冬木市シスコン奮闘記 (D1198)
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第一部
01 プロローグ1


その少年は暗闇という物をどちらかと言えば嫌っていた。

 

人が闇夜を恐れるのはそれが未知だからだ。外敵から身を守るという動物ゆえの本能か、未知は不安を想起させ、恐怖を呼び起こす。だから人は灯りを求める。

 

彼の場合はどうだろう。彼は夜目が利いたし、実際に見えなくても視覚以外の感覚で何があるか知り得る事が出来た。逆に眼を使わない方がより多くの情報を得る事が出来た。

 

にも関わらず、明るい日中を好んだ。明るければ女性の微笑みを見る事が出来たし、可憐な姿も見る事が出来た。それらは彼を愉しませてくれた。学校で授業の合間、下校途中、同級生と馬鹿話に華を咲かせるのも悪くない。なにより。少なくとも。昼には妖怪も幽霊も、討とうと襲ってくる敵も居ないからである。

 

足下さえ見えない暗闇の中。功性の思念と共に襲いかかる鋭い一刀を、彼は紙一重で避けた。その襲いかかった太刀筋を切り口にして、己の戦闘経験・感覚から敵を読みとった。見るどころか、知覚さえも朧な敵に一刀を撃ち込んだ。ひゅんという風きり音のみが響き、何の手応えも無く宙を切った。ずさっと足下の落ち葉が余計な音を立てる。彼は周囲に感覚を走らせ、刀状の武器を構え直した。再び虚無のような暗闇に包まれる。

 

そこは冬木市共同墓地の近くにある林の中だ。近くに民家も無く電気の明かりも届かない。夜空は雲で占められていて、月明かりどころか星さえ見えない。林を抜け出れば、遠くにある町の灯りが、雲に反射して多少は改善されるだろうが、生憎と鬱蒼とした林の中。それすら期待できない。

 

林という以上、多数の樹木が屹立し大地には落ち葉が敷き詰められている。枝すら墜ちているはずだ。敵は一体どうやって音すら立てず闇の中を動いているのか。

 

彼は太い樹木と樹木の間で油断無く構え、心と身体を鎮めた。暗闇から襲われるという状況におかれてかれこれ2時間は経つ。その強襲間隔はまちまちだ、連続して襲われる事もあれば、間が開いて。そうかと思うと踊りのようにリズム良く切りつけられもした。

 

(陰湿だ)

 

彼はそう罵った。敵は迅速に止めを刺す事も無く、弱らせて討ち取るらしい。安全と言えば安全な襲い方だが、こう言った襲われ方は酷く消耗する。なにより気分が悪い。この流れをどうにか切り崩したいが、彼は敵の影すら捕らえられない。彼には狙われている以上の事は知覚できなかった。

 

(さてどうする)

 

敵は彼の位置を的確に捉えていた。夜明けまで待つか、それではジリ貧、相手の思うつぼだ。林の外まで走って逃げるか、その隙を許す相手ではあるまい、僅かでも警戒を緩めれば即座に襲ってくるだろう。実際彼は微動だにできなかった。わざと隙を作り攻撃を誘うか、論外である。わざとだろうが隙は隙、防御の弱いところを強引に突かれて仕舞いだ。その様な駆け引きが出来る相手ではないのである。

 

(……)

 

一つのプランが浮かぶ。彼は感覚を総動員して、じっと待った。狙うは一瞬である。一つ息を吸い、吐き。一つ息を吸い、吐き。それを数えるのが面倒になった頃、暗闇から一刀が襲ってきた。彼は回避には無理な姿勢で避けた、そのため頭を掠め髪が散った。

 

無理な姿勢には訳がある、微妙な力加減の一刀を入れる為だ。敵の一刀を躱した直後、彼の一刀は最寄りの樹木を打った。すると樹木はこーんという音を鳴らし、その音は林を駆け抜けた。

 

滑らかに走る音がある一点で淀み渦を巻く。音が敵にまとわりついていたのだった。潜水艦のソナーと同じ原理である。彼はこの好機を逃さぬと切り込んだ。影が走るかのような踏み込みから、神速の一刀を撃ち込んだ。

 

敵を切り裂いたかに見えた一刀は宙を切る。

 

(っ!)

 

確実に捕らえた、討ち取った筈だ。彼には絶対の自信があったのだろう。その動揺は僅かな隙を産み、いつ回り込んだのか背後からの一刀で叩きのめされた。その敵の一刀は木刀だったのである。

 

姿を見せたその敵は白いジャージを纏っていた。左手に木刀を持ち、その反りを左肩に乗せている。その敵だった人物は、落ち葉の中に突っ伏した彼にこう言った。低めの声だったが女のもので、妙に身体の芯に響く。それが彼をまた苛立たせた。

 

「着眼点は悪くは無い、が。詰めが甘い。必殺のつもりで撃ち込んでも、必殺とは限らん。敵の見極めを鍛えろ」

 

彼は突っ伏したままである。纏っている黒いジャージに枯れ葉が散っていた。

 

「……前後二つの気配(氣)ってなんだ。分身でもしたのか。それともアンタは実は双子なのか」

「自己虚映念体(ドッペルゲンガー)。氣を用い己の気配をもう一つ作り出す、氣術の応用だ。お前の様な気配読みに依存する馬鹿者には有効だな」

「そんな技知らないぞ」

「当然だ、教えてない」

 

彼はがばっと立ち上がり、やってられないと詰め寄った。眼鏡がきらりと光る。

 

「M・B・T(マキシマム・バスター・タイフォーン)とか! 次元反転分離攻撃(ミラー)とかっ! 毎度毎度、厨ニ病バリバリの初見技ばかり使いやがって! アンタには師としての自覚が無いのかっ! てゆーか幾つ技のストックがあるっ!?」

「毎度毎度、未知の敵と戦わせてやっている師の心遣いがわからんか」

「アンタが卑怯技使うなら俺にも使わせろ! 魔眼使わせるとか、それが駄目ならせめて封印具を外せっ!」

 

彼は二つの特異な力を持っていた。一つはモノの死を見る直死の魔眼、もう一つは異常なまでの身体能力である。これらが使えれば優位に戦えようが封印具で抑制されていた。魔眼は眼鏡、身体能力はネックレスである。眼鏡は彼自身の意思で外せるが、ネックレスを外す方法はその女しか知らない。

 

「生まれ持ったものとはいえ、それに頼れば訓練にならん。そもそも魔眼など未だON/OFFも出来まい。いい加減にしろ未熟者め」

「だったらせめて訓練効果という現代科学的思考をしろ! 負けっ放しどころか、訓練効果すら感じさせないようでは、弟子は育たないっ! それどころか挫折する! 待遇改善を要求する! 虐待反対っ!」

