行動は速く、アーチャーに飛び掛かろうとしていた魔力放出を転用、9時方向へと飛び退いた。

着地と同時、身体を捩じりながら背後へと剣をすくい上げる。虚空を切るはずだった剣は、あわや飛来した矢3本を一刀のもとに打ち上げた。

厄介だな、と思った。

個々の戦力は決して大したことはない。高く見積もってB+~Aランク程度のサーヴァント。あの盾の少女は、それよりも格が落ちる。

だが、戦ってみればよくわかる。あの3人、誰もがセイバー・オルタにとって、鬼門だ。彼女の防御を貫通する矢を放つアーチャー、対魔力に干渉されない古のルーン魔術を扱うキャスター。そしてセイバーの絶大な攻撃力を防御しきる、盾の少女。

強力な布陣。額から滴った赤い雫を籠手で拭うと、薄く目を閉じた。

「これまでか」

 

 

正面から切り結ぶマシュ、近~中距離からマシュを攻防面で掩護するクー・フーリン、隙あらば破魔の矢(ゲイ・ジャルグ)を撃ち込むクロ。即席とは思えない精錬された連携は、素人目にも隙の無い布陣に見える。

事実、とトウマは思う。あのセイバー・オルタを、半ば完封している。原作最終ルートのラスボスだったセイバー・オルタを相手に、何の心配も無く戦っている。感動にも似た情動の惹起を、彼は覚えずにはいられなかった。

「アイアスの盾に呪いの矢……タチバナ、あなた本当に真名を聞いてないの?」

「き、聞いてないです。俺は未熟だから信用為らないとかなんとかで、すみません」

「あなたが未熟なのは私も同意します。なんで魔術回路が3本しか無いのにマスターになれているのか、理解に苦しみます」

じろりとオルガマリーが横眼で睨む。明らかに罵倒されているらしい。トウマはビビりながら、なんとか愛想笑いだけを返した。

破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)』の使用をクロに勧めたのは、トウマだった。

通常時のセイバーよりも防御力の高いセイバー・オルタだが、彼女の防御は魔力で編まれた鎧によって発揮されるもの。重厚化した鎧に加え、無意識化で周囲に纏う魔力があらゆる攻撃を軽減する。低下した敏捷を補って余りあるその防御を突破することは、並大抵のことではない。

だが、突破する方法はある。それこそ、かのフィオナ騎士団の英雄ディルムッド・オディナが振るう紅き呪いの魔槍、『破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)』。あらゆる魔術的効果を切り裂くその刃は、如何に強力な防御であろうとも、それが魔術で編まれたものであれば意味を成さない。肥沃な魔力をリソースに防御力を誇示するアルトリア・ペンドラゴンという英霊にとり、ディルムッドの槍は明確な切り札になる。もちろん、二段構えの運用も見越している。セイバー・オルタが防御を捨てれば、次は『必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)』の出番だ。

自分は戦える―――そんな考えが、軽い羽根のように、脳裏に落ちる。原作の知識とクロの相性は、とんでもなく良いはずだ。あらゆるサーヴァントに対して優位に立てるのは、明確なアドバンテージ、と言える。メドゥーサの時も、『不死殺し(ハルペー)』を推奨したのはトウマだった。

難点があると言えば、自分の魔術回路が3本しかないことか―――そもそも魔術回路があることそれ自体は予想外だったけれど、3本とは。思っても詮の無いことだけれど、どうせなら、こう、三桁くらいあればいいのに―――。

いや、今はそれどころではない。ぶんぶんと首を振ったトウマは、頬を叩いた。余計なことは考えるな。ただ、マスターとして、ちゃんと戦いを見届けなければ。

そんな、ちょっとした慢心が掠めた時だった。

マシュが薙ぎ払いを防ぎ、キャスターが火のルーンを撃ち放ち、クロが破魔の矢を放ち―――後方へ大きく飛び退き、セイバー・オルタが距離を取る。剣の構えを解くと、彼女の金色の目が、どこかつまらなそうに周囲を睥睨した。

「良い宴だ。貴君らの戦い、称賛に値する。特に盾の小娘、良いな。良い守りだ。この私が手も足も出ない。」

つらつらと述べるセイバー・オルタは、しかしやはりつまらなそうな口調だ。

「なんだ、珍しいじゃねぇか。テメエが負けを認めるのか?」

「頭に蛆でも巣食っているのか、クランの猛犬。確かに手も足も出ないが、勝てないわけではない。」

「負けず嫌いかよ。勝てないわけじゃあないんなら早く勝てや」

「そうしたいところはやまやまなのだがな。あぁ、残念だ。実に、残念だ」

彼女は、嘆息すら吐いた。退屈そうな、残念そうな溜息を吐いて、ただ、色の無い目で、戦場を俯瞰した。

「てめぇそりゃ―――まさか」

(ごめん、戦っている最中だけど悪い知らせだ! 円蔵山の麓に設置したセンサーが感知した、サーヴァントだ! クラスはバーサーカーと推定される!)

ぞわ、と怖気が奔った。

確か、クー・フーリンが言っていたはずだ。セイバーに斃された後、さっきのメドゥーサのようになりながらも、教会近くの森の中で動かずにいるサーヴァントが居る、と。

それこそ、バーサーカー。聞いた情報から察するまでもない、かのギリシャの大英雄ヘラクレスだ。

「今更に動こうとはな。どうする、そこな小娘、小僧。マスターなのだろう。せめてもっともな指示を出してみろ」

セイバーはやはり関心を喪ったように声を吐き捨てた。

なるほど、と思う。本来自分で倒すはずの布陣が、偶然の要素で打倒されては面白くない。だから、彼女は既にこの戦いに興味を無くしたのだろう。投げやりな言葉は、せめて最後の興を愉しもうとするだけか否か―――。

生唾を飲み下す。今の布陣、何をするのが正解だ。ここでバーサーカーもまとめて迎え撃つのか?

考えている時間は無い、自分が、なんとかしなければ―――!

「―――その安い挑発、乗ってあげる。騎士王」

軽口一つ。軽やかに耳朶を打った声に、トウマは、思わず目を向けた。

赤銅色の髪の少女―――リツカは、挑むような微笑を向けていた。

「フェーズを3-bに移行、アーチャーはバーサーカーを押しとどめて」

「ちょっと、何を勝手に! 大体、キャスターとキリエライトだけでアーサー王が倒せるの!?」

取り乱したように、オルガマリーがリツカに掴みかかる。胸倉を捩じり上げられながら、さりとて、リツカの表情はちっとも変わる様子はない。

「倒せるからそのように指示を出しているんです。成功するかは五分ですけど―――」

「じゃあ別の案を出しなさい! 5割? 私には認められません!」

「他の案ではここに居る皆、死にますよ? それでいいならそうしますけど」

気圧されるように、オルガマリーがたじろぐ。呻くように声を漏らすと、オルガマリーは苦々しく顔を歪めて、ただ、手を緩めるしかできなかった。

「大丈夫です、きっとうまくいくから、任せて」

リツカは、柔らかく微笑を浮かべた。そっとオルガマリーの手を取って握り返すと、リツカは、その柔らかな視線を、トウマへと向けた。

お願い、と彼女は言っている。アーチャーとともに、バーサーカーを食い止めてくれ―――そう、その目は言っていた。

「―――アーチャー!」

「いいわ、その大任、熟してあげる!」

威勢は強く。獰猛に嫣然を浮かべるや、剣を投影。撃ち放った。

絶世の銘剣がセイバー・オルタに直撃する寸前、ぷくりと爆光が膨れ上がる。さながら榴弾のように炸裂した矢が爆炎をまき散らしたその瞬間が、合図だった。

赤い矮躯が跳ぶ。

トウマも、背後を振り返る。岩だらけの洞窟の先、暗い洞に溶ける赤い影を追い、走り始め―――。

「タチバナ、持っていきなさい!」

飛んできたそれを、手にとった。

掌の皮膚を、強く打つ。顔を顰めながら手の内を見れば、何か文字の並んだ石が、2つあった。

「それぞれ防御と目眩ましのルーンを刻んである。使えそうな時は使いなさい!」

返事をする暇は無かった。ただ、ぶつかったオルガマリーの視線に視線を返して、トウマは駆けだした。

 

 

「やれやれ、俺のマスターは随分無理難題を言うねぇ」

気だるそうに、キャスターは伸びをした。足元の石ころを左足の親指と人差し指でつまむと、ひょい、と宙に放り投げる。

特に意味の無い、手慰み。いや足慰みか。放り投げた石が力を失い、重力に従って自由落下していく様を見届けると、地面に突き立ててあった杖を手に取った。

「ま、嬢ちゃんとビビりな所長さんの為にも、さっさとカタをつけますかね」

「ほう。私を倒す、とそう言ったな?」

じとりと、重い声が鼓膜をなぞる。晴れ往く土煙の先、黒い騎士は、泰然と佇んでいた。

「おう、言ったぜ。てめえなんざ、キャスターだろうが相手じゃあねぇんだよ。それにお嬢ちゃんも居ることだ」

「勇ましいことだ。その減らず口、すぐに切って捨てるには惜しいな」

「吠えづらかくんじゃねぇぞ、セイバー!」

「精々よく哭け、キャスター!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

狂乱の黒化英雄

円蔵山山頂 柳洞寺

 

円蔵山の頂に建立された柳洞寺。浄土宗系の宗派で、名の知れた観光地でもあるという。平時であれば相応に観光客が居る、とされているが、今はその人影はない。厳かなはずの寺そのものも、戦いの余波で大きく崩れていた。山門は二つに割れ、地面はめくれ上がり、本堂は既に潰れていた。散らばった屋根瓦が、辺り一面に散らばっていた。

その本堂の裏から、境内を見回す。ごうんごうん、と地下から重く響いてくる音だけが、周囲の暗黒を怯えさせていた。

「今、どの辺?」

クロも裏手から顔を出しながら、周囲を探っている。左手には黒塗りの洋弓を。右手は無手だが、敵が姿を現せば、たちまち敵を屠る武装を抜き出すのだろう。

だが、今回の敵は―――。

(丁度山門を上り始めた。接敵まで残り―――20秒!)

「了解。じゃ、あとは上手くやるわ」

ぷつりと、通信ウィンドウが落ちる。虚空を眺めること1秒未満、彼女は、クロは、「じゃ、行くね」と当たり前のように言った。

「もう、なんでそんな顔するの? 死ぬわけじゃあないんだから」

ころころと、クロは笑った。気負いなど無いような表情に、トウマは、暗い顔をしないわけにはいかなかった。

「そりゃあ、時間を稼げばいいだけってのは、わかるけどさ」

「大丈夫だって。こう見えて、アーチャー(わたし)は戦上手なんだから!」

ね、と赤い腰布の裾をつまんで、くるりと回って見せる。ニコニコと笑う彼女の顔が、ただ、なお一層痛ましかった。

「どっちにしろ、私がここでうまいことやらなきゃいけないんだし。どうせやるなら、気持ちよくいきましょ?」

ね、と宥めるようにクロが小首をかしげて見せる。

確かに、そうだ。ここで食い止めなければ、どっちにしろ負けるのだ。なら、何もしないで負けるのを待つよりは、ずっと、良い―――と思うほかない。

《それで、バーサーカー……ううん、()()()()()の弱点は?》

クロは笑顔のまま、パスの念話で話をつづけた。思わず周囲を見回してから、トウマは、顎に手を当て、眉を寄せた。

ヘラクレスの弱点―――そんなものあるんだろうか。

十二の試練(ゴッドハンド)』の守りは、恐らくこれまで全てのサーヴァントの中にあってさえ最強の守りだ。12個の命のストックに、Aランク以下の宝具を無効にし、さらに一度喰らえば同じ宝具に対して耐性を得るという。

攻撃面でも十分だ。狂化によって、その熟練の技倆は損なわれているというが、そんなものはそもそも不要なのだ。強靭な肉体から放たれる斬撃は、ただ振るわれるだけでセイバーを圧倒するほどなのだから。

問題は、残留霊基(シャドウ・サーヴァント)の状態になったヘラクレスの『十二の試練』がどれだけランクダウンしているのか、だが―――あまり当てにはできないだろう。

畢竟、原作のどのルートでも、最強の敵として君臨したヘラクレスに、隙らしい隙は無かった。

そんなトウマの沈黙が、答えだった。彼女自身、ある意味でバーサーカーと相まみえたことのあるためか、その強大さはよく理解しているのだろう。「うん、わかった」と応えると、剣を投影した。

捩じれた、剣。螺旋のように歪な剣は、彼女が、そして赤い弓兵が自ら錬鉄し、造り上げた信頼する宝具だった。

「ところでトーマ、一つ確認なんだけど」

「何?」

「時間を稼ぐのはいいんだけど。別に、倒しちゃっても構わないんでしょ?」

彼女が笑う。莞爾と笑った顔は、しかしなお獰猛な狩り人のように凄絶で―――そんなとんでもないことを口にした。

トウマは、何事かを言いかけて、ただ唇を噛んだ。言葉を噛み殺して、ただ、彼女の宝石みたいな目を、ただ見返した。

「それじゃ、遠慮なく期待に応えるわ!」

彼女が、飛び上がる。既に崩落した寺の屋根に蟠踞と足を構えると、猛禽のような目を向けた。

奇妙な静寂は、ただ一瞬だった。蜷局を巻いた静けさと叩き殺して、それはやってきた。

黝い肉塊が、山門を破断して飛び上がった。禍つ巨躯が地面を重く踏みしめ、射殺すような赤い目が、ぎょろりとクロを捉えた。

バーサーカーのサーヴァント。間違いない、あの姿は、ヘラクレスだ。12にも及ぶ偉業を成し遂げた、古代ギリシャの大英雄。神にすら届く巨影が、まさに、目の前に存在していた。

バーサーカーが咆哮を上げる。目の前の敵を殺す、という原初の叫喚。相対するものに畏怖を喚起し、戦意を削ぐプリミティブの奔騰。全身の肌を粟立てたトウマは、知らず、後ずさった。

だが、クロは悠然とバーサーカーの敵意を受け止めた。悪魔染みた笑みをぶつけ返すと、クロは、弓に螺旋の剣を番えた。

「―――『』!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黒の閃光に猟犬は吠える

唸る黒剣、走る閃光。黒々した魔力を纏った剣は飛来した炎を叩き切る。驚愕に歪むキャスターの顔めがけ、気勢のままに剣を打ち下ろす。

示し合わせたように、間に割って入る盾の少女。十字の形をとる、巨大な盾のような宝具は、先ほど何度も剣戟を跳ねのけたものだ。

此度も剣を跳ねのけようと屹立する、厳めしい盾。だが、セイバー・オルタは躊躇も倦みも無く、純黒の刃を盾めがけて聖剣を叩きつけた。

さながら、巨神が振るった玄翁のようだった。直撃の瞬間、悲鳴を上げた盾の少女は、衝撃の威力だけで毬のように吹き飛ばされていった。

なんとか地面に着地した彼女が、瞠目とともにセイバー・オルタを見やる。ふん、と鼻を鳴らすと、じろりとキャスターを睨みつけた。

「アーチャーが居なくなって余裕になったってか?」

「下手な大ぶりを撃ち込めば、忽ち射殺されるのは自明だったのでな。賢しい猟兵さえ居なければ、やりようはいくらでもあるということだ―――!」

魔力を放出する。さながらロケットモーターを点火するが如く、土煙を巻き上げる黒い弾頭が猪突した。

―――反転したセイバーは、決して運動性能が高くない。敏捷性は、ただのD。それこそ、マシュと同程度。キャスタークラスで召喚されたクー・フーリンにも劣る。特に、アーチャー……クロの射撃は、回避することはほぼ不可能であった。直感をもって、ようやく弾くことができる、という現状。魔力放出で無理やりかっ飛んだところで、アーチャーが難敵であることは変わりない。いくら速度があっても、直線的な動作に過ぎなければ、アーチャーにとってはただの的でしかないのだ。

故に、3騎相手の際は防戦に徹した。下手に動くより、防がなければならない攻撃だけを防ぎ、都度打撃を与えたほうが合理的だから。

だが、戦況は変わった。最も厄介だったアーチャーが抜けたことで、攻勢に乗り出すことが可能になった。そうなれば、あとは、黒き騎士王の独壇場だった。

鎧に回していた魔力を変換、打撃力と速度へと回す。圧倒的な速度で以て、盾の少女との相対距離を零にした。

キャスターすら知覚するので精一杯だった。無論、盾の少女の反応速度では、決してセイバーの斬撃に対応できなかっただろう。

だが、彼女は盾を構えた。ほとんど無自覚のように、盾を構えた。

恐らく、彼女の力ではない。彼女の力の源泉が、聖剣に反応して見せたのだろう。セイバーの……アーサー王の、見込み通りの防御だった。

だが、それだけ。掬い上げるような剣の軌道は、打ち上げるように少女の矮躯を打ち付けた。

あまりの衝撃に、彼女の手から盾が弾け飛ぶ。

宙を舞う大盾、恐怖に見開かれる少女の目。キャスターの怒声もむなしく、返す刀で薙ぎ払われた刃は、一文字に少女の頸を跳ね飛ばした。

ぼとり、と水気のある音が耳朶を打つ。力の萎えた細い身体が大地に崩れ落ち、どろどろと赤い汁が噴き出し始めた。

遅れて、鈍い音とともに頭が転がる。長い髪が、まるで樹木のように地面にへばりつく。一つだけ覗いた目が、虚ろにセイバーを眺めていた。

つまらないな、と思った。見所があると思ったが、見込み違いに過ぎなかった。結局、この永遠の中で、倦むような終わりを、待つしかない。ただ、焼き尽くされるのを、待つしかない。

この未曾有の大災害、獣の跋扈を防ぐ手立ては、ついぞなかったのだ。

―――いや。何か、変だ。何かが、変だ。

逡巡の様な疑問。ふと視線を足元に合わせ、セイバー・オルタは、目を見張った。

死体が、無い。盾の少女の死体が、いつの間にか消滅していた。その代わり、一文字に両断された握りこぶし大の石ころが、力なく転がっているだけだった。

―――囮。

判断より早く、セイバー・オルタは地面を踏み込んだ。地面を蹴り上げ、背後へと砲弾のように飛び出す。膨大な魔力をリソースに、一瞬で戦域を脱する、筈だった。

背中を、衝撃が突き抜けた。肺の空気が一気に絞り出されるような衝撃に、涸れるように息を吐き出した。

背後を振り向く。だがそこに壁のようなものは無く、ただ、淀んだよな空間が堅く聳えていた。

空間固定の魔術―――!

「―――キャスター!」

竜の一瞥が鋭くキャスターを突き刺す。だがそれすら平然と受け止めたケルトの英雄は、猛犬染みた嫣然に表情を歪めた。

「キャスターさん!」

何もない虚空から、盾の少女が地面へと投げ出される。ろくに受け身も取れないまま地面に身体を打ち付けながらも、彼女はただ目の前のサーヴァントを見上げた。

「応! コイツで〆だ!」

くるりとキャスターが杖をまわす。地面へと合図を送るように杖の石突を叩きつけるや、セイバーの足元が鈍く燐光を迸らせた。

大地を砕き、細木造りの巨腕が飛び出す。ゆらりと揺れるのも一瞬、巨大な手がセイバー・オルタに殺到する。四方を空間ごと固定された彼女に逃げ場はない。巨大な手がセイバー・オルタを握り込むや、さらに大地が裂けていく。

「我が魔術は、炎の檻。茨の如き緑の巨人。因果応報、人事の厄を清める杜―――」

裂け目から、のっそりと巨人が顔を覗かせた。緩慢な動作で地面を破砕し、20mに近い巨躯が屹立する。

燃え盛る、細木の巨人。ドルイド信仰における人身御供の祭儀、その神事をキャスターは再現した。

ぎょろりと、燃える巨人の頭がセイバー・オルタを睨みつける。頭に目は無い。だがその紅蓮の杜は、間違いなく黒い騎士を敵と見做した。

「―――『焼き尽くす炎の檻(ウィッカーマン)』!」

大きく、炎の巨人が腕を振りぬく。既に開け放たれた門の向こう、伽藍洞のような胎の底にセイバー・オルタを叩きつけるや、炎の牢獄が己を燃料に、さらに猛り狂うように炎は威力を増していく。

セイバー・オルタが纏う魔力諸共に焼き尽くすほどの獄炎。指先が炭化し、肺が燃え尽き、内蔵が焼け落ちる。霊基すら焦がすほどの灼熱の胎の中。

彼女は、黒き星の刃を上段に構えた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

絶望の名は《英雄》

それは、神話の戦いだった。

吹きすさぶ暴威、咆哮する神性。巨大な怪異が振るう神威は、その一薙ぎで肉を挽き潰し、大樹を叩き切り、岩塊を破砕する。その破壊の前に、人の身はあまりに脆いものだった。

だが、それでも相対する。到底人間の細腕では叶わぬ怪物を相手に、たった小さな少女が相対する。その手に握る人理の結晶、英雄譚を彩る貴い幻想(ノウブル・ファンタズム)を以て、神の時代へと肉薄する。

手に握る西洋の双剣の一振り、『激情の細波(ベガ・ルタ)』。海神より賜りし黄昏の剣(ベガ・ルタ)は、所持者の防御値―――対魔力や耐久―――を跳ね上げ、魔力値を底上げする。

振り下ろされる斧剣を赤き剣で切り払い、横薙ぎの一撃を叩き伏せる。地面にめり込んだ巌のような斧に軽やかに赤い矮躯が飛び乗り、がら空きの胴体めがけ、剣を撃ち込んだ。

既に剣戟で捲れ上がった傷めがけて叩きつけるや、どす黒い血が飛沫となって巻きあがった。

狂戦士が雄たけびを上げる。すくい上げるような斧剣の一撃に、黄の剣を重ね合わせる。重い一撃はあっさりと刀身を打ち砕き、衝撃の余波だけで小さな身体を吹き飛ばした。

宙に投げ出され、錐揉みする彼女へと追撃をかける巨体。左腕の傷に顔を歪めながら、それでもクロは、狂戦士の体躯に狙いを定めた。

「―――『激情の細波(ベガ・ルタ)』!」

折れた剣を投擲する。身体の発条でもって放たれた剣は、既に折れ、柄だけになりながらも狂戦士の頭蓋を抜け、脳髄をぶちまけ、間違いなく即死させた。

だが、狂戦士は止まらない。殺されたことで却って勢いづくように名状しがたい咆哮を上げ、ただ膂力のままに斧剣を叩きつけた。

投影、開始(トレース・オン)!」

脳裏に思い描く堅き剣。絶世の銘剣と謳われた剣。振り下ろされた剣めがけて、かの伝説の剣を叩きつけた。

直撃の衝撃が両腕を軋ませる。剣戟が余波となって頬を裂き、肩を抉り、足に食い込む。完全に躱し、あるいは防いでいるにも関わらず、既に全身が傷だらけだった。ヘラクレスの一撃はそれほどまでに重く、鋭かった。

乾坤一擲。踏み込む裂帛の気勢だけで巌の如き斧剣を切り払う。斧剣ごと右半身を跳ね飛ばされ、3mに達しようという巨体が蹈鞴を踏んだ。

「―――『不毀の極聖(デュランダル)』!」

それはかの伝説に刻まれた、誉の剣。岩塊すらバターをスライスするように切り裂いた剣はヘラクレスの肉体と言えども一文字に叩き切った。頭から股までかち割られた巨体は、やはりその一撃で即死した。脳みそを真っ二つにされ、心臓を両断され、如何に大英雄と言えども死亡した。

だが、止まらない。忽ちに切り裂かれた肉が繋がると、岩の塊と大差ない大剣が横殴りに直撃した。

一歩間違えれば、その一撃だけでクロは粗挽き肉団子になっていただろう。そうならなかったのは、振り下ろしたデュランダルを返す刃で振り上げたからだった。

その逸話から、デュランダルの刃は決して毀れることはない。だが仮に剣が毀れずとも、クロの小さな身体はそこで限界だった。

斧剣に剣をぶつけた瞬間の衝撃は、大型トラックが直撃したかのようだった。衝撃だけで意識は磨り潰され、矮躯は軽々と吹き飛んだ。受け身を取る余裕すらもはやなく、石畳に頭から激突した。

即座に、クロは自分の身体に解析をかけた。あるいは、無意識で解析した。

腕はまだ動く。足も動く。内蔵は……腎臓と肝臓、膵臓が破裂した程度。肺が無事なのは不幸中の幸いか。その他損傷個所……全身の裂傷。左脇腹が抉られた程度。

デュランダルを杖に、立ち上がる。咳と一緒にどす黒い血液を吐き出して、なんとか、バーサーカーを見上げた。

既に、5回。螺旋剣で上半身をねじ切り、中華剣で全身を切り刻み、呪いの槍で心臓を穿ち、妖精の剣で頭部を吹き飛ばし、毀れずの剣で身体ごと叩き切った。

だが、まだ死なない。ぼろぼろと身体を崩しながら、既に人間というよりヘドロの人形のようになりながら、まだ、ヘラクレスは死なない。

黒い巨人が、不気味な叫喚を巻き上げる。斧剣を振り上げ、目の前の障害物を叩き潰そうと肉薄する。

デュランダルを引き抜く。あと一撃は弾き返せる。その次はどうする、何の宝具で抉り殺す? いや、あと、何回殺せばいい―――!?

振り下ろされる大剣。目前に迫る黒光りする死。げほ、と血を吐き出したクロには、もう、反撃する余力は―――。

「こっちだバカァ!」

あんまりに、その声は場違いだった。

ぎょっと顔を上げれば、とても運動に慣れていない様子で走るトウマの姿が目に焼き付いた。今にも泣き崩れてしまいそうな形相は、近所の大型犬を怖がる幼児のようですらあった。

「馬鹿、何―――」

バーサーカーが身動ぎする。側背から接近するトウマを、敵対行為と見做し、斧剣を振りぬく。サーヴァントすら轢断する一撃。生身の人間など、それこそ剣圧だけで両断しよう。

「―――これでも喰らえ!」

バーサーカーが振り返るより早く、トウマが何かを投げつける。

クロのアーチャーとしての目は、その石くれを明瞭に目撃した。ルーン文字が刻まれた、手のひら大の石はゆらゆらと宙を舞った。

バーサーカーが、飛来した石を叩き伏せた。

それが、合図。一刀のもと、鮮やかに切り裂かれた石が炸裂する。まるで太陽が目の前で弾けたかのような眩い閃光が押し広がった。

炸裂は、バーサーカーの目の前で起きた。いかな大英雄と言えど、かの時代にフラッシュバンなど存在しない。しかも闇夜。もろに閃光を喰らったバーサーカーは、悲鳴のような絶叫に引き裂かれた。

閃光に苦悶するバーサーカーを後目に、トウマが駆け寄る。彼女の小さな身体をなんとか抱き上げると、そのまま山門へと―――。

背後で、肉塊が蠢く。突き出された左の拳が轟音とともに迫る。トウマの足ではとても躱しきれない。

「あ―死ぬ、死ぬゥ! アカン、やべぇ!?」

なんだかわけのわからないことを喚きながら、トウマはもう一つ、石を投げた。

今度は地面めがけて、打ち割るように石畳へと石ころを叩きつける。案の定真っ二つに割れると、切断面を起点に光の壁が屹立した、

バーサーカーの拳が光の壁に激突する。軋みも一瞬、壁一面に罅を走らせながらも、その光の壁は毀れることなく、殴打を防ぎ切った。

防御のルーン。しかもかなり強力なルーンの魔術だ。だがキャスターのそれとは違う。だとしたら―――。

逡巡は、一瞬。

確かに光の壁は、バーサーカーの拳を一旦、受け止めた。だがそれも1秒程度。粉々に打ち砕いた剛腕が、トウマを弾いた。まるで、ゴム毬のようだった。ぽーん、と軽やかに跳んだトウマは、山門にぶち当たる寸前、腕に抱きかかえていたクロを離した。

咄嗟に、地面に着地する。ふくらはぎが抉れた足では碌に着地もできずに地面に転がった。転がりながら、彼女はなんとか立ち上がった。よろよろと立ち上がりながら、ふらふらと、山門の柱にぐったり寄りかかるトウマに、駆け寄っていった。

肩をゆする。反応は無い。ぞっとしながら、クロは、トウマの胸に手を当てた。

解析をかける。内蔵はどこもやられていない。どこも折れていない。損傷らしい損傷は無い。さっきの防御のルーンで拳の威力を殺しきったからこそ、だろう。気絶しているのは、諸にサーヴァントの攻撃を喰らったショック、だろうか。

だが、安堵に浸る余裕は、無い。身体を震わせながら振り返ったクロは、そのどす黒い巨体を、真正面から睨みつけた。

巨体が迫る。憤怒の形相に歪みながら、巨体が今度こそとばかりに大剣を振り上げる。

何か剣を作らねば。防ぎ、切り返すための剣を、作らねば。さもないと、このまま、2人まとめて、消えてなくなる。

と。

背後から、か細い声が耳朶に触れた。

虚ろに繰り返す言葉。熱に浮かされたように呟く言葉が、クロの鼓膜を静々と触れ、脳の聴覚野に輪郭を描いた。

―――『勝利すべき黄金の剣(カリバーン)』。

トウマは、その剣の銘を、口にしていた。

ある。確かに、その名の剣はある。そして、クロは、知っている。黄金に食らめく選定の剣、カリバーン。それこそ、バーサーカーを倒せる手段なのだと、彼は譫言のように述べていた。

だが何故、その剣、なのだ? 他により優れた剣があるというのに、何故、トウマはその剣を伝えたのだ?

鎌首を擡げる疑問。微かに過る不審。トウマの、どこか腑抜けたようで屈託のない笑みが、ざらりと脳裏に過る―――。

疑念を拭うように、手を伸ばす。

現出させるは黄金の剣。ブリテンの行く末を見定めるための王の剣。何故か異様にしっくりと手に馴染んだ剣を手に、クロはバーサーカーより半歩早く踏み込んだ。

「『勝利すべき黄金の剣(カリバーン)』―――!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

人の礎を見定めし者

細木づくりの巨人が炎に包まれていく。あるいは、既に炎そのものになった巨人の放つ熱波は、遠く離れたキャスターの額まで炙るほどだった。

ウィッカーマン、人身御供の巨人。原初のルーンの使い手として顕現しながら、その肉体の出自から付与された宝具。贄を胎に、荒魂を鎮めた巨人は、あとは供物を捧げるために全てを灰燼に帰すはずだった。

はず、だ。

「倒したんですか」

マシュが、炎の塊を所在なく眺めている。自分を囮にしたに関わらず、マシュはそれ自体には特段の頓着を持っていないらしい。

肝が据わっているのか。それとも―――。

「早くタチバナ先輩とアーチャーさんに伝えないと」

「いや―――まだだ!」

燃え盛る火焔。紅蓮の牢獄の中―――黝い閃光が津波のように横溢した。

魔力が収束する。縮退星の如くにマナごと、周囲の炎すら喰らいつくしながら、宵闇の閃珖が剣の形へと収斂する。

「―――是は、人理を選定する(護る)ための戦いである」

其は、星の意志。星の力。惑星の(ハラワタ)より産み落とされた最強の幻想、ラスト・ファンタズム。数多ある宝具の中でも頂点に君臨する神造りの剣、その名は―――。

「―――『約束された勝利の剣(エクスカリバー)!』」

―――黄金のフレア。そうとしか言えないほどの、圧倒的な光の奔騰。竜の炉心、そして大聖杯から供給される魔力全てを光に変換して放たれた斬撃は、炎の巨人を真っ二つに叩き切り、光の渦となって押し寄せた。

躱す暇は無い。ルーンの身体強化で敏捷を上げればなんとかキャスターは回避できただろう、だがそれではマシュは躱せない。ルーンで二人を強化する猶予も無い。

何より。

背後に、リツカとオルガマリーが居る。この極限まで練り上げられた斬撃を、何が何でも防がなければならない―――!

《マスター、令呪を―――》

念話で呼びかけた刹那、ぞわりと身体がたわんだ。

キャスターの念話より一手早く、リツカは令呪を切った。

命令は至ってシンプルだった。何よりもキャスターが求めていたその命令に、鋭く口角を上げた。

「んじゃあご命令通り、全力でぶっ潰してやるぜ!」

ドルイドの杖を突き立てる。

右手を地に。軋む霊基の崩壊すらもルーンでねじ伏せ、その真名を解放した。

「―――『大神刻印(オホ・デウグ・オーディン)』!」

地につけた右手を起点に、周囲に不定のルーン文字が浮かび上がる。その数18、かの師より賜りし古のルーンその全てを起動させた。

北欧の神話体系、その頂点に位置する大神オーディンが作り出した魔術基盤。かの戦乙女ですらも、己が霊基と引き換えにしか発動しえない原初のルーン。Aランクを超える魔力の塊、その全てが獄炎へと変換される。

黒き極光。怒涛となって屹立する暗黒の星光に、流星の如き焔が激突する。

焔を食い尽くす断光、暗黒を貫く焱。食い合い、殺し合いながら、星の聖剣と大神の術技は完全に拮抗していた。

だが。

それも、僅かな間、だった。

徐々に、光が炎を飲み込む。大口を開けた巨鯨が海水ごと沖醤蝦『オキアミ』を摂食するように、聖剣が原初のルーンを切り裂く。

「まるで()()()()()だな―――!」

苦く、顔を引きつらせる。上級宝具を遥かに上回る大神のルーンと言えど、相手はさらに上位に君臨する星の意志そのもの。さながらそれは、あの悪戯好きの巨人が育て、炎の巨人が振った炎魔の杖。一つの神話体系の主神でしかないものに、撃ち勝てる道理など無い。

エクスカリバーの閃珖が炎を食らい尽くす。そのまま押し寄せた光がキャスターを消尽させる。

その瞬間だった。

キャスターの前に、彼女は躍り出た。その背に躊躇いは無く、恐れも無く。怖いほどに純粋な背が、青い目に焼き付いた。

「其は、人理を見届けるもの―――」

彼女が、マシュが盾を掲げる。あるいは盾とすら呼べるものか不明な十字の宝具を手に、星光へと相対した。

「マシュ・キリエライト、行きます!」

 

 

「疑似展開―――『人理の礎(ロード・カルデアス)』!」

光の断層の只中、其れは現れた。

あらゆるものを焼き払う星の内海より溢れる濁流を堰き止めるように、白無垢の如き雪花の盾が聳え立つ。その守りは、遥かな太古にてセイバーが背を預けた城壁のようだった。

星の聖剣に耐えうるものなど、この地上には最早存在しまい。神代の終わりに現世にもたらされた終末の幻想、エクスカリバーの出力は、それほどに気高かった。

だが、それは物理法則に限った話だ。あの少女の持つ盾は、物理法則と異なる次元に位置する護り。即ち、精神の護りに他ならない。

ならば、その光景は必然だった。いかなアーサー王の最強の剣が放つ漆黒の極光と雖も、その盾は、防ぎ切った。地獄のような灼熱に包まれながら、それでも、まだ戦いを知ったばかりの小娘は、究極の斬撃を受け止め切った。

セイバーは、おぼつかない足ながらも踏みとどまった。キャスターの宝具で既に霊基は限界に近い。それでも、彼女は地に伏さない。

セイバーは、薄く笑った。これでいいんだ、と思った。永遠に耐え続け、精神が擦り切れて襤褸になるまで摩耗しながら。独りでは決して間違えるとわかりながら、それでも彼女は待ち続けた。行く末を見守る者が現れるのを、ただ、待ち続けた。

盾を構えた少女の目が、セイバーを捉える。視線の交錯は一瞬、セイバーは微笑を投げかけ、目を伏せた。

あぁ―――安心した。

―――だが。

セイバーは再度、剣を掲げた。安堵の微笑は既になく、その金色の目、屍色の肌は、冷徹に戻っていた。

それとこれとは、別だ。いやあるいは、だからこそ示さなければ。最新のサーヴァントへの餞として。

ざわ、と背筋に冷気が奔る。

直感が告げる死の予感。

丐眄と同時、虚空へと剣を叩きつける。その数舜前、滑り込むように人影が重なる。

いつの間にその距離を詰めたのか。一足で相対距離を零にしたキャスターの手には、赤い槍の穂先が煌めいていた。

猛犬の目と黒竜の目が交錯する。驚愕、絶殺、数多の情動を絡ませながら―――。

「『刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルグ)』―――!」

 

 

赤き呪いの槍、ゲイ・ボルグ。本来それは、投擲の為の槍であった。だが、クー・フーリンはその独自の運用を編み出し―――そしてその絶技は、穿てば必ず心臓を貫くとされた。

心臓を貫いた、という結果の後に槍を放つという過程が付随する、因果逆転の魔槍。それを躱すには、いかほどに敏捷が高かろうが無意味である。躱すには高い幸運と直感が必要になる―――その意味で、本来のセイバーはゲイ・ボルグを躱し得る数少ないサーヴァントの1人だった。が、反転した彼女は直感こそ持っているが、幸運値はCと低い。間合いに入れば、ゲイ・ボルグはセイバーの心臓を貫ける。

それ故に、ゲイ・ボルグは切り札だった。アーチャーが放ち、そして所有権を奪い返したゲイ・ボルグは、セイバー戦で鬼札になり得る。だからこそ、最後の瞬間まで温存しきることとした。

焼き尽くす炎の檻(ウィッカーマン)』、『大神刻印(オホ・デウグ・オーディン)』は囮。クー・フーリンの肉体が最も得手とする呪いの朱槍こそ、最後の一手であり―――そして、その赤き刺突は、間違いなくセイバーの心臓を貫き、破裂させた。

血が、地面を濡らした。

宙に貼り付けにされたセイバーの四肢は、既に力を萎えさせている。ぶるぶると痙攣する小さな身体は、あと1秒で事切れる―――。

―――否。

「流石だな、光の御子。いや、北欧の大神と言うべきか?」

ゆら、と幽鬼のようにセイバーが顔を上げる。死蝋のような色の無い顔、冷たい目がひたりとキャスターを睨みつけた。

瞠目する。心臓を貫かれて、なおセイバーはまだ死んでいない。いや、既に死んでいるのかもしれない。だが、死んだ程度で彼女は止まらない。心臓を貫かれた程度で終わるくらいなら、カムランの丘で彼女は果て、聖剣は還せなかっただろう。

それは意地。耐久値Aだけで心臓の破壊に耐えながら、彼女は、無為な最後の剣戟に挑もうとしている。

其は、彼には理解不能なものだった。だが、彼の身体にはあまりに馴染んだ灼熱の無為だった。

「面白れぇ―――セイバー!」

セイバーが聖剣を薙ぐ。袈裟斬りに放たれた剣がキャスターの肩口を切り裂き、心臓を真っ二つにした。ぎりぎり身体を両断しなかったのは、セイバーが既にそれだけの余力を残していなかったからだった。

どす黒く、血を吐き出す。キャスターは、その一撃だけでほぼ、絶命した。だが死に切らなかった。戦闘続行―――仕切り直し。ただ独りで大軍と戦い続けたクー・フーリンが有するスキルは、彼を一歩手前で殺さなかった。

互いに、残りは1秒しか猶予は無い。1秒経てば互いに死ぬ。何をしようとも、互いの死は避けえない。

だが、キャスターは動いた。

左手を掲げる。キャスターとしての彼が持つ杖が、ゆらと形を変える。オーク材の杖は形を変え、もう一本、赤き呪いの槍へと姿を変えた。

セイバーは、ただ虚ろにもう一本の槍を眺めていた。既に、彼女は絶命していた。絶命しながら、その槍の一撃を、ただ、目にしていた。

「―――『是、大神宣言(ゲイ・ボルグ・グングニル)』!」

呪槍が奔る。呪槍は閃光に、閃光は死棘に。片腕だけで放たれた槍は、セイバーの胴を貫いた。

最後の吐息を吐き出すように、セイバーは声を絞る。果たしてそれが、キャスターへの称賛だったのか何なのか、よく聞こえなかった。言葉の意味を問いかけようとした次の瞬間には、セイバーは燐光に包まれ―――消滅した。

セイバーが消えた痕に、何かが閃いた。周囲の景色を捻じ曲げるほどの高濃度の魔力を纏った、奇妙な水晶体。聖杯、だ。

槍を突き立てる。倒れて死ぬのは、彼の歴史に反することだった。

「キャスターさん!」

「よお、お嬢ちゃん。見たか、影の城の主の真似事だ。俺の槍ならあんな奴相手じゃねえって言ったろ?」

言いながら、キャスターは血反吐をまき散らした。思わず倒れかけたところをマシュに支えられ、彼は苦く笑った。

「ったくこれじゃあ格好つかねぇな。嬢ちゃんにも(ゲイ・ボルグ)作ってもらって―――ってなんだ、ここまでか」

キャスターの身体が、燐光に包まれていく。ぼろぼろと身体は崩れ始めていた。つい先ほどセイバーがマナに還元されていくように。

「後は任せたぜ、お嬢ちゃん。まぁなんだ、グランド・オーダーは始まったばかりだが……当分、サーヴァントとして召喚されるのは勘弁だわ」

 

 

 

「キャスターさん、消滅しました。私たちの、勝ち、でしょうか」

マシュは、手のひらの上に零れた光の残滓を見下ろした。

最後の数舜まで殺し合い続けたセイバー。キャスター。英霊たちの戦いがなんであるのか、マシュは最後の最後に、その凄絶を目に焼き付けた。

マシュは振り返り、リツカを見た。彼女は柔く、微笑を返した。

「所長、ありがとうございます。身代わりのルーンがなかったら、私―――」

「いいわよ、別に。精々役に立ったようで何よりです」

ふん、とオルガマリーは取り付く島も無い様子で鼻を鳴らした。態度は相変わらずだったけれど、それでも、まんざらでもない様子なのは、古馴染みのマシュにはよくわかった。

「はいはい―――それよりあの水晶体を回収しましょう。セイバーが異常をきたした理由―――あれでしょ。それに」

(何だい?)

「冠位指定―――いえ、なんでもありません。マシュ、早くなさい」

「は、はい。では―――え?」

ざわ、と空気が震えた。ような、気がした。

何が、というのは、よくわからない。だが、マシュは思わず、リツカを見つめた。

慄く? 恐怖? いや、違う。目を獣のように見開く彼女の内に巣くった情動が一体何なのか、マシュにはよくわからなかった。ただ、そのあまりの強度の情動のせいで、彼女の身体が小刻みに、震えていた。

「いやはや。まさか君たちがここまでやるとはね。計画の想定外にして、私の寛容さの許容外だよ」

伽藍洞に響く声。酷く慇懃無礼な声音には、聞き覚えがあった。

いつから現れたのか、どこから来たのか。いつの間にか面前に現れた獣染みた目の男が、不快そうに口を歪めた。

「―――レフ、教授」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

煉鉄の小悪魔(終)

剣が、地に落ちる。

脆く砕け散った黄金の剣、その刀身に照らされ―――クロは、のたうつように、仰向けに体勢を変えた。

ぎょろりと、赤い目がクロを見下ろす。鋼のような肉体は未だ壮健で、バーサーカーは、ただ静かに彼女を見下ろしていた。

立とうとして、クロは地面に転がった。左腕と左足、まとめて斧剣で轢断されたせいで、上手く動けなかった。

バーサーカーは、直後消滅した。風に吹かれ、飛ばされて宙に舞う灰のように光琳を散らしながら、消えていった。

自分が倒したわけでは、ない。キャスターとマシュが上手いことやったんだろう。

クロは、芋虫のように身体をくねらせながら、トウマの下へと向かった。

ずるずると血を撒き散らしながら、投げ出されたトウマの手を、取る。山門に寄りかかる彼は、まだ、気を失ったままだ。

当然だ。バーサーカー……ヘラクレスの殴打を食らったら、一般人などそれだけで挽肉になる。それこそ、つい数時間前までただの高校生に過ぎない男の子だったのだ。マスター、は。

そう。彼は、つい数時間前、単なる高校生だったのだ。士郎()がそうであるように、当たり前の日常を暮らすだけの、高校生だったのだ。

なのに。

なのに―――。

カリバーンは、折れた。僅かに一合撃ち合って、斧剣に打ち砕かれたた。だが、それはトウマの言葉に虚偽があったわけではない。

今なら、わかる。

カリバーン。勝利すべき黄金の剣。

かの剣はただ王の剣にあらず、精神を見定める剣。その心根に濁りなくば、かの聖剣にすら達する選定の剣。もしその剣が折れる様なことがあるならば、それは―――。

(やぁトーマ君、アーチャー、まだ生きてる!? こっちは大変だ、とにかくレイシフトするぞ! 意識を強くもって、意味喪失はなんとか避けるんだ! そうすればサルベージくらいは―――)

 

 

知らない天井だ、なんて独り言がある。

元ネタは、某有名なロボット(?)アニメの主人公のセリフである。気を失った人物が目を覚まし、そして新天地に辿り着いたことを端的に示す言葉として、度々流用されてきた言葉でもある。

立華藤丸(タチバナトウマ)が目を覚ました時、彼の目は見知らぬ天井を捉えていた。

シミ一つない―――嘘。ちょっとシミはあるけど、十分清潔感を感じる白い天井。LEDの蛍光灯は、それはもう綺麗な光を発している。

だが、彼は知らない天井だな、と思うより前に、なんか病院の一室か学校の医務室みたいだな、と漠然と思った。そうしてぼんやり眺めること10分。なんか死ぬほど怠いな、と思って10分。そろそろ起きるか、と思って10分。目を覚まして計30分経って、ようやく思った。

知らない天井だな―――。

トウマはまるで重油にでもひたされたかのような倦怠感に細やかに抗いながら、のそのそと身体を起こした。ゆっくり右の側臥になり、左手でベッドを押し、右肘でさらにベッドを押して、身体を持ち上げる。重たい頭も持ち上げようとして、結局力尽きると、そのまま側頭部を枕にめり込ませた。めり込ませる寸前、僅かに抗うように手を伸ばして、左手でベッド柵を握りしめた。

怠い。いや本当に怠い。何があったのかと思うくらい怠い。頭を働かそうとしてもなんだか考えはまとまらない。意識を溶かしながらトウマが見たのは―――。

―――隣のベッドを覆うカーテンの隙間。

誰かが寝ていた。栗色の目をした、眼帯を付けた女性が、すーすーと寝息を立てていた。

「何やってんの、君?」

綺麗な声が、耳朶を擽った。

なんとかかんとか、顔を上げると、なんだかどこかで見たことがあるような顔が、ベッドの脇からトウマを覗き込んでいた。

「なんだいそれ。寝相にしては酷く悪いね?」

訝る、というよりは面白がるように、その人物は顔を顰めた。

酷い既視感だ。いや、確かに見たことがある。学校の教科書か何かの写真―――というよりは、絵画で見たことがある顔だ。

「なんだい、私の顔に何かついてるかい?」

孔が空くほど眺めていると、にやりとその人物は笑った。

そう、知っている。この顔は―――。

 

A:モナ・リザ

B:フランシスコ・ザビ―――

 

「いやAだから。誰がザビエルだ誰が」

すぱーん、とその人物―――そう、モナ・リザ(ジョコンダ夫人)の顔をした人物の手が、鮮やかにトウマの頭頂部をすっ叩いた。痛い。

「おや、ジョコンダ夫人(その名前)で私を呼ぶ日本人は珍しい。なんだい、美術部だったとか?」

「いえ、単に授業で習っただけです」

「なぁーんだ、そうか。ま、どっちでもいいけどね。モナ・リザの方がわかりやすくていい。意味はまぁともかくね」

少し残念そうな顔をして、モナ・リザ顔の人物は肩を落とした。

それにしても奇妙だ。絵画で見た人物がそれはもう豊かに表情を変えている様というのは、なんとも言い難い―――おかしみを感じる。

「あの、これは夢か何かで?」

「残念。確かにこの私、ダ・ヴィンチちゃんの美しさは夢のようだ。絶世の美女が目の前に居たら驚くよね、わかる。でも慣れて。君の意識レベルは確かに正常だ。譫妄の様子も無い。なんならバイタルデータも確認してみよう。BP(血圧)117/73、PR(脈拍)72。HR(心拍数)60、KT(体温)36.3℃、SPo2(酸素飽和度)99。うん、至って健康だ。若いねぇ」

枕元の計器のパネルを一瞥。彼女―――ダ・ヴィンチちゃん、と名乗ったモナ・リザ顔の顔を持つ彼女は、うんうんと頷いた。自分の身体機能は問題ないらしいが―――何が何だかわからないことには、変わりなかった。

「なんだい、まだ思考能力は戻ってないのかな? まぁ仕方ないか、所長の護りは確かに優秀だったけど―――サーヴァントだよサーヴァント。私はレオナルド・ダ・ヴィンチ、見た目はちょーっと変えてるけどね。故あってカルデアに協力しているのさ」

さらさら、とダ・ヴィンチは言った。

所長、サーヴァント、カルデア。不意にぴりりと意識が明瞭になると同時、脳みその表層に揺蕩っていた記憶が奥底に突き刺さった。

そうだ。自分は、なんでかわからず燃えた冬木に居て、クロを召喚していて―――。

「あの、みんなは」

「元気だよ。リツカも、マシュも。アーチャーはちょっと怪我をしているけど、まぁ大丈夫さ」

安堵が、溜息となって漏れた。

生きている。見知った顔の人たちは、無事だ。アーチャー……クロが負傷した、という点は心配だけれど、でも、生きているなら、まずは安心だ。

痛ましく、思い返す。

バーサーカーに立ち向かったクロの背を、思い返す。腹部を切られて出血していたけれど。助けた後、彼女は首尾よくバーサーカーを倒したんだろう。

我ながら、よく、バーサーカーの前に飛び込めたな、と思う。あんな怪物を前に、よく足が動いたな、と思う。

彼女、オルガマリーのお陰かなぁ、と思う。彼女が武器―――魔術礼装を用意していたからこそ、上手く立ち回れたのだ、と思う。さもなくば、非現実感のまま突撃して、やむなく打ち殺されていただろう。

「オルガマリー所長は、元気ですか。お礼を言わないと、あれが無かったらク―――アーチャーのこと、助けられなかったから」

ちょっと、照れるように顔が強張る。彼女はなんだか我が強くて怖い印象が強いけれど、でも多分、悪い人ではないのだと思う。礼など言ったら怒るかもしれないが、それでもちゃんと言わなければ―――。

「―――死んだ」

「え?」

「いや、死ぬより酷いかな―――まぁ分かりやすい方がいいかな」

ダ・ヴィンチはちょっと目を伏せた後、しっかりと、藤丸の目を見返した。

「死んだよ、オルガマリーは」

 

 

「なんだい、いたのかいロマン」

レオナルドは、病棟を出るなり開口一番でげんなりと言った。

壁に寄りかかり、なんだかそわそわした様子の栗毛の優男。ロマニ・アーキマンは、いつもの優柔不断そうな顔だ。

「そりゃあ入ろうと思ったんだけど、君が先に入ってたからさ。いきなりドヤドヤおしかけたら患者に毒だろ?」

「尤もらしいご高説どうも。天才を試金石にするとは度胸のある奴だな?」

「まぁまぁ、いいじゃない……後でおはぎあげるからさ」

「私は甘味を左程好まないんだけどな。いや、でも貰うよおはぎ」

軽薄そうに、ロマンは微笑した。やれやれ、とレオナルドは嘆息を吐いて肩を落とすと、彼あるいは彼女も、通路の壁面に身体を預けた。

「まぁ、普通だな。現代的な普通の良識・倫理観を備えたティーンエイジャー。魔術に関しては素人に毛が生えた程度かな、まぁそれはリツカと同じじゃない?」

「誰なのかは聴いた?」

「まぁ、それも素直に話してくれたよ。日本で学校生活を送ってて、ちょっとした事故にあって気が付いたら特異点に居た、だって」

「うーん?」

ロマンは釈然としないように首をひねった。気持ちはレオナルドも同感だ。立華藤丸(タチバナトウマ)の語ったことは、要約すれば目が覚めたらいつの間にか変な場所に居た、と言っていることと大差ない。与太話以前の問題だ。

「でも嘘をついてるようには見えないんだよなー。話すとわかるけど、まぁ普通の凡夫っていうか。演技ができるようにはちょっと見えないかな」

「うーん……あのアーチャーが召喚されたことと何か関係があるのかなぁ。マシュの盾を介しない召喚なんて」

「ま、でも私としてはむしろ渡りに船、と思うべきかと思うかな。だってそうだろ? 確かに彼は妙な存在だ。でもAチームの6人含め、マスター候補のほぼ全てが死亡。生存しているマスター候補も冷凍保存してなんとか延命している状況だ。本人の人格的な欠損も無いし、マスター適性がある。貴重な人材だろ?」

ロマンは悩まし気に眉を寄せて腕を組んでいる。カルデアスに遺棄されたオルガマリーに代わり、カルデアの所長代行を務めるロマンの肩には、相応の重責が圧し掛かっている。本来、矮小でくだらないロマニ・アーキマンという人間存在にとって、明らかに荷が勝つ役職だった。

「オフェリアが意識を取り戻すまでのつなぎ、って風にも使うのもアリなんじゃあないかな。何よりほら、リツカもだけど、トーマクン結構主人公みたいな顔してるじゃん?」

「主人公云々はよくわからないけど―――わかった、君の言葉を信じよう。じゃあ」

「彼とアーチャーについては私が請け負うよ。タイミングからして”フェイト”か別な計器の影響だと考えるほうが適当だろう? なら技術部門の私の役目さ」

ロマンは虚を突かれたようにレオナルドを見返したが、すぐに肩を下ろした。多少の安堵を滲ませながら、ロマンは「問題ばかりだなぁ」と弱音を漏らした。

「一応アーチャーについての調査報告も聴くかい? これから報告書は上げようと思ってたんだが」

「いや、そっち見るよ。管制室から報告が来ててさ、特異点の座標、特定したから来てくれって」

 

 

トウマは、知らない天井を見つめていた。孔が空くほどに、見つめていた。

少しだけシミのある、白い天井。枕元のバイタルデータを収集する計器が、コンスタントに電子音を鳴らしている。すうすう、と聞こえてくる寝息は、カーテンの向こうで寝ている亜麻色の髪の女性のものだろうか。

瞼が重い。目頭に脂ができている。鼓膜の奥で心音が拍動している。唾液が分泌され、舌が自分とは生き物みたいに蠢動する。時折無意味に手の指先が戦慄く。爪が伸び始めている、手が動くたび、シーツと擦れ合う。腹が、減った―――。

ぞわり、と居心地の悪さが脊索を走る。胎動するように身動ぎして、トウマは―――。

「やほー、起きてる?」

ひょこり、誰かが顔を覗き込んだ。

宝石(ルビー)みたいに、綺麗な目が覗き込む。二つ結びになった銀の髪が、動いた拍子に揺れた。朝焼けの空みたいに浅黒い肌の小さな女の子―――クロエ・フォン・アインツベルンは、普段とは異なる私服姿なことも相まって、無邪気そうな顔だった。

なんとなく、直感的に理解する。彼女は、サーヴァント。自分と契約したサーヴァント、だ。

「元気? まだベッドから動けないって聞いたからさ」

「ちょっと怠いくらいかなぁ。それ以外は特に、大丈夫」

つらつらと、言葉が舌を上滑りする。薄い殻の包まれたかのような、奇妙な乖離の感覚だ。

クロが、手を伸ばす。ベッド柵越しに布団に手を入れ、するりと手が背中に滑り込む。

彼女は、ちょっと顔を顰めた。眉を寄せたままうんうん、と頷くと、ゆっくりと首やら臀部やらに手を滑らせた。

「圧抜き。身体動かせないとキツイでしょ?」

「あ―――あ、確かに。ちょっと、楽になった」

確かに、腰と背中にかかっていた負荷が軽くなったかのような感覚がある。得意げに笑ってみせると、クロは、つとトウマを見据えた。

穏やかなような、なんとも言えないような。不思議に表情を緩めた彼女の手は、そのままそっと、トウマの頬を撫でた。あの奇妙な殻に触れて、ゆっくりと、熔解させるように―――。

にぎっ。

「えい」

「イタぁ!?」

ぐに、と頬が歪んだ。細腕とは言えサーヴァントである。かの錬鉄の英雄と同じ筋力Dから放たれた頬つねりは、それこそ万力と大差ない。

「あ、ごめん。力加減が……」

「いや、ダイジョウブ。うん」

ぱっと手を離したクロは、ちょっと戸惑うように手をにぎにぎした。

「ま、でもいい薬になったでしょ? 心療外科的な?」

クロはなんだかよくわからないことを言うと、2度首肯を繰り返した。

「シケた顔してたじゃない? 笑顔になってもらおうかなぁーって」

ね、とクロは小首を傾けた。ぴしゃりと“殻”に撃ち込まれた声音に、トウマは彼女を見つめ返した。

そうして、一度、知らない天井を見上げた。少しのシミがついた白無垢の天井を目に。瞑目を返す。ふぅ、と溜息を吐くと、トウマは、改めて、クロに顔を向けた。

そして、2人は同時に「あのさ」と言い合った。

互いに見つめ返すと、小さく笑った。多分、言わんとしたことは同じなんだろう、と奇妙な確信があった。

クロは頷きを返すと、一歩引きさがり、薄く目を瞑った。と思った次の瞬間、ふわりと彼女の体躯を光が覆う。

瞬き一つの間。思わず目を覆ったトウマが目を開けると、赤い礼装に身を包んだ姿が、そこにあった。

「どう? 魔法少女の生変身」

くるりと、彼女はその場で身を翻して見せる。

背に広がる蝙蝠みたいな黒い外套、どこか扇動的な外装。それは間違いなく、いつもの―――彼女の、固有の出で立ちだった。

トウマは、こわごわとしたまま、手を伸ばした。伸ばした手は左、手の甲には三角の令呪が、確かな輪郭を刻んでいた。

彼女も手を伸ばす。互いに手を握り合った。

「よろしくね。私は、貴方のサーヴァント」

「うん。君は僕のサーヴァント」

ぎこちなく、表情が緩む。照れ、羞恥。淡い雪桜色の情動が、表情筋を解れさせ―――。

「なぁに、照れてるの?」

「―――イっタぁ!?」

スパン、と小気味良い音。背中を叩いた小さな手に子犬みたいな悲鳴を上げたトウマに対して、

クロは莞爾(にやにや)と小悪魔めいた媚笑を浮かべていた。

「まぁ、改めてだけど」

ころん、と小首を傾げて見せる。口角に奔る嫣然と同時、酸化銅の被膜みたいな目に、立華藤丸の姿が反射した。

「これからよろしくね、トーマ」

 

 

彼女は、まだ冬木大橋の上に居た。

アーチに座り、足を宙に投げ出す。あと少しで崩壊する特異点の只中にあり―――彼女は、何をするでもなく、山間を眺める。

崩壊の始まった特異点の中心地。抉れるように崩れた円蔵山に屹立した黒い太陽を、彼女は眺めている。

まるで、是は夢のよう。

いつか夢みた光景。決して届かないはずだった幻影。虚空に延ばした手はどこまでも届きそうで、それでいて、未だ半径85センチメートルしか届かない。

だから、彼女は、立った。

既に黒い太陽すら、崩壊に飲み込まれようとしている。人を呪い殺すことに特化した人類悪の胎児すらをも、この崩壊の前にはどうしようもなかった。

アーチの上に立ち上がった彼女は、胎児に囁くように、獣の遠吠えのように啼いた。

「じゃあ、行こうか」

そうして、彼女は跳躍()ぶ。暗闇の天へと墜落する少女の体躯は、そのまま。




これにて序章、完となります。
ここまで読んでくださった読者様に最大限の感謝を。
第1章については実は書き終わっているのですが、今後の部分を踏まえてすり合わせている部分があるので、次回投稿は一か月ほどかかるかもしれません。

それでは皆様、次章『邪竜協炎戦奏オルレアン ~竜の聖女~』にてお会いしましょう。

P.S. 
照れ隠しで僕って言っちゃうトウマ君かわいい、主人公かよ。
主人公だったわ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第1章 邪竜協炎戦奏オルレアン ~竜の聖女~
人理継続保障機関『フィニス・カルデア』


第1章 邪竜協炎戦奏オルレアン ~竜の聖女~、始まります。


人理保障機関カルデア 居住区画にて

 

藤丸立華は、自室のベッドに横になっていた。いや、転がっていたといった方がいい。どこか力無く放心する様は、まるで癇癪を起した子供が放り投げた石ころのようでもあった。

彼女は、微かに呼吸を続けている。浅い呼吸のまま、鈍色の目は、天井の暖色にともったLEDライトを、益体も無く注視している。

戦慄くように、彼女の唇が蠢いた。艶のある健やかな口唇が、恐々と何かを漏らした。

漏れた言葉はどこともなく溶けていく。舌に馴染んだ彼女の名は、何の手触りも無く、蒸発していく。

立華は、もう一度その名を呼んだ。二度、呼んだ。三度目を迎え四度に達したところで、彼女は宛先のない呼びかけを、奥歯で磨り潰した。

 

 

 

 

 

 

 

 

アーチャーは、彼女のこれまでの生で初めて、その畏れを感じていた。

市街を駆けまわりながらの遅滞戦闘を行うこと、既に2日。来る日も来る日も飛竜を撃ち落とし、撃ち落とし、撃ち落とした。

楽な戦いではなかった。でも、不可能な戦いではなかった。サーヴァントであれば兵站は事実上、無視できる。矢は回収して回ればいい。気力さえ持てば、延々と戦闘を続けられるだろう。元より野を駆け草木に親しんだアーチャーの野伏(レンジャー)としての技倆は、アーチャーとしても卓越したものだった。

戦況が変わったのは、竜の魔女麾下のサーヴァント2基が直接制圧に乗り出してきてから、だった。

戦況不利を悟り、同じく街の防衛にあたっていたセイバー、ライダーに街の人々の避難を任せ、自分と仮面のアサシンで迎撃・遅滞戦闘に当たったのだが―――。

「ここに居たか。蝶のように華やかだが。差し詰め蜻蛉のような女子よな?」

ふらり、と男は現れた。

アーチャーは弓を構えた。番えること3射、弦を引き絞ると、立て続けに撃ち放った。

どれも必殺必中。霊核を貫くはずの矢は、しかし、空を切るばかりだった。

躱された。だが、男はその場から一歩も動いているようには見えなかった。

回避の挙動すら碌に見えないなんてことがあるのか? いや、アーチャーたる自分の目を以てして見えないとは、どういう事態なのだ―――?

首筋を、冷たい汗が伝う。ごくりと喉を鳴らしたアーチャーは、その長剣のサーヴァント、セイバーを見つめた。

ここフランスの地にあって、異郷風の出で立ちの剣士。いわゆる、侍と呼ばれる極東の剣士の格好だ。一つ結びにした長髪に、掴みどころのない雰囲気。男ながら、嫋やかという言葉の似合う男だった。

最も目を引くのは、その長剣だった。いや、刀、と呼ぶべきか。すらりと長いセイバーの伸長すらも上回る細く、長い太刀。剣士というよりは武芸者、という言葉の方が、似あっている印象すらある―――。

「私としてはまだ、楽しみたいところなのだが―――そうもいかぬようだ」

男は哀し気に眉を寄せると、初めて、刀を構えた。

それまで、男の剣に型は無かった。あるいは無形こそ型と言うべきか。自然体から放たれる刀は、歴戦のアーチャーですらをも見切れない太刀筋だった。

その男が刀を構える。それは即ち―――

「では―――」

宝具が来る、と思った。

躱せるか? いや、きっと躱せる。自分の敏捷なら宝具を躱し、その直後に反撃を打ち込む。それすら躱すというなら―――第二宝具を切るしか、ない。

一歩、男が踏み込む。石畳の大地を踏み抜くその一歩は、アーチャーの反応速度を遥かに上回った。

初めての、経験だった。

彼女はこれまで、自分より疾い男に出会ったことがなかった。辱めを受けたのは一度、それとて神々に諮られたに過ぎない。純粋な速度において、己より速い男などいなかった。

だが、セイバーのそれは、アーチャーの速度を一歩、上回る。単純な回避は、間に合わない。

だが、まだ回避の可能性はある。撃たれた剣筋から後の先を見て躱す。それしかない。アーチャーの目ならそれができる。

セイバーの太刀が振り下ろされる。アーチャーは見る、剣の軌道を見る。

アーチャーは、絶句した。確かに剣筋は見えた。だが、原理は理解不能だった。

剣が、3本あった。神速の三連撃、なんて生ぬるいものではない。比喩でも何でもなく。3本の太刀が同時に三方向から斬りかかってきた。

そうして、アーチャーは首を跳ね飛ばされた、一太刀は躱せても、回避軌道に先回りした別な2太刀が左右から蟹鋏のようにアーチャーのほっそりした首を刈り取った。

 

アーチャー、アタランテ。

 

特異点と化したオルレアンに召喚され、右も左もわからぬまま、されど人理の護り手として戦い、フランスの英霊たちと肩を並べ、かの竜殺しの大英雄と共同戦線を張った彼女の物語は、ここに終結した。

 

 

 

 

「やっと終わはったの、セイバー」

つと、艶やかな声が肩を叩いた。生返事で返したセイバーはおざなりに肩に刀を担いで振り返った。

「そなたがアサシンをさっさと始末するからであろう、バーサーカーよ。折角の宴、そう急かすものでもあるまいに」

「そない睨まんといていな。アサシンが弱いのが悪いんやないの」

ころころ、と笑う着物姿のバーサーカー。広場の噴水に腰かけた彼女は、少女、とすら呼べる出で立ちだった。

しかし、一部、目を引くものがあった。

バーサーカーの頭部には、禍々しい角が生えていた。額から聳える凶つ双角は、彼女が人でないことを明瞭に証立てていた。

バーサーカーは、手に仮面を持っていた。打倒したアサシンの面からひっぺがしたものだった。

彼女は盃に徳利から清らかな液を並々と注ぐと、つつり、と啜る。しめやかな仕草は、それだけで絵になるものだった。

「あんたはんもいかが? ええ酒よ?」

「音に聞こえし酒呑童子の盃とは、名無しの農民風情には畏れが過ぎるものよな」

「何言ぅてはんの。かの大剣豪、佐々木小次郎にお酌出来る機会なんて、そうありまへんえ?」

けらけら、とバーサーカー、酒呑童子は笑うとセイバー、佐々木小次郎は刀を背負った鞘に納めた。

「さて。では、気が変わらぬ内に、一献戴くとしよう」

 

 

 

 

 

 

 

 

「フォウ、フォウ―――キュウ」

トウマは、耳元で擽るような声で眉間にしわを寄せた。

既に、カルデアに来て数日。あの小さな猫だか犬だか知れない生き物―――フォウの鳴き声だ、とわかるようになった。

のそり、とベッドの上で体を起こす。真新しいリネンの匂いがすっと鼻先をすり抜けていく。

あくびを一つ。目元を擦ったトウマは、くしゃくしゃ、とフォウを撫でつけた。

「なんか、悪い夢を見ていたような」

寄せ合った眉間のしわはそのままに、目を細める。

何か、良くない夢を見ていたような気がする。具体的に情景を思い出そうとすると手をすり抜けていく水のように当てもないのだが、なんだか、親しみのような奇妙な感情を覚えさせられる夢だ。その癖、夢見はあまり良くない。

「フォウ、フォウフォウ?」

てしてし、とフォウがトウマの左手を叩く。見上げる視線は、どこか慮るような眼にも見えた。

どこか、知性を感じさせる目。家でペットを飼ったことはない。普通の犬や猫がこんな知的な目をするのか、彼にはよくわからなかった。

「別に、大したことじゃあないよ」

諭すように言う。フォウは品定めするように数回首をかしげると、とりあえず納得したように頷いた。「フォウ」

と、フォウが耳を欹てた。ぴこぴこと耳を動かすと、フォウはトウマの膝の上から飛び降りて、一直線に出入口へと駆けた。

「ミュー、キャーウ!」

電子ロックが解除、自動ドアが開いた瞬間に、白い小さな塊が飛ぶ。ピンポン玉みたいに飛んだフォウを、ドアから顔を覗かせた少女は事も無げに抱き留めた。

「もう食らいませんよーだ。2回目だもんね」

浅黒い肌に銀の髪の少女―――クロは、勝ち誇るように胸元の獣に笑みを向ける。今はオフ、ということなのだろう。私服姿に二つ結びにした髪は、普段よりも輪をかけて幼く見える。

なにやら残念そうに、フォウは鳴いた。互いに、すきを見てはちょっかいを出すような関係らしい。己の姦計が破綻したことに、フォウは不服なのだ。

「フォウはいつも元気ね。トーマは、よく眠れた?」

「まぁ、ぼちぼち?」

トウマは、歯切れ悪く苦笑いする。

眠れたといえば眠れた。眠気は無いし、疲労感も無い。今すぐにでも走り出せる―――そんなコンディションだ。

だが、なんだか夢が気にかかる。特に覚えているわけでもないというのに。

「ふーん? ま、ベストが良いってわけじゃないし。ぼちぼちが一番よね」

「どゆこと?」

「あんまり素人が体調良すぎると、無茶するってこと。生身でヘラクレスに立ち向かったりね」

クロは、意地悪く唇を歪めた。

心配かけたことを根に持っているんだろう……きまり悪く、トウマはただ身じろぎした。

「そうだ。ロマンが呼んでたわよ。管制室でブリーフィングだって」

くるりと、クロは身を翻した。ちらとこちらを見る視線は、待ってるから早く来てね、というアイコンタクトだった。

クロが自動ドアを潜る。靡く銀の髪の房を目に、トウマはベッドから抜け出すと、二本の足で、立った。

ひやり、足の裏が凍える。ぶる、とトウマは体を震わせた。

ブリーフィング。遂に、始まるのか。早く拍動を始める心臓音を内耳に、トウマはハンガーにかけてあったカルデアの制服―――魔術礼装に、袖を通す。

白い、新調の上着。黒のパンツ。胸元のベルトを締め、居心地悪そうに、上着の裾なんかを直す。

いずれ、これを着慣れる日が来る。よし、と一言。のどの渇きを潤すように唾液を飲み下すと、トウマもクロの後に続いた。

 

 

 

 

管制室・司令部コンソール前にて

 

「やぁお疲れサマ。よく眠れたかな」

ロマニ・アーキマンはわざわざ座席を回してトウマの方を向くと、底抜けに温和な顔で言った。

穏やかな性格であることは、冬木で連絡を取り合ったときにそれとなくわかっていたことだ。お人よしで、朗らか。近所の優しいお兄さん、という言葉がよく似合う青年だった。

「クロももう大丈夫かな? 不調は無いかな」

「特に無いわ。いい感じ」

ね、とクロは抱きかかえるフォウを揺すった。頷くようなフォウの鳴き声に良かった、と応じると、ロマニは穏やかな表情のまま、すっくと席から立ちあがった。

「よし。それじゃあ、改めて君たちにやってもらわなきゃいけないこと、説明しないとね。ついてきて」

こっち、と歩き出した先、ロマニが手招きする。クロと顔を見合わせると、赤毛の青年の背を追った。

管制室外縁部の階段を下りて、管制室前の広場へと足を踏み入れる。ロマニが向かうのは広場の中央に浮かんだ巨大なモニュメントの下だ。

人間大の巨大な地球儀に、惑星環が三重になったかのようなモニュメント。疑似地球環境『モデル・カルデアス』。それが、このモニュメントの名前だった。

惑星には魂が存在する、との定義の下、その魂の複写により作り出された小型の疑似天体、という代物らしい。トウマには何が何だかさっぱりわからないが、言ってしまえば地球の小型コピーであり、地球で生じた過去の出来事を観測できる……らしい。さらには100年程度であれば、ある程度角度の高い未来も観測できるとか。機能面に限ってい言えば、なんだかムーンセルの若干へぼい版だなぁ、というのがトウマの感想だった。

その小型地球―――カルデアスは、現在灰色に染まっている。延焼の後に残った燃え滓のような灰色だ。

そのモニュメントの傍に、見知った人影が2つ並んでいた。

赤銅色の髪を一つ結びにした少女。そしてもう一人、白い髪の少女。リツカと、マシュだ。

「やぁお待たせ。元気そうだね、二人とも」

「先輩、さっきまで寝ていたんですよ?」

「マシュが来るの早すぎなんだよ~」

ぐだ~、とリツカがマシュの背に抱き着く。緊張感のない顔は、如何にも同じ16歳の女の子といった感じだ。

その姿だけ見ていると、冬木で見せた姿が嘘のようだ。

怜悧に研ぎ澄まされた牙。そんな印象は、今の彼女には無い。

―――というか、マシュはなんで顔を赤くしているのだろう。

「そりゃあまぁ、そういうことじゃない」

意味深に言うと、クロはにやりと口元を歪めた。

……なるほど。抱き着いたまま、肩越しにひらひらと手を振るリツカ、そして顔を真っ赤にしながら小さくお辞儀をするマシュを見、なんとなく、トウマは察した。

「仲良き事は善き事哉」

うんうん、とクロは頷いている。そういえば彼女は、結構許容範囲が広かった。

「よし。じゃあ4人揃ったことだし、状況説明(ブリーフィング)と行こう」

手尺を一つ。ロマニは変わらず、人のよさそうな朗らかな微笑を浮かべた。画面越しの時はわからなかったが、ロマニは人前で話すことに慣れているらしい。落着きのあるたたずまい、そしてその穏やかな声音は、自然と耳を向かせる何かがある。

「作戦にあたっての説明事項は3つ。1つ、特異点の調査及び修正。2つ、『聖杯』の調査。3つ、特異点にレイシフトしたら霊脈を探査。召喚サークルの設置をお願いしたい。3つ目は1つ目から派生したものだから、実質上は2つかな」

『聖杯』。トウマは知らず生唾を飲んだが、とりあえずは1つ目が先だ。

「さて、1つ目の『特異点の調査及び修正』についてだね。

 まず物凄い語弊を恐れずに言うなら、君たちが行うのは『間違ったifの歴史の修正の

旅』と理解してもらっていい」

 「それって、例えば『織田信長が本能寺で死ななかった歴史』にレイシフトして、その間違いを修正する……ってことかしら」

「オダノブナガ……日本の英雄だね。そうだね、その理解で概ね正しいと思う。クロちゃんは理解が早いね」

うんうん、とロマニは頷いている。まるで近所のおじさんだ。クロの外見から年下と理解しているのだろうけれど―――。

当のクロは、なんだかドン引きした顔をしていた。

「正確には違うんだけど……厳密な定義は、特にいいかな。特異点、即ち『ifの歴史』の修正。それが第一の目的。それでは第二の目的だね。

 『聖杯』の調査だ。

 これは推測なんだけれど。特異点を発生させているのは、聖杯なんじゃないかと考えられてる。

特にトーマ君は知らないと思うけれど、『聖杯』とは、一言でいえば願望機という奴だ。膨大な魔力をリソースに、所有者の願いをかなえる魔導器のことだね」

微笑はそのまま、ロマニはちらとトウマに一瞥を寄せた。

何も知らないはずのトウマを慮っての言葉、だろう。だが、実際トウマは、聖杯がなんたるかは知識としてはよく知っていた。なんなら、亜種聖杯戦争と呼ばれるものが多発した世界のことも知っている。

もちろん、それらはまだ、クロを除いては誰も知らないことだ。トウマはいかにも、といった顔でうんうんと頷く素振りをした。

そしてその知識故に、トウマは、隣にたたずむ銀の髪の少女の存在を意識せずにはいられない。

クロ。いや、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。彼女のその名は、言わば天の杯(ヘブンズフィール)の代名詞とすら呼べる。あるいは、血肉を持った聖杯、とでも言おうか。

無論、聖杯(アートグラフ)聖杯(ヘブンズフィール)は別なものではあるけれど―――。クロの表情は、普段と変わらない、余裕を感じさせる微笑だ。

―――彼女の真名を、一部だけ開示したのも、そういった理由だった。クロ、という名前だけを開示することで、逆にアインツベルンの名を伏せる。未来の英霊と名乗れば、ライブラリに全く該当しないことも、誤魔化しは効くだろう―――との判断だった。

「レフ―――そうだね、トーマくんは知らなかったね、レフ・ライノール。近未来観測レンズ『シバ』の開発者で、顧問を務めていた魔術師だ―――はなんらかの形で聖杯を手に入れて、悪用したんじゃないか、と考えている」

ちょうど目の前に映像が投射された。

レフ・ライノールと呼ばれる人物のパーソナルデータが羅列された一覧だ。映っている人物は、にこやかにほほ笑む好人物、といった様子だが―――。

この人物が、この事件を引き起こした犯人、と目されている。カルデアを爆弾テロで強襲し―――そして、所長を、オルガマリー所長を、殺した、人物―――。

ざわざわ、と肌が泡立つ。眩暈が頭蓋の奥まで突き抜け、臓腑の底で、捻じれるような不快感が惹起した。

ちら、とクロが見上げる。表情はやはり変わらないが、その目はたぶん、トウマを慮ってのものだった。

大丈夫、と軽く頷きを返す。視線を下げると、クロはするりといつもの様子へと戻った。

ダメだな。一度強く目を瞑り、トウマは、重く吐息を漏らした。

「時間旅行とか歴史改変とか、聖杯でも無ければ無理だから。ホント」

とつとつと、ロマンの言葉が周囲を流れてくる。ろくに聞いていないのに、こうしてしっかり耳に入ってくる彼の声は、なんだか、不思議な強制力に似た心地よさが、ある。

それにしても、と思う。

レフ・ライノール。どこかで聞いたことがあるような。ないような?

「特異点を調査する過程で、必ず聖杯に関する情報が見つかると思う。そしたら、手に入れるか、あるいは破壊して欲しい。たとえ歴史をもとのカタチに戻しても、聖杯が残ったままだとまた特異点になっちゃうからね。

この2点が作戦の主目的だ。いいかな」

3人が、頷きを返す。ワンテンポ遅れ、トウマは首を縦に振った。

ロマニの目が、つとトウマに止まる。すぐに視線を逸らした。「うん、よろしい!」

「それじゃあ補足。さっき言った、もう一つの目的だね。レイシフトしてその時代に跳んだら、召喚サークルを作ってほしいんだ。霊脈を探したり……本当は冬木でもやってもらいたかったんだ。物資の輸送やサーヴァントの召喚が行えるようになる。方法に関しては、レイシフトした後にまた詳しく伝えるよ」

さて、とロマニは身を翻した。一度灰色に燃え尽きたカルデアスを見上げたのち、再び向き直った。

優しい表情は、無い。言葉を詰まらせたように苦し気に眉を寄せたロマニは、「悪い、と思う」と言葉を漏らした。

「リツカちゃんも、トーマくんも、元を辿れば正規のマスターじゃない。マスター候補ですらなかった。ほとんどのマスター候補は、今は……安置所だ。Aチームも一人だけ生き残っているけれど、意識は戻らない。実質的な戦力は、君たち二人しかいない。

まともな大人なら、君たちを前線に送り出すべきじゃあない。でも、レイシフトの適性が極めて高い二人を遊ばせておく余裕は、ぼくたちには―――いや、人類には、その余裕は無いんだ」

所詮は言い訳だけど、とロマニは決まり悪そうに、言葉を濁した。

「別に、私は構わないよ。やらなきゃいけないことだし……所長の、弔いでもあるんだし」

リツカは、何でもないように肩をすくめて見せた。彼女らしい笑顔は、でも、少しだけ寂しさのようなものを感じさせた。

確かに―――と、思う。

立華藤丸(タチバナトウマ)には、彼らに付き合う義理は無い。元は異邦人に過ぎない彼に、この世界の危機に対して立ち上がる責任や義務といったものは、中々成立しにくい。ただ巻き込まれた人間として異議を唱えれば、恐らく誰一人とて、彼に何も強制はしないだろう。そして多分、彼らのことである。そんなトウマに、このカルデアでの生活を保障するだろう。

でも。いや、だからこそ、というべきか。

「俺も、なんでこんなことになったのか、知りたいし。なんで別な世界に来たのか、とか。なんで大勢の人がこんな目に―――死ななきゃならなかったのか、とか。俺は、その答えを知らなきゃいけない気がするから―――なんか、どううまく言葉にしていいかわからないけど」

トウマは、もどかし気に俯いた。

―――病室から出るまでに、色々と、考えた。元の家に世界に戻りたい、とも思った。大勢の人間が死んだことも知った。大勢の中の一人―――冬木で実際顔を合わせて、言葉を交わしもしたあの白い髪の、どこかキツくて苦手で、でも助けてくれた彼女のことも、考えた。

「俺、ここで止まっちゃダメだと思うから。まだ何も始まってないのに、終わりになんてできない、から」

「そうか―――わかった」

ロマニの返答は、それだけだった。ただそれだけ、慈愛に満ちた彼の柔和な顔は、ただ優しく、トウマの言葉を肯定していた。

少しだけ、気恥ずかしい。ロマニは、どこか抜けていて気さくな感じがするけれど、同じくらい底が深くて、温かい。人間味、というんだろうか。素朴に、いい人だな、と思った。

しかし―――むう。気が付くと、リツカも、マシュも、クロも、なんだか感心したように頷いたり、ニコニコしたりしている。

学校で、自分で書いた作文が読み上げられたかのような恥ずかしさがあるぞ……。

「そ、それで。レイシフト? はいつなんですか?」

「やぁやぁ、トーマくんは勇ましいね」

からからと笑ったのもつかの間、すっとロマニの目に真剣な色が宿る。雑談はここまで、というように空気が切り替わった。

「早速行ってもらうよ。今回はレイシフト用のコフィンを4基用意してある。正確に、そして迅速にレイシフト出来るはずだ」

ロマニが背後を振り返る。

カルデアスが屹立する広場には、地面から石柱のようなものが4基、地面から生えるように立ち上がっている。あれがコフィン、という奴なのだろう。

「7つの特異点の中でも、今回は最も揺らぎの小さな時代を選んだ。もちろん油断は出来ないけど、一番危険の少ない特異点のはずだ」

ロマニが向き直る。厳しい表情は変わらず、ただその目は、4人の姿を焼き付けるように注がれていた。

 

「では―――健闘を祈るよ。リツカ君。トーマ君」




投稿したものを頭から読んでみると、行間、話の切れ目などなど全体的に読みにくいかもと我ながら……。
文書ソフトで編集しているときには意外と気が付かないものですね。

折を見て、少しづつ改善できたら、と考えています。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

長閑な戦場

アンサモンプログラム スタート

 

霊子返還を開始 します。

 

レイシフト開始まで あと

 

 

3、2、1……

 

 

全工程 完了

 

グランドオーダー 実証を 開始 します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――無事、転移できたって感じ?」

クロの声が、ふわりと心地よく吹き抜ける。

瞼を開いたトウマは、思わず、感嘆を漏らした。

どこまでも突き抜けるような緑の草原。なだらかな丘がぽつぽつと並び、点々と樹々が鮮やかに色づいている。

つい1秒前、確かに自分は薄暗い管制室にいて。息が詰まるようなコフィンに身を投じたはずだった。

これがレイシフト。過去の時代への跳躍。目の前に広がる光景には全く現実感が無いのに、確かに肌に触れる風や草木の匂いは、間違いなく現実のものだった。

「今回はコフィンによる正常な転移です。身体状況も問題ありません」

マシュは、既に戦闘用の装備を整えていた。

身の丈を優に超える巨大な盾。身体の稼働を重視した、どこか近未来的なボディスーツ。いつもは落ち着いた雰囲気だが、今凛々しいといった方がいい少女は、油断なく周囲を見回している。

クロも、もう私服姿ではない。錬鉄を思わせる赤い外套に、扇情的な出で立ち。冬木で見せた姿とは似ているようで異なる、彼女の本来の正装だった。

「フィーウ! フォーウ、フォーウ!」

健やかな鳴き声一つ、ひょこりと白い毛むくじゃらがどこからともなく顔を出した。

大きく鳴いては、フォウはひょこひょこと草の上を駆けまわっている。ずっと部屋に閉じこもっていた子供が久々に外に出たかのようだ。いや、それが動物であるなら、なおのことだろう。

「あら? フォウもついてきたの?」

「キャーウ……」

ぴょい、とフォウが跳ねる。マシュの頭の上に飛び乗ると、もう一度小さく鳴いた。

両手でフォウを持ち上げると、マシュはまじまじと顔を突き合せた。

「フォウさんに異常はありません。恐らく一緒にレイシフトについてきたんだと思います」

「誰かのコフィンに潜り込んでたってこと?」

「そのように考えるのが適当かと思います。ですので、大きな問題はありません。座標は4人の内の誰かで固定されているはずですので、私たちが帰還できれば自動的に帰還できるものと考えられます」

「フォウのためにも、無事に帰らなきゃね?」

ぴょん、とマシュの手から飛び降りると、今度は軽々とクロの背へとよじ登っていく。

小動物と戯れる女の子2人。世界の危機への第一歩だというのに、なんだか微笑ましい。いや、違うか。こんな当たり前の日常を守るために、きっと―――。

ふと、トウマは、もう一人の存在に思い至った。リツカの姿が、見当たらない。

はて、と首を動かすと、何のことは無く、彼女は小さな丘にたたずんでいた。温い風に一つ結びにした赤い髪を靡かせて、彼女は、当てもなく宙を見上げている。

「おーい、リツカさん。どうしたんですか?」

ぶんぶん、と手を振る。彼女は一瞥をトウマに向けると、再度空を仰いだ。

「あれ! 何かな?」

リツカが、大きな声を上げた。あれ、と言いながら、彼女は空を指さしている。釣られてトウマも、空を見上げると―――。

「オーロラ?」

青い空。まさに果てのない穹窿の彼方に、白い光の帯が横たわっていた。

外見は、オーロラのようだった。違いがあるとすれば、オーロラはもっと優雅に波打つように空に帳を下ろすが、目の前のそれは、そんな雅なものではない。何かもっと、先鋭的で、驕慢な何かが、その光にはある―――。

「あれは……カルデアに確認をとってみましょう。こちらマシュ・キリエライト。聞こえますか」

マシュが無線に呼びかける。空中投影型のディスプレイが立ち上がると、通信ウィンドウが開いた。

(やぁ、聞こえているとも。あの空の光の帯のことだね? こっちでも映像で確認した、ちょっと待ってね、すぐに調べよう)

ウィンドウの向こうで応えたのは、見目麗しい女性だった。

冬木からカルデアに来た当初に出会った、カルデアのサーヴァント、レオナルド・ダ・ヴィンチだ。

(ただ言えるけど、その時代にこんなものがあった記録は無いんだよねぇ。

君たちは西暦1431年のフランス、百年戦争の休止期間に跳んだようなんだけど、衛星軌

道上に展開した巨大な魔術式なんて聞いたことがない)

(間違いなく未来消失の一端だろうね。解析に時間がかかると思うから、まずは現地の調査に専念してくれていい。霊脈探しだね。何かあったらまたすぐに連絡してくれ。それじゃまた、何かわかったら連絡するよ)

ディスプレイが忽ちに消失する。互いに顔を見合わせると、4人はそれぞれに頷きを合わせた。

やることは少なくない。ロマニが指摘した霊脈探し、この時代の状況の理解。今は地道に一つずつこなしていく他ないだろう。

「じゃあ、まずは街に行けばいいのかな」

「待って。戦争中なのに、そんなにほいほい街に行って大丈夫なのかしら」

「その点に関しては気にしすぎる必要はないかと思います。戦争中ですが、1431年は休止期間です。この時代の戦争は比較的のんびりしていますから」

「戦争なのに?」

クロは怪訝な顔だ。戦争なのにのんびりしている……ある意味現代の人間であるクロにとって、戦争とのんびりというワードが結びつくことがイメージしにくいらしい。

というか、トウマも初めて知った。確かに高校の世界史Bの授業で百年戦争の話は習ったが、そんな有り様だったとは……。

「よし。じゃあ当面の目標は、街を探して状況を整理することだね。行こうか!」

 

 

「恐らくですが、ジャンヌ・ダルクに関する何かしらの事件が起きたのではないか、と考えられます」

マシュは、生真面目そうな凛とした顔で言うと、厳めしく咳払いなんかをしてみせる。なんでなんで、と目をキラキラさせるリツカの言葉に、彼女は気をよくしているらしい。

「1431年、といえばジャンヌ・ダルクが火刑に処された年です。その前後に起きた大きな出来事の多くに彼女は関わっていますから、そう推測するのが適当かと思われます」

「おおー」

パチパチパチ。リツカが手を叩くと、マシュは少しだけ表情を崩した。16歳、というにはなんだか幼いというか、初心な反応だった。それだけに、マシュはリツカに親愛を抱いているのだろう。マシュの歴史講義が始まって、かれこれ30分。それこそ世界史の先生もかくやといった口ぶりで、マシュは話を続けていた。本を読むのが趣味、とは彼女の弁だが、それにしても物知りだ。それに関心したリツカがマシュをことあるごとに褒めては、マシュが照れるように赤面する、といった行為も、とどまることを知らずに繰り返されている。トウマは二人のそんなやり取りを聞きながら、遠くへと視線を向ける。

およそ500m前後離れた場所に、赤い影が動いている。斥候として単独行動を取るクロだ。彼女が先行し、周囲の状況を確認したのち進行、といったルーティンで進んでいた。

遠くで、赤い影が丐眄する。そのまま進み始めたことから察するに、周囲に危険は見受けられない、ということだろう。

特異点にレイシフトしてから、かれこれ1時間。特段何も無く、瑞々しい自然が延び広がる光景は、長閑を通り越して牧歌的ですらある。戦争中とは思えない緩慢な空気は、なるほどマシュの言った通りなのかもしれない。

それにしても。

「ジャンヌ・ダルク―――かぁ」

思わず、トウマは空を仰ぐ。

TYPE-MOON的には、ジャンヌ・ダルクはFate/Apocyrphaの主要キャラ……というかメインヒロインの一人だ。

彼女が息づいた時代での戦いというなら、彼女が居たりするのだろうか。それか、あるいは敵だったりするのだろうか―――。

「タチバナ先輩は、どんなifの世界だと思いますか?」

「え?」

ふと気が付くと、妙に目をきらめかせた二人がトウマを見上げていた。

察するに、歴史のifに話の花を咲かせていたらしい。歴史もののバラエティでよく取り扱われるテーマといえばテーマで、そこに何かロマンがある、というのは、わかるような。

「うーん、そうだなぁ」

脳裏に過る黄色いジャンヌ。ごしごしと黄色いイメージを拭いつつも、思案する―――。

「黒いジャンヌ、とか」

「黒い……?」

「あぁいや、闇堕ちみたいな? ほら、ジャンヌ・ダルクって傍目に全然報われない人生だったからさ」

イメージ、してみる。

聖女然とした彼女が黒衣を纏い、復讐に身を焦がす姿。ジャンヌ・ダルク・オルタ、とでも言えばいいのだろうか。だとすればクラスはアヴェンジャー?

うむ……結構カッコいいかもしれない……。

「なるほど、それは考えませんでした。聖女ジャンヌは勇猛なイメージがありますから、そのまま法王や教皇のような位まで上り詰めて独裁を敷いてしまう、といったものを考えていました」

中々エグいことを、マシュはさっくりと口にした。無垢に見えて、マシュは冷めているというか現実的というか、いかにも物静かな少女という定型的イメージとは明らかにズレたパーソナルの持ち主だった。まぁ、人間なんてそんなもんなんだろうけど。

「トーマ君は結構想像力豊かなんだねぇ」

「はい。頭が柔らかいです」

それは褒めてるんだろーか。じとりと2人を見返すと、曇りなき眼だけが返ってきた。

……褒めてるわこれ。

「クロちゃん、手振ってる」

「え?」

薄く目を細めて、リツカは遠くを眺望していた。

釣られて、トウマもじっと視線の先を追ってみる。確かに、なだらかな丘の中腹あたりに赤い点は見えたが、手を振っているか否かまでは判別できない。

やはりリツカは、何か特異な存在なのだろうか―――?

「先輩、よく見えますね。確かにクロさん、手を振ってますね」

「え? や、強化してるし……さすがに表情までは見えないよ?」

「あ、そうでした。先輩、あんまりその……らしくないので」

「よく言われるぞ~」

健やかな艶のあるマシュの髪を、リツカは遠慮なくわしゃわしゃした。まるで飼い犬をほめちぎる飼い主そのものみたいな仕草である。マシュも満更でない……というか顔を真っ赤にして、よしよしされていた。

「手を振ってる、ってことはこっちに来てって意味だよな。急いだほうがいいんですかね」

「速足でいいかな、無線閉鎖維持してるってことは、急ぐ必要は無いと思う」

「なるほど……」

確かに、緊急時は通信する、と取り決めていたはずだ。それが無い、ということは、見てほしいものはあるが急ぐ必要はない……という状況なのだろう。

ロジックを聞けば説得的だ。だがこの一瞬でそこまで判断できるのは、やはりすごいと思う。冬木の時も思ったが、リツカは、場慣れしている。元はオルガマリーの助手、という立場でカルデアに所属していたから、元からそういうことに慣れているんだろうか。

「マシュ、殿について。トーマ君は私についてきてね」

「了解、後ろはお任せを」

背後にマシュが移ると、リツカは特に急ぐ素振りもなく足を踏み出した。

速足、という言葉通り、走りはしないが歩くよりはちょっと早い。およそ700mほどの距離を5分ほどのペースで、クロの下へ向かった。

クロはまず、手のひらを上下させてから、その場に屈みこんだ。動作を倣え、とのハンドサインだ。クロと同じように腰を落とすと、彼女は軽く頷いた。

「誰か見つけた?」

「ま、そんなとこね」

くい、とクロが顎でしゃくる。身はかがめたまま、そろそろと丘を登ると、緩い稜線から顔を出した。

代り映えのない長閑な草原。緑の丘を、何かの一団が横断していた。

「詳しいことはわからないけど、一般人みたいね。遠征? に出た帰りみたいだけど」

「どうしてわかるの?」

「顔色。かなり疲弊してるし……そもそも士気が低い。そんな状態で出撃って、あんまりないでしょ?」

ふむ、とリツカが目を細める。クロの発言は、とりあえず納得できるものだ、と判断しているらしい。

接触(コンタクト)してみるのはどうでしょう。有益な情報が聞き出せるかもしれません」

「どうかしら。気が立ってるみたいだし、不用意に近づくと敵と間違われるんじゃない? 向こうから見たら、私たち相当怪しい恰好でしょ? 魔女扱いされたりして」

「で、では辞めた方がいいですね……そうですよね、すみません……」

「あ。でもいいアイディアよね? 手がかりは無いし、マシュの意見も重要……というか?」

「じゃあ、間を取るのはどうかな。ある程度距離を取りながら後ろをついていけば、何か情報が得られるんじゃあないかな」

じい、とマシュとクロがトウマを見つめた。救いを求めるような二人の目が、妙な痛ましさを纏っていた。

まぁ、うん。そういうこともある……。

「いいね、それ」

ふむ、と頷きを一つ。ぐ、と親指を挙げたリツカは、わざとらしく生真面目な顔をしていた。

「マジですか」

「確かに不用意な接触はすべきじゃないよね。最悪、敵と思われかねないし。でも、情報が欲しいのは確か。両立する案として、トーマ君の案はスマート」

ね、とリツカはぐるりと3人を見回した。ほっとしたようなマシュに、安堵するように肩を落とすクロ。ちょっと決まり悪そうに前髪を弄ぶと、クロは「じゃあまた私が単独で動く?」と続けた。

「や。4人で動こう」

「確かに、休止期間というには不自然ね」

「まぁ援護するかどうかは状況次第だけど。その判断含めて、リアタイで見たいのもあって」

「えーと。ごめん、どゆこと」

ぽかん、とクロとリツカがトウマを見返した。

リツカとクロ。心眼持ちのクロと場慣れしたリツカの会話は、ごく普通のトウマにはちょっとよくわからなかった。ちなみにマシュもあまりわかっていないらしく、きょろきょろするばかりだった。

「あー……説明しましょう」

「クロさんどこから眼鏡を……というか私とキャラが」

「まぁまぁ」

くい、とどこからともなく眼鏡を取り出した……というか投影すると、くい、とクリオングスを押し上げた。愉しそう。

「あの部隊、見るからに疲弊してるわよね。ある程度の戦闘行為を行ってきた後、と判断できるわ。休止期間、という時期とちょっとそぐわない。もちろん小競り合いの可能性は無くはないけど、もしあの部隊が戦ったのがこの特異点の原因、あるいはその勢力だとするなら、あの集団はこの事件の原因に近しい存在とみなせる。もしそうだとするなら、場合によっては追撃の部隊が来るかもしれない。そうしたら、状況次第ではこちらも加勢しなきゃならない、ということね」

「な、なるほど」

「しかしあの方々、そこまで急いでいるようには見えません。追撃を気にしているでしょうか」

「まぁそうなんだけどね。念には念、みたいなものよ。ある程度の距離を取っていれば被発見リスクも下げられるし」

ふんふん、とマシュは頷いていた。手元にメモ帳でもあれば、一言一句書き留めそうな勢いだ。

見た目通りというか、マシュは真面目だ。でもなんというか、今の彼女の勤勉さは、真面目というより―――。

「トーマ、どしたの?」

「や、なんでもない」

黒塗りの弓を手にした少女が振り返る。慌てて3人の背を追った。

先を行くリツカ。その背を追いかけるマシュの背中は、なんだか、急いているようだった。

 

 

 

 

 

 

サント=クロワ・ドルレアン大聖堂。

2つの塔が目を引くゴシック様式の大聖堂は、都市オルレアンを代表する建造物の一つだ。扉口を抜けると、身廊、と呼ばれる長い通路が延びていく。左右のステンドグラスから注ぐ光を背に歩みを進めていくと、内陣が目前に迫る。

だが、彼あるいは彼女が目にしたのは、聖堂という場には酷く不似合いなものだった。

端的に言って、それは玉座だった。祭壇が聳えるはずのサンクチュアリには、傲岸不遜にも、王の座が屹立していた。打ち捨てられた聖母や御子の像を足蹴にするようなその玉座に、彼女という存在者が実存していた。

白い灰のような髪に、死蝋のような肌。無機質な鉱物めいた目は、見るものをひやりと震え上がらせる目だった。

魔女、という言葉が脳裏をよぎる。彼もしくは彼女―――シュヴァリエ・デオンは内心に巣食った怖気を押し殺し、しずしずと、黒い外套を纏った女へと跪いた。

「ご報告に参りました、リヨンは落としました。サーヴァントも2騎撃破した、とのことです」

かちゃ、と鎧が軋む。座上で身じろぎした彼女は、疎ましいように、「それで?」と言葉を吐いた。

「ジークフリートには逃げられました」

ただそれだけを付け加え、デオンは黙した。再度かちゃり、と彼女は身じろぎすると、静かに立ち上がった。

「言い訳しないのは結構なことです。もし何か余計なことを喋るものなら、その舌を切り落とすところでした」

「お戯れを」

デオンは表情一つ変えず、またぴくりとも体を動かさずに言った。すぐ脇には、黒い魔女がゆらりと佇立していた。

「敵にはライダーとセイバーが居ました。そしてあのアーチャー、アタランテ。市街地で遅滞戦闘を敢行されれば、あのサムライでも追いきれないでしょう」

静かな声だ。感情の色の無い声は、不快なほどに耳心地よく耳朶に触れてくる。静謐のようで、心根の奥底まで浸潤する天鵞絨のような声に、デオンはただ、奥歯を薄く咬み合わせた。

「補足事項が1点。ジークフリートには致命傷を与えました。またバーサーカーが魔剣を破壊したとのことです」

「それは善い情報ですね? 相変わらず小憎らしいですこと」

この時、初めて黒い魔女が小さく笑った。思わず顔を上げたデオンは、正面に立つ彼女の顔を見上げた。

黒い魔女の目が、ひたりとデオンの姿を縁取る。屍色の頬が、僅かに歪んでいた。

「宝具を失ったサーヴァントなど恐るるに足らぬもの。まして深手を負ったとなれば……」

「最早貴女様の竜を阻むものはありますまい―――ジャンヌ・ダルク」

蝋のような白い顔が凄絶に歪む。高い天蓋まで響く、甲高い蟒蛇の泣き声じみた哄笑が、聖堂のアーチに谺した。




フォウ君の鳴き声は誤植だけど面白いからそのままにしました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

飛竜との邂逅

「あの城に入っていくわ」

小高い丘の上、低い姿勢のまま足を止めたクロが指を指す。遅れて顔を覗かせたトウマは、なだらかな丘の中腹に小さく立ち尽くす建造物を目にした。

教会のような、小さな城。恐らく美しかったはずの外観は、しかし、凄惨な姿に変わり果てていた。

石造りの城壁はところどころ崩れ落ち、破砕された尖塔が入り口の前に力無く横たわっていた。

「変です。ヴォークルールは現代まで当時の姿で残る古城のはずです。このような破壊がなされた史実的事実は存在しません。そもそも、この年にフランスとイングランドのあいだで休戦協定が結ばれているはずです」

「なら、特異点の関係があるってことよね」

ね、とクロがトウマとリツカを見比べる。

トウマは、改めて、ぞっとした。戦闘、というなんだかよくわからない抽象的な言葉が、改めて明るみの下で晒されたかのような感覚。夢でも何でもない現実が、目前におどろおどろしく横たわっていた。

「でもここからじゃよくわからないね」

リツカは頷きながら、と独り言のように呟いた。確かに、丘の下の木陰から見える範囲からは、中の様子は伺い知れない。

「すみません……私がアサシンなら単独潜入も可能なのですが」

「え? いや、マシュは、マシュだから」

恐縮するように身をすくめるマシュを、トウマは不思議そうに見つめた。なにやら小さく返事をすると、マシュはこくりと頭を下げた。

「クロちゃんて、服は作れるの?」

「服? まぁ作れるけど。でも服は剣と違って、投影したらそのままってわけにはいかないのよ。私から離れると、消えてなくなっちゃうし」

「霊体化してもダメ?」

「ダメね」

そっかぁ、と肩を落としたリツカが、ちらりとトウマを横目で見る。

……なんだか嫌な予感がしたが、杞憂のようだ。

「うーん」

どかりと座り込んだリツカは、眉間に皺を寄せた。情報を得ようにも手詰まりだ。トウマはそんな彼女を見下ろしながら、さりとて何も名案も浮かばず、当てもなく虚空を見上げた。

底抜けに青い、のっぺりとした空。不気味な光の帯が揺蕩う青い天井。すいすいと飛び回る鳥の影達は酷く呑気な様子だ。どうやら、先頭を飛ぶ大きな1羽を、5羽ほどが追いかけているようだ。鬼ごっこみたいに。

くるり、と先頭の一羽が反転する。翼を広げた鳥は長い首を擡げると、背後の5羽を引きつれるようにして、急降下を始めた。

空を見上げたまま、トウマは眉をひそめた。翼を広げた影。だが、長く尾を伸ばした姿は、まるで―――。

「あのー、あれ何かしらね」

「へ?」

素っ頓狂な声を上げ、リツカも空を見上げた。

「―――何、あれ」

一番最初に、戦きを漏らしたのはクロだった。アーチャーの千里眼を以てして、はるか上空3000mから墜落するように飛来した黒影の姿を、刻銘に捉えた。

(直上500mに大型生命反応探知!)

「目視しました、あれは―――」

飛竜(ワイバーン)―――!?)

劈くような咆哮が迸った。空を切り裂くほどの金切り声を滾らせた黒い蛇竜は地表すれすれを掠めるや、ぐるりと首を掲げた。

翼が強く羽ばたく。長い首の慣性運動も合わせ、くるりと宙を返る。蝙蝠のような翼に揚力を発生させ、一瞬で飛び去った蛇竜を、後方から接近していたワイバーンはとても追いきれなかった。蛇竜のすぐ後ろについていたワイバーン2匹はそのまま地表に激突。ぐちゃ、と音を立てて、挽肉になっていた。その背後から接近していたワイバーンはなんとか羽を立てて速度を落としたが、空気の密度の濃い地表で急に減速をかけたせいか、そのまま速度を落としすぎて墜落。地面になんとか着地しながらも、ぎこちなく踏鞴を踏んだ。

ワイバーンが空を仰ぐ。威嚇するように鳴いた次の瞬間、上空から振り下ろされた剣撃が首を刎ねた。

ワイバーンの巨体が地に臥す。ぶしゅ、と血を吹き上げた遺骸を、何かが踏みつけにした。

黒い、影だった。長い黒衣を纏った影が、飛竜を鶏のように屠殺した。吹き上がる血の雨を浴びてなお、無感動な(ウロ)が、ローブの底から顔を覗かせた。

(サーヴァントの反応も探知―――っていうか、なんだこれ……サーヴァントの霊基規模計測完了、サーヴァントの平均値の数十倍の数値だぞ!)

黒衣のサーヴァントが剣を構える。いや―――剣、ではなかった。よく見れば、それは木の棒だった。剣のように成型されていたけれども、木剣とすら呼べない、粗末な木の棒だった。

ワイバーンが吠える。獅子の威嚇にも似た雄々しいはずの咆哮も、さりとて今は怯えた悲鳴のようだった。

黒衣のサーヴァントが、一歩踏み込んだ。目にもとまらぬ踏み込みでワイバーンの懐へと飛び込むなり、木剣を一閃する。袈裟切りをなぞる剣線は一太刀でワイバーンの翼を切り裂き、返す刃の振り下ろしは当然のように鱗で覆われた牢乎の首を切り落とした。

残数、1匹。バタバタと翼を羽搏かせたワイバーンは、よろよろと後ずさった。既に戦意は、かけらもない。命乞いするように小さく鳴いた。

直後、ワイバーンは両断された。右の肩口から左のつま先まで一刀のもとで叩き切られると、ぐしゃりと地面へと弾けた。

だが、まだ終わってはいなかった。死んだかに見えた一匹―――地面に激突した2匹の内1匹が、よろよろと立ち上がる。そのまま体をよたつかせなが、黒衣のサーヴァントへと飛び掛かり―――。

ぶしゅ。

そんな、間の抜けた音だった。飛来した矢、数は4つ。脳天、腹部、貫き翼の根本に矢が突き刺さると、最後のワイバーンもそこで絶命した。

クロは、まだ弓を下げなかった。狙いに定めたワイバーンは既に絶命していたが、まだ、警戒は解いていない。いや、むしろ警戒すべき敵を目前に、焼け付くほどに鋭い視線を投げつけていた。

黒衣のサーヴァントが、ゆらりと振り返る。ただの木の棒を肩に担いだローブ、隙間から覗く冥い底が、ひたりとこちらを見据えた。

何か。

何か、不可思議だった。明確な敵意を投げつけるクロの殺意を浴びながら、なお、あの影のサーヴァントに敵意らしいものは、無い。観察するような気配の他、何か、もっと別な、柔和な情動が滲んでいるような。

一歩、リツカが前に出る。遅れて前に出たマシュは、明らかに腰が引けている。それでもなんとか、リツカに並ぶと、盾を構えた。

(私とマシュで食い止める。2人はその隙に逃げて)

通信(念話)越しにリツカの声が耳朶を打つ。ぴくりとも動かずに相対するリツカの華奢な背は、巌のようだった。

(無理よ、リツカもあれが何なのかわかっているんでしょう!? とても敵いっこないわ!)

(クロちゃんが居ても勝てないよ。わかるでしょ? マシュと私なら10秒は耐えられる。だから、その隙に逃げて)

クロが歯を噛みしめる。心眼(偽)持ちの彼女なら、リツカの言うことが真実であることがわかるのだろう。トウマには、漠然とした威圧感しかわからないが―――。

(カウント0と同時に攻撃に移るから同時に離脱して。良い? じゃあ、カウント開始―――5、4、3、2、1)

「―――あのー、貴方は敵なんですか?」

思わず、トウマは声を漏らしていた。

一瞬にして、空気が凍る。というより、空気が読めてないことに対して引いてる雰囲気だ。

「な、なに言ってるのトーマ?」

「いや、だってほら。あの人―――人? そんな戦う気があるようには」

草原で佇む黒衣のサーヴァント。漠然と木剣を肩に担いながら、じっとこちらを観察する姿が、不意に体を小さくした。

腰が低いような、謙虚なような。素人目でも、剣の構えには見えない。

「敵じゃない、ならわざわざ戦う必要は無いんじゃあないですかね」

「―――本気?」

クロは胡乱気に呟きながらも、洋弓を下げた。厳しい目は相変わらずだが、それでもとりあえずは敵意を下げたらしい。

「本当に、敵じゃあないの?」

リツカの言葉に、黒い影がびくりと軋む。底抜けの黒い洞がリツカの姿を捉えると、狼狽えるように、1歩後ずさった。

狼狽えるというより怯えるような、怯えるというより困惑するように、さらに一歩、後ろに気圧される。リツカが次の言葉を言いかけた時には、もう、黒い影は跳ねるようにして虚空に飛び上がった。

「あ、ちょっ」

黒い蛇竜が影の足元に滑り込む。首元に影を乗せるや、蝙蝠の翼を大きく広げ、増大した揚力のままに天空へと駆けのぼっていった。ただ、あの竜の獣染みた金切り声が空に響いた。

「何だったのかしら、今の」

クロは右手の矢を償還すると、空の果てをぎこちなく眺めた。

「でも、いいこともあった。あれは、明らかにおかしい」

くい、とリツカが顎をしゃくる。彼女の視線の先には、矢を穿たれて絶命した飛竜の姿があった。

「竜―――」

思わず、といったように、トウマは口にした。

竜。TYPE-MOONの世界観において、竜と呼ばれる生物は強大なものとして語られてきた。

曰く、幻想種の頂点。アルトリアの強さの理由もまた、竜の心臓を持つが故のものだ。そして、神秘の薄れた人間の世界には、既に存在しない生物でも、あった。

「ワイバーン……竜種の中でも亜竜体、に相当するものです。間違っても、15世紀のフランスに存在して良い生き物ではありません」

―――亜竜体。あくまで竜種そのもの、ではないらしい。なるほど、本来であればサーヴァントと言えども対抗しがたい竜種にしては、あっさり倒せたなとは思っていたが……。

(間違いない、この特異点を特異点たらしめる原因、あるいはその原因から派生したものと見て良いと思う。当面はこのワイバーンに関する調査を―――ん?)

「どうしたの?」

(―――近くにサーヴァントの反応を探知した。8時の方向、岩陰のあたりだ)

8時の方向―――ということは、背後だ。

振り返れば、確かに身の丈ほどの岩塊が転がっている。というか、その岩の塊から、ひょこりと何かが突き立っている。

旗だ。間違いなく旗だ。しかも既視感がある―――ということは。

「あれ。見つかっていますか、私」

ひょこ、と岩陰からサーヴァントが顔を覗かせる。金の髪に、蹄鉄のような形の銀のサークレット。おずおず、と岩陰から出てきた彼女は、やや衣装こそ違うものの―――間違いなく、彼女だった。

《知ってるの》

《ジャンヌ・ダルクだ》

ぴく、とクロが身動ぎする。散々会話のネタにした人物が、こうして目の前にいる。なんだか気まずいような気はするけれど―――何より、彼女が、至極全うな姿をしていることに安堵する。

長い三つ編みを風に泳がせ、紺色の外套に身を包むジャンヌは、外典の姿と変わらない。どこか牧歌的で、それでいて清らな御稜威を纏う姿は、なるほど農村から立ち上がった聖女という言葉が真実であることを思わせるものだ。

「ルーラー、真名をジャンヌ・ダルクと申します。先ほどの戦い、お味方とお見受け致しました。情報の共有などしませんか?」

改めて、ジャンヌはそう言うと、こちらへ、と身を翻した。ついてこい、と彼女が誘う道の先には―――樹々が林立していた。

「どうしましょう。誘われてしまいましたが」

「ついていこう。正直手詰まりだったし」

(そうだね、ボクも賛成だ。この時代に近しい生まれのサーヴァントなら、事情にも精通しているはずだろう。トーマ君たちも、構わないよね?)

トウマは、首を縦に振った。

彼女が原作の通りならば、信用のおける人物に違いない。それに、彼女が味方になってくれれば、心強い。

「ありがとうございます。では、急ぎましょう。私はあまり、この世界に思わしくない存在のようですから」

ジャンヌはそんな言葉を口にすると、破壊された城へと憂いた視線を注いだ。

憂いのような、侘しさのような表情も束の間、視線を引きはがすと、ジャンヌは足早に駆けた。

 

 

 

 

 

 

黒衣のジャンヌ・ダルクは、玉座の上で軽く身動ぎした。

彼女のクラス、ルーラー。そのクラスに与えられた権限、あらゆる真名・宝具・スキルをたちどころに見抜く【真名看破】とサーヴァントに対する2度の絶対命令権【神明決済】。それに並ぶもう一つの特性こそ、対サーヴァント用広域探索能力だった。

この索敵能力も分けて2つ存在し―――聖水を用いた探索能力、いわゆるアクティブソナーに類するものの他、ただ存在するだけでサーヴァントを探知する、いわゆるパッシブソナーに類する探索能力を持つ。

彼女は今、前者の探索能力を有していない。だが、気配遮断を持つアサシンやそれに類するサーヴァント以外であれば、後者でも十分であることがほとんどだった。

そしてもちろん、彼女は己の配下たるサーヴァントの動向は、全て把握していた。大聖堂に、セイバーが1騎、バーサーカーが1騎、そして遊撃に出ているランサー、1騎、バーサーカー1騎、セイバー1騎。計、5騎。

この地のカウンターとして召喚されたサーヴァントも把握している。そしてもちろん、新たに出現したサーヴァントをも知覚していた。

数、1騎。クラスは不明だが、反応は弱い。ランサーなら十分に屠れる敵だろう、と勘案する。そして幸運にも、ランサーは近隣の街を楽しんでいる最中だ。けしかければ、出向くだろう。

ジャンヌが手を掲げた。

それが、合図。

まるで影から身を乗り出したように、それはするりと現れた。

頭を垂れた黒いローブの男。人間というよりは両生類じみた顔の男が、ぎょろりとジャンヌを見上げた。

「酒呑童子と佐々木小次郎をラ・シャリテに向かわせなさい。ランサーにも通達を。あのドラ娘、ちゃんと言って聞かせないと癇癪を起しますから。それと―――」

やおら、彼女は立ち上がった。かしゃん、と鎧がこすれる甲高い悲鳴のような音が、誰もいない聖堂に響いた。

「私も出ます。騎竜の手配を」

「ご下命のままに―――我が聖女」




行間詰まりすぎててやっぱり読みにくいかもですね……。少しずつ修正していきます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

凄惨な戦場

「ここならば、落ち着けそうですね」

周囲を見回したジャンヌは、微かに安堵したように微笑した。

城塞からほどなくした距離に生い茂る、小さな林。日が暮れ始めた樹々の隙間には、鈍い橙の光が差し込んでいる。あと1時間もしたら、暗い夜が林に立ち込めることだろう。

それにしても―――と、トウマは思う。

「―――? どうしました、ムッシュー?」

「いえ、なんでも」

草の上にちょこなん、と正座するジャンヌ。そう、ジャンヌ・ダルク。あのジャンヌが、目の前に居るのだ。

綺麗だな、と思う。原作の雰囲気は、現実の人物像もあって勇猛果敢といった様子だが、小さく座り込む彼女は、可憐な少女といった方が似合っている。思えば、ジャンヌ・ダルクは17の前後が全盛期に相当する。高校二年生、17歳のトウマとは、同い年だ。

「何鼻の下伸ばしてるのよ」

「え。いや、そんなことはないヨ?」

「ふーん、トーマはジャンヌみたいな人が好みなんだ?」

悪戯っぽいにやにや笑いをしたクロが、ずい、とのぞき込む。挑むような鋭い嫣然―――強い。

ジャンヌはぽかんとしている。まるで正反対の反応だ。

ごほん、とリツカが咳払いすると、ひょい、とクロは身を翻した。

「―――えぇと、まず互いの現状を確認しましょう。私はつい2時間30分前に召喚されました。

クラスはルーラーですが、各能力・スキルが大幅にランクダウンしています。神明決裁、真名看破は使用できません。カリスマ、聖人は使用できますが……啓示も、うまく機能していないようです。聖人はリジェネを選択しています」

彼女は、一層身体を小さくした。申し訳なさげな表情が、全てを雄弁に物語っていた。

即座に、トウマは思案した。

ルーラーというクラスの絶対的な優位性、神明決裁と真名看破が使用不可能では、自分の存在意義そのものへの疑義、とすら呼べる事態である。不安か、それとも情けなさか。小さくなっているのは、そういう、ことだ。

「それと、気になる点があります。皆さんと合流する前、小さな村に寄ったのですが」

ジャンヌは真直ぐに4人を見回した。

「私のことを、“竜の魔女”と呼びました」

「“竜の魔女”―――ですか?」

はい、と彼女は首肯した。

ワイバーンの姿が、脳裏を過る―――直観的に、理解する。多分、その言葉はこの特異点の本質を衝く言葉に違いない。

「あの、大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です。優しいのですねマシュは」

マシュは、ちょっと照れたように身を縮ませた。それだけ、ジャンヌの表情は無垢だった。

「私たちの情報は、さっきそちらに送ったデータの通りだよ」

「誤った時代を修正するために未来から来た、ですよね。はい、全て目は通しました」言うなり、ジャンヌは軽く頭を下げた。「リツカにマシュ、クロエに、トーマ。それと、カルデアの皆さん。はい、覚えました。よろしくお願いしますね」

ジャンヌはそういうと、どことも知れない空間に手を振った。多分、モニター越しにカルデアのスタッフに向けたもの、だろう。

「すみません、皆さまからいただいた情報の方に比べて、私の情報量は左程ではありませんね」

「いや、そんなことないよ。ね?」

(そうだね。竜の魔女、そしてさっきのワイバーン。断片的だけど、見えてきた。

 竜の魔女、と呼ばれる誰かが、さっきの飛竜を召喚。百年戦争になんらかの形で干渉、フランスという国そのものに影響を及ぼそうとしているんだと思う。フランスという文明の現代史での重要性は、今さら説くまでもないよね)

「そして、竜の召喚に、聖杯が使われてるってことね。竜の召喚なんて、魔法に近い大魔術だもの、この時代の魔術師でもそう簡単にできるものじゃないわ」

そこでなんだけど、とリツカは改まってジャンヌに向き直った。

「私たちと貴女の目的は、利害が一致してると思う。私たちは聖杯を止めて、この特異点を修正しなければならない。そして貴女は―――」

「竜の魔女、と呼ばれるものが何者なのかわかりません。ですが、何者であれそれを止めなければならない―――協力、してくださいますか」

「うん! もちろん」

ジャンヌの顔が華やぐ。緊張から解されたような顔は、それだけ、彼女が今まで背負ってきた不安の大きさを物語っているようだ。

「貴女の旗の下に集うことを、許してくださいますか、聖女ジャンヌ?」

ジャンヌは、照れたように笑った。改まった立膝をついたリツカの礼が、気恥ずかしかったのだろう。薄く瞼を閉じるのも一瞬、ジャンヌは静かな御稜威を湛えた、怜悧な表情を浮かべた。

「汝らの戦列を許しましょう。我が真名ジャンヌ・ダルク、主の御名のもとに、汝らの盾となり、剣となりましょう」

 

 

 

 

「お二人は、もうお休みになられたようですね」

「そうね、二人ともぐっすり。野宿、なんて慣れてないはずなのにね」

切り株に腰かけたまま、ジャンヌは毛布にくるまる二人の寝顔をのぞき込んでいた。懐かしむようなその慈愛に満ちた表情は、聖女、というよりは、もっと親しみのある顔色だった。

「ジャンヌは寝なくて大丈夫なの?」

「私ですか? 大丈夫です、確かに不完全な現界ですが、基本的なスペックはサーヴァントのそれですから。睡眠も、食事も基本的には不要です」

「レーションですが、食事の用意はできています。サーヴァントもメンタル面の整調のために食事は必要、と聞いていますから」

そうですか、と応えたジャンヌは、いつもみたいに人のよさそうな表情だ。彼女は小さく会釈をすると―――しかし、ふと、彼女は小さくため息を吐いた。

クロは、ちらとマシュを横目で見た。マシュもその視線に気づくと、頷きを返した。

「あの、ジャンヌさん。まだ、何か話していらっしゃらないことがありますか?」

ジャンヌは、つと顔を上げた。困惑するように肩をすくめながら、2人の間を視線を彷徨わせた。

「後顧の憂いは、断っておくべきか、と思いまして。詮索するつもりは、無いのですが……」

マシュも、最後はしりすぼみになりながら、ジャンヌの顔色を伺った。

束の間、ジャンヌは薄く目を閉じた。今一度嘆息を吐くと、わかりました、と目を見開いた。

「今の私は、なんとなく、サーヴァントの新人のような感覚なんです」

「新人、ですか?」

「はい。英霊の座は時間の干渉の外に存在します。ですが、今の私は、その記録にすら触れられない。サーヴァントとして振る舞うことが難しい状況です。

街の人々には魔女と蔑まれ、主の御声も聞こえない……こんな状況で、ただ一人で戦うのかと思っていました。戦うことに疑いの余地はありませんでしたが、それでもその」

ジャンヌは言ってから、照れるように顔を赤くした。

「寂しい、と思ってしまって。弱気になっていました」

すみません、とジャンヌは頭を下げた。彼女は、情けないですね、と照れ隠しのように笑った。

「皆さんと一緒に戦えることになって、今は安堵しています。でも、今の私では足を引っ張るだけなのでは、と」

「ジャンヌさん。それなら、大丈夫です」

虚を突かれたように、ジャンヌはマシュを見上げた。

「私も、まだ、戦うことに慣れてはいなくて。私もまだ、英霊としての全力を発揮できていません。でも、みんな、そんな私を認めてくれてます。

マスターは、強い、です。何があっても前を見てる。どんな状況でも、マスターは正しく見てくれています。私の現状も正確に判断して、そのうえで、私を信頼してくれています。

タチバナ先輩は、多分、あんまり考えてないと思います。でも、だから、何気なく接してくれています。

それに―――クロさんが居るから、私も今の全力を出そう、と思えるんです」

「え、私?」

「はい。クロさんは、私よりずっと優れているサーヴァントです。こと戦術面においては、多分マスターは私よりクロさんに信頼を置いている、と思います。

ですから、私は頑張れる。恐くても、全力でできることをやってヘマしても、きっとクロさんがカバーしてくれると、勝手に思っています」

「私、そんなに凄くないんだけど」

凄いですよ、と返したマシュに、むー、とクロは眉間に皺を寄せた。

クロは、決して真っ当な英霊ではない。彼女の主観的な感情はともかく―――そもそも、彼女の核になった英霊からして、客観的には二流三流のものだ。そのデッドコピーに過ぎないクロの実力は、決して優れるものではない。

「頼りになるのですね、クロエは。では、私も何かあったらあとは任せる、くらいの気持ちでいられますね」

「不謹慎じゃない、そういうの。死亡フラグっていうのよ?」

くすりと、ジャンヌは笑う。気兼ねの無い微笑は、先ほどまでの気負いが既に無いことを示していた。

「為すべきことは多く、そして困難です。ですが、皆が力を併せれば、きっとこのオーダーは為し得ましょう」

 

 

 

 

「見えてきました。ラ・シャリテ、ですね」

ジャンヌが遠く、指をさす。

なだらか丘陵の先に、確かに小さく街が見えた。

草原の中、山吹色の屋根が連なる、古い町並み。遠方からでも目立つ尖塔を突き立てた教会は、いかにもヨーロッパの街だなぁ……なんて、トウマは思ってみる。

「そろそろ行きましょう。お疲れではないですか、もう少し休憩を取りますか?」

「私はそうでも。トーマ君は大丈夫?」

「……まぁ、なんとか大丈夫です」

ふう、と嘆息一つ。額に薄く滲んだ汗を袖口で拭って見せたが、実際には疲労感は無い。

早朝4時前に目を覚ましたのち、森を抜けたトウマ達は、3つ連なる山脈を踏破して、今は14時少しといったところだろうか。時折小休憩を挟んだとは言え、ペースとしてはかなり早かった。

この短期間で体力をつけた、というわけではもちろんない。理由は単純で、リツカとトウマが着ている服にあった。

BDU-01B(B型戦闘服)。白い学生服風の衣類のインナーに着こむ、野戦用の魔術礼装だ。特異点へのレイシフト、という危険度の高い任務にあたりカルデアで開発された魔術礼装である。サーヴァントへの支援を円滑に行うことを可能とするが、最も重視されたのがサバイバビリティの向上だ。マスターの基礎身体能力の底上げも魔術礼装の機能として存在し、その影響もあってか、トウマの身体機能はアスリートのそれに引き上げられていた。

「とりあえずはあの町で情報収集、ですね。十分な情報を得られない場合は、オルレアンに向かうべきでしょう」

「リスキーですがリターンも大きい、ということでしょうか」

「そうですね。今私たちの手札はあまりに乏しい。敵が誰かすら判明していないのは、今後の方針にも関わりますから」

マシュは目を細めながら、丘の先の町並みを眺めている。小さく映る橙の屋根は、なんだか、酷く呑気なようで―――。

(―――ロマン、広域索敵できる?)

不意に、通信ウィンドウが視界の中に立ち上がった。網膜投影されたウィンドウには、クロからの通信を示すアイコンが表示されていた。

斥候として一足先に展開するクロからの、通信。トウマは、妙な心臓のざわつきを覚えた。

(あと1km前に行けば入るけど……どうしたのかな?)

(わかった、急ぐわ―――何か今、飛んだように見えた)

「ワイバーン、ってこと?」

(違う。この距離からじゃ正確にはわからないけど、もっと小型の……人、に見えた)

彼女の声の奥底に、微かな焦燥が滲む。何か不味いことが起きている、と彼女は確信している。視界の端に映るマップ上、クロを現す光点は、瞬く間に

(索敵圏内に入った。スキャン開始―――サーヴァントの反応だ。丁度ラ・シャリテの中央に検知!)

「フォウ、フォーウ!」

つんざくような声が、耳朶を衝いた。

フォウがマシュの頭の上に乗っかるなり、遠吠えのような雄たけびを唸らせた。

「あれは―――」

ジャンヌが顔を上げる。切迫した彼女の表情を追って、丘の下の町を見下ろす。

相変わらず、間延びしたような緑の丘が続いている。のんびりしたような淡い暖色の屋根が並ぶ街の中に、何か、赤いものが渦を巻いていた。

真直ぐと青い空に立ち上る、赤い柱。黒煙を巻き上げながら町を蹂躙する、深紅の柱―――。

炎、だった。穏やかな街を食らうように、炎が巻き上がっていた。

「マシュ、ジャンヌ、お願い!」

「了解です、先輩!」

ぐん、と身体が浮いた。ぎょっとしたのも束の間、目と鼻の先に、ジャンヌの顔があった。

「すみません―――急ぎます!」

ジャンヌはトウマを軽々と抱き上げると、突風のように駆けだした。

 

 

 

 

クロは喉が枯れるような焦燥の中、地を蹴り上げる。

周囲の町並みに、かつての穏やかさは無い。石造りの家は崩れ落ち、骨組みは剥き出しになり、街のシンボルだったはずの尖塔も崩れ落ちている。

そして。

クロは、足を止めた。彼女のルビーみたいな目は、床に倒れこむものを、凝視した。

手がある。胴がある。足がある。間違いなく人間のはずなのに、肝心の、頭が、無い。上顎から上を食い千切られたように、飛び散っていた。

それも、一つではない。あるところでは右半身を食われ、あるものは下半身を切り飛ばされ、あるものは、砕けた頭だけだった。そこには、既に物になりはてた遺骸が、転がっていた。

彼女は、取り乱さなかった。彼女は、それを、正視できた。

生前、これほどの惨劇は見たことはない。確かに苛烈な生を生きた自覚はあるけれど、人の死がこれほど無造作に投げ出された惨状は、目にしたことが無い。

にもかかわらずそれを耐えられたのは、多分、生前のさらに古い記憶―――クロエがクロエたる核を為す弓兵の、擦り切れた記憶があったからだ、と思う。

あるいは、それは『耐える』とは別種の何かだった。感情として固定されきらない不定の情動だけが身体の内側で渦を巻き、打ち震えていたのかもしれない。クロには、自分のソレが何なのかは、わからなかった。わかろうとして思案したところを、何かの雑音が耳朶を掠めた。

ずるり、と何かが路地から顔を覗かせた。野太い体躯を不定にくねらせる、厳めしい爬虫類。巨大な蛇のように見えたが、もちろん、そんな可愛げのある生き物ではなかった。

蛇のように見えながら、胴体からは野太い腕が突き出ている。

ワーム。ワイバーンと同じ亜竜種の一つ。15世紀のフランスに居て良い生き物では、ない。

ワームが首を擡げる、ぐえ、とカエルみたいな鳴き声を上げたワームの口の中に、何かがのぞいた。

小さな、肉の塊だった。ボンレスハムみたいな肉の塊には、5つの指がついている。腕、だ。子供のそれよりももっと、小さな―――。

深紅の颯が駆ける。両の手に握る、黒白の陰陽剣。ワームが反応するより早く懐に潜り込むなり、首めがけて双剣を薙ぐ。

堅牢なはずの鱗は、あっさりと切り裂かれた。赤い飛沫を噴き上げた蛇のような巨体が地に臥すより早く、クロはさらに一歩、路地へと踏み込む。

もう一匹が居た。腐肉を食い散らかすもう一匹のワームは、今更に顔を上げた。

そこで絶命した。胴体に1本、頭蓋に1本。投擲された剣が突き刺さり、そして、続いて生じた小爆発でミンチになり果てた。

宙に舞った肉片が、はらはらと地面に落ちていく。袖口で頬についた粘っこい血を拭い取り―――。

「―――投影開始(トレース・オン)!」

脳裏に描いた剣は、正しく毀れずの銘剣、デュランダル。輝煌の剣の柄が出現するなり、身をよじりながら背後へと振りぬいた。

剣先が走る。背後からの強襲を迎え打つように、絶世の剣光が掬い上げるように振りぬいた。

 

が。

 

「―――嘘!?」

拮抗は秒ほども無かった。

クロの目は、その瞬間を刻銘に見た。決して刃毀れせず、岩をも裂いた聖なる剣は、あっけなく砕けた。

衝撃が顎を衝く。気絶しかねないほどの衝撃はクロの身体を台風に煽られた木の葉のように吹き飛ばし、石壁へと叩き付けた。

げ、と声が染みた。肺の空気が全て絞り出されたかのような痛撃が全身に広がったが、【心眼(偽)】は次に来るだろう攻撃を察知し、彼女の矮躯を跳ね上げた。

デュランダルすら砕く攻撃、ならば干将莫耶を投影して防戦に徹するか、アイアスの盾を投影するか。あるいは―――。

逡巡は刹那、双剣を投影しかけたクロは、寸前で魔術行使を中止した。

攻撃は、来ない。【心眼(偽)】による直感的な攻撃予知にも関わらず、敵の攻撃は無かった。

「―――ふーん、どんな子リスかと思ってきてみたら、薄汚いネズミね。折角出向いたのに、大損じゃない」

驕慢な声が空から降った。

咳を一つ、クロは静々と、尖塔の上に立つ影を睨みつけた。

きらびやかな衣装に身を包んだ、少女だった。衣服から覗く手足は華奢、というよりは痩せぎすとすら呼べるだろう。無思慮な睥睨を自然にぶつける端正な顔立ちも相まって、それだけならば箱入り娘の無垢な美少女といった様子ですら、あった。

だが。

明らかに、その少女は、人間ではなかった。腰から延びる黒黒とした尾、背で揺らめく蝙蝠めいた翼、そして頭部に戴く古木のように捻じれた双角。

サーヴァントだ。それも、恐らく真っ当な英雄ではなく反英雄の、類。

―――敵。

直感的に、クロは判断した。あれは人間に害をなす怪物、即座に斃すべき敵、だ。

「ちょっと、そんな目で私を見ないでくれる? ドブネズミの癖に生意気ね。ネズミはネズミらしく隅っこで震えていなさいよ」

からから、とサーヴァントは嗤った。笑っているくせに、目は全く笑っていない。むしろ不快感を露わにした目が、ぬらりとクロをなめた。

「私、可愛らしいものは好きよ。貴女はそこだけなら合格。でも、臭くて汚いものは趣味じゃないの。だから」

ふわ、と羽根が開いた。蝙蝠めいた翼で飛び上がった彼女の姿は―――。

「殺すわ」

竜のようだ、と思った。

「―――我が骨子は捻じれ狂う(I am the bone of my sword)




サブタイトルですが、蘿蔔が投稿するときのノリとテンションでつけてます。
初話でつけてしまったが故に謎の意地で毎話付けていますが、もっとこう、かっこいいサブタイトルを付けてみたいものです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

血の伯爵夫人

竜を狩ってたら投稿が遅れたなんて口が裂けても言えません。


(膨大な魔力を感知―――宝具だ!)

ロマニの声が耳朶を打ったのは、破壊されたラ・シャリテの正門を抜け、街へと踏み込んだ瞬間だった。

烈風が渦を巻いた。風の一つ一つがサーヴァントすらをも切り裂く窮奇の奔騰。思わずマシュとジャンヌすら風へと飛び込むのに躊躇を覚える風が巻き起こった直後、甲高い金属音が弾けた。

途端、風が止んだ。鋭く切りつけるような風が凪いでいく。最後に吹いた掠れたような風に乗って、何かが飛んできた。

がちゃん、と音を立てて、それが石畳に転がった。

捻じれた、剣。ともすれば矢のように見える捻じれた剣だった。

「クロの宝具だ」

偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)』―――干将莫耶と並び、英霊エミヤが是と頼む宝具の内の一つだ。クロがこの宝具を使用した、ということは即ち、それだけ強力なサーヴァントと戦闘を行っている、ということだ。

そして、さらに付言するならば。

ここにこうして『偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)』が弾かれて飛んできた、ということは、それが通用しないほどの相手であることを、意味していた。

ぐん、と身体にかかる風が強くなった。抱きかかえるジャンヌが、さらに強く、踏み込んだのだ。

「先行します!」

マシュとリツカを背後に、ジャンヌが駆ける。見上げる表情は硬く、額に滲む冷や汗が、風に飛ばされていく。

ジャンヌはそのまま正面の通りを駆け抜け、路地へと滑り込む。さらに路地を一直線に駆け抜けた先、視界が、開けた。

広場、だった。尖塔を突き立てた教会の前に開けた、広場。

その広場を舞台に、2つの影が交錯していた。

どちらも赤影。方や双剣を構えた小柄な少女、方や槍らしき得物を構えた赤髪の少女が、互いに武具を叩き付け、互いの首を狙っていた。

「あれは―――」

トウマは、片方のサーヴァントに目をくぎ付けにされた。

クロが黒白の双剣で戦う相手。血のように赤い髪に、捻じれた角。嗜虐的な微笑に顔を歪めながら槍を振るう姿は、彼に見覚えのあるサーヴァントだった。

「行きます、トーマはこちらへ」

トウマをそっと地面におろすと、ジャンヌは旗を一振りに猪突した。

サーヴァントが槍を薙ぎ払う。双剣の破壊とともに背後に吹き飛ばされたクロへと追撃をかけるサーヴァントの間に割って入るなり、ジャンヌはその旗を振りぬいた。

凄絶な笑みが、走る。爬虫類じみた笑みを一つ、不意に乱入したジャンヌの旗を、彼女は易々と掴み取った。

「何かしら、このヤワな攻撃?」

ジャンヌに、絶句の表情が浮かぶ。如何に能力が劣化しているとはいえ、ジャンヌの渾身の一撃を、あのサーヴァントは、ただ素手で受け止めたのだ。

「サルのサイリウムより冷めてるわ!」

ぐん、と痩せぎすの体躯が身をよじる。片手で旗ごとジャンヌを持ち上げるなり、そのまま石畳へと叩き付けた。

痩躯が槍を掲げる。地面に叩きつけられたジャンヌの背めがけ、容赦なく穂先を振り下ろす―――!

「―――こっちよカナヘビ女!」

瞬間、サーヴァントは穂先の軌道を変えた。

宙を薙ぐマイクスタンドじみた槍。虚空を裂くはずだった槍の一撃は、殺到した矢数本を叩き落した。

「はぁ―――ホント、小うるさいネズミね? それともカラスかしら? 羽根みたいだもんね、そのダッサいマント」

赤髪のサーヴァントが、槍を肩に担ぐ。爬虫類じみた鋭い視線の先には、黒い洋弓を構えたクロの姿があった。

間違いない。あの容姿に、あの傲岸な性格。あのサーヴァントは―――。

「エリザベート・バートリー―――」

思わず、トウマは口にした。

エリザベート・バートリー。Fate/ExtraCCCに登場した、ランサーのサーヴァントだ。いや、細部が違うから、別側面での召喚だろうか―――それでも、彼女であることは、間違いない。

感動より畏怖が、顔を覗かせる。当然だ、エリザベート・バートリーは真っ当な英霊ではない。その残虐性は、殊CCC序盤において、余すところなく披歴されている―――。

「誰かしら、私の名前を不躾に呼びつけるブタは?」

ぎょろり、と青い目がトウマを据え付ける。感情を感じさせないのに残忍さだけがあふれ出した鋭い目は、蛇の目を想起させた。

が。

「あら、どんな不細工かと思えば。案外可愛らしい小ブタじゃない?」

ハッと目が見開くなり、エリザベートは目を細くした。玩具を見つけた童子のような無邪気な視線が、這いずるようにトウマを舐めた。

え。ナニコレ?

「ひ弱そうだけどそれが良いわ。ムキってしてるのは、趣味じゃないし」

奇妙な爪で、頬を撫でる。凄惨なまでに愛くるしく顔を歪めたエリザべートが、軽やかに、踏み込んだ。

エリザベートの姿が消えた。と思った瞬間、影が落ちた。

瞠目する。トウマの目と鼻の先に、翼を広げた華奢な体躯があった。

「かわいい顔ね、アタシ好みのいい顔だわ―――!?」

槍を構えるなり、エリザベートの体躯が宙で舞う。背後から迫った矢を打ち上げ、続けざまに潜り込むように急襲した赤影へと槍を振り下ろした。

挟むように左右から迫る双剣を、ただの一薙ぎで弾き飛ばす。だがそれすら意に介さず、クロは別な武装を投影した。

赤い、槍。倦んだ血のような色の呪槍ゲイ・ボルグ。穿てば必ず心臓を貫く槍の穂先が、エリザベートを捕捉した。

「『刺し穿つ(ゲイ)』―――!?」

槍の切っ先が放たれるその瞬間、エリザベートの身体が跳ね飛ぶように飛翔した。空間転移もかくやといった跳躍でもって、瞬きの間にゲイ・ボルグのレンジを引き剥がした。

如何な因果逆転の槍と言えども、そもそも槍の攻撃範囲の外には攻撃しようもない。槍が刺さる、という結果が生じる余地が無ければ、逆転すべき因果すら存在しない。

あるいは、本来の担い手であるクー・フーリンの速度ならば、その敏捷だけで敵を攻撃範囲内に捕捉することだろう。だが、クロの敏捷はクー・フーリンのそれと比べれば低い。

だが―――解せない。クロの敏捷はB。対して、エリザベートの敏捷は、Eのはず。単純な敏捷値であれば、間違いなくクロは彼女を追いきれた。

エリザベートは、宙を舞っている。まるで古い絵本で魔女が箒の上に乗って飛ぶように、槍に腰かけたまま、不快そうな視線を落としていた。

別クラスでの召喚、ということだろうか。だがそれにしては、彼女の姿は、CCCで見たランサーのそれだ。キャスター、というようには見えない。

明瞭に見て取れる差異は、あの背中の翼だ。宝具の際に展開していたはずのあの竜の翼を、今の彼女は常時展開し、自由に空を飛び回っている。

何か、ブーストがかかっている―――ということだろうか。色の無い睥睨の蔑視は、狂気的にも、あるいは彼女の自然な振舞にも見えた。

クロは、ゲイ・ボルグを破棄した。恐らく、あのエリザベートを相手にゲイ・ボルグはその利点を活かしきれない―――との判断、だった。

「ネズミが一匹、子ブタが一匹。それから―――」

エリザベートの視線が、ジャンヌを捉える。よろよろと立ち上がりながら、強い意志のこもった目で見返したジャンヌを見―――エリザベートは、表情を固まらせた。

だが、僅か、1秒にも満たないの表情の変化だった。すぐに興味を失った彼女は、「雑魚1匹」とにべもなく吐き捨てた。

「それと、モブが2つ」

クロは、興味なさげに、遠くへ視線を投げた。

「皆さん、ご無事でしたか!?」

息一つ切らさず、マシュが盾を構える。クロの前に立つように盾を構えると、マシュは宙に浮くエリザベートを、真正面から見据えた。

「エリザベート・バートリー―――ランサー、かな」

音も無く、リツカがトウマの隣に立つ。エリザベートを見据える視線は険しい。その目は、あれが難敵である、と判断しているようだった。

「サーヴァントが3体、ね」

エリザベートは、つまらなそうに嘆息を吐いた。

「数的優位はこちらにあります。クロさんが射撃で牽制しつつジャンヌさんと私で戦えば、勝てるのではないでしょうか。あのサーヴァントも、戦意を失っているように見えます」

「あなた、莫迦ね。頭に脂肪が詰まっているのかしら? それとも胸にしか栄養が行ってないの?」

「な―――」

「アタシはサーヴァント。単純な数的優位だけでサーヴァントとの戦いは推し量れないこともわからないなんて、本当にサーヴァントなのかしら。それとも、聖杯戦争に呼ばれたことすらないドマイナーな英霊? ま、どっちにしろ、アナタも雑魚ね」

ふん、とエリザベートが驕慢に鼻を鳴らす。マシュはただたじろぐように一歩後ずさり、睨むように怖気た目を向けた。

「それに、数でも、こっちの優位なのよ」

吐き捨てるように、エリザベートは口にした。それが意味するとことは明瞭だ、即ち―――。

(待った、サーヴァントの反応だ! 数は―――4騎!?)

ぞわりと、怖気が背筋を駆けた。

4騎のサーヴァントが向かっている。エリザベートと合わせれば、総数5騎。対してこちらの戦力は、3騎。ジャンヌが十全の力を発揮出来るならあるいは対抗出来得るかもしれないが、彼女は、今現在、戦闘単位として数えられない。

「撤退しよう、いくらなんでも5騎は勝てない!」

「ですが―――!」

(ダメだ―――もう間に合わない、直上だ!)

 

 

―――それは、息を飲む光景だった。

あるいは、荘厳とすら呼べるのかもしれない。

鎧を装着した赤褐色の飛竜。4頭の竜の内、双角を掲げた赤銅色の飛竜の背に、彼女は、居た。

黒い外套を纏った、銀の髪の女。死蝋のような肌に生気の無いヘーゼルの瞳には、一かけらほどの感情すらも宿っていないように見えた。

そして、何よりその見た目は。

ジャンヌ・ダルクのそれと、瓜二つだった。

「昨日、黒いジャンヌとか言ってたわよね。トーマ。預言者か何か?」

クロが言う。揶揄するような皮肉っぽい口調とは裏腹に、上空のその黒衣の聖女を見上げる目には、明確な畏怖が象られていた。

魔術師としては半人前以前の素人である自分でも、感知できる。

あのジャンヌ・ダルクの強さは、桁外れだ。エリザベートも強力なサーヴァントだが、あれはそれ以上の何かだ。

そして、直観する。あの黒衣のジャンヌ・ダルクこそ、この特異点の元凶なのだ、とどうしようもなく直観させられた。

黒いジャンヌが、騎竜から舞い降りる。上空20mから易々と降り立つと、黒衣のジャンヌは、その冷たい蔑視を振りまいた。

「聖女サマ直々なんて聞いてないわよ? いっつも穴倉でおすまし顔をしているだけかと思ったけれど?」

エリザベートがジャンヌ・ダルクの脇に降り立つ。翼を畳んだ彼女は、心底厭そうな顔でジャンヌに一瞥をくれた。

「減らず口は相変わらずのようですね、バートリ・エルジェーベト。よく回る口と同じくらい、手際よく仕事がお出来になるとよろしいのですが」

「何よ、ラ・シャリテももう人っ子一人いやしないわ」

「趣味に興じるのは結構、ですがもっとスピーディにこなしなさい。この程度の街、貴女なら1日と立たずに殲滅できたと思いますが」

ぴしゃりと、ジャンヌ・ダルクがはねつける。舌打ちのように顔を渋くしたエリザベートは、不愉快そうに鼻を鳴らした。

「そして―――貴方がた、ですか」

黒いジャンヌが、色の無い目を向ける。生物の肌触りの無い、無機質な目。どこか虚ろな亡霊にも思える目が、どす黒く、もう一人のジャンヌを見据えた。

「どんなドブネズミが湧いたのかと思いましたが―――まぁ、なんてちいちゃなクソネズミなんでしょうね」

屍色の顔が歪む。その感情の迸りは、嗤っているというよりは、憤怒に狂っているようにすら見えた。

「こんなちっぽけな小娘如きに救われた国なんて、本当にくだらない国だったのね。ネズミの国の方がまだ夢見がちなだけマトモよ」

「貴女は―――貴女は、誰ですか!?」

黒いジャンヌは、小さく鳴くような悲鳴に侮蔑の如き視線を投げた。ただの一睨みだけで生物を呪い殺すほどの視線にさらされながら、しかしジャンヌは、凛然とした面持ちを変えなかった。

「ジャンヌ・ダルク。真なる救いのために蘇った、護国の聖女ですよ。もう一人の(ジャンヌ・ダルク)?」

「救い―――この破壊が救いであると? 民草を殺し、故郷を打ち砕くこの所業のどこに救いがあると言うのか!? 申してみよ、黒き魔女!」

糺すようなジャンヌの声は、わけも無く畏敬を惹起させる朗々とした声だ。17歳の少女の声では無い。確かにその声は軍を率いた、猛き荒武者の声そのものだった。

清廉な者には畏敬を、罪深きものには疚しさを喚起せずにはおかないその声を真正面から受け止めながら、しかし、あの黒衣のジャンヌは、身動ぎすらせずに、微笑だけを浮かべた。

「威勢だけは良いことですね。ですが、確かにこの破滅は救いそのもの。人間の権勢だけが高まり、神の声を蔑ろにしたはじめの国。それがこのフランス、という国の真実です。天上におわしますいと高き方を裏切り、善き儕輩にすら唾を吐く人間という種に、最早存続の価値はありません。

故に、私はこの国を滅ぼし、人の世に終わりを捧げましょう。人という種を絶滅させ、主の嘆きを代行する。それこそ唯一の救いの形です」

さらりと、ジャンヌ・ダルクは口にする。表情の起伏は乏しく、まるで舞台の台本をそのまま読んでいるかのような素振りは、かえって、不気味だった。

人の絶滅による救い。整合的な論理矛盾の言説は、否が応もなく、あの黒い聖杯を想起させる。

黒く反転した聖女。その姿は、まさしく、ジャンヌ・ダルクの別側面(オルターナティブ)と呼びうるに相応しい姿だった。

「反論を聞く必要はありません。私は貴女と討論するためにここに訪れたわけではありません」

何か言いかけたジャンヌを、もう一人のジャンヌははねつける様に吐き捨てた。

「正しい私の姿に何か感慨があると期待しましたが―――些細な感傷でした。ジャンヌ・ダルク、貴女は私の召喚に伴って現れただけの付属品。言ってみれば、ただの残り滓です」

黒いジャンヌが手をかざす。それを合図に、上空で滞空していた騎竜4匹が滑るように地面に降り立った。

その騎竜の背から、サーヴァントが軽やかに降り立つ。

一人、凶つ対の角を生やした、人外の剣士。

そして、もう一人―――あれ、は。

あの和装の剣士は。異様に長い、物干し竿のような刀を持った長髪の剣士、あれは、まさか。

「佐々木小次郎、酒呑童子、そしてエリザベート。そこな田舎娘どもを始末なさい。これまで戦ってきたサーヴァントどもに比べれば歯ごたえは無いでしょうが、肩慣らしにはちょうどいいでしょう? 一人残らず、平らげよ」

黒いジャンヌはそれだけ言い残すと、既に興味を失ったように、近くの壁へと寄り掛かった。

戦う気は無い。ただ殺戮を傍観するために、彼女は力なくそこに居た。

「だから厭だったのよ―――せっかく楽しもうって思ってたのに」

エリザベートは、つまらなそうに頬を膨らませた。やる気が無いのに呼応しているのか、尻尾と翼が、だらりと地面に垂れた。

「そう言うな、ランサー。酒の肴はみなで分かち合うものであろう?」

「せやねぇ、うちらお仲間なんよ、精々仲よおせんとなぁ?」

対して、二人は雅な笑みを華やかに浮かべている。

酒呑童子、と呼ばれた少女風のサーヴァントははんなりと笑む。そして佐々木小次郎、と呼ばれた剣士も、どこか飄々とした表情だ。

「あの聖処女様は私にやらせなさいよ。いいでしょ、それくらい。あと、あの子ブタも後で寄越しなさいよね」

「なぁに? あんたはん、あの坊やのこと好いとるん?」

「玩具よ、玩具。たまには趣向を変えるのもいいでしょう?」

「確かになぁ―――なんや、うちも欲しなってまうなぁ」

ころころ、と笑ったまま、酒呑童子がちらりとトウマを盗み見る。そう、それは盗み見るという言葉そのものの視線だった。品定めするような、柔らかく突き刺す視線。ぞっとするのも束の間、その視線は、不意にトウマから外れた。

「ちょっと」

「なら、うちはそっちの赤い髪のお嬢ちゃんと盾のお嬢ちゃん、戴こかねぇ」

軽やかな視線が、マシュとリツカを射抜く。マシュは僅かにたじろぎかけたが、後ずさりだけはしなかった。

「こちらの女性(にょしょう)は、随分色恋沙汰に気があるようだ」

剣士は朗らかに言うと、その温和そうな表情のまま、藤丸を―――そして、クロを見据えた。

「で、あれば。私の相手は、其方ということか」

和装の剣士が、剣の切っ先を擡げる。風に吹く柳のような飄、とした動作は、ともすれば歌人の温厚さにも見えた。

クロは、双剣を投影した。黒白の双剣、彼女と彼女の核となった英霊が最も頼みとする二振りの中華剣の柄を握りしめると、掲げられた太刀の切っ先を跳ねのける様に、彼女も剣を構えた。

「サーヴァント、セイバー。名は佐々木小次郎と言う」

「アーチャー。言っとくけど、そういう古風な名乗りあいみたいなの、しないから」

「黴臭いしきたりのようなものだ、当世風の其方には求めぬよ。それに―――」

小次郎は剣の構えを解いた。一見して戦う気配を感じさせない佇まいだ。

「是で語り合う。それだけのこと」

太刀が、幽かに揺れた。

その次の瞬間、剣士の姿が、掻き消えた。

そうとしか思えない、瞬間移動じみた速度。値にして、敏捷:A。かのクー・フーリンすら上回る速度は、サーヴァントですら視認が不可能なレベルだった。

圧倒的な速度で、佐々木小次郎は一息に相対距離を詰める。クロが反応するよりも早く、長太刀の一薙ぎが首元へと迫った。




京言葉なんて校正したことがなかったので、「お願いだから鬼さん喋らんといてぇな……」と原稿をいじりながらぼやいていました。
京言葉の活用型なんて調べたこともなかったので文法書開いたのは良い経験になりました。御形サンには感謝と恨みを。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

享楽に耽る

投稿予約を試してみました。が、うまくできているでしょうか……


「ええねぇ、えろう楽しそうやないの。そう、思わへん?」

ころん、と彼女は小首を傾げる。

にこりと、童女めいた笑みが浮かぶ。珠のような肌色は如何にも健やかに見えたが、その額から生える角は、明らかに人間のそれでは無かった。

酒呑童子―――日本の伝承に現れる、鬼。人間を超えた魔性、その首魁こそ、あの少女然としたサーヴァントの正体だった。

「私には、よくわかりません」

マシュは、生真面目に返答していた。戦うことと、楽しいという概念が何故結びつくのか、理解に苦しむことだった。

「そう、残念やわぁ。まぁ、そないに些細な事どうでもええんやけどねぇ。うちが楽しければそれでええんやし。」

彼女は、顔に張り付けた微笑をぴくりとも崩さない。ただころころと笑いながら、肩に担いだ身の丈を優に超える剣を、軽々と擡げた。

「それじゃあ、うちらも始めよかね」

踏み込み一つ。はんなりした笑みはそのままに、艶やかな矮躯が跳んだ。

打ち下ろされる銀の大剣。十字の盾を叩きつけようとした瞬間、マシュは肌を粟立てた。

咄嗟に、床を蹴り上げる。大剣の切っ先が前髪を微かに切り裂き、はらりと宙を舞った。続けて掬い上げる様に振りぬかれた剣戟を、身を翻して躱す。剣圧が頬を撃ち、汗腺から噴き出た冷や汗を吹き飛ばした。続いて横薙ぎの振り払いも飛び退いて逸らしたマシュは、詰まるように喉を鳴らした。

あの少女の攻撃は、まともに打ち合ってはダメだ。あの大剣をまともに受け止めれば、盾ごと腕が千切れ跳ぶ―――奇妙な直感が、マシュの身体の奥底で震えた。

自分の感覚ではない。自分の内側に眠る名も知れぬ英霊、その戦闘経験が齎す心眼めいた直感が、あの攻撃は躱せと告げていた。

「曲芸師みたいやねぇ。それかお猿さんみたいやわぁ、楽しいなぁ」

大剣を担いだ酒呑童子は、特に気を害するでもなく、ころりころりと笑っている。追撃しようと思えば、息をもつかせぬ連撃を繰り出せただろう。恐らく敏捷はクロと変わらない―――敏捷:Dのマシュではついていくので精一杯の速度だ。

にも拘わらず、酒呑童子に攻撃の気配は無い。あまつさえ子供のように笑う姿には、到底戦意と呼べるものは伺い知れない。

ぞっと、マシュは体を震わせた。得体のしれない恐れが惹起する。底の知れない童女の嬌声が、ねばつくように耳道に淀んだ。

「―――マシュ!?」

気づいたときには、足を踏み込んでいた。怖気を振り払うように、その細い首めがけて盾を一閃する。

巨大な質量そのままに振りぬかれる盾の一撃は、如何なサーヴァントと言えども一撃で致命傷足り得る。それこそ、首への直撃は間違いなく必殺の一撃だった。

「ふぅん―――かいらしい顔して、えろうえげつないこと」

酒呑童子は、ぴくりとも可愛らしい顔を崩さなかった。自身の神話的弱点―――自分の首への攻撃が間近に迫りながら、蠱惑的な微笑のまま、盾を受けた。

酷く、鈍い音がした。妙に水気のある、はじけるような音。なのに、盾越しに腕に伝わった鈍さは、まるで、激流に身体を打ち付けたようだった。

「お嬢ちゃん、力強いなぁ。こんなんなってもうたわぁ」

からり、と酒呑童子は嗤った。

彼女は、その場から一歩たりとも動いていなかった。マシュが降りぬいた一撃を、軽々と左手一本だけで抑えていた。

左手は、無事ではなかった。盾の衝撃を諸に受け止めた前腕の尺骨は砕けて皮膚を引き裂き、橈骨が肘から突き出ていた。ぼとりぼとりと血肉を滴らせながら、しかし―――否。やはりというべきか、蠱惑的な微笑に翳りは無い。

さらり、と雅な黒髪が揺れた。ほぼ同時、あの銀の大剣の薙ぎ払いが胴に迫る。だが、回避は間に合わない―――!

「―――あら」

大剣が滑る。身を屈めたマシュの盾の上をするりとすっぽ抜け、酒呑童子は気の抜けたような声を上げた。

剣を振りぬいた彼女の姿は、あまりに無防備だった。そして、マシュは抜け目なく、その隙を察知した。

マシュは身を屈めたまま、盾ごと無防備な身体に突撃した。

また、鈍い衝撃が跳ね返る。激流に押し流されるような錯覚が全身を打つ。押し負けるイメージが脳裏を過り、足が一歩、踏鞴を踏みかける―――。

裂けるように、声を迸らせた。面前に屹立する敗北の現実を突き飛ばすように、覚束ない足を前に踏み出すや、酒呑童子の体躯は遂に、弾き飛ばされた。

毬のように、酒呑童子の身体が宙を飛ぶ。石造りの壁に頭から激突すると、壁を崩しながら、ぐちゃり、と音を立てた。

がらがらと壁が崩れていく。ただ一撃の錯綜だけで息を切らしたマシュは、崩れ行く塀を眺めながら―――息を飲んだ。

灰色の土煙の中、ゆらゆらと影が立ち上がる。

土煙越しに見えた影のシルエットは、人間の形をしていなかった。正確には、首が圧し折れ、あらぬ方向を向いていた。

「思い出すわぁ―――思い出すわぁ。あんたはん、小僧と同じ、力持ちさんなんやねぇ」

珠のような声だけが、耳朶に触れる。ゆらめくのも一瞬、影は両手で千切れかけた頭を持ち上げると、元の場所に、ねじ込んだ。びちゃり、と何か、奇妙な音がした。

土煙が晴れる。瓦礫の山からゆらりと立ち現れた酒呑童子は―――まだ、嗤っていた。楽し気な表情は、まるで、友達と砂遊びをする幼児のように、無垢だった。

「ええなぁ、あんたはん―――昂るわぁ!」

疵だらけの姿のまま、朗らかに笑う。歪んだ口角から艶やかに滴った鮮血が、ビスクドールのような肌をなぞる。

白磁の肌に、さらりと軌跡を描く紅の血液。つるりと人差し指で救うと、酒呑童子はさくらんぼみたいな口唇に含ませた。

不気味だった。不気味にもかかわらず、マシュは何故か―――綺麗だな、と思った。

 

 

頸、頸、頸、頸―――。

狙いは全て、頸への一太刀。構えすらなく放たれる横薙ぎ袈裟切り打ち上げ刺突、東洋の剣士の放つ剣は、どれもが必殺の一撃だった。

目視すら敵わない剣筋。剣の達人ですら瞬きの間に首を刎ねられるであろう太刀筋の殺到を、しかし、その小さな少女は全て跳ねのけていた。

既に剣戟は100を超えた。100を超える必殺を、2振りの双剣で打ち払う。剣を弾かれ、砕かれ、切り裂かれながら、瞬く間に次の剣を造り上げ、次の一太刀を叩き伏せる。

神話的な暴力はそこに無く、ただぶつかり合う錬成された人間の業と業。それは、まさに英雄譚に効く剣士の凌ぎ合いだった。

剣士が身体ごと逆袈裟の剣閃を放つ。小さなクロの身体はそれだけで優に弾かれながらも、くるりと宙で身体をよじり、油断なく着地する。小次郎は特段構えもせず、ただ刀を担いで、その様を鑑賞していた。

「サーヴァント、とは奇妙なものよなぁ。華のように愛らしいが、その剣はまるで鍛えられた鋼のように味気ない」

「なぁに、ナンパ?」ふ、とクロは吐息を放った。余裕そうな表情だが、額には、薄く汗が滲んでいた。「貴方も結構、優男(ロメオ)じゃない?」

「そうよなぁ、童子女(わらしめ)を眺めて朗らかに飲む昼の酒というのも一興よな」

剣士が笑う。質朴な笑い声は風雅な剣士のいで立ちからは似付かわしくないが、何故かしっくりくるような気がした。

―――軽口をたたきながら、クロは観察する。

極東の侍の恰好のサーヴァント、セイバー。その真名は、佐々木小次郎。【千里眼】と【心眼(偽)】でなんとか互角に渡り合うことが出来たが、これ以上の継続戦闘は不利だ、と理解していた。

無数の剣戟を交わしながらも、あの剣士の挙動パターンが読めない。英霊エミヤから継承する高ランクの心眼を以てしても見切れない剣の正体は、藤丸から聞いていた。

【宗和の心得】。自身の剣技を見切らせない、達人の業。純粋な剣技だけならかの騎士王すら上回る技倆も相まって、このセイバーのサーヴァント、佐々木小次郎はステータスこそ凡百の英霊すらに劣るものの、対人戦においては怪物じみた強敵だった。

だが―――それらは、あくまでこの佐々木小次郎の強さの一端に過ぎない。

「では―――幕引きと行こう」

剣士が、この時初めて、構えた。風のように身を翻し、長い太刀を水平に構える。一本の柳のようだった剣士の体躯が、この時だけは、すっくと立つ欅のように見えた。

《クロ、来る!》

藤丸の声が、頭に響く。焦りに満ちたマスターの声―――。

無銘の剣士を佐々木小次郎たらしめる魔剣。あの男の人生の唯一の真価が、放たれる。人生を捧げて錬成された人類の登攀図、その具現が襲い掛かる―――!

両手に持った双剣を放擲する。代わり、もう一対の双剣を投影する。

「――同調、開始(トレース・オン)

―――イメージする。

既に手に馴染んだ剣。基本骨子を解明するまでも無く、構成材質を解明するまでも無く。基本骨子を作り替え、構成材質を補強する。

全行程、完了(トレース・オフ)―――投影・強化(オーバーエッジ)

両手に構えた双剣に葉脈のような魔力が明滅する。刀身を覆うように走る葉脈が剣を覆いつくすなり、ぐにゃりと剣が形を変えた。

無骨なはずの双剣は、既にそこに無い。猛禽の翼を想起させる二振りの長剣が、そこに在った。

剣士の微笑は変わらない。不敵な笑み、という言葉そのものの泰然とした鋭い笑みは変わらず―――。

瞬間、剣士の体躯が跳んだ。

僅かに一歩。ただ一つの歩様だけで、佐々木小次郎は、彼我距離を消し飛ばした。

「秘剣―――『燕返し』!」

剣士が、太刀を放った。

剣士の振り下ろした剣は、確かに、一つだった。頭から股まで切り裂く、振り下ろし。だが、クロの【千里眼】が捉えたのは、それだけではなかった。

縦割りの太刀から逃れんとする得物を切り裂く、円の軌跡を描く2の太刀。

左右へと逃れる得物を刎ねる、薙ぎ払いの3の太刀。

計、3つの剣閃が、全く同時に襲い掛かった。

ほぼ同時、ではない。全く同時、寸分の狂いすらなく、佐々木小次郎は3つの斬撃を振りぬいた。

それこそ、多次元屈折現象(キシュア・ゼルレッチ)。並行世界から自らの太刀筋を引きずり出し、振るうことで全く同時の剣戟を放つ、絶技だった。

回避は不可能。どのような回避軌道をとったところで、いずれかの太刀に首を切り落とされる。まさに、必殺の魔剣。

クロは長剣を構えたまま、躱す素振りを見せなかった。あまつさえその剣の暴威の最中へと、飛び込んだ。

剣が迫る。目にもとまらぬ速度の太刀が、肌に触れた。

 

 

佐々木小次郎は、確信を抱いていた。この秘剣は必ず、赤い双剣使いの首を刎ね飛ばす―――その確信である。

小次郎もまた、【心眼(偽)】スキルを有しているが、特に彼の心眼は敵対する剣士の戦力評価において、群を抜く。

筋力値、敏捷、耐久―――基礎身体ステータスから剣を振りぬく速度、癖、予備動作などを忽ちに見抜く、天性の勘を持っていた。

敵対する双剣使いの少女のステータスもまた、彼には既に明らかだった。筋力値:D、耐久:C、敏捷:B。小柄ながら剣筋は酷く生真面目。センスは無いが、ただ無暗に鍛えられた剣は、堅実だった。

全て、彼女の戦闘能力を把握する。結論は、自身の秘剣を躱すことは不可能、と判断した。故に、彼は、自らの剣を抜いた。

理屈は不明、論理も不明。だが彼の剣は、論理を超えて過程を飛ばし、第二魔法(キシュア・ゼルレッチ)をここに再現する。

顕現する3つの太刀。双剣使いの少女を包囲するように迫る太刀は、寸分たがわずに、小さな体躯を切り裂き―――。

瞬間―――小次郎は、目を見張った。

彼の目は、その瞬間を、確かに見た。3本の剣が少女を叩き切る刹那、その姿が掻き消えた。

太刀が、虚空を斬る。虚ろなだけの手応えに瞠目するのも一瞬、即座に察知した小次郎は、周囲を見渡した。

薙ぎ払うように迫る黒い剣。

回避する獲物を切り裂くように飛来する白亜の剣。

そして、背後―――いつの間にか回り込んでいた少女が、頭から股まで叩き切るように、2振りの長刀を振り上げていた。

どうやって、という疑問は、今は無かった。ぞわり、と臓腑から沸き上がった奇怪な情動に口角を上げた佐々木小次郎は、再度、刀を構えた。

「秘剣―――燕舞!」

再度、秘剣が奔る。横薙ぎの干将を薙ぎ払い、飛来した莫耶に円の軌跡の剣筋を見舞う。そして斬りかかる少女めがけ、打ち上げるように太刀を放った。

錯綜は、一瞬だった。刃同士が打ち合う甲高い音が炸裂する。破裂音にも似た金属音の合間、ぶしゅ、と飛沫が舞った。

地面に、赤い影が転がる。その外套よりもなお鮮やかな飛沫を纏った矮躯が、地に臥した。

斬った。今度こそ、手応えはあった。

だが、浅い。ただ防御のために放った剣は首ではなく、あの少女の脇腹を裂くに留まった。

血糊のついた太刀を担ぎ、小次郎は思案する。

彼女は、どうやって『燕返し』を躱したのだろう。あの敏捷値では、間違いなく躱せるわけがない。剣の包囲網を抜け出すことなど、通常の論理ではできるはずがない。

だとすれば―――それは、物理法則すら超える、英霊の逸話の具現。宝具の為せる技だろう。

どちらにせよ、と思う。無限にも思える中華剣の複製、強化。そして謎の宝具らしきものの存在。佐々木小次郎は微かな口角の皺を刻むと―――膝をついた。

「華に舞う蝶かと思えば―――意匠返しとはまた興趣のある」

咳き込み一つ。吐血が石畳に飛び散る。肩に手を当てれば、腰まで一文字に斬られていた。

相打ち。一瞬の錯綜の中、剣士が一撃を入れたのと同時に、少女もまた、長剣を剣士に届かせていた。

「第二魔法の切れ端と第三魔法の残り滓。半端者同士の戦いには似合いでしょ?」

よろり、と少女が立ち上がる。切り裂かれた脇腹を抑えながらも、皮肉を叩く表情は挑むようだ。

「さて。拙者、小難しいことはとんと理解が無いものでな」

「あ、そう。そういえばアナタ、ただ剣を振っただけでゼルレッチに至ってるんだったわね」

はぁ、と少女はため息を吐いた。呆れたような失意のような顔も一瞬、彼女は再び、双剣を投影した。

―――人の世とは、本当に、奇妙だなと思う。生涯一度も剣を振るう機会は無く、ただ己の剣に満足して、没した。それで己の人生は終わり―――かと思えば、英霊の座などに召し上げられ、佐々木小次郎という虚ろな殻を被せられて異郷に召喚され。

そして、生前振るうことの無かった剣を、振るっている。そして敵は秘剣を躱し、あまつさえあの秘剣を疑似的に再現して見せた。そして、その敵は、年端もいかない少女の姿を取っている。

これほど、奇妙なことがあるだろうか。そしてこれほど、愉快なことがあるだろうか。

セイバー、佐々木小次郎。無冠の武芸者は、三度の構えを取った。

『燕返し』はあの少女に通じない。だが、佐々木小次郎の名を関する剣士が振るうべき剣は、これしか存在しない。

ならば、抜く剣は是のみ。己の全生涯を以て磨き上げた秘剣でもって、なんとしても、あの鳥を撃ち落とす。

「秘剣―――」

無銘の剣士は、その一歩を踏み込む。

敏捷:A+に到達する、およそサーヴァントの中で最上位の速度。【千里眼】を以て、ようやく目で追えるほどの速度で以て近接格闘戦領域に侵入する。

刀を叩き下ろす。玄翁を叩きつける要領で、身長を優に超える長刀、備中青江の刃を少女の頭蓋へと定め―――。

瞬間、何かが弛緩した。

少女の目が、僅かに逸れる。右から横殴りに迫る物体に舌を打った小次郎は、寸でのところで背後に飛び退いた。

がちゃり、と鎧が床に叩きつけられる。脇から飛んできた物体―――聖女の体躯がまるでゴム毬みたいに地面に叩きつけられ、少女の前に転がった。

「ジャンヌ!」

思わず、といったように少女が駆け寄る。血だらけで地面に転がる金の髪の少女は、とても無事ではない。

ジャンヌ・ダルクに駆け寄った少女は、はっとしたように顔を上げた。身を屈める姿は、どう見ても隙だらけだった。あるいはその他のサーヴァントが相手ならば、ジャンヌを気遣いながらも、攻撃に備えられただろう。だが、佐々木小次郎の極度の敏捷から繰り出される速烈の前では、あまりに、無防備だった。

だが。

小次郎は、剣を抜かなかった。無手のまま少女を見下ろすと、鋭い一瞥を、別な影に見やった。

「ランサー」

一瞥の先、槍使いの魔女が空に浮かんでいた。鋭利な眼差しを平然と受け流したランサーは、冷たい侮蔑を剣士に返した。

「何よ、文句があるならそこの襤褸雑巾に言ってよね。ちょっとぶっただけで飛んで行っちゃうんだもの」

はらり、とランサーが地面に足をつける。臆面も無く言ってのけると、蛇のような目を二人に向けた。

「事故なら仕方いわよねぇ。アタシはあくまであの聖女サマを殺すだけ、ついでにあのドブネズミを巻き込んじゃってもさぁ!」

凄絶に表情を歪める。獰猛な鰐の如く口角を歪めたエリザベートは、自らの正面に突き立てた槍の上に飛び乗ると、弓なりに大きく仰け反った。

背中の翼が展開する。同じく広げた両の手の五指が開き、周囲の大源を根こそぎに簒奪する。

「ランサー、貴様!」

「しょうがないじゃない、悪いのはアタシじゃないわ、雑魚い聖女とネズミが全部悪いのよ―――『竜鳴雷声(キレンツ・サカーニィ)』!」

竜の咆哮が、地表を薙ぎ払った。

 

 

―――『竜鳴雷声(キレンツ・サカーニィ)』。

古来、ハンガリーに伝わる天候の精霊にして雷鳴竜の暴威を形にした宝具である。無辜の怪物により亜竜(デミ・ドラゴン)と化したエリザベート・バートリーが有する、第一の宝具だ。自身の声に宿る特性を増幅・精神異常を付与し、さらにダメージを与えるその宝具は、エリザべートという英霊が座に召し上げられた際に後天的に付与されたものであり、そして、彼女の特性に、絶望的に合致した宝具だった。

人理に仇名す反英雄の叫喚は同じ反英雄を鼓舞し、人理に与する英霊に呪詛を付与する。さらにその凶悪なまでに歪んだ美声は物理的な破壊すら齎し、攻撃範囲内のあらゆるものを振動破壊する宝具を防御する手立ては、概念防御による呪い・ブレスの防御が必要だった。

直感的に、クロは理解していた。

アイアスの盾でも、あれは防げない。物理的破壊は防げても、呪詛が巻き起こす精神汚染と破壊だけは防げない。

だが、それでも防御しないわけにはいかなかった。何もせずに喰らえば、間違いなく二人とも死ぬ―――!

「『熾天覆う(ロー)』―――っ、ジャンヌ!?」

ぽん、とクロの身体が宙を舞った。

軽々と宙を舞い、床に転がったクロは、顔を上げてその光景を見た。

視界の先、よろりとジャンヌが立ち上がる。全身の衣装を血に染め上げながら、左腕を欠損しながら、右目を抉られながら、腹に風穴を開けながら―――そんな姿になりながら、ジャンヌは、すまなそうに眉を寄せていた。

「すみません、不躾な方法になってしまいました。ですが、こうするほかありませんので」

覚束ない足取りで、ジャンヌが正面に向き直る。対峙するは竜の暴威、されどジャンヌは一歩も引かずに、旗を天上へと掲げた。

「主の御業をここに。我が旗よ、我が同胞を厄災より守りたまえ―――!」

暴威が、聖女を飲み込んだ。

クロの与り知らぬことだが、確かにジャンヌ・ダルクの宝具であれば、エリザベート・バートリーの宝具を完全に防ぎきれただろう。だが、それは彼女がせめて標準以上のコンディションであれば、という限定が付く。召喚の際の不具合とそれに伴うステータスの低下、あまつさえ瀕死の状況である彼女には、宝具を発動することすら想像を絶する苦痛だった。

そんな状態での宝具である。完全に防ぎきることなど当然敵わず、防御と引き換えに、ジャンヌ・ダルクは、そこで消滅した。

 

 

 

消滅した。

はず、だった。

噴煙が、晴れていく。竜の怒声が撒き散らした暴威の最中―――ジャンヌは、まだ、立っていた。それどころか欠損していた部位すらも修復していた。

【聖人】のリジェネスキルではない。己の宝具の回復効果でもない。であれば、これは―――。

 

「―――諦めてはだめよ、聖女ジャンヌ。それは優雅ではありませんもの」

 

誰かが、居た。ジャンヌを守るように立ちふさがる、赤い衣の女性。透き通るような白い髪は、絹を想起させた。

「聖女ジャンヌ、お辛いでしょうが、今はお立ちになって。貴女が膝を折ってしまわれたら、この国は本当に終わってしまうもの」

「貴方、は―――」

彼女は、小さく笑った。自分と左程年恰好は変わらないのに、大人びて、秘密めいて、それでも無邪気な表情だった。

「我が名はマリー、マリー・アントワネット! 我らが祖国の為に馳せ参じた! ……ふふ、これで合っているかしら、正義の味方として名乗りをあげるって」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

艶嗤う鬼女と処刑人

「あら、かいらしいお后様やなぁ」

独り言のように、酒呑童子は呟いた。

ガラスの盾らしきものを召喚し、エリザベートの宝具を防御しきったサーヴァント。マリー・アントワネットと名乗りを上げたサーヴァントを、値踏みしているようだった。

ねぇ、と同意を求める様に、酒呑童子は小首を傾げた。愛らしいまでの仕草は、同性のマシュですら見惚れるほどのものだった。

だが、そんな屈託のない仕草は、この戦場にはあまりに不似合いだった。

「茨木も部下みたいなのおったなぁ、親衛隊って言うん? 強い鬼侍らせて、えろう威張りちらしとったなぁ―――」

少女らしい仕草のまま、酒呑童子は、不意に背後へと剣を薙ぎ払った。

虚空を斬るはずだった銀の大剣が、首元に迫った剣を打ち払う。鬼の膂力は首を刎ね飛ばす気勢の剣を、その剣士ごと弾き飛ばした。

「あんたはんも、あのお后様のお守なん?」

頸を斬られかけながらも、酒呑童子は殆ど意に介していない。あまつさえその剣士を睥睨する目には、喜悦すら混じっているようだった。

「―――僕は、そんな大層なものではないよ」

剣士が、立ち上がる。生真面目そうな、ローブを着た青年は手にした鎌剣を、再び構えた。

「私は、ただのしがない処刑人(エクスキューター)さ」

相変わらず、酒呑童子の表情は崩れない。そんな酒呑童子に怪訝な顔を向けながらも、剣士は厳しい顔を変えずに、面前の異形を見定めていた。

「サーヴァント、アサシン。盾のお嬢さんとそのマスター、貴女がたの助太刀に参りました」

「―――気を付けてください、そのサーヴァントは極めて強力です! まともに打ち合っては―――」

言いかけ、マシュは口をつぐんだ。アサシンのサーヴァントは無言で頷くと、ただ目の前の酒呑童子を、冷たく見据えた。

「あんたはん、イケメンやねぇ―――でも怖い目。うちはそういう目、好きよ?」

「痴れ言を。此度は聖杯戦争、であれば貴女と僕は敵同士だ」

「わからん人やねぇ、だからええんやない。殺し、殺される。そやし、昂るんやないの?」

「残念ながら―――僕にはそういった趣味は無いのでね!」

踏み出したのは、同時だった。酒呑童子の大剣を素早い身のこなしで躱し、己の鎌剣で逸らす。そうして自らが放ったのは、酒呑童子の首への、素早い一撃だった。

剣を振った、という気配すら感じさせない鮮やかな剣筋。恐らく、酒呑童子以外のサーヴァントが相手であれば、それで終わっただろう。あのアサシンのサーヴァントが持つ剣技は決して優れているものではなかったが、殊首を落とし処刑するという一点に関して、何者の追従を許さない純粋な太刀筋だった。

剣は走る。首を刎ねんと振り抜かれた剣が、酒呑童子の肉を引き裂いた。

だが。

それは、首ではなかった。

腕、だった。酒呑童子は既に襤褸になった左腕を剣の刀身に叩きつけ、剣筋を逸らした。首を刎ねるはずだった剣は空しく酒呑童子の頭上を過ぎ去っただけだった。

アサシンに畏怖が奔る。今の一撃で、左腕はさらに損壊し、傷口からは千切れた筋線維が飛び出し、削げた肉が地面に散らばった。だというのに、酒呑童子の風雅な表情は一切たりとも変わらなかった。

酒呑童子の剣が掬い上げるように振り抜かれる。股から頭頂部まで一直線に切り裂く剣閃は、

「―――させません!」

一瞬先に割り込んだ盾が、防いだ。

だが、剣の膂力は止まらない。防いだ盾ごとサーヴァント2人を優に吹き飛ばした酒呑童子は、この時初めて、僅かに眉頭を寄せた。

酒呑童子は、傷だらけになった左腕をしげしげと見た。そうしてから、大剣を地面に突き刺すと、右腕で左腕を引き千切った。

「悪特攻に首狩り。処刑人はん、あんた、うちの天敵やねぇ」

まるでゴミでも捨てるように、酒呑童子は自身の腕を捨てた。

「天敵一人に、防御専門のお嬢ちゃんが一人。流石のうちも分が悪いなぁ」

わざとらしく、悩むように額に手を当ててみせる。いや、多分、あれは本当に悩んでいるんだろう、とマシュは思った。酒呑童子の飄々とした仕草は、決してこちらをだますためのものではない。あれは、酒呑童子という存在そのものの立ち振る舞いのようなものなのだ。そのような事実として、マシュは、理解した。

「面倒やし―――まとめて蕩かしたろかねぇ?」

酒呑童子は、冷たく、そう言い放った。

骨の髄まで凍らせるような声。ぞわり、と背筋が震えた。

宝具がくる。先ほどのエリザベートのように、周囲のマナを貪婪に喰らい尽くすその様は、間違いなく神秘の開放―――宝具の開放に他ならない。

「死なすんは惜しいけど、それもしょうがおへんねぇ―――精々死なんといてね?」

酒呑童子は大剣を突き刺したまま、どこからともなく、杯を取り出した。

古い日本の酒器、だった。

「『千紫万紅・神便鬼毒』―――」

謡うような声音とともに、傾けた酒器から、透明な液体がこぼれた。

透き通るようで、酷く粘性にも見える液体はどろりと床に広がるなり、瞬く間に地面へと吸い込まれ―――。

「―――!?」

変化は、瞬く間に起こった。

視界が、不意にぶれた。吐き気が腹の底から沸き上がり、四肢末端が、痺れた。

思わず、座り込む。いや、座り込む、なんて生易しいものではない―――ずしりと肩に重しを乗せられたかのように、膝が、折れた。

「ふふ。いいモンやない、これ」

酒呑童子は蠱惑的な顔のまま、くい、と杯を煽る。するりと一飲み、ほう、と嘆息を漏らして頬を上気させた。

―――神便鬼毒。マシュは即座に、その宝具に思い当たる。

酒呑童子の最後は、酒に酔い、酩酊する最中に源頼光に首を斬られた―――とされる。その際に用いられた酒こそ、神便鬼毒。人に活力を与え鬼を毒する、神酒だ。

―――宝具とは、英霊に付随する伝承が形を成したものだ。故に、英霊が生前に振るった武器だけでなく、英霊が死に至ったその刹那が宝具と化すことは、十分にあり得る。酒呑童子のそれは、この類型だろう。

それ自体、マシュの知識にあることだった。自身の死に直結したものが宝具となる―――あり得ることだ。

だが、何故、と思う。

何故酒呑童子は、自らを死に至らしめたものを、あのように楽し気に、味わい、振るうことができるのだろう―――?

「お嬢ちゃんはもう無理やねぇ。そっちのイケメンは粘るなぁ、結構強めにいってるはずなんやけど」

地に臥すマシュの隣で、黒い外套の剣士はまだ、なんとか立っていた。剣を杖代わりにし、顔面蒼白になりながらも、目の前の敵から決して目を離していない。

だが、それだけだった。立つのでやっと、剣を振るう余力すら最早無い。できるのは精々、強がりのみ。そんな状態だった。酒呑童子も、よく承知しているのだろう。立ち尽くす剣士を見る目は、既に敵を見る目ではない。あれは、玩具を見る目だ。

「とことんうちとは相性が悪いんやねぇ―――それとも、却ってええんやろか」

アサシンは、応えなかった。あるいは、返答する余裕などとうに無かった。ただ、やっとのことで鎌剣を構えたのが、せめてもの返答だった。

「それじゃあ処刑人はん、あんたはんは食べごろになりや。いただいてまうけど、かまへんね?」

有無を言わさぬ軽やかな声。ころん、と小首を傾げたのが、合図だった。

酒呑童子は剣を地面に突き刺したまま、地面を蹴り上げた。まるで地を這うかのような低い姿勢で猪突した彼女は、ぐにゃりと、五指を開く。

まるでその様は、竜が大口を開けているようにも、見え―――。

「令呪を以て命ずる―――シールダー、宝具を撃て!」

ざくり、と声が頭蓋を貫いた。

誰の声か。判断するまでもない、聞きなれた声、耳に馴染んだ声は鼓膜をすり抜け、全身にいきわたる。全身の重い油のような倦怠感はそのままに、されど、彼女は己が盾を振り抜いた。

「―――『疑似展開/人理の礎(ロード・カルデアス)』!」

盾を大地に突き立てる。聳える盾を起点に、夢幻の城壁が展開する。左右に伸びた城壁は、酒呑童子とアサシンに割って入るように横たわった。

酒呑童子は、だが止まらない。城壁ごとアサシンを破砕せんと、右の剛腕を槍の刺突の如くに撃ち放った。

「―――あら」

が―――。

酒呑童子の攻撃は、城壁を貫くことはなかった。確かにその膂力は、幻の如き城壁を抉った。だが、破砕するには至らない。手首が貫通した程度で、その暴威は押し込められた。

瞬間、アサシンが鎌剣を振り抜く。狙いは首、過たずに放たれた薙ぎ払いが酒呑童子の首元へと駆ける。

最早防御する手立ては無い。左腕は既に無く、壁に捉えられた右腕を抜く時間は無い。確実に、鎌剣は、酒呑童子の首を刎ねる。

「ほんまに―――いけずやねぇ、あんたはんら」

酒呑童子の表情が、微かに歪んだ。余裕の表情は無く、色の無い表情は、氷の冷たさを想起させた。

直後、酒呑童子は、歯を見せた。歯、というよりは、牙。鋭利に生えそろった牙を見せたか、と思った刹那―――。

彼女は、鎌剣の刃へと噛みついた。

驚愕は、誰のものだったか。その光景を目にしたマシュ、リツカの瞠目の中、剣を振るったアサシン自身は、別種の情動を惹起させていた。

確かに、口で剣戟を受け止めるその様には、目を剥いた。だがそれよりなにより畏怖を抱かせたのは、剣が、動かないことだった。

あるいは、剣筋を見切れば、放った剣を咥えこむことは不可能ではないのかもしれない。だが、口で咥えられただけで、サーヴァントが両の手で渾身を込めているにも関わらずにぴくりとも動かなかった。押しても引いても、動く気配すらない。

まるで、巌に刺さった剣を引き抜こうとするかのような錯覚すら覚えた。後になって、アサシンは、そう回想した。

酒呑童子が、一歩、右足を引いた。そのまま引いた右足に膂力を込めた酒呑童子は、そのまま、鎌剣ごとアサシンをぶん投げた。

アサシンは錐揉みしながらも、転がるようにして受け身を取った。立ち上がるなり剣を構えたが、酒呑童子は、アサシンへと追撃は行わなかった。

「はぁ。これじゃあ、口裂け女やねぇ。ほんま酷い人らやわぁ、女の顔に傷つけるなんて」

ぐい、と酒呑童子は口角を拭う。それでも血は止まる気配は無く、両の口角から滴った赤い雫が、顎先まで伝った。

「毒も効かへんのねぇ。アサシンはんもうちの天敵やし……どないしよかねぇ」

困り果てた、というよりに、酒呑童子は嘆息を吐く。やれやれやわぁ、と独り言ちる彼女は、本当に、悩んでいるらしかった。

それにしても、と思う―――確かに、酒呑童子の言う通りだ。酒呑童子の宝具の影響は、最早ない。身体中に浸潤していたはずの毒気は無く、体調は元に戻った、と言って良い。

自分の盾の、効果。状況からして、そう理解するほかない。だが、そんな毒耐性効果は、自分ですら理解していなかった。

なのに―――何故。

マシュは、僅かに身動ぎし、背後のリツカを一瞥した。

「おとなしく首を差し出すがいい。我が剣、一切の苦痛なく落として見せよう」

「大層な自身やねぇ。でもうち、そういうのは好きやないわぁ。痛みが無く死ぬなんて、考えられへん」

酒呑童子は、吐き捨てる様に言った。明瞭な侮蔑の視線をアサシンに投げかけると、しっし、と手で払った。

「はよ消えはったらよろしおす。あんたはん、イケメンやけどもう見とぉないわ」

アサシンは、苦く、顔をゆがませた。怒気すら感じさせるほどの形相を見せたのも束の間。

しかし、彼は、剣を下げた。

「アサシン、どうして―――」

「外見上の優劣に拘泥してはいけません。確かに僕と貴女なら、あのサーヴァントを倒しきれるかもしれない。ですが、相手はそもそも全戦力を投入していません」

じり、とアサシンは一歩下がった。アサシンの視線の先を追えば、そこには、黒い聖女がつまらなそうに佇んでいた。

「それに、もう手はずは整っています―――アヴェンジャー!」

 

 

 

 

迫りくる竜の音激。威力を伴う咆哮が、彼女に牙を剥く。

迫りくる刀の斬撃。首を狙い放たれた一太刀が、彼女を捉える。

だが、どちらもその気品のある肌を傷つけることはなかった。彼女に襲い掛かる攻撃、そのどれもが硝子の盾に阻まれ、硝子の杭に貫かれ、悉くはねつけられていく。

彼女―――マリー・アントワネットはエリザベートと佐々木小次郎の猛攻、その全てを防ぎきっていた。

まさに鉄壁の防御。彼女を象徴するであろう硝子の盾、槍、あるいは城壁が次々と現れ敵を阻むその背は、雄々しい名乗りに相応しい威厳を感じさせる。それでいて軽やかに地を駆けるその姿―――まさしくそれは、王妃の佇まいに他ならなかった。

マリーが敵2人を翻弄している―――ならば、と藤丸は走り出した。駆け寄る先に、うずくまる人影。クロと、それを介抱するジャンヌの傍へと駆けた。

「クロもジャンヌも、大丈夫なのか!?」

「はい、私はなんとか。スキルと、それと彼女の宝具でもう回復済です」

頷きを返すジャンヌの表情は確かに良い。あれだけエリザベートにやられた傷も、すっかりと治っている。彼女は今回、【聖人】の中から選択したのはリジェネだったはずだ。それが功を為したのだろう。

だが―――クロは、そういったスキルを持たない。

「ごめん、カンニングして負けちゃった」

てへ、とクロは笑って見せる。表情は相変わらずだが、額には、冷や汗が滲んでいる。あまりにもわかりやすい強がりに歯を噛みしめながら、藤丸は彼女の腹部を見た。

傷は無い。既にある程度は回復しているらしいことは、一目で見て取れた。だが本調子ではないのだろう、げほ、と咳き込めば、血が―――。

「そ、そうだ! 礼装の効果に確か、回復が―――」

「いいえ、それではだめよ、マスターさん」

と。

頭上から、声がかかる。はっと顔を上げると、あの気品のある目が見返してきた。

硝子の馬に横すわりするマリーの華やかな顔が、そこにあった。

「今必要なのは、その場凌ぎではなくてよ?」

「でも、じゃあ」

「そちらの可愛らしい方は私に任せて? 聖女様、そちらのマスターさんのことを頼みますね」

硝子の馬が、ひょい、とクロを加える。そのまま背に乗るマリーが抱きかかえると、彼女は高らかに、声を上げた。

「それでは、出番ですよ―――先生!」

彼女の澄み渡る声が響く。

声の先―――奇妙な人影が佇んでいた。

紅蓮のような赤い衣装に身を包んだ、純黒の人影。いや、果たして本当に人なのかすら不明瞭な影が、すらりと佇む。

ぞわりと、何かが背を舐めた。その黒い影から発した、指向性を伴ったどす黒い気配。

影が十字の剣を掲げる。それを合図に、影の背後に何かが立ち上がる。蠢く光芒を十字剣で制すること秒未満、影は無骨に、剣の切っ先を振り下ろした。

「―――『至高の神よ、我(ディオ・サンティシモ・)を憐れみたまえ(ミゼルコディア・ディミ)』!」

光芒が炸裂する。炸裂と同時に弾け飛んだのは、音、だった。あるいは、怨楽(おんがく)というべきか。肌を炙るが如くに周囲に拡散した音はすぐさまに収束し、4騎のサーヴァントへと襲い掛かった。

「今よ! 皆さん、一目散に逃げますわよ!」

 

 

 

 

「逃げられたな」

佐々木小次郎は、漠と呟く。

既に戦場に殺意は無い。あるのは僅かばかりの余韻だけ。肩に担いだ長刀を擡げると、彼は、しみじみと眺めた。

あの双剣使いの少女―――真正面から己が秘剣を躱して見せた少女。決して流麗とは言えない巌のような剣筋を持つ少女を、この剣は堕とせなかった。

世の中、空飛ぶ小鳥以上に自由なものが、いるものだ―――小次郎は、小さく笑った。

「いやぁ今回は運が悪い。可憐な華かと思えば皆手厳しい」

「なぁに、小次郎はん。あんたはん、うちだけじゃ満足できへんの? いけずなお人やねぇ」

「美しい華はどれもそれぞれに美しいもの―――であれば、どの華も賞味せねば無粋と申すものであろう? なぁ、ランサー」

小次郎は軽妙に背後のエリザベートへと振り返った。

だが、彼女は何も答えない。柄になく真剣な表情をしたか、と思うと、彼女は何故か深く頷いていた。

「どないしはったん、ランサー?」

「なんでもないわ。ただ、いい得物が見つかっただけよ」

つん、とランサーはすましたように応えた。が、どこか楽し気な様子だ。

得物、とランサーは口にした。だがそれは、佐々木小次郎の求めるソレとは、毛色の違う欲求のようだった。ひたと彼女を見据えるのも一瞬、小次郎はすぐに、飄々と視線を投げた。

「全員、オルレアンに戻りますよ」

黒いジャンヌはそう言うなり、地面に臥していた飛竜の背へと飛び乗る。つい先ごろまで宙を舞っていた残り3匹の竜も、ジャンヌの指示に従い素早く地面に降りると、背を見せた。

「追跡は彼に任せます。小次郎、酒呑童子は傷を回復させなさい。それでは当分戦えないでしょう」




ルビがご機嫌斜めになりました。
どうして……どうして……


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

灰の男と百合の花

今回は一部文章にて御形サンのINTが著しく下がりました。
校正してて思わず突っ込みました……


「―――ふう。はい、ここまで逃げれば大丈夫かしら」

マリー・アントワネットは騎乗する硝子の馬を制止させると、穏やかに周囲を見回した。

鬱蒼と茂る森の中。藤丸も周囲を見回してみたが、不審な影は見当たらない。

マップの情報から、現在地はラ・シャリテから北南20km地点。人の歩いた道があるところを見ると、人の出入りのある森のようだ。

「ロマン?」

(あぁ、その他センサーに反応は無い。追手は無い、と判断すべきだ。それとちょうどその周辺に霊脈の反応がある。マシュ、召喚サークルの設置をお願いできるかな)

「了解、ロマン。マシュ、お願い。それと、マ―――マドモアゼル・マリア? ここで一度休憩、ということでよろしいですか?」

リツカは、どこかぎこちなくマリーに言った。マリーは意外そうな表情すると、すぐに表情を和らげた。

「まぁ、そのように私を呼ぶ方はそういらっしゃいませんよ。可愛らしいマスターさん?」

「ご気分を害されましたか―――?」

「いいえ、むしろうれしいくらいよ。でも『マドモアゼル』はいりませんわ、普通にマリアと呼んでいただいて構いません。それと、皆さまも私のことはどうか、気兼ねなく呼んでくださいな」

「そうでしたか―――そう、わかった。マリア」

「ふふ。今でもその呼び方をしてくださる方はお一人だけなのですけれど、他の方から呼ばれると新鮮ですね。そちらのマスターさんも、お好きにお呼びになって?」

華やぐように、マリーが笑顔を向ける。背格好はまだ若い―――というより、多分トウマよりもさらに幼少期の姿で召喚されているであろうマリー・アントワネットは、どこか奇妙な美しさがあった。

厳かな佇まい、気品のある仕草。老練とすら呼べる品を持つ少女、という彼女の存在様式は、何か、芸術的ですらある。

「えぇっと」トウマはなんだか照れて、頭をかいた。「ま―――マリー、さん?」

「まぁ、マリーさん、ですって! 羊みたいでとっても可愛らしい呼び方」

「それ、メリーさんじゃないの」

「はい! はいはいはい! 皆さま初めまして、わたくしマリーさんです」

ぼそりとマリーに抱きかかえられるクロが呟いたが、彼女は特に意に介していないらしい。何度も「マリーさん」と鼻謡う姿は、初めて玩具で遊ぶ赤子のような無邪気さだった。

「あの、マリーさん?」

おずおず、といったようにマシュが馬上のマリーに声をかけた。

「はい、休憩ですね? マリーさんは賢いので、ちゃんと覚えていますよ。サンソン、先生、よろしくて?」

アサシン―――サンソン、と呼ばれたサーヴァントは、うん、と首肯を返した。マリーとは対照的で、物静かで大人びた青年、といった様子だ。

そして、もう一人。

先生、と呼ばれたサーヴァント―――銀灰色の背広を着こんだ赤目の男もまた、無言で頷いた。

マリーを含めて、3人とも、トウマの知らないサーヴァント、だった。そして、高校の世界史Bくらいしか歴史の勉強をしていない彼にとっては、マリー以外の二人はその出典も不明だった。3人の関係性からして、おそらくマリー・アントワネットと生前からの知古なのだろう。

と、アサシンと目が合った。アサシンはじっとトウマを見つめると、静かに、小さく頷いた。

「改めて、ではありませんが、自己紹介など。僕はシャルル=アンリ・サンソン。アサシンのサーヴァントだ。あまり、有名ではないと思うけれど、いくばくかでも皆さまのお力添えになれれば」

アサシン―――シャルル=アンリ・サンソンと名乗った青年は、伏し目がちに言った。

サンソン。シャルル=アンリ・サンソン。トウマは決して多くない知識を掘り返してみたが、結局わからなかった。

「私の番かしら。マリー・アントワネットです。クラスは見ての通りライダー。どのような人間かは、皆さまの目と耳で、じっくり吟味していただきたいと思います」

マリーは相変わらず、野道に咲く花のように表情を和らげている。子供のように高い声ながら、心地よい重圧を持つ彼女の声は、聞いているだけでどこか、気が楽になるような効果がある。何か、スキルのようなものだろうか。

「そして―――」

マリーはちらりと背後を伺う。

彼女とサンソンの後ろで、亡霊のように佇む灰色の男。色落ちした衣類のような白い髪の下に赤い目を宿した男は、しかし、何も語ろうとはしなかった。

「私から真名を言ってしまってもよいのかしら」

マリーは申し訳なさげに、眉尻を下げた。灰色の男は無言だったが、しっかりと、彼女に頷いた。

バーサーカー、だろうか。意思の疎通は可能だが、難しいタイプの―――。

「―――アントニオ・サリエリ。私の兄が大切にしたカペルマイスターです。クラスは、えぇと」

サリエリ。アントニオ・サリエリ。こちらも、トウマの知らない名前だ―――。

「アヴェンジャー。我がクラスはアヴェンジャー、復讐の使徒、あるいは復讐そのもの―――です。王妃」

灰色の男は、不意に口を開いた。酷く、生気の無い声だ。色の無い声はどこか侘しさすら感じさせた。

しかし、それにしても。

(アヴェンジャー、だって!? 本来の聖杯戦争には召喚されない、8番目のエクストラクラスじゃないか―――!)

ロマニの声が耳朶を打つ。悲鳴にも驚愕にも似た声に、トウマも、思わずサリエリを注視した。

クラス、アヴェンジャー―――それは、かの悪神に祭り上げられた青年が冠したクラス。エクストラクラスという点ではルーラーに似るが、召喚される条件が設定されるルーラーに対し、アヴェンジャーはそもそもどんなプロセスで召喚されるか不明の、例外の中の例外だ。

「そのようなクラスが存在するのですね。復讐が英霊の骨子となり、枠を象る―――」

ジャンヌは、どこか考え込むようにサリエリを見る。灰色の男は特段意に介する様子も無く。また焦点の合わない赤い目をどこともしれない場所へと向けていた。

復讐者(アヴェンジャー)―――あの優しいサリエリ先生がこのようなカタチで召喚されること、わたしは悲しく思います。でも、またお会いできて嬉しいですわ?」

物悲し気に眉をひそめながらも、マリーはやはり、華やぐようにサリエリに微笑みかける。男は僅かに赤面し、肩を小さくした。

「もちろん貴方もよ、サンソン。色々と、お世話をかけました」

「いえ。私はただ、自分の職務を果たしたまでです」

サンソンは、静かに言った。後悔のようなものは感じられない、清廉な表情だ。

ムッシュ・ド・パリ。死刑執行人。なんだか物騒なイメージを持ったけれど、多分、彼は良い人だな、と思った。

「で、では、私たちからも。マシュ・キリエライトと言います。クラスはシールダー。少々特殊なサーヴァント、です。そして、こちらが―――」

「リツカ。リツカ・フジマル。マシュのマスター、です」

「まぁ。であれば、そちらの貴方も?」

「あ、はい。俺―――僕も、彼女のマスターです……一応」

「一応、じゃなくて立派なマスターでしょ?」

咎めるように、クロが鋭くトウマを見上げた。

まぁ確かに、マスターだ。掌に、ちゃんと令呪もある。戦う覚悟も、自分なりにだけれど、した。だが、単純な技量の話として、トウマは三流以下のマスターだ。

「もう―――アーチャー、クロエ。クロ、って呼んでね。それで、この人が―――」

「ジャンヌ。かの救国の聖女、ジャンヌ・ダルクね。フランスを祖国とする者として、貴女のことは尊敬しておりました」

はい、とマリーは頷いた。

救国の聖女、ジャンヌ。それはきっと、傍目には、誉れ高い呼び名のはずだ。田舎のただの娘がある日神の声を聴き、剣を摂った。そして勇猛果敢に戦い、イングランドをフランスの地より跳ね退けた。そして死後、汚名は雪がれ、聖人に列聖。名だたる聖人たちに名を連ねることと、なった。俗物的だけれど、それはとても誇り高いことだ。

だが、ジャンヌの表情は硬い。というよりも困惑気だ。

「私は、その、聖女と呼ばれるに相応しい者ではありません。夢見がちな片田舎の小娘で、思い上がり甚だしい咎人です。その果てに、どれだけの血が流れるか考えることもしなかった―――聖人の名は、結果論に過ぎないのです」

「でも、皆、そういうものなのではなくて? 人は名を誰かから賜る。そうして、私はその(名前)に相応しき者であろうとする―――人は誰かの祈りで象られる。そうでしょう?」

ふふ、とマリーは小さく笑った。

ジャンヌは、虚を突かれたように、マリーを見返した。

いくばくかの逡巡。彼女はまだ、困ったような顔をしていた。だが、肩を軽く落とした彼女の表情は、明るかった。

「ありがとうございます、王妃。その―――あまり語彙力が無いので、なんと言葉にしたらよいのか」

「いいのですよ、聖女ジャンヌ―――ねぇ、聖女ジャンヌ。ジャンヌ・ダルク。私、貴女のこと、ジャンヌと呼んでも善いかしら」

「ジャンヌ、ですか?」

「はい。だって、なんだか応援したくなってしまったのです。それって、尊敬する偉大な方というより、お友達みたいではないかしら」

「と、友達、ですか。私と、王妃が―――」

「ノン。王妃、でなくマリー、と呼んで?」

ぎゅ、とマリーは両手でジャンヌの手を包んだ。

ジャンヌは、照れたように赤面して、周囲をあたふたと見回した。まるでゆでた蟹みたいに顔を真っ赤にしたジャンヌは、恐る恐る、といったように、マリーを見上げた。

「ま―――マリー?」

「ええ、マリー。これからよろしくね、ジャンヌ?」

マリーは、ころん、と小首を傾げた。愛らしいまでの仕草に一層赤面したジャンヌは、「は、はい―――」とただ頷くばかりだ。

なんだか、甘い一瞬。客観的に見れば女友達同士の友情―――というんだろうが、これは。

ちら、とクロの方を見ると―――うむ。満足気な顔だ。

「む」

「どうしました、アヴェンジャー―――おや」

「百合でしょうか。綺麗ですね、先輩」

「山百合っていうのかな?」

4人して、百合の花を見ていた。

(―――えぇと、それじゃあみんな自己紹介も終わったし、状況の整理でもしようかな?)

 

 

 

 

「つまり、私たちは聖杯戦争に召喚されたのではなく―――人理の危機の為に召喚された、ということなのかしら」

自分の声に頷くように、マリーは首肯する。思慮深くカルデアからの情報を咀嚼すると、彼女は心配そうな目でトウマたちを見回した。

「月並みな表現ですけれど―――貴女達は、大任を背負っておいでなのですね」

「まぁ―――そう、なるかな?」

リツカは、歯切れ悪いように表情を緩める。トウマもだが、リツカも成り行きでこの人理修復の旅に出ることとなった、らしい。ならば、大任を背負っていても、その自覚は、多分まだ濃くはないのだろう。

「なるほど、わかりました。私たち、どうしてマスター不在のままに召喚されたのだろう―――と思っていましたけれど。やっとその意味がわかりました。私たち、英雄のように彼らを打倒するために呼ばれたのですね!」

「しかし、王妃。彼らは掛け値なしの強敵、と言わざるを得ません。敵のサーヴァントは少なく見積もっても、5騎。しかもどれも精強だ。生半な戦力では、敗北は必定かと」

無邪気なマリーにして、サンソンの表情は暗い。

単純なサーヴァントの数では、こちらの方が上だ。だが相手はどれも強敵、と言わざるを得ない。

この特異点の鍵と目される、黒きジャンヌ・ダルク。

人智を超えた力を発揮する酒呑童子。

剣の腕だけで聖杯戦争に選ばれるだけの太刀筋を持つ亡霊、佐々木小次郎。

思考回路こそトラブっているが、その実力は本物。エリザベート・バートリー。

さらに、別なサーヴァントすら存在するという。

現状の戦力では、太刀打ちするので精一杯だろう。打倒は困難、と言わざるを得ない。

「それに、あの黒いサーヴァントも居るしね」

「黒いサーヴァント―――貴女達がこちらにいらしたときに出くわした、という」

そう、とクロは頷いた。

黒いサーヴァント―――あれも、目下の懸念だろう。敵ではないらしいが、かといって味方という保証もない。その目的が知れない、という点においては、ある意味黒いジャンヌたちよりも厄介だ。

強大な敵。得体の知れないサーヴァント。現状は、予断を許さない状況―――そう、結論付ける他ない―――。

「はい、暗い顔するのはなし!」

不意に、リツカが手を鳴らした。甲高い音に顔を上げれば、彼女はむしろ、やる気すら感じる表情だ。

「とりあえず、今はここで休もう? 対策は明日にでも考えようよ」

「そうね、賛成! 暗い気持ちになっても善い考えは浮かばないでしょうし―――皆さまも、よろしくて?」

ね、とマリーが全員を見回した。

皆、一様に頷く。サーヴァントとの戦闘を経、皆疲労は少なくなかった。ただ見ていただけで、どっと疲労感がある―――実際戦ったみんなは、その比ではないだろう。

「それじゃあ、召喚サークルを中心に野営するよー」

 

 

 

 

「ジャンヌさん、交代します」

マシュは、彼女の背へと声をかけた。

開けた高台に陣取るジャンヌが振り返る。わかりました、とジャンヌが身を翻すと、マシュの隣をすり抜けていく―――。

「ジャンヌさん、大丈夫ですか?」

「はい?」

きょとん、とジャンヌが見返してくる。いえ、と肩をすくめたマシュは、気になったので、と応じた。

「お疲れのように、見えたので」

ふと、気になる。普段通りの足取りだけれど、なんだか、今のジャンヌは、どこか気が抜けているようにも見えた。

「いえ、大丈夫です。こんなですけれど、一応サーヴァントですから」

少し、彼女は照れたように言った。

確かに、そうだ。サーヴァントなら身体的疲労は人間のそれではない。人間でありながらサーヴァントでもあるマシュが、それは一番よくわかっていることだった。

「す、すみません。そうですよね」

「いえ。ありがとう、マシュ。気遣ってくださったのですよね?」

「は―――はい。そう、なりますでしょうか?」

マシュは、小さく俯いた。照れのような羞恥のような感情に顔を赤くしながら、ジャンヌの顔を見上げる。

「マシュは優しいですね。他者への気遣いは、賞賛されるべきことだと思います」

「そうでしょうか―――それくらいしか、私にはできませんから」

ジャンヌは、それには応えなかった。大人びた豊かな微笑だけを浮かべて、小さくなったマシュの頭をそっと撫でた。

「な、なんでしょうか」

「あぁごめんなさい。つい。いえ、なんだか、故郷の妹を思い出して、なつかしくなって」

妹―――そういえば、ジャンヌ・ダルクには、姉妹が居たはずだ。姉か妹かは不明だが、ともかく、そういった存在は居たらしい。

「大丈夫! 私は元気ですよ」

「なら、いいのですけれど―――」

はい、とジャンヌは胸を張る。その様子は、確かに元気そうだ。

気のせい、だったのだろうか―――。

「それでは休ませていただきますね。あまり無理してはいけませんよ、マシュ」

―――逆に気遣われてしまった。なんだか釈然としない気分のまま、マシュは高台に佇立した。

暗く澄んだ夜闇が横たわっている。15世紀の山間に当然人工の灯などあるはずもなく、ただ空に煌めく恒星だけが地表を柔く照らしている。サーヴァントでもなければ、開けた場所と言えども視界は効かないだろう。

静かだな、と思う。虫の声すら無く、風に揺られた樹々が何密やかなひそひそ話をするみたいな擦過音だけが耳道を満たしている。

―――マシュは、否が応もなく、彼女を思い出した。

陶器のような肌に、まさしく鬼の双角を戴くサーヴァント―――酒呑童子を、思い出していた。

圧倒的な暴威を翳し、破壊を振りまいた彼女。童女のように楽し気に力を振るった鬼の相貌が視界を掠め、マシュは、奇怪な情動を惹起させた。

「あれ、次マシュの番?」

不意に、声が肩を叩いた。振り返るまでもなく、その幼いような、それでいて頽落的な声は、クロのものだった。

「はい、クロさんの番は私の次だったと思います」

「あーそっか。まぁでもいいや」

猫みたいに両手を上げて、伸びを一つ。ふう、と息を吐くと、クロはマシュの隣に並んだ。

「クロさん?」

「なんか、目覚めちゃったし。それに、レンジャーも兼ねてるから、アーチャー」

ふわあ、と欠伸をしながら、クロは言った。なんだか説得力が無いけれど、確かに、監視に最も向いているのはアーチャーだ。

クロが、なんらかの魔術行使を行う。恐らく、彼女特有の投影魔術だろう。

投影魔術―――本来であれば実用に耐えうる魔術ではないが、クロのそれは他と一線を画する。殊刀剣類に限り、宝具ですらおも真作と見まがうものを投影し、あまつさえ真名の開放すら可能とするある種の『異能』。加えて、その幼い外見に反する熟練の技量も相まって、クロは強力なサーヴァントと言って間違いないだろう。

「いつ見ても、すごいですね」

「? あぁ、コレ?」

クロは、何のことはないように弓を持ち上げて見せる。それ自体は宝具ではないようだが、黒塗りの艶やかな洋弓は、クロの姿にすっかり馴染んでいるように見えた。

「クロさんは、やっぱり凄いです。剣も弓も使えて、盾も使えて。あの大剣豪、佐々木小次郎とも切り結んでいました」

「まー大体反則してるみたいなものだけどね。あのサムライにも、割と押されてたし?」

クロは乾いた笑い声を漏らした。反則―――彼女の投影魔術、のことだろうか。マシュにはよくわからなかったけれど、それでも、凄いという感想は変わらなかった。

「私、盾にしかなれませんから―――」

マシュは、ぎこちなく表情を緩めた。強張るような笑みを浮かべて、彼女は、肩を竦めた。

クロは、特段何も言わなかった。伺うように彼女の影が動いたが、さりとて何かするでもなく、静かに佇んでいた。

マシュは、なんとなく、クロをわき目で見下ろした。

いわゆる、小学生くらいの体格だろうか。小さな身体は、それだけなら子供同然だ。

だというのに、彼女の雰囲気は、もっと成熟しているように思う。なんだか、この感じは―――。

「じゃあ、今度シミュレーションで盾の宝具、見せてよ」

「え?」

「私のコレ、剣を作るのは得意だけど、鎧とか盾とかはあまり精度が高くないのよね」

いつの間にか作り出していた剣を上下させながら、クロは微妙そうな顔をしていた。

確かに、聞く話では刀剣類の時点でランクが一つ低下し、それ以外の武具はさらにランクが低下する―――らしい。

「マシュは守りのエキスパートでしょ? なら、マシュが適任じゃない?」

「は―――はい! 私で良ければ、是非」

にへら、とクロは笑った。屈託のない幼い顔は、無邪気な子供のそれだった。

不思議な、感じだ。クロは見た目相応に幼く、でも、それ以上に大人びている。まるで、年下の、姉のようだった。

 

 

 

 

ジャンヌ・ダルクはテントの傍の丸太に腰を下ろすと、ふう、と息を吐いた。

疲労感は無い。サーヴァントの身だ、ちょっとやそっとのことで肉体的な疲労の蓄積は起きない。

だが、内面性に限っては、別だ。その点では、サーヴァントも生身の人間も、そう変わりない。故に、ジャンヌのそれは、心労だった。

身体が、ぎこちない。ランクが低下した状態での活動は、縄で縛られているかのように何かままならない。あのランサー―――エリザベート・バートリーには、全くと言っていいほど歯が立たなかった。十全な状態なら、押し負けることはないはずなのに。

こんな状態で、果たして、あの黒いジャンヌ・ダルクに敵うのだろうか。彼女の力は未知数だが、それでも強大なことはよくわかる。少なからず、今の自分ではとても比較にならないほどだろう。

―――対抗する術が、無いわけではない。英霊ジャンヌ・ダルクが持つ切り札、アレならば、いかなる敵も打ち倒せる。

だが、あれは―――。

と。

ジャンヌは、顔を上げた。

亡霊のように、男が立っていた。

灰色のスーツを着た男―――アントニオ・サリエリ。アヴェンジャーのサーヴァントの赤い目が、闇夜に二つ、くっきりと浮かんでいた。

「あぁ、失礼―――お邪魔でしたか」

ジャンヌは、慌てて切り株から立ち上がった。

だが、サリエリは、首を横に振った。

灰色の男は、ほとんど口を開くことはなかった。抜き身の剣のような鋭い雰囲気を纏いながら、さりとて暴威的ではない―――まるでバーサーカーのようだった。

生前のサリエリと、サーヴァントとしてのサリエリは全く異なる―――マリーは、そんなことを言っていた。生前のサリエリは後進の教育に熱心で、温厚な知識人だったという。変人の多い芸術家にあって、アントニオ・サリエリは、稀有な人格者だった―――とは、マリーの言だ。そして、確かに面前のサリエリからは、そういった陶冶を受けた人物像は見えてこない。

「見回りだ。そろそろ、私の番だからな」

まるで、水が一滴だけ滴ったかのような、静かな声だった。水面に波面を刻むような声は、どこか野性的ながら、美しかった。

サリエリはそれ以上は特に何も言わず、静々と歩き始めた。見送るジャンヌへも特に関心は無く、灰色の背中が、濃い闇の中へと溶けていく。

アヴェンジャー。復讐、その一心だけを器に現界するサーヴァント。

何故だろう、とジャンヌは思った。虚ろな男の影は、あの黒いジャンヌ・ダルクに、どこか―――。

(みんな、起きてる?)

念話が脳内に響いたのは、その時だった。見回りに出ていた、クロの声だ。

(サーヴァントの接近確認。数は1、急速に近づく)

(こっちでも同情報を確認。クラスは―――セイバーだ。敵か味方はわからないから、みんな慎重に!)

サリエリが、振り返る。虚のような赤い目に頷きを返したジャンヌは、旗に手をかけた。




今回、薄荷矢キナリ様(https://twitter.com/hakkataste?s=20)に、とても素敵なキービジュアルを描いていただきました。
この場をお借りして、お礼申し上げます。
幣twitterにて一部を公開させて頂いておりますので、是非ご覧くださいませ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鬱金香は赤に咲く

御形サンから改めて擦り合わせのため、トウマ君とリツカさんのキャライメージが送られてきました。

某宇宙的恐怖TRPGのキャラシートで。

なんでさ


「敵、じゃあないみたいよ?」

開口一番が、それだった。

クロに引き連れられて現れたセイバーのサーヴァント。砂金のような長い髪に華やかな風采の人物は、丁寧にも頭を下げた。

「まぁ、貴方は」

「知ってる人、マリア?」

「ええ、知古―――というわけではありませんが、よく知る人物です。そうでしょう、シュヴァリエ・デオン?」

「覚えておいででしたか。光栄です、王妃」

粛然と、デオンと呼ばれたサーヴァントは片膝をついた。厳かながら自然な振舞は、騎士という言葉に相応しいものに思えた。

しかし―――また、知らないサーヴァントだな、と思った。それに、シュヴァリエ・デオン―――よくわからない。

《18世紀フランスの外交官、ね。スパイだったりもしたみたいよ。解剖学上は男性だけれど、内面性は女性であると主張した人物としても有名かしら》

《いわゆるLGBT―――ってもの、かな》

《まぁ、多分? マリーとは活躍時期がズレてるけど、面識はあったみたいね》

マリーの知り合い、ということはフランス革命前後の人物というわけだ。温和そうな見た目ながら、外交官・スパイであった、ということは、相当なキレ者、なのだろうか。トウマは、まじまじとデオンを見つめた。

「私の顔に、何か?」

「え、いや、なんでも」

「ふふ。貴方が綺麗だから見惚れてしまったのでしょう、トーマ?」

トウマは照れるように赤面した。端的に、彼はそういうことに慣れていなかった。涼しい顔でトウマを見つめ返すデオンとは、対照的だった。

「貴方も召喚されていたのね、デオン。心強いわ」

マリーがデオンの手を差し出す。親愛に満ちた彼女の手に対して、しかし、デオンは首を横に振った。

「王妃。残念ながら、私は、あの黒い魔女のサーヴァントなのです」

不意に、空気が凍りつく。デオンの背に立っていたクロはすかさず双剣を投影し、剣の切っ先をその背に向けた。

黒いジャンヌ・ダルクが召喚したサーヴァント。即ち、あの場に居た最後の1騎、ということだろう。ならば言うまでもなく、デオンは、敵だ。

「ならどうしてノコノコ出てきたのかしら? 貴方一人で、私たちを倒せるってわけ?」

「赤い双剣使い、確かに私はあなた方の味方ではないが―――また、敵ではないんだ」

「ふぅん―――身体は支配されても心までは差し出さない、ってこと?」

クロは黒い剣を向けながら、品定めするようにデオンの背を睨みつける。何か不審な動きを見せれば、すぐさま背に剣を突き立てるだろう。そう思わせるだけの鋭い視線だった。

だが、デオンはクロの視線に動じる気配は無い。外交官として生きた彼あるいは彼女にとって、威圧的な視線はむしろ日常のものだった・

「いい譬えをするね、君は。君の言う通り、私は、あなた方に情報を持ってきました。黒いジャンヌの戦力と―――そして、それに対抗しうるサーヴァントの情報を」

 

 

 

 

「つまり、敵のサーヴァントの総数は―――現状、6騎と」

「そうです。先ほど居合わせた5騎―――私とエリザベート、酒呑童子、佐々木小次郎、そしてジャンヌ・ダルク。そしてオルレアンに1騎、バーサーカーのサーヴァント―――湖の騎士ランスロットの6騎です。本来はアーチャー―――アルゴノーツの勇士、麗しのアタランテも居たのですが、彼女は、耐えきれなくなった。我らに反旗を翻し―――既に、討ち取られています」

淡々と、デオンは語る。見ほれるような美貌にも関わらず、知悉を感じさせるその語り口調は、流石に外交官として戦ってきただけのことはある、と思わせるものだった。

それにしても、デオンのもたらした情報は、トウマには眩暈のするものだった。

先ほどの5騎だけでも強大だというのに、さらにもう1騎までいる。しかも、あのランスロット、だ。

【聖者の数字】発動下のガウェインすら打倒し得る、当代随一の武芸者にのみ付与される【無窮の武練】だけでも強力だが、さらにその宝具―――『騎士は徒手にして死せず(ナイト・オブ・オーナー)』が組み合わさることで、その強力さは底抜けだ。手に持ったあらゆる武具を宝具にし、己のものとする宝具―――間違いなく、クロの、天敵だ。奥の手の『無毀なる湖光(アロンダイト)』も含め、自陣営でこれに対抗しうるサーヴァントが、果たして存在するのか。トウマはただ、途方に暮れた。

「そして―――邪竜、ファブニールと」

続くリツカの声に、デオンは、無言で頷いた。

黒いジャンヌの勢力は、サーヴァント6騎だけではない。それに加え、幻想種の頂点に君臨する竜種の中でもさらに強力なファブニールを従えている―――それが、デオンのもたらした情報の全容だった。

ファブニール。最早説明すら不要の存在、だろう。かの英雄ジークフリートをして、どうやって勝ったかすら覚えていないという強力無比な存在。ただでさえ強力なサーヴァントたちに加え、そんな化け物がいて、勝ち目などあるのだろうか。ただただ困惑したトウマはリツカの顔を伺ったが、彼女も、ただ眉を顰めるばかりだった。

少なからず、今自分たちが有する戦力では、勝ち目がない。そんな認識に至ったのか、リツカは、ふう、と脱力するように溜息を吐いた。

「それで、対抗しうるサーヴァント、というのは?」

「簡単な話さ。邪竜ファブニールを討つに足る英雄は、聖女でも、貴人でもない。竜を打ち倒すのは“竜殺し(ドラゴンスレイヤー)”、と相場は決まっているだろう?」

「それって、まさか」

思わず、トウマは身を乗り出した。蛇のように抜け目ない不敵な笑みを浮かべたデオンは、意味深に頷いた。

「そのまさかさ。このフランスの地に、かの大英雄ジークフリートが召喚されている」

肌が、粟立った。

Fate/Apocryphaに登場する黒のセイバー。決して本人の登場回数は多くなかったけれど、あのカルナを相手に一歩も引かない強さは間違いなく本物だ。

「まぁ、トーマはその英雄様とお知り合いなのかしら?」

「え゛っ」

「だって、とっても嬉しそうですもの」

にこり、とマリーが笑顔を浮かべた。悪意など微塵もない笑みだった。

《ちょっと、トーマ》

じとり、とクロが睨みつけてくる。トウマが、いわゆる『諸々の知識』を持っていることは基本、秘匿情報だった。

「いや、その―――ほら、まぁ、有名じゃないですカ?」

「そうなの?」

「はい。リヒャルト・ワーグナーの『ニーベルンゲンの指輪』はとても有名です。タチバナ先輩の故郷の日本でも、文庫本が出版されていたりしますよ」

「アニメのキャラクター名で使われたりもするしね。日本なら有名じゃない?」

熱心に説明するマシュに対し、さらりとクロは付け加えた。なんとなくクロを見るのが怖く、トウマは見ないようにした。

「ふぅん? 知識として未来のことは知っていますけれど、やっぱりどうしても実感は無いのですよね。ねぇ、ジャンヌ?」

「え? えぇ、まぁそうですね」

ジャンヌは、曖昧に返事をした。

トウマは、なんだかそんなジャンヌの素振りが、奇妙だった。英霊の座に記憶の持越しはない。あるいは記憶でなく記録としての持ち込みでしかないのなら、彼女にとって、あの聖杯大戦の記憶は小説の1ページほどの感慨しかないのだろうか? そもそも、この時間は聖杯大戦より前なのだろうか、後なのだろうか?

「ところで」リツカは、わざとらしく咳払いをした。「その、ジークフリートが居る場所は?」

「リヨン。かつてリヨンと呼ばれた都市に彼の英雄は居る」

そう、とリツカは頷いた。手慰みに鼻頭を撫でながら、リツカは思案気に虚空を眺めた。

それも、1秒。僅かな思案の後、リツカはデオンを見返した。

「わかった。リヨンに行こう」

リツカの視線に、デオンも頷きを返す。穏やかなながら油断ならないその微笑が、妙に、トウマの脳裏に焼き付いた。

「あぁ―――それと、もう一つ、お伝えすることが」

 

 

 

 

「―――以上です、竜の魔女よ。彼の者たちはリヨンに向かいました。ジークフリートを求めて合流する手筈となっています」

「そう。ご苦労様、シュヴァリエ・デオン?」

片膝をついたまま、デオンは顔を上げた。玉座に鎮座する冷たい肌の魔女の目がぶつかったが、彼あるいは彼女は、その視線を真正面から見据えた。

「貴方のその目は私の好みです。高きものを敬いながら、それでいて大胆不敵なその目。そうして寝首をかいてきたのでしょう? 私も気を付けないと、どんな目に合うかわかりませんね?」

「お戯れを。それとも我が忠誠に曇りなきこと、再び示す必要がおありでしょうか?」

「いいえ、不要です。未だ勝手のわからぬ私の代わりにオルレアンを攻め滅ぼし、シャルル7世の首を刎ねた貴方のことは、とても信頼していますよ?」

黒衣のジャンヌは、愉快そうに嗤った。デオンも涼しく応じると、立ち上がった。

「リヨン、か。確か、あの仮面の暗殺者(アサシン)ごと、そなたが滅ぼした街であったな?」

「なぁにその言い方。人を暴漢みたいに、酷い人やねぇ、小次郎はんは。ぎょうさん分裂するから、ちょっと遊んでみただけやないの。 勝手に壊れてまう方が悪いと思わん?」

背後から、2人の声が耳朶を打った。

振り返るまでもない。【気配遮断】に極めて近似したスキルにより、セイバーの身でありながら音も無く忍び寄る剣士。そしてバーサーカーの身でありながら、風雅さすら感じさせる声。佐々木小次郎と、酒呑童子だ。

「貴方たちはオルレアンで待機です。まだ傷は癒えていないのでしょう? 今回は、湖の騎士とエリザベートに出てもらいます。

それと、と付け加えたジャンヌは、大儀そうに玉座から立ち上がった。どこからともなく現れた闇夜が外套に代わり、彼女の痩躯を覆った。

「彼の竜を出します。ここで、彼らを諸ともに滅ぼしましょう―――そして、主へと高らかな凱歌を捧げましょう!」

 

 

 

 

 

 

その街に、影が居た。

全身を外套に覆った、黒い剣士。亡霊のようなサーヴァントは、粉々に打ち砕かれた街に、佇んでいた。

既に闇夜の落ちた街を、するするとサーヴァントは闊歩する。人間が殺し尽くされた街は酷く静かで、音も無い亡霊の僅かな足音すら聞こえてくるようだった。

破壊の後からして、サーヴァント同士の戦闘が行われたのは自明。しかも、複数騎が入り乱れての戦闘だった。戦闘の趨勢は片方が劣勢で、だが上手く逃げおおせた―――といったところだろうか。

黒い剣士はそこまで理解しかけたところで、ふと足を止めた。

月光を何かが反射させた。

何故か、それは気になった。気になって、剣士は思わずその光の下に這い寄った。

―――剣、だった。瓦礫の中に、剣が埋もれていた。

剣士は、奇妙に身動ぎした。狼狽えるように身動ぎしながらも、それを、そっと手に取った。

質朴と洗練が同居する、名剣だった。およそ刃毀れを知らぬその剣の名を、剣士は、知っていた。

「何か見つけた?」

不意に、声が耳朶を叩いた。

振り返ると、黒い服の少女が立っていた。脱色したかのような白髪に、褐色の肌の少女は、無邪気な無表情をうっすらと浮かべていた。

「あのアーチャーの魔術。投影、だったかな。随分マイナーな魔術を使う」

傍に立った少女は男の持つ剣を品定めすると、ふぅん、と鼻を鳴らした。

「魔術師、というより異能の類か」

酷く素っ気なく言う。剣から興味を失った少女は、噴水の縁へと座り込んだ。

「いいよ、そんな畏まらなくて」少女は酷く呑気に言った。「まだ一番目だし。まだ、よくわからないことばかりだから」




タイトルの鬱金香は"うこんこう"と読みます。チューリップですね。かっこつけました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

邪竜急襲

前話が短めでしたので連続投稿です。


「デオンも来てくれればよかったのに。相変わらずお堅い人ね?」

「あくまで彼―――彼女? はあのジャンヌ・ダルクに呼ばれたサーヴァント。2重スパイとして動いてもらった方が、諸々都合が良いのでしょう」

「ふーん? 難しいのね?」

硝子の馬に跨るマリーを見上げるサンソン。かつての関係性を鑑みれば、あるいは険悪であってもおかしくはない気もするのだけれど―――2人の仲は、良好のようだ。

「それにしても、既にリヨンは滅びた後とは―――かつて、とシュヴァリエが言ったことが気にかかっていましたが」

「えぇ。なんでも、角の生えた怪物に襲われたんだとか。それまでは仮面をつけた黒い肌の人たちが守っていたらしいのだけれど、怪物には敵わなかったって」

ジャンヌの言葉に、マリーが応じた。つい先刻、まだ無事な近隣の街へと繰り出したマリーとサンソンが取得した情報の一つだった。

角の生えた怪物というのは、あの酒呑童子かエリザベートのどちらかだろう。黒い肌の人たち、というのは気になるけれど―――Zeroの山の翁(ハサン)だろうか。藤丸は思案しながら、ちょっとだけ、期待みたいなのを感じていた。

ジークフリート。Apocryphaに登場した、屈指の英雄。ExtraCCCに登場した破格の英雄、かの英雄王にすら比肩するカルナをして強力と言わしめた黒のセイバーが、味方になる。正直本編ではあんまり活躍しなかったことも相まって、なんか、楽しみだ。

(そろそろリヨンにつく頃かな? おーい、クロちゃん。見える?)

「見えてきたわ。でも―――」

先導するクロは、立ち止まった。そうして、彼女は黒い弓を投影した。

「サーヴァントが居るわ」

(え? こっちの探索網には何も―――)

「来る―――!」

クロの右手に現れる剣。宝具でこそないものの、強力な切れ味を持つ剣が瞬時に矢へと形を変える。

番えるまで秒未満、弦から射出された矢は、しかし強襲した突風に、あっさりと砕かれた。

舌打ち一つ。弓を放棄し、双剣を投影したクロは、襲い掛かった閃光へと剣を叩きつけた。拮抗は秒とかからなかった。軽々と双剣ごとクロの矮躯を弾き飛ばした白銀の影は、しかし追撃することなく、堂々と聳えるように佇んだ。

「大丈夫、クロ!?」

「別に、なんてことないわ」

倒れこむのも一瞬、即座に跳ね起きたクロが再度双剣を投影するのを確認して、藤丸は、その敵を見据えた。

―――白い、騎士だった。禍々しいまでの盾持つ乙女の凛とした顔が、藤丸を見返した。

「これより先は通しません! 押し通りたくば、ブラダマンテが相手です!」

 

 

 

 

凛然とした白亜の騎士は厳しい目で全員を見回した。

サーヴァント5騎を面前に一歩も引かないその頑強な意思が、可憐な少女騎士の内にあった。

「ブラダマンテ―――ブラダマンテ?」

「白羽の騎士ブラダマンテ。可憐な乙女ながら怪力無双の騎士として知られる、シャルルマーニュ十二勇士の一人です」

「あ、それは知ってる。シャルルマーニュ十二勇士―――『ローランの歌』だっけ?」

「はい、いわゆるシャルルマーニュ伝説群の一つですね。彼女が登場するのは『恋するオルランド』、『狂えるオルランド』の2作品です。西洋では多くの作家たちが題材にした、著名な方なんですよ」

「はぇ~……マシュすっごい物知り」

「いえその……それほどでも」

マシュは、照れたように頷いた。普段は眼鏡っこなだけあって、読書家……ということなんだろうか。そういえば、さっきのジークフリートの時もさらりと知識を披歴していた気がする。無知系後輩に見せかけて、まさかの知将ポジとは恐ろしい子だ……。

「ちょっと、トーマ。アナタ、緊張感ってものが無いの?」

「あ、すみません」

「全く……」

ふん、と鼻息一つ。改めて、クロは面前のサーヴァントを見据えた。マシュの説明―――怪力無双の騎士、というのは、強ち間違ってはいないんだろう。クロを軽く突き飛ばして見せた膂力は、多分本物だ。

一触即発。睨み合う2人は、次の瞬間にも切り結ぶような雰囲気だ―――。

「白羽の騎士ブラダマンテ。雌雄を決するのは構わないけれど―――貴女は、誰の味方?」

そんな二人の間に、リツカは平然と割って入った。クロを手で制しながら、サーヴァントの持つ存在感―――威圧感をものともしていない。超然、という言葉が、その背にはあった。

「私はただ正義を為すものの味方です。我らが故郷に虐殺を振りまき、主の教えに泥を塗るそこな竜の魔女こそ、私達の敵です!」

はねつけるような声とともに、ブラダマンテは得物の短槍を掲げた。穂先が指す先、ジャンヌを睨む彼女の目には、明確な敵意がありありと浮かんでいた。

取り付く島もない、とはこのことだ。頑なな彼女を説き伏せるのは、至難の業だろう。それでも何か言いかけたリツカの前に、ふわりと彼女は立った。

「まぁ―――それでしたら、私達、味方なのではなくて?」

マリーは、彼女の前に立った。華のような声のままに、彼女はなんら恐れず、さらに一歩踏み出した。

「近づくな! それより前に出れば貴様の首を―――」

「ねぇ、気高い騎士様。可憐な少女騎士様、我が祖国の礎を築いた方。あのジャンヌ・ダルクをよく見て? あの聖なる方が、そのような狼藉を働く者に見えまして?」

それでも、マリーは臆することなく、ブラダマンテの手を取った。

スキル【王統の音色】。本来は異性に対して魅了効果を付与する【魅惑の美声】から変化するユニークスキルであるそれは、単に対象者を魅了するものとは一線を画する。

魔術を一切用いず、彼女の善き人格ただそれだけで人望を集める王妃の在り方。いわゆる【カリスマ】にも近しいそれは、対魔力によって弾かれることすらなく作用する。さらに―――それが『フランス』という地に生れ落ちたものであるならば、いついかなる時期に生まれた人間でも信を集め得る。

民草に、光あれかし。その願いだけで英霊の座に上り詰めたマリー・アントワネットの持つ、ある意味にして切り札とも呼べるスキルだった。

「た―――確かに、黒い魔女の勢力と貴女方の戦力は、どうにも違うようです。でも―――」

それでも、ブラダマンテは頑なだった。マシュの説明が正しければ、ブラダマンテは属性としては、広くフランスの人間だ。マリーの声は抗いがたいものとして聞こえているはずなのに、それでもブラダマンテは頑強な意思を示し続けていた。

さりとて、マリーのことは、もう疑っていない。ちらちらとジャンヌとマリーを見比べる仕草が、雄弁に語っていた。

「―――ねぇ、もういいんじゃない?」

不意に、その声は頭上から降り注いだ。

ぎょっと頭上を振り仰ぐ。蒼空の中、それは、なんだかあまりにもぽつねんと浮かんでいた。

猛禽。確かにそれは猛禽だったが、足があった。いや、普通の猛禽も足はあるけれど、それは、前脚があった。馬よりも大きな巨大なそれ―――幻獣ヒポグリフの背から、ひょこりと赤髪が顔を出した。

「アーちゃん、ダメだよ出てきたら!」

「えーいいじゃん。だって敵じゃないみたいだし。ボク、あんま隠れてたりするの好きじゃないし!」

えいや、と一言。ヒポグリフから飛び降りた影は、華麗に着地―――。

「うにゃ!?」

地面に激突した。

「……」

「やめてよ、そんな目でボクを見るのは! ずぅ~っと隠れてて、暇だったんだぞぅ!」

「だから、そういう作戦―――」

「暇なものは暇ー! ブラちゃんだけずるいよ、そこのお姫様といい雰囲気になってさぁ! あ、挨拶まだだった」

じたじたと地面で暴れるもの束の間、一転してウサギみたいに飛び上がった赤髪の少女―――いや、少女のような姿のサーヴァント。何も考えてなさそうなこの残念な感じ、間違いない。

「ボクはセイバー、アストルフォ! ブラダマンテと同じ、シャルルマーニュ十二勇士の一人さ!」

―――うん、アストルフォだ。えっへん、と特に意味も無く胸を張り、自信満々な顔をしてみせるのは、間違いなくアストルフォだ。原作ではライダーだったけれど、セイバークラスでの適正もあったのか……。

「まぁ! 可愛らしい騎士さん!」

「えへへ、そうでしょう! でもでも、お姫様もすっごくかわいいよね! ね、ブラちゃん?」

ブラダマンテは困惑しながらも、ただ、首は縦に振った。

なんというか、もうシリアスな空気なんて無い。如何にブラダマンテを説得するか悩んでいたことが、なんだか嘘のようだ。

「ボクっ娘のサーヴァント……」

《いや、アストルフォはボクっ娘というか、男の娘だよ?》

《へ?》

《一応、性別は男―――かな?》

《マ?》

クロは、まじまじとアストルフォを見つめた。ウサギみたいにぴょんぴょん跳ね回るアストルフォは、どこをどう見ても女の子にしか見えない。

いや。こんなに可愛い子が女の子なわけがない―――のだろうか?

《小説の表紙見てからの男って知った時の「oh……」って感じ半端なかったっすね、ハイ》

《むぅ―――世の中、ホント広いわね……》

しみじみと、クロは呟いた。まぁ確かに―――アーサー王もネロも女体化してるし呂布はメカな世界である。もう、なんでもありだな、とは思う。

「それで、根暗そうな君がサンソンで、無口な君がサリエリ。そして君が―――」

はた、とアストルフォはジャンヌの前で立ち止まった。なんだか微妙そうな顔でジャンヌを眺めること数秒、アストルフォは首を傾げた。

「あの、何か?」

「う~ん、君とはどこかで会った気もするなぁ。いつかの聖杯戦争で戦ったのかな?」

「すみません、不完全な召喚で、あまり座の記録が持ち込めていなくて」

「ふーん、よくわかんないけど、大変だね。ま、いっか。よろしくね、ジャンヌ・ダルク。それで、君たち2人がマスターで、そっちの二人がそれぞれのサーヴァントだね」

うんうん、とアストルフォは4人を見比べた。じろじろと無思慮に見回す仕草は、なんというか幼稚園児みたいだ。好奇心のままに世界を眺める、子供そのものだ。

「なんか、武闘派な人が居ない不思議なパーティだなぁ―――あ! そうだ、みんなの中に、回復系のスキルとか宝具持ってる人いるかな? 治して欲しい人が居るんだ。ついてきてよ!」

 

 

 

 

「こっちこっち! 早く早く!」

市街。

既に荒廃した街中の一角、食糧庫らしき建物の戸口でアストルフォが手を振る。ちゃらんぽらんに見えて流石はサーヴァント、結構足が速い。遅れて到着した藤丸は、思わず、声を失った。

血の、海だった。赤黒く淀んだ血が、床一面にべたりと広がっている。むせ返るほどの濃い臭気に思わず口元を覆うほどだった。

「本当は早く治してやりたかったんだけど、ボクもブラちゃんも、そういうスキルは持っていなくて……」

しょんぼりと肩を落とすアストルフォは、今にも泣きだしそうなほどだった。藤丸は臓腑からこみ上げてくる怖気を堪えながら、一歩、倉庫へと足を踏み入れた。

暗い倉庫に広がる血の海。そのただなかに、黒い影が蹲っていた。

壁に寄り掛かる影。ともすれば死体にも、見えた。

「だ―――誰だ。クソ、二人はもうやられたのか?」

影が、傍にあった剣に手をかける。細身の刀身は、大柄な男には酷く不釣りあいに見えた。

ぞっと、藤丸は身体を強張らせた。静かに、しかし峻烈に見上げる男の目は、それだけで、藤丸が腰砕けになるほどだった。サーヴァントの殺意を正面から浴びる、というのは、そういうことだった。

「わぁ、大丈夫トーマ!? 違うよジークフリート、仲間仲間! 助けにきてくれたんだ!」

「仲間?」

滲む様に、男が声を絞り出す。ありありと噴出していた殺意は即座に霧散し、虚ろな安堵に表情を緩めた。

「はい、その、助けに。ジャンヌさん、マリーさん!」

「ええ、わかっています。失礼」

「まぁ―――速くしないと」

2人が、地に臥す男へと身を屈める。ほ、と吐息を吐いた藤丸は、背後から抱きかかえるアストルフォの手を叩いた。

「もう、大丈夫。立てます」

「そう? あんま無理したらダメだぞ? はい」

両足でなんとか自重を支えた藤丸は、改めて、件の男を見下ろした。

色の薄い灰色の髪に、生真面目そうな面持ちの偉丈夫。精悍な、という形容詞がよく似合いそうな男こそ、間違いない。

音に聞こえし“竜殺し(ドラゴンスレイヤー)”、大英雄ジークフリートその人に他ならない。

「大丈夫かな、治るかな?」

「はい―――ただ呪いのせいで回復速度が遅い。呪いそのものは単純ですから、私の洗礼詠唱でも解呪可能―――だと思います。一度呪いを解いた後、私とマリーの宝具で治癒に移る、という流れになるかと」

「そっかぁー……よかった」

盛大に安堵の息を吐くと、アストルフォは藤丸の背中に抱き着くように身体を預けた。

「だってさぁ、目の前で死なれるのって、あんま気分良くないしさ……ジークフリートがこんな目にあったのだって、大体ボクのせいだし……」

「まぁ、あんまり気にしなくても。ほら、もう大丈夫だから」

むー、とうなりながら。アストルフォは藤丸の背に顔をうずめた。ぐい、と身体に回った手に力が入って―――入って―――入っ―――。

「あ゜っ!?」

「あ、ごめん。ボク怪力あるんだった」

「大丈夫、俺内臓とか出てない?」

「うーん、口からもお尻からも特になんも出てないから大丈夫じゃないかな?」

「あの……少し静かにしていただいてよろしいですか?」

怒られた。はぁい、とそっけなく返答するアストルフォの隣で、トウマは平謝りした。

「でも、よくボクたちのところを見つけられたね?」

「え?」

「だって、逃げる時にブラダマンテのヒポグリフで逃げてきたからさ。追跡は多分無理だし、黒いジャンヌ達はボクたちの居場所を知らないと思うんだ」

「それは―――」

いや、だってそれは、何かおかしい。

ここにジークフリートが居る、と情報を伝えたのは、デオンだった。デオンはあくまで、竜の魔女の配下のサーヴァントだ。なのに、何故知っているのだろう。

デオンが、黒いジャンヌの知らない情報網を握っている―――そう考えられなくはない。だが、そんなことがあるのだろうか。キャスターやアサシンのサーヴァントならともかく、セイバーのサーヴァントであるデオンに、広大な情報網を構築する術があると考えるのは、あまり合理的ではない。キャスターやアサシン以外で情報戦に勝てるのは、聖杯戦争の特例として召喚されるルーラーくらいで―――。

「あ!」

「わ、何!? いきなりでっかい声出して!」

「不味い、これ―――」

(―――みんな、聞こえるかい!? 早くリヨンから脱出するんだ!)

「しかし、まだ呪いすら―――!」

(いいから! サーヴァントを上回る超巨大な生命反応を検出した―――竜だ! ファブニールが、来る!)

 

 

 

 

「ハメられた―――ってこと?」

クロのつぶやきに、リツカは、無言のまま頷いた。

見上げる視線の先。いやというほど晴れ渡る空の果てに、何かが、確かに見えた。

黒い、点に過ぎないもの。いや、違う。これほど距離が離れているというのに、視認できるもの。この距離だというのに圧倒的なまでの重圧を醸し出すそれは、間違いなく―――。

(まだ動けないのかい、早くしないと本当に大変なことに!)

(まだ無理ですよ、怪我が酷くて運び出せる状況じゃあ―――)

(トーマさん、一旦私のお馬さんで運び出しますわ! 微量ですけれど、回復効果もありますし―――呪いの解除は、その後に!)

無線の向こうで、雑音が谺している。クロが背後を振り返ると、ちょうど食糧庫から、わらわらと慌てて人影が飛び出してくるところだった。

―――間に合わない。あの竜の機動性は、サーヴァントのそれを軽く上回る。撤退など既に不可能―――ここで倒さない以外の選択肢は、既に。

「―――投影、開始」

脳裏に浮かぶ剣。作り出す数は己が魔術回路と同数の、竜殺しの剣。

「―――憑依経験、共感完了」

かつて蛟を封じた矛、かつて大蛇を切り落とした神剣、修羅の竜を殺せし金剛杵。その他己が裡にある竜殺しの武装をあらん限りにイメージする。

「―――凍結、解除(フリーズ・アウト)

現出する、剣。矛。槌。槍。矢。いずれも竜を殺した武装を頭上に、クロは、手を掲げた。

(―――だめだ、来るぞ!)

「―――全投影、連続層写(ソードバレル・フルオープン)!」

掲げた手を打ち下ろす。それが合図とばかりに宙に浮かんだ刀剣100種が徹甲弾の如くに射出された。

音速にすら匹敵する速度で数多の刀剣が空を切る。一撃がワイバーンを刺殺し一撃がワイバーンを撲殺し、一撃がワイバーンを消し炭にする。飛竜の群れを一瞬で鏖殺した剣の軍勢はそのまま巨影へと殺到し―――。

かな切り声のような嘶きが天に響いた。

巨大な影が身動ぎする。翼を広げて滞空する格好をするなり、巨大なそれに、大気中の魔力が収束した。

唐突に、クロは理解した。

ここで、死ぬ。あれは、かの対城宝具に匹敵する炎の渦。人間の武具など、あの炎の前にはあまりに―――。

投影、開始(トレース・オン)―――!」

咄嗟に投影したのは、捻じれた剣だった。英霊エミヤが信とする宝具。撃ち落とすイメージのもとに生み出した宝具だったが、それではあの竜に届かないことなど百も承知だった。

「前に出ます! 行きましょう、ジャンヌさん、ブラダマンテさん!」

背後から、突出する騎影が3つ。クロの前へと躍り出るなり、その真名を解放した。

「我が旗に集え、盾持つ英霊たち! ―――『我が神はここにありて(リュミノジテ・エテルネッル)』!」

「D`acoor、ジャンヌ・ダルク! 『麗しきは美姫の指輪』(アンジェリカ・カタイ)!」

「仮想宝具、展開します!」

展開するは主の加護。魔術を跳ねのける指輪。名も知れぬ大楯。眼前に広がる守護の宝具を前に、クロは剣を置き、再度、魔術回路を励起させた。

投影、重奏(トーレス・フラクタル)!」

ずきり、と身体が軋んだ。頭蓋のどこかが破裂するイメージが網膜の中を掠めたが、それすら、無視した。

「―――『熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)』!」

 

 

 

 

―――構えた盾は、4つ。

ジャンヌ・ダルクによる神の加護の再現、それによる自陣営への防御ステータスの向上。

ブラダマンテが槍に嵌めた退魔の環、それによる対魔術攻撃への防壁。

クロが展開した大アイアスの大楯4枚、それによる物理攻撃への防御。

そして、真名こそ不明だが、呪いの朱槍を防ぎ、聖剣すら受け止めたマシュの盾。

およそ考え得る最強の防御壁。対城宝具すら防ぎ得る絶対防御の陣営だった。

だが―――あくまでそれは、人間と言う種の尺度にとっての、絶対防御に過ぎない。彼女たちが相手にするのは人間を遥かに超え、幻想種の頂点に君臨する竜。さらにその竜―――ファヴニールは、竜種の中においてすら上位に位置する邪竜だった。

「諸共に焼き払え! ファヴニール!」

騎乗する主が、咆哮の如き声を高らかに掲げる。応じる様に、炉心たる心臓より生成した魔力を炎へと変換するや―――邪竜が、天地揺るがすほどの紅蓮の轟咆を迸らせた。

それは、かの騎士王の振るう聖剣にも匹敵しただろう。接近する魔剣神剣名剣、その悉くを瞬時に蒸発させた焔は、大気中の減衰など全く意に介することなく、眼下のサーヴァントたちを飲み込んだ。

 

 

 

 

神の火。

藤丸には、そんな言葉が脳裏に浮かんだ。

かつてソドムとゴモラを焼いた硫黄の火。涜神に対する、神の罰。頭上から押し寄せる焱の津波は、まさに、そうとしか言いようが無かった。

マリーの悲鳴が耳朶を衝いた。だがそれも刹那、炎の奔騰は叫び声すら焼き尽くしていく。

(魔力計数不明―――くそ、大丈夫なのかみんな! 生きてるのか!?)

念話の向こうで、ロマニの声が絶望的に響く。全身が焼けるような熱の中、ただ藤丸は、目前に聳え立つ盾の背後で、悶えることしかできなかった。

「―――ダメ、アイアスは、もう!」

「ダメよクロ、弱気になっちゃ! なんとか守らないと―――!」

「ですが、このまま、では!」

最前線に展開していた花弁の盾は、既に焼け落ちた。ジャンヌの光の防御壁も一体どれだけ保つのか―――その後は、その後は―――!

「―――まぁ、ダメよ! そのお体では!」

「いや、もう充分休んださ。僅かだが、戦える」

炎の濁流の中、その声は、何故か明瞭に耳朶を衝いた。

思わず、藤丸は振り返る。

光の乱舞の中、その黒い影は、鮮やかに聳えていた。

漆黒が歩を刻む。熱だけで焼けるほどの奔騰の中、平然と、雄大に、男が征く。

「ところで君―――この剣は、君のものか?」

「え―――? あっ」

男が、クロの肩に手を置く。振り仰ぐ少女に地面に突き刺さった捻じれた剣、矢のようにも見えるそれを拾い上げると、それを宙へと放り投げ―――。

「使わせてもらおう―――!」

剣の石突を、殴りつけた。




なんだか腰が低いイメージが先行しがちですが、やはり竜殺しの英雄はかっこよくあれかし。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

硝子の花に紅を差す

今回、人によっては過激な表現と感じる場面があるかもしれません。
ご承知おきくださいませ。


「ジークフリート―――」

果たして、誰の声、だったか。

焔の中に聳える偉丈夫。すっくと佇み天を仰ぐ姿は、古い菩提樹を想起させた。

「あぁ、そうだ。それこそ俺の名前、我が真名。蒼天の果てに聞け! 我が真名はジークフリート! 邪悪なる竜を撃ち滅ぼす―――正義の味方だ!」

高らかに、大樹の如き男が名乗りを上げる。引き抜く剣を天に掲げ、轟くその名に、滞空する飛竜全てがたじろいだかに見えた。

「ジークフリート様、もう、お怪我は」

「問題ない―――と言えるほどには、まだだな。だが戦える。いつまでも、君たちに任せっぱなしにはできないからな」

生真面目な顔で、ジークフリートは答えた。無言で頷きを返すと、ブラダマンテも改めて、面前の敵へと向き直った。

通りを挟んだ向かいに、飛竜が舞い降りる。その背から飛び降りた黒衣の魔女は、鋭い一瞥をジークフリートへと向けた。

「流石は音に聞こえし竜殺し(ドラゴン・スレイヤー)、ですね」

ジャンヌ・ダルクは気だるげに言うと、不快そうに鼻を鳴らした。

だが―――その不快そうな表情は、すぐに、奇妙に歪んだ。燃えるような不快にこらえながら、喜悦に歪むような顔。およそ人間とは思えない(カタチ)に顔を歪めた。

魔剣(バルムンク)が無い割には、よくやりますね?」

「え―――」

藤丸は、思わず、ジークフリートの背を見やった。

背中に担いだ鞘。その長さからして、長身のジークフリートほどもあるだろう剣を収めるはずの鞘には、確かに剣が収まっている。だが、彼は、それを抜かない。必殺のはずの剣は抜かず、細身の剣―――アストルフォの剣を、構えていた。

「折れているんですよ、かの魔剣は! 私のサーヴァントにぽっきりと折られて、もう、使い物にならないんです! ねぇ、そうでしょう―――英雄様?」

げらげらと、黒いジャンヌが哄笑を上げる。ジークフリートは黙したまま応えず、ただ睨むように黒衣のジャンヌを見据えていた。

「すまない―――奴の言うことは、本当だ。鬼のサーヴァントに」

表情こそ崩さなかったが、ジークフリートは、ぽつりと口にした。白亜の剣を握る手が、ぎちりと脈打った。

「はぁー残念! せっかく英雄様を見つけたと思ったら、単なる木偶の坊! 実に愉快ですよ、えぇ。希望を与えられ、それを奪われる―――今のあなた方はとっても良い顔をしていますよ? さぞかし、悔しいことでしょうねぇ?」

黒いジャンヌの嗤う声が響いている。荒涼とした廃墟に、虚ろな声だけが、響いている。

と。

不意に、声が止んだ。あれほど笑っていたはずのジャンヌ・ダルクはぴたりと声を止めると、死蝋のような冷たい表情に、顔を強張らせた。

「ですが、竜殺しが付与されたその攻撃だけは厄介ですね。ファヴニールを殺すには至りませんが、後顧の憂いは断っておかなくては。バーサーカー! ランサー!」

「はーいはい、やっと私の出番ね?」

憤怒の如き魔女の声に、酷薄なまでの軽やかな声が応じる。翼に空を孕んだ人影が舞い降りた。

ランサーのサーヴァント、エリザベートだ。

「待ちくたびれたわよ、聖女サマ? ほら、カレもそう言ってるわ?」

くい、とエリザベートが顎をしゃくる。

次の瞬間、それは、地面に激突した。

舞い上がる土煙。滞空する飛竜からそのまま降り立ったそれが、噴煙の中でぎらりと双眸を滾らせる。

「あれは―――」

確か―――デオンは、竜の魔女の陣営を、明らかにしていた。それが正しい情報だったのか今は判断できないが、仮に本当だったと、するなら。

黒い霧を纏った騎士が、ゆらりと、姿を現した。サーヴァントの輪郭を暈すように沸き立つ、黒霧。その分厚い霧の中で、赤く閃く目が、妖しく煌めいていた。

―――ランスロットだ。Fate/Zeroに登場した、バーサーカーのサーヴァント。英雄王を相手に優位に立ちまわり、アルトリアすら圧倒して見せた武芸の極み。それが、今、目の前に―――。

「バーサーカー、ランサー。まずはあの竜殺しを殺しなさい。その間、他の小物はファヴニールに焼いてもらいます」

ジャンヌ・ダルクが、空へと、手を伸ばした。天を引き寄せるが如くに開いた五指に応じる様に、巨大な影が、ゆらりと、大地に舞い降りる。

邪竜。ファヴニール。巌の如き黒竜の目が、閲するように降り注いだ。

「ねぇ聖女サマ? あのお姫様は殺してはダメよ。それとあのマスター。あの二人だけは残しておいて頂戴?」

「えぇ、いいでしょう。あの竜殺しを屠った後は、どうとでもしなさい。ですが急ぎなさい? ファヴニールは、手加減できないわよ?」

「あら―――じゃあ、さっさと潰さなきゃね!」

踏み込み一足、翼を鋭角に広げた竜人は一瞬の裡にジークフリートの近接格闘戦領域へと侵入した。

繰り出される槍の刺突。ジークフリートが剣を振り下ろすよりわずかに早く胸へと至った槍はそのまま心臓を抉り出す。

「ちょっと」

はずだった。

エリザベートの顔が、不快に歪む。

彼女の槍はジークフリートを貫く遥か手前、屹立した硝子の盾を貫くに留まった。

彼女が、最前へと立つ。豪奢な赤い衣装に絹のような髪を靡かせた彼女は、まるで昼下がりのお茶会に出向くような素振りで、竜を見上げた。

「ジークフリート様。竜殺しの英雄様、ここは、私に任せてくださいませんか?」

「君、は」

「マリー。マリー・アントワネットと申します。非力な身ですが、あの方々は私が食い止めましょう」

穏やかな声。春の木漏れ日のような声だが、それには、奇妙な強制力があった。

「マリー? 何を言っているのですか、マリー?」

マリーは、答えなかった。温和な微笑、母親のようにも見える微笑だけを浮かべて、マリーは、さらに一歩進んだ。

「待ってください! ねぇ待って、マリー! 一緒に戦いましょう、みんなで戦えば」

「ノン。とっても嬉しいですけれど、それはダメよ。聡明な貴方なら、もう気づいているのでしょう。このままでは、みんなここで終わってしまうわ。貴方たちが膝をついてしまったら、フランスはもう、終わってしまうのよ?」

「それは―――でも!」

「もう、物分かりが悪い子も好きですけれど―――」

小さく笑うように息を吐いたマリーは、しかと、ジャンヌを見返した。

「行きなさい、聖女ジャンヌ・ダルク! 貴女の使命を果たしなさい―――『百合の王冠に栄光あれ(ギロチン・ブレイカー)』!」

どこからともなく現れた硝子の馬がジャンヌの襟ぐりを咥え込み、その背へと乗せた。

「マリア―――また、戻ってくるよ!」」

「はい、リツカさん。またね!」

 

 

 

 

マリーは、静かに、佇んでいた。

風が、吹いている。空を見上げれば青く突き抜けるよう、空に浮かぶ明るい陽が、心地よく肌を包んでいる。

あぁ、間違いない―――マリーは、穏やかに、思索する。あの時のように。民の罵詈雑言の怒号の中で思索したときのように。思わず莞爾と表情を緩めてしまいそうなほどに―――。

「ホント、反吐が出るわね。ヴェルサイユの華、だったかしら。みんなからちやほやされて生きてきたアンタみたいな奴が、偉そうにアタシの前に立ってるなんて」

「そういう貴女は―――エリザベート・バートリー、だったかしら。えぇ、知っています。知っていますよ」

「知ったような口をきくなと言ってるのよ!」

エリザベートの痩躯が奔る。大幅に強化された槍兵のその敏捷、値にすればAランクに迫ろう。その他、無辜の怪物により生前の姿から乖離し変異したエリザベートは、トップサーヴァントにこそ及ばねど、凡百の英霊を退ける強力無比なサーヴァントだった。

他方。マリーは如何なサーヴァントと言えども、そのステータスは並みでしかない。まして生前は王族の后であったマリーにとって、直接的な戦闘行為は、不得手も不得手だった。

故に―――彼女の、初手は。

「な―――何!?」

エリザベートが、たじろぐように背後へと跳ね飛ぶ。

マリー・アントワネットという英霊の霊基を起点に、瞬く間に氷のような城壁は聳え立っていく。

否―――それは、城壁なとという物々しいものでは無かった。広がる水晶は庭園を形作りバラを形作り―――街全体を覆うほどのそれは、華やかな、宮殿だった。

美しい水晶の煌めきは、(セーヌ)に反射する陽を思わせた。

峻厳な佇まいは、高く聳える(モンブラン)を思わせた。

これこそは、かの王妃を讃えし水晶宮。かの王妃の慈愛の象徴。マリー・アントワネットの第1宝具―――!

固有結界(リアリティ・マーブル)―――いや、これは!」

「―――我らが宮殿へようこそ、皆さま。皆さまのような勇猛果敢な英霊にとっては退屈な場所かもしれませんが。どうか、おくつろぎになってくださいな?」

その陽のような微笑は、さんざめく花のように。その慈愛に満ちた表情にあるのは、少女の無邪気さだけではない。精悍ですらあるその温和さは、正しく尊き貴人の風采であった。

―――畏敬の念、とは、人間が神的なものへと抱く情動だった。それは自分より“高い”存在者への恐れであり尊敬。およそ平等な人間という種同士では生じ得ないその情念を―――その場にいた誰もが、惹起させた。

「―――ファヴニール!」

であるならば、その怒号は何かを振り払うための子供の癇癪か。ジャンヌ・ダルクの怒声に応じる様に咆哮を上げた巨竜の口蓋に、灼熱が熾る。

あの火焔が再度放たれる。超極大の魔力投射、太陽のフレアそのものですらある轟咆が迸る。サーヴァント4騎がかりでようやく防御しきれたそれに、しかし、マリーはたじろぐ素振りすら見せなかった。

「焼き尽くせ! あの思いあがった小娘の骨の一片血の一滴すら残さず消し飛ばせ!」

「『愛すべき輝きは永遠に(クリスタル・パレス)』―――!」

 

 

 

 

思わず、藤丸は足を止めた。

遠くで、地鳴りが聞こえる。振り返った藤丸が目にしたのは、遠くに見える街を覆い尽くすが如く、深紅の焔だった。

あの、火竜のブレスだ。数多の防御を以てなおようやく防ぎ得た竜の吐息。決して武芸に秀でているわけではない、マリーに、あの攻撃を受け止められることなど―――。

「足を止めるな!」

突き刺すような怒声が、藤丸の鼓膜を刺した。瞬間、背中を衝撃が押した。

「マリーが稼いだこの時間を無駄にするな、タチバナ!」

寡黙な青年の鋭い視線が、ざくりと突き刺さる。歯噛みした藤丸は、肺が切り裂かれるような痛みを無視し、走り出した。

 

 

 

 

既に、4度。

街一つを、文字通り火の海へと沈ませる悪竜の咆哮を、既に4度。

か弱いサーヴァントの1騎など容易く焼尽させる火力を、既に4度。

なのに、何故。何故あのサーヴァントは、未だ立っているのか。身体のところどころは既に炭化するほどに焼かれているのに、何故―――。

「―――ランサー! バーサーカー! 何を遊んでいるのです、その程度のサーヴァントの1騎に!」

「その言葉、そっくりそのままアンタに返してやるわよ! この―――!」

目ざとくマリーの背後へと回り込むエリザベート。正面から斬りかかる黒い騎士。マリーの反射速度などとうに上回る速度で肉薄する2騎のサーヴァントの攻撃は、しかし、彼女の肌に傷一つつけることは叶わなかった。

振り下ろされる邪剣は硝子の盾でいなし、繰り出される槍の刺突は硝子の剣で撃ち払う。さらに連続して召喚した硝子の檻で黒い騎士を封じ込めるなり、マリーは舞うように背後のエリザベートへと正対した。

「知ったような口、とおっしゃいましたね」

エリザベートが翼を広げる。背後へと飛び退こうとした刹那、上空から打ち下ろされた硝子の槌が頭蓋を叩きつけ、強靭なはずの竜の身体が、あっさりと地面へと叩き付けられた。

―――マリー・アントワネットは、その実強力なサーヴァントではない。近代のサーヴァントは得てして非力なもの。無論例外こそあれど、神秘の薄れた時代の英霊の剛力は、どうしても古き時代のものに劣る。殊にマリーの英霊としての強さは、凡百の英霊にすら及ばぬものであろう。

であれば、その光景は怪異としか言いようがない。並み以下のサーヴァントが、上級のサーヴァント3騎を相手に一歩も引かず、あまつさえ竜の咆哮を受け止めて見せる。これを怪異と言わず、なんと言おうか。

だが、その答えは明白と言えば明白だった。

マリー・アントワネット。フランス革命にて堕ちた、フランス最後の王妃。世界中に知れ渡る彼女の知名度は、あらゆる地で高い知名度補正を受ける。ましてここはフランス。たとえ彼女の時代より300年以上前とて、この地は、彼女を知っている。この国は、彼女を知っているのだ。オーストリアを故郷としながら、この地を誰よりも愛した彼女のことを、どうして忘れられようか。その死の瞬間までこの国を愛した彼女のことを、どうして忘れられようか。

これこそは、絶対的な知名度補正。国に、地に恋されたマリー・アントワネットは、フランスの大地において、無類の毅さを獲得する―――!

「えぇ、私、貴女のことは知識でしか知りません、バートリィ・エルジェーベト。まるで日曜日の午後の少女のような貴女。とっても愛らしい貴女のことを、私はもっと、知りたいのですよ? それが、私の在り方ですもの」

エリザベートは、思わず、彼女を見つめ返した。15時の穏やかなお日様のようなその顔を、エリザベートは、食い入るように、見つめ返した。

「私は歌が好きよ? 踊りを踊るのも好きだわ。お茶会で食べるブリオッシュも好きよ」

鼻歌を歌うように、軽やかに、マリーは口ずさむ。膝を折った彼女は、地に臥すエリザベートの手を、取った。

「ねぇ、貴女は―――」

「 五月蠅いウルサイうるさい!  みんなから愛されて、ただ、それだけのアンタなんかに騙されるもんですか! ジャンヌ・ダルク(マスター)!」

怒声と言うよりは悲鳴。駄々をこねるような絶叫とともに、その小さな身体へと周囲一帯の大源を吸い上げていく。

宝具の発動―――だが、彼女の宝具はマリーには届かない。堅牢な盾と精神防御を兼ねるマリーの守りは、エリザベートにとっては天敵ですらある。

だが、それでもなお発動される宝具。であるならばそれは、この状況を覆し得る第二の宝具。

咄嗟に水晶宮から盾を引き出しかけて、マリーは即座にその異変に気付いた。あるいは、その硝子の宮殿の主であるからこそ、真っ先に気づいた。

変質している。水晶の宮殿が、何か別なものへと置き換わっている―――!

硝子に、罅が奔る。小さな罅割れは、しかし瞬く間に水晶宮全体へと伝わっていく。ともすれば蜘蛛の巣にも見えた亀裂が宮殿全体に及んだ、その瞬間。あまりにあっさりと、硝子の宮殿が崩壊した。

巨大な硝子の塊が転がり落ち、透明な粉塵がさらりさらりと大気に舞い上がる。四散するクリスタルが太陽の光を乱反射させる中、それは、ぬるりと立ち上がった。

煌めくばかりの水晶宮殿の内側から、それが身を乗り出してくる。ともすればそれは、蛹の殻を破って出てくる蝶や蛾のようですらあった。違いがあるとすれば、その暗憺たる怪異に蝶や蛾のような美しさは欠片とて無く、むしろ蝙蝠めいた悍ましさだけが満ちていた。

「これは」

「どう? これがアタシの監獄城、アタシの宝具―――『鮮血魔城(レジェンド・オブ・チェイテ)』よ!」

マリーは、周囲へと、視線を走らせた。

禍々しい、とすら呼べる不気味な城、その王座の間。奇怪な拷問器具が無造作に散らばるそこは、城というのはあまりにも。

「そう。これが、貴女のお城なのね。随分と―――」

続く言葉は、無かった。

マリーが口を開く瞬間、放たれた槍の刺突が彼女の喉を貫いた。咄嗟に展開した盾の防御を容易く破砕したエリザベートの槍は、その白い肌を食い破り声帯を切り裂き、脊椎を両断し、延髄を粗びきにした。

ぶしゅ、と血飛沫が舞った。マリーの血を諸に浴びたエリザベートは、そうして彼女の顔を見上げて―――。

「―――なんでよ」

痛みなど無い、温い暮らしをしてきたはずの女の顔に、しかし、苦悶は一切なかった。掠れるような吐息を喉元の裂傷から漏らした彼女は、ただ、微笑みだけを、張り付けていた。

彼女の唇が、不気味に強張った。痙攣するようなその唇が、3文字の単語を象り―――。

エリザベートは、そのまま、槍を振り抜いた。穂先の刃は簡単にマリーの首の皮を引き裂き、そのまま少女の首を刎ねた。

血の飛沫が、刎ねた断面から吹き上がった。膝をついたまま立ち尽くす首なしの身体に、エリザベートは、何故か、嘔吐した。

口元を、手で拭う。赤い血がべとりとついた自分の白い肌が、目に飛び込む。珠のような肌に踊る赤い汁。

汚いな、と、思った。

「エリザベート、一旦引きますよ」

いつの間にか、ジャンヌ・ダルクが背後に立っていた。

「ファヴニールを疲弊させてしまった。今の状態ではジークフリートに遅れをとりかねません。それに貴女も宝具を―――」

「うるさい」

ジャンヌは、口を閉じた。エリザベートが彼女を見上げると、蔑視にも似た睥睨が、胸を刺した。

「頭が、痛いの。酷く痛いのよ。吐き気がするくらいに痛いの」

「そうですか」ふぅ、とジャンヌ・ダルクは溜息を吐いた。「【頭痛持ち】でしたね、貴女。でも最近は」

「まだ残ってる街があったわよね。()()()をしてきて構わないわよね?」

「いいでしょう」ジャンヌ・ダルクは、自らの言葉を遮って発言したことを黙認した。「ですが、明日までにオルレアンに戻りなさい。遊んでいる暇は、本来は無いのですから」

言ってから、ジャンヌ・ダルクは空を振り仰いだ。既に宝具の影響が喪失したリヨンの街は、ただの荒廃した街へと戻っていた。

「騎竜を使いなさい」

「要らないわ。アタシは独りで飛べるもの」

「そう、なら良いわ。自律するのは善いことです―――ですが、今の貴女、今にも死にそうな顔をしていますよ?」

「要らないって言ってるのがわからないの!?」

子供の癇癪みたいに怒鳴り散らすと、エリザベートは、翼を広げた。ジャンヌ・ダルクの制止も振り切り、エリザベートは、焼けるように熱い蒼天へと駆けのぼっていった。

 

 

 

 

「全く」

ジャンヌ・ダルクは、空へと昇って行った影を恨めし気に睨みつけた。

「どうして私のサーヴァント達はこう、言うことを聞かないのでしょうね?」

独り言ちる。憤懣やるかたない、といったように舌を打つと、ジャンヌ・ダルクは、気だるげな目を黒い騎士へ向けた。

「一番狂っていそうな貴方がマトモというのも変なのですけれど、ランスロット卿(サー・ランスロット)

黒い騎士は、低く唸った。フルフェイスの甲冑を着ていることもあって顔色はよくわからないが、その仕草―――首を垂れるように身を縮めた姿からして、何らかの恐縮を抱いているらしいことはわかった。

「責めてはいません」ジャンヌ・ダルクは、溜息を吐いた。「癪な話ですが、マリー・アントワネットは強敵でした。一騎打ちならば貴方の右に出るものはそう居ないでしょうが、アレとの戦いは城を攻め落とすようなもの。不得手な相手に苦戦する者を責め立てるほど、私は器量良しではありませんよ」

ランスロットは、恐る恐る、頭を上げた。鼻を鳴らしたジャンヌ・ダルクは黒い騎士の頭を小突くと、「行きますよ」と言った。

彼女の目の前に、緑色の飛竜が降り立つ。首を下げた竜の背に飛び乗ると、静かに佇んでいた悪竜を見上げた。

「ファヴニール! あの剣士を恐れることはない―――所詮は、牙を抜かれた獣。先ほどのアレも、窮鼠が猫に立ち向かう程度のものです」

低く、悪竜が唸る。頷きを返したジャンヌ・ダルクは、旗の石突で軽く飛竜の背を衝いた。

それが合図。翼をはためかせると、軽やかに空へと飛び上がった。




我らが王女、マリー・アントワネット、退場です。オルレアンでの彼女の最期は血の伯爵夫人に果たして何を残したのでしょうか。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

差した光明

トウマ君のイメージのすり合わせのため御形サンとTRPGで殴り合ってきました。


「追っ手の姿は見えません。ここまで来たら、もう大丈夫でしょうか」

ブラダマンテの声が、虚ろに耳朶を打った。

応える声は無い。一様の沈黙だけが、周囲を取り巻いていた。

もし、と、トウマは思った。もし今、彼女が居たら、この空気を晴らすように、何か楽し気な話をしただろう。華の薫りのような彼女の声は、ただそれだけで空気を和ませ、前向きな気持ちにさせてくれたものだ。

今は、それが、無い。額に滲む汗を拭ったトウマは、ヒリヒリと痛む喉で、唾液を飲み込んだ。

「すまない―――俺を救出するために、彼女は」

「いいんですよ、ジークフリート。マリーが自ら望んだことですし―――何より、単純計算ですが、サーヴァントの総数は増えていますから」

唸るようなジークフリートに、サンソンは努めて穏やかに応えた。寡黙ながら、人当たりの善い穏やかな青年の顔を見返して、ジークフリートは、痛ましく頷き返すだけだった。

「それより。リツカ、トーマ。現状を確認して、次の手を考えなければならないのでは。事態は切迫しているわけではありませんが、決して猶予のある状況でもありませんし―――」

リツカは、戸惑うようにサンソンを見つめた。次いで彼女は、その背後に亡霊のように佇む男を、見た。アントニオ・サリエリは、特に何を感じるでもなく、虚ろな赤い目を空へと投げていた。

一呼吸。肩を落としたリツカは、「トウマ君も、大丈夫?」と言った。

大丈夫―――何を指示しているか不明な質問だった。そして、多分、それは自分だけにあてた言葉では、ない。トウマは一度きつく目を閉じた後、ゆっくりと、瞼を上げた。

「大丈夫、だと思う」

「そう」リツカはその仕草を確認してから、「では―――現状確認と次の行動を」と口にした。

「まず現状の戦力について。今私達の戦力は、2騎増えた計算。1騎減って3騎増えた結果ね。質としてもジークフリートにブラダマンテ、アストルフォの3人が加わってくれた。これは、マリアが、抜けた分を補って、余りある、と思う」

リツカはごく平静な様子で言った。酷く無機質にも思える声音で喋りながら、リツカは、サンソンを一瞥した。生真面目そうな青年は特に応えるでもなく、ただリツカの言葉を聞いていた。

「当面の問題は2点。ジークフリートの剣、バルムンクが既に無いこと。そして呪いによる戦闘能力の低下。後者はジャンヌに任せるとして」

リツカの視線が、クロへと向いた。

「クロは、刀剣の類なら、宝具でも投影できるんだよね?」

「できるわね。神造兵装でも作って見せるわ」

さらりと、クロは口にした。ジークフリートが顔を上げる。

折れたはずの剣を、再び作り出すことができる。しかも宝具すら投影魔術で作り上げるとは、俄かには信じがたいことだった。しかも、それを為すのは目の前の小さな少女だという―――期待半分、信じがたいと思う目を、クロへと向けていた。

「でも、バルムンクの投影はちょっと無理」

「へ?」

リツカは、思わず拍子抜けするように声を漏らした。困ったように口を尖らせたクロは、眉尻を下げた。

「んー、簡単に言えば、見たことのある刀剣なら、って誓約があるの。もっと正確に言うと、基本骨子の隅々を知り尽くしていないと、イメージに破綻が出る。実物を”見”さえすればそれはできるんだけど」

クロはそう言って、目を瞑った。瞑想するように沈淪すること5秒、彼女は、小さく肩を竦めた。

「私の核―――霊基に、バルムンクを見た記録は無い。それに類する剣ならあるんだけど」

「竜殺しの剣、ってこと?」

「というより、バルムンクと同じ起源をもつ別な剣かしら。シグルドの持っていた太陽の魔剣、グラム。でもこれはあくまでシグルドの剣であって、ジークフリートの剣じゃない。そうでしょ?」

「あぁ―――俺の剣はあくまでバルムンク。あったところで、グラムは使えない」

グラム―――セイバールートでギルガメッシュが使った剣だ。DEEN版のアニメではカリバーンを圧し折り、士郎に深手を負わせた剣だ。正確には、あの時使っていたのはさらにその原典の原典に類する選定の王剣だったような―――。

「だから、私にはバルムンクの投影は―――」

「や。投影、できるかも?」

トウマは、咄嗟にクロの声を遮った。

「いやできるとはわからないけど、可能性があるというか」

クロが怪訝な表情をするのも束の間、即座に彼女は何か悟ったように目を伏せた。

彼女は、物分かりは、善かった。幼い外見ながら、一級の魔術師として作り上げられたクロは、常人を遥かに上回るほどに、聡明だった。

「無理かもしれないけど試してみる。今すぐは無理だけど、明日までにはなんとか」

「そう、わかった」

リツカはそれだけ応えた。ともすれば素っ気ないほどの返事だったが、それこそが、彼女のクロへの信頼の証だった。

「それじゃあ、問題は当面の間置いておくとして―――」

「リツカ、ちょっと」

「ほえ?」

「呪いに関してです。当初見立てでは私でも解呪可能でしたが、その」

「難しい―――ってことか」

はい、とジャンヌは小さく頷いた。撤退してから、彼女は口数も少なかった。

「呪いの規模そのものは大したものではないのですが、その構造が特殊と言いますか―――私ではどうにも理解し辛い、と言いますか」

「結んであった毛糸を解こうとしたらよくわからない結び方をしてて難しい、みたいな感じなのかな」

「そうですね。そういう理解で正しいかと。ですので、その、今日明日で解除するのは、難しいです」

しょんぼりと、ジャンヌは肩を落とした。リツカは特に気にすることも無く、わかった、と頷いた。

リツカは、結構、クールだな、と思う―――トウマは思案する彼女の顔を見つめた。年齢は、自分と同じ17歳だという。穏やかそうに見えるけれど、どこか抜け目なく、そして、冷静だ。元々オルガマリーの助手だったというのだから、魔術には相応に詳しいのだろうけれど、それにしたって大人びているなと思う。それこそ、自分より一回りは―――。

「敵の戦力の確認に移ろう。敵の本拠地はオルレアン。サーヴァントの数は5騎―――ジャンヌ・ダルクに佐々木小次郎、酒呑童子。エリザベートに、ランスロット。デオンも含めれば、6騎だね」

「先輩。でも、シュヴァリエ・デオンの言うことをまともに受け取っていいのでしょうか。それこそこちらを見誤らせる罠、ということは」

マシュは、おずおずと―――それでいて、はっきりと口にした。

リツカは、意外そうにマシュを見返してから。にこりと、微笑みを返した。

「そうだね。そう考えるのが自然。今回の出来事は、デオンが二重スパイを働いたと考えられる」

「だったら」

「でも。それだと、不可解な点がいくつかあるんだよね。だから、私は、デオンは敵じゃないと思ってるんだ―――」

 

 

 

 

「あんたはんは真面目やねぇ」

昼下がりの午後。

オルレアンの中央に聳える大聖堂の一角で、その声が肩を叩いた。

デオンは、足を止めた。腰に下げた細剣(レイピア)を意識しつつも、彼あるいは彼女は、軽やかに身を翻した。

通路の先に、ぽつねんと佇む異形の影。人を象りながら、決して人とは相いれぬ魔性の双角。人智を超えた無双の鬼神が、童女のような笑顔を向けていた。

「誉め言葉、と受け取るべきなのかな。酒呑童子」

「真面目って言われて嫌な気分になる人もあんましおらへんやろ? それともあんたはんにとっては嫌やった?」

蠱惑的な表情。扇情的ですらある珠のような顔色に、デオンは、生唾を飲み下した。

「もちろん真面目さは美徳さ」デオンはいたって平静な様子で応えた。「だが、君のような者が美徳を語ることが意外だっただけさ。僕たちからすれば、君たちは悪魔(デーモン)のようなものだからね。人をかどわかし、堕落させる存在。警戒して当然だろう?」

「そないいけず言いはって。可愛い顔して辛辣なんやなぁ」

よよよ、と酒呑童子は小さく身を縮めた。無論、それは演技に過ぎない。口元を手で覆いながら、ひたりとデオンを捉える目の鋭さは、むしろ一層怜悧だった。

「ホント真面目やわぁ。ルーラーとして不完全な魔女はんの代わりにマメに索敵に行って、敵の殲滅の作戦立案までして。あぁでも、あんたはんおっちょこちょいなところもあるなぁ。あのお姫様。あんな強いってちゃんと魔女はんに伝えんと、失敗してもうたなぁ」

ころころと、酒呑童子は笑った。邪気など感じさせない、無垢な笑顔。デオンは素っ気なく視線を逸らした。

「英霊となった後の王妃がどのような強さだったか、なんて。私にわかるものではないだろう? 生前、武人でもなければ花よ蝶よと愛でられた方だった。如何なるカリカチュアが働いているかなど」

「そやねぇ。あんたはんがわからないんやったら、他のだぁれもわからんねぇ」

つかみどころのない、酒呑童子の声。デオンはぴくりとも表情を動かさなかった。

「そろそろいいかい。私も仕事があるのでね」

「はぁい、いってらっしゃい」

踵を返す。ひらひらと手を振る酒呑童子を背に、デオンは、無言のままに通路を歩き始めた。

 

 

 

 

ひらひらり。

デオンの姿が見えなくなると、酒呑童子は、手を下ろした。

「随分お喋りさんやねぇ、カレ。カノジョやったやろか?」

独り言ちる。くすくすと嗤うと、酒呑童子は、通路の窓辺へと寄った。

窓から指す太陽の光。まぶしいほどの光に目を細めると、酒呑童子は、おーい、と太陽へと特に意味も無く声をかける。無論返答は無く、キラキラと光を注ぐ太陽は、無言のままに蒼穹に横たわっている。

眼下を、眺める。壁に沿うように設えられた花壇には、既に枯れ果てた百合の茎が、風に揺られていた。

「ホント、真面目さんやねぇ?」

 

 

 

 

「つまり、設計図から基本骨子を読み取って投影する―――ってこと?」

「まぁ、そういうことになるのか、な?」

訝し気なクロの声に、思わずトウマはか細い声で応えた。元から自信の無い提案だっただけに、剣呑なクロの声は、萎縮するに十分だった。

トウマが提案したのは、言ってしまえば、HFルートでの【宝石剣(ゼルレッチ)】投影のプロセスだった。

凛が持ち込んだ宝石剣の設計図を読み取り、且つアーチャーの腕を使うことで、かの宝石翁の魔術礼装を投影した―――その発想をもとに、なんとかバルムンクを投影することはできないか、という提案だった。

突飛と言えば突飛な話。はっきり言って魔術なんてものと全く縁遠いトウマにはそれが可能なのかは不明だった。

案の定、というか、クロは無言のまま、顎に手を当てていた。厳しく眉間に皺を刻んで思案する姿からは、あまり好感触でないような気がしてくる。

「やっぱ無理ですかね……?」

「うーん」クロはちょっと困ったように目を細めた。「正直に言うと、『できるかできないかわからない』なのよね」

「できないわけじゃない、と」

「トーマは知ってると思うけど、私は投影魔術(グラディエーション・エア)に精通してるから投影ができるわけじゃない。英霊エミヤのクラスカードを根幹に成立しているのと、あとは(イリヤ)の在り方も含めて、結果的に投影が使える。私自身は、使えるから使っているだけでその詳細には詳しくない」

どこからともなく眼鏡を取り出し(投影し)たクロが、生真面目そうに言う。とりあえず眼鏡はスルーして、トウマも首肯した。

「だから、できるかどうかわからない。ただ、アナタの知ってるお兄ちゃん―――衛宮士郎ができるなら、似たようなことはできる、って踏んでる。私が(イリヤ)なの、含めてもね」

一転して、クロは小悪魔めいた不敵な笑みを浮かべた。

バルムンクが成る―――安堵も束の間、でも、とトウマは身を引き締めた。

「なんか、反動とかがあるのかな。その、本編だと」

「んー、話を聞く限り問題ない、と思う。お兄ちゃんに英霊エミヤの腕を移植するってプロセスの問題というか―――簡単に言えば、それって小さな木に大木を接ぎ木した結果生じた反動だから、元から英霊を基盤に存率している私には関係ない、と考えるのが自然」

クロは特に感慨も無く、さらさらと言ってのけた。

再度、安どのため息を漏らす。バルムンクを投影する対価にクロが壊れてしまうのは、なんか正しいことには思えなかった。もちろん、場合によっては、そういう決断をしなきゃいけないことも、あるんだろう―――。

「それにしても凛はどの世界でも無茶をするっていうか。サーヴァントの腕を移植するとか何考えてるのよホント……」

「クロ?」

「ん、なんでもない」

やれやれ、といったように溜息を吐くと、クロは眼鏡を外した。説明タイムに必要なものだったんだろうか―――。

「そうとわかれば早速やらなきゃね。とりあえず、プロセスとしてはバルムンクの原典を投影、その基本骨子から演繹して、ありうべき魔剣の骨子を引きずり出した後、バルムンクを投影する―――ってカンジかしら。んーでもそれだと無駄が……」

クロが、独り言ちる。ぶつぶつと思案する少女を横目に、トウマは、奇妙な感慨を抱いていた。

自分の提案は、善いものだった―――あるいは自信にも似た感情を惹起させたトウマは、少しだけ、頬を緩めた。

 

 

「おーい、マシュ。時間だよ」

背後からの声に、マシュは振り返った。

薄暗がりの中、丘の麓で手を振る人影。ぶんぶんと無邪気に手を振る仕草は、ともすれば年端もいかない少女にも見える。ちらりと覗く八重歯に可愛らしい鎧の装いは、なんだか姫騎士と言う言葉すら似あいそうだ。

が。その人物は、少女とは到底言えない人物だった。それどころか、そもそも、女性ですらない。件の人物、アストルフォは、れっきとした男性だった。

「ご苦労様」

「いえ―――あの、ブラダマンテさんは?」

「ブラちゃんは別行動だって。ジークフリートの剣を作るの手伝ってくる、って言ってたかなぁ?」

うーん、と考えるような仕草をすること1秒。さっさと思考を停止させると、アストルフォは能天気そうな顔で「まぁなんでもいいか!」と一人頷いていた。

「じゃあ見回り交代ね」

「はい。それでは、お願いします」

小さく一礼。アストルフォが兎みたいに飛び跳ねながら丘の上へと走っていく様子を見送ると、マシュは、踵を返した。

それにしてもアストルフォに見張りなんてできるのだろうか。出会ってまだ時間は短いけれど、彼―――彼? の人となりは、なんとなく掴んでいる。それこそ目の前に兎でもいたら、見張りそっちのけで追いかけてしまうのでは―――。

再度、背後を、振り返る。

丘の上へと昇っていくアストルフォの姿に、マシュは何故か奇妙な感じを受けた。

元気そうに駆けあがっていくその姿は、なんでか―――。

「あ、ウサちゃん発見! 待てー!」

……本当に、大丈夫なんだろうか。丘の向こうから聞こえる黄色い声に肝を冷やしながらも、マシュは、キャンプ地へと足を向ける。

悪い人では、ないと思う。でもなんというか、倫理観というか、なんかそういうものがごっそり抜け落ちているのはどうかと思う。月に行った際に理性が蒸発した、という話だけれど、なんというか―――。

溜息を吐く。ちょっと苦手なタイプだな、と思った。マシュは、もっと秩序だったものが好きだった。理路整然としていて、理解可能なものは、やっぱり安心するものだな、と思う。

もちろん、嫌いではない。人のよさそうで、ともすれば楽観的なアストルフォは、むしろ好ましい人柄、だと思う。

むむむ……。

マシュは、立ち止まった。なんだか、変な感じがする。違和感のような、奇妙な不気味さ。不快感にも似た、心地よい感じ(フェルト・センス)。なんだか、もやる―――。

「何してるの、マシュ?」

「わ!?」

不意に響いた声に、マシュは肩を揺らした。ひやりと振り返ると、ぽかんとした先輩(マスター)の顔があった。

「あ、先輩でしたか―――」

「ごめん、そんな驚くと思わなくて」リツカは苦笑いして言った。「考え事でもしてたの?」

「いえ、そんな大したことではないのですが」

マシュはちょっと安心すると、リツカの恰好を改めて見た。ポリタンクを両手に持って、あまつさえさらに1つ、背負っている。近くを流れる川から汲んできたのだろうか―――。

「先輩、そんなことは、デミ・サーヴァントの私が」

「強化も使ってるし、このくらいなんてことないよ」

「ですが」

「『ですが』も『なんで』もないよ。私は後ろで見てるだけで、戦ってるのはみんななんだもん。このくらいやらなきゃ」

何でもないように、リツカは言う。幼気(いたいけ)ですらある表情に、マシュは口を閉じざるを得なかった。

「サーヴァントでもさ、ご飯食べれば元気になれるし、お風呂に入れば気分もよくなるじゃん。動かなければその分魔力も回復するし。なら、私ができることはちゃんとやらないと」

ゆさゆさと身体を揺らしながら、リツカは歩いていく。マシュはそんなリツカの姿が、何故か、どうしようもなく網膜に焼き付いていく。

藤丸立華(ふじまるりつか)。オルガマリー・アニムスフィアの臨時助手としてカルデアで働きながら、紆余曲折の後、デミ・サーヴァントと化したマシュのマスターになった、18歳の少女。カルデアではほとんど顔を合わせたことは無かったし、実際、彼女の人となりは、よくわからない。礼儀正しく、真面目で、でも人好きはして、それでいて知悉に富む。ただの高校生に過ぎなかったはずの少女は、秩序だっていて、理知的だった。

彼女の背が遠ざかる。怯むほどに小さくなっていく背中がふと立ち止まると、振り返った。

「また考え事?」

はにかむように、リツカがほほ笑む。さっと顔を赤くしたマシュはそれには応えず、小走りで、マスター(センパイ)の隣に並んだ。

「先輩、私、一つ持ちます」

リツカがマシュの顔を見返すのも一瞬、彼女は、にこりと笑った。

「うん、じゃあ、こっちお願い」

彼女が差し出したポリタンクを抱え込む。およそ5Lくらいだろうか。ずしりと感じる質量も、デミ・サーヴァントの彼女には、何の苦も無い重さだった。

「重くない?」

「はい、大丈夫です」

「それじゃあ、いこ」

ふんふん、とリズムだけを小さく口ずさむリツカの横顔を一瞥する。気の抜けたような―――むしろ間の抜けたような微笑が、目に入った。

「先輩」

「ん? なぁに?」

「先輩は―――」

「―――駄目です、それは!」

言いかけた声は、唐突に響いた声にかき消された。

覚えず、マシュは声の方へと顔を向けた。声の出所は、多分森の中―――キャンプ地の近くだ。そして、今の声はジャンヌの声だった、と思う。

リツカと顔を見合わせる。互いに頷き合わせた。




主に殴りかかって愉悦してたのはシナリオの黒幕させていただいた私でした。トウマ君役を受けていただいた御形サンにごめんなさいを。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

解析―――投影

少々過激な表現がございます。ご了承くださいませ。

予約投稿失敗してました……。どうして……


数分前。

「私で大丈夫なのでしょうか―――私はなんら魔術を扱えぬ身ですが」

ライダー、ブラダマンテは、おずおずといったように口にした。その姿に、最初見せた時のような威厳は欠片とて無い。クロに対して遠慮があるのか、それともこっちの方が素に近いのかは図りかねるが、なんとなくこちらの方が親しみが持てるなぁ、とトウマは思った。

「問題ないわ。アストルフォから聞いてると思うけれど、アナタの指輪に用があるの」

そう言うクロの口調には、遠慮らしい遠慮は見られない。一度剣を交えたことはもう終わったこと、と割り切っている様子ですらある。

「ファヴニールの攻撃を防ぐときに使ってた、アレ?」

「そ。美姫アンジェリカが持ち、ブラダマンテの手に譲渡された魔術礼装。あらゆる魔術を無効化し、あるいは解除するとされる、魔除けの指輪―――だったかしら」

何故か、クロは悪戯っぽくブラダマンテを見やった。そして何故か、ブラダマンテは決まり悪そうに、苦笑いしていた。

「ま、その魔術の指輪が必要ってワケ」

「なるほど―――わかりました。ジークフリート様の剣が再び現れるというなら、このブラダマンテ、身命を賭して助力する所存です!」

彼女らしく力強く言うと、仰々しくブラダマンテは指……ではなく、馬上槍(ランス)の柄から金属の輪っかを外した。

「どうぞ!」

ビシっとした仕草でクロの手に押し込むと、何故かブラダマンテは鼻息も荒く、期待に満ちた眼差しでクロを注視していた。

……なんというか、昔のスポ根漫画みたいな女の子だ。そういえば怪力無双とかマシュが言ってた気がするけど、確かに直情的というか、考えるより先に身体が動くタイプの人だった。

「さて―――それじゃあ、始めましょうか」

クロはぺたんと地べたに座り込むと、薄く、瞑目した。小さく座すその姿は、座禅を組む修行僧にも見えた。

「―――投影、開始(トレース・オン)

一工、口ずさむ。自己暗示にも似た言葉を紡ぐなり、黄金の剣が忽ちに彼女の手の中に生れ落ちた。

王を選定する剣、『原罪(メロダック)』。マルドゥーク神の名そのものですらある、数多ある選定の剣の原典(オリジナル)

これ自体がAランクに匹敵する高位の魔剣だが、今回はあくまで前座に過ぎない。

「創造理念、鑑定。基本骨子、解明。発展余地、探索―――」

―――この選定の剣は、Fateの世界観において、2通りの発展を遂げたことになっている。

一つは、アルトリアが使う選定の剣、カリバーン。アーサー王物語の始まりとすら呼べるかの王剣へと、この剣は流れ着いた。

そして、もう一つ。北欧の大神(オーディン)の手へと渡った剣は林檎の木へと突き立てられ、英雄の手へと渡った。カリバーンと異なり、メロダックの性質を色濃く残したその剣こそ、竜殺しの魔剣―――グラム。

「探索、完了」ふ、と息を吐いたクロは、一度、目を開けた。額に滲む脂汗を袖口で拭うと、再度、深く目を瞑った。「―――強化、開始(トレース・オン)

まるで、時間が静止しているようだった。クロの手の中に厳かに横たわる、黄金の剣。カリバーンから装飾を取り払ったような質朴な剣に、まるで葉脈のように、赤い光が幾条も絡みついていく。

「―――作成技術、模倣。成長経緯、共感。想定累積年月―――再現」

剣の象が、歪む。葉脈のような光が剣全体を包み込み、徐々に、その輪郭を溶かしていく。

それは、見惚れるほどの光景だった。赤い光を破り、その銀の剣が姿を現していく様子は、蝉が抜け殻からはい出し、艶やかな羽を広げる光景にも見えた。

「幻想、結合―――投影、完了(トレース・オフ)

静かに、クロの声が耳朶をついた。

クロが、トウマを振り仰ぐ。疲労を感じさせない、余裕の表情。手に握りしめたその感触に、確かな手ごたえを感じている―――そんな、顔だった。

「これで、合ってる?」

全長、170cmはあるだろうか。無骨でありながら流麗さを感じさせる、古き剣。クロは立ち上がると、自身の身長をゆうに超える剣を軽々と掲げた。

「はい、間違いありません。ジークフリート様の剣です!」

応えたのは、ブラダマンテだった。キラキラと目を輝かせる姿は、背格好に似つかわしくない無邪気さを感じさせた。

そして、その無邪気な感動は、トウマも感じているものだった。

鈍い銀色の大剣。質朴さすら感じる佇まいにも関わらず、確固としてそこに現存する剣が、鈍く煌めく。間違いない、小説の表紙とかで見た、バルムンクそのものだった。

―――にも拘らず。クロはしげしげと剣を眺めると、バルムンクを放り投げた。

「わっ……と」

あたふたとキャッチしたブラダマンテが胸を撫で下ろすのも束の間、「それ、渡してきて」とクロはにべも無く言った。

「それと一言伝言。完全に模倣しきれなかった点が一か所ある、って伝えておいて」

「これ、未完成品なんですか?」

「まぁハリボテよりは立派に出来てる、と思うんだけど。それ含めて、真作を知っているジークフリートに判断を仰ぎたい、って伝えてきてもらえる?」

「わ、わかりました。ブラダマンテ、これを渡して、伝えてきます!」

相変わらず元気のいい返答をすると、ブラダマンテは目にもとまらぬ速さで林の中を駆けて行った。

「体育会系、っていうのかしらね……」

クロは呆れたように、彼女の背を見送る。サバサバしていて、ともすれば飄々としているクロとは相性が良くないのかもしれない。ふう、ともう一つ溜息を吐いたクロは前髪をかきあげた瞬間、不意に身体を揺らした。

眩暈のようにも見えた彼女の動きに、咄嗟にトウマはその背を両手で支えた。酷く小さく華奢な肩が手の中へと滑り込んだ。

「あ、ごめん」

クロはすぐに姿勢を戻すと、きまり悪そうに、背後のトウマを振り仰いだ。

「単純に、魔力を使いすぎちゃった」

トウマが口を開くより早く、クロは素早く口にした。普段通りの、つかみどころのない表情。軽やかな口調の中に、何か有無を言わさぬものがあった。気圧されたトウマは言葉に詰まりながらも、「でも、それなら休まなきゃ」と愚にも付かない言葉を言った。

「その、魔力を回復したりとか」

―――なんとなく、頭に浮かんだ言葉が口をついて出る。TYPE-MOONの世界観における魔力がどうなっているかは、あまり詳しくない。大気に満ちる大源(マナ)と生物の体内に渦巻く小源(オド)、あるいは第五真説(真エーテル)/架空要素(エーテル)が関係し、魔術を行使しなければ、呼吸や食事などで、小源は自然と回復していく―――そんな程度の理解だった。

「……ふぅん?」

だから、クロのその表情―――蠱惑的なような挑発的なような、それでいて獲物を視認した狩人のような顔の意味が、よく―――。

視界が不意に崩れ落ちた。左足の踵に感じる鈍い衝撃とともに、目の前に黄昏の空が飛び込む。足払いで転ばされたのだ。でも、背中に痛みらしい痛みは無い。受け身を取るなんて考えは当然トウマには無かった―――即ち、まるで寝転がるように転ばせたクロが、上手かったのだ。

でも、何故。沸き上がった疑問を塗りつぶすように、夕焼けの空を影が遮った。

長い銀の髪が、枝垂れのように垂れている。その奥で、獣染みた少女が舌なめずりをした。

「あの、えと?」

「何とぼけてるのよ―――だって、今の、そういうことでしょ?」

クロの手が、トウマの両腕につかみかかる。手首をつかむ彼女の手はまるで万力だ。骨が軋むほどの圧に顔をしかめながら、トウマは、ひやりと思い出す。

―――そういえば、魔力の回復手段は、他にもある。原作……というか、もっと言えばR-18版で取られる手法。粘膜接触による魔力回復。そしてクロは、その回復手段の中でも、口唇同士を接触させることによる魔力回復を常套としている―――即ち。

接吻(キス)、である。

「ちょっと、ちょっとちょっと!」

「もー、あんまり動かないでよ。あ、それとも今の合意ってこと? 接触(タッチ)だし」

「いやそういう意味ではないんですけどォ!?」

クロの右手が伸びる。トウマの頭をしっかり抑えつけるなり、彼女は、犬歯を覗かせた。

心臓が、早鐘を打っている。拍動音が耳朶の奥底で膨れ上がり、眩暈すら引き起こすほどだった。

彼女の薄い唇が、僅かに開く。猟奇的ですらある猛禽のような目が、品定めするようにトウマの顔を閲する。さわり、と逢魔が刻の風が吹く―――蒸すような、温い、風だった。

あ―――。

「ベシ」

弾けるような綺麗な音を立てた、『中指から繰り出される額への一撃(デコピン)』だった。

「っ()ぁーい!」

「残念、そっちまだお預けでした」

上体を起こしたクロが、子供っぽく笑う。空しく鼓動する心臓音を聞きながら、トウマは、顔を真っ赤にした。

トウマは、ともかく何か言おうとした。抗議だったかもしれないし、あるいは単に羞恥心からの呻き声だったかもしれない。ともかく喃語のように何かを発しようとしたトウマの唇を、クロの人差し指が塞いだ。

「期待しちゃった? 私と()()()()んだ、って。それとも―――」

不意に彼女が倒れ込む。トウマの身体にぺたりと密着するなり、彼女の声が、耳元で、ふわりと膨れた。

「トーマも、もっと、違うことしたかった?」

違うこと?

違うこと。

それって即ち―――。

「いや、そんなことはないです、健全な……健全なことを期待していました!」

「えー、そんなに否定しなくてもいいじゃない。傷つくなぁ」

「えっ」

「ま、でもキスすることは期待してたんだ? こんな小っちゃい女の子と?」

「むむむ……」

わざとらしく、クロは非難がましい目を向けた。確かに期待……というか予測はしたけれど、別に望んだわけでは無なというか、なんというか。身体を起こしたクロを下から見上げたトウマは、ふと、その光景に、何かを覚えた。

これは―――。

「まぁでも、魔力供給目的でトーマとその……そういうことをすることは、ないというかカルデアのサーヴァントはカルデアスから魔力供給があるから、マスターからの魔力供給は必要ないのよね。不測の事態で必要になることはあるかもだけど、そもそもパスは正常につながってるから、普通に魔力供給はあるし……」

そういえば、そんなことを、聞いた気がする。カルデア式の英霊召喚システムにとって、マスターとはサーヴァントを現世にとどめておくための楔として機能する。魔力負担分はカルデアスが行うことで、サーヴァントを運用するにあたってのマスターへの負担を極限まで減らすことに成功している―――らしい。

なんだか残念なような、善かったような―――奇妙な感情だった。

「それと―――魔力切れになりかけた時の私、結構見さかいが無いというか、貪欲というか、抑えが効かない、というか」

―――何故か、クロは深刻な顔をしていた。

「多分、そういう状況でアナタとしちゃうと、必要以上に吸いすぎちゃうというか―――最悪、死なせちゃうかもしれない」

耳を疑った。死なせるかもしれない、という彼女の言葉を、しかし、トウマはすぐに理解した。

魔術師にとって、小源(オド)とは即ち生きる力、生命力そのものといって良い。それを枯渇するほどに消費すれば、当然、その人間は生命力を失い―――ひいては、死を迎える、ということだ。

彼女が言っているのは、そういうことだ。通常時ならともかく、もしもの時、クロはトウマの生命力(オド)を根こそぎ食い尽くす。

「だから! トーマとは、そういうことをそういう目的では、しない」

きっぱりと、クロは言った。その表情に、数舜前の悪戯な雰囲気は無い。むしろ厳かさすら感じる色彩の薄い表情は、彼女の言ったことが嘘でも何でもないことを、ありありと示していた。

「なら、俺もそういう状況にならないように、頑張らないとだなぁ」

トウマも、上体を起こした。態勢を崩したクロの背に手を回して身体を支えると、トウマは、気弱そうに笑った。

「だって、それって孤立無援で、しかもクロに無理させすぎたらなることでしょ。それって多分、俺がいくつも判断を間違えたら、起きてしまいかねないことだから」

戸惑うような顔色のクロにぎこちない苦笑いしか返せないトウマは、小さく肩を竦めた。

この戦い―――サーヴァント同士の戦いに、たかだた一般人でしかないトウマが入り込む余地はゼロだ。某教師のような体術も、某主人公のような一芸も無い。リツカのように、冷静な目を持っているわけでもない。トウマに出来ることは、精々後ろで隠れて、仲間が戦っている様を見守ることしか無い。自分より幼く見える、しかも女の子が傷を負っている様をただ見ているだけ、というのは、はっきり言って、情けないことだった。

なら、せめて、なるだけ仲間が傷つかないように立ち回らないと。それが、多分今できる最善なのだから。

「そ。でも、私心眼持ちだし、戦術眼はトーマよりあるわよ」

ぴょい、と飛び退いたクロは、ふん、とそっぽを向いた。

「まぁ確かに。俺が判断を間違えても、クロなら正解を出すか」

「そういうこと。ま、でも心がけとしてはいいんじゃない? ナマイキだけど」

「手厳しい」

のそりと、トウマは立ち上がった。ズボンについた埃をはたいて、撚れた上着の裾を直した。

「そういえば、あのバルムンク」トウマは言った。「未完成品ってどういう―――」

「―――駄目です、それは!」

その声が、言いかけた声を打ち消した。

声の方―――背後を振り返る。暗くなりはじめた林の中、声の主は見当たらない。

「今の、ジャンヌの声かしら」

「多分」

穏やかなようで、凛然とした気風のある声は、確かにジャンヌ・ダルクのそれだった。確か、彼女たちは今、ジークフリートの呪い解除に取り組んでいたはずだった。

「行ったら、トーマ」

「え?」

「だって、アナタがこの旅の主導者の一人でしょ? 何かトラブルがあったら、居た方がいいんじゃない?」

「あー、そうかも」

「ほら、なら早く行きなさい。最善を尽くすんでしょ?」

「わかった」

 

 

 

 

深く、嘆息を吐く。

身体の奥底に、澱のように沈殿する疲労感を、吐き出す。明滅するような視界の中、不意にこみ上げた嘔吐感を、こらえきれなかった。

手で口元を抑えたが間に合わず、せりあがってきた不快感を吐き出す。ざわりと冷たく痙攣しながら一しきり吐き出すと、最後に、口元に残った吐物を唾液でまとめて吐き捨てた。

額の冷や汗を拭う。目元に滲んだ涙をぬぐう。ふらふらと立ち上がったクロは、樹木へと背中を預けた。

「キッツ……」

思わず、言葉が口をついて出た。立っているだけでしんどかったクロは、そのまま地面へと座り込んだ。

―――自身の根幹ともいえるアーチャーのクラスカードを手引きに、英霊の座のエミヤの技量を引きずり出す。サーヴァントであり、且つ自己の特性なら左程の反動も無く行えると踏んでいたが、それでもこのザマだ。これがもし、生身の人間なら、それこそ脳が負担に耐えられずに破裂する。そして、トウマの言葉が正しいなら、()は、それに耐えた―――。

―――凛は、それをわかっていて、なお強いたのだろうか。

そう思案して、クロは、即座にその考えを否定した。冷徹な魔術師の癖に、倫理を捨てきれない小娘。それが遠坂凛という人物だと、クロはよく知っていた。

「なら、(イリヤ)、かぁ」

―――その場には、自分(イリヤ)も、居たらしい。母親に封印されることなく、アインツベルンの元に生れ落ち、正しくアインツベルンの世継ぎ(小聖杯)として生まれ、育った自分(イリヤ)が。

自分(イリヤ)は、それをわかっていて、且つそれが有効打ならば、躊躇なく行うだろう。その上で、多分、彼を、守ろうとしただろう。凛よりもさらに冷徹な魔術師で、そしてちょっとだけの心情を持ってしまった(イリヤ)の選択、なのだろう。

奇妙な、感慨。膝を抱えたクロは、はぁ、とわざとらしく、息を吐いた。

ホント、変わらない。私たち(イリヤ)は、何をしても、私たち(イリヤ)なのだ。

―――膝に顔を埋めたまま、むぅ、と唸る。

あーいうのは、反則だと思う。ぎこちない微笑を思い出したクロは、もう一度、むむむ、と唸った。

「―――ホント、生意気」

 

 

 

 

トウマが最初に目にしたのは、ブラダマンテの背中だった。

大剣を抱えたまま立ちすくむ彼女は、トウマに気づくと怯えたような、困惑したような顔を向けた。

「どうしたの?」

「いえ、私も今来たばかりで、よくわからないのですが……」

言いながら、ブラダマンテは灯の方へと向き直った。

中央に置かれた設置型のLED灯を囲うように、切り株が並ぶ。簡易的な宿泊地だ。暖色のLEDライトは、光をゆらめかせている。実際の焚火に見せるためだろう、その光の波を受けたジャンヌの顔は、険しく歪んでいた。端的に、怒っているように見えた。

その彼女の怒気にさらされた相手―――灰色の背広姿の男、アントニオ・サリエリは特に意に介する様子も無く、ジャンヌへと赤い視線を見返していた。

「すまない、これは」トウマに気づいたジークフリートは、申し訳なさげに眉尻を下げて言った。「俺に端を発するものだ」

2m近い身長の偉丈夫が、腰を低くして小さくなっている。ジークフリートってこんなキャラだっけ。いや、まぁ原作だとそもそも活躍の場面が多くないからわからないのだけれども。

「呪いの解除に関して意見の相違点がある……みたいな状況なのかしら」

「あ、あぁ……それで、彼女がその。怒ってしまって」ますますジークフリートは小さくなっていた。

「―――こういう場を丸く収めるのは、苦手なんだ」

決まり悪そうに、ジークフリートは小声で言った。

確かに、どちらかと言えば口下手で、感情表現が得意じゃないジークフリートは、人心を治めることには向いていないのかもしれない。Apocryphaの1巻モノローグでもそんなこと言っていたような気がする……。

それにしても、だ。

気まずそうな顔の中に、期待の眼差しを向けてくるのは、どういうことなのだろう。いやわかってる。あれは、マスターである自分に、何とかしてほしいとちょっとだけ期待している目だ。

トウマは、努めて表情を変えずに、その目を受け入れた。若干顔が引きつっていた気はするけれど、多分些細なことだ。

―――当然だが、2015年の一般的な男子高生は、諍いの仲裁には慣れていない。元よりごく一般的な中流階級に生まれ育ち、平均より少し学力がいいだけの凡人に過ぎず、友人も同じように温和な人物だけという、いたって普通の青年に過ぎないトウマは、なおのこと仲裁など慣れていなかった。

もちろん、そんなときどんな風に割って入るべきかなど、トウマにはとんとわからないことだった。たっぷり5秒考えたトウマは、意を決して、

「あのー、心中穏やかでないことは察しておりますが……」

なんだかよくわからない言葉を切り出してしまっていた。

「なんですか、今は大事な話を―――!」

ぎろり、とジャンヌの鋭い目がトウマを抉った。

サーヴァントによる敵意的な感情。なまじっかの人間であれば気絶してしまいそうな威圧だった。実際、トウマは1秒くらい失神した。というかちびった。

それでも、トウマは耐えた。今すぐ泣き出しながらどっかに走り去ってしまいそうな感情をなんとか押さえつけた。背後から感じるジークフリートとブラダマンテの熱い視線に押されたこともあったが、何より、ついさっきクロと交わした言葉が脳裏を過った。

「い、あ、いやですね、感情的なのが悪いとは言いませんけどもですね、冷静にですね、話した方が得てして良い方向に行くものではないかなとディベートの授業で言っていた気がしてですね」

「―――あ、トーマ、でしたか」

と、ジャンヌの視線が虚を突かれたようにトウマを見返した。

「すみません! ついその、カッとなってしまっていた、というか……」

一転して委縮したようにジャンヌが恐々と頭を下げた。

「いや、別にそれはいいんですけども」

言いながら、トウマは、もう一人―――サリエリを見やる。

赤い目の男は素っ気なくどこかを眺めている。まるで他人事だ。

「えーと、それで、なんでこうなったのかな」トウマはサリエリを見ながらも、努めて冷静に、ジャンヌへと一瞥を向けた。「珍しいような気もするけれど」

「それが、その」

ジャンヌは苦々しく顔を顰めてから、恨めし気にサリエリを睨んだ。

「そうだな。確かに、私や君だけで出すべき解答ではない。責任者(マスター)の判断を仰ぐべきことだ」

重々しいジャンヌの目にさらされながら、サリエリはやっぱり素っ気なく、なんでもないことのように言った。

リツカ(もう一人)も来てからの方がいいが」サリエリは、ひたと赤い目をトウマへ向けた。「呪いを解く方法が見つかった。その方法に問題がある―――と、ジャンヌ・ダルクは思っているようだ」

そうだろう、とサリエリはジャンヌへと水を向けた。

「あ、当たり前です! あのような方法は到底認められません!」

「まぁまぁ、抑えて」今にもサリエリに飛び掛かろうとするジャンヌを宥めながら、トウマは、「その、方法というのは」

「私を解呪の媒介に使用する―――まぁ、簡単に言えば、私を対価にジークフリートの呪いを解く、といったところだな」

 

 

 

 

 

 

頭痛が、する。

ざらざら、と騒音が頭蓋の中を反響している。紙やすりのような、鮫の牙のような雑音が乱反射し、脳髄を削り取っていく―――。

小さな町の片隅。既に夜のとばりが下りた町の、とある一室。エリザベート・バートリーは蝋燭の火に照らされながら、目の前のそれを、無感動に眺めている。

若い、女の子だ。年齢は10代半ばから後半、と推定される。質朴ながら芯の通った少女は町の人気者で、求婚する異性も少なくなかった。顔立ちも、よく整っていた、はずだった。

既に、その容貌は、そこには無い。鼻を千切られ、眼球を抉られ、壁に磔にされた少女は、てらてらと煌めく大腸を零しながら、小刻みに痙攣していた。裂かれた腹からはその他多種の内臓を溢し、喉には杭を打ち込まれていたが、それでもまだ、少女は存命だった。あるいは、生きさせられていた。エリザベートの魔術により、死にながら、生き永らえさせられていた。

何故だろう、と、エリザベートは思案する。吐き気がするほどの頭痛の中、やっとのことで、何故の思案を絞り出す。

何故、頭痛が、止まないのだろう。こうして()()を加虐している時だけはこの忌まわしい頭痛から解放されたのに、何故、どれだけ虐めても、頭痛が止まないのだろう。既にこの町の雌という雌を壊したのに、何故、何も変わらないのだろう。

エリザベートは、強張るように痙攣する手を見た。(はらわた)を引きずり出すために肉の中へと突っ込んだ右手は、酷く真っ赤だった。あの時のように、肌を滑らかにする真っ赤な血。綺麗だったはずの、真っ赤な血。

ぞわぞわと肌を粟立てる。

ざらつく視界の中を、()()が過る。

華やかな、薔薇のような何か。さんざめく降り注ぐ陽のような何か。莞爾と笑う、何か―――誰、か。

エリザベートは、振り払うように槍を払った。穂先が少女の身体を両断し、びちゃりと血をまき散らしながら床に転がった。心臓を断ち切られ脳みそを破壊され、どこともしれない少女は死んだ。

「なんでよ」

エリザベートは、嘔吐するように言葉を漏らした。

「なんでよ―――!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

然る音楽家の遺志

予約投稿に一瞬失敗して直接投稿してしまったのは内緒です。



「つまり。要約すれば、サリエリの霊基をある種の魔術礼装に変換して、呪いの解除に利用する。結果ジークフリートの呪いは晴れて解けるが、対価としてサリエリは消滅する―――という理解で良いのかな」

リツカは、やはり至極冷静な様子で状況を整理した。そうだな、と相槌を打つサリエリに対しても、やはり感情の起伏を見せずに、首肯を返した。

リツカがやってきたのは、あれからすぐのことだった。サリエリの言にやはり感情を害した様子のジャンヌが今にも飛び掛かろうとするのをジークフリートとなんとかなだめすかしている間に、ひょこりと現れたのだった。

「単純計算だが。妹君と私の2騎を対価に得た戦力が3騎とするなら、結果的には戦力は増えたことになると思うがね」

「ふむ。確かに」

素っ気なく言葉を交わすリツカとサリエリ。互いに無関心のような言葉の交わし合いに見えて、しかし、その様子には奇妙な温度差があった。

淡々と語るリツカは、冷静なようで、それでいて何かを探るような目でサリエリを見ている。対するサリエリは確かに淡々としているが、まるで、何かを避けるかのようだった。

「それに加え、私を純粋な魔力に変換してジャンヌ・ダルクの霊基に付与すれば、宝具1~2回分のリソースになるだろう。ジークフリートは回復し、ジャンヌ・ダルクは蘇る。私という貧相なサーヴァントを対価に得るものとしては、余りあるものであると考えるが?」

「正論ではあるね」

どこか饒舌なサリエリ。黙するリツカは、ただそのサリエリの様子を注視していた。

「―――ちなみに、ジークフリート。その呪いは、必ず解かなければならないものなのかな。傍目には問題なく行動できているようだけれど」

「正直に言えば、可能な限りは解きたいな。現状、6割程度の出力しか出せていない。B+~Aクラス程度のサーヴァント相手ならば現状でも後れを取るつもりはないが、それ以上となると、な」

ジークフリートは、しれっとそんなことを言った。それってサーヴァントでは最上位クラスの強さだったような気がするのだが。

流石、黒の陣営最大の戦力と目されていただけはある。

だが、翻って言えば―――あの邪竜は、最上位のサーヴァントすら寄せ付けないほどの怪物、ということだ。

「方法は」

「元より私は自我―――存在構造が希薄なサーヴァントだ。通常のサーヴァントならば霊基の魔力返還も難しいだろうが、私なら自力で行ける。それに、君の腕ならそのくらいのことはできるだろう」

水を向けられたリツカは、しかし表情一つ変えなかった。

リツカは、思案するように腕組みし、瞑目した。眉間に皺を寄せること数分、沈黙の中、彼女は目を開けた。

「―――何のために、そこまでするの」

サリエリは、僅かに、身動ぎした。薄暗がりのせいで、アントニオ・サリエリの表情は見えなかった。

「無論、勝つために」

応える声に、淀みは無い。らんらんと揺らめく赤い目が、己を見据える少女の目を見返した。

「そう。わかった、私は賛成する。貴方を対価に勝ちを掴みに行く」

リツカは鼻息を吐くと、肩の力を抜いた。

「それで―――トーマ君、君は?」

トウマは、思わず、身体を強張らせていた。

当然だ。何かあったとき、責任を取るのは、マスターの役目。特にこの旅では、その比重は、大きい。

トウマは、誰かの目を、見ようとした。そうして、やめた。ただ、慄くように、サリエリの赤い目を、見返した。

「俺、そんな頭良くないけど、なんとなくリツカさんと、サリエリさんの結論が正しい、と思う」

「なら―――」

リツカは口にしかけて、口を閉ざした。顔を上げたトウマの顔に、言うはずだった言葉を飲み下したようだった。

「でも、なんか。俺、寂しいです。みんなのこと全然知らないし、そんな長く一緒にいるわけじゃないけど。俺、なんか、辛いです」

トウマは、切れ切れに、言葉にした。

それが、素直な言葉だった。これは戦いで、必要な犠牲と割り切るべきところなのだろう。だが、彼にはまだ、そんな現実は、耐え難いものだった。

「―――トーマ。タチバナ・トーマ。人類最後のマスター、その片割れよ」

ふと気が付くと、サリエリが、トウマの手を取っていた。

「私は死力を尽くし、今能う最善の選択をしているつもりだ。そしてきっと、君が、君たちが、私の生を決して無駄なものにしないと信じているのだよ」

片膝をついた灰色の男が、トウマを見上げる。真紅の双眸は、酷く慈悲深い、大人の目をしていた。

「後悔するだろう、疚しさを抱くだろう。自分の無能を恥じることもあろう。だが、同時に、誇りにも思ってくれたまえ。私たちが命を懸け、そして私たちが命を懸けたその祈りを叶えたことに、誇りを持ってくれたまえ。それがきっと、我ら境界記録帯(ゴーストライナー)、サーヴァントが君たちに望むことだからね」

優しい響きを持った声だった。温和な教師のような、穏やかな表情だった。

トウマは、何もこたえられなかった。ただ、頷きを返すだけで、精いっぱいだった。そんな少年の姿に微笑を返した男は、トウマから手を離すと、すっくと立ちあがった。

「それでは決まりのようだが。構わないな、ジャンヌ・ダルク」

「―――わかりました。リツカとトーマがそういうなら、私も、とやかくは言いません」ジャンヌは、堅い声で言った。

 

「その命、伏して拝しましょう」

 

「決まりだな。それでは、始めよう」

 

 

 

 

 

「手順を確認しよう。まず私とサリエリの二人で、サーヴァント、アントニオ・サリエリの外殻(エス)を溶解。その後純粋な魔力リソースとなったサリエリをジャンヌに転写、それを利用して洗礼詠唱によりジークフリートの呪いを解除する―――これでいいね」

返す言葉は無い。そこに揃う彼ら―――サリエリとジークフリートは、黙然とその言葉を受容していた。表情は、読めない。元より彼らは感情表出に乏しい。

ジャンヌ・ダルクは、自らの旗を、強く握りしめた。ひしゃげるほどに強く、旗を握りしめた。

「じゃあ始めるよ。ジャンヌの出番はまだだけど、準備してて」

「はい」

リツカが、サリエリへと手を伸ばす。彼女が翳した手を、サリエリは、静かに眺めた。

詠唱の呪文が、耳朶を打つ。ジャンヌ・ダルクの知らない言語―――あるいは聞いた覚えのない言語は、何は奇妙なほどに心地よく、そして、奇妙なほどに、肌を粟立たせた。

―――彼女の顔が、脳裏を過る。穏やかな春の日差しのようで、夏の潮騒のような彼女の顔。もう、逝ってしまった彼女の、顔。

その顔が、微かに、強張った。ジャンヌの背を押したあの瞬間の顔へと、微かに、歪む。

サリエリの姿が、燐光に解されていく。輪郭が朧げに溶解を始め、光子が零れていく―――。

灰色の男が、一瞬だけ、ジャンヌを一瞥した。僅かなぎこちない微笑を浮かべた男の口元が、何かの言語に痙攣した。

そうして、燎原の火のような目をした男は。

「ジャンヌ」

リツカの声が、耳朶を打った。

彼女が差し出した手。か細く、汗が滲む震える手に握られた、一本の短剣。十字架にも似た慈愛の短剣(ミセリコルデ)だった。

ジャンヌは、それを受け取った。小綺麗な短剣を両手で抱いた。

「行きます、ジークフリート。汝を蝕むその(しゅ)に浄化を」

ジークフリートが無言で頷く。跪く男の頭上に、ジャンヌは、短剣を掲げた。ともすればそれは、戦火に赴く勇士へと祝福を与える聖なる御使いの姿にも、見えた。

 

“主の恵みは深く、慈しみは永久とこしえに絶えず”

 

“あなたは人なき荒野に住まい、生きるべき場所に至る道も知らず”

 

“餓え、渇き、魂は衰えていく”

 

                ―――何かが、ジャンヌ・ダルクという存在者に凝る。

 

“彼の名を口にし、救われよ。生きるべき場所へと導く者の名を”

 

“渇いた魂を満ち足らし、餓えた魂を良き物で満たす”

 

“深い闇の中、苦しみと鉄に縛られし者に救いあれ”

 

                ―――それはまるで、暗き森の中に差し込む日の光のよう。

 

“今、枷を壊し、深い闇から救い出される”

 

“罪に汚れた行いを病み、不義を悩む者には救いあれ”

 

                ―――闇に縁どられた、明るい点よりの恵み。

 

“正しき者には喜びの歌を、不義の者には沈黙を”

 

                真理が実存する、闇の啓け、それは即ち―――。

 

“―――去りゆく魂に安らぎあれ

 

 

 

 ※

 

 

 

「正直なところ、私は彼のことはよく知らないのです」

暖色の光に照らされながら、シャルル=アンリ・サンソンは、困ったように呟いた。

「確かに私……というより、サンソン家は王家に重用されていました。ですがそれは、私たちがムッシュ・ド・パリだった、ということだけに起因することです。職業柄重んじられていただけですから。宮廷音楽家であった彼とは、かつて一度も合ったことはありません。彼の方も、私のことは知っていたかもしれませんが、面識の方は―――」

そうなんだ、と返すトウマは、知らず、声のトーンを落としていた。

一連の儀式には集中力を要するので、なるべく静かにしてほしい―――というリツカの要請から、3人以外は、別に待機することになっていた。何もすることは無いし、トウマもとても眠れるような気分でもなかったので、それとなく雑談をすることにしていた。

「失礼、あまりお役には立てませんで」

「いや、いいんですよ。ちょっと気になった、くらいの話だったんで」トウマは慌てて言うと、ステンレスマグカップに注いだコーヒーを口に含んだ。湯気をもうもうと巻き上げるコーヒーは、まだ熱かった。

「シャルルさんは、音楽はあまり聞かないんですか」

「音楽、ですか」

サンソンはチョコバーのビニールを慣れた手付きで破ると、一口齧った。疲労回復用の携帯用食料で酷く甘いが、サンソンの表情は、どこか険しかった。

「個人的には、あまり。生前の色々と言いますか。とにかく色々あったもので。浮ついたような気分のものは、好ましいとは思えないものでして」

「すみません、なんか変なことばかり聞いてしまって」

「いえいえ、何分私も堅物ですから。気の利いた話でもして、無聊の慰めの一つも出来ればよいのですか」

言って、サンソンはもう一口、チョコバーを頬張る。酷く甘いですね、と苦笑いすると、彼は熱い緑茶を飲んだ。

緑茶(グリーンティー)、でしたか。これも紅茶(ティー)と原料は同じなのでしょう? これはこれで私の好みですね」

「お口にあったようで」

「ニホンの茶、でしたか」サンソンはもう一口緑茶を口に含むと、微笑を浮かべて頷いた。「そういえば、タチバナさんも日本の生まれ、なんでしたか」

「そうですね、日本の首都圏に住んでるまぁ……普通の学生でした」

「学徒……現代の先進国では、多くの人々が学びの機会を与えられている。未来は私が暮らした時代よりも、ずっと恵まれているのですね」

静かな言葉は、まるで呟きのようですらあった。

子供に学ぶ機会を与えるべきである。およそそのような観念が生まれたのは、産業革命以降の話だという。それ以前はそもそも「子供」という概念すら世界には無く、小さな大人として、労働力に充てられていた―――とかなんとか、世界史の先生が言っていた気がする。子供という概念の誕生と学業の紐帯は資本主義的欲動抜きには語れない、とも言っていたけれど、同時に、学びとは世界を切り開く力を身に着けることそのものでもある―――多分、先生は、そんなしめくくりをした。眠気と戦いながら聞いていた話は、当時は何のリアリティも無いお題目でしかなかったし、今もあまりよくわからないけれど。多分、それは、恵まれたことなのだろう―――。

「“現代”では民衆が皆医術を学ぶのでしょうか?」

「やー、医学部はまた別ですねぇ。医学部に入るのはかなりハードル高いです。学力的にも金銭的にも―――あぁでも看護学部なら別かな」

「看護師、とは?」

「医者とは別に看病することを専門にしている人、と言えばいいんでしょうか。ある程度の医行為や医学的判断もできるんですよ。病院なんかだと、実質お医者さんより偉かったりするそうで」

「なんと―――興味深いですね。話を聞くだけならば看護師の方が位は低いのかと思いましたが。ヘーゲルの主人と奴隷の話でしょうか―――それでは薬学はどうでしょう、こちらもまた分化していると聞きましたが?」

「薬学部ですね。医学部とは別にあります。こちらもやっぱりハードルは高めで―――」

トウマはコーヒーを口にした。少し、温くなりはじめていた。

 

 

 

 

これは、夢だ。

クロは最初から、今見ている景色が夢だとわかっていた。直観的に、理解していた。

2000年代ではありふれた町並みが、景色を流れていく。一軒家が立ち並び、ところどころに背の高いマンションが高く聳えている。時折コンビニが顔を覗かせ、レストランがひっそりと佇み、友人の家が目に飛び込む―――。

川べりのサイクリングロードを行く。蒸すような風が額を浚う。後ろから追い抜いていくロードバイク、呑気そうに散歩をする身綺麗な老女。過ぎ去り際、少年は面識のない壮年の女性に挨拶し、女性もまた、意外そうな顔をしながら、晴れやかに挨拶を返した。

少年が、歩を止める。見慣れない/見慣れた一軒家を振り仰ぎ、彼は、慣れた手付きで、玄関のドアへと手を伸ばす―――。

サーヴァントは、夢を、見ない。もし夢を見るならば、それは自身のものではない。契約主が過去に経験してきた記憶が紛れ込み、それを夢として認識するのだという。

ならば、これは、彼の過去、なのだろう。このどこにでもありそうな、景色こそ、彼の―――。

 

 

 

 

 

クロは、微かに感じた気配に、薄く目を開けた。

睡眠に時間を当てて、効率的な魔力回復を行う。そのために意識を機能停止させていても、必要最低限の機能は残しておく。例えば嗅覚、例えば聴覚。そして自己回復に努めながら、臨戦態勢は維持する。この身体の核となる英霊、ひいてはアーチャーというクラスが持つレンジャーとしての即応待機状態において、接近するサーヴァントはたちどころに把握し得る。

「すまない、起してしまったか」

もちろん、その相手が敵でないことも、承知していた。

サーヴァント、ジークフリート。生真面目そうな堅物の男は、申し訳なさげな顔をしていた。

「いいわよ、別に」クロは立ち上がると、万歳するように伸びをした。「もうほとんど回復できたし」

そうか、と応じたジークフリートは、なんだかちょっと歯切れが悪い。そわそわと身動ぎする様は、奇妙に朴訥としていた。

うーむ―――なんというかこう。からかいたくなる雰囲気を醸し出すな―――。

クロは表情には出さねども、そんなことを思う。垢ぬけないとでも言おうか、質朴とでも言おうか。ジークフリートは、そこはかとなく、構いたくなるオーラを出す男だった。

「バルムンク、のことでしょ」

だが、クロはからかわないことにした。何故かは、よくわからなかった。

「あぁ、そうだ」

ジークフリートは言うと、背の鞘から、大剣を引き抜いた。

月光を反射させ、鈍く、鋭く輝く銀の剣。最強の幻想(ラスト・ファンタズム)にすら比肩しようという剣が存在するこの様は、たとえようもない静かな高揚感を惹起させる。

「まずは礼を。これが無ければ、俺はただの木偶の棒に過ぎないからな」

「腰が低すぎじゃない? バルムンクが無くたって、アナタは最強クラスのサーヴァントじゃない」

呆れる様に、クロは言った。

リヨンでのあの瞬間。ジークフリートが無造作に投擲した【偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)】は、当然だが真名解放していない、ただの矢として放たれたものだった。だというのに、竜殺しを付与されていたとはいえ、その投射はワイバーンを容易く引き千切り、あの巨竜を怯ませるに足るものであった。

「それに。バルムンク(それ)もハリボテみたいなものかもしれないし」

ジークフリートが、微かに表情を曇らせた。鼻息を吐いたクロは、肩を落とした。

「やはり、アレの再現は難しかったか」

「ちょっとねー。刀剣類は確かに寸分違わず創れるんだけど。真エーテルまではちょっとできなかった。精々宝具一発分の魔力は補填してあると思うけど」

ふてくされるように木によりかかると、クロは口を尖らせた。

「魔術師としては私の方が優れてるからイケるかなぁ~とか思ったんだけど。甘かったわ」

「?」

「独り言」

にべも無く言う。ジークフリートは特に気にするでもなく、わかった、とだけ応えた。

「ごめんなさい。本当は完全なものを作って渡すべきなんでしょうけど」

「いや、いい。君が今できる最善を尽くしてくれたのは、わかる。その思いだけで、十分だ」

ジークフリートは不敵な嫣然を浮かべると、さらりと言ってのけた。

……主人公っぽいなこの人。

クロは、そんなことを思った。思ったけれど特に表情は変えずに、「なら、いいけど」と言葉短く答えた。

「俺も全力を尽くそう」ジークフリートは、束の間、空を振り仰いだ。樹々茂る隙間には、夢のような星天が綺麗に顔を覗かせていた。「己が真名と、この魔剣にかけて」

高く、天を衝くように。掲げた剣の刀身に、峻厳な男の顔が反射していた。

 

 

 

 ※

 

 

 

 ここは、どこだ。

見渡す周囲に群れる人間たち。奇妙な熱狂に彩られた人間という類が犇めき合っている。

知らない場所だった。彼女は、このような景色に佇んだことは無かった。彼女は常に先陣を切り、腰に剣を携え、御旗を刃として振るってきた。あの日、天より降り注ぐ黄昏の陽に嘆きを聞いた日から、その身は戦火とともにあった。

それでも、何故か、彼女はその景色を、“知っている景色”だと思った。古き記憶に、あるいは新しき今に、あるいは、遠き未来の記憶に、その景色はあった。

渦巻く憎悪。迸る罵詈雑言。最も卑俗で愚かしいまでの人類悪の坩堝の中、彼女は、渦の中心を凝視した。

木に縛り付けられた彼女。筆舌に尽くしがたいあらゆる凌辱に耐え、悄然としながらも、その厳かさを失うことなくそこに実存する尊き乙女。聖なる者はただ、快晴の穹窿を閲していた。

炎が上がる。彼女の足元から、黝い炎が巻き起こる。昏き火に舌なめずりされながら、しかし、彼女は苦悶の表情一つ見せずに、焼尽していく。

止まない怒号。炎のように巻き上がる情動。

―――炎が止んだ。歓声が上がった。尊厳に満ちた威厳たっぷりの司祭の声が、天に響いた。

彼女は、群衆の中をかき分けた。彼女に気を取られるものは誰もいない。炭化した亡骸に近づいた彼女は、ぶすぶす、と亡骸の奥で燻る火種の音を聞いた。

―――あぁ、それこそが、きっと―――。

 

 

 

 

なんだか、酷く、熱いな、と思った。

ジャンヌ・ダルクは、気だるげに、目を開けた。

既に夜は降りた。人間のいない大聖堂は森閑とし、無音が厚顔にも横たわっているばかりだった。燭台に灯った火の揺らめきだけが、唯一この場で稼働するものだった。

何か、今、見ていた気がする。休眠していた束の間、何か、見ていた気がする。

黙然と、ジャンヌは天井を仰いだ。だが、何も思い出せなかった。捉えどころのない空虚な感覚だけが、ぽっかりと胸に空いているようだった。

「いかがなさいましたか」

どこからともなく、男の声が耳朶を打った。この時間、玉座の間へのサーヴァントの入室は禁止されている。ならば、その声の主は、独りだけだった。

「なんでもありません」ジャンヌは脱力したまま言った。「言うことを聞かない()()()()()ばかりで疲れてしまっているようです」

「それはそれは」

「別に貴方が恐縮することではありません。彼ら彼女らを呼んだのは、他ならずこの私です。戦力としては十二分に働いてくれていますし―――善き者たちです」

闇の向こうで、男が押し黙る。ふとそれに気づいたジャンヌは、くたびれたように、口角を上げた。

「何ですか。やきもちですか、似付かわしくない。端的に言って、キモいですね」

「いえ、そのようなことは。ただ、貴女様が心情を害していると思うと慙愧に耐えないと思っただけのことでございます」

「それをキモいと言っているのですよ。ストーカーですか貴方は」

にべも無く、ジャンヌは男の言葉をはねつけた。しかし、男はそんなジャンヌの声の調子に満足したのか、暗闇の中で黙然と身動ぎした。ジャンヌは、鼻を鳴らした。

「もう少し休むわ。決戦の日は、もうすぐそこですもの」

「お休みください。我が聖女。我が君よ」

ジャンヌ・ダルクは、瞼を落とした。酷くのっぺりした、希薄な暗黒へと、堕天するように、微睡んでいく―――。

なんだか、酷く、熱いな、と思った。

 

 

 

 

―――男は、玉座に鎮座する少女を、静かに見下ろしていた。

脱色したかのような髪に、蝋人形じみた白い肌。力強い、それでいてどこか脆く果敢なげな印象のそれは、造花を想起させた。

だが、彼女は、今この瞬間、生きていた。すうすうと寝息を立て、呼吸の度に、胸が上下する。時折胎児のように体動しては、「おなかすいた」なんて寝言も言って見せる。

瞬くような現-存在。ジャンヌ・ダルクは、確かにこの世界に、息づいていた。暗黒の炎の担い手として、竜の魔女として。彼女は確かに、生きている。

男は、困ったように、微笑を浮かべた。そうして身を翻し、どこともしれない闇へと溶けていく。

銀の騎士甲冑を鳴らしながら、痩せぎすの男は、退廃的な玉座の間を後にした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

匂ひ紫は散りぬれど

「そろそろ時間ですね」

懐から取り出した懐中時計を見、サンソンが言う。首肯を返したジークフリートは、眼下に広がる荒野を睥睨した。

元からそうだったわけではないのだろう。かつてはそこには、美しい緑の平原が広がっていたはずだった。

だが、既にそれは無い。生命の息吹は既に焼き払われ、剥き出しの大地が広がる死の荒野が、無造作に広がっていた。

その荒野の中心。焼け爛れた平原のただなかに、その居城は、あった。

「いやあいつ見ても悪趣味だねぇ。全然可愛げが無いよ。ねぇ、ジークフリート」

ひょこひょこと頭頂部の耳?を動かしながら、アストルフォはうんざりしたように言った。

可愛げの有無はともかく、確かに、その様相は底知れぬ不快感を惹起させるものだった。死の大地に聳えたつ、歪な聖堂。到底聖なるものがおわします場所とは思えず、邪悪な何かが蜷局を巻く魔城と言う他無い。

「うまくいくのでしょうか。確かに敵の隙を突く作戦と言えますが、私達はあまりに寡兵。二面作戦など」

「できるさ。俺たちは確かに数こそ少ないが」

ジークフリートは言うと、背から、大剣を引き抜いた。

曇天の中、それでも鈍く閃く銀の刃。竜殺しの魔剣バルムンクを、ジークフリートは高く掲げて見せた。

「俺たちは皆、一人ひとりが人理に名を刻む勇士たちだ。飛竜の群れなど、恐るるに足らないさ」

「それに、なんたってこっちにはホンモノのジャンヌ・ダルクがついてるしね。ね!」

間の抜けたように言うと、アストルフォはジャンヌの背をしたたかに打ち付けた。

「何すんのさ!?」

「わぁごめん。っていうか、ダメだよ喋っちゃ」

「あぁそうだそうだ。いやでも今のはボクが悪いよね。ね、ブラちゃん!」

「何この……何?」

頬を膨らませながら、ジャンヌは押し黙った。互いにむっと顔を見合わせること5秒、アストルフォとジャンヌは、もう何も考えていない様子で周囲をきょろきょろしていた。

「妙だな」

「案外、彼女も幼少期のころはこのようだったかもしれませんよ。“嘆き”を聞く前は畑を走り回って”土いじり”をしていた、と仰っていましたし」

「未来の技術、か。姿かたちを変える魔法の指輪は古来よりあったとは聞くが」

(ふふん、天才の技術と賞賛してくれてもいいんだぜ? 光学欺瞞だけじゃなく、ルーラーの索敵能力を逆手に取った認識欺瞞。このくらいのことなら、私に任せたまえよ)

サンソンの言葉に、ジークフリートは不思議な感じを抱いていた。てっきり、ジャンヌ・ダルクは幼少期から神童の類であったと思っていたのだが。

いや、案外、無邪気な少女だったからこそ、感受性豊かな少女だったからこそ、啓示を聞くことが出来たのだろうか。

(よし、時間だよ。向こうは無事に目的座標に到着したようだ。こちらは用意はいいかな)

空中に映像が投影される。気弱そうな印象を感じさせる男―――立場的にはリツカとトウマの上司にあたるという、ロマニ・アーキマンが映った。

「こちらは問題ない。皆も問題ないな?」

ジークフリートの呼びかけに、皆一様に頷きでもって答えを返した。

「一応俺たちの役目は敵戦力の誘引だが、場合によっては正面突破から本丸を叩く。いいな」

ジークフリートは、剣を引き抜いた。それが合図。アストルフォとサンソンも剣を鞘から引き抜くと、遥か前方の聳える聖堂を見据えた。

「それではこのブラダマンテ、皆さまの露払いと致します―――来なさい!」

ブラダマンテが高らかに宝具の銘を天へと謳い上げる。掲げた馬上槍(ランス)を振り下ろすと、その突端に裂かれた虚空より、のそり、とそれは現れた。

「これは」

思わず、と言ったように、サンソンは感嘆の声を漏らした。近現代に生き、また神秘とかかわりの無い人生を送った男ならば、確かに、こういった類の生物は、無縁だっただろう。

かくいうジークフリートとて、そう身近なものであったわけではない。神代は既に終わりを迎え、ただその残滓だけが燻っていた時代。ジークフリートも、それこそ生涯で一度相まみえたのみだ。

幻想種。神の代では当たり前のように世界を跋扈し、人の時代とともに世界の裏側へと退いた古き生態系。目の前の魔獣は、まさにその幻想種を体現する生物だった。

「ヒポグリフだぁ!」

「わぁ!」

「オェー!?」

何故か抱き着くアストルフォとジャンヌ。鷲の上半身に馬の下半身を持つヒポグリフは、何故か嘔吐するみたいな鳴き声を上げた。

「何回見てもいいよね、ヒポグリフ」

「うん、良い」

「ほら二人とも、熟練のオタクみたいにわかりみを深めてないで。今回は私の宝具なんですから」

「ちぇ、はぁい」

頬を膨らませる二人を後目に、ブラダマンテはヒポグリフの背へと跨る。人一人を背に乗せてもあまりある巨体が背に主の存在を認めると、後脚で立ち上がり、鋭い嘶きを迸らせた。

「それでは参ります―――『この世ならざる幻馬(ヒポグリフ)』!」

 

 

 

 

 

 

「城壁防衛にあたっていた飛竜、敵性勢力との接敵。ライダーの宝具のようです、飛竜では歯が立ちません」

「来ましたね。敵サーヴァント総数―――5騎。セイバーが2騎にライダー1、アサシンが1。そうして―――ルーラーが、1騎、ですか。あのよくわからないサーヴァントは昨日消滅しましたね」

恭しく首を垂れるデオンに、ジャンヌ・ダルクは、自己の脳内に移るイメージを口にする。

ルーラーとしてのクラススキルによる広範囲索敵。完全で無いながらも、彼女のそれは、オルレアンに侵攻するサーヴァントを捕捉していた。

「盾のサーヴァントと赤いアーチャーは?」

「わかりません、乱戦のため何分」

だが―――その索敵能力は、あくまでその聖杯に呼ばれたサーヴァントに限定される。ルーラーとは即ち、聖杯に呼ばれし裁定者。その聖杯に召喚されたサーヴァントに対してこそ絶対的な執行権を有するが、別な聖杯、あるいはシステムで召喚されたサーヴァントに対して、彼女はあらゆる権利を有していなかった。

あのサーヴァント2騎こそ、ジャンヌ・ダルクにとっての頭痛の種だった。動向のつかめないサーヴァントがこのフランスをウロチョロしている、という事実が、不愉快極まりない。そして、恐らく―――敵は、この弱点を突いてくる。あの敵勢力がこの事実に気づいているとは思えない。だが、あの女―――赤銅色の髪のあの(マスター)の、あの目は、何か侮れない。いや、侮ってはいけない何かがある。

ふと、ジャンヌ・ダルクは、自らの手が汗ばんでいることに気が付いた。不快そうに鼻を鳴らしたジャンヌは、余分な思考をさっさと捨てた。

考えるべきことは、そんなことじゃない。敵がどう動くか。それを、予測することだ。

当然、考えられる手は戦力集中による正面突破。戦力分散の愚は侵さない―――。

だが、それは無難な手だ。こちらも全戦力を投入してしまえば、戦局の趨勢は不透明になる。必勝を狙うには、その無難な手はあまりに無難。

ならば―――。

「何―――?」

ジャンヌ・ダルクは、その存在を、不意に知覚した。

 

 

 

 

 

 

大聖堂近辺、

 

「これで問題ない、でしょうか」

ジャンヌ・ダルクは手首のスイッチを押すと、伺うように、リツカとトウマを見比べた。

(うん、問題ない。君の存在はこっちのセンサーでも捕捉している。間違いなく、向こうのルーラーも君の存在を捉えたと思うよ)

網膜投影される戦域マップには、確かにジャンヌを示す青いブリップが表示されている。カルデアで収集した情報を統合表示する戦域マップには、その他、直近にマシュとクロの2人。そしてオルレアン周囲一帯を覆う平原に、5騎のサーヴァントを示すブリップが浮かんでいた。

(無線封鎖解除完了。戦闘服、高静粛性状態(ステルスモード)の解除を確認。)

「了解、これより作戦行動に入る。みんな、ここからは時間との勝負だ。行くよ!」

 

 

 

 

(アルファ分隊、作戦行動に入った)

「あぁ、こちらでも確認した」

ジークフリートは空中投影された映像を一瞥しながら、接近するワームの首へと剣戟を撃ち込んだ。

堅い鱗に覆われたはずのそれは、通常ならば砲弾すら防ぎ得る強度だったろう。だが、素早く撃ち込まれた剣はバターをスライスするように、容易く竜の首を刎ね飛ばした。

血飛沫をぶちまける竜を傍目に、再度、剣を薙ぎ払う。飛来したワイバーンを横一文字に叩き切り、その余波だけでワームが挽肉と化していく。迫りくる攻撃は躱す必要すらない。火焔も爪も牙も、『悪竜の鎧(アーマー・オブ・ファブニール)』を貫くどころか、傷一つ与えることすらできない。

既に、屠殺した亜竜の数は200を超えた。汗一つかかず、疲労すら感じず。あまつさえ、かの魔剣バルムンクすら、彼は抜いていなかった。

「ジークフリート、後―――」

サンソンの声が鼓膜に突き刺さる。腰から短剣を引き抜くや、振り向きざまに投擲。さながら戦車砲もかくや、放たれた短剣は黒い飛竜の脳天に突き刺さった。

だが死なない。頭蓋から血と脳漿をまき散らしながら、奇声のように咆哮を上げた飛竜が襲い掛かる。

だが、ジークフリートは剣を振らなかった。振る必要すらなかった。何故ならその奇声は、断末魔の悲鳴に過ぎなかったからだ。

ずるり、と竜の首が落ちる。奇妙な踊りを舞うようにふらつくと、飛竜はそのまま地面へと倒れ込んだ。

「流石だな、ムッシュ・ド・パリ。俺より剣の扱いが上手い」

「謙遜が過ぎますよ。ムッシュ。私はただ、首を落とすことが得意なだけですから」

涼しい顔で溜息一つ、サンソンは再度、剣を握りなおした。

「しかし、流石に数が多いですね」

サンソンは、呆れる様に剣を肩に担いだ。

全くだな、と内心で応じたジークフリートは、空を、地を埋め尽くす亜竜体の群体を眺めた。

ジークフリートにとり、いかほど雑竜が居ようが物の数ではない。それらの牙や爪では悪竜の鎧は貫けず、竜殺しの剣は紙切れのように竜の鱗を断ち切るだろう。

だが、戦えば戦うほどに魔力は消費する。僅かとは言え、それが何十何百にも重なれば、無視できないほどになる。

ならば、抜くべきか。背負った魔剣の真名を解き放てば、周囲一帯の竜種全てを薙ぎ払うことすら可能なはずだ。無駄な戦闘に魔力を費やすならば、いっそ―――。

「ジークフリート殿、来ます!」

サンソンが剣を構える。津波のように押し寄せる、無限にも思えるほどの敵。舌を打ったジークフリートは剣を地面に突き立て、その背に負った剣の柄へと手を伸ばした。

「なら、ボクに任せてよ!」

ぴょん、と跳ねるような声とともに、アストルフォが2人の前へと飛び出した。

その手にあるのは黒い角笛。高らかに掲げると、刹那の閃きとともに黒角笛がアストルフォの体躯を覆った。

「耳塞いでてよ!」アストルフォが身体を仰け反らせる。サーヴァントの肺一杯に空気を押し込むなり、マウスピースへと口を押し付けた。「―――『恐怖呼び起せし魔笛(ラ・ブラック・ルナ)』!」

アストルフォを起点に、衝撃が破裂した。衝撃、確かにそれはそうとしか言いようのないものだった。

竜の咆哮、霊鳥の叫喚、妖魔の絶叫。あらゆる怪異の絶叫を重ねたかの如き爆音が膨れ上がる。無色の衝撃は再現なく膨れ上がり、空を舞う飛竜を文字通り粉々にした。

かつて、妖鳥に恐怖を喚起し追い払った魔の笛。その音色は味方には単なる爆音に過ぎないが、敵対する者を悉く塵灰に帰す範囲攻撃宝具。サーヴァント相手でも行動不能に追い込みうるそれは、アストルフォが有する宝具の内の一つだった。

「どんなもんだい!」鼻高々にジャンヌは胸を張った。「ダメだよジークフリート、それは切り札なんだら、ここで使っちゃ」

ビシっ、とジャンヌはジークフリートの鼻先に指を突き付けた。魔剣の柄に手を伸ばしたまま固まっていたジークフリートは、手を下した。「すまない、助かった」

「なんで君が威張るんだよう! 頑張ったのはボクだぞ! 褒めるならボクだよう!」

「あ……すまない」

「だって別に変わんないじゃん、ボクはボクだし」

「あ、そっかぁ……うーんでもやっぱりモヤモヤするぅ!」

「……早く行くぞ、アストルフォ、ジャンヌ」

 

 

 

 

 

 

「平原に展開するサーヴァントはあくまで陽動。城内の敵こそ本命……ということでしょう、ジャンヌ」

「そうね、デオン。そういうことだと思いますよ」

デオンの言葉に、ジャンヌ・ダルクは生返事を返した。

ジャンヌ・ダルクの索敵網に、忽然と姿を現したサーヴァント。霊基のクラスは、2騎目のルーラー。それが意味するところは、即ち。

「平原に小次郎とエリザベートを向かわせなさい。ファブニールだけで十分でしょうが、念には念を入れます。城内の敵はランスロットと酒呑童子を向かわせなさい」

「私は如何様に。城内の敵の駆り出しに向かいますか」

そうね、とジャンヌ・ダルクは言うと、その琥珀色の目を、冷たくデオンへと向けた。相変わらず動じる気配も無く見返してくる騎士の目に眉を顰めると、ジャンヌ・ダルクは不愉快そうに舌を打った。

「貴方でしょう、デオン? あの連中に、()()()()()()()()

ジャンヌ・ダルクが玉座から立ち上がる。未だ膝をつくデオンの目前まで足を運ぶと、彼女の頭頂部をしげしげと注視した。

「教えてあげましょうか。背後から現れた連中、唯一作っておいた退路からこちらに進んできているのですよ。聖堂直下にわざわざ作った地下道を通って。もちろんこの聖堂の構造は魔城に作り替えた際に細部を作り替えてありますから、あのジャンヌ・ダルクには知る由もありません。そんな退避路のことなんて」

デオンは未だに動こうとしない。片膝をつき、黙然と平服する姿は、忠臣そのものとすら言える佇まいだった。

「見上げた忠誠心ですね。それだけあの世間知らずの馬鹿な娘にお熱だった、と言うことですか」

「彼女の頭の中は確かにお花畑だよ、ジャンヌ・ダルク」デオンはこの時、初めて、ゆらゆらと顔を上げた。「でも君よりははるかに偉大さ。頭の中が空っぽの、お人形のジャンヌ・ダルク?」

瞬間、デオンの体躯が跳ねた。右手が腰のレイピアへと伸びるなり、目にもとまらぬ速度で抜き放つ。抜刀の気勢はそのままに、刹那の合間にジャンヌ・ダルクの懐に飛び込んだ蒼白の閃光は、しかし。

「クソっ!?」

横薙ぎに迸った突風にかき消されていた。

レイピアの刺突を弾き返した剣閃。ぞっとするのも束の間、左方向へと飛び退いたデオンは、着地の余裕すら無く床へと転がった。

「流石はセイバークラスというところか。見世物仕込みのなまくらと侮っていたが、いやはや」

その声は、酷く、軽薄そうな声だった。

まるでそよ風。揺られる柳を思わせる佇まいの男が、ジャンヌ・ダルクの前に立っていた。

「燕を斬ろうと、ひがな剣を振っていただけの私が言えたことではないか。道楽の剣の方が遥かになまくらよな」

無銘の剣士はそういうと、身の丈を超える太刀を振った。刀身についた血糊が飛び散り、床にべとりと張り付いた。

「全く―――君はアサシンかい、小次郎。全然気配に気づかなかったよ」

デオンは呆れたように言うと、緩慢な動作で立ち上がった。乾いた微笑を浮かべると、デオンは、レイピアを床へと投げ捨てた。

「明鏡止水の心だったかな。周囲と一体化する極限の精神性。東洋的な物の見方だね、それを気配遮断のように使ったのかな。おかげで、もう左腕は使い物にならないよ」

ほら、とデオンは愉快そうに左手を持ち上げようとした。

拍子に、ふらふらと左手が揺れた。まるで振り込みたいに揺れる肉塊が、デオンの左肘からぶら下がっていた。

否、そうではない。それは、彼の、左前腕だった。皮一枚残して断ち切られた前腕が、宙で揺られていた。

「もう僕には勝ち目が無いね。まぁただでさえ君には勝ち目が無いんだけどね、小次郎。剣の腕は遥かに君の方が上だ。君の言う通り、ボクの剣の腕は所詮見世物の道楽、その延長でしかない。そして君のスキル、無冠の武芸だっけ? 通常のそれと違って、相手を侮らせるスキルのせいでボクは全力が出せないときた。それに、君には僕の宝具も効かない。最初から君が敵だとボクが勝てる可能性は0なんだよね。いやぁ困ったな、せっかくこの手でジャンヌ・ダルクを仕留めようとしたのに、むざむざ無駄死にだ。王妃のこともボクが死なせたようなものだし、ボクは最低な人間だね。あれ、知らなかったかい? ボクはリヨンでどうなるか、全部予想してたんだよ。ジークフリートを餌に、敵を集中させてまとめて殲滅する。君の思考はよくわかったけど、でもこれはジークフリートを活かすチャンスだとも思ってね。確かにバルムンクは既に無いけど、でもファブニールを倒すなら彼の存在はマストだ。だから素直に君たちの命令を伝達したんだよね。確かに彼らが殲滅される可能性はあったけど、王妃の宝具を知っていたからさ、王妃一人の犠牲で多分切り抜けるとも踏んでたんだよね。彼女の性格からもそうなる可能性は高いと踏んでた。そしたら予想通りさ! あ、意外そうな顔をしているね? 確かにボクは王妃に心から敬愛をしているよ、それは間違いない。でも王妃の願いはフランスを、そして未来を守ることだ。彼女への忠誠を果たすならば、彼女の泡沫の生ではなく彼女の祈りを叶えてこそだろう。それでこそ騎士―――」

そこで、話は終わった。

首を落とされたデオンの体躯が、朽木のように崩れ落ちていく。地面に死体が転がるのも一瞬、次の瞬間には燐光に包まれた身体は、跡形も無く消滅していた。

「数秒、時間を無駄にしたようだな」

「ホント、見上げた騎士様ですこと。それとも外交官としての戦いということでしょうかね」

ジャンヌ・ダルクは、既に消滅した首を睥睨した。壊れた微笑だけを残して消滅した騎士を想起して思い起こした情動は、恐らく、吐き気がするほどの敬意だった。

「それで、如何する。先ほどの指令通りで構わぬか?」

「えぇ構いません。貴方はファブニールの直掩に付きなさい。エリザベートは適当に暴れさせておきなさいな」

「世間知らずの生娘のお守とはまた恐れの多いことよなぁ。いや、そういえば其方も同じであったか?」

「黙りなさい。セクハラで殺しますよ」

「それは恐ろしい。さて、では無駄話もここまでにして、疾く参るとするか」

軽薄そうな笑いを一つ、抜き身の刀を担いだ佐々木小次郎は、特に急ぐ素振りも見せずに玉座の間を後にした。

ジャンヌ・ダルクは、逡巡した。1秒未満の思考の後、彼女は、竜が描かれた旗を手に取った。

 

 

 

 

 

 

その悪寒は、ジークフリートは324体目の飛竜を両断した時に惹起した。

直感の類ではない。これはもっと、宿命的な予感。かの竜の血を受け継いでしまった彼だからこその、底知れない戦振。ジークフリートは、そうして、次に何が起きるのかを察知した。

空を振り仰ぐ。上空では幻獣が飛竜を食い千切り、その乗り手が振るう槍が飛竜の頭蓋を破砕していた。

「ライダー!」あらん限りに、ジークフリートは声を上げた。「攻撃が来るぞ!」

その、直後だった。

ぞわりと、全身が粟立った。心奥すら痙攣させるほどの悪寒が奔った刹那、紅蓮の火焔が蒼穹を焼尽させた。

数千度にも達する炎の掃討。人間など秒ほどもかからずに蒸発させる、硫黄の火。神罰の具現たる火砕流は当該空域に居た飛竜を、ただの一撃で焼き尽くした。

火が、急速にしぼんでいく。周囲一帯の酸素を喰らい尽くし、燃焼の余地を無くした炎が息をひそめていく。

晴れ渡る、青い空。のっぺりと広がる空に、ライダーの姿は無かった。

「じ、ジークフリート! ブラダマンテが燃えちゃったよ!?」

「いや――」

ジークフリートは素早く視線を周囲に投げた。

焼け焦げた荒野、代り映えの無い視界の隅で、何かがぐにゃりと歪む。空間ごと歪んだかのように見えた瞬間、まるではじき出されるように、白亜の影が飛び出した。

「あ――――ぶなぁ!?」

土煙を巻き上げながら、ブラダマンテはなんとか地面に着地した。が、ふらりと揺れると、彼女は地面に膝をついた。

「無事か」

「なんとか。あと一秒遅かったら、ダメでした」

足を震わせながら、ブラダマンテは立ち上がった。如何な歴戦の騎士(パラディン)と言えども、幻想種の敵意を諸に浴びたことなどないはずだ。まして、その頂点に君臨する竜種の吐息(ブレス)を間近にし、なお立ち上がるその気迫。むしろ、賞賛に値するものだった。

「ヒポグリフは」

「無事です、ヒポも虚数域に退避させました。真名解放は無理ですが、呼ぶことは可能です」

「好都合だ。使える手は多いに越したことはない―――アレと戦う時には、な」

ジークフリートは不敵に顔を引きつらせると、それを、振り仰いだ。

蒼空に漂う巨体。まるで山が翼を持って飛翔しているかの如き錯覚を感じさせる威容。人間など比較することすら烏滸がましい、英霊とて霞んで見えるほどの存在規模。亜竜などという紛い物ですらない真性の竜種が、そこに居た。

悪竜が、地面に降り立つ。ただそれだけで大地が唸りを上げ、天が悲鳴を上げる。ジークフリートは、ただ、相対しているだけだというのに、気絶してしまいそうだった。

今から、これと戦う。竜種の頂き、悪竜現象(ファブニール)と戦う。そんな馬鹿げたことに、自分は、挑もうとしている。

しかも、敵は悪竜一匹ではない。周囲には無数の飛竜地竜が犇めき合い、そうして、その傍らには―――。

「上です、ジークフリート様!」

咄嗟に、ジークフリートは剣を構えた。天へと振り抜いた剣の一閃は、ジークフリートの脳天を穿たんと飛来した刺突を叩き落した。

さらに一撃、左手で引き抜いた短剣を天へと投擲する。矢もかくやといった様相で放たれた剣は、しかし上空の赤影を掠めるにとどまった。

「流石、名高き”竜殺し(ドラゴンスレイヤー)”。稚拙な奇襲など歯牙にもかけぬ、と言ったところよな」

どこか風雅な男の声が、耳朶を打った。

悪竜の傍に、人影が揺らめく。不知火のように希薄な存在感ながら、悪竜の傍らに平然と佇む長刀の剣使い。古きは極東の風采に身を包んだ、セイバー。

そして、もう一騎。暴風をまき散らしながら舞い降りた槍使い。血のように赤い髪のランサーが、獰猛な大蛇の如き目を向けていた。

悪竜に加え、強力なサーヴァントが2騎。歯噛みしながらも、ジークフリートはこの状況を善い傾向であると認識した。

「アストルフォ、ジャンヌ、あのセイバーの相手を頼む。サンソン、君はランサーを頼めるか。二人とも、無理に倒す必要は無い。俺が奴を仕留めるまでの間、耐えてくれればそれでいい」

「よーし、任せてよ! 正直あのセイバーには10秒でやられる自信があるけど」

「こちらもお任せを」

「ブラダマンテ、君は周囲の飛竜を始末してくれ。俺は奴の相手だけで、正直手一杯になる」

ジークフリートは、まだ、魔剣を抜かなかった。クロが投影した刀剣を正眼に、剣の切っ先に、邪竜の姿を捉えた。

「行くぞ―――全騎、死力を尽くして戦え! 生ある限り最善を尽くせ! 決して無駄死にするな! 邪竜どもに人類(にんげん)の意地を見せよ、戦士(つわもの)どもよ」




シュバリエ・デオン、退場です。かの騎士が登場した話のサブタイトルにあった、赤の鬱金香の花言葉は『私を信じて』でした。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

狂転ウサギは剣と踊る

サブタイトルは"くるくるうさぎ"と読みます。宛字です。


「正面から敵、数は5! ワームが3匹、あと変なタコ2匹!」

クロは素早く激を飛ばしながら、目前に躍り出た敵5匹を視界に捉えた。

リヨンで遭遇した地竜(ワーム)が3匹。それに加えて、奇妙な軟体動物じみた魔獣が2匹。通路の先で、突出するワーム3匹に、後方に控える形で魔獣2匹が蠢いている。

即座に判断する。無駄な魔力消費は押さえたい。さりとて時間はかけられない。逡巡ほどすらない思考の最中、クロは手馴染みの双剣を投影した。

右手に現れる黒い亀甲模様の剣。無骨な片刃の剣の骨子が現れるや、未だ顕現しえない剣を素早く投擲した。

音速を遥かに超えた速度で射出された剣は、地竜の胴体に突き刺さった。深々と突き刺さり、床に縫い付けられた地竜が悲鳴を上げる。未だ絶命こそしていなかったが、クロはその敵を無視し、左から襲い掛かる地竜の胴へと白刃の剣を撃ち込んだ。

僅かに手に残る切断の感触。飛竜に比べ堅牢な鱗を持つ地竜は、恐らく対物ライフルクラスでなければ撃ち抜けまい。いかな宝具とて、容易く切断で出来るものではない。舌打ちしたクロは思いっきり床を蹴り上げると、そのまま魔獣を飛び越え、床へと音も無く着地した。

魔獣がぐにゃりと身体を捻じ曲げる。それよりワンテンポ早く身体を捩った地竜が地面に縫い付けられた地竜の体躯へと圧し掛かる。

「残念、バイバーイ」

瞬間、地竜の身体が千切れ飛んだ。足元から膨れ上がった爆発が竜の身体を肉塊にし、爆破の余波が軟体動物めいた魔獣を丸焦げにした。

「流石ですね、クロエ。一瞬で5体とは」

「ま、普通よね、このくらい」

えっへん、とちょっとクロは鼻を高くした。消費した魔力は、壊れた幻想で自壊させた干将1振り。最小限の魔力消費で迅速に始末できた、はずだ。

「それにしても、これは一体何なのでしょう。この……タコ?」

マシュはどこか険しい顔をしながら、地面にぶちまけられた奇妙な生き物を見下ろしていた。

奇妙な生き物だった。無数の触手があり、口は一つ。目らしきものは見当たらない。名状しがたい神涜的な生物は、陳腐な形容だが、魔界から這いずり出てきた生物といった風采ですらあった。控えめに言って、竜種かその派生体とは言い難い。

「みんな、怪我は無いかしら。大丈夫?」

《トーマは、これ知ってる?》

クロはそれとなく声を駆けながら、藤丸の方を横目で一瞥する。クロの視線に、藤丸は頷いた。

《あるサーヴァントの宝具によって生まれるもの、なんだけど。デオンの情報には、居なかった》

《じゃあ、やっぱりアイツ―――いや、でも》

ふと、頭が思考にいきかけた時だった。

「くっ―――投影(トレース)!」

右手に、双剣の片割れを投影する。剣が姿を現すよりさらに早く幻の柄を握りこんだクロは、裂帛の気勢とともに繰り出された剣の刃先へと双剣を叩きつけた。

能う限り、クロはその剣戟を最速で繰り出した。威力を度外視し、ただ振るうだけに特化させた。そうでもしないと、その剣には速度で敵わないと、彼女の心眼が告げていた。

だというのに、その一太刀は、クロが剣を放つよりもさらに早く迸った。振り抜く直前、剣の柄の境目あたりに直撃するや、絶叫染みた金属音とともにクロの手から双剣が弾け飛んだ。

視界に、黒い霧が過る。その夜霧の彼方、赤い眼光がぎらりと仄光り、立て続けの薙ぎ払いがクロの脇腹に迫った。

「こ―――んのぉ!」

剣の刃先が脇腹を抉るより数舜速く、彼女の左足が唸りを上げた。黒い霧を抉るように放たれた踵が手首に炸裂し、弾き飛ばされた剣が壁面へと突き刺さった。

咄嗟、クロは真上に舞い上がった双剣へと手を伸ばす。相手は無手、さっきの一撃で尋常じゃない敵なのは既にわかっているが、得物さえなければどうとでもなる。両の手を剣の柄と伸ばしたクロは、しかし、その光景に、瞠目した。

自ら伸ばした手の向こう。黒霧の中から突き出された甲冑の手が、するりと伸びる。意思を持った触手めいた手が莫耶の柄を、がちりと、握りこんだ。

―――あ、と思った。

その感覚を、クロは、知っていた。英霊エミヤとしての経験ではなく、クロエ・フォン・アインツベルンとしての記録の中に、その瞬間の情動の記録が、あった。

『干将莫耶』。自らの手で投影した愛剣が、一対の分かちがたい夫婦剣が、その手に握られた瞬間に―――。

ぎらり、と白亜の剣が閃く。黒い甲冑に覆われた手が莫耶を目にもとまらぬ速さで振り下ろした。

ほぼ同時。クロの左手が干将の柄を掴み取る。肉薄する白刃を殴りつけるように黒刃を叩きつける。

拮抗は一瞬。剣ごとクロの矮躯はあまりに容易く吹き飛ばされた。

地面に、赤い影が転がる。身体損傷は無い、同調(トレース)するまでもなく、自分の身体スペックは問題ない。

「大丈夫ですか、クロエ!?」

「大したことない、大丈夫」

ジャンヌの手を取りながら、立ち上がる。少し強がってみせながらも、クロは、その眼前の敵を睨むように捕捉した。

霧に包まれた黒い騎士甲冑のサーヴァント。リヨンの街に現れた、バーサーカーのサーヴァント。その手には、クロが投影したはずの莫耶が握られていた。

間違いない。あれは、()()夢幻召喚(インストール)していたサーヴァントの本体。単なる無刀取りではなく、その手に触れたあらゆる武具を己の宝具とする『騎士は徒手にして死せず(ナイト・オブ・オーナー)』の担い手。

その真名、は―――。

「あら、残念。クソネズミを始末したと思ったのですけれど、上手くいかないものですね」

ひやりとした声が、耳朶を打った。

よく聞き知った声。傍らに立つ彼女と同じ声だというのに、酷く侮蔑的で冒涜的なその声の正体は。

「皆さまこんにちは。我が聖なる御堂へ、土足でずかずかと。随分礼儀正しいようですね」

「ジャンヌ・ダルク」

マシュが、呟くように声を漏らした。その声に死蝋色の肌の女は、にこりと表情を歪めた。

「はい、その通りですよ、サーヴァントもどき。そこな残りカスとは違う、真性のジャンヌ・ダルクです」

黒衣がはためく。焼け落ちたかのような襤褸の外套がふわりとはためくや、ジャンヌ・ダルクは、剣を引き抜いた。

「―――『我が神は此処に在りて(リュミノジテ・エテルネッル)』!」

 

 

 

 

 

 

佐々木小次郎は、ふと、脱力した。

そうして、聖堂の方を振り仰ぐ。不愉快さでかえって荘厳さすら感じさせる竜の居城が、僅かに揺れた。

間違いない。今の宝具は、あの悪趣味な聖女のものだ。自らが出向いているということは、あちらの聖女が本物、ということだろうか。

「まぁ……其方には、全く聖女の佇まいは感じられんからなぁ」

「な、なにおう! あんな駄肉より、ボクの方が全ッ然かわいいじゃないか!」

小次郎は、げんなりと肩を落とした。呆れる小次郎の視界には、土まみれになったジャンヌ―――のような何かの姿があった。

というか、そういうところだと思う。

「如何なるカラクリかはわからぬが。其方、もう少し隠す気は無かったのか」

「べっつにぃ。要するに、ちょっとでも不審に思われないようにするためのものだし。あっちがステルス解除しちゃったら、もうボクは用済―――」

続く言葉は、無かった。へらへらと身体をくねらせるジャンヌの胴体が、ずるりと落ちていく。

手応えは無い。まるで霞を切り裂いたかのような、空虚な感触。すん、と鼻息一つ、瞬く間に消滅したジャンヌ・ダルクから視線を外した。

「其方の力か、セイバー」

「ま、そんなところ。ボクのたぁーくさんある宝具の内の、一つ。姿を変えたのは、別だけどね」

莞爾(にかり)、と剣士は笑って見せる。長い二つのおさげを尻尾みたいに揺らして、兎の耳をぴょこぴょこ動かしては、小動物みたいにそわそわしていた。

「なるほど、最優のセイバーとて奇を衒うものが居てもおかしくはないな」

「あー、今ボクのこと馬鹿にしたでしょ。へへーんだ、後悔してもしらないからね。ボクってば、本当は強―――あ」

―――既に、佐々木小次郎は、敵セイバーの懐へと飛び込んでいた。

最速の敏捷、その数値はA。セイバークラスたる佐々木小次郎が有する【無冠の武芸】により、低く表示されるその実数値は実にA+。かのクランの猛犬すら上回るその神速は、シャルルマーニュ12勇士の中で最弱とすら言われるアストルフォには到底対処できるものでは無かった。

「あー嘘嘘! ボクなんかが勝てるわけないよ、だってボク本当はクソ雑魚ナメクうぼぁー!」

ぽーん、と毬のように、セイバーの頭が刎ね飛ばされていく。べちゃり、と地面に転がると、酷く間抜けな顔のまま、顔と身体が消滅し―――。

「うりゃー隙あり!」

ぎょっとした小次郎が背後へと剣を振る。虚空を斬るはずの刀身は、しかしどこからともなく現れた細身の剣を撃ち落とした。

「んげ! なんで今のが防げるのさぁばあ!?」

再度、小次郎の剣が閃く。いつの間にか背後に現れたセイバーの胴を叩き切ると、小次郎は、真顔でその光景を眺めた。

「ひぇーアイツ化け物だよう! 後ろに目がついてるよう!」

「大丈夫、いくら化け物でもたくさんで戦えばなんとかなるよ!」

「えぇ~ホントにござるかぁ? もう3人もやられちゃったよ?」

「まだまだ! ボク達の戦いはこれからだよ、とりあえず弾幕の薄い左舷から攻めてみよう!」

「それ打ち切りっぽくない?」

わちゃわちゃするうさ耳集団。その数えーと、ひーふーみーよーいつ……。

「もーやっぱりボクは可愛いなぁ。ねぇボクもそう思うよね?」

「ライダーの時のボクも可愛いんだよなぁ、いつか一緒に召喚されないかなぁ」

「あ、ボクはあるよ! あれはえぇと……あれ、いつだっけ?」

「ねーおなかすいたよう、クリスマスケーキとか食べたいー」

「イベントはまだ随分先だよう、第一ボクらの実装って大分先じゃない? あれ?」

―――とりあえず、小次郎は、考えるのをやめた。

「ふっふーん、恐れ戦いているな? どうだい、これがボクの第二宝具、その名も『分別無き偶像暴走(クレイジートリップ・ドライブアイドル)』! 如何にすんごい剣豪だって、ボクの前では無力なのだ!」

「よぉーし! みんなかかれー!」

「わー!」

「わー!」

「わー……わぁ!?」

劇剣、俊燕の如し。小次郎に押し寄せた7人のセイバーは、まるで癇癪を起した子供が投げ捨てる玩具みたいに宙を舞って、忽ちに霧散した。

「拙者、生前は赤貧百姓故、狩りなど興じたことは無いのだが」

さらに一閃。襲い掛かってきたセイバーを斬って捨て、たじろぐセイバーをぶった切り、逃げ惑うセイバーの背を串刺しした。

「偶には燕ではなく兎狩り、というのもまた酔狂よな?」

「ねぇ、なんかあの人怒ってない? 怒ってるよあの人! 無表情でバチギレしてるよう!」

「『燕返し』!」

「んぎゃー!?」

「『燕返し』!!」

「にゃー!?!?」

「『燕返し』ィ!!!」

「あばー!?!?!?」

ひたすらにわーきゃーするピンクいサーヴァントをぶった斬りながら、小次郎は、思うのだった。

「『燕返し』!『燕返し』!『燕返し』!」

「おぎゃぁーん!」

なんでさ。

 

 

 

 

 

 

ばったばったと切り刻まれていくアストルフォの幻影たち。横目で一瞥したサンソンは、しかし、心配を抱くだけの思考的余裕すらも無かった。

脳裏を掠めた憂慮を粉々にするほどの怒号が頭頂部を殴りつける。鼓膜をぶちぬくほどのそれは、悲鳴にも似た絶叫だった。

サンソンは殆ど反射のままに剣を振るう。そうでなければ到底追いつかないほどの速度でもって放たれた刺突が、サンソンの剣に炸裂した。

途方も無い衝撃が腕を叩いた。サーヴァントのその身が軋むほどの破壊、防御越しに気を失うほどの唸りがサンソンを襲った。事実、その一撃が齎す破壊は、直撃すらしていないにかかわらず、サンソンの霊基を襤褸にしていた。

しかも、それが一撃ではない。穿つ刺突薙ぎ払いの殴打、一撃一撃が暴威としか言いようのない火力で以て振るわれていた。

自我が消し飛ぶほどの暴風の中、サンソンは脱力しかけた両の手の五指に力を込め、掬い上げるように繰り出された槍の切っ先へと雷のように剣を叩き落した。

交錯する刃、激突する鋭利な穂先。鈍く響くような金属音に腕を軋ませながら、サンソンはその槍の一撃を抑え込んだ。

強い、と思った。この目の前の敵、血糊の如く真紅の髪に、悪鬼めいた捻じれた角を掲げたサーヴァント、エリザベート・バートリィ。栄養の足らない少女めいた姿恰好ながら、一撃一撃は怪力無双のバーサーカーもかくやである。

何か、技巧めいたものは感じられない。エリザベートはただ我武者羅に、一生懸命、力いっぱいに槍を振るっていた。幼稚ですらある戦い方である。

だというのに、彼女は、強かった。想像を絶する怪力をただ行使する、それだけだというのに、その強さはトップクラスのサーヴァントの強さに比肩していた。少なくとも、英霊シャルル=アンリ・サンソンの記録する中で、これより強力なサーヴァントと矛を交えたことは無かった。

力こそ強さ。理屈ですらない理屈でもって、エリザベート・バートリィは最強の座に君臨していた。

だが―――何故だ、と思った。サンソン自身、エリザベート・バートリィのことはほとんど知らない……それこそ2度しか顔を合わせたことは無い。だが、彼女は、こうではなかった。もっと傲岸不遜で悪辣で、それでいて、残忍なほどに無邪気で無垢だったはず。

今の彼女に、その稚拙な余裕は感じられない。それどころか、怯懦に竦むように見開かれた双眸は、奇妙な虚空を射抜くように見つめて―――。

「―――頭が、痛いのよ」

呟くような声、だった。

「どれだけ血を浴びても、苛めても、頭が、痛いのよ」

「何を―――」

「どうしてあの(ひと)の顔が、ずっと頭から離れないのよ!」

悲鳴にも似た絶叫が、サンソンを、打った。

「痛いの、凄い痛いの―――ずっとあの人の声が頭の中で響いてるの、何度かき消そうとしても、消えないのよ! なんでよ、私は何も悪くないのに! 誰も、それが悪いことだなんて教えてくれなかったもの! 今更私に、手を差し伸べないでよ!」

―――あ。

爆発する衝動、全身を打つ衝撃。サンソンの力など到底及ばない破壊が膨れ上がり、サンソンは、まるで暴風に吹かれる木の葉のように吹き飛ばされていった。受け身など取るだけの余裕は無く、諸に地面に激突しながらも、サンソンは、そんな痛みなど無視して、立ち上がった。

サンソンは、微笑を浮かべていた。呆れたような、あるいは誉れ高いような穏やかな微笑を浮かべた。

「全く―――変わらないな」

剣を、構えた。衒いは欠片も無く、処刑人は八双に構えた。

「―――エリザベート。君の悪性、処刑人(ムッシュ・ド・パリ)たるこの僕の手で摘出する」




御形サンがとても楽しそうに投げてきた戦闘シーン。
農民は怒っていいんですよ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

麗しの騎士の咆哮

体調面の関係で投稿が遅れました。
お待ちいただいていた方々、誠に申し訳ありません。


ブラダマンテの人生は、簡単に言えば、『人』との戦いだった。

長い旅の最中、幾度も死闘を繰り広げた。そのいずれもが激闘だった。

だが―――。

「ブラダマンテ。竜と戦ったことは、これまであるか?」

隣に並ぶジークフリートが言う。質朴な男は、目の前に聳える巨体を俯瞰するように眺めていた。

「いえ―――悪い魔術師と戦ったことがあるだけです」

そうか、とジークフリートは頷くと、ちらりと、ブラダマンテを一瞥した。生真面目で、ともすればあのロジェロの養父にも似た男が、何故か温和な顔をしていた。

「何か、秘訣などあるのでしょうか。竜退治には?」

思わず言うと、ジークフリートは、肩を竦めて見せた。

「秘訣、か。正直に告白するが」ジークフリートは脱力したまま言った。「俺はあれにどうやって勝ったんだろうな?」

「へ?」

「すまない、全然わからないんだ。とにかくがむしゃらに戦って、いつの間にか勝っていたんだ」

ジークフリートは自虐するように、言うと、もう一度すまないな、と付け加えた。

その言葉の意味を、ブラダマンテは能く理解した。ジークフリートほどの大英雄が諦観を語るほどに、かの竜は―――この邪竜は、強い。

「勝とう、なんて思うな。とにかく頭を使え、そして身体を動かせ。相反する行動の中で最適解を選び出せ。そうして掴み取るんだ―――五秒後の生存を」

そうして、ジークフリートは、剣を構えた。既に 300を超える飛竜地竜を斬り殺した剣は、既に剣としての機能を失い始めていた。かつて聖人が振るったという剣は、ジークフリートの持つ竜殺しのスキルと相乗する特性を持っていたが、それにも限度はあった。雑竜程度ならばあと50体だろうが屠るだろうが、あの邪竜を相手には既に心もとない。倒すならば、その背に負う魔剣を解き放たねばならないだろう。

だが、まだ、その時では無い。魔剣の解放にはまだ、早すぎる―――。

「来るぞ!」

ゆらめくように、巨影が身動ぎした。

緩慢にも見える挙動。だがそれは、巨体故に”そう見える”というだけのことに過ぎなかった。

動いた。そう思った刹那、視界を巨体が埋め尽くした。

迅い。わずかに数舜、相対距離を詰めた巨竜の腕が横薙ぎに唸る。何の魔力も込められていない、単純な殴打。ただそれだけの攻撃ながら、その破壊力は高位の宝具にも匹敵する。人間を超えた怪異、破壊の象徴、【怪力】。ファヴニールのそれは、ランクにすればA+。およそ人間と言う器では到達しえない殴打が襲い掛かった。

咄嗟に、地面を蹴り上げる。背後に飛び退いたブラダマンテは、しかし次の瞬間、意識が吹き飛んだ。

何か、喰らった。そう理解したときには、既に自分の身体はゴム毬みたいに吹き飛ばされて、岩塊に激突していた。

痛い、なんて陳腐な情動しか惹き起こさないほどの激痛。【頑健】に近似するスキルを有するブラダマンテ以外のサーヴァントであれば、この一撃だけで挽肉と化しただろう。

だが、たとえ防御特化の身体強化スキルを有するブラダマンテとて、その一撃は気絶するほどの一撃だった。尾部―――しなやかな筋肉の塊である尻尾の薙ぎ払いは、拳のそれを遥かに超えていた。

立たなければ。嵐のような身体の激痛の中、なんとか精神を奮い立たせる。笑うように揺れる膝に力を込めて立ち上がるまで、1秒半。隙というにはあまりに大きな隙だったが、悪竜の追撃は無かった。いや、あるいは追撃する必要すら無い、とファヴニールは判断した。

ふらふらと立ち上がったブラダマンテは、その光景を、見せつけられた。

サーヴァントを肉塊にせしめる殴打の、巨体での押しつぶし、尻尾の叩きつけ。愚鈍そうな見た目に反する連撃は、あらゆるモノに破壊を齎す死の暴風だった。

その暴風の中、何かが、聳えている。盤踞と屹立する菩提樹の如き何か。全てを芥と化す嵐の中、なお高らかに聳える影。

言うまでもない。ジークフリートはその暴風に抗うように、剣を振るっていた。時に真正面から叩き落し、時に衝撃を受け流し、時に暴威に身を任せる。『悪竜の鎧(アーマー・オブ・ファヴニール)』の守りだけではない。一時代の頂点に君臨し得る武練を以てして、悪竜の攻撃を防ぎきっていた。その攻防に、自分が入り込む余地は無い。少なからず、あの悪竜にとり、ブラダマンテは眼中に無かった。

違う。それは思い込みに過ぎない。だからこそ、付け入る隙がある。奥歯を、第二大臼歯を咬み合わせる。歯堤が軋むほどに歯噛みし、ブラダマンテは、猪突した。

進路に割り込む飛竜の顔面をランスで抉り抜く。地竜の顔面を踵で轢き潰し、別な飛竜の首を左手で捻じ切る。狂戦士の如き暴威を振りまきながら、ブラダマンテの脳髄は、努めて冷静に状況を理解していた。

ファヴニールにとって、自分はそこいらの石ころと変わらない。ならば、石ころが派手に暴れれば、それだけ注意を惹く。その時こそ、屠竜の瞬間。

ならば考える。どうすればあの巨竜の意を引くことが出来るか。あの悪竜の注意を惹き、ブラダマンテという英霊が取るに足らない石ころでないと思わせられるか。

悪竜が咆哮を上げる。巨体に似合わない金属音じみた甲高い怒声。鼓膜を焼くほどの叫喚と同時、竜の口蓋に炎が巻き上がった。

ブレスが来る。数千度にも達する紅蓮の炎が来る。いかなジークフリートと言えども、あの攻撃を喰らえば一溜りもない。

悪竜の目には、目の前の竜殺ししか見えていない。ただ目の前の敵を焼き殺すことしか考えていない。

ならば―――

「―――騎士(パラディン)を、無礼(なめ)るなァ!!!」

ブラダマンテの体躯が、飛んだ。砲弾さながらに加速したブラダマンテの体躯はそのまま竜の首元へと肉薄した。

槍を掬い上げるように振り抜く。馬上槍、という概念の兵装の運用として明らかに間違ったその攻撃―――打撃が、竜の顎を殴りつけた。

同時、ブラダマンテは【怪力】を発動させた。ランクにしてB+。バーサーカーに近い姿を取るライダークラスの彼女は、人間の身でありながら、そのスキルを有していた。

その打撃は、およそ宝具の一撃にすら比肩する殴打だった。

言ってしまえば、それはいきなり後ろから玄翁で後頭部を殴りつけられるようなものだった。ファヴニールに傷は無い―――だが、不意に生じた炸裂は、巨竜の頭を直上めがけてかちあげた。

無理やり閉じた口腔の中で、炎が爆ぜる。苦痛にもだえるような絶叫が大気を震わせ、竜の巨躯が怯む様に仰け反った。

刹那、突風がブラダマンテの傍を擦過した。

黒い突風。暴風を貫くように吹きすさぶ鋭利な疾駆。ブラダマンテの意図を正確に理解したジークフリートは、その瞬間を、見逃さなかった。

苦し紛れの尻尾が鞭のように唸る。

ジークフリートを貫くように突き出された刺突を、彼は猛然と斬り伏せた。

同時、剣が砕けた。ここまで亜竜を斬り殺し続けた剣が、遂に拉げた。だが、問題は、無かった。今この瞬間こそ必殺の間合い。幻想を堕とす時は、来た。

その手に、魔剣が閃く。黄昏の残り陽を受け、刀身に焔が灯る。大気中の大源(マナ)を喰らい尽くし、その宝具の真名が迸る。

―――その瞬間を、ブラダマンテは、刻銘に目にした。

ジークフリートが剣を振るう瞬間、その嶮山の如き巨躯が、ぐにゃりと蠢いた。脊椎動物の可動域ではない。さながら蛸のように身体を捻じ曲げた巨竜は、仰け反った勢いのまま身体をさらに仰け反らせ、ジークフリートの鼻先へと顎を掲げた。

魔剣から屹立する黄昏の輝煌。大軍を薙ぎ払い竜を屠る閃光が直撃する寸前、ファヴニールの口腔内に赫焉が灯る。これまでの比にならない灼熱を滾らせること1秒未満、怒涛の津波となって火焔が押し寄せた。

炎熱が、爆ぜた。音も視界も何もかもを焼き払う、莫大なエネルギーの奔騰。膨れ上がった炎とバルムンクの閃光が押し広がり、空を飛ぶ飛竜を焼き払い、地を這う竜を蒸発させていく。咄嗟に指輪を装備したランスを突き出さなければ、その余波だけでブラダマンテは消滅していただろう。

光が、収束していく。周囲一帯の何もかもが、焼尽している。爆心地、とすら言いようのない荒野の中、対峙する影が2つあった。

膝をつく、男の影。魔剣を杖に、睨むように見上げるジークフリート。その視線の先に、傲岸に聳える巨大な竜。翼をはためかせた竜の険しい眼差しが、眼下の2騎を捉えていた。

竜が、再度、口を開ける。虚のように開いた口腔、鋭刃の如き牙が覗く顎の果てで、炎が膨れ上がる。

再度のブレスが来る。先ほどあれほどの大火力を―――対軍宝具を上回り、対城宝具にも匹敵する劫火を振りまきながら、あの火竜は、既に次の攻撃に移っていた。

読まれていた。バルムンクがあることも何もかも予見され、嵌められた―――そう思考しかけて、ブラダマンテは、唐突に理解した。

ファヴニールの顔は、恐怖に引きつっていた。あるはずがない己が大敵に遭遇して、恐慌に見舞われていた。なれば、一連の反撃は計算づくのものではない。人間を遥かに超えた動体視力と反射神経によって繰り出された、防御行動でしかなかった。

そして次に放たれる攻撃は、この一撃で殺しきるという明確な殺戮の意思。己の小源(オド)を、その生命力の限界まで絞り出した決死の砲撃だった。

対して、ジークフリートに、次の攻撃は無かった。バルムンクの真名解放により、既に魔力は枯渇。真エーテルも無く、生前の竜の心臓も無いジークフリートにとり、バルムンクの連射は不可能だった。

このままでは、ジークフリートは、消滅する。あの炎に飲み込まれ、髪の毛一本残さずに蒸発する。『悪竜の鎧(アーマー・オブ・ファヴニール)』すら意味をなさないだろう。

そこまで直観して、ブラダマンテは、駆けた。

ジークフリートを死なせてはいけない。あのファヴニールを倒す上で、彼の存在は不可欠だ。だから、なんとしても、生き残らせないと。

考えろ、考えろ。この状況を、ファヴニールの決死の攻撃を上回る手をなんとしても打たないと。さもないと、この戦いは負ける。

でも、どうやって?

この世ならざる幻馬(ヒポグリフ)』。ダメだ、宝具の発動から召喚騎乗、真名解放までどれだけ最速で行っても3秒かかる。それでは、時間がかかりすぎる。

麗しきは美姫の指輪(アンジェリカ・カタイ)』。これしかない。この宝具の防御性能では防ぎきれない。もって多く見積もっても3秒、恐らく1秒程度で討ち破られ、その瞬間に自分は消滅する。だがそれだけ時間を稼げれば、なんとかジークフリートは退避できる。なんとかジークフリートを生存させられる。

ブラダマンテは、迷わなかった。彼女の脳裏には、あの王妃の姿があった。

彼女を死なせたことは、ブラダマンテにとって、あまりに情けないことだった。騎士ではない、まして武勇に恃むことすら無かった人の命を対価に生き残ったこと事実に、彼女は筆舌に尽くしがたい疚しさを感じていた。騎士の本懐に悖る屈辱であり、取り返しのつかない出来事だった。

だから、せめて、彼女の信念は守らなければ。彼女が身命を賭して守り抜いたジークフリートを、何が何でも生き残らせなければならなかった。

地面を蹴り上げ、刹那の合間にジークフリートの前に割り込む。槍を構える。

ゆらと、陽炎が渦を巻く。紅蓮の咆哮が轟くまで残り秒未満、火竜の劫火が再び爆発する。

それより、早く。

「『麗しきは(アンジェリカ)』―――」

―――ぽん。

そんな、軽い衝撃だった。

「それもいいけど、ここはボクがやった方が良いかな!」

聞きなれた声が、耳朶を打った。

「―――『破却宣言(キャッサー・デ・ロジェスティラ)』!」




ゲーム上では割とあっさりと倒せてしまうファヴニールですが、やはり幻想種。ましてやドラゴンですから、強くあれかしということで、まだまだ頑張ってもらいます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

狂える騎士と狂える鬼女

毎年この時期になると、年末という言葉に異様に嫌悪感を覚えます。おのれ年末……


クロは、己に立ち塞がる敵を前に、言いようも無い戦慄にも似た畏怖を惹起させた。

黒い霧で覆われた得体のしれない騎士。言語を発しない黒騎士のクラスは、あの霧に阻まれて判然としない。だが、クロは以前、この敵と矛を交えたことがあった。

生前、並行世界で戦った敵。夢幻召喚(インストール)された姿ではあったが、その凶悪さはクロの善く知るところだった。

《ランスロット。アーサー王伝説の騎士、だっけ? そんな真名だったんだ、アイツ》

《そうだね。普通にとんでもない化け物みたいな強さだし、しかも―――》

パスの向こうで、トウマが言いよどむ。何が言いたいか、クロにはよくわかった。

アレは、私の天敵―――鼻を鳴らしたクロは、双剣を投影した。

手にしたあらゆる武器―――剣や槍は無論、鉄塔や果ては戦闘機までをも自らの宝具とする宝具『騎士は徒手にして死せず(ナイト・オブ・オーナー)』の存在は、錬鉄の英雄(ソードメイカー)たる衛宮士郎、ひいてはその存在を核とするクロにとって、天敵中の天敵とすら言えた。

そして、ランスロットはクロを標的に定めていた。ただ数舜の戦いでランスロットはクロがカモであることを理解し、そうして対峙していた。

《何か、良い考えある? アイツ、私のことが好きみたいだし、離してくれなさそうなのよね》

クロは言いながら、わき目を一瞥する。ジャンヌは黒いジャンヌと戦おうとしている。そうしてマシュは、あの鬼とやりあうつもりだ。援軍は望めない、なら、単騎でこれを落とさなければいけない。

《さっきのアイディアは良いと思う。意図的にランクを落とした宝具を相手に渡すってのは》

《そうね。それに、さっきのトーマの考えも合わせれば―――》

だが。

その後は、どうする。戦い方によっては、『騎士は徒手にして死せず』を封殺することはできる。

だが。

湖の騎士、ランスロット。トウマの言うところによれば、かの騎士の神髄は、そんな小賢しい宝具ではない。『騎士は徒手にして死せず(ナイト・オブ・オーナー)』など、むしろ前座、本当の切り札は、かの聖剣に比肩しうる最強の幻想(ラスト・ファンタズム)。それを抜かれたら―――。

思考する余裕は、そこまでだった。

一呼吸。秒未満の間隙を縫って、黒い騎士が猪突する。【心眼】と【千里眼】を以て、ようやく視認できるほどの速度。値にして、敏捷A+。最高位の速度で肉薄するまさにそれは、黒い旋風だった。

使い慣れた双剣を投影する。投影速度は秒未満、ランスロットが放った干将の斬撃に莫耶を重ね合わせ―――。

鈍い、衝撃が腕を撃った。あまりに容易く、クロの手から白亜の剣が弾き飛ばされる。ランスロットの筋力値は、Aランクに達する。その剛腕の前では、筋力Dの彼女の攻撃など、硝子細工にも等しかった。

そして、ランスロットは、迅かった。クロの手から莫耶が吹き飛んだ刹那に、ランスロットの手がその柄を握りこむ。それを合図に莫耶は騎士の宝具と化し、クロの脳天をかち割るように振り下ろされる。

はず、だった。

白刃が、空音を響かせながら床に落ちる。

「どうしたの? 盗人まがいの宝具で奪ったらいいじゃない。貴方、得意でしょ? 人のものを略奪するの。ねぇ、円卓の騎士様?」

ずい、とクロがランスロットへと近づく。たじろぐように身動ぎする騎士に、クロは悪魔じみた嫣然を浮かべた。

「莫耶は気に入らない? ならこっちはどう? はい、あげる」

クロは、ひょいと剣を投げやる。ランスロットは宙に浮いたそれを僅かに視認すると、ずるりと、一歩後ずさった。

「ふぅん。本当はさっきので貴方の腕を吹っ飛ばすつもりだったんだけど」

さらに一歩。今度は跳ね飛ぶようにランスロットが地面を蹴り上げるのと、それは同時だった。

ランスロットの足元で、何かが起爆する。サーヴァントの体躯を一撃で吹き飛ばすほどの炸裂。宝具を自爆させることで発動する捨て身の必殺、『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』で、足元の宝具を爆破させたのだ。

猛然と沸き起こる爆炎。あわや回避しかけたランスロットは、しかし抜け目なく次の攻撃を冷静に理解した。

何かが飛来する。数は27。黒白の双剣、赤い呪槍、雷の金剛杵、全てを貫き通す薙刀、岩をも切り裂く聖剣、巨大な斧槍、主を呪い殺す魔剣、不死殺しの鎌剣。数多の伝説に登場する宝具の斉射が来る。

ランスロットは即座に、どう行動して切り抜けるかを理解した。その27の宝具の中でどの宝具を手にし、どの手順で撃ち落とし、そして最後に襲ってくる宝具に武器を持ち換えて、アーチャーを斬殺する。本能的思考、理性的反射。相反する志向の中、ランスロットはしかし、その攻撃行動を取らなかった。否、取れなかった。

降り注ぐ宝具は雨霰。最早壁とすら言えるほどの斉射の中、ランスロットは全て紙一重で躱した。首を狙う双剣、心臓を狙う槍、上半身を吹き飛ばす金剛杵、その他あらゆる必殺の猛攻その全ての軌跡を理解して、ランスロットはその全てを躱しきった。

「―――やっぱり、取らないのね。カンが良いのね。それとも、【無窮の武練】は伊達じゃないってことかしら。宝具を手にしようとした瞬間に爆破されるって、気づいてるのね」

クロは、睥睨するように、黒い騎士を閲していた。獲物を見つけた猛禽のような目が、床に蹲る夜霧を捉えた。

「いつまで()()()躱し続けられるかしら?」

クロは、再度手を掲げた。さながらその仕草は軍勢の指揮官の如く、なれば現れた無数の剣は、その少女を戴く兵士そのものだった。

「言っておくけど。私の剣の貯蔵は十分なんだから!」

 

 

 

 

 

 

《右。次は左。その次は正面、結構強力なのが来るからあえて弱く受けて押し負けるそぶりをして。マシュなら受けきれると思うけど、押し負けたほうがダメージカットできる。負けたらすぐに左に回避、上からくる。そしたら次は、酒呑童子の左わき腹に蹴り一撃。吹っ飛ぶと思うけど、ダメージは少ないはずだから注意して》

パスを通じて耳朶を打つ先輩(マスター)の声。矢次早にくる指示に、マシュが了解の声を返す余裕は無かった。

酒呑童子の攻撃は、事実、リツカの声の通りに放たれた。まずは右の掌底打ち。それを盾で受けると、次はがら空きになったマシュの右手を狙うように襲う左の手。マシュの手を握りつぶし、引っこ抜くために開かれた手を寸で蹴り上げる。相変わらず楽し気な酒呑童子の体躯が沈み込むや、鋭い蹴りが爆発した。

何トンもある巨大な岩塊が音速でぶつかってきたかのような、とんでもない衝撃だった。それこそただの蹴りだけでサーヴァントの宝具にも匹敵する。Aランクの【怪力】、【魔力放出】を複合するスキル【鬼種の魔】の生み出す、破壊の具現。確かにこれはリツカの言う通り、まともに防御したら、却って防御ごと身体が粗びき肉団子になる。

だから、マシュはリツカの言う通りにした。直撃と同時、地面を蹴って背後へ。蹴りの一撃の膂力も併せて飛び退くや、マシュはリツカの言葉を想起する。

この蹴りの次は左に回避。攻撃方向は上から―――。マシュは視線はそのまま上を見ることなく、今度は身体を捩って左へと身を翻した。

「あら?」

直後、隕石のような何かが直上から振り下ろされた。さきほどの蹴りと同種の超威力の一撃が右肩を掠めた。

酒呑童子はいつの間にか飛び上がるなり、天井を蹴り出し、踵落としを見舞ったのだ。なんの変哲も無い、質朴なまでの踵落とし。だがその攻撃は

掠めただけだというのに、あっけなく皮膚が裂けた。皮膚から真皮、皮下組織を抉り筋肉までこそげ落ち、血の飛沫が舞った。焼き鏝を押し付けられたような冷たい激痛に顔を歪めながら、それでもマシュは、リツカの命令を忠実に守った。

まるでコマ送りのように、酒呑童子のがら空きの右脇腹が目に飛び込んだ。

ならばそこに左足をぶち込む。直上からの攻撃をかわす際の身体の捻り、そこから生み出す反動に魔力放出を乗せ、音速にすら匹敵する速度でどてっぱらへと回し蹴りを叩き込んだ。

まるで、水風船が破裂するみたいな音が爆ぜた。酷く手応えの無い音が振動となって身体を伝わった。

やってはいない―――直観的にマシュは理解した。それが自分の直観なのか、それとも自分に内在する英霊による直観だったのか不明だが、ともかくマシュは理解した。リツカの言う通り、酒呑童子に大したダメージは与えていない。

だというのに、酒呑童子はテニスボールみたいに跳ね飛んで行った。

これもリツカの言う通り―――ふ、と嘆息を吐いたマシュは、右肩を抑えた。

大丈夫だ、大した傷じゃない。ちょっと肉が抉れた程度―――。

「大丈夫、マシュ。今治すから」

「はい、ありがとうございます」

傍に立つと、リツカは傷口へと手を当てた。紡ぐ節は1つ、聞き取れないほど素早く詠唱を済ませると、たちまちに傷口から肉が盛り上がり、塞がった。

―――上手い、と思う。傷の治癒などさして難易度の高い魔術ではないが、それでも日本という魔術基盤から遠く離れた場所でこれだけ卒なく魔術行使をして見せるのはちょっとすごい、と思う。

いや、それだけじゃない。そもそも、どうしてリツカは酒呑童子の動きを予測できたのだろう。何かしらの魔術か? だが、高ランクの【直感】にも匹敵する魔術行使など古代の魔術師(メイガス)ならともかく、現代の魔術師(ウィザード)にできるものなのか? いや、そもそも今なんらかの魔術行使をしたか―――?