 

彼が師と呼んだ女性は、右の握り手をあごに添え、しばし考えると笑ってこう言った。笑みは笑みでも底冷えする笑みである。

 

「お前の言う現代科学は良く分からないが、これは私の教育方針だ、黙って従え。それと」

 

その女は彼を蹴飛ばした。彼がまったく反応できない程の鋭い蹴りだった。

 

「へぶらっ!」

「母親をアンタ呼ばわりするとは何事だ。この不肖の息子め。親不孝という言葉を知るが良い」

 

その威力は如何ほどのものか。彼は落ち葉と土砂にまみれ、ごろごろと林の傾斜を転がっていった。“おーぼーえーてーろー”その言葉は闇夜に紛れて消えた。

 

 

◆◆◆

 

 

冬木市に一人の少年が居た。身長175センチで体重69キロ。黒い髪と黒い瞳を持っていた。そう表現するといかにも標準的な日本人だが、農耕民族にはそぐわない狩猟的な身体つきをしていた。欧米人にもよく間違えられ、その体つき、身のこなしを動物に例えれば狼か、獅子か、鷹である。

 

彼は勉学に秀で、頭も切れたし、運動神経も優れた。母親の因子を強く受け継いでその面は二枚目と言っても差し支えなかった。それを鼻に掛ける事無く、男友達とは馬鹿もしたし、少女の扱いにも慣れていた、男女問わず社交的であった。まさにパーフェクト人間、ここまでの話を聞いたなら、人生は約束されたも同然と、妬みやっかみの一つぐらい言いたくなる。だが、神の悪戯か運命の戯れか、そうは成らなかった。彼の名は蒼月真也、重度のシスコンだったのである。

 

一月末日の寒い朝である。冬木市の住宅街、西洋風住宅が並ぶその一角に彼の家はあった。コンクリート製のログハウスを模した建築物で、屋根は四角形では無く三角形だった。一階にはダイニングキッチン、バスルーム、客間、二階にはその家の者が住む部屋があった。珍しくない普通の家だった。

 

その二階にある西向きの部屋が真也の部屋だ。冬は良いが夏場は辛い、彼は蒼月の長子だったが、母の一存でその部屋に放り込まれたのだった。快適な東部屋は彼の妹が使っている、扱いの程が分かろうものだ、ヒエラルキー的な意味でである。

 

真也はベッドの中で包まり夢を見る。それは妹との記憶である。彼女が蒼月にやってきて、泣いて笑って乗り越えてきた10年分の思い出である。その妹は義理の妹だった。だがそれにどれ程の意味があろうか、その10年という月日は本物で、兄と呼び妹と呼ぶ言葉にも偽りはない。

 

にへら。

 

何という締まらない顔だろう。大変な事の方が多かった10年だが、楽しかった事しか覚えていないに違いない。

 

そうしたら、その部屋に一人の少女が入ってきた。陽にかざせば青紫に光る髪を、肩に掛かる程度に伸ばしていた。頭の左側には赤いリボンが咲いていて、耳を出すように結い上げていた。纏うのはコルク色をした穂群原(ほむらばら)の学園服。白地に赤のチェック模様のエプロンを揺らしていた。彼の妹、蒼月桜である。

 

彼女はノックも呼びかけもしなかった、過去の経験からそれが無意味だと知っていたからだ。ベッドに包まる兄の姿を見て大げさにため息をついた。しゃっとカーテンを開けば室内に朝日が染みる。近づき布団をめくれば一揺すり。

 

「兄さん」

 

起きない。

 

「兄さんっ」

 

彼はぼんやりと目を開けた。彼が起きる起きないはまちまちだ。直ぐ起きる日もあれば、難儀する日もある。起きねば頬を突く、抓る、軽く平手で頬を打つ、と言った手段に訴えるが、今日は直ぐ起きる日だったらしい。多少物足りなさを感じつつ、脚を肩幅に開いた桜は、胸を張り両手を腰に添え、見下ろした。

 

開いたまぶたの隙間から、黒い瞳が蒼く光っていた。彼女はそれが神秘に依存する眼だと聞かされていたが、それ以上の事は知らなかった。その蒼は何処までも透明で、純粋で、恐ろしかった。例えば日本刀が放つ光、轟く稲妻の光、大地を振るわす火山の光、核が放つ光、そういった死と破壊をもたらす類いの光だった。慣れか彼女自身が持つ特性か、彼女はその恐ろしさにある快楽を見いだしていた。“わたしって実は変な娘なんじゃ……”と悩んでいるのは彼女だけの秘密である。

 

彼は手を伸ばし眼鏡を掛けると桜を見つめた。まだぼぅっとしている。甘やかしてはいけない、兄は直ぐ調子に乗るからだ。優しく起こせばそれを目当てにいつまでも惰眠を貪る、そう言い聞かせ、

 

“怒っています、わたし”

 

と頬を膨らませてアピールの用意も万端だ。彼はぼんやりとこう言った。

 

「……怒った顔もまた秀逸」

「何が秀逸ですか、人の顔を美術品みたいに言わないでください」

「おお桜。芸術的なまでの美しさ」

「っ!」

 

桜の頬が一気に染まる、誤魔化そうと勢いよく兄に座り込んだ。どすっと、真也の身体がくの字に曲がりクッションのよう。

 

「さ、さくら。いくら布団越しでも水月におしりを打ち込むのは如何なものか」

「朝から馬鹿なことを言っているから、そうなるんです」

「馬鹿なことじゃないぞ。桜はマジで美し、」

「2発目いきますか?」

「いえ、結構です」

「朝食の準備が出来ています、早く降りてきてください」

 

取り繕うように立ち去る妹の後ろ姿を見て真也は物思いに耽る。彼は桜が小さい頃から可愛い、美しい、セクシー、色っぽい、エロい、等々女性を褒め称える賛辞は欠かさなかったが、素直に受け取らない。ただ色っぽく成るのみである。

 

「兄の愛が通じないとはこのことか」

 

真也が手早く学生服に着替えてダイニングに赴くと、新聞を読んでいる黒髪の女と目が合った。身長は170センチと東洋“風”女性としては高め。癖のある髪は腰まで伸びて、シンプルな白紐を使いうなじで簡単に結っていた。彼が知る範囲で手入れなど殆どしていないはずだが、髪は深みのある美しい光沢を放っていた。濡羽色と言う奴である。化粧っ気は少なく、眼光鋭く整った顔立ちで、女性でありながら端正とか眉目秀麗という表現が適当であろう。

 

豹を想起させる、鋭く隙の無い身のこなし。その細身の身体が打つ一刀は強力無比。鬼神か闘神の生まれ変わりと言っても彼は否定しまい。人呼んで“おっぱいの付いたイケメン” 名を蒼月千歳といい。蒼月家の大黒柱であり、桜の義母であり、真也の実の母でありそして師でもある女性だ。

 

数時間前の深夜。ボコられた恨みを思い出して、真也は無言で席に着いた。千歳は新聞を置いて煙草に火をつけた。

 

「お前は挨拶もできんのか」

「昨日しただろ」

「捻られた報復がひがみとは情けなくて涙が出る。お前はガキか」

「いい年して知らないのか。大人が大人なら世界に争いは無いよ」

「人の振り見て我が振り直せ、他人の不出来を己の免罪符にするな」

「安心してくれ。他人にはちゃんと挨拶をするから。例え気分が悪くても、腹立たしくても、憤りを感じても」

 

千歳は煙を吐いた。

 

「ほぅ、桜にも同じ態度か」

「まさか、桜は別だ」

 

真也は言いそびれた事を思い出して、振り返った。キッチンに立つ桜の後ろ姿に朝の挨拶をした。彼女は少し驚いたようだったが、柔らかい笑顔で挨拶を返す。

 

「ほらな」

「かわいげの無いガキだ。全くどうしてこれ程ひねくれた。これではあいつに顔向けできない」

 

嫌みと言わんばかりに深く煙を吐く千歳。真也は“あいつ”が父のことを指しているのだと察したがそのまま聞き流した。聞いたところで教えてくれないのは分かりきっていたからだ。17年にわたる生涯、何度も聞いたが答えてくれた事はない。

 

「アンタから教わったのは戦う術と嫌みだけだ。というかそれ(煙草)身体に悪いから止めろって言っただろ。いつまで吸うつもりだ」

「ふん、今更気遣いなどをしても小遣いなどやらんぞ」

 

嫌がらせとばかりに煙を吹き付けた。

 

「アンタの事は心配なんてしてない。桜の身体を心配してる。僅かでも親の自覚があるなら、桜の前で吸うな」

「……母親と妹どちらが大切だ、お前は」

「随分と馬鹿な質問をするんだな。桜に決まってるだろ」

 

深と静まりかえったダイニング。千歳の表情がむっすりと歪む。それは彼女にしては滅多にない反応だった。彼女には敵も味方も居たが、彼らが見れば驚くに違いない、彼女は鉄壁なまでのクールで通っているからだ。

 

「今まで育ててやった恩を忘れたか」

「放任主義でよく言う。自分の入学願書を書く小学生なんて俺ぐらいのもんだろ」

「この家、生活費、誰が出している」

「親は金を出すだけの存在と言うのか?」

「ああいえば、こう言いおって……」

 

ふるふると千歳の手が震える。察した桜が、

 

「もう、朝からギスギスはやめて」

 

と焦り笑顔で朝食を持ってきた。フランスパン、ハムエッグ、ポテトサラダ、コーンスープが迅速に並ぶ。

 

「ほら、兄さん。それ言い過ぎだから母さんに謝って」

「済まない言い過ぎた。母さんには感謝してる」

「……」

 

華麗なまでの手のひら返し。全く釈然としない千歳だったが、それ以上言うのを止めた。

 

(この怒らせ方、日に日にあいつに似てくる……)

 

と夫を思い出してしまったからである。

 

 

◆◆◆

 

 

コーンスープはインスタントではなく、コーンクリームから作った桜の自家製だ。それが随分と二人の身体に合って、二人を随分和ませた。落ち着いた千歳は真也にこう切り出した。

 

「桜には先ほど言ったが、今日からまた仕事で出かける。2週間の予定だ」

「随分と急だけれど、俺も同行するのか?」

 

真也は少し気が滅入った。その間桜は知人である藤村雷河に預けられる事になり、心配はしてないが、会えないと辛い。

 

「いや、私だけだ。お前は桜と一緒に留守番してろ」

「そりゃ助かる」

 

と言うものの一抹の不安を感じる真也だった。いつもと勝手が違うからである。手間が掛かる仕事程真也は同行する。それが2週間も掛かるなら尚更だった。新聞は新都でガス漏れ事故が多発していると報じていた。千歳は足下に置いてあった日本刀を取り出した。

 

「念の為これを渡しておく」

「……霊刀?」

「がらくた市で偶然買い叩いたものだ、銘は分からないが随分とできが良い」

 

刃渡り二尺五寸五分、真也が柄を握り、刀身を覗く程度に引き抜くと、彼の魔力に反応して蒼白く光っていた。業物であると即座に知れた。

 

「……凄いなこれ。がらくた市で売ってたなんて嘘だろ」

「今の時代目利きがいないのだろう。最近瘴気が濃いうえ新都のガス漏れ事故も気に掛かる。気をつける事だ」

「分かった」

「それと。学校帰り桜は暫く男の家に通うそうだ。ちゃんと迎えに行ってやれ」

「……はぁっ?!」

 

真也は振り返った。桜はキッチンで食器を洗っている。信じられない、そんな瞳で母をみた。

 

「……士郎か」

「他に居まい」

「年頃の娘を男の家に行かせるなんて、それでも親か」

「別に外泊する訳では無いからな。料理を習いに行くという動機もおかしくない。止める理由などありはしない。むしろ積極的になってくれて安心している位だ」

 

母の真意などお構いなし、真也は立ち上がるとふらふらと桜に向かっていった。

 

「桜、士郎の家にいくって本当か?」

 

桜は頬を染め、落ち着きがないように髪を弄り始めた。彼女の仕草は肯定だ。動機はどうあれ年頃の娘が男の家に行くなんて一大イベントなのである。

 

「だめです! 男の家に行くなんてお兄ちゃんは許しません!」

 

いきなり大声を出された桜は驚いたが、直ぐに言い返した。

 

「毎回毎回! いい加減諦めてください!」

「止めても強引に行っているからじゃないか!」

「兄さんがくだらない理由で引き留めるからです!」

 

桜は穂群原(ほむらばら)でも一二を争う美少女である。だが浮いた話は一つも無く、せいぜいグループデート止まりであった。それは真也が睨みを利かせているから他ならない。彼の友人ネットワークは広大で、いかがわしい真似をしよう物なら制裁が下される。

 

別に制裁を下すと真也が公言した訳ではないが、10年にわたる彼の半生はそれを如実に表していた。穂群原(ほむらばら)を初めとして冬木に住まう者ならそれを十二分に理解していた。

 

桜にとっては心中複雑である。私も恋愛したい、でも兄の心配も嬉しい、その狭間に揺れる桜にとってあるストレスとなっていた。そんな折、知り合った衛宮士郎という人物は兄に逆らい、好きになれるかも知れないというただ一つの例外だったのである。