「それ、あんたはんの能力やないねぇ。盾のお嬢ちゃん、あんたはんにはそないけったいな力はあらへんよねぇ」

ふらふらと、酒呑童子は立っていた。ダメージを喰らっている様子はない。

「なんだか今回の召喚はうまくいかなないことが多いなぁ。霊基も変な感じにされてるし、変なんとばっか戦うし。特異点なんてけったいなもんに呼ばれたのが悪かったかもねぇ」

酒呑童子は、カラカラと笑った。またあの笑いだ、と思った。苦境に立たされているはずなのに、それを物ともしない泰然。というより、それすらも楽し気に笑って見せる笑み。鬼という生き物の悦楽なのか、それとも、それは―――。

「ほんならウチもちょっぴり、本気になろか」

しゃん、と微笑が零れた。

それが、合図だった。ぞわ、とマシュの全身が粟立った。何かが来る。何かヤバイことが起きようとしている、と自分の内側に在る英霊のカンが、告げていた。

「結構大変なんよ、この霊基。うちも抑えるだけでしんどくてなぁ?」

鋭鈍な一歩が、大地を揺るがした。

「精々死なんといてねぇ?」

思わず、マシュは一歩引きさがった。アレとまともに戦ってはいけない、という焦燥が全身を焼いた。

瞬間。

マシュの目は、刻銘にその瞬間を捉えた。

「『百花繚乱・我愛弥(ボーン・コレクター)』」

いつの間にか背後に回り込んだ酒呑童子の腕が、マシュの背を貫く。

それは、鮮やかなほどの超絶技巧(ハイマスター)。背中の肉を抉り第4胸椎を鷲掴みにすると、そのまま第12胸椎から引っ張られるように頸椎腰椎仙骨尾骶骨骨盤頭蓋骨下顎骨鎖骨胸骨柄胸骨肩甲骨上腕大腿骨膝蓋骨脛骨橈骨尺骨腓骨足根骨中足骨中手骨指骨基節骨計206個の骨を、一息でぶち抜いた。

人間には到底不能な殺戮的芸術。父神の性質に寄るものか、人食いの母の技両の継承か、それとも鬼種が成せるものだったのかは不明だったが、確かに酒呑童子は、対象者に血すら流さずに、200にも及ぶ人間の骨を物理的に引き抜くことを可能にしていた。

どうやって、という思惟は無い。全身の骨を抜かれたマシュ・キリエライトの肉体は、重力に逆らうことすらできなかった。自重に耐えられなかった肉塊(マシュ)は、意識を保ったままに人間の水溜まりと化した。

()()の目は、その一連の動きを、見続けていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

窮兎、竜を噛む

土曜日更新、最近間に合っておらず申し訳ありません……


「酒呑童子は問題ありませんね。ランスロットは押され気味ですか。まぁ大丈夫でしょう、まだ切り札は切っていないようですし。あの生意気なガキ一匹、すぐに始末できるでしょうね」

ジャンヌ・ダルクは、歌うように言った。塗り固めた蝋のような肌に、琥珀のような目のジャンヌ・ダルクは、酷く楽し気に見えた。

「そして貴方。私の残りカスとして召喚されたに過ぎない目糞鼻糞。私が貴方を殺して、外の陽動の連中もファヴニールが焼き殺せば全てが完了します。この人理は崩壊し、主の御心を損なう人類(馬鹿ども)は残らず死滅する。主の嘆きは、ここに癒されるのですよ」

変わらず、ジャンヌ・ダルクは楽しげだった。大手を振るって見せる仕草は酷く芝居がかり、愉悦に歪む顔は道化師(ピエロ)めいていた。

「―――最初、私はよくわからなかったのです」

ぴくりと、ジャンヌ・ダルクの身体が硬直した。ジャンヌはそんな黒衣の聖女を見据えながらも、彼女には、戦う意思のようなものは一切なかった。

「冒涜的な言葉を繰り返す貴方を、私は理解できなかった。私の皮を被る何者かが黒幕に違いない、とも思いました。ですが違う。貴方の言葉は確かに冒涜的ですが、そこに主を謗る言葉は無い。むしろ貴女は、主の御心に応えようとしていました。貴女は、深く主を愛しておられますね?」

「黙れ」

「私にはその在り方が理解できませんでした。今でも完全に理解できているとは思えません。ですが! ()()()。その在り方を、この心で理解できました」

「黙れ!」

「黒衣の聖女、竜の魔女。貴女は、ジャンヌ・ダルク(わたし)別側面(オルタナティブ)ですね?」

「黙れっつってんのが聞こえねぇのかハナクソ女が!」

ジャンヌ・ダルクが旗を振り抜いた。それに合わせるようにジャンヌも旗を重ね合わせる。

タイミングは同じ振り抜く速度も同じ。しかし、二人の膂力には、決定的な差があった。不完全な召喚に過ぎないジャンヌに対して、ジャンヌ・ダルクのそれは強力な核により強化された、完全なジャンヌのそれを上回るものだった。

拮抗は1秒すら保たれなかった。すぐに押し負けたジャンヌは、まるで金属バットで小動物を殴り殺した時のように呆気なくぶっ飛ばされて、壁面に激突した。

「なんなんですかアンタは。正気ですか、アンタが言おうとしてることは―――」

「もちろん、正気ですよ。私はいたって正常です。私と同じ貴女なら、わかるでしょう?」

旗を支えに、ジャンヌは立ち上がった。平然としながらも、とんでもない力だ、と思った。ただ旗で殴っただけと言うのに、ちょっとした宝具すら上回る火力だった。さっきの宝具の撃ち合いの時と言い、奇妙なほどに強い。正規召喚された自分とて、この出力には敵わない。

「わかりました。ではアンタの望み通りに、ここでその身体! 髪の毛残さずに灰にしてやりましょう」

ならば―――。

疑念は確信に。だとすれば、この事件の裏に誰が居るかも、およそ確定できる。そして、この別側面という絶無の存在も、理解できる。

―――狙うは一撃。ジャンヌ・ダルクの核へと、深い一撃を叩き込むのみ。

「これは憎悪によって磨かれた我が魂の咆哮―――!」

「行きますよ―――アヴェンジャー」

 

 

 

 

 

 

数分前。

「ねぇ、君なんで攻撃してこないのさ」

佐々木小次郎を非難する声は、しかしなんとも言い難い雰囲気が詰まっていた。非難に見えて、それは当惑であり、同時に確信であり、安堵でもあった。最早非難の形だけをとっているようなものだった。

「別におかしなことはないだろう。私の剣はどうやら其方には届かん。そして、其方の剣も私には届かん。互いに千日手だ。で、あれば。ここは互いに何もせず、のんびり休息を取るのが正解というものであろう」

「まぁ、そうだけど」

どこか納得いかない様子ながら、佐々木小次郎のすぐ隣で、アストルフォは頬を膨らませた。小次郎と同じように、座るのにちょうどいい感じの岩くれを持ってきて、二人で並んで座っていた。何をするでもなく、である。傍目には、とても敵対する者同士の素振りには見えなかった。というより、あのアストルフォすら、この状況には困惑していた。

「だって君の仕事はあの竜を守ることなんだろう? だったら戦わなきゃなんじゃあないのかな」

「私が剣を抜けば、其方はまたあの宝具を出すだろう? そしたら私にはどうしようもない。私は任務に赴いた。だが優れたセイバーに阻まれ、任務を遂行できなかった。それだけの話だ」

「ちょっといい気分になった」

アストルフォはそういうと、腰から剣を抜刀した。

細身の、白い剣だ。いかにも西洋剣、といった様子のそれを、アストルフォはさも真剣に、ぶんぶんと振った。

「ボクはセイバーだからね、そうセイバー。日本の大剣豪もおののくほどの、セイバーなのだ!」

「ソウダネ」

小次郎は脊髄反射で応えた。あきらかに隙だらけの剣の振りも特に何も言わず、考えるのをやめていた。

ならさっさと私を倒してみればいいのに、と思ったりもしなくはなかったが、言うだけ不毛なのは既によくわかっていた。

「そういえば、なんでコジロウはあのセンスの悪いジャンヌに味方するの?」アストルフォはすぐにつまらなそうに剣をしまうと、特段興味もなさそうに言った。「あのボクとキャラ被りしてたアーチャー。ほら、アタランテだっけ? 彼女は、ジャンヌを裏切ったじゃない」

非難がましい基調は、そこにはない。仮にもシャルルマーニュ12勇士の一人として、騎士物語の一人として、悪しきものに与する者の心情を問うだけの素朴な質問であり、また単なる暇つぶしの問いでしかなかった。

はて、どうしたものか、と思う。アストルフォの言葉は、単なる暇つぶしの言葉に過ぎないようだった。だから、小次郎もテキトーな言葉を並べ立てて、同じように時間を消費すればいい、とも思った。

だが。

「恥ずかしい話だが、あいにくと拙者、生前は燕しか斬ったことがなくてな。まぁそれ以外、特に斬りたいと思ったものも特には無かったが」

「ふぅん?」アストルフォは、足元の石ころを手にしていた。小次郎の話には、さほどの関心を寄せている風ではなかった。

「たまさか呼ばれたので来てみたら魔女の使いっぱしりよ。特に人理だなんだというのも興味も無くてなぁ。たまには人を斬ってみるか、と思って、使いっぱしりを続けている」

「何それ? 随分テキトーな人だなぁ!」アストルフォは目を丸くした。「ボクと同じくらいテキトーだよ」

「そうさなぁ。だが、人を斬っても左程面白くもなし、いっそ竜でも斬る方になればよかったが」

ちょっと、考えてみる。

飛竜を斬り、地竜を斬る。なんならあの悪竜も斬ってみる。やってやれないことはないだろう、何せあの燕を堕としたのだから。もうなんでも斬れる。

「なら今からボク達の味方になればいいじゃない」

「いやいや。確かにあの女子はどこに出しても恥ずかしくない悪人だが、それでも拙者の主だ。義理は通さねばなるまいよ」

「テキトーなのに真面目だなぁ」

「それに―――」

言いかけて、小次郎は、想起する。

赤い衣に身を包んだ、小さな少女。己の秘剣を躱して見せた双剣使いの弓兵。

もし。もし、この名前も無くし、鳥を斬ることしかできなかった剣士の、第二の生に意味があるとするならば。

「あ、やばいかも」

ぴょん、とアストルフォは軽やかに跳ねた。立ち上がったアストルフォの眼差す先、邪竜と2騎のサーヴァントが凌ぎを削りあっていた。

「行くのか?」

「止めないの?」

「止めるも何も、拙者には其方のあのうるさい宝具を突破する術など無かろう」

「義理とかなんとか言ってたくせに」

「義理は通すとも。通した結果、拙者は力及ばず、其方が助けに行くのを阻止することはできなかった。非力なサーヴァントだった、と首を垂れるだけのことよ。軟弱者ですまない」

「ホント、君はびっくりするくらいテキトーで大真面目だなぁ!」

「言ったであろう。人理などどうでもいいと。人理を守るのも壊すのも、私にはなんというか、どうでもいいことなのだ」

アストルフォは呆れにも似た驚嘆に目を点にすると、じゃあ行くよ、言葉を残して、ぴょんぴょんと跳ねていった。

あまりに無防備な背中を、小次郎は見送った。一息に踏み込み、剣を放てば容易く両断できそうな背中を眺めた後、小次郎は、ゆっくりと立ち上がった。

すん、と鼻を鳴らす。静かな微笑を湛えると、小次郎は背後を丐眄した。

ぽつねんと佇む大聖堂。きっとそこで、答えに出会う。確信にも似た予感を惹起させた無銘の剣士は、焼け爛れた荒野を一人、疾走した。

 

 

 

 

「―――『破却宣言(キャッサー・デ・ロジェスティラ)』!」

アストルフォはどこからともなく取り出した分厚い本を広げるとともに、その宝具の銘を高らかに宣言した。

迫る火焔。摂氏数千度の炎がアストルフォを焼き尽くすよりわずかに早く、開いた本のページが沸き上がる泉のように吹き上がる。

無数に散らばる紙片。ただの紙切れにしか見えないそれは、一見すれば火竜の吐息の前ではあまりにも頼りなく見えた。

だが。

「―――!」

それは、誰の驚嘆だっただろう。あるいは炎を放った悪竜だったか、それとも竜殺しの剣士のものだったか。

たかが紙切れの束に見えたそれは、灼熱の獄炎を当然のように防御して見せた。

『破却宣言』。ある魔女より譲り受けし、あらゆる魔術を打破する魔導の書。所持するだけで高ランクの対魔力を発現させる魔導書、その真名解放は、対軍宝具レベルの魔術攻撃すら無効化する防御力を発揮し得る。

竜の炎、その火力は想像を絶する。対軍宝具を超え、対城宝具すら手が届く力を誇る。だがそれが純粋な魔力の投射ではない魔術的攻撃である限りにおいて、『破却宣言(キャッサー・デ・ロジェスティラ)』の防御範囲(ストライクゾーン)になり得る。

まして、この書は数多の魔道を破戒する万能の書。魔力を介した炎の攻撃くらい、防げない方がおかしいってもんじゃあないか―――!

―――あるいは打算。

―――あるいは賢しら。

―――あるいは強運。

―――あるいは企投。

アストルフォの知悉と言う名の蛮勇の通りに、魔道の書は火竜の吐息と拮抗した。

「―――まぁそう上手くはいかない、かな」

かに、見えた。

「アーちゃん!?」

聞き知った声が、背後で耳朶を打つ。次第に遠ざかる彼女の声は、アストルフォの目論見通りにブラダマンテがジークフリートを連れて離脱している証左であり―――同時に、自身の霊基ごと焼かれる苦悶の証左ですらあった。

ある別な世界において、Aランクの対軍宝具に匹敵する火力の連射すら防ぎきって見せたアストルフォの宝具の防御性能は、防御系の宝具の中では最優といって良い。だが、相対する攻撃は、およそ「攻撃」と呼ばれる行動様式において頂点に位置する火竜の攻撃。かの騎士王の聖剣にすら匹敵するブレス。その攻撃の大半を減退させることは可能だったが、完全に防御しきることは不可能だった。

―――以て、あと2秒。

アストルフォは、冷静に判断する。騎兵(ライダー)の時よりもある程度の理性を有する剣士(セイバー)の彼は、炭化し始めた自分の体躯を把握しながらも、これでいいんだと思った。

ブラダマンテの宝具でも、恐らくその身を犠牲にすれば防御できただろう。だが、後がない。ライダークラスの所以足るブラダマンテの宝具は、まだ温存しなければならない。同じ宝具を有する者として、その有用性はよく知っていた。

だから、アストルフォは自分が死ぬことにした。ごく簡単な戦略的思考のもとに、その戦術的判断を下した。

自分の死に、アストルフォはさしたる関心を持っていなかった。それは英霊だからというのではなく、生前からだった。

でも、それだけでなく。

アストルフォは、自分の目の前で友達が死ぬのは、見たくなかった。自分は死んでもいいけれど、自分の非力のせいで誰かが目の前で朽ちることは、勘弁してほしかった。

この特異点に召喚されて、何度かそうした目にあった。仲間だった、名前も知らないアサシンを死なせた。味方になってくれたアーチャーを死なせた。そうして、あの王妃サマも。

だから、もう勘弁してほしかった。ある意味逃避にも似た情動だなぁ、とアストルフォはよく理解していた。だから全然自分は格好良くないなぁ、とも思った。

「あっ―――つい、なぁ!」

苦い感情が残る。後悔にも似た情動。英霊になってもこんなことを味わうんだなぁと思いながら、でもそれが人間なんてものなのさ、とアストルフォはいたって前向きに、その後悔を掬し―――残るコンマ数秒に、全霊を叩きつける。

「じゃあ、あとは任せたよ―――さぁさご期待に応えて最後にもう一発、狂々転々(くるくるくるくる)、多めに活躍し(やっ)ちゃおう!」

小剣を、引き抜く。艶やかなほどの抜刀とともに、白銀の刀身が鞭のように唸った。

そうして、アストルフォは灰煙になった。

燃え尽きる間際に、ちょっと思った。

ちょっと、格好悪くてもいいのさ。だってボクは可愛いし、それで世の中釣りあいが取れるってもんだからね!




12月,1月はちょくちょく投稿ペースが遅くなるかもしれません。
ご承知おきいただけますと幸いでございます。

また、下記Twitterにて投稿時にツイートを流しておりますので、よろしければアラート(?)代わりにでもご覧くださいませ。
https://twitter.com/thisis_okayu


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

断首の刃、慈悲の剣

お恥ずかしながら、誤字報告をいただきました。まことにありがとうございます。
事実を受け止め、今後注意していければ、と思います。
(どうして誤字生まれるの、書きあがったときにはなかったのに……)



エリザベート・バートリィ。母国語で表記すれば、バートリィ・エルジェーベト。彼女の生涯は、端的に、昏いものだった。

彼女は、非常な頭痛持ちだった。当時、王族の中では親族間で血を濃くすることが自明視されていたが、遺伝的疾患により、絶えず耳鳴りにも似た頭痛にさいなまれ続けていた。

それだけならば、時代が生んだ悲劇的な少女だった。だがある日血を浴びた彼女は、およそ二つの事実に気づいた。

一つ。血を浴びた肌は妙に艶めかしくツルツルで、健康的に見えたこと。

二つ。血を浴びることになった原因―――下僕を折檻した際、不思議と耳鳴りが止み、頭痛が消えたこと。

上記2点は、エリザベートをがちりと抱握した非常に魅力的な出来事であった。頭痛とそれによる“自分は不完全な人間である”という絶望をどちらも払う、人生の喜悦と呼ぶほかなかった。

そうして彼女は、暗闇にも似た衝動に捉えられた。頭痛の解消と美の追求、そしてその両者のその奥底に根付いたであろう“当たり前に健やかな人間になりたい”という希求を叶えるため、彼女は、とりあえず人を殺すことにした。

折檻し拷問し、そうしてこの世全ての苦痛を他者に与え続けたエリザベートは、間違いなく悪人であり、正義の名のもとに裁かれねばならない人間だっただろう。正義をもとにした議論においてあらゆる擁護は退けられなければならないことは自明であり、彼女には一かけらほどの正当性も存在しなかった。

それでもなお、私たちは「だが」と述べることは可能である。何故ならばいかほど正義に悖る者であろうと、それとは別な次元で明確にしなければならないこともあるためである。それは倫理的な次元での話であり、倫理は正義とは複雑に絡み合いながらも別種のものであるからだ。それはカントが『純粋理性批判』と『実践理性批判』を分かつようなものである。

さて、倫理的な次元の中で考慮しなければならないのは、エリザベート・バートリィは何故、自らの善き生を、即ち倫理的な営みをそのようなものとして定立させてしまったのか、という話である。

端的に言えば、彼女には指導者が居なかったのである。倫理的な生は、規範の中で徐々に獲得されていくものであり、善き生はどうあがいても他者との網の目の中でしか営まれえないものである。

だが残念なことに、エリザベートの周囲には他者がおらず、そして彼女を涵養する人間もまた不在だった。親や親族は彼女を恐れ、彼女の好き放題にさせるがままにしていた。その結果、彼女はあまりに醜悪な全体主義者になり、独我論の体現者となり、他者の顔を抉り続けた。この責任は彼女独りに押し付けるにはあまりにも大きすぎるものだった。

ここには解消しがたいジレンマが、重くのしかかっていると言えるのかもしれない。正義の次元においては彼女は絶対に許されざるべき人間であり、だが他方で、あまりにも間が悪かった彼女だけに責任を問うのは酷であるというジレンマがある。

およそこのジレンマは解消できないものであろうし、また安易に解決すべきものでもないだろう。法制度的な解決をして終了させるのはあまりに出来あいの発想であろうし、また実存主義的な覚悟性を持ち出すことは酷く無神経である。

あるいは、もし彼女に何事か為すことが成し得るならば。

暗闇に縁どられた真新しい灯―――それは深い森に差す陽の光のようなものかもしれない、あるいは暗い荒野―――の中に、立ち竦み続けることでしか、何事をも成し得ないだろう。

 

 

 

 

雑音が網膜の中で臭気を放っていた。

吐物のような舌苔が鼓膜を浸潤していた。

エリザベートは、頭が痛いなぁと思っていた。彼女の生涯の中で、ずっと片隅に蹲っていた鋭い疼痛。嗜虐心を充足させている時だけ晴れる頭痛は、けれども、どうしてか当然のように頭蓋の中に垂れこめていた。

槍を、振るった。誰かの腕が千切れ飛んだ。

槍を薙いだ。誰かの腹が切り裂かれ、つやつやの大腸が溢れた。

槍の石突で殴りつけた。誰かの顔面で炸裂し、左の眼球を押しつぶした。

槍を投げた。誰かの右大腿部に突き刺さった。

誰かを、彼女は、酷く襤褸にした。生きているのが不思議なくらいに血肉を零しながら、誰かが地面に蹲っていた。

誰かとは、誰だろう。エリザベートは闃然とした壮絶の中、その誰かを睥睨した。

知恵のありそうな頭がついている。物が良くつかめそうな手のある腕がついている。長く伸びる足は、二足歩行に適したつくりをしている。

即ち、この誰かとはブタである。

いや、違う、とエリザベートは思った。何故? だってそれらは、ブタの形質のはずだ。ではリスだったか。リスもやはり、そのような形質を持っていたはずだ。だが、その直後、エリザベートはリスでもないと結論付けた。何故そのように結論付けたのかは最早自分でもわかっていなかったが、ともかく、エリザベートはこの誰かがブタでもリスでもなく、加えて言うならイヌでもないとも理解した。

であれば、これは一体誰なのだろう。この何か、否誰かは、一体―――。

ざら、と感覚が軋んだ。思わず息が止まるほどの違和感に顔を歪めたエリザベートは、その何かを、否誰かを、否何かを、否誰―――かを、よく覗き込んだ。

「待っていたよ、君がここまで近づいてくれるのを」

その声は。

晩春と初夏の狭間に吹き抜ける若苗色の風のような声が、ふわりと耳朶を擽った。

ざらつく視界の中、誰かが、そう誰かが、顔を上げた。長い髪の間から覗く鋭利な目が、すっくりとエリザベートを撫で斬った。

「これが君の罪、君の咎、君の悪を糺すものだ!」

槍を、叩きつけた。その穂先は誰かの皮膚を貫き肋骨を砕き、心臓を突き刺した。どぶり、と噴き出した黝い血飛沫が全身を汚した。

「『死は明日への希望なり(ラモール・エスポワール)』!」

誰かが、彼女の手を掴んだ。

酷く弱り切った、か細い手だった。今にも消えてしまいそうなほどに弱い力で、その手がバートリィ・エルジェーベトを抱握した。

何故か、彼女の姿が視界を掠めた。

真っ赤な薔薇のように溌剌として、陽だまりのように麗らかな顔。自分とある意味で似ながら、全く違う世界に生き、そしてだからこそ柔い微笑を向けた()の顔が、ざらつく五感の中に過った。

そんなことは、知らなかった。誰も教えてなどくれなかった。親でさえも、何もを教えてくれなかった。

だが、罪は、変わらないのだ。たとえ誰も教えてくれなかったとしても、起してしまった事実は変えようがないのだ。そうして起こしてしまったこととは即ち、左程の落ち度もない人間たちに惨い死を与えたことであり、そんな人殺しこそが、自分の罪だった。

ならば、これこそが、罰なのだろう。横たわる自分の首を刎ねるように掲げられた、ギロチンの刃こそが、罪を裁くものなのだろう。

死が贖いとなるのか、彼女にはよくわからなかった。咎を雪ぐ方法など、彼女には理解できなかった。

だが、もしこれが世界から望まれたことだというのなら―――。

そうして。

断首の刃が、落ちた。

 

 

 

 

あと3秒、保つかな―――。

消滅間際の焦燥の中、サンソンは、困ったように眉を寄せた。

間違いなく、自分の宝具は発動した。超至近距離で放った『死は明日への希望なり(ラモール・エスポワール)』は間違いなくエリザベートを捕捉し、その首を落とすためにギロチンの刃は撃ち落とされた。処刑された逸話こそ無いが、生前に「法による裁き」を受けた彼女には、不利な判定が付く。間違いなく、彼女の首は刎ねた。

はずだった。

地面に横たわる人影。長い翼と尾を垂らしながら、力なく臥す女性。エリザベートのその姿は、ともすれば死んでいるようにも見えた。

だが、彼女には、しっかりと首が付いていた。ギロチンの刃は彼女の首を落とすことはなく、サンソンの宝具は、不発に終わった。

確かめなければ、と思った。立あがったサンソンは、重い鎌剣を床に放り投げて、彼女の元へと駆け寄った。

彼女は、ほとんど動いていなかった。ただ静かな呼吸音だけを零しながら、しかし、やはり彼女は生きているらしかった。

エリザベートが、身動ぎした。サンソンは動くこともせずに、彼女を見守った。

小刻みに痙攣しながら、エリザベートは立ち上がった。痩せぎすの彼女は今にも倒れそうで、事実、彼女はすぐに転んだ。

何度も、彼女は立とうとしては転んでいた。まるで機械のような反復動作だった。そこには感情らしいものは無く、ひたすらに、彼女は立っては転んでいた。

何がこんなに、この機械を駆動させるのだろう。そんな疑問が脳裏に浮かんだ時に、ふとサンソンの耳に何かが触れた。

「暗い、暗いわ。酷く真っ暗だわ」

小さな喃語じみた声だった。絞り出すような憐れな声は、エリザベートのものらしかった。

「ここは、どこなの。真っ暗で何も―――暗いのは、厭よ。恐い、わ」

立っては転ぶ動作を繰り返しながら、エリザベートは何か不鮮明な言葉も繰り返していた。

目が、見えていない―――サンソンは、今更に気づいた――――転倒を繰り返すエリザベートは、目が見えていなかった。涙のような血を流しながら、彼女は、喃語を呟き続けていた。

「ここはどこなの、寒いわ、暗いわ。誰か、居ない、の。誰も、居ないの?」

亡霊のように、細い手が宙を彷徨った。何かを掴もうとする手は酷く憐れを感じさせた。

サンソンは、当てもなく宙を彷徨う手へと、自らも手を伸ばした。アンリ・サンソンは本質的に、道徳的善人であり、倫理的な人格者だった。

しかし、あるいはそれゆえにこそ、サンソンは伸ばした手を自分の元へと引き戻した。代わりに、サンソンは、ただ、彼女の傍らに在ることとした。

―――宝具は、確かに発動したのだ。罪を裁く己の宝具は、対象としたこのやせ細った少女に、正当な罰を与えたのだ。断首よりもなお甚大な罰を、彼女は、受け入れたのだ。

ならば、自分には、何事もすべきことは無い。ただ彼は、その傍らで、罪が雪がれゆく様を見守るだけだった。さながら、羊を飼う牧人のように。

空を、振り仰ぐ。

サンソンは、子供っぽく笑った。赤く焼けた大地の上にすら、向日葵みたいな太陽がきらめいていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幻想大剣・天魔失墜

―――竜、という生物にとり。

人間とは、ひ弱な生き物だった。肉体的に脆弱で、力能的に不完全で、魔術的に低級な存在者である。幻想種の頂点に君臨する竜種にとっては、取るに足らないものだった。

悪竜ファヴニールにとっても、その基本的なスタンスは変わらなかった。人間とは、眼中にないものである。

いや。だった、というべきだ。人間より生まれ、人間に斃された悪竜現象(ファヴニール)は、その認識を変えていた。人間の底意地とは恐るべきものであり、油断ならないものである、と認識しなおしていた。

故にこそ、彼は、今回、なんらの油断も無く人間と対峙した。町を焼く時も、竜殺しの騎兵を噛み砕いた時も、フランス軍を滅ぼした時も、一切の予断なく殺戮を行使した。

だからこそ、彼はあの攻撃にも対処してみせた。

隙を突かれる形で放たれた”竜殺し”の大剣を2発目のブレスで相殺した。さらに己の生命力すらをも削り取り、3発目の劫火を振りまいた。間違いなく3発目で、あの女騎士ごと竜殺しを抹殺したという確信があった。

だが、悪竜はその確信があったとしても、やはり油断はしなかった。万が一に備えて距離を取り、コンディションを整えるべきだ。3発にも及ぶ全力でのブレスは、如何な太古の竜とは言え消耗が激しすぎる。ここで何者かに襲われれば、一溜りもない―――冷静に状況を判断し、竜は、翼を広げた。

後脚で大地を蹴り上げる。その勢いで跳躍し、あとは主翼で風を捕まえて揚力を発生させて、一気に後退をかける。巨体にも関わらず、軽やかに空へと飛び上がった。

飛び上がる、はずだった。

ぎょっと、悪竜は瞠目した。宙に跳んだのも束の間、ぐらりと視界が揺らぐなり、真っ逆さまに地面へと巨体が墜落した。

地鳴りにも似た振動を響かせ、20mを超す巨体が地面に激突する。ただ墜落しただけだというのに地面を抉り、土煙が空高く巻き上がった。

何が起きたのか、彼はすぐに理解した。

左の翼に何かが巻き付いていた。

鎖にも似た、何か。長い鎖が翼を縛り上げ、ぴくりとも動かせなかった。墜落した原因は、この鎖だった。

否―――それだけではない。もう片方の翼、無傷なはずの翼でなんとか飛び立とうとした悪竜は、その翼が()()ことに今更に気づいた。

そう、()()()()のである。巨体を浮かすだけの揚力を発生させるその翼が、根本からすっかり消滅していた。まるで消しゴムで鉛筆の文字を消したかのように。

その起源を北の大地に持つファヴニールにとり、その宝具は知る由の無いものだった。

―――神をも捉えんとした巨人、その巨人をも拘束した網の具現。セイバークラスのアストルフォが有する宝具、『僥倖の鉤引綱(ヴルカーノ・カリゴランテ)』。

―――突いた敵を悉く転ばせるブラダマンテの魔槍、ライダークラスの彼女が有する宝具『触れれば転倒!(トラップ・オブ・アルガリア)』。

同時に放たれた2発の宝具、その一つは巨竜の翼を拘束し、その一つは翼をその根元から霊体化させていた。

不味い。明らかに、不味い。ファヴニールは、状況を正しく理解していた。身動きの取れない現状は、間違いなく、隙だらけだった。この状況を、あの男が見逃すはずはない。

「エーテル体たる我が身を糧に! 魔剣、完了」

あるいはその心象を裏付けるように、あるいは死の宣告のように。

「此れなるは、竜殺しの魔剣!」

声は直上。空を仰いだファヴニールの目に、影が飛び込む。

幻獣の背から舞い降りる剣士。無骨なまでの肢体から延びる大剣が、ファヴニールに不定の情動を惹起させた。

あれこそは死、あれこそは終焉。かつて悪竜を殺し、そして今悪竜を殺さんとする最強の魔剣が、そこに在った。

「『幻想大剣・天魔失墜(バルムンク)』ッ!」

 

 

 

 

それこそは、ジークフリートが取り得る唯一の策だった。

第五真説要素(真エーテル)が無く、また生前のように竜の心臓の無いジークフリートでは、

真名の解放は一度が限度だった。

不可能なはずの二発目。それを可能にするものこそ、決死の覚悟―――サーヴァント体である自らの身体を構成する第五真説要素(真エーテル)を解放し、それを燃料にすることだった。

真名は、解放した。本来大軍を薙ぎ払うエネルギーを放出するはずの大剣は、未だ黄昏の閃光を解き放っていなかった。

右腕が折れた。膨大なエネルギーを放出することなく封じ込める運用―――本来とは異なる使用による反動が、霊核を軋ませた。

だが、知ったことか、と思った。死ななければいい、あの悪竜の首を落とすまで死ななければ、それでいい。その瞬間まで腕さえ残っていれば、そしてその後は跡形も無く消し飛んだとしても、全ては些末事だ。専心は唯悪竜の絶殺のみ、その他すべてはどうでもいいことだ。

悪竜が身を捩る。さっきの反撃のように自身の可動域、その限界を超えて首を擡げた巨竜の顎が大きく開く。伽藍洞のような黒い口腔の奥で、ぬらりと炎が顔を覗かせた。

連続、4発目のブレスがくる。3発目すら恐らくギリギリだったのだろう、明らかにそれまでとは火力が落ちていた。だというのに放たれるこの4発目は、恐らくきっと、文字通り全身全霊をかけた火焔に違いない。仮に威力が減退していたとしても、『悪竜現象(ファヴニール)』で防ぎきれるものではない―――。

―――逡巡は、無かった。元よりこちらも決死、今更策は変わらない。いや―――ジークフリートは、恐らくこの攻撃すらをも、()()()()()()

悪竜現象(ファヴニール)とは即ち、大欲の具現。なれば生きたいと言う欲求は並みの生命のそれを遥かに超え、己の限界すらをも引き出すのだろう。その力への意思こそ悪竜現象(ファヴニール)の本質であり、そしてそれと対峙したジークフリートが良く知るものだった。

だからこそ、自分のこの選択は間違っていない。この絶技は間違っていない。大神の剣より再構築されたこの魔剣、その根幹から流れ着いた剣技こそ、この状況の最善手だった。

火焔が迸る。さながら活火山の噴火のように、天へと紅蓮が屹立する。威力は確かに下がっているが、それでもサーヴァントを丸焦げのロースチキンにするには十分な火力だった。

まず、肺が燃えた。気管支は焼け焦げ肺胞が破裂し、小腸大腸十二指腸直腸肝臓膵臓腎臓脾臓が瞬時に燃え尽き両足が焼き切れ胸から下が崩壊し左腕が捥げ眼球が溶け脳髄が蒸発した。

だが、それでも、ジークフリートは右手を離さなかった。下半身は既に焼け落ち左腕も燃え尽き額から上が消えていたが、それでも、バルムンクを握る手を離さなかった。

―――いくつものサーヴァントが、身命を賭してこの瞬間を繋いできた。結局真名を知ることなく分かれることとなった仮面のアサシン、そして束の間共闘し、脱出までの時間稼ぎの為に消滅した麗しのアタランテ、マリー・アントワネット。バルムンクを造り上げたクロエ、解呪に尽力したジャンヌにサリエリ、立った今身を挺してこの隙を作り出したアストルフォ、そして幻獣によって上空にジークフリートを誘因したブラダマンテ。全員の尽力が無ければ、この瞬間にはたどり着けなかった。

ならば、次は自分の番。この一撃の為に、死力を尽くすのみ―――!

―――炎が、消える。数千度の炎に晒された時間は恐らく1秒未満だった。永遠にも思えた灼熱の1秒間を超えて、ジークフリートはその瞬間へと猪突した。

既に、両目は焦げ付いていた。だが、ジークフリートは迷わない。己の落下速度、ファヴニールの運動性能、その他もろもろの状況からして、この剣は間違いなく悪竜の喉に食らいつく。

だが、何より。竜殺し(ジークフリート)(ファヴニール)を殺し損ねることなど、万に一つもありはしなかった。

切っ先が竜の鎧を突き破る。戦車砲すら弾き返し得る竜の鎧をアルミのように刺し貫き、皮膚を抉り肉を斬り飛ばし骨身を破砕する。絶叫を引き裂いたファヴニールがのたうつのもかまわず、幻想の如き大剣は一刀のもとに竜の首すじを切り落とした。

殺した。目は見えなかったが、ジークフリートは確信した。この手は間違いなくファヴニールの首を、その命ごと切り落とした。悪竜現象(ファヴニール)は、ここに終わった。

反動で、右腕が捥げた。胴体だけになったジークフリートは、谷底へとゴムボールを投げるように、地面へと自由落下していく。

落下しながら、ジークフリートの残った身体は消滅を迎えた。黄昏にも似た黄金色の燐光が身体の輪郭に灯り、徐々に、ジークフリートという存在を溶かしていく。

最期に、男は、ふと思う。

悪竜現象(ファヴニール)とは、即ち、度を越した欲望が形を持って発現する自然現象だ。であれば、逆説的に、悪竜現象(ファヴニール)を引き起こした大欲が、このフランスに渦巻いているはずだった。それこそ、神をも殺すほどの欲望が―――。

僅かな、懸念。それでも、ジークフリートは小さく口角を上げた。

その1秒後。ジークフリートの最期の一片が、溶けた。

 

 

 

 

 

 

ジャンヌ・ダルクは、その時確かに、その感触を味わった。

何か、自分の心の内にあったものがごっそりと消えるような感覚。まるで半身を失ったかのような喪失感。その奇妙な感覚が何なのか、彼女は、忽ちに理解した。

それは、即ち―――。

「ファヴニールが斃れましたか?」

ぞわ、と声が耳朶を打った。

既に襤褸になったジャンヌは、平然と立ち尽くしていた。炎に焼かれ、随分と損傷が酷いが、特にそれを意には介していない様子だ。平然としたその顔つきは、端的に言って、異常だった。

「貴女は表情に出やすいですね。()()()()()()()()()()()だってもう少し抑えが効くものですよ。ねぇ、(ジャンヌ)?」

「何なんだお前は―――お前は何を知っている!?」

ジャンヌ・ダルクが子供の癇癪のように手を払う。それを合図に、床面を割って火焔の柱が立ち上る。その数4、さながら竜のように身を擡げた火柱が立て続けにジャンヌへと襲い掛かる。

壁とすら言い得る連撃を、ジャンヌは毛ほども恐れていなかった。身動ぎ一つ、寸で躱しては旗で撃ち払う。

「おおよその経緯は理解しました。そしてこの事件の裏に誰が居るのかも」

ジャンヌはそういうと、困ったように、肩を竦めて見せた。眉を寄せながら、それでいて慈悲深く口角を上げるその表情の名を、ジャンヌ・ダルクは、理解できなかった。

「知ったような口を―――!」

一歩、ジャンヌの懐へと踏み込む。心臓を抉るように突き出された旗の穂先を身一つで躱して見せるや、ジャンヌはむんずと旗を掴みかかる。勢いのままジャンヌが旗を膂力一杯に旗ごとジャンヌ・ダルクの体躯を引き摺り出した。

咄嗟、ジャンヌ・ダルクは何もできなかった。なされるがままにジャンヌの面前へと引き寄せられるや、直後、ジャンヌの頭突きが額に炸裂した。

「―――聞かせてもらいます! 第一、私は貴女なのだから言う権利があります! それに―――」

ジャンヌの手が、襟首をつかむ。掴んだまま容赦なくジャンヌ・ダルクの矮躯を引き寄せると、額のサークレット同士がぶつかり合い、甲高い悲鳴にも似た金属音が零れた。

「貴女は(ジャンヌ)を名乗っているのでしょう!? ならばいつまで、彼に異教徒の真似事をさせておくのです! 一体いつまで! 冒涜のための冒涜を許し続けるのです! 聖女として、(ジャンヌ)として! 恥ずかしくないのですか、貴女(ジャンヌ)!」

「無駄な口をこれ以上開くなァ!」

炎が、巻き上がった。ジャンヌ・ダルクの身体を薪に巻き上がった炎渦は瞬く間にジャンヌの身体すらをも巻き付ついていく。

だが、ジャンヌは手を離さなかった。擦り合わせた額すらをも動かさず、頑健な水晶(クリスタル)のような眼光が、ジャンヌ・ダルクを射抜いた。

たまらず、ジャンヌ・ダルクは手を振りほどいた。どれだけ執念があろうとも、鬼気迫ろうとも、基本スペックはジャンヌ・ダルクの方が数段上だった。

そう、基本スペックは黒衣のジャンヌ・ダルクの方が遥かに上なのだ。本来あのジャンヌなどは残り滓でしかなく、そこいらの虫けらなのだ。

なのに何故、押されている。何故、後退している―――!?

魔術回路を励起させる。ジャンヌ・ダルクが本来持ち得るはずがなかった憤怒、その終末の炎を象る憤怒が無数の杭となってジャンヌへと襲い掛かる。

当然、ジャンヌはそれを宝具で防ぐものと思っていた。『我が神は此処に在りて(リュミノジテ・エテルネッル)』の防御力は、彼女の善く知るところだった。万全の状態であれば対城宝具すら防ぎ得る絶対的な防御、それを正面から打ち砕く。頭の中にあるジャンヌ・ダルクという英霊の基本スペックを鑑みれば、十分に、あのクソ忌々しい面をぶっ飛ばせる。

(ジャンヌ)の攻撃ならば、アイツ(ジャンヌ)の宝具を打ち破れる―――!

―――いや。

何故、(ジャンヌ)は、アイツ(ジャンヌ)の宝具のスペックをこんなにも詳細に理解しているのだ?

「―――ハっ!?」

「宝具解放―――『我が神は此処に在りて(リュミノジテ・エテルネッル)』!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

無毀の聖剣

新年、明けましておめでとうございます。
今年も、fate/little bitchをよろしくお願いいたします。


全投影、連続層写(ソードバレルフルオープン)!」

降り注ぐ剣の豪雨。迫るは名だたる神剣魔剣名剣。犇めくように猛突する剣の軍勢の狙いは、ただ1騎だけのサーヴァントだった。

黒い霧に包まれた、騎士甲冑のサーヴァント。狂戦士(バーサーカー)のクラスで召喚された湖の騎士ランスロットは、その剣の群れを一切の恐れ無く飛び込んだ。

壁にすら見えた剣の驟雨。そのあるはずの無いほんのわずかな間隙を縫うように、黒い騎士が駆ける。時に黒い中華剣で叩き落しながらも、皮一枚、一歩間違えれば即死しかねない死の黒雨を切り抜ける。

本来であれば、ランスロットという英霊を相手に取る戦術としては、宝具を無数に投影して射出するのは悪手としか言いようがない。それは、クロ本人が最も能く知るところだった。

『騎士は徒手にして死せず』。あらゆる武具を己の宝具とする無双の騎士、その精強の具現たる宝具を持つランスロットは、天敵ですらある。

だが、敵がその宝具の持ち主であることを理解し、またアーチャークラスのサーヴァントとして召喚されたクロならば、対応の仕方は十分にあった。

「どうしたの? ちゃんと良い武器取らないと、死んじゃうわよ?」

クロは全弾躱して見せたランスロットへと、邪気たっぷりの嫣然を向けた。ランスロットは何も答えず、襤褸になった干将の剣先を掲げた。

第一段階、クリア。チェシャな笑い顔の裏で、クロは冷や汗をかいていた。

現時点で、綱渡りのような戦いだった。ランスロットが剣を掴む寸前で、剣を爆破させて腕をもぎ取る。言うは易し、だが実行するのはかなり困難だった。

剣を、掴む。ランスロットのその動作は、はっきり言って千里眼持ちのクロですら、目視することさえ困難だった。

戦術を直視し、戦略を俯瞰する。英霊エミヤの力能、その全てを引き摺り出してようやく成し得た戦いだった。

しかも、これでまだ一歩目。そうして、藤丸の言葉が正しいならば、次の一手こそが敵の全力に他ならない。

《クロ、来るよ!》

パスの向こうで、藤丸が悲鳴に近い声を上げた。

まるで、その声が合図であるかのように。

騎士を覆っていた、黒い霧が文字通り霧散する。澄み切るように霧が掻き消えると、黒光りする鎧が顔を覗かせた。

墨のように艶やかないで立ち。清廉な気風すら感じる佇まい騎士の手から、刃毀れした干将が零れ落ちた。

宝具2種を封印した。

騎士は徒手にして死せず(ナイト・オブ・オーナー)』。それに加え、あの霧の宝具『己が栄光の為でなく(フォー・サムワンズ・グロウリー)』。この二つの宝具を封印することで起動する第三宝具が、ランスロットには存在する。

それこそが、第二段階。真の切り札を切らせることこそ、必勝への一手。

―――ランスロットの手に、剣が現れる。禍々しいまでに黒く染まったそれは、魔剣としか言いようのない代物だ。だが、それは本来魔剣になど身を窶すものではなかった。その来歴から魔剣の属性を持ったとしても、神造兵装の一角を担う聖剣の荘厳さは決して損なわれることは無い。

英霊エミヤの裡にすら存在しない最強の幻想(ラスト・ファンタズム)。『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』にすら匹敵する、円卓の騎士ランスロットの剣。

その、真名は―――。

瞬間。

《クロ!》

「トレース!」

条件反射よりはるかに早く、双剣を投影する。両手に握りこんだ黒白の双剣を、振り向きざまに背後へと叩き込み―――。

双剣が、弾け飛んだ。クロの目をもってしても影すら見えない速度で以て背後に回り込んだランスロットが、その剣を振るったのだ。

目にもとまらぬ速さ。そんな陳腐な表現そのものとしか言いようのない俊敏さだった。

投影開始(トレース・オン)―――並列(ダブル)強化完了(オーバーエッジ)!」

瞬時に、次の剣を作り出す。干将莫耶、その刀身を極限まで洗練させた強化態を瞬時にランスロットへと撃ち込む。

もし並大抵のサーヴァントであるならば、剣を振り抜いた隙をつくように放たれた剣戟に容赦なく両断されていただろう。あるいは一線級のサーヴァントとて、防御するだけで精一杯の攻撃だった。

だが、ランスロットは、防御などしなかった。回避行動すらとらなかった。騎士はただ、神速で放たれた干将莫耶の白刃を、指だけで取っていた。

驚愕している暇は無かった。挨拶代わりとばかりに、ランスロットの左手に握られた聖剣が、玄翁さながらに振り下ろされる。喰らえば薪割りさながらに左右に叩き割られるであろうそれを、何故かクロは躱せていた。

本当にギリギリ。何故か咄嗟に背後へと飛び退くことが、できた。あの態勢での回避など到底不可能だったのに、この身は躱して見せた。

答えは明白だ。不可能を可能にする膨大な魔力リソース。サーヴァントという存在を縛る絶対命令権、令呪。藤丸は、ただ今の一撃を躱させるためだけに令呪を使用した。

投影(トレース)―――完了(オフ)!」

次の投影からの斬撃も、クロエ・フォン・アインツベルというスペックを遥かに上回る速度での投影-斬撃だった。それもまた、令呪による攻撃。この1秒未満の瞬間に、2画目を斬った。

鋏で斬りこむように疾駆する双剣の一撃。ランスロットのそれに及ぶ速度ですらある攻撃は、間違いなくランスロットの首を刎ね、胴体を抉るはずだった。

だが、当然のように、そうはならなかった。尋常などという言葉を置き去りにした神速の機動でもって、クロの懐へと飛び込んだ。

その危機的状況でさえ、ランスロットは回避行動すらとらなかった。一足でクロスレンジに侵入するなり、騎士甲冑の殴打がクロの顔面に激発した。

ただの徒手格闘による左のストレートに過ぎない、それだけの攻撃。それだけの攻撃だというのに、宝具の一撃のそれにすら匹敵する。人間を超える怪異だけが有する怪力、それにすら匹敵する膂力が、その拳にはあった。決して耐久値に優れないクロにとっては、そんな攻撃ですら、直撃するのは致命的だった。

だが、己のダメージを一切気にしていなかった。勝ちさえすれば、どれだけ致命傷を負っても問題ない。サーヴァント戦において、死ぬ以外は掠り傷に過ぎないことを彼女はよく理解していた。

故に、クロは殴られた衝撃と同時に背後に飛び退きながら双剣を投擲。ランスロットが剣で双剣を叩き落す隙をついて、瞬時に己が切り札を投影する。

左手に現出する弓。そしてもう一つ、右手に迸る捻じれた魔剣。最も頼りとする宝具を投影すると同時に、即座に左手の甲へと矢を添え、弓へと番えた。

「―――『偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)』!」

一杯まで張り詰めた弦を、その真名とともに解き放つ。

対軍宝具に匹敵する破壊が空間ごと捻じ切りながら黒い騎士を飲み込む。Aランクに匹敵するその破壊を防御する手段は決して少なく、またどれだけ優れたサーヴァントだったとしても正面から捻じ伏せるのは生半可なことではない。そして、ランスロットには防御系の宝具は無く範囲攻撃を押し切るだけの宝具は無い。あの聖剣は確かに想像を絶するが、この一撃だけはどうやったって回避できない―――!

在るのは確信。至近から放たれた音速すら超えた螺旋の矢は、過たずにランスロットを捻じ切る。

―――ランスロットは、奇妙なことに、その矢をよけようとすらしなかった。【無窮の武練】を持つランスロットにとって、如何な至近距離での砲撃だったとしても、それを見切り、なんらかの行為をすることが自然であった。だが、ランスロットは何もしなかった。それどころか地面を蹴り上げると、その矢に立ち向かうように猪突した。

この時、クロは一つ誤解をしていた。【無窮の武練】というスキルを獲得する兵が、どれだけ想像を絶する強さを持つのか。そしてその無双の剣士が携える剣、最強の聖剣の姉妹剣がどれほどの強度のもとに成立する幻想なのか。彼女は彼女なりに最大限の警戒をしたはずだったが、それでもまだ、ランスロットという英霊の底には届かなかった。

ランスロットは、迫りくる対軍宝具へと、無造作に剣を掲げた。黒光りする魔剣、荘厳さすら感じさせる邪悪な刀身に、ぞわりと亡霊染みた魔力が漏出した。

果断なく、騎士甲冑が軋みを上げる。苦悶の叫喚を張り裂けながら、ランスロットは両の手に握る怨霊じみた魔力を纏う剣を掬い上げる要領で振り抜いた。

その動作は、酷く単純だった。ただ剣を構えて、振り抜くのみ。それだけの動作で放たれた一太刀が、螺旋剣に直撃した。

そうして、当たり前のように、聖剣は螺旋剣を叩き切った。空間を捻じ切る烈風を轢断し、衝撃をかき消す。死の具現ですらあった暴風を切り裂いて、最強の聖剣は破壊そのものを捻じ伏せた。

強すぎ(チート)じゃない、あんなの―――!」

馬鹿げている。何もかもが馬鹿げている。真名解放したAランクの宝具を斬り伏せるなど、どれだけ強力なサーヴァントとてできるはずがない。

だが、現実は、そこに在った。ランスロットは剣の一太刀でカラドボルグを叩き伏せ、そしてあの尋常じゃない速度でクロの近接格闘戦領域まで侵入し、汚濁そのものですらある魔力を纏った剣を振るった。

これが、湖の騎士の強さ、だった。回避するだけで令呪を使用し、まともに打ち合うだけでも令呪を使わされた。一人ひとりが無双を誇る円卓の騎士にあり、最強の座に君臨するランスロット卿(サー・ランスロット)と、聖剣『無毀なる湖光(アロンダイト)』の強さだった。

アロンダイトがクロの身体を捉える。既に回避は不可能、防御など当然不可能。1秒などという長時間すらかけずに、その聖剣は、少女の肢体を轢断した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黒荒ぶ暴風

年末に続き、年明けも私事のため、投稿が不定期になります。



恐らく、その瞬間をトウマが理解できたのは、その距離感にあった。

アロンダイトの刃が、クロの胴体を問答無用で叩き切るその瞬間だった。

クロの口元が、歪んだ。邪気すら感じさせる、悪魔めいた笑み。その意味を、トウマはよく理解していた。

あの表情には、スゴ味がある。あの悪魔めいた猟奇的な嫣然は、敵が罠にかかったという事実に対する喜悦であり―――そして、必ずあの敵をぶち殺すというスゴ味がある、残虐なまでの嫣然だった。

ここまで、()()()()に動いている。第一の切り札を封殺し、第二の切り札を抜かせる。苦く顔を顰めながらも、トウマは、懸命に事態が好推移している事実を飲み下した。

聖剣が、虚空を切り裂いた。少女の体躯を粗びき肉団子にするはずだった聖剣は、空しくも虚空だけを切断した。

ここからが本番。これからの一手こそ、逆転の為のカードだった。

―――やはり、トウマはその状況をよく理解できていた。戦況を俯瞰する状況だったからだろう。空気に溶けるように消えたクロは、今度はまるで霞が集まるようにランスロットの背後に現れ出た。

その手に握るのは、歪な短剣だった。とても殺傷能力があるようには見えない短剣。それこそはランスロット打倒のための切り札であり―――空間転移を利用した背後からの強襲こそが、切り札をぶち込むための一手だった。

狂戦士であるランスロットの最期は、魔力切れによる自滅だった。狂戦士、というクラス自体が魔力消費に激しい。さらには、ランスロットの切り札たる『無毀なる湖光(アロンダイト)』は、ただでさえ激しい魔力消費を跳ね上げる。一流の魔術師ですら瞬時に干からびるほどの魔力消費、即ち劣悪な燃費こそが、バーサーカークラスで召喚されたランスロットのほぼ唯一の弱点だった。

ならば、そこを突く。いわゆるマスターが何者なのかは不明だが、何者であったとしてもあの短剣の前ではすべてが無力。真名を解放し、マスターとの契約を解除してしまえば、それで終いだった。

後は、クロがあの短剣を無事に突き刺せば完了だ。それも、無事に終わるだろう。空間転移による背後からの強襲に反撃できるサーヴァントなど、そう数は居ない―――。

そう、数は居ない。確かに、反撃できるサーヴァントは数少ない。佐々木小次郎は迎撃してみせたが、あれはごく少数の例外に過ぎない。

ランスロットは、どちらに含まれるのだろう。ランスロットは、果たして通常の、対応できないサーヴァントに分類されるのだろうか。それはあまりに楽観的な予測ではないだろうか。むしろ今までの戦いぶりから察するに、アレは―――。

明確な予感。それは予感と言うよりも、むしろ確信に近い逡巡。彼女の名前を叫ぶよりはるかに早く、トウマは、その光景を見た。

人間の視界では到底捉えることなど不可能なその瞬間が、刻銘に網膜に焼き付く。

ランスロットの挙動は、人間と言う構造体の限界に達する稼働をした。背後からの攻撃に、僅かに首を振るだけで視界に捉える。攻撃の速度、距離、得物、攻撃部位、あらゆる情報をコンマ数秒未満の刹那に全て統覚。右腕を持ち上げて脇下にクロの手を誘い込み、無手の左手でか細い手首を鷲掴みにする。圧壊するほどに手首を掴むなり、振り向きざまに右手の大剣を薙ぎ払った。

ぷしゅ。あまりにあっけない水気のある音が、飛び散った。音に聞く名剣はエーテル体の肉体をまるで豚肉でも斬るみたいに切断し、噴き出した鮮血は噴水みたいに巻き上がった。

噴き出した血に塗れ、クロの身体が地面に転がる。所在なく顔を上げた彼女が見たのは、剣を振り抜く騎士甲冑の姿であり―――その体躯には、無数の双剣が剣山のように突き刺さっていた。

「湖の騎士ランスロット。貴方くらいのサーヴァントなら、背後からの奇襲程度には当然対応する。そうでしょう?」

すっくと立ちあがったクロは、あの獰猛に口角を上げると、嗤うように小首を傾げた。全身を貫かれたランスロットは身動ぎすらできずに、眼下の小さな悪魔を見下ろした。

「ならそれを利用して、周囲にばらまいた私の剣で次の一手を打つ。ま、反則だけど。戦略は王道を行くものだけど、戦術は狡猾に行くものでしょう?」

クロは、雑談でもするように言うと、短剣を構えた。歪な形の短剣、裏切りの魔女の幻想を象った短剣を掲げると、

「『破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)』!」

その胸へと、深く突き立てた。

衝撃は、一瞬だった。紙が裂けるような放電音が弾けるや、行き場を失った魔力が束の間周囲をのたうつ。痙攣しながら無音の絶叫を上げたランスロットは、そこで、虚脱するように立ち尽くした。

変化は、すぐさま生じた。金の鱗粉めいた光がランスロットの輪郭を溶かし始める。サーヴァントが自らのエーテル体を維持できなくなることで生じる、償還現象。霊核の破壊などでも生じる、サーヴァントとしての死の現象。さながらその光景は、菌糸に食まれる朽ちた古木を想起させた。

即ち、ランスロットというサーヴァントは、これで消滅する。それを裏付けるように、騎士の右手から聖剣が零れ落ちた。甲高い金属音を数度響かせて地面に転がったアロンダイトは灰が風に浚われるように消え去り、騎士甲冑の隙間から、毒々しいまでの黒煙が断末魔のように噴き出し始めた。

クロが、振り返る。無邪気に笑って見せる彼女の顔には、先刻の凄絶な表情は無い。それこそ、まるで習い事でいい成績を上げた子供が見せるような、そんな屈託のない顔だ。その顔こそが、目の前の現実を―――あのランスロットを降したという現実を、ありありと感じさせた。

だが、トウマは、安堵しかけて、身体を強張らせた。

何かが、おかしい―――奇妙な懸念が頭の片隅に占拠する。勝利は間違いないはずなのに、現前の光景が何か、違和感を訴えていた。

エーテル体を大源に溶かし、償還されゆくランスロット。突き刺さった幾対もの干将莫耶。身体から立ち上る黒い霧。既に亡い、聖剣(アロンダイト)―――。

「―――ダメだ! まだ倒してない!」

瞬間。

黒白の閃光が奔った。

 

 

 

 

双剣同士が衝突する。腕に残る斬撃の余韻は硬く、反発した衝撃がランスロットの躯体を打つ。はずみで、剣を引き抜いた傷口から汚水のように血が噴き出し、甲冑の隙間から落涙のように血が滴った。

絶好の機会にも関わらず、赤いアーチャーを仕留め損ねた。間違いなく油断を突いた攻撃だったというのに、少女は咄嗟に双剣を作り出し、ランスロットの攻撃を防いで見せた。あのマスターの声で気づいたのだろう、あと一歩だったというのに、隙の無いことだ―――

微かな敵への賞賛。かつて誉れ高い騎士であった男の知悉も、しかし一瞬だけのものだった。猛り狂う焦燥が理性など等にかき消し、全身を剣が抉る激痛の中、ランスロットは数秒だけ引き延ばした寿命を我武者羅に戦うことしかできなかった。

魔力消費の激しい『無毀なる湖光(アロンダイト)』を持ち続ければ、一瞬で魔力がそこをつく。なら使用放棄することで、僅かだが延命できる。それがどれだけの時間かはわからない。5秒も無いことはわかる。もしかしたら1秒程度かもしれない。でもそれでいい。能う限りにおいて、最後まで戦い続ける。それこそが、狂戦士(バーサーカー)として召喚された騎士の、あの騎士王にどこか似た黒い聖女に対する最後の忠義だった。

―――清廉であり、そして裏切りの騎士でもあったランスロットにとって、この召喚が何を意味していたのかは、余人をして推し量りえないものだった。同じく召喚されたサーヴァントには、恥じて自死したものも居たし、無理やり強化を付与された者も居た。中には逃亡した者も居たが―――ランスロットはそのどの選択もせず、黒衣のジャンヌ・ダルクに従い続けた。

狂戦士故の倫理観の破綻があったのかもしれない、あるいは壊れたのかもしれない。あるいは、自己高度に所有された独特な格率だったかもしれなかったが、やはり既に、それを理解する術は無い。ただ余人に理解できる事柄があるとすれば、主従の契約を破棄されたにも関わらず、狂戦士はただ忠義のような奇妙な情動のためだけに、黒衣の聖女の為に死体を懸命に動かしているという現実だけだった。

あと何秒、あと何秒。切迫する死の最中、ただ剣を打つ。ひたすらに、剣を打つ。打つたびに傷口が広がり、胴体は千切れる寸前になって、首もそろそろ落ちそうになっていたが、特に気にしなかった。どちらにせよあと一瞬で死ぬのであれば、どれだけ致命傷だったとしても、掠り傷と大差なかった。

双剣が唸る。防御の為に繰り出された双剣を捻じ伏せる。反動で左腕が取れた。だがどうでもいい。踏鞴を踏むように後退するアーチャーを、猟犬さながらに追いすがる。足が捥げるのもかまわずに猪突して、黒い狂戦士は絶叫とともに襤褸になった莫耶を、少女の脳天へと撃ち落とした。

剣を作る魔術より早く。赤い弓兵を凌駕するためだけに放たれた剣の刀身に、少女のかんばせが映った。あの、小悪魔じみた嫣然が、罅割れた剣に浮かんでいた。

少女が右足を踏み込む。踏み鳴らすようなそれは、力士の四股を踏む動作にも見えただろう。力強くそれでいて可憐ですらある踏み込みの衝撃で、足元の瓦礫が吹き飛ぶ。舞い散る瓦礫の中、紅の光軸が苛辣に迸る。

赤い、薔薇のような槍だった。宝具の発動は感じない。偶然足元に落ちていた宝具を拾い上げたのか? いや、そうではない。必勝を確信したさっきの顔は、間違いなく、その宝具こそが必殺の一撃であることを示していた。

魔槍の刃が鋭利に閃く。回避は不能、せめて即死は免れようと、白刃を槍の穂先へと叩き付け―――。

あ、と思った。

干将が作り上げた夫婦剣、その片割れたる莫耶。己の手に馴染んでしまっていた剣が、その槍の刃に触れた瞬間。

ランスロットのものでは、最早なくなっていた。あっさりと紅蓮の槍は刃を切り裂き、そのまま胴体を抉り抜いた。

視界が、地面に落ちる。胴体を貫いたその槍が、致命傷だった。足には力が入らず。手は指一本すら動かせなくなっていた。

「最後の切り札を切るまでとは思わなかったわ。トーマの言う通りにゲイ・ジャルグを置いておかなかったら、負けてた」

少女の声が、耳朶を打つ。そういえば、さっきの槍は、最初の宝具の斉射の時にあった―――気がしたが、よく思い出せなかった。

「円卓最強の騎士、っていうのはホント伊達じゃないわね。今のだって、本当は心臓狙いだったのにギリギリ躱すし。殺すなら、念入りにひり潰さなきゃね?」

少女の気配が遠ざかる。何かが来る、とわかったが、もうランスロットにはどうしようもなかった。

「バイバーイ、間男(チート野郎)

瞬間、周囲が爆発した。散らばっていた宝具が一斉に起爆したのだ。

焼け焦げる体躯、崩れる床。下層へと墜落した騎士が最後に見たのは、落下する宝具の群れと、侮蔑と尊敬が入り混じる素直な少女の表情だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

繋いだバトンのその重さ

「令呪1画を以て命ずる!」

マシュ・キリエライトは、その声に瞠目した。

眼前に続く通路。死亡したはずの肉塊はどこにも無く、己の肉体は確かに牢乎と佇立していた。

「『百花繚乱(ボーン)』―――」

ぞわ、と悪寒が肌を粟立てた。

サーヴァント化したマシュの知覚すら到底及ばぬ速度で後背に回った酒呑童子の影が、網膜の隅に焼き付いた。

不気味な既視感。あの食虫植物(ドロセラ)みたいに開いた掌を喰らったら、それで終わりだ。盲斑にこびりついた情景がぬらりと擦過し、吐き気すら惹起させたマシュは、捻じ切れるほどに全身を跳躍させた。

「『我愛弥(コレクター)』―――っ!?」

静かに、無邪気に、破壊的に。肉薄する魔の手が、マシュの脇腹を抉る。焼けた汚泥が血管を逆流するような激痛に、意識が喪失しかける。

直撃ですらない。ただ脇腹を掠っただけだというのにこの威力だ。もし直撃してしまったら。畏怖にも似た情動を大臼歯で磨り潰し、マシュは己の懐に飛び込んだ強敵を、驚嘆に目を見開いた鬼を見据えた。

「酒呑童子を何が何でもぶっ飛ばして!」

直截な言葉だった。およそ令呪と呼ばれる装備を最も有効に引き出し得る、端的な言明。浮いた右足を床に接地さると同時、踏み込んだ右足でもって己の体躯を弾き飛ばした。

「マシュ・キリエライト、戦術行動に入ります―――!」

虚を突かれた酒呑童子に、超至近からのシールドチャージを躱す術は無かった。げぶ、と潰れた蟾蜍みたいな声を上げた酒呑童子を、そのまま壁面へと叩き付ける。そのまま磨り潰すようにさらに一歩を踏み込みかけて、マシュはぎょっとした。

盾が押し込めない。いや、それどころではない。盾の縁へと、酒呑童子の手がつかみかかるや、逆に押し返し始めた。

「ホント、あんたはんはうちの予想を裏切るなぁ? どうやってアレ、躱したん?」

盾の向こうから、蠱惑的な媚声が耳朶を打つ。自分が肉塊になりかけているというのに、その声には焦りも無ければ恐怖も無い。ただ今この瞬間の現象を楽しんでいるだけの、人間の尋常を遥かに超えた鬼種の悦楽だけがそこに在った。

「やっぱりうちには合わんてことかねぇ?」

凄まじいまでの膂力だった。鬼種のその怪力、到底マシュの力では拮抗することすら烏滸がましく、徐々に両足が背後へと滑り始めていた。

忘我の狂戦士(グランド)の霊基、なんて」

盾の縁から、ぬるりと角が覗く。凶つ双角の淵で、幽らめく眼差しのような虚が、マシュを飲み込んだ。

さらに、一歩。酒呑童子の歩様に押し返されたマシュの細身は、激流に遊ばれる木の葉のように、足裏を滑らせ―――。

「先輩!」

「残り、最後の令呪を以て再度命ずる!」

足裏が、床面を破砕する。押されかけた両足は大地を掴み、盾を構える左手は災害じみた膂力を捉えた。

令呪。サーヴァントを律する絶対命令権。カルデアで運用されるそれは、冬木(オリジナル)のそれとは異なり、純粋な魔力リソースとしての側面が強い。それこそ、二画用いれば対城宝具にも匹敵するだろうその魔力リソースを、マシュは身体強化にのみ注ぎ込んだ。

強化の魔術の本質は、構造物の脆弱部位に魔力を通すことで強度を上げることにある。強化に必要な魔力量はその構造物次第であり、徒に膨大な魔力を注ぎ込めば、むしろ脆弱部位から強化物が自壊しかねない。令呪という膨大な魔力リソースを持続的な身体強化に回すなど、それこそ自殺行為にすらなりかねなかった。

どこかが裂けた。どこかが裂けた。どこかが折れた。どこかが穿孔した。どこかが、抉れた。視界が真っ赤になっている。げふ、と肺から漏れた吐息に、血が溢れた。

吐血と鼻血。呼吸がし辛い。途端に酸欠になって頭が割れそうになる。指先の肉が抉れていた、剥き出しになった骨が顔を覗かせていた。

果たして、その絶叫は己を奮い立たせるためだったか、それとも全身の穴から出血しながら生じる激痛に苛まれたものだったか。あるいは両方だった気もするし、全然違っていた気もするが、ともかく、マシュは壊れたベビーカーの金具みたいな疾乎を上げた。血まみれになった肺をなんとか稼働させて咆哮を上げて、両足で激流を押し上げた。

僅かな驚愕が、盾を打つ。驚愕は驚嘆へ。驚嘆は畏怖へ。酒呑童子の機微な情動の流転すら押し切るように、マシュはその頑強な体躯を壁面へと叩き付けた。

反動で、腕が折れた。橈骨が腕を突き破った。

……はっきり言って、めちゃくちゃ痛かった。腕の解放骨折もだけれど、ともかく全身が痛い。

だが、マシュは気にしなかった。戦闘者として決して長じていないマシュにとって、物理的損傷の痛みは決して慣れているものではなかったし、自己損傷度を測り身体損壊を客観的に理解することなど、当然できてはいない。

マシュの単なる主観的感傷。死ぬほど痛いけれど、気絶しそうなほど痛いけれど、それでもきっと、大丈夫。ここで自分が壊れても、きっと誰かがなんとかしてくれる。

だから、全力で行く。己の崩壊も気にせず、穴という穴からの出血もほとんど構わずに、マシュはそのまま壁をぶち抜いた。

対城宝具級の打撃は、如何に【天性の肉体】による頑強さを誇る酒呑童子であろうとも耐えられるものではなかった。壁面と盾に挽き潰されながら城外に吹き飛ばされた肉塊は、奇枯れ死ぬ老婆のような吐息を漏らしながら重力落下していった。

倒した―――酒呑童子を、斃した。安堵感が臓腑から膨れ上がった途端、マシュは沸騰した重金属が全身の神経に叛乱したかのような衝撃に、奥歯を噛みしめた。

斃れかかる寸前、誰かが背から抱きかかえる。背中に感じる温度に、マシュはなおのこと安堵を強めたマシュは。

「先輩、私、上手くできましたか?」

ぐい、と自分を抱きかかえる力が強くなる。多分それは、肯定を意味する仕草だったのだろう。少女のように莞爾と笑ったマシュは、そのまま微睡みの砂漠に意識を放擲した。

寸前。

さっきのアレは何だったのだろう―――?

 

 

 

 

炎が、来る、決して己が有することはあり得ないはずの怨嗟の炎が、襲い掛かる。

あの攻撃の特性がなんであるかは不明だが、先ほどの撃ち合いで理解している事実が一点ある。出力が低下している自分のスペックでは、あの攻撃を正面から封じ込めることは到底不可能だという事実である。最初の撃ち合いの際は、マシュのスキル―――【自陣防御】が無ければ、火力で押し切られていた。そして今、マシュはそのスキルを発動する余裕が無い。

ジャンヌ・ダルクの周囲に暗黒色の焔が渦を巻き始める。渦巻く怨嗟を燃料に燃え盛る炎が大気中の大源(マナ)に引火し、さながらそれは意思を持った火災旋風の如き様相だった。

先ほどの攻撃など問題にならないほどの、まさしく超高火力。フルスペックで召喚されていても子供扱いされるだろうそれは津波そのもので、ジャンヌなどという存在は葦と大差ない現存在に過ぎなかった。

だが、ジャンヌはやはり現存在であり、思考する葦だった。パスカルが書いた『パンセ』にて呟いたように、人間とは貧相な身体性でもって困難に立ち向かう存在者だった。

思考は刹那、刹那は永遠。逡巡は秒未満で、ジャンヌは紅蓮の炎に飛び込んだ。

「『我が神は、此処に在りて(リュミノジテ・エテルネッル)』!」

宝具を解き放つ。

其は、聖女の精神性の具現。実質数値A++に達するEXランクのクラススキル【対魔力】を魔力防御に変換することで、あらゆる攻撃を防御する最上級の結界宝具こそが英霊ジャンヌ・ダルクが賜りし至高の御業だった。

だが、漫然と使用してはダメだ。馬鹿正直にぶつかれば、間違いなく食い破られる。さながら蛇竜の如くに唸りを上げる焱の群れ。ファヴニールの火焔すらをも上回る大出力の炎熱を前に、ジャンヌはただ、旗の穂先を自己の前面へと突き出した。

己の意識を、全力で先鋭化させる。

本来大軍を守護するための結界、それをただ己だけの守護へと転換させる。広範囲の防御陣は不要の無駄。ただ自分という人間独りを守るだけの防御範囲で良い。そうして不要となった余剰魔力を自己防御にだけ収斂させ、さらには魔力放出によって、180.mm徹甲弾さながらにジャンヌの肉体が跳躍した。

炎の壁の先で、自分と同じ顔が驚愕と畏怖に歪む。防御ごと屠ろうとしたのは相手も同じで、だからこそ、炎の群れをジャンヌの結界が弾き返すなど、慮外のことだった。あるいは、黒衣のジャンヌ・ダルクにとって、ジャンヌがその宝具を自己防御のためだけに先鋭化させて使用することなど到底思いつきもしなかった。そして、ジャンヌ自身も、そんな使用方法は考えたことすらなかった。

だが、やはり厳然とした事実として、ジャンヌは不完全な召喚に違いなかったし、黒衣のジャンヌ・ダルクの炉心は段違いだった。

ふと左腕の感覚が無かった。傍目に一瞥すると、左腕の肘から先が炭化して、ボロボロと崩れ落ちていた。結界が維持できなかったのだ。光の防壁を食い破るように突破した炎の竜は忽ちにジャンヌの左腕に噛みつき、灼熱の舌なめずりで腕を咀嚼した。

だが、ジャンヌの突撃は止まらない。左腕が落ちようとも、左顔面が焼けただれようとも、彼女の疾駆は止まらない。

そうして、旗も焼け落ちた。これまで幾度と対城宝具に匹敵する幻想(こうげき)を受け続けた代償に、ジャンヌ・ダルクの旗は跡形もなく焼尽した。本源的に、魔術と魔術のぶつかり合いは、その威力でなく神秘の濃度によって優劣が決する。如何に小手先の技量でもって魔力を一転に集中させたとて、根本的に膨大な幻想によって成立する黒炎の宝具を防ぎきれる道理は無かった。

だが。

コンマ数秒、長く防御を維持できた。そのコンマ数秒によってジャンヌは当初予定より5歩、駆けた。

そして、その五歩こそが最後の一手。ジャンヌはその五歩で炎の波濤を踏破し、煉獄に灯る燈を潜り抜けた。

網膜に、死蝋のような顔が飛び込む。全く同じ顔をした屍色の貌が、目と鼻の先で数多の情動に彩られた。

その時、ジャンヌ(ジャンヌ)ジャンヌ(ジャンヌ)と邂逅した。決してあり得なかったはずの存在者と、それ以外には在りえなかったはずの存在者が、不可能性の裂け目で交錯した。

攻撃は、僅かにジャンヌが速かった。ジャンヌ・ダルクが剣を振りかぶったときには既に遅く。ジャンヌは己が剣の脇にぶら下げた短剣を引き抜くや、魔女の胸元へと突き立てた。

「貴様―――!」

ジャンヌ・ダルクに、恐怖にも似た情動が奔る。激情に駆られるように振り下ろされた剣を、ジャンヌはジャンヌ・ダルクの右脇に潜り込むようにして紙一重で躱して見せる。振り下ろされた刃はジャンヌの長い髪をざくりと斬り散らしたが、それだけだった。

ジャンヌ・ダルクが身を捩る。旋回の重心運動に乗せて、背後に駆け避けたジャンヌの背めがけて剣を薙ぎ払うつもりだ。だが、ジャンヌは迫りくる刃を前に、躱すことはしなかった。むしろ彼女は、再度魔女の懐へと肉薄した。

剣がジャンヌの身体を裁断するまであと1秒。だが、彼女にはそれより早く攻撃を叩き込む自身があった。論拠は一つ、ジャンヌ・ダルクの装備はあくまで長剣。対して自分は旗すら無い身軽な状況。さらには左腕というデッドウェイトすら無いジャンヌは、ただ、右の五指を強靭なまでに握りこんだ。

踏み込み一歩。薙ぎ払われる長剣より数舜速く、ジャンヌの拳が唸りを上げた。

「―――Set!」

狙いは一点。胸に浅く突き刺さった慈愛の短剣。ともすれば十字架にも見えるその短剣の柄頭を、ジャンヌもまた振り向きざまに叩きつけた。

ず、ぶ、り。

柔い感触が、腕を伝った。黒黒としたミセリコルデは霊衣を切り裂きエーテル体の肉をも貫き、そのさらに奥―――霊核をも、貫通した。

沈黙が、零れた。わなわなと震えながら、ジャンヌ・ダルクは己の胸に突き刺さった短剣を、穴が開くほどに見つめていた。

果たして。女の貌は、何を表象していたのだろう。交雑によって産み落とされた私生児めいた情動は、あらゆる表象から零れ落ち、感情という人工的なカテゴリをはみ出してしまうものだった。

「お前は。アンタは、本当に!?」

ごふ、と破裂音じみた音ともに、ジャンヌ・ダルクの口角から血が溢れだした。どす黒い泥のような吐血に胸の血が混じり、彼女は、血のエプロンをしているかのようだった。

ジャンヌ・ダルクの膝が折れる。酩酊したかのような虚ろな目をしたジャンヌ・ダルクは、もう一度泥の血を吐くと、ぐらりと体躯が崩れた。

ジャンヌは、必死に手を伸ばした。朽木が毀れるように倒れ込む己と同じ顔の悪魔の指先に、自身の手が触れかけ―――。

ぞわ、と何かが惹起した。敵の奇襲、と理解するのとほぼ同時、ジャンヌの頭上から何かが躍りかかった。

がちゃ、と軋む金属音。頭蓋を叩く衝撃。短く悲鳴を上げながらも、あわや背後に飛び退いたジャンヌの、額の金具に攻撃を掠めただけだった。

それが、面前で蜷局を巻いていた。

うぞうぞと身体を這わせる奇形の生物。ともすれば蛸にも見える、名状しがたい人理の外側の生命体。先ほどから散発的に姿を現していた、水生生物モドキだった。

どこから湧いてきた―――思考が疑問に切り替わりかけるのを、ジャンヌは無理やり制止させた。

あの奇妙な生き物は、サーヴァントに到底及ばない。だが、今の自分は何も武装が無い。旗すら無い。あるのは精々、腰に装着した剣のみ。そしてこの剣は、まだ抜くわけには―――!

ぼとり。

もう一つ、水音じみた音が耳朶を叩く。頭上からもう2匹、畸形の生き物が這い出してきたのだ。まるで聖女を庇うように現れた生物は、背後でジャンヌ・ダルクが立ち上がるのを合図に、一斉に跳躍した。

「待ちなさい!」

怪物の影の向こうで、ジャンヌ・ダルクの背が遠ざかる。ここで逃がすわけにはいかない、という思考が地獄の坩堝の火のように脳幹から横溢し、ジャンヌは、腰の剣へと手を伸ばした。

指先が柄に触れる。じゅ、と熱が指先を伝わり、全身が燃えるように総毛だち―――。

ぶしゃり、べちゃ。

海魔の肉片が、宙を舞っていた。

ジャンヌの目に飛び込む、赫焉の後背。猟犬の牙のような赤い剣を一閃し、忽ちに怪異を両断した少女の背が、勇躍と屹立していた。

「トレース!」

ぐにゃり、と彼女の手の中で、剣が形を変える。敵を斬殺するための兵装が、より先鋭に、より長く変化する。

剣というよりそれは、矢。魔剣は姿を変えるなり、黒塗りの弓の弦へと番えられた。

「逃がすかァ!」

弓から、矢が射出される。戦車の砲弾にすら匹敵する初速で放たれた魔剣は、猛然と標的を追いかける。さらに湧き出した怪物を瞬く間に挽肉に変えながら、紅蓮の矢は狩猟犬さながらに疾呼し、純黒の影を抉り抜いた。

影が、地面に転がる。鮮血を噴水のように巻き上げた黒い影に、赤い衣の少女が駆け寄る。ふらふらと立ち上がったジャンヌも、彼女の背を追った。

「クロエ、彼女は―――」

黒い体躯を見下ろすクロの傍に並んだジャンヌは、床に転がる黒い骸を、ただ、見下ろすことしか出来なかった。

黒霧の狂戦士が、そこで死んでいた。全身を刃に貫かれ、胸を赤い槍で串刺しにされた骸の腹に、さっきの剣が突き刺さっていた。

狂戦士のサーヴァント、ランスロット。クロの攻撃からジャンヌ・ダルクを庇った騎士は、鎧の隙間という隙間から血を吹き出しながら絶命していた。

何か、声が鎧の隙間から漏れた。人名にも聞こえた呻き声は、しかし一秒後には、己の肉体とともに掻き消えていった。

「ホント、どれだけしぶといのよ」

苦々しく、クロは言葉を吐き捨てた。

ランスロットの相手は、彼女がしていたはずだ。

「追いかけなければ!」

「待って、まずはこっちの戦力を立て直さなきゃ。なんとか勝ってるけど、こっちも酷い」

逸るジャンヌを、クロは努めて冷静に制した。悠長な、と思いかけたところで、ジャンヌは立ち尽くすトウマの姿を目にした。

痛ましく、下唇を噛みしめた少年の貌。ジャンヌを見つめる少年の目は、目前の出来事に―――損壊したジャンヌの姿を、ただ見つめていた。

いや、自分だけではない。その視線が、彼女の背後―――もう一組の仲間に注がれていることに気づいて、ジャンヌもそちらに視線を移した。

「マシュ、リツカ! そっちは」

クロが、言いかける。言いかけて、彼女は、喉を鳴らすように絶句した。

「こっちは、無理かな」

あくまで気さくな様子でリツカは返したけれど。

リツカの肩に支えられて、マシュはなんとか歩いていた。いや、歩いているかどうか。最早、ただ引きずられているだけにすら見えた。

よく拭き取ったのであろうが、それでも、流血の後は拭い去りがたかった。目や耳、口、あるいは陰部。人間の穴という穴から噴き出したであろう血色の体液の痕が、上質な白磁のようなマシュの肌の上にのたうっていた。

一見して、理解できる。マシュは戦える状況にはない。リツカがなんらかの応急処置をしているのだろうが、あくまで一時的な処置だ。本来であれば、すぐにでも治療を受けなければならない状態だった。

「マシュはこれ以上戦えない」

「わかった。じゃあ、私とトーマでなんとかするしかないわね」

「え、いや―――あぁ」

トウマは、虚を突かれたように絶句すると、一層絶句を深めて頷いた。彼は、賢くないが愚かではない。最後の戦いがまだ残っていること―――そして、その戦いにリツカはついていけないという事実を、少年は明確に理解した。

指先が、戦慄いている。マスター二人体制でこの旅路に挑んでいるようだが、実質的にはリツカがマスターとしての役割を担っている。どこか気弱そうなトウマは、あくまで形式上マスターになっているに過ぎない……ように見える。彼らの事情は知らないが、トウマは魔術師どころか魔術使いにすら見えなかった。それこそ、そこいらの農村で遊び惚けている子供のようにも。

そんな少年が、唐突に矢面に立つ。その意味するところがどれだけ過酷なのかは、想像に方くない。

「クロエ、私もまだ戦えますよ」

だからこそだろうか、ジャンヌはさも当然といったように言った。

「無理よ、肝心かなめの旗はもう無いんでしょう? それに、腕も―――」

「大丈夫です。まだ右腕がありますから、雑魚の一匹や二匹は殴り倒せるでしょう。腕が取れたら歯で噛み切ればいい。顎が無くなったら―――肉盾(かべ)にでもなりましょう」

決然と、さりとて蕭々とジャンヌは言った。済まして言って見せる素振りは、それこそ日向ぼっこする子供のようですらあった。

「トーマ君」

リツカは気絶するマシュを静かに床に座らせると、言った。

「ここまで来たんだし、きっと上手くやれるよ。それに上手くやれなくても、まぁ、気にせずにね」

「そんな、無責任な」

「実際、文字通り無責任だよ。トーマ君が頑張った結果ダメだったら、それは元から貴方の責任能力を事態が大きく上回っていただけのことだから。貴方には何の責任も無いし―――あったとしても、世界が終わった後には誰も責める人は居ないわけだからさ。結局、責任なんてあって無いようなものでしょう?」

リツカは、全く持って無責任なことを言った。思わずジャンヌも瞠目するような話ではあった。彼女たちの言うことが真であるならば、特異点が修復できなければ、その特異点を起点に人理は崩壊するはずだ。それは即ち、人類史の消滅を意味する。何が何でも防がねばならない事態を、しかし、リツカは言わば、『まぁ、人理崩壊したらしょうがないさ』と言って見せたのだ。

もちろん、それがわからないトウマではない。やはりジャンヌと同じように目を見開きながら、しかし、少年は歯を食いしばりながら、ただ頷きを返した。

(こちらとしては、今の話は聞き捨てならないんだけどね)

網膜内に通信ウィンドウが立ち上がる。引きつったような苦笑いをしたロマニの顔が映っていた。

「大丈夫ですよ、トーマ君ならやれる。良い目をしてますから」

(ダメだったらどうするんだい?)

「その時は……頭をかいて、苦笑いしますよ。人理はここまででした、ゴメンナサイって」

(やれやれ)

ロマニはごしごしと頭をかいた。げんなりと溜息を吐くと、(でも、君が判断するならなんとかなるか)と心にもない言葉を繋げた。

(そうそう。報告だけれど、平原の戦いは終わったよ。屠竜は完遂された)

「皆は?」

(いや)

「そうですか」

リツカは、酷く素っ気なく応えた。脱力した指先に普段と変わらない表情からは、何の感慨も読み取れなかった。

「さ、早く行っておいで。大丈夫、未来を変えるのはいつだって、どこにでも居る、ありふれた誰かなんだから」




人理の命運はトウマ君たちに委ねられました。
一人で戦い続けたfgoのぐだ男とぐだ子はきっと一般人なんてメンタルはしていないと思います。
もしくは無我夢中という一種の狂気状態に彼らはあるのかもしれませんね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

悪虐はただ聖女のため

オルレアン大聖堂、玉座の間。

 

ジャンヌ・ダルクは、身を引きずるようにして、玉座を目指していた。

足元に転がる主の像を蹴飛ばし、聖母像を踏み砕き、やっとの思いで、質朴な座に身体を預けた。

身体が、熱い。事物が腐敗するときには熱を発するというが、彼女が味わう熱気は丁度そのようなものだった。

胸には、未だに、短剣が突き刺さっている。十字の形をした短剣、慈愛の剣(ミセルコリデ)の柄に手を触れると、一息に引き抜いた。

血は、出なかった。だが、引き抜いたところで無意味だった。腐敗が食い込み、火を熾すような錯覚が身体の心髄にまで達している。

これは、何なのだ。この熱は何なのだ。全く経験の無い、それでいて己の核を形成するかのようなこの陽の熱は一体、何なのか。

げほ、と咳き込む。既に喉元まで焼け始めているせいか、呼吸をするたびに乾いたガサガサと乾いた音が漏れ出た。

「おいたわしや、我が聖女。なんと痛ましいお姿に」

誰かの声が、耳朶を衝く。

誰の声だったか。父親のような温和な声色は酷く聞き馴染みがあったけれど、思考が上手く纏まらない。

「ごめんなさい、私上手くやれなかったわ」

「いえ、いえ。謝るべきは私なのです。私が不出来であったばかりに、貴女様は未完のままに生まれてしまったのです」

誰かの手が、髪を梳る。奇妙な安堵にも似た脱力を感じながら、ジャンヌ・ダルクは、表情を緩めた。

「今はしばしお休みを」

「でも、まだ私まだ主の嘆きを」

「―――いえ、良いのです。後は私めがお引き受け致します故」

そう、と自分の口が応えた。その時は、自分は何を感じていただろうか。表層で安堵のようなものを感じていたような気がしたけれど、彼女の主観的体験は感情とは奇妙な乖離をおこしているような気がした。

「それではおやすみなさいませ。我が聖女」

ざら、と意識が石炭のように固着していく。炭化した意識はそのまま酸性雨に晒されて朽ちるようにざらざらと崩れていった。

何故か、あの女の声が、最後に脳髄を擦過した。

あぁ―――嫌な女だ、と思った。

 

 

 

 

男は、冷然と彼女を看取った。

エーテル体が崩壊し、大気に魔力(マナ)となって拡散していく。光に包まれたかと思った次の瞬間には、ジャンヌ・ダルクの姿は跡形もなく霧散していた。

ともすれば、美しくも見えたその光景を、男は色を失った顔で眺めていた。

無表情、では無い。そこにはありうべき数多の情動があり、激憤のようなざわめきが男の体の中で渦を巻いていた。

男は、表情を亡くした顔を持ち上げた。酷く爬虫類じみた挙措で顔を上げると、男の目は。扉をあけ放った人間を捉えた。

男は、大儀そうに姿勢を正した。

「やっぱり、貴方だったんですね」

耳馴染みの声が、じわりと男の脳髄を震盪した。

「えぇ、貴方をおいて他には居ないとわかっていました」

人間は、三人いた。怪訝そうな顔の赤いアーチャー。困惑気味の間抜け面をした黒髪のマスター。そして、最後の一人こそは。

あの子(わたし)を創ったのは貴方ですね。ジル」

銀の鎧が、音を立てた。

男は。ジル・ド・レェは、生気を喪った顔を、笑い顔に軋ませた。

 

 

 

 

 

 

ぬら、と何かが蠢いた。

城外より10km地点、荒れ果てた荒野に、それは屹立していた。

肉の塊が、不定に蠢いている。苦痛にもだえる様にも、あるいは歓呼に打ち震える様にも見える蠕動でのたうつ肉塊だった。

それは、つい数舜前まで、酒呑童子という名前を持ったサーヴァントだった。令呪2画を以て放たれたマシュのシールドバッシュは、高ランクの【天性の肉体】を持つ酒呑童子を挽肉以上のペーストにまで圧壊させていた。

だが、それは、まだ生きていた。最早単なる肉片となりながらも、未だしぶとく生きていた。

理由の一つとして、酒呑童子の持つスキル【戦闘続行】の恩恵がある。狂戦士として召喚された酒呑童子のソレは、実質数値に換算すればA+++を超えるEXランクに相当する。肉塊になった程度で死ぬほど、ヤワでは無かった。

だが、それは理由の一つに過ぎない。

肝要なのは、もう一つの理由である。そしてその理由は、第一の理由を成立させる原因でもあった。本来の酒呑童子の【戦闘続行】を3段階引き上げる、その原因。それこそは―――。

ぐしゃ、と肉塊が音を立てた。よく見れば、肉の塊から、触手が生えていた。取り止めも無く彷徨っていた4本の触手は徐々に手足を象り、にょきりと生えたむかごのような肉芽は、次第に角を生やした頭部と相成った。

瞬く間に肉塊が凝集し―――わずか10分の後、肉団子は、酒呑童子に形成された。

表情は笑っている。邪気を一切感じない童女めいた表情をしながら、酒呑童子は愉快そうに城を眺めた。

「ちょぴり本気、出したんやけどねぇ」

何故、という思考が、微かに過る。

あの盾のサーヴァントの運動性能・反射神経は既に織り込み済みだった。その上で、決して反応できない速度で動いたつもりだったのだが。

ただ、酒呑童子はすぐに思考停止させた。答えは簡単。単純に、自分の目測が誤っていただけのことだ。それ以上でも以下でもなく、それより先は考えても詮のないこと。頓着も無く思考を終えると、酒呑童子は、軽やかな一歩で、石畳の地面を踏み砕く。

そうして身を屈め、酒呑童子の矮躯が飛蝗のように跳躍する。

はず、だった。

斬撃は、身を屈めた瞬間に放たれた。

狙いは首。喉から嵌入し脊椎を刎ねようと、極限の閃光が弦月のように閃く。

寸で、酒呑童子はその剣戟に拳を叩き込んだ。あわや首を両断するはずだった剣は取り付く島もなく撥ねつけられ、剣戟を放った騎影は薄氷を滑るように飛び退いた。

酒呑童子は、無言でその影を注視した。

黒い、ローブを纏った剣士。顔色は伺えず、頭部に空いた虚は最果てにすら届いているかのような錯覚を惹起させた。

それに、しても。

酒呑童子は、己の右手を、見下ろす。剣を殴りつけた右手は、酷く拉げていた。折れた中手骨が皮膚を突き破り、末節骨が指先からまろび出ていた。

無論、その傷自体も驚くべきことだった。強靭なはずの酒呑童子の肉体を、ただ剣の一振りで損壊させた。並みのサーヴァント……否、トップサーヴァントとて、そんなことは出来ぬであろう。

だが、なお驚くべきことがあった。

酒呑童子は、その攻撃に反応するだけで精一杯だった、という事実が、である。通常の霊基のさらに上位の器にはめ込まれた酒呑童子の性能は、生前のそれすら上回ろう。フルスペックとすら言える酒呑童子をして、反撃しか許さぬ攻撃を繰り出すなど、それこそ、あの金髪の孺子か牛女くらいなものだろう。

即ち、それは―――。

酒呑童子の表情が、凄絶に歪む。鬼の形相、という言葉があるが、彼女の貌はまさに悪鬼羅刹の嘲笑そのものだった。差異があるとするならば、人間のそれは怒りに打ち震えることで発現する表情だったが、酒呑童子のその形相は、ただ愉快さだけが鬱勃と膨れた満面の笑みだった。

「あんたはん、そういえばデオンの報告にあったねぇ。黒ずくめの剣士、って。別にこっちに敵対するわけでもないから捨て置けってあの聖女サマは言いはったけど」

うぞり、と酒呑童子は剣士に近づいた。剣士は一歩も引かずに、剣を―――折れた銘釼を、上段に構えた。

「あらまぁ。あんたはん、うちと同じなん? いやぁ、ちょっと違うなぁ。あんたはん、小綺麗な匂いやけど―――うちと同じで、獣臭いなぁ?」

バキ、と甲高い音が鳴った。

骨が折れた音だった。酒呑童子の堅牢な肉体、その骨格となる骨が、自壊した。

否―――自壊、というのは語弊がある。正確には自壊しながら、再生していた。さらに正確に叙述するならば、酒呑童子は、己の肉体を、作り替えていた。

その様は、【自己改造】に酷似していた。己の肉体を作り替え、より強力な個体へと変貌させる反英雄の持つスキル。決してサーヴァントのクラスなどには収まりきらない、酒呑童子という天性の魔を顕現させるためのスキルであり―――その霊基の酒呑童子であるからこそ、獲得してしまったスキルだった。

およそ、数舜。

酒呑童子は、既にそこに居なかった。

ただ、そこには、獣が一匹居た。剛毛に覆われた四肢に、おどろおどろしい影で覆われた肉体。表情は既に影に飲まれて亡く―――にも関わらず、喜悦だけが、朧に歪んでいた。

鬼、だった。人智という賢しらさなど決して及ぶことの無い射干玉の夜が、そこに屹立していた。

沈黙は刹那。

攻撃は同時。

強襲する獣を、不滅の極聖が迎え撃った。

 

 

 

 

 

 

「ジル・ド・レェって、あの―――?」

トウマは、長身痩躯の男に奇異の視線を送らないわけにはいかなかった。

ジル・ド・レェ。もちろん、トウマは歴史上実在した青髭ジルのことには詳しくない。知っていることと言えば当然。『Fate/Zero』のキャラクターとしてのジルだ。

ジルは、なんというか、こんな様ではなかった。言動はおかしかったし、如何にも黒魔術師めいた格好をしていたし、何よりもっと目が飛び出ていた。

目の前の痩せぎすの男に、そういった様子は無い。どちらかと言えば落ち着いた物腰の男には狂気めいたところは無く、むりそ理知的な表情ですらあった。

それに、そもそも。

デオンから伝え聞いたサーヴァントの中に、ジルの名は無かったはずだ。

「待って」

トウマの思考を落ち着かせる、クロの声が耳朶を打つ。いや、違う。クロの声色は、冷静さを喚起するものではなく、その逆だった。むしろ、その声は押さえきれない驚愕をにじませる声音だった。

「あれ、半分サーヴァントじゃない」

「ちょっとまって、それってどういう」

(こちらでも確認した。確かに彼はサーヴァントであってサーヴァントではない状態……正確には生身の人間を依り代に召喚されたサーヴァント、疑似サーヴァントに近い存在だ)

疑似サーヴァント。トウマには初見の言葉だったが、ロマニの説明で概ねを了解した。

通常のサーヴァントは、エーテルによって肉体を構成された純粋な霊体であるのに対し、疑似サーヴァントは通常の人間の身体にサーヴァントを憑依させるような形で召喚されたようなサーヴァントのことを言う……のだろう。その条件等は知れないが、目の前の人物は生身の人間でありながら、サーヴァントでもある存在者だった。

「何やら小うるさい物見がおりますが」男はやはり感情の起伏無く、ぼそりと口にした。「えぇ、その通りです。私はジル・ド・レェ(わたし)の肉体を触媒と依り代にし、英霊としてのジル・ド・レェ(わたし)を召喚しました。サーヴァント、クラスはセイバーと言ったところでしょうか」

男はこの時、微笑みすら浮かべて見せた。無表情の上に張り付けた薄らかな微笑。僅かに開いた瞼の奥に淀む瞳は、不気味なほどの伽藍洞を孕んでいた。

「どうして、とは尋ねません。今の私には、貴方の心情に幾ばくかの同情を寄せることができる。その聖杯を使って、憎悪を滾らせる私を望んだ貴方の気持ちを幾ばくか理解できる。決して、貴方がこの世全てが赦せないことも、幾ばくかは、わかるような気がします」

男の奇妙な威圧に、ジャンヌは全く気圧されなかった。決然としたジャンヌの目は、男の姿を真正面から見据えていた。

男は、僅かに身動ぎした。表情の変化は、相変わらず存在しない。ともすれば慈悲深い司祭のようにも見える微笑を浮かべる男は、そうして、おもむろに手を伸ばした。

掌の上で、空間がぎちりと歪む。奇妙な力場を形成しながら、男の掌で静かに安らうそれこそは、即ち―――。

「―――なるほど、ね。本来あり得ないはずのジャンヌの別側面。不可能を可能にするものは、聖杯しかない。あの魔女こそが聖杯そのものだった……ってところかしらね」

クロは、どこか鼻白むように言った。感心したように見えて吐き捨てるようなその物言いは、願望機として機能している聖杯に対する、不可解な同族嫌悪のようなものだった。

「えぇ、そうです。私はコレに願ったのです。貴方が焼け落ちた次の日、何故か私の手元に在った聖杯に願ったのです。貴方はきっとそのようなことを望みはしない、とはわかっていました。貴方は己の行為に後悔すれども、それを誰かに押し付けるようなお方ではないとはわかっていました。

私は本当は、貴女に怒ってほしかった。でも貴女はきっと、あの運命を受け入れられる。だから、私は善を捨て、悪逆を為そうと決めたのです。」

男はどこか寂し気に笑うと、掲げた手を静かに握りこんだ。そうして再び開いた手には、酷く分厚い、名状しがたい表紙の魔本が浮かんでいた。

ぞわ、と何かが脈を打った。

世界に満ちるマナが、おののく様に蠢動するような錯覚。淀み、腐り落ちた大気が身体の四肢末端から嵌入してくるかのような悪寒。思わず嘔吐しかけて口を抑えたトウマは、即座にその異変の元凶を理解した。

騎士が開いた本から、とめどなく汚泥のような魔力が流出している。なんの魔術的強化も施していない肉眼ですら識別できるほどの歪みが地面に水溜まりのように広がるや、べちゃり、と何かが這い出した。

冒涜的な、水生生物じみた何か。人間の身の丈ほどもある巨大な何かが、不定にうねりながら、魔力の渦から這い出した。

その数、優に10は超える。男の周囲に産み落とされた怪異は孔から這いずり寄ると、奇妙な甲高い遠吠えを上げた。

「それでは。どうか、我が魔道を阻みたまえ―――ジャンヌ・ダルク!」

「えぇ、必ず止めます。以前と同じように、私の傍らには頼もしい方がいますから!」

ジャンヌが、僅かにトウマを一瞥する。勇ましく持ち上がった口角とともに、毅い目がトウマを見返した。

「俺は、信仰とか善とか悪とか、よくわからないけど」

男の足元にも、魔力の汚泥が淀んでいく。黝い吹き溜まりから噴き出したエネルギーの余波に煽られ、男の髪が逆立った。

(敵性サーヴァントの霊基パターンが変調した! セイバーから……キャスタークラスに変わった)

汚泥から、甲殻類のような、軟体生物のような奇怪な触手が腕を擡げる。

男が、捕食される。絡みついた腕が天高く男の体躯を持ち上げ、全身の骨格を食み砕いていく。

磔にされた、咎人。網膜に過る表象に、男の貌が、紛れ込んだ。愚劣なまでに素直な貌は、ただ、何かを、苦酷な何かを希求するかのような貌に歪んでいた。

怒号にも似た金切り声が炸裂する。淀みから身を乗り出した巨大な海魔は完全に男の姿を取り込むと、ぎょろりと、3人を睥睨した。

「止めよう。クロ、ジャンヌ!」

 

 

 

 

 

 

「―――先輩?」

朧げながらも意識を取り戻したマシュが最初に見たのは、リツカの顔だった。

「大丈夫? 応急処置をしただけだから、まだ動くのは無理だと思うけど」

精一杯、リツカは平時と変わらぬ様子で言う。飄々としたリツカの背には、けれども、玉のような汗が浮かんでいた。

汗が、彼女の額を伝い、目元を濡らして、顎先から滴る。雫となって零れた汗は彼女の膝を枕にするマシュの唇を濡らした。

「ごめん、あんまり魔術を使うのは得意じゃなくて」

リツカは謙遜するような照れ笑いを浮かべながら、あくせくと汗を拭った。暑いね、と独り言のように言うと、もう一度、汗を拭った。

何故だろう、と思う。

飄々とした表情ながら、必死に額の汗を両手で拭う仕草は、幼い子供が泣いているようにも見えた。

「あの、どうなりましたか?」咄嗟、マシュは別な話題に切り替えた。何故か、リツカのその姿を見ることが、酷く疾しいことのように思えたからだった。「みんなは」

「ラスボスを倒しに行ったよ。私とマシュは、ここでお留守番」

「そんな」

「もう、令呪使い切っちゃったし。私が居ても居なくても、大して変わらないから」

ほら、とリツカが右手の甲を見せる。サーヴァントとの契約の証、赤い血文字のような証は既に無く、ただの掠れた痣のような痕跡だけが残っていた。

「トーマ君なら大丈夫。ちゃんと、戦いを見てる。まだ赤ん坊みたいなものだけれど、あの子はきっと、ちゃんと判断できる。そういう目を持ってるし、クロと、ジャンヌもついてる」

それに、とリツカは、続けた。少し、彼女は気恥ずかしそうだった。

「マシュを、置いてはいけないから」

そう言って、リツカはマシュの頭を撫でた。彼女の年齢は、確か17歳。大人というにはまだ幼いはずの彼女の手は、どこか、大きく感じた。

「マシュ?」

思わず、彼女の手を握っていた。

「いえ、なんでも」

マシュは顔を赤くしながらも、リツカの目を、しっかりと見返した。

強く、ならなきゃ。

私はまだ、全然弱くて、だからこそ、ずるい。あの時私が強かったら。独りで酒呑童子と互角以上に戦えるくらい強かったら、令呪を使わせる判断を先輩に強いることも、それに伴う懊悩を強いることも無かったのに。

「先輩」

「何?」

「私、頑張ります。きっと、先輩のお役に立てるように」

リツカは、マシュの言葉に目を見開いた。それから柔らかく微笑すると、マシュの手を、優しく、それでいてしっかりと握り返した。

「まぁ、まずは休もう。トーマ君たちの帰りを、ゆっくり気長に待とうじゃあないか」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

嫌な女

投稿ペースが遅れがちで申し訳ないです。
今後もまだまだ不定期にはなりますが、ご承知おきいただけますと幸いでございます。


肉薄する触手、触手、触手、触手。

視界に移るのは、全て蛸か烏賊の触手めいた触腕だった。両手に持つ双剣でひたすらに触手を屠るクロに届く気配こそ無いが、むしろ事態は逆であろう。触手の群れは最早壁とすら呼べるレベルであり……クロの火力では、その分厚い戦線を突破しきれないのだ。

いや、それどころか、クロの手では海魔の群れを持て余している。彼女の放つ斬撃をすり抜けた魔の手が、トウマの足元に這いずり寄る。

咄嗟、ジャンヌが聖カトリーヌの剣を抜く。鋭く迫る腕を大振りに、振り上げると、酷く不格好な仕草で振り下ろした。

びちゃ、と水っぽい音が破裂する。芋虫の体内に充満する青っぽい汁のような血をまき散らしながら、触手の先端は数秒のたうつと動きを止めた。

「大丈夫ですか、トーマ」

「あぁうん、大丈夫だけど」

呆然と応えながら、トウマは、目の前の光景に、ただ気圧されていた。

いや、目の前の光景に気圧されていたわけではない。ただ目の前の光景を表象する、己という存在の立場に慄いていた。

重大な局面に居る。しかも、責任者として。物事を判断し、それを決断する責任者として、居る。所詮、平凡な高校生でしかないトウマにとっては荷が勝ちすぎる重責に、16歳の少年は失神しかけていた。

きっと、勝ち筋はある。この海魔を打ち滅ぼし、勝利を決定的に方向付ける手があるはずだ。

そうだ、思い出せ。アニメでどうやってジル・ド・レェは負けた? 呼び出された化け物は、どうやって滅ぼされた?

漠然と立ちすくみながらの、想起。

原作では―――そう、単純な、大火力による掃討だった。『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』による大火力の投射。こと用兵において最も素直な戦術により、大海魔を消滅させた。

素直な戦術には変わりない。だがそれは、アーサー王(セイバー)が居たからこそできた戦術に他ならない。

《クロ、試しに聞きたい! エクスカリバーの投影って、できるかな!?》

一拍の、猶予。双剣を長剣に強化して周囲の腕を斬り飛ばしたクロが、鋭く視線を返した。

《残念だけど、無理。投影そのものは出来るけど、私が作る偽物の偽物(ハリボテ)だと真名解放まで行けない。それに、あの時はできたけど―――!》

それ以降の言葉は、無かった。斬り飛ばしたはずの無数の海魔の残骸がぐにゃりと首を擡げたかと思うと、それぞれが独立した個体となって一挙に押し寄せたのだ。

内心で、舌を打つ。

彼女のその特異な投影魔術(トレース)ならば、物そのものを創ることは可能だろう、と踏んではいた。そもそも、言ってみれば、彼女の誕生はエクスカリバーの投影とともにあったとすら言える。

だが、真名解放できないのでは無意味だ。いかなイリヤ(クロ)とて神造兵装の投影にはなんらかの制約が付きまとうと予想はしていたが―――。

いや。仮に、ため込んだ魔力を以てエクスカリバーを投影したあの時とて、火力は騎士王のそれに比べればはるかに劣る。それでは、この無限の軍勢を一挙に屠ることはできない。

《でも、令呪があれば!》

ざくり、と声が耳朶を打つ。

令呪。そうだ、マスターの役目はおよそ令呪に集約される。

冬木のそれと違い、カルデアの召喚システムのおいて、令呪はサーヴァントを縛る桎梏ではなく、純粋な魔力リソースとしての側面が強い。それこそ対城宝具に届き、5つの魔法にも及ぶ神秘を実現させる魔術の粋。

これならば、あるいは―――!

クロが、立ち止まる。双剣と地面に突き立てると、彼女は両の手を、まるで夢幻の剣を握るように突き出した。

一か八かの策。それしか突破口は無い、と彼女の背は語っている。ならば、賭けるしかない。騎士王の剣が、この怪物を一掃する可能性に賭けるしか、ない。

「―――まだ、終わらない! 俺たちはまだ、こんなところで終わるわけにはいかない!」

右手を掲げる。手の甲に朱く刻まれた呪刻が、燦然と煌めき始める。

「令呪を以て命ずる! 聖剣を以て、俺たちの敵を―――!」

熱く、焼けるような感覚。全身の疑似神経、魔術回路(サーキット)が悲鳴を上げる。到底扱いきれない魔力が全身を流れ、その濁流ごと精気(オド)まで押し流されるような錯覚。意識が浚われそうになりながら、続く言葉を口唇に形作らせ―――!

「―――いいえ、ダメですよトーマ。それでは、聖杯には―――ジルには、きっと届かないでしょう」

ひた、と冷たい否定の言葉が、耳朶に触れた。

重なる、彼女の右手。密着する、彼女の身体。はっとしたトウマは、足元に突き立てられた、質朴な聖剣を目にした。

「この戦い、“ジャンヌ・ダルク(わたしたち)”にお預けくださいませんか」

静かな、声だった。

そうして、トウマは、その可能性に思い至った。

ジャンヌ・ダルクの宝具は一つではない。もう一つ、彼女には宝具がある。

ごう、と風が巻き起こった。

起点は、剣。巻き起こったのは風ではなく、赫焉の劫火が柱となって立ち上る。

―――『紅蓮の聖女(ラ・ピュセル)』。

それが、ジャンヌ・ダルクの宝具の銘だった。

守護の聖女が持つ攻撃宝具。彼女の結末が形となった、絶対破壊の剣。ジャンヌが倒すべき敵と定めた敵を確実に破壊しきる、という点においては、エクスカリバーすら上回る攻撃性能を持つ。

だが、その破壊の代償に、彼女は―――!

視界を、顔が過る。

笑顔とともに去っていった、マリーの顔。寡黙なまま、自らを解きほぐしたサリエリ。そして、ファヴニールとの戦いで消えていった、ジークフリート、アストルフォ、ブラダマンテ、サンソン。

「ダメだジャンヌ、それを使ったら―――!」

「知っているのですね、トーマ。この剣が、何を意味するのか」

耳元の声は、いたって平静だ。むしろ、何故か彼女の声は、どこか明るかった。

「でも、これは終わりではないのです。むしろこれは、誕生なのですよ、トーマ」

声色は変わらない。まるでさんざめく陽のような声。

「クロエ、後は任せます!」

「―――『熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)』」

瞠目は一瞬、苦み走った顔をしたクロは、掲げた手の先に4枚の巨大な花弁の盾を展開した。

それは壁。津波のように押し寄せる怪物を押しとどめるための防波堤。

だが、それも長くはもたない。個々の力こそ非力だが、無限にも見紛う海魔は、それこそ津波と同義だった。ただ数が多いというその点だけで、城壁にも達するアイアスの盾を軋ませていた。

「それでは、始めましょう」

穏やかな一声。

そうして、聖女は紅蓮の炎を言祝いだ。

「主よ。この身を委ねます―――」

 

 

 

 

「―――告げる(セット)

汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。

聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ

誓いを此処に。

我は常世総ての善と成る者、

我は常世総ての悪を敷く者。

されど汝はその胸に炎を滾らせ侍るべし。

汝三大の言霊を纏う七天、

恩讐の彼方(かなた)より此方(こなた)へ、吠えたてよ、我が憤怒―――!

 

 

 

 

 

 

炎が、止む。

踊り狂うように逆巻いていた炎が、凪いでいく。周囲の大気を清めるように喰らい尽くした煉獄の火が終息していく。

いや―――集束、していく。少年の元に、炎が、集約していく。

晴れる視界。ちりちりと舞う火の粉を受けて、足元に突き立てられた聖剣の刀身が、厳かに瞬いている。

その剣を、誰かの手が、掴んだ。

「あーもう、ほんっとに」

その声は、間違いなくジャンヌの声だった。だが、声の調子は違う。癇癪のある子どもじみた調子を帯びた、その声は―――!

彼女の慈愛を象徴するが如き白亜の『紅蓮の聖女(つるぎ)』を引き抜く手は、黒い甲冑に覆われていた。

思わず、目を見張る。

芯の通った顔は変わらず。さりとて、それこそ温和な天使を思わせる顔はそこには無く、烈日の如き憤怒の形相は、まさに―――。

Meshante……va(嫌な女ね)!」

竜の如き、聖女の形相だった。




私が御形さんに声をかけたきっかけのお話でした。はやくもここまで来たんだなぁとしみじみ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

竜の聖女

「このっ―――!」

最後の一枚に、亀裂が走る。

もう限界だ。これ以上の耐久はできない、アイアスの盾が崩れる。

だが、もう、次の手が無い。ランスロットとの戦いで、魔力の限界まで投影し尽した。そして最後、絞り出すようにアイアスを投影した。かろうじて現界は維持できるが、投影はてあと一本。しかも高ランクの宝具投影はもう不可能。

眼下に、視線を落とす。

強化した双剣。それが最後の得物。ジャンヌが何を仕掛けるか不明だが、目の前の海魔を全て薙ぎ払い、大物を始末するだけの火力を発揮できるとは考えにくい。ならばどちらかは自分がやらなければ―――!

思考は一瞬、判断は刹那。崩壊したアイアスの盾からなだれ込んできた海魔へと、床から引き抜いた双剣を叩きつけ―――。

「そこ、どきなさい」

炎の渦が、化け物を焼き殺した。

クロですら、その炎は瞠目に値するものだった

小聖杯として調律された彼女は、それこそ魔術師としては極めて高位に位置する。それこそ、彼女が相応の年月を修練に費やせば、色位(ブランド)は確実、ひょっとすると冠位(グランド)にも届く魔術の徒である。

そのクロをして、目を見張るほどの高純度の神秘を纏った炎の渦。そここそ竜の吐息を想起させる奔騰だった。

がちゃ、と鎧が軋む音がした。

束ねてあったはずの髪は、炎が巻き起こす風で尾のように靡いている。鋭い目の睥睨は、さながら巨大な竜の一瞥だった。

「あ、アナタ―――!?」

「敵じゃないわよ。少なくとも、あの私の創造主(バカ親)をぶん殴ってやるまではね」

がちゃん。

弾む、金属音。クロの隣に並んだ黒い聖女は、恨めし気に怪物の群れを侮蔑した。

「ねぇ、知っていて? 悪魔って、神サマの反逆者じゃないのよ」

「―――そうね。悪魔は人を試す神の御使いである―――でも、それが何?」

「つまるところ、アイツは私をそう理解したのよ。どうやって知ったのかは知らないけど、憎悪と憤怒がなんであるかを理解して、その上で私を第6架空要素(悪魔)の類似物と認識して―――そうして、その人智無能を己の一つと定義することで、私をこの世界に繋ぎとめた。本当は泡沫の存在でしかない私を、英霊の座に刻み込んでみせた。エクストラクラス、アヴェンジャーとして。そんなことされたらさぁ、癪だけど、」

吐き捨てるように、彼女は言った。冷たい怒りを身体に湛えながら、彼女は、目の前の海魔の大軍を蔑視する。

「さぁ、早く魔力を回しなさいマスター! じゃないと、このタコ諸共アンタまで焼き尽くすわよ!」

「わ、わかった!」

藤丸は慌てて言うと、改めて、己の右手を掲げる様に差し出した。

「令呪を以て命ずる! アヴェンジャー、ジャンヌ・オルタ! 君の手で、ジルを―――止めるんだ!」

「D`acoor、アヴェンジャー、吶喊するわ!」

ぐい、とジャンヌ・オルタの背が沈む。ため込みは一瞬、炎の魔力放出によって跳躍した。

犇めくように殺到する怪物の群れ。だが、彼女は全く怯まない。それどころかロケットモーターを爆発させるように猪突を敢行する。

白銀の剣が振るわれる。無造作なだけの一振りにも関わらず、巻き上がった炎は対軍宝具の破壊力に比肩した。

竜を具象する炎の柱。周囲の冒涜的な生物は瞬きの間すら無く蒸発し、煉獄の炎は腐臭すらをもまとめて焼き払っていく。

―――だが、一匹。折り重なった同族の焼死体により、かろうじて即死を免れた軟体生物が緩慢な仕草で身を乗り出した。

幸い、というべきか。

生物が識別したのは、黒い聖女の後ろ姿だった。炎をまき散らしながら、分厚い生物の壁を焼き殺していく彼女には、前しか見えていない。背後で身じろぎする瀕死の敵など、一切意識の外だった。

聖女の背に、音も無く聖女ににじり寄る。あるいは、瀕死であったのが幸運だったか。千切れた身体では満足に動けず、それゆえに、その蛸のような生き物は、気配を感じさせずにジャンヌ・オルタの背へと近寄った。

触手が、彼女の背に狙いをつける。別側面であるジャンヌ・オルタは、ジャンヌ自身と異なり防御は不得手だった。宝具によって召喚された海魔の捕食器であれば、用意に彼女の肉体を貫通したであろう―――

ずぶ、びちゃり。

肉片が飛び散る。苦悶に痙攣すること1秒未満、息絶えた体躯が床に血飛沫をまき散らした。

「あら」

ジャンヌ・オルタの目が、少女の姿を捉える。

猛禽の翼の如き双剣で海魔を斬殺したクロは、挑む様にジャンヌを見返した。

「素人? 後ろにも目をつけなさいよね」

「しょうがないじゃない、アタシ、赤ちゃんみたいなもんなんだし。」

ずい、とクロが横に並ぶ。少女の姿を一瞥した。

「アイツがお節介なババアみたいに言ってたわ。アンタを頼りなさい、ってね」

「ふぅん?」

「それじゃあ大先輩さま? 敵陣を突破するわ、それしか武器が無いみたいだけど大丈夫?私の、貸してあげましょうか?」

「赤ん坊なだけあって、寝言もお得意のようね? これだけあれば十分よ」

双剣の内、黒い剣を掲げて見せる。ふん、と傲岸に鼻で笑ったのは、果たしてジャンヌであったか、それともクロであったか―――。

「ついてこれる?」

聖女の顔に、爬虫類じみた凄絶な笑みが浮かぶ。

「アナタの方こそ、ついてきなさいよね!」

少女は応えるように、猛禽じみた鋭い嫣然を返した。

 

 

ジル・ド・レェ。

どこぞの馬の骨とも知れぬジャンヌ・ダルクを監視する任にあたりながら、彼は次第に、ジャンヌという存在に心惹かれていく。それは恋愛などという感情とは異なる、もっと宗教的な情動であり、それ故に、青年は少女を聖者として信奉していった。

ジャンヌが死した時、男はその場に立ち会うことが出来なかった。聖女が焼死したという知らせを、男は後から知り―――ただ、悲嘆に暮れる他なかった。

数多のものを呪った。自分の愚鈍を呪い、民衆の日和見を呪い、聖職者の堕落を呪い、神の驕慢を呪い―――世界そのものを、呪った。

だが他方、男は、ジャンヌ本人が決して誰も恨まず、まして呪わず、灰になったとよく理解していた。ここで死ぬのは、神が定めた道程なのだと。世界が進むための運命なのだとそう理解し、きっと受け入れたのだろう。ジルは、ジャンヌがそうして自らの生を差し出したと、理解、していた。

だが―――いや、それ故にこそ。

男は、少女に、怒ってほしかったのだ。もっと物分かり悪く、怒ってほしかったのだ。異端審問の場で、聖者の論及に精緻な反論などするのではなく、ただこの世界の無常に、怒ってほしかったのだ。

だから、この聖杯に願ったのだ。

あの者から受け取った万能の願望機に、願ったのだ。

どうか。どうか、ジャンヌに、怒ってほしいのだ、と―――。

「―――『吠えたてよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュヘイン)』!」




紅蓮の聖女を手にした竜の魔女。とても安直ですが、今回の章のテーマ回収のお話でした。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

夢のあとの兵ども

 薄れる感覚の中、マシュ・キリエライトはただただ知覚の海に浸されていた。

 揺れは戦いの波動だろうか。鼓膜を突く振動音に、時折顔にかかる埃のようなもの。それを拭う、リツカ(センパイ)の、手。

 「そろそろかな」

 リツカの声。独り語りのようであって、確かにマシュへの志向性のある声が、耳朶を打つ。

 「大丈夫、トウマ君ならなんとかできる。そういう星の元に居る、気がするし。クロちゃんもいるしね」

 いつもと変わらない、朗らかな声色だ。カルデアで聞くものと変わらない、温和で、朗らかで、呑気な声。轍のように心に溝を作る安堵感が奔ると同時、マシュは、歯の奥を噛みしめる。

 何をやっているんだろう。トウマも、クロも、ジャンヌも──いや、みんな戦ったというのに、私は何をしているのだろう。何故、こんなところでくたばっているのだろう。

 「こんな時、キリ様かデイビッドならちゃんと一緒に行けるんだろうかな」

 これも、リツカの、声。普段と変わらないはずの、彼女の、声。

 でも何故だろう、いつもと変わらないはずの声に、もっと別な何かが混じっているよう。寂しさ、後悔? いや、そんな分かりやすい、感情などではない。彼女に滲む、表徴から逃れ去るような不定の情動。どれでもあってどれでもないその情動は、きっと彼女自身すら理解できていないような気がする。

 「マシュ?」

 手に触れる、柔らかな感触。リツカの頬は酷く柔く、爪を立てれば、すぐに裂けて、中身は飛び出そうだ。

 触れる、身体の境界面。どちらが触れているのか、触れられているのか不明瞭に溶け合う奇妙な感触。僅かに身が震えるのを確かに感じた。しかして、その震顫(しんせん)は誰のものだろう。触れ合う感覚すら曖昧な 二人の間、その慄きは、互いのものだったのかもしれない。 

 「あ」

 酷く、間の抜けた声だった。緊張感なんて全くない、声。

 「ごめんマシュ」

 「え?」

 ひょい、とマシュの身体が宙に浮いた。

 浮遊感? いや、そんなものではない。実際に浮いているのだ、と気づいて目を開けたマシュは、ただただ瞠目した。

 崩れる天井、へたり込むリツカ。人間を潰すのにあまりある巨塊が、位置エネルギーを速度エネルギーに転換して鉱山排水のような髪色の少女の脳天へと落下する。

 地面に転がる自分の身体はとても動かせず、ただただその光景を、眺める他なかった。だからこそ、その光景を、マシュは刻銘に目にしていた。

 不意に閃く仄光り。燐光を切り裂く颶風とともに現れた閃珖が落下してきた岩塊を微塵に蹴散らした。

 「──あれ」

 間抜けそうに呟くリツカ。ぽかんと見上げる視線の先、彼女は、居た。

 ぼたり、と赤黒い液体が床に溜まる。泰然と佇立する姿は間違いなく騎士のそれで、口角に浮かぶ勇壮な嫣然こそは、英雄の証だった。

 「どうにか間に合って良かったです。マシュ、リツカ」

 ライダー、ブラダマンテ。その姿は痛ましい──腕は捥げ肉の削げた脛には骨が見え、眼球が焼失した片方の眼底からは、炭の混じった血がひたひたと垂れていた。

 「ブラダマンテ」リツカはマシュの上体を抱きかかえた。「凄く助かった」

 「人を守るのはパラディンの務めですから」

 頓着もなければ衒いも照れもない。ブラダマンテの声は、ただただ清々しい。寒気がするほどの清らかな声だった。

 「ジークフリートとアストルフォは?」

 「残念ながら」

 「そっか」リツカは、短く言った。「ブラダマンテ、貴女も、もう」

 「そうですね。もう保ちません」

 微かに、ブラダマンテは身動ぎした。そう、と応えたリツカに、彼女は、僅かに苦慮の眉を寄せた。

 「武運長久を祈ります、リツカ。それと」

 ブラダマンテが、身を屈める。リツカの腕の中に横たわるマシュの耳元に、小さく、声を漏らした。

 「大丈夫、きっとうまく行きます。マーリン様が見ていてくださりますから──がんばれ、乙女!」

 さらり、彼女の体躯が崩れていく。輪郭の破綻とともに霊基崩壊が急速に進展し、ブラダマンテは消滅した。

 金の燐光が舞う。宙を漂うブラダマンテの残骸は、一瞬の後、天に溶解していった。

 

 

 ──あ、と思った

 視界が晴れた。目の前を覆っていた肉塊が裂け、光が差し込んだ。

 細めた目に、あり得ないものが、飛び込んだ。

 屍色の肌。無機質な金の目。灰色の髪は長く、風に靡いている。

 いつか見た、光景。あの運命の日に巡り合った少女は、けれどあの時と違って、酷く──怒ったような、顔をしていた。

 「何、そのキモイ面。不愉快よ、こっちみんな」

 「こういう時、もっと感動的な一言で締めくくるものではありませんかな」

 「はぁ? 考えてみなさいよ。アンタのしみったれた自慰(ハイパーオナニー)で生まれたのが私なのよ? 構ってもらえるだけで、滂沱の涙で咽び泣くのがアンタの立場でしょうが? それとも、娘に構ってもらえない父親のフリでもする気?」

 まくしたてる様に、少女は吐き捨てた。というかもうゲロでも吐くみたいな風に言い切ると、明瞭なまでの侮蔑の視線を叩きつけた。

 「目糞鼻糞の分際で、つけあがるのも大概にしなさい。アタシが存在してやってるだけで、どれだけの幸運なのかわかっているのかしら?」

 ふん、と彼女は傲慢さながらに鼻を鳴らす。養豚場の豚を見る目は相変わらずで──ジルは、困ったように、「そうですね」と笑った。

 「帰りましょう、ジャンヌ。在るべき、『時代(クロニクル)』へ」

 少女が差し出した手を、男は、強く、握り返した。

 「全く。世話の焼ける、お父様ですこと」

 

 

 「クロ、ジャンヌ!」

 トウマは、急いで少女たちへと駆け寄った。焼け焦げる生物を押しのけ、斬殺された海魔を乗り越えて、トウマは、足を止めた。

 聖堂を覆い尽くすほどの巨大な海魔。既に屍と化した肉塊から、二つの影が歩いてきていた。

 すっかり襤褸になったクロ。そしてもう一人。黒い甲冑の聖女は、白亜の外套を、抱きかかえるもう一つの肉体に被せていた。

 黒い髪に、酷くやつれた痩せぎすの男。静かに閉じられた目は苦悶に歪み切った後の弛緩を、示しているようにも見えた。

 「メーワク、かけたわね」

 ジャンヌ──ジャンヌ・オルタは静かに口にした。懐に抱いた男を、既に色を失った男の顔を見つめる顔は、とても、瀟洒な静謐を湛えていた。

 「それにしても、まさかジャンヌがアナタを召喚するなんてね?」

 「本当よ。敵になるかもしれないのに。コイツもだけど、世の中頭がおかしいのばっかね」

 げんなりするように言う。気味悪そうに男を睥睨すると、「ま、あのクソ女に借りがあるのは気持ち悪いし」

 独り、言ちるように彼女は言った。侮蔑するようでありながら、それでも彼女の男を見る目は優し気だった。

 「あぁはい。これ」

 ひょい。

 ぽとん。

 「ってこれ聖杯!?」

 ぎょっとしたトウマは、思わず受け取ってからその金の杯を落としかけた。

 「そうよ。アンタたち、これ探してたんでしょ。もう要らないからあげる」

 「そんなテキトーでいいのかな……」

 大事に抱えながら、トウマはまじまじと聖杯を見つめた。

 煌びやかな金色の杯。先ほどは単なる力場……のようであったが、姿かたちは一様ではないということなんだろうか。

 しかし、あまり嬉しさは感じられなかった。感慨はあれど、この煌びやかな聖杯が善いものには感じられなかった。それこそ、この杯には見えないだけで血が並々と注がれているのだから。

 「そろそろ、終わりね」

 と、ジャンヌ・オルタが顔を上げる。まるでそれを合図にするかのように、足元が揺れ始めた。

 (こちらロマニ、聖杯の獲得を確認。それに伴う特異点の修復が始まったようだ。リツカちゃんとマシュのレイシフトはもう終わったから、巻き込まれない内に君たちも!)

 網膜投影された通信ウィンドウの向こう、ロマニの顔は、焦っているようで、隠しきれない安堵を湛えていた。なし崩し的に始まった冬木と異なり、今回は初めてカルデアという組織が主体的に修復した特異点なのだ。ロマニは、その感動を抑えきれていなかった。

 トウマも、安堵感を禁じ得なかった。だけれども、それよりも、ただ疲労感だけがきつかった。終わった、という実感はむしろ虚無感にすら近い。自分は何もせず、ただ眺めていただけでしかなく。あるいはだからこそ、というべきか。ただ、虚ろなフェルトセンスだけが、身体を縛り付けていた。

 「私の方が先みたいね」

 ジャンヌ・オルタの輪郭が、徐々に、崩れはじめていた。

 「ジャンヌ……」

 「何しょげた顔してるわけ? アンタはこれから、7回もこんな旅をするのよ。こんなところでなっさけない面してるんじゃないわよ」

 ぐりぐり、とジャンヌの手がトウマの頭をくしゃくしゃにする。

 わかっている。これはまだ、始まりに過ぎないんだ。あとこれから、自分たちは、6つの特異点を踏破しなければならないのだ。わかってはいる―――けれど、憮然とした顔は、どうしても、和らげられなかった。

 「しょうがないヤツ」

 莞爾と、ジャンヌ・オルタは笑った。陽だまりのように柔らかい呆れた微笑は何故か、どこかで、見た気がした。

 「そこのガキ」

 「何よ?」

 「……わかってるみたいだから、やめとくわ」

 最期にそう言って、ジャンヌ・オルタは消えた。祝福されるように天使のような金色の光に抱擁され、彼女の存在は昇華した。

 トウマは、瞼を閉じた。何か言葉が出かけて、言うのをやめた。言葉は胸にしまい込んでから、自分の相棒へと声をかけた。

 「帰ろうか、クロ」

 ―――だが。

 「待って」

 彼女の目は、トウマを見ていなかった。真直ぐ射抜くような目は、トウマの背後、広間の入り口を、見ていた。

 振り返り、トウマは、息を飲んだ。

 無銘の剣士が、そこに、存在()た。

 

 

「佐々木、小次郎──」

 マスターの声が、虚ろに響く。幽霊でも見たかのような慄く如き声。その声に風雅なにやけ笑いを浮かべると、剣士は満足そうに頷いた。

 「如何にも。我が真名、佐々木小次郎。最も、その(名前)が無ければ幻霊にもなれぬ三流の亡霊だが」

 薄い笑いは変わらず。刀を肩に担いだままの姿は如何にも雅な伊達男といった風采だが、あの剣士にとってはその脱力こそが本性だった。

 「それで、何の用なわけ? まさかお喋りでもしに来たの?」

 「それも魅力的よなぁ。可憐な少女と、朴訥な少年を肴に一晩過ごす。それも良いが」

 男が、剣を下げる。だが、当然それは己の言葉を実行に移すためではない。掲げた刀の切っ先が指示したのは、赤い少女の姿だった。

 「燕より素早い鳥がここに一羽。なればこそ、斬らぬは無粋というものであろう?」

 「そういうのは趣味じゃないって、言わなかったかしら?」

 「覚えているとも。合理的な其方が、無意味な酔狂に付き合うとは思っておらんよ」

 男は言うと、剣を、構えた。

 構えたのである。無形こそが構えであるはずの剣士が、剣技の型を取った。それが意味するものは、即ち。

 「だが──このくだらん非合理にしか、”私”の望みは在り得ないのだ。無銘のまま死んでいった、使い捨ての剣士に過ぎない私には、生憎と、こんなさもしい望みしか無いのだ。どうか、付き合ってもらえぬか、赤い弓兵よ」

 か細く呟くような。それでいて、鼓膜を鋭く差し込むような声だった。

 雅な微笑はそのままに。構えた剣は水平に。有無を言わさぬその表情の真摯さは、聞くだけで息することすら忘れるほどだった。

 沈黙は1秒も無く。嘆息をついたクロは、渋々といったように、双剣を構えた。

 「どーせ断っても、トーマのことを襲って、なし崩しで戦いにするつもりだったんでしょ」

 「さて。考えもしなかったが、そういう手も良かろうな」

 からから、と小次郎は口元ににやけ笑いを浮かべて見せる。

 目は、笑っていない。色を感じさせぬ細い目は、正しく、野山で鳥を見定める狩り人の如きであった。

 「いざ──参る!」

 疾駆が、歪に迸った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

炎は静まり灯は続く(終)

佐々木小次郎―――もとい。

無銘の剣士は、その光景に、内心照れのような苦笑を浮かべた。

相対する赤い剣士。己が人生をかけて殺し合うべき相手の武装は、双剣だった。

運命の悪戯、というにはやや趣味が悪い。あるいは運命というよりは怨念というか、宿痾の類だろうか。佐々木小次郎の相手としては、確かに相応しい。

だが、そんな過去の話など、今や些末事に過ぎない。いや、未来すらどうでもいい。過去も未来も、ただこの瞬間だけは消え去った。今と今だけが激突するこの瞬間こそが、真理だった。

駆ける、歪の疾駆。瞬きの間すらなく双剣使いに肉薄した無銘の剣士は、地面に水平に構えた長刀を、右へと薙ぎ払った/真上から振り下ろした/左から撃ち込んだ。

絶技、秘剣『燕返し』。無銘の剣士を佐々木小次郎にまで引き上げる、凄絶なる剣技。並行世界から物干し竿の2振りを引き出すことで、全く同時の三連打を実現する、ただ名前のない剣士の太刀筋だった。

躱す術は一つしかない。空間転移で背後に回る、それだけだ。その前後で両手に持った中華剣を投擲。既に周囲に散らばった剣も併せて、あの時の再現をするつもりだろう。

無銘の剣士は、その後どうするか全く考えていない。あの時と同じように『燕返し』で飛来する剣をまず撃ち落とし、さらなる迎撃で必中必殺の『燕舞い』を撃ち込む。セイバークラスのステータスだからこそ放てる、連続での『燕返し』2連打。それも彼女はあの時と同じように、相討ちさながらに躱して―――その後どうなるかは、ただ己の闘争心のままに剣を振るのみ。

唯、あるのは裸形の身体性の露回。何者でもない、ただ剣を振るう者同士の純粋な剣のぶつかり合い。それだけを求めて、ただ、剣士は剣士としての狂えるような義務感を叩きつけた。

灼熱の前頭葉。凍てつくような本能。だからこそというべきか、無銘の剣士は、刀が少女の体躯を切り裂く刹那の間隙に、奮えるような疑念を察知する。

ぐにゃ、と双剣が形を変える。少女の手にした中華剣が刹那で衣を変え、その裡から白銀の刃が覗く。

その刀の銘を、知っている。少女が両手に握る双剣の銘を、おそらくこの世界の誰よりも知っている。

和泉守藤原兼重、そして了戒。

それが、その2振りの刀の、銘だった。

ぶつかり合う刃。無銘の剣士が左右から放った二閃と和泉守藤兼重、了戒が相克する。忽ちに破砕される2対の刃。砕けた金属が差し込む陽を反射しながらマナへと溶け消え、霧散する。

だが、本当ならば、そこで終いだったはずだ。残り、1本の太刀筋が少女の頭頂から股まで一刀で切り裂き、そこで終了だった、はずなのだ。

僅かな歪みの故か。本来全く同時のはずの剣閃がコンマ数秒遅れた。微かに刀身が歪んでいた故の、ほんの僅かな誤差であり。そしてそれが、致命傷だった。

振り下ろされた長刀を迎撃せんと、少女の手に骨子が放出される。その間隙まで予測していたが故の、それは先の後で放たれる一撃。

そうして現れた刀に、1人農村奥地の山の懐に生きた剣士は見惚れてしまった。

あなや。

その刀の銘も、知らぬわけがない。何故ならばそれは、先ほどと同じだからだ。佐々木小次郎が宿敵、天下無双の剣士が振るった三振りの刀の、一つ。

その銘は―――。

ぶつかり合う2振りの剣閃。あったかもしれない、けれども無銘の剣士には決して起こらなかったはずの、それは新たな英雄伝承の開闢。

戯れにも見えた。

死闘にも見えた。

今と今がぶつかり合う伝説の一幕。

折れる長刀、切り裂く直刀。砕けた伝備前長船長光の刀身が霏々と舞い、深紅の村時雨が鮮やかに滴った。

 

 

 

 

 

 

「えーと、次かな」

クロはタブレット端末に目を落としながら、きょろきょろと周囲を見回した。

彼女はまだ、カルデアの施設には疎かった。初めて召喚されてから、実はまだ数日しか立っていない。

初回の召喚は、冬木だった。いつの間にかよくわからない洋館に墜落して、藤丸の元にかけつけて、ただ勢いのまま、特異点Fを修復した。

あの日から、オルレアンのレイシフトまで1週間と経っていない。その間も諸々の調整で、とても施設内をのんびりと歩き回る機会など無かった。

―――最も、今回とて、そう余暇があるわけでは無い。次の特異点へのレイシフトに向けて、技術的な観点から、幾ばくかの余暇が与えられたに過ぎない。

その時間、実に2日。特異点の踏破という大事業の後にしてはあまりにも細やかな余暇であり……年若き少年少女に対してカルデアという組織が絞り出せる、最大限の猶予だった。

「ここ、かしら」

はた、とクロは足を止めた。

無機的な通路。電子ロックがかかった自動ドアの電子パネルには、メディカルルームの文字が浮かんでいた。それと、ラミネートされた注意書きに、ゴシック調で書かれた「節電中!」の文字。

壁のタッチスクリーンに触れる。特にパスワードは無く、気の抜けた電子音だけを響かせる。だが開かない。む、と眉を潜ませたクロは、知ったことかと手を翳す。魔力を通すや、プシュっと音を立ててドアがスライドした。

つん、と消毒の臭気が鼻腔に触れる。入ってすぐ右手の事務用のデスクは、普段はロマニが居る場所だ。今は、居ない。恐らく管制室でダ・ヴィンチと次の特異点について話をしているはずだった。

病床の数は僅かに3つ。それも当然、重傷者はまた別に治療室があり、ICU・MCUなどの設備も医療区画内に集中している。ここは、あくまで軽い体調不良などを扱う部屋。言ってしまえば、学校の保健室のようなものだった。

そのベッドの一角。間仕切りのカーテンの向こうに、誰かの影が透けて見えた。

カーテンを開ける。

しゃ、とレールの上をキャスターが転がり、するりとカーテンが開いた。

「あ、クロ」

少年の無防備な顔が、彼女を出迎えた。

立華藤丸(タチバナトウマ)。クロのマスターを務める16歳の少年の顔には疲労が滲んでいたけれど、それでも今の少年の顔は、年齢以上に幼く見える。

此処は、戦場ではない。張り詰めた緊張は不要で。ただ。無邪気な安堵を噛みしめているようだった。

「何してたの?」

「ん? まぁ、特に何ってわけじゃあないけど」

藤丸は少し決まり悪そうな照れ笑いを浮かべると、肩を竦めた。そんな少年の肩越しに、クロはベッドに横たわる躯体を、見た。

―――綺麗な人、だと思った。

艶の善い、栗色の髪。眉目秀麗、という言葉がこの上なく似合う少女だった。ただ一つ、その麗しい少女には酷く不似合いな物々しい眼帯だけが、違和感を惹起させずにはおかなかった。

Aチーム、唯一の生き残り。Aチームのマスター候補が悉くミンチにされた中、ただ一人、幸運にも生き残ったマスターの一人。

名前はそう―――。

「結果報告、かな?」

「何それ?」クロも、デスクの脇にあった丸椅子を持ってくると、藤丸の隣に座った。「オルレアンのってこと?」

「そう。あと、冬木のも」

照れたように頭をかいた藤丸は、そして、ちょっと申し訳なさそうに眉を寄せた。

「リツカさんはともかくさ。俺なんかより、この人とか、Aチームの人だったら、もっと上手く特異点を修復出来たのかなぁって思うんだよ」

だから、と藤丸は両手を膝の上に置いた。決然と彼女を見る目は、子供じみていたけれど。

「でも、俺がやるしかないからさ。せめて、ここまで来ましたよって。本当に戦うべきで、きっと戦いたかった人に伝えておきたくて」

クロは、少年の姿を見上げた。ふぅん、と小さく口元を緩めた少女は、「いいんじゃない」と口にした。

「でも、私はトーマの意見には反対」

「え?」

「そんなに卑下しなくてもいいんじゃない? ベストだったは、わかんないけど。でも、ベターな戦いは、できてたんじゃないかしら」

「そう、かな?」

少し、藤丸はぎこちなさそうに言った。あまり実感は無いらしい。そうかな、ともう一度呟いたトウマの表情は、決して晴れやかではない。

―――決して、クロは無思慮に藤丸を批評したわけではなかった。あのランスロットとの戦闘で、躊躇いなく令呪を2つ切った判断力と胆力。そして、佐々木小次郎との最後の決戦での洞察力。

『原作知識』があるから、と少年はいつも控えめに言う。だが、知識はそれだけでは武器になり得ない。戦術レベルでどの知識が活用できるか迅速に判断出来るのは、天性の勘が成せる業に他ならない。

「でも、良いと思う。どこまで来たよって言うのは」

「かな」

「そっちの方が、安心して寝てられるでしょ―――この人も」

ね、とクロは少女の方を見やった。

すうすう、と深い息を繰り返す少女―――オフェリア・ファムルソローネの静かな寝顔は、控えめにも賛同を示しているようにも見えた、気がした。

 

「―――で?トーマ。花なんて持ち込んじゃって。もしかして、気がありますよってアピールとかだったりするわけ?」

琥珀をたたえた瞳が、ベッドサイドに丁寧に活けられた紫色の花を見とめるや否や、にんまりと歪む。それはさながら獲物を狙う狩人(恋バナに食らいつく乙女)の如し。

「違うからっ!俺が来たときにはありましたし?!」

純朴な高校生男子こと立華藤丸の手札に、運命を切り開くカードがあるはずもなく。ガラスの花器を手にとっては「水少ないし変えてくるから!」などと不審な挙動で逃れようと試みた―――

「おっと、トウマ少年。その花はその活け方で合ってるんだよ。」

不意に、トウマの肩を艶やかな声が触れる。まだ聞きなれない、それでも印象深い柔和且つどこか芯のある声はレオナルド・ダ・ヴィンチのものだ、という確信があった。

振り返れば、やはり彼の目は、中/高と美術の授業で見かけた顔が、朗らかな笑みを作っていた。

「合ってるって、やけに水少ないですけど?」

手元の花器を見やる。トウマに花活けの経験があるかといえば、無くは無いが皆無と言っていい。盆や正月で田舎の祖父母の家に行ったとき、何度か仏壇の花を整えたことがあった。

「アネモネの茎は中が空洞だからね」ふわふわとレオナルドの手先が宙をなぞる。それを合図に宙に映像ウィンドウが立ち上がると、アネモネの育成方法を記載したウェブサイトが浮かび上がる。おまけに、同時に別ウィンドウで展開した映像には、アネモネの断面図もあった。しっかり水につけてしまうと、浸かった茎が腐ってすぐにとろけてしまうのさ」

「あっ、これアネモネだったんすね」

「なんだい少年、アネモネってことも分からなかったのかい。君たちの国の言葉を借りるなら、風情が足りないな。」

「風情って言われても、日本の一般の高校生男子なんてみんなこんなもんだと思いますけど」トウマは少し口を曲げた。一瞥してアネモネの花かどうか同定するのは、多分一般教養ではないと思う。「これは、えっと、ダヴィンチさんが?」

「その質問に対してはノーだし、今のは不合格だよ少年。私のことは親愛の情を込めて、ダヴィンチちゃんと呼びたまえ。」

「えっと、じゃあ、ダヴィンチ、ちゃん。」

「及第点かな」ふふん、と何故か自慢げなダヴィンチちゃん。自然物そのものといったかんばせ、その薄ピンク色の口唇に指を添えると、「そして想像するにこの後の君の質問はこうだろう?"じゃあ誰が"ってね。」

「そういう言い方をするってことは、誰がって知ってるわけですよね?」

「あぁ、知っているとも」

自信たっぷりに、ダヴィンチちゃんは言う。

だが、何故だろう、と思った。いや、あるいは必然だろうか、とも思った。いつも自信満々な声色で、まことしやかに物事を語る彼女? なだけに、僅かに陰った口調は酷く歪だった。

 

「なんせ私は万能の人(ウォモ・ウニヴェルサーレ)だからね。もちろん、教えないけれど。そんなことしたら、それこそ風情がないだろう?」

 

「そういうもんですかね。」

そういうものさ、と応えるダヴィンチちゃんは、もう普段の様子に戻っていた。というより、先ほどの違和感が単なる勘違いだろうか。探るようなトウマの視線を知ってか知らずか、ダヴィンチちゃんははたはたとスカートの裾を直した。

「ま、特異点を二つ越えたとはいえ、君とクロエくんはまだまだカルデアに関しては新参者だからね。スタッフもそう多くはないんだし、ゆっくり人間関係ってものを知っていけば自然と知るときが来るでしょう」

そう言うダヴィンチちゃんの表情は、優しさが9割ほどで、残り1割はどこか、探るような目だった。正直に懐に差し込むようで居ながら、不快感を思わせない、調和のとれた顔。万能の天才という言葉と女性的な表情が、不可思議に溶解し合っているようだった。

「じゃっ、私はこの辺りで。何せ私は天才だからね、計器の調整にブリーフィング、礼装のメンテナンスと大忙しなのさ。」

 

 

 

 

よっこらせ、とレオナルドはドアを閉める。本当は自動ドアなのだが、電力消費削減のため、館内のあらゆる機器が節電状態だ。実際、医務室にはラミネートされた張り紙に、全く非芸術的に「節電中!」の文字が刺々しく踊っている。不満を漏らしたいのはやまやまだが、電力その他資材を頓に消費する立場にあるだけに、レオナルドもあまり強くは言えなかったりする。

「とかなんとか言ったものの」

艶やかな髪をかき回す。はてな、と小首を傾げると、レオナルドは誰も居ない通路を見回した。

「私も案外、知らなかったりするんだけどねぇ。」

 

 

 

 

「マシュ・キリエライト、無事に復帰しました!」

びし、と綺麗な敬礼一つ。照れ半分誇らしげ半分といった溌剌の顔のマシュは、いたって健康そのものといったように見えた。

「おー、早かったね。もう大丈夫なのかい?」

「はい、至って好調です! 戦術行動に一切の支障はありません」

むん、と荒い鼻息をついてみせる。元気そうだね、と微笑ましく頷いて見せると、「流石はDr.ロマンってとこかい?」

「もちろん。って言いたいところだけど、今回の予後の良さは間違いなく応急処置が良くできてたからだと思うよ」

「そういえば、リツカちゃん、植物科(ユミナ)の出身なんだっけ?」

「あれ、伝承科(ブリシサン)ってデイビッドから聞いてたけど、まぁどっちにしろ、所属していたわけじゃあないみたいだよ。元々、時計塔への編入も最近だったし、彼女」

「ま、どちらにせよ彼女の功績ってことなわけね」

ロマニは肩身狭そうに苦笑いをしてみせた。臨時の所長代行を務めているけれど、彼の本業は医務の管理だ。

藤丸立華(フジマルリツカ)。19歳という若さを感じさせない落ち着いた物腰と、相反するように子供っぽい雰囲気を奇妙なバランスで両立させている、マシュのマスターだった。

彼女の在り方は、複雑だ。あらゆる情動が混交する洗練された彼女の在り方は、ある意味で無垢なマシュにはまだ、複雑で理解しにくいものだった。

「―――あ。そういえば」

「ん、なんだい?」

応えるロマニ。ダ・ヴィンチも眉を上げ、マシュを見返した。

「先輩はその、ドイツ語圏の方ではないですよね?」

「そうだね、純粋な日本人だったと思うけど」

「なんだい―――いや、そういうことか」

独り、納得したようにダ・ヴィンチは目を伏せた。それも一瞬、朗らかに笑って見せると、「マリア、だろう?」と口にした。

「はい。先輩はマリーさんのことを、マリア、と呼んでいました。それが、何故なのかな、と」

あぁ、と吐息にも近い相槌を打ったのは、ロマニだった。

「簡単なことさ」

重い嘆息と一緒に絞り出したダ・ヴィンチの声は、ともすれば、それなのに、温和にも響いた。

その時のダ・ヴィンチの顔は、簡単に言って、印象的だった。そして、その顔の意味は、やっぱりまだ、マシュには理解し難かった。

「あの子にとって、マリー、は特別な呼び名でね」すん、と彼女は鼻を鳴らした。

「女の子らしい名前だから―――って。オルガマリーのことを、そう呼んでたんだ」

 

 

 

 

 

風が、吹いている。青く膨らむような、爽やかな涼風。すんすん、と風の薫りを味わった男は、どっかりと岩塊に腰かけていた。

艶のいい長髪が、風に揺れている。そよ風に揺らぐ柳の如き男は、飄々とした顔だ。掴みどころの無い、そして何故か垢抜けない佇まいだった。

「あら」

そんな男の肩を、声が叩いた。男は振り返りもせず、むしろ身動ぎすらしなかった。

「小次郎はん、随分とまぁご壮健な様子やねぇ」

からから。笑うような声に、小次郎も鼻笑いを返すばかりだ。

飄然と座り込み男は、その実立つことすらできなかった。剣の一閃が奔る身体からは血が滲んでいた。滲んでいた、などというのは、至って控えめな表現だった。

「おや。そちらも随分お楽しみだったようだ」

「別嬪さんやろ?死に化粧がえろう上手でねぇ」

ちょこなん、と男の隣に座った幼い風采の少女も、酷い有り様だった。

そもそも、頭が捥げていた。自身の両腕に抱かれた双角戴く少女の顔は、底抜けの温和さを湛えていた。その他……無事なところが見当たらない。単純な傷であれば、男よりも遥かに酷かった。

果たして、この鬼を相手にここまで戦える者は一体何なのだろう。ふと過った考えを、されど男はさっさと捨てた。今更どうでもいいことだったし、何より―――。

「なんや、楽しそうな顔やねぇ」

くすくす、と言ったように、鬼が笑う。そうかもなぁ、と適当に返事をしながらも、確かに。

男は、満足していた。男のあまりに軽薄で虚ろな人生を満たして余りある感慨が、確かに在ったのだ。

「随分小さい刀」

「あぁこれか。いや。これは、まぁ。土産みたいなものだな?」

鬼は興味ありげに、男の手元にある刀を眺めていた。男は子供が玩具を見せびらかすように、だいぶ短くなった太刀を持ち上げた。

陽光を反射させる焔の如き刀身。佐々木小次郎の銘を冠していた無銘の剣士は、幼子のように無邪気な顔で見つめていた。

贋作(なまくら)ではあったが、偽物(なまくら)には過ぎた土産よなぁ」

 

 

 

 

 

 

 

少女は、空を見上げていた。

無限の穹窿には、奇妙な光の帯が広がっている。少女の目は、その帯を、奇妙な期待を満たした目で見ていた。

と、少女の傍に、どろりと影が落ちる。黒い影依(シャドーロール)に身を包んだ影法師は、疲弊しているように蹲った。

少女の手が、影法師を撫でる。哀惜にも似た手触り。奇妙に痙攣した黒い影は、砂城が崩れるように、忽ちに霊体へと身を溶かす。

「ごめん、ありがとう。マイフレンド」

瀕死の重傷だった。一歩間違えれば、ここで彼を喪っていた。最初の一歩で失うにはあまりに大きく、だが、予想外の出来事に思わず動いてしまった。

軽率の極みとしか言いようがない。きっと不要な行為だった。だが、それでも彼女は、どうしようもなく、微かに莞爾と顔を軋ませた。




これにて第一章、完結になります。

佐々木戦でクロがこっそり投影した了戒、実は抜いたかどうかすら分かってない刀だったりするわけですが。
彼なら例え見たことがなくとも、本人でなくとも、何か運命を感じ取ってくれるんじゃないかなぁ、と。


それでは、第二章でお会いしましょう。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2章 将師狂想歌劇セプテム~綺羅星の軍神皇帝~
ありきたりなアペルトゥーラ


錬鉄の小悪魔第2章、はじまります


肺が、苦しい。

切れ切れになる呼吸。燃えるように熱い胸郭。噴き出す汗と騒めくような夜風に身体を冷却させながらも、彼女は、小さな身体を必死に駆動させていた。

不自由な身体だった。本当ならば颯爽と草原を翔け抜ける身体を持っていたはずなのに、それは、今は、亡い。

思わず、少女は足を止めた。呼吸すら厳しくなった彼女の矮躯が、悲鳴を上げたのだ。煩わしさと焦燥に駆られながら、それでもなんともならない己の不できが、今だけは不快だった。

さわ、と風が駆け抜け、草原が秘密めいたささやき声を漏らす。冷厳な夜風が、彼女の肌を、それでも包んだ。

少女は、草原に倒れ込みながら、空を振り仰いだ。

あぁ、だけど―――。

雲一つない、星光の虚空(ソラ)。雫のような赫焉の綺羅星が、昏い穹窿(きゅうりゅう)に、名前のない座標(星座)を象っていた。

 

 

立華藤丸(たちばなとうま)、16歳。高校2年生になった少年は、時折自分の年齢に奇妙な違和感を覚えることがある。

16歳。その年齢は即ちアニメの主人公たちの、おおよその年齢である。

高校生になった少年の感慨は。とにかくその点にあった、と言っていい。だって、小学生や中学生の頃夢見るように凝視し続けたテレビ画面の向こうの主人公たちと、自分が同じ年齢とはどういうことか。彼ら彼女らはもっと大人びていなかったか。それに比べて自分はガキすぎでは? などと、思ったものである。

これは大部分のオタクが、その生涯を以て経験し続ける奇妙で薄っぺらな葛藤の、最初の一歩だったと言えよう。オタクたちはこうして、アニメのキャラクターたちに比べて現実の人間の方がよっぽど薄っぺらでリアリティが無く感動的な設定も無い、でもそれが人間と言う存在者なのであると理解していくものなのであった。

トウマはまずその一歩を踏み出して、そうして多分60歳くらいまではその葛藤―――と呼ぶにはあまりにくだらないが―――を抱えていくはずだった。

そう、あの日まで。

奇しくも16歳の少年が、唐突にも主人公として冒険譚に投げ込まれた、あの日まで。

 

 

なんて意味深長なプロローグで始まったけれども、トウマの朝は、酷く破廉恥な幕開けで始まった。

まず、彼は起きると同時に思ったことがある。即ち。

「二度寝していいかな」

という、愚鈍(勤勉)な社畜のような感慨である。

事情はある、と言えばあった。日中は身体機能向上の為のトレーニングを行い、夕方からは魔術の訓練を行う。第一特異点の修復を終え、余暇が過ぎてからは日々訓練の連続だ。レイシフトの前々日まで続いた特訓の疲労感は尋常ではなく。レイシフト前日の余暇はあまりの疲労で、ヒュプノスと18時間過ごしたのは仕方のないことであった。

 仕方のないことではあったが、それにしても、今日はレイシフトを行うまさに当日なのだ。人理を救うという大業を前にして、トウマの放った言葉はちょっとあんまりだった。

 それでも、トウマはまだ、色々な意味で常識人だった。二度寝の誘惑に駆られながらも、唸り声を一言。気合を入れるというより粘っこく纏わりつく眠気を渋々といったように振り払うような声とともに、なんとか目を開けた。

 「ん?」

 目を開けてから、トウマは目の前の光景を、ちょっとよく理解できなかった。

 白い、三角形があった。正確には逆三角形である。布で構成されるそれは、どうやら衣類の一種であるらしい。その衣類の目的は、聖域―――その、あの、アレを視覚的衛生的に保護するためのものでは、ないか?

 畢竟。

 その逆三角形の銘を―――。

 「お、おお、パ―――!?」

 「んぃー」

 がばがばと勢い余って起き出したトウマ少年16歳が目にしたのは、なんか布面積の少ない褐色の小悪魔だった。

 「おはよ~トーマ」

 なんて感じに、のほほんと丁寧にも朝の挨拶をして見せるちっこい女の子。眠たげに目元をごしごしと擦る少女―――クロエ・フォン・アインツベルンは、ふわぁ、と大きな口を開けてあくびをした。

 頭がとんらんしてる。いや混乱してる。表層の記憶からは現状を理解し得る要素は何もなく、ただ下着姿の少女がちょこなん、とベッドに女の子座りをしている様を、漠と眺めているほかなかった。

 「何驚いてるのよ?」

 「え、いやだっ……事案」

 クロはもう一度あくびをすると、何ってんだコイツみたいな目を返してきた。

 「昨日夜に魔術について教えてって言ったの、トーマじゃない」

 「そう、だっけ?」

 「そうよ。そしたら途中でトーマ寝落ちするし」

 クロは胡乱な目をした。言われて見れば、そんなことがあったなぁ、と記憶が脳みその奥底から湧き出してきた

 確かに、18時間の睡眠の後なんとなく目を覚ましたトウマは、魔術についてのちょっとした疑問の為、クロを部屋に呼んだ。そうして小一時間講義を受けたところまでは確かに覚えているから、多分その直後に意識を沈没させたのだろう。

 「や。でもそれ、俺の部屋で寝てる理由になるかな」

 「えー?」

 しゃなり、とクロは身動ぎした。真夏の冷蔵庫で冷たい雫を纏う濃い麦茶のような肌色は、健やかを通り越して艶やかですらある。

 「私がトーマと寝るのに理由って、必要?」

 ずい、と彼女が身体を寄せる。鼻先まで迫った彼女の整った……というか整いすぎた顔立ちに赤面したトウマは分かりやすく視線を泳がせた。 

 泳がせてから、結局トウマはクロの顔を控えめに見つめることにした。視線を逸らそうとして、若干サイズの大きなタンクトップのずれた肩紐と、見えそうになりかけている僅かな凸面にぶちあたってしまったからだった。色々と、正視していいものではない。ホントに。

 とは言え。

 面前で蠱惑的に歪む彼女の貌立ちも、正視するにはあまりに破戒的だった。ビスクドールのような造形的美質を持ちながら、鼻腔に微睡むほどに匂い起つ肉感的な美質をも孕み持つ彼女は、端的に―――善かった。

 って。

 「あ」

 「大体そんなこと言ってるけど、トーマだって寝てる間ずっと私のことぎゅーってしてたじゃない」

 「あ、あのクロさん?」

 「抱き癖? 甘えん坊なのね、ちょっと苦しかった―――って」

 ようやっとトウマの視線に気づいたクロは、ぽかんとしたまま、彼の視線を追った。

 向かう先は部屋の入口。あけ放たれた自動スライド型のドアには、人影2つが、どっちも酷く印象的な顔でこっちを見ていた。

 「あら~」何故か近所のお姉さんみたいな顔をする3歳年上の先輩。

 「な、なななな」何故か一音節をひたすら繰り返しながら、顔を真っ赤にする眼鏡っ子の後輩。

 「ちが、これはクロが勝手に入ってきて―――」

 「先輩、破廉恥です!」

 バチン!

 ―――なんでさ。

 

 

 「おーやっと到着かぁ―――ってどうしたんだい、それ?」

 管制室のコンソールから顔を上げたロマニの第一声は、それだった。

 「不手際のようなものです」

 「なんだい、それ」

 一層頭にクエスチョンマークを浮かべたロマニは、なんともなしに行儀よく並んだ4人を見比べた。

 ニコニコするリツカ。にやにやするクロ。顔を赤くしながら申し訳なさげに俯くマシュ。そうして、左の頬に綺麗な掌型の赤い痕をつけたトウマは、死んだ魚みたいな目をしていた。

 「怪我はないかい、レイシフト前だからちゃんと検査を」

 「大丈夫です、見た目ほど痛いですが痛いだけですので。あれです、ギャグ時空って奴です」

 不安げにトウマを見つめるロマニと、どこか悟りすら開いたかのような顔のトウマ。マシュは一層俯きを強くして、小さくなっていた。

 「まぁ、大丈夫ならいいか」

 「ざっくりしてるなぁ」

 「さて、今回みんなに集まって貰ったのは他でもなく―――」

 「普通に進めてくわね」

 聞こえているのか居ないのか、ロマニはツッコミも気にせず自分の話をすることにしていた。わざとらしく作った真顔からは、なんとなく状況を楽しんでいる感が滲んでいるように思えた。多分。

 「第二特異点へのレイシフトだ。オルレアンからまだ幾日も経っていない中でとても申し訳なく思うけど―――」

 ロマニはそういって、表情に苦渋を滲ませながら、4人を見た。そうして一層、彼はやるせないように眉を寄せた。

 だが、それも束の間の話だった。いつも通りの温和そうな表情に戻ると、ロマニは手元のコンソールを手短に操作した。

 管制室中央に鎮座する、赤熱の球体―――カルデアスが、ぐるりと回る。ゆっくりと回転し終えると、カルデアスの表情に、 光点(ブリップ)が浮かび上がった。

 それこそが、次の特異点の位置座標だ。場所は、第一特異点だったオルレアン―――フランスに、比較的近い。

 正確な場所は、フランスよりもずっと南で、やや東に位置する。長靴のような形をしたそれは、2016年現在、イタリアと呼称される国だった。

 「時代は西暦60年。第5代皇帝ネロ・クラウディウスが統治していたローマ帝国が、次の特異点の舞台だ」

 

 

 アンサモンプログラム スタート

 霊子変換を開始 します。

 指定座標を設定。

 人理定礎値:B+

 全工程  完了(クリア)

 グランドオーダー 実証 開始します



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

接敵はピクニックのように

ざら、と視界が開けた。

深い海の底から掬い出されるような自然な目覚めとは異なる、人為的な覚醒。イメージするならば、唐突に烈日の荒野に投げ出されるかのような錯覚。如何に言葉を尽くしていいものか、測りかねたが、ともかく、トウマは目を開けた。

風が、鼻先を薫る。剣呑さはなく、若草萌ゆる瑞々しい丘が視界一杯に安らっていた。

なんだか、この風景はフランスのレイシフトにも似ていた。牧歌的、とも言える景色。だが、これから、想像も絶する激闘が始まるのは、論を待たないことだ。冬木でも、オルレアンでも。その戦いは、凄絶としか言いようのない戦いだった。

「無事、転移できましたね」

最初に声を発したのは、マシュだった。カルデアでの装いとは異なる、時代錯誤にも見える大楯に騎士甲冑を着こんだ少女は、どこか晴れがましさすら感じる表情だ。

声にならない感慨を満たしながら、マシュは周囲を眺めまわしている。深い呼吸は、滋味豊かな食事を味わっているかのようだ。目の前に開けた世界の様相に、心からの感嘆を覚えている。子供らしい、瑞々しい顔だった。

「やっぱり凄いわね、このレイシフトって」

クロもマシュと同じように、目の前の世界に圧倒されていた。つい数舜前まで南極の研究施設に居たという事実とはどうも反り合わない、現実の自然が屹立している光景。しゃがみ込んだクロは足元の草を千切ると、しげしげと眺めていた。

と。

「キャーウ!」

「わ!?」

背後から後頭部を強襲した不埒者に、クロは呆気なく地面に転がされた。

「フォウさん、またいつの間に」

「今マシュの胸から出てこなかった?」

相変わらずクロの後頭部に陣取る白い毛むくじゃら。リスみたいなネコみたいな不思議な小動物、フォウは自らの狼藉をむしろ誇るかのように、もう一度甲高く鳴いた。てしてし、とクロの後頭部を踏みながら。

むく、とクロは音も無く立ち上がった。なんなら感情すら吹き消したかのように立ち上がると、地面に飛び退いた白いちんちくりんを鋭く見下ろした。

「やったわね~?」

「フォウ、フォフォ」

嗤うように言うクロ、返すフォウの鳴き声も、とっぽい挑発の色を帯びていた。

後は、低レベルな争いが繰り広げられるだけだった。ひょこひょこ飛び跳ねる小動物を空間転移を連発しながらおいかけるクロ。低次元なのに高次元な無邪気な喧噪だった。

「ピクニックみたいですね」

そう言うマシュも、なんだか楽し気だ。レイシフト直後の緊張を淡く弛緩させて1人と1匹の追いかけっこを微笑ましく眺める目は、一体何を映しているのだろう。憧憬というよりも、もっと純朴な憧れを滲ませた目のように、見えた。

「ずっとこうだったらいんだけどね」

トウマに並んだリツカが、朗らかに言う。温和な声色と表情にトウマも頷きかけたが、寸前、リツカの視線が誘うように宙を見上げたのを、確かに目にした。

釣られてトウマも青々とした空に目を向けて、そうして顔を顰めた。

呑気そうに横たわる青空を切り裂くように横断する、光の帯。オルレアンの時も空を占領していたあの光の帯が、1世紀ローマの天蓋にも陰鬱に佇んでいた。

あれが何なのかは、まだわからない。特異点にのみ観測される光帯がなんであるか、カルデアでもまだ判断につきかねているというのが現状ではあった。

それに不吉を感じるのは、ややネガティブだが真っ当な精神性だろうか。見上げるリツカも、不快そうな表情だった。

だが、彼女はそれをわざわざ言語化しようとはしなかった。小声でカルデアに光帯の存在を報告しただけだった。トウマも彼女の心情を斟酌して、黙したまま、光帯から無邪気にじゃれつく2人と1匹―――いつの間にかマシュも喧噪に巻き込まれていた―――へと、視線を泳がせた。

(やぁ、そちらは大丈夫そうだね)

カルデアからの無線が入ったのは、クロが狼藉者をひっ捕らえて抱きかかえ、件の毛むくじゃらが観念したように「ミー」と鳴いた時だった。

(紀元1世紀、西暦60年ローマ。時間座標は予定していた通りだね)

網膜に投通信用の映像枠が立ち上がる。手元のコンソールを操作しながら、安堵したようにロマニが言う姿は投影されていた。まずは最初の難関が終わった、と言ったところだろうか。レイシフトを行うこと自体の難易度は左程ではないらしいが、それでも緊張するのは緊張すると言ったところだろう。

「座標も予定通りかな?」

(そちらも問題ない。首都ローマの郊外に無事転移している。ローマに行けば、華やかな都が君たちを迎え入れてくれるはずさ。皇太后アグリッピナを毒殺した直後だけど、まだ5代皇帝ネロ・クラウディウスの統治は繁栄のただ中にあったはずだから)

ロマニの声の中のある一部が、酷く鮮やかにトウマの耳道を駆け抜ける。

ともすれば、極彩色の色調を持った響き。小さく身体を震わせたのは、自然と言えば自然なことだっただろう。

ネロ・クラウディウス。

月厨なら、特別な響きを感じずにはいられない名前。PSP向けに発売されたFate/stay nightの次回作とも言うべき記念碑的な作品で、これまでのように伝奇的でありながら現代的SFのテイストを織り込んだとも言うべき作調は、およそ今後のTYPE-MOONの世界観そのものを方向付けたとすら言えるだろう。続編のCCCを含め、stay night以上に熱狂的なファン層を擁立するEXTRAシリーズ、その主人公核ともいうべきサーヴァントこそ、赤セイバー、ネロ・クラウディウスその人だ。

もし味方であれば、これほど安堵感のある味方は居ないだろう。ネロの底抜けの明るさと前向きさは、ジャンヌ・ダルクとは異なった心強さがある。もし敵だったとしたら―――という発想を抱かせないのが、EXTRAのネロ・クラウディウスという人物の論評の全てと言っても良い気がする。

「まず、首都に行ってみるのはどうですかね」

だから、そんなトウマの提案は実際素朴なものだった。あのネロが統治する都であれば、きっと安全だろうという確信。大きな街であれば情報も自然と入ってくるだろう、という算段でもあった。

リツカは、少し考え込むように「ふむ」と吐息のように漏らした。思案気に寄せられた眉は、整えられた綺麗な眉同士が秘密めいた相談しているかのようだった。

藤丸立華。年齢は19歳だという。3歳ばかり年上なのに、彼女はとても泰然としている。底抜けの明るさもあり、気さくで、それでいて冷静。多分、知略型の主人公とはこういう佇まいをしているのではないか、と思わせる。そんな女性だった。

「いいんじゃあないかな」

リツカはトウマに身体を向けると、寄せた眉を弛緩させるように離した。

「私もトウマ君に賛」

成、と言いかけて。

不意に、彼女の表情が、微かに蠢動した。

穏やかな顔は変わらず。ただ、緩やかに放していた眉を微かに強張らせたリツカは、遠く明後日を振り仰いだ。

視線の先は、丘。いや、正確には、丘の向こう。千里眼で未来視でもするかのようなその眺望の後、リツカは「ロマン」と呟いた。

「周辺一帯の走査、できるかな」

(あぁ大丈夫だよ、少し待って)

「リツカ、先に行くわ。トーマ」

こっち、と伸びた赤い手がトウマの手と繋がる。あ、と思うのも束の間、あまりに容易くトウマの身体は引っ張られていった。

流石に、トウマとて2度の戦いを経てきた。この急な事態の変調を理解できないほど、呑気ではなかった。

即ち、戦闘の気配。手を引くクロの後ろ姿が持つ強張りのような緊張は、戦いの気配を否が応も無く感じさせた。

(索敵完了。北西6km地点に多数の魔力反応検知。戦闘行為が行われているかはともかく、多数の集団が居ることは間違いない)

(そう、了解。クロ、そっちは?)

「今稜線に出るわ。トーマ、いきなり顔出さないでね」

駆けあがること数秒。サーヴァントの膂力は忽ち小高い丘を踏破しきり、山際へと顔を出した。

丘からなだらかに広がる平原。変わらず牧歌的なはずの草原のただなかに、確かに、何かが群れていた。

通常、人間の視力ではそれまでだ。まるで蟻が死肉に折り重なっているかのようにしか見えない光景は、それだけでは事態の理解になんら寄与しえない。

だが、トウマの傍に居る少女は通常の人間ではない。人類史が集積した超常の具現たる境界記録帯、ゴーストライナー。サーヴァントと呼ばれる使い魔は、数千を生きる魔術師すら敵わないほどに強力な存在者である。

弓兵のクラスで召喚されたサーヴァントは、射撃に関するあらゆる能力に長じる―――もちろん、須らく目が良い。かの弓兵、エミヤは4km離れた場所から大橋のボルトの一つ一つを識別できたという。なら、6km地点から状況を俯瞰するなど、さして難しい話ではない。

「部隊同士の戦闘、ね」

(戦闘、か)微かに、ロマニが言い淀む。そういえば、先ほど自身が言っていたではないか。この時代のローマは比較的平和である、と。ならば、外縁部はともかく、首都近辺で戦闘が行われていることなど有り得ないはずだ。(互いの特徴はわかるかい?)

「片方は金と赤の意匠。古代ローマを象徴するデザインね。もう片方は」

言って、クロは眉間に皺を寄せた。事態を理解しかねているのか、あるいは事態を理解した上で、その異常事態に懸念を抱いているのか。あるいはその両方なのか。

「泥人形みたい。ゴーレム、かしら」

クロの言葉から零れたのは、そんな響きだった。

ゴーレム、と彼女は言った。

ファンタジー作品において泥人形のモンスターと同意義と化した言葉だが、その原義は大きく異なる。

ヘブライ語で胎児を意味するその人形は、ユダヤ教文化に深く根付いたものだ。高位の魔術師の素養を持ったクロが『ゴーレム』の名を出すならば、それは単なる比喩的な言語というわけではないのだろう。即ちあれは正しくユダヤ教文化におけるゴーレムそのものであり。なれば、思い当たるサーヴァントが1騎居た。

「アヴィケブロン、かな?」

思わず、その名を口にしていた。それでいて無線を介さない独白であったあたり、自分も慣れてきたなと思う。

「ふぅん、ベン・ガビーロールなんだ。てっきりラビの誰かかと思ったけれど」

トウマを一瞥してから、また、クロは閲するように状況を眺めやる。品定めするような視線は、戦況を理解しながら、今後の戦いに思いをはせているようにも見えた。

(映像確認した。片方は古代ローマの軍隊と見て良いだろう。片方の勢力はいわゆるゴーレムと呼んで間違いない)

妙にはっきりとロマニは断言すると、(どう思うかな、みんな)と言葉を続けた。

(トウマ君はどう思う?)

「参戦すべき、だと思います。どっちが敵か味方かわからないけど、あれがこの特異点の鍵を握る事態なのは確かだから」

(事態に介入すべき、ということだね)

言葉を繋いだリツカは、続けて頷きのような相槌を打った。

(トーマ君のアイディアで行こう)

「じゃあ、リツカさんも?」

(いや、私は今あの戦いに介入すべきではないかな、と思った。だってどっちが敵か味方か不明瞭だからね。でも、積極的介入の方が手っ取り早い気がしたからね。だから、君の案で行こう!)

(すみません、ですが敵味方が不明確なのに戦闘に介入するのは危険ではありませんか?)

(それは大丈夫、マシュ。見れば検討くらいはつく。ドクター、クロの視覚情報データリンクで共有できる?)

(あぁできるよ。クロちゃんもいいかな?)

(いいわよ)

矢継ぎ早に指示を出した後、リツカは(じゃあ、私の存在価値を示さなきゃね)と軽やかに言って見せた。高校生が自宅で言う『ただいま』くらいの声音は、話している内容とは酷く乖離している。その乖離は明確に存在したまま、藤丸立華という存在はその不自然を奇妙な自然さで内包する。驚嘆にも似た畏怖、とでも言おうか。ともあれ生唾を飲み込んだトウマは、眼下で群れ為し犇めく影を眺めやった。

大体、1~2分。よし、と小気味良く頷くと、

(ローマ帝国っぽい方に参戦しよう)

と高らかに言いやった。

何故、とトウマは聞かなかった。漠然とだけれど、彼女の推量は多分当たっている、と思った。論拠はない。ただ自信に満ちた彼女の弁は、聞くものを信頼させる何かがあった。

「それで。どうやって援護に入るわけ?」

(うん。トーマ君とクロは紡錘陣形の後背に火力投射をしてもらいたい。でもあんまり派手に敵後衛を吹っ飛ばしちゃダメ。私とマシュは敵勢力の突端に強襲、敵の突破力を漸減する。戦闘の決着までそう時間はかからないと思う。いいかな?)

「了解、リツカの言う通りにするわ」

「俺も、大丈夫です」

(わ、わかりました)

(よーし、行こう! 賑やかにね)

直後、爆発的な衝撃が背後から膨れ上がった。ぎょっと空を見上げると、飛翔する影が1騎、空を切っていく。

いや、正確には、それはサーヴァント1騎とマスター1人。リツカを抱えたマシュは、何をやったか120mm徹甲弾さながらに状況へと突撃していった。

「マシュ、あんなことできたのね」

呆然と見上げるのも束の間。一歩を踏み出し山際から顔を出したクロの左手には、既に黒塗りの洋弓が握りしめられていた。

「―――投影、開始(トレース・オン)

紡ぐ言葉は僅かに1節。魔術の詠唱というよりも、それは異能を発現させるためのルーティンに近しい。虚空を掴む様に突き出された小さな掌の上で、光芒が瞬いた。

朧な光とともにまず空虚な骨子が浮かび上がる。中身の無いはずの、虚ろな骨子。されど1秒後には、明瞭な現存在が存在していた。

捻じれた、矢。紡錘型をした歪な鏃を持つそれは、その実、剣であった。

矢を、弓に番える。左手の甲に矢を添えること僅かにコンマセカンド。彼女の鷹の目は彼我距離6kmにも関わらず、正確に戦術目的に適う地点を捉えていた。

右手の指が、弛緩する。張り詰めていた力が一挙に解放されて射出されると同時、クロの艶やかな口唇が、その銘を呟くように漏らす。

「『偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)』」

さながらそれは、箒星のようだった。

ランクにして、A。絶大な神秘を撒き散らしながら6kmを数瞬で疾駆した(グレネード)は。

「弾着、今!」

目標地点を抉ると同時、膨大な魔力の奔騰を巻き起こした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

赤き煌めきとの邂逅

マシュが泥人形の軍勢に突撃したのは、クロの砲撃より数瞬、速かった。

シールドを土台に、リニアカタパルトから発艦する戦闘機の如くに滑空したマシュはレッドアウトを引き起こしかねないマイナスGの暴風の中、倒すべき敵を見定めた。

「マシュ、放して大丈夫。存分にやっちゃって!」

「了解。マシュ・キリエライト、吶喊します!」

抱きかかえたリツカの体躯を、宙に放り出す。彼女ならきっと大丈夫、という確信すらをも置き去りに、マシュは敵陣へと激突した。

最初の標的は、先頭集団でもひときわ巨大なゴーレムだった。大きさにすれば3mはあっただろうか。巨漢の力士にも見えたゴーレムの頭部めがけ、マシュは乾坤一擲とばかりに大楯を投擲した。

魔力放出によるパワーダイブと重力落下。さらにはデミ・サーヴァントのマシュの膂力を運動エネルギーに転換した巨大な盾は、それだけで神の杖もかくやといった質量兵器と化していた。十字形の盾はゴーレムの肩口に突き刺さると、容易く堅牢な泥の体躯をかち割り、破砕し、真っ二つに両断した。

さらに、巨大な質量と超絶的な運動エネルギーによって齎された衝撃と言う名の破壊のエネルギーの乱舞は周囲のゴーレム6体を忽ちになぎ倒し、バラバラに粉砕した。

一瞬の、闃然。周囲の喧騒が死滅したかのような静寂に降り立ったマシュは、シールドを泥の骸から引き抜いた。

リツカの声が響いたのは、その直後だった。

「これより我が軍はローマ帝国に加勢する! この戦い、決して負けぬぞ!」

酷く演技がかった声だ。少なくとも、普段のリツカの声ではない。だが、少壮気鋭とばかりに戦場を勇躍したリツカの姿は、マシュの主観性を加味しても、威容を纏うものだった。

凪いだ黄昏の海のような静けさが、波打っていく。周囲の視線を一身に集めたリツカは、何故か仰々しく右手を天に掲げ、「ふんす!」とでも言いたげにドヤっていた。

その直後、だ。

遥か敵陣の後方。音速を超えて飛来した宝具が炸裂し、数多のゴーレムが塵のように宙を舞った。

それが、最後の契機。

人間の膂力では、到底扱いきれない巨大な盾を軽やかに扱う少女。ゴーレムをまとめて吹き飛ばす爆破。そうして、それらを指揮統率する人物。たじろぎを見せた泥人形たちも併せ、金と赤の装いをした軍勢が歓喜の叫喚を上げたのは、巧妙な舞台演出の為せる業だった。

「さぁ行くよマシュ! ヒーローはヒーローらしく、派手に戦おうじゃあないか!」

激発一擲。大地を砕く勢いで踏み込んだマシュは再度敵陣に猪突して、泥人形へと躍りかかった。

盾で圧し潰し、回し蹴りで打ち砕く。時にシールドごと突撃し、時に投擲した盾で両断する。骸となった泥人形から盾を引き抜くや、次の獲物とばかりにもう一体のゴーレムに飛び掛かりかけた。

だが、飛び掛からなかった。否。飛び掛かれなかった。あるいはそれは、彼女に憑依された英霊の闘争本能によるものだったか、あるいは背後から聞こえたリツカの声だったか。どちらにせよ両足に力を貯めた瞬間、マシュは己に突き刺さる敵意に蒼褪めた。

「マシュ、後ろ!」

咄嗟に盾を掲げて、その瞬間に何故か理解する。

あ、ダメだ、という感覚。いくら防御しようとも、その攻撃は己を打ち殺すという予感。仮に宝具を展開しようとも、食い破られるという鬼気。それほどまでに、その突撃はマシュにとって致命的だった。

だから、その唸るような奔騰が明後日に弾け飛んだ瞬間、マシュはへなへなと地面に崩れ落ちた。自分が生きている、という感覚を掴むまでにコンマセカンド。全身を悪寒に襲われながら、マシュは2つの影をただ見上げることしかできなかった。

1騎。それは、あまりにこの戦場に在って異様な存在だった。それもやはりゴーレムの一種なのだろう、泥の騎馬に跨った女武者が、雷光の如き鋭敏な眼差しを落としている。艶やかさを通り越し、おどろおどろしいまでの漆黒の長髪を靡かせた女武者。明確に発散された敵意は、他の誰でもないマシュを貫く。

その、敵意から守るように。もう一つの影が、女武者に相対する。

ローマ帝国を象徴する、赤と金の装いに身を包んだ剣士。少年的ですらある華奢な身体は矮躯としか言いようが無かったが、大地に根を張るが如くに屹立した姿は、女武者の敵意など物ともしない威勢を湛えていた。

「大事ないか、盾持つ乙女よ」

謡うような声だった。その声で、ようやっとその人物が女性であることに、マシュは気づいた。

「貴殿らの加勢、感謝するぞ。さしずめシバイの手筈と言ったところか? あやつめ、余の与り知らぬところで手を回すのが上手いからな」

「いえ、あの私は」

「善い、今は委細聞かぬ。まずは余の都を辱めんとする粗忽者を誅する時故な」

ちら、と赤い剣士が視線を寄越す。煌びやかな翡翠(エメラルド)の一瞥は、マシュでさえ、何か心惹かれるものがあった。

人を惹きつける何かが、この少女にはある。立ち上がったマシュは彼女の隣に並ぶと、盾を構えた。

「うむ! 善い面構えだ、貴殿のような麗しの乙女は、余の好むところ。あやつめ、やはり善い仕事をする」

朗々とした、という形容がこれほどまでに似合う声音があっただろうか。まだ幼童の色が抜けないにも関わらず、のびやかに響く声音。凡百の人間よりも卓越した存在強度を感じさせる、豊かな声だった。

「存分に愛でねば礼を失するというものであろう?」

「え、ええ!?」

「だが、その前に、。アレを、退けんとな」

剣士が、己の装いと同じ色合いの剣を向ける。大樹から切り出したが如き歪な剣の切っ先が、ひたと女武者を捉える。

だが、彼女の睥睨は変わらない。巨大な鉞のように冷たい視線は、この場において盾持つマシュと剣を構えるネロを仔細漏らさず睨みつけている。背後にいるリツカには、一切目もくれず。

女武者が、僅かに身を乗り出す。

下馬しよう、という仕草。思わず全身に緊張を走らせたマシュが、剣士を守るように一歩踏み出した。

時だった。

「バーサーカー、ここまでだ!」

不意に、女武者の前にもう1騎が飛び込んだ。

勇壮な駿馬を駆る、少年だった。普段は温和そうな面持ちであろう表情に、峻烈を宿した赤い髪の少年は一瞬だけこちらに瞥を寄越したが、それだけだった。

「首都からの援軍も確認された。マテリアルの奪取は困難だ、先生の言う通り、撤退しよう」

「ええ、そうですねライダー。時間がかかりすぎてしまった。貴方とキャスターに 従いましょう」

バーサーカー、と呼ばれた女武者は、その呼び名に反して酷く理知的に声を返した。峻厳の面持ちは変わらず、にも拘らず穏やかさすら感じさせる声だった。

「尻尾を巻いて逃げるか? ふん、余の威光に仇名す叛徒どもには似合いよな?」

息するように、赤い剣士は罵倒を投げつける。ライダー、と呼ばれた赤い髪の少年は特に気分を害する様子も無く、ただ口角に笑みだけを湛えていた。

「流石に弁舌だけは立派だね、ローマの暴君。いつか君のことは征服したいと思うけど」

ライダーが手綱を引き絞る。威嚇の如きに青鹿毛の馬が嘶くと、軽やか無い身を翻した。

「それは、残念ながら今じゃあない。行くよ、ブケファラス!」

再度の嘶き一つ。猛然と駆けだしたライダーに続く様に、バーサーカーも泥の騎馬を鞭うった。

その背を追いかけようとしたマシュを止めた声は、2つだった。「いいよマシュ」と短く身近に言うリツカの声が一つ。もう一つは、マシュでは無く周囲の群衆へと向けられた朗々とした弁舌だった。

「逃げ惑う者など捨て置け! 勝利は既に我らに在り、今はその美酒を存分に呷ろう!」

鋭く、それでいて悠然とした声音は、あの赤い剣士の言葉だった。撤退する敵軍を追わんとしてた高揚を鎮めながら、それでいて別種の熱気を吹き込む精強な声。忽ちに周囲を包む歓声のただ中で、マシュは困惑にも似た様子で立ち尽くしていた。

「うまく行って良かった」

リツカはそう言うと、朗らかな顔をした。彼女は、最初からこの結果が齎されることを熟慮していたのだ。自らの加勢により敵が撤退するという予測―――否、戦術的推理を十分に策定させたのだ。19歳、マシュよりも一回り年上の先輩の温厚そうな顔からは、そんな知悉は一切にして知れなかった。

「うむ、貴殿はこの盾持つ乙女の上官か?」

耳聾するほどの歓声にも怯まない様子で、赤い剣士は興味深げな目をリツカへ向けた。

「えぇ、まぁ。そんなところです」

「貴殿らの加勢が無ければ、ローマの蹂躙を赦すところであった。ローマ帝国皇帝の名において、貴殿らに深く感謝する。贅を尽くした報酬を用意するぞ」

謝意を表明しながらも、むんずと胸を張る。高らかに言い述べる様は、ともすれば傲岸にも見えただろう。驕慢をアプリオリに身に着ける彼女のその振舞は、しかし全く以て鼻につくものが無かった。

だが、そんな彼女の自然な振舞よりも。

「皇帝、ということは。貴女が?」

ともすれば、その目を丸くしたマシュのその物言いこそは傲慢不遜と断じられかねないものだった。暗愚な人物であれば、それだけでマシュを罰したやもしれぬ。

だが、彼女は、そういった愚劣さとは程遠い人物であった。

「うむ! 余こそは至尊に冠絶たるローマ皇帝、ネロ・クラウディウスである!」

えへん、とばかりに鼻を鳴らす赤い剣士―――ネロ・クラウディウスは、気鋭を表情に湛えていた。

 

 

赤毛のライダーは背後を丐眄すると、爽やかに息を吐いた。樹々乱立する中には、無数のゴーレムたちが沈黙に座している。傷を負った個体も居るが、損なわれた戦力はいたって微々たるものと言えるだろう。

首都強襲の作戦が失敗した失意は、彼にはない。優れた指揮官とは戦術レベルでの勝敗に拘泥しないものであり、その意味で、赤毛のライダーは無能とは程遠い才知に溢れた指揮官だった。

その真名、アレキサンダー。世界征服という子供じみた夢を実現しかけた大王イスカンダルの幼少の姿として召喚された、ライダークラスのサーヴァントである。

そして、彼の傍にはもう2騎のサーヴァントが居た。

1騎は、バーサーカー。真名を源頼光と言う。張り詰めた弦のような鋭利さを感じさせるサーヴァントは、戦火から離れてみれば、眉目秀麗な面持ちに温和を湛えた人物である。損傷したゴーレムを労わる様子は、上官というよりは母親のそれを感じさせる。

そして、もう1騎。現代的―――あるいはアレキサンダーからすれば、未来的―――なダークスーツを着た、長髪の男だった。気だるげ、というよりは純粋な疲労を感じさせる目つきに、偏執的なまでに眉間に深く刻まれた皺は、積年の懊悩と、小学生染みた偏屈さでできたものに見えた。

サーヴァントとしての真名は、諸葛孔明。かの偉大な軍師の名を戴きながらも、その男に偉人の風体は感じられない。良くて、三流学者程度の雰囲気しか無かった。

何より、その佇まいが酷かった。大柄のゴーレムに背負われながら、ぜぇぜぇと息つく様は、凡百貧弱な学僧以外の何者でもない。端的に、彼は運動能力が劣弱の極みだったのである。ぜえひゅう、と荒い呼吸をするサーヴァントを気遣ってか、大柄なゴーレムは頻りに背中のモヤシを気にして、手を伸ばしてひ弱な背を摩っていた。

「それで、善かったのですか、ロード・エルメロイ。当初目標は、どれも達成できませんでしたが」

頼光に問われた諸葛孔明―――ロード・エルメロイと呼ばれた男は、幾ばくか困惑と恐縮で眉尻を下げた。

「構いません。達成はできていませんが、収穫はありました。徒に戦力を浪費すべき時でもありませんので」

丁寧な物腰で応えながらも、孔明は一言だけ言葉を添えた。「Ⅱ世をつけていただきたい、レディ」

「あら、こちらこそ失礼を致しました。以前にも仰っていただいたことですのに」

「いえ。些細なことですので」

当たり障りなく、孔明―――エルメロイⅡ世は応じた。最も、それが些細なことでないことは誰の目にも明らかだった。ただでさえ陰険そうな顔に、見るも鮮やかとばかりに自己嫌悪じみた表情を浮かべるのだから、これで些末事であるはずがない。

とは言え、頼光は特にそれには触れなかった。子供じみた―――もとい、偏執的な苦悩はそっとしておくべきである、という頼光の配慮からであろう。そしてそんな配慮を狂戦士にさせているという事実を十二分に悟っていた男は、なおのこと眉間に皺を刻んだ。アレキサンダーは、これだと多分、眉と眉の間にマリアナ海溝ができそうだなぁ、などという愚にも付かないことを考えていた。

「収穫、か。あの盾のサーヴァントかな? 三騎士のどれか、って感じだったけど。バーサーカー、名うての君でも手を焼いたんじゃあないかな」

アレキサンダーは、健やかに頼光へと水を向ける。手を焼いた、という表現でさえも、あの盾のサーヴァントを高く評価したつもりではあった。それほどに源頼光というサーヴァントは、強力だった。数多のレトリックを駆使して形容することすら、不毛であると思わせるほどに。

「あの赤いアーチャーも善い腕でした。貴殿を掣肘する技倆、目を見張るものがありますね」

頼光の返答も、本質的にはアレキサンダーのそれと大差はなかった。

畢竟。この場に集うサーヴァント2騎は、それぞれの性能を客観的に比較し、合理的に性能を判断しながら、主観的な賞賛を述べるに足るだけの人格を備えた傑物であった。

「これならば、アルテラの喪失も問題足り得ないのではありまんか?」

エルメロイⅡ世は、思慮するように身動ぎした。アルテラ、という言葉に反応しているようにも見えた。ポーカーフェイスを保つ意味はこの場では存在しなかったが、それでも顔に張り付いた顰め面は変わらない。懐から取り出した安物の煙草に、なんらかの魔術で火をつけると、不味そうに煙をくゆらせていた。

「確かに」と独り言のように、男は呟いた。「駒はできる限り多い方が良い」

だが何よりも、と続けた言葉の先はなかった。

迂遠そうな顔は、宇宙に広がるほどの権謀術数を巡らせているようにも見えた。実は見えただけで、撤退戦の疲労の息を整えているだけなのかもしれないが。煙草を深く吸い込んでゲホゲホしたりする様を見ると、後者なんじゃあないかなぁ、と思わずにはいられないアレキサンダーである。

「でも、そっちの戦力だけでは版図は完成しない。そうでしょう、先生?」

アレキサンダーは最後の一言を、芝居がかったように言った。先生、と呼ばれた方は少しだけ不機嫌そうな―――自己嫌悪的な不機嫌さを滲ませつつも、無言のまま肯定した。

安物の煙草をフィルターが焼け付くまで吸い尽くすと、エルメロイⅡ世は吸い殻を地面に放り投げた。

「ポイ捨てはダメですよ、先生」

「む」

決まり悪そうに煙草の吸殻を拾う。しげしげとフィルターだけになった白い紙筒を見やると、とても健康的ではない痩せた身体の男は、やれやれと決まり悪そうに空を仰いだ。

()()()()のは、アイツの領分なのだがな」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

少女の皮を被ったサディズム

「うぅむ。つまりは、其方らは未来からやってきて世界を救わんとしている。ということか?」

馬上に揺られながら、深紅の意匠を着飾った彼女は難し気な顔で言った。

あの戦闘より数十分。敵の撃退を勝利と見做した彼女及びその麾下の軍勢は、一路、帰途についていた。

草原を駆ける微風に心地よさを感じると同時に、トウマは雑多な情動の処理にあくせくしていた。

周囲から向けられる、好奇の視線。戦場に急に現れ、超常の力能を振るうトウマ達4人尊敬の念を示し、同時にその珍奇な背格好へと物珍し気な好奇心を露わにする。端的に言って、変人扱いである。

とはいえ、トウマ自身はそうした珍物を眺めやる視線には不慣れでは無かった。2015年現在、オタクは世間一般に受け入れられ始めた珍生物だったが、やはり珍生物の域を出ないのも事実だった。ヘゲモニーを執る世間から、緩やかな承認を受けただけの外様に過ぎないのであり、それ故に学校生活ではそうした扱いの中で生きてきたものだ。今のソレは、そうした日常の延長に過ぎないと言えば、過ぎない。

では、心情を乱すものと言えば何かと言えば。

(俄かには信じがたいことだとは思いますが)

「確かに。余には、控えめに見ても貴殿らが妄想に駆られた宗教家にしか見えぬ。声だけの怪しげな術も含めてな」

ロマニに対し、遠慮なく言い放った金髪の女性こそが、その震源だった。

違えようがない。舌足らずのようでいて朗々とした声に、砂金のような髪。いわゆるセイバー顔なのにセイバー(アーサー王)とは全く印象が異なるその人物こそは、Fate/EXTRAの主人公格たるサーヴァント。ネロ・クラウディウスその人なのだから。

ジャンヌの時もそうだったが。例えば街中で意中の俳優に遭遇してしまった一般人の心境、とでも言おうか。ともかく感動して何が何やらわからなくなる感覚に、トウマはまだ慣れていなかった。

「だが、其方らの言うことを否定できぬことも事実。サーヴァント、とか言ったか。常人を遥かに上回る力を持った者たちがここ最近で現れ始めてな。死を知らぬと言って憚らぬ余の宮廷魔術師に死を与えた者―――バーサーカーとかいう先ほどの手練れも、サーヴァントとやらであれば納得がいくというものよ」

半ば独り言するように言ったネロの表情には、畏怖にも、怯懦にも似た苦慮が滲んでいた。

時代は、未だ1世紀を半分迎えた60年。神秘は薄れ始めたとしても、未だ濃密なマナが大気に漂うこの時代の偉大な魔術師を打倒し得るなど、サーヴァント以外には考えつかない。

「故に、余は其方らの誇大妄想を真実であると見做すぞ。其方らは誠実の徒にも見えるしな」

言って、さらりと馬上からネロの視線が4人を浚う。マシュとリツカ、クロと眺めて、そうしてトウマを見やると、しげしげと視線を止めた。

「しかし飾り気のない男よな。それで本当に人類を救うなどという大業、成就できるのか?」

「アッ、えっと。すみません」

「善い。余が赦そう。世界を平らげる人物とは、存外にして其方のような凡夫なのやもしれぬしな」

威勢よく、ネロは笑った。反対に委縮しきったトウマは、それは見事なコミュ障キモオタのムーブそのものだった。

「セネカが言っていたな。本人は無力だが、才気溢れる傑物をその気にさせる人誑しというものが居る、とな。シバイめもそのようなことを言っていたか?」

ネロは快活にも言った。相変わらず「ソッソウデスカネ」などとキモオタムーブを続けながら、トウマはネロという人物の認識を改めて感じざるを得ない。

活力をそのまま象ったかのような、少壮気鋭の皇帝。天真爛漫、天衣無縫。そんな言葉は彼女の為に生み出された言葉なんじゃあないか、と思わせる溌剌さこそが、ネロという人物だった。

「そうそう。シバイも自らをサーヴァントと名乗っておったな。確かに、思えばあやつの背格好は其方らによく似ている」

「陛下はサーヴァントを配下にしておいでで?」

「うむ、そういうことになるな」

ネロはそう言うと、そういえば、と言うようにクロを眺めやった。暫し眺めてから、うむ? と首を捻ったネロは「何でもない、無礼を赦せ」とだけ述べた。

「シバイ、というと、かの軍師司馬懿でしょうか?」

「だろうね。でも私と似た格好、っていうと」

「そら、噂をすれば」

馬上から、ネロが顎をしゃくった。

促されるように、目を向ける。草原の丘、その先。ぽつねんと、確かに1つの点があった。

地鳴りのように響く音は、馬の駆ける音だろう。灰斑の葦毛はみるみる内に輪郭を明瞭にさせていく。

「遅いではないか、軍師殿」

ネロはわざとらしく、声を張り上げた。皮肉の響きを持ちながら、その揶揄すら親しみの証とでも言うような調子だ。

不躾に声をかけられた相手―――ネロの目の前に葦毛の騎馬を止めた“軍師殿”も、変わらぬ不躾さで返事としてた。

「君がトロいからきてやったんじゃあないか。むしろ、オレに感謝した方が良いと思うが?」

皇帝に対する言葉としては、それこそ躾けの成っていない物言いだっただろう。聞くものが聞けば卒倒しかねない言葉を、その“軍師殿”は至って生真面目そうに言ってのけた。堅物そうな言い方なだけに、冗談とはとても思えないところも相まって、トウマは多少、ヒヤッとした。

司馬懿。文字通り群雄割拠した三国時代を実質的に平定し、西晋の基礎を築き上げた時代の寵児―――らしい。

らしい、と仮定したのは、トウマが後からマシュに説明を受けた又聞きに過ぎないからだった。無双シリーズをちょろっとしか触れていないトウマには、曹操やら劉備はなんとなくわかるが……くらいな知識しか無かった。

そして『らしい』と仮定した理由はもう一つ。葦毛の馬に跨る人物は、どこをどう見ても司馬懿という名前が似合わないような風体をしていたからだった。

よく手入れのされた金の髪は、純金をそのまま糸に繰り延べたかのようだ。長い金の髪がさらりと風に靡く様子は、闊達なネロのそれとはまた異なる印象だ。白皙の肌も相まって果敢無げにも見えたが、その切れ上がる刀剣の如き空色の眼差しは、気弱さとは全く無縁な様子だった。

そう、その雰囲気はどう見ても西洋人だった。どう見ても東洋の人間ではない。それに、そのいで立ち。ダークブルーを色調としたトレンチのワンピースと言い頭にちょこなんと被せられた帽子と言い、足を包む黒のストッキングと言い、華美さを廃絶しながらも気品を満たした装いは、どう見ても現代的な服装だった。

それこそ、現代にサーヴァントが召喚されればそういうこともあるのは、SNの頃で実証済みではある。あのAUOのハイセンスなジャージのことである。だがあれは、サーヴァントが現代知識を与えられたからこその惨劇…ではなく結果である。この時代に召喚されたサーヴァントとしては、奇異の一言だった。

そんなトウマの視線に気づいたのか、司馬懿を名乗る15歳ほどの少女は、悪魔じみた嫣然を口端に浮かべた。

「おや、どうしたんだい少年。穴が開くほどに私のことを見て」

声色は、さっきと同じだった。だがその言葉遣いは、明らかに違っていた。外見と声色相応の話し方は、むしろ自然だった。ついさっきまでの直截で不躾なそれとは種を異にするそれはまさに。

「精力的だねぇ、そんなに可愛らしい女の子に囲まれて、まだ飽き足らないご様子だ。フェルグス・マック・ロイも見上げる気宇じゃあないか」

小悪魔(サディスト)の声色だった。

「この者らは其方のハレムであったのか? うぅむ、しかしそれではこの乙女を余の物にできんではないか」

「なんなら君がこの少年君のハーレムに招待願えばいいさ、本質的には真逆だけど、結果的には似てるし。というかあの目をよく見たまえよ。如何にも無垢なチワワみたいな目は我々を騙す為の擬態なのさ。あの目で君を油断させて、辱めてやろうというんだ」

「なんと、余を手に入れようとはなんたる大言壮語! 無害な子犬のようで、その実は猛々しい闘犬であったか。だが善い、善いぞ。余を恣にするくらいでなくては、未来を救うなどという偉業は達成できまい」

コロコロと表情を変えながらハリのある声で話すネロに、司馬懿を名乗る少女は終始したり顔だ。他者を睥睨せずにはいられない天性の魔たる表情の既視感と言ったらない。そしてその既視感の元凶たる褐色のサキュッ子と言えば、何やら我慢するようにそわそわしていた。あれは一緒になって弄りたいという情動と、トウマ(マスター)を弄っていいのは自分だけであるという情動がつがいになって産み落とされた双生児の顔だった。

「うむ、しかし其方が出てくるのは久しぶりではないか?」

「生きのいい獲物がのこのこ目の前を散歩しているんだ。草食動物でもあるまいに、歯牙にかけるのは当然の摂理だろう?」

ちら、と馬上から司馬懿の視線がトウマを舐め挙げる。ぞっと寒心しているのも特に構う様子も無く、司馬懿は、ようやっと目を白黒させるマシュとリツカへと意識を向けた。

「君たちの疑問については、まぁ簡単なことさ。私は純正のサーヴァントとはちょっと成り立ちが違ってね。ただの人間を依り代に成立する、疑似サーヴァントって奴さ」

「疑似、サーヴァント」

何故か、マシュはその言葉を反芻した。なんとなく気になってマシュの顔を盗み見るように横目で見ようとしたが、長い髪に隠れ、伺い知ることはできなかった。

そして、何故だろうか。オンに入った無線の向こうで、息を飲むような沈黙があったような気がした。気のせいだった、だろうか。

「人格が2つある、ということなのかな。そういうものってこと?」

「物分かりが早くて助かるよ。憑依する側のサーヴァントとしての人格と、憑依された側の人間の人格が2つあるんだ。普段は司馬懿殿に任せてるけど、時々私も出てくる。こっちの時はまぁ―――ライネス、とでも呼んでくれれば、いい」

司馬懿―――否、今はライネス、と言うべきか。ともかく彼女の説明は、現状を説明するに足るものだった。というか、サーヴァントってそんな設定あったっけかな、と思う。まぁこの世界はあくまで現実なのだから、菌糸類が作った設定やらとはズレがあってもおかしくはないか。

そんな風にトウマが思考停止にも似た思考をしている他方、ライネスは「それじゃ」とだけ言葉を残すと、さっさと人格の裏へと後退していった。ふっと目を閉じるのも一瞬、細く目を開けた司馬懿は、やれやれ、と言ったように小首を傾げていた。

「ライネス殿は、自由な気風でお育ちになったと見える」

愚痴と言うには、司馬懿は特段気にした様子も無くさらりと言うと、ゆらりと脱力した様子のまま鋭い一瞥を向けた。

視線を向けた相手は、赤銅色の髪の少女だった。品定め、というには剣呑で、敵意というには温和な目。だがそれも一瞬、司馬懿は気鋭を瞬時に霧散させた。

「時間がかかりすぎたな。これでは本当にとんまになってしまうぞ」

「む? 何か火急の用か。ブーディカとアサシンがしてやられるとも思えぬが」

「だから皇帝陛下は自覚が足りぬというのだ。仕方ないかもしれないが。」

はてな顔のネロに、司馬懿は眉を潜めた。粛然とした老成を浮かべる少女然とした容貌は、妙に絵になる光景だった。

「娘が待っている、と言っているのだ」司馬懿は不機嫌そうに言うと、葦毛の馬の頭を都へと向けた。「アルテラがお待ちかねだよ」

 

 

 

 

 

 

某日、某所。

いや、実際のところ、彼女が居た場所はそれほどまで曖昧な場所では無かった。

首都郊外での戦闘があった場所から、10kmと離れてはいなかった。それでいて、ロード・エルメロイⅡ世やアレキサンダー、源頼光が戦略的な歓談を行っていた森林からも、やはり20kmと離れていない。およそ両者の中間地点ほどの林の中に、彼女は居た。

いつから居たのかは不明。あるいはどこから来たのかも不明。忽然と樹々の間から顔を出した白髪の女性は、薄く目を開けると、すんすん、と周囲の匂いを嗅いだ。

その表情は、無邪気にも見えた。あるいは感懐を胸郭一杯に湛えているのであろうか。嗅いだ匂いを反芻し尽すと、彼女は鬱蒼とした林の中にぽっかりと開いた場所へと歩を進める。

空を、見上げる。すっかりと晴れ渡る青々とした空は、彼女の記憶に在るものと不気味な相似をしていた。その光景に慨歎と憧憬を惹起させながらも、古い光景と乖離した何かが、厚顔にものさばっている。

光の、帯。煌びやかに光を撒き散らす、人理を薪とした焚火。

彼女は、沈黙を以てその大災害を眺望する。見開かれた真紅の瞳が何を意味するかは、あるいは本人すらをも知り得なかった。無意識下にすら存ぜぬ、喜悦にも似た情動。口元を獣のように歪ませながらも、さりとて、彼女はまだ何かを為すほどの力を有しては居なかった。

いや、むしろ、彼女にはそもそも力など存在しないだろう。善く鍛えられたとは言え、彼女という存在の源流はただの人間に過ぎぬ。どれほど高みを眺めやろうとも、それには限度があった。

だが、それでも別に構いはしないのだ。

魔術師は―――あるいは戦場に剣を執るものは悉く誤解をする事柄であるが。

最強を誇るに、己自身が最強足る必要はない。自らは最弱であろうとも、傍らに最強の使徒が在れば、それで善いのだ。最強を使役することを以て、自らを最強に仕立て上げる。それこそが魔術師のあるべき姿だ。狐は自ら虎になるべきではなく、その威を借りる方が合理的である、ということだ。

故に。

彼女は、最強を召喚する。赤き冠位の魔術師が星の雫と契約するように、彼女は、想定し得る最強の霊基を借用する。

赤い疵。令呪と呼ばれる痣が、右の前腕に浮かび上がる。右の手の甲に既に存在する剣の形状の令呪、さらに前腕を掴みかかるような掌の形の令呪に加えて手首に浮かんだ痣は、ともすれば手首にまとわりつく鎖のように見えた。

それが召喚されたのは、令呪が浮かび上がった直後のことであった。

ずるりと、地面から黒煙が這い出した。粘性でありながら、濃霧のような黒い虚数の泥の如き何か。輪郭を朧にした黒い泥は、だが、すぐに形状を固めた。

黒い外套を全身に纏った、影。あるいはこれまで彼女が使役する霊基と、同じ殻を有する影法師の遺構。残骸とも言うべきサーヴァントの頭部があるべき場所には、ただただ冥いがらんどうが覗いていた。

その虚ろな(ウロ)の奥で、不可視の目が蠢動した。紫紺に沈む目には一瞬の瞠目が灯り、次の瞬間には怒気すら滲ませ、召喚者たる彼女に呵責のない憤懣を投げつけた。

行動は、一瞬だった。身を沈ませた影は己の手を槍へと変化させ、チョコ菓子を延ばしたような肌の女性のそのほっそりとした喉元へと刺突を放った。

彼女は、身動ぎすら無かった。正確には、彼女には反応することすらできなかったというべきだった。平々凡々に過ぎない、魔術師としても凡庸に過ぎなかった彼女にとって、冠絶たるサーヴァントの攻撃など目視すら不可能なのだから。回避する術など当然無かった。

だが、その容赦のない攻撃が彼女の首を刎ねることはなかった。

神造りの辣腕が放った槍の如き手刀は、寸で制止していた。

彼女が何かをしたわけではない。ただ影の自由意志で以て、その攻撃を止めたのだ。

明瞭に発散された殺意を前に、彼女は柔らかい微笑だけを返した。その微笑に、影は目を見開くばかりだった。数瞬前の瞠目とは違った目で少女を見やった後にアメジストの目宿ったのは、侮蔑と非難であり。そうして、突き放したような同情だった。

「ごめんね、ランサー」彼女は、困ったように言った。「貴方のことは、私はよくわからないんだ」

どうでもいいことだ、と手で振り払うように。ランサーは突き出した手を収めると、ふん、と傲慢そうに鼻を鳴らした。

その様子に、彼女はほろ苦く笑った。懐古するようで、それでいて新鮮な体験をする、奇妙な苦笑いだった。

ランサーは、無言のままに彼女の背に付いた。微妙に離れた距離感は、侮蔑と同位の同情を示していた。寄り添わせるべき感情など一切なく。それ故の突き放した同情は、あるいは。

「慎重に行こうか、ランサー。2番目の特異点、セプテムには、確かレフ・ライノール・フラウロスが居るはずだから。ま、だからこそ、魔術式君も、気が抜けてるのかもしれないけどね」

首肯を返すランサー。取り付く島のない己が使い魔の在り方に、白い髪をサイドでまとめた少女は、特段非難する色もなく受け入れた。

どうあれ兵器に過ぎないソレが持つ感情は、人間に似ていても人間のそれとは微妙に乖離する。両者の間に横たわる絶対的な共訳不可能性の中で、それはランサーが唯一できる、優しさのようなものだったかもしれなかった。

少女が歩き出す。まだ行く当てを見定められない歩みの傍らに、ランサーは従った。




言わせたいセリフを考えてから、どうすればそこに向かうか。
そんな感じのお話の作り方しかしてこなかった私が御形サンに(私としては)ちゃんとしたプロットを作って送りました。
こういうのしっかり組んで作品を組んでらっしゃる方々に尊敬を。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

童女に惑う華の皇帝

睡眠から目を覚ましたトウマは、最初何の感慨もまく天井を見つめていた。

二度寝を所望する自堕落な精神と、窓から差し込む陽気な光がせめぎ合っている。高校生の頃の寝起きとあまり変わらないその感慨を抱いてから、トウマは、「現実だなぁ」と呟いた。

そう、これは現実である。目を覚ましてまず目に入る天井は、どう見ても現代日本の建築様式では無い。ベッドも見知らぬものであれば、寝具だってトウマが知っているものとはやや違う。宛がわれたゲストルームの家具も物珍しく。ここが、過去の世界であり、その上で違和感すら無い自然な現実感に、否が応もなくレイシフトという現象を思い出させずにはいられない。

事象記録電脳魔『ラプラス』を使用し、過去データを地球環境モデル『カルデアス』に再現。その上で仮想の地球にダイブすることで過去世界へと転移する。それが、疑似霊子転移(レイシフト)だ。端的に言って、それはタイムトラベルと同義であろう。ダ・ヴィンチや技術スタッフから言わせれば全くの別物で、実際にタイムスリップしているわけではないらしいが、実際レイシフトする身としては同じものとしか思えなかった。

元居た世界からこの世界に来てしまった時とは、また別種の感動とでも言おうか。そこまで考えるタイプの人間ではないだけに、トウマはごく質朴に「なんかすごいなぁ」とか考えてしまう。

そんなこんなで感慨と怠惰と自然の作用の3要素の間でゴロゴロしながらも、トウマは、ずっとそうしているばかりではいられずに、ベッドから抜け出した。

網膜上に、ディスプレイを呼び出す。バイタルデータや各種計器の表示、マップと一緒に並んだ時計を見れば、現在地緯度・経度とグリニッジ標準時がデジタル表示の堅い文字を絶えず変転させていた。

時刻は早朝、6時45分。扉の向こうは、未だ寝静まっているかのようだったが、トウマは胸郭から下にまとわりついた眠気をなんとか引き剥がして、身支度を整える。20分もせずにカルデアのユニフォームを身に纏うと、トウマは今日のスケジュールを思い浮かべた。

1世紀ローマにレイシフトして、実は既に中2日が経っている。あの戦闘から首都ローマに帰還すると、ネロは何度も謝罪しながらも実務の日々に戻っていかざるを得ず。それを補佐する司馬懿ことライネスもトウマたちに対応する暇なく、とりあえず時間が取れそうな今日まで、束の間の休養を得ることになっていたのだ。

繁栄を誇るローマの賑やかさにビックリし、民衆の活気に顔を綻ばせ、スマホすら使えない不便さに眉を顰め、それでも西暦60年のローマを楽しむだけ楽しんでその日を終え。今日、ネロとの会見の日を迎えた。

トウマはすっかり身支度を整えると、少し早いが、扉の前に立った。どうせなら寝具くらい直せばいいのだが、彼にはそうした綺麗好きの(サガ)はない。抱き枕みたいに丸まったままの寝具はそのままに、取ってへと手を伸ばしたトウマは、不意にドアを軽くたたく音で手を止めた。

「入るよぉ」

その声は、子供っぽさを通り越して、幼さすら感じる声だった。発話という行為にまだ慣れていないような声、と言ってもいい。言語的な営みそのものに未成熟な声色だ。

「あ、もう起きてる」

声の主は、トウマの確認もなくガバっとドアをあけ放った。ドアを開けるなり、目の前に立っていたトウマを見上げた人影は、びっくりしたように目を丸くすると、無邪気に破顔した。

小さな、女の子だった。漂白剤に漬け込んだかのような気味の悪い白子の髪に、無垢そうな顔と裏腹に顔中に奔る傷痕。不躾に縫われた痕跡は、酷く痛ましい。それでいて邪気の無い様子は、見る者の疚しさを喚起せずにはおかないだろう。綺麗に整えられた礼服だけが、救いだった。

トウマもそんな暗い影を感じる少女の容貌に心を委縮させながらも、彼は正しくこの小さな存在の形質を理解し、想起していた。

ジャック・ザ・リッパー。それが、この少女の真名だった。

Fate/Apocryphaを原典とする、暗殺者のサーヴァント。サーヴァントそのもののスペックはさして強力ではない。しかし、暗殺に特化した宝具・スキルにより、最強の暗殺者とすら呼ぶに足るサーヴァント。それこそが、ジャック・ザ・リッパーという英霊だった。

原作の描写を鑑みるに、無邪気であっても無辜ではない。英霊というより怨霊の類ですらあるジャックは、間違いなく純粋な反英雄とすら言えよう。そんな残忍悪辣な暗殺者。無邪気に他者を殺戮する水子の亡霊が、ローマに逗留するトウマ付き案内人の1人だった。

「朝早いんだね」

感心するように言いながら、ジャックは不思議そうにトウマを見上げる。単一の声でありながら、奇妙にぶれて、その背後に泥濘が蠢動するような音が滲む。ジャックという存在者を形作る無数の霊が織成す声音の正体を知っていたトウマは正気が削れそうになりながらも、努めて自然に振る舞った。何せ、彼女は明らかに反英雄の類なのだが、その佇まいは穏やかな幼女のそれだからだ。

「本当はもっと寝てたいんだけどね」

「ねー」

「でもまぁそういうわけにもいかないから」

「チューカンカンリショクって奴だね」

「お得意先のちょっと難しい相談に乗る営業マンかな?」

「ふーん?」

首をかしげるジャックは、あんまりよく理解していない様子だった。まぁ当然と言えば当然か。アサシン、ジャック・ザ・リッパーに、現代社会の七面倒くさいしがらみを理解しろというのも、ちょっと難しい話である。

「行こう、トウマ」ジャックはトウマの手を取ると、ぐい、と引っ張った。「ネロが待ってるよ」

ジャックに手を引かれて連れられたトウマが目的の謁見場についたのは、大体10分くらい経ってからだった。時間がかかったのは宮殿の広大さのせいだった。それほどまでにローマ帝国首都に鎮座する宮殿は広く、また複雑だった。

結果的に、謁見場に入室したのは7時25分。残り5分というタイミングだった。

「お疲れ様ー」

扉の前の衛兵に気さくに挨拶をするジャック。がちゃりと姿勢を正して礼を返しながら、衛兵の表情はなんとも気難しい。小さな女の子が当然のように皇帝の命を受けていることも、どこともしれない奇抜な恰好の子供が謁見を拝することも。彼らが過ごしてきたであろう人生の中で、恐らく最も奇怪な出来事のはずだ。

衛兵の奇異にも似た好奇の目を受けながら入室したトウマが目にしたのは、しかし、予想していたよりもずっと呑気な光景だった。

「むうー、そう拗ねるではない。何が不満だと言うのだ」

金髪の美少女剣士とでも言うべきネロ・クラウディウスは、その友誼的な佇まいからは想像できぬ位に君臨する。即ち、ローマ帝国5代皇帝という尊厳である。その皇帝に拝謁する場こそが謁見場であり、であれば彼女の振舞はその尊厳に叶うべき厳粛を湛えるべきであった。

だが、彼女の振舞にはそんな厳かさは芥子粒(けしつぶ)ほどもありはしなかった。

「そう頬を膨れさせていては、余も何が何だかわからぬぞ。何が不満か申してみよ」

ふらふらと玉座の周囲を歩き回りながら、ネロは困ったように眉を寄せている。至尊に冠するローマ皇帝をして困惑をさせる人物こそは、彼女の腕の中で小さな頬を真ん丸と膨らませていた。

純白の髪は、よく手入れされた上質な羊毛とでも言おうか。健やかさな小麦色の肌も相まって、その小さな少女は牧歌的な草原の薫りを感じさせずにはいられない。

ただ一つ。異星から発掘された未知の鉱石の如き赤い目だけが、異質な雰囲気を醸し出している。

「ネロは嘘つきだ。遊んでくれるって言ったのに仕事ばっかりだ。一昨日だって、戦いに行って約束を破った」

ばっさりと拒絶の意を表明した少女は、困り顔のネロからぷい、と顔をそむける。駄々っ子そのものと言うほかない仕草をする少女は、しかし実際のところ―――サーヴァント、である。真名は不明。ただ彼女は、自らのことをアルテラと名乗っている。

(うーん、まぁそういうこともある、のかなぁ)

とは、昨日ロマニが放った言葉である。宮廷内部にサーヴァントの反応がある、とてんやわんやしてみれば、実際出てきたのがこの頑是ない少女なのだから思考も停止するのも仕方ないと言えば仕方ない。しかもその少女が、フン族の大王を名乗るのだから、なぁにこれ、と言いたくなるのもまぁ……うん、わかる。

後世、暴君の評価を受けることとなる皇帝ネロ。そんな人物が子供をあやす姿はみょうちきりんでもあり、微笑ましくもあった。Fate/Extraでも、そんな姿は見ない。

「であるから、それは仕方なくであってだな」

「ふん!」

再び顔をそむけたアルテラが、入室したジャックを見るなりに顔を可愛らしく綻ばせると、ネロの腕から抜け出した。

とてとて、なんて漫画的な表現が本当に聞こえてきそうな素振りで駆け寄るアルテラを、ジャックは笑顔で迎えた。そうして2人、ちっこい子供が戯れ始める様を、ネロは複雑ながらも穏やかな表情で眺めていた。

「すまぬな、時間を指定したのはこちらだというのに」

「や、それは特に」

応えたのは、先に入室していたリツカだった。ね、と話を振られたトウマも、まぁ、と曖昧に首肯する。それぞれのマスターのサーヴァント、マシュもクロも、うんうんと頷いていた。

「子どもの躾けもできんとは、名君の名折れでしょう。全ローマ市民の失笑ものですぞ」

だが、ずばり、と口を挟んだのは、ネロの傍に控えるように佇立していた司馬懿だ。その言葉遣いからして、ライネスの方ではないらしい。

ふと、トウマは司馬懿の隣に―――というか背後に立つ姿を認めた。

給仕服を着た、女性。それだけなら取り立てて注目すべき人物ではなかったが、その女性は、一言で表すのなら異様だった。何せ、肌の色が銀色なのだから。顕在化した人種的差異に乏しい国に住んでいたトウマにとって、白人や黒人はそれだけで目を向けるアイデンティティなのである。まして銀色の肌ともなれば、普通に凝視するのも致し方の無いことだった。

そんなトウマの視線に気づいてか、銀色の肌の給仕の女性は、小さく頭を下げた。礼儀正しい。

「むぅ、言ってくれるな。いくら至上の名君たる余でも、経験のないことは勝手がわからぬ。子育てなど見たこともされたこともないのだ」

ネロは少し、きまり悪そうだった。僅かに司馬懿が嗜虐心じみた表情を覗かせた―――というより覗かせたのはライネスだろうか―――が、それ以上司馬懿は踏み込まなかった。職務が閊えている以上、やるべきことは素早くこなすに越したことはないとでも言いたげだった。

咳払いを一つ。さて、と述べたネロは、玉座へと腰を下ろした。

「其方らを呼びやったのは他でもない。其方らの力を余に貸してもらえぬか、という話だ」

重々しく、ネロは口にした。

―――曰く。

現在、ローマ帝国は“外敵”による侵攻を受けており、軍事的危機に瀕している。

“外敵”の正体は不明。ただその構成される兵力は異様であり、土で作り上げられた人形の兵士たちに、それを統率する一騎当千の強者―――サーヴァント―――だけで編成されている。兵力の規模で言えば論評にも値しないが、その強大さはローマ帝国の軍団を以てしても比肩しがたいものである。ローマ帝国にもサーヴァントたちが何騎かいるようだが、それだけでは対抗し得る戦力足り得ない。故に、一時的にでも構わないから客将になってもらえないか―――という内容だった。

「聞けば、其方らの目的もあの敵を打倒することだと聞く。無論、この戦役が終局を迎えた暁には、其方ら4人には望むだけの報酬も授けよう。む、5人か。姿の見えない魔術師殿も居たな」

「1匹もいるわよ」

ほら、とクロが白いけむくじゃらを持ち上げる。じたばたと身体をくねらせると、フォウは「ムー」と謎の声を漏らした。

「む、そうであったな。すまぬ」

「フォン」

とりあえず満足したように、フォウは頷いた。

「魅力的な提案です、皇帝ネロ。ですがわからないことがあります。マシュとクロは戦力として確かに優れている。ドクターも戦術運用においては必要でしょう。ですが、私とトーマ君は必要ないのでは?」

答えたリツカは、穏やかな表情で、当たり前のように言った。

確かに、その通りではある。サーヴァントであるマシュとクロは、実戦力として魅力的だろう。いわゆる索敵警戒を一手に行えるロマニ―――というよりカルデアという組織の力は必要不可欠だ。だが、マスターではあるがマスターでしかないトウマとリツカは、普通に考えて必要不可欠の存在ではない。

「必要か不必要かで言えば必要だ。リツカ、其方の戦術・戦略眼の高さはこのシバイめも評しておったぞ。味方にできぬのであれば、謀略で殺すべきだとも言っておった」

へ、とリツカは目を白黒させた。言われた司馬懿は特段何か反応するでもなく、静かに瞑目している様子だ。

「それにトウマ」

ひた、とネロの青い目がトウマを捉えた。

「正直に言って、其方には軍事的価値はほぼ無い」

あんまりにバッサリだった。「えぇ……」と言葉を漏らすトウマの後ろで、ジャックがくすくす笑ったのも仕方ないことではある。

「だが、余は其方にも興味はある。其方のような凡庸な人間が唱える覇業、どのようなものか見てみたい。その最後まで見届けることは叶わぬだろうが」

ふふん、とネロは目を細めた。褒められているのか貶されているのか―――居心地悪そうに居住まいを糺しながら、トウマは「はぁ」と如何にも覇気無さげに声を漏らした。

「そういうことでしたら、私たちは一時ネロ陛下の友となりましょう」

「うむ! 余も其方らとは友好的に行きたい」

ネロはそういうなり、勢いよく立ち上がった。意気揚々、といったように広間に降り立つと、気さくにもリツカと手を握り交わした。無論、と言うべきか、ネロはマシュともクロとも厚く手を交わしながら、そうしてトウマともきちんと手を握り合った。

ネロと握手してる。あのネロと。小さい手はなんか柔らかいし、近くにいるだけでなんか気品のある匂いがする。あぁこれがネロちゃま……。

「むむ、何故泣いておる! 余の先ほどの言葉か!?」

「あー気にしないでネロ、トーマはその……泣き上戸なのよ」

「そうなのか。いや、しかし酔っておらぬではないか」

おそらく心情を察したらしいクロは、ドン引きを通り越して呆れていた。

「いやなんでもないです。花粉症です」

(花粉症か、それなら仕方ないね。よくアルェーグラァーを飲むんだよ)

「涙が出る持病とは。未来も難儀なものよ」

ネロは労わるようにトウマの背を撫でた。一層逆効果であることなど、無論ネロには知る由もないこではあった。

「ウオォンウオォン」と滂沱の感涙を流すトウマをとりあえず放置して、ネロは微妙な顔のまま「そこでだ」と話を進めた。

「早速だが、其方らに行ってもらいたいのはここより北西600kmに位置するメディオラヌムだ」

「メディオラヌムって?」

「今でいう、ミラノだね」クロに応えると、リツカはふむ、と思案した。「ドクター、マップ映せる?」

(はいはい、ちょっと待ってね)

ロマニがそう言うと、不意に空間上に青白い空中投影型ディスプレイが立ち上がった。

表示はいわゆるイタリアの長靴を中心にしたマップで、現在地としての光点とは別に、北西地点に赤い点が別に表示されている。

びっくりしたのは、ネロだった。立ち上がるなり絶句しながら、くるくるとマップの周囲を歩き回ると、一言。「これは―――地図か?」

「そうですね」

「君たち、何年から来たんだい?」

もう一人、目を白黒させた人物が入た。

わらわらと駆け寄ってマップを見上げる司馬懿―――ではなくライネスは、マジかぁこんなことできんのか、などと言いながら、目を丸くしていた。

「うーん、メディオラヌムの防衛戦に参加。戦線の瓦解を防ぐのが私たちの目的、かな?」

「流石に察しが善いではないか」

「いえ、なんとなくですけれど」

「うむ。リツカよ、其方の言う通りだ。現在、メディオラヌムは戦闘状態にある。敵の進駐を赦せば、一挙に敵の侵攻を赦すことになろう。それだけは防がねばならぬ。ならぬのだが、強力なサーヴァントとやらが敵におってな。こちらもサーヴァント2騎を派遣、指揮を執って貰っておるのだが、旗色が良くない」

「そこで私たちに前線に行ってもらいたい、と」

「いや、其方たちだけではない。司馬懿にも行ってもらう」

視線が一斉に司馬懿へと集中した。きょろきょろとマップを見上げていたライネスは、おっと、とでも言いたげに肩を竦めた。

リツカは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに手慰みとばかりに顎へと手を伸ばした。

思案は、実に5秒ほど。こくりと自答すると、リツカは「それは、司馬懿殿に従え、という意味ですか?」と声を発した。

「いや、其方らはあくまで其方らの判断で動いてもらって良い。シバイの派遣は、事の趨勢を決定づけたいだけ故な」

「承知いたしました。であれば、至急メディオラヌムへと向かいましょう」

ぱっと顔を明るくすると、ネロはうむ、と威勢よく相槌を打った。

「いや、しかし残念だ。皆、余のハレムに加えてやりたい美少女ばかりだというのに。誰1人とて余の物にならんとは」

ネロはどかりと玉座に身体を預けると、ずるっぽい目をトウマへと向けた。

「其方はそうだな、ハレムの末席になら……まぁ加えてやることも考えても良いかな?」

「マジすか」

「こら」

べち。

「いった!?」

そんなトウマとクロを見下ろしながら、ネロの表情に、僅かに影が滲む。陰鬱というよりは悲し気な目は、仲睦まじい2人を見届けているようだった。

「余も、いずれ奏者に相応しい人物に会いたいものだが」

僅かな、独り言。呟くような言葉は、周囲の誰にも聞こえなかっただろう。無論、ネロも誰かに聞かせたくて述べたわけではない。つい口をついて出ながらも、私的な情動を誰かに聞かせるほど、彼女は自由な身ではないのだ。皇帝になるとはそういうことだ、と延髄まで染みるほどに彼女は理解している。ネロが「私」と無邪気に自分を呼びやるのを止めて「余」という一人称を使い始めたのは、皇帝の位を引き継いでからのことだった。

「では頼むぞ」

ネロは何かを振り払うように首を振った。

「現地の指揮官には、既に其方らのことは伝えてある。ブーディカと、エミヤと言うものだ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

謀り合いの前奏曲

ローマより北西 約600km地点

 

端的に言って、それは鳥だった。

大きさはおよそ掌に乗る程度の、小さな鳥である。翼を広げても、両手に収まる程度の大きさだ。ちゅんちゅん、と小さく鳴く様は、愛玩用の小鳥をも思わせただろう。

だが、一点だけ、通常の鳥とは異なるものがある。それは、その小鳥を構成する物質だ。その小鳥は、泥により錬成されていたのだ。自然に生まれた生命でないことは一目瞭然である。人為的に作り上げられたものではあったが、しかし、それは生命であることに違いはなかった。その創造主たる錬金術師の意図を正しく反映するように、その泥の鳥は瑞々しい生命を持っていた。

見る者が見れば、その鳥がどれだけ洗練されたカバラの産物であるか理解したことであろう。あるいは卒倒しかねないほどの錬成物だったのだが、彼には、その点においてはさしたる興味が無かった。

「ふむ、やや攻めあぐね入ているわけですか」

肩に止まった小鳥の情報に、眉を顰める。眼鏡姿の長躯の男は、思案気に顎に手を当てた。

「サーヴァントが2騎、と。確かに、それではあの泥人形たちだけでは手に余りますね」

逡巡すること1分ほど。自分の言い聞かせるように首肯をした男は、周囲を振り仰いだ。

山間に設営されたキャンプ地には、未だ起動状態にないゴーレム数機が並ぶ。人間のそれを上回る巨体が連なる中にあって、男が見とめた機体は、なお威容を誇っていた。

大きさだけであれば、ゴーレムよりも一回りは小さい。にも拘わらず、大地に根を張るように屹立する頑強な躯体は、人間の外見を象っていた。

「出陣ですぞ」

男が、その機体へと声をかける。鎮座するそれにかける男の声は、古なじみの親しみを感じさせる声音だった。

いや、むしろ事実そういった声であった。その機体へとそのような声をかけた人物は、この時代も、そして機体が駆動していた時代も、恐らくその男だけだったのだ。

静かな唸り声が、機体の内側から響く。駆動音にも似た小刻みな振動音、ハムノイズとともに、その目が見開かれた。

「お久しぶりですねぇ。全くあの触手、好き勝手なことをしてくれます」

頑強な躯体は、男の声には応えなかった。己を見上げる痩躯の男を映す無機質な目には、奇妙な親しみのようなものが滲んでいた。

「いえ、結構。将軍は眠っておいででしたので」

男は被りを深くしながらも、肩を竦めて見せた。

「えぇ、そうですね。余計な雑事など興味はありませんよねぇ。貴方はそういう方でした。いえ、私としてはもう少し気にしていただきたかった気もするのですが。ですが、些末事に思い悩む貴方など貴方ではありませんからねぇ、あれはあれで良かったのでしょう」

独白にも似た述懐。昔を懐かしむ声色には、後悔などといったものは欠片とてない。幼いころの失敗を笑い飛ばすような、そんな物言いだった。

―――境界記録帯、ゴーストライナー。あくまで時代から切り離された英霊にとって、『過去』は所詮終わったことなのだ。割り切れない英霊も居るとは聞くが、詮の無いことに思い悩んでも仕方ない、というのが男の心持だった。

「では行きましょう。貴方であれば、サーヴァントの1騎や2騎、軽く捻り潰せるでしょう」

男の声に、その躯体は軽く頷きを返した。かつての仕草に小さく笑った男は、眼鏡のブリッジを人差し指で持ち上げた。

巨体が、重々しい一歩を踏み出す。男は仕えるように巨体の背後へ続いた。

サーヴァント、キャスター。真名、陳宮。

サーヴァント、バーサーカー。真名、呂布奉先。

この2騎のサーヴァントこそメディオラヌム制圧の為に派遣された分遣隊、その切り札だった。

 

 

「いいんですか、先生」

アレキサンダーのその言質は、実際のところは心配などを全く含まない物言いだった。どちらかというと自らの師を試すような口ぶりですらあり、実際のところその通りだった。

音に聞こえし大王から水を向けられた三流学者風の男、諸葛孔明もといロード・エルメロイⅡ世は相変わらず眉間に皺を刻んだまま「仕方がないだろう」と投げやりに応えるばかりだった。

「向こうが私の助力を拒否したのだ。私にとやかく言うことはない」

「そんなこと言って。実際そこまで見越していらっしゃったんでしょう?」

じろり、とエルメロイⅡ世は馬上の少年を睨みつけた。不敵な物言いに何を感じたのか、いやましに不機嫌になっていた。

が、一瞬だけ。不機嫌な顔つきのまま生まれてきたとしか思えなかった男が、不意に破顔した。

「俺は真心で助けたいって言ったんだぜ? ここで敵を覆滅するには、オマエの突破力と俺の知力が必要だって正論を述べただけさ。あの裏切り者のデカブツだけじゃあ足りないってな」

「おや、諸葛孔明殿」

アレキサンダーは意外そうに目を丸くしながら、いつもは捻くれそのものみたいな顔に浮かぶ底抜けの無邪気な笑みを浮かべた。

だが、それも一瞬だ。すぐに普段の顔つき……というよりなおのこと、エルメロイⅡ世は険峻を深めた。

「むむむ」

「何がむむむなんですか、先生?」

僅かに羞恥を滲ませると、エルメロイⅡ世は咳払いのようなものを打った。「孔明殿は時折戯れが過ぎる」

「新しい戦力の力量を図るのに、呂布奉先は適任と言えば適任だ。陳宮軍師の知略とあの暴威に屈するようなら、魔神の打倒など夢のまた先だろう?」

「手厳しい物言いですね」アレキサンダーは変わらずににこやかな表情を浮かべている。「義妹様にもお厳しい、ということでしょうか?」

エルメロイⅡ世は、微妙そうな顔で馬上のアレキサンダーを見上げた。非難か、困惑か。理知的とは程遠いその佇まいは、如何にも三流学者といった風体を増すものだった。

時計塔のロードという男は、ダークスーツの懐から安物の煙草を取り出した。気を落ち着けるための安煙草を吹かすと、「アレがそんな貧弱なら、いっそ気楽だったんだがな」と苦く声を漏らした。

ゆらゆらと、白煙が宙に揺蕩っている。目を細める男は、その苦い声のわりに、表情そのものはどこか脱力気味だった。

懐古か、何なのか。苦い声も、実のところ苦笑いをしそこなったが故に漏れただけの、愛惜のような情動だったのだろうか。彼には、それはよくわらかない。ただ何か、奇妙にもやもやした感情を自覚した少年は、その感情の意味をよく理解して、咀嚼した。この点で、英霊アレキサンダーは年相応に子供だったし、またやはり英霊として極めて犀利(さいり)であった。

「どういう方なんですか。その、ライネス様は?」

だから、アレキサンダーはその感情のままに言った。

それでいて、口ぶりはいたって丁寧である。その名前に様をつけた。彼は先生と呼称する男のことは弄ったら楽しいが、さりとて軽んじるつもりはさらさら無かった。むしろ尊称を以て当たる男の親族であれば、やはりその親族もまた尊称を以てしかるべきと見做している。後に征服王などと呼ばれ、ともすれば粗暴とも思える振舞をすることもあるアレキサンダーであるが、その身には高い教養と良識が備わっている。イスカンダルとしての粗野は、そういった良識と教養の上に築かれたものであり、野蛮とは程遠い種のものである。数多の英雄が一人の男の旗の下に集うということは、そういうことなのだ。

そして、その物腰こそは、彼の子供じみた情動の発露でもあり、また紳士としての振舞でもあった。

エルメロイⅡ世は、げんなりと言った様子で肩を落とした。忽ちに一本吸い尽くすと、もう一本煙草を口にくわえて、指先に灯した火で炙った。

「あれは」煙草をポケット灰皿に押し込んで、男はうんざりしながらも、妙な郷愁のように空を仰いだ。「典型的小悪魔、だな」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

戦稽古は入念に

 ローマより北西約600km地点 

 

ポー平原に位置する都市、メディオラヌム。アルプス山麓を背景にした広大な平原に顔を出す町並みは、未来、ミラノと呼ばれ、イタリアを代表する都市に発展する。紀元前222年にローマ帝国に征服されたのち、長きにわたる繁栄を謳歌するはずの町並みは、しかし、この時ばかりは色彩を喪っているように見えた。

まず、民衆の姿が無い。昨今の情勢より大勢の民衆が首都ローマに疎開させられ、民間人は街を運営する最低限度の人間しかいない。代わりに街を占めるようになったのは、ローマ帝国の兵士たちである。即応待機状態の中武装状態でたむろする様は、隠し切れない疲労が滲んでいた。

「でもここまで長大な補給路をまともに運営している時点で、皇帝ネロは尋常じゃあないんだけどね。サーヴァントの賜物なのかもしれないけど。それとも、ライネスちゃんの手かな?」

と注釈を入れたのは、リツカである。確かに、疲労を滲ませながらも兵士たちの表情は完全な陰鬱に沈んだわけではない。時折だが、気勢に満ち満ちた声が聞こえてくることも、なくはなかった。

―――リツカは、早くもライネスのことをちゃん付けで呼んでいた。基本的に馬が合わない人物同士らしいが、合わないなりに親しい関係の構築の仕方があるのかもしれない。あるいは、どちらも人間ができているのか。本音トークだけの人間関係しかないと却って疲れるよ、とは、そんなトウマに対してリツカが返した言葉だった。

「それに、この長期遠征。兵士たちの士気は簡単に崩れるのに、こうもモラルは高い。それだけ、皇帝陛下は皆に愛されてるのかもしれないね」

栗毛の馬に揺られながら、さらにリツカは論評した。温厚というか何も考えていなそうに見えて、リツカは目端の行き届いた人物だった。

「それにしてもマシュ、乗馬が上手いね?」

「いえ、その…騎乗スキルがあるだけですから」

「トーマも見習ったらいいのにね」ふふん、と鼻を鳴らすクロ。

「しがない高校生が馬に乗れると思ったら大間違いですよ」と悔し気に、トウマは抗議した。「アニメや漫画の主人公じゃないんですよ?」

「でも私だって乗れてるじゃない? あれ、私騎乗スキルあるんだっけ?」

(あるみたいだよ。基本アーチャーのクラススキルには無いんだけども)

「メルトリリス……」

(え、何か言ったかい?)

「いえなんでも」

ゆら、ゆら。カルデアの4人の中で、唯一まともに馬に乗れなかったトウマだけは、マシュと相乗りの形になっていた。サーヴァントとして騎乗スキルを持ち、且つクロよりランクが高いため、2人乗りでも問題ないとの判断からだった。

「なんかすんませんね」

「いえ。その、むしろ乗り心地は悪くありませんか? ご迷惑をおかけしていませんか?」

無問題(モーマンタイ)です」

マシュの背後から抱き着く様に馬にゆられたトウマは、ローマを出発してからもう何度目かの謝罪をし、そして同じような一連の会話を続けていたのである。こんな会話をいちいち挟んでいたのは、トウマとしは本心からの申し訳なさからだった。半分は余計な仕事を増やすことへの申し訳なさであり、もう半分は「いやこんなオタクに背中から寄り掛かられて気分が良いわけねぇよな……」という申し訳なさでもある。マシュの生真面目そうな気質も相まって、慙愧に堪えぬとはこのことであると日々思うトウマであった。

「流石に未来からやってきた勇者たち心構えが違うと見えるね? 最前線だというのにその余裕っぷり、戦いが始まったら一体どんな風に化けの皮が剥けるのやら。特にそこの少年君、君なんかはそのチワワみたいな皮を剥いだらどんな野獣が出てくるんだい?」

葦毛の馬に跨ったサーヴァント、ライダー司馬懿ことライネスは底知れない嫣然で4人を眺めまわした。特にトウマを見やる目つきは、「そっちこそ獣では」と言いたくなるほどに鋭かったりする。

慄くトウマを見て満足したか、ライネスは鼻歌なんか歌いながら、遠く街中に見えてきた建物を指で示した。

「あれだ。この街の宿を接収した指揮所。あそこに―――っと、噂をすれば」

軽く、ライネスは手綱を引いて葦毛の馬を止めた。続く様に馬3頭が止まる中、馬上からの視界の中に、赤い点が浮かんだ。

指揮所とされた建物からやってくる騎兵。遠目でもわかる白い甲冑に、さらに印象深い小金瓜(トマト)の赤い実の髪色をした女性だった。

猛然と騎馬を駆りながら、それでいて馬自身は爽やかな疲労を味わっているように見える。そう思わせるように馬を操縦しながら駆けてきた女性自身もまた、温厚を絵にかいたような風采だった。

「やぁ軍師殿、いらっしゃい。早かったね?」

「皆、サーヴァントとそのマスターだったからな。そちらも、そう余裕がある状況ではあるまい?」

司馬懿の言葉に、赤い髪の女性は苦笑いのような表情を浮かべる。乾いた笑い声を漏らしただけの女性は、順当に話題を変えた。

「そちらさんたちが、話にあった?」

「あぁ。未来からのお客人で、世界の救い主だそうだ」

司馬懿のさらっとした棘のある物言いを「ふーん」の一言で済ませると、赤い髪の女性は青毛の馬の頭を並べた。

「ネロ公から聞いてると思うけど。ブーディカ、クラスはライダー。まぁ故あって、今はローマ帝国の客将なんかやらせてもらってる」

少しだけ、その物言いは歯切れが悪い。歯切れ悪くとも、はにかみを浮かべるところが、この小金瓜色の頭の女性の人の好さを示しているように見えた。

「リツカです。まぁ、マスターなんかやってたりします」

対するリツカの挨拶は、至ってのほほん、としている。そんなマスターの挨拶にちょっとばかりの困惑をしながらマシュは礼儀正しくフルネームとクラスを述べた。クロはすこしばかりそわそわしながらも、マシュに倣っている。

トウマは、「一応、クロのマスターです」と述べるに留まった。生真面目さもなければリツカのような放胆も感じさせない平凡の極みのような言葉だったが、ブーディカはそんな頼りない朴訥を咎めるような人物ではなかった。

「それにしてもみんな若いねぇ~」

馬上の面々を眺めやったブーディカの言葉は、まるで近所のお姉さんの如くである。緊張感の欠片も感じさせない口ぶりは、果たして生来のものなのか、それとも歴戦の猛者のそれなのだろうか。トウマには、よくわからかった。

中でもブーディカが関心を寄せたのは、まずマシュだった。「なんだか大変だねぇ」と意味深長に述べては、馬上だというのに器用にマシュの頭を頻りに撫でていた。

「先輩、苦しいです、胸が」

「あのー、そういうわけですのでどうかお手柔らかに」

「あーごめんごめん、なんだか懐かしい気分になっちゃってさぁ」

ニコニコしながらマシュを解放すると、今度は順繰りにブーディカは来客を“よしよし”していった。ブーディカなりの大らかな歓迎は気分が良いものに違いはなかったのだが、トウマには幾分か刺激が強かったと述べておく必要はあるだろう。息苦しい“よしよし”を盛大に食らったトウマを、クロは後に「鼻の下はナイアガラの滝を想起させた」と厳めしく語ったものである。また、リツカはこれにある程度の同情を示して、「いやだってブーディカぱいはよかったからしょうがないでしょ」と擁護した。

「それじゃあ、これからの話をしなきゃね。時間も無いし」

青毛の馬を、ブーディカはゆるりと歩き出させる。優雅に鬣を靡かせるブーディカの愛馬を追うように、4人3頭は後に続いた。

ブーディカに連れられた一行を迎えたのは、ほどほどに大きな宿屋だった。それこそ、片田舎の公民館くらいはあるだろうか。3階建ての建築物の建築様式はよくわからないが、1階はぶちぬきの間取りになっており、陽が落ちればアルコールが宿屋の客と近所に住む民衆の脳みそを心地よく麻痺させるのが通例だったはずだった。

だが、今はその大らかさはない。整然と並んだテーブルと椅子は戦闘の会議に供され、広場に集う人間たちは陽気さとは無縁の厳めしい顔を並べるばかりだった。

既に、2度。敵の攻勢を退けたメディオラヌム前線指揮所の堅実さは、しかし、今日ばかりはどこか剣呑さが無い。前線指揮官を務めるブーディカの表情は久方ぶりの温和さを湛え、客人たちを迎えていた。

「ごめんね、ローマだったらちゃんと料理くらい出したいんだけど」

カウンターの奥から顔を出したブーディカは、酷く残念そうな顔をしていた。

「せっかくだから、私の故郷の料理でもマシュに教えようかなぁと思ったんだけど」

「いえ、そんな」

マシュは幾ばくか、どぎまぎしたように応えた。先ほどの”よしよし”攻撃はトウマへの特効ダメージもデカかったのだが、人間関係にあまり豊かでない様子のマシュにも十分な殲滅力を持っていた。

「そんな遠慮しなくてもいいのに」

マシュは、無言のままへこへこと頭を動かしていた。彼女なりの、精いっぱいの仕草だった。

その彼女の仕草を、社会経験の少ない少女の初心な仕草と微笑ましく感じることもできただろう。だが、マシュの身振りには幾ばくかの困惑を滲ませている。ブーディカはそんなマシュの様子に気づいて、やっぱり人のよさそうな苦笑いを浮かべて見せたのだ。

「それで、戦況の如何は」

テーブルに並んで顔を並べたところで、口を開いたのは司馬懿だった。元より剛毅且つ沈着な軍師の人格なだけに、その物言いは単刀直入だった。

「そろそろ3度目の攻勢がある。索敵部隊の報告からそれは確か」

「それで、今回はこちらも攻勢に打って出る算段か」

「流石戦史に名高い軍師殿。その通り、今回は防戦に徹するのではなく、敵の本陣を叩くつもり」

闊達にブーディカは言って見せたが、その表情には拭い難い影がある。トウマでさえ気づくその困惑的な陰鬱は、情勢は決して楽観視できるものではないと雄弁に語っているように見えた。

おそらく、敏くもそれを理解した司馬懿は、手慰みに顎を撫でている。眉目秀麗なかんばせに浮かぶ犀利の様相は、創造的な芸術家というよりも太古の遺物を閲する研究者を思わせた。

「2面作戦を展開する、ってことですか?」

口を開いたのは、ブーディカでも司馬懿でもなく、リツカだった。

「どうしてそう思った?」思案気なまま、一瞥すら暮れずに司馬懿が応える。

「敵を誘い込んで包囲・殲滅するならわざわざこのタイミングじゃなくても良い。それに戦術行動としては長大になりすぎて、無駄が多いし敵本陣を取り逃がす可能性が高い。なら少数精鋭の部隊を編制。敵攻勢部隊をこちらに誘引した後に本陣強襲に充てるべきかなぁみたいな。その後は補給線を分断してもいいし、強襲部隊を反転させて敵攻勢部隊を背後から攻撃、そのまま包囲殲滅に持ち込むことだってできるかなぁと。そして、今まではそれができなかったけど、私たちが来たからできた。ということで、どうでしょうか」

のほほん、とした顔のまま、リツカはできの悪いゼミ生が教授に伺いを立てるように述べた。司馬懿はさして感心した風でもなく頷いていたが、それは頭の中の思案を揺り動かすための動作のようにも見えた。

「そう、リツカの言う通り。今までは2面作戦が展開できるほどの戦力と指揮官が居なかったんだけど、君たちとシバイのお陰でそれもできるようになった。それと」

と続けたブーディカの顔には、例の隠し切れない陰鬱が滲んでいた。

「そろそろ、みんなも限界でね。これ以上防戦を続けるのは無理が出始めてるんだ」

「それに、これ以上防戦を続けて戦力を消耗すれば、2面作戦の展開にも無理が出てくる頃合い―――ということだな?」

ブーディカは無言だったが、しっかりと司馬懿の言葉に頷いた。

「了解した。貴殿と、リツカの作戦を採用しよう」

司馬懿は手慰みと頭を振る動作を止めると、椅子に背をもたれかけさせた。

「それで、強襲部隊の編制はどうする? アイツを使うのか?」

「そうそう。彼が居なかったら、そもそも敵本陣の所在すら掴めなかったからね」ブーディカは少し照れ臭そうに語った。「気難しいけど、素直で良い子だよ」

その時と同じくして、不意に門前でがちゃりと音が響いた。衛兵が姿勢を正した音だ。続いて入来者を歓迎する声が響くと、音も無くドアが開いた。

「あ、来た来た」ブーディカは人好きのする例の顔で、そして司馬懿はやや気難しそうに、知己の人物を迎え入れた。「丁度話してたんだよ。エミヤ君」

その名前に、トウマは内心ぶったまげていた。それはそうである。何せその名前は言ってしまえば、“原作主人公”と同義の存在なのだから。

それでも表情や身振りに出さなかっただけ、トウマも“板についてきた”と言うべきである。ぽかんとした間抜け面の内心に、鬱勃の情動を惹起させていたトウマが目にしたのは、しかし。

「……誰?」

間抜け面に相応しい科白だった。

だって、そうである。エミヤと聞いてイメージするのは、白いツンツン頭をした目つきの悪い色黒男ではないか。だのに目の前にいる人物は、似ても似つかない……というか目出し坊らしきもので顔をそっくり覆っていてわからないのだから、そりゃあ間抜けなセリフの一つも出るってもんである。

確かに微妙に類似した点も無くはない。赤いフードと外套を着こんだ姿は、なんとなくエミヤの名前を連想させるが、言ってしまえばそれだけだ。その類似で豊かな想像力を膨らませるほど、彼は重度に拗らせて居なかった。

だが、そんな期待と失望をないまぜにしたトウマとは別に、さらに感情的になりかけた人物が居た。

がたん、と椅子を倒して立ち上がった少女―――クロエ・フォン・アインツベルンは、煌びやかな酸化銅被膜の目を見開いていた。

小さな唇が、何かを描いたが、その輪郭は、誰にも―――おそらく自分自身すら知覚できない無の坩堝に吸い込まれていった。

赤いフードの男が、僅かに身動ぎする。猜疑というより純粋な疑義の振舞に、クロは「なんでもないわ」と素っ気なく応えた。

「ちょっと知り合いに似てただけ」

それで話は終わり、とばかりにクロは椅子に座り直した。腰を下ろしたクロの表情は、普段と変わらない飄々さと取り戻していた。

いや―――その普段通りの振舞が、却って不自然なようにも思えたが、それに気づいたのはおよそトウマだけだった。今一度、エミヤと呼ばれた赤いフードの男を見やった。

アサシン。エミヤ。2つの言葉が不意に同衾して、トウマは不意にその可能性に行きついた。テーブルに音もなく座り込んだ男は、自分を伺うようなトウマの視線を意にも介していない様子だった。

思わず、というようにトウマはクロへと一瞥を向けようとしたが、寸でその行いをやめた。その行為が酷く卑しいものではないか、と思われたためだった。その良識が感ずる疚しさに、従わざるを得なかった。

「それで?」恐らく、そこで自然に会話を斬り出せるのが、ブーディカという人物の気質を現していただろう。どこか気まずい空気を弛緩させるための術を、彼女は能く心得ていたのである。「強襲チームは誰にするの?」

「俺の感得するところ、アサシンとクロエの2人で頼みたいと思う。その際、指揮はクロエにとってもらおう」

また、ある種司馬懿という男もまた、人間ができていたというべきだろう。この状況で平然とその言葉を発せられるのは、一重に「合理的に勘案されたものを感情で拒絶するのは愚劣の極みである」という命題の合理性を心頭より信じていたからである。というより、判断していたからと言うべきか。

「俺の思うに、クロ。君の戦況判断能力は極めて優れていると理解されるからだ。あの戦闘の折、君が放ったあの宝具。あの着弾地点は『敵戦力を漸減しながら殺しきらず、且つ撤退の判断を促す』という戦略・戦術ともに適った最適の攻撃だったからだが。あの一打を判断できる君は、その可愛らしいなりに似合わずに優れて“戦争”を理解していると私は考える」

「それ、アナタも同じよね」クロは少しだけ照れて―――あるいは照れた素振りをしてみせて言った。「正直、アナタ、とんでもない美少女じゃない」

「むむむ」

司馬懿はその端正に整った白皙の顔を難し気に顰めた。そんな素振りも絵になるあたり、司馬懿―――というかライネスは、結構な美少女だと思う。

「というか、ここに居る子たちはみんな可愛いと思うけどなぁ。ねぇ、エミヤ君?」

赤いフードの男は、特に応えもしなかった。そんなことには返答を喋ることすら無駄と見做しているような、取り付く島の無さだけを発散させていたが、ブーディカはそんなアサシンの不躾さすらをも気にしていない様子だった。

「ま、そういうことならいいけど。そっちの無礼極まりないアサシンはそれでいいのかしら?」

アサシンは、その時僅かに身体を動かしただけだった。

「いいみたいだよ?」

返答したのは、何故かブーディカだった。曰く、彼女は殆ど言語的疎通を図らないアサシンと共同戦線を張るうちに、そのちょっとした仕草から、何を考えているのかおおよそ理解できるようになったらしい。なんだそれ。

少し肩透かしを食らったクロは僅かに眉を潜めながら、「なら指揮官として人事権の発動を要求するわ」と続けた。

「トーマもつれていくわ。3人で強襲チームとしたい」

「理由は」

司馬懿はこの時ばかり、酷い困惑の表情を浮かべた。そして悲しいかな、トウマ自身がその困惑の意味を十二分に理解していた。

「理由は2つ。私の個人的な理由で、トーマと離れたくないだけ」

さらりと、クロはとんでもないことを言った。ざわめきにも似た情動が周囲に電波する中、最も明敏な拒絶の意を表明していたのはアサシンである。ぎちぎちと拳を握りしめて、件の人物を睨みつけていた。無論件の人間とは、トウマのことである。ジークフリートの時と言い、この時点でトウマは気絶しかけていた。

「なんか娘さんをくださいってやってきたバカを睨みつける親父さんみたいな雰囲気だなぁ」

などと妙な表現をしたリツカは、呑気にもこの空気を楽しんでいるらしい。冗談じゃないよ、とトウマは気絶しかけながら思っていた。

「そうじゃなくて」クロはようやっと、自分の言葉の意味に気づいたらしく、ぶんぶんと手を振った。「マスターとサーヴァントって、そういうものだし」

司馬懿は、ここで大きく咳払いをした。一瞬目の色を変えて飛び出そうとしてきたライネスをなんとか諫めた司馬懿は、それだけで疲労困憊の表情になっていた。

「もう一つ目の理由は」

「簡単な話、トーマは対サーヴァント戦闘のスペシャリストだから、かしら」

ほう、と疲労を素早く拭った司馬懿が身を乗り出した。思わず、と言ったように司馬懿に倣ったのはブーディカも同じで、この時ばかりはアサシンも思わず朴訥とした無能そうな少年を注視したものである。

「私はそう強力なサーヴァントじゃないけど、かの大英雄ヘラクレスとも拮抗できたし、無双の騎士と謳われたランスロット卿も倒せたわ。邪竜ファヴニールを倒せたのだってそう。これも全部、トーマがいたお陰よ?」

「ほう、ヘラクレスと戦ったこともあるのか。しかも竜種とも?」

「普通に凄くない? てか、君らどんな化け物と戦ってきたわけ?」

そうよ、と返事をしたクロは、なんともはや誇らしげに胸を張っていた。

それにしても酷い誇張である。確かに助言らしいものもした記憶はあるのだが、それだって原作知識からの引用をしたに過ぎないのだ。しかもそれは、クロというサーヴァントが高度の柔軟性を維持しながら臨機応変な戦闘を可能とする特異的なサーヴァントだったからこその結果である。自分の能力の故ではない―――と、彼の良識の大部分は理解していた。

とは言え。実はトウマの謙遜も、やはり現実を見ていないのである。原作知識があったからといって、戦闘の際にそれを有効活用できるか否かは情報所持者の器量にかかっている。その点で、トウマという存在がカルデアにとって無能以上の意義を持っていたこともまた事実であった。

「そう言えば、アーサー王との戦いの時も、結構的確な指示だったよねえ。サーヴァントの特性をよく理解してた気がするなぁ」

と、ぼんやりした様子で思い出したリツカの発言が、およそ最も客観的な評価だったと言えるだろう。そしてリツカの発言は、客観的であると同時に、トウマという存在にさらに箔をつけることとなった。

「仔細承知した。君の言う通り、トウマを強襲部隊の幕僚と定めよう。異議はあるか、アサシン」

司馬懿の言葉に、アサシンは微かに身動ぎしただけだった。それとなく全員の視線―――なんとアサシン自身すら―――ブーディカに集中すると、彼女は少したじたじになった。その真名の示す通り、一国の女王ですらあったブーディカである。衆目の元に立つことは慣れていたが、通訳の真似事を期待されることにまでは慣れていなかった。っていうか、なんでエミヤ君もこっちを見てるのさ、とはこの時内心に彼女が思ったことである。

「良いってさ。その代わり、足手まといになるなって」

「そ、良かったわ。足手まといになりそうになっても、私が人彘(ダルマ)にして連れていくから安心して」

クロはすげなくとんでもないことを言った。無論、顔色を悪くするトウマを盗み見ては内心ニヤニヤしているのである。ヒドイ。

「私からは、後は特に」

「うむ。では主力の編成に移ろう。リツカ、君から何かあるか」

「そうですねぇ。先ほどブーディカが示してくれた鶴翼陣形、防御陣形としては良いのですが、どうせなら縦深陣にまで発展させた方がいいかもなぁと思うんですよね」

「考えたんだけど。でも正直こっちに縦深陣をとる余裕は無いよ? 彼我の戦力差も大きくないし」

「むしろそれを活用しようかなぁと。詳細はですね―――」

「―――いやなんて悪辣な」

「大胆不敵とはこのことじゃないか。トウマ君も野蛮だけど、リツカ、君も随分性根が腐ってると見えるね?」

「ライネスちゃんほどじゃないので大丈夫です」

「はっ。随分温和に、鋭く指摘してくれるじゃあないか。君の手でドMに目覚めてしまうかと思ったよ?」

SDGs(セルフSM)とは世間の潮流に沿った在り方ね。先進的過ぎて私には見習えないわ?」

「すみません、持続可能な開発目標(SDGs)の目標と達成基準には特殊性癖に関するものは無かったかと……」

(いやマシュ、多分無いことはないと思うよ? えぇとね、今調べるね)

「調べなくていいわ!」

―――極めて建設的且つ包括的で有意義な議論があった、と。

後にマシュ・キリエライトが遺した日記には、記されている。事後処理に忙殺される日々の中それを目にしたロマニ・アーキマンとダ・ヴィンチは、わりに楽しげな苦笑いをしたものである。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ただ同じ星の下

その日の夜、眠れない夜を過ごしたマシュは、静かにベッドから抜け出した。

1世紀を迎えたばかりのローマには、安眠に特化した寝具はまだ登場していない。カルデアから持ち込まれた寝袋の方が善かったかな、と思いつつ、マシュは立ち上がった。

特に、何をするわけでもない。窓から外を眺め、焚火に照らされた見張りの兵士の姿を認める。あくびを漏らしながら、それでも勤勉に務める兵士。望郷を感じているのか、それとも勇躍と心を滾らせているのか。1人の人間の生に微かに思いを馳せる、などというロマンチズム―――というよりサンチマンタリスムを胸郭に凝らせたマシュは、莫と、佇立した。

何を感じているのか。マシュ自身すら言葉の輪郭を与えかねる情動の、静かな狂想。佇むばかりのマシュの背に声をかけたのは、彼女の敬愛する人物だった。

「眠れないの?」

「はい。なんだか、緊張してしまって」

リツカの声に、マシュは照れと困惑と焦燥をないまぜにした返答をした。

「緊張してる、のかもしれません。今まで、こんな大規模の戦いはありませんでしたから」

結果、彼女は嘘を吐いた。いや、正しく本当のことを述べては居たのだが、彼女を感情の坩堝に突き落とした原因は、別にあった。

「ふぅん」

と、リツカは無関心そうに相槌を打った。マシュはリツカの方は見ず、僅かな安堵の吐息を漏らすと、静かにベッドに戻った。

いや。

戻れなかった。

戻ろうとして、不意に視界がぐるりと動いた。小さく悲鳴を上げると、柔らかい衝撃が身体を叩いた。心地よさすら感じる感触に気を動転させていると、不意に耳元で声が耳朶を衝いた。

「マシュは可愛いなぁ」

「せ、せせせ先輩!?」

マシュは顔を真っ赤にして、文字通り目と鼻の先の彼女の(かんばせ)を見やった。

「トーマ君のこと破廉恥って言ってたけど、マシュも破廉恥の仲間入りだね」

なーんてことを言うリツカの吐息が、鼻頭に触れる。その振動が鼻の軟骨から迂遠に心臓まで伝わって、大きく跳ねたような気がした。

「い、いきなり何を」

「本当は何考えてるのかなーって思っただけ」

朗らかな口調だが、その言葉は鋭い。そして鋭くはあるが、貫く地点は痛覚ではなく官能だった。

マシュはこの時、もちろん振りほどこうと思えばリツカの懐から離れることができただろう。だが、彼女はそうしなかった。そうせずに、むしろ逆に、マシュは彼女の胸元に顔を預けた。

「あの、お恥ずかしいのですが」

「だろうねぇ」リツカは、自分の胸に顔を埋めたマシュの頭に、顎を乗せた。

「―――酒呑童子のことを、考えていたんです」

幾分か唐突なその名前に、けれどリツカは少しの動揺も見せなかった。リツカはこの時、その名前が出ることは全く予想していなかったのだが。

「強かったです。とても、強かったです」

「そうだねぇ。とんでもなかった。普通のサーヴァントじゃないみたいだったね」

「はい」マシュは、この時も僅かに躊躇った。躊躇ったが、述べることにした。「それと、彼女は楽しそうでした」

「へぇ?」

「あの、佐々木小次郎という方もでした。人の世をかけた戦いだったのに。酒呑童子も佐々木小次郎も、ものすごく楽しそうで。私たちは正しいはずなのに」

次第に小さくなる声に、リツカは能く頷きを返していた。マシュの言葉を聴き届けて、「そうかぁ」と言葉を呟いたリツカは、少しの逡巡もしなかった。

「いいんじゃあないかな。マシュが言う通り、マシュは正しいと思うよ」

「なら」

「でも、私の個人的な感想としては、マシュは正しい道を歩んでほしいけど、色々楽しんでほしいなぁと思うのであった」

「え、ええと」

少しだけ、リツカは空を仰ぐように視線を彷徨わせた。上手に口が動かせない、とでも言うように口をパクパクさせてから、彼女は一つ結びの髪を照れるようにかき回した。

「この世の中に善悪の観念はあるしそれは蔑ろにすべきことではないんだけど、それだけで世界が成立されるのはあまりいい考えではないんだよ。一つの理で世界を理解しようとするのは基本的に愚劣だし、そもそもつまらないからよくないことだと思うんだ。中世的だし、西洋的だし、宗教的だし。そういうのは、傲慢な世界の見方だよ」

啓いてみれば、リツカの口腔は酷く饒舌だった。彼女の胸に顔を埋めるマシュは、ただ声を聴くだけだった。怒っている、とはあんまり思えなかった。でも、何か怒気に近いものを感じているようにも見えた。

「あー」

と判然としない声を漏らしたのは、多分、自分の饒舌に羞恥心を抱いての発言だった。誤魔化すようにマシュの頭頂部の匂いを嗅ぐところからしてリツカも平静ではなかったが、そんな行為をされるマシュもやっぱり平静ではなかった。

「喫マシュ」

などと嘯くあたり、この時本当にリツカは混乱していたのである。

「難しいことは言わないけども」

マシュより幾分早く平穏を取り戻すと、リツカはマシュの顔を正面から見た。

「何かが正しく、何かが悪いと思う気持ちはもっておいて。多くの人は善悪なんてないって言うけど、ほとんどの人たちは善悪の狭間の軋轢に耐えられなくて思考放棄しているだけだから。

そしてそれと同じくらい、いろんな世界を楽しんでほしいな。ほら、今私たちって、旅をしているみたいなものだからさ」

流石に不謹慎かなぁ、とリツカは苦笑いした。幸いロマニたちはこうした状況はモニターこそしていたが、音声データまでは収録していないはずだった。

「ねぇマシュ」

言いかけて、リツカは肩を竦めた。

「いや。なんでもないや、これ以上は、私の押し付けになるから」

そう言葉を濁したが、マシュは彼女が何を言わんとしているのか、それとなく察知した。マシュ・キリエライトは極めて敏く作り出されたが故、状況からその自分の判断が正しいと判断した。判断して、その上で、その言葉を深追いすることをやめた。

その代わり。

「先輩、お願いが、あるんですけど」

「なんだい?」

「あの。このまま、一緒に寝てもいいですか?」

一拍ほどの、沈思。赤銅色の髪の少女は、さして感情を揺らすことも無かった。

「トウマ君とクロみたいに、同衾したいと仰る?」

なるほどぅ、などと宣いながら、リツカはクロみたいな顔をしていた。あの小悪魔フェイスである。

「ど、どどどど!?」

「奇妙な冒険の擬音語かな?」

などと茶化しながら、リツカはずいとマシュに肉薄した。

「ええでしょう。藤丸立華、破廉恥なマシュちゃんの所望の通りに同衾致しちゃいます!」

「わわわわ……!」

―――その日。

もちろん、けしからんことも不埒なことも無かった。仲睦まじく、手を繋いで、温和な良眠に微睡んだのである。

だが、今日のこの日は、マシュにとっては記念すべき日にはなった。彼女の最初の冒険が、ある種適ったのだから。

 

 

あるいは、リツカが述べた通りのことも、この夜に起きていた。

アルプス山脈の山麓。樹々生い茂り、人の痕跡の全き無き場所に、厳かに佇む人影があった。

峻厳としか言いようのない、頑強な体躯。大理石からそのまま削り出してきたが如き、1人の男。ともすれば厳しい修行に耐え抜いた武人とも見える男は、暗黒の宇宙(そら)色の眼差しを下界に注いでいた

終末期の病人の如き容貌の男は、底知れない眼差しに状況を映している。

この戦いは、恐らくローマ帝国が勝つであろう。男は柄にもない思考を巡らせながら、その先の戦いを辿っていく。

あと3度、戦いは続く。その内に機会は訪れるであろう。その機会を逃さぬことが男の務めであり、深きソラの淵から掬いだされた男の、僅かな人生の意味だった。あるいは、死の。

と。

男は、背後を振り返った。

陰鬱な視線の先に、影は2つ居た。

1人。白亜の髪を揺らした、褐色の肌の少女。純白を基調とした出で立ちながら、その温和な佇まいには、男をしてたじろがせる何かがある。

そしてもう1騎。影の如き虚無が、紫紺の目を向けていた。

「何を企んでいる?」

声を発したのは、少女の方だった。だが、猛然とした殺意をぶつけているのは、もう片方の影であった。

「貴方のような者が居た記録は、無いのだけれど」

そう問うことで、むしろ少女は不意に戦端が開かれることを掣肘しているように見える。そして事実そうだった。

男としても、矛を交えるつもりは一切なかった。男は自分の存在意義を弁えており、それ以外のことをする気はなかったのである。

あるいは、もし戦火が巻き起こることがあるとするなら、それはその影の軽挙妄動に依るところであろう。男はその影の挙動を注視しながらも、さりとて男は影の放つ猛々しいまでの怒気を非難がましく見ることもなかった。何故ならその兵器にとって、男は極めて異質であり、且つ見逃しがたい脅威だったからである。あるいは買い被りも多分に含まれていたのだが、その怒気が故無きもので無いことも事実だった。

男は己に害意が無いことを伝え、そして自分の目的を害さない限りにおいて、その少女の意図を挫くものでもないことは伝えた。逆説的に己の目的が害されれば相応の対処をせねばならないことも、暗に伝えた。

「もちろん、私ではそちらのサーヴァントにはとても及ばぬ。所詮は果敢無いこの身ではな」

「そう、わかった」

少女は男の意思を受け入れた。彼女の目的としても男のそれに反目すること無きことを判断したのである。

そして―――互いに僅かな会話から察したところ。

互いが反目し、矛を交えた場合。おそらく互いに人理を巻き込んで覆滅し合う結果になることを、双方ともに敏くも理解した。そしてそれは、互いの意に反することであった。少なからず、この時点では。

そうして、2組は離別していく。正確には距離をとっていく2人の背を、男は無言のままに見送った。

離別の途中。クソ真面目に棒立ちする修行僧の如き男を振り返り、少女は苦く笑った。

「センスを疑うね?」できの悪い三文芝居でも評するかの如き口ぶりである。「ピエロにしては、可愛げがありすぎるよ」

影は、まじまじと少女を見返した。お前が言うな、と言わんばかりの目である。決まり悪そうにした少女は、苦し紛れのように言葉を続けた。

「貴方だって、アレと似たものじゃない」

少女は何故か、少しだけ気分が良さげだった。

「……」ばち。

「いてて、やめてよ」

「………」ばちばち。

「だからやめっ。ねぇホンっ……私さ、普通の人だから。立派なのはクラスだけで―――だからお冠なのはわかったから、ねぇ?」

「…………」ばちばちばち。

「絶滅しちゃうよぅー!?」

 「……………」ばちばちばちばち。

自らの使い魔(ゴーストライナー)にしばき倒されながら、彼女は思うのだ。

彼が来てくれた条件は、確かに整っている。だが、そうして応えてくれたことに、情けなくも泣きたくなったのだ。

 

 

同じ夜。

城郭都市ローマから僅かに離れた草原の丘に、彼女は居た。

瀟洒な給仕服を纏ったその女性の足運びは、極めてしなやかである。洗練された身のこなしは芸術というよりも武術的であり、それが故に、彼女は見る者に美質を感じさせることだろう。

その名、月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)、と言う。とある魔術の大家が生み出した、至高の魔術礼装である。後に紆余曲折を経て、司馬懿の依り代たる少女の所持品と為ったそれは、彼女の(オモチャ)が改良した際にトリムマウの名を与えられていた。主がサーヴァントと召喚されてなお仕える様は、まさしく忠道を歩む義臣といった様子でもあろう。

だが、この時は、彼女はライネスに着いていかなかった。メディオラヌムに遠征する司馬懿、そしてライネスから、緊急時での首都の守りを任されていたからだ。サーヴァント、司馬懿の強さはその知略にこそある一方で、自身の戦闘能力は一般人のそれと大差ない。その繊弱を補うものこそトリムマウであり、サーヴァント相手でも防戦に徹すれば易々と負けることはない。無論、これは主がサーヴァントとして召喚されたが故のスペックの向上に依るところ大でもあった。

そんなトリムマウは、背丈の低い草をかき分けながら、件の人物を追っていた。追う、と言っても、そこに切迫はない。彼女が探している人物は、極めて理知的で道理のわかる人物だったからだ。

果たして、トリムマウはすぐにその人物の影を見て取った。なだらかな丘の上に立ち尽くす、小さな人影。背を向けたまま空を見上げるフェルトの髪をした少女の元へ、彼女はごく自然に接近した。

「アルテラ様」少女の名を呼んだ。「また、星を見ておいででしたか?」

あぁ、と応えた声は、少女のものというにはあまりに老成しているように思えた。ようやっと振り返った浅黒い肌の童女の目は、明星のように爛々と赤く閃いていた。

「星は良い。なんだか、落ち着く」

そう言うと、アルテラは再び空を見上げた。

雲一つない夜空。深淵よりも果て無い星の大海に散らばった綺羅星たちは、互いにどちらがキラキラしているか競うように煌めきを放っている。

おそらく、これは綺麗な光景なのだろう。トリムマウは、そのように理解する。いかにエルメロイの至上礼装とは言え、人間的主観的価値を判断の俎上に載せられるほどに発達した人工知能を装備しているわけではまかった。そしてそれに対して、彼女はさして感心は無かった。

「トリム」

アルテラが、背後のトリムマウを振り返った。彼女は親しみを込めて、トリムマウを愛称で呼ぶ。その表情の無邪気さに、先ほどの老成は感じられない。外見相応の素直さに、彼女は僅かに微笑を浮かべた。

「今、同じ星を見上げていたぞ」

あれだ、とアルテラが指をさす。その指先を負ったトリムマウは、煌めく星を見つけた。その惑星の名称を素早く検索したが、彼女はその名を口にしなかった。意味のないことはしない主義なのだ。

ネロみたいだな、と少女は吐息を漏らすように言った。果たしてそれが喋りかけだったのか、それとも独語であったのか、トリムマウは判別しかねた。望郷の眼差しでソラを見上げる小さな女の子を、水銀の魔術礼装は静かに見守るだけだった。

「ネロに、言われたのか?」アルテラはその星を見上げながら言った。「連れ戻してこいと」

少しだけ、少女の口ぶりはいじらしい。

「確かに皇帝陛下からのご命令を受けております。アルテラ様のことをお守りするように、と。ですが、なるだけご自由になさるようにも申し付けられております」

そうか、とアルテラはそっぽを向いた。水銀色の給仕は穏やかな微笑を浮かべままだ。

「皇帝陛下のスケジュールをご存じですか」

「どうせ忙しいのだろう」

「明日は私が雑務の処理を承り待っております。昼までは時間的余裕があるかと」

アルテラは、その時特に何も反応しなかった。いや、その表現は正確ではあるまい。子供じみた反応が爆発しそうになって、それをなんとか抑えているらしかった。ぷるぷると震える肩の素直になれない様が、なんとも微笑ましかった。

「帰ろう、トリム」

アルテラは、踵を返した。トリムマウの返答を聞く余裕すら無く、アルテラはいそいそと歩いていく。

「早くお眠りになりませんと、寝過ごしてしまいますからね」

「何のことだ」

「健康を慮ってのことでございますよ」

ずんずん、と歩みを進める羊毛の少女の後を追う。決して顔を覗き込むような下劣をすることはする必要もない。どんな顔をしているかなど、わざわざ伺う必要など無いのだから。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幽かな開戦

AM.4:40

 

アルプス山脈、山麓。鬱蒼と茂る樹々には、早朝の薄靄が重く這いずり回っている。有視界距離はおよそ3~5mほどであろうか。さらに、獣道すら無い山間。およそ人間が健全な活動を行う条件を全く満たさない状況の中、整然と息を潜める一団が居た。

人数にして、5人。部隊規模としては極めて小規模ながら、野の獣以上の静けさと警戒を湛えている。その小集団の練度を自然と感じさせる彼らは、地面をほんの僅かに軋ませる振動音を耳朶に響かせていた。

リーダーらしき男が、右手を上げる。それを合図とばかりに、4人が弓を構えた。

これまでの戦闘から、敵のゴーレムの感覚器官の感度は人間のそれを上回ることは実証済みだ。下手に音を立てれば、それだけでこちらの存在は露見する。そのプレッシャーだけで、並の人間であれば焦燥のままに軽挙の愚を犯しただろう。彼らにはそれを犯さないだけの強かな精神があり、またその精神を形作るだけの実績と経験があった。

リーダーを務める男の手は、まだ下がらない。じれるような1秒は数時間にも感じられた。それでも男たちは悪路の中弓を構える形を一切変えず、その瞬間の到来を待ち続ける。

無限にも思えるほどの、夢幻の如き刹那。恐るべき一瞬は、実際のところは3秒ほどだった。そうして3秒の刻が進んだ後、男の右手は、朽木が倒れ込むように振り下ろされた。

貯まらず、弦に束縛されていた矢が猛突した。白い靄を切り裂いた矢は、その実さらに四方から降り注ぎ、静粛行動中のゴーレム10騎を忽ちに打ち砕いていった。

その後の行動は、脱兎を思わせる。短弓を抱えたまま、樹々の間を驚くべき速度ですり抜けていく総勢4人。1人は既に単独行動に入り、滑落さながらに山を駆け下りているに違いなかった。

と。

一際鈍い振動が、足元を揺らした。一瞬だけ4人は顔を見合わせたが、フードを被った姿のせいもあり、互いの表情は一切不明だった。

不明だったが、何が起きたかは皆理解していた。どこかのチームは運悪くゴーレムと接敵。恐らく誰かが引き潰され、挽肉になったのだろう。振動の反響からおよその位置を想定することも出来たが、4人は無駄な思考は一切しなかった。

先頭を走るリーダー格の男が手信号を背後に送る。状況変化から予定の修正を伝えると、男は背後を確認するでもなく予定外の悪路を奔り抜く。

次は自分の番かもしれないのだ。その可能性を極力排除するためにこそ思考の全てを捧げることが最善であり。生き残った後に死んだ人間への弔いをすることこそが、彼らの義務であることを、よく知っていたのだ。

当初予定とは異なる横穴に飛び込んだリーダー格の男に続き、一拍置いて3人が滑り込む。矢筒から矢を引き抜き短弓に構える動作はほぼ同時。ぎちり、と矢を引き絞った3人は、リーダー格の男が掲げた手を注視した。

 

 

AM5:20

メディオラヌム前線指揮所

 

「シバイ様!」

宿のドアを押し開いた兵士は、その瞬間に切迫の気勢を喪っていた。

 窓辺に佇む、小柄な少女。陽を浴びる金色の髪は、黄金をそのまま細く伸ばしたかの如き豪奢さを感じさせる。

深窓の令嬢。そんな言葉が、自然と沸き起こる。それでいて赤い眼差しに揺蕩う奇妙な様子は、淑やかさの裏に猛々しい獰猛さが潜んでいるように思われた。

「敵か?」

そうして声を開いた少女は、その可愛らしい外見とは全く相反する威圧的な声だった。

「はい、第二予定座標から報告がありました。敵規模は不明、遅滞戦闘は継続してるとのことです」

「ご苦労」特段逡巡する素振りも無く応えると、少女は再度窓から外を見上げた。「無用な戦闘は避けよと伝えろ。野伏どもを育て上げるの安くないのだから、とな」

「承知いたしました」

 

 

「さて」

コートの内ポケットから、目薬を取り出す。赤く腫れた眼球に薬液を垂らすこと、2滴。強く瞼を結ぶと、辛気臭い溜息を吐いた。

眼を開く。既に赤い色は光彩に無く、空色の目に戻っていた。

「カルデアの。聞こえているか」

(はいはい、何かな)

目の前に、通信ウィンドウが空中投影される。青白い画面には、作り笑いを顔面に張り付けた男の顔が映っていた。

「相変わらず、繊弱極まりない不愉快な面だな。飼い犬に手を噛み付かれ、狂犬病になって死そうな面だ」

(えー、開口一番それですか?)

「事実だから仕方あるまい」言って、司馬懿は微かに眉を潜めた。「いや。ライネス殿、徒が過ぎるな」

ふふん、と胸中で別な声が沸き上がる。己の依り代たる少女、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテの性向が影響して、なんというか嗜虐的というか罵倒が口をついて出る。生前はもっとこう、慎重というか良識のある性格だったはずなのだが。

《火の無いところに煙は立たないというじゃないか、軍師殿。生前、一体いい子ちゃんの顔の裏でどれだけ罵倒を陳列していたのか興味があるね?》

などと言ってくる。なぁそうだろう軍師ィ、といじいじしてるく依り代様のことはとりあえずスルーすることにした。

「両名とも、既に配置にはついているか」

(うん、第二・第三防御陣にそれぞれ陣取ってる)

司馬懿は無言で頷きを返すと、1人。内心で言ちる。

全て予定通り。勝負自体は戦術というより奇術の類なのは司馬懿自身としては気に入らないところだが、敵サーヴァントを確実に殺しきるにはこの布陣こそが最適だと理解していた。

後は、彼らが上手く動くだけだ―――。

3人の顔を思い浮かべ、司馬懿はもう一度、小さく頷いた。

軽やかに、指を鳴らした。身体を燐光が包んだか、と思った瞬間に、彼女の装いは一変していた。

普段のコート姿では無く、近現代の軍装を思わせる背格好。頭にちょこなんと乗った軍帽の位置をちょっとだけ修正すると、ふんす、と鼻を鳴らした。

「それじゃあ行こう。慎ましやかにね」

 

 

「ふぁ、ハァ」

ぶわっくしょん。

とは、とりあえずならなかった。咄嗟に口元を抑えた立華藤丸をじろりと睨みつけると、赤いアサシンは特段何も言わずに視線を元に戻した。涙目になりながらプルプルと震えながらも、トウマは少しずつ、呼吸を落ち着かせていた。

開戦したと思しき時間から、まだ10分。情報が曖昧なのは、開戦より遥か前から3人は無線封鎖状態で作戦を開始しているが故だった。

遥か遠く、平原から喊声が立ち上る。敵の戦力がゴーレムである以上、その声音はローマ帝国軍のものだろう。敗北を間近にした悲鳴なのか、それとも勝利を目にした歓声か。輪郭のぼやけた声ではどちらとも判別がつかないが、作戦が順当に推移しているならば、どちらでもあってどちらでもないだろう。

無駄な思案は、そこまでだ。所詮、この身はただの暗殺者。戦略戦術などという大局を勘案するなどという、分不相応な遊戯は興味の外だった。

半ば思考放棄しながら前に進みかけたアサシンの手を、誰かが掴む。足を止めて振り返ると、眼下から、赤い外套の少女が酸化銅の目を向けた。

何を意味しているのかは、よくわかる。煩わし気な様子でクロエが紙の地図を広げると、無言で指示し、次いで周囲の樹々につけられた痕へと指先が向かっていく。

敵本陣へと続く、僅かな獣道を示す痕だ。なんら魔術的痕跡を持たないそれは、帝国軍の索敵班が事前に潜入・開拓した侵攻路を示すものだった。

ちら、とクロが横目を流した。薄く額に汗をかいた黒髪の少年は、熱心に地図と周囲の状況を見比べているようだった。

呼吸は僅かに荒い。肩を揺らして息を吐く少年の顔色は、決して良くなかった。

精悍、などという言葉には程遠い。精強さもなく、気鋭も感じさせない。生半な練度でサーヴァント2機の静粛行動に追従する様は、度し難い愚か者にも見える。

だが、ここまで遅れていない。クロはいくらか気遣っている様子だが、それでも進行速度はむしろ早めに推移させている。アサシンに至っては足手まとい扱いで気にもかけていないのに、16歳の黒髪の少年は、弱音の一つも吐かずについてきている。

サーヴァント戦のプロフェッショナル。そう、クロは言った。彼女が並べ立てた証拠とやらも、少女らしい誇大妄想が入り混じった戯言だとばかり思っていたのだが。

誇張が無いわけではないにせよ、事実無根の虚言では無いのか。

アサシンの視線に気づいたか、トウマは束の間目をぱちくりさせると、ヒェと奇妙な音らしき呻き声を漏らした。

何故か、この少年は自分に妙な恐怖感を抱いているらしい。

アサシンは、客観的にそう理解する。

理解するが、だからと言って、誤解を解いたりするようなことも特にしない。暗殺者のクラスで召喚された無銘の男は、生前からそのように生きて死んだのだから。抑止力の駒になろうと、人理の危機とやらで召喚されようと、その在り方はもう、変わる余地はないのだ。

―――有用な戦力なら、それで良い。優秀な味方は戦術行動に利益になる。無能であれば、その時は。

アサシンはトウマから視線を逸らすと、ただ一路を目指した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

猛将、猛進

AM6:00

 

背の低い草原を、喊声が埋め尽くしている。

アサシンが理解したように、それは戦闘に昂る人間の声だった。本能的、というよりは自分を鼓舞するための怒声。槍を手に、剣を手に。迫りくる敵を排除するために、無数の刃が交錯しては弾け飛び、肉を抉り泥の体躯を砕いていく。

だが、そしてやはりアサシンが正しく理解したように、それは怯懦の叫喚でもあったのだ。自らへと迫りくる死という名の暗黒に立ち向かえる人間は、そうそう居ない。それこそ神代、古代の英雄たちとて死への恐怖を惹起させることがあった。生き物という存在者が決して逃れ得ぬ、死、という乾いた事実。ましてそれが、暴風となって迫りくるとなれば、正気を保っていること自体困難だった。

故に。

ローマ帝国の兵士たちが、その光景の中でも足を踏みとどまっていられたのは、奇跡でしか無かった。

一薙ぎ、一突き。無骨な槍が振るわれる度に、今まさに生きていたはずの人間はロースもバラもモツも関係なくに挽肉と化していく。

血煙を鬱勃と巻き上げた竜巻の正体は、1騎の無双。

得物は、一見すればハルバードに見えただろう。中国は宋を発祥とする方天戟の一種、方天画戟。かの軍師の手によって齎された夏王朝の超兵器を操る人物は、この世広しと言えども1人しかおるまい。

クラス、バーサーカー。真名、呂布奉先。群雄犇めく『三国志』にあってなお最強の名を恣にした、最強の英霊。サーヴァントとして召喚された呂布の前では、生身の人間などそこいらの石ころと大差なかった。

そうして、僅かに15分。ゴーレムの軍勢を率いた呂布奉先は、忽ちにローマ帝国の敷いた第一防御陣を食い破ったのである。

 

 

(敵は紡錘陣形を構築。一気に縦深陣の突破を図っているようだ。呂布奉先め、俺が居るとわかって首を取るのに躍起のようだぞ?)

空中に浮かんだ通信用の映像に、ブーディカは肝を冷やした。

召喚されたサーヴァントは、聖杯によりその時代の知識をある程度授けられることとなっている。だがそれとは別に、あらゆる時間から切り離された『英霊の座』に登録された時点で、同じく座に導かれた英霊の記録を集積することとなる。

1世紀、ローマに生きたブーディカが呂布奉先を知る所以である。時代も地域も異なる生まれの英霊同士とて知り合うが故に、弱点となり得る真名は秘匿されるのだ。

「あのねぇ、あんな化け物と殴り合わなきゃいけないこっちの身にもなってよ」

(可能な限り予定通りに進めてくれればいい。無駄な戦闘は極力避けるんだ)

「そうは言うけどさぁ」

文句の一つも言ってやりたくなったところで、絶叫にも似た怒声が空に弾けた。

「あぁもう、帰ったら礼くらい言いなさいよ!」

返信は、聞かなかった。尾花栗毛の腹を軽く蹴ると、猛然と敵の元へと突撃した。

英霊、ブーディカ。温和な雰囲気ながら、ケルトの女王として戦場を駆けた彼女の在り方は、勇猛という言葉ですら生ぬるい苛烈さを内包する。バーサーカーでは無くライダーとして召喚される彼女は苛烈なままに暴威を振るうことを好まないが、その猛々しい気質は仮に騎兵とて変わらない。栗毛の馬を疾駆させた赤毛の女王は、紡錘陣形の突端から猪突する泥の騎馬に跨る巨躯へと突撃した。

「我がクラスはライダー! 呂布奉先、貴様の相手はこの私だ!」

温厚な彼女からは想像もできない、鋭い声。殺戮を恣にする巨躯の目が、ぎょろりとブーディカを見返した。

女神の加護を(アンドラスタ)!」

乾坤一擲。初撃から横薙ぎに撃ち込んだブーディカの一撃は、セイバーと見紛うほどの激しさだった。

だが、天下に聞こえし無双の武将。呂布奉先は、その一撃をあまりにあっさりと、素手で掴み取った。

ぎょっとする暇は、無かった。反撃とばかりに放たれた斬撃は、あまりに無造作に放たれたものだった。それでいて、必殺。袈裟切りに叩き切るように振るわれたそれを、ブーディカは咄嗟に剣から手を放し、馬上から転がり落ちてなんとか躱した。

「逃げて!」

主の喪失に戸惑う栗色の馬をけしかけながら、ブーディカは再度組み付かんばかりに呂布へと飛び掛かった。

左腕に握りこまれた剣、その柄を手にする。ぞわり、とオドを励起させたブーディカは、その超至近にて真名を解放した。

「『約束されざる勝利の剣(ソード・オブ・ブディカ)』!」

黄金の剣、その刀身が夥しく閃光を迸らせる。真名解放を悟った狂戦士は咄嗟に馬から飛び退きながら距離を取ったが、それでもクロスレンジに違いない。炸裂した無数の光弾はまさしく暗雲から降り注ぐ剛雹。サーヴァントを一撃で殺しきらずとも、十分な致命傷を与えるに足る攻撃であり、この至近距離で全てを躱しきるには、それこそアキレウスの如き俊足が必要だった。

事実、呂布奉先は射出された光弾数発を躱してみせ、さらにはただの戟の薙ぎ払いだけで撃ち落としながら、それでも数発が巨躯へと吸い込まれる。直撃と同時に閃光が爆発するや、爆炎が呂布の体躯を飲み込んでいった。

「まぁー、そんな簡単には倒せないよねぇ」

晴れる噴煙。さしたる傷も無く姿を見せた巨漢に、ブーディカはげんなりと苦い微笑を浮かべた。

流石に、格が違うことを自覚せざるを得ない。所詮は敗北で人生の幕を閉じた自分と、中華最強の英雄では比べようも無いか―――。

あまりに謙虚に考えながら、さりとて軽々に結果を急ぎすぎない点こそは彼女の優秀さの証であり、また指揮官としての戦術眼だった。

打ち出された戟の一撃を剣で受け流したブーディカは、勇躍とばかりの怒声を響かせた。

「いいか、無駄に命を散らすな! ゴーレムとの戦闘は可能な限り3人1組で行うことを忘れるな、それが出来ない時は素直に逃げよ! ローマ帝国軍人の命、簡単にくれてやれるほど安くないことを教えてやれ!」

 

 

「順調ですか、それは重畳」

肩に止まった小鳥に声をかけ、陳宮は使い魔からの情報を精査する。

サーヴァント、呂布奉先を先頭に展開する紡錘陣は既に敵縦深陣を3層まで突破している。予測時間より進行速度が速く、紡錘陣自体がやや縦に伸びている。

「流石に僕のゴーレムでも、かの呂布奉先の機動性能には敵わないよ」

「貴方、いつまでここにいるんです?」

なんというか、当たり前のように幕内で陳宮の目の前でくつろぐ仮面の男。困惑の声を向けてなお平然としながら、「研鑽の為さ」と声を返した。

「君の持つ技術には興味がある。特に、あのサイバネティクス……というのかな? 僕のゴーレムとは全然違う魔術体系なのだろうけど、だからこそ学ぶべきものがある。そう思わないかい?」

かすれ声の割りに饒舌に言葉を続けた仮面の男。キャスター、アヴィケブロンは、少しだけ気分が良いらしかった。素朴ですらある物言いに流石に毒気を抜かれながらも、陳宮は一応の首肯を返した。

「確かに、貴方の技術には私も関心はあります。ですが、ここは戦場ですよ? 戦闘を得手とするわけでもない貴方がしゃしゃり出るのは、やや感心しませんが」

口調は穏やかだが、物言いは辛辣だった。端的に言って雑魚は邪魔だから引っ込んでろ、と陳宮としては言いたいわけである。無論、いざとなればこの男を”砲弾”にしてしまうことも十分選択肢なのでいいのだが。

「それは忠告かい、それとも親切かい」

「後者だと判断しているなら、貴方は相当頭が茹っていると思いますが」

それに―――と言葉を続けた陳宮は、僅かに、眼鏡を持ち上げた。

「他人の理想に殉じるほど、私は暇ではありませんので」

およそ、十瞬もあろうかという沈黙。仮面で表情は伺い知れないが、アヴィケブロンは少しだけ身動ぎした。

「軍師というのはやはり頭が切れる、ということかな」

掠れ声に、緊張は無い。仮面の奥でくたびれた嘆息を吐くと、アヴィケブロンは肩を落とした。

「あのチンカス野郎は餌に出来ない。諸葛孔明は、魔術師としては二流もいいところ。であれば、適任は貴方か私。別に頭を使う必要もない問題です」

「あの皇帝ネロを炉心に組み込めたらそれが一番。君はまぁ、スペアさ。安心してくれ」

「それ、弁解になっていると思っているでしょう? そういうところが、ろくでなしの所以だということは知るべきですよ」

「よく言われる」

「自覚なさいと言っているのです」

アヴィケブロンは厭世的に吐き捨てたが、さりとて動こうともしなかった。露骨に不機嫌そうにしながらも、どうせ何を言っても無駄と理解した陳宮はわざとらしく鼻を鳴らした。

「いざとなったらお逃げなさい。いいですね」

「人情かい」

「軍師の本懐です。どうあれ歴史に名を遺した軍師たるもの、戦略目標を見失う愚を犯しては物笑いの種になりますので」

「理解不能だな」アヴィケブロンは肩を竦めた。「でも君の言うことには従おう。僕も、野蛮人の理想なんて別に見たくもないしね」

陳宮は、特にそれを聞き咎めることはしなかった。野蛮人、というのは、多分に事実だということは自分で自覚していた。

冷静沈着を旨とする。それが軍師の在り方ではあるけれど。陳宮公台は、軍師であると同等以上に、自ら剣持ち弓撃つ武人でもあるのだ。であれば、この願いが血生臭いものであることは、言われるまでもなく自覚しているのだ。

「さて。ですが、やはり私も軍師ですので。それにあのチンカス野郎の命令が達成できないのは、それはそれで業腹でしょう」

浅黒い肌の男は、どこともしれない樹々を眺めた。これから来るであろう来客を注視する目は、知的というより勇猛さを閃かせていた。

「ねぇ、それにしてもチンカスってどうかな。詩的じゃないと思うが。控えめに言って前衛的だと思う」

「リリカルではありませんか。あれを呼びやるのに、これ以上相応しい言葉がありますか」

「んー……まぁ、無いか」

 

 

呂布奉先にとって、生前、戦場とは己の力量を試す場でしか無かった。

武芸百般を体現する様は、正しく無双そのもの。あらゆる敵は芥に過ぎず、凡百の武将などは野の獣と大差ない。

先ほど見えたサーヴァント。ライダーも、彼にとってはさしたる障害では無かった。どこぞの英霊かすら興味はなく、ただ男は猪突のままに、敵陣を食い破っていく。

呂布が僅かな違和感を覚えたのは、恐らくして3つめの防御陣と戦闘に入った時だった。

これまでと変わらず、方天画戟で人肉を引き裂いていく。その作業のプロセスにさしたる代わりはなかったが、何かがおかしい。

呆気なく兵を引く、手応えの無さ。それでいて、兵力を的確に集中させてゴーレムの頭数を漸減させていく兵士の動き。第2層にも勝るとも劣らぬ用兵。であれば、先ほどのライダーのような指揮官型のサーヴァントが居るに違いない、と予測する。

泥馬の騎上から、呂布は戦況を見渡す。烏合の衆、有象無象とばかりに入り乱れる人間のただ中に、それらしい人物は居ない。

舌打ちが、口を衝く。これだけ人間が犇めくと、目視ではサーヴァントか否かなど識別できない。

微かな焦燥。だが、呂布はその焦りを素早くかき消し、猛進を開始する。

敵が引くより早く突撃し、薙ぎ払い、突き崩し、撲殺する。小賢しい策など正面から打ち破るのみ。元よりこれはそのための戦いで、男が唯一信を置く陳宮公台がなんとかしてくれるだろう。

ある種の、思考放棄。それこそが呂布奉先の精強さであり、歴史に名を遺した所以。だがら、それは人格的な非難こそ免れぬとも、戦術・戦略的論難には値しないものだっただろう。

だが、この時だけは、その思考停止は愚策だった。あるいは呂布奉先ほどの英霊であれば、その影に気づけただろう。

群衆とすら呼べる、並みいる兵の中。赤銅色の髪の少女が青鹿毛の馬を遮二無二に駆り立て、鼓舞の声を響かせる様は、慎重な人間であれば気が付けたかもしれない。

だが、所詮は仮定の話である。『人中に其の人有り』と謳われた無双の英雄に、凡人と左程差異の無いその少女の姿を捉えることなど出来なかったのだ。あるいは視認しても、それを敵と認識することはなかったか。どちらにせよ、呂布奉先は思考を捨て暴威となることを選び、人間で出来た壁を、濡れ紙を裂くように打ち崩していった。

そうして、およそ1時間。呂布を戦闘に形成される槍の如き陣形は、第4層防御陣を突破した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

将は智慧の先に何を観る

(大丈夫、リツカちゃんはちゃんと退避したよ。第四防御陣の戦力も9割残ってる。全体としての損耗率も2割には抑えられてるんじゃあないかな)

そうか、と空中投影された通信映像に返す司馬懿の顔は思案気だが、この時中華きっての大軍師は、目の前の戦況の推移についてはさしたる関心を払っては居なかった。

この時、軍師司馬懿の思考の中の6割を占めていたのは、藤丸立華という人物への評価である。

的確な部隊運用、火力投射の妙。そして、逃げの巧さ。

首都防衛戦での、派手に見えて敵の戦略目標を見据えた堅実な戦術立案。多少は優秀だと思っていたが、なるほど―――。

「欲しいな」

司馬懿の顔は、酷く無表情だ。だがその冷淡にも見える顔こそは、司馬懿という男が最も他者に情熱的関心を寄せる際の表情だった。

そして、もう一人。

黒髪の朴訥な少年の顔を思い浮かべると、さて、と口腔に声を凝らせた。

サーヴァント戦闘のプロフェッショナル。単なる誇大妄想か、それとも現実のものなのか。実績は、あと少しもすれば現れるだろう―――。

《随分余裕そうじゃないか、司馬懿殿》

内心に、自分ではない者の声が響く。依り代となった少女、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテのその声音は、嗜めるようで嗜虐的だった。

《相手は呂布奉先なんだろう? 中華最強の英霊も、所詮は大軍師の掌の上ということかな?》

「所詮、呂布奉先など個人技に特化しただけの木偶の棒。武芸百般など余興であれば愉快だが、戦場ではただ扱いにくい駒というだけのこと。元よりアウト・オブ・眼中、語るに値せぬ」

だが。

それを手名付けた上で戦術に組み込んで見せる敵の指揮官には、司馬懿は敬意を感じていた。呂布奉先を先頭にしただけの一点突破と言ってしまえばそれだけだが、単純な数的優位に劣る敵軍としては、戦力集中による防御陣の突破は最も勇猛且つ理に適っている。

軍師とは、如何に効率的に暴力を行使するかの技能である。であれば、暴力の具現たる呂布奉先の手綱を握る技倆は、正しく軍師と呼ぶにふさわしいだろう。

「そも。戦術などはさして難解なものではないのだ。多数により少数を打ち破る。ミクロ・マクロに視点を変えながら、多数を以て少数にあたるを意識し続けるだけのこと。そうして敵を常に少数にし続ければ、戦いは須らく常勝不敗。それだけの、ことだ」

果たして、それは誰に語り掛けた言葉だったか。裡へと沈思する言葉を飲み下した司馬懿は、駆け付けた伝令の言葉に、獰猛な肉食獣じみた嫣然を浮かべた。

「伝令! 第6陣突破されました、残り我が防御陣は第7陣を残すのみです!」

開戦より、既に5時間。中天には日が昇り、明々とした陽光を戦場に等しく降り注いでいた。

「少しばかり速いな」

 

 

呂布がその人影を捉えたのは、半ば必然だった。

市街、メディオラムを背に構築された7つの防御陣を突破すれば、最奥には全体を統率する指揮官が居るのは自明。そしてそれこそは、呂布奉先と陳宮公台が追い求めた目標―――サーヴァント、司馬懿そのものだった。

呂布、という男は、粗忽な武勇と相反するように智慧敏い武将だった。戦術と戦略がなんたるかは能く了解していたし、またその重要性も理解していた。

理解していたが、だからといってそれについて考えるのは手間なことだとも思っていた。戦場で武勇と言う名の暴威を振りかざすことこそ、呂布という存在の起源であり。それ以外の全ての事象は、雑事に過ぎなかった。

だから、司馬懿と雌雄を決することの戦略的意味を、呂布は思考しない。頭を使うことの全ては陳宮軍師へ委ね、巌の如き巨躯は極めて沈着に、葦毛の馬に跨る矮躯へと方天画戟を薙ぎ払った。

司馬懿、と思しきサーヴァントが宙に何かを放り投げる。硝子でできた、小さい管のようなもの。試験管の口からずろりと銀色の液体がはい出るや、忽ちに太刀へと変化する。

戟へと打ち合わせる銀の太刀。鈍く拉げるような音も束の間、呂布の膂力にあっさりと馬上から弾き飛ばされた少女然とした身体はゴム毬のように地面にのたうった。

うげ、と嗚咽を漏らして痙攣するその様を、無論呂布は看過しない。即座に方天画戟を砲撃形態---弓へと可変させ、その矢じりの先を司馬懿の体躯に捉えた。

「トリムマウ!」

声が激したのと、呂布の手から矢が放たれたのは同時だった。

猛然と放たれた矢の破壊力は、対艦ミサイルにも匹敵しよう。一撃で艦船を爆砕するほどの大火力が殺到するより僅かに早く、手に持った銀の剣が再びぐにゃりと変形した。

形状は、大楯。小柄な体躯を覆って余りある銀の盾は、しかし、呂布の攻撃を止めるにはあまりに脆弱だった。3秒と持たず銀の盾が破砕され、司馬懿の体躯は暴威の中に飲まれていった。

数舜ほどの、間。猛然と立ち昇る土煙の中で、ゆらりと影が立ち上った。

「武官の真似事をするとは思わなかったが」

はらはらと晴れる噴煙の中に、深紅の双眸が灯る。赤々と燃えるが如く双眸を揺らして現れた少女は、いたるところを損傷していた。

腕千切れ腸が脇腹から零れ、その他身体のあらゆる箇所に裂傷を作りながらも、その悠然としながらも挑発的な嫣然が鋭く閃く。傷はむしろ凄絶さすら感じさせ、さしもの呂布奉先とてその在り方に瞠目を禁じ得なかった。

「魔女の手口、か。魔術など興味も無かったが」

ぶちり。

金の髪の一房を千切り捨てた司馬懿は、はらりと房を捨てた。風に乗って吹き散る金の髪をさして気にするでもなく見送ると、司馬懿は嗤うように呂布奉先を睨めつけた。

傷など知らぬとばかり。繊弱な矮躯を意気揚々と、一歩踏み込ませる。

「天下一、無双の武将が聞いてあきれるわ。俺のようなひ弱な文官に二撃も費して、まだ殺せぬとはな。所詮、貴様は乱世にしか生きられぬ梟雄。次代を創る意思も無く己が生を浪費することしか知らぬ、愚かな男よ」

さらに、一歩。爛々と燃えるように煌めく赤い目が、苛烈な睥睨を突き刺す。

だが、呂布奉先は今度こそ、二の足を踏むことはしなかった。狼狽は一欠片とて存在せず、戟の形を取った己が宝具を手にした。

形状は、刀だった。幅広の片刃を手に、呂布は騎馬を猪突させた。

「面白い、やってみせろ。貴様如きが振るう鈍らで、この宣帝司馬懿仲達の首が斬れるというのならな!」

ぎらり、迸る銀の閃光。唸りを上げた刃の一閃は過たずに肉を裂き骨を砕き、血煙を噴き上げた。

 

 

そろそろ、か。

赤いフードのアサシンは内心で、独り言ちる。

体内時計から勘案して、今はもう12時を回ろうかという時間のはずだ。当初の予定通りなら防御陣は第7層まで突破された頃合いで、あと数十分もすれば司馬懿の座す本陣へとサーヴァントが襲い掛かるだろう―――。

内的時間感覚に極めて優れるアサシン故の戦況把握。実際の戦況は当初予定よりも僅かに早く進行していたが、あくまでそれは誤差の範囲だった。あるいは、進行状況に変異があるかもしれない、とは考えていたが、アサシンはそれを余分な思考と切り捨てていた。

もしそれが作戦進行に支障をきたす程度であれば、相応の連絡がある。それが無いということは、自分たちはそれを気にする必要は無いということだ。

だからこその思考停止。末端の兵は戦術・戦略など考えるべきではなく、ただ与えられた戦場で与えられた役割を果たすべきなのだ。かつて身の程を知らぬ大願を以て生き、その果てにただ使嗾されるだけになり果てた男は、無味乾燥に、そう理解する。

―――思考と同時。アサシンは、山の尾根に転がる岩塊から、眼下を眺めやる。

山間にぽつんと開けた広場。干上がった湖の名残と呼ばれる広場には、確かに湿地特有の植物が今でも顔を出している。その広場に陣取る頑強な躯体が、およそ20機。急場の天幕らしきものを基点に増設された一帯を鑑み、アサシンは此処が魔術工房だと明晰に理解した。

であれば、敵はキャスタークラスのサーヴァント。魔術を得手とする英霊ならば、相手取るのはアサシンよりも3騎士に相当するアーチャーが最適だろう。対魔力を有し、かつ生前魔術に連なる人物だったというアーチャーであれば、どれだけ強力なキャスターだったとしても問題にはなるまい。

アサシンは、確認するように背後を振り返る。ハンドサインで己が思考を小柄な少女へと伝えると、アーチャーは僅かに思案した後、首肯を返した。

―――一応、アサシンはもう一人の人物を伺う。黒い髪の繊弱そうな男は、少しだけ間の抜けた面をした後、慌てて頷いた。

サーヴァント戦のプロがそういうなら、大丈夫だろう。などと皮肉っぽく考えながら、アサシンは背に負ったケースから狙撃用のライフルを取り出した。

マズルブレーキを装備する大口径狙撃銃。通常弾以外にも鉄鋼焼夷弾、榴弾、対戦車榴弾すら装填可能とするそれは本来のアサシンの持ち物ではなく、少年たちが所属する組織―――確か天文だか占星だかとかいう名前だった―――からの供与品だ。

国連の組織らしいが、こんなものを備蓄する組織が果たして真っ当な組織なのだろうか。疑念は、一瞬。魔術師の組織など大なり小なり禄でもないものだと割り切ったアサシンは、安全装置を指先で弾いた。

それが、合図。銃を構えたアサシンの脇を、赤い颶風が駆け抜けていく。魔術回路に猛然とオドを巡らせたその様は、猛々しい禽を想起させた。

 

 

陳宮がそれに気づいたのは、炸薬が起爆したのと同時だった。

工房の索敵網がサーヴァントを探知する。無論それは工房の主たる陳宮にも知ることとであり、天幕の裡より弓を以て外へと抜け出す。その直後、天幕の横に並ぶ待機中のゴーレム1機が爆殺されたのだ。続けて対処行動に出ようとしたもう1機の頭部が爆破され、爆風がそのまま周囲の2機をなぎ倒していった。

爆破に何等かの魔術が介在した形跡は、無い。であればそれは物理的な兵器によるものだろう。1世紀に召喚された陳宮には、それが一体如何様な兵器なのか知る由も無かったが、少なからず己が居た時代よりは遥かに未来のものであろう、と即座に見当をつける。

見てみたいな……などと、陳宮は思う。軍師陳宮は本来武芸嗜む身であるが、さらに言えば彼は技術者なのだ。古代夏王朝の秘匿技術を継承する家系に生まれた陳宮公台にとって、人類の叡智は須らく関心を寄せるものである。周囲500mを囲う工房のさらに外側から、ゴーレムを一撃で爆殺する火薬を、しかもこれだけの精度を以て投射するなど尋常ではない。

端的に言って、めっちゃ見たい。

「―――っとそんなことも言ってられませんか」

4度目の爆発に、舌を打った。無差別な爆撃に見えて、的確に工房の迎撃管制用の礎点を破壊している。しかも、効率よく周囲のゴーレムを爆破に巻き込みながら。

少なからず、魔術に心得のあるサーヴァントに相違あるまい。本陣強襲部隊なだけあり、厄介なことこの上ない。早めに撃破すべき敵だが、今はようやっと作動し始めた迎撃装置に任せることとした。

迎撃用の投石器が展開、狙点めがけて岩塊を射出するのを後目に、陳宮は弓を構える。

矢を弦に番え、眼鏡越しに敵を定める。周囲環境を即座に演算・把握し最適な射撃地点を識別する、陳宮自作の発明品。眼鏡の指示する通りに、立て続けに射ること計4発。知悉に富む学者然とした佇まいからは想像もできない剛毅の射だった。

だが、それはあくまで常人の域に留まるものだった。そして肉薄する騎影こそは、尋常の埒外に在る超常の存在者。猛獣すら打ち倒すであろう4発の矢を、迫りくる紅の影はたちどころに斬り伏せていった。

「武人の心得もあるにはあるのですがねぇ。所詮は付け焼刃、ですか」

やれやれ、とばかりに眉を寄せると、陳宮は天幕へと声を貼った。

「お逃げなさいキャスター! ここもそう長くは」

言いかけて、陳宮は鼻で笑った。

天幕の裡に、動く気配は無い。この一瞬の間に、アヴィケブロンは退避行動に入っていたのだ。その逃げ足の巧さは舌を巻くほどだった。

原初の人を見るまで死ねないという意地なのか、はたまた炸薬扱いされるのを嫌ったのか。どちらにせよ、あのキャスターが消滅するようなことがあっては色々迷惑だ。

さらに続けて放った3射も叩き伏せられる。鼻白みながら、陳宮は肩に止まった泥の小鳥の声に頷いた。

「イキリ眼鏡太郎に使嗾されるがまま、というのも癪ですが」陳宮は早々と弓を地に起き添えると、次は太刀を引き抜いた。「それを己が戦術(エゴ)に転換してこその戦術家、というものですから。」

そうして、陳宮公台は己が前に立ち塞がった赤い死神に相対した。

死神。確かに、その佇まいは死神のようである。山間に吹き込む颪に赤い外套を靡かせ、闃然と佇む様は超常の使徒を想起させる。だらりとぶら下げた細い腕に握られたのは、小さな体躯に似合わない、厳めしい片刃の双剣だった。

「中華の英雄。というわけではないようですね。であれば、その剣は贋作の類でしょうか。そんなものを使う英雄は―――」

赤い影が跳ぶ。音速に届こうという疾駆に対応できたのは、一重に眼鏡のお陰だった。砲弾さながらに投擲された黒い剣を太刀で斬り落とし、その隙に右翼から迫った小さな死神の一閃に太刀筋を併せた。

僅かに一合。名刀でこそあれ所詮宝具ではない太刀は、ただ一撃打ち合わせただけで刃が砕けた。それに、その威力。苦悶の声を零した陳宮の体躯は、枯葉が突風に遊ばれるように吹き飛んで行った。

さらに一撃、投擲された白い剣を返す刃で打ち返したところで、終いだった。甲高い音を響かせながら太刀が砕け、衝撃の余波でよろけた陳宮の懐へと赤い影が跳び込む。

握りしめられた武器は、槍。深紅の外套よりもなおどす黒い、呪詛の長槍。先ほどの中華剣とは全く趣の異なる武具だった。

寸前、陳宮の目の前に木簡が散らばった。緊急防御用の魔術を工房が発動させたのだ。下級の宝具程度を防ぎ得る奥の手の防御手段。これで、あの槍の一撃なら防ぎ得る。

だが、これは一度だけしか発動し得ない。そして次の攻撃手段は、どうすべきか―――。

そこまで思案しかけた、時だった。

「おや」

思わずまろび出た声は、酷く素っ頓狂だった。何せ、あの赤い槍は木簡を当たり前のように貫通して、陳宮の心臓を抉っていたのだから。

「魔術を断ち切る槍ですか。なんとまぁ、きっかいな」

陳宮は呆れるように言った。続けて背後から飛来した双剣が立て続けに胴を貫いたが、さして気にしていないように首を振った。

「風雅のわからない方ですねぇ。そのような姿が全盛期というのであれば、それも当然と言うべきでしょうか」

「雅だなんだ、というのはもう飽きたわ」

ぶしゃり。少女が槍を引き抜くと、陳宮は堪らずに地面に倒れ込んだ。咳き込みと同時に血の塊を吐き出した。

「貴方みたいな手合いは、べらべら喋って時間を稼ぐものでしょう?」

「浪漫のわからない手合いですか。まぁ、最期というのは得てして散文的なものではありますが」

もう一度血の塊を吐いた陳宮は、そうして、至って散文的に言葉を続けた。

「ですが、私の死亡を引き金に作動する宝具までは考えが及ばなかったようですね」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

計画されたアンサンブル

大変長らくお待たせして申し訳ございません。
少しずつペースを戻していきます故、どうぞよろしくお願いします。


僅かに数分前。

大口径狙撃銃でグレネード(榴弾)を投射すること5射。狙撃というより最早砲撃を行いながら、アサシンは狙点を素早く変更していく。

狙撃・砲撃は戦場を支配する魔手。なればこそ、それらへの対抗手段もまた発達するものなのだ。

とは言え、それは狙撃銃、自走砲、あるいは長距離ミサイルが長足に発達した近現代の戦争の話ではある。萌芽こそあれ、1世紀のこの時代にそういった観点は存在しないはずだった。

にも拘わらず、敵のキャスターはそれを実践している。林間を疾走するアサシンの直近に岩塊を炸裂させる敵サーヴァントは、少なからず戦争のなんたるかを知悉しているということだ。

厄介な手合い―――認識を更新したアサシンは、僅かな一瞥を背後に向ける。

アサシンに遅れること、5歩。這う這うの体で走る姿は無様なことこの上無いが、それでもついてきている。魔術礼装の手を借りながらも。

マスターとサーヴァントは、物理的距離に近しいほど能力を発揮しやすい……らしい。果たしてその効果は、わざわざ自ら危険と言う名の陥穽に飛び込むほどのものなのか。アサシンには判断のつきかねる話だった。男は極めて合理的なため、判断保留の題目については賛同も非難もしなかった。

私情など不要。摩耗に摩耗を重ねた男の帰結は、当然のように散文的である。また男は自らの帰結に対してさしたる関心はなく、機械的というよりは鉱物的な無機質さで事態を処理していくだけである。

とは言え、男の動作は洗練された軍事兵器のようである、と言う点では機械的だった。何度目かの矢の豪雨を潜り抜けたところが、次の狙点。滑り込むように膝をつき、弾倉を切り離す。予備弾倉を叩き込み、装填完了と同時にスコープを覗き込み、前戦のアーチャーとの視覚共有(データリンク)を併せての、グレネードの精密砲撃を敵陣に叩き込む―――。

筈、だった。

がさ、と草木をかき分ける音が、した。敵、と理解しかけたアサシンが咄嗟に跳びさろうとして、それを目にしてしまった。

アサシンは、その光景を理解しかねた。何故なら、男の目に映ったのは、あの黒髪の少年が猛然と、滑落するように斜面を駆け下りていく姿だったからだ。

無論、無視することもできた。だが、アサシンには少年を守る責任があった。くだらないことこの上なくとも、それが命令であり、アサシンの生き方は、既に命令に背いて合理性を追求するように、できていなかった。

「―――世話の焼ける!」

大口径の狙撃ライフルを構えたまま、アサシンは少年の背を追った。

 

 

呂布奉先にとって、その光景はともかく理解の埒外であった。

彼の視覚が捉えた状況を極めて叙事的に描写すると、このようになる。

まず、目の前に人影が居た。それは名だたる武将にも見えず、またサーヴァントでもない。ローマ帝国の兵士、その1人である。

そのどこともしれない兵士には剣が握られている。振り下ろしたはずの方天画戟を、さも当然のように防いだ兵士の顔には、怯懦とも驚嘆ともとれぬ顔がはりついてる。

以上、それだけ。文字に起こせば134字に満たない事実こそが呂布の捉えた全てであり、また彼に理解しかねる出来事の全貌だった。

何故、と問う時間は、無かった。あるいは呂布自身も、何故を問うことは無かった。ただ理解不能な出来事に面しても、呂布は狂戦士として再度、方天画戟を叩きつけた。

そうして、2度目の理解不能な出来事が起きるのである。怒声にも似た掛け声とともに剣を斬り返した兵士は、その太刀筋で以て方天画戟を打ち返し、さらには返す刃で3度目を打ち合ったのである。

そうして、4度目。やっとのことで兵士1人を轢殺した呂布の元に襲い掛かった兵士は、正しく津波だった。夥しいまでの人数が四方八方、数多の武具で以て襲い掛かる。たまらず寄せ付けまいと薙ぎ払ったが、あるものはそれを受け止め、あるものは寸で飛び退いて躱し、あるものは躱しながら一挙に距離をつめてくる。その動きのどれもが凡夫のそれではなかった。

呂布奉先は、単なる猪武者とは異なる。軍略のなんたるかを知悉した武将であった。だがその剛毅な気質から、背後の援軍を顧みることは無かったが、仮に彼が指揮官として優れ、後方の味方に助力を請うたとしても徒労に終わっただろう。何故なら呂布奉先の背後は既に完全に包囲され、その包囲陣をゴーレムたちには突破することすら敵わない状況だったのだ。

否、それは正確な記述ではない。より正確に述べるなら、ゴーレムたちすらをも半包囲の陣形に封殺されていたのである。

理屈は、極めて簡単なことではあった。敗れたとみせかけて散り散りになった防御陣を3班に再編。1班は伸び切った紡錘陣形の突端を側背から強襲し、呂布とゴーレムを分断。さらに2班がゴーレムの背後、紡錘陣形の底辺に展開することでゴーレムに半包囲を敷き、第3班が呂布奉先を包囲し、各個撃破に持ち込む。それだけのことであった。

だが、高速で兵力を機動させながら部隊を再編、さらには自在に展開させることは机上では美しく見えても実践させるのは至難の業どころではない。ほんの僅かでもタイミングを見誤れば兵力は分散し、包囲どころか逆に各個撃破に持ち込まれかねない。さらには司馬懿の命運そのものすら尽きかねない戦術ではあった。

少なからず2名、用兵の運用に長けた人物を必要とするであろう。

そのうちの1名、ブーディカは包囲したゴーレムたちに前後から波状攻撃を展開していた。ゴーレムたちが攻勢に出た側の部隊は引き潮のように後退しながら、背後の部隊が後背から強襲。ゴーレムが反転迎撃の気勢を見せれば、今度は後退をかけていた部隊が反転に転じ、反転迎撃の隙を衝く。際限なくそれを繰り返すことで、じわじわとゴーレムの頭数を漸減させていった。

呂布奉先に執られた戦術も、おおむね同じであった。方天画戟が近接戦闘向けの形状をする間は弓兵が矢を浴びせかけ、弓に変形させれば槍兵が責め立てる。それの、無限とも思える反復。英雄的な浪漫など欠片も存在しない、極めて無味乾燥な多数兵力による少数勢力への消耗戦だった。

「詭計、切り札。戦争にそんな浪漫を追い求めるのは、基本的には幼児の夢想に過ぎぬ。童謡か詩にでも唄わせておけ」

司馬懿は、息を切らしながら傍にやってきた2人に一瞥をくれた。爛々と魔眼を閃かせた軍師は、その赤々とした目に反して、さりとてさしたる感動も無い様子だった。

「あとはよく見ていると良いよ。リツカ、マシュ。所詮、狂戦士なんて(ましら)に劣る。頭の切れる馬鹿(フラット)に比べれば、何のことは無いのさ」

そうして、波状攻撃が繰り返されること50度。弓の斉射により、呂布奉先は呆気なく消滅した。

 

 

 

クロは咄嗟に槍の穂先を突き立てかけたが、寸で、それをやめた。慈悲などは当然なく、ただそれが無意味なことだと知ったからだった。

「これはご明晰で。えぇそうです、今私をさっさと消滅させたところで何も変わりませんとも。それよりも、少しでも情報を引き出した方が賢明である、ということでしょう」

地面に倒れ伏した男は、心臓を貫かれているというのに平然とした素振りだった。

「あぁ、もちろんやせ我慢ですとも」

……実際のところは、かなりきついらしい。笑顔のままで吐血する様は、異様だった。

「―――むぅ、呂将軍もやられましたか。やれやれ、司馬懿殿にはやはり敵わないようですねぇ。所詮は猪武者に片田舎の貧乏学者。天下の宣帝には敵わぬは道理でした」

ふと、小さく独りごちる。酷く非難がましい物言いにも関わらず、その声音には哀惜が満ちていた。そうして、同じくらいの慨歎と諦めが混交していた。

「残念なことに私のエゴ……もとい戦術は敗れ去ったようです。ですが、戦略目標は果たさせてもらいました。なので、最期にクソ忌々しいので自爆したいと思います。ほら、私ひねくれ者ですので、クソ眼鏡の掌の上というのも癪でしょう」

自分も眼鏡なことは棚に上げて剽悍の面持ちに稚児めいた笑みを浮かべると、さらっと男は口にした。

「私、陳宮公台と申しまして。私の宝具、基本的には他者の魔術回路を暴走させて人間爆弾にするものなのですよね。残念なことに私の他には誰もおりませんので、私自身を爆弾にする次第です。やったことはありませんが、まぁ魔術回路はありますし、うまく行くでしょう」

素っ気なく言い終えると、陳宮は疲労したように鼻息を吐いた。

「クソ眼鏡の掌の上も癪ですが、あのチンカス野郎の思い通りになるのはもっと不快ですからねぇ」

果たして最後のつぶやきは、なんであったか。呟きというより、この時男は初めてクロに対して語り掛けていたのかもしれなかった。

「ではこれでお暇致しましょう。まさかまさかの『掎角一陣』、特等席でご照覧あれ」

寒心が、真皮を粟立たせる。

あるいは、それに気づけたのは、クロが極めて魔術師の素養に長けていたからか。

山間に敷設された臨時の中継地点。か細い霊脈から吸い上げた大源(マナ)を、ただ一撃の自爆に転嫁した際の破壊力は、対軍宝具すら上回り、対城宝具にも届こう。ニコニコと微笑すら浮かべる男の表情に絶句しながらも、クロはその僅かな2秒に思考し尽した。

今まさに握る魔槍、ゲイ・ジャルグ。魔力の流れそのものを断ち切る槍であっても、宝具の発動そのものは防げない。契約破りの短剣も、発動してしまった宝具を無効化はできない。

であれば、残された手は防御。だが対城宝具を真正面から防御しきるだけの防御など、どこにある? アイアスの盾すらティッシュを裂くように破壊されるだろう―――。

至った帰結は、明瞭な死。そうして残された1秒の中で咄嗟にとった行動は、己のマスターへと逃亡を指示する声を張り上げるだけだった。

「逃げ―――!」

背後を、振り返る。樹々の中に居るであろう主へと声を張り上げかけた、その瞬間だった。

何かが、こめかみ付近を擦過した。

彼女の鷹の目は、それが何なのかを正確に目撃していた。

対戦車ライフルのそれに比べれば、遥かに速度に劣る弾丸だった。

この時代より1900年後にこの世に生を受けた中折れ式の拳銃、その銃口から時速314km/sで飛び出した特殊弾丸は、吸い込まれるように男の胸元へと飛び込んだ。

そうして、全て終わった。ただの拳銃の弾丸が男の身体を貫くという、極めて散文的な結果の次に訪れた現象は、全く以て魔術的だった。

男の身体が、釣り上げられた石鯛のように飛び跳ねた。と思った瞬間、全身の孔という孔から黝い血を吹き出したのである。

驚愕に男の目が見開かれる。数多の情動を駆け巡らせた男は、最期の最期にぎこちなく破顔した。

「全く、本当に浪漫の無い」

くたびれたように言い捨てた時、男は消滅した。

クロが現実に引き戻されるまで、数舜あまりの時間を要した。宝具の発動など元より無かったように静まり返った周囲を見回した少女は、その目に2人の人物を認めた。

荒く息を切らした黒髪の少年。そうしてもう一人、赤いフードを被った暗殺者は、大口径の拳銃を構えていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

机上の論は廻り巡る

こうして、メディオラヌムを中心とした一連の戦闘は、戦闘開始から10時間後に終結した。

だが、この戦いを以て、何かが綺麗に終わったわけでは、当然なかった。

アルプス山脈の窪地に敷設された中継点。去り行く3人の姿を、見送る人影があった。

サーヴァント、キャスター。その真名を、アヴィケブロンと言う。逃亡したかに見せて隠匿の魔術で潜んでいたアヴィケブロンは、当然一連の戦闘を注視していた。

手慰みのように、キャスターのサーヴァントは顎に手を当てていた。とはいえ、仮面越しに、である。極めて繊弱虚弱な体質である彼にとり、外の世界はマスク無しに活動できる環境に無かった。とはいえ、室内においても彼は仮面をつけているのだが。

「志半ばで朽ちるというのは、みっともないことだ」

独り言ちる。やや不満ながらも、まんざらでもない顔で消滅していった陳宮に対しての、罵倒とも賞賛ともつかない言葉だった。

「でも君のお陰で、まぁまぁいい結果になりそうだ。その点だけは感謝しているよ、ミスター陳宮。アレは、多分皇帝ネロよりも優れた逸材だ」

静粛の魔術を素早く執行しつつ、アヴィケブロンはゴーレムの肩へと乗った。

浅黒い肌の、ホムンクルス。いつの時代のものか、また誰の手によるものなのかアヴィケブロンには見当もつかないことだが、その完成度の高さには、異なるアプローチながら「人を造る」ことを目的にした彼をして舌を巻くほどであった。あるいは、カバラと錬金術という畑違いだからこその、素直な賞賛だっただろうか。

とまれ、アヴィケブロンは誰に悟られるでもなく戦場を離脱する。幼い少女の姿を思い浮かべ、仮面の下に笑みを浮かべながら。

 

 

そうして、その光景を眺めやる人物は、もう一組あった。

メディオラヌムの戦闘をアルプスの山肌から見下ろす、黒い背広の男。咥えた葉巻からか細い白煙をくゆらせた男は相も変らぬクソ真面目そうな顔をしている。

ともすれば、眉間に深く刻まれた皺は、不機嫌そうにも見えただろう。あるいは、実際不機嫌ではあったのかもしれない。自分が思い描いた通りに事実が推移したことは事実は客観的には満足できることなのだが、主観的には手放しに喜ぶべきことではなかった。

「先生、とってきたよ」

そんな陰険な男―――諸葛孔明、もといロード・エルメロイⅡ世とは正反対の、溌剌の声が耳朶を震わせた。あぁ、と振り向けば、燃えるような赤い髪の少年が、無邪気な様子で何かをぶら下げていた。

きゅーきゅー、と悲鳴を上げる小さな生き物。長い耳を鷲掴みにされた野兎は、もう抵抗する気力を失ったように四肢を萎えさせていた。

黒魔術(ウィッチクラフト)を中心に、動物を贄とする魔術体系はそう珍しくない。科を問わず、魔術師たちが現代解剖学を大なり小なり必修科目となっているのは、古きを重んずる時計塔の中にあって、現代の科学を評価している証左であった。最もその態度は傲岸さと卑屈さが入り混じった、大変非貴族的な評価ではあるのだが。

時計塔に解剖学の習熟を、非自覚的に出あれ推進した現代魔術科(ノーリッジ)の君主、エルメロイⅡ世は、もちろん動物の解剖程度は難なくこなせる。こなせるのだが、今回だけは、彼はその生き物に触ろうともしなかった。あるいは、少年が触らせてくれなかった。

「そりゃそうだよ。先生に任せたら、この可愛らしい生き物が炭屑になってしまう」

やはり元気そうに言いながら、赤毛の少年、アレキサンダーは全く以て辛辣な言葉をぶつけてきた。先日、先生においしそうな川魚の調理を任せた結果、炭2つを生成する魔術を見せられたのは文字通り苦い思い出である。そう言わんばかりだ。

「いい大人が料理もできないなんて!」

そう言うと、アレキサンダーは手ごろな切り株の上に野兎2羽を並べる。ナイフで皮を剥いで首を落とし、内臓をかきだす手際は、綺麗ではなかったが手馴れていた。

「現代では湯が沸かせればそれなりの調理ができるんだ」

エルメロイⅡ世は厳かにいったつもりだが、当然その身振りに厳かさなどかけらもない。

「先生、お湯が沸かせるんですか?」

「おい、流石に馬鹿にしすぎだろう。電気ケトルくらい使える」

……これでは威厳など求める方が困難である。最も本人には、自覚が無いのだが。

「はいはい、凄いですね」

アレキサンダーは憤然とするエルメロイⅡ世を軽くあしらいながら、手際よく2羽の兎を調理していく。古ぼけた鍋に水を張り、ぶつ切りにした兎の肉と玉葱を放り込み、調味料と香辛料を適当にまぶしたら、後はひをかけるだけだった。

「先生のお好きなアイリッシュシチューですよ」ちろちろと火の面倒を見ながら、アレキサンダーは口にした。「じゃががあれば、もっと良かったのですが」

「なんだって?」

「じゃがいもですよ。朴訥とした外見の内に秘めた芳醇な味わいは感動ものです」

「あぁ」葉巻を吸い終えると、エルメロイⅡ世はポケット灰皿に葉巻の残りをねじ込んだ。「フィッシュアンドチップスでも食べたいな」

「あの時、消し炭の魔術の材料に魚とジャガイモを使ったのは誰でしたっけ???」

さらっと、笑顔の罵倒である。黙然と口を閉ざすと、どうぞ、と差し出されたアイリッシュシチューを木のスプーンで口に運んだ。

70点くらいだな、と客観的な感想が延髄に零れた。出汁が足りない。水っぽい。細々と難点が浮かんだが、それは口には出さなかった。生活力に乏しく、魔術以外のことはからっきしで、その魔術に関しても系譜学的魔術理解以外はまるでダメな男であっても、他者が慈愛で作ってくれた料理に文句をつけるほどに性格的破綻をきたしてはいなかった。それに、そもそも材料の不在の原因は、自分なのである。それに、基本的には旨い。

黙然と食事を摂りながら、同じようにアイリッシュシチューを頬張る少年を見やる。物珍しそうに深皿を眺めては口に運んで、首をかしげてはまたスプーンでスープを掬う。基本的に、サーヴァントには食事は不要なのだが。好奇心が服を着て歩くような少年にとっては、世界の数多の事象は見聞すべき事物なのだろう。

―――アイツは、そういう奴だった。微かに脳裏に浮かんだ顔が少年の顔に重なり、エルメロイⅡ世は首を振った。

「おいしくないですね、これは」もしゃ、もしゃ、と口腔を蠢かせながら、アレキサンダーは言った。「50点くらいです」

「いや、そんなことはないぞ。十分おいしいし」エルメロイⅡ世は全て食べ終えると、鍋からもう一杯を装った。「手落ちがあるなら、私の責任だ」

「甘いんですね、先生は」

からり、とアレキサンダーは笑った。石くれに座ったまま足を組みなおした男は、特段反論するでもなくスプーンを口に運んでいく―――。

「身内にも厳しいと思っていました。義妹なのでしょう、あの軍師の依り代は」

「分不相応な課題を与えたつもりはない。実際、倒してみせただろう?」

男の顔は、いつものように険しい。どこか苦み走るような雰囲気があるのは、ロード・エルメロイⅡ世にとって、あの少女の存在は多種の意味で大きいのだ。色々と。

アレキサンダーはそんな大人の顔を、興味深げに観察していた。そうして微笑を零すと、「甘いんだから」と声を漏らした。

「何か言ったか?」

「いいえ、独り言です」アレキサンダーは立ち上がった。「洗ってきますね」

「あぁ、すまん」

ひらひらと手を振るアレキサンダーの背中を見送り、諸葛孔明、あるいはロード・エルメロイⅡ世は沈思する。

条件一つはクリアした。しかも、思わぬ成果も引き連れて。この点では、軍師の頭脳を満足させるものであった。

問題は、次。敵を討つには、戦術理論だけでは不可能だ。それを実行するだけの戦力が必要なのだ。問題はその戦力をどう冊立させるか、にかかっている。彼女が奪還される前に、それに相応しい戦力を見繕わねば。

候補は、あった。あの戦闘の最中に現れた、異邦からの来訪者。あれらの助力さえあれば、あるいは―――。

そこまで思案しかけて、軍師ははたと思考を止めた。彼の戦略構想の眼鏡に叶う人員の内1人に、焦点が合ったのだ。

あの、赤い弓兵の境界記録帯(サーヴァント)。あの魔術は間違いなく投影魔術だったが、そんなものを実戦レベルで運用する魔術師など聞いたことが無い。いや、無くは、ない。第五次聖杯戦争に召喚されたアーチャーは、投影魔術を使う異能の魔術師だった、という事実は、かつての調査の中で判明した出来事の一つだった。さらには、彼女が時計塔に連れてきたあの赤銅色の髪の少年の魔術も、確か―――。

だが、何よりエルメロイⅡ世の気を引いたのは、あの少女のかんばせである。あの顔は、確か、第四次聖杯戦争に参加していたあの白い女に。アインツベルンのホムンクルスに近くはなかったか。

無言の数舜を、生真面目な男は咀嚼した。発生した事象を偶然と片付けられるほど、男は楽観的な生を営んではこなかった。さりとて、全ての事象の必然性を解きほぐすほどに、彼は時間に恵まれた生を営んでもこなかった。

冬木の聖杯戦争、その影を持つあの少女の存在は関心の対象であることは事実だったが、何よりも、手元にある情報は曖昧模糊としたものばかりだ。これでは、推測するだけ無駄だろう。人間は想像の翼を無限に広げて真空すら翔べる存在である。そうした発想は小説家や映画監督にとっては美質だったとしても、学研の徒にとっては、手放しに賞賛されるべき特質ではない。

さらに、数舜。脳髄の奥というよりは髄膜あたりの表層に漂う莫とした思惟は、掴みどころが無かった。諸葛孔明あるいはロード・エルメロイⅡ世の知悉を以ても、その飄逸する思惟に輪郭を与えることができなかったのである。いかな智の粋とはいえ、それは全知とは程遠い。件の少女の首元に毒牙が迫っていることなど、彼あるいは彼には、知る由も無ければ推察のしようもないことだった。

結局、彼は思惟を止めた。詮の無いことだ、と合理的に判断を下し、判断停止したのである。この情の無い合理的思考停止は、諸葛孔明のそれだった。無為な時を過ごすよりも、疑似サーヴァントなのだから食事に専念すべし、と思ったのである。

だが、結局その合理的な思考は無為に報われることになった。最後の一口を終え、満腹感からの嘆息を吐いた時に、それは来たのである。

笛の音色のような声を零しながら、ひらひらとエルメロイⅡ世の肩に小鳥が舞い降りた。だが、その小鳥はただの鳥などではなく、泥を塗り固めて構築された、アヴィケブロンの使い魔であり、あの男からの招かれざる伝書鳩(メッセンジャー)だった。

この時ばかりは、ロード・エルメロイⅡ世はいつものクソ真面目な顔を崩した。辟易、といった顔が顔中に滲んで、思わず閉口したのである。

伝令は、至って簡単なものだった。定時会議があるから集まってほしいというあの男からの連絡なのだが、怒気を抑えきれない男のかなぎり声が鼓膜を不躾に殴りつけたのである。

情報の内2割程度が会議についてで、残り8割は罵声。そんなメッセージを受け取った男は、肩から飛び立った小鳥に向かって追い払うような手振りとともに、およそ品格という言葉からは隔絶した罵倒を吐き出していた。

「先生、どうしたんですか」近くの小川で洗い物を終えたアレキサンダーは、智慧に富む大人の子供じみた罵声に目を丸くしていた。「F■■k! なんて大声出して。まるでバーサーカーですよ」

「二次創作とは言え健全な作品を目指しているんだそうだ。だから検閲が入ったのだろう」

「民主主義的じゃあないなぁ」

呆れたように言いながら、アレキサンダーは笑みを浮かべ、そして声を低くした。

「魔術師殿はお怒りのようですね」

「サーヴァントの癖に、と声を荒げていたぞ」

「サーヴァント如き、が口癖の人とは思えませんね」

「魔術師は皆そんなものだ」男は忌々し気に言うと、葉巻に火をつけた。「肥大化したエゴの怪物。良識の持ち合わせが無い、大きな子供さ。大なり小なり、な」

「そうかなぁ」そう言うアレキサンダーは、自らの影武者を務めた魔術師の姿を思い浮かべていた。「ま、でも確かに、子供みたいなものでしたね」

「すまん」少しだけ、男は肩を竦めた。彼もまた、かつて、影武者と相対したのだ。「彼女を悪く言うつもりはなかったんだが」

「いえいえ、事実ですし。だって僕の軍勢に来てくれないんですよ、あんな理由で。聞き分けのない駄々っ子も同然です」

存外の辛辣さにエルメロイⅡ世は目を見張ったが、すぐにその意を理解した。それは知己故の、遠慮のなさなのだ。

「それに、先生だって瑕瑾のない身ではないでしょう? かの大王を野に放ったのは貴方なんですから。怒るのも無理はないかと思いますよ」

「そう言うな、自覚はある」

「自覚があるだけマシだとは思いますけどね。子供おじさんなところは変わりませんけど」

アレキサンダーが、ぴしゃりと言葉で男を叩いた。身体を竦めた堅物の魔術師は、その言葉の遠慮のなさが、先ほどのそれと同質であることまで想像が働かなかった。賢者は世界を閲する目を持ったとしても、存外己のことには無知蒙昧なものである。

「呼ばれているんでしょう、魔神様に」気が付かない様子の男の表情を眺めるアレキサンダーの顔は、どこか充足と不足が入り混じって斑になった微笑を湛えた。「あの人、短気ですよ」

「わかっている。全くブラック企業じゃあるまいに」

「人間が畜産するようなものでしょう? 最も、善い畜産農家は家畜を善く扱うらしいですけど」

「畜産以下か」

自虐的だったか、あるいは罵倒だったか。ふん、と鼻を鳴らしてみせた男は、眼鏡の位置を直した。

「―――好きにはさせないさ」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

酒宴の主賓は平凡で

「今宵は無礼講の酒池肉林である! 皆の者、今日ばかりは久方ぶりに贅の限りを尽くそうではないか!」

壇上で、高らかにネロが声を上げる。応えるようにホールに埋め尽くされた軍人……高級武官から文官までが歓呼の声とともに盃を掲げていた。

―――1世紀、60年はネロ帝の権勢に未だ翳りの見えない時期と言えよう。皇帝の座に即位して、既に6年。後に芸術皇帝などと揶揄されたりもするが、彼……彼女の統治は、およそ大過なく進んでいた。時折内外に不満が燻っても居たが、それが発火するのはあと8年も先のことである。

要するに、基本的にこの時点で、ネロ帝は市民に愛され、臣下からの評価も低くはなかった。どこか宴の空気に乗り切れていない様子の軍人もちらほら散見されるが、ごく少数と言って良かった。

「いやはや、流石シバイ殿。見事な手腕でした」

「あの泥人形たちが這う這うの体で逃げる様は、胸がすく思いでした。様を見ろ、と思ったものですよ」

宴の渦中。賞賛の声を一身に浴びながら、司馬懿の立ち振る舞いは至って場慣れしていた。上手く世辞を返し、あるいは相手に賞賛の声を返す。時折陰険にぶつけられる皮肉を品のいいクレバーな返答を贈呈しては笑顔を振りまいていた。ネロにも並ぶであろう煌びやかな佇まいも相まって、さながら社交界の華のようですらあっただろう。

(あーいうのも、洗練されてるって言うんだろうな)

感心したように言うダ・ヴィンチの音声だけが、マシュの鼓膜の奥で響いた。

(まぁ私はよくわからないけど、あーやって人の輪の中で渡り歩く……処世術って奴も、極まれば芸術なんだろうぜ)

(そういうものなのでしょうか)

(人間ってのは、色んなものを洗練させられるんだ。絵や彫刻はもちろんだけど、料理だって、あるいはコミュニケーションだって芸術に昇華し得る。遊びと芸術の境目を超えるあるいは溶かすことができるのも、人間って奴の特質なのかもしれないね?)

どこか楽し気に、ダ・ヴィンチは語る。マシュ・キリエライトはその実、彼女あるいは彼の言うことがよくわかってはいなかった。彼女にとって、芸術はもっと確立されたものであるような気がするから。

だが、確かに、とも思う。

人の群れの中にあって、温和に立ち振る舞いながら、それでいて確固とした自我は崩さず、それでいて他者を受け入れ。そしてその万人受けする振舞をあくまで社交の場のみに限定し、プライベートではもっと剽悍さを隠さない様子は、なるほど長年培われた処世の妙、というものなのかもしれない。果たしてそれが、司馬懿の技能によるものなのか、それともその依り代となったライネスの技能によるものなのかは、マシュには判別がつかなかった。

(それにしても、ライネスって名前。どこかで聞いたことがある気がするんだよなぁ……どこだったっけ。所長が言ってたような……)

「フォウフォウ!」

「あ、ダメですよフォウさん。それは玉葱ですから……」

そんなロマニの一言を耳朶に残し、マシュはテーブルの上に飛び上がろうとする小さな小動物を抱えた。

「ヌー」

「フォウさんのごはんはこちらですよ」

もぞもぞと腕の中で身じろぎするフォウは、どこか不機嫌そうだ。なだめながらホールの隅へと向かうマシュは、時折自分に声をかけようと近寄る人を敢えて無視して、足早に歩いていく。

「―――私には、まだちょっと無理そうです。フォウさん」

「フォーウ?」

顔を赤くしたマシュは、我知らず、ホールを見回した。

人垣を作っているのは、司馬懿だけではない。もう一つ、彼女に勝らねども、人が群れ為す場所が目に入った。

人垣の隙間に、赤銅色の髪がちらつく。藤丸立華もまた貴人や高級武官に囲まれているらしく、ちやほやされている様子だった。

だが司馬懿と異なるのは、人垣から立ち去る人が多いところだろうか。熱心に声をかけていた男はどこか失望した様子で離れていき、あるいは鼻白んだように肩を竦めて去っていく。それでも人垣が絶えないのは、人垣から去るものと同数の人々が物珍しさに近寄るからなのだろう。

「いいかい。戦闘が得意なんてのは、別に何も自慢すべきことじゃあないんだ。料理が得意とか、コーヒーを淹れられたりだとか、そういったことの方が良いことだよ」

リツカは、よくそんなことを口にする。穏やかな様子で口にしながら、リツカの物言いはどこか辛辣だ。

「本当は、魔術なんて気にしない生活がしたいんだけどねぇ。のんびり山を散歩してた方が何倍もいいよ」

そんな風な、妙に世捨て人じみたことも言う。ふわぁ、とあくびをしたりしながら言うもんだから締まりがない。

きっと、あの観衆に対しても、そのようなことを言っているのだろう。顰蹙をかっていないだけ言い方には気を付けているのだろうが、それでも次第に言の内実に気づいた人々は期待と異なるコメントに眉を潜め、憤り、そうして興味を失うのだろう。

それを不器用さと言うべきなのか、あるいは処世術の一つの形と言うべきなのか。結局のところ、マシュにはまだ、よくわからない。

「マシュ、どうしたの?」と、もう十分に聞きなれた声が耳朶を叩いた。「こんな隅っこで」

マシュを見上げると、クロは不思議そうな顔をしていた。

今日の彼女のいで立ちは、いつもの赤い外套姿とは趣が異なるものだった。

彼女の投影魔術で作り出したものだというカルデアの制服なのだが、ガバっと前を開けた上でのタンクトップを中に着ているせいで別な服のようだった。場の空気を読んだ上での、あくまでオフという彼女なりの自己主張なのだろうか。サイドで結んだ髪の一房は、ひょこひょこと動いていた。

なんというか、可愛らしいなぁと思う。自分には、こういう大胆な恰好はできないなぁ、と思うマシュなのであった。

「私、あんな風に大勢の人の中に居るのは苦手で」

「ふぅん、そういうものかしらね?」クロは胡乱気に周囲を見回すと、肩を竦めた。「ま、別にあんな人たちにチヤホヤされてもね?」

微妙に、クロの意見は論点が違う。どちらかと言うと意図的な論点ずらしだったのだが、マシュはそれとわからずに苦笑いを浮かべただけだった。

「ミー」

「あ、そうでした、フォウさんのごはんでしたね」

不満そうに鳴くフォウを、床におろす。丁度部屋の隅に用意してあった生のステーキに食らいつくと、小さな生き物は「旨い」とでも主張するように、びぃと鳴いた。

「お腹空いたんだけどなー」

「クロさんは、何か召し上がらないのですか?」

「身体の影響じゃないけど、私お酒とか飲めないし」

少し、拗ねたように言う。確かに、テーブルに並ぶ料理はそもそも大人が口にするように作られたものがほとんどだ。クロは基本的に甘いものが好きらしい、と思えば、この満座の席と言えども食べられるのは少数の果物程度しかないのだろう。つまんないなぁ、と言わんばかりに口を尖らせて、クロは壁に背を預けていた。

「フン」

「何よ、今の」

「フォウ。フォフォウ(特別意訳:全くこれだからお子様は……)」

「絶対馬鹿にしたでしょ!」

「ミー」

鼻で笑ったようにそっぽを向くと、フォウはもくもくと生肉を喰らい始めた。握りこぶしを造ったはいいが、それこそ子供っぽいと思い直したらしく、クロは嘆息とともにだらりと手を下げた。

「トーマで遊べないし、暇―」

「あれ。そういえば、タチバナ先輩はどちらに?」

「んー」

少しだけ、クロが表情を変えた。眼鏡越しに注視した彼女の顔は、マシュにはまだ捉えられない機微を孕んでいた。

ただ、少しだけ思う。

なんだか、クロは、ちょっとだけ悲し気だった。

 

 

アサシンはその時間、バルコニーの隅でひっそりと佇んでいた。

ひっそり、というより、最早それは静粛状態とすら呼べる様だっただろう。クラススキル【気配遮断】すら使いかねない勢いでじっとする様は、コンクリートの間隙の土から萌え出た雑草のようだった。元より人を寄せ付けない雰囲気も相まって、その存在に気づいたとしても、誰も声をかけなかった。

「あ、居た」

ただ1人。黒髪の少年だけを除いて。

アサシンは、その声に、僅かな身動ぎだけをした。立華藤丸は両手にグラスを持って、どこかぎこちない笑顔で立っていた。

「探したんですよ」トウマは精一杯、自然さを装って言った。「アサシンだから、見つからないかなと思ったりもして」

言って、トウマはグラス一つを差し出した。中身は恐らく白のワイン、だろうか。

少年の顔を、見返す。困ったような微笑の意味を悟り、アサシンは肩を竦めた。

こういうことに慣れていないのは、自分も同じではあるのだが。どうあれ自分の方が年上なのだから、と判断して、アサシンは無言でそれを受け取った。

フードを、脱ぐ。フェイスガードも外したアサシンは、静々とグラスに注がれた葡萄酒を口にした。

「酒なんて、いつぶりかな」それは、どちらかと言えば独り言に近かった。「生前の―――」

じわり、と舌の上を甘苦い熱が滑っていく。舌先を転がるように、咽頭へと滑り込む。食堂を通って空きっ腹に薄く広がった熱感に、アサシンは、数舜ほど静止した。

鼓膜の奥で、誰かの笑い声が広がった。気が、した。擦り切れた記憶の淵から浮かんだ、どこかで聞いたような笑い声。

記憶の淵を探ろうとして、やめた。生前の記憶など、もうほとんど擦り切れてしまっていた。自然と浮上した声を意図的に探ろうとすると、逃げるように手の内から滑り落ちていく。思い起こそうとしても何も情景は浮かばず、アサシンは鼻息とともに被りを深くした。自嘲すら、漏れなかった。

と、アサシンは、自らを見つめる少年の表情に気が付いた。隠し切れない驚愕で見開いた瞠目が、アサシンの視線と絡み合う。咄嗟に水を呷った少年は、不器用に襟を正したようだった。

「気になっていたんだが」

なんですか、と応えたトウマの声は、努めて平静を保とうとしている。却って怪しまれるだけだな、とは思ったが、アサシンは別に言う必要もないと判断した。

「アンタ、僕のことを知っているのか」

アサシンの声は、感情の乗らない鉱物めいた硬質さだった。

およそ十舜、トウマは言葉を発しなかった。闃然のまま押し黙った少年は、何事かを逡巡した後、ようやっと口にした。

「えぇ、一応」

なんのことはない、ありきたりな返答。アサシンはさりとて追及もせずに、そうか、とだけ応えた。

「何か、聞かないんですか?」

「いや、単に気になっただけだ。何故あの時、アンタは俺の得物を知っていたのかな、とな」

得物。キャスターの宝具発動を封殺し、むしろその生命を刈り取った魔弾。アサシンの起源を象にしたその弾丸が、対魔術師戦において無類の強さを発揮する。その凄絶さから”魔術師殺し”の忌み名を戴くそれは、ある意味で魔術師の間では有名になりすぎた代物でもあった。

「別に、だからどうってわけじゃない。サーヴァント戦のプロフェッショナルだかなんだか知らないが、その言葉だけで説明のつく事象ではなかったんでな」

それに、と言葉を続けたアサシンは、残ったワインを飲みほした。あの時、脳髄の奥、脳幹あたりで不意に閃いた過去は、文字通り過ぎ去った後だった。

「僕は、あまり過去やら何やらに拘泥する方じゃあないんだ。第一、考えるだけ時間の無駄だからな。どうでもいいことだ」

―――喋りすぎてるな、と思った。たかだか一杯だけで? いや、そうではないのか。一瞬の惑乱の後、アサシンは首を横に振った。

「アンタの腕は認める。あそこで議論するよりも、トンプソン・コンテンダーの射程圏内まで僕を誘引するために、無謀な突進をしたんだろう。合理的な判断だ」

「まぁ、そうですね」

「だが次はやめておけ。アンタの指示には従うから、もっと良いアイディアを出してくれ。勇気と無謀を同じポケットに入れるな」

一瞬、アサシンは声を詰まらせた。不可解な言葉が舌先に踊り、思わず飲み込んでから、やはり口に出した。

「アンタに何か、あ、ると、色々不都合だろう。アンタのサーヴァント、あの。あの中東系? アジア系?の肌色のあの子、アーチャーを困らせることにも、なるんじゃあないのか」

時々吃りながら、アサシンは口にした。口腔など滅多に使うことのない器官を、久方ぶりに酷使させすぎたせいだろうか。咳払いを漏らしたのは、あるいは羞恥故だったのか。それとも、何か別な情動を振り捨てるためだったか。アサシンは、己がことながらよくわからなかった。

「今日は喋りすぎる」

吐き捨てるというより絞り出すような独り言が、何よりその発言内容を雄弁に語っていた。普段の彼であれば、内心の吐露で済ませていただろう。不機嫌そうに眉を顰めると、アサシンは慌ただしくフェイスガードとフードを装着した。

「じゃあな」最後まで、アサシンは口を滑らせた。「またアンタと肩を並べることもあるだろう。それまで、もう一人のマスターを見習うことだな。奇策に頼った勝利は、一見華麗に見えて基本的には悪手だ」

そうして、アサシンはバルコニーから飛び出した。その所作は、子供じみた逃避のようですらあった。子供の世話をしない言い訳をする、父親のような幼稚さだった。

 

 

あ、と発した声は、実際声にすらならないほどに小さかった。

ベランダから飛び降りた赤いアサシンの姿は、もう見えない。【気配遮断】を使用した暗殺者のサーヴァントは、たとえ至近であってもマスターには補足できない。黒い顔料に一滴赤を混ぜて、そのまま塗りつぶしたようなものだろう。赤を飲みつくした闇夜がのっぺりと広がるだけだった。

空になったワイングラスを拾ったトウマは、その名を胸郭の裡に反芻する。

Fate/stay nightの前日譚、Fate/Zeroの主人公とも呼べる人物であり、衛宮士郎の義父でもある人物。当然、本編ではマスターであって、サーヴァントではなかった。

そんな人物が、サーヴァントになっている。それが何を意味するのか、明晰には理解しがたい。理解しがたいが、端的に分かってしまったことが、ある。

英雄など既に絵空事となった現代の人物が、武力によって英霊の座に登る可能性は絶無といって良い。その絶無の可能性を乗り越えるには、死後アラヤに使嗾されるだけの抑止の守護者になる契約を結ばねばなるまい。遥か未来にて英霊エミヤが至った末路と同じ道程を、きっと、辿ったのだろう。

―――だとしたら、Zeroともstay nightとも違った経過をたどった世界の男の、なれ果てなのだろうか。

本編では、彼に世界と契約する理由はない。逆説的に、その世界はあの男が世界と契約するまで戦い続けた世界、ということであり。その意味するところまで理解してしまったトウマは、ただ、無言を漏らす他なかった。

「話、終わった?」

背後から、声が肩を叩く。振り向く間もなく横に並ぶと、クロは柵に身体を預けた。だらりとしながら空を見上げる彼女の後頭部で、さわさわと髪が夜風に揺れた。

「話らしい話でもないけど」

「彼のことも、知ってるの?」

トウマは、曖昧に頷いた。知っている人物とは、微妙に異なっている。

そんな沈黙にも似た首肯に何を感じたか、クロは頭をかいた。困ったなぁ、とでも言いそうな仕草だった。

「大丈夫よ。もう、あの件は終わったことだから」

くるりと、振り返る。カルデアの制服を着用するクロは、なんだかもっと大人びて見えた気がする。口端に曖昧な微笑を浮かべて、クロは薄く目を閉じた。

「それに、考えてみれば私の生みの親だしね~。あのまま聖杯戦争に進んでいったら、私は(イリヤ)になってたし、イリヤは(イリヤ)になってたわけだし? そっちの方が殺伐としてそうじゃない? まぁ、殺伐としてるのは変わらないけど」

あっけらかん、とクロは言う。返答に困ったトウマを他所に、「だからいいの」と答えたクロは、色のついた液体を湛えたグラスをトウマのグラスに軽くぶつけた。

「乾杯。まだ、してなかったわよね」

「あぁ、うん」

「祝いの席で渋い顔してると、場を白けさせるわよー」

言って、ぐいとグラスを呷る。何かの果物のジュースをそれはもう気前よく飲みつくすと、「プハー」とさぞおっさんくさい台詞と嘆息を吐きだした。

「口元」

「あ、ごめん」

ハンカチで上機嫌に見えるクロの口元を拭ってから、トウマも残り少なくなった水を呷る。無味なうるおいが舌先から咽頭に広がって、干からびた喉にじわりとしみこむ。快感にも似た疚しさを飲み込んで、トウマはただ、臓腑に溜まった泥濘のような情動を鼻息とともに吐き出した。

「何か持ってこようか?」

「え、いいわよ別に。食べるもの、無いし」

「まぁなんかそれっぽいの探してくるよ。話って、なんか食いながらした方が色々気がまぎれるから」

 

 

空のグラス2つを手にぶら下げたマスターの背を、視線で追う。人の群れの中をするすると抜けていく少年を目で追いながら、クロは柵に背中を預けた。

―――嘘は、言ってない。アインツベルンの姓を戴くものとして、戴いていたものとして、偽りのない主観的な感情だった。

父親に相当するその人物に対して、クロが持つ感情は一定でない。数多の情動が交ざった中の大部分、既に折り合いがついている。親と呼ばれる存在に対する子供じみた―――と今のクロは認識している―――感情は、もうあの時、母親と姉のような妹が受容してくれたから。

それに、そもそもそう言ったものがあったとしても、別な可能性から沁みだしたあのアサシンを責める道理は持ち合わせていない。あれは言ってしまえば、とても良く似た別人に過ぎないのだから。

―――いや、だからこそ、なのだが。

「んにゃ?」

ふわぁ、とあくびが漏れた。不意に襲ってきた眠気が、視界に靄をかけたのだ。

なんだろう。身体状況を確認しなくては―――。

同調、開(トレース・オ)―――」

……ぐぅ。

 

 

「クロ、ジュースなんてどこに―――って」

言って、トウマが目にしたのは、くぅくぅと寝息をたてて蹲る少女の姿だった。

さっぱり、さっき飲んでたのはアルコール飲料だったらしい。空になったグラスを一瞥したトウマは、微笑ましく、少女に視線を戻した。

「やれやれだわね」

どかり、とクロの隣に座りこむ。グラス2つを床に置くと、トウマは、クロの髪を、さらり指で遊んだ。

彼女の英霊としての成り立ちは、まだ不明な点も多い。基本的に例外とされるプリヤ世界の彼女が、どうしてサーヴァントとして召喚されるのか。彼女の生前はどんな風であったのか。物語られない世界で彼女が何を経験したのか。彼女自身は記憶が曖昧と言っているけれど、実際のところ、どうなのか。

色々考えたが、差し当たって、わかったことはある。全盛期の姿で召喚されたクロの身体はその見た目通り、アルコールに対して強くないということだ。イケると思って飲んだのか、それとも勘違いして飲んでしまったのか、それはわからないが―――。

「お」

と。

肩に、何か重さがのしかかる。トウマの身体に、クロが身体を預けたのだ。ちょうどいい重さがある、と漠然と理解したのだろうか。トウマはぎょっとしながらも、軽く肩に乗る重さを受容することにした。

くぅくぅ。

寝息を啼いている―――。

寝息に紛れて、何か、声が漏れた。思わず顔を覗き込んだところで、クロは薄く、目を開けた。

―――銅に張った、酸化被膜を思わせる煌びやかな眼。何故かその眼は、この時酷く蒼く見えた。秋晴れの空にも、熱砂の浅瀬にも似た穹窿の眼差し。

何故か。

獣のようだ、と思った。どこまでも高く淵を覗くような眼は、獣のような……堕ちた精霊のような眼だ、と思った。

それも一瞬。すぐに瞼を閉ざすと、また、くぅくぅと寝息を立て始めた。

「―――パパ」

最後に零れた声は、そんな、単語だった。

一瞬、トウマは言葉に戸惑った。逡巡をしてからジャケットを脱ぐと、小さな身体に被せた。

隣に、座る。こくこく頭を揺らすクロのことを意識しながらホールを見回したトウマは、ふと。

あの翡翠の目と、視線がぶつかったような気がした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

平々と凡々

「すまぬ、トリムマウ!」

駆けこむように寝室に飛び込んだネロは、その光景に肩の力を落とした。

豪奢、という言葉がこれほど似あう部屋もなかろう。皇帝ネロが休むだけの部屋だというのに、それこそ小さな音楽ホールほどもあろうという部屋である。というより、実際楽士を呼び寄せることもあれば、臣下に自らの楽才を発揮することもある部屋ではあった。後世の歴史家から非難される所以である、ネロ・クラウディウスの浪費癖の一端でもある。

最も、ネロにしてみればそんな非難は論評にも値しないものと見做すだろう。自らこそ文化の奨励者であり保護者である、これはその一部に過ぎないと胸を張るはずである。自分もまた才知に富む美術家であり名器であるならば、それもまた保護すべきものであろう……常人の理解からはだいぶ乖離した発想だが、大真面目に主張することは間違いない。

「アルテラは」

「先ほどお眠りに。陛下がお戻りになるまで起きていると仰っていたのですが」

ベッドに駆け寄ったネロは、布団の中に蹲る小さな象に温い息を吐く。

すやすやと眠りにつく、褐色の肌の少女。あやすように添い寝するジャックは、ネロの存在に気づいて目を開けた。

「おかえり」

「ジャックもすまぬ。本来は余の務めであるのに」

「いーよー」

にへら、と笑みを一つ。再び眠りつくジャックの頭をさらりと撫でたネロは、ベッド脇の無駄に豪華なソファへと腰を下ろした。

「お疲れのようですね」

「政を営むのはもう慣れたのだが。こういうことは、ちっともわからぬ」

気疲れした眼を、ベッドの上に向ける。小さく盛り上がった布団に嘆息をついて、背もたれに身体を預ける他なかった。

水銀の形をしたゴーレムは、それには何も答えなかった。所詮は人理の影法師が踏み込むべきことではない、と判断したが故だった。

「改めて、其方にも礼を言わねば。結果として其方をライネスから取り上げてしまったが……」

「それはお構いなく。その方が善いと判断されたのは、お嬢様です。それに、こういった仕事の方が私には向いています―――流石に子育ては初めてですが」

「その割に上手くやっておろう。余はダメダメだ。そもそも、親子とかそういうものがとんとわからぬ」

―――基本、ネロ・クラウディウスは後悔するタイプの人間ではない。過去は過去であると見定め、その上で現在を愉しみ、無限の未来を待望する人間である。故に、己の来歴に対して何か思うところはない。

だが、この時ばかりは出自というものに思いをはせずにはいられない。母に殺されかけて、母を殺した己の所業。もう少し、子らしいことをすればよかったのかと思わないわけにはいかない。それとも、子として不出来だったが故の母の憎悪だったのか。どちらにせよ、彼女にとって家族とは万人と明らかにかけ離れた形の概念(フレーム)であることは違いない。

「興味深い話ですが」

「む?」

「私の暮らした時代……いまからざっと2000年後の未来でも、陛下と同じ悩みを持つ親が少なくないようです。子への愛情を知らぬ母も居れば、子に手を上げる親。子を死なせてしまう親。元からあった問題なのかもしれませんが、私の時代にはそれが社会問題にまで顕在化していました。その親たちは、決して親として不出来だったわけではないのです。あるいは、親として不出来であることそれ自体が罪なのではないのです。親とはただ、仮面(ペルソナ)であり役割(ロール)に過ぎぬもの。その役割に対して、責任を果たし得なかっただけなのです」

「思い悩むな、と。そう申したいのか?」

「いえ、その逆にございます。陛下にはたくさん悩んでいただきたいのです。元より不出来な親などは存在しないでしょう。ですが、もし思考を放棄し安穏とする方を選ぶならば、それこそが無責任というものなのです」

「むぅ」

思わず、唸る。どちらかと言えば思考することが苦手なネロには、トリムマウの言うことは難解だったし、また理解できた言葉の端からも、困難なことにも思えた。

トリムマウは、何も言わずに眉を寄せる皇帝を見守った。

暴君、という世評はあくまでキリスト教圏での話ではあれど、彼女が時に苛烈であったのもまた事実ではあった。

そんな暴君が、子育てなどに頭を悩ませる。これほどの奇態は、そうそう在りはしないだろう。そこにある種の興味を寄せるのは、きっと主の性質によるものだろう……と、トリムマウは思考していた。

「お嬢様が陛下の下に召喚された頃よりも、随分上手くなられましたよ」

「あの頃の話は言うな。恥ずかしくて顔から火が出る」

実際に赤面しながら、ネロは口を尖らせる。

ネロがアルテラを“拾った”のは、今から数週間も前だ。外敵との戦いが始まって幾日、遠征の帰りに、草原のただなかで気絶している彼女に気づいたのが、始まりだったような気がする。当初は異国風の少女を気に入って、ハレムに加えようと思っただけだったのだが―――。

「しかし」ネロはソファの上で膝を抱えると、自分の大腿部に顔を埋めた。「アルテラもサーヴァントなのだったな。ということは、いずれ余の元から去ってしまうのか」

「えぇ、いずれは。それがいつかはわかりませんが」

小さく、ネロは声を漏らした。唸り声にも似ていたが、なんだったのか。自分でもわからない吐息の意味に手が触れかけて、ネロは怯懦にも似た情動を惹起させた。

トリムマウは無言だった。その無言が厳しくもあり優しくもあり、ネロは痺れるような脳髄の倦怠感から立ち上がった。

「む」

と、ようやっと、ネロはベッドの枕元にある何かを見つけた。

羊皮紙に似た、真っ白いぺらぺらの何か。はて、とアルテラの枕元からそれを手に取った。

「未来の紙です。未来ではそれが一般的に民衆に普及しているのですよ」

「なんと。薄く頑丈な……いやそれもだが。これは、絵、か?」

しげしげ、とネロは紙に描かれた赤い真ん丸を見つめた。

酷く顔がデカい金髪の女と、頭上でキラキラ光っている何か。何かはともかく、赤いドレス姿からして、多分これは―――。

「むう、絵の才能に乏しいのではないかこれは」

「発達心理学の教えるところによれば、子の認知機能的に極めて合理的な絵ではあります」

「なんだかよくわからんが、正しいということか。いや余であればもっと……」

「はは、ご冗……間違えました、ご謙遜を」

「其方、今めちゃ余のことdisったであろう」

「はい」

「はいではない」

「sic」

「別に言葉を合わせろと言っているわけではない」

ニコニコと笑顔を張り付ける水銀メイド。あんまり模範的な微笑にうんざりした所作を惜しげもなく振りまくと、ネロはそっと絵を枕元に戻した。

「余ももう寝る。明日からまた忙しくなろう」

「もう報告はには目を?」

「当然であろう。奴らの補給路を断てば、ローマの勝利は目の前だからな」

ドレスの脱衣を手伝うトリムマウは、相変わらず微笑を張り付けている。まだ笑っておるのか、とネロは思わないでもなかったが、蓄積した疲労のせいで、さして気にする余裕はなかった。いや、水銀がたわんで変化した微かな笑みの変化など、数週間の付き合いでしかないネロには洞察のしようもなかった。

「戦いは終わる。この異常な戦いも、そう遠くない内に」

その後は―――。

そこまで思考が進みかけて、ネロは被りを振った。考えても詮の無いことだ。戦いの前から勝った後のことを考える余裕は、ない。

頭蓋の奥底に居心地悪く居座る思案を無視して、ネロは下着姿になると、ベッドに静々と潜り込んだ。

「それでは、また明日」

「うむ、存分に休むがよい」

するりと潜り込んで、ネロは、小さな身体に手を伸ばした。

サーヴァント、英霊。よくわからない魔術師の術語を頭から振り払い、硝子細工のような矮躯に触れる。

小さな手、ほっそりした足、未成熟な身体。褐色の肌は、肥沃な土地の健やかさを思わせる。であればその白い髪は牧羊の綿毛か。おっかなびっくりと小さな身体を抱き寄せたネロは、困惑するように震える手で抱握する。

肌身が、不定に粟立つ。

なんて壊れてしまいそう―――。

 

 

「おや、トーマ少年。どうしたんだい、こんな夜更けに」

肩を叩いた声に、トウマは振り返った。

宿泊所として宛がわれた建物の屋上。よお、とても言いたげに手を挙げると、リツカは気だるげな様子で縁に腰を下ろした。

「眠れなくて、とか」

「いや、まぁ……」

「悩める少年の特権だねぇ」

トウマは逡巡しながらも、リツカの隣に腰を下ろした。常時網膜投影される情報からすると、現在24時まであと10分という時間。気温的には肌寒いだろう風も、野戦用戦闘服の生命維持機能のお陰でさして気にならない。視界をちらつく網膜投影映像も相まって、魔術というよりSFみたいだな、と思わなくもない。

「リツカさんは、なんかすごいっすね」

「え、何が?」

ぷしゅ、と缶のタブを開けたリツカは、意外そうに目を丸くした。

「だって、なんていうんですか……戦術?戦略?とか考えるの凄いなぁって」

「今回のは戦術行動しか考えてないし、それも元からヒントありきで導き出したものだ。戦略を整えたのは司馬懿とライネスの手腕だし、勝てる戦略行動を担保したのはローマという国を運営したネロの治世の賜物。一見戦術的勝利は派手だから勘違いしがちだけど、本当に大事なのはその手前なんだ」

さして感慨も無く言うと、リツカは栄養ドリンクが入った細長いアルミ缶を呷った。マシュの召喚サークルを介してカルデアから搬送される、物資の一つだ。電源ボタンみたいなマークが描かれた黒い缶を、ぐびぐびと飲んでいく。

「飲む?」

「あ、どうも」

差し出された缶を手にしたが、トウマはそれを開けなかった。深夜にエナジードリンクを飲むのは流石にどうかと思う。

「なんか、そういう勉強とかしてたんですか」

「いや? まぁ法政科に居たこともあったけど、でも関係ないかなぁ。伝承科(ブリシサン)に居たころからこういうのは、なんかまぁできたし」

素早く飲み終えると、さらに一本。かしゅ、とプルタブを開けると、2本目を当たり前のように飲みだした。

「所詮、戦術なんてのは如何に効率的に人を殺すかを考えることさ。人でなしの思考法なんだよ、基本的に」

呟きにも似た独白。鬱陶し気に前髪をかきあげたリツカの表情は、「なんだかなぁ」とでも言いたげだった。

少しだけ、リツカは決まり悪そうに苦笑する。がしがし、と赤銅色の髪をかきむしる様子は、つい漏らした本音を誤魔化しているらしかった。

「私のそんなろくでもない技能より、トーマ君の方がずっと有益だと思うけどな」

にへら、とリツカは笑った。

「サーヴァント戦闘のプロフェッショナル。サーヴァントを能く知るその眼の方が、魔術的にはずっと興味深いんじゃあないかな?」

ずい、とリツカが顔を寄せる。日本人然とした面持ちは、当たり前のようにサーヴァントやら何やらと接してきた中で却って新鮮というかなんというか……。思わず身を引いたトウマは、わかりやすく赤面していた。

「魔眼の一種?それとも別な理由?なんで貴方はゴーストライナーなんて人智を超えた奇跡に熟知してるのかな」

ひたり、と鉛色の双眸がトウマを捉える。相変わらずどこかとぼけた様子は相変わらずなのに、却ってそれが底知れなさを感じさせる。

あの知悉が、自分に向いている。全てを見透かすような眼にぞっとしながらも、顔を青くさせなかったのは、果たして場慣れだったのか。ただ、その程度のポーカーフェイスで欺けるほど、彼女の眼は曇ってはいない―――。

「まぁ、どうでもいいことさ」

「は―――へ?」

よ、とリツカは立ち上がると、目いっぱい手を広げた。無窮の天へと両手を伸ばしすと、まるで星空を掴む様に、両の五指が蠢動した。

「魔術なんてものが上手いことよりも、サーヴァントと友達になったりできる方がずっと楽しそうだよ。貴方、良い人だもの」

リツカはそう言うと、くるりと振り返る。ぼんやりした表情のまま、温和そうな視線がさらりと闇を撫でる。

「そう思うでしょ、ジャック?」

どことも知れない場所に、リツカは声をかけた。

へ、と間抜けた声を漏らしたトウマも、彼女の視線を追う。漫然と広がる屋上に、ぽつねん、と影が漂っていた。

病的な白い髪に、傷だらけの顔。黒い紳士服を外套のように身に纏った姿は、幼げな顔さえ除けば暗殺者そのものといった風采だった。

「アレ、見えてたの?」

きょとん、と目を丸くしたジャック・ザ・リッパーは、ぽてぽてとペンギンみたいに歩いてくる。殺人鬼の名とは全く以て相反する仕草は、それこそ原作知識が無ければ愛くるしい少女としか思えないだろう。

「魔法を使ったんだよ」とぼけた風に言う。「なんでも見渡せる魔法。千里眼っていうんんだ」

「リツカは魔法使いなの? 魔術師じゃなくて?」

「おっとよく知ってらっしゃる」

とぼけるリツカを純粋に不思議そうに眺めやって、ジャックはトウマを見た。「変なお姉さん」

「まぁ確かに変ではある」

「辛辣だなぁ、ただふざけてるだけなのに」

「変だよ変」

心外な様子のリツカに眉を潜めると、ジャックは何故かトウマの背中に飛び乗った。

「逆にお兄さんはフツー」

いきなり背後から飛び掛かられながら、トウマはさして姿勢を崩さなかった。もしゃもしゃと髪の毛をかき混ぜ始ぜるジャックと特に止めるでもなく、訓練の賜物かなぁ、などと思ってみる。

「それが普通じゃないんだなぁ」

「そうなの?」

「そう。こんな子犬みたいな顔してるけど、トウマ少年はサーヴァント博士なのだ」

「すっごーい。物知りなんだね」

「なんですかそのクッソ適当な称号は。ってうお!?」

いつの間にか背中から胸へと回り込むと、ジャックは酷く生真面目そうな顔でトウマを見上げていた。少女然とした好奇心。そんなものではない、どこか真摯な眼差し。トウマの知るジャック・ザ・リッパーとは、微妙に乖離する表情。鋭く抉るような眼差しに思わずたじろぐと、ジャックは僅かに口唇を蠢動させた。

人間の聴覚野の閾値以下の、幽かな声。当然聞こえるはずは無いのだが、何故かその時、秒針が軋むような音が聞こえた。気が、した。

「前々から気になってたんだけど、トーマ君はロリータなコンプレックの持ち主なわけ?」

……何を言ってやがるんですか。

「いやぁなんかいつも幼気な少女と戯れてるじゃん、キミ」

「これって今俺の意思で起きてる事態じゃないですよねぇ?」

「クロちゃんと同衾してたことは擁護不能なんだよなぁ」

「あれはあのマスターとサーヴァントの間の……なぁ!?」

「ガバで草」

トウマはただ押し黙って、言い淀むだけだった。

それについて言い訳することは、なんか違う気がする。視界を過った褐色肌の少女の姿に赤面しかけて、難しい顔を作った。

「なんで鬼瓦みたいな顔してんの?」

などというリツカのツッコミはとりあえずスルーして、トウマはさっきからじーっと見上げてくる視線に応えることにした。

「えーと、それで何かしら」

「変なのって思ってただけー」

無邪気に破顔すると、ひょい、とジャックは飛び退いた。暗殺者然とした外見に相応しく、無音のままに着地してみせる。にこにことした表情は変わらず、ただ一時空を振り仰いだ。

「トウマは、本当に物知りなの?」

「え、いや……まぁ人並み以上、には?」

「じゃあ、私が(ダレ)だかわかる?」

探るような視線が、正面からぶつかった。

問の意味を理解しかねて、トウマは数舜ほど言葉を探した。

それと同時、何か、奇妙な違和感が惹起した。穹から戻った少女の顔はやはり微笑のようなものを湛えていたが、そこに無邪気さは見当たらない。いや、無邪気と言えば無邪気だったのだろうか。酷く子供染みた顔は、捉えようによっては無邪気ではある―――。

「なんでもなーい」

一歩。身に纏った黒いコートの端を靡かせ、小さな身体が駆ける。鋭い朔風のようにリツカとトウマの間を疾駆して、一躍屋上から飛び降りた。

「じゃーねー」

どこか所在無げな言葉だけが、ぽつねんと滞留した。

何だったのだろう。思わず立ち上がって町を見下ろしたが、既に少女の姿は黒く溶けていた。暗殺者のサーヴァントなのだから、多分生半な探索の魔術を使用しても捕捉は不可能だろう。ましてジャック・ザ・リッパーは、アサシンの中でもおよそ最優とすら呼べる性能を誇る。追うだけ無駄で、そもそも追う意味もないだろう―――。

漠とした思慮を巡らせたトウマは、果たして気が付かなかった。あるいは、思案していなかったとしても気づかなかっただろう。どこかぽやんとしながらも、リツカが何事か思考を巡らせていたことに。

「ところでトーマ君、それいつ飲むの?」

「え、夜はちょっと……」

 

 

 

 

 

同日 某所

 

「だからサーヴァントなど信用ならんと言っているのだ!」

金切り声と言わんばかりの怒声だった。

他を侮蔑し、なじる声。ただの声だというのに圧を孕む声音は、ただ声だけというのにある種の魔術ですらあるようだった。あるいは、そも魔術と声は切り離せぬものであるならば、それは原初の魔術そのものですらあった。高位の魔術師ですら身を竦ませるであろうそれを、しかし、アレキサンダーはさして気にもせずに聞いていた。

「マテリアルを奪い返して見せるだと? とんだ大言壮語ではないか! 結果はサーヴァント2騎を喪って、何も得ていないのだぞ!?」

紳士然、とした男は激昂しながらテーブルを蹴り上げた。どことも知れぬ街の地下の一室を、癇癪声が響く。それでも誰も気づかないのは、男が事前に設置した結界の為せる業だろう。

紳士然とした男―――深緑色のコートとハットに、獣のように長く伸ばした髪が目に入る。鋭く切れ上がった眼は、人間と言うよりは蛇や蜥蜴のような爬虫類を思わせた。

レフ・ライノール・フラウロス。仰々しい名前の男の罵詈雑言は、乱暴でこそあれ、どちらかと言えば正論には近かった。

「恐れながら」

「なんだ」

レフが正当な怒りを発揮する中、相対する男はどこまで行っても憮然とした顔つきだった。顰め面の権化みたいな顔をした諸葛孔明ことロード・エルメロイⅡ世は、正論に対して、別な正論をぶつけていた。

「この戦いの勝利条件を今一度思い出していただきたい、我が君」

「勝利条件だと?」

アレキサンダーは思わず吹き出しそうになったが、至って平素を装っていた。それでなくては、マケドニアの大王など名乗れはすまい。

「この人理定礎を崩壊に導くことだろうが」

「そのためにこそ、かの大王の力が必要である。ローマに終焉を滅ぼすものとして……違いますか?」

「つまり」レフ・ライノールは不愉快そうに顔を顰めて椅子に腰を下ろした。「あの敗戦は勝利の為の一手である。そう言いたいわけか?」

「そうです。元より、我らが軍勢は貴方と、そしてかの大王の2人が居ればそれで良いはず。それ以外――――即ち我らなど、カトンボも同じものに過ぎないのでは?」

レフは特別、なにがしかの反応も示さなかった。ただ爬虫類のような眼で、その場に居合わせた面々……キャスター、ライダー、バーサーカーを眺め渡しただけだった。

「陳宮と呂布。確かに小さくない犠牲でしたが、これで敵の規模は知れた。新たに加わったという勢力の力量も、知れたといっていいでしょう」

レフはあからさまに不機嫌そうな表情を作ったが、孔明はとりあえず無視した。

「後は現状の最大戦力をぶつけ、正面から打ち破る。彼の戦力で、アレを止める術はありません」

「『王冠:叡智の光(ゴーレム・ケテルマルクト)』、か」

その時だけ。僅かばかりだが、レフの表情に張り詰めていた怒気が散った。郷愁にも似た表情も一瞬、鼻を鳴らした男は「同じ中華の英雄と聞いていたがな」と声を吐き捨てた。

「英雄などそんなものでしょう。殺し、殺される。英雄以前に人間の……いえ、生命そのものの論理です」

レフは鼻を鳴らした。明らかな侮蔑の視線を孔明にぶつけた。潔癖的な嫌悪感を隠そうともしない様子に、アレキサンダーは辟易と肩を竦めた。

そんなアレキサンダーの素振りを目ざとく捉えた紳士然とした男は、全く以て紳士的でない不愉快そうな視線を投げつけた。アレキサンダーは、素知らぬ振りをした。

「確かに戦術的敗北は小さくありません。しかし、それこそが罠。餌に引き寄せられた魚を一網打尽にする機会です」

レフ・ライノールの嫌悪的な表情は変わらなかったが、それでも諸葛孔明を見る視線には一定以上の信頼がある。おそらく世界で最も名の知れた軍師、その知悉の深さを、レフなりに評価はしている様子だった。

「大局を見ろということか」独り言ちるように、レフは嘯いた。「全く。神祖に聖杯を渡して狂わせる手筈が、こんな面倒なことになるなどと」

そう吐き捨てる男の口ぶりは、酷く子供じみていた。幼児の癇癪と変わらない憤懣をわだかまらせたレフは、嘆息とともに孔明を睨みつけた。

「良かろう、貴様に任せる。アヴィケブロンを蠢動せしめ、『原初の人』でローマを蹂躙しろ」

「御意に。全て、事通りに進めましょう」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

机上の答え合わせ

「うむ。皆の者、集まってくれたようだな」

ネロ・クラウディウスの声が、朗と響く。童女めいた声にも関わらず、有無を言わさずに心酔を引き出す魅惑の美声。蕩けるような声、とは彼女自身が述べたことだ。ありふれたことを発言しただけだというのに、どこか浮ついたような気分になるあたり、彼女の言も真実なのだろう。

―――ただ。玉座に座るネロの膝の上には、相変わらずあの小さな女の子がいるのだが。

「シバイ」

「承知した。姿なき魔術師、頼む」

(はいはい、こんな感じでいいかな)

あくびなんてしながら、ロマニが間延びした声で言う。広間の宙に映像ウィンドウが投射されると、巨大なマップが表示された。

「さて、此度の作戦、その戦略目標は即ち『敵勢力の補給地点、その制圧』だ」

広間に集まった人の間に、ざわめきが奔った。事情を知れば、当然のことではある。これまでローマ帝国は、正体不明の敵勢力に対して常に後手に回っていたと言って良い。それが、ここにきて漸く攻勢に打って出る―――。

その意味するところは、言うまでもないだろう。

だが、司馬懿とネロは至って平素な様子だった。宙を振り仰ぎ、マップを見上げる司馬懿の動作は落ち着いたものだ。

「エトナ山、かなこれ」

マップに点灯した赤光点(ブリップ)い光点(ブリップ)を見、ブーディカは特に感慨もなさげに言った。だが、そんなブーディカの言葉に、ネロは露骨に嫌悪の情を閃かせた。

「うむ。彼奴めらはよりにもよって、かの霊峰を根城にし、あまつさえ採掘し、あの泥人形めの血肉としているという。これを討たぬ道理はあるまい」

「実際のところ」司馬懿は咳払いをした。感情的なネロの発言は、善くも悪くも話を脱線させかねない。「あのゴーレム、素材は何でもいいわけではないらしい。調査の結果だが、ローマ全土の採掘場でも、レイラインに近しい場所がゴーレムの生産拠点になっていた形跡があった」

「その点で言えば、エトナ火山は最適ってわけね」

クロの発言に頷くと、司馬懿は声を続けた。

「実際、調査隊からも、エトナ火山山麓の洞窟から多数のゴーレムが搬出されたとの報告が上がっている。敵の根拠地を抑えてしまえば、後は敵が衰退するのを待つだけだ」

ここまで説明されれば、流石のトウマも話は理解できる。簡単に言えば、これは敵の生産プラントを破壊してしまえという話だ。素材が無ければ、当然ゴーレムは生産できない。

無論、敵の戦力の本体はサーヴァントだろう。だがローマ帝国側にもサーヴァントが存在する以上、単なるサーヴァントの力技は通じない。夥しい数のゴーレムを基盤にした戦術・戦略構想を以て人理定礎を崩す方が、正道ではある。

だが。

トウマは、もう一つ、別なことを知っている。ゴーレムの作り主がアヴィケブロンだとするならば、その本領は有象無象のゴーレム作成などではない。

『『王冠:叡智の光(ゴーレム・ケテルマルクト)王冠:叡智の光(ゴーレム・ケテルマルクト)』。それこそが、キャスター・アヴィケブロンの神髄。旧約聖書において、神によって命を文字通り吹き込まれた泥の人形、原始の人間(アダム)原始の人間(アダム)の再現。カバリストの夢見る窮極の悲願の実現こそが、アヴィケブロンの宝具の正体だった。

その強力さは、Fate/Apocryphaを読めば否でもわかる。とても、現状のローマ帝国の戦力で敵う相手ではない。

しかし、揶揄的だなぁと思う。キリスト教に対する大迫害を行った暴君ネロを誅するものが、原始の人間とは―――。

と、トウマの脇腹を誰かが小突く。びくりと意識を戻したトウマが見やると、クロの気づかわし気な視線とぶつかった。

どうしたの、と探るような眼に、トウマは肩を竦めた。なんでもないと身振りで応えて、内心被りを深くした。

考えても詮の無いこと。相手がゴーレム使いだからとて、アヴィケブロンと同定されたわけではない。それに、そんなことをどう説明したらいいのかよくわからないし。思考停止したトウマは、漠と、司馬懿の話を耳にいれることにした。

「それでは各戦術に移ろう―――」

 

 

 

 

 

 

首都ローマより南南西630km

エトナ火山 洞窟内

 

「もう一度確認するけど、敵の取り得る戦術は大兵力を駆使した2面作戦でこちらの対応力を上回る……という感じなんだね?」

復唱するアヴィケブロンに対し、エルメロイⅡ世は頷きを返した。

アヴィケブロンが、仮面の内側で嘆息を吐く。仮面で表情は伺い知れず、その溜息の理由も、判然とはしなかった。

「僕のすることは変わらない」

投げやりにも聞こえる声だった。工房と化した洞窟内に設えられた、割に座り心地のいい椅子に腰かけるアヴィケブロンは、泥濘に微睡むかのような安らかさを湛えていた。

「僕は僕の悲願を成就させる。その結果、アダムが大淫婦バビロンを打ち倒すというなら、それはそれで興味深いことだけど。基本的には、どうでもいいことなんだ。あと、君の思惑もね」

穏やかながら、その物言いは酷く素っ気ない。そっけないどころか、ある意味において身勝手極まりなかった。それでも特に感慨もなく話を聞いていられるのは、ロード・エルメロイⅡ世も同じく“魔術師”というカテゴリーにおいては同類であるが故だった。魔術師などという生き物は、根本的にはろくでなしなのだ。その才能の善し悪しに関わらず。

「でもまぁ、君は僕の悲願成就を叶えてくれるという点では協力者とも言えなくない。そう言いたいわけだろう?」

「そうなるかと。現時点で、原初の人をこの地に産み落とすには足りないものがあります」

「レッドクリフだったかい。足りないものは敵から頂戴すればいい、というのは。それとも少し違ったかな。あれは所詮、物語の話だったかな?」

エルメロイⅡ世は、ただ肩を竦めて見せただけだった。内容の仔細は異なったが、別に騒ぎ立てることのほどでもなかった。

そんなロード・エルメロイⅡ世の姿を身動ぎもなく眺めやったアヴィケブロンは、特に興味もなさげに言った。

「何かあったら僕が炉心になればいいさ」

あまりに軽々しく、アヴィケブロンは言った。

ロード・エルメロイⅡ世は、やはりここでも無言で仮面の男の独白を受容した。アヴィケブロンほどの魔術師であれば、自らの命すらもさした価値がないこと考えているのだろう。ある意味当然の理屈であり、やはりその意味で同類のエルメロイⅡ世はすんなりと理解した。あるいは、純粋に自らの理想に命を放り投げる様に、奇怪な羨望を感じたか。所詮2流以下の魔術師が命を対価としたところで、何が得られるでもないことを少なからず理解していたから。

「だってそうだろう? 僕がサーヴァントとして呼ばれた記録は何度かあるけど、ほとんどは何もできずに敗退しただけさ。普通のゴーレムを何体か作れただけでも恵まれている。ましてケテルマルクトを上梓できる機会なんて、英霊の座に登録されてからまだ片手で数えられるくらいしかないんだよ? そのチャンスを前にしたら、サーヴァントとしての僕の命なんて大したものじゃあない」

淡々と。しかしこの時だけ、アヴィケブロンはやや饒舌だった。無言の同盟者を見、動揺していると理解しているが故に、自分なりの理屈を述べてみただけだったらしい。まだ、アヴィケブロンは男のことをよく理解していなかったのである。

「では」エルメロイⅡ世は、そんなアヴィケブロンの酷く不器用ぶきっちょな配慮をよく理解した。「戦術策定から始めましょうか」

アヴィケブロンは、小さく頷いた。基本的に、彼は魔術師ではあっても、戦術・戦略を駆使する人間ではない。そういった類は、“諸葛亮”に任せるといった様子ではあった。

「私たちの今回の戦略目標は『王冠:叡智の光』の発動と完成。そして必要なものは、優秀な魔術回路を持った魔術師ということになります。そこで、戦術目標としては、なんらかの形でこの工房内に素材を誘因することを第一と考えるべきでしょう」

「そのために、敢えてこちらは戦術的優位を放棄する、だったかな」

「そうです」

エルメロイⅡ世は言うと、小気味良く指を鳴らした。それを合図に、テーブル上の羊皮紙に、じわりと図柄が滲んだ。

エトナ火山を中心に、イタリア半島までを描いた簡略的な地図だった。

「ローマ帝国の戦術は至って明快です。海路及び陸路の2方面から兵力を進発。2面作戦によって、こちらの対応力を上回る。奇を衒(きをてら)奇を衒わない、王道の戦術です」

「でも、どうなんだい。これだけ補給線が伸びれば、付け入る隙もありそうだけど。というか、よく補給線を維持できるね」

「ネロ・クラウディウスと、あるいはその参謀の手腕でしょう。皇帝ネロは善く国を治め、そしてその参謀はその土壌を上手く活用している」

ロード・エルメロイⅡ世は、少しだけ苦々しい顔をした。苦い顔はいつものことだが、その顔は僅かに配慮を滲ませているように見えた。

「本来であれば」だが、それも数舜のことに過ぎなかった。「ライダーにゲリラ戦を展開してもらうことで敵の補給路を断つこともできるのでしょうが、戦略目標を考えれば意味のない行為でしょう」

「ふーん」アヴィケブロンは、あまり良く理解していないように頷いた。「それに、こんな簡単に思いつく有効策なら、それに対抗するための手段くらい用意してそうだね」

諸葛孔明あるいはロード・エルメロイⅡ世は、ただ難しい顔で応じる他なかった。

アヴィケブロンの指摘は正しい。長い補給線を遊撃部隊が断ち切るなど、正攻法も正攻法。あのライネスが……否、軍師司馬懿が見ぬいていないはずがない。

曰く。

戦いとは当然に戦場を整え、当然に勝利する。それこそ司馬懿という人間の思考であり、今回の用兵は極めて真っ当且つそれだけに隙がない。

まぁこれは無理だわな―――内心に、ふわりと声が沸き上がる。自分のものではないのに

、それでいて自分の内心のような、無責任極まりない独白。やれやれと肩を竦めながら、ロード・エルメロイⅡ世はその情動を無視した

「まぁ、だからそもそも戦略目標を挿げ替えるしかない。ってことなんだろう」

かつん、とアヴィケブロンは足を強く踏んだ。優雅で、それでいて力強さを感じさせる挙措だ。思わず頷いてから、現代科のロードは身を乗り出した。

「まず炉心候補者の策定ですが―――」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

剣吞なお茶会

開戦から1週間。

立華藤丸(タチバナトウマ)は、困惑気味の朝を快眠とともに迎えた。

現時刻、AM6:30。地中海特有の気候とでも言うべきか、天は青々と延び広がっている。やや乾き気味。温帯湿潤あるいは冷帯湿潤気候の日本で暮らしてきたトウマには、やや慣れない環境ではある。時折南から吹いてくるじめっとした風は、あまり心地よくはなかった。

そんな慣れない環境にも関わらず、既に少年は環境に馴致し始めていた。長距離遠征の疲労も既に抜け、毎日健康的な生活を送っている。

「まぁ、でも戦争ってそんなものでしょ?」

宿営のための天幕の中、クロはやや気だるげに言った。一応赤い外套姿をとっているが、その佇まいは、即応待機状態とは思えないやる気の無さだった。

「ずっと殺し合いに気を使ってたら滅入っちゃうもの。時々殺し合いして、いつもはのほほんと暮らしてる。そのくらいが一般兵士には丁度いいのよ」

「オルレアンではそんなこと聞いたけども」

「現代だってそうよ」

言いながら、クロは地べたに座り込んで、チョコバーを頬張っている。はっきり言って退屈らしく、最近は夜な夜なカルデアとの通信を介して、ライブラリに保存されていた深夜アニメを眺めているらしい。

拍子抜けするなぁ……なんて、トウマは首を傾げる。延々と殺し合いしているよりは遥かに良いけれど、それでもなんか、調子は狂う。

……まぁ、そういうトウマも、クロと並んで栄養補給用のゼリーなんかを吸っているのだが。

「もーほら、目やについてるわよ? ちゃんと顔拭いた?」

「あ、ごめん」

ぐいぐいと濡れタオルで顔を拭われるトウマ。モテない男子高校生など、身だしなみにさして気を払わないものである。あるいは身だしなみに気を使わないからモテないのか。

「あ」

「え?」

「えい」

「痛!?」

「鼻毛が」

「いいよそこまでは……」

「……君たち、何をやってるんだい」

ひいひいと涙目になったトウマが入り口を振り返ると、酷く嗜虐的な視線とぶつかった。

空色の目は素朴な美麗を感じさせたが、そのかんばせはあまりに残忍だった。美少女の面影に浮かんだ残虐さに……というか、なんか普通に恥ずかしいところを見られた気がして、トウマは「わぁ!?」と素っ頓狂な声を上げた。

「あら、来てたの?」

「目をふくあたりから見てたさ」素っ気なく言うライネスは簡易チェアに腰かけると、しげしげとトウマを見下ろした。「それにしても良い趣味じゃあないか」

「幼い少女に整容してもらってご満悦とは、とんだ趣味だ。なんだい、君は幼な妻を侍らせる夢でももってるのかな? なんともまぁ、上品な趣味をお持ちなようで。だとしたら、普通に不快感を覚えるところだが」

それから、種牡馬も赤面するほど卑猥な言葉をいくつか並べてトウマの反論を封殺した後、ライネスは重々しく咳払いした。

「用事があったのを忘れていた」

「それで、何の用で来たわけよ」

呆れたようなクロの表情に、珍しくライネスは赤面を返した。「虐めるの(イタズラ)が楽しくなってしまった」などとぶつぶつ独り言を零した後、ライネスはずいとトウマに顔を寄せた。

「重大な話があるのだよ、少年君」

一切、遊びの無い顔でライネスは言った。生真面目そうな顔に思わず生唾を飲むと、トウマは遂に、と覚悟を決めた。

なんだかんだ言って、この作戦の総指揮はライネスこと司馬懿が執っている。今まで姿を現さなかった彼女がようやっと姿を現したということは、即ち―――。

「いや暇で暇で死にそうだったからさ、お茶でもしないかなと思って……ってギャグマンガみたいにずっこけたね?」

「いやだってこのタイミングでそれ?」

よろよろと身体を起こしたクロの不平に、ライネスもどこか気恥ずかしそうに口を尖らせた。

「仕方ないじゃあないか。実際敵が攻勢に出ることはないだろうし、知略も何もあったものじゃないだろう、この戦い」

「そうですけども」

「じゃあ何か、君にはこの状況を打開して、工房に籠城を決め込んでいる敵をお手軽に叩き潰す手段があるとでも?」

「イエナンデモ」

ライネスは不満と満足を同時に惹起させて、高らかに鼻を鳴らした。

「それで、どうするんだい。私とお茶をするかしないのか、はっきりしてもらいだいんだけど?」

酷く驕慢な睥睨だった。

思わずクロと顔を見合わせると、2人はちょっとだけ顔を綻ばせた。案外、子供っぽいんんだなぁという共通了解がクロとトウマの間に生まれたのは、何も言葉を交わさずともわかったことだった。

のんびりと、トウマは立ち上がった。なまり始めた身体は、緩慢な動作ですら軋むようだった。一度伸びをして身体を解すと、

「じゃあ、ご招待されましょうかねぇ」

そうして、クロとトウマはのこのことライネスの後を続いた。

ライネスあるいは司馬懿が宿営する天幕は、さして遠くない場所に設営されていた。途中、呑気に裸で遊びまわる兵士やら、自分の男根に紐を括り付けて「犬の散歩だぜ」などと嘯く兵士やら、石を投げ合って遊ぶ兵士やらに遭遇しては3人で困った表情を作った。

「まぁ士気が低くないってのはいいことさ」

ライネスは、呆れを全く隠さずに言った。流石に“犬の散歩”に遭遇した時は指導していたようだが、その他低能な遊びに耽る兵士たちに小言は言わなかった。

「だって意味がないだろう」自分の天幕を潜ったライネスは、鼻白むように言った。「別に何かしら害を為したわけでもなし。あーやって、退屈を凌いでストレスから目を背けてるんだ。無用に叱り飛ばしても、百害あって一利なしだよトウマ」

「まぁ、流石に猥褻物を陳列するのは困るけど」そう言って、ライネスは眉間に皺を寄せながら紅茶を啜った。カルデアからの物資である栄養補給ゼリーを同時に吸うライネスの顔は、ちょっとだけ不満げだ。多分、菓子類のバリエーションが少ないことが不満なのだろう。それでも明言しないあたり、不満はあれど満足の方が大きいということなのかもしれない。

「アナタ、UK(イギリス)の人?」

「一応ね」

クロはテーブルの上の菓子類にはさして興味も示さず、砂糖を山盛りに投入した紅茶をちびちびと飲んでいた。流石“フォン”を名乗るだけあってか、紅茶を嗜む姿は絵になっているように思う。少なからず、ずるずる音を立てて飲茶するトウマよりは、遥かに教養を感じさせる身振りだった。

「お茶会なんてする暇もなければ物理的にも難しかったからねぇ。無趣味な私としては、君たちが来てくれてよかったよ」

栄養補給ゼリーのパックを丁寧に圧し潰すと、ライネスはチョコバーへと手を伸ばした。びりびりとパッケージを剥いて現れた黒々としたチョコレートの塊の匂いを嗅いでから、小さな口で頬張りはじめる。

「一食10万のレストランとか、フグ料理とかいろんなものは食べたけど」ぼりぼりとチョコレート菓子を咀嚼したライネスは、どこか懐かし気に自分が食べかけたチョコを眺めた。「こういう非常食を食べると、なんというか安心するよ」

「結構、お金持ちそうだけど」

「いやいや。元はお金持ちだったけど、色々あってからは名ばかりの貧乏貴族さ」

紅茶を一口。ライネスは肩を竦めると、自虐的に笑った。

時計塔。いわゆる型月厨としてそんなに練度は高くないトウマだけれども、その名前はなんとなく知っている。

曰く、魔術協会の総本山。他の三大部門と比して門戸が広いことから、世界各地より魔術師が集い、研究する場所でもある。例えばFate/Zeroに出てきたウェイバー・ベルベットも、代は浅いが時計塔への入学?を許可されたりしている。

もちろん、幅を利かせているのは何代も魔術を研究する名家であったりするのだが。門戸が広いからとて、簡単に頭角を現せるかどうかはまた別問題ということなのだろう。

今、頭の中で浮かべたのは、言ってしまえばTYPE-MOONの世界観の話だ。言い換えれば、アニメや漫画の中の話を思い浮かべた程度の話。だが、目の前で優雅に携帯食料をむしゃむしゃする端麗な少女は、その世界を血肉を以て生きてきた人物なのだ。

なんだか、思考が混乱する。そもそもこの世界はアニメだとかゲームだとかそういう世界で、自分はそこに入り込んでしまったのか。それとも、並行世界だかの果てにこういう世界が実在しているのか。それすらも、トウマには判別し難かった。

そもそも、深く考えても仕方のないことなのだろう。とりあえず、トウマはそう理解している。第一、目の前で楽し気に話をする2人の少女は、確かな血肉を持つ存在者に他ならないように思える……十数分に一度のペースで罵詈雑言が飛び交うのが果たして楽し気なのか、と聞かれると、トウマとしても返答に窮するところではあるが。まぁ、本人たちが至って無邪気な笑顔を見せあっているのだから、ウマは合うんだろう。

1時間ほどもクロと温和な顔で罵声と皮肉と揶揄を浴びせ合うと、ライネスは3杯目の紅茶をするすると飲み干した。彼女の舌を満足させるほどの味ではないのだろうが、それでもこのローマに召喚されてより初めての紅茶は、彼女の趣味をある程度は充足させたらしい。安い茶葉に軽い皮肉を叩く仕草は、大変機嫌がよろしい様子だ。

「それで?」と鼻歌交じりに言ったライネスは、綺麗な空色の目をトウマに向けた。「今回の戦闘に際して、君の意見をお伺いしたいところだが」

「俺の意見、ですか?」

目を丸くするトウマに、ライネスは呆れたように肩を竦めた。

「本当に、ただの暇つぶしのために君らを呼ぶわけないだろう? それとも、君は私がそんな暇人に見えたのかな? だとしたら、随分尊敬されたものだね」

白いかんばせを歪ませたライネスは、全く以て演技臭い。嗜虐心に満ち満ちた顔は、小鹿を前にした獅子の如くであろう。流れるようなプラチナブロンドの髪は、人毛というよりは猛獣の鬣(ゴールデン・ルーヴェ)のようだった。

「全うな戦術・戦略に関して君に聞くべきことは何もないよ」

ライネスは、ばっさりと言った。全く以て遠慮のない物言いは、むしろ清々しさすら感じられる。嗜虐的な表情はどこへやら、賢母とすら言えるような機微の表情の意味を、トウマは、なんとなく理解した。

「指揮に関してであれば、リツカに意見を仰ぐ。もっと個々の戦闘に関してであれば、クロエに聞くだろうね。不意の奇襲を考えるなら、エミヤに聞くだろう。つまるところ、君に聞くべきことはそれ以外というわけさ」

「敵のサーヴァントについて、かしら」

「うん。そういうことだ」

どこかつまらなそうに、ショートブレッドに似た栄養調整食品を頬張るクロ。口の中がパサつくのか、食べては紅茶を口にしている。

「エミヤクンに聞いたよ。キャスターを制圧できたのは君の鑑識眼があってこそだったってね」

トウマは、思案するように紅茶をずるずる啜った。

脳裏に、赤いフードのアサシンの姿が過る。今は別な部隊で動いているらしい男の幻影にちょっとだけ身を縮ませてから、トウマは渋々とティーカップ越しにライネスを見やった。

空色の目は、変わらずこちらを見ている。そそくさとクロへと視線を向けると、素知らぬ様子で紅茶を飲んでいた。

これは責任重大だぞ、と思う。間違ってサーヴァントの情報を伝えれば、それこそ今後の戦いの方向性を間違えることになる。

―――既に倒した2騎のことは、今はいいだろう。だとすれば、考えなければならないのは、既に遭遇した2騎と、存在が確実視されるゴーレム使いの1騎だ。

「正直、あのバーサーカーと名乗った人のことは、よくわかりません。女性の鎧武者となると巴御前が思い浮かびますけど」

「印象が異なる、と」

トウマは、頷いた。続けて、と小さく頷きを併せるライネスに、トウマは若干吃りながらも、思考を続けた。

「バーサーカーというクラスも、巴御前を思わせる要素です。平家物語で敵の人間を素手で捥いだ逸話は、狂戦士という言葉を思わせる。でもなんというか、あのバーサーカーは、とても理性的で温和で、全然そんな感じがしなかった」

トウマは言いながら、空中に映像を投影させた。魔術礼装の機能の一環だ。

「確かに、これバーサーカーというよりはセイバーよね」

ゼリーを吸い吸い、クロが言う。そっけない態度が、少しだけ緩和しているような気がした。

「撤退しながら、クロの狙撃を全部切り落としてた。狂戦士であんな冷静な判断ができるなんて、ちょっと普通じゃあないと思うんです」

「クラスを偽っている、と?」

「いや、そうじゃないと思います。クラスの存在は、それこそ真名を隠すためのもの。クラスを偽る意味は正直ありませんから」

「じゃあ、むしろ逆かしら。あの理性的な側面こそが狂気の産物、みたいな?」

「内包する狂気が生み出した仮面(ペルソナ)、ということもあるだろうけど。つまるところ、人智とは外れた……超えた何かを、あの人は持っているんじゃあないかなぁ、と」

ここまでが、現状の思考の限界だった。

人智を超えた何か、と言われるとそれが何なのかまでは、流石にわからない。武者姿なのだから、それこそ毘沙門天の化身ともいわれる上杉謙信もあるだろう。なんからの仏性神性を持った何か、という推定は成り立つが、それ以上の同定は選択肢が多すぎて無理そうだ。

ライネスは、手慰みに上唇に指を滑らせていた。何か思案しているらしい。それも10秒ほどで、「説得的だね」と口にしただけだった。

「他は?」

「赤毛のライダーが誰かはわかります。ブケファラス、という名前からして、アレキサンダー大王かなと」

「なんだって?」

「え。いや、あー、イスカンダル大王と言った方がいいですかね」

不意に立ち上がったライネスに、トウマは特に意味もなく別名を上げた。だがなおのこと目を丸くしたライネスは、そのまま椅子に座ると急速に思考を回転させはじめたようだった。

ブケファラス。確かにあの時、赤毛のライダーはそう口にした。そしてその名の馬を操る英雄は、一人しか居ない。

それこそが、征服王イスカンダル。人類史にあって、世界征服という幼稚極まりない行為を達成しかけた人物は何人かいるが、イスカンダルは最初の1人だろう。

Fate/Zeroのイスカンダルとは大分……というか全然姿かたちが異なるけれど、子ギルみたいな例もある。あるいは李書文というべきか、例えばイスカンダルの幼少期もまた一つの全盛期であるが故、幼い姿で召喚される可能性もある……かもしれない。

……などと考えている間に、ライネスはおおむね思考をまとめたらしい。例によって猛獣めいた媚笑を口角に浮かべると、「納得いったよ」と小さく声を漏らした。

「何よ、1人でニヤニヤして」

「いや、ちょっと……というかメチャ愉快なことになりつつあって愉しいんだが、まぁ私のプライベートの話さ」

うんうん、と1人で頷くライネス。何のことやら、とクロに視線を向けてみたが、彼女もきょとんとするばかりだった。

「プライベートの話はともかく」咳払いを一つ。生真面目な素振りを取り戻したが、果たしてそれが自律によるものなのか、内面性に沈殿する司馬懿からせっつかれたからなのか、なんとも判別し難い。「他には何か、あるかな」

「例えばあのゴーレム。あれを呼び出しているものについて、検討がついてたりするんじゃあないかな」

「それは」

言いかけて、トウマは言い淀んだ。

ライネスの言う通り、トウマはゴーレム使いについて既に目星をつけている。間違いなく、あれはアヴィケブロンのスキルによるものだ。

だが、現状、アヴィケブロンと同定するだけの資料は何もない。資料の無い状況から、アヴィケブロンという回答を導き出すのは、あまりに不自然ではないか。

2秒ほどの逡巡。いや、と言いかけた瞬間に、「アヴィケブロンだって」と声が耳朶を打った。

「うん?」

「ソロモン・ベン・イェフダー・イブン・ガビーロール。あるいは、アヴィケブロン。ユダヤ教の哲学者で、詩人。それが敵のゴーレム使いの正体、らしいわよ」

クロはつんとしたまま言うと、それ以降は我関せずというように菓子をつまんだ。

「人類史でゴーレム使いは何人かいるのでしょうけど、破壊されたゴーレムの痕跡を見るに、アヴィケブロンが妥当かな、と」

トウマは、酷く早口で応えた。理屈としてはありがちな言葉を並べたが、果たしてライネスは納得したのか。恐る恐るといった様子で彼女の顔色を伺ったが、普段と変わらない表情は何を考えているのかわかりにくい。ポーカーフェイスが上手いのは、やはり軍師司馬懿としての特性なのだろうか。それとも、ライネスという少女のものなのだろうか。

いや、ライネスの風采は、単なるポーカーフェイスではない、と思った。無表情の中に揺蕩う慈愛にも似た表情。それでいて作為に満ちた面持ちは、見る者に、何かを話させようとさせる効果がある。

それが魔術の一種なのか、それともコールドリーディングの一種なのか。トウマには判然としなかったが、思わず、口にしていた。

「予想ですけど」それでも言葉を探したあたり、やはりそれは強制の魔術とは質を異にするものだったのだろう。「アヴィケブロンの宝具は、原初の人間を創造するものなのではないかと」

「へぇ?」

と口にしたのはライネスだったが、関心をより強く寄せたのはクロだった。真名を推測するまではまだ推理の範疇だが、宝具の全容まで語るのは明らかに妄想・空想の部類だ。それがもし的中していた場合、トウマの来歴に疑念が持たれるのは必定だろう―――察したクロは素早く暗示解除の魔術を発動させかけたらしいが、結局は何もしなかった。逡巡して、傍観することを選らんだようだった。

「アヴィケブロンという英霊……あるいはカバリストの本質は、最もゴーレムらしいゴーレムの創造にあります。今のところ作られているゴーレムは、有り体に言って兵器とかそういったものに過ぎません。至高のゴーレムというには、あまりに拙い」

「即ち、より完成されたゴーレムの創造がゴーレム使いの精髄であり、それこそが原初の人間であると」

自分で淹れた紅茶をちびりと口に含むと、ライネスは思案するように目を細める。一瞬だけ手を彷徨わせた後に掴んだ栄養調整食品のビニールを剥くと、さして旨そうな感じもなく齧り始めた。

「確かに新プラトン主義的ではあるね。より世界の中心たる実体というか存在に近いものを想定するのは、魔術師的でもある」

「根源の探求、でしたっけ」

「そう。まぁ、ほとんど詭弁になりさがっているけどね。権力闘争の方が、みんな性に合ってるのさ」

ライネスは、愉快そうに嗤った。元の人格は時計塔の貴族だというのだから、そのころの感慨という奴なのだろうか。それにしても権力闘争が性に合うというのも、ろくでもない世界だなと思う。

「つまるところ、敵には最低限、戦術的優位を容易に覆す切り札が1枚あるということか」

呆れるトウマを他所に、ライネスは独り言ちる。あるいは司馬懿の人格(ペルソナ)の呟きだったか。優雅な素振りで紅茶と携帯食料を嗜む姿からは想像できないけれど、その形のいい卵形の頭の中で、きっと夥しいまでの権謀術数を巡らせ始めたはずだった。

「随分味な真似をするねぇ―――?」

 

 

 

 

「ジャックー?」

ぽて、ぽて、とでも音が聞こえそうに歩く少女は、きょろきょろと宮殿の中を見回していた。

羊毛のような白い髪の、ちっこい女の子。アルテラ、と名乗る少女は、漂白剤で脱色したみたいな髪の、自分と同じくらいの女の子を探していた。

「どこー、ジャック。もう時間だよ」

いつも、名前を呼ぶとどこからともなく現れては、遊び相手になってくれたりするのだけれど。

「ご飯だって、ブーディカが」こんな嘘も、ついてみる。「スパゲッティ? とは……ハツ?の赤ワイン煮だって」

それでも、ジャックは現れない。おかしいなぁ、と小首を傾げながら、ぽてぽてぽて。

どのくらい歩いたかもよくわからず。なんだか遠くから地鳴りがするなぁ、などと思いながらベランダを覗くと、白い影が跳び込んだ。

勢い、名前を呼んで飛び出した。喜々、と顔を綻ばせたアルテラは、しかし、その姿にきょとんとした。

「おや」

ベランダの柵に腰を下ろした、白い影。曖昧な輪郭のそれはアルテラに振り返ると、照れ笑いのように表情を緩めた。

「フォーウ!」

「あ」

その白い影から、ちょこんと小さな獣が飛び出す。きゃうきゃう、と頭に飛び乗ったフォウに気取られながらも、アルテラはその影を注視していた。

「そうかぁ、君は正確には、人間じゃあなかったね。人避けの幻術なんか効かないわけか」

よっこいしょ、と柵から飛び降りた白い影。フードから覗く顔の表情は伺い知れないが、なんとなく。悪い人じゃあないなぁ、と思った。

「いやーどうかな。僕は結構人でなしだよ」

ワッハッハ、と大らかに笑う様は、とても悪びれてるようには見えない。

「名前はなんていうんだ?」アルテラは怪訝になりながらも、それ以上の好奇を惹起させていた。「ジャックが言ってた。友達になるには、名前を知らなきゃいけないって」

「へぇ、いいことを言うなぁ彼。いや彼女かな?」白い影の口元が無邪気に緩む。「アルテラ、君は僕と友達になりたいのかな?」

「いや別に」

「アッハイ」

子供は素直だった。好奇はあれど、やはり怪訝も小さくない。そんな少女の視線に苦笑いした白い影は、フードを脱いだ。

「僕はマーリン。人呼んで花の魔術師。気さくにマーリンさん、と呼んでくれ」

「なんでそんなどや顔なんだ?」

「私のこと、知らない? アーサー王伝説とかで結構有名だと思うんだけど」

「知らない」

「お、おお……これはこれは」

どや顔のまま固まること実に2秒。まぁそういうこともあるよね。と自分に言い聞かせた白い影……マーリン、と名乗るそれは、頷きを繰り返した。

「ジャックを見なかったかマリーン?」

「さぁ、どうだろうね」朗らかな顔のまま、首を傾げた。「それと僕はアメリカ海兵隊じゃあないよ」

「そうかー」

「探してるのかい」

「今日はブーディカと一緒にご飯を作るんだ」ふんす、と息巻くアルテラ。「ネロもトリムも、今日は忙しいっていうから」

「そうかそうか、偉いね」ふわり、とマーリンがアルテラの頭に手を翳す。触れられたかすらわからないほどに、マーリンの手は柔らかかった。「モードレッドにも見習わせたいくらいだ」

「でも残念だけど、僕もさっきここに来たばかりでね。ここのことはよくわからないんだ」

「確かに初めて見た。宮廷魔術師という奴か?」

マーリンは曖昧な顔をした。アルテラは特に気にするでもなく、そういうものだと認識した。

「ごめんね、お役に立てず」

「いいんだ。その内、多分出てくるから」

じゃあ、と離れかけたアルテラを、マーリンは特に止めることもなかった。ぽてぽてと歩き始めたアルテラは、あれ?と思った。

どうして、マーリンは自分の名前を知っているのだろう? ふと振り返ったアルテラは、けれど、そこに何も認識しなかった。

あけ放たれた窓。吹き込む瑠璃色の風は、朝に焼けて爛れている。それ以外知覚するものは何もなく、ただ網膜に焼き付いた幻が、夢のように張り付いていた。

 

 

「そう言うなよキャスパリーグ。そりゃあ僕だって罪の意識って奴はあるけどさぁ。でもそれとこれとは、今回だけは別だよ。前の時と今回は違うっていうか、全然違うじゃない。キング君がいいんだったら、僕だって個人的肩入れをしたっていいだろう? 