 

「妹の身を案じない兄がどこに居ますか!」

「先輩はそんな人じゃありません!」

「男は魔が差すんです!」

「だから先輩はそんな人じゃありません!」

 

「ああいうむっすりした奴に限って腹の奥底では悶々しているもんです!」

「衛宮先輩を兄さんと同レベルで語らないでください!」

「とーもーかーくー! 男の家なんて絶対だめです! だめと言ったらだめ!」

「なによ信じられない兄さんの馬鹿!」

 

真也はビンタされ、あまりのショックに呆然と立ち尽くす。桜はそのまま鞄を持って学校に向かっていった。

 

(さくら、さくら、さくら、か。まったく、お前がそんなだから桜は追い込まれる。思い切ってお前が受け入れれば、という考えは母親として失格か)

 

千歳は深くため息をついた。真也はめそめそと泣いていた。

 

 

◆◆◆

 

 

千歳はフリーランスの掃除屋を生業としている。ただ一般人相手ではなく魔的な意味だ、拝み屋と言っても良いだろう。人に危害を及ぼす妖怪を初めとした物の怪を屠ったり、呪殺を生業とする相手と戦ったり、滅多にないが人を殺したりする事もあった。

 

彼女がこの冬木市にやってきたのは10年前だ。原因不明の大災害もその傷跡を生々しく残している頃である。

 

彼女の依頼は“間桐臓硯の暗殺”だった。

 

この10年異常犯罪が多い冬木市だったが、それ以前も不可解な事件があった。若者が、特に女性が血肉の痕跡を残して失踪するという物である。事件簿をひもとけば、発端は200年以上前に遡りその間隔は徐々に短くなっていった。

 

残された物証、事件現場の状況は不可解で警察も手を上げた。被害者の遺族達はたちは協力し合い霊力者、呪術者を雇って間桐臓硯と言う人物にたどり着いた。だがその人物は狡猾で、遺族はもちろん雇った術者でもどうにも出来なかった。噂を聞きつけた遺族達は大金を払い彼女に依頼したのである。

 

彼女が個人を殺す判断は“守るべき人が居るか”である。それが居るなら例え殺戮者であろうと、殺す事は無かった。彼女はそれを人間性を示す最後の一線と考えていた。守るべきものが者から物に変わった時、人は化け物と化すのだ。

 

彼女は間桐臓硯を言う人物を知らなかった。取りあえず会ってみなくては分かるまいと手を尽くしたが会う事は叶わず。であればと押し入った。

 

黒いタイトスーツが陰鬱とした闇を駆けた。

 

そこは臓硯の家で、地下の修練場だった。薄暗く陽の光も届かない、空気も淀んでいて息苦しい。大量の蟲すら蠢いていた。魔術など多種多様とそれを気にしなかった彼女だが、臓硯を見たとき即座に切りつけた。彼の魂は既に腐っており、身体を蟲にして生きながらえる妖怪だったのだ。不死という物に執着し犠牲をいとわない人物である事は明白だった。切り捨てたなれの果てをエオロー〈魔除け〉とシゲル〈太陽〉のルーンで焼いた。

 

消滅を確認し立ち去ろうとした時である。修練場の奥底から微かに息づく人の気配があった。蠢く蟲にまみれる子供の姿をみた。女の子だった。その子は全てを捨てていた。

 

同情の念は沸いたが、それ以上の事をしようとは思わなかった。可愛そうな子供など世界の至る所に居る。きりが無いし、救うと言う事は受け持つと言う事だ、そんな事などできはしない。

 

「……」

 

立ち去ろうとした彼女はきびすを返し、子を這う蟲を蹴散らした。石床に横たえる子供を抱きかかえた。その子供の返答を聞かず連れ帰った。その瞳は千歳を見る事も無く虚ろだった。

 

「君は全てを捨ててしまったな。私にもそうなりかけている子供が居る、親としてはそれは忍びない。間桐は君に全てを捨てさせたが、私は君に何かを与えよう、君が再び掴める土壌を用意しよう。その代わり私の子供を救ってくれ」

 

人間、人格というのは周囲との折り合いで形成される。人間は誰しも欲を持つ。だが欲望のまま動けば周囲という壁にぶつかり、その欲は成される事はない。このとき人は初めて原因を考え、ぶつかった壁の事を考える。人間関係も同様で、ここに協調という概念、つまり相手の事を考えるという思考が生まれる。幼い頃から甘やかされて育った人物が、相手の事を考えないのは良い一例であろう。

 

千歳の子供は特異だった。幼少の頃から強い身体能力と魔力を持っていた。転じて彼に相手の事を考えさせる周囲という壁がなかった。西へ東への根無し草、子育てに適切なツテも無く、その力故に友人どころか子供とのふれあいすらままならなかった。

 

窮した彼女は自分の力を壁として教育を施した。子が親の言う事を聞くのは当然、つまり絶対である。従ってあれも駄目これも駄目と言うよりほかなかった。一定の成果は見られたがそれは歪な結果をもたらした。

 

喧嘩をすれば相手に怪我をさせてしまう、だから喧嘩をしては駄目だ。相手の利益を脅かす、だから盗んでは駄目だ。相手の事を考えるという体感が出来ない以上、教育は全て理論を持って教えられ、行動は理詰めになっていった。身体の内にある強い力を使ってはならない、それは虚無感に変わり。

 

“何かすれば怒られる”

 

その子供は次第に意欲をなくしていった。彼女はこのまま子供が成長し、守るべき物しか持たない狩るべき対象になってしまう事を何より恐れた。だからその子供に全てを捨ててしまった子供を妹として与えたのである。

 

2人の子供が最初に共有した物は痛みと悲しみだった。間近で見る同年代の存在、子供が興味本位に無遠慮に掴めば、痛みを与え傷つけた。泣き顔を見るとこちらまで悲しくなってくる。どうして泣くのか考えた。殴って黙らせようか、だがそれでは余計に泣く。死んでしまえば泣く事はない、だが殺しはいけない事だ。思考の堂々巡り。その子供はこのとき初めて相手の事を考え行動した。こう千歳に聞いた。

 

“どうしてこの娘は泣いてばかりいる”

“お前が傷つけるからだ。その娘はお前の妹、守るべき相手だ。泣かせたくないならどうしたら良いかそれを考え感じろ”

 

悲しみを知れば喜びを知るのにそう時間は掛からなかった。2人は徐々に近づき、全てを共有していった。幼い真也に必要な事は、相手への思いやりと力の使いどころ。幼い桜に必要だった物は悪夢から守ってくれる絶対的な安心感。

 

魔眼を用い全身に巣くう蟲を子供自身に除去させたのも、真也にとっては良い結果となった。技量の問題で心臓の一匹は除けなかったが、先送りしても問題なかった。身体に抱えた爆弾、“桜を守るため”と訓練にも熱が入る。こうして千歳の思惑は概ね達成されたのである。

 

そう概ねだ。

 

あるとき幼い桜は千歳のもとへ駆け寄ってきた。

 

“おかーさん。わたしお兄ちゃんと結婚したい”

 

面食らう千歳に、真也は言った。

 

“兄妹は結婚できないんだぞ”

“えー、やだやだ。結婚するのっ!”