……イタ。イタタ。痛いじゃあないか。嘘じゃないよ、肩を持つってのは本当。まぁこんな面白そうなの、遠くから見てるだけなんて勿体ないとは思ったけど―――って痛ァ!? 僕は人間じゃないぞ!? いくらお前が月蝕姫のペットだからってだなぁ、夢魔の殺害kブフォウ!?」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

其れは許しではなく

「ねー、お姉ちゃんは何してるの?」

他方。

幼げな声に催促された赤銅色の髪の少女は、全く以て非生産的な日々を送っていた。

非生産的という点では、実際のところクロやトウマとさして変わらない。変わらないが、リツカの生活はなんというが、ぐだぐだしている。つまりは、堕落と頽廃を謳歌した生活を送っていた。

朝早く起きて規則正しい生活を送るトウマに対して、彼女の目が覚めるのはおおむねAM10:30~11:00の間である。酷いと12:00を過ぎることもあったし、酷すぎると15:00をまわることもあった。AM10:20の起床した今日は、彼女にとっては早起きですらあった。

ボサボサの髪を特段梳こうともせず、なんだったら髪を結んだまま就寝する。食事は栄養補助食品どころかエナジードリンクと野菜ジュースくらいなもので、当たり前だが風呂などない。不潔と不健康と仲良く同居した生活を送っていた。

「与えられた余暇を、十二分に活用しているんだよ」

宿営の天幕に訪れたジャック・ザ・リッパーの不思議そうな顔に、リツカはのほほんと応える。ごきゅごきゅと電子機器の電源ボタンみたいなマークの付いたエナジードリンクを飲む姿に、ジャックはうぇ~と言いたげに顔を顰めた。

(こちらとしては、食生活には気を付けてほしいんだけどなぁ。リツカちゃん、尿酸値高いし。脂肪肝をそのままにしてると、肝硬変とか肝臓がんになるんだよ? 生活習慣病は怖いんだよ??)

「善処致しますよ、ドクター」

空中投影された映像に、思考無能なニヤニヤ笑いを浮かべるリツカ。エナドリを飲む調子はさして変わらないが、時々エナドリでサプリメントを流し込むあたり完全に自分の若さを過信しているわけではないらしい。しかし酷い絵面だが。

時々野菜ジュースのパックなんかを啜ってみたりしては、タブレット端末でジャパニーズチェスゲームで時間を浪費する。呑気そうな顔には、知悉なんてものはちっとも感じられない。

「実は今スゴイ権謀術策を張り巡らせてるんだよ」

「そうなの?」

「そうだったら格好いいと思わない?」

リツカはのほほんとしたまま、そんなことを言う。本気で言ってるのかはさっぱりわからない。

変な人だなぁ、とジャックは思う。呑気なようで知悉に冴え、温和に見えてその実苛烈。どことなく相矛盾した要素が林立する人柄は、英霊の座に登録されたジャック・ザ・リッパーの記録にはほとんど存在しない。僅かに1人だけ、底抜けの明るさの内に異能を孕んだ人物像が脳裏を過った気がしたが、どことなく煩雑として思い出すに思い出せないようだった。

―――ジャックには与り知らぬことだが、いかに藤丸立華(フジマルリツカ)が如何に自堕落な人物とはいえ、普段からここまで堕落を極めることはない。いつもは後背に付き従う後輩にちょっとはカッコいいところを見せてやろうとして、多少は自律というものを頭の中に浮かべているのだが。その後輩が居ないせいもあって、リツカはとにかく、堕天使すら顔を顰めるほどの堕落に揺蕩っていたのである。

「ジャックが居てくれなかったら、私は死んでしまっていたよう」

がばり、とジャックの小さな身体に飛びつくリツカ。ジャックは取り立てて躱そうともせず、リツカのもふもふ動作を赦していた。

「いやぁ、暇というのはいいものだねぇ。できることなら、ずっとこのままであってほしいものだけど」

 

 

 

 

リツカが喫ジャックをするより、およそ5時間前。

首都ローマの宿営所で、マシュは極めて規則正しい朝を迎えた。

世界が暁を迎えるよりも早く、マシュ・キリエライトは目を覚ます。寝起きも何のそのでしっかり起床。僅かの眠気を感じたが、日常生活を送るのには全く問題ない。その他身体的な課題がないことを確認してベッドから起き出す様子は、はっきり言ってマシーンか何かのようにも見える。実際のところ彼女の生い立ちは機械的ではあるし、その容貌も原石の野趣を孕む瑞々しい美質というよりは、綺麗にカッティングされたダイヤの端正さを思わせるだろう。

とは言え、彼女は割に普通の16歳の少女である。その外見的・出生的特徴からサブカル的ロマンチズムが抱きがちな儚さは、マシュには無縁のものである。

いや、それは正確ではないだろう。かつては確かに、マシュはそういった儚さを持っていた時期もあった。だがそれは、過去の話だ。マシュ・キリエライトはそういった覚束ない生き方を、とりあえず辞めたのである。

マシュの日常生活は、およそがトレーニングを占める。ロマニ・アーキマンが組み立てた効率的なトレーニングメニューを熟す合間に、ダ・ヴィンチからサーヴァント戦や魔術についての座学を請う。食事量はおそらく同年代の少女の2~3倍ほどであり、むしゃむしゃ食事を摂るマシュを見たロマニは「いやぁマシュがこんな食べるとは思わなかったなぁ」と感心し、ダ・ヴィンチは「あんまりマッチョになりすぎたらだめだよ……」ととても悲哀に満ちた顔で助言を残したものである。

極めて健康的……を超えてストイックな生活を送るマシュの生活は、どこまでも堕落とまぐわるリツカに対して対照的だった。

ブーディカがその日見かけた時、マシュは既に朝のトレーニングを終えた後だった。何の意味があるのか、酷く身体に密着したボディスーツのようなトレーニングウェアのまま草原に転がるマシュを見、ブーディカは素直に感心の言葉を述べた。

「マシュは真面目だねぇ」

「いえ、そんなことは」

やっとこさブーディカの存在を感知したマシュは、慌てて立ち上がった。そこそこハードな訓練をしているらしい、とは聞いているのだが、爽やかに汗をかいたマシュの姿に、疲労感はない。さらさらと草原の上を走り抜ける蒼い風を受けて、彼女の亜麻色の髪が揺れた。

「焦りは禁物だぞ。秀才は一日で成るものじゃあないからね」ブーディカも草原に寝転ぶと、うんにゃ、と伸びをする。「リツカちゃんも、マシュにはのんびり成長してほしいって思ってるよ」

マシュは少しだけ赤面すると、そうですね、と小さく応えた。そうしてブーディカの隣に体育座りした。そんなマシュの仕草の青臭さが、ブーディカにはなんというか微笑ましく映る。

端的に言うと、ブーディカというサーヴァントはお母さんとかお姉さんとか、そういう存在者である。歴史と伝承を紐解けば、彼女はむしろ荒ぶる英霊あるいは反英雄としての知名度の方が勝るが、ライダークラスで召喚された彼女は古きブリタニアの女王……母性の顕現、賢母としての側面が強い。まぁこんなことを言うと厳めしいのだが、要するにブーディカは気持ちのいいおばちゃんなのである。

そんなお節介おばさん属性を持つブーディカは、当然色んなことに気が付くものである。トウマという少年に対するクロの明瞭な輪郭を持った心情もそれとなく理解しているし、それに対するトウマの情動も理解している。そして、マシュがリツカに対して抱いているものも、ブーディカは知悉していた。恐らくマシュ自身も自覚のない情動を、それ含めて。

若いねぇ、などと頭の中を老いた考えが過る。肉体こそは若い全盛期の姿だが、その内面性は格率のある女王のものである。頭蓋の中は、相応に年を取っているのだ。

マシュという少女は、早く自分が無力でない存在者になりたいのだ。リツカというマスターの背に、早く追いつきたいのだ。

「そんなに凄い人には見えないけどねぇ。控えめに言って、呑気な浮浪者だよ」

マシュは、ただ困ったように苦笑いしただけだった。実際のところ、その在り方までは手放しで賞賛しているわけではないらしい。

「でも、あのでっかく構える佇まいはすごいよね。私にも真似できないなぁ」

とは言え、そんな風にリツカを褒めると、マシュは我がごとのように照れ笑いを浮かべながら「そうですよね」と真面目に返事をしたりする。釣られてブーディカもこっぱずかしくなってしまった。

「先輩は、凄いんです。キリシュタリアさん……もともと人理修復するチームのリーダーからも一目置かれてて。人を効率よく殺す天才とか、水晶蜘蛛の擬人化とかいう人も居ましたけど」

その口ぶりは、少しだけ、物悲しい。彼女たちの事情には首を突っ込んでいないけれど、その口端から伺い知れるものもある。

懐古の滲んだ苦い言葉。ブーディカはその意味を漠然と理解した。

「好きなんだねぇ」ブーディカは、だからそれとなく会話をずらした。「リツカのこと」

「はい、尊敬してます。あの、全部尊敬できるわけではないですけど」

幾ばくかの照れを隠せず、マシュは正直に言った。

素直な子だなぁ。ブーディカ自身も、素直にそんな感想を抱いた。マシュという少女の現存在が必死にその情動から受容した語彙は、尊敬。幼気というより無垢な感受性は、瑞々しいばかりだ。思わず目を細めたブーディカは、蒼古とした頷きを繰り返した。

そんな他愛のない会話の中、マシュがその話題を口にしたのはなんとなく、だった。

「あの、ブーディカさんは」やや躊躇いがちではあったが、マシュはしっかりブーディカの目を見ていた。「どうして、ネロさんに味方するんですか?」

幾ばくか、逡巡があった。およそ三舜ほどの合間。その闃然を拒否と受け取ったマシュが口を開きかけたが、ブーディカが応える方が僅かに早かった。

「聞きたい?」

謝罪の言葉を口にしかけたマシュは、至って毒気ないブーディカの表情に口唇を強張らせた。

再度の逡巡は、さりとて今回は一瞬だった。固まるマシュをよそ眼に、ブーディカは頓着の様子もなく、「はっきり言って」と口にした。

「ネロ公のことは好きじゃあない。気に入らないというか」

ブーディカはそこまで言って、眉尻を困ったように下げた。どことなく居心地悪そうに苦笑いをした。

よいしょ、とブーディカは身体を起こす。上体を起こしたブーディカの目には、丘の下に屹立するローマの街並みが映った。

マシュは、無言でブーディカを見つめた。疑問は当然だろう。ブーディカという人物にとって、ローマ、ひいてはネロ・クラウディスは赦し難い存在者であるはずなのだから。

ブーディカは、少しだけ恥ずかしそうに頭をかいた。なんというか、自分の生が歴史となって未来の人間が知っているというのは、羞恥を感じる。そんな風にでも言いたげだ。

「まぁでもさ」

言って、ブーディカはさっぱりした顔で、天を仰いだ。

「でも仕方ないよねぇ―――」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

人でなしの策謀

戦端が開かれたのは、さらに数日後のことだった。

兵士たちは、安定した補給線から供給される食事に、贅沢にも飽きを感じていた。ヴェネツィアから海路でシチリアに揚陸・部隊を展開したリツカは生活習慣病まっしぐらの食生活でロマニに心配され、陸路を通りメッシーナ海峡から揚陸・展開した司馬懿ことライネスは、意見交換会と称する茶会に日々精を出していた。クロとトウマはここが戦地なのかという朴訥とした疑念を抱きながら、茶会に招待されては、栄養調整食品だの栄養補給ゼリーだのを安物の茶葉から沁みだした紅茶とともに飲み下していた。

そんな日々の中、戦端は開かれたのである。

とは言え―――それはロマンチズムに溢れたものではなく、また劇的なものでもなかった。三国時代の名軍師、司馬懿と諸葛孔明2人の天才的知悉の激突とは思えぬほど、ぐだぐだしていて、散文的な様相だった。

「敵襲?」

最初にその報告を受けたのは、エトナ火山の北東に展開するリツカの部隊だった。伝令として駆け付けた若い兵士に労いの言葉をかけながら、リツカは、眠たそうな目で網膜投影されたデータを一瞥。敵戦力を、把握した。

数、およそ100。右翼に展開していた部隊に対して、攻勢をかけようとしている。

散発的に行われる威力偵察部隊にしてはやや数は多い。兵力500の部隊では、ゴーレム100体相手ではそう長く持ちこたえられないだろう。サーヴァントもいるとすれば、とても支えきれない。

「引っかかったの?」

リツカの背中に飛び乗ったジャックが言う。拙い話し方をするが、ジャックの頭の回転は結構速い。既に教えていた戦術から、現状を推察したのだろう。

ローマ帝国の作戦は、海路・陸路からの2方向から戦力を展開。敵に2面作戦を強要させることを主眼に置いているが、リツカはさらに第2軍を敢えて3群に分割。包囲陣にみせかけた戦力分散を敵に悟らせ、敵に機動戦による各個撃破戦法を執らせることが狙いだった。

敵が各個撃破に乗りだ瞬間、戦力を集中。その後は半包囲にして火力を集中、敵戦力を撃滅する。それこそリツカの狙いであった。

机上の空論としては、美麗であろう。だが各個撃破に乗り出した敵の機微を見抜き、同時に2つの勢力を操るだけの指揮能力が無ければ、本当に各個撃破されかねない戦法ではあった。

だが、リツカにはそれを熟すだけの自信があった。いや、自信があったというのは語弊がある。心情や情動レベルにおいて、その戦術が成功するという確信は一切なかった。むしろそういった確信を、彼女は廃絶させている。

ただ客観的に。自分の能力とローマ帝国の兵士の練度、その他もろもろの状況を俯瞰した結果、十二分に達成できると合理的に判断しているだけだった。

「さぁ、まだわからない」

のほほん、とリツカはジャックに応えた。さらに一言「ジャック次第かもね」と付け加えて小さな女の子の頭をなでなでしてから、リツカは足取りも穏やかに天幕を出た。

リツカはさして感慨もない様子で天幕から抜け出すと、栗毛の馬に跨った。

「ドクター、通信使える?」

(うん、使えるよ)

「了解。確か第三群にはエミヤが居たんだっけ」

他人事のように独り言ちる。タブレット端末に表示されたマップを思案すること1秒未満、リツカは馬の脇腹を軽く蹴った。

「アルファからチャーリー。第一・第二群(アルファ、ブラボー)を左翼に展開、敵戦力に火力を投射する。指定座標まで反撃しつつ、ほどほどに負けながら後退。予定通り、敵戦力を誘引してもらえるかな」

網膜投影された通信ウィンドウにエミヤからの無線、そのクリック音が返ってくる。らしい返答だなぁと感心しながら、リツカは馬を飛ばした。

「さてさて、何をお求めなのかな」

 

 

念話のクリック音だけを返したアサシンの次の動きは、早かった。

重装歩兵を前面に展開すると同時、弓兵部隊を背後に展開。後退指示を出した後は、予定通り、遅くもなければ早くもない速度で後退を開始した。

「いいか、敵を倒すことは考えなくていい。適宜撃って、適宜逃げろ。適当にあしらうことだけ考えればいい」

周囲に展開する緑の外套姿の弓兵―――野伏たちに指示を出しながら、アサシンは既に錆びついた鉄心が軋むのを感じた。

アサシンの思考は、常に敵を殺すことに特化していた。思考回路は常に先鋭化し、効率的に人命を害することのみ頭の中を占めていた。

生粋の暗殺者、あるいは殺人者。そんなアサシンをして、直観する。

藤丸立華(フジマルリツカ)は、恐らく自分の同類である。つまるところ、彼女の脳髄は、如何に敵を効率的に殺すかを思考することに、特化している。自分は戦場のただ中でそれを思考し、彼女は一歩引いた俯瞰図の中でそれを思考する。味方を効率的に死なせ、その費用対効果以上の殺戮を敵にぶつける。どちらがマシかは、アサシンは考えなかった。すぐに、どっちも人でなしであって、程度の差などどうでもいいことに気が付いたからだった。

対戦車ライフルのトリガーを引き絞り、ゴーレムを爆砕する。破壊の余波で周囲のゴーレムが倒れ込む姿を眺めながら、アサシンは、次の効率的破壊を思考する―――。

「こちらチャーリー、予定通りだ」

 

 

うーん、どうしようかな。

アレキサンダーは己が愛馬をキャンターで走らせながら、思う。

周囲に展開するゴーレムたちは未だ健在。先頭に展開するゴーレムに損害が出始めているが、未だ微々たるものだ。

もし撤退するなら、今が最適だなぁ、と思う。元々、今回も威力偵察のためだけの出撃である。あるいは戦術的勝利を得られるかもしれないとは思うけれど、一時の局所的勝利を重ねて、戦力を浪費しては後々に害を為す。

それに、今自分が敵の罠に飛び込んでいることも、アレキサンダーはよく理解してる。かの賢哲の薫陶厚い未来王は、リツカの用意した戦術的意図を上手く理解していた。

ここで下手に欲を出せば、忽ち半包囲を敷かれ、壊滅させられるだろうな。

合理的知性は、現時点での撤退という戦法が最も正当であることを理解した。理解した上で―――アレキサンダーは理性以外の知性が、別な解答を浮かび上がらせたのを、心臓で理解した。

「おっと」

飛来した砲弾まがいの銃弾を剣で斬りはらったアレキサンダーは、己が騎馬の首すじを撫でた。

「ねぇブケファラス」

立て続けの狙撃弾を苦も無く斬り伏せたアレキサンダーの表情は、愉快そうに笑みを作っていた。それこそ、無邪気な少年のように。未知に遭遇した幼子のように、幾ばくかの恐怖と、それを大きく上回る好奇心を惹起させた顔だった。

ちら、と駿馬が主へと一瞥を与えた。単体でサーヴァントとして召喚されることもあるという、怪馬ブケファラス。肉を喰らい人間を軽蔑する暴戻の化身、放胆そのものですらある名馬は、唯一認めた主の好奇心に賛同の意を表したようだった。

そうだ、そうでなくては。己が好奇心の蠕動にぞわぞわと身を捩らせながら、自分の愚行が戦略目標達成に適うことをも並列思考し―――アレキサンダーは、強く、ブケファラスの脇腹を蹴った。

「会ってみたいよな、最新の人類(ひと)ってヤツに!」

人食いの暴君が疾駆する。雷を纏った赤毛の少年は、猛々しさと瑞々しさを同居させた爽快の笑みを浮かべた。

 

 

網膜投影される映像を見、リツカは眉を顰めた。

横列の陣形から紡錘陣形へと滑らかに再編させた敵部隊は、一挙に第3群を突破しようとしている。どちらかと言えば、意図的に陣形再編したというより、先頭を賭ける戦力に後衛がついてこれていないようにも見える。つまり、それが意味するところは。

「あの赤毛のライダーか」

困ったように、リツカはサイドテールにまとめた髪の一房を弄んだ。

脳髄の記憶野から、情報を引っ張り出す。確か真名はアレキサンダー。かの征服王、その幼少期の姿。世界征服に手を賭けた大王と見えているわけだ。

どの程度の突破力を持つかは未知数だ。だが、過小評価はすべきではない。一挙に第三群を突き破りにかかる戦力を見、険しく目を細めたリツカは逡巡を回した。

罠にかかった?

いや、そう考えるのは短慮だ。かのアレキサンダー大王が、そうやすやすと罠にかかるとは思えない。罠を見破った上での突破と見るべきか、あるいは狙いは別にあるか。

思考は1秒未満だった。

「アルファ全員、聞いてるかな? これから私たちはブラボーが待機する場所に合流。当該座標を新たな戦域に設定する。陣形を維持したまま、焦らず着実に動いてね。大丈夫、相手がサーヴァントだろうがなんだろうが、私の指示に従えば勝てるから」

続いて、リツカは網膜投影される映像に声をかけた。

「アサシン、チャーリーはこのまま散開。一回散り散りになって構わないから、とにかく負ける振りをして一気に逃げるんだ。いいかい、なるだけ命を大事に動くこと。後からアルファ、ブラボーに合流すればいいから、それまでは旨く隠れるようにね」

(了解した)

赤いフードのアサシンが感情も無く言う。相変わらず凪いだ表情のまま、リツカは最後に、軍師に無線を繋いだ。

「こちら第二軍。ライネスちゃん、相手の出方を見てみてみようかと思う」

 

 

この時、ライネスはいつものように茶会を開いていた。左程上手くもない菓子に、左程上手くない茶葉。流石に飽きも感じてきた頃合いだっただけに、椅子から勢いよく立ち上がったライネスの動きは機敏だった。

「全軍に通達、即応待機状態の第一、第二群は南南西に20km移動。第三群は離れずついていくぞ」

指示を出す声音こそ15の少女のものだったが、その威勢はとても見た目通りのものではない。ライネスという人格に憑依する英霊司馬懿の峻厳な声が、空中投影される通信映像から兵士の肩を押した。

「リツカさんの助けには行かなくていいんですか?」

同席していた……というより同席させられていたトウマは、てきぱきと動き出した司馬懿に目を丸くしながらやっとのことで椅子から立ち上がった。流石に戦地に慣れているというべきか、クロは司馬懿と同じように機敏な動作だった。

「要らんよ。敵の戦力からして、向こうの戦力で対処できない数ではない。それより、私たちが気を付けなければならないのは、敵本隊の動向だ」

「本隊?」

司馬懿は頷くと、小気味良く指を鳴らした。それを合図とばかりに戦域マップが空中投影されると、敵を示す赤いブリップと味方を示す青いブリップが点灯した。

「エトナ火山に工房を設置していると思われる敵こそが、本丸なわけだ。今リツカが相手にしてるのは、一見威力偵察のつもりが野戦を仕掛けてしまった愚かな遊撃部隊。そこそこに戦って撃退するのが得策だけど、敢えて殲滅するようにみせかけることで、敵がどう出るか見たいというわけさ」

ぽかんとしてから、トウマは大変難しい顔をして思案しだした。知恵熱でも出そうなほど考え事をするトウマを他所に、にやりと笑った司馬懿……あるいはライネスは、言葉を続けた。

「一番有り得るのはアレキサンダーを呼び戻すことだけど、敵の戦略目標が特殊な現状、相手がどう動くのかはちょっと推測し辛い。最悪、レスキューのための増援が向かうかもしれない。そう言った諸々含めて、私たちは派手に動かず、状況を見るべきだろうな」

立て続けに浴びた情報を吟味する素振りをしてから、トウマは「なるほど」とわかったように頷いて見せた。表情を見ればわかるが、とにかくわかったようなわかっていないような顔だった。

対して流石というべきか、クロはすんすんと頷いていた。「個々の戦闘判断は得意だけど、戦術・戦略レベルでの判断は苦手なのよね」と言っていた割に、飲み込みが早い。

「一応、向こうに戦力を送る用意はしておくがな」

言いながら、司馬懿は天幕の入口を潜った。釣られて背後に続く2人を感じながら、司馬懿は思考する。

敵の戦略目標は―――原初の人とやらの完成。そして恐らく、その原初の人とやらは未完だろう。トウマの話を聞くに、完成したら手の付けられない正しく神の玉体の如きものが現れる。そんなものを、現時点で温存している意味はない。

未完の内に、敵本拠地を制圧する。それが最終目標ならば。

「ーーーまぁ、これから考えればよかろう」

灰斑色の葦毛の馬に跨った司馬懿は、遥か荒野の先に聳える火山を眺望した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

些末事の懊悩

お久しぶりです。

63話です。


 「そうか、やっと戦いが始まったか」

 トリムマウから情報を受け取ったネロ・クラウディウスは、その時、私室に居た。

 出陣する兵たちを見送って、もう2週間は経っている。当初は逸るような気分を抑えられなかったが、戦線が停滞した頃からなんというか興味が色褪せ始め、最近はそんなこともあったなと思うほどに記憶の隅に追いやられていた。そうせざるを得ないほど、日々の皇帝としての業務は多いのだ。

 だから、その報告を聞いた時、感情の置き所に迷った。遂に始まったという感慨はあった。それと同時、すっかり失念していたことに対する疚しさもあった。それと、この日は完全にオフだったのである。雑務をトリムマウに請け負ってもらい、2週間ぶりの余暇に気を抜く最中の出来事だっただけに、虚を突かれてしまったのだった。

 「申し訳ありません、お休みのところ」

 「いや構わぬ。ローマの行く末は余の行く末も同じこと。重要なことだ」

 申し訳なさげに、頭を下げるトリムマウ。寛大な身振りをしてみせたのは、むしろ自分に言い聞かせるためのものだった。

 「して、状況は」

 「はい。どうやら偵察部隊を捕捉したリツカ様の部隊がこれを包囲・殲滅しようとしているようですが」

 「そうか。いや待て、ではまだ本格的に戦いが始まったわけではないのか?」

 「これから攻略に移る、と聞いていますが」

 トリムマウも、やや困惑した様子で言った。姿の見えない魔術師を介して戦況はほぼリアルタイムで把握できているというが、それでも推移を辿れないほど目まぐるしく状況は変わっている。らしい。

 ネロはやや思考を戦場に傾けかけたが、早々に停止させた。彼女の軍事的才覚は、決して豊かではない。考えたとしても知恵熱を出して終わりだろう、と結論を出すと、素朴に司馬懿とリツカ、クロ、あと一応トウマのことを信頼することにした。

 「ネロは戦いに行かなくていいのか?」

 と、ベッドから顔を出したちいちゃな女の子が言った。白いふわふわした髪の少女……アルテラの名を持つ少女は、どことなく浮かない顔だった。

 「余が行く必要はないぞ、アルテラよ」

 ネロは椅子から立ち上がり、ベッドに腰かけた。さわさわ、と寝転がるアルテラの髪に手櫛を入れると、ネロは一瞬口をぱくぱくさせてから、次の言葉を続けた。

 「余は戦争とかそういうことに詳しくない。わからない人間がいたずらに戦場に出てくるなとシバイめも言っておった。指揮系統がぐだぐだになるとか、なんとか」

 最もらしい理由を口にする。無論、これは理由として大きい。大きい理由だが、本当の理由は別にあり、そしてそれは今言うべきことではない。ネロがアルテラに言うべきことは、もっと別種のことで、もっと、柔らかな手触りの言葉だ。

 と、最近、ネロは理解しだした。理解した上で、ネロはその先に進むことができないでいた。

 「余はあの者たちを信じている。信じているから、任せるのだ」

 言葉を続けたが、これもさして意味のない言葉だと直観した。

 本当に言うべき言葉は、ある。だがローマ皇帝たるネロ・クラウディウスが口にすべき言葉でないことを、彼女はよく知っている。また、自分にその資格はないことも。

そんなネロの心情など露ほどもしならないアルテラは、無邪気そうにネロに抱き着いた。

 むすぅ、とネロの胸に飛び込むちんちくりんに困惑しながら、ネロはトリムマウを一瞥する。思った通りの微笑が返ってきて、ネロはぎこちなくアルテラの身体を抱きしめ返した。

 「ではこれで」

 トリムマウは、早々と私室から下がった。物分かりが良すぎる臣下というのも考え物だなぁ、と顔を赤くしながらも、ネロはアルテラの体温を確かに抱擁していた。

 「私、は───」

 

 

 

 

 (こちらチャーリー、撤退する。消耗率は1割に留めた)

 「了解、じゃあ適当に隠れてやり過ごして。アサシン、アナタだけはこっち来てね。脱落はまぁ、いいよ」

 イヤフォンの音声に声を返して、リツカは髪の一房を弄んだ。

 相変わらず何も考えて居なそうな顔のまま、彼女の目は網膜投影されるマップを見やる。

 既に第三群は敗退。戦線を突破した敵勢力は、一直線に平原を猪突してくる。その速度の勇猛たるや、なるほどサーヴァントとは人智を超えているんだなぁ、と間抜けな感想を抱かせるほどだった。知識上、伝承科や召喚科で学んだことであり、これまで何度となくその勁さは身にしみてはいる。けれど、第三者的に見ると、また違った感慨がある。

 「さてと」

 リツカは、あと3分以内に接敵するであろう敵勢力の動きを見ながら、右側頭部でまとめた赤銅色の髪をかき回す。

 突出する先頭集団は確かに早い。だがその速さに対し、後続は明らかに出遅れている。戦力を分散させる愚を、相手は招いている。

 一見して愚策。だが、外見上の愚劣さに拘泥することは、それこそ愚かの極みだろう。

 「ブラボー、兵力を左翼に延ばして。アルファは後続の部隊を右翼に展開。いや、半包囲じゃない。後続のゴーレムに対しての攻勢をお願い。あ、うん大丈夫。こっちの防御が手薄になるのは問題ないよ」

 リツカは渋く言い募る兵士に無線で言いながら、遥か彼方に立ち上る土煙を見つめた。

 赤毛のライダー、アレキサンダーとの接敵まで残り6分42秒。あるいは、それより短いか。

 「敵の狙いを、かなえてあげようじゃあないか」

 

 

 アレキサンダーの”暴挙”は、その時諸葛孔明にも届いていた。

 アヴィケブロンが用意した工房、その椅子に腰を下ろしていた諸葛孔明は、ただ小さく表情を険しくするのみ。眉間に刻んだ皺が僅かに深まり、やにの吹いた目元は酷く気だるげだった。

 「いいのかい。素人目に見ても、褒められた行動とは思えないが」

 アヴィケブロンは工房の奥で何か作業をしながら、他人事のように言う。偵察のために作られた小鳥型のゴーレムの情報は、何よりもまず制作主のアヴィケブロンに届けられるのだ。

 思案は、そう長くなかった。戦域の俯瞰図を見、2面作戦を展開する敵の布陣を確認すると、背広姿の男は草臥れたように立ち上がった。

 「残りのゴーレム、500騎使わせてもらいます」

 アヴィケブロンは、声も無く顔を上げた。じっと仮面の奥から中華の軍神を眺めると、特に感慨もなさげに「そうかい」と頷いた。

 

 

 工房を去る男の背を、アヴィケブロンは特段何もせずに見送った。

 互いに、顔を合わせるのは、これが最後になることを漠然と理解していた。理解していたが、二人は特別に別離の言葉を交わすこともなかった。ただ偶然にも同じ陣営に召喚された、キャスターのサーヴァント。それ以上でも、以下でもない関係性だった。

 必要以上の紐帯の無い、無味乾燥な関係性。

 少しだけ、そうした関係性に、侘しさを覚えた。

慣れていると言えば慣れている。生前から厭世的な男であり、希薄な人間関係そのものには今更何も感じない。ただ、諸葛孔明は───正確にはその依り代の人間は、魔術師的な厭世を漂わせながら、それでいて、人に好かれる人物だった。アレキサンダーと時折交わした会話からも、あるいはアレキサンダー本人との関わり合いからも、彼の人物像は察せられる話だった。

 それを羨ましい、とは思わなかった。思わなかったが、少なからず、自分とはざっくりした関係性しか構築されなかったな、と思った。あの男をしても、自分はその程度の関係性が構築できないのだろう。

 漠と、思案が巡る。

 もしかしたら、どこかの可能性の世界で、自分は誰かと良好な関係が築けたりするのだろうか。あるいはあの男のように、誰かの教師のような在り方をしたりするのだろうか。「先生、先生」と呼び慕う、未来ある俊秀の若者の、教師に。

 柄に無く、アヴィケブロンは夢想を広げた。時間にして1分。ふと自分が自失していたことに気づいて周囲を見渡すと、既に工房には自分だけしか残っていなかった。

 一瞬の空虚。鼻で笑ったアヴィケブロンは、詮の無いことだ、と仮面の裡に小さく吐き捨てた。

 仮にそんなことがあったとしても、所詮は些末事だ。召喚されれば、アヴィケブロンという英霊は、原初の人の創造を追い求めるだけのゴーレムそのものになる。そのためには、あらゆることが瑣事なのだから。そして、今回も。

 束の間、頭蓋の底に燻った懊悩。

 じんわりと暗く揺れる想念を、魔術師らしいたんぱくさで斬り捨てる。ぎぎ、と音でも鳴りそうなほどにぎこちなく、アヴィケブロンはいそいそと準備を進めた。




63話でした

諸事情から、大分投稿が遅くなってしまいました。
ストックも結構たまりましたので、今週からコンスタントに投稿できればいいなぁと思います


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

刹那の喜悦と、

64話です


 アレキサンダーはその時、ただただ舌を巻いていた。

 敵の小規模戦闘群を蹴散らすように突破して、自身の機動力でもって一挙に敵の本陣を叩く。華麗に見えて、少数戦力が執り得る数少ない戦術の内の一つを行使したアレキサンダーは、すぐに自分の目論見が外れたことを悟った。

何故、少数戦力が機動力を発揮しなければならないのか。その答えは、簡単だ。機動力を以て敵戦線の弱点を突き、包囲される前に逃げ切る。綱渡りにも似た各個撃破戦法をしなければ、忽ち自軍が戦力差で叩き潰されるからだ。

 アレキサンダーは無論その事実を知悉していたし、また敵の指揮官もそれを理解しているに違いない。だが、英霊アレキサンダーの実力をもってすれば、一度くらいは成功するだろう、と踏んでいたのだが。

「いやいや、現代の人間って奴も凄いもんだ!」

 周囲から雨霰と降り注ぐ矢の数は、正直に言ってすさまじかった。雨霰というよりは、活火山を爆砕して流れ始めた火砕流のようだった。たちまちにアレキサンダーの周囲のゴーレムは火箭に打ち倒され、文字通り泥濘に囚われていった。

 アレキサンダーが一度目の突撃を敢行した直後に、敵は半包囲を完成させていた。運よくアレキサンダーの攻撃前に完成させたのでは、ない。アレキサンダーが突撃の陣形を完成させ、手薄な敵戦力に一挙になだれ込んだその瞬間を見透かすように、半包囲を伸ばしたのだ。

 戦術的洞察力もさることながら、その戦力運用は非凡としか言いようがない。頭の中の戦術図を実際の戦力に適応するのは、全く易しいことではない。

 アレキサンダーは、個人の武勇と同じほどに将帥としての名も高い。だが、一度一気呵成に動き出した味方の戦力を鮮やかに停止させ、反転させることなど不可能だった。敵はそれを狙って、アレキサンダー率いるゴーレムの軍勢を火力の坩堝に誘い込んだのである。

 むしろ、アレキサンダーの非凡さは、そこで逃げなかったことにある。生半に戦力を停止・反転に動けば、その瞬間を狙って隙に敵の集中砲火を赦してしまう。だから突撃の威力は殺さず、そのまま右翼か左翼に逆進。なんとか包囲網を突破する他なかった。

 最も、アレキサンダーはその戦術すらをも執らなかった。否、アレキサンダーが執った戦術は、戦術と呼びうるものですらなかった。アレキサンダーはただ何の戦術性もなく、愚直な猪突を敢行した。壁に水風船を投げつけるような行為だった。重装歩兵で形成される敵前線の牢乎さは、ゴーレムとて容易に突破し得ない。ただ突撃すれば、たちまちに撃砕されるだろう。

 だが、アレキサンダーとても尋常な存在者ではない。アレキサンダーという個人的素質の点からも、境界記録帯(サーヴァント)という普遍的魔術事象の点からもだ。ローマ兵は、何ゆえかによって サーヴァントを害することを可能にしている。だが仮にサーヴァントを害しえたとしても、だからといってサーヴァントを打倒しうるか否かは別問題である。

 即ち。アレキサンダーというサーヴァントの個人的武勇は、この戦術的局面を左右するに足るものだった。

 降り注ぐ矢と投擲槍。スパタで叩き落し、それに伴って放出される雷の魔力が朔風となって撃ち落とす。何十何百もの攻撃を当然の如くに撃ち払う様は、まさしく怪力乱神が無双の力を振るっているが如きものだった。

 それに、畏怖を抱かぬものは居ない。凡人は目の前に聳えたつ超常に慄き、英傑なれば武勇の高さにたじろぎを覚える。それほどまでに、未来王アレキサンダーの個人的武技は凄絶を極めていた。

 故に、赤毛の少年が猛然と突撃する様に、まともに立ち向かうことができなかったとしても、それは致し方のないことだった。あるものは恐怖に囚われ、あるものは生に縋った。蜘蛛の仔散らすように、重装歩兵たちは四方へと逃げていった。

 逃げる者を追わなかった。彼は聡明であり、だからこそ戦争と呼ばれる事象の愚劣さを理解している。無為な死を不必要にばら撒くことほど愚かなことはない。

 むしろ、そんな愚劣を気にかけている暇などありはしなかったのだ。

 彼の聡明な目が捉えたのは、無秩序にばらける兵士たちのただ中に、漠と立ち尽くす赤銅色の髪の人物だった。

 黒い装束に身を包んだ、背の低い女性。アレキサンダーより少し大きいほどだろうか。頼りなさげな人物は、側頭部で一つ結びにした自分の髪を弄りながら、凡夫めいた眠たげな目を少年に返した。

 アレ、だ。

 アレキサンダーは直観的に、理解した。

 無論、その特異的な風采が目を惹いたという事実はある。だが、それは直観の傍証ではあれ、本質ではない。

 戦士の直観。指揮官としての直観。そのどれでもない、アレキサンダーという人物の起源が想起させる、存在論的振戦。流浪の獅子が獅子の王を前にしたが如き凄絶な愉悦に表情を歪めたアレキサンダーは、しかしそれと同時に喉を鳴らした。

 矮小な女性の左手が、ゆらりと掲げられる。無聊の慰めのように髪を弄っていた手が掲げられるとほぼ同時、緑の外套の弓兵十数騎が亡霊の如くに現出する。素早く矢を構えた弓兵たちに目配せもなく、赤銅色の髪の少女は斧を振るうように左手を振り下ろした。

 「()て!」

 分厚い矢が群れなし押し寄せる様は、巨大な岩塊が飛んでくるよう。先ほどの無秩序な矢の斉射とは質を異にする分厚い火箭の集中。アレキサンダーの武勇が如何ほどであろうが、この夥しいまでに正確かつ緻密な射撃を突破しきるのは困難だった。

 『始まりの蹂躙制覇(ブケファラス)』を使えば、この攻撃を突破できる。だが魔力消費の激しい対軍宝具を今使うわけにはいかなかった。彼にはまだやらなければならないことがあり、そのためには、全力を出すわけにはいかなかった。

 故に、彼はもう一つの宝具を抜き放つ。

 掲げるは両刃の剣、スパタ。

 高らかに言祝ぐは父なる主神の聖名。応じるように大気の大源(マナ)が慄くように震え、積乱雲の如くに渦を巻く。

 見る間に、少年の面持ちが変容する。知悉に満ちた瑞々しい少年の面影を残しながらも、剽悍さを彫り込んだ貌に剛直が瞳に宿った。口元に歪んだ媚態は少壮気鋭の笑みに代わり、華奢な矮躯がぎちりと隆盛した。

少年から青年へ。瞬く間に体躯を伸長させた未来王アレキサンダーは、猛々しい震霆の如き魔力を放出させ、一文字に剣を薙ぎ払った。

 真名とともに放たれる斬撃。剣先の軌跡をなぞるように、アレキサンダーを中心として放出された無形の魔力はまさしく雷霆であった。正しく青天の霹靂となって荒れ狂った爆発的な雷撃は、蛇がのたうつように周囲を焼き払っていく。アレキサンダーを狙って放たれた矢など、穹を散る花びらの如くに繊弱だった。

 『神の祝福(ゼウスファンダー)』。それこそが、アレキサンダーの持つ第二の宝具。オリュンポス十二神の一柱、主神たるゼウスの仔である逸話が昇華された宝具。自らの躯体に主神にして雷神の神気を取り込むことで、ステータスを底上げするのが本来の目的ではある。だが本来自らの肉体に取り込む神気を武装に纏わせることで、純粋な攻撃力を跳ね上げさせることを可能にする。さらに、『神の祝福(ゼウスファンダー)』によって獲得した【魔力放出(雷)】と相乗することで、アレキサンダーは対人宝具程度の魔力消費ながら、疑似的に対軍宝具に比肩する火力を手に入れていた。

 最も、これは彼が生前編み出した戦闘技法ではない。また英霊に昇華されることで身に着けた技法ですら、ない。此度の召喚において、ともに轡を並べた軍師のサーヴァントの指導によって成立した、ただ一度だけの宝具運用だった。

 のたうつ雷の大蛇。荒れ狂う神気の波濤。渦を巻いた魔力がエネルギー風を形成し、アレキサンダーの周囲は、ほとんど災害と同意だった。

 だが、その暴戻の様は、アレキサンダーにとっても激甚だった。怪馬ブケファラスをして踏鞴を踏むほどの颶風に、赤毛の青年は舌打ちする。端的に言って、彼はまだこの宝具の新運用に不慣れだった。そもそも、今の一撃が初めての新運用なのだ。

 アレキサンダーの制御を離れた魔力と神気が放縦の限りを尽くす様は、予想こそしていた。予想していたが、実際の破壊の様はアレキサンダーの予想を遥かに上回っていた。アレキサンダーはまだ少年であり、自分の力量の淵源にまでは理解が及びきっていなかったのである。

 そしてその瞬間、アレキサンダーの行為は愚行に転じていた。敵陣の中にあり、しかも単騎で足を止めてしまったのである。その事実に行きついた時、胸郭を満たしたのは驚愕と感心をブレンドした苦旨い情動だった。この状況は、きっと偶然にもたらされた現象ではない。精緻に計算された戦術的現象に違いなく、その現象を算出した魔術師こそは、あの鈍い銅線を束ねたような、寝ぼけた少女の式に他ならなかった。

 ───いいな、と思った。

 青年の体躯を得たアレキサンダーは、口角を緩めた。人材蒐集が趣味とすら言える赤毛の青年は、有能な人材であれば誰であれ感心を持つ。彼の語彙で表現すれば、征服したがる。今回も、そんな述懐を沸き上がらせたのである。

 だが、そんな子供じみた情動は、束の間のものであった。今回はもう、先客がいるのだ。目移りして本命を取り損ねるのは、彼の本意ではなかったし、またそんな拙劣はあの少女にとっても失礼だろう。

 予測する。

 こちらの動きを止めたなら、あとは戦力を殺到させて撃破に移る。それも、ゴーレムが追いつくよりも早く。だが、並の人間では、この荒れ狂う魔力の坩堝に飛び込んだだけで肉体が粗びき肉団子になる。ならば、次こそは本命。サーヴァントを投入するタイミングに他ならない。

 およそ二瞬。秒ほども無い思索の後、アレキサンダーは真後ろへと両刃の剣を振り抜いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

狂言交錯

64話が短かったので、続けて65話です




 「しかし、これは一体なんなんだ?」

 そうぼやいたのは、灰斑葦毛の馬上に跨るライネスもとい、彼女の肉体を器とする司馬懿だった。白磁の陶器を思わせる端正な面持ちを不可解に顰め、疑念にかられるように首を振るたび、プラチナブロンドの髪が金の糸が揺れるように閃く。傍目で見れば耽美的で芸術的な身振りではあったが、本人としてはただただ疑念だけが鬱勃とする状況だった。

 戦況が動いたのは、リツカが率いる本隊が敵との遭遇戦を本格的な戦闘に発展させて、30分もした後のことだった。

 エトナ火山からじわりと出現したゴーレムの軍勢が、一路索敵部隊を救出するために進軍を開始したのである。

 カルデアからの報告を聞いた司馬懿はまず途方に暮れ、そして首を捻り、眉間に皺を寄せた。

 敵の動きは、あまりに緩慢としか言いようが無かった。救援に動くにしては、判断が遅い。既にリツカは陣形を形成し、敵を包囲殲滅する体制を整えている。救援に駆け付けたところで、既に戦力が撃滅されている可能性が高い。さらには包囲殲滅後、再度陣形を形成した敵が逆に増援のゴーレム部隊を迎撃・撃砕する可能性すらある中、敵の動きを理解することは、司馬懿という人物の理解の範囲を超えていた。

 なにがしかの奇策を用意している。そう見るのが適切と判断した司馬懿は、少数の騎兵とクロエ、トウマを派遣。敵増援を側背から強襲させ敵を分断する策を講じた。

 本来であれば大戦力で敵を撃破するべきところであり、普段の司馬懿であればそうしたに違いない。だがこの時ばかり、司馬懿は敵の戦術を読み切れなかった。それゆえに、敵の出方を見るつもりだったのである。トウマたちにも徒に敵の撃破に奔ることなく、ある程度戦ったら一端引くように指示を出していた。

 だが、蓋を開けてみれば、敵の増援は瞬く間に殲滅させられたのである。牽制のための横撃に過剰に反応したゴーレムたちはそのまま反転攻撃に移り、そうして各個撃破の後に壊滅したのである。

 (言っておくけど、宝具を使ったりはしてないから)

 空中投影される通信映像の向こうで、クロは困惑とも言い訳ともとれる言葉を話している。表情は少しだけ怒り気味のようだった。敵の暴挙に対する困惑が3割、無謀さへの怒気が5割。敵の意図を捉えきれない苛立ちが2割といった表情である。

 「まぁなんだ、そろそろ戻ってきてくれ」

 と通信に言いかけた司馬懿だったが、結局その指示を出すことはなかった。エトナ火山から出撃したゴーレムたちが、同じ進路と速度を取り、再度攻勢をかけてきたのである。ご丁寧に、戦力数すら同じままに。

 「悪い、もう少し敵の出方を見てくれないか。あまり殺しきらずにな」

 司馬懿が口にした言葉は、全く以て知性を感じさせない指示だった。秀才の極致ともいうべき名軍師が出すにはあまりに素朴であり、また覇気のない指示である。

 (別にいいけど。騎士様(エクィテス)たちはなんか喜んでるし)

 「既得権益者というのは、いつだって呑気なものさ」

 指示を出す方にも覇気が無ければ、また指示を受ける方にも覇気などなかった。実際、クロに返答を返したのは司馬懿ではなくライネスであったところが、何よりの証拠だった。

 散文的ですらない日常会話レベルの連絡を終えると、司馬懿はただただ途方に暮れたように、戦闘が行われているであろう方角を振り仰いだ。

 

 

 「倒しきらずに、って言われてもこれじゃあね」

 栗毛の駿馬に跨ったクロは、冷ややかに背中に跨る人物に言った。言われた人物は、と言えば、まともに言葉も発せぬまま、肉食獣に追い回された後の小動物みたいに痙攣していた。

 「情けないわねぇ。もっと怖い目にあってるじゃない」

 振り落とされないようにがちりとクロに抱き着いた少年……マスターであるトウマは、騎馬の戦闘機動で三半規管がめちゃめちゃになっており、ただただ涙と唾液を垂れ流していた。仮にも2つの特異点を攻略した人間とは思えない、無様な醜態である。

 最も、これは仕方のないことである。全く乗馬の経験のない素人がいきなり早駆けの騎馬に跨る……しかも馬具の類すら無く騎乗するなどというのは、尋常じゃないなどという言葉で言い表せない奇態であった。

 無論、クロエ・フォン・アインツベルンにも乗馬の経験は一切なかったが、そこはサーヴァントという存在者の性質が成せるもの。本来弓兵では持ちえないクラススキル、【騎乗】を所持しているが故、クロは生前の経験など全く関係なく、騎馬を操れた。個体としての馬の性質や操作性を理解し、あまつさえコミュニケーションを取り得る。名騎手(ジョッキー)とすら呼べる技倆は当然彼女の生前の営みには存在せず、にも関わらずまるで自分のことのように行使する。奇怪極まりないこの出来事を、しかし当然のように受容する。サーヴァントとして召喚されるとは、このような尋常でない事態を自然と受容することでもあった。

 騎馬に跨ったまま黒い洋弓を構えたクロの姿は、正しく遊牧民というべき姿だった。ノマドの如くに尾花栗毛の駿馬を走らせたクロは騎上から矢を射かけてゴーレムを打ち倒し、肉薄するゴーレムは投影したハルバードで打ち砕き、轢殺する。敵勢力の7割をクロが撃破し、残り3割はローマ軍のエクィテスが討ち取るという構図を、かれこれ3度繰り返していた。

 重装歩兵と異なり、軍事的エリートに属する騎士階級たちの奮戦は、クロも目を見張るところだった。本来スリーマンセルが常道になりつつあった対ゴーレム戦闘にあって、騎士たちは1人で1体のゴーレムを撃破していたのである。そして軍事的エリート階級という身分もあってか、ぽっと出で、且つ傍目には少女でしかないクロが軍事的指揮権を行使することを、ごく自然に受け入れた。葛藤が無かったわけではないらしいが、その主観的葛藤を論理的正当性に置き換え、落としどころを見つけ得る点が、彼らをエリートたらしめたのである。

 「敵は何を考えて居るのでしょう」

 クロの横に騎馬を並べた兵士は、うんざりしたように言った。最初の戦闘でこそ勝利に歓呼を上げていたが、それも2度目までである。3度目にもなると、勝利の余韻より遥かに徒労感が増す。大なり小なりあるが、20人の騎兵たちは皆、敵の無為な猪突に閉口していたのである。

 「どう思う、トーマ?」

 クロは特に益するものがないとわかっていたが、我が主へと声を向けた。彼にはサーヴァントに対する知見にこそ豊富だが、それ以外のことは基本的にからっきしなのだ。そして何より、トウマは返答できる状況になかった。未だクロの背中にしがみつくしかできない少年は、「わかんない」と情けなくも短い返答を漏らしただけだった。

 並んだ騎士が胡乱な目をトウマに向けていた。サーヴァントであり、超常の力を振るうクロへの畏敬は既に備えているが、その少女の背で何の役にも立っていない16歳の若造に対して、はてどんな感情を持てばいいのか。自分たちでも、測りかねた様子である。

 ただ、そんなトウマを揶揄できるほど、クロも騎士たちも現状を能く理解していないのである。無為な救援行為を繰り返す有り様は、はっきり言って愚劣としか言いようがない。戦力の逐次投入という愚策も併せて、敵の意図は未だに不鮮明なのだ。

 勁い用兵とは即ち、的確に、迅速に、まとまった戦力を動かすことに極まる。敵の行動は、それとは正反対だ。それを愚劣と言わず、一体何と表現するのか。素人でもわかる愚劣を働く敵の意図は、一体何なのか。

 (トウマくん、クロちゃん聞こえてるかな)

 と、網膜の裡に通信映像が浮かんだ。モニター越しに浮かんだロマニの顔は、しかし緊張を含んだ表情をしていた。

 (あと5分後、また別な戦闘集団が来るようだ)

 「また?」

 (あぁ。でも今回はちょっと毛色が違うようだ。規模こそ変わらないが、サーヴァントの反応がある。注意した方が良い)

 クロは、背後でうなだれる少年を一瞥した。肩越しに見えた少年は、相変わらずやつれた顔をしているが、この時はしっかりとクロを見返した。

 いよいよ敵は本腰を入れてきた、と見るべきだろう。弓を掴む手に微かに力を入れながらも、やはりクロは逡巡する。

 どうして、今更にサーヴァントを投入してくるのか。しかもこの局地戦に投入する意味は何なのか。

 そうして2瞬ほど思案してから、クロは小さく首を横に振った。考えても詮の無いことと思い直すと、栗毛の馬を翻し、騎士たちを振り仰いだ。

 「また敵が来るわ」騎兵たちの間に、明らかにうんざりという言葉が相応しい情動が惹起した。だが、クロは続けて口にした。「次の戦闘群にはサーヴァントがいるらしいの」

 瞬間、ざわりと戦きが惹起する。顔を見合わせ合う騎兵たちは、明らかに動揺を覚えた様子だ。

 当然である。今でこそ味方として膂力を振るっているが、そもそもローマ帝国を危機に陥れたのは、敵のサーヴァントの強大さだった。それが、まさに牙を剥かんとしている。恐れを感じない方が無理というものであった。

 だが、それでも引き下がらないのが彼らである。幼少期から騎乗の訓練を積み、国から公馬を賜る騎士(エクィテス)たちにとって、恐れる弱さはあれど、引き下がる卑劣の持ち合わせはなかった。まして、サーヴァントとはいえ、年端もいかない少女が殺し合いに身を投じるというのである。どうして、矛を下げ、逃げ帰ることができようか。

 そんな決然とした表情を見、クロは複雑に情動を惹き起こした。

 彼らの決心は軍事的ロマンチシズムとは一線を画した、倫理的な先駆的決意であろう。それに冷笑を浴びせられるほど、クロは豊かな感受性の持ち主ではなかった。

 「いい、次の戦いは基本、逃げに徹するわよ」

 だから、クロは先立って宣言した。

 「差し出口を挟むけど」言葉を引き継いだのは、クロの背中に顔を青くしながらしがみつく少年だった。「敵のサーヴァントがどんな性能でどれくらい強いかわからないから、様子見ながら後退。場合によってリツカさんたちと合流して迎撃する方が、いいかなぁと」

 一気に声を吐き出すと、ぐだり、とトウマはクロの背に顔を埋めた。

 「トーマの言う通り、敵の出方を見るべきね」クロは背中の重量を感じながら言った。「敵のサーヴァントの方が強力だった場合、私じゃ手に負えないこともあるわ」

 騎士たちは、思わずといったように互いに顔を見合わせた。彼らにとり、クロという人物の精強さはまさしく人外の域にあったからだ。

 だが、単純なステータスで考えた場合、クロは決して強力なサーヴァントではないのだ。近現代の英霊としては高めのステータスではあっても、古代の英霊と比すれば非力としか言いようがない。単純な筋力値で言っても、クロはDしかない一方で、例えば冬木で出会ったヘラクレスなどはA+に達する。到底、太刀打ちできる敵ではない。

 クロの懸念は、レイシフト直後の戦闘に姿を見せていた、あの女武者だ。バーサーカー、というクラスからは想像もできない武芸の冴えを感じさせた。絨毯爆撃さながらに見舞った宝具の連射を当然のように掻い潜り、斬り伏せて見せた撤退戦での技倆。あれは正しく、その時代最強の武芸者が有するものだった。

 そのスキルに、クロは身に覚えがある。

 【無窮の武練】

 オルレアンで、あの湖の騎士が振るったスキルだ。それと同じか否かは不明だが、少なからず、それに類するものを、あのバーサーカーは所持している 。

 合理的推論というより、第六感にも似た洞察。クロの持つスキル【心眼】は、経験的事実から合理性にたどり着く帰納的なのものでなく、天性の勘によって、洞察される演繹的なものだった。

 仮に、あのバーサーカーがランスロットと同格の強さであった場合、勝ち目はないに等しい。ランスロットに勝利できたのは、クロ自身がランスロットと以前戦闘したことがあり、さらにトウマの”原作知識”があったからだ。逆に言えばそれらが無ければ対策など立てようもなく、そうなったとき、単純なステータスの差は露骨な戦力差として現れるだろう。

 「いい、下手に戦っちゃ駄目よ。逃げる時は逃げる! いいわね」

 騎兵たちが皆頷くのを確認してから、クロは栗毛の馬の頭を敵が来る方角へと向かわせた。

 「投影、開始(トレース・オン)

 言祝ぐように、クロが魔術を作動させる。

 分類上シングルアクションに近い魔術だが、その実態は大きく異なる。その呪文は、実際のところは呪文などではない。彼女───というより、彼女の核を形成する英霊は、その魔術を行使するのに何ら呪文を必要としない。故にその言語動作は、ルーティンに近かった。

 薄い桜色の唇が蠱惑的に蠢動する。言語が象られると同時、彼女の脳内に明瞭な輪郭を伴った武装が浮上する。

 朱色の、魔槍。英霊クー・フーリンが振るう、放てば心臓を必ず抉る因果逆転の魔槍。

 そして、クロが大脳古皮質の奥底で基本骨子を想定したときには、既に完了していた。特異的な投影魔術(グラディエーション・エア)は完了し、彼女の手の中に、太古の幻想(ノーブル・ファンタズム)が顕現していた。

 「投影、変形(トレース・ダブル)我が骨子は捻じれ狂う(I am the bone of my sowrd)───」

 連続して、彼女は投影魔術から流出した術式を起動させる。彼女では固有結界の再現は不可能だが、そこから派生する魔術であればその全ての運用を可能とする。宝具の強化から変形に至るまで、クロエ・フォン・アインツベルンは、かの英霊の持つ技能を再現し得る。

 ───そうして、クロの手に最終的に残ったのは、赤い一本の矢であった。つい先ごろまで、彼女の躯体の倍ほどもあった長槍は、深紅の矢へと姿を変えていた。

 矢を、黒い洋弓に番える。矢じりと弦が軋みあい、左手の甲に堅い矢箆が触れた。

 狙いは上空。抜けるような穹窿に鏃の切っ先を向けた。

 「───『偽・鏖殺槍(ブリューナクⅡ)』!」

 そうして解放された真名は、光の御子が振るう赤き呪槍と同じ銘を有していた。

 クロエ・フォン・アインツベルンの為し得るほとんどの魔術は、核を形成する赤い弓兵の英霊の技能を根幹とする。翻って言えば、彼女は英霊エミヤの二番煎じでしかない。

 それは、彼女自身がよくよく心得ていることだった。そして同時に、クロは向上心が高かった。オリジナルの彼女(イリヤスフィール)と比しても、また彼女から分離した彼女(イリヤス)と比しても、こと戦闘技能に限り、彼女は自らを恃み、また卓越させること怠りない。即ち、彼は英霊エミヤ(おにいちゃん)遺産(戦い方)をただ食いつぶすように転用する以上に、自らに最適化させ続けている。

 まさに今彼女が撃ち放った宝具は、彼女の手によって改竄(かいぞう)された伝承の、一つだった。

 クー・フーリンが振るう赤い呪槍ゲイ・ボルグ。穿てば因果を逆転し、必ず心臓を貫くその槍の欠点は、射程の短さにある。逆転すべき因果が発生しえない長距離戦において、ゲイ・ボルグはただの槍に過ぎない。また運動性能に長けるサーヴァントが敵であった場合においても、すぐさま射程外に逃げられれば、文字通り無用の長物と化す。 

 クー・フーリン本人であればともかく、ステータス上決して優秀とは言い難く、また小柄故槍の扱いに不得手のクロには、使いにくい宝具であるのも事実だった。

 ならば、ゲイ・ボルグを己に使いやすく改造すればいい。槍ではなく、自らが得手とする武装へ。アーチャーのクラスに相応しい、射れば心臓を狙い追尾誘導する呪いの矢。原典ほど強力な因果逆転こそないものの、高い運動性能を以て目標を必殺する矢は、投影コストの低さを想えば便利な宝具だ。長射程という点ではフルンディングに劣るが、1~2km程度での迎撃には便利だった。

 クロの手を離れた呪いの矢は、愚直なまでに穹を翔ぶ。既に獲物は定められ、後はただその穂先に心の臓を抉るのみ。

 極限まで単機能化された幻想は、ただ一つの結果だけを求め、1km先に迫ったサーヴァントを刳り貫いた。

 はず、だった。

 ───ふと、クロは異様な違和感を覚えた。何かがおかしい、と思った少女は、次の瞬間愕然とした。

 右手は、未だ矢を掴んでいた。黒い洋弓は空に構えたまま、呪いの矢は手から離れていない。数舜前の「射た」感覚は残りながらも、未だ自身はその行為を為していなかった。

 いや、それだけではない。妙に心臓がざわつく。全身の毛穴が嗚咽するように開いている。視界がぶれている気がする。手が、震える。延髄に焼き鏝をねじ込まれるような頭痛が炸裂する。

 混乱一歩手前の情動。ざわざわと全身の肌が粟立ちながらも、完全に不定の混乱には陥らなかった。彼女の冷徹なまでの戦術眼が己の理性を立て直した……わけではない。

 「クロ!」

 彼女の理性と良識を奮い立たせたのは、背中にしがみつく少年の鋭い気宇の声だった。

 「宝具だ、なんだかわかんないけど、敵の宝具の効果ってだけだ!」

 酩酊するような視界の中。臓腑からこみあげてくる嘔吐感を抑えつけ、クロは番えた矢を今度こそ撃ち放った。

 間違いなく、今度は矢が飛び去った。怒張の弦から解放された朱色の矢は音速にも匹敵する速度で相対距離1kmを踏破する。4秒未満で彼我距離を零に詰めた必殺の矢は、過たずに敵を刺し穿った。

 はず、だった。

 およそ半瞬。間違いなく射たという弓兵としての直観が閃くのに遅れ、ほんの僅か。首を擡げた疑義に、クロは怖気にも似た不快感を惹起させる。

 まだ振り切っていない。敵の宝具だかスキルは、確実に自分を蝕んでいる。

 脳裏に過る対魔の宝具。だが脳裏を空転するだけ空転した虚像は、瞬く間に思考から霧散していく。

 何かが変だという感覚だけが鬱勃とのたうち、でも何が変かすらも不鮮明に溶けていく。胸郭を押し上げ肋骨を破砕するほどの動悸が肺を打ち、全身の汗腺から絶対零度の脂汗が滲んでいく。

 「クロ、敵だ!真後ろにいる(チェック・シックス) !」

 混濁する五感の中、厭に鮮明に響く声。見知ったようなそうでもないような声の赴くままに、右手に投影した矢の切っ先を背後へと突き立てた。

 空を切る鏃。一瞬の後に五指を貫いた感触は、しかし酷く硬質だった。

 「っと、間一髪って奴だねこれは」

 耳朶を衝いた声は酷く輪郭が毀れていたが、にも関わらず、何故かクロの脳内にざくりと突き刺さった。

 「全く、七面倒臭いやり口は凡夫のお義兄様らしいな!」

 立て続けに頭蓋を揺らす空色の声。嗜虐性すら感じさせる声が響くと同時、視界を真紅の双眸が閃いた。

 「『混元一陣(かたらずのじん)───!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

不埒な間柄

66話です


 荒れ狂うマナの奔騰。神気は雷の形をとりながらのたうちまわり、相乗したエネルギーが颶風を撒き散らしていた。

 常人では到底踏み込めない嵐風。サーヴァントとても生半可な装備で踏み込めば、忽ち身体を引き裂かれ、あるいは雷に消し炭にされるだろう。そんな暴威と相対しながらも、赤いフードのアサシンは、一切の躊躇なく嵐の中へと猪突した。

 彼には、マナの動きも、ぶつかり合うエネルギーの波濤も、何もかもが見えていた。

彼は生前、魔術師だった。正確には魔術使いと呼ばれる極右の異端だったが、彼自身、魔術師としての才覚も優れた素質を持っていた。

 僅かに4代で封印指定を下された卓抜の家系に生まれた男は肉体レベルで魔術師として形成され、また魔術師を殺すために後天的に錬成された男の五感は、正確に魔力の流れを読み切るアプリオリとアポステリオリの綜合によって存率するアサシンは、極めて正確に荒れ狂う魔力の渦に航路を見出していた。

 1歩、2歩。躊躇など一切なく突き進むアサシンは、時折押し寄せる魔力を短刀(ナイフ)で切り裂き驀進する。そうして3秒、赤毛のライダーの背後に肉薄したアサシンは、一切の躊躇なくそのうなじ目掛けて短刀を突き立てた。ただでさえ異相のエネルギーが相克する渦の中、気配遮断で距離を詰めるアサシンの存在など、それこそ高ランクの【気配感知】かそれに類するスキルでもなければ到底対処できるものではない。故にその単純なナイフの刺突は、この状況においては必殺だった。

 だがその時、アサシンはある種直観していた。恐らくこのライダーは、この必殺に対処する。戦士の勘だとかなんだとかいう曖昧模糊とした理論以前の論理で以て的確に反撃してくるに違いない。

 だから、アサシンはその光景に対して、特段の感情も惹き起こさなかった。まるでコマ送りのスロー再生のようにアレキサンダーが丐眄し、両刃の剣を振り抜く様は、アサシンが予想していた動作と全く以て同じだった。

アサシンの一閃と振り向きざまの斬撃が重なる。筋力値はアレキサンダーの方が上だった。『神の祝福(ゼウスファンダー)』で強化された青年の肉体であれば、その数値差は2ランクに及ぶ。拮抗すら許されず弾き飛ばされたアサシンは、しかし弾き飛ばされながらも次弾を打ち放った。

 右手に装備した短刀(ナイフ)を投擲する。魔力と神気がのたうつ戦禍にあってなお、標的過たずに射出された刃は、流石の暗殺者のクラスと言うべきだった。

 アレキサンダーの眉間を寸分違わず疾駆した裂帛の閃光。前頭骨と鼻骨を破砕しくも膜を引き裂き前頭葉を貫通し脳梁間脳を抉り小脳を轢断し、血と脳漿の飛沫を撒き散らすと、音もなく崩れ落ちていった。

 「ブケファラス!?」

 脳天を抉られた怪馬は、絶命の嘶きを上げた。主が死ぬ寸前に立ち上がった駿馬は、自らを肉盾とし、主の命を救ったのだ。

 アサシンは、小さく瞠目した。動作こそ僅かだが、その衝撃は甚大だった。間違いなく仕留めと思った、二度目の必殺。まさか防がれると思わなかった一撃を躱されたアサシンは咄嗟に中型蛮刀(マチェット)を引き抜いたが、勝ち目が無いことは十分に承知していた。

 倒れ込む青鹿毛の馬体から飛び退いたアレキサンダーは、愛馬には一瞥すらくれずにアサシンを正面に捉える。生粋の戦闘者としての技倆は、間違いなくアレキサンダーが上だろう。基礎スペックからも自明であり、また宝具の特性から、アサシンのそれはあのライダー相手には有効ではない。

 アサシンは、舌を打つ。超常が渦を巻き壁と化しているこの戦場にあって、まさにアサシンは闘技場に放り込まれた剣闘士と大差なかった。逃げ場はなく、また隠れる場所もない。アサシンが戦うべき戦場か否かは、まともに論ずるべくもないだろう。

 そして、アレキサンダーはその戦況を正確に理解している。理解したが故に、躊躇もなにもなく、アサシンの懐へと一挙に肉薄した。

 上段から振り下ろされた剣戟に、アサシンは再度マチェットの刃先をぶつける。本来は躱すべき一撃でありまともにぶつかっては押し切られること必定だったが、躱すことは不可能だった。巧妙な機動で斬りかかったアレキサンダーは、蠢く魔力の壁にアサシンを追い込むように接近。退路を断ちながら格闘戦に持ち込むことで、運動性能に長けるアサシンの長所を潰した上で、自らを得手とする戦いに引きずり込んだのだ。

 剣戟は僅かに一合。忽ちにマチェットを弾かれたアサシンが踏鞴を踏んだ瞬間こそが隙であり、横薙ぎに払われた一太刀は一刀のもとにアサシンを両断するだろう。たとえ宝具を使ったとて、間に合わない。あっさりと理性的に諦観したアサシンは、ただ次の瞬間に迫りくる斬撃に滞留した。

 

 

 アレキサンダーの剣は、およそ1秒未満でアサシンの頸部に到達するだろう。スパタ自体は宝具に届かない名剣でしかないが、神代が色濃く残る時代の剣である。強力な神秘を内包した剣は強力な魔術にも匹敵する脅威であり、アサシンの首など熱したナイフでバターを斬るよりも容易く首を落とすに違いなかった。

 だが、アレキサンダーの剣が振るわれることはなかった。

 「いやー、全然気が付かなかったよ。流石アサシン、というべきかな」

 ひやり。

 首元に閃く冷たい閃光に喉を鳴らしながら、アレキサンダーは背後の人物に賞賛の言葉を送った。

 返事は、ない。闃寂を滲ませた白髪の少女の佇まいは、むしろその無音こそが暗殺者の最大の礼なのだと物語っていた。

 周囲の暴威が凪いでいく。大源は静かに空中を揺蕩いはじめ、雷撃はひっそりと煌めきを失っていく。残念、と内心独り言ちながらも、アレキサンダーの表情は晴ればれしていた。

 「それで、僕はどうなってしまうんだい」こんな時でも、アレキサンダーは陽気だった。「やはり、殺されるのだろうか。それだと、ちょっと困るんだけど」

 「さぁな」マチェットを拾った赤いフードのアサシンは、酷く陰気だった。「ボクじゃなく、あっちに聞いてくれ」

 くい、とアサシンが顎をしゃくる。釣られて視線を向けたアレキサンダーは、あ、と小さく声を漏らした。

 意外、というよりは、遥かに感動が勝る。青年の姿(かたち)にこそなれ……否、征服王と呼ばれしイスカンダル大王の姿であっても、その姿に、男は目を輝かせただろう。

 赤銅色の髪の女。困ったように首を傾げながら、側頭部で結んだ髪をしきりに弄る、どこかできの悪そうな少女は、表面上の礼節を弁えたように頭だけ下げた。

 「君が人類最後のマスター、って人かい?」アレキサンダーは隠そうともしない好奇の目を、リツカに向けた。「すごいね! 完全に手玉にとられたよ」

 「指揮官としての話なら、まぁ」

 寝ぼけたような目のまま、リツカは納まりの悪い微笑を口角に漏らす。極まりが悪さ半分、羞恥が2割。あと3割は自分でもよくわからない、という感情らしかった。

 そうしてリツカはそう言うと、アレキサンダーと視線をずらした。目線はすぐ背後、首元に鉈を突き付ける白髪の少女は一瞬だけ迷った後、無言で鉈を腰のベルトにぶら下げた。

 「まぁ、私がやってるのは単なる机上の空論ですから」

 言って、リツカは自分の元に近づいてきたジャックの髪を、わしゃわしゃとかき回した。まるで大型犬とか馬とか、愛すべき動物を労わるような仕草だった。

 「いいのかい、ボクを放してしまって」不敵な物言いとは裏腹に、アレキサンダーも既に肢体から膂力を脱落させた。「この距離だ。君の首を刎ねるのは、そう難しいことじゃあないと思うよ」

 「その時は、私の考えが間違っていたってだけの話ですから」

 なんでもないことのように、リツカは言う。死の恐怖が無い、という様子ではない。ただ合理的な思考のもと、この状況が成立していることを十二分に知悉している。そんな、呑気な顔だった。

 「それに、これから友人になろうって人とは対等であるべきでしょう? 少なからず、首に刃物をちらつかせて話し合いなんて、私は勘弁してほしいかなぁ」

 ねぇ、とリツカはジャックに声を向ける。少しだけ困ったような顔をしてから、ジャックは、そうだね、と応えた。

 「流石、というべきかな?」

 「誰でもわかるでしょう。貴方の目的が、私たちと戦うことじゃあない、ってことくらい」

 やはり、リツカの顔は平然としている。肩を竦めたリツカに、アレキサンダーも苦笑いした。

端的に言って、とリツカは始めた。

 アレキサンダーの戦術行動は愚行の繰り返しだった。威力偵察にしては規模の多い部隊を率いての索敵活動。そこから遭遇戦に発展した際の、無意味とも思える戦闘行為。さらにアレキサンダー単騎で突出する不可解さ。愚将であれば納得のいく行為だが、軍を率いているのが征服王イスカンダルであるのだから、その愚行には明らかな合理的理由がある。

 「まぁそう考えて、思ったんですよ。多分、アナタは私に会いたがっている。それも単純な興味というだけじゃなくて、将来的に私たちと共同戦線を張るつもりだ、ってね」

 もし、ただたんな興味であるなら、わざわざ貴重な戦力であるゴーレムを巻き込むことはしないはずだろう。戦力を徒に漸減させることは、最も避けなければならないことの一つだ。にもかかわらず、敢えてその行為を執ったということは、つまりはそういうことだった。

 「まぁ、付き合わされる方は憐れだけど」

 言って、リツカは遠くを眺望する。両側面からの攻撃で壊滅したゴーレムたちの残骸は、既に土くれに還った痕だった。

 「正解。君の言う通りだよ、フジマルリツカ」

 「どもども」

 律儀に、リツカは頭を下げた。なんだか先生に褒められて照れ臭くなったような、そんな仕草に見えた。

 「僕と先生は今ある目的の為に動いてる。その為に君たちの力は確かに必要だ。でも、今はまだその時じゃあない。いや、正確じゃあないなそれは、まだ君たちの力量に、僕たちも確信を抱いていない、というべきかな」

 「つまり」

 「英雄には試練がつきもの、だろう?」

 リツカは、少しだけ面倒くさそうに肩を落とした。片側だけに結んだ馬の尾のような髪をかき回したリツカは、「それが何なのかは教えてくれるんでしょうね」と漏らした。

 「あの火山にいるサーヴァントを斃せばいいのさ」

 「アヴィケブロンですか」

 「驚いたな、真名まで見抜いているのかい?」

 「いや、これはもう一人マスターやってる人が推測で。あーそうだ、その人が貴方の真名も見抜いたんですよ。ヤバイですよね」

 そう言ったときだけ、リツカの表情は綻んだ。呑気と倦怠感を攪拌したような顔はそこに無く、年齢相応……より若干老成した無邪気な顔だった。

 「別に、ナントカって宝具。使わせずに倒してしまっても、構わないんでしょう?」

 「あぁ、構わないよ。存分にやっちゃって」

 アレキサンダーは挑発的な微笑とともにスパタの剣を納刀した。

 既に、ブケファラスは死亡した。本来、アレキサンダーとして召喚された彼にはそれが唯一の騎馬であった。

だが。

と、反証するように、アレキサンダーは剣を掲げた。腰に下げたスパタとは別なそれは、本来、少年として召喚された彼が持ちえない剣であった。

 「じゃあ、僕はちょっと行ってくるよ」

 掲げた剣先が、陽光を受けて朧を纏った。不知火の如き揺らぎを剣が放つと、そのまま、

 「先生の迎えに行かなきゃ。またあとで会おう、僕の友達くん?」




66話でした

次回は11月27日投稿予定です、お楽しみに


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

教鞭は、情けなさとともに

67話です


 あ、と声が舌を滑った。

 クロがまず視界に捉えたのは、呪詛を張り付けたが如き深紅の矢だった。右手に牢乎と握られたそれは、間違いなく自分が投影した偽装宝具だった。

 銘、『偽・鏖殺槍(ブリューナクⅡ)』。2パターンの真名解放により、超遠距離からの狙撃とクラスター爆弾さながらの制圧射撃を可能とするそれは、無論ただ刺しただけでも甚大な威力を有する。原典を神代はケルトに持つ矢は、改造によりその神秘を減殺されたとしても、英霊を屠るにあまりあるだけの脅威を有する。いわんや生身の人間をや。真名解放すら無く、人間など容易く絶命するだろう。

 その矢の、鏃。右の手にがちりと握りこまれた呪いの矢の刃先は、黒髪の少年の眉間に迫っていた。

 あと、数センチ。クロが右手を伸ばしていたら、鏃は少年の脳天を貫き、反吐の出るような脳漿を撒き散らしていただろう。それを数舜前に止めたのはクロ自身の良識などでは一切なく、割って入るように振り抜かれた水銀の直刀だった。

 心臓から膨れ上がった情動が液化したオネガソンの如くに毛細血管の末端まで浸潤していく。眩暈にも似た視界の中で、ただ目の前に付きつけられた少年の顔が網膜に炸裂し、聴覚神経を這い回る。

面前に付きつけられた、無形化への恐怖。身も竦むような恐怖と不定の狂気の淵に足元をすくわれながら、それでいてクロの顔を捉えた少年───トウマの顔が、聴覚野を溢れて延髄あたりで像を結んだ。

 ざ、わ、り。

 左腕の尺骨橈骨上腕骨が、(しず)かに、軋んだ。疼痛(いた)い、と思った。

 「危なかったね、あと1秒遅れてたら君は名誉あるマスター殺しになってたよ」

 しゃらん、と声が鼓膜を撫でる。鉤爪で抉るようで、それでいて愛撫めいた声音を薄い桜色の唇から溢したライネスは、そのままじろりと鋭く眺望を放った。

 「やれやれ、誰かと思えば」

 ライネスの声の調子は変わらない。慇懃さのない、直截な言質。赤い目が打ち据える視線の先に佇む人影を捕捉していた。

 「随分久しぶりじゃあないか、我が義兄上」

 

 

 虚脱するクロを抱き留めながら、トウマはただ、臓腑から這い出して来る振戦をなんとか捻じ伏せていた。

 あれは、自分の判断ミスだ、と思った。敵の宝具らしきものの存在を知った時点で、引くべきだった。戦術眼は確かにクロの方が長ずるだろう。だがその宝具の狙いがクロであり、その影響下で正常な判断ができていないと、いち早く気づくべきだった。

 益体のない思考が、ぐるぐると全身を巡っている。考えても詮の無いこと、と割り切るほかないとわかっていながら、トウマはただ、後悔だけを堆積させる。あるいは、そうしなければ、別種の疚しさで狂ってしまいそうだった。

 ───彼が、真正面から死を突き付けられたのは、多分今回が初めてだった。確かに死と隣接することはあった。冬木であれオルレアンであれ、一歩間違えれば、死んでいたことは間違いない戦いだった。

 だが、およそいつだって、それは死であって殺意ではなかった。殺すというより破壊に近い衝動は、脅威ではあったが、同時にどこか非現実的だった。

 だが、今回のそれは違う。相対距離17cmまで迫った情動は、溶解したリチウムの如き冷徹な殺意であり。端的に、「お前を殺す」という言説の表徴だった。

 恐ろしくないはずがない。所詮はただの高校生に過ぎない少年にとって、死は空想と同義の漠然とした非在のカテゴリアに過ぎなかった。それはテレビのニュースで時折報道され、あるいは友人が葬式で欠席する。生まれたころには両祖父母とも亡くなっていたトウマにとり、死はどこか他人のもの以下のものでしか有り得なかった。それが唐突に面前に付きつけられる恐怖は、およそ筆舌を絶し、言語を尽くしても表現しきれないだろう。

 だが、所詮それは個人的主観的な感情だった。原初的であると同時に幼児的な感情の渦の中で微かに覗いたクロの顔───痛ましいまでの少女の怯えた顔は、そうした個人的感情を突き破り、原初的でもなく未来的でもないアナクロニックな良識に重度褥瘡を惹き起こすのに十分すぎるものだった。

 全てを己が思索の脇に追いやるのは、後悔する素振りをすることしかなかった。そうでもしなければ、トウマは冥い夜の淵に墜落していただろう。それはやるせなく、また回避しえない繊弱な普遍的人間性だった。ただ、彼は胸に抱き留めたクロエという存在者の存在を、この手の中で守っている他なかった。

 窒息するような、幼稚な慨歎。顔を上げる動作をしたのは、ただの心理的逃避だったのかもしれなかった。

だが、トウマの視線が出会ったのは、冷ややかな眼球だった。

 眼鏡ごしに覗く、黒々とした目。重い瞼の下で厳かに蜷局を巻く視線は、まるで人体を切開することに特化したメスを思わせた。

 そして。

 その姿には、見覚えがある。実際に顔を合わせたというのではなく、紙面での既視感。長い黒髪に全く以て不似合いな厳めしい顔の男の、名前は、確か───。

 「おやおや、随分余裕そうじゃあないか。私には一瞥もくれず、こんな変哲もない少年をじっくり観察とはね」

 手慣れた動作で葦毛の馬から舞い降りると、ライネスは酷く嗜虐的に口角を歪めた。獲物を見つけた肉食獣……というよりは、木天蓼を見つけた獅子のようである。

 「いやいや失望したよ。アレキサンダーといい、いつの間に男児趣味(ショタコン)に目覚めたんだい? 全く、私のいない間に随分と健やかにお育ちになったようだ。はるばる実家に帰省してきた子供を見る親の気持ちがわかったよ。ついでに、反抗期の子を持つ親の心境もね」

 ずい、とトウマの前に、ライネスは一歩出た。黒髪の男は引き下がりこそしなかったが、酷く顔を顰めた。怒気、というよりは、気まずそうに。

 「もちろん、私としてはそういった趣味は結構なことなんだけどね? でも、君は仮にも時計塔の君主(ロード)なわけだろう? 授業の合間に獲物を探してた、なんて知れたら、我らがエルメロイの家名に傷がつくんじゃあないかな? なぁ、義兄上(あにうえ)?」

 その罵詈雑言は、何故か普段にも増して辛辣であり。それ故かあるいは別な理由か、黒い挑発の男は、ただ憮然としたように眉間に皺を寄せていた。

 「───いや、ちょっと待って」

 その時、やっとのことで言葉を発した。ただでさえ脳みそがパンクしそうなのに、目の前の何気ない言葉は、彼の理解のキャパシティを超えていたのだ。

 この男に見覚えがある。そしてライネスの言質ではっきりしたが、あの男の真名はそう───。

 「ライネスさんの名字って、ベルベット?」

 口先から零れた言葉に反応したのは、その時およそ2名。中でも沈着に、それでいて過剰なほどに反応した人物が一名。トウマに呼びやられた当人、ライネスではない。過剰反応を示したのは、あの黒髪の男───時計塔の君主(ロード)の座に君臨する男だった。

 「おや、我が兄上のそちらの名前をご存じとは珍しい。なんだい、ロード・エルメロイⅡ世ではなく、その中身の熱烈なファンなのかな、トウマは」

 くるり、とライネスは軽やかな一瞥を返す。充血したような赤い目は、脆弱性というよりもむしろ悪魔じみたしたたかさを思わせる。

 「だが、残念ながら。我が義兄サマのファン第一号の座は私のものだよ。そしてもう一点、エルメロイの家系が如何に貧弱になりさがったとて、どこかの誰かさんの如くに養子の真似事をするつもりもないし。まして、ベルベットなどという貧相な家系に収容されるほど、落ちぶれてはいないよ」

 相も変わらずの毒舌を振りまきながら、ライネスは赤い悪魔じみた目を男に向ける。男はどこか達観のような諦観のような表情をしながらも、それでも表情は険しいままだった。

 「隠そうとしてたわけじゃないんだけどね。私の名前はライネス・エルメロイ・アーチゾルテ。没落貴族の正統な後継者、というわけさ」

 最後にそう言って、ライネスは自らの指導者である男を顎でしゃくった。

 水を向けられた男───その名、ロード・エルメロイⅡ世は、粛然とした素振りのまま、小さく首を縦に振っていた。頷く、という動作だ。あれは。

 いや。

 いやいや。

 ただでさえ思考は攪拌されてぐちゃぐちゃだというのに、つまり目の前で起きている出来事出来事は一体どういうことなのだろう。あの男、ロード・エルメロイⅡ世という存在者だけでも眩暈がするのに、ライネスはその、義理の妹?

 ───いや、確かにエルメロイ家の正式な世継ぎがいる、みたいなことはちらほら小説とかで出ていた気もする。Apocryphaの前半だかどっかにも登場していた気はするけど……こんな美少女だったのか。ってか、原作キャラやんけ。

 「あっ。だから水銀の―――あれ、ケイ……ロード・エルメロイの至上礼装(ヴォールメン・ハイドグラム)!」

 「むむ? 君は義兄上というより、エルメロイ家のファンなのかな? まぁ確かに、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは類まれな俊秀だったが。いや待て、それだと今の今まで気づかれなかった私ってもしかしてヤバくね?」

 何故か、この時ライネスは本気で落胆していた。肩を落とす仕草はなんとなくライネスという少女らしくない気もしたけれど、一応は次期当主としてのプライドのようなものがあったりする……のだろうか。

 「いや、その別にファンとかではなく偶然知っているだけと言いますか」

 「ファンではないと言われるのもそれはそれで残念なような」

 「あーえっといえ、ファンでないことはないと言いますか」

 「じゃあファンなのに私は認知されてないということになるじゃないか!」

 なおのこと肩を落とすライネスに、トウマはとにかくしどろもどろになって弁明をする動作を繰り返すこと5分。あー言えばこういう、を地で行くやりとりをいい加減やめさせたのは、エルメロイⅡ世の気まずそうな咳払いだった。

 「そのあたりにしておいてやれ。困っているだろう」

 「えっ」

 長い髪を不衛生そうにかき回した眼鏡の男は、複雑な目をライネスに送っていた。落胆した姿勢はそのままだけれど、トウマが顔を覗き込めば、ただ悪戯っぽく舌を出す美少女の顔が見返した。

 つまりは、そういうこと。ライネスは15歳という、成人と子供の境目のような年齢にも関わらず。その精神構造は、蒼古とした屋敷のようなのだ。要するに、彼女は良識(ボンサンス)をしっかり備えた小悪魔だった。備えている分、かえって質が悪い。

 「身内に甘いんだか辛辣なんだかわからないな、お前は」

 「どの口がそれを言うんだい? それとも、自我すら維持できないほどに特殊趣向に傾倒してしまったということかな? あぁ嘆かわしいね!」

 憮然、としたエルメロイⅡ世に対して、ライネスは小気味良く罵声を浴びせた。いつもの5割増しくらいな勢いな気もするのは、多分気のせいではない。にやにやと表情に刻むほどの媚笑は、トウマに対するそれとは比較を絶する愉悦に浸されていた。

「それで? 義兄上様(おにいさま)は、司馬懿(わたし)に何をさせたくて召喚したんだい? まさか、妹趣味(シスコン)を併発しただなんていわないだろうね?」

 「誰が言うか、誰が」

 剣呑そうな表情は変わらず。しかし、一層眉間に皺を刻みながらも、黒髪の男の表情には、どこか安寧が堆積している気がした。ライネスが仮借なく罵声を浴びせる様と、なんだか似た理由で。

 「話をする前に」

 ちら、とエルメロイⅡ世が丐眄する。ずらと並んだゴーレムたちを見回すなり、甲高く指を鳴らす。破裂音にも似た摩擦音が、合図。音を介してなんらかの術式が作動したのか。眼窩から光を喪失するなり、忽ちに体躯が崩壊していった。

 一見して、ただ指先一つで壮大な魔術を起動したかのような様相である。そんなトウマの眼差しに決まり悪そうにした男は、「今のは唯の合図だ」とぶっきらぼうに声を零した。

 「言っておくが、義兄上(あにうえ)はロードだが、魔術の腕前は2流もいいところだからな」

 「……」

 「あぁ今褒めたんだけど、伝わらなかったかな。むしろ、2流なんて過大評価をすべきじゃなかったかな?」

 素早く、ライネスがエルメロイⅡ世の愚痴のような声に注釈をつける。肝心かなめの本人は傷つきなれたような憐れな表情を浮かべたが、2秒ほどの合間だった。

 「もともと、このゴーレムたちは彼にとっても副産物以上のものではない。造ったからには愛情もあるが、最優先事項の前では二次的なものに過ぎない。ということだ」

 「術式そのものはゴーレム使いが構築したけど、起動キーはこちらに委ねてある。ってとこかな?」

 小さく、男は頷いた。安物の煙草を咥えた長髪の男は、指先に狐火のように炎を灯すと、煙草の先を炙った。飽きるほどの諦観と今更の羨望を吐き出すように膨れた白煙は、か細い条となって穹を辿った。

 「彼っていうのは」ライネスも薄く延びていく白煙を見上げていた。「英霊アヴィケブロンのことかな?」

 「正解だ」

 エルメロイⅡ世は、外見上さして驚いた風でもなかった。が、指に煙草を挟んで丁寧にポケット灰皿に突っ込むと、「そこまで把握していたのか?」と続けた。

 「私じゃあないよ。そこの少年君の推測さ」

 ひた、と眼鏡の奥で黝い目がトウマを見据える。見透かすような目、というほどの厳かさはない。むしろそんな目であれば、ただ畏怖するだけのことだっただろう。だがその眼は似ているようで異なる。ただ事実だけを正視して、その中身(構造)まで解体するような目。貪婪な知性だけを媒介とする目は、卓抜した技巧を前にして抱く理解可能なものに対する質朴な怖さだけだった。

 「彼が人類最後のマスター、その1人って奴さ。サーヴァントに詳しいんだってさ」

 構わず続けるライネス。エルメロイⅡ世は思案するように明後日を一瞥した。

 だが、それも一瞬。今度は葉巻を懐から取り出した男はナイフで突端を切り落とし、再び魔術で火を熾した。

 「さっきので確信したが」深く吸い込む、というよりは、男の呼気は、ただ口腔の中だけに白煙をくゆらせただけのようだった。「司馬懿の宝具。『混元一陣(かたらずのじん)』、あれがこの特異点にカタをつける切り札。その一つだ」

 ふぅん、と鼻を鳴らすライネス。少しだけ自慢げなのは、恐らく自分の力というよりは、自らを依り代として召喚された司馬懿の力を褒められたことへの喜悦らしかった。疑似サーヴァントにおける依り代と本体の関係性は、少なからず彼女と司馬懿にとっては良好らしかった。

 「試し打ち、にしては随分苛烈なことをするじゃあないか、義兄上(あにうえ)。『石兵八陣(かえらずのじん)』か?」

「それは」

この時、珍しくエルメロイⅡ世は言い淀んだ。気まずは1割未満で、その情動の大半は純粋な困惑が占める視線が向かったのは、トウマ……ではなく、未だ気絶したままのクロだった。

 直観する。多分、エルメロイⅡ世は、良い人だ。未熟だけれど。

 「またぞろ、教師の気質が首を擡げたといったところかな」

 「あぁ。そういうことになる、だろうか」

 素っ気なく口にしたライネスに対して、やはりこの時のロードの物言いは、どこか歯切れが悪い。

 ライネスは何事か言いかけた。釈然としない胡乱な顔とともに、口を開きかける。さりとて形にならない言葉に眉を顰めると、「ま、そういうこともあるだろうね」と素っ気なく呟いた。

奇妙な、停滞。その間隙にも似た空気を霧散させたのは、エルメロイⅡ世だった。

 「そこのガキみたいなマスター」硬質なままながら、その声はどこか、むしろ自分こそがガキみたいだと吐き捨てるかのようだった。「名前は」

 「藤丸(トウマ)、です。立華藤丸(たちばなとうま)

 そうか、と頷き一つ。自分の今しがたの口ぶりに、閉口している様子だ。

 「謝罪はしないが。君の相棒(サーヴァント)はすぐよくなる。私……というより、私を依り代としている英霊の宝具の効果でそうさせてしまったが、宝具自体に致死性の作用があるわけではない」

 慨歎にも似た吐息を一つ。長いボサボサの髪をかき回したエルメロイⅡ世は、鬱屈したように声を漏らした。

 上滑りする声を、なんとか聴覚野に固定する。自分の胸の内で気絶する少女を見下ろしたトウマは、ただ、脱力しただけだった。

 それは確かに、安堵感と呼ばれる情動だった。だが、それが全てだったわけでは、ない。安寧の奥底に、泥濘にも似た後悔を湛えた苦杯が佇んでいる。安堵は嘘ではないけれど、それでも奥底に秘された情動を見えなくしているのは、事実だった。

 ───この時、トウマはクロと自分のことだけで精一杯であり、それ故に自分を見る対の目の存在には気づかなかった。ライネスはその男の視線に気づいており、且つそれが普段のそれと異なることまで理解した。冷厳なまでの解体屋としての視線と同時、その奥底に燻る熾のような、それでいて幼児性を捨てきれない眼。君主(ロード)の名を戴くより前、非才の少年だったころの熱量をひた隠しにしながらも、隠し切れない眼。かつて少年だった男の目。

 だが、それは僅かに半瞬ほどの、気まぐれのようなものだった。ライネスは、特に、触れなかった。

 「それで?」ライネスは、しかしさらりと会話を始めた。「義兄上の目論見はわかるよ。でもそれで倒そうって敵は、一体何なのかな? というか、それを教えるために、似合いでもない喜劇なんて演じて見せたんだろう」

 ぐるりと、ライネスは周囲を見回した。

 死屍累々の如くに擱座する、ゴーレムたちの群れ。既に生命を失ったゴーレムは、既に機能不全に陥っているようだ。

 「無論、そのつもりだ」

 「なら」

 「だが、気が変わった。お前たちに教えるべき情報はもうない」

 「はぁ!? なんだそれ」

 珍しく声を荒げると、ライネスはまじまじと義理の兄の顔を注視した。怒気にすらなりきらない声は彼女らしくないように思えたし、また冷厳に鼻を鳴らす長髪の男も、それらしくないように見えた。

 「君」

 発するべく声もなく佇立するライネスを半ば無視して、男は藤丸トウマに鋭利な瞥を刺した。抉るような目線にたじろぐ間もなく、「ゴーストライナーのマスターを自称する君だ」

 「俺、ですか?」

 そうだ、と舌を滑らせるエルメロイⅡ世。眉間の溝は思案というより明らかに苛立ちに類するものだった。長髪を頻りにかき回す仕草は児戯めいていて、いそいそともう一本目の葉巻を取り出しては戦端を切り落として火をつける様も、15のガキのようだった。

 「僕───」一度、咳払いした。「私より魔術回路の量も質も劣るお前如き孺子(こぞう)が戦える、だなんて思うのは単なる付け上がりだ。まして戦わせていることへの疚しさなど、思い違いも甚だしい」

 独語独り言にも似た声の男は、確かにトウマを見ていたが、その眼差しの行く先はどこか虚ろだった。虚ろなのに、それでいて明瞭な輪郭を持った視線。

 「弱くていい。弱くていいんだ。だが弱いなら弱いなりに考えなきゃあならないってことだけは、覚えておけよな」

 言って、エルメロイⅡ世は顔を苦くした。一層髪をかき回した男は、自己嫌悪で顔を赤くしながら慨歎の嘆息を吐きだした。

 「何も言うな。何もだ」

 「おや、まだ何も言っていないが。ただ、大層なご高説だなぁと思っていただけさ」

 「だから何も言うなと言っている」

 取り付く島もない素振りをとっているが、ライネスの嫣然の前ではあまりに脆かった。踏み込もうと思えばあっさり踏み込めるだろうが、むしろそれ以上踏み込まずにニヤニヤ笑いを浮かべているのは、一層効果的な嗜虐心の表出だった。しかも悪辣なのは、こちらの方が明らかにエルメロイⅡ世の内面性に打撃を与えるであろうことを、ライネスが知悉していることだった。

 「それで? やっぱり教師面が理由ってわけかい」

 「というより」男はやっとのこと粟立った内面性を落ち着かせた様子だった。「将来性の問題だ」

 「君たちはこれから、いくつか特異点を超えていくんだろう? ならこの程度、自力で解決して見せなければなるまいさ」

 「やっぱり教師面じゃあないか」

 まぁ、と残り1/3になった葉巻を投げ捨てると、足元に落ちたそれを革靴の踵で踏みしめた。

 そうして、男は穹を眺望する。青々とした涯のない無窮の先で、小さく遠雷が凝っていた。

 晴天の閃く霹靂。鈍色に煌めく苦々しい感慨を嚥下した長身の男の横顔は、瑞々しさすら感じさせるようで───。

 




67話でした。

次回は12/1予定ですが、私情により12/4になるかもしれません 
その際はご容赦くださいまし


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

時宜外れの神槍

68話です


 「先生はどうだったの」

 破顔するアレキサンダーの言葉に、ロード・エルメロイⅡ世は難しい表情をした。

難解な表情、というわけでは、ない。それは羞恥と困惑、後悔、懐古。その他いくつにも分化する情動/差延(ディフェランス)を抱えた長髪の男は、「クソみたいなものさ」と、吐き捨てるように言葉を零した。

 「思い上がりが甚だしいのは私の方だったさ。少なくとも、偉そうに説教を垂れられる身分じゃあない」

 葉巻を、一つ。先端をナイフで斬り落とすと、ナイフを持った手で器用に指を鳴らす。それを起動キーにして人差し指の先に淡く火をともすと、葉巻の先を炙った。

 漠と虚空を見つめる視線の先には、ただ青々としたなだからな丘と、呑気なほどの蒼空が横たわっている。無論彼の見つめるのはそんな牧歌的な光景でなく、先ほどその道程を歩んで征った少年たちの幻影だった。

 言うべきことは言った。否、まだ言うべきことはあったと思うけれど、恐らく蛇足だろう。後は自らの足で……自らが相棒と定めた者とともに歩むべき里程標。多言は却って、余計な雑音になり得る。

 ふ、と吹きやる白煙。か細く昇っていく煙を見上げながら、しかし、と思う。

 何故、あのアーチャーに『石兵八陣(かえらずのじん)』が効いたのだろう、と思う。三騎士で召喚されたサーヴァントには、程度の差こそあれ、クラススキルとして【対魔力】が付与される。よほど近現代のサーヴァントであり、対魔力スキルがEなどでなければ『石兵八陣(かえらずのじん)』の呪詛・幻惑作用などは弾かれて然るべきだろう。そも、ロード・エルメロイⅡ世がその宝具を常時展開する理由は、不意の奇襲に対しての絶対的優位性からというだけに過ぎない。

 ならば、何故。霧散する白煙の行方を追いながら、男は首を横に振る。

 情報が少ない。第五次聖杯戦争に参戦したという赤い外套のアーチャーに極めて類似した性能を持つ、アインツベルンのホムンクルスらしきサーヴァント。あるいはいずこかの異聞から迷い込んだサーヴァントだとでもいうのだろうか───。

 詮の無いことだ、と思う。男は探偵でも無ければ、寡聞から真理に辿り着く天才でもない。愚直なまでに事実を堆積させることで真実に至ることこそロード・エルメロイⅡ世という人物のアポステリオリな起源なのであるから、事実が貧困であればそもそも何もできないのだ。

 「───自我の希薄化? いや」

 だから、彼がそんな言葉を漏らしたのは、ただの情報の整理と、事実からいくつかあり得る可能性を表現しただけに過ぎなかった。さらに言えば、次の思案を続けようとしたところで、エルメロイⅡ世は、剃刀の如き冷厳の一瞥を虚空に付きつけた。

 「先生?」

 「覗き見とは気品に満ちた趣味をお持ちの用だ。それとも、日本人的なシャイさでもお持ちかな?」

 ぽい、と葉巻を投げ捨てる。草原に転がった葉巻から火が巻き上がるや、忽ちに青々とした草花を焼き尽くしていく。

 無論、それは目的ではない。エルメロイⅡ世が行使した魔術の術式は『索敵』。魔術としてはどちらかと言えば初歩のそれだったが、それで十分だった。焼けた燎原の中、無人の野にゆらりと黒影が揺らめいた。

 まるで亡霊。全身を黝い外套に身を窶した奇怪な幻影の頭部、冥い洞の奥で、アメジストの双眸がぎらりと閃いた。

 そして、もう一人。

 影を従えた白髪が、赤い目を灯していた。

 「あら、流石時計塔の君主(ロード)だ」からから、と白髪の少女は笑った。酷く、無邪気そうだった。「いやあ違うかな。貴方は所詮、魔術師としては2流だから。今のは、諸葛孔明の宝具があってこそのものだ。そうでしょう?」

 ころん、と少女が小首を傾げる。動作につられ、側頭部で一つ結びにした髪が揺れた。

 「お前か。ゴーレムたちの報告にあった謎のサーヴァントを連れたマスター、というのは」

 糺すような口ぶりだったが、その時エルメロイⅡ世は、半歩だけ後ずさっていた。無論、自覚してのことだ。

 エルメロイⅡ世は───否。

 ウェイバー・ベルベットは、直観的に理解したのだ。この敵と戦っては、不味い。あの黒衣のサーヴァントも危険だ。ただ相対しただけで、全身の肌が慄きで粟立つ感覚。第四次聖杯戦争にて召喚された黄金のサーヴァントにも匹敵する威容が、あのサーヴァントには、ある。恐らく最上級の使い魔たる境界記録帯(ゴーストライナー)というカテゴリーの中でも、最強に位置する。まるでそれは、かの騎士王が振るった星の聖剣と相対するかの如き荘厳。それが、マスターとして生きたウェイバーの直観だった。

 だがそれ以上に、この少女は危険だと思った。そんな化け物を当たり前のように従えていることもだが、何か───この少女は、異物だった。

そうだよ、と応えた少女の顔は、16かそこらの外見に相応の笑みだけが浮かんでいる。嗜虐やそういった棘のない、透き通るほどの表情。だからこそ、エルメロイⅡ世は、少女がさらに一歩近寄ったとき、さらにたじろぐように後退した。

 「本当はまだ私が動く時ではないんだけど。でも貴方はダメなの、時計塔のロード。貴方の在り方だけは、今は許容できないんだ。貴方がこれ以上カルデアに関わると、恐らくこのセプテムでフラウロスを殺しきってしまうから。いずれ魔神どもは魔術式(ゲーティア)ごと私が駆逐するけど、今それだけはダメなんだ。まだ人理焼失事件は終わっちゃあいけない。まだ、利用できる内は」

 「どこまで、何を知っている。ゴエティアだと、まさか…いや、そもそも」

 続く言葉は、無かった。「先生!」という声と同時に割って入ったアレキサンダーは剣を振るい、黒衣のサーヴァントが放った槍の一撃を叩き伏せた。

 「悪いけど、だから貴方にはここで死んでもらうね。ウェイバー・ベルベット」

 どう、と黒衣のサーヴァントから魔力が迸る。大気中のマナが痙攣するように蠢動し、気圧されたアレキサンダーは背後のエルメロイⅡ世ごとに吹き飛ばされていった。

おそらく20mも一緒くたに錐揉みし、地面に激突する。咄嗟に立ち上がったのはライダー……ではなく、エルメロイⅡ世のほうだった。

 「先生、大丈夫?」

 「馬鹿、それはこっちの台詞だろ!」

 自分に覆いかぶさった赤毛の青年に怒声を返したエルメロイⅡ世は、しかしただその光景に瞠目するしかなかった。

 アレキサンダーの背後。間抜けなほどに青々とした虚空を、無数の武装が疾駆していた。

 

 

 白髪の少女は、ただその殺戮を無感動に眺めていた。

 戦闘行為、などというご立派なものではなかった。自らが従えるのランサーの宝具はよく理解している。

 『民の叡智(エイジ・オブ・バビロン)』。そのの制圧力は、かの英雄王が誇る『王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)』に比肩する。自らの身体の延長たる大地そのものから数多の武具を生み出し、それを自らの武装とする宝具。天の鎖が天の楔と互角に戦い得た理由の一つだった。

 無数に降り注ぐ土色の武具。郷愁にも似た奇妙な感慨とともに眺めやった白髪の少女は、だが次に起こった出来事出来事に対して、好奇のように目を丸くした。

 巻き上がる土煙。不意に迸った白銀の一閃が合図だった。

 ぐら、と視界が揺れた。咄嗟に飛び掛かった影のサーヴァントは少女の矮躯を抱き上げると、半舜まで少女が居た草原を音速など遥かに過ぎこす超重の雷撃が圧壊させた。

 「おわー、すご」

 酷く間の抜けた感想である。じろりと睨みつける紫紺の双眸も気にせず、少女は僅かに焦げた前髪を摘まんで。

 そうして、空に浮かぶ戦車(チャリオット)をまじまじと眺めやった。

 2頭の牡牛にひかれた2輪の戦車。対の剛脚に猛々しい雷霆を纏った神牛(ゴッド・ブル)の睥睨が、ランサーを捉えていた。

 「すっごーい! アレキサンダーでも『神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)』が使えるんだ」

 素朴な感歎。自分を抱きかかえるサーヴァントからの呆れの視線も気にせずはしゃぎながら、しかし同時に思索する。

 あれは、アレキサンダーだけの力ではない。あくまで精神の絶頂期である少年の姿では、『神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)』とその真名解放は不可能だろう。少なからず、記録上はそうだったはずだ。だとしたら、これは別なファクターによる階梯の底上げがあった、と判断すべき。そしてその要因こそは、あの男だ。赤毛のライダーの隣でどこか情けなく中腰で乗り込む長髪の男こそが、少年(アレキサンダー)征服王(イスカンダル)に届くまでに階梯を引き上げたのだ。

 やはり、厄介。あの時計塔の解体屋とこの力が綜合すれば、間違いなく障害になる。本気になったロード・エルメロイⅡ世を軽く見てはいけない。

 虚空の先。宙に滞空する戦車が、ゆらと動き出す。

 初速は緩慢。しかし1秒すら無く時速400kmまで加速した大戦車はさらに空の果てへと駆けのぼるや、雷霆を纏った流星となって墜落を始めた。

 イスカンダルのそれには届くまい。だがその火力、間違いなく対軍宝具でも最上位に位置しよう。『民の叡智(エイジ・オブ・バビロン)』で神盾を形成したとて、おそらく2秒と持つまい。そして、この速度。サーヴァントだけならなんとか躱しようもあるだろうが、マスターたる少女を抱えた状態ではとても振り切れない。

 畢竟。少女と影にとって、あの大出力の攻撃は、間違いなく必殺必中の一撃だった。

 少女は、それを悟っている。悟った上で、なおその表情には無邪気なまでの媚笑が浮かんでいて、なおかつ血濡れのような目には一切の油断がない。

 確信が、あるのだ。少女にはこの局面を切り抜けるだけの確信が。そしてその確信こそは、自らが呼びこんだ影なるサーヴァントの一柱。堕落した志尊の冠を戴く槍兵(ランサー)こそは、この局面を正面突破するための兵装だった。

 「ランサー」

 それ以外の言葉は不要。出会ってわずかに2週間とない少女と槍兵(ランサー)は、それだけで意思を疎通した。

 投げ捨てるように少女(マスター)を放り投げる。「あ痛!」などと嘯く主はさっさと無視し、影が白い手を大地に添えた。

 それが合図。膨大な大源(マナ)が間欠泉の如くに吹き上がる。

 「寄越せ」

 言葉が、喋る。独語(モノローグ)対話(ダイアローグ)の間隙、物語られる以前の湯水の言語が横溢する。

 ぞぷり。

 さらに膨れ上がった大源の噴出は、本来1世紀には枯渇していたはずのものだった。第五架空要素などという紛いものではない、

 神代の魔素、第五真説要素(真エーテル)。枯渇したはずの未知を大地のの底から抉り出したランサーは、瀑布となって吹き上がるエーテルを足場にして跳躍した。

 同時。跳躍した影の元へ、大地から延びる幾条もの鎖が殺到する。

 幾十、幾百、幾千。無限にも思える光の鎖が絡まり合う。大蛇が共食うようにも見えたそれは、事実、その通りであっただろう。1人の英霊と大地と呼ばれる存在が互いに食い合い、溶けあい、闘争する。永遠にも思うほどの協和の果て、それは、顕現した。

 世界を貫くが如き神槍。天地を縫い留めるためにこの世の遣わされた神造宝具(ラスト・ファンタズム)。その銘は───。

全力全開(フルスロットル)でやっちゃって、キングゥ!」

「『『遥かなる蹂躙制覇(ヴィア・エクスプグナティオ)』―――!」

「───『人よ、神を繋ぎとめよう(エヌマ・エリシュ)』!」

 星が、啼いた。




68話でした。

無事に投稿できてよかったです
次回は12/4に予定しております


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話-倦怠

69話です


 また、これは夢だと思った。

 クロエ・フォン・アインツベルンはこの無時間的且つ倒錯的且つ無意識的且つ平穏な世界を、この時は一人称且つ三人称のような視点で歩いている。

 街中の景色は、見覚えがある。それは過去の体験というよりは既視感に近いものだ。クロがある意味でこの世に生を受けた2000年前半と、よく類似した世界。おそらく2000年~の日本であればどこにでも広がっているであろう、ありふれた町並み。待ちゆく人々の服装こそ少し変わっている気もするけれど、それとて大差はない。周囲の光景からして、都会、というほどの都会ではないだろう。さりとて田舎でもない。冬木であれば、深山町と新都の中間ほどの発展具合だ。

 クロは当然のように、この世界に存在していた。クロエという現存在は確乎たる輪郭を以て、この夢の中に佇立していた。初めての夢の際は、マスターの肉体越しに世界を眺めることしか出来できなかったのに。

 だが、さりとて、クロという存在者がこの土地に根を張っているわけではないらしい、ということにもすぐに気が付いた。道を行く誰一人とて、クロの存在に気を払う人物が居なかったからだ。この時のクロの格好は、戦闘時の聖骸布だというのに。

 小さな、通り。軽自動車が通るのでやっと、といった通り道は、狭い道ながらに人で溢れている。それも、皆同じ制服を着て。

 学生だろう。黒い学ランを着た男子学生たち、薄茶色のブレザーを来た女子学生たち。早朝の気怠さを振り払う者も居れば、溌剌と自転車を漕ぐ生徒もいる。

 クロは何故か、その人の波についていった。それ以外にすることも無かった、という理由もあった。そしてあるいは確信があったのだ。多分この先に、マスターが居るという。

 人波は別な道路からも合流して、最終的に大河となった。そうして巨大な人の流れは、無骨な正門の中へと吸い込まれていく。

 正門の前に立ち止まったクロは、周囲を振り仰いだ。

 人、人、人。相変わらずの学生たちの中を流し見るクロの視線。同じように平和を享受し、同じように日常を生きる人間たちの顔。失神すらするほどの顔の濁流の中、彼女の視界に、不意に何かが過った。

 ぞわ、と身の毛がよだつような感覚。観察しているつもりが、むしろ注視されていたかのような倒錯的な事態。咄嗟にクロは視界を見回したが、しかし、それらしい姿はない。

 肌が、粟立っている。

 汗腺が、開いている。

 肺が、懸命に酸素を取り入れている。

 心臓が、血液を循環させている。

 何故か、脳髄の奥底に幻影が焼き付く。姿の無い(かたち)。捉えどころの無い感触。人でごった返す中、(しず)かに灯った蒼い閃珖───。

 

 ※

 

 あ、と思った。

 いつの間にか、夢が覚めていた。見開いた目は、簡易的な天幕の天井を捉えていた。

 夢。あれは夢だった。だが何だろう、この妙な現実感/乖離感(みずみずしさ)は。開いた手を見下ろせば、間違いなくそれは自分の手だった。

 上体を起こす。後頭部で結んだはずの髪は解けていて、なんだか鬱陶しい。

 むーん、と難しい顔をしながら、髪をかき回す。よし、と内心一言、投影魔術でさっさとシュシュを造り上げると、テキトーに髪でお団子を練り上げる。

 後は、今の状況の把握なのだけれど───。

 「あ、起きてる」

 声が、耳朶を打つ。釣られてそちらを向けば、白い髪で顔に傷のある少女が朗らかな顔をしていた。

 「ねーねー、クロエが起きたよ。お兄さん」

 がしゃん、と何かが落ちた。そうして、慌ててどたどたと駆け付けた黒髪の少年は、くしゃりと顔を歪ませた。

 

 

 ───数時間前。

 アレキサンダーはただ、無力なままに地面に転がっていた。

 全身が軋むように痛む。極度の疼痛は、サーヴァントの身でありながら身動きができないほどのものだった。

 精神は動けと言っていた。早くしろ、さもなくば全て無意味になってしまう。内心の理性が叱咤するのも、けれど無意味。右手に一房握られた存在者の存在を抱握しながらも、アレキサンダーはやはり、動けなかった。

 「そうか、彼は君を生き残らせたんだね」

 あるいは、それは宿命のように。

 倒れ伏すアレキサンダーを見下ろす誰かの声が、耳朶を衝く。

 見る間でもない。アレキサンダーと宝具を打ち合ったランサーのサーヴァント、そのマスターだ。生気を喪ったような白い髪と対照的な、血液を凝縮したような真っ赤な眼光を持つ少女。閲する視線を突き刺しながら、少女の声は未だに軽やかだった。

 「とどめ? いや、いいよそういうのは。私は、無駄な殺生は好まないから。自分が他者の生殺与奪の権利を持っている、と思い込むのは危険な発想だよ、キングゥ」

 足音とともに、声が、遠ざかっていく。憤懣を漏らしているらしい影のランサーと、それを宥める少女の声が、鼓膜に焼き付いていく。

 「そう、四番目のロンドンが本番だけど。こっちだって手掛かりになるよ」

 ざり、ざり。少女の靴底が、高エネルギーの余波で不毛となった大地を咬む。

 「逃げおおせるフラウロスを追うことだってできる。そうすれば、時間神殿だっていけるかもね」

 そこで、アレキサンダーは気絶した。一時的な機能停止に近いだろう。電化製品の電源を落とすような、強制的な気絶。彼は右の掌に握ったもの───無造作に千切られた、黒髪の束を握ったまま、青年は意識を断線させた。

ぶ。ち。り、




69話でした

今回短かったので明日も投稿します


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

思い煩い

70話です


 「それにしても、よかったのかな」

 独語独り言というより、それは明確な意図のあった発話だった。

 エトナ火山より北東、40km地点。

 野営地から見える火山の姿に素朴な感歎を漏らしながら、藤丸立華(フジマルリツカ)は隣に立つ少女へと言いやった。

 少女。確かにその人物は少女の姿を持っていたが、実際のところその中身は少女と呼ばれる言葉からおよそ似付かわしくない人格が詰まっていた。

 名、司馬懿仲達。場所は中華の魏にて、2世紀の時代に生を受けた名門の家系、司馬氏の俊秀として生きた男である。後に西晋の太祖に祭り上げられた男の才気は、その時代最強の知悉と呼ぶことも可能であろう。無窮なる文練を高めた男こそは司馬懿という人物であった。

 そんな時代の寵児たる司馬懿には、一見似付かわしくない少女。疑似サーヴァントとして召喚される司馬懿の依り代として選ばれた少女の名を、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテと言う。品性と礼節を弁えながら、その奥に存分に嗜虐を満たした名門家の少女は、我の強さに反し───あるいはその我の強さ故か、あまり表に出ることを善しとしていなかった。というよりは、適材適所を意識してのことだろう。ライネスはそこそこに優秀な知性を持っているが、他に冠絶する頭脳を持っているわけではない。天才の言語を理解するだけの能力はあるが、天才的知性の持ち合わせはない。そんな彼女が矢面に立つよりも、司馬懿の人格が表に居た方が理に適っている。ある意味で似た者同士である2人の協議の結果、公的業務は司馬懿が請け負い、私的な生活ではライネスが表に出る、といった役割分担となっていた。

 「問題があるとは思わないが」

 だから、その時立華リツカに返事をしたのは、ライネスではなく司馬懿である。ライネスと異なり、全く以て面白みのない合理的判断をもとにした発言であった。

 「クロエのバイタルデータに不調は見受けられない。本人も好調、と言っている。何か不都合が」

 「いや、別に。まぁ独り言みたいなものかな」

 リツカは少しだけ、決まり悪そうに一つ結びの髪をわしゃわしゃする。ぽかん、とその姿を見やること2秒、得心した司馬懿は、すぐに人格を後退させた。

 「なんだい、私とお喋りがしたいのかな?」

 「まぁ、そんなとこ」

 人格の前に表出したライネスは、ニヤニヤとリツカに嫣然を返した。極まりの悪そうな仕草は相変わらずで、その上で、リツカも草臥れた笑い顔を浮かべた。

 「確かに心配っちゃあ心配だけどねぇ」

 ライネスはどこからともなく取り出した保温機能付きの水筒を取り出すと、こぽこぽと蓋兼用のコップに紅茶を注いだ。

 「でも単純な性能なら、司馬懿殿の言う通りさ」僅かに、ライネスは声に迷った。「カルデア、とやらのバイタルデータも、不穏を示す数値はないわけだろう?」

 「それもそうなんだけれど。でもねぇ、あのトーマ君のリアクションを見るとね」

 「何かあるんじゃないか、と思うわけか」

 深刻そうに眉間に皺を刻むライネス。板についた仕草に思わず噴き出したリツカを横目に、ライネスも危うく口に含んだ紅茶を吐き出しかけた。

 「少年君、結構大胆だよな。私とジャックが見ている前であんな熱烈に抱き合うこともないんじゃあないかな?」

 「まぁ宿では同衾しておりますしおすし」

 「マジ?」

 「卍」

 幾分か……というより、過分な誤解を招くことを話し合いながら、ライネスとリツカは愚にも付かない言葉を交わしていた。

 普段であれば、司馬懿とリツカは、仕事以外の言語的意思疎通を行わない。交わす会話は戦術戦略を含むものであり、かつ問題は解決すべき事象としかとらえない。言語的意思疎通とは目の前に聳える仕事を終えるために存在している、とすら思いかねないほどの合理主義者同士の会話がそこにあるのが常であはあるのだが、この時だけは違っていたのである。サーヴァントとして呼ばれた司馬懿はともかく。私生活においては堕落の極みであるリツカは、実務能力に反して、合理的思考は得意だが好きではないのである。

 「ロリコンかよ」

 ライネスの罵倒は、身も蓋もなかった。

 「まぁサーヴァント相手なら健全な気もするけど。ライネスちゃんもちっちゃくてかわいいから気を付けなさいな」

 「私は、れっきとした15なんだけど」

 「むしろ良いってことじゃない。ストライクゾーンド真ん中まである」

 「こっわ」

 ごきゅごきゅ、ごきゅごきゅ。紅茶とエナジードリンクを飲み飲みする絶世の金髪美少女と赤銅髪のそこそこ美少女の藤丸立華(フジマルリツカ)は、互いに顔を見合せた。

 そうして、破顔する。無二の友人、というよりは、少しだけ顔見知りの悪事を働く友達のような関係性。互いに友人に乏しい2人のその微妙な関係性は、やはり互いにとって居心地に悪くない感触だった。そしてその共通認識まで含めての、奇妙な友人感が、互いに気に入るところでもあった。

 「ま、問題ないか」

 エナジードリンクを飲み干した赤銅色の女性は、べきべきとアルミの缶を手で圧し潰した。

 「クロエとアサシン。対魔術師(キャスター)戦を考えれば、どちらも優秀だ」

応えるライネス。空色の目と鈍色の目は、遠くエトナの火山を眺望した。

 

 

 「そうか、遂に」

 首都はローマ。執務室で一報を受けたネロは、特に感情の機微も動かさずに頷いた。

 (結構落ち着いていらっしゃいますね?)

 空中投影された通信映像の向こうで、ロマニは僅かに困惑した様子だった。ネロ・クラウディウスという人物は感情的に起伏が強く、喜怒哀楽を明敏に表出する女性であったはずだ。だから、その落ち着いた様子は、ロマニには意外ではあった。

 「うむ、頭痛がするのだ」ネロは浮かない顔ながらも、精一杯に破顔してみせた。「母の呪い、という奴だ。全く、死んでからも迷惑をかける」

嘆息を、一つ。精一杯の笑みもぎこちなく、こめかみを抑えたネロは「もちろん嬉しいことは嬉しいぞ」と声を漏らした。

 「そちらの損失は?」

 (皆、壮健です)ロマニは多少、言い淀んだ。(敵のサーヴァントを2騎、撃破したとのこで)

 「それは重畳。順調で、何よりだ」

 やはり、ネロの表情は浮かない。ロマニは幾ばくかの懸念を抱きながらも、深くは立ち入らないことにした。

 こと特異点において、過剰な干渉が歴史を改変する……というSF的タイムパラドクスは存在しない。そもそもが歴史から切り離され、改悪された時間の断片こそが特異点なのだ。それを糺したところで、本流たる汎人類史の歴史そのものが改竄される余地はない。

 故に、例えばここでカルデアが過剰な干渉をすることに、倫理的問題は発生し得ない。水銀中毒に苦しむネロに対して、なんらかの的確な医療行為を行ったとて、問題はないのだ。

 だが、逆説的に言えば、問題がないことが問題だった。所詮、特異点は時間から切り離された、無時間的存在に過ぎない。そして、物資が限られるカルデアが投入できる資源には、当然だが限界がある。無意味な資源を投入できる余裕は、カルデアには存在しなかった。

さらに言えば。

 そうしたカルデアの事情を、ネロは十分に知っていた。知った上で、ネロは干渉を拒否していた。

 「姿なき魔術師(メイガス)よ、エトナ火山を攻略すれば、ローマの勝ちはもう目前なのだろうな」

 (そうなります、かね? ボクはあんまり軍事的な話はよく分かりませんが、ゴーレムがこれ以上増えなくなれば勝ちは遠くないかなとは)

 ネロは、無言で頷いた。どこか疲労の抜けやらない、やつれた顔だった。

 「そうだな」

 納得、というより。それは言い聞かせるようだった。瞑目のまま頷きもせずに呟くと、ネロは頼りない足取りで、窓辺へと向かう。

抜けるような、穹。果ての見えぬ天の階が、宙に帳を作っている───。

 「もう、終わってしまうんだな」

 

 

 「フォウ、キャーウ!」

猫みたいな栗鼠みたいな鳴き声を上げる白い毛むくじゃら。ぴょんぴょん跳ねる様は、むしろ兎だっただろうか。

 ともあれ、謎の珍生物フォウくんは、この日ご機嫌だった。何かの因果律によって機嫌がよくなったわけではなく、ただ天気が良かったからだ。

 そして、もう一つ。機嫌がよかった理由は、自分を追いかける小さな女の子の姿にあった。

 溌剌と声を上げながら白い獣を追いかける褐色肌の女の子。アルテラと名乗る少女は、健気にもフォウを捕まえようとしていた。

 「あー惜しい惜しい、もうちょっとだったのに」

 草原を駆けまわる1人と一頭を傍目に、ぼんやりとそれを眺める3人。ブーディカはだらりと草の上に足を投げ、マシュは行儀よく正座して、トリムマウはきちんと佇立してその行方を見守っている。

 「平和だねぇ」

 ぼそり。

 呑気に呟くブーディカに、マシュは少しだけ居心地悪く「そう、ですね」と応えた。

 本当に、凡庸なほどの平和だった。さわさわと揺れる草木に、びぃと遠くで鳴く獣。きゃっきゃと白いちんちくりんを追い回す黄色い声が重なる。からりと乾いた風に混じる、蒸すような湿潤の微風が心地よい。ピクニック日和とも言うべき宙の平和さは、マシュ・キリエライトが感じたことのない弛緩した時間だった。

 それが、第一の居心地の悪さ。本来であれば、マシュはマスターたるリツカの隣に居るべきなのだ。なのに、マシュはマスターから遠く離れて、無責任に時間を浪費している。

 そして、もう一つ。ニコニコと羊の毛のような髪の少女を見守る、莞爾としたブーディカの顔だった。

 ネロのことは嫌いだ、と彼女は言った。

 当然と言えば当然のことだ。ネロ・クラウディウスとブーディカは同時代に生き、同じ歴史の舞台で顔を合わせた者同士だが、その出会いは全く以て不幸だった。

 正確には、ネロはブーディカの顔を直接見たわけではなかった。だが、ネロの統治するローマ帝国がブーディカの国を編入(征服)し、彼女自身と彼女の(家族)に暴戻の限りを尽くした歴史的事実はあまりに有名であった。

 故に、ブーディカはネロ・クラウディウスのローマに対して全く以て好意的ではない。人間的には嫌いではないのだが、公的嫌悪感は極めて深刻だった。

 ───というようなことを、ブーディカは以前語った。少しだけ恥ずかしそうにしながらも、真摯に応えてくれたことは、記憶に鮮やかに残っている。

 「もう、そんなに気にしなくてもいいのに」

 「あ、いえ、その」

 照れのような羞恥のような赤みを頬に染めたブーディカ。小さく肩を竦めるマシュの頭をげしげしとかき回すと、彼女はのほほん、とした顔でアルテラの姿を眺めた。

 「別に裏切ったりはしないから」

 「そんな心配は、していませんけど」

 「ホントかぁ?」

 なおのこと、げしげしするブーディカ。逃げるでもなく、マシュはサラサラの髪をボサボサにされた。

 「クラスによっては滅茶苦茶したりするけどね。復讐者(アヴェンジャー)とか、まるっきり私の為のクラスみたいだしね」

 笑えないブラックジョークである。会社で上司が言って来たら「え、あ、そっすね」と応えるヤツである。もちろん、マシュは気まずくて、応えるに応えられない。マシュ・キリエライトは自分が世間知らずである自覚を持っていたが、無知ではなかった。

 そんなマシュのぎこちなさも愛しいようにブーディカは表情を緩める。温和、という言葉はまさにこの人物のために作られた言葉なのではないのか、と思うほどの顔だった。

 「ま、どうでもいいことさ」

 鼻歌交じり、とでもいうような陽気さだ。全天を覆う水色のような陽の温かさであると同時に、それは処世を嗜んだ大人の冷静さだった。

 マシュには、そうした矛盾と合理のシャム双生児めいた情動が上手く理解できない。理解出来できないというより、処理できない。とはいえ、そのブーディカの素振りが優しさというベクトルを持った動作であることだけは理解した。

 故に、マシュは、曖昧な表情だけを浮かべた。そしてブーディカはそれを善しとした。横目で伺うことすらせずに、ショートカットの赤毛の女性は、小さく一つ頷いた。

 「今日は粘りますね」

 そして半瞬舜の後、トリムマウは素知らぬ顔で呟いた。

 「いつもどのくらいで諦めてるの?」

 「5分ほどで。フォウ様もお疲れのようですね」

 水銀メイドは無表情のまま、ブーディカに応える。マシュも先ほどからその光景を眺めているが、褐色肌の少女は今もって白い小動物を追い回していた。

 ぴんしゃか。バッタのように跳ねるフォウの動きも、精彩を欠き始めている。かれこれ20分。機敏だが長時間の運動には慣れていないらしい小動物は、汗こそかいていないが息を切らし始めている。他方、土色の肌の少女は汗をかいているが、表情はただただ楽しそうだ。

 その光景を、愛玩動物と戯れる子供と理解するのは容易い。というか、実際そうなのだろう。だが何故か、マシュは思うのだ。

 目いっぱい今この瞬間を浪費する少女の身振りは、ともすれば、文字通り、一生懸命の仕草にも見えるのだ、と。

 「アルテラ、ねぇ」

 ぼそり。

 温和な目で。しかしその実、何か痛ましいものを見る目で、ブーディカは呟く。疑問は2割。残り8割は悟りのような感慨を纏った吐息のような呟きが、マシュの耳朶に滑り込む。

 アルテラ。大王アッティラ。5世紀の欧州を蹂躙した遊牧民の王。何故こんな年はもいかない少女がそのような名を名乗っているのかは、今もって不明なことだった。実際カルデアの観測機を以て測定した結果、このような身体にも関わらずサーヴァントであることは判明しているが、本当にそれが真名なことかまでは判別できない。

 実は女性であった、というならわかる。そうした事例は、つい最近マシュ自身が冬木で経験したことでもある。伝説の騎士王、キャメロットの主たるアーサー王が実は女性だった、という事実が詳らかになってから、まだ1か月と経っていないのだ。そして、ネロ・クラウディウスもそうだ。

 だが、全盛期が子供とは一体全体どういうことなのか。何かしらの宝具かスキルの影響なのか。色々調べたが、結局のところ何もわからずじまいというのが現状だった。

 特に害があるでもなし。静観する他、できることはない。それが、カルデアとしての状況判断だった。

 「いっそネロ公のローマもぶっ壊しちゃえばいいのにね」

 ……この物言いである。にぱー、とでも言いたげな満面の笑顔を振り向けるブーディカに、マシュはクソ生真面目で厳かな顔で「ソウデスネ」と応えるだけだった。

 流石に毒気が強かったかな、とマシュのリアクションから反省したのか。ブーディカは愛想笑いとともに「嘘嘘」などと言う。表情筋の強張りが緩まないマシュに、愛想笑いを苦笑いに転じさせたブーディカは、たまらずといったように視線をずらす。

ずらした先は、草原を駆けまわる少女。あ、と裂けるような呟きをトリムマウが零すと、遂に少女アルテラはフォウの躯体に飛びついた。

 「皮肉にしちゃあ、出来できはよくない気もするんだけどねぇ」

 「捕まえた!」

 声が重なり、飽和する。甲高い少女の声に斬り潰され、ブーディカの声はどことも知れずに叢に落ちた。




70話でした


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

其の、銘は

71話です




 「ポイントC-3クリア。これよりD-1を抜けるわ」

 酷く、事務的な声。クロの声は無線に言いかける軍人のような無機質さで、トウマは自然、硬い声で了解の返答をし、赤いフードのアサシンは無言で返答とした。

現地点、エトナ火山中腹。洞窟の中。

 敵のゴーレム使いの魔術師(キャスター)のものと思しき工房に潜入すること、5分。物理的にはま未だ洞窟入り口付近にいるのだが、その実、3人の潜入は不気味なほどに順調だった。

 魔術師の工房。字ずらで見れば何かファンタジー小説に出てくる秘密の部屋のような響きの言葉だ。実際秘密の部屋という点では確かにそうなのだが、その内実はもっとおどろおどろしい。

 魔術師の工房。それは即ち、魔術師の胃袋の中なのだ。研鑽の結果を消化し吸収するための器官であり。捉えた獲物を無慈悲に溶解するための、器官。後継者には手厚く、外敵には悪辣に作用する魔窟。数多の罠を敷設する魔女の館。それこそが、魔術師の工房なのだ。

 神代の魔術師ならば、工房どころか神殿を作り出すという。アヴィケブロンの工房はゴーレムに特化するとは言え、出ること能わずの鼠捕りであることは想像に方くない。

 それ故の、この三人の選抜ではあった。魔術師殺しの異名を持ったアサシンに、対魔術師用の宝具を投影し得るクロ。そしてアヴィケブロンというサーヴァントの手の内を知るトウマ、という三人は合理的と言えば合理的なのだ。

 トウマは、その合理性を理解していた。理解した上で、2つの点で懸念を抱かざるを得ない。

 1つ。それにしても順調に進展する、この潜入。順調というより、最早現時点では何も起きていない。闃然の中に揺蕩う緊張を、感じずにはいられない。

 そして、2つ。トウマの主観的体験としては、むしろこちらの方が大きな懸念だろう。つい1~2時間前まで昏睡状態だったクロを戦いの場に駆り出すなど、全く以て理性的とは思えなかった。仮にバイタルデータ上は問題なかったとしても、だ。

 とは言え───と思考を進められるほどに、トウマはある種冷静ではある───ローマ帝国軍分遣隊としてエトナ火山に派兵された兵士たちの数は、決して多くない。その上で、消耗性を考えれば人間の兵士を運用するのは、サーヴァントを運用するのに比べて経済的ではない。その事実を、トウマはよく理解している。あるいはトウマだからこそ、と言うべきだが。

 そして。

 その上で、トウマは「だからこそ」と考える。

 自分が、なんとかしなくては。相手がアヴィケブロンだというのなら、その性能は己の頭の中にある。なら、自分がうまく立ち回れば、被害は最小限で抑えれられる。

 煤けるような、焦燥。口腔内が水分不足でカラカラになるのを自覚しながら、トウマは予断なく先を行くクロの背を追う。

 澱のように頭蓋の奥に沈殿する、厳か且つ呻くような不安。トウマのそんな情動を嘲笑するように、2騎と1人は順調なまでに途を行く。

 そうして、その順調さという名の不穏は、最後まで変わらなかった。

 深層に降りること、およそ800m。人工的に採掘された広い横穴の最奥に、ぽかりとがらんどうが広がっていた。

 広さにすれば、四方に5mを超えた程度の洞穴。ただ石の塊だけが転がる空間の中央に、酷く質朴な木製のテーブルと椅子が鎮座する。

 そして、その椅子の上。まるで制止したように、サーヴァントは居た。

 色の無い洞窟の中で、その男の青を基調とした出で立ちは目が覚めるようだった。厳かな青いコートに金の仮面を被った人型。ぎぎ、と音をたてるように身動ぎした仮面の男の様子は、まるで機械のようだった。

 ───アヴィケブロン。間違いなく、アレは外典(Apocrypha)に登場した黒のキャスターだ。喉を鳴らしたトウマは、知らず畏縮した。

 そこからの進展は、それまでの遅々とした進捗とは比較にもならない豪速だった。

 アヴィケブロンは、恐らくその光景を認識する余裕すらなかった。おや、と思った時には半瞬で懐に飛び込んだクロの手から、呪槍が深紅に迸った。

 赤き呪槍、『破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)』。対サーヴァント戦闘において極めて有用であり、さらにキャスターを相手どるなら切り札にすらなり得る英霊ディルムッド・オディナの宝具の一つ。クロは容赦なく、今回も必殺を初撃にて撃ち放った。

 魔術的防御であれば問答無用で切り裂く刺突を防ぎうるキャスターは、皆無といっていい。故に、その一撃が致命になる直観は確かにあった。

 ぶしゅ。

 呪槍は、あまりに容易く。なんらかの魔術的防御を貫くことすらなく、アヴィケブロンの心臓を抉ってしまった。胸郭を貫き肋を砕き、肺を切り刻む。ぐちゃり、を抉られた心臓は、脊椎を刻んだ上で。背中から飛び出していた。どくり、どくり。2度脈を打ち、血を吐き出した心臓は、それで停止した。

 崩れ落ちる様は、朽木のようだった。瞠目するクロを非難するように地面に崩落すると、アヴィケブロンは大きく咳き込みながら、仮面の隙間から吐血を漏らした。

 僅か、1秒未満の遭遇。心臓を綺麗に取り出されたゴーレム使いのサーヴァントは、あまりに呆気なく死亡した。

 倒れ込む音は、枯れ木が砕けるよう。酷く乾いた音とともに地面に転がったアヴィケブロンを中心に、じわりと血の沼が広がっていく。

 2騎と1人は、呆然とその様を見下ろした。真っ赤な沼に沈む青いコートの痩躯は、既に霊基の輪郭を喪失し始めている。金色の燐光が宙に舞い、子供じみた色彩の殺戮を彩り始めている。

 使い魔の類でも、ない。この消滅反応は、間違いなくサーヴァントの消滅を示唆している。

 そうして完全に、アヴィケブロンが消滅する。

 その、間際だった。

 「聖霊(ルーアハ)を抱く、汝の名は」

 紙やすりのような声が、鼓膜を刻んだ。

 「『原初の人間(アダム)』、なり」

 そうして、大地が崩御した。




71話でした

今回も短かったので明日次投稿します


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

捕食本能

73話です


クロが目にしたのは、地面から這い出す巨大な手だった。

足元の岩塊が、ぐにゃりと変形する。いや、むしろ削れた、というべきか。鎌首を擡げるように持ち上がった岩塊が内側から形相を削り出し、人間独りを掴むが如くの手を形成したのだ。

咄嗟に飛び退くクロの敏捷は、決して早くはないが、機敏さは十分だった。それこそサーヴァントでもなければ肉薄できない速度であることは間違いない。

 だが、その剛腕は赤い旋風に比肩する。バックステップを執るクロの左足を掴みかかった巨大な手の精密動作は、これまでのゴーレムのそれとは一線を画した。

 瞠目の暇は、なかった。あ、と思う間もなく、巨大な岩手はそのまま地面へと少女の躯体を叩きつけた。

 人間など容易く粗びきにするであろう打撃。エーテル体たるサーヴァントの致命傷になることは決してあり得ないが、それでも苦悶を叩きつけるに十分な打撃ではあった。

 だが、クロの瞠目の理由はそこにはない。打撃の疼痛など、言ってしまえば瞬間的な苦痛にすぎない。故に、彼女の驚愕は別にある。その場所とは即ちにして、その巨大な岩の手そのものだった。

 クロエ・フォン・アインツベルンの特異性は複数存在する。構造解析に特化する英霊の技能・魔術的優位な個体であり、量・質ともに膨大な魔術回路を持つアインツベルンのホムンクルス、その最高傑作であるという点。さらにこの2点が相乗した結果として、彼女は殊魔術・神秘を(あば)くという点に限り、神代の魔術師とそれに連なる者にも比肩する。

 身体的接触を必要とするものの、その条件さえ突破すればあらゆる術式を理解し、そのレベルによっては解除する。ロード・エルメロイⅡ世が合理的理詰めによって魔術を解体するならば、クロエは直観的感性によって魔術を解体する。その様はある種、エルメロイⅡ世の啓く現代魔術の教室に属する、ある異能の天才(バカ)に類似しよう。

 故に、クロはそのゴーレムがなんであるかを、直観的に理解した。

 ただ巨大なゴーレム、というわけではない。だが、トウマが言っていた『原初の人』とやらでも、ない。否、どちらかと言えば後者に近いが、その有り様は、厳かさとは対極のものだった。

 端的に形容すれば、それは、食虫植物の具現、だった。重力・拘束型の捕縛陣。大型のゴーレムを転用した、獲物を捕獲するための設置型バインド。そしてその捕獲の目的は、即ち───魔術師(魔術回路)の、捕食。

 「───投影(トレース)!」

 咄嗟、投影したのは巨大な剣だった。

 出自は古代の中国に至る、騎馬を斬り殺すための大剣。宝具でこそないものの、物理的な破壊力は十分だった。

 「───速写(フォイエル)!」

 空中を狙点された巨大な剣。クロの一節をトリガーに射出されたそれは、正しく砲弾といった様相だった。

 狙いは剛腕の手首。構造上、最も脆弱な関節部。腕を切断して余りある威力の薙ぎ払いは、しかし。あまりにあっさりと、剣が砕けた。

 クロエは、与り知らない。また、本来アヴィケブロンを知るトウマすら、その宝具の存在は知らなかった。

 アヴィケブロンの有する秘奥の宝具。EXランクに計上されるその宝具の名を、『平穏の無花果』と言う。英霊アヴィケブロンが最後の伝説、その昇華。自らを謀殺した者を、死後に発いた逸話の具現。自らの死を対価にして発動するアヴィケブロンの宝具は、自陣営に聖霊の加護を付与し、快癒の祝福を授ける。

 その対象は、今回に限りその巨大な手だった。一撃、斬馬刀の打撃を完全に無効化したそれは聖霊の加護であり。仮にその加護を突破したとて、快癒の祝福で忽ちに破損は修復される。一度捉えられれば脱出不可能の鼠捕り。それこそが、アヴィケブロンが容易く自らの命を差し出した理由であり。彼が最も欲した魔術回路(ウィザード)───神代の魔術回路(メイガス)に匹敵する、アインツベルンの仔を炉心にするための、戦略だった。

 骸と化したアヴィケブロンの躯体を飲み込むように、もう一本の腕が地面から這いずり出す。掌の中、光子崩壊したアヴィケブロンは遂に消滅したが、それは消滅というよりは消化に近かった。身体を構成する第五架空要素(エーテル)大源(マナ)に霧散する前に、血液のように熔解したアヴィケブロンが地面に吸われていく。腑海林の落胤が得物を吸い尽くすように、つつましくも貪婪に主を食い散らかした岩塊の魔手の五指が、菟葵のように開いた。

 其は永遠にも相似する、死への待機。咄嗟にできることは精々一度の打撃のみ。呪槍ゲイ・ジャルグは魔術に対して優位性を誇るが、既に契約完了した術式の破棄は叶わず、岩塊の奥底に折りたたまれた羊皮紙に組み込まれた術式まで貫くには、威力不足だった。何より、既に発動済みの宝具たる『平穏の無花果』が誇る絶対防御の加護は、あと一度のみ全ての攻撃を無効化する。仮にゲイ・ジャルグの威力を魔術で底上げしたとて、無意味だった。

 叩き付ける槍。折れる穂先。鈍い振動と同時に腕が軋みを上げる。臓腑の底から呻くような悲鳴を漏らしたクロは、背後を振り返り───。

 「『時のある間に薔薇を掴め(クロノス・ローズ)』───四倍加速(square accel)

 ざ、しゅ。

 

 

 目にもとまらぬ速度、などという言葉がある。

 あまりの速度を(ほこ)る運動体を讃えて表現する、ある種の比喩である。当然、その運動性能は物理法則に支配されており、物理的に人間の視界から消えるわけではない。

 だが、その瞬間の移動は確かに目にもとまらぬ速度だった。瞬きの動作すらない、秒未満の間隙を切り裂くような閃光の奔騰、ナノセカンドの俊足。一秒前に背後に居たはずの赤い暗殺者は、既に、岩の手の懐にまで飛び込んでいた。

 閃く鈍色の唸り。居合における抜刀の如くに迸った短刀(ナイフ)が、クロの右脚を切り落とした。

痙攣に身もだえしたのは、しかし、岩の腕だった。捕縛していたはずの対象が、文字通り手から滑り落ちていったのだ。

本来であれば、腕は認知機能の外に落下した少女の姿を追っていただろう。そして事実、捕食を兼ねるもう一方の腕は索敵を始めようとしたが、その動作もすぐに停止していた。

 否、それは完了した、という方が適当だっただろう。魔術回路を索敵せんとした手は、より直近に獲物を見つけたのだ。そしてアヴィケブロンを吸収したそのゴーレムの手の精密性は、サーヴァントのそれに、並ぶほどだった。

 ほどなくして、捕食は始まった。最も身近にいた赤い外套のサーヴァント───アサシンに肉薄した手は、その五指で以てエーテル体を握りつぶした。

 その破壊音は、酷く、水っぽく、骨ばっていた。

 咄嗟に駆け寄ったトウマができたことは、数少ない。落下するクロの身体を抱き留めて。続けて落ちてきた、細い右足も受け止めた。足を切断された少女というショッキングな光景に怯みながら、トウマがもうできたことはもう一点。

 握撃で潰されるアサシンの最期を、看取ることだけだった。

 「キリツグ!」

 ───それは、誰の声だっただろう。自分の声だったか、それとも足を切断された痛みすら無視して迸った少女のものだっただろうか。

 判然としない声に応えるように、赤いフードがこちらを向く。フードとフェイスガードの奥底に潜む虚ろな目は、ただ悠然と。ただ、漠然と、

「『時のある間に薔薇を掴め(クロノス・ローズ)』───……stagnate」

 言語の吐息だけを残し、赤いフードのアサシンは、嚥下された。

 ───お前たちがアレを斃せ、という無言だけを残して。

 

 

 其は、地中深くから地面を砕いた。

 火山から吹き下ろす颪を吐息に。地中に籠る地水を血に。

 その巨躯、霊峰の如く。巌の如きの堅牢さを持つ、土の巨人。

 流浪の難民を救済に導くべき、王の貌は、温厚な峻厳さを湛えていた。

 其こそは、全人類の里程標。命のブレスを吹き込まれし粘土細工。芥の寄せ集めにしていと高き雲に届く者。

 『王冠:叡智の光(ゴーレム・ケテルマルクト)』。英霊アヴィケブロンの営みの全てである瑞々しき命の人類(ヒト)こそは、神が作り出したる『原初の人(アダム)』の玉体だった。

 巨人は、山麓から世界を見渡した。楽園には程遠き古き土地とは言え、抱くべき感慨はない。

 いや、一つしか、ない。

 人類(たましい)に救済を。この世界に常世なる花園を。

遍く世を閲した巨人は、無音に等しい方向を上げた。産声というにはあまりに知悉に満ちた原初の叫喚の後、15mを超える巌の躯体が蠢き始める。

其は、唯一つの輝かしい夢。未来を焼き尽くすほどの冀望。

そのためだけに、巨人は命を飛ばす。最後のエデンを、創り上げるため。




そろそろ2章終わりそうなので、週2より更新頻度上げる予定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

リンボの憧憬

今回はちょっと短いです


 「まだ通信はできないんだな」

 司馬懿の物言いには、ほとんど感情の起伏が存在しない。より正確に言えば、感情の起伏を理性で抑えつけることに極めて長けている。苛立ちは十分に存在していたが、それを完全に手懐けていた。司馬懿という人間性の、ある種の本質ともいえるありかたの一つではある。

 だから、その言葉は実際苛立ちから発したものではあった。そして正確には、それは苛立ちであると同時に、焦燥すらあった。

 司馬懿が眺望する、それは光景と呼ぶべき情景。標高3000mを超すエトナのなだらかな山麓から、何かが這いずり出していた。

 (───いや、今繋がった! 大丈夫なのか、トウマ君! ってちょっと待って、クロちゃんのバイタルデータやばいぞ!? というか、あ、足)

 (それが、アサシンが! アイツの餌に)

 「いやあ、あれはちょっと、ヤバイかもですね」

 混濁すらする無線の中、司馬懿の隣で、酷く間の抜けた声が耳朶を打った。

 藤丸立華は、頻りに一つ結びにした髪をかき回していた。余裕そうな顔なのは外見だけ。いや、動じていないのは確かにそうだが、どちらかというと、苦い顔を緩んだ表情筋の奥底に置き忘れた顔だった。

 「『原初の人(アダム)』、とやらか? トウマ少年の推測が正しいのなら、あれは神霊(ハイ・サーヴァント)すら超える神の玉体そのものですらあるんじゃあないか」

 「さぁ、それは少しわからないけど」

 かき回す仕草をやめたリツカは、腰に手を当て、遥か彼方に聳えた巨人を見上げた。

 「とりあえず、クロちゃんとトウマ君のこと、助けに行かなきゃあならない。話は全部、それからだ」

 司馬懿は、頷きを返した。何をすべきか大局的には理解し得なかったしあれがどう倒し得るのか不明だが、アレを打倒し得る戦力はそう多くない。そしてその戦力こそはサーヴァントであり───あるいは、あの少年マスターなのだ、と思った。

 「シバっちゃんが行くの?」

 「いや」司馬懿は頭を横に振った。「ジャックに行ってもらおう。私が行くべきではない」

 言って、司馬懿は周囲を見渡した。天幕がまばらに連なる青々とした草原の中、白無垢の髪の少女を見つけるのはわけなかった。

 「ジャック」司馬懿は慌てもせずに近寄ると、自分より幾分か小さい少女の肩を叩いた。「ジャック・ザ・リッパー、いいか?」

 ジャックは、極めて大人しく、また温厚な人格の持ち主だった。声をかけられれば無邪気に応じ、頼みごとは快く引き受けるのがジャックという少女の、主だった特質だったはずである。

 だから、この時の無反応は、司馬懿の予想と僅かに乖離した。

 「ジャック?」

 2度目の応答も聞かず。黒い紳士用コートを外套のように羽織る傷だらけの少女は、まるで時間が凍ったように制止していた。

 原初の夜、その前夜を思わせる異様な静謐。奇妙な痙攣は正しい意味で畏れであり、そしてそれは、喜悦だった。

 「そういうことだったんだね」その声は、どこか、紳士然とした良識を、感じさせた。「私なんかが、呼ばれるわけだ」

 「どうしたんだ、ジャック?」

 「うぅん、なんでもないよ」

 丐眄したジャックの無貌には、いつも通りの無邪気が浮かんでいた。だがその無邪気さは、果たしていつもの幼げさだっただろうか。むしろそれは、無形のものが浮かべる、辺獄(リンボ)の微笑ではなかったか───?

 「じゃあ、行ってくるねシバっちゃん」

 次の刹那、矮躯は黒い旋風と化した。黝い臭気を撒き散らした突風は、サーヴァントたる司馬懿の目を以てして補足できなかった。

 ふと、司馬懿は自らの手を見下ろした。

 手が、震えていた。

 何ゆえに?

 未回答の疑問だけが大脳古皮質の奥に堆積し、司馬懿は困惑めいた顔で巨人を睨みつけるしかなかった。

 

 ※

 

 その一報を、レフ・ライノールは静かに受け取った。

 英霊アヴィケブロン、諸葛孔明、アレキサンダー。計3名の喪失と、原初の人の誕生。それに伴う、敵サーヴァントたるアサシンの撃破。合計3点の情報を岩の小鳥から受け取ったレフの反応は、至って冷淡だった。

 「だから言ったのだ。サーヴァントなど所詮は人類(にんげん)の延長上のものに過ぎないんだ、と」

 吐き捨てるまでもなく、言葉ごと言明を咀嚼するような物言い。傍に自らが配下たるサーヴァントがいるなどという事実を全く気にも留めない発言は、はっきり言って不躾にもほどがあった。

 とは言え、そのサーヴァント、源頼光は全く以て気にする素振りもなかった。瞑目し、静かに下知を待つ素振りは仏教的な淑やかさを湛えている。

 「あのアダムとやらもどれほどのものか、わかったものではないな」

 レフの口ぶりは、どこか微妙だった。失望や呆れと言ったものは感じさせず、ましてそれまでのサーヴァントに対する蔑視もない。上滑りする思考を自分でも持て余すような、そんな言葉だった。

 頼光は、そんなレフの言葉にも何も反応しなかった。彼女は、一般的には良識が善く発育しているのだ。独白に言葉を重ねるほどの無思慮の持ち合わせはなく、また心理的裡側に踏み込むほどもなかった。

 「まぁいい。こちらも動くとする。いいな、バーサーカー」

 バーサーカーに対する物言いは、再び侮蔑的に戻っていた。期待もなにも抱かぬといった口ぶりに潜む、異教的なものへの軽蔑心を隠そうともしない様子である。

 そして、頼光はそんな態度にやはり感情を動かさない。温厚そうな顔を張り付けたまま、しかしこの時、頼光は首を横に振った。

 「いえ、いけませんレフ様。動くべきではありません」

 「何故だ。諸葛孔明の指示した通りの状況では───いや」

レフ・ライノールという男は、短慮・短気ではあるが愚劣ではなかった。古本に浮かんだ戦略図(マップ)には確かに『王冠:叡智の光(ゴーレム・ケテルマルクト)』が発動し、誕生した点が表示されている。

されているのだが。

 「───なんだ、この遅さ、は?」




短かったので明日も投稿します


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

悪魔の囁き

今回ちょっと長めです


ケテルマルクト上梓より75時間後

イタリア半島 メッセナ

 

自由都市メッセナがローマと同盟を組んだのは、紀元前264年。カルタゴと共和制ローマの戦争の折のことであった。

紀元後、60年現在。共和制ローマは既に帝政へと移行し、80年を過ぎている。安定したパクス・ロマーナにあり、帝政ローマとメッセナの関係性は大きな変化を被ることは、およそなかった。

そんな、普段は活気ある港町。されどその日は、陽が昇った後も人声は囁きすらなく、寂れた廃墟のようですらあった。

そんな真新しい廃都の中。

海岸線に佇む少女が2人。

水平線から昇る暁の陽を受け、白い髪を潮風にさらう小さな少女。殺人鬼(ジャック・ザ・リッパー)

 であれば、その髪は対称性だったろうか。プラチナブロンドの髪は、宝石のようであろう。ライネス・エルメロイ・アーチゾルテは、殺人鬼の背を見守るように見つめている。

 ジャックは、胸にあてた手を、解く。青い眼差しが、エオスを穿つ。

 ───きっとそれが、“私”が此処にいる意味。

 ほんのわずかな可能性の意図を手繰り寄せた顔見知りの、細やかな頼み事、召喚されることなどほとんど有り得ない殺人鬼が呼ばれた意味と理由。

 夢幻のような吐息。瞑目の中に揺蕩う、朧な男の輪郭。精緻に自分を見据える怜悧な目。鏡のような目に映る殺人鬼の無貌は、きっと、破顔していた。

 水平線が割れた。

 それはまるで預言者が征く先を吐息が開くような光景。割れた大海から顔を上げたのは、人というにはあまりに高潔な身体だった。

 だからこそ。

 少女は、嗤う。高潔こそ人の証だというならば、彼女はその高潔を堕天させることこそが本懐であるのだから。

 暁の水平線を見渡す青い眼光。血濡れの蛮刀の如き眼差しが、人類(にんげん)を捉えた。

 原初の人。随分、お笑い種な存在者だ。そんな質朴な人間性など、悪魔の格好の餌食に他ならないではないか。

 嘲笑、侮蔑。数多の軽蔑を含んだ媚態の嘲弄が、少女の形相を歪めた。

 「準備はできたかい」

 ライネスの赤い目を見返して。

 頷き、一つ。無言で互いの信を交わし終え、ジャックは巨人を睥睨した。

 「『■■■■■■■■■■■■■■■』!」

 

 

 8時間前

 ケテルマルクト起動より70時間後。

 港町メッセナ、宿屋にて

 

 (う、うむ? これでよいのか?)

 空中投影された映像の中、ネロはきょろきょろと見回していた。

 困惑は少しだけ、大部分が好奇心といったところだろう。(そこはあまり触らない方が良いかな)とダ・ヴィンチに支持されてビクリとしてみたりしながらも、ネロは未知なる魔術の粋に感心している様子だった。

 そんな様子を眺める視線は、実に5つ。宿屋の酒場を接収……もとい貸し切っての臨時対策会議に顔を連ねた面々は、そんなネロの仕草にじれったさを感じないわけにいかなかった。

 (これが流行りのリモート会議? とやらか。未来では皆このようなことをしているのか。便利だな、わざわざ集まらんでもできるというのは)

 (良いこともあるけど、欠点もあるからねぇ。使い方によって便利なのは確かさ……っと、そんなに時間も無駄にはできないね)

通信映像越しでダ・ヴィンチが肩を竦める。咳払いの一つもしようとしていた司馬懿は、少しだけ肩透かしにあったように、緩く息を吐いた。

それじゃあ、とひらひら手を振ったダ・ヴィンチのモニターが閉じると、次は地図(マップ)が立ち上がる。頷いた司馬懿はすっくと立つと、相変わらず感情の起伏の無い空色の目で残る4人を見渡した。

 「新しく追加された情報は?」

 「んじゃあ、まずは私かな」

 ぼやん、としたように言ったのは、リツカだった。特に挙手などするでもなく周囲を一瞥して同意を得ると、リツカは努めて落ち着き払った様子だった。

 「まぁトウマ君の言った通りなんだけど、その結果だね。確かにアレ、こっちの攻撃が一切効く様子がない。原理は不明だけど、トウマ君の推測通りなら固有結界の敷衍……足元の楽園化っていうのも、強ち間違いじゃあないっぽいかな」

 「逆説的復元、ねぇ」

 かちゃ、とリツカが右手のポインターを操作する。スイッチを押し込むに合わせて別枠で映像が立ち上がると、巨人の足元───草原を踏みしめた足跡が表示された。

 草原、というのは、その世界はあまりに豊かだった。地中海気候には決してそぐわない植生の樹々が忽ちに生い茂り、雑多に生えそろう樹々には忽ちに果実が実っていく。赤い実は林檎だろうか。だがその隣に実をつけているのは葡萄でありオリーブであり、キウイが鈴なりになっていた。ミルトンの失楽園に曰く、楽園は季節も時間も超えた数多の樹々が生い茂るという。ならばこれは、まさにその通りの光景ではあった。

 「楽園から足を離れてる場合に限り攻撃が通る、というのも間違いなさそうだ。片足を上げて居た時は、なんとかダメージが通った様子だったから」

 それでも、Aランクの宝具で『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』込みで。

 そう補足したのは、クロだった。肩を竦める、というよりその仕草は馬鹿げたものに対する質朴な呆れのようだった。

 「頭を吹っ飛ばしたのに、10秒で再生よ? インチキ宝具もいい加減にしてほしいわ」

 「それにあのデカいの、結構頭が切れるし、見た目によらず速い。ブラダマンテの宝具で狙撃してもらったけど、それだけ回避したから」

 口を尖らせたクロは、ぶらぶらと足を揺らしている。切断されたはずの右足は、包帯ぐるぐる巻きにされてなんとか保持されている様子だ。

 救援に駆け付けたジャックの【外科手術】の賜物だった。とはいえ、最低限度の機能と見れくれだけ修復されただけの状況である。中~遠距離からの射撃なら可能だが、近距離での機動格闘戦闘は不可能―――そんなコンディションだった。

 だがそれよりも。

 普段通り在ろうとする少女の姿が、ただただ、痛ましかった。トウマは、隣で鼻をつんとさせる少女の存在に、どうにか意識は向けていた。

 「攻略不能なゲーム、か。アイツが好きそうなお題目だよ」

 独り、言ちる。司馬懿……ではなくライネスは気難しさと草臥れを同居させたしなびた顔を浮かべると、「課題としては酷く難題だよなぁ」と零した。

 (それで、そのなんとかという巨人は真直ぐ余のローマに向かっているのであろう?)

 「まぁ真直ぐ、というか主に陸路でってところかな」

 (小癪な。いくら余とて無敵の巨人が相手ではお手上げだぞ)

 「楽園による無敵化かぁ。固有結界(リアリティ・マーブル)でも貼れればいいんだけどね?」

 益体も無く、リツカは肩を竦めた。

 固有結界。心象風景を形にする、魔法(きせき)に近い大魔術。なんだかTYPE-MOONの世界観だと割と使えるキャラクターが多くね、という気がしないでもない魔術だが、当然大魔術の名は伊達ではない。魔術師としては素人に毛が生えた程度のトウマは当然として、リツカも当たり前のように使えない。ロマニは「いやぁ」と苦笑いして、ダ・ヴィンチは不快そうに「天才にも、残念ながらできないことがある」と言ったものである。

 「キリ様なら使えそうだったけどね。ペペさんは……どうかな」

 さらり。リツカは、薄氷のような言葉を投げる。狙いの定まらない言葉は真性にして独白だったが、どちらかと言えば虚空のどこかへの詰問か、非難のようにも聞こえなくはなかった。

 その場にいて、その言葉尻の意味を問うものはいない。というより、誰もその言葉がなんであるか、よくわからなかった。理解したのは特異点の外にいるロマニとダ・ヴィンチ、その他モニターするスタッフの面々だっただろうか。だが、敢えて何か言おうとするものは特にいなかった。詮の無いことにすぎない、と皆承知していたのである。

 故に、トウマがその時、リツカの言葉をさして気に留めなかったのは必然であり自明のことであったし、別なことへの思案をしたのはむしろ合理的だった。

 《聞きたいことがあるんだけど》

 素知らぬ顔で、トウマはパスで隣の少女に語り掛ける。僅かな緊張を感じながらも、応えるような一瞥に安堵を感じた。

 《クロは無限の剣製(アンリミテッド・ブレイド・ワークス)、使えないの?》

 《無理ね》

 思案も何もない、即答だった。

 《確かにクラスカードにその情報はあるけど、それの使い方がよくわからない。そこに入ってる剣を見て投影(コピペ)するのはなんとなくわかるけど、ライブラリそのものを引っ張り出す方法はわからないというか》

 クロは若干だけ眉を寄せていた。魔術の知識など皆無のトウマに伝えるための言語をなんとか選択しているようだ。

 《少なからず、固有結界を展開して向こうの楽園を上書きするって戦法は無理ね》

 無論、クロはトウマの思考などお見通しだった。

 そこで思考を一端停止させる黒髪の少年は、ごく自然に、ネロの声へと意識を向けていく。

 (むう。もっとこう、前向きな情報はないのか。いかに余とても、胸が塞ぐぞ)

 「まぁ悪い情報だけじゃあないさ。アイツ、歩くのは早くないし。案外、デカくなるのも遅いし」

 ライネスの口ぶりは、若干投げやりだった。ここ数日観測して判明したいい知らせがその2点だけ、というのは、どうにも頼りなかった。

 足が遅い。成長の鈍さ。どこかつかみどころのない情報だ。原作(Apocrypha)ではどうだっただろう。鈍足という印象は特になかった気はするし、成長速度は目まぐるしかった気がする。モードレッドと剣戟を重ねるほどに成長するまで、数時間とかからなかったような。少なからず、部隊を再編・数十キロ後退した後、作戦会議を開くような時間的余裕は明らかになかった。

 それが何か、重要な理由なのだろうか。頬杖をついたトウマは、空中に浮かんだ映像を漠と眺めてみる。

 (しかし醜い面ではないか! あれで神の玉体だと、酷男でないか)

 ネロはその様相に、嫌悪感を隠そうともしない。かくいうトウマも、まぁ確かにと頷く。アダムのビジュアルは小説だけだと流石に不明だったため、こうして姿を目にするのは今回が初。そしてその感想は、あんまり思わしくない。

 だが、そう感じるのはネロと、そしてこの世界からある意味で乖離するトウマだけだっただろう。

 原初の人の模倣。模倣などとは言うが、その在り方は真性のそれである。全知全能、いと高き者。新プラトン主義における、実在(イデア)より流出する見姿。あのリツカでさえ、その巨人を見る目はどこか気分が悪そうだったし、司馬懿も意図的にそれから視線をずらしていた。通信越しのダ・ヴィンチすら唸るほどの御稜威が、それにはあった。

 (そうかなぁ、厳かさを感じられる良いデザインだと思うけどなぁ)

 ───正確に、ケテルマルクトの威容に畏怖を抱かない人間はもう一人いた。ロマニ・アーキマンである。その故こそ不明であるが、何にせよロマニは反論した。どちらかというと、控えめな呟きにも近い。

 (なんで心臓に罅が入ってるのかはよくわからないけどね)

 何の変哲もない、上滑りのような言葉。誰しもそれとなく聞き漏らすロマニの言葉だったが、トウマは何故か、その言葉につられるように巨人の画像を注視した。

 現時点にて、全長100mに達する巨人。未だ胎から落ちたが如く無垢な原初の人は、緩慢な動作で歩行を繰り返している。

 そして、その胸部。中央というよりはやや左より……人間でいうところの心臓部分が黒く刳り貫かれ、孔を基点に四方に奔る模様。確かに模様というよりは、亀裂や罅のように、見えるような。

 (銃創みたいだなぁ。心臓を撃たれた、死体みたいだよ)

 その時のロマニの発言は、全く以て何気なかった。だが、トウマの脳裏に電流が走ったのはその時である。直感というよりは直観に近い洞察。啓示にも類似する思索。

 そして、もう一人。同じ結論に辿り着いたのは、立華藤丸のサーヴァントは、声こそ出さなかったが静かに見開かれた目は、解答(こたえ)に行きついた目であり。

 そして同時に、不快と憐憫と苛立ちと憧憬が混濁したが如く、不定の情動を奥底に湛えた目だった。

 「どうした?」

 だから、そのタイミングはあまりに間が悪かった。あるいは間が良かったのだろうか。どちらにせよ、それが声を上げたのは、間違いなく必然だった。

 唐突に声を上げたジャック・ザ・リッパーに、全員の視線が向いた。

 「あの楽園? を、無くしてしまえばいいんだよね?」

 泥濘のような声。ぬるりとした声は、最早媚態にすら近い嫣然を孕んでいた。

 「できるよ。私なら」

 淡く崩れた輪郭の、それはずれた言葉(ディスクール)

 差異化しながら延びていく、構造の亡い台詞(エクリチュール)

 「私なら、なんとかできるよ」

 其をきっと、悪魔の囁きと言うのだろう───。

 

 ※

 

 クロエ・フォン・アインツベルンは、微かな動悸を知覚する。

 時計は周囲にないが、時間はわかる。現地時間における、およそ3時半。さらりと乾いた唇をなめ、クロは静かに目を、開ける。

 まだ、昏い。太陽は未だ地平より出でず、世界には暗黒だけが灯っている。それに、その密着具合もあり。クロの視界が捉えるのは、マスターの取り立てて分厚くもない胸板だけだった。

 すい、すい。酷く呑気な寝息が、耳元は至近、20cmの距離で甘く膨らむ。

 案外図太いなぁ、と思う。鼻先の寝顔に、決戦前夜の緊張は感じられない。流石に2度も死地を潜れば、一般人とは言え肝も据わるということなのだろうか。緊張のし過ぎで何もできなくなるよりは、立派なことではあるけれど。

 ───微かな、空白感。再度、S状直腸あたりで鬱勃と擡げる非心理学的-存在論的情動に身動ぎする。所在(ありか)も不明なら由来(しゅってん)も不明なその気持ちをなんと名付けるかクロは知っているが、その特権的行為を行う主体性はない。あるのはただそれを愉しむ受容性だけの持ち合わせであり、そしてそれに逃げることは立派な女子力であることも、よく知っている。

 クロはこの時、既にそれを十分に感受していた。だから、ベッドから抜け出る。実利的にも、魔術回路の調律は済んでいる。

 そろりそろり。音もなくシングルサイズのベッドから、抜け出す。特に微動だにせず布団にくるまるマスターを一瞥してから、クロは無意味に、窓を開ける。

 無風。この日は、海も凪いでいる。雲一つなく、人も既に居ない港町。窓から見下ろす町並みの果てには、黝い海が痙攣するように波を打っている。海面に張り付く朱い月は、宙から堕ちた血の雫のようだった。

 「眠れないの?」

 半ば、その声を予想していた。いや、予想というよりは期待だった、だろうか。

 「そういうジャックだって」

 窓のすぐ上。

 屋根の上に、ちょこなん、と白髪の少女が座っていた。

 「殺人鬼は夜行性でしょ? 吸血鬼だってそうだもの」

 にへら、と少女は笑う。なるほど確かに、白昼堂々殺人を犯すものも居まい。いや居ないとはないけれど、それは亜流であって本流ではないだろう。夜霧に紛れる殺人こそが王道だからこそ、白日の下の殺しが異彩を放つと言うだけの話だ。意外にも、クロはそんなレトリックに素直に納得した。でも吸血鬼は関係あるのかな?

 「お兄さんは寝てるの?」

 「呑気にアホ面さらしてるわ」

 「らしいね」

 けらけら、と笑う白髪の少女。外見相応の無邪気さを自然に装う殺人鬼は、「ねぇ!」と屋根の上を跳ねた。

 「わ!」

 クロがぎょっとしたのは、無理もない。ふわ、と視界に黒コートが過ったかと思った瞬間、鼻先に、逆さまのジャックの顔があったのだから。

「喉乾いたから、紅茶(おちゃ)淹れてよ」

 むぎゅう。

 ジャックの手が、クロの頬を挟み込む。

 「私、あんまり料理とかは得意じゃないんだけど」

 「そうなの? 執事(バトラー)みたいだけど」

 「偏見よ、それ」

 むぎゅむぎゅされながら、クロはほろ苦く微笑する。邪気の無い顔をする、年下そうな女の子の顔。その顔に妹のような姉のことを思ったわけではないけれど、それでも「年上のお姉ちゃん」気質を刺激されたのは間違いない。待っててよ、と一声残してむぎゅむぎゅ攻撃から逃れると、寝ぼけた記憶のままに部屋の隅の補給物資を漁る。

 お菓子だのなんだのとティーパックは大抵ライネスが徴発……もとい接収しているが、それでも必要最低限だけはこちらに譲ってくれている。でも紅茶なんてあったかな、と思いながら探していると偶然見つけるパックの箱。あったあった、と言いながらささっと小型ガスバーナーとクッカーで湯を沸かす。イリヤスフィール(アインツベルンの傑作)なんだから魔術の一つも使って火を熾せばいい気はするけれど、クロは全く以て現実主義者だった。ただそれだけの結果を求めるならば、魔術を使うなんて全く以て徒労であることをよく承知していた。ある意味、傑作機故の経済観念だったかもしれない。

 ともあれ、湯を沸かすのにさして時間はかからなかった。深夜に部屋の隅で湯を沸かす、という奇行に妙な愉悦を感じていたのは、クロだけではない。いつの間にか隣に並んでじっとヤカンが白い煙を吐き出す様を眺めるジャックの顔も、疾しいことに興じる喜悦に歪んでいた。

 「んー沸かしすぎた。流石にペットボトル1本は多かったかしら」

 「これ食べたい」

 「夜中にジャンクフードとは中々剛毅ね」

 そんなことを言いながらも、クロも喜々としてカップ麺を漁ったりする。少女は今更に思い出したのだ、自分がサーヴァントであるという事実を。流石サーヴァントだ、夜にいくら食ってもなんともないぜ───というわけだ。

 ───降霊科(ユリフィス)、特に召喚科の教授陣が効いたら卒倒しかねない物言いである。仮にも人理の守護者、最強のゴーストライナーの在り方を感謝する理由が、夜中のジャンクフードであるとは如何なものか。ちょっとだけクロもそんな風なことを思わないでも無かったが、やはり彼女は現実主義者である。ありがたがるものはなんでもありがたがってなんぼなのだ。突っ走るときは、機雷原を突っ切る勢いで行くべきだ。

 「どっちがいい、ジャック?」

 「これ」

 「えーと、ピリ辛レモンヌードル? なぁにこれぇ」

 「250円て高いの?」

 「まぁカップ麺なら妥当じゃない?」

 変なドラゴンが描かれたカップ麺を凝視しする。王者の鼓動やら天地鳴動やら仰々しいキャッチコピーのカップ麺に首を傾げながら、ともかく蓋を開けて沸き上がった湯を注ぐ。蓋をしめてきっちり3分。蓋からの匂いは結構うまそうで。

 そうしてカップ麺とティーポッドを持って、いそいそと屋根へと上がる。相変わらずトウマは鼾をかいて寝ている様子だった。

 って。

 「もういいかな?」

 「あっ、待って! まだ」

 「アツゥイ!?」

 「言わんこっちゃない。ほらこっち向いて」

 べったり口元についたスープを適当なタオルで拭く。むー、と不満そうにしながらも、それでも味自体は満足なのか。今度はふーふー冷まして啜ると、ふんふんと鼻を鳴らした。

 クロは、さして料理に拘らない。手が込んだものはそれはそれで美味しいけれど、自分の手でそれを生み出そうとはあんまり思わない。彼女の家の手作りの料理に比べれば格落ちだけれど、それでもコンビニ飯は結構おいしいということをよくわかっている。

 互いに無言。無心でカップ麺を食い尽くし、クッカーセットのコップに紅茶を注いで互いに飲む。ほわー、と二人して脱力めいた嘆息を吐いて、顔を見合わせて顔を綻ばせた。

 「紅茶は良いね、いい」

 などと、ジャックは英国紳士みたいに宣う。クロはあまり実感もなく、適当に淹れた紅茶を飲む。味はともかく、あったかい飲み物は確かに心に良いな、と思う。本音を言えばコーヒーの方が好きなのだが。

 緩慢な、時間。原初の帳にも似た、幽かな夜。互いに特に何か意義のある言葉を交わすでもない、束の間の静寂。

 だから。

 「ねぇ、本当に、いいの?」

 ジャックのその言葉もやっぱり、何か価値のある発話ではなかった。

 クロはおよそ5秒、沈黙した。答えに窮したわけでもなく、また不快を惹起させたわけでもなかった。

それはある種の、前-存在的な判断停止(エポケー)。現象学的還元の手前か彼方で隠れる倫理性を前に、クロはただ、吃った。

 「別に、いいんじゃない」

 だから、彼女が応えられたのは精々それだけだった。散文的な応答は、感情という人工物(人間性)を全く以て欠如した現-存在的なものだった。

 「ごめん」

 「そうね。でもいいわよ」

 それで、会話は終わり。さして情動の尾を引くわけでもなく、白髪の少女と銀髪の少女はその会話を繰り延べる。

 「ごちそーさま」

 「早いわね」

 「ごはんは腹八分目ってトリムが言ってた」

 「健康的」

 「でも紅茶は別腹だって」

 「うーんこの英国面」

 そうして再開する、とりとめのない会話。夢幻にも似た、無形の言葉たち。

 なんのことはない、それは不確定の、時間性。

 

 ※

 

 もう寝るわ、とマスターのベッドにもぐりこむ少女を見送って、ジャック・ザ・リッパーは彷徨い始める。

 夜の海から昇ってきた霧が、港町に横たわっている。夜霧の散歩者となった少女は、破綻した良識で恋慕する。

 そう、それは恋慕に近い。夜の開けない天に見上げれば、朔月が獣の目の如くに閃いている。

 ―――だから、きっと大丈夫。所詮は幻想でしかない心配など、見当違いでしかないのだと思い知る。仮にあの子は受肉した真性の無に至っても、きっと―――……。

 「私は此処にいるよ」

 益体のない、それは。

 「君もきっと、この世界に偏在()るんだろうね」

 望郷にも似た、理性の吐瀉。




大分終盤に入ってきたかと思います、今後ともご愛顧のほどよろしくお願い致します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Strange Dvil

ちょっと短いです、申し訳ありません


 人が海を割った時。

 目に入ったのは、眼下に広がる港町だった。

 朝焼けの空から降り注ぐ、青色の陽。潮の匂いと獣の遠吠えを掬するように味わう。

 あまりに牧歌的な、メタフュジクスの吐息。それはきっと、エデンに相応しき、存在の瑞々しさだっただろう。

 だが。いや、逆説的というよりは順接的に、だろうか。

 あるいは、必然的に。

 人は、その蒼褪めた影を知覚せざるを得なかった。

 サーヴァントが、2騎。赤い目のサーヴァントと、もう一人。深海よりも溟い目をしたサーヴァントが、どうしようもなく延髄に焼き付く。

 既に、巨躯は500mを超えていた。相対する白髪のサーヴァントの矮躯は、僅かに140cmもいかぬであろう。全知全能たる人とは程遠い、それは人知無能ですらある俗物さ。無意味で無価値なそれは、その人にとってはあまりに取るに足らないはずだった、のに。

 なのに、彼/彼女/それ/は、身を竦ませた。あまりに明確な、恐怖と呼ばれる情動。感情として同定されることすら不可能な怖気。

ならば、人の知覚に届いたその原初の叫喚は、きっと。

 「―――『悪霧は倫敦の暁と共に滅び逝きて(フロム・ヘル)』!」

 蛇が啼くようだった。

 

 

 19世紀。

 最低でも5人の売春婦を殺戮しながらも、夜霧に紛れる如くに消息を絶った殺人鬼、切り裂きジャック。その正体を巡り、数多の仮設が林立する。

 曰く、それは医者であった。

 曰く、それは売春婦の愛人であった。

 曰く、それは警官であった。

 曰く、それは下水に捨てられた数多の水子の怨霊の集合体であった。

 ともすれば都市伝説とも思われる風聞の中、その異聞は存在する。

 曰く。それは、地獄より侵襲したる悪魔である───。

 仮設の所以は、殺人鬼が警察署に届けたとされる一通の手紙。被害者の腎臓を封入したおよそ理性と良識からかけ離れた封書には、血濡れのような赤い字で、ただ一言だけが穿たれていた。

 『地獄より(フロム・ヘル)

 人々は、悲しいまでに願った。

 このような猟奇的な尊厳の否定が、人間の業であるはずがない。仮に人が犯した惨劇であったとしても、それは悪魔憑きによる人の堕落に違いない。どうかこの悲劇と悪意は悪魔のせいであってくれ。

 そんな野蛮な願いを元に、そのサーヴァントは顕現する。数多の仮説が寄り合う、可能性の揺らぎ。量子力学的拡散にも等しきサーヴァント。狂戦士(バーサーカー)のクラスで召喚された、ジャック・ザ・リッパーだった。

 宝具(ノーブル・ファンタズム)、というには、あまりにそれは俗物的だろう。人間の野蛮性の表徴でしかない祈りに、気品さなど欠片とてあろうか。あるいはそれは、英雄に対する揶揄であろうか。あらゆる高貴さ、気品さ、良識は腐食し、それ自体が野蛮さから逃れられないとする人理の非難であろうか。

 ともあれ。その宝具は、放たれた。シリアルキラーの真名を以て解き放たれた無が、夜霧とともに這いずり出た。

 その羽根は、蝙蝠のようであっただろうか。それとも、猛禽であっただろうか。どちらでもありどちらでもない純黒の翼は、3対にも及ぼう。

 頭部に生えた角は、山羊のそれであろうか。捻じれた仰角を戴く顔は、獸のそれであり。頭頂に浮かぶ黝いアウラは、宵色の王冠であった。

 不定に蠢く下半身に、馬脚はない。脚の代わり蠢動するそれは1体の巨大な大蛇であった。

 其は楽園に潜む虚偽の蛮神。堕落した人間の想念を束ねた、霊長の殺人鬼。聖獸にも等しき、幻想の悪魔。

 爆発する渇いた咆哮。大地より屹立する黒曜の剣。

 収束する原初の情動のままに、2つの巨影が激突した。

 

 ※

 

 「おわー、すっごーい!」

 酷く、それは間抜けな声だった。

 後方、30km。小さな山の頂からそれを眺める銀の髪の少女の無学さは、いっそ清々しく思える。それも魔術師としては素人に毛が生えた程度なら仕方ない───と、割り切ることすらできないほどの、光景だった。

 「ガイア、の───」

 己の意思、というよりも、(からだ)に浮かんだ微かな想念。空位の天体の最強種(TYPE-EARTH)にすら手が届きかねない魔性は、魔術式すら貪り尽くすほどの、怪物だった。

 だから、その光景は当然と言えば当然に過ぎない。500mに達した巨人の神秘は数千年に及ぶがが、その巨人をして防戦に追い込まれる光景は、全く以て道理に適った話だった。

 迫りくる拳を剣で弾き、尾部の大蛇に叩き潰される。あわや食い殺される寸で身を翻して躱しながら、人類(アダム)はただ、耐えていた。

 そう、それは耐久、だった。その戦術を執ることが合理的、と判断するほどにその人は、現状を把握していた。

 1秒間に666発放たれる無限の侵襲。巨人はただ、その時を待ち続けていた。

 

 

 神怪の衝突。ティタノマキアにすら及ぶ暴威のただ中で、少女は赤い目を向け続けた。

 それはある種、戦術的意図からだった。自らを依り代とする司馬懿の宝具。より高位の神秘から成るアダムにどれほどの効果があるかは知れたものではないが、それでも無いよりはマシだろう。そのためにも、彼女はその暴威の中に居ることを選んだ。

だが、それは非合理だろう。サーヴァント1体の生存を天秤にかけるには、あまりに些末な効果。合理的に考えるならば、司馬懿は遠方からそれを眺めている方が遥かにマトモだった。

 だから、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテがその殺戮の間に立ち続けるのは、別な合理性に依るのだ。数学的ではない合理性。あるいは、当然の必然性。

 「エルメロイなんてもう、クソみたいなほどに価値がない家名だけどねぇ」

 爆発的なエネルギー風が擦過する。僅かに30cm右を逸れた暴力は、掠っただけで防御の術式ごと肉体が肉団子になっていただろう。

 「まぁでも。友人を見捨てるほど、落ちぶれちゃあいないのさ」




何か本当に誤字脱字が多いので、見つけられた方はお気軽にご報告くださいませ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ガキ臭い理想論

 悪魔が降臨してより、まだ1分弱。変化が起きたのは、その時だった。

 既に、ケテルマルクトは死に体だった。腕は捥げ、剣は砕け、顔は半分が削げていた。腹は抉れ胸は穿たれ足は砕け、あと一撃で天に召されるのは誰の目にも明らかだった。

 放たれる爪の一撃。無造作に放たれながら、対軍宝具にも勝る、想像を絶する破壊力。既に瀕死の|人類《ひと」にそれを防ぐ手立てはなく、あと1秒後には死んでいるはずだった。

 それでも反撃を繰り出したのは、果たして意地だったか。掬い上げるように放たれた剣は、されど、あっさりと爪に砕かれ───。

 無かった。

 いや、むしろ、逆だった。苦し紛れに過ぎなかった黒曜石の一閃は繰り出された爪を破砕したばかりか、そのまま悪魔の前腕を切り落とした。

 踏鞴を踏む怪物。隙とばかりに裂帛の剣戟を撃ち込めば、気勢のままに悪魔の胴を切り裂いた。

 偶然や気まぐれではない。ケテルマルクトの剣は紛れもなく必然性を以て、地獄よりの悪魔の肉を切断したのだ。

 どろり、と傷口から青い血が滴る。怯むように嗚咽を漏らす悪魔は甲高い絶叫を一つ漏らすと、ぐずりと身体がずれた。

 3対の翼が、捥げる。反吐のような腐臭を放ちながら下顎が腐り落ちる。赤い大蛇の首が落ち、吐瀉物の如くに傷口から肉片が零れ落ちた。人間ほどもある巨大な眼球が眼窩から外れると、音を立てて地面に転がった。

 自壊。ジャック・ザ・リッパーの霊基は、急速なまでに崩壊を始めたのだ。

 自明の結末だった。いかな人類史の守護者たる英霊、その現身たるサーヴァントとて、所詮は霊長種たる人類の延長上の存在者にすぎない。人間に過ぎない英霊の身でできることには限度があるのは必然であり。ジャックのそれは、その限度をあまりに逸脱したものだった。

 神の玉体そのものに匹敵する神秘など、如何にサーヴァントとて手に余る。にもかかわらずそれ自体に変化するなど、到底耐えうるものではない。

 だが、ジャックはそこに至ってしまった。人理定礎崩壊という拡散状態のせいだったからか、あるいは相対してしまったのが始原の獲物だったからか。それとも、別な要因によるものなのか。原因は不明だが、ともかくジャック・ザ・リッパーはその意図を遥かに逸脱し、予測を乖離した。最強種(アルテミット・ワン)にも並ぶ力能は、およそこの地球で並ぶもの無きものではあっただろう。だがそれ故に、殺人鬼は崩壊する。短水路のプールに大海の水が入らぬように、バーサーカーというクラスを砕いてサーヴァントの霊基すら刹那で溶解し、悪魔は自死した。

 崩壊する肉体。自我などあまりにも容易く消し飛ばす疼痛の嵐。渇いた咆哮を悲鳴のように迸らせた悪魔には、もう、戦う気力などありはしなかった。

 故に。

 その一撃は最後のダメ押しであり、自然的野蛮さ以外の何物でもなかった。原初の巨人は既に死体と化していた悪魔の霊核へと、仮借なく黒曜石の剣を突き立てた。

 失楽は、そこで終わりだった。足元に広がっていた魔の饗宴は灰と化し、再び青々とした草花が茂り始めた。肉体は損傷を極めているが、楽園さえ戻れば修復される。700mに及ぶ巨躯の死骸。巨人の足に絡みつき、膂力の尽きた剛腕が泥の躯体にしがみつく腐肉も、いずれ楽園の肥料へと変わっていくだろう。その時こそは、楽園は完全なものとなるはずで───。

 全き不意に、巨人は肌を粟立てた。

 鋭角に研磨された正体不明の殺気。胸を抉るようにそれは、ただ、純粋なまでの絶殺の意思だった。

 身を躱さなければ死ぬ。既に神そのものとなり果ててなお、惹起する畏怖。恐怖は先ほども感じたが、二の足を踏んだのはそれが初めてだった。

 身を翻しかけた人は、だが、腕にのしかかった重量で全てを悟った。

 腕をつかんで離さぬ腐肉。脚に絡まる大蛇の遺骸。それらを謀と理解したが、既に遅すぎた。

 飛来する殺意。収束する絶殺への専心。まるで蚊が皮膚上に止まるほどの感触すらないそれは、人間用の短刀(ナイフ)が刺さっただけで───。

 

 ※

 

 アサシンにとり、その決断は決断と呼ぶべきものですらなかった。

 決断とは意志的なものであろう。あるいは先駆的というべきか。どちらにせよ、そういった意志的なものが世界を動かすという実存主義的な、あるいは量子力学的な話を、アサシンは露ほども賛成しなかった。あるのはただの合理性のみであり、世界は法則に対して従属的立場にあるものだし、またあるべきだと思う。

 全ては合理的なのだ。あの少女ではなく自分が切り捨てられた方が、あの巨人を打倒するに有利であり、結果とすればベンサム的幸福に適うものだ。サーヴァントなどという人理の影法師など、死んだところで誰の不幸にもならないのだから、むしろ積極的に切り捨てられるべきなのだ。アラヤに使嗾され、抑止の守護者として消費されることと、なんら変わらない。良識や理性が出る幕はなく、アサシンの自己犠牲は機械的合理性に基づいた判断でしかなかった。

 だから、多分、それは気の迷いのようなもの。何故かあの褐色の肌の少女が死ぬと思った瞬間に、判断も何もなく身体が動いてしまって、助かった少女の姿に一滴程度、感情以前の蠕動を惹き起こしたのは、抑止の守護者なんぞになりながらも捨てきれない甘さと余分に過ぎないのだ。相変わらずの自分の無能を今更に呆れることもなく、アサシンは柄にもなく、まぁ世の中夢を織る機械だってあるんだから、と言い訳する。

 らしくないな、と思った。今回の召喚は、往々にして、らしくない。なんでさ、と思わないでもないが、詮のないことだろう。

 不意に浮かび上がった、それは泡のような存在者。自我と非-自我の境目、無意識にすらなり得ない拡散した身体性。自らの認識のままにそのタイミングが来たことを理解して、アサシンは芥子粒ほどの精神を起動させる。

 「『時のある間に薔薇を掴め(クロノス・ローズ)』───オフ」

 停滞破却。取り込まれる速度が加速度的に増していき、残った精神など津波の前の笹船のようなものだった。

 「───4倍加速」

 その一小節が最後のキー。同タイミングで心臓(アサシン)に突き刺さった短刀(ナイフ)は予想通り、自らの起源を具現化したものだった。

 突き刺さった短刀を基点に作動した宝具の神秘は、巨人の魔術回路を切断しながら嗣いでいく。加速度的な侵襲は当然のように心臓(アサシン)から脳髄まで粗びき肉団子にし、そうして巨人は930年の歳月を待たずに死亡した。

 崩壊の寸前、意識に登った光景は、きっと断末間際の妄想でしかなかった、恐らくは。

 酷く、蒸し暑い、どこかここではない時制。

 健やかに焦がれた肌の少女の貌。

 ぎこちなく身を竦ませたアサシンは、あの時と同じように、幼稚な自分の理想を思い浮かべた。今思い返すと本当にガキ臭くて嗤うべき戯言でしかない、蒙昧な言説。

 なりたかった自分には程遠い。間違いだらけの道だったような気がする。錆びついた鉄心のような呪縛は、もう身動きすら許してくれないけれど。

 その夢を追いかけたことだけは、間違いなんかじゃ───。

 ───あるはずのない妄想。連続して延長し続ける世界の隅で、偶然発生した出来事。子供じみた平和論に、小麦色の少女は、笑っ

 

 

500mの巨体が倒れ込む。

朽ちた神樹が地面に砕けるように、酷く緩慢で厳かな崩御。足元で萌えはじめた新芽は灰色に変わり果て、それの死を嘆くように穂先を垂れていた。

そうして、巨人は滅ぶ。断末魔すらあげない、無音の抱擁。せめて海に抱かれて消えたことが、最後の祝福だったのだろうか。あるいは、その逆なのか。トウマには、よくわからなかった。

街の、中。

街路の一角。トウマは弓を構えた少女の背を、痛ましく見つめていた。

500mの大質量が激突したせいか、巻き上がった海水が降り注いでいる。驟雨のように肌を打つ雨の、その果て。

あ、と思った。

「虹―――」

独語独り言にも似た呟き。身動ぎした少女は、恐る恐る顔を上げた。

「雨で良く見えないけど」

髪を、かきあげる。髪から水を絞り出して、佇立するしかない少女の手を取った。

行動もなく、発話もなく。ただ、冷たい指先が繊弱に握り返した。




一応ですが、「笑っ」は誤字脱字じゃないです


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

強襲、迅雷

 「やあ、シバイ殿。いや、君はライネスの方かな。さっきのはすごくよかったね、君が最後の弱点を探り当てたんだろう」

 「どっちも正解。司馬懿殿は気が滅入ったそうだよ、さっきのを見て」

 「そうだろうね」

 「みんなは?」

 「無事だよ。アサシンはダメだったが、あれは元よりそのつもりだったのだろう」

 「そうか。どうあれ悪いことをしてしまった。それと、君にも無理をさせた」

 「エルメロイの家名は、そこまで落ちぶれちゃあいないってことさ」

 「エルメロイ。エルメロイか。しかし君のお兄さんも物好きだな。私をわざわざ頼るなんて」

 「君も、『出師表』で召喚された口なのか」

 「ありがたいことに。君のお兄さんにはよくしてもらったよ」

 「こちらこそ。天才(バカ)の面倒を見てくれたんだろう?」

 「見て貰ったのはこちらのほうさ───どうやら、ここまでのようだな」

 「もう行くのかい。気が早い」

 「英国紳士は時間に正確であるべきだし、潔くあるべきさ」

 「そんな幼女の姿で言われてもな。悪魔の時と言いギャップがデカいよ」

 「あぁそうだ。悪魔と言えば」

 「なんだ?」

 「トウマ少年に伝えておいてくれ。悪魔は名前が好きなんだよ、と」

 「他に何かあるか?」

 「いや、大丈夫。もう刻限だから、逝くよ」

 「うーん。サーヴァント同士の別れの挨拶というのはどういうべきなのだろうね? 元気でね、というのはおかしいだろうし。こんな状況でもなければ、また会おうというのも不吉だな」

 「おセンチでなければなんでもいいさ」

 「そういわれてもなぁ、ジャック」

 「……」

 「ジャック? ジャック。ジャック───」

 「───」

 

 ※

 

 酷く、その死に体は醜悪だった。

 四肢末端は焦げ落ちると同時に腐敗し、腹部も黒く変色した臓器が顔を覗かせていた。剥き出しになった脊椎からは、不気味な液が滴っていた。

 焦点の合わない瞳孔。手を翳し、瞼を下ろしたライネスは、如何にも鼻白んだような身振りをしてみせた。

 「挨拶も出来できないのか。グレイだって、最初の時もそれくらいはできたさ」

 対象を喪失した発話。さわ、と吹いた青白い潮風が白い髪を浚い、そうしてジャック・ザ・リッパーの体躯も崩れ落ちていった。

 ───いや、どうだっただろうか。もしかすると、あの子も最初は挨拶すらできなかっただろうか。

 掌に残る、黝い燐光。握ろうとしたときには既に光を失い、大気(マナ)へと溶けていった。

 「いいだろう、最初は一般的なマナーの講義だ。特別に私が教えてやるから、早く来るがいいさ」

 詮の無い言語だった。気恥ずかしさと後悔と、哀愁。どれにも同定され得ない情動は、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテという人生に、あまり惹起したことのないものだった。

 やれやれ。そんな、らしくない演技とともに声を吐き出す。焼け付きそうな目に点眼をしてから、ライネスはいつも通りの口調で言った。

 「すまないんだが、ちょっと変わってくれるかな。ちょっと」

 (あぁ、構わんよ)

 ───司馬懿はごく自然に、表に顔を出した。同じ身体を共有する身として、ライネスの心情は漠然とだが理解している。理解しているが故、司馬懿は特に何も言わなかった。

 さて、と思い直した時だった。

 (あ、繋がった!)

 耳朶を衝くような悲鳴。面前に投影された通信映像の向こう、目を白黒させたロマニの顔が迫った。

 (敵襲だ! ローマが襲われてる!)

 

 ※

 

 その日はごく自然な一日だった。首都で皆の帰りを待ち続ける、ルーティンにも似た日々。ブーディカは軍団の整備に勤しみ、マシュはストイックなトレーニングを続ける。そんな日々の中、少し違ったことがあった。

 早朝。甘い宇宙(ソラ)色の穹窿の果てが僅かに焼け始めた、涼やかな茜色。ざわりと肌寒さを感じながらの起床は3週間に届こうとしている。身体に馴染み始める習慣化の中、マシュはいつものように定時の連絡をした。

 「おはようございます」

 (よおマシュか。定時連絡だよな、ちょっと待ってろ、司令官と交代するから)

 モニター越し、ずんぐりした男が席を立つ。今日の当直はムニエルさんか、と内心に呟いていると、ロマニが代わりに席に座った。

 (やあマシュ、おはよう。調子はどうだい?)

 眠たげな様子を隠そうともせず、目やにだらけの顔で歯磨きをしながらの応答だった。

 「不調はありません、好調です」ちょっとだけ、マシュは言い淀んだ。「すみません、早朝に」

 (うん、バイタルデータもいつもと変わらない。疲労度もない)ロマニは歯ブラシを咥えたまま、手元のモニターを見下ろしていた。(まぁそちらは気にせず。指示したのはこちらだからね)

 うんうん、と物分かり善さげに頷くロマニ。実際のところ寝ぼけて首を上下させただけなのか不明だが、にへら、と柔和にほどけた笑みは得も言われぬ安堵を惹起させる。

 (コラ、ロマン! そんな姿で通信に出るんじゃあないって言ってるだろ)

 (あーごめん、確かに)

 (ほらほらどいたどいた。向こうで顔を洗って、きちんと整容しておいで。それとムニエル! 私が居るんだからロマンを起こすな!)

 しっし、と追い出されたロマニの代わりに座ったのは、艶のいい黒髪の女性だった。

 女性。そのセックス(ジェンダー)分配が正しいのか果たして不明な人物、キャスター、レオナルド・ダ・ヴィンチは、ボロボロの見た目だったロマニとは対照的に、完全な美質を誇っていた。

 (いやあごめんね、朝からお見苦しいものを)

 「いえ、私は別に」

 てへ、と笑って見せるダ・ヴィンチに、マシュはただ肩を竦めた。

 前線で戦っている身として実感は皆無であるが故、少人数のスタッフで裏方(オペレーション)を継続する労力は想像の埒外にある。普段のシフトは7人で運営しているところを常時3人から4人、最悪2人で行っている実態は、直感的に異様であることは理解していた。特に出ずっぱりになっているロマニの身体疲労は、慮るだけで気絶しそうなほどだ。

 (まぁ気にしなさんな。実際命がけの君たちに比べれば、こっちはただ疲れるだけだからね)

 ダ・ヴィンチは至って平気な様子だ。実際のところロマニ以上に労働しているはずの彼女が元気そうなのは、サーヴァントだからという以上の精神力の為せる業だろう。あるいは、そう見せないことが英霊レオナルド・ダ・ヴィンチという在り方なのか。

 (アダムとやらとの戦闘もこれからみたいだしね。それが終わったら、最後の決戦ってとこなのかな)

 何気なく、ダ・ヴィンチは言う。マシュもいつもと変わらない様子で頷き返して見せるが、内心では緊張を惹き起こさないわけにはいかなかった。

 決戦。そうなれば、今度こそ戦闘に出ることになる。とはいえ、それをやっとの出番と見做すだけの蛮勇はマシュにはない。役に立たなきゃという義務感が第一にあるが、それもその実は役に立てるのか、という不安の裏返し。さりとて義務感も義務感で正しく在立する、二重の情動の加速だった。

 マシュ、という少女の特質は、圧し潰されそうな自らの情動の中それを顔に出さない点にある。生まれというよりは、その後の発育のせいだろうか。マシュは感情的発露が乏しいというより、その手段に敏くなかった。

 (ねぇマシュ、前の話覚えてるかな)

 だから、ダ・ヴィンチのそれはごく自然な会話であったけれど、その実は産婆のような優しさだった。優しさ、というには迂遠で、それでいて距離がある。同情、と呼ばれる、感情とは微妙にズレた社交性。

 (あれだよ、前に話した強化案のこと)

 記憶の淵から引っ張り上げた言葉が、口を衝いて出る。そうそう、とモニター越しにダ・ヴィンチが頷いた。

 (ペーパープランが現実になりそうでさ)

 「オルテナウス、でしたか?」

 (そうそう、流石に覚えが良いねマシュは)

 ダ・ヴィンチは朗らかに笑う。何か確認するようにモニターに目を落としてから、何かを拾った。

 カード、のようだった。サイズはタロットと同程度だろうか。自然、マシュの目はカードに目が行った。

 鎖に縛られた囚人のような人物が描かれた、奇妙なカード。苦悶に囚われたが如き罪人の姿に、何故かオルレアンで見た黒き聖女の姿が重なった。敵に回り、最後に身を翻した、あの純悪なる黒竜の聖女を、想起させた。

 (まぁ本音を言えば、まだ実験段階以前なのは変わらないんだけど。でもこれが実現したら、君の助けになると思うんだ。全領域対応型霊子強化外骨格、オルテナウス・ストライク───)

 謡うような美声がざらついたのは、その瞬間だった。否、正確にはざらつきすらない唐突な断線。ぶちりと切れた無線の声に、まずマシュはぽかんとした。

 特異点、という不安定な仮説的歴史と繋がりを持ち続けるのは技術的に容易ではない。無線が途切れることは日常茶飯事……とまではいかないが、そう珍しいことでもない。これまでの定時連絡で、そもそも繋がらないこともあったのだから。殊に西暦60年という現在。オルレアンに比べればはるかに神代に近い古代ローマは、それだけ難易度が高い。

 だから、まずマシュは今回もそうだと思った。

 だが直後、マシュは自室の席から立ち上がった。楽観的な観測だけで動くべきではない。これは意図的なジャミング、と判断する。

 霊基起動。認識と同時に騎士甲冑と盾を現出させ、勢いドアから飛び出した。

───飛び出して、マシュは絶句した。

 廊下に広がる真っ赤な海。噴き出したばかりの血の海は、比喩でも何でもなく血液が作った水溜まりだった。

 転がる首、腕、足。こぼれ出た内臓。幾人もの人間が折りたたまれた、もつ煮込みハンバーグ。

 あまりにあっさりと具現した地獄。紅蓮の地獄に当たり前のように佇むそれは、しかし、その光景にはあまりに不似合いだった。

 黒い髪を長く伸ばした貴人。麗らかで嫋やかな、古式ゆかしい女性だった。

 地獄には天使がいる。高き天より堕落した、輝ける天使。明星の名を持つ熾天使。

これは、それだ。この世に顕現した地獄を住処とする、麗しき天使。携えた刀にべたりとついた血糊すらも化粧にする怪物。

 バーサーカー。この特異点の初戦で合間見たサーヴァントだった。

 言葉はない。ひたり、と据え付けた眼差しがマシュをただ捉えただけ。ただそれだけだというのに、マシュは嘔吐しかけた。

 魔力や神気などない、ただただ純粋な戦闘意欲。殺意あるいは闘気をあてられただけで、マシュは気絶しかけた。それだけの格の違いがあることを、マシュは───というより、マシュの身体に残留した英霊の霊基は理解した。嘔吐しなかったのは、早朝で胃が空だったという、それだけの理由だった。代わりにせりあがった胃の粘液が、咽頭を焦がした。

 まさしくそれは蛇睨みの様相。マシュは身動ぎ一つも許されず、ただバーサーカーが刀を構える様を見ているだけしかなかった。

 「誅罰、執行」

 死ぬ。間違いなく、死ぬ。紛れはない。あの刀が振り下ろされれば、それで終いだと、細胞の一かけらまでもが確信した。

 振り下ろされる刃、痙攣する身体。首が斬り飛ばされる光景を幻視しながら、マシュは最後まで行動しきれなかった。

 ずしゃ。

 「───っぶなぁ!」

 間、一髪。

 首を刎ね飛ばすはずだった一刀は寸でのところで迎撃された。

 銀の剣。黄金の柄をもつそれは、何故か冬木で見た星剣の観念を惹起させる。

 だが、直感的に理解する。その剣はかの星の聖剣には決して届かない二流の剣。勝利を約束されざる剣と共に飛び込んだ朱色の猪突は、この一撃においてはバーサーカーの一撃を上回った。

 踏鞴を踏むバーサーカー。さらに横薙ぎの一撃を撃ち込むその騎影は───。

 「ブーディカさん!?」

 「マシュ、ここはいいからアンタはネロ公のとこに行きな!」

 でも、と続く声は吃るしかなかった。

 横薙ぎの一閃を当然のように返す刃で弾き返すバーサーカー。さらに袈裟切り掬い上げ上段からの振り下ろし、刀による剣戟は文字通り息を吐かせぬ猛攻だった。

 事実、ブーディカには呼吸する暇すらない。全ての剣戟に黄金の剣を重ね合わせて、必殺を捌き切ったブーディカの技量は達人の域。だが、英霊の座に召される英雄たちの戦う能力は、達人であることがデフォルト。達人の域にあるということは、ことサーヴァントの戦いにおいては「並み」であることと同意である。ブーディカは元より個々人の技量ではなく軍勢の指揮で勇名を馳せた英雄。このタイプの英雄は、個人技においてはあくまで並みにとどまる。良くも悪くもブーディカは、いわゆる並みのサーヴァントなのである。そんな並みに過ぎないブーディカにとって、あのバーサーカーと正面切って戦うことは自殺行為以外の何物でもない。マシュは、そこまで理解した。

 そして、ブーディカの死まで理解した。さらに、ブーディカの指示の意味も理解した。あのライダーは自らの死が避けられないことを十分に知悉した上で、さらには生半可にマシュが介入したところで諸共に死ぬことまで悟る。それ故の逃避指示。さらにはこの強襲戦の敵戦略まで洞察したブーディカの指示は、嵐の王(ワイルドハント)として恐れられる荒ぶる伝承とはそぐわない怜悧な判断だった。マシュはそこまで、理解した。

 「でも!」

 だが、その判断ができるのは歴戦を経た戦闘者のみ。戦場の哲学的・普遍的直観を納得し、行動を起こせるのはさらに一握り。蛮勇纏う勇者の気質は、アプリオリにマシュには存在しない。ましてアポステリオリにも存在しない。それ故に、マシュが倫理的躊躇を抱くのは当然だった。

 「良いから行け!」

 響く怒声、痙攣する身体。不意に視界に跳んだ車輪がマシュの胴体を打ち付けるや、軽々と彼女の矮躯を轢き飛ばした。

 「あとでまた会おう、マシュ! まだアンタには故郷の料理、教えてないしね!」

マシュには返事をする余裕もなかった。こみあげた寒気のような吐き気を下唇ごと噛み殺し、マシュはただ、地獄から逃避した。

 

 

 頭首腋窩腹部股間大腿部、狙う剣戟は須らく必殺。それが一秒未満、幾重にも重なって襲い掛かる様は恐怖以外の何物でもない。

 さらにバーサーカーの太刀筋は異様の一言だった。どれだけ速い太刀筋であろうと、それだけならば馴致による対応は難しくない。英霊に至るほどの傑物ならばなおさらである。

 だが、ブーディカをして、その剣戟は予測不可能だった。速さの質が違うのだ。単純な速度に優れるわけでもなく、ただただそれは速度と呼ぶに異質な何か。剣と刀が交錯する速度に左程の差はないのに、何故か迅く上回る打撃。

 たかだか数秒ほどの戦いだというのに、既に重ねた剣戟の数は50を超えた。さらに加速度的に増す金属音をかき消すような真名解放の声は、実際のところ───。

「『約束されざる勝利の剣(ソード・オブ・ブディカ)』!」

 音を上げたのと、同義だった。

 淡い黄金に煌めく刀身。収束するオドが刀身に宿り、次の瞬間無数の純粋魔力弾と化して通路を埋め尽くす。

 だが一歩、バーサーカーの動作は早かった。眉一つ動かさず、ブーディカの予備動作から攻撃を予測。異様な速度で地面を蹴り上げて後退した。

 『約束されざる勝利の剣』。その真名解放は、端的に言えば無数の魔力弾を同時に扇状にばら撒く、いわゆる散弾(キャニスター)に相当する。一発一発は低火力ながら、至近で多数直撃すればサーヴァントと言えども致命傷足り得る宝具への対応として、バーサーカーのそれは理に適っていた。

 無論、バーサーカーほどの洞察力ならそこまで読むのは織り込み済み。ここは距離を取り戦いの流れを緩めることこそが、ブーディカの狙いだった。だから彼女はバーサーカーが後退したほんの束の間だけ、息を抜いた。

 その間、僅かにしてコンマ数秒。隙というにはあまりに短い間隙。だが、ブーディカが息を吸いかけた刹那、彼女は息を詰まらせた。

 後退しかけたバーサーカーは、ブーディカのその仕草を正しく理解した。そうして理解した後の動作は、正しく怪物だった。

 床を砕くほどに足首がグリップをかける。ぐい、と腰を落とした次の瞬間、蒼古たる女武者の体躯が跳んだ。

 素人目には、その魔力弾は壁としか思えない。回避するにはさらに後退して、壁の密度を薄くするしかない。だのにバーサーカーは飛び込んだ。

 バーサーカーには見えている。強靭なまでの理性は、常人には壁にしか見えない魔力弾の雨の間隙を正確に理解する。

 縫うような繊細さでありながら、その猪突は瀑布の如くに激烈だった。間隙に滑り込みながら回避不能の一撃を刀で弾き返し、バーサーカーはあっさりとブーディカの近接格闘戦領域を侵略した。

 バーサーカーが刀を逆袈裟に叩きつける。

 ブーディカの対応は一瞬───否、半瞬。否、そのさらに半瞬だけ遅れた。隙とすら呼べない隙だが、バーサーカーを相手には致命的過ぎる遅さだった。

 「『約束されざる守護の車輪(チャリオット・オブ・ブディ)』───」

 弦月の如き銀光が騎影を切り裂いた。

 ぶしゅ、と赤黒い汁が噴き出す。咄嗟の回避など当然間に合わず、肩口から侵入した太刀は胸郭を切断し腹部まで抉りぬいた。

 文字通り、意識が切断しかけた。刀で斬られたというより、もはや巨大な戦斧で叩き切られたかの如く衝撃。かろうじて身体が両断されなかったのは、苦し紛れの回避が功を奏したからだった。

 だがそれも、死期が僅かに延びただけのこと。時間にすれば数分程度のことだろう。

 今更に顕現する戦車の車輪。バーサーカーとブーディカの間に割り込む3つの車輪に阻まれたバーサーカーは、今度こそ確かに後退した。

 いや、そうではないのだろう。これは見切り。頬っておけば勝手に消滅するライダーに追撃の手を加える必要はない、という判断だった。

 ───だがそれこそがブーディカの必殺だった。

 車輪の数は本来4つ。顕現させた数は3。残る1つは顕現させなかったのはなく、全く別な意図と場所を以て顕現させた。

 その場所こそはバーサーカーの背後。女武者を挟み込む形で具現した車輪は、擦過もすれずにバーサーカーの背後に逸れていった魔力弾を綺麗に全弾跳ね返した。

 そっくりそのまま、無数の魔力弾が反射する。バーサーカーは自らの刀に映った明滅でそれを悟ったが、同時に別なことにも思い至った。

 車輪はバーサーカーを挟み込むように顕現している。ならば回避したとて同じこと、次は正面からの乱打に襲われる。そして次は背後から───。

 無間地獄。招き入れたものを消滅するまで封殺する殺戮空間。ライダーとして召喚されたブーディカの奥底に沈殿する荒魂の発露、咄嗟の反撃だった。

 もう自分は持たない。それは自明。だが、自分だけでは死んでやらない───!

 「悪いけど、道連れになってもらうよバーサーカー!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

激情

 「アルテラ様!」

 この時、トリムマウの行動は全く以て良識に従っていたといって良い。

 エルメロイ家の至上礼装、月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)に疑似人格を付与することで形成されたトリムマウの主は、当然ライネス・エルメロイ・アーチゾルテその人になる。疑似人格とは言えその忠誠心は本物であり、それゆえその行動はまずもって主命であるからこそのものだった。

 アルテラが居るはずの部屋に飛び込んだトリムマウがまず認識したのは。ベッドでまだ静かに眠る小麦色の肌の少女。トリムマウは、その疑似的に作成された人格に確かな安堵を感じた。

 そう、安堵。極めて人間的な安堵感である。トリムマウはそれを感じたことに特段の感慨も抱かず、素早くアルテラの身体を抱えた。

 「トリム?」

 トリムマウは、静かに唇に指を添えた。本当はちゃんと話を聞きたいところなのだが、時間的余裕はない。せめて頷きだけを返して立ち上がったトリムマウは振り返って、

 「おやおや、ここに居たか」どろりと溶けるような、緋のような目が銀の肌を炙った。「化け物がお飯事とは愉快な光景だ」

 この時代の不似合いないで立ちの男。1世紀ローマの瑞々しく乾いたオリーブ色の風土と、そのコート姿は全く以て乖離を感じる風采だった。

 だが、それは後付けの印象に過ぎない。

 何をおいても、まずトリムが明晰に感じたのは敵なるものへの直観だった。

 敵意すらない、傲岸の具現とでもいうべき佇まい。燃えるような目の下で蠢く口唇。毒々しく色づいた唇から覗いた歯は、獣性を滲ませた人間の低劣さの表徴とでも言うように、尖っていた。

 トリムマウの行為は、ここにおいても全く以て合理的の一言に尽きた。居室に現れた正体不明の人物に対して、物語であればその名を糺すこともあるだろう。だが、今まさにトリムマウがただ中にいるこの世界は、フィクションでもなんでもない事実。分断された歴史を舞台にした人類(にんげん)の生を賭けた戦い。故に迷わない。

 「アルテラ様、無礼をお許しください!」

 発言と動作は同時だった。

 アルテラを抱いた右手の上腕が脱落。液状した(すいぎん)をベッドにしてアルテラの体躯を保護しながら、一挙にコートの男に肉薄する。

 その時の彼女の速度は、敏捷値にすればB、瞬間速度も考慮すればB+に相当する。疑似サーヴァントの依り代に選ばれたライネスに付随して召喚されるトリムマウの性能は、サーヴァントのそれに匹敵する。殊にライネスは自身の戦闘能力を並の人間まで落とすことで、その分のリソースをトリムマウに割き、その性能をさらに底上げする。トップサーヴァントには及ばないが、そのすぐ後ろに追従するだけの性能は維持する。

 それはただの事実。慢心など一切ない、客観的現実。そしてサーヴァントとは、最上位の使い魔(ゴーストライナー)の別名である。それこそ、サーヴァントと競い合うには時計塔の冠位ですら役者不足。上位の死徒でも、その頂点に達する者でなければ不可能。たとえ相手がいかなるものであったとしても、トリムマウを打倒するのは並大抵のことではない。

 およそトリムマウが男の懐に飛び込みまで、1秒未満。いやその半分もない。残った左腕を刀剣に変化させると同時、最後に踏み抜いた右足を瞬時に液化させる。滑り込ませた銀の液はさらに変化し、無数の杭となって襲い掛かった。

 コートの男はそれを回避。ただ、その回避は決して見てくれもよくなければ素早くもない、凡夫のそれだ。問題なく処理できると踏んだトリムマウは、文字通り手刀と化した左手をコートの男の脳天へと振り下ろした。

 剣が体躯を貫く。あまりに手応えのない残心。腕を伝った衝撃は、まるで水を切ったような感覚である。

 噴き出す体液、飛び散る血潮。地面にべたりと延びたそれは、人間のそれではなかった。

 「アルテラ、様?」

 汞のメイドゴーレムの胸部から、何かが生えている。

 虹が渦を巻くような、異様な何か。見ようによっては剣に見えなくないだろうか、その謎の物体はあっさりとトリムマウの胴を突き破っていた。

 静かに、剣が引き抜かれる。彼女に痛覚はないが、引き抜かれるたびに意識が断線していくような感覚は、疼痛に似ている。それもかなりの激痛。悲鳴を漏らさなかったのは、彼女の人工知能にその感覚と音声の紐づけが成されていないだけだった。実際のところ、いわゆるその激痛の度合いは人間であれば発狂するほどのものだった。 トリムマウが味わったその激甚を人間的言語に置き換えるなら、何かが、浸潤するようだった。

 差異化。同質性を維持したまま、別なものになっていくという極限の事態。彼女の知る人物の言語表現を借りれば、彼女の疑似人格にクラッキングをかけられているかのようなもの。焼けるような何かが自らに溶けあっていく感覚に、トリムマウが耐えられたのは実に1秒だった。というよりむしろ1秒で事態の全てを了解して、彼女は迅速に自らの機能を停止させた。

 管制システムたる疑似人格、トリムマウの機能停止は、月霊髄液そのものの活動停止と同義だ。形状の意地すら不可能になった水銀の塊は、床へと広がっていった。

 その銀水を踏みつけるコートの男。鼻白らむような一瞥は、明らかな軽蔑そのものだった。

 「二流貴族の魔術礼装如きが、つけあがるな。だから没落などするのだ」

 コートの男───レフ・ライノールの言葉は一度強く踏みしめると、それで、格下相手の軽蔑は終わりだった。男の認識は既に別に移っていた。獣そのものですらある眼光が舐めつけたのは、肥沃な土の色をした肌の少女だった。

 「トリム? なんで──」

 自らが握るそれ───極彩色に蠢動する奇怪な剣と銀の水溜まりを見比べるアルテラは、混乱のただ中にいた。何故トリムマウはあんな様になっているのか。何故自分はこの意味不明な剣を持っているのか。そして何故、自分はこの剣でアルテラトリムマウを貫いたのか。何故だけが脳髄の中を占める彼女の首根っこを掴み上げたレフは、ただただ色を失った目で少女を睨みつける。

 「誰の仕業か。あの小賢しい疑似サーヴァントの手筈か、あるいは共謀か。アヴィケブロンではないな、大方あのうさん臭い眼鏡か。このタイミングで出てこないところを見ると、それも朽ちたということか? 二流らしい、憐れな末路だ」

 ぎち、と軋む片腕。首を捻じ切らんばかりの膂力にアルテラは悲鳴を上げなかった。上げなかったわけではなく、上げられなかった。気道と声帯を押しつぶすようなそれで、彼女は呼吸すらままならなかった。口腔内の唾液腺と目じりの涙袋から透明な液を吹き出したのは、崩壊した精神が物理的に漏れただけのことだった。

 そんなアルテラの悲しみ───他者を害したという、未曾有の自責とその相手が身近なものだったという二重の悲哀───などレフには全く以てどうでもいいことである。むしろ、それは好都合だった。アルテラに掛かったなんらかの魔術的措置───忘却の魔術を解くには、メリットはあれどデメリットはない。

 ───元より、その算段はあるのだが。身もだえする少女を締め上げる左手とは別、もう一方の手を開けば、そこには怖気が奔るほどの金色が鈍く煌めいていた。

金色の器、聖杯(アートグラフ)聖杯(ホーリーグレイル)の写し身たる、贋作の願望機。膨大ですらある魔力リソースの塊でもあるそれを、レフは容赦も呵責もなく、アルテラの身体にねじ込んだ。

 鋭く、斬れるような吐息が部屋を裂く。出せないはずの声が漏れるほどの、無と同位の純粋な痛み。喉を握りつぶされることなど比較にもならない激痛に全身を硬直させながら痙攣する少女の身体を、レフは塵か何かのように床に放り捨てた。

 「目を覚ませ」

 痙攣する少女の躯体を足蹴にしながら、どこまでもレフ・ライノールに理性や良識の様子はない。その獣の目にあるのは底なしの非-人間性。昆虫じみた、感情の無い冷たい蔑視。

 「人間のフリなどさっさと辞めて本性を現せ。破壊の大王(アッティラ・ザ・フン)!」

 「何を、している?」

 ネロ・クラウディスがその場に乱入したのは、その時だった。

 

 

 ネロ・クラウディウスがその場に遅れたのは、いくつか事情があった。

 ローマへのゴーレム強襲の報を受けた彼女が成すべき行動は、一つしかない。帝国臣民の生の保護のため、あらかじめ備えていた避難警報を報知。前線指揮を執ることで滞りなく避難を進めながらゴーレムの撃破を同時進行。指揮系統が確立し、どちらも自分がいなくても問題ないと悟ってから、彼女は宮廷へと舞い戻った。

 この間、実に1時間程度。尋常ではない指揮能力である。事前に司馬懿と敵強襲時の対応を構築していたにしても、迅速である。放蕩の限りを尽くした暴君ネロにはそぐわない堅実さだったが、ある意味にしてこれは実情に近い。政策レベルにおいて、ネロ・クラウディウスの治世は安泰そのものであったと言う。彼女の愚かたる所以は皇帝らしからぬ私事にこそあるが、外政・内政どちらも高い水準であった。故にこの対応は、偶然ではなくネロという皇帝の手腕である。

 宮廷内部の業務処理を終わらせたのちは、再度陣頭指揮を執るつもりだった。自らの自室に戻ったのは、私的な感情ではなく、きっとそこに居るであろうトリムマウの助力を恃むことが主眼だ。ゴーレムとの戦闘において、トリムマウの力は極めて重要であり、だからこそネロは自らの自室に、勢い飛び込んだ。

 そうして、彼女が目撃したのは全く以て理解の埒外の光景だった。

 「これは手間が省けた。獲物が向こうからやってくるとはな」

 鰐のように口角を上げる。外套姿の男。妙な形状の帽子の下では下種な嫣然が浮かんでいたが、それに感情など欠片もないことは見て取れる。

 下劣に歪んだ口唇に対して、その眼差しは全く以て無感動だった。なまじの人間など、その眼差しだけですくみあがるだろう。実際、それはある種の魔術にも等しい。原初において、魔術とは即ち眼差すことと同意である。対象に干渉するための、原初の出力機。それが眼差しなのだから。

だ が、ネロにはその程度の脅しは全く無意味だった。彼女自身が上位の魔力資質を持つが故か、あるいはその激烈な気質が故か。レフ・ライノールの放った呪詛の眼差しを毛ほども意に介さず、ネロは歪な剣、隕鉄の剣を構えた。

 「応えよ、外道。さすれば楽に死なせてやろう」

 翡翠の目に、いつもの軽快さはない。大らかさ・朗らかさのない、むしろそれは暴虐ですらある沼色の目。暴君(タイラント)の忌み名を体現するが如くの眼差しは、その実呪詛返しですらあった。最初に呪詛の視線を送ったはずのレフが、思わず気圧されるほどである。

 「貴様は今、このローマで……余の部屋で何をしていた? 何をするつもりだ」

 レフはたじろいだまま、舌打ちした。如何にも嫌悪的な表情のまま鼻を鳴らした。

 「淫魔(アスモデウス)が真っ当に悪魔(サタン)の真似事か?」

 「なるほどよくわかった。つまり、惨たらしく殺していいんだな、貴様……!」

 ネロの動きは早かった。生身の人間だというのに、それはサーヴァントにも匹敵するほどの速度である。俊敏というよりは豪速といった様相のそれは、実際レフにはどうしようもなかった。

 狙いは左の肩口から右の腸骨まで、一刀両断するほどの剣閃。隕鉄の剣『原初の火』の鋭利さは、当然人間の身体など問答無用で轢断し得るものだ。そして反応できても躱せないレフは、その一刀で死ぬはずだった。

 だが、そうはならなかった。赤く燃えるような剣が肉を抉るより遥かに早く、虹光が颶風すら伴って間に割って入った。

 叩き付けるように振り下ろす原初の火。それを迎撃したのは、掬い上げるように振り抜かれた虹光の奔騰だった。

 瞠目するネロ。金獅子の鬣の如くに猛っていた髪が静まり、暴君そのものと化していた沼色の目が静かに翡翠の煌めきを取り戻していく。むしろ瞋恚は鳴りを潜め、ただ繊細な混迷が身体を縛った。

 不定の虹剣を手に鍔競り合う少女。風采は何もかもあの子と同じだが、ネロと同じほどの体躯となった少女の紅い目が、さくりとネロの懐を貫いた。

 乾坤一擲、などという溜めはない。つばぜり合ったまま、濃い土色の肌の剣士が一歩踏み込む。ただそれだけでネロの身体は毬のように弾き飛ばされ、床に叩きつけられた。

 げほ、と咳き込んだネロは、ふと何かに気づいた。だがそれが何なのか考える暇などとてもなく、躍りかかった虹剣が一刀を振り下ろす。

 回避は不可能だった。サーヴァントならともかく、ネロは生前の姿、即ち生身の人間である。技量はともかく、耐久力はサーヴァントのそれには遥かに劣る。体当たりに紛れての腹部への強かな殴打は、生身のネロにはあまりに耐え難い。さらにその剣の一筋は尋常な速度ではない。とても、一瞬でネロが身を躱す余裕などなかった。

 故に、

 「ネロ!」

 その回避はネロのそれではなかった。

 唐突に飛び込む赤銅の影。あわや虹剣が胴と足を泣き別れする寸前、飛び込む様にネロを抱きかかえたその人物は───。

 「り、リツカ!? 其方いつの間に」

 「後ろに剣を振って、早く!」

 皇帝となって後、ほぼ唯一といって良いほどの命令だった。だというのに、ネロは吸い込まれるように背後に剣を振り抜いた。ほとんど脊髄反射といって良いほどの太刀筋。高速の横薙ぎに振るわれた剣は、ほぼ同じタイミングで襲い掛かった虹剣の剣戟に重なった。

 思いがけぬ反撃に、弾かれるように飛び退く黒影。その合間に立ち上がったネロとリツカは、二人して汚泥のような息を吐いた。

 「大丈夫?」

 「うむ、なんとか」

 「そういう意味じゃなくて」

 「む、いや」

 「だよね」

 軽く、リツカがネロの背を叩く。叩くと言うより撫でるようだ。小柄なネロより少しだけ大きいだけのリツカを見上げた。ネロより一回り若いはずなのに、温和な顔の奥底に不敵な泥濘を潜ませている。

 「おやおや、誰かと思えばオルガマリーのお飾りじゃないか」

 レフはこの時、意外に表情を綻ばせた。無論、昔馴染みを歓迎する表情などでは一切無い。対するリツカは、それを無視。言語的会話など端からするつもりもなく、ただ穏和な顔のままに外套姿の男を無視する。

 「リツカ、アレはお前の」

 「皇帝陛下、今はアルテラのことを。下衆のことは後でいい」

 「あ、あぁ」

 表情も何も変わらない。だというのに何故か感じる鋭さ。槍のような刺々しい鋭さを感じ、ネロは言葉をしまった。

 何より、リツカの言う通りだ。あの男が何者であるか。それよりも、遥かに大きな問題が、ある。

 「アルテラ───」

 ひりつくような呟き。翡翠の目は、怯えるようにその剣士を見定める。

 羊毛のような髪。肥沃な土を思わせる褐色の肌。背丈は随分延びているが、それ以外は間違いなくアルテラだった。

 「見ない間に大きくなったね、成長期かな?」

 「リツカ、貴様なんという」

 「そうでも言ってなきゃ腐りますよ」

 さらりと言う。この土壇場で軽口を言う精神性はネロも持っているが、今この瞬間はその余裕がない。

 いつの間にか、リツカの手が淡くネロの手を握っている、剣を持った手に重なった未来からの使者のそれは、酷く繊弱さすら感じさせた。

 「暴君と人でなしの人情ごっこか、愉快すぎて反吐が出そうだ」

 「私は化け物と対話して、交流を持つほどお人好しじゃあないんだ」

 やっとのレスポンスだったが、これもにべもなかった。怒気に顔を赤くするのも一瞬、レフは吐き捨てるように言葉を漏らした。

 「ベリルの言う通りだな。人の心がわからない、大量殺人者」

 そうして、レフは顎でしゃくる。微かな頷きは返答だったのか、それとも別だったのか。レフの前に割り込んだアルテラの目は、明らかに正気ではない。

 「宝具を解放しろ。このローマごと、そこな暴君を葬り去れば終わりだ」

 剣を、掲げる。虹の如き螺旋の剣。その突端で天を衝くばかりの構えの直後の動作は、理解の外だった。

 軽やかに、剣を回す。刀身を下に、柄頭を天に。

 「火神現象(マルス・エフェクト)、マルスとの接続開始。発射まで、10秒」

掲げた剣から赫焉が天へと上る。天井を貫いてソラに昇る赤い閃光が到達したのは衛星軌道。光が拡散するや魔法陣へと変形していく。

 「対城、宝具───」

 「アルテラ!」

 ネロのそれはほとんど悲鳴だった。何を言うべきか、何が言いたいかすら不定のまま迸った声に、アルテラは完全な無反応を返しただけだった。

 だが、悲鳴を上げたのはネロだけではなかった。

 その背後に控えていた男───レフ・ライノールの爬虫類じみた顔に張り付いたのは、明確な恐怖と焦燥だった。

 「ば、馬鹿な!? それを使えば貴様も───いや、私も!」

 「『泪の星、軍神の剣(ティアードロップ・フォトンレイ)』!」

 星珖が、突き立った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

遷化の幕間

今回まぁまぁ長いです

巧いこと区切れませんでした


 「真名偽装登録、仮想宝具展開!」

 マシュが飛び込んだのは、タッチの差だった。

 頭上から降り注ぐ膨大な光の奔騰───リツカが直観した通り、対城宝具の開放を目の当たりにしたマシュの行為はそれしかなかった。

「仮想宝具『|人理の礎(ロード・カルデアス)』!」

リ ツカとネロの前に滑り込むと同時の宝具展開。翳した盾を基点に、幻想の城壁がパワーフィールドとなって展開するまで1秒未満。そして光の濁流が殺到したのは、その直後だった。

 駄目だ、とすぐに悟った。

 同等の火力と相対したのは、これまで2度あった。

 冬木での『約束された勝利の剣(エクスカリバー)

 オルレアンでの火竜(ファブニール)のブレス。

 どちらも相殺しきったが、あの時とはまるで状況が違う。冬木の時は、キャスター(クー・フーリン)の迎撃による威力減衰があったから、防げたようなもの。ファブニールのブレスは、4人がかりの防御宝具重ね技で防ぎ切った。だが、今回はただの1人しかいないのだ。とてもではないが、この宝具を防ぎきるには、マシュは役者不足だった。

 足が、軋む。膝が砕けそうになる。巨人に圧し潰されそうな錯覚が過る、暴威そのもの。マシュが根負けするのは当然と言えば当然で、当然なんだからマシュは宝具の維持を放棄しかけた。

 極論すれば、彼女の宝具は精神状態が万全であるならば、如何なる攻撃をも防御しきる鉄壁そのものとなり得る。精神力に応じて、【魔力防御】によって展開されるパワーフィールドを生成する彼女の魔術特性は、殊守りにおいて右に出るものはいないほど強力なのだ。逆説的に、精神が脆弱であれば、その守りは濡れ紙以下である。そして、マシュは元より胆力には決して長じない、繊細な女の子だった。これまでは“みんなと守っている”事実が彼女を鼓舞したが、今は孤独。対城宝具に耐えられるのは、あと1秒が限度のはずだった。

 だが。

 2秒。

 3秒。

 4秒を過ぎ、既に5秒。さらに6秒を過ぎてなお、マシュの宝具は濁流を防ぎ続けている。暴風の中で今にも蹴散らされそうな葦になりながら、その濁流を防御し続ける。

 崩壊寸前の彼女の精神を維持するのは主に2つ。ブーディカから託されたこの機会を逃すわけにはいかない、そんなことはできないという倫理的義務感という名の意地。

 そして、もう一つ。

 「マシュ!」

 自分の名前を呼んでくれる、赤銅色の髪の先輩の、力になりたかった。役に立ちたかった。

 あまりに素朴な人間性。ともすれば無機質にも見える彼女の内面性を形作る、朴訥として繊細な女の子の気持ち。片足ずつに宿る情動でもって襤褸の精神を練り上げ、マシュは己が存在の根底から叫喚を迸らせた。

 

 ※

 

 マシュが目を覚ました時、まず目に入ったのは空一面の青だった。

 相対距離間が剥奪されるような真っ青だ。変化に乏しい、非現実的な情景。そもそも自分が目を開けたのは果たしていつだっただろう。

 その奇怪な風景に該当するものを探して、辿り着いた解答はなんともケチなものだった。死後の世界。そんな予感が過るが、全く以て実感がない。いや、そもそも死後に実感などあるのだろうか───。

 そんな困惑の虚妄を破ったのは、自らの手を握ったリツカの姿だった。へなへなとしゃがみ込むリツカの顔は、いつものように感情の輪郭が曖昧な薄い笑みを象る。よかったぁ、などというセリフの凡夫さは、聞いているマシュも呆れるほどの呑気さだった。

 「あの、ここは」

 「皆、無事だったみたいだね」

 ひょこ、と視界に飛び込む赤毛。あ、と思って身体を起こしかけたマシュは、けれど、その姿に声の行き場を亡くした。

 幻視したライダーの姿は忽ちに霧散して、別な形が凝固する。見えたはずの柔和な顔は掻き消えて、剽悍さと幼さが6:4の合間で混合する別な顔が現れた。

 「アレキサンダー大王?」

 浮かぶ笑みも、やはりどこか混合的だ。どこか威容を感じさせながら、それでいて子供っぽさを色濃く残す朗らかさだった。

 「約束を果たしに来たよ、フジマルリツカ」

 きょとんとしたのも束の間、リツカは少し気恥ずかしそうに肩を竦めた。紐の緩んだきんちゃく袋みたいな照れ笑いに、アレキサンダーは至って健気に頷き返した。

 「あの、ここは」

 よろよろと、立ち上がる。ひょう、と吹いた風はいつもより湿度に富み、妙に冷たい。勁い風に髪を浚われたマシュが見たのは、自らの目線と同じ高さに揺蕩う白雲だった。

 ───上空、およそ400m。肌を摘まむような寒さのただ中、マシュたちは戦車(チャリオット)に半ば詰め込まれるように乗り込んでいた。

 確か、あの時強力な───強力なんて言葉では表現しきれない火力の宝具からマスターとマシュを守るため、『人理の礎(ロード・カルデアス)』を展開しながら割って入った。とても防御しきれない、と思ったところまでは覚えているけれど。

 アレキサンダーを見上げる。あの時は自分より小さく感じたはずの長躯は、マシュの視線に気づいてにこりと笑みを返した。

 「ありがとうございます、あのままだったら」

 「いやあそんなことなかったよ。俺の出番は、本当は要らなかったかもしれないし」

 それに、と言いかけたアレキサンダーは僅かに顔を顰めた。ちら、と薄暗い一瞥を先には、酷く寂れた紅い背が佇んでいた。

 風に弄ばれたネロの金の後ろ髪が揺れる。いつもは猛々しい獅子のようですらある髪に、いつもの艶も健やかさも、もちろん勇ましさもない。まるで濡鼠のようなひ弱さすら感じさせる。恐る恐るネロの隣に並んだマシュもつられて眼下を見下ろして───。

 (やっと通信が繋がった! 大丈夫かいリツカ、マシュ……って何だいこれ!?)

 「あーダ・ヴィンチちゃん、まぁ色々あって」

 (色々ありすぎだろ!?)

 「まぁそうですね?」

 リツカも曖昧に応えながら、ぞっとしたようにその光景を見下ろした。

 首都中央にぽっかり空いた黒い孔。一部だけを刳り貫くように穿たれた風穴は、何故か縫い針の穴を思わせた。

 「トーマ君たちはもう戻ってこれるんだよね?」

 (そうだね、あと24時間以内には……)

 呆気にとられるダ・ヴィンチを他所に、リツカは思案を一筋巡らせている。表情こそはいつもの柔さながら、眉間の皺は懸念と奇妙な思索の痕跡だった。

 手慰みのように、側頭部で一つ結びにした髪をかき回す。リツカは、もう一方の右手で手持無沙汰気味に肝臓付近を撫でていた。「エナドリでも飲みたいんだけどなぁ、こんな時は」

 

 ※

 

 「この粗忽者が!」

 堅拳が頬を撃つ。抵抗することもせず殴り飛ばされた破壊の大王の華奢な姿を、レフ・ライノールは蔑視で見下した。

 倒れたままぴくりとも動かないアルテラの姿を見る男の目線は、確かに侮蔑的である。だがそれは多分に虚勢からだった。

 男にあるのは、恐怖でしかなかった。あの対城宝具の直撃を受ければ、如何に彼とて、術式から解かれかねないという直観があった。実際どうなるかはわからない……だが神造兵装の原型たる軍神の剣の在り方は、メソポタミアに在りし無銘の乖離剣に近しい。彼の目方を上回る物であったなら、あるいは彼とて滅ぼされ得ただろう。

 それ故の、恐怖である。男がこれまで一切感じたことのない感情は、人間ならば原初的な恐怖とでも表現できただろう。だから、彼の暴力はほとんど八つ当たりに近かったけれど、割かし正当なものでもあった。未知の感情を賜った化け物への、防衛機制にも似た制裁だった。子供が、不意に現れた大きな哺乳類にびっくりして泣いてしまうようなものだった。

 「だからサーヴァントなど使いたくないんだ! 人理の奴隷などという二流を使嗾するなど、我らの品位に相応しくない!」

 草原の大地に転がる矮躯を足蹴にし、レフは癇癪を堪えられない。傍若無人な振舞だが、それも仕方のないことである。人間には人間の理があるように、化け物には化け物の理がある。彼の怒りは、度合いはともあれ質としては人が蚊に抱く不快感と大差ない。

 「貴様もだ! サーヴァント1騎まともに処理できない愚図だとは思わなかった!」

 強かな、殴打。頬面を打たれながら微動だにしないバーサーカー、源頼光は、ただ小さく頭を下げただけだった。

 「暗示があるにせよ、シールダーとライダー如きは相手ではないと思っていたのだがな」

 レフは、千切れ飛んだ頼光の左腕を忌々しく眺める。下馬評通りなら、源頼光の強壮さはトップサーヴァントにも比肩する……というより、まさにトップサーヴァントの格があるはずだ。元々召喚する予定だった神祖ロムルスやアーサー王、そしてこのアルテラに並ぶ性能を誇る。そのように諸葛亮孔明に勧められたからこその召喚であり、サーヴァントなどというものを心底毛嫌いするレフにあって数少ない注目株だったのだ。事実、どの陣営にも属さない野良サーヴァントを早々に殲滅させたのは彼女の手腕だったし。それ故の信頼であり、だからこそのこの結果の不快感だった。

 「その左腕は治しておく」

 鼻白らむような、独り言にも近しい発話だった。頼光の頷きは認識したが別段リアクションも返さず、「お前もだ」と足裏の下で無言のまま朽ちる体躯を見下ろした。

 あの宝具はもう撃てない。というより撃つのは不可能だろう。霊基が耐えられまい。外見上はともかく、中身は既に襤褸になった少女をただただ愚かしく見下ろすと、「全く」と米俵でもそうするように担いだ。

 「一端退避するぞ」

 周囲を見回す。緊急で発動させた空間転移───レフにはその魔法にも近しい魔術が可能だった───は座標もへったくれもなく、首都近郊の草原に3人を飛ばしていた。

 「ここでは目立ちすぎる」

 

 ※

 

 もう無理かな、と思った。

 失血という形で身体を作るエーテルの大部分を喪失したブーディカは、消滅寸前だった。身体機能を極限まで低下させることで現界を維持してきたが、もうそれも限界である。実際に彼女の身体の輪郭は解け、燐光とともに大源(マナ)へと昇華されはじめていた。

 結果を言えば、ブーディカは基本的に手も足も出なかった。最後の決死の攻撃も、結局は見切りと刀での相殺という力技だけで突破されてしまった。一流には到底及ばないんだな、という現実を見せつけられただけだった。今もって存命なのは、あのバーサーカーは死に体のブーディカを敵とすら認識せず、戦略目標に従って撤退していった。それだけのことだった。

何を、意地になっているんだろう。さっさと消えて、座に還ればいいというのに。

 視界すらぼやけている。意識もどこかふわふわして、まるで、母親に抱かれているような柔和で温和な感覚に浸されている。

 ───そう、それが、彼女の在り方。彼女が是とする身体性であり、それ故に彼女がローマ帝国に与した理由。

 マシュの思考の通り、ブーディカという存在とローマ帝国が相容れる要素は一欠けらとても存在する余地がない。嵐の王(ワイルドハント)として語り継がれるほどの憎悪は底知れず、本来賢母としての側面を強く持つライダーとして召喚されてなお狂化付与・復讐者(アヴェンジャー)への霊基変質の宝具を所持する程である。まして1世紀・ローマに召喚された彼女が、ローマ帝国の危機に手を差し伸べる理由などありはしない。むしろ、その破壊こそ望むだろう。

 実際、彼女はそうするつもりだった。そのつもりでまずローマ帝国に与する振りをし、味方の振りをして軍事的中枢に忍び込み、あとは(ネロ・クラウディウス)を落とす。そうしてブリタニアからの援軍を装い、武勲への報償として宮廷に招かれた彼女は、見てしまったのだ。

 その情景。まだ20も過ぎたばかり、プラチナブロンドに色白の肌の女性は、公式の場だというのに全く対照的な姿の女の子に振り回される、そんな情景。

 「卑怯だよ、そんなの」

 思わず、独り言ちる。懊悩と憤怒を苦笑に変えながら、既に希薄化した五感が何かを捉えるのを感じていた。

 触覚は振動に触れ、視界は何か赤い影を視る。ぐらぐらと揺さぶられていたが、ブーディカはそんなことをされている感覚すら残っていなかった。

 「だってそんなの、まるで。おかあさん、みたいじゃないか」

 そうして、ブーディカは消滅した。燐光に還元された彼女の口腔が最後に形作った音声は、目の前に居た人間の耳介だけに触れた。

 

 ※

 

 「ごめんライネスちゃん、これしか」

 首都ローマ中央、宮廷の一画。

 元は迎賓のための部屋なだけあり、調度品は見るからに品のいいものが揃っている。首都強襲時の緊急避難、その喧噪の後もない部屋で、リツカは試験管を差し出した。

 20ccほどの容量のガラス管の中には、銀色の液体が身じろぎもせずに満ちていた。

 ライネスはそれを手に取ると、小さく肩を落とした。眉尻を下げたのはほんの一瞬、小さく首を横に振ったライネスは、試験管に手を翳した。

 「どう?」

 「これまでみたいに動くのは、無理かな」

 試験管を天井に掲げたライネスは、しげしげとそれを眺める。

 アルテラの直掩として首都に待機させていたトリムマウの性能は、机上の話で言えばそれこそブーディカを凌駕するものだったはずだ。それを、こうも簡単に蹂躙する敵。しかもこの損傷具合は、ただ破壊されただけではない。ブラックボックス化した管制システム以外の大部分が、何かに喰われたかのように喪失している。

 相性の悪い相手だった、と思うしかない。

 「ごめん、本当だったら俺たちがなんとかするはずだったんだけど」

 「いいよ、仕方ない」

 この場に居合わせるもう一人。赤毛のライダー、アレキサンダーは畏縮するように肩をすぼめる。

───元はレフ、バーサーカーの強襲に合わせてアレキサンダー、諸葛孔明の2人で奇襲、これを迎撃・殲滅するのが当初の予定ではあったらしい。要するに、諸葛孔明はレフ・ライノールに献策する振りをして背後からこれを討つつもりだったのが、却って裏目に出た形だ。

 「黒衣のサーヴァント、ねぇ」

 (察するに、オルレアンでも遭遇したアレのことだよね)

 髪の一房をかき回したリツカ。特段眉間に皺も寄せず、ぼけっとしたように癖を繰り返す姿が、却って思案の深さを思わせた。

 「まぁそれはいいか」

 「いいのか?」

 「仕方ない。真名と宝具がわかっただけでもめっけもんってことで」

 「それにしても、そいつらの目的(Why done it)が見えてこないね」

 手慰みに、ライネスは顎を撫でる。きょとんと眼を丸くしたリツカは、何それ、と言わんばかりに金髪の少女を見つめた。

 「まぁ受け売りなんだけど。要するに、事件を解くカギは動機にあるってことさ」

 「長距離疾走と崖の上」

 「……まぁ間違ってはいないけど」

 大真面目にそんなことを言うリツカに、ライネスは呆れのような微妙な顔を返した。戦闘中のキレは普段の生活になく、エナジードリンクを飲んでは頭に霞がかかったようなことを言う女だった。

 「とりあえず、そのキングゥとかいうサーヴァントとマスターのことは置いておくしかない。今はね」

 「それより、どうやって当面の敵を倒すかってことか」

 「そういうこと」

 ぴん、と指を立てるリツカ。やはりこういう時は頭を動かすのが得意らしい。うんうん、と納得するように頷くアレキサンダーに気を良くしたらしいリツカは、にへらと顔を緩めた。

 (敵のサーヴァントは2騎。アルテラと、バーサーカー……源頼光、だっけ。正直、性能だけ言うと、二人とも前回のジャンヌ・オルタや酒呑童子に匹敵するかそれ以上だね)

 「あれ以上かぁ……」

 げんなり。嫌そうな顔を隠そうともしないリツカは、いつもの五割増しくらいの勢いで髪をにぎにぎしている。

 アルテラの実力がどれほどかは不明だが、対城宝具を所持する程となると相当だろう。あのトリムマウが歯が立たないとなるとなおのこと。

 さらにバーサーカー、源頼光。場所は日ノ本、時は平安において最強を誇った武士。数多の怪異を滅ぼしたその強さは、実際何度もローマ帝国軍がしてやられたことからも明白だろう。

 対して、こちらの戦力は心もとない。単純な数ならアレキサンダーを含めて4騎。だが実質戦闘能力皆無のライネスは除外するとして、実質3騎。数の有利はほとんどないといっていいし、決して粒ぞろいとは言えない戦力だった。

 せめて、ジャックが生きていたら。そんな詮の無い思考が、過る。これまでローマ帝国がゴーレム相手になんとか戦えたのは、ジャックの第二の宝具『其は惨劇の終焉に値せず(ナチュラルボーン・キラーズ)』に依るところが大きかった。アレがまだ使えれば、どうにかなったのだが。

 ライネス自身も無意味とはわかっているが、無意味な考えをしなければならないほどに手詰まりだった。

 ように、見える。

 《考え方を変えればいいのではないかな》

 「ん?」

 「どしたの?」

 「司馬懿殿が……」

 そうして、咳払いを一つ。ふ、と身動ぎしたライネスは一度瞼を閉じた後、再び目を開けた。

 容貌に変化はないが、そこに居る人間の質が変わったのはアレキサンダーにもわかるほどだった。より先鋭的に研磨された雰囲気、表情。司馬懿仲達の人格が表出したのだ。

 「簡単な話だ。倒さなければならないのは、あのレフ・ライノールとかいう男だけなのだろう?」

 「あー……なるほど。ならマシュに頑張ってもらおうかな……でもそれだと」

 「彼女(トリム)を使ったらいいさ。気休めでしかないかもしれないが、こういう使い方もできる。そうだろう、ライネス殿?」

 

 ※

 

 

 

 「───同調・投影、開始(トレース・オン)

 イメージする自らの身体構造。同時に造り上げる2つの観念。

 手に現出する投影品は2つ。指先に構えたそれは、既に何年も使ってきたかのように手に馴染む。もしくは、実際この霊基の核となる英霊はそういった荒事もしてきたのかもしれない。ただ孤独に戦場を彷徨った浮浪者。兵站もクソもない消耗戦ともなれば、英雄はゼネラリストにもならなければならない。

 これは、その延長線。鋭利な剪刀が肉を切り───。

 「痛っ」

 「なんでアナタが言うのよ……っと」

 ずるり。

 思いのほか慣れた手付きで、大腿部の糸を引き抜く。縫糸としては十分に図太いシルク糸は抜糸と同時にエーテルに解きほぐされ、霧散していった。

 同時、抜歯痕から僅かに血が滲む。プリーツスカートの裾で乱雑に拭うと、クロは「よっ」と立って見せた。

 ───同じく、来賓用の一室。右足の抜糸を終えたクロの動作は軽い。右足を切断された痛ましさは、外見上は見受けられない。

 「結構綺麗じゃない? 正直、もっとグロいことになるかと思ってた」

 ぼす、とベッドに腰を下ろすトウマの隣に腰を落とす。ほら、と右足を伸ばしては、曲げてを繰り返して見せる。

 ほそりとした足。瑞々しいはと麦の実の色をした足に、薄く走る傷口。切断の痕跡は、思ったより見えにくい。

 ジャックの【外科手術】のランクはE-よりさらに下だったらしい。とりあえず機能上の修復はできたが、見てくれは保証しない。そんな触れ込みでの右足の修復だったが、左程見た目は悪くない。

 うん、と応えたトウマの返事はどこか浮かない。心情を反映するように下がった眉尻。捉えどころなく、緩く塞がった口唇。なだらかな両肩。

 クロは眉を小さく寄せた。一房結んだ右側頭部の髪を指に絡めてから、クロはえい、とトウマの鼻っ面を突いた。

 「気にしすぎ。もう大丈夫って言ってるんだから」

 「そうならいいんだけど」

 「それに、悪いことじゃなかったかもしれないしね」

 ぱたぱたと両足を曲げ伸ばしながら、クロは投影した医療器具を償還する代わりに、別な刀剣を作り出した。

 黒鉄色の、短刀(ナイフ)。刀身は20cm弱だろうか、戦闘用(コンバット)ナイフとでも言うべきそれは、一見して何の変哲もないものに見える。少なからず、彼女が普段愛用する干将莫耶やゲイ・ジャルグ、デュランダルといった名だたる宝具と比して、あまりに質朴な短刀だ。

 「後悔は終わってからすればいいのよ。ほら、後に悔いるって書くわけだし?」

 ひょい、と短刀を宙に投げる。浮かぶのも束の間、夢のように消えた短刀。掌に残る感触に淡く崩れた情動を凝らせながら、クロはその澱のように堆積したモノのままに、えいや、と飛び掛かった。

 「それとも、もっと別なことがしたくてそんなに見てたの?」

 羚羊みたいにトウマの膝上に飛び乗ると、ずい、とクロは詰め寄ってみる。え、と目を白黒させる少年をいいことに、ついー、と肉の付き始めた大胸筋を撫でる。

 って。

 トウマのリアクションが予想とちょっと違う。赤面と驚愕は変わらないけれど、その質が何か違う。というか、目線がちらちら背後へ行くような。

 はて、と首を回すと、入り口に佇立する赤い麗人の姿が佇立していた。

 「す、すまぬ。よもや逢瀬の最中とは思わなんだ」

 「や、そういうわけでは! あるようなないようなですが」

 慌てて立ち上がったトウマにつられ、軽い身振りで飛び降りる。着地の反動もなく改めて振り返ると、ネロはなんだか煮え切らないような、奇妙な顔をしていた。

 ───なんというか、らしくない。直観的にそう思ってトウマを横目で見上げると、示し合わせたように視線がぶつかった。多分、トウマもそれを感じているらしい。傍目ではわからないくらい、微かに頷いた。

 「で、どうしたの?」椅子を用意するトウマを後目に、クロは勢いよくベッドに座り込んで見せる。「話があるんでしょ」

 「む。いや、そのなんというか」

 どこかぎこちなく椅子に座るネロ。音もなくベッドに腰かけたトウマは、とりあえずとばかりに保温水筒からカモミールティーなんかを蓋兼用のコップに注いでみる。

 「あぁすまぬ」

 いえいえ、と頭を下げると、今度は紙コップ2つに注ぐ。当たり前のようにそれを受け取ると、クロはちびりと口にした。ちょっと温い。ライネスなら多分不満を漏らすだろう。

 トウマは特に気にした様子もなく飲みながら、うむ、と決心したように顔を上げたネロを見守って―――。

 「私を其方のハレムに加えてはもらえぬか!」

 「ブッバァ!?」

 それはもう、キラキラした光景である。窓から差し込む光で虹なんかかかっちゃっているのである。

 マーライオンと化したのはこの場の3人の内2人。実に60%超がキラキラした。既に口に含んで嚥下しかけたクロは見事に誤嚥し「ンブフッ!?」などとまぁえぐい音とともに口と鼻からカモミールの飛沫を撒き散らし、目いっぱい口に含んでいたトウマは汚ねぇアーチを描いていた。

 「む、なんだ、やはりトウマのハレムのハードルは高いのか、余では不足か」

 「そうねぇ、外見は問題ないわね」

 いち早く立ち直ったのはクロである。どちらかと言えば被害状況はクロの方がヤバイのだが、白い礼装の裾で鼻水だかよだれだかわからない粘液をごしごししては食い気味にネロににじり寄った。

 「むう、では何が足らないというのだ」

 「年ね。トーマは社会不適合者(ロリコン)だからネロは成熟しすぎなの。このでっかくて柔らかいのとか」

 「むうやめんか! しかし、なるほど、余は至上の銘器ではあるがニッチを満たすことまでは考えておらなんだ」

 「でもねぇ、顔と声は合格! 童顔でロリ声だから」

 「クロエさんこれ以上風評被害なんでホント」

 まだむせ込みながら、トウマは若干痙攣する手でクロの肩を掴んだ。

 ぺろりと舌を出しながら、クロは後ろへと体重を預ける。代わりというように顔を上げたトウマは、まだむせりが止まらないのか口に手を当てていた。

 「ネロさんにちょっとお願いがあるんですけど」

 げほ、と咳き込んだトウマは、妙に緊張した様子で次の言葉を続けた。

 「も一回言ってもらっていいですか」

 「トーマ……」

 「そんな目で見ないでくださいまし」

 「よ、余は構わぬぞ。しかしな、こういうことは一度で聞き取るのが礼儀というものだぞ」

 なんでか、というか今更にネロも顔を赤くすると、仰々しく咳払いなんかしてみる。異様な緊張感はある意味で喜劇性の裏返しのようなものだった。

 「私をトウマ、其方のハレムに加えてはくれぬか。これでいいのか」

 軋むような緊張、およそ半瞬ほどの合間の後、トウマは酷くゆっくりした動作で顔を上げた。

 「一応なんだけど、詳しく具体的に話してもらえるといいかなって」

 「そ、そうだな。余もやや焦りすぎた」

 ネロは一層顔を真っ赤にしていたが、意外にもトウマは普段通りの顔だった。おや、とクロはちゃんとトウマの顔を見ると、何か確信めいた顔だった。

 その時、何故か脳裏を過る言葉。

 ───トウマはサーヴァント戦闘のスペシャリスト。そう言ったのは、自分。覗き込むように見上げる16歳の少年の横顔にその言葉がふわりと馴染み、クロは不気味な情動を惹起させた。安堵のような不安のような。心地よく秘密めいていて、それでいてざわつくような不快感。名付けられるその不定の情動に、クロは敢えて形を与えなかった。ほろほろと舌の上に広がる、旋律にも似た薫り。クロは、その食感を確かに正視する。

 「これを、見てほしいのだが」

 「うん?」

 ぴし、っと何かを差し出すネロ。2つ折りになった紙らしきものを受け取ると、トウマは慎重にそれを開いた。

 「ナニコレ?」

 「子供らしい、良い絵じゃないかな」

 およそサイズはA4の、クレヨンで描いたらしい絵だった。

 「トリムマウが言っておったな、子供が描いた絵はそうなると」

 「まぁ理由はわかりませんけど───あぁ、なるほど」

 トウマは紙を慎重に───というより丁寧に畳むと、一礼してネロへと返した。ネロもやはり丁寧に───こちらは丁寧さというより、何かを根にして発生する震えを抑えるような緩慢さで受け取った。

 「余が命を落とすのは、色々不味いのだろう?」

 「多分、ですけど」

 「でもどうしても私を連れて行ってくれぬか! ダメなのはわかっておるのだが」

 この通りだ、とネロは頭を下げかけたが、寸でトウマは彼女の肩を支えた。見返す翡翠の目を受け止めながら、トウマは「構いませんよね」と入り口へと(どんぐり)色の黒い目を向けた。

 「あれ、気づいてた?」

 ひょこり、と赤銅色の頭が顔を覗かせた。その隣、プラチナブロンドの小悪魔がニヤニヤと顔を歪ませている。猛獣か?

 む、と振り返るネロは若干居心地が悪そうだ。主に、気恥ずかしそうで。だが特にそれを気にするでもなく、リツカは「ごめんごめん」と入り口をくぐった。

 「トウマ君はどうしたい?」

 「俺は連れていきたいです」

 「それは君の個人的な感傷?」

 「それもあります」

 うんうん、とリツカは頷いた。一瞬ほどの思案の目をトウマに向けると、「そうしよっか」とあっさり応えた。

 「え」

 「実は私も皇帝陛下に頼もうとしてたんだ。一緒に戦ってほしい、って」

 ね、とリツカは朗らかにネロを一瞥した。

 虚を突かれたように瞠目するのも一瞬、くしゃりと表情を変えたネロは「すまない、とても、助かる」と深く首を垂れた。

 「こうしてネロちゃまもトーマ君のハーレムの一員になったのでしたーめでたしめでたしー」

 「り、リツカ!」

 「序列はどうなるんだい?」

 「まぁ正妻はクロちゃんなんじゃない?」

 「第一側室がマシュで次にリツカかしら」

 「その次が私で末席に皇帝陛下ってわけかな?」

 「そうそう」

 「余が末席とはなんたる強欲な! いやしかしそれも甘受してこそデキる皇帝というものか」

 「あのーそろそろやめてもらっていっすかね」

 「冗談冗談」

 とても冗談に見えないにこやかさをトウマに返すと、リツカは片手だけで器用に500ml缶のジュースの蓋を開けた。プルタブを開けると同時に噴き出した黄色い泡を口に含むリツカとげんなりした様子のトウマを見比べてから、ライネスと、そうしてネロを一瞥する。

 「人は成長するのねぇ」

 「何と?」

 「お姉さんのしみじみした呟き」

 「???」

 頭に疑問符をつけるネロは、ただただ小首を傾げるだけだった。

 「じゃあ決めようか。敵を倒す方法って奴を」




次からラストの戦闘に入っていきます。

重ねてになりますが、誤字脱字とかあったら気軽にお申しつけくださいませ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

バンデッド・イン・レンジ

 「いい天気だなぁ」

 緊張を破ったのは、それはまぁなんとも間の抜けたリツカの声だった。

 首都ローマの南西。20世紀、イタリア最大の空港(エアポート)が建設されるはずの地区には、西暦60年現在、薄い林がただただ広く延びている。馬を走らせるのに難はなく、【騎乗】スキルを有するマシュは当たり前のように青鹿毛の馬を走らせていく。相乗りするリツカも特段酔った様子もなく、のほほんと空模様を眺めていた。

 陽は既に西に傾き、降り注ぐ光も僅かに暖色を孕み始めている。グリニッジ標準時にして、現在17時10分ほど過ぎている。逢魔が時のただ中の空は、異星の昆虫が撒き散らしたような血のような瑠璃色に引き伸びている。間に差す橙色の光軸も、妙な無機質さがあった。

 それを「いい天気」と評するリツカの神経のずぶとさは、相変わらずというか、何はともあれ尊敬に値すると思う。泰然自若、という4字熟語があるけれど。リツカの在り方は間違いなくその言葉を体現している。

 ネロの騎乗も流石と言うべきか、葦毛の馬を起用に乗りこなす様に、何故かナポレオンの絵画を思い出すほどだ。無論アレキサンダーはライダー相応、初めて会ったばかりの鹿毛の馬と十全にコミュニケーションがとれているようだった。

 ───全く対照的なのが。

 「あっー!? 落ちる落ちる!」

 「ちょっとあんま動かないでって!」

 人類史を背負うマスターとそのサーヴァントである。

 身長133cmの女の子にしがみつく170cmの男、という奇怪な光景もさることながら、不定の海産生物みたいにわちゃわちゃ動く様はなんというかアレである。馬上で動かれるのが不快なのか、栗毛の馬は酷く迷惑そうに頭を振っていた。振り落としてやろうか、とならないのは、クロの【騎乗】が成せるものといったところだろうか。とてもこれから決戦が始まる、という風体ではない。

 「ロマン、モニターちゃんとできてる?」

 背後、リツカの声が耳朶を打つ。同時に視野投影される映像の中で通信ウィンドウが立ち上がった。

 (もちろん、聖杯の座標は変わってないよ)心なしか、ロマンの声も緊張を感じさせた。(この先3km先、動く様子は今のところ見受けられないね)

 「りょーかい」

 対して、やはりリツカの言葉遣いはいつも通りの呑気さだ。むしろいや増しになってすらいる気がする。

 やっぱり、凄いな、と思う。リツカだけじゃない。クロも、トウマも、これから死線を潜るというのに、まるでそれを気にしていない。いやトウマは気にしているのかもしれないけれど、それを顔に出さない。

 対して、自分はどうだろう───マシュは、いつもの自省癖に落込んだ。

 非力で、弱くて。勁くなりたい、と思う。みんなをちゃんと守れるようになりたい、と思う。そうして、みんなの役に立てたらいいのに。

でもそれはいつになるのだろう。なりたい、なんて思っているうちは、きっと、

 (あ、待って。聖杯の座標が動いた、こっちに)

「マシュ!」

 遮るように、耳元で声が爆発した。

 ぎょっとするのと身体が動くのは、ほぼ同時だった。馬から飛び跳ねたマシュはほとんど無自覚に盾を掲げ、そして目を見開いた。

 弦月の如き太刀。樹々の間をすり抜けるように猪突をかけた女武者の騎影が剣光に重なった。

 回避───できない、と何故か直観的に察知する。思考より早く掲げた盾に銀の刀身が重なると、爆薬が炸裂したかのような衝撃が膨れ上がった。 

 「トウマ君、じゃあ皆のことは頼んだよ! もしダメでも大丈夫だから!」

 「わかった、任せて! だって」

 顔を青くするトウマの代わり、クロが声を上げる。駆け抜けていく3騎、駿馬の脚音を背に、マシュはそのサーヴァントを相対した。

 バーサーカー、源頼光。静かに刀を構えた姿は、まるでその肉体を含めて一本の太刀と化したかのような流麗さを誇っていた。

 「ここまで予定通り。だね、マシュ?」

 ひりつくような焦燥の中、マシュはなんとか頷きを返す。うんうん、と莞爾とした表情をとりながら、リツカはマシュの背をほんのちょっとだけ、押した。

 「大丈夫、マシュならできる」

 「はい───だって、私は」

 マシュは、そうしてそれを取り出した。

 およそ20ccほどの容量の、試験管。小気味よく親指でキャップを押し上げると、内容物たる銀の水が躍るようにマシュへと絡みついた。

 液状に過ぎない水銀。不定の亜鉛族元素が凝固を始め、鎧へと形を変えていく。

 ───霊基出力向上、安定。ステータス値上昇。月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)、霊基補強完了。

 視野投影された情報を理解して、マシュは怖気を奥歯で轢殺した。

 「私は、先輩のサーヴァントなんだ!」

 

 ※

 

 「おや。てっきり、あの小娘が来るとばかり思っていたのだがな」

 酷く、耳障りな声だな、と思った。

 林を抜けた先。黄昏の陽が落ちる開けの中に、それは居た。

 奇妙な帽子に、酷く時代に不似合いなコートを着た男。爬虫類にも、獣にも見える相貌は、妙な生理的嫌悪を惹起させた。

 レフ・ライノール。カルデアの技術部だったという男で───所長を殺めた、張本人。

 ぞわ、と臓腑で熾った情動は、嘔吐感にも似ていた。酩酊にも、譫妄にも似た不快感。悪寒とともに、トウマの意思と全く関係なく震え出した体躯に混迷したトウマの手を、小さな手が握り返した。

 「やめてもらえる、そういうの」

 明瞭な侮蔑の声。冷厳ですらある声がクロのものだ、と理解するのに、一瞬時間がかかった。

 「ラスボスの癖にそういうことするの、ほんと痩せた考えよ。それともアナタ、その程度の小物ってわけ? 手練手管を駆使するラスボスって、雑魚っぽい」

 爬虫類じみた男の顔に浮かんだのは不快と軽蔑だった。

 不意に、身体が軽くなる。今の硬直が嘘のようだ。

 あれ、と思っている間に手を放したクロの次の行動は迅速の一言だった。

 黒塗りの洋弓を投影、同時に矢も投影。矢じりを弦に這わせて番えての速射まで、実にコンマ数秒の時間だった。

 なまじの人間ならそれで絶命していただろう。眉間を貫かれたことすら気が付かなかっただろう。実際、レフはその早撃ちに気が付きすらしなかった。

 だから、眉間に迫った矢を打ち払ったのは彼の腕前とは関係ない。クロの挙措をいち早く悟った黒土色の肌の剣士が、その異質な剣で軽々と撃ち払ったのだ。

 微かに、クロがたじろぐのを感じた。

 割って入った、剣士。肥沃な土を思わせる肌に、牧歌的な羊のような髪。草原のただなかに髪を靡かせた剣士の、名は。

 「アルテラ───」

 苦い、声。並んだネロの口から零れた声に、剣士は全く以て反応を示さなかった。

 「蹂躙しろ、アルテラ。そこな二流どもに、貴様の真の姿を見せてやれ!」

 一歩。

 音もないアルテラの歩様は、風を切る早馬のようだった。だが、それでいて威容。大気(マナ))慄き、大地が痙攣した。錯覚でも比喩でもなく、文字通り世界が震えた。

 構える剣。剣、と呼ぶにはあまりに奇妙な光の剣は、全てを咀嚼するように渦を巻いていた。

 猪突の瞬間は同時。

 質朴峻厳な体躯の剣士。

 豪華絢爛な赤いドレスの剣士。

 対照的な2つの剣戟が激突した。

 

 ※

 

 交錯する剣。熾天より来る神造兵装の原型(プロトタイプ)、『軍神の剣』。それを迎え撃つローマ皇帝の剣、異界より来る隕鉄の剣、『原初の火』。

 男は、その光景を眼差す。

 いずれ。

 あるいは何処かの例外(エクストラ)で重なるはずの剣の舞踊。流麗とは程遠い、無様であすらある剣戟。

 だが何故だろう、と男は思う。昏い視線の奥で、何故かその光景が───。

 「やあ、君も見物かな」

 男は、身動ぎした。

 「これはこれは。凄いね君は。これは結界を持ち歩いている(・・・・・・・)のかい」

 気さくに語り掛ける、白い影。フードの奥底で閃く好奇の目は、その実酷く無味乾燥だった。男と、同じように。

 いや、あるいは別だったか。男はかつて、全てに無味乾燥な機械となり果てながら、一つどころを求めてさ迷っていた。最初から何もかも無味乾燥で今もってそうであり続けるその白い夢魔とは、似ているようで違う。

 だが、それも生前(むかし)の話。ソラの淵源より掬いだされ、ただの傀儡となった男は、既に何の執着もない。英霊などとても及ばない。幻霊にすら届かない、亡者と大差ない。

 お笑い種である。死を蒐集していた男が、今は死と生の逆目で亡者の真似事をしている。罰が当たったのだ、などという妄想も沸き立つというものだ。

 白い影が、隣に並ぶ。小高い丘から見下ろす景色の中、開けた広場の中で騎影が交錯する度、世界が戦慄していた。

 「ジュースとか飲むかい? ほらこれ、エナジードリンクって言ってねぇ、ペットがくすねてきたんだけど」

 ほら、と白い影が飲み物を差し出してくる。観戦するならドリンクも、などと言いたいらしい。とても|冠位《グランド」に該当する男の言い草ではないな、と思った。

冠位、などというのはどれも人がよくわからない。ゴーストライナーであっても、魔術協会の階位であっても。知り合いの顔を思い浮かべた男は、さりとて夢魔の勧めを断るでもなく、プルタブを開けた。

 ごきゅ、と飲んでみる。生命力を賦活させる、現代の気つけ剤といったところなのだろうか。

 思ったより、悪くない。予想外の感想だったが、その意外性に特段感慨もわかなかった。

 何故か、白い影は満足そうに莞爾としていた。いや、それは自明か。夢魔とは他者の感情を栄養とするのだから。

 「まぁ気楽に行こうよ」

 白い影が指を鳴らす。まるで手品のように椅子が現れると、どっこいしょ、などと言いながらそれは腰を下ろした。

 当たり前、とでも言うように、椅子は二脚。ほら、と身動ぎしたところを見るに、座れということらしい。男はやはり感情も見せず、静かに腰を下ろした。

 「ポップコーン。食べる?」

 いただこう、と頷く。やはりいつの間にか取り出していた巨大な紙のカップに山盛りになった焼きトウモロコシを鷲掴みにすると、男はそれを口に押し込んだ。

 「悪くないだろう?」

 やはり、白い影は莞爾と顔を綻ばせている。男は外見上、何の身振りも示さなかった。示さない代わりに、もう一度ポップコーンを鷲掴みにした。

 「それにしても君の声、知り合いに似てるなぁ。宗教家というのは、みんな渋い声にでもなるものなのかい?」

 無論、そんなことは男の知ったことではない。そりゃそうか、と肩を竦めて見せた白い男は、むしゃむしゃとポップコーンを頬張り始めた。

 「お。やっぱり凄いなぁ、マシュは」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

接戦

 源頼光。

 その名の通り、彼女の出身は日本である。時代は平安。魑魅魍魎が跋扈する古き日本、しかもその中枢にて武を振るった彼女の強壮は、言語を絶する域にある。

 人間を遥かに超える怪異をして誅伐し続けたその武勇。当代きっての無双の(つわもの)だけが持つスキル【無窮の武練】所持者の名は、伊達ではない。カルデアの勢力がレイシフトを敢行する以前。はぐれのサーヴァントを軒並み鏖殺した事実は、別になんでもないことなのだ。秦代の暗殺者くずれを股裂きに一刀両断し、叛逆の剣闘士を鉞で磨り潰し、炎門の守護者250人を弓で射殺し尽し槍で串刺しにすることなど、他愛ない瑣事。殊において、アルテラ以上の怪物である。

 その彼女をして、今、攻めあぐね入ていた。

 【無窮の武錬】から放たれる頼光の攻撃は、全て必中判定が付与される。ある種、それは因果逆転の呪槍の如き剣閃。頼光ほどの剣士が放つ攻撃が外れるわけがない、という世界了解による攻撃補正。その剣戟を躱すには、世界を騙すほどの幻術で「源頼光ですら外す敵」という認識を世界に刻み込むか、Aランク以上の幸運値、あるいは【直感】を要求する。

 マシュは、そのどれも持ち得ていない。だから、防御する。盾かどうかすら不明な十字の宝具で、1秒間に10度放たれる太刀の閃光を全て防御しきる。

 実際であれば、頼光の太刀は防御すら困難なのだ。筋力値、A。さらに【神性】によるダメージボーナスに加え、此度の召喚に限り、彼女は【怪力】スキルを有する。ランクはCと低いが、ただでさえ強力な通常攻撃を底上げしている。太刀の一撃一撃が低ランクの宝具に匹敵する火力。生半可な防御では、防御越しに叩き切られるのが落ちだった。

 だが、防いでいる。あのか弱そうなサーヴァントは、頼光の剣戟全てを防御しきっている。今一歩で防御を崩せる、という瀬戸際のところで防御を続けている。

 しかも。

砲撃(ファイア)!」

 迫りくる魔力弾───いや、もっと別な、何か。難なく斬り払うのも束の間、巧妙に距離を取る盾のサーヴァントの左手には、銀の剣が握られている。その形状は、何故か、あのライダーのそれを、思わせた。

 まるで要塞。ただでさえ硬く、寄せ付けないのにさらにいいタイミングで襲い掛かる近接防御の巧妙さは、頼光をして舌を巻く。だが、要塞はそれだけで堅乎なのではない。戦略を見通し、戦術を確立する指揮官がいてこそ要塞は強固足り得る。堅牢なハードウェア()。そしてそれを司るソフトウェア(頭脳)。盾を構える銀の髪の少女。そしてその背後のマスター。

 勁い、と思った。

 ならば、為すべきは、唯一つ。

 

 ※

 

 勁い。

 間違いなく、バーサーカー(源頼光)バーサーカー(酒呑童子)と同格の性能を誇る。これと勝つのは至難の業だと理解する。トリムマウによる霊基向上が無ければ、ここまで粘れていただろうか。自らの体躯に纏う銀の鎧の存在を感じながらも、マシュはこの時、一呼吸を吸い込む。

 ───戦闘開始から、まだ20分弱。あの手この手で攻撃を繰り返す頼光の攻撃全てを防御しきったマシュの精神力は、尋常ではない。何せ全て必中必殺の太刀。しかも防御したらしたで、防御の上からダメージを与えてくるこの現状。武に長ずるサーヴァントとて、このサーヴァントと凌ぎ合うのは困難だろう。

 だから、正直に言えばこの一呼吸は彼女にとって救いだった。摩耗した精神に息づかせるタイミング。肩で息を吐きながら、でも何故、と思う。

 あのまま攻勢をかけられていたらどうなっていたか。防御できていたか? 不明だが、ここで頼光が今攻撃を辞める理由はない。なら、何故───。

 巡る思考。小さく息つきながらもたゆまない集中力。僅かに煙る警戒心を、頼光の動作は、むしろ抑えるようだった。

 頼光は、静かに太刀を、鞘に納めた。だが、別な宝具を出すわけでもない。この20分、鬼の如き気勢で繰り出してきた4種の宝具。頼光四天王が扱ったであろう太刀、鉞、弓、槍。そのどれも手にすることはなく、ただ静かに、穏やかに、源頼光はマシュを見据えた。

 「名は、なんといいますか」

 あまりに、それは予想外だった。

 当初の邂逅でも、確かに彼女は穏やかさすら見せていた。トウマも、このバーサーカーが極めて特異であることは言っていた。だがここまで当然のように意思疎通を図ってくるのは、予想外だった。

 狂気故の理性。酒呑童子とはまた違う、別な狂気のカタチ。人類(ひと)の、在り方。

 「先輩……マスターの、リツカ。私は、マシュ、です」

 「マシュに、リツカ。良い、名前ですね」

 バーサーカーが両手を掲げる。柔らかな手付きは、嫋やかで女性的な柔和さを感じさせた。

 「来る」

 だが、そうではない。リツカの声が小さく耳朶を衝き、マシュは緩い呼吸を練り上げる。

 「この戦いはあくまで遅滞戦闘。貴方に私を倒す意図はない。倒せずとも、もう片方の部隊がアルテラとマスターを倒せば戦闘終了。戦略目標を見据えた上での戦術的判断───良い判断です」

 そして、と。

 頼光は、マシュへと、莞爾とした視線を向けた。

 「貴方はマスターの命令を善く守っている。指揮官は優秀な部下がいてこそ輝くものですから―――こんな一生懸命な子が近くにいるなんて、羨ましい人」

 大気が、裂けるようだった。

 黄昏が堕ち始めた宙を裂く陽の光。掲げた両手の間に、雷とともに顕現する金色の武具。法具にも見えたそれの名を、マシュは知っていた。

 金剛杵(ヴァジュラ)。それ自体は、事実、仏教の一部の宗派が使用する仏具である。だが、その起源はインドの古い神話にさかのぼる。邪竜ヴリトラを撃滅するために、インドラに授けられた雷霆。それこそが金剛杵、という武装の根幹だ。

 だが何故、源頼光がその武具を扱うのか。確かに金剛杵が日本に伝わったのは奈良時代にかけての話だったと聞くが───。

 「───聖仙骨より作られしは神の槍。今こそ来りて、あらゆる敵を撃滅せん!」

 荒ぶる雷の波濤。放出された魔力は雷撃と化して周囲に渦を巻いていた。御稜威の顕現。荒ぶる神が此処に降臨するが如くの威容。痙攣のように震えながら、マシュは、

 「乗り越えなさい、最新のサーヴァント!」

 「仮想宝具、装填!」

 「『釈提垣因・金剛杵(しゃくだいかんいん・こんごうしょ)』!」

 

 ※

 

 戦闘開始より、既に20分弱。

 トウマは、その息が詰まるような光景を、ただ眺めているしかなかった。

 数、3対1。前衛を務めるアレキサンダー、ネロに後衛のクロが援護射撃を行う形だ。形式だけ見れば、冬木でセイバー・オルタと相対した状況に近い。同じ対城宝具を持つサーヴァント、というのも奇妙な一致点だ。

 だが、明確に、異なる点がある。

 セイバー・オルタ戦では、3人であのセイバー・オルタを見事に封殺していた。途中ヘラクレスの介入が無ければ、完封勝ちまであっただろう。単なるサーヴァントの数もだが、適格にセイバー・オルタへの有効打を提示できていたトウマの存在は大きい。だが、今回は違う。トウマはアルテラのことを全く知らず、それ故に優位に戦況を進める術を知らなかった。無論それ以外の要因もあるが───どちらにせよ、数的優位を確保しながらも、全く攻め切れていなかった。

 防戦に徹するアルテラは、堅固な南京錠のよう。ネロとアレキサンダーの剣戟を全て捌き切り、クロの射撃すら叩き伏せる。付け入る隙すらない防御の合間に繰り出される反撃も、適格の一言だった。

 狙いは全てアレキサンダー。時にフェイントでネロへと剣を掲げるが、全てアレキサンダー一人に攻撃を集中させている。戦略上はネロを倒すなら戦術レベルでもネロを狙うべき、さらには弱い敵から倒して戦力を漸減させるのが常道と思えばアルテラの戦術行動は間違っているように見えるが、それがアルテラの抜け目なさなのだろう。何が何でもネロを死なせてはいけない、というこちらの意図を読み切った上で、ネロの防御に入ろうとしたアレキサンダーへと的確に打撃を与えていく。悪魔染みた思考回路だった。

 明らかに疲弊するアレキサンダー。有効打を打てないクロ。守られるだけになりつつあるネロ。そして、何もできずに傍観するだけの、自分。

 焼き尽くされるような焦燥。脳髄が煮沸されるような苦痛すら感じながら―――それでも、トウマは懸命に傍観に徹した。

 その事実を観測する。その光景を見定める。目を逸らしたい、逃げたいという情動を懸命に捻じ伏せられたのは何故だっただろう。視界の端に紛れる赤い影を感じながら、トウマは頭の中の情報を整理する。

 ―――この時点において、トウマにはある種の予感があった。曖昧模糊としながらも、輪郭を持った思索。だがそれは未だ観念的なものに過ぎず、妄想の域に過ぎぬもの。希望的観測。そんなものに命を張るのは愚者のすること。だからトウマはその戦闘の中で、妄想を確信へと変えていく。

 ネロへと齎された絵。対城宝具にも関わらず、首都へ一切被害を出さずに行われた狙撃。ネロを狙わないこの戦術。そもそも、ここでアルテラが防戦を選ぶ意味。

 妄想を確信へ。確信を客観的事実へと練り上げながら、トウマは次の行動へと移れない。的確な指示へと繋がらない。

 それは当然というよりは、仕方のない躊躇なのだろう。いくら事実とは言え、戦術判断を繰り出せるか否かはまた別なのだ。100%確実なわけではない事実に判断を下せるのは、尋常の精神性では不可能である。まして、これは人類の存亡がかかった決戦の、その最終局面である。ここで判断を下すのは、まさしく身投げのようなものだった。1度死線を潜った程度では、とても下し得ない。しかも少年はただの高校生だったのだ。年齢は16。一年前までは中学生だった。そんな子供に背負わせていい判断では、決してない。

 だが。

 「ロマニ先生!」

 (カルデア(こっち)は大丈夫だ、派手にやってくれ!)

 「イスカンダル、ネロ!」

 少年が潜った死線は2度。そして何より、少年には───。

 「クロ!」

 半身、少女が翻る。

 微かに覗く、酸化銅膜のような目。小さな首肯。口元は見えなかったけれど、きっと彼女が浮かべた表情は間違いなく───。

 「いいわ! とっておき、見せてあげる!」

 深紅の朔風が巻き上がった。

 

 ※

 

 「投影、開始(トレース・オン)

 一節を刻む。

 脳裏に浮かぶ武装は双剣。掌に馴染んだ陰陽の夫婦剣は、イメージの直後、瞬く間に両の手に現出する。干将莫耶を投影することコンマセカンド未満。掌に得物が現れるなり、弦月を描くように双剣を投擲し、さらに投影、投擲を繰り返すこと3度。

 そして、4度目の想起。だが、この時描いた観念(イメージ)は、全く、別の剣だった。

 今次戦術において、クロの役割は敵を倒すことにない。それは主役の役目であり、自分の役目は足止めだ。しかも数秒だけの足止め。

 「ネロ、アレキサンダー!」

 クロの声に応じるようにアレキサンダーが飛び退く。赤毛のライダーに抱かれてネロも後退したことを確認し、クロは、ただ単騎でアルテラへと猪突する。

 「───同調、開始(トレース・オン)

 端的に。

 それは、無謀にも思える突撃である。何故ならクロはスペック上、並み以下のサーヴァントに過ぎない。対してアルテラのそれは上位に相当するだろう。仮にセイバー・オルタと同等か。しかも聖杯を埋め込まれているなら、それ以上もあり得る。トウマの“原作知識”も役に立たない敵ならば、相性有利の宝具を持ち出す小細工すら通じない。

 ───この状況下。トウマが提案した宝具がある。なるほどそれならアルテラとも渡り合えるだろう、とクロも思う。だが、それを造るのは至難の業だ。ハリボテのハリボテ程度なら作れるだろう、だがそれでは駄目だ。そんな紛れでは、あの神造兵装の原型───おそらく乖離剣と同位に位置するであろう剣と撃ち合うには、力不足だ。必要なのは、真作に等しい贋作。それでやっと、アルテラと打ち合える。

 自らの魔術回路を全て叩き起こす。総数3桁を超える、膨大な魔術回路。ただそれだけの為に特化したホムンクルスは、だがそれでも足りぬと判断する。

 「同調、完了(トレース・オフ)───同調、過負荷(アクセル・シンクロ)

 だから、拝借する。全身の神経系、リンパ系、筋系を偽装する。

 「投影、装填(トリガー・オフ)

 そして、超える。ただの投影(トレース)では届かない。ならばそれは禁忌に等しい、人による大権能の再現。

 「この投影、受けきれるかしら!」

 

 ※

 

 アルテラがその挙動を察知したのは、一瞬の目配せを読み取ったからだった。ライダーとネロが一瞬だけ目を合わせる。何かが来る、という洞察はまさしく戦闘者としての恐るべきものだ。追撃とばかりにアレキサンダーへと踏み込みかけたアルテラだったが、猪突の寸前で、彼女は飛来したそれを斬り伏せた。

 矢ではない、黒い中華剣。無骨な剣を当然にように両断しながら、返す刃で、6時方向から迫る白剣を一閃する。さらに4方から迫る双剣2対を鞭のように変化した軍神の剣で叩き落した、その瞬間だった。

 一挙に、3対6本の剣が炸裂した。

 宝具を破壊することで内包する神秘を炸裂させる禁じ手、『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』。巻き上がる噴煙、膨れ上がる爆光。だが、アルテラは一切気圧されることもなく、その意図を見抜いていた。

 この爆破それ自体は、アルテラを仕留めるためのものではない。さもなくば、ここまで噴煙を撒き散らす意味がない。つまり、これは視覚の遮断。視界を遮ることで行動に制限を加え、次の本命を叩き込むための布石だった。

 これを仕組んだのは、恐らくアーチャーだ。ならば必殺の一撃は射撃と見るべきか。あるいは。だが、それはどうでもいいことだ。どちらにせよ自らのやるべきことは変わらない、と理解し直し、アルテラは自らの戦闘者の本能のままに軍神の剣を虚空へと叩き付けた。

 赤影が、剣閃に重なる。僅かな煙の動きだけで接近経路を把握したアルテラの、恐るべき一撃であろう。

 彼女の振るう剣、軍神の剣。既に魔法の域にある剣は、並大抵の宝具なら正面から溶断するほどの火力(神秘)を誇る。仮に宝具ごと斬り伏せられずとも、殴り飛ばす程度のことはし得るだろう。これまでの戦闘で、あのアーチャーのスペックは理解していた。

 だからこその、其は驚愕だった。

 鍔迫り合いも刹那。押し負けたアルテラの痩躯が、たたらを踏む。横薙ぎに振るった、軍神の剣。叩きつけるばかりに振るわれた剣を迎撃したのは、暗黒色の魔剣だった。

 返す刃を放ったのは両者ともに同時。激突した剣同士ががちりと咬み合い、軋みを上げる。

 彼女の瞠目の理由は、膂力が拮抗したことによるものでもあった。立て続けに5度の剣戟を重ねた敵のアーチャーの技倆でもあった。だが、何よりその剣。魔剣に堕落しながらも、決して損なわれない閃珖を宿した聖剣。星の内海より来る、最強の幻想(ラスト・ファンタズム)

 地上を駆けた彼女の存在の奥底に淀む、恐怖にも似た記憶。白い巨人すら打ち滅ぼした星の剣に類似する、其の、銘は───!




今更なんですが、80話超えてしまっておりますね
正直ネット小説向きじゃないスタイルの文体だし内容だと思うので、今までご愛顧していただいた方々にはしみじみと感謝しております


誤字脱字のご報告やご感想などありましたら、気兼ねなくお知らせくださいませ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

バースト

そろそろ2章終わりそうなので、サクサク投稿して年内に終えたいと思います


 『無毀なる湖光(アロンダイト)』。

 フランスにて相まみえた狂戦士、ランスロット卿が真に恃みとした神造兵装こそはトウマの提案した剣であり、クロが錬成した魔剣の銘だった。

 抜剣と同時、使用者のステータスを向上させると同時、ST判定を2倍に引き上げる剣。派手さが無い剣、というのは素人の発想だ。およそ対人戦において、これに勝る剣は類を見ない。しかも奥の手すら内蔵した剣は、単純な対人戦闘能力であれば、同じ聖剣たるエクスカリバーすら上回る。

 既に、剣戟は100を超えた。一歩も引かず、互いにクロスレンジに張り付く超近距離格闘戦。一見して互角───あるいは、クロが圧倒しているように見えるが、そうではないことは遠くから見守るトウマがよく理解していた。

 強さの代償は、小さくない。なにせそれは、内海より来るまさしくは星の意思。造るだけではない、運用するだけで膨大な魔力リソースを要求されるこの魔剣は、総数3桁を超える魔術回路をフル回転させてなお、それを活かしきれない決戦兵器だった。

 じり、と軋む右手の甲。赤く明滅する令呪越しに、焼け付くような感覚が流入してくる。まるで、はんだごてを脊椎にねじこまれているよう。髄液が沸騰し、延髄まで焦げるほどの感覚。それだけで気が狂いそうになったが、トウマはただ、その光景を眼球に刻み続ける。令呪を通して感じる、副次的な軽微の痛覚共有というだけで、この様なのだ。本人は一体、どれだけの苦酷の中で、刃の暴風に身を置くのだろう。そして何より、それを指示したのはこの自分なのだ。

───赤銅色の、彼女の姿が過る。

 戦術とは誰かの命を消費すること。それを今更に理解させられながら、それでもその光景を直視し続けられたのは、何故か。

「───『縛鎖全断・過重湖光(アロンダイト・オーバーロード)』!」

 魔術回路を通して現出した小源(オド)がアロンダイトから噴き出した黝い閃きを拘束する。膨大な魔力を纏った魔剣が唸りを上げ、鍔迫り合っていたアルテラが弾き飛ばされた。

 トウマは空を見上げた。

 既に帳の落ち始めた宙。瑠璃色の空を裂くように、雷光が迸る。

 「クロ、戻っ───令呪!」

 ぐらりと、少女の体躯が揺らぐ。手の甲に熱したナイフを突き刺されたような感覚も一瞬、トウマは目の前に現れたクロをあわや抱き留めた。

 酷く、小さいなと思った。けほ、と咳き込むクロの姿に一度だけ目を閉じたトウマは、雄々しく天を仰ぎ見た。

 「今だ、アレキサンダー!」

 

 

 「───宝具!」

 上空、200m。雷を纏った戦車(チャリオット)は急転直下、流星のように地面へと突き刺さる。

 踏鞴を踏んだアルテラは一瞬対応が遅れながらも、その意図を全て理解しきる。およそライダーの宝具、その神髄を察知したアルテラの迎撃手段はただの一つだけ。アレキサンダーの霊基を逸脱したその切り札に対抗できる手段など、一つしか有り得ない。

 歪な剣が、回転を始める。3色の光で形成される剣が回転し、渦を巻く。それはまるで虹のよう。大気(マナ)を燃料に回転を続ける剣が灼熱する。

 3秒とかからず飛来する対軍宝具。アレキサンダーが駆る戦車の雷撃を打ち崩さんと、アルテラの宝具が展開する。

 「マルスに接続する」

 疾駆する戦車、構える神の刃。轟雷を伴う神獣の波濤に相対するは、唯破壊のみに特化した天体の激情。

 「『遥かなる蹂躙制覇(ヴィア・エクスプグナティオ)』───!」

 「───『軍神の剣(フォトン・レイ)』!」

 黒天を焼き切るほどの閃光が、己以外の光は要らぬと拮抗した。

 

 

 「クロ?」

 自分を抱きかかえる少年が、顔を覗き込んでくる。

 振るえる眉宇、肩に食い込むほどの指先。ひた、と頬を打った雫に表情を緩めながら。

 「投影、開、始(トーレス・オン)

 それでもクロは、次の一手を緩めない。

 自らの内部を、加速させる。刹那を、永遠へと昇華させる。

 アレキサンダーの宝具だけでは、アルテラの宝具には及ばない。対軍宝具が、対城宝具に敵う道理はない。

 だから、私が、届けさせる。アレキサンダーの宝具だけでは届けられないというのなら、この私が補填する。

 「―――身体は、剣で出来ている(I am the bone of my sowrd)

 投影はミリ秒未満。使うべきものは了解している。自らを形成する弓兵の核、剣の丘に眠る最強の守りで以て、あの子の下へと送り届ける。

 「『熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)』───!」

 その真名を以て、クロは最強の盾をここに現出させた。

 展開する花弁の如き盾、総数7。アレキサンダーを守るように開いた城壁は、アルテラの濁流の如き閃光を真正面から堰き止めた。

 ぶちり。

 「あっ」

 何かが、身体の中で爆ぜた。それが何なのか思いが及ぶ前に、2度目の衝撃が身体を内側から跳ね上げる。

 消化器官を這い上る鉄味の液体。食道をよじ登った消化液と血の混合物は口腔内まで噴出したが、吐き出す前になんとか嚥下する。

 耐える。ただ、耐える。投影は止められない。アイアスの盾でやっと両者の激突は互角。なら手を抜いた瞬間、あの戦車は一瞬で蒸発する。

 ───それに。

 花弁が四散する。虹光の螺旋に砕かれた7枚の盾、その全てが砕ける。

 激突する二種の閃光。互いに弾け飛ぶまで秒未満、爆発した光は夜天に唐突に現れた、恒星のようだった。

 

 

 源頼光がインドラの火、ヴァジュラを扱い得るには理由がある。

 帝釈天の化身とされる牛頭天王の現身として生まれた鬼子、丑御前。史実においては源頼光の兄とされるモノだが、事実はやや異なる。

 源頼光の肉体に宿った神性こそが丑御前であり同じ肉体を共有する頼光もまた、ある種牛頭天王―――引いてはインドラの化身に近しい。

今回、狂戦士ながらこの宝具を以て召喚された理由は、おそらく召喚者の性質に依るものだろう。高位の存在者による召喚の故か。通常よりも高いランクの神性を所持する頼光は、その内面性に引っ張られるようにその宝具を振るう。

 その火力(神秘)

 神代の竜種の内でも上位に位置するであろう蛇竜ヴリトラを殺し、屠竜伝説を確立した宝具のランクは実にA+。魔法に手が届くほどの神代常識を防御する手立ては、そうない。

 だが、頼光は全く油断しなかった。

 宝具たるヴァジュラを射出し、神槍は過たずに直撃した。

 立ち昇る爆炎、鬱勃と広がる黒煙。

 回避した兆候はない。なまじの防御スキル・宝具なら文句なく突き破るだけの威力がある。ならばそれは必殺で、ただ鏖の痕跡が広がるばかりな、はずだった。

 それでも、頼光は油断しなかったのである。

 何故か。あのマスター、リツカと名乗ったマスターの知略を恐れてか。

 それもある。だがそれだけではない。

 あの、盾のサーヴァント。あの少女の、気弱そうで、それでいて真直ぐな視線の意味。

 あの子に似ている。あの子とは全然違うけれど、それでも芯がどこかで同じな、あの子と。なら、きっとあの少女はこれを超えてくる。インドラの矢如きで打ち砕かれるほど、彼女の純粋さは脆弱ではない。そう、頼光という女性は知っている。

 だから、抜刀し───黒煙の中肉薄した影に、刀を振り抜いた。

 彼女の剣筋は必中必殺。外れることは決してなく、放てば神羅万象を斬殺するまさに神域の太刀。

 振り抜く速度は音速にすら達する。目にもとまらぬ太刀は弦月のように光の尾を引き、赤銅の影を捕捉した。

 瞬間。

 頼光の身体が硬直する。

 彼女が見たのは、あの盾の少女ではない。そのマスター、リツカの姿だった。

 咄嗟、彼女は刀を止めた。止めてしまった。あるいは、止めざるを得なかった。硬直するように腕に力を入れた頼光は、そこから掬い上げるように上空へと剣光を撃ちあげた。

 ここすら、読み通り。頼光は次の攻撃を完璧に読み切った。恐らく意表を突くなら二次元的に生活する人間の想像の埒外、三次元的なマニューバでの奇襲。即ち直下か直上からの襲撃。消去法で上と悟るまで、およそ1秒未満。振り抜く速度を含めても1秒に到達しない。

 返す刃の剣戟。それを迎撃したのはやはり大楯だ。パワーダイブの要領で打ち下ろされた盾の威力たるや、その質量も相まってサーヴァントすら轢殺するほどだろう。瞬間的に【怪力】を発動させた頼光ですら険しく顔を歪めるほどのそれは、さながら狂える牡牛に轢かれたかのようなものであった。

 押し返すまでにかかる時間はおよそ2秒。日常生活においては瞬きのような時間でも、この戦闘の最中での2秒は、あまりに大きな隙だった。

 それが、武芸に長ずるもの同士であればなおのこと。頼光は評している。あの盾のサーヴァント。マシュ・キリエライトの戦闘技能は十分に高く、十分に武に長けるサーヴァントである、と。だから、その2秒はまさしく隙なのだ。

 視界に擦過する黒鉄の影。盾と拮抗する間に6時方向に、マシュが滑り込む。

 相対距離、およそ10m。下手に接近しては不利と悟り、且つあの剣から放つ魔力弾で撃破せしめる絶妙な距離。

 やはり巧い。勁いな、と理解した頼光は、何故か、笑った。むしろ微笑みですらあるだろう。懸命に食い下がる姿に何かが重なったのか。多分そうだろう───いつだって、若い力が発達する様は心躍るものだから。

 だから、頼光はその一太刀に死力を尽くすことにした。

 魔力放出を限界まで引き絞る。自らの神威が露出するギリギリまで神性を昂進させ、【怪力】のランクすら底上げする。高ランクの【魔力放出】【怪力】を、相乗させる。

 乾坤一擲。臓腑の奥底から吐き出した叫喚は怪物の遠吠えか、天に轟く神鳴りか。両の手で構えたまま、頼光はその十字の盾を打ち返した。

 ───傍から見れば、その様はスラッガーにも見えた、だろうか。剛速球を打ち返す強打者。位置エネルギーから変換した速度エネルギーを0に引き戻した直後、その倍の速度エネルギーを爆発させた質量兵器が向かった先は───。

 

 ※

 

 マシュはその様を、ただ瞠目する他無かった。

 【魔力放出】による突撃。重力すら味方にして、位置エネルギーから転換する速度エネルギーすら乗せた盾の投擲は、純粋な破壊力ならBランクの宝具にすら超える。

 それだけの破壊の投擲。頼光の精神性を逆手に取った奇襲、マシュにしてみればそれで仕留める腹積もりだった。だが、頼光はそれを弾いて見せた。それだけでなく、マシュの奇襲を読み切って、打ち返したのだ。

 これが平安最強の武士、【無窮の武錬】に至る闘士の底意地か。あわや盾を躱したマシュは、それで作り出した隙が無為になったことを悟った。刀を構えて猪突の気勢を見せる頼光の姿を見る間でも、ない。

 踏み込む頼光、銀の剣を構えるマシュ。為すべきは近接防御の一打───とにかく魔力弾を撃ち込んでその内に距離を取り、戦術を立て直すべきだ、と判断を重ねた。

 重ねてから、思った。──消え千いや、そんな甘い見通しでいいのか。

 奇策は使った、2度同じ手は通じるほど頼光は甘い英霊ではない。ならば使える手はない。仕留めるならこの瞬間で撃破するしかない。

 戦略を思い直す。戦術を練り直す。ここで倒しきる必然性はない、と理解し直し───マシュは剣を振り上げた。

 ただ、撃つだけではだめだ。これまで何度も斬り払われてきた。撃つなら防御ごと撃ち抜く。だがそれだけの素質は自分にはない。なら。

 迅く、鋭く、堅く、勁く。己の【魔力防御】を、極限まで練り上げる。イメージするのは刃の如き一閃。あの刀、童子切安綱ごと頼光を撃破し得る一撃を───。

 「───斬撃(スラッシャー)!」

 

 

 

 圧し広がる閃光。視界を漂白するほどの光に押し出されたネロは、背後を、見なかった。既に焼尽しつくされた声に押されるように、ネロは戦車から飛び出した。

 ふわりと宙に浮かぶようか感触。構える隕鉄の剣、『原初の火』。両の手で構えたそれはいつもよりやけに重く、軽く、鈍く、鋭い。

 白い閃光の中、彼女はそれを捉える。

 閃光を切り裂く極光。虹を構えた剣士の、病的な痩躯が目に焼き付く。

 あの子はなんて、痩せっぽちなんだろう。全身が粟立つほどの悪寒にも似た、芯を焦がす情動に狂いそうになる。詮の無い思惟とはわかっていても、それでも失調した情動が消化液となって咽頭に逆流する。

 迫る彼我距離。交錯する剣。振り上げた隕鉄の剣を迎撃するように打ち出された未知なる剣は、数多の掣肘を貫くように、その肌を切り裂いた。

 迸る明滅、震える指先。痙攣した声帯は機能不全に陥って、原初の戦争機械のような軋音を漏らしただけだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

瑕疵の残余

 アルテラ。

 ないし、アッティラ・ザ・フン。

 西ヨーロッパに破壊を齎した遊牧民の王。神の鞭、災厄とすら恐れられた大王こそは、ローマ帝国に終わりを下賜する英霊足るに相応しい。

 レフ・ライノールが、アルテラという英霊を召喚したのは一重にその理由に尽きる。ローマ帝国を殺す者として、これほど適した英霊はいないだろう。英霊―――ひいては人理なるものを務めて軽蔑していた男をして信頼を寄せた英霊が辿った運命は、けれど、酷く歪なものになった。

 今となってはもう思い出せないけれど、髪の長い男が逃がしてくれたことだけは覚えている。酷く厳めしい顔をしていたけれど、それでいて頼りなくて、でもやっぱり頼りになるような。そんな男だった。

 あるいは同じ時代を生きた軍師の助けを借り、あるいは催眠暗示のモデルに平安の武者の在り方を参照し。

 そうして全てを忘却に置いた英霊は、少女の身となって野に下った。

 酷く、ひもじかったことを覚えている。全く思い通りに動かない身体を動かし、何日も肌寒い草原を走り続けるのはただただ苦しかった。

 苦しさに耐えきれず、野に転げた少女は、しかし思うのだ。

 夜風に騒ぐ草原。転がった少女の頭上に煌めく、きらりと閃く星の光。

 この光景を、少女は、無限に恋しく思うのだ。かつて地上を駆けた頃に恋した景色、無窮の天に戴く綺羅星の景色。

 苦痛と同時。安堵にも似た情動に浸された、そんな、時だったのだ。

 彼女と、出会ったのは。

 寝転がる少女を見、抱き上げた彼女は酷く狼狽し、それでいて周囲の人間に檄を飛ばし、最後には精一杯笑ってみせた、彼女の貌。

 肩越しに煌めく赫い綺羅星が重なって───。

 やっぱり、今となっても、思うのだ。

 私は破壊の大王だけれど。壊したくない(守りたい)世界があるんだ、って。

 ……。

 

 

 「アルテラ! アルテラ!」

 トウマは、ただその光景の前に足を竦ませただけだった。

 黄昏は既に宙の片隅にまで退去し、帳が降り始めた宙。草原のただ中に蹲るネロの腕の中には、歪なほどに穏やかな、其は、死に顔、だった。

 「ごめん、こうするしか、思いつかなかった」

 咳き込み、と同時。

 臓腑から這い出した赤黒い液体を、鬱陶し気に吐き出した。当たり前だ。だって腹には、自分で突き立てたあの未知なる剣が───。

 「これで、アイツを倒して―――……」

 痙攣するような口唇。たった一単語、彼女が遺した言葉はあまりにありふれていた。きっと、それは人間誰しもが呟いたはずの言葉だけを慎ましやかに遺して、アルテラは消尽した。

 あまりに、呆気無かった。解きほぐされたエーテル体が大気に還る光景は、無味乾燥だった。何故かその空虚さが酷く腹立たしく、小さく背中を丸めたネロの姿は、老いた肌馬(ブルードメア)のようだった。

 だからその攻撃を彼女が躱せるはずもなく。正面から襲い掛かったそれに、全く無防備だった。

 ネロを縊り殺そうと迫る、奇怪な何か。オルレアンで見たあの海魔───それよりもなお不定に蠢く異形の蔦は、サーヴァントにすら致命傷足り得る一撃だった。当然、生身の人間など耐えうるはずもない。ネロ・クラウディウスの肉体はあっさりと拉げ、肉団子と化すだろう。

 だが、そうはならなかった。打撃がネロの頭を西瓜みたいにかち割る寸前、トウマは飛び込むみたいに彼女の身体を抱きかかえた。

寸の差。もし1秒でも判断が遅れたら、まとめて肉塊になっていただろう。地面に転がったトウマは空虚なほどの現実感に酩酊にも似た何かを惹起させながら、その攻撃の先を───獣のような、爬虫類のような不気味な何かを、睨みつけた。

 「化け物同士のおままごとは終わりか?」

 酷い、失望が浮かんでいる。鼻白んだ睥睨は、それこそ羽虫でも見ているかのようだった。

 「全く。化け物は化け物らしく、ただ文明を捕食していればいいものを。暴君と人間ごっこなど、茶番にしては怖気が走る。オルレアンの時もそうだ、狂信者ならばサイコパスらしく振る舞えばいいものを。そう思わないかね、そこの君?」

 その時、男は初めてまともに少年を視界に収めた。愚にも付かない若い人間の一匹など、そもそも見るに値しないはずである。ならば、それは正視したというよりも、その辺の石ころに気まぐれで話しかけた程度の心情であろう。事実、男にとって、トウマなど偶然生き残っただけの一般人程度にしか理解していなかったし、そんな人間の個体を認識するなど労力の無駄でしかなかった。

 「貴方は一体何なんだよ」

 だから、口答えされたことは、男にとっては心外でしかなかった。

 「何なんだよアンタは!? 人をオモチャみたいに弄んで、悲しみだけを広げて! そんなにご立派なのかよ、アンタがやろうとしてることってのは!」

 ならば、その沈黙は一体何だったのか。石ころが唐突に反論してきたことへの驚愕か、あるいは別種の何かか。ただ、その問いが何か決定的だったことは違いない。今まで石ころへの一瞥に過ぎない視線は、より明瞭な輪郭を持った───吐瀉物でも眺めやる視線へと、変質した。

 「イキるな、女の影でビクビクしてるだけのカスが。いっぱしの口を利くなら、せめてあのクソ忌々しいオルガマリーの妾と同位になってからにすることだ!」

 ぐにゃりと、男の手が歪んだ。

 トウマが認識できたのは、そこまでだった。そこまでしか認識できなかったことまではなんとか認識して、だから「あ、死んだ」と思った。

 さっき躱せたのは、ただの偶然だったのだ。意表を突いたが故の、運命の紛れ。だが、偶奇に次はない。あの男は間違いなくトウマという個体を殺すために攻撃して、そしてやっぱりただの人間に過ぎない少年にはそんな攻撃、躱せるはずもない。ロードも言ってたではないか。自分は弱くて、戦う力なんてないのだから。

 でも、あの時、その後なんて言ってただろう。あの後、確かに言ってた気がする。弱くても───。

 あと、秒未満。緩慢な思考の中、それは不意───いや、きっと多分。

 運命、だった。

 ぐにゃりと、何かが擦過した。しなやかで鋭利な何か。迸るほどの閃光が不定の異形に絡みつくや、一瞬の間もなく裁断した。

 飛び散る黝い血飛沫すら焼き払う。鞭にも見えたそれは、虹色に、綺羅めいていた。

 「後ろでビクビクしているだけ、か。結構、善いではないか! 前で戦う者には、後ろで待っていてくれる者が必要だと知らぬと見える」

 振るうは虹なりし未知の剣。鞭の如くにしなる神の刃を携えしは、赤いドレスの剣士だった。

 微かに見返す一瞥。翡翠の目に悲哀はなく、怒気もなく。澄んでいながら、苛烈にも見える放胆な目は間違いなく彼女───ネロ・クラウディウスのものだ。

 だが、何か違う、と思う。彼女でありながら何か差延が蠢く面持ちは、端的に言ってもっと“高く”見えた。

 「すまぬ。でも、私はもう、大丈夫だ」

 いいけど、と言いかけたトウマは、一瞬だけ肌で感じた違和感に眉を寄せ、そうして、身体を震わせた。

 えへん、とでも言いたげなネロの横顔。彼女から発散されるこの感じ、間違いない。

 「ちょっと待って、疑似サーヴァントって───真名」

 「皆まで言うな。真の名をつまびらかにすること、余の役目故な。まぁ、これでちょっと、反則をしているだけなのだが」

 ちらり、彼女の掌の中で閃く金の光。夜が降りているというのに、却って目に焼き付くその光。間違いない、その黄金の杯は―――。

 「ところでトウマよ、余はまだ返事を聞いていなかったのだが」ふふん、と胸を張って、ネロが言う 「余を妾にせよと言ったであろう。その返答、聞いてないぞ」

 その言葉の意味が解せぬほど、少年は愚かではなかった。何より、そのかんばせ。精悍、というのとは違うけれど。肥沃な土のように、数多の情動を含んだその顔に覗いた、ほんの少しの悲哀に、トウマは小さく、頷き返した。

 掲げる右手。鈍く光る赤い痣。明滅する様は、心臓の拍動のよう。ならばじわりと痣から感じる熱は、流れ出した熱い血か。

 「うむ。その誓いを受ける! 余こそは剣の英霊、そなたの(サーヴァント)として認めよう、トウマ!」

 朗とした声が、契約の完了。その合図だった。

 じわり、滲むような熱が変転する。痣から血管を逆流するように巡る温度は、まさしく灼熱のよう。契約の瞬間、トウマは気絶しかけた。というより、実際一瞬、気を失った。

 俄かには信じがたい現象だが、ただ主従のパスを通してですら、逆流するネロ・クラウディウスの存在は凄まじかった。上位の魔術師ですら発狂しかねないほどの奔騰に、でも、少年は耐えた。

 簡単な、ことだった。濁流のようなオドと一緒になって流れてくるサーヴァントとしてのネロの情報。一見いつもと変わらぬ体で佇む彼女の姿に、どうして自分だけが気絶していられようか。マスターとしての義務があるなら、己がすべきは彼女の姿を見届けること以外にありはしないのだから。

 「そなたは優しいな」

 呟きのように口遊んだ言葉の雫。必死に自我を保ち続けるトウマには当然聞き及ぶべくもなく、ネロ自身もやはり聞かせる気などなかっただろう。

 「うむ。やはり、余はそなたのことがちょっと好きだ。奏者とはいかぬがな」

 だから、彼女は彼女らしく、結果だけを伝えることにした。え、と面映ゆくトウマを後目にネロはその剣を―――軍神の剣を、天へと掲げた。

 「聞け、遥かな神代の日々に在りし至天の君! 我が子の祈りをどうか聞き給え───火神現象(マルスエフェクト)!」

 赫焉が屹立する。ソラへと昇った閃珖はぐるりと円を描き、紅蓮の如き陣を象る。

 「座よりの例外事象記録(case:EXTRA)及び特級例外事象記録(case:CCC)降臨完了(オーバー)。霊基パターン算出、展開候補決定。軍神(マルス)顕現の補正値に金星の美神(ヴィーナス)を代入。神体形成、聖杯転輪、完了(グラール・オフ)展開、神話礼装(リミットオーバー・ドライブ)!」

 

 

 動作から、マシュが繰り出す攻撃は見切っていた。

 術式を編まない魔力弾。あのライダーが繰り出す攻撃と同種のそれは、既にさして脅威ではなかった。

 構成する戦術は強気の突撃。回避もできたが、回避機動を執った分だけ手は遅くなる。そしてその遅れは、あのサーヴァント相手には致命的になり得る。

 戦士としての直観。これまで油断など一切したことはなかったが、それを踏まえてもあの相手を軽く見るべきではない、という洞察。それ故に最短距離で首を刎ねに行く。左腕に被弾させて防御し、抜刀の気勢のままに首を落とす。脳裏に描く戦闘機動を縫うように、頼光の体躯が跳ねた。

振り下ろされる剣。打ち出される魔力弾。左腕を盾にしかけた頼光の動作がワンテンポ遅れたのは、仕方がないといえば仕方がなかった。

 「───斬撃(スラッシャー)!」

 咄嗟、頼光は刀を抜いた。抜いて、しまった。

 腰からぶら下げた鞘から抜き放つ太刀の一閃。尋常などとうに置き去りにした速度の太刀筋と、その斬撃の速度はほぼ同時だった。

 甲高く響く金属音。ひしゃげる音は金切り声そのもので、飛び散った火花は雷のようだった。

 霧散する魔力。薄く延びるような魔力の斬撃は、単なる威力こそは魔力弾のそれと差がなかった。ならばこれまで通り、太刀で迎撃し得るのは当然の理。瞬く間に消滅する刃を見ながらも、頼光の目に映った光景はそれだけではなかった。

 既に、マシュは懐に飛び込んでいる。突きの構えで飛び込む姿は全く以て無様だったが、それでもその速度だけは本物だった。

 時間に擦ればコンマ数秒ほど。半瞬すらないほどの時間を隙と理解してみせたその判断を理解して、頼光は、甘んじてその刃を受け入れた。

 

 ※

 

 その感触を、おそらくマシュは二度と忘れないだろう。

 構えた剣が、皮膚を引き裂き真皮を穿ち、筋線維を切断し臓器を抉る感触。剣を伝播し肌を侵襲する味わいに嘔吐しかけたマシュは、自らの手で肺と心臓を串刺しにされたその姿を目に焼き付けた。

 「盾を踏み台にしたのですね。よくもまぁ考えつくものです」

 どろりと、剣を伝わる赤い液。指先まで伝わった感触に震えながらも、マシュは刃の柄から手を放さなかった。

 「私で慣れておいてくださいましね。剣を持つとはそういうことで。剣を持った貴女は、きっと、これから───」

 ずぶり、と傷口から血が噴出した。

 自ら剣を引き抜いた頼光は、そのまま所在なく踏鞴を踏むと、足を萎えさせるように膝をついた。

 そうして、死んだ。うなだれた頼光の身体は微かに痙攣しているが、明らかに死んでいた。その証拠、とでも言うように頼光の身体が崩れていく。身体の輪郭を蚕食するようにエーテル体の体躯が光子となって解けていく。

 「マシュ!」

 自分の名を呼ぶ、声。顔を上げると、不格好に走り寄るマスターの姿が目に入った。

 「マシュ、無事───」

 リツカが手を振るようにふり上げた、瞬間だった。

 蹲っていた影が、不意に打擲する。跳ねるように体躯を起こした女武者の影は振り向きざまに太刀を抜刀し、その気勢のままに大太刀を振り抜いた。

 狙いは一路、リツカの首。1秒すらなく首を刎ね飛ばす剣戟は、流麗というには意地汚く、汚濁というには洗練な一太刀だった。

 剣先が弦月を描く。風を切り裂いた刃は、そのまま首を頸椎ごと両断した。

 首が、蠢く。くるりと回転した首は髪に纏われ、胴体が朽ちるのに一瞬遅れて墜落した。

 肺が、焼け付く。過呼吸気味になりながら、マシュは自らの手に握られた血まみれの剣と、首なしになった肉体と―――髪に覆われた、頼光の首を見下ろした。

髪の隙間から覗く、彼女の目。荒武者の如きバーサーカーの、眼、は。

 「マシュ」

 リツカは、所在なく一つ結びの髪をかき回した。その表情は、特段の起伏もない。ように、見える。

 「貸して」

 リツカは言うなり、問答無用で剣を奪い取ると、付着した血糊を、拭った。刀身に付着した鮮血を払った後の彼女の姿は、なんだか傷を負ったかのよう。それでも特に気にした風はなく、彼女はぎこちなく笑った。

 「ありがとう、ごめん」

 ぎこちない、笑み。マシュにはまだ、なんと応えていいのかわからなかった。ただ吃ることしかできなかったマシュの頭を撫でたリツカは、「あ」、とごく自然に、空を振り仰いだ。

 雲一つない、星光の虚空(ソラ)。雫のような赫焉の綺羅星が、昏い穹窿を湛えていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

綺羅星の軍神皇帝

 原初の炎が、静かに波濤を揺らしていた。

 舞い散る火粉は華の如く。であれば、熱く燃え盛る火の波は、栄華繁栄を誘う薔薇であったか。

 立華藤丸(タチバナトウマ)は、その姿に唇を噛みしめた。

 黄金と赤の意匠はまさしくローマの表徴だろう。金が富を示すならば、赤は地の底で滾る焔。

 神話礼装。Fate/extraCCC、最終決戦のために設えられた武装。神霊(ハイ・サーヴァント)に比肩する性能を誇る、彼女たちの決戦兵器。それは、軍神の権能を担うに足る礼装だろう。

 だが、その代償はあまりに重い。自らの崩壊を引き換えにするという在り方に、紛れはない。まして、ここは霊子の世界ではない、現実の世界なのだ。右腕の令呪を通して覚知する疼痛。ただ令呪越しに感じる痛みだけでも、今にも五体を引き裂かれそうなほど。本人が直に感じているものは、想像するだに恐ろしい。

 「うむ、たまには軍神を恃みとするも良かろう。野蛮とばかり思っていたが、話のわかるものだ」

 だが、ネロの素振りに変わりはない。傲岸ですらある溌剌とした顔に淀みはなく、軍神の剣を指先で弄ぶ仕草は優雅ですらある。ふふん、と鼻を鳴らして自慢げに一回転して見せる様など、とても、彼女らしい。

 「最も、余としては美神の方が好むところではあるが! だが親とは時に、己が趣向より子の想いを貴ぶべき故な」

 磊落とすら笑って見せる。それが強がりでも何でもないことが彼女の勁さで、その当然の身振りが、きっと彼女の柔さで。ネロ・クラウディウス、という人物のしなやかさなのだ。

 だが、彼女の在り方はそれに尽きない。さて、とばかりに獅子の鬣の如き金の髪を振り仰いだ面持ちに宿っていたのは、ただただ純粋な暴戻だった。民草を蹂躙せしめる暴君は、その暴性の牙を静かに閃かせた。

 「人間の皮など、貴様の如きが外道には上等に過ぎるだろう。疾く本性を現すがよい。その心根ごと、余が鏖殺してくれよう」

 「在り得ぬ。その霊基の高さ、貴様のような愚図が、冠位など持つはずが───!」

 「知れたこと。貴様が化け物と罵ったあの子は真にこの世を想い、彼方の軍神はそれに応えたのだ。だから貴様はここで死に晒すのだ、その道理がわからぬから!」

 「人間如きが、つけあがるな!」

 男の体躯が膨れる。肉の風船と化して膨張し、天衝くばかりに化生する。瞬く間に仰ぎ見るほどの巨体と化した肉の塔、無数に張り付いた無感動の目が一挙に睥睨を投げつけた。

 およそ正気とは思えない怪異。常人ならば直視に堪えない醜さを湛えた巨躯が

 「我が名はフラウロス! 72柱が第64位、魔神フラウロスだ! 貴様らごとき凡百の二流に、王の寵愛たるこの私が、負けることなどあるはずがない!」

 「光子翼展開(アルテライト・リリース)―――あげていくぞ、トウマ!」

 「おわっ!?」

 肉の塔から無数の触腕が噴き出す。四方八方より迫る肉の槍に貫かれれば一溜りもあるまい。しかもその物量。サーヴァントの数騎ですら容易く屠る槍が襲い掛かる様はもはや牢獄ですらあった。

 だが、紅蓮の体躯はあまりに容易く脱獄する。翡翠の翅で翼撃を迸らせた彼女の速度は、音速など当に凌駕している。ソニックムーヴを引き連れたネロは群がる肉壁を容易く切り裂きながら包囲網を抜け出すや、立て続けに襲い掛かった触腕を悉く叩き伏せた。

 一見してネロが有利に見える。【皇帝特権】の為せる業か、あるいは軍神の加護によるものか。本来の彼女の性能を遥かに逸脱する剣技で捻じ伏せる様は、まさしく軍神と言うほかない。

 だが───ネロの脇に抱えられながら、トウマはその光景を明瞭に直視する。

 切断されたはずの触腕。無残に斬り殺されたはずの腕が、みるみる内に再生していく。無数に這い出す触手を斬り伏せる間に蘇生した腕が波状攻撃に加勢し、瞬く間に分厚い包囲陣を再形成した。

 「ええい、これならどうだ!」

 ぐん、と負荷が伸し掛かる。掬い上げる要領で肉の壁を斬り払い、穿った間隙に飛び込んだネロは返す刃を振り下ろし、巨大な肉柱を一刀のもとに両断した。

 乾坤一擲、古木にすら見える柱は、ただの一撃でかち割った。重力に轢かれて肉が崩壊したのも、しかし束の間に過ぎなかった。触腕と同じように瞬時に再生するなり、夥しいまでの肉槍がネロの背へと降り注いだ。

 「後ろ!」

 「むう───!」

 回避不能。判断から決断は秒未満、反転と同時の肢体可動でもって慣性運動を制御しきり、展開した光の翅がさながら繭のようにネロとトウマの身体を隠蔽した。

 無限にも続く滂沱の攻撃を翅で防御しきるネロの表情に、余裕らしい余裕は欠片とてない。神話礼装の破綻は遠くない。あと3分か、あるいはもって5分。そのうちに殺しきらねばならぬ彼女にとって、この1秒は絶望的な浪費だった。

 軋むような彼女の顔。回転する逡巡、すり減る想い。なんとかしなければ、という倫理的義務感は焼け付くようで───だからこそトウマは、咽頭を硬直させた。

 そうだ、あの男はなんて言っていた。弱くていい、と言っていた。弱くていい───だがその、代わりに。

 「トウマ!」ネロの声が、強かに耳朶を打った。「余があと1分稼ぐ間に、あのクソ忌々しい馬鹿をぶち殺す手法を見いだせ!」

 「───言われなくても!」

 「良き返事だ! 余の主ならばその程度のこと、やってみせろトウマ!」

───弱点らしい弱点はなかった。無数に湧き出す攻撃手。攻撃しても瞬く間に再生する肉体は、無限の蘇生能力を持つかのように錯覚する。

 だが、無限には理屈がある。たとえばプラナリアがそうであるように、切断を続けていけば、いつか必ず終わりがくるように。この世に存在するもの、形あるものは、いつか必ず終焉を迎えるのが道理であり、礼儀なのだ。

 跳躍するネロ。追いすがる触腕を鞭で悉く斬り払い、足に組み付く腐肉を焼きつくす。再度の猪突で以て、あの巨大な肉茎を2度、3度と軍神の剣で両断していく。だが結果は変わらない。叩き切られ、ねじ切られ、絞殺されるたびに蘇生を繰り返す様は、無限が、まさしく存在しているかのような錯覚を覚えさせる。

 だが。

 遅い、と思った。自身の直感を裏打ちするため、即座にBDUに装備された記録媒体を視野に別枠で投影する。あの巨大な柱が叩き切られてから蘇生するまでの時間。最初に比べて、若干だが遅くなっている───。

 「む、ようやっと倒し方に見当がついたか!?」

 何も言ってすらいないのに、ネロは凄絶なまでに晴れやかな一瞥を寄越した。阿吽の呼吸の如く、ほんの少しのトウマの心情の機微を察知したのだ。

 「た、多分!」

 「それでこそ我が(マスター)(サーヴァント)になった甲斐があるというもの! それでどうする、簡潔に伝えよ。ちょっと今あんまり考え事ができる状況にない!」

「結論から言うと、あの本体っぽいデカいのをひたすらにぶっ倒し続けるんだ! 再生するのにも限りがあるんだと思う。あと多分、再生速度以上の速度で殲滅すれば───おわっ!?」

 そこからは、声にならなかった。さらにトップギアに入った速度の負荷が凄まじく、フィールド制御される中にあってすら喋ることすらままならなかった。

 彼女の一瞥が、トウマの瞳に落ちる。軋むような満面の破顔は如何にも気に入ったと言わんばかりだ。

 「愉快な作戦だが気に入ったぞ! あ奴は何度ぶっ倒してもぶっ倒しても、私の怒りは収まらぬからな!」

 立て続けに迫りくる触腕を花散る天幕の如き一閃で纏めて叩き切り、ネロは気勢のままに翅を押し広げて揚力を引き上げ、追いすがる攻撃を全く寄せ付けない速度で天へと昇った。

 「ちょっと無理するぞ、トウマ!」

 光の翼を折りたたむ。一挙に揚力を喪失したネロの躯体は重力のままに墜落を開始し、彗星のように肉の柱へと突撃する。【魔力放出】に加え位置エネルギーから転換した運動エネルギー、あまつさえ重力すら味方に引き入れた降下強襲(パワーダイブ)の速度は、あの肉柱の反応速度などとうに置き去りにしていた。

「【皇帝特権】―――降霊(インストール)!」

 一瞬でクロスレンジまで侵襲したネロは剣を構え、

 「『射殺す百頭・羅馬式(ナインライヴス・ローマ)』!」 

 一刀両断。薪割りの要領で肉柱を切り裂く凄絶さは変わらず、だがこの一撃こそは打撃の開始だった。

 迫りくる触腕は百にも及ぶ。壁にすら見える肉の槍は絶殺の布陣。だがネロの繰り出す迎撃は、その迫りくる死など置き去りにするほどの神速(ハイスピード)の乱打だった。烈光の剣戟は夜空に綺羅と迸るほど。触腕などついでと言わんばかりの鏖殺の連撃が両断された肉柱をさらに解体し尽すや、ネロのしなやかな体躯は、小さく吹いた夜風を翼で捉えて一挙に天へと舞い上がる。眼下で蠢動する肉片への閲を落としたネロは虹の剣を構えた。

 肉塊は無為に蠢いている。反撃する手立てすらなく、必死に生き永らえようとしている。だがそんなことなどさせはしない。アレはこの世にあってはいけない類の災害なのだから。躊躇など一辺たりともない。容赦などあるはずがない。

 「我が聖名、マルスの銘において解放する───行くぞ、アルテラ!」

 小さな頷き。きっとあったはずの返答に口角を緩めたネロは、構えた剣を、突き出した。

 綺羅、と星のように瞬く、その宝具の銘を───

 「『軍神の剣(フォトン・レイ)』!」

 

 ※

 

 「終わったな」

 声が、耳朶を打つ。

 小さく身動ぎした少女は、隣に佇立する影を振り仰いだ。

 裁断機でくしゃくしゃになった紙のような白い髪に、痩せた椚のような肌の少女。白い髪を一つ結びにした少女は、困ったように眉を寄せて見せた。

 「マルスの疑似サーヴァント、か。よもや神霊と見えるとは思わなんだ」

 「何言ってるのさ。貴女だってそうじゃない」

 小さく、影が揺らめく。彼女らしい秘めやかな微笑が、きっと昏い洞の奥に潜んでいるはずだ。

 「このままでは、フラウロスは此処で死ぬぞ。なんなら私が今救い出して見せようか。アレが如き魔神、古きルーンで如何様にもできようて」

 「いや、いいよ。別にフラウロスに拘るわけじゃあないし。どうせだったら、試金石にでもした方が良い」

 「いやはや。強欲な娘だ。そうして我が世も踏破していったわけだ」

 肩を竦めて見せる。言ってから、うむ、と身動ぎした(キャスター)は、小さな杖を手先で弄んだ。

 「言葉が過ぎたな。赦せ、何分”ゆーもあ”、という奴を私は知らぬ」

 「いえいえ。事実ですし───じゃあ、行こうか」

 立ち上がる、少女。ぱたぱたとプリーツスカートについた草を払ったところで、彼女はその姿へときょとんとした目を向けた。

 「どうしたの、セイバー」

 彼女は、もう一つの影へと声をかけた。

 セイバー、と呼ばれた影が身動ぎする。丘の下で繰り広げられていた戦闘を熱心に見やっていた影のセイバーは、小さく身体を揺らした。

 影の洞の奥底で、金の双眸が灯る。困惑のようなそれは、自らの主に意見具申すること───しかも実にならない提案への、小さな申し訳なさのようだった。

 「いいよ。貴女がわがままを言うなんて、珍しいからびっくりしただけ」

 「うむ、確かに。貴様はもう少し気ままに振る舞うのも良かろう」

 影が、身動ぎする。一礼だけすると、セイバーと呼ばれた幻影が突風とともに跳躍した。

 

 

 「うーん、怒らせちゃったかな」

 白い幻影は、むー、と口を尖らせると、すっかり冷めたポップコーンを口に頬張った。

 既に、男の姿はない。途中から見学を辞めた男がどこへ行くのか、特段詮索もしなかった。また知ろうと思えばその千里眼で見通すこともできたが、そうすることもしなかった。興味がないわけではない───というかめちゃ気になるけど、それはそれ。全部が詳らかになった世界なんて、きっとつまらないだろう。

 どっこいしょ、と声を漏らした幻影は大きく伸びをする。良いものが見れたなぁ、と全く以てろくでもない感想を漏らすと、莞爾としながら跳びかけ───。

 ふと、足を止めた。

 男が居た場所。その後に、何かがあった。身を屈めて眺めてみれば、それは───。

 青白い、死蝋?

 ちょっとだけ、顔を顰めた。フードの奥に手を伸ばして髪をかき回すと、一度、溜息を吐いた。

 「キング君のことも呼ばないとかなぁ、これ。私は休暇のつもりだったんだけど」

 影が身を翻す。崩れ行く特異点の中、無邪気ですらある歩様で別世界へと顕現しかけたたが、ふと、背後を、世界を、眺望した。

 だが、それも一瞬。ふふん、とおはぎみたいなふっくらした笑みを浮かべると、夢のように霧散した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

星陰

 ネロの目を覚ましたのは、ふと頬に伝った冷たさだった。

 あれ、と思った彼女の目に飛び込む光景。顔をくしゃくしゃにしながら自分をゆすぶる姿。麻痺した脳みそをなんとか駆使したネロは、もそもそと上体を起こした。

 「何を泣いている奏者よ。そなたは───む」

 首を、傾げる。口から滑り出した声の違和感に眉を寄せたネロは、「トウマ、か」とぼんやりしたままに言い直した。

 「だっていきなり気絶するから死んじゃったのかと」

 「む、それはすまぬ。余も気が抜けたというか、なんというか」

 覚えず顔を赤くしたネロは、気恥ずかしそうに肩を小さくした。

 ───もちろん、覚えている。アルテラが啓いた火神への道筋。軍神の剣を触媒とし、自らの才と情熱を燃料にしての、戦神(マルス)の降臨。その後はマルスと意識が混濁していたけれど、あの時の熱は、よく覚えている。

 「マルスめ。戦だなんだというのは気に入らぬと思っていたが───ちゃんと、敬わんとな」

 何せ、戦の力こそは、きっと、あの子の───。

 首を降る。考えるべきことではない、とネロは淡く口元を緩める。髪をかきあげたネロは、草原に座ったまま、空を振り仰いだ。綺羅星を敷き詰めた、満天の空を。

 翡翠の目に浮かぶ、名前の無い黒檀の穹窿(ほしぞら)。見上げたネロの眼差す先には、彼女だけの夢の座標(星座)が確かに署名されていた。

 「もう、帰るのだな」

 「うん」

 「そうか、残念だ。いやなんというかだな、余はそなたのことがやはりちょっと好きなようだからな。本当にハレムに連なるのもまぁ悪くないなどと思ったりはしたのだが」

 「流石に身に余りますし───というかあの、ほんと誤解というか。僕はその、別に一夫多妻制の支持者ではないんですけど」

 「そんなことはないぞ、見込みはある。そなたであれば、あるいは余の奏者に───」

 詮の無い思索、軽薄ですらある言葉。重さの無いエクリチュールは夢のように空想へと羽搏いて───。

 

 

 男はその時、おそらく初めてその感情を味わっていた。

 臓腑の底から痙攣し、悪寒が全身を縛り上げる感覚。酩酊にも似たそれは、およそ全く以て人間的な情動。

 曰く。それは、原初的な恐怖だった。

 こんなことがあって良いはずがない。たかが英霊如きが、御柱を退けるなどということがあっていいはずが、ない。

 時間神殿から離れて久しいからだ。そうに、違いない。壊死が始まっていたのだ。さもなくば、この私が人間の姿で這いつくばることなど、在り得ない。

 「この私が、二流の人間などに」

 還らねば。なんとか人間の身体までは復元できたが、却ってそれが今は有利に働いている。なまじ強大な力を持てば、たちまちカルデアの索敵網に引っかかっていただろう。これは幸運。この隙に戻れという、天の意思なのだ。

時の神殿に、行かねば、王の元へ戻り、早く肉体を治癒し、そうして今度こそは、あの凡百の愚図どもとを略殺せねば。

 「術式、展開。座標、時間神殿。転移、開───」

 ずぷ。

 何かが背に刺さった。

 小さな、短刀(ナイフ)。刃渡りにして20cm弱ほどの何の変哲もないナイフが背を貫き───。

 「『神秘轢断(ファンタズム・パニッシュメント)』」

 ケ゜ァ゛ッ。

 「終わり(ゲームオーバー)よ、ド三流」

 「格の違いって奴、わかってもらえたかな?」

 脇腹に、つま先がめり込む。もはや肉袋と化した男は最早何も思考すらできず、ただ転がされるままに天を仰いだ。

 2対の双眸。酸化銅膜のような目と並んだ赤い目が、呵責など一切ない睥睨を落としていた。

 その時ほど、畏怖を惹起させたことはない。畏怖されることこそあれ、よもや自らがそんな情動を抱くことなどありはしなかった。未知なる感情に痙攣した男は、もし口が聞けていたら許しを請うことすらしたであろう。それだけ、この状況は奇異だったのだ。先ほどまで確かにつながっていた感覚が、ぶつりと途切れている。世界から断絶した、浮浪の孤児になってしまったような、感覚。

 「さて、それじゃあ、これからの話をしよう」

 ずい、とプラチナブロンドの髪の女が顔を覗かせる。小さく悲鳴を上げた男を見下ろす赤い目は、煉獄の奥のゲヘナの火を思わせる。

 「喋れるんだろう? そのくらいのことはわかっている。君が……いや、君たちが何者なのか。早く応えてくれないか」

 無言。

 無言……。

 無───。

 ずぶ、と何かが腹を裂いた。ぎゃあ、と悲鳴を上げたレフに対し、もう一方のシルバーブロンドの髪の少女が、煉獄で生成された剣のような目を落とす。既に肩で呼吸しているし、何よりも口元には血を拭った後がある。佇まいすらふらついているというのに、却ってその威容は死神のようだった。

 彼女が手に持つ武器。禍つ鎌の如き武装は、間違いなく宝具だ。しかもそれは、男にとっての天敵。屈折延命現象により不死を殺すことに特化した、まさしく不死殺しの鎌。

 「いい、アナタには思想の自由もないし、言論の自由も無いのよ。勘違いしないで、これはもう、質問じゃあなくて、拷問に代わってるんだから」

 ずぶり。

 さらに、切り刻む肉体。両腕が千切れた男は、ただただ声帯を痙攣させることしかできなかった。

 「さぁ、早く吐きなさいよ!」 

 ゆら、と持ち上がった鎌が……。

 

 ※

 

 「クロエ!」

 ───その時、いち早く反応できたのはクロではなく、スペックとしては凡人並の身体機能しかもたないライネスだった。 

 「このっ!」

 一瞬で差し込む気勢。それより一手早く、クロを突き飛ばしたライネスは、同時に魔力弾を撃ち込む。術式を伴わないそれは、ライネスという人物がおよそ有する数少ない攻撃手段だった。エルメロイ家の次期当主を担った尊厳としては全く貧相で情けない攻撃だったが、それでも彼女の数少ない攻撃手段には違いない。

 ライネスという人物なりの、最大限の攻撃。貧相でこそあれ、サーヴァントとして顕現する彼女のそれは、音速に匹敵する速度を持つ。威力にしても、対物狙撃銃(アンチマテリアルライフル)程度の火力はあっただろう。一時行動不能に追いやる程度はある、というライネスの思惑はどちらかと言えば希望的観測だったが、空色の目に映ったのは───。

 黑い、洞だった。

 一刀、脇構えから放たれる突風。ライネスの放った魔力弾などあっさりと叩き切った黒い影は、刹那すらなく少女の懐に飛び込む。

 無論、ライネスは反応などできるはずもなかった。脇構えから掬い上げた剣戟の返す刃、上段より振り下ろされた朔風は、一瞬でライネスの意識を切り裂いた。

 朽木が斃れるように、少女の矮躯が崩れ落ちる。地に臥したライネスへと追撃を撃ち込みかけた黒い影は、だが横薙ぎの一閃を虚空へと放った。

 同時、剣閃に矢が重なる。計4発の矢を一太刀で斬り払った影は、直後に赤い猪突を知覚した。

 突き出される朱の刺突。背後に飛び退きながら穂先を弾いた影の機動こそは、クロの狙いそのものだった。

 「宝具!」

 構えた槍の真名を解き放つ。クロの外套、赤い聖骸布よりもなお深い紅の槍。ケルトの英雄クー・フーリンが使いし槍こそは呪槍ゲイ・ボルグ。放てば必ず心臓を貫く因果逆転の槍が、影の心臓を捕捉する。

「『刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルグ)』―――!」

 地を這う軌道。猛犬のように奔る赤い呪槍は、瞬間在り得ざる軌道へとねじ曲がった。ほぼ直角に救いあがる湾曲。飛び掛かる猟犬さながらに心臓へと食らいついた槍は、過たずに影を穿つはずだった。

 影は変わらず、無手のままだった。何らかの宝具を使う気配すらなく、ただその刺突を受け入れた、かのように見えた。

 だが、それも一瞬。クロの目ですら補足しきれない速度で構えをとった影が執った行動は、あまりに単純だった。

 構えは上段に近い。迅速にも関わらず緩慢にも見える動作は、見惚れるほどだっただろう。息を飲むほどの動作の後、影はただ、無手のままに何かを振り下ろした。

 ただ、それだけ。因果逆転の魔槍に対抗すべく繰り出した手は、あまりに質朴だった。振り上げた何かを今度は振り下ろす、という動作の直後、あまりに当然のように、ゲイ・ボルグが真っ二つに両断された。

 驚愕の、暇すらない。あまりの膂力に崩れた体勢は無防備で、連撃の気勢の踏み込みは、直後の斬撃を予感させるにあまりある。

 あ、と思うと同時。さらにクロスレンジへと、蒼褪めた影が踏み込んだ。

 「キャスター!?」

 鋭鈍な衝撃が、胸を抉った。

 肺の空気が一挙に略取される感覚。草原に激突したクロの寸詰まりの思考の中、その、影を視た。

 堕ちた宵の下、微風に擦れる草原の中。

 対峙しただけで迸る、赤黒い怖気。

 其は、2騎の、サーヴァント。闇夜よりも黝い幽鬼の如き影が、揺れていた。

 「そなたの言う通りか。ただ蹴りをいれただけなのだが」

 影の1人が、身動ぎする。教鞭にも似た短杖を宙に彷徨わせた幽鬼の声は、場違いなほどの驕慢な呑気さだった。

 「筋系まで魔術回路に欺瞞すればこうもなるか。無謀と紙一重の蛮勇よ」

 げほ、と咳き込む。臓腑のどこかから噴き出した血を飲み込む余裕すらなく、嗚咽のように吐き出した彼女は、ただただその2騎を、見上げているしかなかった。

 「魔術回路の欺瞞運用はほどほどにしなさい。仮性に過ぎない幼体の貴女では、まだ異界常識に耐えられない」

 影の1人。不可視の武装を担う影が、声を漏らした。暗い洞を思わせるフードの奥で、黄金の双眸が灯る。ふつふつと湧き出る泉を思わせる、清廉さを感じさせる声。存在の奥底に凝る、月影のような声だった。

 何故、という疑念。ぎちりと睨みつけるクロの視線───殺意すら含んだ気勢をうけてなお、黒い幽鬼は動じない。

 「もっと、マスター君を頼ってあげなさい。不幸なアトラスの真似事は、女の子らしくないでしょう?」

 洞の奥、金の目が揺れる。見透かすような目は冷徹さよりも宗教的な悟りにも似た温和さが、あった。

 虚を突く柔和さが、最後だった。気絶するように意識を断絶させると、直後、クロエはこの特異点から消失した。

 やれやれ、とキャスターが肩を竦める。じとりと見やるその視線に、セイバー、と呼ばれた影はさしたる感動もなく、地面に転がる遺骸を担いだ。

 「屈折延命とはな。これでは、大神のルーンでもどうしようもないぞ」

 「ないよりはマシでしょう。何事もチャレンジあるのみです」

 「そなた、結構健気よな。いやだって、抑止力からの排除が働いているんだろう……まぁいい。さて、どれにしようかなっと」

 気だるげに言いながら、キャスターが宙に杖を彷徨わせる。滑らかにルーン文字を描いた。

 影の背後、何かが口を開ける。薄暗く開いた門に吸い込まれた2騎は、跡形もなく、消尽した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

星は振れ、(ソラ)へ堕つ(終)

これにて第二章、終幕にございます。


 数日後

 人理保障機関フィニス・カルデア管制室にて

 

 「第二特異点も修復完了、か」

 コンソールを叩きながら、ロマニ・アーキマンは小さく呟いた。

 特異点の修復、という吉事の熱はない。どこかの誰かみたいに一つ結びの髪をかき回したロマニは、ぎしりと背もたれに実を預けた。

 「お疲れ様でした」

 「うんお疲れ、ゆっくり休んでね」

 休憩に入るスタッフを見送る男の脳裏には、全く別なものが廻っていた。

 あの時、スタッフ総出でサポートに駆り出していながらも、音声だけはきちんと拾っていた。

 「フラウロス」

 薄い、瞑目。手袋をとったロマニは、指輪の挟まった手を、天井に翳した。

 あの時見た景色が、指輪に重なる。

 あの時。聖杯戦争の終極、眼を喪う最後に目撃したあの光景。燃え尽きる世界の果て。誰かが、こちらを見返したような、あの景色───。

 「やあ、随分暇そうじゃあないか」

 聞きしった声が、頭を小突いた。お、と身体を起こしたロマニは、「まぁほどほどにね」と応えた。

 隣のオペレーター席に座った外見上美的な人物───レオナルド・ダ・ヴィンチは、いつものように朗らかな顔をしていた。

 「レフのことかい?」

 「彼を倒したら終わりになったらいいなぁ、とか思ってたんだけどねぇ。」

 「あと5個か、特異点。あれかな、レフは四天王でも最弱……なんて話になるんだろう?」

 「いや数あわなくない?」

 「七二天王」

 「多すぎるし、絶対何人かキャラ被りしてる」

 てへ、と舌を出すレオナルド。肩を竦めたロマニはすっかり冷えたコーヒーを飲むと、先の長さと、亡くした視界に残留する不気味さに、喉を鳴らした。

 「そういえば、また出たのかい」

 「うん? あぁ、さっき君の研究室に届けたよ。今度はセイバーのカードだった。なんなんだろうね、特異点修復の度に召喚室に落ちてるカードは───っと、あともう一人」

 「やほ」

 「うわ!?」

 ひょこ、と唐突に差し込む影。仰け反りすぎて転倒しかけた瞬間、ひやりとした感触がロマニの身体を抱擁した。

 砂金を解きほぐしたかのような髪。ビスクドールみたいな白い肌、空色の目。おとなしくしていれば誰しも目を惹くであろう少女の姿は、間違いなく───。

 「サーヴァント。司馬懿。呼ばれてないけどきてやったよ」

 まぁ、今はライネスだけど。

 そう付け加えた金の髪の少女は、端正な顔をいたずらっぽいサキュ顔に紙縒った。

 おそるおそる、背後を振り返る。自分を抱きかかえる水銀を見、ロマニはただただ目を白黒させた。

 「え、いやだって聖召石のストックはもう」

 「義兄様(おにいさま)に頼まれてね。乗り掛かった舟だから助けてやれ、とのことだよ。世話焼きは相変わらずだ」

 よろよろと姿勢を直されたロマニはレオナルドとライネスを見比べて。やっぱり、ただただ途方に暮れていた。

「これからよろしく、オルガマリーの後釜さん?」

 

 

 その日、マシュ・キリエライトは急いでいた。

 普段施設の廊下を走ることなんてないのだけれど、その日だけは走っていた。途中、医務室の前でトウマとぶつかって、互いに最近のトレーニングメニューについて話をしたりしながら、一路向かうのは食堂である。

 息も切らさず食堂に飛び込んだマシュは、すぐに見つけた。

 食堂の一室、端っこに(たむろ)する一団。ギャーギャーと喚き声を上げる3人の内、赤銅色の髪の1人が手を上げた。

 「おーいマシュ、こっちこっち」

 そんなにデカい声を出さなくても、もちろんわかっている。それでもその声───先輩の顔にきゅっと身体を竦めたマシュは、はい、と応えた。

 「正直紅茶の何がおいしいわけよ。コーヒーの方がマシじゃあない?」

 「コーヒーなんて泥水だろうに。それをわかるんだよ」

 立て続けに罵詈雑言をぶつけ合う他2人。犬猿のように見えて2人は楽しくて互いを罵倒していることは、既に周知のことだった。 

 「エナドリ最強なんだよなあ」

 「死ねバカ」

 「味覚雑魚に発言権なんてないわよ」

 「ヒドイヨ」

 挨拶とでも言うように飛び交う罵倒。

 いそいそと椅子の一つに座ったマシュが思い浮かべたのは、果たして誰だっただろう。開いた手に視線を落としたマシュは、静かにテーブルの上の菓子を自分の元に引き寄せた。

 ちらと、横目でリツカを見る。おぉんおぉんと泣き真似をしていたリツカはマシュの視線に気が付くと、奇怪な声をあげてマシュの懐に飛び込んだ。

 「2人が私を苛めるよゥ」

 胸に顔を埋めてくる赤銅色の髪の先輩。相変わらず熾烈な言語的闘争を嗜む2人をなんとなく意識しながら、マシュは、遠慮がちに、思いのほか小さな身体の先輩を抱き返した。

 視界に擦過する、あの時の顔。傷のように血を浴びた顔に、マシュは、指先が震えるのを感じた。

 「先輩、私」

 ほ、と上目遣いで顔を上げてくる先輩。きょとんとしたアホ面に言いかけた言葉に口唇を強張らせたマシュは、むに、と一度自分の頬をつねった。

 「わ、私は緑茶も良いと思います!」

 「おーっとここで新勢力の登場だァ!」

 「砂糖とミルク山盛り緑茶、結構いいわよね。魔法少女アニメでやってた」

 「いや君も味覚雑魚じゃねーか! え、ホント? ウソだよね? ねぇ?」

 まだ、ちょっとよく、わからないけれど。

 でも、こんな時間も、いいなぁ、なんて───。

 

 

 ……第二特異点セプテム

 決戦の地、にて

 

───修復されゆく特異点。草原のただなかに、赤い剣が屹立する。

 異界より来る、隕鉄の剣。星の大海より降臨した階。その柄に、男の手が触れる。

 浅黒い肌の男は異星の剣を手にかける。そのまま草原より剣を引き抜くと、泥濘の眼差しを闇黒のソラへと向けた。




神話礼装ネロが出したくて2章書きました。
誤字脱字の報告や感想等ございましたら、お気兼ねなくお申しつけください。

既に三章は執筆済みですので、しばし時間を置いてからまた投稿していきたいと思います。
それでは、第二章ご愛読いただきまして、改めてありがとうございました。
第三章『大洋群雄頌歌オケアノス-恋煩いの流星矢(アルテミス・アーチ)-』、乞うご期待くださいませ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3章 大洋群雄頌歌オケアノス~恋煩いの流星矢(アルテミス・アーチ)
重く静かに、夢のような


しばらく時間を置くと申しました。

嘘でした。
折角なので、仕事はじめまでちまちま投稿しようかと思います。


 私は、あの日のことを絶対に忘れないだろう。

 煌めく朝焼け、黄金の陽を照り返す、穏やかな海原。凪ぎを孕んだ蒼いわだつみの上、振り返る姿が目に焼き付く。

晴れがましい顔は少年のよう。それでいて、長い刻を経た壮年は胸を締め付けるようですらあった。

 私は、あの日のことを、絶対に忘れないだろう。

 たとえこの世界の全てが、夢のように消滅してしまったとしても。

 貴方の姿を信じて、私は、きっと時間すら超えていく───。

 

 ※

 

 「あら、いつの間に」

 ひょい、と体躯が持ち上がる。

 薄暗く揺らぐ視界の中、きゅう、と鳴いたフォウは自分を抱き上げる、ぱっとしない黒髪の少年を見下ろした。

 立華藤丸(たちばなとうま)。年齢16だという少年は、特段見目が良くも悪くもない顔立ちをしている。ゆるふわにまとめた黒い短髪は、せめて今風にしようとした、なけなしのファッションセンスであろうか。それとも寝ぐせか判断はつきかねるが、温和さを感じさせる下がり気味の眉尻と緩く結んだ口唇とそのなけなしのファッションセンスの不調和は、却ってこの少年の在り方を思わせた。

 「あれ、鍵閉まってたよなぁ?」

 独語のように呟いたトウマは、フォウを抱えたまま個室の入り口の方を見やる。さりとて特段確認するでもなくフォウを地面に下ろすと、トウマは再び元の態勢に───個室に備え付けのデスクに着いた。

 「ミ?」

 「んー、まぁ勉強、みたいな」

 デスクに向かうトウマが、ちらとフォウを見下ろしてくる。薄暗がりの中、ぽかりと開いたデスクライトに照らされたトウマの顔は、何故か、泣いているように見えた。

だが、気のせいだ。ふわ、とあくびと同時に涙が漏れただけらしい。照れのように後ろ髪をかき回したトウマは、「気休めだけど」とデスクに向き直る。

 「俺、あんま役に立ってないからさ」ぐるり、とトウマは周囲を見回した。「個室とかもらって、良い暮らしさせてもらってるのに」

 「フォウ?」

 「いやさ、異世界転生って普通さ、原作知識とか駆使してチートなことするもんじゃん」

 噛みしめる、沈黙。そこから先は何も言わなかったが、続く言葉は自明だった。フォウフォウ、と応えた小動物の頭を撫でつけた少年の顔は、暗がりでよくわからなかった。

 「まぁヘラクレスとかランスロット相手は、うまく行ったけど。でもクロが頑張ってくれただけだから。ローマの時だって、最後はネロが凄かっただけだよ」

 「フォウフォウ」

 「あのおっさんの言う通り、俺は女の子の後ろでイキってるクソガキだよ」鬱々と、思い出すようにトウマは口にした。「弱くてもいい、って言われてもなぁ」

 どさり、と背もたれに身体を預ける。天を仰ぐ。ひょこん、と膝の上に乗り、続いてデスクの上に飛び乗ったフォウは、ごちゃごちゃと広がるデスクの上を流し見る。

 デスクトップ型のPCとタブレット、それと実物の本。本自体はカルデアのレクリエーションルームの時代小説だ。

 目元を強めに擦りつけるトウマは、まぁまぁ眠たげだ。煌々とライトに照らされた顔は、しわくちゃのアルミホイルみたいにやつれていた。

 「フォウ」

 「いや、いいよ。そろそろやめようかと思ってたし」

 「フォウフォーウ」

 「いやだから……ってそっちはダメ」

 デスクから勢いよく跳躍しようとしたフォウが宙を舞ったのは実に一瞬。がし、と背中から掴まれたフォウは「フィー!」と悲鳴を上げた。

 むんずと抱きかかえられたフォウは、不満そうに眼下を見やった。

 ベッドにちょこなん、と横たわる人影。すうすうと寝息を立てるハト麦色の肌の少女は、カルデアの施設内、しかも居住区画だというのに戦闘時の霊衣を展開していた。

 「疲れてるからさ」

 「ミー」

 不満げに、フォウは身動ぎした。トウマの手から脱出すると、しぶしぶといったように「ビィ」と鳴いた。

 フォウとて、物事の道理はわかっている。霊衣展開時の魔力消費は左程とは言えないにしても、それでも無駄な消費であることに変わりはない。特に戦闘にシビアな経済観念を持つクロは、そういった雑味は好まない。

つまり、そういうことだ。そんな気が回らないほどに疲労して寝落ちするほどに、クロは疲弊している、ということだった。

 「マシュのためなんだって」

 「フォー?」

 「いや俺もよくわかんないんだけど」

 「フォウ……」

 「まぁでもマシュの新しい戦い方、イリヤっぽいからかな」

 言って、トウマはゆっくり立ち上がった。うーん、と伸びをしたトウマは布団を綺麗に直すと、漠と佇立した。

 思案げな後ろ姿。身長133cmの女の子を見下ろす身長176cmの少年の背は、酷く、小さく見えた。

 

 ※

 

 クロエ・フォン・アインツベルンが目を覚ました最初の感想は、ともかく疲労が酷いなということだった。

 「んにー……」

 目元をごしごし。ふわ、とあくびも一つ。延びも一つすると、ぽけーっと部屋を見回す。

 薄暗い部屋。デスクの上でぽかりと開く灯は小さく、部屋全体を照らすには及ばない。さしてまぶしくもない灯を漠と眺めたクロは、ベッドに横たわるもう一人を見下ろした。

すやすや。健やかな寝息を立てる、黒髪の少年。マスター、立華藤丸は側臥の姿勢で静かに寝息を吐いている。

 ライトの逆光になっているせいもあって、影になった少年の顔はよく見えない。手を伸ばして軽く顔に触れると、微かに身動ぎしただけだった。

 彼女にとって、これはただの日課。マスターとサーヴァント同士の身体的接触は、サーヴァントの身体状況を整える役目を持つ。わかりやすく言えば、自律神経を整えるような。そんな意味合いだ。必要というよりプラスアルファ的な行為ではあるが、さして手間もかからずコンディションを整えられるならやるに越したことはない。

───無論、それ以上でも以下でもある他意は多分にあるのだけれども。

 黒い髪に、触れてみる。手櫛をしてもがさつかない手触りは、案外手入れがされている。まだ垢抜けない顔立ちは、童顔であることも相まって、酷く幼く感じる。

 クロは、その顔立ちに、何故か胸をざわつかせた。黒い髪を指先で弄りながら、甘く締め付ける不定の情動に口を強く結ぶ。

 嘆息が、漏れる。きゅっと結んだ下唇を上歯で噛みしめた彼女は、あの時のエクリチュールを反芻した。

 不幸なアトラスのふりは───。

 ロゴスが舌先を上滑る。名状しなかったはずの情動が、クロエという存在者の存在、最果ての淵源から顔を覗かせている。

 指先が、顔を滑る。眉間を擽り鼻先を掠めた細い指は、そうして薄い唇に軽く触れた。

 渇いた唇。そうして柔らかなトウマの唇を爪先でなぞった彼女は、静かに、身体を横たえた。

 両腕を、延ばす。小さなマスターの頭を自分の裡に抱いた彼女は、また、非自我という名の深淵(ピュプノス)に誘われて、堕ちていく。出典不明の情動の坩堝、現存在の存在の尖端へと。

 

 

 「マシュってさぁ、結構マッチョだよな」

 見つめ返してくる黒い眼差し。眠たげにハムとチーズのホットサンドを頬張る藤丸立華(フジマルリツカ)は、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテの言葉にただただ頷きを返した。

 紅茶を一口。保存用の嗜好品でお供もやはり携帯用の菓子でしかないが、それでもないよりは十分マシだ。はむ、とフルーツサンドを頬張ったライネスは、気品のあるかんばせを優雅に綻ばせた。

 「クロエと模擬戦した後、普通にトレーニングしてた気がするんだけど」

 「やる気があるのはいいことだね」

 むしゃむしゃとホットサンドを蝕むリツカ。どろどろに溶けたチーズが皿の上に水溜まりを作っているのもお構いなく、エナジードリンクに口をつける。特に疲労があるわけでもないのにそれを飲料する悪癖は相変わらずで、ライネスは若干閉口していた。ずるずる音を立てて飲み下す様のはっきり言って品はない。品などどこかに捨ててきたかのようである。

 「他人事みたいに言う」

 「他人事でしょ、実際」

 リツカは特別頓着も無く、さらりとそんなことを言う。突き放した風にも聞こえる彼女の物言いは、とはいえ善く内心を現しているのだろう。情愛のある放任というのは、多分こういうことを言う。なんとなく義理の兄の顔を思い浮かべたライネスは、まぁね、と小さく肩を竦めた。

 リツカの人物像は、魑魅魍魎渦巻く魔術協会の総本山、時計塔の荒波を乗りこなしたライネスをして、あんまりよくわからない。のほほん、とした風采の通りにのほほんとしているけれど、あれは仮面に過ぎない。いや、仮面(ペルソナ)というよりは人格(ペルソナ)。別にそののんびりしたありかたが偽というわけでもなく、あれもまた偽りない本性なのだろう。だが、たとえのんびり屋な性格が本性だったとして。それだけで彼女の本性全てが組みつくせるわけでも、やはりない。のんびりした人格に、表裏一体のように棲みつくもう一つの顔。天才的な知性と決断力、判断力を有した顔もやはり、藤丸立華という人間に統覚されるペルソナの一つである。

 どうしてそんな才覚を有しているのか。にもかかわらず、何故こうも自堕落なのか。ホットサンドを口の中に詰め込む姿は、食い意地をはった幼児にしか見えないのだが……。セプテムからやってきたライネスには、彼女の戦う姿を思い出さずにはいられない。

 「いやこれ旨い。もう一個食べて良いかな……でもな」

 「頼んでみたら。ニナちゃんなら大丈夫だろうさ」

 「すんませーんこれも一個くださーい!」

 食堂でデカい声を出すリツカ。厨房から返ってくる補給科の返答にニコニコしながら身体をゆらゆら揺らす姿は、やっぱ子供じみている。

 欲望に素直な人物である。ある意味で魔術師らしいと言えば魔術師らしいようにも思えるが、どちらかと言えば魔術使いの類だろう。ライネス自身はそういった輩に特段偏見はないが、やはり珍しいと言えば珍しい。

───そう言えば、彼女の来歴は時計塔の人物だった、とカルデアのライブラリにあった気がする。日本の新興魔術師の家系から全体基礎科(ミスティール)に編入、その後特に日の目も見ずに植物科(ユミナ)動物科(キメラ)考古学科(アステア)降霊科(ユリフィス)、法政科となんとなくたらい回しにされた結果、何故か伝承科(ブリシサン)に入らされて、最後に行きついたのが───。

 天体科(アニムスフィア)

 その流れから何となく政治的背景を推し量れるのは、やはりエルメロイ家の次期当主として当然の知略か。民主主義派から追い出された彼女を貴族主義派に引き入れたのは、間違いなくアニムスフィア。成績を見れば特段特筆したところのない彼女の本質───サーヴァントのマスターとしての適性を察知して引き込んだのだろう。

 彼女の学部たらい回しも、こうしてみると意味が見えてくる。酷暑環境下での少人数での長期戦闘行為、しかも相手は歴史的遺物となると───。

 ()()らしい、優れた見識だな、と思う。ライネスは脳裏に浮かぶ銀の髪の少女の姿に、奇怪な情動に囚われた。既にこの世界から去ってしまった彼女に対して、ライネスが言うべきことはない。ましてサーヴァントとして、司馬懿の依り代として時空すら超えて召喚された彼女には何も言う資格も、ない。いや、逆、なのだろうか。時空間すら乗り越えて自分が来てしまったことには、多分、何かがある。

 でも、それは些末な感傷に浸ることじゃあない。飲み終えた紅茶のカップ───公的機関に備え付けにしては品のいい白磁のティーカップを見下ろしたライネスは、ふふん、と小さく鼻を鳴らした。

 飾り気はない、質朴なデザイン。備品と言えば備品で通じるそれは、涙ぐましい努力を感じる。全く、と口元を緩めることにしたライネスは、運ばれてきたホットサンドに目をキラキラさせる赤銅色の髪の少女をまじまじと眺めた。

 「次はどんな特異点かなぁ」

 まるでピクニックにでも行くみたいな、能天気な口ぶり。エナジードリンク2本目を飲む彼女の目は、一切たりとも揺れていない。

 「リツカ」

 「ほえ?」

 「ちゃんと健康診断、受けるんだよ」

 「アッハイ」

 (おーい、みんないるかい? 次の特異点の座標、特定完了したから、管制室に来てくれないか)

 

 ※

 

 「やぁみんな、集まったね」

 管制室の一画。椅子に座ったままのロマニ・アーキマンの表情は、なんとなく気まずげだった。後頭部の髪をかき回しては苦い笑い顔を浮かべている。ちらちら視線を向ける先には、プラチナブロンドの髪をさらりと流した女性───ライネス・アーチゾルテ・エルメロイがそれはもうにこやかな顔をしていた。

 「改めての紹介だけども」

 「ゴー……いや、サーヴァントか。真名は司馬懿、クラスはライダー。よろしく頼むよ」

 小綺麗に顔に張り付いた笑顔のまま、スカートの裾とちょこんと摘まんで見せる。おー、と何故か感心したように拍手するマシュは、きらきらした目で見つめていた。

 かく言うトウマも、つんと澄ましたライネスの横顔を同じような目で眺めていた。理由ははっきりとわからない───トウマの知識量では不明だが、要するに彼女は特異点の聖杯によって召喚されたサーヴァントではなかったらしい。そうして彼女の魔眼を使って上手い事レイシフト紛いの行為でカルデアに来たんだとか。

 まぁ、トウマとしてはどうでもいいことではある。いや気になるけれども、それよりも新しい仲間が増えたことの心強さは、やっぱりある。しかも原作キャラ。前作主人公が続編主人公を助けにくる的な心強さがある。

 まぁ、ライネスというキャラクターの存在自体は知らなかったわけだけれども。

 「制服、善く似合ってるんじゃないかしら?」

 「まぁ、たまにはこういうのもいいかな」

 くるりとその場で回転してみせるライネス。ひらひらとひらめくプリーツのスカートを眺めるライネスの顔は、完全に満足はしていないようだ。はたはたとユニフォームの裾をはたくと、「まぁ、これで私もお仲間ってことかな」と呟いた。

 「でもあんまり期待しないでくれよ? 正直、身体スペックは並の人間と変わらないからな」

 「マジでか」

 「マジだ。なんならトリムマウも、今はマシュに預けているからな、魔術にはド素人のお兄さんにもろくに抵抗できないぞ。暴行事件が起きそうになったら全力でマシュかクロエに助けを呼ぶから、その時は頼むよ」

 「はい! マシュ・キリエライト、不埒な暴漢が現れたら全力で撃退します!」  

 ライネスは我がごとながら、素知らぬ顔で鼻を鳴らして見せる。何故か溌剌と応えたマシュは多分よく理解していないんだろう。他方、クロは珍しく表情の取捨選択ができなかったらしく、曖昧な顔を浮かべただけだった。

 ……なんというか。こういう時野郎1人というのは厳しいものがある、と思う。傍目から見れば羨ましい光景なのかもしれないが……とにかく距離感が難しい。

 今のタイミング、果たして下ネタで乗っかるべきだったのかどうなのか。気ごころ知れた高校の友達とかなら仮借なく何か言ってもいいのだけれど、この面々だと果たしていって良いものやら。側頭部の刈上げを手慰みになでながら、曖昧な顔で笑うリツカとなんともなしに視線を交わした。

 ギャルゲー主人公の気苦労が、幾ばくかわかり始めていたトウマである。

 「そもそも、司馬懿としての力は腕力じゃなくて頭脳なわけだし。単純に、現地にレイシフトできる人員が増えただけでもありがたいよ……おかげでモニターの作業も必要最低限で済むしね」

 目元を擦りながら、ロマニが言う。リツカと同じエナジードリンクを椅子のドリンクホルダーから引っ張り上げると、ちびりと一口含んだ。

 「さてと、それじゃあ本題に入ろうかな」

 ホルダーにアルミ缶を戻すと、ロマニはなんだか鈍い動作で身を翻すと、管制室の下段へと降りていく。

 階段状にデスクが並び、それぞれスタッフが作業する様はなんとなく大学の講義室を思わせる。オープンキャンパスでの光景をそれとなく思い出しながら、トウマはきょろきょろとロマニの背を追う。普段は管制室に立ち入ることは滅多にないが故、ここでの光景は新鮮だ。

 階段を降りれば、それはすぐ目の前だ。

 疑似地球環境モデル・カルデアス。支柱に戴く赤い矮星の如き惑星は、ぼんやりと明滅しながら暗い管制室を照らしている。かつては、これは地球と同じように青かったらしい。いや、そもそもカルデアの外の地球は、こんな風に赤く焼けていると言う方が正確か。どちらにせよ、あまり見ていて気持ちのいいものではないな、と思う。何せ、この赤い星に、彼女は今もって還元され続けているのだから。

と、小さな呟きのような声が耳朶を打つ。ライネスが嘆息を吐いたらしい、盗み見るように一瞥を向けると、さして関心があるでもないように、ぼんやりとこの赤い星を見上げていた。

 「結局、今のところは何もわからずじまいだ」

白衣のポケットに手を突っ込んだまま、ロマニは赤い星を見上げた。自分とさして身長が変わらない赤毛の大人の背に何を感じて良いのか、トウマにはまだよくわからない。

 「レフは倒したし、ネロ帝からも第二の聖杯はいただいた。無事に特異点は修復できたといってもいいんだけれど、根本的には何も解決してないからね」

 「あの肉の柱みたいな? フラウロス、だっけ。ゲーティアの」

 「そうだね。古代の王が使役したとされる、72柱の悪魔たち。アレは確かに、自分をその内の一柱だと名乗った」

 さらさらと当たり前のように会話するリツカとロマニ。うんうんと頷くマシュも何を言っているのかは理解している、ということか。

 トウマとしては―――なんか最近読んだ資料にそんなものがあった気がするなぁ、くらいの感覚だった。

 「ごめん、あそこで私たちがちゃんと捕縛できてたら」

 「いや、それは仕方ない。もしできたとしても、果たして口を割ったかどうか」

 肩を小さくするクロに、ロマニは努めて朗らかだった。

 「あの影のサーヴァント。あれも実際不明だ。アレが何なのか、そっちも今のところ解析できてない。できてないけど、でもアレが強大であることは間違いない。霊基規模からすれば、通常のサーヴァントを遥かに上回る数値が検出されてるし―――あんなのが割って入ってきたら、ひとたまりも無いよ」

 「実際、私たちじゃあ手も足も出なかったしね」

 不機嫌さと決まりの悪さを混ぜ合わせたように、ライネスは眉を寄せる。思案気にも見えたけれど、むしろあの顔は思案しようにも材料がない不快感を露わにした顔だ。舌打ちこそしなかったけれど、ライネスは綺麗なプラチナブロンドの髪をかきあげると、鼻息を吐いた。

 「古代の王が使役したとされる悪魔を名乗る肉の柱。そしてそれを助けたあの影のサーヴァントたち。果たして仲間なのか、それとも利害関係が一致しているだけの無関係者なのか。悪魔の名は騙りにすぎないのか、それともかの王に関係するのか。影のサーヴァントが何故あんなにも強大な力を持っているのか。わからないことだらけなんだ、今は」

 ロマニは相変わらず朗らかな顔をしていたが、思わず全員が押し黙ってしまった。

 当然だ。2つの特異点を修復することだって、はっきり言ってギリギリだった。どこで失敗してもおかしくなかった。そんな旅があと最低5度も控えているというのに、未だ何も判明しないという現状。憂を抱かない方がどうかしている。サーヴァントとして召喚されたクロとライネスですら口を閉ざすような状況なのだ。ましてマシュやトウマなど、ただ不安を増大させるのは当然だった。

 「まぁ、前途多難なんですねぇ」

 ただし、一名。リツカは、特段の感情も込めずに言った。

 「ホント呑気だなぁ、君は」

 「えーそれ褒めてる?」

 「どっちかというと貶してるんじゃないかしら」

 呆れるライネスとクロに対して、リツカは場違いなまでの大らかさだ。えへへ、と勘違いの照れ笑いを浮かべると、「考えたって仕方ないことは仕方ないから」と言った。

 「最善を尽くすために思考することと、困難を前に悲嘆に暮れることは別なことでしょ」

 「いやまぁ、そうだろうけど」

 歯切れ悪く応えたライネスは、ちょっと気まずさげに前髪を弄る。むう、と照れたように唸ると、眉間に酷く深い皺を刻んだ。どこかで、見たような皺だなと思う。

 「リツカちゃんの言う通りだ。今考えても仕方ないことは、考えないに限る。それよりも、今考えるべきは当面の課題、三つ目の特異点。時代は16世紀半ば。場所は───見渡す限りの大海原だ」

 

 ※

 

 アンサモンプログラム スタート

 霊子変換を開sss始 しま、す。

 指定座標を設定。

 人理定礎値:D……

 修正

 人理定礎値 を 推定:A++ に更新

 

 全工程 完了(クリア)

 グランドオーダー 実証 開、始しま、




あけましておめでとうございます。昨年はご愛顧のほど、ありがとうございました。多分ネット小説としては色々と読みにくい部類の小説だと思うので、読んでいただいている方々には大変感謝しております
気難しい小説だなぁと思いつつも感想とかいただけると、作者はきっと喜ぶかと思われます。誤字報告とかも兼ね、お気兼ねなく申し付けくださいませ


それでは、今年も本作「fate/little bitch」を好き放題書いていく所存ですので、よろしくお願いいたします



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

間抜けそうに、緩やかに

「ったく、すばしっこい野郎だ」

舌打ち一つ。獲物の長槍を肩に担いだランサー、カイニスは恨めし気に海原を睨みつけた。

 砂浜を挟んで、無限に広がるわだつみの青。凪いだように繰り延べる水面を睥睨したカイニスは、至って不機嫌そのものだった。

それも致し方なきこと。彼はただ何のしがらみもなく闘争にあけくれることが此度の本懐であり、アレはそれに相応しい敵だった。

  女神の肉塊(はらわた)。神など糞喰らえと心底思う彼にとり、あの醜いアヒルの子のようなサーヴァントは、正しくぶち殺すべき敵なのだ。

 「オデュッセウス! 次はあのアヒル女がどこに行くか知ってんだろ」

 憤懣そのままに、カイニスは背後の人物へと怒鳴りつけた。

 全身を黒い甲冑で覆った人物。ライダー、オデュッセウスは手元の地図に視線を落としたまま、ぴくりとも身動ぎしなかった。時折顔を上げるが、カイニスの問いに応えるわけではない。浜から海を眺め、点々と存在する島と地図を照応しているのだろう。

 無論、オデュッセウスが今まさに頭脳を駆使していることは、カイニスにもわかっている。だがそんな事情など、彼には知ったことではない。早々と短気を起こしたカイニスは、不躾極まりなく呼びやった。 

 「おい」

 「無論、奴の動きは予想の範囲内だ」

 ようやっとマップから視線を外したものの、オデュッセウスはカイニスには一瞥すらくれない。遠く海を眺望した黒い甲冑の男は、まるで枯れたマートルの花のように佇んでいた。

 「ならいい」カイニスは露骨に不快そうな顔をしたが、ただ鼻を鳴らすにとどめた。彼にとり、サンチマンタリズムなどというのはくだらない感傷に過ぎないものだが、ずけずけ突っかかるほどに野卑な人格の持ち合わせもなかった。それに、軍師たるオデュッセウスの知悉を邪魔しても良いことは何もないという、戦士としての感性もあっただろう。

 最も、粗暴な人格であることに変わりはない。思惟を巡らせるオデュッセウスの邪魔をする代わり、当てつけのように声を張り上げた。

 「おいアタランテ!」周囲に、件の人物はいない。恐らく背後の森のどこかにいるのだろう。聞こえているかも不明だが、カイニスにはどうでもいいことだ。「テメェもいつまでしょげてやがる!」

 「メレアグロスをぶっ殺した時みたいにしろよ、あっちの方がクールだぜ。それに、そうすりゃああの毒淫婦だってぶち殺せる。それに、早く帰ってラドンと家族ごっこがしてえだろう───っと」

 瞬間。

 眉間に飛来した矢を盾で弾き返しながら、カイニスは素知らぬ顔で顔を凄絶に引きつらせる。

 そうでなきゃな、と思う。地面に転がる両断された矢を睥睨すると、ふふん、と鼻で笑った。繰り返すが、サンチマンタリズムやら感傷やらは、カイニスの趣味に合わない。英雄はただ粗野に暴力を振るい、己の勁さを誇示すべきなのだ。古代ギリシャが無双の英雄は、そのように世界を理解する。

 「さっさと行こうぜ。さっさと終わらせて、ポルクスの飯でも食いに帰ろうじゃねえか」

 槍を担ぐ。ようやっと思案を解いたオデュッセウス、森から飛び出した弓兵の姿を識別しすると、カイニスは切れ上がるような笑みとともに大海を睨めつけた。

 「汚ねぇアヒル女も、海賊どもも! このカイニス様が始末してやるよ。ヘラクレスの出番は欠片とてありはしねぇさ!」

 

 ※

 

 暗い視界が、ざくりと裂ける。レイシフトが終了し、指定座標への転移が完了したのだ。既に3回目ともなれば流石に慣れたもので、トウマは唐突に啓けた視界に、まずは素朴な感動を示した。

 海、だ。見渡す限りの海原。広々と視界を埋め尽くす光景は、ちょっと圧倒される。海というとなんとなく夏場の行楽地というイメージが拭えない現代人にとって、遠雷のように潮騒が犇めく様は、陳腐だけれど、自然の威容を感じずにはいられない。

 他方。

 「う、う」

 「ん?」

 「海だ(ウェミダー)!」

 最も、リツカはもっとレイシフトに馴致していた。

 開口一番。奇声を上げたリツカは、海に向かって走り出すなり着の身着のまま飛び込んでいく。自然の荘厳さなど欠片とてない、ウェイ感ある身振りである。いや、オイヨ感だろうか……。

 「冷たいー!」

 「だろうな」

 悲鳴を上げながら浜に這い上がってきたリツカは、文字通り濡鼠と化していた。がくがく震える赤銅色の髪の彼女の奇行に呆れながらも、ライネスはきょろきょろと周囲を見回していた。

 「フォーウ!」

 「えい!」

 「ミ!?」

 「今度ばかりは好きにはさせないわよ、フォウ。後ろにも目をつけてるんだから」

 「あ、フォウさんやっぱりついてきてしまったんですね」

 「ンキュ」

 出飛び掛かりを阻止されたフォウは、クロの懐で不機嫌そうに鳴いていた。マシュに頭を撫でられて幾分か機嫌を取り戻しながらも、それでもやはり不満は不満らしい。ムー、と声をくぐもらせた小動物は、今だけはクロの懐で敗戦を渋々認めている様子だ。

 ―――と。

 くい、とトウマの袖を誰かが引っ張る。おや、と振り向くと、いつの間にか近づいていたライネスがトウマの袖を掴んだまま、じっと見上げていた。

 内心ちょっと吃驚しながら、トウマは「えーと?」と首を傾げた。

 「いや、特に何というわけではないんだけどね」

 少し、ライネスは決まり悪そうに言う。白磁みたいな頬を若干赤くしながら、歯切れ悪く口腔内で言葉をくぐもらせている。

 「あー、そのなんだ」

 「はい」

 「いや、これからどうするのかなと思ったのだが」

 「あー」

 相変わらず袖を掴んだままのライネス。手慰みに鼻筋を掻いたトウマは、砂浜で戯れる3人を眺めた。

 「あ!」

 「ダメですよフォウさん」

 「やっぱりクロちゃんはフォウに勝てないのか。運命これ儚し」

 「ぐぬぬ……」

 「フォフォフォフォwww」

 「行程完了(ロールアウト)全投影、待機(バレット クリア)停止解凍(フリーズアウト)……」

「おフォ!?」

「や、やりすぎですクロさん!」

獅子は兎を狩るのにも全力を出す(やれやれー)

「先輩も焚きつけないでくださいー! というかルビが意味不明です!」

 ……平和である。無数の短剣に追い回される小動物は心なしか必死の形相を浮かべているけど。多分平和である。

 「君たち、慣れてるな」

 「え、まぁ。そうです、かね?」

 確かに、既に3回目。冬木も併せれば4回目だ。流石になんの緊張もしないわけじゃないけれど、それでもなんとなく特異点にレイシフトすることそのものにはすっかり慣れた感じはある。

 「まぁとりあえず、今はダラダラしましょうか」

 「いいのかい、そんなことで」

 「まぁあんま良くはないんでしょうけど」

 どっこいしょ、とトウマは砂浜に腰を下ろす。一瞬迷った様子を見せたものの、ライネスもつられるようにちょこんと腰を下ろすと、相変わらず戯れ続ける3人と1匹の姿を眺め始めた。

 「焦っても仕方ないですし。あれ、というかまだドクターの通信こないな」

 「それ、焦るところじゃあないのかな」

 「そうかもしれませんけど」

 座っても、ライネスは相変わらず袖をつかんでいる。釈然としない顔も相変わらずだけれど、溜息を吐けば、不快そうに首を振った。

 「?」

 「いや、なんでもないさ」

 言ったライネスの顔は、ちょっとだけ晴れがましい。手慰みに鼻を掻いたトウマは、まぁいいか、と、得心することにした。

 「とりあえず、落ち着いたら今後について考えるというわけか」

 「そうですね」

 ぼんやり。

 袖から手を放したライネスは、弛緩した空気に身を委ねることにした。

 「そう言えば聞きたいことがあるんですけど」

 「ん、あれか。魔術についての講義かな?」

 「あーはい、そうですね。いつもすみませんけれど……」

 「いやいいさ。私も良い教師に育てられたものだからな」

 ───それから、およそ1時間。

 「要するに、固有結界というのは、元は第六架空要素……わかりやすく言うと悪魔の特権領域なわけだが」

 技術論的な魔術についての話から、何やら神秘的というか思弁的な話にまで脱線。トウマの知的キャパシティを超え始めた時に、ようやっと通信ウィンドウが立ち上がった。

 (あーやっと繋がった! 大丈夫かい……って何してるの?)