 

千歳は子供にはありがちと笑って流した。視野が狭いからだ。世間を知り、色々な男を見れば意識も変わるだろうとそう考えた。数年後、その考えが甘い事を知る。“シングルマザー”“似ていない兄妹”という特徴はいじめの対象となった。その都度真也は桜を守り、大立ち回りを見せた。他の男の子は虐めてくるだけ、守ってくれるのは兄だけ。聖杯の余波で、当時の冬木市は治安的に荒れていて、真也の安心感を感じる機会は事欠かなかった。その様な思春期を送れば桜がどう行動するか、明白であった。

 

桜が中学に上がった時である。千歳は桜が寝ている真也にキスをしていたのを目撃した。その恍惚とした瞳はどうひいき目に見てもよろしくなかった。下着は率先して洗う、シャツの臭いを嗅ぐ。思いあまれば添い寝しようと枕を持って兄の部屋を訪れたこともあった、もちろんそういう行為を期待しての事だ。

 

幼少の経験より真也は桜を妹として確立している。良い事なのか悪い事なのか、桜を女として見ていなかった。千歳は桜にこう言った。説教では無くただ事実を告げた。

 

“好意を伝えれば明確に拒絶されるだろう、報われない”

“……”

 

兄に拒絶されれば耐えられないかも知れない、桜はその感情を押し殺し生きていく事になった。そんな折、一つの事件が起こった。真也が中3、桜が中2のときである。真也というやたら強い中坊(奴)がいるという噂を聞きつけた、県外の高校不良グループが冬木にやってきたのだった。暫く平穏だったので桜も油断していた。見目麗しい桜の姿を見つけると言い寄った。

 

ここからはよくある話だ。嫌がる少女に徐々に劣情をたぎらせる男たち。おい止めろと、赤髪の少年が助けに入った。士郎である。中3の士郎1人、相手は複数人の高校生、結果は明白だった。事実士郎は殴りに殴られた。だが士郎はしぶとかった、不良グループはもちろんの事、桜さえも呆然とする程に何度でも立ち上がった。

 

士郎が時間稼ぎをしている間だ、駆けつけた真也が不良グループを叩きのめした。見せしめだと、二度とこんな真似が出来ないようにと、再起不能なまでに叩きのめそうとした真也を士郎は止めた。

 

“おまえ、そこまでボコった相手の肩を持つのか”

“そんなんじゃない。けど報復なんてすることじゃない。お前の目的は何だ。この娘の無事か、それともそいつらを叩きのめす事が目的なのか。もし叩きのめすことが目的なら、俺はお前を止める”

 

顔は腫れ、切り傷擦り傷だらけ、打撲にたんこぶ、足首も痛めていて立ち上がることすら億劫だろう。そんなぼろぼろの奴が眼をギラつかせて宣言した。

 

妙に苛立たしい眼だなと真也は思った。暫く睨み合ったあと真也は手を離した。言っていることは全く分からなかったが、桜が助けられたのは事実である。ただその事実だけを対価として士郎の意を汲んだ。

 

“桜、帰るぞ”と真也は言った。

“俺は士郎だ。衛宮士郎。お前、名前は”と士郎が言う。

“蒼月真也”

 

目を合わせれば喧嘩腰になるかも知れない、それでは恩人に筋が立たないと、真也は振り返りもせず答えた。ぽかんと士郎を見ていた桜は慌てて礼をして立ち去った。

 

危ないところを助けられて恋に落ちる、そんな事には成らなかった。彼女が欲するのは守ってくれる存在である、その理屈から考えると士郎は微妙だった。助けられたことは事実だが、桜を守る為では無く、彼が持っている他の何かを守る為助けたように見えたからだ。初対面だと言う事実を考えれば自ずと知れる。ただそれへの固執が凄まじい、我が身を顧みない程だ。執着と言っても良いだろう。桜の士郎への評価は“おかしな人”これに尽きた。

 

月日が流れ記憶もあやふやになってきた頃、桜と士郎は再会した。同じ学校の同じ部活、弓道部である。背が伸び身体は鍛えられて、射れば百発百中。士郎の射が織りなす雰囲気は圧倒的で見とれる少女も数知れず。おまけに面倒見が良い、後輩への指導も的確だったし弓の調整もお手の物。

 

“衛宮先輩モテるでしょう”と桜は綾子に言った。綾子は笑いながら首を横に振った。いつも誰かのために働く姿がせせこましいと、少女たちからの評判はイマイチなのだった。桜は道場の雑巾掛けに励む士郎を見て、ただ不思議そうに首を傾げるのだった。

 

“なんで?”

 

例えば道場の掃除のとき。このとき士郎は退部していたが、人手が足りないと綾子はこう依頼した。

 

“良かったら掃除頼まれてくれない? 私呼び出し喰らってて”。手伝ってと後から行くからと、言わなかったのは綾子の言葉のアヤである。まるで士郎だけに掃除を依頼したように解釈できる。特に予定の無かった彼は快諾した。彼がもくもくと掃除していると、弓道部の掃除班がやってきた。彼ら彼女らはこう言った。

 

“あれ? 先輩がどうして掃除を?”

“美綴に頼まれた。俺がやっておくから”

“感謝っ!”

 

綾子が承知しているならと掃除班は立ち去った。遅れてやってきた桜は、1人で掃除する士郎を見て“なんで?”と問いかけた。そこはおかしいと声を上げるべき所ではと指摘した。士郎は笑って“人のためになるって良い事じゃないか” と答えた。彼女は多少の苛立ちと盛大な不可解さを腹に溜めて、雑巾を手に取った。2人は綾子が戻ってくるまで一緒に掃除をした。サボった掃除班に綾子の雷が落ちたのは別の話である。

 

その後も桜の不可解さは募っていった。

 

例えば学園祭。士郎のクラスは焼きそば屋台だった。彼は一人でもくもくと作っていた。売り子は別に居たが、調理担当を交代しなかった。彼の側では同じ調理担当であるクラスメイトが談笑していた。

 

“なんで?”

“おいしいと言われるとやる気が出るというか、なんというか”

“クラスで決めた事でしょう? 一人でやるのは別問題だと思います”

“俺が一番手慣れてるし、人のためになるって良い事じゃないか”

“……”

 

桜は士郎の焼きそばを食べたあと調理を手伝った。

 

例えば。校舎で見かける士郎は殆ど誰かの用事を引き受けていた。女の子の荷物を持ったり、備品の修理をしたり。早朝授業が始まる際まで、放課後はもちろん、下手をすると昼休み。

 

“なんで?”

“バイトもあるしこれでも出来る事しか引き受けてない”

“そういう事じゃ無くて、他にしたい事とか休みたいとか思わないんですか? 小間使いみたいに扱うなっ、とか”

“人のためになるって良い事じゃないか”

“それは、そうなんです、けれど”

 

そこに自分はありますか? と言う問いかけは。あまりにも真剣な眼差しに何も言えなくなった。彼は楽しんでいない、そうしなきゃいけないと自分を脅迫している、桜はそれに気がついた。漠然と、この人には誰かいないと駄目なんだなと思ったりもした。

 

大勢の人の為にと言うがそれを自分に強いる士郎と、常識人を装っているがその皮を剥げば桜以外どうでもいい真也。二人は学校でも言葉を交わさない、眼すらあわさない、希に言葉を交わせばつっけんどんである。

 

桜は士郎が兄と対をなす存在ではないかと考えた。

 

純粋な力の差は歴然だが、将来は分からない。これ程までに意固地なら大成する可能性はある。対なす存在に加えて大きな力、ならばこの苦しみから、兄から離れさせてくれるかも知れない、と桜はそう縋った。

 

士郎に彼女は居ないし、桜が士郎を束縛している訳でもない。ただ恩返しという名目で押しかけ世話を焼くのだ。彼女はそれを免罪符にして、士郎の家に行く事に決めたのである。

 

だが自分の奥底にある欲望を強引に抑え込んだその行動は、聖杯戦争という数奇な運命が絡みつき、彼女の首を絞める事になる。

 

 

 

 

 

 

 

つづく!




というわけでだいぶん変わったこの作品です。もう別物ですね。

もう一度1stバーサーカー戦までこぎ着けるのが当面の目標です。

3人称って視点持ちの制限を受けないから説明が自在で楽ですね。


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02 プロローグ2

真也の穂群原(ほむらばら)での生活を垣間みれば、人は眉をしかめるだろう。或いはやんちゃだと呆れを交えて褒めるかも知れない。彼は日頃大人しかったが、時々騒ぎを起こした。彼はそれが自分の考え方、精神的なバランスを取るのに必要な事だと、そう考えていた。

 

彼は帰宅部だったが、友人とバカをしては勉学に励むという両極端な学生生活を送っていた。交友関係は広く所属するB組以外にも友人は居た。

 

例えばクラスメイトA君。校舎の廊下を歩く真也を見つけると、後ろから歩み寄り肩をぽんと叩いた。

 

「真也ー。この間貸したAVどうよ? 上原あい良いだろ」

 

上原あいとは言うまでも無くAV女優である。世の中の男たちを慰めてくれる献身的な女性の一人だ。決して軽んじてはいけないのである。

 

「すまん、桜に見つかって没収された」

「おーまーえーはー」

 

真也は首を絞められつつこう呟いた。

 

「パッケージは洋楽DVDだったのになんでバレたんだろーなー」

「なにのほほんと語ってやがる! 取り返してこいよっ!」

「いやそれが、目の前でバキボキに割られて、修復不可能です」

「だから真也に貸すの嫌だったんだっ! 俺のあいを返せっ!」

 

ある時は男どもを引き連れて隣町。駅前のロータリーに腰掛け過ぎゆく少女たちを堪能する。元気系、清純系、お色気系、幼い系、見慣れないセーラー服姿に別クラスのB君は興奮気味だ。

 

「おい見ろよ蒼月。あの娘たち良くね?」と見れば並んで歩く5人の少女たち。真也は眼鏡をくぃと直してこう言った。

「おれ右から2番目」と指定したのは茶髪ロングのどちらかと言えば化粧の濃い娘だ。スカートも短めである。

「お前、いかにも遊んでそうな娘が良いのか。桜ちゃんが大人しいからその反動か?」

「五月蠅いな。男慣れしてる娘の方が、話が弾むんだよ。さっさと行くぞ」と声を掛ければ。びしりと指をさされた。

 

「あー、この人知ってる。穂群原(ほむらばら)のシスコンだ」

「えー、やだ。キモーい」

 

とあえなく失敗。ひゅるりと寒い風が吹き、真也は「同年代は駄目だ。年上にしよう」と呟いた。B君は半眼だ。心底うんざりしている。

 

「……もう真也と来ないからな」

 

またある時は夕暮れの校舎の影。そのうら寂しい隅に真也たちは集まっていた。俺にも見せろと男子たちが押し合う姿は、落ちた菓子に集る蟻んこの様。C君はA君が入手したそれを見て驚きを隠さない。

 

「浅上女学園の卒アルってマジかよ」

「くっはー、美少女揃いじゃないか」

「卒アルってことは年上か。でもいいっ!」

「おい真也。この娘すっげー良くね?」

 

とB君が写真を指させば、その少女の名は“遠野秋葉”とあった。真也は目を見開き声を震わせた。

 

「なぜだ」

「……なにが?」

「この娘から妹属性の気配がするっ! ぷんぷんするっ!」

「「「……」」」

 

真也のあまりにもイタい発言に、一気に冷めた友人たち。どん引きである。

 

「誰だ真也(シスコン)を連れてきたの」

「……わりぃ」

 

時にはこんな事もあった。場所は運動グラウンド脇の藪の中。人目を憚るように集いしは少年たち。しくしくと泣くのは真也のクラスメイトであるD君である。彼はプレゼントと共に告白して玉砕したのだった。A君は呆れと同情を交えてこう言った。

 

「なんでパンツなんか贈ったんだよ。しかもシマシマとか。バカじゃねーの」

「だって、仲の良い男女はそういう事をするって、雑誌に書いてあったし」

「どんな雑誌だ」

「今日から君もモテ男。マル秘テクニック集」

「そんな胡散臭い雑誌を真に受けるな」

 

頬をぽりぽり掻きながら真也はD君に言う。

 

「蒔寺さんはアレで随分と古風だ。ほとぼりが冷めたら普通にアクセサリーとか贈るんだな」

 

次があるのか? というA君の視線に真也は肩をすくめた。続けてこう言った。

 

「授業サボってD君のご愁傷さまカラオケ、行く人ー」

「「あいよー」」

 