 「暇つぶし、らしいよ。ほらみんな、そろそろ動こうじゃないか」

 「はーい」

 (……じゃあ状況の確認から行こうか)

 すっかり知恵熱を出し始めたトウマを他所に、わらわら集まる4人。特にずぶぬれのリツカを見て色々察したロマニは、特に何にも触れないことにした。

 (その前に伝えておかなきゃなんだけど。そっちの特異点との連絡がやや取りにくい。原因はわからないんだけど)

 「もしもの時は高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に対処するってことだね」

 「要するに、行き当たりばったりということじゃないかな」

 (本当に申し訳ない)怪訝な顔をするライネスに、画面の向こうでロマニは頭を下げた。(ただでさえ、よくわからない特異点だっていうのに)

 「別に、構わないわよ。現状でなんとかするしかないわけだし?」

 さして気にするでも無く言うクロ。うんうん、と頷くマシュも、表情に不安はない……わけではないらしいが、不安よりも泰然の方が今は勝っているようだ。かく言うトウマの心境も、マシュとあまり大差はない。心配じゃないわけではないけれど、こうしてグランドオーダーが始まってしまえば、心配よりも何をするかという思考の方が前に出る。如何な素人とは言え既に4回目。こと特異点へのレイシフトともなれば、トウマはベテランの魔術師よりも経験値はあると言って良いのである。

 ライネスはまだ怪訝な顔のままだが、仕方ない、というように肩を竦めた。

 (じゃあ速めに情報を伝えなきゃだね。今マップを送ったから、とりあえず見て欲しい)

 視覚野投影された映像に、もう一つデータが立ち上がる。

 周囲50kmまで表示された戦域マップ中央が、今自分たちのいる場所だろう。5つの青い光点(ブリップ)は、それぞれみんなを示している。

 今、自分たちが居るのは、海洋に浮かぶような小さな島だ。面積にすれば10㎢あるかないか。しかも海峡を挟んで5kmもしない地点に、さらに3㎢ほどの小さな島があり、さらに隣には……といったような状態だ。なんとなく、世界地図上で見るインドネシアの島嶼群を思わせる。それかカリブ海に浮かぶ島々か。

 (具体的に、どの国のどこの地域なのかすら不明だ。実在の地形データと参照してみたけど、ライブラリには適応地域はない)

 「つまり、現実の場所が特異点になったと言うよりは、この土地そのものが特異点として作られたってことかしら?」

 (そういうことだと思う。時間座標もぶれはじめてる。大まかに16世紀半ばから後半を指してるけど)

 「16世紀の海、ね」

 思案するように、ライネスは上唇を指で撫でる。

 時代区分で言えば、いわゆる近世にあたるだろうか。世界は未だ市民の物でなく、絶対的な王権が遍く広がっていた時代。特に海ともなれば、やはり大航海時代が関係する……と考えるべきなのだろうか。先入観かなとも思いつつ、それでもトウマはある1人の人物を思い出さずにはいられない。

 16世紀の海賊にして、女王が統治するイングランドにてサーの称号を戴いた海軍提督。未踏の世界を乗り越え、無敵を誇ったスペインの艦隊を打ち破った星の開拓者。  

 即ち、フランシス・ドレイクの存在だ。

 Fate/Extraに登場し、主人公が一番最初に戦うサーヴァント。如何にも海賊といった在り方を示した、気持ちのいい女丈夫だ。もし彼女が味方であるなら、これほどまでに心強いものはない。絶対不可能を乗り越えるスキル【星の開拓者】は、まさに今、カルデアの面々が挑んでいる出来事そのものだろう。

 だが、敵であれば、間違いなく難敵だ。

 Fate/Extraのトーナメント形式と異なり、この戦いは正しく世界を舞台にした決戦。しかも海での戦い。豪放磊落な性格とは裏腹に、アルマダの海戦で見事奇策によって無敵艦隊を撃破した策士としての一面をも持つドレイクが敵になる……あんまり、考えたくないところだ。

 《何か気になることでもあった?》

 ふと、頭の中に別種の声が響く。マスター・サーヴァント間の契約(パス)を介した念話だ。ロマニと話をするクロは、こちらを一瞥すらしていない……ように見えた。

 《や、もしかしたら海賊のサーヴァントが出てきたりするのかなって》

 《確かに。時代的にもあり得るわね―――それで、アナタの“知識”には誰か召喚されそうなサーヴァントがいるの?》

 《まぁうん。1人は》

 (当面の問題は移動手段かな。この近辺は島と島の間の距離が数kmだからイカダとか作ればなんとかなると思うけど)

 「そんな簡単にイカダって作れるものなのかな?」

 (……)

 「そこで黙らないでください、ドクター……」

 (いやきっと大丈夫! 今回だって、きっと僕たちの味方をしてくれるサーヴァントがいるはずさ。ほら、噂をすればあんなところに海賊が───ってうえ?)

 発砲音が響いたのは、その直後だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

談笑、もとい商談

 「あ、やっちまいやがった!」

 「おいおいどうすんだよ、あいつらが敵かどうかわからねぇって話したじゃねぇか」

 「いやそう言ってもよぉ、あれ拙者の言うことあんまり聞かないから……」

 「テメェあのカリブの大海賊なんじゃねぇのか!?」

 「そうですよー! 所詮金で寄ってきた仲間しかいなかった大海賊ですゥ―! そんな憐れな目でくだちぃ!」

 「だからその気色悪い喋り方やめろ」

「あーもうそんなこと言ったってよぉ、どうしようもないもんはどうしようもありませんので! 第一、仮に俺たちの味方になってくれたってよぉ……この程度でへこたれる奴らだったら、そもそも御用じゃないっしょ。とてもアルゴノーツのクソどもと戦えませんてば」

 「……まぁ確かに」

 「はい拙者完全論破―! 髭おじさんは黙っててくださーい」

 「テメェも髭のおっさんじゃねぇか」

 「あーでもいい。実にいい! 可愛らしい美少女が健気に動き回る様! 清らかな気持ちになりますなァ!」

 「話を聞けや」

 「いやでもあの野郎は許せねぇ……あんなかわいこちゃんに囲まれてよお……拙者の願いをもう実現してやがる! 許せるぞオイ!? ってことで拙者と代われよオラァ!」

 「馬鹿野郎、敵にアーチャーがいるんだから顔を出すな!」

 「え? ……あばー!?」

 

 

 「リツカ、もう少し下がった方が良いと思う。クロも後退、とりあえず行動そのまま」

 「了解。マシュ、一回蹴散らしたら後退するよ」

 「わかりました!」

 「こっちも了解。トーマ、離れちゃダメよ?」

 ぐい、とクロに袖を引っ張られながら、トウマはただただその光景に感心しっぱなしだった。

 唐突に現れた、人間の身体をした何か。如何にも海賊と言った風体の浮浪者じみた何かと接敵してから、僅かに2分。30人はいたであろう海賊たちは残り12人を残して軒並み地面に転がっていた。

 素人のトウマから見ても、とても安定した戦いだった。というより、改めて“サーヴァント”と呼ばれる存在者の精強さを思い知るかのような戦いというべきか。最強の使い魔、ゴーストライナー。それこそ死徒二十七祖に並ぶ力を持つ、人理の影法師。人間など、そもそも相手にすらならないという現実を、まじまじと見せつけていた。

 スキル【奮い立つ決意の盾】により、自身へと攻撃を集中させる傾向性を持つマシュが単騎で突撃。一挙に敵戦力の中枢を大楯で薙ぎ払って瓦解させながら、自らに敵戦力を陽動。同時に後方からクロの狙撃で戦力を漸減させるというリツカの戦術を、サーヴァント2人は全く以て完璧にこなしていた。

 リツカもリツカだ。俯瞰での戦闘風景はライネスに任せるなり、彼女は何の躊躇もなくマシュの傍へと飛び込んでいってしまった。銃弾と剣が交錯する最中にも関わらず、リツカの動きには一切の淀みすら感じさせない。あまつさえマシュに的確な戦術行動を指示する様は、やっぱり、ほれぼれする。

 統制など取れない無秩序な海賊たちに、4人を打倒する術は全く存在しないと言って良かった。

 「それにしてもこれ、ゾンビか何か……なんですかね」

 そんな中。

 トウマは戦闘を意識しながらも、足元で気絶する海賊1人を眺めてみる。

 (ていうより亡霊というか、海賊の思念体みたいなものかなぁこれ)

 「幽霊、みたいなものですか?」

 (そうそう。幻霊以下の霊体が形をとってる、と見るべきかな)

 ロマニの声が耳朶を打つ。足元に転がる、気絶した海賊は一見すれば普通の人間に見える。だがよく見てみれば、なんというか顔色が悪い。死体特有の土色だ、と思案しかけたトウマは我知らずに顔を顰めながらも、じゃあ、と声を続けた。

 「近くに、これを生み出してる何かが居るってことでしょうか。それかサーヴァントの宝具とか」

 (なるほど在り得る。でも周辺走査がちょっと今できないんだ。機器の不調かな……ダ・ヴィンチちゃんにも今調べてもらってるんだが)

 すまなそうに、ロマニが言う。仕方ないですよ、と応えながらもトウマの袖を、クロがくいと引っ張った。

 「それなら目星、ついてる」

 「あ、マジ」

 「どうする、撃っちゃう?」

 一射、放つ。リツカに剣を振りかぶっていた海賊の首すじに矢を正確無比に撃ち込んだクロは、一瞬戦況を把握した後、

 「我が骨子は、捻じれ狂う(I am the bone of my sowrd)

 その剣を投影した。

 『偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)』。正確には、さらにそのデッドコピーである『偽・偽・偽螺旋剣(カラドボルグⅣ)』を投影するなり、クロはちらりとトウマを一瞥した。

 応えるように、トウマは一度、戦闘の渦中へと視線を向ける。手も足も出ないと悟った海賊10人は、尻込みしたように後ずさりを始めていた。

 頃合いと言えば頃合いだろう。元々この戦い、敵を打倒して勝つためのものではない。

 「あ、うん。良いと思う」

 「一応だけど、私も賛成しておこう」

 素っ気なく、ライネスはトウマの声に続く。淡泊さというよりも追認的な発言だろう。クロは小さく頷いてトウマの目を見返すと、投影した螺旋剣を弦へと番えた。

 射までは僅かに秒未満。身体の脱力と同時に放たれた捻じれた矢は、空にアーチを描いた。

 さながら榴弾砲。曲射の軌道を描いた砲弾は一塊になった海賊たちを飛び越え、その背後の森へと急襲した。

 「弾着。今」

 爆炎が炸裂したのは、クロの声と同時だった。

 『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』を行使したのだ。真名解放してない分、威力は低い。耐久Cのサーヴァントでも耐えきれる程度の威力の爆発がぽくりと広がった、その瞬間だった。

 「うおおお!?」

 「あばー!!」

 なんだか。

 妙に緊張感のない悲鳴……というか奇声が聞こえた、気がした。

 (やっと捕捉できた! リツカちゃん、トウマくん、そこにサーヴァントが!)

 焦燥のロマニの声。切実な逼迫の声を裏打ちするようにゆらと森から姿を現した姿は、

 半裸の男だった。

 ふらふらとおぼつかない足取りの男。ここまで近づけば流石にわかるが、確かにあれはサーヴァントだ。サーヴァントに違いない。サーヴァントです本当に。

 遠目でもわかる偉丈夫。うなだれているせいで顔は伺えないが、粗暴さと野卑を蓄えた黒い髭は、獅子の鬣のよう。

 「……あれってそんなカッコいいものじゃないと思うんだけど」

 「俺もそう思う」

 素っ気ないクロの声に、トウマも素直に応じた。

 若干引いてる海賊たちを割って歩みを進めること、マシュの目の前3m。制止した半裸のサーヴァントは一瞬だけ佇立して、

 「女の子にやられて結構嬉しいなと思いつつ、ジョン・ラカムは倒れるのであった。ばたん」

 なんか倒れた。

 「……」

 圧倒的沈黙。なんというか、ここに居る全員15人が、名状しがたいおかしみのような沈黙に口を閉ざすしかなかった。

 大半の人は「うわ……なんだコイツ……」という清らかな侮蔑を隠しもしなかった。特にクロとライネスのドン引きした顔は、最もそれを先鋭化させたものだったろう。若干立場が違うのはトウマくんで、彼は彼として「なんだろうこの既視感……」と侮蔑になりきらないまろやかな同族嫌悪としみじみした同情を惹起させていた。

 ただし、唯一人だけ、周囲とは全く違う感情を沸き上がらせた人物がいた。

 マシュである。未だ世間を知らず、清純に育った16歳の少女は、ごく自然に性善説を信じているし、自分自身もしっかりした格率とはいえないまでも、倫理的な意識の持ち合わせはある。だからその時、彼女だけは倒れ込むなんか変なのに対して、質朴なやさしさを向けた。

 「あ、あの」

 「ピクリ」

 「ヒッ」

 「待ってたぜェ、この“瞬間(とき)”をよォ!」

 「キャア!?」

 「ハッハー! この俺様がよぉ、あんなへなちょこ宝具程度でやられるタマじゃあねぇんだぜ! 拙者を倒したたくば、あの三倍の剣を持ってくるんだなぁ!」

 「マシュ!」

 「あーらカワイイ。 よっしゃあ、まずはこのメカクレ美少女からいただきだぜぇ! ロバーツの野郎の悔しがる姿が目に浮かぶぜ、先におっ死んじまいやがってよォ! 何はともあれ拙者の隠された第二宝具、『ルパンダイ』――」

 「『偽・螺旋剣Ⅱ(オラァ)』!」

 「『ブ』ルァァァァァァァァッー!?」

 「───なんでさ?」

 いやもうほんと、なにこれは。

 頭からつま先まで黒焦げになるなんかやべー奴というこの惨状。他に言うべき言葉は全く思い浮かばなかった。というか如何なる言語体系でもこのあほくさ……惨劇を言い表す言葉などありはしまい。神代の言語(マスターオブバベル)であっても。

 「どっちかというと、統一言語でこんなこと語らせたくないというか」

 「それはそう」

 最もである。最早能面のような顔のクロとライネスの吐露から、静かに目を逸らした。

 他方。

 「先輩―!」

 「よしよし、頑張ったねマシュ。君はまた一つ世界を知ったんだよ」

 「これが世界……」

 「台詞だけだとスポ根漫画の世界編みたいじゃないか」

 「途中展開だらける奴」

 「お、トウマくん理解があるじゃないか」

 「あっしはこれでもそういった文化にはですね……ヘッヘッヘ」

 「美少女とオタク会話だとォ!? 没個性主人公の癖に……いや没個性主人公だから……? 拙者も髪切ってなんなら目の描きこみも無くせばワンチャン……?」

 「秘剣、『燕―――』」

 「アー待って! その構え絶対首狩るマンでしょ! 首、首だけはなんとかご勘弁をば!」

 「クロ、ステイステイ……ん?」

 「どうかした?」

 「や、なんでも」

 そう、と鼻白むクロ。地面に這いつくばる髭面のサーヴァント……とりあえずジョン・ラカム、と名乗ったサーヴァントへの眼差しは、正しく睥睨だ。あるいは蔑視か。どちらにせよ、ろくでもないカスを見る目に違いはない。

 「ま、実際コレが貴重な情報源なのも事実だがね」

 同じく色の無い視線を向けながら、ライネスは心底厭そうに言う。まぁね、と肩を竦めて同意してみせるあたり、クロもライネスも、自分の心情はともあれ客観的に事情を理解はしているらしい。

 「でも、それなら向こうのもう一人に聞いた方が早いんじゃない?」

 「え?」

 顎をしゃくるクロにつられ、先ほどの宝具の着弾地点を思わず見やった。

 焦げた森の淵。確かに一影、何かが揺れた。

 (あー待って……こっちでも捕捉した。確かにサーヴァント、1騎いる)

 どこか苦いロマニの声。相変わらず計器は不調らし。通信越しでダ・ヴィンチを呼びやる声が、どこか小さく漏れてくる。

 「バレてるなら仕方ねぇなぁ」

 後頭部を掻きむしる姿は、酷く無作法だ。粗暴さを感じさせながら、蓄えた白い髭は丁寧に整えられている。身だしなみも品よく、しかしやはり豪胆な眼差しは、飢餓に喘ぐ狩猟犬を想起させた。

 「おっと、待ってくれ。俺は今のところ味方かどうかも不明だが、敵意がないことくらいははっきりしてると思うぜ」

 素早く弓を構えるクロに対し、白髭の男は、至って余裕そうな素振りだ。両手を挙げて降参の身振りをしているにも関わらず、何かその威容は圧倒されるものがある。

 《知ってる?》

 パス越しに、クロの声が耳朶を打った。弓を構える姿勢は、何かあればすぐに射るといわんばかりだ。トウマに念話を送りながら、張り詰めた弦のように全神経を集中させる様は流石に歴戦といったことなのだろう。

 だが。

 《いや、ごめん。知らない》

 《ん、了解。大丈夫》

 ぷつりと削ぐ念話。幾ばくか気が重くなりながらも、トウマもそんな素振りを表に出さないようにだけ、なんとか務めていた。

 「敵意がないかどうかなんて、わかったもんじゃないさ。第一なんで今更」

 「あーそれはあれだよ、ライネスちゃん。タイミングを逃した的な」

 「は?」

 「いやほら、そこのサーヴァントのノリというかテンション的な」

 「あ……」

 種々、察したライネスは眼下に臥せるサーヴァントを見、ただただ困惑の顔を浮かべる他なかった。それを裏付けるとでも言うように、どこか紳士然としたサーヴァントは、初めて鷹揚さをかき消した。

 代わりに浮かべた顔はまぁ当然のように、気まずさである。無作法な様子で後頭部の髪を掻きむしる姿は変わらないが、嘆息でも吐き出すように眉を寄せた男は「俺も」と言葉を漏らした。

 「コイツだけはどうしようもねぇ」

 「だろうね」

 同情交じりに応えたのは、ライネスだった。というよりも、ここに居る全員が異口同音の感想を覚えただろう。げんなりした顔がずらりと並ぶ中、黒い髭面の男は何故かまんざらでもない顔をしている。筋金入りである。

 「それで」ライネスは気だるそうにしながら、プラチナブロンドの髪の毛先を弄った。「取引ってことで、いいんだったかな」

 「そうなる。幸い、こっちの意は斟酌してもらってるみてぇだしな」

 ずい、と酷く不躾に、白髭の男は地面に転がる海賊1人を蹴りつける。小さく呻きながら、体格の肥えた男は身動ぎした。

 死んでいない。いや、亡霊が死んだりするのかどうか不明だが、少なからず気絶しているだけだ。しかも誰一人とて消滅していない。

 即ち、そういうことだ。あくまでこちらの行動は攻撃に対する反撃であり、それ以上の意図はないという意思表示。戦いながら、こちらは敵ではないと示したのだ。不意の遭遇戦の時こそ冷静にならねばならぬ、とはライネスの中の別な人格が、戦術行動前に言ったことだ。そしてライネスは、この海賊たちの意図をも十二分に理解していた。不意の急襲というにはあまりに粗末な攻撃は、翻って言えば統率の不在の証明。偵察のつもりが、勢い攻勢になってしまったと正しく理解していたのである。

 要するに、不本意に開かれた戦端なのであって、戦う意図は双方に無かった。そういうわけだ。

 「もし俺らが本気でアンタらを始末しようとしてたら、その時はその時というわけか」

 「そういうこと。幸い、この海賊程度なら相手じゃあないし。なまじの幻想種……幻獣程度ならなんとかなると思ってるし。それに」

 ちら、とライネスがトウマを見上げる。ふふん、と鼻を鳴らして見せる彼女は、自信ありげだ。

 「対サーヴァント戦になっても不安はないさ」

 《君がいるしね》

 言いながら、ライネスはパス越しに呟いた。契約するサーヴァント同士だけで通じるそれは、ある種秘匿回線に近い。便宜上サーヴァントとして動くため、司馬懿とはマスター・サーヴァントの契約を結んでいた。魔力供給そのものはカルデアから行われるそうで、そちらの負担感はあまりない。

 多分、彼女はあの渾名のことを言っているんだろう。素人同然から素人に毛が生えた程度にはなったとはいえ、どちらにせよ立華藤丸はなんら頼りになるところ少ない。対サーヴァント戦のスペシャリストだなんていうのは、分不相応が過ぎると思うけれど。

 そう、ならなきゃな、とは思いつつ───。

 得心した風の白髭の男。壮年に刻まれた深い皺のある顔立ちは、やはりそれだけで威容さを思わせる。

 そんな男が、一度、ぐるりと5人を見渡す。手遊びのように長い髭を撫でた男は、内心での自問に自答したのか、一度頷きを見せた。

 「俺のクラスはライダー。真名はコロンブス。クリストファー・コロンブスだ」

 さらり。堂々と己が真名を口にした髭面の男クリストファー・コロンブスは、続く言葉を、酷く慎重に舌先に滑らせた。

 「一応聞きたいんだが。お前さんたち、アルゴノーツのサーヴァントじゃあないだろうな?」

 聞きなれない───いや、最近聞き知った言葉が、脳髄の表象をかける。

 「私たち、ギリシャ人に見える?」

 「いいや、見えねぇな」コロンブスは、クロを不躾な目で眺めやった。「特に嬢ちゃんは土人か何かの英霊かって感じだな、得物も野蛮極まりない」

 「アナタみたいな善良なキリスト教徒には、そう見えるでしょうね?」

 平然と罵倒を返すクロ。目を白黒させるも一瞬、コロンブスは、わざとらしく肩を竦めて見せた。

 「ま、残当なリアクションだわな」特段悪びれる様子もなく言うと、「アルゴナウタイの連中じゃあないならいい」と付け加える。

 「ついてきな。儲け話といこうじゃあねぇか!」

 「───いや顔怖っ。というか表情筋が自由すぎる」

 「歯茎綺麗ね」

 「歯並びは兵士級みたいだな。まりもでも食べてるのかい?」

 「トラウマだァ」

 「あの、先輩方。コロンブスさんが泣いていますので……」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間、百合の花

 眼下で弾ける白濁の飛沫。打ち寄せる波を打ち砕きながらも、その小高い岸壁そのものも、僅かに削り取られていく。大いなる自然の循環をそこに見て取ることもできれば、あるいは刑事ドラマで何故か選ばれる場所でもある断崖の上。

 彼女は、今回はどこか気だるげな様子で海のうねりを眺めていた。崖の淵に座り込み、足を曝す彼女。齢にすれば16か17ほどだろう。朽ちた神木を思わせる白い髪に、痩せた荒野の土を思わせる浅黒い肌。爛れるような赤い目にいつもの活気はなく、やはりしょぼくれている。

 「ふむ、マスターはどうしたのかな」

 そんな彼女を眺める、黒い影。腰ほどで手を組む影が1人に対して、「さぁな」とどこかやけっぱちに応えるもう一人の影は、何か巨大な車輪めいたものを背負っている。

 「大方、目当てがはずれたんだろうさ」

 さらに1人。唾棄するような声は侮蔑的でもあり、同情的でもある声を吐き出した1人に合わせ、あとの2人はさらに遠くからそんな光景を眺めている。

 計、5人。まっくろ黒すけのフードが寄り集まってひそひそ話をする様は、はっきり言うと珍妙だった。それこそ、ハロウィーンの仮装集団が集まっているかのような珍奇さがある。

 「アーチャー、お主機嫌を取ってきたらどうだ。次の機会が本命だとな」

 「あ゛ぁ゛!? なんで俺がそんなことしなきゃならねぇンだ!」

 「暇だろ、君。その怒りっぽい性格のままに突っかかっていったらいい」

 「殺されてぇようだなランサー」

 「僕はいつでも受けて立つけど? でもいいのかい、神性持ちが僕に叶う道理はないよ? しかもほら、槍と弓だとクラス相性が」

 「それはゲームの話じゃねえか。ここは現実だ」

 「ほう、喧嘩なら儂も混ぜてくれんか。殺なら相性も関係あるまい」

 「殺は0.8倍補正がね。槍を見習った方がいいよ」

 「ええいやめんか、脳筋莫迦どもが! 見習うなら慎み深いライダーを見習えい!」

 「……あの、俺のことは引き合いに出さなくていいんで……お歴々と比べたら……」

 ───喧々諤々、悲喜交々。わちゃわちゃする黒い影5騎の他方、残り1騎が彼女の背後に立った。

 黒い影の奥に、淡く浮かぶ金の双眸。その冷ややかな色に反して温暖な風の目は、黒い影が終ぞ灯さなかったはずの反転色だった。

 「マスター」

 小さく、白髪の少女が身動ぎする。風に靡いた白い髪の隙間から、赤い目が覗いた。

 「この特異点は」

 彼女は、立ち上がった。軽々とした動作に一寸前の倦怠さはなく、両手を挙げて伸びをする動作はいつもの彼女のそれだった。

 「今回は”見”に回る。やっぱり、記録と何か違う」

 快活、といった口ぶり。挑戦的な眼差しは、歴戦のセイバーすら気圧される。それだけに、この赤い目は犀利だった。

 「助けないのですか」

 「要らないよ、私の力は。何があっても、あの人は目の前の壁を乗り越える。たとえ神でも獣でも、先輩を止めることはできないから。そういう星の元に居る人なの。誰の、何の支えも無くね」

 それは、確かな信頼。自信を込めて言う己がマスターの口ぶりに、セイバーは花のような逡巡を幻視する。

 記憶の淵に佇む、いつか見た景色。花薫るような鉄の匂いに、思わずセイバーは痙攣発作を起こしそうになる。

 「セイバー?」

 「いえ」セイバーは首を横に振った。「私事ですので」

 「ふぅん?」

 彼女は幾ばくかの関心を示す目を向けた。清廉な騎士の口ぶりとも思えず、さりとて踏み込むことはせず。自らに忠誠を誓うセイバーの好きにさせることにした。そんな目だ。

 「あ、そうだ」

 「はい?」

 「あのアーチャー、アナタに任せるよ」

 「よろしいのですか。いえ、私が言い出したことですが」

 「それもプライベート?」

 彼女は朗らかに笑って見せる。畏縮するように小さく肩を竦めるセイバーの仕草にニコニコしながら、彼女は黒いフードをなでなでした。

 「あの、そういうのは……」

 「ごめんごめん、つい可愛くて。いいなぁ、セイバー。私の物になればいいのに」

 わしゃわしゃ。ローブの中に手を入れて髪を撫でつける様は、大型猫類とでも戯れるようである。だが、その言葉の物言いは何か突き放すよう。笑みを浮かべる顔の無邪気さに反したその冷たさの意味を一番よく知っているのは、セイバー自身だった。

 「でもあのマスターには気を付けて。アーチャーも危険だけど、一番気にしなきゃいけないのはあのマスター。理由は」

 「えぇ、十分承知しています。最弱こそ最強に至る、最速の途だと」

 ぽかん、と目を丸くするマスター。一瞬後、白髪の少女は強かな嫣然を浮かべて見せた。

 脳裏に浮かぶ影。郷愁に近いものに、セイバーはただ、少女然とした微笑に表情を綻ばせた。

 「おや、こんなところに珍しい」

 「あぁ? なんだこりゃ。ただの草じゃねぇか」

 「百合の花だよ。そんなこともしらないのかい、英霊の癖に。英霊の座も随分安くなったものだねぇ。ねぇ、ライダー?」

 「あぁ!?」

 「あの、ホント俺を引き合いにだすのは……知ってましたけど」

 「テメエ!」

 「これ落ち着かんか。折角の百合が散ってしまう」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

談笑、もとい商談Ⅱ

クリストファー・コロンブス。

その名前を知らぬ者は、恐らくいまい。スペインから出立し、アメリカを“発見”した探検家にして航海者。間違いなく人類史の進展を最も推し進めてしまった人物であり、ある意味でこの人物を基点に特異点が生じてもなんらおかしくないほどの男。それだけ、人類の歴史の中で重要な位置づけを持つ人物である。仮に、この男がアメリカを───といっても本人はあくまでインドと思っていたが───発見しなかったら、人類の“発展”がどれほど遅れていたかは想像を絶する。

 だが、その煌びやかな存在意義と相反するように───あるいは、不気味な双生児のように───存立する現実が、ある。

 クリストファー・コロンブスは決して理性と良識を分け持つ人物でなかったのである。端的に言えば人間の屑に違いないが、さらに他方で、そうした倫理的判断に対して歴史的相対主義から、したり顔でコロンブスという人物を擁護する向きもなくはない。要するに、当時のキリスト教にとっては、白人以外はそもそも人間ですらなく、また単純な労働力の搾取という観点からすれば、古くは人間が禽獣を家畜にしたことと大差ないという指摘である。

 だが、そうした発想が、実は単なる事実言明の表明であって、価値的言明とは全く異質であることを、歴史的相対主義者たちは理解していない。『みんな違う』という相対主義的発言は正鵠を射るのだが、そこ前提から『みんな良い』という結論を導く論理的根拠は、一切不在なのである。

 クリストファー・コロンブスという人物をどう評価するかは、極めて多義的にならざるを得ないだろう。評価者のスタンスをある意味で試されるという点では興味深い事象であり、それ故に、マシュ・キリエライトは、その人物を前に当惑に近い足踏みを繰り返していた。

 

 ……

 

 「つまり、君たちはアルゴノーツのサーヴァントを名乗る武装勢力と交戦している、と」

 「まぁ、要するにそういうことだな」

 ごく淡々と頷くコロンブス。どかりと椅子に座っては、木を組み上げたコップに並々と注いだアルコール飲料を呷った。

 レイシフトした地点から、およそ3km。茂る森の中を歩くこと20分弱、唐突に現れたそれは、正しく隠れ家というべきものだろう。

 樹上に建築された木製の家。ぱっと見鳥の巣に見えるその中身は、明らかに外見とは相反する広さだった。

 司馬懿ことライネス・エルメロイ・アーチゾルテは、無論それが魔術によるものであることを承知している。リツカはどうだろう、ぼけっとしながらきょろきょろしている様は、なんとなく思考停止しているように見える。

 最も、それが自分の役割であるとライネスは理解している。海賊の亡霊が持ってきた酒類には手を付けず、カルデアから持ち込んだティーカップに注いだ紅茶を口にしては、施設備品にしてはそこそこおいしいチョコ菓子を摘まむ。吹き抜けの窓から空を見上げると、青白い月が空に浮かんでいた。

 「君たちがこの土地に召喚された頃には、もうアルゴノーツのサーヴァントとやらは居たのかい?」

 「というより、そいつらに抵抗するために俺らが呼ばれた、らしいぜ。俺らの大将が言うには、大魔女が俺たちを召喚したとか言ってたな。まぁ俺たちが召喚された頃にはもうやられちまってたらしいが、そんなこんなで俺たちは徒党を組んでギリシャの英雄様と戦ってるってわけさ。ここも、そうした抵抗活動の拠点の一つってこった」

 他方、クリストファー・コロンブスを名乗るサーヴァントは、どこかうきうきしながら白い球体の皮を剥いでいた。ゆで卵である。如何にも粗暴そうな見た目に反して綺麗に一つ向くと、一口で丸のみにしてはむしゃむしゃと咀嚼していた。

 「それで、アルゴノーツのサーヴァントたちの目的は」

 「神代回帰、だそうだ」

 さらにもう一個。口に放り込んだコロンブスは酷く、不快そうだった。一度足を組んでから気まずそうに足を崩した髭面の男は、それでも不愉快さだけは隠そうともしなかった。

 「そんなことできるのかな、いくら聖杯でも」

 そんなコロンブスの素振りは敢えてふれず、やはり思考停止してそうな顔でリツカが言う。それにはライネス自身も頷いた。

 神代回帰。時代を無理やり現代から逆行させる、大権能に匹敵する魔法事象。分類すれば第五魔法に近しいそれを為すのは、いくら万能の願望機たる聖杯を用いたとしても果たし得るかどうか。それは、疑問符付としか言いようがない。

───いや、不可能、というわけではない。あるいは、それを可能にする手段はある。

 脳裏に浮かんだ可能性を微かに念頭に残し、ライネスはとりあえず思考を保留することにした。恐らくして、考えても詮の無いことだ。

 というより、これで確定したことがある。自分たちが倒すべき相手は、アルゴナウタイを名乗る武装勢力。この近世16世紀の時代で神代回帰など惹き起こしようものなら、間違いなく人理定礎は崩壊するだろう。

 「んで、どうだい星見屋さんたちよ。聞くところ、俺たちとお前さんたちの目的は一致しているように見えるぜ? 俺たちは一緒に戦う戦力が欲しいし、お前さんたちは人理とやらの修復がしたい」

 「win-winてわけか」

 先ごろの不満はどこへやら、満足気な顔をしたコロンブスはニコニコと頷いた。

 本当ならば了承するところなのだが。金糸をより合わせたような繊細な髪を無思慮にかきまわすと、まさに面前でふんぞり返る男を注視した。

 クリストファー・コロンブス。人類史を切り拓いた英雄であり、アメリカ大陸のインディアンを恣に辱めた殺戮者───。

 「別にいいんじゃない?」

 「リツカ?」

 「いやだって。コロンブスって頭良くないじゃん。歴史的にも」

 「……」

 「リツカ……」

 「事実でしょ。目先に欲がくらんで先走っちゃうっていうか。奴隷送って女王様に怒られるエピソード、流石に草っていうか」

 「いや、まぁ事実だがよ」

 少し、照れたようにコロンブスは肩身を狭くした。むう、と不服そうに髭をなでつける男を後目に、ライネスは思わずリツカを見やった。

 サイドテールにした鉱山排水のような髪に、腐食鉄を思わせる鈍色の目。東洋人らしい童顔に反して、不気味な理性を漂わせる面持ち。ライネスは知らず、渇いた唾液を嚥下した。

 単に、コロンブスを侮っているわけではない。仮に謀略があっても突破できるという自負……いや、それは客観的信条を、素朴に表明する目だった。

それに、そもそもこちらに手札が無いのも事実ではある。コロンブスの提案は魅力的……というほどではないけれど、無視するには惜しいものだ。他に、選択肢はないのだ。

 「じゃあ契約完了ってことで……って顔怖っ!?」

 「あぁすまねぇ、浮かれるとちょっと顔が緩んじまう。そこの嬢ちゃんも怖がらせちまったな」

 「い、いえ……大丈夫です」ぎこちない苦笑いを浮かべるマシュ。恐る恐る彼女はコロンブスを伺った。「歯、綺麗ですね」

 それにしても、ちょっと顔が緩むレベルじゃないと思う。千年アイテムで闇人格でも発生してそうな表情筋の蠢き、果たして本当に常人なのか。いや確かにやってることは常人ではないけれども。

 「じゃあこれで決まりだ。まずは本隊……うちの大将と会ってもらうとするか!」

 「随分()()()()のある表情筋だなァ……」

 

 ※

 

 ───なんでよ。

 クロことクロエ・フォン・アインツベルンの胸郭に先ごろから去来し続ける情動は、とにかくその一言で集約されていたりした。

 「いやあ師匠の見識はやはり目を見張るものがありますなァ」

 「まああのアニメに関してはそういう解釈も……というああの、ほんとそれ辞めてもらえますか」

 倒木を椅子代わりに、何やら面妖な会話をするトウマと黒髭のサーヴァント。じとっと眺めるクロの視線など気にも留めずに白熱? した議論をする2人は、それはなんとも楽し気である。

 この隠れ家に連れられること20分。話の邪魔だからと追い出された黒髭の男の、せめてもの会話相手としてトウマが付き合うことになったのだが。

 「あ、あれは御覧になっておりますかな? Rainは」

 「あーありますあります。ゲームもやりましたよ」

 「うひょー! こいつぁすげぇ! やはりタチバナ氏は拙者の師匠に相応しい人物ですよホント」

 「どちらかというと遠慮したい」

 「辛辣で草wwwおっと失礼、草に草は生やさないんでしたな」

 「まぁ、多少は、ね?」

 なんのことだか、クロにはさっぱりわからない。少なくとも、品性など欠片も存在しない会話であることに違いはないだろう。

 とは言え、とコーヒーを口にしながら、クロは思う。いつもより、トウマの様子は楽し気だ。普段からあまり緊張感のない人物だけれど、それでも今ほど気楽な脱力を感じたことはない。

 ───サーヴァント、エドワード・ティーチ。それがこの髭面半裸の男の真名だ。17~18世紀にカリブ海を舞台に活躍した、正しく大海賊と呼ぶに相応しい人物である…はずなのだが。

 「拙者は唯依派ですなぁ。いやいいんですけどね、紅の姉妹(スカーレッド・ツイン)。あまりに狙いすぎといいますか」

 「イーニァ好きですまんな」

 「あーいえいえ、批判しているわけではなくてですね。というかタチバナ氏、やはりメインヒロインはその……?」

 「リアルとフィクションの違いくらいは弁えておりますので」

 「ただのオタクだこれ」

 何がどうしたら、かの有名な大海賊がこうなるんだろう。ジョン・ラカムの名を騙ったりする知悉もあるし、なんなら相手に併せて在り方を選ぶという逸話から裏があるとも踏んだのだが……明らかにこのオタクムーブは根っからのものだ。完全な理外の出来事に考えるのを辞めながらも、それ故にクロは幾ばくか不機嫌だった。

 不機嫌というよりは不満。対象不在のネガな心情を持て余しながら、クロはずるずると若干冷め始めた無糖のコーヒーを口にしていた。

 「ベシ」

 「あ痛っ。どしたの?」

 「別になんでも」

 むう、と頬を膨らませる。疑問符顔のトウマに何か焦れるものを感じ、一層募るもやもや感。ぱたぱたと両足をばたつかせたクロは、すん、と鼻を鳴らした。

 「ちょっと見回り、行ってくる」

 「あ、クロ」

 「アルゴノーツのサーヴァントって奴が来るかもしれないんでしょ」

 背後に聞こえる、耳馴染みのある少年の声。むすっとしながら地面を蹴り上げたクロは、雀鷹のような軽やかさで飛び上がった。

 左手に投影する黒い洋弓。樹々の合間に紛れながら駆ける彼女の足取りは、何事かを追跡するかのよう。

 途中。ウバメガシの枝に足をひっかけたクロは、何するでもなくぶらりと身体を枝にぶら下げた。

 足の甲を枝に引っ掛け、重力に身を委ねる。髪の毛も何もを垂らしてぶら下げる姿は、黒い外套も相まって蝙蝠を思わせた。

 両上肢すらだらりとぶら下げたクロの【千里眼】は、数百メートル離れた距離でも、微かな樹々の合間から自分のマスターの動向を把握できる。

 立華藤丸。年齢、16。何の変哲もない、問答無用の一般人。ちょっと童顔で、ツーブロにした黒い短髪は少し癖がある。

 マスターの名前を、口にする。口唇に馴染む、放射性崩壊しかける言葉。生唾を嚥下すと、クロは我知らずに胸骨を抑えた。

 いつの間に、こんなものが生まれていたのだろう。まるでアプリオリに凝っていたかのような心地よい苦悶。静観するはずだったそれ、いつの間にか肥大化し別なものに浸潤していた感情。そういうものなのだから仕方ないのだろう、か。

 「あーもう」

 ぐるり。両腕を振る反動で身体を起こし、枝の上に佇立する。納まりの悪い硫化銀の髪をかき交ぜたクロは、ただただ、いつの間にか自分の胸郭の裡に息づいていた少年のことを、思索することにした。

 空を、仰ぐ。

 青く、抜けるような空。蒼褪めた月は、まだ空に居た。

 

 ※

 

 「タチバナ氏は愛されてますなぁ」

 サーヴァント、エドワード・ティーチは走り去る赤い影を、しみじみと眺めた。

 もう話は終わったころだろうか。それとなく頭上の隠れ家を伺いながらも、大海賊として嵐を渡った男は、つい先ごろ師匠になった少年の気まずそうな顔を大らかな気持ちで見やった。

 「まさか、気づいてないとか仰らないでしょう」

 「仰りません」健やかな短髪をかきまわしながら、トウマは身を屈めた。「仰りませんけど、でも自信もないっていうか」

 「あー」

 「いやさ、だって俺別に何かスゴイわけでもないし。正直、マスターとしても微妙っていうか」

 決まり悪そうな苦笑い。拾い上げた植物の種子を指で弄ぶ少年は、要するに、まだまだ子供なのだ。あるいは臆病。なるほどこれが主人公、と別に活用する当てもなさそうな脳内メモに記載する。

 「なんで俺なの、とは思うというか?」

 ほい、と放り投げる種子。放物線(アーチ)を描いたそれは、かさりと葉と擦れる音だけを小さく漏らした。

 「まぁでもちょっとわかる」

 「そう?」

 「いやなんといいますかな。拙者に寄ってくる奴らって、野郎も女もただ金と暴力を求めてきただけだったんだよなぁ~と言いますか。別にオレを恃みにしてくれるわけじゃあ無かったんだよなぁーなんて」 

 鬱蒼と茂る樹々の合間、まだ明るい青空を見上げる。

 金銀財宝を手に入れた。情婦だって両手で収まらないほどに居た。ともに船を並べた仲間もいた。

 さりとて、果たして真にエドワード・ティーチという人物の人となりを当てにした人間がどれほどいただろう。そういった思考にセンチメンタルを惹き起こすほどに、エドワード・ティーチは初心でもなければ純粋でもない。英霊の座に召し上げられてこの方、幼馴染系ヒロインというかそういう産物が居たらもっと良かったなぁと思う黒髭なのである。

 「それで、どこまで?」

 「え……?」

 「いやーだってサーヴァントだから。マスターさん、合法ですよ合法ロリ! これはやるっきゃねえ!」

 「えーと」

 「ホラホラホラ」

 「一緒に寝てるくらい……?」

 「もう攻略済みやんけ。あともうトゥルーエンドの最後のボテ腹CG見るばかりの段階やないですか」

 「いやその……あーでも手……は、繋いだかな?」

 「順番どうなってんの? いやっていうかやっぱ許せねぇなオイ! 純粋無垢な子犬みたいな振りして猛獣じゃねぇかってあばー!?」

 「トーマ、大丈夫?」

 「あっはい。大丈夫です。というか黒髭、大丈夫?」

 (タチバナ先輩、こちらの話は大体まとまりました……って何でまた黒髭さんが黒焦げに……?)



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間:カルデアの日々-無邪気-

 時は2015年、場所はフィニス・カルデアの管制室にて

 

 ロマニ・アーキマンは伸ばし放題にした柿色の髪をかき回すと、それはそれは大きなあくびを漏らした。

 「所長代理、休んでください。休むのも仕事ですよ」

 「あぁごめん、じゃあ任せる。なんかあったら呼んでね」

 オペレーターを務めるアメリカンアフリカンの女性の爽やかな笑顔に見送られ、ロマニはふらふらと管制室を後にする。目鼻立ちがくっきりしているだけに、なんというか気圧されるものがあった。

 所長代理。あくまでお飾りの肩書だが、それでもその職責は激甚だ。ある意味において、現地にレイシフトしている5人よりも重い。小心者のロマニには全く以て荷が勝つ話なのだが、一周回って気にしていない境地に至りつつある、今日この頃。

 リツカが言っていた。どうせ失敗したらそこで人類の未来は終わり。責任もくそも無い。これほど無責任な言葉もないが、だがそれも事実なのだ。ただの凡人に過ぎないにもかかわらず、死に物狂いでこの国連機関に潜り込んだロマニには在り得ない発想である。それを素直に頷くつもりもないけれど、さりとて、理のある言葉であるとも思う。まして、リツカが言うなら説得力がある……。

 まぁ、それでも。ふとした時に、凄まじい重責を思い出すと、気が狂いそうになるのだが。脳髄の奥底から鎌首を擡げ始めた不穏をさっさと無視したロマニは、一目散に医療区画へと向かった。  

 管制室から居住区画は相応に遠い。それよりも近場でベッドがある医務室の方が、小休憩を取るには手っ取り早い。それに、備え付けの冷蔵庫におはぎがあったはずだ。オフェリアの様子も見たいし、緑茶も淹れようかな、などと考えながら道を曲がった時だった。

 「おっと」

 「あぁごめん。てなんだ、休憩かい?」

 自分より一回り小さい人影が、こちらを見上げる。

 艶のいい黝い髪に、人為的なまでに端正な顔立ち。単なる外見ならば、なるほど美質に溢れた人物である。

 サーヴァント、レオナルド・ダ・ヴィンチ。万能の天才を標榜する男……男……? は、珍しく目元にクマができていた。

 「む、なんだその顔は。いやわかってる、全く不愉快だ」

 レオナルドは、酷く不機嫌そうに口を噤むと、いらいらと髪をかき回した。それでも髪がボサボサにならないのは、彼女の【天性の肉体】の為せる業か。逆に言えば彼女の疲労は、サーヴァントのスキルですらも防げないほどの証左でもあった。

 「神代回帰ってのは本当みたいだな。計器がバグってたのはそれだと思う」

 「オルテナウスの調整はまだいいんじゃないかな。そんな急なわけじゃあないんだろう?」

 「そうは言うけどね。真名もわからないままじゃあ、戦えるものも戦えないだろう。これまでだってかなりギリギリだったんだ。まぁ、今はいいけどさ」

 むす、と腕を組んだレオナルドは、思案気に壁に背を預けた。

 オルテナウス。デミ・サーヴァントの戦力化にあたり、当初考案されていた強化外骨格の名前だ。幸いと言うべきか、憑依するサーヴァントの好意でサーヴァント化が適っている今現在、不要となった装備でもあった。

 しかし、サーヴァントの真名が不明であり、それ故十全な戦闘ができない現状は、決して楽観視すべきではない。憑依されるサーヴァントがいつ退去するかも不明で、しかもそもそも論だが、シールダーという特性は、全天候での運用には向かないのだ。あらゆる環境下での戦闘が要求される特異点へのレイシフトを行うには、そもそもシールダーというクラスは適していないのだ。全領域で良好な戦闘能力を発揮するクロがいるからいいものの、シールダー1人ではあまりに頼りない。

 ならば答えは一つしかない。それが、レオナルド・ダ・ヴィンチの提案だった。

 「マシュも賛成してるしね」

 「クラスカードかぁ。本当に置換魔術なんてマイナーな魔術で英霊召喚を可能にしてるのかい?」

 ロマニは信じがたいように呟く。そうみたいだよ、と返すレオナルドも、若干半信半疑といった様子だ。

 偶然か、あるいは必然か。懐から取り出したタロットカードサイズのカードは2枚。鎖につながれた囚人のカードと、剣士のカード。それぞれ1枚ずつだ。

 「英霊の座に接続、英霊を自らの肉体に置換することで宝具・スキルを運用する……皮肉だけど、現象だけは安全なデミ・サーヴァントってところだ」

 「でも使えないんだろう、これ」

 渡されたカードをひらひらと翳してみる。剣士が描かれたカードの端が光を反射した。

 「というより、使い方がわからないって感じかなぁ。クロエに聞いてみた通りに使おうとしたけど全然使えなかった。この魔術礼装をそのまま使うのは無理だな」

 ひょい、とレオナルドはロマニの手からカードを摘まんだ。懐にカードをしまい直すと、「まぁ大丈夫さ」と口にした。

 「一応、当てがないわけじゃないし」

 「休める時に休んでおいてよ。君が居ないとホントヤバイから」

 「あいあい、わかってるよ」

 ひらひらと手を振るレオナルドの背を、ロマニはなんとも心細く見送る。魔術はともかく、機械には全く敏くないロマニにとり、レオナルド・ダ・ヴィンチの存在は大きい。いなかったらと思うと、ぞっとするものがある。

 柿色の髪を撫でまわしたロマニは、鼻息を吐いた。

 荒事に敏くないロマニには、オルテナウスが必要なのかどうか判断はつかない。ただ、レオナルドが提案し、リツカも賛成しているなら必要なものではあるのだろう、と思う。マシュも賛同しているのだから言うことはないはずなのだが、それでもロマニは、ちょっとだけ判断に困る。

 マシュ・キリエライト。ロマニがこのカルデアにやってきたころには誕生していた、気弱な少女。トチ狂った計画の為だけに産出された、人工生命。決して人を傷つけることなど好まない少女のことを思うと、ロマニは色々とふさぎ込むものがある。無論、それが個人的感傷に過ぎないことは重々承知している。人類を救う、という大義の前に、一個人の生命や趣向などあまりに些末事で、そんなことにかかずらうことが許されるのは幼児だけだ。だからロマニは露骨に批判することはしなかった。ただ控えめに、どうかなぁ? と主張するだけに留めていた。

 せめて、必要になることがなければいい。細やかなにそんなことを考えている合間に医務室に辿り着くと、ロマニはまず、ベッドに転がった。

 睡魔が這いずりだしてきたのは、すぐだった。特に抗う必然もなく、まとわりつく泥濘のような微睡みへと身を委ねていく……。

 

 他方。

 同時刻、フィニス・カルデア技研部の一画。

 レオナルド・ダ・ヴィンチは、拭いきれない疲労を感じながら、天井からつるされた円錐形の模型、空を飛ぶための機械の模型をぼんやりと眺める。

 が、実のところ、見ているのは虚空である。遠い世界を流し見るような胡乱な眼差しの先、レオナルドは重たい嘆息を吐く。

 本来、彼あるいは彼女は、そういった陰険さとは無縁である。明朗快活、すっきりした人格は、なるほど万能の天才の名を否が応でも感じさせるものがある。にも拘らず、嘆息混じりに、ぐで~とデスクにだらける様はただの凡夫である。疲労にやつれた凡人の振舞は、全くレオナルド・ダ・ヴィンチらしからぬものだった。

 無論、それには理由がある。理由は主に3つ。技術的難題の存在と、その解決策の倫理的課題と、そして最後もやはり倫理的課題……というよりは、人倫に関する課題だ。

 ロマニが、マシュに戦わせたがらない理由はレオナルドもよくわかる。むしろ、ロマニと揃って先々代の所長……マリスビリーを論難したのは、レオナルド自身なのだ。それを、マリスビリーの遺物を使ってマシュに戦わせようなどと。彼あるいは彼女自身にも、当然葛藤はある。 

 だが、マシュは他の誰でもない、マシュ自身なのだ。戦う意思を……敵を打ち倒す意思を持とうとしているのは、他人に強制されてのことではないのだ。彼女自身が、彼女自身のために、剣を摂ろうとしている。それを批判する術は、少なくとも今のレオナルドにはなかった。ロマニもそれを自覚しているが故、控えめな自己主張しかしないのだろう。

 それも、彼女の影響なのだろう。オルガマリーの助手を務め、Aチームの戦術顧問を担うはずだった赤銅色の髪を一つ結びにした少女、藤丸立華。デイビット・ゼム・ヴォイドに引き連れられて伝承科(ブリシサン)から天文科(アニムスフィア)にやってきた、凡夫。魔術に関しては素人に毛が生えた程度だが、こと戦うことにおいてはキリシュタリアやデイビットに比肩する怪物。もし現代に戦神がいるのなら、間違いなくリツカはその化神だろう。

 そんなものに、マシュは憧れてしまったのだ。ならば自らの弱さを超えて剣を手に取るのは必然で。リツカの手足に相応しい強さを求めるのは、やはり、自然なのだ。

───そういう葛藤には、実はケリがついている。可愛い子には旅をさせなきゃいけないと、レオナルドは知っている。自らの境界線を越えて、素晴らしい旅(ビューティフル・ジャーニー)をする義務が、ヒトにはあるのだから。

 (じゃあ、もう結論は出てるじゃないか)

───その声は、全く以て不意に訪れた。

 いや、あるいはそれも予期していたのか。

 逡巡、一瞬。虚空から視線をずらしたレオナルドは、酷く緩慢な動作で立ち上がった。

 (もう結論は出てるんだろう? クラスカードの技術的転用による全領域対応型統合戦術強化外骨格、《オルテナウス・ストライク》の開発。その難点である情報統合管制システム……『ナラティブ』の解決方法は、もうわかっているはずさ。第一、何のためにクロエちゃんに協力してもらってるんだい。遊びでやってるとでも?)

 内心に呟く声。ハイドロスピーカー越しの、酷くノイズ混じりの声にも関わらず、レオナルドはその声が孕む奇妙な羨望を感じないわけにはいかなかった。

 レオナルドは沈黙のまま、私室の奥へと向かう。途中、20桁のパスワードを入力し、指紋・網膜認証を経た後に開いた扉を潜ると、(やあ)と気さくな声がレオナルドを招いた。

 此処に来ることは、ほとんど無い。感傷でもなんでもなく、まだそれは実験段階にすら満たない状態だったから。

 狭い部屋の奥。巨大な試験管を思わせる培養槽の中、ふわふわと、それは酷く間の抜けたように浮かんでいる。

 (むー、こんな状態で放置しているのは君じゃあないか。ちょっと恥ずかしんだよ、これ)

 言葉に合わせ、チカチカとLEDライトが明滅する。いや、逆か。光の明滅はふんわりと水中を泳ぐ臓器の電気信号を捉えるサインであり、それをもとに言語化されているのだから。

 「ごめんごめん」

 (いいかい、今の私は裸体みたいなもんなんだぞ)

 いかにも抗議するような口調を発する臓器───液中に浮かぶ脳髄と脊椎は、なんだか子供みたいに抗議している。そんな様に、レオナルドはただただ苦笑を返すしかなかった。

 「というか、君だって最もらしいこと言ってるけど。要するに、外に行ってみたいってだけだろう?」

 (もちろんそうさ!)

 「素直な奴」

 レオナルドは、培養槽へと手を伸ばす。強化プラスチックの向こうに居る脳みその表情は当然不明だけれど、それでもきっと、期待に満ちた眼差しをしているに違いない。レオナルド・ダ・ヴィンチも、子供の頃はそうやって未知なる世界に万感の期待を委ねていたのだから。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蠱毒のアマリリスⅠ

 レイシフト当日

 PM18:46

 

 群生するかのように点在する嶼の一つ。

 広さにして2㎢に満たない小島は、小ささに反して切り立った海岸に囲まれた峻厳な島である。

 ほとんど岩塊をより合わせたみたいな風体の島には、海風に強い海浜植物が蝟のように突き立っている。

 その他、生物の気配はない。何処かから運ばれた虫や鳥が散見されるだけの、寂しい島。無論人間などいるはずもなく、またその居住性の悪さから、反アルゴノーツのサーヴァントたちの活動拠点も存在しない。

 にも拘らず、その時だけは様子が違った。

 一羽、木に足を止めたウミネコは、眼下に黒い鳥を見つけた。

 大きな、鳥。醜いほどに黒い、家鴨の雛のような鳥である。小さく蹲る姿は痛々しくもあり、実際のところ、その鳥は酷く傷ついているように見えた。地面に、赤黒い液体が散らされている。

 ひょい、とウミネコは鳥の近くに飛び降りた。翼を器用に動かしスピードブレーキにし、一挙に減速。揚力を漸減させながら舞い降りる様は、軽やかだ。

そうして、白いウミネコは黒鳥の頭へと飛び乗る。覗き込むように顔を伺うと、明敏な不機嫌さが見返した。

 「触らないで。今、私、不機嫌なの」

 振り払うように頭を振る、黒い家鴨。ウミネコは一度翼をばたつかせて木の枝に飛び乗ったが、それでも、もう一度家鴨の元へと舞い降りた。

 「さっさとどかないと鳥刺しにするわよ」

 じろり。

 鋭い血濡れの視線は、彼岸花(アマリリス)を思わせる。白いウミネコは思わず気圧されたが、それでも今度はどかずに、むしろその大きな鳥の懐へと飛び降りた。苛立たし気な嘆息。睥睨の一瞥は相変わらずだが、特段暴力に訴える様子もない。自分の大腿部の上をちょこちょこ動き回るウミネコに対して、何かを害する気はないらしい。

 というより、それだけの気力すらないというべきか。何にせよ害意がないと理解したウミネコは、があがあ、とやかましく鳴いた。

 「煩いわね。ホント、こんな身体じゃなかったら八つ裂きにしてるところよ?」

 ぎゃあ、と呻く白い鳥。小さく笑って見せた黒鳥が手を伸ばす。

 軽く、小さな頭を撫でつける手。ぎこちなく蠢くような指の動きは、凍てついているかのよう。端的に不快な手触りに抗議の叫喚をあげると、彼女もやはり不愉快そうに手を放した。

 「まぁでもいいわ。人間と違って気持ち悪くないし」

 罅割れたような声は、苦悶が漏れたかのようだった。顔覗き込むウミネコの素振りをはねつけるでもなく、黒い雛は「気持ち悪い世界」と痰のような言葉を吐いた。

 同時。

 けほ、と咳き込む。空咳と一緒に吐き出した黝い血に塊がべたりと雛の黒翼にへばりついた。

 「もう、汚い」

 苛立たし気にそこいらの葉っぱをむしり取り、削ぐように擦り落とす。滑稽なまでの偏執な身振りは、少なからず野生の生物であるウミネコには理解しがたいものではあった。

 と、雛は弱弱しく立ち上がった。

 深い海原を思わせる目が向く先、暗い帳の堕ちた海際に、何かが閃く。舌を打つ彼女の表情の峻烈さは、これまでの比ではない。

 「しつこい連中ね」

 鋭利な敵意。殺意にまで収束する眼差し。それは決して獣の論理ではなく、強烈な我意なせる人間の業。

 「行きなさい。じゃないと私と一緒に死ぬわよ」

 情など一切ない、冷ややかな一瞥だった。応ずるように一度啼いた海鳥は、ぱたぱたと走りながら、崖から飛び降りる。

 巻き上げる海風。広げた翼で揚力を掴み取ると、白い躯体は瞬く間に空へと飛翔する。

 ほんの束の間、歴史には決して何の影響も及ぼさない細やかな邂逅。

 最後に彼が見たのは、地を翔ける猛禽の姿だった。

 

 

 「おめぇらうるせえぞ! もう少し静かにできねぇのか!」

 怒髪天といったような叫声。びくつくように肩を震わせた海賊……正確には海賊の妄念たちは、小さく声を漏らしながらも忙しなく船上を駆けまわっている。

 「あーしてると、なんかまともな海賊って気がするわね」

 船の隅、小さく丸くなるクロの声は辛辣さ半分呆れが半分といった感じだ。「まぁ確かに」と応えるトウマも内心はさして変わらなかった。

 帆走フリゲート艦、『アン女王の復讐号(クイーン・アンズ・リベンジ)』。17世紀のカリブ海を荒らしたガレー船は、反英雄エドワード・ティーチの宝具だ。

分類としては、常時発動型の宝具に相当する。総数24の砲門による斉射の火力は尋常でなく、事実本特異点での戦闘では大型の幻想種───あのレルネーのヒュドラを撃破したのは、このみょうちきりんなサーヴァントの宝具であると言う。

 「あの時は喝さいもんでしたよ。正直、アルゴノーツのサーヴァント相手にいつもしてやられてましたからね。あ、これどうぞ」

 世話係を務める亡霊1人は、晴れがましく言う。恐怖政治を敷いていたと思われがちだが、実際のところはその粗野に見合っただけのカリスマを兼ね備えたというところか。

 「これ何?」

 「はぁ、サプリメント……とか言ったような気が。なんでもビタミンC? とかいう栄養を補給するものだそうで。疲れた時なんかいいですよ、酸っぱくて」

 手渡されたそれは、ぱっと見錠剤だ。三角形で真ん中にCの掘り文字がある様は、妙な既視感を覚えるが。

 「医神先生からいただいたんでさぁ。なんでも船旅にはビタミンCを摂れとか言われましてね。あたしら亡霊なんですがねえ」

 「医神……て」

 「へえ、アスクレピオス先生です。今はケイローン先生が作ってくれてますがね」

 思わず、トウマはクロと目を合わせた。

 医神、アスクレピオス。その名を知らぬものはいまい、古代ギリシャに名高き医術の徒であり、その卓越した手腕だけで神の座を戴いた人物だ。極まった医学の才は死者蘇生まで可能にしたと言うほどで、アスクレピオスの杖は医学の象徴にすらなっている。

 そして、ケイローン。粗暴なケンタウロスの中にあり、百科専般と呼ぶにふさわしい多才を極めたギリシャの賢者。Fate/Apocryphaの”黒のアーチャー”、と言う方が、トウマとしてはなじみ深い。

 だが、彼らはそれこそ神代ギリシャの英雄たちではなかった。しかもアスクレピオスはアルゴー船に乗り込んだ1人。ケイローンはアルゴー船にこそ乗っていないが、乗組員の多くを育て上げた、言わば師と呼ぶに相応しい人ではないか。そんな英雄たちが、味方に居る、ということなのか。

 敵も、一枚岩ではないということか。未だ戦ってすらいない───あるいは本当に敵かどうかすらわからないサーヴァントの姿を夢想して、トウマはぞわりと身体を震わせた。

 「医神先生はもういないの?」

 「第7拠点攻防戦の時に敵のサーヴァントにやられちまって。あんなデカブツには流石に敵いませんで」

 「デカブツって」

 「ヘラクレス、だって」

 と、声が頭頂を突いた。

 顔を上げると、どこかぎこちない顔立ちをした赤銅色の髪の少女……藤丸立華の顔があった。

 というか、なんか顔色が悪い気がする。うぷ、と口元を抑えながら、リツカは「さっきコロンブスに聞いた」とひ弱そうに声を漏らした。

 「アルゴノーツのサーヴァントに居るらしいよ。かの大英雄、ヘラクレスが」

 ヘラクレス。特異点冬木でも遭遇した、最強のサーヴァント。

 あの瞬間が、脳裏を過る。闇夜の中に蠢く腐肉のような黒体。暴風そのものと言って良い。クロはなんとかあれを倒してみせたが、それでもギリギリだった。

 ……事実、あの時の戦闘でクロは左半身をまるごと抉られた。サーヴァントでなければ即死しかねないほどの重傷を、負わせてしまった。

 「どしたの、トーマ?」

 きょとんとした顔のクロ。いや、としか応えられなかったトウマは、ただただ黒い短髪をかき回した。

 ……むにっ。

 「あひゃ!? って何?」

 「んー別に」むにむに、と頬を摘まんだクロは、小悪魔っぽい媚笑をくゆらせた。「かわいいなーと思っただけ」

 「そう、かな?」

 酷く間抜けな返答をしたトウマに、クロは満足気な様子だ。よしよしと頭を撫でつける姿に、ただただトウマは火を噴くほどに顔を真っ赤にした。

 ……なんというか、クロは大分大人だと思う。サーヴァントは全盛期の姿で召喚され、精神性は比較的身体性に寄るのではなかったのか。いや、自分の精神性が女子小学生以下ということか……?

 若干の疑問符を頭に浮かべながらも、トウマはただクロの頭部マッサージに身を委ねることにした。心情、恥ずかしさが3割だったが、妙な心地よさが4割だったのである。残り3割は―――照れだろうか。志向性が明敏になった格率を、トウマは理解していた。ある種の、浅ましさである。

 「クロちゃんとトウマ君ならヘラクレスくらい大丈夫って伝えといたよ」

 「無理言うわねリツカ……」

 「後は誰居るって言ったかな、オ、オデ、オデュ……オ、オエェェ!」

 「汚ねぇ!?」

 「大丈夫ですかい」

 「いや船酔いがやばくて」

 「あぁそれはいけませんね。酔い止めの薬とポ〇リ持ってきますわ」

 「〇カリあるんだ……」

 「へえ、医神先生が」

 すっかり顔を青くしたリツカはぐたりと座り込んだ。吐物を海に撒き散らしたあたり冷静なのだろうが。

 口元のゲロだけは何とかした方が良いと思う。トウマが差し出したハンカチで口を拭うと、リツカは低く唸るように呻くだけだった。

 それにしても、リツカの具合の悪そうな様子は尋常ではない。うぷ、と肩を揺らしては、リツカはふらふらと頭を揺らした。

 「お、オ……」

 「袋、エチケット袋!」

 「え、ト、投影(トレース)

 「オデュッセウス!」

 「ゲロじゃないんかい」

 「オェ」

 「開始(オン)!───はいこれ!」

 「オエー!」

 「ゲロなんかい」

 鳥みたいな悲鳴とともに吐物を盛大にぶちまけると、多少、リツカは落ち着いたらしい。ため息交じりに深い息を吐くと、「中々大変な敵だね」と他人事に言った。

 オデュッセウス。英傑ぞろいの古代ギリシャにあり、名軍師の名を恣にする名うての知将。アルゴー船の旅の他、己の名を冠する貴種流離譚、イリアスの『オデュッセイア』に登場する英雄だ。

 「後4人居るって言ってたかな。いやあ、とんでもない強敵じゃあないか」

 「離反者からの情報ってわけ?」

 「それと内通者もいるんだって。あ、ポカ〇どうも。」

 「本当に〇カリあるのか……」

 まずは水を一口。錠剤をのみ込むと、リツカはコップに並々注がれた電解質補給用の清涼飲料水を凄まじい勢いで飲み干した。

 「もう一杯飲みますかい」

 「あーごめん、頼みます」

 「それで、勝ち目はありそうなの?」

 「さぁ」

 倉庫に向かう若手の亡霊を見送ったリツカの声は、いつも通り覇気もなにもあったものではない。

 大らかだけれど、泰然自若というわけでもない。纏う、ぽわぽわした空気。それこそ地方国立大学の腑抜けた大学生、といった印象が一番しっくりくる。少なからず、戦場などという血の気の多い場所とは全く不似合いだ。

 立華藤丸が、ある種最も尊敬する人物。その胆力は尋常でなく、判断力は剃刀のよう。魔術はさして得手ではないらしいが、それでもトウマにとっては、あらゆる面で優れた人物であることに疑う余地はない。

 「ヘラクレスはクロちゃんとトウマ君でなんとかするとして。オデュッセウスもまあなんとかなる」

 「スゴイ台詞」

 「向こうは1人でしょ? こっちはライネスちゃんと私の2人がいるわけだし、単純な数の比較。あとは向こうの戦力とこっちの戦力次第」

 ごく自然に、リツカは言ってのけて見せる。間延びしたような顔をしながら、リツカは一つ結びにした髪をかき回した。

 「まぁ、なんとかなる」

 「なんとかならなかったら?」

 呆れすらなく目を丸くするクロに、リツカはただにへら、と笑みを返した。

 「頭をかいて、ゴマかすよ」

 クロと、目を合わせる。

 相も変わらずの表情を浮かべるリツカ。その曖昧な輪郭の顔に奇妙な安心感を覚えながらも、いや、だからこそと言うべきか。

 自分より3つしか違わないこの人は、一体、何者なのだろう?

 澱のようにたまる解答不在の疑問符。えも言えぬ感情を踏み砕いたのは、不意に迸った光軸の群れだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蠱毒のアマリリスⅡ

数分前

アルゴー船船上

 

アーチャー、アタランテはその時、不気味なまでの闃然のただ中に居た。

無風の凪。雲間から差し込む月の光は壮麗かつ耽美な美質を孕み、大海を舞うように踊っている。

普段の彼女であれば、その光景に空を仰いだことだろう。彼女が信仰する月の女神アルテミスへと祈りを捧げ、粛然としたはずである。

だが、その時彼女はただ目を伏せるばかりだった。あるいは、それは逃避的な仕草ですらあっただろうか。彼女の胸郭を占める情動のほとんどは、はしたない不純物と化した自己への嫌悪感である。僅かに残った知性もほとんどは後悔と陰険さだけを志向し、全く以て彼女らしくない有り様だった。

「どうした」

「いや」

硬質な声が耳朶を打つ。全身を黒い甲冑に身を包んだ男───オデュッセウスの声色には、一切たりとも情動が籠っていない。元より犀利によって英霊の座に召し上げられた人間の内面性など、アタランテには理解不可能な産物である。同じように硬質な声で応じると、アタランテは「心配は無用だ」とすげなく続けた。

 「気持ち一つで技倆が狂うほどに立派な腕ではないつもりだ」

 「ならいい」

 やはり、オデュッセウスの声は硬い。取り付く島もない苛烈さすら感じさせる声に、アタランテも鼻を鳴らすばかりだった。

 どちらも、人のことは言えたものではない。所詮は意地汚く過去に縋る阿呆、これならいっそカイニスかディオスクロイの方がまだマシというものだろう。ヘラクレスの高潔さに至っては、ただただ平服するしかない。

 だが、そのヘラクレスを利用しようとしているのは正しく自分達なのだ。神代へと還るなどという世迷言のために、その清廉を食い物にしようとしている。

 「時間だな」

 舳先へと立つオデュッセウス。掲げる右手が合図で、アタランテは黙然と頷いた。

 構えるは天穹の弓、タウロポロス。月の女神より授かりし神弓の弦に小源より練り出したる魔力の矢を番えると、アタランテはその切っ先を天へと掲げた。

 「放て!」

 「『訴状の矢文(ボイポス・カタストロフェ)』!」

 弦から射出される矢、向かう先は遥かに果ての夜天。アタランテの視界にすら補足できない高度までを貫くや、星光の天がざわりと軋んだ。

 粟立つ星の光。満天を塗りつぶすほどに閃きが押し広がるや、闇夜にぽつりと浮かぶ小島へと閃光が屹立した。

 さながら流星雨。夥しいまでの光は、まさしく矢という他あるまい。無限にも等しいほどの光軸は、瞬く間に直径5㎢ほどの小さな島を焼き尽くした。

 「総員状況開始、敵性サーヴァントをここで撃破する。敵が神霊の類であることを忘れるな!」

 

 

 戦闘地点より南東2km

 陸上、離れ小島にて

 

 「視覚共有完了。そっちどう?」

 「目視確認完了。クロちゃん、ナイス」

 「ども。マシュとトーマは見えてる?」

 「はい、こちらは大丈夫です」

 ちらとくれる見上げる一瞥。うん、と返したトウマは、樹々の隙間からその光景を目にした。

 焼け野原と化した隣の小島で繰り広げられる閃光の交錯。3km離れているというのに響いてくる甲高い絶叫のような剣戟音。間違いなく、それは殺意の激突する騒めきに違い無い。

 クロとの視覚共有を行っていることもあってか、この長距離にも関わらずその光景は明瞭に見て取れる。襲い掛かる無数の霊体───いわゆる黒髭の率いる海賊の亡霊に類するもの、計30に相当する戦力で以て、ただの1騎に襲い掛かっている。

戦闘、というよりはむしろ狩りに近いような印象を受ける。数を恃みにした制圧戦とでも言うべき状態は、粗暴な殺し合いではなく知的な秩序によって統制された戦術行動そのものだ。英霊オデュッセウス。古代ギリシャに名高き知将。否が応もなく意識に昇る名前に、トウマは怖気を惹起させた。

 (データリンク共有完了。サーヴァント同士の戦闘と見て間違いないかと思います。その他霊体の数もそちらのマップとデータ共有終わっています、魔力計数からサーヴァントは2騎)

 マップに明滅する無数の光点(ブリップ)。オペレーターの女性の声は努めて落ち着き払っているが、却って事実の重大さを感じさせる。

 「ライネスちゃん、どう見る?」

 (半包囲か。一気に仕留めにかかるっていうよりも消耗戦に持ち込んでるって感じだと思うよ。右翼が突出しているのはちょっとわからないけど)

 カルデアとの通信とは別に、もう一つ映像通信ウィンドウが立ち上がる。

 『アン女王の復讐号(クイーン・アンズ・リベンジ)』船上、ライネスは、至って冷静な様子だ。ステータス上、根本的に戦闘には向かないことを考慮し、カルデアからの戦力を中心とする索敵班ではなく、ライネスは後方支援に徹することとなっていた。

 「ちょっとどれがサーヴァントかわからないわね」

 クロは舌打ち混じりに眉を潜める。乱戦であることに加えて何せ夜。煌々とする街中ならともかく、何分星と月しか光源がない状況ではいくらアーチャーの視界とて限度があるということか。

 「コロンブス。確認なんだけど、あのサーヴァントは仲間じゃないんだよね」

 「あぁ、こっちに誰か来るってのは聞いてねぇな」

 (はぐれのサーヴァント、ねぇ)

 どこか探るようなライネスの声。ふむ、頷くリツカも、眉間に皺こそ寄らないが思案気だ。

 「それで、どうする。死に物狂いのあちらさんには悪いが、ここは静観すべきだと思うんだが」

 「まぁ確かに」

 生返事をするリツカ。コロンブスの提案は簡単で、言ってみれば、あそこで戦っているサーヴァントを見殺しにした方が良い。そう言ってるのだ。

 当然と言えば、当然の思考。徒な戦闘をしかけても、リスクに対するリターンがあるとは確約できない。しかも敵は精強なアルゴノーツのサーヴァント。リスクの高さは言うに及ばずだ。もちろん、はぐれサーヴァントを味方に引き込む算段もあった上での発言だろう。クリストファー・コロンブス、船乗りとしての打算は人並み外れているはずだ。仲間に引き入れる可能性を加味した上で、ここは見捨てるべき。そう、言いたいわけだ。

 諦めた方が合理的。トウマは、それをちゃんと理解する。理解した上で、胸郭に浮かんだ引き絞るような情動に顔を顰めた時だった。

 明滅する光芒。奇妙な球形の物体へと襲い掛かる姿は、鳥を思わせる。飛翔からのパワーダイブでもって得物を斬殺する姿が、空高き猛禽を想起させよう。だが何故だろう、その姿に不気味な優雅さが宿る。

 刹那に浮かんだ姿は白鳥。だが白鳥というにはあまりに禍々しく。何よりも、酷く、耽美なほどに醜く───。

「あ、ちょっと見えた───てトーマ?」

「あのリツカさん、やっぱり助けに行くのって難しいですかね?」

「ふむ。じゃあ助けよう」

「ですよね、やっぱ……ってあれ?」

 見返す、リツカの目。逡巡すら無く応えたリツカの顔には、何らの恐れもなく、そうしてただ端的な事実を捕捉しただけの目が、勇躍と閃いていた。

 「トウマ君の勘が助けた方良いって思ってるわけでしょ。なら行った方が良い。トウマ君の勘は信頼できる。多分」

 頷きを一つ。ならばと思考を加速させるリツカの姿に感ずべき情動は捉えどころなく、トウマは思わず唇を噛みしめた。

 尊敬、畏怖? 何にせよ思うのは、自分と3つしか違わないはずの女性の、底知れずに揺れることもない強靭な精神への歯痒さだった。

 「いやでもよ、あいつらと戦うのはちと難儀するぜ?」

 「負ける戦いができるほど、私たちは裕福じゃあないつもりだよ」表情一つ変えずに言うと、リツカは言葉を続けた。「ライネスちゃんの見立てを。1分以内にいける?」

 (30秒で考える。だからそれ以内に動ける支度をしてくれ)

 「いや、えっと」

 (戦略的意義を今更論じなければいけないほど、君は間抜けじゃないだろう? 意義があると見做したから次は摂るべき戦術を考えると言ってるんだよ)

 「あー。うん、ごめん」

 リツカは少しだけ、照れたように顔を赤くした。気散じのように一つ結びにした側頭部の一房をかき回すと、「まぁそうだよなぁ」と、侘し気に声を漏らした。

 「マジで殺るのか」

 「いやそんな過激なもんじゃあないけど……」

 言うや、リツカはちょっとだけ思案気に小首を傾げた。

 「敵がオデュッセウスなら、この戦いは勝てるよ。多分ね」




なんかいつも申している気がしておりますが、感想や誤字脱字の報告などございましたらお気兼ねなくご連絡くださいまし


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蠱毒のアマリリスⅢ

 (よし、じゃあさっき伝えた内容は忘れないように。現場レベルでの判断はリツカに任せるから)

 「はいはい。それじゃあ動くよ、みんな」

 動き出す2騎と2人。指示内容を想起したクロは他4人に遅れて動きながらも、まずもってトウマに声をかけた。

 「大役ね」

 「お、おお……うん」

 身震い一つ。子供みたいに震える姿は、状況さえこんなでなければ、ちょっとかわいいと思う。

 「魔術回路を拓くときのイメージ、大丈夫?」

 「大丈夫、ばっちし」

 頷いて見せるトウマ。全く魔術の無い世界───並行世界かすら怪しい、主幹を別とする異世界───から来ただけあって、当然魔術に関してはズブの素人だ。クロも魔術全般に明るいわけではないけれど、それでもアインツベルンが用意した最高傑作であることに違いはない。単純な魔術回路の量であれば、神代の魔術師(メイガス)にも比肩するクロにしてみれば、トウマなど赤子程度のものだろう。

 「強化の手順とかも大丈夫よね」

 「うぬ」

 「じゃあ行ってらっしゃい。頑張ってね」

 応えるトウマの声は軽い。突き出す拳に拳を返すと、身長170cmの少年は一目散に走り出した。

 さて、と息を吐く。

 相手は神代の英霊。

 クロに戦いに猛る気質の持ち合わせは一切無く、怜悧な雀鷹のような眼差しは強敵を前に練り上げる闘気のみ。脳内に描く剣に表徴の綻びなく、一秒後には完全な形を以てこの手に現れよう。

 「投影、開始(トレース・オン)

 一節を言祝ぐ。現出する太古の真剣。同時に左手に現れる黒い洋弓に剣を番えたクロは、酸化銅の被膜の目に得物を捕捉する。

 張り詰める弦。今か今かと解放を待つ剣。既にそこに射手はなく、また弓もなし。唯一つの戦争機械へと昇華されたクロの想念は、最早無我であった。

 であれば、その時浮かんだ言葉は雑念の類ではないはずだった。あるいはそれは歴運する運命の予感か。

 トウマが口走った、その名前は。

 「───メルトリリス?」

 甘く、犯される(蕩ける)ような名前だ、と思った。

 

 ※

 

 カイニスにとって、“神”とは度し難い戯けである。

 カイニスは、元は美しき乙女であったという。数多の男が言いよるほどの美質を備えた彼女は神によって辱められ、そうして不死身の男と成った。神を憎むは、ごく真っ当な論理的帰結と言えよう。

 そんなカイニスにとり、もう一つ度し難いものがある。それはいわゆる、女性性と呼ばれるジェンダーである。

 女とは力無きもの。弱きもの。略取されるもの。嬲られるもの。犯されるもの。カイニスにとっては神に次いで怖気が走るものであり、度し難く我慢ならない痴態である。

 神と、女性性。改めて、それらがカイニスという英霊にとって許容しがたい悪質、2点である。

 だから、それは当然の反感だった。

 目前に屹立してみせるサーヴァントの如きもの。神霊を形に不気味な形質を持つ女など、カイニスが手ずからブチ殺さなければならない存在者だった。

 「───いい加減にくたばりやがれェ!」

 振るう三叉矛(トライデント)の斬撃を皮一枚で躱して見せる。返す薙ぎ払いは上体を背後に逸らして躱し、盾の殴打はするりと踊るようにやり過ごす。反撃とばかりに繰り出される魔剣の蹴り斬りは異様とも呼べる鋭利さで、クソ忌々しい海神の加護が無ければ綺麗に首を落とされるだろう。ひやりと背筋を凍らせながらも、だがそれゆえにカイニスは凄絶に顔を歪めるばかりだった。

 名も知らぬ神霊。いや、神霊をつぎはぎした異形の化け物。殺したらさぞすっきりするだろう得物を前にした、それは悪鳥(フェネクス)の嗤笑だった。

 球形の機体が敵サーヴァントに肉薄する。殺戮機構、だかいうオデュッセウスが用意した木偶の坊だ。サーヴァントすら相手取るだけの力量があるが、この敵を相手取るには聊か弱い。魔剣の連撃で瞬く間に切り刻まれ、一瞬にして爆炎に咀嚼されていった。

 だが、それこそ隙。爆散の炎を影に魔力放出で以て一挙に相対距離を0にするや、トライデントの刺突を見舞う。

 渾身の一打。ランサークラスに相応しいAランクの敏捷値から繰り出される、筋力Aの打撃はそれだけで宝具に迫る。咄嗟に振り下ろした魔剣の斬撃すら貫き、か細い体躯はまるで風に煽られた野花のように吹き飛んで、痩身の躯体は焼け落ちた大樹に激突した。

 ぐちゃ、という音が耳朶を打つ。生身の人間なら間違いなく粗びきミンチになっているだろうほどの衝撃、サーヴァントとて平然とはしていまい。得意げに鼻を鳴らしたカイニスは、地面に淀む女を嗤うように睥睨した。

 「女神ハンバーグのハッピーセット野郎。ここまで随分手こずらせてくれたじゃねぇか」

 カイニスの躯体に傷はない。いや、そもそも彼は特異点ここに至り、未だ傷を負っていない。これまで海賊のサーヴァントを屠り、造反したサーヴァントを誅殺したが、その時とて傷は追わなかった。無論、この不愉快な怪物を相手にしても、だ。

 他方。

 無言のままカイニスを睨みつける神霊のサーヴァントは、全身無事なところはない。病的に白い肌は赤黒い血で汚れ、荒い息遣いは、肺ごと胸を貫かれた女の精一杯の呼吸だった。

 「遺言くらいは聞いてやるよ。ムカつくが、お前の肉の欠片はオレたちの世界のもんだからな」

 「───」

 「あ?」

 「せっかくだからあのアーチャーに止めを刺して欲しい、って言ったのよ。アナタみたいな筋肉馬鹿の癖に顔だけは可愛らしい醜い女じゃなくて、プリマの似合いそうなあのアーチャーにね」

 酷く、間の抜けた音だった。振り下ろしたトライデントの矛先はあっさりと敵サーヴァントのエーテル体を抉った。

 脾臓肝臓膵臓まとめて抉り出し、もう片方の肺すら貫く。ぶしゅ、と小気味よく噴水のように噴き出した鮮血は、花みたいだった。

 「化け物の癖にご立派に赤い血でいやがる。ひ弱な人間のフリとは良い趣味してるぜ」

 槍を振るう。穂先にぶら下がっていた臓器を払い落としたカイニスは、再度槍を掲げた。

 「じゃあな。これで」

 (カイニス! 上だ!)

 不意に耳朶を打つ激声。叱咤にも似たオデュッセウスの声に顔を上げるのと、ほぼ同時、視界に何かが飛び込んだ。

 自分目掛けて真っ逆さまに墜落する金属の塊。瞬時に事態を理解したカイニスは獣染みた笑みを浮かべるや、自らに迫りくる砲弾めがけて槍を叩きつけた。

 「野盗風情が! このカイニス様に逆らうなんて2000年ははえーんだよ……っ!?」

 振り抜いた槍は一文字に砲弾を両断するはずだった。

 はずだったのに、砲弾が炸裂したのはカイニスが槍を振り抜くより一瞬早かった。

 推し広がる爆炎。白煙混じりの炎が連続して炸裂すると同時、甲高い金属音と閃光が膨れ上がった。

 炸裂高度が高い。それにこの状況───狙いは砲撃での斉射じゃない。しかもオデュッセウスとの通信すら途絶。魔力の遮断すら伴う五感の喪失。

 一瞬にして危機的状況を悟ったのは流石に歴戦の戦士であっただろう。背後で慌てふためく竜牙兵の群れに、カイニスは苛立ちそのものといってすらいい一瞥を叩きつけた。

 「慌てんじゃねぇ! これから強襲が……」

 「そういう割には!」

 白煙を切り裂く、それは巨大な城壁。そうとしか言いようがないほどの、視界を埋め尽くすほどの威容だった。それでもカイニスが反撃を繰り出したのは、やはり彼が相応の武勇に長けた英雄であったからに違いない。

Aランクの筋力値から繰り出される攻撃。宝具にも比肩する刺突を、けれど。

 「脇ががら空きです!」

 その盾は、正面から、あっさりと打ち砕いた。

 「宝具展開準備完了、軌道補正修正完了。打撃、今!」

 視界が潰れた。

 「疑似展開、『人理の礎(ロード・カルデアス)』!」

 そう思うほどの衝撃だった。ギャア、と轢死したヒキガエルのような悲鳴とともに、カイニスは毬となって殴り飛ばされていった。

 

 ※

 

 数分前。

 戦闘地点より南東、7km地点。

 アン女王の復讐号(クイーン・アンズ・リベンジ)の左舷、甲板上。ライネス・エルメロイ・アーチゾルテは、おののく程の闃然の中に居た。

 海賊船だというのに、死んだように静まり返る周囲。高静粛状態を維持しながら、ただ一声を待つ様は善く統率された軍隊を想起させよう。

 (アーチャーとの戦術データリンク共有完了。いつでも行けます)

 赫焉の目。燃えるような眼差しのまま、ライネスは緩慢にも思える挙動で右手を掲げる。

 ───司馬懿の依代たるライネスは、元来さして魔術を得手としていたわけではない。というよりも、どちらかと言えば並より上程度の才能しかない。善くて下の上ほどしかない義兄に比べればマシだが、それでも名家の次期ロードと言うにはあまりに量・質ともに粗末な魔術回路しかなかったのも事実である。

 だが、彼女はある一点において極めて卓抜する。その才の高さ、『冠位(グランド)』にこそ届かねども、『色位(ブランド)』には手が届く。

 それこそは、超精密とすら呼べる繊細な魔術式の運用。自他の小源(オド)の流れから大気に浮かぶ大源(マナ)の動きを視認する魔眼を併用して行われる彼女の魔術運用の正確さは、言語を絶する。最も本人の魔術師としての才能が左程でもない故に持て余しがちな才能でもあったのも、事実である。

今回のそれは、いわばそれの応用だった。

 「仰角7度。弾道補正完了、撃て(ファイア)!」

 振り下ろされる彼女の右手。それが怒号の合図だった。

 計20門を超える砲塔が一斉に火焔を吐き出した。

 本来、エドワード・ティーチの宝具『アン女王の復讐号』による斉射はつるべ撃ちによる火力での圧倒こそ本領であり、敵に対して的確に砲撃を撃ち込むことは得手ではない。

 だが、彼女の才。魔眼と併用して発揮される細密な宝具運用に加え、クロの【千里眼】との戦術データリンクを兼ねた、その砲撃は、最早、狙撃と呼ぶに相応しいだけの精度に達していた。

 およそ10門の砲から発せられた砲弾は上空20mで炸裂。金属片を撒き散らして竜牙兵を圧殺すると同時、白煙が瞬く間に押し広げていく。さらに作用する対魔術用の妨害作用をも兼ねた魔術が作動し、その一帯はこの瞬間、完全に絶世へと変貌した。

 さらに10門。着弾と同時に炸裂した砲弾は地表の竜牙兵を一瞬にして爆殺し、瞬く間に右翼に展開していた30の竜牙兵、そのうちの1/3を破砕した。

 束の間、敵を圧倒した。だがこの状況、そう長くはもたないだろう。敵は神代の英雄。この程度の状況、2分もあれば対応するに相違ない。だが、それで十分。2分もあれば、勝ちきれる。

 確信というよりは予測。それも高度な蓋然性を担保した、予測。司馬懿の知悉より導き出した解答、その最初の一手が正しく作用したことを確認したライネスは、背後の海賊たちへと声を張り上げた。

 「船を出そうか。ボートの回収も用意しておいて」

 「了解! いやあ新鮮ですなぁ、参謀が居るって♡」

 「……そのキモい顔、やめていただこう。私の主様が大変ご不興なのでな」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蠱毒のアマリリスⅣ

 黒衣のサーヴァント。踵の魔剣携えし、黒狼の如き烏の現身、魔性の怪物。

 その銘を、メルトリリス、と言う。

 この世界とは主幹を同じにしながら、大きくかけ離れた異なる例外の果て。喪失したはずの淵源もろともに、彼女は消尽したはずだった、のに。

 咳き込み、一つ。げほ、という渇音とともに零れた真紅が、病的に青白い肌を汚していく。損傷個所は多い。いや、無事なところがあるかどうか。最も激甚な損傷は、たった今穿たれた右腹部。抉られた左肺も致命的。

 第五架空要素、エーテルで構成されるサーヴァントに取り、呼吸は重要な要素を占める。大気中の大源(マナ)を身体に取り込み、自らの小源(オド)へと折り畳む基本的な魔力運用に障害が発生する。無論、それだけのプロセスで魔力を生成しているわけではない。むしろ、呼吸における魔力供給は言ってしまえば下駄に近い。本来であれば、全ての魔力運用の始動因(イグニッションキー)になるマスターからの魔力供給こそが重要だが、逆説的に言えばはぐれのサーヴァントにとっては呼気こそ必須。それ以外なら粘膜接触による魔力供給をするくらいだが、それこそ当てがない。

 いや、当てがあってもそんな不快なことなどしてやるもんか。もしそれを赦すなら、相手はあの人しか居ないはずで……。

 ……なんだったかしら、それって。

 微かに、罅割れるような記憶。全身の激痛とともに吹き飛んだ記録の残骸(カス)は後も引かず、ただただメルトリリスは不自由な身体に苛立ちを募らせるばかりだ。

 無様だな、と思う。いつの間にかこんなわけのわからない場所に呼び出され、気が付いたら狩りの対象。何騎かギリシャの下等種(サーヴァント)を斬り殺したが、だからと言って何か感ずるところのない殺戮でしかなかった。そうして無感動な殺戮の後は、このくだらない結末だ。

 本当に、この生の意味は何なのだろう。ふわりと浮かんだ思案のいじらしさは恐ろしいほどに不快且つ切なく、メルトリリスは酷く呆気なく自我を放り捨てた。

 はず、だった。

 「うわ……酷いなこれ───オエッ」

 誰かの声が、耳朶を、打った。

 耳障りなヒト種の声。聞き心地などあったものではない、それは雑音のようなものだ。おえ、と言いたいのは私である。

 「えーと……聞こえる、大丈夫!? 大丈夫かな! 手は感覚鈍いんだっけ」

 何度か両手の爪先をつねったかと思うと、今度はばしばし、と頬を張る。衝撃としてはさほどではない。むしろ、彼女にとってはただただ不快を募らせるだけだった。

 本当に、酷く不快。放り捨てたはずの自我が、じわじわと軋みを挙げながら再臨するかのようだ。

 「落ち着け落ち着け。手順書展開して……ごめん、これ取る」

 もぞり、体躯に覆いかぶさる影。胸元の衣類をたくし上げた人影は、不躾に胸元をまさぐると、明らかに息を飲んだ様子だった。

 「両肺損傷───……霊核(心臓)まで───うっぇ」

 もう一度、その人影は嘔吐した。今度よりもずっと苦し気に、空になった胃を引き絞っているらしい。

 胃酸を絞り出すこと2秒。すっかり吐き出し終えたらしい人影が再度覆いかぶさってきた時、ぴしゃり、と何かが頬を打つ。既に何も感じなくなりつつある肌にじわりと沁みこむ一滴に、メルトリリスは、ようやく目を拓けた。

 彼女の身体に馴染む、水の感触。ぼんやりと開いた視界に飛び込んだのは、苦し気に目元を晴らした黒髪の少年の姿だった。

 一瞬記憶が()()()ついた。

 知らない、人間だ。と、思った。

 「こちらブラックサレナリード、処置完了。対象者の状態データ共有します。行けます。ここにいるのは危険だし。なるべく早く処置した方が」

 ごくり、と耳元で嚥下の音が耳朶を打った。一度両手で頬を打つと、少年は妙な掛け声とともに、メルトリリスの肩口と膝裏へと手を差し込んだ。

 「1、2、3、っと!」

 みしり、と身体が軋んだ。

 悲鳴を上げなかったのは、己の機能にそんな情けないものはついていなかったからだ。外見上はさして変わりはしなかったが、それでも実際のところ、メルトリリスは固着しはじめた自我が消し飛ぶかと思ったほどだった。

 「ごめん、かなり痛かったかな」

 抱きかかえる少年の声。彼女への発話というよりは自己へと言い聞かせるようだった。最も話しかけられたとて、応える気力すら残ってはいなかった。

 「離脱します! クロ、お願い」

 そうして、何事かを誰かに喋りかけると、少年は酷く鈍く走り出した。

 酷く遅い。いや、人間とはこのくらいの速度でしか動けないのか。生産されてこの方、複合神性(ハイ・サーヴァント)としてしか生きたことのないメルトリリスには全く実感がない。

 「あー……! 【強化】、【強化】がしたいな!」

 情けない、養鶏場の鶏みたいな悲鳴だ。はへ、はへ、と息切れしながら走り続ける様の無様さと言ったら無い。

 「何kg(キロ)あんだよ……! 重いわ!」

 ちょっと。

 それは聞き捨てならない。朧げな視界のまま、む、と顔を上げたちょうどその先だった。

 あ、と思った。

 その巨影。大理石から削り出された神像と見紛う、頑健且つ壮麗な躯体。頭部より被るは神獣の皮をなめした裘。ならば腕に恃みし螺旋の槍は、紛うごとなき神造りの宝具だった。

 これまで、幾度となく彼女を害したサーヴァント。物理世界による出力低下しているとて、メルトリスは上位のサーヴァントすら歯牙にもかけない性能()を誇る。その彼女をして苦戦を強いられるほどの強敵。

 「莫迦、放しなさい!」

 あの敵の狙いは間違いなく自分。ならば、この情けない少年を巻き込むわけにはいかない。だって、そんな事態は自分の在り方として赦し難い。孤絶たる者は孤絶のままに果てるべきで、誰かを巻き添えにするなど有り得ない。

───そも、そんな僥倖。誰かと果てる、なんて幸運は、怪物(わたし)には、過ぎたものなのだから。

 刹那に過る情動、霧散する景色。酷くどん臭くジタバタする様は、一瞬で手から零れた何かを、あるいは掴もうとするもがきのようにも見えた。

 「あーもう暴れないでくださいよ走りにくいから! ただでさえ重いんだから!」

 「アナタ後でしばき倒してやるわ、絶対泣くまでしばいてやるから!」

 「はいはい後でたくさんしてください!」

 少年は軽口のように言う。必死の形相は相変わらず、喋ることすら苦痛を伴う顔の癖に、何故か口角だけは奇妙な嫣然を浮かべている。

───気づいている。この人間は、背後から死の具現が迫っていることをちゃんと把握している。その上で、コイツは何かを思惟している。

 迫りくる巨躯、振り被る神の槍。裘の裡でぎらりと閃く双眸は、その一瞬後、咄嗟に身を翻した。その一瞬前、巨躯の背後に、鳶色の騎影が跳んだのだ。静粛状態で肉薄した敵を察知してからの、回避行動。それを察知しただけでも、この巨躯のサーヴァントは尋常ではない。

 だが遅い。後方円錐危険域(ヴァルネラブル・コーン)に侵入した紅蓮の雀鷹は、既に必殺の魔槍を構えていた。

 「『刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルグ)』!」

 疾駆する紅の死。防ごうと突き出された左腕をぐにゃりと躱した穂先は、当然のように神獣の裘を刳り貫いた。そのまま厳かな肉体を刺し穿ち、背まで貫通した槍の尖端には、血を吹き出しながら脈打つ心臓が磔にされていた。

 巨躯が、踏鞴を踏む。後ずさる姿勢は、明瞭な戸惑いすら見せていた。対する魔槍の使い手───赤い聖骸布を礼装として装備したサーヴァントは、素早く敵サーヴァントの間に割って入るように、少年の前に着地した。

 瞬時、1対の双剣を作り出す。黒白の夫婦(めおと)剣は、何故か、見覚えがあるような気がした。

 「ランサーのヘラクレス───?」

 呟きは、彼女を抱える人間のものだったか。メルトリリスには、その言葉の意味はあまり判然としなかった。

 「冬木の時となんか違うわよね。何あの頭から被ってる奴」

 「いや知らな……待って、知ってる、かも。『十二の試練(ゴッドハンド)』じゃなくて『十二の栄光(キングス・オーダー)』持ち?」

 ずるり。巨岩の如きサーヴァントは自らの胸に突き刺さった槍を、無造作に引き抜いた。

 血が噴き出す。だかそれも一瞬だけのことだった。瞬く間に、心臓に空いたはずの孔が閉じていく。映像を逆再生するかのような光景は、酷く間抜けな光景だった。無論、実際は間抜けな事態なんかではない。

 「……いや併用―――?」

 それは具現化した不死身の死であり、屹立する絶望そのものだった。

───ヘラクレス。それがこの槍持つサーヴァントの真名であることは、メルトリリスも知っていた。状況証拠からの類推、とでも言おうか。アルゴノーツの英雄の中で、この怪物じみた強さを誇るものは他に居ない。死んでも生き返るなど、出鱈目にも程がある。

 さっきの奇襲は、文字通り必殺のものだった。魔槍は確かにヘラクレスの心臓を抉り出し、殺して見せた。だがそれも一度だ。一度の死など、このサーヴァントには掠り傷でしかあるまい。それにもうあの魔槍は効かない。しかもあのアーチャー。そう、アーチャー。単純なスペック、ヘラクレスの足元にも及ぶまい。1分も戦えれば良い方だろう。

 畢竟。

 万策尽き、あとは絶殺の時間が始まるだけだった。

───はず、だった。

 何故か、その時間は来ない。傷は既に修復されたというのに、ヘラクレスは動かない。あまつさえ、後ずさりする様は、まるであのアーチャーに怯えているかのようですらある。

 対するアーチャー。矮躯といって良いほどに小柄なサーヴァントは、ヘラクレスと比してあまりに小さい。大人と赤ん坊と言っていいほどだ。にも拘わらず、アーチャーは勇躍とばかりに一歩、ヘラクレスににじり寄る。黒い片刃の中華剣、その切っ先を挑戦的に掲げる様は、まさにあの傑物へと躍りかかんばかりだ。いや、むしろ「早く攻撃してこい」と挑発するかのようはないか。

 先に動いたのは、ヘラクレスだった。

 いや、正確には違う。ヘラクレスが動く前に、不意に閃光が空に灯ったのだ。

 それが、合図だった。ヘラクレスは右手の螺旋槍を地面へと突き立てる。同時、地面から湧き出すように6羽の怪鳥が飛翔した。

 青銅の翼を持った奇怪な鳥。つんざくような叫喚を迸らせた6羽の鳥をけしかけながら、ヘラクレスが背後へと跳躍する。

 逃走。あのヘラクレスが、遁走している。三度の信じがたい光景に、しかし呆気にとられる暇はなかった。

 襲い掛かる怪鳥が何者であるのか、この瞬間では理解が及ばなかった。だが、幻想種、ランクは魔獣であることは伺いしれる。一匹当たりの強さで言うなら、サーヴァントの敵群れを成せば厄介な敵だろう。

 だが、赤い外套のアーチャーの技倆、その練度はさらにその上だった。

 双剣を投擲。瞬く間に2羽を串刺しにしながら弓を投影、立て続けに3射を穿つ。樹木に1羽縫い付けられ、1羽は絶命しながら墜落した。

 残数、2。既にクロスレンジまで迫った怪鳥の頭部めがけて握った矢を叩きつける。ギエ、と汚らしい断末魔を挙げた青銅の鳥が地面に激突し、その骸を足場にアーチャーが宙に飛び上がる。怪鳥のお株を奪うが如くに宙に舞うや、立て続けに2発を速射。頭部と胴を貫かれた魔獣種の鳥はそこで絶命し、焼け焦げた樹木に追突した。

 ごしゃ、と首が捥げる。くぐもるような苦悶にも似た吐息を最後に、6羽目の鳥も死に絶えた。

 僅か7秒ほど。6羽の魔獣を屠殺した頃には、既にヘラクレスの姿は消えていた。

 音が、凪いでいた。嵐は去った。戦いは、今、終わったのだ。

 彼女に、メルトリリスには安堵など無かった。さりとて情動の緊張もない。ただ漠然とした底抜けの虚無だけが、胸中に間延びしていた。

 何か、大事なものが自分の底ごと抜け落ちているような感覚。彼女にとって、自分が自分の手の内から零れ落ちている不在の感覚は極めて不愉快だった。

 だが、それも限界。醜悪な灰色の鳥が湖面に墜落するように、メルトリリスの意識は水没した。

 

 

 「マシュ!」

 竜牙兵を押しつぶすのと、背からその声が耳朶を打ったのは同時だった。

 マスターたるリツカの指示する先。奇怪な球形をしたそれは、蜘蛛のように見える。白銀の躯体を躍動させる機械───。

 直感。竜牙兵とは比較にならない敵、と理解したマシュは、全力で地面を踏みぬいた。

強敵に違いない。だが何よりもまず、マシュにはやることが2つある。この蜘蛛もどきを迅速に撃破すること。もう一つは、その蜘蛛もどきに襲われているコロンブスを救出することだ。

 優先度の策定は既に済んでいる。腰に差した鞘から銀の剣を抜き放つと同時、マシュは踏み込む気勢のままに巨大な盾を全力で投擲した。

 コロンブスへと鎌らしき腕を振り上げた蜘蛛、その腕に盾が直撃する。金属の外皮を打ち砕かれた蜘蛛が一瞬背後に退くの隙と定め、抜剣しなに蜘蛛の胴へと剣を叩きつけた。

トリムマウの躯体を元に製造される剣は、何の抵抗すらなく鉄の鎧を貫通する。3mにも達する巨体は、ただそれだけで沈黙した。

 軋む様に崩れ落ちる躯体を一瞥する。敵はアルゴノーツに乗り込んだサーヴァントたち。即ち、古代ギリシャの英霊のはず。それが何故こんな近現代的な……否、未来的ですらある使い魔じみた魔術礼装があるのか。

 「いやすまねぇ、危なかった」

 「いえ、お構いなく」

 蜘蛛の顔面に食い込んだ盾を、引き抜く。自然、硬い声で応えたマシュは、鞘に剣を戻す。鞘口に剣の切っ先が触れた時、マシュは身体を硬直させた。

 ゆら、と暗闇に蠢く一騎。覚束無い挙動で幽れるそれは、サーヴァント、だった。さっき、マシュが強襲と同時に盾で殴り飛ばしたランサーのサーヴァント。コロンブスたちに聞いた情報と照合すれば、おそらく古代ギリシャの英霊カイニス。

 「てめえか、さっきのは」

 ぎらと刺すような赤い目が閃く。

 衝撃の勢いで腕はあらぬ方に捻じれ、解放骨折した肋が胸から生えていた。右顔面も潰れているというのに、その鉄の躯体の威容に一切の衰えがない。むしろいや増しにすら感じる峻厳さは、殴り飛ばしたマシュ本人すら息を飲むほどだった。

 「辞めた方が良いんじゃないかなぁ、酷い怪我だよ」

 「見物人風情は黙ってろ」

 左手の円盾を捨て、代わりに右手のトライデントを手にする。槍を掲げる反動で胸から血を吹き出すのも構わず、ランサーは凄まじいまでの嫣然を無事な左の顔に張り付けた。

クラスはランサー、と聞いている。だがその強壮、もはや狂戦士の如く。きっと誰もこのランサーを止められまい。ただ己の闘争本能のままに暴威を撒き散らそうとする顔だった。

 ぐい、とランサーの身体が沈む。いまや獲物に飛び掛かる肉食獣と化した槍兵は、しかし次の瞬間、顔を歪ませた。

 「ん」

 マシュの隣、リツカが空を見上げる。黒くくすんだ空に、不意に灯った光が押し広がった。

 「あれ。あなたに”帰ってこい”って言ってるんじゃあないのかな」

 「なんでだ! まだ俺は戦え―――」

 言いかけ、げふ、とランサーは血の塊を嘔吐した。崩れ落ちなかったのは、カイニスの戦士としての矜持か。槍を支えにしながら、カイニスは覗き込むように、じろりと左目をぎらつかせた。

 「カイニスだ。名前は」

 「マシュ。マシュ・キリエライト」

 「てめえの面と名前、覚えたぞ」

 噴水のように血を吹き出すのも構わず、ランサー……カイニスは地面へとトライデントの矛先を叩きつけた。

 鈍く響く轟音、巻き上がる噴煙。昇る土煙に咄嗟に動き出しかけたが、マシュは奥歯を噛みしめた。

 敵の狙いは明白、撤退だ。それを追う必要は、今はない。この戦いの戦略的意味を思い返して、マシュは逸る気持ちを抑え込んだ。

 「終わったかな」

 隣、リツカは側頭部で一つ結びにした髪の一房を左手でかき回した。右の人差し指で頬を掻くと、

 「オデュッセウス。うん、思った通り優秀で良かった」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

さざめく引潮

 「ヘラクレス、カイニスともに後退を始めている。竜牙兵たちも同じだな」

 「わかった。敵の追撃はないな?」

 甲板上、オデュッセウスの言葉にアタランテはただ声を返した。戦場を眺望するオデュッセウスは身動ぎもせず、ただ腕を組んだ姿勢のままだ。

 「ヘラクレスはともかく」

 アタランテは、天穹の弓を償還した。戦いは終わった。だが、決していい結果ではないことは、戦場の理論を知らないアタランテにもわかる。

 「カイニスは黙っていないんじゃないのか」

 「そうかもしれないな」

 オデュッセウスは僅かに小さく肩を竦める。鎧に覆われた表情は一切伺い知れず、ただ無機質な声だけを返した。

 記憶と、微かにずれる声。アタランテにとり、オデュッセウスはどちらかと言えば好ましい人物であったと記憶している。荒くれものの多いギリシャの英雄たちに在り、犀利に富み理性と良識を備えた英雄。如何なるときも冷静さを失わない男の在り方は、確かにこの硬質な声色に合致しているはずなのだが。

 そう、オデュッセウスは良識を備えているはずなのだ。硬質でこそあれ、無機質さはこの男には無縁のはず。

 「一発二発は殴られるかもしれんな」

 小さな嘲笑。肩を揺らす様も声も笑っているのだろう。だが、無機質さはやはり変わらない。

 「オデュッセウス」

 「なんだ」

 「お前、まだ」

 微かに、男が丐眄する。鎧に覆われた表情はやはり見えない。見えないはずなのに、何故か思った。

 「お前も俺も、ただ過去に縋るだけの戯けというわけだ」

 鉱質な自嘲。押し黙ったアタランテは、空を振り仰ぐ。

 青い空に浮かぶ、色の無い月。アタランテは、目を逸らした。

 

 

 着地と同時、青銅の鳥を踏み砕く。

 既に絶命した鳥は、呻き声すらあげなかった。硬質な感触と共に砕け、蒼褪めた血飛沫を散らした鳥を睥睨する。

 青銅の鳥。ヘラクレスと関連するその魔獣は一つしかあるまい。

 ステュムパリデスの怪鳥。人を襲い畑を荒らしまわった、古代の獣害事件、その犯人。ヘラクレスに退治された鳥の使役が、ヘラクレスの宝具……というより、宝具の効果の内の一つというところか───。

 クロは亡骸と化した鳥から足を放すと、すぐに駆けだした。

 「トーマ、大丈夫?」

 「なんとか」

 表情を緩めて見せる。いつも通りのどこか年端もいかない笑顔は、けれど強張ったままだ。

 端的に言って、とても普通ではない。蒼褪めた顔色に多量の発汗はどう見ても普通では、ない。

 心臓が軋む。喉に果実の種が詰まったかのような嘔吐感がこみ上げた。それを飲み下して、逸る気持ちも抑え込んで、なるだけ冷静であろう、とする。

 「座って。早く、いいから早く!」

 無理やりトウマを座らせる。黒衣のサーヴァントを抱えたまま炭化した木に身体を預けると、トウマは半ば転落するように座り込んだ。

 体内の小源(オド)を消費しすぎたことによる典型症状。トウマの胸元に手を翳して解析開始、完了までは1秒未満。見立ては間違ってないと了解して、クロは一度、息を吐いた。

 ……焦る必要は無い。今すぐ何か処置しなければならない事態、ではない。ともあれオドの回復をしなければ。

 「私の目を見て。落ち着いて。ゆっくり呼吸して。大丈夫だから、トーマ」

 トウマの頬を手で包む。真直ぐ目を見据えること数秒程すると、トウマは気絶するように目を閉じた。

 視界を介した暗示。英霊エミヤが熟していた魔術以外には決して長じないクロではあるけれど、彼女の素養は一流のそれすら凌駕する。得手ではない魔術ではあったのだが、元より魔術にはずぶの素人であるトウマに視線の暗示をかけることは、そう難しくはなかった。

 呼吸は深く一定。顔は相変わらず青白いが、もう問題ない。

 嘆息、大きく一つ。額に滲んだ冷や汗を袖口で拭ったクロは、そうしてやっと、トウマが抱えるサーヴァントを見下ろした。

 黒衣の、サーヴァント。黒い髪に、深海のようなリボン。桜色の頬。何故かその風采に既視感を感じたような、気がした。

解析、開始(トレース・オン)

───こちらも大丈夫だ。十分とは言えないが、最低限の処置はできている。トウマの魔術回路の量・質でできる限りのことは、できている。

 再度、トウマの顔を、覗き込む。呼吸は既に安定を始めている。もう、大丈夫だ。

 己がマスターの頭へと、手を伸ばす。汗ばんだ黒い髪を手で梳いてから、マスターの額に、自分の額を重ねた。

 「頑張ったね、トーマ」

 

 ※

 

 (こちらセイクリッドリード、敵撃退完了)

 (ブラックサレナ02、こちらも任務完了。目標の確保、終わってるわ)

 「タチバナのバイタル、こっちでもモニターしてる。大丈夫そうなのかい?」

 (大丈夫じゃあないっぽいけど、そんなすぐにどうこうってわけじゃないと思う。今から連れてくわ)

 「了解。状況終了、だな」

 前髪を、かきあげる。久方ぶりに額に浮かんだ汗を丁寧にハンカチで拭いたライネスは、安堵の溜息を吐いた。

 能う限り、最高の結果だったと言って良い。緊張の糸はまだ弛緩していないが、それでも気の緩みを感じないわけにはいかなかった。

 ライネスはもともと神経の図太い人物である。謀略渦巻く時計塔の荒波に揉まれて生きてきた彼女は、並大抵のことでは動じない。

 だが、今回ばかりは何分彼女の人生とは乖離した事態だ。初のレイシフトにして、カルデアのチームとしては初の特異点での戦闘。しかも指揮官。責任の重大さは並大抵ではない。

 「予想通り動くもんですなぁ」

 ライネスの隣、手を廂にして眺望する素振りの黒髭ことエドワード・ティーチは、感心したような口ぶりだった。「そうするのが指揮官の役目だからな」と素っ気なく応えつつも、内心では安堵が大きいライネスである。

───今回の戦術行動、要約すれば奇襲による敵勢力の撃退だ。

 要点は3つ。

 

 ①:敵にとって、こちらの戦力の存在は未知数であったこと。

 ②:①の状況を利用したアンブッシュの可能性。

 ③:敵戦力の要諦たるヘラクレスの『十二の試練』、そのストックの漸減

 

 敵の戦略目標は、あのサーヴァント───メルトリリス、と言う名前の神霊サーヴァントの撃破。味方に引き込む駆け引きがあったかどうかは不明だが、海賊側に引き込まれるのを恐れて殲滅しようとした、と言ったところか。理由は不明だが、ともあれ敵の目的はあのサーヴァントの撃破だったことは間違いない。包囲殲滅をしようとした敵の戦力展開を見ても違いあるまい。

 その追い込みの最中、海賊のサーヴァントが攻撃を仕掛けてきたらどう理解するか。当然、既にあの神霊サーヴァントは海賊の麾下であり───神霊サーヴァントを餌にした待ち伏せ、と思考する。少なからず、司馬懿ならそう理解する。そしてギリシャに名高い知将であるオデュッセウスならば、同程度の思考をするだろう。

 無論、海賊のサーヴァントの妨害を全く予想していなかったわけではあるまい。だが、如何な名軍師とて、全く未知数たるカルデアからレイシフトしてきた戦力までは考慮に入れられない。しかもその未知の戦力が、ヘラクレスの宝具『十二の試練』、その命一つをあっさり消滅させるという事態が起きたなら、どうするか。

 撤退しか有り得ない。下手に戦闘を長引かせれば、事態は悪化こそすれ好転はしないだろう。無駄な継戦など有り得ぬ発想。負けが拡大する前に身を引く。それが、アルゴノーツの知悉が導いた結論だった。そしてしの思考こそライネスの思考、そのものだった。

 この思考まで行きつくに、僅かに25秒。残り5秒は、司馬懿ではなくライネスとしての逡巡だ。疑似サーヴァントとして、人格の大部分は、司馬懿の強い希望もあってライネスが担っている。それ故に思考の水準こそは司馬懿のそれと同等にはなっているが、それでも15歳の少女としての倫理的判断が立ち会わない、わけではない。

 「もし相手がバカだったらどうしてたんです?」

 「無駄に突撃されてたら終わってた。まぁヘラクレスと相討ちになるくらいのことはもっていけるんだろうが……でもそう考えるのは余分っていうか。なったらなった時考えて、上手い事誤魔化すものさ」

 「はぇ~すごい」

 ティーチは感心したように頷きを返した。そんな粗野な男の身振りを横目で一瞥しながら、内心、ライネスはふん、と鼻を鳴らした。

 この男、馬鹿じゃない。多分、今の作戦経緯、ライネスが喋らなくても大枠は理解していたはずだ。エドワード・ティーチ……18世紀に名を轟かせた大海賊。粗暴な見た目でこそあるが、民主主義的な采配と知悉に跳んだ振舞は、むしろ粗野粗暴に並ぶ繊細な知性を思わせる。ライネスに……ひいてはカルデアに与しているのも、全うな正義感というよりも合理性に依るものだろう。勝つためにはカルデアと協力すべきであり、且つ軍師と名高い司馬懿に指揮してもらう。なんなら下手に出て気持ち良く指揮してもらおう、という思惑も込みで、ティーチは『アン女王の復讐号(クイーン・アンズ・リベンジ)』の指揮権をあっさり譲ったのだ。流石に逸話不在で宝具譲渡こそ不可能だが、もし可能だったら、この船を譲渡することすらしていただろう。

 豪胆且つ強か。近現代を生きる英雄は、腕力では無く犀利によって名を遺す、ということか。

 「いや~でもゾクゾクしますなぁ、美少女にあれこれ指示されるって! とやかく煩いBBAの下働きするよりも……いやあれも良いけど……」

 身もだえするように身体をくねらせては、何故か赤面して顔を歪ませる大男。半裸の大男の仕草にしてはあまりに気持ち悪い。やっぱり実は単なる馬鹿なのでは、と評価に悩むライネスだった。

 「あ、噂をすれば」

 「?」

 「あれよあれ」

 幸いにも奇怪な動きを止めた黒髭が、黒い海の果てを眺望する。指さす先、凪いだ水面に黒い影が浮かんでいた。

 彼我距離からして、あの大きさは船の類。そしてあの形は―――。

 「黄金の鹿号(ゴールデン・ハインド)。拙者らのまぁ、旗艦みたいな?」

 「ちょ、ちょっと待って。ゴールデンハインドって言ったら」

 「あれ、そういや言ってなかった」

 ぽかん、とするのも一瞬。黒髭の浮かべた鋭い嫣然は、黒髭の名に相応しい残忍さ、でなくて。

 「フランシス・ドレイク。それがオレたちのキャプテンさ」

 子どもっぽい無邪気さに満ち満ちていた。




今日の投稿後から、しばし休息期間に入ります。一応期間は一か月ほどを考えております。

お楽しみいただいている皆様にはご不便おかけし申し訳ございません


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

(いとま)の魔女

予定外の時間ができたので、一話投稿しておきます


 特異点“オケアノス”

 某所───アルゴー船団拠点、神殿

 

 彼女はその日も、その扉の前に居た。

 固く閉ざされた扉。神殿の最奥に、厳かに佇むその扉は、酷く質朴な見た目にして、何か厳かさを思わせる。木造りにも関わらずその堅牢はヘラクレスの膂力でも破れないだろう。あるいは、今破ったところで何をするでも無い。

 これは触媒。神代に帰るための表徴。世界を超えるための扉。それ以上は、ない。

彼女。幼い姿のメディアはその扉の前に跪きながら、ただ一つ事だけを想念する。

 「イアソン様───」

 痙攣する口唇、零れる言葉。瞑目したままに祈りをささげる姿は、経験な依坐を思わせた。

 無風の中。

 扉の両脇で燃える松明の火だけが、小さく、確かに、熱く蠢動していた。

 

 

 「ご苦労なことだ。別に何があるというわけでもあるまい」

 神殿の間、その入り口前。

 軽蔑は無いけれど、呆れはふんだん。そんな声を上げり男に応えたのは、ちょこちょこと駆け寄ってきた長身の女性だった。

 「そこに理屈は要らないでしょう。私は貴方のことが好きですよ、兄様」

 「む、むぅ……そういうものか。そういうものだな」

 赤面する男は酷く満足気な様子で頷く。女性の方は朗らかな笑みすら浮かべ、男のちょっと後ろに佇むばかりだ。

 共に、2人はサーヴァントである。人理に刻まれし英霊であるが、彼と彼女は、やや特異な存在者だった。

 銘、ディオスクロイ。双星のジェミニ。兄カストロと妹ポルクス、2人をして一つの霊基を共有するサーヴァントである。

 「ヘラクレスもわからないことをする。くだらぬ人理と引き換えに神代へと還れるというのに何を躊躇う。聖杯が無ければあの槍を完全には使えん、というのはわかるが」

 鼻を鳴らすカストロ。仮借なく言ってのける口ぶりは、悪辣の一言だ。対するポルクスは何も言わず、ただ不満げな兄の横顔を満足気に眺めている。

 カストロは、根本的に人間と呼ばれるものが嫌いだ。心底嫌っている。ヒト種など早く絶滅すればいい、とすら思っている。そんな彼にとって、人理焼却というこの一連の出来事はむいろ好ましい出来事であり。その吉事を推し進めるイアソンの思惑は手放しで手を貸す出来事だ。

 他方、ポルクスは兄の微笑ましい相好を見つめるばかりだ。

 「ヘラクレスは、神よりも人を好む方ですから。アルゴー船の時もそうだったでしょう?」

 「そうだったか? 確かに良い戦士ではあったが。いや、それよりも妹よ。お前まさかヘラクレスと」

 「死を賜りたいですか兄様」

 畏縮する兄様。ぷい、とそっぽを向いて見せながら、ポルクスはちょっと溜息を吐く。

 兄は前からこうだった、と思う。他人に基本的に関心が無く、その実極めて内向的。ずっと昔───ゼウスの子として神性を持っていた頃も自信満々だったけれど、卑屈の裏返しのような傲岸ではなかったのだが。人になってからは、なんというかこう、こんな風になってしまった。

 まぁ、そんな兄も可愛らしいのだけど……と、思わないでもないポルクスでは、あった。

 「兄様」

 「す、すまないいや俺も浅慮浅薄極まりないのだが最近なんというか不安と言うかだな、いや料理をしたり島の魔獣たちと懇意にするのは良いとは思うが」

 「兄様、少し御黙りになってください。メディア様がいらしてますよ」

 咄嗟、カストロは口を噤んだ。

 振り返る動作はともに同じ。身の丈を優に上回る魔杖を抱えた小柄な怪物に、ポルクスは微笑を返した。

 「ごめんなさい、邪魔するつもりはありませんでした」

 「メディア様もお人が悪い」

 ふふ、とポルクスは小さく笑って見せる。メディアも同じように微笑を返すと、照れるよに頬を赤らめた。その素振りに初心さを感じるのは、多分気のせいではないだろう。

 「なんのことだ?」

 疑問符を頭に浮かべるカストロ。そんな兄のことを、ポルクスは笑顔でざっくり無視した。

 「それで、御用ですか? またお散歩でも?」

 「いえ。貴方がたに」

 「ほう。我らディオスクロイの出番か」

 腕を組むカストロの相好が歪む。それまでの頼りない顔とは、一線を画する表情。憎悪に滾るような怪物じみた顔。いつもの自信満々なくせに小心で頼りない顔も好きだけれど、こちらの顔も好ましい、とポルクスは思う。

 「はい、時計の針を進めます。オデュッセウスが戻り次第、第3拠点への攻撃を」

 「承知致しました。ヘラクレスはお連れしないのでしたか?」

 「はい、今回の戦いで『十二の試練(ゴッドハンド)』を1つ消耗しました。ストックの補充もしたいですし……あれを投入するのは、最後です」

 「待て。ヘラクレスがしてやられたのか?」

 思わず、と言ったように声を上げたのは、カストロだった。ポルクスもカストロと心情は同じで、思いがけずに目を見開いた。

 「ゴッドハンドを貫いたのか? いや、それよりもあの獅子の裘ごと殺されたのか?」

 「そうです。モニターを妨害されたので正確な情報は不明ですけど……間違いなく、敵の宝具はネメアの獅子の毛皮を貫きました」

 唸るカストロ。その現象は、普段をして傲岸を絵に描いたような兄すら唸り声をあげるような事態だったのだ。

 ヘラクレスのもう一つの宝具、『十二の栄光(キングス・オーダー)』。かつて挑んだ十二の難業にて、ヘラクレスは数多の幻想種を打ち倒した。それら幻想種を使役することに特化した、宝具である。

 神獣の裘とは、その内の一つ。人理を否定する神獣の毛皮を纏うことで、一切の武器・武具の類の攻撃を弾き返す鉄壁の防御。Aランク以下の宝具の攻撃を漸減する『十二の試練(ゴッドハンド)』と併用するヘラクレスの防御性能は、常軌を逸したどころの話ではない。事実、アルゴノーツのサーヴァント同士の内紛でも、海賊のサーヴァントとの戦闘でも、そのほとんどを仕留めたのはヘラクレスに他ならないのだから。

 「委細、承知致しました。可能でしたら、ヘラクレスを仕留めて見せた敵の内情も探りたいところでしょうか」

 「難しいでしょう。敵には最低でも3人、知悉に富んだ方がいらっしゃるようですから」

 深く、一礼。小さく礼を返すメディアの物腰も、至極丁寧だった。

 彼女の思惑。その完遂のためには、ヘラクレスを無駄に死なせるわけにはいかない。それに、次の戦いはまだ序章に過ぎないのだから。

 「カイニスはどうする。奴も今回はお預けか?」

 「いえ、出てもらいます。というより、彼女のことは止められないでしょう」

 「そうでしょうね」

 肩を竦めるメディア。苦々しい顔のカストロに対し、ポルクスの表情はメディアとカストロの間くらいのものだった。

 カイニス。ポセイドンの寵愛を受けた英霊……と言えば聞こえはいいが、要するにただ神の愛されただけの妾に過ぎない。カストロはあの()()を侮蔑しているが、ポルクスとしては特段好きでも嫌いでもない相手だ。ただ、イキリ散らすのだけは煩いからやめて欲しいと思う。

 まぁ……戦いにおいては、有能なのも事実だが。

 「カストロ様、ポルクス様。万事、予定通りに……カイニス様によろしくお伝えください」

 一拍の間。ディオスクロイは、互いに頷きを返した。




とりあえず一か月先からコンスタントな投稿を予定していますが、今回のように、時間ができたら不定期で投稿するかもです


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

アマリリスの(追憶)

それは、多分、ずっと昔のことだ。

いや、昔、という表現が適当か。彼女にもわからない。あらゆる時間軸から脱臼した例外中の例外。全てが泡沫の夢に消えるような、永遠と刹那の狭間の出来事。電脳世界で繰り広げられた日々を過去といっていいか不明だが、少なからず、彼女の主観的時制としては過去に相当する。

その瞬間にだけ生きた、我性の一滴(アルターエゴ)。人智を超えた異形の怪物の象を以て産卵されたその生をどう理解して良いのか、彼女にすらわからない。()()()と一緒で、何のために生まれたのかすら判然としないままに断絶した記憶の最期は、それでも自分の決断だった、だろう。

 あの人の手を振り払ったのは私自身。ならばその生涯に意味は不要(いら)ず、ただ1人の孤絶の中で桜のように舞い散るだけ。その結末は徹頭徹尾了解していたけれど、それでもやっぱり、女の子だから、そんなことを思うのだ。

 無限へと延長した手。何も感じることのない実-存(てのひら)。もし、■■が、握り、返してくれたなら───。

 

 

 ───メルトリリスが目を覚ました時に感じたのは、とにかく異常な不快感だった。

 全身からの発汗、悪寒、馬鹿みたいな倦怠感。全身の血管に液状の錫を流し込まれたかのような感触は、全身を焼くような冷たさだった。

 そして、何より彼女の情動を揺さぶる光景があった。

 天幕の中、いつの間にか天へと伸ばした自分の手。剥き出しになったか細い皮と骨だけの、何も感じない手を、誰かが握っていた。

 「お、起きた」

 手のひらを乱反射する無の惹起。蠕動する五指を包む小さな手が、メルトリリスの網膜に焼き付いていく。

 「ケイローンせんせ、起きたみたいだよ」

 ざくり、と何かが軋む。頭蓋に収まる脳みそが液状化して、脊索を伝って全身を犯していくかのよう。

 「先輩、そろそろお昼の時間で……あ」

 「そー、起きたよ」

 まるで砕けたガラス片のような言葉だ。言葉の内実が、というわけではない。ただ、この人間の発する言葉は、何故か知らないが物凄く不愉快で頭にくる。

 握り返す、手のひら。痙攣するような手はまだぎこちなく戦慄くばかりだった。

 「はへ?」

 呑気な、赤銅色の髪の女。何故かその顔が、ずっと昔に見た誰かの顔によく似ていて。

 「先輩!」

 本当に、気持ち悪いと思った。

 

 ※

 

 「という、顛末でして」

 「ははぁ、なるほど……」

 それから、およそ2時間後。

 広々した部屋、ずらりと居並ぶサーヴァントたちを前に、立華藤丸(タチバナトウマ)は蒼い顔で頷いた。

 あの戦闘から、日数にしておよそ4日経っているらしい。

 らしい、という伝聞推定なのは、トウマもついさっき目を覚ましたばかりだったからだ。

 目を覚ました、というよりは叩き起こされたというべきか。くしゃくしゃに寝ぐせのついた髪を撫でつけながら、件の2人を見比べた。

 長い艶やかな髪を彩るような、鮮やかな青いリボン。それよりなお深い海を思わせる蒼い目に鼻筋通った顔立ちは、それだけならば美質に富んだと言って良い。だが、どうしようもなく惹起する怖気のような感情。畸形の神像と相対するかのような、畏怖と恐怖のシャム双生児にも似た情動は、人間では避け得ないものだという確信がある。

 つん、とした顔のまま組んだ脚、その先端。踵から生える魔剣はその異形の象徴で、畸形の神像という表徴が真実であると主張しているようだ。

 サーヴァント、メルトリリス。黝いドレスを着飾る神霊は、悪びれる様子もなくテーブルの上の紅茶を両手で持つと、ずいずいと飲み込んでいる。

 対するもう1人、全身包帯ぐるぐる巻きになって畏縮する人物……藤丸立華は、しょげたようにただただ肩を落としていた。……というかなんでアホ毛にまで包帯巻いてるんだろう。

 「そこ。サーヴァントじゃなくてハイ・サーヴァント。トールキン風に言うなら、上古のゴーストライナー、私は3柱の美神を兼ねた至高の存在者なわけ。人理の奴隷(スレイブ)なんかと一緒にしないでくださる?」

 「ヒェ」

 じろり、と切れるような青い目が睨みつける。済ました様子は相変わらずなのだけれど、なんというか威圧感は半端ではない。在り方はどうあれ、英霊すら超える神霊に等しいものの一瞥は、それだけである種の魔眼にも似た効果を発揮する。サーヴァントならばともかく、魔術師としても三流ですらないトウマには結構厳しい。

 「偉そうなこと言ってるけど、要するに女神の豚汁みたいなものじゃない。けんちん汁でもいいけど」

 豚汁て。けんちん汁て。身もふたもないクロのたとえに、案の定、メルトリリスは笑顔のまま額に青筋を浮かべている。

 「クロさん、せめてミックスジュースとかではありませんか? それかその……女神の欲張りセットとか……」

 「アナタみたいな野卑な弓兵にはわからないのよ。それとマシュ・キリエライト、そのたとえやめて。イラっとするから」

 あくまでも辛辣なクロとどこかずれたことを言うマシュ。応じるメルトリリスの口ぶりも辛辣だったが、マシュへの口ぶりは少しだけ苦手そうだった。

 その理由は至極全うで。病床のメルトリリスを見舞いに来るや襲われたリツカを守りに入ったマシュに、それはもうしこたま盾でぶん殴られたらしい。すましているが、実は全身打撲中のメルトリリスなのだ。……隣で病床に臥していたトウマは、丁度そのあおりを受けてすっ飛ばされたりしているが、まぁそれは、些細なことなのでいいのだけれど。

 「大方、リツカが悪いんだろうけど。襲っちゃったんだろう、リツカ」

 「変態そのものみたいな格好してるしね。ムラムラしちゃったんでしょ」

 「先輩、変態です……」

 「め、メスガキ2人に煽られた挙句に幼馴染ヒロインにドン引きされるなんて!」

 「我々の業界では……ご褒美、かと」

 「はい」

 「やっぱりな」

 「はいじゃないが。タチバナ、君も結構、アレだな」

 寒々とした目を向ける3人の視線の温度は相変わらずだ。メルトリリスはメルトリリスで、つんとすました顔のまま、我関せずの姿勢である。

 まぁでも気持ちはわかるよな、とコーヒー一口。砂糖マシマシの黒い汁を啜りながら、ちらっと一瞥……というか覗いてみる。

 ふうふう、と両手で持ったティーカップに息を吹きかける姿は、異形の神性にあるまじき仕草である。そして何よりその姿。脚を組み替えるメルトリリスの姿は、まぁなんというか……ほぼ裸体なんですよね。

 四肢末端にこそ衣服をまとっているが、肝心の胴と腰部はほぼ素肌。重要な部分こそ隠しているけれど、逆にその隠している装飾も装飾だ。R指定かかりそう。17くらいの。

 ……詳しく表現できないけれども。あれ、絶対挿入()さって固定してるよな―――。

 「? タチバナ先輩、お腹でも痛いんですか? 前かがみになって……」

 「いえ、そうではありません。健全な生命現象が発露してしまいましたが社会的には問題がございますので、防御姿勢をとっております。どうかお気になさらず」

 高校1年生男子には、ちょっと刺激が強すぎた。しょうがない。

 「やっぱり具合が悪いのではありませんか? 熱発はありませんし顔色も悪いどころか良いように見えますけど……お手洗いに行くと言うのは……というか、何か喋り方が……」

 「人間とはままならぬものなのです、どうか御目溢しを」

 そう言って顔を覗き込むマシュは本当に純真で優しいんだと思う。邪気が無い。邪気が無いだけに、腕に触れる妙に柔らかなマシュマロじみた感触が、なおのこと凄まじい。白々しい視線がおおよそリツカに向いてることだけが救いなような気がする。

 「───それで、いつまでガキの色狂いの話を聞いてりゃいいんだい。アタシは」

 ……高校生の低能な会話に紛れた声。呆れたようでその実品定めする、朗らかななのに強かな声音に、今更ながらにトウマは席の奥に意識を移した。

 つまらなそうに頬杖をついては、指先でくるくる三角帽子を回す人物1人。肩ほどまでの長さの髪は癖が強く、頭頂部からひょこりと生えるアホ毛は茶目っ気と言えばそういう風采にも見える。実際、つまらなそうな顔も子供みたいに表情の輪郭が鮮明で、それだけに溌剌さを思わせる人物だろう。

 だがそんな外見にも関わらず、受ける印象はまるで逆。強かかつ怜悧。豪胆と双生児になった犀利を惹起させる人物こそは、トウマが“原作知識”として知る人物だった。

 ライダー、フランシス・ドレイク。Fate/extraにて、最も初めに戦うサーヴァントだ。原作ではどちらかと言えば磊落さというか豪胆さを感じさせるのだが、目の前に居る彼女の威容はそれとはまるで違う。豪胆且つ繊細。無邪気と邪気を同時に併存させる雰囲気が、彼女には、あった。

 「あぁすまない、つい揶揄いが楽しくなってしまって」

 応えたのは、ライネスだった。特に気負った様子もなく、優雅さすら思わせる余裕さだ。最も、その容量大きな仕草も彼女の打算によって存立するもの……らしい。

 ひとまず負傷者の容態回復を待った後、フランシス・ドレイクを中心とする海賊団とカルデアの間で“今後の話し合い”をする、と決めたのが、あの遭遇戦の直後のこと。4日を経ていざ会合の日が来てみれば、なんだか子供じみたやり取りを見せられては興が冷めるのも無理からぬことではあると思う。逆に言えば、ドレイクはカルデアの戦力に対し、ある程度の期待を寄せている……ともいえるのだが。現地協力者が欲しいカルデアにしてみれば、ドレイクたちは是非とも仲間に引き入れたいところでは、あった。

 「なぁコロンブス、本当にこのマセガキどもがヘラクレスを撃退したのかい?」

 「そりゃあ間違いないぜ。俺がこの目と耳で確かめたことだ」

 「ふぅん?」

 ドレイクの背後、佇立するコロンブスは粛然と応えた。聞くドレイクの表情は変わらず、思案しているのかすら判然としない。

 肩透かしのような、奇妙な感覚だ。トウマのイメージにあるフランシス・ドレイクとは明らかに様相を異にする姿に、ただただトウマは疑問符を頭に浮かべていた。

 「私たちの力を証明しろと仰られるかな?」

 「証明といよりは信用の問題さね。どうやら、強さに関しては問題ないみたいだし?」

 ちら、とドレイクがコロンブスの姿を一瞥する。期待の裏打ちは既に十分、らしい。だがあくまでそれは、強さだけの話、ということだ。

 「背中を預けるには、もう一押しということか」ライネスの言葉は、問いかけというよりも思案ついでに独り言ちるようなものだった。「敵のサーヴァントの一人も討ち取って見せればいいのかな。オデュッセウスあたりを」

 ドレイクの表情は変わらない。相変わらず気乗りしない様子で帽子をくるくる回しては、気だるげな一瞥だけをこちらに寄越していた。

 他方、ライネスも泰然とした姿は変わらない。優雅にティーカップを指先で弄ぶ姿は、場所が場所なら深窓の令嬢という言葉が似あいそうなほどだ。

 奇妙な、一瞬の間。不意に帽子回しをやめると、ドレイクは緩慢な動作で、納まりの悪い髪を帽子の中に押し込むように被った。帽子の唾の奥で、彼女の口角が僅かに上がった。

 「その条件で良い。腕試しにもなるだろう?」

 どかり、とドレイクは背もたれに身体を預けた。

 帽子から覗く眼光。鈍麻なほどに鋭利な視線の直下、歪む口角は酷く竜の如くに悪魔じみていた。

 「交渉成立、どうも」

 ならば、対するライネスの微笑もやはり凄惨か。チェシャな表情は子猫のように愛らしいが、蠱惑の堕天使を思わせた。

 「ちなみにオデュッセウスの首でいいのかい?」

 「そうさねぇ。いや、別な奴がいい」

 「だと思ったよ、エル・ドラゴ」

 刹那の瞠目。表情筋の硬直は秒未満、その後には、ドレイクは酷薄なまでの朗らかな笑みを浮かべて見せた。

 

 

 「そろそろかなぁ?」

 彼女のその呟きは、つまらなそうなふりをして、実際のところは好奇そのものと言って良かった。

 「何笑ってるんだよ、アン」

 黒いコートをすっぽり被った彼女……メアリー・リードの、口元を隠したむっとした顔も微笑ましい。ちんちくりんな見た目も相まって、きゅっとすぼめた眉頭が可愛いのだ。

 「メアリーはあーいう男の子、好きそうですものね。朴訥としてる、というか」

 ふふ、と小さく笑うもう一人。脱色したような白い髪のメアリーとは対照的な、豊かなプラチナブロンドに偉丈夫もかくやといった長身の姿。アン・ボニーはころころと笑いながら、メアリーの髪をくしゃくしゃとかき回した。

 「そういうアンはどうなのさ」

 「そうですわねぇ。私はあっちの女の子の方が好みですわ」

 「だと思った」

 素っ気ない素振りのメアリー。他方のアンはエヘヘ、と笑って身体を左右に揺さぶっていた。

 「英霊になっても私たちは私たちだ」

 と零したメアリーも、表情こそは感情に乏しい。長いわけではないが濃密な時を共に過ごしたアンにも、メアリー・リードの人物像の全てはよくわからない。大方荒々しい女海賊のように、獲物を狙っている、ということか。

 「終わったみたい」

 もちろん、最初に気づいたのはメアリーだ。天幕からぞろぞろと出てきた姿を認めるや、メアリーはひょこひょこと野兎みたいに駆けだした。

 駆け寄る先は黒い髪の男の子。気づいた少年が不意に目の前に飛び込んできた姿に目を白黒させるのも構わず、メアリーは「少年君、少年君」とやはり感情に乏しい言葉を繰り返した。

 「ボクが世話係のメアリー、メアリー・リード。よろしく」

 「あ、どうも……タチバナ・トウマです。トウマが名前で」

 「ふーん、トウマ」特に関心もなさそうに言う。「それで、そっちのアーチャーが少年君のサーヴァント?」

 「そ。クロエ」

 「クロエに、少年君か」

 きっと、今彼女は死んだ魚みたいな目をしながら品定めしているに違いない。コート姿の小さな姿の背にころころ笑みを浮かべて、自分の仕事をしようか、と一人頷く。

 メアリーに対して、アンはもう一方の案内役だ。大人しそうな眼鏡の女の子に、赤銅色の髪の少女に近寄ると、「はぁい」と小さく手を振った。

 「キャプテンから聞いてると思いますけど、アン・ボニーです。この拠点での貴女たちの世話係を仰せつかりました。よろしくお願いしますわね?」

 「リツカです。この子がマシュ、マシュ・キリエライト」

 赤銅色の髪の女の子、リツカと名乗った彼女は眠そうな目で言った。

 「すごい美人さんだね、マシュ」

 「は、はい。それにその……スゴイおっきいです!」

 「確かに……でっか」

 ちょっと興奮気味の眼鏡の女の子、マシュはキラキラした目でアンを見上げた。リツカも目を輝かせているが、なんか意味が違いそうだなと思わなくもない。マシュの目線はアンの頭頂部あたりを向いているけれど、リツカはもう少し下の方を見ている。具 体的には首の下あたりだ。

 ───先ごろ、アンはメアリーのことを熊だの女海賊だのと言ったが、実際のところはアンも十分同類だった。獲物は必ず略取するのが彼女の流儀であり、得物は現状、目の前であまりに無防備に目を輝かせているではないか。

 普段のアンであれば、既に()()に行っている。だが寸で彼女が思いとどまったのは、得物の隣で同じように目をキラキラさせながら、アン・ボニーと呼ばれる人物の説明をするもう一人の存在者のせいだった。

 「つまりアンさんとメアリーさんはとても勇猛果敢な海賊さんでいらっしゃって」

 「マシュは物知りだなぁ」

 「あ、いえ……その、本に書いてあっただけのことなので」

 照れるマシュ。陶器の人形みたいな白い肌を赤らめる姿の初心さは、痛ましいまでに微笑ましい。

 アンに、いわゆる18世紀的な理性や良識はあまり存在しない。もしそういった徳を備えていたなら、そもそも海賊になどなってはいまい。だが他方、アンには理性や良識など欠片ほどくらいしか持ち合わせがないが、そのなけなしの徳と、女であることが不意に接合したその奇妙な何かが、アンの挙動を一手止めていた。

 ()()()()

 彼女は敏い。この間、僅かに数分である。にも拘らずにおおよそを理解した彼女は、とりあえず何もしないことにした。

 とりあえず。

 「フォウ?」

 このちんまり毛むくじゃらを愉しもうかな、と思う。ひょいと抱き上げると、特に抵抗もしない白い毛玉をわしゃわしゃする。

 「それではようこそおいでくださいました、我ら海賊の穴蔵へ」




時間ができたので投稿です


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

倦怠、淡い

 沈む、毛布の音。おや、と振り向いたサーヴァントは、その姿に奇妙な感慨を覚えた。

 淀むような、黝いコート。すん、と済ましたように鼻を鳴らす姿。ともすれば異形めいた佇まいにも見えただろう。だが、彼には優美さというよりも技巧的な精妙さを感じさせた。

 鍛冶神ヘファイストスが鍛えた一振りの剣。そんな印象に結びついたのは、もちろん彼が古代ギリシャを原典とする英霊だったからだ。

 アーチャー、ケイローン。長い亜麻色の髪は艶やかな獣毛を思わせる。粗野粗暴なケンタウロスと呼ばれる種族にあって、賢者とも称される英雄だ。

 「お疲れ様でした、メルトリリス様」

 静やかな、バリトンの声音。耳に心地よい声に、果たして黒衣のサーヴァント、メルトリリスも素っ気なくも、柔和さすらある一瞥をケイローンに返した。

 「悪かったわ、無理を言って」

 「いえ。大事なご用事だったのでしょう」

 深い吐息とともに、臥床するメルトリリス。温和さを湛えた微笑のまま、ケイローンは天幕の奥に向かう。

 元は療養目的で設営された天幕の奥。目的は物理的魔術的に、厳重に封印された壺───ではなく、ケイローンは慣れた手付きで干した薬草を手に取る。カンゾウ類、要するに甘草と呼ばれる被子植物の根を砕き、蜜を練ったものをケースに流し込む。次いで指にとると、仰向けで寝転ぶメルトリリスの胴───外見上は見えない傷へと、べとりと塗りたくっていく。

 穏やかな闃然。

 本来、メルトリリスは、他者に触れられることを極度に嫌う。どこの馬の骨ともしれない愚物が己に触れるなど烏滸がましいにもほどがある……そう、志向している。もし触れてよいものがあるなら、それは特別な人間(ひと)だけだ。

 そんな彼女をして、ケイローンの施術をメルトリリスは許していた。むしろ鈍麻な彼女の神経にすら、ケイローンの手のひらの倫理性は心地良い。美質を賛美するメルトリリスという人物が故、とも言えるだろう。光明の神に芸術、医術、予言を。月の女神には狩猟の術を学んだケイローンの技術は、言ってみれば芸術性を帯びる。つまるところ、ケイローンの施術はある種芸術なのだ。それを享受することは幸福でこそあれ、厭うべきものでは全くない。メルトリリスはそのような結論に至っていた。最も、もし無思慮に触れてくるようなことがあればその時は容赦なく首を落とすつもりだ。だが、それは在り得ない可能性だろう。そんな夢想を抱くことすら、この賢人には無礼であろう。そう思わせる空気が、ケイローンにはある。

 「後でこちらをお飲みください」

 「む……」ずい、と差し出された木のカップと錠剤に、メルトリリスは眉を顰めた。

 「メルトリリス様」

 ぴしゃり、と温和な声が耳朶を打つ。眉間に皺を寄せながらも、メルトリリスは、反論はしなかった。

 「わかってるわよ。でも後でね」

 つん、とした不機嫌そうに顔を逸らすメルトリリス。どこかぎこちない仕草も、ケイローンには微笑ましい限りだ。

 ……メルトリリスにとり、ケイローンという人物像は全く未知だった。理性と良識を備えた健やかな人物像。それでいて道徳性を振り回したり威張り散らしたりはせず、師父という言葉が自然と似合う倫理的主体性を格率とする……端的に、善い大人。そんな存在者は、メルトリリスには彼女の短い生には一切関係のない人物像だった。

 じゃあ不快か、というと、そうではない。峻烈そのものと言っていいメルトリリスには、その凪いだ海のような在り方は良い意味で不思議な感触だった。

 「それで、思い出されましたか? 例のマスターを見て」

 白い天幕、その天蓋を眺めるメルトリリスの表情は明るくない。妙な気持ち悪さを抱えたような、そんな顔だ。

 彼女、メルトリリスがこの天幕に運び込まれてきたのはおおよそ数日前。最低限の処置だけ施されて消滅こそ免れていたものの、それでも重篤な状態だったのは変わりない。そんな彼女が数日で、一応日常生活を送れるように恢復できたのは、一重に治療にあたったケイローンの為せる業ではあっただろう。

 とは言え、ケイローン本人としては至らなさが先行しているらしい。もしアスクレピオスであれば既に完治させていただろう、と一度だけ口にしていた。間接的ではあるけれど、ただその医術の才だけで神の座に昇った彼のことを、ケイローンは誇らしくもあり、また純粋に尊敬しているのだろう。

 あるいは、と思う。

 施術をしたケイローンだからこそ察知した、というべきか。歪な象のメルトリリスに交ざる、かつての師の面影を考えれば。神霊の類の療養は、自分では力不足だ、という自覚だろう。

 「何も。私の記憶は戻りそうになかったわね」

 メルトリリスの言葉は、歯切れが悪い。

 「何か思い出したような、気もするのですけれど」

 言って、メルトリリスは手を掲げた。

 袖口がずりおちる。外気に露わになった白い手は不気味なほどに病的で、ほとんど骨と皮しかないようにすら見える。指が動く様は酷くぎこちなく、不気味ですらある。不快感すら催す蠢動は、何かを掴もうとしているように、見えた。

 「でも」

 思わず言いかけ、メルトリリスは口を噤んだ。はっとしたような表情をしたのも一瞬、そもそも何故自分はそんな顔を作ったのか。それすら不鮮明な様子で、彼女は難しい顔を作った。

 無論。

 「なんでもない」

 ケイローンは、そんなメルトリリスの振舞に対して、特に何も言葉を発しない。彼女がそれを必要としていないことを、ケンタウロス族きっての賢哲は理解していた。

 「動いたらダメかしら、まだ」

 「かまいませんよ。通常の戦闘なら可能でしょう。ですが宝具の発動、といった急激な魔力運用は控えてください」

 「わかってるわ。それじゃあ……」

 ベッドから身体を起こしたメルトリリスは、目の前に差し出されたそれに顔を顰めた。

 「お飲みください?」

 「わかったわよ。抜け目ないわね、アナタ」

 

 ※

 

 「ニホンにフランスにローマかぁ。とんでもない旅なんだなぁ」

 脚をパタパタ。椅子に腰かけたメアリー・リードの素っ気ない声に対して、応えるトウマの声はどっちかというと緊張しているように、クロには思えた。

 「どこが面白かった?」

 「面白かったとこ、ですか」

 天幕のベッドに腰を下ろすトウマは、ちょっと考えるように首を捻る。クロはそんなマスターの後ろ姿を、ベッドの上で携帯用のタブレット端末を弄りながらちらと一瞥する。

 「あんまそんな感じじゃないんだ」

 「そうですかね。どっちかというと大変というか、いつもギリギリで」

 トウマは、ちょっと身体を小さくした。頭をかく仕草は照れというよりは気まずさを紛らわせているんだ、とクロはよく知っている。

 「でも言われてみると良いことも、あったかなとは。サーヴァントの皆と会えたのは、良かったのかなって」

 相変わらず、トウマは頭をかいている。でも今度は気散じではなくて、照れだ───電子書籍化したファッション雑誌をちらちら見ながらも、クロはそれとなくトウマの心情を、理解する。

 「ちゃんとその出会いを活かせていかなきゃなっても思いますけども」

 「少年君は真面目だなぁ、ボクだったら楽しいやってくらいしか思わないと思うよ」

 言って、メアリーは椅子から飛び上がる。身長150ちょっと、脚の高いベッドに座るトウマとは、ちょうど顔の高さは同じくらい、で。

 「じゃあ、ボクのことも忘れられないようにしてあげるから」

 不意に、メアリーの身体が沈む。あ、とクロが思ったときには既に完了済みで、トウマには恐らくその事態をよく理解していない。

 粘膜接触。

 口唇の接触。

 接吻。

 即ちそれって。

 「んな!」

 「な、なな何!? キ、キキ―――!?」

 「何それ。漫画とかで野蛮人が挙げる奇声? そっちは深淵にいる兎人間みたいだな」

 朴訥としたような顔は全然変わらない。表情の起伏など無さそうな顔のまま、メアリーは口元だけを蠱惑的に歪めた。

 「少年君、かわいかったから。いいよね、アーチャー? まぁ、答えは聞いてないけど」

 「いや、良いって言うか……」

 「ボクこれでも海賊だからさ。欲しいものは盗っちゃうよ」

 そうして再度。当たり前のようにトウマの唇を掠取すると、あっさりと身を翻した。

 「じゃあね」

 後ろ姿のまま、ひらひら手を振るメアリー。そのまま何事も無かったように彼女は天幕を去っていった。

 嵐のような……と言うより、無風の青い田園に吹いた颪のようだった。

 「きゅう」

 無言の転倒。ベッドに転がったトウマは、身体をくの字に曲げたまま、耳まで顔を真っ赤にしていた。

 (あーあー、聞こえてるかい2人とも。ローカルでも通じにくいんだな。ちょっと気になることがあるからドレイクのところに来て欲しいんだけど……ってどうしたんだ?)

 ライネスの声も、妙に上の空にだけ響いていた。




なんか100話になってました。2年前に投稿初めてから随分進んだなぁとしみじみしております。長いような、短かったような不思議な気分ですね。肝心の100話はそう目覚ましい話ではないんですけども。


今後とも当作をご愛顧のほどよろしくお願いいたします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

残余のトライスターⅠ

お久しぶりです

色々落ち着いたので投稿開始します


「さっきの話、もう一度確認したいことがあるんだけどさぁ」

組んだ足を卓上に投げ出したドレイクは、まるで些末事のように言った。

「何かな? 結構色々話をしたと思うけど。聖杯はとりあえずいい、って話?」

ライネスは脱ぎ終わった制服を畳みながら、寝間着をベッドに広げていく。ふわ、とあくびも一つすると、緩んだ涙腺から漏れる雫を擦り落とした。

既に、グリニッジ標準時は20時を過ぎている。逢魔が時は既に超え、暗黒の世界はまさしく魔的な時間ともいえるだろう。本来はこの夜こそが魔術師の時間であり、ライネスにとってもそれは変わらない。普段なら目も冴え冴えで、ましてサーヴァントの体躯である。眠る必要など皆無なのだが、それでもライネスは、就寝という習慣を励行していた。

 サーヴァントの炉心たる魔術回路を熾す魔力供給は、マスターからではなくカルデアスの炉心から行われる。上位の魔術師すら優に超える魔力供給を可能とするシステムで、供給量は半永久的ですらあるのだが、それでも一度に回せる魔力量には限度がある。炉心で生成させる魔力は施設運営にも回していることを思えば、抑えられる消費は抑えられるに越したことはないのだ。戦闘に突入すれば、問答無用で膨大な魔力を食うことになるのだから。それ故に、ライネスは本来不要な“寝る”という行為に重点を置くことにしていた。わざわざ寝間着を魔力で編んだのは、完全に彼女の趣味なのだが。霊衣変換自体はさして消費としては多くないのでいいだろう……と、とりあえず言い訳はしている。

 「あのヘラクレスを一回殺したってのは本当なんだよね?」

 「本当だとも。彼女の投影魔術なら、例のゴッドハンドに対してある程度強気に出られるからね。まぁ完全に優位ってわけじゃあないだろうけど」

 ライネスに応えたのは、逡巡のような黙然だった。ベッドの隣に設えられたデスクに投げた足を、ドレイクは下ろした。

 「もう一度確認するんだけど」

 「何かな」

 逡巡は変わらず、ドレイクは思考を手繰るような慎重な声。「あの毛皮越しに殺したんだよねぇ?」

 「毛皮? まぁそうだった、かな?」

 妙に神妙な素振りに、ライネスも思案気に頬に触れた。

 布。

 戦術データリンクで共有した視覚情報を思い返せば、確かにあの巨体は頭から奇妙な防具を被っていた。そしてクロの投影した魔槍は、あの毛皮ごとにヘラクレスの肉体を刳り貫いたはずだ。

 「そうか、ネメアの獅子の毛皮」

───ヘラクレス、十二の難行の一つ。人理を否定する神獣より剥いだ毛皮は、人間の生み出したあらゆる武具の攻撃を弾いたという。そうしてヘラクレスは武具ではなく、その強靭な肉体を以て縊り殺し、毛皮を剥いでその肉を喰らったという。 

 特異点冬木の情報はライネスも閲覧済みだ。あの第五次聖杯戦争に端を発したと思われる特異点、そこに現れた狂戦士のサーヴァント、ヘラクレス。十二個の命のストックを持ち、Aランク以下の宝具の攻撃を軽減するインチキ宝具『十二の試練(ゴッドハンド)』を所持していた、と記録にはある。

 このヘラクレスは別な宝具を持っているのか。いや、ゲイ・ボルグで間違いなく殺したにも関わらず、ヘラクレスは自己蘇生を果たした。ならば獅子の毛皮に加えてゴッドハンドも所持しているはずだ。

 クロの視覚情報から鑑みるに、ヘラクレスは青銅の怪鳥も使役していた。それも宝具だとでも言うのか? 一体いくつ宝具を持っているのか、あのヘラクレスなるサーヴァントは。

 それも疑念。だが、今は別な疑問が視界を揺れている。

 彼女が投影したケルト神話の魔槍、ゲイ・ボルグ。心臓を穿つ光の御子の槍は、当然のようにあの毛皮を貫き、大英雄の心臓を喰らったはずだ。

 「あの槍、ゲイ・ボルグという名なんだが」

 「へぇ?」ドレイクは、ちょっとだけ関心を寄せた素振りを見せた。「神獣を原典にした槍ならば、ネメアの獅子の皮も貫けるって言いたいわけかい?」

 ……それとなく喋ってわかったことだが、フランシス・ドレイクは結構知的水準が高い。無敵艦隊を打ち破った戦術しかり、粗野に見えては知悉に富む。海賊の出でありながら、叙勲を受けるに足る人物なのだ。

 「む……まぁそうだが」

 ライネスは少しばかり、口を曲げた。リツカもそうなのだが、思考が回る相手というのは話はスムーズに進むが思考を見抜かれているかのような感じすらする。陰謀策謀を内に秘めることこそ本懐という生を送ってきたライネスにしてみれば、それこそ道端で裸にされるような感じすらする。

 「可能性として無くはなさそうだけどねぇ。でもさ、普通に考えたらその槍だって道具だろう? 可能性としては弱い」

 「むむ……」

 正論だ。如何に魔獣を素材にしていようが、結局は人の手によって生み出された武具に差異はない。ならば神獣の毛皮を貫ける道理は、そこにないと考える方が自然だろう。

 ならば、何故。

 思案は、そこまで長くなかった。何より思考するための材料がない。クロがなんらかのスキル……防御効果を無効化するスキルを有していれば話は別だが、彼女のステータス上そういったものは確認できない。クロエのスキルは千里眼に心眼、といったもので、小回りは聞くがユニークスキルの類は持ち合わせていない。刀剣類の宝具を投影する、という派手さに目を奪われがちだが、クロエのスキル構成は割とオーソドックスに纏まっているのも事実だ。

 人の手、ないし神なるもの……広く人理に属する者が作り出した武具なら全てカットされるものを貫通し得るには、どういう理屈を用意すればいいのか。ライネスには、ちょっとわからなかった。

 「ま、どういう原理かはどうでもいいんだけど」

 「いやいいのかよ!?」

 今の思案の意味は一体……恨めし気にドレイクを見やると、案外子供っぽくにやにやと笑っている。

 「アタシは、あのヘラクレスをぶち殺せる可能性があるサーヴァントってことにしか興味はないのさ」

 「実利的なことだ」

 「海賊ってのはそういうもんさ。伊達や酔狂だけでできるほど、楽な“仕事”じゃあない」

 それに、と続けて、ようやくドレイクは足を下ろした。

 真直ぐ見つめる、ドレイクの目。ごちゃつく倫敦というよりは、片田舎のからっとした青空を思わせるはずの彼女の表情は、そこにない。あるのはただ、底の知れぬほどの何かを抱えた目だった。あるいはそれは同質か。底抜けの青空が無限の穹窿であるのと、遥かな深淵の暗黒が見渡せないことは、本質的には同義とでも言うのだろう。ライネスは、内心で何か空恐ろしさすら感じた。外面は相変わらずなのは、エルメロイの家名に生きてきた、その生き方によるものだったか。

 「アンタ、中国でも随一の名軍師なんだってね?」

 「まぁあくまで中身は、だけどね」

 「どっちでもいいさ。要するに、アタシは今後の作戦について話ができればそれでいい」

 「まぁそれなら」

 「これはアタシの考えなんだけど───」

 ドレイクが言いかけた、その時だった。

 (あー、こちらカルデアのロマニ。聞こえてるかな?)

 空中に映像が立ち上がった。

 いや、正確には映像はきていない。映像通信のウィンドウだけが立ち上がったものの、音声だけで映像データまでは出力されていないらしい。

 (ドレイク船長、一つ確認なんだが)

 「ん?」

 (その島の北東4km方面にサーヴァントの反応を確認したんだけど、心当たりあるかな?)

 「いや。アタシらで残ってるサーヴァントは6騎だけだ」

 「敵、か?」

 明瞭に象る疑念。

 この島が諸々の作用で敵の索敵網から外れているらしい、という事情はそれとなく気づいているのだが、魔術に絶対はない。想像し得る全ての事象は魔法事象である、とはよく言ったものだ。

 だが仮に敵だとするなら、それはそれで疑問もあるのも事実。

 つまるところを言えば。

 「なんだかわからん、ってことか」

 (一応参考なんだけども、そのサーヴァント? の霊基規模が上手く測定できなくてね。単純にそちらの特異点に干渉できないってこともあるんだろうけど。どっちかというと、なんかちょっと優秀な魔術師の使い魔レベル、程度の反応なんだよね)

 「なんだ、それ?」

 ますます不明だ。カルデアの戦力を含めれば、サーヴァントが現状9騎いる勢力に送り込む戦力としては、心もとないにもほどがある。

 ならば陽動。

 可能性としては捨てきれない。

 「少数の戦力を以て動向を探るってのがまぁ無難なところだと思うけど、どう?」

 「そうだろうね」

 ドレイクに、頷きを返すライネス。次いで彼女の思考は、選定すべき戦力に移る。

 いや、これはほとんど思考の余地はなかった。即座に解答に辿り着いたライネスは、パスを介した無線を開いた。

 「あーあー、聞こえてるかい2人とも。ローカルでも通じにくいんだな……。ちょっと気になることがあるからドレイクのところに来て欲しいんだけど───ってどうしたんだ?」

 

 

 「それで、この2人はなんなわけ?」

 むう、と頬を膨らませるクロ。全く以て機嫌はよろしくないようで、目の前に並ぶ2人を見る目はけんもほろろだ。

 「ごめんなさいね、お嬢ちゃん? メアリーったら、いつも以上に張り切っちゃって」

 「まーまー、お仲間なんだから仲良くしようよ」

 他方、もう一方のサーヴァント2人は、どちらものほほん、とした様子だ。泰然というよりは飄々。つかみどころの無い笑みは、なるほど規律戒律という言葉から自由な雰囲気がある。

 アン・ボニーとメアリー・リード。およそ世界でもっとも有名な女海賊のコンビだったと、とトウマは記憶している。黒髭やドレイク、といった海賊たちが英霊の座に上り詰めているのなら。2人も同じく英霊に昇華していてもおかしくはない。

 特異的なのはその在り方だろう。

 アンとメアリーは人物としては2人だが、サーヴァントとしては1騎に数えられる。ライダークラスの霊基を2人で共有する、稀なサーヴァントなのだ。

 「数的有利で押すのは常道だろー」

 「まぁ敵って決まったわけじゃありませんけどね」

 朗らかに言葉を交わすアンとメアリー。対照的な外見の2人だけれど、それだけに親密に話す姿はコンビとしての結びつきの強さを思わせた。

 「まぁ、別にいいけど―」

 相変わらず拗ねた様子のまま、クロはぐい、とトウマの袖を引っ張った。

 じい、と見上げる酸化銅の目。トウマが何らかのリアクションを取る前に、クロは素っ気なく鼻を鳴らした。

 「おやつを食べるのはいいけど。食べ過ぎてメインディッシュが食べられない、なんてことにならなければね」

 流石に、口を噤む。気まずいなんて話ではない。

 というかなんか……これってそういうことなんだよな。

 (あーごめん、痴情がもつれてるところ悪いんだけども)

 と、無線が耳朶を打つ。

 視野投影される通信ウィンドウに、のほほんとした顔が浮かぶ。リツカは緊張感などまるでない表情のまま、エナジードリンクを呷っている。

───その背後のベッド。黙然とメルトリリスが足を組んで座っているのは、何なのだろう。後ろでわたわたするマシュもマシュだけれど。むしろ、痴情がもつれているのは向こうなのでは。よく見れば、確かにリツカは緊張感などなさげだけれど、妙な気まずさは感じさせる顔つきである。

 (正体不明のサーヴァントの動きが止まった。というより、動きからして何かしらの戦闘行為が発生しているようだ。こちらの結界の防衛機構が作動してないことを考えると、原生生物と小競り合いをしているらしい)

 「とりあえず距離を詰めて静観、ってことでいいのかしら」

 (話が早くて助かるよ)

 リツカに素早く応えたのは、やはりクロだ。なるほどー、と頷くメアリーに目を丸くして首を縦に振るアンは、あまり戦術とかそういうことを考えることは得意ではないらしい。なんならトウマも、リツカとクロの会話はついていくので精一杯だったりする。

 (配置は)一瞬、リツカは思案するように視線をずらした。(メアリーとクロが前衛、アンは後方からの援護に徹して。トウマ君はよく見て)

 各々、了解の声を返す。トウマも流石に慣れたもので、「了解」と応える声は落ち着いたものだ。最も、緊張はしていないわけではないし、自分の立場を弁えているからなのだが。

 「だって。よろしく、クロエ」

 「……よろしく」

 むっつり、と返すクロ。対するメアリーはやはりつかみどころ無く、「じゃあ行こうか」と森の中へと飛びこんだ。

 「クロ」

 トウマの声に、振り返る白銀の影。月光の下に煌めく彼女の双眸は、拗ねというよりも、もっと別な感傷で。

 「行ってらっしゃい」

 「うん」

 駆ける、疾走。弓を投影したクロの姿は、一瞬後に樹々の中へと消えていった。




101話でした

とりあえず週1、金曜夜の投稿していきたいと思いますので皆さまよろしくお願いします 誤字脱字や感想、評価などありましたらじゃんじゃか頂けると執筆者はありがたく思ったりします


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

残余のトライスターⅡ

 同時刻

 

 「えーっと、それで、何でしょう」

 折り畳まれる映像通信用のコンソール。ふう、と嘆息を一つ。同時にエナジードリンクを飲んだリツカは、気まずそうに、右側頭部にまとめた銅色の髪をかき回した。

 声の向く先、リツカの後ろ。彼女の天幕に堂々とやってきたメルトリリスは、ベッドの上で胡乱気な目を向けていた。

 無論、メルトリリスの視線が向く先はリツカである。じとーっとした目に居心地悪くなったのか、自然、リツカのエナドリを呷る速度はちょっと加速していた。なんなら脂肪肝も加速気味である。肝硬変もそう遠くない。

 ……ちょっと、こういうところは珍しい。と、マシュは思った。泰然は泰然だけれど、大きく構えるのとはちょっと質が違う。かといって海賊たちのような身軽さでもなく、ただ底抜けの能天気さとでも言おうか。そんなリツカが、ちょっとたじろぐ姿は新鮮と言えば新鮮な光景だ。

 ……ちょっとだけ、マシュはむっとなった。

 「別に。ただ気になってるだけ」

 「えーと、何が?」

 「アナタが。フジマルリツカ」

 「ははぁ」

 わかったような、わかっていないような言葉を返す。真直ぐ見つめてくる目が苦手なのか、リツカは曖昧な笑い顔っぽい表情を浮かべるだけだった。

 「アナタを見てるとイラつくの」言いながら、メルトの表情はあまり変わらない。いや、ちょっとだけ、眉間が蠢動した、ようだった。「とても不愉快。切り刻みたくなる」

 「私にプラナリアごっこをする趣味はちょっと無いんですけども……」

 「やらないわよ。アナタなんて触りたくもない。気持ち悪い」

 罵倒はにべもない。リツカはただ困惑げな顔を浮かべたけれど、取り付く島のないメルトリリスの身振り棘のある物言いへの感情というよりも。

 「アナタのことが気になるからいるだけ。勘違いしないこと」

 リツカの困惑は、メルトリリスからの、望外の志向性そのものにあるようだった。

 言葉尻だけを捉えれば、まるでツンデレの告白である。流石にマシュはそんなたとえは思いつかなかったけれど、むしろもっと素直の言葉尻を捉えた。

 「メルトリリスさん」

 「何よ―――ってキャ!?」

 どすん。

 勢いよく、マシュはメルトリリスの隣に腰かけた。腰かけたというより、もう隕石の落着みたいな勢いで。衝撃でメルトリリスの身体がちょっとバウンドしたような気がするが、多分気のせいではない。まぁ知ったことではない。

 「お隣、よろしいですか?」

 「いやもう座っ」

 「よろしいですね、了解しました」

 「……怖っ」

 

 

 (何か見えた?)

 無線の声が、耳朶を打つ。眉間に皺を寄せながら、クロは小さく唸った。

 森林の中、林立する樹々の狭間で、確かに何かが蠢いている。そこまではわかるのだが、逆に言えばそれ以上のことは判然としない。時折迸る叫喚は、獣の咆哮か。

 彼女の……と言うより、元になった英霊に由来する【千里眼】のスキルによって、いわゆる遠目は効くはずなのだが。そのスキルの効力は夜間とてほぼ減衰されないことも兼ね備えるならば、この事態は異常だ。

 いや、原因は既にわかっている。この島全体を覆う結界の作用がそうさせているのだ。

 天然に発生したものを転用した結界。高度な魔術理論によって構築された結界は、そんじょそこらでお目にかかれるものではない。

───神代の大魔女。この特異点成立直後に生じたアルゴノーツのサーヴァント同士の抗争、海賊のサーヴァントの召喚と戦闘に関わったらしい、サーヴァント。常にアルゴノーツの思惑に立ち塞がり、最後はオデュッセウスに討たれたキャスター。最後の瞬間を以て、サーヴァントの身で対抗勢力たる海賊たちを召喚したのも彼女だという。

 その真名、キルケー。オデュッセイアに語れた魔女こそは、海賊たちの拠点に幾重もの結界をはじめとした魔術を残したサーヴァントの名だ。

 それほどに偉大な魔術師が練り上げた結界である。秘匿性は高く、且つ中に入れば外敵の排除に働く典型的魔術工房の一種だ。視認性の悪化は恐らくその一端だろう。

 だが、逆に言えばそれほどの魔術師が作り上げた工房である。万が一敵ならば、既に防衛機構が働いていると見るべきだ。広く見れば、島を闊歩する幻想種もそういった防衛機構の一種と言えばそうで、それに襲われているのなら敵と言えばそうなのかもしれない。

 いや、だからこその疑問形なのだ。敵はこの結界を容易に突破するほどの敵なのか、それとも敵ではないのか。故に、それを索敵すべくにクロたちは現地に向かっているのだ。

 視覚情報と位置情報を併せる。脳内の視覚野を直接暗示で刺激することで戦域情報を視野に投影するそれは、レンズシバの観測データも相まって、センサーフュージョンされた確度の高い情報が表示される。

 間違いなく、あそこにサーヴァント……みたいなものがいる。クロエは、そう理解する。

 (思うんだけど)トウマの声だ。クロはなんとなく耳をそばだてた。(これあんまりキメラ……っていうか幻想種? がやられるのもよくないんですよね)

 (そうかな)応えたのはライネスだった。一応の指揮権はリツカに委ねてあるらしいが、モニターはしているらしい。視野投影されるMFDには、音声オンリーのライネスの通信回線が立ち上がっている。(アルビオンの怪物が束になっても敵わないのがサーヴァントだからな。とは言え、数秒の時間稼ぎくらいはしてくれるのも事実だ)

 ライネスの口ぶりは淡々としていたが、どこか感慨深い。その意するところまでは判然とはしないが、何にせよ、やるべきことは明瞭というわけだ。

 (トウマ君、どうする?)

 リツカの声が、耳朶を打つ。

 沈黙は、数舜に及んだ。一瞬を過ぎ二瞬を超え、およそ五瞬。沈黙の向こうで耳を傾けるのはリツカだけでなく、おそらくライネスも、あるいはその他のサーヴァントも。

 これはある種の試練。というよりは、試験か。乗り越えた特異点の数は既に3つ。4番目の特異点に差し掛かり、リツカは、立華藤丸という少年の思慮がいかばかりになりつつあるのかを試さんとしている。

 (ウワ、甘ッ!?)

 (先輩、それ私のお茶です……)

 ……いや、多分リツカは自覚的にやってるわけではない気もするが。どちらにせよそういう機会になったことは事実で、トウマもそれをよく理解しているからこその思案なのだろう。

 (特に配置は変えずにこのまま。えーっと地形的に……ここの坂から通っていけば視覚的に隠れた上で側背に回れるので、こちらからクロとメアリーさんに行ってもらおうかと。アンさんと僕は逆側のちょっと丘になるところに行って、いざと言う時の援護……という形で)

 (イイネ。無意味に戦力を分散させないのはいいことだよ)

 (ありがとうございます……なんか照れる)

 とりあえず、リツカのお眼鏡には叶ったらしい。ライネス……もとい司馬懿も口を出さないのだから、彼女としても間違いではない、というところか。

 ちょっと、胸を撫で下ろす。クロが綻ぶような安堵の吐息を漏らすと、ふと、その視線に気づいた。

 じい。隣に並ぶメアリーのぼやんとした目が、こちらを向いていた。

 「ふーん、面白いね」

 「何よ?」

 「でもわかるよ。少年君、かわいいよね」

 「いや私は」

 「へただなぁ、クロエ。へたっぴさ。自分の気持ちに対する態度がへた。2人とも同じ気持ちなら、早くすればいいのに」

 メアリーは剣を……いわゆるカットラスの切っ先を、クロの鼻先へと突き付けた。

 「うかうかしてるとボクが抱い(食べ)ちゃうよ? 少年君のこと」

 剣を肩に担ぐ。相変わらずの無表情に、クロは知らず、たじろいで、

 「……君も可愛いから3Pでもしよっか。ボク、3人でするのも好きだよ。少年君可愛いし、2人で舐めたりしていじめたら、きっと可愛いよ」

 品定めするように、メアリーは小さなクロの身体を頭からつま先まで眺めた。

 「サーヴァントだし、関係ないよね。うーんでも2人とも小柄というのは……アンも呼ぼうか」

 流石に、これは顔を真っ赤にした。

 クロエ・フォン・アインツベルン。いわゆる知識レベルで性的に成熟してこそいるし、なんならフリーな方だけれども。それでも肉体に引っ張られているが故か、流石に直接的な表現には慣れがない。イリヤに『そういうこと』を教えた時だって、流石に恥ずかしかった。

 ことここに居たり、この直接的表現は免疫系等が皆無である。新型ウィルスである。とは言え流石にクロもませ方にかけては達人のレベルだった。同じ顔をした妹のような姉であれば自我喪失するくらいの羞恥でも、クロは赤くした顔をなんとか咳とともに払ってみせた。

 「ま、それならそれでいいですけど?」

 まぁ、それでも強がりなのだが。そうして、メアリーはそんなクロの強がりを見抜いている。見抜いた上でニコニコ笑顔を象ると、「じゃあ決まりだね」とコクコク頷いて見せた。

 「いやまっ」

 「ほら、早く行くよ。少年君の指示、ちゃんと結果を残してあげないとさ」

 「むう」

 さっさと走り出すメアリーの背後、クロはケルト神話の英雄が使う両刃の小剣ベガルタを投影すると同時、メアリーの背後に追従する。

 敏捷値、Aということもありメアリーの歩様はとにかく迅い。それでもクロが彼女の速度についていけているのは、アーチャークラスの特性故か、密林での足運びに分があるからだろう。

 一瞥もくれずに疾駆するメアリーの背を、クロは、追いすがった。

 

 

 「さっきの話の続きだが」

 空中投影される映像を横目で一瞥しながら、ライネスは眠たげに目元を擦った。

 既に休眠に入ると決めた中での中途覚醒はややしんどい。人間の頃なら魔術でどうにでもできるのだろうが、寝るために魔術を行うのでは、サーヴァントとして象られるライネスにとっては本末転倒だ。睡眠は、運用する魔力(オド)を最小限に留めるためなのだから。

 「要するに、クロエがこの特異点の戦いの趨勢を決めるって言いたいんだろう?」

 「話が早い」

 他方、ドレイクは食い入るように空中投影される映像を眺めている。遍く時制に延びる英霊の座に昇華した時点で、英霊はおよそほぼすべての時代・地域の習俗には通ずるものだ。とは言えそれは記録上の知識に話であって、実体験的ではない。こういった近未来的な技術的産物……どちらかと言えば魔術と技術が融合した、民主主義的な産物……は物珍しいのだろう。

 関係ないが、派閥的には貴族主義の天文科(アニムスフィア)が民主主義的なことをしているのは、ライネス個人としては興味深い。元々タカ派のユリフィスと異なりハト派のアニムスフィアなだけあって、根源に至る途が近くにあれば鞍替えするのも魔術師らしいと言えば魔術師らしいのかもしれない。まぁ、最も並行世界でしかも時間も異なるこの世界のこととなれば、ライネスには興味はあれど首を突っ込むほどに稚児的趣味の持ち合わせはない。

 ともあれ。

 「彼女たちも以前、ヘラクレスとは戦っているようでね。その時ヘラクレスを墜としたのはやはりクロエだった。トウマ君の指図だったようだが」

 「意外。単なるひょろガキだと思ってたけど」

 ふあ、とあくびをするライネスに対し、やはりドレイクは映像に専心している。音もなく森林を侵攻するライダーとアーチャーの姿は、やや粗い映像が流れるばかりだが、好奇はいや増すばかりといった風体だ。

 「だからこそ、脅しに使ったってわけかい?」

 「そういうこと。相手はヘラクレスだけじゃない。優れた頭があるならば、あんなつまらない遭遇戦でヘラクレスの命のストックを1個消費した時点で撤退するだろう? 戦争において最も忌避すべきことは戦闘行為なんだから」

 それとなく、ライネスはドレイクの顔を伺う。頬杖を突く姿勢のドレイクの顔は変わらなかったような気がするが、何故か、若干、眉間の皺が深くなったような気がした。

 「その上で1回に留めたのは後々のためかい」

 「1回殺せることは教えても良い。でも、無限に殺しきれるだけの力があることは教えられない。これは脅しと同時にブラフみたいなもの。こういう腕力に任せた戦術は得意ではないんだけど、戦略的にはこれが適当ってわけ」

 無論、9割9分、オデュッセウスがそう動くことはライネス……というより司馬懿の範疇の中だ。もしオデュッセウスが予想より拙劣な知性しかない愚かものであるならば、却って不味かった。

 あの場で、もし互いに戦い続けたなら。

 居合わせた敵性勢力を殲滅するくらいのことはできたかもしれないが、こちらの被害を考えれば絶対にとりたくない選択肢。

 いや、あるいはオデュッセウスはそれも考えたか? だが思考の上に昇ったとして、その選択を取ることはあり得ない。何故ならその選択を絶対に取らないからこそ、オデュッセウスや司馬懿といった頭で戦う人間たちが英霊の座に召し上げられたのだから。

 「軍師様には流石に敵わないねぇ」

 ドレイクの口ぶりは、朗らかだ。酒は入っていないのだが、そもそも本性として彼女は海賊らしい磊落な人物ということなのだろう。ライネスは曖昧に言葉を返しながらも、そう言ったドレイクの口ぶりも、雰囲気も、妙な上滑りを感じていた。兄上のような、妙な蟠り。ライネスの好奇心を弄るような素振りに思わず舌なめずりをしかけるが、ここは硬く禁じよう、と思う。流石にライネスの嗅覚と言うべきか、踏み込むべき場所と踏み込んではいけない場所は弁えている。

 「提督(サー)にそう言われると恥ずかしい、そうだよ」

 ライネスは、変わりに澄ましたように言う。

 「一国を築き上げた軍師様が何言ってんだい。お、動いた」

 ドレイクが身を乗り出す。釣られて眠たげな視線を向けるライネスは、弓の弦が跳ねる甲高い音を視認した。




102話でした


次話は来週18日の18時に予定しておりますので、皆さまお待ちくださいませ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

残余のトライスターⅢ

諸事情で遅れてしまいました&今回かなり短いです、103話です


 「それで、アナタはあの朴念仁みたいなのがいいわけ?」

 リツカの肩越しに映像を眺めながら、メルトリリスは隣に座る、なまっちろい女の子へと話しかけていた。

 マシュ・キリエライト。シールダーのサーヴァントだという彼女は、青白い薔薇みたいな肌を赤くしながら頬を緩めていた。

 「その、あまりその、なんて言っていいかわからないんですけど」

 青白いバラみたいな顔はいよいよ真っ赤で、それって普通の薔薇なのではないか。自分の比喩能力の思いの他の凡庸さにちょっとびっくりしつつも、それはそれで可愛らしい顔はメルトリリスの加虐心を高めるには相応しい……が、今はちょっと控えておく。

 情欲の赴くままに振る舞うのもいいが、今はその時ではない。それよりもメルトリリスの関心は、目の前で不健康なジュースを飲む赤毛の女にある。

 藤丸立華(ふじまるりつか)。年齢は19。任務は真面目にそつなくこなしているが、そこにかける情熱はない女。経歴はエリートそのもの、能力こそ乏しいが優れた知性を持っている。毎日エナドリ何本も呷ってはジャンクフードを食べるせいで脂肪肝、将来の悩みは肝硬変から肝臓がんになって死ぬという不安らしい。その癖好きな食べ物はレバカツとレバーペーストというのはギャグなんだろうか。

 「あの、視線に棘が」

 恐る恐る、リツカが振り返る。覇気などあったものではない、ぼんやりした顔がひきつっている。

 持ち上がる手。髪をかき回す、手。艶めかしさなど何もない仕草にも関わらず、メルトリリスはその動作に視線を縫い留められる。

───この、既視感。ざわつくような胸の軋み。血をすっかり吐き出した空っぽの心臓が、ぐるりとひっくり返るような緊張感。脳幹の底に散ってしまった記録が、量子力学的収縮をするような錯覚。

 「えーと」

 眠たげにも見える垂れ眼。気まずそうの頬を指で撫でるリツカの姿の彼方に遠のく幻影に、メルトリリスは被りを逸らした。

 「メルトリリスさんは、正式にはクラスのないサーヴァントなのですよね」

 恐らく、そんなことを聞くマシュは、マシュなりの気遣いをしている、らしい。記憶がすっぽり抜けているメルトリリスへの、ある種の対話想起をしようとしている。そんなマシュという女の子の質朴な善性に、羨望と等価の不快感を惹起させつつ、メルトリリスはそうね、と応える。

 「そうね。霊基としてはランサーに近いのでしょうけれど」

 普段はただの人間に過ぎない……されど、特に不快感を惹起させない少女の気遣いに甘えることにした。等価であるならば、その不快感はやはり羨望でもあるのだから。

 「以前、アヴェンジャーやルーラーといったエクストラクラスの方と会ったことはありますが、そういったものでもないのですよね?」

 「そ。クラスか何かで縛れるほど、私は安くないの」

 ふふん、と鼻を鳴らして見せる。キラキラした目を向けてくるマシュの視線も、悪い気はしない。最善では、ないけれど。

 微かな、闃然。メルトリリス自身すら感知しない情動だった。

 あるいはもう暫くでも沈黙が続けばそれに気づいたのかもしれないが、それより前、リツカの「あ」という言葉が脳神経を励起させた。

 「戦闘に入った」

 緊張感のあることを、弛緩した素振りのまま言う。見る、と促すように椅子の上で振り返るリツカの素振りに、マシュは元気よく応じながらベッドを立つ。

 メルトリリスは座ったまま、その姿を眺めた。

 マスターとサーヴァント。相並ぶ2人の背。

 マスターの、背。赤銅色のミディアムヘアをサイドに一つ結びにする、小柄な女。

 メルトリリスはあまりのサルトル風な実存的悪心を惹起させた。

 

 ※

 

 「動きましたわ」

 アンの静かな声と、ほぼ同時だった。

 マップ上に点滅する青いブリップが動く。ほとんど光点は重なって、1塊になっているかのようですらある。並んで戦うのは初めてだというのに、メアリーとクロの動きは長年ともに戦った相棒のようですらある。戦術判断の水準が高いレベルで同じならば、初見でも高い水準の連携が取れる……という理屈は知っているが。それでも、トウマには新鮮な光景だ。

 「メアリーを前にしたのは正解だと思いますわ」

 「そうですかね」

 「のんびりしているようで結構熱くなっちゃいますから、メアリー。すぐ後ろで抑えてくれる人が必要なのです」

 ニコニコと笑みを転がすアン。物理的に、上からの目線での女性の笑みは、日本の男子高生としては珍しい経験だった。

 何よりその……デカい。ドレイクと同じかそれ以上に。豊かな蜂蜜色のブロンドヘアも相まって、なんというか「オトナの女性」感がもう、スゴイ。

 ……などと貧困な語彙力を駆使して目の前の希望郷を眺めるトウマだけども、もちろんただ思考停止しているわけではない。理想郷を見ながら、ちゃんと思考自体はしていた。漠然としてこそいるが、近接格闘戦特化のメアリーの方が突撃前衛には向いていて、どちらかと言えば中・近距離から遠距離まで幅広く動けるクロには、戦場に飛び込みながら広く鳥瞰して現場での判断を行う役割を担う……くらいのことは考えたりしていたのである。無難で面白味はないが、それだけに卒はない。

 最も。

 「あっ」

 「どうしました?」

 「終わったみたいですわね」

 少年の思考が結実するのは、今ではないのだが。

 「え、もう?」

 「はい、もう制圧したようです」

 (終わったわよ)

 クロの声が耳朶を打つ。網膜投影される映像通信用の枠には、何かをひっつかんだメアリーの姿が映っていた




すみません1日遅れてしまいました 来週は問題なく金曜日にいけるとは思います


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

残余のトライスターⅣ

遅れてしまいました申し訳ありません、104話でございます


 「放さないでくれー! もっとこうぎゅっと───あ、やめて。撃ち殺そうとするのはやめて」

 中央の天幕。

 中央テーブルに集まる白々しさとげんなりした視線の先に、そやつはどてんと座っていた。ぬいぐるみである。黄色い熊のぬいぐるみ。一昔前の主人公みたいな太眉が目を惹くが、一番異様なのはぬいぐるみが喋って動いてることである。ふとライネスが脇目を振ると、トウマとリツカが互いに困惑げな瞥を交わしていた。

 「一応聞きたいんだが、これ本当にサーヴァントなんだよね?」

 (計器上はサーヴァントに間違いない。ただ観測できる霊基規模からしたらギリギリ幻霊になるかならないか、みたいなレベルかな)

 ライネスの質問に、ロマニの声も困惑だけを返すようだった。うん、この世界の一般常識ともズレ気味らしい。

 それはそうである。この喋る熊がサーヴァントと言われて誰が納得できるのか。いや、もちろん動物が英霊の座に昇ることはあるのは知っているのだが。熊の英霊。三毛別羆事件とかだろうか……。いやそれはどうでもいいか。

 「それで、アンタ。真名はオリオン、って言ってたっけ?」

 睥睨たっぷりに見下ろすドレイク。明らかにこの熊のことは一切たりとも信用していない素振りである。 まぁそれもそうだ。この魔術的に興味深い人避けの結界の中にいきなり現れたのだから、疑念は沸いて当然であろう。磊落な人柄でこそあれ、フランシス・ドレイクは不用心ではないということか。

 「そうだって言ってるだろ? オリオン。それが俺の名前」

 他方、この熊も結構肝が据わっている。ドレイクの不躾な視線に対して一切たじろがず、むす、と腕を組んでいる。太い眉を寄せて座り込む姿は、見た目だけならちょっとかわいい。真名を除けば、だが……。

 オリオン。魔術に通ずるものでなくとも、その名を知らぬものは少ないだろう。オリオン座、なんて名前もあるくらいである。単なる知名度で言えばヘラクレスと同等かそれ以上に世界に知れ渡る、古代ギリシャ名うての狩り人だ。もちろんなのだけれど、如何なる伝承を紐解いても、こんな熊の姿はしていない。

 まぁ一応逸話……というか紐づけがないわけでは、ないのだが。だがそれだと、つまりは。

 「さっきも言ったけどよお、俺も何が何だかわからないわけ! なんでこんな辺鄙なところに召喚されたのかも、なんでこんな形なのかも! 泣きてえのは俺だよぉ!」

 わんわん泣いて見せる熊オリオン。当然泣き真似なのはドレイクもライネスも周知のことで、ここで妙な手心を加えると胸元に飛び込んで来ようとする不埒な仕草の予兆なのである。肝が据わっていると言ったけれど、どちらかというと無神経な部類……だろうか?

───ぬいぐるみを抱っこしていると思えばそう悪い気分ではないのだが。

 幼少期に、さしてそんな子供らしい経験もないライネスは思ったりもするのだが、今更自分がそんなことをしなくていいとも思う。

 まぁ、それはともかく。

 なんにせよ、オリオンを名乗るこの不審な熊をどうしたものか、と思うところだ。

 何せオリオンはギリシャ由来の英霊だ。アルゴノーツとは無関係だけれども、何かの由来から紐づけて敵側が召喚したとも限らない。不信な点は、ケイローンもこのオリオンを名乗る熊については知らないと述べている点だろう。少なからず、アルゴノーツのサーヴァントの中にオリオンは居なかった、という言質は取っているけれど。

 まぁ

 「オリオンかどうかはともかく」ドレイクは熊の首根っこを摘まみ上げると、泣き真似をする熊をまじまじと睨めつけた。「腕が立つことは確かみたいだね、アンタ」

 「これでも一応ギリシャきっての狩り人ですので……」

 ちょっと引き気味にオリオンは応えた。もじもじする仕草はどっちかというと逆の感情の発露だろうか? ライネスには若干、その機微を把握し損ねた。

 「そんなチンケな身体で、結界を守護する魔獣に殺されないだけでも大したもんだ。にも拘わらず、アンタは殺さないように手心を加えた上で動けないようにしていた」

 「そりゃあわけわからん状況だったからな」

 今度はやや、照れるように熊が頭をかく。

 つまりは簡単なことだ。敵か味方かもわからない状況で下手に敵対行動を取れば、本来味方かもしれない相手を敵に回しかねない、と判断した。オリオンが言いたいのは、そういうことだろう。ライネスはなんとなく、生前……というより、人間であることの記録を想起する。とある冠位の魔術師は自分が敵ではないことを教え込むことで、他者の工房に平然と立ち入ったという。熊オリオンのアプローチも、方向性としてはあの人形師と同じというわけだ。敵意を発露しないことで敵ではない、と証明する。シンプルな手法だ。

 ……ちょっとだけ、ライネスは顔を苦くした。記録と記憶の差は、定義されるよりももっと境界線は曖昧だ。

 むう、と顔を顰めつつ、ライネスはすぐに内心だけで首を横に振った。詮の無いことは置いておいて、目の前のことに集中しなければ。内面性の奥で無言の司馬懿の存在を感じながら、ライネスは静々と摘ままれたままの熊と、それを見下ろすドレイクを見比べ───。

 「なぁアンタ、アタシらの仲間にならないかい」

 「え?」

 「へ?」

 素っ頓狂な返事をしたのは、オリオンだけではなかった。

 先ほどまで峻厳な顔をしていたはずのドレイクの口ぶりに、ライネスすらぽかんとしてしまった。

 だが、それでも流石に司馬懿の性能を担っているだけのことはある。即座にドレイクの思考に辿り着いて、ふむ、とライネスは手慰みに頬を撫でた。

 「アンタら、俺を仲間にするメリットあるか?」

 「あるさ。アンタがもし敵のスパイってんなら目と手の届くところに置いておくべきだろう? アンタが味方で、もしオリオンだってんなら、それこそ益になる。こっちにはアーチャー役が3人いるが、アンタのサポートがあれば、アーチャーとしての技量を底上げできると思ってね」

 ひょこり、と熊をテーブルの上へと座らわせる。頬杖をついて、ずいと熊に顔を近づけたドレイクの顔は酷く楽し気だ。睨むような目と挑むような目を同居させた無邪気な相貌。冒険者の顔、という言葉が脳裏を過る。

 「従わなかったら俺を始末するってところかよ」

 「いやあ、そんなことはしないさ。アンタはアタシの商談相手。武力を背景にした交渉ってのも嫌いじゃないが、アンタにそれは裏目な気がするし」

 「む……」

 「アンタにとっても悪い話じゃないだろう? ここなら現界維持の分くらいの魔力供給はあるわけだし、飲み食いだって当分困らない」

 幾ばくか、熊は思案したようだった。太い眉を寄せて腕を組むと、何故か奇妙に唸り声をあげた。

 「ヤメヤメ! 俺あんま難しいこと考えるの得意じゃない!」

 「お?」

 「いいぜ。アンタの誘い、乗ってやるよ」

 にやりと嫣然一つ、勢いよく熊が跳躍する。

 目指すは一路、ドレイクの胸部。重装甲に激突する寸前、当然のようにドレイクの手に迎撃されてテーブルに激突した。

 潰れたヒキガエルみたいな声を挙げながら、顔を上げたオリオンは今度こそ実際泣いていた。多分疼痛が原因ではないと思う。

 と、ドレイクの目がライネスを一瞥する。無論、その意はライネスとしても承知している。微かな嫣然を口角に綻ばせ、ライネスは頷きを返して見せる。

 要するには。

 「君にはそうだね、一緒に戦ってほしい人が居る、かな」

 

 

 「お戻りですか」

 ひょい、とベッドに飛び乗る姿を見、ケイローンはいつも通りの穏やかさで応えた。

 そうよ、と素っ気なく相槌を打つメルトリリス。ごろりと寝転がって、やはりどこか遠くを見るように天井を見上げる姿は、何か憂いというか、郷愁めいた感傷が宿っている。

 記録も記憶も、何故か抜け落ちてるという。彼女の素振りはもっぱらその記憶を手に取り戻すことだけで、それ以外のことにはさしたる興味は示していない。降りかかる火の粉は払うが、対岸の火事に飛び込もうという気はないらしい。

 果たして、この拠点にこそ居るけれど、海賊たちの味方をする気はさらさらないはずだ。ただ、あのマスターの少女を気にしているだけで、この場に居るだけのこと。特に公言しているわけではないが、多分そんなところだろう、とケイローンは思っていたりする。

 「アナタも休みなさい。私、もう今日はどこにも行かないし。当分、何もする予定ないし」

 独語にも似た呟きに、ケイローンは至極穏やかに相槌を返した。

 ケイローンの知る由のないことであるが───あるいは現時点でのメルトリリス自身もはっきりと自覚はないが───、やはり、彼女はケイローンのことが少しだけ苦手だった。苦手、というのは正確ではないだろうか。単純に、彼女はケイローンと接する方法を理解しかねている。他方、ケイローンには苦手意識はない。流石に教え子という感覚こそないけれど、やや素直でない少女という姿にしか捉えていない。

 「それでは何かありましたらお呼びください」

 「あら?」

 「食はともかく、褥まで共にするのは流石に憚られますので」

 メルトリリスは意外そうに目を丸くすると、そう、と自分でも実感なさげに声を漏らした。

 入り口をくぐる。樹々の狭間から昏い空を見上げたケイローンは、ほんの微かな夜風を鼻で嗅いだ。

 首を、振る。納まりの悪い蜂蜜色の髪を束ねた姿は、野生と知性、相反するものが均整のとれた姿そのものと言って良かった。そういう相反するものを高く両立する佇まいこそを賢人と言うのだろう。ごく自然に賢人としての在り方をするケイローンは、すん、と鼻を鳴らしながら森を往く。時折樹々の合間から顔を出す魔獣も猫なで声を出すだけだ。

 そうして、ケイローンは不意に現れた広場で、足を止めた。

 ぽかりと森のただ中にを啓いた、小さな広場。人為的ではなく自然的に発生したであろうその広場に、彼女は居た。

 長い、髪の女だ。

 艶のいい髪は健やかさを感じさせる。いや、むしろ幼さですらあるだろうか。高く一つ結びにした髪型も、幼さにより強い印象を抱かせる。

 くりくりとした目、小さな身振り。彼女の全ての身振りが幼気を印象付ける。生前会うことこそなかったけれど、その人物のことは、良く知っていた。

 「おいでになっていましたか」

 ケイローンは、普段通りに柔和な顔を浮かべた。むしろ、普段の微笑こそこの柔和さの延長とでも言うようだ。

 「メディア」

 「はい、ケイローン様。1か月と22日ぶりですね」

 メディア。

 ケイローンにそう呼ばれた少女は丁寧にお辞儀をすると、花のように無邪気さで顔を綻ばせた。アルゴー船の船長であり、またケイローンの教えを受けた勇者の花嫁であり。そしてその勇者の人生を終わらせた人物……と、史実上目される。まだ幼少期の頃の彼女の風采は、どちらかというと前者である。後者は、ちょっと観念と乖離するな、とケイローンは思った。

 「次のアルゴノーツの動きですか」

 メディア、は小さく顎を引く。ぴり、と顔を引き締めたケイローンも小さく頷きを返した。

 だが、その前に。

 「メディア。イアソンはまだ?」

 ケイローンは、いつも通りの質問を、くりかえした

 あるいは、その表情の鋭さはその質問のためのものか。メディアは思慮深げに一度瞑目すると、やはり小さな動作で、振り仰ぐように首を持ち上げた。

 否定。温和な表情を微かにしかめながらも、ケイローンは特に不快さを表す言説を表現するのを避けた。彼にとり、表情にネガティブな心情を現すことはほぼ皆無。ならば、現時点でのこの細やかな感情表現は、内心としては怒声を浴びせるほどの忍苦であるう。

 イアソン。アルゴー船の船長となり、羊の毛皮を求めて旅をした、古代ギリシャを代表する傑物の1人だ。そして、その幼少期のイアソンを育てたものこそケイローンその人にほかならない。それ故の、怒気だった。イアソンは確かに傲岸な人間だが、理性と良識をきちんと収めた上での素振りだったはずだ。少なからず、そのような子だった、とケイローンは了解している。なれば何故こんなことをするのか。神代に戻って一体何があると言うのか。そんなものには、青少年じみたセンチメンタリズム以外の価値など一切ないというのに。

 どうして、そんなことをするのか(Why done it)。ケイローンの知悉を以てもイアソンの今の行いは身勝手、没価値、且つ、不鮮明だった。

 とは言え、ケイローンはこの場で怒気を発することはしなかった。怒気をぶつけるべきはイアソンである。あの男のためを思って、忌避すべき逸話(裏切り)を買って出たメディアの前で感情のまま振る舞うことは、筋が違う。

 「お辛くはありませんか」

 言ってから、愚かなことをした、と思った。メディアはただ、ほろり、綻ぶように微笑を返して、肩を竦めるようにした。小首を傾げた笑みは無暗矢鱈な儚さで、何か父性的な情動が軋むようだ。

 「それでは私も映写(プロジェクション)にも限界がありますから、手短に説明を。次のオデュッセウス様の戦略ですが」

 

 

 「原初のルーン、てのはなんでもできるのか?」

 ふと、声が肩を叩く。

 振り返る、キャスター。きょろきょろと周囲を見回す影依(シャドーロール)のアーチャー。普段背負っている丸い武具は展開しておらず、ちょっとだらしない様子でふらふらと歩き回っている。

 「ふむ、そうだな」キャスターは自分の手先を見る。黒い外套の裾から突き出た細い指先は、どちらかと言えば頼りない。「大神であればそれこそ根源にすら手が届こうか。まあさして意味のないことだが」

 「ふぅん、すげえな」

 「アーチャー、おぬし何もスゴイと思っておらぬだろう」

 「思ってない」

 なんともまぁ直截な切り返しである。フードの奥でむっつりと頬を膨らませたキャスターは、「まぁ私は大したことないがな」と捨てるように言葉を吐いた。

 「この結界を乗っ取ったのもアンタなんじゃあないのか」

 「そんな乱暴なことはしておらぬさ。元から自然発生した結界を、転用しただけのものだったようだしな」

 腕を掲げる。

 掲げた右腕に、どこからともなく現れた小さな鳥らしきものが飛び乗った。

 大きさは鳩ほどであろう。凛とした目は、しかしその鳥が猛禽の類であることを感じさせる。

 最も、それは鳥などではない。水晶で形作られた、人造の使い魔だ。

 舌を巻くのはその超絶技巧。その実魔術によって駆動するのはごく一部で、その多くが物理・力学的合理性をもとに駆動している。空を飛んでいる原理も魔術は介さず、翼の揚力だけでひらひらと舞って見せているのだ。この結界の見張り番、といったところだろう。本来外敵が現れれば飛び去り、主に危機を知らせるのだろうが、今はこうしてキャスターに手懐けられている。

 「私はただ大神の加護を使っているだけにすぎんのだ。それこそ此度の要石……メディアやキルケ―には及ばん」

 「神なのに」

 「そもそも、私は何かできる神ではないのだ。何かしてもらうだけで」

 痛いところを衝く男である。やはり火の使い手は嫌いだ、と思いながらも、それでも私事に拘泥しないざっくばらんとした身振りは、そんなに嫌いになれないところでも、あるのだが。

 「アルジュナみてえなもんか」

 アーチャーは何やら独り言つが、漠とした感慨を漏らしただけらしい。キャスターは特に構いもせず、ぷらぷらするアーチャーに水を向けた。

 「して、何用か。わざわざ私を褒めそやそうと来たわけではあるまい」

 「あーそうそう。マスターが呼んでるぜ。飯食おうとかよ」

 「むう。サーヴァントに食事がいらぬことくらいわかっておろうに」

 言いながらも、キャスターはさらりと身を翻す。渋々、という動作ではない、軽やかな動きだ。口では非難がましいことを言いながらも、内心が滲み出ているのである。汎人類史から来た愛し子のことを、キャスターはとても気に入っていたのだ。

 「まぁ要らぬとは言え無用というわけではないからな、うん」

 「誰も何も言ってねぇだろうが」

 フードの奥から寄越される非難がましい視線も何のそのである。自然、キャスターの足取りも軽やかになるというものだ。

 「何料理か聞いておらんのか、アーチャー」

 「サバの……なんかカレーみたいな食い物だったな。泥みてえな汁かかってたが」

 「なんだそれは。なんとも食欲をそそらぬ食事ではないか。マスターのアクアパッツァとやらを食べたいぞ」

 「故郷(クニ)の料理なんだとさ。まぁなんでも食ってみるもんじゃねえか」

 ほれ、と促されるまま、キャスターはアーチャーの背後に続く。

 大方、ランサーあたりが釣りをしていたのだろうか。それとも熊さながらにアサシンが川で魚でも取ってきたのか。どうせセイバーが山ほど食うのだろう、などと思いを巡らせたところで、キャスターはその一角の前に立った。

 一見、ただ草木や蔦が絡まっただけの洞のようにしか見えない。だが、それは見かけだけのものだ。アーチャーが手を翳すと、草木の一部が音を立てて口を開けた。人一人が入れるほどの穴が開いたのだ。

アーチャーがなんらかの魔術を使用したわけでは、ない。結界の主が認証した人物の形質に反応して作動する魔術が事前に敷設されており、それが滞りなく機能を発揮したことによる現象だ。タッチパネルを介した指紋認証、みたいなことをマスターが言っていたような気もするが、時代は神代に生きていたキャスターにはあまりよくわからない言葉だった。

 中に入れば、これもやはり魔術の一端ともいうべきか。広々とした空間は、ある種の空間歪曲が働いているのだろう。これは自然にあったものではなく、おそらく人為的に設置された魔術による作用だ。しかもこれはかなり高等なものだろう。未だ多くの魔術が魔法であり、また神の権能が世界を支配していた時代の神であったキャスターで以ても、これがどんな原理で成立しているのか理解しがたい。原初のルーンを使えばこの真似事も可能だろうが、逆に言えば大神のルーンに比肩する魔術である、とも言える。

 おそらく、この世に現れた魔術の使い手にあって五指に入る術者に違いない。そう、キャスターは理解した。

 最も。

 「あー、できてるよキャスター」

 そんな高位の魔術の場において、行われているのは現代の家庭料理なわけだが。

 ぐるりと囲んだ鍋。もうもう、と揺れる火は、キャスターが護身用にとマスターに渡した使い捨てのアンザスのルーンによるものだろうか。

 「原初のルーンをなんだと思っているのだ」

 「ライター。マッチより便利」

 「コンビニエンスだね、わかるともわかるとも」

 ぽかんと間抜け面をするマスターに、隣でそわそわと鍋を眺めるランサー。

 「おいしい食事が山のようにあり、且つ数多存在するというのは兵站の面でも貴重かと思われますが」

 「呵々、お主はただ喰いたいだけであろうて」

 鍋を囲む、黒フードの群れという図も珍妙な光景だ。大小さまざまな黒フードがわいわいがやがやしている様は、出来の悪いファンタジー作品のようですらある。まぁ実際のところ、この物語(ナラティブ)は出来が悪い。これほど異物が混入した物語、甚だ歪になることだろう。

 と、黒フードの中でもひときわ小柄なフードと目が合う。フードの奥で仄光る金の双眸。並みいる影依のサーヴァントの中にあって、最強の銘を恣にするサーヴァント、タイプ・セイバー。ちんちくりんな姿に、キャスターは嫣然ともつかない微笑を薄く浮かべた。

 互いの立場は、似ているようで全く異なる。だというのに似たような振舞をしているのは、きっとマスターの人徳、なのだろう。ならば、キャスターが浮かべた温かさは、人と共にある神の暖かさ、だっただろうか。

 苦労人だ、と思う。もちろん、セイバーがだ。あんな小娘の癖に、その両肩にとんでもないものを背負っている。たかだか人間の子が、それほどのものを背負うのは、キャスターとしては不条理且つ、不憫なことのように思われた。

 ……そんなことを、彼女は自分を棚上げして考える。最もキャスター自身としては、遺物と化していた自己の責任として、当然と理解していただろうか。

 「キャスターはアクアパッツァが食べたかったんだとよ」

 「あ、そうだった? ごめん、今度作るよ」

 ひらひらと手を振りながら、アーチャーはさも面倒くさそうに言う。わざわざ言わんでもいいことを、とその背を睨みつけながらも、キャスターは至って傲岸な素振りをすることにした。

 「はいこれ」

 どこからともなく取り出してきた皿に、鍋から一切れ切り身を盛る。併せて茶色いソースを不躾にぶっかければ、完成らしい。

 ……あまり旨そうには見えない、確かに。皿に載ったフォークを一刺ししてしげしげ眺めてみても、なんというか嗅ぎなれない匂いだ。

 「神様のお口にあいますでしょうか」

 「善い。たまには、口に合わぬ食事を摂るのも一興」

 むんず、と一口。むしゃりと咀嚼し、しっかり嚥下。唇についたソースを舌で掬ったキャスターは、ただただ無言で頷いていた。

 「見ろよセイバー、あの至福の顔をよ」

 「ええわかります。おいしい食事というのは心が温まる」

 「ところでセイバー、これの使い方教えてくれないかな。あまり慣れなくて」

 「箸はですね、このように持つと良いかと思いますが」

 「セイバー、お主何故箸など使えるのだ?」

 喧噪の中、満面に浮かべる無邪気なマスターの笑顔。魚を頬張りながら、キャスターは、思うのだ。

 この運命を選んだのは彼女の恣意性。だとしたら、ここに集った英霊どもは皆、物好き連中ということだ。

 だから、気など使わなくていいのに。みんなに遠慮なんて、しなくてもいいのに。キャスターはそんな風に、個体的な思惟を重ねるのだった。

 「どうしたの?」

 「奇妙な味だが悪くない、と思っただけだ。次も善いものを作るのだぞ」

 「はぁい」

 まぁ、これも、良い。これは多分彼女の自己犠牲なのだけれど、それでも彼女自身も満たされているのだから。倫理とは、全体としての善き生への配慮なのだから。無限の自己犠牲が前提になる道徳的行為は、唾棄すべきものに他ならないのだから。

 微かな、闃然。ならばこの淡く解れるような情動の原子崩壊は、マスターとの出会いに依るものだったのだろうか。かつての己の脱存的決断を思い返して、キャスターはフードの奥で破顔する。

 「そういやあライダーの野郎はどこいったんだ?」

 「あぁ、それならセンパイと一緒に釣りに行ってるよ」

 遠い、喧噪が耳朶に触れゆく。




金曜に投稿すると申しておりました。日曜日になってしまいました、スミマセン。

リアルがちょい忙しいので、週末に投稿するんだなぁと漠然とした思っていただければ……。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

星影

 翌日、AM5:30。

 立華藤丸(タチバナトウマ)は目を覚ますと、まずもって、あくびを漏らした。

 肌寒いせいか、まだ眠気が強い。副交感神経優位になっているせいだろう、まだまだ身体は休眠をしたがっているようだ。

 こんなに早く目を覚ました理由は、これから2時間後に次の作戦に関するブリーフィングがあるからだ。普段ならもう少し遅く起きるているところだ。

 ふあ、とあくびをもう一度。目じりに流れた雫を拭うと、トウマはそれとなく、寂しげにベッドの脇を一瞥する。

 木造りのツインのベッド。普段いるはずの姿は隣に無い。それとなく哨戒のローテーションを思い出すと、そろそろ帰ってくるころだろう、と思い出す。

 気恥ずかしそうに、トウマは鼻頭を掻いた。次いで髪をかきあげて、緩む口角を両の手でしばく。頬が赤いのは多分色々な理由によるもので、だからこそ、少しだけ、微かに、不整脈のように心臓が軋む。

 ベッドで端坐位の姿勢をとったまま、トウマは天井を仰ぐ。オリーブドラブの天幕は恐らく島の植生に紛れるための迷彩だろう。さらには魔術的な走査に対する特殊な素材によって編まれているというそれは、言ってしまえば科学的走査以外の索敵に対して極めて高い静粛性を担保しているのだった。

 トウマにもやや理解できるようになった事柄だが、いわゆる膨大なオド・マナを利用する大魔術だけが偉大な魔術ではない、という。極めて微小なオドだけによって駆動し、物理学上の必然性によって運動する魔術礼装を作るのは、ただ大魔術を行使するよりもさらに難易度が高い。使用する素材の物理的特性に通じ、その上で精密な細工を施す手腕は魔術回路・魔術刻印の質とは全く異なる、夥しいまでの修練を要する高位の洗練。

この天蓋は、言ってしまえばそれだ。魔獣の毛皮と神木の樹皮によって編まれたこれは、ライネスやリツカ曰く、現代の魔術師にとっては理外の産物なんだとか。解析したクロが卒倒するくらいのものであるらしいそれは、無論海賊のサーヴァントたちが作ったものではない。

 この特異点が発生した直後、アルゴノーツのサーヴァントに敵対するように召喚されたという神代の魔術師。オデュッセイアに登場するという大魔女の手によるものだという。

設定上語られてきた、魔女メディアに比肩する魔術師。その真名、は―――。

 「あら、ここにいらしたのですね?」

 と、酷く温和そうな声が耳朶を打った。

 正面。入口の布を持ち上げて顔を覗かせたのは、豊かなプラチナブロンドの女性だった。

 名前はそう、アン・ボ

 「あら? あ、この格好ですか?」

 ちょっと目を丸くしてから、アンは大人っぽい徒な顔をしてみせる。対してトウマは顔を真っ赤にして、ただただ俯いていた。

 そりゃあそうである。普段の紅い霊衣ではなく、黒いビキニにホットパンツとかいうそれはもうほぼ現代的なほとんど下着姿なのだから、青少年には刺激が強かった。

 「似合っています? ちゃんと着られているかわからないんですけど」

 言って、アンがずいとにじり寄る。わざとらしく後ろで手を組んで見せるせいもあってか、それはもう胸部の真ん丸の強調具合は凄まじいほどになっていた。いや、というか何から何まで不健康的だと思う。割に筋肉質な腹部も、良い感じに太ましい大腿部も、どれも少年にはちょっと目に余る。

 「もうちょっと顔が善かったら、好みなんですけどねぇ」

 無邪気そうな嫣然と口元に浮かべている。なんでも美少年が好みらしく、トウマについては及第点ギリギリだけど別に手を出すほどではない、という認識ではあるらしい。今の性的誘惑のような身振りも、ただからかって楽しんでいるだけというのが実態だった。

 ドレイクとはまた違った方向で、海賊らしい感じの人だ。ドレイクが豪放磊落ならアンは自由奔放、みたいなところだろうか。わざわざ、カルデアから実物の水着を転送させて着ているあたり、なんだか少女じみた好奇心を感じさせる。まぁ……身体は全然少女ではないんだが。

 「あ、忘れてました。そう言えば、マシュが呼んできて欲しいって。ブリーフィングの前に。一緒にトレーニングがどうとか」

 「マシュが? じゃあ行きます」

 微かに覚える違和感。マシュだったら、わざわざアンに頼んだり、しなそうなものだけれど。

 そんなことを思いながら立ち上がる。既に眠気はなく、いつものコンディションだ。不調から体調を立て直すことが妙に早くなったのは、令呪に宿る神代の魔力(真エーテル)と体内循環する精気(オド)の循環を意図的に操作することができるようになったから───というよりは、戦地における精神性がそうさせている、だろうか。

 2秒ほどで素早く半長靴を履き終えたところで、ふと視線に気づく。

 「どうかしました?」

 すっくと身体を伸ばす。アンとの目線は大体同じくらいだ。

 「いえ、なんでもありませんわ」

 「そう」トウマは特にアンの仕草に拘泥しなかった。「ありがとう、アンさん」

 

 ※

 

 駆けていく少年の背に、アンは鼻息を吐く。

 メアリーの趣向は正直アンにもわからない……というか、多分メアリー自身すら理解していない節がある。特定の趣向があるというよりも、刹那的な関心のままに生きているかのよう。その意味では、アンよりも奔放と言って良い。

 だから彼女は多分、もう終わりを覚悟しているのだろう。元から、サーヴァントなんてそんなものではあるだろうか。

 とまれ、アンはちょっとだけ思っている。

 彼女、メアリーの主観的に。メアリー・リードの終わりは、

 

 ※

 

 AM7:36

 「さて、みんな揃ったかな?」

 予定より6分遅れて始まったブリーフィングは、ドレイクの天幕にて行われていた。

 空中投影されるモニターの前に立つのはライネスだ。自信、と言う言葉をそのまま表情に浮かべるような顔は、随分様になっている。”場”に慣れてしまえば、彼女は芯が強いということか。溶けだした金そのもののような艶やかな髪が、彼女の身振りに沿って小さく揺れていた。

 「朝からトレーニング」

 隣に座るクロが小さく声を漏らす。覗き込む視線に微笑と頷きを返したトウマは、クロ自身もそうだが、何より別なものを注視した。

 クロの頭の上、頭頂部。へたりと四肢を伸ばして鎮座する、なんか可愛らしい熊のぬいぐるみが居る。太眉の熊は微妙に気まずそうな顔で、トウマを一瞥してはキョロキョロとしていた。

 「それじゃあロマニ・アーキマン。よろしく頼むよ」

 (はいはいっと。どう映ってる?)

 無線の声が耳朶を打つ。直後、モニターに映像ウィンドウが立ち上がった。

 地図だ。海原に小さく島が点在する、歪なマップ。右端の群島には味方を示す青いブリップが並び、中央には割に大きな島の上に赤いブリップが明滅していた。

 (そこの拠点は比較的安定しているっぽいなぁ。映ってるよね)

 (結界の作用ってよりは、結果そのものの“閉じ込める”作用によるものってところかな。ちょっとわからないけど。っとごめん、続けて)

 ダ・ヴィンチの声に首肯するライネス。どこからともなく眼鏡を取り出したライネスは装着を終えると、なお自信満々な素振りで鼻息を吐いた。

 「まず初めに、“いつも通り”のアルゴノーツの攻勢があるってことがわかった」

 ざわり、と空気が軋んだ。

 張り詰めるような緊張感。だが、それは何よりカルデアから来た面々ではなく、海賊たちをこそ縛り上げるようだった。

 トウマたちが来る以前より、この特異点で発生していた戦闘は大別して2つある。アルゴノーツのサーヴァント同士の内紛と、特異点成立より召喚されていたキャスターが召喚した海賊たちとの戦闘。特に後者の戦闘において、海賊たちは常に消耗を強いられてきたと言っても過言ではない。前者の戦闘から離反し、仲間になったアルゴナウタイたちも含めて、既に5騎が脱落している。それだけ、海賊たちは劣勢の淵に居る。なればこそ、再度の攻勢に対する緊張感はトウマたちの比ではないのだ。

 「さて、今回敵が進行しようとしているのは、ここだ」

 マップの内、小島の一つに浮かんだブリップが一際大きく閃く。根拠地たる第1本拠地より北北西に位置する島だ。

 「第二中継点。敵の狙いはここだ」

 「第一本拠地を制圧するための橋頭保、ってところかしら」

 マップを眺めたクロが言う。確かに彼女の言う通り、第1本拠地から第二中継地点までの間は島が少ない。そこを攻略されれば、ここは目と鼻の先だ。

 「敵はまだ本拠地の存在も知らないし、この中継地点の存在が露見するのもこれが初めて。というのが、現状らしい。だが、ここでの戦闘で敗走すれば、こちらの敗北は一気に近づくと見做して間違いない。場合によっては撤退もあり得るが、なるべくここで敵は仕留めたいというのが本音だ」

 ライネスの口調は普段と変わらない。表情にも緊張は見て取れないが、却ってその泰然こそが、事態の重さを語っている。ように、トウマには感ぜられた。

 マップの縮尺からすれば、その中継点に想定される小島から、この本拠地まで50kmとない。目と鼻の先だ。

 「今回の作戦は進行する敵を迎撃、撃破することにある。敵のコラボレーターからの情報によれば、今回敵の戦力はサーヴァントが4騎だ。幸いなことに、敵にはヘラクレスが居ないとの情報もある。つまり」

 「これはピンチに見えるがチャンスでもあるってことだ」

 言葉を続けたのは、ドレイクだった。

音を立てて椅子から立ち上がった彼女もモニターの前に立つと、一度、明滅する空中投影のモニターを睨みつけた。

 その表情は、背しか見えないトウマからは伺い知れない。ただわかることは、振り返った彼女の顔は、凄絶な笑みだった。

 「正直言って、アルゴナウタイはアタシらよりはるかに強い。単純な数的優位はこちらが倍だが、実質の戦闘力は互角と思った方が良い。だが、その上で互角以上の戦力を用意できてる。しかもヘラクレスが居ないときた」

 「敵の戦力を削る、千載一遇の機会ってわけか」

 鋭く笑みを浮かべるコロンブス。いや、彼だけではない。黒髭も、アンとメアリーも、この現状を咀嚼して、各々情動を滾らせているようだった。

 「さて、じゃあこれから作戦概要を伝えよう。安心してくれ、アタシとライネスで大枠は考えてある───」

 

 ※

 

 アーチャー、アタランテにとって、船上というのはなんとも納まりの悪い場所である。

 無論、彼女とてアルゴノーツの一員だったわけである。当然船旅は経験している。が、元より地を駆け森に生きることこそ、アタランテの本懐である。ガイアへの信仰心こそないが、それでも大地的なものへの憧憬と、不安定な海上へのおぼつかなさは感じないわけにはいかない。

 まして。

 「イラッとくる野郎が!」

 不機嫌を撒き散らす奴がいるとなれば、アタランテも機嫌は悪いというものだ。

 隠すことなど1欠片も考慮していない、怒気そのものといった声。思わずアタランテが顔を顰めるほどの声を無思慮に散らしたカイニスは、舳先まで歩いていくと音を立てて座り込んだ。

 座り込んだだけならいいのだが、不機嫌そのままに床を殴ったりしているのだから始末に負えない。当たり散らされて粉砕される竜牙兵の姿は、憐れそのものだった。

 「行くな。お前も壊されるぞ」

 おろおろする竜牙兵を引き留めて、アタランテは嫌悪的に一瞥する。

 乱暴さや粗雑さは彼女には不愉快なものである。カイニスとは猪狩りの時からの顔見知りだが、はっきり言えば嫌いな部類であった。その来歴に、憐れみを感じはするが。

 大方、ディオスクロイと言い合いにでもなったのだろう。ポルクスはともかく、カストロの口の悪さはアタランテも感心するほどだ。

───ふむ、と思う。アタランテの予感が正しければ。

 「ポルクス?」

 「あれ?」

 ひょこり、物陰から金の髪が揺れた。質朴そうに髪を二つ結びにした姿は、間違いなく彼女の予感した姿そのものだ。

 白鳥の如き美麗な姿は、野趣を善しとするアタランテをして美質を感受させる。淑やかさと健やかさを同居させたような佇まいは、主神の血とは無縁のようにも思えた。

 双子座の英霊、ディオスクロイ。その片割れを担うポルクスは、なんというか、他人からすれば気苦労の多い神性だった。

 「申し訳ありません、兄がご迷惑をおかけしまして」

 小さく、ポルクスが頭を下げる。アタランテも僅かに肩を竦めて返事とした。

 「カイニスの煽り耐性のなさもどうかと思うが」

 「兄も機嫌がよかったもので」

 「お前の手料理か」

 おかしそうにポルクスは笑って見せる。妙にずれた返答な気がしないでもなかったが、アタランテは特に深追いしないことにした。実際のところ、長らく双子座を形成するポルクスの方が、敏くカストロの内面性は理解しているのだろうから。

 カイニスと異なり、アタランテはポルクスのことは好いている。物腰の柔らかい女性性的な雰囲気は、アタランテにはないものだ。善い、母親であるかのような。

 憧れ、後悔。冷たい理論を旨として、その生に誇りを持っていることは確かだが───また思考が傾斜しかけて、アタランテは慌てて考えないようにした。

 他方、カストロに関しては。

 特に好きでも無いが嫌いでもない、というところだろうか。乱暴さこそないからいいけれど、所かまわず他人を煽る癖だけはなんとかならぬものか、と思わなくもない。

 「久方ぶりの戦いだから機嫌がいいのですよ」

 細やかな注釈をつけるところも、ポルクスらしい。それでも、ちょっとズレている気がしないでもない。

 「ケイローンと戦った時以来か」

 「あの時は先生にいいようにやられてましたからね。アスクレピオスもヘラクレスに取られてしまいましたし」

 「誅罰を下すとか息巻いていたのにな。神を愚弄するとか」

 互いに、クスクスと笑った。以前、敵中継点攻撃の際に一番張り切っていたのはまさしくカストロ本人だった。

 メディアに導かれるようにアルゴナウタイが召喚された折、イアソンが提案した神代への回帰に一番強く賛同の意を表明したのはカストロだったし、反抗したサーヴァントたちを最も率先して殺して回ったのも、オデュッセウスを除けばカストロが一番積極的だっただろうか。いや、カイニスとどっこいどっこいか。

 何にせよ、今アルゴノー船に残った人間たちは、皆イアソンの意向に同意していることは間違いない。神の代へと刻を戻すことを、皆望んでいるのだ。

 「落ち着いたみたいですよ」

 くい、とポルクスが顎をしゃくる。釣られて振り返ると、なるほどカイニスは舳先に座り込んだまま、無言になっていた。

 「あれはむしろ怒りゲージを貯めているのではないのか」

 「というよりは、別なことで気を紛らわせているのかもしれませんね」

 同族嫌悪じゃないか、とは言わなかった。ベクトルの差こそあるが、敵を打ち倒したいという心情においては同質なような気もする。

 呆れながら鼻息を吐いたアタランテは、カイニスの背の向こう、さらには海原の先のさらに果てに居るであろう敵を想起した。

 「アタランテ」

 ひやり、と風が吹いた。

 「後方からの火力支援、よろしくお願いしますね?」

 妙に冷たい、風だった。




105話でした

先週投稿できなかったので、明日もう1話投稿予定でございます


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

旅程の前

 「何、その眼は。気持ち悪いから見ないでもらえる?」

 鋭い声に一切の呵責無し。うえ、と顔を引きつらせたトウマは、不機嫌そうに切り株に座る姿から、慌てて視線を逸らした。

 足を組んだまま、素っ気なく下界を流し見るサーヴァント。醜い家鴨の雛を思わせる黒衣のサーヴァント、メルトリリスは、この場所に到着してから終始不快そうだった。

 第一本拠地より北西に位置する第二中継点。40㎢ほどの大きさの一画に位置する結界の拠点に先着したのは、マスターのトウマを除けば、4名だった。

 クロは当然として、まずその頭の上に乗っかっているぬいぐるみみたいな熊。真名、オリオン。当然トウマも知る英雄の名前だが、とても風体からは想像がつかない。

 3人目はライダー、メアリー。そして4人目がメルトリリスであり、この5人での拠点防衛が戦闘の序章というところだ。

 なの、だけど。

 「なんで彼女、あんな不機嫌なわけ?」

 「ん? あ、下か」

 変な方向からの声に一瞬戸惑うも、トウマはすぐに声の方を見下ろした。

 「なんかやったの、お前」

 ひょい、とトウマの肩に飛び乗る熊。ぬいぐるみみたいな顔に浮かんでるのは、多分同情、だろうか。

 「どっちかと言うとそもそも人間が嫌いなんじゃないかと」

 「道理で、納得」

 ぶるぶる、と身震いしてから、オリオンはおっかなびっくりとメルトリリスを一瞥する。熊オリオンはメルトリリスに恐々している。妙な怖気に震えたような仕草の意味を、なんとなくトウマは理解した。

 アルターエゴ、メルトリリス。女神をエッセンスとして人工的に作られたハイ・サーヴァントであり、その要素の中にはオリオンと縁のある女神も居る。

 月女神、アルテミス。純潔の処女神でありながら、唯一恋した人物がオリオンだったはずだ。けれども、伝承によっては怒りに任せてアルテミスがオリオンを射殺するエピソードがそこそこある。この世界のオリオンとアルテミスの関係性は不明だけれど、その来歴故に、アルテミスが苦手、と言ったところ……なのだろうか?

 「んー」

 「どうした?」

 「いんや、まぁ、考え事」

 生真面目そうに、眉を寄せる。腕組みしてメルトリリスを眺める様は、なんというか……珍妙だった。ゆるキャラみたいな風貌なのに真面目という不似合い。

 「そんなこと言って絶対狙ってるでしょ」

 そんなんだから、トウマもつい、弄りに行ってしまった。

 オリオンの逸話を思えば、それはもう華やかというか色男そのものみたいな人生を送っているわけで。美質そのものであるようなメルトリリスは、それこそ好意の対象だったりするんじゃないだろうか。

 「……ドレイクとかアンの方が好きかな」

 なんだろう、その沈黙は。表情も渋ければ声のテンションも低い様は、なんというか弄り方を間違えたのかと不安になる。それとも、それほどアルテミスに対する恐れのようなものがあったりするのだろうか。

 「やっぱりあれですか」トウマは慌てて声を続けた。「デカい方がお好みということでいらっしゃる?」

 「なんかさ、愛が重そうじゃない。彼女。すなおクールに見せかけて激重感情ぶつけてきそうな感じがする。俺にはわかる」

 「あー……」

 「まぁもちろんデカい方が好きだけどな! デカいは正義よ」

 「わかるー」

 「どっちかというとアンタの方好みなんじゃないんか。何回もちらちら見てるじゃん」

 「いや、それは」

 言いながらも、つい、トウマはわき目を渡すように黙然とするメルトリリスを一瞥する。

 確かにちらちら見ているけれど、その理由は別に下心とかではない。あのメルトリリスがサーヴァントとして召喚されているという事実が、トウマには何より衝撃と言えば衝撃なのだ。

 そもそもサーヴァントと言えるのか。確かに分類上ハイ・『サーヴァント』だけれど、彼女やもう1人のアルターエゴは英霊の座に登録されているのだろうか。召喚されたということは、登録されているのだろうか。登録されているとしても、何を以て彼女は召喚されたのか。その上で、何故、彼女はカルデアに協力すると言っているのか。彼女のパーソナリティからすればあまり考え難い考えを、何故発しているのだろうか。ところどころ記録が抜け落ちているようだが、それが何かの原因だったりするのだろうか。

 「まぁあの姿、普通に過激だよな。露出狂っていうの? 若い時はあーいうのにやられちゃうのわかるよ、わかる。今でも好きだけど」

 ニヤニヤ。熊の癖にチェシャな笑みを浮かべるオリオン。ふ、と思考を途切れさせたトウマが「いや、あれは」と言いかけた時だった。

 「何をトンチキなことを言ってるわけ?」

 「うおわ!?」

 不意に耳朶を貫いた声に、オリオンとトウマは二人して素っ頓狂な悲鳴を上げた。思わずこけたトウマは尻もちをつきながら、彼女を、ローアングルから見上げた。もう一度言うけれど、ローアングルから、メルトリリスを見上げた。

 「男ってホンットに、短慮で愚図で低能ね。私が露出狂? 何を見たらそう思うわけ?」

 「???」

 「これほど貞淑に隠しているじゃない。それをわかりなさい」

 侮蔑の視線が極まって、もはや呆れにすらなっている。不愉快そうな鼻息を精一杯吐き出すや、彼女は素早く右足を持ち上げた。

 踵の魔剣が鈍く灯る。ぞっとする暇すらなく振り下ろされた刃の切っ先は、容赦なくトウマの股下に直撃した。

 股間部まであと5cm。冷たい汗を吹き出すトウマに対し、メルトリリスは一切の情動もなく、ただただ冷厳とした視線を突き刺すばかりだった。

 「私がアナタの指示に従うからといって、私の主だなんて思わないこと。アナタみたいなとびっきりの凡骨。私と口を聞けるだけでもあり得ぬ僥倖、ってことくらいはわかるわよね?」

 くるり、メルトリリスは身を翻した。唾を吐かなかったのは、ただ、彼女の美学意識にそういった行為は存在しないだけのことだった。

 「私に欲情するのは勝手ですけれど、もっと身近な人のことを気にした方がいいんじゃないかしら」

 メルトリリスの体躯が跳ねる。陽の光(エオス)を受けるのも一瞬で、黝い鳥は鬱蒼とした森の中へと溶けていった。

 「こっわ……ありゃあ、間違いないわ」

 トウマの右肩の上で、オリオンは身震いとともに、おののくような声を漏らした。

 メルトリリス。確かに、メルトリリスだ、あれは。よろよろと立ち上がったトウマは服についた埃を払うと、戦慄しながらも、思案だけは続けていた。

 そう、彼女は、カルデアという組織に対して何かしら信ずるものがあるわけではない。まして、彼女の来歴を思えば、人理に与することに積極的な動機があるとも思えない。

 それとも、記憶も記録もないならば、何か異なることもあるのだろうか。とは言え、彼女の身振りは間違いなくCCCのそれだ。いわゆる身体的な記憶や性向は、間違いなくあのメルトリリスだ。

 畢竟。

 思考したとしても、それは詮の無いことだ。あるいは現時点で考えたとしても、あまりに素材が少なすぎる。 

 とは言え、トウマには何か、直観がある。

 多分、メルトリリスはこの特異点の謎に、かかわってくるような気がする。それも核心に近しい部分において。

 何故、そう思うのだろう。ただの先入観だろうか。メルトリリスほど存在者がこんな形で召喚されるのには、何かある───そんな、妄想だろうか。

 「お、おい。トウマ、トウマ」

 「え、あ。何―――」

 「随分楽しそうね、トーマ」

 それはもう、クロは満面の笑みを浮かべていた。

 得物こそ持っていないが、敵意というか鋭いものを感じるような気がするのだが……。なんだろう、妙な寒気がする。

 「爆ぜる? マスター」

 「ゴメンナサイ」

 「もう、あと2時間よ? リラックスは大事だけど、緊張感がないのは善くないわ」

 正論である。ただただ小さく肩をしたトウマは、おっかなびっくりとクロの顔を伺った。

 顰めた眉宇、ちょっときつく結んだ口唇。胡乱のような目に日光が反射して、濡れたように閃いていた。

 《結局、メルトリリスについてはまだ何もわからないのよね》

 《まぁ》

 《ならいいわ》

 前髪を、かきあげる。逡巡するように視界を彷徨わせたクロは、僅かにだけ、探るように視線をトウマへと触れさせた。

 「?」

 「なんでも。ほら、おいで」

 「へーい」

 ひょこり。トウマの肩から跳躍すると。熊のぬいぐるみは綺麗にクロの腕へと飛びこんでいった。

 ぬいぐるみを抱っこする小学生。絵面は微笑ましいし、実際のところクロは結構オリオンのことは可愛がってる様子がある。オリオンの表情はちょっと微妙そうだが。

 「そもそも俺、本当に役に立つのかねぇ。お嬢ちゃんだって結構使い手なんだよな」

 「あなた、【心眼:A+】持ちじゃない。それになんだっけ、【三星の狩り人】だったかしら。伝説の狩り人様と近現代の凡人じゃあ、比較にもならないじゃない?」

 クロの腕から抜け出すと、熊はまるで定位置であるかのようにクロの頭へと飛び乗る。ぐで、とだらけた熊は、微妙そうな顔のまま、盗み見るようにトウマを伺った。

 「言っておくけど、そういう趣味はないからな。まぁ乱暴な方だけど」

 言い訳がましく、熊は小さく漏らした。幾ばくかの瞬間───果たして一瞬だけだったか、あるいは数瞬ほどはかかったか───逡巡したトウマは、ただ肩を竦めた。特にトウマはそれに言葉は返さず、どこかぎこちなく口角を持ち上げた。

 「何の話?」

 「や、なんでも」

 ぽかん、とするクロにも、トウマは曖昧にだけ応えた。

 「お嬢ちゃんが使っていいのは弓と槍と、それだけか?」

 「あと双剣くらいは」

 「オーケーオーケー。まぁ安心しろよ、基本的には弓だけで仕留められるさ」

 ぐだっとした姿から、やはり緩慢な動作で蠢動する。今度はぺたんとお座りみたいな姿勢を取ったオリオンは、太い眉をきりっと窄めた。

 「オリオンの名前が伊達じゃないってとこ、ちゃんと見せてやるぜ」




2話投稿でした


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

狐疑のアポロウーサⅠ

 ぽかり、と開いた森の中。

 木に寄り掛かったメルトリリスは、ただただ不満げな表情だった。

 海賊に───ひいてはカルデア、とかいう組織に協力するのは構わない。特に亡くしても良い今回の命だが、救われたのならそこに義理や何かを感じないわけにはいかない。メルトリリスは人間的道徳観の持ち合わせこそ無かったが、却って彼女には強度の高い倫理性がある。怪物であることと無法であることは、同義ではない。

 最も、その倫理観は、動機としては小さいけれども。むしろ彼女の倫理性としては、もっと重視すべきことがある。

 藤丸立華(ふじまるりつか)。あの女が、どうしても、脳髄から離れない。脳幹に刻まれるような、あの虚脱気味の微笑。不快感に類似した不気味な既視感の正体が、己の存在の存在を啓いてくれるような、予感があった。

 なのに、何故彼女と離れなければならないのか。これでは何の意味もないではないか。メルトリリスは、あんな凡夫なマスターには、用はないのだ。

 「ま、別に人の善き生にとやかく言いませんけど」

 それとなく視界を過った赤い小柄なアーチャーの幻影に、一応口添えだけはする。趣向の破綻で言えば、メルトリリスの方が遥かに破戒的だ。彼女は即自的な生を生きているけれども、対自的で無いわけではないのだ。

 そう、自らは破戒的。道徳の彼岸の中で、自らは生き、死んでいくもの。追求するのは自らの善き生への配慮、それだけだ。そう見れば、この状況は生への障害への排除か。何にせよ、あのアルゴノーツを斃さなければ何も進まない。この状況は、何も進まない。

 身体を起こす。伸びを一つ。

 性能に問題はない。この現実世界では『弁財天五弦琵琶(サラスヴァティーメルトアウト)』こそ使えないが、そもそも基礎性能は十分すぎるほどに高い。メルトウイルスも使える。

 「予定が進めば、あとは好きにしていいって言ってたわね」

 空を仰ぐ。湖面のような蒼穹に縁取られた閃光の熱に、彼女は猛禽のように口角を釣り上げた。

 「アタランテ、とか言ってたかしら。いいじゃない、私の経験値にしてあげるわ」

 

 

 

 黄昏の陽を、アタランテは眺望する。

腐る寸前まで熟れた果実のような太陽が、海へと食われていく。橙色の空には境界線の無い侵襲が啓き、宙色の暗黒が噴き出すように広がっていた。その様は、果たして細胞膜が溶けた単細胞生物のようであっただろうか。あるいは、矢を打たれた人間から臓物が零れるようであったか。

 あるいは感傷、だろうか。太陽の埋没とともにソラに昇るはずの月への、恐怖。己が信奉したはずのものへの、それは疚しさというべきだろうか。

 「アタランテ。揚陸部隊の接舷完了した」

 舳先に立つ仮面の男、オデュッセウスが硬質な声を発した。鉱物のような、取り付く島のない例の声。笑うべき生真面目さだったが、アタランテも同等程度の堅物さで「わかった」と返した。

 腰の箙から、矢を取り出す。神弓に矢を番えば、アタランテは後ろ脚を大きく後ろへと引き、上体を逸らした。

 矢の狙うは空の果て。番えた姿勢のまま、引き絞り、引き絞り、引き絞る。全身の筋肉が悲鳴を上げるほどの緊張の、中。

 「太陽神に、奉る」

 告解が口から滑落した。

 「『訴状の矢文(ボイポス・カタストロフ)』!」

 矢が天へと飛翔する。果てを貫くような呵成のままに、天を切り裂く一本の矢。一瞬ほどの間の後に、アタランテに応えるように、藍色にくすんだ空に陽が散らばった。水面に乱反射する天体の光は、そのまま滴涙の如くに地表へと降り注ぐ。

アタランテの有する対軍殲滅宝具。天より降り注ぐ無数の光矢は、無差別に敵を射殺していくはずだ。

 敵の総数は不明。言ってしまえばこれは、敵を炙り出すための初手だ。あの森を焼き払った後、物量で圧し潰す。これまで何度も行った戦術行動だ。露払いのように敵拠点に火力を叩き込み、あとはディオスクロイとヘラクレス、カイニスが敵を磨り潰せば終わり、というだけの作業。アルゴー船のサーヴァントとして召喚された英霊たちを捻じ伏せた時も、海賊たちと戦った時も、こうして殲滅していったのだ。あの時を除けば。あの時、果敢に向かってきたあの男の時を、除けば。

 何故、今、そんなことを思い出すのか。あの男を射殺した時のことを、思い出さなければならないのか。

 こみあげるような悪寒は、嘔吐感に似ていた。あるいは、それは嫌な予感とでも言おうか。

 脳内まで浸潤した暗闇が、切り裂かれるような、錯覚だった。

 その光景に虚を突かれたのは、当然だった。

 数多降り注ぐ流星矢。天より垂直に下った矢に向かって、島から何かが立ち上っている。無数に立ち昇るそれは、硫黄の如き火の柱のようだった。

 いや、そんなヴィジョンは錯覚だ。アタランテの目をもってすれば、光の矢を撃ち落とすそれが何なのかを目撃していた。

 矢だ。ただの矢。宝具でもなんでもない矢が、アタランテの矢を迎撃している。天より無数に降り注ぐ矢を、矢が撃ち落としているのだ。

 ただただ圧倒的だった。無数の矢を、文字通り矢継ぎ早に撃ち落とす射線。放った矢の爆風も兼ね、全てとは言えない。むしろ6割は撃ち漏らしている。だが、逆に言えば無限にも見えるアタランテの矢、その4割を迎撃しているのだ。アタランテをしてあり得ぬ超絶技巧、彼女の理外とすら言えるほどの早撃ちと狙撃の併用だった。

 記憶を掘り起こす。海賊にはアーチャークラスに近しいサーヴァントこそ居るが、弓の使い手はいない。であれば海賊へと寝返ったケイローンの仕業だろうか。いや、いくらケイローンだったとしても、矢を矢で撃ち落とすことなどできるのか。しかもこの物量を。少なからず、アタランテには不可能だ。

 ならば、あの射手は己以上。英傑集う古代ギリシャにあって、最優の狩り人であったアタランテすら超えるほどのアーチャーが、敵に居る。

 あの時途中で参戦してきた、カルデアとかいう戦力か。それともあの不届きな神霊モドキの仕業か。あるいは───。

 巡る思考。だが考慮すべきは、そんなことではない、と彼女は理解していた。

「オデュッセウス、ダメだ。迎撃された、期待すべき効果はない」悄然を抑え、アタランテは素早く仮面の男に言いかけた。「上陸は一旦待った方が賢明ではないか」

 オデュッセウスが、小さく身動ぎする。僅かに首だけで振り返ると、すぐに、男は島へと視線を戻す。組んだ腕はそのままに、沈黙する様は、何事か思惟を巡らせている仕草。の、はずだった。

 「いや、構わない。このまま行こう」

 「オデュッセウス?」

 「この島。発見したのは偶然だが、あれだけのアーチャーがいるなら要衝と見做すべきだろう」

 言って、オデュッセウスは組んだ腕を解いた。そうして身を翻すと、アタランテの傍を通り、船内へと向かった。

 「俺も出る。今後のためにも、敵の戦力はこの目で見ておきたい」

 

 

 

 「痛ったぁ……」

 へたり、と視界が下がる。それに合わせて、希薄な浮遊感が身体を包む。生前、ほとんど経験したことのない感覚に四苦八苦しながらも、オリオンはクロの頭の上にしっかりとポジショニングを取っていた。

 「4割撃ち落とせただけ上等。ってか、すげえな嬢ちゃん。本当にやっちまうとはよ」

 徐々に宙が侵食する天を一度見上げ、オリオンはクロを見下ろす。玉のような汗を浮かべたクロは、喘鳴を漏らしながら「当然でしょ」と強がって見せた。

 ───オリオンの役目は簡単だ。対ヘラクレス戦を見据え、アーチャーに徹するクロのサポートに回る。それが、彼の役目だった。

 古代ギリシャ最高の狩り人とすら名高いオリオンだが、現状の霊基ではほとんど戦うことなどできない。魔獣程度ならなんとか死なない程度に立ち回れるが、サーヴァントと戦うなど不可能だ。事実、メアリー相手に手も足も出なかったのは、オリオンにとってはショックだった。

 そんなオリオンが存在意義を発揮できるのだとしたら、これしかない。己が召喚された必然性は理解しているが、この有り様じゃあ何もできない。誰かに頼らなければ、己の責務を果たせない。

 「アンタも大丈夫か?」

 「うん、なんとか」

 引きつるように口角を挙げながら、トウマが手を差し出す。クロはその手に掴まると、勢いよく立ち上がった。

 「しっかし、無茶な命令するなぁアンタ」

 「でも合理的。私たちが地の利を生かすならね」

 「無茶なのは、確かだった」トウマは額に滲む冷や汗を拭うと、やつれたように肩を落とした。「ありがとう、2人とも」

 トウマは、足をふらふらにしながらもしっかり笑みを作って見せる。無数の矢が襲ってくる、という光景は、英雄として名をはせたオリオンだったとしても肝を冷やすものだった。それがたかだか一般人には、刺激が強すぎるなんてもんじゃなかっただろう。

 それこそ、クロの宝具には盾もあるという。だが、この少年は撃ち落とすという選択肢を選んだ。また大局的にも少年はあの殺戮を打ち返す選択をしたのだ。森の中でアンブッシュの指示を受けた2人を守ることにもなる、と確信して。

 それだけ、場数を踏んだのだろう。見た目は頼りないただの凡人で、神性など一切ないただの人間が。ただ場数を踏んだだけで、そういう決断をして見せたのだ。

 クロも、クロだと思う。

 トウマの指示(オーダー)を受けて、なんの躊躇もなくやると言った。そうして、やってみせた。矢を放ってはたちどころに次の矢を何かしらの魔術で出現させ、あの矢の群れの大半を相殺したのだ。スペック上、この少女は本来のオリオンの、足元にも及ばない性能のはずなのに。どちらも、オリオンからすれば、半端もの。どこともしれない、馬の骨程度のものだ。

 ───なら、この感情は、間違いなく。

「敵、あがってきたみたいだ」

「おっけ。じゃあ予定通り動くわ、オリオン」

「ほいほい。適当に捻って捩じって、折り畳んでやるとしますかねぇ」

 揺れる視界。振り返れば、眼下に揺れる銀色に紛れて、少年の姿が目に入る───

 ───なあ、アルテミス。

 どうしてお前は、俺をこんな姿で呼んだんだ?




今週は無事金曜日に投稿できました



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

狐疑のアポロウーサⅡ

 「始まった、かな」

 空中投影された映像に、ライネスは椅子の背もたれに身体を預けた。

 ドレイクの天幕の裡、寝室が当面の指令所だ。彼女はカルデアの制服姿のまま、モニターの映像を眺める。

 比較的、映像ははっきりしている。カルデアと特異点間の通信は未だ不安定だが、この特異点内であれば、まだまともに連絡は取り合える。

 「全くドレイクめ。指揮官とか言いながら」むすっとしながら、ライネスは独り言ちる。「アヴェンジャーじゃないか、義憤なんて」

 テーブルの上の杯を手に取る。スプーンでドライフルーツを掬って口に運ぶと、やれやれ、と金糸のようなさらりとした髪を手で弄んだ。

 「これ、兄上が見たら卒倒するんじゃあないかな」

 杯を、掲げる。天井に灯るLEDの極めて近代的な光を受けて煌めく金の杯は、間違いなく―――。

 聖杯(アートグラフ)

 だが、この杯には何の魔力も感じない。なんらかの魔術礼装、ということはわかるが、それだけだ。

 聖杯の形をしただけの別物?

 そうかもしれない。だから、この直観は何の根拠もない閃き。推測ですらない思考は、恐らくライネスというよりは、司馬懿のそれであろう。

 「しかし、わからないな。それだと何故人理定礎が崩壊してないか、その理由がわからないぞ。だってもう、こいつは」

 しげしげと、金の杯を眺める。

 妙な感慨だ。彼女の兄は、これを巡る戦いに参加して生き残った。そうして次の戦いには、参加できなかった。いや、しなかった、というべきか。何にせよ兄はこんな願望機そのものには興味はないだろう。

果たして、これがあればあの調律師が居なくともエルメロイ家の源流刻印を完全に再生できるのだろうか、などとも思ってみる。まぁどうでもいいことか、と心にもない願望を胸中から叩きだすと、ふふん、とライネスは鼻で笑ってみる。

 「Why done it.」

 当たり前のように、ライネスは聖杯にドライフルーツを一つまみ。上から紅茶を注ぐと、ぼんやりと、果実が柔らかくなる様を眺めた。

 「この戦いの結果次第か」

 

 

 「これだから色ボケ野郎は信用できねえんだよ。おままごとは他所でやってくれってな」

 履き捨てるように言う。乱暴な言質は相変わらずだが、逆に言えば特段苛立っているわけでもないとも言えるだろうか。何にせよ、やるべきことは本質的には変わらない。

 カイニスは自覚のまま、「んで、どうすんだよ」と念話の向こうの男に柄もなく伺いを立てた。「アタランテの野郎、もう宝具を使うだけのリソースはないんだろうが」

 (そのまま攻略に進め。カストロ、ポルクスはカイニスの後に続け)

 (了解した。全く、あのような戯けに先陣を譲るとはな)

 不愉快極まりない声が聞こえたが、カイニスはとりあえず無視する。「へいへい」と気乗りしないような声色で応えながら、彼は腐肉を漁る禽のような視線を向けた。

 相手の規模は不明。とりあえずアーチャーがいることはわかっているが、それ以外は何が潜んでいるのやら。

 だが、彼女にしてみればどうでもいいことだ。たとえなにが立ち塞がろうとも、ただ己が膂力で打ち砕くのみ。そして如何なる攻撃であっても、海神の加護による伝承防御は弾き返すだろう。先陣を任されたのも、カイニスのサバイバビリティを信じてのことだろう。こと防御性能という観点から評価すれば、カイニスはヘラクレスのそれに勝るとも劣らぬものがある。

 ……懸念が無いわけではないが。ある英霊の姿が一瞬脳裏を過ったが、カイニスにしてみれば、些末な懸念で踏鞴を踏むことは有り得ない。

 「行くぞテメエら」

 じろり、周囲を睨みつける。竜牙兵たちは畏縮するように身動ぎし、シルバーメタルの奇怪な球形にも、赤い単眼(モノアイ)がぼやりと灯った。

 「テメエらには一切期待しちゃいない。ただ、俺の邪魔だけはするんじゃねぇ。いいな」

 三叉の槍、その金の切っ先を掲げる。

 それは宣戦布告。目の前に立ち塞がるもの、悉くを打ち殺すという、高らかな宣言だった。

 「それじゃあ派手に粉砕してやるかァ!」

 

 ※

 

 「兄様、カイニスが進行を開始しましたよ」

 妹の声は、すぐ傍で、やや後ろから聞こえてくる。いつもの、彼女の定位置。カストロは彼女の淑やかで、それでいてはっきりした勁い芯の感じさせる声を好ましく思っている。ゼウスの子、ディオスクロイに相応しき、善き神性だと思う。

 「オデュッセウスも慎重が過ぎるのではないか? たかだか人間如き、力で押し切ってしまえば善かろうが」

 カストロは、顔顰めて気に不満を漏らした。

 敵はたかだか人間。神性満ち満ちたるアルゴノーツの英霊たちにしてみれば、海賊などそこいらの小石も同じことではないか。正体不明の勢力の実力は底知れないが、それでも人間風情であることに相違はない。

 「人間の力を侮ってはいけませんよ? 前だって、ドレイク船長にしてやられたのは兄様でしょう?」

 「むう」

 柔和な微笑ながら、ポルクスはしっかりとカストロを諫めた。どちらかと言うと人間を下に見るカストロに対して、ポルクスは人間を妙に重く見るところがある。ポルクスという存在者に対しては全く不満はないけれど、時折、こうしてカストロの期待とは異なる反応をする。はるか以前。ともに完全な神性であったころは、そんなことはなかった、と、思うのだが。

 「妹よ、あの時は師父にやられたのであってだな、決して」

 「ほら、行きますよ兄様」

 ひょいひょい、と駆けだすポルクス。慌ててその背を追いかけたカストロは、僅かに罅割れるような錯覚を覚える。

 時々、思う。

 神性を維持するポルクスの目には、何が映っているのだろう。半神になりながら、神の子の名に相応しい強度を保つポルクスの思惟は、何を捉えているのだろう。既に人間などに堕落させられてしまったカストロには、最早計り知れない。疑念、などとは到底呼べない小さな不安。美しい大理石についた、小さな瑕疵のような思惟───。

「待て、ポルクス!」

 

 

 敵が、来た。

 メルトリリスは密林の中に蹲るような岩塊を背に、静かに瞑目する。

 サーヴァントとして現実世界に召喚される都合、彼女はランサー・アサシンの二重召喚(ダブルサモン)に近しい在り方をしている。その恩恵か、彼女は【気配遮断】を所有していた。

 彼女の在り方と相容れない故にか、ランクはC-と低い。だが、心情的には、メルトリリスはこのスキルのことを毛嫌いはしていない。プリマとは耳目を集めるもの。だが、そのタイミングまで息を潜め、機を伺うのも、優れたプリマの素質なのだから。

何はともあれ、今はこのスキルを役立てる時ではある。彼女は彼女らしく、己が存在を秘めやかに整える。

 雑音が、耳朶を打つ。

 雑踏、というべきか。骨同士がぶつかる渇いた音、金属同士が軋む甲高い音。観客のざわめき、というにはあまりに不躾で、粗末な喧噪だろう。三流の大根役者しかいない、場末の舞台ならそれでもいい。だがこの戦いの主役はメルトリリス、彼女なのだ。そこいらのカスとは全く違う。そんな彼女に、こんな雑音は不要極まりない。

 ならば。

 メルトリリスの痩躯が、翔んだ。跳躍した彼女は眼下に犇めく敵を見据え、流星のように目標へと強襲した。

 ガンメタルの球体。蜘蛛のようにも見えるそれは、この特異点で幾度も見てきた機械仕掛けの躯体だった。サーヴァントを倒せるほどの性能ではないが、苦戦は必至。通常であれば、御しやすい敵ではない。 

だが、彼女はそんじょそこいらのサーヴァントではない。トップサーヴァントすら凌駕し得る、高位の複合神性(ハイ・サーヴァント)。そんな機械仕掛けの人工物など───。

 「速さが、足りないわ!」

 咄嗟に蜘蛛が反応しかけた時には、既に遅い。秒すらなくクロスレンジに飛び込んだ黒影は、魔剣の一太刀だけで巨大な蜘蛛を両断した。

 ずるりと、銀の体躯が床に崩れ落ちる。続けて膨れ上がった爆風に乗って飛び立つや、すぐさま次の獲物を捕捉する。

 竜牙兵、総数15体ほどの集団。取るに足らない雑魚、と判断。広げた両腕を持ち上げると同時に両の脚を志向した後、メルトリリスは己が身体を魔力放出で以て一気に射出した。

 さながらその様は掩蔽壕破壊弾(バンカーバスター)の如くであっただろうか。超高速で大地に突き立つや、あまりの衝撃に地面が隆起する。衝撃と余波だけで直近の竜牙兵数体が微塵までに粉砕された。

 続けざまに、回し蹴りで1体両断。突き出された槍の穂先をハイキックで弾き返し、そのまま踵落としの要領で頭からち割る。後から飛び掛かってきた竜牙兵を察知する。上体を前に倒すと同時にひねり蹴りを放って槍を破壊し、身体を倒した勢いのまま前宙して別な足で切り裂く───。

 そこまでイメージしかけたメルトリリスは、だが一瞬後に背後へと飛び退いた。

 後退と同時に両手を広げ、さらに身体をスピンさせる。僅かな微風すら揚力に転換したクイックロールを捕捉するのは、弓兵すら困難であっただろう。事実、背後から強襲した黄金の槍は、遥か虚空を捉えたに過ぎなかった。

 着地と同時、メルトリリスはその敵影を識別した。

 白い甲冑に、金の武具を装備した槍兵(ランサー)。振り向いた視線の剣呑さは、全く変わり映えしなかった。

 「またアナタ? 正直、飽きたのですけれど」

 「こっちの台詞だ、駝鳥女。テメエとの勝負付けはもう済んでるだろうが」

 「あら。あんなの、大体ヘラクレスのお陰じゃない」

 微かに、カイニスの表情が蠢動した。ほんのわずかな軋みを、けれど、メルトリリスは天性の性質から、その機微を理解した。

 抉るような視線、歪む口角。悪竜(レビュアタン)のように蠕動した舌先は、どろりとその言葉を啓いた。

 「あぁ、忘れていたわ」吐瀉のような、微笑だった。「貴女。男の陰に隠れなきゃ、何もできないくらいか弱い乙女でしたものね?」

 トライデントの一突きに一切の仮借なし。純粋な殺意が終息した気勢は、透き通るほどの美麗さだった。

 その一撃を魔剣で叩き落し、半瞬すらなくクロスレンジへと猪突する。薙ぎ払いすら上体を背後に逸らして躱して見せ、踵の魔剣を掬い上げるように奔らせる。股から脳天まで切り裂く斬撃を盾で弾き返しながらも、カイニスの躯体はまるでゴム毬のように吹き飛んで行った。

 滑るように着地してみせたカイニスの挙措に、隙はない。わざと押し負けたな、と察しながらも、メルトリリスにはさして気にした素振りはない。

 あの時とは違う。ヘラクレスに滅多打ちにされたあの時とは、何もかも。完全とは言い難いけれど、サーヴァントごときに後れを取る性能ですらない。

 だが、まだ、これは、作戦の第一段階に過ぎない。小癪な話だが、今はあの凡夫の指示に従わなければ。結果、それが大局を優位に進めることになるのだから。それが、今はメルトリリスにとっても良いことだ。

 「神に嬲られるのが、貴女たち(ギリシア)の文化でしょう?」

 じり、と距離を詰めるカイニス。対するメルトリリスも後退する素振りはなく、ただ猛々しい禽のように敵を見据えた。

 「卑しく汚らしく矮小に、私に蹂躙されなさいな!」




誤字脱字などありましたら、ご連絡していただけると幸いです


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

狐疑のアポロウーサⅢ

今回ちょっと短めです


 「貴女が私たちの敵―――でしょうか」

 視界の、先。

 堕ち始めた陽が木漏れ日となって差し込み、その姿を薄く照らしていた。

 「まぁ多分。そんなところかな」

 腑抜けた返答だ。

 黒いボロの外套(コート)にすっぽり身を包んだ、小柄な女。脱力する右手には、片刃の剣が握られている。倦んだ星の光を反射した刀身と、少女の無関心な目が。当然のように重なった。

 「兄様。あれはカトラス、という大航海時代の剣です」

 抜け目なく、相対する敵を識別する。

 見覚えはない。なにせディオスクロイはアルゴノーツからの離反者を狩ることに専心しており、海賊たちと矛を交えたのは1度のみ。それも艦隊戦でのことで、サーヴァント同士の白兵戦には発展していなかった。

 だが、ポルクスはその敵の真名を推察する。

 人類史に名を遺した女海賊など、そう数は居ない。フランシス・ドレイクのような例外もいるが、あれは例外であって普遍的事象ではない。

と、なると。

 「兄様、恐らくこの敵の真名は」

 「ふん。たかが人間如きの名など不要だ」

 一歩、カストロが足を踏み込む。ポルクスの前へと出、庇うようにカストロは手を掲げた、

 「人間。我らと相まみえた喜悦に咽ぶがいい、そしてひれ伏すが善い。貴様ら芥が如き人間(ヤマザル)風情が、我ら神霊にッ」

 「兄様!」

 ぐん、とポルクスは踏み込んだ。

 カストロの脇を潜り抜け、一挙に前へ。同じタイミングで猪突した敵サーヴァントの斬撃に己が剣戟を重ね合わせ、続け様の一太刀も叩き伏せる。返す刃を首へと叩き付けたが、敵も悠々とその一撃にカトラスを激突させた。

 「き、貴様! まだ俺が喋っている途中だろうが!」

 「悪かった? ボク、バカだから。むつかしい話はわからないんだよね!」

 ふわ、と手応えが抜ける。あ、と思ったときには黒衣の体躯が沈み込み、ポルクスの下腹部めがけて踵をめり込ませた。

 「ポルクス!」

 カストロが一瞬で間に割って入る。彼の武装、円盤の斬撃の気勢はポルクスの比ではなかった。あっさりと弾き返された敵サーヴァントへと立て続けに斬撃を重ねるカストロに続き、半瞬ほどで立て直したポルクスも再度の猪突をしかける。

 ちょうど飛び上がったカストロの下を潜り抜けるように滑り込み、敵サーヴァントの懐へと侵襲する。カストロの攻撃に手一杯のサーヴァントに、ポルクスの次の攻撃を防ぐ手はない。掬い上げるような彼女の剣は、問答無用でサーヴァントの体躯に剣筋をなぞった。

 いや。手応えが硬い。迎撃された、と理解したときには既に遅く、黒い外套をすっぽりかぶった風体のサーヴァントは、兎みたいな軽やかさで距離を離していく。

 「迅いなぁ。反応速度の差かな。ボク一人じゃあ勝てそうにない」

 おもむろに、彼女はもう一本の剣を抜き放つ。

 両刃の短剣(ショートソード)。身の丈半分ほどもある船刀(カトラス)も併せた二振りを脱力したままのサーヴァントは、表情を全く変える素振りを見せなかった。

 今の一瞬で、互いの力量差は把握したはずだ。基本的なステータスにおいて、敵がディオスクロイに勝る要素はほとんどない。

 畢竟、まともな戦闘なら負ける要素はない、と思われる。

 「妹よ。この戦い、奇を衒う必要はないな。我らと彼奴の戦力比は明白だ」

 カストロの表情に険しさはない。さりとて、敵を軽んじているわけではない、とポルクスは知っている。いや、軽んじてはいるのだろう。だがそれは奢りではない。自我の戦力比を把握した上での、合理的な思考のもとの見縊りのはずだ。そこに、油断はない。

 ───多分。

 一瞬の、それは紛れのような情動。胸郭の奥底、心臓の右心室の底に凝る、熱発した悪心───。

 「兄様、敵は恐らく防戦に徹するでしょうね」

 ポルクスは、特に変わる様子はなく口にした。カストロもさして何かに気づく様子はなく、半身を形作る妹の言葉に頷きを返した。

 「あぁ。我らに都合がいい。敵に乗せられてやるとしよう、ポルクス!」

 

 ※

 

 飛来する矢を、視認する。

 音速にすら達する矢の威力は、それだけで低ランクの宝具にも匹敵しようか。十分な破壊力を要しながら、それでいて狙撃の精度は舌を巻く。機動格闘戦をしているはずのメルトリリスとメアリーへと的確な狙撃を撃ち込むなど、尋常ではあるまい。

 だが、それも当然と言えば当然か。相手は古代ギリシャにして名を馳せた狩り人、アタランテ。この程度のことは、きっとできて当然だろう。

 「これで、24───!」

 他方。

 クロにとって、それは易しいことではない。

 飛来する矢の軌道を予測。既に弓に番えた矢を狙いに定め、飛来する矢へと番えた矢を打ち放つ。味方への狙撃を狙撃して迎撃する、などという曲芸、それこそ神代に名を馳せる弓使いでもなければできまい。あくまで、クロエ・フォン・アインツベルンというサーヴァントは並みの範疇なのだ。英霊エミヤの戦闘技倆を継承しているとは言え、そもそも英霊エミヤの戦闘技倆は左程のものでしかない。弓術にこそ長ずるが、それは凡人の範囲内で長じているだけに過ぎないのだ。超絶技巧、などというものは、彼女には存在しない。

 「よし、次はここに狙点確保」

 「了解。アナタも結構人使い荒いわよね」

 「そうかぁ?」

 頭上で間抜けそうな声で応えるオリオンとやらに、クロは肩を落としそうになる。矢で矢を撃ち落とす、などという曲芸ができているのは一重にオリオンの指示ありきのものだ。そしてオリオンは、そんな曲芸はできて当然だと思っている。クロがどれだけ神経をすり減らしているのかは、彼の想像の埒外のことなのだろう。

 「っと次はあっちだ。多分次は強めにくるぜ?」

 「もう、ホントに人使い荒い……投影、開始(トレース・オン)!」

 

 

 「接岸完了。これより敵アーチャーを強襲する」

 (了解。アーチャーの予測位置座標を送る。あまり無理はするな)

 HMD(ヘッドマウントディスプレイ)に表示される戦域マップ。明滅するブリップが浮かび上がるのを確認すると、オデュッセウスはほんのわずか、頷いた。

果たして、それは情報に対する了解だったのか。それとも別な事柄に対する得心だったのか。あるいは両方だったのかはわからないが、ともかく、オデュッセウスにはある種の確信があった。

 あのアーチャーが何者か。ヘラクレスを殺して見せたあのアーチャーは、一体何者なのか。いや、畢竟すれば、何者でも構わないのだ。どんな手段にしても構わない。彼にとって重要なのは、ヘラクレスを殺したというその出来事そのものなのだから。

 そう、確信。

 正確には予感に過ぎぬものだが、それでもそこに、何か確からしいものを感じざるを得ない。艱難辛苦の旅路を経たオデュッセウスの、閃きにも似た予感は、スキル【知将の閃き】に昇華されている。合理的でありながら、それでいて感性的な思惟。直感とは異なる直観。

 これは、きっと、最初の一歩になる。この特異点を巡る戦いにピリオドを打つ、最初の一歩になる。それが大きな一歩なのか、それとも稚児の戯れにも似た小さな一歩にすぎないのかは、オデュッセウスにはわからない。

 だが、それが一歩であることには違いない。長い旅の始まりは、常にどんな形であれ、一歩を進むことから始まるのだ。それが、どれだけの艱難辛苦なのか。多くの難業を超えてきたオデュッセウスにも、想像を絶するだろう。

 だが、きっと超えて見せる。旅を超えることこそオデュッセウスという英霊の本質なのだから、それがどれだけの難業だろうとも踏破してみせる。それが己に対する義務であり、またこの手で屠った同胞たちへの義務なのだから。

 揚陸艇から岸部に飛び上がる。仮面の男は、周囲を振り仰ぐ。無風の海岸線には、ちゃぷちゃぷと海水が這い寄ってくる。

 男の顔は、伺い知れない。神鋼の仮面の奥で漏れた声は、苦笑のような嗚咽だっただろうか。恐らく本人にすら不明瞭な吐息(ロゴス)悲鳴(エクリチュール)は、一瞬で霧散していった。

 宝具『神体結界(アイギス)』から抽出した剣を、抜き放つ。

 「見せてもらおうか。ヘラクレスを殺し得るのサーヴァントの、性能とやら」

 男は、一歩を踏み出した。




109話でした。

新年度が始まりましたね。今年度も拙作をどうぞよろしくお願いいたします


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

狐疑のアポロウーサⅣ

 「どうですか、リツカ。物事は整然と進んでいますか」

 ケイローンは、地面に座り込む小柄な少女へと声をかけた。ケイローンという人物の生そのものを感じさせる大人の口調でありながら、何かその調子は普段とは異なる。そうだねぇ、と呟く少女。焼けた赤銅色の髪の少女、リツカは座り込んだまま、そうだなぁ、と胡乱気に言葉を漏らしただけだった。

 「トウマ君はよく頑張ってると思うよ。うん、そのままでいいと思う」

 (あ、ありがとうございます)

 「何照れてるの?」

 (いえ……じゃあ)

 遠見の魔術で何かやり取りを終えたらしく、ちら、と彼女はケイローンを見上げた。そうして頷きを一つ。なんだかぽやんとした顔のまま、リツカはほろほろと相好を崩す。

言って、リツカはごそごそと懐から何かを取り出す。黒い色の、金属の筒らしいものだ。ぱきゅ、と小気味良い音をたてて蓋? らしきものを開けると、ずいずいと飲み込んでいく。

 「いけませんよその……エナジードリンクとやらをむやみやたらと飲むのは。たまにはいいでしょうが、そう毎日飲まれては。もう脂肪肝なんでしょう?」

 むむ、とリツカは顔を渋くする。彼女が所属するカルデアとやらの医務からそれとなく頼まれていることだが、なんというか彼女の偏食をなんとかしてほしいらしい。特にこのエナジードリンクとやらがその象徴で、とりあえず一日で3本は飲むそうな。そもそも毎日飲むものではないし、それを毎日3本飲むのは明らかにおかしい。少なからず、ケイローンの口には一切合わない飲み物である。プロテインバーとかはともかく、ジャンキーな食い物はなんとかならんものか。他人事ながら、そう思うケイローンである。

 「いいですか、健康な食生活こそ活力の源です。無論、嗜好品を否定はしませんが。嗜好品はたまに摂るからこそ嗜好品としての価値を持つのではありませんか?」

 「むむむ」

 「何がむむむですか」

 リツカは少しだけ、悲し気に眉を寄せる。口を尖らせながら、それでもちびちびとエナドリを呷ると、「ふぁい」となんとも頼りない声を漏らした。本当に、よくわからない子だなと思う。こんな頼りなさげに見えて、その双肩に人類史全てを背負っているのだ。いや、逆説的な話だが。人類史全てを担っているというのに、こんなにのびのびと、それでいてのほほんとしているという事実に目を向けるべきか。何にせよ、藤丸立華はなんら動じることなくこの特異点で、そしてこの戦闘の渦中に居る。メルトリリスがリツカになんらかの志向性を抱いているのも、そんな彼女のこの在り方が理由なのだろうか。

 「お母さんみたいだなぁケイローン」

 「よく言われます」

 ごきゅ、と残りを飲み干す。丁寧に指で缶側面を潰したのち、ぐしゃりとコンパクトに圧し潰す。ごそごそと空き缶を仕舞ったリツカは、何故か周囲を探るように視線を巡らせた。

 「敵ですか?」自然、慌ててケイローンは周囲を見回した。

 「いや、マシュ居るかなと思って」

 「戻っていませんが。呼び戻しましょうか?」

 「いや、いい」リツカは、幾ばくか力が萎えたように岸壁に身を預けた。「いない方がいい」

 ぽやんとした顔のまま、ふう、と息を吐いた。眠たげな視線は樹々の隙間を抜け、岩場をなぞり、凪いだ海面に堕ちていく。

 「マシュの前だと、カッコイイお姉さんでいなくちゃいけないからさ」

 あくびも一つ。伸びもすると、だらりと一つ結びにした髪をかき回した。

 「楽ができていいよ。トウマ君もいるし、ライネスちゃんもいる。最初に考えていたよりも、ずぅっと楽」

 呑気そうに言う。傍目には普段の呑気そうな様子と変わらないのだが、彼女は彼女なりの緊張の中に居た、ということなのだろう。

 「いやさあ、最初私一人でやれって言われたときはもうほんと……まぁできる自信はあったけど、マジかぁってはなったよ。デイヴィットとキリ様と……あとカドック君がいたらもっと楽だったんだろうけど。ペペさんも居て欲しい。オフェリアも。パイセンとベリルは───まぁ雑魚はいなくてもいいか」

 「仲間ですか」

 「みんなほとんど死んじゃったけどね。戦闘指揮の顧問って予定だったんだけど、そんなこんなでこの始末って感じ」 

 苦笑いして、肩を竦める。ケイローンは一瞬顔を顰めて周囲を見回した後、「お辛いですね」と口にした。

 「そうでもないよ。トウマ君頑張ってくれてるし」

 「いえ、そうではなく」

 ケイローンは眉を顰めた。リツカは、少し照れ臭そうに髪をかき回した。そうだね、と口にして、前髪を、かきあげた。

「まぁ別に高い目的意識とか、願いとか、私にはそういう大層なものがあるわけじゃあないんだけど」

 緩慢に、リツカは立ち上がった。 何かを払うように、両手をはたく。遠く眺望するような彼女の視線の先を追うと、速足でこちらに向かう影2つを捉えた。

 「もうちょい頑張るかな。みんながやるはずだったことは、やらなきゃね」

 莞爾、とリツカは笑った。底抜けのような表情に、ケイローンは一瞬だけ、逡巡した。

 「リツカ、一つ聞きたいのですが」

 「お?」

 「メルトリリス様のこと、どう思っておいでですか」

 「え゛っ」

 「いえ、別にどうというわけではないのですが」

 そうして、ケイローンも、口角を微かに緩めた。

 「万が一なのですが。メルトリリス様と、その、」

 

 ※

 

 ───不愉快だな、とメルトリリスは思った。

 何が、と言われると色々ある。この状況の多くの事柄が彼女にとって不愉快であるのだが、当面の不快はこのランサーだった。

 魔剣の斬撃を撃ち込む。パワーダイブからの踵落としで機械仕掛けの球体を両断し、続けざま、襲い掛かってきたランサーに横蹴りを叩き込む。

 反応速度はメルトリリスの方が遥かに上。後の先を盗るように、突き出された穂先がメルトリリスの躯体を捉えるまえにランサーの胴めがけて剣先が迸った。

 刺突の構えをとったランサーに、既に躱すだけの余裕はない。ジゼルの刃は問答無用でカイニスの胴体を叩き切るはずだった。

 カイニスの脇腹を打つ剣戟。時に宝具すら切り裂くメルトリリスの魔剣が返した感触は、酷く鈍かった。まるで、分厚いゴムを蹴りつけたかのような、重鈍さ。

 「効かねぇって言ってンだろうが!」

 直後、喉元に迫る黄金の矛先。舌打ちする余裕すら無く刺突を蹴り上げ、同時に上体を背後へ。宙返りの要領で身体を逸らしたメルトリリスは仰け反った勢いのまま地面に手を付け回転し、両手で地面を押し出す勢いを推力にして背後に飛び退く。痺れるような手の感触を振りほどくように、着地した地面を蹴り上げて膝蹴りを追撃の薙ぎ払いにぶつけた。

 伝承防御───。カイニスのあの堅牢さは、そういった類のものだ。

 海神より授けられたカイネウスの肉体には、不死性が宿っていたという。伝承により、暴行であったか、合意のもとであったかは不確定だが、どちらにせよカイニス/カイネウスの肉体は何物も犯し得ない不死性が宿っている。その発露がこれであり、当面のメルトリリスの苛々の原因だった。打ち破る術が無いわけではない。それが伝承防御である限り、神話を再現しさえすれば突破できる守りに過ぎない。あるいはそれより濃度の高い神秘で無理やり殴り倒すか。だが、メルトリリスに神話を再現することは、できない。後者も、現状では不可。畢竟、メルトリリスにカイニスを撃破する手段はない。

 他方。

 する、と頬を滑った温い感触。切れた頬から滴った赤い液体を指で掬い、舌先に乗せた。

 ―――攻防、どちらの面でも不利。本来完全流体であるメルトリリスに対して、並大抵のサーヴァントの、特に非-魔術系の攻撃は有効打にならない。にも拘らず、カイニスの攻撃は当然のようにメルトリリスに傷を与えていた。これも海神の加護によるものだ。海を制圧する神の加護により、海の具象たるメルトリリスへの干渉を可能としている。

単純な性能差では、メルトリリスはカイニスに対して有意に立てる。だがこの現状、むしろ不利。一気に敗北することはないが、ジリ貧に追い込まれるのは必然だ。もし宝具を使えれば、と思うが、無いものねだりの、詮の無い思考だった。

 不愉快だな、と思う。複合神性(ハイ・サーヴァント)たる己が、たかだか劣等種(サーヴァント)如きに手を煩わせているというこの現実が。そして、この現実が己の自我以外の別な他者からの指示、というのも思わしくない。メルトリリスという我性の塊にとって、他者性に対する嫌悪感は極めて牢乎として甚大だった。あるいは、こんなカイニスなどという奴と戦うこと以上に我慢ならない出来事ですら、あったかもしれない。要するに、メルトリリスはトウマ(馬の骨)の指示で戦っていることが煩わしいことこの上なかったのである。

 ならば、何故メルトリリスは強張るような自我に従わないのか。不愉快極まりないこの現実に対して、自我を発露しないのか。

(ごめん、メルト。もう少しだけ待って欲しい)

 無論、念話で呼びかけてくるこの凡人のためではない。ただ不躾に応答のクリックだけを念話で返した彼女の脳裏、延髄から生える脊索に、その影が過る。

 あの、女。赤茶けた色の髪の女の顔。未だ靄のかかるあの顔に対する、何か不気味(um-heimlich)なある種の予感。伸ばした手の先に霞んだ姿に、メルトリリスは傲岸に、口の端を釣り上げる。

 掠める穂先が白い肌を削り、ぷしゅ、と噴き出た飛沫が赤い花のように散っていく。ほとんど構わず、ただ当面の不満に対処することにした。

 どちらにせよ、カイニス相手に耐久戦ができるサーヴァントなど自分くらいのものだ。なら、とりあえず任された仕事程度は完遂してみせよう。不出来な形で仕事を終えることは、それはそれでメルトリリスの美意識に反することなのだから。

 

 

 立華藤丸(たちばなとうま)は穴蔵に飛び込むと、ひとまず、息を吐いた。

 熱っぽく、それでいて渇いた吐息。頭が割れるほどの重圧は、けれど、ちっとも吐き出せそうにはなかった。

 岩陰で、身体を岩塊に預ける。オリオンが当初にマークした退避場を巡ること、既に2か所目。30秒だけの休憩を終えれば、また戦場に駆けだしては、3人に全体の状況を知らせなければならない。

 ……本質的に、トウマの存在意義は大きくない、と理解している。戦略的な判断はライネスがするし、戦術的な判断も最終的にはリツカが判断する。トウマはただ戦闘の推移を見、目の前の戦闘に専念する3人とリツカに状況の推移を知らせ、自分の判断をリツカに伝える。それだけの役割だ。言い換えると、それだけの役割しか果たせない。それが当面の現実であることを、トウマはよくよく承知しているつもりだった。自分が弱者である、という自覚は、もちろん身に備えていた。

 知悉に長じる秀才などではない。当然、天性の知性あふれる天才などでもない。凡人がそこそこ努力して手に入れられる程度の知性の持ち合わせしかないが、逆に言えば、彼は馬鹿でもなければ感受性が鈍麻なわけでもない。つまるところ、トウマは己の存在意義に対し、幾ばくか陰鬱なものを抱かないわけにはいかなかった。とは言え、やはり少年はその鬱屈を発散できるほどに前衛的でもなく───。

 (馬の骨。あと10秒で規定ラインまで誘い込めるわ)

 「あ、うん。了解」

 視野投影される映像ディスプレイを一瞥する。休憩時間終了まであと8秒。併せて戦域マップに表示される赤青の光点(ブリップ)の運動に加え、オリオンがマークした掩蔽場所も確認。次は大木の洞だ。

 「リツカさん」

 (はいはい)

 「メルトはあと…10秒くらいでいけるかと思います」

 数瞬、リツカの逡巡がパスを返す。彼女の声が返ってきたのは、トウマが息を飲むよりも早かった。

 (了解。こっちも準備する。3人の進行ルートも了承済みだわよ)

 「あ、はい。ありがとうございます」

 (いいね。通信終わり)

 ぷつ、と耳道の奥で音が途切れる。幾ばくか、森の奥の虚空を眺めたトウマは、よし、と声を漏らした。

 立ち上がる動作は酷く緩慢だった。地面が押し返す感触を膝で感じながら、トウマは顔を上げる。

 自分の存在意義は決して大きくないかもしれない。覚悟だなんだというものも多分よくわかっていない。きっと多分、本質的に自分は居なくても良い。

 だが、小さいながらに役割がある以上、居なくてもいいが、()()()()()。カルデア式の顕性型令呪ブロック14の仕様上、前線に居て、サーヴァントとの距離が近ければ、それだけで彼女たちの力になる。なら、精々矮小な存在意義くらいは果たして見せなければ。

 なんとなく、彼女のことを、思い出す。自分よりずっと小さい、炒ったハト麦色の肌をした少女の姿を、思い出す。思い出して、すぐに思考の隅に置いた。だって、今彼女に会いたいと思うのは、そういう意味で、今は不要なものだったから。自分の左の手の甲に宿った双剣型の令呪を、手で抑えた。

 視野投影されたMFD映像の中、タイムカウンターを一瞥する。現在3秒、そして2秒。休憩時間はあと1秒。アンプル(向精神薬)を使うほどの疲労感はない。漏れ出る何かを押し込めるように、トウマは頬を2度、打った。

 「じゃあ、行くか!」




あまり設定を本文でだらだら書くのは好きではないのでこちらに一言二言

顕性型令呪云々は要するにサーヴァントとマスターの距離が近ければ近いほどバフがかかりやすい令呪、みたいなもんなんだなぁと思っていただければ

視野投影、という言葉もさらっと使っちゃってますが、こちらも一言。暗示の魔術の一環で薬物投与とか催眠暗示を併用して脳内の視覚野に直接作用してな網膜投影みたいに視界に戦域情報とか表示してる、みたいなものだと思っていただければなぁと思います。当初は普通に網膜投影で描いてたんですが、少々色々あってこんな形に。



いずれリツカちゃんとトウマ君のキャラデザとか令呪のデザインをちゃんと絵で起こしたいなぁ、と思ったりしています。できるかどうかは不明ですが……

それでは来週もまた、よろしくお願いいたします


御形


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

暇の魔女Ⅱ

今回短いです


 メディアはその時、珍しく眠りについていた。

 サーヴァントは本来、睡眠を必要としていない。にも拘わらず、メディアは祭祀所の奥、扉に寄り掛かるように眠っていた。

 どれほどそうしていたかわからない。疲労が滲んだ()()()()を引き攣らせては身悶えし、魘されては、浅い呼吸だけを繰り返す様は、悪夢を見ているかのようだった。

 「イアソン様」

 口唇から、言葉が転げ落ちる。

 それが何かの契機であったかのように、彼女は目を見開いた。莫、と虚空を見つめるほど数秒。額に浮かんだ脂汗を拭ったメディアは、目前の空中へと映像を投射した。

 「オデュッセウス様、状況の如何は」

 念話を送ってから、メディアは多少、後悔した。己はただ、魔術に長ずるだけの小娘に過ぎない。そんな者が、戦闘に口を出すべきではない。そういう賢しらな素振りを見せるべきでは、ない。

 (問題なく進んでいる。安心していてくれ)

 が、帰ってきた声はオデュッセウスのそれではなかった。

 (あぁすまない、船の指揮は今私が執っている。オデュッセウスに回そうか?)

 「いえ、大丈夫ですアタランテ。オデュッセウス様は前線に?」

 (あぁ。敵の戦力を確認したい、とか言っていたが)

 「敵の?」

 そうだが、と訝るアタランテ。慌てて了承の応答を返すと、メディアは幾ばくか思案する。

 オデュッセウスは、滅多なことでは前に出ない。指揮官が前線で戦うことが、如何に愚かしいことか十分知っているから。それが、わざわざ戦力の確認をしたいからと前に出る。何か必然があってのことだろう。

 では、その必然性とは何か。

 応えは明白だ。彼は、ヘラクレスを打倒する戦力を発見し、それを破壊しようとしている。既に戦力的に消耗が激しいアルゴノーツの中にあり、ヘラクレスは最後の砦なのだ。かの最強の大英雄を撃破し得る戦力を削ぎに行くのは、指揮官としては妥当な思考と言えばそう。回せる戦力に限りがある、となれば妥当な判断ではある。

 何か、引っかかりを覚えないでもない。だが、そんな些細な引っかかりに気を付けている場合でないのも事実だった。

 困るのだ。オデュッセウスが、敵の戦力の要諦を潰してしまうのは。ヘラクレスは、必ず殺さなければならないのだ。この特異な人類史をその特異性から解放するには、なんとしてもヘラクレスを殺さなければならない。そのために、あの投影魔術使いのアーチャーは、死なせるわけにはいかない。

 さりとて。現状、メディアには何もすることができないのも事実だった。海賊たちの拠点を囲う魔術的防御は、メディアですら中々手が出せないほどのものだ。影を忍び込ませることはできるが、直接的な支援となると難しい。しかも、オデュッセウスの目を欺くとなると。

 今は、信じるしかない。余計な手出しをし、不和を生み出してはすべてが台無しになる。赤い外套を着た小柄なアーチャーの実力が、真に英雄たるに相応しい、という蓋然性を、今は当てにするしかない。こういうところが、未熟たる所以。女王メディアはいつだって突発的に事を為してしまう、と彼女は己の人生をして知っている。

 だが、もう一つ、彼女は知っている。

 女王メディアは、案外幸運なのだ。複数の裏切り全てを成功させ、己が憎悪を悉く果たしてきた。そうして故国に還った彼女の人生は、皮肉にも成功に満ち満ちていた、と言っていい。彼女の高い幸運値は、その薄暗く残酷ながら確かな足取りに裏打ちされたものだった。

 だから、それは祈りのようでありながら、確信ですらある。あるいは、その祈りこそが原初の魔術であるからだろうか。魔術とは根本的に世界システムへの干渉であり、そして祈りとは既に確立されたシステムに対してのある種の働きかけに他ならないのだから。

 何にせよ、メディアは天井を振り仰いだ。鬱屈した石造りの天井の先、見果てぬ虚空へ寄せる期待。

 ヘラクレスの死。それに続く、この特異点への区切り。その先に、未来は待っている。

 「イアソン様」

 零れかけた声を、舌先で掬い取る。

 決して忘れ得ないその姿を。黄金の背中に、視線を滞留させるように。

 

 ※

 

 「うおっと」

 襲い掛かった刃のタイミングは、ほとんど、同時だった。

 ディオスクロイのそれは、まるで双剣使いの名手が振るう卓越した技巧というべきだろうか。1人の達人が振るう剣閃を思わせる太刀筋の内、首を狙う一撃は身体を窄めて躱して見せる。ほぼ一瞬だけ遅れて、掬い上げるように迫る剣にはカトラスを重ね合わせた。

 刃先同士がぶつかり合う。突き上げるような衝撃は、明らかな身体性能の差を否が応もなく感じさせた。だが、その性能差は利用すべきものだ、とメアリー・リードは心得ている。

 斬撃の衝撃を推力に。カトラスの背を同時に蹴り上げ、メアリーは直上へと飛び上がる。今度は真上に広がる樹々の枝を踏みつけ、直下のサーヴァントの脳天へと船刀を叩きつけた。

 ただ、愚直なまでの剣戟。当然、最優と謳われるセイバークラスで現界するディオスクロイへの有効打には、なり得ない。剣を持ったサーヴァント……おそらくポルクス……がカトラスごとメアリーの体躯を叩き飛ばし、直後もう片方、カストロと思しきサーヴァントが円盤を投擲した。

 回避、不可能。そのタイミングをこそ狙っての追撃だろう。舌打ちする暇すらなく両手の剣を叩きつけたが、その威力たるやメアリーにはどうしようもない程度だった。呆気なく左手に持った両刃の剣が明後日へと弾け飛び、胴から切り離された頭部が水面に捨てられるような空虚さでメアリーの体躯は岩塊へと激突した。

 だらり、と何かが顔に流れる。何の気なしに手のひらで拭うと、どす黒くぬるりとした手触りの液体が手にまとわりついた。

 「んー。強いなぁ」

 己の損傷具合は特に気にせず、さっさとメアリーは起き上がるなり、手近な木の陰へと飛びこむ。ううむ、と考え事を巡らせて、メアリーはさっさと答えを結論付ける。

 「うん。ボク一人じゃあ勝てない」

 頭頂部の裂傷をとりあえず圧迫止血して、メアリーはあっさりと口にする。

 元より、彼女は海賊である。生き死にには頓着するが、戦うことそのものには大した興味が無い。元軍人故の合理的思考と、海賊としての大らかな思考のもとでの、ある種割り切った思考だった。勝負付け、なんてものは興味がない。

 「アンだったらどうするかな」

 とりとめのない思考。メアリーには、その実、その答えは不明だ。アンとメアリーは互いに深く通じ合った相棒だけれど、それでも突き詰めれば他人なのだ。なんとなく考えることがわかったりするけれど、それはなんというか蓋然性とかに依るものだ。確信はあるけれど、絶対はない。それは多分、アンにしても同じことだろうか。

 ……多分、アンならそもそもこんな戦いはしないだろうな、と思う。じゃあなんでメアリーは引き受けているのか、と言えば答えは簡単で。好きな人間の願いは、かなえてあげたいのが甲斐性ってもんだからだ。

 「ディオスクロイ、かぁ」

 ちら、とメアリーは木陰から顔を出す。周囲を流し見るセイバー。これまでのデータを照合すれば、ディオスクロイ、らしきサーヴァンは、まだメアリーの姿を捕捉できていない。だが時間の問題だ。あの双子のサーヴァントの内、女剣士の方。ポルクスは、妙に勘が良い。何故か、こちらの行動に対しての行動予測が、

 「兄様!」

 「む、そこか!」

 「げっ」

 上手い。

 ひゅ、という音と直撃の衝撃は同時だった。円盤が地面に着弾、爆発するかのような衝撃が膨れ上がる。木っ端のように吹き飛ばされながら、メアリーはなされるがままに飛ばされていった。

 ぐちゃり、と硬い感触が腹を打つ。思わず胃液を撒き散らしながら、それでもメアリーはぴくりとも動かなかった。

 「すみません兄様、私の思い違いのようで」

 「いや、構わん。人間の姿など、そこいらの岩と見間違えても大差ない。ましてあんなちんちくりんではな!」

 「あんの野郎」

 遠く、なんだか腹立たしい会話が聞こえてくる。好きでこんな身体なんじゃないぞ、と抗議したくもなったがぐっと我慢。そろりと起き上がったところで、耳道の奥で何か擦れるような音が鳴った。

 念話、とかいう奴だ。

 「なぁに?」

 (あ、その。僕です)

 「知ってる、少年君の声は覚えてるからね。愛の告白だったらいつでもオッケーだよ」

 (や、そういうんではないんですけど)

 「残念」

 口ぶりに反して、メアリーは特に心象を害した風でもない。念話の向こうで、心情判然としない躊躇のような沈黙が半瞬ほど滞留したようだった。そういうところも、ちょっとかわいいと思う。

 (あーそれで)トウマは、僅かに慌てたように声を続けた。(予定の時間です)

 「了解。ありがと、愛してるよ」

 (あーえと、その……)

 「通信終わり」

 ぷつ、と弾けるような音が耳朶に触れる。耳介を小指で撫でると、それとなくHUDを立ち上げる。

 面前、映像が空中投射される。周辺状況の戦域マップを眺めれば、確かに光点一つがこちらに接近していた。

 「反撃、開始」

 契機は来た。ぬるりと、這い依るように。

 

 




今日短いので、明日続けて投稿予定です


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

不死鳥(ゴッド・フェニックス)

 「さっさと沈め───沈めったらよ!」

 矛の薙ぎ払い、気勢のままの振り下ろし。宝具でもなんでもない打撃だが、喰らえばサーヴァントとて一たまりもない火力だ。事実、カイニスはそうして裏切者も海賊も、等しく屠殺してきたのだが。

 この時だけは、カイニスの膂力は空を切るばかりだった。1撃、2撃と重なる攻撃全てをいなす黒い踊り子めいたサーヴァント。叩けばすぐに潰れてしまいそうなほどに華奢な小娘は、苦慮しながらも、カイニスの矛を防御しきっていた。

 ───カイニスにとり。

 この戦いは、圧倒的に()()()()()()()。この女神の肉片を縫い合わせた人形との戦いは、つまらないことこの上なかった。

 これは、絶対に負けない戦いだ。彼の肉体に宿る伝承防御、海神(ポセイドン)の守護がある限り、カイニスの肉体が傷つくことはない。通常の召喚であれば、サーヴァントの身でこれほどの強度を持った伝承防御を所持することは叶わない。が、この歪極まりない函庭のような特異点と召喚者たるメディアの技倆が成せる業か、カイニスは()()()()()としての膂力の全てを所持していた。

 故に最強。不死の肉体を殺せるものはなく、カイニスはこれまで単調に、敵を殺し続けてきた。

 別に、それ自体は不快ではない。圧倒的なスペック差でゴリ押すことは、それはそれで愉しい。強い相手と鎬を削ることも楽しめるが、矮小な存在者を一方的に殺戮する愉悦も、それはそれで嗜みになる。

 だが、これはどちらでもない。強者との命を削るような凌ぎ合いでもなければ、雑魚を蹂躙する快楽もない。不快な戦いだった。

 既に何度目かの刺突。薪割りもかくやといったように振り下ろした矛を、あのサーヴァントは意図的に、寸で躱して見せる。矛を引き戻す動作よりも早く、矢のように飛び出した敵の膝蹴りを躱す術はなかった。

 直撃、眉間。凄まじい衝撃とともに吹き飛ばされたカイニスは、さりとて無傷のままに着地。竜牙兵を殺戮しながらも、うんざりした顔の敵を睨みつける。

 自覚する。

 スペックに、明確な差がある。カイニスがどれだけ本気になろうとも、この女々しい女には勝てない。それでもカイニスに有利があるのは、あのクソ忌々しい海神の庇護があるからだ。あの呪い(祝福)がある限り、敵は己に傷をつけられない。

 要するに、これは消耗戦でしかない。今々にカイニスが有効打を与えられずとも、いずれその機会は巡ってくる。あの神霊モドキの剣がカイニスを傷つけることはないのだから、悠長にその時を待てばいい。勝利は揺るがない。

 ……それが本当に、クソ忌々しい。これでは、あの女の言う通りだ。あのクソの加護がなければ、こんなどこぞのモヤシみたいな女1人倒せないことになる。そんなことが、あっていいのか。当然そんなはずはない、と自問へ自答を返し―――。

 「そんなに見たきゃ見せてやる」

 矛を、地面へと突き立てる。否、そればかりではない。彼女は左手に握った、盾すら放棄した。

 射殺すような目に、黒い服のみすぼらしい神霊のようなサーヴァントすら、気圧されるように眉を潜めた。

 ちりちりと、何かが弾けていく。大気中の大源が煮沸されるように軋みはじめていく。足元の緑草が焦げ付き始め、頭上の梢から黒煙が噴き出していく。

 「───宝具!」

 「オデュッセウスがなんて言おうが知ったことじゃねえ。この拠点ごと、お前は肉の一滴だって残さず蒸発させてやる。ポセイドンでもなんでもねえ! 他でもない、俺自身、カイネウスとしての力でだ!」

 発火は、足元からだった。逆巻くような炎の渦は忽ちにカイニスの躯体を覆い、その骨身ごと焼き尽くしていく。

 火が、広がる。肢体へと伸びた炎は翼のように、広がっていく。既に人としての血肉はそこに無く、ぐらぐらと煮え滾るように擡げた首は、化生へと変性していた。

 (貴様、何を考えている! この島を丸ごと焼き尽くすつもりか!)

 頭蓋の中、鬱陶しい声が響く。あのクソ生意気な双子の男の方だ。自己欺瞞も甚だしい、それでいて己を一番正視している愚か者の声。

 カイニスは、それを、一切無視する。

 「さあ、我が肉体よ! 地より飛翔し天を舞え、炎を纏いし熾天の鳥となりて───!」

 爆炎を撒き散らし、黄金の鳥が舞う。周囲の酸素を全て焼き尽くし、真空状態となった大地に一挙に空気が押し寄せる。津波のような気流を炎の翼で鷲掴む。莫大な推力を背に、上空300mまで秒未満で駆けあがる。

「―――『飛翔せよ、我が金色の大翼(ラピタイ・カイネウス)』!」

 焔が、墜ちる。火山から這い出した火砕流が全てを飲み込む様に、大気中の全てを塵芥にして焔が堕ちる。

 それこそは、英霊カイニスの宝具。死後、金色の鳥となって天へと昇った逸話の昇華。真名解放とともに燃え盛る金の鳥と変性し、一帯を焼き払う対軍宝具。むろん、ただ1人のサーヴァントを焼き払うにはあまりに過剰な火力だった。

 眼下のあのサーヴァントに直撃するまであと1秒以下。瞬く間に落下した炎の塊を、躱す術はない。どれだけ逃げ惑ったところで、カイニスの宝具のレンジから、この速度で躱すことは敏捷値がA+あろうが不可能だ。他の敵が殺せるか否かは不明だが、どうでもいい。何が何でも殺さなければならないと、カイニスは、カイネウスは決めたのだから。

 そうして、その決意のもとに必殺は為る。海をも焼き尽くさんとするほどの炎の鳥は、あとコンマ数秒であの小生意気で出来の悪い女神のつぎはぎ人形を血の一滴も残さずに燃やし尽くす。

 永遠にも思える、恍惚と苦悶の狭間に軋む刹那の間隙。

 「あぁそう。道理で、イラっとするわけね」

 何故か、カイニスは、その唇の蠢動を克明に目撃してしまっていた。

 「私たちより寂しいじゃない、アナタ」

 女が、顔を上げる。

 不快に歪んだ侮蔑の顔。憎悪で崩れてしまいそうなほどの、同族嫌悪じみた形相(エイドス)は、何故か。

 「馬の骨、今だけアナタのサーヴァントになってあげるって言ってるの。だから二画、令呪とやらを寄越しなさい!」

 静かな、同情のようなものを孕んでいた、だろうか?

 「特別に見せてあげるわ、ゴリラ女。これが孤高な私の流儀!」

 ぞわりと、何かが大地に蠢く。

 地面の裂け目。樹木。あらゆる場所から沁みだした黒黒した液体は瞬く間に柱と化す。屹立した黝い海嘯が口を開けた様は、

 「『大海嘯七罪悲歌(リヴァイアサン・メルトパージ)』」!

 海竜そのものだった。

 

 ※

 

 息を、呑む光景だった。

 天より舞い降りる焔の燐光。太陽を戴いたが如く金色の流星は、禽の姿をしていた。

 相、対するは屹立する濁流。周囲の大海すら飽き足らず、島の液体全てを簒奪したが如く、汚濁の水柱。激甚なる強欲の顎を開いた様は、古き海の悪魔(レヴィアタン)そのものであっただろう。

 ぶつかり合う炎の神鳥と偉大なる海の魔竜。絡まるように天を上りながら互いに食い合う光景は、常世の終末かとすら思われるほどだった。

 見惚れるような放心。思考停止しかける情動の弛緩を切り裂いたのは、左の手の甲から全身に迸った激痛だった。

 左の手の甲を基点に、全身の神経が罅割れ裂けて、肉片にまで分解されていくような錯覚。悲鳴こそ上げなかったが、トウマは立っていることすらできずにその場に蹲った。

 思わず舌打ちを漏らした。令呪発同時にBDUから投与される薬物は、鎮静作用も持つがあくまで超短期での作用機序しかない上に、令呪発動後はさっさと解除されてしまう。要するに、なんの庇護もなく、トウマは裸の精神状態でこの激痛を耐えていた。

 なんというか。

 普通にキツイ。

 (タチバナ先輩!)

 「その場で、待機。メルトの気が済むまで、待ってやって。予定とちょっと違うけど、大筋変わってない」

 干からびた声を絞り出す。無言で了解を返してくるリツカの姿を幻視して、断絶しかける意識をなんとか握りこむ。

 ───メルトリリスを成立させる女神は実に3柱。

 ギリシャ神話の女神、アルテミス。

 インド神話の女神、サラスヴァティー。

 そうして、旧約聖書、ヨブ記に姿を現す海の化け物。ベヒモスに番う海魔の雌竜、レヴィアタン。

 メルトリリスの宝具は、主にサラスヴァティーの権能を振るうものだったはずだ。だが今発動している宝具は、CCCで発動した『弁財天五弦琵琶(サラスヴァティー・メルトアウト)』ではない。明らかに、レヴィアタンの権能を振るっている。あんなもの、確かmaterialにも記述はなかったはずだ。

 つまるところ、メルトリリスはなんらかの意地で、無理やり宝具を引き出している。彼女ほどのサーヴァントが、わざわざ宝具を発動するだけで令呪の二画を使わせ、その上でのこの激痛。令呪から伝わってくるこの痛みはメルトリリスが直に味わっているもので、なんならパスを介する分、まだ軽減されているはずだ。キツイけど。

 (よし、メルトリリスの自慰が済むまで雑魚の掃討でもしていようか)

 (リツカ。あまり、マシュの前でそのような言葉を使わないでください。クリス、行きますよ)

 (おう、じゃあそうすっか。行くぞ嬢ちゃん!)

 (は、はい!)

 遠い意識の向こう、4人の声が鈍く響く。

 ぷつり、と途切れた音が溶けてから、何秒ほどか。まさしく気が遠くなりながら、覚束無い膝を支えに、トウマは立ち上がった。

 袖口で冷や汗を拭う。左の手の甲の令呪、残り一画。喪失した2画は、血濡れのように明滅していた。

 こんなことをしている場合じゃない。こっちは大丈夫だから、後は、

 視野投影映像の中、戦域マップを呼び出す。拡大されたマップの内、島の反対側で戦闘する味方を注視する。

 「ごめんクロ、オリオン。まだ防御お願い」

 (あいあい)

 (ちょっと休んでたら。メアリーの方もそろそろ―――)

 ぶちり。

 通信切断、唐突だった。

 この特異点特有の、不安定さによるものか、と思いかけて、即座に否定した。。不調の予兆は見られなかった。図ったような通信途絶は、つまりは意図的。ひやりとした汗が喉元を伝ったのも、束の間だった。

 「なるほど。君が指揮官、というわけか」

 剃刀のような声だった。

 「サーヴァントではないな、人間か。メディアが言っていたマスター、とやらか」

 おそるおそる、振り返る。

 陰鬱に茂る森の中。その姿は、あまりに異様だった。

 黄昏の藍色に溶け込むような、黝い鎧。僅かな微風に浚われた白い外套が、痙攣するように揺れている。

 「若いな。まだ過去ではなく、未来に多くのものを持つ年齢だ。進むべき道は無限に広がる……そんな、年齢だ」

 どこか、意思の伴わぬ空虚な声色。仮面の奥の視線は伺い知れず、佇む姿は何か、魂のない機械のよう。

 「オデュッセウス」

 それが、この男の真名の、はずだった。

 「如何にも、そう言う名前だ。大方、ケイローンにでも聞いたか。メディアの小間使いが」

 オデュッセウスの声に、微かな侮蔑の色が混じった。感情の無い機械じみた佇まいに、僅かに紛れる異物感。機械が束の間見せる、人間染みた所作。

 「羊の腹に隠れたって言う、逸話ですか」

 「ん?」

 「貴方の存在を探知できなかった理由です。この結界、サーヴァントほどの規模であれば探知は容易い」

 ふむ、とオデュッセウスは小首を傾げた。周囲を流し見ること一瞬、ぎょろりと仮面の奥の目がトウマを射抜いた。

 「興味深い。あまり頭は良さそうには見えないが、腹芸とはな」

 「何を」

 「謀りだろう、探索用の結界など。それを承知で、俺のスキルに探りを入れに来たというわけだ。確かに、俺はあまり前線には出んからな」

 ひやりと、臓腑が冷える。

 オデュッセウスの言う通りだ。この結界の主ならともあれ、所有権のないトウマに、当然結界内の権限はない。

 「向こう見ずだな。加えて、知識もある。いいだろう、君の勇気を讃えて教えよう。確かに俺には静粛のスキルがある、その逸話由来のな。アサシンの【気配遮断】にしてみれば、ランクはBと言ったところか。アイギスを介して発動する、『オデュッセイア(俺の旅)』の再現だ」

 鷹揚に、オデュッセウスは言って見せた。

 思わず、気圧される。己の能力を、こうもあっさりひけらかすサーヴァントがいるだろうか。しかも、一瞬口走った言葉、アイギス。あれもうっかりではなく、意図的にこちらに伝えたものだろう。

 もし、ここで対峙していたのがリツカであったなら、さしてどうでもいい情報を渡してきたことを悟っていただろう。つまるところ、オデュッセウスにとって【気配遮断】などどうでもいい要素であり、且つアイギスの逸話には弱点らしい弱点がないものであり、それ故に公開したと理解できるだろうか。だが、トウマにはまだそこまでの洞察は、できていない。

 「そして、時間稼ぎというわけか。不意の通信途絶に感づいた誰かが救援に来てくれるまでの時間を、こうして繋いでいる。違うか、年若い少年よ」

 仮面の奥。覗き込むような目がざくりと心臓を貫く。

 そこまで見抜かれている。知悉に長ずるサーヴァントとは聞いていたけれど、想像以上に思考が早い。

 「図星か」

 「えっ」

 「顔に出ているな。はったりを仕掛けることは思いつくが、はったりを仕掛けられるとは思わなかったか」

 とても、敵わない。少なからず、二枚三枚ではないほどの力の差が、オデュッセウスの間にはある。

 逃げろ、と頭の中で声が響く。早く逃げろ、さもなくば殺される。絶叫のような吐露と全身の激痛が坩堝となって、今にも気が触れそうだった。

 「そろそろ来るな。いい頃合いだ。束の間だが、話ができて楽しかったよ……汎人類史の人間」

 ふわ、と姿が消えた。

 「では、処理するとしよう」

 黒い風が吹いた、程度の認識だっただろうが。トウマの視覚強化ではそれが精々で、とてもその姿を認識して、対処行動を取って、迎撃するなんてわざはできなかった。もちろん、戦闘服にプリセットされた指さしの呪い(ガンド)を撃ったところで、どうにかなったものでもなかっただろう。

 衝撃は軽かった。腹に何か刺さった、ということまでは意識はあった。痛くはなかっただろうか。別な痛みの方が強かったから知覚しなかっただけか。それとも、痛みを感じることすらない、刺殺だったのだろうか。

だが、全ては瑣事だった。

 じわり、と腹部から熱が広がる。熱して溶解した重金属が腹腔に流れ込み、臓腑を焼きながら冷え固まるような感触。爽やかなほどの疼痛は、忽ちにトウマの意識を歪に蚕食した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

狐疑のアポロウーサⅤ

 焦燥、という言葉の意味を、これほどまでに強く感じたことはない。

 皮膚が焦げ付き、燥ぎ罅切れるような錯覚。じりじりと自分の核が摩耗するような感覚。口腔から咽頭までカラカラに渇いているのは、決して錯覚なんかじゃあない。

 速く、早く、迅く。クロエ・フォン・アインツベルンは、ただそれだけを専心しながら地面を蹴り上げた。

 「おい嬢ちゃん、もう少し強化弱めねぇと」

 必死に髪にしがみつきながら、頭上でオリオンが呻く。だが、クロは応えすらせずに強化を行使し続ける。そんな暇なかった。己の身体の限界強度以上に『強化』をかければ、却って逆効果になる───などという事実は、魔術においては初歩も初歩の事実。当然、クロはそんなことは百も承知で、知った上でやっている。早く進まなければ、という得体の知れない衝動が、クロの存在論的存在の全体を捉えて離さない。

 (こちらケイローン。ポジションに入りました、後顧の憂いなくあとは私たちにお任せを)

 了解、と応えることすら厭わしい。パス越しにクリックを返し、絞り出した唾液混じりの吐息を鼻腔と口腔から漏らしながら、赤い外套が疾駆する。

 ……トウマとの通信が途絶したのは、1分前。アタランテとの撃ち合いをケイローンに譲り、トウマの援護に向かう判断を下したのはそれから2秒後のことだった。前線での指揮権を引き継いだリツカの判断は迅速だった。だが、それでも遅すぎる。敵の通信妨害は局所的で、望外範囲は明らかにトウマが隠れていた場所だ。オリオンが見繕った掩蔽場所の信頼性は高いだろうけれど、それでも被発見リスクはゼロではない。

 畢竟。サーヴァントが生身の人間を殺すのに、58秒という時間は長すぎる。

 速く、しなければ。

 「おいってば!」

 早く、行かないと。

 「お前の身体がぶっ壊れちまうぞ!」

 迅く!

 「おや」

 ───さらりと、開けた場所だった。

 束の間の刹那。

 小さく拓けた、黒い森の中。天から降り注ぐ月の光が、薄い雲間から漏れていた。

 ならば、そこに佇立する黒い影はなんだろう。全身に機甲を纏った朧の陰。陰鬱に仄光る、奇怪なほどに無邪気な双眸が、クロを覗き込んでいた。

 サーヴァントだ。敵の、サーヴァント。外見的特徴からして、オデュッセウスだろうか。アルゴノーツのサーヴァントの内、最も海賊のサーヴァントを屠ってきた冷酷無慈悲のサーヴァント。

 何故、という疑問が浮かぶだけの余裕はなかった。アーチャーたるクロの索敵網は実に広大で、島全域に及ぶ索敵網はあったというのに。なのに、何故オデュッセウスの動向を捕捉できなかったのか、という疑念の形を取った後悔が生まれるよりも、ずっと早く。

 「それは何」

 黒い影の左手が、何かを引きずっている。黒い服は、カルデアから支給されている戦闘用の礼装と、よく似ている。

 「あぁ、これか。餌になってもらおうと思っていたのだが、存外に脆くてな。困ったものだ、汎人類史の人間の弱さは」

 ひょい、と黒いサーヴァントがそれを投げ捨てる。クロの面前に転がった170cmほどの塊は、襤褸雑巾のようだった。

 仰向けに転がるヒトガタ。黒い制服よりもなおどす黒い染みが、背中に円を描いていた。裾から僅かに覗く東洋人らしい色の肌には、土まみれで濁った暗血色が、べたりと張り付いていた。

 「まだ死んではいないよ。ただ少し、神罰を受けて貰っただけだ。アテナの神罰と言ってな、アイギス(贈り物)の有効活用だ」

 仮面の奥で、罅割れたように嗤う何か。肩を竦めるような素振りをした機甲の左手は、赤黒い染みが膜を作っていた。

 「まだ死んでもらうわけにはいかんのでな。少々内臓が滅茶苦茶になる程度に弱めていたが、これはどうなることやら。あるいは、野の獣か蜘蛛にでもなり果てるか。いや、それとも」

 ころり、と仮面が小首を傾げた姿は、何故か酷く愉快そうに見えた。

 「耐えられずに、死ぬかもしれんな。残念だが、なってしまうものは仕方ない。物事とは、なるようになるものだ」

 ぷ。っ。つ。ん。

 

 ※

 

 「ええい、オデュッセウスは何をやっている! もう撤退のタイミングでは」

 声を圧殺する破裂音。カストロの不意を狙った弾丸の狙いはあまりに精密だった。着弾箇所は必殺の眉間。喰らえば一撃で霊核を撃ち抜く弾道を、カストロは既に躱す手筈はない。

 だが、弾丸はカストロを死滅させることはなかった。着弾する寸でのところで割って入ったポルクスの剣の一太刀が弾丸を斬り払い、二つ別れになって明後日へと飛び去って行った。

 そしてこのタイミングは好奇、のはずだ。カストロの知ったことではなかったが、ポルクス曰く、相手の武器───マスケット、とかいう、人間が作り出した小賢しい武器───には弓のように、弾丸を装填する隙がある。重ねてポルクスが言うには、マスケットは先込め式滑空銃。即ち一発撃ったら弾丸と火薬? なるものを筒先から詰め込む必要がある。

 つまるところ、弓矢と同じように、撃った後には膨大な隙がある、ということだ。ポルクスが言うには、さらに未来になれば装填せずとも何発も弾を撃てるように発展していくというが───カストロにはどうでもいことだ。ともあれ、ポルクスに曰く、今この瞬間が絶好の機会である、ということだ。これを狙わない道理はなく、一挙に岩陰に身を隠した新手へと肉薄する。

 「賢しらな人間(ましら)風情が!」

 円盤を投擲する。Aランクに達する筋力値から放たれた銀の円盤の破壊力は、聖性のない岩塊など大鋸屑のように破壊し得る。そして事実、3mはあろうかという岩塊は枯れ草が散るように爆散した。

 吹き飛ばされる人影。さらに相対距離を詰めたカストロが、第二の円盤の狙いを定めた。

 遠心力を推力に、身体を捩らせ一擲を打つ。1000m/sで手中から放たれた円盤は一瞬すらなく狙撃手の胴体を両断する。

 躱す術は、当然、

 「メアリー、使ってください!」

 くるりと赤いコート姿の女が態勢を整える。既に手中にあるのはあの筒のような武器ではなく、さっきのこじんまりしたサーヴァントが持っていた船刀の刃先が煌めいてい。

 赤い影が跳ねる。ミリ秒未満の速度で迫った円盤を受け流すように弾き返し、さらには引き戻し中の円盤を叩き伏せる。カストロの反撃手段はない。だが、ポルクスは既に動いている。

 脳内の戦術を組み上げる。何もカストロに武装はないとはいえ、その高い筋力値はそれだけで武器になる。ポルクスが切り結び、そこで生まれた隙を狙って組み付く。拘束したところでポルクスが切りつけ、それで、

 「いかん、ポルクス!」

 背後からカストロを飛び越えようとするポルクスを、咄嗟に押し返した。ポルクスの小さい悲鳴は、直後に飛来めいた破裂音が飲み込んだ。

 ぐしゃ、と何かが背中に広がる。その衝撃を疼痛と解するより早く、面前でカトラスの刃がぎらりと閃いた。

 「兄様!」

 血が、墜ちる。

 見開かれる双眸の主はポルクスだけではない。カストロの不快げな視線と交錯する女の目は、首を庇って突き出された腕へと深く刺さったままのカトラスを捉えていた。

 「げっ!」

 「雌犬如きにくれてやるほど、俺の頸は安くはないぞ!」

 カトラスが食い込む腕を引き寄せる。同時、握りこんだ右の拳を深々と顔面へと叩き込んだ。フォームも何もあったものではない、ただただステータスを利用しただけの打撃。だが、高い筋力値から放たれる殴打はそれだけで宝具に迫る破壊力がある。ぎゃ、という悲鳴ごと叩き潰された女は、毬のようにバウンドしながら弾き飛ばされていった。

 そうして、カストロは忌々しく目を見開いた。殴り飛ばされ鼻血を出しながら、女は既に、マスケットを構えていた。

 「クッソ痛かったですわ、この筋肉馬鹿!」

 「あとこれ、返してもらうよ!」

 腕に食い込んだままのカトラスの柄を、あのサーヴァントが握りこんでいる。カストロの反応よりも、2人の攻撃は早かった。放たれた弾丸は右肺を貫き、引き抜き様に振り抜いた刀刃が橈骨を切り裂き、尺骨を砕いた。

 「予定と違うけど、ここで地獄までぶっ飛ばしてやる!」

 「メアリー、もう一人が来ますわ!」

 「っと」

 追撃の剣を構えるのも束の間。一瞬わき目を振った小柄なサーヴァントは、一転して一目散に飛び跳ねていった。

 「兄様、こちらへ!」

 「ウゲッ」

 首根っこを手が掴む。酷く乱暴に窪みへと引きずると、ポルクスは声を喪ったようにカストロを見下ろした。

 「兄様!」

 「そう声を荒げるな。大したことはない、ということくらいはわかるだろう」

 「ですが、こんな」

 泣きそうになりながら腹に空いた穴を抑えるポルクスの姿は、何故か知らないが妙に必死だった。

 そう、事実、カストロにとってこの程度の損傷は大したものではない。サーヴァント、ディオスクロイの耐久値は実にA++という理外の値を誇る。それこそ、何の防御も取らずに対軍宝具の直撃を生き残り得るという破格の性能。状況によっては対城宝具の直撃すら生き残るサバイバビリティは、おそらく数多あるサーヴァントの内でも随一の性能と言っていい。伝承防御、などという反則持ちのカイニスはともかく。

 そして、当然、その事実はポルクスも了解しているはずなのだが。

 「行きます、兄様を傷つける奴らは魂魄百万回殺しても飽き足らない!」

 「待てポルクス、そう熱くなるな。我らの仕事を忘れるな」

 「ですが!」

 いつからだろう、こんなに、弱さを見せるようになったのは。

 いよいよ泣き出しながら、傷を抑えながら飛び出そうとするというある種の錯乱状態に陥るポルクスの挙動を慰めながら、カストロは柄にもなく戦術などというものを考える。

 オデュッセウスの言う通りに進行している。カイニスがやたらと張り合っているのは予想外だが、おおむねの進行に差しさわりはない。

 だが、だからこそと言うべきだろう。オデュッセウスの行動は予定外であると同時に、何か奇怪だ。普段のオデュッセウスならば、ここでは徹底的に見に回るはず。まして前線に出て、何の報告もなく独断で行動を起こすような男ではなかった。

 所詮は、神性を持たない人間に過ぎない。神の加護を受けただけの人間。

 と割り切ることは容易いが、ことオデュッセウスに対しては軽々な判断は下さない。

 この奇行も、なんらかの必然性によるもの。あまり思考を巡らせるのに長じないカストロにとっては、そのように推測するまでが限界だった。

 思えば、神とはあまり思考しないものだった。神とは自然の具現であり、思索するものではないから。思惟し、悩むなどというのは人間が行う弱さでしかないはずだから。

 だからこその、それは疑問だった

 「ポルクス」

 胸の内に蹲る妹が、恐ろし気に顔を上げる。血濡れのかんばせ。注視する、彼女の目。宇宙色の瞳の奥に凝った何かを透かし見て、カストロは不定形な不安を惹起させただけだった。

 「オデュッセウスが何を考えて居るか、俺にはさっぱりだ。だが、何の連絡もない以上、アドリブで適当なことをやらかすわけにもいくまい。それに、怒りに任せて斃せるほどに優しい敵ではないようだ」

 癪だが、と一言添える。身動ぎするポルクスから目を逸らしたカストロは、舌を打った。

 本当に、癪に障る。たかが人間風情、感情に任せて屠殺するのが常ではないのか。そのように鬱憤をわだかまらせながらも、ポルクスのためにも今は冷静にならなければ、と己を律する。

 「とりあえず、敵には我らを積極的に倒そうという意思はないようだな。オデュッセウスの見立て通りにな」

 未だ攻勢に出ないあの2騎の気配を探りながら、微かに吐息を漏らして見せる。余裕そうな素振りをポルクスに見せながら、カストロは何はともあれ耐えるための手段を考えることにした。

 

 

 「コロンブス、前に出すぎ! 一旦戻って」

 背後から、声が後ろ髪を鷲掴む。躍りかかる骨の化け物をカトラスで斬り払ったコロンブスは、苛立たし気に歯軋りした。

 本質的な話だが。

 コロンブスの戦闘能力はさして高くなく、また指揮能力も高くない。有意な状況において効率的に兵力を運用し、優位を広げることは得意だが、戦力的に拮抗ないし劣勢時での指揮能力は巧くない。というか下手。逆境そのものは好きだが、それを乗り越える手段に精神論以外のものが多分に含まれると、とたんに頼りなくなる。そんな男である。現状は前者ではなく、後者に分類される。それに、誰かの指揮下に入って戦うことにも不慣れだった。

 畢竟、コロンブスは単なる露払いとして挟撃班に編成されているのだ。

 今回の作戦の骨子は簡単だ。ある程度島の内まで誘い込み、アンブッシュにより敵戦力を挟撃。特に、ヘラクレスに次いで厄介と目されるカイニスをここで撃破することが、今回の作戦の肝と言っていい。コロンブスは対カイニス戦において、有効打こそ撃ち込めるが次の手として用意された戦力にすぎず、その本命はなんといってもカイニス撃破のための露払いなのだ。

 ある意味刺激のない戦いではある。サーヴァントによってはそれだけで不満のある出来事であろうが、コロンブスにしてみれば気楽な仕事だという考えがあるだけだった。彼は、楽ができれば楽にこしたことはないという現実主義者なのだ。無論、リツカはそんなコロンブスの趣向を理解した上で、この配役を行っているわけだが。

 「オラァ! コンキスタドール様のお通りだ!」

 ハンマーを投げつける。超重量の鉄塊が機械仕掛けの蜘蛛、その頭部を圧壊する。ここぞとばかりに接近する竜牙兵をハンマーに繋がった鎖で絡めとり、カトラスで頭蓋を叩き潰し、続けざまにさらにカトラスを投擲。もう一匹、マシュへと襲い掛かろうとしていた蜘蛛の胴体、その動力炉(心臓)へと突き刺さった。

 「余計な世話だったか、嬢ちゃんよ」

 「あ、いえ。そんなことは、ありません」

 マシュは少し、ぎこちなく身を竦めただけだった。表情は、あまり柔らかいとは言えない。

 余計な世話、というのは事実だ。マシュの技倆は、正直言ってコロンブスよりも高い。マシュならば苦も無くあの機械仕掛けの蜘蛛を楽に始末しただろう。

 (マシュ、そろそろだと思う!)

 「あ、はい! マシュ・キリエライト、行きます!」

 構えた剣を腰の鞘へ。張り切った様子で応えたマシュは、空を見上げた。

 酷く、華奢な姿だな、と思った。鐵に銀を纏った甲冑を身に着ける姿は、妙な不揃いを感じさせる。港町に居る酒場の子供の方が、まだ勁く見えるだろうか細い立ち姿。その癖に、盤踞と大地を踏みしめる姿の勇ましさといったらどうだろう。

 矛盾する身体性。どっかの学者は人間を沼地に生えてる小汚い葦に譬えたというが、確かにこの姿は葦そのものだ。その癖何日も雨風に耐えて、すっかり弱っているのにすくす延びるのも、葦の特徴か。

 マシュの体躯が、沈み込む。両足を発条に、放出する魔力を推力に。ロケットモーターを爆発させたミサイルのように、マシュは空へと飛び上がった。

 「あ、だから前!」

 「うお、あぶね!?」




 カストロこんな奴だっけ
 と思いながら投稿前の修正作業してました。まあこれはこれでいいかなということでここはひとつ。

 感想等いただけると私が泣いて喜ぶので、お気兼ねなくどうぞ~


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蠱毒のアマリリスⅤ

プライベートが急に忙しくなって遅れましたスンマセン

しかも短いです、重ねてスンマセン




カイニス、カイニス。

可哀そうなひと。

貴女は捨てられた女の子、か弱い女の子。穢され、捨てられた女の子。

それはきっと当たり前のこと、強さの前に、弱さなんて不要なものだから。

でも、それは捨ててはいけないものだったのに。ひとがひとで在る限り、弱さは捨ててはいけないはずのものなのに。

それを捨ててしまったら。貴女は、一体誰が番ってくれるのでしょう?

カイニス、カイニス

なんて、可哀そうなひと。

なんて、孤独な、

 

 

 メルトリリスが敗北を悟ったのは、互いの宝具発動から実に10秒後のことだった。

 彼女が苦し紛れに──あるいは、()()()()()()意地で発動した宝具『大海嘯七罪悲歌(リヴァイアサン・メルトパージ)』は、本来であれば海そのものを志向する権能に匹敵する。ハイ・サーヴァントであるメルトリリスであるからこその宝具だが、それでも現在の彼女の霊基では発動できないものだ。3柱の中、レヴィアタンの側面をより強く発現させた霊基でようやく手が届き得るそれを、令呪で無理やりに発動しているせいか、その威力は本来のそれに比してあまりに乏しい。その上、1秒ごとに霊基が拉げ、霊核が軋むほどの反動は、メルトリリスとて耐え得るものではなかった。

 まぁ、そんななので。敗北は元から必然で、彼女自身、十分に承知している。カイニスの宝具に圧し負けることは、百も承知している。

 とどのつまりは、この行為は余分なのだ。心の贅肉とでも言うべき、不毛さ。あるいはそれを倫理性と呼ぶのだろう、善き生への営みに対する配慮こそは、この悲しむべき女の子に対する倫理性の発露だった。

 だが、それが同時に己の魂への配慮であることも、もう、思い出していた。

 ここではないずっと遠くの過去(未来)の果て、どれだけ手を伸ばしても届かない世界の果てで淡く崩れた愚劣さに対する、それは自分自身による8割ほどの呆れと1割だけの労わり、そうして残り1割の雑多な気持ちを綯い交ぜにした情動。雨に打たれ地に落ちて土の滲んだ桜の花びらのような情動の、それは発露だった。

 この身体には、余分さなど不要だった。だが、それならこの心にほんのわずかな贅肉があっても、別に構いはしない。

 餞。そう、それは餞なのだ。自分より情けない女に対して、同じくらい馬鹿らしい生を選んだ自分からの、容赦もなければ呵責もない、今出し得る全力全開を。そうして負けたのだから、悔いはない。

 何度目かの交錯、激突する炎に焼き散らされた激流が一挙に水蒸気となって巻き上がる。水の柱からはじき出されたメルトリリスに迫る鳥の形をした焔。

 「この戦いはアナタの勝ち」

 瞋恚そのものと化して突進する様を見、メルトリリスは厭わし気に、けれど牢乎としたものを肺胞に溜め込んだ。

 「でもごめんなさい?」

 両手を広げるメルトリリス。

 「この戦いは、私の勝ちよ」

 瞬間、彼女の体躯が一挙に舞い上がる。爆発的な水蒸気を揚力にして天に登る様 は、可憐でありながら、どこか野卑さが消えない野鳥の品格だった。

 「さあ、見せなさいマシュ・キリエライト。意地があるってね、女の子には!」

 疾走する本能(理性)

 凝固する理性(本能)

メルトリリスの敏捷にすら匹敵する、それは神速だった。巻き上がる水蒸気から発生する揚力、地面を蹴り上げる脚力、さらには蹴り上げる脚力を強化する魔力。さらには魔力放出。全てを推力に転換したマシュは、荒れ狂う猪の蛮勇で以て、炎の鳥に対峙した。

 「威力減退確認、伝承防御突破可能性、クリア、フィールド制御、クリア。宝具展開、今!」

 振り上げる十字の大楯、具現する幻想。構築されたその巨大な盾を、地に杭打つように一閃した。

「──『疑似展開/人理の礎(ロード・カルデアス)』!」

 乾坤一擲、火の禽の頸を織る。




区切りを考えたにしても、今回超短いです

短すぎるので、火曜日までにもう1話投稿予定です


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

狐疑のアポロウーサⅥ

オデュッセウスですが、fgo原作とは別な宝具をもってきてるイメージです。トロイの木馬じゃなくてオデュッセウスの旅そのものの宝具化、みたいな。


 紅い疾風の速さは尋常ではなく。

 「『刺し穿つ(ゲイ・)──!』

 「アイギス!」

 「──『死棘の槍(ボルク)!』

 迎え撃つ黒銀の剛直を以てして、気圧されていた。

 唸る因果逆転の呪槍。過たずに心臓を抉る槍の軌道を上段から叩き伏せながら、オデュッセウスは横殴りに迸った槍の柄を叩きつけられ、踏鞴を踏むように突き飛ばされていく。隙、とばかりに猪突する呪槍使いのアーチャー(クロ)の攻勢は、怒涛という他なかった。

 薙ぎ払い、薙ぎ払い、叩きつけては刺突を繰り出す。捌く黒い機甲の速度は一見して互角だったが、だがそれが外見上の話だ。赤く禍々しい槍を縦横無尽に駆使してオデュッセウスを追い立てるクロは、それ以上に、()()()()

 敏捷だけではない。純粋な武装のぶつかり合いにおいても、クロが上回っている。剣と槍、という武具の種類も原因だろうが、それ以上に、純粋なステータス勝負でオデュッセウスを圧倒していた。

 とどのつまりは優勢。喜ばしき状況のはずなのだが。

 「ありゃ一体、何なんだよ」

 意図的な発話というより、オリオンのそれは吐露でしかなかった。自分より遥かに巨大な物体であるトウマの肉体を引きずりながら、不気味(Um-heimlich)な魔物でも見るかのように、その光景を目にしていた。

 クロの戦い方は、戦術も何もあったものではない、ただの力技。知悉を以て戦うことこそ彼女の戦い方である、と朧げに理解し始めたオリオンにとっては、ただのステータスごり押しの戦闘など違和感しかない。いや、だがそんな違和感などは表面的な話でしかない。根本的な不気味さは、そんな戦闘技法や技巧の話などではない。この光景の異様は、もっと生命的な物に対する不快感だ。

 沸き起こるその声は、なんだろう。悲鳴、嗚咽? いや、それとも怒声なのかあるいは別なのか。地の果て天の底から迸る不定の叫喚のままに赤い槍を振るう様は、オリオンをして身を竦ませるほどだった。

 ──獣。いや、違う。獣は殺し得るものだ。だがアレはそんな生温いものではない。正体不明の黒い霧を吐瀉のように噴き出しながら戦う様は、何の比喩も換喩も届かない……底抜けだった。 

交錯は幾度めだったか。刺突を顔面に食らったオデュッセウスがたまらず背後に飛び退く。後退際、追撃とばかりに相対距離を詰めるクロを正面に、黒い機甲、その胸部の装甲が左右に開いた。

 「撃て(ファイア)──!」

 装甲解放部から顔を出したのは射出口だった。魔力を光に変換して投射する魔力砲を撃ち散らし、飛び掛かる気勢のクロの前に弾幕を投げつける。槍の一薙ぎで大多数が弾かれ、瘴気のように噴き出す純粋な魔力の本流に残り全てが飲み込まれる。全て数瞬の内の出来事ではあったが、オデュッセウスにはその数瞬が何よりも欲しかったに違いない。

 オデュッセウスは知勇に長ずるが、決して武勇には長じない。凡百の英雄に劣らぬが、それでもやはり、優れて一流以上の強さではない。息つかせぬ嵐の如き連撃を捌き切るほどに、オデュッセウスは優れた戦闘能力を持っていない。それ故に、今一息が無ければ押し切られる、という瞬時の判断だった。

 いや、それだけ、ではない、とオリオンは思った。

 オデュッセウスが自覚的であるかどうかは不明だ。だが、オリオンほどのサーヴァントであればそこにある種の直観が強く働いていた。

 下手に戦おうとすれば、呑まれる。あの深き天の底より響く物の怪が発するのと同位の唸り声に、存在論的な不安に堕とされるようだった。

 しげしげと、向かい合った22騎が互いを探り合う。オデュッセウスは己の鎧を一瞥すると、奇妙に哂った。

 「いやはや凄まじい、アイギスがこのザマだ。どんな化け物かと思えば」

 見せびらかすように、機甲の体躯がおどけて見せる。頭部の仮面も、左の目元が抉れ、オデュッセウスの目がくきりと覗いていた。

 「地球(ガイア)の影法師に近しいが、むしろ真逆か? 君は人理の外側から来たわけか。ネメアの獅子の毛皮を貫けるのは道理だ。だが、まだ半分だ。ゴッドハンドを貫いた本領、まだ見ていない。そのぬるぬるだけではあるまいて!」

 ゆらりと蠢く姿からの一転。一挙に猪突したオデュッセウスは、クロの脳天めがけ、剣の一閃を振り下ろした。

 「──是非見たい! その実力をな!」

 柄で受け止めるクロの体躯が、踏鞴を踏む。ぐらりと揺れた隙に、跳躍したオデュッセウスは鉛直直上に舞い上がる。 

 掲げる前腕。装甲の一部が弾け飛ぶなり、ぐにゃりと歪んだ装甲面が這うようにクロの体躯へとまとわりついた。

 まずまとわりついたのは足。蛇のようにまとわりついたそれから逃れようとしたが、既に遅い。既に固着を始めたアイギスの欠片は、いかなゲイ・ボルグとて一撃では破壊できない。

 そしていったん動きを止めれば後は終い。足を伝い腰に喰いつき、背を覆い腕を縛り上げた時には、もうクロは立っていることすらできなかった。たまらず膝をついた少女の身体に、さらに粘性の黒濁液が伸し掛かり、圧し潰していく。

 「ひとまず耐久度を見てみよう。ヘラクレス(アレ)と殺し合うのだ、多少の傷で死んでは頼りない」

 睥睨が墜ちる。もがくクロを眼下に、剣を逆手に持ち帰るなり、装甲が覆っていない箇所──腹部へと、剣を突き立てた。

 ずぶり。

 白銀の剣が、クロの下腹部を貫く。あまりに容易く突き刺さるなり、鮮血とともに嗚咽が迸った。

 「耐久はさほどでもないか。困ったものだ」

 ずぶり、ずぶり。立て続けに剣を振り下ろし、そのたびに剣先が肌を突き破り、ハト麦色の肌を赤黒く濡らしていく。

 「テメェ!」

 「おやおや」

 飛びかかりしな、目の前に何か棘らしきものが突き刺さる。思わず尻もちをついたオリオンは、ただ恨めし気に左の手のひらをこちらに向けるオデュッセウスを睨みつけた。

 「幻霊か? いや、それ以下の霊体か。そこの人間のようになりたくなくば、今はそこで黙って見ていることだ。熊と蜘蛛のキメラにはなりたくあるまい」

 そうして、一撃。

 振り下ろした剣が肌を突き破る。無音の絶叫が淑と迸り、クロの小さな体躯が大蜘蛛に食まれたように強張ると、忽ちに四肢が萎えていった。

 沈黙が、蜷局を巻く。原夜の静謐が鬱勃と森林に圧し広がり、周囲の樹々は慄くようにこすれ合い、遠くの海で悲鳴のような潮騒が蠕動を始めていた。 

 オリオンは、何故か声をあげられなかった。いや、オリオンだけではない。オデュッセウスもまた、その時啓きかけていた何事かの未知の出来事に、困惑していた。

 無が、唸っていた。小さく蠢動する太古の無。存在の内なる無性が、朔風となって制止していた。連続延長する世界を切り裂く開闢。あるいは未だ神なるものが世界で権能を振るう時代に生きたオリオンとオデュッセウスだからこその、それは、オントロギーな恐怖だった、だろうか。

 「投影、開始(アクセル・シンクロ)──限定、召喚(トレース・オン)

 言祝ぎか、あるいは呪詛か。

 口角から漏れた彼女の声が、停止した世界を軋ませていた。彼女が、何かを引き出している。産褥の悪露を吐き出すように、何かを、産み落としている。

 剣。確かにそれは、剣だった。

 いや、それは剣ではない。剣の形をしているが、そんなものではない。あれは、そう。

 其は、剣の形をした原初の地獄だった。

 「面白い──これほどとはな思わなかった。」

 眼下で口を開ける地獄の釜に怯懦を惹き起こしながら、オデュッセウスは何故か痴呆にでもなったかのように、愉快げにその様を見下ろしていた。

 無が、世界を飲み込んでいく。這い依るように島を飲み込む様を、オリオンには最早、どうしようもなかった。

 いや、この光景をどうにかできる人間などいるだろうか。神とて立ち入れない、何者をも拒絶し恐怖させる絶対王政に立ち入ることなど、もしオリオンが本来の霊基で召喚されていたとしても不可能だった。

 不可能性の極限。

 だからこそ、

 「オデュッセウス!」

 その銃声が無を切り裂いたのはある種の必然ですらあった。

 背後から迫る銃弾。恍惚に身を竦ませていたオデュッセウスは、一瞬だけ反応に遅れた。

 銃弾が額に直撃する。咄嗟に虚空へと振り抜いた剣は何も掠らず、ただ錐揉みするように足をもつれさせたオデュッセウスは、直後懐で爆発した蹴り上げに突き飛ばされていった。

 「藻屑と消えろ、クソ野郎!」

 続け様の砲撃は、苛烈の一言だった。

 どこからともなく現れた砲台──カルバリン砲の18ポンドの砲弾を撃ち込む中口径の大砲、その数4。けたたましい音とともに斉射された砲弾をもろに直撃したオデュッセウスは、さらに明後日へと弾き飛ばされていく。最後に岩塊に頭から突っ込むと、ぐしゃりと水気のある音を漏らした。

 「おい、しっかりしなアーチャー、クソガキ! 熊公、何がどうなってんだい!?」

 カトラスで檻を斬り払う。じろりと睨んだフランシス・ドレイクの顔は、不自然なほどに鋭かった。

 「わからねえ、トウマがやられちまった姿を見てキレちまったみたいなんだが」

 「そっちのガキンチョは生きてるんだろうね」

 「なんとか。気絶はしてるが血は出てねえし、命に別状はない、と思う」

 オリオンは、目の前に横たわる黒髪の子供の顔を改めて見た。

 血と土に汚れているせいか、表情もくそもあったものではない。が、唇の色は薄い桜色のままだ。両手足の末端にもチアノーゼらしいものは特にみられず、脈もとれる。とりあえず、生きてはいる。

 「こっちも大丈夫みたいだね。やられてるのは大腸と脾臓と──腎臓か? 霊核にも肺にも損傷はないから大丈夫だ。すぐ治療は必要だろうが」

 クロの背中に空いた穴を一瞥、即座に判断を下したドレイクは、安堵もなく、引き攣るほどに鋭利な視線を投げた。

 「これはこれは。ご足労戴いた」

 びちゃり、と何かが滴った。

 装甲の隙間という隙間から赤い液体を滴らせる、黒い躯体。歪に変形した頭部は、見るからに頭蓋が陥没しているというのに、なんのことはないようにオデュッセウスは立っていた。

 「敵討ちとは感情的なことだ、フランシス・ドレイク。して、誰の仇だ。メレアグロスかアスクレピオスか。それともブラックバートとかいう優男か、卑怯者のラカムか。あぁそうか、そこに転がるゴミの仇を―――」

 銃声3発。胴に食らったオデュッセウスはよろめきながら、鎧に空いた穴から噴き出す血を眺めた。

 「取ろうとしているわけか」

 平然と口遊む黒い機甲。オデュッセウスと対峙するドレイクの表情は伺い知れないが、ただただ、その無言の背は鬼気迫る何かを湛えていた。

 「だが申し訳ないことに、これから俺は帰らせてもらう。帰ってやることがあるのでな」

 「アタシがアンタをただで帰すと思うかい。アタシの仲間を散々嬲り殺しにしたアンタを!」

 「思うさ。貴様はどれほど憎悪を抱こうが、フランシス・ドレイクに変わりない。時流を見誤り、戦術的判断を誤るほど愚かではあるまい」

 オデュッセウスは、天へと手を掲げる。

 「アイギス・アイオロス」

 前腕の装甲が口を開ける。射出された光弾が上空100mまで登るなり、虹と見紛う光が連続して閃いた。

 「早くケイローンを呼ぶがいい。本拠地はどこか知らんが、うかうかしていると2人ともハデスの館に招待されるぞ」

 オデュッセウスが身を翻す。ふわりと軽やかな挙動で駆けていく様を、ドレイクはただ見送るしかできなかった。

 どれほどの沈黙だったか。オリオンは、その景色を、ただ放心して眺めることしかできなかった。

 地面に転がる、まだ年端もいかない2人。ただ立ち尽くすことしか出来ずに、身動ぎすらしないドレイク。見下ろした両手についた血は、目の前で蒼褪めて横たわる少年の、もので、

 「これがお前の見たい景色なのかよ──アルテミス!」

 

 ※

 

 深く、息を吐く。

 両ひざに手を着き、僅かに目を瞑る。脱力は一瞬、メアリー・リードは身体を起こすと、「逃げたね」と隣に立つ人物を見上げた。

 「いい気味ですわね」

 憮然と応えたアン・ボニーは、口元を血まみれにしながら眉を潜めていた。

 「随分綺麗になったね、アン」

 「手荒な割にはお上手でしたよ」

 つん、と鼻を鳴らすアン。その拍子にずきりと痛んだか、小さく呻くと、恐る恐る鼻の穴に指を突っ込んだ。

 「そろそろ止まってきましたよ」

 「鼻、折れてるでしょ」

 アンは肩を竦めた。折角整った鼻梁を傷つけるのは、品性が無いと思う。メアリーも折れた肋骨の鈍い痛みを抱いた。

 「メアリー、行かなくて大丈夫ですか?」

 「ん、あー」

 脇腹をさすりながら、メアリーは少しだけ視線を泳がせた。

 アンが言わんとしていることはわかる。それとなく脳裏に過った少年の姿に淡く下唇を噛みしめるも一瞬、「大丈夫じゃない」とにべもなく応えた。

 「ふぅん?」

 アンは不思議な表情を浮かべた。メアリーも、アンの表情の意味はよくわからなかった。

 「じゃあ少し、休んでますか。ちょっとキツイですし、ケイローン先生が来るまで」

 一転、アンはニコニコと笑顔を浮かべると、手近に横たわっていた樹木に腰を下ろした。「痛ってぇですね」と言いながら血まみれの布切れで鼻を抑えるアンにつられ、メアリーも、彼女の隣に腰を下ろした。

 アンは時折、こうして何かを悟って莞爾と笑顔を浮かべる。何を悟ったかはメアリーにも言わず、ただ黙して状況を見ようとする。

 「変なの」

 相変わらず、アンは莞爾としたままである。まぁそういうもんだ、といつも通りに、朗らかにアンの身振りを受容した。

 「アン、次は勝てるかな」

 「どうでしょうかねぇ」

 アンは再び鼻に指を突っ込むと、ぶっ刺したまま、にこりと彼女は笑った。

 空に、月が浮かんでいる。

 黒い空に浮かぶ、蒼褪めた月。




GW中にもう1、2話投稿しようかと思っております


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

不死鳥(ゴッド・フェニックス)

区切りの都合、本文がいつにも増して短いデス


 「なんだよ、俺の最期はお前か」

 呻くように言って、カイニスは静かにその姿を見止めた。

 暗い帳は、既に降りている。白く冷たい月の光を背負った人影は、奇妙な華奢さで、地面に横たわったまま身動きすらできないカイニスを見下ろしていた。

 十字の大楯を持ったサーヴァントのなりそこない。月色の毛の奥で、不定の情動を滲ませた目が蠢いていた。

 「てっきり、ケイローンあたりが来ると思ってたんだけどな。人が居ないってか」

 キシキシ、とカイニスは笑う。盾のサーヴァントは何も答えず、ただ、苦し気に沈黙を飲み込んだ。

 あのケンタウロスらしい、忌々しい考えだな、と思った。

 伝承において。

 カイネウスの死因は、ケンタウロスによる撲殺だった。棍棒を使ったとも、埋めたともいわれるが、何にせよケンタウロスによる暴行によってカイネウスは死に、その魂は鳥となって天へと昇った。

 その理屈は不明だが、カイネウスが海神から授かった不死を破ったのは、ケンタウロス族による暴力だった。その事実があるならば、カイニスに付与された伝承防御を破るためにケイローンが立ちはだかるだろう、と思っていたのだが。

 いや、多分、その予定だったのだろう。何故なら、ケンタウロスによる攻撃に加え、打撃による暴力を再現するために、この盾の女がいたのだろう。

 なら、予定を狂わせたのはあの醜い家鴨のような神霊の女だろう。何の意図があったのかは不明だが、あの土壇場で宝具をぶつけてきた必然性は、よくわからない。あるいは海の権能の如き宝具であれば、カイニスの伝承防御を突破できると踏んだのだろうか、と考えたが、詮の無いことだと思った。

 何にせよ、ケイローンは自ら来なかった。ケンタウロスによる暴力の最期、という恐怖を僅かでも軽減させようと思ったのだろう。その割に、しっかり撲殺する用意はしているあたり、前提条件は忘れていないということか。直接会ったことはなかったが、イアソンやヘラクレス、カストロ、アスクレピオス。教えを受けた者が皆、口をそろえてケイローンを大なり小なりたたえていたものだ。少なからず、そんな人格者のような振舞は、カイニスにはできそうもない事柄だ。

 盾が、高く宙を衝く。カイニスはその光景を、ただただ、虚ろなほどに心地よい失望とともに諦観した。

 消滅することに対する頓着は、さしてなかった。この特異点に何か返すべき借りはなく、死ぬわけにいかない理由も特にない。意地を張る相手もいない、放縦な独り身だった。

 墜ちる盾。切っ先が首を捩じ切って、彼女は絶命した。

 視界が黒く轢断され、カイニスは独りさみしく、この特異点から死去した。




GW中、あと何話か更新予定です


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

フェニキシアン・クラスターアマリリス

 私は、あの日のことを絶対に忘れないだろう。

 煌めく朝焼け、黄金の陽を照り返す、穏やかな海原。凪ぎを孕んだ蒼いわだつみの上、振り返る姿が目に焼き付く。

晴れがましい顔は少年のよう。それでいて、長い刻を経た壮年は胸を締め付けるようですらあった。

 私は、あの日のことを、絶対に忘れないだろう。

 たとえこの世界の全てが、夢のように消滅してしまったとしても。

 貴方の姿を信じて、私は、きっと時間すら超えていく──。

 

 

 立華藤丸は、不思議な感覚とともに目を覚ました。

 今のは、多分夢、だろうか。明るい空は、朝焼けだろうか。それとも月夜だっただろうか。あまり判然としないが、ねばつくような綺麗な景色だった、ような気がする。

 じゃあ今の景色はどうか、というと。

 朧に白い。天幕の天蓋だろうか。古めかしい景色は、あまり見覚えが無い。周囲を薫る匂いはなんだろう。苦いような、爽やかなような渇いた匂い。心地よいようでもあり、それでいて何か嫌な記憶をちくりと刺すような感触だった。天幕の外では小鳥が啼いて、地面を突きながらよたよた歩く音が聞こえてくる。ほんの小さな草の擦れる音と、口腔内のチクチクした舌触りが混じり合い、トウマは苦慮するように、自分の身体にかかった目の粗い布を指先で擦り合わせた。

 立華藤丸(タチバナトウマ)という生命は、とりあえずのところ正常に稼働しているらしい。骨髄管の中に液化した重金属を流し込まれるような身体の鈍さを覚えつつも、()()()()()()()()と上体を起こした。

 すぐに、そこが第一拠点中心に敷設されたケイローンの天幕だと気が付いた。見覚えがないのは当然で、匂いも保存された薬草やら何やらの放つ臭気だった。外から差し込む陽の光の青さと、なんとなくの身体感覚で今は朝だと理解した。それも、早朝。

 何故寝ているのだろう。脊椎管から逆流した重金属に浸されたかのように脳みそが上手く機能しない。

 のそのそとベッドから抜け出す。スウェット姿でも、この特異点はさして寒くない。すっかり硬く強張った身体の筋肉を解すようストレッチをしてから、トウマは取り纏めがない思考のままに周囲を見回す。

 ふと目に着いたのは、妙な壺だった。なにやら物々しい。ケイローンが医行為に及ぶ際に使用する薬草とか、その類だろうか。おそるおそる近づいて覗き込むと、肝臓らしき臓器が、液体の中に沈んでいる。なんとなく手を伸ばしかけ、

 「死ぬわよ、それ触ると」

 「うわ!?」

 天幕の奥、黝い影が椅子に座っていた。

 不格好な灰色の幼鳥が気だるげに蹲っているよう。病的な白い肌に肋の浮いた痩せぎすの身体。露出した太腿だけが、スーパーで売られているフィレ肉ブロックみたいに瑞々しかった。

 「毒蛇の胆嚢よ。神経毒に出血毒、筋肉毒。あらゆる蛇毒に侵されて死にたいならどうぞ?」

 メルトリリス。人工的に構築された複合神性(ハイ・サーヴァント)は、何か釈然としない表情をしていた。

 「冴えない(ツラ)。貴方みたいな馬の骨が、世界の命運だとかを担ってるって。何の冗談かしら」

 「すみません」

 反射的に、トウマは頭を下げてしまった。メルトリリスの棘のある口ぶりは、どうにも慣れないと思う。

 だが、なんとなく質が変わったような気がする。

 丸くなった、わけではない。抜き身のナイフというよりは、懐に収まった小刀のような鋭さ、というところか。そう感じるのは、果たして偶然だろうか。椅子に座って足を組むメルトリリスは、ともするとどこか虚空を睨むようにしていた。

 だが、何故そんなことがわかるのだろう。漠然と胸中に輪郭を作るメルトリリスの表徴を感じたトウマは、左手に感じる違和感に、やっとのことで気が付いた。

左の手の甲に浮かぶ、花の形をした令呪。赤い染みの3画の内、2つが暗く淀んでいた。

 「あの後」

 どうなったの、と。ほとんど無我夢中で、トウマはメルトリリスに詰め寄ってしまった。

 その行為は、はっきり言って、メルトリリスに対してあまりに不躾だった。刀剣のような鋭い目が即座にトウマの首すじをなぞり、思わずにたじろぐ。だが、それでもトウマは引かなかった。引かないトウマの仕草を覗き込むようにしながら、メルトリリスは小さく身動ぎする。

 「貴方の予定通り進んだわ。敵は撤退して、カイニスは死んだ。状況は終わって、今は3日後の朝というわけ」

 淡々と告げるメルトリリス。ずきりと頭が痛んだトウマは、まるで芋づるのように引きずり出される記録にただただ閉口した。

 最初は、予定通り進んでいた。それは間違いない。

 作戦の基本骨子は簡単だ。ヘラクレスに次いで厄介と目されるカイニスを倒すことで、戦力比を均衡に近づける。そして敵からすれば遭遇戦に過ぎないことを鑑みれば、カイニス撃破の時点で敵は撤退を選ぶのが妥当。撤退する敵は追わず、そこで作戦終了という算段だった。そしてカイニス撃破の手順は、一定のラインまで敵を誘い込んだ後、カイニスの伝承防御を突破し得るケイローン、マシュ2人のアンブッシュで撃破する、というものだった。メルトリリスの任務はカイニスと耐久戦をしながら規定ラインまで誘い込むことにあった。作戦の概ねはライネスとドレイクの考案で、現場レベルでの指揮はトウマが担い、バックアップでリツカが動く──という形で始まった。

 カイニスは、倒した。その後の状況も、予定通り。結果だけ見れば作戦通りで、十分及第点と言える。

 言える、が。

 トウマは、恐る恐る、シャツをめくった。

 自分の腹を見る。最近体脂肪率が減って腹筋の隆起が良く見えるようになった腹部には、古い銃創のような傷がぽかりと3つ、壊疽のように空いていた。

 「オデュッセウスの宝具、だったかしら。アラクネへの神罰を毒針に込めて撃ち込むそうよ」

 ぞわり、と背筋が凍える。早くも傷は塞がっているが、丸い傷痕を基点に罅割れが走るその痕跡は、死がどれほど身近であったかを、不気味な非現実感とともにつきつけるようだ。

 そう、それはあまりに非現実的だ。どこか間抜けな様子ですらある塞がった風穴の奥から、薄暗い何かがコソコソと陰鬱に蠢動するよう。全身に浮かんだ冷や汗を拭う気力すらなく、トウマはへなへなとベッドに座り込んだ。

 「残念、もう少しでアナタ、汚らしい毒蟲になっていたでしょうにね」

 メルトリリスの声が、鼓膜に棘のように突き刺さる。侮蔑的な彼女の視線に声色は、彼女らしいと言えば彼女らしい。それは彼女らしい気の使い方、というのではなく、哀れな地虫に対する単なる嗜虐心からの心底の侮蔑だろう。

 「クロは?」

 「は?」

 メルトリリスは意外そうに目を丸くした。そうしてから心情を察した彼女は、じい、とトウマを見つめ返した。

 「サーヴァントのことがそんなに気になる? 英霊だなんだ言っても、所詮は人形なのに」

 問い、というよりは自問に近い口ぶりだった。しかも既に自答も済んでいるかのように視線を動かすと、「主人公気質かしらね」と心地よい不快さを蟠らせるように声を漏らした。

 「向こう見ずで、その癖相棒に優しいなんて。カイニスも、貴方みたいなひとがいたらよかったのにね」

 「へ?」

 「独り言、なんでもありません」ぷい、とメルトリリスはにべもなく言う。「アーチャーはフランシス・ドレイクのところに居るわ」

 取り付く島もない様子は変わらず、メルトリリスは顎をしゃくる。

 「彼女もさっき起きたところ。あの時何があったかの聞き取りも兼ねて、呼ばれたらしいわ。早く行きなさい、私の居場所に獣骨が転がってると臭うから」

 「あ、はい。ありがとうございます」

 ベッドから、再度跳ね起きる。ハンガーにかかった黒いユニフォームを着こみ半長靴をしっかり履くと、トウマは気怠げさを引きずったままに走り出し、

 「待ちなさい」

 足を、止めた。

 振り返る、天幕の奥。黒く蹲るように椅子に座るメルトリリスは、どことなくぎこちなさに悶えているように見えた。というよりそれはなんというか。

 照れに似た、意固地さ?

 「タチバナトウマ、これから質問をします」

 軽やかな声色なのに、妙な圧がある。なんとなく、それが彼女らしい、と思った。

 「友達ってどうやって作るものなのかしら」

 「なんて?」

 酷く生真面目そうな顔で、メルトリリスは言った。

 まじまじと、彼女を見返す。なんというか、とても彼女らしくない台詞だったような気がする。

 友達? メルトリリスが? 一体全体、どんな風の吹き回しだというのだろう。そんな当たり前のことを言うなんて、まさか気が変にでもなってしまったのだろうか。

 「今失礼なことを考えて居たでしょう」

 「いえそんなことはありませんとも」

 「今度そんなツラを見せたらゼリーにして棄てるわよ」

 「せめてドレインして欲しいですけど……」

 「どうして老廃物を摂らなきゃいけないワケ? その生理学的必然性を2万字の論文にしなさい」

 「辛辣すぎませんかね」

 やはり相変わらずである。普段の爽やかな残忍さが香る表情ではなく、真顔なところが凄まじいことこの上ない。胸を撫で下ろしていいのか緊張すべきなのか五里霧中のようになりながらも、改めて、メルトリリスの言葉を反芻した。

 友達はどう作るか。聞き間違いでなければ、彼女はそんなことを言った。

 「うーん。別に友達って作ろうと思って作るものじゃないし……いつの間にか友達っているものだし」

 「……アナタ、コミュ力割と強めよね。あんま喋らない癖に。そういうところだけ、あの人みたい」

 じい、とメルトリリスが猛禽のように見返してくる。その不快さの意味がよくわからかずに頭に疑問符を浮かべながらも、そうだなぁ、と苦し紛れのように思考する。

 「リツカさんが上手いですよね」トウマは何の気なしに言う。「あの人、なんかいつの間にか、普通に誰とでも喋るんですよ」

 それとなく、浮かんだことを口にする。

 メルトリリスは半瞬ほど視線をふらつかせてから、「そう」と納得げに、それでいて不満そうに口にした。

 「人の心の壁の向こう側にいるんだけど、その癖壁越しにコミュニケーションをとるというか。壁を超えるわけじゃない、っていうか。うまく言えないですけど」

 「抽象的で意味不明ね」

 「すみません」

 「いいえ、構いません。そもそも私が愚かな質問をしたのです。私の質問の質がそもそも不出来でした」

 そうして、メルトリリスはただただ押し黙った。俯く彼女の志向性の行く先はどこにあるのだろう。この世界にすらあるのかどうかの沈思が向かう先は、当然、トウマにはないだろう。そろそろと後にしたトウマの素振りに、メルトリリスは身動ぎすらしない様子だった。

 

 

 天幕を後にする立華藤丸。莫と思案しながら、メルトリリスはその背を追った。

 「()()()()()()()。随分とまぁ」

 ぼそり、彼女は呟く。

 メルトリリスの特性。霊子世界においてアルターエゴとして産み落とされた彼女が所持していた特殊能力、i-ds(イデス)『メルトウイルス』。ドレイン系のスキルの最上位に位置する。オールドレイン、とすら呼びうるそれにより、彼女は生まれながらの簒奪者だった。。

 だから、彼女はコピーした。マスター・サーヴァント間のパスを利用した、マスターである立華藤丸の記憶のリーディングした、それだけのこと。本来奪うことこそ本質とする彼女にはやや苦手な分野だが、やってみればやれないことはなかった。

 その結果、案の定というわけだ。元からメルトリリスという存在を知っているような素振りから不審には思っていたが、なるほどこれなら知っているのも頷ける。それだけが理由ではなかったが、契約を結んで正解だったというわけだ。

 ……最も、その理由は突飛もないが。それでも自然にメルトリリスがその事態を理解しているのは、そもそも彼女の存在自体も大体突飛がないが故であった。

 「しょうがないわね」

 独り、言ちる。獰猛な禽のような怜悧な面持ちも刹那、メルトリリスは虚空を仰いだ。

 「いいじゃない。守ってあげるわ、こんな世界でも」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

沈思する智栄Ⅰ

情報コントロールが下手すぎるなぁと思いつつ


 「タチバナトウマ、出頭しました」

 おっかなびっくり、と言ったように顔を出した少年は、まずキョロキョロと広間を見回している様子だった。何か探すような素振りである。出頭にかこつけて会いに来た、という様子を隠しもしない。

 誰を探しているかは明瞭だ。ライネス・エルメロイ・アーチゾルテは金糸を束ねたような後ろ髪をかきあげて、空色の目をテーブルの片隅へと向けた。

 小さく蹲る、ハト麦色の肌の少女。困惑な様子が一転、トウマの姿を見るなり明るく表情を閃かせて、また次の瞬間には、彼女は表情を暗くした。クロエ・フォン・アインツベルンは、妙に畏まったようにちょこんと座りこんでいた。

 なんとも、らしくない素振りだなと思う。彼女の素振りを鑑みれば、もっとストレートな仕草をするような気がするのだが。

 まぁ、何にせよ。

 「子作りでもさっさとすればいいと思うんだがね」

 なんとなく、嫌みっぽさが滲む。

 「なんか言った?」

 ほけ、とするリツカに、なんでもない、と応える。ライネスはすん、としたままカップに注いだブランデー入りの紅茶を口に入れた。

 「鯖って年齢関係ないんだし、やっちゃえやっちゃえと思うけどね」

 「普通に聞いてるじゃんか」

 「ライネスちゃんはいいの?」

 「優れた魔術師じゃないならノーサンキュー」

 「なるほどね、逆説表現」

 華やぐような口当たりに混じる濃いブランデーの舌触りを感じながら、ライネスは胡乱気にリツカを一瞥した。ぐびぐび、とエナジードリンクを元気よく飲むリツカの姿に閉口しながらも、ライネスは民主主義的な健康的無関心さを貫くことにした。一応派閥的には貴族主義だが。

 それにしても鯖ってなんだろう。あ、サーヴァントの略か。鯖て。

 「じゃあそこに座っておくれ、タチバナトウマくん」

 「あ、はい。ありがとうございます」

 ライネスに促されるまま、トウマはクロの隣の席に小さく座り込んだ。ちらりとクロのことを気にする姿は、まぁなんというか初々しい。初心ですらある。ニコニコとしながら、いそいそとリツカは立ち上がった。

 「アンタに来てもらうのは、もっと後の予定だったんだけどねぇ」

 ライネスの隣、ボサボサの髪をかきあげたフランシス・ドレイクはいつになく疲れているようだ。

 「すみません」

 「いや、別にアンタがいいならいいんだけどね。結構()()って聞いたけど」

 「まぁ、そこそこに」

 僅かに畏縮するトウマ。相変わらずにボサボサの髪をかき回したドレイクは、まぁいいか、と自答する。

 「改めてってわけじゃないが」どかりと背もたれに身体を預ける。「アンタの元にオデュッセウスが来た。そうだったね?」

 それとなく、ドレイクの顔を伺う。彼女は努めて冷静に、事実認識をしようとしている……のだろうか。不機嫌そうな表情が、却って彼女の努力を感じさせた。

 他方、トウマの表情はこわばり気味だ。それもやむないこと、ではある。ふらふらと視線を惑わせるトウマと目が合った時に、”事”を済ませておく。なんてことはない、ただの暗示である。それこそシングルアクション以下で発動する簡素なものだったけれど、魔術師的にはズブの素人でしかないトウマに暗示をかけることくらいは訳ない。まして心理的に近しいならなおのことだ。ライネスは、目元に熱を感じて目頭を抑えた。余計な世話焼きだな、と思った。これを恐らく、心の贅肉と言うのだろう。

 「奴は何か言ってたかい? なんか、喋ってたんだろう」

 「えぇと」思案を巡らせるようにしてから、「小間使いとか、あと静粛性の話とか。確か、やられる前には”そろそろ来る”とか言ってたような」

 納得げに、手慰みに顎に手を当て首肯するフランシス・ドレイク。そんな姿をおっかなびっくりと伺うトウマの姿は濡鼠のようだ。ライネスはわざとらしく、咳払いした。これも心の贅肉。

 「オデュッセウス自身が顔を出してきた理由を考えている最中、ってことさ。指揮官が前線に出るってのは、はっきり言って普通じゃないからな」

 「マスターを倒しにに来たってことなんじゃないの? 敵の指揮官を倒すために後方に浸透してそれを叩く……って考えれば」

 「それもそうなんだがね。にしても、それならアタランテに任せた方が良いんじゃないかって話。レンジャーとしてのスキルに優れるのはアーチャー、なわけだろ? それに重ねて言うなら、封鎖状態に置いたことも正直不明だ。無論攪乱と奇襲を考えれば適当だが、逆に私たちの目を徒に引く行為だろう。もしそういう戦術なら、迅速に敵を倒さなきゃ意味がない」

 「……狙いは、マスター、じゃあない」

 言って、ライネスは思考する。

 何故、オデュッセウスはそうしたのか。

 考えられることは一つ。その無線封鎖は、味方に対する秘匿だ。理由は現状を推測すれば、秘密裡にこちらに手を貸すメディアに対する牽制か。

 要約すれば、メディアの造反を察しているオデュッセウスの独断での行為というところか。ならメディアを罰しないのはその上に居るイアソンへの遠慮か、はたまた別の何か、なのか。

 微かに蟠る思惟。束の間思考を彷徨わせたライネスは、やはりその答えに行きつく。

 何故、オデュッセウスはそうしたのか。そこにはもっと根が深く、かつ暗い何かが横たわっている気がする。

 果たして、ドレイクは何を思っているのか。彼女もブランデー入りの紅茶……というより紅茶入りのブランデーが入ったカップを見下ろしていた。

 ブランデーに移る自分の顔を、ドレイクは何を思って眺めているのか。無表情に近い顔立ちは、一見して読み取れない―――。

 瞬間、ドレイクは顔を上げた。

 「アンタは幸か不幸か遭遇した生餌ってところか」

 「え? っと、確かにそんなことは、言ってたような」

 「オデュッセウスは私が来るまで待ってた、ってこと?」

 「それもそうなんだけどね。わざわざ活かしておく必然性が見えてこないんだよね、アンタのマスターをさ」

 元から悪かった顔色をさらに青くしたトウマは、それでいて困惑の様相で周囲を見回した。

 すん、と鼻息を吐く。話のテンポの速さについていけないながら、何か尋常でないことを悟ったというところだろうが、何にせよ事態そのものは理解していない様子だ。紅茶を出すリツカに頭を下げる様が何やらひ弱に見えるものだ。

 また咳払いしたライネスは、「つまるところだ」と話を進めようとするドレイクとクロを制した。

 「トウマ。そもそもオデュッセウスの行為の意図、最終的にはヘラクレスを倒し得る障害を取り除くことに行きつくわけだろ?」

 難しい顔をしながら、トウマはとりあえず頷いて見せる。表情を確認しながら、ライネスは次の言葉を続けた。

 「気になるのはオリオンが指定した隠れ場所を、オデュッセウスが見抜いた上で探りに来たことだ。言ってしまえば狩り人として生きたオリオンのレンジャーとしての見識から導き出した隠れ家というわけだが、逆に言えば隠れ家に最適な場所を探れば敵の位置のおおよそを探れるってことだろう? オデュッセウスの経歴と知性を考えれば、それを読んだ上でこちらのアーチャーの位置を探り出すことくらいはできると考えてもおかしくはないよな」

 「それで、アーチャーを、クロを探りに来て」

 「むしろ君に会った、だから使うことにした。そういうことじゃあないかな。具合を見るために」

 蒼い顔のまま得心した素振りのトウマに、ライネスは頷いて見せた。

 オデュッセウスの狙いはあくまでアーチャーだったのだ。だが、偶然“アーチャーなら身を隠すであろう場所”を中心に動いていたトウマを発見した―――というのが、恐らく事態のあらましなのだろう。

 そしてその結論に辿り着くなり、もう一つの疑問が鎌首を擡げる。

 オデュッセウスの狙いは、とりもなおさずアーチャーの無力化なのである。なら、マスターであるトウマを始末すればそれで全て完了していたはずである。無論、はぐれサーヴァントが多い特異点と呼ばれる場所において、トウマがクロのマスターである証拠は何もないけれど―――。どちらにせよ、敵マスターを殺さない事態は、少なからず異常である。

 クロが間に合った? いや、そんな都合のいい話はない。立華藤丸など、魔術世界最上位の使い魔たるサーヴァントを前にして1秒生き残るだけでも至難の業だろう。つまるところ、オデュッセウスはトウマを殺すタイミングなど腐るほどあったのに殺さなかったのだ。まるで、本当にクロの実力を測ろうとしていたかのように。

 だが何のために。排除し得る機会を捨ててまで性能を測る意義とはなんだろう。

 例えば──そう、例えば。オデュッセウスはヘラクレスを殺すための戦力を、模索している?

 ──いや、それはおかしい。それだとオデュッセウスの行動に矛盾がある。それはない。もしそれがあるとするならば、メディアだけでなくオデュッセウスまでもがヘラクレスの打倒を考えていることになる。

 つまる、ところ。

 ……?