身なり髪型は普通、それどころか好印象を持たれるように気を遣っていた。万引き、喝上げなど犯罪行為はしなかった。喧嘩も売られなければしなかった。ただ真也は意外と素行が悪かった。

 

極めつけはバーへの出入りである。彼は騒ぐのが好きで、友人と共にスポーツ観戦するともなれば大いに盛り上がった。目をつけたのは新都にある酒場だ。サッカーワールドカップが中継されており、設置された大型TVにではストライカーたちがゴールを競っている。

 

観戦に興じるのはいつもの友人たち。大人っぽい格好をして、店内に足を踏み入ればそこは異空間。異様な熱気に包まれていた。サッカーボールの巧みな動き、選手の鮮やかな技。他の客に混じって、拍手喝采を贈る。場の勢いに乗ってビールにも手を出した。ボールがポストを掠める。

 

「あぁ、惜しいっ!」と真也が握り手に力を入れれば、肩を突く感触。振り返れば見知った女性の姿。「うげ」と声を出したのは無理もない。藤村大河が猛虎を背負って立っていた。

 

「貴方たち覚悟できてるわね?」

 

青ざめる一同(バカもの達)

 

「各位緊急離脱っ!」と真也が言うと「了解っ!」と友人たちが走り出した。「逃がさないわよ!」と掴まえようとする大河に真也は抱きついた。

 

彼は言う。

 

「ここは俺が引き受けた! いけっ!」

 

E君は言う。

 

「すまん、借りておくぞ」

「あとで一杯おごれよ!」

「あぁ、必ず!」

 

「ふざけてるの貴方たちはっ!」と大河が吠えた。真也は現行犯、A君らを初めとした友人一同は結局もろとも補導された。もちろん、大河の雷を喰らい反省文および校内清掃の罰則付きである。

 

だが彼らは定期的に羽目外しを繰り返した。そろそろするか、というノリである。彼らは処罰されるを良しとしていた、罰をくらえばその罪はおしまいという考えかただ。

 

頻度は低くとも、些細な事であろうとも、繰り返すならば厳罰に処すべきという意見もあったが、そうは成らなかった。生徒たちのガス抜きの役も引き受けていると冷静に判断されたのである。真也の友人であるAたちは日頃から他生徒達を巻き込む、大騒動を起こす生徒だった。だが真也と連むようになって希に羽目を外す生徒になっていた。それ以外はボランティアや勉学に励む生徒になったのである。

 

なにより。真也を排除した場合の弊害は、教師達もよく知る事実だった。過去に存在した現実なのである。判断に窮した教師たちは生徒指導役の大河に一任、彼女は問いただした。

 

“どうしてこんな事を繰り返すの”

“今を全力で生きています”

“いけない事だって分かってる?”

“若い内から小さくまとまってたら碌な大人になりません。力加減を知るために、今のうちにたくさんの壁にぶつかるんです”

“退学になれば人生が大きく変わるのよ”

“ご心配なく。これでも線引きはしていますし、自分の人生は自分で負いますから。それとも。先生の言うとおりにしたら、先生は俺の人生を引き受けてくれるんですか?”

 

その考えは彼女自身雷河から教わった事でもあった。レールから外れた行動を目的を持って意図的にしていると言われれば改心のさせようは無い。だが彼女にも教師という自負がある、先に生きる者という自覚もあった。だから彼女は“羽目を外すなら私の権限が及ぶ範囲で済ませなさい。それ以上は駄目だからね”とだけ言って全員に拳骨を落とし、それを手打ちとした。大河の気遣いを込めた沙汰が響いたのか、それ以来彼らは自重するようになった。

 

この様に大人たちの手を焼く、扱いにくい真也であるが、みっともなく恥も外聞もすてる事もあった。そこは2年B組、彼のクラスである。廊下を歩いていた綾子は突然女生徒に呼び止められた。訳が分からないまま手を引かれ、教室に入れば。机に向かって愚図る真也の姿。彼のクラスメイトはうんざりしたように距離を置いている。綾子は“またか”と大げさにため息をついた。Aさんは綾子をせき立てた。

 

「辛気くさいから早く何とかして」

「……なんで私に言うのよ」

「綾子って蒼月くん担当じゃない」

「何の冗談よそれ」

 

「互いの事わかり合ってる幼なじみでしょ?」

「違う。腐れ縁」

「ほら、どっちでも何でも良いから早くしてよ。授業が始まったら大変なんだから」

「あぁ、もう。本当に、」

 

と、綾子は彼の前の席に腰掛けた。背もたれに肘を突き、頬杖にする。突っ伏している彼の髪をつんつんと突き、渋々と言う。

 

「で、何があったのよ」

 

綾子と真也はそれなりに長い付き合いであるから、彼女は理由は察しが付いていた。否、確信していたが一応聞いた。

 

「めそめそめそ」

「今朝桜に“兄さんなんか大っ嫌い”って言われた?」

「めそめそめそ」

「もう、終わりだ。生きる希望がなくなった。死んでやる。って、大げさな」

 

「めそめそめそめそ」

「桜だって年頃なんだから、男の子と遊びに行くぐらい良いじゃない。グループデートなら心配ないって」

「めそめそ」

「桜も本気じゃないって。ほら、私からも言ってあげるから、さっさと謝ってきな」

 

「めそ?」

「もちろんタダじゃないよ。報酬は期待してるから」

 

彼はむっくりと顔を上げた。涙目だったが、口はへの字に曲がっている。

 

「……綾子。君はいつの頃からか強かだな。ご希望はなに?」

「真也が考えて♪」

 

焼き肉のごちそうと耳飾りをプレゼントする羽目になったのだが、それはまた別の話。

 

 

◆◆◆

 

 

桜が衛宮邸に通う少し前の事である。職員室隣の生徒指導室、その扉がガラッと音を立てて開いた。

 

「ありがとうございましたー」

 

と言って出てきたのは真也である。彼はもうじき高3、進路相談を受けていたのであった。彼には将来の夢というものは無かった。強いて言えば桜の幸せである。良い相手を見つけて幸せな家庭を持って、家族に囲まれて、年月を重ねていって貰えればそれだけで十分だった。桜が相手を見つけるまでの間だけ食いつなげれば良いと考えた。

 

桜を見届けたその後は、母と同じような生業に就くのだろうと考えていた。戦いの技も活かせるし、命のやりとりというのは不謹慎と思いつつも性に合っていた。もちろん“拝み屋”,“退魔士”などと書ける訳は無いので“フリーター”と書いたら大目玉を食らったのである。

 

幸か不幸か、彼の学業は優秀だった。難関公立大学も現役で目指せる程である。進路指導の教員から考えれば、冗談では無かろう。それは教員の実績に響き、しいては穂群原(ほむらばら)の宣伝になるのだから。その教員は進学を強く推薦してきたので、曖昧な返答だけして逃げてきたのだ。