 思考が何か、絡まるようだ。ふう、と熱っぽい息を吐いたライネスは、とりあえず考えるのをやめることにした。思考を続けるには要素が何か足りていない。妄想を羽搏かせることと、合理的推論を辿ることは別なことだ。ふと頭に浮かんだ考えを振り払うと、「全然わからん」とさっぱり言い切った。

 「オデュッセウスは何を見ているんだろうね。リツカ、わかるかい」

 「ライネスちゃんがわからないことが、私にわかるわけないじゃないですか」

 思案を一つ、口を尖らせたリツカは不満げに言う。そんなことはないと思うが、何にせよ彼女に考えはないということか。

 「うーん困ったね。敵の狙い、聖杯でもないんでしょ?」

 声を漏らしたのは、リツカだ。ライネスの隣に座った彼女はそう言うと、ついでに持ってきた新しいエナドリ缶のプルタブを開けた。

 「え、そうなんですか?」

 「あーそっか、トウマ君にはまだ言ってなかったっけ」

 側頭部で一つ結びにした髪の一房をかき回し、リツカはそれとなくライネスを一瞥する。

 「ほらこれ」

 手のひらを宙に翳すと、それはすぐに現れた。

 金色の杯。天幕の隙間から差し込む陽光を受けて、川底に沈む宝石のようにちらりと閃く黄金色。

 「え、ちょ―――ってうわ!?」

 ライネスは、ひょうい、とその杯を雑に放り投げた。

 あわやとそれを手に取ったトウマは、まずもって目を白黒させてから、疑念のようにその場にいる全員を見回した。

 「え、なにこれ。聖杯? え?」

 「そう。聖杯、間違いなく聖杯だよそれは。聖杯だったもの」

 言ったのは、ドレイクだった。断定的な口調とは裏腹に、表情は微妙に疑問符を浮かべている。さりとて聖杯の存在そのものへの懐疑はなく、それに付随する諸々の現象に対して得心がない──と言いたげに、紅茶入りのブランデーを口にした。

 「いやーすげえ。協会も教会もぶったまげるよこれ」

 「言い方」

 トウマの手のひらの上にある金の杯を指で突っつくくリツカ。そう言えば、彼女は一時伝承科(ブリシサン)に所属していたんだったか。呪物や遺物への関心は、それなりにはあるのだろう。とは言え、玩具でも扱うように聖杯を弄る姿は幼稚園児のようだ。

 「形を維持しているがそれだけ。内包していた魔力は既に消費されて枯渇してる。純粋な魔力だけの高次状態にあるよりも、三次元空間に物質として存在している方が安定していられるから、こうして聖杯という形を以てここにある、という状態のようだ」

 他方、ライネスはきちんとブランデー入りの紅茶を口にしながら、その金の聖杯を注視していた。

 聖杯。万能の願望機と呼ばれるそれだが、特異点の核となる聖杯はやや志向性が異なる。即ち、既存の世界を時空的に改変し、新たに法を敷くための無形の形。既存の時代を揺るがし新たなルールを敷衍し、文字通り特異点と化すための核こそは聖杯なのだ。

 だが、仮に特異点を特異点にした上で、それでも機能し続けるのが聖杯と呼ばれる遺物の驚異的足る所以である。例えばオルレアン。記録上での認識だが、特異点を作成した上でファブニールほどの竜種を呼び出し、さらにはそれに匹敵する怪物を召喚するだけの魔力を肩代わりした。前回の特異点セプテムにおいても、人間であったはずのネロに降霊することで疑似的に軍神マルスの霊基を疑似的に再現したことは、ライネス自身も記憶として知ることだ。

 畢竟、聖杯とはそういった産物なのだ。今次事件においては聖杯(ホーリーグレイル)でなくその疑似的な模造物である聖杯(アートグラフ)に過ぎないとしても、これほど強大な魔力リソースとしても運用されるそれを、すっからかんになるほどに消費するとなる、というのは。

 「え、なんで敵はこれ狙ってるんですか?」

 「さぁね、よくわからん。キルケーが敵から上手い事ちょろまかしたものなんだけどね、その時からこんな有り様なんだよ、コイツ。なのにあちらさん、この聖杯を求めてアタシらを追い回してるのさ」

 「なんか、何が何だかわからないですね」

 釈然としないまま、しげしげと聖杯を眺めるトウマ。言って見せたドレイクも、ただただ胡乱気に物質でしかない聖杯を見やっている。軍事的なあれこれを思考するのは得意だが、それ以外のことは気分で動く方が性に合っているようだ。

 「わからないことだらけね。敵の狙いも、聖杯が何に使われたのかも、何故聖杯を追い回しているのかも」

 「ただ、わかることはある。アタシらはカイニスを倒して、初めてアルゴー船のクソどもに一矢報いたってことさ。アンタら星見屋も居るし、あのみょうちきりんな踊り子みたいなのも仲間になってる。オリベエもいる。ヘラクレスもなんとかなる。つまり」

 「攻勢に出るなら今が好機、ってことかしら」

 「そういうこと。まぁ、予定通りってことさね」

 おもむろに立ち上がるドレイク。ぐい、とカップのブランデーを一呑みにすると、いかにも物足りなそうに小洒落たカップを掌の上で弄んだ。

 莞爾、と嫣然を浮かべるドレイク。考えつかれたと言わんばかりの表情は、なんだか彼女らしい、と思った。

 「次の戦いに移る前に祝勝会って奴をしようじゃあないか。なんだか辛気臭い空気だけど、なんだかんだアタシら初めてアイツらにまともに勝ったわけだしね」

 

 ※

 

 「あぁすまない、メディア。もう、問題はない」

 神殿広間。

 いつもの落ち着いた──というよりは陰鬱ですらある声のオデュッセウスに、メディアは気が滅入るように、小さく頭を下げた。

 あの戦いから実に3日。重傷を通り越して重体のオデュッセウスの治療が早々と終わったのは、メディアの技量の賜物だろう。魔術の基本骨子とは、即ち身体という内なる自然へと沈思することでもあるのだから。始原において、治癒と魔術は一体のもの……というより、それを別なものと区別するのは、近現代の認識でしかない。哲学と数学が本来同じものであるのと、同じように。

 「すみません、私ではアイギスまでは直せず」

 「いや構わん。別に機能が低下しているわけではない」

 今度は謝罪の一礼。深く頭を下げるに合わせ、後頭部で一つ結びにした黒髪が遅れてしゃなりと垂れる。ゼウスよりアテナに授けられたアイギスを完全な形で修復するのは、たとえメディアでも難しい。時間があればそれも叶うだろうけれど、今はその余裕はない。

 ──元を考えれば、そのアイギスをここまで破損させるほどの戦闘を行ったことが異常である。戦闘にはあまり長じないメディアでも、指揮官が前線にでて、あまつさえ死ぬ寸前まで追い込まれるような状況が正しいとは思えない。

 二流、三流の指揮官ならそういうこともあるだろう。だが、オデュッセウスは決して低能ではないのだ。それこそ、古代ギリシャに名高い名軍師。それこそが、オデュッセウスという英霊ではなかったか。サーヴァントとしての召喚体は、過去の英霊からすれば本来の姿のデッドコピーに過ぎない。つまり、オデュッセウスの知性に翳りがある、ということだ……。

 と、断じるのは容易い。あるいは、そう判断してしまうほうが自然なのかもしれない。だが、メディアはそう判断しない。というより、そこで結論を導くことが、単純な拙速ではないかと思われてしかたない。

 忘れてはいけない。彼はオデュッセウスなのだ。古代ギリシャに名高い英雄であり、艱難辛苦を乗り越えた正しく“踏破”の英雄。この愚考にも似た結末が、その上でオデュッセウスの戦術、ひいては戦略的判断において最も合理的な帰結を産むという試算があったからこそ行った、と考えるべきだ。そしてその判断が何を持つのか、メディアにはわからない。わからないが、結果を見ればヘラクレスを守り抜き、この特異点を維持することこそはオデュッセウスの主眼だろう。あの日見た、見果てぬ黄金の日々を守るために。

 逆に言えば──そしてこのオデュッセウスの襤褸雑巾ぶりを見れば、推測の蓋然性は遥かに高まるというわけだ。敵が、ヘラクレスを殺し得るだけの可能性が、である。アテナの守護の象徴ともいうべきアイギスをここまで破壊するとなると、相応の宝具の持ち主に違いない。オデュッセウスは敵の海賊にやられたの一点張りだが、たかが海賊風情がアイギスを破壊できるとも思えない。十中八九、あの紅いアーチャーの仕業だろう。

 しかし、残念だな、と思う。折角ならこの目でアーチャーの性能を見たかったというのに、肝心かなめの時になんらかの魔術で妨害されて観測できなかった。結界の作用か何かは不明だが、己の力量を以てしてすぐに解除できないものとなると、その術者の想定は容易い。

 「ではすまないが、お言葉に甘えて休ませてもらうことにしよう」

 「はい、お休みください。魔術での回復は、あくまで傷の治癒にすぎませんから」

 こくり、仮面が無言で頷く。誠実な男であることはアルゴー船の頃から変わらないし、その意味で信頼のおける人物に違いない。

 その信頼性が、今は仇。その強さと怜悧さこそが、今だけは難敵なのだ。

 オデュッセウスに悟られるわけにはいかない。あれに悟られれば、その時こそは負けなのだ。オデュッセウスはヘラクレス殺しを赦しはしないだろう。メディアの力では、アイギスを装備するオデュッセウスを倒せない。オデュッセウスを殺し得るのは、この世界には一人しか居はしまい。だが、あれは幻霊でしかない。呼び出すならば、特殊なプロセスが必要で、今はそれに忙しい……。

 「次はここが戦場になるだろう。メディア、如何に君が熟達した魔女と言えど、サーヴァント同士の戦いとなれば油断はできなん。表には姿を現さず、サポートに徹してくれ」

 身を翻すオデュッセウス。感情の色がない声は、やはり機械的というよりは鉱質的。地下でゆっくり冷え固まった花崗岩のような、取り付く島の無い雰囲気。昔はもっと、華やかな男だったと思う。いや、華やかではなかったか。硬質でもあったが、玄武岩のような、朴訥で、それでいて熱を帯びるような佇まい。イアソンとは異なるが、その実直が人を惹きつけるような人だった。

 「はい、私は皆さまをお守り致します」

 メディアは深々と頭を下げた。オデュッセウスという人間への違和感はあるが、言っていることの意味はわかる。聖杯戦争において、キャスターは基本的に弱いクラスだ。だが、アレに端を発する人理焼失に続く一連の出来事とそれに伴い発生した特異点での戦いは、聖杯戦争というよりもフォーマットは聖杯大戦に近しい。自ら戦う必要なく、また支援が大きな意味を持つこの形式においては、キャスターは大きな意味を持つ。

 事実、とでも言おうか。海賊たちが当初アルゴノーツと互角以上に戦えていたのは、この特異点発生当時に召喚されたキルケーが遺した支援があったからこそで、

 「お気を付けください、オデュッセウス様」

 その時。

 不意に、メディアに電流が走る。

 悪魔的天啓。いや、悪魔的な誘いか。オデュッセウスの背が網膜に焼き付き、メディアは思わず口角を歪ませた。

 あぁなるほど、そういうことか。ならつじつまは全て合う。

 ならばどうするか、答えは簡単だ。オデュッセウスの影に怯える必要などないのだ。

 メディアは背後を振り仰いだ。

 巨大な、扉。その扉の向こうを幻視して、メディアは、老女のように口角を捻じれさせ、

 「メディア様?」

 「ヘア!?」

 不意に肩を叩いた声に、メディアは珍妙な悲鳴を上げた。

 「あ、ごめんなさい。考え事ですか」

 「い、いえ。いえ、考え事はしていましたが大丈夫です」

 心拍数が凄まじく跳ね上がっている。はらはらと息を吐ぎながら、メディアはいつの間にやら広間に入ってきたポルクスに努めて笑顔を向けた。

 「すみません、いつものお話とでも思ったのですが。早かったでしょうか」

 「あ、そうでしたね」

 メディアはそれとなく思惟する。

 そう言えば、この後ポルクスといつも通りの、とりとめのない話をする予定だった。そうだそうだ、と思い返して、メディアは犬鬼灯のような白い頬をぱっと赤面させた。

 「忘れてましたね、メディア様」

 「ごめんなさい」

 くすり、とポルクスが悪戯っぽく笑みを浮かべる。ますます赤面を深くしたメディアは、ただただ俯くばかりだ。

 「私、どうしても肝心なところで手抜かりをしてしまいます」

 「恥ずかしがる姿も可愛らしいですよ、メディア様。そうだ、アタランテも誘いましょうか。私サンドイッチを作ったんですよ」

 「砂と魔女?」

 「パンでハムとかお野菜を挟む食べ物です。人間が考えた食べ物だそうですよ。人間の真似事ですが、それなりのものはできましたから、どうかなと思いまして」

 「まぁ」

 にこにこと頬を緩ませるポルクス。グズマニアの花弁のように華やぐまろやかな頬色からして、多分、本当に食べさせたい相手はメディアでもなければアタランテでもないのだろう。

 「どうせならピクニックでもしましょうか。珍しく天気もいいです、アタランテも外の方が好ましいでしょう。あの件があってから、どうにも気持ちが沈んでいるようですから」

 「そうなのですか?」

 「あ、はい。メレアグロスを討った時から」

 「海賊に寝返ったランサー、でしたっけ?」

 「そうですね。私も詳しくは知りませんが」

 メレアグロス。カリュドーン狩りで名を馳せた英霊の1人。英雄たちが集うカリュドーンの猪狩りにおいて、アルテミスが放った神罰の獣を最終的に討ち果たした張本人であり、またその後獣の残骸を巡る醜い争いを生み出した張本人でも、ある。間違いなく、アタランテには因縁のある相手だ。

 意外と言えば意外。獣の論理で動く彼女が、痴情のようなものに揺らぐとは。いや、まあ普通に子供がいるのだからそういうこともあるだろうか。

 「メディア様、どうかされましたか? 楽しそうな顔をされていましたが」

 「いえ、なんでもありません。なんでもありませんよ、ポルクス」

 きょとん、とするポルクス。それも一瞬で、いつも通り華やかな笑みを浮かべたポルクスは、ちょこちょこと駆けだし

 




とりあえず7日までは毎日投稿予定でございます


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

沈思する智栄Ⅱ

 「本当に良かったのか、オデュッセウス」

 声の音は、酷く冷たかった。

 神殿入り口。地下からの階段を上がり、上部構造たる神殿から外へ出る。

 絶海の孤島に建てられた神殿。四方を海原に抱かれた島は鬱蒼と森が茂り、まだ日が高いというのに、陽の光は中々届かない。原生の魔獣に加え、ヘラクレスの宝具『十二の栄光(キングス・オーダー)』で呼び出された古代ギリシャの幻想種が跋扈する密林は、天然の要害と呼ぶに相応しい。最も、高い練度を持つサーヴァントが攻め込んできたなら、この防御も到底堅牢とは言えないだろう。それこそ、あのアーチャーが使おうとしていた宝具。対城宝具すら生温いあれで あれば、こんな特異点などひとたまりもあるまい。

 漠とした思考を巡らせながら、「カイニスか」と応えるオデュッセウスは、不満げな男の顔を見下ろした。

 柱に身を預ける痩躯の男。星々のような金の髪が、一際に目を惹く。セイバー、ディオスクロイの片割れたるカストロの視線に対し、オデュッセウスは身動ぎすらしなかった。

 「カイニスは強力なサーヴァントだ。癪な話だが、それは事実だろう」

 「最終的に我らが聖杯を手に入れればいい。それでヘラクレスの槍は啓く。それだけの話だろう」

 「戦術的判断に誤りはないと言いたいようだな」

 「仲間殺しの時も海賊狩りの時も、俺が間違えたか?」

 カストロは、無言のまま鼻を鳴らした。呵責もない仲間殺しという言葉への不快感か、それとも別か。逃げるように一瞬視線が泳がせるカストロの背後、ふとその姿が目に入る。

木陰からこちらを除く影。ポルクスだろうか。オデュッセウスに見られていることに気づいたか、ひょこりと頭を下げると、森の中へと駆けていく。

 「お前は人間の割には信頼できる」

 カストロは、幾ばくか決まり悪そうに言った。決まり悪いことが決まり悪いとでも言いたげな顔だ。

 お前も人間だろう、とは言わなかった。あるいはそう内心で呟いたのを見透かしたか、カストロは再度刹那の無言を刺す―――。

 「そんなことよりももっと大事なことにを遣ったらどうだ」カストロの肩を叩く。「俺はこれから魔獣どもの様子を見てくる」

 何か言いたげなカストロより早く言うや、オデュッセウスは急くように足早に立ち去る。

 背後は見ない。ぽつねんと佇むディオスクロイの片割れを感じながら、オデュッセウスは空を見上げた。

 そうだ、何も間違えていない。聖杯がヘラクレスの宝具を解放する条件だというのなら、それより先にヘラクレスをあのアーチャーに殺させるしかない。

 鬱とした樹々に差し込む、蒼褪めた金の陽。その光とかつて旅を共にした男の髪色が重なって、オデュッセウスは、肩を竦めた。

 忘れはしない、あの黄金の日々を。忘れはしないのだ。たとえそれが。異聞に生きたオデュッセウスの肉体を基幹としていても。全てが夢に消えるようだとしても。

 

 

 「♪~♪」

 機嫌よく慣れない鼻歌を鳴らしながら、ポルクスはちょこちょこ足取りで小路を駆ける。素足に感じる苔むした足元の冷たさに、天から落ちる瑞々しい緑の陽。うーん、と伸びをすると、森を抜ける青々とした微風が肌を撫で、彼女は柔らかく頬を緩ませる。

 この特異点に召喚されて、どれだけの日が経っただろう。仲間同士で殺し合ったりするのはいい気分ではないけれど、こうして自然の瑞々しさを感じられるのは自然と力が抜ける。神霊とは人間によって表徴化された自然でもあるからだろう。彼女自身の神性が、碧い自然の豊かさを心地よく感じさせているのかもしれない。

 「ンブフッ……~♪」

 ……どちらかと言えば考えるより手が出るポルクスの本性は、あまり文化的な行為には通じていない。これでも練習しているのだが、中々上手にはならないものだ。オルフェウスみたいにはできないなぁ、と当たり前のように思いながら、ポルクスは一本の木の前に立ち止まった。

 根本が大分苔むしたアサイヤシの枝の上に、彼女は居た。

 樹々の緑に溶け込むような姿は、その在り方が天性の狩り人であると思わせる。アーチャー、アタランテは、枝の上で眠っているらしかった。

 サーヴァントは眠らないとは言うけれど。下がった耳に、枝から垂れた尾。身動ぎすらせずに枝の上で身体を横にしている様は、寝ているとしか言うほかない。普段なら、誰かが近づけば気づくだろう。

 はて、起こすべきか、そのままにしておくべきか。手慰みに、顎に手を当てたポルクスは「むう」と首を傾げた。

 人間としての情としては、どういう行為をとるのが正解なのか。

 なんてことを考える。半神ではあるが、父が父なだけあって、ポルクスの在り方はより神霊に近い。そんな彼女としては、“人間の感性”というのは知識としては、実践の中での習得中のものである。

 ”人間としては半人前”

 実体はともかく、ポルクスの主観的感情としてはそう理解している。カストロが聞いたら物凄い顔をしそうだな、と思っていると、ポルクスはアサイヤシの影から覗いた顔に顔を綻ばせた。

 「ここに居たの」

 ひょこひょこ。

 そんな歩様で顔を出したのは、中型犬ほどの四足獣だ。というより実際狩猟犬のように鋭い顔つきのそれは、実際犬だった。

 犬だが、当然この島にいるならただの動物などでは有り得ない。当然幻想種に相違ない。さらにそれは、野獣・魔獣などという下位種でもない。

 その名を聞けば慄くほかあるまい。冥府の門を守る太古の番犬。ランクにして幻獣、神獣にすら手が届き、竜種にも肩を並べる神秘の具現。

 ケルベロス。これがその、三つ頭の獣の銘だった。

 Gavgav、と鳴くなり、ケルベロスは小躍りするようにポルクスへと飛びつく。1頭は寝ぼけているのか鼻提灯を浮かべていたが、残り2頭は健やかにポルクスを舐めまわしていた。

 「くすぐったいですよ、もう」

 そのまま押し倒そうという勢いの2頭を両手で抑えると、べたべたになりながらも腰にぶら下げた巾着からパンを3つ取り出した。

 Gavgav、と元気よく鳴く2頭の口に放り込み。寝ぼける1頭の口にもねじ込むと、ケルベロスは機嫌良さそうにその場に座り込んだ。

 ──無論、本来はこんな愛玩動物然とした生物ではない。世界で最も名の知れた幻想種は伊達ではなく、ヘラクレスほどの英霊でなければ手出しできない怪物である。それこそ英傑ぞろいのアルゴナウタイの多くを内臓(わた)に収めたのは、他でもないこのケルベロスなのだ。

 この姿でいるのは、言ってしまえば自己保存の一貫だという。サーヴァントに使役されている都合、恒常的に全盛期の姿をとることはヘラクレス自身に多大な負荷をかけるのは、自明と言えば自明。この特異点とメディアのバックアップがあれば、神獣の核を7日程度維持することは可能らしいが、どちらにせよ平時に普段の姿を取る意味はない。さりとて即応性も必要で、常時ケルベロスは野に放っておきたいという戦術的要求の折衷案が、この愛玩動物という有り様である。

 「あ、ケルベロス。最近歌を勉強しているんですよ」

 ご満悦な顔から一転、「え?」とでも言いたげに顔を持ち上げる2頭。逡巡というか戸惑いのような顔色は、とてもではないが歓迎しているようには見えない。獣は素直である。オルフェウスの見様見真似で歌を披露したとき、とてもではないがケルベロスを満足させられなかったことは、結構ショッキングなできごととして記憶に刻まれている。

 「もっと練習して、上手くなったら聞いて欲しいです」

 さらに一転。ケルベロス同士顔を見合わせると、コクコクと頷いた。

 重ねて言うが、獣は素直である。彼らはポルクスの控えめに言って稚拙な歌を聞きたいとは全く思っていないが、さりとて彼女が頑張る姿を快く受け入れているのである。

 そんなポルクスの姿を好ましく思うのは、ケルベロスだけではない。いつの間にやら頭上の樹から滑り落ちてきた多頭の大蛇も、のそりと彼女の肩へと乗っかっていた。

 こちらも同じくは、ヘラクレスの宝具から産み落とされた多頭の蛇。ケルベロスと胎を同じくする蛇も、表情こそ正確に読み取れないけれど、ポルクスの肩で脱力する様はひどく間抜けに見えた。

 なんだか、酷く弛緩した空気だな、と思う。生前、星座になる前は、戦い続きの生だった。この特異点に召喚されてからも、どちらかと言えば戦うことの方が遥かに多かった。こんな時間はほんの束の間の夢のようなものでしかないと、良く知っている。だが、この泡沫こそに価値があると思えるのは、神霊であるが故だろうか。久遠の時を裏なる世界に生きた神霊は、刹那の時への情動の起き方が極端になりがちであろう。瞬間の出来事など無価値と見向きもしない者も居れば、刹那に住まうものもいる。アルテミスなどがその例だろう、瞬きの情熱に狙撃された女神は、ある意味で極北だろうか。

 ポルクスは、少しだけ自虐的に笑みを零す。他人のことは言えないなぁと思ったところで、彼女は不意に襲い掛かった怖気に身体を起こした。

 首から落ちた大蛇を腕に抱き、右手を腰の剣に手を伸ばす。柄を掴んで鞘から抜きかけたところで、ポルクスはその怖気の先を認識した。

 見下ろす、獣じみた視線。葉陰の裡、淀む青藻のような双眸が()()()とポルクスにまとわりついた。

 「む。なんだ、お前か」

 一瞬、空気が霧散する。瞬きの後には、翡翠のような目にジェミニの片割れが映っていた。

 「寝ていた」

 しゃなりと起き上がる。そうしてぴょん、と軽やかに地面に降り立つと、アタランテはしげしげと周囲を見やった。

 「宴か何かでもしてたのか」

 身を屈める。ケルベロスの顎を順繰りに撫でつけてはわしゃわしゃするアタランテの顔は、なんだか温和だ。先ほどの、ねばりつくような険峻は欠片も感じさせない。

 気のせいではない。アタランテは何か、裡に抱えている。この特異点に召喚された頃は依然と変わらなかったが、いつの間にか、彼女はこんな風になってしまっていた。原因は明らかで、それ以降、彼女は変わった。

 ポルクスはそれに触れようとも思わない。それはきっと、彼女自身の問題だから。他者が、とやかく言うべきことではない。それに、解決できない問題が、世の中にはあるものなのだから。

 「あ」

 「なんだ、さっき散々私で暖を取っていたじゃないか」

 のそのそとアタランテの背に乗る大蛇。腕やら首やらに巻き付いて、多頭の蛇は呑気そうな顔だ。アタランテもただ、為されるがままで退けようとは思っていないらしい。

 「ケルベロスに歌でも歌いに来たか?」

 「違います。もっと練習してからにします」

 「それがいい」

 また難しい顔をするケルベロスに小さく笑い顔を漏らすと、アタランテは「じゃああれか」と立ち上がった。

 「また、何か人間の食事でも作っているのか」

 「はい、兄様も美味しいと言ってくれて」

 「そうかそうか」

 そう言って、アタランテは素朴な笑みを浮かべる。曖昧な表情。ポルクスにはその意がうまく理解できなかった。

 「林檎とか使ってないだろうな」

 「もちろんです。アップルパイと同じ轍は踏みませんから」

 身体に巻き付く蛇竜を抱きかかえる。あたふたよじ登ろうとするラドンを手で制すると、彼女は多頭をさわさわと撫でつけた。

 「早いところ、聖杯を手に入れて昔に戻りたいものだな。ずっと、昔に」

 

 

 オデュッセウスは、その光景に出会ったとき、まず圧倒された。次いで逡巡し、困惑し、そうして、得体の知れない闃然が胸郭に湧くのを感じた。

 孤島、神殿より北西30km地点。この島唯一の浜辺に、黒い巨塊が屹立していた。

 サーヴァント、ヘラクレス。クラスはランサー。頭から神獣の毛皮で設えられた裘被る姿のせいか、表情は伺い知れない。そのせいか、機械的な印象すら受ける。感情すら見せず、ただただメディアの命令の元に動く自動機械。それが、ヘラクレスという存在者。

 最も、顔色が不明なのはお互い様か。互いに身動ぎすらせずに観察し合うこと約五瞬、感情の機微すら見せずに、オデュッセウスはヘラクレスの隣に並んだ。

 「カイニスのことはすまなかったと思う」

 ヘラクレスは何もこたえぬまま、ただ小さく身体を揺らした。何の因果か、バーサーカーのクラススキル【狂化】を付与されたヘラクレスは、言語に通暁しない。地鳴りのような呻き声が、恐らく返事だった。

 オデュッセウスもさらに重ねる声はなく、ただ2人して沈黙だけを噛みしめていた。

 「わかっている。俺もお前も、結局あの日々に縛られてる」オデュッセウスはへばりつく何かを払うように首を横に振った。「クソガキだ。まだ、あの少年君の方が大人だろうよ。世界を救う、なんてのは俺には荷が勝ちすぎる」

 「サーヴァントの命なんて安いもんだ。最強の使い魔だとか言われちゃいるが、言ってしまえばただの無限コピー。贖罪として差し出すには軽すぎるな」

 ヘラクレスが肩を竦める。鉱山からそのまま削り出してきたかのような体躯が身体を揺らす様は、酷く窮屈そうだ。

 「なぁ知ってるか。俺は本当はオデュッセウスじゃあないんだ」

 初めて、ヘラクレスはオデュッセウスを一瞥した。いや、勿論表情は伺い知れないが、確かにヘラクレスは、何か気遣いの志向性を向けた―――気がした。

 あくまで気がしただけだ、かもしれない。あくまでこの人理……汎人類史の記録は、記録だけに過ぎない。ヘラクレスに対する主観的記憶の持ち合わせは、ない。あるのは無味乾燥で、ただ叙述的な記録だけ。だから、ヘラクレスの機微に対する理解は、どうしても解像度が低い。

 「いや真名は間違いなくオデュッセウスなんだが。別な世界……いや、時間か? 異聞帯とかいうものが混じっていてな。というより、異聞の俺にこっちの俺が混じっているというべきか」

 オデュッセウスは、そうして浜に転がっていた何かを拾い上げる。鳥の羽根だ。鹿毛色の翼の羽柄は白く、病弱な青白い肌を思わせた。

 オデュッセウスは、羽根を握りつぶした。指先が羽枝を砕き羽弁を拉げさせ、羽軸を圧し折る。脆い感触はアイギスが吸収し、ただ指先に残ったのは経年劣化してカルシウムの抜けた襤褸の骨のそれと大差なかった。

手を、墾く。足元から噴き上げた颶風が折れた羽根を巻き上げ、海の向こうへと浚う。忽ち視界から溶けていった鹿毛色の羽根を、オデュッセウスはどこまでも、遠く見送った。

 「俺たちは脳が足らない。いつも、いつまでもだ」

 ヘラクレスは応えない。いや。応えないことで応えている。確証はないけれど、きっとこの人智を遠く超えた巨体は、無言で応じてくれているように思えた。多分、という保留もつくけれど。

 それでいい。他人の情動など、いつも保留付きのものだ。他人はいつも、絶対に理解不可能なものだ。それが、物事のスタートラインなのだから。

 「待っていろ──イアソン」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

魔宴

酒飲んで書きました、手直しも酒飲んでやりました


 「さぁてお前たち、わかってるね? 最初に潰れた奴ぁサメの餌だ!」

 「はぁ~~~~? なんでBBAが仕切ってるんですか~~~~~????」

 「なんだい、アタシの酒が飲めないってのかい黒髭ェ!」

 「飲めねぇわけねーだろバーカ! むしろありがとうございます!」

 「ほんとなんだいアンタは……相変わらずよくわからない情緒だねぇ。まあいいや、そんじゃあ野郎共―――思う存分、騒ぎ倒しな!」

 「「「うぉぉぉおぉぉおお!!! かんぷあぁぁぁぁぁいいい!!!!」」」

 ……大体、4時間前の出来事である。主に黒髭の宝具、『アン女王の復讐号(クイーンアンズ・リベンジ)』から派生して召喚される霊体やらどこから集まってきたか魔獣やらが食料を漁ってのどんちゃん騒ぎは、まだまだ当分終わらなそうだ。

 立華藤丸(タチバナトウマ)はぽやぽやした気分のまま、その乱痴気な様子を観察していた。

 そう、彼は酒が入っている。何を飲まされたか不明だが、とりあえず片頭痛やらは起きていない。悪酔いはしていない、という客観的理解が脳髄の表層でふわふわと漂うかのようだ。

 酒を飲んだことは、とりあえずある。母親からケルシュ風ビールを戴くことがあったりしたが、上手い事言えば“嗜み”の程度だ。今日みたいに飲んだことはもちろんない。

 「おータチバナ殿、確か21世紀日本の法律だと16で飲酒は不味いんじゃあないですかぁ?」

 ぼけっとしたまま丸太に座るトウマの隣、どかりと腰かける偉丈夫。猛々しい髭面に埋もれた顔は、しかしそれとは全く異なる剽軽さだ。

 「んー……まあいいでしょ」

 「剛毅ですなぁ。ささ、これもぐぐっと」

 「うぃー」

 いつの間にやら手に持っていた木のジョッキには、何やら泡立った飲み物が。多分麦酒だろう、という思考は相変わらず、ふわふわと脳髄の表面を滑っていた。

 「それ誰に聞いたんす?」

 「リツカ殿が。出身地同じなんでしたっけ」

 「まぁ、いちおー?」

 「呑むペース早くね? もう少しゆっくり飲まんといかんですよ」

 「むう、そうなのか?」

 「いやだからはえーってオイ」

 思考停止気味にジョッキを呷るトウマの手を止めると、黒髭は「ほらこれ食って」と口の中にそれはもう無造作になんかの肉詰めを押し込んだ。

 「馬」

 「魔獣っすよ」

 「いや旨いなって。ってか魔獣かよマジかようめえなオイ」

 「いやーお褒め戴き恐悦至極ですなぁ」

 「え、なにこれくろひーが作ったのマジでうめえぞ草なんだが」

 「はぁ草ですか」

 「www←のことや。ちな草に草wwwやったらあかんで、殺されるんや」

 「それはもちろん」

 「こんな見習わなくていいから。あ、もっとちょうだい」

 「はいはい慌てなくても無くなりませんよ」

 「ワーイ」

 黒髭の皿からとりあえずホットサンドを取り出したトウマは、腹が減ってるのかすら不明だがとりあえず食い物を胃袋に収めていく。

 ふわふわする。自我が前頭葉の中で揺蕩う癖に、脳幹で理性が昼寝をしているような感触。揚げ焼きしたジャガイモらしきものを栗鼠みたいに口に頬張っては、手のひらについた塩分をべろべろ舐めていた。

 「いやでも意外ですわ。黒髭さんが料理上手なんて」

 「まぁそういうスキルみたいなもんですよ。皇帝特権みたいなのあるんで」

 「あーなんだっけ……あの、人によって態度を変えるというか適切な接し方をするみたいな」

 「そうそう。まぁそれの一貫で、一応日常生活レベルならある程度のことはできるって感じ」

 むしゃむしゃセロリのピクルスを食べながら、一方で黒髭が「タチバナ殿が料理出来ない方が意外ですけどな」と付け加えた。

 「ほら、普通ライトノベル汎用主人公って料理得意そうじゃないっすか。キャラ付けのために」

 「まぁお父ちゃんがいるんで。俺の出る幕ないっす」

 「専業主夫って奴ですか? 時代ですわなぁ」

 「母上の稼ぎと不労所得で十分食えるって奴ですかね」

 「なるほどー……なるほど?」

 黒髭が言い淀む理由は、なんとなく、酔っぱらった頭でも理解できる。

 人理焼却という未曽有の事態にあって、いわゆるカルデアの外側……端的に言えば、南極の一部山奥以外の地球全土が量子力学的拡散状態に近しい状態にある。らしい。つまるところ、この出来事が無事完結しない以上は、全人類が焼死したような状態という訳だ。無論それは、この特異点で孤独に戦う最新の人間、その家族も例外ではない、というような認識が、黒髭の中に成立しているのだろう。

 最も、事実はそうではない。立華藤丸は元はこことは全く異なる世界──並行世界論的に分かりやすく言えば、恐らく主幹からして異なる異世界──から来たまれ人でしかなく、当然この事件と両親の安否は全くの無関係だ。

 いや、もっと言えば、トウマにとって、全て無関係なのだ。カルデアの懐事情としては、とてもトウマをただ持て余しておく余裕はないだろうが、あの人のよさそうなロマニ・アーキマンである。マスターであることを降りると言えば、多分、降ろしてくれるだろう。そんな予感はある。

 何の意味があって、こんなことをしているのか。何の為に、自分の命を投げ出そうとしているのか。オデュッセウスだけではない。これまでセプテムも、オルレアンも、冬木も、もし何かを間違えたらあっさりと死んでいただろう。それは間違いのない、話だ。

 「まぁでもなんつーんすかね。あ、これ食べます?」

 「あーうんどうも」

 「正直オレとしても、人理がどうこうってのはそんなすげえ大事じゃあないんすよ。そんなデカい話されてもなーっつーか。まぁ同人文化守るぜみたいなことは思うけど」

 一杯、ジョッキを呷る。げふ、と温い息を漏らすと、黒髭は酷く赤く腫れぼったい目で空を仰いだ。

 「ちゃあんとタチバナ殿やフジマル殿とか、あとカルデア? に居る人らを家に帰してやらなきゃなあ、と思うとやる気もでてくるもんですなぁ」

 黒髭の言葉は、酷く軽薄に耳道を潜った。髄液に漂うような言葉がふわふわの思考を侵襲し、じわりと脳みその襞に染みていく。

 視界を過る、灰色の影。赤い相貌に謹厳な表情をした音楽家の声が、内耳の奥から鼓膜を叩いた。

 手のひらを、見た。特に大きくもなく、柔らかな肌の手のひら。握りしめれば伸びた爪が肌に食い込み、ちょっと、痛い。

 「終わらせないとなぁ。ちゃんと」

 舌先に凝る朴訥な言葉。

 多分それを、義務感と言うのだろう。情熱的な知性の失神か、あるいは怜悧な本能の躍動か。何にせよ余人に理解し難い情動の惹起を感じたトウマは、疚しさのような居心地の悪さに、ぎこちない口唇の痙攣に羞恥心を覚えた。浮上した表情は。笑いの表情に強張る笑みのような、ただただ不定で不気味な顔色だった。

 沈黙は多分、実際のところ半瞬すらなかっただろう。ただ、茹だるような根の無い感情が浮動する感触は、酷く間延びして感じた。

 「気楽にいけばいいんすよ、気楽に。可愛い女の子に囲まれて、世界の命運とかいうのを背負って必死にやってりゃいいと思いますヨ? 世の中、そのくらい無責任にデフォルメした方がわかりやすいもんですぜ」

 そう聞くと、大分いい生活はしていると思う。大変で過酷だとは思ったけれど、投げ出そうとは思わないのは……多分、みんなの、お陰なのだ。

 笑みに強張った表情のまま、それでもトウマは「そうかもな」と応えるだけは応えた。

 

 

 「で、貴女はこんなところで見てていいのかしら」

 意地の悪い癖に、妙にサバサバした声だった。

 それで誰なのかはよくわかる。あの神霊(ハイ・サーヴァント)、メルトリリスとかいう奴の声だと理解したクロは、少しだけ口端を結んで背後を丐眄した。

 「アレ?」

 これから陰鬱な口争いが始まる……と言う予感を他所に、まずクロが発したのは素っ頓狂な声だった。

 メルトリリスの繊細な傲慢さと大胆な卑屈さに富む自尊の表情があるはずの空間は何もなく、それより30cmくらい下にようやく例の粘着質の陽気な視線が反射した。

 「……何よ、その恰好は」

 「私服」

 いつにも増して素っ気ない物言いのメルトリリスは、ちょうどリツカより少し大きい程度の身長に縮んでいた。

 足が違う。あの物々しい剣状の踵はなく、酷く質素でメタルな脚部に、すっぽりかぶったポンチョパーカーらしき姿には、なんらあの変質さが見当たらない。肌の色と言えばそれこそ顔くらいなもので、あの肌丸出しの格好とは明らかに違う服装だ。

 いや、違うな。多分これは、あの姿と本質的に同位のものだ。あの露出しているみたいな恰好は実は秘部を隠したもので、実際のところは露出とは真逆の趣向。つまるところ、メルトリリスの主観的体験としては、あの素っ裸とほとんど変わらない格好は、貞淑の証なのだ。そうして、執拗に肌を隠したこの姿はある意味で同じようなもの、というわけだ。

 「ふぅん、まあまあ理解の解像度が高いじゃない。見直したわ」

 「伊達にあのトーマのサーヴァント、やってないんで」

 メルトリリスが肩を竦める。その表情は笑みというよりは笑い顔で、もっと言えば嘲笑9割9分、残り1分は……妬ましさと未分化の、羨望、だろうか。

 メルトリリスの声色は変わらない。表情すら変わらないが、微かになんとなく眉が上下した気がする。クロはまず1発先制を取ったな、と思っ

 「アナタ、一見阿婆擦れに見えて結構貞淑よね。遊びと本気は別ってことかしら」

 素早いカウンター。顔を顰めたクロに留飲を下げたか、メルトリリスはつんとしたまま、少しだけ口角を持ち上げた。

アナタに言われたくない、とも、言わなかった。同族嫌悪的な発言と認めたら、1発反撃を加える代わりに余計に凶悪な一撃を認めるようなものだから。むむう、と唸るにとどめたクロは、所在なさげに居住まいを糺しただけだった。

 「ま、人のことは言えないけど」

 さっさと愉悦感を捨て去って、メルトリリスはちょこなん、とクロの座る丸太に座る。パーカーの袖口から手も出さず、ちびりと掴んだコップを啜る仕草は、ひな鳥が餌を啄むようにこじんまりとしていて、その上で、妙に貪婪だった。

英霊複合体。アルターエゴ、とか呼ばれる神霊(ハイ・サーヴァント)。それがメルトリリス、という存在者の概要──トウマから伝えられた言葉が頭を擦過する。神霊だ神代だなどというものにあんまり善い思い出がない身としては、多少の色眼鏡を持ってしまったりする。まして伝えられた情報的に、どこをどう視ても善人の類ではない。どちらかというと理性も良識も居眠りしているタイプである。

 「お姉ちゃんムーブするのは結構ですけど、あんまり余裕ぶってると零しちゃうわよ? それがわからない貴女じゃあないと思いますけど」

 「なんでそんな殊勝なわけ?」

 「馬の骨を折りかけた責任。両片思いなんてヤバすぎるでしょ」

 ずず、とコップの中味を啜るメルトリリス。陰鬱そうに一瞥する視線の先では、トウマと黒髭がバカ騒ぎしながら口を丸々膨らませては嚥下を繰り返していた。

 「別に、貴女が好き放題暴れようが暴れまいが変わらなかったと思うけど」

 むしゃり。シュラスコを串から解しながら、クロは努めてなんでもないように言う。

 客観的レベルで、メルトリリスがあそこで宝具を発動したこととトウマがオデュッセウスに襲撃されたことは、因果関係はない。元よりオデュッセウスはオリオンが示した場所を読んだ上で動いていた。なら、遅かれ早かれオデュッセウスはトウマを発見し、クロの到着の直前に嬲り者にしていただろう。見世物にするために。

そうして、あの場に到着して。

 ぞっと身体を強張らせた。

 あの瞬間のことはよく覚えていない。何か、自分の内側の裂け目から、黒い森の魔物の淀みが這い出して、身体に畝を掘る感触。それに、あの、感触。あの宝具を、この身体は覚えている。

 いや、この身体だけではない。クロエ・フォン・アインツベルンを構成するクラスカード、アーチャーにも、あくまで知識上の記録はある。

 剣の丘にない、剣と言うよりは杖に近しい原初の宝具。いや、そのどちらでもない宝具。言語という区別以前の、原始性。剣の丘から派生した異能では投影できないはずの、(ウア)を乖離する剣が、あの時確かにこの手の中に、あった。

 「アーチャー」

 「え? ひブっ!?」

 ごち、と鈍い衝撃が文字通り額を叩いた。思いのほか威力のある不意打ちのせいで丸太から転がり落ちたクロは、見下ろす視線に気づいた。

 同族嫌悪的に見えてその実真逆の、屈曲した情動。感情の前後に蟠る何かを肚で感じたように、メルトリリスは曖昧に表情を痙攣させただけだった。それを日常言語で何というのか、クロにはよくわからなかった。

 「貴女たちのどうでもよく、且つ気色の悪い交流がどうなろうと知ったことではありませんけど、うじうじして判断を誤るのだけはよして頂戴。迷惑だから」

 覚束無い様で立ち上がるクロなど知ったことでは無い、と言わんばかりに液体を喉に流し込む。その癖に、その場に根でも生えているかのように座り込むメルトリリスは、一切動く気配がない。

 「何よ?」

 「恋する女の子の必死さは傍目には醜い、と思っただけ」

 どかりと座り込むクロ。ぽかんとするメルトリリスの手中からコップを取り去るなり、ぐいと一気に飲み干した。

 「ホント貴女、嫌い」

 メルトリリスは無表情の、それこそ能の面のように白褪めると、苛立たしそうに口を結んだ。よし取った、と思った。

 「そう? 私は貴女、嫌いじゃないけど。妹みたいで」

 にへら、とクロは笑った。この戦い──というより、メルトリリスという存在者に対しての優位がある意味で決定したのを、彼女は確かに理解したのだから。

 「何トチ狂ってるわけ?」

 「えー? 何がー?」

 「黙りなさい。その口縫い合わせるわよ」

 「こわーい♡ ……てやめ、ここで本気になるな本気に」

 「ほらさっさと口を閉じなさいよ私のこのガラクタみたいな手でガタガタに縫い合わせてあげるから」

 「んにゃー! やめろォ!」

 「あーほらタチバナ殿ォ! 大根に薹が立っておりますぞ!」

 「なんでここ大根生えてんの……?」

 

 

 藤丸立華は、その時、ただただ静かにエナドリを飲んでいた。

 空は星と月。指先に感じるアルミの冷たさ。淡く肌を撫でる風は、感じれるギリギリの強度だというのに、確かな感触がある。遠い漣が囁きのように潮騒を奏で、広場で繰り広げられるバカ騒ぎの中に溶けていく。左手に握る硬い感触を、その手中で愛撫して。天幕のフレームの上でだらけるリツカは、眼下の喧騒を、朗らかに見下ろす。

 調和、というよりは溶解。溶解というよりは、分離的。混濁しているようで象られた声が渦のように、広がっている。

 「あの、本当に私がお呼ばれしてしまって良かったのでしょうか……」

 「いーからいーから! やっとアイツらに一杯食わせてやったんだからさぁ、アンタにもようやく報いれたって! なぁ」

 「そうだね、メディアの情報提供がなければ先手は打てなかった」

 「ほらぁ! そら、もう一杯もう一杯」

 「ですから私はあくまでプロジェクションでいるだけなので飲食は……」

 ちびり、とエナドリを口にする。黒い空に満ちる月光に照らされ、綿菓子の雲が泳いでいる。

 「はーいそれじゃあもう一杯~」

 「そんなマシュに飲ませちゃ駄目じゃないかな」

 「大丈夫ですよう……これでも私、耐毒スキルとかあるんでぇ……」

 「全然大丈夫じゃないよこれ。ねぇアン、コロンブスも!」

 ふわ、とあくびをする。漏れた吐息は靄みたいに、天に浮かんだ。霧散していくあくびを見送って、リツカは無暗に手を伸ばす。

 「いやあ怖いってもんじゃなかったぜ。だってよお、あのヒュドラに突っ込んだんだぜ? 『あ、死んだわ』って思ったよねマジで。そしたらよぉ、BBAがゴールデンハインドで突っ込んできてくれてよぉ! 嵐の王(ワイルドハント)って感じだったよなぁ! あーやべ、思い出したら泣けてきた」

 「そら惚れますわ―――いやさ、やっぱこう、いいっすよねぇ。そういうの……なぁ!?」

 空を切る手。指先に感触はなく、リツカは不思議そうに、ただなにも掴まなかった自分の手のひらを睥睨した。

 「だぁー! それ反則! 何よ完全流体って! などと言いつつ突破できそうな宝具を投影する」

 「やめなさい、ゲイ・ボルグは洒落にならないから。やめなさいっての!」

 酷く乾いた手だ。ろくすっぽ手入れのされていない手は傷み、乾燥した指先は罅切れのように赤い肉が覗いている。乾燥しているせいか皮膚の柔軟性は皆無と言ってよく、手を握るだけで傷口が広がって、凍れるような痛痒が指先を奔る。

 「誰ですかマシュに飲酒をさせたのは」

 「ゴメンナサイ」

 「クリス、そんな殊勝な顔をしても許しませんよ」

 「そんなぁ」

 「そうですよ、この顔芸おじさんにちゃんと言って聞かせてください先生」

 「いや貴女もですからねアン」

 やれやれだ、と表情を緩めて、手を掻きむしる。ごり、ごり、という音とともに爪が肉を抉り、新陳代謝された皮がぼろぼろと崩れ落ちる。

 「もっと早く私たちが来てれば、もう少しちゃんと戦略を組めたんだろうけどね」

 「しょうがないさ。アタシがもっと上手くやってればよかっただけだし……そうすりゃあ、バーソロミューの野郎も医神先生も、色男も死なせずに済んだんだけどなぁ」

 「しょうがないかと……正直、オデュッセウスとカイニスを相手にここまで生き残っている方がちょっと凄いというか」

 「そう割り切れるもんじゃあないのさ。キャプテンて奴はさ」

 爪の間にたまった垢をほじくり出す。ぱんぱん、と手を叩いてから、リツカはすっかりごわごわになり始めた髪に手櫛をいれた。

 「ドレイクさんドレイクさんあそこでBBA助けてくれなかったヤバかったってくろひー言ってましたよドレイクさん」

 「あ゛ぁ゛~!? アンタぁいつになったらサメの餌になるんだい!?」

 「いやちょタチバッ殿ッ……あぁ今から餌になってきてやるぜ! 見てろよBBAァ!」

 「タチバナくん、君酔ってるのか?」

 「あーちょっと……黒髭さんに飲まされてェ?」

 「えっとこちらが?」

 「うわ、メディアだ! メディア……リリィじゃん……あの衣装じゃん……」

 「え?」

 「あーいやえっとですね……」

 酷く脂っぽく、ねばつく髪の感触。当然手櫛をすれば髪が指にひっかかるし、時々頭皮を引っ張られて「イテ」と漏らしてしまう。

 「ほらさっさと行けキモ助が!」

 「行きますゥ~! こんな福利厚生のなってねえブラック企業で働いてられるかってんだ!」

 「と、止めなくていいのですか?」

 「いいんじゃないっすかねぇ。ねぇ?」

 「まぁ勝手になんとかなるさ」

 側頭部で髪を縛っていたヘアゴムを、解く。ゴムに引っ張られて、ぶちぶち、と何本か、鉱山排水に混じって流出した酸化銅みたいな色の髪が、抜けていく。

 「何々、これから何するの?」

 「エッイヤソノ」

 「何緊張してるの、少年君」

 「そりゃ当たり前だと思うけどね。いきなり濃厚接触(意味深)したんだからさ、タチバナには刺激が強いよ」

 痛いなぁ、と緩く痛む側頭部を摩りつつ、髪に手櫛を入れる。肩甲骨をすっぽり覆う長さの髪はやっぱり痛んでいて、毛先を見ると枝毛だらけだ。

 「あのーもう決着つきました? 」

 「ま、まだ……あと一発……」

 「やるじゃない貴女……赤いアーチャーなんて、それこそ芸の無い馬の骨ばかりだと思ってたわ」

 「クロエさん、メアリーがですね」

 「あ!? ヤロッ」

 「……正直あのガキのどこがいいのかわからないんだけど。ねえアン?」

 「そういうものじゃないですかぁ? まぁメアリーが何考えてるのかわかりませんけどねぇ。人の好みは好き好きですから」

 クロとか切ってくれるだろうか、髪の毛。鋏の投影はできる……だろうが、流石に美容師の真似事はできないか。

 「メルトリリスはこう、締まった体付きで綺麗ですよねぇ。美しい! って感じ」

 「そう? ま、確かにアナタ、着る服とか選びそうよね」

 「そうなんですよねぇ。背がデカくて胸がデカいって正直ーってカンジでぇ。しかも上半身結構マッチョで」

 「でもその恰好、善さげなんじゃない?」

 「そうですか? なんかあなたに言ってもらえると自信つきますね」

 まぁいいか、と言い聞かせる。もう少し長いとアンみたいにゆるふわのも似合いそうかな、とか、メルトリリスのように長めのストレートなロングも似合いそうかな、とか妄想も捗らせる。

 「マシュ、その、私の髪を引っ張るのはやめていただければと思うのですが」

 「おうそうだぜ嬢ちゃん、先生の髪はだなぁ……って痛え!?」

 「いいぞぉ! そのまま斧みたいな髭を引っこ抜いちまいなマシュ! ついでにこのでっかい髭もじゃも海に投げ捨てておいで!」

 「酷い!」

 「アグレッシブだなぁマシュ」

 「どうかされましたか?」

 「いいや? 兄の教え子を思い出してたってだけさ。賑やかなのはいいことだな、とね」

 「時計塔、というのでしたか」

 「そ。ま、君のような神代に魔術……というか魔法を学んでいた人からすればお遊びだろうがね。時計塔なんて」

 「そんなことはありませんよ。その、過去に戻るというか、原初性に価値を見出す意味はあまり実感できませんけど。私もお師匠様に教えを受けた身ですから」

 髪を束ねる。手と同様、ろくすっぽ手入れのされていない脂ぎった髪を、側頭部でひとまとめにする。

 「んーでもボクは別にいいかなぁ、3人でも。クロエだってアリかナシかで言ったアリでしょ、3P」

 「ま、まぁ自由なのはいいことだと思うわ、まぁ」

 「それにボク、応援してるよ? 所詮ボクもこの特異点が消えたら消滅するしね。別に忘れて貰ってもいいしね」

 ヘアゴムで縛り付ける。濃い記憶の中に像を描く彼女と同じように左側頭部に髪を一束ねにすると、よし、とリツカは、最後にエナジードリンクを呷る。

 「だからねぇ、正直もっと上手くやれたんじゃないか! って思うところはホントにねぇ……ロバーツがあそこで身体張ってくれなかったらアタシら全滅だったさ」

 「バーソロミュー・ロバーツ……でしたっけ。最後で最大の海賊、っていう」

 「そ。ある意味でここにいる全員の後輩みたいなもん。いやまぁコロンブスはそもそも海賊じゃないってか海賊よりやべーことしてるけど……奴隷に関しちゃアタシも人のことは言えないか……にしてもアンタ物知りだね。アタシのことも知ってたんだろ?」

 「そりゃあまぁ。原作キャラだし」

 「何か言った?」

 「あいえ、独り言みたいな」

 「こんな話聞いて楽しいかねぇ? 恥みたいなもんだし」

 「いえ、まぁその、やりたいなーみたいな」

 「ふぅん? まぁいいけど。あーそうだ、アンタ、今もあのメルトリリスのマスターなんだろ? 踊りの一つも踊ってくれって頼んでくれよ」

 「うーんどうですかね……というか意外ですね」

 「生前の因縁みたいなもんさね。アタシの雇い主、文化とかそういうもんが好きだったからねぇ」

 「エリザベス1世、ですか?」

 「そう。スペインのクソ野郎どもをぶっ潰すチャンスをくれた、ありがたーい人さね」

 ウェストポーチから、軟膏の入ったチューブを取り出す。エルフの頭皮脂、とかいう名前の薬品で、時計塔でちょっと流行った整髪料だ。デイビッドから貰ったものも、残り半分くらいになってしまった。

 「フォウゥ……ミー」

 「いやだから絡むなよ……俺は別にアンタを狩りに来たわけじゃねえんだって」

 「フォウ~?」

 「本当だって。冠位だなんだ言ってるけどまぁこんな姿だし」

 「お、おい……助け……」

 「あ? なん……ってうぉわ!?」

 チューブから手に薄く伸ばして、髪に撫でつける。もちろん妖精から精製したものではないはずだ。伝承科とは言え、流石にそんなものをほいほいとは作れない……と思いたい。

 「せんぱぁい……せんぱあい」

 ……藤丸立華は、眼下の声に吸い寄せられるように志向を向けた。

 うーむ、これはどうなったのだろう。ひとまずリツカは、眼下の光景に頭をひねる。

 歯茎剥き出しの凄絶な顔で地面に転がるコロンブス。何故かその逞しい髭をむんずと掴んで引きずりながらわんわん泣いているマシュ。ケイローンの髪はもちゃもちゃで、オリオンとフォウと一緒になって遠巻きに眺めているというこの図は、どんな経緯があったら成立するのだろう。

 一つ結びにした髪をかき回す。ううん? と小首を傾げたまま、リツカはもう一方の手で、小さな水晶で手わすらする。

 「コロンブスさんが動かなくなっちゃいました」

 「生きてる?」

 「多分生きてまぁす」

 「ならいいけど」

 「よかねえよ!? バーサーカーすぎるだろ」

 普段は白磁のような透き通る肌を真っ赤にして、マシュは大声で泣いていた。サイコすぎるよなあ、と思って、リツカは思わず小さく笑った。

 多分あの場に飛び込むのは自殺行為だろう。酔ったマシュがこれほどとは思わなかった。大人しい女の子に見えて、その実どちらかというと社会性に若干難があるだけの愉快な人物なのだ。彼女は。

 リツカは、器用にフレームの上に立ち上がる。マシュの黄色いような声色に照れて赤面しながら、しょうがないなぁ、と顔を綻ばせた。

 右手のアルミ缶を握りつぶす。左手に握った硬い水晶──空白(ウィルド)を彫った水晶を、プリーツスカートのポケットに押し込むと、リツカは天幕から飛び上がった。

 藤丸立華、19歳。150cm。どちらかと言えば小柄な彼女は、サイドテールにした髪を宙に靡かせた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

諦観

 「んがっ。あいたァ!?」

 椅子がすっ飛ぶ激しい音に、人間が落着する重く鈍い音。ついで尾てい骨が悲鳴を上げる疼痛に顔を歪めたロマニ・アーキマンは、一瞬その場をきょろきょろした。

 管制室、所長席に相違ない。正確には席から転げ落ちた席の下、というべきだろうか。なんでこんなところにいるんだっけ、と一瞬、というより十瞬は思考するくらいには頭が鈍っていた。

 思考を続ける間、絶えずあくびに邪魔されながらも、ロマニはさらに十瞬ほどをかけてようやく現状を理解した。

 思い返せば記録上、ロマニの精神活動が停止したのは80時間前に遡る。戦闘に突入した4人をモニターしながらライネスと連絡を取り合い、戦闘終了し、トウマの応急手当が終わったあたりで気絶した気がする。疲労と心労、その他もろもろがピークになって気絶したのだろう、とぼんやり想起してから、ロマニは慌てて立ち上がった。

 「と、ととととトウマ君は!?」

 「あー大丈夫みたいっすよ」

 オペレーターの1人がちらとこちらを振り向く。そこそこ太めで金のサラサラヘアがトレードマークの男は、呑気そうに言った。

 「ライネスちゃんからの報告書、あげときましたので」

 もう一人、黒い肌の女性オペレーターが言う。目鼻立ちのくっきりした、利発そう……というか利発そのものといった女性だ。あ、そう、と曖昧な相槌を打ったロマニは、ごりごりと後頭部をかきむしった。

 そりゃそうだ、悪い知らせがあるならこんな放置していない。状況が好転、あるいは好転と行かずとも安定しているなら、わざわざ疲労で寝ている所長代理を起こす必要はない、ということだ。

 それにしても80時間とは。腕に巻いたスマートウォッチで日付を確認したロマニは、とりあえず後ろにすっ飛んだままの椅子を起こして座ると、目元を擦りながらモニターをチェックする。

 電源スイッチを押し込み、10桁ほどの暗号キーと網膜認証でセキュリティロックを解除する。デスクトップに表示されたファイルをクリックして、ロマニはデータを開いた。

 現地にいるライネスからの中途報告書だ。リアルタイムでのやり取りができない故に、今はこの定時連絡がカルデアとしては何よりの情報源だ。

 時系列的な事件推移を頭の中でイメージし、とりあえず状況を把握する。ぽかんと夢想すること1分ほど、特にこちらからコメントすべきことはないと了解し、ロマニは読了のサインを送信する。

 久々の起床。オルレアンの頃は有り得ないレベルの長時間睡眠である。ライネスが現地の指揮の概ねを賄ってくれるようになって、逐次現地のモニターをしなくてよくなったのはかなりの労力負担の軽減になったと言えるだろう。無論存在証明は継続しているけれど、それは根本的にロマニがしなくても良い業務だ。

 つまるところ、ロマニは必須且つ煩雑且つ長い時間を必要とする仕事から解放され、ロマニ・アーキマンとしてやらなければならない業務に時間を割くことにしていた。つまるところ、“所長代理”としての業務である。

 需品科からの整髪料や食糧、衣類の消耗ペースの上伸や入浴スケジュールの策定に始まり、補給科からの銃器類の整備や呪術品のストックについての意見具申、施設内設備の故障個所の報告、果ては部下からのカウンセリングの予約など。これでも意思決定の多くをスタッフに渡している分、やはり業務的には楽にはなっているのだが、それでも忙しいものは忙しい。

 現状、暇を見てやっているのは施設内の死亡者リストの作成という、全く以て気が進まず、かといって放置もできない仕事を行っていた。業務内容的には実はさほどではない内容ではあるのだが、その重さを考えれば、現行の最高責任者が行うべきものだとロマニは思っている。それが一応、責任というものの一つだろう。

 目を閉じれば浮かぶスタッフの顔ぶれ…ん…というほどに、実はロマニはスタッフと懇意ではない。もちろん医療スタッフとしてある程度の人員とは顔見知りだけれど、顔と名前が完全に一致するのは一握りだ。

 だから、ロマニはリストを整理しながら、データベースと照合して、提出された個人情報を確認する作業を行っていた。

 「えぇと……日本の人か。リツカちゃんトウマ君と同じ出身なのか」

 デスクトップ上でリストを更新しながら、タブレットを眺める。本当は無暗にプライバシーに踏み込むべきではないので、ひっそりとやっている。一応公務員なので、コンプライアンス違反にはシビアであるべきではあるのだ。一応、一応。

 ともあれ、こうしてロマニは折を見てこんな作業をしている。

 この作業を始めて思うことと言えば、ダイバーシティという言葉の現実感、とでも言おうか。古い考えの人間なだけあって、そんな現代的で、ともすれば当然な言葉がとても新鮮に思われる。

 そもそも、フィニス・カルデアは国連の下部組織だ。毎年行われる監査ではちゃんと国連の人間が来るし、しかも法政科と教会からも監査を受けている。アニムスフィアが管理しているとはいえ、やりたい放題な運営はできるはずもない。時計塔で繰り広げられる、政治と言う名のエゴイスティックな陰謀とは別種の政治性がここでは要求されるのだ。

 そんな国連組織なだけあって色々な人種の人間が集まっているし、その経歴も色々であることに驚かされる。派閥的には貴族主義だが、蒐集する人財に関しては能力至上主義的で、民主主義的だ。時計塔の派閥争いの都合貴族主義に居た、とでも言わんばかりの振舞であろうが、ロマニにはあまり実感のないところである。

 「セラフィックスに居た──えぇと、キアラさんだっけ。あの人こっちにいてくれたらナァ……あぁあの時の献血の奴か。そもそもマリスビリー、予算感がガバすぎるよ。一般公募なんて無駄遣いじゃないのかなぁこれ。予算とか考えてよ」

 例えば今管制官を務めている、あの黒人の男なんかはその一例だろう。何せ彼、魔術は一切の素人であるという。アトラス院から出た魔術師を祖とするようだが、既に家系は途絶えて久しい。魔術と呼ばれるものの知識だけは有しているが既に過去のものと見切りをつけ、新天地のアメリカに居を変えた、そんな非才な魔術師の家系の末裔というわけだ。そんな彼もアメリカで永住権を得るためにアメリカ空軍でグラウラーのコパイを経験した後、その並列思考能力の高さを買われてアニムスフィアからスカウトされたという。結構アグレッシブだ。

 そんな人物も居れば、例えば既に死亡したキリシュタリア・ヴォーダイムのような堂々たる魔術師もいたり、スカンジナビア・ペペロンチーノのような無頼者も大手を振って闊歩する。酷く歪で、それでいてそうでなければ運用されない組織。窮屈さと自由さがごちゃまぜになった。それが、人理保障機関フィニス・カルデアという組織なのだろう。

 「あーいやでも凄いなこの適正値。所長が見たら泣くんじゃないかなぁ」

 頬を緩める。笑みとも笑いともつかない困ったような表情をしながら、ロマニはタブレット端末のスクリーンを指でスライドさせた。

 「えーとあれ。名前間違ってるなーっと。リツカちゃんと同じ名前……」

 「おやロマン、起きてたか」

 びく、と身体を起こしたロマニは、頭上から降ってきた声に静々と振り向いた。

 これまで幾度となく聞いてきた声だ。振り向けば当然予想通りの顔が、にやにやをこちらに向けていた。

 「なんだい、またコンプライアンスを苛める仕事かい?」

 「所長権限。権限は濫用するためにあるんだろう?」

 「賢王とは思えないものいいだね?」

 思わず口を閉ざす。わざとらしく肩を竦めるレオナルド・ダ・ヴィンチをむー、と睨みつけながら、「冗談も言うさ」と癖のあるモルモットの体毛みたいな赤毛をかきあげた。

 「ぞっとするよ。これでライネスちゃんが居なくて、ずーっと現場で張り付いてたらと思うとさ」

 「そういうことも、あるかもだよなぁ。そしたら私も、オルテナウスを弄る余裕なんて無さそうだし」

 レオナルドはそう言うと、ふわあ、とあくびをした。維持するサーヴァントが増えた都合もあり、彼女? も近頃は定期的に睡眠を摂るようにしているのだとか。本来不要の“眠気”も、意図的に付与しているものらしい。流石はキャスター、というところだろうか。変な話だけれど。

 「最悪、リツカちゃんとマシュの2人でやらなきゃいけない可能性だってあったわけだ。まぁリツカちゃんならなんとかしそうだけど、ちょーっと考えたくないよなぁ。私たちの労力に限って言っても」

 「休みとかなさそう」

 「ないだろうねぇ」

 互いに浮かべる苦笑い。マスター1人と決して強力とは言えないサーヴァント1人、2人だけでこの長い旅をするなんて、いくらなんでも最悪の状況過ぎる。有り得ただろう、しかし回避し得た仮定に肝を冷やしたロマニとレオナルドは、しみじみと現状のありがたみを咀嚼する。

 その意味で、3人が居て本当に良かったと思う。ライネスがいるからロマニは比較的楽ができるし、クロがいる分だけ戦術の構築はハードルが低い。トウマはなんだかんだマシュと同い年で、一番フラットに喋れる関係性を、なんとなく構築しているようだった。どうしても、マシュはリツカに対しては、()()()()()()()という印象が強いらしい。マスターとしてはまだ頼りないけれど、それでも将来性は強く感じる。

 人理が不安定で、世界そのものが喪失するという危機的状況。そんな中で、ある程度の社会を構築し、緩慢ながらも前に進めているのは、とてもいい状況だと思う。現地に薬漬けにして洗脳した子供を向かわせざるを得ないというとても正気ではない状況から、目を逸らすわけではないけれど。

 せめて、少年少女たちが帰ってこられる場所はちゃんと守ってやりたいよなぁ、と思うものだ。

 「父親がカスな君が言うと、説得力があるね」

 「責任の話。やめてよね、父親の話は」

 ごめんごめん、と平謝りするレオナルド。ボサボサの髪のまま「それで?」と口にしたロマニは、堂々とコンプライアンスを蹂躙し始めた。

 「君自身の決意はどうなってるんですか」

 生真面目を装うロマニの声は、事実からかい抜きの真摯な問いだった。わざとらしい硬さで幾分か和らげているところがロマニ・アーキマンという人間の優しさであり、優柔不断さの表れだったろう。

 レオナルドは、そのどちらの意もしっかり理解している。それが故に顔を顰めつつも、彼女はいつものような強気に揶揄しかえすこともできず、ただ苦笑以上苦痛未満のような曖昧な形相(Form)を作るしかなかった。

 「あの子の意思は固いよ」

 「了解。それが君の意思ってわけだ」

 「マルティン・ハイデガーのことを信じるわけではないけれど、世界とは黒い森の中に差し込んだ陽の光ってのは合ってると思うんでね」

 さっぱりとした口調で、レオナルドは煮え切らないことを言う。彼女らしからぬ言動も愉快ではあるが、実際のことを思うとロマニもちょっと、気が沈む。

 所長代理──というより、意思決定者の仕事は、一重に責任を取ることなのだ。部下に死ねという指示を出したり、人を殺せという指示を出したり、死に物狂いで帰ってこいという指示を出したり、そのどれも、現場でない場所から発する。そうして起きた出来事の結果全てを負ったり負わされたりするのが、状況を管理する人間の何よりの仕事なのだ。決して現場の労苦に劣らない仕事なのだ。

 つまるところ、レオナルドに苦杯を飲ませる指示を出したのは、ほかならぬ自分なのだとロマニはちゃんと自覚していた。たとえ彼女から、あるいはあの子から率先して発せられた提案であったとしても。最終的な判断を下したのは、人理保障機関フィニス・カルデアの現所長代理たるロマニ・アーキマンなのだ。

 「ま、そんなこったろうと思ったけどね。チキンの癖に人を揶揄おうとするなんて、3000年は早いんだよ」

 「むぅ」

 そんなロマニの内面性をよく理解しているので、レオナルドは一転して皮肉っぽく笑って見せる。手近な空席に酷くおっさん臭く座り込むと、彼女は「大体使い方はわかったよ」と続けた。

 「あー例のカード? 置換魔術だっけ?」

 「まぁ言い方悪いけど、お手軽デミ・サーヴァント製造機って奴だよ。英霊の座にアクセスして、英霊の力だけを生身の人間に置換する。言葉にすれば簡単なようだけど、これとんでもねえ魔術だよ。ある意味、魔法っちゃ魔法」

 言って、レオナルドは捨てるように何かを放り投げる。ぺち、とデスクの上に乗ったそれは、カードのようだった。

 しかも複数枚。剣士やら魔術師やら。実に7種の絵柄が描かれた、およそ20枚ほどのカードの束だった。

 「なにこれ?」

 「作った」

 「いや作ったって……本気で?」

 「本気さ。概念(メカニズム)はわかってるんだぜ? 解析からの実用化。これでも技術部門の責任者ですので」

 なんでもないことのように……というよりは結構残念そうな物言いだ。あんぐりと口を開けるロマニを後目に、レオナルドは束から1枚、剣士のカードを取る。

 「えーとなんだったかな。そうだ、『夢幻召喚(インストール)』」

 呪文のように一節を唱える。妙に現代的な言葉は酷く空虚に響いただけで、何も起きる気配はなかった。うんともすんとも言わない。

 「何も起きないじゃないか」

 「そう、起きないんだ。ちゃんと作っても9割は機能しない」

 やれやれ、と言うように肩を竦めると、レオナルドはカードを投げ捨てた。

 「ただ、残り1割はある程度機能する」

 「マジで?」

 「ただ“ある程度”だけどね」

 今一度、束からカードを抜き取る。難しい顔で眺めた後、レオナルドは1枚を抜き取った。

 カードの模様は、獣の皮を被った戦士。狂戦士のカードだ。

 「『夢幻召喚(インストール)』」

 再度の詠唱。詠唱というにはあまりに短い単語が広がった瞬間、ひらりと閃く。一瞬目を瞑ったロマニが次に見たのは、何やら不定の形状をした、黒いエーテルの塊だった。

 不定ながら、ともすれば斧に見えるだろうか。だが忽ちに形状が崩壊するや、黒い塊が泡立ち始める。

 弾ける、と思った次の瞬間、黒い塊は露のように霧散していった。

 「座に繋がって、そこに在る英霊と呼ばれる高次元のものを形成する力そのものだけを抽出することはできる。それに“クラス”っていう志向性を与えてやれば、まぁ使えなくはない。かなり高度な情報解釈システムが必要だけど」

 「いや凄いじゃないか! 確かにクロちゃんから聞いてたのとは大分違うけど」

 「でも、これで本当に彼女が必要になっちゃったってわけ」

 彼女は、普段通りに言う。痛ましいほどの平静さに、ロマニは何を言って良いのかすらわからなかった。わからなかったが、それでもなんとか、感謝の意を小さな声で発するしかできなかった。

 よしてくれよ、とレオナルドは口にした。それ以上は交わすべき言葉がわからず、ただただ途方に暮れた苦笑を互いに披歴した。

 大人2人、自らの品位の無さを自覚した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

比翼のアマリリスⅠ

 それは、目を覚ますという動作と言えただろう。

 物理的に瞼を開いたメルトリリスはまず、今日の時間を覚知する。

 グリニッジ標準時、AM3:04。布の切れ目から微かに差し込む陽の光からして、天気は晴れ。ついでに体調も良くも無ければ悪くもない、いたって平均質の状態。平均質であることは、メルトリリスにとって、実は良好であることの証である。元々世界に対して没交渉的な彼女の身体により、彼女は絶えず世界に対して過剰だった。あまりに加虐であるか、あるいはあまりに不感であるかの2択しか、彼女にはない。

 その意味で、平均値……というよりは中央値的な今の彼女は、彼女自身にとって不可解な状態であろう。戸惑いを感じながらも、メルトリリスは自らの不可知性を、まだ削ぎ落そうとはしなかった。唯美的な彼女の在り方からすれば非合理的だが、唯美性とシャム双生児的な根を持つ女性性から、それを合理的な行為であった。

時間はまだある。とは言え休眠……人間でいうところの睡眠を摂る必要性はないことも理解している。合理的に休む必要がないと判断して、メルトリリスは身体にかかったタオルケットを丁寧にはがした。

 己が身体にエーテルを通す。身体の励起とともにメルトリリスの痩せぎすともとれる裸体の痩躯に霊依が展開する。普段の黒い鳥を思わせる衣類を纏うと、彼女はえっちらおっちらとベッドから足を下ろした。

 次いで、大腿部から下を形成する。竜の鱗を思わせる脚部がエーテルで形を成し、踵に弦月の如き剣が閃く。一度足をばたつかせて調子を確認すると、陰鬱な黒鳥となって彼女はベッドから跳ねた。

布を持ち上げ、外を出る。ふ、と息を吐くと、思わず靄が口から立ち上る。どうやら気温が引くらしい、と理解して、メルトリリスは静々と空を仰いだ。

 黝い星天。冷たい光が瞬きながらも、橙色の仄光が緩慢に啓けている。朝焼けの陽に目を細めつつ、彼女は、すいすいと蝶のように森を往く。

 唯美性。ただ美質こそが世界の心理である、という思想。メルトリリスという現存在を形作るその様態こそが、ある意味でメルトリリスをメルトリリスである所以でありながら、彼女を彼女らしからぬものに仕立て上げる要因だった。

 メルトリリスは、まずもって反道徳的な存在者だろう。そこに論は待たないはずである。既存の価値体系の中に象られながら、絶えずずれていく不気味なもの。異次元へと飛び去り、見る者を失神させる超高速の霊子(タキオン)。理解という人間のプロセスを根本から否定する者。反道徳的、というよりは完全な非-道徳性であるが故に、彼女は異常なまでに倫理的だった。

 それは、そもそも没倫理的な肉体を持ったが故の異常性だろう。彼女は全く以て非日常的であるが故に、常軌を逸する程に倫理的であり、日常性の裂け目(カオス)を露出させるのだ。

 緑色の、樹々の匂い。むせ返るような腐葉土のざわめき。目覚めの叫喚を挙げる小鳥の舌触り。降り注ぐ朝露が口唇に触れ、色鮮やかに明滅する。

 プラトー、メルトリリスの身体性。触覚を喪失するが故に露わになる原初的肉体、アメーバの理性。メルトリリスは、つまるところ、共同性という言葉から最も乖離して近しい奇妙な実-存だった。

 波打ち際に、彼女は佇立する。打ち寄せる鈍い風の感触を覚えながら、小さく、世界に声を漏らす。

 およそ7音、君の名は白紙。この世界のどこにも生まれえない名前。それでも汎人類史が最も可能性の内包である人理であるが故の、それは不可能の果てへの呼びかけ。微かな声はメルトリリス以外の誰にも届くことはなく、ただ、大洋にかかる陽の階へと昇って行った。

 自分でも、見当違いだな、と思う。あの人と、あの女は別種のもの。むしろ、真逆のもの。あの人がただ頑張り屋さんの凡人なら、あの女は先天的な異形の天才。似ているようで乖離した2人は、けれど外形はよく似ている。それでも最もあの女が似ているのは、あの人ではなく。

 「アルテミス?」

 不意に、声が耳朶を打つ。

 丐眄する黒い流線形。青い彼女の目に映ったのは、酷く巨(おお)きな、海原のような体躯だった。

 いや、違う、と思った。よく見る間でも無く、木々の間から顔を出しているのは小さなぬいぐるみみたいな者だ。黄色っぽいクマのぬいぐるみは目をしばたたかせた後、名状しがたい情動を惹起させた顔をした。

 「早いのね、オリオン」

 サーヴァント……というよりはそれ以下の使い魔でしかない霊基規模の英霊、オリオンは曖昧な返事をした。ぽてぽてと重苦しそうに身を揺すって、オリオンはメルトリリスの隣の岩呉に飛び上がった。

 全く、メルトリリスの目線には並ばない。特に彼女は何かしらの情愛やらはなく、ただなんとなく、その近くの岩へと腰を下ろした。まぁ、それでも目線は明らかにメルトリリスが上なのだが。

 互いに、ただ沈黙した。メルトリリスは特に話すこともなく、さりとてこの目の前の景色を眺めていればいいと思っている。他方、オリオンは質朴に言葉のチョイスに困っている様子だ。

 「神様違いかしら」

 まぁ、とオリオンは困惑しっぱなしに言う。気まずそうに頭をかき回しながら、クマも吸い寄せられるように、メルトリリスの視線を追った。

 煌めくような朝焼け。黄金の陽を照り返す、穏やかな海原。凪ぎを含んだ蒼いわだつみはどこまでも続いていくよう。その果てに、誰かが、居るように。

 「よく来るのかよ、アンタ」

 「まぁ、時々」

 「綺麗だよな」

 そうね、とメルトリリスは独り言ちる。だよなぁ、というオリオンの呟きも、同調というよりは感嘆のような独り言だろう。

 オリオン。ギリシャ一の色男、とすら言い得る英霊。強かだ、と思ったけれど、それを素でやってるのだからどちらかと言うとタラシの類だろう。

 「エオスと蜜月だったところに彼女がやってきたんでしょ? だったらこんな景色なんじゃない?」

 「やっぱご存知で」

 そりゃそうよ、とは言わなかった。

 複合英霊、ハイ・サーヴァントを束ねて製造されたメルトリリスの裡に、彼女はいる。ギリシアにおける狩猟の神。純潔の神でもある月の女。オリオンがそれに気づいているかどうかは不明だが、それでも何か縁のある人物とは気づいているらしい。照れのように頭をかき回す仕草は、事実照れなのか、それとも気まずさからなのか。メルトリリスには、そもそも知り得ないことだった。

 「アンタ、アイツにそっくりだな」

 「そう?」努めて平静に、メルトリリスは口にする。内心の変な居心地の悪さは、ちっとも見せなかったのが彼女らしいと言えば彼女らしい。「初めて言われる」

 「アイツもなんか取っ付き憎い奴だったんだよなぁ。堅物そうっていうか、冷たそうってのかなぁ。恐そうな女だった」

 オリオンは、言って苦笑いする。ぬいぐるみ姿なので朗らかそうな笑い顔ではあるのだが、確かにそれは、懐古と同時に滲む、「しょうがねえなぁ」とでも言いたげな顔だ。メルトリリスには、まだできない顔。

 「それ、今私と面と向かって言うのね」

 あくまで取り付く島もなく、メルトリリスは素気無く言う。だが、オリオンはそんな苦笑のまま、そりゃそうさ、と口にした。

 「アンタの心にはもう誰か居るんだろ? 狩りをする時、逃げる獲物を追っても仕方ないしな」

 ざくり、とメルトリリスの胸を刺す。オリオンへの一瞥はその分突き刺すようだったが、それでも彼はなんら構うところないように、空の果てを眺めた。

 「こんな良い景色をしみじみ眺めに来る奴なんて、そういうことだろ?」

 赤く照る、澄んだ陽光。星空を食む太陽の灯を、オリオンは目を細めて眺めていた。

 「アンタの意中の人ってのは、どんなのなんだ?」

 さらりと、オリオンは口にした。まるで老人の井戸端会議でもするような、可愛げのある軽薄さに満ちた口ぶりだ。面喰ったメルトリリスは、不快感たっぷりに、身体を強張らせた。

 「別に。貴方には関係ないでしょう」

 取り付く島もない声。だがオリオンは一拍の間すらなく、「そりゃそうか」と努めてあっさり引き下がった。

 色男。こんなゆるキャラみたいな形をしているくせに、やはり中身はオリオンなんだと思わされる。さらっと核心に触れながら、相手がそれを嫌うとわかったら同じ身軽さで身を引く。恋愛対象外故の、ある種の理性と良識のある行為だろう。それがなおのこと、良い男であると感じさせる。1mmの下心なく、“異性”を助けようとするところが特に。

 だからだろうか。メルトリリスは激甚な嫌悪感の奔騰を沸き立たせながら、ただ一言、「普通の男の子よ」と吐瀉を撒き散らすように声を吐き出した。

 「そりゃお似合いだ」

 「どういう意味?」

 「文字通りの意味さ。ちょっと気難しい女の子には、普通な男の子がお似合いってね」

 本当に。

 この男は、()が良い。闃然とともに閉口したメルトリリスは、いっそのことこのクマをドロドロに溶かしてゼリーにしてやろうかと思った。正直メルトリリスの趣味ではないので吸収もしたくはないのだが、当たり前に乙女の秘密(シークレッドガーデン)を見抜いてきたこのクソクマを生かさでおくべきか、いやない。

 ゆら、と立ち上がるメルトリリス。何故かほっこり笑顔のオリオンは、しみじみ陽の光を眺めている。

 どこを刺してやろうか。SDガン●ムみたいな身体しやがってこの野郎。アッガ●イかお前はと言いたくなりながら「いやでもあれSDじゃないわね、HGUC買っておこうかしら」と内心反駁し、とりあえずオリオンの首すじに膝の棘の狙いを定め、

 「やっぱ似てるんだよアンタ。アルテミスにさ」

 朗らかに笑う、オリオン。その癖に何か物侘しい表情に虚を突かれたメルトリリスは、思わず口を閉ざすしかなかった。

 「アイツさ、冷たい奴ってイメージあるじゃん。クールって言うのかなぁ?」

 そうね、とメルトリリスは応える。確かに神話上、アルテミスはある種厳格な生真面目さを持った女神として語られている。トロイア戦争でゼウスに泣きついたりするのは、あくまでアルテミスの意外な側面というだけに過ぎない。

 「いやまぁクレタで狩りした時はそんな感じだったんだけどな? なんか久々に合ったらなんつーか」

 「弟みたいだった?」

 目を丸くするオリオン。なんとなくよ、と口にしたメルトリリスは、オリオンの表情を、確かに捉えていた。

 あれは、笑みというものだ。情愛の中で生まれる他者への気遣い。笑うことしか出来ないメルトリリスには、きっと一生できないはずの顔。なら、その情動は、多分きっとメルトリリスには理解できない、ものだろう。孤独者の彼女には理解しえないが故に虚無のように沸き上がる、共同性という名の情動。

 「弟っつーのは、でもそうかもな?」

 釈然としないながら、なんとなく空を仰ぐオリオン。首を傾げる動作から徐々に首肯に変わると、「そうかもな!」と声を上げた。

 「弟かァ。妹ってんじゃないもんな。」

 うんうん、と大きく頷くオリオン。腕組みして空を仰いでは、そうだなぁ、と得心したように、呟く。

 なんだろう、一矢を報いたはずなのに、あまり嬉しくない。加虐心も何もあったものではない。むすっとするメルトリリスに、莞爾とオリオンは笑った。

 「俺、言っとくけどギリシャ一の狩り人だぜ?」

 要するに、一矢報いれるわけねーだろと言いたいわけだ。相変わらず心を見透かすようなオリオンは、流石冠位(グランド)のアーチャー、と言ったところなのだろう。冠位のキャスターはすべてを見通す千里眼を持つというが、同じ位に昇る弓兵の目は、同じくらいに鋭く世界を見通すのだろう。

 「出会いがしらに『狩りしよう』って言われたんでしょ。キラキラした目で」

 「いや良く知ってんな。え、何俺とアルテミスの話ってそんな詳しく伝わってんの?」

 「割と」

 無論、嘘である。はえー、と感嘆のような羞恥のような嘆息を吐くオリオンを後目に、ちょろりとメルトリリスは舌を出す。加虐心は全く満たされないが、一応の慰めだ。

 「ずーっと狩りしよう狩りしようってそればっかりでな。ワンチャンあるかなと最初思ってたんだが」

 「最低」

 「しょうがないだろ、男なんだから。しかもおっぱいでけえし」

 間違いなく、この男は女の敵だと思う。こんなゆるキャラ然としていては、どんなトラップになるかわかったものではない。やはり今亡き者にした方が世界の為なのではないだろか。蠍の毒とかで。じとりとするメルトリリスの視線に気づいているんだか気づいていないんだか、オリオンは「男はみんなおっぱい好きさ、デカいのも小さいのも」だなんて嘯いている。

 「まぁ、でもなんか気づいたら、ずっと一緒に過ごしてたんだよなぁ」

 澄んだ浅瀬から掬するような、声だった。過去も未来も今すらない、ただ無限の果てに溶け込む消失点不在の視線。下がる眉尻に持ち上がる口角、脱力する躯体。憂いとも羨望とも後悔ともつかない輪郭の砕けた、眼。

 「楽しかった? アルテミスといるの」

 「おう、楽しかったぜ」

 「そう」メルトリリスは、すっかり冷たくなって強張る指先で糸を手繰り寄せるように、サルトルの嘔吐のような声を擦り出した。実存の、嘆息のような、声。「アルテミスを、愛していたのね」

 晴れがましいほどの顔に浮かぶ、少年のような照れ笑い。メルトリリスが想起したのは神話の伝承だったのか、それとも夢想だったのか、あるいは、己の裡に折りたたまれて淀む時間がそうさせるのか。何にせよ、メルトリリスの胸郭を満たしたのは、同情と呼ばれる感情の先、意思の手前にある志向性だった。

 なるほどと思う。タラシはタラシでも、特に女神というものを撃ち落とすことに特化している。彼女にはどうでもいいことだったが、場合によっては無くもない、と夢想するくらいには。

 メルトリリスは、天を見上げた。すっかり青く滲んだ、燃えるような赤い空。特異点……徐々に異聞帯になりつつあるこの世界にも、月はあるのだろう。見果てぬ空にあるはずの月を幻視して、メルトリリスは、女神の名を口腔内に声をくぐもらせた。

 アルテミス、アルテミス。そう、貴女はまるで恋知らぬ少女のような神。なら、貴女はきっと。

 「フォーウ!」

 「んぎゃ!?」

 派手にすっ飛ぶクマ公。浅瀬に顔から突っ込むオリオンを後目に、岩に飛び乗った白い毛むくじゃらは意気揚々と鳴き声を上げた。

 「テメコラ……だからお前は俺の獲物じゃねえって言ってんだろが」

 「フォウ、フォフォウゆるフォウフォウ」

 「ってそっちの意味かよ!? 言っとくけどなぁ、俺はゆるキャラじゃねえの! ってかお前もゆるキャラってガラじゃねえだろうが」

 「フォウ~、ミ」

 「あ、そう。まぁなる必要ないならならんでいいか。って咬むな咬むな」

 飛び掛かる獣1匹。邪険にしながらも毛むくじゃらと戯れる弓兵。確か日本に最優のゆるキャラを定める聖杯戦争のようなものがあったらしい、とメルトリリスが知っているのは、取り立てて不自然なことではなかった。

 「フォウさん? あ」

 声がする。一拍遅れてやってきたマシュは、メルトリリスの姿を認めると、小さくお辞儀した。

 白い肌は病的で、人間的な臭気が一切ない。その意味で、メルトリリスはマシュは嫌いではなかった。いじらしさに、まどろっこしさを感じるのだが。

 「そこに居るわよ」

 「フォウさん、オリオンさんを咬むのはほどほどに」

 「いやある程度は許すのかよ」

 フォウを抱きかかえるマシュ。突然のことでじたばたしながら、フォウは抱きかかえているのがマシュとわかるとすぐに大人しくなった。ただ顔だけは如何にもネコ目らしく、歯をむき出しにしてオリオンを見下していた。見下していた。

 「マシュー、もう朝っぱらから全力疾走はつらいよぅ……トウマ君と違うんだから」

 「すみません、つい」

 リツカがやってきたのは、それから40秒以上1分以内の出来事である。へろへろに汗をかきながら、這う這うの体といったようにやってくると、リツカは蹲るように木に身体を預けた。

 律儀な女だな、と思う。わざわざサーヴァントに併せて、身体強化をかけてまでマシュについていこうとするなんて。合理的な頭脳とも、自堕落な在り方ともずれた彼女の振舞だった。そして、それ故に彼女らしさを照応するとでも言おうか。縛りもしなければ櫛も通していないボサボサの髪を、煩わし気にかきあげたリツカは、初めてメルトリリスを認識した。

 「ども」

 ……なんとも不格好な挨拶である。レディとしてもっと品のいい挨拶はできないのか、と加虐心……もとい躾けの一貫として叱りたくなるところだ。最も、レディは栄養剤の飲みすぎで脂肪肝になったりはしないだろう。

 「おはよう、フジマルリツカ」

 「あ、はい」

 メルトリリスの返事が意外だったらしい。目を丸くしながらも、リツカは日本人らしい曖昧な返事を重ねた。だが、何やらメルトリリスのその仕草が好ましかったのか。にへら、とやはり曖昧に表情を緩めると、オリオンを抱きかかえた。

 「先輩大丈夫ですか」

 「大丈夫ではありませんので、帰ったらゾネさんを戴きます」

 「それはダメです」

 「そんなぁ」

 「フォウ~……」

 「フォウさんもこう言っておりますので」

 「あれあんま飲みすぎない方が良いと思うぜ」

 「オリオンまでぇ」

 うえぇ、とわざとらしく萎れるリツカ。わんわん泣き真似をしながらも、ちらりと探るような一瞥が、メルトリリスを覗き込む。

 「駄目ね。あの馬の骨を見習いなさい、フジマルリツカ。基本的にアイツに見るべき点はないけど、健康優良児ってだけは評価できるわ。マスターたるもの、小手先の魔術理論なんかよりも健やかで前向きな肉体の方が価値があるでしょう?」

 「うわぁん!」

 「近づかないで、触らないで。なで斬りにするわ」

 思わず飛びつきかかるリツカを足蹴で威嚇しながら、メルトリリスはぎこちなく表情を、笑いの形にして見せる。

 笑みと笑い。他者への気遣いと、己の発露という差異。メルトリリスに笑みは浮かべられない。ならその引き攣るような表情は、精いっぱい笑みの形状を模倣しようとする笑い顔だった。

 こんな人間ごっこに、価値はない。それはメルトリリスが善く知っている。普通や日常の裏側がきっとメルトリリスの生息地で、表側ではないのだ。だが、その関係性は裏表というよりは対偶なのだ。異常や狂気が日常から差異化された表象でしかなく、絶対的異常などは言語の隙間のエクリチュールにしか棲みつきはしない。と知っているのも、やはりメルトリリス自身である。

 つまるところ、世界には奇異な日常性が時たま顔を出すのと同じように、ありふれた異常性が群れを成している。それが世界であり社会である。

 だから、意味はなくとも価値があるその人間的所作という心の贅肉を、メルトリリスはほんの少しだけ許容した。完全無欠の肉体と言えども体脂肪が0にならないように。

 「お願い先っちょだけ! 先っちょだけでいいから!」

 「先っちょとはなんでしょう……?」

 「一口って意味じゃね」

 気散じ、拡散。

 だからメルトリリスは思うのだ。

 藤丸立華は、メルトリリスとは異族の、ありふれた怪物なのだと。




次は来週14日に投稿予定です


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

遠景Ⅰ

 クロエ・フォン・アインツベルンは、その時、薄く意識を覚ましていた。

 覚醒というほどには意識はハッキリしていない。けれど、睡眠というには自意識が動いている。

 3/4は寝ているけれど、1/4は目覚めている。深夜23時にこたつで横になってしまって、漠とした意識が偏在しながら眠りこけるみたい。生前? 何度か経験した行為を思い出しながら、クロは、漫然と周囲に志向を拡散させる。

 午前4時、32分に14秒。お寝坊とは無縁なクロだったが、それでも目が覚めるにはまだまだ早い、という時間。そんな時間に彼女の意識が浮上したのは、自分を抱き留める熱が、もぞりと動いたからだった。

 トーマが、起きた。漫然と、理解する。いつもより少し遅いな、とも。普段ならマシュがトレーニングに誘いに来るか、ライネスが講師をしに来たりもするのだが、今日はどちらでもない。ライネスは午前9時からのブリーフィングに向けての資料やら何やらをドレイクと検討しているのだろうが、マシュは何だろう。わからない。わからないことも、わからない。

ふわふわした思考に、じわりとあたたかな触が吸い付く。まだ柔らかいながら、少しだけ皮膚が硬くなり始めたトウマの手のひらが、クロの髪の毛を弄んでいる。手櫛をしたり、撫でたり。おっかなびっくりといった素振りながら、その手触りは心地よい。

 心地よい、確かに。直截に言って、恋人のような手触りは、とても、気持ち良いな、と思う。もっと触ってほしい、という想いと相反するように鎌首を擡げたのは、冷然とした本能だった。

自分に其の資格はない、という自覚。というよりも、自分の資格はそれではない、という思考。彼女らしくなく、それでいて彼女らしいその思考。ぐるぐると、巡る言葉が無意識の深層から胸郭に浮かび上がる。

 あの黒衣の剣士。それに、メルトリリス。何故2人とも、同じような言葉を吐いたのだろう。どちらも何か、因果が結ばれた存在者なのだろうか。それともただの収斂進化か。どちらにせよわかるのは、クロエ・フォン・アインツベルンは、彼女らしい大人っぽさで以て、彼女らしくない煮え切らなさに悩んでいたのである。

 だが、ともかく、彼女の二重螺旋を描く葛藤を愛撫するように、トウマの手がクロの頬から離れる。ひた、と冷たい感触が頬を撫で、クロはちょっとだけ、身動ぎしてしまった。

 そこから、トウマの動作はルーティン化された実に人間らしい動きをした。ベッドを軋ませることもなく抜け出し、綺麗に寝具を整える。ぱりっとした動作には、眠気は感じられない。ちょっと前には、随分寝坊助だったような気もする。

 なんだか誇らしくて、ちょっと寂しい。1/3ほどに覚醒が拡大し、クロはほんのちょっとだけ目を開いた。

 うーん、と伸びをするトウマ。ちょっと前まで、ありふれたどこにでもいる16歳の男子高校生だった背中は、まだまだ精悍という言葉とは程遠い。未発達の筋肉に、まだ場慣れとは程遠い呼吸。後頭部の髪の毛をかき回す仕草も、なんともまぁ呑気そう。

 それでも、彼の身体は、前よりは硬さを感じる。抱き癖のままにクロに抱き着くトウマの身体の感触は、前よりも固く、それでいて、なんだか遠い。

 衝撃もなく、トウマは立ち上がる。黒いバトルユニフォームに着替えると、トウマは簡易的に自作したデスクの前に座った。

 持ち込んだタブレット端末を起動させ、キーボードアクセサリの礼装を起動する。デスクの上に投影された非接触型キーでパスワードを打ち込んだ後、彼は慣れた手付きで何かを始めた。

もう一つ、8インチの小型タブレットと見比べるように視線を交互に動かしては何かを入力していくトウマ。ふわ、とあくびもしつつ、真剣な表情で液晶画面と向き合う姿はちょっとした学研の徒といった感じだ。流石に教授然、というほどな大人らしさはないけれど、勤勉な博士課程(ドクター)といった印象はある気がする。若干、クロの認識論的転回による誤解も幾分か含むだろうだけど、彼がある程度の勤勉さを発揮しているのは間違いないようだった。

 「腹減ったな」

 独り言ちる。保存用の剛性蛋白質のチキンバーをむしゃむしゃしては、ちびりちびりと水を飲む。

 昔から、トウマはこんなに真面目だったんだろうか。いや、そもそも、トウマは、どんな風に生きてきたんだろう。素朴に浮かんだ疑問は、思いのほか根が深く、クロの深層に浸潤した。

 一般的な高校生の生活をイメージする。起きる時間は6時か、7時? 少なくとも4時ではないだろう。通学は確か自転車だった。ホームルームの前に登校して、友達と暇な時間を潰すか、それともやっていない課題を慌ててやるんだろうか。友達と交わす会話は、それこそアニメやゲームの話だったり、次のテストが怠いなんだという話だったり。それと、どのクラスの女の子が可愛いか、みたいな話だったり、か。

 ある意味で『当たり前の生活』という、一見豊かに見えて、実際豊かで希少なものを経験したことのあるクロは、そんな日常を普通に想像できる。そんなトウマの隣に自分が居る、という複合観念を創作できるくらいは。

 とは言え、それ以上はイメージし辛い。当たり前の日常の中でトウマに出会ったとしても、そもそも何かしらの志向性を向けるだろうか。応、とは応え難い。さりとて否とも言い難い。曖昧な輪郭の想像は、とりとめが無かった。

 しかし、自明なことも、ある。人理の喪失という尋常ではない未曾有の出来事にあって、あらゆる不可能性の壁を超えて、トウマはこの世界に転がり込んできた。そして自分も。トウマ風に言えば、同じ『型月世界』でありながら主幹を大きく異にする世界から、この世界に召喚された。

 そうして事実として彼女と彼は交錯した。

 あの日あの時。

 あの、教室で。

 不意に、クロはそれを知覚した。

 天幕の裡に、するすると黒い影が混じる。白墨のような白い髪に、黒いロングコートの小柄な人物。少女然、というほどの小柄ではないけれど、それでもちょこちょことした仕草もあって、なんだか幼い。

 メアリー・リード。海賊のサーヴァント。クラスはライダー。もちろんサーヴァントなので、小柄とかこどもっぽいだとかは、意味が無い。座に召し上げられた時点で、英霊には時間概念が無意味になる。そもそも、メアリー・リードの絵はもっとオッサンみたいだったような気もする。アン・ボニーが気を引いたのだから、若いころは顔かたちが整っていたのだろうが。

 メアリー・リードは、静々と、アサシンさながらの足運びでトウマの背へと向かう。集中しているせいか、それともあくまで一般人のトウマには知覚できないか。恐らく両方の理由によって、トウマは背後からの闖入者を捕捉できなかった。

 メアリーの表情はわからないが、それこそ獲物を前にした肉食獣のようだった。目の前に肉の塊を見せつけられた獅子か虎か。とは言え、肉食獣とは得てして慎重なものだ。目の前の肉に快く襲い掛かるのは、確実に獲物がしとめられると確信した時である。その時まで、粛々と獲物の動向を観察するものだ。

 ソロリソロリ。トウマのすぐ後ろまでついたメアリーは、覗き込むようにトウマの肩口から顔を出していた。

 それでも彼は気づいた様子がない。思春期の少年を子供に持つグラサン姿のダメ親父のように腕組みし、何か独語を漏らしている。

 「戦術はそれしかない。間違いなく、クロはヘラクレスに対して有効打になる」

 ほんの微か、トウマがクロを志向する。漫然としながら、にも関わらず明確な形へと収斂する志向。

 「で、トウマ君はクロエを戦いに出したくないのかな」

 「ぅおわぁ!?」

 ギャグマンガみたいな悲鳴とともに転がり落ちるトウマ。巻き込まれたメアリー諸共に地面に転落すると、ドッタンバッタンした騒音が埃とともに立ち上がった。

 「あ痛たたたた。大丈夫ですか、あの」

 「あー少年クン。大胆だなぁ」

 甲高い悲鳴は、トウマのものだった。再度転げるトウマを他所に、メアリーはちっとも気にしないように立ち上がると、服の埃を払った。

 「何おっ立ててンのさ。別におっぱい揉むくらいよくあることじゃないか」

 「いやそんなに頻繁にはないのです」

 椅子の上に丁寧に正座して、妙に俯くトウマ。黒髪のつむじを見下ろしながら、メアリーはきょとんとした顔だ。

 「クロエと週何回? 月何回ってこたないよね」

 「え?」

 「oh~少年クン。よもやよもやだ。 胸触るのも初めて?」

 「ソッ、ソッスネ」

 「わ~お。こりゃたまげた。ぶったまげるね」

 言葉の内容とは裏腹に、口調は全然感情の抑揚がない。自分の胸を触りながら、メアリーはふらふらと小首を振っていた。

 「初おっぱいだぞう。もっかい触る?」

 「いや、その、それは」

 「じゃあする? クロと3人で」

 「は?」

 「あーもうクロには伝えてるんだけどね。3人て結構大変なんだけど、ボクこれでも経験は結構あるし大丈夫。楽しいよ。あ、アンも呼ぼうか? アンのおっぱいねぇ、もうメロン峠の牛女って感じで」

 「ステイステイ、待って待って、色々待って」

 がたがたと椅子を軋ませ立ち上がったトウマは、ただただ整理のつかない感情のままにメアリーの肩に掴みかかった。

 メアリーは行儀よく「待つけど」と言うと、いそいそとコートを脱ぎ始めた。

 「いやですから」言いかけて、トウマはただ、声を喪った。表情は、ちょっとわからない。ただ漠然とわかるのは、痛まし気ということだ。「それは」

 「バニースーツ?」

 「いやその」トウマは、眉を寄せて肩を竦ませた。「まぁそういうことで」

 「傷は勲章みたいなもん。生前最後の戦いのときの奴だから」

 「あの、ジョン・ラカムの船団の」

 そう、と応えるメアリー。彼女の表情も、上手く見えない。ただなんとなく、トウマとは対照的に嬉し気な気がした。

 「ボクにとって“傷をちゃんと見せられる、可愛い恰好”って欲求の具現かなと思ったけど」

 「なる、ほど?」

 「触る?」

 「いや、その」

 「ごめんごめん」

 ふらふらと椅子に座るトウマ。気まずさで言葉選びに迷っている様子とは対照的に、メアリーはほんのちょっとだけの嬉し気な感じを滲ませていた。トウマは、気づいていない。

 「少年クン。君はあんまり頭が良くない」

 ずぐりと、メアリーの声がトウマを刺した。ストレートな物言いに声を逸しながら、トウマはそれでも、メアリーの顔を、ちゃんと、向き直った。

 トウマは、そんなに頭の回転が速い方ではない。リツカやライネス、クロの会話のテンポについていけないことの方が、多い。

 「でも馬鹿じゃない。学校? だっけ。成績は?」

 地元の先進校で、一応は成績上位だった。半分より上、という意味では。

 「まぁ普通です」

 「そ、普通。少年クンは馬鹿じゃあない。つまるところ、貴方はボクの言いたいことはもうわかる」

 「楽しむことが、メアリーさんの基本?」

 そうだよ、とメアリー。ぴょん、と椅子に座るトウマの膝の上に乗りかかると、赤面して顔を逸らそうとするトウマの顔をがちりと掴んだ。

 「トウマ少年に触りたかったり、“粘膜接触”したかったりするのも欲求だけど。所詮ボクはサーヴァント。この特異点が消滅したら、消えるだけの存在。だけど貴方はこれから先も生きていくんだから、その先の人生が善くあれかし、と思うのもボクの欲求」

 「そこで、葛藤はないんですか」

 「楽しく気持ちよくなれれば一番じゃない。難しいこと考えても、あまりいい答えはでてこないよ」

 トウマの頬から、手を離す。そのまま手を自分の太腿に手を置くと、少年クンは優しいね、と無表情の中に、小さな笑みを零した。

 そうして、不意に、メアリーはくしゃりと表情を震わせた。惑乱と発露を綯い交ぜにした情動に、何より彼女自身が躊躇っているかのようだった。後頭部の髪をかき回して、言葉を探すように震える口唇。

 結局、メアリーはただ困ったように表情を緩めただけだった。話す言葉はなく、ただ静かにトウマの膝の上から降りた。

 「じゃあ、ガンバッテネ。それ」

 はい、というトウマの返答を聞いていただろうか。いそいそとコートを着込んだメアリーは、入り口の布を持ち上げたところで、未練がましく―――むしろその対極の情動のまま、立ち止まった。

 「傷を舐められるの、好きなんだ」

 「え?」

 「全部終わったら3人で遊ぶ約束。だからちゃんと、クロにも伝えといてね」

 にへら、と、やっとメアリーは笑い顔を作る。何の頓着も拘泥もない、海のように底抜けの深度の自由さを惹起させたかのような、純朴な顔立ちだった。

 入り口をくぐるメアリーを見送って、トウマはしばし、呆然としていた。行き場をなくした心情をどう放出すべきか、それとも堪えるか、ぶちまけるか、決めかねているようだった。

 視線を落とす、自分の手。握ってはひらく動作を繰り返す手を見下ろす視線が揺れながらも、それでも一点に収斂していく。

立ち上がる少年の身振りは、凝固を始めていたようだった。何をすべきかは既に決め、あとはただ、行為の重さを、背負おうとする困難な意思を担うのみ、とでも言うように。

 クロ、と名前を呼ぶ声は、ほとんど自分へ向けた独り言のよう。伸ばした手が身長133cmの小さな身体の肩に触れた。

 接触する指先は頬を撫で、耳を擽り髪を梳く。じんわりと広がる感触の心地よさは、閾値すれすれに励起する化学反応のようだった。

 「やるべきことは、わかってる。でも」独り言は、他の誰でもない、自分に言い聞かせるようなものだった。「弱くてもいい、って。キツイっすよ、ウェイバー・ベルベッド」

 手が、離れる。最後に下唇を指先で擽るように撫でると、トウマは彼女の額に、自分の額を触れ合わせた。

 舌先から滑り落ちる、少女の名前。少年の舌は痙攣発作を起こしながらも、懸命に、溢れる何かを溢さぬように、慎重に、控えめに、そうして確かに、彼女の名前を呼び掛けた。

 

※ 

 

 「メアリー?」

 近くの木陰から、アン・ボニーは声をかけた。

 幕を潜って出てくる相棒。黒いロングコートのような出で立ちの、矮躯の女性は、アンの声にのんびりと手を挙げた。やぁ、と声を上げてはいないのだが、そんな呑気さも伝わってくる。

 「振った」

 「あら」

 「振られた」

 「まあ」

 「やっぱり後でクロエと少年クンとで3Pすることにした」

 「あらあらまあまあ」

 それで、会話は終わりだ。全く会話の脈絡もないのだが、メアリーはいつもこんな風である。アンはそんなメアリーの在り方が理解不能で、とても興味深くて好きだなと思っている。愛しい、とも。思えば、そんな神秘的な少年さに惹かれたのだった。

 「アンも混ざる?」

 「私、別にあの少年クンとはなぁと思いませんけど」

 「そっかぁ」

 「メアリーとクロエならいいですよ。触ったら撃ち殺すってことでいいですか?」

 「うーん。まぁいいんじゃないかな。撲殺の方が好みかもしれないけど」

 「なら混ざります。楽しそうなので」

 「過激だなぁ」

 なんとも物騒で破廉恥な言葉を平然と羅列する。アンとメアリーは特に感情の起伏も見せはしない。今更そんな友達ごっこをする必要は、2人にはない。何をするのにも、2人は感情なんていう出来あいのものを漏出することはしない。ただ、不定の情動を互いに感じながら、言語化しえない強度の間身体性あるいは潜在性の弘原海を飄逸する様は、親友なんてそんな言葉では済まないものがある。

 そんななので、手を伸ばしたタイミングは全く同じだった。指を絡める動きも同じ。だからといって顔を見合わせる初心さもないし、にやにや笑いを浮かべる饐えもない。

 「私のところに来ます?」アンは周囲の林を見回した。

 「リツカちゃんとマシュは?」

 「2人でお散歩みたいですよ」

 「外が好きなのかな、お2人」メアリーの表情はなんとも胡乱だ。多分、あの堕落したリツカが早朝に起きてるということが信じがたいようだ。

 「ですかね」

 「たまには外に行く?」メアリーはおどけたように肩を竦めた。「冗談」

 アン・ボニーも同じように、肩を窄める。そうして互いににへら、と破顔すると、アンはメアリーの身体を軽々と抱き上げた。

 メアリーは少しだけ、納得いかない様子だ。生前は、立場は逆だった。メアリーはもっとすらっとしていて精悍さすらあって、アンをお姫様みたいに抱き上げたものだ。

 芸術家のサーヴァントは、全盛期の姿が子供であったりするらしい。要するに感性の豊かさの象徴が、子供らしさというわけだ。ならば、メアリーのその姿もそうなのだろう。メアリー・リード。私生児としてこの世に放り出されるように産み落とされ、軍人になって結婚し、海賊に転がり落ちて、恋人のために無慈悲さすら見せて、そうして苛烈さすら剥き出しにした。そんな実直さと天衣無縫の合いの子こそがメアリー・リードであり、その小さな姿がその象徴なのだ。

 まぁ最も、アンも人のことは言えないのだが。とは言えアンの人生の結末は、結構普通なのだ。むしろ、幸せな結末というか。メアリーの末期とは、全く異なる……。

 アンとメアリー。激烈さをこそ象徴とする2人の女海賊は、今この瞬間だけは、ある意味で彼女たちの自由な気風の本性を愉しんでいた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

狭界への澪標

 フランシス・ドレイクは、妙な感慨を以て1室を見回す。

 大テーブルがあったそこには白いロングデスクが並び、正面には壇上が一つ。真正面には巨大なボードが掲げられていた。

 「まぁよく作ったもんだねこれ」

 「雰囲気づくりって大事だからね」

 デスクの内の1つ、椅子に座ったライネスは今日2杯目の紅茶を静々と注いでいた。少し垂らしたブランデーの飴色が、もうもうと湯気立つ湖面に宝石のように煌めいている。

 最も、ドレイクが眺めているのはそのアルコールの雫だけであるが。彼女としては、ブランデー入りの紅茶よりも紅茶入りのブランデーの方が性には合っている。いや、というよりも、ブランデーだけでいいまである。

 「結構アンタ、凝り性だよね」

 「別に。やるからには全力でやるのがモットーなだけよ」

 ふい、とつんけんして答えたのがメルトリリスだった。普段とは違う“普段着”姿で部屋の端っこに座る彼女は、何やら黒髭と真剣に意見交換している様子である。

 「いやあでもバ●ダイのプラモ技術はイカれてますよ。長年ガンプ●開発してる技術を感じるっていうか」

 「●ンプラはまだ手を出してないのだけれど、何が良いかしら。初めてなら」

 「バ●ルとかいいんじゃないっすか。造りやすくてめちゃ動くし。完成品ならメタルビルドも良さそうな」

 「値段がネックかしら。でもランチャースト●イクのウェポンラックは良いアレンジだと思ったわ」

 「でもランチャーがビームサーベル持っちゃったら最強すぎでは???」

 「万理ある」

 ちょっと何言ってるかわからない。ライネスは幾ばくか懐かし気な感じだが、果たしてそういう趣味があるんだろうか。なんとなく聞く気になれないドレイクである。何せあの黒髭がキャッキャしているのだから、多分碌な話ではない。

 「座ってたらどうだい、フランシス・ドレイク」

 ひょいひょい、と手招きするライネス。僅かばかり持て余す気持ちを見透かされたようで、ドレイクは妙な気恥ずかしさのような感情を惹起させた。

 「緊張するかい」

 「緊張ね」差し出されたカップに視線を落とす。動作はなんだか不格好でソーサーに零れた水滴が躍っている。「正直、何を感じてるかわからないって感じ」

まじまじとカップの中味を見下ろす。黄金色にも見える紅茶が大半で、ブランデーは垂らした程度しかない。これじゃあ飲んだ気がしない、と思いながらも、ドレイクは行儀悪くずるずる音を立てて啜った。ライネスは一瞬整った眉目を動かしたが、特段咎めるような目つきもしない。マナーの倫理性は、海賊には無縁のものだとよく心得ていた。

 「まぁそれ言ったら、トリムが居なけりゃ人にお茶も出せない私の方がだらしないものさ」

 「なんだって?」

 「独り言」

 するすると、ライネスは無音で茶を嚥下する。動作一つとっても洗練された陶芸のようだが、もちろんドレイクの琴線には触れる様子もない。

 だが、ドレイクとしては思うところもあった。そんなライネスの動作を注視していると、彼女は、あの人を自然と思い出していた。

 「なぁ、一つ聞きたいんだが」ドレイクはあっという間に100ccの紅茶と数滴のアルコール飲料を飲み干した。「フジマルリツカだっけ、アイツはなんなんだい?」

 「リツカがなんだい?」

 「いや、別にどうってわけじゃあないんだけどね。なんとなく、恩人に似てるんだよねぇ」

 ドレイクの脳裏に浮かぶ、人物が一人いた。

 フランシス・ドレイクが、恐らく唯一頭が上がらない人物。一介の海賊に過ぎなかったドレイクの復讐心を結果的に補助し、果ては海軍提督の座にまで上り詰めるきっかけを与えた彼女は、英霊フランシス・ドレイクを語る上で決して外せぬ要素の一つだ。

 当時のイングランドの女王、エリザベス1世。知悉と勇敢さを兼ね備えた女傑と、あの自堕落な藤丸立華の姿は、一見して重ならない。

 自分でも、何故にそこに何か似ていると思ったのだろう。温厚そうな雰囲気に、場違いな郷愁を感じたのだろうか。それだけフランシス・ドレイクにとってエリザベス女王は特別な人物なのだけれど。

 「なんなんだろうね。私も正直、彼女のことはよくわからない」ライネスは静かにソーサーの上にカップを置いた。「間違いなく“良い人”ではあるけど」

 「あのガキンチョと同じように?」

 「どうかな。トウマ君は一生懸命だけど凡人。リツカはそうだな、ニヒリストだよ。ニーチェ的な意味でね。凡人の理性と良識はちゃんとある。魔術師のことはクソ喰らえ、魔術使いは肥溜めの屎尿と思っている、ごく健全な市民ってとこかな」

 ライネスは、存外口が悪い。育ちの良さを感じさせる品の善さとの乖離は、その“良さ”の意味が複雑多岐にわたることだろう。芯の強さ、というよりは芯の靭性の高さは、饐えた生活特有の臭気を感じさせる。時計塔とかいう馬鹿げた組織のご令嬢、というのがドレイクの雑然とした認識であるが、こういった“ゲロの臭い”がする点は好ましいと思う。

 「いっそ直接話したらいい。面と向かって」

 ニヤニヤと鋭く笑って見せるところとか、本当に性格が良い。け、と舌を出して見せるドレイクは、マシュに引きずられてのろのろと入室してきた寝ぐせまみれの藤丸立華の姿に物凄く複雑な表情をした。

 「ほら先輩、皆さんに挨拶をしなければ」

 「うぉー。コンニチハ」

 挨拶と言うより、最早吐露のようである。礼儀もくそもあったものではない姿は、あの清廉で強い意思を感じさせるかの女王とは全く違う気がする。少なくとも、一見は。

 「先輩、寝ぐせが」

 「マシュ直してよう」

 「はい、是非に。マシュ・キリエライト、任務了解です」

 近場の椅子に座ると、マシュは寝ぐせ直しのスプレーを懐から取り出すと、甲斐甲斐しくリツカの髪に手を入れ始めた。

 「なんとまぁ、我らがイングランドの女王は勤勉で、礼儀正しい。苛烈な経験を経た女王の風格、という感じだ」

 したり顔のライネスに、ドレイクは肩を竦めた。両者ともに不敵そのものみたいに顔を引きつらせた。

 やはり気のせいか。くうくうと寝ぼけた様子の藤丸立華の覇気の無さと言ったらどうだろう。確かに、エリザベス女王も質朴ではないが飾り気があるタイプでもなかったが。

 それとも、気のせいではなく錯誤だろうか。復讐心という、とても理性的ではない情動に猛るが故の、それは何か縋るような感慨か。

 そうだ、復讐心こそ、フランシス・ドレイクの根幹の一つ。苛烈且つ激甚、そしてある種の、執念深さ。ベラクルスの一件以降、スペインと言う国に抱き続けた心こそは、フランシス・ドレイクを彼女たらしめる要因の、大きな一つなのだ。

オデュッセウス。ギリシアの古き英雄にて、そうして、この不可思議な特異点の初期からアルゴノーツのサーヴァントを率いてきた英霊の真名だ。ケイローンから伝えらえれたアルゴノーツ側の内紛と、海賊狩りどちらにも関わり、その両者を瀕死に追い込んだ張本人。それがオデュッセウスという英霊なのだ。

 ドレイクが想起したのは、数多の英霊たちだった。アルゴノーツから離反して仲間になったアスクレピオスをはじめとするサーヴァントたちも当然、ジョン・ラカムやロバーツも。

 対価、というはあまりに大きな犠牲で、得られたものが少なすぎる。私略船の船長として、対価に相応しい収穫があるべきだと思うのは当然の思考回路だ。フランシス・ドレイクは現実主義者なのだから。

 やいのやいのと小さな喧噪が生まれ始めて、およそ20分ほど。開始5分前ぴったりに入室したケイローンが、この小集団の最後のメンバーだった。

 「よぅし、じゃあ始めよう」

 おもむろに、されど意気揚々と立ち上がるドレイク。全員の視線を一身に浴びながら、彼女はその視線一つ一つに視線を鋭く返した。

 相変わらずにやにや笑うライネス。緊張気味にそわそわするトウマ。澄ました様子のクロエ。2人が着くテーブルの上で、オリオンは何やら思案気なよう表情。寝坊助顔のリツカに心配そうなマシュ。メルトリリスのつんとした顔はクロエとよく似ているような、似て居なような。ドレイクとしてはようやっと馴染み始めた面持ちだった。

 旧来、共に戦ってきた仲間の顔は見慣れたものだ。不敵な顔の黒髭コロンブスに、不敵はそうだが幾分か朗らかさを感じさせるアンとメアリー。落ち着き払ったケイローン。改めて見回すと、これでも全盛期の半分いるか居ないかという数だ。決して敵拠点を攻略する数としては多くない。敵の戦力を考えれば、この3倍の数はサーヴァントが欲しい、と思う。戦術家として、ドレイクはまず、そんな当たり前の前提を内心で確認した。

 だが、状況を変転させる要因が一つある。

 それはこの部屋の一画、隅に小さく座り、何やらおっかなびっくりしたような油断ならないような仕草で座る、みょうちきりんな恰好のサーヴァントが1騎。初めて見た時、トウマとクロエが「魔法少女だこれ!?」と騒いでいたのが印象的なひらひらした装いのキャスター、メディアだ。本人が居るわけではなく、あくまで像だけをこの場に現出しているだけだとか。超長距離からの遠隔操作の精密さとしては尋常ではない、らしい。一通り魔術を嗜んでいる人ら──ライネスやクロエだけでなく、あのリツカすら卒倒しかけていたのは印象深い。神代の魔女の異名を恣にする英霊、という名前は伊達ではないということだ。なにやらそわそわしているトウマは、必死に情報を整理しているようだった。

 「現状は既に情報を共有していると思うので省くが、構わないね?」

 皆、一様に頷いた。冗長な会議にならないようにする秘訣は、つまるところわざわざ情報共有の時間を設けないことだ。もちろん、そのための会議はほぼ、無意味でもある。

 つまるところ、彼ら彼女らが既に共有している情報は、以下の2点。

 

①:現状の戦力比

②:敵戦力の概略

 

 両者とも、ケイローンからの情報によっての確度の高い情報である。メディアの言葉も信頼性を、ある意味で裏付ける。

 そしてこの前提までたどり着いたからこそ、最終攻略地点に駒を進められたのだ。即ち、味方の戦力の増大と、敵戦力の漸減。衒いも何もあったものではないのだが、戦術や戦略というのはそう難しいものではない。単純な話、敵より味方の方が

 「まず皆に理解してもらわなければならないことだが」と言って立ち上がったのは、ライネスだった。「敵の狙いは……要するに、意志的な意味でだけど……正直よくわからない。神代へ戻ること、という目標はあるらしいが、今この特異点は中途半端な状況だ」

 皆一瞬、ただ肩を竦めた。当たり前と言えばそうだが、この特異点で繰り広げられたのは、ある意味で表面上の戦闘だけだ。つまるところ、敵戦力を減らしはしたが、そもそも何故この特異点を発生させたのか、という命題には何も触れていない。

 「この聖杯が何を作ったのか、すら不明だからね」

 そう言って、ライネスは至極乱雑にふところから取り出した金の杯を地面に放り投げた。

 からん、と厭に甲高い音を立てて、黄金が転がる。甲高さは虚ろの証明か。ただ高次世界から“こちら側”の世界にほとんどすべて落ち込んでしまって完全に物質化してしまった聖杯など、ただのアクセサリー程度の意味しかない。あるい優れた呪物になるかもしれないが、既にサーヴァントという超高次元の存在者になってしまったライネスには、聖杯(アートグラフ)の残骸などさして必要なものではなくなっているのである。

 「まぁ酒の入れ物にしちゃ悪くない」ひょい、とコロンブスは杯を持ち上げると、背後のマシュへと手渡した。「首の入れ物にしちゃあ、ちょい小ちゃいからな」

 「マシュにはちょっとアクが強すぎると思うかな」

 おっかなびっくり手を伸ばしたマシュから遮るように、朗らかなリツカが手を伸ばす。手の軌道は、明らかにマシュを守るようにも見える。だが、そんなリツカの手よりも先に、マシュの手が聖杯を掴んだ。

 「あまりその、ブラックジョークのようなものは苦手で」

 マシュは申し訳なさげに、小さく頭を下げた。コロンブスとリツカ両名に対する動作だろう。ちょっとだけ嬉しそうな表情のリツカは何も言わず、コロンブスはわざとらしく口角を下げた。

 「ハラスメントって奴か」困ったような表情……というには、なんだかコロンブスの表情は、リツカと同じように、ちょっとだけ緩んでいた。「時代ってのは、前に進んでいくもんだ」

 「いいことじゃねえか? まぁ、俺たち海賊みたいな連中の居場所は、なくなっちまったけどな」

 「多分そうだな。少なくとも、悪いことじゃねえ」コロンブスは、何の頓着もなく笑った。「止まらずに前に進むから、人間ってのは人間なわけだ。あと俺は海賊じゃねえ」

 なぁ、とマシュに話を振るコロンブス。トウマと同い年くらいに見える、あまり自己主張とは無縁そうな少女は、コロンブスを伺うような覗き込む視線で、そうですね、と控えめに応えた。

 「でも、そのアートグラフを相手は探してるんじゃないの?」

 クロは背後の席から、マシュの手元を覗き込んだ。少しだけ嫌悪的なのは、気のせいだろうか。

 「そうなる。少なくとも、明確にアルゴノーツがアタシらに攻撃を始めたのは、その飾り物をキルケーが奪ってきてからの話だね」

 「ただ、ここまで消費された聖杯をどう活用するのかは正直検討も付かない。サーヴァントの魂を回収して高次に存在する座への孔を啓く機能と、それを活用した願望機の性能くらいは維持できるかもしれないが。正直、いわゆる大魔術師くらいでもなければ無理だ。少なからず、私には無理だね」

 匙を投げる、というように、ライネスはお手上げポーズをする。つまるところ、普通の人間には、この聖杯は無価値というわけだ。

 「一応なんだがね、メディア。君以外に、残りのアルゴナウタイに優れた魔術の使い手はいないんだよね?」

 「無い、と考えるのが自然かと思います。ヘラクレスとディオスクロイ、アタランテ、3人にはその力はありません。ただ、オデュッセウスの逸話と結びついた神体結界(アイギス)の機能は私でも把握できていませんが」

 メディアは微かな懸念を幼い顔に滲ませながらも、「あくまで可能性としては、低いと思います」と付け加えた。

 「それで、メディアはこちらの味方。じゃあ、残るは、敵の親玉ってわけだ」

 「イアソン、ねえ」

 思わず、と言ったように、ドレイクはそのなじみの薄い名前を呟いた。

 イアソン、という英霊の名前程度は座の知識として知っている。人望厚い類まれな英雄として生き、そうして最後は惨めに死んでいった、哀れな人物。人類史において、海洋冒険の黎明を拓いた人物と言えよう。まぁ、ドレイクとしては特に尊敬も何もないのだが。

 アルゴー船とイアソンの名は不可分である。それだけ結びつきの強い名前ではあるが、この特異点で、イアソンという存在は妙な靄の中に淀んでいる。

 「メディア、アンタもイアソンとはほとんど喋ってないんだろ?」

 「はい。最初は私たちの前に顔を出してくれていたんですが、内紛のごく初期から神殿の奥に籠り切りになってしまって」

 「開けてみたら蝉でも出てくるんじゃないかい?」

 メディアは身体を小さくして、申し訳なさげに俯いた。英霊の座に昇った後のメディアとイアソンの関係性は不明だが、やはりこの2人の関係性も強固なものがあるはずだ。そのメディアが何も喋れてない、というのは、如何にもおかしい。

 「アンタもかい?」

 「そうですね、私もほとんどイアソンとは喋っていません」対照的に、ケイローンは冷静な様子だ。「ただ内紛初期の時点で、相当面喰っていたようです」

 「仲間の離反ってことかい?」

 「恐らく。ただ、ヘラクレスは仲間についてくれましたから、最終的には」

 「神代に戻るっていう動機についても聞いてないかい?」

 「えぇ、そちらも特に」

 メディアは同じような仕草で、やはり頭を下げるだけだった。

 畢竟、まだ見えているのは敵の漠然とした目標だけで、その目標に対する動機は見えてこない。それにこの事件の要石にもなるだろうイアソンも、表に出てこない。

 「まぁ、だが正直に言えば、その動機やら何やらは関係ないんだ。要するに、敵を倒しさえすればそれでいい。別に、事件が解決せずとも、倒すべき敵を倒せばいい。私たちは、別に、誰かと違って“名探偵(エルキュール)”ってわけじゃあないしね」

 誰か、と言うフレーズだけ妙に強めにライネスは口にする。特に誰も気にした風もなく、ただ意外そうな視線だけが彼女に集まっていた。

「 敵の動機はともかく、最終的な着地点が見えている。逆に言えば、動機や何やらがなんであれ、神代への回帰という目標さえを潰せば終わりってことさ」

 ライネスは椅子に腰かけながら、別な人物に一瞥を渡した。

 次に、おっかなびっくり立ち上がったのは、立華藤丸だった。えぇと、と妙に吃っては手元のタブレット端末を無意味そうに弄ってる。隣に座るクロに小突かれてようやく気を取り戻したらしいトウマは、わざとらしく咳払いをした。

 「えーと、これってこうかな」

 ウエストポーチから取り出した端末を操作する。リモコンらしきそれのスイッチを押し込むと、向かって正面のボードに投射映像が浮かび上がった。

 「わースゴイ」

 「いや、そんなすごくはないです。ただのパワポみたいなもんなんで」

 無邪気そうに言うメアリーに、トウマは若干照れのような表情を浮かべた。そうしてまた咳払いすると、「えーと皆にはもう一旦情報は見てもらったと思うんですけど」

 さらに、スイッチを押し込むと、空中投影された映像枠に、諸々のデータが立ち上がった。

 「ヘラクレスの柱……」

覚えず、というように呟いたのは、マシュだった。そうです、と相槌を打つトウマの表情は、真面目というよりは深刻な色調だ。

 「ヘラクレスの十二の試練の内の一つを達成する際に行った、山割り。詳しい話はここではしませんが、要するにヘラクレスの柱は現世と異界を繋げるための門、あるいはそれを繋ぎ詰める柱に相当するものだと考えられます」

 「神代は世界の裏側へと逃れ去った。視方によっては、神代は現世の果てにある異界と見做すこともできる、ってわけか」難しい顔をしながら、ライネスは手慰みにつんと立った鼻頭を撫でる。「ある種、世界を繋ぎ詰める聖槍、か。神造兵装の可能性すらあるのかな、これ」

 「確かにあのヘラクレス、ランサーだったわね。つまり、ヘラクレスの宝具がその柱であり、その宝具の発動によって神代回帰は始まるってことかしら」

 「わかりませんけど。その可能性もあるんじゃないかな、って」

 意外にもメルトリリスの発言に、やや緊張した様子でトウマは応えた。

 つまるところ、動機はともかく、方法論としてはヘラクレスが神代回帰の鍵ないし要石そのもの、というわけだ。人理定礎が既に崩壊しかけ、異なる歴史へと進み始めるスタート地点、特異点(シンギュラー・ポイント)になりつつある16世紀。神代を解放しようものならば、崩壊は取り返しのつかない決定的なものになるだろう。

 だが、逆に言えば、まずヘラクレスさえ撃破すれば、敵の思惑を挫くことができる、とも言える。

 「私が言えたことじゃないと思うんだけど、宝具ありすぎじゃない? 普通、サーヴァントが持って来られる宝具って、1つか2つだと思うんだけど」

 クロは呆れた様子で肩を竦めた。確かに彼女は人のことは言えた義理ではない気もする。

 「『十二の試練(ゴッドハンド)』と『十二の栄光(キングスオーダー)』、その柱と『射殺す百頭(ナインライブス)』と考えれば4つですか」

「全部が全部インチキ宝具じゃない。そもそもさ、2番目の宝具が1個カウントなのも卑怯よ」

 「普通、真名看破したら致命傷になるのがサーヴァント戦なのですがね」

 いや増しに呆れる素振りのクロに、指折りで数えていたケイローンもただただ苦笑いするばかりだ。ケイローンの発言ももっともで、前2者の宝具だけで、いわゆるトップサーヴァントとて歯が立たない化け物であろう。それに加えてヘラクレスの技倆そのものが昇華した宝具に、おそらく超一級品……話を聞くに、神造兵装の可能性すらある武装。ここにいるサーヴァント全員で戦っても勝てなさそう、と思わされるサーヴァントだった。

 ヘラクレスを倒しきれば勝ち。ある意味シンプルな結末だが、その結末に至るのは困難極まりない。Plus Ultra、とは皮肉なものだ。

 「あのー、ちょい拙者から質問なんですが。それだとなんであの筋肉達磨、宝具を使わないんすかね?」

 「これは推測なんですが、あの宝具にはなんらかの発動条件があると考えられます。それが何なのかはわかりませんが」

 「その条件が聖杯かもしれない、ってことかな」

 眠たげな垂れ眼のまま、リツカが言う。多分だけど、と前置きして、リツカは覗き込むようにトウマを上目で覗き込んだ。身長156cmの小柄な体躯にちょっと照れたように表情筋を動かし損ねながら、トウマは頷きを返した。

 「聖杯と槍ってセットで語られるからさ。ロンギヌスの槍であれ、アーサー王伝説の聖槍であれ。ギリシャ神話とはあまり関係ないっちゃないんだけど、でも別な神話体系による模倣は、真性の再現よりも時に特異的な状況を発生させる傾向がある、みたいな学説があるんだよね。受け売りだけど」

 「神話は別な系統樹を取り込むって奴か。それこそ、教会の専門ってわけだ。どんなことが考えられる、リツカ?」

 「そうだなぁ」ライネスに水を向けられ、彼女は柄にもなく考える素振りを見せた。「御子の死を確認するために、ロンギヌスは肋を刺し、滴る血を聖杯は受け止めた。逆説的に、聖杯が受け止めるべき血、そしてその血が湧きだしたる聖なる槍で傷つけられた肉体は、聖性なる子ってことになるのかもしれないね」

 独り言というより独語にも似た語りのあと、リツカは、確信めいたことなど一切ないふわふわした声で〆た。

 「英雄としての側面ではなく、神性(主神の子)としての側面を強調したヘラクレスの再召喚。私なら、それを狙うかもしれない」

 凪いだ、海のような闃然が静かな波を打つ。明らかに荒唐無稽な話だが、現状、ただの飾りに過ぎない聖杯を、呪物として運用するならばもっとも強力なものになるだろう。そしてその現実は、可能性として、なお強力なヘラクレスと戦う可能性もある、ということだ。

 「でもどうなんだい? そんなごった煮宗教みたいなこと、ちょっと信じらんないけどねぇ」

 「そうだね、はっきり言って与太話だと思うけど、可能性は0じゃない。この世界はあくまで無限の傾向性の量子が広がっている……っていうとあれだけど、要するに、組み合わせや接続は全ての出来事に適応され得るんだよ」

 ほんわりと笑うリツカ。側頭部で一つ結びにした髪をかき回した仕草は、なんでもない、とでも言いたげだ。

 「まぁこの可能性は考えなくていいんだよ。というより、そこまでされたら負け。聖杯にせよ別な要素にせよ、ヘラクレスの柱が本領を発揮したら、そこで人理はお終いってことさ」

 「お終いなんだから、深く考えてもしかたない?」

 蠱惑的な鋭い笑み。そういうこと、と応じるリツカの気だるげな笑みに嫣然を浮かべたクロは、「リツカは変わらないわね」と続けた。

 「ドクターは微妙そうな顔してそうですけどね」

 「気持ちよく、無責任に、ですね」

 続くトウマもマシュも、いつものこととでも言うように、4人で顔を見合わせる。ライネスはちょっとだけ不思議そうな顔をしながらも、しょうがないな、とでも言いたげに吐息を漏らしていた。

 「いいねぇ、そういうヤケクソな感じ! アタシら狼藉者に似合いじゃないか」

もちろん、フランシス・ドレイクも基本的にはやけっぱちさではリツカと同等だった。というより優れた知性の反動とでも言おうか、海賊船の船長なんてやってるんだから当然と言うか。知性だけで、世界一周の航海などできたものではないのだ。

 「あ、そっすかねドレイク船長」

 「あ。うん、多分」

 とは言え、なんともリツカと接しにくいドレイクなのであった。ほんわりと表情を緩めるリツカはどう見てもあの女王とは重ならないのに、何故かちらついて仕方ない。らしくないように、ドレイクは苦笑いするばかりだ。

 「これまでの話を総括するなら、まずもってヘラクレスの打倒をしなけりゃならないってことだ。それで特異点が修復されるかどうかは不明だが、それにしてもヘラクレスを撃破しないことには始まらない。そこで次の作戦の戦略目標はヘラクレスの撃破、そこに尽きる」

 「もしこのくそったれな世界が終わらなきゃあ、そん時はそん時か。馬鹿にもわかりやすくていい」

 コロンブスの合いの手に、釣れない様子で頷くライネス。それで、と口にすると、彼女は背後の姿を丐眄した。

 「それで、ヘラクレスを撃破する手段は、クロ。最後は君がヘラクレスを倒す。そういう手筈で良かったかな?」

 「問題ないわ。ねえ、トーマ?

 クロの口ぶりは軽い。他方のトウマは、ただ厳めしいような顔で、頷いただけだった。いつもの頼りなさげな雰囲気は変わらないけれど、微かな緊張が滲んでいる。

 「よし、じゃあ私とドレイク。リツカと、あと……メディア。あとは、私たちの仕事だ」静かに、そして満足気に座り込むライネス。ちらと送った視線がドレイクと重なると、如何にも悪戯っぽい、それでいて悪魔じみた嫣然を口の端に惹起させた。

 「戦略は決まった。戦略目標を達成するための手筈も決まった。あとは、その結末に至る脚本(戦術)を書けば、あとは完成だ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 唐突に、烈日の旱魃に放り出されるような感覚……。

 アタランテは顔をぐしゃぐしゃにしながら、呻くように目を覚ました。

サーヴァントにとって、“睡眠”とは奇異な現象である。短期間で終了する聖杯戦争であれば、本質的には不要な行為であろう。エーテルで構成される英霊は幽界に属するものであり、身体的疲労の回復という観点での睡眠は不要である。睡眠による魔力消費の抑制は、非効率的で基本的には良い手ではない。

 他方、睡眠と呼ばれる行為の高次的機能である記憶の整理──継続する記憶を断絶させ、無意識の領域の中で整理するという行為──は、如何に英霊とて物質の世界に形を持つ以上、必要な行為だ。特異点における超長時間活動となると、その行為の必要性は顕著になる。さらに前者の効率という点でも、活動時間が長時間にわたり、且つ既に魔力供給減がある上でさらに魔力消費を抑えるという観点では、効果的とは言えないまでも、無駄とは言えない行為になる。

 畢竟、特異点と呼ばれる人為的に、且つ歪に発生した擬制的な歴史での長時間活動に従事するサーヴァントたちには、睡眠は必要な行為であった。

 アタランテが目を覚ました時、感じたのは頓に不快な感情だった。基本的にサーヴァントは夢を見ないが、活動が長時間になればなるほど、記憶の堆積とそれによる無意識領域の発生、そうして夢と呼ばれる人間的営為が生じ得る。今回の人理焼失という事件における異例中の異例、最強の使い魔たるサーヴァントが1か月ほどに及ぶ長時間の活動という出来事において、初めて見られた現象である。

 ……なお、降霊科(ユリフィス)でも召喚科、特にアメリカから時計塔に編入してきた現代魔術寄りの魔術師が提出した論文に上記の説は提唱されていた、という。だが、貴族主義的なユリフィスでは一笑に付されたどころかオカルト扱いされて馬鹿にされた論文であった。現代魔術よりにも関わらず、実証可能性に乏しいという、論理実証主義的というよりカルナップ的な皮肉交じりの反論で、論文は眉唾扱いされたのである。図らずも人理が焼失するという未曽有の事態で実証されたものの、こうなっては時計塔もクソもないというのもやはり皮肉だろう。

 ともあれ、不快な感情とともに目を覚ましたアタランテは、まず木の枝から足を投げ出した。彼女は、普段からいい感じの木の枝の上で眠るのである。島の中央には雨風が防げる神殿があるが、アタランテにとって家の外こそが棲まう場所であった。

 「居ないのか」

 周囲を気づかわし気に見回す。普段なら、無垢な少女のようにポルクスが駆け寄ってきて、現代的な──あるいは未来的な人間の料理とやらをもってきてくれたりするのだが、今日はそういう日ではないらしい。あのサンドイッチとやらは旨かったな、と夢想して、彼女の中で、“ポルクス飯”のランキングを変動させた。それまでのトップはハンバーガーとやらだった。特に食事について頓着が無かっただけに、現代の料理はまさに魔的なまでにアタランテの心──といいより胃袋を鷲掴みにしてしまった。

 と、彼女は不意に、下からの視線に気が付いた。

 しーしー、と舌を震わせ、こちらを見上げる多数の眼差し。大蛇ほどにダウンジングされた蛇竜が、ふらふらと頭を揺らしていた。

 ひょいうい、とアタランテは身軽な動作で地面に降り立つ。すかさず足に絡みついてきた蛇を抱き上げると、「なんだ、お前もか?」と目を覗き込んだ。

 「ポルクスの作る食事は確かに旨いからな。昔は、そんなことなかったような気がするんだが」

 もちろん、アタランテの言う昔とは“生前”という意味だ。アタランテとディオスクロイの関係は、アルゴー船だけでなく、カリュドーン狩りの際にもともに轡を並べた仲だが、その頃はスパルタの出身なだけに、ストイックな人物だったような気がする。

 「そう言うな。私は料理なんてしないんだ。いいか、英霊が生前持っていなかった習慣を身に着けるというのはだな、そうそうないことなんだぞ。余程衝撃的な記録でもない限り、大抵の記憶は座で無価値になってしまうんだ」

 あやすようにラドンの小さな身体を腕の中で上下させながら、アタランテは、今を以てまだ世界の裏側という高次世界に生きる神獣に、言って聞かせてみる。

 思えば、英霊の座なんて御大層な名前だが、要するに人理とやらが物珍しさで英霊の記録をストックしているだけの、悪趣味なものだ。そんなものから呼び出され、クラスなどという枠で囲われるサーヴァントなど、その実美術品や何やらの鑑賞物と大差ない。最強の使い魔などといううたい文句で魔術師たちは崇め奉るが、言ってしまえばカルト集団が教祖を眺める視線と、違うところは何もあるまい―――少なくとも、アタランテはそう理解している。言ってみれば陳列物で、所詮それでしかないサーヴァントの事情など、神代より生きる神獣にはあまり想像しがたいものなのだろう。

 「まぁ、でもお前もヘラクレスの宝具で呼び出されているのか。どういう原理なんだ? よもやサーヴァントの身で神獣を引っ張り出せるとは思えないんだが」

 小首を傾げるアタランテ。同じようにたくさんの首を傾げる神獣。なんとも愛らしい仕草である。これであのテュホーンとエキドナの子であり、神代ギリシャに名高き幻想種を同胞に持つ竜種とは思えない。

 「その話はよしてほしい。何にせよ、私は料理なんてできない」

 するすると身体に巻き付いてくる竜種に、アタランテはただ、愛惜のような、ともあれ悲し気な表情を浮かべるしかなかった。野に生きてきたが故か、それとも獅子に変成した逸話の故か、アタランテは、【動物会話】のスキルを有している。

 「もう、終わったことだ。いや、これから始めることか」

 アタランテはそう言い、大蛇を地面に下ろした。不思議そうに見上げてくるラドンから、視線を逸らした。

 「いや、すまない」アタランテは妙に言い訳がましく、肩を竦めた。「お前が悪い分けじゃない」

 なおも何か気づかわし気に蛇は首を傾げた様子だったが、それ以上、何をするでもなかった。そろそろと地面に這い、呑気そうに叢の中へと消えていった。

 アタランテはその姿を追おうともせず、ただ、途方に暮れたように佇むばかりだった。何をすればよかったか、彼女は今もってわからない。妙に空虚な掌を握っては掴んでから、アタランテは逃げるように、明後日へと走り出した。

 あの時も、こんな森の中だった。

 アタランテは、漠然と、質感の無い記録に埋没する。

 自分でも、いつのことだったか不鮮明な思い出。思い出というにはあまりに手触りもなく、無味乾燥。にも拘らず、か弱い疚しさが心房の底で息づくようなその苦しさ。振り切ろうとしても振り切れない苦酷から逃れるように、アタランテは瞬く間に島の外縁へとたどり着いた。

 凪いだ海原。低く唸るような沈黙がわだつみの底で蠕動しているかのような静謐。空の果てには黒雲が、分厚く跋扈している。近く、天候は荒れるだろう。それこそ、今日の夜にでも。

 去来する思惟、錯綜する感情。手指神経に帯電する、残心。アルゴナウタイの1人を射殺した時の感覚は、まだ、残っている。

 「先へ進むべきだ、なんて言われたって。私の気も、知らないで。お前は無責任だよ。メレアグロス」

 あふれる。

 何かが。

 

 ※

 

 「どうした」

 オデュッセウスがその幻想種を見かけたのは、意外にも海岸付近だった。

 見上げる多頭の視線も、随分慣れたものだ。不思議そうに蜷局を巻く大蛇に手を伸ばすと、不機嫌そうに彼? は身を捩らせた。ヘラクレスの一件もあってか、テュホーンとエキドナの子らは人間が大嫌いだ。もともと幻想種は人間が嫌いだし、ヘラクレスの一件があればなおのこと、だろう。魔獣たちの指揮権をオデュッセウスが所有している以上、彼のことは毛嫌いしていないけれども、それでも過干渉はお断りというスタンスである。ポルクスは現代料理を提供しているせいか、なんとなく“ご飯を持ってきてくれる良い人”みたいな認識が魔獣全体で形成されているとかなんとか。確かに神代の食べ物などより、効用はともかく食事の味に関しては現代の方が優れていると言えよう。

 ……余談だが、実際時計塔でも伝承科と現代魔術科、創造科の共同論文で、『食事における現代の先進性と反-魔術性』などといった趣旨の論文が提出されたりもしている。最も、評判は奇抜なタイトルの割に堅実という評価に落ち着いているらしいが。当然、これはオデュッセウスには全く与り知らぬし、そもそも全く本筋と関係のない話である。つまるところ、閑話休題。

 「心配か、アタランテが?」

 オデュッセウスが一歩下がるのを認め、大蛇は緊張を解いたようにだらりと身体を地面に横たえた。だが、まだ気になるのか、多頭の頭は全て、崖の上に佇むアタランテへと向いていた。

 「良い奴だな、お前は」

 オデュッセウスは、そんな無邪気な蛇を、複雑な情動のままに見下ろした。

 こちらの世界のオデュッセウスなら、なんと言ったことか。少なからず、今の彼には理解できない。ただ生き、殺すことを続けてきた彼に、豊かな情緒なんてものはない。

 だが、その言葉が情緒と異なるものかと言うと、そうでもない。彼は彼なりに思考し、今の彼で言うべき言葉を漏らしただけだった。それはきっと、ペーネロペーを一筋に愛し続けた男の言葉というには、あまりにも朴訥としていたかもしれないが。異聞に生きたオデュッセウスには、わからない。知識でしか、

 「だがお前はお前だ。お前はパルテノパイオスでもないし、奴もそこに同一視などしていないだろう。共感なんて求めるな。お前はお前の在り方で、奴と接してやればいい」

 竜の表情など、もちろんオデュッセウスにはわからない。もともと表情の機微で他者を理解するなど、人間の論理だろう。なので、慮るべき感情がこの多頭の竜の中にあるかどうかなど、オデュッセウスにはわからない。

 「守ってやれ。何かあったらな」

 だから、そんな陳腐な言葉しか出てこなかった。

 当然と言うか、心のこもらない、ただ知識から引き出してきた言葉が通じるわけがない。はてな、と首を傾げる多頭の蛇に、「人間のフリさ」とオデュッセウスは自嘲気味に零した。

 勇敢で誉れ高い守護の竜。りゅう座に召し上げられたラドンの見透かすような視線に、オデュッセウスも、視線を逃れた。

 「今日は嵐だ」

 それは、独り言のような独語。アタランテの肩越しに見える青い空の果てには、黒い暗雲が淀みのように滞留している。

 踵を還すオデュッセウス。蛇竜の内、頭のいくつかは立ち去る鎧姿の男を視線で追う。残った頭は相変わらずにアタランテの弱弱しい背中を、ただただ眺めていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

散開星

 「妹よ、どこにいる?」

 日差しは空の上、直上。刺すような日差しを厭わし気に振り仰ぐ。こんなに日が照っているというのに、深い森には陽の光が届き切らない。要害としてはこれでいいのかもしれないが、こんな時には不便を感じる。不便の対価に得るものと飲み込むほか、ないのだが。

 「むう、こう魔獣が多くては」

 時折、のっしのっしと顔を出す魔獣──下級の合成魔獣、という意味でのキメラに捕捉されまいと木陰に隠れてやり過ごしては、カストロはやれやれと嘆息を吐く。

 無論、英霊の中でも有数の実力を持つカストロにとってみれば、神獣でないキメラなど物の数ではない。物の数ではないが、魔獣たちはあくまで味方だ。人間とは、決して相容れない系統樹。幻想が形となったもの。

の、はずなのだが。

 「何を考えて居るのやら」

 独り、言ちる。

 わしゃわしゃ、と宝石のように煌めく星金の髪をかきまわし、カストロは、ほんのわずかな不安のような情動を、小さく漏らす。

 カストロにとって、ポルクスの最近の動きはあまり、手放しに喜べない。なにやら未来の料理などを作っては楽しんでいるようだが、何故そんなことをする必要があるのか、カストロには理解できない。ポルクスがカストロに理解できないことをしているのが、一番、理解できない。理解不能の連鎖。カストロは募る不快な心情に、ただただ、舌打ちしたくなる。

 それもこれも、人間などという下等種のせいなのだ。人間の信仰とやらが、本来不変であるはずの永遠の存在である神霊を脅かすという、奇怪な事実。そのせいで、古において神霊であるはずのディオスクロイは、片方やただの人に貶められ、自分自身の半身ともいうべき妹すらも、半神へと堕落させられた。

 昔は違った。互いは互いを認識し、同じ生き物のように意思疎通ができていた。何を考えて居るかは手に取るようにわかる、緊密さ。それが、昔はあったのだ。

 「人理など、滅べばいいのだ!」

 苛立つままに、カストロは吐き出してしまった。鼻を鳴らす勢いは強く、カストロは行き場のない怒気のまま、地団駄を踏んでしまった。

 無論、ただの地団駄ではない。サーヴァントのそれである。当然地面は抉れて土煙を舞い上げて、吹き上がった土砂を諸に浴びたカストロは、なおのこと憤懣やるかたない表情になった。

 とは言え、流石にもう一度地面を踏み鳴らす愚はおかさない。というより、怒りの赴くまま力を振るえば、また似たようなしっぺ返しがくるだろう、という学習により、カストロはむくれるように地面に腰を下ろした。

 ちょうどあったオリーブの木に身体を預け、ただただ忌まわしい表情で悶々とする。魔獣たちや歩哨として歩き回る竜牙兵は、触らぬ神に祟りなしとばかりに、遠巻きにその姿を眺めるばかりだった。

 「む」

 だがそんなカストロに構わずに、近寄る影が一頭。苛立たし気に顔を上げたカストロの目に飛び込んできたのは、三つ首の黒黒した大型犬だった。

 ケルベロス。テュホーンとエキドナの仔にして、冥界の門番を務める神獣。諸々の都合でダウンジングこそされているものの、その精強さは常軌を逸している。サーヴァント1騎でどうこうなる相手ではない。

 とは言え、何もケルベロスはカストロを見縊って近づいてきたわけではない。嗅ぎなれた匂いにつられてきてみれば、思っていたのと異なる人物が居た、という状況だ。もちろん嗅ぎなれた人物とはポルクスのことである。

 カストロを見るなり、ケルベロスは眠っている頭以外、如何にも「ウワッ」と言いたげな顔をした。失望まじりの胡乱な目でカストロを眺めること数瞬、やれやれ、というように、ケルベロスは身を翻した。

 「おい待て」

 「?」

 勢い立ち上がるカストロに、ケルベロスの二つ頭はうんざりしたように振り返る。神獣なだけあって分別は弁えているが、やはり、ケルベロスは人理を系統樹とする霊長になど興味はない、と言いたげだ。

 「妹の食事を一番食ってるのは貴様だな」

 そうだが、と言うように、首の一つが軽蔑の視線を向けてくる。甘いものが好きなだけあって、特にポルクスにまとわりついているのがこのケルベロスだ。

 「旨いか」

 そりゃあもちろん、と言うように、もう一つの首が深く頷く。

 「当然だ。俺の妹の料理が不味いわけがない」

 なんだかラノベのタイトルのようなセリフを吐くカストロ。自信満々に胸を張るカストロに、目が覚めている首二つは再度、うんざりしたように顔を見合わせる。

 「だがわからんのだ。何故ポルクスはそんなことをしているのだ」

 「知らんがな」と、恐らく二つ首は言いたかっただろう。だが、それよりも目の前で真剣に嘯くカストロの様子に、なんとなくケルベロスは圧倒されていた。

 「お、俺には何もないのだぞ」微かに吃るカストロ。「何故だ。俺が一番ポルクスを想っているはずではないか。それとも貴様ら犬畜生の方が良いとでも言うのか! 俺だってポルクスの作るごはんが食べたいぞっ」

 ──この時点で、カストロは大分冷静さを欠いていると言わざるを得ないだろう。確かに外見こそ犬だが、ケルベロスは神獣である。幻想種の頂点たる聖獸には及ばねど、それでも神霊にも手が届く。それがケルベロスをはじめとした、エキドナの仔なのだ。当然犬畜生などではない。むしろ人間の方が、彼らからすれば余程鬼畜外道の畜生である。

 普段のカストロであればその程度の分別は当然弁えているのだが、何分彼の精神状態は、色々と過剰だった。理性と良識が居眠りしている、とは言えないが、ややその働きは鈍っているのは間違いない。ケルベロスもそんなカストロの状態を承知しているので、分不相応な罵倒に目くじらを立てるようなことはしなかった。ただ、「うっせえわ」と言いたげに睨んだだけである。

 「兄様?」

 そして、そんな精神状態なのである。背後から顔を覗かせたポルクスを、カストロは今の今まで気がつかなかった。

 「むぉあ!?──ポルクスか」

 「あ、はい。そうですけど」

 ビックリしたように目を丸くしたポルクスは、汚い高音を挙げたカストロを不思議そうに見つめた。決まり悪そうに、「居るなら居ると言え」となんとも間抜けなことを言った。

 ポルクスの表情に、一瞬だけ過る奇妙な猜疑。とは言えそこに、剣呑はない。穏やかで受容的なその疑義の視線を、カストロは感知しなかった。

 「珍しいですね、こちらにいらっしゃるのは」

 「お前やアタランテと違って、俺はここの奴らには好かれていないからな」

 カストロは、自分の発言に妙な棘があることを、妙にはっきりと自覚した。そんな物言いをするつもりはないはずなのに、という困惑が相乗し、カストロは自分でもよくわからない不機嫌さを蟠らせた。

 だが、最も困惑しているのはポルクスであった。予想外のカストロの物言いにたじろぎながらも、ポルクスは、やんわりと兄の言葉をここでも受容した。

 「また餌付けか? ご苦労なことだ」

 カストロは酷く侮蔑的に、ケルベロスを見下ろしてしまった。妙なイライラが、どうにも止まない。戸惑うように佇むポルクスが、何故か不気味に見える。

 「あの、兄様」

 ポルクスは、か細い声を、ようやっと絞り出した。緊張で雁字搦めにされながらも、それでも手探るような声。

 だが、それでも閊えること十瞬にも及ぶ。やっとのことで兄を見上げたポルクスは、恐る恐る、手に持っていたものを差し出した。

 「兄様も、食べますか」

 小さな手に収まるのは、小さな函だった。金属製の函は、近現代で言うならソロキャン用の飯盒のようだろうか。可憐な少女の手に収まるものとしてはやや無骨であろう。だが、闊達な青年が持つには、相応しいものに見える。

 「要らん。人間の食い物など何故食わねばならん。そもそもサーヴァントに食事など不要だ」

 即答、してしまった。言ってしまってからカストロは、蒼褪めた。

 わからない、わからない。何故ポルクスはこんなことをしてるのか、何故こんな返答をしてしまったのか。その答えは、あまりにもシンプルに、目の前に転がっている。だがその答えを咀嚼できる、はずがない。

 「そうですか」ポルクスは、努めて明るい表情を作った。

 続く言葉を紡ぐように、ポルクスの口唇が痙攣する。聞きたくない、と思った。ただただ不快を募らせるしかできなかったカストロは、その言葉を聞く前に、逃げるように身を翻した。

 「ほどほどにしろ、ポルクス。人間ごっこなど我ら、し、神霊には不要だ」

 

 ※

 

 ポルクスは、その背をただ見送ることしかできなかった。

 どれほど、放心していただろう。兄の姿は当の昔に消え、さっきまであれほど赤々としていた空が、今は薄暗い。

 どうして、兄はそんなことをするのか、ポルクスにはよくわからなかった。わからないが、とりあえず、兄は自分の行為を拒絶した。その事実だけが、今は明瞭だった。

 ほろほろと、視界の輪郭がぼやける。目元から落ちる雫に地面を濡らして、ポルクスは慌てて目元を拭った。

 「ごめんね、変な所見せちゃって」

 ポルクスは表情を明るくしながら、しゃがみ込む。ケルベロスの首に手を伸ばしかけて、ポルクスはただただ溢れるものに耐えられなかった。

 静かに滲むような横溢。気遣うように頬を舐めるケルベロスのざらざらした舌触りもただただやるせなく、ポルクスはぽろぽろ落ちる涙があふれるたびに手で拭っていた。

 「こんな想いをしなくちゃいけないなんて、なんて不出来な生き物なの」

 ポルクスはただ、その現実の前に立ち竦むしかできなかった。

 人間。神の下等種。そう、カストロはいつも言う。確かにそうかもしれない。誰かと繋がりたいというそんな単純な情動を叶えるだけで、こんなにも傷つかなければならないなんて。なんて不便で、不出来な生き物なのだろう。

 だが、ポルクスは、そんな人間のことを嫌悪できない。たとえディオスクロイを純粋な神霊でないものにしてしまったのが人間の想念だとしても、それでも、ポルクスは構わなかった。

 だって、当然だ。神霊であることを辞めたディオスクロイは、カストロは、何に為ったのだろうか。何に、変わったのだろうか。

 「ねえケルベロス、また作ってくるわ。兄様が食べてくれる時、ちゃんと美味しいものを食べてもらいたいもの」

 むにむにとケルベロスの顔をもみくちゃしながら、ポルクスは、精いっぱいの笑みを作る。

 「兄様には言わないでね。門番なのですから、貴方は」

 ふるふると2つ首が頭を上下させる。眠りこけたのこり1つ首も、夢見心地の癖に首を下に振った。

 ポルクスは、おぼつかなく立ち上がる。目元は赤く腫れたまま、ポルクスは空を振り仰ぐ。

 樹々の隙間から覗く、薄く広がる灰色の雲。仄暗い陽の光に目を細めながら、ポルクスは、果敢無げに、表情を綻ばせた。

 頬に、何か冷たい水滴が当たった。雨、だ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

開戦Ⅰ

 アルゴノーツ拠点より北西40km地点

 洋上 黄金の鹿号(ゴールデンハインド)、船長室にて。

 

 ライネス・エルメロイ・アーチゾルテは、船長室の席で思いのほかくつろいでいた。

 これから最後の戦いが始まろう、としている。敵はあまりに強大だ。果たして、うまく行くのだろうか──そんな疑念は、当然ある。司馬懿の人格が裏に居るせいか落ち着きはあるが、それでもライネスはライネスだ。司馬懿の人格の多くを譲り渡された身としては、重責を感じないでもない。彼女は時計塔の政争では肝の太いところを見せられるのだが、流石にこんなスケールのデカい話ではビビる。

 まぁ、でもそれはそれ、と割り切れてもいるライネスである。彼女自身、この世界とは別な時間軸から召喚された依り代である。“客人気分”と言えば、その通りだ。

 無責任極まりない心情だが、無責任さとは放胆さを担保することもある。リツカが言わんとしていることは、彼女もわからなくはない。義兄をエルメロイの家系に縛り付けたのは、別に落ちぶれた家名を元に戻そうとかそんな気持ちからではなかった。

 最も、流石にここまで無責任を振りまく素振りはできなかったわけだが。その意味というか気楽さでは、リツカはちょっと、スゴイと思う。

 ある意味で、頭がいい。

 この世界の命運を担う、なんて言えばプレッシャーは凄まじいことこの上ない。精神構造がイカれている魔術師であっても気狂いになるだろう。そんな重圧を前に、リツカは建設的逃避を行っているのだ。しったこっちゃないわ、とヤケクソ気味に重圧を切って捨てた上で、無我夢中で任務に従事する。開き直りも度が過ぎていると思う。そして多かれ少なかれ、マシュも、クロも、トウマも、そんな気風に生きている。

 とどのつまり、現状のライネスのくつろぎは、まずもって、開き直りである。あるいは居直りか。

 「ま、ここまで来ちゃったんだからあとは野となれ山となれ、だ」

 決して座り心地のよくない饐えた椅子に身体を預けながら、ライネスはドライフルーツを一つまみ。甘みとともに酸性も凝縮されたキウイに眼やら口やら窄めると、ライネスはのんびりと腕時計を一瞥する。

 時刻は、AM0:20。予定時間まで、残り10分。

 (ういーこちらクイーン・アンズ・リベンジ、マイクテスマイクテス)

 なんともまあ気の抜ける声が耳朶を打つ。網膜投影される通信映像には、SOUND ONLYの文字が無機的に横たわっている。黒髭ことエドワード・ティーチは、いつなんどきも泰然としている。

 「こちらゴールデンハインド。感度良好」

 (美少女ライネスちゃんの……感度が……?)

 妙に、()()()とした声だった。罵声を浴びせる気も起きずにただただ黙っていると、自分の内側から交代を打診する声が耳朶を打つ。セプテムでは主人格を担いつつも、カルデアではすっかり後ろ側に退いてしまった司馬懿だ。こんな時は表に出てこようとする。ライネス自身は理解していないことだが、実のところ2人はよく似ているのだ。

 《良いよ別に。慣れた》

 《ならいいのだが》

 司馬懿の口調には一切の慮るところがない。善い気遣いとは、過剰な押しつけがましさがあるか、一切押しつけがましさが無いか、そのどちらかだ。

 (ちなみに拙者の感度も3000倍で良好ですぞゥ!)

 「ソウデスカホウコクアリガトウゴザイマス」

 わしゃ、とドライフルーツを鷲掴みにする。ミカンだとかレーズンだとかをまとめて口に放り込んでもきゅもきゅすること10秒ほど。とにかく雑多な甘みで口の中を攪拌し、紅茶で口腔内を流し込む。いっそ耳洗浄とかできないのかな、と思いながら、ライネスは眉間の皺を指でマッサージする。少しだけ、義兄の気持ちが分かったような気がする。

 (あーそれでですね)とりあえずふざけ終わったのか、黒髭はようやっと本題を話すことにした。(こちらは砲撃準備完了してますぜ)

 「了解。じゃあそろそろおっぱじめようか」

 (おっ……ぱ……? の感度が―――?)

 「ハイハイ、通信終わり」

 さっさと通信を打ち切る。ぶち、と耳道で音が爆ぜ、ライネスは思い腰を持ち上げた。

 「うひゃあ」

 船長室から出たライネスの素っ頓狂な悲鳴は、たちまちに雨風に飲まれていった。横殴りの風雨が、ライネスの小さな身体なんて軽々と浚ってしまいそう。慌ててベレーを抱きかかえる。

 たちまちトレンチワンピースがずぶ濡れになったライネスは、ちっちゃな体躯も相まって濡鼠そのものだ。

 這う這うの体で階段を駆け上がる。甲板(デッキ)に上がった彼女を出迎えたのは、豪風暴雨の雷撃にも負けない万雷の叫喚だった。

 雨風もなんのそのとでも言うように駆けまわる亡霊たち。黒髭に付き従う亡霊たちの内の何人かがクルーとして乗り込んでいるのだ。

 宝具と化したゴールデンハインドの運営に、人手は要らない。それこそ本来の持ち主であるフランシス・ドレイクならただ1人で十全な運用を可能とするだろう。身一つで手足のようにこの黄金の牝鹿を操るはずだ。

 だが、ただ一時的に宝具を貸し与えられているライネスにはドレイクと同じ練度の操舵はできない。それ故、だ。

 最も、客観的に理解するならば、ただ2日でゴールデンハインドを乗りこなせるように自らを錬成したライネスの執念は凄まじい。魔術の精密運用に長けるが故ではあろう。

 再度、網膜投影される映像を一瞥する。タイムカウンターは残り5分。デッキでこちらを見送るクルーを見回し、ライネスは無線封鎖する4騎以外に無線のチャンネルを開いた。

 「総員傾注(おはよう、君たち)。こちらヘッドクオーター。とてもいい天気だと思わないか、君たち」

 無線の奥、小さく笑い声が広がる。あくせく動き回っていた海賊の亡霊たちも、今だけがライネスの声に耳を傾けていた。

 「あと5分で作戦開始だ。オペレーション・ヘーラなんて、気が利いてると思わないか?」

 笑う声が漣のように騒めく。満足気に手を挙げたライネスも、思わず小さな笑みを浮かべた。

 「さぁ、この作戦の意義を考えようじゃないか。君たちはこれから、人類史をかけた作戦に身を投じることになる。君たち海賊が、この人類を救う担い手になるというわけだ。

 大航海時代。君たちが世界を拓いたこの時代は、正しく人間の時代の開闢だ。狭き神の世界より出で、誰も知らない未知へと漕ぎ出した私たち人類の時代だ。決して古ぼけた老人たちの時代ではない。

 ギリシャの耄碌たちに教えてやろうじゃないか。海の本当の覇者が誰なのか。16世紀の海が誰のものなのか、教えてやろうじゃないか。

 私たちは絶滅しない、私たちが生き延びるために、共に戦おうじゃないか、人理に誉れ高き大海の群雄(つわもの)どもよ!」

 高く、ライネスは手を掲げた。

 一挙に高まる緊張。タイムカウンターは残り30秒、擦り切れるような焦燥の中、ライネスは視界の端でゴールデンハインドと並走するクイーン・アンズ・リベンジの姿を捉えた。

 「砲撃用意!」

 (砲撃用意!)

 視界の果て、黒雲の下に浮かぶ影。島の姿を捉える。

 (カウント開始。5、4、3──)

 他人事のようだ、と思った。

 吹き荒れる嵐も、遠くに飄逸する島も。あらんばかりに張り上げる自分の声も、緊張のあまり嘔吐しそうになる内感さえも。

 セプテムの頃は、その多くを司馬懿が担っていた。ライネスは人格の裏で、ただ眠るように傍観していたに過ぎない。だから、今もって戦場のリアリティが何なのか、わからない。いや、そもそも、リアリティなどこんなものなのかもしれない。アメリカのハリウッド映画の方が、まだ現実味がある光景。人類の存亡をかけた戦いなどという妙に誇大なキャッチフレーズにしては陳腐で、ちんけな大パノラマ。ライネスはそんな非現実感の中、視界を過った表情たちを、網膜に焼き付けた。

 聖杯戦争に赴いたという、義理の兄だろうか。身一つで神造兵装の影を操る兄の内弟子だろうか。それとも、獣性魔術を操る生徒の1人だろうか。それとも、同じく生徒の1人で、インチキ魔術ばかり使う天才バカだろうか。

 数多かける見知った顔。最後に、唐突に、あるいは必然的に過った影に、ライネスは強張りにも似た別種の表情を浮かべた。ライネスとは対照的な、白銀の髪。サイドでひとまとめにした、傲岸で、それでいて義務感に満ちた、自分と左程変わらない姿の彼女。この世界にもきっと彼ら彼女らは居て、そして今、轡を並べる”友人たちが居るのなら。ライネス・エルメロイ・アーチゾルテのやることは一つしかない。

 それが、エルメロイ家の次期当主の意地のようなものだ。

 (0!)

 「|撃てェ《ファイア」!」

 振り下ろす、彼女の手が合図だった。

 並走するゴールデンハインド、クイーン・アンズ・リベンジの左舷に搭載された砲塔、その数は40に達する。重なる起爆の音は耳を聾するばかり。暴風雨の音すら押しのけ、無数の砲弾が黒天を切り裂いた。

 

 

 「帰るか」

 降りしきる雨の中、カストロは陰鬱に地面を見下ろしていた。

 森の屋根に遮られてなお、雨粒は殴打のように痛い。大気を斬る風の絶叫に神立ちが迸り、樹々は悲鳴のような音を軋ませている。すっかりぬかるんだ地面は歩くたびに汚水が飛び散り、足元はすっかり泥だらけだ。暴戻のような天候が、島の上に横転している。

 びちゃ、びちゃ。歩くたびに足元で水が爆ぜる。前後不覚に陥りながらも、カストロは真直ぐ神殿を目指していた。

 神殿に早く戻らなければ。ポルクスは間違いなく、そこに居る。

 戻って何をする。いや、そんなこと、考える間でもない。とにかく謝らなければ。酷いことをしてしまったのだから。

 だが、足取りは重い。単純に、気まずいのだ。彼彼女らディオスクロイにとって、こんなことは、初めてだったのだ。意思の疎通すらうまく行かずにすれ違うことなど、なかった。

 どれもこれも、人間どものせいだ。下等な種族の癖に、永劫変わらぬ神を侵すなどまかりならぬことだ。

 だが、と首を擡げ始めた思考から逃れるように、カストロは遁走した。いや、何から逃れているのだろう。自分でもわけのわからなくなったまま走り続けたカストロは、足をもつれさせて、地面に頭から激突していった。

 泥水が口の中にまで入り込む。ただただクソ不味い汚水が口腔内いっぱいに広がって、カストロは嘔吐するように吐き出しかけた。だが、そうはしなかった。濁った水溜まりから顔を上げたカストロは、口の中の泥水を嚥下して、眼球にまとわりついた汚水を拭った。

 雨が酷い。殴打のような雨が痛い。星のように綺麗なはずの金の髪は文字通り汚水を被った汚さだった。

 ただ我武者羅に走り出したカストロは、それに気づけなかった。

 飛来する砲弾。宝具と化したガレーから放たれた先込め式砲塔から放たれた質量弾は、当然、サーヴァントとて耐えられるものではない。

 しかもその砲弾、放ったのはかのアン女王の復讐号。乗り合わせるものが多ければ多いほど威力を増す特性は、極めて高い耐久値を持つディオスクロイとても耐えられぬものだっただろう。

 普段の彼なら、仮にレンズシバとカルデアスを併用して行われる精密砲撃とて躱すことなど大差ない。躱せなかった理由は、いくつかあった。

 彼の精神状態。まずそれが1つだ。極めて不安定な……神らしくない不安というトンネルに迷い込んでしまったカストロは、いつもより色々なものが鈍かった。

 だが、それだけではない。そんな個体的な心情は、要素の1つだが、要因としては大きくない。

 最も大きい理由は別で、それこそが、この戦いが始まった条件でもあった。

 そもそも、この島は魔術・光学的に秘匿され、被発見リスクは極めて低い。その時点で、まず直接攻撃が加えられる可能性など想像もつかない。さらに、仮に発見されたとしても、やはり直接島内に打撃を加えるのは容易ではない。神代の魔女手製の結界は、物理・魔術的な干渉を妨害する。Bランクの宝具でようやく貫ける、という堅牢さ。

これら2要素から、島内に攻撃がくるなど全く以て理外のことだった。いずれその可能性はあるかもしれない、という予感はあれど、可能性そのものは薄い。来たとしても、遠い未来のことの、はずだ。

だから、カストロに躱すことなどできはしなかった。Aランクに匹敵する【直感】でもあれば話は違ったが、どちらにせよカストロにはそんなものはありはしない。畢竟、カストロにはその不意の砲撃を躱すことは、不可能だった。

 あ、と思ったときには既に遅かった。振り返り、大質量の砲弾を視認した1秒後には、もうカストロの肉体は挽肉になる運命を避けられなかった。

 迸るような叫喚が、横殴りに唸った。カストロを突き飛ばしたのは、巨大な黒塊。滾るような声は霹靂のよう、ダンプカーが突撃するような衝撃に気絶しかけたカストロは、ただ、その光景を眺めていることしかできなかった。

 直撃する砲弾、砕ける骨肉。顔面を砕かれた2つ首はそれで即死し、残り1つ首も頭蓋を破砕され、致命傷だった。

 力無く萎える巨躯。首一つで大岩ほどもある、浮遊する三つ首。神獣ケルベロスが本来の姿、冥界の番人は見るも無残な姿で朽ちていった。

 カストロはただ、その骸へと駆け寄った。

 ほぼ、即死だった。霊核は既に高次へと退去し、急速に腐敗を始めた血肉が泥濘のように地面に広がる。泥水と混ざり合って、ケルベロスの肉体は消滅を始めた。

 唯一、霊核が消滅しているにも関わらず、三つ首の内の1つがウウウ、と唸り声をあげた。頭部を砕かれ青紫色の脳漿が飛び散り、視神経が繋がったまま眼底から零れ落ちた眼球が、幽らと風雨に弄ばれていた。

 どうすることもできなかった。高位の魔術師、それこそメディアであっても、これほどの致命傷はどうしようもない。カストロはただ、加速度的に覆滅していく神の獣を傍観している他なかった。

 まだ、獣は低く唸っていた。自らの命を絞り出して嘔吐するみたいに息を漏らして、残った一つ首の、まだ生きている眼球が、カストロの姿を捉えていた。

 犬、は表情筋の発達の都合、顔で楽しいという感情を表現できない。尾で感情を表現するが、神獣ケルベロスの神体は、ただ首だけが浮遊しているという姿だ。何を想い、何を感じているのか、カストロには理解し得なかった。ただ彼に出来たことは、じっと見返してくる魔犬の目を、見返してやることしか出来なかった。

 時間にしてみれば、わずか10秒程度。カストロがようやっと何かを言いかけた時には、白く濁った眼球が、そこにあっただけだった。もう、ケルベロスではなかった。ポルクスに懐いていた、ケルベロスでは。

 そうして1秒後、巨体は瞬く間に消滅した。蛍の燐光のような霊基の残照も、すぐに大気に溶けていった。

 カストロは、彼女の名を口にした。強張るような口角からなんとか声を絞り出し、

 今度は、その気配を知覚した。背後から襲い掛かってきた気勢に対し、即座に円盤を叩き込んだ。

 「これは」

 あまりに果敢無い手応えとその砕けた残骸に、カストロは目を細めた。

 降りしきる豪雨、揺れる密林。轟くような音に紛れて、きしきし、と何かが群れている。人間とは異なる骨格が剥き出しになった、奇怪な形の兵士。竜牙兵の群れは、カストロに対して明確な敵意をぶつけてくる。

 「メディアの造反か。いや、轡を違えたのは、オデュッセウスもか?」

 既に骸と化したケルベロスを背後に思う。

 幻想種の多くはヘラクレスから呼び出されているが、その指揮権はオデュッセウスに一任されている。あの男の完全な統率があったなら、ケルベロスはカストロを助けるなどという愚行はしていなかったはずだ。カストロ1騎よりも、神獣ケルベロスの方が遥かに強力なのだから。

 何がどうなっているのか。判断材料はなにもない。判断材料がなにもないなら、ディオスクロイの片割れがすべきことは一つしかない。

 踵を返すカストロ。以前なら、あれほど感じられた妹の存在が、感受できない。なら、彼女の下へと走るしかない。

 地面を蹴り上げ体躯を前に。天に煌めく星のように、カストロは泥の大地を踏み抜いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ペルゾーンⅠ

 「皆さん、無事につきましたか」

 アルゴノーツ拠点、南東部。

 四方、その多くを崖に囲まれた孤島。岩礁も多く、船で乗り付けられる場所は砂浜のある北西部しかない。

 そんな孤島の南東部。尋常であれば接岸すら不可能な崖の下に、5人4騎は居た。

 ライダー3騎、アーチャー1騎。アーチャーはケイローン。ライダーはクリストファー・コロンブスにアン・ボニーとメアリー・リード。そして、フランシス・ドレイクという面々であった。

 「ったくよお、こんなチンケな襤褸船でこの嵐の中、50km漕げっていくらなんでも無理があるだろ」

 吐き捨てるように言うコロンブス。丁度雨の当たらない岩陰にいるお陰で、ようやっとの休憩だった。

 「まぁでも僕ら海賊だし。ライダーだし」

 「私たち、全然ライダーっぽくないですけどね」

 「どっちかってーとセイバーだよね、メアリー。アンはアーチャーか?」

 「そういうドレイク船長はもうしっかりライダーだよね。コロンブスは──わかんない。人間の屑ってクラスないのかな?」

「そもそも俺ぁ海賊じゃねぇしひでえ言いようじゃねぇかよ!?」

 思い思い、4人は軽口をたたき合う。雨に波にと晒されたせいで、皆ずぶ濡れでとてもテンションは高くない。サーヴァントは身体的疲労とは無縁だが、気分の問題としては幻滅極まるといったところだ。

 「まぁあの嬢ちゃんに比べたらマシだ。こんな荒波の中泳いでんだろ?」

 「あら、でもメルトリリスが一緒なのでは」

 「むしろ逆効果定期」

 「違いない」

 皆どっと笑った後、ドレイクは、「それでどうするんだい、隊長?」とケイローンに水を向けた。

 ごほん、と咳ばらいを一つ。改まったケイローンは、天を振り仰いだ。

 眼前に屹立する絶壁。これからこれを登り切り──しかも敵の索敵を掻い潜るため、魔力の消費を極力抑え──、その後敵地に戦力を展開。一路、オデュッセウスを撃破する。そぶりを見せつつ、敵戦力の漏出を防ぐのが、ケイローンたちの任務だった。

 一瞥を、島の果てへと投げる。海洋に浮かび砲撃を加える2隻の船、そしてその直後に訪れるであろう光景を幻視してから、ケイローンは努めてにこやかな表情を浮かべた。

 「では、頑張りましょう。ロッククライミングは初めてですか? 結構、では私のスキルで付与して差し上げます。岩登りに自信のないものは名乗り出てください」

 仲良く手を挙げる4人の船乗り。だろうな、と思いつつ、ケイローンは彼のアクティブスキルを発動する。

 【神授の叡智】。汎用スキルであればB~Aランクで任意付与を可能とする、彼の教師としての在り方が具現化した宝具だ。聖杯大戦の形式において、これをうまく運用すれば戦いの趨勢を決定づけるとすら呼べるスキルだろう。そんなスキルを使って付与するのがロッククライミングとはどういうことだ、という話だが、ケイローン的には他者に教えられるならなんでも嬉しいものである。そも、海賊たちに与してからというもの、建築術に野草の栽培魔獣の飼い方と、そんな日常? 的なスキルを教えることが多かった、という事実はここで述べておこう。

 そうして3分。1騎1分のペースで岩登りを習熟させまくると、勢いケイローンは崖に取りついた。

 「では参りましょう」

 「うーん胸が突っかかって」

 「あーアン、アンタもかい」

 「お先~」

 「あークソ、髭が! 髭が絡まる!」

 「リラックスできていて何よりです」

 ──とても敵の本拠地に潜入している最中とは思えない、はっきり言って間の抜けた光景である。無論そんな珍奇な光景が繰り広げられているとは思いもよらないであろう、ちょうど崖の上を哨戒していた合成獣は、叩きつけるような豪雨と遠く響く神立ちのような砲撃音、そして何やらの困惑によって、右往左往としている。

数は3頭。山羊の頭を背負った合成獣も居れば、蟷螂の鎌を背負う獣も居る、神代の牡牛も居る。

 そのうちの一頭、白い合成獣(キメラ)の頭部に矢が突き刺さる。頭蓋を砕き一矢用意に頭部を貫通した矢が地面に突き刺さり、攪拌された脳髄を血と一緒に撒き散らした。立て続けに雨音を弾き飛ばした銃声が迸り、一瞬遅れて飛来した銃弾が背中の山羊の頭を破砕し蛇の尾を引き千切り、それで絶命した。

 敵襲、と魔獣の小集団が悟った時には既に遅かった。牡牛は首を落とされ蟷螂を背負ったキメラも一刀のもとに両断されていた。未だ魔獣種に留まるヒュドラが逃亡しかけたが、背を見せた時が終わりだった。頭部を槌で磨り潰された魔獣はそこで絶命し、一度だけ身体を痙攣させると沈黙した。

 わずか1秒。いや、正確にはその半分ほどの時間もかかっていない。魔獣種の小集団を殺戮した余韻は欠片もなく、4騎のサーヴァントは慎重に周囲を索敵する。

 「目撃者はいませんね?」

 「とりあえずはね。でもメディアはこっちを見てるんじゃあないかい?」

 「おぉい見てる~?」

 「いくらなんでも自由すぎるだろ海賊」

 「メディアは味方ですから。形式上」

 どこともしれない場所に向かって手を振るアンとメアリー。本当に、これから激戦が始まるとは思えない空気だ。しかもケイローンが背負う箙には、数本の矢がかちゃかちゃと音を立てている。対ヘラクレス用として用意された兵装。かつて戦い、撃破した神獣の肝臓、胆嚢より精製されたそれは、伝承上ヘラクレスに致命傷を与えうる装備だ。

 とは言え、ヘラクレスにそれがどれだけ効くのかはわからない。1度殺せる可能性はあるが、1度殺したところで無意味。それがヘラクレスという英霊の、何よりの強さだ。

 だが、何にせよヘラクレスに対し、有効打であることは事実だ。作戦が万が一ずれた際の打撃手段としては申し分ない。

 ケイローンは努めて犀利な人物である。そういった客観的事実を対自化し、納得している。たとえ自らが育てた弟子であろうとも、矢を向けることに戸惑いはない。それが戦いであるなら。だが、それをヘラクレスに向けるという出来事は、ケイローンをして心理的苦痛を感じないわけにはいかなかった。

 リツカに、感謝しなければ。フランシス・ドレイクを差し置いてこのチームの指揮権を渡された理由は別にあるだろうが、ケイローンへの配慮もやはり理由にある。と、思う。

 「ケイローン?」

 小首を傾げて見上げるメアリー。いえ、と首を振ったケイローンは、いつも通りの理知的で、大人な表情に切り替えた。

 「それでは行きますよ。遅れずついてきてください」

 

 ※

 

 始まった。

 オデュッセウスは島の片隅、小さな洞の中で顔を上げた。

 タイミングは彼の予定通り。おもむろに立ち上がったオデュッセウスは、神体結界(アイギス)から剣を引き出した。

 アイギス・カリュプソー、彼の旅路を守る海の女神の名。アテナが遣わしたアイギス、鍛冶神が錬成した神の盾を以て再現される『オデュッセイア』は、このオデュッセウスには、本当は関係がない。とある異聞に生きた彼は何の旅路も経ず、またトロイア戦争も無縁だった。伝説など彼にはない。

 どうしてこの汎人類史に自分が居るのか、その理由は知らない。何かの因果によってここに紛れている。オデュッセウスがわかることはそれだけだ。

 だが、別にそれはどうでもいいことだ。何の因果にせよここに自分は居る。汎人類史のオデュッセウスを取り込んだこの状態でここに居る。なら、やることは一つだった。

 剣を、突き立てる。剣を起点に地面に奔る召喚陣は、奇妙な文字がのたうっていた。古代のギリシャ文字ですらない、あるいは文字ですらあるか不明な文字列。神代においてもおそらく最も秘匿され、時代に痕跡さえ残らなかった──というより意図的に遺されなかった文字。ヘカテより伝わり、太古の魔女たちが口にした固有語。高速神言によって唱えられる魔女たちの言葉で織成された召喚陣。

 ゆらりと揺らめく黒い影。霧のように噴出した真エーテルが淀み、堆積した魔力が形を成していく。

 白銀の鎧纏う頑健な体躯、異聞の大神の加護を受けたる槍兵、数20騎。汎人類史には決して存在しなかったはずの、誰でもあり誰でもない臣民の武装形態だ。

 もちろん、それそのものではない。所詮その形をとるだけの使い魔で、形式上は英霊に昇れない幻霊のようなものでしかない。だが、その精強は英霊にも匹敵するだろう。

 これに幻想種の指揮権もあれば紛れはないはずだった。だがそう上手くはいかないだろう、ヘラクレスから譲渡された指揮権を発動しようにも、島の幻想種にアクセスできない。理由は不明だが、間違いなくメディアの仕業だろう。

 「目につくものは全て殺せ。幻想種だろうが英霊だろうが、全てだ。行け!」

 オデュッセウスの檄に押されるように、20の影が蠢く。黒い霧から覗く銀の鎧が闇夜に溶けていき、野に放たれていく。

 どれだけ時間が稼げるだろう。極めて算術的に1騎あたりの消耗率を勘案すること1秒未満、オデュッセウスはあまりに頼りない一歩を踏み出した。

 雨が酷い。飛び跳ねる泥水がアイギスを汚している。こんな時が、確かあった。主神が呼んだ嵐に見舞われた時だ。カリュブディスに部下が食われてしまったあの、時。

 いや、それは自分の記憶ではない。他人であるオデュッセウスの記憶であって、オデュッセウスには記録に過ぎない。無味乾燥で、手触りが無い単なる記録。だが、今は自分の内に固着している記録。

 オデュッセウスは目の前に飛び込んだ姿に、躊躇なく剣を振り落とした。小型のヒュドラは唐突に首を両断し、自分に何が起こったかすら不明なままに絶命した。

それが合図。立て続けに襲い掛かる巨大な蠍──幻獣の毒尾の刺突を跳躍で回避。眼下に蠢く扁平な生物めがけて、左の前腕を突き出した。

 展開する装甲。飛び出した光の帯が蠍の黒い身体を雁字搦めにし、身動きができないキチンの身体を一刀のもとに斬り伏せた。

びゅう、と飛び散るどす黒い血煙。黒い鎧を汚す赤い血は瞬く間に雨に洗い流されていく。目元に流れた赤い雨水をそのままに、オデュッセウスは、マップに表示されたブリップを即座に把握する。

 前方500m、竜牙兵と魔獣の群れが小競り合いを起こしている。理想的状況。やはり、いかにメディアとてヘラクレスの宝具に直接干渉できない。干渉してくることは織り込み済みだが、却って状況は好転している。

 あとは如何に短時間で行けるか。迂回した方が早いか? いや、その時間が惜しい。なら最適解はただ最短距離を突っ切るべきだ。あのオリュンポス兵たちが陽動している間に。

 他人の記録を引き摺り出す。アイギスによって再現されるオデュッセウスの伝承、その全てを駆使してここを突破する。

 エンゲージまで残り3秒。唐突の遭遇戦に不毛に殺し合うキメラと竜牙兵へとガンクロスを重ね合わせ──。

 「──アイギス・ペーネロペー」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

開戦Ⅱ

今回短いので近々もう1話投稿します


 アタランテが崖に躍り出たタイミングと、砲撃の着弾は同時だった。

 島を揺るがす、何度目かの激震。今の一撃で誰かが死んだだろうか。過る思案は脳内で停滞し、アタランテは吐き気にも似た感触を味わった。

 暗く荒れた海、視界を切り裂く暴雨。その先に、黒煙を吐き出す船2隻を認めた。

 あれだ。あれがこの島に火力を投射し続ける戦力。ブラックバートの船は沈んだはずで、ならばエドワード・ティーチのクイーン・アンズ・リベンジに、フランシス・ドレイクのゴールデンハインドに相違ない。

 戦況は不明。オデュッセウスとは連絡が取れない。メディアともだ。しかも島の魔獣たちが不意に活性化し、目につくものを所かまわずに攻撃している。何をすればいいのか、アタランテにはわからない。わからないから、彼女はすべきと思った行為を執行する。

 ぎりぎり。だがレンジ内。宝具で撃破できる。

 箙から矢を取り出す。天弓タウロポロスの弦に矢筈を重ね、ぎこちなく力みながら弦を引く。

 脊椎を逸らし、肋を伸ばす。左肩を上げ右肩は下げ。鏃の先を、曇天の空に持ち上げる。およそ弓術にあるまじき構えをとったアタランテは、厚く暗い雲の先にあるはずの星々を幻視しようとした。

 だが、見えない。彼女が信奉していたはずの月が、見えない。元よりそんな資格もないはずだと思い知らされるようで、アタランテはただ悲嘆に暮れるように顔を歪めた。

 「太陽神に、奉る」

 わかっていたことだ、と歯噛みする。それでも追うべきものがあると妄念を加速させ、アタランテは強張る力を解けるように抜いた。

 「『訴状の矢文(ボイポス・カタストロフ)』!」

 矢、天翔ける。雨粒に打たれ朔風に煽られ、覚束無い軌跡を描いていく。訴状は届き、天よりアポロンの矢が届けば終わりだ。如何な宝具のガレーとて、矢の掃射に耐えられるほどはない。

 それで終わって、その後はどうするのだろう。状況が不明すぎるが、とりあえずオデュッセウスを探せばいいのか。それともメディアなのか。いやそうではない。すべてが終わったら、やるべきことがあって―――。

 宙に、神立が泳いだ。

 (イカヅチ)、赫焉に迸る刃のごとき朔月。黒天よりもなお黝い、漆黒の流線形。懺悔など寄せ付けない、憧れすら届かない。

 剣閃が奔る。荒れる水面より飛翔した疾駆が、天へと翔ける訴状の矢を叩き落し、アタランテの傍に着弾するなり、ランクAの神秘を内包した爆風が巻き上がった。

 一歩間違えれば、その爆炎に飲まれてアタランテは消滅していたかもしれない。だというのに、アタランテはその一歩を動かすことすらできなかった。

 美しさは、いつも他を置き去りにする。アタランテの事情など全てを置き去りにする黒い弦月が、大地に落着した。

 「みぃつけた」

 ぎらり。鋭利な鈍器のような凄絶を笑みに引き連れ、黒い影が笑う。どす黒い不格好な姿は、黒鳥(コクチョウ)というより、薄汚れた醜い合鴨を想起させた。

 「ほら、さっさと降りなさいフジマルリツカ。ナキアヒル(デコイ)の真似なんてしてやってるのよ、私は。その上芹鴨の真似をさせようと言うのかしら?」

 「うえぇスパルタすぎる」

 「早く離れなさい」

 「アイ」

 ぐしゃぐしゃと地面になだれ込むもう一つの影。鉱山排水を浴びた岩が酸化したかのような髪色の人型は、メルトリリスの背中から地面に水溜まりのように蹲ると、のそのそと離れていった。

 「こうして顔を合わせるのは初めてね。でも貴女のことはよく知ってるわ、散々私のこと射殺してくれたもの。とっても痛かったわ、ねえアタランテ」

 しゃらん、と黒い醜鳥が首を傾げる。真雁が首を振るような仕草の野蛮さは、艶やかと奇妙な結合双生児を形作る。

 この怖気はなんだろう。過剰な美質が特に醜悪であるのと、醜悪でないものは過剰な美質を持たない関係性。非合理な論理学的対偶を身に纏う姿は、否が応もなく心をかき乱す。この、怖気はなんだろう。

 有り体に言ってその情動の名を、畏怖、と呼ぶのではなかったか。

 「私を封じに来た、と言いたいわけか」

 かろうじて声を引き絞り出したアタランテに対して、メルトリリスは幾ばくか失望したように眉を寄せた。

 「そう。でもそんな戦術的な理由だけじゃないわ。だってあなた、月女神の関係者なんでしょう? あんな綺麗な射を見せてくれるのだもの。貴女、とっても、美味しそうだもの」

 ずるりと舌なめずりする蒼褪めた黒影。デビークされていない嘴をかちゃかちゃ鳴らすように、ぬるりと肉薄する。

 ただただ不気味。人形が人語を語っているかのような怖気は、決して話している内容によって齎されているわけではない。

 胡乱なまでの視線、射し穿つような視線。アタランテという存在を責め立てるような視線が、ただただ苛立ちのような夥しい疚しさが惹起する。

 アタランテは無言のまま、タウロポロスを構えた。箙から矢を取り出し射出するまで、ナノセカンドの閃光。その速度は、アタランテという英霊の出自を否が応もなく思い出させる。異次元の逃亡者として数多の英雄を置き去りにしてきた果敢なアタランテの逸話。彼女の俊敏を思わせる早撃ちだった。

 だが、ただ速度があっただけだ。かつての競い合いのような勇猛はなく、ただただ、何かから逃れ去るようだった。指が矢をリリースした瞬間には、負けを悟った。一瞬でアタランテの近接戦闘領域(クロスレンジ)に侵略した黒い旋風が魔剣を振り上げ、放たれたばかりの矢を容易く切り落とした。

 箙から次の矢を抜き放つ。逆手に握ったまま鏃を叩きつける。眉間へと迫る金属の切っ先を悠然と寸で躱して見せるなり、反撃の剣戟が掬い上げるように閃いた。

 猛禽が強襲するような、伸びやかに引き絞る体躯の挙措。縦回転と同時に放たれた踵の魔剣はあわやで躱せず、アタランテの右前腕の薄皮を切り裂いた。

 上皮から真皮へ、筋組織まで抉れる。あまりの剣の鋭さか、痛みもなければ血すらでない。ただごそりと抉れた肉質から、尺骨が覗いていた。

 振るわれる踵の剣。左足を軸に、神楽のように舞う躯体、魔剣の狙いはアタランテの頸だった。

 飛び跳ねるように背後に飛び退く。英霊アタランテの全力の逃避だったが、それでも遅かった。剣は喉元を切り裂き、この時は、呼気とともに鮮血が噴出した。着地するだけの余力すらなかった。自分の生み出した推力を制御できず、背中から地面に激突したアタランテは、肺から捩じり出した吐息を喉の傷口から血とともに吐き出した。

 息が、苦しい。努力呼吸をするたび、ひゅう、ひゅう、と喉の裂傷から空気が漏れていた。

 「いいわ。今のを躱せるなんて、とっても素敵。でも足りなわい、全然足らない。そんなんじゃあ、満足できないわ」

 愉悦の睥睨が墜ちる。品定めする野卑な視線を隠しもしない素振りは、極まりの中で美質ですらあった。

 「やめろ」

 アタランテはただ、その視線から逃れるように踏鞴を踏んだ。後ずさりかそれとも哀願か。酩酊するように、ただアタランテは譫妄、のままに。

 「私を、見るな!」

 「満足させなさい、この私を!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

開戦Ⅲ

 寒いな、と思った。

 暗い森の中、ポルクスは泥に足を取られるのも構わずに駆けていく。

 大粒の雨雫が頬を打つ。二つ結びにした癖のある金の髪も、しなりと垂れている。ソラに浮かぶ星のような、瀟洒な美質を感じさせる彼女のいで立ちも今はない。

 もちろん、ポルクスとて英霊である。彼女の来歴は並みいる猛者に勝るとも劣らぬもので、ただ孤軍で大軍に囲まれたとしても彼女の戦意はなんら損なわれるところがないだろう。たかが悪天候に見舞われた程度で、何か心象を損なうことは有り得ない。

 だが、この時ばかりは事情が違いすぎた。たとえどんな状況でも、いつもは心のどこかに兄の姿があったから、なんとかできていたのに。今はそれが、亡い。確かに合った繋がりは消えてしまって、ただ、孤絶の中に飄逸しているかのよう。

 どうしたらいいのだろう。誰とも連絡が取れない。オデュッセウスとも、アタランテとも、メディアとも。こんな時、どう判断したらいいのだろう。

 惑乱する脳髄。失神にも似た眩暈。覚束無い足取りのまま、思わず足をもつれさせた。

 「しっかりしろよ、私!」

 寸で、踏みとどまる。心臓を殴りつけ、顔を打つ。じくりとした痛みに目を開けて、ポルクスはただ、状況を整理するように沈思する。

 間違いなく戦端が開いた原因は、さっきの砲撃だ。何故この場所が知れたのかは不明だが、どうあれ敵に発見されたのは事実だ。この悪天候も、奇襲を成功させるためにこの日を狙ったと考えるのが自然。

 だが疑問は残る。それなら何故、今になって組織だった防戦が開始されていないのか。この島の防衛機構……小・中型のゲイザー種の砲撃が開始していてもおかしくないはずなのに、未だにそれがない。確かにこの雨天では大気中の減衰率は高く有効打にはなり得ないだろうが、砲撃しない理由になるのだろうか。それともそれすら何か戦術的な理由があるのか。オデュッセウスは、何を考えている。メディアは無事なのか。

沈思は、そこまでだった。不意に雑音を拾ったポルクスは、近場の木陰に飛び込んだ。

 何か居る。森の中を、何かの一群が駆けている。魔獣ではない。魔獣の割には妙に人為的というか作為的な歩行音だ。だが竜牙兵でもない。竜牙兵にしては、足が“重い”。

 なら敵のサーヴァント、と判断するのが妥当……いや。

 瞬間、ポルクスは身を屈めた。数瞬遅れて横薙ぎに振るわれた斬撃が、あまりに容易く樹木を両断した。

 見つかっていた。ぶわりと肌が粟立つ。大理石を掘りこんだかのような白い鎧の長躯に、ポルクスは何か言い知れない怖気を感じた。

 何か、妙な感触だった。自分に馴染みの世界に、妙な沁みが広がるような、不快感。それが何かと思考している暇は、なかった。

 振り下ろされる得物──剣にも似た槍の一撃を剣で打ち上げ、踏鞴を踏む体躯の鳩尾へと肘鉄を撃ち込む。怯んで無防備を曝したところで、敵の頸へと剣を振るった。

 頭がずり落ちる。頸部動静脈から鮮血と暗血が噴き出し、覗いた脊椎から髄液が零れた。1騎撃破の余韻はなく、続けて襲いかかってくる敵の攻撃に剣を重ねた。

 重い。腕が軋むような威力は、英霊のそれと大差ない。

 剣を弾き返すのも無意味だった。間隙を縫うように肉薄するさらに2騎。一刀で2騎を振り払えば、その合間を縫うように別な2騎が放った矢が肩と足を抉った。

 総数、5騎。1騎仕留めたが残り4体。

 剣を支えに、立ち上がる。品定めするような視線を跳ね退けるように、彼女はずらりと睨み返した。

 状況がわからない。この敵が本当に敵なのか、それすらわからない。

 こんなところで、朽ちるわけにはいかない。神代に戻るとか、そんなことはどうでもいい。ポルクスには、そんなことどうでもいい。ポルクスにとって重要なのは、もっと別なことだった。

 何にせよ、今やるべきことは変わらない。この4騎が何者であれ、ポルクスの内面性など知ったことではないのだ。思いだけで何かが変わるほど、殺し合いは抒情的ではない。そして、それはポルクスにとっても同じこと。こちらに牙を剥くならば、何者であれ殺しきる。それだけの話、だ。

 斬り落とされた切り株に身体を預ける。耐久値A++のポルクスにはさした傷ではないが、運動性能そのものの低下は否めない。

 切り抜けられるか。いや、切り抜けるしかない。構える剣。飛来した矢を切り落とし、襲い掛かる敵の剣戟を叩き切る。差し込むような刺突が左の三角筋を抉るのも構わず、ポルクスは1騎に張り付くように猪突した。

 寒いな、と、思った。

 

 

 「てめえらさっさと装填しろ! とにかく火力を投射しろって言ったろうが! ゲイザーの重光線なんて食らっちまったら今のこの船じゃ持たねえんだぞ!」

 檄を飛ばす濁声。先込め式砲塔に砲弾を押し込む亡霊たちを見回しながら、黒髭は黒い影のように浮かぶ島を見眺める。

 今次作戦において、黒髭たちの役割は単純だ。最終的な目的がヘラクレスを打倒することで、必要な条件はまずヘラクレス単騎にクロをぶつけること。そのためには敵戦力を抑えつける必要があって、言ってしまえばアン女王の復讐号(クイーン・アンズ・リベンジ)の砲撃は、魔獣やらを撃破するための手段だ。

 宝具化した”海賊船”の特性上、単純な砲撃戦での火力はゴールデンハインドを上回る。英霊黒髭と轡を並べるサーヴァントが多ければ多いほど火力が向上するという特性は、現在の海賊たちに都合がいい。物理的に船の上に居る必要もない、という条件も相まって、その火力は神代の幻想種すら撃殺し得る。

 だが、敵の根拠地に火力投射できているのは、一重にメディアのお陰だろう。島を覆う結界が残ったままであれば、如何に『アン女王の復讐号(クイーン・アンズ・リベンジ)』とて貫けていたかどうか。

 いや、それだけではない。その他にもメディアが種々手を回したが故に、この作戦は始まった、と言っていい。

 「なーんか、気に入らないんだよなぁ」

 黒髭は風体通りの黒い髭を手慰みにした。エドワード・ティーチにとって、そもそも裏切りという行為があまり好きではない。彼の生前の話、というよりはフランシス・ドレイクの逸話からの感傷だが、何にせよ人心にそもそも忌憚ない尊重が無いだけに、むしろをそれを損ねる裏切りという行為にある種の嫌悪感を持っていた。

 女王メディア、あらゆる策謀に通じた神代の魔女。あんな可憐な見た目をしているのだって、単にBBAが若返りの薬でも使っているだけなのかもしれないのだ。

 何を考えてんだろうな、とは思う。字義通り、アルゴノーツのサーヴァントを殲滅させるように動いているように見えるが。果たして何か腹に抱えているのか、それとも本当にこちらに協力してくれているだけなのか。後者があり得ないと思うのは、海賊として生きたが故の自らの狡猾さ、というだけのことではないのか。

 考えても詮の無いことだった。というより、そういう陰謀策謀へのカウンターは、自分ではなくライネスたちの考えることだろう。舷側の砲門から一斉射を吐き出したゴールデンハインドを横目に、黒髭は装填完了の合図を上げる亡霊の姿を捉える。

 「よぉし離れろ、砲撃用意!」

 厳めしい声とともに、高らかに掲げる手指。張り詰めるような指先が天を衝くように持ち上がった、その瞬間だった。

 何かが来る。海賊黒髭をして肌が粟立つほどの衝動が飛来した。

 宝具となった船体にまで、黒髭の神経は行き渡っている。要するに船が感受する情報は直接その持ち主たる黒髭へと伝達される。即ち、その突き上げるような拍動はアン女王の復讐号の船体を打った、微かな音の波だった。

 「おいおいおいおいこっちはガレーなんだぜ、対潜兵装なんて」

 直下、迸った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Phantom Punisher-Ⅰ

遅れてしまいました




 黒い唸るような海原。

 クイーン・アンズ・リベンジの悲鳴のように軋音が、ぼう、と虚空に膨れた。船体を構成する木材が裂けて粉砕される甲高い音が暴風の中で弾け、デッキの上で何かが数回瞬く。マズルフラッシュの閃きが咲いたと思うや、峻烈に迸る弦月の如き閃光が駆ける。

 戦闘音があったのは、僅かに5秒。その激音も、猛烈な雨音に飲み込まれていった。

 絶叫のような音が砕けたのは、その直後だった。たわむように船体が跳ねたかと思うと、竜骨(キール)が折れる鈍い音が水面を暴れまわった。真ん中からちょうど真っ二つに裂けた巨大な船体は、切断面を基底に海上に屹立した。後は暗い海に喰われるように、緩慢に、海の底へと食われていった。

 ……記録上で言えば、この特異点においてレルネーのヒュドラを撃破したのは黒髭の船、このクイーン・アンズ・リベンジ号だったという。神獣に巨体に組み敷かれてなお沈まなかった大海賊の船をあっさりと海の藻屑に解体する現象など、およそ一つしか有り得まい。

 水害の象徴たるヒュドラ退治の逸話か、それとも家畜小屋の逸話か。水神を組み伏せた逸話か、あるいは海を越えたという柱の伝承か。何にせよ、()()は水を象徴するものを組み伏せる逸話が多いことを、今更に思い出していた。だが、だからとて直接海の底から強襲してくることなど完全に予想外だった。超解釈にもほどがあると舌を打ちたくもなったが、今はそれどころではなかった。

 沈没する船から、影1匹が飛び跳ねる。即座に近接防御の指示を出したが、タイミングが悪すぎた。砲弾は、再装填の最中だった。当然、装填する間などありはしなかった。1秒すら冗長に感じるほどの速度で、その巨体がゴールデンハインドの甲板に直撃した。

 横殴りの衝撃だった。為すすべなく投げ出されたライネスは壁面に後頭部を殴打し、一瞬気絶した。時間にすればほんの1秒未満の出来事だったが、その1秒で全てが決していた。

 スカイブルーの瞳を、あける。雨音が甲板を打ち、風が浚っていく音が耳朶を暴威的に爪弾く。亡霊たちの喧騒は既に死滅していた。この1秒弱で、全て、薙ぎ払われていた。

 ただ、黒檀の巨躯が聳えていた。

 雷が閃く。頭から被った神獣の裘をはためかせる黒い鋼の巨人。鋭く靭性に富むが如き肉体の威容に、ライネスは失禁しかけた。

 というより、した。じわ、と滲んだ温い液体が、雨で冷えた下半身を不快に撫でていく。

 だが、それも致し方なきことだった。純粋な畏怖が君臨する光景。ただの人間であれば、あるいはそれだけでショック死しかねない状況だった。そうして、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテという人間は、割と普通の人間に近い。畢竟、目の前の神威は、彼女の人生の許容量を遥かに超えていた。

 英霊、ヘラクレス。槍持つ神代の英霊を前に、なまじ真っ当な魔術師であるライネスには、理外の存在だった。

 「ここが強襲されることは想像してたけどね、まさか海の底からやってくるとは思わなかったよ。デカい癖に泳ぎ上手いじゃないか」

 それでもよろよろ立ち上がって軽口を吐けたのは、ライネスの豪胆さの故だったか。

 ヘラクレスは、この僅かな10秒の間で100回はライネスをあらゆる方法で殺せたはずだった。だがそれをしなかった理由を、ライネスはよくよく承知していた。

 「コイツがお望みなんだろう、アルケイデス」

 見せびらかすように、ライネスは懐から取り出した金の杯を見せびらかした。

 ヘラクレスは、静かにその姿を認める。たじろぐでもなく、盛るでもなく、異様な静謐を以て金の杯を睨みつける。真贋を品定めするように。

 「本物だよ。合ってるだろう? 君を召喚して果てたこの杯は、君のママみたいなものだ」

 僅か、ヘラクレスの体躯が揺れた。ほんのわずかな動揺が、ヘラクレスの内で擡げたかのようだった。

 「この杯を狙いに来た、ということはやはり推測通りかな。この金の杯を以て、ギリシアの大英雄を神の御子に仕立て上げるなんてトンチキ与太話が本当ってことかい。神話を題材にしたトンチキ創作物じゃないとそういう雑な解釈は赦されないと、思うんだけどね」

 ヘラクレスは語らない。唸るように低く呻いて、ヘラクレスは1歩を刻んだ。

 みちり、と甲板が歪む。ただ歩行しただけで、ゴールデンハインドが慄くように揺れた。心臓が飛び出しそうだ、失神で倒れそうだ。ライネスとかいうか細い人生をなんとか奮い立たせる。笑う膝を手で押さえ、彼女は精一杯、強がった。

 「さぁ出番だよ皆。英霊ヘラクレスの死を以て、この特異点は打ち切りと行こうじゃないか!」

 

 

 ゴールデンハインド 後部 船尾楼上部

 トウマは、息を飲むようにその姿を見下ろした。

 200cmを超える巨体。頭から被った布のせいで顔色は伺えないが、その奥から覗く鋭さは正しく射殺すようだった。トウマが身を竦ませただけだったのは、ある意味で彼の無知であるが故か、ヘラクレスという存在へのある種の知識の問題か。

 だが、この敵は単にヘラクレスというのではない。ランサークラスのヘラクレス、という驚異。ヘラクレスに最も適したクラスはアーチャーだというが、何の慰めにもならない。原作であれほど猛威を振るったバーサーカーよりもなお凶悪であることは、疑いないのだから。

 「大丈夫?」

 トウマの手を、彼女の手先が触れる。指を絡めるように手を繋ぎ合わせるクロの顔を、ただ、正視することしかできなかった。

 ()()を了承したのは、マスターであるトウマだ。クロを直接ヘラクレスにぶつける、という行為。マシュと2人がかり──正確にはクロの頭の上にのっかるオリオンも含めれば3人──とは言え、一筋縄でいくはずがない。

 セプテムで出会った男の声が、内耳から鼓膜を打つ。弱くても良い、と言う長髪の男の、声。張り裂けそうな情動だけが、胎内をのたうっている。

 「もう、私は大丈夫だから。ちょっとだけ、頑張ってくるね」

 絡んだ指先が、解ける。触れ合う肌の感触、その残余が毒のように指先の腹に滲む。

 「ごめん、代わりってわけじゃないけど。預かって」

 「おい、ちょっと待てよ嬢ちゃん。それじゃあ予定が」

 クロは、ただ、不可知の表情を浮かべただけった。柔く溶けるような柔和な顔、脱意味的な表情に、トウマは彼女の名前を呼び掛けるしかできなかった。

 身を翻す、赤い礼装。風に靡いた外套がはためいていた。

 「マシュ。防御、お願い」

 「はい、守備はお任せください!」

 縁へと足をかける。

 クロエの身体が、宙に舞った。

 

 

 「投影、開始(トレース)

 クロエ・フォン・アインツベルンが作った武装は、あまりに似つかわしくなかった。

 右手に現れる骨子の幻想を握りこむ。手に現出したのは、刃渡り15cmほどの短刀(ナイフ)。人間ならばともかく、ギリシアの大英雄を殺すには、あまりに非力な武装に、見えた。

 「ねぇ、居るんでしょ」

 クロエ・フォン・アインツベルンは、一つ嘘をついている。

 特異点Fでの出来事。ヘラクレスと演じた一騎打ちを、クロは勝利したと報告している。だが事実は違う。本当は押し負けて、でも特異点修正の完了によってヘラクレスが自然消滅しただけ。クロは、ヘラクレスに結局勝てなかったのだ。それでも勝ったと報告したのは、自分の戦果のためではない。トウマのほんのちょっぴりの無自覚な自尊心と、凡人めいた倫理性を、守りたかったからだった。

 今回のヘラクレスは、さらにその上。勝てるのか、という疑問は尽きないし、正直言って、素朴に怖かった。

 それでもクロがこの作戦──ヘラクレスをおびき出し、殺しきるという作戦を了承したのは、勝算があったからだった。

 「どこのどなたか知らないけど。あの神獣の毛皮を貫けるのも、貴女のせいなんでしょう。英霊エミヤの反英雄性を推し進めている、のかしら」

 あの時の、感触。自分の胎から何かが這い寄る感触。黒く深い樹海、その奥に潜む何かが自分の人格を塗りつぶしたかのような、感覚。

 あの感覚を、クロは知っている気がした。この世界に着てから、どこかで得た感覚だった。

 「使わせてあげるわ、私の身体、私の全部」

 引き摺り出せ、その膂力、その力能。

 「──同調、開始《アクセル・シンクロ》」

 原理は知っている、動作も了解している。

 魔術回路とは人間が魔的なものを運用するために疑似的に発現させた、神経回路。どれだけ膨大な魔力があろうとも、魔術回路の数が貧相では意味がない。

 その意味でクロの魔術回路の数は、現代の魔術師の理外にある。アインツベルン最高傑作として生を受けた彼女は、太古の魔女にすら手が届くほどにサーキッドを有している。

 だが、それでも足らない。ヘラクレスに拮抗するには、全然足らない。ならどうすればいいか、クロは、もう、知っている。

 筋系、リンパ系、血管系、骨髄、その他魔術回路になりきっていない神経系を擬制的に魔術回路と認識させることで、運用し得る魔力量を跳ね上げる荒業。彼女は、かつてその眼で見た愚行を、再現する。

 でも、それだけでもまだ足りない。使える魔術回路が増えたなら、次は使える魔力の質を底上げする。

 魔術回路を奔るオドの速度を加速させ、オドの運動エネルギー量を跳ね上げる。体内時間を加速させるという、どこかの誰かの家系が継承し続けた固有結界の、それは模倣と応用。

 「クロ、さん?」

 じわ、と視界が赤くなった。血涙が流れていた。鼻血が出ていた。耳の奥から、出血していた。全身の孔から、体腔内から噴き出した血が出始めていた。

 当然だ。魔術回路で魔力を引き上げるなんて、愚行も愚行。加速したオドの疾駆で、サーキッドが軋んでいく。ぎぎぎ、という音が、全身から漏れていた。

 そして、それは、行程の最後。

 持ち上げた短刀を、ゆらと掲げる。

 掲げた、短刀を、胸へと突き立てる。いつかのように、ラバルトの言う死を潜る経験のよう、に。

「──『神秘轢断《ファンタズム・パニッシュメント》』!」

 瞬、間。

 世界(ワタシ)が、崩御した。




来週は2話投稿目指します


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Phantom Punisher-Ⅱ

 あ、という短音が、臓腑のどこかで漏れる。

 風が、吹いている。斑の白に彩られた音速を超える風。人が立つことなど敵わない。

 思っていたよりずっと酷い、なんていう思惟がぽやんと浮かぶ。精神が白くとける。鱈の白子がどろりと溶けだすように。身体も意識も無感動に崩れていく。

 崩れたそれが、継ぎ接ぎされる。量子力学的拡散に晒される肉体、が立ち現れて、集束して、また拡散して集束していく。日本のナントカとかいう哲学者の名前を言ってたのは誰だっけ、誰だっけ。大森正蔵?

 魔術回路と、回路に擬制化された肉体が接合されていく。切って、嗣がれていく。芋虫が蛹になるように身体の裏側が溶解し、別な生き物に、なっていく。クロエ・フォン・アインツベルンという存在者が脱落して、別なハイデガー的実-存に組み替えられていく。ドゥルーズ?

 眼球が潰れた。ぴゅ、と眼球の中の汁が飛び散った。肌が剥けた。リンゴの皮が向けるみたいに。舌を抜かれた。蕪でも引っこ抜くみたいに。鼻を千切られた。重症化した梅毒みたいに。耳を、抉られた。GPS誘導弾が直撃するみたいに。

 全てが無になっていく。

 覚悟、していたのではなかったか。無になる覚悟をしていたのではなかった。

 無為だった。クロエというものを塵の一つも残さず砕かれていく、その刹那の前に、覚悟なんて何の意味もなさない。クロエはただ何もできずに漂白されていく。

 拡散する現-存在の存在。蒼く染まる視界。

 その中で、あの人の、幻を見た。

 ずっと遠くで前を走る、蒼褪めた影。黒い髪でドングリ色の目をした、頼りない男の子。走る速さはものすごく遅くて、クロが奔ればすぐにおいついてしまいそう。

 あの時、何を願ったのか。生きたい、と願った少年の叫びを、聞いて、何を思ったのか。終われない、と前に進む少年の背に、何を抱いたのか。

 理由なんていらない。だって、その想いは、きっと当たり前のものだから。

 ──安心した。

 その想いがあるなら、大丈夫。きっと私は、頑張れる。

 凝固する私。機械的に、組み上げられていく私という自己以前、無意識ですらない存在の存在。

 誓いは、此処に。

 迷うことなく、手を伸ばす。大剣を振るうように手足は空を切る。

 「──見せなさいよ、貴女の、力」

 手が、少年の背へと届いた。

 ──甲板を踏み砕く。

 あまりの衝撃に、デッキがたわむ。竜骨が悶えるようにぎしりと呻き、肋材が慄き凍える。

 誰の声だったかは明白だ。後ろで見ている彼の、声。はためく背中の対の意匠は、女冠者の肉茎か、芋貝の口吻か。

 「天の衣──霊基が再臨した」

 その姿は、小聖杯の具現。紅蓮の如き天の衣に、少女の躯体は再臨した。

 「投影、開始(トレース)

 右手に現れる、黄昏の剣。ケルトは英雄ディルムッド・オディナが有した双剣の一振り。

 ヘラクレスが槍の石突を甲板に叩きつける。異界への門を叩く行為は、宝具『十二の栄光(キングス・オーダー)』の発動だった。

 沸き上がるように現出した影は4つ。嘶きを迸らせてクロへと肉薄したのは、4頭の人食い馬だった。

 計4頭。神代の幻獣は、クロへと食らいついた1秒後───斬殺されていた。

 まず、2頭。投擲されたベガルタが頭蓋を砕き脳髄を轢く。直後馬の頭部より剣を引き抜いたクロは、跳躍の気勢のままにもう一頭の頸に憑りつく。鬣に剣を突き立て一挙に振り下ろし、首を斬り飛ばした。

 もう2頭が背後から迫る。首を斬り下ろした瞬間のクロには、躱すこともできなければ迎撃することも不可能に見えた。

 だが、2頭の怪馬は何が起きたかすら理解できなかった。食い掛ろうとしたところで、一頭が絶命した。対の刃が馬の目を一突きで刺しきり、胴から腰部まで抉り殺す。刹那で肉片まで切り刻まれた肉塊が地面に飛び散り、水溜まりを作った。

 クロは、視認すらしていない。背中から生えた対の刃──腕足動物の肉茎に見えたそれは、聖骸布と天の衣が有機的に結合した礼装だった。オドの活性により礼装の構成物質・想念をイオン化させ、靭性と粘性を変化させることで聖骸布の防御性能を攻撃的に再配置させる特殊礼装。クロの意識に過敏に反応して自律可動する聖典の刃、人理に仇名すものへの殺害権を持つ礼装など、古代の馬には理解の外のものだった。

 そしてもう一頭。恐怖で立ち上がってしまった怪馬の懐に、クロの矮躯が飛びこむ。逃げることもできず反撃もできず、がら空きの胴体に少女の左腕が突き刺さる。外皮を貫き真皮を砕き骨格筋を裂く。ずるりと引き抜いた左手には、脈打つ心臓。血を吹き出す臓器を握りつぶすや、最後の牝馬は水風船のように破裂した。

 巻き上がる血煙。豪雨すら生温い血の雨を浴びた少女は、その眼に巨影を認識する。

 ヘラクレスの挙措が変わる。恐怖でもない、侮りでもない。クロエ・フォン・アインツベルンという存在者の魔術行為を敵と見定めた、敵対行為。敵意が、収束する。

 意識は、冴えている。あの時と違って、混濁はしていない。

 いや、あの時も、はっきりしていた。あの時だって、同じ想いで戦っていたのだから。

 「じゃあ、行くわよマシュ!」

 交錯する幻想。互いに食い合うように、錬成された神秘が激突した。




短めだったので連続で。次は今週金曜の予定です。

天の衣版クロは近々イラスト公開予定です


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ペルゾーンⅡ

 オデュッセウスがそこに着いた時、足を止めた。

 島の中央、神殿の柱廊。拍子抜けするような平穏に、オデュッセウスは思わず、足を止めた。

 キャスタークラスのサーヴァントにとって、そもそも戦闘行為は得手ではない。特に【対魔力】を有する三騎士との戦闘は、致命的に相性が悪い。それは神代の魔女ですら同じで、だからこそ手練手管を駆使せざるを得ない。いわゆる魔術師の工房や神殿はキャスターが他サーヴァントとまともに戦うための手段の一つで、如何に工房神殿に誘い込むかが戦闘の趨勢を決める肝ですらある。

 オデュッセウスの防具、アテナより授かるアイギスにはAランク相当の対魔力が付与される。それでも相応の覚悟を以て、きたつもりだったのだが。

 だがオデュッセウスは当然油断などしていない。むしろこの拍子抜けこそ油断を誘う罠、と了解し、オデュッセウスは慎重に先を進む。

 アイギスによって再現される英雄オデュッセウスの旅路、宝具『果てに至る黄金旅程(ステイゴールド)』。全射程にて十全な火力を発揮し、防御、捕縛、足止めとあらゆる状況に対応する汎用性の高い対人宝具である。それとは別に所有する対軍宝具も相まって、オデュッセウスの性能は高い水準を誇る。そんな彼をしての慎重さは、オデュッセウスという英雄の質を思わせよう。

 だが、予想に反して、何もない。

 柱廊から前室へ。普段メディアが居る場所にも、やはりない。空間歪曲の魔術によって外見以上に広いが、それだけだ。アイギスの走査をしてみても、何ら手応えがない。秘匿の魔術が成された形跡もない。メディアほどの魔術師であればアイギスの目を掻い潜ることもできようが。

 それはもう、詮の無いことか。

 異様に広い前室を通り過ぎ、オデュッセウスは足を止めた。

 主室の前に、巨大な扉を臨む。メディアはいつも、この扉の前に居た。固く閉ざされた門は、アルゴノーツのサーヴァント誰もが踏み入れたことのない領域だった。

 その扉が、開いている。当たり前のように両開きになった扉の奥で、何か蠢くような音が漏れている。

 何故か、オデュッセウスは躊躇した。異聞のオデュッセウスとしての記録上の心情というよりは、その肉体の底に淀むオデュッセウスの戦きか。口腔内にのたうった粘性の唾液を嚥下して、オデュッセウスは、一歩を踏み入れた。

 主室も同じだ。空間歪曲された部屋は、見た目を遥かに上回る広さがある。部屋を囲む松明が亡霊のように明滅している。いや、実際、そういった類の自然霊が居る。だが所詮は下級の霊体。サーヴァントに干渉できる代物ではない。当然、オデュッセウスは無視した。

 さらに、前へ。儀式に用いると思われる呪具が並ぶ。メディアの来歴を想えば、ヘカテに何かしら関与するものだろうか。オデュッセウスには、そこまでの知識はなかったが、何か禄でもないものであることは確かだ、と思った。

 その神殿の奥で、オデュッセウスは、制止した。

 居た。長い髪を一つ結びにし、女神ヘカテより授かったという特級の魔術礼装に身を包む、神代の魔女にして巫女。メディア、だ。オデュッセウスに対し、背を向けるように地面に小綺麗に座り込む姿は、隙だらけに見えた。剣をそのうなじに打ち込めば、あっさり首が墜とせる。そんな錯覚が幻視として網膜に像を結ぶようだった。

 だが、当然オデュッセウスは行動には移さなかった。ここはメディアの神殿の内。要するに、ここは女神のはらわたなのだ。敵迎撃の指揮も取らずに神殿に堂々と闖入する不埒な侵入者の姿は、当然認識している。背後にいることも。

 メディアが立ち上がる。緩慢な動作は恐ろしいほどの優雅さで、隙だらけのように見えて、何か虚ろな人型の孔が空いているかのような錯覚すら覚えるほどだった。

 「やっといらっしゃいましたか、オデュッセウス様」

 丁寧な口調。育ちの良さを感じさせる柔らかな物腰。振り返ったメディアのかんばせに、浮かんでいるのは莞爾だった。

 「何を企んでいるのかわからないが、これでお前の行為は終わりだ」

 冷静に、言ったつもりだった。実際その鉱物めいた硬質な声色に、感情を読み取れる人間はそういないだろう。だが、メディアは相も変わらずの小さな笑い顔を浮かべたままだ。

 「俺がお前を殺す。ヘラクレスはあのアーチャーに殺される。聖杯を何に使うつもりか知らんが、それでこの特異点は終わりだ」

 まだ、メディアは表情を変えない。能面に滲んだ不気味な破顔は、微動だにすらしていない。

 オデュッセウスは剣を構えた。およそ3間、オデュッセウスなら秒もかからずに強襲できる。アイギスの複合センサーアレイは周囲の状況を理解している。こちらに砲撃を加える術式は確認している。Bランク程度の火力を誇る魔術砲が10門。だがどれも脅威度は低い。アイギスの防御を抜くには威力不足だ。アイギスを貫くならば。あのアーチャーが使った宝具か、それともフランシス・ドレイクのスキル【星の開拓者】が必要だ。たかがBランクの宝具に迫る程度の攻撃など、相手ではない。

 「イアソンを返してもらう!」

 そうして事実、オデュッセウスはメディアへと斬りかかった。

 音速に達する剣。空気を鮮やかに切り裂き首筋に迫る大魔女の剣は、あまりにあっさり、メディアの首を切り落とした。

 鮮血が宙を舞う。首を落とされた胴体は切断面から血と脊髄液を溢れさせ、開いた気道からひゅひゅうと二酸化炭素を主とした気体を吐き出している。ふらふら揺れながらも、死体は座位を保っている。

 床に落ちた首が、大理石の床面を転がっていく。ころころころころ、毬のように転がった生首は、床に空いた穴へと落ちていく。首を刎ね飛ばされた肢体は正座したまま、ちょこなんと座って血を吹き出している。

 穴?

 いや、ただの穴ではない。近寄ったオデュッセウスの目に飛び込んだのは、大地の底へと続くような、地下への階梯だった。

 地の底から、何かが響いてくる。悲鳴と呻きの境目のような音が、果断なく響いてくる。

 背後を振り返る。首から泣き別れになった胴体は、まだ行儀よく座り込んで、血を垂れ流している。

 倒した。にしては、あまりに手応えが薄弱だった。ただの擬制化された囮だったのか? その可能性は高い。だが何のために。

 疑念が頭の中を手繰っている。何を企んでいる。いや、そもそも何故この特異点を作ったのか。

 オデュッセウスは、階段に足をかけた。

 そこも、恐ろしく長かった。単なる空間延長だけではない。延長された空間の構造により、心理的作用すら及ぼす回廊だった。なまじっかの人間であればたちどころに発狂しかねないほどの産物だが、オデュッセウスには無意味だった。彼の下より強靭な精神性もある。アイギスによる魔術的作用への防御もある。物理的な心理的作用も、HMDに表示されるCG補正された映像の前にはさして無意味だった。

 とは言え、そのように設計された回廊である。延々と続く螺旋型の階段にうんざりしはじめてから、さらに、さらに降りていく。この世界が文学的であればその時点で目的地に到着してくれていてもいいものだが、何分真実とは散文的なものだろう。うんざりも加速して無心になりはじめて幾ばくかして、無心すら崩壊した状態もさらに過ぎたところで、ようやっとオデュッセウスは最後の段を踏みしめた。

 オデュッセウスは、足を止めた。

 目前に広がる光景を、オデュッセウスは理解できなかった。別に衝撃的な光景で理性が脱落した、というわけではない。ただ目の前の光景を理解する知識が、彼には持ち合わせがなかった。

 何か、非物質的な……プラズマにも似た何かが、渦を巻いている。直径は5mはあろう。多重化して渦を巻く様は、遠い空に浮かぶ重金属雲の惑星を思わせただろうか。超小型のガス惑星。目の前で蜷局を巻くものは、膨大なエーテル、だろう、か?

 直感的に、オデュッセウスはこの数多の有機化合物が淀むようなそれが何なのか、理解した。

 「はい、その通りです」

 咄嗟、オデュッセウスは周囲を走査する。

 声は特定の場所から発せられたものではない。全天周的に発せられた声は、メディアの声に相違なかった。

 「あなたの直感の通りです。惑星を産む力能、第五真説要素(真エーテル)に近しいエーテルの塊……敗退したサーヴァントたちの、肉体で作った肉団子です」

 声を喪った。今度こそ、それはオデュッセウスの理解の外の事象だった。

 「私もやっと肉を捨てられました。長生きなんてするものではありませんね」

 ころころと笑うような声。ふと気が付くと、足元に、メディアの首があった。虚ろな笑い顔を浮かべた顔は、焦点も合わぬままに転がっている。

 「貴方にはきちんと説明したいと思っていました。一番効率的にサーヴァントたちを殺しまわってくれたので、感謝しているのですよ。オデュッセウス。それに、この特異点の外から悔しそうに見ている人にも説明してあげませんと」

 「このエーテルで、星を産むとでも言うのか? 貴様の人生をやり直すためだけに」

 微かな、沈黙。失望というよりは明確な疑念を纏った沈黙の後、メディアの声は晴れやかにオデュッセウスを否定した。

 「いいえ、そんな非効率的なことはしませんよ。魔術式さんは逆光運河/創世光年(ラストアーク)に拘っているようですけど、私は別に死の否定なんて意味のないことをしたいとは思いませんし。魔法? というのにも興味はありません。私はただ、箱庭が作りたいだけなのです。イアソン様がもっと立派になれる箱庭を」

 一歩。

 オデュッセウスは、足を引いてしまった。思わずの躊躇は、メディアの爽やかな気の違いというだけではなかった。

 多くの神話にて、世界の大地は肉体からできたという類型がある。メソポタミアにおける母神ティアマトがその象徴だろう。メディアがやろうとしているのは、それだ。

 そしてメディアは、その創世を為すだけの力量がある。

 女神ヘカテには数多の面がある。月の女神でもあるが、その側面には冥府の主としての側面もある。その教えを次いでか、メディアは黒魔術(ウィッチクラフト)でも先鋭化した死霊魔術(ネクロマンシー)にも才通ずる。クレタ島におけるタロス退治の逸話が有名だろう。死体をこねることなど、朝飯前に違いない。

 「貴方に出会って、思いつきました。ねぇ、異聞帯オリュンポスより来た異界のオデュッセウス。私を核にしたこの真エーテルを特異点に流し込んで別な世界にして、その世界にイアソン様を戴く。そのままだと赤ちゃんに焼かれちゃうので、高深度宇宙にヘラクレスにつれてってもらいます。そうして神霊になったヘラクレスの魂をこの肉団子の中のイアソン様の魂ととっかえっこすれば完成です! 生き残った人は、私たちの神代回帰をともに過ごす豪華特典をつけちゃいましょう。素敵な話だと思いませんか。誰が敵かもわからない、誰が味方かもわからない世界で一人孤独に戦い続けた英雄様?」

 「詐欺にもほどがある。皆が帰りたかったのはお前のジオラマじゃあないだろうに!」

 オデュッセウスは、思考放棄した。メディアの言っていることは正直既に彼の理解の淵をとうに超えている。聞くだけ無駄だと思った。

 「ここで俺がその粗びき肉団子を破壊する。気を違えた夢物語はそれで終いだ、王女様」

 アイギスの胸部装甲が左右に開く。左右に開いたアイギスの力場に固定されたエーテルがプラズマを迸らせる。

 単純な破壊力なら対軍宝具に手が届く。オデュッセイアーの最終工程、斧を射抜きアンティオノスを射殺した逸話の具現たる砲撃。これで、あの趣味の悪い肉塊を破壊する。

 「そうですね。オデュッセウスなら、そうするでしょう。スキュラの時もそうでした。カイニスを囮にした時も、この島にオリュンポスの臣民を放って誰彼構わず襲わせているのも、全ては私を始末するため。仲間の命でもあっさり捨てられるところは、この世界でもそちらでも変わりないのでしょう。貴方が異聞のオデュッセウスで、仲間意識なんて紛い物なんて事実は関係ありません」

 メディアの声色には変わりがない。昼下がりの温和さのまま言いながら、メディアは「ですので」と続けた。

 どろりと、球体から何かが染み出す。数多の色が折り重なってどす黒く淀んだ、汚泥のような何かが堆積する。ゆらりと擡げた身体から、何か、翼が、生えていた。

 「アルターエゴ。テレゴノスって言うんです。女神のハンバーグ(メルトリリス)を見て思いついたんですよ。貴方を効率的に殺すには、英雄オデュッセウスを殺した逸話を利用すべき。なのに貴方の息子、英霊の座には昇れない幻霊程度でしかなかったので。貴方にゆかりのある英霊千切ってこねて、テレゴノスの肉体にすることにしました。素敵な考えでしょう? 予行練習にもなりますし」

 屹立する亡霊。猛禽の翼を揺らめかせた人型の手に握られた、獣の牙めいた剣が閃いた。

 早かった。オデュッセウスが咄嗟に背後に飛び退くより早く懐に飛び込んだ敵の剣が、アイギスの胸部装甲を弾き飛ばした。

 力場が不安定化し、圧縮されたマナが暴発する。空気を伝って迸る衝撃に突き飛ばされたオデュッセウスは、壁面へと強かに背中を打ち付けた。

 ショックアブソーバーが作動。衝撃の大半をアイギスが吸収したお陰で消滅こそ免れたが、それでもオデュッセウスは気絶しかけた。

 よろよろと立ち上がり、オデュッセウスはその影を、睨むことしかできなかった。

 翼をはためかせるアルターエゴ、抽出した自我の錬成。英霊は自らの人生を裏切れない。ならばオデュッセウスの最期となった男の名前に、オデュッセウスは勝てない。英霊とはそういうものだ。たとえ如何に精強な英霊であれ、相性が悪いと遥か格下の英霊にも敗北する。英霊が名を隠すのは致命傷を避けるためでだ。

 『テレゴノイア』。それは本来、後付けの蛇足に過ぎない話であるとされる。オデュッセウスの息子テレゴノスが長き旅の果てに父オデュッセウスを殺害した話。テレゴノスが英霊未満にしかなれないのは、その原典の不確かさと信仰の薄さとでも言うべきなのだろう。

 だが、そんな幻霊でも、英雄を殺し得る。それが、霊体というものだ。どれだけ不確かで不正確でも、テレゴノスはオデュッセウスを殺した。その逸話から、オデュッセウスは逃れられない。

 「それではお見せください、英雄オデュッセウスの意地を」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Cygnus atratus

短いので2話投稿します


 あと、2騎。

 ……手に残る斬撃の感触。鎧を砕き、肉を切り裂く、水気のある感触。慣れ親しんだ殺人の感触ではあったが、。

 英霊の座に武を以て昇る者なら誰しも、敵を殺す感触に不慣れということはない。ポルクスにとってもそうだったが、今は妙に生々しかった。気のせいではない。妙に感傷的な気分になっているのだ。

 勁い、雨が降っている。血濡れになった肌を濡らし、撥ねた泥が彼女の身体を汚している。敵の血と、自分の血。混濁した赤色に沈みながら、ポルクスは残る2騎を、やっとのことで睨みつける。

 まだ、2騎とも無傷だった。無傷の装甲はこの闇夜の大雨の中でも爛々と煌めき、古代の瞬きを宿しているかのよう。

 睨むだけで精一杯で、ポルクスは静かに、身体を墜とした。臀部から地面に落ちて、足元に溜まったよくわからない水に汚れた。

 強い。何者か不明だが、ただただ強い。流石に単騎でサーヴァントに並ぶほどではないが、異常に耐久値が高い。1人撃破するのに、1分以上かかっている。その上、死ぬことへの恐れがない。まるで群体。1騎が殺されている間を隙と見定めて襲い掛かるその戦法は、手足を犠牲にする軟体動物めいていた。

 肩の肉はとうに抉れて、足も立つ以外の機能を果たせないほどに肉が削げている。結構に身体は穴だらけだった。

 莫迦だな、と思った。

 長く、サーヴァントとして生きすぎた。いや、人間として振る舞いすぎた……と言う方が、正しいだろうか。

 人間の兄との溝を埋めるなんてことはできなかった。いや、多分ちょっと違う。溝を溝として肯定したかったのだ。近くに居るのにあまりに遠くにいるという、人間の距離感。共訳不可能性という断絶。その果てを前に乗り越えるにせよ諦めるにせよ、その断絶こそがコミュニケーション行為の前提なのだ、などと改めて感じたのは、皮肉にもポルクスの神性の高さの故だろうか。だが、何にせよ無意味だった。どれだけ骨肉を砕いても。カストロは人を好きになることなどなかったし、ポルクスの考えが到達することはなかった。無意味な行為の積み重ねでしかなかった。

 ポルクスへとにじり寄る躯体2つ。油断なく弓を構える後衛の1騎に、槍を構える目前の1騎。この1秒であらゆる撃破手段を思い描いたが、いい案は浮かばなかった。そもそも敵は死を懸念すらしていないのだ。こちらも捨て鉢になれば倒せるけれど、それでは意味がない。

 今更に何をするという気概もなかった。そんな彼女の機微を感じ取ったか、槍を持った1騎がはっしと得物を振り上げる。

 ポルクスは振り下ろされる刃の突端を眺めていた。こんな時、兄はどこからともなく駆け付けてくれる。ポルクスが傷つけられようとすると、物凄いというか凄まじい形相で突撃してきて、並ぶ敵勢を滅多切りにする。神性の高いポルクスの方が死ににくいのに、自分が損傷するのも構わずに。

 「俺の妹に気安く触るなァ!」

 そう、こんな、風に……。

 飛びしきる刃。対の円盤が騎士一体を轢断する。円盤一つを叩き落すが遅く、もう一体の刃が頭蓋から一刀に股裂いた。

 一瞬で泥へと還る影。びちゃ、とその残骸を踏みつける1騎のサーヴァント。白銀の、剣。

跳躍する騎影。飛来する矢、3発に貫かれながらも瞬時に相対距離を0に削り取り、掬い上げるように円盤握る手を振り抜く。唸る刃が弓兵の胴に食いつき、そのまま胴と下半身を両断した。

だが、それでも敵は死に斬らなかった。両断されての消滅しな、放った矢が騎影の頭を射抜いた。

 消滅する、銀の鎧。佇立する騎影。そうだ、あの2騎を倒せないわけではなかった。頭に突き刺さった矢を引き抜いて、その見慣れた背がポルクスへと振り返った。

 「大事ないか」

 ふらふらした足取りで、見慣れたはずの姿が言う。大事ないもくそもない。ポルクスの筆舌には尽くし難く、兄の方が、損傷しているのだから。

 「すまん遅くなった」潰れた眼球から血を滴らせたカストロの顔は、なんだか、赤かった。血のせいだろうか。「回り道をしてしまった」

 ぐらりと揺れる、兄の身体。同じ霊騎を共有しているのだから、ポルクスだってわかる。カストロの損傷度は既に限界だ。

 血と泥の海に、兄の身体が倒れ込む。びちゃ、と厭に水っぽい音をたてて地面に転がると、カストロは不満げに吐息をついた。

 「人間の身体は不便だ。これしきの損傷で、すぐに壊れる。愚劣で弱い生き物の分際で。そのくせ神に干渉するなど。だから人の世など厭なのだが」

 諦観、憎悪。波の無い感情が、表情に滲んでいた。

 「なら、どうして」

 「母は異なるが、お前は俺の妹だぞ」

 当たり前、というように、カストロが言う。だが何故かその顔は、ただただぎこちなかった。

 「兄様は卑怯です。私だって、兄様を守りたかったのに。兄様の役に立ちたかったのに」

 「そうか、初めて聞いた。()()()()()()、お前がそんなことを思っていたなんて」

 カストロは、にへら、と笑みを作って見せた。妙に人間臭い表情を浮かべてから、静かに手を伸ばした。いや、伸ばそうとした、右の前腕は切り落とされていた。上腕が、ふらふらと宙を舞っただけだった。

 「次、この人理でお前とともに召喚されることがあったら、頼むよ。それならこの人間の脆い身体も、少しは、意味、が、」

 雨が、降っていた。車軸をひっくり返したように降りしきる雨。血の水溜まりも、泥水も、あふれたものも、何もかも洗い流して一緒くたにしていく。

 雨が、降っていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

裁定-Ⅰ

 《次、2発来る。2発とも胴、2発目のが威力高い》

 ワンテンポ早く、声が耳朶を打つ。メルトリリスはその声の指示通りに魔剣を切り上げる。指示通りに飛来した矢は、剣の軌道に吸い込まれるように直撃した。

 軽い衝撃。直後、より負荷の重い打撃が足を打つ。

 アタランテとの戦闘開始から、1分経過。アタランテ、メルトリリスともに敏捷値はAを超える。

 ミリセカンドの攻防において、1分は人間の体感にして、1時間に相当する。果てしない攻防戦の中、把握したのはアタランテの弓の特性だ。パワーをチャージすればするほど破壊力を挙げるアタランテの弓は、彼女の運動性能と併用して凶悪な武装だろう。逸話通りの敏捷値から繰り出される正確無比な弓の狙撃に破壊力が相乗する、凶悪なユニゾン。メルトリリスの刃を震わせるほどの威力は、Aランクの防御宝具すら貫徹するだろう。さらにその射撃が放つ衝撃波コーンの面破壊能力も相まって、並みのサーヴァント……いや、いわくのトップサーヴァントすら難敵になるであろう敵だ。恐らく、メルトリリスですら簡単に行かない敵の、はずだった。

 《次、あの岩陰に隠れるつもり》

 素早く思考を駆けるロゴス。考えるよりも感情よりも先に駆動するメルトリリスの肉体が、視界の影に飛び込む岩塊めがけて、不可知の斬撃を撃ち込んだ。

 音速を優に超える速度で足を振り抜くことで発生した衝撃波を刃状に圧縮。志向性を持たせたうえで打ち出す。メルトリリスの戦闘技法【クライムバレエ】により編み出す中・遠距離での彼女の打撃手段だった。切断性に加えて衝撃波が持つ面破壊の破砕力は、宝具のそれと大差なかった。

 忽ちに爆散した岩塊が四方に散らばり、アタランテは鋭く目を見開いた。自身の挙動を予知された驚愕。同時に飛来した岩塊の礫にさらされ、アタランテの挙動が一瞬止まる。

 時間にしてはコンマ1秒もない隙。上級サーヴァントとて隙とも呼べない、一瞬の間隙。だが、今まさにアタランテが相対するのはメルトリリスにとっては、明白な隙だった。

 アタランテに浮かんだ表情は、“しまった”に似ていた。だがもっと消極的で諦観的なアタランテの無防備な胴体に、メルトリリスの踵がめり込む。切断の感触すらなく脇腹へと食い込む。両断できなかったのはそれでもアタランテが身を捩らせて躱して見せたからで、だからこそメルトリリスは、連撃の蹴り斬りを撃ち込んだ。

 横殴りの回し蹴り。鋭角に抉る打撃を、されどそれすらアタランテは防御した。天弓タウロポロスを盾にした。高い神秘を持ち、かつランクも高い宝具はそれだけで魔術に対する防壁になる。アタランテの防御はそれを見越したものだった。

 だが、メルトリリスの刃が内包する神秘は、それ以上だった。旧約聖書に名を連ねる牝竜、レビュアタンの牙そのものですらある魔剣は、その弓すら濃度の濃い神秘の塊だった。

 タウロポロスが魔剣を防げたのは、実に0.1秒。直後両断されるや、腕ごと斬り飛ばされたアタランテの身体は、地面に叩きつけられるやゴム毬のようにバウンドして、大木に激突した。

 ──歯ごたえとしては、上々。

 メルトリリスは全く無傷のこの勝利に、相応の感触を得ている。麗しのアタランテが弱かったわけでは、決してない。彼女は唯、自分の得意とする戦闘領域に彼女を引きずりこんだ上で横綱相撲で押し切っただけのこと。それだけだ。

 その上で、メルトリリスは別な感触も、得ている。背後でへなへなと座り込んで雨に打たれるがままにされている、鉱山排水の川底みたいな髪色の女、藤丸立華のリードの異常さを確認できた、機会だった。

そも。

 メルトリリスがアタランテを相手に圧倒できたのは、性能差というよりは適所戦闘ができたからだ。もし遠距離戦に持ち込まれたなら、立場は逆になっていただろう。あの超破壊力の狙撃を無数に撃ち込まれたら、如何にメルトリリスと言えどもひとたまりもない。消耗戦に持ち込まれたなら、いずれ頭を撃ち抜かれていただろう。アルテミスの元にいる彼女の攻撃は、恐らく自分にも通じるのだから。

だが、そうはならなかった。最初からクロスレンジの殴り合いに持ち込めた時点で、戦略的勝利は確定していたのだ。そしてその勝利を引き寄せたのは、他でもないリツカの判断である。

島の地理条件、植生、天候、アタランテ及び宝具の性能。数多の状況を判断した上で、アタランテの動向を読み切り、船への宝具攻撃の狙点へとメルトリリスを導く。そうしてアタランテの動きを封殺し、狙撃支援を妨害する。それが、リツカの仕事の全容だった。

 言葉にすればそれだけのこと。だが、メルトリリスに掴まりながらとは言え、実に60kmに及ぶ距離を荒波に揉まれながら、リアルタイムで思考し続けるなど尋常ではない。あの宝具迎撃も、リツカの予想通りではあった。

 戦う舞台は、リツカが整えた。今まで踊ることしか考えて居なかったが、舞台が立派であるに越したことはない。メルトリリスは、あくまで舞台の上で煌めく|一番星《スターライト・ロード」。煌めくための舞台が最高であれば、その煌めく自分星は自由の翼で誰より高く輝けるだろう。

 畢竟。

 メルトリリスは、この戦いをとにかく質の高い自慰で完了させたのだ。最高の舞台で、善い敵を撃破する。単純に言うと、気持ちがよかった。言い換えると、絶頂していた。

 《ごめん、まだ治らない》

 低体温症に加え、海面から飛び出す際の急激なプラスGによるブラックアウトから、まだ復帰できていない。極地用戦闘服及びインナーに装備するバトルドレスユニフォーム、さらに彼女自身が持っている礼装、魔術刻印による緊急治癒が始まっているのだろうが、まだ時間はかかりそうだった。

 「いいわ。そこで眺めて居なさいフジマルリツカ」

 メルトリリスは、ごく自然に言う。彼女にとって、己の在り方は己だけのもの。それを他者へと拓くことはない。あっても、それは特別な相手だけだ。

 地面に蹲ったアタランテを見下ろした。血の水溜まりに淀んだアタランテの呼気は荒い。死んでいないのは、そういう風に、メルトリリスが痛めつけたからだった。

 アタランテは、動く様子はなかった。動いたところで無意味と悟っているのか。いや、そうではない気がする。僅かに顔を覗かせる口元は、微かに、だが頻りに、何かを溢している。悲鳴ではない。静かに秘めやかな囁き声、鈍い耳に届いた声は。

 謝罪、だ、ろう、か?

 ──それも、善い。

 メルトリリスは静かに加虐心を励起させた。

 「じゃあいただくわ。なかなか良かったわよ、貴女。私の魔剣がたわんだ瞬間なんて、最高だったもの」

 舌を、舐める。デビークされていない家鴨の嘴がかちゃりとなるような舌の蠢きとともに、メルトリリスは魔剣を突き立て──。

 《来たよ》

 瞬間、大地が割れた。

 愉悦に歪んでいた血まみれの顔が歪む。舌なめずりは舌打ちに、振り下ろす姿勢を無理やり変更して跳躍に。ぎぎ、と関節が軋むのも構わずに小型の鳥類さながらの素早さで飛び上がったメルトリリスは、眼下で屹立した巨体に一瞬だけの焦りを見せた。

 地面を割って湧き出した多頭の巨竜。大蛇を思わせる太古の竜種。確かメディアからの情報に、あった。

 ヘラクレス十二の試練が一つ、黄金の果実を守護する古の竜種、幻想種の区分けにすれば、神獣にも相当するだろう。

 サーヴァント1騎では到底かなわない、そういう敵だ。如何にメルトリリスとて、単純な性能比べなら勝ち負けの勝負になる。重ねて、そういう敵。

 メルトリリスは、舌打ちを終わらせた。自身へと迫る竜の顎を前に、両腕と両足を駆動させ、姿勢を制御する。

 メルトリリスが捕食されたのは、その直後だった。メルトリリスの体躯を一飲みで食らった多頭の竜は、次の狙いとばかりに、やっと立ち上がったリツカを見下ろした。

 敵意的な視線。親の仇のような鋭い、聖獣を親に持つ竜種の眼光を前に、リツカは平然と見返した。魔術に通ずるものであればショック死しかねない圧迫の中、平然と、リツカは屹立する。竜が鎌首を擡げてリツカを食い殺そうとしたその瞬間まで、リツカは眺めていた。

 別に、リツカの精神力が強靭だとか、そういう事実があったわけではない。ただ、彼女は素直に確信していたに過ぎない。竜が不意に痙攣するのも織り込み済みで、その首が地面にずり落ちた瞬間まで予想していた。切り落とされた首の断面から噴き出した瀑布のような血の濁流を浴びたリツカは、無感動な微笑で以て、宙跳び天に朔月を描く白銀を見た。

 軽やかに宙を舞う弦月。着地した黒檀の怜悧に、リツカは、微かに頷いた。

 レビュアタンの鱗を一瞬だけ再現する対粛清防御で捕食されながらラドンの体内へ。その上で、打撃を口腔内に打ち込む、“臓腑を灼くセイレーン”。メルトリリスが体内で蒸留した高濃度の毒を竜に撃ち込んだ、のだ。それで、終いだった。強大なはずの竜種は、ただそれだけで、死滅した。

 メルトリリスは己の任務を貫徹した。アタランテを抑え込み、神代の竜種すら単騎で仕留めた。望外の成果を為した。

 「ご苦労様」

 全身真っ赤になったリツカは、朗らかに言う。何の感情の隆起も見せない奇妙な人間性。揺れない心。いや、揺れるべき心すら亡くしてしまったかのような佇まい。あそこで、もし竜がリツカを無視して襲っていたら、彼女は死んでいた。その上でその可能性が極めて薄いことを、理解していた。あの多頭の竜は、アタランテを庇うように動く。そう、理解した上でメルトリリスをぶつけたのだ。

 ピカロの思考回路。手牌の中で最も効果的に敵を撃滅する手段を、戸惑いなく敢行する嗅覚。その“異常さ”に、メルトリリスは一瞬、あの人の姿を夢想した。

 だが、違う。あの人に似ているのは“異常”であるという実の無いカテゴリーなだけ。その方向性は、全く違う。

 「らしくないわ、フジマルリツカ」凝ったものを抱くように、メルトリリスは目を逸らした。「まだ倒してないわよ」

 わかってる、とリツカは頷く。

 そうだ、まだ倒していない。いや、ラドンは倒した。伝承をなぞられたラドンに生き残る術はない。瞬く間に神霊核を通して4次元宇宙Z軸上から注ぎ込まれる膨大なエーテルが行き場を無くし、加速度的に腐肉へと変わっていく。

 イオン化して蒸発していく肉体の、そのただ中。

 彼女は、居た。

 獣。それも、猪。

 端的に、メルトリリスが抱いた印象はそれだった。蹲るように4足で地面に這いながら、何かを必死に貪っている。ぐちゃ、ぐちゃ、という咀嚼音が雨音の中、不気味に響いている。

 ゆらりと蠢く魔性の獣。ぎろりと睨むような目を戴いた顔立ちは、ただただ、雨に濡れていた。

 ジュクジュクと腕が生えている。切断したはずの腕が生え、腐敗するように胸から肉汁が滴っている。

 その肉が抉れたような胸から、何かが露出していた。黒曜石のような、黒く透き通る球体だった。

 「下がりなさいフジマルリツカ!」

 衝撃は、刹那の直後だった。

 咄嗟に持ち上げた魔剣。英霊を人たちに斬り殺す剣から返ってきたのは、硬い金属音だけだった。

 「貴女──アタランテ!」

 メルトリリスは、その宝具を知っている。

 本来アタランテでは使い得ない宝具、自ら神罰の獣に果てる終わりの手段。使われることは、完全な誤算だった。

 だって、アタランテは──。

 ぶち、と何かが切れる音がした。

 繰り出す連撃、サラスヴァティの権能を以て為すナノセカンドの剣戟は、されど一発とて黒化したアタランテに触れなかった。掠りもしなかった。

 反撃は僅かに一撃。素手で殴るだけの原始的な打撃。迎撃するように魔剣を拳へと叩きつけたが、メルトリリスは小鳥が嵐に揉まれるように跳ね飛ばされていった。

 頭から地面に激突する。ごちゃ、という音は頸椎が砕けた音だった。びく、と身体が一跳ね痙攣すると、瞬時に地面に手を着いて身体を宙に飛び上がらせる。そのまま空中で後転しながら背後に飛び退き接地すると、メルトリリスは折れ曲がった首を無理やり引き戻した。

 横殴りの雨が、2騎の間隙を埋めている。黒天の下で不定に肉を蠢かせるアタランテだった肉体。閃く雷が反射して、胸の黒いスフィアが照らされた。

 アタランテの形をした肉塊が咆哮を挙げた。世界を揺るがすような神獣の咆哮。それだけで衝撃波が生じて、メルトリリスの神核を震わせた。

 「ダメよ。ねえ、ダメよアタランテ。それだけは、ダメ。全てを忘れよう、なんて」

 メルトリリスは、珍しく、怒っていた。ただただ哭き続けるアタランテが、苛立たしかった。

 「貴女だけのポジションゼロを、簡単に明け渡すんじゃあないわよ……!」

 荒れ狂う獣の怒涛、相対する漆黒のアルターエゴ。激突の余波が周囲に圧し広がり、衝撃だけで大地が砕け、天が割れた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

先導

 「先生ェ! 7時方向にでけえゲイザーだ!」

 コロンブスの声と、斬撃が視界に迫ったのは同時だった。

 槍のような、剣のような兵装。ケイローンが知る中では、いわゆる馬上槍(ランス)が近いだろう。だが大きさは大型の刀剣類に近しい。端的に、言ってケイローンの知らない装備だった。

 宝具ランクにすれば、およそC~Bランク程度の装備。直撃すれば、サーヴァントとて屠殺し得る。

 防御行為は必須。だが、ゲイザーは捨て置けない敵だった。特に重攻撃型のゲイザーの熱線の斉射は、大型目標に対して高い攻撃性能を誇る。たとえば拠点、たとえば艦船。その意味で、海洋に展開する2隻にとって、ゲイザーは天敵ですらある。事実、かつての戦闘でブラックバートの船を沈めたのは重攻撃型ゲイザーの飽和攻撃だった。

 ケイローンたちの任務は混乱した戦線の中、ゲイザーを可能な限り殲滅することも含まれる。艦砲射撃で5割は撃殺できる想定だが、残り5割はまだ生存しているのだ。

戦術行動は、即座に策定した。

 まだ、弓は引かない。視界は逃れ去るゲイザーの背へ、同時に斬りかかる刀身めがけて左手を差し込む。斬撃がケイローンの体躯を捉えるより早く、剣を持つ手を左手が握りこむ。把持と同時、ケイローンは右の半身を前へ、さらに左半身を逸らす。一挙に銀の鎧の敵を自らの裡へと引き込むや、牢乎と硬くした右の拳を心臓へと叩き込んだ。

ごしゃり。鈍さと甲高さが同居する、奇怪な音が耳朶を打つ。ただの拳一撃で正体不明の鎧兵破砕し瀕死に追い込み、次いでケイローンは右の拳をさらに掬い上げ、立て続けに宙に浮いた騎士の胴体に右の蹴りを横薙ぎに撃ち込んだ。

 軽々と、重装甲の体躯が宙を舞う。放物線を描いた巨体がゲイザーの背に直撃し、人間の眼球を思わせる体躯に銀がめり込む。

 もつれこむ2体は、直後死亡した。銀の装甲を貫いた矢はゲイザーの熱線器官たる巨大な眼球をも貫徹し、膨れ上がるように一瞬膨張するや破裂した。

 「クリス、下がってください!」

 さらに、弓に矢を番える。弦引き絞り、矢を射出する。木陰から弓を構えていたもう1騎の装甲兵の首に鏃が突き立ち、もんどり打つように背後へと倒れ込んだ。

 倒したのか。いや、多分倒していない。直後別方向から飛来した矢がケイローンのすぐ頭上を掠め、背後の岩塊に突き刺さった。

 「メアリーも下がってください! アン、援護しますよ」

 「了解、結構、思うようにやらせてくれませねぇ」

 視線の先、兎が飛び跳ねるようにカトラスを振るう影1騎。ケイローンの声に機敏に反応するなり、阻まりつつある包囲網から転げるように抜け出した。

 「アン、10時方向アーチャーを!」

 僅か、後退するメアリーを狙うように岩陰から身を乗り出す弓装備の装甲兵。既に矢は番え済み、射出までは残り1秒未満。

 弦から矢が跳躍する。速度は音速。雨降りしきる森林を駆ける矢の一閃の狙いは正確無比で、敏捷値にしてAランクに達するメアリーの挙動に対し完全な見越し射撃を撃ち込んだ。

 矢がメアリーの身体を捉える数瞬より早く、真横から叩き落すように別な矢が食らいつく。浅い入射角で迎え撃ったケイローンの矢は飛来した矢を破砕し、僅かに軌道がそれた先にキメラの脳天があった。頭蓋を砕かれ脳漿を散らした白いキメラは一撃で絶命した。

 前後して、アンのマスケットがマズルフラッシュを閃かせる。雨天の中、密林という戦域状況において狙撃は至難の業だった。

 だが、アン・ボニーの狙撃は正確だった。トリガーガードに指先を滑らせ、流線形を描くトリガーを軽く引き絞った。

 撃鉄の燧石が火花を散らし、火皿の点火薬を燃焼させる。火花はさらに銃身内の炸薬へと点火し、爆発を推力として弾丸が迸る。物理的な作用、というより宝具としてのマスケットを射出するための一連のイニシエーションを経て、滑空砲式砲身から弾丸が吐き出された。

 本来、滑空式歩兵銃(マスケット)の命中精度は劣悪の一言に尽きる。球形の弾丸による弾道の不安定さはライフルのそれとは比較にならず、気候条件の影響も受けやすい。畢竟、マスケットは狙撃に向かないのだ。

だが、アンは一撃は精密だった。気候条件を勘案し、弾丸の特性も理解し、己の愛銃の個性すら考慮に入れる。数多の条件を前提に居れた上での、アン自身による火器管制の果ての狙撃。ほぼ身体的直観によってなされる彼女の狙撃は、敵に狙いを定めてから実にコンマ1秒の世界で為された。

 アンの身長ほどもある長銃身のマスケットから吐き出された弾丸は、見事に、あるいは当たり前のように敵兵の頭部装甲を(つらぬ)き、右頬から侵入して頭蓋を爆散させ、脳みそを攪拌して止まった。

 「EKIA(エネミー・キル・イン・アクション)2、リロードしますわね」

 「了解、カバーするよ」

 素早く身を隠すアン。変わるように身を乗り出したドレイクが銃弾をばら撒き、接近する気勢を見せた敵に牽制射を打ち放つ。

 「うー全然ダメだった」

 ケイローンたちが陣取る地形に、這う這うの体といったように飛び込んでくるメアリーとコロンブス。ケイローンの目前に空中投影型のヘッドアップディスプレイ(HUD)が立ち上がり、2人のバイタルデータが表示される。

 どちらも損傷具合は問題にならない。継戦は可能。そう判断を下しながら、ケイローンは雨で濡れる前髪をかきあげた。

 状況開始から既に7分。時間としてはかかりすぎている。予定からの遅れは2分。本来であれば、5分で中央の神殿を制圧しているはずだった。

 「手強いねぇ、メディアの報告にあんな奴らいなかったはずだけど」

 憎々し気に舌を打つフランシス・ドレイク。彼女の焦れた心情は、彼女だけのものではなく、この場にいる全員の心境だった。

 無線を聞く限り、全体の作戦の進捗は順調と言っていい。メルトリリスはリツカの思考通りにアタランテと戦闘に突入し、クロはヘラクレスとの戦闘を始めている。手順そのものは変わっていない。

 「メディアが裏切ってるって説はねえのかよ」

 「それはないと考えるべきかと」

 眉を顰めるコロンブスに、ケイローンは顎をしゃくった。闇に蠢く雨の中、呻くような悲鳴と金属音が重なり、乾いた破砕音がそれに続く。戦闘音。しかも人間同士のそれではない。1つは人間の肉が削げる音で、さらに1つは幻想種の死に絶える音。そしてもう一つは竜牙兵、か。乱戦のようにもつれ合いながら、じりじりと漸減しあう消耗戦が展開している、らしい。

 「全く統率がとれていません。もしオデュッセウスとメディアが協力して私たちを撃破するなら、状況が不鮮明です」

 言って、ケイローンは思考する。

 元々メディアの役回りは竜牙兵の叛乱とオデュッセウスにある幻想種への指揮権を攪乱、混乱した上でケイローンたちで制圧するという手筈のはずだ。ある意味でメディアの動きそのものは成立している。ならば、あの正体不明の敵を指揮しているのはオデュッセウスと判断すべきだろう。状況の遅滞は一重にあの銀の鎧の組織だった抵抗で、そのせいで魔獣が牙を向こうとしている。

 オデュッセウスの宝具あるいはスキルに、あんなものがあるのか……という、疑念。

 『オデュッセイア』にてともに旅をした仲間を召喚する宝具、というならば理解できる。だが、あの風体はなんだというのだろう。そしてここまで強力などということは、あるのだろうか──。

 思惟が長考に傾き始めたところで、ケイローンは自覚的に思考を停止させた。秒単位で進行するこの状況の中で、数秒の思考時間など愚劣以外の何物でもない。

 目の前に立ち上がるディスプレイ。戦域マップには、2km先にオデュッセウスがいるであろう場所の候補、神殿の位置がブリップでマークされている。その間を挟むように展開している銀の鎧兵。

 頭の中で、プライオリティを順序立てる。

 オデュッセウスをこの戦闘で倒すことは目標として重要だが、最優先事項ではない。ならばオデュッセウスの撃破という事項の優先度は、自然繰り下げる。

 「全員傾注。作戦フェイズを進めます」

 「オデュッセウスは放置しろってことかい」

 「客観的に、拘る必然性がありませんので」

 喰ってかかるようなドレイクの言葉に、ケイローンは努めて冷静に応えた。一瞬、雨音が静寂を埋めた。ケイローンが続けて声を続けかけたところで、「じゃあ」と声を重ねたのはドレイクだった。

 「10時方向、あそこの守りが薄い。強行突破するならあそこを突くべきじゃあないか。ちょうど直線上にゴールデンハインドが位置してるし」

 ドレイクの言葉が終わると同時、マップに仮定進行ルートが表示される。ケイローンが続けようとしていた言葉とほぼ同じ内容の言葉に、今度はケイローンが黙る番だった。

 いや、黙っている暇はなかった。地形状況としても、朽ちた大樹や岩塊の掩蔽物が多く長距離からの狙撃を考慮から外せる。

 「それで行きましょう。私とアン、メアリーで先行します。コロンブスは次に。ドレイク、殿を」

 了解の応答は早い。3人の声を耳朶に、ケイローンは木陰から飛び出すなり、その敏捷A+の脚部でもって大地を疾駆した。

 背後に続く2騎。弓を左手に矢を右手に、1kmを5秒すらかけずに踏破する。予見したはずの攻撃は存外になく、ケイローンは思いのほかあっさりと目標地点近辺の岩陰へと滑り込んだ。

 同時、ケイローンは即座に身を翻す。ケイローンよりワンテンポ遅く走り抜けてきたアンとメアリーも、なんらの抵抗もなくケイローンの元へと飛び込んできた。

 拍子抜けする顔のメアリー。アンも即座にマスケットを構えたが、やはりその感情は鈍い。

 「クリス、来なさい」

 おう、と応じ、どたどたとコロンブスの巨体が身を揺すって走ってくる。敏捷値が最も低いコロンブスのこの横断が一番の狙い目のはずだ。だからこそ、近接支援のできるアンとケイローンが先行したはずなのだが―――やはり、攻撃はない。えっちらおっちらとやってきたコロンブスが転がるように滑り込むのを合図に、ケイローンは手を挙げた。

 あとはドレイクが来れば完了。ぜえぜえするコロンブスを後目に、ケイローンは遠く身を乗り出したフランシ・ドレイクの姿を認識する。

 ドレイクの動作は、至って普通だった。なんら遅いところはなく、カトラスと拳銃を構えた姿が腰を落とす。

 彼女の姿勢が、疾駆へと変わっていく。その最中の表情の変転を、弓兵(アーチャー)ケイローンは刻銘に目撃した。

 ドレイクから向かって3時方向に、彼女の視線が軋む。爆風が横殴りに襲い掛かり、散らばった金属片が雹のように降り注ぐ。音速で飛び散る金属塊の群れは、それだけで殺傷能力が高い。赤黒い爆風と金属の豪雨にドレイクの姿が飲まれていくのと、ケイローンの両脚が地面を撃ち込むのは同時だった。

 仲間を助けなければ、という当然の拍動。弓には既に矢を番えている。ケイローンという英霊の全霊を以ての一射を、なだれ込んできた敵へと向けた。

 金属の蜘蛛を思わせる躯体が、炎を挙げながらドレイクが居た場所へと転がっている。それに飛び掛かるように肉薄した巨体の頭部を視認したときには、既に中る確信があった。弓兵にとって、射、という行為は実のところ蛇足に過ぎない。弓を構える必要すらない。当てる、という意思すら不要。当たる、という自然的な確信があれば、あとは勝手に中る。

 だから、射撃がその瞬間外れる定めにあると悟ったのはケイローン自身だった。

 目撃してしまったのは、巨大な、蛇だった。いや、いわゆるワーム型の竜種というべきか。精々5mほどの巨体を揺らしたそれは、ヒュドラだった。

 ヘラクレス退治に聞こえるレルネーのヒュドラではない。ヘラクレスの宝具から召喚されたかの大蛇は『アン女王の復讐号』の艦砲射撃の接射で身体の内側から爆殺され、木っ端微塵になっているはずだ。

 つまるところ、未だ神獣の位には程通り魔獣クラスのヒュドラだ。

 だが、その猛毒の備わるところ変わりない。そして何より、ケイローンにとってはヒュドラという存在は致命的だった。境界記録帯(ゴーストライナー)たる所以。英霊は過去伝承の記録から抽出されたものであるからして、その過去を裏切れない。もしくは宿痾のようにまとわりつく因果を振り切れない。

 英霊ケイローン。その末路は誤射(フレンドリーファイア)によりヒュドラの毒矢で撃ち抜かれた末の死亡である。不死故の苦悶にのたうち、天へとその不死性を還すことにもなった、あまりにも苦く疾しい追想。身が竦むのはゴーストライナーの宿命で、思わず二の足を踏んだのは水が上から下に流れ落ちるくらいに自明のことだった。

 「アン!」

 悲鳴のようなケイローンの声は、懇願に近しい声だった。

 アンは瞬間遅れた。事実上そのケイローンの一瞬の弱腰はむしろ戦術的合理性に貫かれたものでこそあれ、ケイローンほどの人物が狼狽えるということそのものが。ここに居る誰しもに予想外だった。

 焦燥の中、アンの狙撃その正確無比は普遍だった。炸薬の起爆で打ち出された弾丸が横殴りにヒュドラの頭1つにめり込む。『壊れた幻想(ブロークンファンタズム)』と同等の原理で対大型種用(HEAT)弾が爆発し、内蔵された高幻想性の鉄芯がメタルジェットとなってヒュドラの頭蓋を貫徹し内容物を瞬時に焼き切った。

 1頭が絶命する。一瞬だけ怯んだ素振りを見せるも瞬時に体制を立て直し、ヒュドラはその爆心地へと襲い掛かるように倒れ込んだ。

 ぬたり。ヒュドラが重たく首を擡げる。奇妙に満足気な素振りで首を振ら憑かせてから、ぎょろりと双頭がケイローンを睨みつけた。

 逃げなければ。切迫が頭の中を占拠している。ドレイクはどうなった? 炎が巻き上がる中、視界では生存の有無は確認できない。戦域マップを一瞥したが、高濃度の神秘が付随した炎のせいで識別ができない。

 ある予感。あの赤焦げた鉄のような髪の女の顔が視界を掠め、ケイローンは臓腑の底から沸き上がりかけた恐慌を抑え込んだ。

 射、一発。空を切る音すらなく豪雨を貫いた矢がヒュドラの咽頭に食い込む。痙攣するように身悶えする巨体。だがそれで殺しきれるわけではないことは、ケイローン自身もよく承知している。如何にレルネーのヒュドラより弱いとて、区別上は幻獣に相当するとて、ヒュドラの精強は理外にある。

 速度は迅い。ケイローンが弓に矢を番えるよりも早く、ヒュドラの鎌首が肉薄した。

 だがこれで終わりだ。アンが再装填するのはそれより早い。再度のHEAT弾射出の段取りは既に完了していて、後は打ち放つのみ。

 刹那の猪突が、視界に飛び込んだ。

 「撃ちます!」

 「アン、待ってください!」

 トリガーガードに滑らせたアンの指先が、寸で硬直した。首元まで迫るヒュドラの牙、ぞわぞわと身体が強張り、ケイローンは図らずも死の暗い淵を自覚してしまった。

 ヒュドラの牙は、しかし、ケイローンには届かなかった。アンのマスケットが火を放つこともなかった。牙がケイローンの身体を貫く半瞬手前、びくりとヒュドラが見悶えた。

 痙攣の直後、ヒュドラの躯体が宙に浮いた。尾を巨人に鷲掴みにされたように引きずりまわされたヒュドラ、およそ5m数トンの巨体が尻尾を起点にぶん回されるや、明後日の宙へと投げ飛ばされていった。

 火が、雨に消されていく。燃料が燃焼するオゾン臭はたちまち洗い流され、こびりつくような焦げ付きの臭いが鼻腔に張り付いた。

 暗い雨に打たれるその人影を、ケイローンは知っていた。天球思わせる白い衣も星光を思わせる金の髪も地と泥で汚れていた。渇いた蒼穹のような目だけは、以前よりもなお澄んだ蒼さのように見えた。

 「お久しぶりですね、先生」

 零れるような微笑が口角に浮かぶ。ケイローンは、彼女のことを伝え聞きでしか聞いたことはなかった。彼女の兄から聞いていた通りの柔らかな表情。親密圏の微笑に、ケイローンは妙な不安を搔き立てた。

 「ポルクス」言いかけて、ケイローンは束の間空を仰いだ。

 「兄様から聞き及んでいますよ。ケイローン先生は、厳しいですがお優しい方だと」

 そうですか、とケイローンは頷いただけだった。不要な踏み込みは、疾しく意味のないことだと思った。

 「遅ればせながら加勢します、先生。色々あったもので」

 色々、という言葉が空虚な実を以てケイローンの耳朶を打つ。応えあぐねたケイローンに代わって応えたのは、背後からやってきたアンだった。

 「あら、あの時の麗しい剣士様」

 「その節はどうも」

 「いえいえこちらこそ、お兄様にもお世話になりました」

 妙に人間臭いやり取りをするアンとポルクス。後からやってきたメアリーは、不思議そうにポルクスの長身を見上げていた。

 「えーなんで?」

 「まぁまぁ、いいではありませんか、メアリー。ディオスクロイと言えば私たちには有難い方ですよ」

 「ふーん。ま、いいか」

 興味は失った、とばかりに鼻を鳴らすと、メアリーはひょこひょことポルクスの周りをひょこと動き回っていた。「可愛くてデカい。アンみたいだ」

 ごく自然に、2人はなんの頓着すらなくポルクスを受容した。そういうものか、とケイローンは思い直す必要もない。メディアの手で海賊たちの下へ逃れたケイローンたちも、彼女たちは特に蟠りもなく受容したものだ。

 それに。

 「大将、やられちまったのか」

 コロンブスの呻きに、ケイローンは応えなかった。戦域マップに、味方を示すブリップはない。ローカルデータリンクの表示は通信途絶。だが、消滅の合図はない。

 眼球の奥、盲斑からずるりと蠢くように人影が滲む。赤焼けた金属を思わせる髪の、気の抜けた様子の彼女。藤丸立華の姿に、ケイローンは慄くような畏怖を惹起させた。

 ここまで読んでいたとでもいうのだろうか。そこまで理解して、フランシス・ドレイクではなくケイローンに指揮権を与えたのだろうか。そしてドレイクは、この状況をわかった上でそれに従ったのか。

 悪魔的というべきか、否か。ケイローンはそこで思考を停止させた。

 「ではポルクス、ついてきてください。予定通りに作戦フェイズを飛ばします」

 駆けだす4騎5人。

 ケイローンは微かにだけ、雨音が遠くなり始めたような、気がした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

裁定-Ⅱ

 ……曰く。

 英霊アタランテ。彼女が聖杯にかける願いは、あまねく子供たちが善く生きられる世界という、大それた、それでいて質朴なものである。

 彼女の英雄としての生は、主に2つ分けられる。

 アルテミスが怒りによって野に放った神獣カリュドーンの猪、それを退治するカリュドーン狩りの逸話。

 そしてもう一つが、アルゴー船の乗組員として海を渡った逸話。

 そしてその英雄譚以前。正史においても女性であったアタランテの勇ましい物語とともに語られるのが、暗い幼小のころの話だ。望まれない形で産み落とされたアタランテは、野に棄てられた。憐れに思ったアルテミスによって育まれた彼女は月の女神に誓いをたて、その後の生を生きていくこととなった。

 2つの偉大な戦いに参加し、その他少壮気鋭の如き逸話を残したアタランテ。彼女の人生において、その後を語る史料はなく、神話上彼女の人生の結末がどうなったかは不明である。番った男と神域で情事に及び、女神の車を引く獅子となったとされるものの、そのエピソードもそれ以上の結末は何も触れていない。

 そんな彼女の人生の足跡の一つ。彼女の人生には、奇妙な断片がある。アタランテには息子がいた、という逸話である。相手は過日の競争とは別な人物であり、誰が父親であるかはいくつかの説がある。同じくカリュドーン狩りに参加し、アタランテに気を持ったメレアグロス、とも。そうして生まれた子を、アタランテは早々と山に捨てた。かつて自分がされたのと同じように、産まれて間もない子供を、彼女は山に放棄したのである。それが何故であるかは神話上にも不明である。ただ史料的事実として、アタランテは誰かとの間にできた子供を山に棄てた。

 アルテミスの加護を信じ、子よ逞しく育てかしと願ったのだろうか。それとも、アタランテは子供を育てるなどという行為で何をしていいのかわからず、混乱のまま棄てざるを得なかったのだろうか。あるいは、その間だろうか。望まない子供を施設やポストに預ける現代の一人親のように、子どもに対する親の責任を果たそうとしたのか、それとも単なる無責任の放蕩に、子どもを死なせようとして棄てたのだろうか。自分を棄てた父母と同じように。そのどれも、裏付けるものは存在しない。何物も存在せず、ただ事実だけが、ギリシャ神話に、奇妙な断片として遺されている。

重ねて。

アタランテは、世界の子供たち全員が祝福を受けられる世界を願っている。ある世界で、聖女を嬲り殺してしまいたくなるほどの憎悪にかれるほどの強度の、それは祈りだった。

 

 

【補遺】

アタランテはアルテミスを信仰していた。それは周知の事実だろう。だがアルテミスは、アタランテに罰を与えなかった。黄金の果実を囮に娶られた時も。異性と交わり、子を孕み、棄てた時も。カリストの時と異なり、あるいはアレトゥーサの時と同じように。処女神にして狩猟の神、そして母なるものを助ける月の女神アルテミスは、アタランテを罰することはなかった。少なからず、それを裏付ける歴史的史料は存在していない。

 

 

 

 じゅ、と何かが上腕三頭筋を抉る。鈍い神経すら震わせる、電撃のように走る疼痛。顔を歪めたメルトリリスは、即座にその攻撃の意味を解釈する。

 毒だ。どちらかと言えば毒と言うよりも疫病に近しい何かが傷口から血管リンパ系を通って身体に這いまわっていく。

 「私に毒なんて生意気―――!」

 体内に侵入した異物の抗血清を自ら精製し、秒ほどもなく毒物を無害化させていく。すぐさま治癒しきる他方、メルトリリスは瞬きすら許さずに襲い掛かる爪の連撃を舞うように皮一枚で捌いていく。

 不味い、と思った。アタランテの強さはさっきの比ではない。毛皮を被ったアタランテは既にただどす黒い肉塊のように変生しながら、コンマ1セカンドの中で進化していく。1秒たりとも同じ形質を維持しないまま荒れ狂うアタランテは、海上に吹き荒れるテュホーンと同位の猛威だった。メルトリリスをして、猛攻にただただ防戦に抑え込まれている。剣を放てば弾き返され、その倍の速度と手数の斬撃を叩き込んでくる。

 スペックでは同等。いや、異様な速度で進化しつつあるアタランテの性能は、メルトリリスのそれを徐々に上回りつつある。

 単純なスペック勝負に持ち込むのは不可能。ならば、と考慮する次の手も恐らく効かない。即ち“毒”を撃ち込んで自壊させる技は、メルトリリスと同じ手段で無害化してくるに違いない。

 ならば、取るべき手段は次。音速などとうに過ぎ去った爪が頬を裂き、ソニックムーブの弾ける衝撃が耳元を叩く。紙一重の回避の次、メルトリリスはアタランテのどてっ腹に膝の刺突を叩き込んだ。

 “さよならアルブレヒト”。アルテミスを起源とする疫病の表徴を発展させた毒を撃ち込み、相手を概念的に溶解・抽出することで最終的に吸収し、自らの経験値に還元するメルトリリスのスキル……否、id-esと呼ばれる、アルターエゴの特権。この物理世界において、神霊の権能にも匹敵するドレイン型スキルの最終到達点。“オールドレイン”というその別称の通り、あらゆるものを捕食し得る暴食性に対抗し得るものは、同じく権能クラスの防御を持つ神霊以外には在り得ない。

 だが、膝の刺突がアタランテの胸を衝いた瞬間にメルトリリスは裂けるように顔を引きつらせた。

 超高速の自己改造に近しいスキル。”オールドレイン”の吸収速度を上回るほどの速度での自己増殖と自己改造。

 メルトリリスが唯一、苦手意識を持つアルターエゴのがいる。そのハイ・サーヴァントが持つid-es、【ヒュージスケール】。あのアタランテの自己改造は、ほぼそれに等しい。加えて、あの核──古龍を捕食して獲得した神獣の核から供給される高次宇宙の真エーテルの、無限に等しいエネルギー供給は、【グロウアップグロウ】のそれに近い。物理的世界という制約上サイズそのものは変わらないが、より殺すことに特化した変態は或る意味【ヒュージスケール】よりタチが悪かった。

 つまるところ。

 あの宝具を発動した今のアタランテに、【メルトウイルス】は効かない。【オールドレイン】も効かない。まるでスポイトで海の水を吸うような徒労のイメージがメルトリリスの脳裏を掠めた時には、既に遅かった。

 ひゅ、という風を切る音がしたのは、腹部を貫く衝撃に叩きのめされ、彼女の身体が襤褸雑巾のように吹き飛ばされた後だった。

 脾臓胃破裂、大腸が千切れた。横隔膜が裂ける。地面への激突時に左腕が捥げた。白皙を泥と血で染め上げながら、メルトリリスは崖の上まで転がっていった。

 《メルトリリスだいじょ……ダメみたいだね》

 癪に障る、声だった。のほほんとしているくせに、心底心配しているのがムカつく。「貴女の指示通りに動いてることくらい、見ていたらわかるわ!」と怒鳴り返し、既にメルトリリスの目と鼻の先まで接近したアタランテの体躯を、新ためて、メルトリリスは識別する。

 ただの、黒いヘドロだった。内側から吹き上がる肉は、高次宇宙から現実に漏れ出た真エーテルが行き場を無くして肉になっている、酷い不格好さ。単細胞生物のようですらあるその不定の形は。

 人間の眼球近くの腺から分泌され、地面に墜落する、雫のようだった。

 気に入らない。あの麗しのアタランテが醜女に堕ちているという事実も、自ら堕としたその動機も。

 メルトリリスの視界の先に浮かんだ姿は、誰だっただろうか。藤丸立華が似ていたような、それでいて全然違うあの人。黙然とした唐変木というか、茶色い髪の彼の背、だった。

 その影が裂ける。正しく猪突をしかけたアタランテだったものがメルトリリスに掴みかかる。

 耳障りな哭き声が、鼓膜を突き刺す。歯を食いしばった。全身の傷口から、アタランテだった肉汁が侵食してくる。この短期間で、このどす黒いヘドロのような塊は学習している。このメルトリリスを、食おうとしている。英霊の身で神霊3柱の情報量を咀嚼すれば、いかに自己改造の上位スキルがあろうとも破裂するというのに。その自覚のままに、本能的理性が赴くままにアタランテはメルトリリスに牙を突き立てた。

 「……いいわ、アタランテ。そんなに罰して欲しいなら、私が貴女に与えてあげる。今回の私は気前がいいの。アルテミスは優しいから許してくれたんでしょうけど、今回のそれは、私が絶対赦さない」

 メルトリリスの挙動は、軽く、また小さかった。それは舞いのよう。踊りを主眼とする【クライムバレエ】と異なる挙動、まるで制止しているかのような時間の中、メルトリリスは、矢のような鋭利さでアタランテの胸だった場所を穿った。

 あの、アタランテの胸に発生した黒曜石のような核。ラドンから取り込んだ……あるいは取り込まされた神獣の核に、メルトリリスの矢が突き刺さる。彼女の全力の打撃をもってすら物理的に傷つくことすら能わなかったが──それで、終いだった。

 びく、とアタランテの肉塊が痙攣する。失神したかのように揺れると、猪突の気勢のままにアタランテとメルトリリスは崖の淵へと飛び出した。

 アタランテの体躯が内部から外側へと潰れた。単細胞生物の死のように、肉の膜が弾け飛び、内容物が四散していく。胃だった器官、肝臓らしき器官、大腸らしき器官、脳髄らしき器官、子宮らしき器官。溶解して破裂して液体と化しながら、アタランテだったものが溶けていく。べりべりとメルトリリスから剥がれ落ちたアタランテだった溶液は、落涙のように荒い波濤へと飲まれていった。

 神獣の核を、打撃した。彼女が行ったのは、要するにそういうことだ。物理的世界に存在する物理的肉体を持ちながら、高次元の世界に半身を置く神核。三次元より一軸多い場所に莫大に存在する真エーテルを、核を通して供給する、神性の核。その核こそは神霊に属するものの存在証明。神と呼ばれるものに膨大な魔力供給を可能とするそのシステムの弱点は、要するに高次世界に“落ち込む”ことで規定以上の魔力を供給してしまうことに帰結する。

 メルトリリスの打撃は、ただの打撃ではない。露出した竜の神核を“向こう側”に押し込むことで過剰な真エーテルを供給させた。秒単位で可変する彼女の自己改造ですら処理しきれないエネルギーを押し込められれば、あとは肉が破裂するように自壊するだけだった。

 「あとは一生、ちゃんとしっかり罪を抱いて進みなさい。ラドンが祈ったように、逃げるのもいいかもしれないわ。だって、それも進むことなのだから。人間の権能は、前であれ後ろであれ、進み続けることにあるのだから。何もかも忘れてやり直すとか、そんなのは貴女に託した全てに失礼よ」

 落下する、アタランテの肉体。全てがメルトリリスから禊ぎ落ち、彼女は唯、暗い闇夜のような海を、憐れむように見つめた。

 「今度は間違えてはダメよ、アタランテ。貴女だけの運命(ポジションゼロ)は、貴女にしか似合わないのだから」

 落下する、メルトリリスの身体。彼女に最早、跳ぶ力は残っていない。ただ自由落下するに任せ、メルトリリスは薄く瞑目した。

 ふわりと浮かぶ浮遊感、足元にとられる束縛感。空へと墜落する感触の中、メルトリリスは手を伸ばした。

 分厚くどす黒い雲の裂け目。顔を覗かせた光に照らされて、来るはずのなかった影が手を伸ばし返した。

 絡む指先、抱握する手。ぎち、とメルトリリスの身体を繋いだ細い手が、崖の上から延長していた。

 鈍い指先の感覚は、ただただ冷たい。いや、冷たいのは自分の手だけだろうか。伸ばし返してくれたその手もきっと、同じくらいに冷たい。そんな手を当たり前のように伸ばしてメルトリリスを掴んだ彼女──鉱山排水の銅が沈殿したかのような髪色に、腐食鉄を思わせる鈍色の目の彼女は、朗らかな笑みを浮かべていた。

 「早く持ち上げて、フジマルリツカ。私、結構怪我してるの」

 「そんなこと言ったって、メルト結構さ」

 「結構、何?」

 「いいえなんでも。ふんす!」

 「いた、いたた。ちょっと、岩にぶつかってるわ」

 と必死の形相でリツカはメルトリリスの身体を持ち上げた。ぜえぜえ息を切らしながら崖の上に引き上げると、リツカは転げるようにひっくり返った。メルトリリスもメルトリリスで、アタランテに相当やられたせいですぐには動けなかった。一応予定の時間より早くアタランテを撃破したことを確認して、予定時間内であれば休めることを、確認した。時間で言えば、1分ほど。

 足を延ばして長座の姿勢をとりながら、メルトリリスは仰向けで転がるリツカを睥睨する。既に雨は止んでいる。口を開けて呼吸する様は、なんだか死にかけのゾウかカバみたいだなと思った。

 「ねぇフジマルリツカ」

 「何?」

 「私、好きな人がいるの」

 「へー」リツカはほんわり思案するように、空を仰いだ。「じゃあ、未来の片思い相手」

 「何よそれ」

 「メルトは未来の神様なんでしょ? だったら、その好きな人はこの世界には生まれてないってことじゃん。でも、未来に生まれるわけで」

 「そうかしら。根本的に違う世界だから」メルトリリスは見透かすリツカの目から、柔らかく目を逸らした。「でも、0ではないのかもね」

 「未来の片思い相手が生まれるかもしれない世界だから守るって、クソデカ感情すぎるでしょ」

 「神様なので人の理解は超えているのです」

 「説得力ある」

 でも片思いは余計というか、なんでわかったのだろう、と文句を言いたくなる。

 「そりゃわかるよ。メルトは私と同じ、人でなしだから。恋人なんてできっこない」

 ははは、と寝転がりながら、リツカは馬鹿みたいに朗らかに笑う。メルトリリスはむっとしながら、そうよ、と清々しく肯定した。

 「でも金ぴかのクソ野郎に言われたわ。友達ならできるかもねって。死ぬ間際に、だけど」

 「なんだそれ。アドバイスになってなくね」

 また、リツカはガハハと笑う。呑気で、頓着がなくて。その癖人間味に薄い、奇妙な現-存在。灰色の荒野の中に生えて萎びた、罌粟の花のようだった。

 リツカはむくりと身体を起こすと、雨やんでる、と今更に言った。

 「『わたしは、鳥どものいろんな生活ぶりをじっさいに観察して、あの美しい羽毛にとざされている心の中を、研究してみたくて、たまらなくなってくるのでした』」

 「キジと山バト?」

 「そう」

 「ネコものがたり、好きよ」

 「あー」

 「貴女は好きな人、いないワケ?」

 「マシュ・キリエライトちゃん」

 「はいはい」

 それは多分、友愛のポリティクス。これから始まる殺戮を前にしての、恋でも愛でもない、異物同士の、無意味の底の戯れ(ガールズトーク)だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Schlitzangriff,Neuner Kugeln.

「『不毀の極聖(デュランダル)』!」

  掬い上げるような軌道を描く絶世の銘釼。あらゆるもの切り裂く剣の一閃が突き出された腕を両断し、巨岩の如き体躯を抉る。汚濁のような血まみれの筋肉が宙を舞い、露出した心臓目掛けてデュランダルの刀身をねじ込む。勢いよく噴き出す血を浴びながら、クロは次の刀剣を投影する。

 「全行程、完了(トーレス・オフ)投影、強化(オーバーエッジⅡハルバード)『干将莫耶』!」

 ナノセカンドで現出する双剣。柄で連結した雌雄一対の双剣は、いつものそれとは明らかに様相が異なる。異形と化した干将莫耶を投げやりの要領で持ち帰る。

 迫る、槍の薙ぎ払い。岩からそのまま抜き出したかのような二重螺旋の槍の薙ぎ払いを跳躍で躱すなり、再生を始めた心臓へと投擲した。

 音速を超える速度でハルバードの刀身がヘラクレスの肉体を貫通する。再度穿つ心臓、突き抜けた刃が背骨を砕きヘラクレスの肉体を甲板へと縫い付ける。宝具の起爆と同時にヘラクレスの上半身が吹き飛び、下半身だけになった巨躯が踏鞴を踏んだ。

 残り、9回。クロは、ヘラクレスの『十二の試練(ゴッド・ハンド)』の残機を想定し、彼女は次に投影すべき宝具を己の裡に刺さる彼方の剣製をサーチする。

 戦闘開始から、既に1分20秒。重ねた剣戟は2桁などとうに超え、20に及ぼうとしている。防御することを一切無視して打撃を連射するクロは、ただひたすらヘラクレスの命を切断する。にも拘わらず、投影する剣の筵になるヘラクレスに対し、クロは未だ自壊以外の損傷はなかった。

 クロそのものの性能もある。ツヴァイフォームのそれ、しかもサーヴァントの体躯ですら自壊する程の強度で作動し続けるクロの運動性能は、敏捷値にすれば瞬間的にA+に比肩する。クロに直撃を撃ち込むのはまず至難。さらには背後で白皙の肌に赤い目を爛と閃かせるライネスの存在もある。『|混元一陣《かたらずのじん』』の効果による回避補正も兼ねに、ダメ押しはこの船。船長たるフランシス・ドレイクのスキル【星の開拓者】は、その愛船たる黄金の牝鹿(ゴールデンハインド)をも所持する。船のクルーを逆説的に開拓者へと昇らせるスキルを受けたクロに、打撃をあてることそのものがまず不可能。相手が強ければ強いほど、クロは相対する敵を粉砕する。

 だが、ただ運動性能が高く、且つ中国軍師の宝具と海賊風情のスキルの援護だけで直撃を取れないほど、ヘラクレスは弱くない。疑似的に再現されたツヴァイフォーム、ライネスとゴールデンハインドのバックアップを以てしても、むしろ打撃のほとんどは必中の気勢でクロの急所に吸い込まれるように直撃する。

 ただの力量、ほぼ同時と見紛う速度で放たれる頭部への刺突、脛への薙ぎ払い、胴への両断。刺突と両断を左手ベガルタの振り下ろしで弾き返すも、脛への薙ぎ払いは弾き切れない。太古の神造兵装がクロの脚部を捉える。

 ヘラクレスの攻撃はただの攻撃ではない。アレスの戦帯で強化された筋力値は実にA++という怪物値。掠っただけで生身の人間は半身が吹き飛び、サーヴァントとて当たれば即死しかねない。ただ一振りでBランクの宝具と同等の火力を発揮する上に、振るう武器は神造兵装である。クロなら足に当たっただけで、衝撃で全身が藁人形のように粉々に千切れるだろう。

 だが当たらない。寸で割って入るように飛び込んだ騎影が構えた十字の大楯が二重螺旋の槍と激突し、衝撃のウェーブがゴールデンハインドの中央マストを圧し折った。

 槍の一撃を、盾で防御した。それだけだというのに、マシュは失神しかけた。その気勢で対城宝具すら防いできたマシュをして、押し負けるという錯覚を覚える威力の鋭さ。盾持つ腕は折れるかと思うほどで、呼吸する隙を見せた瞬間に五体を千切られる錯覚が脳裏を過る。

 本当は、マシュは、弱気で内気な少女なのだ。戦いの最中、恐い、という情動はいつもあって。ヘラクレスなどという怪物と相対するのは、それこそいつ発狂してもおかしくないほどの凶行だった。

 だが、マシュ・キリエライトは引かない。絶対に退かない。何があっても引く気がない。己がスキル、【憑依継承(サクスィード・ファンタズム)】によって獲得する魔力に依る防御力場を全力で形成し、【自陣防御】のブーストも重ね合わせた絶対防御で以て、マシュはクロへの攻撃を全て受けきる。刺突も薙ぎ払いも殴打も蹴りも体当たりも、絶叫のような雄叫びとともに防ぎきる。

 トウマは言った。防御は任せる、と。

 クロが背中を押した。一緒に戦うぞ、と。

 ライネスが勘案した。この作戦で行く、と。

 そうして、リツカはマスターとして決断した──マシュ・キリエライトなら大丈夫、と。

 だから引かない。託されたものが確かにある。守りたいと思った人が、確かにいる。

 腕が折れそうになるからなんだ。そんなのは酒呑童子の時に味わった。

 飲まれそうな攻撃が何だ。そんなものはアーサー王とアルテラの剣で味わった。

 圧倒的な強さが何だ。そんなものは源頼光の気勢で味わった。

 根負けしそうな衝動を全力で叩き殺す。己の弱さを歩んできた道が導いてくれる。だから負けるな、この力は精神を糧に屹立する無限の如き城壁。クロがきっと殺しきってくれるという未来を信じて、マシュ・キリエライトは攻撃を完璧に防御しきる。マシュの力は、根本において他者を守りたいという願いを実際の魔力に変換する【憑依継承】にあるが故に、“クロ1人を守る”というわかりやすい指標はよりマシュの力を魔力に変換し、パワーフィールド形成をアシストする。

 事実。マシュはこの1分半、完璧なタスクをこなしていた。マシュの霊基に結合した月霊髄液、トリムマウによって演算分析された、クロが躱すこともできず跳ね返すこともできない打撃を的確に防御しきる。トリムマウの演算結果の通りに身体を稼働させ、盾を維持しきるその精強。彼女自身は自らを半人前のサーヴァントと認識しているが、それこそは古き英霊では到底成し得ない現代の戦闘技法。スパコンたる月霊髄液の演算速度に追従する反応速度は、およそ人間という枠の中にあってその限界点に到達していた。

 だがそれ故、マシュはその打撃に一瞬遅れた。彼女はただ我武者羅に誰かを守ることに専心していただけに、自分の首を狙って放たれた攻撃への動作が遅れた。

 突き出された槍は間違いなくクロを狙っていただろう。マシュはその斬り払いに追従し、叩き返すように槍の一刺しを打ち返す。

 ヘラクレスが動いたのはその瞬間。一歩踏み込むなり槍を宙に放り投げ、マシュの盾をむんずと掴みかかる。縁を掴まれた頃には遅く、マシュの腕からもぎ取るように盾を放り投げた。

 弦月のような弧を描き、十字の盾が宙を舞う。引き剥がされた衝撃でよろけるのとほぼ同時、ヘラクレスの手中に槍が収まる。槍を宙に投げ一歩踏み込み盾を捥ぐ。何の淀みもなく進む一連の挙措をこの機動格闘戦の最中に行うなど尋常ではない。この戦闘において、ヘラクレスはクロ以上にマシュを難敵と認識したが故の戦闘動作。そしてその最後の行程を以て、ヘラクレスは神の槍をマシュの脳天に叩き込む。

 トリムマウの警告音とともに視界の中に警報のポップアップが立ち上がり、マシュに防御行為を要求する。だがそんな手段はない。盾がなくともパワーフィールドは形成できるが、盾を触媒にしない場合観念の想定が甘く強度が足らない。剣を抜く暇もない。畢竟、視界を埋め尽くす二重螺旋の槍を防御する手段は──。

 「投影行程破棄(ロール・オフ)──『熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)』!」

 開く、紅蓮の花弁七つ。マシュから槍を遠ざけるように開いたアーチャーの盾が空間を押し広げ、音速の刺突を食い止める。一瞬で6層まで貫かれ、最後の7層も拮抗すらできなかった。防御できた時間は半瞬ほどもなかっただろう、だがアイアスの盾は半瞬ほどの猶予を形成する。最後の花弁を突き破る槍へとベガルタを叩きつけ、軌道がそれた槍がマシュの頭上あわや5cmを掠める。髪の一房が宙に舞い、マシュは瞠目の中に砕けたベガルタを右手に構えたクロの姿を捉えた。

 「あっぶねえ、なァ!」

 ヘラクレスが槍を引き戻す。繰り出す再度の刺突、だがそれより早く、小さな体躯がマシュの小脇を潜り抜ける。カモが素早く川面を潜水する身のこなしでマシュとヘラクレスの間に躍り出るなり、クロはヘラクレスの鎖骨へと左手を突き立てた。

 肉にめり込む左の五指。ヘラクレスの鎖骨を起点に左大胸筋と腹直筋を力任せにこそぎ取り、露出した肺の隙間から覗く心臓へと左腕を叩きつける。

投影、開始……擬装(トレース・ロスト)

 肋を砕き肺を潰し、心臓に手のひらが到達する。心臓を握り潰す余韻もなく、破砕したベガルタを反撃繰り出すヘラクレスの右腕肩関節に直撃させる。脆く吹き飛ぶ右腕。よろめいた瞬間、ヘラクレスは自らの裡側から生えた剣に貫かれて絶命した。

 「投影過重負荷(トレース・オーバーロード)、『破滅の宵闇(ダインスレフ)』!」

 どす黒い剣の群れに貫かれたヘラクレスの肉体が変色する。呪いに蝕まれるように蒼褪めた巨体が膝から崩れ落ち、一瞬だけ沈黙した。

 「これで、殺しきれる」

 

 

 ふらつきながら、クロは沈黙した巨躯を睥睨した。

 呪詛で硬直したヘラクレスの玉体。宝具『破滅の宵闇(ダインスレフ)』の効果──持ち主に牙向く文字通りの魔剣を突き刺した腕を起点にヘラクレスの体内で投影、暴走させることで殺しきりながら呪詛による行動阻害を惹き起こす二重攻撃。決して戦上手武芸達者の英霊エミヤでは行わない、獣というよりは凄絶な悪魔じみた戦術だった。

 あとはただ、この巨体を屠殺するのみ。

 それに最適な武装──あの巨体を完全に殺しきる武具を、脳裏に描く。

 凶つ、星のように。

 蒼褪めた眼差しを堕とし、クロは左手を掲げた。

 「投影、重奏(トレース・フラクタクル)

 荒れ狂う、魔性の論理性。

 アレを殺せる戦力は既に策定済み。

 創造理念を鑑定し、基本骨子を想定し、構成材質を複製し、制作技術を模倣し、成長へ至る経験を憑依し、蓄積年月を再現し、あらゆる工程を凌駕する。

魔術理論・世界卵による心象風景の具現、魂に刻まれた「世界図」をめくり返すリアリティ・マーブル“固有結界”。

 クロエ・フォン・アインツベルンの成立要件たるクラスカード“アーチャー”が蓄えた戦闘技法、経験、肉体強度をサポーターに、自らの戦闘潮流を確定。

 固有結界『|無限の剣製《アンリミテッド・ブレイドワークス』、使用不可能。

 英霊エミヤの心象世界と彼女の世界は異質。()()()()()()()()()()()()()。いまはまだ、幼体の彼女には使用不可。

 あの戦いを、幻視する。狂戦士の大英雄が振るった大剣を寸分違わず凝視する。

 左手を掲げる。まだ現れぬ架空の柄を抱握する。

 桁の違う巨重。だが、この身体ならヘラクレスの怪力ごと違わずに複製する。

 確実に、殺しきる。ならば通常の投影ではまだ足らない。限界を超えた投影で、残り9つの命を叩き潰す。

 故に。

 「──投影、装填(トリガー・オフ)

 脳裏に描いた軌道は9つ。擬制された魔術回路、実質総数4桁に届く魔術回路その全てを動員し、この打撃の元に叩き伏せる。

 僅かに、蠢く巨体。ヘラクレスの肉体は、数多の試練を乗り越えた呪いにも似た祝福。ダインスレフの呪いなど、以て1秒だった。

 「全行程投影完了(セット)

 巨体が跳ねる。クロを轢断せんと、神造の槍を薙ぎ払う。

 激流と渦巻く気勢。

 頭部頸椎心臓鳩尾膀胱睾丸大腿脛に狙いを定め。ミリセカンドの一閃を、ナノセカンドの連撃で迎え撃つ。

 「──『是、射殺す百頭(ナインライブス・ブレイドワークス)』!」

 其こそは、英霊ヘラクレスが武闘流派。数多の幻想種を屠り去った神技の如き大英雄の戦闘技法を、剣の丘で模倣する、『無限の剣製』に並ぶ英霊エミヤの最終奥義。神速の九連撃、その初撃が反撃を叩き伏せ、残る八連撃がヘラクレスの肉体を轢断した。

 一撃で死に二撃で死ぬ。繰り返される死の連打は八つ、蘇生と同時に為すすべなく殺され尽くし、ヘラクレスは瞬く間にミンチと化していく。

 岩の如き斧剣が砕ける。最後の一撃は耐久度が足りずに刀身が砕け、夢のように散っていく。

 故に倒しきれない。残り命のストックは2つ。瞬く間に蘇生した肉塊が槍を掲げる。緩慢な動作、あまりの鈍足。身体の八割を殺されたヘラクレスの速度はあまりに遅い。

 クロに、次の投影を行う余裕はない。無数の投影連打に加えて『是、射殺す百頭(ナインライブス・ブレイドワークス)』の行使、そうして疑似ツヴァイフォームの反動が、来る。この投影でクロの動きは制止する。それは最初から、わかっていた。

 妹のような姉の反則技を使った。

 母が継承した衣を纏った。

 父系が持つ固有の魔術式を模倣して再現した。

 そうして、創り上げた兄の全力を叩き込んだ。有り得なかったはずの運命を手繰ってヘラクレスの命をほぼ削り切り──最後の一押しを、叩き付ける。

 「投影」

 終われない。こんなところで終わってやらない。その原初の願いを、私は絶対裏切らない。

 「……完了」

 砕けたはずの斧剣の内から、光が漏れた。

 豪華絢爛の如き黄金の剣。刃毀れなど知らぬ、ただ一撃で敵を断つ聖珖の如き王の剣。二度目の生の中知った、それは英霊ヘラクレスを殺しきるために相応しい、最終兵装。

 ……あの時は、敵わず、叶わなかった。未だあの少年を信じられなかったのか、力及ばなかったのか、そしてそのどちらもか。この聖なる刃は、持つ者の心根を測るが故に。

 でも、今はきっと。いや絶対、違う。この剣は、あの少年が導いたこの剣こそは、太古の大英雄を七度殺し勝利すべき未来を手繰る剣。

 その、剣の、銘は。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

勝利すべき黄金の剣

 「お、おいトウマ!」

 転倒しな、腕に抱いたオリオンを、思わず落としてしまった。その声は何を求めての物だろう、それすら判然としない。酷く、遠く聞こえるオリオンの声に、トウマはただ、「ごめん」と謝罪だけを漏らした。

 呼吸が荒い。鼻血が止まらない。失神しそうだ。

 ──その、令呪から流れてくる感触を、トウマは知っている。あの時、これと似た感覚を、味わった。オルレアンでジャンヌ・ダルク・オルタを召喚した時。ネロが神話礼装を以て軍神マルスを召喚し、自らの身に降ろした時。メルトリリスが令呪2画を以て、古き海の魔竜の大権能を宝具として振るった時。サーヴァントが分不相応の出力を発揮したとき、令呪から逆流してくる損傷。本来サーヴァントが負っている損壊のフィードバック、だ。

 そう。それは、本来サーヴァントが負っている、傷だ。今まさに無理をしている、クロの体内で起きている瓦解が、令呪越しに伝わっていた。

 トウマには、それが何なのかわかっている。クロがどういう無理をしているのかわかっている。そんなことをさせていることもわかっている。戦略上、そうしなければならない必然性もわかっている。そして何より、頑張っている皆の後ろで眺めているだけの自分を理解している。いや、あまりの激痛で項垂れて、後ろで眺めていることすらできていない。

 滴る血液が床に血だまりを作る。鼻血か、耳からか。激痛に反応して戦闘服から圧力注射でジコノタイドが注入されるのも、あまり効き目がない。

 酩酊のような、意識の中。

 想起したのは、誰だろう。ぎちぎちと頭蓋が解けて収縮する錯覚が過るほどの激痛、立っていられないほどに失調した平衡感覚。眩暈のまま反芻した記憶の中、掠める顔、顔、顔。

 燃えるような目をした音楽家の、教師然とした柔らかな顔が過った。

 熱心に現代医学に耳を傾ける処刑人の顔が過った。

 不機嫌そうな竜の聖女の顔が過った。

 舌足らずの不器用な口調の無銘の暗殺者の顔が過った。

 無邪気に笑う殺人鬼の顔が過った。

 ともに飛べと手を取った綺羅星の如き皇帝の顔が過った。

 弱くていい、と言った、眉間に皺を寄せたしかめっ面の男の顔が、過った。

 ──ふと、その視界に光が差した。

 ……ふと? いや、それはそんな偶然ではない。必然的なその閃珖、煌めくような黄金の光に顔を挙げたのは、必然。いや、運命(フェイト)、だった。

 「おい、そんな身体で」

 行かなくちゃ、と思った。だって、待っている。彼女はその先で待っている。手に携えた剣、黄金の剣を手に、その背は待っている。来るはずのものが来るのを、待っている。なら止まらない。辿り着くべき場所がどこにあるかはわからないけれど、その先に彼女がいるのなら、絶対に止まれない。繋いだものがその歩みの後ろにあるのならば、止まれるわけなどあろうはずがない。

 魔術回路を励起させる。死のイメージとともに裏返る疑似神経。駆けだす速度は妙に鈍く感じた。強化の魔術はうまくいってない。当たり前だ。所詮数か月程度、魔術に触れただけのこと。肉体強度と速度は上がっているが、強化のし過ぎで逆に身体が損傷している。はやる気持ちのせいで、制御するとかそんな考えが追いつかない。

 後ろで誰かが名前を呼んでいる。オリオンか。心配しているのだ。悪い、と思った。オリオンの配慮を、無碍にしている。それでも、彼は行かなければならなかった。だって、彼女はその剣を投影したのだから。ヘラクレスという難敵を前に、その剣を敢えて選択したのだから。

 ……朧げだけれど、あの時のことは、なんとなく覚えている。ヘラクレスを倒し得る武装として、あの剣をイメージした。彼女がその剣を投影して──記録上、彼女はヘラクレスを撃破した。記録上は。

 もう、彼女の姿は目の前。手を伸ばせば届く距離。ヘラクレスは槍を持ち上げている。あの刺突を喰らえば諸共に死ぬ。きっと、こめかみを掠っただけで頭が弾け飛ぶ。

 ……。

 関係ない。どうでもいいことだな、と思った。

 「手を!」

 握って、という。

 彼女の声が聞こえていた。

 その、黄金の剣の柄に手をかけた。酷く、重い。絢爛華美な黄金の剣のその重さ、繋いだものが絡むその重さは桁が違って、だからこそ、ただクロの代わりに剣を振るうことが、多分できる。

 クロはトウマに一瞥すら渡さなかった。その必要もなかった。トウマが手を伸ばすのは自明の理。剣を持ち上げるトウマの身体を巻き込むようにして柄を握りこみ、振り上げるトウマの動作をアシストし。

 一閃する珖芒。

 解放する真名。

 彼女に代わり、握る剣を振り上げる軌道。迫る槍の一撃を押し返し、黄金の一撃が岩の肉体に食い込む。

 一瞬、巨人の体内で黄金が叛濫した。

 雨は止み。黒檀の雲間から、水のように澄んだ月が出ていた。いつも、ずっとそこに在ったかのように。

 崩れ落ちたのは、互いだった。岩の巨躯が膝をつき、ざらりと肉が解けていく。巨岩が砕け礫石が崩れるように、ヘラクレスの躯体が消滅を始める。崩れた肉体がエーテルに解体される金の燐光がふわふわと宙を舞った。1()1()()()()()()()()幻想で貫徹されたヘラクレスの肉体は、そこで、終わった。

 倒した。ヘラクレスを、倒し―――。

 「トーマ!?」

 トウマが見たのは、そこまでだった。緊張が解けたせいか、鎮痛剤が異常に聞き始めたせいか、脳髄の底から這い出してきた眠気が全身に浸潤していく。

最後に見たのは、自分を覗き込むクロの顔。深く冥い黒森の臓物(ハラワタ)の青い目は、どこか。

 いつか見た魔性の目に、重なった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 「倒した、のか」

 膝をついたライネスは、温い声を吐き出した。

 朽ち、崩御するヘラクレスの身体。枯れ木が毀れるように、はらはらと巨躯が崩れていく。

 どっと噴き出した汗が汗腺から嗚咽のように漏れ、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテは目を閉じた。安堵、だった。

 赤く、焼け付くようだった。本来、常時発動型の宝具『混元一陣(かたらずのじん)』は、ライネスという肉体を依り代にした時は起動効果型の宝具に変成する。発動型であるが故レンジを制限される代わりに、レンジ内に対する効果は本来の司馬懿のそれを上回る。その代償として、継続時間を過ぎれば強制的に停止し、赤い魔眼を駆使した代償がライネスの魔眼へと還っていく。

 一時的な失明状態。眼球内の独立可動する魔術回路を駆使した代償で血流量が増加し、視界が赤く染まっている。事実上のレッドアウト、だ。血流量があがったのは眼球だけではない、それに直結する脳みそも同じような事態になっているはずだ。生前、ここまで魔眼を使ったことはない。そもそも生前のライネスの主戦場は、政治的利権争いだったのだから。

 いつもの目薬を取り出す。癪ながら、ロマニ・アーキマンが用意した目薬は生前のそれより効果がある。ある種の暗示によるプラシーボも兼ね、普段なら数秒で魔眼の摩擦熱を癒してくれるのだが、今回ばかりはそうもいかない。レッドアウトが起きるまでの酷使は、脳髄への血流量増加まで含む。下手に動けば脳内血管が破裂しかねない。サーヴァントの身でこれなのだから、生前であれば──。

 思考はそこまでだった。詮の無い話、と割り切って、ライネスは座り込んだまま──。

 何か、妙な感じがした。

 ヘラクレスは死んでいる。踏破した試練の数だけ祝福を受けるあの肉体は死に絶えている。その背後に、あの槍が、ヘラクレスの柱が、立っている。

 いや、何か違う。二重螺旋を描く槍。その突端、閉じていたはずの槍が裂けていく。螺旋回廊が解けるように、開いていく。

 かちゃ、と何かが弾ける音がした。懐に、手を入れる。ぞっと青ざめたライネスは、懐からそれを取り出した。

 聖杯が割れていた。この特異点の要石にして心臓たる聖杯が、まるで役目を終えたかのように、割れていた。

 「マシュ、クロ、トウマ!」

 「──『汝、試練の果てに無限へと至る者(アイン・ソフ・オウル)』」

 呻くような絶望の一節。冷たくライネスの声を塗りつぶす真名解放の叫喚が、暗い空を切り裂いた。

 「リツカの言う通りってわけか。インチキ神話もいい加減にしろよ、この」

 其は、終焉の開始。開いた槍を起点に拓いたのは、空想の如きセフィロトの樹だった。




区切りの綺麗さ重視で前回今回は分離させました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Plus Ultra-Ⅰ

 数多の英霊の魂と肉体が渦巻く疑似的な星の核。この特異点を祭壇に、新しく古い神代という名の異界を形成する。その中心でメディアは自我を保ち、行く末を眺めている。

 魔女メディア。冥府に住まう女神ヘカテに教えを受けた彼女にとって、自らを責め立てるように蠢く魂無き肉体の哀哭も、肉体無き魂の嘆きも、どちらも子守唄程度の耳心地でしかない。そもそも、少女の形を執るメディアの精神性は過剰な純粋さで量子力学的に収縮し、他の何物にも拡散し得ない。あるいはそれ全てに拡散しながら、メディアは生きながらに死に続ける地獄に平然と揺蕩っている。

 ……彼女がその方法を思いついたのは、ずっと前だった。

 神代から彷徨い続ける彼女を大航海時代の楔として撃ち込んだ“魔術式”の存在を知ったのが、その始まり。その魔術式の根本にある古き約束(旧約)という基盤を、メディアはたちまちに分析した。その信仰の根本、人が神に至る道筋を捕捉した。後は、解体して理解した。王女メディアという怪物の底を、おそらく、この人理焼却の主犯は理解できていなかった。彼女が特異点を作るまでは主犯の思う通り。その後、聖杯の魔力を駆使して槍持つヘラクレスを召喚した。異界に渡る門、柱を宝具とするヘラクレスを、召喚した。神代という名の異界を造り上げるために。

 だが、神代への回帰、異界渡りなどという大権能をサーヴァントの身で振るうのは不可能だ。だから、ヘラクレスをより上の階梯へと引き上げる必要が、あった。それに、せっかくイアソンの肉体を用意するのであったら、天に戴く神でこそ相応しい、と考えが至った。なら用意すればいいのだけのこと……。

 メディアが全き思い通りに動いていない、と魔術式が知った時にはもう遅い。威力偵察とばかりに送り出してきた柱も含め、無数の天よりの御使いをヘラクレスに伐採させ、その腐肉を糧に抽出したエーテルからサーヴァントを召喚した。後の祭りと知り、静観することに決めた魔術式は、自分の肉体の破片で謝肉祭が執り行われる様を眺めているほかなかった。

 これで、舞台は整った。果てに至るための大地は広がり、大地をこの常世と隔絶した世界へと巻き戻すための階はそろえた。あとは疑似的にヘラクレスの宝具『十二の試練』11個目の生命(ダアト)が消化される手段を確立するだけだった。

 時は着た。ヘラクレスは10個のセフィラを巡り、11番目のダアトに至った。人、知恵に至り生命の樹と化したその生命を以て、ヘラクレスは窮極たる時戒の神となる。異界渡りの船頭にして英雄の器たる肉体は、ここに復活した。

 満腔の想いとともに、メディアは嘯いた。

 「さぁ、やっちゃってください。ヘラクレス!」

 

 

 ジョン・ミルトン著、『失楽園』は旧約聖書『創世記』をテーマにして描かれた。

 天使たちの堕天から悪魔たちの小競り合いを経、サタンは楽園へと向かう。純真無垢に生きる雌雄の番を騙し堕落させたサタンもまた、神による裁きを受け蛇の身体は植物に変成させられ、創世神話は幕を閉じる。

 人が堕落する以前、夜は原初の静謐が充満していたと言う。数多のものが静まり返り、次の朝まで微睡む賦活の閨。制止という名の生命の横溢と躍動をはたわたに収めた、それは永遠に失われたはずの夜だった。

 ……雨は、当の昔に止んでいる。無風の大気。波ひとつなく鏡面のように広がる海原には、天空で硬直したような黒雲が映りこんでいる。ただ、雲の裂け目から覗いた朔月だけが、青白く震えるように光を堕としていた。原初の夜が、ここに居た。

 後退る、クロ。目前に屹立する巨躯、その威容。神木がそのまま人の形に変成したかのようなそれは、錯覚でもなんでもない。生命の樹を内包し、天より舞い降りたそれは間違いなく英霊の上位種。現世では既に虚ろに果て、高次宇宙へと退いた神霊そのものを前に、平静でいられるはずがない。

 だが、彼女にはそんなことをする余裕すらなかった。パイルバンカーでこめかみを撃ち抜かれるような激痛を叩きつけられた時には、もう耐えられなかった。膝から崩れた彼女は身動きすらできず、聳え立つ玉体を見上げた。

 殺しきれなかった? いや、そうじゃない。確かに殺したという感覚はあった。勝利すべき黄金の剣、カリバーンはヘラクレスの11個目の命を確実に斬殺し、瞬間的にA++にまで撥ね上がった火力は最後12個目の生命すら鏖にする、はずだった。

 「11個目の命の消滅とともに強制発動する、宝具」

 掠れ掠れの声を滲ませる。喃語のような独語を漏らしたトウマは、そこで意識を刈り取られたかのように仰向けに倒れ込んだ。トウマの背に手を伸ばしたが、あまり意味はなかった。二人一緒に倒れ込んだクロは、自分の身体がとうに限界を迎えたことを理解した。

 魔術において、”力”とは他所から引っ張ってくるものだ。並行世界の運用、はその一つだろう。なんにせよ人間1人が所有するオド、魔術回路どちらにも限界があって、その限界以上のものを酷使すれば、反動は代償となって跳ね返ってくる。

 全身の脱力はその合図だった。力、というものの本質全てが底の無い深森の洞に脱落する感覚とともに、再臨したはずの霊基が後退する。霊衣が解け、黒を色調としたカルデアのBDUになったクロは、ただ漫然とその巨体が槍を持ち上げる様を見ているしかなかった。

 背後に浮かぶ、拓いた光の樹木。枝を圧し折りそれを槍に見立て、当然のように突き立てた。

 ただそれだけの行為なのに、世界が震える。戦慄のように大気が軋みを上げ、海が泡立った。世界の位相そのものがずれるかのような刺突に、何を為せるだろうか。アイアスの盾を投影する? いや、そんなもの、完全に投影しても1秒と持たずに全て貫かれる。これほど高濃度の神秘に対抗できる宝具の投影は、不可能だった。

 それでもクロはなんとか立ち上がった。

 霊衣を展開する。未完成状態で霊基が立ち上がり、赤い弓兵の意匠が展開する。

 投影した剣は精々が基本骨子の想定が甘い干将莫耶だけで、とてもあの木の枝を防げるものではない。

 それでも軌道だけは、逸らせるはずだ。その衝撃だけで自身の霊基はミンチになるだろうが、それでも背後にいるマスターの身だけは、守れる。目端、身体を起こしたマシュがきっとトウマを逃がしてくれる。

 その後、どうするかはわからない。こんな怪物を倒せる手段があるのだろうか。わからない。でも、きっとライネスとリツカ、トウマならなんとか打開策を見いだせるかもしれない。そのためにも、まずトウマは生き残らせないと。

 それはきっと、戦術的で、戦略的な思考。それと並列して存在する情動も自覚しながら、クロは無造作に振るわれた槍に双剣を叩きつけた。

 「あっ」

 届かなかった。全力で振るったはずの剣は宙を斬り、不意に背後から引っ張られる力に引きずられるように、赤い矮躯が跳ね飛んだ。

 身体に無理やりに注ぎ込まれる高濃度の魔力。魔力と言うよりは呪詛に近しいその強制感。サーヴァントへの絶対命令権。残り最後の一画の紅い燐光が手の甲で弾け飛んでいく。

 生き延びろ。

 言葉が頭の中で凝る。令呪は端的であればあるほど強い志向性を持つ。その原初的な願い、終わるわけにはいかないという意思の底、無意識すら超えた現存在の存在の祈りに、クロは顔をくしゃりとさせた。

 「バカ、そんなこと求めてない!」

 何に対しての怒気だったろう。自分でもよくわからない情動が過ぎる。ただ自明なことは一つだけあって、このまま槍を振るわれれば、問答無用であの刺突がトウマの身体を吹っ飛ばすであろう、ということだ。

 枝がトウマの身体を水溜まりにする。人間の身体なんて、あの膂力の前には紙切れより頼りない。

 枝の突端がトウマの肉体を貫く、刹那。

 「やらせません!」

 滑り込むようなマシュの挙動。盾を構えたマシュの軌道の先は枝とトウマの間隙ではなく、ヘラクレスそのものだった。

 「『疑似展開/人理の礎(ロード・カルデアス)』!」

宝具の展開とともに展開するパワーフィールド。【憑依継承】の全力解放、展開した力場をそのまま叩き付け、接触を焼き切りながら圧殺する戦闘技法。虚を突かれたようにシールドバッシュの直撃を受けた、ヘラクレスの巨体が宙に浮いた。

 展開した盾を駆けのぼる。腰に差した両刃の剣、月霊髄液によって形成される銀の刃を抜き放つ。踏鞴を踏むヘラクレスの頭上に飛び上がったマシュの狙いはヘラクレスの頸。構えは目線に水平、突きの姿勢から、マシュは刃を放った。

 「砲撃(ファイア)!」

 刀身は、魔力を出力するための器官。纏わせた魔力を槍をイメージしたパワーフィールドでパッキング。それをそのまま打ち出すそのイメージは、120mmの戦車砲からHVAP(高速徹甲弾)を打ち放つ様だったか。杭のように放たれた魔力はヘラクレスの頸筋を左から貫通し、右の脇腹から飛び出して甲板に突き刺さった。

 悶えるように、ヘラクレスの肉体が蠢動し、

 「ダメ、マシュ!」

 「え、あっ」

 続く声はなかった。延びた左手がマシュの胴体をオモチャでもそうするように鷲掴んだ。

 めり、という嫌な音が、酷く鮮明に耳朶を打つ。鎧が軋む音か、臓器が圧壊する音か。悲鳴すら握りつぶすほどの圧縮がマシュの胴体を捩じる。

 最初から、ヘラクレスの狙いはここだった。この場において最も優先度の高い攻撃目標は、クロでもなければトウマでも、またライネスでもない。未だ戦闘力を維持し、かつあれだけヘラクレスの攻撃を捌き切った|盾の持ち主《マシュ】を現状の最大脅威を認定し、これを排除しにかかったのだ。

 神霊となり果てたヘラクレスの筋力値がどれほどかは不明だったが、握りこまれたマシュがどうなるかは、あまりに、明らかだった。

 ぶちっ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

人格(ペルゾーン)

前回今回と短い話が続いたので。


 神殿 前室にて

 

 放たれた斬撃は、回避不可能だった。左斜め上段から振り下ろされる槍の速度はオデュッセウスをして認識できなかった。いや、むしろオデュッセウスがオデュッセウスであるが故の瑕疵か。英霊が伝承によって成立するモノである限り、その存在様式は伝承に依存する。彼ら彼女らの無双豪傑は伝承学的論理性によって成り立ち、その論理性によって振る舞われる。そこにあるのはただの自明の明晰性であり、紛れはない。

だから、オデュッセウスには躱せない。伝承そのものが散逸しているが故、またその微妙な立ち位置から『テレゴノイア』そのものが人口に膾炙し得ないものであるが故にテレゴノスが幻霊以上にしかなり得ないとしても。それが語られ、書かれた伝承であるならば必殺の論拠となる。

 だから、それは当然の現実だった。

 アルターエゴ・テレゴノスの放った毒槍がアイギスの装甲を貫通し、致命に果てたのは、論理的に全く疑義申し立てる余地のない現実だった。

 ……だが、それ故に反撃の一太刀もまた自明のことだった。

 狙いは首。満身創痍の中放つ斬撃の速度は決して優れていない。だが、テレゴノスは決して英雄的に優れた能力があるわけでもなかった。オデュッセウスの剣、アイギスより錬成したる剣の一太刀は、あっさりどす黒く淀んだ泥人形の頭を跳ね飛ばした。

 血の代わり、噴き出した真エーテルが霧散する。光の雨粒のように波打つ粒子が床へと流れ、たちまち大気と混じり合っていく。首を刎ねられたテレゴノスはそれで絶命し、床へと転がった。

 オデュッセウスが地面に臥したのは、そのちょっと後だった。テレゴノスの槍、アカエイの毒を含んだ槍の作用か、既にバイタルデータが急激に低下している。酸素飽和度は60を下回り、加速度的に肉体が壊死している。本来であればアイギスから解毒剤が圧力注射で投与されて恢復するのだが、その見込みはない。オデュッセウスがオデュッセウスであるが故、アイギスはただ一つ、その毒だけ解除できない。

 死ぬな、と端的に思った。死ぬのは、二度目だ。一度目はここではない異聞の世界で、背中を衝かれて暗殺された。高慢さが故か、愛知らぬが故か、オデュッセウスは懐を刺し貫かれて即死した。

 床に転がり、エーテルに解体されていく死体を見下ろす。テレゴノスの父は間違いなくオデュッセウスで、その母はアイアイエーの大魔女キルケー。もし本当にオデュッセウスが汎人類史のオデュッセウスなら、その翼ある息子を手にかけることなどできなかっただろう。汎人類史において、年老いたオデュッセウスが未だ年若く戦歴もないテレゴノスに刺殺されたように。

 だが、異聞のオデュッセウスにはそんな感傷がない。そもそも、愛すべき人がいない。汎人類史と混じっているが故に不利判定を受けたが、そもそも同じ名前の他人というだけのオデュッセウスには伝承の論理性が薄かった。皮肉だな、と思った。一度目の生は愛知らぬが故に敗北し、今度は愛知らぬが故に相討ちまでは持ち込めた。なんとも、ままならぬものである。

 消えゆく死体の翼が、千切れて柔らかく飛んでいく。ふわりと浮かんだ羽がオデュッセウスの手のひらに、墜ちた。

 感情は、なにもなかった。例えば哀惜や愛しさのような、そういったものは何もなかった。ただ過ったのは、申し訳ないな、という妙に軽薄な同情だけだった。殺してしまった息子に対する思惟であり。そしてその母親であり、この特異点で知り合い、殺したキルケーに対しての思惟だった。

この特異点の裏にいる者を欺きながら勝つための布石を撃ち込むため、キルケーは自らこの特異点に召喚された。そして自ら召喚したオデュッセウスがあくまで魔神柱を贄に呼ばれたサーヴァントであると認識させるため、キルケー自らを殺させた。あくまで全ては作戦で、そう思えば別にかつて異世界の自分と愛し合った女を殺すことにはさして抵抗はなかった。

 ただ、そんな時、やはり思う。もし己が愛だの恋だのというものを知っていたなら、わかったのだろうか。平然と殺される選択をし、そして調子のよさそうな顔のまま首を刎ねられたキルケーの裡にあった情動に、見当がついたのだろうか。ただ思うのは、刎ねられ転がった顔が消える寸前、飛び跳ねた血が目元について雫を垂らしたようになったのは、偶然だが運命だな、と思った。

 オデュッセウスは、ふと耳朶を衝いた音で顔を挙げた。

 ひた、ひた、と血が水溜まりを作っている。見下ろす視線は酷く冷たい。その姿は知っている。この特異点で戦った相手だ。フランシス・ドレイク──海賊の、サーヴァント。返り血で塗れた姿は、傷だらけだった。

 あの防衛線を突破してきたのだろう。1人で来たところを見ると、単騎で突破してきたのか。無茶な作戦をするものだと思ったが、実際のところは理に適っている。【星の開拓者】、不可能を可能にするスキル。無茶な戦術を執ることそのものが合理的戦術である、などという考え、普通は浮かばない。これを指示した人間は、よほど人を人とも思っていない思考回路の持ち主に違いない。()()()()()()()()()()、よもや単騎で猪突してくるなど予想外にも程がある。

 フランシス・ドレイクが銃を構える。当然だ。オデュッセウスはフランシス・ドレイクがキャプテンを務めるあの船団を手酷く殺して回ったのだから。フランシス・ドレイクは生前、まだ奴隷船貿易に従事していた頃にスペインにしてやられたことを根に持ち続けた、という。復讐心を抱き続けた彼女が太陽を堕とすことになるのは、必然ではないが運命ではあったのだろう。

 つまるところ、ドレイクが瀕死のオデュッセウスに対して起こす行為は一つしかない。

 ドレイクが拳銃を構える。先込め式拳銃の銃身から飛び出した弾丸がアイギスの装甲を砕き額の皮膚を裂き頭蓋を破壊し前頭葉間脳視床下部松果体延髄小脳を肉みそにし、徹った弾丸が壁面を穿った。オデュッセウスは(おわ)った

 曰く。オデュッセウスは、海から離れた場所にて、安らかな死を迎えるという。あるいは、海より来たものによって、安らかな死を迎える、とも。

 異聞のオデュッセウスも、テレイシアスの予言通り、安らかに死んだ。知的好奇心は埋まったのだ。実感することはできずとも。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

孤独のアマリリス

 身体が、宙に浮く。ヘラクレスの手のひらから落ちる様は酷く遅く、甲板に堕ちた体躯が乾いた嫌な音を立てる。骨が折れた音か、何なのか。

だが、マシュはぎこちなくも立ち上がった。盾を構えようとする仕草は、とてもあの馬鹿力で圧し潰された様とは見えない。

 ヘラクレスの挙動は、その時珍妙だった。千鳥足のようにふらつくのも束の間、ヘラクレスは不思議そうに、右の肩に刺さった何かに手を伸ばした。

 矢、だった。オリオンはその様を、明確に捉えていた。

 海面から飛来した矢が、ヘラクレスの肩口に突き刺さった。その数、実に4つ。その矢が刺さった瞬間、ヘラクレスは脱力しながら、踊るように身体を強張らせた。

 神獣の毛皮の裏、どろりと血が滴る。ぼそりと筋肉が脱落し、緊張の直後脱力した手から木の枝が甲板に堕ちた。

 「今ですクリス!」

 「おうよ、『新天地探索航(サンタマリア・ドロップアンカー)』!」

 甲板を貫く無数の鉄鎖。ヘラクレスの巨体を貫きながら縫い付ける様は磔のように見えた。

 振りほどくようにヘラクレスが身を捩る。ぎぎ、と鈍い金属音が鋭く響き、忽ちに鎖が千切れていく。輪の直径、20cmに及ぶ巨大な鎖を易々と引き千切っていく。

だが時間にしては十分だった。2人の前に飛び込む騎影は2騎。メアリーがトウマを、コロンブスがマシュを抱きかかえ、一目散に散っていく。

月光が、不意に陰る。見上げる宙、天に浮かぶそれは巨大な船体だった。

 「やっちまえ、黒髭ェ!」

 「『アン女王の復讐号(ロードローラー)』だッ!」

 巨大な船体が墜落した。数千トンに及ぶアン女王の復讐号の直撃の瞬間、ヘラクレスが鎖全てを引き千切る。機械じみた挙動で上空からの質量攻撃に反射する顔を挙げたヘラクレスが執った行為は、ただ拳を握るという動作だけだった。握った拳を振るう動作には、何の武術も武芸もない。機械的に突き出した拳は当然なんの宝具の発動ですらなかっただろう。

 だがそれで十二分だった。凄まじい膂力を以て放たれた拳の一突きで肋が砕け竜骨が微塵と化し、ただの木片にまで分解されていく。

 「げぇー! オラオラすらされてないんですけどォ!?」

 「あーもう、次は僕たちの番!」

 「コンビネーションで!」

 拳を振り抜く気勢を狙うように肉薄した2騎。剣構えるメアリー、ポルクスがヘラクレスを挟み込むような平面機動挟撃に滑り込む。

 狙いは崩れ落ちた肉の隙間。同時のタイミングで放たれた剣戟2発を相手、ヘラクレスは上方向へと飛び去るように跳躍した。

 落下するアン女王の復讐号の巨大な木片を担ぎ、両の手で振り上げる。ただの木片でさえ、その膂力のもとに振るわれれば一撃必殺の打撃になる。気勢、裂帛の如く。眼下のメアリー、ポルクスを撲殺せんと振り被ったそのモーションこそが、最後の隙だった。

 砕けた船体から、漆黒の流線形が躍動する。古きは日本の物語に登場する若武者の五艘飛びか、それとも鵯越か。落下する無数のガレオンの破片を蹴り上げ、限界以上に加速した黒い刃がヘラクレスの頭上から強襲する。

 「ヒュドラの毒の後は──炎に焼かれて消えなさい!」

 踵の魔剣が発火する。加速した斬撃は一太刀でヘラクレスの頸椎から股まで切り裂き、忽ち伝播した炎が舌なめずりするように周辺の木片ごとヘラクレスの大木の如き巨躯を締め上げた。

 ──伝承において、ヘラクレスの死は焼死だった。謀によってヒュドラの毒が染みついた衣を着てしまったヘラクレスは、自らを焼き、苦しみから逃れるように焼死した。その、逸話の再現──。

 「どう思う、ケイローン先生」藤丸立華は、いつの間にか船体後部、一時的に後退していた場所へと現れていた。

「倒していません」床に転がるトウマを見ながら、ケイローンの表情は、ただ険しい。「傷が癒えた形跡はありませんから『十二の試練(ゴッドハンド)』は発動していないはずですが」

 「あくまでヒュドラの毒が致命傷になるのは英霊としてのヘラクレス、ってだけの話って言いたいわけかよ」

 ゆら、と炎が掻き消える。冷たい機械のように身を現したヘラクレスは、自ら受けた傷をなんら苦にすらしていない。

 およそ現状の戦力を最大限投入した攻撃だった。一部の隙も無く完璧に履行された必殺の連撃。にも拘わらず、神霊のヘラクレスは限定的な損傷しか与えられていない。

 ──ヘラクレスが、身を翻す。無機質な機械じみた硬い動きの速度は、正しく神速だった。

 背後に炭化した棍棒を振り抜く。回避する猶予すらなく殴り潰されたメルトリリスは空中で二つに千切れ飛び、上半身は甲板にめり込みながら激突した。千切れた下半身が海面に堕ち、ぽつりと音を立てた。振り抜く勢いのまま、ヘラクレスが血まみれの炭木を投擲する。メアリーは躱す暇すらなく胴体を貫かれ、振り下ろされた拳が黒髭を甲板に埋め込んだ。

 「メアリー、また!」

 「ダメです、今行っても無駄死にになる!」

 コンマ1秒すらない瞬間に、3騎死んだ。殺戮の余韻に浸るかのように沈黙するのも一瞬、ぎょろりと焼けた毛皮の裏から赤い目が覗いた。

 一切何の感情も無い殺戮マシーン。こちらを見る姿は、敵を見つけたというより、排除すべき障害を捕捉したかのような色の無さだった。

 「お、おい。どうすんだよ」

 オリオンは、思わず、リツカを見上げた。いつもの、感情の見えない柔和な顔に僅かに浮かんだそれを、オリオンは、瞠目する他なかった。

 「ライネスちゃん。ここは撤退するしかないと思うんだ」

 「賛成。正直もう一度再編したからといって、勝てる気はしないけど。徒に戦力を浪費するよりは百倍マシだ。0%が0.01%になるくらいは勝算があるかもだけど」

 応えたライネスの表情は、言いながら沈むようだった。だが、それは言葉の内容そのものの絶望に対してのもの、ではない。

 「クリス、ポルクス、マシュ、私と前へ! クロエ、アン、お二人は後へ!」

 ケイローンの叱咤が耳朶を打つ。

 逡巡すら惜しいこの状況。ライネスはそれでも、その言葉の重さに耐えかねているようだった。そんなライネスに、いつもの柔和な顔のリツカは、ただ首を横に振るだけだった。

 「私の仕事だから、それは」

 「リツカ」

 「いいから。ごめんケイローン先生、マシュ、こっちに来て!」

 「あ、はい!」

 酷く緩慢に歩を向けるヘラクレスから離れ、駆け寄るマシュ。歪んだ甲冑に露出した肌はどす黒い内出血が滲んでいた。

 だが、リツカを見つめる表情は明るい。まるでこの奇術師の如き先輩が妙案を創出し、ヘラクレスを撃破する手段を思いつくに違いない、という期待に満ちた眼差しだ。そのマシュの期待を背負うリツカの表情は、変わらない。声色もいつもと変わらずに、リツカは、ごく当然のように―――。

 「ごめん。ちょっとでいいから、一人でヘラクレスのこと、止めてきて。時間がちょっと、欲しい」

 要するに、死んでくれ、と口にした。

 だって、そうだ。メルトリリスとメアリー、黒髭3人を瞬間すら無く殺戮した神霊を相手に、1人で立ち向かえと言う。しかもただ時間を稼ぐ、それだけの為に。場合によっては完全な無駄死にになる──いや、十中八九、無為に死ぬだけの行為をしろ、と言ったのだ。

 これまで、3つの特異点を修復してきた、という。マシュとリツカはその間──否、それ以前からの付き合いなのだ、という。リツカはマシュのことを好いていたし、マシュはまだ自覚こそ無いけれど、リツカという人物に憧憬にも似た情動を抱いている。そこにあるはずの親密圏はその言葉に一切なく、ただ、無味乾燥な口調だけが横たわっていた。

 「時間稼ぎですね」

 ──応じたマシュの声も、いつも通りだった。尊敬する先輩の指示を健気に守ろうとする少女の、気弱そうだが同時に溌剌でもある声色が、オリオンの鼓膜に突き刺さった。

 「任務、了解。マシュ・キリエライト、戦術行動に入ります!」

 「ごめん、ありがとう──全員傾注! 今の話は聞いていたな、これより指示通りに動け!」

 踵を返す動作に、一切の迷いはない。専心のまま駆けだすマシュ・キリエライトの背中に重なった姿は、誰だっただろう。

 「後お願い。メルト、見てくる。ダメそうだったら置いてく」

 「了解っと。ぐずぐずするな、マシュが稼ぐ1秒を無駄にするな!」

 走り出す、リツカ。1人、ヘラクレスの絶殺を誓って突撃したクロ。大切な少女を守るために飛び出したトウマ。4つの影が、重なり像を結ぶ。

 俺は、何を、しているんだろう。

 「オリオン、こっちだ! ボート早く出せ!」

 ふわ、とライネスに抱き上げられる感触の中、その問いが永劫回帰する。

 何のために、この身は召喚されたのか。ギリシア随一の狩り人、その名を恣にするこの俺が、どうして、こんな目にあっているのか。

 「ダメよ、マシュ1人じゃ死んじゃう! 死んじゃうわよ!」

 「そんなことわかってる!」

 「メアリーの仇なんですよアレは!」

 「アンも落ち着いて!」

 空を、見上げた。

 制止した空の上。裂けた黒天から覗く、地球の衛星。蒼褪めた月。

 「──アルテミス!」

 射抜く視線。いつもそこに在る月が、ほんの僅か、幽れた。

 

 

 「メルト、メルトリリス!」

 駆け寄る声で、メルトリリスは一瞬だけ、意識を浮上させた。煩わしい、と思う声。遠慮なく手繰る手つきに、彼女はただ、不快感を惹起させた。

 「見てわかるでしょう。私はもう無理よ、フジマルリツカ」

 自嘲気味、というか自虐的──むしろ自罰的に、メルトリリスは自らの身体を顎でしゃくった。

 へそから下が亡い。切断面からまろび出た大腸小腸からは消化液らしきものと血と屎尿が混じり、醜悪極まりない様相だった。ありていに言って、メルトリリスの唯美的な自意識とは乖離する状況だった。

 「何言ってんの」

 メルトリリスの上半身を抱え込もうとするリツカ。持ち上げられると、重力に囚われてぶらぶらと内臓が揺れている。あぁ、本当に、不愉快だ。リツカに、こんな姿を見られたくはなかった。

 「ちょ、メルト」

 「放しなさい。放しなさいったら」

 リツカの手を振り払い、メルトリリスは床に墜落した。びちゃ、と血の海にまみれながら、メルトリリスは首を横に振った。

 「ねえリツカ。私、これからどうしてもやらなければならないことがあるの。あなたの顔を見てると気分が悪くなって、やらなきゃいけないことのやる気が失せるの。だからさ、消えて」

 逡巡は、なかった。わかった、と言った立ち上がったリツカの表情は、上手く見えなかった。下半身が亡いせいで、顔を挙げたりするのも一苦労するのだ。

 「何か、言うことある」

 「そうね」予想外の言葉で、メルトリリスはちょっと面喰った。

 だが、メルトリリスは首を横に振った。咄嗟に出てくる遺言など思いつかなかったし、それになんだか、そんな枯れた人間味のある行為が、気恥ずかしかった。

 それに、だって、仕方ない。恋人ならともかく、そういう関係じゃない相手には重すぎる、と思う。

 「わかった。ごめん」

 リツカが踵を還す。いいのよ、と応えた自分の顔は、いつも通りの嫣然をちゃんと象れていなかった。でも、リツカはきっとそれをそれとして受けと言っていただろう。

 遠ざかる彼女の姿。皆の元へ帰る彼女の背。メルトリリスがその時表情筋を笑みに強張らせようとしたは、あまりに醜悪で勇敢な姿への不気味な同情と憐憫によるものだった。

 「ねぇ、おバカなリップ。私たち、ホント何のために生まれてきたのかしら。別に、友達なんて欲しくなかったのだけれど」

 くつくつと笑ったメルトリリスは、えいや、と手の重心移動で、身体を動かす。ごろんと体動して、仰向けになる。

 「意地が、あるのよ。女の子には」

 黒檀の、空。薄く晴れはじめた空、黒い雲の切れ間が赤く焼けている。朝が来ている。空に浮かぶ蒼褪めた月が、清廉な青に縁取られていく。ほとんど、意識がない。漠とした感覚は、自我と無意識が溶けあっているかのよう。

 ずっと遠く、空に浮かぶ月には手が届きそうにない。

 手を伸ばそうという気持ちはもう、ずっと前に終わった。

 ここではないどこか、こことは違うどこか、ここでもあるどこかの月で目覚める素敵な誰を夢想して、メルトリリスは名前のない白紙のような感情だけを胸郭に押し広げた。

 「行くわよ、メルトリリス。もう消えるけど──まだこの熱は止まっていない。私のレヴューは終わって、いない」

 ふぃ、と息を吐く。目を閉じる。身体がエーテルに解体され、金の燐光が舞っている。閉じた視線の先に、艶やかな流線形が、困ったように佇んでいた。

 「ねえ、感じているのでしょう女神サマ。愛しい記憶(全て)が夢に消えるなんて、私、許せないもの」

 微かに徹ったパスを介し、消滅を防ごうとカルデアの炉心から火が通ってくる。 

 引き伸びる刹那の断末。

 「人が嫌いなのはわかるわ。私も人間なんて、気持ち悪くて大嫌いだもの。それに、あの白い巨人の臭いが嫌だったんでしょう?」

 星のような燐光が、舞っている。月光に照らされ舞い踊る光子が、白銀に煌めき飛び上がっていく。

 「でも、貴女の大切な人が信じる皆を、どうか、信じて。越えてきて」

 冷たい冬の湖面から優雅に飛び立つ、白銀の家禽(アヒル)のように。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

恋煩いの流星矢(アルテミス・アーチ)

 海面を割って、何かが飛び跳ねた。

 白と黒の色味をした身体に、艶やかに銀光を照り返した姿。鯱だ。大きく開いた口に咥えられているのはイルカだろうか。いや、違う。尾部の形状が違う、図鑑で読んだ。あれは魚竜だ。2mほどのイクチオサウルがシャチの顎の中で痙攣しながら、断末魔のように血を吐いていた。

 遠ざかる皆の姿。マシュ・キリエライトはただ、独りでヘラクレスの前に立ち竦んだ。

 焼け落ちた神獣の毛皮の向こうから、覗く目が、マシュを観察している。脅威度判定は高くはない──だが低くもない。ヘラクレスは、先ほどの戦闘を覚えている。マシュ・キリエライトの勁さが、古代ギリシャの大英雄たちに決して見劣りしないことを、ヘラクレスは認識している。盾持つサーヴァントを、かの大英雄は正しく認識している。

 踏み込む速度は、早かった。一歩ヘラクレスがデッキを踏む。みし、と木材が慄くように軋んだ。

 手に持ったあの木片。大剣のように構えたその射程に入るまで、およそ3秒。防御しきることは多分無理。防戦に徹しても、多分5秒は持たない。

 3秒。

 マシュ・キリエライトの内面性は、凪いでいた。静かだな、と思った。これから死ぬことはわかっている。それは多分、避けられない運命。その事実に対する恐怖は、ないわけではないけれど。マシュ・キリエライトは、最も効率的に自分の命を消費する方法を考えている。多分、フジマルリツカがそうするように。

 2秒。

 英霊とは、人の祈りの結晶なのだという。人の夢によって成立し、自らを器にして人の命を形にするのが、英霊なのだという。

 1秒。

 ならば、この身も、そう。たとえデミ・サーヴァントという半端な身であったとしても、サーヴァントに変わりはない。

 なら。

 「シールダーは、伊達じゃない──!」

 迫りくる撲殺の現実。盤踞と身を構えたマシュは掲げた盾を突き立てた。

 激突する打撃と防御。相克する衝撃が二次元平面上に炸裂する爆破のように押し広がった。

 その時、マシュがイメージしたのはウロボロスの輪、だった。永遠の象徴、止むことの無い円環。完結した世界の表徴。【憑依継承、魔力防御】がそのイメージを具現する。展開した力場はマシュの懐を起点に立ち上り、急激に巨大化してヘラクレスを飲み込んでいく。

 視界が漂白された。物理的に、力場の中味が凍結している。急激に展開・巨大化した力場の内部は一挙に急減圧する。

止める、というマシュの意思の発現たる結界。原子運動にまで干渉し、あらゆる運動を零に還す彼女の意思の強固さを表すかのように、結界内部のあらゆる気体が-273.15度の絶対零度に凍てついていた。

 零還氷獄結界、ウロボロスの如き内部は、完全に制止していた。

 時間すら停止した世界の中、マシュ・キリエライトの意思だけが、微かに動いていた。どれだけの時間が経っただろう。主観的内部的時間すら、この静止した世界の中ではわからない。だが、確かに、あのヘラクレスすら止まっていた。

 いや、正確には止まっていない。この時の果てまで結晶化した世界の中で、ただ一つヘラクレスだけが、動いている。結晶化した時間を壊しながら、足元に淀んだ時間を振り払いながら、ヘラクレスは身悶えしながら動いている。

 異次元の存在だ。神霊に昇り果てたヘラクレスとは、それだけ理外にあるのだ。理屈もなければ理論もなく、ヘラクレスは絶対制止の中動いている。

でも、それだってわかっていたことだ。おそらく、世界で最も名を馳せた大英雄。神にまで登った英雄など、ローマの主神か、数えるほどしか居まい。なまじっか元より神として生れ落ちた者よりも、その偉業は凄まじい。

 マシュ・キリエライトの任務は、あくまで時間を稼ぐことだ。一秒でも長く、二秒でも長く。それがたとえ不毛な結果になるかもしれなくても、それが無意味だったとしても。

託されたものがあるなら、それを全力で果たすのがサーヴァントの役目なのだから。

 視界の先、ヘラクレスはもがくように木片を構えた。永遠にも見える。刹那にも見える。構えた木片が目前に迫る。マシュは目を閉じることすらできず、迫りくる死を観測していた。

 悔いがあるかと言えばある。恐い気持ちがあるかと言えばある。本当は、マシュ・キリエライトは弱くて、誰かに守ってほしい、そんな女の子なのだから。本当は、戦うことなんてとても苦手な、ごくありふれた少女に過ぎないのだ。出自がどうあれ、彼女はどこまでも、普通の人でしかなかった。

 でも、それ以上にマシュは普通であることを辞めることにしていた。あの日あの時、先輩に命を見放された時から、この命は先輩のために使うのだと決めたのだ。先輩の為に、盾となり剣となる。そう決めた彼女の実存的な決意は、自然的な論理性から破綻していても、倫理的な論理性には十分叶ったものだった。

 だから、彼女は心の中で瞑目する。さようなら、と口にして、全てが制止した世界の中で、死を感受する、つもりだった。

 ──全てが制止した世界の中、何かが視界を過った。原子的・量子力学的に制止させられた世界を突き破った何かがマシュの前に躍り出るや、突き出された木の大剣をただ一打で弾き返した。

 音すらなく、力場が砕けた。不意に崩れ落ちる浮遊感に抗えず、尻もちをついたマシュは、一挙に溢れた音に身体を竦めた。

 落下した氷が甲板の上で跳ねる異様に甲高い音。凪ぎ、という無が僅かに軋ませる風のざわめく音。マシュはぞっとしながら目を開き、そうしてその姿に、当たり前のように目を見開いた。

 「オリオン、さん?」

 振り下ろされた木の大剣。宝具の武装すら叩き切る一撃を当たり前のように防いだのは―――あの、ぬいぐるみのような小さなクマなのだから。

「我が宿命、月女神に冀う」

 小さなクマに過ぎないそれが、一歩を軋む。

 「肉体に剛力を、精神に冷徹を」

 ただそれだけなのにゴールデンハインドの船体が呻くように揺れ、竜骨がぎちぎちと音を立てた。神霊に至ったはずのヘラクレスが、踏鞴を踏む。

 「抑止の代行者、冠位の宿命を此処に定めよう──『月女神の無垢な愛(アルテミス・アグノス)』!」

 ヘラクレスの巨躯が身動ぎする。これまで機械じみた挙動を行使していたその巨体が、まるで恐れるかのように怯みを見せる。

 相、対する威容。勇気凛々たる雄姿、筋骨隆々たる体躯を以て降臨した志尊に冠絶たる英霊1騎。その隣、もう1騎、た気がした。その姿がメルトリリスに見えた。

 「充填完了! 俺たちの絆パワー、しっかり見せつけてやろうぜ──アルテミス!」

 

 ※

 

 風が、吹いていた。切れ切れになった空には、明瞭に煌めく白銀の古月。遠く、禽の声が聞こえていた。

 原初の夜は終わった。煌めく朝焼け、黄金の陽を照り返す、穏やかな海原。凪ぎを孕んだ蒼いわだつみの上。超人オリオンは、静かに笑った。

 「いやさ、なんか昔思い出すよな。ほら、昔はよく一狩り行こうぜ、って遊んだ仲なわけじゃん」

 にしし、と独り、笑う。自分の内側で居心地悪そうにする月の女神に、ただただオリオンは朗らかない笑うだけだった。

 「あんなぁ、俺だって大人なわけよ。お前がイジワルするのはまぁしょうがねえっていうかよ。そもそもお前、人間嫌いじゃん。その上なんだっけ、お前ら神様の天敵と仲良くやってたわけだろ。ならまぁ、しょうがねえさ」

 そうかしら。そう呟く内心は、自省的というよりも、柄に無く怯えているかのようだ。なんだかそんな仕草は彼女らしくなく、オリオンとしても興味深い。いつもは割と逆の立華だけに。

 「そりゃそうさ。嫌いになりかけた。俺よりずーっと若い連中が死に物狂いで戦ってんだぜ? それを見てるだけって。“お嫌いな人間ども”に俺が取られるのが我慢ならなかったんだろ」

 そうよ、とちょっとだけ、彼女は拗ねたように言う。なんというか可愛らしいというかいじらしい。彼女はもっと冷たくて、排他的で、慈悲などない。そんな奴だった、はずなのだ。

でも、と続けた彼女は、やっぱり自省的と言えばそうだったのかもしれない。身を縮めるようにしてから、彼女は少しだけ、苦笑いした。

 ”あの子たちを見てたら、ちゃんと手伝ってあげなくちゃって思ったから”

 そんな風に、彼女は言う。そうだな、と思う。試練に立ち向かう者は、誰であれ美しいものに違いないのだから。手を取り合い困難に立ち向かおうとする人間には、誰だって、手を差し伸べたくなるものなのだから。

 「……なぁ、アンタも案外、そうだったのか。ヘラクレス」

 オリオンの問いに、ヘラクレスは応えない。数多の試練を踏破し尽し、その果てに神霊に至った英雄は黙して語らない。ただ、玉体へと光来したヘラクレスの在り方は、機神のそれに近しいとしても、毛皮の裏側から覗く獣の視線にオリオンが感じたのは、憐憫だった。痛ましいほどの優しさを感じて、オリオンはただ、僅かだが伏し目がちに目を閉じた。

 だが、僅かだけだ。目を開けたオリオンの体躯が、沈み込み。

 「じゃあ行くかァ!」

踏み砕く気勢で相対距離を零にする。突き出した拳がヘラクレスの腕にぶち当たり、甲高い乾燥した音が弾ける。一撃で腕を圧し折られたヘラクレスの視線にあるのは、明瞭な感情の動きだった。

 「■■■■■■■!」

 咆哮が爆ぜる。機械の如きであったはずのヘラクレスの激昂は、オリオンを倒すべき敵、と魂に刻んだ証だった。

 返す刃とばかりに振り上げた拳がオリオンの胸を打ち、一撃だけで肋が折れて肺が潰れた。血を吐きながらもオリオンが繰り出したダブルスレッジハンマーがヘラクレスの頭蓋骨を砕き、眼球が破裂した。ふらつきながらもヘラクレスが繰り出した頭突きがオリオンの鼻頭で爆発し、仰け反った瞬間に砕けた肋に手刀が突き刺さる。突き出されたヘラクレスの手刀の腕に掴みかかるなり、捩じり上げるように折れた右腕をもぎ取る。もぎ取った腕でヘラクレスを殴りつけ、怯んだ瞬間にどてっぱらに空いた風穴からあらん限りの内臓を引き千切る。玄翁のように振り抜いたヘラクレスの踵がオリオンのこめかみに炸裂し、吹き飛ばされた巨塊が熊のように転がった。

 「全く強えェ強えェ。本当は俺たちが狩らなきゃいけねぇ(ビースト)どもの、万倍は歯ごたえがありやがる」

 ふらふらと立ち上がる血まみれの巨体。折れた歯を吐き捨てたオリオンの目はギリシャ一と謳われる狩り人の眼差しだった。

 ヘラクレスの威容は変わらない。全身を砕かれてなお聳え立つ神木の絢爛には一切の翳りがない。機械ならば既に機能停止しているだろう。だが、英雄として屹立するヘラクレスは、決して膝を屈しない。何者にも屈することなき試練乗り越えし英雄立ち上がる。

 故に、ヘラクレスは宝具を顕現させる。

 巨大な弓。200cmを優に超える巨体をしてなお大弓と思わせる、巨大な黄金の弓。既にランサーというクラスが溶けたヘラクレスにとり、それこそが最強の宝具に他ならない。

 「面白ェ! ギリシャ一の大英雄とギリシャ一の狩り人の腕比べと行こうじゃねぇか!」

 対するオリオンが構えたのも、弓だった。スキル【三星の狩り人】、世界で最も優れた弓兵であることの証明を実証するように。

 「『真・射殺す百頭(ナインライブス)』」

 大弓から放たれる矢。九つの流星となって迸る軌道。竜の如き波濤は怒涛と化してオリオンへと押し寄せる。

 回避は不可能。ヘラクレスの戦闘技法の具現たる宝具のそれは、オリオンに回避できるものではない。下手に躱せば見越しの射で射殺されるが必定。

 故に、オリオンは弓に矢を番える。ぎちり、と構える弦は強く、きっと、独りではその矢は引けない。

 だが、独りじゃないのだ。矢を構える手を、誰かの手が抱握する。

 決してオリオン1人では持ちえない宝具。名うての狩り人として名を馳せただけではたどり着けなかった、究極の射。狩猟の女神と共に野を駆け山を巡ったが故に、ともに辿り着いた矢の一撃。

 ある異聞にて、オリオンは女神を撃ち落とすためだけに、絶世の一射を放った。冠位の名を返上してまで女神を天より撃ち落とした究極の一撃。これは、その対極。人理の守護者、最終兵器たる冠位の弓兵が冠位として振るう最強の一撃。狩猟の女神と共に放つ代行者の射は、撃ち落とすと見定めたものの絶殺鏖殺に至る。

 「『恋煩いの流星矢(アルテミス・アーチ)』―――!」

 矢の衝撃は飛来した九つの狙撃をまとめて射殺してなおその威力は止まず。亜光速で迸った閃きは、ヘラクレスの心臓を刳り貫いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Plus Ultra-Ⅱ

例によって凄まじく短かったので追投稿です


 あ、と思った。

 何かが、途切れた感覚。漠然とした思惟の中、明確に繋がっていたものが途切れたような感触。ヘラクレスが、死んだ、感覚だった。

 メディアは、その時、一瞬放心した。神霊に階梯を進めたヘラクレスが消滅した、という現実を上手く理解できなかった。どうして自分がそんな感情に囚われたのかすら、普段明晰なメディアには、上手く咀嚼できなかった。

 「バカ。そりゃあ、自分のたくらみが挫けたんだ。そん時は、うわってなるもんさ」

 気持ちよく笑う声が耳朶を打つ。ふと意識を足元(?)に落とすと、普段と変わらない破顔を浮かべたドレイクが、球体となったメディアを見上げていた。

 「アンタは成功で終わった英霊だからな。終わって、終わるって言う感覚は知らないだろう?」

 そう、かもしれない。確かに、メディアという人間の最後は、成功で終わったのだ。その出来事がどれほど暗いものであれ。

 「んで、メディア。アンタはこれからどうするんだい。それだけの魔力があるんだ。それにアンタの技術もある。聖杯の真似事くらい、簡単に出来るんじゃないか」

 磊落、とドレイクは言う。確かに、彼女の言う通りだな、と思った。

 「いいえ。何もしません。私も、皆さまと一緒に消えます。今更、こだわるものはありません」

 それに、と続けた言葉は、少しだけ、晴れがましかった。

「ヘラクレスを倒してくれたんですから。私が何かする必然性は、最初からなかったということでしょう」

 「ふぅん」特に興味もなさそうに、ドレイクは鼻を鳴らした。「そういうもんかもね」

 「はい、そういうものです」

 「ま、確かに。金銀財宝に酒もない世の中なんて、クソほどつまらなそうだからねぇ」

 じゃあな、と手を振って、ドレイクはふらふらと階段を上っていく。彼女の背を見送って、メディアは、それでもやっぱり、ちょっと思う。

 胸に抱いた、あの黄金の日。少年のように綻ぶ彼の笑顔を想起して、多分メディアは寂しくも笑った。ヘラクレスも、そうなのだ。いや、ヘラクレスだけではないのだろう。あの黄金の日々に憧憬を抱いた者たちは、呪縛にも似たものに縛られてしまったのだ。ヘラクレスがメディアに協力したのは、ただ、あの黄金に惹かれたものだけが共有するもの、だったのだろう。

 そして、彼ら彼女らは、その憧憬よりもなお強い意思があったのだろう。前へ進むという意思、先に進みたいという意思がメディアのそれに勝っていただけのことなのだろう。

 ならば、その素晴らしき意志に呪いと祝福を。天のように美しい呪いと、海の底のように暗い祝福が、ありますように。

 ──それが、同じく意志によって長き旅を超えたメディアの、最後の思考だった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

試練を越え、踏破は先へ(終)

 澄んだ、空だった。

 煌めく朝焼け、黄金の陽を照り返す、穏やかな海原。凪ぎを孕んだ蒼いわだつみの上、振り返る姿が目に焼き付いた。

 「おう、トウマ。やっと目ェ覚ましたか」

 快活と笑う巨体。一瞬ヘラクレスなんじゃないか、と思ってビビりながらも、すぐに認識を改めた。

 筋骨隆々、勇気凛々とした身体の割に、なんというか―――顔が可愛らしい。なんかこう、どこかで見た記憶のあるゆるっとした感じがするような。

 「誰がゆるキャラじゃ誰が」

 もしゃ、とマッチョマンの顔が変形する。どこかで見た熊のぬいぐるみと全く同じ顔だ。

 「え、オリオン?」

 「おう」

 軽い調子で、巨漢……オリオンは言うと、にかっと笑って見せる。

 やっと起き上がったトウマは、目を細めた。海の上。丸く輝く太陽の光。浜辺からずっと沖合、真っ二つに砕けた船が浮かんでいた。

 勝ったんだな、と思った。何がそう思わせたのかは、わからない。ただ、この黄金の景色を吹き抜ける柔らかく涼し気な海風が、底抜けに気持ち良かったのは、確かだ。

 「なんだかコロンブスさんみたいんですよね。ねぇ先輩?」

 「うーん確かに。顔の可変性は似てる」

 「えぇー……俺これ扱い……?」

 「おうおう、なんだぁその言い草は。俺の聖女サマのクソ垂れがなけりゃあ死んでたんだぜぇマシュ?」

 「そういう言い方するからだと思いますよクリス」

 「そーだそーだ!」

 やれやれ、と髪をかき回すコロンブス。呆れる様子のケイローンとアン、納得いかない様子のコロンブス。あとなんか初めて顔を見たようなサーヴァントが一人。

 「初めまして。名もなき人の子の勇者様」

 「あ、はい。なんかそれ恥ずかしいっすね」

 小さく頭を下げる、金髪の女性。すらっとしていて、なんというかトウマより身長が高い。そう言えばデータにあった。ディオスクロイの1人、ポルクス、だろうか。なんというか、近所で散歩してたら近所に住んでいる人に挨拶されたような……なんか、そんな身近さだった。

 「私が黒幕のイアソンは倒したし、司令官のオデュッセウスも倒した。これにて一件落着ってわけさ。リツカ様様だねぇ」

 「結局、メディアは仲間だったんだよな。てっきりメディアかと思ってたんだけどなぁ」

 「良い子だったじゃない」

 「うーん納得いかない……まぁドレイクが言うんならそうなんだろうけど。でもなぁ、どっちかというとメディアの方が裏切られてる逸話も多いからなぁ。案外、善い子なのかなぁ」

 「終わりよければ全て善し、って奴さ。なぁ、トウマ?」

 納得いかないように眉間に皺を寄せるライネス。クロは不思議そうに首を傾げるだけで、ドレイクはただ、裏も表も無い顔で笑うだけだ。何もなかった。そう、強く言及していた。

 「……まぁ、それならいいか」

 頓着も無くリツカは肩を竦めた。珍しく煤に汚れたり擦り傷ができたりした表情を、緩ませている。

 皆、傷だらけだ。ボロボロになり果てた満身創痍。怪我していない人間などいない。そうして、多分この場に居ない人たちは、そういうことなのだろう。メルトリリス、黒髭、メアリー。いや、それだけじゃない。敵の手中にずっといたメディアも、ドレイクの口ぶりからすると、そうなのだろう。何某かを為そうとして帰らぬままに、彼女も終わったのだ──。

 アンと、視線がぶつかった。アンは無言のまま首を振って、柔らかく微笑を浮かべただけだった。

 (やぁみんな、お疲れ様。なんかこう、すごい大変だったみたいだね)

 「めちゃめちゃ大変だったよ」

 (ご苦労さま。本当によくやってくれた。帰ったらゆっくり休むと良い)

 ロマニの声も、なんだか酷く懐かしい。そんなにずっと離れていたわけでもないのに。

 (こっちでも時代の修復を確認した。そろそろ退去が始まる頃だ)

 「なんだい、もう帰っちまうのかい。折角だし、そこの大男に一狩り行ってもらって宴でもしようかと思ったんだけどね」

 肩を竦めるドレイク。残念そうな顔の全員の期待に反して、妙な身体の浮遊感がまとわりつく。特異点修復に依る強制レイシフト。聖杯は既に回収済みで、この時代を特異点たらしめる事象は排除していた。。

 「まぁいいさ。人間、出会いも別れも唐突に始まって終わるもんさ。()()()()()()。そんな風に、人間、色んなものを飲み下していくもんだから」

 「うん。じゃあ、また。フランシス・ドレイク。それと、皆」

 

 

 溶けるように、5人の身体が消滅する。いや、消滅とはまた違うのだろう。遥か彼方、ここよりずっと先の時代へと帰っていったのだろう──。

 仰ぎ見る青い空。アン・ボニーは、長い髪をかきあげた。

 「なんか、終わっちまうとあっさりっていうか。急ぎ足なもんだなぁ」

 「そう、時間があるわけでもないのでしょう。わざわざかかずらっている暇もないのですよ」

 「やらなきゃいけない仕事ってのは早めにやるにこしたことはないもんさ。ま、拍子抜けっちゃ拍子抜けだけど、アタシらだけでもバカ騒ぎするかい?」

 「おう、いいじゃねえか。これから諦めずに困難を進む馬鹿野郎たちと、これまで頑張った馬鹿野郎たちのためにってな」

 「あの、私もご一緒させても。兄もいるのですが」

 「あーいいよ良いよ──ってなんだぁ、あんちゃん生きてたのかい?」

 「はい、その。寝ているのですが。こういう社交場? 的な場所に行きたいと」

 「カストロが? いつの間にそんな風に成長を……先生としても嬉しい限りですが、また奇異なこともあったものですね」

 「オリオン、アンタ狩り人なんだろ? ちょちょっとこの島で暴れてきておくれよ」

 「あー構わねえぜ。でもちょっと待ってくれ。用事。すぐ戻る」

 「おーい、アン!」

 耳朶を打つ、フランシス・ドレイクの声。踵を返したアン・ボニーは、はぁい、といつも通りの元気の良さで応えると、大きな身体を揺すって駆けだした。

 ……世界で最も有名な女海賊、アン・ボニーとメアリー・リード。その二人の結末。アンとメアリーはともに身重の身体で牢に繋がれた。メアリー・リードは獄中、病に侵され、胎の子供ともども死してしまった、と記録には残っている。対するアン。ボニーは無事に子供を産み、種々の事情の後に赦免を得る。新天地アメリカの大地で家庭を持ち、子宝に恵まれ、当時としては長寿である82年の歳月を生き、天命を全うした。まるで、メアリーに半生を託されたかのように。きっと二人で生きていこう、という約束が履行できなかった、まるで謝罪でもあるかのように。

 アン・ボニーは、メアリー・リードの全てを理解しているわけではない。たまに、何を考えて居るのかわからないことがある。他人なのだから当たり前。心が通じ合っている、なんてのは、得てしてただフィクションだけの話。だから、それは妄想でしかない、けれど。

 「きっと、あの少年君は立派になりますよ。だってメアリー、貴女が生きて欲しい、と願った人なんですから」

 ばさ、と海面から海鳥が飛び去った。翼撃を打ちながら飛び上がる白い鳥。天へと駆けあがる鳥は、空の果て、どことも知れない無限へ向かって飛んでいく。

 「BBAー! 拙者も混ぜてくれー!」

 「おわぁ!? あんた生きてたのかい!?」

 「当たりめぇよォ! この黒髭様があんな筋肉もりもりマッチョマンの変態に叩き潰されたくらいで死ぬかと──ってアレ、誰ですかこの美少女……やだ、可愛い……」

 「貴様ァ! 薄汚い身体で妹に近づくんじゃあない!」

 「なんか金髪イケメンが生えてきたァ!?」

 「世界には色んな人が居るのですね、勉強になります」

 「いや待て嬢ちゃん、あれを参考にしちゃならねえ。参考にするならな、この俺様をだな」

 「アンタも大概だよコロンブス。顔戻しな顔」

 「平和で何よりですねぇ」

 めでたしめでたし。ちゃんちゃん。

 

 

 「お疲れ、ロマン」

 レオナルド・ダ・ヴィンチはインスタントのコーヒーを啜りながら、ロビーに入ってきた人物に声を投げかけた。あぁ、と手を挙げるロマニ・アーキマンも壁際のコーヒーマシンに近づくと、それはもう薄いコーヒーを淹れ始めた。

 「レッド●ルは飲まないのかい」

 「やっと修復終わったんだからさ、エナドリ生活は一旦休み。肝硬変になっちゃうよ」

 「リツカにも見習ってほしいねぇ」

 「とっかえればいいのに」

 ぐい、と薄いコーヒーを一飲み。コーヒーっていうよりはもうほとんどコーヒー風味の茶色いお湯だ。旨いもへったくれもあったもんじゃないが、これしかないのなら仕方ない。

 へろへろな様子でダ・ヴィンチの向かいのソファに座ると、ロマニは大あくびをした。いつも通りの長時間勤務にやられた後の、束の間の休み、というわけだ。最も、5人が特異点へと飛んでいる最中なら、4時間後に48時間労働が始まるわけなのだが。とりあえず8時間眠れる、というだけで、今はマシな状況だろう。

 「それ、ブラック企業の発想だよ。超クソな状況と比較してクソな状況を良いっていうのはさ」

 肩を竦めるダ・ヴィンチ。これでも怪我人が現場復帰を始めているので、本当の最初……冬木やオルレアンの頃よりは大分マシにはなってきているのだ。とは言え爆破が管制室で起こった都合、管制官やらのメンバー大半が死亡してしまった現状は変わらないのだが―――多少なりとも、ロマニもやっと自分にしか出来ない仕事をする時間ができはじめているのも事実だ。ダ・ヴィンチにしてもそれはそうで、さもなくばあんな“玩具”弄りなどしている暇はない。

 「皆、大丈夫なのかい」

 「まぁまぁ。ライネスちゃんは疑似とは言えサーヴァントだしね。眉間が痛いとか言ってるよ。マシュも回復してる。最近はコロンブスの話をよくしてるね。リツカちゃんはなんか最近眠いって言ってたかな。トウマ君はなんか怪我するのに慣れた、とか言ってた。まだベッドから出ちゃダメって言ってるのに、動こうとしててさ。前なんて隣の医務室にまで歩いてったんだよ?」

 「オフェリアへの見舞いと報告だろ。まぁいいじゃん、まごころを君にするわけでもあるまいし」

 「それ動詞? まぁいいんだけどなぁ。一応医務としてはなぁ」

 腕組みするロマニ。うーん、と唸ること暫く、しぶしぶといったように頷いた。というより思考を維持するのが面倒、という感じか。その割に寝ようとしないのは、なんとなく話し相手が欲しいという、人間らしい感情の発露だったろうか。ロマン、なんて名前、良く似合ってると思う。

 「それで?」

 ダ・ヴィンチはさらりと言葉を続けた。

 「わからん!」

 「ばっさりだ」

 「というより、ぐちゃぐちゃなんだよ、クロちゃん」

 天井を振り仰ぐ。やれやれとでも言うように身を揺すったロマニは、今度はお手上げのポーズを取った。

 「バイタルデータくらいは取れたよ。体温、心拍数、血圧、酸素飽和度。あと脳波かな。生理学的に“生きてる”状態は維持しているけど、それ以外は全部ダメ。レントゲンとってもエコーかけてみてもダメ。CTもダメだった。なんか―――観測を拒まれてるみたいだ」

 いつになく難しい顔のロマニ。それはそうだ。ロマニ・アーキマンは別に物理学者でもなんでもない、ちょっと優秀じゃない魔術使いで医者でしかないのだから。仕事が減ったと思ったら、本業で本当にわけのわからない仕事が出てきたなんて嫌すぎる。

 「強くなる理由になるかもだから、まぁ悪いわけじゃないとは思うけどさ」

 「強かったねぇ。悪魔じみた強さってのはあーいうことを言うんだろうねぇ。オリオンもとんでもなかったけどね。あれだけ強かった神霊ヘラクレスをただ力だけで捻じ伏せちゃうなんて──」

 「あー、思い出した!」

 不意に、ロマニは勢い立ち上がった。うわ、と仰け反るダ・ヴィンチを他所に、ロマニは慌てるように駆けだした。

 「どうしたんだいそんなに慌てて」

 「思い出したんだよ、クロちゃんの脳波計! なんかに似てるなぁ──って思ってたんだけど」

 ロビーのドアを潜り抜ける。なんだっけ、と思い出す仕草をもう一度してから、ロマニは大きく頷いた。

 「“悪魔憑き”だ! 確か、そんな病気の名前だった、ような」

 病気の名前、というにはあまりにも。

 なんとも伝奇的な呼び名だな、と思った。

 

 ※

 

 「ここでいいのか?」

 第三特異点・アルゴノーツ拠点の島

 岬に佇んだオリオンは、周囲を見回した。

 眺めはよく、善い景色だ、と思う。夜、空を見上げれば、天には満天の星が綺羅星となって煌めくだろう。もちろん、月も、良く見える。

 だが、周囲の光景は、もう少し陰惨だ。森の木々は打ち倒され、地面はえぐれている。ここで激しい戦いがあったことは、想像に難くない。

 「ここでいいよ」

 応えたのは、オリオンの肩に乗っかる、白い姿だった。清らかな流線形の彼女はオリオンから地面に降りると、崖の下、静かな海原を見下ろした。

 「馬鹿な子、アタランテ。貴女はちゃんと、正しい判断をしたのよ。私に正直に言って、それでも子供にはちゃんと育って欲しいって言っていたじゃない。私が貴女に子育ては無理だ、って言っても。だから、私は赦したのに。可哀想な、アタランテ。メルトリリスにはお礼を言わなくちゃあね。私の現身として、この世界に召喚されてしまった、あの子に。私がしなくちゃいけないことをさせてしまったのだもの」

 小さく、彼女は首を横に振った。きっとそれは、オリオンには関係のない話だ。聞くべきではない、と判断して、踵を返した。

 空を、見上げる。青い空、白い雲。遠くで聞こえてくるバカ騒ぎ。その騒ぎ声から離れていく、一羽の杢灰色の鳥。

 手を、掲げた。鳥を掴むように、手を伸ばした。当然手は届くことなく、優雅に羽搏く美しい鳥は、空の果てへと消えていった。

 ……結果として。

 冠位たる我が身が召喚された、ということは、即ち。

 「じゃあな、みんな。この先に待つ結末がどんなものであっても、絶望が待っていても、挫けそうになっても、止まるんじゃねえぞ」




 3章の対ヘラクレス戦が書きたくてfgoの執筆を始めたと言っても過言ではありません。それにしても、まだ3章だというのに8か月もかかってしまって自分でもびっくりです

 それでは第3章、これにて完結でございます。ご愛読いただき誠にありがとうございました。4章も既に執筆完了しておりますので、続きは8月半ばくらいから投稿を再開していきたいと思います

それでは次回、第4章『謀略夢想童歌(クライム・ライム)ロンドン-夜霧の魔法使い-』、乞うご期待くださいませ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

断章Ⅰ L'île-Börtön ~もう一度、あなたに逢えたら~
Ⅰ-1


まったき他者なる友たち、到達不可能な友たち、独りぼっちの友たち、なぜなら、比較不可能であり、共通の尺度がなく、相互性も、平等もないからだ。
                ―ジャック・デリダ『友愛のポリティクス』より―


 ざらりと拓ける視界。暗転、というよりはむしろ白く漂白されながら、次いで色がついていくような感覚。

 奇怪な時間感覚である。あ、と思ったときには、彼女はその場所に居た。

 立ち並ぶビル群。群生し、屹立するコンクリートの巨木は一面のガラス張りだ。吹き荒れる風のふきだまりに、きしきしと軋むのは、果たしてただ物理的な事象に過ぎなかったのか。それとも、これから生じる波濤を前にした世界の戦きか。

 一歩、彼女は足を踏みしめる。シールダーとしての礼装は既に展開済み。踵のヒールがセメントの大地を噛む。

 だが、自然と音はない。かつん、という音は身体に薄く張るように展開したパワーフィールドでマスクされ、彼女は無音のままに近場の路地へと滑り込む。

 相対するサーヴァントの性能は、スペック以上に値踏みする必要がある。アーチャーはスペック上は高位のサーヴァントたちには届かないが、その戦闘能力の高さはともに4つの特異点を戦い抜いた彼女が最もよく知っている。

 クロスレンジでの殴り合いから機動格闘戦、遠距離での狙撃に異能の特性を利用した火力投射。高度に構築された戦術は、こと戦闘という面に限れば最優の戦闘者と言っても過言ではない。それが、彼女が信を置くアーチャーという少女の姿だ。

 戦域状況を把握する。網膜投影されたマップには、自分を示す中央のブリップだけが閃いている。それ以外にはない。各種センサーに感知なし。気取られるような軽挙は犯さないだろう。

 ……一見、このビル群はアーチャーの特性を殺すように見える。林立する建築物は、アーチャー最大の攻撃手段たる狙撃・砲撃戦を著しく阻害する。もしこれが吹き曝しの原野であれば、彼女はたちまち制圧射撃の斉射で、死亡は間違いない。

 だが、向こうもこの戦域設定で戦うことを承知しているならば、そんな不利は織り込み済みだろう。むしろ樹々生い茂る密林こそは、狩猟者の本領を発揮する戦場か。

 とは言え。

 シールダーの彼女が戦術的優位を確立できるならば、やはりこの市街地であるという一点に賭ける他ない。

 ハムノイズが耳朶を打つ。瞬きの度に視界が暗転する。身体の冗長性か、指先が微動に震えている。

 一瞬、呼吸が零れた。舌先を滑り唇から吐息が墜落した、その一瞬。息を抜くその刹那、彼女の体躯は一瞬で自らの膂力(スロットル)をアイドルからフルに引き上げた。

 衝撃が背後から突き上げたのは、そのコンマ1秒後。上方から落着した砲撃がセメントの大地を破砕し、四方に飛び散るショックウェーブが彼女の肌を叩く。

 敵、直上。

 無音のまま接近してきた敵を視界に入れる。

 太陽を背に、弓を構える騎影。防眩フィルターの作動と同時に空に浮かぶ黒影の形が明瞭な色彩を帯びる。

 炒ったハト麦を思わせる黒い肌に、纏った赤原の礼装。雀鷹の鋭い視線が突き刺さり、彼女は思わずたじろぎすら覚えた。

 だが、躊躇はあくまで内心のものに過ぎない。錬成された彼女の肉体は即座に地面を蹴り上げるや、高速徹甲弾もかくやと言った速度で天へと翔け上がる。

 イメージは、自分の背中に円錐を広げる感覚。彼女の特性、魔力防御によって発生する力場を円錐に広げて推力を集約し、同時に円錐の底辺を絞り上げる。位置エネルギーの上昇を反比例するように驀進する速度エネルギーを乗せ、マシュは腰から銀の剣を引き抜いた。

 狙いは一撃必殺、頸椎。抜剣と同時に、彼女の放った刺突が炸裂した。

 当然、そんな見え透いた攻撃など彼女には織り込み済みだろう。次の一手は回避と同時に、既に投影した黄金の剣の一撃。その一閃の前に、敢えてさらに距離を詰めて接近戦に持ちこむ。ここで距離を離しては敗北は間違いなく必至だ。

 だが、その終わりはあまりにあっさり訪れた。突き出された剣はあまりにするりと射手の頸筋を突き破った。

 

 ※

 

 「やっぱり機動制御まではまだまだって感じかな」

 ブリーフィングルーム、一室にて。

 モニターに流れる映像を見上げながら、レオナルド・ダ・ヴィンチはぽやんと一言呟いた。手慰みのように顎をなでなで、映像の中で飛散する血に眉一つ動かさず、レオナルドはちらと背後を振り返る。

 「思考制御には限界があるって感じ。自分の意思で動かすのは無理ね」

 レオナルドに水を向けられつつも、ハト麦色の肌の少女──クロエ・フォン・アインツベルンは素直な感想を述べた。モニターに映る自分の頸が跳ね飛ぶ映像を、彼女は特に気にもせずに眺めている。

 「まぁ人間の思考って基本、遊びが多すぎるしねぇ。アニメや漫画だと思考制御は最強って感じだけど。本当は、人間の思考って早くないんだ」

 「そこは量子コンピューターに任せた方が便利ね。悪くはないけど、上位のサーヴァントと戦うには役不足ね」

 ばっさり、クロは言う。その思考制御のシステムを組んだ本人を前に、忌憚のない感想だった。

 最も、忌憚のない意見を前に、レオナルドは全く表情を変えなかった。素直にその批評を受け入れると、うん、と首肯した。

 シミュレーターシステム(SVRCT)を使用しての、マシュとクロの模擬戦闘。金のかかるシミュレーターの使用を渋りに渋ったロマニを頷かせたのは、一重にクロの新装備の運用試験の為だった。

 第3特異点オケアノスの最終局面で獲得した第三再臨。かの大英雄ヘラクレスと互角の凌ぎ合いを演じて見せた礼装がどれだけの性能を誇るのか。未知数の戦闘能力を測ることが、まずこの一連の模擬戦闘訓練の課題の一つだ。

 今回は、特に第三再臨礼装の背中から生える独立礼装―――”悪魔の背骨”と名付けられた対の刃の運用評価が肝だ。礼装の主たるクロの意思に従って稼働するそれは、聖骸布から錬成された所以からか、神秘そのものに対しての否定性を有する。ヘラクレスが召喚した神馬をいともたやすく斬殺したそれは、投影魔術とはまた異なる彼女の戦闘の選択肢になるだろう。

 そう目されての、前回のシミュレーターの結果は上々だった。そして今回の試験は、“悪魔の背骨”の拡張性の確認だ。いわば第二の手足と呼びうる“悪魔の背骨”をカウンターウェイトにする重心機動制御は、クロの長所の一つである機動格闘戦の性能を底上げすることにもつながるだろう、と提案したのは意外にもトウマで、その提案をもとにレオナルドが機動制御用のオペレーションシステムを作成・付与しての評価だった、というわけである。

 「まぁでも完全に機械任せの制御ってのより、半々って風にした方がいいかもね」

 独り言ちる。不思議顔のクロに得意げな顔をしつつ、レオナルドは「まぁ任せたまえよ」と朗らかに笑みを浮かべる。

 「今回のデータを参考に、次の特異点までにはいいもの作っておくさ」言って、レオナルドはごく自然に次の言葉を続ける。「それまでに思考パターンのサンプリング、取らせてもらっても良いかな」

 構わない、というように、クロは小さく首肯する。それに対するレオナルドの小さな微動が何を意味するのか、その場に居合わせたクロとその他3人──マシュにリツカ、トウマにはよくわからなかった。

 「それで、マシュのデータだけど」

 レオナルドは口早に、次の課題へと話を続けた。はい、としっかりした声で立ち上がったマシュ・キリエライトは、生来の生真面目そうな顔でレオナルドの続く言葉を待った。

 「マシュ、疲れるだろうから座って、座って」

 「え、あ。はい」

 隣に座るリツカに促され、マシュはきょろきょろしながら椅子に座り込んだ。白い雪蛍を思わせる頬にぱっと赤みが指しながら、やはりマシュは生真面目そうに口を結んでレオナルドを見つめていた。

 「宝具……というより、防御以外での応用性も増えてきたね。今回は魔力放出の制御かい?」

 「はい、その。スタッフの方に教えて貰った……戦闘機? を参考にして」

 「F-35かSu-57か」

 うんうん、と頷くリツカ。ハテナ顔のトウマを他所に、マシュは「でも」と言葉を詰まらせた。

 「私、というよりはトリムさんのお陰です。最適な出力で力場を展開するのは私では難しくて」

 悔しさか、それとも力の至らなさか。小さく肩をすぼめる姿はどこかか弱さすら感じる。とは言え、悲嘆ばかりに暮れている様子でもないらしい。力の端緒はともあれ、力量が増加していることは変りないと認識しているらしい。

 ──シュミレーターを利用しての戦闘訓練の第二の目的は、そこだった。

 マシュ・キリエライトの戦闘技法、その応用性の確認。彼女の特性──魔力をリソースとしてパワーフィールドを展開する【魔力防御】は、字の如く防御への使用こそが本領である。疑似宝具として力場を展開した際の防御性能は、それこそ対城宝具を退けるほどだ。およそ防御系宝具が数あれど、コンスタントな防御性能の高さと燃費の良さを鑑みれば最優の盾と言えよう。

 だが、ただ防御に寄った性能には限界がある。特に特異点へのレイシフトから少数戦力での長期間戦闘に従事するサーヴァントに求められる性能とは、高度な多用途任務(マルチロール)性能だ。端的に、防御性能だけが高くとも、マシュ・キリエライトというサーヴァントの性能は要求性能に到底満たないのである。

 求められるのは運動性能、中長距離での戦闘性能。且つ、防御性能。単騎での運用性を引き上げるための着眼点が、【魔力防御】によって発生される力場を防御以外の用途に使用することだった。

 「ま、でも確実に戦闘の選択肢が広がっているのは事実じゃないかしら」

 真実、素直にクロは評した。先ほど仮想空間内で当のマシュに首を刎ね飛ばされたことなど、クロにはさして感情的になることではないらしい。

 「今のところは射撃と瞬発力の補強はできてるって感じだよね」

 「そうね。まだ、流石にアーチャーと遠距離で撃ち合うのは厳しいだろうけど」

 クロとトウマの会話に、マシュはただ黙して小さな身動ぎをしただけだった。己の非力を噛みしめる、という情動は変わらずあるのだろう。だが、きゅっと結んだ口唇には、それ以上の堅い意思の滞留を感じさせた。

 「今のところ、諸々大過なく進んでるってところで今回の計画を結ぼうかな」

 手元のリモコンを壁面モニターに向ける。シミュレーターの映像が暗転すると、レオナルドは「とりあえず、デブリーフィングはこれで終わり」と脱力したように言った。

 「この部屋、まだ使うんだろう?」手元の資料をかき抱くようにすると、レオナルドは温い視線をマシュとトウマへ向けた。外見上は揶揄いに見えて、実際のところは8割くらいは健全な大人の温和さに満ちた微笑だった。まぁ、もっとも2割程度にはやはり揶揄いがあるのだろうが、それは人間的な紛れという誤差だろう。

 「今日はなんだっけ? 19世紀ロンドンの話?」

 「はい、前回フランスの話で、次は第4特異点の舞台の話です。時代は19世紀末期、産業革命を経たロンドンで──先輩?」

 言いかけて、マシュは隣に立ち上がった人物を奇異そうに見上げた。

 「あーごめん」リツカは幾分か気まずそうに、側頭部で一つ結びにした銅色の髪の房をかき回した。「今日はちょっと休ませてもらってもいいかな」

 「あーはい、大丈夫っすよ」

 意外そうにリツカを見上げるマシュに代わり、トウマは努めて朗らかな様子で応えた。

 「夜更かしのしすぎじゃない?」

 ニヤニヤと口角を歪めるクロに対して、リツカは珍しく「最近寝てるんだけどなぁ。寝すぎなのかな」と不思議そうな表情を返した。

 「あとで資料とかもらっていい?」

 「お任せください。マシュ・キリエライト、先輩から教わったわかりやすい資料作りを徹底しますので」

 にへらとリツカは顔を緩ませる。なんだかその顔に力がない、と感じたのは、ある程度の年月顔を突き合わせているレオナルドだったからだろうか。

 くしゃ、とマシュの頭を撫ぜりと、リツカは草臥れた様子でブリーフィングルームを後にした。

 

 ※

 

 一路、彼女は自らの部屋へと足を向ける。

 最近感じる身体の疲労。静かに足元から這い寄るかのようなそれに従うように、リツカは重い足を動かしていく。

 生半な魔術干渉ならば、彼女はそれとなく察知する。彼女の素質による、というよりは、彼女が身に着ける礼装による探知だ。流石にサーヴァントの対魔力とまではいかないが、それでも簡素な呪詛程度ならば弾いてしまうし、弾けずとも、悪意を持った魔術的干渉を敏感に探知はしてくれる便利なものだ。

 流石は、時計塔のロードたるアニムスフィアの当主手製の礼装というだけはある。本人としてはお遊びで作ったものなのだろうけれど、知識はともあれ技量に関してはさして特筆すべきものはないリツカにとっては、十分優れた魔術礼装だった。ルーン文字を起動キーとしているのも、使い勝手がいいと思う。

 それに反応がないということは、少なからず敵意的魔術干渉が行われているわけではない、ということだ。つまるところ、この肉体疲労の感触は、真実肉体の疲労によるものなのだろう。

 リツカは8割がた思考放棄しつつ、残り2割でうすぼんやりそんなことを考える。彼女は生来思考という人間的営みを七面倒くさいものだと疎んじていた。人間は考える葦である、という人間の悲惨と尊厳を説くパスカルの名句も、藤丸立華には説教臭いだけの、世捨て人の諦観以上のものには聞こえなかった。

 そんな悲惨なことを考えるよりも、思考停止して不摂生な生活を送り、楽しむだけ楽しんだら早々と人生を終了させる。そっちの方が、よほど人間的であろう。天使と野生の生物たちは自ら堕落することはできないが、ただ人間だけが自由意志を以て頽落的生活を送ることができるのではなかろーか。

 ──まぁ、もっともそんな屁理屈をこねまわしているあたり、やはりリツカという人間の核に思考することそのものは根付いているのだが。半ば自覚しつつも、彼女は自分自身に見て見ぬふりをしている。

 そんなことを益体も無く考えながら、リツカは居住区画に設えられた自分の部屋の前へ行くと、壁面のモニターを覗き込んだ。

 ぴ、という小さな電子音が壁の中から漏れる。続いてがちゃり、という音が後を追う。自動ドアのロックが解除されたのを確認してから、リツカはえっちらおっちらと自動ドアを手で開けた。

 いい加減、ダ・ヴィンチちゃんが何とかしてほしいとは思う。このゴタゴタが始まって以来、あれよあれよと節制生活だ。食生活はなんとかクオリティを維持しているが、その他エネルギー消費に関しては目に見えて縛りがきつくなっている。  

 まぁ最悪年単位で補給がままならないのだから、そうなるのは当たり前なのだが。

 やっとの思いで重たい自動ドアを開けたリツカは、一目散にベッドに向かった。髪も解かずにベッドに飛び込み、枕元の化粧落としで顔を拭う。本当なら洗顔もすべきところだが、もう、彼女にはそんな気力すら残っていない。

 喉が渇いたなぁ、とうすぼんやり思考する。エナドリはデスク下の冷蔵庫の中だ。ベッドに飛び込む前に持ってくればよかった、と思ったが、もう後の祭りである。猛烈な末脚で追い込んできた眠気の前に、藤丸立華は容赦なく差しきられてしまったのであった。

 ぐぅ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅰ-2

 ほんと、世の中って無責任よね。

 ──その声を、どこかで、いつか、聞いたような気がした。

 私みたいな女の子にそんなことさせるんだから。できることなんてたかが知れているでしょうにね。私に、何を期待していたのでしょうね。

────不気味なほどの郷愁を惹起させる声が、内耳から鼓膜を突き上げる。

 でも、しょうがないわよね。なってしまったものは、なってしまったのですから。なら、精いっぱい、頑張るしかないわよね。

──厭世的なはずのその声が。何故か、ほんの僅かな微笑が滲んでいた。

 

 

 暖かいな、と思った。

 ぽけーっとした気分にさせるような、温和な手触り。肌を撫でる感触は、南極6000m級の隠山に敷設されたカルデアの中では、決して味わえない。レイシフト先の特異点で僅かに感じる、太陽からの陽の光だ。

 もし何もなければ、そのまま深い眠りに落ち込みそうなほどの暖かさだ。実際にリツカはその温厚な天体の涙に包まれていようか、と思考放棄の末の普段の自堕落を決め込んでいた。

 だが、それも数瞬ほどの微睡みに過ぎなかった。泥濘に沈んだかのような暗い眠りの中、何かがざわめいていた。

 最初、それは小さく脳みその中で発生しているかのようだった。松果体の中で、宇宙の淵源に潜む名状しがたい冒涜的な生物がのたうちまわるような雑踏が蠢き始めるなり、だんだんとそれは人の絶叫のように変転していく。常人なら気が狂いかねないほどの音の坩堝の中、それでもリツカは気持ちのいい眠りにしがみついていた。

天性の自堕落さである。だが、その天才的堕落ですら耐えかねるほどの粘着質の甘い音に眉を潜めたリツカは、やっとのことで目を開けた。

 むくり。のっそりしながら、それでいて何か機嫌が悪そうな様子は、冬眠を邪魔された羆のようである。最も小柄なリツカなのでそんな威圧感はなく、精々穴熊が穴蔵から顔を出してきたくらいな雰囲気ではあるのだが。

 眠りを妨げられた羆……もとい穴熊は、まず普段の習性に従い、周囲を見回した。

 古い石畳に、古式ゆかしい建築様式の建物。なんとなくヨーロッパ風、という漠然とした印象でその家々を眺める。もしここにマシュが居たならば、建物から何年のどこ、というところまでたちどころに同定するのだろうが―――きょろきょろと周囲を見回してみるが、残念ながらマシュの姿はない。クロの姿もない。あと一応トウマ少年の姿も。

 ふむ、と一息。手遊びのように顎を撫でながら、リツカは自分のいで立ちも確認する。

 カルデアの施設内で着用する衣類だ。簡易的な魔術礼装として機能するが、とても特異点での運用には耐えられない。それを着ている。レイシフト前に必ず装着するバトルドレスユニフォームも着ていない。重ねて言うが、明らかに戦地に赴く出で立ちではない。

 当然、BDUを装備していないということはカルデアとの連絡も取れないわけで。幾ばくか途方に暮れつつも、リツカは「夢かな」と至極当然の思考へと巡っていく。

 此処に来るより前に連続した記憶はない。ということはあれだろう、要するに寝落ちて今は夢の中、みたいなものだろう。みょうちきりんな光景も、夢特有の突飛さと言えばわからないでもない。

 それにしても、対自的に夢を理解できる夢なんてあるんだろうか。意図的にぼんやりしながらも、とりあえず、彼女は声の方へと足を向けた。

 ついさっきまで、脳みその中で反響していた怒号。いつの間にか外から物理的な音響となって響き始めた声が、何か当面の手掛かりのように思えた。

 というより、その他に何も手掛かりがない。この世界が何なのか、見当もつかない。

 とは言え、歩き始めたリツカの足取りは軽い。夢なのか無意識なのかは判然としないが、特段の危険を感じない。ほんの一瞬の油断で死に絶えるような世界には、見えない。

 あるいは、それが油断なのかもしれないが。回避不可能な不意打ちで死ぬ、という可能性にまで気を回していては、そもそも戦地で動き回ることなどできはしまい。

 普段と変わらぬ、軽やかな足取り。ざり、と石畳を噛みしめるパンプスの感触の頼りなさも気にせずに歩き続けると、リツカははたと足を止めた。

 さっと視界が開けた。

 視界にまず飛び込んだのは、切り立った塔、だったろうか。古代エジプトの神殿に侍るオベリスク、のように見える。妙に周囲とミスマッチな景色の中、それはあった。

 巨大な刃が、暖かな陽を照り返していた。艶やかに煌めく銀の刃は、全く以て造形美に欠けていた。

 その刃の名前がギロチンであることは、誰の目にも明らかだろう。特にリツカの生活していた日本においては残虐さ、無慈悲の象徴と誤解されがちな処刑道具。断頭台があり、そこに聳える対の柱がある。柱に挟まれた刃がある。そしてその断頭台の前に立つ姿に、リツカは目を見開いた。

 何故か、そのいで立ちは白無垢を思わせた。にも拘らず、その風采に、何にも染まらぬ純白の衣、という気品さはない。むしろ病衣を思わせる窶れは、白無垢の淑やかな美とは全く対偶の黝さを惹起させる。

 「──マリア?」

 被ったキャップの下。病的なほどに白い頬に、蒼褪めた唇。死、という気配を濃密に纏いながらも、その顔を、間違えるはずはなかった。

 第一特異点、オルレアン。刹那のように短い間だけしか言葉を交わさなかった、豪奢で且つ可憐な百合の花を思わせる彼女。

 その名、マリー・アントワネット。

 時代の波に飲まれ、断頭台に最期を看取られたフランス・ブルボン朝五代国王ルイ16世の王妃、その人だった。

 何故、という思考が過る暇は、なかった。というより、より甚深な何故が津波となって押し寄せ、ただリツカは圧倒されたからだった。マリー・アントワネットが手を掲げる。細やかな百合の茎を思わせる繊細な手の動きに反して、断頭台を取り囲んだ群衆が怒声を迸らせる。はたして言語なのかすら不明な、原初的のような近代自我的のような奇怪な罵倒。その矛先が向かうのは、処刑台に佇む白い衣のマリーではなかった。

 マリー・アントワネットの仕草に応じ、一際罵声が鬱勃と立ち上がる。両脇を赤青のコート姿の男に挟まれて連れられたその人影に、リツカの内面の疑問符と明晰な思考が不気味に絡まり合った。

 病的な、痩せぎすの体躯。血を汁として蓄えたサクランボみたいな髪が力なく垂れている。同じように力なく垂れているのは、尻尾、だろうか。爬虫類じみた尾を引きずりながら断頭台に連れられた、その、彼女は──。

 藤丸立華の判断、そしてそこからの行動は、ただただ迅速だった。身を隠していた樹木から飛び出すなり、リツカは壁のように密集する群衆に突撃する。

 彼女の身のこなしの故か。壁に思えた民衆の群体の隙間をするするとかきわけていく。リツカの存在に気づいた青い正装の衛兵の手も軽々と潜り抜けると、〈強化〉を施した脚力でもって断頭台へと飛び乗った。

 既に、彼女は木枠に首をはめている。木桶に首を突っ込んだ亞竜の少女は、静かに断首の瞬間を待ち望んでいる、ように見える。

 止めに入った黒ずくめの男の頬へと、強かに殴打を一撃。吹き飛ばされた体躯が独楽のように断頭台から転げ落ちていく。構わずに首から木枠を外した瞬間が、最後だった。

 振り下ろされる手が断首の合図だった。

 ぶち、とロープが千切れる。重力落下を始めた刃が首元へと迫る。寸で彼女を抱き起したリツカは、ただ力任せにその細い身体を突き飛ばした。

 墜ちる刃、暗転する視界。視界に飛び込んだ白い相貌に映る情動は、驚愕、後悔、奇異、憧憬、そのどれもの中央値を象るものだった。

 ギロチンの刃が地面に食い込む。昏く沈む視界の中、呟くような声が耳朶を衝いた。

 「―――『死は冷たく明日を閉ざす(ラモール・エスポワール)』」

 どうして、泣いているんだろう。

 そう思った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅰ-3

 「それは構わないわ。尊敬は別にしないけど、私が最適と考えてくれたことは有りがたく受け取ります。形ばかりの王女でだったけど。伝承の存在者であるあなたに認められるのは、素直に善いことと受け取ります。

 今回はまだ見に回るのでしょう。かの国の王はまだ出方をうかがっているようだし。

 本当、厄介ね。別な理で動くものというのは──了解。じゃあまた」

 

 

 知らない天井だった。

 いや、本当に。

 藤丸立華にとって、天井どころか周囲の光景の何もかもが知らない光景だった。

 彼女の貧困な語彙では判然としないが、とりあえず古式ゆかしい豪奢な部屋だとはわかる。天井からぶら下がるシャンデリアなんか、現代日本でもそうそう見ないだろう。天蓋つきのベッドなんて、おとぎ話とかでしか見ないと思う。ふかふかの布団は羽毛かだろうか。よくわからないが、快眠であったことは間違いない。

 奇怪な事態に陥りながらも──その事実は彼女自身、自覚している──全く以て呑気な様子である。周囲を観察する視線には、胡乱さも伺う仕草も含まれていない。ただ、カメラのような視線が周囲を写し取るかのような無機質さがあった。金属質でもなく鉱物的でもない―――いわば無脊椎動物の情動だけが、リツカの内面性に横溢しているかのように見える。

 ──監獄。

 リツカが最終的に直観づけたのは、その言葉だった。

 一見、控えめに言ってゲストルームか何かだろうと思える。煌びやかな室内は言わずもがな、部屋の中央テーブルに聳えるケーキスタンドには、マカロンやら何やらが並んでいる。三段式のスタンド最下段にはサンドイッチすらある。アフタヌーンティーを愉しんでくれ、と言わんばかりだ。スリッパはあるし、なんならこの部屋に不似合いな冷蔵庫すらある。液晶テレビすらある。なんで? まぁともかく、とりあえずこの部屋の主は、現在この部屋に滞在する人物をある種もてなそうとしていることは間違いない。

だが、まず最初に感づいたのは一点──窓がないのだ。天井からぶら下がるシャンデリアから墜落する光だけが、部屋の中を淡く照らしている。光量は十分でないのか、部屋の隅には陰気な影が小さく身を竦めてこちらを伺うように身を潜めている。

歓待と排他。相反するような、それでいて秘密めいたホスピタリティで結ばれた言葉が犇めく部屋。そこに監獄という言葉を当てはめるのは、奇抜だが無理なことではない。特にあれだ。あの椅子にむんずと座るドール。こちらをギラギラと睨みつける拷問器具のような人形は、如何にも悪趣味ではないか。

 「誰が人形よ誰が!」

 不意に、その二本角の人形が喚き散らした。うお、と間抜けた声をあげながら、リツカはまじまじとその姿を眺めた。

 血色の果実を絞ったかのような髪色に、病的な白い肌の痩せっぽち。屹立する双角は美麗さより醜悪さの方が印象深い。

 エリザベート・バートリィ。第一特異点オルレアンで相まみえたサーヴァントと同位の英霊だ。もちろん同一個体―――真の意味で同一個体でないはずなので、厳密には別人、なのだろうが。

 違う点と言えば、身に着けている意匠だろうか。オルレアンでは何故かパンクな装いだったが、今はもっと質素である。薄汚れた白い衣は、鼠色に近いほどだ。

 向けられる視線は鋭い。刺すような、という比喩があるが、確かにエリザベートの鋭利な眼差しは何かを抉るようだ。だが、そこには敵意的なものは潜んでいないようだった。

 「なんでそんな落ち着いてるのよ、貴女」

 不満げなようで、それでいて困惑している口ぶりである。じろじろと観察するようなエリザベートの無思慮な視線も構わず、リツカはやはり呑気に延びなんかをする。

 「慌てて何かメリットがあるなら慌てるけれども」

 のそのそ、とベッドから這い出す。いつの間にか着替えさせられたらしく、ふかふかのパジャマ姿で抜け出すと、スリッパは履かずに冷蔵庫へと足を向ける。

 「そういう問題じゃない」

 「いや、本当は慌ててるよ。ここどこ、みたいに思ってるって」

 怒ったようなエリザベートに、リツカは特に抑揚もなく応える。冷蔵庫のドアをあけると、リツカはほうほう、と目を輝かせた。

 ワンドア式の小さな冷蔵庫に、ぎっちり詰まったペットボトル。その中に一本、黒いあんちくしょうが光ってる。黒光りする威容。きらきらした目で取り出せば、もちろんそれは彼女の大好物、エナドリである。

 「まぁでもパニくったからっていいことないし。こういう時、慌てた方が負けなのよね……ってシデンさんも言ってるじゃん」

 「誰それ」

 「カイ」

 「だから誰よ」

 至って平静に言って、リツカは缶のプルタブを開けた。ぺきゅ、という小気味のいい音とともに、黄金色の炭酸飲料が飛び散る。小躍りするように噴きでたジュースを舌で掬う様は、なんだか中年のオッサンか、それとも無邪気な少年かのどちらかである。

 「クァー!」

 まぁおおよそはオッサンだろう。会心の笑顔すら浮かべるリツカに、エリザベートはただただ胡乱気な視線を向けるだけだった。

 「飲む?」

 「要らない。それ、美味しくない」

 「そう、残念」リツカは酷くショックを受けたような、悲しげな顔をした。「じゃあ水飲む?」

 エリザベートは小さく頷いた。ひょいとリツカが投げたペットボトルをしっかりキャッチングすると、長い爪先で器用にボトルの蓋を回し始めた。

 そんな姿を眺めながら、リツカも椅子へと腰かける。ケーキスタンドのサンドイッチを一掴みして、リツカは口へと頬張った。

 「BLTサンド」一口で半分も食って、リツカは断面図を眺める。「レタスとトマトが多め。健康的」

 「早食いすぎない」

 「お腹空いてた」2口で全部を食い散らかすと、矢継ぎ早に2つ目へと手を伸ばす。「今度はサラダチキンとゆで卵のサンドイッチだ」

 ちんまり、とマカロンを爪で摘まむエリザベートに対し、リツカは遠慮なく3つ目のサンドイッチ──最後のサンドイッチへと手を伸ばした。

 「本当はハンバーグとかがいいんだけど」これも数口で平らげると、リツカは不服そうに指を舐める。「てりやきハンバーガー」

 「ニホン限定のバーガー? 食べなさいよこれも」

 「そうそう」物欲しそうな顔で菓子を眺めるリツカに、エリザベートが言う。「旨いよねあれ」

 「まぁ」

 ぽつりと言いつつ、エリザベートはちんまりとマカロンを齧っている。元から痩せぎすで不健康そうな体つきだが、今日はなおのこと血色が悪い。なんというか、蒼い。不健康さが増しているようだ。食欲、という欲求は今は無縁らしい。最も、サーヴァントに食欲がそもそも備わっているか不明だが。ダ・ヴィンチちゃんやクロは食糧事情もあってか、カルデアにおいては全く食べ物を口にしていない。

 そうこうしている間に、まったり30分。あまりにも呑気な時間をたっぷり消費してから、「それでここどこ」とあまりに情緒無くリツカは言った。

 「固有結界」言われた方も言われた方である。わずか30分でこの呑気な空気に文字通り呑まれたエリザベートは、イチゴ大福を貪りながらの返答をした。

 「固有結界。え、マジで?」

 渋々飲んでいたペットボトルのミネラルウォーターを若干口から吹いてしまう。げほげほとむせりを発生させるリツカに対し、エリザベートは「咳エチケット守りなさいよ」とにべもない。

 「いや固有結界って。とんでもねえもんの中にいますやんか」

 「そんな大したものじゃないでしょ」

 「いやまぁサーヴァントなんてトンデモの方がよっぽどですけども」

 当たり前のようにペットボトルの水を飲むエリザベート。ごく自然に椅子に座って爪に突き刺したイチゴ大福を食べているが、彼女はれっきとしたサーヴァント──よりリツカになじみ深い言語で表現するなら、ゴーストライナーなのだ。

 とは言え、やはり彼女も一応魔術師の家系に産まれ、育てられた人物である。ろくすっぽ魔術の研究になど興味はないが、それでもどんな魔術が凄いのか、くらいは知っているものだ。

 固有結界。リアリティ・マーブルと呼ばれる魔術を日本語訳した言葉だが、なるほどうまく訳せている。術者の心象風景をそのままこの世界に現す、という魔術。外部から切り離された自己の内面性は、定義によっては結界と言えよう。最も、リツカからすれば、そんな魔術を使う人間の気が知れない、というのが正直な感想だった。人間の内面性など、どうせ大したことはない不気味なものでしかないのだから。そんなものを開陳しようとは、悪趣味が極まっていると思う。まぁ。そもそも、固有結界。元は真性悪魔や第六架空要素──悪魔たちが司っていた、世界そのものの行使であるという。悪趣味も悪趣味というわけだ。

 ともあれ、要するに固有結界なんてものはそうそうお目にかかれない産物なのだ。それこそ、一般的に生きる魔術師が、魔法使いと実際に顔を合わせるくらいの珍事である。どちらかと言えば外様のリツカならば、なおのことビックリ事象だ。

 「なるほどなるほど」不服そうに水を摂りながら、リツカは周囲をきょろきょろと見回した。「英霊マリー・アントワネットの固有結界、というわけか」

 何気なく、リツカはそれを口にした。

 ぎろり、と鋭い視線がリツカを射抜く。視線の主──エリザベートの視線の苛烈さは、しかし瞋恚というよりは奇怪なものを覗き込んだ──畏怖、のようにも見えた。

 サーヴァント、という上位存在からの抉るような視線。恐らく高位の魔術師ですら竦み上がるそれを前に、リツカは平然としていた。あるいは内面では恐怖を感じていたのかもしれないが、少なからず外見上、それを見せることなどしなかった。

 それどころか意に介することすらせず──もしくはほぼ無視すらして、リツカはぼけーっと虚空を眺め始めた。ついでにケーキスタンドからおはぎをもぎ取りながら。

 「『泥の監獄に死の救済あれ(ラ・グロース・トゥール)』―――貴女の思ったとおりよ、リツカ・フジマル」

 だから、不意に肩を叩いた声に、リツカは妙に身体をびくつかせた。あまつさえひっくりかえるように転倒しかけたリツカを、背後からの手が寸で抑えた。

 ふぁさり、と黒い髪がリツカの面前にカーテンとなって揺れる。艶のいい、黒々とした髪だった。

 「かの王妃が死の前に過ごした牢獄が形を成したもの、裁きを前にした無限の滞留。それがこの監獄よ」

 身を翻す深紅。目の覚めるような、凛とした鮮烈が舞った。

 波打つ長髪を二つ結びにした、大人びた女性の苔色の目がさらりとリツカを撫でた。

 「初めまして、フジマル・リツカ」

 颯爽、という言葉が脳裏を過る。品よく静かに差し出された手だったが、その身のこなしはどこか軽やかだ。

 「私はそうね、リン、とでもお呼びになってくださいな」

 思わず立ち上がってしまいながら、リツカも手を伸ばした。

 迷うことなく、手を握り返す。柔らかない手だな、と思った。女性的、という生物的な緩和さではない。もっと洗練された柔和さだ。凛とした佇まい、とでも言おうか。なるほど、名前の通りの印象の、妙齢の女性だった。

 「あ、どうも」

 「オジギ、ニホンの挨拶ね。私もしていい?」

 言って、リンと名乗った女性はへこりと頭を下げた。営業が成功したサラリーマンのへこへこお辞儀だ。なんとも似合っているのだが、動作はちょっとぎこちない。本人は満足な様子で、「変なの」と笑っていた。

 リン、は品の善いくすくす笑いを零しながら、ごく自然に椅子へと腰かけた。ちょい、とマカロンを一つまみ。ひょい、と口に放り投げると、悪くないわね、と独り言ちた。

 全く以て、自然な佇まいだ。すくなからずアジア系の人間ではあろうか。つん、と筋の通った目鼻立ちが、大人びた風采の裡に、静かな溌剌の存在を証明していた。

 「一個訂正。ここは、厳密には固有結界と呼ばれる魔術とは別種のものよ。確かに、復讐者として顕現したマリー・アントワネットの宝具は固有結界を展開するものだけれど──ここは、それとは違うもの。そこの駄竜にはわからないでしょうけどね?」

 じろり、とリンの視線がエリザベートを刺す。居心地悪そうに肩を竦めながらも、覗き込むように返す彼女の視線は酷く敵意的だ。隙あらば喉元に食らいつく、と言わんばかりである。そうしない理由は不明だが──飛び掛かっても種々無駄、ということだろう。

 「コイツの言うことは信じちゃ駄目よ、ハト女。偉そうにしてるけど、ここの看守なんだから」

 代わりに、エリザベートは毒舌を吐くことにしたらしい。と言っても、毒舌と言うには細やかだろう。特になんとも思っていないらしいリンは、「実際偉いもの」と鼻を鳴らしただけだった。

 それにしても、ハトとは自分のことだろうか。ぽかん、としながらリツカは考えてみる。確かに、他人から見ればその時のリツカの無思考な表情は山鳩のような顔ではあった。

 「マリア、の手先ということなのかな」

 「どうかしら」一瞬、リンは逡巡をしたようだった。「そうかもしれないわね」

 そう、とリツカはそれ以上踏み込まなかった。リツカもリツカで、いつもの無思考な顔で、こちらを観察している風のリンの視線を受け流していた。

 「《《看守さま》にこんなことを聞くのは変な気もするけれど」リツカは何の気無しに言う。「監獄、って言うには、随分のほほんとしている部屋だねぇ」

 ぱくり、シュトーレンの切れ端を口にする。ミネラルウォーターを併せて飲み込み、リツカは相変わらずの表情で部屋を見回した。

 察するに、この一室の“主だった”調度品はマリー・アントワネットが生きていた時代のものの再現なのだろう。

 やはり、印象は変わらない。明るいながらも何故か張り付いた陰鬱な印象は、この一室が間違いなく監獄であることを惹起させる。だが、その印象とは別に、対自的な理解としてはあくまでここは豪奢なゲストルームだ。

 「でもここは監獄。裁きを受けるべき罪人が幽閉される塔。それが何を意味してるのか、貴女はよくわかってるのではなくて?」

 「うーん」リツカは少し、顔を曇らせた。「あのギロチンで首を落とされるのは厭だなァ」

 「ちょっと待ちなさいよ!」

 劈くような濁声が破裂した。

 勢い椅子を倒して立ち上がったエリザベートは、凄まじい形相でリンを睨みつけた。視線だけで射殺すほどの凄み。臨戦態勢に入ったサーヴァントが放つ殺意は物理的な魔力の漏出となって滲み始めた。

 「私が罰を受けるのは構わないわ! でもがなんだってコイツが死ななきゃならないのよ」

 「さぁ、それは私には与り知らぬこと。私ではなく、あのマリー・アントワネットが決めることよ」

 常人なら、その場にいるだけでショック死しかねないほどの殺意。志向性を諸に受けたリンは、全く意に介していないように鼻を鳴らすばかりだった。

 「貴女の鳥頭にこれを言うのはもう4度目。私はただの看守。この監獄を見守るだけのもの。私の国ならいざ知らず、ここで起きることの倫理的価値について口を挟む気はさらさらないの」

 穏やかでありながら、しっかり芯の通った声だ。凛然とした声色は、知悉と温厚を含みながらも明確な拒絶を突き付けている。取り付く島もない、突き放す素振りだ。

 「まぁすぐ、ということはないでしょうから。あの方も罪人の処刑に忙しいご様子ですし、貴女のスケジュールも狂ったようですし。そうね、1週間後くらいに処刑が執り行われるのではないかしら」

 淡々と、当たり前みたいにリンが言う。業務命令というほどに冷たくも無機質でもないが、比喩でも何でもない死刑宣告を突き付けるにしてはなんとも味気の無い言葉だ。

 飛び掛からんばかりのエリザベートも、泰然とするリンを前にただただ二の足を踏むばかりだ。

 理由は至極単純だ。エリザベート・バートリーは、このリンと名乗る麗しい女性に全く以て手が出ないのだ。窮鼠がどれほど殺気立とうと、猛虎には歯が立たない、というわけだ。これは後にリツカの知るところだが……エリザベートが暴れようとした時、リンはなんらかの格闘術を以て一撃で制圧したらしい。なんらかの魔術をした形跡もなく。

 畢竟、ここでエリザベートが何か行動を起こしたとしても無意味ということだ。漠然とそんな事情を察知して、リツカも取り立てて何かをしようとは思わなかった。とりあえずは、現状を飲み込むほかない。そんな風に、リツカは思案する。

リツカの仕草に満足したのだろうか。少なからず、エリザベートを足蹴にすることへの感慨はないだろう。ふふん、と鼻を鳴らすと、リンは品よく立ち上がった。

 「それではごきげんよう、カルデアのマスター。この世にあって最新の人類」

 黒いロングのプリーツスカートの裾を軽く摘まむ。カーテシーの仕草は、なんとなく不格好だった。

 にこやかな、それは微笑だった。溌剌と身を翻すと、リンはこの部屋唯一の扉に手をかけた。

 「じゃあね。罪人さん」

 開いた扉の奥は不鮮明だった。ただ、昏い果てが眼前性を以てすぐそこに沈殿していた。

 リンの身体が、闇へと溶けていく。赤い燃えるような装いは、消える最後まで闇の中で瞬いていた。

 「どうしたもんですかねぇ」

 独り、言ちる。左側頭部で一つ結びにした髪をかき回して、リツカはただただ途方に暮れた仕草をしていた。

 果たして、この時彼女が灰色の脳細胞を駆使して猛烈な思考を始めていたのかどうかは、誰にも与り知らぬことである。ただ判然としていることは、殺気を持て余して憤然とするエリザベートの目には、呑気そうに水を飲む様だけが映っていた、ということだけだ。

 「私が、助けるわ」

 勢い、エリザベートは身を乗り出した。勇み足である自覚はエリザベート自身にもあったが、そう口にした。

 だが、無感動に見返してきたリツカの目にたじろいでしまった。池沼そのものだ。水底に膨大な金属質の沈殿物をため込んだ、黒い沼。全てを飲み込むようで、それでいて何物もよせつけないかのような絶対的受容と絶対的拒絶が混濁した、眼球がそこに埋まっていた。それでも、エリザベートは口を結んで、その異様な視線に対峙した。ぐっと睨み返すと、その視線は不意に霧散した。

 「そうだねえ」

 リツカは居心地悪そうに、けれど気恥ずかしそうに笑みを零した。

 「なんとか頑張ろうか」

 さて、とリツカは立ち上がった。決然とした、という形容詞は全く感じられないが、それでも何事かを決意したかのように見える。逸るようにその姿を見つめるエリザベートに、リツカはドヤった表情を作り──。

眠い。もう寝る(Je vais dormir)!」

 トそれはそれは綺麗に掛布団とマットレスの隙間を強襲する。唖然とするエリザベートを他所に、リツカは素早く睡眠活動を開始した。

 「……なんでさ?」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Taijival……1

 「そりゃあ考えてみろよ。アンタだって中央アジアの歴史なんて知らんだろう?」

 悪びれもしないように肩を竦める黒人の男。元はアフリカ系で、アトラス院を本家とする魔術師の家系だという。が、現在は遠くアメリカの地で生きる彼にとって、そもそも歴史それ自体が興味の外の物事らしい。

 カルデアの居住区画。南極の山奥などという僻地にあるせいか、この施設は全体的に無機質で冷たい印象がびっしりと沁みついている。色彩に乏しい廊下に、それでも時折現れる簡素なロビーは冷たい印象に微かな温和さを感じさせる。

 テーブル2つ、椅子は合計4脚という手狭なロビー。クロエ・フォン・アインツベルンは偶然行きかったオペレーターの1人と、特に何をするでも無い会話を空転させていた。

 「だからまぁ知らんのよ、イングランドの歴史とかな。まぁ興味がないわけではないけどな」

 頬杖をつく大柄な男は、こじんまりとした仕草の癖になんか巨大だ。元はグラウラーのコパイをしていたのだけあって佇まいは粗暴というより知的で、普段の趣味は数学の証明問題を解くことらしい。夜間の電力消費削減のため、あまり最近は趣味に興じる暇もないと嘆いていたが。

 「敬意がないわけじゃあないけどな」

 少しだけ、男は決まり悪そうにした。英霊、という歴史の綜合体とでも言うべき相手に歴史を軽んずるかのような発言をしたことが、なんというか心苦しいらしい。

 最も、クロ自身はさしてそんな身振りに不快さを感じるようなことはないのだが。何せ彼女は過去的な存在者でもなく、まして未来的な存在者でもない、どちらかと言えば現代っ子である。現代の英霊、というのも何か珍妙な話ではあるのだが、事実なのだから仕方ない。そんな彼女としても、実際のところ“歴史”とやらはあまり興味のない出来事だ。もちろんその来歴から魔術に関する歴史には関心があるが、いわゆる外の地域の歴史には関心が無い。例えばトルキスタンの歴史、とか言われても、現代日本女児であったクロにはよくわからん話である。

 「まぁ、私なんて日本の歴史すら知らないけど」

 「りっちゃんと同じ日本人なんだっけか、アンタ」

 「まぁそんなところ」

 こういう点で、クロはこのアフリカンアメリカンの男に僅かな親しみを向けられていた。異郷を祖国に定めた異邦人、という曖昧な越境性。どことなく純血という幻想に追いすがっている魔術協会は、男にはやや肩身が狭いらしい。

 「ニホンにはまだスペツナズみたいなのが活動してるんだろう? 映画で見たぜ、危険な国だってな。出会い頭にソードマスターに襲われるっても聞いたぜ」

 「忍者も辻斬りも、もういないわよ」

 「マジか」

 真面目にショックを受けた様子の男は、そうか、と肩を落とした。まぁそれっぽいのはまだ現代日本にも現存しているのかもしれないが──そんな伝奇みたいな話はそうそうないと思う。

──まぁそんな歴史談義になったのは、ここ最近マシュとトウマが行っている“勉強会”のお陰だ。元から歴史的なものに関心のあったマシュと、なんとなくそれに追従するトウマの2人で始めた歴史の学び直しは、それとなくカルデアの中でも広がっている。もちろんライブラリを参照すれば事足りることではあるが―――前回の特異点のように、カルデアとの連絡もままならないことはある。そう言ったときは当然カルデアのライブラリにアクセスすることも不可能で、そうなったら要求されるのは地頭の性能だ。レイシフト環境下で少数精鋭の長期任務に従事する彼女彼らは、そういった状況すら念頭におかねばならない。

 ……という作戦上の都合もあり。加えて、ただでさえ余興に乏しい環境下なだけあって、こういった催しそのものが日々の楽しみになりつつあるのだ。

もっと踏み込んで言えば、それだけこの環境の逼迫具合は激しい、ということでもあるのだが。

 そういった苦々しい状況から自覚的に目を逸らせるのが、人間という生物の愚かで且つ優れた素質だろう。現実逃避とは、後ろ向きのままに前進するための啓蒙的ヒューマニズムの産物なのだ。

 そしてそんな進歩的な人間主義を体現する人物が、のそのそと現れた。

 ぼさぼさの髪のまま、幽鬼(ナズグル)のような頼りない足取りで闊歩する堕落の顕現。髪を縛ったまま寝ていたのか、左側頭部が魔王の剛角のように猛り狂っている。

 「おはようございます」

 2人に気づいた魔王……ではなくリツカは、魔界から来たかのようないで立ちの癖に妙に丁寧にお辞儀した。

 「あーうん?」

 お辞儀の恰好から顔を挙げたリツカは、まじまじと2人を眺めた。穴が空くほどに注視してから、「あぁ、なんだ」と拍子抜けしたように肩を落とした。

 「おはよ、リツカ」

 「うむ。くるしゅうない」

 クロの挨拶に、リツカはいつも通りの脱力で応えた。緊張感など一つもない、ほんわかした雰囲気。ぼりぼりと尻を掻きむしる仕草は、彼女の堕落さに輪をかけていた。

 「うーん」

 けれども、そんなリツカの仕草にほんの微かに違和感が混じる。普段の大らかで朗らかで間の抜けたような佇まいの中に、何か奇妙な鋭さが混じる。思案を加速させているのか、それとも別か。ようやくフジマルリツカという人間性のなにがしかを掴みかけ始めたクロにとっては、リツカのそうした漫然とする様子に混濁する鋭利さは理解するがその内実までは推し量れない。

 しかも、その仕草は一瞬だ。仄暗く見えていたリツカの様子も一瞬で彼方へと過ぎこしていく。うーん、と気持ちよさそうな伸びとあくびを繰り返したころには、もう、リツカは彼女の本質だけを現前させていた。彼女の本質ですらない不気味さは、もう、存在していなかった。

 「腹減った」

 「食堂にまだ飯残ってるんじゃないか」

 「今日の当番、ニナだったかしら」

 「期待できるじゃん。行くわよ行くわよ」

 ぼさぼさの風采のまま、リツカはひょろひょろと駆けだす。日々の食事担当は補給科の請負で、中でもイタリア人スタッフが作る料理は一番のアタリだ。

 「呑気なもんだ」頬杖着きつつ、男はリツカの背を見送る。「あれで人類の半分を背負ってるんだからなぁ」

 発言は、どこか憧憬のようなものを感じる。ただ、憧憬の裏にどうしても潜む疚しさと裏返しになった、そんな大人の情けなさと同位の憧憬。

 大人であろうが子どもであろうが、無力とは時に罪悪だ。それが自覚的であるならば、なおのことだろう。贖い不可能に担い産むそれが、けれど、人間に一つの情熱を種付けるのだ。

 クロも、漠とリツカの背を視線で追う。よたよたと歩行するリツカの後ろ姿は、ただただ不安定だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 「手も足も出なかったな」

 そう口にした声が、不思議な感触で耳朶を叩いた。

 長い金の髪を流した、気品のある人物。初めて見る人物なのに、その名前は知っている。

 キリシュタリア・ヴォーダイム。千年の歴史を持つ魔術の名家、その次代を受け継ぐ若き当主だ。

 貴族主義に属する人物ではあるが、その眼差しはむしろ民主主義的に近い。家名ではなく能力に要点を置く彼の目はむく先は、〈私〉を見ている。

 「なんかすんません」

 〈私〉は意図せずして口を開いた。私と無関係に行動し、意志する〈私〉は、面目ない、というように頭を垂れた。

 無機質な見た目のそこは、なんとなく、私には以前住んでいた城のようだった。何もかも無感動で生命の感触が無い通路。〈私〉からは、それがカルデアという組織が所有する研究施設の、居住区画のロビーであることが伺い知れた。

 「いや、構わないよ。君の力量は既に理解している」

 ニコニコと朗らかに笑うキリシュタリア。大人びた精悍さを満たしながら、この金髪の麗人の如き男は少年のように笑う。“私”はすんません、としみじみと頭を下げた。

 ロビーのテーブルを挟んで3人。キリシュタリアと“私”は、テーブルの上に何か遊具らしきものを広げて遊んでいる。チェス、だろうか。賽の目が広がったボード上で駒を動かす様は、私の知識上はチェスのように見受けられる。

 とは言え、チェスとは違う。盤面は木製で、なんなら駒も木製だ。駒に書いてある字は私には読めないが、“私”には読めた。歩、金、銀、云々。将棋(ジャパニーズ・チェスゲーム)だ。盤面の読み方はよくわからないが、なにはともあれわかることがある。

 キリシュタリアとのゲームは、ほぼ完敗という形でゲームが終わっていたことだ。

 「まぁ、うん。人には得意不得意がある」

 なんとも歯切れの悪いキリシュタリア。ひやひやとした表情を向ける先には、むすっとした顔があった。

 「何も教わるものなんてなかったんですけど」

 眼鏡の位置をずらして一言。不機嫌さを隠しもしない黒髪の女性は、興ざめとばかりにキリシュタリアと〈私〉を見比べている。

 芥ヒナ子。黒々と艶やかな髪に山ブドウのような目をした女性も、やはり〈私〉の知る人物である。いつも本を読んでいるふりをして一日を過ごしている彼女も、キリシュタリアと同じくAチームの一員だ。

 「何が権謀術数よ。この小娘ができるのは小手先の手遊よ」

 「シミュレーターでボロクソに負けた人が言うセリフじゃない」

 「何よ?」

 「いえなんでも」

 額に青筋をたてるヒナコ。数日前に行われたシミュレーターで、確かに“私”とヒナコは適性試験も兼ねて模擬戦を行った。口が周る皮肉っぽい子供姿の作家系キャスターを引いた“私”に対して、最優と名高い仮面姿の北欧のセイバーを引いたヒナコの戦闘は、何故かヒナコの完敗というしょうもない結果で終わっていた。

 戦術もへったくれもないヒナコのぼろ負けを受けての|講義《補講』──ということで開催されたのが、キリシュタリア主催の将棋だった、わけだが。

「将棋とか初めてやるもんで」

 あろうことか、〈私〉はキリシュタリアに手も足も出ずに敗北した、というわけだ。戦術やら何やらを教える材料+〈私〉の出身国の遊戯、という両方を勘案したキリシュタリア・ヴォーダイムの鷹揚な提案は無残に潰えた。

 「第一アナタにデイヴィッドがいるのよ。それにあのいけ好かない臭いの男もね」ヒナコは気分を害したと言わんばかりの表情を隠そうともしない。「こんなちんちくりんを補佐に置くってのはどういうことなのかしら」

 刺々しい言葉を向けられる“私”は、さして気にする様子もない。むしろ当然の対応だろう、と理知的に受け止めている様子だ。

 「どうかな。案外、私よりもペペやオフェリアの方が上手く突破するかもしれない。あるいはカドックのような男がね」

 「本気でそれ言ってるのよね」

 「本気さ。人の可能性とは無限だ」

 大真面目にキリシュタリアは言う。そうしてその眼差す先に、〈私〉を捉えた。

 「まぁ確かに」不機嫌さは相変わらずだが、ヒナコは鼻を鳴らした。「前の総当たり戦の結果は承知しますけど」

 「照れますねぇ、ヘッヘッヘ」

 「このザマは何かしらこのザマは」

 「すんませんでした」

 「しかしボードゲームが弱いとは。まぁいい。さて、それでは約束通り、ティータイムとしよう」

 「キリ様の茶と菓子が食える。それだけで生きてる価値があるでしょ」

 「生存の価値がそれって気楽すぎるでしょ。これだから人間は……」

 席を立つキリシュタリアに、まるで犬のようについていく〈私〉。呆れながらも一応ついてくる芥ヒナコの存在を感じながら、確かに、〈私〉は、別なものも感じている。

 これは、なんだろう──。

 

 

 「あれ」

 藤丸立華が目を覚ました時、まず思ったのは既視感だった。

 「知ってる天井だ」

 ありふれたテンプレ台詞……のちょっと変化形をはきながら、ベッドから這い出す。ひだひだの垂れ下がった天蓋ベッドからもそもそと抜け出すと、足元には丁寧に半長靴がおいてある。それは履かずに立ち上がると、リツカは慣れた様子で室内を見回した。

 あの部屋だ。ゲストルームのような。それでいて牢獄として格率する、不可思議な部屋。アヴェンジャー、マリー・アントワネットの宝具が形作る、牢屋だった。

 「起きたわね」

 むすっとした声で話しかけてきたのは、やはりエリザベート・バートリーその人? だ。ケーキスタンドの乗ったテーブルに陣取りながら、角の生えた彼女は訝るような目で見返してきた。

 「おはようございます」

 「何呑気に挨拶してんのよ」

 「いや、まぁ」

 既に結び終えていた左側頭部の髪をかき回しながら、リツカは困ったように首を傾げた。わけがわからないことだらけだが、取り合えず普段通りの行動をしている。泰然というように見えるが、ただ呑気なだけにも見える。エリザベートにはよくわからない。

 「寝たのは覚えてる」

 「寝て起きたのよ」

 「そう言えばサーヴァントは眠らないのか」なるほど、と得心。「寝て、起きた、と」

 言って、リツカは周囲を眺めた。

 昨日──昨日? となんら変わらない。変化に乏しい世界だ。天井ではじりじりと丸い暖色の光が揺れ、その癖に妙に明るく、されど部屋の隅には暗い影が落ちている。目を離したすきに忍び寄ってくる、そんな妄想が過るような、黒い影。

 「寝てる間は何もなかったの?」

 「そうね、特に何も」

 さらりとした仕草でエリザベートは言った。つもりだろう。うまく演技ができたと思っていたのはエリザベートだけで、正面に座るリツカには、そのなんとも気まずそうな表情はありありと理解できた。

 何か隠し事をしている。しかも恐らく、リツカというパーソナルに関わる事柄で。

 ふむ、と手慰みに顎を摩る。じい、と見つめておおよそ見当をつけたリツカは、まぁいいか、と爆発的に惹起した不快感を瞬時に屠殺した。

 いや、抑えきれないものは抑えきれない。むしゃむしゃと一つ結びの髪をかき回して、リツカはやや乱暴にケーキスタンドからケーキ一切れを鷲掴みにし、そのまま口にねじ込んだ。

 「汚いわね」

 「糖分はストレス緩和に善的な効果を及ぼすんだよ」

 反射的に応える。エリザベートの非難の視線に納得すると、「まぁなんでもいんですけどぅ、どうでもいいことなので」と口にした。

 「じゃあどうでもよくない話」

 「どうぞ」

 素早いエリザベートの発言に、リツカも同じような姑息さで受けた。二人とも、思惑は同じだった。リツカは自覚的に、そして恐らくエリザベートは無自覚に。

 「ここからアナタを逃がす方法よ」

 「あぁそれ」リツカはのほほん、とマカロンに手を伸ばす。「宝具のブッパはなし。それがあなたの考え」

 エリザベートは一瞬目を丸くしてから、気味悪そうに「そうね」と応じた。

 「別に不思議なことじゃないでしょ」はむはむ、と菓子を咀嚼する。「一番手っ取り早い方法が火力のごり押しでしょ? それが選択肢にあるなら最初からやってる。同じ理由であのドアからの脱走もなし。つまるところ、イレギュラーな手段での脱出は不可能、ってことなのかなぁなんて」

 得心したように、エリザベートは頷いた。その頷きが正解で、「そりゃそうだよね」とリツカは背もたれに身を預けた。

 「そうね。アナタのいう通り、力技での脱出は不可能、無理よ」

 妙に力強く、エリザベートは断言する。リツカはふんふん、と軽く頷くばかりだった。

 「で、案はないと」リツカは、なんとなく壁の方を見やっていた。「まぁどう見ても考える力はなさそうだもんね」

 「アナタ、失礼よ」

 憮然とした表情のエリザベート。腕組みして、ふん、と鼻を鳴らしながらむすっと顔を顰める様は、どう見ても知悉に長けるようには見えない。

 「そういうアナタはどうなのかしら。アナタだって何も策なんてないんでしょ?」

 憮然とした顔のまま、エリザベートは蛇の舌のような視線をリツカに這わせた。

 「ないです」

 あっけらかん、とリツカは応えた。

 「ほらやっぱり!」

 「ないけど、でも考えはある。要するに、最終的な結論は、ここが固有結界に似たものだって言うならその核を壊せば全て解決する、ってことでしょう」

 そんなに、難しい話ではない。

 何かしらの魔術的作用を解除するには、その術者を始末すればいい。それだけの端的な事実を、より大きな規模の出来事に敷衍しただけの話だ。

 驚いたようなエリザベートの表情は、果たしてそんな簡単な事実に思い至らなかっただけの痴呆性なのか。それとも別な理由なのかはリツカには与り知らぬことだが、別に踏み込もうとは思わなかった。

 つまるところその事実──この宝具を展開しているという、マリー・アントワネットを殺せば全ては完了する。これは、そういう話なのだ。

 「要するに、マリー・アントワネットを始末すること。その目的に至るための手順を思考する。そういう理解で思考したほうがいいんじゃないかな」

 「結局、話の大筋は変わらないんじゃないの」幾分か、エリザベートは気分を害した様子だった。というよりも、なんだか、蒼褪めている。「だって結局ここを出る、ってことになることは変らないでしょ?」

 「概ねはそうだけど。まぁ、取り得る手段が色々になるってこと」

 言いながら、リツカはのそのそと立ち上がった。大儀そうな仕草は、人によっては驕慢傲慢の表れのように見えたかもしれないし、あるいは深い森や険峻な山に座す聖者のようにも見えたかもしれない。とまれ、リツカはのっそりと、部屋の隅へと向かう。

 似付かわしさなど最初から求めていない、時代錯誤の産物。その名も冷蔵庫である。現代の工業製品が、この古式ゆかしい一室にあるというのはなんとも珍妙極まりないが、リツカはさして気にするでも無く、ごく自然にドアをあける。1ドア式のこじんまりとした冷蔵庫である。マホガニーをイメージしたらしい色調のドアは、むしろ安っぽくて、かえって浮いている。そんな冷蔵庫なので、当然腹の中に蓄えているのも俗物きわまりないものだ。

 エナドリ。しかも3本。増えてる! と子供のようにはしゃぎながら2本取り出すと、まず1つプルタブを開けた。

 「一気に2本も飲むわけ?」

 「飲まない?」

 顰める表情も一転、虚を突かれたように目を丸くしてから、エリザベートは再び顔を顰めた。口にこそ出さないが、顔色にはありありと拒絶の色が浮かんでいる。悲し気に眉を潜めたリツカは、されど別に冷蔵庫には戻さなかった。やっぱ飲むんじゃない、と内心で思いながらも、エリザベートは黙秘することにした。

 「そんなことより」実はそっちの言葉の方がリツカを傷つけることに、エリザベートは無自覚だった。「はやく次の手段を考えなきゃ」

 勇み足そのままのように立ち上がるエリザベート。椅子に腰かけたリツカは、そのまま押し黙るエリザベートの顔をぼんやりと見上げていた。

 要するに、エリザベートには何か具体的な案があるわけではなかったのだ。むむむ、とリツカの視線を受け止めるエリザベートは、次第にいたたまれないように口角をわなわなさせ、顔を真っ赤にし出した。

 「まぁその程度よね。所詮は猿真似しているだけの駄竜では」

 ぴしゃり、と鋭い声が耳朶を衝いた。

 背中から肩を叩く、黄金色の凛とした声。おや、とリツカが丐眄すれば、例の彼女があきれ顔で蔑視をなげつけられていた。

 リン、だ。どことなく宗教的な印象を受ける赤いプルオーバーに黒いロングのプリーツスカート、というなんともギラギラした色彩の女性。真紅の稲妻のような佇まいは、なんとなく、君臨する、という言葉が似あう。

 「げぇ」

 「関羽じゃないわ。美髪なのは認めますけど」

 さらりとミディアムボブの髪を手すきして見せる。当然無風の室内にも関わらず、艶のある髪はふわりと踊るようだった。ニーハイソックスに2つ結びにしている……いわゆるツーサイドアップのせいで幼く見えるが、大人の成熟こそが彼女の本質である、という印象だ。

 「あなたは所詮、自分の快楽にしか興味がない非道徳的な化け物。かの王妃のように万人に共感を寄せるなんて真似事、できるわけないでしょうに」

 鮮やかな切れ味の批評だった。言われたエリザベートは顔を紫色にしていきり立っている様子だが、何も言えずにただただリンを睨むことしかできていない。そして当然、リンにはエリザベートの視線など意に介する様子も無い。ただ、玩具を見下す軽妙な侮蔑だけが揺蕩っているかのような視線で、エリザベートの怒気に応えていた。

 「そして、あなたも。ねぇ、凡人さん」

 にこり、と笑みを向けるリン。感情豊かなエリザベートに対して、リツカの表情は全く以て散文的だった。愚にも付かない、かといって無表情でもない晦渋なかんばせ。無限に底なしの、池沼を思わせる顔色だった。

 舌触りの良い言葉で言えばつかみどころの無い表情に、されどリンはさして気にするでも無く隣の椅子に腰を下ろした。

 奇妙な滞留。情緒的というにはあまりに散文的で散文的というにはあまりに情緒的な間延びした行き交いは、実際のところ一瞬のことだった。

 「まぁそうですかね」つかみどころの無い表情のまま、リツカはぼそりと零した。「これ飲みます?」

 「あら、何かしら。未来の飲み物?」

 「リポDの最強進化系みたいな奴ですかね」

 「リ……?」

 不思議そうな顔で黒いアルミの缶を手に取るリン。小首を傾げて見回してはリツカの持つ缶と見比べて、ようやくリンはプルタブを開けた。

 ぺきゅ、という小気味の善い甲高い音に顔を綻ばせて、リンは勢いごきゅりと薄い黄金色の液体を飲み込んだ。

 「まぁ」

 「お口に合いませんかね」

 「ちょっと刺激的ね」目を白黒させたものの、こくこく頷く姿からは拒否的な感は受けない。むしろ好意的という印象だ。「酷く甘いし」

 「でも良いわ、こういうものもたまに飲むのは身体に良さそう。毎日飲んだら飽きそうだけど」

 「ソウデスネ」

 とても毎日複数飲んでる、とは言えないリツカである。マシーンのような無表情でただ応えるしかなかった。

 「それで、どうするおつもり? あなたは」

 ちびりちびりとエナドリを口にしながら、リンが言う。覗き込むような伺う視線は、純粋な興味のような志向性を感じさせる。そうですね、と応えたリツカはその探るような視線を自覚しながら、わざとらしく背もたれに仰け反った。オーディエンスの期待通りに思考している仕草をしているのか、それとも本心から思考を開始しはじめたか、外見からは判別できない。

 「試したいことが一つ」

 「あら」

 声を上げたのはリンだ。意外そうに眼を見開きながらも、実際のところ何を考えて居るのかリツカには察しがたい。

 が、何よりアクションを起こしたのはエリザベートだ。がたがたと椅子を倒しながら立ち上がったエリザベートは、食い入るようにリツカを注視した。

 穴が開くほどの視線にまごまごしながら、リツカは「まぁあまり意味がないかもなんだけど」と一拍置いて、

 「エリちゃんに宝具ぶっ放してもらおうかと思って」

 一瞬の沈黙。期待が失望に転換していく寒々とした感触だった。困ったように髪の一房をかき回したリツカは、なんとなく気回り悪く「解決策じゃないから」とぼやいた。

 「あのねぇアンタ。というかエリちゃんて」

 「いやだって、エリちゃん」さらりとエリザベートの非難を受け流すリツカ。「エリちゃん、宝具で強行突破とかそもそも試してないでしょ。もっと言うと、そもそも出ようとも思ってなかったでしょ」

 一転、エリザベートは目を丸くした。それは、と顔を顰めたのは、非難と言えば非難だが八つ当たりに近かった。

 つまるところ、エリザベートはこの監獄からの一番簡潔に思われる手段──破壊系宝具による強行突破、という手段を試みてすらいない。さらに言えば、彼女自身はこの監獄からの脱出を考えてすらいないのだ。

 「まぁ別に理由とかはどうでもいいけど」

 特に興味もなさそうに言いながら、リツカは堂々とリンを一瞥する。反応の一挙胴を根こそぎにするような、平凡に見えて抉る視線だ。それを理解しながら、リンのとった仕草は特になんでもなかった。直接缶に口を衝けて飲むのが不衛生と思ったか、いづこから取り出したティーカップに注いだエナドリを結構旨そうに飲むばかりだ。

 つまるところ、看守を名乗るこの女性は、宝具による強行突破を敢えて止める気はないらしい。それだけで諸々結果はわかるというものだが、ともかく、リンの承認は得られたというわけだ。

 「第一、宝具の魔力なんてどうするのよ。言っておくけど無駄撃ちなんてしたくないわよ」

 怒りっぽい口調で、エリザベートは口にした。怒気は、けれど対象が不鮮明で、実際のところは気負いのようなものを悟られまいとする虚勢のようなものであった。

 「それは別に。ほら、もう契約してるじゃん」

 ほらほら、と右腕を翳すリツカ。掲げた手の甲には、爛々と煌めく赫い痣が浮かんでいた。

 言うまでもない。サーヴァントとマスターの結びつきの証。信頼か、あるいは隷属か。それともどちらもか。毒々しく赤い燐光を漏らす痣は、むしろ後者を想起させた。

 「!?!?!?!?」

 「まぁ理由はしらんけど」リツカ自身も、不思議そうに痣を眺めている。歪な角を重ね合わせたような痣は、エリザベートとの契約の証に相応しいように見える。「宝具1発分の魔力はこれで補うから」

 エリザベートは難しい顔をした。顰めるような、気まずいような。覚束無い様子で彷徨わせた視線の先は、静かに鎮座するリンを掠めた。

 しずしずとティーカップからエナドリを摂取するリン。伏し目がちなまま、品よく金色の液体を味わう彼女は、余計な身動ぎをするつもりがないように見える。

 看守は、リツカの凶行を敢えて止まるつもりはないらしい―――その静観こそ応えのようにも見えたが、ともかく、リツカは自らの判断を実行に移すことにした。

 左手を持ち上げる。掲げる左の手の甲。淡く光芒を放ち始める痣に、エリザベートはしぶしぶといったように立ち上がった。

 「じゃあ、お願い」

 リツカの“勅命”は、あまりに味気なかった。エリザベートは拍子抜けした呆れを覚えながらも、自らの翼を広げた。

 蝙蝠の翼。あるいは、悪魔のそれ。夢幻のように展開した黒翼は、艶やかさと冷たさと感

 じさせる。エリザベートの背から生えた竜の翼は、力強く翼膜を押し広げた。

 伝承──というより史実的事実として、バートリィ・エルジェーベトはあくまで一般人でしかない。生理学的アプリオリな疾患──当時の貴族観に基づいた()()()()()()()()()──があったとは言え, 生物学的に人間であったことは間違いない。まして、こんな竜の血を色濃く引き継ぐ人間が16世紀に存在していた、とは考えにくい。

 いわく、英霊の座が実在性より語りによる伝承を重視し、再現するが故の転倒的な事象。史実的にどうであったか、よりも語れた逸話や神秘性を再現し力とする英霊の座に召し上げられるということは、そうした語りを再現し得る個体として登録されるということだろう。特に神秘の減退した近現代の英霊たちが、古代の英霊たちに比肩する力を持ちうる理由だろう。

特に、『無辜の怪物』はそうした英霊の座の特性が極端に顕在化したスキルと言えよう。称揚か、あるいは憎悪か畏れか。無辜の民衆が抱いた心情によって形を歪められることで逸話を再現するスキルが発現している。であれば、この羽根は竜というよりは蝙蝠のそれだろか。いや、もっと古い原初的悪性の発露か、古来竜は悪魔とされ、そして悪魔の羽根は蝙蝠の羽根であるというならば、そこにはカテゴリアの根底にある悪性が潜んでいる、というべきだろう。

 「言っておくけど、どうなっても知らないから」

 禍つ翼を広げ、エリザベートは睨むようにリツカを一瞥した。どこ吹く風というようにすんと済ましたリツカは、どうぞどうぞ、と手でジェスチャーを返した。

 ピン、と張った羽根が痙攣する。黒々と艶光りした翼膜の震えが伝わり、吸い込んだ呼気が胸郭を膨らませた。痩せぎすの身体が盤踞と屹立する様は、どうしようもなく宝具というものの凄味を感じさせずにはいられない。

 古き神秘の発現。英霊の座を介して顕現する英霊の本質。高貴なる幻想が、今まさに目の前で啓こうとしていた。

「『竜鳴雷声(キレンツ・サカーニィ)』!」

 小規模とは言え竜の心臓から精製されるオドをリソースに、肺に超高圧縮された空気が放出する。

 本来は精神異常を主とする攻撃宝具だが、副次的に発生する物理的破壊力も相応に高い。古きハンガリーの竜種が操るとされた暴風雨の再現でもあるという息吹が炸裂した瞬間、まず視界が砕けた。続けて生じた振動は、ただ音が魔力だけで増幅したまさしく爆音だ。三半規管が混濁するほどの激震を撒き散らしながら押し広がった烈風に、リツカは軽々と玩具みたいに吹き飛ばされていった。

 ごろんごろんと転げまわったリツカの視界は、瞬く間に黒く淀んでいった。三半規管がかき乱されると同時に、テーブルの角に後頭部をぶつけるという間抜けを曝したリツカは、思いのほかあっさりと意識を刈り取られた。

 何故か──いや、むしろ予感の通りに、その時思った。

 なんだか、酷く不気味(Um-heimlich)だな、と思った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Taijival……2

 立華藤丸がこの世界にやってきてから、実に5度、月を跨いだ。

 現在、12月半ば。こんな出来事がなければ、人生初めての高校生活の期末テストに戦々恐々としながら、そろそろ近づくクリスマスの気配にそわそわし、浮ついた乖離に身を委ねる日々を迎えていたはずである。そんな当たり前の日々があり得たのかな、と思うと、なんとも不思議な気持ちになるトウマであった。

 ネガティブと言えばネガティブな心情ではある。いわゆる望郷、という情動であろう。身一つで異世界などに飛ばされた挙句、生きるか死ぬか──しかも個人の生死を超えて、地球そのものの存亡をかけた闘いに身を投じるなどと言う事態は、どう考えても高校一年生の男の子には荷が勝ちすぎている。狂乱してもおかしくない重圧の中で感じる望郷の念は、やはり拭い難い。友人はどうしているか、親はどんな風に過ごしているのか。兄弟も姉妹もいない一人っ子なだけに、身の回りの人たちへの影響を考えると陰鬱な気持ちにもなるというものだ。

 ──とは言え。この生活にも慣れていないわけでもないのが、正直なところでもあった。既に5か月、4つの特異点を踏破してきた。幾ばくかの驕りではあるけれど、その実績は少なからずの自信でもある。このままなんとか頑張れば、なんとかなる。そんな淡い期待が、ないでもない。

それに、何せこの世界はTYPE-MOONの世界そのものなのだ。友人と異なり、そんなに凝り性ではなかったけれど、それでも現代を舞台にした剣と魔法の世界に子供らしい憧憬を抱いていたのも事実だ。そんな世界に居て、しかも自分のサーヴァントはいわゆる“原作キャラ”で、しかも汎用性の高い戦闘技能を持つクロ。重責はあるとしても、それはそれとして……現状に楽しさを感じはじめているのも、事実だった。その余裕は周囲の人々の影日向の尽力のお陰でもたらされているものだ、ということにまではまだはっきりとは思い至らねど、そこまで16歳の高校生に求めるというのも酷な話であろう……。

 畢竟、立華藤丸の精神状態は、良好な環境と、また生来の能天気さのお陰で安定傾向であった。元の生活に全く不満は無かった―――特筆すべきものはない平々凡々な人間として、かなり良質な生活は送れていたが、こちらの生活もそう悪いものではない、と捉え始めていた。

 ……まぁ。

 「うーん、トウマくんは数学とか苦手?」

 こうして、勉強だけ続いているのが、やや理不尽だな、と思うのだが。

 人理保障機関フィニス・カルデアの施設の一室。“図書室”の一画で、ロマニに魔術の指南を受けていた。かれこれ2時間。控えめに言って出来の善くないトウマに対して、ロマニ・アーキマンは朗らかな様子をほとんど崩さぬままに根気強い授業を行っている。

 「やっぱりさ、ルーンて便利だと思うんだよね。ボクは北欧の魔術系統は無知だから詳しくはわからないけど、シングルアクション以下の動作で起動する魔術の利便性って評価してもしきれないっていうかさ」

 ひょい、とロマニが手を挙げる。それを合図に、どこからともなく本が飛来すると、ふぁさりと風のように軽くページが開いた。

 なんとも幻想的で、如何にも“魔法”のような景色だ。真剣に頁をめくる仕草は、普段ののほほんとした佇まいとは違った人間味がある。たかだか4~5か月の付き合いで人間が見えてくるなんて道理はないけれど、この人は良い人なんだろうな、と素直に了解していた。

最も、実はいまの手品じみた“魔法”、もとい魔術も、実際はダ・ヴィンチちゃんの仕掛けなのだとか。本来カルデアのライブラリは全て電子データで保管されており、紙媒体などという時代遅れなメディアは使用しない。

 という慣例──資料をわざわざ紙で印刷するのは資源的にも無駄が多いとの判断に理解を示しつつも、“本を手に取る”質感の善さを感じたいというダ・ヴィンチちゃんの要求によって成立した、妙に近未来的なライブラリルームがここだ。いわく、天才が心血を注いで構築した複雑怪奇な魔術式によって運営されているという。素人に毛が生えた程度のトウマには、当然理解の外にある技術の粋というわけだ。無駄な努力、と思わないでもなかったが。

 「凄いよね。大神のルーンなんて、文字を起動キーにするだけでテンカウントを遥かに上回る神秘を再現できるわけだろう。まぁ魔術に単純な優劣はつけられないものだけど、戦闘に特化して考えるならこれほど優れた魔術系統はないんじゃあないかなぁ」

 ほら、と喜々とした様子で本のページを見せびらかすロマニ。魔術である程度汎用的な言語翻訳を行っているのだが、とりあえず書かれたページはミミズが日向ぼっこでもしているかのような文字がびしりと 埋まっていただけだった。

 「それにしても」読めないことをなんとなく言い出しにくく、トウマはごく自然に話題を変えることにした。「先生は、魔術とかやっぱり好きなんですね」

 「え、なんで?」

 幾ばくか照れたようにはにかみながら、ロマニは首を傾げた。多分、先生なんて呼ばれかたに慣れていないんだろう。

 「いや、なんかすごく楽しそうだから」

 ぽかん、と目を丸くしながらロマニは食い入るようにトウマを見返した。意外なことを言われた、とでもいうように自分の表情に手を当てて確かめると「そうかぁ」とロマニは天井を仰いだ。

 釣られて、トウマもロマニの視線の先を一瞥する。清潔感のある、白い無地の天井。当然、ロマニが見ているのはその物理的な風景ではなく、その先―――あるいは繰り延べた過去、だろうか。虚空の先に浮かぶ幻想を懐かしむような、そんな様子だ。

 放っておいたら、そのまま幻視する先に吸い込まれてしまいそうなほどの滞留。夢幻に続くかと思われたその望郷を破ったのは、妙に寝ぼけた声だった。

 ウゥン、と地鳴りのような呻き声。聞きなれた声色に、思わずロマニとトウマは顔を見合わせた。

 見合わせてから、入り口へと向く2人の視線。トウマは振り返りながら、ロマニは身体を横にして流し見た先には、案の定見知った顔があった。

 ゾンビだな、と思ったのはおそらく2人同時だった。顔色は別に悪くないが、表情は至って険しい。眉間に刻まれた皺の深さは、何事か懊悩を示している―――ならいいんだけれど。

 「また寝不足かい」

 だいたい呆れでちょっとだけの同情を含んだロマニの声に、件の人物──リツカは、不満そうに首を傾げた。

 「寝不足ではないです、8時間の睡眠を摂りました」

 「フーン」さして本気に受け取っていない様子のロマニ。「まぁそういうこともあるさ」

 穏やかだがにべもない物言いに、リツカはなおのこと不満そうに眉間に皺を寄せた。何か思慮深い様子に、一つ結びにした髪をかき回す様はなんとなく不真面目な秀才の知性を感じさせる。

 「実際何も考えてないと思うけどね」

 と辛辣に批評したのはクロだけれども、果たして真に受けていいのかどうかはわからない。とりあえず明らかなことは、面前で不機嫌面を野晒しにしているリツカは、あまり嬉しくない寝起きを経験しているらしかった。

 「夢」

 ぼそ、と嘔吐でもするように一単語を舌先に滑らせる。トウマの隣のソファに腰を下ろすと、難しい顔をしながら天井を仰いだ。

 「夢見が悪かったと」

 「悪いわけじゃあないんだけど」

 難しい顔に、一瞬だけ別な感情が過る。それが何なのか、トウマにはよくわからなかった。ロマニはなんとなく察したのか、数秒ほどの逡巡を経た後、「夢と言えば」となんでもないことのように続けた。

 「なんだっけ、あの。フッサール?」

 「現象学と夢は関係ないと思うんですけど」小首を傾げるリツカ。「ないこともないかもしれませんけど」

 「いや顔似てない? なんだっけ」

 「フロイト?」

 「えーと、何のお話を?」

 「精神分析の話だよ。『夢判断』とか知らない?」

 精神分析、という言葉はなんとなく聞いたことがある話だった。TRPGの技能にあっただろうか。正直なところ心理学とどう違うかよくわからないが、つまり、フロイト、なる人物が精神分析の専門家とか、そんなことなのだろうか。なるほど、と得心して、トウマはとりあえず頷くことにした。後で調べてみよう、という頷きも含めて。

 「物凄くざっくり言うと、人間の精神活動には『自我』と『超自我』と『自我』があって、理性なりなんなりを司っている『自我』は所詮『超自我』と『無意識』が折り合いをつけるために後付けで作られた出先機関に過ぎない、みたいな話なんだよ」

 そんなロマニの端折った説明も、トウマの後学を後押しするためのものだ。当然というかリツカはそんなことは理解しているのか、特になんらかのアクションも取らなかった。

 「リツカちゃんはアドルノが好きなんだっけ」

 「まぁ」一転、リツカは気恥ずかしそうに身を縮めた。「好きと言うほどのものではないんですけども」

 「えーと、そのアーノルド? と言う人は」

 「ターミネーターじゃないよ。ちなみに僕は1が好き」ちょっとばかりおどけるロマニ。「テオドール・アドルノ。フランクフルト学派を代表する……なんだろう、哲学者? 思想家? 音楽家? かな」

 「音楽家?」

 「そうだよ。アリストテレスの『詩学』とか知ってるとまあまあって感じだろうけど、最近の人には結びつかないよね」

 ロマニは僅か、懐かしむような顔をした。その意味に触れるように探る前に、ロマニはさっと表情を仕舞うと、「一般に、社会学とか社会心理学にも深くかかわっててね」と続けた。

 「いわゆる、マルクス主義とさっき言ったフロイトの理論の両立を図ろうとしていた、って感じの人なのかなぁ。まぁ他にも色々なんだろうけど」

 マルクス、とかいう名前は聞いたことがある気がした。世界史の教科書に載っていた気がする。物凄い髭もじゃの、胡散臭そうな顔をした爺さんだった、ような気がする。

 何か、漠然とした連関のようなものは感じる。トウマには知り得ない底で、ロマニ・アーキマンとリツカは互いに何かを探り合いながら諦観と交感による非対称なコンクリフトを軋ませている──そんなイメージは不意に沸き上がり、トウマは困惑した。そのイメージに感じたものは、なんだっただろう。反感か、それとも胡乱さか。どれでもあってどれでもないような曖昧な感情の手前の情動は、ただただ脱臼したように時宜をずれていた。

 「何してたのん」

 それで、薄く見える哲学談義は終わったのだろう。まだ眠そうな、淀むようなリツカの視線がするりとトウマを撫でた。

 「あーいや」ちょっと気恥ずかしく、トウマは頬をかいた。「先生に、魔術を教えてもらってて」

 「ロマンに?」

 「ダ・ヴィンチちゃんに聞いたら、先生が一番良いって」

 「いやーそんなことはないんだけどねぇ」

 照れるようにはにかんで、ロマニはふらふらと身体を揺らした。やはり思うけれど、ロマニ・アーキマンはとても素直に情緒を表す人だ。人間的な温かさ、というのだろうか。ダ・ヴィンチちゃん曰くチキンで悲観的で実際は厭世的らしいけれど、やっぱりそれ含めても人間味がある、と思う。

 なるほどぉ、と特に興味もなさげに言って、リツカはソファの背もたれに身体を預けた。何か思案するように虚空を眺めてから、リツカは「ふわぁ」と間の抜けたあくびを、敢えて漏らしたように見えた。

 大口を開けて目を涙で濡らして、ばんざーいとでも言うように両手を挙げる動作。その動作が、妙に機械的に見えたのは何故なのだろう。機織り機ががたんごとん、と軋むかのような、ぎこちない、動作性だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 「そうねえ、お花なんてどう? 活け花、っていうのんだけど」

 「華道、でしたか?」

 真剣に頷く、シルバーグレイの髪の女性。そんな堅苦しいものじゃないわ、と柔和な表情とともに肩を竦める人物は──男女、という区別を気軽に越境しているらしい人物だった。

オフェリア・ファムルソローネと、スカンジナビア・ペペロンチーノ。カルデアのメイン・ライブラリルームのテーブルを挟んで、片や難し気な顔をして、片や大人の余裕を感じさせる楽し気な顔をしていた。

 「どっちかというとフラワーデザインって感じ。華道、ってなると流派とかあるし、」

 こくん、とテーブルの上のグラスを傾ける。ライブラリルームとは言え、ここに物理的形のある蔵書はない。飲食そのものは特段禁止されていなかったが、元来無頼のペペロンチーノはともあれ、古式ゆかしい佇まいのオフェリアは率先して飲料水を摂取しようとはしていないらしい。

 「オフェリアは似合いそうだけど、和服とか」

 そう、口にしたのは“私”だった。無頼──といよりは無法者といった在り方をする“私”も、ペペロンチーノと同じようにあの黒い缶を呷っている。何が旨いんだかよくわからない。

 「そうねぇ。少なくとも、アナタよりは断然似合いそう」

 長い前髪を指先で弄びながら、ペペロンチーノはお道化るように肩を竦めた。む、と口を結んだ“私”は、「そういうペペさんは」と言葉を滑らせた。

 あら、と姿勢よく“私”の発話を待つ彼女───彼女?

 口をぱくぱくさせてから、“私”はむぅ、と肩を落とした。

 「どっちも似合いそう」

 「そう? お世辞だとしても嬉しいわ」

 にこり、と浮かんだペペロンチーノの笑みは快活そのものだ。毒気もない素振りは、彼女? の在り方を感じさせるものだ。

──温暖な排他性。それが、スカンジナビア・ペペロンチーノという人物の在り方だろう。“私”はほとんど誰にも親近感を覚えたことはないのだけれど、この人物だけはそれとなく近しいものを感じないことはなかった。とは言え、その近さは無限の隔たりの中にあるのだが。でも親近感というのは、そもそも絶対に分かり合えないという地点からしか生まれないのだ。

 「買った方がいいでしょうか、その。和装?」

 「型から入るのも大事だとは思う」

 「でもアナタならそのままでも似合うんじゃあないかしら。興味が湧いたら手を出してみても良いと思うわ」

 こくこく、と頷く亜麻色の髪の少女。ふさふさ、と揺れる艶のいい髪は、少しだけ羨ましいなと思う。“私”はそんなに綺麗な髪をしていない。

 まぁ、そもそも手入れなどしていないのだから当然なのだが。天然の美質とは、こと人間にとっては称賛に価するものではない。手入れの行き届いた美質こそが、価値を持つのだから。“私”は、マルクス的な唯物論者なのだ。

 「人生を卓越させることは重要よ。どのように卓越させるかは別だけど。ギリシャ哲学における倫理観は現代で見直されるべきだと思うわ」

 「だそうですよ、[”私”の名前]?」

 「私は卓越させてるし……堕落という卓越を追い求めているだけだし……」

 「オフェリアの方がずっと尊敬できるわね?」

 「否定できない」

 品よく笑うオフェリアに、快活そのものといっていい表情のペペロンチーノ。むう、と口を閉じる表情は至って不満そうだけれど。

 実際のところ、“私”はそんなに不満を感じていない。いや、確かに感じていないわけではないのだけれど、その不満はあくまで生そのものの営為を満たしてくれる類のものだ。生そのものを蝕む 

 不満──例えば文化的な最低限度の生活を脅かすものであるか、それとも卓越した生の構築を崩すものであるか、どちらか──ではない。

不安の無い生が善き生である、と定義づけたのは誰だっただろう。そう、確か、その名前は───。

 

 ※

 

 流石に3回目ともなると、リツカは慣れたものだった。

 目を覚ませば、もう見慣れた景色がそこにはある。古風なゲストルームの体裁をとる監獄。部屋の四隅に陰鬱な影が淀み、華美な部屋を蝕むように佇んでいる。そして古式ゆかしい調度品の中に混じって、当然のように鎮座する冷蔵庫。

 頭をかきかき。むう、と起きると、以前と変わらずに屹立する家具やら何やらを眺めまわす。変わりないな、と認識してから、リツカは改めて、代り映えのないはずの景色にぽっかりと開いたものへと目を向けた。

 昨日──昨日? まではごく自然に壁があったはずの空間が、抉れるように消えていた。もちろん、何故そんなものができているのか、リツカは自覚がある。彼女自身の意思で。一時的にサーヴァントとなったエリザベートに破壊の号令を下したからだ。

 相変わらず小綺麗なベッドから抜け出すと、リツカは妙な躊躇いを感じながら──そう、確かに躊躇っていた、だが彼女の自由意志とは別なところで──、リツカは孔の淵に辿り着いた。

 黒、暗黒、暗闇。そんな言葉がふわふわと脳裏を掠めるその景色は、実際、そうとしか言いようがなかった。

 子どもらしく言えば真っ黒。気取った物言いをするならば漆黒が、ただただ無限のように視界の先へと延長している。

 光が届いていないのだろうか。そろそろり、と身を乗り出してみるが、景色に代わりはない。左右上下、どこを向いても黒い。黒黒。試しに手を伸ばしてみたが、全て手先から逃れ去っていくかのような感触だ。虚無虚空なのではない。何かは触れる。己の手からの逃亡という動名詞がするすると指先を忌避していくかのようだ。

 リツカは、小さく唸った。その黒い空間───果たしてそれは空間と呼ぶべきものなのだろうか、時空的なものなのか?──を眺めていると、正直に言って気分があまりよくなかった。ぞろぞろと蠢いている何か、遠い宙の淵源に撓む名状しがたい神涜的な沸騰の背後の鋭角がのそりと自分の裡に差し込んでくるかのようで──。

 …。

 ……。

 …………?

 「ちょっとアナタ」

 ぴしゃり、と鞭うつような声が耳朶を衝いた。

 背後を振り返るまでもない。既に聞き馴染みになった声は、間違いなくエリザベート・バートリィのものだ。とは言え、リツカは2010年代後半日本の一般的倫理観と常識はそれなりに身に着けているので、振り返ることとした。

 室内中央のテーブル、その周囲に配置された椅子に、彼女はなんだか居心地悪そうに座っている。じろじろ、と探るような視線は、嗜めるというよりは何かを躊躇しているかのように見えた。

 「あまり見ない方が良いわよ」テーブルに肩肘をつき、指先に顎を乗せるような仕草のエリザベートは、妙に素っ気ないように言う。「あまり気分のいいものじゃないでしょ?」

 確かに、とリツカは頷いた。もう一度だけ黒い世界に一瞥を投げてから、リツカは何か後ろ髪を引かれるような気分になりながら戻ってきた。

 途中、例の冷蔵庫からエナジードリンクの黒い缶を取り出すと、特に何もなかったようにリツカは椅子に腰を下ろした。ぺきゅ、と小気味良い音とともにプルタブを押し込み口を開けると、ひやりと冷たいアルミニウムの感触に口唇を委ねた。

 ごくんごくん、と飲みながら、リツカはちょっと困ったようにエリザベートを見やった。といり、見返した。そう、何が困ると言えば、さっきからずっとエリザベートがじろじろとこちらを眺めてくることだ。しかも、別に取り繕うともせずに。

 「何かな」リツカは飲み干す勢いだったのをやめ、缶をテーブルの上に置いた。「あまり見たところで善い効能があるとも思えないけども」

 「それはそうね。どこにでもいる凡夫そのものみたいな見た目だもの」

 すげない物言いである。やはり女性というジェンダーをそれなりに受容しているリツカにとって、なんとなく、外見の不備に対する指摘は心に来るものはあった。ソッスカ、と悲し気な苦笑いを浮かべながら、リツカはちびちびとエナドリを飲むこととした。

 「ただ、よく見てられたなと思って」

 「そう?」

 「アナタ、4時間も眺めてたわよ」

 一瞬、リツカはエリザベートの言わんとしていることが上手く理解できなかった。

 4時間。そんなに眺めていたのか? そんなに経っていたとは思えないのだが。とは言え、エリザベートが嘘を言っているようには見えない。というより、嘘を言う理由がない。

 一つ結びにした髪をかき回す。思案気に視線を彷徨わせてから、リツカは、なるほど、と頷いた。

 「アタシ、10分だって見てらんなかったもの」

 「確かに空間失調(バーディゴ)にでもなりそうだ」

 エリザベートは、じろりとリツカを睨んだ。そういうことじゃない、と言いたげな視線だ。確かに時宜を弁えていないというか、ズレたコメントだったな、と思った。

 「それで」何か別なことを言いかけたらしいエリザベートは、一瞬だけ迷ってから別なことを言い出したようだった。「アナタのご所望通りに風穴開けました。これで満足?」

 今一度、リツカは淵源を眺めた。

 黒い、黒。不気味な黒い廃棄孔。視線は張り付けたまま、リツカは曖昧に頷くだか肩を竦めるだか判然としない仕草を返した。「一応、満足」

 「そう、意外。まさかあそこから外に出よう、とか言い出さないでしょうね」

 「出たいの?」

 「厭よ、趣味が悪そうじゃない。あんな真っ暗」

 黄金色のエナドリを飲み終えると、リツカは器用にロングのアルミ缶を潰していく。側面に3か所、斜めに軽くへこみを入れたら、あとは地面において踏みつぶす。カラン、と軽い金属音とともに、アルミ缶は元の大きさからは想像もできないほどの扁平に潰れた。

 そいつを床から拾い上げて、リツカは孔の中に投擲した。放物線を描いた金属の塊は孔の中に飛び込むなり、すい、と飲まれていった。

 自由落下したのか、それとも上にでも飛ばされていったのか。そんな知覚すら追いつかぬ間に、いつの間にかアルミ缶は存在を消していた。

 とても中に飛び込んで安全だとは思えない。いったんエリザベートと視線を合わせてから、リツカは肩を竦めた。

 「座して待つしかないってことかなぁこれ」

 ぽつり、とリツカは独り言のように漏らした。というより、実際それは独り言だっただろう。特にエリザベートのリアクションを期待するものでは更々なく、別に思考を取りまとめるためのものではない……質朴な、独語であった。だから、だろう。そうね、とやはり独語のように返したエリザベートの声に、リツカは吸い寄せられるように目を向けた。

微かに、俯くようなエリザベート。病的な白い肌は、オルレアンの時から同じだろうか。禍々しい捻じれた角に、豪奢ではあるが気品はあまりないパンク風ないで立ちは、あの頃から変わらない。いや、その変わらなさは、単に同じ形をしているという以上の印象を覚えさせる。

 「厭なの?」

 「何がよ」

 じろりと動くエリザベートの目線とかち合う。だが、実際のところ、彼女の対決でもしようと言うような一瞥は、逃避以外の何物でもなかった。威嚇とでも言おうか、それとも虚勢とでも言おうか。どちらにせよ、リツカはミリほども動じなかった。

 「またマリアを殺すのが」

 リツカは、ぽやんとした目でエリザベートに応じた。声色も、在り方も、全て無感動にも似た温和さの色調を帯びていながらも、その言葉の鋭さは何よりエリザベート自身が善く知っていることだった。不機嫌そうに眉を顰めながら、エリザベートは「当たり前じゃない」と小さく応えることしかできなかった。

 「まぁそれはそうだ」リツカも、何の気なしに天井を仰いだ。「人殺しに厭さを感じるのは、普遍的理性に叶った考えだろうから」

 さらり、とリツカは言う。複雑な──それは怒気とも困惑とも、あるいは自己嫌悪にも似た激甚を抑えた複雑な──表情をしたエリザベートのことは、それとなく理解しながらも気にも留めていなかった。無論、リツカはある種の無知からの発言をしたわけではない。彼女は16世紀ハンガリーの「血の伯爵夫人」の史実を、愛すべきサーヴァントと最近知り合ったマスター仲間から又聞きながらも了解していた。

 ある種の、非難だったのかもしれない。殺人、という不正義──決して相対主義的言及で贖えない不正義を行った人物への、控えめながら仮借ない非難だったのかもしれない。藤丸立華という人物は、極めて平凡な感覚の持ち主だったのだから。

 だが、同時に、その言及はある種の憐憫であったのかもしれない。何故なら、彼女は他人という存在が基本的にどうでもよいものであると思っていたのだから。どうでもよいものが彼岸の先で悩み苦しんでいる時、人は同情と言う名の憐れ──近さを感じるものなのだから。

 「でも、やらなきゃあいけないからね。案外代わりは誰でもできるものなのかもしれないけど」

 どこか尻切れな言葉のまま、リツカは立ち上がった。表情はあまり変わらない。眉間に皺を寄せて一つ結びに束ねた髪をかき回すその表情は、先ほどの複雑怪奇な瞋恚を蟠らせたエリザベート以上に苛烈に見えた。

 「あら、どこに行くのかしら」

 しゃん、と声が鳴った。

 リツカはその声がやってくるのを、なんとなく確信していた。のそり、と緩慢な動作の大型爬虫類のように首を擡げると、あの凛とした表情の彼女が盤踞と佇立していた。

佇まい同様の名を名乗るリン、という彼女の目が、リツカの体表をなぞる。毛穴の隅々まで見透かすような目。鋭い、というよりは遠い目に、何故かロマニ・アーキマンの目が重なる。何故、という疑念に、しかしリツカはさしたる頓着もせずに深追いすることはやめた。

 状況を理解するならば、看守を名乗るリンが妨害をしに来たと鑑みるべきだろう。

 何の妨害か?

 それは自明だろう。即ち、この豪奢な見てくれをしている監獄からの脱走を、だ。

 しゃんしゃん、と音でもするかのようにリンは歩く。興味深げに品定めするように、彼女はあの穴の淵に立った。

 とは言え、中をのぞいたのは一瞬だった。すぐに丐眄して2人を流し見たリンの表情は、旨く推し量れない。ただ、廃棄孔を眺めるのと同じ品評の目でリツカを見つめた。

 「お出かけね」ふぁさり、とリンは後ろ髪をかきあげた。彼女の動作は、何故か須らく品性が宿っている。「それで、どちらに?」

 「すぐ戻ってくるつもりだけど、マリアに会いに」

 「そう」リンは、嘆息を吐いた。慨歎、だったが、それはリツカに向けられたものとはやや異なっていた気がした。「殊勝なことね」

 「別に、普通でしょ。私のせいなら、なおのこと」

 「早いわね」

 「さぁ」リツカは、一つ結びにした髪を掻きまわした。「どっちかと言うと遅いんじゃないですかね。エリちゃん、行くよ」

 ほら、とエリザベートの手を取るリツカ。引きずられるようにしながらも、エリザベートは1歩を踏み出してしまっていた。

 「待ちなさい」

 そういうリンの声色に、刺々しさはない。あの品評の目でリツカの目を覗き込むこと数舜。また、彼女は嘆息を吐いた。

 「お戻りはいつ?」

 「すぐ。別に、今すぐどうこうしようってわけじゃないから」

 「そ」

 素っ気ない一言は、多分同情だろう。恐らくリンとリツカは何か類似性のある人物なのだろうが、だからといって彼女たちは互いに共感しようとは毛ほども思っていないらしかった。

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 話が全然見えてこないわ」

 「だからマリア……マリー・アントワネットに会いに行くんだよ。じゃないと、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 廃棄孔の淵に、リツカは屹立した。握る手の冷たさは、エリザベートのものなのだろうか。それとも、己の手の冷たさなのだろうか。混交した身体感覚に、リツカは、煩わしさと疚しさが混濁した義務感を理解した。リツカは、手を、強く握った。

 「Schwarze Milch der Frühe wir trinken sie abends──er schenkt uns ein Grab in der Luft……」

 墜落した。宙の先へと、飛翔するように。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Taijival……3

 「先輩?」

 む、と彼女は声を漏らした。野犬が情動を凝らせる唸り声に似た寝ぼけ声のよう。微かに視線が集まるのを自覚したのか、彼女は微かに決まり悪そうに身動ぎした。

 戸惑うように視線を彷徨わせてから、リツカはマシュに眼差しを合わせた。気まずそうに肩を竦めながら、ちょろりと舌を出して見せる。寝てた、と口パクで伝えると、彼女はモニターへと視線を直した。

 人理保障機関フィニス・カルデア、シミュレートオペレーションルーム。筐体に入室、鎮静剤と薬物、VRを併せて仮想空間上での模擬戦闘を可能とする戦術演習システムの戦術モニターには、2人の人物が野を駆けている。

 マシュの他、カルデアの戦力として運用されるもう一人のサーヴァント、クロエ。そして同じく、“先輩”とは別のマスター、立華藤丸。高い丘の稜線、その遥か手前に陣取り弓を構えるクロエに対して、トウマは稜線の丁度際あたりで身を屈めている。

 かれこれ、体感にして5時間。2人は同じ体制のまま、微動だにせず、期を待っているようだ。

 マシュは、手元のタブレット端末のタッチスクリーンを指でなぞる。今回、2人の目標は丘の斜面に陣営を這っている魔獣の巣を撃破することだ。特に、作戦想定は魔獣種の中でもゲイザー───巨大な眼球が浮遊しているかのような、薄気味の悪い生物2匹の討伐が要点だ。

 ゲイザー種。魔術回路が張り巡らされた巨大な眼球を駆使し、主に魔力を熱に変換して眼差したものを焼尽させる。ある種、魔眼そのものが生命を得て動き回っているかのような太古の獣種だ。危険なのはその射程の長さで、多くのアーチャークラスのサーヴァントの有効射程距離を超えるレーザー照射は、ある意味でサーヴァント以上に脅威度が高い。さらに今回の作戦想定。別動隊のサーヴァント4騎が平野を進行する前に、障害となるゲイザー2体を撃破する。それが、2人の主目的。

 「あとは待つだけかぁ」

 リツカは眠たげに、大型モニターに表示された戦域マップを眺めている。気配感知能力の高いゲイザーからの被発見リスクの低下及び、魔眼の“視界に入らないと効果が発動できない”特性を逆手に取った稜線越しの曲射、というトウマの戦術判断は、恐らく正しい。あとはゲイザー2体がクロエの曲射砲撃の破壊想定範囲に集まるのを、待つだけだ。

 「結構肝が据わってきたよねぇ彼」

 管制コンソールの前に座るダ・ヴィンチは、楽し気にモニターを見上げている。趣味レーション内では状況開始から既に5時間。稜線から僅かに身を乗り出し、同じ姿勢のまま身動ぎすらせず数時間も待機する──技能の凄さとかそういうのではなく、ただひたすら精神的な強靭さを感じさせる出来事だ。外見はともかく、歴戦のサーヴァントであるクロエが矢を構えたまま数時間微動だにしないのは驚くに値しないけれども。

 「4つも特異点を踏破してるんだし。“実戦経験”は十分だよ」

 「あとは練度、ね」

 ダ・ヴィンチの流し見に、リツカは微笑とともに肩を竦めた。戦闘者の優劣を決めるのは、主にどれだけ反復訓練を繰り返したか、に依存する。天性の才能など、こと殺し合いにおいては下駄にはなれど上澄みにはなり得ない。夢の中ですら繰り返すほどの無限の反復でしか、人間と言う冗長なシステムを戦争機械には錬成し得ない。

 リツカ自身の言う通り、実戦経験という点において、トウマは十分に達していることは疑いない。冬木から始まり、オルレアン、セプテム。そしてあの神代の海を越えた実績は、否定しがたいだろう。時に悪竜と、時に魔性の名を冠する怪物と、時に神代ギリシャの英雄と相見えたことのある人間など、恐らくこの世のどこにも居はしまい。

 肝は据わっている。なら、後は戦うということそのものの経験値を文字通り積み重ねる他無い。

──それは多分、自分も同じだな、とマシュは思った。彼女も、トウマと同じように4度の特異点を超えている。実戦の経験、という点では申し分はない。そのように、客観的に理解している。

 なら、後は戦闘経験の反復だ。幸いというべきか、カルデアのシミュレーションシステムは極めて優秀で、且つクロエというもう1人もいる。強くなれる根拠は、十二分に存在する。

 そう。

 強く、ならなきゃいけない。あの日あの時。崩落する管制室の中で、一歩間違えれば轢死していた。リツカがいなければ、瓦礫に潰されて即死していた可能性だって、あったかもしれない。そんなあったかもしれない未来を跳ね退けて助けてくれたリツカのためにも、私は、立ち塞がる障害を倒すだけの強さを手に入れなきゃあいけない──。

 探るように、マシュは、隣に並ぶリツカを一瞥した。マシュより2cm小さい“先輩”は、眠そうな様子にしながら、何かを見ている。

施設で運営しているタブレット端末の画面だ。丁寧にナイトモードにセットされた暗い画面に、いつになく真剣に視線を注いでいる。

 ちょっと、意外。マシュはよくわかっているのだが、リツカは、不真面目そうに見えて実際……不真面目なのだが、非理性的ではない。サボタージュを執行するときはそもそも出席しないという勤勉な堕落を見せるが、いざ出席するとなればきちんとしているのが彼女というわけだ。

 「お、来たね」

 コンソールの上で頬杖をついたダ・ヴィンチが言う。モニターの右上に表示された戦域マップ上、赤いブリップが2つ点灯している。

 マップにマークされたサークルに、既に1つ。そしてそれにもう一つのブリップが接近している。ゲイザーを示す光の点は、徐々に近づいているようだった。

 「やっと2()()()の苦労が報われるねぇ」

 「あとはトウマ君がちゃんとタイミング合わせられるかどうかじゃないですか」

 「視覚共有くらいなら索敵されないと思うんだけどね、正直」

 「どうですかね。念には念を入れる姿勢は正しいと思う。あとはその正しさを証明するだけだから」

 そわそわとタブレット端末の画面を気にしながらも、リツカはちゃんと、モニターの状況を把握している。映像が分割されたモニターの中では、ただひたすらに弓矢を天に掲げる赤衣の少女と、稜線から顔だけを出しては、狙撃銃のアクセサリとして運用されるスコープを覗く泥まみれの少年の姿があった。

 「許容時間も範囲内だし、まぁ既に合格点じゃない?」

 うーん、と背伸びを一つ。ダ・ヴィンチのそれは、疲労と言うよりは飽きに対する緩和的行為だろう。非レイシフト期間中、施設運営のための最低限の人員を覗いて皆休養をとっており、その間の多くの施設業務はサーヴァントであるダ・ヴィンチが行うこととなっている。睡眠を含め、休むという行為そのものが基本的に不要なサーヴァント故の過労である。

 無論本人も了承している──というより、そうせざるを得ない人員状況故に行っているわけで、冗談以外で不平を漏らすことはない。漏らすことはないが、飽きるのは飽きる、ということだろう。

 「きっかり最初の2週間で、巣の位置の特定と行動パターンの把握までできてるし。クロエがいる、ってのはありそうだけど」

 「それはまあ別の機会にってことで。おっ」

 しっかりタブレット端末から視線を挙げると、リツカはその光景を、しっかりと見届けた。

 稜線の手前に身体をずらすと、トウマはポケットから取り出した赤外線ストロボライトのスイッチを押し込んだ。

 それが、合図。高低差800m下の麓で矢を構えたクロエは、人間の可視光域をずれた光を知覚した。サーヴァントであるが故のもの──ではなく、クロエ、というサーヴァントが本質的に魔術師に近いが故の、魔術の1つだった。

 合図を受けてからの、彼女の次の動作は努めて短調且つ迅速だった。弓に込めた膂力はそのまま、左手の甲に添えた矢を抑える力をリリースする。それだけだ。狙いをつける必要は無い。否、既に座標は網膜投影される映像に表示されている。その地点めがけて、一部のずれもなく射を撃ち込む。

 矢をカタパルトに、射出された剣が空を切る。稜線を超えると同時に徐々に重力落下を始め、その切っ先が目標へと牙をむく。クロエ、というサーヴァントの性能とその宝具の射程だけでは為しえない射程外(スタンドオフ)射撃

 落下地点には2匹の魔獣。直径4mはある巨大な眼球が浮遊しているかのような怪物、ゲイザー種。高い索敵能力を誇る獣は、素早く飛来する物体へと迎撃行動を開始した。

 ゲイザー2匹の“直視”とほぼ同時、瞬く間に剣が燃え上がる。鋼鉄すら溶解する灼熱にさらされた剣は、しかし、全く意に介することすらなく虚空ごと炎を切り裂いていく。

 その剣の真名、『偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)』。英霊フェルグス・マック・ロイが振るった名剣を、英霊エミヤが鍛え直した螺旋剣。矢として放たれた歪の魔剣が内包する神秘は、ゲイザーのそれとは比較にもならない。

 秒速2000mで落下するに対し、ゲイザーが次弾の迎撃を撃ち込む暇は当然なかった。魔眼の再装填か、あるいは回避行動か。逡巡ほどの思考だったが、あまりにも遅い判断だった。

 ようやっと回避、という決断をした時には、既に亞音速などとうに置き去りにした螺旋の刃がオリーブドラブのゲイザー、その眼球に突き刺さる。宝具が巻き起こす烈風に加えて、発生した衝撃波は硬質なゲイザーの外皮を容易く砕き、剣の切っ先は当然のように眼球を貫く。余剰に 発生する衝撃波と烈風に加え、続けざまに迸った『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』の爆風が周囲1㎢を破砕の渦へと巻きこんでいく。もう1匹のゲイザーだけではない。潜んでいた他の魔獣も忽ちに挽肉と化しては数千度に達する爆炎が蒸発させていく。

 焔の大蛇がのたうつような、そんな光景だった。英霊たちが振るう尊き幻想、宝具。内包する神秘の濃さは、およそ神代にあってすら目を見張るものであっただろう。その実、僅か2秒ほどだというのに、その破壊の様は長い映画をスローで眺めているように目を惹きつけられるものだった。

 ともあれ、その破壊は実際2秒だった。死の風を振りまき破砕の衝撃を叩きつけ、灼熱の地獄を巻き上げた宝具の発動は、正しく機能した。

 「モニター復帰、と」

 独り言のように呟くダ・ヴィンチの声の後、爆煙が去った地表はほぼ、更地と化していた。かろうじて生存しているらしい四足歩行の魔獣も、身体の半分以上を千切られかろうじて生きているだけ、という状態だろう。

 当初目標であったゲイザーも、1匹は即死。もう1匹も烈風に眼球を裂かれ、灼熱に内容物を蒸発させられ、ほぼ死にぞこないだった。かろうじて身動ぎしているが、あと30秒と生きてはいまい。いずれ、死ぬことは確定だった。

 が、次の瞬間、もう1匹のゲイザーも死亡した。追撃とばかりに撃ち込まれた赤い呪いの矢が飛来し、数十の鏃に散らばって地表の残骸をまとめて吹き飛ばしていく。ケルトの紅き投擲槍を矢に変形させた面制圧用の宝具は、洪水となって生き残った獣たち全てを貫いていった。

 「BS01、02。こちらコマンドポスト。状況終了だ。お疲れ様。何か甘いものでも用意しておくよ」

 「それ、ロマンせんせのお菓子じゃ」

 「まぁ別にいいじゃん」

 モニターの映像の中、安心したのか手を振るトウマ。当然、というように済ました表情のクロ。どちらも堂々とした様子で、なんというか頼もしく見える。

 「で、どうご覧になりますか? ()()()は」

 「合格なんじゃない。最後の追撃が誰の判断かによるけど」

 「流石にクロエなんじゃないかな?」

 「そうかな、まあレポートを待とうよ。まぁ、何にせよ、二人で補い合えばいいか」

 「クロエに明確な弱点らしい弱点、あるかな」

 「良いところを伸ばす折り合いのつけ方もあるものですよ。トウマ君、戦術よりもっとミクロなレベルでの趨勢を見極める力は凄い好いと思うんだ」

 「サーヴァント戦のプロ、か」

 ぎい、とダ・ヴィンチは背もたれに身体を預ける。モニターに映る、あまり頼りにならなそうに見える少年を眺める目は、まだ全幅の信頼を置く目ではない。人間性については置いておくとして、だ。

 最も、それは不当というよりは公正な眼差しだろう。元を辿れば、立華藤丸と言う少年の出自はよくわからない。どうやら、リツカと同じ日本の出身らしいが、何故この南極の地に居るのかは全く以て不明だ。正直に言って、怪しさ丸出しである。それこそ、今回の事件の犯人側の人物が送り込んできた刺客と見做すことすらできよう。そんな人物に対して、概ね高評価を与えているだけでも十二分に信頼しているだろう。

 「はい完了。それじゃあ30秒後には覚醒するから、ちょい待ってね」

 (はぁーい)

 2人の間延びした声が重なる。バイタルデータを見るに、2人───特にトウマの消耗具合は凄まじい。体感時間にして2週間も戦地で動き回り、しかもその大半を隠密行動しながら敵の行動パターンの集積という地味且つ神経が磨り減るような作業をしていたのである。疲労困憊の表情はともかく、あのように平気な素振りをとりつくろえるだけ、精神的な強さは間違いなく身に着けている。

それに、本当に戦いで求められる強さは万全な体調で発揮される100の力ではない、という。むしろ絶不調極める中、どれだけ100に近い力を出し切れるか。その限界を超えた上での強さこそが求められる。そして限界を超えた時の力を出すための手段こそが、日々の鍛錬に他ならない──そんなようなことを、リツカは言っていた。

 「当分休んだ方が良いね、トウマ君は」

 「なるべくこっちも休んでほしいね」こつんこつん、とダ・ヴィンチはコンソールを指で叩いた。「私も、こう見えて暇じゃないんだぜ?」

 ちら、と彼女? の目がマシュを掠める。自信に満ちたレオナルド・ダ・ヴィンチらしい表情に、マシュはすぐに思考を行きつかせる。

 自分用に開発しているという新装備。まだ概要だけしか聞いていないけれど、今よりもっと、強くなれるのだという。そうすれば、きっと色々な役に立てる。今の戦力が気に入っていないわけではないけれど。

 けれども、防御に特化しすぎている今の戦闘スタイルは、多用途任務(マルチロール)性が求められるこの戦いには不向きだ。自分の裡に居るであろう英霊には、とても申し訳ないけれども。

 「うん、そうだね」

 リツカは何か、所在なさげに言った。

 「私も、まず終わらせないと」

 最後の言葉は、近くのマシュでさえ聞き取るので精一杯だった。

 秘密めいた、囁くような発話。マシュは特に気にも留めず、さりとて何か気がかりを覚えながらも、暗転するモニターを視線で追った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 モニターが、閃いている。

 どこかの市街地だろうか。未来的な石? の建物を縫うように、2つの影が疾駆している。1騎は黒い衣装の剣士。もう1人は、亜麻色の髪の眼帯をした少女だ。

 「そう、そのまま後退。大丈夫、仲間を信じて。きっとカドック君とペペさんは大丈夫」

 “私”は頭に被った何か───私には与り知らぬことだが、それはヘッドセットという現代の器具だった───に声を吹きかけ、冷静に2人を誘導しているらしい。

 街を駆ける2つの影に、黒い何かが追従する。不定の形状をした黒い影のような何か。黒く澄んだ泥人形のようなそれらは、剣を、槍を、弓を構えて2人に迫る。

 計、4体にも及ぶ泥人形はそれぞれの得物に最適な攻撃方法を以て、黒衣の剣士に襲い掛かる。剣士であれば白兵戦を挑み、弓兵であれば中長距離からの狙撃を敢行し、槍兵は俊足の一撃離脱で襲い掛かり、魔術師は他3体の援護をしながら剣士の頸を狙う。

 傍目で見る限り、2人は明らかに劣勢に立たされている。黒い剣士は既にボロボロで、亜麻色の髪の少女も見るからに疲労困憊といった様子だ。

 “私”は、けれど、その光景を平静に捉えている。想定の推移をしている、という事実だけが脳内をぐるぐると巡っている。その奥底に蜷局を巻いている小さく硬い葛藤を感じながらも、“私”は正しくその光景を網膜に焼き付けている。

 (セイバー、右腕部損傷。即応性能40%低下します)

 無機質なオペレーターの声にも、“私”は身動ぎすらしない。「大丈夫」とマイクに声をふきかけるだけで、それ以上は何もしない。脇から刺さるように振り向けられる視線も気にせずに、“私”は泰然盤踞と佇んでいた。

 (セイバー、両脚部に致命的損傷。運動性能80%低下)

 そんな“私”の思惑通りなのか、違うのか。弓兵に足を射抜かれた黒衣のセイバーは、つんのめるように錐揉みしながら地面に激突した。

 運動性能だけではない。既に継戦能力はない。あとはただ、残る3体の泥人形に蹂躙されるに任せるだけ───そんな状態だった。

 槍兵が、大きく得物を持ち上げる。槍というより薙刀のような形状のその武装を振り下ろせば、剣士の頸は綺麗に飛ぶだろう。

 咄嗟、亜麻色の髪の少女が自らの眼帯へと手を伸ばした。その秘奥を解放せんとしたところで、“私”は鋭く声を刺した。

 「大丈夫! もう終わる」

 刃が振り下ろされる。あっさりと頚椎を砕く刃は、剣士の頸を跳ね飛ばさんと───。

 (敵攻撃目標(オブジェクトエネミー)の撃破を確認。状況終了します)

  間延びした声は、酷く場違いに響いた。

 「狙い通り?」

 硬い、詰問の視線が“私”の耳朶を打つ。腕組みしながら佇む灰色の髪の女性は、琥珀色の目を“私”に突き刺すように向けている。

 その姿に、人工美を感じるのは何もおかしなことではあるまい。天体科の若き当主として君臨する彼女は、実年齢こそ10代だが、その身体に蓄積された研鑽はおそらく千年に達するだろう。それは単に、何代も継承された魔術刻印のことだけを言うのではない。その血を良質に保つため、あるいは改良されるため。幾重にも濃縮された血と肉体そのものが、極めて人為的な所産なのだ。何の比喩でもなく、魔術師とはサラブレッドと同じ生命なのだ。言い方を変えれば、魔術師は畜産であり、また家畜なのだ、とも言えるだろうか。そういう換喩を想像するところが“私”らしさなのだが……ともあれ、眼前に君臨する彼女には、その美質を含めて、純粋な尊敬を向けている。少なからず、“私”は魔術師の家系などさっさと放棄してしまっていた。役に立たないものに縋るほど、“私”は暇ではない。

 “私”は、彼女の問いに肩を竦めて「そうですね」と苦笑いをした。彼女が期待しているのは、もっと王道で、華麗な勝ち方なのだろう。そういう期待を持つ気持ちは、よくわかる。人は、知性あるれる他者に度肝を抜かれる奇術師的な在り方を期待するものなのだから。現実の知性は、むしろ地味且つ堅実であることが多い、という事実は、むしろ彼女の方が善く知っているのだろうが。

 「すみません。ご期待に沿えずに」

 「そうね」彼女は不機嫌そうだが、さりとて癇癪を起すでもなく言う。「ですが、1人も欠けることなく特異点を攻略したのは事実ですし。デイヴィッドやキリシュタリアの方が時間は早かったですが、流石に1騎の脱落もなしとはいきませんでした」

 不肖不肖、といったように彼女は腕組みする。やはり彼女は愚かではない。ややヒステリー傾向にあるけれど、だからといって無能というわけではない。どちらかというと保守的で、情勢が安定している時には稀有な才能を発揮するだろう。逆に言えば緊急時には向かない性格で、それ故に、自分のような海の物とも山の物ともつかないものを連れ出してきたのだろう。ご苦労なことだ、と思う。

 最も。

 「何かあったら、なんて考えたくないけど」少しばかり不愉快そうに、彼女は眉を潜めた。「何かあった時、貴女のことは頼りにしてる。その時が来たら、ガンバって」

 さらに言えば己の力量を客観的に評価している、ということか。自分の卑俗さを理解した上で、それをカバーし得る人材を招集できるのは優秀という証拠か。

 「それで」“私”は背中を壁に預けた。モニターの映像は既に切り替わり、各種データがずらりと表示されている。「マシュとはどうなってるの」

 話題の転換は、多分、気恥ずかしさからだった。彼女はそんな“私”の口ぶりには気づかずに、むむむ、と彼女は表情を顰めた。睨むように向けられた視線だが、どうにも力がない。自分に分が悪い話、と理解しているらしい。だからこそ“私”もこの話題にしたわけだが。

 「どうでもいいでしょう。どうして今その話なんですか」

 にべもない言い方だが、やはりいつものはっきりした調子がない。彼女は、マシュ・キリエライトにどうにもニガテ意識がある。いや、当然と言えば当然なのだろうけれども。

 「わかってます。私に何らかの責任があることくらい。ただ、ちょっと待ってよ。ちゃんとするから」

 ぷい、と彼女は顔をそむけた。顔を背けながらも、覗き込むように彼女は“私”を横目で見ている。可愛らしいなぁ、と思いながら、“私”は特に、それ以上は何も言わなかった。何も言わずに、ただ小さく1度だけ、首肯した。

 “私”は、そういう奴だ、と私は思った。中途半端な人だ。周りに関心を以て接して干渉するのに、その癖その干渉はそんなに深くない。小さく触発するだけで踏み込まず、ただ、他者を放牧してしまう。まるで、牧夫のよう。あるいは野に畝を作る農夫のよう。

 人は──あるいは女性は、心に秘密の花園(シークレットガーデン)を持っている。誰にも見せられない心の壁の、裡の園。心地よく。あるいは不快な内面性。

 “私”の内面性は、とても、平凡だった。特筆すべきものは何もない。他者と比較された異端性など何もない。どこにでもいる誰か。誰でも良い誰か。きっと“私”は、その程度の誰かでしかないのだろう。

 「マシュは可愛いよ。おっぱいデカいし、マッチョだし。造形美ですよ造形美」

 「ブラックジョークにも程があるわよ、アナタ」

 「世の中そんなもんでしょ。ね、マリー?」

 マリー、と“私”は口にした。呼ばれた彼女は少しだけ不満そうにした後、ほんの一瞬だけ、表情を緩めた。一瞬だけだけれど、永遠にも等しく延長する刹那。

 “私”は、だから、動くのだ。ただその一瞬に背負うもののために、()()()()

 

 

 「おーい。生きてる?」

 私──エリザベート・バートリィは、べちべちと頬を叩く痛みで目を覚ました。

 朧げな視界が、徐々にクリアになっていく。

 まず、飛びこんできたのは見知った顔だった。赤銅色の髪の毛に、深い池沼の泥底を思わせる鈍い瞳。左側頭部で一つ結びにした髪の毛が、風に揺られて馬の尾のように揺れていた。

 藤丸立華。19歳。いまいちつかみどころの無い、情熱に欠けた女の眼球がエリザベートを反射していた。

 「マスターならそのくらいわかってるんじゃないの」

 眉間に皺を寄せながら、エリザベートは不平を口にした。確かに、と納得するように頷くと、リツカは屈曲の姿勢から背筋を伸ばした。

 遅れて、エリザベートが立ち上がる。堅い石畳の感触だが、特に身体に不調は感じない。いつも通り、と認識して、彼女は立ち上がった。

 見覚えのある街並みだ。綺麗に区画された、古い欧州の街。エリザベートには無縁だったが、今は縁のある、あの広場へと続く街。遠く路面の先から響く鈍い音響も、知っていた。

 フランス・コンコルド広場へと伸びる通路の一本。周囲だけは死んだように森閑とし、ただ自らの息遣いと微風だけが鼓膜の上を蠢動している。

 本当に、外に出た。あの黒い暗黒の先に、このフランスの大地が拓いている。エクスクラメーションマークとクエスチョンマークを盛大に頭の中に撒き散らしながら、エリザベートは当然のように佇むリツカの背を注視した。

 明らかに、彼女はこうなることを知っていた。あるいは予知していた。理由は不明だが、自分より後からこの世界に放擲されたはずのリツカの方が、何事かを察知している。

 「どうしてこうなるってわかってたの」

 堪らず、エリザベートは問いただした。微かに視線を寄越したリツカは、「簡単なことだけど」とまず一言だけ漏らした。

 「言語化し得ないものには長く滞留できないんだよ。無意識とか、存在とか」

 「どういう意味よ」

 「人はすぐ、語り得ぬものを陳腐な言葉にしたがるってこと。私も、貴女も。人間が生きるということは、概念(フレーム)を生産することだから」

 早口に言うと、「まぁいいじゃない」とリツカは続けた。「どうでもいいことだ」

 「エリザベート・バートリィ。貴女にはもっと、大事なことがあるでしょう? それを思索しに行こう。貴女のために。彼女のために。私のことは、どうでもいいからね」

 早く、と口唇が形象を刻む。頭の中を占有し始めた疑問符はそのままに、颯爽と街路を歩み始めたリツカの背を追った。

 「私はハイデガーが好きなんだ」

 彼女の歩みには、何か確信めいたものがある。かり、かり、と靴底が小さな砂粒を磨り潰す音が、妙に耳朶に響いている。筋肉質な背が、蠢いている。指先は何かを掴むように、微かに痙攣していた。慌てて後を追うエリザベートは、天に唸る残響を仰いだ。

 径は、そう長くはなかったはずだ。けれども妙に長く感じたような気がする。いや、逆だろうか。エリザベートの内心と裏腹に、妙にあっさりと踏破したのだろうか。わからない。そもそもここに時間は存在したのだろうか。いやしているはずだ。だが時間そのものが系列を為していないのか? 折り畳まれ沈殿した時間が攪拌されている。スムージーでも作るみたいに──。

 あ、と声が漏れたのは、だからそういう理由だろう。

 唐突に(くら)い視界を啓いた烈日の下、エリザベートは3度目の光景を目にしていた。

 酷く、間延びした広場の景色。屹立する石塔(オベリスク)。その傍らに傲岸と設えられた罪人の安寧の地に、人間たちが群がっている。

 誰かが、何かを喚いている。黒ずくめの人間2人に引きずられれて、誰かが断頭台に連れられて行く。

 誰だろう。いや、誰かはわかる。中世的な修道服に、禿頭の男。大事そうに本を抱えながら、情けなく喚き声をあげている。確か、オルレアンで見た、気がする。黒衣のジャンヌ・ダルクが見せしめに焼き殺した司祭の1人、だった、だろうか。名前は正直に言って、覚えていない。

 無理やり断頭台に首を固定された司祭に、もう抵抗する余地はなかった。周囲の群衆に煽られ、悲鳴を上げながらも、身動ぎ一つ許されずにもがいている。

 こつん、と音が響いたのはその直後だった。断頭台を昇る足音が、何故か、一際鋭く周囲を圧倒する。

 白無垢の姿が、ゆらりと登った。純白無垢の出で立ちに、病的な白い肌。同じように白く見えるプラチナブロンドの髪の下で、天色の目が蠕動していた。

 咄嗟、エリザベートは身を乗り出した。だが、すぐに動きを制止させてしまった。何故、という自分でも不明な疑問が鎌首を擡げた。だが、何より彼女が動揺──あるいは安堵したのは、今の己の挙動の不定を、隣でリツカが刻銘に目撃しているという事実だった。何も彼女は言わず、ただ、見ていた。

 エリザベートは、結局、何もできなかった。ただ現状に滞留した彼女は、戦々恐々と、断罪の瞬間を目撃した。

 白衣の女が手を掲げる。それが、処刑の合図、裁きの号令だった。

 刃が堕ちる。黒々とした巨大な金属塊が落着し、司祭の頸にかぶりつく。首が堕ちる瞬間こそ桶に隠され見えなかったが、絶命したのは明らかだった。ギロチンの刃が直撃してから数瞬ほど藻掻いた太り気味の男は、不意に痙攣したかと思うと活動を停止した。石のように硬直した身体は、もう動くことはなかった。

 何故か、エリザベートの目はリツカの背を追った。同じくその光景を眺望する赤銅色の髪の女は、無言のままにその様を凝視していた。

 その、振り返る動作は異様に遅く見えた。遅く見えただけだろうか。わからない。だが、ゆら、と亡霊のように果敢無い動作で振り返り、どろりと視線に捉えられる秒未満の瞬間が、異様な刻銘さでエリザベートを捕捉する。

 山奥に静かに広がる、誰も辿り着いたことのない秘密めいた沼。その、そこの泥濘。彼女の目の奥底に広がる鈍色の眼差しが、確かに私に掴みかかる。

 「どう。決めた?」

 何故か。

 その眼差しの奥底に、泣いている誰かの顔が掠めた、気がした。

 何が、とエリザベートは問い返さなかった。だってわかっている。彼女が何を求めているのか。

 返答の代わりは、眼差しだった。ぐっと睨み返したエリザベートの視線に満足したらしいリツカは、小さく口角をあげた。

 「じゃあ、帰ろうか。ちゃんとやらなきゃいけないことも、わかったことだし」

 「今ここで暴れるんじゃないの」

 「うーんそれはいいけど」

 確かに、リツカは不満そうな顔をした。ここで暴れずに引き下がる、という行為について、自分事ながら不満がないわけではないらしい。

 「でも多分、暴力が倫理的に潔癖な形で正当化されるのは抵抗の形だけだからさ。それは、王権の持ち主がすべきことじゃあないでしょ」

 厳かに? いや、幾分か気恥ずかしく、それでいて堂々と、リツカは手を掲げた。親指と中指を重ね合わせ、小気味よい音を弾きながら皮膚が擦れ合い──。

 

 

 ぶち。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 「何って何よ。定時連絡を寄越せと宣ったのは貴方ではなくて? それとも塔に閉じ込められすぎて認知症になったんじゃない? 前頭側頭型認知症にでも。このジジイめ。

 えぇ。動くみたいよ、彼女。もの好きよね。何もしなくてもこの世界は終わるのに、あの子は自分の手で終わらせるみたい。もう、揶揄わないでちょうだい。夢魔はこれだから厭よ。はいはい、確かに私だってそうします。あの王妃様と知り合いだったらね。私が愛しているのは、あくまで自国の人々ですので。わかってるわ。あくまで私は見に回る。猟犬に目をつけられたら厄介だもの。

 それじゃあ、次はこの世界の終わりに」

 

 

 次の視界の啓けは、いつもとは違う様相だった。

 暗転から、いつの間にか明るい場所へと切り替わるかのよう。普段はもっと、じんわりと───世界そのものが目覚めていくように切り替わるのに、今回はかちりと映像が切り替わった。もしエリザベート・バートリィが2010年代に生きてサブカルチャーに関心を抱いていたならば、その有り様にアニメーションの場面転換を想起しただろう。

 いつもの場所に、居た。陰鬱が四隅に沈殿する豪奢な部屋。相変わらず調度品だけは品が良く、かえってそれが隠し切れない陰鬱を際立たせている。

 「どうしたの、突っ立てて」

 声をかけてきたのは、リツカだった。テーブルの上のケーキスタンドからマカロンを摘まみながら、例の黒い金属の筒を呷っている。いかにもこの部屋の主であると言わんばかりの態度で、しかもそれが自然すぎるのが気に入らない。

 朗らかな表情。あの時に垣間見た底知れなく昏い表情は、欠片も見当たらない。

 「貴女がやったの?」

 そうだね、と言うように、リツカは肩を竦めた。発話しなかったのは、丁度もしゃもしゃと菓子を食っていたからだった。

 「貴女は、どこまでこの世界のことを知ってるの」

 丁度、リツカは口腔内の食物を嚥下した。ぐび、とエナジードリンクを口に含み、思案するように視線を四方に向ける。

 「別に知ってるってわけじゃあないんだ。ただ、ここがどこなのかはわかる。ここは、私自身」

 言って、リツカは自分の頭を人差し指で小突く。妙に芝居がかっている仕草なのは、多分、気恥ずかしさを隠すためのものだった。何の? 喋ることそのものの。

 「最初……コンコルド広場に放り出された時からずっと考えてた。此処はどこなのか? だってあの広場にはオベリスクがあった。なのに、マリー・アントワネットはそこで処刑を執り行っていた。多分、特異点とは違う何かなんだろう、ってのはわかった。少なからず、マリアが生きていた時代のフランスとは別。でも異聞帯ってのともちょっと違う」

異聞帯。そう口にするリツカの口調は、少しだけ危うい。知らない概念への評価に戸惑うようなそんな様子で、リツカはエナジードリンクを口に含む。

 「受け売りだけど」エリザベートも席に着くと、グラスに注いであった透明な液体を口にする。まぁ、普通にミネラルウォーターだ。「魔術的術語における特異点(シンギュラリティ・ポイント)がそのまま剪定されずに継続してしまった、忌むべき可能性の歴史。それが異聞帯(ロストベルト)って言うんだって」

 「学校のお勉強?」

 「そう。所詮は学術的な研究っていうよりはオカルトの部類だったけど。それ含めて、その可能性は限りなく少ない」

 どう違う、とは口にしない。手慰みに側頭部の髪をかき回しながら、リツカは自分の耳朶にぶら下がる宝石に、僅かに触れた。

 「これが何にも反応しない。だからきっとこの世界は私に敵意的じゃない。この監獄は、多分本質的に私に害を為そうとしているわけじゃない」

 リツカにしては、妙に自信ありげな言葉遣いだった。断定的、と言っても良い。彼女はもう少し、慎重に話しを進めるイメージがある──。

 それをある種の危うさと誤解したエリザベートは、何気なく「どうかしら」と返した。

 「貴女、別に魔術は得意じゃないんでしょ? サーヴァントの宝具、舐めないほうがいいわよ。そんな玩具、役に立つかしら」

 言ってから、彼女は後悔した。酷く厭なことを言ってしまった、と思った。だって、ほんの一瞬だけれど、物凄く彼女は怒ったように見えたから。あの泥沼のような眼差しが、凄まじく濁って見えた。

 でも、やはりそれは一瞬だった。普段と変わらぬ飄々とした居住まいに治ると、彼女は、自信に満ちた顔をした。

 「大丈夫。これ作った人は私じゃあなくて、もっと優秀な魔術師だから」

 そう、としかエリザベートには言えなかった。そんな悲し気な顔で、どうして自信満々に言えるのか、わからなかった。

 いや、わからないわけがない。だって、私は知っている。“私”がどんなヤツで、彼女にどんな思いを抱いていたのか。秘密の花園の奥に誰にも知られずにひっそりと咲く、生命の樹の果実のような情動を、遠い彼岸から知ってしまったから───。

 「まあ、そんなこんなで思ったんだ。ここは多分、私の心象──もっと言えば無意識の海の上に浮かぶ自我を象った特異点、なんじゃないかって」

 「そう断定するには色々早計なんじゃないの」

 「そうだね。でも私は優れた灰色の脳細胞を持ってないし、まして現実は探偵小説じゃあない。現実は確実性の中で静的に判断するんじゃあなくて、蓋然性の中で実存的な決断をしなきゃあならないことの方が多いんだから」

 ね、とリツカは明後日を仰いだ。まさか、とぎょっとして背後を振り返ったエリザベートは、その人物にあからさまに顔を顰めた。

 黒いセミロングの髪を二つ結びにした、凛とした女。瀟洒且つ豪奢という二律背反の不調和を体現したかのような佇まいは、自然、見る者をごく自然に圧倒する。

 「そうね。確実な未来なんて、得てしてわからぬもの。確かにそれは、その通りだけれど」

 そう言って、リンは嘆息を吐いた。呆れた、と言わんばかりの視線は、当然リツカへと向いていた。

 「早すぎるわよ、貴女」

 「何事も早すぎるってことはないでしょう。むしろいつも遅すぎるだけなんですから」

 リンは幾ばくか躊躇した後、リツカに同意するように小さく頷いた。もう一度嘆息を吐くと、改めて、というようにリンは腕組みした。

 「それで? 貴女は殺るの? マリー・アントワネットを」

 「そうだね。そのつもり」

 一瞬ほどの、視線の交錯。どちらも表情は変わらず、また言語すら発していない秒未満の間隙。だが、それで十分だった。互いに何かを了解し合ったのを理解したリンは、そうね、とほとんど吐息のような呟きを漏らした。

 「それで、貴女は?」次いで、その視線がじろりとエリザベートを縫い付けた。「それで、貴女は覚悟ができたの? あの方を殺す覚悟が。ねえ、罪人のエリザベート?」

 比喩でも何でもない。それは正しく詰問で、責を問う言質だった。

 わかっている。もう、この遍く世界でエリザベートだけはわかっている。どうしてリツカが動こうとしているのか。それはきっと、マリー・アントワネットがエリザベート・バートリィに行った唯一無二の情動──共感と同情の間隙に産まれる、倫理的義務という名の情熱に、極めて類似しているのだろう。だが、類似していてもそれは多分、全き別の物なのだろうけれど。

 そう言ったものがあるのか、とリンは問うている。エリザベート・バートリィというただの悪性の塊でしかない者が何をしでかそうというのか。

 エリザベートは、言葉を喉に詰まらせた。わかっているのだ。所詮、自分はただ煌めくものに憧れただけで、性根はただの薄汚れた襤褸切れなのだとわかっているのだ。リツカを助けなきゃ、と思ったのは、ただの表面的なイデオロギーでしかない。俗流な唯物論を訳知り顔で振り回しているだけで、あの真性の唯物論を受肉していたマリー・アントワネットとは別物なのだ。猿真似というのは、得てして妙だ。

 「でも、私は」

 煮詰まった声を絞り出した時、エリザベートは、己をふわりと包む視線に気が付いた。あの泥の底のような鈍色の目が、酷く静かにエリザベートを受容していた。

 微かに、リツカは身動ぎした。その動作はほんの微かで、正直に言えば動いたのかどうかすら不明だった、けれど。

 「さあ、覚悟ができるてるかは知らないけど」慌てて、だったが。エリザベートは吐き出しかけた言葉を再度嚥下して、別な言葉を用意した。「覚悟なんて個人の感情だけで結果が善くなれば、苦労はないわ」

 リンは発せられた言葉に、微かにたじろいだようだった。言質そのものの内容ではなく、エリザベートがはぐらかし気味に言ったことそのものが意外だった。どこか見通せない靄のような物言いにリツカを感じたのは、多分気のせいではない。

 「そう。まあいいわ」

 少しだけ癪に障るような気分になりながらも、リンも無為な言語活動は辞めることにした。リンは元より黄金の言葉を以て誰かを賦活する人となりだけれど、既に前を向く人物に言葉など不要なのだと知っているのだ。

 「それで? もう、連れて行っても良いけど?」

 こつん、とリンはドアを叩いた。へ、と呆気にとられるエリザベートの顔に、リンはありありとしたジト目を向けた。

 「何よそのツラは。いっぱしの口を聞いたのはどこの貴族様だったかしら?」

 「ち、違うわ! 違うったら」

 「違わないわよ」

 「話を聞きなさいって」

 「貴女こそ話を聞きなさいな。どうせ大方『予定より早いじゃない!』とか仰るんでしょう? それがハリボテだってわからないかしら」

 うぐぅ……。情けないことに思わず口を歪めたエリザベートは、実際リンが指摘したように言うつもりだったのだ。予定より早い、って。

 まさしくハリボテである。ぐうの音も出ないとはこのことだと思う。いや、似たような音は出ちゃったけれども。

 「まぁまぁいいじゃあない。人間、そう簡単に変わるもんじゃないですし。私たちが生きている現実は、漫画やアニメみたいな丁寧な物語(ストーリー)じゃないんだから」

 「ま、そうね。それに、真実は虚勢から生まれたりするものだから」

 「貴女の実体験?」

 そうね、とリツカに応えたリンは、恥ずかしがるようにはにかんだ。何の羞恥なのか、エリザベートにはよくわからない。よくわからないが、なんとなく、その気恥ずかしさには誇らしさとか、後悔とか、色々なものが煮詰まっているような気がした。気のせい、かもしれないけれど。

 「オースティンだったかしら。真実は形式から宿ると言ってたのは」

 「同じ時代の人ですか。結構近代の人?」

 「座の知識、所詮は又聞き。まあそれでも知識は知識で善いものだけれど」

 「さっきからわかんないことばっか喋らないでよ!」

 うー、と今にも唸り出しそうなエリザベート。つん、とした表情のリンに対し、リツカも表情こそ苦笑いの同情的だが、特に説明する気がないのはリンと同じようだった。

 エリザベートはなおも唸り声をあげかけたが、やはりリンの方が上手だった。「それで、どうするのかしら」と素早く切り返す凛とした声色に、エリザベートは蟾蜍が『ぐえ』と漏らすような音を漏らした。ぐう、ではない。

 逡巡。どれくらいの逡巡だったか定かではないが、とにかく逡巡だった。伺うように睥睨を寄越すリンを見て、次に、リツカを見た。沼の底、酸化した金属を多分に含んだ泥濘の底のような目が、拒絶と受容の境目のものとなって佇んでいた。

 拒絶。そう、それは拒絶。リツカは他者を拒絶している。自分の裡に誰かが入り込むことを、酷く拒絶している。

 その癖に、彼女は他人を無限に受容しようとする。極度の拒絶と無限の受容性。人は、多分、そんな藤丸立華の振舞を見て、“普通の人”だと思うのだろう。

 「いいわよ、行ってやろうじゃないの! ぶちまけてやるから連れて行きなさいよ」

 「それが虚勢だと思うんですけどね。まぁ、いいわ」

 リンは指を鳴らした。瞬間、さながら奇術のように、手枷が手首にまとわりつくように現出した。

 「魔法みたい」

 「魔法だなんて、軽々しく口にするものじゃないわ」特に考えナシに発言するリツカに、リンは嗜めるように言う。「別に、この世界のルールよ。一応私は看守でアナタ達は監獄の中の罪人。忘れないでよね」

 「なるほど」

 本当に納得しているのか、というかそもそも話を聞いているのかすら不明だが、とりあえずリツカは振り子のように首を縦に振っていた。

 「じゃあ行くわよ。ほら、ついていきなさい」

 軽く、リンが扉を押した。ぎぎ、と微かに抵抗しながら開いた扉の向こうには、あの、ただただ黒だけが延長していた。

 「ほら、行くよエリちゃん」

 軽く、エリザベートの背を押す手。押すというより触れるに近い、本当に軽い感触だった。

 リツカの背。側頭部で揺れる一つ結びの髪。ひょこりひょこりと揺れる髪が、花園の中の灰銀の髪の彼女と重なった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 曰く。

 フロイトの提唱した『超自我』とは、大まかに言えば文化という総体そのものと言って差し支えないだろう。あるいは、人間に内面化する社会の約束事と言い換えてもいいのかもしれない。

 人間は誰しも欲動を持つ。その在り方はおそらく無限の様態を持っているだろうが、形式的な話として、“欲動を持っている”という事実は普遍的なことと考えて異論はない。その欲動は本来的に不定形であり、常に八方へ、かつ無邪気に広がろうとする。時にそれは自他の破滅すらをも含み持つ。そうなっては、人間は生存そのものが困難になるであろう。

 故に、人間は規則を内面化する。我を超えた命法を受肉させ、欲動そのものの無法を取り締まる。ともすれば軽々に破滅に向かう欲動を、超自我は取り締まらんとする。だが、それでは欲動は文字通りに不満だろう。自らを見たそうとするために産まれた欲動が遍く規制されては、それも却って生存が阻害されることも想像に難くない。

 暗く蠢く夜のような欲動と、烈日となって降り注ぐ太陽のような超自我の軋轢。人間の精神活動の中で起きているそれらの闘争の中、自我の立ち位置を定めることは難儀なことだ。おおよそ、精神分析の中で、自我はさして役割を持てていない。欲動と超自我の板挟みになって、下界に適応するためにあくせく動き回るだけのネゴシエーター。もっと言えば、頼りない中間管理職。いないと困るが、居たからといって派手な動きはできない、人件費だけかかる人材のようなものでしかない。現代において『自我』という言葉が持ち出される時、大抵は超自我に虐げられ傷ついた欲動について言っていることがほとんどだろう。現代とは、自我を頻繁に語りながら、実は自我をより貧困化させている奇妙な時代なのかもしれない。自我なるものの勤勉さと哀惜は無視されがちである。

 だが、思い返せば、そもそも自我など貧困ではなかったか? 生半可に自我を擁護しようとしたとしても、かえって欲動の力──時に、それは文明そのもののアレンジメントを組み替える力を軽んじ、世界を硬直化させるだけの結果に至るのはなかった。

 では、自我の役割など皆無なのではないのか、元から?

 

 

 酷く、日が照っている。烈日の閃光が、紅蓮の穹窿から降り注いでいる。

 マリー・アントワネットは、陰なき世界に屹立していた。断頭台の上に、静謐とともに佇んでいた。周囲を取り巻く怒号のような絶叫にもかかわらず、白皙のかんばせをぴくりとも動かなさなかった。

 空色の目が、遠くを眺望する。来るべきものを捕捉した相貌が微かに濡れそぼり、能面のような白い肌が小さく軋んだ。

 嘆息だろうか。悲嘆、だろうか。流れる吐息。視界のはるか先で揺れる赤銅に、夢の中で見た銀色が混じる。

 歩みに、迷いはない。ためらいもない。照り付ける日を受けて背後に残影を背負う人の形は、まっすぐに歩を進めてくる。

 「やっぱり」

 小さな、声が漏れた。処刑台を囲む無貌の群衆の絶叫にも関わらず、しゃん、と響きながら。

 「来てしまったのね、あなたは」

 うん、と応えるように、彼女の首が上下する。この無時間の広場に、物理的な空間概念は意味をもたないにしても、彼女はマリーの声を、確かに受容したのだ。

 どうして、という問いは、声にすらならなかった。それでも彼女は「何を今さら」とでもいうように、ちょっとだけ肩を竦めた。

 「だって、マリア。あなた、」

 

 

 リツカが、何か口にした、ような、気がした。

 エリザベートにはそれが何なのか、よく聞こえなかった。

 「じゃあ行こうか、エリちゃん」

 はっとしたときには、既にそれが近くにいた。

 エリザベートにとってはやや目新しく、逆にこの世界にとっては古めかしい、黒衣の装いの何か。人間の形はしているが、認識がぶれるような感触がある。黒い粘着質がそのまま人の形をして歩いている。顔は、判然としない。靄がかかっているのか、顔そのものが坩堝と化して認識がずれるのか。それすらも不明。宇宙の井戸の底の底の堆積物を汲み取ってきたかのような、反現実性。そんななのだから当然表情などありはしない。表出するものはほとんどなく、ただ「ウウウ……」と猟犬の唸り声のような奇妙な音を、どこからともなく漏らしている。

 そんななりにも関わらず、不埒を働くわけではないらしい。エリザベートの両脇に並び立つと、礼儀正しくも両腕を掴んだ。連行、というには丁寧な物腰で──

 って。

 「ちょっと、なんでアナタは誰も付かないのよ」

 「え?」

 きょとん、としたリツカは、今さらのように周囲を振り仰いだ。

 黒い泥の人型は2体のみ。リツカを連行しようとするものは誰もおらず、また現れる様子もなかった。

 「あー、まぁそうか」頭をかこうとして、手枷を煩わし気に見下ろすリツカ。「うーん?」

 「貴女の頭の中の世界だから、ってことかしら?」

 エリザベートは、それはそれは不満そうに言った。それもそうである。本当にリツカの言う通りにここが彼女の頭の中の世界だというなら、この薄気味の悪い木偶の坊をなんとかできないものなのか。

 「万能ってわけじゃあないみたいだし」

 ほら、とリツカは腕を振った。手枷はがちりとはみ込んで、リツカの手では外せなそうだ。

 「でもエリちゃんなら外せるんじゃない? リンちゃんが言ってたけど」

 「信用できるのかしらね」

 かちゃ、と小さく手を振る。微かに両隣の泥人形が身動ぎしたような気がしたが、多分、気のせいではあるまい。

 エリザベートにとって、あの女。リン、と名乗っているあの女は、なんだか信用ならないのだ。いつの間にかこの世界に放り出されたこと、それは別にいい。あの子の手で処断されるのも、別に、いい。ただなんとなく、この世界に不自然に存在しているあの女が気に入らないのだ。この世界の中で、妙な不調和を醸し出しているあの女が、どうにも油断ならない。

 「ねえエリちゃん」

 それこそ今さらなのだけれど、リツカは当たり前のようにエリちゃん、と呼んでくる。そこに親しさを感じればいいのか、それとも隔絶を感じていいのかはわからない。

 「あの時、マリアをやったのはアナタなの?」

 多分、把握すべきは両方、なのだ。親近と排他の間。両極のそれらの間──だからといって多分、それは単なる半分ずつ含み持つという意味ではない──から発せられた、問いなのだ。丐眄してこちらを見やるリツカの表情は、烈日の逆光となって、うまく見えなかった。

 少しだけ身を縮めて、けれど胸を張って、でもやっぱり伏し目がちに、エリザベートは肯定の相槌を漏らした

 

 「マリア」一拍、リツカは吃るようにしながら、「笑ってた?」

 「え?」

 「アナタが、あの人を倒した時」

 不意にというべきか。それとも運命的だっただろうか。脳裏を掠めた情景に、エリザベートは鳥肌を立てた。

 ほんの一瞬の沈黙が応えで、それでリツカは満足していた。

 「だと思った」

 逆光の中、口角がぐにゃりと歪む。歪んだ唇の隙間から、酷く白い歯が覗いていた。

 「行くわよ、マスター」

 「うん。じゃあ、行こうか」 

 

 ※

 

 ざり、と足を地面が掴んだ。

 喧噪が止んだ。無貌の群衆がひたりと騒ぎを停止し、ぬらりとこちらを見やる。

 顔の無い顔が、無造作に並んでいる。天の底からかき出してきた泥を詰めた顔面が、こちらを覗き込んでいる。その昏さに、リツカは微かな戦きのようなものを感じた。不気味さとは異なる、奇妙な恐怖感。不気味ではなく未知の何かが臨在している、違和感。リツカは、眉を顰めた。

 この世界には、わからないことがある。というより、わかるものと未だ不明なものが混濁し、意味不明な様相になっている。果たして、これは一つの出来事なのか? それとも別種な何かが絡まり合った結果一つの結果に見えるだけの現象なのか? 不明だ。不明だが──まぁ、彼女には、どうでもいいことだった。

 相対距離、100mほど。にも拘らず、断頭台に昇る彼女の顔は、よく見えた。

 「ごめん」決まり悪く、リツカは側頭部の髪をかき回した。「遅れた」

 どうして、と蠢くように、口唇が動いた。

 当たり前でしょ、となんでもないように、リツカは肩を竦めた。

 「待っててって言ったの、私だし」

 ひた、と何かが滴った。雨だろうか。陽の逆光を受けた黒いミルクのような一滴の雨が、断頭台を濡らしていた。

 掛け声など不要。リツカの気勢を悟った1騎がだしぬけに猪突した。

 啓く翼膜、奮える翼撃。翼の動きだけで両脇の死神を突き飛ばし、地を翔けるように痩躯が飛ぶ。並みいる群衆を長い尾で薙ぎ払い、エリザベートはマリー・アントワネットの下へと迫った。

 ゆら、と白い肌が身動ぎした。するりと掲げられた病的なまでに細い、マリーの腕。糸繰の人形のような不格好さながらに天を志向した右腕は、これより下る裁きの号令だった。

 「『汝、真に罪あるものか(ギロチン・ブレイカー)』」

 言祝ぎのように、あるいは詩でも口遊むように。青白い口唇から漏れた声が、岩に染みるように喧噪の中に響いた。

 どろりと群衆が融解する。人型に押し固められていた泥が不定へと戻り、一面に黒土色が広がっていく。

 驚愕は、その次の瞬間だった。不定に戻ったはずの泥水が、再度形状を取り戻していく。細く長く、先端に延びる5指。ゆら、と動く姿はウミユリのようにも見えただろうか。無数の黒い腕───あるいは、紐のような何かが蠢く様は、原初的な生物の群体そのもののようだった。

 無数の腕が静かにゆらいでいたのは、けれど、僅かに数秒ほどの合間だった。

 不味い、と悟ったエリザベートが翼を広げ、跳躍する。周囲の腕を風で押しのけながら飛び上がったエリザベートは、異様な身体の重さに顔を顰めた。

 既に、翼を腕が掴みかかっていた。無理に引き剥がそうともがく合間にも、矢継ぎ早に地面から屹立する黒黒とした腕がエリザベートの躯体を鷲掴みにしていく。

 「エリちゃん!」

 リツカの声が、鼓膜の奥で反響する。既に無数の腕に捕捉され、地面に叩きつけられんとするエリザベートには、その表情を見る暇すらなかった。

 どろり、と何かが身体を覆った。あの泥だ、とは、考えるまでもなく感じられた。

 「ごきげんよう、エリザベート。貴女は確かに、罪ある人。そうよね、バートリィ・エルジェーベト」

 ひやり、と鼓膜を刺すような声だった。はっと視界が開けたエリザベートの目に飛び込んできたのは、ぎらりと閃く刃だった。

 「貴女は罪を犯した人。多くの人を手にかけた悪魔。擁護不可能の化け物。ねえ、そうよね」

 いつの間にか、エリザベートは処刑台に磔にされていた。あの黒い腕に手も足も翼も尾も何もかも縛り上げられ、虫のように処刑台に転がされている。

 「なら、貴女は裁かれないと。首を、落さないと!」

 はたして幻視か否か、脳裏に手を振り下ろす観念が惹起した。いや、手、だけではない。あの死に装束をした彼女──マリー・アントワネットの顔が、視界に焼き付いた。

 「そうね、確かにそう。私は無知だったけど、でも確かに人を弄んだ。それは、事実。裁きは受けるわ」

 彼女の、かんばせが。笑いかけて手を伸ばそうとした彼女の、顔が。

 「でもね、泣いてる貴女を放っておけないのよ!」

 落ちる刃。首を落とすギロチンが直撃する間際、エリザベートは雁字搦めの黒い腕を無理やりに引き千切った。

 エリザベートであれば、躱すこともできただろう。だが、そうしなかった。拘束が解け跳ね起きながらも、エリザベートは迫りくる刃めがけて相対した。

 「本当に大丈夫なんでしょうね!?」

 (大丈夫、エリちゃんなら)

 「うー、アンタも見たってことじゃない!」

 (お互い様ってことで。ほら、来るよ!)

 「わかってるわ!」

 パス越しに脳内で響くリツカの声に怒鳴り返しながら、エリザベートは身を捩った。

 尾が、唸る。尾そのものの可動に加え、全身の発条を使って振り抜かれたエリザベート渾身の打撃。首を落とすはずの刃は、その一撃だけで音を立ててへし折れた。

 明後日へと吹き飛ぶ刃。既にそれには目もくれず、エリザベートは、すぐ目の前に佇立する白い影を見据えた。

 「貴女は、もう、雪いだのね」

 抑揚のない機械的なマリーの声に、エリザベートは首を振った。罪の雪ぎなんて、そう簡単にできるものではない。それは。エリザベートもよく理解している。

 「やっと、一歩歩き出したところ。貴女たちみたいに、万人に手を差し伸べられるわけじゃないけど。でも最初なんだから、助けたい人を助けても、いいでしょ?」

 手を、伸ばした。能面のような表情のマリー・アントワネットに。能面の頬を雫で濡らしたマリーへと、エリザベートは手を伸ばした。

 くしゃりと、彼女の顔が軋んだ。笑おうとしたのだろうか、泣こうとしたのだろうか、それとも別な表情を作ろうとしたのか、あるいは全部が噴き出してどれでもない顔になったのか。

 「ごめんなさい、乗り越えて。アナタなら、大丈夫」

 再度、マリーが手を掲げる。ぞわ、と怖気を理解してエリザベートが動くまでの時間は僅かにミリセカンド。今度ばかりは迅速に動いたが、それでも僅かに一瞬だけ、宝具の開放が早かった。

 「『死は冷たく明日を閉ざす(ラモール・エスポワール)』」

 ぐらりと視界が転げた。再び視界を閉ざした暗黒は、さっきの腕の感触とは全く異質だった。もっとそれは無機的で、理不尽さすか感じるほどの冷淡が黒黒と張り付いていた。

 衝撃がきたのは、暗転とほぼ同時、だった。頚元、頸椎への重い一撃。多分、その衝撃と同時に、ギロチンの刃で己の頸が斬り飛ばされる情景が脳裏に焼き付いた。

 ごろり、ごろり。己の頸が、転がっていく。断面から血の飛沫を噴き上げながら、私の頸が、遊んでいる───。

 違う、ついている。頸は、切れていない。手で触ればわかることだ。

 リツカの、言う通りだ。アヴェンジャーと化したマリー・アントワネットには二段構えの宝具がある。ギロチンで首を落とす、彼女の死の逸話になぞらえた致死の宝具。だがそれにはある種の判定がある───ある種のカテゴリに属する対象にのみ働く宝具。逆に言えばそのカテゴリの外には働かない致死性こそが、彼女の第一の宝具。

 そして第二の宝具は、第一宝具の終了と同時に開始する。はじめの宝具で殺せない相手に対して発動し、再度致死に至る宝具がある───そう、リツカは言っていた。

 恐らく、と彼女は注釈をつけたものだ。最初の宝具は、“罪人”を処断するための宝具。罪人に裁きを与える宝具。そして次の宝具は、無実の罪人を処刑する宝具。冤罪を着せられた人間を容赦なく、仮借なく殺戮するための宝具。冷たく、慈悲なく、ギロチンの刃を堕とす、理不尽の具現。物理的に首を切り落とすのではなく、瑕疵なき死という理不尽により精神を斬殺するそれこそが、恐らく彼女の真骨頂。

 「ふざけないでよ」

 でも、だから、とリツカは最後に付け加えた。

 「どこの誰だか知らないけど、シャルルの刃は、そんな風に使うものじゃないわ!」

 きっと、今のエリちゃんなら超えられる。

 視界が、砕けた。

 黒い硝子が一挙に崩壊するように、ばらばらと裂けていく。首元に残る鋭角の疼痛は残ったままだが、エリザベートにとっては、ただ痒い、くらいの感覚だった。

 露わになった視界。天には烈日が閃く雲一つない蒼空。呻くような喧噪はなく、無音が静かに騒めいている。

 手に、絡みつく感触。手枷は既に外れていて、代わりに両手に握っていたのは槍だった。迷いなく、鋭く一閃した槍の一撃の突端に、白無垢のマリー・アントワネットが突き刺さっていた。

 ぎこちなく、彼女のかんばせが歪む。苦痛はもちろんあるのだろうけれど、でもそれは、彼女にとっては些末なことだったのだろう。

 咽頭に突き刺さった槍から、血のように黒い液体が流れている。マリーが自ら槍を引き抜こうとするたびに傷口が広がって、どろりと粘性の液体が噴き出してくる。それも構わずに槍を引き抜くと、彼女の身体は、どさりと断頭台の上に転がった。

 「マリア!」

 いつの間にか駆け寄ってきたリツカが、枯れた葦のように横たわるマリーを抱えた。

 「誰にやられたの。誰が、やったの」

 至って平静そうな声だったが、だからこそ、リツカの声色の底に堅い怒気があるのをエリザベートは感じた。

 マリーは覗き込むリツカに、ただ困ったように眉を寄せただけだった。わからない、と言うように首を振った。

 「何か、冷たくて、恐ろしいものだった気がするの。とても恐ろしいものが、貴女に」

 ふらふらと揺らいだマリーの手が、リツカの頬を撫でた。どろりと黒い膿のような蝋のような液体が肌に触れ、リツカは我知らずに怖気を奔らせた。

 そもそも、まだ、何も解決していない。そもそもこの世界はなんなのか──誰が作ったのか。マリー・アントワネットがある種の核だったとしても、彼女に特異点を作り出すだけの力は存在していない。聖杯のようなものがあればそれも可能かもしれないが、そう簡単に万能の願望機が転がっている道理はない。

 つまるところ、事態を起こした何者かは、一切不明のままだった。

 「マリア。どうしてアナタだったの」

 「逆よ、リツカ。貴女が私を呼んだのよ。誰にも気づかれないようにしているけど、貴女はとても優しい人だから。だから、私を選らんでしまったの」

 ね、とマリーは微笑を隣に向けた。そうかもね、とエリザベートは慣れないように、ぎこちなくも素直な笑みを返した。秘密の花園でともに戯れた少女たちが内緒話をするように。

 リツカは幾ばくか決まり悪そうに鼻頭をかきながら、「そんなことないけど」とまごまごと独り言ちるように呟いた。

 「ねえリツカ」

 マリーはちょっとだけ困ったように笑った。名を呼びかけること自体が既に苦痛であるほどに彼女の状態は悪化していたが、彼女は我慢強かった。

 「貴女の旅路は、きっと他のだれかのものだったかもしれないし、他のだれかの方がうまくできたものなのかもしれないけれど。でも、今は貴女が歩いているんだから。だから、自信をもって──ガンバって」

 どろり、と融解する。白無垢の肌が罅割れ、その合間から黝い汚泥のような何かが湧きだしていく。マリー・アントワネットの形が加速度的に崩壊していく。

 彼女の目が、彷徨うように宙を泳ぐ。エリザベートのもとに辿り着いた彼女の視線。強張るように蠢いた彼女の薄い桜色の口唇が、何かの形に強張りかけた。

 「それは、もういいわ」

 それより、先。エリザベートは、彼女らしく相好を崩して首を振った。はっとしたように目を見開いたマリーも彼女らしい穏やかな笑みを返した。強張ったはずの唇が、滑らかに一単語を滑らせた。

 そうして、マリー・アントワネットは消滅した。一瞬にして、彼女の白い百合のような身体は黒い汚泥へと溶けていった。

 リツカは、黒い泥の中から何かを取り出した。金色に光る、奇妙な欠片。アルミ缶のプルタブほどのサイズしかないそれが何なのか、リツカはよく理解していた。

 「本当だったのね」腰を曲げて覗き込んだエリザベートは、忌々し気に言った。「聖杯の欠片」

 聖杯の欠片──当初からマリー・アントワネットがこの世界の核なのでは、というリツカの検討は、やはり当たっていたのだ。でも何故彼女がこんなものを持たされたのか、という疑問への答えは、ない。誰に、という問いへの返答も。

 リツカが、空を仰いだ。雲一つない天の果てに、亀裂が走っていく。この世界の終末を告げるように。

 「それじゃ、お別れかしらね」

 ふん、と鼻を鳴らすエリザベート。そうだねえ、と呑気そうに応えたリツカの声に不満そうにしたエリザベートは、後ろ髪をかき回した。

 「あのねえ、マリーも言ってたけど」自分がリツカと同じような癖を行っていることに気づいて、エリザベートはさっさと手を離した。「別にいいじゃない。アナタでも」

 欠片を見落としたまま、リツカは身動ぎすらしなかった。聞いているのかどうかもわからなかったが、エリザベートは特に構わなかった。

 「Aチームだかなんだか知らないけど。今はアナタがマスターなんでしょ」

 微かに、リツカが身体を揺すった。彼女の手のひらの上で、聖杯の欠片が鈍く煌めいている。

 「時々思うんだけど」

 よろり、とリツカが立ち上がる。身長150センチと少し。どちらかと言えば、女性としても小柄な彼女の身体が、輪をかけて小さく見えた。

 「もっと適任の人がいたんじゃないか、とか思うんだ。Aチームのみんな以外にも、もっと」

 「まぁ、そんなこと言ってもしょうがないんだけど」と振り返ったリツカは、困ったような笑みを浮かべていた。大人びた、ともすれば厭世的にも見える世捨て人の顔。秘密の花園の光景が脳裏に惹起した。もう、リツカの手のひらの上には、金の欠片は存在していなかった。

 「それじゃあ、これまでみたいね」

 脳裏に浮かんだ景色を振り払い、エリザベートはさっぱりと言う。そうだね、と頷くリツカもそれ以上は、何も言わない。

 余計なお喋りなど不要だった。言葉などなくとも通じ合うほどの縁がある……などというわけではない。ただ、言語を発する煩わしさにかかずらっている暇は、互いになかったのだ。

 「なんかあったらよろしく」

 「それ、こっちの台詞」

 彼女と彼女の会話はそこで終い。言葉の終わりと同時に、世界が裂けた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Álmodozás a határon……

 「そうね、終わったわ。フジマルリツカはこの世界を終わらせた。さあどうでしょう。でもどうでもいいことだと思うわ。この世界がそもそも短命で、あの子が何かしなくてもこの世界は終わってた、なんて情報。きっとあの子には本質的じゃあないわ。うーんどうでしょう。向こうもまだ様子見のようですし。あなたたち冠位の存在は露見していない、と思うわ。そのための私でしょう。骨のお爺様は? そう、向こうもまだ。ええ、次のロンドンでは尻尾を掴んで見せるわ。メソポタミアには私でも中々だもの。はいはい、それじゃあその千里眼で精々モニターしていてくださいな」

 

 ※

 

 司馬懿仲達こと、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテは、ライブラリルームから気だるげに退出した。自動式のドアを手動で開ける、という珍奇な作業も、元々古式ゆかしい生活をしていたライネスにとっては慣れたものではあるのだが。数時間ぶっ続けで情報収集する、というのは骨が折れる。トリムマウがいれば、また話は別なのだが。生憎トリムマウはマシュと霊基レベルで融合してしまっている現状、ライネスの自由にはできないのだ。どちらかと言えば人を使うことの方が多かった彼女にとって、自分の手で何かを行うことは不得手とは言わずとも、得手ではないのである。

 いづこかの電気鼠みたいなしわしわ顔になりながら、ライネスは漫然と混濁する情報を整理する。別に、何というわけではない情報だ。所長代理をちょこっと(※あくまでライネスの感覚)詰問し、なんだかんだで入手したパスを使ってライブラリにアクセスし、カルデアのスタッフについて調べていたのだ。といっても所長代理のような倫理的義務感から、ではなく。ライネスが関心を持っていたのは、ただ一人だ。

この世界は、多分、ライネスが生きた世界とはやや異なる発展遂げた別な可能性の系統樹。であるならライネスがそこに過度な干渉を持とうとは思っていないし、彼女が良く知る人物がいたとしても、それは極めて近似的な他人、というに過ぎない。

 と、とりあえず彼女は理性的に理解している。彼女の認識レベルの、あくまで半分の領域において。

 「私も甘い」

 やれやれ、とライネスは苦笑いの嘆息を吐く。割とシビアな感覚で生きているつもりだったのだが、割り切れないことは割り切れないらしい。むしろシビアだからこそなのかもしれないが、やはりそれが余分な──義兄上(あにうえ)の生徒風に言うなら、心の贅肉のような、気はする。

 と、ライネスは足を止めた。ぐるぐるしていた思考も途端に凪いで、ただ空色の眼球だけが彼女の生命活動の中で励起しているようだった。

 赤銅色の髪の女。深い池沼の底を思わせる眼差しが、はたとライネスを捉えた。

 やあ、と手を挙げる彼女。フランクな彼女の挨拶に対し、ライネスは品よく手を挙げる。

 「なんだか元気そうじゃないか」

 照れたように、リツカは肩を竦めた。19歳という年相応のはにかみに、何故か、ライネスの知る彼女の生真面目そうな顔が重なった。

 「元気、貰ったから」

 会話はそれだけだった。通路の先を往くリツカの後ろ姿を見送ったライネスは、今さらに「あ」と思った。

 後頭部で緩く結んだ一つ結び。

 「似合ってるじゃん」

 髪型、変わってた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第4章 謀略夢想童歌(Crime rhyme)ロンドン~夜霧の魔法使い~
Ⅰ-1 ”魔女の館へご招待”


 西暦、2015年 人理保障機関フィニス・カルデア 技術研究室奥にて

 

 足元から、非常灯のか細い光が揺らいでいる。ぼわぼわ、と微かな点滅に照らされながら、レオナルド・ダ・ヴィンチは「これで最後だけど」と努めて平静な口調で終わりを告げた。

 「何か、言い残すことはあるかい?」

 佇立するダ・ヴィンチの視線の先。強化プラスチックでぐるりと囲われた培養槽の中にぷかぷかと浮かぶそれは、なんとなく、楽し気に見えた。

 ふわふわ、と気まぐれのように培養槽を泳ぐそれ。脳みそと脊椎だけの状態で生命活動を愉しんでいる彼女は、(何言ってんのさ)と培養槽内のハイドロスピーカーを通して応えた。

 (しんみりさせようったってダメだよ。むしろ、今日は誕生日なわけだろ?)

 軽妙な口調だ。その口調は彼女の天真爛漫さの表れであることを、ダ・ヴィンチはよく知っている。それと同時に、その天真爛漫さを以て、ダ・ヴィンチ自身の責任感を緩和しよう、という賢しらさも。

 「命日でもあるだろ」互いに互いを知り尽くしているが故に、会話は他愛ない様相だったのかもしれない。「一度、生命活動を停止させることに変わりはない」

 (物事は捉えようさ。そうだろ、私?)

 彼女の口ぶりに、頓着はない。そうだな、と遠慮がちに応えたダ・ヴィンチに対し、彼女もその配慮を素直に受け取って、言葉を続けた。

 (うーん、そうだなぁ。じゃあ、命名権だけ貰えるかな?)

 「00ユニットじゃあ味気ないしね」

 (全く。何がドクターロマンだよ)

 「そう言うなよ」珍しく、ダ・ヴィンチがやんわりと知古の友人を擁護した。「責任に耐えようとしてるわけだしナ」

 (どっちかというと逃避じゃないかな)

 「言えてる」すぐ、ダ・ヴィンチは手のひらを返した。「責任を負うなら、ちゃんと名前を与えてやる方が向き合ってるだろうな」

 (それもロマンらしいけどね)

 まぁ、最後は彼を責めることになって、そうして目の前の脳みそと意見が合致するのだが。一拍の間の後、互いに小さく笑い合うと、「それで、お嬢さんはどんな名前がいいのかな?」

 (うーんそうだな)

 ちょっとばかり、彼女は悩む素振りをした。最も、内心では決定済みなのだろう。であるなら、この躊躇いは、多分、ちょっとした気恥ずかしさみたいなものだろう。わかる。だって名前を付けるというのは、なんか照れるものだから。

 「私がつけてやろうか?」そんなことを言ったのも、彼女が決断できるよう、からかい半分な助け舟だった。「良い名前、つけてやるぜ?」

 が。

 (うーん、そうしようかな)

 「え゛゛」

 (だって名前って、他の誰かから貰うものだろう?)

 藪蛇である。しかも、確かに彼女の理屈もその通りだった。

 (さあ、早く早く。私たちの素敵な旅路(ビューティフルジャーニー)に相応しい名前、頼んだよ?)

 

 

 淵源のソラが、のたうっている。

 眼下に広がる霧の倫敦(ロンドン)。黒く沈んだ都市に差し込む太陽光はなく、陰鬱が形を成して跋扈しているよう。その闇黒の街並みの中、いやましに黒く装った()()が、色のない睥睨を流していた。顔立ちは若さ……というより幼さを感じたが、実年齢がどれほどかは伺い知れない。

 俯瞰風景を鋭利にさらう視線の先、彼女は足を踏み出した。屋根から飛び降りる仕草に躊躇はない。身投げすれば普通に即死するであろう高さだが、黒い魔女は優雅な身振りで宙に舞う。

 滞空は僅かに1秒足らず。重力加速度に従ったはずの華奢な身体が着地するより僅かに早く、ふわりと白い家鴨(アヒル)の羽毛が舞い散った。果たして羽毛の軽やかさに受け止められたのか、それともその羽毛で跳んだのか。何にせよ、黒い魔女は軽やかに地に足をつけた。

 ──“Lizzie Borden took an axe”

 鮮紅が、延長していた。

 どろりどろり、と路面に広がる紅。惨劇から遁走するように蠢く赤い液体の先、どす黒い塊が転がっていた。

 “And gave her father forty whacks.

 かつ、かつ、と音を立て、彼女はその塊へと近寄る。被った黒いクロッシュ越し、彼女は無感動に、それを見る。

 “And when she saw what she had done”

 肉が散らばっていた。眼球が転がっている。砕けた頭蓋から白い脳髄が零れている。大胸筋が削げた胸郭には、折れた肋が剣山のように突き出している。下半身は千切れ飛んで、10m先で折り畳まっていた。

 “She gave her mother forty-one.”

 口にした言葉が、舌先に淀む。顔を顰めた魔女は、真っ赤な肉団子の脇にへばりついた何かを注視していた。

 脳漿のような、青みがかった原形質めいた何か。名状しがたい悪寒に、黒い魔女は身震いした。何故そんな悪寒が惹起したのかも不明だったが、その判然としない情動が、ただただ不快だった。黒い魔女にとって、無駄に心をかき乱される事態は、とりたてて愉快ではなかった。

 (よお、どうだ? 俺っちの方は何もないぜ)

 「当たり」

 頭蓋の奥で響いた声に、彼女はいつも通りの平静で返した。お、と興味を示した念話越しの相手に、「玉藻の前を呼んで。あと、エリザベスも」と続けた。

 (俺っちとあのオッサンはいいのかよ?)

 「帰って大丈夫」

 軽口に対し、魔女の返答は無駄がない。念話越しの相手も百も承知な様子で、(へいへい)と気さくに返してきた。(ジキルに伝える準備でもしとく)

 ぷつ、と声が途切れる。念話が終了した間際に束の間続く「ざらざら」という無音を耳に、彼女は昔馴染みの人物を思い出していた。

 いつも不満そうな顔をしていた旧知の女性。憤懣を抱えて生きていながら、どこか溌剌という言葉も纏わせる彼女が、一番近いだろうか。最も、念話越しの男はもっと気持ちがいいというか、あんまり物事を考えてなさそうな人だが。そういった点だと、どちらかというと彼に近いだろうか。彼女以上に世間知らずで、“朴訥”という言葉がそのまま服を着て歩いているような、彼。

 微かな、逡巡。懐かしい、とも違う過去の回想だった。彼女は、懐古などという古寂びた情緒とは無縁なのだ。だが、そこに微かな人情を感じないわけでもない。

 黒い魔女は1秒未満の逡巡から意識を取り戻すと、周囲を見回した。

 人通りのないロンドンの大通り。油断なく視線だけを動かし、この街に展開した椋鳥の使い魔の知覚情報を把握する。

 何もいない。少なからず、彼女の索敵網には捉えていない。果たしてそれが何を意味するのか判然としないまま、魔女は空を仰いだ。

 天まで広がる黒い霧。闇が蠢く無音の中。

 ──獣の叫喚が、微かに耳朶を打った。




お待たせいたしました、4章開始です

誤字脱字のご報告やご感想、いつでもお待ちしております!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅰ-2

 (やあゴメンゴメン、遅くなった。じゃあ始めて)

 宙に浮かんだ映像ウィンドウに映るダ・ヴィンチの顔に、ロマニ・アーキマンが感じたものは、ある種の重々しさだった。

 西暦は2015年。

 12月もそろそろ終わりにさしかかり、2016年を迎えようとしている。ハッピーニューイヤー、なんて気分では一切ないけれど、そんな浮かれを表して見せるのも、多分自分の仕事だろう。管制室最下部、コフィンの前の広間に目の前に並ぶ5人に、改めてそんなことを思ったり、する。

 「あー、諸君」

 とは言え、そもそもロマニ・アーキマンは、小気味良くおどけて見せる手法なんて知らないのである。言いかけたまま頭上に「?」を浮かべたロマニは、一度咳払いをしてお茶を濁した。

 「ブリーフィングでもう話したと思うけど、次の舞台はロンドンだ」

 結局、ロマニは特に奇も衒わなければ、万人を楽しませるわけでもない、平々凡々は会話を始めてしまっていた。

 「時代は19世紀。これまで戦ってきた中でも、一番現代に近いね」

 (近現代が舞台、っていうのも意外な気もするけど。タチバナ君、なんでこの時代だと思う?)

 不意の質問に目を白黒させた、5人の内の1人──立華藤丸(タチバナトウマ)は、束の間思案気な様子をしてから「なんでしたっけ」と控えめに呟いた。まるで、できの悪い学生そのものみたいな顔である。

 が、そんなトウマの返答をこそ、ダ・ヴィンチは待っていたらしい。画面越しに、いかにもな身振りで指を鳴らしていた。

 (そう。この年号、人類史のターニグポイントになるような出来事はね、特にないんだ。イギリス以外に目を向ければ第二次産業革命が起きてるけど)

 「何故特異点になっているのか判然としない、ってわけだね」

 わざとらしく気難しげに眉を寄せ、プラチナブロンドの少女が言う。そうなの? とでも言うようにきょとんとするトウマを他所に、「前と同じパターンもある、ということでしょうか」と応えたのはマシュだった。

 「えーと、つまり時代そのものが変化してる、みたいなことですかね」

 おずおず、とトウマが口にした。

 前の時。

 即ち大航海時代を舞台に神代の海を渡ったあの特異点の話だ。今までどの戦いでもギリギリだったが、最も追い詰められた特異点でもある。

 トウマが何故か控えめに気落ちしているのは、前の特異点で大分参ったからだろう。それなのに、あれと似たようなことになる、と言われれば、正直陰鬱な気持ちにもなる。

 というよりも、とロマニは思った。

 (タチバナトウマ)は、ちょっと勇敢すぎる、と思う。これまでとて、何度も死地に飛び込んでしまっている。上に立つ人間として、そんな行動に助けられながらも心配は増大するばかりだ。いつか何か取り返しのつかないことになるのでは、と思うばかりである。

 (その可能性は排除できないね)

 「人理定礎値も、前まで測定不能だったんでしょ?」

 「そう。前までは測定そのものが不能、最近やっとシバの評価がでたって感じだ」

 リツカの言質に返してから、ロマニは手元のコンソールを操作する。次いで空中投影された映像ウィンドウに、今回の特異点に関する情報がずらりと並んだ。

 レンズシバが各特異点の人理定礎維持度の評価。つまりどれだけ元の時代と差異があるか評価する値が人理定礎値であり、端的に言ってしまえば攻略難易度のようなものだ。大まかにE~Aの5段階評価から始まるランク付けにおいて、Aランクに近づけば近づく程時代の乖離が大きくなり、時代を狂わせる要因が強大であることを示す、というわけだ。

 「E-、ね」

 胡乱げに、クロが呟く。

 それが、第四特異点ロンドンに対してレンズシバが行った評価だった。最も時代の乖離が小さいことを示すE評価、しかもさらに詳細な三段階評価を含めた上でも最低値のE-。

 「素直に理解すれば、一番楽ってことなんだろうけどねぇ」

 側頭部の髪をかき回しながら、リツカは苦笑いをしていた。

 これまでの特異点を思い返せば、そんな一筋縄でいくわけがない、と認識しているらしい。

 「とは言え、現状一番取り掛かりやすい特異点なのも確かってわけね」

 (もしかしたら、既に現地のサーヴァントたちが聖杯を回収してるなんてこともあり得得るかもだしね)

 「それだったらいいんだけどねぇ、ホント。あの真っ黒肉棒と趣味の悪い黒いサーヴァントのことも、なんもわかってないしね」

 苦笑いは変わらず。それでも若干の朗らかさを漂わせると、「じゃ、行こうか」とリツカはコフィンへと向かった。

 ぞろぞろ、とその背に続く4人。その背を見送るロマニはかろうじて「頑張ってね」と口にしながらも、なるべく誰にも悟られないように重く息を吐いた。

 この瞬間が、一番キツイ。年若い少年少女たちを死地に送り込むことの、この重さは何度経験しても慣れない。

 もしかしたら、誰か死ぬんじゃないか、という不安。マスターの2人だけではない。マシュもそう。クロエだって、ライネスだって同じだ。サーヴァントだって、どれだけ人を超えた兵器だって、そこに感情があって人格があって尊厳を持っているなら、人間と変わらない。かけがえのない時間を共に過ごした他者が死ぬ、という怖気に、人もサーヴァントも変わりはない。

 (ロマニ所長、こちら管制室、全員のフルバイタル測定完了。いつでも行けます)

 不意に思考を遮る、現実の声。目の前に空中展開するHUDに映る管制官の顔にわかった、と首肯で応える。その声と表情は、硬くなかっただろうか。震えていなかっただろうか。多分ちゃんとできていたはずだ、と思い込んで、ただただ虚勢を張った。管制官を務めるアジア系のショートボブの女性の表情は、あまり変わらない。

 「よし。やってくれ」

 (管制室了解。レイシフト開始(スタート)。繰り返す、レイシフト開始(スタート)

 心臓が、拍動する。鈍い音が鼓膜の奥で反響し、せり上がった心臓が喉元まで迫ってくるかのような不快が惹起する。

 (あーそうだ、ロマン。報告)

 そんなタイミングでの、何か不自然な声だった。一瞬の思考停止。よく見れば、念話の回線は秘匿扱いだ。

 何故こんなタイミングで、という疑念が8割。だが残りの2割で、何か確信した。

 (さっき00ユニットの処置は終わったよ。520時間後に意識転写が完了する。次は疑似魔術刻印と魔術回路の同調と、FCSの調整かな。廃棄個体の改良はこれからする)

 音声だけの通信で、ダ・ヴィンチはそんなことを言った。

 何を言わんとしているのか、ロマニはすぐに知れた。というより、先ほどの僅かな確信の通りだった、というべきだろうか。

 ちょっとだけ、意地悪だな、と思った。このタイミングで言ってこなくてもいいのに、と思った。けれど、多分本当は違う。このタイミングだからこそ、ダ・ヴィンチは生まれることすら叶わなかった少女を、ロマニに伝えたはずだった。

 「了解」

 だから、ロマニの返答も、それだけだった。

 いや、それだけにするつもりだったのだが。

 「ありがとう」

 最後に、そそくさとロマニは付け加えた。一拍の間の後、(はいよ)とたんぱくに応えたダ・ヴィンチの声が、耳朶を打った。

 

 ※

 

アンサモンプログラム スタート

霊子変換開始 します

レイシフト開始まで あと3、2、1……

 

 

……

 

全行程 完了

グランドオーダー 実証を 開始 します

 

 

 一瞬のような、永遠のような延長。

 高次元ストリングスである霊子に変換・分解された後、再構成されるその瞬間は、とにかく人間の言語で表現しにくい。自分の身体が偏在と局在の間隙でスピンするような、あまり心地よくない感触。それが延々と続いていくような気もするが、そうかと思えば、もう、終わっている。そんな、クラッシュ&ビルドを経て、マシュ・キリエライトは架空の時代で目を開けた。

 彼女がまず目にしたのは、灰色、だった。

 視界に淀むのは、霧だろうか。灰色の濃霧がのっぺりと広がり、視界の先はうまく見通せない。

 そこかの路地だろうか。道幅はおよそ5m。狭くはないが、格闘戦をするには窮屈だろうか。

 即座に状況を理解しつつ、マシュが感じたのは、幾ばくかの失望だった。

 冬木の後、3度レイシフトを敢行した。その度に息を飲むような自然がまず出迎えてくれていた。“箱入り娘”のマシュにとって、その瞬間は、難業に挑むプレッシャーを幾分か和らげてくれたものなのだが。これでは、プレッシャーを緩和するどころではない。むしろ陰鬱な景色も相まって、気が滅入りそうである。

 とは言え、そんなナイーブさばかりにかまけているほど、彼女は素人ではなかった。レイシフト完了を自覚すると同時、素早く周囲を確認。背後に残る4人の姿を見とめると、次いで視野投影されたマップを確認。正体不明の動体がいないことを確認して、最後に強化装備に装備されたセンサーが拾うバイタルデータをチェック。異常がないことを確認し、さらにそのデータがカルデアに送信されていることも併せて確認し終えると、これでレイシフト後の最終チェックは完了だ。

 「先輩、大丈夫ですか?」

 まず、マシュが声をかけたのはリツカだった。もちろんバイタルデータはローカルデータリンクで共有されているため、自分だけでなく5人全員に共有されている。自分のマスターに異常がないことは、データを一瞥すればわかることだ。

 つまるところ、何か客観的に必要な行動、というわけではない。これは、マシュ自身とリツカの間で必要な、日常的で細やかな精神の交歓だった。

 「大丈夫、マシュは?」

 「はい、問題ありません」

 「残念だね、あまりいい景色じゃあない」

 肩を竦める、赤銅色の髪の彼女。リツカはぐるりと周囲を見てから、マシュに肩を竦めた。以前のような側頭部で一つ結びにする髪型からちょっと変えたせいなのか、なんだか落ち着いた印象がある。

 「やれやれ。これじゃあ、観光もクソもないな」

 腰に手を当て、ライナスは呆れたように言う。そう言えば、彼女はかなり現代に近い時計塔の名家に産まれたのだっただろうか。2、3悪態をついては剣呑な視線を周囲に向ける様は、名門の才女というよりは、その当主を思わせるけれども。

 「悪いねマシュ」

 「いえ、元々戦いに来たわけですし」

 はあ、と呆れの嘆息を吐くライネス。レイシフト数日前、ロンドンが如何に素晴らしい街か、悪態と罵詈雑言を交えながら紹介してくれたのはライネスだった。

 (あーこちらカルデア。みんな無事にレイシフトできてるみたいだね)

 無線越しに耳朶を打ったのは、ロマニの声だ。柔らかな声に漂う、緊張から弛緩した安堵の声はいつものこと。なんだかんだ、技術的にまだ確立していないレイシフトを敢行するのは、緊張するらしい。

 (バイタルもオッケー。トウマ君、クロちゃん大丈夫?)

 「はい、大丈夫だと思います。だよね?」

 応えながら、トウマは自分の隣に並ぶ小さな背格好の女の子に声をかける。そうね、と特になんでもないように返事をした赤い外套の少女、クロエは手足をぶらぶらと揺らしながら、体調を測っているらしかった。

 「心配しすぎ。別に、試験でもなんでもなかったじゃない」

 (そうは言っても。ってことさ。未知の力なんて、危なっかしいことこの上ない。そうだろ?)

 ちょっと不満顔のクロエに、嗜めるようにダ・ヴィンチが言う。まぁそうだけど、と口にしながらも、唇を尖らせた素振りからして、納得はしていないようだ。

──前回の特異点で、クロが見せた新たな再臨形態の話、だ。基本的にサーヴァントは全盛期の姿で召喚され、スペック上成長することはない、とされている。だが、カルデアの召喚式の場合、サーヴァントの霊体を構成する霊基をなんらかの手法で強化・再編することで、より英霊に近しい姿として再召喚することが可能である、と考えられてきた。あくまで理論上の話にすぎず、また実証する方法もなかったことから「あくまでそんな可能性がある」と眉唾のように語られてきただけの話だったのだが、クロはそれを実証してしまったのだ。しかも、投影した宝具で自らの霊基を作り替える、などという荒業で。

 素朴に考えれば戦力増強を喜べばいいのかもしれないけれど、話はそう単純ではない。そもそもどんなプロセスで、どんな理屈で霊基再臨を行ったのか、本人含めて誰にもわかっていないのだ。そもそも本当に霊基再臨なのかすら不明だし、しかも再臨以降、彼女の身体そのものがあらゆる検査を通さなくなってしまっていては何も調べようがない。戦闘能力は向上したのは間違いないが、果たしてただバージョンアップしただけなのか、それとも何か代償があるのか、何一つわからないのが、現状の彼女の状態だった。

そんなものは戦闘に耐え得るものではない、というロマニとダ・ヴィンチの判断は多分正しい。クロも理屈はわかっているので、やや強権的な命令に対しても渋々ながら納得しているのだろう。これまでと同じような姿での戦闘を基本とする、という命令に、素直に従っているらしい。

 とは言え、いざとなったら、クロエは躊躇なくあの姿になるんだろう、とも思う。

 「というか、アナタは大丈夫なワケ?」

 「俺? まぁなんとも」

 ずい、と己がマスターを見上げるクロ。癖のある杼色の毛を指先に絡めながら、トウマも改めて、強化戦闘服が計測するバイタルデータを確認しているようだ。

 「ちょっと心拍数高めじゃない?」

 「やっぱ慣れないよ、4回目でも。緊張する」

 胃をさするようにしながら、随分しわしわした顔をするトウマ。呆れたように背を撫でるクロも、多分呆れは全然感じてなくて、もっと別なものを感じている。

 なんというか、不思議な関係性だなぁ、と思う。サーヴァントとマスターは大抵、非対称な関係性にならざるを得ない。力関係が歴然としているのだから当たり前だ。故に、良好な関係、となると互いの人格を認め合う、そんな形になることが多いらしい。

 クロとトウマの関係は、それとはちょっと異なる。もちろん互いにサーヴァントとマスターという関係性以上に人格を持った他者として関わり合っているのだけれど、それに尽きるのでもない。それよりもっと前意識的で、親密な関係性。上手く表現する術はないけれど、例えば学校の友達、みたいな雰囲気なんだろうか、と考えてみる。

 「しっかりしなさいよね」

 「おいっす」

 多分、持ちつ持たれつ。もちろん戦力としてはクロに存在意義があって、客観的にはトウマの存在意義はマスターである以上でも以下でもない。でも、そんな非対称な関係だからこそ、そこに強固な責任感があって、それが何か精神的な支柱であったりするのだろう、と思う。

 「えーと座標は」

 「イズリントン地区かなここ。時計塔に近いが」

 「残ってないんじゃないかしら、多分。どんな特異点か知らないけど、わざわざ残しておかないでしょ」

 「そうだね」リツカの言に、うんうん、と頷くライネス。「だとすると、どこにいったものかね、レイラインの支流は少なくないし」

 ごく自然と、クロとライネス、リツカが話を始めていた。こういう時、3人は思考が早い。特異点にレイシフトし、まず何をするか。どこに拠点を置くか、そういった戦略・戦術上の判断は3人に任せて、間違いない。逆に言えば、こういう時、マシュはちょっと蚊帳の外だ。歴史的な知識量は多いけれど、柔軟に思考することにかけては、3人に遠く及ばない。

 そうして、蚊帳の外がもう一人。ぽかんとした顔で3人のやり取りを聞くトウマも、なんとなく手持無沙汰なようだった。なんとなく目が合って、2人して苦笑いなんてしてしまう。

 「もう少し、マスターらしくしたいんだけどね」

 癖のある毛に指を通しながら、小さく自虐なんてする。元は魔術なんて全く無縁の世界に生きてたのだから、今でも立派すぎるくらいマスターをしている、とマシュは思う。

 「マシュは」ちょっと照れ臭そうに、トウマは言った。「誰がいると思う? この特異点」

 ほら、やっぱりしっかりしている。自虐よりも建設的な話へと、すぐ切り替えている。

 ある意味立場は自分に似ているけれど、自分よりずっと前にいる。それが、トウマに対するマシュの評価であり、ある意味でリツカよりも尊敬している部分だ。

 「19世紀末のロンドンですから」

 だから、マシュも真剣に、トウマの問いに思考を巡らせる。

 追うべき背は1人だけではない。あの火焔の地獄の中、崩落する天蓋に圧し潰されたマシュに対し、迅速にトリアージを下して他の要救助者の助命に奔走した、リツカだけではない。ライネスも、クロも、そしてトウマも。ここにいる4人全員が、マシュ・キリエライトの先達で、追うべき背なのだ。

 「やはりジャック・ザ・リッパーは高い蓋然性があるのでは、と思います」

 「ジャックか」

 一段、トウマの声が低くなった。

 切裂きジャック。恐らく世界で最も名の知れたシリアルキラーの名。ローマでは彼女……というか彼というべきか、ジャックが味方として召喚されていた。これがロンドンを舞台に召喚されるなら、知名度補正は絶大なものになるだろう。ローマと同じように味方であれば信頼できる。逆に敵であれば、かなりの脅威になるだろう。

 「後はシャーロック・ホームズもあり得そうですね。あるいはコナン・ドイルでしょうか。この時期はアメリカに渡っていますが、ニコラ・テスラなんかも」

 神妙な面持ちのトウマに対し、ぽつぽつと頭に浮かぶ偉人・著名人の名を挙げていく。すらりすらりと記憶から抜き出していく様は、生き字引のようだ。マシュとしては当然の“機能”なので特にこだわりもないことで、頭の片隅だけでサーヴァント候補を絞りながら、油断なく周囲を警戒する。

 「古い英雄が召喚されるかもしれませんね。これまでだって、時代に一致してたわけではありませんし」

 「アーサー王伝説の円卓の騎士とか? モードレッド、とか」

 なくはないと思います、と応えた時だった。

 不意に──あるいは必然的に、マシュは宙の一点を正視した。

 不意に、であったのは、特にその地点へ視線を向けたのは偶然でしかなかったからだった。

 必然的に、であったのは、今自分がすべきことは、周囲への警戒であると理解しており、油断なく視線を配っていたからだった。

 偶然であり、必然。とは言え、彼女が志向した視線の先に、明瞭な何かが形作られていたわけではなかった。

 何か、宙が歪んでいるように見えた。水面に水滴が落ちたような波紋が、小さく宙に歪みを作っている。相対距離がどれほどなのか図ろうとしても、戦闘服の各種センサーはそもそも認識すらしていない。目測であれば10mほどの距離になるだろうか。光学的な気象現象にこんなものがあっただろうか、と考えたが、すぐそんな楽観は黙殺した。

 敵、と判断してから、彼女は左手を腰の鞘へと伸ばした。

 柄を、五指が握りしめる。堅い感触が手のひらから返ってくると同時、彼女は脳裏でイメージする。剣の刀身に、力を圧縮するイメージ。何かを切断するイメージ。彼女の戦闘の基幹を為す魔力防御の運用には、強固な想念を形成することが何より必要だ。

咄嗟のマシュの動作に全員が何かを察知したのと、それが飛び出したのは、同時だった。

 歪みから、何かが射出された。サーヴァントの彼女ですら視認するのが精々な速度で放たれたそれは、槍にも、矢にも見えただろうか。鋭利な突端を持つ何かは音速すら遥かに超え、トウマの頭部に殺到した。

 人間の頭部など、おそらく容易く破砕するであろう一撃。超速で飛来したそれは、だがトウマの頭部を遥か手前にして弾き飛ばされた。

 切り結んだのは、跳躍した斬撃だった。マシュが鞘から剣を抜き放つのに合わせ、刀身に併せたパワーフィールドを打ち放ったのだ。鞘からの引き抜きしなに下段から掬い上げるように剣を振り抜いた直後、今度は上段の構えで第二撃を待ち構える。防御でありながら盾でなく剣を選択したのはその為で、場合によってはこのまま攻めに転じようという攻防どちらも兼ねた思考だった。

 が、マシュのそんな思考は、どちらも実際には起こらなかった。

 第二撃はそもそもなかった。奇妙な歪みから鎌首を擡げた何か──巨大な尾か触手のように不定形に蠢く奇妙な肉茎は、ずるずると地面を這いずるだけで次の攻撃には転じようとしなかったのだ。

 では打撃に移ればよかったか。確かにそうかもしれないし、実際そうすることもできたかもしれない。だが、マシュはしなかった。というより、できなかった。何せ、目の前で生じた光景が、あまりに人間の常識の埒外だったからだ。

 ひずみから、何かが這いずり出した。ゆっくりと緩慢な動作は、傲慢や驕慢さの表れか。蒼褪めた躯体が、のそり、のそり、と宙のひずみから乗り出してきていたのだ。

 獣、という言葉がまず脳裏に浮かんだ。全長、およそ3m。脳裏を掠めたのは、幼少期……といっても生体培養されたマシュにとっては、数年前のことだが……に見た図鑑の写真。確かヒグマやホッキョクグマがこの程度の大きさだっただろうか。

 だが、これはそんな文化圏の内側の言語で表現できるものなのか? 腐臭を撒き散らし、聞くに堪えない唸り声を喉で鳴らしながら顔を覗かせたそれは、果たして幻想種などという太古の神秘の具現ですらあるのか? 冒涜的なまでに醜悪な、こんな生物が存在するのか? のそりとひずみから姿を現した肢体は腐肉が蠢いているかのようで、ぎょろりと覗いた眼だけは、妙に悟性的にマシュを見定めた。

 「jqbbt gquejap@……uyq@?q@;te.kt」

 何か、呻いた。酷く金切りのようなそれが言語であるなどと、とても言えそうにない。ぶるぶる、と不快そうに身震いするのも束の間のことで、仁王立ちした獣は天を仰ぎ、咆哮を迸らせた。

 ぞわり、と全身の肌が粟立った。

 生命の原初を戦慄させるような叫喚。全身が痺れるように緊張し、嘔吐感が一挙に押し寄せる。視界が酩酊するかのように揺らいだと思ったときには天地の感覚が不良になって、後の瞬間には自分が立っているのか横になっているのかすら不明だった。自分の存在すらぐしゃぐしゃの原形質に淀んでいくようで、マシュ・キリエライトという存在者は存在の渦にそのまま飲み込まれて

 「マシュ!」

 「あっ」

 慌てて、マシュは跳び起きた。

 一切停止していた思考が猛烈に稼働して、マシュは現状を素早く把握した。自分に馬乗りになったトウマの表情は酷く強張っており、蒼褪めた顔は端的に言って病人めいていた。大丈夫です、と無意識に発話しながら起き上がったマシュは、遠く、剣戟の音に顔を向けた。

 ほっと安堵したようにどけたトウマに代わり、今マシュの顔を覗き込んだのはリツカだった。

 「精神汚染、みたいだけど」そう言うリツカの表情こそはいつも通りだが、額には脂汗が滲んでいた。「帰ってこれただけで良かった」

 「先輩、私」

 「今、クロが戦ってる」

 くい、と顎をしゃくる。確かに硬質な何かが激しくぶつかり合う音が、肌を叩いている。

 さっきの怪物の姿が、視界を掠めた。ぞっとしたマシュは僅かに身震いしたが、すぐに「行きます」と口腔内に溜まった鈍い唾液を嚥下した。

 「オッケー。ただし前衛はクロ、後衛がマシュね」

 「でも」

 「でもじゃない」ぴしゃり、とライネスがマシュの声を遮る。「そんな体たらくで戦っていい相手じゃない、あれは」

 「それに、どういう理屈か知らないけどクロはあの精神汚染に耐性があるみたいだし。適材適所だよ」

 了解、と応えるマシュの声は、絞り出すようだった。精神汚染のせいもあるが、それだけではない。ふ、と息を振り絞ったマシュは、戦闘音の方向。路地を抜けた広場へと足を向けた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅰ-3

 びりびり、と重圧が肌を叩いている。怪物が咆哮をあげる度に大気が、世界そのものが痙攣するかのようだった。その衝撃の最前線の最中にいながらも、クロの挙措は一切鈍らない。

 蠢くように駆動する、あの槍のような舌。鋭利な刃が頭蓋を狙おうとするなら、双剣の一薙ぎで叩き落し、豪爪が脇腹を抉ろうというならもう一方の剣で切り結ぶ。尾部が隙を狙うように忍び寄れば、踵を捻じ込んで黙らせる。突如現れた怪物の攻勢を、クロはほぼ完封するように迎撃していた。

 というよりも──とクロは思った。

 敵は、何か、攻めあぐねいているように見える。こちらの力量を測るでもなく、ただどう攻めて良いのか理解できていないように、見える。窮鼠に咬まれた猫のような戸惑いを、しているように見える。

 抱き着くように両腕の爪を振るう獣の身振りは大きい。喰らえば致命傷、と理解しながら、クロは背後に飛び込むことなく、前へと地面を蹴り上げる。

 狙いはがら空きの小脇。身長140cm未満と小柄なクロ故の猪突だ。反応が遅れた獣の脇をアヒルのように潜り抜ける間際、クロは身体を捩らせる。モーメントに併せて振り抜いた黒白の双剣が獣の脇腹を抉り取り、ばっと青い鮮血が散った。

 耳障りな悲鳴が劈いた。どろどろと脇腹の傷口から臓物を零した怪物は一頻り吠えた後、じろりと背後のクロへと睨みつける。

──敵じゃない。

 それが、現段階での敵性生物に対する評価だった。強敵であることは変りないと思うが、これまで戦ってきた難敵と比べれば大したことはない。狂戦士のランスロットやアルテラ、ヘラクレスの方が、遥かに強かった。マシュがやられそうになったのは、ただ精神的に圧倒されたから、それだけのこと。実力で負けたわけではない。

 しかし、何故自分だけが精神汚染が効かないのか。思い当たる節は、一つしかない。内心、独り言ちる。自分の内にいる無言の何かはそれに応えない。

 獣が、何か呻いている。意味のある言語なのか、それともただ獣の唸り声なのかは判別しない。クロにしてみれば、ただただ不快な雑音だ、という感想だった。

 「それで、アナタ何なワケ? この特異点の真犯人?」

 軽口だったが、その眼に油断は一切ない。【千里眼】と【心眼:偽】を併用する彼女の眼差しは、怪物の一挙手一投足を隙なく把握する。相手の攻撃パターンはおおむね把握済み。舌を伸ばすなら斬り伏せる。爪で抉ろうというなら腕ごと破砕する。それだけの話。

 「さあ、早くゲロっちゃいなさいな」

 白亜の剣を振り上げる。狙いは首。そこが急所なのかは不明だが、一般的な脊椎動物であれば首を断ち切られて困らない、なんてことはないだろう。

 クロが剣を撃ち込まんとした時、また、獣は小さく唸った。

 「c4t utjq@s6mZqt@、x@eoed8t」

 ──判然としない声だった。

 はず、だった。

 なのに、何故かクロにはその唸り声が、何か意味のある声、文明圏で発達した言語として理解、してしまった。

 即ち、この化け物はこんなことを、言った気がした。

 《お前は狩りの対象ではなく、あの唾棄すべき不浄のものどもと同じ、倒すべき敵だ》

 ぞわ、と総毛だった。獣特有の荒々しい衝動が、明瞭な殺意へと集束する。

 咄嗟、クロは掲げた双剣の片割れを手元に引き戻した。英霊エミヤを基幹とする卓越した戦術眼がそうさせたのか、それとも生前の激戦に加え、これまで4つの特異点を制してきたクロエ・フォン・アインツベルンの技倆がそうさせたのか、あるいはどちらもか。何にせよクロは首を切り落とすために掲げた白亜の剣と左手に持った漆色の剣を重ね合わせ、背後へと振り抜いた。

 衝撃が全身を貫いたのは、その直後だった。虚空を打つはずだった双剣は、突如現れた獣の爪をあわや堰き止めた。

 否、押し負けた。クロの小さな身体は巨大な質量が直撃したように吹き飛ばされ、赤い人影が宙を舞う。

 ダメージはない。直撃を避けながら、背後に飛び退くことで衝撃そのものもほぼ逃がした。だが、クロが瞠目したのはそんな理由からではない。鈍い、硬質な音が鼓膜を劈く。一瞬前まで目の前にいたはずの化け物が、瞬きすらせぬ間に背後に回り込んだのだ。もう1匹、と思ったが違う。広場に佇む化け物は1匹。気配もない。なんらかの魔術を行使した形跡もない。であれば純粋な運動性能だけで、クロの動体視力を上回ったのか? そんな馬鹿げたことがあり得るのか? だいたい、あれはサーヴァントですらない何かだというのに。

 駆け巡る思考、燻る焦燥。解答が出ぬまま、されど無策で挑む愚はおかさない。

 両手の双剣を投擲。1000m/sで射出された剣1本が獣に殺到する。化け物はそれを平然と爪で叩き落してみせたが、そんなものは予想の範疇だ。

 「投影、装填(トリガー・オフ)!」

 (クロ!)

 「大丈夫、アレは使わないわ!」

 敵戦力を修正。もし仮に敵が運動性能だけでさっきの機動をしてみせたのなら、控えめに言って敏捷値はEXランクに達する。それはサーヴァントのスペック上限値を超えるため測定不能、を意味するEXランク。要するに、魔術世界における最強の使い魔、ゴーストライナーを優に超えた怪物ということだ。

 過大評価のきらいはあった。だが、過小評価して敵の戦力を過つよりは、遥かに良い。

 故に、クロは投影する。あれに対抗し得る兵器を脳裏に描く。

 過剰か、という疑念を、身体が軋む疼痛ごと捻じ伏せる。敵が予想以下の雑魚ならごり押しで斬殺すればいい。さもなくば、この剣を以てようやく互角の敵のはず。

 幻影の手触りが手のひらを撫でる。じり、と脳髄が焼け付くような感触も気にも留めず、クロは現出した幻を両手で構えた。

 黒い、両刃の剣。彼女の小さな身体で振るうには大きい。かつてオルレアンで死闘を繰り広げた湖の騎士、ランスロットが振るった神造兵装。『無毀なる湖光(アロンダイト)』を八双に構え、覗き込むようにこちらを伺う怪物に対峙する。

 思った通り、投影の精度は上がっている。微かに息を荒くしながらも、当然のように聖剣を投影してみせたことを再認識する。

 ……元よりクロ、ひいてはイリヤがアーチャーのクラスカードから引き出して運用する投影魔術は、正確には投影魔術と異なる。小聖杯そのものですらあるクロの身体的特性も含めて、こと投影する武装の多義性という点では英霊エミヤを凌駕し得るのが、クロの投影魔術だ。投影するプロセスを省略する、という特性と身体的特性を併せた上での神造兵装の模倣が、その最たる例。英霊エミヤでは限定条件下しかできない武装を、彼女たちは再現する。

 しかも、とクロは自ら作り出した剣を見、思う。

 投影品そのものの性能劣化が改善している。通常、投影した宝具は刀剣類であってもワンランク性能が落ちるのが常だ。この聖剣もランクは確かに落ちているが、あくまでワンランク未満の低下に収まっている。単純な性能に限れば、真作と謙遜がないほどに。

 やはりあれのせいなのか? そう理解する他ないが、そもそも今、そんなことはどうでもいい。この目の前の敵と戦わなければ。

 「SSリーダー、こちらBS02。バンデッド01の挙措に著しい変化を認む。ステータス予測値をそちらに送るわ」

 (こちらSSリーダー了解)リツカの声が耳朶を打つ。(マシュが行くまで踏ん張って)

 「了解。BSリーダー」言ってからクロは、もう一度、マスターの名を呼んだ。「トウマ」

 (バイタル、確認してる)

 「そ。じゃ、タイミングは任せるわ」

 構えは八双のまま、クロは静かに、眼球への強化を開始する。

 仮に、さっきの超機動が純粋な運動性能によるものだとしたら、とてもではないが補足すら不可能だ。故にこそ、全ステータスを向上させる上、防戦に強い幸運判定を付与するアロンダイトを選んだ。魔量値向上により高精度化した視力の強化は高速で動く敵をより補足しやすくし、視認した敵の攻撃に確実に対応するための一手だ。

 だが、それだけではない。防戦はあくまで手段の一つにすぎない。こと戦術レベルの勝利とは敵を殺すことにあるのだから、ここでクロが勝ちきるには致命的打撃を確実に撃ち込む必要がある。

 あらゆる要素を加味して選出したこの聖剣を構え、クロは静かに、眼前で低く唸る敵の挙動を待つ。

 1秒、2秒。じりじりと焼け付くような時間の流れの中、ほんの微か、化け物が身動ぎした。

 それが、合図だった。肩に担ぐように聖剣を構えたまま、クロの体躯がワンテンポ遅れて石の路面を踏み込む。

 瞬間、並列して魔術を執行。

 発動するのは“空間転移”。自らの身体を半径100m以内、任意の座標に瞬時に移動させる、という単純かつ強力な魔術。自らを霊子情報にまで分解し、指定座標に移動する……霊子テレポート。それが、彼女の扱う空間転移、だった。

 視界がぶつりと千切れると同時に、拓くように視界が切り替わる。視界の先には化け物の背。無防備な痩せぎすの背を捉えるや、

 「『縛鎖全断・過重湖光(アロンダイト・オーバーロード)』!」

 魔剣より引きずりだした英霊の技倆を以て、彼女は真名を解放すいる。

 小聖杯として、彼女単独ですら夥しいまでの魔力量を誇る。その膨大な魔力を、一挙に剣へと注ぎ込む。超高圧縮されたマナによって生じた位相差光が十字を象り、怪物の腰部へと、横一文字の剣閃を撃ち込む。

 剣術において、二足歩行をする生物には回避しにくい部位がある。腰部はその1つ。一度行動を始めたその部位は次の行為の移るに難しい。隙と言えば隙だろう、しかし時間にすればコンマ1秒すら冗長なミリセカンドの攻防において、一瞬ですらない隙だった。

 だが、クロはその隙を衝く。英霊としての技倆と性能、聖剣の格。自らの戦闘センス、積み上げた訓練からのサルベージ。あらゆる集積の果てに撃ち込んだ、必殺の一撃だった。

 畢竟、この一撃でこの化け物に致命傷は負わせられる。焦燥もなく驕りもなく、アロンダイトの一閃は、間違いなく腰を切り飛ばした。

 はず、だった。

 剣より漏出した光子が唸り乱舞する光の中、ゆらりとこちらを振り返った化け物は、何故か、嗤っているように見えた。

 クロは、両手の感触に瞠目した。剣は、何にも触れずに宙を切った。舞うはずの血飛沫もなく、飛び散るはずの肉塊もなく、ただ悪戯に発散したアロンダイトの光子が光の波となって、宙にさ迷っていただけだった。

 (クロさん!)

 立て続けに脳内に響く警報音、視界の右上の戦域マップに閃く赤い光点。自分の背後に現れた敵性動体を示す表示に、全身が総毛だった。

 アロンダイトを振り抜いた挙動の中、僅かに背後が目に入る。背後に、背後に、爪を突き立てんとする怪物の威容が屹立していた。

 刃が迸る。鈍く鋭利な擦過音が甲高く押し広がり、飛び散った赤い飛沫が地面に染みを作る。ゴム毬のように吹き飛ばされた赤い矮躯は地面に墜落しながらも、寸でのところで剣を構える姿勢を維持していた。

 霊衣の内側に着こんだ強化戦闘服の麻酔が圧迫注射され、左わき腹を抉られた激痛が脳みその意識領域から零れ落ちる。それでも脱落しきれなかった疼痛に顔を歪めながら、クロが考えたことは、「何故?」だった。

 どうやって、何をした。それが一切不明だった。ただ現状明確なことは、正体不明の方法で背後に回った化け物の一撃を喰らって、自分はほぼ戦闘不能という現実だった。間一髪アロンダイトを振った慣性モーメントに乗せて背後に剣を振り抜かなければ、爪の一撃をもろに霊核に食らって即死していた。

 だが、大差ないことかな、と思う。剣を構えてこそいるが、構えているだけで精一杯。こんな状態で戦える相手ではない。どうやらマシュがこちらに近づいてきているようだが、あまり意味はないだろう。彼女の射程距離と現時点での相対距離を鑑みれば、この戦闘に参加するまであと5秒。5秒などという長時間、とてもじゃないが持ち堪えられない。

 化け物が、駆ける。片膝をついたクロは、しかし、次の一手のために魔力を回す。

 がちがち、と聖剣が震える。夥しいまでの神秘を漏出した剣が、慄くように痙攣している。内包した神秘を自ら崩壊させる自爆技の作動まで、あと1秒。励起した神造宝具の志向性爆破は周囲500㎡を摂氏数千度で焼き尽くし、精々5秒の時間を稼ぐのみ──。

 ───“Diddle  Diddle.” 

 爆破の間際。

 不意に、地面から無数の白銀が飛び出した。林立もかくやといった有り様でせり立った銀の刃。銀のスプーンとフォークがクロと化け物の間に、さながら防波堤のように屹立した。立て続けに銀の垣根越しに閃く爆光烈風。稲妻すら巻き起こした魔力エネルギーの衝撃波が飽和し、無音の狂騒が膨れ上がった。

 「ささ、こちらへ」

 「あっ」

 ぐい、と誰かが手を握る。乱舞する光の渦の中、軽々とクロを抱き上げ宙に浮かび上がった人影は、何と言うか場違いだった。

 ふわ、と屋根へと降り立つ身振りは優雅だというのに、ひょこひょこと頭頂部で揺れるケモミミに、背後で揺れる尻尾がなんとも不調和のような、調和のような、ともかくなんかギャグっぽかった。

 「風か光か稲妻か? 御用がなくともジャンジャジャーン! みんなの頼れる巫女狐、タマモクロ……じゃなかった、玉藻の前でございます! 危ない危ない、おウマな娘になるところでした……以後お見知りおきを、小さなアーチャーさん?」

 ほにゃ、と子供っぽく笑って見せたケモミミのサーヴァント。そう、サーヴァント。玉藻の前はクロの身体を片手で抱きかかえたまま、続けて右手を天に掲げた。

 「さぁバリバリ呪っちゃいますよぉ! 金時さん、女王サマ、やっちゃってください!」

 頭上を擦過する騎影2つ。かろうじて視認したその姿に、今度こそクロは、場違いに素っ頓狂な悲鳴を挙げた。

 金の髪を逆立てた若武者と、もう一人。赤いドレスに身を包み、宝剣を携えた剣士の姿は、どう見たって、

 「!?!?!?」

 あのあかいあくま、そのまんまだったんだもの。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅰ-4

オリ鯖が出ます。苦手な方はブラウザバックされるか、心して御目通しくださいませ。


 “それ”、にとって、その瞬間は運動ではなく思考に全てを割いていた。

 周囲は、突如上空から降り注いだ爆撃で霊子と爆煙が立ち込めている。事実上、目隠しされたような状態に陥っている。元々光学情報、視覚情報に頼らず索敵する“それ“にとってみれば大きな意味はなかったが、この状況それ自体は警戒すべきだ、と認識していた。つまり、これは攻撃のための一手。こちらの索敵網を防ぎ混乱に陥らせたうえで強襲をしかける心づもりだ、と把握する。

 取りうべき行為は、大きく2つ。ここから全速力で脱出するか、それともこの場に構えて迎撃に専念するか。思考の末、それが行ったのは後者だった。

 本来であれば前者であろう。だが、闇雲に逃走する方が、危険性が高いと踏んだのだ。なにせ先ほど切り結んだあの赤い敵。あれは本質的に、遠距離攻撃を得手とするに違いないと認識していたからだ。脱出の瞬間を狙撃されれば、躱すのは容易ではない。いや、狙撃だけだなまだいい。無防備な状態で飽和攻撃でもされようものなら、抵抗すらできずに制圧されるは必至だった。

 無論、この場にとどまっていても事態は変わらないだろう。脱出しないとみるや、たちまちこの一帯を爆撃してくる可能性もある。そうでなければ接近戦をしかけにくるか。

 畢竟、それにとってみればこの状況は危機的状況で、この戦術的2択問題も「どちらが勝率が上がるか」というポジティヴな命題ではなく、「どちらが死ににくいか」というネガティヴな命題だった。

 だが、それは揺らがない。一転して自らの致死を目前にしながら、最善を思考することを辞めない。たとえこの不自由な肢体であったとしても、それを呪っても致し方ない。

 だから、じっと、それは待った。周囲のエネルギー風と煙の狂騒が止むのを、ただじっと待った。豪胆な冷静さで焦燥を耐久したが故、それは背後からの急襲に対して迅速に迎撃した。

 高速で肉薄する影が1つ。赤い剣士が手に携えた宝石の剣を掬い上げる。どうやって接近したのか不明。だが迎撃できない距離ではない。逆袈裟切りの一撃を、ただ身体を捩らせるだけで躱してみせ、お返しとばかりに接近しなに無事な爪を叩きつける。

 剣士は、あまりに容易くその一撃を振り下ろした剣で受け止めた。いや、受け止めたのではない。横薙ぎに振るった爪に上段から剣を振り下ろすと同時に飛び上がり、軌道を逸らすと同時に“それ”の手首を踏み台にしさらに跳躍。曲芸じみた動きで獣の直上を位置取るなり、再度何かをばら撒いた。

 「今よ!」

 響き渡る、凛烈たる叫喚。何か危険を察知したときにはすでに遅く、周囲に散らばった無数の鉱物が砕け散り、それは呻き声にも似た叫喚をあげた。

 全身が一挙に軋んだ。四方から押し寄せる圧力が身体を縛り上げ、動こうに動けなかった。

 重力操作系の捕縛魔術。重力計数そのものに干渉するそれは、およそ魔法に近しい魔術の具現だった。

 接近する何か。堂々と真正面から猪突した偉丈夫が、巨大な斧を掲げる。それに匹敵しようかという隆々とした体躯が掲げる黄金の鉞から飛び出した薬莢、計3つ。溢れんばかりの電撃が龍のように迸り、今か今かと解放の瞬間を待っている。

 「骨の髄までイッちまいなァ! 『黄金衝撃(ゴールデン・スパーク)』!」

 

 

 「と、いうような状況でして、ゆるりとお待ちくださいませ」

 ね、と小首を傾げるケモミミの女性。ひょこひょこうねうね、と狐の耳と尻尾を動かしながら、彼女は抱きかかえたクロをそっと地面に降ろした。

 「とりあえずそちらに任せていい、と」硬質な声で伺うライネス。油断なく見上げてくる視線に、ケモミミのサーヴァントもちょっと困り気味だった。「イナリワ……じゃなくて」

 「玉藻の前です。間違えないでくださいまし」

 ぷんすかしながらも、彼女は「まぁわかりますケド」と肩を落とした。

 「いいじゃない、信用しても」気楽そうに言ったのはリツカだった。一転してキラキラした視線を向ける玉藻の前をスルーしながら続けた。「これで敵ならどうしようもない」

 不肖不肖、といったようにライネスは玉藻を見上げていた。確かにな、と言うように玉藻を見る視線は、なんとも容赦なく、玉藻の前もしょうがないかなぁ、みたいな顔をしていた。

──遡ること、1分前。広場に出た3人が目にしたのは高密度の魔力が吹き荒れる光景で、立ち入れずに四苦八苦するマシュの後ろ姿だった。クロとのデータリンクも上手く繋がらず、リツカがマシュの無謀な突撃を掣肘し、ライネスが必死に思考を回転させはじめた時に振ってきたのがこのケモいサーヴァントだった、というわけで──今に至る。

 「あー一応だけど、もう傷は大丈夫」

 ちょっと決まり悪そうに言うクロに、彼女のマスターはただただ大きく肩を落としていた。16歳の彼は今もって何もできなかったことを悔いているらしく、一画令呪が脱落した左手で、くせ毛をかいていた。

 「もう大丈夫」項垂れも、でもちょっとだった。大きく息を吐いたトウマは両手で顔をぴしゃりと叩いた。「とりあえず、良かった、と思おう」

 微かに、何かがざわめく。今の感情はなんだろう。クロは思案するまでもなく解答を握っていたが、あまり、考えないようにした。思考は閉じて、ただざわめくがままにした。

 「背、伸びた?」

 「いや、変わってないけど」

 不思議そうな顔をしてから、トウマは「助かりました」と丁寧に玉藻の前に頭を下げた。クロが魔力含めてほぼ完調状態なのは、このキャスタークラスのサーヴァントのなせるわざだったからだ。

 「いえいえ、これから友好関係を築くわけですし。恩を押し売りしておいた方がよろしいか、と思いまして」

 ころん、と小首を傾げるような素振りをして、玉藻の前はトウマの手を取った。キャバ嬢か何かみたいな緩い表情に、底抜けの朗らかな雰囲気だ。

 「あのー玉藻の前、さんなんですよね。日本出身の」

 「はい? そうですけども、どこかでお会いしましたか?」

 「いや、そういうわけではないです。ただ、ええと」トウマは少しぎこちなく言った。「お綺麗な方だなぁと」

 「まぁまぁ嬉しいことを仰いますねぇ。そういうあなた様も、善い魂をお持ちのようで」

 にこり、として、玉藻の前はなおさら強くトウマの手を握りしめているらしい。ふにゃふにゃとよくわからない顔をしたトウマは、目の前でぶるんぶるん揺れる手に、されるがままになっていた。それとも、もっと別なぶるんぶるんしているものを見ているんだろーか。

 この反応。多分、このサーヴァントも“原作キャラ”なんだろうか。西洋的な魔術とは全く異なる理論体系の魔術──それは最早、厳密には魔術ですらない──を駆使するキャスター。致命的損傷を負ったクロを、片手間でたちまち回復させた技倆は、魔術に長ずるクロだからこそ伺い知れる。元はゲームのキャラクターとかなら、さぞ強力なPCだったりするのかしら。

 というか。

 ある意味で、クロにとっても、似たような状況になりつつあるのだが。

 「終わったみたいですね」

 手でひさしを作って、眺望する素振りをする玉藻の前。アーチャーのクロにしてみれば、ごく自然に広場の戦闘の趨勢は把握できた。

 薄くなりつつある煙の中から出てきた人影に、クロは妙な顔つきになった。シリアスな空気なのにギャグ顔になっていないか、と自分の顔をむにむにと触りながら、努めて平静に、その人相を正視した。

 「ダメだった」

 口を開いたのは、金の髪の大男だった。流石にあの化け物を見た後だと小さく感じるが、それでも大きい。筋骨隆々とはこのことだろう。肩に担いだ鉞も、腰に下げた大鉈も大太刀も、男の手にかかれば小枝のように振るうに相違ない。

 「逃げられた。間違いなくぶっ叩いた、と思ったんだが」

 バーサーカーのクラスらしいが全く以て狂化の影響など感じさせない大男は、険しい顔つきで言った。

 「アンタは追いきれなかったか?」

 「うーん無理でしたねえ。何の痕跡も残さず消えてしまったようなので」

 そうか、と言った大男は、全く納得していない様子だ。舌打ちこそしなかったのは、多分、この男の在り方なのだろう。

 「なぁところで」ふと、張り詰めていた男の空気が抜けた。さっとこちらを流し見た視線に毒気はなく、なんとなく、野生動物じみた朴然とした気配を感じた。「俺っちのこと紹介してくれよ、皆皆さまに」

 ……こんな風に、ちょっと照れたように言ってしまうような人なのである。多分、素直な少年のような人なのだろう、と思う。

 「あ、そうですね。もう一応お伝えしているのですけど。バーサーカーの坂田金時さんです。そしてこちらが」

 すす、と素早い身のこなしで、玉藻の前が男の前に滑り込む。そしてもう一人、と口にしかけたところで、彼女は「いいわ、自分でします」と品よく口にした。

 今度こそ、クロは面喰った。その凛烈な佇まい。衣装こそ違うものの、善く似合う深紅の魔術礼装を着込み、トレードマーク、とばかりにセミロングをツインテールに結んだその姿。どう見たって、遠坂凛ではないか。

 それで。

 面喰った奴がもう一人。目元を抑えて前後不覚になったトウマは、静かに呻いていた。「情報量多すぎる。玉藻と凛とか何」

 「あ。リンちゃんじゃん、おいっす……っていうか女王様でいらしたんですか」

 「お久しぶり、リツカ。いつぶりかしら」

 そうして当たり前のように顔見知りのリツカ。金時の背からひょこりと顔を出したマシュは、盛大に疑問符を頭上に浮かべている。

 「やっぱ」少し、リツカは言葉尻に迷ったように眉を寄せた。「サーヴァントだったのかぁ」

 もちろん、と胸を張る彼女。呆気に取られたり気絶しかけたり、色んな視線を浴びながら、遠坂凛の姿をしたサーヴァントは高らかに名乗りを上げた。

 「サーヴァント、キャスター。真名はエリザベス1世。あまり有名ではないですけれど、よろしくね。カルデアの皆さま?」

 スカートの裾を摘まんで、遠坂凛、もとりエリザベス1世は丁寧にお辞儀をした。

 エリザベス1世──。

 有名ではない、というのはあまりに謙遜が過ぎる。大小批判されつつも、近現代のイギリスという国の基礎を打ち立てた女王と言えば、間違いなく彼女を置いて他に居ない。フランシス・ドレイクを海軍提督に召し上げ無敵艦隊をうち破り、文化興進によりシェイクスピアが文壇に昇る契機を打ち立てた、まさに張本人。それが、エリザベス女王。今まさに目の前に君臨するサーヴァントの功績だった。

 「それにしてもリンちゃん、普通に黄色人種みたいだね?」

 多少なりとも目を白黒させながら、一切言葉尻の変わらないリツカである。そんな素振りが気持ちいのか、エリザベスも朗らかに笑みを見せた。

 「身体は別なの。疑似サーヴァント、っていうのかしら。私自身は有名だけど、何せ近代人だし。幻霊程度の力しかないから、器を借りてるのよ」

 「ライネスちゃんみたいなものか」

 ねえ、と水を向けられて応えたのは、けれどライネスではなかった。そうだな、と堅苦しい口調は、司馬懿のものだ。

 「いや、申し訳ありませんね女王様」 ぎこちなく、司馬懿もエリザベス女王のカーテシーに拱手を返した。「色々混乱しているみたいです、ライネス殿は」

 「知り合いが多いのね、トオサカリンちゃんは」

 ひょい、と視線がクロに向く。ぎょっとする間に、「まぁいいわ」と独り言ちたエリザベスは、改めて、と言うように咳払いをした。

 「特異点ロンドンへようこそ、カルデアの皆さま。魔法使いがお待ちしておりますわ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅰ-5

 「ここよ」

 首都ロンドンの中央からソーホーへと続く道すがらの狭い路地で、エリザベス女王は立ち止まった。

 何の変哲もない、どこともしれない暗い路地。濃霧はこんな街並みの隙間にも侵入し、我が物顔で膨れ上がっている。

 「全然わからないね」

 呆気にとられたように、リツカが手を伸ばす。何かまさぐるように延びた手は、何も掴むことなく空を切るばかりだ。ライネスも不思議そうに周囲を見回しているが、要領を得ないように首を傾げていた。無論、2人がそんな調子である。少し勉強を始めたとは言え、ずぶの素人であるトウマに、すぐ目の前に固有結界があるなど、知覚できるはずもなかった。

 「クロはわかる?」ふらふらと手を振り回しながら、トウマはすぐ脇で難しい顔をしている自らの相棒に言った。「固有結界って、こんなにわかりにくいもんなの?」

 他方、うーん、と眉を潜めるクロ。ためし、とでも言うように地面に手を触れて何か魔術を発動したらしいが、彼女も首を横に振った。「全然ダメ」

 果たして、4人はさっぱりわからず、マシュも手持無沙汰のように立ち竦みながら眺める路地裏に、エリザベス女王ら3人、ひいては彼女ら3人を率いる“魔法使い”の本拠地があるらしい。しかもそれは固有結界の形を執っており、且つ、極めて巧妙に隠匿されているという。

 「しかし、やっぱすげえんだな大将の“魔法”って奴は」

 喜劇か何かでも演じるようにふらつく4人に、金髪の大男はごく素直な感想を述べていた。坂田金時、もっとわかりやすく言えば“金太郎”のサーヴァントは、豪胆磊落な見た目通りに、質朴な男らしい。

 「金時さん、魔法ではなく魔術です、一応」

 澄ましたように、もう一人が嗜める。ひょこひょこ、とケモミミを動かす玉藻の前に、金時はただただ難しそうな顔をするだけだった。まるで算数の問題に悩む小学生のような困り顔である。

 「ちょっと待ってて、今入るから」

 そう言って手をかざすと、何やら始める遠坂凛。もとい、エリザベス女王。巧妙に隠匿された固有結界に入るには、何らかの下準備が必要、というわけだ。

 さて──。

 トウマは、この瞬間、ただただ無限の情動の波に圧倒されていた。

 「そう言えばクロエさん、お怪我の方は大丈夫ですか? いやー役に立たねえポンコツ宝具なもので、ちゃんと効いてますかどうか」

 「見た目通りよ、なんともないわ。 っていうか宝具がポンコツって」

 「なんか、声似てねえか?」

 「オッケー、あとは向こうで承認するまで待って」

 「あ、あぁ。わかったよ」

 「ライネスちゃん、そろそろ慣れたら?」

 「君は慣れすぎじゃないか」

 ……なんというか、情報量がすごい。見知った顔がわちゃわちゃ群れている。プリヤのクロにextraの玉藻がいて、中身は違えど本家staynightの凛がいて、Apocryphaのライネスがいる、というこの状況。スーパーFate大戦でも始まるのだろうか、と問いたくもなる。真面目な話、実はここもそういうゲームの世界なのではないだろうかと疑いたくなるくらいには、とんでもない情報量だった。いずれ別な型月から参戦キャラがいるんではなかろうか。

 「あの、タチバナ先輩?」

 恐る恐る、といったようにマシュが見上げてきた。相変わらず不思議そうに見やる視線の先には、旧来の知り合いのように言葉を交わすエリザベスとリツカの姿があった。

 「先輩は、あの方はご存知でしたか?」

 「いや全然」溌剌としゃべる“遠坂凛”の姿に妙な感慨を抱きながら、トウマは首を横に振った。「初めて」

 「先輩は、どこでお知り合いになったのでしょう」

 ここで言う先輩、とはリツカのことを指すのだろう。目を丸くする彼女の視線の意味は測りかねるところがあるけれど、なんとなく、無自覚ながらも薄暗いものがあるように思えた。

 マシュ・キリエライト。彼女は通常のサーヴァントではない。デミ・サーヴァントと呼ばれる、生身の人間とサーヴァントの融合体であるという。そんな特異的な在り方をする彼女とリツカの関係性については、トウマもあまりよく知らない。情報としてマスター・サーヴァントの契約を交わした経緯は聞いているけれど、その瞬間にどんな主観的体験があったかまでは、与り知らぬことだった。

 結局、「どうだろうね」とあやふやなことしか応えられないトウマである。ですよね、と反すマシュもなんというか平凡で、それこそ学校で顔を知っているだけの知り合いと喋ったみたいな会話になってしまっていた。コミュ力の低さを呪いつつ、そんな平々凡々な会話ですら、ちょっと楽し気なマシュの表情が、なんとなく印象深い。

 「来たわ」

 エリザベスはそう言うと、そのままずんずん、と歩き始めた。目の前は壁。もろに直撃するか、という間際、ふにゃりと空間が歪んだ。

 まるで水面に石でも跳ねたかのよう。いくつもの同心円が重なり波紋を描き、その中心部へとエリザベスの姿が吸い込まれていく。

 「ささ、早く行きましょう」

 ほらほら、とリツカとライネスの尻を押す玉藻。あ、と言う間もなく押された2人も、どぷりと空中に浮かんだ水面に飲み込まれていった。

 呆気にとられる残る3人を他所に、金時も「そら、来いよタチバナのあんちゃん」とからりと笑って空に飲まれていく。

 「固有結界、本当に?」

 慎重な素振りで、クロは空に手をかざした。途端、ふよん、と綿菓子みたいに大気が歪み、綺麗な円形の波紋が広がっていく。

 マジだ、と言わんばかりに真顔になるクロ。けれどもそれも一瞬、ロジックがわかれば大したことはないとばかりに、彼女も飛び込んでいく。

 残る2人。どちらかと言えば常識人に近い方の2人であったが、同時に、既に4つもの特異点を踏破したマスターとサーヴァントなのだ。ひとしきり不思議そうにしてから、えいや、と飛びこんだ。

 その見た目に反して、触れた感触は水というよりももっと冷たく、撫でつけるような感触だった。直観的には、秋冬に山間を駆け抜ける颪とでも言おうか。控えめに言って、歓迎されてるとは思えない感触である。

 体感時間にしてだいたい1秒。ともすれば突風が吹いたかのような感触に目を細め、再び開けた時だった。

 わ、と声を上げたのは多分マシュだ。いや、自分だろうか。というか、2人も目の前の光景に、質朴な感動を覚えていた。

 いつの間にか、門をくぐっていた。近代的なコンクリートで舗装された路面の脇には、針葉樹が黒々と茂っている。その森の先に、秘めやかに、それでいて堂々とその建物はうずくまっていた。

 洋館、だろうか。古式ゆかしく佇む有り様は、人の住む住居というよりは魔女の館を思わせる。それこそ、古い童話に見る、狡猾で快哉な魔女が住まう、古き館とでも言おうか。図書館で見かける、大分黄ばんだ小難しい小説の挿絵をそのまま切り抜いてきたかのような光景は、どうしようもないノスタルジーを惹起させる。もちろん、こんな別荘の持ち合わせはないし、実家は一戸建てとはいえ築20年程度の安物件だが。

 その他、印象的といえば庭の有り様だろうか。いかにも山の中に潜む家の割に、庭はよく草が毟られ、植え込みも剪定が行き届いている。住人という魔法使いは、さぞ綺麗好きなんだなと思わされる。

 純粋に、素朴な感想を漏らすマシュ、トウマ。2人とは対照的に、3人は全く別な好奇の視線で周囲をじろじろ見ていた。固有結界、なんてそうそう見られるものではない。好奇の目を惜しげもなく振りまく様は、ある意味で質朴に感動するマシュやトウマよりも子供らしい。

 「ほーら、あんまり人様の心の中をじろじろ見るものじゃないでしょ」

 早く来なさい、とエリザベス。慌てて玄関口へと続く通路を向かうリツカたちの背を見ながら、「まあわかりますねえ、あのリアクション」と玉藻はしみじみとしている。

 「魔法に最も近い大魔術。ある意味、魔法以上に劣化しにくい魔術なわけですし」

 「そうなんですか?」

 なんとなく、魔法と魔術の区別を思い返す。そんなに型月設定に詳しいわけではないが、簡単に言えば人の手で再現し得るか否か、みたいな区別だった気がする。魔術は魔力が無くても科学で再現できるものだが、魔法は再現不能なもの。そんなところか。

 「確かに、宇宙科学の文脈では並行世界……というか、多次元宇宙論とか、ありますね」

 「そうそう。きっと人間は遠い未来、外なる宇宙へも旅立つのですよ。並行世界への旅も、時間旅行も、全く以て理解不能な出来事ではないということです。ほら、そう考えれば、固有結界の方が再現性悪いと思いません? 個々人で、心象なんてバラバラなわけですし」

 ちょっとした玉藻の前の魔術講義に、素直に頷く2名。トウマもそうだけれど、マシュも基本的に魔術には長じない。基礎的な部分は修めているらしいが、戦闘に耐え得るものではないらしい。

 そう言えば、クロも『無限の剣製(アンリミテッド・ブレイドワークス)』は発動できないと言っていた気がする。あくまで衛宮士郎の内面性の具現であるからして、自然と言えば自然だが。

 「ま、そもそも固有結界なんて、悪魔の手法ですからねえ。人様がやるものではないかもしれませんね」

 そうして、玉藻は小気味良い音を立てて手を叩いた。これで講義はお終い、ということだろう。ひょんひょんと歩き始める狐耳のサーヴァントは、誘うようにちらとこちらを丐眄した。

 何故か、その時の視線が奇妙だった。射抜く、というと鋭すぎるが、何か探るような眼差しがトウマを掠める。とは言え敵意的というわけでもないそれに一番ふさわしい感触は、好奇心、だろうか。

 「気をつけるんだぜ、兄ちゃんよ。マシュ、お前もな」

 のし、と分厚い手が肩に触れる。坂田金時は図体に似合わない真面目くさった顔つきで、ひょこひょこ尻尾を揺らす玉藻の背を眺めている。

 「フォックスはまあいいヤツなんだけどな。なんつーか……やべー奴でもあるからよ」

 神妙な面持ちで、ひそひそと金時は耳打ちした。耳打ちするのはいいが、なんというか語彙がざっくりすぎてよくわからない。

 とは言え、金時が言わんとしていることはわかる。その大本は日本神話体系の主神とも言うべきもので、玉藻の前自身も九尾を備えればその本性は恐るべき大化生とも言うべきもので、

 「聞こえてますよ?」

 にこりと笑みさえ浮かべて振り返る玉藻の前。明るささえ感じる雰囲気なものだから、怖さは五割増しである。「ゴメンナサイ」と平謝りする金時に、なんだかトウマも頭を下げた。

 「淫乱だとか大化生とか、全く人聞きの悪い」

 「いやそこまで言ってねえ」

 「言ってますー実質言ったようなもんですー。マシュ様もトウマ様もこの筋肉達磨にはお気を付けくださいませ? 良い人面してますけど……いやコイツ中身も良い奴だわ」

 「玉藻さん、貶せてません……」

 ……そんなこんなで上手いこと玉藻に誘導されながら、遅れて入り口に到着した2名。エリザベスは、早くしろと言わんばかりの表情ながら、ドアにぶら下がる鈍い金色のノッカーを2回打ち当てた。

 「入るわよ」

 中からの応答も待たず、エリザベスは問答無用に扉を開け、ずかずかと踏み込んでいく。勝手知ったる他人の家、と言うよりは道場破りでもするかの如きの足取りである。

 「あ、靴は脱いでね」

 そこは丁寧である。ローファーを脱いで「来たわよ~」と呑気で、且つよく通る声で言うエリザベスを後目に、リツカはきちんと静かに、且つ礼を失さない素振りでドアを潜った。

 まず、入り口には広いロビーが広がっている。左手は応接間だろうか、右手に続く通路の先には、微かにキッチンらしきものが覗く。中央ロビーには階段が伸び、折り返して2階へと続いていく。

 「わーすっげ」

 リツカは、なんかもっと相応しい感想はないのだろうか、という貧困な語彙で感想を述べた。

 「君、実家はこのくらいじゃないか?」

 「ド田舎の駄馬の家系なもので」

 「没落貴族に底辺魔術師。安物ライトノベルのタイトルみたいだね」

 「魔術なんて金にならないですわよ」

 しみじみ、と呟くライネスとリツカ。なんだか前を歩く2人の背も、自然とおっさん臭い気がする。そんな2人を不思議そうに見やるクロは、この屋敷を前に、特に感慨深い様子はないらしい。まぁ、アインツベルンの城に比べたら……だろうか。

 リビングへと向かう中、ふと、階段下にぽつねんとたたずむ何かを見かけた。一見トウマにはそれがよくわからなかったが、じい、と見つめて、ようやく電話だと知れた。木造りの台に、花瓶に刺さった薔薇と一緒に鎮座している。古い海外ドラマにでも出てきそうな、古式ゆかしい電話だ。かろうじて“ガラケー”を知る程度のトウマにとって、そもそも据え置き型の電話自体が珍しいものだった。

 とは言え、その程度の興味ではあった。珍しいな、と思った程度で、トウマも皆の後に続いて、リビングへ向かう。

 リビングは、逆になんとも庶民的だった。確かにソファを含めた調度品は、そこいらのホームセンターやらで見かけるのとはなんとも違った重厚感がある。厳かさを否が応もなく感じさせる空間ではあるのだが、ただ1点だけ、トンチキなものがあった。

 何あれ、と思ったのは約2名。マシュとトウマは、台の上に鎮座する黒い箱のようなものが何なのか判然としなかった。いわゆる“薄型テレビ”が既に市場に台頭した時代に生きるトウマにとっては、その図体のデカい箱が、テレビだという発想があんまりなかった。ブラウン管のテレビなど、既に歴史的遺物というか、そういう産物になりつつあった。奇妙な空間の中、鮮やかな青い薔薇が、花瓶の上で咲いていた。

 歴史的な雰囲気と言えばそう。だが、若干近代的なものがあるせいで不調和になりながら、その不調和すら調和しているかのような奇妙なリビング。古いソファに、その人物は堂々と座っていた。

 「やあ、待っていたよキミたち」

 慇懃な素振りで言いながら、その人物は湯気立っているカップをソーサーに置いた。音もなく置く身振りは、とても礼儀正しく見える。英国紳士……そんな言葉が、思い浮かんだ。

 白いストラップのシャツに黒のパンツにブラウンのベスト。艶のいい白髪に、同じく白い髭は綺麗に整えられ、老生を感じさせることはない。

 サーヴァントだ。マスターたるトウマは、感覚的ながらも確かに目の前にいる人物が英霊の座から呼び出された人物だと理解した。

 「クラスはキャスター。真名はホームズ、シャーロック・ホームズだ」

 さらりと、当たり前のように老人は真名を名乗った。

 しじまのような驚きが、俄かに伝播した。

 シャーロック・ホームズ。その名前を知らぬものは、そうはいまい。1887年にコナン・ドイルによって発表された第一作『緋色の研究』から始まる、世界で最も有名な探偵小説シリーズの主人公その人だ。歴史や神話の習熟がメインで、流石に近現代史や文学にまでは手が及んでいないトウマですらも知っている名前だ。

 なるほど、そう言われるとそう見えるなぁ、とトウマは男の風采を見やる。よく整容された身なりに、如何にも理知的な佇まいは、世界で最も著名な探偵という風評に一致している気がする。架空の人物がサーヴァントになるか、というのは意外と言えば意外だけれど、中にはそういうサーヴァントも例にある。

 「確かに頭良さそう」

 「そうだろう?」

 ふふん、得意げな顔のホームズ(?)。不躾ともとれるほどにじろじろ見やるリツカにも特に何も言わず、男はゆったりとした動作でソファに腰を下ろそうとして、

 「ゲ!?」

 ぎくりと痙攣した。

 中腰のまま、ぴくぴく震え出した男の額にはだらだらと冷や汗が噴き出ていた。同時に顔を青くしたり赤くしたりしながら何か言おうとしているが、ただ口をパクパクさせているだけだった。

 「なぁ、ホームズってなんだ?」

 「ちょ、金時クン?」

 「しょうもない小芝居はいいから」

 べし。呆れ顔のエリザベスが、男の腰をしたたかに叩いた。

 アポカリスプスはそこで極まった。声にならない悲鳴を上げた男は中腰の姿勢のままカーペットの上に転がると、その姿勢で硬直したまま、ただただ呻いていた。

 さっきまでの大物感というか、そういう知性さは跡形もなく粉砕されていた。今ただそこにいるのは、サーヴァントの癖にぎっくり腰に悶絶する憐れな老人に過ぎなかった。

 「あのね、コイツ、ホームズじゃないから」

 ジト目で惨劇を見下ろすエリザベス。どかりとソファに腰を下ろし、嘆息を吐いていた。

 「良かった、ホームズさんではないんですね」

 ほっと胸を撫で下ろすマシュ。「そうなの?」と聞き返すエリザベスに、マシュは幾ばくか申し訳なさそうな微笑を浮かべた。

 「あの、はい。ちょっと、解釈違いです」

 「なにそれ?」

 「イメージと違うってことですヨ」

 ひいこら悲鳴を漏らしながら、ホームズ(?)はやっとのことで立ち上がった。腰を抑えながら、エリザベスが少し横にずれてスペースにゆっくりと腰を下ろした。

 「座って」5人にソファを勧めながら、改めて、エリザベスは隣に座るひ弱な老人を一瞥した。「悪戯好きな爺さんなのは知ってるけど、なんでわざわざ?」

 「そりゃあ女王陛下、私の名前はちょっとアレですし」

 「有名なんです?」

 遠慮なく座るリツカに、ちょっと言いにくそうにする老人。とは言え今更ということか、咳払いすると、「ジェームズ」と名前を口にした。

 「ジェームズ・モリアーティ。それが私の名前だヨ」

 再度、静かな何かがリビングに広がる。ジェームズ・モリアーティ。何か荘重な響きを持った名前を耳にして、トウマは、思わず口にしていた。

 「……誰?」

 「ほらー! 私はマイナーキャラだから普通の人は知らないんだー! ウワーン!」

 がっくり、とモリアーティはうなだれていた。おいおい泣き始めた老人の姿はなんともみすぼらしく、トウマは我知らず憐憫のような気持になっていた。

 が、その名前にぴんときていない顔の方が大部分だったのだ。リツカも口にこそ出していないが、多分何もわかっていない顔をしている。クロも同じ、ライネスは僅かに「あー」みたいな顔である。唯一、マシュだけは目を見開いて、小さくその名前を口にしていた。

 「解説のマシュさん、さわりだけお願いしてもよろしいですか?」

 「はい、もちろんです」

 リツカにそんなことを言われたのが嬉しかったのか、鼻息荒く応えると、マシュは数秒ほど思考していた。どんな風に紹介したものか、と文章を頭の中で取り纏め終えると、得意げに眼鏡をくいっとした。

 というか、どこから眼鏡を取り出してきたのだろう? あ、クロが投影したものか。

 「ジェームズ・モリアーティ。物凄く端的に表現するとですね、ホームズシリーズのラスボスのような方です」

 「ラスボスってなんだい?」

 紹介された方がわかっていない。何それ、と言いたげなモリアーティに対して、現代っ子4人はその一言で全容を理解して、「おー」とか「ヤバ」とか「草」とか「マジか」とか、思い思いに感嘆を漏らしていた。

 「宿敵、みたいなものです」何故かモリアーティその人にモリアーティの解説の注釈を入れながら、マシュは続けた。

 「自身は大学の数学教授でありながら、ホームズがかかわった多くの事件に裏で糸を引いていた“犯罪界のナポレオン”。自らは悪事を行わず、それでいてすべての悪事に通ずる大物。それがモリアーティ教授です。詳しくはカルデアのライブラリを参照いただければ」

 一気にまくしたてるように言うと、マシュは今更恥ずかしそうに頭を下げた。ぱちぱち、とその場にいる全員が拍手なんかするものだから、なおさら顔を赤くしながらマシュは引き下がっていった。

 「っていうか、それ結構アブない人なんでは」

 マシュのざっくり解説を聞いたトウマの感想は、まさにそれだった。というか説明を聞く限り、善人である部分が少ない。

 「そうね、反英雄に近いんじゃないかしら」

 「うーむ」

 ちょっと、身構えてしまう。大航海時代に跳んだ際のコロンブスもそうだけれど、トウマ自身、割と現代的な理性と良識を持ち合わせた少年だ。過度に反倫理的なものに対して、やや反応を伺うのは自然といえば自然な反応であろう。

 が。

 「いやでもラスボスってカッコいいすね」

 「あ、マジですか」

 彼は現代人で、アニメや漫画がごく身近にある世界の人間だった。

 創作物において、悪役とは打倒すべき敵であると同時に、何事か魅力的な人物であることが少なくない。むしろ、そうした悪役の持つ独自の美学が熱狂的なファンを集めたりすることも稀ではないだろう。元が創作の人物というだけあって、むしろトウマの意識としてはこちらの方が強かった。

 「しかもそれが味方ってめちゃめちゃアツい」

 「わかる。特撮で悪の怪人が正義の心を持つみたいな」

 「いや特撮はちょっとわかんないんすけど、多分そう」

 「あっそうですか」

……やや齟齬があったものの、リツカも似たような感想らしい。

 全然予想していなかった反応なのか、モリアーティはちょっと偉そうにしながら、柄になく照れているらしい。隣でジト目を向けてくるエリザベスの視線が痛そうだが。

 「でも意外。アナタ、自分の所業には誇りがあるタイプかと思ったけど」

 「もちろんありますよ、誇りとか。でもねぇ、若い子に嫌われるっていうのはあんまり気持ちはよくないからねえ」

 「そうかもね」

 ちょっと、苦い顔のエリザベス。いやいや、と振り切るように顔を振ると、壁掛けの時計を一瞥してから「もう本題に入りましょうか」

 「現在の特異点のあり方、だよね」

 「そう。そもそもなんだけど」言いながらエリザベスが玉藻の前に目配せしたところで、トウマは慌てて立ち上がった。「あの」

 「何かしら?」

 「あの、トイレをお借りしても」

 「そうね」一瞬、エリザベスは言葉を区切った。「話も長くなるでしょうし。ゴールデン、ご案内してあげて?」

 「おいっす。よし、連れションと行こうぜ。俺っちもこの後仕事だしな」

 何もそこまで、と言いかけたけれど、素直に甘えることにした。というか、断る前に、金時に肩を押されて連れ出されてしまっていた。

 ほらほら、と押し出されたのは玄関前のロビーだ。その階段裏の通路の先、と指さしながら言うと、金時はぽん、と肩を叩いた。

 「ここは静かだ」演技っぽく、金時が天井を仰ぐ。「ここの主サマも、静かなのが好きみたいだしな」

 トウマの返答も待たず、金時は身を翻して、ふらふら身体を揺すりながらとリビングへと向かう。トウマが咄嗟にありがとう、と口にすると、トウマより一回りも二回りも大きな身体の男は振り返りもせず、手を振って返した。

 ぱたん、とリビングと通路を隔てる扉が、閉じる。シン、と無音が張り詰め、トウマは、大きく息を吐いた。

 ふらりと足元が怪しくなったが、あわやで踏みとどまる。もう一度、今度は大きく息を吸い込むと、額から噴き出し始めた脂汗を拭った。

 まだまだだな、と天井を仰ぐ。もう半年もこんな戦いをしているのに、こんなことで一杯一杯になってしまっている。殺されかけたからなんだ、というのだ。これまでだって、死を意識したことはあったではないか。ただ今回は不意打ちのように死をぶつけられただけで、本質的には何も、いつもと変わらないはずではないか。

 と、理知的に分析しつつも、あの時の光景は思い返すだけで身の毛がよだつようだった。目前に迫った獣の奇妙な攻撃。マシュがもしあの時鋭敏に迎撃してくれていなければ、間違いなく頭を吹き飛ばされていた。名状しがたい不定の怪物。眩暈がする。何か、奇妙な力がこちらを捕食せんと迫るあの感触は、一体なんだったのだろう。

頭を振る。そんなことはどうでもいい。

 もっと、やりようはなかったか。考えるべきことはそれで、自分の死の切迫なんて、どうでもいいことのはずだ。

 令呪を切るべきだった。それは、多分そうだ。無理やりにでも空間転移で呼び出せばよかった。それか、何か宝具を無理やりにでも投影させて、的確に迎撃させるべきだったか。あるいは別か? あの状況、何かもっと適当なことはなかったか?

 ぐるりぐるりと思考が輪廻しはじめた、時だった。

 チチ、と微かな声が耳朶を打った。ぎょっとしたトウマは、咄嗟に魔術礼装を起動させた。戦闘服にプリセットされたシングルアクションの魔術を起動。魔術回路も励起させ同時に自らの右腕を突き出し、指先に意識を集中させる。魔獣程度であれば一撃で射殺し得る魔術……物理的破壊すら可能にする規模のガンドは、あとはトウマが打ち出すイメージさえすれば、すぐにでも撃ち放てる状況だった。火力管制システムに誘導された魔術の砲弾の着弾精度は、トウマの技倆の如何に関わらず、凄腕の狙撃手のそれに比肩する。

 すぐに撃たなかったのは、基本的にはトウマの努力の成果だろう。カルデアで過ごす日々のほとんどは頭か魔術のトレーニングにあてられるが、模擬戦闘もその一環だ。身体化した思考が、撃つ必要はないと判断していた。

 だが、本当は別だったのかもしれない。トウマが撃たなかったのは、もっと感性的で、芸術的な理由だった、かもしれない。

 ──かつ、と音が耳朶を打つ。

 階段の、先。天井の窓から差し込む淡い陽の光を背にして、彼女は立っていた。

 手すりに手を乗せ、音もなく一段を降りる影。修道服を思わせる黒い服と同じくらい、澄んだ漆色の髪がさらりと揺れた。

 空気が、息を潜めている。ざわざわ、と蠢く静寂の中、青い鳥がひらひらと彼女の肩に止まった。チチ、と小さく啼く声が、非難がましく響いている。

 息を飲む。見惚れたわけではない。圧倒されたわけでもない。ただ、何故か、階段を歩むその姿が異様に痛ましく見えた。

 トウマが身体を硬直させるうち、彼女は階段を下りきっていた。

 無言のまま、彼女は探るようにトウマを流し見た。非難の色はない、純粋な好奇の視線。今更に射撃体勢の構えを解いたトウマは、さりとて何を話していいかわからなかった。

 そうして、互いに沈黙して眺め合うという奇怪な時間を過ごすこと、1分か2分ほど。ようやっと口を開いたのは、トウマだった。

 「あの。トイレ、どこですか」

 躊躇いがちに言ったのは、何故かそんな言葉だった。な

 ──言ってから、猛烈に後悔した。なんでやねん? もっとマシな言葉はなかったんか? 自分のコミュ力は生ゴミ以下なのか?

 後悔しまくり自己嫌悪に陥るトウマに対し、黒髪の少女は考え込むように顎に手を当てた。珍生物でも観察するようにじろじろとトウマを眺めること一瞬、じろりと肩の小鳥を見やる。びくりと震えた青い小鳥は、さも厭そうに飛び立つと、廊下の裏手へと飛んで行った。

 「あっち」

 「あ、はい」

 「どういたしまして」

 なんか道を尋ねたみたいな会話ではないだろうか。何か運命的なことが始まりそうな出会いからは全く想像できない会話をこなしてしまったトウマは、改めて己のコミュ力を呪った。別に尿意も便意もなかったのだ、本当は。

 なんとも居たたまれなくなったトウマは、彼女の脇を通って、そそくさとトイレへと向かいかけたところで、

 「──待って」

 彼女の声が、呼び止めていた。

 振り返ったところで、彼女はすぐ目の前にいた。わ、と思う間もなく、至近で穴が空くほどに見つめる彼女の黒い目。激闘を潜り抜けはしたけれど、こういう経験だけは全然慣れない。意図もわからず勝手にどぎまぎしていると、彼女の小さな口唇が、薔薇の花のようにほどけた。

 「何故」

 訝るような、鋭い視線。それでいて何かの確信に満ちた、勁い眼差しがトウマを射抜いた。

 「何故、あなたは、戦うの?」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅰ-6

 コーン、なんて甲高い音がする。ちょうどリビングの窓から見えるところ。外では金時が、斧で薪を割っている。“金太郎”なだけあって、そんな野趣あるれる仕草が似あうなぁ、とクロは思った。

 「遅いわね」

 特に焦っている様子もなく、エリザベスは呟く。ソファに身を預け、腕を組んで頬杖をつく姿はとても思慮深く見える。一国の女王に昇りつめるほどの人物というだけあって、そんな細やかな動作すら品に満ち、知悉豊かな姿に見える。野性的な金時とは全然違った、文明の粋といったところ。

 なのだが。

 クロにはなんだか、その姿がとにかく珍奇だった。

 何せ、あの遠坂凛の姿をしているのである。なんなら服装もそうだ。非戦闘時、ということもあって霊衣を解除している。それ自体はいいのだが、その結果着ている服は赤いプルオーバーに黒いロングのプリーツスカート、という普段着。髪型こそツインテールではなく緩く結んでいるだけだ が、なんともまあ遠坂凛である。

 その凛らしからぬクソ真面目そうなたたずまいは、なんとも珍妙である。もちろん凛も真面目な時は真面目なのだけれど、なんというか抜けてる時の印象が強すぎるのだ、ウン。

 「ウ●コでもしてるんじゃないかな? かなりデカいヤツ!」

 「こんなのが数学教授って本気なのかしらね」

 ワッハッハ、と知性の欠片もない物言いのモリアーティに、白けた顔のエリザベス。傍目には気品のある老紳士とお転婆な小娘という風景なのに、やってることは真逆らしい。

 「先に始めてもいいんじゃないかしら」

 なるべくエリザベスを視界の中央に入れないようにしながら、クロはソファの背もたれに肘をつく。基本的にソファに座っているのはリツカとライネスで、クロとマシュはソファの後ろに突っ立っている格好だ。

 「ログなんかはとってるんでしょ?」

 どこともしれない宙に声をかけると、示し合わせたように通信枠が空中に浮かび上がった。

 (取ってるよーばっちり)

 ダ・ヴィンチはにこやかに言うと、すぐに通信は終わりだ。当然カルデアとしても、状況は逐次モニターしていることはしているが、こちらのやることに過度に干渉することはしてこない。司馬懿とリツカがいるなら任せても大丈夫、という判断らしい。ロマニはおおむね施設運営に時間を割いてるし、ダ・ヴィンチも戦闘服の改良や魔術式の開発に日夜励んでいるらしい。そちらの方が、組織としては健全だろう。

 「ほらね」

 「んー」ちょっと悩むように、クロの鼻先でリツカの後頭部が揺れる。柑橘系の、良い匂いがふわっと立った。「そうしようか」

 「ふーん、割り切ってるのね」意外そうに目を丸くしてから、「まぁいいわ。お願いできる?」

 「もちろん、女王陛下。では少々お待ちを、皆さま」

 妙に芝居がかったように言うと、すっくとモリアーティは立ち上がった。細身なこともあって、長身がなお目立つ。品のいい面持ちもあって、数学教授というよりかは生粋のブルジョアにも見える。

 「皆さま、お茶の用意ができましたよ」

 入れ替わりでリビングに顔を出したのは、玉藻の前だ。巫女服は相変わらずだが、何故か割烹着姿で出てくると、お盆にのったティーカップとソーサーを音もなく、且つ素早く並べていく。目にもとまらぬ速さである。

 「お二人もどーぞ」

 華やぐような笑みを一つ。いつの間にか用意したサイドテーブルにもソーサーを2つ並べ、紅茶の入ったカップを乗せる。もちろん“かちゃん”なんて音は一つも立てない。

 紅茶。特に好むわけではないけれど、嫌いというわけでもない。好き好んで飲むわけではないが、出されれば問題なく飲めるものだ。

 「で、では失礼して」

 何故か妙に畏まった様子で、マシュはカップに手を着ける。ライネスは自然に、リツカは「うげ」と言うように。クロは特別頓着もなく、口をつけた。

 ふわっと舌先を滑る茶葉の薫り。それだけで「おや」と思う風味なのに、それとは別に、艶やかな酸味がほんの微かに鼻腔をくすぐった。

 「アレ、これうまい」

 目を丸くした、リツカの素直な感想だった。紅茶なんて脱水症状者の濃縮尿としか見做していないリツカをしての賛辞である。無論そういった事情を知らない玉藻だが、子どもみたいなリツカの表情に満面の笑みだ。ライネスも表情にこそださないが、文句の一つもなく静かに紅茶を口に含んでは納得げに頷いている。多分、美味しいのだろう。特別飲食物にこだわりがあるわけではないクロでも、美味しいと思わされる。

 「普通の紅茶じゃないよねこれ。ストレートティーだけど」

 「ローズティーね」エリザベスも紅茶を一口。うん、と小さく頷きながら、「アリス……この館の主の持ち物よ」

 アリス──。

 エリザベス女王が口にした名前が、するりと耳朶を打つ。古くからの友人を呼びやるようで、にもかかわらずその名前を口にする彼女の口唇は、なんとなく不慣れに強張っている。少しだけ顔を顰めたエリザベスは、くすぐったそうに口元を白いハンカチで拭くと、もう一口ローズティーを含ませた。

 「やあ、私にも貰えるかな?」

 いづこから戻ってきたモリアーティも、気さくなように玉藻に言う。はいはい、とキッチンへ向かう玉藻の前。カコン、と外で薪を割る金時。ほう、と紅茶に一息つくエリザベス。モリアーティの手中で煌めく金の杯。間延びした雰囲気がリビングに発散し、なんというか、ここが特異点なのかと思わされるようで──。

 「あ、はい。聖杯」

 ごと、とモリアーティは当たり前のようにテーブルに杯を乗せた。黄金色に煌めくはずの金の杯は、どこをどう見ても食器の類ではない。

 聖杯だ。はい、聖杯です。なんかごく自然にこのおっさんは持ってきたけれど、聖杯そのものではないか。既視感よりも、やはり来るのは驚きだった。だが驚きそのものは数秒ほどで、すぐに疑念の方が思考に浮かんできた。

 「聖杯、これ?」

 リツカはそう言うと、なんの躊躇もなく聖杯へと手を伸ばした。魔術師でなくともその正体を知れば万人が希求する聖遺物だというのに、彼女の仕草はあまりに凡庸だ。民芸品で三流の焼き物でも手に取るよう。いや、彼女だけではない。その杯を眺めるライネスも、リツカを見守るマシュも、何よりクロも、その聖杯に注ぐ視線の意味は淡泊だ。

 本当に、本物なのか?

 似たような状況は以前もあった。大航海時代へ跳んだ時も、既に聖杯は回収済みではあったが、何か根本的に違う。

 「言うまでもないことだけどね、これは本物だ。特異点の要石として、この時代に撃ち込まれた楔に相違ない」

 どうも、と紅茶を持ってきた玉藻に愛想よく言いながら、モリアーティはまじまじとその杯を一瞥した。

 「にもかかわらずね、そもそもこれ、発動すらしてないんだヨ」

 そう言って、モリアーティは何枚かの紙をテーブルに放り投げるように広げる。ばさりと散った数十枚の紙には数字や英数字、記号が犇めくように並び、まるで芋虫が苦悶にのうたうったかのような有り様になっていた。

 「女王陛下と色々調べてね。うーんそうだね、ざっくり言えば聖杯の持つエネルギー量の推移を算定したもので。これがわかりやすくしたグラフみたいなものなんだけど」

 そうしてもう一枚。モリアーティの手書きと思しき紙切れを出すと、乗り出すようにリツカはそれを見た。

 x軸が時間推移でy軸が聖杯の持つエネルギー内包量、らしい。だいぶ単純化しているようだが、直観的にはわかりやすい。

 グラフは計、2つある。X軸の増大に従いy軸の数値も跳ね上がり、頂点をとったところで緩やかにどちらの数値も減少していく。ぱっと見、山を描いているようなグラフが1つ。

 もう一つも、概略だけは同じだ。山なりのグラフが、ほぼ重なるように描かれている。いや、違う。明らかに相違している箇所がある。グラフの頂点。聖杯のエネルギーがピークパワーに達する周囲だけが、ごっそりと抜け落ちていた。

 (ちょっと見せて。リツカちゃん、君の視覚情報データリンクで共有するよ)

 「うん」

 ディスプレイが立ち上がる。何か慎重な面持ちで眺めるダ・ヴィンチを他所に、「無論、これはただのデータに過ぎないんだがね」とモリアーティも眉間に皺を寄せた。

 「このグラフは聖杯が放出すると予想されるモデルケース。それでこっちのできそこないが、この聖杯の痕跡から算定したグラフだ。ここからどう解釈するかは難しいのだが」

 「このグラフ通りに推移した場合、特異点が形成されるほどの量じゃあないってこと?」

 頷くモリアーティ。幾ばくか満足気にリツカを見やってから、モリアーティは聖杯を指先で小突いた。

 「そういう意味では、これは聖杯にすらなっていないのだよ。聖杯として完成する前に死んだ、といってもいいかもね」

 何故か、そう慨歎してみせるモリアーティの表情は真に迫っている。生まれることすらなく死産した聖杯の残骸の色はどこか鈍く、指ではじく音が濁って聞こえるのも、おそらく印象だけではない。

 クロエ・フォン・アインツベルンは、痛ましく、その杯を正視した。人格のない物だったとしても、彼女が彼女である限り、愛惜は感じないわけにはいかなかった。

 「でも、ここ特異点よね」

 だから、そう口にしたのは幾分かの気散事でもあった。既に完了して癒えたことだけれど、それでも古傷は痛むものなのだから。クロは、誰にも気づかれないように、指先を動かした。トウマの手に、触れたかった。無性に。

 「そう、問題点の1つはそこだ。この聖杯に特異点を作るだけの力はない。にもかかわらず、1888年ロンドンはシンギュラリティポイントと化した。それは何故か? それが第一の問い、というわけだ」

 「そうして、もう一つがこれというわけか」

 ライネスが、手を伸ばす。紙を摘まみ上げた彼女の視線の先には、底のないカルデラと化したグラフが、異様な存在感を放っている。

 その通り、と言う表情のモリアーティ。さりとて何も言わないのは、ライネスに続く言葉を任せようというのだろう。そんな意図を察してか、ライネスは不肖不肖というように、「2つめは」とモリアーティを覗き込むように見やる。

 「このグラフが何を意味するか、だね」

 「単純に不発に終わった、というだけなのか。それなら最後にまたエネルギーが検出されるのはどういう理由なんだろうね?」

 4人して、ライネスの手元のグラフに視線を注ぐ。グラフが畸形だと思わされるのは、ただ途中で数値が喪失しているからだけではない。最後、x軸の増大とともに、急にグラフが出現し、なだらかに減少へと向かっている。

 「モリアーティ教授のお考えは?」

 お手上げ、というように、リツカはソファに身を預ける。意味深長な表情のモリアーティは、緩慢な動作でカップをテーブルに置いた。何事か深淵なことを語らんとする厳かな素振りに、我知らず全員の視線が集まって、

 「ワカンナイ」

 あっけらかんとモリアーティはおどけた。一気に白けた空気感に不満顔になると、「だってしょうがないじゃないか」と年ふりた男は肩を竦めた。どこぞの日本の俳優みたいな言いまわしである。

 「私は科学的態度を重んじるのでね。今出そろってるデータから提示できるものがこれだけで、そこから推論できるのは、この特異点を形成しているのはこの聖杯ではないってことだけサ」

 「それ以上は推論ではなく妄想、というわけかな」

 不満顔はこちらも同じ、と言わんばかりのライネスだが、そろりとテーブルの上にグラフを戻す。そうだね、と応じるようにティーカップに手を伸ばすと、モリアーティはつまらなそうに自分の算出したグラフを一瞥した。

 「つまり、今やるべきことは妄想を推論に引き上げるためのデータ集め、ってことか」

 「話が早くて助かる。そうして、この大いなる謎のしっぽは2つ。1つはつい先ほど君たちが戦ったアレ、だ」

 モリアーティが言い終わるや、再度空中にホログラムが立ち上がる。

 カルデアからの記録画像だ。画質が荒いのは戦闘中に撮影したものだからだろう。ぶれた画像の中、大写しになっているのは、あの怪物だ。

 全長およそ3m。人型をした獣の、不気味な双眸がぎらぎらと蠢いている。脇腹を抉られた瞬間を思い出し、クロは微かに顔を顰めた。だが、彼女のリアクションなどまだまだ些末なものだった。マシュは明らかにその姿に動揺し、あまつさえ顔色がみるみると蒼褪めていく。

 マシュ、と声をかけようとしたが、寸でクロはやめた。彼女は自ら瞑目すると、深く呼吸して、ゆっくりと、もう一度、その画像に獣を正視する。大丈夫、とほんの少しの声で自らに語り掛けた時には、もう、彼女は普段通りだった。

 「この特異点、成立してからはや5か月たったわけだ。だが、この5か月というもの、一切何も起きてないんだよね。敵がいたわけでもない。特異点を強固にしようという者もいない。これは、そんな特異点に急に現れた“敵”なんだ」

 「あんまり、聖杯が云々っていうのとは」不愉快そうに、リツカはその獣の画像を睨んでいる。「関係なさそうに見えるけど」

 「確かに君の言う通りだ」ふと、モリアーティはリビングのドアを一瞥した。おや、というように首を傾げると、ゆったりと立ち上がった。「ただ、初めて現れた変数というのも事実だ」

 「手掛かりかもしれない、ってことか」リツカも、それとなくドアの方を一瞥した。

 「蓋然性が高いかどうかはわからないけどね。待ってたよ」

 ぎい、と重くドアが開いた。

 皆の視線が集まる。視線が絡む先、ドアから顔を出したのは、トウマではなかった。

 クロがまず抱いた印象は、不思議な人形、というものだった。黒い髪を短く切りそろえた色白の風采は、どことなくこけしを思わせる。表情に薄いところも類似点か。だが、そうした和風な印象と同時に、醸し出す雰囲気はどことなく西洋のビスクドールを思わせる。修道服風の服がそう思わせるのだろうか、それとも別な要因だろうか。何にせよ、この少女には、得体の知れない奇妙な何かが潜んでいる。そんな印象を抱かせる、サーヴァントだった。

 そんな彼女の後ろから、なんとなく決まり悪そうに入ってくるトウマ。少し難しそうな顔をしたまま、彼はするするとクロとマシュの後ろにすごすごと引き下がっていった。

 「連絡、ついたかい?」

 「金時の言う通り」首を横に振ると、少女は細やか且つ傲然とした素振りで、つい先ほどまでモリアーティが座っていたソファに座った。「居るには居るみたい」

 少女の視線が、目の前の5人を捉える。値踏みするように流し見ること数秒、顎に手を当てると、渋々ながら、納得するように頷いた。

 「ナーサリーライム。それが真名。クラスはキャスター」

 「この屋敷、ひいては固有結界の主ってわけね」

 「え?」

 何故か、食いついたのはトウマだった。周囲の視線を集めてしまったことに今更に気づくと、トウマは「いや、なんでも」と歯切れ悪く応えた。

 それとなく、クロは理解した。

 《原作キャラ、って奴?》

 《そうなんだけど、俺が知ってるナーサリーライムと全然違う。まぁナーサリー自体特定の形があるわけじゃなかったけど》

 最後は独り言のようだった。よくわからないが、真名が同じだが別人が召喚された、ということなんだろうか。でもそういうことは理屈上、あり得るのはわかる。サーヴァントがあくまで英霊の一側面を強調した形で召喚されるものなら、その側面次第では全く別の人格が召喚されることも想像に難くない。そういう、ことだろうか。

 彼女の視線がトウマに向く。他4人を見た時とは違う、猜疑を感じる胡乱な眼差し。だがそれも一瞬で、玉藻の前が紅茶を持ってくると、興味は失せたとばかりにティーカップの持ち手に指を這わせた。

 「もう一つの尻尾というのが、今の話でね」モリアーティは、幾分困ったように両の眉を眉間に寄せた。「仲間の1人とつい最近から連絡が取れなくなったんだよ」

 「名前はヘンリー・ジキル。サーヴァントではなく、この時代の人間ね」エリザベスも、困惑を隠さないで思案するように言う。「私たちの調査に色々協力してくれてたんだけど、この怪物の出現の直後から連絡が取れないの」

 ヘンリー・ジキル。クロはピンと来なかったが、マシュが「おや」という顔をしているあたり、多分有名人だろう。

 「元々は理知的な好青年だ。さっきの計算も、彼に大分協力してもらったんだよ。だが、この数時間で急に人が変わったようになってしまってね。これも、この停滞した特異点での数少ない変数だ」

 「ヘンリー・ジキルが仮に実在するなら、ハイド氏になってしまったからなのでは」

 「良い質問だね」恐る恐ると口にしたマシュに、モリアーティは会心の笑みを作った。「でもそれはそれで変なんだよ」

 「だって、それならこの私、ジェームズ・モリアーティに従わない理由がないからね。ハイド如き小悪党が」

 会心の笑みはそのまま、優雅な素振りで紅茶を啜った。

 ぞっと肌が粟立つ。先ほどマシュが言っていた言葉が脳裏を過る。犯罪界のナポレオン、とすら呼ばれる大悪党なのだ。「なるほど」と慄くように言ったマシュも、冷や汗をかいていた。

 「まぁ正確に言うと、ハイドパークの別邸にも誰もいなくてね。ハイドになったわけでもないように見える、というところかな」

 「あまり、これも直接関係がある問題には思えないけど」独り言ちるように、リツカは口にした。「でも数少ない手掛かりか」

 思案すること数秒。沈黙に注視される中、リツカは背後で影薄く佇むトウマに振り返った。

 「どうするのがいいかな?」

 「えーと」考える素振りをしてから、トウマは少し怖気づいたように言う。「2班に分かれて、それぞれ調査するってのは」

 「一番それが手っ取りばやく情報収集できるでしょうし。問題は戦力を分けることですけど、これだけ人員がいて、且つ敵がそう目ぼしいものがいないのであれば分けても十分かなと」

 なるほど、と考え込むふりをするリツカ。そう、それはあくまでフリだ。彼女はあくまで既に考えを決めていて、その上でトウマに聞いたのだろう。満足気に頷いてから、「それで行こうか」と口にした。

 「こっちのクソ犬の方はどうするの?」紅茶を口にしながら、エリザベスが顎をしゃくる。「ジキルについては、まぁ家に行ってみるって話だけど」

 「実質、即応待機状態になりながら手近なところを調べる、って感じだよ。ねえトウマ君?」

 「あーはい。その通りでございます」リツカの言葉に曖昧に応えながら──多分コイツそこまで考えてないな、とちょっと思う──、トウマはくせっけを指先でいじくった。「とりあえず、前にコイツがいた場所に戻ってみようかと」

 「犯人は現場に戻る、というわけだネ」

 「そこまでは期待してませんけど」したり顔のモリアーティに、少しにやけ顔のトウマ。「何か手掛かりが、見落としがあるかも」

 感慨深いように頷くモリアーティ。リツカは再度思案するように髪をかき回しているが、表情こそはそう悩まし気でもない。ライネスも特に異論はないらしく、澄ましたようにソファに身体を預けていた。ナーサリーライムことアリスは、入ってきたころと変わらぬ静謐のままに静寂を纏っていた。

 「それで行こうか」さりげなく周囲に視線を回すと、リツカは最後にトウマを見やった。「トウマ君の案、採用ってことで」

 照れたように、トウマは納まりの悪いくせ毛を指で弄んだ。なんというか、リツカは面倒見がいいと思う。とは言え温和な佇まいは、指導者というよりは師父、とでもいうべきか。あるいは身近なセンパイ、とでも言うような。

 何にせよ、決まりだ。この特異点で、とりあえず、やるべきことは決まったのだ。

 それとなく、トウマの横顔を伺う。相変わらず照れたような、それでいて“嬉しい”という感情を隠し切れない子供みたいな顔をしている。こんな戦いに身を投じて、はや5か月。成長を感じる日々の他方で、まだ16歳という年齢の幼さは、まだまだ感じさせる。

 クロの視線に気づいたらしく、トウマはふとこちらを見た。毒気のないからりとした笑みを浮かべる、自分のマスター。互いに軽く拳を重ねる硬い感触が、中手骨に()みた。




これにて第4章第Ⅰ説終了です。

誤字脱字報告いつもありがとうございます。何分注意力が無い人間なので大変助かります!

感想や評価などいただけると大変うれしいので、もしございましたらご遠慮なくどうぞ~


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間-Ⅰ

 霧の中、彼女はそこに佇んでいた。

 ウェストミンスター宮殿に付随して建設された時計塔、その鋭くとがった尖塔の屋根に、ちょこなん、と座り込む。

 脱色されたように白い髪は、どことなく白蟻のようであったか。対照的に色黒の肌は、黒色病に侵された不気味さを感じさせる。ただ一つ、爛々と煌めく血のような赤い目だけが下界を舐めまわしていた。

 「ここにいたか」

 そんな彼女の背に、黒い影が声をかける。「おいっす」と気軽に返答する白髪の少女に、黒い影、キャスターも慣れた様子だ。

 「途は啓いた」隣に並んで立った影も、霧に包まれた都を見下ろした。「後は乗り込むだけだ」

 「早くない?」

 「どうやらこちらに来たようだ。流石に事態を重く見たのだろう」

 確かにね、と頷く少女。そのかんばせに、微かな焦りのようなものが過ったのを、影は見逃さなかった。

 「心配か」あまり深追いするような詮索はしない。影にとって、それ自体は本質的に興味もない事柄だからだ。

 うーん、と小さく唸って、彼女は悩まし気に眼下を見下ろす。濃霧が立ち込めるロンドン市街は見通せず、陰鬱さが重々しく横たわっているようだった。

 「セイバーに任せる」

 「ほう?」

 「センパイなら大丈夫だと思う。ただ万が一、ってのもあるし」のたり、と彼女は立ち上がった。そうして、冥い天を仰いだ。「記録にないことが多すぎる」

 「慎重なことだ。英雄とは豪胆であるべきだと思うがな」

 「残念だけど、私はそういうのじゃあないし」

 「だろうな。あぁ、残念だが」

 小さく、影が身動ぎする。無言でその素振りを見やった彼女は数瞬ほどの沈黙を経た後、苦笑いした。

 皮肉か、それとも揶揄か。あるいはどちらもか。影も「昔の話だ」と淡泊に口にしてから、彼女の手を取った。

 小さな手だ。白い衣服の袖口から覗く腕は、病に侵されたかのように細い。足も同じだ。

 「そう感傷的になるな。ひとまず山場ゆえな」

 「わかってるよ」

 もう、2人にわだかまりはない。いや、こんなことで簡単に消えるだけの縁ではない。それだけ大きいものだから、些細なことでは本質的には持ち出さない。互いに大人故に、主観的体験を振り回すようなことは、しない。

 「みんな怒ってるかな?」

 「何がだ」

 つい、影の口調が早くなる。くだらないことを、と続けようとして、慌てた彼女の表情に、思い違いをしていることに気が付いた。

 「セイバーにだけ任せちゃうから、いつも」

 「何を馬鹿な」わざとらしく肩を落として、影は笑った。「むしろメインディッシュがお預けではないか、セイバーは」

 「アサシンなどは今も意気揚々としておるわ」

 だろうね、と彼女は苦笑い。なるほどそういうための会話か、と得心して、影は改めて、この少女の強さを知ったような気がした。

 「じゃあ、タケノコ狩りと洒落込みますか」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅱ-1”誰がむくどりを殺したのか?”

 ジェームズ・モリアーティの朝は早い。洋館のゲストルームに陣取ることはや4か月。寝心地のいい未来のベッドにももう大分慣れ、数時間の睡眠は快適の一言だ。布団を押しのけ、パジャマを脱ぐとシャツのパンツに着替え、最後にベストもきちっと装着。ベッドも掛け布団カバーをしっかり直してたたみつつ、シーツもぴっちり四隅を三角折にして整える。脱いだパジャマの皺がないようにしっかり畳んでベッドの上へ。満足すると、窓を勢いよくあけ放った。固有結界が再現する太陽から浴びる光は、本物のソレと大差ない心地よさだった。

 ただいま、時間にしてAM5:00。溌剌とした様子で、モリアーティは日光を浴びる。気分をリフレッシュさせるのに、太陽の光は一番良い。悪事とは、健康的な生活から生み出されるものである。それが、ジェームズ・モリアーティの考えであった。朝早く起き、ベッドメイクし、気持ちよく日光を浴び、朝食を摂り、食後はコーヒーか紅茶を嗜み、その後は散歩する。健やかな生活のふとした拍子に、世界を揺るがせにする惨劇が思い浮かぶというものである。悪食や寝不足では思考の速度は鈍り、凡庸な悪しか思い浮かばないというものだろう。

健全な精神は健康な肉体に宿る、という。逆も然りで、悪辣な精神もまた、健康な肉体にこそ宿るのである。そんな持論だ。

 今の段階は、前述における3段階目にあたる。普段なら10分、アルツハイマー型認知症患者もかくやといった様子でぼけっと日光を浴びるのが常だが、この日ばかりはやや様子が異なっていた。

 おや、と眼下の景色を目にする。霊衣姿の金時に、もう一人は一昨日やってきたカルデアのマスターだ。名前はトウマ、だった。綺麗に草が刈られた広場に出ると、いつの間にか描かれていたサークルの中央で2人して向かい合った。

 「八卦、用意!」

 気勢よく金時が言うなり、2つの肉体が激しくぶつかり合った。

 ジャパニーズ格闘技の相撲だったか。正確には神事らしいが、モリアーティにはよくわからない文化である。

 「よいしょ」

 「んげ!?」

 そうして当然、トウマは軽々と投げ飛ばされていた。軽く5mは宙を舞ったかと言うと、西部劇に出てくるあのなんか丸い草みたいに転がっていった。

 「ちなみにあれ、タンブルウィードっていうんだよネ。アザミがメインらしいけど」

 そうなんだ、知らんかった。

 「よお、あと何回やるよ。あんまり激しくはやんねー方がいいんじゃねえか」

 「あと2回」ひいこらしながら立ち上がると、のろのろとサークルの中へと入っていく。不格好に四股を踏むと「よろしくお願いします」

 「はいよ」

 他方、泰然と構える金時の身振りはなんとも様になっている。もうそれだけで力関係がわかるというものだ。

 「オラ」

 「うげー!」

 「そら」

 「アバー!」

 まぁ、御覧の通りに瞬殺である。盛大にタンブルウィードと化してくたばるトウマを後目に、金時はモリアーティの眼下の方へと声をかけた。「よお、嬢ちゃんたちはどうする?」

 「私はパス」おや、と真下を見ると、丁度薪の上に、赤い外套姿の女の子と、銀の騎士甲冑に身を包んだ姿があった。「暑苦しそうだし」

 小さいほうがアーチャーで、騎士甲冑の方はシールダーだったか。名前はそれぞれ、クロエとマシュ、といったはずである。普段から他者の人名などに記憶リソースを割かないだけに、こうして名前を思い出すのは重労働だ。

 「やらせてください!」

 「いいねぇ、威勢が良いってのはいいことだ」

 そうして始まる、マシュ・キリエライトと坂田金時のジャパニーズ格闘技。がっぷりよっつに組んでえいや、えいやと押し合う様は、なんというか、

 「これ何やってんの?」

 不毛である。

 少なからず、モリアーティにはそう見える。サーヴァントと人が取っ組み合って何か益があるんだろうか。サーヴァント同士が取っ組み合って、何か益があるんだろうか。どちらもジェームズ・モリアーティには不可解な事象である。

 「おお、すげえなマシュ! 力つええ」

 「頑張れ~」

 まぁ、気分が高揚するとか、そういう意味があったりするのかもしれない。そういう意味では、モリアーティが生前と同じように整理整頓を心掛け、健康的生活を送っているのとそう大差はないだろう。何せ、今日は調査が始まる日なのだ。

 と、理解することにする。窓枠に頬杖をついて相撲を観戦していたモリアーティがふと胸元から銀の懐中時計を取り出したのは、マシュが金時に放り投げられた時だった。

 「あぁ、いかんいかん」

 慌てて懐中時計の蓋を閉じて懐に仕舞い込むと、モリアーティは慌てて部屋を後にした。脳内スケジュールより10分も過ぎている。緻密に組み立てた計画に狂いが出るのは、あまり好ましいことではない。

 「もう1回お願いします!」

 「よっしゃ来い!」

 威勢のいい声を背に、モリアーティは老年特有のぎこちない身振りで、慌てて部屋を飛び出していった。

 転げる毬……それこそ枯れ草のように飛び出していく、肉体年齢60後半の男。サーヴァントとて、英霊の座の彼の評価はあくまで頭脳に限定されている。しかも、区分的には近代人。強いカリカチュアもなく、まして“知性派”の英霊である。肉体性能に関して言えば、耐久性以外は見た目通りなほどしかない。多少武術の類は学んでいるけれども、ジェームズ・モリアーティはハッキリ言うと、ジジイだった。

 要するに何が起きたのか、というと、慌てて階段を降りようとしたところで、盛大に足をもつれさせてすっころんだ。「うひは!?」なんて素っ頓狂な声を屋敷に響かせるに飽き足らず、階段の折り返しの踊り場まで滑落した振動は、少し屋敷を揺るがせた。

 しばらく、モリアーティは悶絶していた。何せ腰をぶつけたのだ。腰はキツイ。重いものをよっこらせ、するだけで怪しいのだ。それをこんな、階段から転げ落ちるなど致命傷である。

 やはり時間を守らないとこうなるのだ。憎々し気に己の無法を呪いつつも、さりとて益のないお気持ちに付き合うのも性に合わない性格である。思考の大部分を激痛に占有されながらも、残った微かな悟性で、モリアーティは必至にしわがれ声を出した。「誰か居ないかね、誰か」

 「はいはいまたですかお爺ちゃん」

 のっそりと1階から現れたのは、狐耳のサーヴァントである。胡乱げというよりはほとんど呆れた顔の玉藻の前は、しぶしぶといったように階段踊り場まで上がってくると「あなた本当にサーヴァントなんですかね」と不躾に言う。

 「いつもすまないねえ」不満を微かに抱きながら、モリアーティは努めて平穏な口調を心掛けた。「年齢は理不尽なものだよ」

 「はいはい。では失敬して」うつ伏せで臥床するモリアーティめがけ、玉藻の前は、掛け声一つして拳を振り上げた。

 「えい、えい」

 「あのぉーちょ、ちょー??」

 「むんッッッ!」

 「力技はアハァーン!?」

 ドス、と妙に鈍い音をたてる拳の一撃が腰部にクリティカルヒット。一瞬気絶しかけたものの、次の瞬間には腰の痛みはおおむね消し飛んでいた。

 「もう少し老人を労わってはどうかと思うのだが、君はどう思うかね玉藻君」

 「まさか呪術で~とか仰いませんよね? 治してもらってるだけありがたいと思っていただけると幸甚に存ずるのですけど???」

 よろよろと立ち上がる白髪の老人をジト目で見下ろしてから、玉藻の前はさっさとその場を後にする。なんと無情な、と言いかけたが、モリアーティはそれを口にはしないで置いた。

 「そう言えば」階段を降りたところで、玉藻の前は階段上のモリアーティへと振り返る。「今日はテラスで構いません?」

 「リビングは使っているのかね?」

 「いやー、そういう訳じゃあないんですけどね。いや、使ってるには使ってますけど」

 彼女らしくない歯切れの悪さである。はて、アリスが何か魔術の実験でもしているのか、エリザベス女王陛下と何か相談の最中か。そういうわけではないのかな、と思いつつ、キッチンへ消えていった玉藻の前を目端に、モリアーティは何気なくリビングに入っていった。

入って、すぐに理解した。

 なるほど、これは酷い。潔癖とは言わずとも、綺麗好きなモリアーティにはその光景は見るに堪えないものだった。

 リツカが、ソファで寝ていた。まぁそれはいい。床やらテーブルの上やらに本や空のアルミ缶やら三色ボールペンやらが散乱しているのも、まぁいい。いや駄目だけど、とりあえずよしとする。

 それよりなにより、この寝方はなんだというのだろう。背もたれに足を預け、座面に背中から首を座らせ、頭は床にだらりと下げている。手も足も大開になって、しっちゃかめっちゃかな方向に延びていた。

 「うーん、ちょっとした猟奇殺人現場」

 生前、モリアーティが使嗾して引き起こした連続婦女殺人事件を思い出し、少し「ウワっ」て顔になる。彼は悪事を計画し、悪が成されることは善いことだと考えるが、結果として生じる悲惨な光景には特に興味関心がない。

 なるほど、玉藻の前が言っていた理由がわかる。食事などとても摂れる環境ではない。

 「これどうしましょうねえ」後ろから顔を出した玉藻の前も、はっきり言ってドン引きしている。「起こしていいんですかね」

 「アリス君はいないのかね」

 「今日はもうお出かけになってますよ?」

 「見ていないというわけか」

 さもありなん。この屋敷の主も、モリアーティと同等かそれ以上に綺麗好きな人間だ。こんな風な光景を見たら、多分薔薇の猟犬でも解放して、即座に解体してしまうのではないだろうか。それか卵形の爆弾で爆散させるか。

 「夕方には戻ってくるみたいですよ」

 「まぁそれなら大丈夫かナ」

 とりあえず、モリアーティは見なかったことにしかけたが、ふと気づいて、散らばった資料に手を伸ばした。

 一枚、手に取る。一昨日、無数に渡した式の一部だ。正確にはそのデータへの解釈を、モリアーティが書きなぐったページである。

 考えつくだけの解釈がずらりと並ぶ。取るに足らない誇大妄想から、調子のいい楽観論まで。その中、赤丸でぐりぐりと囲まれた項目が目に入る。

 そのマークはモリアーティが施したものではない。その下に、青い文字で書かれた注釈も。

 

 “何者かが聖杯のピークパワーを転用している?”

  注釈:一番これが嫌な感じがするなぁ

 

 相変わらず、猟奇殺人現場を寝相で体現する人物を見下ろす。赤銅色の髪の女。年齢は19。そろそろ20になるという。

 「ここを片付けてから朝食を摂るよ」キッチンに再び消えていく玉藻の前に言う。「今日の朝食は何かな?」

 ハムエッグにトースト、という返答を聞きながら、モリアーティは満足気に、それでいて悩まし気に眉を寄せた。

 「何者か。そう、何者なんだろうね、アレは」 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅱ-2

(こちらSG(スターゲイザー)よりSSリーダー、BSリーダー。目的地にはついたかな?)

 聞きなれた男の声が耳朶を打つ。ロマニ、ではない。前職では、アメリカ海軍で戦闘機の後部座席に座っていた、という肌の浅黒いスタッフの声だ。(SSリーダー、現着完了)とリツカが端的に返答するのにワンテンポ遅れ、「BSリーダー、こっちも着きました」と後に続いた。

 現在地、ロンドンの一画オールドストリートの広場。人の姿は相変わらずなく、陰鬱な風が濃霧を運んでいる。

 時間にすれば、およそ50時間は前。この地にレイシフトするなり遭遇した、あの奇妙な化け物と戦った場所がここだ。なんとなく薄気味悪く感じるのは、ただ主観的な気まぐれなのか、それとも真実何かそう感じさせる要因があるのかは、現状では不明だ。

 そんな薄気味悪さは此処にいる全員が感じているのか。クロはどこか鋭い視線で、ライネスも油断なく周囲を見回している。そうして凛……ではなくエリザベス女王も、平素な素振りでこそあるものの、表情には油断ないものが漂っている。

 とは言え、そこまで緊張が張り詰めているわけでも、ない。何せ明確な手掛かりがあるわけでもないし、言ってしまえば今回は“ワンチャンス”を狙っての作戦行動なのだ。最初から、そう多くを求めた行動ではない。

 「アナタ、ちゃんと持ってきたでしょうね」

 そんな、ほんの微かな気の緩みを察したかのように、エリザベス女王が厳しい言葉を向ける。とは言え、今さらそういったものに狼狽えるトウマでもなかった。もちろん、と頷きを返すと、トウマは懐に入れた硬い感触を自覚した。

 護身用、とのことでエリザベス女王に渡されたものだ。トウマだけでなくリツカも受け取っていたもので、曰く一度くらいサーヴァントに襲われてもなんとかなる代物ではあるらしい。

 「さて、じゃあ予定通りに動こうかね」

 腰に手を当て、ライネスはやや物憂げなように言った。そうね、と明るく応えたエリザベスがライネスを引きずりながら、広場の反対側へと歩いていく。恨めし気にこちらを睨みつけるライネスの空色の目からは、ちょっと視線を逸らした。

 「ライネスも本人だけだとねえ」

 ご愁傷様、というように、やや引き気味のクロ。こちらは視線をこそ逸らしていないが、手を振る姿には何とも言えない哀愁がある。

 「遠坂凛、知ってるんでしょ?」

 「まぁ一応」

 あくまで一応、とトウマは応えた。確かに知っていることは知っている。ステイナイトのアニメ、DEEN版もufo版も見たわけで、当然どちらにも遠坂凛は登場人物としている。プリヤにももちろん居るわけで、クロは直接凛と顔見知りというわけだ。その濃さから言えば、トウマの「知ってる」はあくまで情報として知っているだけに過ぎない。

 「なんていうか」ちょっと面映ゆいように、クロは頬をかいた。「良い人なのよ、凛。面倒見はいいしね。ただ、ちょっとねえ?」

 そうして、苦笑い。「あーはいはい、わかる」と応えるトウマも、ぼんやりと、遠坂凛の人物像を思い浮かべる。

 間違いなく善人の類ではある。人倫と言う言葉を一切軽視する魔術師の界隈にあって、最後の最後まで倫理性を損なわない類まれな女性だ。志は気高く、その視野は多分広い。それでいてリアリストで、それでもやっぱり理想主義を棄てない。ある意味中途半端とも言えるけれど、逆に言えばすべてを為そうとする偉人の気風を持っている。そんな人物だ。間違いなく頼りにはなるのだろうけど、まぁそれはそれとして、我が強く、且つ頑固なところは或る意味とっつきにくい。多分、実際に同じ学校にいたとしても「関わらんとこ」ってなるタイプではないだろうか。猫かぶりをして、どうにかそれを隠しているのかもしれないが。

 「あくまで彼女は凛じゃなくて、エリザベス女王様、なんでしょうけどね」

 ずんずん、と前に進む赤いドレスの後ろ姿。右手に宝石の剣を、左手にプラチナブロンドの髪を揺らした少女を携え進む姿は、ある意味凛以上の“我の強さ”を感じさせる。エリザベス女王について、マシュから史実の姿について簡単なレクチャーは受けた。信仰心に篤いエリザベス女王と遠坂凛は、一見、似通うところがない……ように、思える。

 「じゃ、こっちも始めましょっか」

 ね、と小首を傾げて促すように言うクロ。頷き一つを返したトウマは、改めて、決然と空を見上げた。

 分厚く宙に鎮座する、黒い濃霧。その遥か先、微かに閃く光軸が空を横断している。

 「ほーら、早く」

 ちょこちょこと駆けだしたクロを追う。小さなその背を追いながら、もう一度だけ、トウマは空を見上げた。

 何故だろう。ただの印象だろうか。

 その空に浮かぶ光軸が、なんだか、細くなっているような。

 

 ※

 

 同時刻

 ロンドン某所 繁華街裏手の路地

 

 「ここ、ですよね」

 リツカがカルデアからの定時連絡を終えるに合わせ、マシュは目の前の屋敷を見上げた。

 リージェントパークにほど近い広場は、繁華街の近くにしてはどこか寂れた雰囲気がある。元より人の姿がほとんどないことだけではない、妙な陰鬱さとでも言おうか。正体不明の特異点、という懸念がそうさせるのだろう、とマシュはとりあえず割り切る。

 とは言え、目の前に鎮座する屋敷は、どうもそういった空気と無縁に見える。厳かな佇まいは、一目でこの建物の持ち主の社会的地位や賞賛を感じさせるものだった。

 「おう。ここがジキルの家だな」

 同じく見上げるようにしながら、金時はどこか険しい顔で言う。ジキルと連絡が取れない、と最初に報告を挙げたのは彼だったらしい。

 それにしても、生前のヘンリー・ジキルとは恐れ入る。何せ19世紀末に起きた怪事件の被害者であり、且つ犯人としてとても有名な人物だ。

 (まあ正確には、彼の研究棟はこの裏手なんだけどね)

 無線で言ってきたのは、今はナーサリーライムが位相差のある世界に展開した固有結界の奥で何やら研究に勤しむジェームズ・モリアーティだ。

 「こっちは居住区画、ということでしょうか?」

 (区画……)マシュの語彙に疑問符を浮かべつつ、モリアーティは応えた。(まぁその理解で大丈夫かな?)

 「裏手から入っても良かったと思いますけどね。直接研究棟なわけですし」

 「まぁあくまで友人枠として来たわけですしね。アスタン氏のように」

 「斧でカチコミませんでした、あの弁護士。執事でしたっけ?」

 「斧は使用人じゃなかったかな」

 「お、じゃあ宝具(ゴルスパ)、ブッパしちまうか?」

 「Mr.ゴールデン、屋敷が吹っ飛んじゃうと思わないですか?」

 「玉藻の前もそうだそうだと言っています」

 なんだか物騒な話をする玉藻の前とリツカ。金時に至っては何故か鉞を担ぎ出しているが、まぁ流石に冗談なんだろうけれど、あまりユーモラスが豊かではないマシュはちょっとはらはらしてしまう。

 ちぇ、と渋面の金時を他所に、さっそくと言うようにドアの前に立つと、玉藻の前は貞淑な素振りでノッカーを重く叩いた。

 「ごめんくださいまし。ジキル様ー?」

 伸びのある、よく通る声だ。特別大きいわけではないが、この屋敷のどこにいても聞こえるであろう、そんな声だ。

 が、中からは返答はない、念のため、と玉藻の前はもう一度ノッカーを叩いたが、やはり返答はない。

 「ジキルさーん?」

 「やっぱり研究棟の裏口に行こうか」

 マシュは、屋敷を見上げる。厳かな佇まい、それは相違ないはずなのに、何故か急速に、ただ蒼古としただけのぼろ屋敷に見えてきた。

 と、玉藻の前とリツカが相談する後ろで、金時が空を見上げていることに気づいた。なんとなくその視線を、追ってみる。

 分厚い霧。灰色と暗闇がまだらになった霧の先、仄光する光の帯が閃いている。

 特異点に見られる現象。およそ衛星軌道上付近に展開していると思しき、超高出力の魔力が束になった何か。おそらく、この旅の根幹にかかわるであろう、何かだ。

 「あぁ、あれな」そんなマシュの視線に気づいてか、坂田金時は決まり悪そうに眉を寄せた。「厭な気分になるよな、アレ」

 そうですね、と応えながらも、マシュは金時の表情が、妙に印象的だった。やるせないような、それでいて煮え切らない、そんな顔。その表情に名前があるなら、多分、“憐憫”ではなかったか。

 直感的に抱いたそんな想像に、マシュは当惑した。何故? わからない。自分のような薄い人生経験しかないものが、そのように人を測ってしまったことが、何か重大なことのように思えた。

 ただ、その横顔はそうとしか言えなかったのだ。日本人離れした鼻筋通った顔立ちに差す、灰のような影。切実に軋む眉。やるせなく結ばれた口唇。そのどれもが、ただ、何かを憐れんでいるように見えた。

 微かな、それでいて遥かに延長した逡巡の惑い。マシュは、ただその惑乱を、しっかりと胸郭の底に仕舞い込んだ。

 そんな闃然は、けれど、狙い澄ましたように裂けた。

 「ホワチャー!」

 奇声一発、玉藻の前は思い切りドアへ向かって飛び蹴りをかましていた。キャスタークラスとはいえ、十二分に呪術で強化された跳び蹴りの火力たるや惨憺たるものがある。重く格式のあるドアは襤褸雑巾のようにぶち壊れ、ロビーへと吹っ飛んで行った。

 ……なんでこうなるのさ?

 「ヒッキーと化したジキル氏に突撃するなら、カチコミするしかありませんから」

 何故か自慢げな玉藻の前。呆然とするマシュを他所に、リツカは特に動じた様子もなく屋敷の中を覗いている。むしろ扇動した側の人間に違いない。

 「結局こうなるんじゃねえか」

 「たまには押し入りも悪くないかなって」

 「野蛮過ぎません? 私、これでもお淑やかな良妻志望なのですけども」

 「随分武闘派な良妻ですね」

 「旦那様の危機とあらばフレアもかくやといった飛び蹴りでお助けする。それが良き妻の嗜みかと」

 「物凄い偏向のある思想を堂々と仰りますね、タマちゃんは」

 どかどかと入っていく3人。押し入り強盗だってこんな堂々としていないと思う。バイタリティ溢れる3人に、マシュはおどおどしながらついていった。自分はまだまだだ、と若干誤った人間観を抱きながら。

 紆余曲折はあったものの、とりあえず屋敷に入った感想は“静か”だ。物音ひとつせず、暗い沈黙が唖のように佇んでいる。気配もない。ただ、微かな刺激臭が漂っていた。その臭気はほんの僅かだというのに、何か気分が悪くなるものだ。

 恐らく、その場にいた全員がその刺激臭を感じ取っていただろう。閉口して、戸惑うようにロビーで躊躇していた。先へ、歩くのを。

 「ジキルさん」声を張り上げたのは、リツカだった「いらっしゃいますか」

 無論、帰ってきたのは沈黙だけだった。互いに顔を見合わせた4人は、しずしずと屋敷を探し回り始めた。

 とにかく、広かった。ゲストルームはいくつもあり、ダイニングも広い。というか何もかも広い。元は研究者で、且つ研究棟に缶詰になる学生や弟子を預かってもいたというジキル氏の屋敷は、そういった人たちが一時暮らす場所でもあったのだろう。とても立派なことだが、何せ広いので時間がかかる。使用人用の倉庫やら何やら調べ尽くして、結局得た結論は、こちらの屋敷には居ない、ということだ。

 「やっぱり変だな」

 念のため、とキッチンを調べ終わった後、金時は難しい顔をしていた。見下ろす流し台には、数日前に使ったと思しき食器が雑然と積み重なっている。皿の上の残渣物は変色し、どうやら動物性たんぱく質であることだけがかろうじて伺い知れてる。ぶよぶよになった茶褐色のゼリーは、レタスだろうか。

 「これ、刑事ドラマだともうジキル様はお死にになっていらっしゃいますよねぇ?」

 鼻を摘まんでシンクを見下ろす玉藻の前。出自と自らの形質もあるのだろうか、目の前の腐臭に素朴な不快感を示している。かく言うマシュも、吐き気を感じさせる臭気に閉口したが、先ほどから屋敷全体を漂う刺激臭とは、違う。

 「どう見ても、良からぬことにはなってそうだね」

 リツカはあまり、表情変化なくその光景を眺めている。元々粗雑な人間なので、多分も気にしないのだと思う。なんというか、彼女の個室の汚さはこれに近しい。

 結局、居住スペースには何もない、と結論付けると、腐臭漂うキッチンを足早に後にした。

 向かうは研究棟。ヘンリー・ジキルの屋敷の裏手に増設された別棟は、中庭を挟んで向かいにある。ピロティを隔てた先に鎮座する研究棟の見取り図は、網膜投影されたマップを切り替えれば表示される。1階は講堂が2部屋あり、2階にはかつて有力な弟子のために設えられた研究室がちらほら。その中にジキルの書斎もある。マップによれば書斎の広さは20㎡ほどと、ちょっとした談話室を思わせる。あるいは、事実そう機能していたか。そうしてだだっ広い地下室があることが、マップからは読み取れる。生体反応を示す光点はない。

 「どうします? 2手に分かれます?」

 「いや」玉藻の前に、リツカは首を横に振った。「今は、そんなに急いでないから」

 「では2階から?」

 「そうしよう。いるなら、もう死体になってると思うけど」

 さらりと言いながら、リツカは研究棟のドアを蹴り壊して侵入した。けたたましい音をたてて弾け飛ぶ木片は気にも留めず、彼女は睨むように周囲を見回していた。

 誰も居ないがらんどう。湿度の高い静寂が漂う空間。机の上に薄く積もった埃から、長らく使われていないことが伺い知れる。講壇の背後に大きく掲げられたブラックボードの下に積もった粉末は、書き散らしたチョークの破片だろうか。講壇の上には、長いチョークが数本散らばっている。まだ出したばかりと思しい。1つは突端がすり減っているが、残る数本は新品同然だ。地面には砕けているものもあるが、どれも真新しい白亜を閃かせている。

 「こんなの、前には無かった気がするんですけど」

 不可解、というように、玉藻の前が黒板を見上げる。びっしりと描かれていたはずの白い文字や記号はすっかり黒板消しに吹き散らされ、ただ白い粉になって黒い板にへばりついている。端の方に、僅かに消しきれなかった文字や数字を僅かに認めるだけだ。

 玉藻の声には応えず、リツカは僅かに残った文字を見ていた。マシュもそれに倣ってみたが、たかだか数文字程度では、何が書いてあったのかは不明だった。かろうじて、何か数式のようなものだろうか、と見当がついただけだった。

微かに小首を傾げてから、「行こっか」

 隣の講堂も似たようなものだった。古寂びたがらんどうは長年使われた形跡がなく、こちらは人の出入りの痕跡すらない。早々に見切りをつけると、次は2階へ。行動を隔てた向こうの階段を上がると部屋は3室。手前の2室はもぬけの殻で、ドアの小窓から中を覗く限り、こちらも人の出入りは感じない。

 一番奥が、ヘンリー・ジキルの書斎のはずだ。赤い粗ラシャで設えられた品のいい作りのドアも、静脈血を思わせる赤さに思えた。

 マップに生体反応はない。4人して顔を見合わせて状況を理解すると、玉藻の前は遠慮なく宙を跳ねた。

 緩やかな巫女衣装から繰り出されるドロップキック。両足の打撃が、(シン)とした静けさごとドアを粉砕した。

 勢い、飛びこむ2人。金時は鉞ではなく腰の太刀に手をかけ、マシュも鞘に収まった剣の柄に手をかける。

 はたして死体か何かを期待したマシュは、猪突の気勢をすかされたようにたじろいだ。何せ何もない。20㎡の広い書斎は、他の部屋と変わらない静けさを、

 「何かな、あれ」

 異変に気付いたのは、マシュの肩越しに部屋を覗き込んだリツカだった。マシュより背が低いせいで、肩に手をかけて背伸びをしながら部屋を見回している。

 リツカが肩越しに指さす先に、視線を添わせる。場所は部屋の中央、床。カーペットの敷かれた床の上に、何かが散らばっている。青緑色の膿のような、何か。その何かが脳漿のように見えたのは、気まぐれだろうか?

 「コマンドポスト、SG及びBSリーダー、こちらSSリーダー。書斎に到着したがジキル氏の姿を認めず。部屋も荒らされた形式は見られない」

 (こちらコマンドポスト、となると地下研究室かな?)

 (地下には走査範囲が届きにくい。生体反応の有無は不明)

 (あ、えーと。了解)

 念話でやり取りしながら、リツカは部屋の中央へと足を向ける。妙な色のヘドロの近くまで近寄ると、膝を曲げてまじまじと眺め始めた。

 「タマちゃん?」

 「うーんちょっとわかりませんねえ。リツカ様も?」

 「なんだろうね。伝承科(ブリシサン)にいたころ研究室で見たことがあるような気もするけど」

 顔顰めて、床にぶちまけた何かを見下ろす玉藻の前。屋敷全体に漂う不気味な刺激臭の発生源は、どうやらこの奇妙な原形質めいた何からしい。口元を袖口で覆いながら、それでもリツカと同じようにその何かを観察していた。

 マシュはその姿を、後ろから眺めていた。今、マシュにできることはないし、またその役割でもないことは理解している。自分の役目は、端的に言えば戦闘単位なのだから。

 とは言え、マシュ・キリエライトは、フジマルリツカという存在者に対して、何事か貢献したいという想いが、どうにも強い。彼女自身も自覚している。それ故、マシュは周囲へ警戒を広げる意味も兼ね、部屋そのものの観察を始めることにした。

 部屋の構成は、モリアーティ教授に教わっていた通りだ。暖炉が一つ。壁にずらりと並ぶ古書は、宗教書や自然科学、特に化学の本が多いだろうか。例のヘドロの隣あたりに椅子とテーブルがセットで並んでいるところを見ると、談話室、という言葉が自然と想起される。テーブルの上にはコップが1つ。開いた薬包紙には、僅かに白い粉末が残っている。

 「先輩、これ」

 リツカが、顔を上げる。いつになく真面目そうな顔のリツカは、マシュが手にした薬包紙を一瞥すると、手を伸ばした。「ドクターに見てもらおうか」

 髪を差し出したマシュの手の指先とリツカの指先が触れあう。薬をウェストポーチから取り出したビニールのパックに仕舞い込み、付箋にボールペンで書きこむリツカの頭頂部からうなじを、たくさん眺める。「周り見てもらっていい?」と顔を挙げたリツカに、マシュは勢い頷いた。

 とは言え、部屋そのものはそう特筆したものではない。特徴があるとすれば、何故か書斎に置かれた大きな姿見か。部屋の隅に置かれた姿見は、ひび割れが稲妻のように走っている。床には欠けた硝子の破片が微かに散らばり、ちらちらと光っている。

 と、マシュはその姿見に移りこんだ書棚に目が映った。

 振り返る。そうして、その本を認める。やや高い位置に、押し込まれるようにして背表紙を見せる黒い本。薬学や化学の本が整然と並ぶ中、その黒い本のタイトルはどうしようもなく目を惹いた。

 手を伸ばす。やはり無理やりねじ込んだのか、引き出そうとすると他の本まで一緒にまろび出ようとする。慎重に周囲を抑えながらやっとのことで黒い本を抜き出すと、ぱたぱたと表紙を手で撫でた。

 

 ──“決戦術式-冠位英霊召喚の技術的転用の可能性と発展性について-Ⅱ”

 ──“著:マキリ・ゾォルケン”

 

 硬い紙の表紙を開く。数ページの修辞の後、目次のページが並ぶ。

 

 ・決戦術式の規模縮小

 ・想定エネルギーについての展望

 ・英霊の座への接続への技術的方法

 ・候補地

 

 

 なんで、こんなものがこの部屋にあるのだろう? 微かに浮かんだ疑問符。ヘンリー・ジキルが英霊召喚に関心を持っていた? いや、ありえないことではないが、それにしても何故?

 取り立てて言うべきなのかもわからず、ページをめくった時だった。

 繰る手が、止まる。古ぼけた本に挟まった真新しい紙を手に取る。色彩鮮やかなそれは、この部屋にあってなお異様だった。子供がクーピーで書きとったかのような絵が3枚。1枚は雪景色を書き取ったものだろうか。もう2枚も氷の世界は変わらない。ただ、牧歌的な村や氷の内に覗く草花が、鮮やかだ。最後の一枚は奇妙だ。天に漂う、巨大な何かを描いたものだろうか。なんとなく、気球のよう。

 そして、その全てに描かれた影のような人物。赤銅色の髪を揺らす小さな人影は、なんとなく、

 「先輩?」

 彼女に、似ていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅱ-3

 そう簡単にはいかないなぁ、と思った。

 オールドストリートの広場。2日前、トウマ達がレイシフトを行った場所だ。人通りがないのはこの特異点の特徴らしく、温い風が吹く広場には自分を含めて4人しかいない。

 (01、こちら03。特に目ぼしいものはない。残存魔力は検出するが、前回の戦闘の痕跡でしかない、かな)

 ライネスの声が耳朶を打つ。硬質な声は、むしろ司馬懿のものだろうか。とは言え生真面目そうながら、語尾に感じる柔らかさは彼女のものに相違ない。なんだかんだ言って、彼女はエリザベス女王と上手くやっているのだろう。

 屈めていた膝と腰を伸ばす。伸びやかに身体を天へと志向して、トウマはからりとしていながら、じとりと肌に吸い付く風に眉を顰める。

 この場所に現着し、既に2時間が経過している。なにがしかの手掛かりを求めて着てみたが、結果はどうやら外れらしい。特に収穫もなく、ただただ時間だけが過ぎていた。

 「あとは、そこの区画だけね」

 隣に並んだクロも、若干だが飽きを感じているらしい。つまらなそうに前髪をかきあげると、彼女も大きく息を吐いた。「ヤな空気」

 「もっと暴れたいなー、こんな地味な作業じゃなくて」

 後頭部で手を組んで、鼻歌でも歌うように言うクロ。鈍く惹起し始めた飽きを払うように溌剌と伸びをすると、クロは晴れがましく見える顔立ちでトウマを下から覗き込んだ。

 「何かあったの?」からり、と彼女は忌憚なく言う。「難しい顔してる」

 クロは、本当に、勘が良い。というより、面倒見がいいのだろうか。こちらの感情の機微に関する感受性が高く、何かあるとすぐ感づいてしまう。

 それでいて、距離のつめ方が巧い。子供らしい笑みを浮かべてみせながら、鼻歌交じりに隣を衝かず離れず歩く姿は、多分、言いたくないことなら別にいいよ、と言ってるみたいだ。

 視界を掠める、黒い髪の彼女。アリス、と名乗ったキャスターのサーヴァント。あの時彼女が言った言葉が、鼓膜の内側、内耳から鋭く突き上がる。

 微かな逡巡。癖毛を手梳きしながら、トウマは「どうすればよかったかな、あの時」と、ちょっとだけ、逃げた。

 多分、逃げたことすらクロは察している。機嫌良さそうにしながら、ちら、と向けた一瞥は、なんとなく見透かすようだった。もっと言えば、見透かしたうえで、クロはさして気にしない素振りだ。

 「気にしてるの?」

 ひょい、とクロが脇腹を指す。そうだね、と軽く頷いて、トウマは「最適解は何だったかな、って思って」

 「うーん。正直、相手が未知数すぎて判断できないわね。ステ差はあった気がするし、短期決戦狙いに切り替えたのは悪くないはずだし」

 「マシュを待つ、って手は」言ってから、トウマは腕を組んだ。「精神汚染の懸念がある戦力を味方とはあんまり期待できないか」

 「そうね。ただ、手なりで宝具を投影しちゃう時があるから、それはちょっと考えないとかも」

 眉を緩く寄せて、考える様子のクロ。たとえ想定した会話でなかったとしても、彼女は真剣に考えてくれている。胸に、にがっぽい罪悪感が滲む。クロの好意に、いつも甘んじてしまう。エリザベス女王から渡されたポケットの硬質を感じながら、トウマは、甘んじる分くらいはちゃんとしなきゃ、と思った。

 「投影頻度が高い宝具リストアップして、投影練度挙げるとかって意味あるんかな」

 「どうかしら、そう短期間で変わるものかわからないけど」ちょっと思案気。それからトウマに向けた顔は、花やぐ白百合のように、とても愛らしかった。「いいかも」

 本当に、彼女は頭がいい。自分のような半端なマスターには、とてももったいないサーヴァントだ。知悉に富み、戦術眼に優れ、ステータス差を覆すだけの戦いができる。突撃するしか能のない自分よりも、きっとリツカのサーヴァントとして戦えばトップサーヴァントすら軽々と打ち倒す逸材足り得るのでは、と思わされる。

 自然と湧く、申し訳なさ。中耳に凝る、アリスの声。

 だが、彼は愚かではなかった。

 「俺、なんかできるかな」

 「あのね、アナタは私のマスターなんだから。投影のコスト管理とか、宝具の選定なんかはむしろ参考にしたいじゃない、鯖戦のプロなんだから」

 「今の調査終わったらやろうか」

 「さんせい」

 それが多分、自分の役割で、今できることなのだ。価値のあることかどうかはわからないが、それは後からわかること。今は思考で足を止めるべきときではない。

 「じゃ、ちゃっちゃと終わらせちゃいましょ?」

 ざり、と彼女の靴底が砂利を咬んだ。

 最後は、広場からリージェントパークの裏へ抜ける小径だ。トウマたちがまさにレイシフトしてきた裏路地は、あの時と変わらずに陰鬱そうな濃霧が立ち込めている。

 クロは地面に手を当てると、魔術的措置の解析を開始する。構造物の異変・変調への察知の正確さはクラスカード譲りの特性で、魔術に対する感度の高さはアインツベルンのホムンクルスとしての性能故。その間のトウマの役目は目視での走査で、あまり優先度としては大きくない。

 視覚を強化して地面を流し見る。金時の打った宝具の余波で路面は微かに歪んでいて、砕けた欠片がちらほらと散らばっている。それ以外は特に何もなく、やはり無駄骨だったか。

と思いかけた時、ふと、特に何でもないものが目に入る。

 路地の端に転がる丸い何か。相対距離は7mほどか? 小さく丸まったそれは、一目ではゴミに見える。一般市民は滅多に外に出ないが、浮浪者の類はそこそこ姿を見かける。そうした人々が残したものはそれなりに散見される。それも、そういったものだろう。

 手に取ったのは念のため。掴んでみると、紙をくしゃくしゃにして丸めたものらしい、と知れる。慣例にならって紙を拓いてみると、しわくちゃになった古紙にびしりと数式が並んでいた。裏を見てみる。こちらは古いラテン語が整然と並んでいることが伺い知れる。

 「えーと」一応古代ギリシャ語・ラテン語は読めるようになったが、流石にスムーズには読めたものではない。辞書か何かがあれば問題なく読めるのだが、まだまだ習熟度は満足いくものではないのだ。「これは……魔神?」

 「魔神柱、ウェパル。ソロモン王が使役したと言われる72柱の悪魔の1つ、だね。それは『ゲーティア』の一ページかな?」

 耳元の声。思考は0、判断はコンマ1秒以下、すべきことは明白だった。

 「砲撃(ファイア)!」

 

 

 「うはっ!」

 “彼女”にとって、その射撃は予想の範囲内だが意外だった。

 左の肩先を掠め、灰銀の髪を揺らす大出力の魔術砲。焼け付く感触は、ガンドのそれか? しかもこれほどの出力となると、“フィンの一撃”にすら匹敵する。対魔力がないサーヴァントであれば、十分な打撃を与えることが可能だろう。自分如きでは、間違いなく死を迎える必殺の一撃だった。

 「ダ・ヴィンチちゃんの差し金か? やってくれる!」

 ひりつくような感触に口角を歪め、一足飛びで背後に跳ぶ。不慣れな身体強化はそれなりに成功し、蹴り上げた路面が衝撃だけで破砕される。

 急速に遠のく視界の中、あの少年も同時に背後に飛び退いている。しかも指差しは第二撃をこちらに志向。もう一射、“フィンの一撃”が来る。

 黒い魔術礼装に淡い光が血脈のように浮かぶ。魔術刻印を思わせるそれが腕に巻き付くように展開し、加速するオドが指先と言う名の銃口へと向かって疾駆する。

中る。回避運動は不可能、と悟る。あの礼装。極地用戦闘礼装に近しいあれには、高度なFCSの補正がある。アーチャーをモデルに作成された戦闘補助AIの射撃補正は、この距離なら間違いなく当てに来る。そこに術者自身の技量は関係なく、撃つ、という気構えさえあれば、必中のガンドは間違いなく敵を貫くのだ。咄嗟の迎撃で撃ったさっきとは、状況が違う。

 だから、“彼女”は回避することは諦めた。敵戦力を見誤まっていたことを、素直に認めた。彼女の美質は2つあり、1つは素直に相手の力量を認めることにあった。あのマスターは強い。少なくとも、敵の可能性があるというだけで、躊躇いなくこちらを殺しに来るだけの度胸がある。自分なんかより、よっぽど、勁い。

 「ファイア!」

 疑似魔術刻印を加速し、収束したオドが呪いの魔術へと形を変えていく。北欧より伝わる指差しの魔術。その最終系、死の呪いにまで至る“フィンの一撃”が、銃口から咆哮を挙げた。

 曳光弾代わりに照射されたポインターが“彼女”の心臓に一瞬先に触れる。可視化されるほどに強力な死の呪いが、あと2秒で飛来する。

 ちなみに、彼女の美質はもう1つある。瞑目するまま2秒先の死を身構えた彼女は、自らのもう一つの美質、生き汚さを臆面もなく発揮した。

 「セイバー!」

 1秒後、漆色の突風が乱入した。

 さらに1秒。サーヴァントの心臓すら抉る火力を前に、黝い影は蠅でも払うように不可視の剣を振り抜いた。

 ただそれだけ。技巧も無ければ気迫もないただの動作だけで、必殺の筈の呪いは夢のように霧散した。

 風が、柔らかく大気を裂く。ただそこにいるだけで盤踞と屹立し、世界が震顫している。

 影なる剣士にしてみれば、木っ端の如き魔術師のガンド如きはそよ風に過ぎないのだ。

 「遊ばれては困る。素人ではないのですよ」

 ぴしゃり、と鞭うつような箴言。振り返りもせず、セイバーは不満そうに言った。

 「ごめんごめん」

 返す“彼女”の言葉に、セイバーは無言で身じろぎした。まだ言い足りない雰囲気こそあれど、無駄口を叩く余裕はない、と2人とも共通認識はできていた。

 相対距離、20m。サーヴァント戦において、まさに目と鼻の先というべき距離感。一足踏み込めば頸を狙える距離だが、セイバーは不動のまま、敵を見定める。

 敵、2騎。あの少年を遮るように、赤いサーヴァント2騎が剣を構えている。

 「あのサーヴァント」

 「セイバー?」

 「いえ」微かに、剣先が揺れた。「顔見知りに、似ていたもので」

 意外な言葉だった。ほとんど自分のことを喋らないセイバーの口ぶりが、なんとなく柔らかい。

 無論、それで剣の鈍る彼女ではあるまい。「ランサー!」と張り上げた声色は、勇躍としている。

 「マスターを安全な場所へ! 遠くからご照覧いただく」

 途端、ぐいと身体が持ち上がる。「了解、騎士様」と揶揄的な微笑が耳朶を擽るなり、一挙に視界が飛んだ。

 さっき、“彼女”が自分で強化をかけた時のそれとは隔絶している。気が付いたら、もう広場を脱し、豆粒みたいになったセイバーたちの姿をやっと捉えるくらいになっていた。

 「全く、奔放なお姫様だ」

 空色から墨が溶けだすように、幽らりと姿を現す黒い影。黒いローブに身を包んだランサーのサーヴァントは、嫌悪を隠しもせずに、抱きかかえる“彼女”を睥睨する。

 「身勝手な女は嫌いだな」

 「地の女主人がお好きと見える」

 「小賢しいと言っているんだよ、マスター」

 鼻を鳴らす影。獣の臓物でも捨てるように“彼女”を放り投げると、黒い影、ランサーはフードの奥の暗い洞の中で小さく笑うように嘆息を吐いた。やれやれだ、と言いたげに身動ぎすると、「懐かしい顔、というだけさ」

 「あの赤いキャスター。イシュタルと同じ身体、なのかな?」

 「よくよく聖杯に縁があるんだろうよ、あの身体(ボディ)は」ほとんど感情の起伏なく、ランサーは吐いた。「幸運なのか非業なのか。判断には困るけどね」

 言って、ランサーはそのまま遥か視界の彼方で開始した戦闘を見下ろしている。どちらかと言えば現実主義的で冷淡な人、という認識だったが、それ以上にあの戦闘に関心があるらしい。

 それは、“彼女”にしても同じこと。“彼女”の関心はあのマスターにはないが、それでもある種のキーパーソンである予感はある。

 セイバーが言っていた。最弱こそが最強に至る途なのだ、と。骨身にしみた事実を思い返し、“彼女”は苦く、ぎこちない笑みを零した。

 「セイバー、離脱のタイミングは任せる。こっちは切りが良いところで神殿に行く」

 返答の代わりは、パスを繋げた際に鼓膜の奥をちりりと擽るクリック音だけだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅱ-4

 「タチバナ!」

 ライネスが路地に滑り込んだ時、まずマスターの顔色を伺った。

 狭く暗い路地裏に、蹲るようにしゃがみ込むトウマ。ライネスに気づいて顔を挙げた少年の顔は、思いのほか普段通りだった。

 「大事ないな」

 「特に問題は。実戦では初でしたけど」

 そういうことではない、とライネスは言いかけたが、言葉を飲み込んだ。右手を開いて閉じてを繰り返しながらも、普段通りの表情をするトウマの在り方は、傍目で見ても動じていないように見える。何か動揺を抱えている風にも見えない。ライネス、ひいては司馬懿という人間の鑑識眼に問題がないと仮定するならば、タチバナトウマは不意に啓いた戦端に動じていない。

 知らず、口角が緩みかける。緩めなかったのは、司馬懿の怜悧さというよりは、多分ライネス・エルメロイ・アーチゾルテの人格によるものだった。優秀な弟子に苦い顔を浮かべていた義兄が脳裏に過る。ライネスの感慨はもっとポジティヴなものだったが、要するに、感受した情動そのものは同位だった。

 「こちらBSリーダー、防勢接敵(エンゲージ・ディフェンシヴ)。敵は1騎、例の黒いサーヴァントと見て間違いない。マスターらしき姿も確認したがロスト」

 (あーこちらSG、状況了解した)

 無線で応えた声はロマニのものだ。慌てて休眠から出てきたせいか、妙に声が上ずっている。

 (戦闘指示はそちらに任せる。こちらはマスターの追跡に専念する)

 「了解。SSとはまだ?」

  (あぁ、ついさっきから通信途絶してる。原因は不明だが、こちらの計器の問題じゃあないと思う)

 了解、と手短に応えると、トウマは手早く通信を終えた。ロマニとの連絡も淀みがない。思考を素早く切り替えるように、トウマは広場の戦闘に視線を投げた。

 「どう思います、あれ」

 顎をしゃくりながら、トウマが一瞥を寄越す。こんなに凛々しかったかな、とちょっと圧倒されながらも、ライネスは、司馬懿の目で戦闘の趨勢を凝視した。

 戦闘の状況は、一言で表せば小康状態に見える。

 セイバークラスと思われる敵サーヴァントと直接剣で斬り合っているのは、エリザベス女王だ。【皇帝特権】に類似したスキルを用いることにより、生前と無関係に高ランクの剣術を獲得するエリザベス女王は、本場のセイバークラスとの戦闘にも関わらず、一歩も引かないインファイトを繰り返している。不可視の剣を宝石の剣が撃ち払い、宝石剣の一撃を不可視の剣が打ち返している。

 それだけではない。一歩エリザベス女王が押し込まれると見るや、即座にクロの狙撃が敵セイバーの追撃を阻む。魔力を断つ赤い槍を変化させた矢に、セイバーも苦慮しているように見える。

 一見、こちらが押しているように思われる。セイバーは攻めきれず、徐々にだがエリザベス女王とクロの連携が追い詰めている。

 そう、見える。

 「でも逆にも見える」

 険しい顔のトウマに、ライネスも同じように首肯を返した。

 事態は逆としても理解できる。クロとエリザベス女王の猛攻に対し、一切動ずることなく捌いている。攻撃の“間合い”を図るために、敢えて敵サーヴァントは受けに回っている、とも理解できる。不可視の剣を構える姿に動揺はなく、泰然盤踞と地に足をつける様は、圧されているという風には見えない。

 「力量を測ろうっていうのかもしれないけど」

 「普通に考えればそうだろうね。それも、こちらの手の内を探るためにだ」

 「でも何のために?」

 最後は質問というより自問に近しい。その自問の解答は一見明瞭に見えるが、くせ毛に指を絡めて何か思案する素振りのトウマの表情は、その問いが外見以上に複雑らしい、と思わされる。

 思案は、その実4秒ほどか。よし、と頷くと、トウマはしゃん、と立ち上がった。

 「どうしようっていうんだい?」

 「戦闘行為は基本的に消費行動。起こすならそれ以上の収穫が見込まれるときだけ、ってリツカさんも言ってたので。それに、あの不可視の剣」

 「あ、おいキミ」

 立ち上がりかけたライネスを制し、トウマは臆するでもなく、さりとて勇み足にもならず、広場の戦闘へと足を向けた。

 「BS01より02、04。タイミング見て一旦引いて」

 (どういうこと?)

 (何か策があるのよ、トーマには)

 ぎりぎりと弦を絞るなり、打ち出された矢がセイバーを狙う。重い矢の一撃を不可視の剣が叩き伏せた一瞬の隙に滑り込むように、エリザベス女王が高く背後へと飛び退く

 セイバーに、追撃の気配はない。二の矢を構えるクロの素振りとも関係なく、ただ悠然と攻撃を待つかのようだ。

 菫色の影なる幽鬼。無風だというのにゆらゆらとローブがはためくのは、不可視の剣から漏出した微風によるものか。

 こうして相対してみると、小柄ながら、その威容の圧迫感は大航海時代で出会ったヘラクレスと同等か、それ以上に見える。差異があると言えば、知性を感じさせる点か。前に進み出るトウマの姿を、あの洞の奥に光る金の目で、冷静に伺っているように見える。

 「こちらに戦闘の意思はない。剣を引いていただけないか」

 多分、セイバーにとって予想外のことだったのだろう。意表を突かれたようにローブが身動ぎすると、「名は」とぶっきらぼうに声を発した。

 少年を思わせる、張のある声質である。それいでいて未熟さは感じない。ただその一声だけで、広く名の知れたサーヴァントだと伺い知れた。

 「人理保障機関フィニス・カルデアのマスターです。タチバナ、トウマ、と」

 「カルデアのマスターか。女子供の背に隠れているだけの臆病者かと思ったが、風聞とは異なるようだ」

 「それに関しては違わないです。僕はその、ひ弱なので」

 「先ほどの射、繊弱な人間のものとも思えぬがな」

 微かに、幽鬼が嗤う。嘲りとも異なる奇妙な笑い声を漏らした後、「確かにな」とトウマを見据えた。

 「元はこちらの不手際。私のマスターは中々やんちゃでな、あれでは先ほど貴様に殺されていても文句は言えまい」

 「こちらも焦って撃ってしまいましたけど、でも根本的にあなたがたと事を構える必然性がないのも事実です。そもそも、俺……僕たちは、あなた方を何も知らない。敵かどうかすらわからない人と戦うのは、不合理では?」

 影の幽鬼は、無言でトウマを見返した。彼も彼で臆せずに、その視線を受け止めている。およそ5瞬、「一理あるな」と漏らしすなり、ゆらりと剣先を持ち上げた。

 瞬間、一気に暴風が吹き寄せた。路地裏に潜むライネスすら立っていられないほどの烈風、颶風にも届かんとする40ノットを超える風があの不可視の剣から吹き上がっている。

 大気が荒れ狂うけたたましい轟音の中、ひやりと、その声が耳朶に触れる。

 「俄然、興味が湧いたぞ。カルデアのマスター」

 路面を砕き窓辺を叩き割り、石壁を引き上がしていく。鉄柵と看板がなぎ倒され、バルコニーにあったであろう植木鉢の花が宙を舞い、空で裁断されていく。

 瞬間的に発生したサイクロンは、実時間にして5秒ほどで凪いでいった。周囲一帯を砕き巻き上げ更地にしながら、セイバーは、静かに剣を構えていた。

 凪の中。セイバーの構える剣が、煌めく松明のように閃いている──。

 「嘘」

 怖気のような呟きは、クロのものだったか。トウマを庇うように立ちながら、その黄金の剣に圧倒されていた。

 いや、彼女だけではない。その場にいる誰もが、失神寸前になるほどの瞠目で、その剣を注視せざるを得なかった。

 星の光をそのまま雫として象ったかのような光輝の剣。輝かしき聖剣の名を知らぬ者はいはしまい。

 凪いだ大気の中、セイバーのマニューバはほぼ無音だった。

 ソニックムーブを巻き起こし、音を置き去りにした突進は神速としか言いようがなかった。間近に居たエリザベスは反応すらできず、ライネスには影としか視認できなかった。咄嗟に反応できたのは、【千里眼】と【心眼(偽)】持ちのクロだけだった。

 投影した宝具はフィアナ騎士団の英雄が持つ小剣。こと防御においては『干将・莫耶』を上回るその真名を、彼女は振り下ろした。

 だが、とても対抗できるものではなかった。セイバーが掬い上げるように振り上げる剣こそは、外なる世界の怪異すら撃ち払う最強の兵器(ラスト・ファンタズム)

 その、剣の銘は。

  その時。

 ライネスはその光景を明瞭に見た。見てしまった。全ての注目がその黄金の剣に集まる中、背後から、やや遠景の形でクロとセイバーの剣戟が重なる刻を見ていたからこその視認だった。

 トウマの直上で、空間が歪んでいた。何もない空中に、同心円の波紋が細波のように沸き立っている。ゆらりと円の中心から這い出してくる何か。黝い肌に鋭角的な頭部、ぎょろりと蠢く眼球。仔細に名状することに不快を覚えさせるその容貌は、間違いなく、

 「タチバナ!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅱ-5

 「ここで最後ですね」

 繁華街裏手、広場の一画。

 ヘンリー・ジキル邸の研究棟、1F講堂奥のドアの前で、マシュたちは最後の部屋の前に居た。

 地下へと続く階段前のドア。南京錠は腐食し、床の上に転がっている。長い時間、誰も立ち入ることの無かった部屋であることが伺い知れる。

 「ですが、これ自体は最近壊されたものみたいですね」

 屈んで拾い上げた玉藻の前は、まじまじと掌の上で壊れた錠前を眺める。彼女から受け取ったリツカも指先に摘まんだそれを十分に検分すると、確かに、と頷いた。

 「ってことは、此処にいる可能性が高いってことか?」

 「ありそうだね」

 ドアに手を振れるリツカ。軽くノックすると、軽い音が深く、底まで抜けていくようだ。

 蝶番がドアの手前にあることを確認すると、リツカは背後の2人、金時とマシュを一瞥した。ドアノブに手を触れながら、軽く頷き一つ。互いに得物の柄に手をかけるのを確認するなり、リツカはドアを手前に明けながらドアの背後に滑り込む。柄を握る手に自然に力が入ったが、抜くことはなかった。ドアの向こうに、何かがいる気配がない。それでも握った力が抜けなかったのは、そのドアの向こうに続く空間の異様さに気圧されたからだった。

 急角度で下がっていく石の階段は、妙に古い。近代的なフローリングの床を隔て、そこだけ人類史より遥か昔に設えられたかのよう。壁面には、鈍い暖色のランプが淡い光を溜息のように漏らしている。階段がおり切った先は薄暗く、僅かに朽ちた木のドアが伺い知れるだけだった。

 微かな、それでいて硬い怖気。臓腑の内側、柔毛の隙間に産み付けられた卵が一斉に付加し、身体の中を両生類が這い回っているような感触。その感触はマシュだけでなく、並んでその地下への道を見下ろした金時も味わっているらしい。張りと艶のある血色の善い顔は、この時ばかりは幾ばくか蒼褪めている。

 怨霊の類とも違う、と玉藻の前。顰めた顔を金時の脇から出しながら、不快な表情を隠しもしない。リツカも表情自体は変わらないが、僅かにバイタルデータが変動するのをマシュは見とめた。

 何か根拠があるわけでもなく、それでもマシュははっきりと自覚した。ここが本命である、という直観が眼球の底で明滅する。顔を見合わせた4人ともがその直観を得たらしく、視線を合わせて、無言のまま頷きあった。

 「マシュ、先頭に。金時君は最後尾に。タマちゃん、私の傍いて」

 見下ろしながら、リツカは素早く指示を出した。ギリギリ、通路は盾を展開できる広さである。了解、と力強く首肯して、マシュは石の階段、一段目を降りた。

 ざり、と靴底が砂粒を咬む。ほんの微細な揺れが、背筋を駆け上っていく。奥歯で振動を噛み殺し、マシュは背後にマスターの存在を感じながら、階段を下る。

 「こちらSSリーダー、これより研究棟地下に侵入する」

 (SG了解)無線の男の声は、少しだけ聞き取りにくい。(中継器の敷設を忘れるな。地下での連絡は取りにくい)

 「了解」

 耳道に響く声を聴きながら、一段、二段と下っていく。妙な重圧を首すじに背負いながら、マシュは背後から聞こえるリツカの吐息に歯を噛みしめる。じんわりと胸郭に広がる淡い呼気を感じ、マシュは足取り確かに、石段の感触を踏みしめる。

 ゆらゆら、と祭事の踊りのようにランプが揺れる。不定の怪物が乱痴気騒ぎを起こすようにゆらゆら、ゆらゆら。ざらざらと神経が苛立つような気分のまま、マシュは、古い木質のドアの前に立った。

 ところどころ朽ちているのか、床面にはぼろぼろと崩れた木片が散らばっている。蝶番は外れかかり、金メッキがはがれた銅のドアノブは黒々とくすんでいる。僅かに啓いたドアの隙間からは、ただただ闇暗がこちらを覗いていた。

 ドアは空いている。鍵の類はかかっていない、ということだ。背後を振り返ると、石段が一段上にいるリツカが、無言のまま両手を前に押し出す仕草をしていた。マシュも小さく首肯すると、重い盾を正面に構えた。

 両ひざを下げ、力を腰に溜める。えい、と掛け声を内心に響かせ、マシュは盾ごと扉に突進した。

 サーヴァントの膂力を推力にしたタックルの威力たるや、古い立て付けのドアなど木っ端も同然だった。真ん中から拉げて折れて微塵と化したドアの内、蝶番がほぼ外れていたドアは毬のように吹き飛んでいく。真ん中から下のほう、まだ蝶番がしっかりしていた方は、番の可動域限界まで開いてから、金属部分が折れて鈍い音をたてた。

 騒音冷めやらぬまま、マシュは盾の内から中を覗いた。

 広い地下室だった。カルデアの地下3階にある短水路プールほどはあろうか。だだっ広い空間は、研究棟だけでなく、屋敷の地下にまで広がっている。壁の周囲にはやはりあの暖色のランプが明滅しており、妙に視界が開けている。

 壁一面の書棚にびっしりと並ぶ本。

 本。

 本。

 ある意味で書斎に近しいが、蔵書の種類はがらりと変わる。こちらは宗教書や古代の哲学書、魔導書などが陰鬱な背表紙をしっかり並べている。さらに小瓶に入った薬品らしきものが硝子棚に並び、妖しい色彩を放っていた。

 ぐるりと視界を回したマシュは、部屋の中央、テーブルと椅子のセットの傍に何かが横たわっているのを認めた。丁度ランプの灯が届かない陰になっており、上手く見れない。盾裏のポーチから携帯用ライトを取り出したマシュは、ゴムカバーのされたスイッチを押し込み、鮮烈な光が蒙を啓いた。

 そうして、マシュはゲロを盛大に吐いた。胃に溜まっていたものを一挙に全部吐き出して飽き足らず、胃液やら何やらまでも枯れるほどに吐いた。胃が咽頭を焼く苦しみに、思わず目元に滴が滲む。半ば痙攣しながら口腔内に拡がる酸性の吐物に再び嘔気を催す無限ループに巻き込まれながら、マシュは今しがた目に入った光景が瞼の裏にぼんやりを浮かぶのを感じた。

 こんな悪意に満ちたものは見たことがなかったのだ。これまで凄惨な遺体や傷は目にしてきて、それは悲惨なことだったけれど、戦いの結果生み出された末路のようなものだから、まだ理解可能だったのだ。だがそれは違う。そこに転がっていたものは、そうしたものではない。

 唾液と吐物が混交したものを口一杯に広げながら、マシュは恐る恐る瞼を開けて、そいつを正視した。

 端的に言えば、そこで人が死んでいた。問題はその死に方である。

 首から下だけの死体のちょうど胸元あたりに、胴から千切られた生首が丁寧に置かれていた。凄まじい力でもぎ取られたらしい。刃物でずたずたにされているせいで表情は一切読み取れないが、かろうじて零れず残った左目には恐怖と狂気が満ち満ちている。そんな猟奇的な死体だというのに、何故か血は一滴も零れていなかった。代わりにというべきかやはりと言うべきか、妙な刺激臭を放つ脳漿のような、膿のような奇妙な原形質じみたものが遺体から床にまで、広範に撒き散らされている。

 「なんだろうね、これ」

 げーげー嘔吐するマシュを他所に、ごく自然に近寄ると、リツカは屈んでその様子を眺めている。「というかこれ、ジキルさんなの?」

 「確か左わき腹にホクロがあったかと」

 そういう玉藻の前は流石に近寄りがたいのか、口元を袖で覆って険しい顔をしている。なるほど、と頷いたリツカは、念のため、とディスポ手袋をウェストポーチから取り出し装着。ぐい、と死体の左腕を持ち上げた。

 「あるね」覗き込みながら一言。「まだ硬い。ちょっと解け始めかな」

 「大分経ってる、ってことですね」

 そう、と相槌を打ちながら、リツカは無線に声をかけた。「こちらSSリーダー。遺体を発見した。損壊の程度が酷く判別が難しいが、身体的特徴からジキル氏と考えられる。これより室内の調査を行う」

 (SG了解、慎重にやってくれ)

 やはり、ざらざらとした男の声が耳朶を打つ。中継器は地下入り口に敷設したはずだが、それでも感度は悪いらしい。

 「うーん、しかし探偵じゃないんだけどな私は。鑑識の知識とか流石にない」

 一旦立ち上がったリツカは、平静な素振りで死体を見下ろしている。実際平静らしく、彼女のバイタルデータには顕著な変化はない。金時に背中を摩られながら、マシュはようやく呼吸を落ち着かせ始めていた。

 「大丈夫?」

 上半身だけを逸らして、リツカが言う。はい、としっかり応えるマシュに満足したように、リツカは死体に視線を戻した。 

 「どうやって死んだのか、いつ死んだのか、この緑っぽいのはなんなのか。わからないことだらけだけど」

 「あの犬っころがやった可能性は高そうだな」

 しゃがんだ金時の声に、リツカも同意するように身動ぎする。恐る恐るリツカの肩越しに死体を見下ろしたマシュの目に飛び込んだのは、オブジェのように胴体の上に置かれた傷だらけの生首だった。

 「この傷痕は獣とか、化け物がやったものだ。人間でここまでやれるのはそう居ない」

 いつになく、金時は真面目な表情だ。断言はできないがな、と続ける口ぶりも、どこか理知的な識者を思わせる。

 「マシュ様」

 死体を検分するリツカと金時の傍で、玉藻の前が手招きする。テーブルの上に無造作に置かれた本を指さしているようだ。そそくさと逃げるように死体から離れると、マシュは玉藻の前が手に取った本を覗き込んだ。

 「何の本だかわかります?」

 汚物でも触るように、本を摘まみ上げる玉藻の前。マシュは持ち上げられた本の表紙の文字を、食い入るように見つめた。宇宙(ソラ)の淵源を思わせる青く黒い表紙に、素っ気なく白い文字で書かれた文字だ──

 ……『秘密を見守る者たち』

 それが、その著書のタイトルだった。

 タイトルを読み上げながら、マシュは、ぱらぱらとページをめくった。

 

 “もしわれわれの知る生命と並行して、われわれの生命を破滅させる要素を持たず、死ぬことのないべつの生命があるとしたらどうだろう。おそらく異次元にはわれわれの生命を生み出したのとはちがう力が存在するのだ──それは奇怪な湾曲、驚くべき角度を過って動いていた。いつの日か、わたしは時間を旅して、それと顔をつきあわせるだろう”

 

 H・チャーマーズ。それが筆者の名前だ。小冊子、と言うべき小さく薄い本は、その他は絵空事というか少々気を違えてる文章が延々と続いている。

 「なんでしょう、小説でしょうか」

 「ですかねえ。宗教書や神秘書というにはちょっと突飛が過ぎますし」

 取るに足らない妄言を書き連ねた冊子を、マシュは何故か重要な何かに思い、シールド裏のポーチに押し込んだ。次いで手に取ったのは、キリスト教神秘主義に関するドイツ語の本らしいが、どのページもセンテンスの上から冒涜的な言葉がぐちゃぐちゃと書きなぐられていて、ほぼ判読できそうもない。

 「あら」

 同じように宗教書を開いていた玉藻の前は、ページの間から滑り落ちた黄ばんだ紙を拾い上げた。

 

 “私はとんでもないものを見てしまった。あれはなんとしても止めねばならない。ソーホーの別邸にある資料を渡さなければ”

 

 裏面を見ると、やはり何かの数式が慌てて記されている。綺麗な理路整然とした書き味は、自然とヘンリー・ジキルという紳士の佇まいを思わせる。

 「うーん」

 メモ紙らしきものを一瞥しながら、玉藻の前はちょっと首を捻っていた。何か違和感がある、と小さく呟きながらも、玉藻の前自身もその違和感の正体を理解できていない様子だった。

 「ソーホーにジキルさんのお家があるって、聞いたことないんですけど」

 「ハイドに変身した際に使用する借り上げの住居があったと思います」

 へえ、と感心したように玉藻の前。勉強の成果がでたことを内心で喜びながら、流石にそれを表出するのは憚られるマシュだった。

 不意に、しゃがんで死体を見ていたリツカが立ち上がった。死体を跨ぐように一目散に歩いていくと、広い本棚の前で立ち止まった。

 迷いなく延びていく手。探るように差し出された手は、本棚の一画の空間を掠めた。

 空間。そう、そこには奇妙な空間が空いていた。びっちりと隙間なく本が並ぶ棚のど真ん中に、ぽっかりと本を抜き取った形跡がある。

 抜き取られた空の本棚を、指で撫でる。ふむ、と思案気に呟いてから、「そこの本、ジャンルは」

 「宗教書です。信仰心に厚いお方でしたから」

 「あと空想小説、のようなものが」

 「空想小説」

 マシュの言葉を耳朶に、リツカは小さく食いついた。抜き出された箇所の周囲の本を何冊か手に取って、タイトルを一読しては戻しながら、いつになく思案気な顔だった。

 「Why done it」

 「なんだ?」

 「魔術的事件の場合、本質は動機にあるってことらしいよ」

 頭に疑問符を浮かべる金時に対し、実はリツカも「さっぱりわからん」と言いたいように肩を竦めた。

 「ただ、当初の目標は一応達成されたわけだね」

 「死んじゃってますけども」

 「一応ね、一応」

 眉を寄せて、リツカは床に転がるオブジェを見下ろす。胴体の上に丁寧に置かれた生首は、却ってこのオブジェの猟奇性を際立たせているように見える。

 「それに、あの人狼もどきがやはり事件の鍵を握ってるらしい、ってのもわかったことだし」

 「先輩、それならこの」

 さっき玉藻の前が見つけたメモをポーチから取り出しかけたところで、全く不意に、鈍い打撃音じみた音が響いた。

 ぎょっとしながら、咄嗟に盾を構えたのは鍛錬の賜物か。リツカを背にしつつ音の方向を見たマシュは、けれどすぐに安堵した。

 なんのことはない。さっき破壊したドアの内、まだ蝶番にひっかかっていたドアが脱落したのだ。埃を巻き上げながら地面に落ちたドアは、真っ二つに裂けて、

 「タマちゃん!」

 「ビンゴ! 呪層・黒天洞!」

 影が擦過した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅱ-7

 黄金が視界を埋め尽くした。

 そうとしか言いようがなかった。目にもとまらぬ速度で肉薄してきた菫色の影が振るった聖剣を目前に、トウマが抱いたのは、恐怖ではなかった。殺される、という恐れはなく、また畏怖ですらなかった。もっと穏やかな感触。凪いだ内海を掬する穏やかな手触りだった。

 ぐら、と視界が背後にぶれた。首根っこを掴まれたらしい、とぼんやり理解したトウマの視界は正面から天へと向いていく。緩慢な思考のまま、視界に飛び込んだのはもつれ合う2つの影だった。

 1つはあの黝い外套を纏ったセイバー。そしてもう1つは、今まさに空間の裂け目から這い出して来るあの怪物だった。

 硬質な何かがぶつかり合う甲高い音が周囲に圧し広がる。爪を突き立てようとする獣の腕を聖剣で阻んだセイバーは、身体ごと獣に突進、一塊になって広場の向こう側に転がっていった。

 真にあの化け物が現れた。沸騰しそうな思考のまま立ち上がったトウマは、しかし掣肘するように手を差し出した背後の人物を見返した。

 ライネスの空色の目は、一瞥をトウマにくれると声を張り上げた。「02、04、撤退するぞ!」

 「でも折角」

 「冷静になれ、私のマスター。今ここで目的が不鮮明なまま戦闘に突入するのは、どう考えても筋悪だ。2人を危険に晒す価値はない。撤退するなら今しかない!」

 戸惑う様子のエリザベスに対し、クロは心得たというようにトウマを抱き上げにかかっている。

 広場の中央で睨み合うセイバーと化け物。ふ、と息を吐いたトウマは、わかった、と苦っぽく頷いた。

 「リン、こっちに併せて!」

 「了解!」

 エリザベスも素早くライネスの身体を米俵のように抱きかかえる。2人が何事かを投擲したのはほぼ同時。半瞬ほど早く得物を投げたクロが、その剣の真名を解放した。

 その剣、『激情の細波(ベガルタ)』。ケルトの英雄ディルムッド・オディナが振るった剣は、2つの条件がそろったとき真価を発揮する。即ち投擲と破損。投擲された小剣の真名が解けるよりさらに僅かに早く、クロは彼女の意思を以て剣を破壊した。

 宝具そのものを破壊し、内包する高密度の神秘を燃料に惹き起こす大爆発。同時に2つの条件を満たしたベガルタは爆破と同時に周囲に殺傷性の光刃を撒き散らし、爆破の余波を押し広げていく。

エリザベスが投擲した宝石が飛来したのは、ベガルタが破裂した直後だ。宝石が砕けるのを合図に、瞬間的にV字型に展開した不可視の結界が爆破を包んでいく。包まれた爆破は結界の出口へ向けて殺到し、その様はさながら指向性爆破そのものだった。

 膨れ上がる爆破とエネルギーの余波を見ている暇はない。脱兎のごとくに飛び出した2騎は、それぞれ人を抱えたまま、ロンドンの空を駆けあがっていった。

 

 

 「やれやれ」

 爆破が巻き起こした衝撃波をエネルギー風の中、セイバーは洞の内側で素直に讃嘆の意を表していた。

 時に襲い掛かる光刃を剣で撃ち落としながら、セイバーはその場を動かず、爆破の彼方を幻視する。

 ここしかない、というタイミングでの見事な逃走劇。演出したのはあの金髪の小娘か、それともマスターか。前者が箴言し、後者がそれを受け入れたのだろう。どちらも見事な判断だ。あわよくば、あの獣をセイバーに押し付けようという算段も見える。気分が良くなるほどの悪辣ぶりだ。

 それに、この逃走手段。爆破で足止めしつつ、加えて煙幕替わりにして退避経路を悟らせない念の入りよう。しかも、この煙幕はただ目くらましというだけではない。

 セイバーは、しばし離れたところで佇む獣を一瞥した。獣は追撃せんと身構えているが、動こうとするたびに煙幕の向こうから精密狙撃が襲い掛かっている。下手に動こうとすれば反撃する、という意思表示。しかも煙幕があるから射線が不明。素早く、かつ的確な判断だ。

 ──強いな、と思った。指揮官も優秀なら手勢も優秀。以前、従えていた麾下の騎士たちと共に戦ったとて、そう簡単に勝たせてくれないだろう。

 敵への素直な賞賛は、そこまでだった。すぐに思考を切り替えたセイバーは、目前の敵を注視した。

 全高、およそ3mの巨躯。それ自体、まだ神代に属していた彼女にとって、そう珍しいものではない。異人や獣との戦いはむしろ日常で、巨獣狩りは彼女の得手ですらあった。

 だが、その獣から感じる圧力はまったく別種のものだった。人知を超えたものに対する畏怖に似ているが、全く異なる異様な感慨。あれは人知を超えているのではない。人智と全く関わりのない深淵からやってきた、何かだ。

 だが、さりとてセイバーの闘争心が削げるわけでもなかった。未知なるものとの戦いこそ、今を生きる彼女の本懐であり、また使命でもあった。

 不可視の鞘には居れず、彼女は聖剣を構える。刀身から発した光子が光を結び、仄光を放っている。自らの背に隠すように下段に剣を構えたセイバーは、今まさに飛び掛からんと両ひざに自重を乗せた。

 乗せてから、ふと、違和感に気づいた。獣は恨めし気に噴煙を見つめるだけで、こちらを一切気にしていない。先ほどあの少年マスターを狙った舌を斬り払ったのだから、よもや認識していないことはあるまい。

 ふらふらと何かを探し求めるように彷徨う獣。まるで夢うつつに惑うようなその素振りに、セイバーは思い当たる節があった。

 まさか、と周囲を見回す。闇夜に翳り始めた霧の都の中、ふと、何か白い影が視界に紛れた気がした。

 疑念は確信へ。剣を非実体化させたセイバーは、一歩後ずさった。矢の追撃は、もうない。

 「今は手を出すな、というわけか」

 ともすれば独語のような言葉を発する。微かにざわめいた静寂(しじま)に、セイバーは不肖々々といった様子で背後を振り返った。

 遠くで見ているであろうマスターに視線で合図を送ったセイバーは、地面を蹴り上げた。

 軽々と宙に飛び上がる黒衣の剣士。眼下に広がるロンディニウムの街並みを目に焼き付け、セイバーは、複雑な、それでもベクトルはポジティブに情動に身動ぎした。




今回短いので、近々もう1話投稿します


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅲ-1”イレギュラーズごっこ”

 Schwarze Milch der Frühe wir trinken sie abends

 wir trinken sie mittags und morgens wir trinken sie nachts

 wir trinken und trinken

 wir schaufeln ein Grab in den Lüften──

 

 ……

 

 テオドール・アドルノの『批判のプリズム』に収録された文化産業に関する論考の一節。全ての言語表現は野蛮さから逃れられない、という言葉の残響は、今も、そしてこれからも滞留していた。

 

 ※

 

 翌日、AM6:17

 17分、遅い。

 ぼんやりとベッドの上で目を覚ますと、アリスはまず自己のコンディションを確認。問題ない、と認識してから、やっと上体を起こす。ついで足を出し、スリッパをはく。ワンピース型の白いパジャマをすっぽり脱ぐと、そのままベッドへ。どこからともなく現れたトランプ型の使い魔、プロイキッシャーが丁寧にパジャマを着る傍で、机の上に畳んであったいつものワンピース型の服を被る。修道服を思わせる、極東の某女学校の礼服である。これまたトランプの兵隊が持ってきた温タオルで顔を拭き、化粧水を肌にしみこませる。手触りのいい絹のタオルで顔を拭いていると、いつもと全く同じタイミングでドアをノックする音が耳朶を打つ。

 「アリス様、お邪魔しますね」

 どうぞ、とアリスの声を待ってから、勢いよく、にもかかわらず、ゆったりとドアがあく。

 玉藻の前だ。アリスより早々と朝を迎えた玉藻の前は、毎日のようにマメな様子で煮炊きをしている。しかも食事は旨く、洗濯物は丁寧に畳まれいるし、掃除も行き届いている。以前は“知り合い”と2人がかりでも手が回らなかったはずの屋敷も、彼女の手にかかれば塵一つないとくる。一体どんな魔法なのだろう、と、柄にもなく考えるアリスである。いや、人類未踏の魔術を魔法と仮に呼ぶならば、玉藻の前の家事テクは魔法だと思う。

 「そうお褒め頂いても何も出ませんよう」

 えへらえへらと緩い笑顔を浮かべる玉藻の前。それも一瞬で、「今日のメニューはですねぇ」と続けた。

 「サバの味噌煮サンドなど作ってみました。お口に合うといいのですが」

 「サバの味噌煮サンド」

 「はい、サバの味噌煮サンド」

 真面目に返す玉藻の前。アリスは一瞬硬直しながら、その食べ物を考えてみる。

 サバの味噌煮。無論、アリスはその料理を知っている。ある程度日本人の血を持ち、かつその土地で暮らしてきた身である。どちらかと言えば洋食を好むアリスで、初見の折は「こんな泥ソースの魚より母親のアクアパッツァが食べたい」と侮蔑したものの、その味の善さはよくよく心得ている。

それにサンド。サンドとは何だろう。もちろんサンドイッチのことだろう。何でも挟んで食べちゃう言ってしまえばヨーロピアンライスボールを体現する食べ物だが、何故そこにサバの味噌煮を挟むのか。これがわからない。

 「以前ひょんなことで召喚された折、サバの味噌煮バーガーなる食べ物を食べまして。それがもう『うゃん』、と言いたくなる美味しさだったもので、どうにか再現できないかと」

 そういう理由らしい。正直アリスの想像外の料理だが、自信ありげな彼女の様子と、ふりふり動く尻尾を見れば信じるしかない。これまで1~2度如何ともしがたい料理がでてくることはあったが、そうならないことを祈るばかりだ。

 この間、アリスは無表情で玉藻の前を見ていた。元から表情豊かな人柄ではない故である。そんなアリスの一見無表情に微かな機微を見て取った玉藻の前は、満足そうに頷くと、足取り軽やかに退室した。

 「あ、今日、お昼は?」

 「今日も外に」

 「それではお弁当、用意いたしますね」

 ひょこ、とドアから顔を出した玉藻の前と軽くやり取りすると、今度こそ彼女はドアの向こうに消えていく。ぱたぱたとスリッパの音が遠ざかるのを聞きながら、アリスは椅子から立ち上がり、窓をあけた。

 開けて、まずもって目に飛び込んできたのはよく草刈りの行き届いた庭である。清々しく広々した庭には、ここ最近いつも誰かがいる。

 はて今日は誰だろう。取り止めもない思考のまま見下ろすと、今日は3人だ。みんな一様にカルデアとやらの黒い制服姿である。プラチナブロンドの長い髪を揺らす小柄な人物に、対照的なシルバーの髪に褐色の肌の少女。もう一人は、あの黒髪のマスターである。

 異様なのは、庭に並んだいくつもの武具である。褐色肌の少女がその武具一つを持ち上げると、残る2人と合わせて何やら熱の入った会話をしている。白熱した議論、というにはやや非対称だろうか。理路整然で喋っている金髪の少女、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテに対して、トウマはどこか印象論的な様子だろうか。それでもライネスに言い負かされてる、という印象はない。むしろぼんやりしたトウマの言葉に、ライネスは盛んに相槌を打ち、クロも何か意見を述べている。議論ではなく、もっとナラティブで、それでも調和的な対話というよりはもっと闘争的。なんとなく、そのやり取りに、かつての知り合いとの会話を思い出す。

 この世界の彼女は、今何をしているのだろう。赤い髪の知り合いを思い出していると、ふと、視界の下で視線がこちらを向いた。

 黒髪の少年が、しゃがんだ格好のままアリスを見上げている。少し気まずそうにしながら、トウマはちゃんと頭を下げた。最低限の礼儀は知っているらしい。アリスも、一応、ほんの少しだけ頭を揺らした。

 手慰みに顎を指先で撫でながら、軽く、アリスは頸を傾げる。何事かを得心したように頷くと、勢い、アリスは窓枠に足をかけた。

 そのまま身体に弾みをつけ、一足で窓の外に飛び出す。風が耳元に尾を引く感触の次は重い浮遊感で、重力落下そのままにアリスの身体が4m下の大地に墜落する。

 特になんらかの魔術も用いず、アリスは普通に地面に着地した。烏の羽毛が落ちたかのような軽やかさで地面を踏みしめる。サーヴァントなどというものになっていることの異様さにはもう慣れたが、こうして身体面での頑健さは未だに慣れない。

 幾分か自分の若気に羞恥を感じながら、アリスはそれをちっとも見せずに言った。「これは、宝具なの」

 ずらりと並ぶ武具の類。赤い呪槍なり黄金の剣なりがずらずらと並ぶこれら全てが宝具だ、という事実に、正直アリスは眩暈がする。そんな仕草は見せないが。

 宝具。英霊の座に召し上げられたあらゆる時制の英雄たちが持つという、英雄たちの象徴。英霊の現身ですらあるそれは、一つ一つが魔術師の常識を遥かに超えた形持つ神秘である。それこそ、宝具一つで彼女の持つ最も希少な3つのプロイキッシャーを超えるものもあろう。

 そんなものが、こう造作なく、まるで朝市に並ぶ野菜か魚のように並ぶ光景をどう理解したらいいのか。異端中の異端とは言え、真っ当な魔術師の論理を身に着けている彼女は、なんというか、頭痛が痛くなる。

 「そうね、よく使う宝具一覧って感じかしら」

 そんな風にさらりと言うクロ。この宝具市場の仕入れを行った張本人である。投影魔術、というマイナーもマイナーの魔術で宝具の複製を行っているという。多分、全うな投影魔術ではないのだろう。

 「色んなものを使うのね」

 それでも、彼女は内心の動きを顔に出さない。とは言え、しゃがんで眺めてしまう仕草は、どうしても魔術師としての興味の発露だった。

 「剣ならなんでも作れるの?」

 「一応ね。見たことないのは無理だけど」

 「ヴォーパルの剣は?」

 何それ、とはてな顔のクロ。童話の剣だよ、と応えたのは、意外にもあの少年マスターだった。

 「不思議の国のアリスに出てくる詩の剣、だったかな」

 他2人はさして不思議がることもなく、素直に感心した様子だ。いや、ライネスはちょっと愉快そうな顔をしている。多分、わかっている。ちら、とこちらを伺う仕草が、なんとも小悪魔的だと思う。

 「鏡の国」間抜け面の少年に、憮然とアリスは言った。「ジャバウォックは鏡の国」

 そうか、と赤面したトウマに、アリスは柄になく嘆息を吐いた。他者への批判と言うより、ざわついた心境への戸惑いを吐き出すような行為だった。アリスの母は、マザーグースよりルイス・キャロルを好んだ。

 「君は確か」ライネスは、少しだけ厳かな素振りをした。「真名はナーサリーライムだが、君自身はマインスターの魔女……なんだよな」

 その素振りが尊敬する相手への礼節に満ちた振舞だ、とやっとアリスは気が付いた。どちらかと言えば本流と言い難い魔術体系に属するアリスにとって、基本、魔術師と顔を合わせる場合は剣呑な空気であることが多い。そもそも、こんな事態でなければ、彼女はこんな風に他人と言葉を交わさないが。

 無言を非難と受け取ったらしい。「兄が勉強熱心でね」と言い訳がましく言うと、ライネスは、申し訳なさげに肩を竦めた。「興味本位で聞くことじゃあなかった」

 アリスはそれにも応えず、ただ小さく首を振るにとどめた。互いに魔術師の領分を知る身である。過分な干渉はしない、と互いに共通認識を確立した。それに、未知なるものを知ろうという気宇そのものは、アリスも善いものだと思う。少しだけ、ライネス、という少女のことが好きになった。少しだけ。

 「それで」アリスはビスクドールのような整った無表情のまま、隣で呆けた面のマスターを一瞥した。「私の、このきちんと草むしりをした庭で、何を?」

 「私の」というフレーズに、ちょっと力が入る。とは言えアリス自身以外には気づかないほど些細な声色の変化ではあった。

 まず、口を開きかけたのはクロだった。ごく自然に現状を説明しようとした彼女に、手を翳して制したトウマは、少し身体を緊張させた。畏まった様子で「えーと」と呟いてから、「簡単に言うと、今後を見据えた相談を」

 一旦言い終えたトウマに、アリスは再度無言を投げた。色のない視線は変わらず、垢抜けない少年は気圧されるように表情を硬くした。

 「僕は彼女のマスターなので」しかし、気圧されながら、努めて平静にトウマは続けた。「ちゃんと彼女を勝たせてあげる手立てを考えないとだから、そのための話し合いを」

 顔を青くさせたり赤くさせたりしながらも、きちんと彼は口にした。そう、と無感動に呟くアリスは、無表情の裏で先ほど惹起させた感慨に再度思いを馳せながら、並ぶ武具に視線を落とした。

 「これ」

 ずい、とアリスが“剣市場”の中の一品を指さす。アーサー王が振るった黄金の剣を、じいと眺める。

 そのまま、5秒。妙な沈黙の後、ようやっと理解したクロは「欲しいの?」と目を丸くした。

 また無言。アリスは、今度はクロを孔が空くほどじっくり見つめ返してから、そよ風の揺れる柳のように、こくん、と頷いた。

 要するに、この場所の使用料を要求している。こんな情勢だから譲歩しているが、アリスは保守的で、また他人の存在を好まない。そして彼女は、割に守銭奴である。

 困ったように、クロはトウマを見た。トウマはちょっと悩んだ様子になってから、「良いよ。ダ・ヴィンチちゃんも良いって言ってるし」

 「そ」

 クロが剣の柄を差し出すと、アリスは素早くつかんだ。キャスタークラスという非力さもあって、流石に実物の剣は重い。思わず切っ先が地面に突き刺さり、アリスは覚束無く踏鞴を踏んだ。

 支えようと咄嗟に手を伸ばしたトウマより早く、アリスは自身の身体に強化をかける。ずしりと重い黄金の剣を抱きかかえると、素早く延びた手から身を翻した。

 途方にくれた様子のトウマを他所に、アリスは黄金の剣をしっかり抱きかかえて踵を還した。

 「じゃあ、これ、私の」

 極めて端的に宣言すると、アリスはぐるりと迂回して屋敷の玄関口へと向かう。1歩、2歩と踏み出してから、ふと、アリスは振り返った。

 「朝食。タマモが」

 やはり端的に言及すると、アリスは特に反応を待つことなく歩き出した。

 「When good King Arthur ruled land…… 」

 背後に感じる奇妙な感情の視線……呆れであったり、畏怖であったり、その他雑多な感情を感じながら、アリスは静かに口遊む。

 「She was a goodly king……」

 ただ、ひとつ、あの時の表情が眼球の底の盲斑から浮かび上がる。

 少年が見せた、気圧される弱さの中に見えた何か。似ても似つかぬ人物像に、何故か、アリスはかつて同居していた赤い髪の知り合いを重ねた。

 「……克己心?」

 ぼそり、独語のように声が漏れる。第三者には相も変らぬ無表情。に見える“かんばせ”のまま、アリスの舌先が歌うに任せた。

 「Build it up with silver and……」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅲ-2

 「さて、改めて情報交換、と行こうかナ」

 ジェームズ・モリアーティは、芝居がかったような大仰な口ぶりで言う。どかりと上座のソファに座り込み、手を組んで見せる素振りなんて見事に悪役である。汎用人型決戦兵器を運用する組織の長みたいである。

 最も、この場にいる誰も、素振りに畏敬や何やらという感情は抱かないのだが。素直な感情で見ているのは精々トウマくらいなもので、その他の人物はおおよそ「何やってんだこのおっさん」くらいな白々しい目で見ていた。

 「アレ、あんま似合ってなかった?」

 ちょっとショックを受けたようなモリアーティに、アリスは嘆息を深く吐いていた。無表情から、憮然の情動が滲んでいる。

 幾ばくかの心傷に哀れっぽく顔を顰めながら、「じゃあ」とモリアーティは背を柔らかなソファに預けた。

 AM9:12:32、既に朝は大分過ぎている。アリスの固有結界の外は相変わらず濃霧が立ち込めるロンドンだが、内側には陽が射している。薄曇りの空から、輪郭の崩れた穏やかな光だ。

 陽の光が差し込むこの広場……アリスの屋敷のリビングに顔を突き合せたのは4人。モリアーティにアリス、リツカにトウマ、という面々だ。

 先日の戦闘から、2日。1日は休養に当て、2日目のこの日。各班、得てきた情報の公開と今後の方針の決定しよう、という運びになり、今に至る。

 (こっちもログ取らしてもらうぜ)

 網膜投影された通信映像の向こうで、恰幅のいい金髪の男が気さくに言う。よろしく、と言うリツカに対し、トウマは咄嗟、会釈だけ返した。

 「では」モリアーティはまず、トウマへと視線を向けた。「君の方からお願いしようかな。えぇと、なんだっけ」

 「トウマよ、タチバナ」伏し目がちのまま、アリスは嗜めるように言う。「あぁそうそう」と言いながら、モリアーティは人のよさそうに肩を竦めた。

 「じゃあ僕から」構わない、とトウマもほんのちょっと首を横に振る。そうしながら相変わらず表情を変えないアリスを、一瞬だけ、一瞥した。「一番の収穫は、単純にこれだと思います」

 テーブルの上の古ぼけたリモコンに手を伸ばす。リモコンの左上、赤いゴムスイッチを黒い大きな箱めがけて押し込む。

 ブゥゥン、という鈍く低い音とともに、中央から広がるように映像が立ち上がる。ブラウン管テレビに映し出されたのは、あの藍色の体表の不気味な人狼だった。

 「再出現は期待してませんでしたけど、本当に来ました」一瞬、険しく表情が変わったアリスを気にしながらも、トウマは続けた。「あまり長く経過の観察、できませんでしたけど」

 「いや、あそこで引いたのは良い判断だと思うよ。下手に留まるのはちょっとね」

 テレビに映る獣を見ながら、リツカが言う。トウマは内心、安堵やら悔いやら何やらを惹起させたがそれをわざわざ表には出さず、「もう一つがこれです」とリモコンのチャンネル切り替えのゴムスイッチを押す。

 次に映ったのは、あの黝いフードの剣士だ。

 「前回の特異点では現れませんでしたけど、ローマに続いてこちらでも」

 「セイバーってことはクロちゃんが戦った?」

 「はい、同一サーヴァントかと。それに、これも」

 もう一度、トウマがリモコンのチャンネル操作ボタンを押し込む。今度は画面が分割され、端に追いやられたフードのサーヴァントに代わり、別な人物が中央に表示された。

 自然、この場にいる全員が、大なり小なり息を飲んだ。モリアーティは身を乗り出し、アリスも幾ばくか怪訝な表情だ。至近で目視したトウマも、改めてその姿に息を飲む。

 (これ、リツカじゃねえか)

 何より、一番目を見開いたのは、彼女だった。湿地帯の泥濘を思わせる鈍色の目を開き、赤銅色の髪が揺れた。怪訝、動揺、放心。目まぐるしく情動を変える彼女の表情は、ただ、呆然としていた。

 画面に映し出されたのは、あの瞬間だけ遭遇したマスターらしき人物。紙魚のような白い髪を左側頭部でひとまとめにし、血色を思わせる目が爛々と閃いている。髪の色、眼の色。それに不健康そうな浅黒い肌の色も違うけれど、そのかんばせは、リツカのそれそのものだ。どこかぽやんとした表情に2つ穿たれた底知れない眼差し。その少女は、フジマルリツカの形相(Form)をしている──。

 「今まで出会ってきた黒いサーヴァントたちのマスター、と思われます。僕が反撃してセイバーが助けに着た後は居なくなってしまいましたが」

 一息で言い切る。トウマが言い終わる頃には、リツカは普段の底知れない温和そうな表情に戻っており、思案気に髪をかき回していた。

 「どういうことなんだろうね、これは」

 色んな意味で、モリアーティはその言葉を発したに違いない。正体不明の黒いサーヴァントにマスター。何の動機があるのか、誰かに使嗾されているだけのものに過ぎないのか。この一連の人理定礎崩壊の犯人なのか、否なのか。そして何故、そのマスターが何故リツカと同じ顔をしているのか。その他雑多な意味を含めての言葉だった。

 「とりあえずだけど、今はまだ敵じゃあないらしいのは確かだね」

 わずか数秒で心境を持ち直したらしいリツカが言う。視線でその意味を問うモリアーティに、「もし敵なら」とリツカは画面に映る自分と同じ顔を見た。

 「私たちの旅はもう終わってる。現状、私たちの戦力であの黒いサーヴァントに勝てる戦力はいない。本気で私たちのことを敵と認識しているなら、もし私ならさっさと殲滅するよ」

 私なら、の部分を強調する。居心地悪そうな表情を口元に浮かべ、リツカは気難しく言う。

 「それに、事実この黒いサーヴァントたちは積極的に僕たちと戦おうとはしてません。今回も僕からマスターを攻撃したから、反撃しただけに見えます」

 「味方とは言い難いが、敵とも言い難いと。なまじ敵より厄介だね」

 「現状、敵でなくてよかったと思うしかない。動機とか、現時点で考えられる材料が少なすぎるし」

 モリアーティとリツカ、2人して渋面を作る。互いに、この件は保留せざるを得ないと認識しているらしい。

 トウマは、なんとなく、あの時の瞬間を思い出していた。いつの間にか背後に立っていた敵マスターの顔は、どんな表情を形作っていただろう。戦闘服に搭載された疑似魔術刻印を起動し、放った“フィンの一撃”。素人で時計塔のロードくらいは射殺せる、設計理念によって開発設計された火器はいかんなくその性能を発揮して、トウマ自身もその心づもりであの砲撃を撃った。無造作に投げつけられた殺意を目前にして、リツカの顔をしたあのマスターは、笑っていなかったか?

 ぞわりと、肌が粟立った。得体の知れない感情は、恐怖や畏怖とも違う、肌寒い不定の情動としか言いようがなかった。例えばそれは、過去に未曾有の被害をもたらした爽やかな清流を眺めるような。道端で出会った近所の知り合いにでも話しかけるかのようなあの気兼ねのなさを思い出し、トウマは我知らず身震いした。

 「あ、そう言えば」慌てて、トウマはポケットから握りつぶされたように丸くなった紙片を取り出した。「セイバーに遭遇する前にこんなものを」

 テーブルに、丸まった紙を置く。無表情のアリスはただ見つめるだけで、リツカも普段と変わらない様子ながら、何か気味悪そうに顔を顰めている。恐る恐る手を伸ばし紙を伸ばしたモリアーティは、おや、と拍子抜けするように目を丸くした。

 「数式」

 綺麗に紙を開き直し、テーブルの上に置いた。まじまじと見つめる眼差しは、好奇心と野心が綯い交ぜになったものだった。端的に、サバンナで腐肉を見つけたハイエナの眼差しを思い起こさせた。

 「広場に落ちていました。関係があるのか、わかりませんけど」

 「何とも言えんね、これだけでは」

 紙から視線はそらさず、うわ言のように言う。好奇と野心だけの感情に、僅かに猜疑のようなものが混じる。

 今度は手に取り、ソファにもたれかかる。僅かに混じっていただけの猜疑が、膨れるごとに眉間の皺が深まっていく。

 気散事のように、数式の描かれた裏を見る。いよいよ疑念を深めたモリアーティは、再度、テーブルの上に置いた。

 「どこかで見た筆跡だ」

 思案気なまま、モリアーティはその紙片をテーブルの上を滑らせる。アリスの目の前で止まると、彼女も、手にこそ取らないが一瞥を投げると、首肯するように僅かに首を縦に振った。

 「それってどういう」

 「わからない」トウマの声にあっさり言いながら、モリアーティは手慰みに口ひげを撫でる。「わからないが、有用なデータかもしれない」

 「探偵みたいだね」

 「よしてくれ!」モリアーティはわざとらしく不機嫌そうな顔をした。「私は科学的思考を愛しているのでね。不確実なことを述べるのは、学術的態度に反するというだけさ」

 相変わらず不機嫌そうな顔のまま、モリアーティは胸を張る。実際、表情こそ剽軽さを感じさせるけれど、その内面の不快感は嘘ではないらしい。苛立たし気に貧乏ゆすりする様など、大変神経質な様子である。

 「あんまり、僕の方のデータは意味があるかわかりませんけど」

 卑屈気味に、トウマは身を縮めた。かけた危険の大きさを思えば、収穫はあまりに少なく見える。たかだか映像、画像データとこの謎の紙切れだけでは戦果に対して収穫が乏しすぎる、と考えるのも無理はない。

 モリアーティは、さして表情も変えず、ただ首を捻った。否定するでもなく、さりとて肯定するでもない。威厳すら感じさせる毅然とした面持ちで、「確かに」とテレビの映像を見やった。

 「無駄なデータに見えるものが有意なものに見えることもあるし、またその逆もある。ま何にせ集められるよ情報は積み上げていくものだよ、少年君」

 「そして、このデータはデータの一つであることに間違いない。ってことだね」

 「そういうことになるネ」

 一転、モリアーティは相好を崩した。好々爺を思わせる満面の笑みの意味をよく理解して、トウマはなお委縮しかける自分の姿勢を正した。視界の端で、アリスは静かに瞑目している。なんとなく、クロに会いたいな、と思った。

 さて、とモリアーティが膝を打った丁度そのタイミングで、ドアをノックする軽い音が響いた。時間はちょうど、10時になろうとしていた。

 アリスは、無言でドアを眺める。特になにもせず、じい、と彼女が見つめていると、そろそろとドアが開いた。

 ひょこん、とドアの隙間から顔を出すケモミミ。恐る恐るな素振りでリビングを流し見ると、ころころと笑顔に変わった。

 「皆さま、一旦お休みになられてはいかがですか?」

 「いいね。ちょうど、話も一区切りだった」

 モリアーティの言葉に、同調するようにリツカも頷く。アリスも微動だにせず座り込んでいるが、伏し目がちに玉藻の前を見やる素振りは、やはり賛同しているように見える。

 「タチバナ様はいかがしますか?」

 「あ、じゃあ俺も」

 「ではでは」

 一旦扉の背後の退くと、玉藻の前はいそいそとトレーにソーサーとティーカップを乗せてやってきた。

 玉藻の前の手際は、素人目に見ても素早く、丁寧に見える。音もなくソーサーを並べ、その上にカップを置く。白磁に見えながら、カップの内側に可愛らしい花柄をあしらったティーカップは、品の良さと愛らしさを感じさせる。アリスの持ち物らしい。

 「お茶請けはこちらに。スコーンでございます」

 やはり手早く小皿を並べ、小さな菓子を乗せていく。なんとなくコンビニの菓子パンみたいな、と思ったのは、トウマの単純な語彙の貧困さの故か。

 「作ったの、タマちゃん」

 「いえいえ。ホワイトチャペルのカフェで譲っていただきました。お先に一つ頂きましたけど、中々」

 なら間違いない、と言うように、アリスも頷いている。というか、興味津々というように、孔が開くほどスコーンを眺めている。じー、と擬音語すら聞こえてきそうである。

 とは言え、流石にいきなり菓子をむしゃむしゃするのは気が引けるらしい。スコーンに気を取られながらも、行儀よくティーカップの淵に口を触れ合わせている。

 「うっま」

 そして当然のように、スコーンに食いつくリツカ。恨めし気なアリスの視線を気にも留めていない。トウマは、恐る恐るティーカップの取ってを手に取った。

 「ローズティーだ」

 「緊張なさっているかと思いまして。ローズティーには、リラックス効果があるのですよ。それと美肌効果もあったりで~」

 「へー」

 玉藻の前は特に「美肌」の方を力強く説明しているが、リツカはあんまり興味がなさそうである。若さの故か、それともなんらかの魔術の故か、彼女はさして美容に関心が無いのに肌は綺麗である。玉藻の前は少しだけショックを受けていた。

 そう言えば、この屋敷には薔薇の花が多い。このリビングにも、薔薇を挿した花瓶がブラウン管テレビの脇に飾ってある。ロビーの電話台の脇にも置いてあっただろうか。薔薇が好きなのかな、とスコーンを両手で持ってはむはむする彼女の横顔を伺ってみる。

 何事にも無感動そうに見えるけれど、結構、可愛らしい人なのだろうか。

 と、彼女の視線がこちらを向く。何、と伺う彼女の視線に圧を感じないのは、多分、気分的なものだろう。なんでもないですよ、と応えるように柔らかく小首を傾げると、アリスは不思議そうな顔をしていた。

 「タチバナ様はお口にあいますでしょうか」

 「美味しいですよ。あ紅茶の善し悪しは、そんなにわからないんですけど」

 「いいんですよう。美味しい、っていう評価が一番です」

 「アリス君。これ、如何かな? 老体にはやはり重くてね」

 「も」

 「も?」

 「貰うってことじゃあない? ねえアリスちゃん」

 「そう」

 「あぁそう……」

 かれこれ、10分。特にとりとめもない会話が、延びていく。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅲ-3

 坂田金時は平素、屋敷の外で過ごしている。山育ちの彼にとって、近代的な屋敷での生活は、ちょっと肩身が狭く感じるのだ。幸い、この固有結界は屋敷を中心に、割に広く広がっている。遠くに行けばいくほど森林と霧が濃くなり、ある一定の場所まで行くと屋敷の玄関前に強制的に移動させられるが、そこまで行くのには山と野に育った金時ですら苦慮するほどである。1人、飄々と野に寝起きするには十分すぎる広さがある。

 要するに、金時はあんまり大人数で居るのを好まないのである。隠遁を好むほど厭世的ではないが、大人数の中で黄色い声に囲まれることを好む道化気質でもない。時に人の世にあり、時に野に生きる。そのくらいが、彼には丁度いい。

 「つまり、この嬢ちゃんは頼光サンと酒呑を倒したってわけだ」

 丸太をベンチ代わりに座るクロは、そうね、と地面に寝転がる白髪の少女を見下ろす。マシュ・キリエライトは、寝袋にすっぽり入って、すやすやと小さく寝息を立てている。

 「そっか。坂田金時、と言えば頼光四天王の1人」

 「あんま四天王、ってのは慣れないけどな」

 気の抜けたように言いながら、金時は丸太から立ち上がる。円形に配された丸太の中央部、焚火に炙るように吊るした鉄瓶を取ると、そろそろと湯飲みに注ぐ。お湯にふやかされるなり、湯飲みに入れたティーパックから濁り気味の液体が爽やかな香りとともに沸き上がった。

 「未来だと、こんな茶があるんだな」ふうふう湯飲みの縁を吹いてみる。「いい香りだ」

 「そうね、みんな普通に飲めるし」

 「未来ってのは良い時代だ。お偉いさんしか飲めなかったぜ」

 そろそろかな、と見計らい、湯飲みを呷る。じんわりと口腔から食道へ、そうして胃へと温かい液体が通っていく。自然と気が和らぐのは、果たしてこの「煎茶」なるものが日本人に本質的に合っているからなのかなんなのかは、ちょっとわからない。わからないが、悪くないな、と思った。少なからず、アリスの屋敷で飲む紅茶よりも好きだな、と思った。

 「アンタは何呑んでるんだ?」

 「インスタントコーヒー」ステンレスカップの縁にドリップバッグをひっかけ、クロはちょろちょろとお湯を注いでいる。小難しそうに、眉間に皺を寄せている。「アナタにはあんまり合わないかもね。ニガイし」

 「どういうことだよ?」

 「オトナの味ってこと」

 つんと澄ましたようにしながら、ちょっとからかい気味に笑みを浮かべるクロ。傍目にはどう見ても金時の方が年上に見えるのだが、サーヴァントに外見年齢を言っても詮のないことである。それに、自分の精神構造が素直であることを、彼はそれなりに自覚していた。

 「頼光さん、強かったわよ。なんでそれ回避できるの? って感じだった。オルレアンで戦ったランスロットもヤバって思ったケド」

 「それを倒したんだから大したもんだよ、マシュは」

 三角錐状のパックから沁みだす煎茶を啜りながら、金時は、未だに寝袋ですやすやするマシュを感心して見下ろした。

 野に育った金時を、武士として引き入れたのは源頼光その人だ。親として、厳しく、また優しく育ててくれた彼女には感謝してもしきれぬものがある。そう簡単に言い尽くせない親子関係だが、そこに暖かな感情があるのは間違いない。

 「酒呑はどうだったよ。おっかないヤツだったろ」

 「んー、どうかな。私はあんまり戦わなかったから。でもジークフリートのバルムンク、圧し折ったって言ってたかな……」

 「あー」

 腕組みして、灰色になった薄曇りの空を仰ぐ。「あー」の意味は昔を顧みて、しみじみした際に漏れた声だ。

 英霊の座においても、有名な英霊の知識は多く知れ渡るものである。ジークフリートと言えば、それこそギリシャ神話のヘラクレスとまではいかずとも、アーサー王物語の騎士王以上には知名度があると言えよう。そんな大英雄が振るう名剣を圧し折るなんて、正直与太話もいいところだ。だが、酒呑童子なら、そんなおとぎ話めいたこともやってしまうだろう。遊び半分で、それに全力で。

 「マシュは『負けない』、って気持ちさえしっかりあれば誰にも負けないわ。それは間違いない」

 ぽたぽた、とこげ茶色の液体が滴るのを頬杖ついて眺めるクロ。つまらなそうな表情を見ていると、「何が大人の味なんだ?」と言いたくなるというものである。最も、言わないけれど。

 「でも、ちょっと気になることがあって」

 「おう、なんだ?」

 「マシュは、リツカが居ないと頑張れないのよ」

 ちょっとだけ、クロは言いにくそうに顔を顰めた。寝息を立てるマシュを、見やる視線は、平易に言って、優し気だ。

 「リツカの背を追おう、って気持ちがあるから精神を奮い立たせられる。時間制御しちゃうくらい、頑張っちゃう。そんなこの子の純粋さが、ちょっと怖いのよ」

 淡々と、静かに喋るクロの口調は、一見して酷く冷静さを感じさせる。だが、そうではない。深い呼気。伏し目がちな眼差し。両の頬杖をついたまま微動だにしない静謐な在り方。己の母親の姿がこの小さな少女に重なったのは、恐らく無関係ではない。それと、自分にも。

 金時は、ほんの少しだけ、にがっぽい気分になった。眼球の底で疼いた酒呑童子の表情に、指先が痙攣する。

 「自分の意思で善きことをしよう、って選んでるならいいんだけど」

 「アンタ、良い奴だな」

 「茶化さないでよ」

 「茶化してねえさ」ぐい、と茶を一飲み。ようやっとコップにコーヒーがたまったらしく、クロもバッグをビニール袋に包むと、しずしずとドリップコーヒーを口にする。「他人を心配できるヤツってのは、良い奴だろ?」

 「案外、マシュはちゃんとわかってるのかもしれないぜ? 無自覚なだけでな」

 「そうかしら」コーヒーを口にしたクロは、ちょっと渋面だ。

 「案外、子どもってのはよくわかってるもんだ。親が何考えてるとか、世の中の善し悪しとかな」

 押し黙り、ちびりちびりとコーヒーを嗜むクロ。にがっぽい顔は変わらず、きつく寄せた眉は、眉同士が何か相談しているように見える。釈然としない表情は変わらず、だから、金時も独り言みたいに続けた。

 「ただ、初心だけで戦い続けられるかって言ったら、微妙だよな。俺っちたちは、おとぎ話の登場人物じゃあねえんだ。精神を奮い立たせられる何かを、もっと自覚した方が良いってのは、あるかもな」

 言い切ってから、金時は一息に残った茶を飲み干した。既に冷め始めたお茶は、若干苦みが強い。似合わないことはするものではない、と思った。苦い顔のまま、金時は再び鉄瓶から使い古しのティーパックのまま湯を注いだ。

 「あれ」

 「おはよう、マシュ」

 「はい、クロさん」ふわ、と大きなあくびを一つ、小さくあくびをもう一つ。もぞもぞと寝袋から這い出したマシュは、不安そうに周囲を見回した。「金時さんも、おはようございます」

 どうした、と言いつつ、金時も周囲を見やる。特に変わり映えのない、静かな森が横たわっている。

 いえ、と口ごもったマシュは、そのまま寝袋の上に、ちょこなんと座り込む。寝ぼけ眼を手で擦ると、ぽかんとしたまま周囲を見回した。

 「うわ!?」

 「なんだなんだ」

 「いや、だってもう10時!」

 素っ頓狂な奇声をあげながら、マシュは慌てて寝袋から這い出してきた。慌ててるもんだから完全に脱しきれず、半人半蛇の化け物みたいになっていた。そんな状態で慌てているのだから、つんのめって情けなく倒れるのは当たり前でもあった。もす、という鈍い音は、衝撃音を寝袋が 吸収したが故か。眼鏡をしていなかったのは不幸中の幸いだが、おでこを赤くして起き上がったマシュの顔は、泣きだしそうにふにゃふにゃだった。

 「10時ね」ステンレスマグカップを口にしつつ、クロはわざとらしく不機嫌そうな顔をする。「マシュの代わりに2時間も付き合わされたのよ、チャンバラ」

 「よく言うぜ。あのあんちゃんと考えた闘い方を試したい、って言ったのはアンタだろ?」

 「こんなにガチンコでやるなんて聞いてない」

 むすっとするクロ。余裕そうな朗らかな笑みを浮かべた金時は、ほれ、と湯飲みを差し出す。横たわったまま、マシュはぽこぽこ音を立てて鉄瓶から注がれる熱湯をぽかんとしながら眺めていた。

 「今は休憩中。今日は軽めだから、これで終わりだ」

 そろそろと寝袋から這い出すと、マシュは失望したように湯飲みを手に取った。無論、失望とは他者に向けたものではなく、自分の堕落に向けたものであろう。

 「でも珍しいわね。マシュがお寝坊さんなんて」

 「そうなのか?」

 「たまには、じっくり休んだ方が良いのよ。防御したとはいえ。宝具を受けたわけだし」

 はいこれ、とクロがチョコ菓子を差し出す。渋々に受け取ると、マシュは困惑するように視線を彷徨わせた。

 金時が、視線を挙げる。クロが半瞬早く金時と視線を合わせると、やはり彼女の方が僅かに早く「どうしたの?」とマシュと視線も併せずに言った。

 「いえ、その。夢を」

 言いにくそうにしながら声を絞り出すと、マシュは粘着質の嘆息を吐いた。よく見れば、額に浮かんでいるのは脂汗か?

 一転、クロは丸太から立ち上がると、マシュの目の前にしゃがんだ。どんな夢、と無言で問う眼差しに、幾分か気圧されながらも、マシュは「暖かい、夢でした」

 「印象論がかなり強い夢です。物凄く大勢の人に囲まれて、それで生暖かい感触に包まれているのに妙に悪寒がするような。安らかなのに、その安らかさがとても孤独なような。とても、暗い夢でした」

 言って、マシュは空を見上げた。固有結界内部の太陽は、あくまで心象に過ぎない。そんな太陽をまぶし気に見上げる彼女の顔は、何かに怯えているよう。

 立ち上がったクロは、思案気に眉を寄せた。夢、などと聞くと何やら胡散臭さが漂うが、魔術世界において、夢は様々な意味を持つ、人間の内の未踏の地として重要な立ち位置を占めてきた。時に、形而上学的な存在者と巡り合う場所ですらある夢なるものに、金時も強く心当たりがある。

 「調子が悪いところある?」

 「いえ、特には」

 「バイタルに問題はないし。とりあえず様子見で良いと思う」

 それでも、夢が学問上大きな位置を占めてこなかった理由は玉石混交が甚だしいことによる。要するに、肝要な意味を持つ夢と、そうでない夢を判別する手段が確立していないため、魔術的意味があるかないか不明なのだ。中には精神分析を取り込もうとした学派もあるが、あくまで傍流の中の傍流という域を出ない。

 つまるところ、クロも無難に“保留”という判断を下さざるを得なかった。

 「リツカには報告しておいて。ロマンには私から」

 「はい、すみません」

 「そんなに急がなくていいから。今はとりあえず休んでなさい」

 立ち上がりかけるマシュを制して、クロは呑気そうにコーヒーを飲んでいる。もう一度同じ言葉を繰り返すと、マシュは寝袋の上にぺたんと座り込んだ。

 ──曰く、マシュ・キリエライトは現実に生きる生身の肉体に、サーヴァントを憑依させた特異なサーヴァントであるという。今を生きるサーヴァント、というわけだ。基本的にステータス上成長が止まっているサーヴァントに対し、彼女はまだ、これから成長していくのだろう。さながら、クロは師匠というところか。見た目は幼い少女然としているが、目端は効くし腕もいいのだから、適任ではあるのだろう。

忸怩たる表情のマシュは、やはり沈んだ表情である。あの瞬間、ヘンリー・ジキルの屋敷で敵に襲われた際のあの瞬間が、それだけショックだったのだろう。何せ、正体不明の敵はマスターであるリツカではなく、いの一番にマシュを狙い、マシュも宝具を発動しこそすれ、その威力の大半は玉藻の前の呪術によって減殺させたのだから。盾のサーヴァントにとって、これほど不名誉なことはない。

 金時は、座ったまま、空を仰いだ。厄介なことになりそうだな、と思った。ぱち、と炭が弾け、火種が焦れるように飛び出した。

 

 ※

 

 「リツカ君の方は、流石に情報の量は多いね」

 空中投影された映像ディスプレイへの感想に対し、リツカはさして満足している様子はなかった。

 デブリーフィングの再開とともに、リツカはまず、ジキル邸で得てきた有用と思しき情報をとりあえずずらりと並べた形だ。情報の種類は映像・画像データに加え、書斎で発見した薬品やら書斎など、種類・量は多岐にわたる。元からそちらが本命と理解していても、ちょっとへこむトウマであった。

 「まず、ジキル君を始末した犯人についてだが」

 モリアーティが言うと、空中投影されるディスプレイの1つが拡大された。地下室で発見された、屋敷の主の遺骸だ。猟奇的、としか言いようのないその死体の有り様に対して、トウマは思いのほか耐えられた。凄惨なものに見慣れてしまったからだろうか。それとも、あくまで画像データだからだろうか。とは言え、流石にまじまじと見つめる気は起きなかった。

 「最初に言うけど」右側頭部に結んだ髪の房を指に絡ませながら、リツカは気難しそうな顔で言う。「現時点では、あの人狼ないしそれに類似するものによって殺害されたと考えてる」

 「根拠は2つ。まずこの遺体の頸部切断痕について。切断面の画像データをカルデアの法医学科に解析してもらったけど、鋭利な刀剣の類で切断したものじゃなくて、動物の牙や爪などによって引き千切ったものに近しい、って報告だった。金時君の見立て通りだね。

 2つめはこの、遺体及び書斎に残っていた粘性の物質。こちらの物質から採取された染色体の解析は今現在カルデアで行っている最中だから、正確なところはまだ不明。でも、現時点での報告だと、幻想種のものに類似しているって言ってた。

 以上2点から、恐らくあの人狼ないしそれに類似する生物の仕業ではないか、ってところかな。そちらで4日前に発見された斬殺死体の損傷痕とも一致するしね」

 「保留付きなのは、新たに現れた敵の可能性を捨てきれない、というところカナ?」

 「そうだね。何せ、その敵の正体が一切不明だし」

 珍しく煮え切らないように、リツカは顔を顰めた。

 彼女らしからぬ曖昧な表現をされた“敵”こそ、新たに増えた悩みの種だった。ヘンリー・ジキルの屋敷の探索中に全く不意に襲ってきた敵に対し、ほぼ満足いくレベルで応戦・撃退したものの、戦いが終わってみれば誰も記憶になく、また戦闘服の記録にすら残っていなかったのである。しかも、リツカたちの班とは通信途絶していたはずなのに、彼女たちは彼女たちで普通に連絡をとっていたというのだから、なおのこと謎は深まるばかりである。

 「記憶抹消に通信傍受、妨害。それと、タマちゃんにはアサシンを警戒してもらってて上手く迎撃できたから、アサシンないし気配遮断に類する何か。これが、今のところ判明してる敵の能力、ってところかな。それと、タマちゃん曰く、敵は怨霊に近い反英雄のようなもの、って言ってたかな。あの屋敷に潜んでたわけだし、こちらの可能性もあるんじゃないかなって感じ。あと、対毒術式が起動してる記録がBDUにあった。通信阻害のタイミングとほぼ同時だったから、こっちも関係あるかも」

 何もわからなかったよ、と肩を竦めるリツカ。飄々としているはずの表情が、いつになく不愉快そうにかしこまっている。彼女は基本的に自分を無能だと思っているが、実際無能を曝すのはそれはそれで不愉快らしい。

 とは言え、トウマからすれば、その劣悪な条件から可能な限り敵の情報を引き出している彼女は、やっぱり凄いと思うのである。自分だったら、多分、こんがらがって何もわからないままであろう。

 そして何より、リツカの引き出してきた情報は、答えに辿り着くに十分過ぎた。

 情報抹消スキルに通信妨害。さらにはアサシンと思われる気配遮断。そこから導き出される答えは、即ち、

 「それ、ジャック・ザ・リッパーだと思うよ。だから、ジキル氏殺害の犯人は別なんじゃあないかなあ」

 虚を突かれたように、トウマはソファにもたれかかる老人を見やった。白髪白髭の男は難しいことを考えるように顔を強張らせ、右手の人差し指で右のこめかみを摩りながら言った。

 「合理的推論によるものではなく、経験的事実をもとにした推測でしかないんだけどね。切り裂きジャックとは数多の追跡の手を振り切って行方をくらませた、正体不明無形のサイコキラーの通称であって本名ではない。アサシンに近しい在り方をし、そういったスキルを有するサーヴァントとして召喚される、という妄想はとりあえず無理のあるものではないと思わないかい?」

 相変わらず思考を続けながら、モリアーティは特に取るに足らない話でもするみたいに言う。呆気にとられるトウマを他所に、リツカも難しい顔をしている。アリスは相変わらず、澄ました表情のまま静かに座り込んでいる

 「ジャックちゃんか。確かにアサシンとして優秀だったけど」

 訝るような顔のリツカ。モリアーティの言葉に高い蓋然性を感じていない、というところだろう。モリアーティもその自覚はあるらしく、気楽そうに肩を竦めた。

 「無論、今のはただの妄想に近い。重要なのは経験的事実で、それは即ち、私は切り裂きジャックの事件を首謀してたからまあ色々わかるって感じなんだよね」

 さも当然、というようにモリアーティはさらさらと言う。歴史的にとんでもないことを暴露している気がするのだが、気のせいだろうか。いや、気のせいではない。リツカも目を丸くしてから、気分悪そうに嘆息を吐いた。

 「理性と良識がない人は人であれ神であれ、あまり好きではないんだけどねぇ」

 「誉められたと思っておこう。悪は理性と良識を踏みにじってこそだからね」

 陰鬱に嘆息を吐くリツカ。あくまで爽やかに肩を竦めるモリアーティに、悪びれるところは一切ない。まぁいいや、と言うように苦笑いしたリツカは、髪をかき回しながら、もう一度嘆息を吐いた。

 「正確には、当時私が主導していた、いくつか別々な事件があってね。貧民街の浮浪児を育て上げた殺し屋に、手術だけでは愉悦が満たされなくなった三流の医者。そういった輩を使嗾して、ちょっとばかり殺人事件をおこさせていたところだったんだがね」

 そこまで言ってから、モリアーティは一転して不機嫌そうに顔を顰めた。

 「いつの間にか、全部、『切り裂きジャック』とかいうシリアルキラーが起こした殺人事件扱いにされててね。しかも、その中には私が全然与り知らない事件まで含まれてるときた。正直、困ったものだよ。たまったもんじゃないですよ?」

 憤懣やるかたない、と鼻息荒く口にしてから、モリアーティは不快そうに胸元に手を入れた。途端、ぎろりとアリスの視線が嗜めるようにモリアーティを一瞥した。視線に気づいたモリアーティは、おっと、と肩を竦めた。「煙草はダメだったね」

 「『切り裂きジャック』は所詮、いくつかの殺人犯を雑にひとまとめにした低能な抽象物にすぎないのさ。それがサーヴァントとして召喚される、ってことは私には度し難い。もし召喚されることがあるなら、その『切り裂きジャック』とかいう抽象物の総体か、それか私が関わらず……また、私の捜索網を以てしても“亡霊”とかいう訳の分からん答えしか出なかった『本物』しかないのではないか、と思っていてね。ちょうど、今聞いた話はそれを強く思い起こさせたのだよ」

 じろり、虚空を睨みつける。壮年の面持ちに浮かぶ鋭利な眼差しは、今まさに得物を撃たんとする猟銃の銃口を想起させる。冷たく、どこまでも黒々とした金属質の銃口の質感とモリアーティの眼光が重なり、トウマは睨まれていないにも関わらず肌を粟立てた。つい先日、冗談交じりにラスボスだのなんだのと言ったことが思い起こされる。この老人が、ただ頭のいい老人ではないことを、改めて思い知らされるようだった。

 しかも、その思考の鋭さたるや、舌を巻くほかない。

 ジャック・ザ・リッパーがサーヴァントとして召喚される事例は、トウマが知るに2例ある。Apocryphaに登場したアサシンに加え、第2特異点で出会ったバーサーカーだ。モリアーティの推論は、見事にその2例を言い当てている。前者はバーサーカーを、後者はアサシンそのものではないか。

 ジェームズ・モリアーティ。最も有名な探偵の終生の宿敵の、その底知れない知悉をまざまざと見せつけるようだった。

 「要するに、自分の手柄を横取りしたヤツを相手に、探偵ごっこがしたいと」

 「大義名分がついてればいいだろう? ついでついで」

 その鋭い眼光を前に、特に気圧されるでもなく言うリツカに対し、モリアーティの口ぶりは普段の剽軽な老人へと戻っていた。「それに、今のもあくまでまだ妄想の域に過ぎないしね」

 「その妄想を推論にする手がある、と理解していいのかな」

 「もし真名がわかれば、そこから色々推測することもできるだろう。私の妄想が誤っている可能性もあるし、誤った先入観のまま戦えば却って余計な危険もあるしね」

 手慰みに口ひげを撫でてから、モリアーティはずい、と身を乗り出した。何事か提案がある、というように翠色に煌めく目は、いたずらを企む悪ガキにも見えたし、悪辣を思惟する謀略家にも見えた。どちらかと言えば、前者だろうか。その邪気に満ち満ちた無邪気な顔が、却って不気味だった。

 だが、先に口を開いたのはリツカだった。

 「ソーホーのハイド邸探索を優先事項から外して」リツカが言うと、ディスプレイの1つが拡大された。ジキル邸で発見されたという、ダイイングメッセージともとれる一枚だ。「まず資料の精査と、森教授の言う“探偵ごっこ”から進める。ってことでどうかな」

 「三方を同時に進めた方が効率的ではないですかな?」

 浮かんだ顔は、意外さへの驚きというよりも、望み通りの答えが出てきたことへの愉悦だろうか。口ひげを撫でるモリアーティの顔は、素直に楽し気だ。

 「流石に三方にまで戦力を分散するのは、ちょっと避けたい。今必要なのは、拙速ではなく確かな一歩だと思う」

 それで満足だったのだろう。なるほど、とわざとらしく頷くと、モリアーティの興味は次に移っていた。

 「人員の選定だけどね、こっちで資料の探索をするのは私とリツカ君、それとライネス君の3人で行おうと思うが、どうかね」

 モリアーティの言葉に、リツカは無言で頷いた。そうしてから、トウマを一瞥した。それでいいか、という確認だ。トウマも異論はなく、頷き返した。単純な話、知性に長ける3人が膨大な資料の検分を行うのは益があるだろう。ヴィトゲンシュタインは“3人のアホが集まるより1人の天才の方が善い結論を導ける”と述べたものだが、要するに3人の天才がいればなお善い結論が導けるものだろう。

 「それで、“ホームズごっこ”のイレギュラーズとして動いて欲しいのが、君だ。タチバナ君」

 それも、想定の範囲内。一方に前線指揮官が配せられるのなら、もう一方にもう一人の前線指揮官が配せられるのが道理であろう。

 「行き先は、イーストエンドのホワイトチャペルだ。そこに宿を取るから、1週間ほど滞在し、ある人物に会ってもらいたい。そうして、マシュ・キリエライト君をその人物に会わせるのが君の仕事だ」

 「マシュはあの時、宝具らしき攻撃を受けた。それを手掛かりに、あの敵の正体に迫れる誰かが居る。そういう理解で良い?」

 「そういうこと。ここが19世紀末のロンドンなら、その人物はロンドンにいるはずだ」

 「1週間っていうのは、その人を探すのにかかる時間でしょうか」

 「半分正解だ」そう言って、モリアーティは幾ばくか悩まし気に唸った。「その人物は、色々な人から追われていてね。信頼できると見做した人間にしか会わないのだ」

 「その人物へのアクセスは、私がやろう。ロンドンの人脈を使えば、こちらが会いたい旨は伝わるはずだ。そこから、君たちの様子を観察し、会っても大丈夫と向こうが認識するまでの期間。それが1週間だ」

 こればかりはどうにもならない、というように、モリアーティはソファに身体を預けた。犯罪界を席巻する大物でさえ自由にならない人物、という想像図に我知らず緊張を覚えたが、トウマはすぐに思考を切り替えた。

 1週間の長期滞在となれば、当然自衛のための戦力がある程度必要になる。マシュ1人は当然として、残り2人は欲しいところである。1人はクロとして、もう1人を誰にするか。はて、と志向を始めたところで、不意に視界で何かが動いた。

 「わ」

 アリスが、手を挙げていた。相変わらず無表情なまま、じい、とトウマを眺めている。孔が開くほどに見つめてくる視線に、流石に居心地が悪く、トウマはほんのちょっぴりだけ苦笑いになった困惑顔を浮かべた。

 「アリスちゃんも行くの?」

 “わ”の一言で大意を理解したらしいリツカに、アリスは同意するように頷いた。珍しい、と目を丸くするモリアーティは意に介さず、彼女は呟くように言った。「ホワイトチャペルに、用事」

 言い終えると、それで満足したとでも言うように、アリスの興味関心はすぐに失せていく。静謐のヴェールを纏うように目を瞑り、澄ましたようにローズティーを飲み始めた。どんな用事なのか、と探るような3人の視線を全く気にせずに本を読み始めるその胆力ぶりは、ちょっと凄い。

 「3人の選定は追々やるとして。こっちの期限も1週間って考えていい?」

 モリアーティはリツカに首肯を返しながらも、表情は明らかに窶れている。1週間でこなす作業量ではない、と今更に自覚して、幾分かうんざりしているらしい。リツカも心なしか……というか、明らかに「ウワッ」って顔をしている。

 とは言え、だった。やれやれ、と綺麗なグレイヘアをかきあげ、既に疲労感を滲ませているモリアーティの表情の翠色の目には、剃刀のような光が閃いている。

 「そうと決まれば、旅の準備だね。金時君は即応待機で欲しいし……」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅲ-4

 エリザベス女王の朝は、基本的にあまり早くなかった。生前は立場が立場なだけあって早く起きることも多かったが、それから解放されたサーヴァント生活では、自堕落な生活をしてやろう、とヤクザなことを試みたりしていた。と言っても遅寝遅起きがその自堕落というのだから、彼女は本質的に善人としか言いようがない。

 早くなかった、と過去形にしたのは、現在は割と速めに起床するからだ。なんとAM4:00。流石に早すぎたかしら、と姿見の前に立ちながらも、エリザベスの表情はどこかウキウキしている。

 その原因は単純で、姿見に映る自分の恰好がとても新鮮で、かつ人目で気に入ったからだ。

 黒いフォーマルなミニワンピの上から、純白のエプロン、というスタイル。いわゆるメイド服である。妙に丈が短い……というか太腿くらいまでしかないジャパニーズメイド服に対し、エリザベスは大変好意的な印象だった。

 当然、彼女は生前こういった給仕服など来たことはない。イングランドという国を世界の中心にまで引き上げた大国の女王が、どうして他者のかしづくことがあり得ようか。幼少の頃は不遇であったが、それは本意ならぬ生活でもあった。太陽すら撃沈させる女の上に立つ者は、後にも先にもいない。不遇な幼少期とても、やはり他者に使役される生活とは無縁だった。まぁ敢えて言うなら、お金には頭が上がらないのだけれど……。

 「これも神様の思し召し思し召し」

 ふんふん、とハミングしながら、くるりと一回転する。ふわりと浮かんだプリーツスカートの動きが可愛らしく、エリザベスはニコニコと相好を崩した。

 確かに、エリザベス女王は女王故に尊き人物である。それは印象論や感情論ではなく、尊き地位に君臨するという意味でのことである。のだが、それはそれとして、彼女は大らかで、且つ宿命論的なものを信じている。というより、柔軟に、且つ篤い信仰心の持ち主というべきか。何にせよ彼女は自分に降りかかってきた物事を受け止め、かつそれをきちんとこなそう、という健やかな精神の持ち主だった。加えて、今依り代になっているこの活気にあふれる少女の気質も相まって、とにかくエリザベス女王は色んな物事へのやる気に満ち満ちていた。

即ち、彼女に与えられた使命は、この屋敷の管理だった。アリスに加え、玉藻の前までホワイトチャペルに滞在することになってしまったのである。その間の屋敷の管理や食事の提供などを誰がやるのか、という問題に対し、勇んで手を挙げたのがエリザベスだった。

 「じゃ、まずはお掃除でもしましょうか」

 実に30分。じっくり自分のメイド服姿を堪能し終えると、エリザベスは程よく、且つ形よく膨らんだ胸を張った。

 確か、掃除用具がある倉庫は1階ロビーの脇だったか。腰に結んだリボンの形をもう一度確認し、再度満足すると、確かな足取りで部屋を後にする。スニーカーにしたのは正解だったかな、と調子よく階段を降りて1階へ。しん、と静まった屋敷の空気に、エリザベスはちょっと複雑な気分だ。早朝の王室に感じる、活気の前兆とも言うべき厳かな緊張感に似ている。そんな感慨の一方で、思い出すのは戴冠の前に一年過ごした幽獄での日々である。果たして、今目の前に横たわっているのは、どちらの静寂か。どちらにしても悪いことにはならないか、と思い直し、倉庫のドアノブに手をかける。

 倉庫の広さは、思ったより広かった。倉庫というより、ちょっとしたドレッサーくらいの広さだ。自分の王室のそれは、一体どれくらいの広さだったろうか。思い出そうとして思い出せず、幾ばくか情けなさを惹起させつつ、エリザベスはモップと雑巾の入ったポリバケツを手に取った。

 「これ、捻ったら水がでてくるのよね」

 ううむ、と唸るように蛇口を一瞥。未来は凄いな、と感心しながら、バケツ2つに水を注いでいく。半量ほどたまったあとは、ゴム手袋を装着して倉庫奥から消毒液の入ったボトルを1つ。少量入れて次亜塩素酸水の希釈液を作ると、ロビーに出た。

 チチチ、と小さく啼いた青い鳥が視界を過る。ロビーの固定電話の上に止まると、その小鳥は不満そうにエリザベスを見返した。正確には、不満そうだが致し方なし、と思っているらしい。そこに加えて、どうやら管理者代行としてちゃんと仕事をしているか、監視する腹積もりらしい。

 アリスのプロイキッシャーの一つだ。とは言え、彼女の意思で動いているわけではあるまい。好意的に表現すれば、尊大な自尊心と臆病な羞恥心のままに動くあのプロイの肥大化した自意識のもとの行動だろう。

 艶のいい山ブドウみたいな目に、エリザベスは挑戦と受け取った。この少女の肉体の気質故にか、彼女は生前よりも勝気になっている。また、負けん気も。元からそういう気分がないわけではないエリザベスだが、なんとなく、若くなった気分だ。

 その若さのまま、エリザベスは高ランクの【皇帝特権】のままにモップを振るった。

 

 

 「できた」

 アリスのか細い声が耳朶を打ったのは、おおよそ拭き掃除が終わった時だった。

 AM11:44。早朝、ホワイトチャペルのアパルトメントの一室に越してきたクロたちの最初の仕事は、部屋の掃除であった。

 ジェームズ・モリアーティが手配したここの住居は、彼の生前、悪事を働く際に使用していた一室だという。とは言え彼自身が寝泊まりしたわけではなく、例えば身分卑しき人物を犯罪に駆り立てる際の一時の住居とさせたり、そうでない人物の潜伏場所として供与していたという。こういったアパルトメントの一室をロンドン市街だけで数か所、さらにイギリス全土にもいくつか持っているという。

 そんな犯罪組織の温床というだけあって、まぁ、掃除が行き届いていたいのは自明な話だった。一通り家具だけは揃っているが埃だらけ、という状況に堪えかねたアリスの主導で掃除が始まって、およそ3時間。マシュと玉藻の前、トウマは別件で外に出ていたため、残った2人でとりあえず荷物を整理して掃き掃除・拭き掃除をこなしているうちに、時間は丁度昼時を迎えていた。

 「アナタ、そんなの食べるのね」

 普段の礼服姿は変わらず、頭巾と不織布マスク姿のアリスがぼろのソファに腰かけている。テーブルには円錐状のカップがおかれ、剥かれた蓋からもうもうと湯気が立っていた。

 カップラーメンである。アリスが料理する、と言い出して、出てきたものだった。クロも後頭部で結んだ頭巾を解くと、アリスと相対するようにソファに座った。

 クロに対しアリスは特に応えず、プラスチックのフォークを麺に差し込むと、そのままはむはむと音もなく食べ始め、

 「アツイ」

 「そりゃそうでしょ」

 不肖々々、とでも言わんばかりに眉を寄せ、アリスはテーブルの上にカップラーメンを置いた。もうもうと湯気を立てるカップラーメンに対し、アリスは行儀よく膝の上に手を置いて、まるで早く冷める呪文でもかけるかのようにじっくりと眺めている。ともすれば、そこだけ時間が静止しているかのようですらある景色だ。

 ぐるぐると割り箸で内容物をかき回していたクロは、多少の熱さも気にせずにずるずると頬張っていく。西暦2016年、日本円にして250円。付録のTCGが付く週刊漫画雑誌くらいは買える金額と、若干割高な非常食はそこそこ美味だ。レモン風味の効いたピリ辛ヌードル、という味付けは、ちょっと特徴があると思うけれど。

 相変わらず無表情のまま、例によってクロを眺めている。「じい~」というサウンドエフェクトがどこからともなく聞こえてきそうである。詰問するような、というより、何か不公平感に不満を感じているような表情だった。

 無論、クロにアリスの微妙な感情の機微など捉えようもない。構わずにずるずるとカップ麺を啜るクロは、むしろ、全然別なことを考えていた。

 むしゃむしゃ、ごっくん。口腔内で食塊となった麺類を嚥下し、インスタントのコーヒーを啜る。決して濃いとは言い難く、また美味でもないコーヒーだったが、舌に馴染む感触は、どこか物悲しい愛嬌がある。

 ようやっとカップヌードルに手を伸ばすと、アリスはおそるおそる、顔を近づけた。心なしか湯気が減っているように見えることもあって、アリスは静かにフォークを突き入れた。

 「ジャックと、以前一緒に戦ったのよ」

 ふうふう、と息を吹きかけるアリスに、クロも特に表情も変えずに麵を啜る。ちょろちょろと味わうように啜りこむと、クロは無感動そうに見える表情のまま、くすんだ窓を眺めやった。外には、分厚いスモッグが立ち往生している。

 別に、だからどうということもない。そのまま無言でソファに座り込むクロに対し、アリスはパスタでも食べるみたいに音もなく口に頬張りながら、そんなクロの姿を眺めていた。

 「戦えないと」

 「別に。敵なら倒す。それだけのことよ」

 全く、感情の色香がない会話だった。事務的な事実を確認するだけの会話の後、アリスが口にした「そう」という呟きは、けれど、どこか湿気があった。

 何か、含みがあった。そんな気配を感じ取って、クロは黙々とヌードルを啜るアリスを一瞥した。そうして30秒、気のせいか、と思い直したクロがステンレスマグカップの取っ手に手を伸ばしかけたところで、待ちかねたかのようにアリスが口にした。「彼、どうなの」

彼。もちろん、トウマのことだろう。偶然か、それともなんらかの必然か、カルデアの人員は女性性が多い。この特異点には一応男性性のサーヴァントが2騎いるが、それならわざわざそんな婉曲的な言いまわしはしないだろう。

では、どういう質問の意図か。思案すること1秒ほど、クロは「65点ね」となるだけ素っ気なく言った。

 「問題はどこに力点を置いて評価するか、ね。魔術師としてなら限りなく0点に近いと思うけど、この人理修復の旅において魔術師としての性能なんて誤差よ。それこそ、時計塔から冠位を頂戴する魔術師だって、サーヴァントが本気で潰しにかかれば相手じゃあないわけだし。こと戦闘、に限ってなら、サバイバビリティを担保できる戦闘能力さえあればいい。その点、カルデアのBDUが便利すぎてね。こっちのキャスターお手製のあれ、戦闘性能だけじゃなくて生存性もやたら高いし。多分、お腹全部吹き飛ぶか心臓破裂しても死なないようになってるから、その点でもマスター本人の性能はさして重要じゃあない。レイシフト適正がある魔術師で、且つあの戦闘服を着てるだけで及第点の50点ってとこね」

 カップラーメンのスープを飲みつつ、クロはぼんやりとした思考を口にしていく。万が一、トウマが通常の聖杯戦争に参加していたら、間違いなく第一に脱落するだろう。どうせキャスターあたりに謀殺され、死体を慰み者にされるのがオチである。生半可な正義感がある分、通常の聖杯戦争では死にやすい。

 だが、こと人理修復の旅に限り、一般的な倫理観や正義感は、評価できるだろう。それが加算分、ということだ。

 「当たり前の話だけど、“普通に善い人”って嫌われにくいしね。普通に善い人を嫌いになるような英霊は、そもそも人理修復にあたって召喚に応じないでしょうし、協力もしてくれないんじゃない。その意味で、現地のサーヴァントと協力しやすい人柄とは言えるかもね」

 こんなところかしらね、と興味もなさげに言う。納得したのかしてないのかは不明だが、アリスは無言のまま、身動ぎ程度に頷いていた。いや、頷いているモーションに見えるのは、もしかしたらラーメンをすする僅かな動作だったかもしれないが。

 ちなみに、このクロの評価は、彼女なりに第三者視点に立ったうえで、なるだけ個人的感情を廃したものである。主観的には戦闘訓練での技能向上など注目すべき点はあると思っているのだけれど、まぁ、でもそれがこの戦いにどれだけ寄与するのかはちょっと不鮮明だ。前の戦いのときの反応を見るに、多少なりとも役には立っているのかもしれない。

 アリス、ヌードルをむしゃる。クロの言葉でも咀嚼するみたいに麺を咬んでは、無言でヌードルを食べている。取りあえず、クロの返答に満足したのだろう。

 変な人。

 それが、クロのアリスに対する感想だった。ある意味、かなり魔術師らしい魔術師なのだろう。他者に心開かず、また開こうともしない。静謐そのものを黒衣として身に纏い、ただ深淵を見るように伏し目がちに生きる姿は、夜に住まう魔女、という言葉がよく似合う。ナーサリーライム、童話の総体そのものがサーヴァントとして形を成したというファンタジックな真名に、彼女の佇まいは似合っている。気が、する。

 だから、どうしてわざわざ、トウマのことなど聞くのだろう、と思う。他者に関心など抱かないように見えるのに、何故だろう。

 ──微かな疑念。すぐにその疑念は別なものに転じて、クロは盛大に嘆息を吐いた。ごりごり、髪を結んだ裏側の後頭部を掻きむしる。不思議そうにこちらを見るアリスの視線を今は敢えてスルーし、クロはのっそりと立ち上がった。

 ソファ裏の窓を、開けた。スモッグの漂う空はどう見ても、気分が晴れるものではない。

 クロは、基本的に賢い人間だったし、サーヴァントとして召喚された今もそうだ。感情論とは別に、物事を冷静に判断する目と耳を持っている。自分の感情の推移を、冷静に見ることができる。

 随分、少年に肩入れしている。兄とは別なベクトルと深度で。しかも、自分の存在とは無関係に。

 うなじのすぐ後ろから、何か、不気味な何かが忍び寄る感触を覚えた。ぬるりとした感触の宵闇の温度は生暖かい。不快さは、あまり、感じない。

 眼下を見下ろす。地上2階のアパルトメントから見下ろす通りには、何人かが行きかっている。

 「早く帰ってこないかな」

 益もなく、言の葉に上せる。さわさわとうなじを擽る闇の感触をなすがままにしながら、クロは、舌先に残留していた言葉が胸郭に堕ちていく余韻に、身を委ねた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅲ-5

 イーストエンド、ホワイトチャペル。

 19世紀末のこの地区を端的に表現するなら、どうしようもないほどの『貧民街』としか言いようがなかった。産業革命の完成と時を同じくして多くの移民が流入し、数多の民族が集積した掃き溜め。不衛生な食生活、住居どころか親すら不鮮明な子供たち。大人たちもボロボロになった服を着ており、ただ搾取されるだけの労働に勤しんでいる。社会主義と呼ばれる発想が生まれる前夜であり、またその思想の母胎ともなった街並み。それが19世紀末、ホワイトチャペルの特徴だった。

 ぼろの建物が犇めくように林立し、その合間を身汚い人間たちが駆け抜けていく。道端でやつれ気味になった女性は陰鬱な視線を振りまいているのに対し、子どもたちが無邪気に薄汚れて遊びまわっている。却って痛ましい、と思うのは、偶然ではないだろう。自分にぶつかりながらストリートを奔っていく少年少女たちが、不思議そうにこちらを振り返っているのは、多分、衣類の珍奇さというよりはその真新しさ故、だろう。

 「ソーホーもですけど、いわゆる貧民街は他の地区より人出がありますね」

 「ほかの地区だと、人出、ありませんよね」

 「理由は知らねーですけどね」

 不思議そうに街並みを観察するマシュに、玉藻の前は何の気なしに街を眺めている。買い出しだなんだ、とアリスの固有結界の外に出かける玉藻の前にとって、ロンドンは既に見知った土地といったところなのだろう。

 「ハイストリートは大分マシですけどねえ。ちょっと路地に入ると危ないですよ」

 内緒話をするように、ひっそりした声で玉藻の前が言う。釣られて暗い路地を一瞥したトウマは、薄暗く延びていく小径にぞっとした。

 もちろん、ある程度の戦闘訓練を受け、且つ魔術にある程度習熟するトウマであれば、ごろつきの4~5人に囲まれたところで反撃できる。が、反撃できる力があるからとて、そういった暗い場所に飛び込んでいく趣味もないし、そんな蛮勇の持ち合わせもない。端的に言って、タチバナトウマはごく平凡な│良識《ボンサンス》の持ち主だった。そっと逃げるように視線を動かした先は、腕に巻いたG-SHOCKだった。

網膜投影されたマップから距離から逆算するに、目的地までは残り10分ほどだ。予定時間までは残り15分。ゆっくり行っても十分間に合うな、と思い直した。

 今回、新居に越して早々クロとアリスに掃除を任せ、3人でホワイトチャペルの街並みに繰り出したのは、何も観光のためではない。例の人物を探すにあたり、まず会うべき人物がいる、とモリアーティから指示を受けての行動だ。その人物が待つのは、このハイストリートを教会の方へ向かった先にある酒場であり、そこがこのホワイトチャペル観光の最初の目的というわけである。

 というか、この酒場とかいう場所。マップで確認する限り、明らかにメインストリートから外れた路地ではないだろうか。

 「大丈夫ですよう。マシュ様も、それに私もいるわけですし」

 ともすれば楽観的な感じのする、ふにゃふにゃした表情の玉藻の前。彼女の在り方は、なんとなく、居るだけで気分が楽になる。多分、熾烈な殺し合いの中でこういう人格が在ることは、ありがたいことだろう。彼女の柔い顔立ちに安堵しつつ、この先に必ず待っているであろう凄絶な闘争を思い起こし、トウマは否が応もなく身震いした。

 「女の子に守ってもらう男、ってのも情けないですけどね。アニメやゲームの主人公なら、絶対顰蹙モノですよ」

 そんなわけだったので、その自虐は自分の不安を悟られまいとして、情けない姿を見せる小賢しい身振りでしかなかった。自分でもわざとらしいな、と思ったほどである。真面目なマシュは「そんなことありません」と懸命に言っているけれど、意味深長な笑みを浮かべる玉藻の前は、多分自虐の裏手に隠した小心まで見抜いている。

 「ただの人間なんて、どれだけ頑張ってもサーヴァントの足元にも及ばないんですから。守ってもらって当然! くらい大らかな気持ちでいましょ」

 「モリアーティ教授はどうなんすかね」

 「多分タチバナ様でも十分殺せるかと思います」

 清々しい手のひら返しである。近現代のサーヴァント、且つ作家や発明家などというサーヴァントは基本弱いらしい。中でもモリアーティは特別で、サーヴァント特有の頑丈さとその頭脳を覗けば、スペックは60台後半の老人以上でも以下でもないのだから、玉藻の前の発言も間違ってはいないというわけだ。玉藻の前、というか古い時代のキャスターなら話は別で、魔術による身体強化だけで高位の魔術師を殴り殺せるくらいのことはできるだろう。

 人間のトウマからしたらまさしく化け物のようなものなのだが、こうして喋っている分には、それこそ普通の人のようだ。というか、カルデアの制服に身を包み、特徴的な狐耳と尻尾を隠しているこの姿、カルデアのスタッフと言われたらそのまま信じてしまいそうな自然さである。

「ここですね」

とりとめもなく会話していると、マシュが足を止める。マップに表示された中央の光点から目標地点まで残り1分ほど。目標地点を示す黄色いマーカーは、丁度目の前の路地へと続く細い道の先を示している。

「ささ、異界をかける勇者らしく、堂々と行きましょ」

さあさあ、と玉藻の前に背中を押され、転げるようにトウマは路地裏へと足を踏み入れた。

ひや、と微風が額を撫でた。ただでさえスモッグが立ち込めるロンドンの街並みの中、林立する建物に僅かな太陽光さえ遮られるせいで一層暗い。夜の帳が降り始めた薄暮のようだ。それとも、物理的に暗い以上に、何か心理的な要因なのか。

「マシュ、お願い。玉藻さんはバックアップに」

「了解」「はいはい」と各々特徴のある返事をしながら、マシュはトウマの半身一歩前に、玉藻の前はその後方に位置取る。サーヴァントとしての2人の性能を鑑みれば、当然の采配ではある。多分、リツカもそうするだろう。

「どうしました?」

「いや」

振り返ったマシュに、トウマはぎこちない表情で言った。マシュの身長は、トウマより一回りは小さかった。

考えても詮のないこと。

頭を振ったトウマは、「なんでもないよ」よくせ毛に指を絡めた。

はあ、と不思議そうなマシュ。なんとなく、後ろでは玉藻の前がニヤニヤしている気がする。一層くせ毛を弄りまわして、トウマは「フーン」と大きく嘆息をからはいた。凡夫には、凡夫の悩みがあるものだ。路地裏でたむろする浮浪者らしき男たちに、男と“商談”の話をする薄汚れた身なりの女の陰鬱な視線は、真新しい衣類を着込む3人へのある意味敵意的な眼差しを別な意味に解しかけるのも、まぁ無理はないか。

とは言え、そればかりにかまけてもいられない。両の手で頬を打ち、己の立場を思い返したところで、不意に、あるいは偶有的に、道端に座り込む人物が目に入った。

お世辞にも綺麗とは言い難い、土にまみれて薄汚れた人型。果たして女なのか男なのか、異様に延びた白髪からは伺い知れない。どこか中東風を思わせる薄手の衣類は、移民が多い当時のロンドンならではの風景……なのだろうか。袖口から伸びた細い腕が、貧困、という言葉を、ただ概念以上のものとしてトウマの脳裏に惹起させた。中学時代、近所であまり流行っていない商店を営む家庭の友人は、遊んでいる時もあまり買い食いなどしなかったな、と思い出した。

ふと、その薄汚れた人型が顔を上げる。胸元まで伸びる長い前髪の隙間から、赤黒い目が覗き込んでいる。鋭利な眼差しだったが、敵意的というわけではない。その鋭利さは、多分天性のものというだけなのだろう。鋭いが、どこか物静かさを感じさせる赤い視線は、なんとなく賢者の眼差しを想起させた。

実際にして、ほんの僅かな視線の行き交いだった。体感にせよ物理的にせよ、1秒程度の交錯。強い印象が残ったわけでもなかったが、ほんのわずかな残余のような印象が、何か、既視感があった。

ただ、そんな既視感はあまり持続しなかった。薄い印象だったし、玉藻の前の「酷いですねえ」という声に意識を持っていかれたからだった。

「パブとは聞いていましたケド」

辟易したように、玉藻の前はその建物の入り口を見やっている。マシュは素直に目新しいものに感心しているが、純粋に楽しんでいるわけではないらしい。煤やら何やらで薄汚れている入り口には、そこいらにカピカピに乾燥した吐瀉物らしきものが薄く散らばっている。周囲一帯に鬱勃と漂う汚臭は、油断しているとこちらまで嘔吐感を催してしまいそうである。入口上部に掲げられた看板の店名も併せて確認すると、このパブであるのは間違いないらしい。

では、と一言。恐る恐るドアを開けると、マシュが敷居を潜った。

彼女の背に続く。雪を思わせる白い髪の向こう、トウマは思わず顔を顰めた。

端的に言って、狭かった。カウンターが5席のみという狭さで、テーブル席はない。猫の額のような狭さだ。その5席は既に汚らしいシャツにズボンの男で埋まっている。若くて20代後半、上はおそらく60いくらに見える。ビールを浴びるように……というか文字通り浴びたのか、酷くびしゃびしゃになった男が一番奥で伸びている。カウンターの向こうでは、髪がボサボサになった太り気味の女店主があくせくと働いていた。

カウンターの向こうの調理場は、なお狭い。その狭いスペースでせっせと働く女店主は、入店してきた3人に一切気づいていない様子だ。店の客もまだ昼間だというのに前後不覚になるほど酔っているらしく、誰一人として気づいていない。マシュが店主に声をかけているが、濁声で罵倒し合う客と店主に、品の善い彼女の声が届く気配はない。トウマがすみません、と罵声に負けない大きさで声を張り上げたのは、だいたい10秒くらいしてからだった。途方に暮れるマシュの肩に手を置いて、あらん限りに声を響かせる。それでも濁声に飲まれそうだったが、流石に一番手前の客は気づいたらしい。手前に居た締まりのない身体の中年の男が振り返ると、客だぜ、と店主に声をかけた。

忙しい中で呼び止められ、女店主は機嫌悪そうにこちらを一瞥した。侮蔑的な一瞥から、品定めにするような目つきに代わり、最後はまた別な眼差しに代わると、上に行きな、と顎をしゃくった。

彼女が指示したのは、飲んだくれの男の向こう側に続く階段だ。ありがとう、と丁寧に返事をすると、一度マシュがこちらを振り返ってから歩き始めた。女店主は店を横断する3人を不躾なまでの態度でじろじろと見ていた。街中で見かけた、敵意的なものを卑屈さで包み込んだ眼差しとも違う。さっき、最後に変転した視線。多分あれは、畏怖というものではなかったか。

おおい一緒に酒を飲まないか、と呑気そうにへつらいの声を上げる飲んだくれに形ばかりの愛想を返し、実際はほとんど無視するみたいに階段を上がっていく。一階から今呑気な声を上げた男を りつける女店主の声が響いていた。

ぎぎ、ぎぎ、と頼りなく階段の木が軋む。手狭な建物に設えられたせいか、階段は異様に急だ。ほとんど梯子ではないかと思う階段を上がっていくと、しかし、2階の空間は思いのほか広かった。

2部屋をぶち抜きにしたらしい空間は、20畳ほどはあろうか。部屋の奥に大テーブルがあり、5人ほどがカードゲームに興じている。まず印象に残るのは、全員が綺麗な身なりをしていることだ。一階にいた貧相な労働者と比べると一目瞭然。髪は綺麗に整えられ、口ひげも品よく切りそろえられている。時に罵倒を交わしながらも、口ぶりは丁寧ですらある。直観的に、此処にいる人間は富裕層なのだろう、と思わされる景色だった。

と、一番奥に座っていた恰幅のいい男が顔を挙げた。カードゲームでは勝ちに乗っているらしく、悪辣さを感じさせながらも品よく笑っていた顔が途端に引き締まる。その様子の変化に気づいた他4人も振り返ると、カードゲームなどほっぽり出して即座に立ち上がった。

「初めまして、お三方」一番奥にいた男が、重厚な声を漏らした。上下ストライプの入った灰色のスーツ姿は、ただ佇むだけで威圧感がある。「あのお方の遣いの方ですね?」

「はい、あの、教授から言われて」

格式を感じさせる男の口調に対し、トウマの口調はどうしてもどこか垢抜けなかった。とは言えそれを見とがめることもせず、男はどうぞこちらに、とさらに奥を指示した。そうしながら、鋭い目配せが4人を見回す。ほんのわずかに頷きを返すと、屈強そうな4人の男は音もなく階段を降りていった。

大テーブルのさらに奥。仕切りで遮られた奥は、どう見ても壁だ。が、男が軽く壁を押すと、分厚い手が隠し扉を押し込んでいった。

広さにすれば、僅かに5畳あるかないかという広さの個室に、テーブルが1つ。合計4脚の椅子の一つに男が座った後、続くように座ったのは、玉藻の前とトウマだった。

「私は外で」

軽く一礼し、マシュは大部屋の方へと戻っていく。使節としてのトウマに加え、場慣れしている玉藻の前に居るべきという判断だろう。マシュは万が一に備え、外での護衛につく形だ。トウマは特に止めず、隠し扉の向こうへと戻っていくマシュの背を見送った。

「さて」

あらかじめテーブルの上に置いてあったワイングラスに、赤ワインを優雅な素振りで注ぐ。グラスの1/3ほど注いだ後、くるくると液体をグラスの内で回すと、威厳たっぷりに薫りを鼻腔に吸い込んでいる。

「改めて挨拶としましょう。私の名前はセバスチャン・モラン。非力ながら、あのお方にご助力していました」

深々と一礼する男。モラン、と名乗った男の身振りに慇懃なところは一切ない。純粋に、目の前にいる人物に敬意を払う身振りだった。きちんとした教育を受けた人物の、礼節のこもった素振りである。思いのほか丁重な振舞にちょっとびっくりしていると、すかさず無線のクリック音が耳朶を打つ。マシュからだ。察するに、このモランという人物。シャーロック・ホームズシリーズの人物、ということだろう。

(タチバナ先輩、一つお耳に)うん、と念話で声を返すと、マシュは続けた。(セバスチャン・モラン。ホームズシリーズではモラン大佐と呼ばれる、モリアーティ教授の懐刀とも呼ぶべき人物です。ホームズ曰く、“ロンドンで2番目に危険な男”とも)

ロンドンで2番目に危険な男、それに懐刀。俄然、緊張感の増す言葉に、トウマはちょっとひやりとする。そんな内心が身振りに出てやしないか。印象論だが、何かそういう甘さを見せると舐められるのではないか、と思ったりするものだ。最も、モランはワインの香を楽しむのに気を取られ、特に気にしている様子はない。

「えーと、立華です。立華藤丸。あ、後ろが名前で」

「玉藻です。身分卑しき者ですが、タチバナ様の御身をお守りしております」

やはり垢抜けないトウマに対し、静々と口にする玉藻の素振りは流石に板についている。元は公達として生活していただけあって、なんとも演技が巧いものだ。

「向こうに居らっしゃるのが、マシュ・キリエライト様で間違いありませんな」

「そうですね」軽く、隠し扉の方を一瞥する。「護衛の1人、と思っていただければ」

なるほど、とモランは深く頷いた。分厚い口ひげを指先で撫でながら、不躾とも見える視線をじろりと向けてくる。値踏みするようにトウマを見やってから、「例のものはいただけますかな」

「あ、はい。こちらに」

ウエストポーチから封書を取り出すと、テーブルの上へと差し出した。赤い封蝋印(シーリングスタンプ)の押された封書を、モランはまずじっと見つめた。うむ、と小さく頷くと、男は貴重な古物でも扱う商人のように慎重な手つきで封書を手に取った。そのまま中を改めることもなく、モランは封書を懐へと差し入れた。

「間違いなく教授のものとお見受け致しました」

「わかるんですか」

「教授は大変重大な事件を起こすとき、この場所を指定し、あの印を使うものですから」

声にならない感嘆が漏れた。アニメや漫画でよくある設定だ。大悪党が秘密の場所で大事件を画策する……しかも舞台装置として、昔のヨーロッパで使われていたの蝋を固めた印がでてくるのもなんというかアニメチックだ。場違いな感動をしながら、トウマはつとめて生真面目にしていた。

「さっそく、承っていた件についてですが」モランは懐に手を入れると、葉巻を1本取り出した。「コンタクトは取れました。協力するにやぶさかではない、との回答です」

モランが、小さなナイフを取り出す。思わず身構えるトウマに対し、玉藻の前は泰然としていた。泰然としていたが、表情はやや不快な様子だ。そんな玉藻の前の機微を感じたらしく、モランは「失礼」と葉巻を懐に仕舞い直した。

「意外ですな。てっきり、チャイニーズの呪術師か曲芸師の類かと思いましたが」

「護摩とか、そういうものに厭な思い出がありまして」努めて、玉藻の前の表情は笑顔である。「それと、私もタチバナ様もジャパニーズでございます」

「これは失礼。もう年ですかな。正直なところ、黄色人種の方々は見分けがつかぬものでしてな」

「いえいえ。私めもモラン様の身なりの善さ、アメリカ人かと思っていましたから」

ほんの幾分かの嘲りを滲ませながら、鋭く言い合う2人。互いに笑顔なところがなお恐ろしい。ひやひやするトウマを他所に、2人ともにこやかである。そう言えば、イングランドの人々は結構皮肉屋と聞いた気がする。玉藻の前は確か、生まれとしては京都なんだろうか。

コワイ。そんなことを思いつつ、ここにライネスがいたら、どれだけ品よく罵倒が飛び交っていたのだろうか、などと考えても居るトウマであった。

「ただ」こうして、すぐ舌戦を収めるところも、ある意味慣れているのだろう。玉藻の前も、既に澄ました様子だ。「向こう様も慎重な方でしてな。あなた方が信のおける人物か否か、まだ測りかねているようでして」

「あーはい。教授から聞いてます。それで、こちらとして何をすれば?」

「1週間。あなた方の生活ぶりを観察させてほしい、とのことです」

「はぁ。ええと、つまり何を?」

「このホワイトチャペルで、普段通りに暮らしていただければ結構だそうで。何分、向こう様も教授に勝るとも劣らぬ大悪党ですからな。あなた方の生活ぶりを見れば、悪党かどうかもわかるというのでしょう」

「同じ穴のむじな、というわけですね」

左様、と頷くとモランは前のめりになって、別な封書を差し、出した。

「1週間後、教会前のカフェの奥の席でお待ちいただきたい」

モリアーティの封書とは打って変わって、素っ気なく差し出されたそれに対し、トウマは酷く恭しく手に取った。中学校時代の卒業式の際、校長先生から証書をもらったときみたいな動作である。両手でテーブルの上のそれを手に取り、深々頭を下げようにもテーブルで下げられず、結果へっぴり腰のように不格好に頭を下げた。何らかの魔術攻撃で身体的苦痛でも味わっているのか、と玉藻の前が訝り、周囲を気にしたほどである。へこへこと頭を下げるトウマの素振りを見て概ね理解した玉藻の前は、失望したようにしながら、ちょっと安堵した。

他方、モラン大佐はそんな素振りがおかしかったのか、声を挙げて笑っていた。陰湿でも皮肉的でもない、快活は笑い方だ。

「いや失礼」すっかり顔を赤くするトウマに、モランは笑いをこらえようとしながらも、くつくつと身を揺すっていた。「教授の懐刀がどのような人物かと思っていたら、思いのほか愉快でしてな」

「はい?」

「非力ながら教授のお傍で働かせてもらっていましたがね、あなた方のような人物を囲っているとは、とんと聞いたことがありませんでな。久方ぶりに教授から重要な命令が来たと思えば、この私を伝書鳩替わりだ。しかも、年端も行かぬ女子供という。イレギュラーズとかいう汚らしいガキどもの真似事かとも思いましたが、こうして会ってみれば身綺麗な方々だ。一体全体どういった方で、またどんな経緯で教授に見いだされたのか、大変興味があるところですよ」

不躾なまでに値踏みする視線を向けながらも、モランはトウマが何か言おうとすると、首を横に振った。人のよさそうな笑いはもう失せ、椅子に身体を預ける男は先ごろまでの厳かさを取り戻していた。

「余計な詮索は無用、それが掟でしょう。悪党同士、手の内見せて下手に繋がりを持つもんじゃあありませんからね。蜘蛛糸が下手に絡まれば、大本がバレかねないですからね」

無言で同意を求める視線に、トウマは軽く頷きを返した。間違いなくモランは誤解している、というかモリアーティのなんらかの計らいで“モリアーティ・イレギュラーズ”か何かだと誤解させられているのだろう。多分、このロンドンで動きやすいようにだ。先ほどの女店主のよそよそしさを含んだ畏敬は、ロンドンに巣食う巨悪の手下を見やる視線だったのだ。正直気持ちがいい話ではないが、邪魔者扱いされるよりはいいだろう。

「それでは、教授のご名誉のためにも、よろしく頼ましたよ。探偵殿」

すっくと立ちあがったモランに対し、慌てて立ち上がったトウマはちょっとよたついた。しげしげとトウマの身振りを見ながらも、モランは気分よく手を差し出した。

「教授によろしくお伝えください。またひと騒動やりましょう、と」

「はい、伝えておきます」

互いに、手を握り合わせた。酷く分厚い手の感触に、男の生きてきた歳月を感じたような気がした。

相手が何を感じたはわからない。固く握り合わせた手の感触だけが、酷く印象的だった。

「厄介ですねえ、それにしても」

階段を降りていくモランの姿を見送りながら、玉藻の前がぼやくように呟いた。1週間、とりあえず普段通りに暮らせと言われても、どう暮らしたものかという話だ。

「とりあえず報告かなぁ。それからあとは」

「あとは?」

「帰ってから、考えますか」

なんとも頼りない指示に、玉藻の前はちょっと拍子抜けしてから、そうですねえ、としみじみと応えた。なんとなくその腑抜け方が、もう一人のマスターっぽいな、とちょっと思った。どうでしたか、と後から入ってきたマシュにも同じように応える様に、玉藻の前も、地に足の着いた落ち着きを感じていた。最もトウマ本人は、やることがなく途方に暮れていたのだが。

先ほどと同じように、階段を降りていく。まだ飲んだくれたちはカウンター席で泥濘に取られたように突っ伏したり、相手を非難する耳心地の悪い言葉を投げ合ったりしている。トウマは特に目くじらも立てず、またこそこそと、それでいてじろじろとこちらを観察する女店主の視線にも特に応じず、饐えた匂いが充満するパブを後にした。

入り口から出た時、ふと、トウマは立ち止まった。どうしました、と振り返るマシュになんでもない、と返して路地を歩き出しながら、トウマは、軽く振り返った。もう、あの白髪頭の老人は居なかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅲ-6

 レオナルド・ダ・ヴィンチのこの日の始まりは、まずカルデア施設内の各ブロックにおける電力消費のチェックから始まる。

 個人用に特別に設えさせた研究室の椅子に座り、頬杖をついてモニターに表示させた報告書に目を通す。一週間分の消費ログのグラフを一瞥し、今度は先週のものと比較する。ちょっと気になったところは報告書の個別ページをチラ見して、納得できる理由ならそれでよしだ。

 「あー、ムニエル君? 食料プラントの件なんだけど、なんでここ減ってるわけ?」

 問題があるときは、報告書作成担当のスタッフに連絡して確認だ。モニターに映る、プラチナブロンドしか美的取り柄のない男の言い訳を聞いて、満足できたところはそこでスルー。まだ納得できない点については、問題があった区画の担当者に確認だ。

 「ニナちゃん、食料プラントの件なんだけどさぁ」

 補給担当のスタッフに連絡を入れて、事実確認。最終的に問題ない、と確認し終えると、既に20分経過だ。グリニッジ標準時に設定された時計を確認し、ちょっと慌てて他のログも確認すると、最終的には30分ほどかかっていた。

 レオナルド・ダ・ヴィンチほどの才能をこんなことに30分も費やすのは正直無駄なのだが、現在のカルデアにおいてはエネルギー問題と食糧問題は死活問題だ。元から無補給での長期滞在、しかも膨大な人数の食事を賄うことを目的とされていただけあって、備蓄食料には十分あるし、新鮮な野菜を生産する食料プラントも十分な広さがある。人の排泄物までフル活用するカルデアの食糧事情はとりあえず安定しているし、エネルギー事情にしても、半永久的にマナを生成するカルデアの炉心があるだけ、まだ安定している。安定しているが、ちょっとでもどこかに不調が出れば、すぐにでも瓦解する危うい安定であるのも事実だった。

 それに、非戦闘状態であれば問題ないが、サーヴァントが戦闘に入れば炉心からの魔力供給の大部分をサーヴァントに回すことになる。炉心は半永久的に魔力を生成するが、だからといって、一度に供給できる魔力量には限度がある。プールしてある魔力が枯渇すれば、それこそ死だ。細かい話だが、カルデアの命運がかかる物事であるだけに、ダ・ヴィンチが神経質になるのも致し方ないことではあった。その点、リツカもそうだが、トウマも過度に戦闘をしたがらない方針なのはとても助かることだ。令呪作成による魔力のストックも、ある程度捗るというものだ。

 今度は別な報告書へ。所長代理を務めるロマニ・アーキマンからのものだ。といっても、内容は所長代理としてのものではなく、医療科のものだ。執筆もロマニのものになっているが、実際は連名している医療科を実質的に取り仕切っている看護部長のものだろう。内容は、かつての爆破事件以来意識不明に陥っていた何名かが意識を取り戻したことと、何名かはそのままヒュプノスに囚われ、ハデスの館に連れられてしまった、という内容だ。思わず深いため息が漏れるに任せ、生存者を長期休眠カプセルに行く内容にサインをする。お役所仕事の煩わしさも、こういう時だけは助かるものだ。前述したが、今のカルデアに、これ以上の人員を増やす余裕はないのだ。

 そうこうして1時間。天才の貴重な1時間を消費してから、ダ・ヴィンチは予定の時間まで10分あることを確認すると、一度席を立った。

 研究室裏手にある、工房へと足を運ぶ。BDUをはじめとした、特異点での戦闘の際に使用する礼装などの開発・改良を主に行う工房は、正直言って雑然とものが散らばっている。一見秩序なくものが散らばっているが、実はある種の秩序があって、探し物があるとすぐに見つけられたりする。秩序ある無秩序の中、ダ・ヴィンチの目的の場所は、他とは違ってちょっと片付いていた。

 横倒しになった筒状のカプセルの脇に、動物の脳髄と脊椎を思わせる白い構造物が並列して横たわっている。ちかちかとカプセルのライトが明滅しては、次いで、白い構造物に血脈のような光が灯る。ともすれば魔術刻印にも見えるそれが光るたび、カプセルに設置されたパネルのカウンターが減少していく。

 「君のお陰で、クロエ君の方もなんとかなったよ」

 ダ・ヴィンチが言うのと、青い血脈が明滅したのは同時だった。口角を僅かに上げたダ・ヴィンチは肩を叩くようにカプセルに触れると、踵を返した。今日はこれで終いだ。

 再度、研究室へ。椅子に座り、デスクの上に立ちあげたディスプレイに向かい合うと、予定時間まであと40秒。モニターを点灯させると、ダ・ヴィンチはモニターに映った男に「やあ」と気の抜けた挨拶をした。

 (やあ、レオナルド君。今日もご機嫌麗しゅう)

 「君も……いや、君はちょっと体調が悪そうだね」画面に映った老人の顔色は、正直言って良くない。「モリアーティ教授、ちょっとは休んだかい」

 画面に映った老人、ジェームズ・モリアーティは明らかに目元が青くなっていた。睡眠不足の兆候がありありと浮かび上がっている。

 (いやーそれが、昨日は23時まで起きてしまっていてね。今日は8時まで寝てしまったよ)

 ふわあ、とあくびをして見せるモリアーティ。十分しっかり寝ている気がするが、多分問題はそこではないのだろう。ご苦労さま、と端的に労いつつ、「成果のほどは?」とダ・ヴィンチはデスクに肘をついた。

 (今のところ、成果がないのが成果だネ)

 お手上げ、というようにモリアーティが肩を竦める。ただ1日しか経っていないのだからわからない方が当たり前なのだが、その口ぶりはそんな陳腐な意味ではあるまい。

 (多分、数学の話じゃあないんだよね、これ。化学なのか物理学なのかわからないけど)

 「それで、私の出番というわけかい」

 (分業だヨ。物理はちょっと齧ってるけど、化学とかはちょっと守備範囲外すぎてね)

 「私も別に専門じゃあないんだけども」言いながら、ダ・ヴィンチは乗り気だった。「データはいただけるかな」

 (もちろんさ。世紀の天才のお知恵、貸していただきたい)

 ふふん、とダ・ヴィンチは鼻を鳴らした。褒めそやされて嬉しいのは、知恵者であろうがなかろうが、共通したことであろう。もちろん、と返答しながらも、ダ・ヴィンチは付け加えた。

 「でも、私もこちらの運営があってね。そう協力できるわけじゃあないんだが」

 (構わないよ。手掛かりさえつかんでもらえれば、あとは私がなんとかしよう)

データ譲渡の日程を聞いた後、ダ・ヴィンチは興味本位で与太話を振ることにした。純粋に、ジェームズ・モリアーティという人物への興味だった。

 「『|小惑星の力学《ザ・ダイナミクス・オブ・アン・アステロイド》』、読ませてもらったよ」お、とモリアーティが身を乗り出すのを、ダ・ヴィンチは見逃さなかった。少年のような表情なのは、当然だろう。「面白かったよ。アシモフの予想とは異なっていたけどね」

 (終局的犯罪だっけ? 悪くないけどさ、私への理解が足りないよね。赤い彗星じゃあないんだから。核の冬がくるぞってね)

 「それはそうさ。君が善行に走るなんてね」

 ダ・ヴィンチの物言いに、モリアーティはちょっと拗ねた。もちろんダ・ヴィンチのその言い方はある種の皮肉だったから、彼のリアクションは予想の範囲だ。加えて言うなら、彼のそのリアクションがある意味で演技なのも、もちろん見抜いている。

 「だってそうだろ? アステロイドベルトにある小惑星をどう地球圏に持ってくるか、なんて話だ。しかもその目的が、宇宙科学の発展ときた。これが人類への貢献と言わずなんと言う」

 (きちんとした研究論文だからねえ。まかさ人類滅亡のための内容、書けるわけないでしょ。金出してるのは英国王室だよ? さんざん国教会から批判されたけどね。旧教徒の人らも全ギレですよ)

 そりゃそうだ、と思う。学問は自由であるべき、という理念は当然ある。ある一部のイデオロギーに支配された学問が健康的であるわけがない。権力者が学問を統率するのは、間違いなく批判されなければならない事態だ。

 ……という理念とは別に、実際金を出しているのは政府であったり、他人であったりするのだ。研究ができる代わりに、ある程度彼らに、ひいては国や政府という総体に貢献し得る研究もしなければならないという現実も、無視できない話であろう。畢竟、ロンドンを支配した悪逆皇帝とて、そういった些末事に頭を痛めていたというわけだ。途端に小悪党じみてくる話である。

 (それと一個訂正。私は善行を為したいわけではないのでね、そこだけはよろしく)

 「はいはい、わかってますよ」真剣な表情のモリアーティに、ダ・ヴィンチも苦笑いした。研究者とは、得てして偏屈だ。自分も含めて。「あくまで悪のため。そうだろ?」

 その通り、と胸を張るモリアーティ。とりあえず納得したらしい。

 要するに、モリアーティがそんな研究を始めた真意は、本当に人類の反映を願っており、けれどもそれはあくまで手段でしかない、ということだ。人類が行き詰まり、貧困に陥れば、芳醇な悪行は起こせない。貧困から生まれる悪はいつだって矮小であり、不快であり、見るに堪えないものであるという。モリアーティが求める悪はもっとスケールが大きく、多くの人間に非業をもたらし、哀しみを広げるものでなければならない、と確信している。人間の健やかさを大きく損ねる悪こそ素晴らしく、自由な悪、というわけだ。

 彼の性的趣向からすれば、人類が滅亡するなんて悪はくだらないというわけだ。だって、そんなことをしてしまったらもう悪事はなせないではないか。それが、彼の論調だ。最も、最後の最後には人類滅亡という悪を以て人類史を終わらせることにはある程度の美質を感じるらしい。スケールがデカいからだ。

 もっと推し進めれば、それが、モリアーティがカルデアに協力する理由、というわけだ。どこの誰だか知らぬが、勝手に人類を燃やす蛮行を働き、楽しみを減らした間抜けを赦さぬ。人類を滅ぼすのはまだ当分先で良いだろう。そんな子供じみた理論で、モリアーティはカルデアに協力しているのだ。

 「刑事ドラマだとよくあるけどね。やむにやまれぬ事情で人を殺しちゃうって」

 (ダメダメ。悪を根拠にしない殺人なんて、殺人のフリした人情話だ。そういうんじゃないかな)

 こういうわけらしい。カラカラと笑いながら言うあたり、この老人はとんでもない悪魔だろう。

 最も、どんな動機にせよ、ホームズが褒めそやした頭脳が味方してくれるのはありがたい。こうして、本来であれば、自分とロマニあたりで数十時間ぶっ続けて調査しなければならない事態が避けられるのだから、文句などあろうはずもない。

(教授? お紅茶、持ってきたわ)

 不意にとんできた声は、モリアーティにものではなかった。視線をモニターと別なところに向けると、(ちょ、ノックを)と慌てて口にしていた。

 (あら、これ、カルデアとの通信て奴?)

 制止の声は遅かったらしい。ひょこ、とモリアーティの背後に現れた黒髪の女性は、いつになく快活そうな表情をしていた。

 「女王陛下。ご壮健そうで」

 (まぁ、稀代の天才様ね。お会いできて嬉しいわ)

 満面の笑みを浮かべるエリザベス女王は、物珍し気にモニターを眺めている。はたしてモニターそのものが珍しいのか、レオナルド・ダ・ヴィンチという人物が珍しいのか、どっちだろうか。多分どっちもか。

 (うちの悪ガキがお世話になっていますね)

 「いやいや、とてもありがたいですよ」

 画面の向こうで深々と頭を下げるエリザベスに、ダ・ヴィンチもちょっと恐縮する。心根からの貴人を前にすると、なんとも畏縮するものだ。

 ちなみに、彼女の言う『悪ガキ』とはモリアーティのことだ。外見上はモリアーティの方が年上だけれど、歴史を振り返れば、エリザベス女王の方が遥かに年上だろう。いや、それだけではない。正しくイギリスという国を偉大な国にしたエリザベス女王は、モリアーティの理論からすれば頭の上がらない人物なのだ。他方、エリザベス女王からすれば、未来とは言えロンドンで犯罪皇帝とか僭称する輩なわけで。

 イケオジとお嬢様、という取り合わせに見えて、実態はショタジジイとロリお姉さんというCPなわけだ。人類の可能性というべきか、無茶苦茶というべきか。何が何だかわからない……ダ・ヴィンチも人のことは言えないのだが。

 それから十数分ほどエリザベス女王と話をしたあと、ダ・ヴィンチは手短に分かれの挨拶をした。居心地の悪そうなモリアーティはなお居心地悪そうに、エリザベス女王はにこにこと手を振って挨拶を返してくれた。

 空中投影されたディスプレイを閉じる。時計を確認。今度は別なディスプレイを立ち上げ、自分にあがってきた報告書を一瞥する。別に急ぎのものはない、と確認しかけたとkろで、ふとダ・ヴィンチはスクロールを止めた。

 「あーアキちゃん?」素早く連絡用のスイッチを押し込んだ。なんでしょう、と驚いたように声を返してきた看護部長をする女性に、ダ・ヴィンチは声を続けた。「16時からの、私も出るから。あとロマンも出させる」

 「責任者のけじめだよ。君らばっかに押し付けて良いことじゃあないでしょ。その代わり、何人か休ませてやりなさい」

 看護部長からの了承の返答を耳にしてから、ダ・ヴィンチは報告書の最後に記載された名簿を見た。約4名。その名前をしっかり己の魂に刻んでから、ダ・ヴィンチは立ち上がった。

 「ムニエル君、16時からの予定明日にずらしといて。悪いね。明後日? おけ」

 スケジュール変更の連絡を入れてから、ダ・ヴィンチは工房へと足を向けた。もう少し頑張るぞう、と自分に言い聞かせて。

 

 

 翌日、AM10:00

 日課の朝食づくりと掃除を終えたところで、エリザベス女王はテラスの一席に腰かけた。屋敷から突き出るように設えられたテラスの壁面はガラス張りで、庭一面を見渡せる。テーブルが1つ。花瓶には青い薔薇が挿してある。庭では金時がせっせと草むしりをしていた。アリスの言いつけを、生真面目に守っているらしい。

 「英霊にさせることじゃあないと思うんだけど」

 紅茶を一口。スモークサーモンとクリームチーズを挟んだベーグルをむしゃり。玉藻の前が作り置きしていった食べ物は、基本どれも美味だし、彼女のレシピ通りに作ると大抵美味しくなる。今日の朝食づくりも、エリザベス女王がしたことと言えば、ベーグルを輪切りにしてロックスとチーズを挟んだだけである。屋敷の管理をするぞ、と息巻いていたものの、食事に関してはほとんど玉藻の前の下準備の通りに動いているだけだった。

 まぁ、それはそれでいいのだけれど。ちょっとだけ肩透かし感を味わいながらも、家事と呼ばれる仕事の大変さを日々味わう女王陛下なのである。

 ぼけー、っと金時の草むしりを眺めていると、テラス入り口をノックする軽い音が耳朶を打った。はぁい、と呑気に返事をすると、一拍ほど間があった。

 「や、やぁ」ぎい、と酷く重くドアが開くと、プラチナブロンドの髪が覗いた。「今日もご機嫌麗しゅう」

 ライネス・エルメロイ・アーチゾルテは、明らかに気まずそうな顔をしてテラスに入ってきた。ソーサーにティーカップを載せてやってきた彼女の顔は、なんとなく疲れ気味だ。

 どうぞ、と視線で自分の前の席を一瞥する。彼女も同意するように頷くと、静々と席に着いた。2人を挟んだテーブルの中央には、青い薔薇が花瓶の上で微かに揺れた。

 「こんなことを言うのも今更だけど」やはり静かに、ライネスはティーカップに口を衝けた。「女王陛下が、女中の真似事とはね」

 「結構楽しいものよ」もう一口、ベーグルをぱくり。風味の強いスモークサーモンとまろやかで口当たりのいいクリームチーズが溶け合い、結構おいしい。「それに、私やることないし」

 ベーグルの味の残った舌先に紅茶を躍らせながら、エリザベス女王はさもありなん、と口にした。

 疑似サーヴァントとして召喚された彼女の本分は、大別して3つある。生前の彼女を由来とする、他者の力を見抜く慧眼とそれを使嗾する力。2つ目が偶然とはいえ依り代になってくれた女性の特質を由来とする、高い戦闘能力。3つ目は、サーヴァントとして召喚されたが故に獲得する宝具による、高い魔力供給能力。およそサーヴァントとしては、トップサーヴァントにこそ並ばねど、オールラウンダーに活躍し得る極めて優秀なサーヴァントと言えよう。

 だが、今この屋敷で求められている能力は他者の力量を見抜く慧眼でもなければ、また肉体を由来とする武力でもなく、半永久的にマナを流用する宝具でもない。人間の人間たる所以、頭脳こそが今は求められているとなると、彼女の出番ではなくなるのだ。もちろん彼女は暗愚な王女ではなかったし、また並大抵の人々よりは賢く決断力に長じるが、知性だけで英霊の座に昇りつめる知性派と比べると、どうしても劣るのが現実だ。

 まぁ、そうなると、彼女にできることはあんまり多くないわけで。自然、今まさに知性を武器に戦っている3人を裏で支える役回りになる、というわけだ。

 「それで」ライネスがちょっと気まずそうなことは気づいていたが、エリザベス女王は構わず話かけた。「順調なの、調査は?」

 桜色の口唇をカップに触れ合わせていたライネスは、小さく眉を顰めた。「あぁごめんなさい」エリザベスは手を振ると、前髪を摘まんだ。「別にいいの、休みですものね」

 幾ばくかの逡巡。ふむ、と手慰みのように顎に手を当てたライネスは、「いや、構わないよ」と応えた。

 「ブレーンストーミングじゃあないけどね。張り詰めた議論では生まれないものも、弛緩した空気の中で却って生まれるっていうからね。ほら、アリストテレスのことを逍遥学派なんて言うだろう?」

 ニスの艶が閃くテーブルの上にソーサーとカップを置くと、ライネスは大儀そうに立ち上がった。一面ガラス張りの傍によると、ライネスは憂鬱そうに冬を思わせる薄曇りの空を見上げた。

 「現状は、カテゴリ分けが完了した段階だね。ジキル氏の書斎には、おおむね4種の本があった。

 1つは化学の本。元々そっちの研究をしていたわけだから、これは自然だ。

 2つめは宗教書。元々信仰心に厚いと聞くし、そう驚くことじゃあない。

 3つめは宇宙物理学の本だ。彼がその分野に感心を持っていた、というのは今回初めて判明したことらしい。

 4つめは……幻想小説、とでも言おうか。それとも妄想の駄文とでも言おうか。へんちきりんなことをひたすら綴った怪文書のようなものが、異様にあった」

 4つめを話すにあたって、ライネスは酷く当惑した様子だ。というより、呆れているとでも言おうか。その他は特にジャンルに括りはないよ、と付け加えたライネスは、前髪をかきあげた。

 カテゴリ分けでおよそ5時間近くかかった計算というわけだ。蔵書が膨大なだけに、ただ大まかなジャンル分けだけでも時間がかかったのであろう。

 「宗教書も、何冊かはメモみたいなのがあったのでしょう?」半分ほどベーグルを食べ終えると、エリザベスはナプキンで口元を拭った。「それは何があったの?」

 外を眺めるライネスが身動ぎする。横顔を見る限り、にがっぽく渋面を作っている。

 「信仰心に厚いあなたには、少々胸がむかむかする駄文が書きなぐってあったよ。あらん限りの語彙を使って涜神の限りを尽くしていた」

 小休憩するように紅茶を嗜んでいたエリザベスは、特に身じろぎもせずにライネスの発言を聞いていた。宗教の形にこそ囚われなかったが、彼女は主の導きや運命を、篤く信じていた。

 「気になるのは3つめと4つめだね。何故、宇宙のことなど気にしていたのか。そして4つめ。正直気を違えた妄想としか思えない戯けた小説など、とてもうわさに聞くジキル氏の趣味とは一致しない。一冊や二冊ならわかるがね、それも100冊近くもあるとなると流石に気になるよ」

 やれやれ、と肩を竦めてから、ライネスは踵を返した。もう一度椅子に座ると、くさくさしたように頭頂部を掻きむしった。

 「それ、どんなもの書いてあるの」なんとなく、エリザベスは自分の役割を理解し始めた。彼女の役目は、ワトソンだ。「その怪文書とやら」

 「まだ全て目を通したわけではないから、現段階での評価だが」

 そう前置きしてから、ライネスは頭痛に悩むように眉間に皺を寄せた。

 「今のところ読んだもの全てに共通するのは、何か超自然的な生物に人間が襲われる、というものだ。時に両生類のごとき生物であったり、雪に閉ざされた山脈に浮かぶ奇妙な臓物のような生物であったり。あるいは人知を遥かに超えた、神の如きものが現れたり……原始宗教について記した、シャーマンの覚書のようなものがあったりもするな。どれも正気で書いたとは思えないものばかりだ。アメリカのオカルティストなら取り合ってくれるだろうがね」

 気が滅入るとばかりに目頭を押さえると、深い嘆息とともに背もたれに身体を預けた。身体中が怠いとでも言うように、脱力したライネスは天を仰いでいた。単純な労働時間の長さではなく、労働の中味が酷いものでやつれたと言わんばかりだ。

 終始、エリザベスは静かに話を聞いていた。彼女としては、文化が花開いた結果、そういった珍奇な小説が世に出るようになったことは、なんとなく嬉しくもある気もする。とはいえ、そのせいで調べものが難航していると思うと複雑な気分でもある。残り一口になったベーグルを放り込むと、やはりあまり役に立てないかなぁと渋い気分のまま、外を一瞥した。

 あら、と一瞥を外に留めた。いつの間にか、草むしりをしていた金時と赤銅色の髪の少女が何やら話し込んでいる。金時は休憩も兼ねて、だろう。壁際に積んであった薪に腰かけ、2人して何を話しているのか。ぼけっとしながら眺めること5分、のんびり眺めていると、ふとすやすやとした音が耳朶に触れた。

 「まぁ、まぁ」

 ライネスの小さい頭が、こくこくと頭を上下させている。さらさらと流れるプラチナブロンドの髪は、山際に吸い込まれていく夕日を浴びて黄金に煌めく小川のよう。

すっくと音もたてず立ち上がると、エリザベスは隣のリネン室へと向かった。薄手の毛布を手狭な小部屋から持ってくると、ライネスの身体に薄く被せた。まだ、起きる気配はない。

 すやすやと寝息をたてるライネスの可愛らしいつむじを、エリザベスは見下ろしていた。彼女は、ロンドンの生まれだという。彼女の作り上げた偉大なるイギリスの遥か300年先に生を受け、そうして今、さらに未来の為に戦っている。エリザベス1世という女王として在る彼女が、そこにあまたの情動を抱くのは自然だった。例えば愛しさであったり、例えば誇りでったり、例えば憐憫であったり。人間的な自然的感情を胸に、エリザベスは、その小さな頭を軽やかに撫でた。きっと、彼女を育てた人間は一角の人物であろう、と思った。

 よし、と胸を張ったエリザベスは、足取りも軽やかにテラスを出た。向かうは一室、リビングである。ライネスとリツカが2人で作業する一室は、キッチン奥のテラスから歩いて20秒とかからない。ドアをノックしてからドアを開けると、エリザベスは素直に「ウワ」と厭そうな声を漏らした。

 何せ本が散らかっている。しかも無数に浮かび上がった映像枠も、なんだか散らかっている印象を増大させている。どう贔屓目に見ても、片付いているとは言い難い。なんとなく、アリスが外へ出た理由がわかるような気がする。綺麗好きで保守的な彼女がこの光景を見ていたら、不機嫌になること間違いなしである。というか、実際あまりにリツカが乱雑にリビングを使った結果半殺しにしたりしていた。つい数日前の出来事である。

 調査に必要と言えば引き下がるが、それはそれとして直視に堪えないものを見ていると我慢できなくなりそう。そんな葛藤の結果、アリスは外へ出ることにしたのだろう。

 ちゃんと仕事が終わったら片付けしないとな、と思いながら、エリザベスはテーブルの上に山積みされた本を眺めた。

 一見ただ山積みされているが、きちんとジャンル分けされているらしい。先ほどライネスが言っていたジャンル分けを思い起こしたエリザベスは、漫然と一番上に積まれた本の表題を眺める。

 化学の本に宗教書、宇宙の本に妙な幻想小説。どれにも分類されない本は、部屋の隅の方に平積みされていた。

 最初に手を伸ばしたのは、宗教書だった。何べんも読んだらしく、硬い表紙がすり減っている信仰告白の本だ。

 最初から熟読するつもりもなく、ぱらぱらとページをめくる。ドイツ神秘主義のマイスター・エックハルトが記した本だったが、酷く毒々しい赤い文字が書きなぐってあった。

 

 “奴らがこの次元にやってくる。あの数式だ、あの数式を唱えよう。そうすれば奴

 らは……あぁ奴がくる。奴が、

 鏡から”

 

 エリザベスは本を閉じた。何か異様な寒気を感じたからだ。恐怖とも違う、悍ましい感情。身震いして本を元の場所に置いた……正確には投げやると、それでもエリザベスは、別な本を手に取ることにした。

 こちらは奇妙な幻想小説を積み上げた棚から手に取った。真っ黒な表紙の本には、表題らしきものがない。というより、表題のあった場所は何故か削り取られ、ぼろになった茶色い厚紙がけばけばと露出していた。全体的に古い本に見えるが、状態が良いだけに、削り取られた部分が異様だった。背表紙も同じようにタイトルが削り取られている。1ページ目を開いてみても、タイトル部分は黒く塗りつぶされていた。

 無名の黒き書物。漠然と思い浮かんだ言葉に、何故かエリザベスは怖気を感じた。このままページを開くことが極めて不快なことを惹き起こすかのような予感がした。 

 だが、彼女の強靭な精神はそんな弱音を踏みつけて、彼女は果敢にページを開いた。

 

 “外なる神々について”

 “地球の理とは全く外なる宇宙に、彼らは君臨する。窮極の宙の彼方より来る 

  闇黒の神は、この常世全てを治める邪悪なる不浄のものどもである”

 “分けても、銀の鍵の門の先に鎮座するかの者は、神々の中でも最も力強く、 

  恐るべきものである。儕輩にして番たる黒山羊の産み落としたる鍵の仔に

  よって、かの魔神は呼び出されるだろう”

 “時間の最果て、宇宙が晴れ渡る前に時間の外に現れた嵐の王に対抗し得るのは、  

  かの最極の空虚以外にない”

 

 エリザベス女王は一度、ページを閉じた。逡巡というには長すぎ、かつ長考というには短すぎる思惟を巡らせた彼女は、もう一度、同じページを開いた。何事かを、呟きながら。

 

 

 “汝、黒山羊の器たる鍵の仔を探すべし。武を以て黒山羊の巫女たらんとするもの

 に、かの蕃神は溢れんばかりの呪いを与えるであろう”

 

 【以下、恐らくジキル氏のものと思われるメモ】

 夫とは、妻の尻に敷かれるものである。アスタンが言っていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅲ-7

 数分前

 坂田金時がふと顔を挙げたのは、一頻りの労働を終えたあとの伸びのようなものだった。ふわ、とあくびをした金時が纏っていたのは、軽い疲労だ。労働の後の心地よい疲労だけであればいいのだが、暇を持て余した徒労感もないまぜになった、如何ともしがたい疲れであった。

 この特異点に召喚されてから今に至るまで、なんとなく金時は手持無沙汰なことが多かった。時は平安、数多の怪異を打ち滅ぼした頼光四天王の一番槍とでも言うべき金時にとって、もちろん闘争こそが本領だ。文字通りの怪力無双を顕してこそ、英霊坂田金時の腕の見せ所である。

のだが、いざ星に呼ばれ土地に召喚されてみれば、敵らしい敵はいないし、これでは何のために使嗾されているのかわからない。同じく召喚された東洋の呪術師、玉藻の前と途方に暮れていたところでアリスに匿われ、呑気に半年近く生活して今ここに至る。最近ようやっと、金時が戦うに相応しい敵が現れたと思えば、その敵を追って陰陽師ごっこになってしまったのだから堪らない。金時の出番はまだまだ薄く、アリスに言われた通りに庭弄りをする毎日だ。

 まぁ、これはこれで性に合っているから別にいいのだが。一人静かに、もくもくと作業するのは嫌いではない。生き物の気配が少ないのは、少々残念だが。

 金時の毎日は、要するにそんな感じだ。草むしりをして、庭木を手入れして、山で薪を仕入れ、薪を割り、時に山間から動物を狩る。幼年期を思い出す日々はそれはそれで、楽しくはあるが、やはりそれはそれなのだ。

 両極を行き来する疲労感が身体にまとわりつく。大儀そうに空を仰いで首から下げた手ぬぐいで額の汗を拭ったところで、ふと声が耳朶を打つ。

 声の地点は、ちょうど屋敷裏だ。敵、ということはないだろう。理屈は金時の与り知らぬところだが、何せこの敷地に侵入するのは容易ではない。となれば、声の主はこの屋敷に残る誰かのものだろう。

 特に何かあったわけではないが、金時はのそのそと熊みたいに身体を揺すりながら声の方へ向かった。

 ひょこ、と角から顔を覗かせる仕草も、羆の仔のよう。山ブドウを思わせる金時の艶のいい目に映ったのは、積んだ薪にしゃがんだ赤銅色の髪の少女が空中に投影された映像と何か喋る姿だった。

 映像での声は、よく聞こえないが甲高い。多分女性だろう、と検討づける。甲高いのだから、相手は楽し気なのだろう。リツカも笑顔だから、会話の内容は他愛ないものだと察せられる。大体20分ばかりもそうして喋っていただろうか。不意にリツカがこちらを向くと、「おぉい」と間の抜けた声を上げた。そうして、手招き。呼ばれている、と理解した金時は、親鹿に呼ばれた小鹿みたいに、そろそろと大きな身体を小さくして向かった。

 「よお、なんだ?」

 「金時に会ってみたいんだって。ほらこっち」

 空中投影された映像枠を指さすリツカ。なんだなんだ、とそちらを覗き込むと、耳と劈くような黄色い声が鼓膜を刺した。

 青白い画面の向こうでは、喜々とした女性が何やら金時を見て騒いでいる様子である。当惑した金時が途方に暮れた顔をすると、なおのこと黄色い声は強まった。

 要するに、画面の向こうの彼女たち……普段は、2人ともけが人の手当などを行っているという……は、金時の容貌に大変強い興味と関心を惹起させ、喜んでいるらしかった。これと似たような視線は、生前に一人だけ向けてきた。史実上、源頼光が討ち果たしたとされる悪鬼は、金時にそういった視線を向けてきたものであった。最も、向こうの方が遥かに危険で、こちらの方は可愛らしい限りである。

金時自身、あまり騒がしいことは好みではない。とは言え、彼は割と真っ当な倫理観の持ち主で、且つ、精神的な意味で育ちのいい男であった。画面の向こうの女性から、やれ好きな女性のタイプであったり、やれ趣味であったり、やれ休日の過ごし方であったりなど種々の話を聞かれたりしても、金時は快く応えた。他方、育ちこそいいが、どちらかと言うと質朴な人間でもあった。話を大いに盛り上げる、という芸当の持ち合わせはなく、ただただ素直に女性たちの質問に、飾り気なく応えていた。

 かれこれ十数分。“現代”の女性たちと他愛ない会話をすると、案外すんなりと向こうから通信を切り上げていった。画面が瞬く間に消える様はまだ慣れず、不思議そうに眼を白黒させていると、「いや、ごめんごめん」とリツカは肩を竦めた。

 「カウンセリングみたいなこと、しててさ。アキさんもジャビンさんも面食いだから」

 2人とも、今画面の向こうに居た2人の名前だ。面食いってなんだ、という金時の質問に、リツカは「金時みたいな人が好きな人のことかな?」とニヤニヤしていた。クエスチョンマークを頭の上に浮かべる金時を他所に、独り言つようにリツカは声を漏らした。「キアラさんにちゃんと教えてもらうんだったかな」

 「なんだ?」

 「ちょっと前に、カルデアで会った人」やれやれ、と嘆息し、リツカは一つ結びにした髪をかき回した。「カウンセラーとしてカルデアに来てたんだけどね。出向で関係施設に行っちゃって、それっきり」

 先ほどからリツカのいうカウンセラー、という言葉は金時に馴染みのない言葉だったが、その意味することは漫然と理解していた。気持ちが沈んだりした人の話を聞いたり、あるいはちゃんと祈祷師(医者)に出向くよう助言したりして、気分が過度に昂ったり沈んだりするのを和らげてくれるような、そんな人と理解していた。特に現代では、対話が重要とも。

 なるほど、リツカは向いているかもしれない、と思う。いい意味でテキトーさがあり、いい意味で手の抜き方が巧い。それでいて、大らかに他者の話を聞く身振りが上手だ。彼女と他愛ない話をすれば、ちょっとだけ滅入っていた気が持ち直しそうだなと思った。それでいて、そのちょっとの持ち直しが、案外重要なんだろう、とも。

 そんな風に思いながら、金時は「ふわ」と気の抜けたあくびをするリツカの横っ面を、なんともなしに瞥見する。はて、彼女は誰に何を言うのだろう。いや、言うべき相手はいるのだろうか。ぼんやりしているようで隙のない彼女には、そういったものは不要なのだろうか。金時には、測りかねることだった。

 なので、金時は「アンタはちゃんと、誰か相談できるヤツいるのか?」と言うことにして、事実そう口にした。彼の美徳は種々あるが、素直なことはその内最上のものだろう。

 目を丸くしたリツカは、数秒ほど呆気にとられた顔をしたあと、にやりと笑った。その笑いの意味は、よくわからない。多分、金時の朴訥とした良識を、彼女は快く思ったらしい、と思った。その意味で、自分よりもよほど敏い人物なんだな、と彼は思った。

 「いないことはないよ。ロマンにも、ダ・ヴィンチちゃんにも話したりするしね」

 ぱたぱたと足を動かしながら、リツカは茫漠の宙を眺めている。

 彼女の発言が、端的に全てを物語っていた。“いないことはない”ということは、そういった人物がいても価値はあれど意義は感じない、と言っているのと同義だ。そして、彼女自身、その事実に対し、特に悲観的でもない。フジマルリツカという人物は勁く、ただ独りで大地に屹立し得る人間なのだ。彼の知る限り、そういった人物を1人知っている。彼女の異妖な鋭さをもった双眸の奥にある勁さと、同質のものだ。

 「ふわあ」

 万歳するみたいに両手をあげてあくびをするリツカと、彼女は似ても似つかない気もするが。内心でくすぐったい苦笑いをした金時は、なので、やはり素直に話題を変えることにした。彼女に、人間性などはあまり必要ない添加物なのだ。多分。

 「調査の方はどうよ」この時、初めて金時はテラスに誰かがいるのをみとめた。外をぼんやり眺めるライネスに、テーブルについているのはエリザベスか。「見たところ、大変そうだな」

 あぁ、とあくびの残余を混じらせながら、リツカは髪の一房をかき回した。

 「ライネスちゃんのお陰で、ひとまず大変なことは終わったねえ。モリアーティ教授に割り振る分は頼んで、あとはこっちで調べる分って感じ。おおよそ、今日の課題は終わりだね」

 へえ、と金時は感心した。まだ、現在グリニッジ標準時で12時を過ぎ、まだ13時まではしばしば時間がある。昼休憩に入る前までに一日の仕事を全て終わらせたとは、中々手早いことだ。俊英な頭脳が2つもあれば、流石に仕事は早いということだろう。

 だが、少しだけ、リツカの表情は暗い。仕事人は、どれだけ上手くことを運ぼうとも自分の些細な手抜かりを悔いるものであろう。リツカの表情もその類かと思った金時は、特に気兼ねもなく「納得いかねえってか?」と言った。

 が、リツカは肩を竦めた。「全然関係ないと思われることが一つ」と言うと、ちょっとだけ逡巡してから、空中に映像枠を立ち上げた。

 「この本。この本だけが、なんか変でね」

 心ここにあらず、というように言いながら、リツカは空中投影された映像枠を眺める。金時もまじまじと見やると、何やら本らしい、とわかった。タイトルは英霊召喚に関するもので、著者名もきちんと記してある。確か、マシュが本のサンプルとして持ちこんだものだった。

 「2巻目なんだけど、結構有名な本でね。今まで人間には到底不可能とされていた英霊召喚を、ちゃんと技術論として論じようとしたものは、時計塔でも初のものだったんじゃないかな。こっちの英霊召喚システムも、これ……というか、これの研究の延長にある冬木の聖杯戦争をベースにしてたりするんだよね。

 この本の面白いところは、そもそも英霊召喚のベースモデルに対人類悪用決戦術式をマイナーチェンジするってところで」

ほけた顔のまま、流暢に話を始めるリツカ。ちなみに、もう金時の理解力では彼女が何を言っているかついていけていない。ただ、珍しく楽し気なリツカの表情に、金時も自然相槌を打っていた。

 「つまり、俺らサーヴァントってのは冠位(グランド)サーヴァントをより使いやすくしたものってことか」

 こんな風に、とりあえず話の中で彼自身でもなんとかわかることは聞きながら。

 そうだね、と金時の質問に応えたリツカは、「難易度の問題と、必要の問題からだね」と続けた。

 曰く。

 英霊召喚の基盤には、人類悪なるものを体現するビーストと呼ばれるものを迎撃するための術式が流用されているという。その術式で呼び出されるサーヴァントは冠位のサーヴァントと呼ばれ、その性能は通常のサーヴァントを遥かに凌駕する。もし自在に召喚し、使役するならば、これに対抗する戦力は現在地球には存在し得ない。

 のだが、そう簡単に呼べる代物ではない。そもそもビーストなるものが存在しない限り、冠位のサーヴァントは召喚されないのだ。魔術協会の叡智が結集したとて、冠位のサーヴァントを自在に召喚することは不可能である。

さらに言えば、冠位のサーヴァントを呼ぶ必要すらそもそもないのだ。仮に戦力として運用するにしても、サーヴァントは使い魔として最上位に位置する。地球に現存する最高位の魔術師すら相手にならない性能だけで、既に十分。また、例えば魔力リソースにするにしても、冠位のサーヴァントではかえって強大過ぎて扱いにくいのだ。

 以上の点から、冠位のサーヴァントをそのまま召喚するのではなく、その術式を転用することで英霊の座から英霊の影法師を呼び出すことに着眼。理論として結実させたのが、マキリ・ゾォルケンの英霊召喚……リツカが語ったのは、おおむねそんな内容だ。

 「なぁ、たとえば普通のサーヴァントで冠位って奴と戦うのは無謀なのか?」

 金時らしい、質問だった。戦うことは、サーヴァントとして召喚された金時の存在意義でもあるだろう。そう思えば、質朴とも思える問いだ。そんな背景を察してか、どうかな、と応じたリツカも、にこにこしながら真剣に考える素振りだ。

 「正直、冠位のサーヴァントがどんなものか、ってあまりデータがないからねえ。ただ、相手は人型で、どれだけ規模が大きかろうがサーヴァントだからね。ちゃんとここを働かせれば、まず負けない戦いくらいはできるんじゃあないかな」

 ここ、と言いながら、リツカは人差し指で自分の頭を刺した。負けない戦いができるなら、後は敵に合わせて勝ちの目を拾うだけ。そう続けたリツカの物言いは、特に誇張もなければ衒いもない。さりとて、向こう見ずな自信もない。ただ、勝てるという事実だけを信条にしている表情だ。

 「ただ、やっぱり冠位のサーヴァントの性能がどれくらいかにも寄るかなぁ本当。冠位は対界兵器っていうくらいだし、それこそ地表を焼き払うぐらいは」

 言いかけて、リツカはふと言葉を止めた。自分の発言を噛みしめながら、その言葉が漏れないように口元に手を当てると、リツカは沈思に耽り始めた。

 なんとなく声をかけるのも憚られた。この停滞した特異点を推し進められるのは、多分、まさに屋敷で智慧を働かせるものたちにかかっているのだ。

 なので、金時は幾ばくか時間が経ってから、「あぁ、忘れてた」と立ち上がった。アリスから言いつけられていた仕事がある、と付け加えると、晴れがましく伸びをしてみる。あぁそうなんだ、とつかみどころ無くリツカが相槌を打つと、金時はぶらぶらとその場を後にした。テラス席の方を見やると、ライネスだけが、どうやら椅子で寝ているらしかった。

草むしりはもうやったし、もうおおよそ申し付けられていた仕事は終えていた。庭の手入れはまだいいとして、当分は暇だ。昼寝でもしようかな、とぼんやりしていた、その時だった。

 およそ、庭と森の境目あたりか。そこに踏み込んだあたりで、不意に悪寒が惹起した。咄嗟、金時は腰から下げた大太刀の柄に手をかけた。仮に精神が弛緩していたとて、いざ荒事を察知すれば即座に戦闘態勢に入る。それこそが、よく錬成された戦士の身振りだった。

もし、敵が襲い掛かってくるならば、即座に太刀で斬り伏せる。その姿勢をとりながら、彼の視線は素早く先ほど来た小径を振り返った。薪の上にリツカの姿はない。既に、屋敷の中へと戻っているらしい。

 そして、そうこうしている内に、妙な怖気は去っていた。じんわりと全身の毛穴から這い出す脂汗を感じながら、金時は太刀の柄から手を離した。抜刀の姿勢から背筋を伸ばすと、金時は油断ない視線を周囲に向けた。

 薄い雲に覆われた空。雲の上に燦然と煌めく太陽の光を受け、薄曇りの白雲が虹のように光っている。

 気のせい、だったろうか。あまりに暇すぎて、些細なことを誇大に感じただけだろうか。釈然としないまま、金時は空を振り仰いだ。雲間の向こうに丸く縁取られて閃く太陽が、何故かこちらを覗き込む巨大な眼球のように見え、金時は肌が粟立った。

 きのせい。そうかもしれない。ただ、気のせいにしても、あの感覚を思い出すのは愉快ではなかった。あの敵意はそう、人間のものではない。人間のそれとは遥かに差異のある、真闇そのものが形を持ったかのような敵意。かつて平安の世を脅かした怪異たちのような、呵責ない純粋な敵意だった。あるいは、あの時一瞬だけとはいえ戦った人狼を思い出し、金時は顔を顰めた。

 金時は、踵を返した。気のせいかもしれないが、然るべき人間に報告すべきであると判断した。彼は生前から、誰かの下で指示を出されて働くことに慣れていた。

 屋敷に向かいながら、再び空を見上げた。丸い目のような太陽は、分厚い雲に隠れて見えなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅲ-8

 「それではいってらっしゃいませ~」

 ひらひら、と玄関口に向かって手を振る玉藻の前。ちら、と瞥見を向けて目礼するアリスとは対照的に、マシュは深々と頭を下げる。どちらも玉藻の前に対して、各々なりの礼を払った形だ。軋むような音を引きずってドアが閉まると、ドアの向こうから、とつとつと階段を軽妙に踏みやる音が響いた。

 トウマはリビングのソファから身を乗り出して玄関口の2人に手を振ったあと、いま一度ソファに座り直した。テーブルの上には空中投影される青白い映像枠が浮かび上がり、映像を無節操に垂れ流している。

 「大丈夫かしら」

 隣に座るクロは、ちょっと心配そうに玄関の方を眺めている。大丈夫じゃないですか、と呑気に応えた玉藻の前も、ちょこなん、とトウマの隣に座った。

 畢竟、両側を見目瑰麗たる女性(にょしょう)に囲まれるという、垂涎の事態なわけなのだが。

 「アリスさん、あー見えて結構お優しいですよ」

 「そう? 鉄仮面みたいだけど」

 「確かに。なんかこう、強化人間感ありますねアリスさん。しかも使い魔を脳波コントロールしてそう!」

 「いやそういう意味じゃなくて」

 「マシュさんにもいい刺激だと思いますよ? マインスターの魔女なんて、知ろうと思って知り合いになれるものじゃあありませんしね」

 「そうかなぁ」

 トウマを挟んで、やいのやいのと会話する2人。なんというか、もう、声がスゴイ。スゴイ似ている。そりゃあ声優が同じなんだから似ているのは当然な気もするが、こうして目の前に血肉を以て生きる人物でもよく声が似ているというのは、如何ともしがたい聞き心地だ。まるでハウリングしているみたいである。でもよくよく聞くと、微妙に強弱やらイントネーションやら滑舌に差異があるような気がする。クロの方が、全体的には半音高い、だろうか。

 「だからタチバナ様もお勧めになったのでは?」

 玉藻の前に、トウマは曖昧に頷いた。1/3は玉藻の前のいう通り、何かしらマシュに資するのではないか、という目算があってのことだ。

 けれど、全部ではない。2/3は、マシュという人物そのものに何かいい影響があったらいいな、という漠然とした期待だった。マシュ・キリエライトという人物の『成り立ち』に関する情報は、既におおよそは共有されている。された上での、トウマなりの思慮だった。今日も何事か用事があるとのことで出かけるアリスに、マシュを同行させたのは、ちょっと余計な節介な気もしたが。

 クロはトウマのそんな微妙そうな表情から察して、すんすんと小さく頷いている。流石にそんな事情までは知らない玉藻の前は、やや煮え切らな いトウマの表情が意外そうだ。

 「まぁそれより続きでも見ましょうか」

 「そうね。折角だし、成果の一つも見せないと」

 ソファの背もたれに身体を預けるクロに対し、トウマは身を乗り出すように画面を凝視した。

 青白い画面には、あの人狼めいた獣が蠢いている。場面はオールドストリート裏の路地で、ちょうどレイシフト直後の映像。空間の歪みから顔を出した人狼の舌が刺突を繰り出し、トウマの脳天を襲ったところだった。

 トウマたちの仕事は、これまで人狼との戦闘を通して得た映像データの分析だ。正直暇を持て余し始めたため、リツカたちに打診し、彼女たちの仕事の一部を譲り受けた形である。この映像分析が回ってきた理由は単純だ。トウマとクロは人狼とより身近に戦闘しただけに、適任と判断されたためだろう。わざわざリツカは明言しなかったけれど、少し頭を働かせればわかることだ。

 「しかし酷い見た目ですねえ」

 手元のリモコンのスイッチを押すと、流れていた映像が静止する。空間の歪みから全体像を顕した人狼が、不気味な咆哮をあげる様だった。確か、このタイミングで目の前にいたマシュがなにがしかの精神汚染を受けたのだったか。そんなメモを10インチほどのタブレット端末に残しておく。2度目の遭遇の際は特になかったことも併記して。

 「人狼、という幻想種とはまた別なのですかね?」

 「そうですね。いわゆる森の人、と呼ばれる彼らは、そもそも好戦的じゃあありませんし。生身の人ならともかく、サーヴァントと戦闘し得るほどの戦闘能力はないはずです。幻獣クラスの銀狼ならワンチャン、かもしれませんけど」

 言いながら、トウマは思案する。あの人狼は、クロと互角か、それ以上の強さだったはずである。幻獣すら上回る性能だったのは、間違いない。

 となると、そもそも人狼という種と似ているだけでまったく別種のものと考えるべきか。だが、そもそも空間転移じみた挙動を、なんら魔力を使用せずに行っているとなると、やはり未知の幻想種と考えるべきなのか。

 「まあなんであれ、倒すべき敵なら考慮すべきは能力よね」

 鬱然としながら、クロが頬を膨らませる。映像はちょうど、アロンダイトを振り抜いた瞬間に人狼が空間転移を行った場面だ。

 これ厄介だ。魔力で感知できないが故、事前にどこに現れるかすら不明。予備動作が不明なだけに、回避性能すら高い。もしまともに戦うならば、この空間転移になんらかの対策をすることは必須だろう。

 「ただ、とりあえずわかることはあって」

 2度目の遭遇戦に映像を切り替える。ライネスの目視映像を記録したものだ。あの影のサーヴァントが宝具を振り抜くわずか数瞬前、やはりトウマの頭上からあの獣が襲い掛かる映像を刻銘に記録していた。

 「理由は不明だけど、あれは俺を狙っているらしい、ってことです」

 舌がトウマの頭頂部を貫く寸前、挙動を変えた影の剣士が舌へと剣先を向ける。再度歪みの中に引き戻っていった獣は、次の瞬間広場中央付近に、やはり歪みから飛び出して姿を現した。

 「マスターだから? だと、リツカを狙わなかった理由がわからないか」

 「獣の論理は単純ですからねえ。タチバナ様があのグループで一番弱い、みたいに判断したのかも? 群れで一番弱い個体は、肉食獣の餌食ですし」

 「それもあるかもですね」

 内心、トウマはちょっと傷つきながらも、なるべく表には出さないように振る舞おうとしていた。のだが、彼はお世辞にも演技が上手いとは言い難く、諸々察してしまった玉藻の前はちょっと申し訳なさげに肩を竦めた。

 「今後、どういう風に戦うのか不明ですけど」ようやっと、トウマは内心の瑕疵を冷静に抑えることができた。「俺を囮にすれば、こちらで戦域設定ができる可能性、あります」

 努めて冷静に、トウマはあくまで客観的事実を述べるように喋った。そうですねえ、と言う玉藻の前は2人を……特にクロを伺うように、一瞥を投げた。クロは特に気にする素振りもない。至極当然、とその事実を飲み下している表情だ。

 ただ、それでも不明点の方が未だに多い。

 仮にトウマを狙っているとして、何故今この瞬間を狙って襲ってこないのか。まさに戦力が手薄になったこの瞬間は、どう見ても奇襲をかけるタイミングだろう。だが、あの人狼はなんら攻勢に出てこない。

 加えて、あの空間跳躍。どうやら、無制限・無差別に行えるわけではないらしい、ということは判明している。1回目の接敵時、クロの攻撃はあの獣に傷を与えていた。そして、2回目。戦域脱出の際、何故か空間転移で追撃してくることはなかった。畢竟、あの空間転移にはなんらかの条件があると考えられるが、その条件だけは不明だ。

 どんな手法で空間転移を行っているのか。何の目的があってこの特異点に現れたのか。そもそも、あの人狼は何なのか。まだ、謎が多い。いや、この人狼だけではない。まだ、この特異点のほとんどが謎に包まれたままだ。

 「タチバナ様は健気ですねえ」

 玉藻の前は、にこにこと笑顔を浮かべていた。トウマの小市民的な勇敢さ……ちょっとでも自分の力を役立てよう、という慎ましやかな勇敢さを、玉藻の前はさりげなく掬したらしい。

 「須佐之男命を思い出しますねえ。異郷にて武を振るう。まさしく異世界転生の醍醐味ではありませんか」

 ……いや。なんて?

 目を丸くするトウマ。トウマほどでもないけれど、クロも隠し切れない動揺とともに狐耳のサーヴァントを見つめた。玉藻の前は相変わらずニコニコしたまま、テーブルの上の無骨な湯飲みをずるずると啜っていた。

 「タチバナ様は御存知かと思いますが、わたくし天照大神から分かたれた分霊でございますので、色々と見えるのですよ。そもそも私自身、言ってしまえば神界より人間界に転生した身ですしね」

 オホホホ、と行儀よく口元に手を当て、玉藻の前はにこやかな表情だ。

 玉藻の前は、天照大神の分け御霊である。これは、いわゆる型月設定に類するもので、実際は違う。彼女はあくまで平安の世に宮中に現れた野干の化生であり、強力でこそあったものの、それ以上でも以下でもないものであった。この世界にあっても通説的にはただの化生で、日本神話の主神と玉藻の前の結びつきを知るのは、基本的に本人だけだ。

 何か、魂が消えるほどにひやりとしたものが背筋を撫でた。原作通りに、ころころと人好きのする表情をする玉藻の前だが……というより原作より、もっと人ができているような気もする……、その実は人減を遥かに超え、太陽系の中心にすら座す強大な神性なのだ。特に何か聞かれたわけでも、呪術を受けたわけでもないのに、いつの間にか透かし見るなど朝飯前なのだろう。

 「あ、ちなみに周囲との通信は遮断しておりますので、ご心配なく」

 「逆に怖いわよ」

 「お褒め頂き恐悦です。気配りは良妻の嗜みですから」

 「なんていうか」ちょっと居住まいを糺した。玉藻の前の瀟洒な佇まいは、我知らずこちらも礼儀を整えなければと思わせる厳かな慎ましやかさがあった。「俺の知ってる玉藻とは、ちょっと違うような気がしますね」

 玉藻の前は、ちょっとばかり居心地悪げに身を縮めた。ちょっと恥ずかしそうに顔を赤くすると、「この世界では、少々貞淑でいようと思っておりまして」

 「わたくし、ある方をお助けするために花嫁修業中でございまして。恥ずかしくない立ち振る舞いを修めようかと」

 ほのかな桜色に頬を染めると、玉藻の前はもじもじと身体をくねらせた。なるほど照れか、惚気らしい。というか、彼女の言った内容。思わず彼女の顔立を見返すと、玉藻の前はしっかりと頷いた。一つだけ揺れる狐の尻尾は、秋の水田に重く実る稲穂の黄金が放つ、匂い立つような芳醇な爽やかさを纏っていた。

 「異世界転生した身として、一つ老婆心でも」

 居住まいを糺した玉藻の前は、柔和な表情のまま、真剣なまなざしを取った。

 「異界に転生するとき、そこにはなにがしかの意志が背後にあるものです。きっと、タチバナ様も。なにがしかの必然性があって、この世界に転生したはずです」

 ほんの半瞬、トウマも気づかない一瞬だけ、玉藻の前の山ブドウみたいな目がクロを一瞥だけした。というより、トウマは、ぬたりと去来した情景に気を取られて、それどころではなかった。

 眼窩の底から、魘されるような熱っぽさで這い出してきた風景。高校の屋上から突き落とされたときのあの瞬間、何か、見たような気がする。こちらを閲する眼差しは、何だったか。

 「残念ながら、そのなにがしかまでは私でも見通せませんけど」

 「いや、大丈夫です」ごしごしと顔を撫でまわして、トウマは恐々と相好を崩した。「すみませんわざわざ」

 「いいんですよう。誰であれ、世のために何事か為そうとしている人はお助けしたくなるものでしょう。英雄なら、その気持ちはひとしおですよ」

 「ささ、それよりもこちらを」玉藻の前に急かされて、粗末なテーブルの上に表示された映像ウィンドウを見やった。ちょうど、映像は最初の戦闘に戻っている。獣に襲われ、間抜け面を曝して避けようとするトウマの表情がでかでかと写っていた。

 トウマは、納まりの悪い青鹿毛色の髪をかき回した。この特異点に来てから、何か調子がズレることが多いな、と思った。そのズレが良い結果と悪い結果、どちらを産むのかはわからない。わからないが、多分、何か重要なことのような気がする。

 癖のある髪を弄りながら、トウマは自分の顔を張った。まとわりつく鈍い感触を今は皮膚の内側に塗り込んで、今すべきことを眼前性の中で見定めた。映像の中、神涜的な風貌の人狼が咆哮を挙げていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅲ-9

 マシュ・キリエライトにとって、その時間はちょっと、何をしていいのか不明だった。煉瓦の建物が立ち並ぶストリートのただ中、ちょっと前を歩くアリスは、無言のまま黙然と歩いていく。普段の修道服めいた礼服とは異なる、白いセーターに黒いミニのフレアスカートという出で立ちは、シックでありながら華やかさもあり、素朴に綺麗だな、と思った。なんとなく、水玉模様のワンピースという背格好は幼すぎたかな、と仄かな羞恥を感じるマシュである。

 定期的にロンドンの市街に繰り出しているらしいアリスに付いていくことにして、はや1時間。終始無言のまま行進するアリスと並んで、マシュもこの一時間はずっと無言だった。そもそも、コミュ力がカンストしていようとアリスと楽し気な会話をするのは中々難解である。ましてマシュでは、どれだけ気を回したとても徒労であろう。散策を始めて10分でそれを悟ったマシュ・キリエライトは、街並みを眺めて楽しむことにしていた。

 それに、マシュにしてみれば、それだけで十分と言えば十分ではあった。出生が出生なので、眼に入るものは全て目新しいものだ。珍しく晴れているお陰で、陰鬱な街並みもどこか輝いて見える。何故か人通りに乏しいのは残念だけれど。

 ある意味で無邪気に街並みを観察するマシュに対し、アリスはやはり黙々と歩き続けている。途中、生花店で薔薇の花を束で買ってから、さらに30分。広々とした公園に出ると、アリスはちらとマシュを瞥見した。

 が、無言。アリスの鋭い視線にしどろもどろに戸惑うマシュも、どうしていいかわからず、アリスにただただ丸い視線だけを返した。互いに視線だけを交わし、肝心の意思の疎通ができていない不毛な時間は3分で終わった。小首を傾げ、傾げた小顔をさせるように顎に手を当ててから、アリスはなるほど、と得心したように小さく頷いた。

 「待ってて」

 ぼそりと蚊の鳴くように声を発すると、アリスはきびきびと公園の芝生を歩いていった。風に揺れる赤色のケープの鮮烈さに目を奪われながらも、なんとなく置いてけぼりになったマシュは、手近にあった、人の座っているベンチの隣に腰掛けることにした。デミ・サーヴァントとして頑健な身体ではあるものの、それはそれとして疲労しないわけではない。ベンチの上にハンドタオルを敷いて……この水玉模様のワンピースは、クロが投影したものだった。わざわざ!……座ると、ふわぁ、と深いため息をして、今度は肺一杯に息を吸い込んだ。

 シティ・オブ・ロンドン。世界で最も早く近代化を遂げた都市。そう聞くと何事か魅力を感じるが、実態はあまり褒められたものではない──なんとなく、マシュが抱いた感想がそれだ。何か文明が興る時、そこには必ず食い物にされる労働力があるというのが歴史上の必然なのだろう。とは言え、いざ食い物にされる労働力にさらされる人々はたまったものではない、と思う。今マシュの隣に座る初老の男はとてもみすぼらしい恰好で、うつらうつらと頭を前後左右に振っている。ベンチに座っている彼はまだ良い方で、公園の芝生を見やると、そこかしこに両手両足を放り投げる人々の姿が目に付いた。誰もかれも身なりはお世辞にも綺麗とは言い難く、起きているものたちは酷く粗野な言葉で言い合っていた。

──漠然と、マシュはこれまでの旅を思い返していた。オルレアンで戦った酒呑童子のこと。ローマで戦った源頼光のこと。大海で戦ったカイニスやヘラクレスのこと。

 「いいかいマシュ」おそらくは必然的な連鎖として、リツカの声が鼓膜の裏を擽る。「マシュにはなるべくは善き事を選んで欲しいし、それに、生きたいと思う生き方をするんだよ。善く生きることが、人の生の本質なんだからね。それは、人生が長かろうが短かろうが変わらないことだ」

 フジマル・リツカが言っていたことは、多分、真理であろうと思う。思いながら、マシュはただただ困惑のまま、隣で酷く疲れた様子で眠る老人を眺めていた。年齢はいくつくらいだろうか。どうして、独りでいるのだろう。家族は居ないのだろうか。何故、公園で寝ているのだろうか。もちろん答えは赤貧……年老いた人々は、搾取される労働単位ですらなくなり、ただただ搾り取られた残りカス故に、ただただ生を繰り延べることしかできなくなっているのだろうか。

 と、老人が目を覚ました。分厚い口ひげの奥からあくびを漏らし、老いた四肢でもって恐々と伸びをすると、ようやっとマシュの存在に気づいた。どうも、と卑屈そうに伏し目がちの挨拶をしてから、「見ない顔だね」と口にした。

 「外国から来たもので」

 「アメリカあたりかね。向こうは景気がいいだろう?」

 じろじろと不躾にマシュの身なりを認めると、老人は懐かしむように口にした。多分、自分がきちんとした身なりで、好景気の恩恵に浴していた頃を思い出していたに違いない。19世紀末、既に善いイギリス人はアメリカに渡り、残された人々はおおむね()()()()()であった、という知識はマシュにもあった。

 「うーむ? それにしてはアメリカ訛りがないようだね」

 ちょっとだけ訝るように口にすると、老人は奇妙な眼差しを向けた。大胆なさもしさと、厳かな卑屈さをありありと示した眼差しだった。己に向けられた眼差しの意味も分からなかったけれど、マシュは、直観的に何事かを感じた。畏れのような感情だったが、それは厳かなものや貴きものに出会ってしまったときの、尊重すべき感情ではなかった。その畏怖を端的に言えば、人間性というものの、恥知らずなまでの底知れない堕落に眩暈を覚えたのだった。

 だが、老人は寸で口を閉ざした。小動物のようにびくびくしながら顔を挙げる老人につられ顔を上げると、蝋人形を思わせるかんばせの少女がこちらを見ていた。

 「キリエライト」冷酷なまでに犀利な眼差しが、老人を貫く。「行きましょう。疲れたでしょう、喫茶店にでも」

 アリスの声は、鈴の音のように流暢だった。びっくりしたマシュはちょっとだけ反応が遅れてしまい、慌てて立ち上がった。「はい、是非」

 「ありがとうございました、すみません」

 「いやいや結構」

 ベンチに座る老人は、酷く年老いて見えた。マシュは異様な疚しさのようなものが身体のどこかで疼いた気がした。マシュはもう一度深々と頭を下げると、悠然と赤いケープを靡かせて歩くアリスの背を追った。

 「ありがとうございます、私どうしたらいいのか」

 マシュが隣に並ぶと、アリスはちらっとだけ一瞥をくれた。澄ました表情のまま、アリスは「ここは地獄よ」と色もなく呟いた。

 「アレはまだ紳士的なほうよ。覚えておきなさい」

 マシュは振り返った。ベンチの上には、もう誰も居なかった。

 「お腹が鳴っていました」マシュは、彼が何か言いかけた時に耳にしたことについて、口にしていた、「その、物乞いをされようと」

 「大局的に見て。ここはあくまで、特異点。ここにいる人間たちは、所詮は過去の人間たちの再現よ。彼らの空腹が満たされることにはなんら価値がない。キリエライト、あなたの空腹が満たされることの方が遥かに価値がある」

 静かに言いながら、アリスの口調には取り付く島もない。残酷なまでの真理を前に、マシュは押し黙ってしまった。その真理の真理たる所以を理解して、マシュは顔色を悪くした。

 「ウエストエンドの方に行きましょう。イーストエンドよりはまともな喫茶店があるから」

 マシュの顔色を伺ったアリスはいつものように小首を傾げて思案すると、マシュの頬に手を当てた。

 またびっくりしたマシュが素っ頓狂な声をあげて飛び退くと、また、いつものように小首を傾げて思案した。沈思とは言えない秒未満の思案だった。ぼそ、と何か呟くと、普段のツンとした表情に戻った。

 「マンボウって、知っている?」

 怒ったような、あるいは哀れむような、それでいて得心に満ちた顔でアリスは言った。知っている、と伝え、図鑑で見たことを伝えると、そう、とアリスは苦し気に声を漏らした。

 「優しいのに、傷だらけなの。それとも逆なのかしら」

 「え?」

 「優しいから傷ついてしまうのか。傷つくことを知っているから、優しいのか」

 うわ言のように言ってから、アリスは首を横に振った。なんでもない、とマシュに行ったアリスは、空を盗み見るように仰いだ。横から見るアリスの顔は、何か痛ましく懐かしんでいるように見えた。思わず、マシュは立ち止まってしまった。

 「勁いのね、マシュ・キリエライト」やはりうわ言を漏らしてから、アリスは「さ、いきましょう。混む前に」

 振り返る日本人形のような彼女。なんとなくその姿が戸口でマザーグースを嘯く老魔女のように見えた。

 先を行くアリスについていくこと、はや5分とちょっと。ウェストエンドの某広場から入った小径に入ると、目的らしい喫茶店はすぐそこだった。

 煉瓦の壁から下がる立て看板には、喫茶店というよりはパブめいた名前がついている。気にせずに戸口をあけるアリスに戸惑いながら……今日は戸惑うことが多いな、などと思いながら入ると、マシュは小さく感嘆の声をあげた。

 古いパブ、といった様相であるが、却ってそれが味を増している。カウンターに4席、4人がけのテーブル席2つに2人がけのテーブル席1つの手狭な空間だが、暖色の照明に照らされ、優しい闇暗が風味善く漂っているかのよう。戸を開けた時の秘めやかな鐘の音も相まって、洒落た秘密基地とでも言えそうだ。

 「やあクオンジくん」店の奥からのっそりと顔を出したのは、口ひげも豊かで高身長の、いかにもイギリス紳士といった風貌の老人だった。「1週間ぶりかな?」

 アリスはそれに声では応えず、無言のまま小さく頷いた。それだけでいいらしい。対して深く頷いてから、品の善い老人は気さくそうにマシュを見やった。「君は初めてだね、お嬢さん」

 綺麗なイギリス調の英語だ。はい、と顔を赤くして頷くマシュが気に入った様子で、老人はにこにことしていた。

 「君がご友人とは珍しいじゃあないですかね?」早速、老人はカウンターの裏手に回るといそいそと準備を始めた。「いつもので構いませんか?」

 「それと何かお腹に溜まるものを」

 カウンター席につくと、アリスは無表情のまま言った。そうして、マシュを一瞥した。

 「いや、私は」

 「よく食べること、それが健康な人生の秘訣だよ」

 わたわたと手を振るマシュに、老人は相変わらず快哉の表情だ。多分、素朴に良い人なんだろうと思わされる。それはそれでいいけれど、なんだか大食いの女の子みたいに言われるのはちょっと恥ずかしい気もするマシュである。肉体年齢16歳の彼女は、いわゆる思春期の感傷を気にする年頃なのだ。

 「元はパブらしいのだけれど」

 店の奥に店主が消えていった段階で、アリスが言った。チョコナン、と椅子に座り、行儀よく膝の上に手を置く様子が、言いようもない育ちの良さを感じさせた。それと、なんか、ちょっと可愛らしい。

 「紅茶の淹れ方が巧くて。昼は喫茶店として開けているの」

 「よく来るんですか?」

 「()()で外に出るときは」

 アリスは気だるげに言いながら、ぼーっとカウンターの奥を眺めている。種々の酒がずらずらと並ぶ煌びやかな棚は、ここがパブ……夜は紳士淑女が集い、品よく“お酒”を嗜んでいることをよく証明している。

 マシュたちがこの特異点に来て、アリスたちに匿われてからはや1週間ほど。その期間、アリスはおよそ2日に1回は用事で外へ出ている。早朝に出て、およそ夕方。皆が夕食を食べたくらいの頃合いでやってくるのが常だ。その間、彼女が何をしているのか知っているものはいないし、また聞くものもいない。魔術師の行為に対し、そもそも根掘り葉掘り質問すること自体が無礼極りないことである。まして、相手がかの“マインスターの魔女”ともなれば、無礼打ちでは済まされないものだ。

──マインスターの魔女。在り方はおおまかには人形師であり、系統的にはウィッチクラフトに分類されるというが、マインスターの魔女の魔術系統は元の系統からほぼ別物に発展・進化したという。人の夢想幻想を形になす使い魔、プロイキッシャーによって具現される神秘の濃度は、近現代に近しい魔術師にしては破格である。ましてサーヴァントとして形を得ている彼女の強さは、神代の魔術師にも近しい──と言っていたのは、まさしく神代の魔術の担い手であった玉藻の前であった。

 魔法以上に魔法に近しい魔術。寡黙で鋭い眼差しの横顔からは、荘重且つ峻厳さが言いようもなく沸き立っている。魔術の世界には疎いマシュでも、アリスという人間がどれだけ異様なものなのかは、どうしようもなく知れた。それでいて、静謐さとともにそこに実存する存在は、深窓の令嬢という言葉を思い起こさせる。

 どうぞ、と店主が差し出した1パイント(約550ml)の紅茶が入ったティーポッドをしげしげと眺めると、併せて差し出されたティーカップにそろそろと注いでいく。ソーサーごとカップを持ち上げ、静々とカップの縁に口唇を触れ合わせる。ほう、と零す溜息まで、極めて甘美な一枚の絵画のようだ。清潔さの奥に一擲だけ妖艶さを垂らしたかのような瑰麗たるかんばせは、同性のマシュでも見惚れるほどだった。

 マシュの前に運ばれてきたのは、ふんわりと楕円形に形作られた黄色いたんぱく質の塊……要するにオムレツと、深皿にもりもりと盛られたのはクリームシチューに、パンが1つ。1人で食べるにはやや量が多いだろう。

 「アリスさんは召し上がらないんですか」

 目の前で馥郁たる香を湯気とともに立ち昇らせる食事を前に、マシュはちょっと伺うように横顔を見る。アリスは紅茶を飲んだまま、澄ましたようにしている。

 「あぁ、彼女は彼女用のものがあってね」奥から顔を出した壮年の店主は、額に汗を浮かべている。「だから大丈夫。遠慮なくお食べ」

 今一度、マシュは隣に座るアリスを伺った。ティーポッドからカップに注ぐアリスは、そんなマシュの気遣いなど全く気にしていないご様子だ。

 勢い、マシュはむしゃむしゃし始めた。オムレツ用のスプーンとクリームシチュー用のスプーンを使い分ける品の良さもなく、ただただ目の前で馨しく湯気を立てる食事を咀嚼しては食塊形成して嚥下して胃を温める、という一連の動作に奔走した。

 マシュには、例えばオリーブの風味とバターの味わいをしっかり感じながら油きれがしっかりしていて、且つ濃厚な卵の味わいと口当たりのいい焼き上がりのオムレツの旨さであったり、あえて小麦粉を多めにしたホワイトソースと大きめに乱切りしたジャガによって腹持ちよく作られたクリームシチューの気の利いた仕上がりであったりまで、理解できるほどに舌が肥えていなかった。が、そんな賢しらな舌の感度など、そもそも料理には不要だった。マシュはただただ若さのままにたらふくになるまで腹ごしらえし、満足気な顔をしていた。そうして、店主はまだまだ若い子供が、善い表情をしているだけで満足なのだ。

 「見たところ、外からの方のようだけれど。どちらから?」

 「アメリカから」口の中にオムレツの塊を押し込めたまま、マシュがもごもごと口にした。ある種のはしたなさも、若者の特権であろう。「今はホワイトチャペルの方に宿を」

 「なんとまあ、あんなところに?」

 老人は、信じがたい、というように大仰な身振りをした。ありありと浮かんだ軽蔑の眼差しは、もちろんマシュに向けられたものではない。明瞭な軽蔑と不快感を露わにしつつも、老人は心配げに肩を竦めた。「またどうして」

 「ちょっとその、仕事で」

 ちょっと苦し気な言い訳になった。マシュは16歳だが、彼女は割と童顔なこともあってさらに幼く見える。そんな彼女が仕事で外国に来て貧民街で暮らしている、というのは、どう見ても無鉄砲が過ぎると思う。もちろん、マシュは見た目以上に頑健な肉体の持ち主なので、不届きな人間が乱暴を働こうものなら返り討ちにできるのだが。

 「こりゃ逞しいことだ。アメリカも旺盛な国だからねえ」

 目を丸くしながらも、老人は奇異と感嘆の表情を浮かべていた。

 「先進国だなんだと言われてるけどね、もう世界の中心はアメリカさ。若い活力はみんな、海の向こう。この島国に残ってるのは、その力のない畸形児や老人ばかりさ」

 皮肉っぽく、老人は大いに肩を竦めた。そんなに悪いんですか、というマシュの素朴とも言える質問に、老人は芝居がかった頷きを返した。

 「ウエスト・エンドだって、成熟した文化が花開いているように見えるけどね。ちょっと脇道に入ると、ここいらだって浮浪者ばかりさ」

 マシュは、覚えず先ほどベンチで寝ていた老人を思い出した。よれよれの衣類に不健康そうに伸ばし放題になった髭、よれよれの肌に濁った眼球。卑屈そうな佇まいと、目の前の気持ちのいいイギリス紳士とは驚くほど対照的だった。マシュは、口に運びかけていたクリームシチューを一度止めてから、やはり口にかきこんだ。老人が作るシチューは、とても旨かった。

 「僕は政治家じゃあないし、経済も知らないからねえ。社会主義者でもないし。どうたったら浮浪者たちがちゃんとした職を得られて、きちんとした人生を送れるようになるかわからないけども。少なからず、老人がウジ虫に食われながら死んだり、年若い女性が誰が親かわからない子供を産んでは死なせてを繰り返している社会は、とても健康とは言えないだろうね」

 何か調理しながら、老人は深い嘆息を吐いた。どこでイギリスは間違えたのか、とでも言いたげな物憂げな顔は、事実この社会的状況を憂いている善人の顔だった。この老人が浮浪者の生活保護施設に細やかな援助を行っていることを知るのは、しばし後になってからのことだ。

 マシュは、ただ沈鬱にその言葉を聞くことしかできなかった。未熟でとても幼いマシュには、どうしていいか不明な巨大すぎる問題だった。明確な悪しき敵がいるなら、それを打倒すればいい。言ってしまえば、彼女たちの旅とはそういうものだ。過酷極まりない旅だが、何をすればいいか明確なだけに、ある意味単純な戦いである。だが、目の前に横たわっている問題は、そんな端的な問題とは趣を異にしすぎている。複雑な問題が絡まり、正義と不正義が分かちがたく絡み合っている。イギリスという国そのものは、既に世界の中心から脱している時期であるものの、やはり裕福であるに違いはない。が、その裕福さの影で、さっき見た老人や公園で寝そべっていた身汚い人々、あるいはあの酒場で汚らしくビールに溺れていた浮浪者たちが山盛りにいるのだ。

 ──特異点での出来事は、ある意味で過去の再現に過ぎない。既に終わったことであり、この特異点にある社会的な問題を解決することに意味など無い。が、多分、この箱庭で起きていることはこの時代だけの特殊的な問題ではなく、人間社会に普遍的に生じる問題ではないか。

 ──神妙に思案するマシュだが、当然、何事かの解決策のようなものが頭に浮かんでいるわけではない。現代の学者が頭を悩ませながら解決策を模索している事象である。まして、マシュになにがしかの妙案があるわけがない。のだが、それはそれとして、真面目なのでそういう問題の大仰さに、真剣に悩んでしまう質であった。端的に言うと、マシュ・キリエライトは真面目で善良で、良識を備えた健気な少女なのだ。加えて、言うならば。

 グゥ~。「あっ!」

 「おや」

 「……」

 彼女の齢は16、育ち盛りで食べ盛りだった。

 唸るような空腹の音に顔を真っ赤にするマシュに、老人は愉快そうな顔をしながら「前から失礼」と身を乗り出した。深皿……というよりどんぶりといった見た目の器には、並々と澄んだ琥珀色のスープが注がれ、練った細い小麦粉が龍のように揺蕩っている。

 ……どっからどう見てもラーメンである。メンマやらチャーシューやらもしっかり添えられて。

 「えーと」

 なんでこんなのあるの、と困惑しながら横を見て、マシュはなおのこと目を丸くした。いつの間にか、アリスはシルバーのフォークでくるくる麺を巻いては小さな口でラーメンを食べていた。

 「うっ」

 音もなく麺を咀嚼していたアリスは、もごもごと口の中を動かしながら、マスターに「うっ」とかいう言葉だけを伝えた。ぽかんとするマシュに対し、老人は「それは善かった」と素直に言った。

 「ライムハウスに行った甲斐があったよ」

 マシュは、色んな雑多な感情とともにそのラーメンを見下ろした。もうもうと湯気を立てる、馥郁たる香のなんとまあ旨そうなこと。さっきあれほど食べたのに、マシュは早々と空腹を抱いていた。と同時、マシュはフォークを手にしたまま、そのいかにも美味しそうな食事をに手を着けるのが、とても疾しいことのように思えた。うっ、と喉を詰まらせたように声を漏らすアリスの素振りが、このヌードルが非凡な美味しいさであることを伺わせる。それだけに、その空気のようにうっすらと漂う疚しさが痛々しくもあった。

 アリスが「食べないの?」と言わんばかりにマシュを見たのは、半ば必然だった。アリスの器の中は既に残り5割を切っており、マシュはまだ一口も手に着けていなかった。逡巡というには長く、長考というには短い葛藤の後、マシュはスープの中にフォークを突き入れ、やや手間取りながら巻き付けた。

 酷く、旨かった。酷く──。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅲ-10

 ジェームズ・モリアーティはいつものように朝のルーティンを行うと、ひとまずデスクに着いた。一昨日から加わった新しいルーティン……カルデアの技術顧問兼サーヴァントをしている、レオナルド・ダ・ヴィンチ氏とのリモート会議の対応のためだ。どっこいしょ、といかにもな掛け声とともにクッションの敷いてある椅子に座ると、ざらりと資料を広げた。

 トウマが拾ってきた紙面に描かれた数式。それとは別に、ジキル氏の邸宅から山と見つかった資料の内、モリアーティの管轄と思われるものがリスト化されたデータだ。例えば宇宙物理学の本であったり、宗教書だが書きなぐるように数式が書かれた本であったりなど、だ。

 基本的に、モリアーティは数学者でこそあって、物理学者ではない。まして宇宙物理学はなおさらだ。『小惑星の力学』なんて論文も、モリアーティから言わせてもらえば子供だましの二流論文だ。何せ、本来門外漢の分野についての論文である。その分野の第一人者のものに到底敵うものではない。

 が、何はともあれ、彼にそういった分野に関する知識があるのは事実だ。知識量は二流だとしても、頭脳そのもの超がつく一流である。その才気にかけて、この難問は解かぬわけにはいかぬ、という心境であった。そして、既におおよそのアタリはついていた。

 「おっと」

 モリアーティは、デスクの上に置いてあった手のひらサイズの四角形の機械の一部が点滅するのを確認すると、居住まいを糺した。彼は極めて驕慢で自らが頭脳の極致にあることを自負してやまないが、それ故に同類の人物には敬意を払うことにしていた。

 「どうやるんだったかな」

 ……点滅する機械を難しい顔で眺めた後、えいや、とモリアーティは機械のタッチディスプレイに触れた。OffからOnに表示が切り替わると、モリアーティの面前に青白い空中投影型ディスプレイが立ち上がった。

 思わず、「おお」と感嘆の声をあげるモリアーティである。人類の才気はどこへやら、と思わなくもないのだが、やはり未来の技術を見せられるととても驚くものだ。まぁ、そのメカニズムはほぼほぼ魔術で動いているのだが。

 (やぁモリアーティ教授)画面の向こうの麗人は、モリアーティの奇態を見なかったことにしている。(今日もご壮健かな?)

 「まぁまぁだねぇ」デスクの上の機械をつっついたりしながら、モリアーティは気の抜けたように言う。「こちらは順調。ライネス君とリツカ君が優秀で助かるネ」

 「重要そうなものとそうでないものの仕分けも済んで、私用の割り当ても完了済みだ。あと1日はかかると思ったんだけど」

 (それは結構。こちらもおおよそ似たようなものだ。どちらから話をする?)

 「そっちからでいいんじゃない?」ドアをノックする音に気取られながら、モリアーティは言った。多分、エリザベス女王陛下のお出ましだ。「はいはいなんでしょう」

 予想通り、エリザベスが顔を出すと、丁寧に淹れた紅茶を持ってきてくださっていた。デスクの上に品よくソーサーとカップのセットを置くと、彼女はやはり育ちの良さを感じる挨拶を画面の奥のダ・ヴィンチにしてから、退室していった。

しかし決まりが悪い。まるで、友達と遊んでいたら、母親が来て挨拶していった時のような決まりの悪さである。ダ・ヴィンチもそんなモリアーティの内心を見抜いているのか、何やらニヤついている。

 「ゲフンゲフン」わざとらしく咳払いなどしてみる。誤嚥性肺炎ではない。「じゃあ始めてくれないかな、ミスター?」

 (はいはい。じゃあまずこれ、後から共有する情報なんだけど。薬品のデータは全部洗いだしてきたけど、1つだけ奇妙なのがあった。ある種の麻薬のようなものだ。幻覚作用を惹き起こすもので、表の世界ではほとんど知られていないものだね)

 「ということは、そちらの世界の話というわけかね」モリアーティは、ちょっと不機嫌な顔をした。彼にとって、魔術だなんだというのは、なんとなく如何わしくて好みではないのだ。

 (まぁそうだね。でもどちらかと言うと異端だ、ウィッチクラフトでも使わないよ。元は中国で作られたもので、紀元は老子にまで遡る。丹道、という……まぁ哲学と言うべきか、そういうもので世界の真理に達するために使われた麻薬だそうだ)

 「世界の真理ねぇ」

 明らかに、モリアーティは小バカにしたように嘯いた。だってそうだろう。麻薬だなんだという怪しげな薬を服用して知れるものが、真理などであるはずがあるまい。精々、痴呆症めいた戯言くらいだろう。碩学たらんとしていたジキル氏がそんなものに傾倒していたとは、呆れるにもほどがあるというものだ。

 だが、同時にモリアーティは素早く頭脳を働かせていた。彼自身はそんな奇怪なものに興味も関心もないが、彼の蔵書群に何か関連があったはずだ、とすぐに思い至った。ジキル氏が集めていたという、異様な幻想風小説が、確信めいて脳裏を過った。

 「その薬、名前は?」

 (『遼丹』というそうだ。ミスカトニック大学……アメリカで勃興している魔術系の大学に、一件だけそれに関する書籍があった)

 「覚えておこう」

 モリアーティは苦っぽく言った。生前ならば鼻で笑う話だが、そうも言ってられない。

 「後でみんなに共有される情報かな?」

 (その予定だが、そちらの班で共有した方が良いなら早めにやってもらって構わないよ。まだ寝てるのかい?)

 「外で金時君と庭仕事をしていたよ、2人ともね。座りっぱなしは性に合わないのだろうさ、若さだね」

 言いながら、さわりを抜き取った音声データをライネスとリツカの情報端末に送ると、「他には?」とモリアーティは続けた。

 (承ってた件なんだけどね)モニターの向こうで、ダ・ヴィンチの視線が左右に揺れた。デスクの上のデータを探しているらしい。(そちらにデータ送ったから、見てもらえるかな)

 一拍置いて、小気味良い音が情報端末から響いた。プリセットされた電子音とともにモニターの端に、受信のポップアップが立ち上がる。モリアーティはおっかなびっくりと空中投影された映像のポップアップに指を重ねると、別枠でもう一つ映像枠が表示された。

 (残念ながら、こちらの宇宙物理学の専門家はもう死んでてね。直接ご教授願うことはできなかったが、彼女のPCのデータやら書籍はおおむね調べることができた)

 「覗き見の成果というわけだ」ニコニコしながら、モリアーティは受信データを眺める。「それとも、墓荒らしかね」

 ダ・ヴィンチは露骨に嫌そうな顔をした。モリアーティは特に気にも留めず、「これ、本当に物理学なのかい?」と聞き返した。

 (ウチ、一応魔術の研究施設だからね。アメリカ出身の現代魔術科所属なんて、まぁ良くも悪くも異端さ)

 「古式蒼然とした学会には必要だからねえ、そういう人も。伝統も大事だけどね」

 最も、モリアーティは魔術なんぞ如何わしいとしか思えないわけだが。英霊の座に召し上げられようとも、胡乱なものは胡乱である。万が一彼が魔術なんぞに関心を抱くことがあるとすれば、何が何でもあの探偵を出し抜いてやろうと思った時だろう。最も、そんな日はもう来ないわけだが。

 「つまるところ」レポート冒頭のさわりを一読し、モリアーティは椅子に身体を預けた。「超弦理論と膜宇宙理論、というのが何かヒントになりそうというわけかい」

 (正確には、それを元にした高次元の窓の潜り方……というところかな。十二次元宇宙に根源が渦巻いている、という本論自体はさして重要じゃあない。この三次元以上の高次元の窓は小さく丸まっている、というのは、何か感じないかい)

 ダ・ヴィンチに誘導されるまでもなく、モリアーティの脳裏に浮かんでいたのはあの獣だ。魔力を一切使用せず、空間転移をしていたあの人狼もどき。仮に、物理現象に過ぎないこの高次元の窓とやらを出入りしているならあるいは、という思考が過ったのと、それは妄想に過ぎないと判断したのはほぼほぼ同時だった。だが、その妄想レベルの推論を、ダ・ヴィンチもしているらしいことは明らかだ。だからこそ、彼ないし彼女は、(この数式なんだけどね)と再度デスク上のなにがしかを捜査した。

 併せて、情報端末にプリセットされた電子音が響く。ポーン、という音とともにもう一つ別枠で立ち上がったウィンドウに、モリアーティは、まず身を乗り出して目を丸くした。そうしてから再度背もたれに身体を預け、不気味な嗤笑に口角を歪めた。

 「これはこれは」思わず、といったようにモリアーティは声を漏らした。悪辣な気宇に満ち満ちた声だった。「ジキル君のメモとほぼ同じ数式じゃあないか」

 (高次元領域の窓をマッピングする式らしいね。高次元の窓を見つけるだけで、高次元転移構造体に入るところまでは不明だが)

 互いに気づいているが、重要なのはそこではない。つい先ほどまで妄想に過ぎなかったものが、俄かにつながりを持ち始めたのだ。全く関連性のなかった2つの事案が、妙に繋がりつつある。ヘンリー・ジキルが何を調べていたのか。そしてあの人狼に関するなにがしかの情報。

 だが、やはりまだ強固なつながりではない。繋がりはあくまで妄想に過ぎず、功を焦るばかりにありもしない幻想を実体化して考えて居る節がある。

 「不本意だが」とは言え、まだ妄想の域を出ないとは言え仮説なのも事実だった。「実験をしてみようかと思うが、どうだね」

 (釣りができるかという話かな)

 「なんだっけ、彼。トウマ君だっけ?」

 (合ってるよ)

 「そりゃよかった」モリアーティは、思い出すようにこめかみに指をあてた。灰色の脳細胞から、あのあまりとり得もなさそうな少年の顔を引っ張ってくる。「彼の報告が来てね。とりあえず実験できそうな材料はある」

 (弱者を狙っているのでは、という奴だね)言ってから、ダ・ヴィンチは1秒ほど思案した。(彼、呼んでくる?)

 「いや、弱者というだけなら私かリツカ君で構わないだろう。」

 (君もサーヴァントなんだが)

 「それは君、あれだよ。私の武器はココだからね」

 とんとん、とモリアーティは頭を人差し指で叩いた。ダ・ヴィンチは複雑そうな顔をしつつも、特に何も言わずに小さく首肯だけを返した。

 「日時は明日か明後日に設定しよう。今日は私も2人も、予定が入っているはずだからね」

 (明日って。今日中にその数式、解くつもりかい? 私のレポートもあるんだぜ?)

 目を丸くして若干の抗議も込めて言うダ・ヴィンチに、モリアーティは大仰な身振りで、大いに心外だとでも言うように肩を竦めた。

 「誰に向かって言っているんだい?」

 憮然とした表情は、もちろん演技だった。何せ、彼は理性と良識に善く富んでいたから。そうでなくては、それらの反対概念たる悪辣を為すことなど不可能。愛知らず善を知らない悪など、ただの動物の本能と同意で、そんなものに価値などありはしないのだ。

 「僕の名前はジェームズ・モリアーティ。大学では数学を研究していたりするのでね?」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅲ-11

 目を覚ますと、トウマはいつも通り健やかな寝起きで身体を起こした。

 ベッド上の窓からは、朝の薄暗い仄光が射している。相変わらず、今日もロンドンは闇暗の霧が立ち込めているらしい。陰鬱、とまではいかずとも晴れがましさも感じない、そんな表情で窓を眺めると、上体を起こしたまま、部屋を見回した。

 モリアーティが手配した部屋は、大雑把に言えば1LDKほどの賃貸という形になる。その中に5人で暮らしている、という状況なので、当然ベッドで寝ているものもあれば、ソファで寝ているものもいる。ちょうどそこのソファではクロがまだ寝ていたし、玉藻の前に関してはサーヴァントらしく、夜間は霊体化して睡眠を摂らないことにしている。

 当然、理性と良識に照らし合わせれば、自分がベッドを優先的に使わせてもらっていることについて呵責なり疚しさなりを感じるわけで。決まり悪く眉を顰めながら、トウマは鼻頭を撫でた。マスターであるトウマに良い暮らしをさせるののもやはり当然、という理性的判断もあるだけに、葛藤の溝はある意味で埋めがたい。

 トウマは毎朝のように気分悪げな顔をしながら、バイタルデータをチェック。問題ないことを了解すると、そそくさと布団をかきわけてベッドから抜け出した。

じとりと身体に湿気が纏わりついている。自分の汗によるものか、濃霧が立ち込めるロンドンという気候のせいなのか、判断はつきかねる。手近にあったタオルを手に取ったものの、水の節約が脳裏を過ったトウマはタオルから手を離した。特異点のロンドンにせよ補給が絶無になったカルデアにせよ、水は貴重品なのだ。

 トウマは既にしわしわのタオルを畳み直して、テーブルの上においた。ソファで寝息をたてているクロは、小さく何か寝言を漏らしている。「ケバブに……ヨ……トソース」

 チリソースだって美味しいぞ、と思いつつ、トウマはクロにかかっていたタオルケットを直した。サーヴァントだから風邪を引いたりすることはないだろうけれど、下着姿で寝ているのはちょっと寒そうだった。

 幾ばくかの空腹を覚えつつ、トウマはとりあえず身なりを整えることとする。もう一方のソファに投げ出してあった極地戦闘用礼装の袖を通し、パンツを履く。一度ソファに座ってみる。既にクッションが硬くなり始めたソファは、寝心地は当然、座り心地もあまりよくはない。すやすやと熟睡を続けるクロを一瞥した後、トウマは抜き足差し足でキッチンへと向かった。多分、玉藻の前はもう朝食を作り始めているだろう、と思ったからだった。

 実際、玉藻の前はキッチンで料理をしていた。ガスコンロはあるが、ホワイトチャペル地区にはろくすっぽガスの供給はなく、調理の途中で止まる始末である。追加の金を手元のコイン入れに入れると追加のガスが供給されるという課金制だが、継続時間は僅か数分という阿漕さは目を見張るものがある。もちろん玉藻の前はそんなものは使わずに、得意の呪術【呪相・炎天】により、彼女は悠々と調理していた。

 「あら、タチバナ様今日もお早いですね」

 ふりふりと狐の尻尾を揺らしつつ、玉藻の前は綻ぶような笑顔を見せる。山ブドウのような艶やかな瞳は、彼女が人ならざる野生に起源を持つことを、ありありと感じさせる。

 「アリスさんは?」

 「今日は特に、ご予定などはないようですね」

 そっか、とトウマは返した。アリスは屋敷に居た頃から、結構頻回に外出してはなにがしかの用事をこなしている。なんらかの魔術を行っているらしい、というところまでは皆知っているが、その内容までは杳として知れないことだった。

 「タチバナ様は続きですか。皆さまもいらっしゃることですし」

 玉藻の前が言わんとしていることは、例の映像の分析のことだろう。今のところさして進展がない事業だけに、早く成果を出さなければ、という焦燥もある。

 鼻頭を撫でながら、そうだな、とトウマは自問する。特に予定がないなら、普通に考えればそこに専念すべきだろう。

 だが、念頭にあったのはあのモラン大佐の言葉だ。努めて、普段通りの生活をしろという指示を思い返せば、分析に専念するのはやや矛盾する。

 それに、ずっとここで箱詰めされているというのも窮屈だ。急がないわけではないが、24時間缶詰になってまでやるほどの任務内容ではない、という対自的な自覚もあった。

 改めて、頭の中で仕事の工数と日程を考える。あのアメリカ海軍あがりで、アトラス院に起源を持つ黒人から教わったことだが、仕事のできる社会人とは、スケジュールを自覚して、自分が受け持っている仕事の工数も自覚して、如何にサボりながら全体性を以て自分で仕事をコントロールできる人のことを言うそうな。16歳高校生のトウマにはまだまだ実感はないけれど、要するに夏休みの宿題はちゃんと前もって終わらせておけということだろう。どちらかというとコツコツ宿題をしてきたタイプなので、不慣れではない。

 結果、今日はそんなに根を詰める必要はないな、とトウマは判断した。判断してから、視界に網膜投影で表示されるデジタル表示の時計を一瞥。まだカルデアと連絡を取る時間ではないな、と確認する。正直、まだまだタチバナトウマ少年は高度に判断できるだけの経験値がないという自覚がある。リツカと別行動する際は、定時連絡に併せてカルデアに報告を送ることにしていた。

 「今日はほどほどにして」とは言え、割とダ・ヴィンチは放任主義なので、トウマの判断がそのまま通ることの方が多い。「休みメインで行こうかと」

 「あら、そうですか? じゃあたくさん作り置きでもしましょうかね」

 ひょこひょこ、と蠱惑的に狐の尾が揺れる。なんというか、その柔らかそうなこと柔らかそうなこと。なるほどケモとは性癖を刺激されるのだな、と彼はしみじみと思った。なんとなく思い出していたのは、昔近所の牧場で放し飼いされていた黒い山羊の朴訥とした佇まいだった。

 「お触りになります?」

 トウマの視線に気づいたらしく、悪戯っぽい視線でトウマを舐めまわした。ひょこひょこ、と揺れる馥郁たる芳醇な尻尾が手招きするように揺れる。心地よい悪寒のような不定の情動を惹起させたトウマは、仰々しく表情を強張らせながら「いや、大丈夫です」と声を漏らしていた。

 「多分帰ってこれなくなる気がしたので」

 「なるほど~」

 残念、とでも言うように、玉藻の前は肩を竦めて舌を出した。ただ、なんとなくその身振りは芝居がかっているようにも見え、山ブドウみたいな目を丸くしているのが、内心の意外さを表出しているように見えた。それがなんの意外さを感じているのかは、トウマには与り知らぬことだが。

 「それにアレでしょう、触って良いのはお一人だけと申しますか」

 「あーはいはい、そうですね」

 にこにこと頷いてから、玉藻の前はコンロの火を調整すると、「不思議なこともあるものですねぇ」

 「ケースCCCはどの事象にも記録されていないことなのに、別な世界では遊戯の一貫となっているのでしょう? なんだか癪に障るような、愉快なような」

 玉藻の前の言葉も、確かにな、と思った。

 例えば今自分が行っている事業(グランド・オーダー)も、もしかしたら外なる世界でゲームやらアニメやらの形で観測されたりしているかもしれないのだ。場合によっては、むしろ自分がいた世界でも、トウマ自身が知らないだけで似たような作品があったりするのかもしれない。そう考えると、確かにあんまり気分はよくないなぁと思う。それに、正直話が地味すぎて物語として耐えられるのか甚だ疑問だ。特異点に居ない時なんて、大体訓練か施設の設備係で仕事をしているかのどちらかしかないし、娯楽なんてあってないようなものだし。まぁ、でも上手い事物語として編集されているのだろうか。それはそれでやはり癪ではあるが。

 さてと、と玉藻の前は割烹着の前掛けで手を拭いた。コンロの火はとろ火。あとはじっくり煮込んで完成、ということだろう。玉藻の前も、今日の仕事も一つ終わりということだ。一服でもするように別なコンロに置いてあった南部鉄器(クロの投影品)から湯飲みに注ぐと、玉藻の前はちらと首を傾げてトウマを伺った。

 「いただきます」飲め、ということだろう。素直に従うことにする。「ほうじ茶ですか?」

 「麦茶ですね。そちらからの補給品にありました」

 「熱い麦茶……?」

 「このパック、煮ださないと色出ない奴ですよ」

 こぽこぽと無骨な湯飲みに麦茶を注ぐと、玉藻の前は何か探るようにトウマの顔色を伺った。もうもうと湯気を立てる濃い麦茶は、なんとなく、傍目にはコーヒーにも見える。麦茶というと、夏場に出てくる薄い飴色の液体を想像するけれども。カルデアでも、元から調理師として採用されて働いているスタッフが冷蔵室に作り置きしているけれども、わざわざ煮だしてはストックしているのだろうか。そう思うと、なんとも申し訳ないような気分にもなる。確か、2人いる調理師も元は魔術の家系なんだそうな。バリュエ出身で食べることが大好きなイタリア人の女性に、ミスティール出身にも関わらず、自分の魔術の家系には一切興味がなく食事の研究ばかりしている変人のブラジル人男性の2人。控えめな女性のスタッフもラテン系らしい快活な男性スタッフどちらも親しみやすい人物で、なんとなく2人の顔が頭をよぎる。

 2人とも立ったまま湯飲みを呷る。特にどちらも用事がないので、なんとなく無言のまま、ちびりちびりと熱い麦茶を舌の上に転がしていく。なんとなく、口当たりはコーヒーに近いだろうか。酷く苦い。

 「タチバナ様は」ふうふう、とコップの口に吹きかけながら、玉藻の前が言う。「帰りたい、とか思わないんですか?」

 「何と言いますか、結構落ち着いてらっしゃるように見えまして」

 「大分経ちますから。もう、半年近くは居ますよ」

 トウマもちびちびと熱い麦茶を口にする。視線は湯気が立っている麦茶の水面を目指しているが、視線の先は縹緲と広がる虚空を眺めているようだった。

 いや、トウマだけでもない。玉藻の前も、ぼけーっとしているように湯飲みを飲んでは呑気そうに熱気を吐息として吐き出している彼女の仕草も、まるでさして重要でもなんでもない井戸端会議といった様子で聞いている。もちろん、彼女はこの話題が些末事ではないことも理解しているのだろう。他人事と割り切りながら、その割り切りの中で最大限寄り添おう、という細やかな気遣いの現れなのだろう。ともすれば諧謔とも言える調子で「良妻狐になります」と言っているけれど、その言葉の内実は真に血肉の通ったものなのだ。改めて、玉藻の前というキャラクター……否、人物像の淵に、触れたような気分だった。

 「正直、自分でもよくわからないですね」

 なので、トウマも特に考えてない素振りで応えることとした。

 「帰りたいかって言われれば帰りたいですけど、ホームシックになるかと言われるとそうでもないですからね。そんなこと、考えてる暇もなかったのかもしれないですけど」

 ようやく冷め始めた茶を、少し多めに口腔内に注ぎ込む。が、思ったより熱くて、トウマは思わず顔を顰めた。もう少し冷めてからだな、と思った。

 なんとなく、思考は過去へと飛んでいく。

 この世界に初めて来た特異点、冬木。フランス、ローマ、海洋、と転戦して、今度はイギリスの首都ロンドンだ。どの特異点でも生半可な敵は居なかったし、戦いが続けば続くほどに感じるのは己の非力だ。そうしてその度に思うのは、さらなる向上だ。その無限の反復に気を取られて、とても元の世界に帰るどころではなかったのだろうか。

 「もしなんですけどね、もし」玉藻の前は、まだちびちびと麦茶を飲んでいる。猫舌なのか、ちろちろ舐めるようだ。「今すぐ帰れるとしたら、帰ります?」

 こくん、とトウマは麦茶を飲み込んだ。熱い感触が咽頭を熱心に摘まみ上げ、食道を爛れさせるようだ。げほ、とむせながら、トウマは上目遣いで玉藻の前を見やった。

 玉藻の前の瞳とぶつかる。あの、山ブドウの目は変わらない。だがその艶は大きく異なる。人間の賢しらさを感じないという点では変わらないが、それは動物的な無知故の滑らかな眼差しなのではなく、より上位存在故の知性的判断を思わせる目だった。端的にって、それは摂理(プロヴィデンス)を担う大いなるものが、小さく矮小な現存在を閲する眼差しだった。

 “何故、あなたは戦うの?”

 いつか聞いた、アリスの言葉が脳内で残響する。射抜くようなアリスの勁い視線と玉藻の前の視線はまったく別種のものであはあったが、問うている内容は同じものだ。立華藤丸、という存在者の存在、存在の淵源、個体性そのものへの審問なのだ、それは。

 トウマは、言葉に窮した。かつてと同じように、彼は何と答えるべきか不明だった。戦う必然は、ないのだから。そして同じように、望郷というほどの強力な主観的動機もない、という宙ぶらりんな状態だった。

 何故か、脳裏を過ったのは、オルレアンで出会った復讐者のサーヴァントの目だった。復讐者、という名前にそぐわずに、且つ彼の来歴を思えば人徳を感じさせる慈悲深い大人の双眸が、窮迫的で雄々しさすら伴う疚しさを惹起させた。アリスに問われた時と、同じように。

 トウマは、何事かを口にしかけた。口にしかけたが、思うように言語化できなかった。泡立つように想起した過去から今への出来事の連続が、安易な言語化を阻むように。それでも何か言いかけたものの、トウマは、不意に足元を震わせた鈍い音で我に返った。

 「あ」

 振り返ると、普段の礼服姿のアリスがいつになく呆然と立ち尽くしていた。床に転がっているのは、何か古い書物だ。ハードカバーの黒い本は、縁がボロボロになっている。

 㷀然と視線を迷わせていたアリスは、ようやっと腰を曲げて本を手に取った。ぎぎ、と音でもしそうなくらいのぎこちなさである。そうして本を取り上げてからも、数瞬ほどうろうろと視線を惑わせる。たっぷり5秒。短いようで長い5秒の間たっぷり思案を重ねたアリスは、「お」と歯切れ悪く声を漏らした。

 「あぁはい、承知しました」

 「あの、俺」

 「いえいえ大丈夫ですよ。こちらこそ不躾でございました、ご容赦を」

 深々と、玉藻の前は頭を下げた。それでは、と忙し気にペットボトルからミネラルウォーターを注ぎ始める玉藻の前。怪訝且つ諦観の滲んだ顔したアリスだったが、抗議の主張は行わなかった。

 なるほど、「お」とは「お茶が飲みたい」という意味だったらしい。流石に数か月もともに暮らしていると、流暢な意思の疎通ができるということか。

 なんとなく、トウマは手持無沙汰になった。玉藻の前は既に料理を再開していた。アリスも要件を満たして満足したのか、もう部屋に引き下がっている。何をするでもなく佇立していたトウマにとって、耳朶を打った無線のクリック音はちょっとした救いだった。

 網膜投影された映像のステータスボードの中に、カルデアからの無線を知らせるポップアップが立ち上がる。モナ・リザをコミカルに模したアイコンだから、相手はダ・ヴィンチちゃんだろう。

 「すみません、ありがとうございました」

 「いえいえ」

 やや小走りに玉藻の前に声をかけてから、トウマは自室へと向かった。別に聞かれてもいい会話ではあるけれど、漠然とした決まり悪さから逃れる口実にしてしまっていた。ベッドとソファが並んでいるだけの、およそ6畳の広さの部屋にすごすごと引き下がると、トウマは柔らかいとも清潔とも言い難いベッドに腰を掛けると、無線の応答に応えた。

 (やあタチバナ君、おはよう)視界の中に投影された映像ウィンドウの向こうで、にこやかな笑みが浮かんだ。(早いね、まだ7時だけれど。いや、君にしては遅い方かな?)

 「なんだか気が緩んでしまって」

 (生活リズムは維持するように。気を付けてね)

 軽く嗜めるように言うダ・ヴィンチに、トウマはほんの微かに肩を竦めた。さて、と素早く話題を切り替えたダ・ヴィンチの気持ちの善さが、ちょっと救いである。

 (こちらからいいかな?)

 「あ、はい」普段の定時連絡では、基本的にトウマが喋ってダ・ヴィンチは聞いた上で判断を指示するのが常だ。「大丈夫です」

 (昨日の報告にあった君の情報、実験に移すことにした。日付は明後日の予定、時間はまだだ)

 「えーと、あの俺」一旦、声を切った。「僕を狙っているかも、という話ですか?」

 (そう。さっき、出現予測地点の割り出しが可能になるかもしれない、とわかってね。君にはまだそっちに居てもらわなきゃだから、まずはリツカ君に囮をやってもらおうかと。君個人を狙っているのか、いわゆる“弱い個体”を狙っているのかは不明だろう?)

 ぞっと泡立った肌の感触は、一体何を含み持ったものだっただろう。いつの間にか、モリアーティとダ・ヴィンチは既に敵の尻尾に手を掴みかけている。それへの素朴な驚嘆と、自分の立場への仄かににがっぽい感情を、トウマは自覚的に理解した。

 (あとでこっちのデータ送るから、目通しておいて。明後日の実験までには大丈夫? 一応、検証の際はそっちでもモニターして欲しいんだけど)

 トウマは、頑張って思考を切り替えた。自分の仕事を思い起こしてから、「大丈夫です」と応えることにした。

 (ごめんごめん、こっちの要件はこれで終わり。何かある?)

 「いや大丈夫です、特には」

 (オッケー、じゃあお願い)

 「今日は、午前は休みにしようかと。15時~19時の間くらいは分析に時間あてようかと思います」

 (了解。一応だけど、午前は仕事しちゃダメだよ君)

 「はい」

 ちょっとぎくりとする。トウマは内心の感情を表に出さないように努めたが、もちろん顔に出ていた。むー、と口を結みながら、ダ・ヴィンチは画面の向こうで腕組みをした。よい仕事はよい生活の中から生まれるものである。それが彼の信条で、劣悪な生活から善いものが生まれることは稀だと信じている。確かに、寝不足で学校に行っても眠くて授業どころではない。柄になく昔のことを思い出したトウマは、気を紛らわせるように「大丈夫です」と肩を竦めた。

 (じゃ、よろしく。あまり焦らず仕事をすることさ)

 あくまで素っ気ない様子で口にすると、ダ・ヴィンチの画面が空中に折りたたまれるように消えていく。微かな余韻に戸惑いながら、トウマは所在なくベッドに寝転んだ。

 天井を仰ぐ。取り止めもなく心情が並んでいく。玉藻の前の言葉。帰りたくないのか、という彼女の言葉が、脳みその底の方に沈殿していく。やはり、強烈な望郷のようなものは、ない。だが、別に、元の世界に未練がないわけではない。親は何をしているのだろうか、友人はどうしているだろうか、と心配になるのも事実だ。一人っ子なだけに、親は色々心配しているだろう。

 それに、小説とかでありがちだけれど、やはり元の世界に嫌気がさしたりしているわけでもない。善い教育を施され、善い友人もいて、生活に困ることもない。2010年代日本の中流家庭で健やかに育った少年なのだ。

 でも、じゃあ、何故帰りたくないのだろう。いや、帰りたくない、というのも違うのだろうか。自分でも判然としない情動が倦怠にも似た痺れになって肢体を巡り、トウマは、漠と天井を見上げていた。

 だから、にゅ、と視界に入ってきた赤い影に気づくのに、ちょっと遅れた。胸郭の上に伸し掛かる重さにびっくりしながらも、特に押しのけることもしなかった。軽く灰を圧迫する質感は、心地よさすらある。ふわ、と広がった馥郁たる香は、古い森の奥に萌えた新芽のようだった。クロエ・フォン・アインツベルンはそのままトウマを敷布団にしながら、「おはよ」と小さく呟いた。

 「連絡、終わり?」

 なんでもない、当たり前の会話だった。ふわあ、とあくびをするクロは、眠たげにトウマの胸元に顔を埋めている。じんわりと肌に滲む体温と淡い体臭が混交し、彼女と触れ合う肌の境界面が曖昧に溶けるような感触だった。

 「終わり。今日はちょっと、休みかな」

 トウマも、特に差しさわりのない会話を返した。そう、と応えると、クロはのそのそとトウマの身体の上からずり落ちる。そうして身体を起こすと、にへら、と彼女は笑った。

 「変な顔」

 うりうり、とトウマの頬を突っつくクロ。トウマは為されるがままにされていると、くしゃりと彼女の小さな手がくせ毛をかき分けた。柔らかい指先の感触が頭皮を擽る。くすぐったいような心地よさだ。慈愛に満ちた手付きだった。トウマはちょっとだけ身を捩った。羞恥のような照れだった。

 「今日、外でも行ってみる?」クロは、くしゃくしゃと髪を触り続けている。「気分転換くらい、した方がいいでしょ」

 うーん、と口腔内で声をくぐもらせる。思案するようにうーん、と続けながら、トウマはなんとなく、頭をさわさわするクロの手を取った。

 指を絡めながら、ぼんやりと思考する。どうせなら身体を休めた方が良いだろうか、という自堕落且つ保守的な考えがやんわりと浮かぶ。自堕落でこそあるけれど、生活にメリハリをつけるべきという考えは正当で、そう非難されるべきことではない。完全に休養にあてるべし、とまず考えてみる。

 だが、多分、それはうまくない。モラン大佐を通して“件の人物”が要求したのは、トウマたちが危険ではない人物であることを証明することだ。何事か後ろ暗い人物であるなら、信用がおける人物でなければ会いたがらないのは道理だ。多分、アジトにこそこそ隠れ回るような人物ではないだろう。むしろ、ちゃんと自分が如何なる人物かアピールすべしと考えた方が良い。それでいて、モラン大佐の物言いは「普段通り」であることを要求していた。生半に演技をしては、それこそ良くない結果になる。

 畢竟。

 「そうしようか」

 指を絡めながら、トウマはぼんやりと応えた。応えてから、どこに行こうか、とやはりぼんやり考える。正直に言って、ホワイトチャペルを始めとしたイーストエンドは、お世辞にも観光地とは言い難い。大英図書館が近いと言えば近いが、多分あそこに行くと仕事になってしまう気がする。

 「散歩するだけでもいいんじゃない?」トウマの指先をふにふにとしながら、クロもぼんやりと言った。「カルデアに居る時だって係活動でなんだかんだ忙しいし。ちょっとくらい、なーんもしない時間があっても良いと思うわ」

 すん、と鼻息を吐く。要するに、彼女は、自分に休んでほしい、と思っているのだ。特異点での生活もそうだけれど、カルデアでの生活だって、気楽で過ごしていればいいわけではない。基本、他業務を兼任で請け負う設備管理スタッフと違って、マスターの2人は休養が義務付けられている。特異点攻略従事中に服用される種々の薬物の後遺症の確認やら栄養・体調管理やらで、休みとは言え完全に気が休まらないのがカルデアでの生活……というわけだ。模擬戦闘や何やらを行う際は、その都度エネルギー担当を請け負うスタッフと所長代行のロマニ双方からの許可が必要になってきたりする。

 そういう仕事としての休養ではなく、完全に気抜けして休もうよ、と彼女は言っている。そう、トウマは理解した。

 気を緩めるとつい思考を始めてしまいそうな自分の脳みそを散漫にさせながら、トウマは身体を起こした。壁に背中を預けて脱力すると、ちょうど自分の手をにぎにぎしているクロと目が合う位置だった。

ほんのりと、数瞬ほど目が合う。ほんの僅かだけ彼女が身動ぎするたび、さわりさわりと銀の髪が小さく揺れる。タンクトップにミニスカという出で立ちのせいで露出した四肢は、なんだか細い。かといって感じる印象は繊弱さというよりは、靭性に富んだしなやかさを思わせる。

 ──黒山羊の脚。

 そんな言葉がふわりと頭をよぎった。

 幾ばくか見つめ合ってから、クロの身体が緩慢に揺れた。うんしょ、と伸ばしたトウマの両足の上……大腿部の上にぺたんと座り込むと、手を広げて「ん」と催促とねだりの中間みたいな声を漏らした。

 「だっこ」

 次いでにこの一言である。羞恥も何もなく、蠱惑的をありありと秘めたクールな口ぶりは、どう考えても小学生の外見で言っていいことではないと思う。小賢しい思考などたちまちに霧散するのを感じながら、トウマはむず痒いように口角を緩めつつ、ころりんと小さく頷いた。

 ぽすん、と小さな感触が胸にのしかかる。ふわりと咲いた馥郁たる薫りは、どうしようもなく黒い森の奥にひっそり開く山百合のものを感じさせる。

 トウマも寝起きの軽装で、クロもやっぱり薄手の衣類である。じんわりとした体温が柔い感触と一緒に肌を伝って、我知らず、心臓の拍動が早くなる。肺胞がメープルシロップに浸されるような窒息感に、呼吸が浅くなる。トウマは恐る恐る、と手を伸ばして、華奢な彼女の身体を淡く包んだ。

 「んー」

 ひょこ、と顔を上げるクロ。目と鼻の先、という日本語の慣用句があるけれど、この距離感はまさにそんな感じだ。鼻の先と先、その間の距離は僅かに定規一つ分、15cmほどしかない。ちいちゃな鼻息まで聞こえてくる距離に、ぞわぞわしたと蟻走感が脊索を駆け上がった。

 と、不意にクロの頬にさっと赤みが挿した。一文字に強く口唇を結ぶと、眉間に皺を寄せて難しい顔をした。羞恥やら何やらがぐるぐると渦巻いた表情のまま、クロはまた無言でトウマの胸元に顔を埋めた。むぎゅう、とさっきよりも強い力で抱きしめながら。

 トウマは、ちょっとおかしくて笑った。銀の髪に手櫛をすると、毛繕いでもするように、彼女の髪を鼻先で撫でた。

 今一時だけ、やんわりと、思索が解けていく。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅲ-12

 「あったあった、これだよ」

 リツカがリビングのテーブルの上に本を広げる。屋敷の天気は相変わらずで、リビングの古窓には、曇天をかき分けて届いた日光がちらちらと光っている。

 リツカが広げた古ぼけた本は、如何にも古書とでも言いたげな見た目だ。四隅が解けて茶色の内紙が顔を覗かせ、酷く擦り切れている。タイトルは『秘密を見守る者たち』。マシュが書斎で発見した本で、乱心しているとしか言えない妄言がびっしりと書き連ねている。基本的にリアリストなライネスにしてみれば、無知蒙昧を書き連ねただけの文章など論ずるに値しないのだが。

 「これ、そうでしょ。《遼丹》って書いてある」

 これ、と微妙に震えるリツカの指先を追う。気が触れているとしか思えない文章の中に、確かにその文言が目に入った。

 「偶然、と片付けるのは少々楽観的だろうね」

 眉を顰めながら、ライネスはソファに身体を押し付けた。何故か知らないが、ヘンリー・ジキルが集めていた本でも、気が触れている書籍には妙な圧迫感がある。背筋が熱湯で凍結するような、異様な感触。SANITYが削られるようで、妙な恐怖感が首すじを舐める。魔術師でない一般人であれば、あるいは発狂しかねない圧力だった。

 「《遼丹》に関する記述があった本は一冊。アメリカの大学にあった本のタイトルは、こんなタイトルの本じゃあなかった」

 淡々と口にするリツカ。彼女が、この本から感じる異様な感触を味わっているかはよくわからない。

 「基本、魔術協会の蔵書は、ある程度学術的意義があると見做されたものだけだからね。こんなもの、漏れて当然ではあるけど」

 「妄言が時に真理を指すということか」

 「真理かどうかはわからないけど。でも、何がしかのヒントになる可能性はあると思う」

 不愉快そうな表情で、リツカはぼろの本を睥睨していた。震える指同士を握り合わせながら、リツカは続けた。「世迷言を書き連ねた駄文が、本丸の可能性はある」

 「気が滅入るなぁ」

 「そう言わないで」

 ライネスは、如何にもやる気がないという顔をしてむしゃむしゃとプラチナブロンドの髪をかき回した。リツカもそんなことを言いながら、表情はハッキリ言って気楽さを感じる陰鬱さにまみれている。どことなく天衣無縫な印象の強いリツカだけれど、その出自は結構真っ当な魔術師だ。傍流も傍流ではあるが魔術師の家系に産まれ、魔術協会の総本山た時計塔で学を修めているのだ。直観的に、学術的なものとトンチキ文章とは区別して考えているのだろう。

 「ライネスちゃんはもっかい重要そうなものとそうじゃなさそうなもの、区別してもらっていい? 私、中身見るから」

 「りょーかい」

 早速、と本を開くリツカ。ぱらぱらと速読していく姿を横目に、ライネスは一度顔を手で撫でた。気分は乗らないが、いつまでもイヤイヤしているわけにもいかない。ごしごしと拭い落とすように顔を擦ってから、ライネスは重い動作で立ち上がった。

 奇書……もとい、幻想風小説をひとまとめにした山は、ちょうどブラウン管テレビのすぐ下にあった。テレビ横の花瓶に挿された青い薔薇が、網膜に鮮烈な像を彩った。

 重要そう、とは言うけれど、実際のところライネスにはどれも些末な本としか認識できないのが正直なところではある。どれもこれも、譫妄状態に陥った戯けが書きなぐったとしか言えないものばかりだ。邪神がどうだの、古い支配者がどうだの、とても正気で書いたとは思えない。ライネス・エルメロイ・アーチゾルテは、徹頭徹尾現実的な人間なのだ。

 さりとて。

 「これは別にいいか……これは」

 彼女は、学的思考なるものを真剣に考えてもいる。これは、彼女本来の気質とは少々ずれる。元々名家とは言え傍流も傍流の血筋なのだから、そう真剣に学を修めようと思ってきたわけではない。では何故に現在真剣かと言えば、一重に彼女お気に入りの“兄上”が所以である。義兄からこの旅を任されたのだから、大変気は進まないが全力でやってやろう、と意地悪くも健気に考えるライネスなのであった。

 「なぁリツカ、このカエル面の野郎の話はいいよな」

 「あー。別にいいんじゃないかなぁ。もう一回、これ読むか」

 ぽい、と書籍を1冊放り投げては、次の1冊に挑む。ソファに寝転がって怪書を眺めるリツカの表情も、正直言って胡乱な様子だ。時折、側頭部で結んだ髪を指先で弄ったりしながら、集中している様子だ。

 フジマルリツカ。トウマと違い、初期からカルデアの一員として参加していた魔術師の1人だ。途中時計塔に出向しつつも、主にレイシフト後の戦闘に関してアドバイザーとして参加している。ダ・ヴィンチや技術部のスタッフと共同で戦闘服の試験も行っている。少々……いや、かなり、だろうか……ぼーっとしているけれど、理性と良識を備えた、なるほど碩学たる人物であろう。トウマも最近、ようやくマスターたらんとする責任を自覚し始めているけれど、やはりまだまだ安心できる力量とは言い難い。

 既に大器として完成されているリツカに、今まさに成長を遂げんとしているトウマ。なんとなく楽しく感じるのは、義兄の影響だろうか。いや、兄ならば歯噛みするだろうか。

 本を開いては目次をめくり、期待外れだなと思っては閉じて放り投げる。お、と思ったらちょっと中身を検分する。そんな動作を、かれこれ20分ほど読んだところだった。

 ふと、ライネスの手は一冊の本の前で止まった。黒い表紙の、妙に分厚い書物。手を伸ばしかけ、一瞬手を止めた。何故? それは不明だ。だが、何かその襤褸の黒い本から、何事か奇怪な感触を覚えていた。

 本の山に積まれたままの状態で、恐る恐る本の表紙を注視する。タイトルはない。というより、タイトルは削られているらしい。表紙の一部、おそらくタイトルがあったと思しき場所は荒々しく削り取られており、茶色い台紙が剥き出しになっている。僅かに残った部分から読み取るに、何かの写し……要するに、写本らしいことは読み取れる。

 えいや、とライネスは手を伸ばした。分厚い表紙をめくると、むわ、と黴の混じった古い紙の乾いた臭気が漂った。

 目次を一瞥する。写本、というタイトルの通りというべきか、手書きの目次が3ページにわたって書き連ねてある。本のタイトル部分は、やはりと言うべきか、何か黒く塗りつぶされている。

 何がしかの、魔術書。目次を瞥見する限りの、ライネスの第一印象はそれだった。念のためぱらぱらとページをめくると、明らかにこれまでの妄言の陳述とは毛色が違うように感じられた。いや、内容は変わらないけれど、その文体が大きくことなるとでも言おうか。ただ妄言を執拗に書きなぐっただけの文面ではない。もっと体系的に、理性的に記述されている。中身はどうあれ、学術書として纏めようとしているように……見える。

 当たりを掴んだ。

 明滅するような直感に身震いしつつも、こういう時こそ冷静たれと己に言い聞かせている時だった。

 不意に、ソファに寝転がっていたリツカが勢いよく身体を起こした。ガバっ、という擬音語がそのまま聞こえてきそうなほどである。ぎょっとしたライネスをよそに、リツカは食い入るように本を注視しているらしかった。

 と、不意にリツカは本から目を離した。酷く顔を顰めたまま頭を押さえること10秒弱。大きくため息をはくと、ちら、とライネスを見た。

 「この記述、何か覚えがない?」

 これ、と差し出された本を、手に取った。

 

 “かの怪物は、自らの体液……これは原形質めいたもので、およそ地球の生物でこれに類するものは見つかっていない……によって、他の生物に対し、精神的に隷属させることを可能とする。あるいは、他の生物の特質を奪うことをも可能にする。その体液は、ともすれば濃緑色の膿か脳漿とでも言うべき粘性をもっている”

 

 もう一か所、とライネスが持った本のページを、リツカがめくる

 

 “かの怪物は、時空の狭間よりやってくる。それを我々は”角“と呼んでいる。奴らは角からやってくる……だが、それは角そのものではない。角こそ外なる世界と繋がる入り口なのだ。角そのものが問題なのではなく、その時空の入口こそが重要なのだ”

 

 本の表紙を、見やった。さっきの、『秘密を見守るものたち』とかいう陳腐なタイトルが、まざまざと網膜に焼き付いた。

 網膜の文字と、脳の奥に沈殿した情報がぶつかって、火花を散らして前頭葉で弾けたかのようだ。

 膿か脳漿。体液。ライネスは目視こそしていないが、それらの言葉から連想される粘性の液体は、ヘンリー・ジキルの家にあったものではなかったか。場所は、書斎と地下室に併せて2か所。

 そして、この時空の狭間という記述……さらに言うなら、この『外なる世界』という物言い。モリアーティとダ・ヴィンチが調べ始めているらしい、あの人狼の空間転移の正体と何か重なるところはないか?

 リツカと顔を見合わせる。無論、彼女も同じことを考えているに違いない。

 今まで獣の爪、という根拠しかなかったが、さらにあの獣がジキルを殺害したと考えられる根拠が現れた。しかも、場合によってはその正体にすら迫り得る可能性すらも。

 無論、2人とも慎重だった。まだあの人狼とこの書物に出てくる怪物が同一のものである、と見做せるほど考え知らずでもない。根拠が増えたとは言え、それはまだ間接的な状況証拠に近しい。

 だが、他方、2人とも漠然とだか直観し始めている。この獣の同定に際して、直接的な証拠など出てくることは恐らくない。あるのはただ蓋然性の高さのみで、如何にその蓋然性を高めるか、という点に尽きるのではないか。

 「しかし」リツカは眉間に皺を寄せながら、またソファに寝転がった。「怪物、としか言われてないと何とも言い難いね」

 「ライブラリのデータは?」

 「さっき依頼した」同じ姿勢のまま、リツカが言う。「あんまり期待してないけど」

 相変わらず手早い。感心しつつ、ライネスも「実は」と続けた。

 「この本、どうやら“神様図鑑”らしいよ」

 重々し気に、先ほどの写本を手に取る。へえ、と本から顔を出すと、リツカは興味深げにその本を眺める。

 「ごっこ遊びで作った神様の一覧表も載っているだ」

 幾分か揶揄的に言いながら、ライネスはリツカへとその本を投げ渡した。上手くキャッチすると、リツカは寝そべったまま本を開いた。

 「図鑑というとあれだがね」

 一応、補足。一覧表だけれど、写真はもちろん挿絵のようなものもないので、図鑑と言う物言いは不適当かなと思った。

 とは言え、些末事らしい。一旦先ほどまで読んでいた本を閉じてテーブルの上にぶん投げると、リツカは分厚い本を寝転がったまま眺め始めた。

 重要書の中味の検分は、あくまでリツカの仕事だ。わき目で彼女が不機嫌そうに文章を見やるのを瞥見しながら、ライネスは今一度山積みになった本に手を伸ばした。

 「千の貌を持つ──」

 リツカの独語が、耳朶を打つ。

 何故だろう。彼女が言わんとする言葉が、酷く闡明に、耳朶を打つ。

 耳朶を吐いた言語は何故か脳髄まで達すると言語野では黒く蟠っただけで、代わりに、視覚野で励起する。本来眼球から視神経を徹って脳みそに辿り着くことでイメージを描くはずの神経回路が逆流して、脳みそから這いずったその電気信号が視神経をのたうち、網膜に内側から像を結んだ……ような錯覚が、思わず惹起した。

 そうして浮かんだ姿、は。

 「──月」

 なんでか、不機嫌そうな義兄の顔だった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅲ-13

 ロンドンは、いつも暗い。

 分厚く重たい黒い雲を見上げ、クロエ・フォン・アインツベルンは言いようもない残念な気分になっていた。もっと言えば、自分が残念に思っていること自体が、なんだか瑞々しくて、ちょっと恥ずかしい。

 「ここは晴れないね」

 クロの視線の意味の表層だけを理解して、隣に並ぶ少年が人の好さそうな顔をしている。そうね、と応えながら、クロはその少年が健気に恨めしそうな顔をしている様子を、じっくりと観察する。

 癖のある、黒い髪。まだ幼さが残る表情。どんぐりみたいな、くりっとした瞳。それこそ、まだ少年という印象を感じる顔立ちだろう。けれど、体つきは、もう大分違う。

 「ほ?」

 どんぐりみたいな目が、こちらを見下ろす。手を伸ばしたクロの手は、トウマの手のひらと絡み合っていた。

 「ん」

 「うん」

 クロに応えるように、トウマはちょっと照れた表情をして、クロの手を握り返した。いかにも顔に赤みがさして、はにかむ様子は子供っぽいけれど。触れ合わせた手の硬い感触は、言いようもなく、大人の手という直感を抱かせる。皮膚は厚く、ごつごつしていて、皮は硬い。いや、手のひらだけではない。クロが投影したネイビーのフォーマルカジュアルのジャケットのせいで分かりにくいけれど、腕も肩も胸板も、大分大きくなった。アンクルパンツから覗く踝も、どこか太い。少年の面影は、その体躯からは感じられない。身長170cm前後と決して大きいほうではない──“お兄ちゃん”よりはちょっと大きいくらいで、“パパ”よりはちょっと小さい──けれど、その佇まいは見た目以上に大きく感じる。

 「公園でも行ってみようか。えぇと、マップは」

 応える代わりに、握る力をちょと強くする。半歩先を歩くトウマについていくようにしながら、クロは、緩慢な思考で、少年の姿を眼底に揺蕩わせる。

 端的に言って、クロエ・フォン・アインツベルンはこの少年に対して、一定以上の好意を抱いていた。わかりやすく換言するならば、クロは、マスターのことを好いていた。それは例えば友人として、とか知り合いとして、とかという曖昧で、いい意味で表層的な戯れの関係ではない。もっと深く、闘争的な関係として。

 いつから、というきっかけはわからない。というより、最初から、というべきか。何故、という理由も同じだろう。全ては、最初からあったこと。この気持ちはずっと昔からあったものだ。あの日、立華藤丸のサーヴァントとして、英霊召喚システムFateによって召喚された時から。あの時はもっと、母性的というような、庇護的な感情だったのだけれど……。

 知らず、クロはトウマに連れられて、近くの公園へと来ていた。相変わらず、空には分厚い灰色の雲が堆積している。

 広場の草むらに行くと、トウマは足を止めた。釣られて足を止めると、青々とした草草の上には、ぽつぽつと何か物が転がっている。酷く薄汚れ、襤褸になった服を身に纏う何か。浮浪者たちだ。もう昼近いというのに、当てもなく、またとりとめもない彼ら彼女らは、文字通り世捨て人となって睡眠をとっているらしい。

 2000年代以降の日本において、公園で誰かが寝ている景色自体はそう珍しいものではない。だが、かといって卑近な例というわけでもない。あくまで家のない人々というのは、日本社会の中での例外であることは論を待たない。まして、小学生だったクロなら、なおさらそういった人物など日常とは無縁の存在者だった。

 トウマにとっても、どうやらそうらしい。ベンチで寝ている人物はまだマシなのだろう。草むらで眠る人々は、傍目に見ると行き倒れているようにしか見えない。そんな人々を見つめる彼の視線には、明らかに道徳的に全き正しい軽蔑の眼差しをしていた。

 「もう、この時代、イギリスは世界の中心地じゃあなくなっているんだよ」

 半ばうわ言のように、トウマは口にした。隠し切れない不快感の志向性が奈辺にあるのかは、クロもよくわかることだった。

 言ってから、トウマは照れたように、ぎこちなく笑みを作った。「知ったような言い方」と自虐的に嘯いてから、トウマはクロの小さな手を握る力を、ちょっと緩めた。代わりにトウマの手を強く握り返すと、座ろ、と顎をしゃくった。「ちょっと疲れた」

 もちろん、詭弁である。英霊の影法師たるサーヴァントが、たかが十数分歩いて疲れたという道理はない。スニーカーなのだからなおのことだ。

 そして、トウマもそんなクロの言いたいことをそれとなく理解した。そうだね、と応えると、トウマはちょっと丘になっている草草の中にしゃがみ込んだ。

 ごろん、と寝転がるトウマの隣に、ちょこんと座ってみる。ショートパンツなせいもあってか、ちくちくと刺さる葉っぱの感触が擽るようだ。ひやりと冷たいのは、昨日僅かに雨が降ったからだろう。衣類が汚れるのはちょっと気になるけれど、まぁ所詮は投影品、と思えば些末なことだった。一応、作って良いという許可はもらっている。

 ぼーっと空を眺めるトウマの鼻先を、伺うように一瞥する。散漫に思考をしているらしい、そんな顔だ。凄まじいまでのいじらしさが胸の奥で燻り、クロはトウマの前髪を手櫛した。癖のついた毛は、見た目に反してするすると指が通った。

だいたい、5分ほどもそうしていただろうか。なされるがままに指先の愛撫を受けれいていたトウマは、とつとつ、と声を漏らした。「俺、帰れるのかな」

 胸郭に、何かの感触が膨れた。肺胞の1つ1つが破裂寸前まで膨張して、気管支まで圧迫するかのよう。髪から手を離して頬をなぞると、「なぁに、急に」と平素らしく声を絞った。

 この時ばかり、トウマはきっと、クロの内心を推し量ることなどできていなかった。むしろ、彼女の内心を慮れる者など、恐らくこの世界の外にもおるまい。「別に大したことじゃあないけどね」と、トウマはぼんやりしたまま続けた。

 「もうすっかり慣れたけど、俺はこの世界の人間じゃあないんだよなぁって」

 「帰りたくなった?」

 「うーん。正直わかんない」

 気難し気に、トウマは眉を寄せた。まるで両の眉同士が議論でもするみたいだ。クロの手は、頬から顎を撫で、首すじを擽った。

 「うーん」ちらっとクロの顔を伺いながら、もう一度トウマは声を漏らした。

 ちょっとトウマは顔を赤くした。照れたように頭をかくと、トウマは口元を情けなく緩めた。

 「個人的なベストは、この世界のこの事件が全部終わったら、帰れるといいなぁ」

 のそのそと身体を起こすと、トウマはどんよりした空を見上げた。見上げてから、ゆっくりと、クロの目を見返した。

 「クロも来る?」ぷい、とすぐにトウマは手慰みするように、足元の草をむしり始めた。「良かったらだけど。良かったら……」

 照れてる。それも、すっごく照れてる。草むしりするふりして、顔を見られないようにしている。耳まで真っ赤である。「何言ってんだ」と独り言ちながら、草を毟っている。もう土まで見えてるし。

 「どーしよっかな」ころん、とわざとらしく言いながら、クロはトウマの肩に頭をのせた。「JSにそんなこと言っちゃう人だしなぁ、トーマ」

 「サーヴァントなんだから」

 「でも受肉したら多分違法じゃない?」

 「じゃあ」拗ねたように口を曲げながら、トウマはむしった草を放り投げた。「その時がくるまで待つよ」

 トウマは、なんともまぁ小学生じみた健気なことを言った。言ってから、決まり悪そうに頭をかきはじめた。なんというか、基本台詞が逆だと思う。ちいちゃい女の子が近所のお兄さんに言うから様になるのであって、お兄さんがちいちゃい女の子に言うのはなんか絵面は変ではないだろうか。

 「いいわ。全部終わったら、一緒に行こうかな」

 「おーマジか」相変わらず、トウマは努めて素っ気ないようなふりをしている。彼は、あんまりこういうことに慣れていない。「じゃあ──ガンバらないとだな」

 また、生真面目そうに眉を寄せた。難題を前に、また眉同士が相談でもしているのだろう。

 胸が、幾分か強く拍動している。体育座りのまま膝小僧に顔を埋めると、クロはぶるっと身震いした。自我の奥底から立ち上った息苦しい痙攣の、柔毛(にこげ)のような感触。

 丸めた背中に、ほとんど羽毛のようにトウマの手が触れる。首筋からじんわりと下降する手が、肩甲骨に触れて、右の腋から指の腹だけで壊れ物でも扱うように弄っていく。

 滑らかに滑っていたはずの手が、不意に強張る。ちょうど肩甲骨の下あたり、薄手のパーカー越しでも僅かに浮き出た人肌と違う硬い感触に、トウマの手が微かに緊張する。クロも自分の動悸が早まるのを感じながら、つとめて平静に……あまつさえちょっと顔を挙げて、顔を赤くしているトウマに蠱惑的に視線だけを差し出した。無音のまま、口唇を単語の形に形作って。「えっち」

 戸惑うように宙を彷徨った手が、硬い感触に触れる。背中を締め付けるように横切る細い下着の上から、まだ不慣れな手付きが恐々と指先だけで撫でていく。ほとんど感触すらない接触が、どうしようもなく心地よかった。

 眠たさすら感じるほどの淡い感触に、クロも自分の頭が散漫になっていく。思考が断片化する、というよりとりとめもなく散らばっていく感じ。子供が遊び終えた後に散らかった遊具のように、頭の中に思考が千切れて転がっていく。深く古い、黒い森に小さく開いた陽だまりで、お昼寝でもしているような気分だった。

 ぞろぞろ。陽だまりの際で古森が、ざわめいている──。

 もっと、奥まで触れて欲しい、と思った。

 

 

 ロマニ・アーキマンが管制室に入ると、ひやりと肌寒い薄暗い中、ぽつぽつと明かりのついたディスプレイの前で幾人かがモニターを継続している。今日は定時の計画停電中で、明かりも空調も最低限にしかなされていない。かく言うロマニも、分厚い防寒着にすっぽりと身を包んでいた。

 当然、管制室の大型モニターも通電されていない。暗い画面を一瞥してから、ロマニは一番手近な席へと向かった。

 「やあハドソン君」画面に食いつくようにしている、中東系の浅黒い肌の男に声をかけた。とは言え、彼はアメリカ人だが。「どうだい、ロンドンの様子は」

 小さく声をかけたつもりだったが、男はちょっとびくっとしてから、ディスプレイから顔を挙げた。「なんだ先生ですか」と声を漏らしてから、男は肩を落とした。

 「問題ありませんよ。問題があったら、お呼びしてます」

 ふあ、とあくびしながら、男が言う。そろそろシフトの交代時間ということもあってか、酷く眠たげだ。

 まぁ、確かに彼の言う通りではある。基本3人でモニターすることになっているが、戦闘など緊急時は管制室付のスタッフは総動員することになっている。所長代行のロマニも、その時ばかりは管制室に詰めかけることになっている。

 「あれ、今日先生シフトに入ってませんよね」

 「いやあちょっと気になって」ちょっと居心地悪く、ロマニは苦笑いした。「今日は医務室なんだけど」

 「いいんですか? アキさん、怒ってません?」

 「許可、もらってきてるよ。今日はあんまり、医者の出番はないからねぇ」

 後頭部で一つに結んだ髪を弄りながら、ロマニは気の抜けた笑みを漏らした。ロマニ・アーキマンは現在、瞑目上は所長代行だが、本職はあくまで医者だ。当然、本来の配属は医務室である。所長代行としての仕事がない時は、基本的には医者としての仕事を行っている。そして、例によって、医者とは看護部長に頭が上がらない生き物である。

 「特に、代り映えありませんよ」浅黒い肌の男の声色は、普段のそれと変わらない。端的に、懸念すべき事由は一切ないことを示していた。「平静そのものです」

 「いつも、このくらい平和であればいいんだけどね」

 ですね、と返す男の声をぼんやり聞きながら、ロマニ・アーキマンは漫然と……というよりは、雑全と、これまでのことを思い出す。

 特異点“冬木”の攻略から始まり、オルレアン、ローマ、中世・近代の海と経た。ロマニとしては、一番心労が大きかったのはオルレアンだったろうか。冬木の時は、ただ遮二無二になって動いていただけに、正直その当時は疲れただのなんだの言っている場合ではなかった。ローマ以降、頼もしいオブザーバーができたのは、ロマニだけでなく、ダ・ヴィンチにとっても大きな助けとなっていた。ロマニは管制室に詰める必要が減り、ダ・ヴィンチも技術部の長として、特異点を攻略するための装備を各スタッフと整える時間を確保できるようになった。危機的状況はともかく、平時にまで責任者が現場に詰めかけているという状況は決して正常なことではない。

 中でも、この特異点は、今のところもっとも変化に乏しく、よく言えば平和だった。不穏な要因がないわけではないが、迅速に拠点を確保し、味方を確保できたのは心強い。

 「どうせ、いつもみたいに大変なことになりますよ」

 「だろうね」

 互いに目を見合わせると、呆れのような、それでいて諦観のような、そんな方の竦め方をした。これまでの経験則から、特異点の要石たるものはいつだって強力だった。なら、このロンドンとても例外ではないのだろう。さらに言うなら、今後の特異点も。

 とは言え、やはり“銃後”の人間として、ロマニは切に願わざるを得ない。無事に、何事もなくみんなが帰って来られるのが、やはり一番だ。それは所長代行としての立場も当然として、一人の人間として──さらに言うなら、子どもを戦地に送り出さざるを得ない大人としての、ささやかな願いだった。そんな認識は、多分、ロマニだけのものではない。現行のカルデアを支える全てのスタッフの、共通認識だ。たとえ魔術師であっても、自分より一回り、二回りも若い子供を死地に放り出して、平気な人間などそうはいない。いるとしたら、相当に人でなしだろう。

 「ところで、これはデートなんですかね」

 「は?」

 唐突な発言に、なんというかロマニは変な声をあげる。くい、と顎をしゃくるにしたがって男のディスプレイを覗き込んだ。「これはこれは」

 「若いってのは良いですなぁ。自由主義の体現者ですよ、若者とは」

 「君、覗き趣味はいいことじゃあないと思うけど」

 「覗きが仕事なんだから仕方なくないですか? 殴りますよ?」

 そりゃそうである。レンズシバからディスプレイへと出力された映像データをモニターするのも、管制官の重要な仕事だ。それと、腕っぷしの強い彼に殴られたら、元来インドア派のロマニには一たまりもない。袖を捲る仕草に対して「嘘嘘」と苦笑いして距離を取りながら、「絵面だけ見れば、近所のお兄さんと戯れる女の子みたいな図だけどね」

 「どちらかと言えばお姉さんと男の子みたいだけどね」

 映像の中、2人して木陰にしゃがみ込んで何か喋っているらしい。どうやら雨でも降っているらしく、2人並んで、ぼんやりと曇天の空を見上げていた。手を繋いで。

 「先生は、ガキの頃はどんなでした?」

 「僕かい? そうだなぁ、僕はそんなに、こういうことに興味はなかったからなぁ」

 「こりゃ意外だ。モテたんじゃあないですか? 男の私から見ても顔が良いと思いますが」

 どうかな、と口にした言葉は、果たして自分に向けた言葉だったろうか。正直、昔のことはあんまり印象にない。トートロジーじみているけれど、若いころは、若かったのだ。無感動に世界を眺めやっていたロマニにとって、恋や愛、というものに、何か重大な目的を置くことはあまりなかった。……なくはなかったかもしれないが。ロマニは管制室の設備……レンズシバを眺めながら、でもあくまで例外だな、と自答した。

 「最近は、タチバナ君もしっかりしてきたんじゃあないかな」

 さりげないつもり、ロマニは話題を逸らした。あまり、過去のことに思いを馳せるのは、好きなことではなかった。今こうして思い返すと、苦いことが多い。

 「勉強熱心ですよ、彼」男は、素直にロマニの話題のすり替えに応じた。「戦地に赴く心構え、みたいなの質問されましたよ」

 「なんだっけ、戦闘機に乗っていたんだったかな」

 「まぁ、そんなところです。まぁ実戦経験も何もありませんでしたからね、大したことは言えませんでしたが」

 かたかたとコンソールを操作しながら、男はやや悩まし気に眉間に皺を寄せた。「言い方はよくないですがね。多分、楽しいんだと思いますよ」

 「これが?」

 「というより、新しいことに熱中するのが、ですかね。がむしゃらなだけ、自覚もしていなそうですが」

 ちょっとばかり思案してから、なるほど、とロマニは頷いた。特異点攻略のため、トウマが色々なことに手を出して修練に励んでいるのは、カルデアのスタッフ間では周知の事実だ。魔術に関してのことだけではなく、例えば今回の新型魔術礼装を運用するために、ホルスターから銃を抜く動作を繰り返し練習したり、洋の東西を問わずに戦術・戦略論などを学んでいたりするらしい。加えて、歴史や古い物語を読み込んだり。3食の食事以外の時間はほとんどそういったことにあてている。睡眠の管理は医務室側で行っているため、カルデアに居る時はきっかり8時間取らせているが、こちらの管理が行き届かなければ、それこそ4時間3時間の睡眠で済ませようとするだろう。

 悪いことではない。目新しいことへ挑戦する楽しさのようなものが無ければ、その苦しさには耐えられまい。日々、魔術の指南をしているロマニには、なんとなくそんなトウマの無自覚な内心がわかるような気がした。

 その上で、男が懸念するのは、この過酷な戦いの中、どれだけ楽しさだけを原動力にしていられるかというものだろう。感情論に依拠したモチベーションは、強力なだけに擦り切れるのもまた早い。

 元より、立華藤丸の出自は不明極まりない。なんらかの設備の不具合によるものなのか、魔術と全くかかわりのない人生を送っていたにも関わらず、原因も原理も不明なままこのカルデアに転がり出たというだけの少年。世界運営上、気まぐれに生じるらしい第二魔法原理のせいなのかどうなのかは不明だけれど、何はともあれ、こんな世界の運命を背負わされる言われは一切ない。そんな少年が懸命に世界を背負って立とうという、その心境は想像を絶する。想像を絶するだけに、他者から見れば、その摩耗を懸念するのは、至極自然な発想であろう。身長200センチを超えようというこの男は優しい奴なのだ。

 「でも、まぁ大丈夫じゃないかなぁ」

 「ですかね」

 「まあ特に根拠のある話じゃあ、ないんだけど」

 ぼりぼり、とロマニは頭皮を掻きむしる。日頃の心労のせいか何なのか、若干円形脱毛症になりかけている部分が、手袋越しにもなんとなく感じる。あまり知られたくないなぁ、と思う箇所だ。

 言葉を濁したのは、別に言いにくいことだからではなく、ロマニには確証のある話ではないからだ。ただ、妙に確信めいたものは、ある。決して多くの時間をともに過ごしたわけではないけれど、なんとなく、ロマニにはわかる。多分、それはロマニ・アーキマンという人物が、人間として立派ではないからだ。

 「多分もう、彼はちゃんと、立脚点があるんだと思うよ」

 驚いた様子の男に対して、「多分ね」と続ける。ロマニには、人の内心まで踏み入るだけの千里眼なんて持ち合わせはない。

 「だから大丈夫さ」念のため、もう一度だけ「多分」と続けてから、ロマニは映像をぼんやりと眺めた。公園を散策し尽したのだろう。二人仲睦まじく手を繋いで、没目的的ながら、漫然と公園の外に向かっているようだった。

 「まぁそうなってもいいように、僕たちがいるわけじゃない?」

 男は幾ばくかモニターを食い入るように見つめてから、深く頷いた。

 と、ロマニは腕に巻いた腕時計らしきものが、ブルブルと震えたのを感じた。おろ、と小さなディスプレイを覗き込むと、カルデアの技術顧問様からのメッセージだ。(第二研究室で待ってる。フェイズ5まで進んだ、進捗確認諸々)

 ロマニは、しばし、その文字面を眺めた。悲嘆とも、苦悩とも、後悔ともとれるし、またとれぬ情動の渦に囚われたロマニの顔は、傍目には虚無を鑑みるかのような表情だっただろう。実時間にして3秒ほど。ロマニの体感にすれば永遠にも等しい時間を眺めやってから、右手を、頭に重ねた。円形脱毛症のせいで10円禿になった部分を、人差し指で軟膏でも刷り込むように撫でた。

 「僕たちは、あまり大人として胸を張れないことをしている」自虐的に笑みを浮かべてから、ロマニは朗らかに、重いため息を吐いた。「子供が頑張ってる姿を後ろから見ていることしかできないんだから」

 だから、ちょっとでも緩和しないといけない。最後、尻切れトンボのように吐いた声は、独語のように曖昧で、またその実は、発話というよりは主観的内心から沁みだした自責のようなものだった。

 多分、そんなロマニの内心を、男もよくわかっていた。ロマニとダ・ヴィンチしか与り知らないことについては流石に知らなかったけれど、このカルデアで稼働しているスタッフ全員が、肝に銘じていることなのだ。中には、リツカやトウマと同じ年齢の子供を持つ親だっているのだから。男も、同じ年齢でこそないが、まだ5歳になったばかりの娘の親だった。

 「じゃあ、何かあったらよろしく」

 「はい。少しは休んでくださいよ、先生」

 背後からの声に手を挙げて応えながら、ロマニは管制室を後にした。相変わらず、節約のために自動ドアを急場で設えたドアノブを握って手動であける。途端、ひょう、と吹き込んだ冷風に、ロマニは身を竦めた。

 慌てて廊下に乗り出して、真っ暗な廊下に出る。エネルギー節約のための計画停電中は、カルデアのバイタルパート以外の電源は極力カットされる。非常灯の電源すらついていないという、徹底ぶりだ。もちろん空調も最低限で、気温は摂氏-20度を下回る。南極の中でも標高6000mに位置する場所なのだから、これでもまだ大分温かい方ではある。魔術師ならば魔術回路と刻印を励起させ、基礎代謝をあげながら防寒着を着れば、まだ“ちょっと寒い”くらいに留められるレベルだ。いそいそと厚手のジャンパーを羽織ると、魔術回路の一部を別に駆動させ、指先に小さい灯を閃かせる。魔術としては原始的な操作で、知識こそあれ魔術そのものには長じないロマニでも、この程度のことはできる。まぁ、こういう時に最も感じるのは、文明の利器の存在だが。また携帯型のLEDライトの方が便利だし、明るいというものだ。

 「大体これ、疲れるんだよなぁ」

 少々、詮のない文句を漏らしながら、ロマニはなんとか第二研究室へとたどり着いた。距離すれば、500mも歩いただろうか。管制室のある地上1FからBF4階、水耕栽培式の食料プラントのある区画のすぐ脇が、そこだ。

 「やあ入るよ」

 よっこらせ、と例によって手動ドアをあける。相変わらず真っ暗であることは変りないが、暖色の灯がまあるく広がる空間は、なんとなく、穏やかさを感じさせた。

 広さにすれば、4畳もない空間だ。備品用の倉庫として作られた空間だが、今では倉庫などどこの部屋でもいいわけだ。他方、地下4階備品倉庫は、ダ・ヴィンチの研究室からほど近いという理由と、食料プラントの水の音が集中力を高めるという理由。加えていうなら、他の誰も近寄らない、という理由で、急場の第二研究室に作り替えられていた。流石キャスタークラスのサーヴァントというべきか、【陣地作成】により作り替えられた倉庫は薬品類やら器具やらが綺麗に並び、中央には何事か銀色のカプセルが……ちょうど人一人が横たわるほどのサイズの装置が、鎮座していた。

 「よ、お疲れ」

 件の人物は、倉庫奥の椅子に座っていた。安っぽいパイプ椅子は、今は使っていないオリエンテーションルームから持ってきたものだろう。入口傍にたてかけてあったパイプ椅子を手探りで取り出すと、ロマニもすっかり冷たい椅子を開いた。

 「悪いね、来てもらって」

 「いやいいよ。僕の仕事ですから」

 言いながら、ロマニは手癖のように頭に手を伸ばした。円形脱毛症の丸い縁、頭皮と頭髪の境目のざらついた感触を指の腹に感じながら、「フェイズ5っていうとどのくらい?」

 「メインの方はユニットの方に記憶転写を終えて、自我破壊も終わったよ。今はフィールド誘起素材の精製。こっちが資材」

 こつこつ、とダ・ヴィンチが棺のような機会を指で叩く。ロマニは、ただ無言で頷くだけだった。

 「これで、全員かい?」

 「そうだね、予備と廃棄も含めて全部」

 ダ・ヴィンチも、無感動そうに言う。

 「ミネルヴァの梟は、黄昏時に跳ぶ」独り言ちるように、ダヴィンチは声を漏らした。「全て恙なく終わらせなきゃあならない──裁きのために」

 それは僕の仕事、とは言わなかった。ただ、内心で注釈をするに留めた。代わりに、ロマニは「飲むかい」とポケットから小さめの缶コーヒーを取り出した。

 つと、ダ・ヴィンチの目が泳ぐ、束の間ロマニの手元を漂ってから、彼女の顔が、現実味のあるように蠕動した。

 「これ、どこから?」ちょっと胡乱気な顔。そんな人間味のある顔で、ダ・ヴィンチはロマニを見上げた。「備品をくすねてくるのは、所長としてどうなのかな?」

 「失敬なことを言うなぁ。私物だよ、私物」

 「わざわざ持ちこんだのか。変な奴」

 お前に言われたくないぞ、と言いたい気持ちをぐっと我慢する。美的センスだけで自分の身体を作り替えるような変人に変人呼ばわりされる言われはない。代わり、「糖分は、気分を善くするからな」と愚にもつかないことを言って、缶コーヒーを放り投げた。上手い事キャッチすると、ダ・ヴィンチは念のため、とラベルを見て備品でないことを確認してから、こきゅ、とプルタブを開いた。

 「もうセイバーとアーチャーの分の素材は確保した。後は、ランサーの分かな」

 「三騎士にしかなれないんだったかな」

 「それ以上となると、流石にあの子が持たないからな。マシュの適性から見ても、どうやら三騎士以外はあんまり巧くないだろうし」

 やはり、ダ・ヴィンチはどこか上の空だ。いや、その理由は、ロマニにも十分推察のつくところだ。意外なのは、彼もしくは彼女が、しおらしくしている姿が珍しかったのだ。いつも自信満々な顔で論理的に話をする姿は、今は鳴りを潜めている。

 「今日は、僕が担当しようか?」ポケットに手を入れてから、今さらに思い出した。自分用でもってきた缶コーヒーは、やったのだ。「まぁ助手についてもらわないと困るが……一応、外科手術の心得はあるつもりだ」

 「いや、いい。あくまでこれは私の仕事だから」

 ロマニの提案に、ダ・ヴィンチは硬質な声を素早く返した。が、ふう、と嘆息をついてから、「やっぱりそうしていただこうか」とうつむいたまま口にした。

 「助手にはつくよ」

 「大丈夫だよ、要するに解剖する心づもりでやればいいんだろう?」

 「そういうことじゃあない。そのくらい、やってみせなければ示しがつかないという話だよ。あの子に対してもね」

 言って、ダ・ヴィンチは立ち上がった。背後の棚から器具を取り出す姿を見ながら、ロマニは、銀のカプセルの一部……小窓部分を、覗き込んだ。

 覗き込んでから、後悔した。自分の選択が誤っていたことへの後悔ではない。そもそも、ロマニにそれ以外の選択肢などありようもなかったのだから。ただ、それは人間という種そのものへの戦慄であり、その忌むべき行為そのものを行ってしまう人類種という恐怖を見せつけられたことへの、後悔だった。ロマニ・アーキマンは、今日ほど自分がロマンなどという愛称で呼ばれていることを、苦々しく思ったことはなかった。

 「じゃあ始めようか」

 にも拘らず。というより、だからこそ、ロマニは普段通りの声色で言った。入口すぐ脇のハンガーラックから術衣を取り出し、ジャンパーを脱いで代わりにそちらに袖を通しながら、ロマニはマスクとゴーグルを装着していく。

 既にダ・ヴィンチは器具を用意し終えていた。術衣も装着済みで、ロマニがカプセルの隣に立つと、銀色のカプセルが鎮座する台座に備え付けられたタッチスクリーンを2、3操作する。警告音が響いてから、ぷしゅ、と空気が抜け、カプセルが縦に割れるように開いた。

 ひや、と冷たいものが背筋を撫でた。ここはむしろ暖かく設定されていて、気温にすれば20度はある。だから、冷たく感じたのは多分実際に寒かったのではない。それは多分、もっと悍ましい、人間性の寒気のようなものだった。

 「この、赤い線のところを」言葉を、区切った。声が、咽頭に詰まったかのようだった。「切除すればいいのかな?」

 「そう。まずは四肢の脱落から始めよう。その後頸部切除を……」

 これこそが、人間性なるものの本質であった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅲ-14

「こっちこっち」

 手招きするクロに従って、トウマは足早に駆けていく。しとしと、と降りしきる雨は酷く冷たく、妙にじとりとした手触りだ。どんよりと垂れこめる雲は、酷くどす黒い。

 「急に雨が来るんだから」

 濡鼠になりながら煉瓦造りの家の軒先に飛び込むと、クロが差し出したハンドタオルを手に取った。投影品らしいが、魔術を発動させた形跡をほとんど見せなかった。あくまで周囲に、ぽつぽつと浮浪者がいるからだろうが、それにしても奇術めいた手腕だ。元より投影魔術に長じていたのだろうが、さらに磨きがかかっているように見える。カルデアの英霊召喚術式“フェイト”によって召喚されたサーヴァントは、無尽蔵でこそないものの、性能の向上を可能とする。明らかにクロの投影の練度が上がっているのも、長時間の召喚により、投影魔術に最適な身体を獲得しつつある……ということだろう。きっと、あのヘラクレスとの戦いで見せた姿も関係あるはずだ。

 喜んでいいのかは、よくわからない。複雑そうな顔をしながら、トウマはタオルで髪の毛をかき回した。真っ白いタオルが灰色になったことに、ちょっと顔を顰めた。慣れたつもりだったとしても、タチバナトウマは21世紀の若者なのだ。19世紀ロンドンの衛生状況は、やはり端的に言って不愉快さを伴わざるを得ない。

 「せっかくなのに残念だな」

 忌々しげに、空を見上げる。重い雲は分厚く、とても1~2時間で消え去るようには見えない。

 「デートだったのにね?」

 ね、と表情を緩めながら、クロはせっせと手を繋いだ。トウマは不格好に曖昧な返事をしながら、おっかなびっくりと左手を握り返した。そんなトウマのリアクションに、クロは満足げだ。

 端的に言って、トウマは、そんなに異性の好意に慣れていない。小中、と『彼女』がいたことはあったけれど、なんとなく友達の延長以上のものではなかった。高校生活は始まったばかりで、部活動もしていなければさして気が利いた人柄でもない彼には、そんな短時間でできるほどに手練れてはいない。バキバキな童貞臭さこそないが、垢抜けてもいないという、そんな佇まいの少年である。

 掌に感じる生暖かい手触りの実在性に、ただただ困惑する。クロからの好意は多分本当で、勘違いということはないだろう。何故かは知らないけれど、そもそも何故と問うことは無意味だ。じゃあ何に戸惑っているかと言えば簡単で、応えて良いのか、トウマには判断がつきかねていた。今まで安定していて、且つ良い関係が何か変質するのではないかという予感。特に根拠はないけれど、ただ、変化することに、素朴な怖れのようなものを抱いていた。これはトウマに固有の体験というよりか、同じような境遇にある多くの人々に当てはまる普遍的葛藤であろう。どこにでもありふれた、ありきたりな主観的葛藤に悩む姿は、年相応のものであった。

 なお、トウマはちょっと自覚しながら、あえて見ないようにしている事実がある。例えば繋いだ手の感触の心地よさだったり、隣に彼女がいるだけで気分が良かったり、そろそろ終わりを迎える時分に降り出した雨への恨めしさであったり……即ち、根本的には彼女に対し、心憎からず思っている、という事実である。この事実そのものに対しては、トウマは疑義を挟んでいなかった。要するに、トウマはそれなりに自己肯定感があり、自分の主観的体験に対してはそれなりに素直だった。くどくどと言ってみたものの、まぁ、そういうことである。

 互いに何も言わぬまま、ただつないだ手の力だけが弱まったり、強まったりしていた。その強弱だけでコミュニケーションをとるかのように。その度に妙な気分になりながら、トウマは指を絡めてくる彼女の手遊びを、ぎこちなくも受け入れていた。多分、今自分は赤面しているぞ、とは思った。

 「あれ、どうやって倒そうね」

 不意に、クロは声を零した。思わず彼女の顔を見下ろして伺うと、彼女も、僅かに照れたような顔だった。彼女も、手慣れてこそいるが、同時に一途で初心なところがある。

 トウマも、内心の心地よい焦燥から目を逸らすように、「どうだろうね」と思考停止気味に相槌を打った。打ってから、思考を普段通りに引き戻していった。

 あれ、が何を指すかは言うまでもないことだ。そして、その手法は今考え中の事案でもある。あの敵の厄介なところは、何はともあれあの空間転移じみた移動手段だ。性能で言えばサーヴァントと同格に値する敵に対し、切り札たる宝具が躱されるというのでは、戦いにくいことこの上ない。

 「持久戦に持ちこむ、とかになるのかなぁ」

 自分で言ったが、これは多分巧い手ではない、と直感的に理解する。いつでも戦域から離脱し得る敵を相手に、持久戦を強いることはそもそも不可能だ。そうではなく、あれを倒すには宝具クラスの打撃で以て、一撃で打ち殺すことを主眼に置かなければならない。いたずらに時間を浪費すれば、それだけ敵に遁走の可能性を与えることになるのだから。

 頭の痛くなる話である。敵を倒すには一撃必殺を以て当たらなければならないというのに、その一撃必殺を当てる術がない──詰み、とまではいかないが、それに近い状況血言える。

 「ボルグがちゃんと使えたらどうだったかな?」

 詮のないこと、と前提しながら、クロは漫然と言った。

 『刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルグ)』。レンジ内であれば運動性能に関係なく心臓を抉り取る体内殲滅効果は、運動性能と防御性能に長じるあの獣を撃破するに最適に見える。

 が、矛盾的だが、それは“当たれば”の話だ。運動性能に大きな開きがある上、一瞬でレンジ外まで距離を離せる術を持つ相手に対しては、発生すべき因果を発生させることそのものが難しい。要するに、因果逆転の魔槍ゲイ・ボルグとても他の宝具と同じなのだ。とは言え、雑に使うのではなく、巧く誘い込めれば攻撃手段としては有効かもしれない。というのがクロの観点ではあった。

 だが。

 トウマは、何か、今の思考の中で奇妙な引っかかりを覚えていた。

 あの人狼には、何がしか空間転移のような能力がある。そしてそれ故に、宝具の打撃は寸で躱される可能性が極めて高い。事実、映像記録を見た範囲では、アロンダイトやゴールデンイーターの真名解放の際に転移し、回避行動を取っていたように見える。

 事実的に羅列される思考。取り止めもなく、ただただ陳列されていく事物の思考だというのに、何かを物語っているような気がした。

 何故そんな気がした? 内心で、自問する。自由連想の体で、寸前までの思考を遡行させたところで、トウマは、ふと、煩雑に絡まっていた思考が解れていく感触を惹起させた。

 が。

 「あ」

 「?」

 「ごめん、ちょっと待ってて」

 「あ、トーマ」

 トウマは、小走りに駆けだした。どぶのような腐臭を放つ雨も構わず、軒先で浮浪者たちが恨めし気に空を見上げる中。メインストリートから外れた路地へと、走っていった。

 

 ※

 

 ざあ、ざあ。雨が降る。

 足音が、汚濁色の水溜まりを割った。びしゃ、と弾いた汚水が石畳の隙間からしんなりと延びる雑草に降りかかり、ふらふらと揺れた。葉の上にしがみついていた芋虫が、不愉快そうに身悶えした。

 あの、とおっかなびっくり響いた声は、まだ若い。齢にすれば、16か17ほどだろう。声色には未熟さが残り、佇まいは、拭いきれない頼りなさが滲んでいる。むしろ、だからこそ、声の主たる少年の振舞は、何かのっぴきならない良識を感じさせた。また、確かに少年は未熟を脱しきれないが、身体の作りは十分立派だ。きちんとした栄養を摂り、年齢以上の逞しさを感じる身体ではある。

 他方、声をかけられた方は、果たして聞いているのか否かも不明だった。薄汚れた身なりは、端的に言って、万人に不快感をもたらすものだろう。長く伸び放題の白髪と口ひげも茶色の水を被って、どうお世辞を言い含めても清潔とは言い難い。浮浪者たちの中でも底の底、どん底にある世捨て人そのものであった。

 どん底にあるであろう、汚らしい人物……果たして男性なのか、女性なのかすら不明だ……は、身なりの善い少年の声に対し、ほとんど身動ぎすらしなかった。自分を追いかけてきた少年に対して、ただ、射殺すような視線だけを返していた。

 雨は、まだ降り続いている。しばし、互いに沈黙を飲み込んだ。最低の浮浪者は微動だにせず。他方、少年は少々苦っぽい表情で、いかばりか後悔や少々身勝手な怒気、それとおおむね申し訳ないという、そんな雑多な情動を孕んだ苦さだった。

 良かったら、と口にして、おそるおそる、少年は汚濁そのものといった風貌の老人に近づいた。羽織っていたジャケットを脱ぐと、老人の肩へとかけた。

 あの、別に要らなかったら棄てて構いませんので。そそくさとそう付け加えて、少年は身を翻した。その前に、もう一言だけ、付け加えた。ご不興を被るようでしたら、すみません。

 まだ、少年はもどかしげに立ち止まっていた。何か言いたげだが、言うのを憚る顔。倫理的行為に往々にして付きまとう、他者の主観性の侵害……他我への毀損という押しつけがましさに懊悩を抱く、そんな顔だった。

 結局、少年は、一言だけ謝罪の言葉を添えてから、その場から立ち去った。粘着質のようにまとわりつくもどかしさを、振り切ろうとするようにも見えた。己の無能をすぐに正視できるほど、少年は、達観もしていなかった。

 どこにでもありふれた光景だった。倫理的な行いをしようとする誰かと、倫理的な行いをされようとする誰かとの間に生じ得る、ともすれば行き違いのようにも、あるいは一方的ながらもニーズがすり合っているようにも見える……そんな、ありふれた一瞬だった。おおむね、人類の言語でその状態を葛藤といい、他者へと拝する憐憫という名の情動を以て倫理的行いをするときには、付きまとうものである。

 老人は、やはり、身動ぎすらせず、その場に佇んでいた。雨に打たれるのも構わず、身体が震えるのも構わず、ただただ、途方もなく佇んでいた。手が、肩にかけられたジャケットへと伸びる、襟首を掴み、無造作に脱ぐと、まじまじとその衣類を見つめた。老人の視線は、杳として知れない。ほんの少しとも動かず、微動だにしないまま。あの射殺すような赤い目だけが、ディープブルーのジャケットを眺めやっている。

ごうごう、と空が唸っている。どす黒い雲は分厚く、重油のような雨を垂らしている。大地に激突した滴は無数に砕け、煉瓦の壁にへばりついていく。雨に濡れた道端の吐瀉物はふやけ、撒き散らされ壁に塗りたくられ乾燥していた男女の体液は腐臭まじりの雨に流され、無限に希釈されながら世界に広がっていく。さながら、ライプニッツのコスモスのように。炉端の小さな陰や公園の樹々の下で雨宿りしていた浮浪者たちは観念したように、あるいは諦観したように雨降りしきる空の下を歩きだし、汚らしい衣類を雨で洗濯し始めていた。しなびた草の下、息絶えた芋虫が物と化していた。

 身汚い老人は、のっそりと動き始めた。ジャケットは羽織らず、さりとて手にぶら下げたまま。相変わらず射殺すような目で世界を閲する様子は、何事かを思案しているか伺い知れない。だが、何事かは思案している。その眼球は、虚空を貫く光の帯を、感慨深く視座に入れている──。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅳ-1 ”こんな子見た?”

 「ん?」

 ジェームズ・モリアーティはその時、少々優雅な時間を送っていた。

 時間は15時。アリスの維持する固有結界の中も、珍しく雨が降っている。しとしと、と霧の中から触れやる爽やかな露雨といったように窓を擽る水音は、どことなく聞き心地が良い。スモッグが立ち込めるロンドンの雨の汚らしさとは、まるで比較にもならないだろう。

 慎ましやかな自然の音色の中、自室で一人、女王陛下が淹れてくれた紅茶とスコーンを嗜む。贅沢な時間である。牧歌的な自然主義者でもないモリアーティであっても、気分が良くなる気がしてくる。そんな中での、通信端末からのコールだった。

 ちょっとだけ気を損ねながらも、モリアーティはまず紅茶を飲むのに専念した。プリセットされたコールの音からして、優先度は高いが緊喫の連絡でないことは了承していたからだ。連絡がきてからたっぷり30分。ティーポットの残りも飲み干し、スコーンも全て平らげると、やっとのことでテーブルの端に追いやっていた通信端末に手を伸ばした。スイッチを押し映像を空中投影。青白い画面が浮かび上がってから、その文字情報を眺めた。

 送信者はトウマだ。件名を一瞥してから、モリアーティは少々腰を浮かせた。

 口ひげを撫でながら、モリアーティは少々読みにくい文章に目を通していく。時折思考を巡らせるように背もたれに身を預けては、思考を取り纏め終えると再度身を乗り出し、文面を読み込んでいく。

 文面の内容は、大まかに要約すれば、あの人狼の空間転移の条件に関する考察である。まだ考察の段階に過ぎない、と前提を置きつつも、その文面には何やら確信めいたものを感じる。

 モリアーティは、学術に携わるものとして、こうしたときにおおむね慎重論に立つ。調子が良い時ほど、人は勇み足になりやすい。だからこそ慎重に、己の論点に何か齟齬が無いか気に掛けるものだ。それ故に、モリアーティはもろ手での賞賛はしなかった。だが、それは立場上のものだって、彼の個人的主観的な体験とはまた別な話だ。つまるところ、モリアーティは興味深くトウマのアイディアを一読し、価値があると判断し、その上で手抜かりがないか思案したのである

 思案しながら、彼はアトラス院のそれを思わせるように、思考を分割し、並列思考をはじめていく。立ち上がり、恐々した老体をゆっくりと伸ばした後、部屋を出た。

 「おぉい、ライネス君、リツカ君」

 大声をあげながら、モリアーティは階段を降りていく。がたがた、と1Fで何やら音がしているのは、多分部屋を片付けているのだろう。

 「どうかしたかな、モリアーティ教授」

 階段を降りて1Fホールに立ったところで、ちょうどライネスがリビングから顔を出していた。

 「後でそちらにデータを送るから目を通しておいてくれないかな? ちょっと面白いものがある」

 ライネスは何それ、とでも言いたげな、胡乱な顔をした。いや、実際は少々異なる。ライネスが胡散臭いものを見る目を浮かべたのは、何せモリアーティのその表情のせいだろう。

 ジェームズ・モリアーティは、無邪気な顔をしていたのである。学者にして往々にしてありがちな、知悉に極めて富んだ稚児めいた顔をしていたのである。犯罪皇帝だなんだと言われているが、モリアーティは、何よりもまず人智の及ぶところに到達することこそ最も興味がある事柄なのだから。

 

 

 「つまり、宝具の発動が空間跳躍の条件になっている……と」

 聞き返してきたマシュに対し、トウマは全く以て自信はなかったが、自信あるように振る舞った。大きく、頷いたのである。

 宝具発動を起動キーとして、あの人狼は空間跳躍を行っている。それが、トウマが思い至った結論であった。

 何か、論理的思考によってそこに至ったわけではない。ただ、映像を鑑みるにそう推論できる……という、だけの話ではある。それに、実際のところこの仮説には強力な反証が1つある。確固とした主張というには、まだほど遠い観測結果だ。

 「確かに、一見宝具を躱すために空間跳躍しているようには見えますけどね」

 「その逆、というわけですね」

 ソファの背後に立ちながら、玉藻の前が言う。2人がけのソファに3人……アリスにマシュ、クロ……がぎゅうぎゅうに座っているせいで、玉藻の前とトウマはソファの後ろに立ってテーブルの上に30インチほどの映像を見ている、というなんとも窮屈な状態だ。

 テーブルの上に空中投影された映像には、最初の遭遇戦が流れていた。ちょうど、クロがアロンダイトの真名解放を行い、そうしてあの人狼が跡形もなく掻き消えるという瞬間だ。

 これが、仮説を支える論拠の1つだ。そしてあと2つ。内1つは、同じくこの遭遇戦の折、坂田金時が放った『黄金衝撃(ゴールデンスパーク)』の回避。そしてもう1つが、2回目の戦闘の折、影なるセイバーが放ったあの剣の真名解放に併せての出現だ。

 特に注目に値するのは、3番目の事例だろう。前者2つと異なり、こちらは回避ではなく出現したという事例だ。しかも真名解放のタイミングでの出現、という一見非合理な所作も、トウマの仮説ならば説明がつく。前者2つだけから導ける妥当な結論……『真名解放という危険を回避するために転移を行っている』という結論だけでは、3つ目の行動は理解し難いのである。あの強大なセイバーを前に、しかも場合によってカルデアの戦力との挟撃されかねない状況で姿を現すのは、とても非合理的だ。

 「もしこれが本当なら、こちらで戦域設定しやすいわ」

 「モリアーティ教授の件もあるしね。戦いやすくなると思う」

 クロの言う通りだ。宝具の真名解放が条件だとするならば、こちらで条件を満たす自由度は極めて高いと言えよう。戦いにおいて重要なのは、如何にこちらが有利な条件で戦闘を始めるか、だ。どれほど強力な性能を持っていたとしても、その性能が発揮出来なかったり、弱点を突かれれたりすれば、たちまち敗北するものだ。

 しかも、どうやらトウマを狙っているらしい、という条件も重なれば、こちらの理想的な時間で、しかもかなり高い精度で出現ポイントを絞り込める。且つ、真名解放さえしなければ、あの敵は空間跳躍による回避行動はとれないのなら、戦闘も有意に進められるだろう。

 戦術・戦略両レベルにおいて、あの人狼相手に優位を得たといって差し支えないのだ。

 「でも、まだ正しいと決まったわけじゃない」

 極めて平静に、ともすれば冷淡さすら感じる口ぶりで、アリスが言う。彼女の言う通り、あの人狼相手に優位であることが、確定したわけではないのだ。あくまで、トウマの推論が正しい場合での話だ。現状はまだ仮説にすぎず、しかもこの仮説ではうまく説明できない事例、即ち反証事例が1つある。

 だから、トウマもアリスの声に、素直に頷いた。彼の脳裏にあるのは、その反証事例たる1つだ。

 何はともあれ、この特異点にレイシフトした直後の襲撃だ。宝具の発動すらなく、加えて言うなら何かトリガーらしき特別な行動もなく、あの獣は空間跳躍をしてきた。その上で、まずトウマを狙ったのである。宝具が空間跳躍の発動トリガー、というトウマの仮説では、一切説明できない事象だった。

 さらにそもそも論になるが、宝具の真名解放が空間跳躍のトリガーになっている、という推論も、そのバックボーンにある原理は全く不明としか言いようがない。何故その両者が結びつくのかは、一切不明だ。

 とは言え、その事象の背後にある原理の説明は、トウマの手に余る仕事であるし、また彼の請け負う仕事でもなかった。高度な知的作業を担うのは、今まさに幻想の館で頭脳を働かせる3人の仕事なのだから。

 これから、トウマの出した結論の是非はモリアーティたちが策定することだろう。後は、その結果を待つだけだ。動画の分析の仕事は、一旦終わりというわけだ。安堵がないわけではない。トウマはまだ16歳の少年で、戦いの経験自体も決して豊かとはいえない。そんな彼にとって、何事か貢献するというのは、結構嬉しいことだ。たとえばそれは、尊敬する両親に人格を褒められた時などに似ているだろうか。軽妙な高揚感……ふわふわと浮ついた気分が、否が応もなくトウマの心境を捉えていた。

 常人であれば、至って自然な感情の惹起であろう。自尊の感情が涵養されるのは、誰しも気分が良いものである。欠片とてナルシシズムを持たない人間が、果たして存在し得ようか。まして、その本性が凡夫に過ぎない少年とあればなおのことであろう。だが同時に、トウマは自分の陳腐さについては無自覚だが、客観的至らなさについては自覚的だった。浮ついた気分になりながらも、その浮つき以上に自分の狭量を理解していた。だからこそ、トウマは目の前の小さな自分の功績を手慰みのように内心で弄びながらも、かの人狼を打倒し得る戦術の考案に、早くも思考を傾きかけていた。幾分かの勇み足ではあったが。

 敵は自分(ないし、戦力的弱者)を狙っていること。出現ポイントが限定しやすいこと。宝具の真名解放は打撃として有効ではないこと。それらを全て綜合するならば……。

 あまり冴えているとは言えない頭脳を働かせながら、トウマは、干将莫耶に脇腹を裂かれる人狼の姿を、眼底に焼き付けていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅳ-2

 AM6:00

 坂田金時にとっては、夜が明け、朝が昇ってから大分経った時間と言えよう。生来が野に生きた彼にとっては、寅の刻を過ぎ、兎の刻を一つ時回る前の時間が、目覚めの時だった。

 基本的に山や庭の手入れを任されている金時は、この時間は外でせっせと勤労に励んでいる時間だ。案外アリスのこき使われている金時で、そんな忙しさも性に合っていたりする。

 だが、今日は少々事情が異なっていた。珍しく屋敷の玄関前に立った金時は、一応ノッカーを鳴らしてからドアをあける。大分慣れた外開き型のドアを潜り抜け、やはり慣れたように外履きのままホールまで足を進める。シン、と静まった屋敷の奥からは、何やら空腹を刺激するような匂いが漂っている。恐らくキッチン(台所)でエリザベス女王が何か料理でもしているのだろう。幾ばくか心地よい刺激を伴う匂いは、何故か彼女が得意とする中華料理の類だろうか。昨日買い物に行かされたことを思い出していた、

 帰ってからのお楽しみ、というわけだ。内心に独り言ちながら、金時は台所へは向かわずに、ホールを右手に横切る。電話の隣、花瓶に生けられた青い薔薇が、すっくと花弁を開いている。

繰り返すが、現在の時刻は午前6時である。金時としての理解としては、辰の刻。決して早い時間ではないが、未来の時間に生きる彼女としては、大分早い時間のはずだった。しかも、何せ生活態度においては劣悪を極める彼女である。果たして、本当に起きているのか、という疑念しかなかった。

 とは言え、命令を下されれば従うのが武士である。疑念たっぷりな感情は表には出さず、金時はリビングへと向かった。

 横づけ型の金属質の取っ手を握り、軽く下に降ろす。そのままおそるおそるドアを引いて、部屋の中を覗き込んだ金時は、すぐに後悔した。後悔してから、ノックをすればよかった、と思って慌ててドアを閉めた。

 「あれ、金時君?」

 部屋の中から、何やら声がする。なんと彼女はこの時間に目が覚めていたわけだ。それは驚くべき事実であり、また賞賛の気持ちも湧いてくるのだけれど、金時はそれどころではなかった。顔を赤くしながら、金時はドアノブが下がるのを見るや、なんというか少女のように顔を手で覆った。

 ぎ、と古い音を軋ませ、ドアが開いた。「何やってんの?」という朴訥とした彼女……リツカの声に、恐々と金時は顔を覆わせた指を開いた。指の間から彼女の姿を覗き込んでから、そうして、ほっとした。普段の、あの黒を基調とした衣装に着替え終わっていたようだ。顔から手をどけると、金時は「いやすまねえ」と決まり悪く声を漏らした。

 しばし、赤銅色の髪の少女は思案するように首を傾げた。3秒ほど考えてから、ようやく理解したらしいリツカは悪戯っぽい顔をした。「案外、ウブだねぇ金時クン」

 「ラブコメで見る主人公の仕草だよね。部屋に入ったら下着姿を見ちゃって顔赤くするって」

 「慣れてねえんだよ。その……肌の露出が多いってのがな」

 「酒呑童子は割と破廉恥な恰好じゃなかった?」

 「ありゃ鬼だろう」

 なるほど、と金時の言葉にうなずいてから、リツカは金時を部屋に招き入れた。前髪をかきあげて気を取り直すと、金時は堂々とドアを潜った。

 ここでも、金時はちょっと意外そうに眼を見開いた。当然見慣れたリビングが広がっているわけで、それ自体自然なことではあるのだが。ここ最近のリツカの生活態度と状況を見るに、本やら何やらが四散するが如くにあっちこっちに放り出してあるという金時の予想と異なる様相だった。確かに本の山はあるけれど、床の上に何やら秩序だって整然と並ぶ様は、整理整頓がちゃんと行き届いていると感じさせる。不衛生さを感じさせるものと言えば、テーブルの上に放り出された、あの甘ったるい飲み物が入った金属質の筒(アルミ缶)くらいなものだ。

 「片付けは私がやっているんだが」

 もう一方のソファに座るライネスが、素っ気なく言う。本と睨めっこしているライネスに、まぁそうだよな、と金時は呆れのような納得の視線を向けた。これは蛇足ではあるが、ライネスの身なりは、きちんと厚着をしていて金時の幼年じみた内心をかき乱さずに済む。

 ふと、金時はテーブルの上に置かれた、別なものを見て取った。手のひらサイズでプラスチック製。円柱状のそれは、何かの入れ物らしい。開いた蓋から見える限りでは、何やら軟膏らしきものが入っている、らしい。

 「それで」果たして金時の僅かな瞥見に気づいたか否か、ライネスが軟膏らしきもののケースの蓋を閉めた。「実験の概略のおさらい、だろう?」

 ライネスが顎をしゃくる。リツカも、もう一方のソファに座ると、自分の隣の席を手で叩いた。此処に座って、というジェスチャーだ。

 なんというか、仄かに羞恥心のようなものを感じる金時である。まるで近所に住む年上の女性に、良いように扱われているような、そんな気分だ。不快感はない……というより、むしろ心地よさのようなものすら伴うのが、なおのこと羞恥を掻き立てる。まぁ、結局のところ、金時は素直にリツカの隣に座った。ニコニコと相好を崩すリツカの表情を、金時はまともに正視できなかった。

 「追加情報、があるんだよな」

 勢い、金時は言葉を始めた。なんだかそのままにしておくと、2人にいいように手玉に取られそうな予感がした。リツカの飄然とした雰囲気は、どうにもかつての宿敵を思い出させる。同じ人間なだけあって、かえってやりにくい。

 そう、と金時に応えると、テーブルの真上に空中投影型のモニターが立ち上がる。金時には何事か書いてあるか不明だが、ずらりと並んだ字ずらには、時折あの人狼の画像が添付されていた。

 「敵の狙いはタチバナ本人ないしあるグループで最も弱い人物、というのがタチバナの推論だ。今回彼の提案は、それに付随して敵の出現条件を予測したものになる」

 「宝具の真名解放、が条件だって」

 なるほど、と金時は頷いた。単に新しい情報への評価というよりも、自分が選出された理由がよくわかるからだ。

──金時の宝具は、大別すれば2つになる。武装として所持している黄金の鉞に、その鉞の真の力量を引き出す真名解放の、2つだ。そして彼の真名解放は、他と比べると特殊な発動方法を取る。大抵の宝具は、真名解放の際にオドを大きく消費する。他方で、金時の宝具は、宝具の発動に自らの魔力たるオドを使用せず、大気中のマナを取り込む必要すらない。鉞に装填されたマガジン内のカートリッジを使用することで発動し、且つそのカートリッジ内の魔力を使用するのに、金時自身のオドはほぼ使用しないというすぐれた燃費の良さを持っている。加えて、状況により数発同時に発動することで宝具の殲滅能力すら高められるという優れものだ。魑魅魍魎跋扈する平安の世にあって、京の都を守護するために当時の人智の限りを尽くして作られた生粋の兵器である。金時の持つ打撃力の高さに継戦能力を付与する、というコンセプトは、サーヴァントとして召喚されてなお強力だった。難点は、彼自身では使用済みのカートリッジに魔力を再充填することはできないことだが。幸いにして、この特異点には、物質に魔力を込めることを得手とするキャスターがいるわけだ。

 つまるところ、金時は、極めてお手軽に真名解放ができるサーヴァントというわけだ。それでいて、本人の強さは折り紙付きとくる。実験としてはうってつけだろう。基本的に、金時は戦闘要員であって知的作業には全く向いていない。今までおおよそ蚊帳の外な生活だっただけに、やっと出番が回ってきたという感じだった。

 「それと、モリアーティ教授からのデータがこれ」

 「出現予測のマップだね」

 次いでモニターに表示されたのは、ロンドン市街を映した地図だ。赤いマークがそれだろう。

 「場所の選定はこっちでやるとして。基本的に、今決めることは、君にお願いがあってね」

 「なんだよ、実験に付き合えってことじゃあないのか」

 「いや、そうなんだけどね」

 リツカが、右の側頭部に手を伸ばした。いつもの癖で一つ結びにした髪をかき回そうとして、今さらに髪型が変わっていることに気づいたらしい。あ、という表情を作ってから。髪の一房を指で絡めとると、人差し指でうねうねと弄り始めた。

 「状況次第ではあるけど、敵が実際に出てきてもあまり手出しはしてほしくはなくてね」

 相変わらず髪を弄りながら、リツカは曖昧に笑みを作る。言いにくそうな表情を見れば、彼女の言わんとしていることはよくわかる。

 「俺一人で戦うのは危険ってことか」特に機嫌を損ねるでもなく、金時は口にしていた。

 「いや、まぁ負けないとは思う。ただ、勝てるかどうかは五分だからね」ようやっと、彼女は髪から手を離した。代わりに手梳きしながら、リツカは肩を竦めた。「勝てそうな戦い以外したくないからね」

 彼女の表情は、温和さを感じさせる。というよりも、呑気そうと言うべきか。人類の未来を担う知性の1人、という印象はない。彼女の振舞からは、剃刀の如く鋭さなど全く感じない。

 「敵の増援の可能性も加味すれば、長期戦になりかねない戦いはすべきではないってことさ」

 「オーケー、理解したぜ。万全を期すってわけだろ」

 素直に、金時は頷くことにした。リツカの言わんとしていることは、金時にもよくわかる話だからだ。敵が強大であればなおさら、必勝の策を用いて挑むが常道だろう。実際、かの酒呑童子を打倒した折も、そうやって倒したのだ。金時個人としては謀略を以てするのは気分も良くなければ苦手な部類だが、その必要性は十分承知している。

 「じゃあ俺からも提案だ」

 だからこそ、金時は身を乗り出した。お、と意外そうな顔をするリツカの、右腕を注視した。

 「万全を期すなら、ソイツを使えるようにしておくべきだと思ってな」

 彼女の右前腕に刻印された、深紅の痣。トウマのそれより2周りは大きいそれは、サーヴァントとして召喚された英霊の寄る辺とも言うべき証だった。

 令呪。サーヴァントに対する絶対命令権、だ。カルデアのそれは、聖杯から供出されるものよりも純粋な魔力供与という側面が大きいが、それでも強い命令権があることは変りない。神代の名残たる地のマナより錬成される令呪の拘束力は、聖杯のそれと比肩しうるのだ。

 それを、自ら服従するという。無論その恩恵こそ大きいが、その恩恵の対価に自らの自由を差し出す、と金時は言及したのだ。

 「信用してくれるということで、いいのかな」

 「いや、正直わからねえ。信用できるほど、アンタの人となりはわかっちゃいねえからな」

 忌憚なく、金時が言う。リツカは特に不満な様子もなく、ただ金時が続ける言葉を黙して、待った。

 「ただ、()()()()を完遂する近道だと思うんでね。アンタのことを信用する、コイツは前提条件ってわけだ」

 「助かるよ。そう言ってもらえると」

 今度は違えずに髪を弄りだして、リツカはほんのりと照れ交じりに肩を竦めた。年相応の少女らしさを感じさせながら、どこか老生した賢者のようでもある。

 矛盾の塊。金時がリツカに感じるものは、端的にそうとしか言いようがない。反知性的な言動や身振りを見せるかと思えば理性を感じさせるし、自堕落でありながら勤勉さも存分に発揮する。年相応、というより年齢よりも幼さを感じる振舞を舌かと思えば、時折見せる眼差しは年ふりた賢者のそれだ。生前とて、金時はこのような人間に会ったことはない。酒呑童子が近しいだろうか。だが、翻って言えば、彼女は人間よりも……。

 「じゃあ、契約しようか」

 おう、と金時はワンテンポ早く応えた。脳裏に過った考えは、金時にとってあまり気分の良いものではなかったからだ。

 「あー、ちょっと待って」

 「なんだよ」

 なんだか、リツカにしては歯切れが悪い。気まずそうに右側頭部でまとめた髪を指先で弄繰りまわしながら、リツカは仕方ない、とでも言うように肩を落とした。

 「契約に際して、私の基本的なパーソナルデータはそっちにも行く予定なんだけど」

 「なんだよ、知られたら不味いことでもあるのか?」

 「ちょっと」

 冗談半分に言った金時に対し、少々困ったようにしながらも、リツカは普段の気の抜けたような顔で応えた。それが却って、事の重大さを示している。直感的にそう理解して、金時は冗談笑いの表情のまま、感情の置き所に困惑して固まった。ライネスは、我知らずというように、瞑目したまま静々とペットボトルのレモンティーを口にしていた。

 「情報に鍵でもかけて構わないぜ」ようやっと表情の強張りを解くと、金時はなるだけ平静を装いながら、後ろ髪をかきあげるようにかき回した。「人間、他人に知られたくないことの3つや4つはあるもんだろうしな」

 「いや、まぁいいよ。折角信頼してくれると言ってくれたんだ。無条件に信頼を得る、というのも納まりが悪いからね」

 ちら、とリツカが横目でライネスを伺った。相変わらず、ライネスは特に何も言わずにレモンティーを口にしている。

 まぁ、そう言うなら。金時は内心で呟きつつ、控えめに頷いた。相手が良い、というなら、こちらから文句を言うのは筋違いというものだろう。ありふれた、普段通りの表情に戻ったリツカに対し、金時も居住まいを糺した。

 「じゃあよろしく」

 小さく、頷く。既にマスターとして格率されたリツカと、やはり既に召喚されて久しい金時の間の契約は、厳かながら、基本的に簡素を極めた。儀礼的な詠唱などは一切伴わず、ただ双方明確な合意を直観的理性で把握する、というそれだけのものだった。感覚的に言えば、何か深い領域で繋がりを得るかのような感覚。いわゆる“縁を結んだ”感覚、とでも言おうか。存在の底での接続という経験は、何か、異物が侵襲を伴って挿入されるかのような錯覚を覚えた。

続いて、いわゆるマスターになった彼女のパーソナルデータが脳内に惹起する。金時のイメージでは、使い古された木簡にマスターたる藤丸立華の情報が羅列される形をとった。

 一拍、金時はその羅列に息を飲んだ。そうしてから、隣で当たり前のように座る彼女の居住まいを正視した。金時の視線の意味を理解して、リツカは恥ずかし気に、あるいは申し訳なさげに、にへら、と笑った。

 「そういうことかよ」

 おおむね、自分に向けた独白だった。先ほど、人間よりも酒呑童子のような鬼のよう、という直感を抱いたのは、あながち間違いではなかった。金時は、少々気分が悪くなった。善意によって為される悪逆、というものは、いつ見ても、落としどころのない不快感を惹起させるものだから。

 「や、ごめん」

 「いや。大将、アンタが悪いわけじゃあない」

 ごく自然に、金時は意図もせずにそう口にした。その言葉遣いが、金時からリツカへの、沈黙と言う名の解答だった。彼女も、それを理解している。うん、と頷く素振りは小さかったが、確信に満ちた眼差しは、彼の好むところだった。

端的に言って、金時がもし何事かに不正義を感じるとするならば、世界そのものの在り様なのだ。リツカがそうせざるを得なかった状況そのものに、彼は大きな不正義を感じざるを得なかった。彼女へと向ける感情はそれとは別で、勇敢さへの尊敬であり、そうしてその勇敢さへの哀れみと憐憫だった。

 「不測の事態が起きたら、その時はあなたの力が必要だ。そしたら、よろしく頼むよ」

 「おう。頼光四天王が一人、その精強たるをお見せしよう」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅳ-3

 2日後、早朝。

 トウマは、この日誰よりも早く目を覚ました。

 AM3:42:21。

 ひとまず、冷たい感触に身体を震わせる。今日も雨だ、と直観的に理解する。いそいそと厚手の毛布をどけて上体を起こし、ベッドが設置された壁際の古ぼけた窓から、外を除く。こつんこつん、間断なくガラスを雨粒が叩き、しじまの騒めきを細波のように痙攣させている。曇りのあるガラスの向こうでは、分厚い黒雲がのっぺりと沈殿しているようだった。果たして暗いのは、まだ日が昇っていないからなのか、それともこの重厚たる雲のせいなのか。それとも、何か主観的な焦燥が、物理的な暗さ以上に世界を陰鬱に見せているのか。トウマには、判断しきれない。

 今日が、あの()()の日だ。こちらでもモニターを行うが、現地に参加するメンバーは主に4人になる。あのリツカなら不測の事態に陥るとも思えないが、それでも不安を惹起させるのは、自分が未熟だからだろうか。全身の肌を淡く擽るような、やきもきとした焦燥が、どうにもあくせくとした窮屈さを感じさせる。

 「今日も、生きてる」

 ぼそり、独白する。霊子情報体として装備する強化戦闘服が、トウマのバイタルデータを視野投影映像に表示している。体調は万全。血圧体温に異常はなく、酸素飽和度にも問題ない。幾分か心拍数が早いのは、彼の心配がより科学的に集計できる現れとなっている、ということか。

朝のミーティングまで、時間はまだ十分にある。まだ寝ていても良い時間だが、自然と、目が覚めてしまっていた。普段なら気ままに散歩などするのだが、こう雨ではどうにもならない。そもそも、今の彼に、独りで動いて良い権限はない。

一度ベッドに横になって、十数分。しばし悩んでから、トウマはそろそろとベッドから這い出した。喉が渇いたな、と思った。ソファでは、クロと玉藻の前が薄い毛布に包まって、座ったまま寝ていた。忍び足で入り口まで行くと、ぎぎ、と軋みをたてる音を苦心しながら開けた。

 廊下を挟んで、向かいがもう一室だ。主にリビングとして設計された部屋である。ここを通らないと、キッチンに行けない。やはり慎重にドアをあけると、隙間から、暖色の灯が硬く漏れた。

 広さにすると8畳ほど。L字型に配置されたソファの内、大きい方のソファに横になっているのは、マシュだろうか。であれば、丁度ドアに背を向けるように配置されたソファから覗く頭は、多分、アリスのものだ。灯は、アリスの丁度右斜め上にぼんやりと浮かぶ丸い光源から広がっている。プロイキッシャー、という使い魔の一種だろうか。光そのものが丸く宙に浮かんでいる、という絵は、妖精か何かが戯れているかのようだ。

 彼女は寝ている。こくこく、と頭を前後に動かす様を見れば、多分そうだ。ここでも抜き足差し足で部屋を横切っていく。

 ソファを横切る際、トウマは行けないことだと思いつつも、アリスの横顔を伺った。

 あ、と思った。彼女は、ただうたた寝をしていたわけではなかったらしい。寝ていることは寝ているけれど、テーブルの上に、慎重に置かれたそれは、彼もよく見覚えのあるものだった。

 黄金の剣(カリバーン)

 淡い光を受けているせいか、何か秘めやかに煌めく選定の剣。あの時、“ショバ代”として慎ましやかな太々(ふてぶて)しさとともに受領していった剣である。

 その前には、何やら本が開いたまま置いてある。魔導書、というよりは、現代の文庫本のような外見だ。

 食い入るように彼女の横顔を眺めてから、トウマは足早にキッチンへと向かう。

 19世紀末のロンドンのキッチンコンロは基本的にあこぎなもので、ガスはほとんど出ない癖に、一定時間すると強制終了し、継続してガスを出すには、手近なコイン入れに硬貨を入れなければならない、という始末である。加えて衛生的に全く安全でない水道水。そんなこんなで、普段から玉藻の前はウエストエンドに出向いては綺麗な水を調達してきて、自らの魔術で火を熾してはカルデアから移送された保温ポッドにお湯を貯めている。その内の一つを開けてから、トウマは棚から湯飲みを3つばかり取り出して、リビングへと戻った。

 湯飲みにそれぞれティーパックを入れてから、お湯を注いでいく。茶の入れ方などとんと知らないので、おおよそなんとなくだ。緩やかな湯気がふわりと沸き立つこと3つ。盆に乗せた湯飲み3つをテーブルの上に並べてから、トウマはそろそろと床に正座した。

 「あつ」

 もうもうと湯気を立てる湯飲みに口をつける。漠と思考停止しながら、トウマは膝を伸ばして、湯飲み2つをアリスとマシュの前に置いた。身を乗り出して湯飲みを置きながら、なんとなく、トウマは開いた本のページを、ちょっとだけ見た。アリスはおおよそ魔術師がそうであるように秘密主義者で、彼女自身が利益関係ありと見做した人物にしか、魔術に関する何某かのアドバイスなどしない。まして魔導書など、トウマの如き人物に披歴することは有り得まい。万が一、盗み見などがバレたら極刑ものである。そうしてトウマは、まだ純粋な魔術師というものに出会ってはいないのだ。それでもちょっとだけ見ちゃう、という程度に留めたのは、トウマの良心が一応はあったが故であろうか。

 幼稚な好奇心と軽率な良識の中、トウマが目にしたのは、けれど予想とずれた文面だった。何事か魔導に関する書物と思われたそれに書かれていたものは、それとは異なるものだった。

 

 “One, two One, two! And through and through The vorpal blade went……”

 

 一瞬だけ目に入ったそのセンテンスは、格式ばったものというよりか、踊るように軽妙なもののように見えた。何故そう感じたかまでは不明だったが。

 果たして、トウマが見たのはそれだけだった。やはり彼は、おおむね理性と良識を備えていた。それ以上は人道に反する、と理解して、彼はせっせと座り直した。

──現時刻、AM4:01:23

 窓を叩く雨音は変わりなく、鈍い音を響かせている。かたかた、と揺れるのは、風のせいだろう。ひょうひょうと壁から闖入する隙間風が、首元を擽る。思い出したように湯飲みを手に取ると、トウマは湯気だったそれを口にした。熱い。渋みが強く、爽やかさが空しいほどに削がれた、安物のお茶の味だった。旨かった。

 マシュは、まだソファで横になっている。厚手の毛布に包まって、すやすや、と慎ましくも可愛らしい寝息を立てている。アリスも、変わらない。前後左右、ふわんふわんと頭を揺らす彼女は、ヒュプノスの囁きに身を委ねたままだ。それとも、幻想的な子守唄だろうか。

 2人の前のテーブルの上に置かれた湯飲みは、まだ湯気を立てている。ただただ白く闇暗に筋を引いている様は、虚しくもあり、また細やかでもある。トウマはじい、と虚空に飲まれて消えていく行方を追いながら、ちびりちびりと安物の茶を散財した。温和に照らすアリスの灯が暖かく感じるのは、気のせいだろうか。気のせいだろう。身体が温まってきたように感じるのは、熱い茶を飲んでいるからだ。

 喧噪な無の静寂(しじま)を耳朶に打ちながら、トウマはただ、闇の中で茶を飲んでいた。暗いせいでどす黒く見えるそれを、ちびり、ちびり、と口腔内に含む。もう、舌が焼けるほどの熱さではない。

 前髪をかき回した。寝起きのせいで、普段以上に癖のついた髪が指先に執拗に絡まる。なおのこと髪をかき回す仕草は、果たして自分の思考をかき混ぜるようなものだったのか、それとも振り落とすためのものだったのか。さながら一角獣の如くに屹立するまで前髪をくしゃくしゃにすると、トウマはようやっと、擡げてきた眠気を感じた。後頭部の裏側。後頭葉から小脳、ないしその奥の脳幹をオリーブ油でも浸したかのような、軽やかに鈍い眠気だ。まだ温かい湯飲みを手に持ちながら、トウマは声もなくあくびをした。呑気だなあ、と思いながら、彼は弛緩した思考のまま、淡い仄光を網膜に受容する。すぐ背後に迫った暖かな闇黒に身を委ねるように、トウマは眠りに墜落していった。

 

 ※

 

 クロが目を覚ました時、まずもって目が向いたのは、空になったベッドだった。一瞬、早鐘のように心臓が波打つのを感じつつも、すぐに小さく息を吐いた。視野投影された映像データには、トウマのものを示すバイタルデータがパスを通じたローカルデータリンクで表示されている。マップを呼び出せば、リビングに彼を示すブリップが灯っていた。

 現時刻、AM4:22:34

 ちら、と珍しく隣で寝ている玉藻の前を伺う。「ご主人様……ワンモア、ワンモアプリーズ……」鼻提灯を膨らませてむにゃむにゃと寝言を宣っておいでだ。もう少しでひょこひょこ、と蠢く尻尾に包まれているのは大変居心地がいいのだが、外へ出ることとする。一度だけ尻尾を撫でてから、クロはベッドの壁際の窓を、見やる。こんこん、と打つのは雨音か。なら、小さく揺らすのは風だろう。灰色の雲から降りしきる雨は、そう強くはない。ロンドンに降りしきるいつもの雨だが、あと小一時間もすれば止みそうだ。雨雲も、黒雲というよりは灰色だ。とは言え、ちょっと寒い。手早く薄手のサマーカーディガンを投影してタンクトップの上から羽織ると、リビングへと向かった。

 まだ全員寝ているだろう、という予測に従い、音もなく歩いていく。フローリングの詰めたい感触が素足の裏を引っかく。

 果たして、トウマはリビングでうたた寝をしていた。ぼんやりと空中に浮かんだ光源は、アリスのプロイの1つか。淡い灯に照らされて、床に座り込んだトウマは項垂れながら、鼾を鳴らしていた。

 「おはよう」

 テーブルの傍に寄った時、不意に耳朶を打った声にぎょっとした。声の方を向くと、無表情に押し黙ったアリスが、こちらを見ていた。

 「雨」

 押し黙り気味なのは、眠いからだ、と今更に気づく。鉄面皮のような表情に見えるが、明かりに照らされた顔をよく見ると、瞼がいつもよりも重たげだ。

 「早いわね」

 こくん、とアリスは頷いた。どこか不平不満を感じさせるように、口元が結んである。じい、と眉間に皺を寄せる視線の先には、毛布を被ったトウマが鼾をかいて眠りこけている。目の前のテーブルに置いてあるのは、アリスの屋敷から持ちこんだ湯飲みだろうか。それとなく中を覗き込むと、1/3ほどがまだ残っている。どうやら、すっかり冷めているらしい。というか、よく見るとアリスと、それとソファで寝ているマシュの前にも、それぞれ湯飲みが置いてある。マシュのものは当然残っているし、アリスのものもまだ手を付けた様子はない。

 ちょっと、申し訳なさげにアリスに瞥見を渡した。彼女は“特に気にしない”とでも言うように、無表情のまま首を横に振った。

 「何してたの?」くい、とトウマの方を顎でしゃくる。さあ、とアリスは小さく肩を竦めて応えた。

 大方、眠れずに目を覚まして手持無沙汰になった結果、一服しようとして眠落ちた、というところか。呆れにも似た淡い情動が凝るのを感じて、クロは癖のある……というか癖が酷い髪を、微かに撫でた。なんかユニコーンみたいになっている。

 「優しいのね」無音が、耳朶を打った。続く言葉もあったらしいが、それはアリスの口唇を震わせて外へ出ることはなく、口腔内で消化されたらしい。クロは、少し半身を翻して、アリスを見た。どこか漠とするアリスは、多分自分で口にしたことにも気づいていない様子だ。独語だったのか、それとも独白だったのだろうか。なんとなく決まり悪くなったクロは、視線を逸らした。

 「ねえ」

 口にしてから、しまったな、とちょっと思った。何か話さなければ、と気を揉んだのだが、クロとアリスの接点は、おおむね微小にしかない。何、と伺うような視線が向くのを背で感じながら、何か話す話題に気を伸ばした、その時だった。

 咄嗟、クロは1F玄関口の方に鋭い一瞥を投げた。リビングとダイニングの間の廊下から顔を出し、すぐ直下の階段から玄関口の方を見下ろす。微かに眉間に皺をよせてから、クロは視線だけをアリスに渡した。彼女も、もう寝ぼけた様子はなく、犀利な眼差しに戻っている。

 ──投影、開始(トレース・オン)

 右の掌に、手馴染みになった変哲もない大型の近接戦闘用短刀(バヨネット)を投影させる。そして、もう一つ。細長く、尖端が二股に分かれた“得物”を投影すると、ナイフは逆手に構えたまま、音もたてずに階段を降りていく。

 残り、4段ほどになったところで、クロは足を止めた。耳を研ぎ澄ませる。【千里眼】のスキルは、ただ視覚情報が極端に向上したものではない。その他雑多な感覚を。視覚という感覚器官で綜合することで、“視る”ことに多様な性能を持たせるのが、【千里眼】の本質だった。要するに、クロは玄関越しに、外の気配を視野で追っていた。

 誰もいない。おおよそあたりをつけながらも、クロは慎重だった。さらに2段ほど降りてから、クロは投影したもう一方の得物……酷くチャチなマジックハンドを投影した。多分、100円均一ショップで売っているような。彼女の元になった英霊の投影魔術は、刀剣類に限り宝具の投影すら可能とする一方で、それ以外のものを投影することに関しては不得手である。構造物が複雑であればあるほど劣化するのだが、この程度のものであれば造作もない。

 階段上でこちらを伺うアリスから胡乱な視線を感じつつも、クロはえいや、と左手に握ったそれを、玄関口の床へと伸ばした。

 狙いは、玄関の隙間から差し込まれた、紙片だった。白い封書を巧いこと掴むと、ひょい、と持ち上げる。

 宛先はもちろん、宛名もない。封蝋も、なんの印もないスタンプで押されているらしい。ただ、一文だけ、走り書きのような文字が端に滑っている。

 黒いインクで書かれた文字を見るなり、クロは足を踏み込んだ。そのまま玄関口まで足早に駆け降り、玄関をあけ放つ。ざあ、と降りしきる雨が頬を打ち、浚うように蠢いた風が前髪を浮き上がらせた。

 ぽつぽつ、と黒ずんだ人影だけが、広場を彷徨っている。そう遠く離れていないはずだが、それらしい人物は見当たらない。雨音が、遠く、遠雷のように空に凝っている。

 漠と佇むこと十数秒。踵を返したクロは玄関に入ると、再び、封書に奔る射干玉(ぬばたま)色のテキストに視線を落した。

 

 “Diamond is Unbreakable”

 

 「──奇妙な?」

 「違うと思う」

 背後から覗き込むアリスにツッコミを入れていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅳ-4

 (今日の14:00からとなると、被ってるね)

 ちょっと悩む素振りのダ・ヴィンチに対して、トウマは大変真面目な声で応えた。

 例の人物からの手紙が来たのは、今日の早朝のことだった。会談の場所と日時、それと人物だけが素っ気なく書かれた文章は、酷く事務的で、書き手の人情を一切感じさせないものだった。

 現時刻、AM10:00

 二度寝から目覚めてから、おおよそ3時間が経っている。クロに起こされてメールの内容を確認するなり、大わらわでリツカに相談し、今に至る。

 (まぁ別にいいんじゃないかな? トウマ君がこっちのモニターにいなきゃいけないこと、ないでしょ)

 空中投影された映像は2つ。1つはダ・ヴィンチで、もう1つはリツカだ。寝間着のままベッドの上に座り込んだトウマは、ねえ、と尋ねるようにこちらを伺うリツカに身を竦めた。

 14時、という時間の問題は、簡単に言えば「実験」と時間が被っていることだ。こちらもモニターとして参加することにはなっていたのだが、会談に出るとなると、そちらには参加できないということになる。

 (どう思う、タチバナ君)

 ダ・ヴィンチの声に、しばし思案してから「リツカさんの言う通りかと」と頼りなさげに応えた。

 「向こうは僕とキリエライトさんを指定していますから。アリスさんにも来ていただくとして、クロと、あと玉藻さんにモニターの方はお願いしようかと」

 (アリスちゃん、よく承諾してくれたね)

 「戦力を分散させるのは巧くないですから」

 若干会話に咬み合わさなを感じつつも、リツカは一応、頷いてみせた。なお、トウマは真剣に考え事をしているようで、その咬み合わなさには鈍かった。

 (一応、その封書のフレーズは検索にかけておいたよ。特に何か伝承を示唆するものではないみたいだが)

 どうかな、とダ・ヴィンチは言外に尋ねていた。無論、質問相手はトウマではなく、リツカだ。一時の研修目的とはいえ、伝承科(ブリシサン)に席を置いたこともあるリツカではあるが、眉を顰めて肩を竦めただけだった。(んーちょっとわかんない)

 (奇妙な冒険じゃない?)

 (まぁ英霊の座の自由度を考えれば、あり得ないことではないが)

 呑気そうに言うリツカに対して、ダ・ヴィンチは呆れるような、悩まし気な顔だ。彼女たちが議題にあげている文言……今朝届いた封書に記されていた文言に、何か人物像に対する手掛かりがあるのではないか、と調べていたらしいが、どうやら不発のようだ。封蝋のスタンプも印も何もないものでは、調べようもないらしい。決してランクは高くないとは言え、サーヴァントたるクロの【千里眼】に捉えられなかったとなると、相当な人物であるということは伺い知れる。アリスに助力を仰いだのも、それが理由だ。

 「“ダイヤモンドはなんとやら”、だとそのまんまですよね」

 (さぁ。詩的表現の解釈、というのは中々難儀だからね。案外、そのまんまの意味だったりするかもしれないし、それを踏まえてのダブルミーニングだったりするかもしれない)

やれやれ、というように、ダ・ヴィンチは肩を竦めている。万事に通ずる才気とは言え、なべて物事を容易く見通せるというわけではないらしい。

 (人員についてはリツカから見てどう?)

 (いいと思うよ。マシュとはフレンド契約、結んでるんだよね)

 「はい、一応」

 (それでも、有事の際にマシュ1人でトウマ君を守り切れるかはわからないしね。キャスタークラスのバックアップの有無はやっぱり大きいし)

 「ありがとうございます」

 思わず、トウマは画面に向かって頭を下げてしまった。日本人気質らしい振舞であろう。まだ慣れない様子のダ・ヴィンチは、怪訝そうな顔で、トウマの頭頂部を眺めることになった。

 (オッケー、じゃあこっちの問題はこれでクリアだ)何かあるかな、と確認するように、ダ・ヴィンチの視線が左右に動く。トウマは首を横に振ってそれに応え、リツカは(ないでーす)と温和そうに返事をした。(じゃあ、これは後でロマンに報告しておくよ)

 (じゃあ、次に移ろうか。資料、もう目を通した?)

 一応は、と心もとなく応えるトウマ。リツカも僅かに頷いただけだけれど、彼女はちゃんと頭の中に入っているらしい。

 資料、とはいうものの、実のところ、一部作成したのはトウマだったりする。端的に言えば、あの人狼に関しての情報のあらましだ。それに加えて、リツカたちの蒐集した情報を総合したものが、件の資料ということになる。羅列するならば、おおよそ以下の概要になりだろう。

 

 1.敵の能力(出現条件なども含む)

 2.出現予測マップ

 3.人狼の真名に関すると思しき情報群

 4.その他(1、2を踏まえて取りうべき戦術)

 

 1に関してはトウマの情報供与によって作成されたもののため熟知しているが、2以降に関しては、しっかり頭にインプットしているわけではない。2はモリアーティ教授が、3はライネスとリツカの作で、4は1~3を総合して、トウマの提案をベースにリツカがブラッシュアップしたもの……といった形だ。

 (今更だけど、敵の戦力を測定するのが、今回の作戦の戦術目標といっていい。局地的な戦術的勝利に拘る必要は、特にない)

 リツカの言う通り、今回の目的はあくまで、敵の能力がこちらの予測通りのものか見定めることそのものにある。トウマからすれば、こちらで戦域設定できるこの状況、リツカなら多分、あの人狼を撃破することも可能なようにも思える。けれど、彼女のスタイルからして、それはできないのだろう。彼女は、基本的に十二分に勝てると踏んだ戦いしかしない。指揮官として、当然だが重要な素質だ。

 戦いを有利に進めるには、こちらで戦域を設定し、想定通りの推移で戦闘を進めていくことが肝要だ。要するに、ある種の管理能力が必用、というわけだ。これも当たり前の話だけれど、思い通りに戦闘を管理するのは容易なことではない。たとえば、オケアノス。神代の英霊を相手に、ライネスとリツカはほぼ優位に戦いを進めていたのは、戦況の推移をうまく管理しきれたことによる。ヘラクレスの最後の宝具こそ予想外だったものの、素早く立て直しを図って即自全滅を免れたのは、リツカの判断によるところが大きかった……と、思う。

マシュも、クロも、ライネスも、それぞれサーヴァントとして優秀なことは違いない。だが、リツカがいることの安心感は、また別種のものだ。

 (基本的には、金時は呼び水になってもらいながら、私の直掩に。ライネスちゃんとリンちゃんには、バックアップに回ってもらおうかと思う。教授はまぁ居ても仕方ないからアレだけど)

 「モリアーティ教授、本当にサーヴァントなんすかね」

 (私に普通に殴り負けるくらいのサーヴァントではある)

 (試してておハーブ)さりげなく、リツカの口調が感染っているダ・ヴィンチである。

 生身の人間に殴り負けるサーヴァントってどうなのだろう。色々不安に思いつつも、原作でもちらほらそういう例はあったな、と思い返すトウマである。神代の魔女も中国拳法にボコられていたし、偏屈な童話作家も多分、似たようなものだ。

 (万事が想定通り行くかどうかは不明だけれど、まぁしくじったら、みんなで赤っ恥をかいて終わりってことで)

 ね、と小首を傾げて見せる。明らかに、リツカの視線は、トウマを見ている。映像でのミーティングとなると、直観的には視線誘導などわからないのだけれども。思わず、トウマは大きく頷いてしまっていた。

 (一応質問なんだけど)手元の資料を眺めながら、ダ・ヴィンチ。(リスクヘッジを考えたらライネス君でもいいかと思うけど)

 (もちろんそうだけど、効果を考えたらサーヴァントと人間、と言う方が再現性は高いと思ってね。あと一応、私も頑丈だから)

 (了解、こっちは大丈夫。タチバナ君からは?)

 「一応なんですけど、来るときは上から来るかもしれないので。ただ可能性、というだけなので、先入観になっちゃうかもですが」

 (お、了解。気を付けておく)

 後は特に、と示すように、トウマは頭を下げた。ダ・ヴィンチも頷いて了解を示してから、思い出したように言った。(あーそうそう)

 (追加の情報。ジキル氏の邸宅で見つかった書き残しについて。ハイド邸で待っている、って奴だね。筆跡鑑定にかけたが、ジキル氏のものであってジキル氏のものではない……という結果だった。ジキル氏のものに酷似しているが、やや単語が斜めに傾く傾向があったとのことだ)

 幾分逡巡してから、リツカは困惑したように眉を顰めた。(ハイドが書いた、ってこと?)

 そうして口にしてから、彼女は思い出したように、付け加えた。

 (ジキルとハイド事件の中に、ハイド氏がジキル氏の筆跡を真似て、友人を騙そうとした出来事があってね。その際の特徴は、やや文字が斜めになっていたんだよ)

 明らかに、トウマに対しての情報提供だろう。実際、まだまだ近現代の事件には手が及んでいない。その上、彼が元居た世界の『ジキル氏とハイド氏』については、ほぼほぼ無知だった。

 「何か、問題なんですか?」言ってから、トウマはふと朧げに感じたことが多分問題なんだろう、と自覚した。「今まで、ハイド氏については一切今回の件に絡んできていないですよね」

 (その通り。ジキル氏と言えば、ハイドに変身することが有名だ。でも、今回の特異点に限り、本来分裂しているはずの2人が共同していて、ハイド氏は極力表に出ないようにしていたと聞いていたけれど)

 「でも、その隠し情報はハイド氏の時の邸宅を示していたんですよね。なら、ジキル氏にも知らない情報があるということでは」

 (そうとも言える。でも、ちょっと懸念がある。資料の3、134ページを見て欲しいんだけど)

 言われて、トウマは空中投影されたエアディスプレイの内の一つ、資料が表示されたそれに手を伸ばした。

 タッチスクリーン式のタブレットのように、指の動きに反応して画面が切り替わる。リツカの指定したページを開くと、古めかしい本の写しと注釈が並んでいる。

 (今回重要な資料と黙している『秘密を見守る者たち』、24ページからの抜粋だ。

 敵と思しき幻想種の特性の中に、“敵の精神構造を吸収・同化する”とある。方法までは書いていないが、それに関して今はいい。可能性として、あの人狼はジキル氏ないしハイド氏の精神構造を奪取、それをもとにトラップをしかけた可能性が、あるんじゃないかと思ってね)

 「考えすぎじゃあ、ありませんか」信じがたい、というように言ってから、トウマは不快げに眉を顰めて、独語めいた言葉を残した。「でも可能性はあるのか」

 (そう。可能性としてある以上、考慮はした方が良い。元から罠の可能性はあったわけだし、なお、警戒する必要がでてきたってワケ。それとダ・ヴィンチちゃんに頼みたいことがあるんだけど)

 (住所とマップの位置関係だろ? 了解、この実験試験が終わるまでには出しておく。他にある?)

 いやないよ、とリツカが応えて、この話は終わりだった。引いては、このミーティングそのものの終了、ということでもある。再度、互いに心残りがないことを確認し終えてから、トウマは、ベッドの上に置いた通信端末を手に取った。タッチスクリーン式の、スマートフォンを思わせる端末をベッドに放り出したウェストポーチに押し込むと、ふう、と息を吐いた。

 ベッドに座り込んだまま、壁に身を預ける。頭上の窓には、まだカツンカツン、と雨音が響いていた。視野投影されたディスプレイには、現時刻が表示されている。

 AM10:28

 14時に予定されている会合の場所は、ホワイトチャペルメインストリートの先、教会近くのカフェショップということになっている。そこまで、徒歩およそ10分。早めに着くことも考えれば。13時30分にはここを出る予定だろう。逆算すれば、それまでに下準備をしなければならないことになる……。

 ……彼は、あまり頭がいいわけではない。明晰且つ端的に思考する、という能力に突出しているわけでは、ない。残念ながらその能力がないので、トウマはそれに最適な能力を持つ人物に頼ることにした。

 パスを介した念話と、要領は同じだ。頭の中にその人物を思い浮かべ、繋がりを実感する。その後、頭の中のイメージに対して、直接語り掛ける、というプロセスだ。

 「マシュ、今どこ?」

 (あ、はい。マシュです)

 ワンテンポ遅れて、マシュの返答が帰ってきた。フレンド契約……正式にマスターがいるサーヴァントと、一時的ながら正式な形で契約を結ぶ手法だ。一画のみとは言え、令呪すら使用可能という。そのパスを介して、トウマから念話を送ったのは今回が初めてだ。

 「ちょっと相談が」

 (えっと、近くの公園に。帰ります)

 「いや、いいよ。あそこ?」

 (はい、角の)

 こちらから出向く旨を伝えると、トウマはすぐに立ち上がった。極地戦用の制服に着替え、ややぼさついた髪に手櫛を入れる。ベルトにポーチのカラビナをひっかけてから左右どちらも既定の物が入っているのを確認。折り畳み傘を手に取ると、玄関へ向かった。

 廊下を歩いて階段へ。ことこと、と小気味良く段を降りていく。塗装の剥がれた玄関のドアを開けると、トウマは怪訝そうに空を見上げた。

 能面のような雲が、空に堆積している。能面と異なるところがあるとすれば、色だろうか。淡く白い能面に対して、黒々とした分厚い雲は、どうしようもなく陰鬱さを感じさせる。であれば、降りしきる雨は、なんだろうか。地球に堆積した老廃物を吐き出す、糞尿のような、ものであろうか。

 折り畳み傘を開く。取っ手部分のボタンを押すと、たちまちワンタッチで開いていく黒いビニールの傘。どつんどつん、と鈍くビニールの幕を叩く音が手まで響いてくるようだ。不定のリズムから感じたのは、心地よさだったか、それとも不快だったか。その中間のような感情がどうにも気分悪い。紛らわせるように「ちょっと行ってきます」と賃貸住宅の中に声をかける。窓辺から顔を出した、見知った相棒が手を挙げて応えると、トウマは走り出した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅳ-5

PM13:55

ジェームズ・モリアーティは、普段と変わらぬ様子で椅子に座っていた。犀利を感じる落ち着いた表情、物静かに事物を観察する眼差し。時折、手慰みのように口ひげに触れる仕草は、健やかに熟成した老人という感を覚えさせる。とは言え、その眼差しに潜む怜悧さは、善的なものを求めるというよりかは、澄むような悪逆に耽るかのようだ。

(こちらカルデア)デスクの上の通信端末から、声が漏れる。空中投影されたディスプレイの1つに、長い髪を1つ結びにした頼りなさげな青年が映っている。(みんな、モニターできているかい)

できてるわよ、と応えた1つは、今イーストエンドにいる班だ。画面には、狐耳をひょこひょこと動かすキャスターと、手をひらひらとふるアーチャーが映っている。もう1つはダ・ヴィンチのものだ。できてるよ、と言いながら、彼?は何か忙しなく作業をしているらしい。

「こっちも問題ないヨ」

頬杖をついたまま、モリアーティは応えた。それなりに計器の触り方は覚えたものだ。

それにしても、演技が下手だな、と思った。この男……カルデアの臨時責任者を担っている、ロマニ・アーキマンのことだ。あまり特異点の現場に関わることがないので馴染みは薄いが、印象は変わらない。端的に言って、チキンだ。温和なふりをしているが、そそくさと手元を見回しては弄りまわしている様は、明らかに目前に迫った出来事におっかなびっくりしている兆候だ。元から、責任者などという器の人間ではないのだろう。

まぁ、いつでも最適な人員が配置できるとは限らないのが、人の世の常なることだ。代わりに、現場の責任を担うダ・ヴィンチやマスターのリツカが泰然と物事を構えていることで釣りあいが取れているならば、まぁ問題はないというところだろう。

(SS、こちらカルデア。そちらの準備は)

(特に問題ないよ。いつでも大丈夫)

(了解。じゃあみんな、気を付けていこう)

最後に荘重たる雰囲気で締めくくると、ロマニはむんずと口を結んだ。明らかに、力が入っている。なまじっか、他の人々が手慣れている雰囲気なだけに。

モリアーティは、頬杖をついたまま、人差し指で頬骨を叩いた。こつんこつん、と質朴なリズムで打ちながら、内心に感じていたのは───愉悦のようなものだった。元来数学者であり、ある程度物理学を嗜んでいるモリアーティにとって、“実験”というのはあまり慣れない操作だ。要するに、彼の専門外の出来事なのである。そうして、彼は新しいことに何やら挑戦するのが、愉しみであった。

「さて」

こつんこつん。ほんのコンマセカンドほど、リズムが早くなっている。早まったのは無自覚だが、早まった事実そのものに対しては自覚的だった。

「半と出るか長と出るか」

 

 

同時刻

PM13:55

 

イーストエンド、ホワイトチャペルの名前は、その名の如く教会に由来する。ホワイトチャペル・ハイストリート先の広場に、こじんまりとしながらも、粛然且つ厳然と佇む小さな教会。ずらりと連なるハイストリートの端、古ぼけた喫茶店の窓から教会を眺めつつ、トウマは、紅茶とは名ばかりの、濃縮尿色のぬるま湯を口にした。

「心配?」

ストリートに面する窓際のカウンター席。トウマの右手、入り口側に座るマシュは、無言のまま、複雑そうに困った笑みを浮かべた。

”実験”まで、あと5分。本格的な戦闘ではないにせよ、敵と相まみえることに相違はない。

「心配はしていませんよ、先輩のことですから。たとえどんな敵だったとしても、先輩は負けません」

 マシュにしてはしっかりと、且つきっぱりと断言した。リツカに対する彼女の信頼感は、曇りなく、且つ清廉すら感じさせる。マスター選抜チームに先んじて……というより、試験を兼ねてマスターの運用試験に従事していたリツカは、デミ・サーヴァントの試験個体として完成していたマシュとは古い関係だ。クロやライネス、トウマもリツカに対する信頼は強いけれど、マシュのそれは、強いだけでなく、しなやかな信頼関係だ。

 であればこそ、彼女はことこの時に、リツカの傍らに居られないことをもどかしく思っている……というところだろうか。しずしずと窓辺から外を眺めるマシュは、なんだか萎れて見える。

 羨ましい、と思うのは、多分、己の未熟の裏返しか。異様に硬いパンにかじりつきながら、トウマは日本人形みたいな風合いのマシュの横顔を一瞥する。それこそ、リツカとマシュの関係性は年単位のものだ。出会って精々が半年でしかないクロとトウマの関係性は、過去よりも、未来に多くのものを負っているものであろう。半ば自虐的な自己反省をしつつも、陰湿さの薄い、トウマの反省だった。

……それにしても、硬いパンである。嚙み切るのも難儀であれば、咀嚼するのも難儀である。顎の疲労感が、半端ではない。

 「タチバナ先輩、これはこうやって食べるものなのですよ」

 にこりと笑みを浮かべると、マシュは皿から石のように硬いパンを手に取ると、大口をあけてかじりついた。トウマの認識の範囲内で、マシュは結構美少女の範疇にある。サメ映画のサメみたいに大口を開けても美少女として破綻しないのが、中々スゴイ。むしゃあ、とパンを食い千切る、猛虎か獅子じみた動作まで様になっている。むしゃ、むしゃ、と頬張りながら、マシュは決して美味いとは言えない1パイントの紅茶が入ったポットからカップに注ぐと、ぐい、とはしたなく呷った。口腔内でパンを紅茶でふやかすと、こくん、とマシュの喉元が嚥下動作を知らせるように上下した。

 普段、アリスとティータイムを過ごすマシュの仕草とは、全く様相を異にする。マナーもへったくれもないが、この場ではこの振舞こそが自然なのであろう。それにしても、この場末の街……窓から見えるハイストリートでは、今まさに女性の浮浪者たちが聞き苦しい罵詈雑言を浴びせ合っており、店内でも卑猥な言葉が行きかっている……だというのに、マシュの存在は妙にここに馴染んでいる。いや、馴染んでいる、というわけではないだろうか。妙な、混じり合い方だ。

試しに、トウマも同じようにしてみる。口腔内に紅茶を注ぎ、唾液全てを略取してなお頑健なパンをふやかしていく。柔らかくなったタイミングが食べ時で、そうなるまで、ひたすら口の中でもごもごさせていく──。

 一向にこない。そもそも、あまり美味しくないもの同士を掛け合わせているせいか、正直口の中は無残なことになっている。口一杯にしながら、マシュに困惑めいた視線を送ると、マシュもマシュでまだ口をもごもごさせていた。要するに、そもそも、このロンドンの場末の喫茶店で、美味しいものを食べようという考えそのものが、傲岸な発想なのだろう。

 「これでも美味しいほうですよ」

 嚥下したマシュの弁である。相変わらず、トウマは嚥下どころか口の中のブツを咀嚼すらできていなかった。

 黙々と食べながら……というより、黙々せざるを得ない……、トウマは、特別何か気にする素振りもなくパンを食べて紅茶を飲み、付け合わせのハムとチーズを食べるマシュの横顔を、まじまじと見つめた。

何か違う。窓からストリートを眺めるマシュのかんばせは、何か、普段と違う。影が差しているようでもあるが、だからといって陰鬱が彼女に憑りついているというわけでもない。物憂げな泥濘に沈みながらも、すっくと伸ばした手が空を求めて宙をかくような……何故か、そんな具象が脳裏を過った。

 なんとなく、マシュの視線の先を追った。

 浮浪者がいる。襤褸の仕事着姿の男がいる。やつれた女たちが地面にしゃがみ込んで、何やら話し合っている。まるで子猿のような子供たちが、奇怪な踊りを踊っている老女と一緒に踊っている……。

 不意に、そのマシュの表情が動いた。サッと、トウマへとするどく視線を向ける。ぎょっとしつつも、その意味はよくわかった。

 トウマの隣の席に、黒ずくめの男が座り込んだ。まじまじと伺うことはせず、気にしない素振りのまま、ちょっとだけ、視線で伺いかける。

 黒いコート姿の、まだ若い男だった。癖のあるらしい髪は、脱色したような白だった。擦り切れたコートのせいもあってか、何か酷くやつれている印象を感じさせる。コートから覗く十字模様を見るに、教会の人間らしい、と伺い知れた。

 この男だ。直感的に理解して、トウマは動悸が早まるのを感じた。何か声をかけようと逸る気持ちを抑えつつ、トウマは知らんぷりしながら、パンをようやっと嚥下した。

 「んぐっ」

 ……詰まらせた。何せ、内心焦る気持ちを抑えようとしただけに、体の動きがちぐはぐになってしまっていた。慌てたのはトウマもだが、マシュもである。トウマのカップをわたしかけたが、なんと空。なおのこと慌ててポッドに手を伸ばしたところで、彼女は取っ手を取り違えた。すっぽ抜けたポッドの内容物、残り1/2パイントほどの紅茶が宙を舞うや、

 「あっ!」

 「げ」

 「……」

 びしゃ。

 黒コートの男の顔面にぶっかかることと相成ってしまった。

 双方、しばし沈黙した。あまりに凄惨な出来事に誤嚥したパンを飲み込んでしまったトウマは、とりあえず顔を青くするマシュの肩に手を置きながら、彼女以上に青い顔で隣の男を見やった。

 怒っている。絶対に怒っている。ぽたぽたと長い癖毛から、水滴が垂れている。ぷるぷると震える肩は、もう見ていられなかった。

 「すみませんあの……そうだこれを」

 慌てて腰のウエストポーチからハンドタオルを取り出したところで、男がくつくつと笑い声を漏らした。きょとんとするマシュに対し、未だ顔を青くして事態を飲み込めていないトウマを、男がじろりと見やった。

 「いやはや。遠き異郷の地の挨拶は随分刺激的だ」

 男が、表情に嗤笑を浮かべる。身なりこそ綺麗とは言い難いが、精悍で奸智を感じさせる獰猛そうな表情は、男がこの街の繊弱な精神と身体の住人たちとは一線を画する。

 だが何故だろう。男の面持ちは、何か、既視感があった。間違いなく男の顔は、この時初めて見たというのに。

 「俺を呼んだのは貴殿らだな?」

 乱暴さを感じる口調だというのに、その物言いには、何か精神的な落ち着きを感じさせる。それでいて、やはり顔を覗かせる鋭い眼光。決して敵意がないにも関わらず、その鋭利さは、何か身を竦ませるものがあった。

 はい、と応えて名前を言いかけたところで、男は掣肘するように手を挙げた。タオルで顔を拭きながら、男は首を横に振った。

 「名前はいい。名はその存在を指示する。下手に人に教えれば、お前の足跡を伝えることになる」

 助かった、と言うように、男はタオルを突き出した。丁寧に畳んである。綺麗好きな人なんだ、と思いながら、トウマはタオルを受け取ると、右のウエストポーチに押し込んだ。

 「手早く済ませよう。お前たちと異なり、俺は身分卑しき身だ」

 言って、男の視線がマシュを捉える。はい、と頷くマシュの身振りは、何やら重々しく、それでいてしっかりしている。先ほど感じた印象と、その表情が重なった。

 「場所を移そう。秘蹟を行うに、ここは人目に付きすぎる」

 男が立ち上がる。慌ててパンとチーズを口に放り込むトウマに、男は呆れにも似た、けれど素直そうな笑みを浮かべた。「また喉に詰まらせるぞ」

 何せ、あの頑健なパンを紅茶なしに口に放り込んだわけである。男にろくに返答もできず。齧歯類のように頬を膨らませたまま、こくこくと頷いた。

 行くぞ、と不愛想に一言置いて、男が外へ出た。ごうごうと降りしきる雨の中、男は懐から取り出したハットを被る。後からでてきたトウマたちを一瞥ほどに振り返ると、黒い影が駆け出した。

 男の行く先は、一路、ストリートの果てにある教会らしい。マシュと顔を見合わせ、そして頷き合ってから、トウマも雨の中を駆け抜けていく。

 ふと、空を見上げる。大粒の雨が舞う中、何羽かの椋鳥が視界を掠めた。

 

 ※

 

 (こちらBS02、BSリーダー目的の人物と遭遇。会談場所を変更するみたいね)

 (アルファ、こちらも追跡する)

 脳内に直接声が響くような体験は、金時にはまだ物珍しいものであった。まだこの感覚に慣れないけれど、とても便利だな、と思う。何せ、どこに居ても、誰とでも会話できるなんて戦いにおいてこれほど有利なものはない。戦闘単位が増えれば増えるほど意思の統率は困難になるし、戦域が広くなれば、意思を伝達する術がない。そんな中、リニアに、互いに言葉を交わし合えるというのは、これほど便利なものはない。

 ただ、ちょっと思う。人と人の距離が日常から緊密に繋がってしまえば、きっと息苦しいだろう。リニアすぎる意思の疎通は、リニアであるが故に情感に欠き、誤解を生むようにも思える……と考えるのは、金時自身、どちらかというと、隠棲を好む男だからであろうか。

 「了解。こちらは予定通り進める」

 最も、それは使いよう、ということだろう。金時よりも、いや増しに隠遁を好むように思えるリツカは、穏やかに、且つ端的に返答すると、「向こうも順調みたいだね」と子供みたいな笑みを作った。

 「じゃ、こっちも上手い事やろうぜ」

 「待って、あと20秒」

 「おっとすまねえ」

 軽く制止するリツカは、虚空をぼんやりと眺めるようにしている。もちろん、惚けてるわけではない。曰く、カルデアでは脳内視覚野を魔術的に刺激することで、まるで目の前に映像が浮かび上がるように戦術情報を表示しているらしい。視野投影魔術で表示される情報には、周辺の地図や味方の身体情報などあって、その内の1つにこの特異点での時間が表示されている、といいわけだ。金時のいた頃は12に一日を区切っていたけれど、未来では24に区切った上で、しかもそれぞれ60に分割され、その分割されたものもさらに60に分割されるという。それぞれ時間、分、秒、と分かれるというのだから、未来というのは細かいことを気にするわけだ。

 「カウント開始。10、9、8……」

 リツカが数字を数える度に、徐々に緊張が高まっていくのを感じる。なるほど、正確に事を始めることだけでなく、好い意味で戦闘の緊張感を高揚させるのにも向いているらしい。

 ふわふわと消えていく数字を耳朶に響かせながら、金時は、背に担いだ鉞の柄に手を伸ばした。巻きつけた獣の皮の感触が指先に伝わり、我知らず、高揚と同時に情動が怜悧に研ぎ澄まされるのを感じる。

 場所は、屋敷との境界面から最も近い広場だ。事前に人避けの結界を張り巡らせていただけに、周囲に人の姿は影も形もない。ただ、粒の大きい雨だけが、広場に犇めいている。空は相変わらず分厚い雲が広がっていて、あの天を横切る光帯すらをも覆い隠している。

 「3、2、1……0!」

 イメージする。金時の身丈ほどもあろうかという大斧に、細く小源を巡らせていく。細く延びるオドは、言ってしまえば紐のようなもの。それ自体で宝具を発動させるための魔力なのではなく、言ってしまえば呼び水だ。

細い紐を、鉞の中へと徹していく。底の底まで細い糸を差し込めば、それはある。宙に釣り下がった、湾曲した細い金属。それに紐をひっかけて、引っ張る要領。その一連のイメージを脳裏に描くと同時、金属同士が咬み合う甲高い音が連続して3発、耳朶を衝いた。

 「必殺!」

 宙を舞う空薬莢。坂田金時が得物、魑魅魍魎跋扈したる平安の世が編み出した人智の窮極たる鉞から、膨大な魔力を込めたカートリッジがマガジンから排出されたのだ。計数、3。薬莢に込められた絶大な神秘の塊たるエーテルを雷に変換したそれは、雷神の血脈の証明か。

 「『黄金衝撃(ゴールデン・スパーク)』!」

 背負った恰好から、引き抜き様に巨重を振り下ろした。Aランク以上の筋力値がなければ振るうことすら許されない鉞の真名解放はただただ絶大としか言いようがなかった。A+に及ぶ筋力値から繰り出された『黄金喰い(ゴールデン・イーター)』の一撃は、ただそれだけで路面の石畳を木っ端みじんに粉砕し、その奥の地面を抉っていく。志向性を持たせた雷のエーテルの炸裂はおよそ900MJに達し、摂氏数千度を優に超える熱量が金時の前方50mを瞬く間に焼き切りっていく。先駆放電が無数の蛇のようにのたうちまわるならば、主雷撃はまさに稲妻の龍という様相だった。

 「大将!」

 膨れるようなオゾン臭の中、金時は背後を振り返った。金時の宝具の真名解放は、あくまで呼び水。どれほどの神威を見せつけようとも、言ってしまえば、異次元の回廊を繋ぐための鍵でしかない。

 (SSリーダー──リツカ!)

 遠くで観測しているライネスの鋭い声と、金時が腰にぶら下げた大鉈に手をかけたのは、同時だった。

 金時の翡翠の目には、それが映っていた。リツカの直上に、あの妙な波紋のようなものが浮かび上がっている。直接これまで見たことはなかったけれど、映像では見ていた。あの獣が、この世界にやってくる合図だ。

 トウマが言っていた予測は本当だったのだ。本当に、あの獣は宝具の真名解放を合図に異次元の扉を開いている。いや、扉そのものが真名解放で開くのか? どちらにせよ彼の予測は正しく、今まさに物の怪が顔を出さんとしている。

 この時。

 金時の初速は迅速を極めた。元よりBランクと高い敏捷値を持っているのに加えて、背後で炸裂した真名解放の衝撃がもたらすエネルギー波を推力にしたそれは、瞬間的にはAランクに匹敵する性能だった。獣か水面から顔を出す寸前にリツカの前に割り込んだ金時は、大鉈を鞘から引き抜いた。

 やはり、金時の身長にも匹敵しようというそれは、人智の粋を極めた鉞とは異なり、ただただ頑健な鉈だ。だがその代の名工が、ただ敵を轢殺するためだけに作り出した武装は、ある意味で鉞とは対極に位置する武装であろう。機構上連続使用に向かない鉞に対して、鉈こそは彼のメインウェポンと言うべきものだった。

 この鉈を振るうに、構えなど品のいいものはない。ただその重量と刃で斬り潰すだけのそれを担ぐように肩に乗せ、今まさに波紋から顔を出した獣の鼻っ面へ目掛けて──。

 「金時君!」

 じゅ、と蒼褪めた影が疾駆した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅳ-6

大分間隔があいてしまいました。



 聖堂教会、という組織は、あまりマシュにとっては馴染みのないものだった。元より、魔術協会自体が聖堂教会と反目し合う組織である。大枠で協会に所属し、且つこのカルデアの外で暮らしたことがないマシュ・キリエライトにしてみれば、聖堂教会という言葉は、学校やスーパー、コンビニエンスストアに携帯電話などと大差ないくらい実感のないものであった。データベースとしての知識は持っているが、言ってしまえばそれは、古い御伽噺と同じくらいの感覚である。どうやらカルデアの組織運営に聖堂教会が一部関わっているらしい、ということは聞いているけれど、どちらにせよ培養個体として生産されたマシュという存在は教会に秘匿されている。教義上禁忌そのものでしかないマシュは、露ほども関わりがない。

 要するに、マシュにとって聖堂教会というのは、どこか空想上の何か以上の知識ではなかった。オルレアンの頃も、教会らしい教会は見ておらず、全うな教会を目にするのはこれが初めてだった。

 ホワイトチャペル・ハイストリートの突端に、その教会はある。汚らしい街並みの中、厳かに聳える白亜の建物。貧しい者たちの中でこそ主は宿る、と理解すればいいのか、それとも貧困の中に無作法不躾な屹立する教会に傲岸を感じ取ればいいのか、マシュにはよくわからなかった。あるいは、そのどちらをも許容するのだろうか。尖塔が一つ、高く戴くバロック式の教会は、無言の荘厳さでマシュたちを出迎えた。

 「結構、狭いね」

 入ってすぐの礼拝堂で、トウマは不思議そうに周囲を見回している。彼も彼で、救世主の宗教については、知識で知っている以上のものはないらしい。

 「オルレアンの大聖堂は、もっと大きかったなぁ」

 しみじみ、と声が出る。なし崩し的にレイシフトした冬木と異なり、きちんと準備をして出向いたという点では、初の特異点攻略となったオルレアンも、もう半年近く前の出来事だ。

 懐かしいですね、と言うと、トウマはなお感慨深く頷いた。元からそのために産まれ、生きてきたマシュと異なり、魔術の「ま」の字も知らずに生きてきたのだから。その感慨はひとしおであろう。

 「観光気分だな」

 どことなくのほほん、とした空気に、男の声が響いた。席の並ぶ礼拝堂の中央、盤踞と立ち竦む男の物言いは、厳粛で幾分か揶揄する印象があったが非難がましさはなかった。

 「ちょっと物珍しかったので」

 そんななので、素直なトウマは、言葉尻を素直に受け取った。ちょっと照れたように頭をかく仕草なんぞは、なるほど少年らしい、と思う。こういう気分の人間だから、男も毒気なく、くつくつとした嗤笑を漏らした。

 「なるほど。『ちょっと助けてやろうかな』という気分を起こさせるのが上手いと見える」

 「そですかね」

 「その仕草がそうだと言っている」

 なんだかわかったようなわからないような、不思議そうな顔のトウマである。教会の中だというのにハットを脱がない男は、つばの下で、猛禽めいた顔に小鳥のような細やかな朗らかさを浮かべている。

 「さて」ハットの被りを深くしながら、男の目がひやりと動く。「本題に入るとしようか、異郷の旅人たちよ」

 ひた、と向いた先はマシュだ。明らかに空気の質……温度が変わったのを感じて、マシュは弛緩した気分を引き締めた。

 元より、マシュたちがここにいる理由……ホワイトチャペルに滞在していた理由だ。マシュに憑りついていると思しき怨念の残余から、人狼と異なる敵の正体に迫る。それが彼女に課せられた使命であり、今まさに人狼たちと矛を交えんとするリツカの傍にいない理由なのだ。

 「こちらへ。お前はそこで待っていろ」

 マシュを誘うように言いつつも、男は掣肘するように、トウマに視線を縫い付けた。

 「秘蹟は無暗に人に見せるものではない」

 取り付く島のない男の物言いは、真実正論でしかなかった。でも、と言いかけたマシュも、思わず口ごもりかけた。それでも言いかけたマシュの肩を、手が掴む。振り返ると、トウマは首を横に振っていた。「大丈夫、多分」

 「教会というのは、言ってしまえば自然と人為が入り混じった結界のようなものだ。なんらかの秘蹟を用いているわけではないが、ただそれが聖なるものであるというだけで悪しきものを遠ざける。そこな少年の言う通り、そうやすやすと害されることはない」

 男は神父らしく、厳かに口にする。どことなく獰猛さを拭えない男だが、口ぶりに宿る厳粛さは、彼が真実御稜威に対して信心篤いことを感じさせる。ならば、とマシュは頷くことにした。トウマを守ることは、今のマシュの主要な任務の1つなのだから。

 「それに、もう1人いるのであろう。人形遣いといったところか」

 「わかっていたんですか」目を丸くするトウマ。しまった、という気持ちよりか、素直に意外そうな表情だ。

 「何分、人から追われる身なのでな」

 またしても、男は毒気のない嗤いを漏らした。トウマの素直さに、まだ慣れきっていないらしい。「構わんよ」と言いながら、男は身を翻した。

 ついてこい、ということらしい。トウマと目を併せて頷きあってから、マシュは男の背に続いた。

 身廊を抜け、祭壇の前へ行く。男が数瞬ほど十字と救世主の像を見やった後、さっと祭壇の裏に回った。信仰心という点に関して、無神論者ながらも荘重たる祭壇の佇まいに圧倒されながら、マシュも男の後を追う。

 祭壇裏に回った時、マシュはちょっとびっくりして声を漏らした。何せ、ただ空間が広がっているだけと思っていたところに、ぽかりと穴が開いているのだ。よく見れば、奈落のように階段が下へと伸びている。さっさと階段を降りていく男の背を眺めてから、マシュはまじまじとその穴を見下ろす。

 夜闇がすっぽりと口を開けている。こつんこつん、と階段を降りる男の足音だけが、静かに響いている。マシュはしゃがんだ体勢から背筋を伸ばすと、恐る恐ると階段へと足を踏み入れた。

 何段ほどであろうか。さして深くはなかった。壁際で粛然と灯を漏らすランプに照らされながら、マシュは視野投影映像の喪失を認めた。地下空間では、カルデアとの通信は行いにくい。今通信手段があるとすれば、マスター・サーヴァント間のパスを利用した念話のみだ。いざと言う時の退路を意識するのは、彼女の戦闘巧者としての習性だった。

ただ同じだけの光景が続く様は、体感時間を鈍くする。感覚的には長大な階段を降り切ったと感じたが、より正確な体内時計は、実は精々2Fほどを下ったと示している。遠大と卑近さが綯い交ぜになる妙な感覚になりながら、マシュはぽっかりと空いた後継に、まず目を丸くした。

 ぽっかりと、空間が広がっている。暗がりで広さはよくわからない。ただ、壁際にはブランデーの瓶が何本もたてかけてあり、地面にはネズミらしき生き物が走り回っていたり、死骸が転がっていたりする。

 「カタコンベだな」独語のように、男が言う。「元は緊急時の待避所だったらしい。今は特に使われず、保管庫扱いだ」

 「あの、どうしてここに?」

 「魂は天上に昇るのが常だが、悪しき霊は地の獄へ向かうのが習わしだ」男の口調は相変わらずだが、何故か、厳かな口ぶりに奇妙な親しみのようなものが混じる。「怨念に近づくには、その習わしの通りにするのが良かろう」

 その親しみは、一体なんだろう。この暗い洞窟そのものに対する、どこか望郷を思わせる親しみだったように思える。厳粛極まる男の身振りから覗く身体性と、しかもそれがこの陰鬱そのものと言うべき洞穴という事実に、マシュは少々困惑した。

 そんなマシュの心情を察してか、男はほんの僅かに微笑したらしかった。世界の事物そのものを小気味良く睥睨するあの嗤笑とは違う、もっと年齢相応を思わせる笑みだ。それこそ、この男の旧い時代、幼少の頃を覗かせる笑みはすぐにハットの奥に消えると、男は顎をしゃくって岩くれを指した。そこに座れ、とでも言うように。素直にマシュは従った。ごつごつとした岩はとても座り心地はよくなく、何度か居住まいを直した。

男は、胸の前で十字を切った。胸元に刺繍された十字模様をなぞるような仕草を見上げたマシュは、初めて男の顔を、まじまじと注視した。

 意外に、若いな、と思った。厳めしい口ぶりとは相反して、男は病的な色白さだった。さりとてひ弱な印象を感じないのは、その眼光のせいだろう。重く鋭い眼差しは、内在する苛烈のその甚深たるやをありありと語っているように、見える。

 十字を切り終えると、男は左手で胸元からペンダントを取り出してそれを握り、もう一方の手でマシュの頭上に手を伸ばした。何事か、マシュの内面を抉り出そうという手つきである。ごつごつと節の太い指先は、否が応もなく男の人生の荒々しさを示しているように思えた。

 何か、男が声を漏らした。一言ではなく、連綿と続くセンテンスの延長は、恐らく詠唱だろう、と思われる。あくまで保留付だったのは、その言語がマシュの耳に聞きなれないものだったからだ。英語でも、またドイツ語でもない。だが、古い失われた言語というようでもない。言葉そのものはあくまで現代にも残るもので、単純にマシュの言語理解にない言語で語られているのだ。

にも関わらず、マシュは何故か、その詠唱に何事か聞き覚えがあるように思われた。

 いつだろう。微かに過っただけの思案が、瞬く間に沈思へと落ちていく。心地よい泥濘に飲み込まれ、咀嚼され、分解され、細胞の一つ一つにまで解体され、膜が溶解してより小さな粒になり果てた自分は、果たして素粒子の1つなのだろうか、それとも単子(モナド)になったのであろうか。ただ一つ何にもならず、それでいて宇宙全てを映し出す鏡のようなものに……。

思考が思索に純化し、大いなる渦に注ぎ込まれていくよう。恍惚にも似た苦難か、あるいは苦難にも似た恍惚か。対極が同極に混交していく嘔吐感、まさしくサルトルが言わんとしていた、あるいはそれ以上の、抽象的現実感が五感の底、プラトーに侵襲的に浸潤していく。

 カオスから覗く混沌という天にひたすら堕落し続けた最果てで、不意にマシュはマシュ・キリエライトの自我が浮き彫りになるのを感じた。そう言えば、男が口にしていた言葉は、かの聖女の詠唱のリズムとよく似ていた、ような気がした。

 酷く、寒い、と思った。朧げな視界はほとんど判然とせず、五体の感覚もはっきりしない。精々もがくことしかできないが、もがこうにも混然とした身体感覚は掴みどころがなく、妙に心細い。寒くて、暗くて、とにかく心細い、と思った。

 なんとなく、この感覚はどこかで覚えがある。彼女にとって物心ついた時……無菌室でひたすら観察対象になっていた時に、似ている気がした。あの時は、ただ無暗に寒い、という思い出だけがあった。あの後、自分は、ロマニ・アーキマンとダ。ヴィンチに救い出され、“先輩”の下に着くことになった。あの時朧気ながら感じたもの寂しさは、もうない。

 けれども、この時想起させられた怨念にも似た侘しさは、ただ、端的に断絶した。下水にでも押し流されるように、あるいは、且つ、ないしは、ゴミ溜めにでも放り投げられるように、その情けない侘しさは、唐突に中絶した。だが、それは終焉ではなく開闢だった。幾ばくかの悍ましい虚無の後、また、不意に、且つ必然的に、あの果てのない侘しさが身体の形に凝った。凝った侘しさは行く当てもなく身体に遍在的に拡散し、瞬く間に身体という名の細胞膜を浸透圧差で抜け出していく。べりべりと引き剥がされるあのどうしようもない索漠と寂寞が硬質な冷たさにかき出され、偏在していた心細さは千切れ千切れになって下水の中へと転がり落ちていく。そうして、また、あの侘しさが身体の形に凝固していく。延々と繰り延べられ、遅延され、延長されるエクソダス。少年少女が糞尿の中でのたうち回りながら交尾するほどの厳かで吐き気を催す耽溺の中、最後に転がり落ちた情動は、得も言われぬ不定さだった。それをなんというか、彼女にはよくわからなかった。今まで彼女は、そんなものを考えたこともなければ、悩んだことも、焦がれたこともなかった。幾百、幾千にも折り畳まれた感情の坩堝に落ち込みながら、ただあがくように手指を蠢かせた。べちゃ、と何かが手にまとわりついた。ぬるぬるとした、体液のようなものだった。何故かそのぬるぬるがどうしようもなく心地よく、手が面前の何かを、手繰るように漁る。あれかこれか、とぬるぬるがついた人肌を撫でまわし、焼き尽くすほどの感情のままに切り裂き、その中の艶々したものを、無心で……そもそもこの存在者自身、徹頭徹尾無心なものではなかったか?……漁りまわった。ぷちぷちと千切り、中をかき回していく。かき回せばかき回すほどに安堵が膨れ上がり、同じほどにあの感情が底を抜けていく。無我夢中で何かを探していたそれは、指先に、コリっとした硬い感触を味わい、狂えるほどにそれを引き千切った。手触りだけで、それはそれがそれだと理解した。ぐちゃ、と鈍い反動が指先から腕へ、腕から肩へ、肩から延髄へ、延髄に伝わり、脳溝の中に射精されて脳幹から排卵された卵子に徹甲弾のように貫通するほどの形而上学的絶頂が胚胎と中絶を繰り返していく。両手は、紅蓮の華のように赤かった。どろどろした赤い液が滴っていた。掬するように添えられた両手の上に転がるそれ。拳より少し小さく、てらてらと夜の星光を反射する生暖かい肉茎。それは異様にそれが愛おしく、支える手が震えていた。望郷。恐らくそれが、あの感情の銘。素朴に純朴に、ただハイムへと還ろうとする純度の高い妄執だけが、この存在者の行動原理だった。震えるほどの望郷のまま、それは、その臓器を、古い民族が死した長老を召し上がるように、喰らっ




少しきりが悪いしカオスな文章で終わっているので、続けて明日投稿予定です


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅳ-7

 金時の感じていたものは、今はただ、己の心音だけだった。鼓膜の内側から響いているのではないか、と思うほどに強烈な心音が脳髄を揺らし、酩酊にも似た錯覚が全身に取り巻いている。全身の感覚はなく、にも拘らず、全ての感覚が鋭敏になっていた。

 「本当に来たね」

 ぼそ、と呟くような声が耳朶を打った。背後に控えたリツカは、目の前の出来事に素直な感歎を覚えているらしかった。あぁ、と金時は応えつつ、大鉈の切っ先を広場の中央に佇む蒼褪めた怪物へと……あの人狼へと、向けた。

 真実、あの獣はやってきた。宝具の真名解放を合図に、そしてモリアーティとダ・ヴィンチが作成したマップの通りに出現したのだ。あの少年の推測は、当たっていたのだ。

それは良い。喜ばしきこと、と素直に理解するだけのこと。だが意外だったのは、その怪物は、何故か広場の中央に陣取ったまま、特に何をするでもなくその場に佇んでいることだ。

いや、意外性はその前から生じていた。あの転移直後、あの人狼は誰を狙うでもなく広場に躍り出、ただ何事かを探し回るようにうろつき始めたのだ。リツカの直上から出てなお、あの獣は彼女を襲おうとはしなかったのだ。

 端的に、あの獣はこちらを外敵と見做していない。それが、金時の直観するところだった。獣が敵を害する際、主に取り得る感情は防衛反応だ。獣にとっての遊びが人類には脅威になることもあり得る。あるいは捕食行動か、そのどれでもない純然たる害意か。あの獣の様子からは、そのどれも感じない。Dランクとは言え【動物会話】を持つ坂田金時ならではの、端的な直感だった。そして、恐らく同じ結論に、リツカも至っている。彼女は恐らくその観察眼で、人狼に何某かアグレッシヴな情動がないことを理解している。

 「どうやら、私たちのことは認識しているらしい」

 すっかり毒気が抜かれたように、リツカは広場をきょろきょろ眺めやる人狼を表した。確かに、あの人狼は何事かを探しているらしいが、こちらとの相対距離は意識しているようにも見える。リツカが少々近づくと、あの人狼も少々距離を取る、といった具合だ。

こちらのことは認識しているが、攻撃する対象ではない。それが、あの人狼の今の行動規範なのだろう。

 「モニター、できてる?」

 (しっかりやってるよ)ロマニ・アーキマンの声も、幾分か呑気さが漂っている。(映像も音声も記録、とれてる。ライブラリと照会してる)

 (こちらも問題ない。“名無しの森”も問題なく機能している)

 (こっちも問題ないわ。でも、放っておいていいのかしら)

 「大丈夫」周囲で観測しているエリザベス女王に対して、リツカは至って落ち着き払った様子で応えた。「むしろ、相手を観察するチャンスだから」

 それもそうね、とむしろ自答するように呟くリン。金時も今更に放り投げた鉞を回収して肩に担ぐと、リツカの言う通りに、まじまじと人狼の姿を注視した。

 時は平安の世の日本に、人狼という幻想種は定住していなかった。人狼は主に欧州の地に起源を持つ古い幻想種で、深い森の奥にひっそりと住まうものである、という。肉体は壮健で智に敏く、古くから“森の人”と呼び慕われ、且つ畏れられていた生物たちである……という。平安の世にそういった物の怪はあまりなく、金時としても“人狼”なる怪異は興味深くもある。

 が、目の前のそれは、どうにもリツカから聞いた人狼像とは一致しない。蒼褪めたほどの体毛は、風光明媚な艶やかな毛並みとは言い難い汚らしさだ。前傾姿勢はどこか畸形じみていて。酷く鋭角的な頭部は、出来損ないの猟犬と言う風貌だ。退化したのだろうか、目らしい器官は見当たらない。酷く鋭い歯が並ぶ口腔内からは、どろどろとした原形質じみた体液が滴っていた。それでいて、うろうろとする様からは妙な知性を感じさせる。さりとて、森の人という名にふさわしい良識はそこになく、ただ奸智だけが異常発達した狡猾な悟性が、身体に漲っている。そのように、見受けられた。

 何より、金時の【動物会話】を以てしても、ほとんど印象が残らない。元々ランクは高くないスキルだが、野の山を駆ける動物たちならば、もう幾ばくか確固とした雰囲気が伝わってくるのだが、あの獣からはそれがない。もっと漠然として不確かな印象だけが、ほんの微かにだけ伺い知れるという消極ぶりだった。ただ、相手がコミュニケーション行為を拒絶しているからではない。もっと根本的な部分で、認識そのものに齟齬があるような。この齟齬は、ある意味で鬼種と相対した際の感触に近い。あの獣から伝わるものは、それをもっと徹底したようなものだ。

 間違いないない。

 人狼、という古き幻想種ではない。()()はもっと根底から、この地球の産物とは異なる異形そのもののように思われた。

 ()()は、この世に居てはならぬもの。精神的には穏便な金時をしてそう思わせる何かが、あの人狼もどきには、ある。

 「動いた」

 何か天を探し回っていた怪物が、虚空の一点を注視した。眺望する仕草から何事かを察したらしい、と伺いしれた。

 瞬間、獣の体躯が沈んだ。今まさに猪突をせんとする前傾姿勢を取るや否や、獣は四肢を以て駆け出さんと──。

 「金時君、宝具!」

 ざくり、と明瞭なイメージが脳髄の奥に突き刺さった。まるで令呪による絶対命令もかくやといった言語の拘束力は、金時をして目を見張るものだった。リツカのマスターとしての適性値の高さ……というより、経験値の高さ故か。そのイメージを疾く理解した金時の瞬発力は、一時的にでもあの獣を上回った。

 ガチャン、と金属同士が咬み合う甲高い音とともに、鉞から空薬莢が飛んでいく。先ほど異なり、数こそ少ないが破壊効果を対人向けに限定した『黄金衝撃』は単体火力に優れる。カートリッジから放出されたマナが素早く雷に変化し、鉞の刃へと纏わせていく。ようやっと金時を“敵”と認識した獣が志向を切り替えた一瞬の隙めがけて、超重量の雷撃が横殴りに襲いかかった。

 そして当然のように、鉞の手応えは皆無だった。鉞が獣を打撃する半瞬の間に、獣の姿は虚空に溶けるように掻き消えていた。雷撃を纏った一撃はただただ宙を空振りし、得物を取り逃がした雷はただただ所在なく周囲に霧消していった。

 雨音が、ごうごう、と唸っていた。空しく振り抜いた鉞を地面に突き立てた金時は、前髪に滴る雨水を払うと、のそのそと熊のようにリツカの下へと向かった。

 「トウマ君の予測は、どうやら当たりみたいだねえ」

 ぎゅうぎゅう、と側頭部で一房だけまとめた髪を絞っている。前髪をかきあげると、リツカは幾分か大人びて見えた。

 「アイツ、どうやら本当にトウマを狙ってるみたいだな」

 金時の声に、気難し気に眉を顰めるとリツカは、空を漠と見上げた。ちょうど、先ほど獣が最後に志向した空。その方向、イーストエンドを眺望する空には、黒雲が陰鬱に堆積していた。

 「なんか特別な奴なのか、アイツ」

 「うーんそうだなぁ。彼、どこから来たのかわからないんだよね」

 「なんだそりゃ」

 目を丸くして呆れる金時に対して、リツカはちょっと歯切れが悪い。髪に指を巻きつけて弄る姿は、さっきよりも大分懊悩を感じさせる。

 「まぁちょっと厄介で情けないな話。私たちも、使える戦力を遊ばせておく余裕はないもんで」

 どこか独り言のように言うリツカは、それ以上の言及を避けているかのようにも見えた。彼女らには彼女らの事情がある、と理解して、金時は判然としない気分のままこの会話を中断することにした。リツカ自身も納得していないらしい表情なのだ。そして多分、あの少年は色々な都合を理解した上で、マスターなんてものをやっている。他人がどやどやと言うべきことではない、と、金時自身に折り合いをつけさせた。

 金時は、空を仰いだ。どす黒い曇天の果てに、微かに見える青白い光帯。ペルゾンの底に淀む無意識から浮上した覚束無い感情に、金時は我知らずに顔を顰めた。坂田金時は、基本的に素直な人物なのだ。世のしがらみや何やらに折り合いをつける大人っぽさは、おおむね苦手であり、不得手だった。

 「皮肉だよ」リツカは雨に打たれるままに、広場を振り仰いだ。彼女の視線の先を追うと、こちらに奔り寄る2人の姿があった。「正義を為すのに、不正義を以てするというのは」

 金時は、意外そうに目を見張った。雨を浴びる彼女のかんばせは、普段と変わらない。何を考えているのか判然としない、鬼種めいたあの顔。その顔からは如何なる感情も伺い知れないが、端的にその情動が脳裏に閃いた。マスターと交わした契約のパスから流れた情動。

 「なぁ大将」

 何、と尋ねるように、リツカが振り返った。もう、あの瞬間に感じたものは掻き消えている。パスの先に感じるのは、ただ無限に広がる虚無だった。

 「とりあえず、アンタのサーヴァントになれて良かったぜ」

 リツカは、不思議そうな顔をした。つい口を衝いてでた言葉だったが、確かにタイミングがよくわからない言葉だな、と思った。自分でも取り損ねた感情を誤魔化すように、あるいは探るように。金時は、気まずい照れ笑いのようなものを浮かべて、視線を泳がせる。

 彼女は、金時の言葉を誉め言葉と受け取ったらしい。あの判然としない顔に僅かな微笑を称えると、芝居がかったような口ぶりで言った。「マスターとサーヴァントの結びつきは、運命……らしいよ」

 「そういうものか?」

 「多分」

 その顔のまま、リツカは手を挙げた。駆け寄る2人に向ける彼女の顔に浮かぶ安堵が、ただ、無暗に痛ましく、そして誇らしかった。

 「……なんだろう、これ」

 ふと、リツカが身を屈めた。おや、と目で追うと、彼女は地面に転がる、何か、本を手に取った。

 当然、この広場にそんなものはなかった。と考えるなら、あの人狼が現れた後に、付随的に現れたと考えるべきだろう、か。似たような事例は、以前にもあったはずだ。ちらりと金時を一瞥してから、リツカは、その本を注視した。

 大分古ぼけた本だ。表紙はすっかり剥げて古紙が剥き出しになっている。タイトルは、かろうじて読み取れるレベルだ。タイトルは、そう──。

 

 『偽証と証明の支配者』

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅳ-8

 マシュが教会の裏手に回ってからおよそ1時間。手持無沙汰を極めていたトウマは、ウエストポーチから取り出した小型のタブレット端末を詮もなく眺めていた。当然、暇つぶし用のゲームなんかが入っているわけでもない。不躾にもベンチに寝転がりながら、トウマはあれこれと調べていた資料に目を通していた。古来の伝承やら何やらをまとめたものだ。トウマの目が追っていたのは、“切り裂きジャック”について、だ。

 切り裂きジャックは、恐らく近現代の伝説という矛盾の体現だろう、と思われる。近代以降の大きな潮流……啓蒙主義とは、その字の如くに蒙を啓く、即ち迷信を理性によって見定め、解明し、人間性を人間性そのものへ向かって解き放つ作業こそを意味する。その近現代の象徴たるロンドンで起きたシリアルキリングは、近代や啓蒙という人間性の灯では照らしきれない、明るみの深淵をこそ示していたのかもしれない。残虐性という極めて人間的な振舞に関してではなく、その端的な恐怖に囚われ、畏怖し、ないし愉快がってあれこれと妄想を掻き立てる所作そのものを、指して。

 そういう小賢しい思考が空転しながら、トウマの思索を閉めていたのは、彼の乾いた知識上と記憶に存在する白毛の反英雄の姿だった。

 ジャック・ザ・リッパーを名乗る英霊に対する彼の態度は、いかんせん複雑だった。知識上のものとして、Apocryphaを原典とするあの水子の怨霊の複合体たる『ジャック』のことは知っている。それに加えて、ローマで出会った『ジャック』。バーサーカーで召喚された切り裂きジャックは、数多の伝承の群体その総体で、あの時はただアルテラとともに過ごす都合で少女としての姿を取っていただけに過ぎなかった、らしい。とは言え概ねあの白毛の少女の姿で過ごしていただけに、記憶の淵から浮かぶ姿は、あの小さな姿だった。

 今回、モリアーティ教授の推論通り、ジキル邸に現れた敵は水子の怨霊としてのジャック・ザ・リッパーだろう。リツカたちが戦闘した痕跡からも、それは伺い知れる。通信の攪乱と毒の作用は『暗黒霧都(ザ・ミスト)』によるものか。ある意味で宝具以上に厄介なスキル【情報抹消】も加味すれば、それ以外の選択肢はない。あくまで怨霊が引き起こしただけの、事件ともつかぬ事故のような現象とすれば、“犯罪皇帝”たるモリアーティが与り知らぬのも無理はない。それ以外の可能性を排除しきれないが、今回、その可能性も絞り込めるだろう。

可能性を絞り込んで、彼女と確定して、そして、戦うのだ。ただただ陳腐極まりない人類悪……“生きたい”という資本主義的で細やかな願いの残り滓として産み落とされすらしなかった子供の怨霊を、ただ正義の名の下に、抹殺するのだ。

 なんとなく、にがっぽい感情が胃の底から持ちあがってくる。トウマの予想通りなら、多分、ジャックと戦うのはリツカを主体とした班になるだろう。

 リツカなら、間違いなく躊躇なく撃破する。相手が誰であろうと、彼女は戸惑いなく敵を殺す。彼女は俗物的な人情論を嫌っているし、それ以上に低能な正義論を嫌っている。ミクロな倫理的配慮と、マクロな倫理的正義の行使を取り違えることは、恐らくない。彼女は、ただ人理を取り戻すための如何なる障害をも撃破するのに、一切の躊躇をしないはずだ。

 それに、ほっとしている。自分がジャックを手にかけないで済むことに、安堵している。安堵しながら、客観的に自分の悍ましさを理解して、トウマは自分自身に恐怖すら抱いた。要するに、責任を放棄したことに安心しているのだ。それは恐らく、子どもの賢しらさというより、意気地のない大人の官僚的身振りでしかなかった。

 とは言え……トウマ自身は納得しないだろうが……、彼の仕草は基本的にありふれたものだったし、特に非難されるべきものではなかっただろう。彼はまだ16歳で、来月12月23日に17回目の誕生日を迎える。その程度の小市民めいた少年に、世界のシステムそのものの重さに向き合えという方が酷だ。そこで割り切れずに、善きにしろ悪しきにしろ、感情的になるところが若さであった。

 畢竟、トウマは、世間知らずなガキでしかないのだ。救いようがあるところと言えば、彼は少なからず対自的にその事実を理解しているところだった。

 トウマは、身体を起こした。タブレット端末からは目を離さず、切り裂きジャック事件の資料を、ただ、意図的な無感動さで脳内視覚野に映していた。

 切り裂きジャック事件の被害者は数多いが、同一人物の犯行と目されているのは5人の被害者とされている。その人物は全員女性で、内4人は死後猟奇的な解体をされており、さらに1人は凄惨としか言いようがないまでに刻まれている。当時の写真は記録として残っていて、死体安置所で撮影されたものや現場での写真を見ることができる───。どれも、酷く気分が悪くなる写真だが。

 トウマには、判断が付きかねる。これは悪魔の所業で人間のやることではない、と考えるべきなのか、それとも人間はここまで悪意を以て人を殺せると考えるべきなのか。それとも、別なものなのか。彼には、よく、わからない。

 ただ、思うことはある───惨く刻まれた……というより、破壊された被害者の遺体を、苦々しく正視しながら───。

 人がこんな風に死ぬのは、あまりに哀しすぎるではないか。

 胸郭に淀む汚濁のような情動に顔を顰めたトウマは、かつん、と響いた音に、急いで顔を挙げた。

 あの黒衣の男の姿が目に入った。陰鬱さを纏いながら、どこか気高い傲岸さを芯にした男から受ける印象は変わらない。巌窟から掘り出してきたような男が抱きかかえているのは、他でもないマシュ・キリエライトだ。

 声もなく、血相を変えて慌てて立ち上がったトウマを掣肘するように、男の目がじろりと射すくめた。

 「慌てるな」男の声が教会の内に響いた。「気絶しているだけだ」

 所在なさげに立ち竦むトウマの前まで来ると、男は無造作にマシュの身体を差し出した。半ば反射するように両手を出すと、右腕を彼女の首にもう一方を膝裏へと回した。

 「洗礼詠唱そのものは成功した。()()()()()()で、マシュ・キリエライトにまとわりついていた怨霊は浄化されたよ」

 男と揃って、トウマはマシュの顔をまじまじと見つめる。あの人形のような、艶やかな白い肌に、うっすらと紅が挿している。深い呼吸に応じて、彼女の胸郭も上下していた。

 「全部じゃないんですか」

 「この女の希望だ。何を見たかは知らんが」

 「やっぱり、正体は」

 「堕ろされた胎児の妄執の群体、というモリアーティ教授の考えは当たっている。()()()()()()()()()()()()()()()()()()、そう呼ぶのも良かろう。その怨霊は、間違いなく正しい歴史において5人を殺害したのだからな。

 お前も十分に承知していると思うが、その本当の姿がなんであるか否かは問題ではない。何であるかではなく、誰であるかが大事だ……というと、アーレントのような言い方にはなるか」

 男の声は、酷く突き放したような物言いを放り投げた。取り付く島もない口ぶりは妙に鉱物めいた硬質さで、一瞬反感を抱いたトウマもただ声を咽頭で押し込めた。にべもない口ぶりに、どこかやるせなさへの苛立ちのようなものを感じたからだ。だから、トウマにマシュを押し付けるなり深く帽子をかぶり直した男の所作に、却って人間味のある親しみを感じてしまった。反感の残滓とない混ぜになった親近感は、ありふれた葛藤のようなものだった。

 「本体も、本質的には怨霊のようなものだ。奇蹟を以てすれば、人の身でも打倒し得るだろう。悪を打倒するのに、躊躇や気遣いは無用だ」

 「でも」

 「あれは人理の影法師ではない。ただ、恐怖が形を作っただけのものにすぎんよ」

 トウマが言い淀んだ瞬間に、先を取るように男の声が覆いかぶさる。目を白黒させるトウマを他所に、男は言葉を続けかけ、首を横に振った。喋りすぎたな、と自分に言い聞かせるように独り言つと、男は身を翻した。

 「ではな」

 もう、さっき見せた僅かな人間らしさはない。頑健な仮面でペルゾンを覆い隠すような男の声は、鉱物というよりは軽金属めいた硬質さがある。ずんずんと歩を進めていく男の背にかけるべき言葉も見当たらず、まごまごと口唇を震わせていたトウマは、男が教会の扉に手をかけたところでようやく発声した。

 「あの」男は、扉を開けた。「ありがとうございました」

 男が、束の間静止した。開け放った扉から入り込む雨粒を受けながら、何故か、立ち止まっていた。

 ふと、男が微かにこちらを見た。身を翻しもせず、ただ流し見るような目つきには、意外なものを見るような、呆気にとられながらも愉快そうなものが浮かんでいた。きっとそれは、偉大な英雄が、小市民の素朴な心情を垣間見た時のような喜悦、のようなものだった。

 「え?」

 男が、何か口走った。大分距離があるせいで、巧く聞き取れなかった。ぽかんとするトウマの表情に、何やら決まり悪そうに視線を外した男は、くつくつとした嗤笑を口元に浮かべ、教会の外に、一歩足を向けた。

 「Attendre et espérer───強い意志を以て、事に当たりなさい。どこにでもありふれた、誰でもあって誰でもないマスター君」

 黒い影が、暗雲の中に溶けていく。その姿を見送ったトウマは、幾ばくか、その背の幻影を網膜に映していた。

 男の声が、無暗に脳神経を発火させていく。何故か、手が震えているような気がする。頭の中でこんがらがった配線に新しい線が加わって、継ぎ直されていくような、そんな感覚。余計に混乱するのか、それとも何事か新しい発想が胚胎したのか。ただ、鈍い感触が脳の奥底、脳幹ほどで淀んでいるようだった。

 走馬燈が回るように、脳裏に顔が過る。旅の中で出会ってきた幾多の顔。苦しみにも似た情動が胸郭の奥底で湧き出し、静かに、地下水脈を流れる清水となって全身の四肢末端に滲みていく。

 「タチバナ君?」

 ふわ、と深雪のような声が耳朶を衝いた。ふと気が付けば、開け放たれた教会の扉の向こうに、黒い姿があった。

 真っ黒なレインコートに身を包んだ、アリスだった。緊急時に備えて、外で待機していたのだろう。雨が滴るコートを脱ぐと、修道服めいた黒装束が顔を覗かせた。黒い森の魔女、という言葉が、どうしようもなく似合う。

 アリスは、訝るようにトウマと、彼が抱いたマシュを見比べた。見慣れてみると、アリスは表情に感情が現れやすい、と思う。というより、僅かな表情の機微でしか読み取れないという方が正しいか。端的に言って、彼女は事の推移を思案しているらしい。

 「疲れた、そうですよ」

 アリスは、ほぼほぼ無表情のまま小さく頷いた。僅かにだけ動いた口唇が、「そう」と独語めいた呟きに象られていた。とりあえず、納得はしたらしい。顔を挙げたアリスは、つと丐眄した。

 教会の入口に、一羽、鳥がいた。濃い灰色の羽毛に、嘴の黄色が鮮烈さを感じさせた。その鮮やかな嘴に何か小さな紙袋を咥えた小さな椋鳥が、ちょこんちょこん、と教会の中へと入ってくる。しゃがんだアリスが手を差し出すと、手のひらの上に紙袋を乗せた。それで、その使い魔……プロイキッシャーの仕事は終わりらしい。アリスが立ち上がるのを合図に、踵を返すと、またちょこんちょこん、と教会の入口まで跳ねていき、雨の中を飛び立っていった。

 アリスは、ちら、と伏し目がちな瞥見をトウマに差し出した。出ていけ、というわけではない。居たければ好きにしたらいい、でも余計なことはするな。多分、そんな意味の一瞥だった。トウマも一度深く頷くと、こつこつ、とブーツの底を奏でるアリスの背を、ただ目で追った。

 祭壇の前まで行くと、アリスは一度、壁面に大きく飾られた十字架を見上げた。かつて聖なるものを磔にした墓標の表徴を、眺むるように佇む黒い魔女。どことなく不吉な光景だな、と思うのは、少々歴史の勉強が進んでいるからか。だが、トウマが直観したイメージは、もっと、凄惨だった。

 ステンドグラスから注ぐ淡い光を受ける彼女の背が、何か、光に誘われているように見えた。何か聖なるものに、身を殉じるかのように。

 ぞっとした。目前に焼き付いたイメージを振り払うように身震いすると、コツン、と何かが頭を小突いた。

 にゅ、と肩から青くてちっこい姿が現れた。青い駒鳥は、トウマの肩に止まったまま、憮然とした様子である。チッチッチ、と抗議するみたいに声を鳴らして、翼をぱたぱたさせている。 

 が、一瞬で青い駒鳥は身を硬直させた。祭壇の方を見ると、じろりとした視線にぶつかった。

 しゅんと身を竦めた駒鳥は、渋々といったように飛び立った。そのままアリスの肩の上に乗ると、鬱々としたように羽を休めた。流石に、鳥の情動などはわからない。

 アリスは身を屈めると、何か作業を始めた。彼女の魔術は、系統的に黒魔術に分類されるらしいが、その系統樹からは極めて乖離し、最早別物と化している……とは、リツカの談である。とは言え基本はやはり黒魔術であるらしいので、今行っているのもそういうものなのだろう。多分。

 何をしているのか、彼女は黙して語らない。その魔術は、リツカとライネスに言わせれば“魔法以上に魔法に近しい”ものらしい。ほとんど独自に発達しきった魔術は2人の理解の外にあり、カルデアのライブラリにも名称だけがある程度でほとんど記録にない。クロをして理解不能、再現すら不能のそれは、ある意味で魔術というよりは異能にも近しいか。差異があるとするならば、彼女のそれは、順当な魔術と同じように継承されてきたものだというところか。魔術師が魔術師であるが故、アリスが何事かしているのか詮索する者は誰もいない。

 十字架の前に跪くアリスの姿は、修道女めいた服も相まって、奇妙に調和している。それだけに、先ほど過った観念が忍び寄るように眼底から這い出して来る。

 殉教の乙女。美しくあるほどに不吉な予感に、トウマはただ、立ち尽くすしかできなかった。

 

 

 降りしきる雨の中、ホワイトチャペルはさながら夜の帳が降りたかのように陰鬱だ。スモッグが混じった雨は、客観的にも主観的にもどこか粘ついていて、道端にできる水溜まりはどす黒く濁っている。浮浪者たちはこんな時でも幾人か徘徊している。目的もない行軍はどこか亡霊めいていて、この陰鬱な街並みに、不気味に溶け込んでいる。浮浪者たちの身なりは皆お世辞にも綺麗とは言えず、雨の中動き回っているのも、恐らく衣類を雨水で洗濯するためのものであっただろう。それだけ、彼らは汚らしかった。

 ホワイトチャペルロードからふらりと1本入った路地に入り込んだ浮浪者は、日々の疲れを癒すために、奥まで入り込んだあたりで腰を下ろした。硬い路面の感触も慣れたものだが、慣れたからといって心地よいわけではない。人間は耐えようと思えば悍ましい悪にも慣れてしまう生き物なのだ……つまるところ、路地で寝ることに慣れていることと、路面の肩さや雨の冷たさ、着の身着のまま寝ることの堅苦しさといった不快が解消されることは、イコールではない。ただ、その現状を仕方なく受け入れているだけ、とも言うか。

 こんな風になったのも、いつからのことだろうか。街から人が消え、住居のあるものは皆引き籠るようになった。妙な恐怖が空に渦を巻いているかのような錯覚が、待ちゆく人々を捉え、臆病にさせている。警官が見回りにくることすらなくなったのは、良いことの一つだ。こうなる前は、道端で5分も寝ていればどこからともなく警官が現れ、法律という名の鈍器を以て浮浪者を打ち、その場から退去させたものだ。あの頃に比べれば、寝たいときに寝られるというのは幸運だ。とは言え、以前より就労の可能性は減り、お陰で日々の糊口を凌ぐことで精一杯だ。

 最も、浮浪者は、そんなことも自然と受け入れている。ホワイトチャペルと言う名の掃き溜めにまで堕ちていった人間たちは、皆、世界の不条理を唯々諾々と受容することに慣れきっている。そうでないものは、もう皆死んでいるし、また死んでいくのだ。

 いや、その言葉は、実質正確ではない。唯々諾々と受容していても、死に神は不条理にやってくるのだ───。

 そう、この時も、端的な不条理さとともに。

 浮浪者がこくこくと眠りに半身を浸され始めた時、それはやってきた。闇黒とともに、昏い獣臭が膨れ上がる。ぽた、ぽた、と滴るのは、雨ではない。もっと粘度が高く、猥雑で、有機的で、つまるところ、それは垂涎だった。どす黒い闇暗がそのまま象られたかのようなそれから突き出た顎からは、銀色の刃が顔を覗かせていた。

 浮浪者は、そのまま目を覚ますことなく捕食された。大口に咥え込まれ、無数の牙に切り刻まれ、磨り潰され、破砕され、上は脳髄から下は子宮に至るまでの内臓は粗びき肉団子にされ、飲み込まれていった。

 極めて獣じみた所作でありながら、その手口は鮮やかの一言だった。血の一滴、毛の一本の痕跡すら残さずに、浮浪者の女は跡形もなく消え去った。

 しばし、その闇黒はその場に留まった。未だ慣れないこの世の肉の味に困惑していたのか、それとも別な理由なのかは伺い知れない。ただ空を見上げたそれは、降りしきる雨の向こう、分厚い曇天の先に横たわる光帯を、凝視した。

 あれが、この世の法を焼き尽くした因果の根本。ヒト、という種の陳腐な悪性の発露。取るに足らぬ失笑物の児戯だが、何にせよ、それにとっては僥倖だった。アレが無ければ、たとえ窓が開こうとも、この世界に来ることは能わなかった。

 くつくつと嗤いのような音を喉元で鳴らしながら、時折、それは酷く咽た。血走りの咳き込みを吐き出しながら、それは、厄介そうに唸った。

 この世界は、酷く息苦しい。動くだけで身体が軋む。この身体は全く以て不完全だ。所詮は仮生の肉体とはわかっているが、これならばあちらの肉体の方がまだ良かったか。

 詮のない思案を巡らせてから、それは、まぁいいや、と素直に思考を放棄した。今回の戦いの意味は真なる玉体の顕現ではなく、賢しらな、敵を知ることなのだから。

 それは、小さく身動ぎした。雨音に紛れて響いた羽音を察知して、素早く路地の奥へと溶けていった。

 ぼつぼつと降りしきる雨粒に紛れ、ぱたぱたと軽く空気を叩く音が耳朶を打つ。薄暗い闇に身を潜めながら空を見上げれば、この大雨の中、場違いに飛ぶ灰色の鳥が見えた。何羽かの椋鳥が頭上を過ぎ去る際、それ、は身を縮めた。忌々しく見上げてから、星からの闇黒を凝縮したかのような身体から、唸り声を漏らした。威嚇するようにも、また恐れるようにもとれる声を喉元に鳴らしていた。

 この世界に来てから、常にこの街を監視する天からの目。あの女を食い荒らすのに、この身体はまだ力不足だ。

 だがあと少し。あと少しで、有望な眷属が産み落とされる。それまでは、この獣の王の身体を以て───。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅴ-1 ”薔薇の王笏よ、威光を示せ(グロリアーナ)

 「編成に何か?」

 「特に。外連味のない、リツカらしい考えじゃない?」

 2日後、アリスの屋敷にて。

 2Fのゲストルームが並ぶ廊下を歩きながら、クロとライネスは明日の作戦についての話をしていた。

 2日前の試験に加えての、トウマたちの“会談”はその後のデブリーフィングも含めて恙なく終了していた。あの人狼の一番厄介な点である空間転移の条件および出現地点の判明。そしてジキル邸で襲ってきた敵の素性の精査。数少ない情報だけで敵の核心に迫れたのは、一重にこちらの頭脳集団の優秀さのお陰だろう。勝利とは、偶然もたらされるものではない。幾重の条件をクリアした結果として手繰り寄せ得る必然的契機なのだ。例えば補給線であったり、兵力の運用であったりだが、その大きな位置を占めるのはやはり情報だろう。どれほど矮小だとしても未知の敵と戦うのは危険で、対してどれほど強大な敵であろうとも熟知していれば打倒するのは可能。それが、戦いというものなのだ。その意味で、今回は敵に大きく先んじている。

 「もう黒鍵は渡したのかい?」

 「そりゃ渡したけど。本当にやる気なのかしら」

 「やると言ったならやれるだろう」そう言いながら、ライネス自身もちょっと信じ難いという表情だ。「伝承科(ブリシサン)上がりの手際を視る良い機会さ。そう見れたものではないよ」

 「あの子、本当に魔術協会の人間なのかしらね」

 「所詮魔術は道具ということだろうさ。だから黒鍵も使うし、だからあんな辺鄙な場所に呼ばれもする」

 2人して、ちょっとだけ難しい顔をする。クロもライネスも、形はどうあれ名家の生まれで、どちらかというとラディカルな思考をするにしても、基本は魔術師なのだ。魔術は秘すべきで、己が根幹とする魔術基盤への傾倒は無意識のレベルで持つのが魔術師だ。まして、聖堂教会の“秘蹟”などというのを平然と使う人間は、魔術協会でもそう居ない。いたとしても、研究目的で調べているだけの変わり者だろう。

「現代魔術科にもいるよ、そういう変なのは。間違って使っちゃう奴とかね」

 「変な学派」

 「よく言われる」

 軽口を叩き合う2人には、けれど、異端に対する保守的な嫌悪のようなものは一切ない。確かに彼女たちは名門の出だけれど、どちらかと言うと異端なのだ。アインツベルンは千年続く名家だが協会とは別で、ライネスもライネスで、彼女が次期当主になった時には、エルメロイ家は負債ばかりの没落貴族という体たらくだった。要するに、彼女らは、本流ではないのである。

 「でも『秘蹟』が使えるなら」妙にその言葉にアクセントをつけるのは、やはり魔術協会の人間だからだろう。聖堂教会が述べる秘蹟という物言いは、協会の人間としては要するに自己欺瞞と自己撞着くらいにしか見えないのである。「自分で使えばいいじゃないか」

 「リツカが見てるのは、あくまで聖女様のものだけだからね」

 「あぁオルレアンの。でも、見ただけだろう?」

 「彼女、勉強熱心だから。大正解の模範解答があったらできる、だって」

 「だからとて、埋葬機関の真似事とはね」

 互いに肩を竦め合った時、ドアノブが降りる小さな金属音を耳朶に響かせた。2人して廊下の先を視れば、ちょうどリツカの部屋のドアが開くところだった。

 部屋から出てきた人影は、2つだった。ぺこぺこと日本人臭い動作で退室する1人に対して、もう1人は深々と頭を下げている。どちらもカルデアの戦闘用礼装服に身を包んだ、見慣れた姿だった。

 「やあ、熱心なことだね」

 ライネスは呑気そうに言った。日本人臭のする所作の1人……トウマは、手にタブレット端末を持ったままだった。

 「あぁいや、大したことではないんですけど」

 慌てて右のポーチに端末を仕舞い込んだトウマは、ちょっと決まり悪げに言う。マシュはなおのこと沈んだ表情で、何故かここでも頭を下げた。

 はて、と呆気にとられたのはライネスである。伺うような彼女の空色の目を見返してから、クロは、自分のマスターを一瞥した。

 彼の、ドングリみたいな粒のいい瞳と視線が絡む。一瞬だけ躊躇したかのようになりながら、一度隣のマシュを横目で伺ってから、しっかりとクロに視線を返した。その視線の精悍さに、ちょっとだけ、クロは気おじした。

 良い顔をするようになったな、と思った。何故かその眼差しに急かされるようにライネスの方を見てから、クロは頷いた。

 「そうだ、タチバナ」そんなクロの身振りでおおよそを理解して、ライネスは先ほどの呑気そうなテンションのまま続けた。「勉強家な君にお伺いしたいことがあってね。一緒に来てくれ」

 「え゛っ」

 「マシュ、君はどうする?」

 さらっとトウマの抗議をもみ消しながら、ライネスはやはり何ら変わらない気分で話を振った。他者の機微に敏くなければ、巧妙な罵詈雑言は浮かばないということだろう。いや、巧妙な罵詈雑言をそんなことに費やすのもどうかと思うけれども。

 「いえ、私はその、ちょっと疲れたので」

 決まり悪げな苦笑を漏らすと、マシュは行儀よく頭を下げた。そうかい、と応えたライネスは、軽く、頷く仕草をした。無論、マシュの言論に納得したわけではない。彼女のその仕草を受容して、ただ、理解を示した仕草だった。

 では、と再度軽く会釈をして、マシュは心持ち足早に、どこともしれない場所へと歩いていく。彼女の部屋は、リツカの部屋の隣なのだ。

 「察するに」ライネスは特に感情も見せず、トウマをじろじろと見回した。「例の、水子の怨霊のことかな」

 「もう読んだんですか」

 「そりゃそうさ。君、私のことをただの置物とか思ってない? 随分礼儀正しい判断だね」

 ライネスは心外そうに顔を顰めた。クロはそもそも、ジャック・ザ・リッパーという存在者のことを、トウマ本人からよくよく聞いている。

 生きたい、という、ただそれだけの、どこにでもありふれた、普遍的で、それ故に極めて個体的な願い。その強度を、クロエ・フォン・アインツベルンはよく知っている。無論、彼女はそれを踏まえてなお、敵を殺すことに躊躇しないだけの強さがある。多分、それはライネスにもそうだろう。そしてリツカも。人間にはできることが限られていて、その限りの中で最善を尽くそうと思えば、救えないものが出てしまうのは避けがたいことなのだから。それを割り切れないほど、3人は見た目ほど子供ではないのだ。

 トウマはどうだろうか、と思ったクロは、ちょっと目を丸くした。疑問が出た瞬間、もう、答えが頭に浮かんだからだ。多分、彼は、物凄く嫌な気分になりながら、倒す決断をするのだろう───そんな結論。

 「?」

 思わず、少年の顔をじい、と眺めていた。見返してきたトウマの不思議そうな表情にちょっと笑みを漏らしてから、なんでもないわ、と言うように肩を竦めた。多分、オルレアンで音楽家を弔ったときのように、きっと彼はその死を嘆き、悲しむのだろう。死者、というアナタのために。

 だからこそ、マシュの脆さが、今は際立つ。そもそも人間として無垢すぎる彼女は、リツカのような割きりもなければトウマのような感受性もなく、その重すぎるものを担い産むことは、難しいだろう……。

 「ま、いいじゃない」ちょっと憮然とするライネスの背を、押した。「とりあえず、入ろ」

 あぁ、と頷くライネスを背に、クロは扉を軽く叩いた。返事を前にドアを開けると、おや、と目を丸くした。

 部屋は綺麗だった。本は無数にあるけれど、綺麗に積んである。本の群れの中地べたに胡坐をかいて座るリツカは、珍しく、難し気な顔をしていた。

 「あれ」やっほ、と手を挙げると、ようやっと気づいたリツカが顔を挙げた。「トウマ君、また来たのかい」

 「いやぁ、まあ色々」

 ちょっと苦笑い。ふーん、と特に興味もなさそうにしながら、リツカはのそのそと立ち上がった。

 「編成の話?」

 腰を両手で押して、天井を見上げながらリツカが言う。そんなところ、と応えながら、ライネスは当たり前のようにデスクの前の椅子に腰を下ろした。

 「というより、戦闘の推移の話」

 「トウマ君たちの方は問題ないでしょ?」

 伸びを終えたリツカは、積み上がった本に腰を下ろした。

 逃げている、と思った。普段と変わらない泰然とした様子の内に、僅かな葛藤を見出せたのは、この関係が長いからだろう。僅かにだけ伺い知れる懊悩の表徴は、むしろリツカという存在者の存在の奥行の深さを示しているかのようにも見えた。

 「本当に、マシュに任せていいのかという話だよ」

 ライネスは、すっぱりと言い切った。回りくどいことは慣れているが、むしろ慣れているだけに煩わしいと思っているのだろう。リツカはやっと、うーん、とあからさまに眉を顰めてから、苦笑いとともに肩を竦めた。

 「大人は子供に範を見せるのが仕事でしょう? 普段、どちらかというと後ろに居るだけだからねえ、私」

 ねえ、とリツカが声を向ける。向けられた相手……トウマは幾ばくか逡巡してから、渋々といったように頷いた。マスター、という曖昧な立場であるが故の葛藤。そう理解もできるけれど、多分、リツカの身体の内側に立ち現れている思索は、それに限定されるものではない、気がする。

 客観的には師父とかそういう雰囲気があるし、実際彼女はそういうことを嫌っていないけれど。それ以上に、多分、マシュという人間の寿命のこともあるのだろう。魔術界隈では、人造の生命がどうしても短命であることを克服できていないのだから。

 とは言え、主観的感傷にばかり傾注できないのも事実である。腕組みしたライネスの表情は、事情を理解してなお懸念に満ちている、と言及しているように見えた。

 「もちろん、もしもの場合は考えてるよ」

 そしてもちろん、個人的感傷だけを露骨に持ちこむほど、リツカも魯鈍ではない。手遊びのように手近な本を手に取ると、特に意味もなく、片手でページを開いた。

 「怨霊、というならより強い怨念に敵う道理はない。実際、あの不意打ちを完全に防御できたのはタマモちゃんの力も大きいからねぇ。とは言え、タマモちゃんじゃあ接近戦には向かない。閉所戦闘になると、金時君も得手ではない。となると、やっぱりマシュと私で撃破するのが道理にはなる──と、思うがね」

 数瞬思案してから、ライネスは肩を落とした。リツカの物言いを、概ね認めたのだろう。「心の税金だね」認めはしたけれど、それはそれとして皮肉の一つも言いたくなるライネスである。

 「税金を払うのは、市民社会に生きる人間の義務だと」

 「……確かに、時計塔も大分英国には金を払っているけど。いや、いいんだ。余計なことを聞いた」

 「殺し合いは万全を以て挑むが常道でしょ、指揮官様? どうあれ私たちがやってることなんて胸糞なんだから、せめてちょっとでも報われる方法を取るべきよ」

 ライネスもリツカも、クロの言葉にただ頷いて肯定を返した。どれだけ美辞麗句を飾ろうとも、戦闘行為とは要するに他の生命を撲滅すること以外の意味はないのだ。戦争にあるのは各々の都合であって、各々の正義ではないのだ。耳聞こえのいい言葉は、精々気分を高揚させるときにだけ使うべきだろう。

 「タチバナ、君の方は大丈夫か?」

 それで話は終わり、というようにライネスは話を変えた。毛色の違う声音は、どこか重苦しい思案を払拭するような響きがある。トウマもそんな空気の変調を漠然と理解して、努めて朗らかな風に応えた。「大丈夫っすよ」

 「俺はただ突っ立ってるだけですし……反撃するにしても倒すためじゃあないですし」

 「あとは、ライネスのタイミングを間違えなければ大丈夫ね」

 「言ってくれる」

 いつも通りの、軽い舌触りの言葉のやり取りだ。それとなくリツカを一瞥すると、ちょっとだけ、クロは安堵する。彼女は、前と同じように右側頭部に手を回してから、前と違う位置に一房だけ編み込んだ紙を指先で弄っていた。表情はちょっとだけ悩まし気で、当たり前だけれど、フジマルリツカという彼女が、人間なんだという実感を醸し出していた。

 「万全は期してる。あとは、万事恙なく終わらせるだけだね」

 それとなく、リツカの声が耳朶を打つ。幾ばくかの余韻が沈黙となって残響し、厳かな和やかさを以て、染み入るように。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅴ-2

 「おや、マシュ君じゃあないか」

 多分、その声は、運命のようにやってきた。

 それが、ジェームズ・モリアーティの言葉がやってきたときに、マシュ・キリエライトが抱いた直観だった。

 場所は、屋敷の正面ロビーだ。階段を降りて、索漠と立ち尽くした時、背後から声が肩を叩いた。振り返ると、ちょうどキッチンの入口から顔を出す年寄りの顔が目に入った。

 「お茶飲まないかい、お茶お茶お茶」

 好々爺然とした顔で、なんとも知性の低そうなことを言うモリアーティ。ひょこりと姿を現したやせぎすの男の手には、ティーポッドが口から湯気をたてていた。

 「ちょうど飲もうと思ったんだけどねえ。玉藻君はいないし、女王陛下ももうお茶淹れてくれないしね、困った困った」

 モリアーティは気さくな様子だ。どうかな、と首を傾げて見せる素振りは、とてもあの“ジェームズ・モリアーティ”らしくない。犯罪界のナポレオン、と呼ばれた男には。

 微かな、それでいてどこか芯の強い逡巡が、マシュの脳裏に飛んだ。後頭葉から脳幹を通って、延髄から脊髄まで徹る。

 言ってしまえば、モリアーティ教授は、ある一時代で悪意を積み上げた、悪の親玉のような人物だ。

 自我と関わりのない逡巡の後、マシュは首肯を返した。「そうか、そうか」と機嫌良さそうな顔をした。さっきの逡巡が、何か愚かな見当違いだったような気分すら覚えるほどだ。やはりやめよう、と声を出しかけたが、それも、もう憚られた。何せ、あの犯罪皇帝はにこにことした笑顔を浮かべていて、とても無邪気な様子なのだから。少年めいた表情に否を語るのは極めて申し訳なさを感じさせ、マシュは口に出しかけた言葉を噤んだ。マシュには、無垢なりに発育した良心が備わっていた。それに、ティータイムそのものに興味がなかったわけでもない。なんとなく、気分を落ち着かせたかった。

 じゃあ行こうか、とモリアーティに誘われて、マシュは屋敷の外へ出た。正面玄関を出ると、玉藻の前が鼻歌を唄いながら、玄関前を掃き掃除している。ふわふわと揺れる彼女の尻尾は、とても肌触りが良さそうだ。空には分厚い灰色の雲が横たわっているけれど、雲の隙間からは珍しく青空が覗いている。切れ目から滲む蒼空は目に染みるほどで、体の内側を擽るように満たしていく。

 思わず立ち止まっていると、「こっちこっち」と裏庭の方へ向かったモリアーティが手招きしている。釣られて向かうと、粒の善い朝露が、靴を濡らして、タイツの奥の肌をツン、と鮮烈に刺した。靴に草や土がつくのも構わず、足が濡れるのも構わず、マシュは見なりの善いモリアーティ教授の後をついていく。

 屋敷の裏手まで回ったところで、マシュは、わぁ、と質朴に感嘆の声を漏らした。綺麗に刈り込まれた庭は、多分金時の手柄、だろう。黒く深い森を臨む小さな広場には、空から陽が差し込んでいる。その広場に、木で作りこんだテーブルとベンチが小綺麗に並んでいた。

 マシュの生き生きとした語彙力の中に、この掬するような薫り高い景色を風合いよく語る言語はなかった。小綺麗で小さくて、どこか宝物めいた場所だ、と思った。

 「金時君に頼んでてねえ。寸法通り作ってくれないから、困ったものだよ」

 本当は木材にもこだわりたかった、とモリアーティは漏らしながら、ベンチに座った。近づいてみると、確かにテーブルは全体的にごわごわしている。モリアーティはそれに構わずテーブルクロスを敷くと、素早くティーセットを並べていく。向かいのベンチに座って、マシュは老人のそれなりに手際のよい仕草を眺めた。元々英国紳士なのだから、マナーもできているのだろう。

 「菓子が無いのが残念だね」

 確かにそうだ、と思う。ほわほわと温かな湯気を放つティーカップとくれば、甘い菓子があるべきだ。

 「ま、仕方ない。今日は切らしているからね」

 それもそうだな、と思う。この屋敷の菓子類や食事は、玉藻の前がどこからともなく市井で手に入れてくるものだ。いつも、なんでもあるわけではない。無い物は、ないのだ。

 それでも、些細なことだなぁ、と思う。モリアーティはエプロンをつけたまま、さっそくとティーカップの取っ手をとると、一度薫りを楽しんでから口をつけた。少々不満そうなのは、多分、この屋敷で、より美味な紅茶を散々バラバラ味わってきたからだろう。

 マシュも、紅茶に口をつけてみる。陶器のカップが下唇に触れ、ふわりと香り立つ茶葉の馥郁たる馨しさとともに、舌に心地よい温度が流れてくる。単純に美味しい、ということだけが、マシュの頭に観念として浮かんだ。ライネスが淹れてくれるものも美味しいし、ロマニが淹れてくれるものも美味しい。クロが時折気まぐれに淹れるインスタントコーヒーも美味しいと思うし、マシュはなんでも美味しいなぁと思うのであった。

ただ、なんとなく、心地よい気怠さが空気に横たわっている。少々の不満を覚えながらも、呑気な時間を楽しむモリアーティ教授は、真実呑気そうにしている。マシュも幾分かばかり気が楽になるのを感じたところで、不意に、背後に何かどす黒いものが迫るのを知覚した。

 いや、気のせい、だ。僅かにわき目を横に向けると、何もない。古い魔女の館が、重々しい威容を厳かに湛えているばかりだ。

 肌が、粟立っている。薄手のパーカー越しに腕を撫でたマシュは、言いようもなく、脳裏に誰かの顔が浮かぶのを感じた。オルレアンで出会った鬼の顔だったろうか、それともあの侍の顔だったろうか。大海の上で出会った海賊たちの顔、だったろうか。それとも、マスターの顔だったろうか。だが、最後に浮かんだ顔だけははっきりしている。ローマで出会った、病的な白毛の女の子の顔が頭蓋の底の方から浮かび上がった。マシュは怖気のような嘔吐感が臓腑からせり上がり、思わず身体を冷たく痙攣させた。胃までせり上がってきた吐き気を押し込むように、慌てて紅茶で喉に流した。

 おずおず、とマシュはモリアーティ教授を伺った。年ふりた老人は特に何か気にするでもなく、さっきと同じような呑気さで紅茶を味わっている。安堵しながら、マシュは吐瀉の代わりに、深い嘆息を吐けた。

 「どうでもいいことなんだけどねえ」

 もう一杯、とティーポッドから茶を無造作に注ぎながら、モリアーティは声を転がすように吐き出した。

 「英霊、ってのは厄介だねえ」

 飲むかい、と小首を傾げるモリアーティに、マシュは素直に頭を下げた。カップを差し出すと、やはり無造作に、じょぼじょぼと注いでいく。

 「私という完結した存在が完結した存在でこの現象の世界に召喚される……というのは、色々、つまらないことだ」

 何故、と問うと、モリアーティは失望するように続けた。

 「だって、私の知性はここで完成し、これから先拡張されることもないんだヨ? 勉学に携わるものとして、自分の頭脳が頭打ちだと思い知らされるのは、とても不愉快だネ」

 だから、こういう余分なことをして楽しんでいる。そう、モリアーティは続けて、紅茶をちびりと口に含んだ。

 英霊は、英霊の座に辿り着いた時、そこである種の完成形として登録され、保存されるのだという。そこから変質することはなく、ある意味でそれは人間としての、成長の終わりを意味するものだろう。モリアーティの細やかな嘆きは、ただそれだけの単純さで、単純であるが故に、何か胸を打った。

 「ま、今は色々楽しんでるからいいけどね。悪事を働けないのがちょっと残念ではあるが」深いため息は、多分、ネガティブなものとポジティブなもの、どちらの情動をも綯い交ぜにした志向性のものだった。「たまに、自分の存在の枠の外で呑気にしているのもいいもんだよ」

 今さらのことだけれど、目の前にいるこの人物は、あのジェームズ・モリアーティその人なのだ、とマシュは思い出した。創作の人物ではあるけれど、犯罪皇帝と呼ばれ、ロンドンのあらゆる悪逆に張り巡らせた蜘蛛糸のように関わっていた人物。彼の本質は害悪を為そうという悪意そのものであって、カルデアに協力的な理由も、人の世の存続がなければ悪もまた消えるという、そんな立脚点に依るものなのだ。

 英霊は、その存在を規定された時からそうあるものとして措定される。反英雄は英霊の座に召し上げられた時から、それ以外のものに変容する可能性を、途絶されるのだ。モリアーティ教授は、多分、そういう事実自体を何の気なしに受容するだろう。自らの自由意志を以て悪となった人なのだから。英霊の座、ひいては人理が存続する限り悪そのものと措定されたところで、痛くもかゆくもないはずだった。

 では、そうでないものはどうであろう。神代の魔性たちの中には、自らの意思と関わりなく、そもそもが悪として産み落とされたものもあろう。ミノタウロスなどは、そういった事例なのだろう。

 そして、多分、この胸の内にわだかまるこの何か、も。悪以外のものとして生まれようもなかったものに向けるべき感情など、一体どのようなものが可能であろうか。

 正義?

 同情?

 共感?

 怒気?

 義憤?

 恐らくは、そのどれでもないし、またどれでもある。それは雑多な感情の渦なのだろうか。それともいずれの言語でも捉えられない、沈黙せざるを得ない不定の情動それ自体を指すのだろうか。それとも、全く別な事態なのだろうか。

 頭の中に、鈍痛が淀んでいる。懊悩が固着したような、硬く、鈍い痛み。マシュは沈黙せざるを得ず、そしてその通り、黙してただコーヒーを口にした。

 「羨ましいねえ、マシュ君は」

 顔を、あげた。のほほん、としているモリアーティの顔を、注視してしまった。

 「デミ・サーヴァントのことは知っているよ」半分になった紅茶の表面、それに映る自分の顔を見ている、らしい。所在なく、モリアーティはカップに瞥を与えている。「要するに、君は今を生きる人間というわけだ」

 「善となるか、それとも悪しきものとなるか。何にせよ、変貌する可能性の未来を持っている、というのは善いことだよ。それが多かれ少なかれ、ね」

 犀利な男の声は、きっと古寂びた声帯が奏でた和音のようなものだったのだろう。静かに刺すような言葉でありながら、その針に痛みはない。それでいて核心にまで差し込まれるその言葉は、マシュの胸郭の奥底にまで届いて、鬱勃と膨れるような情動を掻き立てた。きっと、その時の情動は、マシュの顔に現れていた。ビスクドールのような質の良い肌が醜悪に軋み、白い肌に赤みが指していた。多分、数秒ほど。横溢するほどの情動の処理の仕方がわからなくなって、マシュは、今すぐにでもここから逃げ出したくなっていた。でも、そうはしなかった。できなかっただけだろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。どちらにせよ。逃げないことをよしと考えることにした。逃げることは重要だが、重要な局面で逃げるのは、多分間違ったことだと思ったから。

 もう少し飲むかい、とモリアーティは気さくそうに述べた。やはり無言で、頷きだけで肯定したマシュに対しても、彼は何の気もなしに心地よくカップに紅茶を注いだ。マシュの雪いだ分で全てらしい。最後、小さな滴を垂らしたポットの口をハンカチで拭きながら、モリアーティは「僕も一応、教授職だからね」と一言付け加えた。

 まだ、あの鈍麻な傷みは続いている。硬い感触は続いている。じんわりと肥大する腫瘍のような疼痛だけれど、気分は落ち着ている……ような気がした。

 その後のことは、正直あまり覚えてない。穏やかな様子のモリアーティは、とつとつと染み出すように言葉を漏らしていたと思う。数学のことや物理学のこと。物理学は実は数学と仲が良いわけではなく、都合がいい言語だから数式を使っていること。紅茶のこと。宿敵たる探偵のこと。紅茶が切れたことも、声がかすれ始めたことも、時折咽ながらも、何か必死に、モリアーティは言葉を続けていた。マシュは、それをどこか上の空で聞いていた。多分それは重要でなく、だからこそ重要な言葉たちだったから。そしてそれは、彼も了承していた。だから彼は必死だった。

 モリアーティの言葉を脳髄の聴覚野で受け取りながら、その思考は、もっと別な所を逍遥していた。生まれてからの出来事。冬木での出来事。オルレアンでの出来事。ローマでの出来事。海原の上での出来事。そして今、目の前に現れている、出来事。

 それから、多分10分ほど会話をしてから、何か自然的に、マシュとモリアーティ教授は分かれた。教授はもっと紅茶を飲みたいと言ったのだったか。それとなく、自然に、不調和ない別離だった。

 「では、ばいばい」

 可愛らしく手を振って見せるモリアーティ教授の姿が、印象的だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅴ-3

 深い、嘆息だった。からからと乾いた喉は妙にいがいがしていて、喋りつかれたのか頭がぼう、っとする。恨めし気にカップに残ったほんの僅かな紅茶の残骸を視つつ、これで良かったかね、とモリアーティは独語のように呟いた。

 (はい、すみません。ありがとうございます)

 音声だけが、どこからともなく耳朶を打った。いや、モリアーティ自身は声の出所を知っている。気だるげにパンツのポケットから携帯用の、手のひらサイズの情報端末をテーブルの上に放り投げると、空中に青白い映像が投影された。

 青白い画面の向こうに、のほほんとした顔が1つ。その後ろに並ぶ顔3つ。各々、思い思いの表情だ。「善いよ別に」と一番手前の顔……リツカに言うと、モリアーティは続けた。「まぁこれでも、教授職だからネ」

 「マシュ君にも言ったけど、英霊なんて存在はつまんないものさ。生前だけどね、私の自慢の教え子もいたよ」

 (悪だくみをする、ですか?)

 「勉学の話さ」

 にへら、と穏やかに表情を緩めるリツカに、モリアーティは一度心外そうな顔をした。してから、同じように顔を緩めた。「もちろんそっちも」

 「君でもよかったんじゃあないかな」リツカと同じように呑気そうな顔をしながら、モリアーティは手遊びのように、カップの縁を指で撫でた。「君は十分に聡い」

 (まぁそうでもいんですが。マシュには、色んな世界を見て欲しいですから)

 「結構、殊勝なところあるねえ」

 (一応、私もマスターなので)

 モリアーティは、それとなく。モニターに映る少女の姿を視覚に捉える。

 19歳。小柄な彼女の眼差しの中に、強い芯のようなものはない。むしろ彼女にあるのは、もっと別な、しなやかさとでも言おうか、深みのようなものだ。自分とも違う。あのクソ忌々しい探偵とも違う。この女には、何かがある。極めて陳腐な表現をすれば、譲れないもの、のようなものが。

 それが何であるか、モリアーティはそれなりに気づいている。彼にとってはそれ自体はさして興味もないが、たかだか凡人がそう在ることは、興味深いことだろう。人間を辞めている、などと。

 まぁ、案外そういうものなのかもしれないが。モリアーティは気づいても気にもせず、しみじみと19歳の女の顔を眺めた。

 「それで、わざわざお母さんごっこをするために連絡を?」

 (悪いですか?)

 「食えないねえ、君」予想通りに素知らぬ顔のリツカに辟易しつつ、モリアーティはもったいぶったように続けた。「調査の結果だろう?」

 「結果は、当初の予想通りだよ。この歴史の特異点化は、聖杯のピークパワーの予測曲線の頂点部の直後にあたる時間で発生した」

 やはり、と小さくリツカは頷いた。後ろの3人の内、何が何やらという表情をしているのは1人だ。無論、トウマ少年である。

 (聖杯の魔力によって特異点ができたのではなく、聖杯の魔力によって発生した何か別な原因によって、この世界が歴史から分断された……そういうことだね?)

 「そうなるね。そして、それはどういう意味だと思う?」

 (一番嫌な仮説は)リツカは、至って平静な顔だった。(この世界には、聖杯になど頼らずとも人理定礎を崩壊させるだけのプレッシャーがある、というところかしら)

 この、画面越しの会話というのは空気感が伝わりにくい。対面のやり取りでしか感じられない微妙な印象の変化が、捉えきれない。にもかかわらず、この5人の間に妙な緊張感が高まっているのを、モリアーティは肌で感じた。

 (あの、人狼? がそれ、というわけではないんですか。や、そうじゃないから今そう言う話になっているんでしょうけれど)

 おずおず、と背後の1人が手を挙げた。少し癖のある黒髪の下で、少々困惑気味の様子のトウマだ。

 (その可能性もあるけど、正直あの獣が生み出されるだけで聖杯の力の8割を使用しなければならないとは思えないかな。良くて幻獣ほどの生物、現代でもほぼ居ないとは言え絶無ではないしね)

 (つまり、所詮中ボスってわけさ。あの“猟犬”は)

 斜に構えたように、ライネスは不敵に言う。やっぱり、と言うように途方に暮れるトウマの心境は、モリアーティもわかる。それは主に、2つの理由からのものだろう。1つは、強大なはずの敵があくまで前座に過ぎず、なおそれを上回る敵がいるということ。2つは、その敵に関する情報が皆無、ということだ。戦いを決するのは、如何に勝てる状況で戦闘を始めるのかが鉄則だ。そのために、情報は極めて高い意味を持つ。それが欠如しているというのは、思わしいことではないのだ。

 そんな風に目を丸くするトウマに対して、クロは違った反応をしていた。(わかったの、アレの名前)

 (あぁ。名前、というよりどんな化け物なのか、という情報だけなんだけどね)

 一度、ライネスは咳払いした。緊張の面持ちを浮かべるクロに、努めて素っ気なく、続く言葉を漏らした。

 (“猟犬”。今のところわかっているアレの呼称は、それだけだ。ただ、文献にある姿とは大分異なる。それが意味するものが何なのかはちょっとわからないが)

 (どうやら、大分遠くのお星さまからいらっしゃっているようだよ。大儀なことだ)

 (宇宙人じゃない)

 (宇宙人だろうが神様だろうがなんでもいいさ。生きているなら殺せるもの)

 髪を指先で弄りながら、リツカは軽口で応えた。

 (ま、何にせよ、今はその猟犬君をどうコロコロするかが最優先ってわけ。警戒はしなきゃいけないけど、正体もわからないものに対策を立てようもないというのも、事実だからね)

 クロは納得したように頷いているが、トウマはまだ途方に暮れている様子である。それでも頷いているあたり、飲み込めない情報量を消化しているのだろう。存在はあくまで凡夫の域を出ない男だが、その広いとは言えない器量の中を最大限に活用しようとしているのは、褒められたところだろう。

 危険があるからといって、立ち止まって得られるものは何もない。単純な真理だが、そこに立ち向かえる人は、そう多くはないのだ。結果立ち向かえるならば、果敢な姿勢か、それとも臆病な姿勢であるかは、そう大事ではない。英雄とは、結果のことであって過程を問わぬものなのだ。

 「それで、そちらの収穫は?」

 (あぁ、例の本。正直、まだ読んでいる途中だから曖昧なんだけれど)リツカが、背後のライネスを振り返る。プラチナブロンドの髪の少女が頷くと、リツカは続けた。(どうやら、上級死徒に関する何某かの資料、みたいなところだね)

 「死徒とはまた新要素すぎないかね」

 思わず声を挙げたモリアーティの心情はほぼほぼ呆れのようなものだった。何やら謎を大きく湛えた特異点であることは、今に始まったことではないけれど。やれやれ、とでも言うように、画面の向こうでもリツカが髪を弄っていた。

 「一応確認するけど、例の実験の時に人狼……“猟犬”が落としていったものなんだね?」

 (そうですね。間違いなく、あの広場にはこんなものはなかったし、また存在している必然性も見当たらない)

 (一応だが……中でも、『タタリ』と呼ばれる死徒に関する資料、のようだね)

 ライネスが悩まし気に言う中、モリアーティだけがその表情の変化を察知していた。

 トウマ、だ。今まで、どちらかというと小市民的な困惑を質朴にも浮かべているに過ぎなかった少年の表情に、何か険しいものが奔った。何事か、怖気のようなものを惹起させながら、同時に沈思するように視線がうろついている。いや、彼だけではない。トウマが一瞬だけ瞥見をクロに渡すと、彼女の表情も、ほんの僅かにだけ強張った、ように見えた。

 何か、2人にはある。直感的に理解しながら、モリアーティは静観することにした。というより、より重要な要素がありすぎて、それどころではなかった。

 「心当たりは」

 (ちょっと無い。何分、死徒関連の出来事は時計塔よりも教会寄りの情報だから。カルデアのライブラリにも、そう詳しいものはないみたいだ)

 「なるほど」手遊びのように口ひげを撫でたモリアーティは、わざとらしく言った。「つまり、私に見聞をして欲しいということかな?」

 ともすれば挑発的なモリアーティの物言いに、リツカはちょっとばかりの苦笑いを返した。はい、と肯定しながら。

 (文献学は専門外とお見受けしますが、教授の頭脳があればなんとでもなるでしょう)

 穏やかに言ってくれる女である。要するに、彼女は、これから始まる掃討戦の間に一通り目を通しておいてくれと言っているのだ。時間にすれば1日あるかないか。とすれば、彼女の要求値はそこまで高くはないが、最高の頭脳を遊ばせておくのも勿体ない、とでも思っているのだろう。

 「ま、作戦中僕は暇だからネ。君らの資料もあるし、やってみせるよ」

 (すみません、助かります。一応、手元にある資料は後で持っていくから)

 それで、話は終わりだった。こういう機器を使用しての会話は、辞め時がわからないから辞める時はスパッと辞めるものだという。じゃあ、と手身近に挨拶だけして投影映像が消えるのを見止めると、モリアーティはぎしり、と背もたれに身体を預けた。

 死徒、というものに関する知識は、モリアーティにはあまりない。生前、何やら吸血鬼がどうこうという事件があったような気がする……そんな程度の認識だ。英霊の座から選られる知識の中で、当代の知識ではなくより英霊全般に関する普遍的知識の中にも、それらはない。

 ただ、なんとなく直感がある。

 多分、この死徒と呼ばれる事象そのものが大きな鍵にはなっていない。一瞬だけ過った思案……死徒なるものが聖杯によって生み出されたという懸念は、多分懸念だけだ。もしそれほどのものである可能性が高いならば、最初の会話をするのは不毛だろう。とは言え、やはり無視できる要素ではなく、戦う可能性があるなら事前に情報を仕入れておくべし。それが、リツカの思考というわけだ。

 当然の合理性。戦うという行為に身を投じる人間であれば巡らせる、当然の数学的思考。それ自体に疑義申し立てをすることはしないけれど、それでもモリアーティは幾ばくか、薄ら寒いものを感じざるを得ない。齢19、年端もいかぬ少女が、ごく自然にこの思考を繰り広げている事実が、である。魔術に関しては疎いモリアーティだが、曰く彼女が魔術師としては特別優れているわけではない、というのはわかる。にも関わらず、彼女の備えた知性は何なのか。

 人類というのは奇妙なもので、時に、アプリオリな怪物を生み出すものだ。何の必然性もなく、また因果もなく、人理は天才を産むのだから。ただ、そういったありふれた怪物というものか。

 自らもそういった怪物であることを棚上げして、モリアーティは自己解決する。思考にはリソースがあって、そして思考すべき対象にはプライオリティが決まっている。リツカが如何なる存在か興味がないわけでもないが、プライオリティはさして高くなく、またリソースも有限であることを考えるならどうでもいいことだ。それに、有能な人間と仕事をするのは得てして気分が良いのだから、それでいいのだ。

 「お、きたきた」

 案の定、情報端末に素早く情報が送信されてきた。データは2つ。例の本をデータ化したものに加えて、ライブラリ内にある死徒なるものに関する情報をまとめた資料だ。ざっと流し見てから、モリアーティは後頭部を掻きむしった。

 素直に、よく纏まっている。その上で、どこまで調べればいいのかの期待値まで透けて見える。

 正直なところ、1日でやるには少々分量としては多いのだが。幾分か顔をくしゃくしゃにして思案してから、口元に年ふりた嫣然を浮かべた。

 若者が、老人に期待を寄せるというのだ。分不相応の期待には、つい応えてしまいたくなるのが悪人というものだろう。こういう善人がいるのだから悪意を為すに価値があり、またやりがいというものもあるのだ。善性と逆の悪しか有り得ず。対偶の悪などは単なる子供だましの悪でしかないのだ。

 「要するに。人理焼却、なんてのは悪でも何でもないんだよねえ」

 のたり。椅子から立ち上がったモリアーティは、出窓の傍によると、鍵を回した。くるくると鍵を捩じった後、玉藻の前がすっかり綺麗に磨いた窓を開ける。山の冷厳な風が無節操に吹き込み、よく整えた灰色の髪の毛を浚っていった。

 「人類悪なんてのは、ただの善性の暴走。くだらないくだらない」

 そうだろう、とモリアーティは振り返った。

 白い、朧な霞が佇んでいた。僅かに覗く目元には、空虚な無邪気さが覗いている。

 「やあ、お久しぶり。座って良いかな」

 そんな風に言いながら、彼はモリアーティの返答なんて聞かずにずけずけとベッドに腰を下ろした。ちょっとだけ顔を顰めたが、コイツはそういう奴なのだから仕方ない、と思い直した。

 「直接お出ましとは珍しいじゃあないか」

 「1回くらいは見ておきたいと思ってね、未来のロンディニウムも」

 「千里眼があるんじゃあないのかい?」

 「僕の千里眼、あくまで現在を対象にするものだからね。それにこの特異点、どうにも見通しが悪い」

 椅子の位置を直した。モリアーティは足を組むと、健気そうに座る白い朧な影に相対した。

 「何か、事が早まったということかな」

 「ティアマト神が堕落した。少なからず、彼女たちがバビロニアに来てくれるまでは覚醒段階には入らないと思われるが」

 「いや、それ以上は結構。情報を早く接収したいのだろう? 論理は組み上がっている。あとは、君の手腕に期待するよ」

 白い靄の中、軽くそれが身を揺らした。無邪気、というよりは極めて自然的な嗤笑は、とても様になっている。モリアーティはデスクの上に出したままになった情報端末を、その人物めがけて放り投げた。

 ちょっと危うくそれを受け取ると、白い霞は物珍しそうにその端末を眺めた。流石に、人類最新の機器は見慣れていないらしい。

 「折角なら、情報を吸い出してもらっておいたら便利だったんだけども」

 「元は特異点修復後に来る予定だったんだろうに」

 「吸出しに10分ほど時間を戴いても?」

 「早いな」

 「まぁこれでも、一応は宮廷魔術師なんてものをやらせてもらっていたので」

 要するに、王家御用達の人材であるくらいの自己主張はあるらしい。半分は化け物でも、半分は人間という訳だ。最も、謙遜というよりはまだまだ卑下が過ぎると思うが。

 「例の敵……なるほど、“猟犬”って言うのか。言い得て妙だね」

 手慰みのように機器を弄びながら、白い霞が言う。こんな作業をしていても、同時にあの機器から、これまでこの特異点で集めた全ての情報の閲覧を行っている最中なのだろう。

 「こちらも戦った。最も、キング君がだけど」

 「倒したのかい」

 「バビロニアに、少々姿を現してきている敵がいてね。なるほど、この転移条件ならキング君や頼光君が戦いやすいというのもわかる」

 ほとんど独語のように言ってから、白い靄が身動ぎする。すっぽりかぶったフードの下から、何か伺うような視線がこちらを向いた。

 が、その時は何も言わず、白いそれは被りを深くした、

 頭が痛い話だ、とでも言うように首を振る。その素振り以降、それは特に何も言わず、残り7分21秒を黙々と吸出しに専念するらしい。

 「じゃ、ここの特異点は任せるよ。多分、フジマルリツカならなんとかできるだろう?」

 「どうかな。で、女王陛下には、お会いにならないのかい」

 「遠慮しておくよ。妖精の彼女には頭が上がらないから」

 シ ュタ、とでも言う擬音語が聞こえてきそうな軽い身のこなしで、白い影が窓枠に飛び乗っていく。まぁ気持ちはわからんでもないな、と思いつつ、モリアーティはその身振りに呆れのような、失笑のような感情を漏らした。

 「そう言えば」ほとんど身を乗り出したところで、くるりと丐眄した。「些末な質問なんだけど」

 「どうぞ?」

 「間桐桜、という人物を知っているかい」

 間桐桜、?

 直感的に日本人の名前だ、と理解できたのは、同じ日本人の名前をした人物と今まさに共同作業をしているからだった。だが、わかったのはそれだけだ。その名前には一切覚えはなく、モリアーティはいや、と軽く肩を竦めた。

 「重要なことかな」

 「いや」首を振ったものの、僅かに伺い知れる口元には、微妙な疑心が浮かんでいる。「大したことではない」

 そうか、すまないね。モリアーティは、特に頓着もなくそう返事をした。彼は極めて合理的で、その上でどうでもいい事象に関わることは好きではなかった。

 「教授? お茶ができたのだわ」

 「げ! じゃあ!」

 窓からさっさと飛び降りるのと、ドアが開くのは同時だった。後ろで黒い髪を緩く結んだエリザベスは、不思議そうに部屋を見回した。「あら、換気?」

 「最近は未知のウイルスが怖いからね」

 「そうね。確かに、何がいるかわからないもの。妖精みたいな臭いがするし」

 素っ気なく言うエリザベスが、果たして物事を理解した上で喋っているのか、偶然なのかは不明だった。はいどうぞ、と音もなくテーブルの上に置かれたティーカップからは、熱い湯気が立っていた。

 ふと、モリアーティは彼女の顔を、注視した。エリザベス女王は、鼻筋通った利発そうな顔だちだ。とは言え、この顔立ちは真性にエリザベス女王のものというわけではなく、依り代となった少女のものらしい。それでもエリザベス女王、という認識を成り立たせているのは、本質的に、2人の気高い気質が似通っているからか。

 だが、モリアーティの感受性に引っかかったのは、そういったものではない。もっと漠然とした、気まぐれのような感覚だった。

 何故か、先ほど聞いた名前が、エリザベス女王の表情に重なる。とは言え、それはあまりに希薄な気分のようなものだった。じゃあね、と颯爽とした風のように去っていくエリザベス女王の素振りに、そんな曖昧な印象はすぐに吹き消されていった。それに、モリアーティにはもっと重要なことがあるのだ。

 それでも、最後にふわりと淡くその名が浮かんだのは、偶然と必然が双生児のように連結した、運命のようなものだったか。取り止めもなく、モリアーティは部屋に残る花のような薫りの残滓を嗅いだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅴ-4

 1日後、朝8時

 アリスの屋敷、リビングにて

 

 トウマが入室したのは、実は1時間も前のことだった。ダ・ヴィンチから任された会場設営を手早く終わらせると、タブレット端末で今日のブリーフィングの内容をしっかり復習していた。

 ブリーフィング。つまり、明日が作戦の決行日で、今日は明日の作戦推移が知らされる機会というわけだ。一応、ライネスとリツカの作戦立案の際はトウマも参加するのだが、正直2人の話をきちんとその場で理解しきるのは、彼にはまだ難しいことだった。

 幾ばくか、感じる緊張。これまでの特異点の中で、戦いの前に緊張しなかったことはない。殺し合い、という言葉にはあまり現実感がない。事実そうであることは理解しているが、そこに納得して恐怖に囚われるだけ、トウマには心理的余裕はない。

 他方、これは結構矛盾することだけれど、だからこそトウマは慣れのようなものを感じていた。いつものような緊張を感じ、いつものように、余裕がない。そんな自分を対自的に眺めて、いつものことだな、となんとなく脱力する。脳内活動の6割は駆動して、残り3割はただの焦りで、そうして残りの1割は、ぼんやりと自分を客観視している。

 1割の思惟の中に、漠然と、アリスの姿が過る。“何故戦うのか”と問うたアリスの〈貌〉、その口唇が視覚野から盲斑の奥に遁走して、棲みついている。

 帰りたいのかな、と、自問する。元の世界への望郷は、胸の内から探り出そうとすると、ごく自然に意識の底の嵌頓、無意識の上澄みから浮上する。朝起きて朝食を摂り、学校に行って、気ままに下校し、街中で遊んで、家に帰る。当然そこでは戦う必要なんてなく、平凡な日常が、外見上、無限のように延長している。

 恐らく、自分がしていることはそれを取り戻すことなのだ。自分が取り返すのではなくて、多分、この世界、型月設定が満ち満ちているこの世界でも、こんな出来事が起きる前に当たり前に満ちていた日常を、取り戻すことが、1つの大きな意味なのだ。部外者でも、一度関わってしまった世界であることに変わりはない。

 掴みどころの無い思案である。掌に乗せても、ふわふわと取り留めもない意味の塊。原初的な真核細胞のような思案。

 ソファの背もたれに寄り掛かる。1割だけだった思案が6割の思考を蚕食していくのを感じながら、ただ思惟が恣になるのを、ぼう、と眺めている。拡大し始めた散漫な思惟は、脳髄の奥底に堆積する無意識から、ごそごそと古い納屋から土のついた農機具でも持ちだすように、記憶をかき混ぜる。これまでの戦い。ともに戦ってきた英雄の御霊たちを、厳かに掬する。

はずだったのだけれど。

 ちょっと思い出して、トウマは笑ってしまった。

 ジークフリードは、思いの他、情けないところがある人だった。言い合いをするジャンヌとサリエリに、おどおどしていた。まるで、学校で生徒同士がいがみ合いになった時におろおろしていた世界史の先生みたいだ。

 ネロは割と、ゲームでプレイしたネロ・クラウディスウそのものだった。でも、思っていたより繊細で、弱いところもあったな、とも思う。子を想うようにアルテラを弔った彼女は、多分、ゲームで語られた彼女よりももっと私人に近く、それでいて公人であることを忘れない気高さを持っていた。

 メルトリリスは怜悧なようで、結構激情的なところがあった。あの見たこともなかった宝具、リヴァイアサンとしての権能を一時的に振るった際に流れ込んできたあまりに雑多で強い情動。CCCで描かれたあまりに純粋な恋への傾向性が彼女の艶やかな刃の具象だとするなら、大海で出会った彼女の印象は、その刃を支える質朴で堅牢な柄、のようなものだったろうか。

 掘り起こされる思案を、虚空の向こうに眺めている。探るように蠢く手先、指先に残る記憶の手触りが、神経を伝って、身体全体に遍在していく。

 「あら、早いじゃない」

 漠としていた思案が、その声で一気に凝固した。

 跳ねるように、背もたれから身体を引き剥がす。凛とした声の方を振り向こうとすると、「楽にしていて?」と声が背を摩った。

 ふわ、と桜のような薫りが鼻を擽る。黒い髪を緩く一つ結びにしているけれど、その外観は間違いなく、彼女だ。

 エリザベス女王。遠坂凛の身体を依り代に成立する疑似サーヴァント。トウマの遠坂凛像よりも大人びて見えるのは、遠坂凛のおそらく王者としての気質をより前面に引き受けた形での召喚、なのだろうか。凛は思いのほか子供っぽいキャラクターなのだけれど、目の前にいるエリザベス女王は、端的に言って大人びて見える。お胸も、相応に成長遊ばされているようだ。

 「何かしら?」

 「いいえ」

 そ、と軽い頷き一つ。ぽすん、とトウマの隣に座ると、品よく口元に手を当てて、エリザベスはあくびをもらした。

 「ごめんなさい、朝は得意じゃなくて。1人で起きるのは辛いわ」

 「構いません」

 「あなた、なんだか呑気ね」

 「え、そうですかね」

 「誉めているのよ」

 ちょっと釈然としない気分になったけれど、彼女の表情を見るに、嘘でもないし真実貶していないのは、伝わる。犀利で利発な整った顔立ちは、理性……それは良識を含み持った、本質的な意味での理性を、柔らかく湛えている。

 「次の戦い、私はあなたのチームで戦うのよね?」

 「そうですね、その予定だったような」

 「よろしくね、タチバナ君。前の時はあまり力になれなくて、ごめんなさい」

 にこりと爽やかに笑うエリザベス。気兼ねなく差し出された手に咄嗟に手を返してから、トウマは掌に感じた感触に、幾ばくか安堵した。

 「エリザベス、女王」

 「何かしら?」

 「あ、いえ。その、とても礼を失したことを申し上げるのですが。僕、そんなに貴女のことは知らなくて」

 「まぁそうよね。名前はともかく、イングランド以外の人で私が何をしたかなんてあまり知らないんじゃない?」

 言ってから、エリザベスは納得したように一つ頷いた。彼女はとても話の理解が早い。それも、偉大な為政者たる所以なのだろう。「歴史好きならなおのことでしょうね」と独り言ちてから、もう一度、今度はトウマに対して、首肯した。

 「私のことはどこまで知っているのかしら?」

 「女王陛下の黄金のスピーチが聞けるの、とても楽しみです」

 「ふぅん、いいじゃない。いいわ、あなたに出会ったのも、きっと主の御導きなのでしょうね」

 思案顔のエリザベス。彼女に対する印象は、物腰の柔らかな泰然とした女性というものだ。毅然として利発、時に気焔に満ちた気宇の遠坂凛とは違った印象だけれども、何か、その芯を貫く勁さのようなものは、同じものであるように思われた。

 「そう言えば、ドレイク卿とお知り合いなのよね?」

 「まぁ一応」

 「じゃあアルマダの時のお話でも。こういうのも、楽しいわね」

 

 ※

 

 「あぁいいよ、別にそういうことはしなくてもね」

 AM9:00

 最後に入ってきたライネスに対し、皆皆立ち上がりかけたところで彼女は手で制した。カルデアの制姿ももう着慣れたもので、トレンチコート調の礼装の緩い袖口を優雅に振っている。頭に被った帽子のせいもあって、佐官クラスの軍人もかくやといった風采である。そして、それも様になっている。

 「それじゃあライネスちゃん、お願い」

 「はいはい。じゃあ、今次作戦のブリーフィングを開始する。全員、集まってるね?」

 ライネスがぐるりと部屋を見回す。ソファの後ろ手に立つトウマも釣られるようにして部屋を見回すと、以前より幾分か広く配置変更されたリビングには、馴染みの顔が並んでいた。ソファに座る人に加えて、トウマと同じようにソファの背もたれに寄り掛かるように立つ金時。アリスは奥の椅子に一人で腰かけながら、ちょこなん、と小さく座っている。普段と変わらない無表情だけれど、そんなに不快は示していない……ように、見える。

 「教授はもうおいでかな?」

 (音、通ってるよ)

 「結構。では全員出席、とのことで。本日未明、国連人理保障機関フィニス・カルデア司令部より、我々特異点制圧部隊に対して、第一段階目の第四特異点攻略作戦が発令された。本作戦はこの停滞を極めていたロンドンにおいて、初めて本格的に実施される作戦だ。作戦名は国連人理保障決議案第7721号、通称『双竜作戦(オペレーション・ドライグゴッホ)』だ。名前の由来はまぁ自由に考えてくれ。なお、本作戦は気象条件に関係なく実行される。

 本作戦の目的は、第一戦闘目標、作戦呼称“α-01”の無力化にある。本特異点において最初に現れた敵対勢力であり、未だ謎が多い本特異点を理解・攻略する鍵になると考えられている。

 第二目標は真名“ジャック・ザ・リッパー、作戦呼称”α-02“の無力化だ。前回接敵時のデータから、サーヴァントではない可能性もある。サーヴァントではないにも関わらず宝具、あるいはそれに等しい神秘保有量を持つ攻撃行動を取ったことなども鑑み、こちらも本特異点に何某か重要な要素を持つ敵と考えられる。両者とも無力化、と表現したことからもわかるように、撃破・消滅させるのではなく、可能な限り捕縛することが求められる。ただし、こちらに関しては戦況推移や脅威度の多寡、こちらの戦力の被害度予測次第では撃破しても構わない。

 第三目標は、ハイド邸に残されていると思われる敵性勢力に関する情報の収集である。しかし、こちらに関しては“α-01”の擬態能力によって残された置手紙である可能性があることから、第三目標に関して、優先度は高くない。

では次に、作戦の概要を説明する。まず、BSリーダーをマスターとするα-01撃破部隊“キロー”はホワイトチャペル第七区画に展開。SSリーダーをマスターとするα-02撃破部隊“ジョーカー”はハイドパーク外周部に存在するハイド邸付近に展開する。ジョーカーはまず第三目標の遂行を目的としてはハイド邸に潜入する。α-01出現予測マップ、及び先立って調査に当たっていた玉藻の前の報告から、ハイドパークにα-02が潜伏している可能性が高い。ハイド邸に潜入後はSSリーダーを中心に、邸宅内の捜査を行う。そのままα-02の出現が無ければ調査完了後、キローに合流。作戦は第二段階へ移行する。なお、調査の段階でα-02の出現が確認された場合、調査完了を待たずに作戦は第二段階へと移行する。

 キロー部隊による宝具発動による、α-01の出現誘引を敢行。α-01の出現次第、キローはこれの捕獲に当たる。α-01の捕縛後、キローはハイドパークに敢行。カルデアの索敵網に加え、キャスター2騎、及び私による周辺走査によりα-02を索敵、これを無力化する。

 なお、捜査段階でα-02の出現が確認された段階でキローは宝具発動によるα-01の出現誘引を実行。撃破にあたる。

 α-01、及びα-02の無力化、ないし撃破した段階で、第三目標が達成されていた場合は作戦終了。α-02の出現などの事態により第三目標が未達成の場合、戦闘終了後に第三目標消化にあたる。

 よし、じゃあリツカ。続きを宜しく」

 「了解。じゃあ、私の担当は各戦術レベルでの作戦と、その推移にあたる。

 まず、本時作戦では私を中心とするジョーカー、及びトウマ君を中心とするキローに分かれて作戦行動を行い、各個にα-01、02と交戦する。戦力を2分させた理由は2点。1点目は、現時点でこちらの戦力が敵の戦力を上回っていることから、戦力を分散させても戦力的優位を確保できているため。2点目は、敵戦力が集合することを防ぐことが目的だ。

 どういうわけか、α-02が潜伏していると目されているハイド邸周辺は、幸いにしてα-01の出現予測マップには被っていない。ただし、これはマップの不備である可能性も否めない。敵の性能はどちらも強力だが、各個撃破に持ちこめば十分対処可能だ。逆に戦力を集中させれば、それだけ敵が取れる選択肢も多くなるということだ。

 班編成はもう伝えていると思うけど、改めて提示しようかな。

 私を中心とするジョーカーは、マシュと玉藻ちゃん、金時君の4人で編成。

 トウマ君を中心とするキローには、クロちゃんとリンちゃん、それとライネスちゃんに行ってもらおうかな。アリスちゃんにも本当はついてもらいたいけど、十分倒せるメンバーだと思う。

 さて、じゃあ実際の推移に行こう。まずライネスちゃんの言った通り、ジョーカーがハイド邸周辺に展開。併せてキローが所定位置に展開したのを確認後、邸宅に潜入する。

 潜入するのは私とマシュの2人。玉藻ちゃんと金時君はハイド邸前の広場で待機。これはα-02がこちらの戦力に対して攻勢をかけやすくするための陽動と、加えて敵通信妨害が発生した際、通信妨害の範囲外に戦力を展開しておくことで、第二段階への移行をキローに伝えやすくするための意味合いも兼ねてる。

 ハイド邸に潜入後は、ジキル邸で既に入手してある邸宅内のマップに従って進行。最奥に位置する書斎まで行った後、資料の収集を開始する。資料回収後はハイド邸を脱出。α-02の動向を探れる玉藻ちゃんを残し、キローに合流。合流後、宝具発動によるα-01の誘引を行う。

 α-01の誘引後、まずクロちゃんの宝具一斉射で敵の運動性能を漸減。同時にリンちゃんの重力捕縛で敵を拘束後、金時君及びクロちゃん両名でα-01を無力化する。

α-01の無力化に成功した後は、再度ハイド邸に展開。キャスタークラス2人がかりで周辺走査し、α-02をいぶり出す。出現後は戦力的優位に基づき、これを無力化。成功した段階で、本作戦は終了だ。作戦終了後は、20時間以内にアリスちゃんの屋敷に帰還する。

 予測される事態としては、ハイド邸探索時にジョーカーがα-02の襲撃に合うことだ。襲撃の際はマシュの宝具、加えてタマモちゃんのバックアップで防御。出現と同時に、キローに出現を報知。作戦を第二段階に移行だ。なお通信妨害圏内が所定より広い場合、別途手段でキローに伝える。

 α-02との交戦時、まず私とマシュで遅滞戦闘を行う。玉藻ちゃん、金時君が増援で来次第、攻勢に転ずる手筈だ。

 最も考えたくない状況は、α-01の戦域出現マップに誤りがあり、ハイド邸が出現予測地に含まれていた場合の対処だ。α-01、及び02が同時に出現した場合、即自撤退。ジョーカー、キローの戦力を合算した上で交戦。敵戦力を分断した上で、無力化に映る……予定だけど、この場合はとにかく撤退をメインに考え、本作戦はそこで強制的に終了の予定だ。

 では、α-02の襲撃による第二段階への移行後の手順について説明する。トウマ君、お願いしていいかな?」

 「はい、大丈夫です。

 では僕から。ジャック……α-02の出現後、キローは指定座標にて宝具を発動。宝具発動はリンさんに任せ、α-01の出現誘引を行います。誘引に当たっては、僕を囮にしておびき寄せる予定です。これはα-01の狙いがどうやら僕であることから、確実に当該戦域に誘引、加えて逃走を防ぐためのものです。

 α-01の出現時、僕とクロの狙撃でα-01を攻撃。近接格闘戦で対応。同時、指定地域に既に設置した宝具の斉射で捕縛します。

 以上がα-02の襲撃の際の、第二段階への移行の手順に、なります」

 言い切ってから、トウマは、大きく嘆息を吐いた。思いのほか、声が上ずってしまう。中々人前で話すことなどないのだから、緊張して当然だった。それにしては、ライネスとリツカが堂々と話しているので、プレッシャーも相応だ。

 奮えるような足を折り、ゆっくりとソファに腰かける。ライネスは普段通り澄ました顔だったが、リツカはちらっとトウマを見ると、「お疲れ」と言葉を口唇で象った。

 「本作戦の意義は大きい」

 ライネスは一度部屋を見回した。

 「何せ、この特異点は謎だらけだ。わからないことの方が多い……というより、ほとんどの事象が未だ不明だ。わかったことと言えば、敵が何者であるか、そしてそれに関する周辺情報だけだ。聖杯すら介在せずに特異点になるなど、正直予想し得る術がない。そんな中、本作戦は。停滞から次に踏み出すための一歩と言える。

 作戦開始時刻は明日8時。この屋敷を経つのは、それより3時間前の5時に定める。各員、奮励し、努力せよ。以上」

 「私からも1つ。ライネスちゃんはこういったけど、リラックスすることは忘れないでね。ロマンは良い顔しないけど、負けたとしても、ただ、人理の一つが終わるだけの話だ。人類、ましてこの宇宙すらいずれ滅亡するんだ。ただ、その時期が早いか遅いかの違いしか、ない。だから気楽に、大胆に行こう。そういう腹積もりの方が、物事はいい結果に行きつくものさ。

 じゃあみんな、死力を尽くして任務に当たるとしよう。そして、生ある限りは、せめて最善を尽くすとしよう」

 

 ※

 

 「よお、なんだこんな時間に」

 多分、その声は、運命だったのだと思う。

 当日、PM8:00。

 ブリーフィングを終えた後、作戦行動開始時刻までは即応待機で過ごす時間だった。事実上の、作戦前の休憩時間だ。PM5:00に各々夕食を終え、その後は全員が、何をするでもない時間を過ごしていた。

 それからの、PM8:00。明日の時間を考えれば、そろそろ寝た方が良い時間だったが、タチバナトウマは、なんとなく、1階テラスで無為の時間を過ごしていた。

 「体調管理は、戦う人間の仕事だろう」

 ドアから顔を出した顔は、言葉尻とは反対に、なんとなく呑気そうだ。坂田金時は図体のデカい身体を揺さぶりながら、のっそりと熊みたいな素振りで椅子に腰を掛けた。

 ぎい、と椅子が軋む。体重100kgを優に超える肉体は、見事に歴戦で鍛えられたものだろう。

 「すみません、なにも出せるものなくて」

 「いやいいさ。俺も、手持無沙汰で居ただけだしな」ふわ、と欠伸なんかを漏らす金時。小指を立てて耳滓を穿りながら、「それに、サーヴァントだからな」

 もう一度、金時は呑気そうなあくびをした。咎め立てるような口ぶりだったけれど、その振舞には一切、剣呑さはない。いや、声色だって、いつもの、どこか大らかな金時のものではなかったか。

 座れよ、という金時の視線が、多分何よりの証拠だか。窓辺に立っていたトウマは、おずおずと、金時の正面の椅子に座った。

 丸テーブルを挟んで、向かいに座る金時の姿は岩と見紛うばかりだ。先ごろ感じた印象……頑健さを、よく表している。善し悪しはともあれ、戦う、ということが日常の中にあった人間の佇まいだ。

 「あの、金時さん」だから、多分聞いた。「相談と言うか、お伺いしたいことが」

 「なんだ? 俺っち、あんま頭良くないからな。勉強熱心なアンタに教えられることが、あればいいが」

 「大したことではないんですけど」おどけた様子の金時がテーブルにダラダラと身体を伸ばしているのに対し、トウマは努めて真面目そうに椅子に座っていた。「戦う心構えというか、理由みたいなのありますか」

 「何も考えないこと、だな。どうやったら敵を効率よく、且つ高い打撃力を以て攻撃できるか。そんなもんだ。それ以外は何も考えないようにしてる。なるべくな」

 素っ気なく、金時は言う。トウマが意外そうに目を丸くしている間に、身体を起こした金時は変わらない呑気さで続けた。

 「そりゃあ色々理由はあるさ、世のため人のため、ってな。でもなぁ、戦いってのは誰が相手であれ、理不尽なもんだ。どんな心構えがあっても、どんな大層な理由があっても、死に神は来ちまうもんなんだ。ただ、強いものが生き残る。それが殺し合いの現実だ」

 「そういう、ものですか」

 「戦う理由とやらを探して迷いが生まれるくらいなら、いっそ何も考えるべきじゃあねえさ。特に、誰かの上に立って戦うならなおさらな」

 寝ぼけた様子で、シニカルに口角を挙げる。そんな金時の仕草は、「意外か?」とでも問うかのようだ。

 確かに、意外だ。なんとなく、金時という人物の風貌からは、心地よい快男児という印象が強い。きっと正義感に根差して、それでいて身近ですらある強度の高い動機、のようなものを持っている、そう思わせる人物だ。先入見と言えば、そうなのだが。

 「察するに、迷いが生まれてるってわけだ」

 今度は揶揄うように、にたりと金時が笑う。トウマが居心地悪そうに肩を竦めると、深々と首肯した金時が言う。「御伽噺の見過ぎだよ」

 「戦う理由は、良くも悪くも所詮は精神的な支柱だ。あったら無論役に立つが、本質はそこじゃない。きちんと勝つべき算段を取ること、それが重要で、指揮官であるアンタが考えなきゃいけないことはそっちだ。

 そうして、戦いが終わった後は死ぬほど悩むといいさ」

 金時の言葉は、どこまでも突き放すような色彩だ。ともすれば糾弾するかのような、あるいは詰問するような、そんな雰囲気。幾分か気をくれしながらも、トウマはその振舞の意味をちゃんと彼なりに理解した。

 「俺、寝ます。明日、万全の体調で挑まなきゃ」

 「そう、良い心がけだ。そういう割切りを、忘れんじゃねえぞ」

 「はい、ありがとうございます」

 深く、頭を下げる。おう、と応える金時の声を背に、トウマはテラスのドアを潜った。

 ───坂田金時と、立華藤丸の人生の関わりはそう濃くなく、また今後交わることもなかった。

 あまりに短い交錯の中。

 多分それは、その刹那の交わりの中で許される、最優のものであっただろう。既に灯の落ちた暗い廊下を小走りに走るトウマには知る由が無く……。

 「行ったか」

 また、坂田金時にも、そんな確信は1つもなかった。

 「いるんだろう?」

 気の抜けたように、虚空へ問う。金時の言葉に応えた声は、思いの他早かった。

 「はい、ここに」

 空間の一部が、どろりと溶けるように落ちた。光学的操作の魔術……というより呪術の隠蔽から顔を出した狐耳のキャスターは、柄になく、そしていつになく落ち着いたように見える。

 「()()()か」

 「リツカ様からお託を……この屋敷とて、何があるかわかりませんから」

 穏やかな口ぶりだが、それを温和さを介するのは、多分違う。坂田金時の直観するところ、それは冷厳ですらあるほどの穏やかさで、超越種が覚束無い雑多な生命を慈愛を以て睥睨する、眼差しのそれであった。

 「もし手違いがあったら、俺っちはアンタを殺さなきゃならなかったのかもな」

 玉藻の前は、ほんの少しだけ笑った。氷が解けて、少しだけ丸くなるように。生半の人間……いや、音に聞こえし英雄であったとて、この玉藻の前の姿に畏怖しないものはないだろう。金時が平然としているのは、所詮そういったモノに慣れているから、それだけに過ぎないことだった。

 「タチバナ様は、少々似ておられまして。弱き者が蛮勇を振るわんとする……とでも言いましょうか。愚かですが、また同時に尊くもありましょう」

 「アンタの“戦う理由”って奴か?」

 「まぁーそんなところですねぇ」

 途端、にへら、と玉藻の前の顔が変わった。先ほどまでの超然とした佇まいは一息で霧散して、目の前にいるのはなんだか緩い顔のいつもの玉藻の前だ。すぐにハッとして咳払いをしてみせたけれど、まぁ崩れた威厳はもう戻りそうもなかった。

 「アイツ、弱いと思うか?」

 「いいえ。本当に弱いのでしたら、既に屍を曝しておいででしょう。皆さまのお力添えあってのこそではありましょうが、この戦い、無能者が生き残れるほど優しいものではありますまい」

 「あぁ、そうだ。アイツは多分、自分が思っているよりちゃんと強い」

 「で、その強さは、ちゃんと下支えがあるから。そう思っておいででしょう?」

 金時は、静かに立ち上がった。もう、概ねみんな寝静まった時間だ。

 ガラス張りの壁に触れてみる。ひやりと冷たい感触が、手のひらを咬んだ。空を見上げれば、灰色の雲間から、ちらちらと光が瞬いている。

 「もう、答えは得ているんだよ。いや、最初からか。気づいていないだけで、あの男にはちゃんと立脚点がある……だから、大丈夫さ」

 はい、と隣に並んだ玉藻の前も、空を見上げていた。

 「お優しいのですね」

 「優しかったら、英霊なんかにゃなってねえさ」

 玉藻の前は、ただ無言のまま、柔和な嗤笑を浮かべていた。金時は己の裡まで見透かすほどの眼差しに気まずくなって、頬をかきながら、見上げる宙を胸に刻む。

 綺麗だな、と思った。

 「優しいから、英霊になってしまったのでしょうに」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅴ-5

 誰か、起きてるのだろうか。

 微かに耳朶を打つ足音に、マシュ・キリエライトは、何故か足を止めた。息まで殺した。奇妙な疚しさのような感情が全身の毛細血管を浸していた。

 足音が、遠ざかっていく。個人的決意、哲学的に敢えて言語表現すれば俗人的な実存的決意を胸に奥深く抱いた立華藤丸の規則正しい足音だったのだが、流石に別フロアにいるマシュにはそこまでのことはわからなかった。不幸にも、あるいは不運にもマシュがその足音に感じてしまったのは、もっと薄暗く、ひたひたと歩くような……自分に這い寄ってくる、詰問する夜闇の足音のように聞こえたところだった。

 後頭部に、何か暗いものが忍び寄っている。そんな妄念が過り、マシュは身体を強張らせた。

 嘆息を吐く。バイタルデータを呼び出してみる。体温、血圧、心拍数、酸素飽和度。どれも顕著な以上は認められない。気分の問題、と割り切って、マシュは顔を挙げて、正面のドアを見据えた。

 ゲストルームの3フロア目の一画。オーク材の手触りの善さげなドアは、この屋敷の品の良さそのものを伺える。ただ、どうにも気後れしているマシュにしてみれば、この歴史的厳かさが、どうにも拒絶的にも感じられる。

 ……いや、多分、その拒絶感は、自分の心理的要因が大きい。マシュは、こんな時でも冷静に、対自的に己を理解する。理解した素振りで己を律して、マシュは、ドアへと手を伸ばしかけた。

 「お待ちになって」

 ひゃ、と悲鳴を上げなかったのは、マシュがきちんと戦う人間として訓練され、しっかりと錬成されていたからだろう。心理的事象を即自的に生理的仕草に直結させないように、彼女は己を相応にコントロールできる。

 だからといって、ビックリしないわけではないのだ。実際マシュは心臓が止まるほどにびっくりしたし、俗っぽく言えばたまげた。

 だってそうだろう。可能性が0ではないとは言え、この屋敷に全く探知されずに潜入し得るレベルの気配遮断など、到底想像外の出来事だ。とは言え味方にそういったスキル持ちもいないのだから、完全に不意打ちだったのだ。

 恐る恐る、振り返る。暗い廊下に朧に浮かぶのは、何やら赤いあくま……ではなく。腕を組んで、微笑を隠すように口元に右手を添えた、エリザベス女王だった。

 「えっと、あの」

 「中国拳法。境圏、というのだったかしら。ま、それはどうでもいいのだけれど。ここ、貴女のお部屋ではありませんわ」

 「いえ、私は」

 「わかっていますよ。でもおやめなさい。リツカはお休みになっていますから。敵襲以外、起こすなと仰っておりましたでしょう? 今ばかりは、良い夢をご覧になっていただきましょう。それが、忠臣の務めかと思われますが」

 エリザベスの振舞や表情、そういったものには一切の変化はなかった。にも関わらず、ぴしゃりと言い放った言葉は金属めいた硬質さだ。女王、という肩書を感じさせる声色。マシュは、小さく肩を竦めた。覚えず畏縮したというよりも、エリザべスのその声質に思い当たるものがあったからだった。要するに、疚しさのようなもの。

 「眠れないのね、ついていらっしゃいな」

 身を翻すエリザベス。ふわりと静かな闇を孕んだ空気を飲んだダークグレーのロングスカートが凪に遊んだ。

 「私では、役者不足かと思いますけど。どうかしら」

 「いえ。その、大丈夫です」

 変な返答になったかな、と思った。マシュ・キリエライトは基本的に丁寧な人物だが、身分卑しくない人物に対して、適切に礼を払えるほどに大人でもない。

 だが、そうしたものを寛恕できるのが、身分の高い人物の徳なのだ。構いませんよ、と応えたエリザベス女王の振舞はまさしくそれであった。

 畏れ多い、という感情をマシュが知ったのは、多分この時だった。ネロの時も感じたけれど、彼女の振舞と自分たちの立場を鑑みれば、どちらかと言えば友人のようであった。

 エリザベスに連れられて向かったのは、3階のバルコニーだった。3階ロビーの出窓を開け、冷然たる夜風に身を包まれながら、マシュはなんとなく、鬱屈した熱のようなものがちょっとだけ和らぐのを感じた。

 「タマモやアリスほど上手くはないですけれど」

 そう言って、エリザベスは道すがらに寄ったキッチンから拝借してきたティーセットを広げていく。テーブルクロスを広げるのを手伝わされつつ、マシュは丁寧な手順でカップに紅茶を注いでいくエリザベスの身振りを見守った。

 「ティータイム、とは言えない時間ね。でも、たまにはこういうのも良いでしょう」もうもう、と立ち昇る白い湯気を見つめ、しみじみとエリザベスは言葉を漏らした。「どうかしら。闇夜の中であれば、秘め事を漏らすのも幾ばくかは憚りないでしょう」

 薄く漏れる屋敷からの灯を受け、ぼんやりと、エリザベスの顔立ちが浮かび上がる。溌剌とした東洋人のかんばせに浮かぶ、思慮深い柔和な面持ち。

 エリザベス女王。善き王として16世紀に君臨した、イングランドの女王。それが、彼女。

 「幸い、私はあなたより少しだけ長く生きたことがあります。非才の身ですが、応えられることもありましょう」

 「恐れながら」だから多分、つい言葉が口をついて出たのは、偶然ではなかっただろう。「女王陛下にそのお尋ねしたく」

 「はい。なんなりと申しなさい」

 「少しだけ、迷っています。私が戦うべき敵は、誰であれ、悪であれという生き方しかできなかったもの、だと思います。それを、私に……私たちに討つ資格があるのかどうか、わからなくて」

 注がれたローズティーに視線を落したまま、マシュは控えめながら、しっかりと言葉を残した。

 マシュ・キリエライトの特性は、精神力をそのまま防御に転換する、そういう類のものだ。迷いがあれば、その守りはどうしてもその分だけ脆弱にならざるを得ない───そういう理屈を盾にした、弱音のようなものだった。

 難しいわね、と独語のように呟いてから、エリザベスは思案するようにマシュを伺った。5秒ほど沈黙を遊ばせた後、エリザベス女王ははっきりと口にした。「倒すわ」

 「理由は簡単。今回の戦いにおいて、私たちは少なからず大儀を以て戦っているわ。その障害になるものは、排除する。資格の有無なんて関係ないのよ」

 「でも、それでは」

 「お悩みになる気持ちはわかるわ。私も、ずっと色んなことに悩んで、決断を下すことが厭わしいと思って生きてきました。

 でもいい、マシュ・キリエライト。世の中には、色々な観点で生きている人間がいるわ。各々には各々に立場がある。大儀を以て、事を進める人間はそれらを勘案しなければならないわ。そして、往々にして、私たちは全ての要求を満たすことはできぬもの。正義と正義の確執であれば、まだ事の理解は容易でしょう。ですが相手が端的に悪しき者であった場合、それはなお困難を極めるでしょうね。

 どうして良いかわからなくなった時は、一度立ち止まり、己の為すべきことを振り返りなさい。それが分かった時、為すべきことを躊躇ってはなりません。

 そして。時にあなたの義務を履行する際に、流さなければならない血があるのだとしたら……自らの手を、汚すことを厭うてはダメよ」

 あ、と思った。

 思い浮かんだ光景は、もう、何か月も前のこと。オルレアンで王妃を送り出し、音楽家を贄にして、邪竜の前に4騎で陽動をしかけさせ、もう一方のマスターとサーヴァントを死地に送り出した、彼女の姿だった。

 それだけじゃない。ローマであのゴーレムを討てと彼女に命じた彼だって、そうだろう。

 最後に浮かんだ景色は、あの船の上だった。ヘラクレスに立ち向かえ、という命令を下した、藤丸立華の顔だった。

 「責任を担う主体は、潔癖であり続けることはできないのです。なのに自らが切り捨てた者たちを背負い込んでしまおうとするのは、とても愚かしいことでしょうね……」

 

 ※

 

 「あなたって、案外お節介よね」

 開いた窓から漏れ聞こえる声を耳朶に、クロはちらっと横を一瞥する。開いた窓を挟んだ向かいに、壁にもたれかかるクロと同じような恰好で立ち竦む黒一色の姿は、奇妙に身動ぎした。

 ひた、とこちらを見据える目は、昆虫の甲羅のような艶っぽい無機質さがある。それも慣れた感覚で、ほんの僅かに滲む気まずさのような表情は、仄かな照れの対偶の情動だった。

 「あなたも、そう」

 「私はまあ、先達のようなものだし。ほら、先輩って、道を示すものでしょ?」

 「なら、私も」アリスは、ちょっとだけ窓から顔を覗かせる。バルコニーでは、まだ、マシュとエリザベスが喋っている。「私は人形師で。私も、似たようなもの」

 そうね、と、クロは特に拘泥するでもなく、答える。長年続いた家系の魔術師など、見てくれは人間だが内実はむしろ人形のようなものなのだ。積年の研鑽によって錬成された魔術によって、身体の隅々まで改造されつくされた怪物。それが1000年クラスの家系ともなれば、形が同じに見えるだけで、ほぼ別種の生物ですらあるだろう。

 生ける芸術品。それが、魔術師というものの、本質なのだ。

 「憐れみ、というのは不思議な感情ね。いえ、もうそれは感情ですらないのかもしれないけれど」

 「同胞感情?」

 アリスは、肩を竦めた。自分で言ったけれど、クロもそうだと思う。マシュ・キリエライトという人物に、アインツベルンの彼女は、別に同胞(はらから)であることを感じていない。

 多分、もっと垂直的で、それでいて水平的な、奇妙な関係性。不平等で非対称的であるが故に生じる、多分自由と呼ばれる振舞。それが力への意思に基づいた同情であり、憐憫、というものなのかもしれない。

 「形相は、質料の内に秘められている」

 「アリストテレス?」

 「善き魂を持つあの子は、きっと立派な人なのね」

 独語のように声を漏らしてから、アリスは、クロの姿を目で捉えた。

 「恋愛感情を抱けるのも、きっとそう」

 酷く鋭い、刃のような言葉だった。あまりの鋭利さ故に、一切の痛みを伴わない言語。はっとしたクロは、一瞬だけ顔を赤くしてから、すぐに平静を取り戻した。「まぁ、そうね」

 「あなたは」そんなクロの取り繕いなど知ったことではない、というように、アリスは続けた。「あの少年君のこと、好きなのね」

 今度は、沈黙しか言えなかった。ほんの僅かに口角に微笑を浮かべたアリスは、あの昆虫めいた無機質さで呟いた。「これでおあいこ」

 アリスの様子は、普段とそう変わらない。ビスクドールのようにも、あるいは日本人形にも見える硬い表情に、抑揚のない声色。仏像のそれにも似た微笑だけが口角に浮かぶ様は、何か超然としたような印象を感じないでもない。にもかかわらず、クロは直観的に、観念を惹起させた。

 無邪気な、笑い顔。ナーサリーライム、という彼女の真名が、脳裏を過った。

 「身構えてさえいれば、後悔しても、受け入れられるものよ」

 「言われなくても」

 「なら、いいの。恋する英雄さん」

 音もなく、アリスは壁に寄り掛かっていた身体を起こした。人形師である彼女にとって、マシュ・キリエライトが気にかかる存在者というのなら、多分、クロエ・フォン・アインツベルンという存在者も、やはり似たようなものなのだろう。

 無言で立ち去るアリスの背を見やる。なんだか決まり悪く後ろ髪を弄ぶ。おあいこ、と言ったアリスの口唇の動きを思い出し、ちぇ、と舌打ちした。

 クロも、静かに身体を起こした。外では、まだマシュとエリザベスが静かに喋っている。一瞥だけを残して、無音の足音が床を咬んだ。

 自分のすべきことはわかっている。あの時の感覚は、まだ残っている。いつか自分が抱いたあの気持ちとよく似ていた、ただ存在することだけを希求する原初的な情動。

 きっと、彼はもう、そこから足を踏み出している。原初性は根源性と等価ではない。石清水がやがていくつもの流れと絡まって大河になるように、思想は流れるが故に、原初性を超越する。超越論的経験のように。

 否、というべきか。だからこそ、というべきか。内心の己が情動を、クロエ・フォン・アインツベルンは、ちゃあんと理解した。そして、己が為すべき義務を。

 「だから、力を寄越しなさい───」

 

 

 珍しく、アリスは鼻歌を唄っていた。恐らく自分でも無自覚のまま、何がしかのマザーグースのようなものを口遊む。

 ふふ、と小さく笑う。闇夜に溶けるように屋敷を逍遥しながら、彼女は庭先に足を運んだ。

 手入れされた庭先を眺め、彼女は満足そうに立ちどまる。振り返って屋敷を仰げば、月に照らされた彼女の屋敷は、どこか赤々と煌めいている。

 手を、掲げる。掌に収まる小さなペンダントをじわりと眺め、アリスは、屋敷の彼方、夢幻の世界に揺らめく青白い、精悍な月を見上げた。

 「あいとゆうきの、おとぎばなし」

 小さく、それでいて確固と呟いた天鵞絨のような声が、青白い月に溶けていく。

 「なら、私、も」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅴ-6

 AM7:55

 ハイドパーク近辺 ハイド邸前

 

 (コマンドポストよりSSリーダー。マイクより連絡、周辺住民の退避は完了している。所定時間になり次第、作戦行動を開始せよ)

 「SSリーダー了解。これよりハイド邸への潜入行動に入る。03、04は何かあったら予定の通りに」

 (03了解)

 (04りょーかいです)

 「もうすぐ、始まるね」

 リツカの声は、いつとて変わらない。こちらの顔色を探るような彼女の眼差しに、マシュは、なんとか頷きを返せた。「はい」

 「一番楽な手筈になってほしいけど、多分そうはならないと思う。攻撃タイミングには気を付けてね」

 「玉藻さんのバックアップもあります。今度も、大丈夫です」

 「良い返事」

 軽く、リツカがマシュの背を押す。どこか頼りない気の抜けたリツカの表情こそ、頼りになるものだと、よく知っている。

 “流さなければならない血があるのだとしたら──”

 エリザベス女王の表情が、口唇の動きが、声色が、脳幹で惹起して、ホルモンやら何やらの分泌物ないしは神経伝達によって、全身に浸潤した。

 「先輩」

 勢い、声が硬くなる。慣れないことをしている、という自覚がそれで膨れ上がって、白い雪のような肌を赤くした。まるで紅葉卸みたいに。

 「私、先輩のサーヴァントになれて、善かったです」

 「なんだいいきなり」リツカはちょっと目を丸くしてから、同じように照れ笑いを浮かべた。「私は、あなたを見殺しにしようとした、ろくでもない人間だよ」

 「いえ。だからこそ、善かったです。まだ自分自身で何を信ずべきか、わからないところが多いですけど」

 「マシュは良い子だね」そう言って顔を赤くするマシュの前髪を愛おしそうに弄ってから、リツカは、何事か、頷いた。

 「なら、私も範を取らなければなるまいて」

 「先輩?」

 「マシュにはカッコイイとこ見せなきゃ、ってことさ」

 独語めいた声で応えてから、リツカはいつもの調子で言った。はい、と頷くマシュを見、リツカは側頭部の髪の一房をかき回した。

 「それじゃあ、戦いなんてろくでもないことをしに行こうか。SSリーダーよりコマンドポスト。これよりホテルへの潜入行動を開始する。繰り返す、これよりホテルへの潜入行動を開始する」

 

 ※

 

 (キロー、こちらコマンドポスト。ジョーカー、これよりホテルに潜入する。第一作戦段階に入った、第二段階への移行に備え、準備しろ)

 「キロー了解。BSリーダーより各員、いつでも動けるように準備を」

 (BS02了解)

 「BS03了解。やっと、事が進むわけね」

 軽く、エリザベスが言う。そうですね、と返事をしたトウマの表情は、否が応にもなく硬い。

 それも致し方なきこと、ではある。万全を期しているとは言え、自分の身を危険に晒すことになるのだ。歴戦の勇士とて、生身の命を死に晒して平静でいられる者は、そう多くない。まして、平和な日常に生きてきた20に満たない少年であれば、そのプレッシャーは想像を絶するだろう。

 「この特異点について、もうちょっと何かわかると良いんですけどね。わからないことだらけですし」

 表情を崩し、肩を竦めるトウマ。その仕草の自然さに、エリザベスは、おや、と思った。

 表情の本質的な硬さは変わらない。でも、その仕草の自然さは、決して虚勢的な態度ではないことが伺える。

 「度重なる実戦が、素人を本物に鍛え上げた。そんなところかしら」

「何か言いました?」

 「いいえ、独り言。味方が頼りになると、後顧の憂いを気にせずに済むと思ってね」

 「そうですね。リツカさんにはいつも頼りっぱなしで。ライネスさんも、優秀ですし」

 「そうね」

 エリザベスは、小さく笑った。不思議そうにするトウマを横目に腕を組みながら、口元を手で隠した。

 マスターが2人、というのは心強い。これから戦うべき怪物の強大さを思えば、戦力は多いに越したことはないのだから。2人とも優秀となれば、なおのことだ。

 (SSリーダー、ホテルに潜入した。現状、マップと住居に差はない。これより書斎へと向かう。未だ、α-02と接敵せず)

 (コマンドポスト了解。こちらでもバイタルデータ、モニターできている)

 (SS04、敵が動いた気配はございません。まだこの区画に敵性存在は潜伏しています)

 「どう思う、タチバナ君?」

 「ジャック……α-02を撃破することは容易いかと。マシュさんの宝具と玉藻さんのバックアップがあれば、α-02の初撃を躱すことは可能です。そこから間髪入れずに確実に倒す方法としては最適かと思います」

 「落ち着いてるわね」

 「そう見えるだけですよ」

 「それができるだけ、頼もしいわ」

 (SSリーダー、ポイントH-01クリア)

 居住まいを糺したエリザベスは、空を振り仰いだ。

 空には、重い雲が淀んでいる。予報では今日は晴れだったはずなのだが、ロンドンの気候は移ろいやすい。正確には、19世紀末のロンドンは、だが。

 さて。

 

 

 ホワイトチャペル第七地区指定座標より北西4km 屋上にて

 

 (SSリーダー、ポイントH-01クリア)

 (BSリーダー了解)

 「コマンドポスト了解」

 随分、慣れたな。

 反射的に返答しながら、ライネスは、当たり前のように応答する自分の仕草にちょっとびっくりする。何せ、元々彼女は没落貴族の次期当主などという、しみったれた立場のガキンチョでしかなかったのだ。精々政治的な綱渡りを渡るのが得意なだけだったのだが、何をどう間違えたらCPオフィサーなどやる羽目になるのか。軍師系の疑似サーヴァントになってしまったとは言え、数奇な運命である。

 いや、そもそも数奇な運命か。別な世界に呼ばれて、しかもその世界の命運をかけた闘いに挑めという。あの愛しい愛しい義兄の頼みでなければ、とうの昔に放り出している事案である。

 ……ライネスはもちろん自覚しているのだけれど、なんだかんだで義兄のことは結構好きなのだ。ただ、その表現技法が捻じれ狂っているだけで、素直さは本物なのだ。

 「君は、結構私と同類だと思っていたんだけどね」

 すぐ脇に控えていたクロは、不思議そうな顔でこちらを振り仰いだ。独り言さ、と肩を竦めて見せると、ちょっと納得いかないとでも言うような顔をしつつ、クロは視線を元に戻した。彼女の視線の先には、広場に佇むエリザベスとトウマの姿が、はっきり映っていることだろう。ライネスには、視力を強化しても何やら豆粒としか映らないが。

 「心配かい、君」

 クロは振り向きもせず、肩を竦めた。そうね、と素直に肯定しつつ、それを誇大に言い表そうとしない、そんな物言い。強かだな、と思いつつ、ライネスは一定程度、満足した。2人の関係性は、憎からず思うようなものらしい。

 「もう少し、隙を見せてくれた方が可愛らしいと思うよ」

 「それ、そっくりお返しするわ」

 「これは手厳しい」

 互いに悪戯っぽく相好を崩す。2人とも、基本的には相手を巧妙に罵倒することを好む人種であるだけに、考えていることは一緒なのだろう。

 「正直暇ね。できる準備はもう終わってるわけだし」

 「余裕そうだね。私なんて、緊張して夜しか眠れなかったよ」

 「疑似サーヴァントは大変よね」

 「司馬懿殿も、基本私任せだからねえ。全く、理屈っぽい男というのは存外子供で困る」

 大仰に嘆息混じりな言葉を言うと、ライネスは、クロの姿をしげしげと眺める。彼女も、一応分類上は疑似サーヴァントに含まれているというが、それがどういう理屈なのかは不明だ。未来の英雄というのだから、当代の記録しか持ちこめていないライネス……というより司馬懿には、“クロエ”などという名前の英雄にはついぞ心当たりはない。

 疑似サーヴァントの召喚規定は、不明瞭な所が多いが、およそ2パターンが考えられてきた……と言われている。

 1つが、神霊規模の存在が無理やり英霊召喚されるにあたり、霊核を落したうえで霊基を保持するために依り代を選抜するパターン。

 2つめが、英霊に劣る霊的存在……幻霊、と呼ばれる存在が英霊召喚されるために、霊基を向上させるために依り代を選抜するパターンだ。

 どちらも、あまねく人理の可能性の中から、聖杯に所縁のある人物が選定されるという点では共通している……らしい。あくまで伝聞推定なのは、例のマキリ・ゾォルケンなる人物が記した英霊召喚に関する資料に書いてあった可能性の話だからだ。一応、その実例が自分であり、またローマでのネロを思えば、あの可能性の推定は正しい、ということにはなる。

であるならば、クロは一体どちらのサーヴァントなのだろう。

 幾ばくか思案してから、詮のない考えだな、と自嘲気味に思い直した。クロのことは言えないだろう、随分私も余裕がある。

 最も、指揮官なんだから、余裕な素振りもしなくてはなるまいが。

 「ところで、それが新しい戦い方の1つ……ということかな」

 なので、そんな雑談もしてみようか、と思ったりする。どちらかと言うと、自分と言うよりは司馬懿の感覚のような気がしたけれど、特に不快感のようなものもない。ライネスの意識を優先しつつ、司馬懿の意識が融合的になった感覚は、もう大分分かちがたく一体的でもある。

 「そうね、持ってるだけで効果があるし。サイズ的にも取り回しは悪くないし、結構いい宝具だと思うわ。」

 「鞘も宝具なのかい?」

 「こっちはありあわせ。礼装でもないし、こっちは改良の余地ありかもね」

 「折角なら、タチバナにでも作らせたらいいんじゃあないかな。どっちかと言うと、君の方が鞘だろうけど……いや、変な意味ではなくてね?」

 「まぁ、そうね。物資も限られてるし」

 ぷらぷら、と腰に下げた剣が揺れる。フィオナ騎士団の英雄が持っていた剣を収めた鞘は、合成皮の、特に何の飾り気もないものだ。

 サーヴァントとマスターの関係性は、物質的・魔力的な繋がりよりも、より精神的な繋がりの方がより強力に作用し得る、という。神代に近しい大源で編まれた絶対命令権たる令呪も、どちらかと言えば双方の合意の下に発動した方が効力は大きくなりやすい。令呪を敢えて隠さず晒しているのも、マスターがマスターたる人物であることを示すための、ある種の戦術の1つであろう。サーヴァントの炉心のイグニッションキーたる魔力供給は主にカルデアの炉から供給されることも加味すれば、マスターとはサーヴァントがこの地に根差すための楔のようなものとしての意味合いが強い。要するに、小賢しい礼装を作るくらいならば、マスターとサーヴァントの間の思い入れの品を用意した方が、効率的ということだ。

 皮肉と言うべきか、それとも道理というべきか。この人理を救う旅路に当たって、基底に要求されるのは、道具的な関係性でなく、より人倫に根差した関係性、というわけだ。ただ優秀な魔術師では踏破できない、そんな旅路なのであろう。

 「アリスにでも教えてもらえれば、それなりのものはできるだろうさ」

 「……まぁ」

 「今ちょっと『どうせなら1人で頑張って作ってくれた方が嬉しいかな』とか思っちゃっただろ」

 「思ってない」

 「乙女だ、経験値豊富なふりしているウブな小悪魔キャラだこれ」

 「思った!」

 「やだ……結構可愛い……」

 「これで158勝159負け3201引き分けね」

 「クッソ不毛な戦いに勝ち越してしまった。なんも嬉しくねえ」

 (SSリーダー、H-02をクリア)

 「おっと」互いに、顔に浮かんだにやにや笑いをかき消すと、念のため咳払いをした「コマンドポスト了解」

 (マイク、了解)

 おや、と思う。まだ彼女の“作業”は始まってはいないらしい。

 折角なら、一緒に戦ってほしかったが……と詮のないことを考えつつも、ライネスは腕組みした。

 ここまでは予定通りで、予想通りだ。α-02……ジャック・ザ・リッパーと思しき敵が攻勢をかけてくるなら、最初から目標地点の書斎で間違いない。閉所で退路が1つしかなく、また物が多いため身動きが取りにくいこの場所こそ、α-02がここで襲撃してくるであろう、という目算だった。それまでは、まぁ、有り体に言えば、暇なのだ。

 あと5分後に訪れる緊張を漠然と思い浮かべながら、ライネスは、素朴に作戦後のことに思いを馳せていた。終わったら、紅茶でも飲もうかしら。

 

 ※

 

 (SSリーダー、H-02クリア)

 (コマンドポスト了解)

 (BSリーダー了解)

 「マイク、りょうかい」

 聞きなれた声だ、と思った。

 微かに感じる郷愁に、アリスは思わず足を止めた。自分がそんな感慨を抱いていることが、奇妙な感じがする。所詮人理に刻まれた記録の再現だとしても、この身はマインスターの魔女なのだが。

 絆されている?

 そうかもしれない。ナーサリーライムは、夢見る子供の空想が羽を広げたものなのだから。そして、それを護持するための。

何にせよ、自分のすべきことは明白だ。英霊としてこの場に召喚されたのなら、なすべきことの大なるは人理を衛ることで、小なるは、そのために必要な人を護ること。そして多分、根本においては、その両者は質的にはほぼ同等のものだ。人理とは、人の営みの全ての総体なのであって、生の人間の息吹を欠いた人理など、考えるだけ空虚なのだから。

 脳裏を過った姿は、果たして誰だったろうか。朧な記憶の彼方にいる母の姿だったろうか。あの青年だったろうか。偶に殺し合いもした同居人だったか。それとも……電子の海で出会った、誰か、だったろうか。全ては、非対称で、それであるが故に分かちがたいものだった。

 「あなたは、あなたに似ているのね」

 なるほど、と思った。随分と感傷に浸っている。ほとんど無表情だけれど、ごく一部、アリスという人間を善く知る人物であれば、彼女にしては珍しい、自虐的な笑みが漏れているように見えた。

それも、一瞬のこと。浚うように吹きすさぶ鋭い風に、アリスは周囲を眺望した。

 「London Bridge is broken down,Broken down, broken down───」

 ……セントラル・ロンドン サザーン区

 長らく、テムズ川に唯一架かる橋であったロンドン橋の上、アリスは吹き寄せる川風に身を預けている。冷たく、どこか取り付く島もない風の肌触りは、2000年に及ぶ歴史の冷厳さによるものか。材質は変れども、常にロンドン橋という物象として君臨し続けた橋の威厳は、アリスをしてどこか気圧されるものがある。いや、むしろアリスがマインスターの魔女であるが故に、とでも言おうか。

 何にせよ、アリスはそんな心理的プレッシャーで物怖じするほどに人間味はなかった。彼女は手元の紙袋から、もう一回り小さな袋を取り出すと、その中から砂粒のようなものを取り出して、身を屈めると、足元へとそっと蒔いた。

これで最後。あとはただ、芽吹くのを待つばかり。手を翳したアリスは、薄く、瞑目した。

 「Ring-a-Ring-o' Roses, A pocket full of posies───」

 つと。

 アリスは足を止めた。蝋人形のような感情の起伏に乏しいかんばせの中、眉間にだけ皺が寄っている。嫌悪、怒気、疑念。雑多、というよりは多種の情動が混交させられた精神性の、それは発露か。

 「急がないと」

 野犬の遠吠えが、耳朶を打った気がした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅴ-7

 「H-03クリア。これより書斎に侵入する」

 リツカの声が、遠い。

 マシュは耳元で彼女の声を聴きながら、眼下の階段を見下ろすように立ち尽くした。

 ハイド邸の作りは、幾分か特殊な構造をしている。外見上は他のアパルトメントと大差なく、実際家の構造は似たようなものだ。メゾネットのような、二階建てながらこじんまりした家は思いのほか手入れがされていて、“ハイド氏”の邸宅という印象はない。

 「しかし、どうしてこう魔術師というのは地下室をこさえたがるのかな?」

 辟易したように言うリツカも、額に皺を寄せている。ペンライトで地下へと続く階段を照らすと、少し降りたところに、厳めしい扉が待ち構えているらしい。

 「大丈夫かい」

 「はい。催眠暗示は大丈夫です」

 「それは結構。そっちにも”催眠暗示及び薬物投与による精神恒常性機能(HMS)”の権限は渡してるから。使う時はオフって」

 はい、と応える自分の声の頼りなさに、マシュは知らず、顔を顰める。地下に降りていく、行為に何がしかのトラウマを感じないでもない。けれど、そんなものは些細なことだ。気分が安定しないのは、そういうことだ。

 「私は、結構優柔不断でさ」階段を降りながら、リツカは独り言ちるように嘯く。「端的に言うと、頼りないんだな。私は」

 やれやれ、とリツカは大仰そうに肩を竦める。そんなことはない、と言おうとして声にならず、マシュはリツカの続く言葉を、素直に待った。

 「頼りにしているよ、マシュ・キリエライト」

 にへら、と頼りなさげにはにかんで、リツカはマシュの少し長めな前髪に手櫛を入れた。はい、と再度答えた自分の声の頼りなさは変わらず、グローブ越しに額に触れる彼女の指先の感触が、ただ、情けなさを惹起させた。

 「じゃあ、降りようか。いいかな」

 リツカの声に了承を返して、マシュは勢い、階段の段差を踏みしめた。ジキル邸と異なり、きちんと壁は舗装され、階段も木製のちゃんとしたものだ。ランプもよく磨かれており、煌々と灯が照らしてくる。

 あの時のフラッシュバックはない。問題なく動ける、と内心で聞かせ、一歩、二歩、と降りていく……。

 《マシュ》

 不意に耳朶を打った声だったが、マシュは冷静に、状況を理解する。契約のパスを介した念話は、マスターとサーヴァントだけのものだ。それをわざわざ使用してきた意味は、最初から決めていた。

 素早く、視野投影されたディスプレイ、そのバイタルデータを一瞥する。自分のバイタルデータに特に変異こそないものの、赤いポップアップが立ち上がっている。

 ──耐毒術式作動。

 《いよいよ、というわけだね。作戦は第二段階へ移行しているわけだけど、そう焦らず行こう。大丈夫、落ち着いていればなんでも対処できるものだからね》

 《先輩は、大丈夫ですか》

 《ダ・ヴィンチちゃんお手製の礼装、ってわけだからねえ。大丈夫みたいだよ》

 《念のため、報告はあげておきますか》

 《そうしておこう。通じていないとも限らないしね》「コマンドポスト、こちらSSリーダー。賽は投げられた。繰り返す、賽は投げられた」

 (コマンドポスト了解)

 《決まりだねえ》

 背後を振り返る。呆れたようなかんばせには、ほんのちょっとだけ、してやったり、という表情が浮かんでいる。

 「さ、行こう。この下で、何が……誰が、待っているかな」

 

 ※

 

 「コマンドポスト、こちらSS04。賽は投げられた。繰り返す、賽は投げられた」

 (コマンドポスト了解。賽は……投げられた)

 「当たりだな」

 「リツカさん、きっとニヤついてますよ」

 はい、と応える玉藻の前の顔は、今まさに目の前で潜入中のリツカと同じように『してやったり』と言わんとするものだった。もちろん金時にも、玉藻の前にもそんなことは与り知らぬことではあったけれど、まぁ想像は容易いことだった。

 ハイド邸前の大通り。通りを挟んで、邸宅正面の路地から顔を覗かせていた2人は、一度路地の奥へと引っ込んだ。

 「では予定通り行きましょう。金時さん、お願いしますね」

 「おう、じゃあ行ってくるか」

 踵を返すなり、金時は猛然と地面を蹴り上げた。頑健な体躯に相応しい敏捷を以て駆け出すこと10秒、隣の通りに出るなり、金時は記憶の中に思い描いた地図と地形を重ね合わせる。腰にぶら下げた大鉈を引き抜くと、力いっぱいに空へと投擲した。

 意識を投擲した大鉈へ。イメージが単純なのは、多分、金時自身が割に単純な人間だからだっただろう。

 鉞に装填された弾丸(カートリッジ)を暴発させる、そんな観念(イメージ)。内側から力が溢れかえり暴走して、制御を離れていく感触を、大鉈に重ね合わせ──。

 

 ※

 

 「来た」

 南南西に膨れ上がった閃光の直後、ライネスの声が鋭く耳朶を打った。

 「コマンドポストよりキロー。作戦を第二フェイズに移行しろ。繰り返す、作戦を第二フェイズに移行しろ」

 (キロー了解。BSリーダーより各員へ、作戦を第二フェイズに移行する。繰り返す、作戦を第二フェイズに移行する)

 「了解──こちら02、宝具投影開始。狙撃体勢に入るわ。宝具射出タイミングはそちらに一任する(ユー ハブ)

 (BSリーダー了解。お願いします、リンさん)

 (03了解。じゃっ、派手に行くわ!)

 

 ※

 

 エリザベスは、一度、大きく息を吐いた。

 彼女のスキル、高ランクの【皇帝特権】により、魔術の発動は造作なく行える。この身体に徹る神経を裏返すように、魔術回路を切り替える。己が心臓に刃を突き立てるイメージがスイッチで、ずぶりと差し込む感触と同時に、自身のオドを、回路に流す。

 「03より総員、宝具を打つわ。本当に、退避は済んでるんでしょうね。自国民を手にかけるのは勘弁よ」

 (問題ない。やってくれ)

 再度、【皇帝特権】を行使する。魔術のランクを向上させていた分を、今度は剣術へ。

 同時、己が武装を顕現させる。赤い骨子が手中に浮かぶや、たちまちに肉付けされていく宝剣。読んで字の如く、剣の切っ先から柄まで、全てを宝石で形作る松明のように閃く剣の手触りは、酷く、馴染みがある。

 この身体だからこそ振るい得る剣。エリザベス女王本来の宝具をより強力な形で再現する、それこそは魔法の一端だった。

 「我が真名、エリザベス女王の名において、宝具を解放する」

 荘重を極める祝詞とともに、感じるのは全身の魔術回路、そしてこの身体に刻まれた魔術刻印の起動だった。

 魔力とは、元は神なるものや悪魔が使用する力そのもののことを指していた。それを人間が用いる術こそが魔術であり、その術を行使するインフラこそが魔術回路である。

 「『薔薇の王笏よ、威光を示せ(グロリアーナ)』──」

 栄光ある、貴女。親しみと畏敬を以て呼び慕われた彼女のもう一つの名。妖精の女王の銘でもあるその名こそは、その宝具の銘でもあった。

 彼女が守り抜いたのは、ただ17世紀の英国、というだけではない。彼女はその力と貞潔によって、過去続いて生きた歴史を、そしてさらに何世紀と続いていく大英帝国の未来そのものの基礎を固め、およそこの国に産まれ、生きる何億と言う人間そのものを護持したのだ。決して明るいばかりの未来ではなかったが、それでもエリザベス1世の存在が無ければ、およそ英国という国は違った形になっていただろう───その想念こそが彼女の栄光・威光の証言であり、その証言を魔力に変換し、運用する宝具である。王笏たる剣は、ただの媒介項に過ぎない。

 常時発動型に分類され、彼女の基礎ステータス及びスキルランクを大幅に上昇させる宝具ではあるが、ただそれだけの宝具、というわけではない。この身体とこの剣だからこそ可能な、真名解放による起動効果使用。身体強化に回していた分の魔力を剣に回し、魔術によって魔力を光子へと変換させる。頭上高く掲げた剣は即ち、あらゆる時制から修練された魔力を投射するための砲台だった。

 「天におわします我らが主よ、どうぞあなたの御稜威、そして我らが奇蹟をご照覧あれ」

 松明のように煌めくは、まさしく刃そのもの。ロンディニウムに輝く勝利の剣と為った閃珖、その名ただ一つしか、あり得なく──。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅴ-EX ”混沌の王(THE CHAOS)

 始まった。

 テムズ川の上、北緯51度西経0度地点。ロンドン橋の中ほどで、アリスは蹲った姿勢のまま、空に爆ぜた2つの閃光を見た。

 空に丸く刳り貫かれたようなそれは、多分、信号弾代わりに金時の刀を自壊させたのだろう。

 であれば、もう1つは、エリザベス女王が振るった聖剣というところか。

 その閃珖にどうしようもなく望郷めいたものを感じるのは、アリスの血のおおよそが、英国に根差したものであるからだろうか。あの剣とその事象の意味を、アリスはよくよく理解している。第二魔法を限定的に使用し、あらゆる並行世界の英国から御稜威を授かり、魔力として使用するという、エリザベスⅠ世とあの身体が融合しているが故の御業。殊イギリスの地にあって、それは限定的ながら、極めて再現度の高い“魔法”だっただろう。再現度の高い魔法、というのも、何やら語義矛盾的だとは思うけれど。

 果たして、その奇妙な望郷と言う名の感慨が、ただ英国人の血によるだけのものだったのか、アリス自身にも判然としなかった。魔術の徒たるもの、その窮極たる『魔法』を目撃し、平静でいられるはずもない。けれど、アリスの秘奥に淀む沈黙は、ただ一般論としての感慨だけを顕しているわけでも無かった。

エリザベスの紅い礼装に、いつか見たはずの、紅蓮の魔法が重なる。清廉で、凛としていた彼女とよく似ている。知り合いも、いずれ年を経て、英国の女王陛下のような柔和さを得たのだろうか。それは、アリスには、与り知らぬこと──。

 アリスは、静かに立ち上がった。作業は完了した。足元に広がるロンドン橋の小さな隙間に埋め込まれた薔薇の種を見下ろして、アリスは踵を、返した。

ごり、とショートブーツのヒールが、擦れた。

 空に浮かぶ、未だ冷めやらぬ光輝がロンドン橋の上を照らしている。満月にも等しい光に照らされて、何か、黒い影が浮かび上がっていた。

 人避けプロイ(名無しの森)は既に敷いていた。ロンドンに住まう市民であるはずがない。そして当然、味方であるはずもない。ならば答えは、ただの1つだけだった。

 敵。そうでない可能性、などという楽観は即座に切り捨てた。

 彼我距離、50m。即座に目測をつける。自分の特性を鑑みれば、接近戦はすべきではない。数歩後退り、情報端末に無線を入れかけたところで、アリスは顔を顰めた。

 カルデア式の通信手段は極めて魔術的で、マスター・サーヴァント間の念話をベースに形式上の契約を介して連絡を取り合う、という方法を取る。実際の方法としてはこの情報端末同士、という物同士を契約関係に置くことで、端末同士で連絡を取り合う形だが、それが繋がりすらしなかった。

 咄嗟、α-02の強襲が脳裏を過ったが、別な事象だと判断する。記録上、α-02の通信妨害は、通信そのものを遮断するのではなく、欺瞞情報を流す方法だった。今起きている事象は、それとは異なる。今起きているのは、そもそも途中でパスが断絶しているような状況だ。

 機器の故障の可能性はあるが、そんな気まぐれな理由ではないだろう。理由はそんな偶然性なのではなく、何か必然的な理由によって生じたと判断する方が良い。つまるところそれは作為的事象であり、目の前に突兀と立ち尽くす黒い影の仕業だ、ということだ。

 可能性への思案は、すぐに行き当たった。単純な発想だが、繋がりを断つには、小賢しい妨害ではなく、空間に閉じ込めてしまえばそれでいい。魔術的に表現するなら、結界の内に閉じ込めてしまえばいいのだ。だが、アリスに気づかれることなく魔術的な結界を展開するなど、おそらく時計塔の冠位に等しい魔術師であっても不可能だ。なら、可能性は物理的配置によって作り上げた天然の結界か、それとも、即自展開型の結界……固有結界、か。

 「あなたね。この特異点の、鍵になったのは」

 問いかけ、というよりは、ほとんど自問。ただ己の思考を整理するためだけの行為、だったのだが。

 微かなくぐもりの後、荘重さすら感じる声音が、アリスの耳朶を打った。「そうだろうな。何分、窮屈な身体だが」

 「意外そうだな」目を見張るアリスの素振りに、黒い見姿が身動ぎした。それが嗤っているのだ、と理解して、アリスは、何故か怖気を奔らせた。

 何か、その人型が人の形をしていることが、極めて冒涜的なことのように思えた。人間、という存在そのものを侮蔑しているかのよう。ぎょっとしたのは次の瞬間で、アリスは、自分が凄まじい形相で睨めつけていることに、今さらに気づいた。

 直感的に、というより直観的に理解する。元よりそのつもりだったが、相対して確信したのだ。

 あれは、生かしておいてはいけない、敵。

 「この身体にも随分馴染んできた。言葉、というのは随分不出来だ。喋りたいことに限って、沈黙しなければならない」

 「その割に、随分おしゃべり」

 「そういうお前は、人間の癖に喋るのが苦手と見える」

 「あなたと違って、人類は言語を話すようにできていない」

 いま一歩、アリスは下がった。なんとなく、頭に浮かんだリツカの顔に、内心で頷き返した。アリスは、元より戦いは不得手だ。魔術戦ならいざ知らず、この戦いはそんな上品なものではない。

 「質問を返すようだが、私の邪魔をしているのはお前だと理解している。その認識であっているな?」

 「質問に答えが返ってくると思うのはガキの発想」

 「結構。ただ、嬲るのみだ」

 揺曳と、黒い姿が身動ぎする。未だ嗤笑を纏った姿に、アリスは咄嗟に身構えた。

 接近を赦せば負ける。両足の構造にオドを流して強化を施しかけたアリスは、しかし、目の前で爆ぜた景色に、激情を惹起させた。

 光芒の中、黒い影が歪に広がる。長い、外套を広げたのだ。裾の擦り切れた外套が風にはためくなり、その奥の黒い肉体から、ずるりと何かが這い出した。

 1匹、2匹ではない。たちまちに、ロンドン橋の上に無数に溢れかえった四つ足の生物は、何か、野犬に見えた。

 「親玉というから少しはマシかと思ったけど、あの人狼もどきよりも下品で下賤。愚劣極まりない」

 はっきり言って、全く以て不愉快極まりない景色だった。全身に惹起した疼痛すら伴うほどの激情に身を焦がされ、アリスはケープの裾に手を差し入れた。

 引き抜くガラス細工の猫鈴。艶やかな藍色のそれを、ばら撒くように地面に投擲した。

 緩慢な彼女の立ち振る舞いからは想像だにできない、芸術的な身振り。積み重ねた久遠の歴史が為せる業か。大胆にして鮮やかな指芸(カット)を思わせる。

 ほぼ同時、背後に飛び退く黒い影。地面に藍色の鈴が吸い込まれるより数瞬早く、左目を起動させる。

 深い夜闇を孕んだ黒い眼球が、禍々しい紅玉に反転する。

 最速のシングルアクション。視界に捉えたものに干渉する暗示の一形態。投射型の魅了の魔眼で以て、溢れんばかりに猪突をしかけた獣の群体を捕縛した。

 先頭集団の10匹あまりの獣が硬直し、背後から雪崩れ込んできた獣の群れに轢殺されていく。無数の獣が一塊になって互いに食らい合い肉塊になりながら、さらに押し寄せた別な野犬めいた獣が肉の壁を乗り越えていく。

 肉の津波。脳裏に過った言葉は、一切詩的ではない。事実、目の前で黒い肉どもがのたうちながら迫る様は、ただ不快しか惹起させない。

 青い目を爛々と輝かせながら詰め寄る野犬の波。相対距離10mまで迫った黒い肉は、

 「──“Diddle Diddle”」

 石畳から突き出した無数の銀に貫かれ、そこで惨死した。

 あるものは三叉の矛に貫かれ、あるものは直下から突き出した銀に突き上げられて横死した。倒壊した巨大な食器に圧し潰されて死ぬものもいれば、銀の柄に激突して頭部を肉みそにして死ぬものもいた。

 さしずめ、銀の防波堤。無数に生えた巨大な白銀の“食器”が橋の上を横切るように展開し、アリスを飲み込まんとしていた獣の群れを堰き止めていた。

 寸でディドルディドルの刃を逃れた野犬、総数5。内、3頭は瀕死で、放っておいても勝手に死ぬだろう。であれば敵は残り、2。

 コンマセカンド以下の判断。そして決断すれば、アリスの行動は迅速果断を極めた。

 再度、彼女の手がケープの裡に延びる。流れるように疾駆する黒衣。引き出したものは、何か、小瓶のようなものだった。

 

  ──Beware the Jabberwock, my son.

  ──The jaws that bite, the claws that catch.

──Beware the Jubjub bird, and shun,

──The frumious Bandersnatch

 

 コルクキャップの淵に親指を引っかけ、小気味よく開け放つ。滑るような音に引きつられるように噴き出した薔薇の濃霧が、アリスの手に纏わりつく。

 2頭の野犬が飛び掛かる。

 本当に下賤だ、とアリスは侮蔑を投げつける。これなら、まだあの時の野犬の方がまだマシだった。あの野犬どもはまだ、クソほどでも理性があった。これは違う。相対する神秘の異様など構いもせず、ただ肉欲だけを怒張させただけの機械のようなもの。古より生きる魔女にとり、そんな生き物は存在するだけで罪だった。

 罪には、罰が伴う。そんな当たり前の自然の摂理が行使されるように、野犬一頭がまず両断された。開いた上あごから頭部、さらには背中から尾まで一刀の下に切り離され、2つ別れになった肉はそのまま石畳に潰れた。

 ようやっと、もう1頭が恐怖に囚われた身振りを見せたが、遅すぎた反応だった。それは戦闘速度という意味でも、また畏敬という意味でもだ。

 ディドルディドルを取り込んだロンドン橋は、まさしくアリスの戦闘領域でしかなかった。本来得手ではない強化の精度も高ければ、魔眼の精度も普段の比ではない。漠と視界に入っただけで野犬は身を硬直させ、あとは石のように動くことすら許されなかった。だが、それは罰というには温いだろう。何せ、久遠なりし魔女の尊厳を侵した馬鹿者に下される罰は、死以外には在り得ない。

 一歩の接近と同時、濃霧を纏った右手を掲げた。薄れ始めた霧の中、黄金に煌めく刀身が屹立していた。

 

 ──One, two One, two

   And through and through

   The vorpal blade went snicker-snack

 

 閃珖なりしや、勝利すべき黄金の剣。かつてこのロンディニウムに謳い上げられ、そして久遠に失われた選定の剣。残り2つとなったグレートスリーの一画、至高の幻想(クラウン・ファンタズム)を糧として錬成された、貴顕の幻想(ノーブル・ファンタズム)。混沌を断ち秩序を齎すその剣こそは、マインスターの魔女が編み出した最強への鍵だった。

 黄金の刃は、呆気なく野犬の首を刎ねた。ただ触れただけで濡れ紙を裂くように頸椎を切り裂き、噴き出た血が散らばった。傷みすらなく獣は死んだだろう。ただ、それだけが不愉快だった。

 だから、というわけではなかったが。ディドルディドルの防波堤が軋み、日々が入った様に、アリスはなお不快を増長させた。

 一体どれだけの“貯蔵”があるのか、という理性的判断と、逆巻くような激情が脳みそで目まぐるしく駆けている。何にせよ結論は簡単で、アリスは背後に飛び退いた。

 防波堤が結界したのは、その直後だった。およそ4mはあろうかという巨大なフォークとスプーンがぐにゃりと曲がるなり、鈍い金属音を吐きながら砕け散った。

 汒乎と立ち上がる不気味な巨体。軟体生物を思わせる触手を蠢かせたそれは、有り体に言って、肢体を持った巨大な蛸のような外見だった。人間の神経を逆なですることしか考えて居ない、冒涜的な佇まい。アリスは、本気で頭にきていた。

 大きさは5mほどもあろうか。巨体を燻らすようににじり寄るその足元から、うぞうぞと無数の野犬が湧きだしてくる。

 「気に入っていただけたかな、星の落とし仔は」

 「饒舌が過ぎる」

 朗々、とした声に対するアリスの返答は、ただただ侮蔑でしかなかった。

 冷たいアリスの眼差しなど知ってか知らずか、緩慢な動きで、5mの巨躯が迫る。引き連れられた野犬は意気揚々とばかりに疾駆する。

 野犬が到達するまであと5秒。無感動に理解して、アリスは、剣をロンドン橋に突き立てた。

 

 ──London Bridge is broken down,

 ──Broken down, broken down.

 ──London Bridge is broken down,

 ──My fair lady.“

 

 眼下に迫る白灰の牙。撒き散らされる唾液とぎょろりとした目に、アリスは、最後の最後にプッツンした。

 恐らくは、音すらなかった。無音だったわけではない。ただ、足元から鬱勃と迸った轟音が、周囲の不愉快な鳴き声を文字通りに引き潰していったから、だった。

 微かに紛れる甲高い悲鳴。助けを請うように逃げ惑う野犬どもを無慈悲に挽肉にしながら、その巨人が屹立した。

 

 ──Build it up with silver and gold,

 ──Silver and gold, silver and gold,

 ──Build it up with silver and gold,

 ……My fair lady───.

 

 轟いた叫喚は、違えようもなく怒声だった。主たる魔女の清貧な激情を代弁するように、身の丈10mを超える巨人が眼下を睥睨した。

 精々5mほどの巨人など、橋の巨人の前では、そこいらに群れる野犬と大差ない。逃げ惑うように背中を向けた刹那の合間に、振り下ろされた巨大な拳がただの一撃で頭を潰し、周囲の野犬ごと肉のスープに粗挽いた。

 橋の巨人、テムズトロル。アリスが使役するプロイキッシャーの内、初代の魔女から永く伝わる偉大な幻想の内の1体。千年クラスの神秘を内包した巨人ながら、何か特異な魔術特性を有しているわけでもない。というよりも、そんな小賢しいものに頼る必要など、この巨人にはありはしない。

 ただ巨体。それだけでありながら、それだけであるが故に最強の使い魔。テムズより強力なプロイは2体あるが、信頼という意味では橋の巨人を置いて他には居ない。

 巨人の眼差しとともに、アリスも眼下へと蔑視を投げる。巨人の肩から見下ろす先に、我先にと逃亡する野犬たちが映っていた。

 19世紀末、ロンドン。先端の文明都市でありながら、既に頽廃の兆しを孕み、人間の闇と言う名の幻想を蓄えたこの森は、アリスの肌に、却って馴染む。素材はロンドン橋に、核に担われた黄金の剣。薔薇の猟犬を糧に、アリスのプロイキッシャーと化した剣を核にした巨人は、その最終形態に手をかけている。

 果たして、魔法ですら打倒し得るか。こと、この特異点ロンドンにて顕現した橋の巨人は、その域に達してた。

 敗北など考えられない。巨人の肩から眼下を睥睨して、アリスは、それでも峻厳を極めていた。

 巨人に圧し殺される野犬のような生き物たちの、群れ、群れ、群れ。逃げ惑う愚かで憐れな姿にかける情の持ち合わせなどは当然なく、ならば、その冷ややかな険しさは、全く別な感慨だった。

 爛々と闇夜に蠢く双眸。いつかの記憶が、惹起した。嫌だな、と、思った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅵ-1”朱い月からやってきた(The one in a moon)

 「目標地点に到達。これより探索を開始する」

 歴史上の人物、というのは、得てして誇大に感じるものだ。紙の教科書にせよタブレット端末から参照するライブラリデータにせよ、何か自分とは異なる大人物、という感触を惹起させる。この旅を始めてから、そうしたギャップにもある種慣れてきたけれど、今回のそれは全く違ったものだった。

 「案外、綺麗なものだね」

 気の抜けたような、リツカの声。意外そうな感のある声音に、マシュはまた違った意味で、首肯を返した。

 ヘンリー・ジキルとハイドの事件から伺い知れるのは、紳士然としたジキルに対して、粗暴粗雑なハイド、という印象だ。

 だが、この書斎……わずか11㎡ほどの小さな地下書斎は、両側の壁にびしりと本が並ぶ。なんの木材か検討もつかないながら、綺麗に整理された古びたデスクが奥まっていた。

 何はともあれ、狭い。1人暮らしのアパルトメントの一室がこのくらいの狭さだと知識上あったが、何故か、物凄く狭く感じる。歴史上の人物が、こんな場末の地下に蔵書を蓄えていると思うと、妙な生々しさがあった。

 と、同時。

 マシュは、改めて理解する。この閉所での近接格闘戦を行うならば、武器に求められる特性は、取り回しであって火力や防御力ではない。如何に素早く、的確に打撃を与えられるかが勝負の分かれ目だ。マシュの大盾は、この戦場では使えない。

 「本の内容は似通ってる。ハイドなんだから当然だけど、薬学もあれば宗教学のものもある。あの、わけのわからない妄想の書き連ねは、無いようだね」

 まるで、リツカの態度は古本屋にでも来たかのような気楽さだ。何かボタンの掛け違いが起きれば死ぬ、という状況にも関わらず、この呑気さである。

 どうしてこんなに、泰然としているのだろう。リツカとの付き合いは決して長いとは言えないけれど、短くもない。半年近くを共に過ごしているけれど、彼女の佇まいは、どうにも理解が及ばない。

 「マシュ、これ」

 奥まったデスクの傍で、リツカが手招きする。慌てて彼女に駆け寄ると、リツカの手元を覗き込んだ。リツカは、マシュよりも、小柄だった。

 「どうやら、手製の本……らしいね。随分古いようだけど」

 表紙には、タイトルらしきものはない。背表紙もそうだ、紙は大分古びて、茶色く変色し、古紙のあの乾いた黴のような臭いが膨れ上がった。

 「なんで、こんなものが此処にあるんだろうね」

 リツカが、本を開く。最初の1ページに、滲んだような文字で、タイトルが記されていた。

 

 『暫定呼称“冠位の境界記録帯(グランド・サーヴァント)“について』

  筆者:■■■■

 

 筆者名は、酷く塗りつぶされていて伺いしれない。だが、そんなことはどうでもよかった。

 「先輩、これって」

 「マキリ・ゾォルケンなる人物が残した本……英霊召喚式について書かれた本に、確か冠位のサーヴァントに関する記載があったと思う。曰く、通常の英霊召喚によって呼ばれるサーヴァント達とは異なる、文字通り規格外のサーヴァント。霊長の敵なる“獣”を討ち果たすために世界によって召喚される、抑止の決戦兵器。それが、グランド」

 途中、ほとんどうわ言のように言いながら、リツカはデスクの上を眺めた。何かを探るような視線の動きの後、「誰の仕業なのやら」と、苛立たし気に嘯いた。

 「マシュ、見てごらん」

 「えっと?」

 「本棚とかは埃が被ってるけどさ。机の上、拭いた跡がある」

 「本当……」

 「私たちに、何かを教えようとしている勢力がある。その意図も、何もかも不明だけど」

 忌々し気な口ぶりは相変わらず、リツカは本のページを捲る。ぱらぱら、と捲る様は、速読ですらない流し見だ。漠、と文字情報を眺めているだけの仕草が、直後に停止した。

 「これ、は」

 リツカが手にした、ポストカードほどの、それは絵だった。色鉛筆かクレヨンかで描かれた、お世辞にも綺麗とは言い難い絵。赤く燃えるような戦士と、対照的な黒い冷徹な戦士が、竜虎相討つように描かれた、絵──。

 「マシュ!」

 リツカの声が、鋭く耳朶を衝いた。

 あ、と思った。

 マシュは、それなりに戦いを経て、敵を攻撃する漠然としたタイミング、というものを理解し始めていた。感覚的だけれど、敵が息を抜き、次の一息を吸う瞬間。一呼吸が、隙を産む。

 そして、マシュは素直に理解した。自分に隙があるとしたら、今がその時だった。リツカはその一呼吸を正しく読み取って、だからこそ、その奇襲を予知した。

 ちり、とうなじを黒く焼くような感触は、その半の半瞬の後に、来た。

 あ、と思いながらも、マシュの動きはまるで機械のようだった。

 熟練された身体記憶は、反射にも等しく人間を駆動させる。前意識的な迅速な素振り。マシュは素早く身を翻し、背後に迫った姿を捉えた。

 「──“解体聖母(マリア・ザ・リッパー)”」

 (あなや)

 その姿、間違いなく、マシュの知る、あの小さな姿だった。病的な白い髪に、やはり病的な白い肌には、無数の傷が散りばめられていた。あの時は、ちょっと痛ましい、くらいに考えなかった、創の痕。多分、恐らく、それらは胎からかき出される時の瑕、掻き出されて四散した肉体のモザイク画。

 マシュは、手に握っていた石くれを放り投げると同時、両手を前に掲げた。飛び掛かる矮躯を拒絶するように、そして同時に抱き留めるように、啓いた手のひらが、起点だった。

 「疑似展開……『人理の礎(ロード・カルデアス)』!」

 本来的に、マシュは宝具の展開に盾を必要とするわけではない。彼女の宝具は、自らの特質たる【魔力防御】と、それにより具象させる強力なパワーフィールドこそが本質だった。盾は、彼女の精神を巧く伝わらせる象徴で、最も強力に宝具を発動させるためのインターフェース。言わば、彼女の拠所。本質的に、戦うことを好むわけではないマシュ・キリエライトの精神の待避所。それが盾だった。

 突き出した両手の先に、鮮やかな閃光が押し広がる。マシュ1人を包むので精一杯、というような、薄い膜。とても繊弱で、触れれば砕けそうな薄膜。

 敵の攻撃は、黒い霧が鎌鼬のように襲い掛かるように見えた。黒い斬撃がマシュの“盾”を切り裂く刹那に、割って入るように、なお黒い濃密な瘴気の如き壁が斬撃に食らいついた。玉藻の前の切り札たる呪術、呪相・黒天洞が発動したのだ。マップの座標と、マシュに持たせた呪物を起点にした、遠距離での呪術操作。一寸たりとも精度を違えない呪術の発動は、玉藻の前というサーヴァントの卓越たる所作の証明そのものだった。

 だが、急ごしらえの呪物を触媒にしただけの呪術の出力は、彼女本体が発動したそれに比べて遥かに劣る。彼女自身が発動すれば、その呪術だけで8割は減衰させていただろう。だが、遠隔操作でのそれは、およそ4割を削るに留まった。

 残りの4割。切り裂きジャックの攻撃、斬撃に見える怨嗟の投射は、もろにマシュの盾に殺到した。

 怨念が盾を食む。単なる物理的な衝突ではない、精神そのものに憑りつくようなそれは、彼女の特質から言えば、鬼門中の鬼門であったかもしれない。何せ、精神の勁さそのものが、力場の、ひいては宝具そのものの出力に直結する。精神そのものに干渉されれば、宝具の出力低下は、免れない──はずだった。

 互いの神秘が、互いを否定するように食い合う干渉光が月虹のように押し広がった。防眩処置が視界にかかっているはずなのに目も明けられない光の渦の中、マシュは、寒いなぁ、と思った。

 うなじを昇ってくる、黒い幻影。全身を覆い尽くす、冷たい闇黒。肌を粟立たせることすらできない戦きの中、マシュは、酷くか細い泣き声を聞いたような、気がした。数人の女性を“解体”し、無残に死を与えた、悪魔の泣き声。

 ──まだ、マシュの盾は、保っていた。

 

 

 マシュの宝具は、玉藻の前のバックアップも加味して、5秒まで耐えられる。

 それが、マシュ本人や玉藻の前、アリスやカルデアのダ・ヴィンチと算出した防御の時間だった。故に、勝負を決めるならこの5秒間しかなかった。

 5秒。人間のリツカにとってみればあまりに短く……だが、十分すぎる時間、だった。

 マシュが一呼吸を見せたのは、リツカにとってみれば、むしろ好機だった。α-02が攻撃に入るそおよそ半瞬ほど早く、自分の攻撃タイミングに移れていた。

 その時点で、リツカは勝利が見えていた。

 身を屈めると同時に、ほとんどシングルアクションすら遅い速度で一工を詠唱。一切の淀みなく身を屈める動作と地面を蹴り上げる動作を連ね、マシュの小脇を掻い潜る。宝具同士が拮抗し、迸り飛び散るマナの残滓が肌に張り付き、霊子展開されたBDUの相転移構造被膜が接触したエネルギーを弾き返す中、リツカはその、敵、を捕捉した。

 半瞬ほど遅れて、太腿のベルトに装備していたグリップ2本を引き抜く。ただ、柄だけが存在していたそれに、魔力を通す。秘蹟の基盤を以て励起されたグリップから、忽ちに70cmの刀身が発現する。

 相対距離、僅かに70cm。近すぎる、だが問題ないという判断より遥かに早く、彼女の体躯が跳ねた。

 軸足は左。猪突の気勢を強化と相転移被膜の負荷軽減によって漸減させながら殺しきれない分を慣性モーメントに乗せるや、蹴り出した右足を、その小さな身体の下腹部に捻じ込んだ。

 ぎゃ、という悲鳴が聞こえる。リツカの所作は、一切躊躇がない。軽々と吹っ飛ぶ矮躯を見据えながら、右足を振り抜いたモーメントをさらに乗せて身体を反転。両手に握った聖堂教会の装備──黒鍵を振り下ろししなに、投擲した。

 投擲のために振り下ろした両手には、既に4本、指に挟み込むように、別なグリップが握りこまれていた。励起と同時に再度刀身が立ち上がるなり、今度は両手を掬い上げるように振り抜きざまに、投擲。計、6発投擲された黒鍵は、壁に激突した敵の体を貫いた。

 2本は手首を、2本は大腿部を。残り1本が深々と胎を抉り、壁に縫い付けていた。一発一発が、単純な物理的エネルギーに換算すれば対戦車狙撃銃にも等しい火力を有する。上級のサーヴァントならいざ知らず、そこいらの怨霊如きに、引き抜けるものではなかった。

 ぱらぱら、と天井から落ちる埃を手で払いながら、リツカは磔にされて身悶えする敵を眺める。秘蹟の牢獄から抜け出せない様を確認してから、一瞥を、床にへたり込むマシュに贈与した。

ほんの、一瞥だけの眼差し。顔を挙げたマシュと視線が行きかうと、リツカは微かにだけ頷きを返して、最後の一本を引き抜いた。

 余分なことだな、と思った。エリザベス女王風に言うなら、多分、心の贅肉という奴だろうか。だが、人は贅肉無しには生きていけないものだ。「まぁ、贅肉が無いと、低栄養で死ぬしね人間」というのは、おおよそ独語でしかなかったが。

 「あなたの名前は、切り裂きジャック。それで、合っているかな」

 ゆら、と顔を挙げる様は幽鬼のようだった。暗い洞窟のような目に見返されながら、リツカは、ただ、虚無のようにその眼差しを受容した。

 「私は、今からあなたを滅ぼさなければならないんだ。人類の為、という大義名分のためだ。加えて言うなら、あなたと言う人間は、罪のない人を、まぁ何人も殺めたわけだ。私は唯物論者だけど、実在論者でもあるんでね。実存主義者なんだな、私は。罪には、罰が在るべきだと思う訳さ。まぁこれは個人的な話だから、今はどうでもいいんだ……あなたという人を殺める言い訳を、自分で誤魔化してるだけだから。

 それで、まぁ、なんというか、要するに。

 今から私は、君を殺すんだ。何か、言うべきことがあるなら、聞くよ。神父の真似事くらいしなきゃ、あの子たちに申し訳もたたないしね」

 「────」

 「そっか。いや、当然だろよ、謝らなくていいんだよ。あなたは間違いなく悪人だけど、立派な一人の人間だ。高潔な、人間だったよ。

 いいかい。あなたは心優しい人だけれど、あなたを産み落として、勝手に殺す、この人類史を許してはいけないよ。あなたを滅ぼすことしかできなかった、私の無能を、許してはいけないよ。この世界を、決して許してはいけないよ……」

 リツカは、剣を振り上げた。両の手で逆手に構えた黒鍵の切っ先は、過たずに、敵の、心臓に突き立てた。

 ずぶ、という感触は、酷く柔らかかった。エーテル体で構成されていようとも、肉は、肉なのだ。柔らかな感触が剣先から手に伝わり、腕を這い回り、全身に伝播、していく。びゅ、と飛び散った血飛沫が、顔面に降り注いだ。

 一息。肺からCO2を、吐き出した。

 “主の恵みは深く、慈しみは永久とこしえに絶えず”

 “あなたは人なき荒野に住まい、生きるべき場所に至る道も知らず”

 “餓え、渇き、魂は衰えていく”

 “彼かの名を口にし、救われよ。生きるべき場所へと導く者の名を”

 “渇いた魂を満ち足らし、餓えた魂を良き物で満たす”

 “深い闇の中、苦しみと鉄くろがねに縛られし者に救いあれ”

 “今、枷を壊し、深い闇から救い出される”

 “罪に汚れた行いを病み、不義を悩む者には救いあれ”

 “正しき者には喜びの歌を、不義の者には、”

 “……去りゆく魂に安らぎあれ(パクス・エクセウンティブス)

 

 ──。

 「優しいね、あなた」

 応えなかった。

 

 

 殉教者。

 その背に抱いた観念に、マシュは、どうしようもない憐れを感じることしかできなかった。

 両の手を添えて、縋るようにあの小さな少女に剣を突き立てるその後ろ姿は、何か、祈りを捧げる修道女のよう。

 立ち上がって、マシュは、その背に駆け寄った。ほとんど叫ぶように先輩の名を呼んで、そうして情けなくもすっ転んだ。

 「何やってんの?」

 ふと気がづくと、リツカがぽかんとした目でこちらを見下ろしていた。顔にへばりついた血と袖口で拭いながら近づくと、緩慢な動作でしゃがんだ。

 「大丈夫?」

 「はい、なんとか。お恥ずかしいところを」

 「ケガしてないなら、いいんだ。立てるかい」

 消え入りそうな声で応じながら、マシュは、腰にあてられたリツカの手の支えに従って、すっくと立ちあがった。

 「当たり前だけど、いつも楽をしている人間が、偉そうに戦うものではないね。身体が痛くて仕方ないや」

 苦笑いをしつつ、リツカは身体を動かして見せる。視野投影されたステータスボードには、マスターのバイタルデータに加えて、身体の損壊部位も表示されていた。

 損傷こそしていないけれど、身体へのダメージは少なくない。疑似魔術刻印と元からの魔術刻印による再生と、そもそもBDUの負荷減少措置で極力身体的ダメージは起きていないようだったけれど、逆に言えばそれだけの防御策を敷いても負荷を防ぎきれなかったのだ。特殊な体術を用いた、黒鍵の投擲術、だったろうか。

 「マシュは大丈夫かい。大分無理をさせてしまったね。私が、もう少しちゃあんとできればいいんだけどね、申し訳なかった」

 リツカが、手を伸ばす。微かに振戦の残る指先がマシュの前髪を手すきする。

 そんなの、嘘だ。マシュは咄嗟に言い出したくなった。無理をしたのはリツカの方じゃあないか。この作戦は隙がなく構築されていて、だからこそこうしてほぼ無傷で敵を制圧できたのだろうけれど……そもそも、この作戦自体は非合理的なのだ。例えば、この屋敷自体を破壊して、敵の動きを誘った方がまだ戦いやすかったはずなのだ。指揮官が前線に出る、などという愚行を、リツカが犯す必要は、なかったのだ。

 自分のせいなのだ。自分が不甲斐なかったからこそ、リツカは自ら矢面に立って、自らの手で以て、ただ憐れなだけの悪人を手にかけたのだ。

 ただただ、哀しかった。橈骨、尺骨神経が嘔吐するように震えて、頼光の首を刎ねた時の残心が励起する。ぐるりと跳ね飛んだ彼女の頭が、最後に錯綜して交わった視線が、どこか見守るかのように、浮かんだ。どうして、肝心な時に、自分は弱いのだろう。

 「君のような存在を、なるだけ減らすんだって。そう、彼女に伝えたが」

 リツカは、酷く疲れた様子だった。

 「ジャック・ザ・リッパーのような存在を前にして、月並みな言葉しか出てこないんだ。人間賛歌、なんてのは、古い時代に唱えられただけで、今は空虚になっただけの、黴の生えたお題目なんだ……所詮、人間なんてのは、くだらない生き物なんだよ。マシュ・キリエライト」

 ごりごり、とリツカは側頭部の髪を掻いた。むしろ皮膚を毟るように書きながら、リツカは、不愉快そうな顔をしていた。そうして、自分が不愉快な顔をしているという自覚が、なお彼女には不愉快らしい。不愉快さを消すように、自然にリツカは普段の大人びた微笑を浮かべた。あまりにいつも通りの笑顔で、却って、軋んでいるように、見えた。

 それも、一瞬だった。苦痛に歪んだような表情は風が吹くように掻き消え、もう、リツカの表情は普段の様子に戻っていた。

 「こちらSSリーダー。コマンドポスト」マシュの肩に触れて促しながら、リツカは入り口に向かった。「……おかしいな。コマンドポスト、ライネスちゃん?」

 マシュは、その、痕を、注視した。

 7つの剣が突き刺さった壁。着弾の衝撃ですっかり破断してしまった壁には、もう彼女の姿はない。洗礼詠唱によって浄化された影が、ただ僅かにへばりつくだけだった。既に過ぎ越してしまった空無だけが、そこに磔にされていた。

 あの瞬間。『人理の礎』の向こうに見た、永遠にも等しいあの瞬間の眼差しが、頼光の視線と、奇妙に溶け合った。 

 (お二人ともご無事で!?)

 「無事。タマちゃんも、金時君もなんともないね」

 (はい、それはもう……それよりですね、お耳に入れたいことが。アリスさんと連絡が取れていません。それに、タチバナ様たちとも……!)



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅵ-2

 実際、その宝具の真名解放に、何か特別な銘が定まっているわけではないらしい。要するに、エクスカリバーの名は、エリザベス女王が、今回の召喚にあたり、都合がいいからつけただけの名でしかない。

 だが、その閃光は確かに本物だった。少なからず、間近でその光の本流……というより濁流は、神話礼装を纏ったネロの『軍神の剣(フォトン・レイ)』に、決して劣るものではなかっただろう。実数値にすればAランク以上の火力を以て放射された光は、長く、長く、空へと伸びていく。さながら大出力のエネルギー砲……ありていに言ってビーム砲とでも言うべき有り様だった。

 眼球に施した防眩処置を以てしても眩さに眉を顰めるほどの光量の中、トウマは、己の魔術回路を啓いた。

 身体中に張り巡らされる神経の一部を、疑似神経へと裏返す。高所から身投げして、地面に激突する間近に事切れる、イメージ。2015年7月末、この世界に来る直前の、あの景色。

 普段は、このイメージはほぼ無意識化で行っている。わざわざイメージを強くもつ必要もないほどの訓練と、催眠暗示によってなされる戦争機械としての技術。だから、この時、何故か浮上した感覚にちょっとだけ戸惑った。わざわざ、何故そのイメージが惹起したのだろう。疑問も一瞬だったら、浮かんだ想念も一瞬だった。

 それ故、トウマは気にせず、自身の魔術回路をBDUに流していく。霊子展開された礼装に装備された疑似魔術刻印が、右腕に浮かび上がる。魔術回路が直線的ならば、右腕に浮かび上がった刻印の外見は、さながら入り組んだ迷路のようだった。刻印内部を通る魔力が加速するたびにに運動エネルギーが魔力に転換され、増大した魔力を魔術によって変換する。ぐるりと魔術刻印に囲われた右腕がチャンバーとバレルならば、拓いた五指はマズルだった。

 魔力を使用し、魔術を行使する。超越種の超常の力を、己が物にせんとする傲慢さこそが魔術であり、蛮勇の使徒こそが魔術師である。超常の力の代償は単純で、端的に疼痛に苛まれるだけというものだった。

 それでも、自分のオドを用いるだけならまだマシだ。死ぬほどの疲労感と、それなりの痛みで済む。だが、それが分不相応になれば、その疼痛は慮外のものになる。

 殊に、カルデアの炉から供給される魔力は神代のそれに比肩する。標高6000m、未だ表の人類史には発見されていない太古の残余が漂う山麓のレイラインから引かれる魔力は、量と質において神代のそれだ。サーヴァントを賦活させるための魔力を生身の人間が使用すれば、その代償は想像を絶する。ぶち、という音は、多分気のせいではあった。だが、その音の瞬間に、全身の疼痛は、一気に激痛になった。

 次の瞬間、頸椎に何かが圧しかかる。無痛の頸部中枢神経注射により延髄に直接投与された薬物が一挙に痛みを抑えこみ、同時に痛みに気を取られていた意識が鮮明になる。高濃度オレキシンとレセプター促進薬の直接投与によるそれは、本来は令呪使用時に使用されるものではあった。

 弾丸は装填した。後はただ、右腕に唸る破壊衝動を打ち放つのみ。直撃さえすれば、サーヴァントすら撃破し得る、それはレオナルド・ダ・ヴィンチの傑作品だった。

 (来るわ、トーマ! 位置、直上!)

 クロの声は、酷く鋭かった。まるで耳元で、大声で怒鳴られたかのような感覚。

 トウマは、コンマセカンドの中で銃身と化した右腕を空に掲げる。幾百、幾千。夢の中でさえ繰り返した身体動作には、一切の淀みがない。反射の域に達した身体的思考に支配され、一個の戦争機械と化したトウマは、正確無比に、その出現地点を見定めた。

 あの、波紋が浮かんでいる。空中そのものが歪んだ先に、ゆっくりと、あの姿が浮かんでいる。

 これまで2度、この怪物と遭遇した。1回目と2回目、いずれとも変わらぬ怪物。サーヴァントとすら戦い得るほどの敵を目の前に、トウマはただ冷静に、イメージを重ね掛ける。

 拳銃の、トリガーを引き絞る。ただそれだけの動作を脳裏に思い描けば、あとはバレルの中を加速しきった砲弾が手のひらに現出し、叩き付けるだけだった。

 「──ファイア!」

 捻じれた空間から鋭利な舌が迸ったのは、砲撃の僅かに後だった。

 魔術によって編まれた魔力の砲弾は、実に1000m/sの初速で放たれた。反動だけで腕と足の骨が折れかける中、発射された砲弾は、正しくその火力を発揮した。

 魔術とは言え、術式そのものは極めて単純だった。魔力そのものを圧縮し、貫通力と上げると同時に、貫徹と同時に炸裂させる。ただ、それだけの術式だったが、その破壊力は何より凄まじいまでの運動エネルギーから繰り出される純物理的な打撃力だった。

 刺突された舌は呆気なく弾かれ、一瞬で根本までミンチと化していた。不定の原形質めいた血を撒き散らしながら──ぐにゃ、と獣が身を捩らせた。

 次元境界面から飛び出すなりの、咄嗟の転身。上体を逸らして砲弾を躱したその動きは、体内に骨格が存在するのか全く以て疑わしいほどの軟性だった。

 びゅ、という音と鼓膜を、ほんの僅か、“猟犬”の左後脚を吹き飛ばしただけだった。

 バッ、と四方に散らばる、原形質じみた血液。鎧らしきものに覆われた表情からは一切感情らしいものは読み取れなかったが、ぎょろりと覗いた光のない腐った葡萄のような目だけが、驚愕を伺わせていた。

 “猟犬”の腕が持ち上がる。被弾し、怯みながらも反撃をせんと、扇ほどもある手が振るわれる。5本の指先から飛び出したアイボリーの爪先、その突端の有り様が、眼球に張り巡らされた網膜に焼き付く。

 恐怖は、特になかった。薬物投与と催眠暗示のお陰ではあったけれど、それ以上に、次の一手を信頼していたからだった。

 奇襲とは言え、自分の攻撃が躱されることなど、予想の範囲内だった。なら、次の一手を用意するのが、このチームの長たる自分の役目だ。そして次の一手に対するトウマの信頼は、絶大だった。

 音速など遥かに上回る速度で、それは飛来した。“猟犬”の横腹を衝くように激突したそれは、トウマが知力強化をして、ようやく一瞬だけ把握できる程度のものだった。

 捻じれた矢のような、それは剣だった。黒々とした歪な刀身に鮮やかな柄の剣が“猟犬”の横腹に突き刺さり、その衝撃だけで崩壊した。イオン化した剣が砕け散ると同時に青白い光が閃き、獣の体躯はゴム毬のように吹き飛び、壁に叩きつけられていた。遅れてやってきた衝撃波が全身を打ち付け、さらに数瞬の後、空気を切り裂くソニックムーブの轟音が鼓膜を叩いた。

 「タチバナ君、今!」

 轟音のただ中、エリザベスの声はどこか遠く、にも拘らず闡明だった。

 己がすべきことを、トウマは理解している。ここまで予想内。そして次の一手も、ただ予定通りの打撃だった。

 「1番から8番まで、点火(フルイグニッション)!」

 広場の縁に設置された剣が一斉に射出したのは、それが起動キーだったからだ。爆裂ボルトによって制御装置が弾け飛ぶと同時に、内部に装填された無数の宝具が一挙に射出。さながら多連装ランチャーから無数に飛び出すロケット砲弾の如く、“猟犬”めがけて宝具の刃が襲い掛かった。

 両翼から十字砲火となって降り注いだ剣戟の群体を全て躱す術は、当然あるはずがない。身もだえして回避機動を取ったものの、剣の牢獄を脱するには程遠かった。一撃が両肢両下肢に腹部と咽頭、その他無数の剣が身体を貫通した。

 着弾の音と衝撃が入り乱れるように膨れ上がる。飽和し無音にまでなるほどの音の騒乱が止んだのは、実際は10秒ほどの出来事だったが、体感としては十数分ほどもあろうかというところだった。

 「完了、ね」

 凛、と響くエリザベスの声が、耳朶を打った。無音が搔き消され、噴煙が風に浚われた先に、思い描いていた景色が広がっていた。

 (BSリーダー、こちらコマンドポスト。状況を知らせろ、こちらでは確認できない)

 「あぁ、えっと」

 つい、そんな言い方をしてしまうくらいに、トウマは放心していた。元から超短期作用型の高濃度オレキシンに加えて、ようやく効き始めたレセプター阻害薬のお陰で、極度の興奮状態は既に脱しつつある。

 (タチバナ)無線の向こうの声は、努めて冷ややかだった。(通信は端的に、的確に行えと学んでいるはずだが)

 「すみません。α-01は現在宝具によって固定されている状況です。状況把握にもう暫く時間がかかります」

 (了解した、感謝する。02はそちらに向かわせるかい?)

 「いえ、大丈夫です。そちらの直掩と周辺状況の把握を継続させてください」

 (コマンドポスト了解。お疲れ様、素人にしては結構マシだったよ)

 最後の言葉は、なんとなく嗤笑が滲んでいるような気がした。ライネスらしい物言い、だったと思う。ほっと一息ついたところで、全く不意に、視界が下にずれた。

 声にすらならない小さな悲鳴を口腔内にくぐもらせ、トウマは咄嗟に虚脱していた膝に力を込めた。

 「大丈夫、タチバナ君?」素早く、エリザベスがトウマの小脇に手を入れて、へなへなになった体躯を支え挙げた。「気、抜けた?」

 こくこく、と首だけを動かしながら、トウマは深く息を吐いた。

 ほとんどオートで作動する身体スキャンを目端で確認する。薬物動態上オーバードーズになるリスクの低い薬物を使用しているが、それでもリスクが無いわけではない。そういった不具合ではないことを確認して、この虚脱がただ極度の緊張から脱したが故のものに過ぎないことを理解する。

 たかだか自分の命を懸けた程度で弱りすぎだ、と叱咤する自分と、よくやったよ、と比較的客観視する自分がいる。今回のこれは、ただ状況上、止むにやまれず死に突撃したのとはわけが違う。作戦上の必然があって、その上で陽動を買って出、勝因になったのだ。カルデアの人間たちだけではない。この特異点に呼ばれたサーヴァントたちもこの戦術を是とし、その上で立華藤丸という人間の性能なら可能と期待を寄せた上での成功だったのだ。これまでとは、訳が違う。

 そういう理屈は、理屈としては正当で、主観的にも正しい、と思う。間違いなく、自分はよくやった。けれど、多分、至るべき場所はこのレベルではないのだ。

 そうでなければ。

 きっと、この先、十分な戦いなどできはしない。

 口腔内に溜まっていた唾液を、嚥下した。じり、と焼くような焦燥が延髄を痙攣させた。眼球の底で、アリスの顔が朧に這い出した。強張るような口唇の動きに、トウマは、今一度、口腔内に噴き出していた唾液を飲み込んだ。

 「どうする、私だけで見に行く?」

 「いや…行きます。僕はカルデアのマスターで、今はこのチームの指揮官なんですから」

 自然に、意識もせずに言う。そう、と頷くエリザベスの表情にまで、トウマは気が回らなかった。

 と。

 「うわっ!?」

 不意に、エリザベスがトウマの肩に手を回した。

 「いや、大丈夫っ」

 「じゃないことくらい、自覚していると思うけど?」すぐ目と鼻の先で、遠坂凛の顔が澄ましたように言った。「時に下々の人間を頼るのも、偉大な人間に必要な度量よ。私が言うんだから間違いないわ」

 エリザベスは、少しだけ得意そうだ。アニメやゲームで見るより一回りは成熟して見える顔立ちに、自然、トウマは首肯を返してしまっていた。身体的疲労、という意味ではそれなりだったが、精神的疲労という意味では、トウマの消耗はいささか甚大だ。自らの手で以て、明確な攻撃の意思を以て攻撃したことなど、彼の16年の人生の中で、初めての出来事だったのだ。そう、慣れたものではない。

 エリザベスに半ば引きずられるようにされながら、トウマは、その磔にされた“猟犬”のもとへと向かった。

 広場の中央に位置するモニュメント、その台座に、“猟犬”は縫い留められていた。

 「これが」

 エリザベスの、独語めいた声。慨歎にも似た呟きの意味は、トウマには判然としなかった。だが、明確なことはある。今目の前で奇妙な色の体液を傷口から噴き出す獣は、確かに、この星に産まれた生き物とは到底思えなかった。

 全体的に、鋭角的な印象を覚える。鋭い頭部に、同じほどに鋭い吻。開いた口からは、だらりと、あの舌が垂れていた。

 トウマは、口元を腕で覆った。えもいわれぬ不快感……悪心にまでなる情動が惹起して、嘔吐感を催しそうだった。名状しがたい冒涜的な感情は置き所がなく、一度、目を瞑って、大きく深呼吸した。なるだけ、獣の体臭を嗅がぬように。

 (まだ生きてる?)

 「呼吸は、してると思う」

 つい、クロの声に、普段通りに応えてしまった。その未熟に対する葛藤をする暇すらなく、トウマは今一度、その獣の様子を見た。

 全身に剣が突き刺さった獣は、素人目にはどう見ても絶命しているように見える。だが、まだこれでも生きているのだ。力無く開いた口は思い出したように上下していて、胸郭も僅かに動いている。畢竟、生きている。

 微かに、獣が顔を擡げた。咄嗟に宝石剣を構えたエリザベスがトウマの前に出たが、杞憂に過ぎなかった。既に、“猟犬”に何ごとかを為す力は、ない。

 はず、だった。

 「タチバナ君、何か言ってる」

 身じろぎもせず、エリザベスは凍り付いたように言った。トウマは、ぎょっとしながらエリザベスの肩越しに“猟犬”を覗き込んだ。

 確かに、口が蠢いている。微かに聞こえる唸り声は、犬や猫、鷲などの禽獣のそれとは、明らかに違うリズムを持っている──。

 「黒き渾沌に気をつけろよ」

 「え?」

 何故か。

 その“猟犬”の声は、明瞭な意味を持ってトウマの鼓膜を刺した。無頼を感じさせる喇叭な言葉だったが、紳士然とした落ち着きが滲む、奇妙な声だった。

 「奴はタタリの原理を使って、受肉するに足る器を得ようとしている。黒き混沌はその一つだ。上級死徒如きでは役不足だろうが、適任では、ある」

 「ちょっと待って、何を」

 「原初の海(ティアマト)が陥落する前に、このロンドンから人理が……クソ、ここまでだ。じゃあな、ガキ臭い英雄さんよ」

 ぐら、と獣の身体がよろけた。直感的に、死亡したのだ、と理解した。先ほどまで微かにだが残っていた身体の緊張が、解けている。呼吸は、もう止まっている。

 「今、何を言っていたかわかったの?」

 「え? そりゃああんなはっきり言ってましたから」

 「ただ呻いているようにしか、聞こえなかったけど」

 「そんな、馬鹿な」

 「でも、変ね。なんだかとても紳士的な声で……ジキル、みたいだった」

 胡乱な様子で言うと、エリザベスは再度、亡骸となった身体に視線を落した。と、不意に何かに気づいたらしいエリザベスは身を屈めると、幾ばくか躊躇してから、獣の腹、射出された宝剣に裂かれた腹に剣を掻き入れた。

 そのまま、中身を剣で引き摺り出した。ぼろぼろ、と臓物が零れ落ちる。それなりに人体構造を理解しているトウマだったが、一体全体わけのわからない臓器がもりもりと零れだしていく。いよいよこの生物が異星起源種なのだ、という事実を目の当たりにしたようで、トウマはどうしようもない怖気を感じざるを得なかった。

 型月の世界では、あまり、地球外の生命体については触れていない。どちらかというと過去の伝承を取り扱った作品がメインだからだ。

 だが、皆無というわけではない。少数だが、地球外の生命であることを示唆する存在者はいるし、作品によってはそれを主題に扱ったものも、無いわけでもない。

 例えばそう。南米に鎮座する、窮極の最強種の、ような。

 ぞわ、と発した怖気は、先ほどの比ではなかった。そんな化け物のようなものが出てきてしまったら、どうやって勝てば、いいんだ? いくらライネスやリツカが用兵の妙を誇ろうとも、あんなものが出てきてしまったら、到底勝ち目など。

 「読めないわね。これ、読める?」

 エリザベスの声で現実に引き戻されると、トウマは、彼女が指で示す先を見た。

 黒い本に、金の縁取りがされている。悪趣味極まりなかったが、何せトウマは、それを見た瞬間、気絶しかけた。頭の中、脳みそに妖蛆が湧き、全身を食い尽くしていくような感覚が惹起した。

だというのに、トウマの意思とはまるで関わりなく、彼の眼球はその本を注視していた。磁石に吸いつけられる鉄のような強引さで蠢いた外眼筋に抑えつけられた眼球、その水晶体に飛び込み網膜に像を結び視神経を伝って後頭葉まで駆け巡り、その、形を戦きを以て伝えた。

 意味不明の幾何学模様を重ね合わせた、不気味な文字だった。均整がとれているにも関わらず、非ユークリッド幾何学的な湾曲を持った何か。本当に文字なのかすらも不明だった。見ているだけで胸がむかむかしてくるし頭がおかしくなりそうだった。できればさっさと視界から外して、可能ならどこかへぶん投げたくなってしまうほどだったが、とてもできなかった。全身が、強張っていた。額から滲んだ脂汗が眼球を濡らしているにも関わらず、ぴくりとも動けなかった。

 何より、気が狂いそうになったのは、何故かその言葉が読めた、ことだった。それなりに語学勉強をしているトウマだったけれど、一切そんな文字のことなど知らなかったのに。

ずきんずきん、と軋むほどの頭痛の中、読み取れた言葉は、こんなものだった。

 

『嵐の王、ワイルドハントについて』

 

 「何かしら、読めないわね」

 エリザベスの声で、不意に、硬直は解けた。得体の知れない疲労感が全身の毛穴から噴き出すようだったが、なんとか足を踏ん張った。踏ん張ったけれど耐えられず、トウマは、よろけるようにエリザベスの背に寄り掛かった。

 「大丈夫……って顔真っ青じゃない!」

 「大丈夫じゃないっぽいですけど、なんとか」身を翻したエリザベスに抱き留められながら、トウマは、なんとか声を絞り出した。「なんかその本を見てたら気分が悪くなって」

 「暗示? でもそんな兆候は」

 言って、エリザベスは表情を険しくした。身分卑しければ、そこで舌打ちの一つも出たところだ。宝石剣で臓物をかき集めて本を埋めると、彼女は「厄介ね」と忌々し気に呻いた。

 (リン、どうしたの?)

 「話すとややこしいんだけど、猟犬”の遺物に暗示の作用があったみたい。それ以上の作用はないから、今は大丈夫」

 (了解)

 無線の声が、酷く遠い。遠いながら、クロの声に微かな焦燥が滲んでいたのは感じれた。また心配をかけてしまった、と漠と思いながら、トウマはふらふらと立ち上がった。

 「まだいいのに」浅い呼吸を繰り返すトウマに、エリザベスは険しい顔のままながらも、肩を落とした。「男の子よね、あなたも」

 「コマンドポスト、こちらBS03」

 ぐしゃぐしゃ、とトウマの髪を掻きまわしながら、エリザベスが無線を啓いた。コールからして、ライネスと、クロへだろう。

 「トウマはここで休ませるわ、2人で“ジョーカー”の援護に行ってもらっていいかしら。まだ向こうと連絡が取れてないってことは、そういう……」

 エリザベスの声が、途切れた。へなへなと座り込んだトウマは、ただ力無く、彼女の表情の機微を眺めることしか出来なかった。

 平静から緊張へ。そうして焦燥に。表情筋の動きはとても僅かだったけれど、その変化は、たちまちに理解できた。

 「アリス、が?」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅵ-3

 魔術の世界において、優劣を決するのはおよそ2つの要素から成り立つ。端的に言えば、以下の2点だ。

 1つ、魔力の質。言い換えれば、神秘の濃さ。

 2つ、魔力の量。言い換えれば、神秘の量。。

 神秘そのものに相性の有無があるため、そう簡単な話ではないのだが。

 魔術世界の常識としては、量は質に敵わない、というのが鉄則だ。どれだけ些末な神秘をかき集めようとも、100年程度の神秘では、1000年に及ぶ神秘には敵わない。もしそれを打倒し得るならば、途方もないほどの量で質を押し切るという、極めて資本主義的思想で以て解決しなければならない。そして、魔術の世界は、常に枯渇に向かっていくことを宿命づけられている。神秘の濃さを量で覆す、などという発想は、とても出てこない。

 その点において、アリスの“橋の巨人(テムズトロル)”は、およそ最強の使い魔と言って過言ではない。初代マインスターの魔女が手掛けた、偉大なる三つのプロイキッシャー。グレート・オールド・スリーの内の1つ、橋の巨人の神秘は1000年に達する。その上で、この巨体。とても近現代の魔術師では、これに敵うものはありはしない。いや、果たして古き魔術師でさえも、これを打倒し得る者は、そう多くない。

 その上で、その質そのものも、生前のそれとは比較にならない。サーヴァント、というそれ自体が最強の使い魔として顕現するアリスは、生前よりもスペックが高い。加えて、テムズトロルに使用した素材そのものも、一級のものだった。ただの森の中や、あるいは公園で具現させたのとは、訳が違う。テムズトロルの真の姿……黄金と銀で作られた巨人にこそ及ばねど、今のそれは、格落ちしていない神霊と渡り合うことすら可能としただろう。事実、先ほど手軽に挽き潰したあの5mほどの不定に身体をくねらせていた巨体も、格こそ低いが、神獣の類だった。それを、難なく捻り潰したのだ。

巨人が、腕を振るう。ただそれだけの所作に、1000年生きた魔術師が昏倒する程の神秘が秘められている。退路を無くした野犬たちは無残に圧し潰されてぺしゃんこになるか、殴り飛ばされ五体が引き千切れながら宙を舞うかの、おおよそ2択だった。

 敗北など考えられないという予感は正しく、事実巨人の勁さは圧倒的だった。野犬は惑い逃げ行くことしかできていない。敵に、テムズトロルを攻略する術はなく、無限にも思えた獣の群れも、ただ暴戻の中で死に砕かれていくだけ、だった。

 だ、が、。

 「これはこれは、大変驚いた。本当の私ならいざ知らず、今の私ではお前には勝ち目はない」

 異様に軽薄な声が、耳朶を蝕んだ。

 「なので。私は素直に、負けを認めよう」

 あ。

 泡沫のような呟きが、脳みその奥で弾けた。

 ふわ、と夢のように揺れた色は、どうしようもなく見覚えがあった。かつん、とブーツが地面に噛み付いた音が、異界的な響きとなって耳朶を打った。

 声になりきれない衝動と、“橋の巨人”の動作は全くの同時だった。巨人が腕を振り上げる、という動作はアリスの思考そのものだった。

 あの時は、ただ、愚かにも、そして魔術師としては自然な身振りで見とれてしまっていた。

 だが、今は違う。咄嗟に自分のすべきことを理解して、“橋の巨人”の打撃を、殺すべき敵へと振り下ろした。ミリセカンド以下の判断と挙措、回避できるものはおよそランサークラスのサーヴァントでもなければ不可能だっただろう。単純であるが故の、必殺の一撃だった。

 ……今は違う。それは間違いない。だが、もう1つ、違うことがある。あの時は見惚れるだけで思いもしなかったけれど、今は思ってしまったこと。

 それは多分、使命感、のようなもの。自らの存在理由を、魔術師ではなく、別なものに位置付けたからこその感慨。

 ──詰んだ。

 赤い、血のような光が閃いた。悍ましいほどの衝撃が全身を打ち付ける。巨人の肩から放り出されなかったのは偶然だったが、それが致命傷だった。

 赤い光に轢断されて、巨人の右腕が吹き飛んでいた。腕が宙を舞う間に、足元の橋を割るようにして屹立した無数の鎖が“橋の巨人”の体躯をのたうちながら貫き、雁字搦めにしていく。既に巨人は崩壊を始め、周囲に岩塊を散らばらせていく。テムズ川に墜落した岩が飛沫を挙げた。

 だが、次の一撃こそが本命で、それまでの攻撃などは前座だったのだ。

 ただ、単純な攻撃だった。猪突の気勢のままに爪で薙ぐ、という極めて原始的な身振り。だが、それだけであまりに十分だった。振るわれた鋭利な一撃は、本当に、紙でも裂くように“橋の巨人”を切り裂いた。10mに及ぶ巨体がただの一撃で両断され、襲い掛かった斬撃の余波だけで、アリスの細い身体が、ほとんど千切れた。衝撃波に飲まれたアリスの身体は嵐に飲まれる木の葉のように宙を錐揉みしていく。

意識が断絶する刹那、アリスは無限にも等しい浮遊感の中で、それを見た。

 “橋の巨人”の頭部を、玩具のようにへし折る人型。月の眩さを孕んだ黄金の髪が、ふわ、と揺れている。星そのものから削り出されたかのようなその風采の中、紅い双眸だけが、妖しく閃いていた。

 

 …………。

 

 ぎぎぎ。

 言葉に起こせば、多分、そんな音だった。

 底抜けに白い断絶から意識を浮上させたアリスが感知したのは、その不快な音と、途方もない激痛だった。

 「酷いものだ。人間というのは、こんなことまでするのか」

 「お前たちよりよっぽど下劣よ。人間なんてものはね」

 すぐ近くで、あるいは遠くで、女の声がする。どうしようもなく志向性を引き寄せられる、蠱惑的な声。普段のアリスであればガードできるものだったが、今のアリスには、そんな技術的余裕も、心理的余裕も、、ありはしなかった。

 ぎぎぎ、という音は、絶えず続いている。抉れた内臓や筋線維、骨を、全身の魔術刻印がせっせと修復している、音だった。服も、皮膚も、内蔵まで抉り飛ばされ、即死しなかったのは、多分偶然や幸運などではないだろう。アリスの魔術刻印の執念深さは、多分即死程度なら強制的に蘇生させる。ただそれだけのこと。

 「どう、幻滅した?」

 「いいや……いや、そうだな。やはりこの(ソラ)は壊さねばならぬ、と思い直したまでのことだ」

 全身が、痛い。腹の瑕も大概だが、衝撃にさらされ、全身の骨格も筋線維も滅茶苦茶になっている。

 傷みには、慣れている。魔術に、痛みは付き物だから。でも、多分気絶したのは疼痛に対する慣れの閾値を超えてしまった生体防御のようなものだっただろう。あの時はどちらかというと魔術的な、そしてそれに関わる心理的な要因からだったが。どちらにしても、情けないことに変わりはない、と思った。マインスターの魔女など名乗っていても、所詮このザマだった。

 「それで、これ、どうするわけ」

 ざ、と軽い痛みが、こめかみを打った。瞼を啓いたのはなんらかの意思があったからではなくて、ただその反動で、肉体的に開いただけのことだった。

 金の髪が、目に入る。短く切りそろえた、満月のような黄金の髪。白い、肌。すらりとした肢体。人間の形をとっているけれど、人間などとは比べものにならない存在の威容。朔月のような赫い目だけが、完成された美の中に、悍ましいものを漂わせている。

 「真、祖……」

 思わず、声がついて出る。それだけでも途方もない激痛で、喘ぐように酸素を求める口を、無理やりに強張らせた。

 へえ、と女の顔が揺れる。無感動そうな顔に、微かに興味のようなものが混じる。あの、“橋の巨人”を粉砕した手がゆらりと伸びると、アリスの頭をむんずと鷲掴みにした。

 「物知りね、お嬢さん。お勉強熱心だこと。まぁ所詮、私も紛い物だけど。頭は空っぽで手足はスカスカ。胃袋はそもそも無しときた」

 明らかに嘲弄が滲む声音。頭を、髪を鷲掴みにされたまま、アリスは為すがままに宙に引きずり上げられていた。ぶちぶち、と髪が抜ける音が、皮膚を伝った。

 「丁重に扱え」

 「紳士的だこと。外側に引っ張られているのかしら」

 「我が眷属への贄だ。その値を損ねてもらっては困る」

 「悪趣味ね。やっぱり外側(ネロ・カオス)に引っ張られているのかしらね」

 それで興味を失ったように、女は腕を振った。ゴミでも捨てるようにアリスの身体を放り投げる。というより、事実もう、アリスの肉体などゴミと大差ないという認識だったのだろう。骨が折れる音を虚しく響かせることが、何故か、恥ずかしかった。

 「どうして」

 「紛い物だ、本人が言うようにな。器とする予定だったが、この器は星との癒着が強すぎる」

 「やっぱり」

 「喋りすぎたな。やれ」

 遠ざかる声。押し寄せるような足音。微かに開いた目に、不浄な双眸がいくつも重なる。野犬の唸り声が鬱勃と膨れあがり、じわじわ、と迫る。一気に襲ってこないのは、多分、アリスという存在にまだ怖がっているからだ。魔獣の癖に情けない、と思いながら、そんな情けない奴らにこれから嬲られるのだ、と思うと、なお情けなかった。

 呼吸は、浅いながらも繰り返している。腕はもう動ける。でも、足はまだダメだ。脊椎を砕かれて、思うように下半身が動かせない。治るのには多分30分はかかる。生身の人間からすれば驚異的な回復速度だが、そんなものは何の役にも立たない。今動けなければ、意味はないのだから。

 ぽつん、と肌に何かが落ちた。雨、だ。仰向けのまま横たわるだけのアリスは、黒い空を、ただ眺めることしかできなかった。振り始めた雨に打たれるのも。周りを取り囲む野犬の吠え声を浴びせられるのも。見世物のように蔑視を寄越す、あの敵の卑しい視線に晒されるのも。

 ぼんやりと、アリスは夢想した。母親のこと、同居人のこと、同居人の姉のこと、下宿人のこと。それから、この特異点で出会った人間たちのこと。走馬燈、というには緩慢で、気怠い追想。結局何もできなかった、という後悔と周囲の破廉恥な視線が、思惟を塗りつぶしていく。

 知らず電話ボックスなど探してしまったのは、彼女の弱さだった。この19世紀のロンドンに、そんなものなどありはしないのに。代わりに視界に入ったのは野犬の群れ、群れ、群れ。どうしようもなく失望したアリスは、ただ漫然とその光景を眺めていた。

 偶然目が合った一頭が、のそのそと向かってくる。本当はもっと俊敏だったかもしれないが、アリスの目には、酷く鈍く見えた。必死に身体を動かそうとした脳みそが、懸命にアドレナリンを分泌でもしている。獣が接近するのも鈍ければ、その背後の光景も、何か他人事のように遠かった。捻じれた剣が野犬の群れの中心に殺到し、爆発して数十頭が千切れ飛びながら四散するのも、その爆炎の中にあの女が平然と佇む様も。近づいていた野犬が怯懦に竦んだ瞬間に、横殴りに殺到したガンドに頭を跳ね飛ばされ、眼球やら脳みそやらが散らばる様も。

 ぐい、と身体が持ち上がった。軽々とアリス持ち上げる仕草は、柔かった。さっきの、あの女の所作とは天地ほども違う。硬い力こぶの入った上腕二頭筋に首を支えられて、アリスは、その顔を見た。あまり器用そうではない、朴訥とした顔。日本人らしい黄色の肌に黒い髪。いるはずのない人の姿を幻視して。仮に居たとしてもこの状況では全く役に立たない人の姿を、幻視して。

 「しず……、君?」

 「キャプチャー! 戦域離脱する、援護(カバー・ミー)!」

 再度の爆炎が、背後で膨れがある。男が走り出した、と気づいたのは、視界が流れ始めたからだった。

 ……だから、それが幻視なのはわかっている。彼は、彼に、別に似ていない。日本人だから姿かたちに類似点はあっても、大した相同性ではない。

 それでも、アリスは安堵した。気が緩んだ、といってもいい。さっきとは違う、泥濘に沈降していくような感覚。優しい闇に、静かに飲まれるように。アリスは意識を手のひらから、水面に解放するように零した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅵ-4

(SS02、攻撃評価!)

 ライネスの声が、冷たく耳朶を打つ。冷厳なまでの口ぶりは、状況の変転の中 、冷静に務めようとする意志の強さの現れだったろう。

 「どう思う、アレ」

 言われたクロもなるだけ平静を装うと、気楽そうに言う。隣に並ぶエリザベスも同じ認識で、「見た通りでしょ」と半ばヤケクソ気味に応えた。「ノーダメよ」

 ロンドン橋上、相対距離150m。サーヴァント戦なら、至近距離と言う近さだ。橋の上には、野犬めいた魔獣が無数に溢れかえっていた。BDUの震度センサーでは、ざっと100。正確には、センサーの捕捉限界値である100を振り切っている。その群れの中、ぽっかり空いた空間の中に、それは立っていた。

 金色の髪に、ひょこりと2本、触覚めいた髪が立っている。人間の形をしているが、およそ人間などではない。いや、その人型が人型を取っていることに、人間は尊厳を感じ取るであろう。そして、人間などと言うものに、尊厳と言う言葉で言い表そうとする何がしかなど備わっていない、という事実をも。

 「で。“真祖”、ってなんなわけ? 吸血鬼?」

 (吸血鬼、という言語表現が果たしてあっているのかどうか。吸血鬼にはおおよそ2者あり、真祖と呼ばれる生まれながら真性の吸血鬼と、死徒と呼ばれる後天的な吸血鬼だ。そして真祖は、星の意思そのものの代行者、星の触覚……神などよりも、遥かに上位の存在というのだけは確かだね)

 「要するに、ヤバイ奴、ってことよ」

 言語的な定義で、クロとエリザベスは、改めて目の前の存在を、認識した。いや、元より強大な敵であることは実感している。なにせ、カラドボルグの真名解放が直撃したというのに全くの無傷だ。防御的な宝具なり、魔術なりを使った様子もない。ただ払いのけるように腕を振っただけで、真名解放したカラドボルグを叩き落したのだ。

 それだけ偉大で強大な存在だというのに、出で立ちだけはとても人間臭い。白いニットのカットソーにダークヴァイオレットのロングスカート、という風采。豪奢なドレスとかではないんだな、と何故かそんなことを思った。

 (それにもう1人。あの黒いノッポ野郎。アイツ、死徒だ。しかも上級死徒。教会から供与されたデータの中に該当する人物がいる)

 「“獣王の巣”……なんか、データと顔が違わない?」

 「整形でもしたのでしょう。良い趣味じゃないですけど」

 「顔が判別できなくなってるんだけど」

 そのやたら庶民的な背格好の真祖の背後に佇む、こちらも黒い人型。上級死徒、程度ならサーヴァントで十分に対処し得るし、事実その姿から感じるプレッシャーは死徒ほどではない。

 だが、何か変。

 クロは、漠然と、その死徒に妙な感覚を抱いていた。

 「同郷か。それに───これは懐かしい」

 ──直観的に理解する。あの死徒も、同じ感慨を抱いている。無遠慮な視線は、間違いなくクロの姿を、興味深げに捉えている。

 もっと言うならば、あの死徒は、クロを、何がしか獲物だと認識している。そういう眼差しだった。

 「そこの女はくれてやる。あの小娘、喰らわせてもらう」

 「ホンット、悪趣味。だけど」

 ぎょろ、と赤い目が捉えたのは、同じく紅の礼装に身を包んだエリザベスだった。否、彼女本人を認識したわけではない。正確には、その手に握られた宝石剣に。

 「()()、ムカつくからアンタも壊すわ」

 身を屈めてからの猪突は、ただただ迅かった。

 100mの相対距離など、あってないようなもの。瞬きの間に近接格闘戦領域を侵入するなり、ただ、その人型は腕を振るった。腕を振るう、というそれだけの動作に過ぎなかったが、魔術的存在であれば、それだけで致命傷だった。およそ神秘という点で、星の触覚たる“真祖”に比肩するものはいない。英霊の宝具如き、紙切れでも裂くように両断しよう。

が。

 振るわれたその剛爪を、迎撃するように振り下ろす。エリザベスの宝石剣は零れることすらなく、その致命傷を弾き返した。

 「神経を苛立たせる!」

 だが、さりとて当然、互角などではありはしない。再度、掬い上げるように振り抜かれた爪の一撃を再度迎撃したところで、あっさりとエリザベスの体躯が宙に投げ出された。

 「さっさと喰らえ。さすれば貴様のその身体でも、十分真性受肉できようが!」

 「結構。そちらの邪魔はせぬさ」

 黒い、津波だった。3桁を超える魔獣が一挙に押し寄せる様は、どう見ても災害としか認識し得なかった。

 既に剣は投影していた。英霊ディルムッド・オディナが振るったベガルタに、ローランの聖剣デュランダル。ともに長期戦に特化した剣を携える。

 津波の突端が相対距離30まで迫る。身体を沈み込ませて猪突の気勢を取った瞬間、横殴りの突風が獣の群れを千切り飛ばした。群れの中団、およそ20の野犬が風に切り裂かれながら橋から投げだされ、残存ずる野犬の先頭集団がワンテンポ遅れて血煙に刻まれていく。あ、と思う間もなくクロの隣に滑り込んだ黒いローブが、一瞥を投げ寄越した。

 ──あの、黒いローブの剣士。不可視の剣が、右手で揺れている。

 「援護します」清澄、という声だった。「私たちは敵同士だが、こちらもアレは放っておけない。あれは、私たちにとっても邪魔になる」

 クロは一瞬だけ言葉を飲み込んだ。「同盟を結ぼう、ってわけ」

 「ええ。まずは接近戦で撤退の隙を作りましょう……!」

 

 

 ロンドン橋より南西6km地点

 裏路地にて

 

 (こちらSS02、バンデッド・インレンジ。あのセイバーが一時的に共闘してくれるって!)

 「は? いや、いい。了解した。正直助かるな。視覚共有そのまま、接近戦で攪乱しながら戦域離脱のタイミングを計ってくれ」

 司馬懿ことライネス・エルメロイ・アーチゾルテは、はあ、と大きく息を吐き、己の非力さに苛立ちを感じていた。

 サーヴァント、とは言え、いわゆる文人系のサーヴァントの戦闘能力は得てして並の人間と変わらない。ライネスもその一人で、多分、自分があの戦地に飛び込んだとて、あの野犬に捕食されるのがオチだ。要するに、自分が戦場に行く価値はない。

 指揮官、というのは、こういう時に辛い。特に後方で俯瞰的な立場であれば、指揮官は自らの無能をまざまざと見せつけられるものだ。アリスを助けるために戦場に介入したが、果たしてこの選択は正しかったか。撤退の機会が出来次第撤退する、と強弁したクロやエリザベスに押し切られるように送り出してしまったが、もっと止めるべきだったか。トウマに令呪を使わせてでも、止めるべきだったのか。既に考えても詮のないこと、と理解して既に思考の隅に追いやっていたが、思考の隅では、未だに僅かに燻っている。

 リツカたちとも連絡が取れない。彼女なら大丈夫だろう、という安心もあったが───。

 《いや、その判断は正しいかと思います。彼女なら大丈夫でしょう》

 鼓膜の奥で、声が触れる。声質は自分の物だが、その調子は幾ばくか異なる。もっと硬質で、もっと知性に富んだ声だ。

 《向こうは何が出てきても問題ないでしょう。それより、こちらに戦力を集中させる方が重要です》

 《って言ったってね》

 《知力は武力に時に勝る。それを信じましょう》

 《すまない、ありがとう》

 《構いませんよ、お嬢様(レディ)

 司馬懿は素っ気なく言うと、さっさと内面の奥に引っ込んでいく。半身を共有しているというのに、未だに司馬懿のことはよくわからない。よくわからないが、多分、良い奴だ、と思う。

 さて、とライネスは一度、頭を振った。もう一度大きく息を吐くと、ぱすん、と霊子展開されたBDUの大腿部圧迫注射が作動した。

 視野投影上に、複数のウィンドウを立ち上げる。エリザベスとクロ、そしてトウマの視覚共有映像を各々表示する。

 じり、と眼球が赤熱化するのを感じる。碌に役に立たない魔眼でも、無いよりはマシだ。

 「さてさて、星の触覚様にどこまで通用したものか」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅵ-5

 「お待ちしておりました、2人ともご無事で」

 玉藻の前は声こそ平静を装っていたが、表情には言いようもない緊張が潜んでいる。

 ハイド邸の扉を開いたマシュとリツカを出迎えるようにして駆け寄った玉藻の前に、リツカは泰然と応えた。「状況は?」

 「アリス様、またライネス様たちとも連絡が取れなくなりました。アリス様とは書斎に入ったタイミングで、ライネス様たちとはα-02を撃破したタイミングです。2分ほどのタイムラグがありました」

 「原因は」

 「マップの動きから推察するに、アリス様によからぬ事態が生じて、タチバナ様たちがレスキューに入った、と思われます」

 「了解、ありがとう。ライネスちゃんも向こうに?」

 「そうなるかと」

 「こっちは私に預ける、ってことかな」思案するように右側頭部の一房を弄った。「向こうはライネスちゃんとタチバナ君2人必要な事態、ってわけだ」

 「それと、フジマル様。こちらへ」

 不思議そうにするリツカの手を引くなり、玉藻の前は己の胸元に彼女を引き寄せた。

 「酷く消耗されています。しばし私に身体をお預けください」

 「いや」むにゅ、と押し付けられた感触に、リツカはめずらしく赤面していた。基本、彼女はどちらかというと攻める側で、受ける側は慣れていない。「でも」

 「あなたの仕事は首から上があれば成立します。首から下が重しになっては本末転倒かと」

 「ありがとう、任せる」

 一瞬だけ顔を曇らせてから、リツカは頷いた。この火急に、少し頭を回せば理解できることに、無意味なやり取りをしてしまった。それだけ、消耗しているというわけだ。

 彼女の肩と膝裏に手を回すと、玉藻の前は軽々ひょい、と持ち上げた。リツカの体重は、だいたい70kg。身長も160センチ無い。サーヴァントの玉藻の前にしてみれば、身軽なものだ。

 「マシュ」玉藻の前に“お姫様抱っこ”されたリツカの表情は、か楽になっている。「あなたの役目は十二分に果たした。タマちゃんの役目は、みんなのサポートだ」

 「はい、心得ています」

 マシュの表情は、判然としなかった。静かな面持ちは、気落ちしているようにも見えた。だが、内に何か、熱い気宇を秘めた静けさにも見える。

 「余計な事、言ったかな」

 ぼそ、と独語めいた声が、微かに耳朶を打った。「少し、大人になられましたね」と返すと、胸元で、リツカはちょっとびっくりしたような顔をした。玉藻の前の耳は、人間よりはずっと効くのだ。

 「タチバナ様」玉藻の前は、すぐに声音を切り替える。「お下知を」

 「そうだね」リツカは一瞬だけ思案してから、「まず、この戦域を安定させよう」

 「え、でも先輩。ここは」

 「いいや。どうやら、こっちにも客人みたいだぜ」

 ずい、と身を乗り出すなり、3人を庇うように金時が立ち塞がる。鉞を担いだ臨戦態勢のまま、額に巻いた鉢巻きの下で、翡翠の目が“敵”を捉えた。

 ハイド邸の前に広がる、おおよそ1㎢の広場。だだっ広く、中央に設えられえた噴水だけが聳える森閑とした広場に、一つ、人影があった。

 それだけで異常事態。ここには、アリスのプロイキッシャー“名無しの森”が敷いてある。常人ではまず入り込めない。そこに、こちらが感知していない人影がある。それだけで敵認定するに足る情報だった。

 噴水の縁に腰かけていた人型……白髪に病的な浅黒い肌の、男が立ち上がる。虚無を讃えた、虚のような目、だった。

 「箱庭を覗きに来てみれば」

 ひや、と冷たい声が、心臓を刺した。この距離だというのに“届く”声。暗示の類、と咄嗟に理解してレジストしていなければ、今の一撃だけで行動が束縛されていた。

 そうして、微かに、男の顔が訝し気に歪んだ。疑念は苛立ちへ、ぎちりと眉間に皺を寄せるなり、その人影が、一歩を踏みしめた。

 「良かろう、既に人理は焼け落ちた。今更このロンドンがどうなろうが、大局に変わりはない。小賢しい人間どもも、外なる神などという不埒物どもも、ここで終わらせてくれる!」

 「大将、来るぞ!」

 金時とマシュの体躯が跳ねる。ワンテンポ遅れて地面を蹴り上げた玉藻の前は、足元の光景に、言いようもない嫌悪を覚えた。

 石畳が割れる。その下、地の底から膨れ上がった巨大な黒い何かが裂け目から屹立し、1秒前まで4人が居た場所を不定にのたうった。

 巨大な肉茎。無数の紅い目をぎらつかせた大樹のような、奇妙な触手だった。ぎょろりと閃いた眼光が一斉に玉藻の前を凝視し、冒涜的な蔑視が、彼女の神経を無性に逆撫でした。ぞわ、と尻尾が、総毛だった。

 だが、そんな自分の感慨などよりも、腕の中で生じた変化の方に、彼女は気を取られた。

 微かに、リツカの身体が強張った。全身の筋肉に走った緊張は、しかし、いわゆる怯懦に纏わりつかれたそれでは、なかった。もっと別……否、対極に位置する、情動だった。肌を触れ合わせる至近距離だからこそ直観的に理解した、その情動。極めてプリミティブで悍ましい情動の名を、恐らく──。

 「金時君、マシュ! これから作戦概要を伝える。互いに離れすぎたらダメだ! タマモちゃんにも頑張ってもらうから!」

 人は、殺意、と呼ぶのだろう。

 

 

 同時刻

 時計塔、尖塔上

 

 「来た」

 影のキャスターは、その声で顔を挙げた。

 約100mある時計塔のほぼ突端に佇む、己がマスターの姿。白い蛾を思わせる髪に、病的な浅黒い肌の、まだ20にもならない少女の姿をしたマスターは、眼下に広がる景色を眺めている。

 「魔術王のお出ましか」

 影のキャスターも、マスターの隣に並ぶ。陳腐な感想だったが、見晴らす景色は、結構よい。古き神代に生きた影のキャスターにとり、近現代の整然と並ぶ街並みは、自然ではないが、とても端正で善い物のように見えた。人が栄え、広く生活を営むということは、多分、どんなものであれ善いものであろう。

 「時間神殿の座標は?」特に詮のない仕草なのだが、マスターは何かを探すように空を仰いだ。

 「捉えた。単独顕現はもう可能だ」

 「了解。じゃあ、セイバーには悪いけど。みんなでお邪魔しようか。早くしないと、リツカさん、倒しちゃうよ」

 いざいざ、と勇ましく言うマスター。子供らしいような姿は、一応は愛らしくも見える。だが、同時に影のキャスターは大人だ。「高い評価だ」と、若干否定的に振る舞ってみる。

 「あのマスター。藤丸立華、と言ったか」影のキャスターは幾分かの苛立ちのような感慨を覚えた。「そもそも、倒せるのか。出来損ないの魔術式(ゲーティア)とは言え、皮は魔術王だ。そう容易くはあるまい」

 ふら、とマスターが丐眄する。目を丸くしてポカンとする彼女の顔立は、とても印象的だった。影のキャスターが口にした言葉をよく理解できなければ飲み込むこともできていない、なんというか、出来の悪い子供のような顔だ。

 「つまりだ」キャスターは、ちょっとだけ機嫌を善くした。彼女のそういう顔は、愛い、と思う。「勝てるとは思えない。この箱庭の中とは言え、たかだかサーヴァント3騎で御せるほど、獣なるものは弱くは」

 言いかけたキャスターの声を、マスターの笑い声が遮った。子供の快活な笑いを思わせる、毒気のない表情。つまるところ、さっきの表情と同じだ。マスターの心情は、ただただ純粋なのだ。というよりは、単純か。

 「3騎もサーヴァントがいれば十分だよ」うーん、と伸びをするマスター。「だって。全力のゲーティアすら、先輩1人で始末しちゃうんだよ」

 「武勇伝か」信じがたいな、というように、キャスターは肩を竦める。最も、嘘だと思っているわけではない。

 「アレはこの箱庭で十全の力が発揮できない、ただの分霊。大方、魔神柱の内の1柱を依り代に顕現しているだけの状態だ。そんな程度のゴミと比較すること自体、リツカさんに失礼」

 からから、と嗤いながら、マスターは今一度、眼下を見下ろした。遥か視線の先、ハイドパークから伸びる奇妙な触手を、感慨深そうに眺望している。

 マスターの体躯が微かに沈む。時計塔の屋根を軽く踏み込む彼女が、手を伸ばす。軽くキャスターの腰を抱き寄せると、

 「さあ、行くよ」

 虚空へと跳んだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅵ-6

 (次、デカいの来るぞ!)

 声が、脳みその視覚野に直接反響する。ワンテンポ遅れて背後に跳んだ“真祖”が腕を振り上げるなり、超高密度のマナが腕に纏わりつく。あまりのエネルギー量に空間が歪むほどのそれに、エリザベスは咄嗟、宝具を偏向させる。

 自身の身体強化に廻していた魔力を刀身へ。宝剣が励起し光子を放出するなり、薙ぎ払うように宝石剣を振るった。

 “真祖”が腕を振り下ろす。赤黒い魔力がさながら斬撃のように投射され、迎撃するように宝石剣から放射された光の断層が阻むように迎撃する。激突の瞬間に位相差のある魔力同士が干渉し合い、スパーク光を迸らせながら霧散していく。削り切れなかった赤黒い斬撃が襲い掛かったが、既に脅威でもなんでもない。咄嗟に飛び込んできた野犬の首根っこを鷲掴みにするなり斬撃にぶん投げると、魔力に激突した体躯がぐちゃりと肉味噌に成り果てた。

 (次、あの鎖が来るぞ!)

 「オッケー、じゃあ気にせず行くわ!」

 背後に跳んだ“真祖”が着地するなり、地面を突き破った無数の鎖が立ち上がる。エリザベスに殺到するはずだった鎖だが、貫いたのは、ただ群れていた野犬の肉体だけだった。ぎゃあ、と周囲で迸る悲鳴には一切気にも留めず、当てが外れたようにのたうつ無数の鎖には一瞥もくれず、魔力放出で一挙に“真祖”の近接格闘戦領域を侵犯した。

 舌を打った人型が、さらに背後に飛び退く。後退の気勢を瞬時に悟り、合わせるようにエリザベスは猪突の勢いを足で殺した。

 一気に0になる運動エネルギー。ぐら、と視線がゆらぐのも構わず、宝石剣を縦に振り抜いた。

 「遅い!」

 再度、迸る閃光。光そのものに変換されたマナの斬撃は、過たずの精緻さで“真祖”の左腕を捉えた。

 ぎゃっ、と小さい子供じみた悲鳴があがる。エリザベスの視界の先、人型をしていた“真祖”が2つに分かれた。身体と、左腕。そのまま錐揉みした身体が地面に転がり、残った左腕も近くに墜落した。

 (リン!)

 「わかってるわ!」

 その場、エリザベスは地面を踏み込んだ。運動エネルギーは背後の橋の上。“真祖”との相対距離を離しながら、着地と同時、足元に居た野犬の頭蓋を踏み砕いた。

 「あら、ごめんあそばせ」

 ごり、と脳髄を踏みしめながら、襲い掛かってきた野犬2頭を叩き切り、たちまち野犬との乱戦に巻き込まれながら、意識だけはあの敵に向けていた。

 (そう、それでいい。接近戦で攪乱しながら、離脱のチャンスを探るんだ)

 「はいはい。それにしても、案外なんとかなってるわね」

 よろよろと立ち上がる“真祖”の姿に、エリザベスは何か、異様なものを感じていた。

 なんとか戦えている。そう、なんとかなっているのだ。サーヴァントですら倒せない敵。そう目されていたはずの敵だが、思いのほか互角という事実は、彼女にとって予想外だった。

 嬉しい誤算と言えばそう。だが、原因不明の好機を素朴に喜べるほど、エリザベスは楽天家でもなければ愚かでもない。自分が互角であることには何らかの理由があり、それを活用しさえすれば、優位を取れる可能性がある、というわけだ。だが、その理由がなくなれば、たちまちに縊り殺されるとも同義の綱渡り、でもある。

 (どうやら、互角である理由の1つに、その宝剣があるのは確からしいね)

 ぎろりと凄絶に睨みつける“真祖”の紅い目。気圧されるようにたじろぎつつ、エリザベスは首肯する。

 Aランクの宝具の直撃を無傷で切り抜ける、超高濃度の神秘で構成されるあの身体。その身体を、この剣はごく当たり前のように切り裂いているのだ。最も、いくら切っても切っても再生するのだから、手に負えないのだが。

 (宝石翁と真祖の間に、何か関係性があるということなのか?)

 独り言めいた呟きを漏らしてから、ライネスは加えた。(だが、それだけじゃない)

 (多分だが。あの“真祖”、何がしかの理由で全力は出せていない。君のスペックのぎりぎりの数値で戦っている)

 「舐めプってわけじゃあなさそうね」

 左腕の切り口を、右肩の切断面に擦り付ける。途端に左腕を再生させた“真祖”の姿に辟易と顔を顰めたエリザベスは、「それが、あいつを倒す手段、ってわけね」

 「いいわ。このまま互角に戦い続けても、物量で押されるし。アイツ、HPとスタミナお化けよ」

 (うん、それを踏まえてのことだ。詳細は──)

 

 ※

 

 「イリヤスフィール、後ろだ(チェック・シックス)!」

 黒い影が跳ぶ。正面から飛び掛かる妙な形状の獣の頭を踏み砕き、セイバーは一挙に距離を詰める。さらに一頭、進路上で当てもなく佇んでいた野犬を踏み殺し、【魔力放出】で以てロケットモーターさながらに運動エネルギーを捻じ曲げる。全身に伸し掛かるプラスGを噛みしめ、接近しなにその敵の頭部めがけて不可視の剣を叩きつけた。

 叩き切る、という動作の強引さだったにも関わらず、その太刀筋の鮮やかさは目を見張る。横から襲撃された野犬は、恐らく傷みすら覚えなかっただろう。脊椎ごと、チーズでもスライスするように首を落とされた体躯は、朽木が音もなく崩れるように倒れていった。

 着地と同時に、返す刃を放つために剣を握りこむ。ランディングのタイミングを狙ったように襲ってくる敵がいることは察知している。前後に3、側背から2。咄嗟に迎撃手段を理解し、剣に纏う超高密度の大気そのものを解放しかけ──。

 「カバー!」

 咄嗟、前に踏み込む。背後を振り返る必要はない、と判断を上書きし、踏み込んだ足をカタパルトにして猪突した。

 掬い上げるように一閃。一頭を両断し、返す刃でさらに一頭の頭蓋をかち割る。最後の一頭の突進を寸で躱すなり、首根っこめがけて柄を叩き込んだ。

 ごり、という脊椎の破砕音が、手首に伝わる。地面に激突する瀕死の敵には一瞥もくれずに剣を構え直すと、軽い振動が背を打った。

 「ありがと」

 「余計な世話でした。こちらこそ」

 振り返りもせずに言う。背中合わせにした味方の顔を見る必要などない。間違いなく、彼女は背後の敵を倒したのだろう。

 「しかし、こう敵が多いと困るわね。撤退のタイミングも掴めない」

 軽口のように、彼女が言う。周りをぐるりと囲う爛々とした目は、全く数が減っているようにも見えなかった。

 だが、彼女の声にあぁ、と硬い声で応えたセイバーの思考は、別なところにあった。

 背後の味方。彼女の顔立ちは、どう見ても見覚えがある。その背格好にも、見覚えがある。だがその既視感は、それぞれ別のものだ。()()()()()()()()()()()()()

 この世界の量子情報が、重くなりすぎている──というより、他の主幹を飲み込み始めている。マスターの顔を思い浮かべたセイバーは、余計な思考を振り落とすように、小さく首を振った。

 「セイバー、ここを突破する方法、何かある?」

 「いや」咄嗟、彼女の声に応えられた。「無いことは無いが、使う訳にはいかない」

 「そうね。あなたの剣は、簡単には使えないものね。それに、密集戦闘に向いていない」

 探るように、それでいて愉快そうに、彼女の声が耳朶を打つ。セイバーは、身動ぎの微かな動きだけで、肯定の意を伝えることしかできなかった。

 彼女は、多分自分の正体をもう見抜いている。真名と宝具、そのどちらもだ。彼女があの錬鉄の英霊の……そして、“彼”と同類の魔術を使うならば、それは当然の帰結だ。

 「そちらは」

 「あるわ。そっちにプロジェクションする、対魔力下げられる?」

 これに、セイバーは肯じた。セイバー自身が自分の都合で動かざるを得ない、せめてもの譲歩だった。最も彼女がそんな負い目を感じる必要はないのだが、彼女の生真面目さがそれを許さなかった。

 一瞬、背中合わせにしたアーチャーの手が、自分の手に触れる。同時、脳の視覚野に直接映像を浮かび上がらせるように、イメージが閃いた。

 「簡単に言って、二重の陽動をしかけるってことね」

 彼女の言う通り、頭の中に閃いたイメージの基本骨子は、“陽動”だ。

 セイバーは気づかなかったが、無造作に動いているように見えて、魔獣の動きにはある程度の規則性がある。基本的に、魔獣たちの狙いはアーチャーだ。目的は判然としないが、この際目的はどうでもいい。

 アーチャーを狙う集団に対し、それとは別に動く集団がある。それが、あの“死徒”の周囲を固める集団だ。おそらく、あの“死徒”の直掩と見るべきだろう。その前提の上で、まずセイバーとアーチャーで2手に分かれながら後退。敵戦闘集団がアーチャーに誘引されたところでセイバーが敵集団の手薄になった箇所から“死徒”に突撃。直掩部隊を引き剥がすと同時に、空間転移で“死徒”のクロスレンジにジャンプし、宝具で致命傷を与える。その後敵集団の混乱に乗じて撤退、あの凛の姿をしたキャスターと3騎で“真祖”を強襲、可能な限り撃破ないし足止めを行い、最終的には3騎で戦域離脱を行う。それが作戦概要だ。

 「ライネスとリンにも許可は取った。向こうもうまく行けば“真祖”を倒せる、って」

 「凄いですね」

 思わず、と声を漏らした。

 サーヴァントが、“真祖”を倒す。それがどれほどの偉業なのか、セイバーには押して測ることしかできない。凛……否、エリザベス女王のステータスは優れているが、だからと言って、本質的により上位の神秘には敵わないのが常識だ。厄介な敵、と認識を新たにする。かつてのマスターの表情が脳裏を過り、再度、あの言葉を思い出していた。

 最弱こそ、最強に至る道程。かつてのマスターの顔と、あの時対話を臨んだ黒髪の少年マスターの姿が重なり、セイバーは、フードの奥で小さく微笑を洩らした。

 「承知した。援護は?」

 「大丈夫、負けない戦いくらいはできるわ。精々、苦し気に戦ってやりましょうか」

 ぐん、と跳ねる2騎。それが合図とばかりに襲い掛かる、100を超える魔獣の大群。背後から迫る野犬の小集団を剣で薙ぎ払いながら、セイバーは、自分からじわじわと離れるアーチャーの姿を視界に捉えた。

 3桁を超える猛犬に迫られながら、彼女の戦いぶりは劣勢に“見える”。手にしているのは、ローランの剣デュランダルとあのディルムッドの剣、ベガルタ。どちらも長期戦に向く宝具だが、派手さにはどうしても欠ける剣だ。その2振りで以て野犬の群れに責め立てられる様は、どう見てもジリ貧といった様子だ。

 「さて。では、私も名演技をしましょうか」

 軽口のように声を漏らしながら、セイバーは野犬の津波に飲まれていった。




昨日投稿の予定でしたが、少々度忘れしてしまいました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅵ-7

 「ここなら、もう、大丈夫だと思います」

 恐る恐る、腕に抱いた細い身体を横たえた。

 ロンドン橋からおよそ4km地点。入り組んだ路地裏にアリスの身体を横たえたトウマは、小さく頷く彼女の姿に、ただただ痛ましく顔を顰めることしかできなかった。表情だけはほんの少しだけ落ち着いているようだった。手が離れた時、彼女は僅かに目を開いて、寒そうに、ブルっと震えた。

 人間なら、即死している傷だ。どれほどの打撃に晒されたのか、まず全身の骨が折れている。一部解放骨折し、腕やら足から骨が抉れて見えている。だが、それはまだいい。一番ひどいのは腹部の裂傷だ。腹腔内臓器はほとんど吹き飛ばされ、かろうじて脊椎が繋がっているだけ、という状況。だが、サーヴァントという存在者の為せる業か、それとも、魔術師としての在り方がそうさせるのか。内臓はぽっかりと無くなっているものの、皮膚は既に出来上がっていた。

だが、そこまでだ。まだ肉の縫合がされていない傷口からは夥しい血が流れているし、多分、自分の身体の中味まで修復できる魔力は残っていない。あれだけの大技を繰り出したのだから当然で、マスターのいない“はぐれ”なら、なおのことだ。

 「大丈夫」

 真っ青な顔色のまま、アリスは消え入りそうな声で言う。何が、という主語は抜けているけれど、何が言いたいのかくらいはわかる。

大丈夫とは、わざわざ契約を結んで、魔力供給をしてもらう必要はない、という意味の言葉だ。自力で治癒できるから大丈夫、という意味ではない。要するに、自分に情けをかける必要はない、治る見込みのない人間に、リソースを割くなという言明なのだ。

 黒の宣告。頭で、その必要性はわかる。カルデアから供給される魔力量には、限度がある。時間だってそうだ。合理的に考えて、そのリソースをただ彼女の治癒に割くのは、現状明らかに悪手なのだ。まして、サーヴァント。人間が死ぬのと、サーヴァントが消滅するのは、同列に語るべきことではない。トウマは、頭で、それを理解している。彼は傑出した頭脳の持ち主でこそないが、人並の頭は持っているのだ。

だというのに、トウマはただ、目の前の現実がただただ恨めしかった。サーヴァントだから、何だというのだろう。サーヴァントだって人の形をしていて、豊かな情動があって、理性を持っているのだ。それを死なせることを、どうして平気で受け入れられようか。まして生かすための方法があるというのに、それを執らないことは、どうして正義で在り得ようか。

きっと。

 きっと、リツカなら、当たり前のように割切り、死という選択を執るのだろう。自分より4歳しか違わない彼女は、その選択肢を受け入れ、それで、背負ってしまうのだ。当たり前のように、表情の一つも変えずに、ただ独りで非正義を被ってしまうのだ。

 薄く、アリスが目を開けた。身体の損傷具合を鑑みれば、どれほどの苦痛なのかは想像を絶する。だというのに、アリスは、小さく微笑を浮かべたのだ。大丈夫、と言うように。そしてその「大丈夫」は、さっきとも、意味が違う。

多分、それは、あの時の問いの解答。彼女なりの、自問と自答の末の微笑。だから、もう大丈夫、と告げるように、彼女はその表情を執ったのだ。

 「アリスさん、俺忘れません。あなたのこと、絶対に忘れません。だから、」

 続く声の在処は、自分でもわからなかった。声に迷って沈黙を押し殺すトウマに、アリスは、薄く、頷いて目を閉じた。

 彼女の手が、地面に落ちる。魂が抜けたように脱力した肢体を萎えさせる様の意味なんて、考える間でもなかった。

 トウマは、ただ己の無能っぷりが情けなかった。結局、彼女に背を押されなければ、その決断はできなかったのだ。だから、頬を伝った水分は、大体が自分に対する叱咤であったし、叱咤しなければ泣けもしない、自分への腹立たしさだった。頬を張るように目元を拭って、全身の震えを手で握りしめて、トウマはきつく、目を閉じた。

 じゃあ、また。発した声は、その実口に出していたかわからなかった。唖が真理を言祝ぐように、沈黙の中で応じていたのか。それとも、本当に口に出して発話していたのか、よくわからないし、多分それはどうでもいいことだった。微かに彼女が頷くのを見届けて、トウマは踵を返した。

 

 遠ざかる足音に、寂しいな、と思った。

 ほう、と息を吐く。アリスは段々薄れていく意識の中、漫然と、少年のことを考えていた。

 これまで、きっと同じように、サーヴァントたちに助けられてきたのだろう。見てきたわけでもないし、聞いたわけでもないけれど、よくわかる。頼りなくて、でも頑張り屋。人類史に名前を残す英傑なら、構ってしまいたくなるだろう。英雄、というには非力だけれど、英雄の傍らにいる勇敢な仲間というには相応しい。元より、未来を取り戻すためのこの戦い。英霊たちは、初めから戦う意欲に満ちているだろう。そうでなければ、英霊などになりはしない。でも、そういう前提の意識とは、別なのだ。

 だから、多分この気持ちは、アリスの……というより、久遠寺有栖のそれとは、多分異なる。どちらかと言えば、形象を持った子どもたちの童話(ナーサリーライム)の、憧憬のような感傷。だからあの問いは、せめて童話という夢物語が迷える英雄にできる、数少ない言葉だった。

 「もう、答えは、出てる」

 ほとんど意識の全体を渦巻き始めた疼痛の中、うわ言のような声が漏れる。意識を身体感覚と意図的に切り離してさえ、息を吐くだけで惹起する激痛は死に神のように付きまとってくる。

 「優しいのに、傷だらけね」

 身体中の傷が、痛かった。

 思わず笑ったのは、果たして自虐だったのか否か。瞬間、断絶させたはずの痛みが意識を這い回り、アリスは呻くようにしながら、地面に横になった。額に滲む脂汗に、口の中はカラカラに渇いていた。永遠のようにも思える、刹那の間。アリスはただ、どうしようもなく、あの少年のことを、考えている。

 サーヴァントの、サーヴァントとしての生はその場限りの一瞬のもの。英霊の座に登録された英霊という存在は永遠にも等しいが、そこに還っていくサーヴァントの魂は、刹那的なものに過ぎない。まして、ナーサリーライムという存在は特殊を極める。契約者によって姿かたちを変える、それがその英霊の在り方。この身体を以て召喚される可能性は、おそらく絶無。そして多分、召喚されたとしても、今のこの感情の在り方がこの在り方を再び執ることは、なおのこと有り得ないだろう。

 “彼女”のことを、恨めしい、と思う。だって卑怯ではないか。この旅の最後まで、あの少年の傍に居られるなんて。でもだからこそ、もっと思う。

 ……。

 小さく、口の端に穏やかな微笑を浮かべる。それに自分だって、もう、大事なものをもらったのだ。最期に自分を看取ってくれたのが、彼で良かった。多分、あの少年は、どんな英霊に対してもそうしてきたのだろうし、また今後もそうしていくのだろう。人間として、当たり前で、だからこそ困難な善性。古い記憶の中、朴訥とした青年が発した『一般論』が脳裏を、過った。

 我ながら、単純だと思う。赤い髪の知り合いを思い浮かべて、人のことは言えないな、と思考を重ねる。思考を重ねて、彼女は脂汗を滲ませながら、上体を起こした。

 なら、自分が今しなければならないことは、明白。消える前に、せめて、為すべきことはなさないと。動かない下半身に苛立ちながら壁に寄り掛かると、まるで狙い澄ましたように、青い影が視界に紛れた。

 小さな鳴き声を漏らしながら、青い小鳥が伸びた膝に降りる。引き連れられるように10羽ほどの椋鳥が並ぶと、アリスは眉を顰めた。

 「役立たず」

 身も蓋もない罵声である。それでも気にもしないように首をくるくるする姿は、とてもふざけているようにしか見えない。

 ──まぁ、今回だけはいつも通りの働かれては困るのだが。馬鹿そうな駒鳥の姿に嘆息を吐きながら、「行きなさい」と手で払うように声を投げた。

 雨の中、一斉に小鳥たちが空に舞い上がる。雨降る曇天を翔ける姿は、すぐに見えなくなった。あのプロイたちが仕事を終えた時、このナーサリーライムも終幕を迎える。間もなく、すぐ。

 色んな人の顔が、網膜を掠めた。走馬燈、というには緩慢な記憶の想起。泡沫のような手応えの無さとともに駆け巡る表象の群れ。遠くで聞こえる野犬の遠吠えが、微かに耳朶を打つ。

 あの時の、背の暖かさを、思い出す。

 ついさっきの、腕の裡の暖かさを、思い出す。

 ツン、とする冬季の山間の冷たさは、針で刺すようだった。

 しとしとと雨が降りしきるこの幻想都市の冷たさは、ぬめり気があるようだった。

 叱るように響いた硬い声と、粛然と見届けようと呟いた硬い声が、不定に重なる。

 記憶が判然としない。夢は、時制が混濁するし、気持ちだって、ごちゃまぜになる。それが元から似たものなら混交はなおさらだった。

 寒いなと思った。

 それは多分、肌の温もりへの恋しさの裏返しの、感情以前の情動だった。

 寒いな、と、思った。

 寂しいな、とは、もう思わなかった。




先々週忙しくて投稿できなかったので、明日もう1話投稿予定です


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅵ-8

 思いのほか、くだらない。

 その感慨は、彼にとっては度し難く、また不愉快極りないものではあった。

 屋根の上に腰をかけながら、つまらなそうに眼下を見やる。地面から無数に生える目玉だらけの黒い柱に淡々と指示を出しては、徐々に、敵を圧倒している。どんな敵かと思っていたが、こうして戦ってみれば、大したことはない。いたって凡俗な、特色のない相手。冠位である彼と相対するには、何もかもが不足していよう。

 彼にとってみれば、この特異点は酷い頭痛の種だった。結果として特異点になり人理定礎が崩壊したから良かったものの、彼が自分でしかけた聖杯が機能しなかったことは、不可解だった。この特異点が一切見通せなかったことも含めて、彼の大仰な自尊心は大層傷つけられていたのである。

 大願成就の楔を排除する意味でも、また己の自尊心を慰めるためにも、この特異点はこの目で確かめねばならない。そうして乗り込んできて、おおよそ検討づけた彼は、当初の予定通り、無造作にこの特異点を制圧することに決め、今に至る。まずは小賢しいカルデアの戦力を消した後に、本丸を潰そう、というのが彼の心積もりだ。

 「あと5分ほどか」

 ぽつり、独白めいた声を漏らす。機械めいた物言いの中に、僅かに焦燥が滲んでいる。だが、その焦燥に、彼は自覚的ではなかった。思わず漏れた声音も、呟いてから、彼は何故そんなことをわざわざ発話したのか、と自問して、すぐにあまり意味のない問いだと自答した。彼の力は絶対で、何が在ろうとも毀れることはない……と、あまりに無邪気に信奉していた。事実、皮肉にも、“魔術王”の力能が絶対のものであることは論を待たないのだ。

 だから、彼はすぐに思考を流していった。思考はすぐに戦うべき敵へと移ろい、眼前の敵は、既に塵か芥かとしか思っていなかった。闇夜で象が蟻に恐れを抱かぬように、力の差が絶対であれば、悪条件でも勝つのが当然なのだから。

 

 ※

 

 ──否。

 この時、事態は全く別な様相を呈していた。その自覚は、この戦闘領域で戦う3騎のサーヴァントが各々感じていたことだが、最も明確に理解していたのは、玉藻の前であっただろう。

 (次、マシュは10時から来る熱線を防御。金時君と20まで後退して、そのまま防御に徹して。タマちゃんはその間に宝具準備、発動前タイミングあたりで4時方向からあの触手が伸し掛かってくるから前進して2人と合流、宝具発動後はまたブレイク)

 彼女の言葉がイメージとなって脳内に閃く。2人とはパスでやり取りしているのだろう。肌同士を触れ合わせる玉藻の前とは、身体接触を利用した疑似的な念話で話を躱し合っている。

 あの“敵”と戦い始めて、既に5分。3騎がかりで防戦を強いられている図になっているが、この防戦が意図的に演出されたものだとは、あの敵は思ってもいない。悟られてすらいない。こちらは為すすべなく圧殺されるだけの存在だと思わされている……リツカの手によって。

 「タマちゃん、今!」

 「了解です!」

 石畳を蹴り上げる。呪術で強化された躯体が翔ける。4時方向から噴き出してきたあの黒々とした目玉お化けの柱が虚を突かれたように身体をくねらせている間に金時とマシュの背後に周るなり、右手に握った鑑を天に投げた。

 「『水天日光天照八野鎮石』!」

 周囲に霧散しているマナをかき集め、3騎の精気(オド)へと流し込んでいく。余剰はエーテルに変換し、エーテル体たる肉体の補強へ。リツカと視野共有したローカルデータリンクにて3騎のバイタルデータが完調に戻ったことを確認するなり、再度、2騎と1騎1人の組みに分散する。

 3騎とも、作戦行動開始前のコンディションにまで引き戻す。彼女の宝具は中々使いどころに難があるが、効率的に運用さえできれば、極めて強力なものだった。

 「タマモちゃん、私のことはいいから」

 彼女の腕の中、諫め叱るように、リツカが硬い声で言う。硬い声だというのに消え入りそうな声なのは、

 「余剰を回しているだけですので、ご心配なく。リツカ様のご予定を損ねるものではありません」

 きっぱり、と玉藻の前は反論を重ねる。腕の中をちらっと一瞥すると、困ったように眉を顰めながらも、仕方ないな、というようにリツカは口角を緩めている。

 彼女の策は単純だ。攻略できそうでできないギリギリの防戦を演じて、敵の油断を誘う。隙が生じたら一撃で仕留める。言ってしまえばそれだけだが、彼女のアドリブでの戦術的判断と、防御寄りでありながら、金時による一撃の火力に特化した布陣を以てすれば最も有効な戦術であることは間違いなかった。事実、格上のあの敵を相手に、まだ一人も撃破される恐れすらない……表面上は。

 「金時君、マシュが受けきったら攻撃。宝具一発いっちゃって、多分防がれるけど大丈夫、これはあくまで油断を誘うためだけのもの。マシュはもう一回カバーに入ったら後退……タマちゃんも同時に接近して防御。その後宝具2連打して、マシュも2回目の宝具に併せて宝具。その後は、」

 淡々、と指示を出していく。敵の行動を予測して、的確に防御手段を指示していく様は機械のようだった。不気味と言えばそう。何せ、彼女はただ、合理的判断のみでそれを行っているのだから。遠見や未来余地……いわゆる千里眼に近しい魔術を使っているなら、まだ理解の範疇にある。

 それが、どれほど恐ろしいことなのか。既に九尾に至っている玉藻の前ですら、理解し難い。その術が、ではない。それに耐えられる強靭な精神性が、だ。己の知性だけで導き出した合理的判断に、人類全てをかけられるなど正気ではない。自分の判断が間違っていない、という確信だけでは無意味。そんな生温い人間性だけで、身投げのような常軌を逸した行為ができようはずもない。

 狂気の沙汰。常人の理解など遥かに超えている。間違いなく、キレている。

 それに比べれば、あの敵の方がまだ可愛いものだ。リツカが指摘した通り、力があるだけでおごり高ぶった赤ん坊。殺し合いの経験に乏しいが故、戦うという心構えがなさすぎる戯け。それが、あの敵……第1番目の獣のあらましなのだ。どれほど力が在ろうとも、中身は凡夫のそれに過ぎなければ、どうしようもない。事実、今まさにリツカの手のひらの上で踊らされているというのに、あの獣はそれに気づいてすらいないのだ。

 最新鋭の小銃と粗悪な改造銃で撃ち合っているようなもの。しかも、それを悟らせていない。魂の容量が違う───格が、違いすぎる。いかに獣とて、リツカの敵ではない。

 「タマモちゃん、次来るから防いで」

 「もちろんです、フジマル様!」

 防御の呪術を展開しながら、想起する。

 もし、万が一。“あの方”より最初にリツカに出会っていたなら、玉藻の前の運命は大きく異なっていただろう。こんなにも強くて、こんなにも脆い人間の極限の姿に、多分、九尾の獣性を、抑えられそうもない、と思う。

 詮のない思考である。玉藻の前の心にいる人物は1人であり、この運命は一度きりのものであるのだから。だから、或る意味それは余裕の現れだった。余分な思考に興じて居られるほどに、玉藻の前はこの戦いに余裕しか感じていなかった。

 「宝具、今!」

 「『水天日光天照八野鎮石』!」

 7度目の宝具連打。敵が悪戯に霧散させるエーテルを転用した、姑息な手遊び。

 三尾が、勃起するように奮えた。




投稿してみたら短かったので、今週もう1話投稿予定しております


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅵ-9

 もう、何頭野犬を叩き切ったか。未だ鈍らないデュランダルの刀身に感心しながら、クロはほんの一呼吸を吐いた。改めて、装備の厳選に対する思考を重ねていて良かった、と思う。ふわ、と視界を掠めたマスターの顔に、どうしようもない情動を惹起させたクロは、すぐにそれを思考の片隅に置いた。

 マップを一瞥。サーヴァントの足を起点とした音紋センサーの最大補足数は100。それを上回る敵が橋の上に犇めいていることにうんざりしつつも、己の予定通りに集団が動いていることを把握する。

 マップ上には、おおよそ3つの集団が群れている。自分を取り巻いている野犬の群れとは別に、左翼に離れているセイバーに群れる野犬たち。そしてさらに別、既に橋の端にまで後退しているエリザベス女王と野犬……それと、“真祖”の闘技場。

 一番集団数が多いのが、己。野犬とは言え、その実態は幻想種だ。ランクは魔獣だろうが、それでも無限に等しい敵を戦っては堪える。

 だが、それもあと数秒。マップ上の戦闘集団の配置と、あの敵との相対距離。空間転移の射程距離とセイバーの殲滅能力も加味すれば、チャンスは───今。

 跳んできた野犬を切って捨て、クロはイメージを二重に加速させる。

 空間跳躍の想定。同時に開始する、投影のイメージ。まったく別個の、しかも高位の魔術を平然と並行して執行するクロエ・フォン・アインツベルンの手腕に淀みはない。そのように作られているが故の技能。

 そうして、彼女は跳んだ。

 

 

 阿吽の呼吸。

 一心同体、とでも言うべき呼吸が、セイバーとアーチャーの2人にはあった。

 元から指示されていたデータがあったから、というのもある。だが、クロが空間転移を行うちょうどその瞬間を悟ったのは、互いに高度に洗練された戦術的思考があったが故のものだった。戦術的合理性から照らして、彼女が跳ぶのは今しかない、という洞察。

 「風よ!」

 だから、セイバーも剣を抜く。間違いなくアーチャーはこのタイミングで跳ぶと判断し、その信頼に応える義務を、彼女は強く自覚した。

 刀身に纏っていた超高密度の風の一部が解き解れる。大蛇のように周囲にのたうった烈風の速度は、実に40ノットを超える。台風もかくやといった風圧に吹き散らされる野犬の群れには一切構わず、剣を背後へと振り抜いた。

 同時、一挙に“鞘”を解放する。ただ鞘を解いただけと異なる、指向性を持った宝具展開。背後に爆発的に生じた推力を背に、セイバーの体躯はロケットモーターを点火させるが如くに飛び出した。

 ぐん、と全身に伸し掛かるG。さらに+Gが増大したのは、高ランクの【竜の炉心】を駆使した魔力放出に依るものか。ナノセカンドの猪突の気勢で以て“死徒”との相対距離を一挙に詰めたセイバーの狙いは、ただ、その首だけだった。

 元より、作戦案の基調は撤退であって敵の撃破ではない。が、最終目標を考えればここで打倒するに越したことはない。鞘から解き放たれた黄金の剣を一閃した。

 鞘から放たれたその剣の出力、ただ振るうだけでDランクの真名解放に匹敵する。直撃すれば一溜りもないであろうその剣戟が“死徒”の頸を落とす刹那、セイバーは煩わし気に顔を顰めた。

 剣が首を刎ね飛ばす半瞬の間、躍りかかるように巨躯が視界を覆った。地面を割るように這い出した巨大な異形の生命が壁となって屹立し、首を刎ねんと迫る黄金の剣を阻む。

 16フィートはあろうか、という植物めいた円錐形の不定の生物。突端にあるのは口吻か? 体躯を切り刻まれ嗚咽のような悲鳴を上げながら、涎を撒き散らした円形の口が丸のみするように伸し掛かる。同時、胴体から生える6本の触手が不定に蠢くや、セイバーの小柄な体躯を縛り上げんと肉薄した。

 常人ならば、それで終いだっただろう。だがセイバーはサーヴァントで、しかもその実力は最上位のものだ。剣の一薙ぎで包囲せんとしていた触手をまとめて叩き切り、掬い上げるように振り抜いた返す刃が首……といっても円錐の身体ではどこからが首なのかは判然としないが……を切り落とした。

 噴水のように噴き出す、青緑色の体液。とても血液とは思えない飛沫を浴びながら、セイバーは、その光景にぎょっとした。

 腕を全て剥ぎ落され、首すら斬り落とされているというのに、まだソイツは死んでいない。既に悲鳴嗚咽すら漏らせない身体になりながら、しぶとく巨大な図体で圧し潰そうと倒れ込んでくる。死に瀕してなお奴隷めいた行為に身を窶す様は、端的に言って、セイバーの理解の埒外だった。とても知性があるとは思えない……むしろ生物的情感の持ち合わせすら欠如しているかのような奇態に怯みながら、それでもセイバーは、最優のクラスに相応しい勁さの持ち主だった。倒れ込んできた肉茎に、黄金の剣を深々と突き立てる。勢いよく噴き出した体液を浴びながら、串刺しにした肉の塊を、そのまま持ちあげた。

 超高ランクの魔力放出から繰り出される膂力は、値にすればA+に比肩する。持ち上げた格好のまま睨みつけた先に、その“死徒”が居た。

 宮廷魔術師風の、どこか達観したかのような、落ち着いた物腰の男……そんな風采だった。聖杯から授与されていた知識を参照すれば、“学者風”とでも言おうか。何にせよ、その“死徒”の風貌は、忌まわしい吸血鬼という印象とは随分異なるものだ。

 「サーヴァント、ゴーストライナー。なるほどそこそこ厄介だ」

 独語めいた声ごと押しつぶすように、セイバーは13フィートまで刻まれた肉塊を、そのままぶん投げた。剣を振り下ろす勢いに乗せ、射出された肉茎は豪速で打ち出される。重量にしてトンを超える巨体は、されど“死徒”を圧殺することは叶わなかった。

 即座に、湧き出すようにして群がる植物めいた奇怪な生物群が壁になり、内一匹に激突しただけだった。それでさらに一匹死んだが、他の肉茎どもは全く意に介していない。冒涜的な身振りでにじり寄るなり、無数の触手がセイバーを絡めとるように迫った。

 触手を斬り払うセイバーは舌打ちこそしたものの、冷静さは変わらなかった。じわり、と後退しながら剣を振るって一匹の頸を斬り飛ばす。躍起になった他の怪生物がセイバーを追い回すように身を揺する様を見ながら、真実彼女が観ていたものは、別なものだった。

 もっと高度のある、俯瞰風景。先ごろアーチャーから見せられた地図(マップ)と目の前の乱戦の風景を重ね合わせる。

 セイバーの任務はあくまで二回目の陽動。“死徒”から直掩を引き離すのが、目的だ。周囲の敵の布陣とさっきの予定図を重ね合わせれば、あと一手。

 壁のように迫る触手を斬り払い、さらに一匹を薪でも割るように両断する。猪突の気勢を察知した畸形の植物が包囲するようにセイバーの周囲に動いていく。

 包囲陣が完成するギリギリの速度で後退しながら、セイバーは思案する。

 この植物めいた化け物、基本的に知性らしきものは感じられない。目の前に動く生き物を捕食する、という原初的な本能行動だけで動いている。しかも、自分に対する侵襲に頓着しないという頑迷ぶり。だというのに、この統率のとれた動きは間違いなく知的活動としか言いようがない。

 いや、あの野犬たちもそうだ。ただ群がっているように見えて、物量にまかせた飽和攻撃で撤退する機会を潰しながら消耗戦を強いる戦術だ。

 あの“死徒”が指揮系統を為している、というアーチャーの推測は直感的に当たっている。なら、脱出の好機を生み出すために指揮官を潰す、という戦術は真っ当だ。

 そしてその好機は今。

 さらに背後へと飛び退き様、虚空に、剣を振り抜く。何もなかったはずの空間を剣が捉えるなり、真っ赤な血が不意に飛び散る。途端に、背景から沁みだすように姿を現した奇妙なゼリー状生物めいた何かが身を悶えさせながら地面に墜落して絶命した。その様を見届けるまでもなく、セイバーは声を張り上げた。

 「今だ!」

 

 ※

 

 セイバーの声を待つまでもなく、クロは躊躇なく跳んだ。

 空間転移の魔術は、使用難易度がそもそも高い。どこに跳びたいか、という座標設定を誤れば、目的の場所とはズレた場所に跳ぶことになる。こと戦闘において、その誤差は決して無視できるものではない。イメージするだけで結果を手繰り寄せてしまう彼女の魔術特性を以てしても、その難易度は易しいとは言い難い。

 だが、彼女にはそれができる。類まれな戦争の才能。たとえ疲労に身を窶していても衰えることのない判断力。【心眼(偽)】の根拠とも言うべき、英霊エミヤから継承し、そして彼女自身によって育まれた戦闘経験こそがクロエ・フォン・アインツベルンの強さを支える根拠の1つだ。

 意識がひっぺ替えされるような感覚。自らを量子化させ拡散状態にすると同時に、特定座標に己を集束状態にする、世界そのものに干渉する魔術を以て彼女は跳ぶ。ある意味で、レイシフトに近いその行程は、決して気分がいいものではない。ぶつ、と意識が切られた瞬間に嗣がれる感覚。まるで映画の場面転換のように、目の前が切り替わる。

 囲まれていたはずの野犬の群れから、あの“死徒”の向こう正面へと即座に視野が切り替わる。

 互いの視線が擦過する。既に、クロの手には槍が握られている。突けば必ず心臓を穿つ、光の御子が振るう赤き呪槍。彼女の身丈を遥かに上回る長槍の穂先は、既に敵を捕捉している。

 「刺し穿つ(ゲイ)

 収束する殺意は、間違いなく絶殺への専心だった。セイバーと同じくして、クロもここでのこの敵の撃破を狙っている。敵が何者か不明だが、不明だからこそ倒せるべき時に、迅速に排除する。先手必殺。それこそ戦場(いくさば)の心得に他ならない。

 その純粋までの殺意の最中。彼女のスゴ味に、ほんの少しだけ、僅かだけ、陰が挿した。

 “死徒”は、嗤笑を浮かべている。この槍に無知だったとしても、目の前に迫る死の予感は明確に感じていたはずだった。だのに、敵はその死に怯えていない。

 「死棘の槍(ボルグ))!」

 微かな躊躇を引きずって、呪いの槍は放たれた。

 既に相対距離はクロスレンジ。一度放たれた因果逆転の槍を躱す術は、通常の理には存在しない。そして通常通りに、真紅の槍は呪詛を迸らせた。

 突き刺した手応えが、まず腕を打った。皮膚を貫き骨を砕き肺を抉り、そのまま心臓を刳り貫く。槍を起点に、体内で巻き起こった槍の乱舞は凄絶の一言だった。

 体内殲滅。心臓を持ちえない敵ですら確実に殺す、死の呪い。それこそが魔槍ゲイ・ボルグの本質であり、この槍が凶悪たる所以だ。

 そして、この槍はその最強たるを証明した。心臓を貫き間違いなく殺した、という感触のあと、放たれた槍が防御せんと突き出した敵の腕の掻い潜るように軌跡を捻じ曲げ、そうして過程が結果に追いついた。

 “死徒”の体躯に、赤い呪いが駆け巡っていく。赤い茨が全身に巻き付くように這い回ったあと、“死徒”は全身から黝い体液を吹き出して絶命した。

 ぐい、と槍にかかる重さが増す。“死徒”が死とともに肢体を萎えさせた、からだ。腕に感じる重さに、クロは困惑した。

 あの時感じた妙な予感は、ただの気のせい、だったのか。あの時“死徒”が浮かべていた嫣然は、ただの無知でしかなかった、ということだろうか。

 それは不明だ。だが、この結果こそが全てだ。クロは空間転移を行い、ゲイ・ボルグの真名解放を行った。その結果、正しく槍は心臓を穿ち、敵は死んだのだ。それ以上でも、以下でもない。そしてその結果は、予想していた中で最優のものであったはずだ。

 迷いは半瞬ほどすらもなかった。マップと背後を素早く流し見、思惑通りに魔獣たちの動きに秩序がなくなったことを看破する。

 (脱出ルートを策定した! 凛の下へ急ぐぞ!)

 「了解!」ワンテンポ、セイバーへの返答が遅れた。「援護するわ、セイバーは先に」

 (イリヤスフィール、下だ!)セイバーの声が、切り裂くように鼓膜を叩く。(まだやってない!)

 下。セイバーの声につられるように足元を見たクロは、言い知れない怖気を惹起させた。

 黝い体液が、延々と広がっている。淀んだ池沼のような有り様──。

 早く逃げなければ、と判断を下したのは、実に半瞬ほどもなかった。判断の速度はいつも以上に迅速だった。

 だが、それでも遅かった。クロが膝に力を込めて飛び上がろうとした瞬間、ぐにゃりと体液の水溜まりから無数の腕が這い出した。腕、というよりは触手か。爬虫類の口腔めいた突端の生えた触手が跳びかけたクロの足に、腕に噛み付くなり、暴戻の限りを以て彼女を地面に引き倒した。

 咄嗟、ゲイ・ボルグを振り払いかけたが、無駄だ。呪いの槍は群がる触手の一部を斬殺したが、それでも無数の触手の前では付け焼刃に過ぎなかった。長槍、という取り回しなど既に関係なく、全身を覆うように巻き付いた触手を斬り払う術はもうなかった。

 「驚いたな、その槍。よもや8割も殺されるとは思わなんだ」

 ぞわ、と声が背筋を舐めた。あの“死徒”は未だ死に体となって目の前に転がっている。声はこの体液の沼そのものから発せられている。

 「だが構わない。その体、喰らわせてもらう」

 「トレース!」

 半ば悲鳴のように叫びながら、剣を投影する。捻じれた魔剣を即座に爆破しかけた瞬間、左腕の神経に迸った激痛に、声を轢き殺した。上腕から切断されたクロの左腕が宙を舞い、水気のある音をたてて墜落した。

 ぱす、という小気味良い音とともに、左腕の激痛が遠のいていく。圧迫注射で投与された鎮痛剤の作用を漠と感じながら、次を、考える。

 空間転移をするしかない。空間転移は連続使用するには脳への負荷が重すぎる……最悪霊核損傷から消滅しかねない。だが、そんなことを言っている場合ではない。座標はどこでもいい。とにかく跳ばなければ!

 クロの判断は遅すぎるということはなかったし、むしろ迅速を極めた。それでも、ほんの僅かにだけ遅かった。

 遅かった、というよりは、相手が早かったと言うべきか。何せ“死徒”の狙いは最初からこれであり、言わばクロはトラップに捕縛された虫でしかなかったのだから。

 黝い体液の沼地から、彼女の足元を起点に巨大な顎が屹立する。開いた大鰐の口腔は人間など容易く飲み込むほどに大きく、ましてクロの小さな身体などは一飲みにするほどだった。

 彼女には最早為す術なく、ただ、彼女は捕食された。走馬燈、なんてものが駆け巡るほどの猶予もなく、だから最期に過ったのは刹那だけのヴィジョンだった。彼が、どうか酷い目に合わないように──そんな思考が浮上した直後、彼女の自意識は挽肉のように咀嚼されていった。

 喧噪の中、異様な静謐が横たわった。ただ残された浅黒い肌の左腕だけが、微かに、痙攣していた。

 不意に、ぐにゃ、と巨大な顎がしなやかに撓む。たちまちに汚泥のように形状を喪った獣の顎は、何物も通さぬ黒いスフィアへと蜷局を、巻いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅵ-10

「クロエ!」

 その瞬間、エリザベスはほんのちょっとだけ、意識を背後に向けた。戦闘の要であるクロが捕食された、という事態への驚愕か。それとも、もっと私的な感情故の気の紛れだったか。だが、どちらにせよ、その一瞬は致命的な隙だった。

 (よそ見をするな、リン!)

 ライネスの声が、強く鼓膜を叩いた。叱咤の色調を帯びながらも、悲鳴にも似た声音に、すぐエリザベスは自らの失態を悟った。

 だが、もう遅い。咄嗟に視線を戻した瞬間には、もう、目の前に黄金の影が迫っていた。

 「速ッ!?」

 「遅い!」

 突き出される“真祖”の剛爪。エリザベスは、反応するのでやっとだった。つまるところ、反応はできても身体動作はワンテンポ遅れた。

 ざ、と自意識が握りつぶされかけた。激痛、という名の反応が脳みそ全部を塗りつぶし、声にもならない悲鳴が咽頭で漏れた。

 “真祖”の腕が腹部を貫通していた。剛性と靭性に富むエーテルの身体など、なんの役にも立たない。星の触覚の打撃は、サーヴァントの身体など、濡れた和紙を裂くような容易さで抉った。

 エリザベス女王は、確かに性能だけならトップサーヴァントに比肩しうる。だが、彼女は元から戦闘者ではないのだ。“真祖”と渡り合った剣技は、高ランクの【皇帝特権】によって得たものに過ぎない。総合的に“真祖”と互角以上の戦闘ができていたのは、彼女があらゆる面で全力を出していたからに過ぎない。ほんの一瞬でもリンが気を抜けば崩れる、危うい均衡にあったのだ。

その均衡は、彼女の気散じによって崩れた。英雄と呼ばれる者であれば、その手抜かりは生じなかっただろう。だが、彼女は元より人の上に立ち、弁舌で以て神意を輔弼する立場であればこそ、直接剣を以て戦うことは経験のないことなのだ……。

だが。

 「オラァ!」

 エリザベスは、剣を振るった。袈裟切りのように放った宝石剣は“真祖”の頸を切り裂き頚椎まで切断した。

 「コイツ、化け物っ!」

 “真祖”の腕がリンの右腕を掴まねば、そこで首を刎ね飛ばされていたただろう。間一髪の出来事に恐怖を覚えながら、“真祖”は実のところ、別な恐怖を上塗りしていた。

 腹を砕かれているにも関わらず、反撃を繰り出してくるその精神性。消滅一歩手前になりながら、平然と致命傷を放ってくる気質。

 確かに、エリザベス女王は自ら手に剣を以て戦う人間ではなかった。だが、その気質の強靭さは、なまじ戦場などで生死のやり取りをしているだけ人間などよりも遥かに勝っていた。

 彼女が負っていたものは、己の生だけではない。そのか弱い肩に、偉大な英国の人民全てを背負っていたのだ。剛毅な精神性は、平凡な人間では想像することすらできないほどの、ものなのだ。たとえ自分の死を前にしたとしても、最適解を選ぼうとする意志には一切差し障りはなかった。

そんな精神性。真性ならともかく、紛い物に過ぎない“真祖”には、到底理解すべくもなかった。

 「は、放せ! アンタ、このままじゃ死ぬぞ!」

 「放したらあなたに殺される、の間違いじゃないかしら」

 腹を貫通した“真祖”の腕をこっちは左手で、抑え込む。【剣術】はもう要らない。【皇帝特権】で再現した【怪力】から繰り出される膂力は、“真祖”であってすら振り切れぬほどの、文字通りの怪力だった。

 と、いうより。この相手であるが故に、スキル勝負に持ちこめている───物凄い力で振りほどこうとする“真祖”の右手首を握りつぶすほどに鷲掴みにしながら、思考する。

……ライネスの言う通り、“真祖”には何がしかのリミッターがかけてある。真祖と呼ばれる種族全般に共通するものなのか、それとも個体としてのこの“真祖”だけがそうなのかは不明だが、ちょうどこちらのステータスの一つ上の出力しか出せていない。

 なら、やりようはある。基礎ステータスを宝具で補うエリザベスであるが故、宝具のステータスバフをフラットにすれば、必然相手の基本性能もこちらに準じる。あとはスキルを駆使して、ステータス以外の面で勝負をすれば……倒せる。分類上、ステータスに恵まれない近代人であるが故の戦法を即座に組み立て、見出したライネスもとい司馬懿の戦術眼に、狂いはなかった。

ごき、という音が、全身を伝わった。自分の手が“真祖”の腕の骨を握りつぶした音と、宝石剣を握る右手首が“真祖”に握りつぶされた音だった。

 だが、どちらも一切気にしなかった。元より互いに死に瀕している。今更に激痛の1つや2つが追加されたところで、どうということはなかった。

 「悪いけど、悲劇のヒロインぶるのはごめんだわ」

 がくん、と視界がぶれた。視界が暗転(ブラックアウト)しかけるほどの、直上方向への猛烈なプラスGが脳髄を襲う。“真祖”が地面を蹴り上げたのだ、と気づいたときには、2人の身体が宙を舞っていた。

 瞬間、胸郭を衝撃が突いた。肺が押し潰れるほどの衝撃の中、視界が開けた瞬間に別ベクトルの衝撃が背中から肺を突き抜けた。

 ゲ、と声を漏らしたエリザベスは、それでも咄嗟に姿勢を直したのは、強靭な精神と、つい先ごろの反省か。

 だが、立ち上がったエリザベスが見たのは、現前する恐怖そのもの、だった。

 空に、“真祖”が浮いている。魔術において、空を飛ぶ、という行為がどれだけ高等技術なのかエリザベスの知る由もなかったが、空中で人型が静止している風景の異様さは彼女にも知れたことだった。

 だが、そんなものはどうでもいいことだった。

 左手で首を抑え、肩で息を吐きながら、掲げた左手の、その先に。

 朱、い、月。

 

 

 「イリヤスフィール! クソっ!」

 畸形の植物めいた生き物を切り捨てながら、セイバーは舌を打った。

 起死回生の策だった二重の陽動のせいで、セイバーは敵群の中で孤立していた。しかも前後左右を包囲される、という最悪の状況。如何にセイバーとて、ここを宝具の真名解放無しで突破するのは至難の業だった。

 群がる野犬を切り捨て、斬殺し、轢断し、それでも尽きぬ魔獣の海。未だセイバー単騎で抗戦できているのは、流石に彼女の力量の為せる業ではあったが、それも限度がきていた。

 ──負ける。

 直感的に、彼女は悟る。無限にも等しい敵を前に、ただ場当たり的な戦闘行動をしてしまっている。無心での戦闘、というのではない。消耗戦を強いられ、考える暇を根こそぎにされている。戦争、というものは、きっちりした理論があって、それを元にした合目的な行為であるべきなのだ。物量戦の本質は、その場しのぎの対応を相手に強いて、その合目的性を削ぐことにある……簡単に言えば、セイバーは、最早戦闘ではなく、ただ無為の殺しをしているに過ぎなかった。

 対自的に、それを理解している。遮二無二剣を振っているだけで、非生産的な行為をしているだけという自覚がある。一瞬でいい。仮に一瞬でも息さえ吐ければ、思考を巡らせる余裕が生まれる。

 でも、その一瞬すらないのだ。もう剣を振るう余裕すらないほどの密集戦の最中、いつの間にか握っていたアーチャーの長剣で畸形の植物を叩き切りながら。

 セイバーは、自らの衣に、手をかけ──。

 ざわ、と不意に肌を粟立てた。

 高ランクの【直感】による、未来予知のヴィジョン。ふわ、と浮かんだのは、今まさにこの戦場を俯瞰で眺めた風景だった。

 自分の右後方、30mに、野犬の死体が折り重なるようにして積み重なった防壁がある。先ほど“鞘”を解放した際に生じた颶風の刃で切り裂かれ、宙を舞った死体が積み上がった天然の防波堤。野犬たちは、その防波堤を左右から避けるようにしてこちらに向かっている。つまるところ、その防波堤の背後は、敵の包囲網が手薄になっている。あの死体の山さえ吹き飛ばせば、一時的に退避できる。

 彼女がその直感を得たのには、理由がある。Aランクを超える【直感】は、言わば未来予知に近い精度で状況を理解する。即ち、その俯瞰風景を直感できたのには、その防波堤が吹き飛ぶ未来が確定していた、ということだった。

 だから、セイバーは剣を薙ぎ払いしなに、4時方向に身を捩る。

 視界を魔力の閃きが掠めたのは、ほぼ同時だった。

 ロンドン橋にほど近い家屋の屋根から、閃光が迸る。高度の致死性を持った、指差しの呪い。物理的な破壊効果すら伴う呪詛が、防波堤めがけて投射された。

 秒速300mの速度で着弾した『フィンの一撃』が炸裂する。呪殺する対象不在のまま地面に着弾した呪いは四方八方に弾け飛んでいく。その衝撃で以て死体の山を吹き飛ばしながら、周囲に振りまかれた致死の呪いに憑りつかれた野犬たちが忽ちに絶命した。吹き飛ばされた死体に潰された野犬たちもいただろう。最も効果的に周囲に戦力の真空地帯を作り出す、絶妙な狙撃だった。

 一拍の、間。まさに目の前に拓けた一本道目掛け、セイバーは一気に踏み込む。竜種の心臓から生み出される膨大なオドを推進剤にする魔力放出で以て、強引に前方向への運動エネルギーを引き上げる。引き上げた運動エネルギーを、今度は“鞘”に封じ込めた大気を放射し安定させ、たちまちにセイバーはロンドン橋の端に着地(ランディング)した。

 地面に足を突き立て運動エネルギーを殺しながら、セイバーは目ざとく6時方向を振り向く。自分の足が砕いた石畳の噴煙を剣で斬り払いながら構えを取り、そうして静止した。

 魔獣たちの群れは、襲って来ようとしていなかった。中腹ほどに団子状になりながら、何故か魔獣たちが互いに食い散らかし合っている。

 ──巧い、と思った。攻撃目標であったセイバーが急に群れの中心から離脱したことで、集団中央に向かっていた魔獣の群れと、集団中央付近から脱出したセイバーを追撃しようとしていた魔獣の群れ同士が激突してしまったのだ。そのまま本能的に殺し合いを継続するとは思えないが、時間稼ぎをしながら自滅によって戦力を削る、優れた戦術判断だった。

 「セイバーさん!」

 その判断を下した少年の声が、どこか弱弱しく耳朶を打った。

 家の玄関口から転がるように出てきたその少年は、額に脂汗を滲ませていた。あの時の彼と同じほどの年齢の、黒髪の少年。右腕を左手で抑える表情はどう見ても苦痛に苛まれている様子の癖に、いたって普通、みたいな顔をしていた。

 「良かった、ご無事で」

 「あなたの攻撃ポイントが的確だったからです。あなたに感謝を」

 一瞬だけ、黒髪の少年は困ったように眉を寄せたが、すぐに表情を改めた。偶然です、と少年は肩を竦めた。

 「すまない。私のせいで、アーチャー、が」

 今度は明瞭に、痛まし気に表情を歪める。右手を抑える左手の指先が、皮膚に食い込んでいく。一度だけ強く瞑目したトウマの身体は、微かに、震えていた。

 「まだ、クロは消えていません」

 強く噛みしめた口蓋を押し開いて、やっとのことで、トウマは声を漏らした。

 「令呪はまだ生きてる。あの死徒の中で、クロはまだ、生きてる」

 恐る恐る、トウマが手を掲げる。手の甲に爛々と煌めく赤い紋章。双剣を象った残り一画の令呪は、まだ、己の生を主張するように淡く閃いている。

 形式的にも、実質的にも、マスターとサーヴァントの繋がりを示す令呪は、令呪越しに互いの存在を感じ取れもする──。

 「セイバーさん、頼みたいことがあります」

 ぐっ、とセイバー真正面から見据えるトウマの視線。セイバーが気圧されてしまったのは、その真直ぐな鋭さが、どこか、身に覚えがあったからだ。先鋭的なその眼差し。違いがあるとすれば、その鋭さには、しっかりした図太さを感じるところ、だろうか。そしてそれでも補いきれない脆さが、多分、セイバーの胸を打った。

 「一時的で構いません。クロを助けたるために、俺のサーヴァントになってくれませんか」

 「なるほどな」橋の上で団子状になる獣たちを一瞥しながら、言う。「こちらのメリットは」

 「俺とクロのスペック……そういったこちらの手の内をあなたにお伝えします。俺たちと貴方たちは、きっといつか雌雄を決することになるでしょうから。それに、フレンド機能……こちらの召喚式による一時契約なら、今のあなたたちの契約を維持したままサーヴァントになれますし、多分俺如きではあなたに強権的には出られません」

 幾ばくか、トウマは表情暗く口にする。メリット、と言うに、あまりに薄いことを自覚しているのだ。

 「いいでしょう、トーマ、あなたの判断に従います」

 「そう仰られるのは無理もないと思いますけど、でも……は?」

 「時間がない、早く準備を済ませましょう」

 言って、セイバーは不可視の剣の切っ先を床に突き立てた。何事か厳かな儀式を執り行うかのような佇まいに、今度はトウマが気圧される番だった。

 応ずるように、セイバーの頭に手を翳すトウマの身振りは、とても厳かとは言えなかった。どこかおっかなびっくり、といった素振りの初々しさに、セイバーは少しだけ微笑した。

 「この命運、あなたの剣に預ける」

 「(けん)の英霊の銘において誓いを受けよう。一時、あなたを我が主と認める」

 契約の文言は、極めて簡素を極めた。互いに合意がある以上、形式上の正しさはさして重要ではなかった。

 だが、それはこの契約が表層のものであるという証左ではなかった。むしろ、逆。実質において充実した契約であることを、セイバーは実感した。

 契約が結ばれたことによる、抽象的に感じる少年との結びつき。その繋がりから直感的に感じる、立華藤丸、という少年の在り方。強い、というのではない。むしろ、その在り方の核に感じるのは、無力という名の弱さのようなもの。でもそれは、多分、忌避すべき弱さではないのだ、と思う。それは人として尊敬すべき弱さで──セイバーが、かつては、目を逸らしていたもの。

 そして多分。その弱さを受け入れているその在り方こそ、強さなのだろう、と今ならわかる。

 「出会いこそが運命、なのでしょうね」きょとん、とするトウマに、セイバーは肩を竦めた。「私は、いつも善きマスターに選ばれるなと思っただけです」

 何事か言いかけたトウマを手で制しながら、セイバーは顎をしゃくった。団子状に混ざり合った魔獣たちの動きに、ようやっと統率が取れ始めていた。

 「作戦は」契約を結んだ段階で、パスを介して作戦概要は既に得ていた。「なるほど」

 「無謀かもしれません。でも、マスターの俺がこうするのが多分確実です」

 「それまでにアーチャーが消化される可能性は?」

 「無いとは言い切れません」断言するトウマの口調に、力みにも似た力がこもる。「でも、令呪から感じる存在の減り具合からすれば、まだ時間は残されていると考えられます」

 「1つだけ」

 トウマが、僅かに身動ぎした。咳払いをしたセイバーは、生真面目そうな少年の鼻っ面に、声を差し出した。

 「あなたがアーチャーを助けようというのは、純軍事的な理由からですか?」

 一瞬、トウマは呆気に取られてから、なんとも場違いに顔を赤くした。16歳、という年相応のかんばせ、だった。すぐに顔の発赤を鎮めたけれど、要するにそれは、そういうことだ。

 「いや、あのその」

 「結構。十分です。あなたは、善いマスターだ。端的に言って、私はあなたが好きですね」

 ふふん、と鼻を鳴らしてみる。困ったような、拗ねたような、奇妙な表情だ。それも可愛らしい、なんて思ったり───。

 「あの、俺からも」ちょっと言いにくそうに、トウマは口にした。

 「その。トーマ、って呼び方、別な感じにしていただけないかと」

 何事か作戦概要の説明──と思っていただけに、セイバーはちょっと、虚を突かれるように目を丸くした。

 「トーマ……ト、ト…トウマ? これで、大丈夫ですか?」

 「大丈夫です、すみませんわざわざ」

 申し訳なさげに、トウマは肩を竦める。そんな様も可愛らしい、と思うあたり、自分は大人になったということなのだろうか。幾分か自分の人生を回顧してから、セイバーは「構わない」と言うように、首を振った。最も、ローブを纏っている都合、奇妙な身動ぎにしか見えなかったかもしれないが。

 「さて」

 セイバーは、居住まいを糺した。構えは正眼に近い。両の手で握った不可視の剣は、次の瞬間、50ノットを超える颶風を吐き出した。

 周囲に転がっていた野犬の死体を吹き飛ばし、石畳をひっぺ返ししていく。

 高密度の大気そのものを圧縮した風の鞘──『風王結界(インヴィジブル・エア)』。かの伝承に現れる、姿隠しのマントの具現。鞘から解き放たれた時、その聖剣は、厳かに姿を現した。

 幾百もの松明を重ねても足らない煌めきを持つ。そう尊称された、王の剣。星の内海から流出するその剣を振るう騎士は、人理に満ちる英傑たちの中でもただ独りしか居はしない。

 その、真名は──。

 野犬の群れが、動き出していた。地面を浚う津波のような怒涛を以て押し寄せる魔獣の群れ。セイバーは全く意にも介さず、その津波へ向かって一歩を踏み出す。元より怯懦に足を取られるような質でもなかったが、いやましにその一歩は勇躍とする。その背にマスターの姿を感じるが故の、満ち満ちた気質。

 「カウント開始します!」トウマの声が、耳朶を打った。「10、9、8───」

 剣を、持ち直す。槍を投擲するように、逆手に構えたセイバーの目は、同時に2つを凝視していた。

 現実のロンドン橋の、ある一点。それに重ね合わせるように幻視していたのは、つい先ごろマスターからもたらされた戦略図──ロンドン橋の耐久強度の予測図。

 「2、1、0!」

 ふっ、と息を詰まらせた。

 全身をそのまま、弓にする。自らの肢体を撓ませ武器と為す、154㎝の弓。ならば、矢として射出されたのは、アーチャーが投影した黒い聖遺の剣だった。たとえ魔力を通わせずとも発揮する強靭性に、切断性。騎士ローランが用いたとされる絶世の銘剣、デュランダルが矢となって空を切る。秒速800mに達する一擲がロンドン橋の石畳を貫通し、橋脚に突き刺さった。

 如何に宝具とは言え、真名解放もせずただ投擲しただけでは、巨大な構造物を破壊するには居たらない。微かな振動が橋全体を震わせたが、それだけだった。

 そして、そんな動作など、魔獣の群れには何の意味もない。怯懦などという言葉は知らず、ただ肉欲にだけ突き動かされる獣の波。相対距離10m、目と鼻の先にまで迫った獣の濁流を前に、セイバーは一切怖れを抱かずに、身を屈めた。

 「トウマ!」

 左手を、伸ばす。自分より一回り大きなマスターの身体を左脇に抱えるなり、セイバーは魔力放出で以て宙を跳んだ。

 んげ、と漏れそうな声を噛み殺したトウマが、縋るようにセイバーの身体にしがみつく。竜の炉心から繰り出されるセイバーの魔力放出から生み出される推力は、生身の人間であれば骨の一本や二本を砕かれて当然の出力を誇る。対G性能の高いBDUを着ているとはいえ、瞬間的な加速で気絶しなかっただけ、トウマはよく訓練されていた。

 一文字にマニューバを描くセイバーの姿は、アフターバーナーを全開にした戦闘機を思わせた。だが、どれだけの加速度であろうが、それは無謀な突撃でしかなかったはずだ。何せ壁のように押し寄せる獣の群れには、どこにも隙があるように見えなかったし、事実無かったのだから。

 「今!」

 獣の群れに激突する、ほんの僅かコンマ1秒前。ぐら、と視界が歪むなり、壮絶な轢音とともに視界がぐらりと揺れた。獣たちが、視界から落ちていく。足元に纏わりついた浮遊感は、ともすれば一瞬の酩酊にも似ていたか。

 だが、その感覚はセイバーの内で生じたものではなかった。獣たちが視界から落ちたのは、むしろ物理的な必然に依るものだったのだ。足場になっていたロンドン橋が音を立てて崩落し、魔獣たちは崩壊するロンドン橋の瓦礫に飲み込まれていった。

 幾多の戦闘によって耐久限界を迎えていたロンドン橋、その最脆弱部位に、橋が崩壊しないぎりぎりの威力でデュランダルを突き立てる。あとは押し寄せた野犬の群体の自重が引き金となって橋が崩落した瞬間こそが、攻めの刻。

 舞い上がった飛沫は、テムズ川に墜落した瓦礫と挽肉が巻き起こしたものだったか、それとも強まった雨水によるものだったか。影衣の隙間から滲む冷たさを感じながら、セイバーは魔力放出の推力のまま、中腹まで崩壊した橋を跳ぶ。墜落する野犬を時に蹴り上げながら強引に進路を捻じ曲げ、八艘跳びもかくやの機動で以てセイバーが目指すはただ一点。

野犬の群れの中、墜落する獣の最中にそれを見る。

 黒い、スフィア。まるで時間が静止したかのような純黒の球形が、呑気そうに、重力落下していく。

 ぞわ、と何か肌が泡立った。正統な英霊であるが故の、異様な怖気。触れてはいけない、という負の情動。本来英霊と“死徒”が相容れない存在であるが故の忌避感?

 いや、これはそんなものではない。もっと根源的な、唾棄すべきおぞましさ、だ。

 「あの中に居る!」

 鋭く、トウマの声が耳元で耳朶を打つ。

 同じ感情を、多分、トウマも味わっている。僅かに一瞥した彼の顔は、血の気が引いたように青白く震えていた。声まで震えている。だが、恐怖に引きつりながら、その声は、その眼は、あの敵を見据えている。

 本当に、好いマスターに巡り合うものだ、と思う。だからセイバーは、作戦通りにその黄金の剣を熾した。

 唸るように、両断せんばかりに剣を振る。スフィアをパスする瞬間、その球面めがけて振るった剣は、

 「“深い”!?」

 ただ、球面を撫でるような手触りが返ってきた。

 いや、手応えがなかったわけではない。確かにこの剣は、あの球体を切り裂いた。だが、届かなかったのだ。

 ()()()()()()。だが、その核に届いていないかのような手触り。ともすれば、無数の小魚が群れることで巨大な生命体のように振る舞っている、かのような。

 「セイバーさん!」

 電撃が奔るように、少年の声が脳みそにイメージを象った。パスを通じて明瞭に閃くヴィジョン。

 何故、という疑念はどうでもよかった。ただ、自分にはその使い方ができる。

 「令呪を以て命ずる!」

 「!」

 「その聖剣の真なる名において、切り裂け!」

 振り抜いた剣のモーメントに乗せ、無理やり身体を捩じる。魔力放出も併せて無理やり運動エネルギーを0にしたセイバーの眼下に、黒い球を見据えた。

 「是は、勇者を共に在る戦いである!」

 剣を逆手に、さらに魔力放出を重ね掛けしてパワーダイブをしかける。隕石のように黒い球めがけて墜落したセイバーは、その、聖剣の銘を言祝ぐ。

「『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』──!」

 




大分お話も佳境になってきましたね。

ご感想等ございましたら、お気軽に言っていただけると大変うれしいです。また誤字脱字等ございましたら、そちらもお気兼ねなくお申しつけください。それではまた次回もよろしくお願いします!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅵ-11

 間近に見る聖剣の解放。溢れんばかりの光子を巻き上げた一閃は、脳に焼き付くほどの景色だっただろう。

 恐らく、それに並ぶ宝具を、何度か見ている。

 オルレアンで見た、ジャンヌ・オルタの『吠えたてよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュヘイン)』。

 ローマで見た、アルテラとネロの『軍神の剣(フォトンレイ)』。

 大海で見た、メルトリリスの『大海嘯七罪悲歌(リヴァイアサン・メルトパージ)』。

 単純な出力であれば、この聖剣の宝具を超えるものもあっただろう。だが、その聖剣の名はそのどれにも比類なきものだった。音も、光も、何もかもを凌駕する絶対の静謐。聖なる御稜威そのものが押し広がるかのように、凪いだ光の海が五感だけでなく理性まで埋め尽くしていく。その精錬さと輝きは、唯一抜きんでて並ぶものはない。

 ──聖剣、エクスカリバー。アーサー王伝説に姿を現す、鍛え直された剣こそは、セイバーの宝具の銘。そしてその剣を振るう英霊は、ただ、1人しかいないはずで、その真名は……。

 ……今、それはどうでもいいこと。振るわれたエクスカリバーの奔騰を目にしながら、トウマは放心する自意識を無理やりに引き戻した。

 為すべきことを為すには、今しかない。真名解放とともに突き立てられたエクスカリバーの剣先が黒い球を抉り、深々と切断痕を刻む。直径5mはあろうかという球に穿たれた溝は化け物の口を思わせた。

 トウマは一瞬だけ尻込みした。

 予想通り、ではあった。

 多分、この球の内面がより三次元的空間よりも高次に広がっていることは最初から予想していた。令呪に感じるクロの所在(ありか)が、ただ三次元的な“そこ”よりももっと深く……ないし、遠くにある感触があったから。セイバーの剣の感触は その予想を、より高い蓋然性にまで引き上げていた。数多の生命因子を産出する高次元宇宙の窓。それが、この球体の、本質なのだ。生命因子の原細胞が分厚く広がった球の表層を貫くには、対城宝具の出力があってようやく叶う。

 (みち)はできた。

 一瞬だけ、自分を抱きかかえるセイバーと目配せする。どこか淀んだような黄金の双眸が、洞の奥で閃いている。

 行け、と目が言っている。微かな躊躇を滲ませて、それでも行けと言っている。

 返した首肯は、単なる了承ではなかった。この無謀と無茶に付き合ってくれたことへの感謝だった。

 抱きかかえる力が緩む。セイバーの脇からすり抜けたトウマは、エクスカリバーによって穿たれた溝へと堕ちていった。

 怖い、という気持ちはもちろんあった。逃げ出したいという気持ちもあったし、墜落するこの最中にも、泣き出してしまいそうなほどだった。

 でも、それ以上に、思うことがある。思わず瞑ってしまった瞼の裏に彼女の姿を思い描いて、トウマは、睨むように目を見開いた。

 「クロ──!」

 どぷん。

 

 ※

 

 海の、中。

 淡く浮上した感覚は、それだった。

 自分の身体が、何かの中に揺蕩っている。自分だけではない。妙な形の生物──はたして、生物として呼称するのが正しいかどうかすら不明な不定の生物たちも、前後左右、上下に浮遊しているらしい。

 周囲は、酷く昏い。なのに、透き通るように見渡せる、遍く潮騒。すぐに、不味いな、と思った。

 遮二無二にここへ落ちてきたけれど、どうやって出ればいいのだろう。上に行けば出られる、なんていう単純な話ではない、と思う。前後左右はともかく、そもそもどっちが上か下かも判然としない。上を見れば、逆さになった管状の生物がぷかぷか浮いている。

 そして、何よりこの感覚──多分、今、自分は“食われている”

 恐る恐る、自分の手を、見る。開いた五指の尖端、第一関節まで、指が融溶している。疼痛の感覚こそ無かったけれど、時間がないことは火を見るよりも明らかだ。

 歯を噛みしめたのは、改めて無味乾燥に突き付けられた消尽の感覚への恐怖を堪えるためだった。けれど、それ以上に、今さらに自覚した己の無能を悔いていたようでもあった。

 左手を握りこむ。目線の先に残る赤い紋章は一画。赤い刃の如き令呪に、静かに、命令を下した。

 ──此処に、来て。

 じわ、と最後の令呪が解けていく。目の前に、朧な淡い光が灯ったのは、令呪が全て黒ずんだ時だった。

 光の塊に過ぎなかったものが輪郭を戻した時、さっき味わった後悔を、また、反芻した。

 彼女の名を、思わず声に漏らした。もう、大分、消化されていた。四肢は、もうない。胴ももうほとんどない。残っているのは胸郭と頭だけで、今もどんどん形がなくなっている。既に意識はないらしい。瞑目した姿は、もう生命を終えているようにも見えた。

 この事態を呼んだのは、間違いなく自分の無能さだ。あそこでアリスを助けようと無理な提案をしたのは自分で、客観的には無駄な行為の為に、みんなを危険に晒した結果がこれなのだ。いくつも判断を間違えた結果が、()()、なのだ。

 後悔しようと思えば山ほどある。自分の無能は、悔いても悔いても尽きない。だが、今すべきことはそれじゃあない。この結果の責任を取ることが、曲がりなりにも上に立つ人間のすることなのだから。

 霊核は残っている、と冷静に思考したのは、日ごろの鍛錬の賜物だったろうか。前頭葉に浮かんだ思考を解決策に繋げることは、そう難しいことではなかった。BDUの疑似魔術刻印を自分の魔術回路に繋げて、あとは、すべきことは一つだけだった。

辛うじて残った肘先で彼女の身体を抱き寄せる。腰から下が亡いせいでうまく姿勢をとれないのが煩わしい。混濁し始めた意識の中、彼が抱いた感慨は、途方もない申し訳なさだった。

 自分を送り出してくれた人たちの顔を思い浮かべると、自分の無能が招いた事態をただただ情けなくなる。彼ら、彼女らに何も返せないまま、ただ消えていくしかできない己の力に羞恥にも似たものを感じている。そして、何より、目の前の彼女に。こんな目に合わせてしまって、なんと言ったらいいものか───。

 だから、これは贖罪のようなものだった。債務の感触と、それに端を発する義務感。肘でなんとか彼女を抱き寄せて、揺蕩う前髪をかきあげた。

 これが、マスターとしてできる、最後の行為。いや、マスターとしての行為、それだけだっただろうか。もっと個人的な感傷もあった。サーヴァントだろうがなんだろうが、そんなことは関係なく。彼は、彼女に生きていて欲しかったのだ。こんな非力で何も知らない自分を、ずっと見守ってくれていた彼女に生きていて欲しかったのだ。

 微かに首を傾け、そうして、彼女の薄い桜色の唇に──。

 ごめん、じゃあ、さようなら。

 微かに触れる感触が口先を過る。最期に過った思考が霧散した時、立華藤丸(たちばなとうま)は消滅した。

 




今回短いので、近日中に次の話投稿を予定しております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅶ-1”バラの花輪だ、手をつなごうよ(We all fall down)

 彼が、何がしかの違和感を抱き始めたのは、戦闘開始から既に10分が経過してから、のことだった。

 最初は愚昧な抵抗をするので精一杯であるかのように認識していた。攻勢らしい攻勢も苦し紛れに散発的に撃たれる程度で、自身を害するには程遠い攻撃で、意に介する必要すらないはずだった、のに。

 「何をしている、さっさと狩れ」

 幾分か、苛立ちを感じていた。頑張っている、と控えめな反論が配下の魔物から上がってくることも苛立ちの原因だった。経過がどうあれ、結果が出ていないのは現実なのだから。

 その上、なんだか動きづらい。まるで地面に、この大地に自分の足から根が生えて、己の生命力(オド)を吸われていくような感覚。その感覚が、徐々に増大している気がする──。

 結果を出さない部下と、遅々として進まない戦況、そして身体を蝕み始めた何か。こんな痴態を見せられるなどついぞ思ったことも無かっただけに、苛立ちはいや増しだった。

 無論、根本的な視野狭窄に過ぎなかった。心情的にも、物理的にも、だ。遍くを見通すはずの千里眼が効かないというだけで、彼にとってみればストレスなのだ。要するに、全ての状況が彼にとって煩わしく、苛立ちの種しかないという状況だった。

 理性的存在であるが故に免れない、不都合な状況での苛立ち。正常な判断能力を削ぐ状況に追い込まれた時点で、もう、勝敗は決まっていたのだ。もし彼が十全な判断力を以ていたならば、攻めきれないと悟ったこの瞬間に撤退を判断していただろう。この特異点自体が、そう重要ではなく、偵察程度のものに過ぎなかったのだから。

 だが、そうできなかった。そういう判断が下せるほど、もう冷静ではなかったのだ──要するに、熱くなりすぎていた。

 だから、最後のその事態にも気づかないでいた。何故か、この特異点への顕現体の出力が落ちている、という状況に気を払えなかった。気づいていても、それを何がしかの誤差としか判断しきれなかった。

 13番、ベレトの魔が果敢にバーサーカーに触手を振るい熱線を浴びせかけようとしたその瞬間。

 「ん?」

 つと、彼は、自分の皮膚に赤く浮かんだ徴に視線を落し、

 「今!」

 女の声は、酷く耳に突き刺さった。

 あ? という感慨が、まず来た。ぐらりと視界が歪んだなぁ、と思った時には、気が付いたら、左半身が抉れて、吹っ飛ばされいた。

 何が起きたんだ、と思ったときには、1km後方の壁に頭から激突していた。壁に埋もれたまま、呆然としながら、彼は広場に立ち尽くす屈強な男の人型を、見た。

 紫電を迸らせた、黄金のサーヴァント。振り下ろした巨大な鉞の下には、ぶった切らた自分の半身が、どす黒い肉の塊となって落ちていた。

 まず、彼が感じたのは混乱だった。何が起きた、という判断がまずできなかった。そして、次の瞬間に猛烈な勢いで襲ってきた激痛で、判断そのものが下せなかった。

 彼にとってみれば、痛い、なんて言葉は初めて感じたものなのだ。知識で、そういう苦しみや忍従の感情自体はよく知っていた。それに、吐き気がするほどの死の陳列を眺めてきただけに、それがどれだけ忌まわしいものなのかも、知っていた。

 知っていたはずなのに、その痛みは恐るべきものだった。完全に近しい存在であっただけに、唐突に、明瞭に突き付けられた瑕疵は発狂するに足るものだっただろう。むしろ、そこで気狂いしなかっただけ、立派な精神性と言うほかなかった。

 「野蛮な極東人風情が! 抑止力に呼ばれたというだけで、魔術王たるこの私に傷をつけようというのか!? 」

 だから、そんな益体の無い悪罵が口をついて出てしまうのは仕方のないことだった。西洋の魔術体系と全く起源を異にする東洋の術への偏見と蔑視があっても、やはり仕方のないことだった。

 「そうだよ。今から俺はアンタを殺す。それが、今はとりあえず正しいことだからな」

 罵倒の返答は、あまりにもあっさりとしていた。身動きが取れずにまごついている間に、目と鼻の先に迫った巨躯。日本生まれのサーヴァントが……平安武者が、翡翠の目を突き刺していた。

 「俺は馬鹿だから、アンタがどんな高邁なお考えを持ってるのかわかんねえけどよ。人を殺してまで求める価値なんてのはな、どうあがいてもクソなんだよ」

 鉞が、振り上がる。半狂乱状態に陥って放心していた彼は、もうほとんど何もすることがなかった。ただその絶命の瞬間がやってくる様を、眺めていることしかできなかった。

 だからだろうか。何故か、その男の顔が、妙に印象的に映った。ほとんど無表情だったが、決して無感動なわけではなかった。

 何故、その感情を彼が察知できたのかは、とても単純な理由だった。何せ、彼の起源がその感情だったから。あの時、衣類を渡してきた少年と同じ顔。

 その感情の銘は、

 「必殺!」

 多分、

 「『黄金衝撃(ゴールデンスパーク)』!」

 憐憫、

 

 

 

 「アーチャー! 返事をなさい、アーチャー!」

 雨が、強くなっている。

 破壊されたロンドン橋の端、セイバーはずぶ濡れになりながら、荒れ始めた黒いテムズ川から引き揚げてきたばかりの小さな身体を揺すっていた。

 トウマが黒い球に吸い込まれるように滑落して、その直後に川面に黒い球が墜落してから10分。セイバーには、永遠にも思えるほどに長い10分間の後、浮かんできた人型……イリヤスフィールを救い出してきたのが、つい十数秒も前のことだった。

「あの者の想いに応えてやりなさい、イリヤスフィール! 」

 げほ、と彼女が咳き込んだ時は、もう本当に安堵した。全身の力が抜けるかと思った。力とともに抜けていく嘆息を感じながら、セイバーはほぼ同時に、ぐっと奥歯を噛みしめた。

 「セイバー?」

 薄く、彼女が目を開ける。記憶にある雪のような少女と瓜二つのかんばせは、まるで氷のようだな、と思った。下手に動かせば、たちまちに脆く崩れてしまいそう。

 「気が付いたか」

 思わず、いつも通りの声音で言う。どこかあてもなく虚空を彷徨っていた視線の焦点が、セイバーの表情で重なる。ぎこちない動きで手を持ち上げると、彼女は、恐る恐る己の唇に触れた。探るように、求めるように、細い指先が唇を撫でた。

 音もなく、動きもなく、まるで制止したかのような時間の中、じわりと滲んだものだけが物悲しい生命の吐息を漏らしていた。雨に紛れて流れたものに、セイバーはただ痛ましく声を喪うしかなかった。彼女はまだ、こういう時、なんと口にしていいか、わからなかった。沈黙という身振りで困惑しながら、さりとてその困惑を受け止めることしか、できなかった。何せ、彼女自身すら喪失のただ中にいるのだから。

 一時的なものとはいえ、あの少年は、自分のマスターだったのだ。極めて短時間だったけれど、あの少年に何か惹かれるものがあるのは、彼女自身も感ずるところだった。年相応の子供っぽさを感じるけれど、上に立つ者としての自覚を持ち始めた見所のある少年だった。ただ短時間だけの出会いだったというのに、個人的にも客観的にも、喪失感は少なくない。

 まして、それがずっと寄り添ってきたサーヴァントならば……推し量ることすら、烏滸がましい、だろう。

 「私ね、あの人を、守ってあげたかったの」

 無表情以外の情動をとれない、こわばった表情のまま、彼女は嘔吐するように声を漏らした。

 「元の世界に帰れるまで、私が守ってあげたかったの。あなたに、生きていて欲しかったのに」

 くしゃりと歪みかける表情。それができない強張り。情動を喪失した《貌》の現象の中で、無と無限がせめぎ合っている。

 (しず)かに、骨が軋む。セイバーの控えめな静止も効かず、アーチャーはおぼつかない様子で立ち上がった。

 「投影、開始(トレース・オン)

 右手に、短刀(ナイフ)が現れる。刃渡り20cmほどのコンバットナイフの柄を逆手で握りこむなり、彼女は大きく腕を振り上げた。

 「トーマの命を吸った魔物、なんて」

 そうして、そのまま己の胸へと、

 「生かしておくか──!」

 

 

 這う這うの体で岸壁に張り付いた時、“死徒”が抱いた感慨は、苛立ちと喜悦の両方だった。

 「人間風情などそこいらの下級隷属種と同じ戯けと思っていたがな! この私に仇名すとは不愉快極まりない。あの魔女め、何を仕込んだ?」

 口では悪し様にののしりながら、その声音の奥に、厳かな尊敬が滲んでいる。肩で息をしながら、“死徒”は、降りしきる雨の中、ずぶ濡れの姿で川縁にまで這い上がっていく。スフィアからこの身体に戻ってからこの方、妙に身体が気怠く、動くことすら億劫だった。よく見れば、橋の上に転がる魔獣たちもほとんどが死に絶えている。赤い斑点を全身に浮かんで、苦悶の顔を浮かべて死んでいる。

 ──この身体(ボディ)自体は悪くない。

 ごろりと寝転がった“死徒”は、心臓に穿たれた孔を感じながら、浅い呼吸を繰り返している。 ()()()との親和性が高い。格も申し分ない。あの“真祖”の身体を使えなかったのはもったいなかったが、それを補ってあまりある。もう少し時間があれば、この身体を完全に使役することもできただろう。だが、もう時間がない。この身体をベースにするならば、完全な顕現に至るまで百年単位の時間を要する。普段であればその程度の時間、瞬きのようなものなのだが。今だけは、時間がない。

 この身体では、あの()()()()()に、勝てない。

 いや、そもそも。

 「来たか」

 今まさに顕現する”外なる神”に、勝てる要素がない。

 微かに、背に振動を感じる。表情が歪んだのは、喜悦か恐怖かそれとも別か。盤踞、と立ち上がった“死徒”は、真正面に、その姿を見据えた。

 赤い死が、そこに立っていた。

 ゆらゆら、と食腕が背中で蠢いている。千切れた左腕を右手に持ちながら、蒼白の眼光がぎらりと視線を見返した。

 「返せ」

 千切れた左腕を、腕の切断面に押し当てる。不定に蠢くなり、瞬きの間すらなく、腕が復元した。

 「トーマを、返せ!」

 ふ、と視界からあの赤い影が跳んだのと、“死徒”が魔獣を吐き出したのは同時だった。

 外套の裏から、溢れるように湧き出す魔獣の群体。畸形の人型めいた怪物、四足の獣、植物めいたおぞましい生物。あのサーヴァントとかいう生命体すら、この生物の壁を突破するのは至難の業だろう。

 だが。

 「『是、射殺す百頭(ナインライヴス・ブレイド・ワークス)』──!」

 一瞬、魔獣たちが宙を舞う。ただの一瞬だけで数十匹が巨大な石斧に叩き切られ轢断され押しつぶされて絶命し、次の瞬間でさらに数十が同じ末路を辿った。そして三瞬目には、もう、あの魔獣の群れを突破した颶風が迫っていた。

 「投影、開始(トレース・オン)!」

 「凄まじい強さだ、黒森の魔女! かつてのように貴様と交われなかったのは本当に残っ」

 「雑音が嘯くな!」

 ずぶ、と突き出された黄金の剣が開いた口に飛び込み、そのまま頚椎まで貫通した。構わずに“死徒”が右腕を持ち上げかけたが、遅すぎる反応だった。いつの間にか、傷だらけの左手に握られていた剣が迸った。

 さらに2太刀、3太刀。神速の剣戟は、刹那の間すらなく“死徒”の四肢を切り刻んでいた。

 「『勝利すべき黄金の剣(カリバーン)』!」

 「て、転移を!?」

 黄金の剣が頭をかち割る瞬間、視界が空転した。

 どぷり、と視界が切り替わる。真名解放の瞬間に開いた大転移構造体(グレートツリー)への入口に、間一髪で飛びこめた、らしい。

 この地球の英霊なるものが振るう、宝具。あれを侮ってはいけない──胸に穿たれた孔を意識しながら、思案が回っていく。

 たかが下等種の武器と侮っていたが、この身体をあそこまで滅ぼすあの魔槍。そもそもあの下等種族の分際で、高次元の窓を開き得る武具を作るなど、想像すらしていなかった。人間、という生き物を侮るべきではない。

 今更にどっと噴き出す汗を感じながら、“死徒”は、神代へと伸びていく一本道にかじを取りかけた瞬間、ぐえ、と声を漏らした。

 首根っこを掴まれたかのような感覚だった。というより、真実、“死徒”の首根っこを何かが鷲掴みにしていた。ぎょっとする束の間すらなく転移構造の中で引き倒され引きずりまわされるなり、また、ぐにゃりと視界が反転した。

 びちゃ、と水の槍が頬を突く。空から降りしきる雨、昏い空。また、あの煙る都市が、目の前に広がっていた。

 「転移構造から直接サルベージして──!?」

 続く言葉はなかった。右で首をねじ切るほどに鷲掴みにされ、声すら出なかった。そうして、ずぶ、と胸に空いた孔に、赤い影の左手が突き刺さっていた。ぶちぶち、と何かを引き千切る音は、多分実際体組織が千切れる音だったし、何か別なものが自分の身体に浸潤してくる悍ましい感触に神経が悲鳴を上げた音でもあった。

 ずるずると自分の身体から何かが引きずりだされていく。数多の生命情報が無理やりに引き出され、下界に吐き出されていく。滂沱のように噴き出す未成熟の魔獣たちがのたうちまわり、周囲の魔獣たちに捕食されるがままになっていた。

 「見つけた!」

 苦し紛れに再生させた腕を振るった時には、もう、敵は一歩引き下がっていた。小さな身体に、あの地球人の身体を、亡骸を、抱きかかえていた。

 「セイバー、トーマのこと、見てて!」

 宙に、その体を放り投げる。いつの間にか魔獣の群れを突破していた黒い影が飛び出すなり、宙に舞った体躯を抱き留めていた。

 「あとは、私が()る!」

 

 ※

 

 アーチャーが再度、魔獣の群れに猪突していく。群がる魔獣たちなどまるで居ないかのような機動で突破し、近づくものは背中から生える対の刃で斬殺し、既に肢体を再生させた“死徒”に斬りかかっていく。

 ただの蹂躙。あの“死徒”の本体がそもそも強くない、ということもあるだろう。だが、サーヴァントと同程度の強さではあろう。それを問答無用で斬殺し刺殺し轢殺し続けるアーチャーの強さは、常軌を逸していた。

 ──あれでは、呑まれる。

 常軌を逸した強さには必ず理由があって、その理由次第では、自らの破滅すら呼びこみかねないものだ。あれは、そういった類のものなのではないか? 卑王が、卑王に成り果てたように。いや、既に飲まれ始めている。彼女は、自らの裡に巣食う魔性に食われ始めている。そんな時に、何が必要なのか、セイバーはよく知っている──。

 「トウマ」

 戦慄とともに、セイバーは、腕に抱きかかえた少年を見下ろした。

 こうして、触れているとよくわかる。蒼褪めた肌。冷たい感触。動かない胸郭。もう、生きて、いない。

 顔に触れる。まだまだ未熟ながら、精悍さを帯び始めた少年の面影だけが、蒼褪めた顔に微かに残っている。体つきも、セイバーからすれば十分とは言い難いが、それでも太い筋肉質の体躯からは、相応の鍛錬の痕を感じさせた。

 1つだけ。この死の淵に落ちた少年を、この現世に留まらせる術がある。魔法にも並ぶ、死者蘇生にも等しい禁忌の術を、セイバーは知っている。しかも、知っているだけでなく、それを実行する術すらも、ある。

 だが、彼女は、その術をすぐに行えなかった。

 逡巡があったわけではない。迷いすらも、なかった。彼女は彼女の正しきと信ずる道に従い、それを、実行するのになんの躊躇いもありはしなかった。ただ、1個だけ。自分の勝手な行為によって、きっと悲しむであろう今のマスターとかつてのマスターに対して、申し訳なさのようなものを感じてしまったのだ。彼女が彼女であるが故の、高潔さだった。でも、だからこそ、彼女はその己の未熟を受容した。きっと彼も、彼女も、むしろ今ここでその術を為すことに反対するはずがない、と知っていたから。

 聖剣を、地面に置いた。今は、敵を害し人を護る剣は不要(いらない)。今必要なのは、癒しによって人を護る、理想の(さと)。 

 想起(イメージ)する。かの黄金の聖剣、そして白銀の聖槍に並ぶ尊きもの。

 ──燈が、腕の中に熾る。

 「現れよ、我が心の鞘」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅶ-2

 空に、月が、2つ浮かんでいた。

 屋上から見上げる空。開けた空を見上げたエリザベスは、ただ、呆然とその様を見上げていた。

 エリザベス女王の知る由もないことであり、また、この戦場に居る誰しもが知らぬことではあった。真祖が振るう、精霊種としての力能。霊子情報と根幹世界に干渉し、同じ幹から枝分かれした並行世界……選定事象にまで及ぶ世界事象から朱い目報を引き出し、ありうべき自然事象であるならば再現する恐るべき力。『空想具現化(マーブル・ファンタズム)』、という名のその力を知るものは、極めて少ない。

 ただ、直観的に理解はしていた。あの朱い月に敵う魔術は、恐らくあらゆる未来を含めて存在し得ない。空想具現化の中でも最上位の具現、『月』と言う星の形而上学的実体を具現化させて叩き付ける“月落とし”に敵うものなど、ありはしない。

 「打ち砕く雷神の指(トールハンマー)、セット。『黄金演説(ゴールデンスピーチ)』、解放(リリース)

 だが、エリザベスはにべもない、といったように、それに抗うための術を設えていく。8つの宝石を宙に投げる。舞うように宙に展開した宝石同士が結節し、多重の魔法陣を展開していく。

 (本当に勝てるんだな、エリザベス女王!)

 「英国人(あなた)が見ているんですもの、負けるわけにはいかないわ」

 (いい減らず口だよ。私が発射タイミングを指示する、余計なことは考えずにそいつをぶっ放すことに集中しろ)

 宝石剣を構える。なんとか傷口を補強したお陰で、両手で剣を支えられている。腹に孔は空いているが、もう構うものか。いっそこのまま裂けて余分な贅肉が零れたほうが、色々気分が楽になるかもしれない。

 「忌まわしい秩序の飼い犬が! 今ここで、私のこの手で、押し寿司みたいにぶっ潰してあげるわ!」

 “真祖”が腕を振り下ろす動作が、多分、発射キーだった。

 空に浮かぶ月が落ちる。遠近感も現実感も何もかも脱落したその光景は、まさしく空想の出来事としか認識しようもないほどだった。朱色の紅蓮に染まった月は、酷く緩慢な速度に見えた。巨大であるが故にそう見えただけなのか、それとも自分の意識が朦朧とし始めたが故なのかはわからなかったが。

 「主が私をお選びになったというのなら。主よ、私は、あなたを変わらずに信じます」

 (今だ、撃て!)

 「我が真名、妖精の女王を担う栄光の名の解放を以て、そしてこの肉体(少女)(わざ)を以て、主の御意志を此処に執行せん!『薔薇の王笏よ、威光を示せ(グロリアーナ)』!」

 「無駄ァ!」

 「いっけえ、無限エーテル(キャノン)!」

 宝石剣が震える。宝石剣が宝石剣たる本領を、解放するその時を待っている。

 展開した魔法陣によって加速した魔力の砲弾が射出され、虹色の閃珖が迸った。

 

 ──神秘は、より高い神秘に抗えない。

 それは、この世の理のようなものだ。古きものの力は、新しきものを乗り越える。この絶対法則を破る手段があるとするならば、神秘の質を上回るだけの量を持ちださなければならない。端的に言えば、質を上回るだけの量を持ちだせるなら……最新は、神秘を凌駕し得る。

 だからこそ、その月落としは最強の攻撃なのだ。直径3500万km、7.3×1022 kgの質量を持つ『月それ自体』の形而上学的実体を抽出することで形成される幻想の月の神秘は、質だけでなく、量すらも地球に住まうあらゆる存在を凌駕する。これを打倒するには、むしろ質ではなく量において、神秘を上回らなければならない。

 ──端的な矛盾である。圧倒的な古質の神秘を新しい神秘で打倒するには膨大な量を用意しなければならないのに、量においてすら圧倒的。畢竟、この世界に、あれを上回れるものはない。

 だから、その光景は当然の結末ではあった。エリザベス女王が放った虹光の奔騰。魔力(マナ)を光の運動そのものに変換して打ち出された砲撃は、空から迫る月の前に、あまりに頼りなく霧散していく。魔力加速のための魔術など、到底意味を成し得ず、抽出された『月それ自体』は、造作もなく落着した。

 はず、だった。

 “真祖”の表情に緊張が奔ったのは、月を落としてから5秒、あとだった。

 とっくに月が周囲一帯を破壊してしかるべき時だったのに、まだ、一切の破壊は起きていなかった。いや、それどころではない。まだ月は墜落していない───寸でのところで、推し留まっていた。

 否。押し留めるだけではない。拮抗した膂力の鬩ぎ合いは徐々に均衡を崩し、紅蓮の月が徐々に光に飲まれて削れ、あまつさえ押し返され始めていた。馬鹿な、という思考すら浮かび上がらず、彼女の朱い目には、その度し難い光景だけが焼き付いていた。

 別に、特別な論理が働いていたわけではない。単純にして明快な事象。『月それ自体』を上回るだけの神秘ないし魔力をぶつけている、というそれだけの理屈だった。だが、そんな事象が有り得るはずがない事象であることは、誰よりも“真祖”こそが理解していた。この星の触覚たる“真祖”が振るう技、かつて月の王が振るった絶技に拮抗するものが、19世紀ロンドンにあるはずがない。“真祖”の疑念と困惑は、至極当然で、正当ですらあった。模倣され、再現されただけの彼女が空想具現化で再現できるものには限度がある。この“月落とし”とて、月の王が振るったものとくらべれば天地の差はあろう。だが天地の差はあれど、その威力は英霊などを殺してあまりあるはずなのだ。事実、遥かに枝分かれした世界から、月の王が行ったあの瞬間の霊子情報を引っ張り出してきて再現したこの“月落とし”は、たとえ対界宝具とて迎撃できるはずが───。

 そこまで思考して、“真祖”は理解した。理解、してしまった。

 “真祖”を破る術は、魔術にはありはしない。それは変わらず、冷厳に存在する事実だ。だが、かつて“真祖”の原型たるものを破ったのは、魔術では、なかった。

 不運というべきか、それとも運命というべきだったのか。“真祖”がこの世界に呼び込んだ霊子情報の、付帯情報こそが、致命傷だった。何せ、彼女が呼び寄せたものこそは、朱い月をその力によって粉砕したものだったのだから。

 ──魔法。世界に5つしか存在しない、世界を超える術。その二番目、並行世界運用こそ、“真祖”が敗れる道理だった。

 「紛い物の剣で真性に至るなんて!」

 「たかが月の1つや2つでビビってるような甘ちゃんじゃあねえ、国を護るなんて、できやしないのよ!」

 拮抗が、崩れていく。月が、押し返されていく。いや、割れていく。あの宝石剣から放出される無限の魔力砲が、『月それ自体』を凌駕する。質、量ともに最強であるはずの月落としを超えていく。この世界の魔力の総量で上回れないなら、無限に広がる並行世界から魔力を拝借すればいい。たとえ如何なるものであっても、無限を超えることなど、それこそ論理的に不可能なのだから。そんな暴論めいた理屈だけで、最強の一手を粉砕していく。

 並行世界、あらゆる時制の英国から供与された魔力を以て打ち出される、まさしくは無限エーテル砲。“真祖”が最後に見たのは、月が砕ける瞬間だった。

 「あー、もう。外なる神なんて奴に呼ばれた時点で、嫌な予感しかしなかったけど」

 光に飲み込まれる寸前、彼女は、自嘲気味に声を漏らした。

 「これじゃあ、悲劇どころか喜劇じゃない」

 

 

 ふ、と力が抜けた。

 ぐらりと視界が揺れ、足元の感覚が喪失する。気絶して倒れるなぁ、なんて自覚がぼんやりと脳裏にあったけれど、だからといって、どうすることもできなかった。というかもう怠くてそれどころじゃなかった。

 自由落下するに任せてしまえば、次に来る衝撃は、背中と後頭部の強打で、

 「おっと」

 なんともまあ、呑気そうな声が抱き留めた。

 あやふやな視界に、白い影が映っていた。

 「お疲れ様、偉大なる我らが女王陛下。倒せると思っていたけれど、本当に倒してしまうんだねぇ、姫君を」

 耳障りのいい声だな、と思う。でも、だからこそ無性に腹が立つ声だな、とも思った。むかっ腹は立ったけれど、だからといって、何かしでかす気力はなかった。

 「やろうと思えば、なんだってできるのが人間ですもの。主がそれを導いてくださるのなら」

 今、彼女がその男に言い放てる精一杯の皮肉だった。ふふ、と小さく笑った男は、それでも、その実本当に感心したし、その通りだな、と思ったのだ。客観的に、それが彼女の【カリスマ】によるものだということは理解している。聞くものを心酔させる『黄金演説(ゴールデンスピーチ)』によって相乗される【カリスマ】のランクは、この大地(ブリテン)に根差すものであれば、A+にまで底上げされる。彼にとっても、それは例外ではない。あるいは、彼ほどの魔術師であればその洗脳にも等しいカリスマを跳ね退けることも不可能ではないのだけれど───敢えて、それをしていなかった。

 だから、なのだろうと思う。決して形と論理は違えども、彼女が外なる敵を討つために星の(ひかり)を、奮う運命(さだめ)を担うことになったのは、きっと、その高潔と気高さによるのだろう───。

 「あんなもんに負けるようじゃあ、メアリーに、馬鹿にされてしまうでしょう……」

 「もういい、大丈夫だ」うわ言のように声を紡ぐエリザベスを、彼は静止した。「霊核は上手く避けてるけど、重傷だ。治してあげるから、一度、郷に戻ろう。グッドクイーン、ベス」

 ふわ、と花が啓いた。

 

 

 「リン! リン──エリザベス!」

 屋上への出口を魔力弾でぶっ飛ばしながら転がり込んだライネスは、ただ、目の前に広がる空無に、足を立ち竦めた。

 無の静寂が、風となって拭いている。厳かな剣呑さすらある闃寂が、延長していた。

 ただ、虚しく、ライネスはその光景を見やる。絶体絶命の状況を跳ね退けて見せたエリザベスと、この余韻を分かち合いたかったというのに、エリザベス女王は、跡形もなく消滅していた。

 当然と言えば当然──そんな思考が、冷たく過る。分不相応の力を振るえば、かならずその反動がくる。ただそれだけの事実だ。

 ───そんな思考ができる自分が、今だけは不愉快だった。ライネス・エルメロイ・アーチゾルテは、元から、あんまり友達の居ない人生を送ったのだから。

 《すみません》

 「いい、君のせいじゃあない」

 内奥に響く司馬懿の声の返答も、なんだかにべもなくなってしまう。F●●K(クソ)、と吐き捨てたライネスが天を仰ごうとした時、ふと、背後に感じる気配に踵を返した。

 「やっと気づいた。随分無礼な影法師ですこと」

 ぞわ、と肌が粟立った。

 あの、白い貴人が───“真祖”が、立っていた。しかも、瑕らしいものは、一つとて無く。

 「あなた、割と目が節穴ね。それどころじゃないのかもしれないけれど」

 「は?」

 なんというか、ライネスの返答は、物凄く間抜けだった。じとっとした目でこっちを見据える赤と紫の妖眼(ヘテロクロミア)に、ありありと失望と───揶揄いが宿るのを、今更に理解した。

 「その魔眼でよく見なさい。今の私は、あなたの魔力弾一発で消滅するくらいに空っぽよ」

 「あ」

 「真体ならともかく。紛い物の私程度じゃあ、あのクソデカビームぶっぱされて無事じゃあいられないっての」

 脱力、した。“真祖”の言い分が、嘘ではないことはすぐにわかった。魔力の流れを精緻に観測することに特化したライネスの魔眼を以てしても、“真祖”は、まるで魔力が残っていなかったのだ。空っぽ、という表現は、極めて正しかった。

 「ふゥん」

 緩慢な素振りで、“真祖”が、近づいた。身構えたけれど防御しなかったのは、事実、目の前の“真祖”は、もうライネスすら倒せないほどに弱体化していたからだった───けれど、多分、本当の理由は別だった。

 逆立つ黄金の髪の下、荒れ狂うが如き形相はもう無く。なんだか、ネコみたいな顔をしていたな、と思ったからだった。

 「私、殺されかけたのはこれで3度目。あのキャスターの面は拝んだから、私の挙動を全部見切ってた人がどんな奴なのか見てみたくてね」

 “真祖”が、手を伸ばした。ライネスの頬に触れ、手触りを確かめるような仕草をする彼女は、とても、蠱惑的だった。

 「私と同じ、朱い魔眼」

 小さく、彼女が微笑した。悍ましいほどの凄絶を秘めた、穏やかな、微笑だった。あの女王様も赤い服だったわね、と独り言ちる言葉は、言いようもなく流暢で、這い寄るように耳介を舐めた。

 「気に入ったわ。懐かしい気持ちにしてもらったお礼は、ちゃあんと、返してあげる。私が必要になったら、呼びなさい。その時は───私を倒した責任、ちゃんと、とってもらうんだから」

 ふわ、と風が吹いた。まるで風に浚われるように、“真祖”の姿が掻き消えていく。あ、と手を伸ばした時にはもう遅く、伸ばした指先は、ただ空だけを切った。

 と、指先に、何かが掠めた。思わず掴んだライネスは、その、手に残ったものを見つめた。

 淡い色の、花びらだった。指を開いた瞬間、また風に乗って飛び立った花びらは、空へと溶けていった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅶ-3

 死──。

 面前に占める言葉の群れに苛まれながら、彼は、まだ生きていることを自覚した。

 《我らが王、早く再起動を! このままでは》

 《何をしている! たかが英霊の3騎に何を手こずっているか!》

 《なら卿が相手をしたまえ、私に責任を擦り付けないでいただきたい! 私はただの盗人で、戦いの素人だぞ!? 第一もう私は仕事をしたではないか!》

 《勝手に動くな馬鹿者、割り込まれ──おギャア!?》

 《ゼパル!?》

 ぐわんぐわん。悲鳴が、頭の中に響いている。解けるような感触が全身をのたうち、彼は、慄くように、顔を覆う手、その指の隙間から、その光景を覗き見た。

 さきほどの広場から、南西2km地点。メインストリートから少し裏手に入った、やや広い道……忌憚なく言えば、浮浪者が吹き貯まるような広場に居た。

 うまく作動しない【千里眼】で、その様をすかし見る。僅か2kmの合間に縦深陣のように展開した眷属たち……魔神柱たちが、まるで蜘蛛の子を散らすように伐採されている。薙ぎ倒され、轢断され、圧殺され、呪殺されている。魔神柱の陣形の隙をつく最速の侵攻ルートを侵略するあの3騎と1人を止めることなど、魔神柱如きでは到底できやしない。

 雑音のように反響する魔神柱同士の罵り合い。間近に迫る、昏い感触。戦きによって、まともに動こうともしない身体。一種の酩酊状態。既に、精神は崩壊していた。

 最後の一押しは、千里眼越しに見えた、眼、だった。

 あの、錆びた赤銅色の髪の女の双眸。底なしの深い毒沼を思わせる、光の無い眼。千里眼で透かし見た時、何故かその眼に捉えられたような気がした。もちろん、これは錯乱しているが故の気のせいでしかなかったのだが、譫妄に陥ってしまえば、現実と妄想の差に大した意味はなかった。ただ、その眼に宿るものに、最後の理性が吹き飛んでいた。

極めてプリミティブで、吐瀉ほどに純粋な指向性。ただ、対象を害しようという意志。要するに───殺意、という指向性が、その眼にあった。死を齎そう、という明白な指向性、意思の発露の前に、彼はほぼ、折れていた。

 「宝具を使う」

 《……何を仰られる?》

 「宝具を使うと言ったのが聞こえんのか貴様は!? 第三宝具によってあの破廉恥な者どもを殲滅するのだ!」

 《いけません! 我らが王よ、ご再考のほどどうか! あれをいたずらに使えば、本懐を遂げることすらままなりませぬぞ! 貴台様の大きな夢、よもや忘れたわけではございますまい!》

 「魔神の分際でこの私に楯突くと申すか貴様! 貴様もあの下賤の輩と同じだ、諸共に討ち果たしてくれるわ!」

 宙に、跳んだ。

 

 

 「何だありゃ?」

 呟きのように漏らした金時の困惑は、至極当然の景色では、あった。

 あの肉茎の如き魔神に目標を退避させられ、同時に無数に湧き出てきた魔神との戦闘が始まって、既に5分。元より敵の指揮系統はぼろぼろだったけれど、今はそれどころですらなかった。

 魔神の1柱に、他の魔神柱たちが群がっている。焼き尽くされ、絞殺され、叩き潰され、さながら私刑(リンチ)のような光景が繰り広げられている。嬲り者にされる魔神柱は抵抗すらできずに、さりとてその特性故に楽に死ねず、生きながら焼け焦げた肉塊にさせられていた。

 同士討ちならまだわかる。だかこれは、そんな高尚なものですらない。癇癪を起した子どもが、羽虫を叩き殺すような光景だ。玉藻の前は、眉を顰めた。

 だが、それよりも。

 玉藻の前がたじろいだのは、その、先の景色だった。

 悍ましい肉茎たちが絡み合う、後方2km先。宙にぽっかりと浮かんだ人型の、その直上。

 分厚い雲間が、そこだけ裂けていた。圧縮された膨大な熱量によって雨雲どころか大気まで蒸発し、雲間に刳り貫かれた夜闇の孔に、光芒が閃いている。低軌道(LEO)に展開していたあの光の環。

 ──光帯が、収束、していた。

 「集束魔力砲──!」

 その数千km先の魔力を探知できたのは、玉藻の前の為せる業だった。この距離での減衰率を考えても、あの魔力砲の威力は文字通り桁が違う。

 「タマモちゃん?」

 玉藻の前の腕の中で、リツカが不思議そうな顔をした。次いで玉藻の前の視線を追った彼女は、既に球形に集束しきった光帯を、見た。

 「フジマル様。わたくしからお願いがあります、九尾を展開すればあの砲撃もあるいは防げるやもしれません。ですからその隙に」

 「ありがとう、わざわざ。でも却下」

 「フジマル様!」

 よいしょ、と一言。呑気そうに言いながら、リツカは玉藻の前の腕から、降りた。

 「あなたがその力は、ここで振るうためにあるわけじゃないでしょう? あなたには、本当はあなたの戦場がある。違うかな」

 「どうして」

 「だってあなた、女の子でしょう? 可愛い顔してるもの」

 にへら、とリツカは表情を緩めた。それから「よし」と静かに、強く声を吐く。ぴしゃりと頬を打つと、「ここは、私たちが戦うべき場所だから」

 「マシュ! マシュ・キリエライト」

 リツカに呼ばれて、マシュは、おずおず、と前に出た。いつにも増して、マシュは塞ぎ込んでいるように見えた。そんなマシュの姿に、リツカの表情は伺い知れない。

 「マシュ。マシュは良い子だね」

 伸ばしたリツカの手に、迷いはない。一瞬だけ逃げるように身動ぎしたマシュは、されど、彼女の手を甘んじて受け入れた。

 「マシュ、あなたはまだ答えを出せていない。そうだね」

 小さく、白い髪の少女が頷く。それに合わせて深く頷くと、リツカはそれを責めるでもなんでもなく、ただ、相槌を打つように頷きを返した。

 「マシュ、あれを止めようか」

 なんでもないように、リツカは向こうを指さした。低軌道に浮かぶ、この星を焼き尽くしかねない魔力を、何の気なしに。

 「そんな無茶を仰っては!」

 咄嗟、身を乗り出した玉藻の前を金時が制した。ぎろりと思わず獣の如きに睨んだ時、玉藻の前は己が行為を恥じた。2人の佇まいを鋭く見守る金時の佇まいに、己が分不相応の僭越を情けなく思った。でも、だってそうせざるを得ない。彼女は、どうしようもなく“視えて”しまうのだから。

 一拍の、間。正視するリツカに対して、マシュの視線は頼りなかった。頼りないながらも、リツカの眼差しから逃れようともせず───でもやっぱり、躊躇、していた。

 「私はね」

 リツカが、溜息を吐いた。自分の羞恥を誤魔化すように肩を竦めて見せると、忌々し気に、空に浮かぶ光を睨んだ。

 「時々、確信が持てない。この世界が守るべき価値があるのかどうか、わからないんだ。いっそ、こんな世界、私が作り替えてしまった方がマシなんじゃないかって思ったりもする。カルデアに貯蔵された聖杯を使えば、もしかしたらそんなこともできるかもしれない。でもそれが良い結果になるはずがないんだ。私1人が考えたものなんて、所詮は私の妄想でしかないから。この世界は間違っているけれど、でもこの間違いを無邪気に糺すのは、多分いい結果にならないし、だから正しくないんだよ。それも」

 「……」

 「まぁ、私も、答えなんて出てないんだ。何もかも」

 ぎこちなく、リツカは笑って見せる。未だ、マシュの視線は揺れていた。でも、声を飲み込んでから、マシュはようやっとに声を絞り出した。

 「止めます。私が止めてきます」

 ぽんぽん、とリツカは自分よりちょっとだけ背の高いマシュの頭を撫でた。

 それがまるで別離のように。言葉もなく互いに視線だけを交わし合うと、マシュは跳んだ。あの破滅の光へと、ただ向かって。

 「マシュのこと、守ってもらえるかな」

 リツカは、小さく丐眄した。普段と変わらない佇まいのまま。いじましく側頭部の髪の一房を弄りながら。

 

 ※

 

 「仮想宝具、装填」

 大きく、息を吐いた。己が身体に揺蕩う緊張を解すように、あるいは強張った弛緩に縛り上げるように。盾持つ右手の膂力を確かに、左目で、天に階の如きに閃く汚濁の光を正視する。

 「マシュ、防御することだけに専念しろよ。あいつを煮るなり焼くなりするのは、後からいくらでもできらぁ」

 「マシュ様のことは(わたくし)がなんとしてもお守りします。ですから、どうか後顧の憂いなく」

 2人の声が、遠く耳朶を打つ。肩に触れる手触りからして、金時と玉藻の前はすぐ隣にいるのだろうけれども、それでも2人の声は遠い。それだけに、沈思は深く、専心は鋭かった。

 リツカの、言う通りだな、と思った。

 答えなんて出ていない。“人”をこの目で多く見てきて、得たのは、まだ、ただ数多の集積以上ではない。“私”の答えはまだ、輪郭すら定まっていない。

 「呪層界・怨天祝奉──マシュ様とタイミング合わせてくださいよ?」

 「あぁ? そりゃこっちの台詞だ」

 でも、多分───。

 胸郭に膨らむ焦燥。でもそれすらも不快はなく、ただ黒い思案が、盾を握る力を強くした。

 「疑似展開……」

 「来ます! 呪相・吸精!」

 「じゃあな、先に往ってるぜ!」

 目を、見開いてしまった。だってそうだ。今まで隣にいたはずの、金時の体躯が、一瞬で燐光に包まれていく───エーテルの肉体が、解きほぐされていく。

 「ジャンジャンバリバリ行きますよぉ! 『水天日光天照八野鎮石(すいてんにっこうあまてらすやのしずいし)』! いやー今回の召喚では大活躍ですねぇ!」

 そのまま大気に溶けていくはずのエーテルを即座に回収するなり、マシュの呼気を通じて血肉と化していく。

 いや、それだけじゃない。玉藻の前の出で立ちも、もう変わっている。あの群青色の服ではない。白亜の装いに身を変えていた九尾の姿は、まるで、天上に住まう貴き者そのものであるかのような錯覚を覚えた。だが、その姿も一瞬のことだった。九尾の何本かが千切れ飛ぶなり、魔力に変換されていく───。

 「フジマル様はああ仰っていましたけど。私もこのくらいのことやってみせなけりゃ、ご主人様に顔向けできませんし! 修行なんて、ちょーっと頑張り直せばいいだけですから」

 にこり、と隣で玉藻の前が微笑んで見せる。その行為がどれだけの重さがあるのか、マシュにはよくわからなかった。だが、確かなこともある。分解された6尾をリソースに得た魔力の質。金時のものと合わせての、マシュの霊基出力の向上具合を見れば、それを、推し量ることくらいはできる。身命を賭した金時と、恐らくそれに等しいものを差し出した玉藻の前の覚悟くらい、たとえ人に疎いマシュであっても、推し量ることはできる。

 奥歯を噛みしめる。歯堤が砕けるほどに咬合する。脳みそが焼き尽くすほどのその情動。多分、マシュは、キレた。

 光が、迸った。音すら焼き滅ぼしながら、数多を無に帰す光の波濤が、押し寄せた。

 「崩呪・黒天洞!」

 「『人理の礎(ロード・カルデアス)───!』

 自らの裡から啓く閃光。それを盾の形に想念し。

 そうして光が飽和した。

 展開した力場に膨大な熱量が接触した、その感触すら無かった。全ての感触が漂白されたような、永遠にも等しい刹那。自我など一瞬で消し飛びかけるほどのただ中、玉藻の前の励ますような声も、掻き消えていた。

 ……時間が止まったかのような光景だった。

 あの光。この世界を焼き尽くし得る光帯の熱量を防ぐものは、この地球上には在りはしない。自明な論理だ。

 なら、この論理もまた、自明では有ろう。この世界を焼き尽くす熱量を防ぐなら、この世界以上のものを持ち出せばいい。この世界そのものを上回るものであれば、その熱量を防げない道理はない。この世界そのものを包括するものを───この世界を、包み込めるほどの想念を持ち出せば、世界を焼き尽くす火など、蠟燭の火と、変わりはない。

 続く、地獄のような時間。星を徹す熱量を防ぎながら、マシュ・キリエライトは、想起している。

 これまで見てきた世界の人たちと、これから続いていく世界の人たちを。冬木での景色と、オルレアンでの景色。ローマでの景色。あの海原での景色。この、倫敦での景色。

 いや、それだけじゃあ、ない。あの日あの時。崩落する管制室の中、自分に最後の別れを告げて、瓦礫に潰されていた自分を看取って、立ち去った、リツカの姿を。

 残念だ、と思った。あの時感じた想いは、今も変わらない。この人の為に───強くて、寂しいこの人の傍に居たい、と思ったこの想いは、多分もう、果たせないのだから。本当に、残念だな、と思う。

 でも、大丈夫なのだ。まだ、彼女の道行を支えていける人たちは、いる。クロも、トウマも、ダ・ヴィンチも、ロマニも、カルデアで働いている人たち全員が、支えていく。だからきっと。

 自分がいなくても、大丈夫───。

 ロード・カルデアス。その先を視たい、と祈り願われたその盾は、当たり前のように、星を貫く光を受け止めた。これから続いていく人理の礎を、敷くように。

 振り返ることもなく、ただ、光の波濤を見据えながら。背に感じるあの人の存在を感じて、マシュ・キリエライトは消

 「んにゃろー! 常世咲き裂く大殺界(ヒガンバナセッショウセキ)!」




今日が金曜日だと錯誤していました


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅶ-4

 《威力評価!───対象、未だ健在!》

 《馬鹿な! 第三宝具の極大照射だぞ!? この世にアレを防げるものなど……フラウロスめ、評価を誤りおったか!》

 《我らが王よ、発射体勢の解除を!》

 《何を言う、もう一発だ! もう一撃撃ち込めば、今度こそ》

 《その魔力が底をついているのがわからんのか戯け! 盗人、さっさと我らが王をお連れせんか!》

 《戯けは貴様だ! 馬鹿術式がさっさと砲撃体勢を解除せんと動けんだろうが!!》

 ただ、彼は、その景色を、放心して眺めていた。

 何もかもが、彼の思考力を上回っていた。一時の激情に駆られて、第三宝具をぶっぱなしてしまった己の愚行も。これで己の大業が成就する可能性が零に消え失せたことも。あの宝具を防ぎきってしまったマシュ・キリエライトの姿も。何もかも自失していた。己のスペックも、だ。さっきバーサーカーに滅多打ちにされ、もう瀕死であることすら忘れていて、砲撃体勢をとった魔神柱たちは彼がその指示を解かぬ限り自由に動けない、ということも忘れた。畢竟、もう、さっさと逃げるべき時だったのに、それを忘れていた。

 それも、致し方なきことではあったのだ。散々人間如きの手のひらの上で踊らされた挙句、3000年見続けた夢を自分の手でぶち壊してしまったのだから。理性的な存在者であればなおさら、思考が無になるのは当然だった。

 そして、もう一つ不幸がある。彼は、確かに全能に達する程の力を持っていた。だが、その全能は己の手で手に入れたものはなく、本質的に偶然降って湧いたものに過ぎなかった。力持つものが須らく身に着けている、思考以前の身体知による戦闘行為を、身に着けていなかった。要するに彼は力だけがある赤ん坊と、本質的に変わらなかったのだ。

 だから、それに対処できなかった。

 《敵接近、数1!》

 後ろ、という眷属からの報告は耳に入ったが、身体は動かなかった。だから、ずぶりと背中に激烈な痛みが走った時も、呆気に取られて、自分の胸から突き出た銀の剣を眺めることしかできなかった。

 「これは、マシュの分!」

 突き刺されたまま、地面に引き倒された。ごつん、と頭をぶつけて、酷く痛いな、と思った。

 仰向けに転がされた彼が見たのは、赤黒い血がべとりと付着した銀の剣を携えた、赤銅色の髪の女だった。

 そこからはただ為されるがままに、銀の剣が肉を抉った。一刺し、一刺し、全てに悍ましいまでの怨恨を込めて、女は物凄い形相で剣を振るった。既に肢体が千切れて首も捥げて、脳天はもう破砕されて腹からは内臓がまろび出ているといるというのに、彼女は無我夢中で剣を突き立てていた。

 「これは、マリーの分だ!」

 ぐちゃ。

 

 

 その光景は、端的に言うと、蹂躙だった。

 “死徒”はもう、とっくの昔に死に体と化していた。再生しては首を切られ、心臓を穿たれ、腹を裂かれた。無限にも等しい刀剣類に貫かれ、それでもまだ飽き足らぬとばかりに、赤い影は“死徒”を殺していた。

 「ねえ、早く、返してよ」

 奮う、黄金の剣。真名解放された選定の剣が“死徒”を、薪でも割るみたいに両断する。泣き別れになった肉体が必死に互いを求めて癒着を始めた瞬間に、切断面めがけて、黄薔薇の槍を突き立てる。ぎゃあ、ともがく姿など無視して、もう片方の肉塊を踏み砕く。

 「まだ返してもらってないわ」

 背後から襲い掛かる野犬を“悪魔の背骨”で刺し殺し───心臓がある方の身体を、黄金の剣で引き潰す。ミンチより酷い肉塊となった“死徒”は、この一撃で絶命した。いかに生命力に長けた“死徒”であり、無数の生命因子を持つといっても、当然限度はあった。そのリンチは無限にも思える生命を嬲り殺してなお飽き足らぬほどに、苛烈だった。

 だが、彼女の動きは止まらなかった。亡骸となった肉塊を侮蔑する紅蓮の如き蒼い双眸は、妙な、嗤笑すら浮かべていた。

 「だから、早く返せよ!」

 再度、奮う黄金の剣。既に死体と成り果てていた腐肉など、あっさりと蒸発させる、はずだった。

 「アーチャー!」

 だが、その寸差。僅かに割って入った聖剣が、黄金の剣と拮抗した。ぎち、と剣同士が互いにかみ合う。聖剣エクスカリバーと選定の剣、カリバーン。互いに至高に及ぶ黄金の剣同士は、一歩も劣らずに互いを両断せんとしていた。

 「卿は力に溺れている! そのままでは食われるぞ!」

 上段から振るわれたカリバーンを受け止めながら、セイバーは喘ぐように声を漏らした。

 確かに、カリバーンはすぐれた剣だ。それは間違いない。だが、(つるぎ)としての格は間違いなくエクスカリバーに軍配が上がる。切り結べば、間違いなくエクスカリバーはカリバーンを切り捨てられる。

 だというのに。

 「邪魔!」

 胸を突くような衝撃が撃つ。殺しきれないほどの衝撃に呻き声を漏らしたセイバーは、軽々とエクスカリバーごと吹き飛ばされていった。

 なんとか着地し、威力の気勢を足で殺しきる。カリバーンの威力が、エクスカリバーを上回った。ぞっとしたセイバーは、続く刃に備えて剣を構え、そうして、全てを悟ったのだ。

 アーチャーは、脱力したように、その場に佇んでいた。呆然と、思考すら働かない顔で、ただ錯乱するように自失している。戦慄するように震え、嗚咽を漏らして、青く変転した目から悲哀を落として、ただ、奈落に堕ちていた。

ただ、セイバーにできたのは、痛まし気にその名を呼ぶことでしかなかった。きっと、まだ、彼女は彼を喪ったそのただ中に、いる。あの獣の胎の中で、どんな過程でそうなったのかは知る由もない……知るべきでもないそのさなかに。

 ただし、どれだけ哀しいことなのか、今のセイバーには、少しだけ理解できる。同情することくらいは、できる。

 ──だから、カリバーンはエクスカリバーを凌駕する。

 あの剣は、言わば清廉潔白を善しとする、誓約の剣。あの剣を振るものに求められるのは、原初の願いを果たさんとする清く尊い心根なのだ。疾しき魔が僅かでも挿せば、あの剣は、己ずから折れてしまう。かつて、セイバーが誤ったように。

 だが、その願いに真直ぐであるならば。あの剣は、何物をも上回る一太刀となり得る。たとえ星の内海から生み出された聖剣であろうとも、人の祈りの集積、カリバーンは勝利すべき剣となって凌駕する。あれはそういう剣で、その剣がその本領を発揮しているというのなら、それが、真理なのだ。

 「影衣、解除(シャドーロール、パージ)

 なればこそ。

 セイバーは、全力で以てあの少女を止めなければならない。それがこの場に居合わせた()()使()()としての、最低限度の義務だった。

 黒い、影なる衣が溶けていく。かの剣士を隠匿していた衣が、解けていく。

 ふわり、黄金(きん)が咲く。いつかどこかにあるという、永遠の郷を想起させる黄金(こがね)の煌めきを従えた剣士が、そこにいた。

 「イリヤスフィール。私は、とてもうれしく思います。人の道理がわからない貴女であっても、こんな風に人を想える可能性がある。郷から抑止に呼ばれて、人理を護ることは最初から吝かではありませんでした。でも、私はもっと、この人の世が愛しくなった。私を滅ぼすことなく受け入れてくれた今のマスターにも、最大限の、感謝を」

 蒼銀の甲冑が、閃く。雨に濡れてなお高潔な光輝に満ちる、厳粛なる鎧だった。

 「聞き分けのない今の貴女に、どれほど言葉を重ねても無駄でしょう。だから私はあなたを止める! この聖剣を以て、卿の想いを受け止めて進ぜよう!」

 靡く、黄金の髪。肩まで伸びる嫋やかでしなやかな髪は、豊かに実った、秋の麦畑の穂を、思わせただろう。

 「卿がちゃんと戻って来れるように、ちゃんと彼に向き合えるように! 我が真名、アーサー・ペンドラゴンの銘において、卿を止めて見せよう!」

 聖剣使いは、厳かに、剣を掲げた。その真名において、エクスカリバーを掲げた。

 「イリヤスフィール……キツイの、行きますよ!」

 「トーマを、私に返してよ───!」

 「『約束された勝利の剣(エクスカリバー)!』」

 「勝利すべき黄金の剣(カリバーン)!」

 

 

 「フジマル様!」

 彼女を抱きかかえながら、玉藻の前は、その場に急いだ。

 尾数、残り2。サーヴァントとしては十分な出力だけれど、何せ魔力を使いすぎていた神話礼装も、今は形だけ展開しているだけで、耐久性は布切れと大差ないレベルに落ちていた。そんなこんななので、2km走るだけでゼイゼイ言っていた。

 そうして、辿り着いた時、玉藻の前は多分、真実哀しみとは何かを思い知らされた。

 ぶちまけた肉味噌の中、ちょこなん、と頼りげなく座り込む、小さな女の子。19歳。赤銅色の髪に、健康的な頬に、小さいながらもしっかりとした骨格の身体に、血を浴びた、少女が、居た。

 その振り返る様は、機械みたいだった。数多の部品で構成(アレンジメント)された、鮮やかな機械。

 「ごめん、結局」

 「いいんです。むしろ誇らしいくらいですよ」

 残り2尾になった玉藻の前の姿に、リツカは俯くように頭を垂れた。多分、顔を見られたくないのだろう、と思った。

 静かに、玉藻の前は、リツカの隣に腰かけた。汚れちゃうよ、とリツカが言うのも聞かず、血まみれの沼にしゃがんだ。

 「マシュのこと、ありがとう」

 「勇敢に戦っていらっしゃいましたよ。ご立派な、戦士のお姿でした」

 玉藻の前は、自らの腕に抱いた姿に、慈しみのかんばせを向けた。

 彼女の腕の中。薄く瞑目した白亜の髪の少女が、心地よいリズムに合わせて、呼吸をしていた。

 「戦うことは、もうできないかもしれませんが」

 リツカは、首を横に振った。もう、彼女が戦う必要はないんだよ、と声を漏らす様は、とても申し訳なさげに見えた。

 「フジマル様」

 マシュの顔を見下ろしながら、玉藻の前は口にした。ほんの微かに、彼女は身体を痙攣させた。

 「今は(わたくし)しかいません。カルデアの者たちも、聞いてはいらっしゃらないでしょう。ですから、どうか」

 先の言葉は、続かなかった。ぽすん、と胸を打った軽い衝撃の、その強さに感じ入ってしまった。

 声などなく、ただ、胸に顔を埋めて身を震わせる姿を、もう一方の手で抱き寄せた。幼児をあやすように、血みどろになった赤銅の髪を梳きながら。

 悦びがあった。憎悪を抱いていた敵をその手殺した、復讐の確かな悦びが。

 哀しみがあった。もう、逝ってしまった人たちに、何もすることができない切ないまでの哀しみが。

 狂えるほどの情動の嵐に直面して、人はただ、哭くことしかできはしないのだ。そうすることでしか、もう、触れることのできない人たちに出会う術がないのだから。そうすることでしか、今はもう、立ち去ってしまった人たちと触れ合うことができないのだから。

 ──だから、玉藻の前はただ沈黙した。沈黙という身振りの中で、ただ、藤丸立華(フジマルリツカ)が、死者たちと語り合うこの一瞬を、永遠のような一瞬を、牧人のように見守っていた。

 自分は、きっと、いい人生を歩ませてもらっている、と思う。だって、あんな素敵なご主人様に会えるだけでも最の高なのに、こんな人類(にんげんたち)に出会えてしまうのだから。儚く、弱く、脆く、だからこそ強く、しなやかで、健やかで、勇敢な人間たちに。

 ぶ、ち、り。

 ……もう一回、修行のし直しだなぁ、なんて思う。まぁ安いものだ。たったそれだけの時間で、こんなに素敵なことがあるのだから。

 もう暫く、お待ちください。きっと間に合わせてみせますから、ご主人様(マスター)

 

 ※

 

 焦げた蒼銀が、靡いている。

 風が、揺らいでいた。雨は未だ強く、テムズ川の水面に無数の波紋を作っている。

 赤い、小さな身体を抱いて、セイバーは歩いていく。橋の麓、蒼褪めて横たわる、その影に。

 セイバーは、彼を見下ろした。壁に身を預けるように横たわるその横に、並ぶように、少女の身体を預けた。

 2人並ぶ姿に、セイバーは得も言われぬ感慨に、胸を締め付けられた。気を失っているだけの少女と、静止してしまった少年。きつく口を結んだセイバーは、鞘を喪った剣に、風を纏わせた。

 戦いは終わった。この特異点を特異点たらしめた楔は、アーチャーの手によって既に滅ぼされた。あの“死徒”。ただ在るだけで人理を不定にしていた獣は、既に消えた。あとは、時代の修正を待つばかりだろう───。

 空を、見上げた。曇天の中、ぽかりと孔が開いた空は、青い空が、本当に青く、裂けている。

 (終わったかな)

 「ええ、終わりました」キャスターからの念話、だった。「今行きます」

 (なるべく早く頼む。少々手こずっている。流石は第一の獣だ。門を開く、そこから来られよ)

 「はい……それではまた。イリヤスフィール、トウマ」




そろそろ終わりです。年内に4章は終わらせたいので、近々また投稿予定です


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

歩みは暗く、深淵の源へ(終)

 ──終わったか。

 スモッグが垂れこめた空を見て、ジェームズ・モリアーティは軽い嘆息を吐く。似合わぬことをした、という自覚に頬を緩めながら、呑気そうに公園のベンチに腰を掛ける。右たない浮浪者が地面に転がっている。

 「所詮は悪ぶっているだけの善人さ」独り、言ちる。哀れみが少し。ほとんどは侮蔑の感情から発せられている悪罵であった。「そんな小童に悪事は為せないってね」

 モリアーティは空を見上げる。分厚いスモッグの上はどこまでも薄暗いばかりだ。

 己の役目は終わった。外から来た者たちとどう相対していくか、それは彼らの仕事である。表舞台に出るのはそもそも趣味ではないし、まして自分でドンパチするなんてのも面倒なことだ。

 あとは、この特異点が消えゆく束の間の自由を楽しむばかりである。

 と、モリアーティは背後からの足音に気が付いた。英霊とは言え、彼は老体である。身体を動かすのは、そもそも気怠いのだ。それでもきちんと立ち上がって身を振ったのは、彼が悪人でこそあるが紳士でもあったからだった。

 おや、と思った。

 紫紺を思わせる、深い色のブルネット。澄んだ眼差しは深淵の宇宙そのものか。結った赤いリボンは、さくらんぼを思わせた。

 「なるほど」

 モリアーティはまたも独り言のように呟く。自分に対しての、納得と同時に思考の呼びかけのようなものであった。

 「君が──」

 遠く。

 闇に、吠え声が響いていた。

 

 

 どうして、こうなったのだ。

 這う這うの体で這い回りながら、彼は、帰路についていた。

 負けた理由は腐るほどに思い付く。そもそも全力の神体ではなかった。あの小娘に踊らされた。あの特異点では千里眼が効かなかった。何故か、魔力が上手く回せなかった。魔神柱どもが勝手に好き放題し始めた。思い返せば敗因しかない。

 全能であるが故の驕慢。それだけならば、まだ良かった。だが、驕慢であるが故に油断してしまった。根拠もなく油断してしまった。全知全能でさえあれば、たとえ実際戦ったことなどなくとも、遍くを赤子の手をひねる用に蹂躙できると誤解していた。

 だが違ったのだ。赤子でしかなかったのは、まさに自分だった。全能に酔いしれ、(めしい)になっていたのだ。愚行に愚行を重ね続けた末路に、自らの敗北が待っていたのは、当然のことだった。

 悔しい、と、思った。そんな醜く、子供じみた感情を持ったことが驚きだったが、その感情だけはどうしようもなかった。あの赤毛の女にいいように遊ばれたことが、我慢ならなかった。既に薪は消え、大業成就のための燃料は失せていたが、そんなことは、もう、どうでも良かったのだ。3000年の夢など今更にどうでもよく──ただ、その魔術式は、人間染みた感情だけに囚われていた。

 「バエル! バエルはいないか!」

“神殿”に戻るなり、彼がしたことの第一がそれだった。

 「私には為すべきことがある! 七番目の特異点まで待たぬ! 力を貸さぬか、バエル……」

 そこまで言いかけて、彼は足を止めた。

 静か、だった。彼の第二宝具によって顕現するこの神殿が、夥しいまでの闃然を膨らませていた。いつもであれば、無限にも等しい魔神柱たちの蠢きが軋んでいるというのに……ただ、無だけが、厳粛にのたうっている。

 知らず、彼は人間がそうするように、焦って走り出した。壮絶な化身の損傷で消耗しきった身体は思うように動かず、時々転んで顔面を強打したり肩をぶつけたりしながら、己が玉座へと、向かい、

 「やぁ、おかえり」

 あの、沼のような双眸が睥睨していた。

 「思ってたより早かったね。まぁ、今のあなた如きじゃあ、先輩は止められない。当然の帰結だ」

 愉快そうに言う、小柄な女。病的な白い髪に、悍ましい赤い目が、ガキっぽく揺れている。横柄に玉座に腰を下ろした女は、あまりに無思慮に、本来座るべき者を見下していた。

 「それで、逃げ帰ってきたわけだ。人の道理がようやくわかって、これでやっと先輩ともちょっとはいい勝負はできるだろうけど」

 静かに、女が立ち上がる。彼は、その一挙動の度に、心底身を震わせた。

 だって、その女は。あの女と、同じ見た目をしているのだから。

 「何者だ」

 やっと絞り出せた台詞は、ただそれだけだった。だが、女の反応は、努めて失望気味だった。

 「この物語の過去でしかないあなたは知る必要が無い人。それだけだよ」

 「ふざけるな! どうして貴様の如き凡人が、この領域にいる!」

 ほとんど、感情任せの一撃だった。自らの身体より這い出した魔神柱の1つが、猛烈な勢いで殺到する。肌で感じた女の強さは、それこそ魔術のまの字も知らない凡夫と大差ない。通常ならば、反応すらできずに死滅していて当然だった。

 だが、そうはならなかった。

 柱が追突する瞬間、何かが奔った。鮮やかな一太刀、だった。ただその一撃だけで魔神柱は両断され、黝い血肉を撒き散らして、すごすごと彼の肉体へと戻っていった。

 「危ないっすよ、マスター。あんな様でも、まだビーストⅠなんすから」

 「どうも」

 「いえいえ」

 (しず)かに、影が揺れた。

 折れた剣を携えた、影なる英霊。何物をも見通し得ぬ洞の奥で、胡乱げな視線が、見返してきた。

 咄嗟、彼ができたのは、条件反射的な防御反応だった。同じように自身の肉体から這い出した魔神柱を叩きつける、という愚直な行動。そんな単純な防衛機制が当然成立するはずもなく、全て迎撃された。

 1柱は鎖に貫かれ、1柱は拳にへし折られ、1柱は車輪の如き武器に引き潰された。最後の1柱は──十字の如き、盾の宝具に激突し、合えなく粗びき肉団子と化していた。

 「うむ。魔術の祖、というのだからどれほどのものかと思えば。左程のものではなかったな」

 そうして、あと2騎。玉座の裏から顔を出した、影なる英霊。不可視の武具を持ちうる英霊と、魔術使いらしき英霊も加えて、計7騎が、玉座の女を囲んでいた。

 「申し訳ありません、遅れてしまいました。それと、鞘を」

 「まぁまぁセイバー。今はいいよ。ほら、()()()がいらっしゃる。無視してしまっては、失礼だよ」

 ころころ、と嗤うように女が言う。凄まじいまでの彼への侮蔑だったが、もう、彼はそれどころではなかったのだ。

 だってそうだ。この場に顕現する、あの英霊7騎。その全ての霊基は、間違いなく、

 「ありえん! 何故貴様が……(ビースト)が、冠位(グランド)を連れている!」

 「あなたに、そんなことを言われたくはないよ。ソロモン王でお人形遊びするのは楽しかった?」

 ゆっくりと、大儀そうに玉座から立ち上がる。肩でも凝った、とでも言うように肩を回してから、ゆっくりと、手を挙げた。

 「冠位(グランド)は獣を狩るために現れる。なら、こうなるのは必然。折角人の道理を得たところで申し訳ないんだけど……仕事はさせてもらう」

 女の五指が啓いたのが、合図だった。

 7騎の影衣が、解けていく。その力、その姿を欺いていた欺瞞が、消滅していく。

 「汝、三大の言霊を纏う七天。堕天の檻より来たれ、抑止の守護者」

 黒い環が、頭上に浮かぶ。天よりの御使いを示すはずの光輪が、どす黒く、堕落している。

 「殺すのか? この私を、お前如きが殺すのか!?」

 「そうだよ! センパイがやったみたいに、一本残らずぶっ殺してあげるよ──ゲーティア!」




 これにて4章終了です。
 年単位で前に書いたものなので今見ると粗削りといいますか、若い文章だなぁと感慨深くもあり、それだけにこの文章でいいものかと思いもしました。が、とりあえず過去の自分が頑張って書いたものなので、なるべくはそのままお出ししようかと思い投稿しておりました。少しでもお楽しみいただけたら幸いです。

 5章なのですが、こちらかなり難航しておりまして。文字数で言えば2023年12月時点で35万字くらい書き終え、文量で言えば1章分は書いているのですがまだ構想では5章全体の1/3程度しか消化していなくてですね……もしかしたら年単位で投稿できないかと思うので、本当に気長にお待ちいただけたら幸いです。エタることはないと思いますので、その点はご安心いただけたらと思います。

 それでは次回、第5章『虚空神話大戦アメリカ-黒き窮極の神- 前編”ローレライの魔女”』でお会いしましょう。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

境界-1

 「おい、起きろよ。もうそろそろ来るよ」

 ゆさ、ゆさ。

 なんとも呑気そうな声に引きずられて、ぽかぽかした微睡みから、ちょっとだけ顔を挙げた。

 そうすると、なんか、呑気そうな目が見返してきた。見覚えがある、目だった。黒い短髪に、黒い目。いかにも日本人らしい顔で、背格好は白いシャツ。

 「めちゃ眠そうだなお前」

 やや引き気味のその顔に、「あぁ」と判然としない応えをした。そうして、興味を失って、もう一度眠りにつこうとして、

 「いや寝るなよ!?」

 「あう?」

 ゆさ、と今度は大きく揺さぶられた。

 眼下に横たわっていた微睡みから引っ張り上げられ、今度こそ、トウマは目を覚ました。といっても半分は寝ぼけていて、ぼう、っとしていた。

 なんだか、明るいな、と思った。いつもより視界が広い。視野投影された映像がない。ぼんやりと、変だナァ、と思いながら、周囲を見回した。

 人が、とても沢山いた。ずらりと並んだ机の席に腰かけて、同じくらいの背格好の少年少女たちが、色とりどりの私服を着込んで、楽し気に、何かを喋り合っている。いや、勉強している人もいる。同じように寝ている人もいる───。中には、 ちゃんと制服を着ている人もいた。

 端的に、明晰に、わかりやすく言うと。

 学校、だった。

 「うおわ!?」

 目の前に座っていた友人が、素っ頓狂な声を上げた。それも無理からぬことだった。客観的に見れば、立華藤丸(たちばなとうま)は、目を覚ますなり物凄い勢いで立ち上がって、座っていた椅子と机を吹っ飛ばしてしまったのだから。

 ひた、とざわめきが止む。一斉に20人弱の視線が集まるのを感じて、トウマはわけもわからず、とりあえず赤面した。

 「あ、ごめん」

 「ううん、いいよ」

 「お前も悪い」

 「いや、いいけど」

 くすくす、と笑ったり、揶揄うようなやじが飛んできたりしてなおさら顔を赤くしながら、トウマは椅子と机をなおして、席に座り直した。相変わらず注がれる好奇の視線に晒されながら、トウマは、目の前の非現実的な景色に、圧倒されていた。

 「寝ぼけか何か?」

 「いや、そういうんじゃあないんだけど」

 不思議そうに顔を覗き込んでくる前の席の男。“現実”の世界で、自分の友人だった少年に間違いない。いや、それよりこの空間。どこからどう見ても、現実ではないか。

 混乱していた。混乱しない方が無理だった。混乱しすぎて思考そのものが働かなかった。「何故」と「(クエスチョンマーク)」だけが猛烈な速度で増殖して、思考する余地すらなくなっていた。

 「あれだろ。今日の転校生、楽しみすぎて寝れなかったんだろ」

 友人の声も、上の空のように空転する。あぁ、と何の実もない相槌を打つので精一杯だった。

「おはようみんな……なんだ、騒がしいな」

 目を丸くした担任の教師が教室を見回している。誰かが、トウマの奇行を説明している。呆れた様子の教師が、「ちゃんと寝ないと授業に身が入らんぞ」と厳めしい顔で、真っ当なことを言っている。すみません、とほとんど条件反射で、頭が下がる。

 何がどうなっている。戻ってきた? あの世界からこっちの世界に? 何故? そもそも一体さっきまで、何をしていた?

 「ウォッホン」わざとらしい咳払いをしてから、担任の教師は、酷く厳めしい仕草で、切り出し始めた。「それじゃあ、前から伝えていたが、転校生を紹介するぞ。良かったな、タチバナ」

 「おい来たぜ」

 げしげし、と肘を突いてくる友人の仕草も今は何の感慨すらもなく───。

 「入ってきなさい」

 「はい」

 「───は?」

 頭の中を埋め尽くしていた、「何故」と「?」すら消滅した。

 黒い髪の、少女だった。床まで届くほどに長いというのに、艶やかな髪に、不潔っぽいところは何一つない。着物姿に赤いブルゾン姿で、中履きにブーツという、私服登校を許可しているにしても奇抜ないで立ちと、その嫋やかさが、妙に調和していた。

両儀式(りょうぎ しき)です。式、とお呼びください。1年B組の皆さん、どうかよろしくお願いしますね」

 空のように抜けた微笑が、トウマを、捕縛した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

断章Ⅱ 立花(たてはな)~君を、救いに来たんだ~
Ⅰ-1”雛罌粟(ひなげし)の花”


しっかりともの見、よく耳を澄ますがいい。死者たちは生きようと欲している。あなたの内部で生きようと欲している。かれらの欲したものをあなたの生命が豊かに展開することを、死者たちは欲している……アラン『幸福論』より

 

 2016年 南極大陸 標高6000m地点

 国連機関『人理保障機関 フィニス・カルデア』医療区画にて

 

 ロマニ・アーキマンの本来の仕事は、施設内の医療責任者である。専門は内科だが、外科的措置も行える。豊富な知識がある……わけではないのだが、現代医療と魔術世界双方への理解度の深さから、カルデアで勤務することになった。本来、心理医療は門外漢だけれど、専門医が研修中にこの事態になってしまったので、ロマニが請け負うことになっている。

……本当は、僕がカウンセリングを受けたいんだけど。

 自動ドアを手動で開いて出ていったスタッフの背を見送って、ロマニ・アーキマンは、今日、何度目かの重いため息を吐いた。

 カウンターテーブルに肘を突いて、自然、目元を抑える。催眠暗示と向精神薬があたまにちらつく。それを振るうように頭を振りながらも、ロマニはまた、重い嘆息を漏らした。

 第四特異点が終わって、既に1週間が立とうとしていた。レンズシバの特異点座標測定値は既に産出済みで、あと3日ほどで、あらたな特異点修復の旅が始まろうとしている。その既定スケジュールを変更する予定は無いし、またできない。

 できないけれど。ロマニは最後の“クライアント”が終わり、臨時のクライアントがないことも確認してから、重く腰を上げる。足取りも重ければ、表情まで重い。陰鬱、という言葉を、今日ほど生々しく感じる日々はない。

 「ちゃんとキアラさんいてくれたらナァ」

 詮の無い愚痴が、口をついて出る。これから直面する責任の重さからの、みすぼらしい現実逃避めいた心情だった。大人として情けないこと極まりない、という自覚はあったけれど。逆に言うと、大人だからこそ、そうでもしないとその現実に向かい合うことなどできはしなかった。

カウンセリングが終わって、次の業務は本業だ。と言っても医務室にて特別安静状態におかれる3人の状態観察、というだけの、仕事内容だけで見たらそう難しい仕事ではないものだが。

 だが。

 だが……。

 「アキちゃん、入るよ」

 医務室の前、「手動!」と張り紙された自動ドアを命令通りに手で開けると、思わずロマニは被りを深くして、目を背けた。入口から真直ぐ先に見えるベッドに横たわる3人の顔が、見えてしまった。

 目を背けた。けれど、ロマニ・アーキマンが人間的に出来た人物なのは、その後の行動によって、だ。被りを深くしてから、今一度、顔を挙げた。恐る恐る、という調子だけれど、それでもちゃんと。

 一番手前のベッドに、亜麻色の髪の少女が横になっている。そしてその奥2床にも2人。病的な白い髪の、やはり、女性。そして一番奥に、真っ黒い髪の、まだ17にならない少年が……。

 うっ、と臓腑からこみあげた“えづき”を、なんとか堪えた。医務室で嘔吐するのは後々面倒すぎる。そんなことで、施設の備品を使ってなんかいられない。無彩色に落込む視界の中、飾られた彼岸花の紅い花弁だけが、鮮やかに色づいている……。

 「先生、大丈夫ですか」

 そんなロマニの様子を、看護責任者を務める女性は素早く理解したらしい。身長150cmしかない小柄な体ながら、ロマニの背を摩ると、「もうお休みになられては」

 「でもこれから僕の番だろう?」

 「そうですけど。別に私でも大丈夫ですし、先生は所長代理のお仕事も」

 「ダメだよ。普段僕は楽させてもらってるんだから、こんな時くらいは」

 努めて、ロマニはロマニ・アーキマンらしい、朗らかで、気の抜けた笑みを浮かべて見せた。困ったような、それでも安堵したような……複雑な表情を浮かべた看護責任者は、まごついたように、ただ身動ぎした。

 「ほらほら休んでおいで。息子さんとの時間を無駄にしちゃあいけないよ……」

 今度は、ロマニが彼女の背を叩いた。

 はい、と応えたものの、彼女はまだ、迷ったらしかった。ロマニの顔をしげしげと見つめてから、一通り逡巡して──彼女は、丁寧にお辞儀してから、医務室を立ち去った。彼女は今年で38歳、15になる息子と、10になる娘がいる。プライベートの時間は、3人部屋の狭い3段ベッドの最下層で、子どもたちの写真を眺めながら、この旅の終わりを祈るのが日課になってしまっている。旦那とは、離婚したらしい。

 彼女だけではない。この施設で今稼働できるスタッフは、多く子どもを抱えている親たちだ。既に成人した子を持つ親もいれば、まだ生まれて2年と立たない子を待たせてこの地にやってきた者もいる。皆、世界を、人類を取り戻すことに尽力していることに変わりはないけれど──その心の内に秘めているのは、抽象的な“人類”だけではなく、具体的な家族なのだ。

 そんな彼彼女らにとって、少年少女の脱落は、あまりに重い十字架だった。

 無論、いずれそうなる可能性は、皆誰もが自覚していただろう。人理修復の旅は、幼稚園児のおままごとではないのだ。10代の少年少女たちに催眠暗示や薬物投与を重ね、魔術的な人体改造まで手を出して、そうやって送り出した子どもたちが、身命を賭して、身をボロボロにして踏破する。襤褸になった身体は、いざとなったら“人形師”によって挿げ替えて、また殺し合いの度に送り出す。それがこの旅の本質で、唾棄すべきものの象徴なのだ。マスター敵性・レイシフト適正双方を満たせない情けない大人たちの、やっていることなのだ。

 そうまでしても、防げなかった結果がこれだ。マシュ・キリエライト、立華藤丸。死んでこそいないけれど、重度の損傷とそれに伴う昏睡状態という、この結果だ。自分の息子、娘とそう年の変わらない子供たちを送り出し、そうして発生したこの結果に、耐えられる大人など1人とて居なかった。皆、なんとか催眠暗示と薬物投与で心の平静を保っているだけだった。というより、抑えているだけ、というべきか。

 それに。

 ロマニは崩れ落ちるように椅子に腰かけると、デスクに置いてあったノートパソコンを開いた。右手にある電源のスイッチを押して、PCを起動。OSが立ち上がり、自分のアカウントでログイン。デスクトップが表示されるなりフォルダを一つ開いて、1つ、データを立ち上げる。

 [オフェリア・ファムルソローネの冷凍処置について]

 それが、このデータのタイトルだった。

 座ったばかりだったが、ロマニは立ち上がった。立ち上がって、彼女のベッドの脇に立った。

 亜麻色の髪の、乙女。現代に蘇った戦乙女(ヴァルキュリア)という風聞の通りに、清廉さと芯の強さ、そして嫋やかさを内包したかんばせ。魔眼を封じるための眼帯にも関わらず、オフェリアの姿から感じるのは、そういった“しなやかさ”だ。既に半年近く昏睡状態に陥っているというのに、その姿は、まだ瑞々しい剥き出しの生命そのものを感じさせる。それこそ、明日にでも目を覚ますような錯覚を覚えるほどに……。

 彼女に冷凍延命措置を施さなかったのは、別に人道上の理由とかではない。数少ないAチームの生存者として、復帰した場合の特異点攻略要員になる可能性があったからだ。一度冷凍延命措置を行えば、長期での生命維持は可能だけれど、マスターとして復帰する可能性は絶望的だ。昏睡状態に陥った人間に措置を行った場合、蘇生措置を行っても昏睡状態のままであることがほとんどだという。貴重な戦力になり得る人員を半永久的に眠らせておけるほど、カルデアの人員事情は恵まれていない……ただ、そういう打算的理由だけでオフェリアはここで寝かされていた。

 だが、それも限度がある。彼女を維持するのにも、ただではないのだ。点滴及び経管栄養、それを行えるスタッフの配置、廃用症候群防止のための機能訓練、床ずれ予防のための措置。医務室を常時稼働させる電力。オフェリア1人をベッドで寝かせているだけでも、人的・資材コストは馬鹿にならないのだ。将来的に起きるかもしれない、という楽観論とシビアなコスト面でのすり合わせの結果、もうオフェリアが起きるのを待っている余裕は、カルデアには無いのだ。仮に復帰できたとしても、今のオフェリアでは、恐らく車いす生活は免れまい。四肢置換手術を行ったとしても、身体全体の筋力低下が起きている場合、戦闘行動には耐えられない。そもそも、予備の疑似生体は稼働しているマスターのためにとっておくべきものなのだから。

 畢竟。

 ロマニ・アーキマンは、所長代理且つ医務責任者の立場として、オフェリア・ファムルソローネに冷凍延命措置を施すことを自らで強要されているのだ。自ら強要、というのも妙な表現ではあるが、正鵠を射る表現なのも事実だった。私人としてのロマニであれば、そんなことには絶対賛成しかねるし、そんな責任を負いたくもない。5割以上の確立で死ぬことがわかっている行為を執るなど、しかも本人の同意も無く行うなど、医学に携わる人間がすべきことではないのだ。

 だが、医者であるからこそ、彼女が今日明日に起きる可能性が極めて乏しいことは知っていた。なればこそ、経済観念に照らし合わせれば、オフェリアにコストを投入することが不毛であるという所長代理としての思考に至るのは、ごく当然のことでは、あった。

 そして、この帳票……オフェリアを冷凍庫送りにする帳票の最終決定日が、3日後に迫っていた。いや、本当のところは1週間前なのだけれど、のらくらと決定を引き延ばし続けていた。人類の明日を担う組織の所長代理としてはあるまじき怠慢で、その自覚があるからこそ、いよいよ決断の時を自ら設定したのだ。だって、そうでもなければ、他の誰もロマニを責めないのだから。偉い人間というのは、誰も責めてくれないのだ。それは、思ったよりも辛いことだった。それに、そうした逃避は、現地で戦っていた5人に対して極めて不躾な行為でしかない。

 こうして顔を見に来たのは、色んな事情からだったろう。彼女の顔を見、覚悟を決めるため。そう言えば聞こえはいいけれど、いたたまれなくなって、逃げるように顔を見に来てしまっただけでもあった。割合で言えば後者が7割くらいで、前者が3割ほど。情けないチキンではあるが、3割はちゃんと理性と良識がある。

 でも、それだけで、ないんだ。オフェリアから視線をずらしたロマニは、他の2床に目をやって、なお居たたまれなくなった。

 マシュ・キリエライトと、立華藤丸。2人とも、昏睡状態に陥ったまま、目を覚ます様子はない。そして、いつ目を覚ますかのめども立っていない。

 要するに、決して遠くない未来。この2人に対しても、同じような措置を下さなければならない時が、来る──。

 「……ん?」

 多分、神経が苛立ちすぎていたからだろうか。2人から視線を外した時、普段気づかないような、そんなことに、ふと気が付いた。

 オフェリアに、顔を近づけてみる。現代のヴァルキュリアの名は、その在り方だけでなく容姿にも表れている。白皙のそれは、なるほど大神に愛された美質という物言いができるほどだろう。

 ……なんだけれども。

 「気が回らないってことかな」

 まぁ別に責める気はないけれど、と内心で言いながら、ロマニは気だるい脱力感とともに立ち上がった。デスクの救急セット……プラスチックのケースに無造作に突っ込んである小さいハサミを手に取ると、やや色あせと皺が目立つトムフォードの柿色のハンカチを、ポケットから取り出してみる。臭くないかな、と一度嗅いで「まあ大丈夫かな」と幾分か投げやりに言ってから、ロマニはハンカチをオフェリアの鼻と唇の間にあてた。

 「よっと……」

 ハサミを右手に、恐る恐る手を伸ばす。本来こういう仕事は慣れてないのだけどなあ、と言いつつも、正確に、得物を刃の上に乗せた。

 「えいやっ」

 ぷちん。

 小さなハサミは、正確に標的を両断した。

 即ち、オフェリアの、昨日より伸びていた、鼻毛を。

 鼻毛ごとグレーのハンカチを握って丸めたロマニは、柿色の髪をかきあげた。

 あと一日。まだあと一日だけ……。

 

まず、リツカが感じたのは、頬への妙に硬い感触だった。ぐらぐら、と頭が揺れて、なんともまあ、気分不快を催した。それでも目を覚まさなかったのは、彼女の生来のものぐさによるものだったろう。彼女はとにかく自堕落なのだ。起きる、と言う行為がそもそも生命への冒涜だと思う。オレキシンの作用機序を鑑みるに、生命のデフォルトは睡眠状態なのだ。つまり非自然なのだ人間が起きているのは! なので、能うならば、彼女は、無限に寝ていたいのである。

でも。

「あの~……」

ぐらぐらり。

「すみません~」

悪魔もドン引きするほどに堕落を極めるフジマルリツカではあるが、その点いいところが一つだけある。

「起きてください~」

起きなければならない気配を察知すれば、どれほど眠かろうが覚醒するところ、だった。

「んな!」

「ひゃあ!?」

ぐら、と身体が揺れた。さっきとは別種の、空間そのものが同質に揺れた感触。生来の鋭敏な眼差しで以て周囲を見回したリツカは、まず、とにかく状況の理解に努めることにした。

「やっと起きてくれた……寝坊助すぎるよ……」

牢屋。牢屋に居る。なんで? という疑問符はとりあえず放置して、とりあえずその状況を理解する。妙にじめっとしていて、薄暗い牢獄。どこからか差し込む光のお陰で暗さは感じないけれど、陰鬱さは物凄い。周囲に垂れこめる闇の息苦しさには、どこか身に覚えがある。そう、少し前、マリアの世界で感じたのと同質のものだ。

なるほど、ととりあえず理解する。見た目通りに、どうやら自分は豚箱にぶち込まれているらしい。素直に納得すると、今度は、改めて“同居人”の姿を認めた。

艶やかな髪が、目を引いた。桜色に染まったチークが目を引く、艶やかな髪の、女性。すぐに思い当たった人物がいた。オケアノスでともに戦った、その彼女の名は。

「メルト?」

「む」

いや違う、とすぐに思い至る。頬を膨らませ、無邪気そうに不満をあらわにするその彼女。リツカの知るメルトリリスは、確かに感情豊かで素直だけど、こういう感情表現はしないはずだ。彼女はもっと、冷ややかで鋭く、だからこそ熔ける蜜のような情感を持っているから。

そして、何より。

「……でっか」

「はい?」

「すんげえデカい! ってか紐! 紐だけって!」

「わぁ!?」

いやそれはもう、おっぱいがでけえんだわ。

「え、なにこれ。説明不要なデカさですよこれ。触って良いですか良いですよね」

「だ、ダメです~! というかもう触ってます……!」

「ダメと申されても困ります! 何故ダメなのかご再考いただきたい!」

「へ、変態さんですー! このっ」

「……ハッ!」

ふと我に返る。両手に感じる柔和な超重量。困ったように泣き出しそうな見知った顔。慌てて下がったリツカは、まぁそれはそれは綺麗な土下座をしていた。

「いや本当にごめんなさい腹を切って詫びますのでお許しください……」

額よ地を砕けとばかりの土下座。ぐりぐりと押し付けるリツカに対し、恣にされていた彼女は息を上気させながらも「いえ……」と消え入りそうに声を漏らした。

顔を、あげてみる。ぺたん、と座り込んで、彼女は、やはり泣き出しそうな顔で、リツカを見ていた。

「その―言い訳はしたくないんですけど、あまりの凄さに一瞬我を忘れて……」

「いいんです。私はそういうもの、なので」

声音そのものは優し気だったけれど、声の奥に堅い棘が混じる。平謝りするように身を縮めて髪の一房を指に巻きつけながら、まぁ、それも仕方ないよな、と思うリツカである。

だってそりゃそうだ。同性とは言え、出会い頭に乳揉んでくる奴に反感を抱かないことがあるやろか。いや、あらへんで。

とは言え、である。

粛々、と正座をする姿の清廉さ、目を見張るほどであろう。きっと万人が見ても「うーんこれは反省している」と納得せざるを得ない、清らかな佇まいである。そんな上辺の清廉をとりつくろいながら、リツカは、改めて、その得物をちらっとだけ盗み見る。

それは乳というにはあまりに大きすぎた。

大きく、分厚く。

重く、そして大雑把すぎた。

それは正に、クソデカおっぱい、だった。

……いや本当にデカいんですよ。トップは目算で160cmはあるんじゃないだろうか……それでいてアンダーは常人、むしろ細めの女の子くらいしかない。アルファベッドで乳サイズを測れるのか疑問符が生じるという、まさにそういうブツを持っているのだ。目の前の、童顔の女の子は。しかもそれでいて服装が危険すぎる。ボトムはカボチャパンツみたいな可愛らしい感じでいいと思うのだけれども、なんでよりにもよってトップスがスリングショットみたいなんだろう。乳首しか隠れてないじゃないか。しかも擦れて痛そうである。

畢竟。

「童貞殺し……いや童貞じゃなくても殺されそうな……」

反省もくそもへったくれもなかった。いや、反省していないわけではないのだが。

はい? と首を傾げるリップに首を振りながら、やれやれ、とリツカは右側頭部の髪を一房、指に絡めた。

妙な牢屋に、なんだか煽情的な女の子と一緒にいるというこの状況。何も起きないはずもなく、という展開ではないことだけは、確かだった。

「あのー」

救いと言えば、同居している彼女は、割とコミュニケーションを執ろうとしてくれるところ、だろうか。最悪の出会いだったにも関わらず、彼女は健気な様子である。

「はいはい、なんでしょう」

なので、リツカも努めて冷静に応じることにした。禍根は忘れてはならぬものだが、取り付かれてもならぬのだから。

「私、名前」むぐ、とちょっと口ごもってから、彼女は一生懸命に声を続けた。「リップ……パッションリップ、って言います」

彼女……パッションリップは顔を真っ赤にしながら、なんとか口に出した。

「ごめんなさい、さっき、足で踏んづけちゃって……中々起きないから」

へこへこ、とパッションリップも頭を下げていた。最後の小声にちょっとだけ非難というか、言い訳が混じっているけれど、素直な謝罪だ。一瞬ポカンとしつつも、リツカはすぐに得心した。そう言えば、さっき顔やら顔面やらをげしげしされていた気がする。容赦なくピンヒールでやられたもんだから、まぁまぁ痛かったわけだ。

まぁ。

「いやいいよ。その腕で起こされたら、多分ミンチより酷くなりそうだし」

じい、と、パッションリップの腕を、見た。

黄金の、巨腕。乳は確かにデカいけれど、割と大人しめで普通な女の子という風采のパッションリップを、異形たらしめる巨大な手。彼女の体躯よりも一回りも大きな手を、リツカは特になんの頓着もなく眺めやった。

一瞬、パッションリップの表情に、明らかに痛ましいものが奔った。それは見逃さず……さりとて今はそれには触れず、「リツカだよ」と言うことにした。

「フジマルリツカ……フジマル、がファミリーネームで、リツカが名前」

言って、リツカはちょっとだけ思案する。

じい、とパッションリップを眺めること半瞬。ふむ、と一人頷くと、ずんずん、とリツカはパッションリップに近づいた。

「わ、わわ!? ダメです、近づいたら」

ふわ、と柔らかく彼女を抱擁(ハグ)すると、白磁めいたパッションリップの右頬に軽く口づけした。

「よろしく、リップちゃん。色々、迷惑をかけると思うから」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅰ-2

 「それで、なんだけど」

 妙な出会いをしてから、大体20分ほど経った頃合い、だったろうか。やれどんなタイプの男がいいとか好きな食べ物とか、毒にも薬にもならない話をそれなりにした後、ごく自然にリツカは切り出してきた。

 「ここ、どこなの?」

 きょろきょろ、とわざとらしく周囲を見回してみるリツカ。彼女は、特に鉄柵の方を気にしているらしい。悩まし気に眉間にしわを寄せながら、黒々とした柵を眺めている。頭にクエスチョンマークを浮かべながら、パッションリップもリツカと同じように見回してみたり、柵を眺めたりしてみる。

まるで岩から切り出してきたかのような空間に、これ見よがしに張り巡らされる檻。飾り気なんてまるでない、擦り切れた人間の悪意が濃縮したかのような空間だ。はっきり言って、あんまり気分がよくならない空間だなぁ、と思うパッションリップである。

 そして、もう一つ、気分が良くならないことがある。

 「あの、私も気が付いたら、ここにいて」

 ごめんなさい、と頭を下げる。なんだかそれだけで、物悲しいパッションリップだった。リツカの力になれないことが、無性に腹立たしく、また情けなく感じた。

 フジマルリツカのことは、なんとなく好感が持てる、と思う。いや、この際だから言うと、多分、彼女のことが好きだと思う。

 理由はよくわからない。

 だって起きたら目の前に居たひとを見たら、心臓がどきどきしたのだから、理由を尋ねられても困るというものだ。

 ともあれ、パッションリップはフジマルリツカに恋と同質の感情を持っている。広義における同性であることは、あんまり重要ではない。そんななので、力になれないことが、なんというか渋いことだった。

 「そりゃごめん。てっきり」

 リツカも、申し訳なさそうに頭をさげた。そうしてから、「じゃあ全くの未知、ってことか」と面倒そうに周囲を睨むように伺っていた。

 「前に似たようなことがあってね。私の夢を媒介にした特異点(シンギュラリティポイント)、というものだったんだけど。ここも、そうなのかなと思ったんだけど……」

 ううむ、と地べたにペタン座りしながら、悩まし気に腕を組むリツカ。眉間にしわを寄せて身を揺するたびに、耳たぶから下がるルビーのイヤリングが、ちらちらと光を反射していた。

 「リップちゃんは、何か気づいたこと、ある?」

 話を向けられて、パッションリップはちょっとだけ、思考を発散させてみる。

 目を覚ましてから、まだ30分未満。はっきり言うと、なにもわからないのだが……もちろん、リツカが問うているのは、何か客観的なものではないのだろう。もっと主観的で、内面的な感受性の問題なんだと思う。

 であれば、ちょっと答えようはある、と思う。

 「あの、私ここにいるの、嫌です。もっと、明るくて、広いところに行きたい、です」

 でも、言ってからパッションリップは後悔した。あまりに抽象的で、捉えどころのない言語表現だった。彼女は、今ほど自分の鈍感さを後悔したことはなかった。だからメルトにどんくさい、と馬鹿にされるのだ。

 ……そう言えば、リツカはメルト……メルトリリスのことを、知っているらしい。どういう関係なんだろう、と陰鬱な思案が首を擡げはじめたところで、

 「それもそうだね」

 リツカは深く相槌を一つ打つと、不愉快そうに鼻息を吐き出した。

 「私は、ニーチェの“力への意思”が好きでね。生命は、闊達に、健やかに、己が生を発露すべきだというのが私の考えなんだ」

 「えっと……?」

 「要するに」

 リツカはハーフアップにまとめた髪の内、右側頭部の余りの毛をまとめた一房を指で弄ると、にへら、と笑って見せた。捉えどころのない、底抜けの哂い顔。秘密の花園の奥に蟠る深い池沼を思わせる黒い目が、するりとパッションリップを包んだ。

 「ここにいるのは気分が悪いってことさ。こんなところはさっさとおさらばしよ」

 はい、と応える声は、ちょっと思わず上ずった。多分、顔は緩んでると思う。自覚はあるけど直そうともせずに、リップは勢い立ち上がっていた。

 「それじゃあ、こんなもの、こうしちゃいます!」

 「あ、ちょっ」

 むん、と振り上げる両腕の巨重。パッションリップ、という存在の存在様態(アイデンティティ)、その真核を為すもの。女神が持ちうる十の剣の具現たるそれを、()()()()()()()()()()()()()()()

 「えーい!」

 彼女の鍵爪は、前述のとおり、神の武器そのものだ。

 複合神性。神霊(ハイ・サーヴァント)を織成すもの、その力の一端を以てすれば、牢獄の檻なんて紙も同然だった。甲高い音を引き立てて、右手の五指が鉄の檻をぺしゃんこに叩き潰し、引き裂いていった。

 満面の笑みで振り返ってから、すぐにパッションリップは己の失策に気が付いた。座ったまま、呆然、とパッションリップを見やるリツカの視線。信じがたいものを目にした眼差しに、パッションリップは思わず身を縮めた。

 あーいう目に、覚えがある。怪物を見る、そういう目。化け物を見る、そういう目だ。思わず勘違いしてしまった。だって、リツカはこの腕に、なんの頓着を見せなかったから。受け入れてくれる、と勝手に思ってしまって……。

 「す」

 「す?」

 「すっごーい!」

 ひゃあ、と悲鳴を上げるのと、彼女が抱き着いてくるのは、大体おんなじタイミングだった。相対距離、パッションリップはもう20cmとない近さのリツカの顔に顔を真っ赤にしていた。

 「マジであんなに簡単にぶち抜いちゃうなんて! なんの女神のフレンズなのかな?」

 「そんなに大したことは……」

 「いやーまぁ神霊(ハイ・サーヴァント)からすればそうなのかもしれないけどね。面倒くさそうな妨害処置があったからどうしたもんか、と思ってたんだ」

 いい子いい子、とでもするように、リツカの手がわしゃわしゃと髪を掻きまわしていく。なおのこと顔を真っ赤にしつつ、パッションリップの胸中に過ったのは、底抜けなほどの、柔和さと、己の浅ましさへの羞恥だった。彼女は、リツカのなされるがままになでなでされることにした。

 「ただ、もう少しその真直ぐさをちゃんと使ってあげる必要があると思うな」

 「あっ」

 ずきり、と胸が痛んだ。

 リツカの顔立はまだ柔らかい。少女めいた……というより少年めいた顔には、何の悪意も感じられない。でも、パッションリップは彼女の視線から逃げるように俯いた。

 「だから、私と契約しないかな?」

 今度は、顔を挙げた。真直ぐに見つめてくるリツカの沼色の眼に、自分の姿が映っている。多分、あの目は今の一瞬を、ちゃんと見ている。自分の言葉がパッションリップを傷つけたことも。むしろその外傷が意図的で、その上で、リツカは言っている。

 「私はあんまり強くない代わりに、ものを考えるのはそれなりに経験がある。あなた1人でも大丈夫だろうけど、2人で協力すれば、スマートにここを抜け出せる。そう思わない?」

 思案は、多分無かった。最初から、パッションリップはそのつもりだったのだから。だから、即答しなかったのは、思案と言うよりは躊躇に近い。

 躊躇。そう、躊躇。酷く重たい両腕が、なんだか気怠い。

 それでも最終的に頷き返したのは、多分、パッションリップという存在の、弱さのようなものだったのだろう。そして、その弱さも、フジマルリツカには見えていて、だからこそ、彼女は頷きもしたのだ。

 よし、と頷くリツカ。彼女の腕には、既に赤い紋章が浮かんでいる。鋭利な刃を象った、サーヴァントへの絶対命令権『令呪』。右前腕に大きく穿たれた模様は、なんだか痛ましく見えた。

 神霊の複合体であるパッションリップに、実のところ令呪の強制力はあまりない。【女神の神核】に複合される対魔力値の計数は実にA+に及び、令呪の魔力でさえ大方弾いてしまう。だから、この契約は、主従というよりも、対等な関係に近しい。もちろんリツカもそれはわかった上でのことで、だから、パッションリップは、ちょっとだけ嬉しいな、と思った。

 「その十の剣はドゥルガーのものなんだね。宝具がブリュンヒルデで……パールヴァティ―はその在り方、というところかな」

 「その……メルトのこと、知ってるんですか?」

 多分、視野投影される像からパッションリップのステータスを確認しているらしいリツカに、おずおずと尋ねてみる。寝起き様、憎らしいことに、リツカはあの名前を口にしていた。

 メルトリリス。ここよりずっと()()世界で、なんだか姉面をしていた女の名前だ。私より後に産まれた癖にずけずけとしていて、正直嫌いな奴なのである。とは言え嫌いにもなりきれなかったりもして……まぁちょっと複雑な関係なのだけれど、自分より先に、リツカがメルトと会っている、というのは気に食わないパッションリップであった。

 「ん、あぁ。ちょっとまあ、友達のようなもの」

 何気なく、リツカは言う。特に、「友達のようなもの」の言い方の素っ気なさったらありはしない。でも、それが声音以上に、物凄いことであることをパッションリップは知っている。

 友達。あのメルトリリスの?

 あまりの理解の外にある言葉に、パッションリップはおおよそ思考停止していた。その2つの単語が、同時に並列している必然性が理解不能である。マグロと火星くらい結びつかないと思う。

 「やっぱり、メルトと関係あるの? リップちゃんは」

 メルト、という言い方に、自然と柔さが滲む。なおのことむくれたパッションリップは「知りません」と平然と、そしてぬけぬけと嘘を吐いた。

 「仲いいんだね」

 「悪いですっ! 大体メルトは」

 ふふふ、と小さく笑うリツカ。瀟洒で女の子らしいその笑い声は、なんだか妖精みたいだな、と思った。多分誤解されて伝わっているぞっ、と思ったパッションリップはそれからやけになってメルトリリスの悪口を言い連ねたが、その度に、リツカは可愛らしく品よく笑うばかりだ。

 「百万の味方を得た、というのは、こういうことを言うんだろうね」まだむくれ気味のパッションリップに、リツカは独り言を言うみたいに頷く。「私と契約して、損をしたと思われないようにしないとなぁ」

 緩く笑うリツカ。

 なんだか、その一見頼りなさげに見えるおぼつかない佇まいが、記憶にあるあの人とよく似ている、ような気がした。もちろん別人、というのはわかっているけれど。

 「よし。じゃあ早速、ここを出ようか」

 意気揚々、と破壊された檻から、牢屋の外へ向かうリツカ。はい、と元気よく答えたパッションリップは、まず、「よいしょ」と掛け声をする。

 重い腕。この禍つ巨腕を持ち上げないと、パッションリップは上手く歩けない。この、重く、巨大な腕を、ちゃんと認識しないといけない。

 「リップちゃん」

 もう、リツカは10mくらい先に居る。振り返って、気だるげに佇んで、足の遅いパッションリップを待っている姿に、パッションリップは慌てて歩を進めた。早く、追いつかないと。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅰ-3

 こうして始まった、パッションリップとフジマルリツカの2人旅。というより迷宮(ダンジョン)巡り、だったのだけれど。

 「地味ですね」

 「辛辣ゥ!」

 まぁ、地味なのだ。

 そもそも、2人とも右も左もわからない状況なのだから、とりあえず手あたり次第に動き回ってみよう、ということで動き出したものの、本当に変わり映えの無い景色が続くだけだった。いや、景色という表現は多分適当ではない。だって、何せ洞窟の中なのだ。右も左も天井も、じめっとした岩がじい、と延びているだけである。天然のものを利用した牢獄、らしい。

 「よっ……と」

 ひょうい、と身を屈めて石ころを拾うと、リツカは暗い洞窟の奥へと放り投げる。からんころん、という反響音が確認してから、リツカはのんびりと足を進めていく。

 コウモリとかの真似をしているらしい。要するに反響音から、この洞窟の形状を推し量っているんだとか。そのおかげか、特に行き止まることもなく順調に進んでいる。

 「んーと」

 そうして、時折こうして頭を捻るのは、反響音と照らし合わせて、この洞窟全体のマップを頭の中で作っている、という。時折思い出したように立ち止まっては歩くリツカの後ろを、パッションリップはのっしのっしと健気についていく。

 「段々、上に昇って行ってるっぽいね」

 「そうなんですか?」

 「多分だけど。ぐるぐる回りながら、上を目指している……ぽいかなぁ」

 少しだけ、自信なさげにリツカは言う。何のけなしにパッションリップは上を見上げたけれど、当然視界に入るのはただの巌窟ばかりだ。ちょっとだけ失望して視線を下げて、パッションリップは「ひゃあ!?」と声を上げかけた。代わりに、「むぐう」と口腔内で声を漏らすに留められたのは、寸でリツカはパッションリップの口を手で押さえたからだった。

 とは言え、パッションリップにしてみれば、其の状況の方がえらいことだった。何せリツカの顔が目の前にある。目と鼻の先、なんと相対距離は15cmとない。顔を真っ赤にして「むぐむ」と言うパッションリップに、「シっ」と小さくも鋭い声を刺すと、リツカはちらと背後を振り替えった。

 「何か来る」

 ひや、と背筋を寒気が伝わった。危ない。無駄に声を出していれば、その“何か”にこちらの存在を気取られていたかもしれない。味方なのか敵なのか不明だけれど、無暗に存在を暴露するのは、色々美味しくない……。ということなのだろう。相変わらずパッションリップの口を押えるリツカに“もう大丈夫”と伝えるように頷いた。

 「歩様からしてこっちに気づいている様子はない。それに、そう早くもない。とりあえず400m後退して、左脇の小径に隠れて見てみようか」

 「そんなのあったんですか?」

 「見えにくくはなってたけどね。さあ行こう、ちょっと急ごうか」

 ぽん、とリツカの掌がパッションリップの肩に触れる。特に急いでいる風でもなく歩いていくリツカに、彼女も特に慌てず、重い腕を持ち上げてついていく。

 400m、というと歩いて2~3分だけれど、なんだか妙に長く感じた。腕が、重たいのだ。

 「ほら、ここ」

 不意に立ち止まると、リツカは壁の方を指さした。何せ、明かりがない洞窟である。どこからから光が差し込んでいるらしいが、全体としては陰鬱な景色だ。リツカに言われても、パッションリップは壁があるようにしか見えず……ひょい、と手を着きだした。

 「あ、ほんとだ」

 突き出してみてわかった。伸ばした手は空を切っていた。そこに奥まった空間があるのだ。背景と同化していて見えにくいけれど、ちゃんと横穴が広がっていた。

 「でも狭くないですか。2人だとちょっと」

 いや、本当は、3人くらいは余裕で入れるくらいの広さなんだけれども。

 何せ、パッションリップは色々と大きいのだ。しっかり大きな手を折り畳んで、やっと2人分、というところだろう。

 「大丈夫。リップちゃんが奥に行ってもらって、私が前で」

 「でもそれだと」

 言いながら、パッションリップは自分の腕を見下ろす。自分が奥にいくと、前のスペースは全部腕で塞がれてしまう。肩車はできるだろうけれど、上も結構窮屈で……。

 「そこはほら。ハグするみたいにしてもらえば問題ないんじゃあないかな。いざとなっても、リップちゃんの手で守られているなら安心な気がするし」

 こんな風に、とリツカがジェスチャーしてみせる。緩く指同士を重ね合わせて、組むような仕草……有り体に言うと、スレッジハンマーでもするみたいな手の組み方、とでも言おうか。

 って。

 「それはダムぐくぅ!」

 「ほら早く。見つかっちゃうよ」

 ほらほら、とせかされて、やむなく押し込まれるパッションリップ。そうして、物々しく巨大な手の中、爪の間にそろそろと滑り込むと、リツカは何故か感心したように十の鍵爪を眺めたり撫でたりしている。

 胸が、痛い。縮み上がるような胸郭に、手にまでその震えが伝播するかのよう。

掌の上の、あまりにもか細い生命(いのち)。この手を少し動かすだけで、彼女は、容易に引き千切れ、骨片入りの肉団子になるだろう。人間……いや、命という脆弱なものを、この手は、簡単に壊してしまう。この、禍々しい手が───。

 「きた」

 引きずられるように意識を戻した。何か言いかけ、口を噤むと、パッションリップは息を殺してその光景を見る───。

 のそのそ、と四足で地を歩く生物。大きさはざっと1.5m~2mほど、だろうか。氷を思わせる青白い鎧に身を包み、頭部と尾先端部に鋭利な槍を備えた雑竜種(デミドラゴン)だ。

 幻想種。竜種だが、分類は魔獣種ほどか。パッションリップからすれば、特に脅威でもなんでもない相手、ではある。

 ……のだが。

 「なんか、花、咲いてましたね」

 ちょっと困惑気味に言うパッションリップ。

 彼女の言う通り。

 鎧竜の背から、何故か小さく花が一輪、咲いていたのだ。すっくと立ちあがる茎に、淡く八重咲く白い花。

 「雛罌粟(ヒナゲシ)、かな」

 独語めいた、リツカの声。何か、異様なものを目にしたような……怯えにも似た恐怖の眼差しが宿るのも一瞬、リツカは首を横に振った。「見送ろう」

 「倒さないん、ですか」

 思わず、声が上ずってしまう。他方、リツカは「いや」と首を横に振った。

 「ちょっと待ってみよう」そう言うリツカは、少しだけ疲れているように、見えた。「そもそも、敵かどうかわからないし」

 それから、さらに3時間ほどだろうか。同じ態勢のまま、延々と待ち続ける2人。ほとんど微動だにしないリツカの表情は、あまり伺い知れない。呼吸に併せて上下する肩だけが、彼女の変数だった。

 一方で、パッションリップはこの3時間、気が気ではなかった。彼女はどちらかというと忍耐強く我慢強い方だったけれど、それでも自分の掌の中に、恋する相手がいる、というのは凄まじいほどのストレスだった。

 パッションリップは、自覚している。自らの、その黄金の両手を。遍くすべてを斬殺し、轢殺し、圧殺する女神の発露。超重量の巨腕を、正しく、阻害されることなく、()()()()()()。掌の上に居る少女など、軽く手を動かしただけで磨り潰してしまうだろう。僅かな気の緩みすら許さない、そういう、3時間。大いなるプレッシャーの中、パッションリップはヘロヘロになっていた。そんな中でも手を一切動かさなかったのは、やはり彼女が我慢強い性格だったからだろう。

 そんな3時間が報われたのは、また、小さな歩様の音が聞こえてきた時だった。

 のっしのっし。コンスタントなテンポで歩んできたあの鎧竜は、再びパッションリップたちの目の前を歩いて行った。やはり、この時も警戒した様子はない。

 「同じ個体、ですね」

 心労を吐き出すように溜息をもらして、パッションリップはしげしげとその鎧竜の後ろ姿を見送った。

 そうだね、と頷くリツカ。少しだけ安堵を感じたパッションリップ。どんくさい自分でも気づけたのが、ちょっと嬉しかった。背中の甲羅の一部が欠損していて、それが一致していたのだ。それと、あの背中から生えるヒナゲシの花。

 それは、いいのだけれど。

 「あのNFF、というのは、なんの意味があるのでしょう?」

 甲羅に、でかでかと文字が書かれていたのだ。しかも狐っぽいロゴマーク入り。どう見たって人為的なものだ。

 「うーむ」

 リツカは不思議そうに唸っている。未知のもの、というより何某か心当たりがありそうな、そんな声色だ。

 「いやね、あの狐マーク……知り合いに、ちょっと似てたような」

 そう言ってから、リツカは首を横に振った。詮の無いこと、と自問するように言ってから、「場合によっては」と慎重に声を続けた。

 「何某かの組織に私たちは監禁されてる……って可能性も、無くはないんだろうけど。まぁそれはなさそうかな」

 「現に脱走しているから、ですか」

 「それもあるし」ちら、と振り返るリツカ。その表情は、なんとも子供っぽい。「そもそも、あなたを監禁するのに、あの檻じゃあね」

 「今の竜種も、随分のんびりしたもんだったしね。どうやら、私たちの存在は、さしてこの空間には重要じゃあないのかもしれないね」

 「なんだか、閉じ込められ損です」

 むー、とパッションリップは不満そうに頬を膨らませた。そりゃそうだ。気が付いたら軟禁されていて、しかも自分たちは木っ端扱いは不満に思ってしかるべし、だろう。

 そんな子供っぽい仕草のパッションリップに、小さく笑ってみせるリツカ。ふふ、なんて吐息を漏らした微笑はなんだか大人っぽいな、と思った。

 「まぁ、どうやら私たちは端役らしいと決まったところで。さっさとこんな不愉快な場所からは帰るに越したことはない」

 「さっそく戦闘ですね! まずはさっきの変なのをくしゃってしちゃって」

 「血気盛んすぎません? どうどう」

 「はう」

 またやってしまった、らしい……しゅん、と肩を落とすパッションリップ。リツカはただ、気の抜けたような表情で、艶のいい長髪に、指を差し込んだ。

 「そう簡単に人は失敗を糧にはできないものさ。いいんだよ、別に」

 軽く手櫛するような、柔らかな手触り。くすぐったさと心地よさが混然とした、穏やかな身体性───パッションリップは、目の前のリツカの顔に、頬を赤くした。照れ、というより、可愛げのある羞恥のようなものだった。

 「とりあえず、周辺を探索してみよう。あの歩行速度から見るに、この場所自体はそう広い場所じゃあないらしい」

 「物凄く広くて、あんな風なのがたくさんいる可能性は……」

 「もちろん、それもあるんだろうけど。それは実際足で歩いてみないとわからないし、まあ何にせよ、今は行動あるのみ、だね」

 言うや否や、リツカは「ちょっとごめん」と言いつつ、のそのそとパッションリップの手を……あの巨大な手を、昇り始めた。

 その時のパッションリップの動揺と言ったらなかったろう。ギャア、と悲鳴を挙げそうにもなったし、緊張しすぎて手が震えて、その震えを見てなおのこと失神しかけた。

 手。この、大きな掌。遍くを轢断して破砕するこの掌の中で悍ましく蠢く、命そのもの。そうしてこの手は、そんなぎらぎらと蠢動する生命を、あまりに容易く壊してしまう手で───。

 「で、一応指針のようなものをお伝えしようかと思うんだけど」

 ハッとした。

 いつの間にか、壁面の孔から這い出して、今後の話をしていたらしい。慌てて「はい」と声を大にして返事をするパッションリップに対して、リツカはいつものように、捉えどころのない、朗らかな笑みを浮かべるばかりだった。

 「極力、戦闘はしない方向で行くよ。戦うのは、それしか手段がないと考えられる場合に限るんだ。幸い、リップちゃんは高ランクの【気配遮断】スキルを持ってるみたいだし、もしかしたらノーキルでクリアできるかもしれない」

 「さっさと倒して進んだ方が、早くないですか」

 「それもそうだけど、今はそう“速さ”は重視してないからね。ほら、戦うのって面倒くさいから」

 「はぁ」

 なんだか、あまりピンとこないパッションリップなのである。複合神性、という己が強力さに素朴に無頓着であるが故、でもあろう。とは言え、パッションリップは素直にリツカに従うことにした。

 つい先ごろ、契約の際のリツカの言葉が思い出される。

 鈍くさい自分には、きっと見えないものが見えている。リツカに任せた方が“スマートな解決”に至れるだろう……。それに。

 「リツカさんの、言う通りにします」

 こくこく、と頷くパッションリップ。リツカも満足したように、頷き返して見せた。

 「良い子だ。とりあえず、50m進むごとに一度立ち止まろう。都度、マップを更新していこうか。暗示、対魔力でレジストしないように気を付けてもらえるかな。基本、さっきみたいな退避孔があったらマーク。さっきみたいな生物が接近してきた場合は、最寄りの退避孔に避難してやり過ごそう」

 はい、と元気よく返事をしたが、実際のところはあんまりよくわかっていなかった。リツカが言うんだから任せよう、という、ある意味で彼女らしいものぐさな精神性から、そう判断した。

 ただ、パッションリップのものぐささを素直に発露させられるのは、多分リツカの在り方によるものだったろう……正確には、リツカに対する、パッションリップの在り方、というべきだったろうか。要するに、パッションリップは、素朴にリツカを信頼していたから、思考放棄を始めていた。

 実際、それからは、パッションリップにとってみれば退屈な時間だった。本当に、リツカはまめまめしく50m刻みで立ち止まっては周囲を確認し、退路を思い返して、哨戒中の鎧竜が近づくと察知すれば孔に逃げ込んで……という行程の、繰り返しだ。なまじ洞窟の中ということもあって、単調で、起伏の無い光景である。以前までのパッションリップならば、多分10分くらいで飽きてサボっていただろう。間違いなく。

 じゃあ、なんでそうしないのかと、言えば。

 「あ、また来るね。10m後ろ、4時方向に退避ポイントがあるからそこまで退こうか」

 「は、はい」

 わたわた、と思い腕を持ち上げて、パッションリップは駆け出した。リツカの言葉に、彼女は素直に従っている。従順、という言葉が良く似合う、そんな素振りだ。

 また、あの竜種を見送る。のっしのっし、と呑気そうに歩いて行く鎧竜。背後から奇襲すれば、おそらく気づかれることもなく始末できるだろう。そう考えて、パッションリップは気を悪くした。

 「よし、もう大丈夫。じゃあ先に進もう」

 すぐに気を取り直して、パッションリップはリツカの後を、ついていく───。

 それから15分後のことだった。パッションリップに自覚はなかったけれど、定時の身体接触で送られてくる戦域マップの暗示に、時間情報も含まれていた。

 曲がりくねりながら行きついた先。途中、何やら直径50mはあろうかというドーム状の場所を抜けた先に、それは、あった。

 扉だ。人一人が通れるくらいの、酷く錆びついた鉄のドア。取っ手には物々しい南京錠がかけてある。錠前自体は、まだ新しいもの、らしい。いづこから差し込んでくる妙な光を反射して、ぬらぬらと怪しく煌めていた。

 リツカは慎重な様子で手を伸ばした。まずドアから。そして怪しく光を放つ南京錠に触れた後、リツカは悩まし気に、口元に手を当てた。

 「これ、壊しちゃいましょうか」

 一瞬の思案の間の後、リツカは頷いた。「ちょっとやっちまおう」

 はい、と応えるパッションリップの声も、知らずに弾む。さっきは勇み足で蛮勇を働いてしまったけれど、今回はちゃんと、リツカの指示に従っての行動だ。自然、パッションリップは気分が良くなる。さっき落ち込みがちになった気分も、少しは良くなるというものだ。

 ぶおん、と持ち上げる、右の手。巨大な手。ドゥルガーの振るう10の手の内の5つを象った黄金の刃が、長重とともに振り下ろされた。

 「ぶっ潰れろぉ!」

 「時間止めそう」

 「ひゃあ!?」

 リツカの声は、自分の悲鳴で掻き消えてしまった。

 剛爪がドアに直撃した瞬間、当たり前のように弾き返されたのだ。と言っても、何がしかの壮大な魔術が発動した形跡はない。ただ単純に……まるで子供が木の棒でセメントの壁を叩くかのように、当然の反発力で弾かれたのだ。

 「おっと」

 弾かれたパッションリップが転びかける中、背後からリツカの手が肩を支える。肩に触れる、硬い、手の感触。ふわ、と抱かれるように匂い立ったリツカの体臭に、パッションリップは慌てて自分の足で立ち上がった。

 「ごごごごめんなさい私凄く重くて!」

 漫画チックな効果音でも伴ってそうな、それは綺麗なジャンピングだった。

 「いや? そんなことはなかったと思うけど」

 奇妙な動作をするパッションリップに、リツカはただ不思議そうな顔をしただけだった。はて、と手をにぎにぎして何事か確認した素振りをしてから、彼女はちょっとだけニヒリスティックに口角を持ち上げると、困ったように肩を竦めた。  

 「随分、頑丈な扉だ」

 「ごめんなさい、私役に立たなくて」

 「いや、今のはとても重要な発見だよ」

 言って、リツカは扉へと近寄っていく。しゃがんで南京錠に触るなり、彼女は小さく頷いた。

 「リップちゃんの筋力値の評価はA+。超破格の数値だ。多分、大海で戦った神霊のヘラクレスと同等か、ちょっと下くらい。ただ殴るだけで、最上位のサーヴァント……いや、神霊だって撲殺できる。そういう数値」

 「えっと?」

 「力技では解決できないってことだね。対粛清防御……じゃなくて伝承防御か? あるいはそれに類似した、何か特殊な条件をクリアしないと開かないんじゃあないかな。この世界で定められたルール……異界常識(アストラリティ)による制約にも近いかもしれないね」

 ほら、と南京錠を持ち上げるリツカ。しげしげと覗き込んでみると、本来あるべき鍵穴は見当たらない。ただ、つるりとした金のメッキで仕上げられた金属塊がそこにあるだけだ。

 「物理的な鍵、じゃあないんでしょうか。さっきの道の途中に、それらしきものは……」

 ふぅむ、と悩まし気に、リツカは手慰むように右側頭部の一房を指に巻き付けている。何の仕草なのかな、と不思議そうに見つめていると、彼女は一つ頷いた。

 「よし。あの鎧竜、サクッとやってしまおう」

 「え!? いいんですか」

 「ほら、ココ見て」

 リツカの指さす先。例の南京錠をよく見れば、何か、刻印らしきものがある。大きさはコイン程度だろうか。描かれている印は、

 「あ!」

 「あの鎧竜の背中に生えてた花。ヒナゲシの花だ」

 すっくと伸びる茎に、八重咲の花弁。間違いなく、あの鎧竜の背中に生えていた花だ。

 「まぁ、だからといってあの花が鍵とは限らないけど」リツカは、屈んだ姿勢から立ち上がった。「他に、何か思い当たるものがないしね」

 うーん、と伸びをするリツカ。出会った時から、彼女に対する、漠然とした印象は変わらない。ピアノ線のような緊張感、といった雰囲気は彼女にない。どこかのんびりしていて、呑気さすら感じる振舞をする。だけど、鈍麻というわけではない。その佇まいの裏で、色んなものを見て、感じて、考えている。真実、魯鈍な自分とは、違う。パッションリップは、そんな自覚に、無暗に悲しくなった。フジマルリツカは、自分とは違う生き物なのだ。

 「よし、じゃあどうやって倒すか考えようか」

 「あの……あれくらいの敵なら、普通にワンパンで倒せると、思いますけど」

 控え目に、おずおずとパッションリップは口にした。ちょっと目を丸くしてから、リツカは莞爾と表情を緩めてから、「私もそう思う」と朗らかに肯定して見せる。

 「じゃあ」

 「でも、可能なら安全に処理したい。1%以下かもしれないけど、あなたが傷つく可能性は、出来る限り低くしたいんだ。どれだけ長期戦になるかわからないし、省エネにも努めたいところだ」

 ……素直に、パッションリップは顔を赤くした。そんなことをさらっと言ってのけるリツカが、穏やかににくらしい、と思う。もちろん、それは戦略上の思考なのは、わかっているんだけれど。

 幸い、と続けるリツカは、多分パッションリップのその表情に気づいていない。いや、気づいているのかもしれないけど、気づいた上で、声を続けた。

 「【気配遮断】、これを活かさない手はないしね。正面からの強襲より、背後からの奇襲の方が一撃必殺は狙いやすいと思う。敵の行動パターンはもう把握もしてるし、私としては、安全策のこちらを勧めたいかな。どう思う?」

 「はい、あの。リツカさんが正しい、と思うのが、正しいと思います」

 言ってから、パッションリップは気づいた。

 ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ、半瞬ほどもない間、リツカは困ったように、あるいは悲し気に、表情を曇らせた。でも瞬きの間すらなく、「オッケー」と口にしてみせる彼女の表情には、さっきの僅かな嘆きは見受けられなかった。

 多分、気のせい。パッションリップは、すぐに自分の認識を否定した。だって自分は愚鈍なのだから、そんな機微など感じ取れるはずがない。そう、思っていた。

 「じゃあそうだな」

 ちょっとだけ、リツカは思案するように視線を彷徨わせてから、「5分待って。ちょっと考えるね」

 「良い感じに、あれを倒そう」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅰ-4

 ふう、ふう。

 息を吐きながら、パッションリップは、自分の緊張感をありありと自覚している。

 場所は扉より後方100m地点、天球状に開けた区画の、隅の方だ。ひっそりと息を殺しながら、パッションリップは、リツカの暗示の魔術によって表示された視界右上のタイマーを、目で追う。

 残り時間、32秒。あの鎧竜がこの場所にくるまでの時間。

 別に、気負う必要がないのは理解している。何せ、パッションリップは本当に強いのだ。彼女の驕りなどなく、事実として彼女は強いのだ。

 女神3柱のエッセンスを抽出され、製造された人工の神霊(ハイ・サーヴァント)。武具も肉体も神々のものであれば、サーヴァントすら彼女にとってはその辺のぺんぺん草と変わらない。まして幻想種でも最下位にカテゴライズされる魔獣種など、ぺんぺん草以下である。

 だから、この緊張は別種のもの。敵と戦う前の、高揚と同位の緊張ではなく。果たしてリツカの指示通りにできるかな、という、乙女のような精神性だった。

 リツカの作戦立案は、そう複雑なものではなかった。むしろ、明快を極めるといっていいだろう。あの鎧竜の行動パターンは、ここに至るまで把握している。うろうろと哨戒するように迷路を動き回った後、このホールに帰還。30分ほど休眠した後、再度哨戒行動を開始する。それがあの鎧竜の行動パターンで、ねらい目は休眠の瞬間だ。無防備を曝す敵に、【気配遮断】で接近して奇襲、一撃で仕留める。形式上も内容上も単純な、わかりやすい作戦だ。パッションリップがすべきことは、【気配遮断】を用いて接近し、スキルも宝具もなく、首を握りつぶす。それだけの、単純な作業だ。

 《きたよ》

 不意に。ないし、必然的に、リツカの声が耳朶を打つ。パスから通じてきたリツカの声に「ひゃい!」とヘンテコな返事をしてから、しまった、と思った。

 《大丈夫。バレてないよ》

 ほっと安心した。扉とホールの間の通路に身を潜ませるリツカの方が、視野は広いのだ。自分の失態に悪態をつきながら、パッションリップは逸る気持ちを、ひとまず抑える。まずは敵を倒すのだ、敵を。

 敵は来た。だが、まだ動くときではない。攻撃は敵が休眠に入ってから、だ。これに関してはデータがない。どのタイミングで休眠状態に入るのかまでは、道中では観測できなかったのだ。ただ、行動パターンからの推測……このホールで30分ほど留まるらしく、さらに一か所から動いていないらしい、ということまではわかっている。

 だから、まだしばらく待ち。攻撃タイミングの判断はリツカが下すことになっているから、パッションリップは気長に待てばいい。

 気長に待てばいいんだけども。パッションリップは我慢強いから、そうやって“待つ”ことは得意なのだけれども。

 得意ではあるが、パッションリップの主観的内面性としては、待つことは、好きなわけではないのだ。好きではないその時間……焦燥の時間そのものを耐えられてしまうだけなのだ。

 なので、じりじりとしたこの滞留を紛らわせるために……半ば無意識に、パッションリップは思惟を巡らせていた。

 自分が何者かはわかっている。ここではないどこかの、いつかの時間の果て。月の裏側で産み落とされたアルターエゴという存在の成り立ちと、その一柱として形成された自分(パッションリップ)。それは覚えている。

 そうして、自分が、誰に逢って、どう終わったのか、も。

 だから、よく、わからない。どうして自分は、フジマルリツカに好意を抱いているのかが、判然としない。

 終わったことは終わったこと。メルトリリスなら、そう理解するのだろうか。

 だが……。

 無暗な物悲しさ。思わず泣き出してしまいそうになってから、パッションリップは無意識の思考に気づいて、今の自分の置かれていた状況を捉え直した。焦燥から逃げるために哀愁に落込む、という不毛な身振りに、パッションリップは自罰的な煩悶に口を結んだ。以前までならそれでガキっぽく泣いていただろう。だが泣かなかったのは、多分、

 ……過去の、お陰で。

 《パッションリップ。来たよ》

 ぐるぐると回り始める思考を堰き止めたのは、どこかで聞いたことがあるような、違うような、リツカの声だった。

 からからの口腔のまま、唾液を嚥下する。嚥下動作だけが起きて、喉元がきしりと痛む。

 パッションリップは、のそのそと動き出した。重たい腕を慎重に動かして、【気配遮断】を損なわないように、ホールの中央まで歩いて行く。

 実時間にすれば、多分30秒とない行程だったろう。だのに恐ろしいほどに時間が延長していた。1時間も2時間も歩いているような、気がした。彼女の集中力全てを費やしていただけに、心労もひとしおである。鎧竜のすぐ隣、足元に灰色の体躯を見下ろすところまで来た時には、もう疲れて気絶するかと思うほどだった。

 最も、それは気分の話であって、実際パッションリップ自身のステータスは完調に近い。パッションリップは十全な火力を発揮して、任務を達成するだろう。それは間違いないことだった。

 腕を、振り上げる。500kgの巨重が身体に伸し掛かる。悍ましいほどの筋力値を誇るパッションリップにしてみればさして苦ではない。あとは、持ち上げた腕を振り下ろし、灰色の鎧竜の頭を潰す、それだけのことだった。

それだけの、ことだった。

 一瞬の間。一度目を瞑ってから、パッションリップはドゥルガーの剣を振り下ろした。

 

 ※

 

 ぶしゅ。

 

 ※

 

 「お待たせしました」

 扉の前。

 パッションリップは、手に握ってたそれを、リツカの前に、慎重に置いた。頭部だけでなく、前肢と肩部もすっかり肉塊に成り果てたあの鎧竜。どくどくと赤い血液を垂れ流して、残った下半身は僅かに痙攣していた。生きているわけではなく、何かしらの反射反応だろう。

 ありがとう、と口にして、リツカは死に果てた鎧竜を覗き込むようにしゃがみ込む。熱心に傷口やら甲羅やら、あの「NFF」というロゴマークやらを調べている、らしい。目視で、時に触って、あるいは嗅いでみて。

 そんなリツカの姿を、パッションリップはしげしげと見下ろしていた。

 鉱山排水を思わせる、鈍い赤銅色の髪。右腕を覆うように描かれた赤い(つるぎ)の紋章。華奢な体つき。肌はすべすべ……というほどでもないけれど、触ったら柔らかそうだった。モデル体型、というには身長150cmと少ししかないちんちくりんな感じだけれど、それなりに発育している胸元と腰つきには、子どもっぽさは感じない。均整の取れた体つきで、パッションリップは素朴に綺麗だな、と思った。

 セザンヌがそう世界を見るように、パッションリップはフジマルリツカという女性の姿を、己が魂に溶け合わせていく。要素に分解されながらされつくされない、リツカという全体性。狂おしいまでのホーリズムに思わず眩暈すら覚えながら、パッションリップが抱いたのは、やっぱり無暗なまでの物悲しさと、同じ強度の恋しさだった。

 最後、リツカはようやっと甲羅の花へと、手を伸ばした。八重咲の、豊かな花弁の雛罌粟。白い花をほっそりとした茎で支える姿は、細い体に宿る意志の強さを感じられもしたし、また逆に、己を強く見せようとする繊弱な身体性を、感じさせもした。リツカは、そのどちらなのだろう、と思った。多分、どちらもなんだろう、とも思った。

 ふと、パッションリップは静止し続けるリツカが気になった。かれこれ10秒、思案している風でもなく、リツカは身体を強張らせたまま、その花を静止して正視している。

 それでも何か考え事かな、と楽観することさらに30秒。流石に変だな、と思ったパッションリップは、たまらずに、さりとておずおずと声をかけた。

 「リツカ、さん?」

 一拍ほど置いてから、はっとしたようにリツカは顔を挙げた。怪訝な顔で周囲を見回して、リツカは最後、パッションリップを見つめた。

 「ヒナちゃん?」

 「え?」

 「あれ」

 目を強く(しばた)いてから、リツカはちょっと恥ずかしそうに顔を赤くした。右側頭部で一房結んだ髪を右の人差し指でねじねじと弄りながら、なんだか大儀そうに立ち上がった。

 「多分、これで合ってそうだね」

 左手に握った雛罌粟の花。淡い花弁を見つめる彼女の目、秘密の花園の奥に淀む深い池沼のような(くら)い鈍色の目に宿るものを、パッションリップは理解しかねた。いや、誰とても、それをうかがい知ることはできないだろう。まして今のパッションリップでは、まだ。

 「よし、じゃあ試してみようか」

 立ち上がった彼女の顔は、もう、普段の顔に戻っていた。その上で、僅かに漂うにべもない雰囲気。取り付く島もないその微笑に、パッションリップは声もなく、ただ反射反応的に首を縦に振った。振らざるを得なかった。

 なんだかおぼつかない足取りのリツカの背。凪いだ海の中でぎこちなく揺れる、淡く白い波濤の背。パッションリップはその後ろ姿に、いつか見た人の背が、被るような、気がする。

 扉の前に立つと、リツカは急いで屈み、南京錠に手を伸ばした。瞬間、錆びのついた南京錠は音をたてて砕けていく。リツカの掌に収まることもなく地面に転がった金属塊は、一瞬の後に霧散していった。

 一拍、彼女は消えた南京錠を幻視するように地面を注視した。だが、それもまた、一瞬のことだった。屈めた身をもう一度伸ばして振り返ると、小さく頷いた。

 思惑通りに、扉は開いた。リツカの見立て通り、この扉を開くには何某かの”鍵“が必要で、その通りだったというのに。

 どうして、リツカはこんなに、申し訳なさそうな顔をしたのだろう?

 ドアノブに手をかける。重く錆びついたドアを開く。いそいそとリツカの背に近づいたパッションリップは、扉の向こう───暗く延びていく径を、見た。

 「じゃあ、行こう。せめて、慎ましくね」

 

 ※

 

 「はぁ? 花?」

 ……芥ヒナ子は、気難しい人だ、とは思っている。そして多分、その感想は、間違っていない。

 カルデアの共同スペース、ロビーに設置されたカフェテリアの隅。彼女はいつも、猫の本を片手に、孤独な時間を過ごしている。

 孤独、というのとは、ちょっと違う。もっと黙々として、排他的。簡単に言うと拒絶的な生活をしている。

 だから、彼女が嫌そうな顔をしたのは、当然のことだろう、と思われる。人と関わりたくなさそうな人に、ずけずけと喋りかければ、嫌悪的に振る舞われるのは当然の仕儀だろう。予想していたけれど、ちょっと……というか大分、“私”の胸郭は凋んだ。

 「確か、あなたフラワーアレンジメントみたいなの、してたわね。イケバナ」

 それでも取り付く島を滲ませながら応えてくれたのは、人理修復に挑む人員の中でも、同じAチームという()()()だろう。あるいは、その()()()を理解して忖度できる、彼女の人間性……のお陰だろう。

 そんな専門的なものではない、と応えると、芥ヒナ子はぎゅっと表情を顰めた。思案している、確かにそうだ。だがその思案はもっと気難しく、且つ、とても個体的なもののように思われた。

 応えなくても良いですよ、と、咄嗟に言った。ごめんなさい、と頭を下げる。不躾だった、と思って踵を返しかけたところで、声が手を掴んだ。「待って」

 ぎょっとした。振り返ると、テーブルから立ち上がった芥ヒナ子は手を伸ばして、手を掴んでいた。

 「雛罌粟」

 え、と聞き返した。芥ヒナ子の表情は、さっきと変わらない。眉間には深い皺が寄って、額にも緊張が皺を作っている。噤んで結ばれた淡いサーモンピンクの唇は、小刻みに震えていた。

 「雛罌粟」

 それで、彼女の寛容さは限度だったのだろう。自分で掴んでおきながら、ヒナ子はすぐに“私”の手を振りほどいた。振りほどいたヒナ子は、忌々し気に眉を寄せながらも、抑えきれない何か……ほんの少しだけ滲んだ、淡い情動を覗かせていた。多分、期待、というような。

 “私”が左目を丸くしたのは、そんな無礼さに呆気にとられたわけではなかった。いや、確かに芥ヒナ子の無礼さはびっくりしたけれど、無礼であることは実はどうでもよかった。“私”が感心したのは、別なところなのだ。

 雛罌粟、という花を、恥ずかしながら“私”は知らなかった。そもそも、実はあんまり花について詳しくなかった。じゃあなんで、と言われると恥ずかしいけれど……。ぼんやりと頭に浮かんだ彼女たちの顔にちょっとだけ恥かしさを覚えつつ、知らなければ調べればいいんだ、と前向きに考えてみる。カルデアに来てから使い始めたこの情報端末……タッチスクリーン式のタブレット端末を、ウェストポーチから取り出してみる。芥ヒナ子の胡乱な目を気にしながら、ライブラリの検索エンジンに入力してみる……。

 ……あなたみたいですね、と、口にしていた。

 すっくと立ちあがる、強い芯。それでいて、葉のない芯は、孤高にも、あるいは孤独にも見えた。それでいて、鮮やかな花弁の色合いは……なんとなく、芥ヒナ子、という人物を思わせた。多分深い考えはなく、綺麗な花の雰囲気が、実は化粧っ気はなく飾らないながら、品良い佇まいの芥ヒナ子によく似ていると思ったのだと思う。

 一瞬、芥ヒナ子は鋭い視線を向けてきた。怒気? それもあっただろう。哀愁、それもあったと思われる。だが、あまりに鋭い刃の如き眼差しは、もっと貧困なペシミスティックを感じさせた。それをヒューマニズムというのは、多分表層的な物言いだろうか。

 でも、その啓けは一瞬だけのものだった。鋭い眼差しは素早く鳴りを潜め、これ見よがしな無関心を身に纏い、芥ヒナ子は手にもった本の文字に視線を滑らせ始めた。本が逆になっている、とは言いにくかった。

言いにくい代わりに、ありがとうございます、と口にした。他者の時間を使用することは、何にせよありがたいことだ。それに贈与があるならば、なお。

 芥ヒナ子は、本越しにちらっとこちらを見やってきた。色の無い眼差しに、さっきの生々しさはない。彼女らしい、露悪的ですらある無垢な眼差しだけがそこにあった。今は、それでいいんだな、と思いながら……。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅱ-1"蓮の花”

 「うお」

 間抜けそうな声が耳朶を突いたのは、ちょうど視界と意識が啓いたのと同時だった。

 「空間転移……?」

 背後を振り向くリツカ。彼女の仕草につられて、パッションリップも、なるだけ身体を逸らさずに首の可動域だけで後ろを見てみる……。

 「シャフ度か何か?」

 「はい?」

 「いえ」

 何かリツカが言っているけれど、なんだかよくわからなかった。

 それはともかく、背後を見てみれば、リツカが驚いた理由はよくわかる。背後には、さっきと同じように扉が一枚。開け放たれた扉の向こうは、ただただ真っ黒黒すけな空間がのっぺりと広がっている。間違いなく、さっきここを通ってきたはずなのだが、その記憶は特にない。

 ちょっとリツカは思案した後、解放された扉の前に行くや、のっぺりした闇黒へと手を伸ばした。手を伸ばして闇黒に、触れた瞬間。

 「お」

 ぬる、とまるで吸い込まれるように彼女の手が吸い込まれていく。というより、まるで分解でもされているように暗黒に飲まれていく。ぎょっとしたパッションリップが面倒くさい姿勢制御をして、慌てて手を伸ばしかけて咄嗟に止めてあたふたしたりしている合間に、今度はリツカは闇黒に顔面を突っ込んだりしていた。

 もうパッションリップは素っ頓狂な奇声をあげていた。リツカを引っ張り出さなきゃと思いつつ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それをちゃんと理解していて、だからといってパッションリップはどうしたらいいか、さっと考えが浮かばなかった。パッションリップは、ずる賢いけど基本的には魯鈍な頭でしかないのだ。

 「おーすごいすごい」

 ……リツカはそんなパッションリップの恐慌など一切気にせず、平然と闇黒から手と顔を出していた。

 「うーんこれはなんだろうな。空間転移でもないし。レイシフトに近いようにも見えるけどそうでもないしな。まぁいいか」

 ぶおんぶおん、と闇黒に手を突っ込んでは引っ込む仕草を繰り返している。パッションリップは肝を冷やしに冷やしていたが、リツカは気にせず遊んでいる。

 「大丈夫なんですか」

 「まぁ見る限り大丈夫だし。腕足くらいなら大丈夫じゃなくても大丈夫だよ。頭はちょっとヤバかったかな、反省」

 「はぁ」

 ごめんごめん、と苦笑いしながら、リツカは肩を竦めた。ちょっと頬を膨らませるけれど、許してやることもやぶさかではないパッションリップである。人を心配させるのはよくないと思う。

 「知らんけど。さっきの場所とは、多分物理的な繋がりには多分乏しい、のかな」

 独語のように声を漏らすリツカ。鉱山排水の沈殿物みたいな色の髪の毛、その側頭部の一房を指先で捩じりながら、彼女は首を捻っている。考え事をしているんだ、と頷いて、パッションリップは口を閉ざすことにする。パッションリップは、“思考”という人間のおそらく本来的な能力が苦手だった。客観的にも、また主観的にも、だ。自分は魯鈍で大雑把。それがパッションリップの自己評価だった。

 他方、彼女は考え事をすること自体は、そう嫌いでもなかった。ここで言う考え事、というのは、何か事物に対して数理的合理性をもった思考を重ねることではなく、ただ妄想みたいなもんである。

 何故、を思案する。どうして、自分は此処にいるのか。あの闇黒の中で、確かに未来へと向かおうとして終わったことだけは覚えている。内海に寄せる淡く白い波のようなあの人の残影だけが、印象深く残っている。なのに、何故、パッションリップは自身が目の前の黙然とした女性に恋心を抱いているのだろう?

 頭の中だけで腕を組んで……何せこの腕では腕組みするどころではないので……、むー、と頭を捻ってみる。一見思考めいているけれど、実のところ、考え事をし出すとこの論題しか頭に浮かんでこないのだ。妄執のように同じ思考がぐるぐるする感じを、彼女はそれなりに対自的に理解し始めていた。そうして、我がごとながらうんざりしつつ、かといってやめられないパッションリップである。

 「うーん、じゃあ行こうか」

 気が付くと、リツカは思考を終えていたらしい。さっと我に返ったパッションリップは、健気にも「はい」とすぐに応えた。

 「まだわからないことだらけだ。そう急ぐ必要はないのかもしれないけど」

 言いながら、リツカは耳朶のピアスに僅かに触れた。下垂するガーネットが揺れ、どこかから採光される光を反射していた。

 「さっきまでの場所とそう変わらないようだし。同じように、慎重に進んでみようか」

 「また、敵……と戦うんでしょうか」

 ちょっとだけ、パッションリップは言い淀んだ。リツカは、パッションリップの素振りに特に拘泥する様子はなかった。少なからず、彼女にはそう見えた。

 「多分、そうなるだろうね」ちょっとうんざりしたように言いつつ、リツカは肩を竦めた。「ごめんね」

 「大丈夫です。私、それくらいしかできないから」

 リツカの手が伸びる。くしゃ、とパッションリップの髪を手櫛するようにかき回すと、口元だけに笑みを浮かべながら頷いた。「よーし、行こうか」

 颯爽と、それでいてのんびりした歩様で彼女は歩きだした。その背を追うように歩き出したパッションリップは、親ガモを追う子ガモのようだったか。重い腕を健気に引きずってついてくる彼女を、リツカは時々立ち止まったり振り返ったりしながら、妙な牢獄? というか洞窟の中を呑気に逍遥していく。古代ギリシャの哲学者、アリストテレスのように。

 以前の通路に続いて、基本方針はほとんど変わらない。50mを歩いては立ち止まり、リツカが頭の中で構成するマップを暗示でパッションリップと共有する、という地味な作業。さっきまでのフロアと比較して絵的に全く変わらないため、一体いつまで続くのかというものぐさな感慨は、多分パッションリップでなくても覚えたところだっただろう。幾分かげんなりしたものを感じながらも、それでも完全に飽き性にならなかったのは、5割はリツカのお陰だった。

 「また行き止まりだ。こっちの道じゃあなかったみたいだね。抜け道とかあるのかな?」

 立ち止まって壁をなんとなく見回したり近づいたりして見ながら、リツカは頻りに喋っている。状況を延々と喋って説明している様は、パッションリップに喋りかけている、というよりは大体独り言に近しかっただろう。無駄に喋りかけられる不快はなく、さりとて終始無言の気まずさもないのは、気楽と言えば気楽だった。

 もっと言うと、ものぐさなパッションリップ飽きさせないように、リツカなりに四苦八苦している……らしい、と彼女なりに自覚があったのである。要するに、広義で言えば人類の上位存在であるはずの“サーヴァント”にも関わらず、人間種でしかないリツカに気を使われていることに、パッションリップは、少しだけでも自覚していたのだ。ものぐささを発揮している場合ではない、という心構えが、今になって()()()()芽生え始めていたのである。

 そんなリツカの気遣いへの応答、が5割。そうして残りの5割は、この迷宮めいた巌窟そのものにあった。

 「暇だねぇ」

 ふわあ、と今日何度目かの溜息を吐いたリツカ。伸びをするように手を掲げた彼女の心情は、パッションリップにもよくわかる感慨だった。

 単調なのだ。この無機質で代り映えのない迷路が延々と続く上に、何も現れないのだ。この空間には。さっきまでの通路では、あの鎧竜が思い出したように()()をしていたけれど、今度は一切それがない。ただ延々と見慣れたような景色が続くだけなのだ。前と違う、という違和感は、心地よい緊張感がある。

 そして、違和感は、もう一つ。

 「あ」

 それ、に気づいて、リツカが膝を曲げる。壁際の松明が照らす光源は、視野としては完全とは言い難い。ちょうどリツカとパッションリップの高さに設置された松明の灯は、足元は全然照らしてはくれないのだ。

 「またあった」

 ひょうい、と足元のそれを拾い上げる。何かの紙片、だろうか。紙片とは言え、いわゆる現代のそれとは異なるもっと古い……パピルス、という種の紙だ。主に古代エジプトで使用されていたものらしい。らしい、と伝聞推定なのは、リツカ曰く、という枕詞がつくからである。

 「また、似たような話ですか」

 リツカの肩越しに、パッションリップが彼女の手元を覗き込んでみる。リップより全体的に“細い”彼女を間近に感じる時、ちょっとだけ感じる緊張に胸の奥をきゅっとさせつつも、手元の紙をまじまじと見る……。 

 

 「『外なる神について……無貌にして千の貌を持つ魔神、■■■■■■■■■について

 彼の者はその他人に無関心な外なる神どもと異なり、積極的に人に関わる傾向性をもつ。その理由は極めて単純であり、ただ“面白おかいものが見たい”という度し難い悦楽主義によるのだ。人の破滅を見て楽しみたい、というただそれだけのために、彼の神は夢幻境からやってくる。……」

 

 茶褐色の文字はほとんど読むに堪えない汚さだったけれど、僅かに読み取れたのがこの文面だ。興味深いのは、この神?なるものを示す名、だろうか。奇妙な幾何学めいた文字で書かれた文字は、おおよそこの地球に存在する文字とは思えないほど稠密且つ複雑で、文字なのかすら不明だった。

 “外なる神”。それが、この通路に来てからばら撒かれているパピルスに描かれた文字に一環して書かれている話だ。この星の神話体系のいずれにも属さない、宇宙の深淵に潜む異形の神々について。その神々について、持って回った繰り言のような言いまわしで延々と書き連ねる様は、はっきり言ってパッションリップには白痴の妄言としか思えない内容だった。

 そう、こんな文面は白痴的だと思う。神、だなんて。私だって神サマ3柱も習合しているんだぞっ。

 ……場違い且つ若干恥知らずな対抗意識を抱きながら、パッションリップは頬を膨らませた。

 リツカは、この文面にどう感じているのだろうか。それとなく脇目で彼女の横顔を盗み見ると、珍しく真剣で悩まし気な目をしている。

 「小説か何か、なんですかね」思わず、パッションリップは早口に言っていた。 「頭が悪そうな話ばっかり書いてありますけど」

 我ながら、勢い言ってしまった、と思った。唾とか飛んでないかな、とあたふたしつつも、リツカの様子を伺ってみる。彼女はちょっと驚いた様子だったけれど、多くは気にしていない、らしい。どうかな、と言いながら、リツカは古いらしい紙を無造作に畳むと、プリーツスカートのポケットに押し込んだ。

 「世迷言だよ」汚いものに触った、とでも言うように手を叩いた。その仕草が、パッションリップには酷く苛立たし気に見えた。「本当に、忌々しい……」

 「そうですよね、こんなの」

 僅かに顔を覗かせたリツカの振舞に幾分か気圧されながら、パッションリップは諸手をあげて同意することにした。リツカが自分の憤懣に同意しているのが……というより、同調していることが、素朴に嬉しかったのだ。でも他方思うのは、彼女は自分と同じ嫌悪感を抱いたわけではないのではないか、ということだ。彼女が僅かに伺い見せたその情動……この妄言の羅列に対する端的な憎しみは、パッションリップが抱いた子供じみた嫌悪感などよりも、それこそもっと淵源に迫るほどに深いように思えた。立ち上がったリツカの佇まい、そして振り返った彼女のいつも通りの猫の柔毛(にこげ)のような淡いかんばせが、その深さを物語っているようでもある。

 それに比べれば、本当に自分が抱いたものは、幼児の癇癪みたいなものだ、と思う……「他にはないかな」と足元を眺めまわすリツカの背に、パッションリップは肩を竦める。藤丸立華は藤丸立華であって、それ自体として存立する個体なのだ。彼女の所作、立ち振る舞い。わざと呑気そうに歩いてパッションリップに歩様を併せる素振り、手の振り方、周囲をきょろきょろ見回す慎重さ、そういった身振りのどれ一つとっても、パッションリップという人物像のそれとは乖離する。その乖離が、パッションリップにはどうしようもなく物悲しいことに思えた。そういう物悲しさを理解したつもりだったのだけれど……。

 「どうしたの?」

 あ、と顔を上げた。 

 5mほど先、立ち止まったリツカが待っている。考え事……というより悩んでいる間に立ち止まっていた、らしい。

 「いいよ、走らなくても」

 咄嗟、急いで走り出そうとして、素早く、かつ鋭く静止の声が飛んだ。言葉尻自体はやわらかかったけれど、ただ声だけで伝う強制力。令呪には及ばないが、心理的な圧迫感すら伴う“命令”は、リツカのマスターとしての能力の高さを否がおうもなく感じさせる。本来、人類種よりも高位の存在であるサーヴァントを従い得る能力……単純に1人で複数の縁を結べるだけの運命を身に備えている、という面や、コミュニケーションであったり、魔術的な素質であったりを駆使してサーヴァントに自分の命令を履行させる素質、という面。そういったあらゆる面を総合して勘案される「マスターとしての力量」という評価値において、リツカは優秀だ。元からパッションリップ自身が彼女にある程度の……というより割と肥大化した好意を寄せているが故の契約の繋がり自体の深さ、そしてそれに伴う命令の支配力の高さ、というのもあるのだろうが、それを抜きにしても評価できる……と、パッションリップは頑張って考えてみる。

 コミュニケーションをとる力量。多分、そういうものもあるのだろう、と思う。彼女と過ごした時間はまだまだ短いけれど、リツカはなんというか、普通だ。実のところ、コミュニケーションで最も重要ですらある“普通”という雰囲気を意図的にせよ無自覚にせよ発揮できるのは、それだけで美質だろう。英雄の類であるならば、この普通なフラットさは、いい意味でドライな関係を築けそうだな、とか思う。

 でも、多分、リツカにとってコミュニケーション能力、なんてものは本質でもなんでもないのだ。彼女の精強を形作るのは、もっと別な、冥いものだ。

それが何なのか、実のところパッションリップにはよくわからない。よくわからない……。

 「ごめんなさい」のろのろ、とリツカの下へやっとたどり着いて、パッションリップは声も小さく漏らすように言った。「わたし、のろくて」

 「いや、いいんだ」

 「でも」

 「1人がなんでもできちゃったら、私が居る意味がなくなっちゃうから」

 私、と言う単語には、多分マスター、というルビが着く。何故かそんな考えが過って、おそるおそるパッションリップは畏縮した姿勢のまま、リツカを伺う。

 「失敗が起きた時、管理側に問題があることがほとんどだから。客観的に、リップちゃんが悪いわけではないのだ」

 首を傾げる。旨く伝わってないらしい、と理解したらしいリツカは一瞬だけ逡巡してから、

 「部隊の失敗は指揮官の判断ミスなんだよ」

 「でもさっき、私がぼーっとして」

 「私がちゃんと歩様を併せてないから悪い」

 まるで断ち切るように、パッションリップの声を遮るリツカ。

 思わずパッションリップが肩を竦めると、リツカは不快そうに眉を寄せて、ごりごりと縛っていたはずの髪を掻きまわした。

 「自分の無能を実感するのは、何度経験しても慣れないねえ」

 「違います、私が」

 「考え事してたんだよ、色々と」

 やれやれ、と嘆息をつくリツカの表情は、もういつもの呑気そうなものに戻っていた。その様にパッションリップは幾分か安堵を覚えながら、気楽な安堵なんてものを覚えている自分にも嫌気が挿した。パッションリップの不出来さは、彼女自身も、よくわかっていることだ。

 「今度もし今みたいになったら、とりあえずパスかなんかで呼んでくれればいいからね」

 有無を言わさぬリツカの声に、思わずパッションリップは頷いていた。理性的に考えてそれがいい、と理解して、ちょっとだけ彼女は機嫌を損ねた。

 「大丈夫?」

 そんなことを聞いてくるリツカが、腹立たしい、と思う。何か言いかけるリツカに「大丈夫です」と勢い言いかぶせながら、パッションリップはずんずんと進んでいった。虚を突かれたように呆然と立ち尽くすリツカのことは敢えて気にしないところは、本来優し気な彼女らしからぬ思い切りのよさではあった。が、なるべく速足にならないようにするあたり、彼女の繊細さはありありと現れているわけだが。

その後、通路の最奥に達するまでは終始無言だった。結局前を歩いているリツカも少しだけ言葉少なになっていたし、パッションリップもリツカの話を意図的に無視していた。というより、最初無視を決め込んだものの、だんだん気まずさの方が勝り始め、今では喋るタイミングを逸していた。パッションリップは、最もオリジナルに近いだけあって、ある意味で強情で、ある意味でひ弱だった。

 そんな有り様だったので、パッションリップは迷路の最奥に着いた時、兎にも角にもほっとした。いつまでタイミングを逸したまま沈黙が流れ続けるのか、気が気ではなかったのだ。

 止まって、と前を歩くリツカが手で合図をする。立ち止まったパッションリップは、肩越しに、先に拡がる空間を目にした。

 立ち止まるリツカの、大体10mほど先から一気に空間が開けている。先ごろ鎧竜を屠った空間と同じだ。高さはざっと20mはあろうか。広さは半径100mほど、陰鬱な迷路の中とは思えない広々とした空間だ。

 その空間の中、巌のような何かが屹立している。鎮座している、という方が正しいだろうか。大きさにして5mほど、茶褐色の巨大な塊は、よくよく見れば、頭がある、ように見えた。

 頭だけではない。手があり、足がある。身を屈めているせいで分かりにくいが、間違いなくこの巨体は、人の形をしていた。

 即ち、この巨塊は───。

 「うぉ、すご。巨人じゃん」

 ホールの入口寸前まで近づいたリツカが、思わずというように感嘆の声を漏らしている。2000年代も既に10年を過ぎた時代にあって、巨人、などという太古の世界の幻想種はついぞ世界の表側から退いて久しい。魔術に関わる人間であるならば、大なり小なり感慨を抱くのはわからなくない……のかな、とパッションリップは思った。要するに、目の前に恐竜がいたら感動するみたいなもんだろう。

 ではパッションリップはどうか、と言えば、何故かこの時抱いた感慨は、どちらかというと奇妙な不快さだった。あの巨人を目の前にして感じる、圧迫感とそれに対する反感。鬱勃と全身の神経細胞を励起させ膨れ上がった情動は、パッションリップ自身すら戸惑うものだった。確かにパッションリップは、神性が習合した存在者であって、幻想種に対する感慨みたいなものはない。さりとて、彼女は単純な時制に限ったとしても、もっと未来に産まれるはずのものなのだ。在り方としての巨人はともかく、種としての巨人なんてものは目にしたことすらないのだ。

 じゃあ、何故。

 己を構成する神性に思いを巡らせたところで、パッションリップは思考を止めた。目の前で、既に何某か思案を終わらせたらっしいリツカが振り返ったからだ。

 「じゃあ、どうしたらいいか伝えてもいいかな」

 はい、と応えた自分の声が、思わず張り切っている。もちろん自覚している。自覚しているが故に、ちょっとだけ気恥ずかしさが滲んでいた。そっちに関しては、無自覚だった。

 「結論から言うと、まずは状況把握に努めてほしいかな」

 「?」

 「あれはそもそも生きてるのか。生きてるとして、前と同じように倒さなきゃいけないのか。そもそも、前と同じような仕掛けで出口にロックがかかってるのか。それらを調べてきてほしいな。

 最優先事項は向こう側に出口があるか、ロックがかかってるのか、同じ方式で解除するのかどうかの確認。確認次第で開けられそうならそのまま突破だね。一旦戻ってきてもらおうかな。

 前と同じような方式で解除する場合はあの巨人の様子を確認してほしいな。生きてるかどうかってのもあるし、例の花があるのかどうか。弱点らしいところはあるのか……そういうところを見て欲しいかな。確認が終わったら戻ってきてね。

 改めて2つ。

 出口の確認が1つめ。

 その結果次第で追加が1つ。あの巨人の観察だね。

 今言った2つが終わり次第、ここに戻ってきてね。倒せそう、と思っても一旦戻ってくること。

 一応だけど、始まったら無線封鎖……パスの類で連絡を取り合うのはやめよう。万が一の場合は状況によって令呪で呼ぶから

 なんかわからないこと、ある?」

 さらさら、と当たり前のように言葉を並べるリツカに、とりあえずパッションリップは頷いた。正直あまりよく理解できてないのだが、とりあえず、見に行けばいいんだな、ということだけが理解した。なので、パッションリップは元気よく首を横に振った。何がわからないかもよくわからない、ということはとりあえずわかった。

 リツカは一拍だけ沈黙した。訝るようにパッションリップを伺ったが、とりあえず納得したように頷いた。

 「よーし、じゃあ行こう。慎ましくね」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅱ-2

 「あ、花」

 つい、パッションリップは声を漏らして、あわてて口を噤んだ。ぷく、と唇を結んで頬を膨らませ、声を漏らさないようにしたりする。ついでにパスをとばしかけた自覚もあって、パッションリップはおそるおそる、ホールの入口の方を見る。

 方角にすると、だいたい2時方向。円形の室内、その外周を回るように歩いてきたパッションリップは、ホール入口に佇むリツカを見やる。相対距離にすれば50mほどだろうか、ばっちり視線がかち合うと、リツカは小さく手を振って返事をした。流石にうっかり連絡を取りかけたところまではわからないらしい。

 ほっと安堵しつつ、改めて、パッションリップは巨人の背を眺める。

 蹲るような姿勢の巨人、その首元。うなじのあたりに、小さな花が咲いている。白、というか薄紫色の花弁が硬い爬虫類の鱗のように突き立った花だ。何の花かまでは同定できない……というより、至近で見たとしても多分パッションリップにはわからないだろう……けれど、とりあえず花があることは確認できた。リツカが指示した内容の、2番目の一部をクリアした形だ。他に何か確認すべきことはあっただろうか。あまり覚えてないけれど、多分花があるかどうか確認できれば大丈夫だ。

 パッションリップは、ふと思う。花がある、ということは、つまりは前と同じなのではないだろうか。多分、50mほど円周を歩いた先にある出口に設置されている扉には、やはり錆びついた金色の南京錠がかけてあって、あの花の刻印があるはずだ。

 なら、いちいち確認する必要なんてあるんだろうか。いっそここでこの巨人を(こわ)して、あの花を抉り出せばいいんじゃないだろうか。

 ……魔が挿す、という言葉があるが、パッションリップの思案は、まさにそれだった。とは言え、思考自体はそうおどろおどろしくもない。邪なものが過る、というよりも人間臭く、もっと言えばどんくさい思考だった。要するに、パッションリップは彼女の本性を発揮したのだ。それが何かと言うと、“ものぐさ”である。わざわざ出口までいって確認する手間をかけるより、きっと出口は同じように施錠されているんだからさっさと倒してから確認してもいいじゃないか……みたいなことを、考えた。

 しばし、パッションリップは思考していた。時間にして、10秒ほど。思考というほど鋭いものではなく、緩慢な“考え事”をしてから、パッションリップは、のそのそと出口の方へと向かった。

 巨人の姿越し、ちょっとだけ、入り口にいるリツカを見る。鉱山排水の底に沈殿する酸化胴のような、濁った色の髪の毛。その下に静かに2つ空いた孔(眼)の存在に、パッションリップはわけもなく身を縮ませた。今は、怖さの方が勝った。リツカの期待に添えなかったときの、怖さだった。

 【気配遮断】を纏ったまま、静々とパッションリップが出口へと向かう。恨めし気に巨人の姿を見つつも、パッションリップはなんとか我慢して、その扉の前に立った。

 ホールから入って、20mほど直進した先。岩盤に埋め込まれたような錆びた鉄のドア、そのドアノブのすぐ下にやはり鍵がかかっている。ぼろい金具で留められただけの鍵なんて、パッションリップからすれば容易く破壊できそうだ。もちろん破壊できないことは、よくよく承知している。恨めし気に眺めてから、彼女はしげしげと南京錠を調べてみる。手で掴めればいいのだが、生憎、彼女の手はそういう器用さとは無縁だった。残念ながら、彼女はそうした自分の特質を、認識している。

 そんな様なので、調べるといっても顔を近づけるだけなのだが、今度は兎にも角にもバカでかい乳が邪魔だった。何せ顔を近づけようとすると、胸を扉に押し付けてしまうのである。しかもその乳、ただの脂肪と乳腺の塊ではないのである。間違って死の谷間にあの南京錠を挟んでしまえば、全て無に帰してしまう。結局5分か10分ほど、60cmから70cmくらい離れてまじまじと眺めてから、ようやっとそれを認めた。

 花の刻印だ。前と同じように、錆びついた南京錠には花の模様が描かれている。それがあの巨人の花と同じものなのか否かは不明だけれど、多分同じものだろう、と検討づけたのは自然な発想だろう。何せ前回とシチュエーションが同じなのだから。

 これで、一つ目も達成だ。パッションリップは、自然、にこにこと表情を綻ばせた。順番は違ったけれど、リツカの言いつけをちゃんと守れたのは、結構嬉しいことだった。彼女のためになっていることが、そこはかとなく嬉しかった。

 パッションリップは、とりあえず振り返った。早くリツカに知らせたい、という質朴な欲求だった。そうして振り返って視界に入ったものを見た。

 ホールの中央、こんもりと盛り上がった巨躯。巌のように蹲る巨人の姿を見て、唐突に……というよりは必然的に、パッションリップは思った。

 もう、倒してしまっていいかな。

 思考の底、無意識に押し込めていた(さが)が、のっそりと浮上した。重く浮かび上がったその思考を、今度はしっかり掴み取った。先ごろも似たようなものを考えたけれど、あの時はただのものぐさでしかなかった。ある種の疚しさが彼女を抑制したけれど、今度は真逆だった。ものぐさはないわけではなかったけれど、もっと積極的だった。要するに“面倒くさい”からではなくて、“そっちの方が効率的”、とパッションリップは判断した。どうしてそんなことを考えたかと言えばとても単純で、そっちの方が喜ばれるかな、と思ったのだ。

 一度、ほんの僅かに頷く。彼女なりに素早く判断を下すと、あとは早かった。

 じりじり、背後から忍び寄るように距離を縮めていく。自分の敏捷値は自覚している。値にしてC。サーヴァントとしては低すぎるとは言えないが、高いとはとても言えない。要するに低めで、戦うに際してあまりウリにはならない。

 だが、それを補い得るスキルこそ【気配遮断】。値にすればA+、アサシンのサーヴァントの多くを上回るそれは、運動性能に劣るパッションリップが相手に致命的一撃を与えるに際して優秀な武器になる。前までは使えないスキルだったけれど、“あの時”以降、彼女はこのスキルを使用し得る。この巨腕を認識した、あの時から。

 いける。咽頭に嚥下動作をさせ、パッションリップは跳んだ。

 ホール天井付近まで跳び上がる。位置エネルギーを最大まで上昇させてから、あとは重力に従って、重量1tの少女が墜落していく。位置エネルギーの漸減と比例して上昇していく運動エネルギー。魔力放出を上乗せし、十分以上に加速したパッションリップが、右腕を持ち上げた。

 それが、トリガーだった。パッションリップの攻撃の意思に反応し、【気配遮断】が消滅する。彼女の存在を察知して蹲っていた巨人が身動ぎしたのは、当然の理だ。もちろん、パッションリップもそんなことは承知している。承知した上で、問題ないと理解していた。この距離で気づかれても問題なく殺しきれる。それは単なる思考以上に、確信に近かった。この巨人種……異聞から来た巨人種の運動性能は、よく、理解している。いた。

 持ち上げた腕、神の武具を束ねた黄金の牙を振り下ろす。狙いはうなじで、そうすれば呆気なく、この巨人は死滅するはずだ。

 振り下ろし、その首筋に爪が直撃する寸前。パッションリップは、一瞬だけ怯んだ。右手が強張るように痙攣しかけ、彼女は僅かにぎょっとした。

 咄嗟、パッションリップは身体を捩りながら腕を振り抜く。とまりかけた腕は当初彼女がイメージした通りの軌道を描く。

 鈍く、水っぽい反動が手のひらに弾けた。指先が肉を切り裂き、衝撃が肉塊を轢き潰していく。腕を伝って昇ってきた感触にぎょっとした時には、胸と顔面を強打していた。

 視界が灰色に明滅した。鼻先をぶった衝撃なのか、それとも別なのか。酩酊にも似た感触に囚われて、パッションリップは朽ちるように倒れかけ───。

 「リップちゃん!」

 ふ、と意識が途切れた。

 と思った次の瞬間、一挙に視界が開けた。不意に身体を包んだ浮遊感も束の間、鈍くも柔らかな感触が身体を打った。

 「いてて」

 呆然としていたのは5秒ほど。視界の先に拡がる天井の景色に、尻に感じる柔さと硬さが混じった感触……人間の肉体の感触に、すぐに事態を悟った。

 「リツカさん!」

 慌てて、パッションリップは立ち上がった。おろおろと足元……さっきまで彼女の敷布団にしていたマスターを見下ろした。

 「いやー重いよリップちゃん」

 にへら、と笑いながら、リツカはよたつきながら立ち上がる。動作に不自然なところはない。右側頭部をかき回す右腕、その前腕に刻印された大型の令呪は、二画が喪失していた。

 「だ、だだだ大丈夫ですか!?」

 思わず詰め寄ってしまったけれど、パッションリップはそんな自分の大胆さを自覚する余裕すらなかった。

 「大丈夫大丈夫」リツカはちょっと目を丸くしながらも、本当に普段通りのつかみどころのない微笑を浮かべた。

 「頑丈って……それどころじゃ」

 まじまじと、パッションリップはリツカの頭から足の先まで見回した。だってそうだ。パッションリップの重量がどれほどなのか、彼女は“自覚”している。ドゥルガーの武具を顕す両腕を含めた彼女の総重量は、SⅠ単位表記における1000kg、1tに及ぶ。日常生活ならトラックとかそういうものにリツカは圧し潰されたはず……なの、だけれど。

 本当に、彼女は無傷だった。骨折だってしていない。

 「あの、なんで」

 「花は取ったんだね」

 パッションリップの声を遮るように、リツカは声を被せた。至って平静な風なだけに、リツカの声に角を感じた彼女は、思わず肩を竦めた。この話はしない方がいい、と独り、頷いた。

 「はい、一応」代わり、リツカの話に乗ることにした。そっちの方が、嬉しい、と思った。「何の花でしょう」

 恐る恐る、といった手つきでパッションリップは巨腕を差し出した。人間など容易く捻り潰せるほど巨大な掌の上に、巨人のうなじごと削り取った花が、血だらけになりながらも綻んでいる。

 「睡蓮……じゃあないかな」リツカがパッションリップの背後に一瞥を投げる。うなじから胸元を抉られた巨人は、蹲ったまま頓死していた。「いや。蓮の花だ」

 「違うんですか?」

 「別な種類の花なんだよね、科も独立してるし。見た目は結構似てるけど」

 そうらしい。一応出典的には馴染みのあるはずの花なのだけれど、パッションリップのものぐさっぷりからして無知だった。へー、と素朴に感心したように頷くパッションリップに対し、リツカは苦笑めいた不思議そうな顔を浮かべた。

 「蓮。蓮の花」

 そっと、リツカが手を伸ばす。手が、指先が触れる。大体一拍ほどの間の後、リツカは少しだけ顔を顰めてから、周囲を振り仰いだ。

 「ねえ、居るんでしょう? オフェリア・ファムルソローネ!」

 一節の沈黙。

 軽くヒールが地面を打つ音が耳朶に触れた。

 いつの間に、そこにいたのか。瞬きの合間にそこに現れた亜麻色の髪の女の単眼が、リツカの隣にいるパッションリップをざくりと射抜いた。

 オフェリア・ファムルソローネ。リツカが親し気に、不躾に呼んだ名前だ。それが、あの女の名前なのだろうか。

 パッションリップに惹起した情動は、この時2種類だった。

 1つ目は多分、嫉妬と呼ばれるものだった。

 2つ目は何故か、無暗矢鱈な郷愁だった。いや、望郷、だろうか。相反する、というよりはまったく別種の強い志向性にまず驚愕して、そして混乱した。

 オフェリア。私は、あの女を知っている───しかも、何か、戦友でもあるかのような気分で。

 「来たの」

 呟く、というより零れるような声だった。オフェリアの声は、細雪から延びた垂氷(たるひ)のようだった。

 「呼んだわけじゃないんだ」

 「誰が」

 「ここはオフェリアの世界なんでしょう?」

 「帰って、出口はもうあるから」

 「嫌です」

 「出口は用意するから」

 「嫌だって」

 「帰って!」

 「嫌!」

 ぎょっとした。ビスクドールみたいな端正な顔を歪ませるオフェリアにも吃驚したけれど、そんなことより稚児みたいに癇癪を起したリツカに、ずっと肩を竦めた。沈着冷静、というよりは泰然自若という在り方をする彼女から全然イメージできない素振りじゃあないか。

 まじまじと赤銅色の髪の彼女を眺めてみる。実は何かの演技をしているのか、と思って見てみても、ただパッションリップは身を竦めるばかりだった。だって本当にリツカは怒っている。青筋なんかは立てないけれど、きつく結んだ口唇と、眉間に刻んだ皺が、情動そのものの苛烈さを物語っている。

 ……まただ、と思った。オフェリアとリツカが言い合って、睨み合っているこの瞬間が、物凄く()だな、と思った。早くこの瞬間が終わってほしかった。何故なのかは自覚している。リツカが他の女にかかずらっているのが愉快じゃなかった、というのはあるけれど、それ以上に、

 もう、身体は動いていた。踏み込んでから飛び出すまで1秒未満、亜麻色の髪の女との彼我距離は一瞬で詰まった。敏捷値が低いとは言え、それはあくまでサーヴァントを基準とした運動性能評価である。戦闘速度でのそれは、人間のそれを優に上回る。

 辛うじて、オフェリア、という名前の女はパッションリップの動きに反応していた。それだけに優秀な魔術師なのだろう、と理解する一方で、それが限界に過ぎないことも理解している。パッションリップが振るう巨大な掌の斬撃を躱す術などありはせず、あと2秒もすれば、彼女は挽肉になっているはず、だった。

 瞬間、彼女は思った。というより思考以前に、身体は硬直していた。人間の形をしている彼女へと振るうはずの手は凄まじく鈍重で、一挙に臓腑から押し寄せた悪心と振戦に、酩酊にも似た気の遠さが惹起した。あの時巨人を絶命させたときと同位の、疚しさと言うなの怖気だった。

 《パッションリップ!》

 後を追うように、ざくりと声が鼓膜を刺した。糺すような声音に聞こえたのは一瞬で、次の瞬間抉るような衝撃が腹から頭の先まで突き抜けていった。

 その一撃で、ほとんど終わっていた。だから、次の一撃なんてのは過剰だった。うげえ、と蹲った後、側頭部に食らった重い打撃……後から聞いた限りでは、後ろ回し蹴り……で、完全に意識は引き潰れた。

 それでもすぐに潰れた自我をとりあえず積み上げられたのは、彼女が耐えることに特化したサーヴァントだったからだろうか。おぼつかなく目を開けた彼女が見たのは、檜扇の種子を思わせる色合いの、黒い幻影だった。

 一目見て、近現代のサーヴァントと知れた。全体的に暗い色調の装いは、直観的にモダンという言葉を想起させる。黒いハットにマント、パンツはフォーマルに整えられ、それだけなら知悉と品性を感じさせるだろう。だが、その男から受ける印象はその真逆だ。軽く瞥を堕とす男の眼差しに宿る闃寂の底、花崗岩めいた硬質な何かが凝固している。知性や品性などというのは、所詮この男にとっては上辺に取り繕ったものに過ぎないのだ、とその眼球は語っていた。

 「ごめんなさい」

 男に対し、オフェリアは控えめに言う。男は僅かに身動ぎだけして応えると、くい、と顎をしゃくった。

 「ダメ。リツカはダメ」

 じゃあ、と言うように、再度男が暗い眼差しをパッションリップに向ける。無感動に見える目に射すくめられ、パッションリップは我知らずに身を強張らせた。

 オフェリアは何も言わなかった。ただ無言のまま、小さく俯いた。いや、俯いたわけじゃあないんだな、となんだか間抜けに思考が巡る。俯いたわけではなくて、あれは、頷いたのだ。つまるところ、パッションリップは処理しても良い、と言明したわけで。

 ざり、と男の靴が砂を咬む。持ち上がる手の動作は酷く緩慢に見えた。

 「どこから忍び込んだのやら」

 つと、男が独語を漏らした。言ってしまったことを今更に悔いるように眉を寄せてから、首を横に振った。

 「余計なことだ」幽らめくように、男の手に射干玉色の炎めいた何かが膨れ上がった。「せめて穏やかに逝け、外なる者」

 燈が、顕った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅱ-3

予約投稿の設定ミスってました、スミマセン


 燈が奔った。

 舌打ちをしたのは、不意打ちだったからではない。その光の色合いが妙に癪に障ったからだったが。

 何はともあれ、舌打ちをする以前に、もう地面を蹴り上げていた。宝具で増強された筋力値と敏捷値は、不意打ち気味に放出された砲撃を悠々と躱して見せる。ホール入口、10時方向からの砲撃を右に跳んで躱し、咄嗟にオフェリア(マスター)を抱きかかえた。

 背後で炸裂した爆風に、マスターの短い悲鳴が漏れる。抱える力を僅かに緩めながら、続く攻撃に備えるように、次のマニューバのイメージを描く。

 が、その夢想が実を結ぶことはなかった。射干玉を思わせる黝い眼差しの中、弾着後の噴煙を纏う影が佇立していた。あの“大型”のサーヴァントを守るように立ち塞がるその立ち姿。巨大な砲塔を抱えた偉丈夫の紅い目が、抉るように視線で射すくめた。

 「大丈夫か」

 反射的に、言っていた。大丈夫、と応えるオフェリアは気づいていない。

 煙が、薄らいでいく。土煙の向こうから見えた立ち姿に、一瞬彼はたじろいだ。

 その外見に気圧されたわけではなかった。むしろ、外見だけで言えば、むしろ親近感が湧いただろうか。近代的な軍装に、恐らくはその英雄の象徴たる武器も大砲と来た。十中八九が自分とそう変わらない年代に生きた英霊だろう、と見当がつく。ただ古いだけで強者足りうる古代の英雄は、それだけで厄介なものだ。

 だが、目の前に屹立するその存在は、もっと別な何かだ。時代の区分など意味をなさない、もっと原初的な戦慄そのもの。コイツは、そういう部類の何かだ───。

 知らず、オフェリアを抱きかかえる力が強くなった。畏怖、と呼ばれる情動が惹起したが、持ち前の克己心だけで捻じ伏せた。

 「全く」嗤笑を僅かに口角に浮かべる。「監獄は脱するものであって、闖入するものではないはずなのだがな」

 その砲兵が身動ぎする。僅かに紅い目に覗かせたのは、躊躇だったろうか。思いの他人間臭いその情動の揺らぎに、彼は素朴に感心した。

 一瞬の、思考。迷いを刹那で即断するや、彼はやはり持ち前の行動力で以て、口にしていた。

 「引け、こちらに戦闘の意思はない。我がマスターは、そこの女と事を構えるつもりはない」

 「関係ない。用があるのはそちらだ」

 硬質な声だ。鉱物的というより金属的。取り付く島もない物々しさは眼球の印象通りだ。しゃくった顎が挿した先、ぬらと舐めるような視線が、オフェリアを擦過する。

 「人気者だな」

 小さく呟き、腕の中のマスターの顔を見る。あの赤銅色の髪の女に対して見せた激情はない。怪しげな眼差しに対して、オフェリアはただ純粋な困惑を浮かべている。少なからず、オフェリアはこの砲兵の男を知らないらしい。

 思考が可能性を探り始めたが、すぐに静止する。詮の無いこと、と判断して、今はただ運命の綾に嗤笑するだけに留めた。

 「ならばなおのこと今は引くがいい。その女も、オフェリアに用があるのだからな」

 微かに、だが確かに、眉間に皺が寄った。くつくつと嗤いを漏らしそうになるのを堪え、さらに続けることにした。

 「貴様1人で、まさかこの俺を倒せると思い上がったわけではあるまい。その体に慣れていないなら、なおのことだ」

 いよいよ、砲兵は怒気を隠そうともせずに紅い目で射抜いてくる。わかりやすい奴だ。生前は、よほど素直に生きていたに違いない。まるで機械のように、与えられた役割の通りに、実直に生きていたのだろう。サラリーマン気質とでも言うべきか。

 ……いや、だから、だろうか。だから、この男は、こんなところまで来ているのか。印象がごちゃつく奴だな、と、最終的に判断した。人間らしい、とも言うだろか。

 要するに、コイツは俺好みな奴だ。

 ふ、と空気が弛緩するのを感じた。大砲を持ったサーヴァントの紅い目は相変わらず敵意に満ちているが、今ここで害意を発露する気は失せている。理性的に敵愾心を滾らせるのは、善いことだ。

 「貴様、名は」

 感情の起伏に乏しい、硬質な声。じろりと射すくめる紅い目に一瞬たじろぎながら、

 「巌窟王とでもモンテ・クリスト伯とでも、好きに呼びやれ。呼ばれた名の如く、俺は俺として振る舞おう」

 エドモン・ダンテスは、視線を外套で攫うように身を翻した。

 「大丈夫なの?」

 小脇に抱えたオフェリアが、抗議めいた顔になる。特にその表情を気にも留めず、エドモン・ダンテスは軽く地を蹴る。宙を舞うのと同時、ぽかりと目の前に空いた孔に溶け込んでいく。微睡むような感覚に絡めとられゆく中、一度だけ、背後を盗み見る格好で正視した。

 「馬鹿は来る」

 「え?」

 くつくつと、口角を持ち上げた。

 

 

 「えーと、えーと」

 見慣れた牢屋の中、パッションリップはおろおろと2人を見比べた。

 自然体であぐらをかく赤銅色の髪の彼女。藤丸立華(ふじまるりつか)は、しげしげともう1人を見ている。あぐらなんで書いてたら下着が見えちゃう、とはらはらするパッションリップ。おそるおそる確認すると、どうや らスパッツらしきものを中に履いていた。ちょっと残念である。

 それはともかく(?)、パッションリップは、もう一方の人物をおずおずと見上げた。むんず、とあぐらをかいて腕を組む、ごっつい男。筋骨隆々に、精悍というよりは瑞々しい死生命力を感じさせるかんばせ……なのだが、妙に饐えた雰囲気が漂う、偉丈夫だ。目を引くのは床に転がした大砲だろう。風采も併せればまさしく近代の英雄という佇まいである。

 「それで、改めてなんけども」

 右側頭部の髪の一房をかき回しながら、立華は割と隔てもなくに言う。巨漢の男は特に反応もせずに、ただ黙然と鎮座するだけだ。

 「あなたはここに召喚された時から記憶が不鮮明で、なんでここにいるかわからないと」

 「そうだ」

 「オフェリアのこと探しに来たって言ってなかったっけ」

 「それは間違いない」

 「でも記憶はないと」

 「そうだ」

 「オフェリアって寝るとき下着きな」

 「何?」

 「……」

 「なんだ」

 「記憶はないと」

 「ない。それと早く今の話をしろ」

 慌てて居住まいを糺して不躾に言う巨漢に、パッションリップはしげしげとジト目を向けた。

 絶対嘘である。そわそわしながら、なおさらむすっと顔を顰める仕草はどう見ても嘘をついている。同意を求めるようにリツカの方を見ると、彼女も肩を竦めただけだった。

 「とりあえずアーチャー、でいいのかなこれ。

 「ありがたいことにな。不本意だが」

 粛々、と首肯する大男。とりあえずアーチャークラスのサーヴァントではあるらしい。いわゆる三騎士なのだから、それなりには優秀なのだろう。むむむ、と頬を膨らませて困り眉になるパッションリップである。

 「目標が同じなら、とりあえず手を組むのが順当だと思うんですけども、どうかしらね」

 アーチャーはなおのこと顔を顰めた。明らかに鬱陶しそうな面持ちである。何やらリツカを見やる眼差しは、不気味なものでも眺めやるよう。ただ睥睨している、という以上の何か奇妙な眼差しである。

 そして。

 「……」

 「むむむ」

 じろり、とあの紅い目がパッションリップを睨む。こちらはもっと、なんか人間臭い胡乱さだ。ぼろ雑巾みたいな自尊心で伺うような、妙な仕草である。なんだか腹立たしい……というか、むかむかする気がするパッションリップであった。

 「一つだけ聞きたい」

 「はいはい」

 「お前は、フジマルリツカ、なのか」

 アーチャーの声は、どこか探るよう。尊大ですらあったこれまでの声とは色の違う声だった。

 「一応そうだけど」

 リツカは、泰然と応えた。少なからず、パッションリップの目から、彼女が何某か感情を動かした素振りは見えない。ただアーチャーの問いに、ごく自然に解答した……というところか。

 一拍、間が開いた。妙に張り詰めた空気に思わずパッションリップは身を竦めた。戦意とも異なるが、それに類する鋭い逡巡が周った。

 「フジマルリツカか」

 ほとんど、独語めいた呟きだった。宛先もなく漏れた声は呆気なく霧散した。

 微か、アーチャーの口角が揺れた。くつくつと嗤うように吐息を零して、アーチャーは納得げに首肯した。

 「いいだろう。お前をマスターと仰ぎ見てやろう」

 「そこまで要求しないけど?」

 「マズいか?」

 「いや、マズくはないないけど」

 目を丸くしながら、リツカはそろりそろりと視線を動かしていく。彼女らしからぬ身振りで動いた視線が、恐々と静止する。留まった眼差す先、

 「むー!」

 パッションリップは、まんまると頬を膨らませていた。

 もう明らかな抗議である。幼児である。パッションリップ自身も自覚しつつも、じたじたとしていた。

 「大丈夫です」

 「いや大丈夫じゃないって顔してますけどもね」

 「いーです。リツカさんは私じゃ頼りないから仲間が欲しいんです」

 「リップちゃんてば」

 ふい、と顔を背けてから、パッションリップはすぐに自己嫌悪する。自分の身振りが不毛であることくらいは理解できるのだ。

 「別に構う必要もあるまい。所詮は子供の戯れだ」

 突き放すような、アーチャーの声だった。

 流石にカチン、と来た。反射的に右腕で捻り潰そうとして、実際そう身動ぎするくらいには彼女の憤懣を惹起させた。それでもそうしなかったのは、視界にリツカの姿が入ったからだった。困ったように眉を寄せて思案する彼女のかんばせに、手が止まってしまっていた。

 アーチャーが正論を語っていると、リツカの表情は語っているのだ。そのくらいのことは、理解できるようにはなったのだ。

 「大丈夫、です」

 さっきと同じ言い回しになった、と、言ってから思った。おずおずとリツカの表情を伺うと、酷く気落ちしたように、眉尻を下げていた。ただ、それが居たたまれなかった。

 「わかった」眉尻を下げたまま、リツカは右側頭部に一房結んだ髪を掻きまわした。「この話はこれで終わり」

 「うじうじとお前らしいことだ、フジマルリツカ」

 コイツのことは嫌いだ、と思った。知ったような口を聞く素振りが、凄まじく不快だった。勝手に自分のものを弄られるような、そんな不快───。

 ふと、何か変だ、と思った。でも何が変なのかわからず、ただただ彼女は戸惑った。

 「本当に記憶ないんすか」

 「ない」

 「そうですか」

 「うん」

 「……じゃあとりあえず現状の確認でもしようか。慌てて戻ってきちゃったし」

 やれやれ、と困ったように、またリツカは髪を掻きまわしている。でもさっきみたいに、本当に困惑している風とは違う。困ってないわけではないんだろうけど、まだ状況を楽観しているというか、その困惑を甘受できる余裕のある素振りだ。彼女らしい、身振り。パッションリップは、そこはかとなく安堵した。

 「少なからず、オフェリアが言ってたことは本当みたいね」

 さっき、柄になくオフェリアとリツカが言い合いをしていた時の話だ。

 最初に、出口がある。オフェリアが言ったこと、とはそのことだ。そしてその出口こそ、この最初の牢獄の一画にぽかりと空いた孔、だった。間違いなく、こんな孔はなかったはずだ。自分だったら見落としてたかもしれないけれど、リツカなら、多分気づいていただろう。パッションリップは、素直にそう確信していた。それに、オフェリアは「用意する」っていう言いまわしをしていたはずだ。多分。

 リツカは、じい、とその穴を眺めている。孔が開くほどに物を見る、なんて言いまわしがあるけれど、リツカの素振りはそれだった。空虚な排気孔の底をさらに掘削して、孔そのものを削り取るように眺めている。微動だにせずに睨みつける姿は、ちょっと、怖いな、と思っ

 「嘘つき」

 「え?」

 「や、なんでも」

 リツカは、慌てて首を横に振った。パッションリップが何か言いかけるより早く、リツカはそそくさと「じゃあ改めて」と言い継いだ。

 「アーチャー、あなたの目的はオフェリアを助けること。そう?」

 軽く、アーチャーが頷く。会話をする、ということそのものが面倒そうに眉を寄せながらも、渋々コミュニケーションをとろう、という姿勢である。

 「私の目的はここから出ること。その過程で、多分オフェリアに関わることもあるはず。つまるところ、あなたと私にはある程度の利害の一致がある。そういう共通理解でおけ?」

 アーチャーは、少しだけ困惑げに頷いた。探るようにリツカの表情を伺いつつも、アーチャーは無言のままだった。

 「多分、さっきの階層の上もこれまでと同じ構造だと思う。ツリー状の迷宮が広がってて、最奥部にホールがあって、そこにキーを持ってる番人がいる……っていう構造。何階まであるかはわからないけど、とりあえず進んでいくしかない、っていう状況かな」

 「つまり、どうすればいいんだ?」

 酷く堅物そうな表情のまま、アーチャーはそんなことを言った。

 何か思案気な表情である。のだが、むっつりと眉を寄せた顔立ちは、思案している、というより……何も考えてないんじゃね、と、パッションリップは思った。なんでそんなことを彼女が思ったかは簡単だ。何せ彼女も同じだからである。リツカの言うことを生真面目そうな表情で聞いているけれど、あんまり頭が回っていない。

 「最後のボスは2人一緒に戦ってもらう。これは大前提」

 2人して一緒に、リツカの言葉に首を縦に振った。それはわかる話だ。

 「問題は道中なんだけど」

 ちら、とリツカがリップを向いた。何かが蟠ったような目だった。

 「2班に分かれて探索をしようと思う。リップちゃんには単独で動いてもらって、これまでと同じように探索をして欲しいかな。私とアーチャーは別行動をして、これの情報集めをしたいと思ってる」

 リツカがスカートのポケットから、襤褸の紙片を取り出した。

 さっきの、珍妙で不埒な妄言が書き連ねてある紙片、だ。あの紙切れを見ているだけでむかむかしてくるけれど、それどころではなかった。何せ、リツカは1人でパッションリップにこの頑迷な洞窟を歩き回れ、と言っているではないか。はっきり言って嫌だった。嫌すぎる。

 「あの私」

 「リップちゃんは高ランクの【気配遮断】持ちだからね。本来は単独潜入して情報収集するのに向いてる……それでいて生存性が高い。大分リップちゃんのこともわかったから、任せようかなと思ったんだけど、どう?」」

 「やります!」

 パッションリップは単純だった。単純というより、素直と言うべきか。神霊の習合体だとかなんとか言いながらも、彼女の人格そのものはむしろ幼いのだ。ニコニコするリツカの表情に、彼女はあっさりと陥落していった。

 えへらえへらと気の抜けた表情のパッションリップの髪を掻きまわしながら、リツカはそれとなくアーチャーと目配せしていた。パッションリップは、当然わかっていない。

 「俺が自分で言うのもなんだが、俺と2人でいいのか」

 「利害が一致してるんだからいいと思うよ。契約してるし」

 「確かに。叛意を持とう、という気さえ起こさせないな」

 「慣れてますから、マスターとかいう業務に」

 リツカは肩を竦めて、眉も寄せていた。その声音に、何か誇らしいものが一切混じっていないことくらいはわかる。自嘲気味というか自虐的というか、奇妙な情動だけが覗いている。リツカが見せる表情は、どれも斑模様で混交的で、いつもわかりにくい、と思う。リツカの掌を頭頂部で感じながら、パッションリップは、ただ不思議そうにリツカのかんばせを見上げた。

 「リップちゃんとはそれなりに繋がりが強くなってきたからね。離れても大丈夫だけど、あなたとはまだ契約したばっかだから」

 「お前らしい」

 「記憶ありますよね」

 「ないです言いがかりはよしてください」

 アーチャーは頑なだった。加えて言うなら、なんか薄っぺらい強情さだった。2人の呆れた視線にさらされて気まずそうに視線を彷徨わせるくらいに、アーチャーの態度は幾分か情けなかった。

 「早くするぞ」アーチャーはさっさと立ち上がった。「早くこんなところは終わらせるんだ、こんなところはな」

 「そうだねぇ。オフェリアには、こんなところ似合わないから」

 対照的に、のっそりと立ち上がるリツカ。立ち止まったアーチャーがリツカの仕草を注視する様は、印象的だった。憎悪にも似た眼差し。さりとて敵意があるわけでもなく、むしろそこにあるのは、得体の知れない親近感のようなもの、だろうか。アーチャーは、自分がそんな感情を持っていること自体に、何か戸惑っている、らしかった。

 人間は、難解。パッションリップは不可解なものを感じながらも、えっちらおっちらと立ち上がった。自分のアイデンティティを形成する巨腕だけれども、ちょっとした日常動作をするのには正直邪魔だなぁ、と認識する。

 「リップちゃん」

 「あ、はい」

 リツカに背中を支えられてなんとか立ち上がると、軽く、彼女の手が肩を叩いた。

 「ガンバってね、無茶はしないで」

 ぎゅ、と胸が締まった。何か言いかけたけれどうまく喋れず、あわあわしている間に、リツカは右側頭部の髪を一房、かきあげた。

 「よぉし行こう。慎ましくね」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅱ-4

 暇。

 だらだらと歩きながら、パッションリップは頓に思う。

 暇。そう、ほんまに暇なのである。最初の階層から三番目。あの巨人の背後のドアを潜り抜けた先は、相も変わらずな通路が続いているだけなのだ。地味に複雑になっているところも、ものぐさなパッションリップには面倒極まりない。だらだらと歩いては時折止まって、リツカがやっていたように頭の中にマップのイメージを作っていく。どっかりと座ってぼけーっとイメージを作る姿は、傍目にはどう見てもサボタージュに勤しんでいるようにしか見えないだろう。実際、彼女としてもそのつもりである。

 「これやり方あってるのかな」

 これでも、まぁパッションリップとしては頑張っている方ではあるのだが。勤勉にサボタージュを行いながら、気怠い真面目さでリツカの言いつけを守っていた。彼女は、健気だった。

 2割ほど仕事をしつつ、7割がたサボりながら、パッションリップはふわふわと思考を揺蕩わせている。リツカの顔を思い浮かべて独りでニコニコしながら、近くに居ないことに不機嫌になったり、むしろ居ない事実の意味を思いめぐらせて鼻歌を唄ったり、せわしなく情動を狂わせていた。

 「今なにやってるのかなぁ」

 思わず、独り言ちる。視覚情報を固定化して、脳みその記憶野から掘り返して網膜に再度投影する……などという、女神の力量を無駄遣いをしながら、パッションリップは視界に映る姿越しに幻視する。

 藤丸立華、フジマルリツカ、ふじまるりつか。蠱惑的に五感に焼き付いた言葉に浮かされながら、パッションリップは嘆息を吐いた。

 「暇ぁー」

 じたじたと足をばたつかせて、パッションリップは、ただただ愛しい人のかんばせを想起することにした。

 今何してるのかな。

 何度目かの想起を繰り返した後、パッションリップは、今しばらく怠惰に勤しむことにした。

 

 ※

 

 「てな感じで多分サボってるんじゃあないかな」

 同時刻、同階層にて。

 暗い通路をゆっくり下を見回しながら歩くリツカの背を、アーチャーは呆れというか困惑というか、ともかく眺めていた。

 「リップちゃんはものぐさだからねえ。どこからその性格が来たのやら」

 「古い付き合いなのか」

 「いや? まだ……何時間だろう」

 はて、と立ち止まるリツカ。数瞬ほど思案げに首を捻ったが、すぐに彼女は肩を竦めた。「まぁいいや」

 「随分親しいと思っていたが」

 「親しさに時間は関係ないんでしょ。デリダが言ってたよ」

 「……そうだな」

 「嘘だけど。いやでも言ってそうだな」

 若干言い淀むアーチャー。リツカは特に気にした様子もなく、妄言を喋りながら、しゃがんで地面を調べているらしい。アーチャーはほっとした。疚しさというよりは、子供じみた羞恥心のようなものだった。

 「デリダとはなんだ?」

 「ジャック・デリダ。ジャッキー・デリダ。哲学者? まぁなんでもいいか。フランス人ではあるかな」

 「フランス?」

 「あなたフランス人ぽいけど」

 「え、そうなの?」

 「……」

 「記憶がないんだ」

 「うーん、まぁいいか」

 「デリダは何を言っているんだ」

 「さぁ、煙に巻いちゃうんだよ読者を」

 「お前みたいだな」

 「人でなしだ」

 「大したものじゃあないんだろう」

 「いやまぁ割と近現代の思想家なら重要じゃあないかな。賛成するにせよ否定にするにせよというか」

 「お前はどうなんだ?」

 「うーん。まぁ気持ちはわかるかな」

 「何がだ?」

 「コミュニケーションて怠いんだよね。言語を使うのって難しいから。まぁ喋らないわけにもいかないからアレだけど」

 あ、と不意にしゃがみ込みなり、リツカは床下に落ちていた何かを拾い上げた。見るからに、手のひらサイズのボロの紙切れ……らしい。リツカがわざわざパッションリップを単独行動させてまで回収したがっていたもの、だ。

 じい、と紙切れを眺めるリツカ。盛んに首を傾げたりしながら見下ろすこと数秒、一つ頷くと、スカートのポケットに割と雑に捻じ込んだ。

 「目的のものか?」

 「多分?」

 どうにもリツカの言質は歯切れが悪い。不思議そうに見やるアーチャーの目線に気づいたらしく、彼女は若干不機嫌そうに眉を寄せた。若干、だ。

 「言葉って疲れるじゃん。基本的に共同主観的に形成された言語は借り物に過ぎないんだから、それで喋るって変なことだよ。ツェランじゃあないけど」

 そうかもしれないな、とアーチャーは思った。「ソイツはなんなんだ?」

 「読んでみる?」

 ごそごそとポケットから紙切れを取り出す。古代のパピルスをそんな無碍に扱って良いのかな、と現代魔術師的な考えなどしてみたが、まぁどうでもいいことか、と思い直した。アーチャーにしてみれば、さして古代エジプトなどさして関心のない話だった。

 無造作極まりなく、拳で丸めた紙切れを投げやるリツカ。ふわりと飛んだ古ぼけた球形を手に取ると、アーチャーは特に頓着もなく紙を開いた。

 

 「■■■■■■……。

 陰キャですあんなの。なんであんなのが従妹なんでしょうこの人……。まぁいいですけど。ていうか、ちゃんと手伝ってくれるんでしょうね……

 しかし困りましたねえ。黒山羊さんは無事にいったとしてスピネルさんで大丈夫なんでしょうか。アブさんマイペースだしヌンノスと仲良───」

 

 

 「なんだこれは?」

 「知らね」

 投げやり過ぎる。一応目的のものの内の一つではあるらしいが、それにしてはリツカの素振りは雑然としているというか、テキトーだった。本当にこれが目的の物なのだろうか、と勘繰るレベルである。

 とは言え、真実この珍妙な断片が探し物ではあるらしい。アーチャーが嫌々と紙を差し出すと、とりあえず受け取った。

 それにしても、とアーチャーは想起する。

 さっきの妙なテクスト。全体的に珍妙だけれど、あの冒頭に掲げられていたあの文字。いや、文字、なのだろうか。それなりに古い時代に生きていたアーチャーをして既視感を一切伴わない、妙な文字……のような何か。 非ユークリッド幾何学的な図形をむやみやたらに使ったような、謎の言語。あれを目にした時の言いようもない不快感は、なんだったのだろう。

 「外なる神、という地球外の神性を書き記したもの。らしいよ」

 「神?」アーチャーは怪訝そうに、あるいは不快そうに眉を寄せた。「随分と壮大な話だな」

 「まぁ神っていうか超抜種っていうのか。前の特異て……旅の時に偶然知ったものなんだけど。その時はただの誇大妄想にしか思わなかったんだけどね」

 「人理焼却にそのトンチキなものが関わってると?」

 「それは」ちょっとだけ、リツカは言い淀んだ。「まだわからないけど」

 「偶然、行く先々で同じような変な妄想を書き連ねた駄文に出くわす、っていうのも変でしょ。だから仕方ない」

 それはそうだ、とアーチャーは頷きだけを返した。そんな身振りに、ますます不可解そうな表情のリツカは、仕方ない、というようにポケットにその紙切れを突っ込み直した。

 「不安か?」

 「ちょっと」

 「なら俺に行かせればよかっただろうに」

 「あーそっち?」慌てて、リツカは相好を崩した。それが照れ笑いであって、気まずさなのだ、とまではアーチャーはわからなかった。「リップちゃんはまぁ。大丈夫だって」

 何故、と口では問わずながら、アーチャーは僅かに身動ぎしてリツカをみながした。幾ばくかの間……五瞬はなかったが、一瞬よりは長い間の後、リツカは、緩慢に歩き始めた。

 「少し不安もあるけど。でもまあ、なんというのかな。あと一歩なんだよ、パッションリップは。だから任せなきゃ」

 「そんな場合なのか。世界滅亡、の危機なのだろう」

 我ながら、空疎な物言いだなと思った。アーチャーが自分の言質に鼻白んでいると、リツカはつと立ち止まって、上体だけを軽く逸らした。

 「わかんない。でもそれを赦せないのなら、人理なんてのは焼け滅んだ方がいいよ。さっさとね」

 知らず、アーチャーは肌を粟立たせた。フジマルリツカはこんな女だったのだろうか。記憶の底にある姿を思い出そうとしたが、あまりよく思い出せなかった。超えてきたせいなのか、そもそもあんな木っ端な人類(ニンゲン)など興味がなかったのか。多分、後者だとは思うが、それでも何か妙な気迫があった印象だけは覚えている。 

 この女が纏う空気は、それとは別種のものだ。この女が、フジマルリツカが纏う空気感はもっと頽落的ではないか。狂信的とも違うが、どちらにせよ空恐ろしいことに大差はない。アーチャーは思わずたじろぎかけ、

 「アーチャー」

 ひた、と吸い付くようなリツカの声が耳朶を打った。

 はっと気が付けば、リツカは立ち止まって、暗い通路の奥を注視している。敵、という思考にいきつくまで、アーチャーはたっぷり5秒かかった。慌てて持ちなれない大砲を抱えて踏み込むなり、リツカの前に猪突する。

 敵の姿はまだ見えない。もう撃つべきなのか判断つきかねている。砲の間合いの取り方は何が適当なのか。この身体のサイズ感での挙動をとう取ればいいのか。ちぐはぐな身体感覚に煩わしさしか感じないが、それでもやるしかない。

 威圧が増大する。間違いなく、何か強大なものが接近している。アーチャーをして冷や汗をかくほどのその感触は、彼自身、嫌と言うほどに覚えがあった。

 この感覚、この威圧感。間違いなくこれは、

 「来る」

 神性の類──!



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅱ-5

 パッションリップは不機嫌だった。元からナイーヴな質である、という自覚は最近できてきたけど、そんな対自的理解なんてどうでもよくなるくらい、パッションリップは不機嫌だった。

 「ちょっ……苦し……死ッ」

 第三層、やや広いホールにて。

 高さにすれば5m、直径20mほどの空間は、一般的な人間からすれば、幾分か余裕のある空間と言えるだろう。どちらかというと“大型”のパッションリップでも、物理的には余裕を感じる広さだ。

 その広さをして、そいつはデカかった。体つき自体は華奢だったが、何せ背丈がデカかった。3mを優に超す長躯は、むしろ窮屈そうですらあった。

 「動かなくなっちゃった」

 不思議そうに抱きかかえるリツカを眺めるそいつ。リツカを当たり前のように抱きしめている素振りがそもそもパッションリップにとってみれば憎々しいのに、そいつときたら、

 「イェーン」

 「い、生きてるぞう」

 「キャッキャ」

 自分と同じ顔で、何とも無邪気そうに振る舞ってるのだ。

 キングプロテア。

 それが、そいつの真名、だった。自分と同じ出自を持つ複合神性(ハイ・サーヴァント)、アルターエゴの一柱。渇愛の化け物───。

 などと言うと物騒だが。

 「良い子だから、そろそろ」

 はぁい、と素直に応えた3mの巨体。腕からリリースされたリツカは、表情こそ笑顔だが、冷や汗まみれである。あんな巨体に組み敷かれたんだからそりゃそうだ、と思う。

 「随分、懐かれてるな」

 パッションリップの隣、ぼそりと声を漏らすアーチャー。なんとなく、キングプロテアを眺める様子は何とも言えない……柔さ、のようなものがある。あるいは敵意なのだろうか。

 それにしても、このゴツイ男はなんでこう、空気が読めないのだろう。はちきれんばかりの筋肉が脳まで浸潤しているんだろうか? 恨めし気に横目で睨んでみたが、てんで気づく様子すらなかった。

 「痛ッ……踏んでるぞ」

 ねじねじ、とヒールで足の甲を踏んだのは、当然意図的だった。無言でプイっとすると、アーチャーはただ首を傾げるかりだった。

 「それで、どうするんだ」アーチャーは無言で足を払った。「そのデカいの、連れ回すのか」

 くい、と顎をしゃくる。しゃくった先、ぺたんと座るキングプロテアは、不思議そうにアーチャーの姿を眺めていた。

 「そのガキ、随分懇意のようだが」

 饐えたような物言いは、軽蔑しているようにも聞こえた。その蔑を含んだ声色に、リツカは特に気づいてはいないらしい。キングプロテアはどうだろう。多分、それとなく気づいているだろうか。

 リツカは、少々困り気味らしかった。「そうだねぇ」と歯切れ悪く呟いたまま、自分のことをじいと見下ろす巨女を見上げていた。

 この迷宮の中、探索中のリツカとアーチャーが遭遇したのが、つい先ごろのことであるという。敵、と思しき神性に遭遇したと聞いて肝を冷やして飛んできたのもついさっき。迷路探索だなんてクソつまらない……もとい仕事をほっぽり出して来てみれば、同じ顔した巨大な幼女がいれば気絶しかけるというものだろう。

 「ねえフジマルリツカ」

 「何かな」

 「あのデカパイ女、なんで睨んでくるの?」

 ……そしてこの物言いである。無垢そのもの、みたいな顔でずけずけと喋ってくるんだから腹立つわけである。しかも当たり前のようにリツカのことを抱っこしているのは何なのか。何様なのか。

 「リップちゃんは素直ないい子だよ」

 ふぅん、とキングプロテア。じろじろと値踏みするように見やる様の不躾さといった無い……と、パッションリップは恨めしく思う。

 「どん臭そうな女」

 忌憚なく、この同じ面の女は言うものである。いっそへちゃむくれに潰してやろうかと手を動かしかけたが、まだやめておくことにした。私は寛恕な御心を持っているんだぞ、と思い込むことにした。決してものぐさが発揮したわけではない。

 「この図体のデカさだ。お前の戦い方にも、この場にも合ってないんじゃあないか」

 アーチャーは少々焦れたようだった。

 「強力な神性、というのは伝わるが」

 そう付け加えたのは、別にキングプロテアへの何某かの配慮……というわけでは、多分、無い。むしろ、純粋というよりは単純な、畏れみたいなものだろうか。

 キングプロテア、という存在者は、アルターエゴの中でも極めて異質だ。何せ、存在そのものはデータとして知っているが、その実像そのものは同じアルターエゴのパッションリップですら知り得ないのだから。アルターエゴなのだろうから、当然何某かの複合神性なのだろう。そしてその威圧感たるや。ぺたんと座ってアホ面……もとい無邪気そうな顔で物欲しそうにリツカを見下ろす様に反して、パッションリップですら怖気を感じるほどのものだった。ましてどこぞの馬の骨とも知れぬサーヴァントではさもありなん、だ。

 リツカは、それを感じているのだろうか。ほとほと困った、というように見上げる横顔からは、畏怖めいたものは伺い知れない。

 「作戦変更」

 「なんだって?」

 「もう少し進行速度……ペースを落そう。2班で基本動くって基本方針は変わらず。それにこの子を加えるってこと」

 えいや、とリツカが手を伸ばす。地べたにペタン座りするキングプロテアの巨体には、それでも顎先から頬にかけて手が触れるだけだった。いや、それで十分だった。巨大な幼女は、それでも十分以上に喜んだ。黄色い奇声をあげながらリツカの両脇に手を入れて持ち上げる姿は、玩具で遊ぶ子供そのものだ。

 「しかしだな」

 「基本、こういうホールで待ってもらおうか。私らが進んで次のホール見つけ次第、後からゆっくり来てもらおうかな。どう?」

 キングプロテアはぽかんとした顔のまま、ただ首を捻った。よくわかっていない、ように見える。宙に持ち上げたリツカの姿を、不思議そうに観察していた。観察、そう観察。悍ましい右の目が、無垢にもリツカの姿を反射させている。何故か、パッションリップはそれが無性に腹立たしかった。

 「理由、聞いてもいいですか」

 パッションリップは口にしてから、愚かなことを喋っている、と思い直した。理由なんて考えるまでもないではないか。

 「そうだね」

 鬱々、としたパッションリップは気づかなかった。まだ関係が浅いアーチャーもわからなかった。リツカはこの時、ちょっとだけ、目を泳がせていた。パッションリップの堅い声色への戸惑いだったのだ。

 「単純に」と言いながら、リツカは酷く、気分が悪そうな顔をした。それも、一瞬だけだった。「神霊のサーヴァントで、しかもステータスを見る限りプロテアちゃんは超強いからねえ。もし戦闘になったら有力な戦力だ」

 「じゃあ、そいつ……その子1人に戦ってもらえばいいじゃあないですか」

 言ってから、自己嫌悪した。思わず強張った語気の気弱さも、不快極まりなかった。

 「私は、あんまり無暗やたらに暴力は奮いたくないんだよ」

 パッションリップは、思わず泣き出しそうになっていた。ごく自然に喋るリツカの、ごく自然な微笑が、何故か異様に痛ましく見えていた。地に塗れる殉教者の薄汚れた土色の死に顔を見れば、きっとこうなのだろう、と思わされるような。それでも涙腺が持ち堪えたのは、別にパッションリップという人格の健やかさのお陰などではなかった。ただ、自分にその資格がないことをよくよく承知していたからだ。

 「まだ何か疑問はあるかな」

 疑問などあろうはずがなかった。大丈夫です、と応えると、リツカは安堵したように頷いた。

アーチャーも肩を竦めるように、首を横に振る。キングプロテアはあまり状況を理解していない表情だが、それとなく場が収まったことは理解しているらしい。三者をそれとなく見回して、最後に、リツカをじい、と眺め始めていた。

 待っててね、とリツカが手を伸ばす。キングプロテアはしずしずと頭を下げると、頭に手を置かせた。

 一瞬、リツカの身体が強張った。ような、気がした。頭を撫でる姿勢のまま硬直したのは、それでも1秒ちょっとだったろうか。

 いや、気のせいかな、と思い直した。手を下ろして何事か頷く彼女の素振りは、いつもとそう変わらないように。

 「じゃあ方針も決まったし、予定通り動こうか」

 

 ※

 

 じゃあね、と手を振る彼女の後姿を見送る。真似してみるように手を振り返したキングプロテアは、それから、のそり、と視線を変えた。

 別な通路の入口から出ていった、同じ顔をした姉妹の姿はもうない。健気にもフジマルリツカの言う通りにする彼女を思い返して、キングプロテアは少女然とした、素直な笑みを浮かべた。

 手を持ち上げる。立ち上がってみて、天井に触れてみる。高さは5mはあろうか。本当の彼女であれば悠々と破壊して立ち上がれる大きさだが、今はまだ、その時ではない。

 もう一度、ペタンと座り直したキングプロテアは、そのままごろんと横になる。暗く冷たい場所に押し込められるのは、それなりに慣れている。こうして明かりが合って、自分の自由意志で起きたり寝たりできるだけ、ここは天国だろうと思う。見てくれはどう見てもミルトンの『失楽園』序盤、ルシファーが叩き落されてベルゼブブとだらしなくくだを撒いているシーンのあの洞窟、という風体だが。

 ところでミルトンの失楽園の善いシーンと言えば、やはりルシファーがエデンへ向かう飛翔が挙げられるだろう。暗い地の底から明るみに翔ぶ雄々しい悪魔の姿は、果たして本来悪しき者であるサタンに対して何かエールを……エールというのも奇妙だが……送りたくなるシーンとも言えよう。別に彼女はサタニストというわけではないし、堕天についてさしたる関心があるわけでもなかったが。一重に、サタンに自由意志のために戦う剣闘士という性格を付与せしめたミルトンの壮大な書き味が為せる業ということか。登場する神や悪魔、そして人間たちへの哀愁にも似た顕微鏡的機微を寄せるミルトンのテクストは、なるほど歴史に残る作品というだけのことはあるのだ。

 個人的に好きなところは、他に挙げるならばやはりサタンがやってくる寸前の、あの静謐に満ちた菫色の闇夜の描写であろうか。何かが始まり、裂ける寸前の原初の夜の描写の清らかさどか弱さは、流石ミルトンのテクストと言わざるをえまい。その他挙げればきりがないから、ひけらかしはここいらでやめるとしよう。

 キングプロテアは静かに眠りについた。多分、リツカが起こしにきてくれるだろう。それだけを楽しみにして、彼女は深い泥濘に堕落するように、自意識を溶かした。

 

 すやすや。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅲ-1”薄雪草(エーデルワイス)”の花

 「お前は生きてて辛くないか」

 「何急に哲学者みたいなこと言いだして。胡散臭いよ」

 相変わらず地面を調べるためにしゃがんだり、天井を見上げたりするリツカは振り向きもしなかった。アーチャーは特段気にもせず、リツカと同じように、天井やら壁やらを見回した。実際のところ、ほとんど探してなどいないのだが。

 「生きてて辛くない生き物なんていないよ。みんな、ひーこらして生命なんて面倒なこと押し付けられて生きてるのさ」

 「それはそうかもしれないな」

 アーチャーは素直に同意した。それ自体は別に意外でも何でもないらしいが、リツカは少し興味がある、というようにアーチャーを振り返った。

 「それで、あなた様はどちらの英雄でらっしゃるのですかね」

 「記憶がないと言っているだろうが」

 「そうでしたね」

 けらけら、と笑うリツカ。なんだか手玉に取られたようで癪だったが、アーチャーは押し黙ることにした。彼はそう、口が上手いタイプではないのだ。思わず押し黙ったアーチャーだったが、さりとて恨めしいようでもなかった。彼は、特に他人の挙動に一々心の波風を立てない質なのだ。基本、他人などどうでもいいと思っているから。

だから、

 「客観的に見ると、人並よりは辛い立場かもしれないね」

 リツカがそう言った時、それが何を意味しているのか一瞬掴みかねた。

 「人はいつか滅びるものだし、また世界だっていつか滅びるものなんだ。それが今になるか先になるかの違いがあるだけで……だから、今回私たちが何某かの失敗をして世界が滅ぶんなら、それはなんというか……言い難いんだけど、間が悪かったんだよ。それだけのことなんだ。人類滅亡なんてのは、大したことではないんだ」

 「滅びは悪ではないと?」つい、矢継ぎ早のように口にしていた。はっとしたアーチャーだったが、リツカは、さして何かに気づいている風ではない。アーチャーは相変わらず、急いで言葉を継いだ。「とんだ頽廃主義者だ」

 「私は人類って奴が基本的に嫌い……好きじゃあないんだ。人類が存続すること自体に価値があるとしても、私はその価値がどうでもいいと思ってんだな」

 「お前は、本当にフジマルリツカ、なのか」

 「一応?」リツカは、笑いながら困ったように肩を竦めた。「あなたの知る私は、人間が好きなのかい」

 言われて、アーチャーは口を噤んだ。今更記憶喪失ごっこの真実味がどうこう、というのはおいておいて。実際彼が、あの赤銅色の髪の女について知っていることはあまりに乏しかった。ただ、あの時剣を交え雌雄を決する場に居た人間……そのくらいのことしか、アーチャーにはわからなかった。

 「ではなぜ戦う」

 「国連からお賃金を貰ったから。責任、という奴だよ」

 素っ気なく言うや、リツカは黙然、と歩きながらの調査を開始する。なんだか、さっきより、動作がてきぱきしている。それとなく表情を伺うと、なんともぎこちなさげな笑い顔みたいな表情だ。それが照れ笑いなのだ、とまでは、アーチャーはわからなかった。

 「それで、質問の答えなんだけども」

 一呼吸、リツカは思案した。

 「プロテアちゃんは強いね。間違いなく強いハイ・サーヴァントだ」

 言いながら、リツカは右腕を持ち上げた。右前腕をなぞる朱色の刻印が、朧に明滅している。その意味を理解しかねる内、リツカは令呪を撫でるように、左手で抑えた。

 「私のサーヴァントになったんだよ、彼女」

 思わず、眉間に皺を寄せた。思い返してみても、そんな素振りはなかったはずだ。

 マスターとサーヴァントの契約は、基本的には双方の同意のもとに成立するものだ。そして、簡易的であれ何がしかの儀礼的行為を必要ともする。あの巨人を騙るサーヴァント……キングプロテア、という名の複合神性は、それらを全てすっ飛ばして、ただ自分の意思だけで強引にサーヴァントになった、ということだ。

 「プロテアちゃんは、私のことが何やらとても好きみたいじゃないですか」

 「……何の話だ」

 「恋慕の話だよ。朴念仁なのアーチャーは? バキバキに童貞か、その見た目で?」

 呆れた、と言わんばかりのリツカの顔。この女は話が結構飛ぶし、そこに一見論理的な繋がりがあると認識できないことが多すぎる。だがそんなことより、アーチャーとしては朴念仁呼ばわりされたことが、端的にショックすぎた。根拠のない誹謗ではないのだ。むしろ心当たりがありすぎた。

 「それでさ、リップちゃんもさ、私のことが好きじゃあないか」

 ショックのあまり自失状態のアーチャーのことは丸無視で、リツカはちょっと気恥ずかし気に続けた。

 「同じ顔をした複合神性(ひと)同士が、私に好意を寄せるというのはどういうことなのかなぁと」

 「何がしかの意志が介在している、と考えられるのか」

 「それは何とも。ただ、そんな風に好意を寄せてくれる人につけこんで戦わせるほど、私は立派な人格の持ち合わせがなくてね。まして、どうあれ子供を戦わせるのはね」

 やれやれ、と肩を竦めるリツカ。あきれ顔は相変わらず。むしろ不快さすら惹起させた表情は、彼女らしからぬ棘を思わせた。

 「ならパッションリップはどうする」ようやっと、アーチャーはショックから立ち直りかけた。「あれもそうなのだろう」

 はあ、とリツカは酷く重いため息を漏らした。じとり、と向けるあの呆れの視線。無言でじい、と見つめてくるその眼差しの意味は、なんというか、よくわかった。つまるところ、さっきと同じだ。

 「アーチャー、あなた相当にチー牛なんじゃないか」

 「言うな、わかる……いやなんだその言葉は」

 「三食チーズ牛丼を食べそうな人種の略称。でも美味しいんだよねチーズ牛丼、私は好き」

 「はえ~」

 じとーっとした視線は相変わらず。ぐるぐると右側頭部の髪の一房をかき回したリツカは、それでもちょっとは視線が柔いでいた。呆れはまだ残っているが、仕方ないな、というようだ。

 「あの子はまだなんだ。でもきっと、いい子になるよ。だから」

 「生き辛いことだ」

 「そうだよ。いっそのこと厭世主義者にでもなれば気楽なんだけどね。でもシニカルになれてもペシミスティックにはなれないから。だってキモいじゃん」

 からから、と彼女は嗤う。天に底抜けるような気楽さは、酷く貧しくさえ見えた。吹けば飛ぶようなおぼつかない存在感。それでいて、吹いて飛ばされても、宙に舞いながら気楽に鼻歌でも歌っているのだろう。

 何故か、その醜いまでの気楽さが、

 「フジマルリツカ」いや、と軽く首を振った。「マスター」

 「なんですか、改まって」

 「いや」

 言いかけて、言い吃ったことに驚いた。朴念仁、と言われた言葉が過った。

 「お前がマスターで良かった」

 過ったから、なんとか口にすることにした。

 「お、なんすか急に。照れますねえ」

 はにかむ彼女。本当に彼女は照れているのだろう。それでいて気軽に言ってやるその軽快な身振りは、アーチャーにはまねできないな、と思った。

 なんでもないさ、と言いながら視線をどっかへ放り投げたのは、それこそアーチャーの照れ、だった。

 「あ」

 そうして放り投げた視線の先。具代的に天井に、何かがぶっ刺さっていた。

 「あ?」

 「あれ、そうじゃないか?」

 釣られて天井を見上げるリツカの視線に、指先を合わせる。もう一度「あ」と呟くと、アーチャーと同じように手を持ち上げ、

 「ガンド」

 「うわ」

 何の気なしに魔弾をブッパ。物理破壊を伴った指差し魔術のよって放たれた魔弾は天井一体を抉り取り、ばらばらと振ってきた土くれが舞う。土煙の中、ひらひらと舞い降りた紙切れを握ると、アーチャーは、改まって紙を開いた。

 

 “アスタロト、アシュタロス、マグナ・マター……イア! ■■■=■■■■!

  ゴルゴ、モルモ、千の貌を持つ月よ、我らが生贄をご堪能あれ……

  雄羊と千頭の牝羊により、そなたの聖域をさらに崇めるために、われらの子種で見たしたまえ……

 ■■■=■■■■よ、祝福したまえ(ゴフ・フパデン・■■■=■■■■)……“

 

 相変わらず不明瞭な文字列だが、まだ了解できる文面もある。この星の神話体系に顔を出す神性の名、あるいはその総評とでも言うべき呼称は、アーチャーにもわかる。

 だが、だから何なのか、と言われたらやっぱり不鮮明だった。結局何か意味のある文字列なのかは判断しかねた。そもそも、アーチャーはそんなに頭がいいわけでもなし、知悉に富むわけでもない。畢竟、彼の仕事は何か考えるわけではないのだ。

 「マスター、これは」

 リツカに話を振るのは、だからごく当然のことだった。眉間に皺を寄せたまま、150cm前後しかない小柄な女を見下ろした時、アーチャーはいち早く異変に気付いた。

 酷く顔が青ざめている。脂汗を額に滲ませながら身を屈め、えずくようにしながら、左手で、右腕を、令呪を鷲掴みにするように、抑えていた。

 「マスター!」

 咄嗟、手を触れかけながら、アーチャーは寸で制止した。いや、それは正確な表現ではない。アーチャーは、掣肘させられたのだ、今まさに身悶えはじめたマスターの、その眼球によって。

 呼吸さえできなかった。それほどに、リツカの“手を出すな”という意志の勁さは尋常ではなかった。振りほどこうと思えば振りほどこうとは思えただろう。だが、翻って言えば、リツカのその命令の強さは、アーチャーをして意識的に振りほどこうと思わなければ弾けないほどのものだった。

 それだけでも、アーチャーからしれみれば驚嘆すべき事象だった。人類(にんげん)如きがこれほどの膂力を持つのか、という畏怖。彼にとって、人間などはただ神に飼われるだけの繊弱な存在者でしかなかったのだから。

 だが、本質はそこではない。真に驚嘆すべき事柄は、彼女が強靭な意思を発露させていることそのものではなく、今まさに心停止しかけているのに、その意思を維持し続けているという悍ましさだった。

 “何かに耐えている”。

 パスを介して、アーチャーが直感的に理解したのはそれだった。何に耐えているかは判然としない。だが令呪をかきむしり爪で皮膚を抉って流血しながら、何かに耐えている。しかも敢えて、耐えるという行為を選んでいる。

 「すべての無限の中核で冒瀆の言辞を吐きちらして沸きかえる最下の混沌の最後の無定形の暗影にほかならぬすなわち時を超越した想像もおよばぬ無明の房室で下劣な太鼓のくぐもった狂おしき連打と呪われたフルートのかぼそき単調な音色の只中餓えて齧りつづけるはあえてその名を口にした者とておらぬ果しなき魔王───」

 「止せ!」

 静止を振り切り、思いがけずにうなだれ始めたリツカの髪を掴んで惹き起こしたアーチャーは、ただただ絶句した。

 耳と目から、何か透明な液が流出している。さらさらしていて、どこかてらてらと光沢を放つ異様な臭気の液体……脳脊髄液、一般的に言うところの脳漿である、と思い至った時には、もう遅かった。

 「お、おい」

 「いぐな……いぐな……」

 不意に……というよりは必然的に、リツカの身体が萎えた。ぎょっとしたアーチャーが指の力を解けば、重力に阿諛追従するように、肢体が地面に墜落した。

 一瞬、間があった。一瞬だけだったというのに、凄まじいまでの闃寂だった。世界が終わったかのような、あの時のような静けさだった。その間の中、恐々と身を屈め、その肉体を、凝視した。

 アーチャーに、近現代の医療知識などはあろうはずがない。まして救命救急の知識などは皆無である。何をどう見て物事を判断するか、などということはわからなかった。だが、それでもそれなりにわかることはわかった。目の前でただ物体となって臥床する肉が、呼吸をしていないことくらいはアーチャーにも了解できた。

 端的に言って、目の前でおきている事象は、極めて簡潔な物事だった。生命があるものであるならば、最終的に誰しもが経験する普遍的事象であった。

 地に臥したまま、耳から脳漿を垂れ流しにする姿を見。アーチャーはただ、途方に暮れた。

 アーチャーにとって滅びや死は馴染みのものであったのだけれど。何せ、死をどうしていいか、については全くのド素人で無知だったので、彼には何をすべきかなどわかろうはずもなかった。

 

 ※

 

 パッションリップはその時、結構機嫌が良かった。元より、どちらかといえば素直な少女である。良いことがあれば気分はよくなるし、悪いことがあれば気分は急降下である。どっちかというとダウナー気があるので下振れが大きい、とは注釈しておくが。

 要するに、今日は良いことがあったので気分が良かったのである。彼女なりの勤勉さでリツカから申し渡された仕事をこなして、今はリツカが来るのを待つばかりだ。

パッションリップは彼女なりではあったけれど、真実勤勉だった。既にこの階層の敵が何であり、場所も既に索敵済み。あとはリツカとアーチャー、そしてあのデカい邪魔者……ではなく、キングプロテアがやってくるのを、最奥手前のホールで気長に待つだけである。

 待つ、というのは、不思議な感覚である。時間、というものが、柔く延びていくよう。けれど、焦れるというのではない。ぐるぐると巡る情動の環状線が滞留し、一つどころに凝固しながら時の流出に身を揺蕩わせていく刹那と永劫の交接地点。多分、待とう、と思えば四季が巡って老婆になるほどにも待ててしまいそうな、そんな感覚。

 「まだかな」と口にしてみる。桜みたいな口唇から漏れた自分の言葉に表情筋を綻ばせ、パッションリップは鼻歌なんかを口遊んだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅲ-2

 キングプロテアは、ふと耳朶を打った音にちゃんと気が付いた。

 睡眠、という微睡みから緩慢に思考を浮上させる。左側臥位の姿勢から、まずはこの瞼を持ち上げる。といってもまだ半開き。並列して、枕にしていたこの右手をずらし、地面に設置。支店にしながら気怠い身体を持ち上げて、投げ出していたあの左手でも地面を支える。伏臥位の姿勢になったら今度は膝小僧で地面を押し上げ、4点で身体を支えながら起き上がる。さながら芋虫みたいになりながら、両の掌で地面を押し上げ、痩せた臀部を地面にのっける。のそのそとぺたん座りを終えた頃には、キングプロテアは、件の人物を目の前にしていた。

やあ、と手を上げる赤銅色の髪の女。右側頭部に一房結んだ髪をぎこちなくかき回しながら、リツカは微笑みたいな苦笑いを浮かべていた。

何かあったの、と尋ねてみる。いや別に、と応える彼女の表情は相変わらずだ。微笑のような苦笑い。そうとしか言えない顔立ちは、なんだか、嫌だな、と思った。どちらかと言えば、申し訳ない、という気分。

 「キングは大丈夫?」

 小さく、首肯を返す。リツカは特に何も言わず、黙然、とキングプロテアの瞳を見返した。だいたい5秒。リツカは反応も鈍く、「それじゃあ行こうか」と踵を返した。

キングプロテアは、現在300cmほどの大きさになる。人間からみれば望外の巨大さだが、彼女からすればむしろ最小値よりもさらに小型だ。この手狭な矮路を進むには仕方ないにせよ、物凄く窮屈である。まず心情的に窮屈だし、何より、物理的に狭いのだ。具体的にどう狭いかと言うと、四つん這いで()()()()しないとそもそも通路が通れなかった。身長150cmに満たない小柄な女に、300cmを超える巨大な幼女が赤ん坊のようについていく、というこの絵。珍妙は極まっていた。

 キングプロテアは、のそのそ、と先を歩くリツカのうなじを眺める。お腹が空いたな、と思った。くうくう。

 「腹減ったな」ぼそ、と独り言みたいにリツカが言う。「ハンバーガーとか食いたいな、ハンバーガー」

 なにそれ、と尋ねてみる。キングプロテアにはわからない食べ物だった。

 「アメリカ合衆国の食べ物だよ。あーアメリカ? 近代に生まれた国。起源はむしろ遊牧民のユッケみたいな食べ物らしいよ。歴史のある料理だね。

 タルタルステーキを食べやすくしたのがハンバーグ、ないしハンバーガー。ハンブルクで作られた食べ物だからハンバーガー。私の住んでる日本では、そのまま焼いて食べるのをハンバーグステーキって言って、パンで挟んでサンドイッチ風にするのがハンバーガー、って区別してる。マズいハンバーガーはなんかすっかすかで紙粘土みたいだけど、美味しいのは極上のステーキに勝るとも劣らないね。

まぁ庶民が食えるのは所詮安物だけどね。ファストフード店の雑いバーガーがやっぱり主流。そういう時代だからね、21世紀ってのは。

で、なんだっけ?」

 ハンバーガーが食べたいと言い出したんだ、と伝える。そうだったかな、と逡巡してから、リツカは軽く頷いた。「そうだった」

 「最近パルプ・フィクション見たんだ」リツカはぶつぶつと気だるげに続ける。「タランティーノの映画。サミュエル・ジャクソンとジョン・トラボルタのだらだら会話の中にバーガーを食う話がある。それ思い出しただけ」

 「初タランティーノ映画はキルビルだった」リツカは歩きながら肩を竦める。「あれは映画といっていいのかどうなのか。何見せられてんだろう? が延々と続く癖に超面白かったんだよな。ユマ・サーマン普通に日本刀持って旅客機乗ってるシーン本当に何なのかっていう。日本を何だと思っているんだよタランティーノ」

 「まあでもキルビル2とかもそうだけど。あれだけしっちゃかめっちゃかストーリーテリングしてるくせに最後綺麗に物語を畳むから、タランティーノってすごいんだよな。ブルール・ウィリスが日本刀見つけるところは正直大草原だったけど」

 はた、とリツカは足を止めた。それまでただ気だるげに歩きつけるだけのリツカが、不意に丐眄する。

 「大丈夫?」

 それはこっちの台詞、と返す。図星を衝かれた、というように表情を顰めてから、「子供は気を回すんじゃないよ」

 リツカだって子供だよ、と言う。なおさら顔を顰めたリツカは、「自省できないしな」とレバーのあたりを摩った。

 「どうでもいいんだけど」リツカはまた、だらだらと歩き出した。「ナイル川とアメンホテプの悪魔合体した名前みたいな奴は、神サマの名前なの?」

 言いはして、リツカはなんの頓着もなさそうに歩いている。一瞬止まりかけたが、キングプロテアは前を歩くリツカと同じペースで歩いて行く。

 「無貌の月。闇に吠えるもの。外なる神々、蕃神たちの使者。這い寄る混沌」

 「ロンドンで読まされた三流珍小説らしい修辞の多用だね。あぁごめん、悪く言うつもりはないんだけど」

 いいよ、と言葉を返す。キングプロテア自身、外なる神だかなんだか知らない凡神のことはどうでもよかった。

 「どんな神サマなの、その……なんだっけ?」

 「ナイル川の?」

 「そうそれ」

 どんな、と言われると色々困る。キングプロテアの知るところはほとんどない、といっていい。

 「恋してるの」

 「なんだって?」

 「アメンホテプは恋をしているの。人間に」

 言ってから、キングプロテアは少々小首を傾げた。ニュアンスが合っているかどうか、彼女には測りかねた。キングプロテアは、恋、なんて七面倒くさいものはあんまりよくわからない事象だった。

 「セカイ系っていうのかなぁ。今更幼稚園児しか好きにならないかび臭いジャンルだと思うけど、まぁありきたりではあるか」

 リツカの物言いはちょっと呆れ風。それだけ言い終えると、彼女はまた、「んで最近見たデスプルーフinグラインドハウスは」とさっきの会話に戻っていく。

 ちょっと待って、と彼女を止める。「なんや」と振り返るリツカ。何も聞かなくていいの、と尋ねると、

 「他愛ない話ならともかく。多分応えないでしょ、本質的な話は」

 思わず、押し黙る。おずおずとリツカの表情を伺ったが、リツカはただ、からりとした微笑を返してくれるばかりだ。

 「まだ19歳のクソガキですけどね。聞けば答えが返ってくると思うほど甘ちゃんじゃあないつもりですから」

 「偏屈ババア」

 「ババアとはなんだババアとは、ギリ魔法少女名乗れる年齢だぞ。な●はさんなんて25だぞリリカルだぞ」

 「戦記になってた」

 「それはまあそう」

 ちょっと納得げなリツカ。気まずそうに髪の一房を弄りながら、「その、外なる神っていう人ら(?)はみんなそんななのかい」

 「例の珍小説群を読む限り、どっちかというと悪さをするイメージしかないけどね」

 「うーん。どうでもいいんだと思うよ、この星なんて。人間だって、いちいち石ころに気を払わないでしょ?」

 「宝石とかもあるしね。地質学者とか」

 「ポテトはそういう類の変人なんだよ。今回は黒山羊さんも大分お熱」

 「なんだっけ? 渋谷……なんだっけ?」

 「肉がなんとか。副王の奥さん。ケジメをつけにきたんだって」

 「ヘラみたいなもんかぁ」

 「シュブさんは良い子」

 「それはあなたが同類だからの感慨?」

 リツカはやはり、特に振り返りもしていない。ぼーっとして周囲をきょろきょろ見回して歩きながら、弱弱しい背中を見せている。キングプロテアが指で突けば、簡単にへし折れてしまいそうだった。

 「まぁこれでもマスターなんてクソ仕事を長くやっているものでして。でも別にいいでしょ?」

 いいよ、と応えるように、キングプロテアは首肯する。藤丸立華のことが知れたから、これはこれでいい、と思う。そもそもそうさせなかったのは自分なわけだし。

 「ティターニアにアイラーヴァタ。それと、ティアマト。実り豊かな大地の女神を元に作られたのが、キングちゃんなわけだ。

 メルトやリップちゃんの事情を知った時も大概たまげたけど、正直その比じゃあないね。しかもでっかいし」

 くるり、と前を歩くリツカが身を翻す。後ろ歩きのまま、興味深そうに上下とキングプロテアを見やる視線。柔く赤銅色に眼差す様に、キングプロテアは、おおむね残念だなという感慨を惹起させた。この世界は、窮屈だな、と思った。恨めしくもあった。

 あんまり驚いているように見えない、と意地悪く伝えてみる。目を丸くしてから、リツカは「チンパンジーじゃあないからね」と草臥れたように答えた。

 「でもよかったよ」何が、と尋ねるようなキングプロテアの表情に、リツカはすぐ答えた。「だって、そのお外の神様たちは自分たちの都合で動いているんでしょう?」

 「仲間かどうかはわからないよ」

 「敵じゃあないならそれでいいよ。利害が一致しているのが一番だ。倫理観とか良識なんて曖昧なものを持ち出されなくてよかったよ」

 いつも通りの微笑を引き抜いて、リツカはまた、通路の先へと振り返る。プリーツスカートのポケットに手を突っ込んで歩くその背に、愛らしい欺瞞を負っている。人間とはそういうものらしい。

 キングプロテアは手を伸ばしていた。そもそも彼女はそういう存在者だった。要するに、彼女は欲求に素直……というより欲求そのものを象ったキングプロテアは、行動と思考の間隙があまりに薄い。

 この手に揺蕩う捕縛の感触。五指を越して感じる、タンパク質を握りこむ柔和な肌触り。右手に握られた藤丸立華の姿を持ち上げて、左の菫色の目で、その姿を凝視した。

 この時握りつぶす欲情に従わなかったのは、ただそう規定されていたからだった。そうできないことがとても残念だナァ、と思った。

 「嘘つき」

 「よく言われる」

 

 

 「じゃあ状況を」

 はい、と返事する声がおのずと弾む。パッションリップに明敏な自覚こそないけれど、あわい感慨はなんとなくある。自然、表情が緩むパッションリップである。

 「ええと」

 なにはともあれ。

 とりあえず、自分の言語でなるだけ進める時だ、と思い返す。自分を眺めやる視線3つを引き受けて、パッションリップは、改まって、まず咳払いした。

 「ホールの広さはこれまでと変わりありません。機動格闘戦を行うのに十分だと思います。

 えと、それで敵は1騎。サイズは人と同じくらいです。2番目の巨人と同じで、今は動いてません。敵の詳細は不明、えーと、一応見た目は共有した通りです。

 多分なんですけど、北欧神話における御使い……ワルキューレ、だと思います」

 「根拠は……」そう言ってから、リツカは自答を重ねた。「なるほど。同朋意識か」

 納得したように一人頷くリツカ。キングプロテアはそもそもあまり話に興味がないらしく、だらりと臥床して微睡んでいる。ただ独り、アーチャーだけは怪訝な面持ちだ。

 「リップちゃんは」一瞬、リツカが探るようにパッションリップの瞳を覗き込む。頷き返した。「リップちゃんを構成する神性は3柱。その内の1柱はブリュンヒルデなんだよ」

 間、おおよそ五瞬ほど。「なるほど」と独り言ちたむくれ面のアーチャーの心情はよくわからない。まぁこのむくつけきゴリラが何を思おうとどうでもいい、と思うパッションリップであった。

 「どのワルキューレかはわかる?」

 「そこまでは」

 しゅん、と肩をすぼめるパッションリップ。「いや良いんだ」と即座に続けると、リツカは眉間に皺を寄せ、壁に身を預けた。

 あとは、リツカがどうするかを考えるのを待つだけ。パッションリップが想像を巡らせる必要はないし、また彼女は必要のないことはしないことにしている。

 その代わり、彼女は散漫に思考を……それを思考と呼ぶのは大体烏滸がましい限りだが……あわいのように漂わせる。

 なんとなく、だけれど。

 パッションリップはそれとなくリツカの表情を伺って、首を傾げている。あまり体調はよくなさそうだな、と思った。何故なのか、まではわからない。どちらかと言えば疲労困憊といった面持ちというべきか。とかく、リツカはどこか疲労を滲ませている。

 ざわざわする。心臓に400番のサンドペーパーを撫でつけるように、何かぞわぞわする。キングプロテアは相変わらず寝ている。左側臥の姿勢で呑気そうだ。アーチャーも相変わらずの仏頂面で、憮然としている。

と、アーチャーと目が合う。近代人らしい洗練された佇まいの中、どこか野蛮さが宿る赤い双眸と視線がぶつかった。その実、視線がかち合ったのは2秒とてなかったし、実際体感としてもその程度だった。ただ、何故かアーチャーの身振りが気になった。視線を泳がす素振りが、妙にぎこちない。

 ???

 「基本方針は前のドラゴンとか巨人の時と変わらずやろう。リップちゃんの【気配遮断】を活かして背後から奇襲。一撃必殺を目指そうかな。

 アーチャーは仕損じた際のバックアップ。入口のここ、ちょうど隠れられそうだからここに待機して狙撃待ちでいこう」

 「俺が狙撃して早めに潰せばいいと思うが」

 「基本的に、格闘戦で制圧したいんだよね。頭の花は確保したいし」

 「キングプロテアを持ち出さないのもそれが理由か?」

 「まーそんなとこ」

 リツカは素っ気なく応えると、アーチャーはとりあえず頷いた。納得した、ということだろう。パッションリップには、そもそも意見がなかった。

 「作戦推移に移ろう。まずアーチャーが所定位置へ移動。移動完了後、リップちゃんが動き始める形。動き始めたら30秒以内に敵の背後に展開、奇襲で撃破。ここで失敗した場合、リップちゃんは防戦に回って。攻撃の主体はアーチャーに変更、アーチャーはさらに背後から強襲しようか。これ以降は相手の動き次第だけど、基本はリップちゃんとアーチャー、どちらかが戦闘に入ったら防戦に回って、もう一方が側背から攻撃、というセオリーで戦ってね。単純な話、こちらの数的有利を崩さず、慌てず戦えば勝てるのが殺し合いだから」

 いいかな、とさも当たり前のような顔で語るリツカ。苛立たし気と言えばそう、平素と言えばそう。如何とも表現しがたい温和な微笑のリツカに、パッションリップは哀惜の閉口に黙した。

 「それじゃあ行こっか。慎ましくね」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅲ-3

 ……基本的な話をすると。

 アーチャーにとって、戦う、とは一方的な暴力の行使であった。それは彼が絶対的な強者であったが故であり、そこに彼自身の驕りであったり情緒であったり、が紛れ込む余地はそもそもない。言ってしまえば彼の強さは世界そのものの運命であり、もっと言えば彼そのものが世界の運命とも言えようか。要するに、彼が戦う時彼の勝利は既に決定されていて、勝利という事象はただ呼吸のように自明な身体的所作以上でも以下でもなかった。例外を除いて。

 まぁ何が言いたいのかと言えば。

 「こちらSS02、所定位置についた」

 こうやって、不定の勝利に向かって着々と手を進めていく作業、というのは、彼には不慣れな作業だった。

 (SSリード了解、そこで待機)

 まして、誰がしかから指図されることは何より不慣れであった。厳つい面付きをなお厳めしく顰めているのも、仕方ないことだと思う。この優男面には悪いとは思うが、まぁ許せ、と内心独り言ちる。

 幸運があるとすれば、彼は唯一無二の存在でこそあったが、唯我独尊ではなかったことか。某どっかの金色と違って、不慣れなことに「面倒くさいな……」と倦怠を示すことはあれど、反発やら反骨やらを示すことはしなかった。ある意味、素直なのである。少年の心である。言い方を変えると、童貞の挙措ともいう。

 まぁ、これはこれで楽しめるか、とも思うアーチャーである。システムはシステムでしかないし、そうした倦怠があるから、あの時負けたのだ。殺し合う、という気迫において、カルデアのマスターたちに完全に気圧されていたことは認るに(やぶさか)かではない。ただ生理現象に身を委ねていただけの自分がどれだけの膂力を誇ろうとも、知略をもって“戦い”を挑んだものに勝てぬのが道理なわけだ。覚悟の差が勝敗を決する、などと子供じみた繰り言は無しにしても、そもそも“戦う”という意志がなければ勝ち負けもクソもあるまい。

 あの時、彼女らを支えていた意志はそう複雑ではない。ただ生き延びたい、という専心だけがそこにはあっただろう。そう考えれば、彼女たちもまた、戦いそのものに何某かの掛値をしていたわけではない、のだろうか。アーチャーにはよくわからない。

 そう考えれば、やっぱり、マスターはちょっと違うと思う。マスターにはそういう生への執着は感じられない。むしろ彼女が帯びる頽廃は、生きることとは全く別なものを眼差している。アーチャーとしては、その志向性そのものが気に入っている。

運命への忍従。運命に唯々諾々となるわけでも、そして反抗するでもない態度。ミレーの『落穂ひろい』に描かれた風景。ゴッホが手紙にしたためた文章。チェーホフの『桜の園』に描かれた、樵が振るう斧の音。そういう、ポピュリスティックな倫理性が、アーチャーは好ましく思う。

 「オフェリアのためになるならそれでいい」

 愚劣な殉教の姿を、思い描いた。

 

 

 ふぅふぅ、と嘆息一つ。心情の緊張を感じながら、パッションリップは、リツカと視覚共有したマップ、その自分の位置を確認する。

 自分を示すブリップは、マークされた座標にちゃあんと一致している。指定座標に到達した、と再三の理解を胸に落とす。

 あとは、自分のタイミングで戦闘を行うだけだ。ホール内での無線封鎖状態では他の皆の様子は杳として知れないが、多分、今か今かと戦端が開かれるのを待っているはずだ。

 広さ、1㎢ほど。高さは20mほどもあろうか、という半球形のホール、その中央地点に敵はいる。岩から削り出してきたかのような、高さ5mほどの(うてな)に頂く厳かな神像。白い衣に身を包み、朔月を思わせる翼を背負った人型。それを“戦乙女(ヴァルキュリア)”と理解できた理由は、多分、自分に習合する一柱のお陰だろう、か。このただの神像(?)を敵と理解できたのは、その頭頂部に、例によって珍妙な花が咲いているからだ。

 ふわふわで、白い花。木質化していない、背の低い花だ。花弁の形もちょっと珍しい。エーデルワイスと言うんだよ、と教えてくれたのは立華だった。この綺麗でちいちゃな花が、不滅や不死の象徴だと教えてくれたのもリツカだった。野生のエーデルワイスはほぼ絶滅してるけどね、と補足してくれたのも。

 この花さえなければ、倒すのは楽なのだけれど。叩いて捏ねて、谷に落としてしまえば一撃必殺、瞬殺で終わるのだがそうもいかない。あの花がキーになっているのはこの階層でも変わらずで、既にそちらも確認済みだ。まぁつまるところ、あの頭の花を残した上で制圧しなければ意味がない。

 ただ暴力を振るえばよいだけと異なって、面倒くさいと言えばそう。だけれど、その面倒くささは、心情の4割ほどを占めているばかりである。残り5割は、大体ポジティヴな心情だ。そのおおよそはリツカのことを念頭においた思考であることは、まあこの際置いておくとして。残り1割は虚無。

 ともかく、ものぐさなパッションリップらしからぬモチベ―ジョンがあったことは間違いない。ことここに至り、パッションリップに倦怠はなかった。

 最後の嘆息を漏らす。肺一杯に空気を貯め込んで、勢い身を屈める。両腕の巨重がある都合、パッションリップは、思いきり両足に力を込めて、砲弾さながらに飛び出すことで、駆け出すのだ。

 「行きます!」

 ぐん、とGが伸し掛かる。狙うは胴から首にかけて、右手に担い込まれたドゥルガーの神剣を叩き込む。

 視界の中、神像が動き出す様は、酷く緩慢だった。外皮を纏う岩くれが崩れていき、白亜の礼装が露わになる。白鳥を想起させる純白の人型の右手に握られた光槍が、『大神宣言(グングニル)』であることは、パッションリップにはすぐに理解できた。魔性を滅ぼしあらゆるものを徹す槍。その模造品だが、喰らえばパッションリップとて無事では済まないだろう。何せ、それは()()()なのだから。

 でも、そんな想定が意味をなさないことはよく知っている。だってこの一撃でこの生命は死滅するのだから。如何に大神()が遊星を模造して作り上げた戦乙女(ワルキューレ)とて、戦神が携えた神授の武具の前では人間とさして変わらない。あの時、巨人のうなじを抉り取った時のように。【気配遮断】を解いて突撃するパッションリップより早く、その槍が届く道理はない。その槍が届くより早く、この剣は、首を、

 「あれ」

 ざ、と何かが奔った。身体を駆け巡った身体性、感覚の地図に思案を巡らせ、なんだかおかしいなあ、と思い、

 

 

 (リップちゃん!)

 鋭いリツカの声を聞く間でもなく、アーチャーはその光景を目にしていた。

 パッションリップの右腕が、宙を舞っている。切断面から尾のように血飛沫を引きながら、あの巨腕が斬り飛ばされている。

 だが、アーチャーが目を見張ったのはその点ではない。あれが真性にワルキューレであることなど容易に理解できる。そしてあの槍が、忌々しいオーディンの神槍であることも。模造品だとしても、あの槍がグングニルであるなら、むしろパッションリップを害するのは自明だった。何せあれは、魔性を殺すこと以上に、正しい姿をしていない生き物を害することに特化している神槍にして霊槍。大神の放つグングニルはあらゆるものを破壊するというが、その本領はそこではないのだ。

 だから、アーチャーが瞠目することがあるとするならば、その結果に、ではない。その過程だ。

 攻撃の初速は間違いなくパッションリップが先だった。にも関わらず、後に動いたはずのワルキューレの一閃が届いたのだ。原因は明らかだった。あの剛爪がワルキューレに中る寸前で、パッションリップが攻撃を()めたのだ。

 いや。

 ()めた、という方が正しい、か?

 (令呪……クソ、自分に!)

 アーチャーが大砲を構えたのと、リツカの鈍い声が耳朶を打つのは同時だった。

ホール入口から駆け出す赤銅色の髪が視界に過る。マップに表示された光点(ブリップ)がその挙動に重なり、思わずアーチャーも声を上げていた。

 「しゃしゃり出るな、俺が殺る!」

 (ダメだ、あの距離だと巻き込む!)

 覚えず、歯をかみ合わせる。リツカの言葉に感じる強制力は、彼女のマスターとしての性能故のものではない。ただの正論。噛みしめたのは、ただその事実に対する納得でしかなかった。

 (私がやる!)

 無茶だ、と掣肘する暇はもうなかった。あるいは自分が剣を抜けば、という思考が始まったのは酷く鈍重で、もう決行は済んでいた。

 (Fugly father fucker(こっちだクソ野郎)!)

 疾駆のまま、リツカが右手を翳す。既に令呪一画は消費済み。右腕を囲うように展開した多重の魔法陣は、今から発する指差しの呪い(ガンド撃ち)が、死の呪いに匹敵することを示していた。

 シングルアクションの速さながら、その火力たるやテンカウントのそれに匹敵する。相手が仮にサーヴァントであっても害するに足る火力だろう。

 (ファイア!)

 過たず、黒白の火箭が光軸を描く。疑似展開された魔法陣を巡って加速した魔弾は、最早砲弾とすら呼びうる様相だった。秒速1000mの速度で放たれた魔弾、その軌道がワルキューレの背に向かう。

 咄嗟、ワルキューレが横に飛ぶ。背後からの奇襲を察知し得たのは、それが二度目の攻撃だったからか。

 明瞭な回避機動。にも関わらず、魔弾はワルキューレの肢体を捉えていた。

 弾道が曲がった、なんて道理はない。リツカが行ったのはただの見越し。ワルキューレの回避をその挙動だけで理解して、見越し射撃を行っただけのことであった。

 単純な道理だった。だが、それだけに空恐ろしい。なんの魔術もなく小細工も無く、純粋な技倆だけでワルキューレの運動性能を瞬時に理解して、精密な見越し射撃を放ったのだ。如何に下位に相当するとて、戦乙女(ワルキューレ)の性能は現代の魔術師のそれを遥かに凌駕するというのに。

 弓兵に相当する英霊ならば、その超絶技巧も理解できる。だがあの女はただの魔術師なのだ。しかも彼女自身は、魔術師としては凡愚の類だというのに。

 研ぎ澄まされた、“戦う”ことへの嗅覚。積み上げた知性がそうさせるのか、それとも類まれなセンスがそうさせるのか。何にせよ、アーチャーはただ畏敬する。目の前に、そのようにして在る藤丸(ふじまる)立華(りつか)、という存在者に。

けれど。

 濃縮された呪いが弾け、周囲に撒き散らされていく最中。黝い燐光が乱舞するその中に、白亜の体躯が覗いたのは、必然と言えば必然だった。

 当たり前の話だけれど、ワルキューレは、神代に創造(うみおと)された天よりの御使いなのだ。身にまとう白鳥礼装(スヴァンフヴィート)はかの大神の加護が形を成した、物それ自体。それだけで高ランクの対魔力を発揮する礼装を前に、現代魔術師のガンド撃ちで撃破できないのは、当然の話なのだ。

 だから、むしろその光景自体はやはり驚くべきことなのだろう。あの星見屋どもが作ったという礼装から放たれた、フィンの一撃に匹敵する指差しの呪い(ガンド撃ち)。その一発だけで、ワルキューレの身体の半分は捥げていた。

 千切れ飛んだ左腕。ぼたぼたと崩れ落ちる腐肉。抉れた脇腹から零れているのは大腸か小腸か。剥き出しになった肋骨から覗く左肺が、健気に膨らんでは凋む動作を繰り返している。案外人間の作りに似ているな、などと、場違いな思考がアーチャーの脳裏を巡る。じわじわと身体を這いずっていくどす黒い魔力は呪いそのものの為せる業か。

 人間ならば、恐らく死亡している状態だろう。いや、なんら加護もなければ対魔力もないサーヴァントであれば、この一撃で致命傷になりうる。そういう攻撃だった。

白鳥礼装と、それを纏うワルキューレの荘重たる身体の勁さ。そしてそれに拮抗する現代の礼装。戦う、という殊の本質だけが、この瞬間に、剥き出しにされていた。

 リツカの舌打ちが飛ぶ。それが、この本質的事象の結末だった。リツカのガンド撃ちは致命傷を与えた、それは違いない。だが、ワルキューレはそれを耐えた。礼装と自らの身体性で以て耐えきった。それがこの戦術レベルの帰着であって、要するに、リツカの戦術的敗北を意味していた。

 満身創痍ながら、駆け出したワルキューレの速度は変わらない。どれほど摩耗してもくじけぬ精神から繰り出される挙動。あるいは死の呪いに令呪一画分の魔力を叩き込まなければ、彼女であれば躱すこともできたのだろう。だがそれは詮の無い思考に過ぎない。強大な魔力投射を放った直後のリツカに、その猪突を躱せる道理は一つたりともなかった。

 ざくり、と光の杭が彼女の体を徹った。穿たれたのは胸元、さくりと貫いた途端に血の飛沫が舞って、リツカの身体がか細い葦のように崩れ落ち、

 「アーチャー、今!」

 ざ、とヴィジョンが視界に飛ぶ。為されるがままにアーチャーが大砲を構えた途端、圧し折れるリツカの身体が跳ねた。

 左足の一歩でワルキューレとの距離を詰める。同時、掴みかかった腕を振り上げワルキューレの身体を持ち上げ、蹴るように差し込まれた右足が股関節部に突き刺さる。ぐるん、とリツカが背を屈めて地面を後転して、それが終わりだった。

 気が付いた時には、ワルキューレの体躯が、酷くあっさり宙を舞っていた。ぽーん、なんて擬音語が脳裏を浮かぶほどの呆気なさ。宙に転がされたワルキューレの表情は酷く間抜けで、多分、事態を飲み込めていなかった。

 リツカの手に、エーデルワイス、とかいう花が握られているのは既に目にしていた。だからあとは、この大砲で爆殺するだけだった。

 アーチャーが砲を熾こす。放たれた虹光は吸い込まれるように宙に投げ出されたワルキューレに直撃し、ぷくりと膨れがあった肢体が千切れるように四散した。びちゃ、と飛び散った肉片が火砲の灼熱に炙られ、肉の焼ける臭いが鼻を衝いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。