 

(めんどい)

 

彼が廊下を歩けば昼休みも半分過ぎていた。校舎の至る所から喧噪が聞こえてくる。むっすり歩いていれば女生徒が声を掛けてきた。サイドテールのAさんである。

 

「しけた面してんね、どうしたん?」

「進路で悩んでんの」

「蒼月でも悩む事あるんやね」

 

どういう意味だ、と言い返そうとして彼女の髪が変わっている事に気づいた。

 

「髪染めた?」

「おぉ、やっと気づく奴がおった……」とAさんは嬉しそうにくるくると髪を弄る。

「随分と弱いな、もう少し強めにかければ良いのに」

「いやー、初めてでつい一番弱い奴にしちゃったんよ」

「にしても意外だ。なにか切っ掛けでも?」

「ほら、ウチ。引っ込み思案やろ? もうじき3年生やし、少しでも変えたいなーって」

「新都にある“かれん”って美容院が丁寧だぞ。次回行ってみると良い」

「ん、おおきに。参考にするわ」

 

と言って別れたら、真也は歩いてくるBさんのヘアピンに気がついた。ポニーテールの少女である。

 

「お、色が変わってる。赤なんて初めてじゃないか?」

「今月のラッキーカラーなんです」

「赤は良いね。俺も好きだ。決意と情熱の色」

「蒼月さんの場合は水色がいいでしょう。今度お貸しします、そうすれば落ち着くでしょうから」

「相変わらず毒舌だな。俺はいつだって冷静だっての」

「蒼月さんは自己評価がなってませんね」

 

2人は笑いながら別れた。今度はショートカットのCさんと出くわした。真也は昨日甘味の話をしたのを思い出してこう言った。

 

「トライカラーズどうだった?」

 

それは新都に最近出来た喫茶店である。

 

「んー、パンケーキはおいしいけれど、紅茶がいまいち」

「レンズキッズに行った事ある? 紅茶が秀逸だぞ」

「うん、今度いってみるよ」

 

和菓子洋菓子、紅茶にコーヒー、適当な話をして別れた。“なんか今日はギャルゲの好感度上げの様な日だな”そう彼が考えていると「しんやー!!」と駆け寄る少女が一人。ボブカットのDさんである。

 

「あ、あー。そんなに走ると、」

 

すっころぶぞ、と言い終わる前に彼女は転んだ。床に額を打ち付けたのか「イテテ」と真っ赤にしていた。余程興奮しているのか、「みて、みてーっ! これ見てっ!」とDさんは首に回したネックレスをこれ見よがしに見せつけた。

 

「おぉ、とうとう買ったか」

 

彼は色で悩んでいた彼女にアドバイスと、安くて品揃えの良い店を彼女に教えたのであった。Dさんは元気があるサマータイプ、だから光沢感のあるシルバーやプラチナカラーはどうだと言ったのだった。

 

「うんっ! どう? イケてる?!」

「んむ。ルージュの色と合って似合ってる。Fくんもイチコロだな」

「よし、これから告るぞっ!」

「これから?」

「善は急げよねっ!」

 

落ち着いてな、真也がそう言う前に彼女は走り去っていった。廊下の先で音がした、おそらく転んだのだろう。

 

「あんな調子で大丈夫かいな」

「精が出るわね。気が利くというかマメというか」

 

真也には穂群原(ほむらばら)で苦手とする人物が2人居た。話しかける事はまず無く、話しかけられる事もない、その様な人物だ。一人は衛宮士郎、もう一人は遠坂凛である。

 

士郎はともかく凛の事を嫌っているという訳では無い。見目麗しく品行方正、文武両道才色兼備、真也が初めて彼女を知った時は思わず見惚れてしまった。ただ冷静に考えたとき彼女の有り様に不審を感じたのだった。例えて言うなら。

 

タンポポ畑に咲いた一輪の薔薇。

 

不健全な程に不自然である、どこかのお嬢様学校に居るのがまだ腑に落ちたのだ。転じて何か理由があるのだろう、そう考えた。だものでその応じ方にぎこちなさが出る。

 

「おはよ、ミス・パーフェクト」

 

凛は迫力のある笑顔でこう言った。

 

「もう昼よ。それと蒼月君、その呼び方いい加減止めてくれないかしら」

「優勝者をチャンプというのと同じだよ。美しさも度を過ぎれば罪にしかなるまい、うん」

「……馬鹿にしているの、貴方」

「深読みはしないでくれ。君は隙がないからな、言うべきところが見つからない、それだけ。そんな事より小耳に挟んだのだけど、進学しないんだって?」

 

そんな事と言われて憮然とする凛だったが、まあ良いわと話を合わせる事にした。

 

「家の都合よ。そういう貴方はどうなの?」

「するつもりは無いけれど、進路指導でしつこく言われた。“遠坂さんもしないのに貴方までっ”って。どうやって先生をねじ伏せたんだよ」

「失礼ね、誠意をもって説明してご理解頂いただけよ」

 

二人は学園ワンツーである。凛がトップ、真也が2位だ。申し合わせした訳ではないが、互いに意識して手を抜くような事はしていなかった。因みに、真也が教師から大目に見られているのはこの学業の影響もある。徐々に人目が集まり始めた。居心地の悪さを感じた彼はこう言った。

 

「今度その誠意を教えてくれ。それじゃ」

「貴方の妹さんの事なんだけれど」

 

突然意外な事を言われて思わず足を止め振り返った。

 

「妹が、何?」

「私、嫌われているみたいなんだけれど、心当たりある?」

 

声を掛けてきた理由はそれか、と僅かに落胆する真也だった。

 

「気のせいじゃないのか?」

「逃げられるというか、避けられているというか、そんな気がするのよ」

「……悪意は無いから冷静に聞いて欲しいのだけど。鼻につくんじゃないかな、お高くとまってとか」

「それの何処に悪意がないって言うのよ」

 

凛は憮然として立ち去った。真也は見送りつつ、影に潜んでいた人物にこう聞いた。

 

「実際どう?」

「遠坂先輩が苦手なんです」

「取って食われはしないぞ、たぶん」

 

ひょこり現れた桜の髪には千歳が用意した黒いリボンが結ばれていた。

 

 

◆◆◆

 

 

士郎に料理を学ぶという名目で衛宮邸に通い始めた桜だったが、早々に行き詰まっていた。学校が終われば士郎の家に寄って、一緒に料理をして食べると言う日が続く。勢いに任せて押しかけたは良いものの、どうしたいという具体的なイメージも沸かない。

 

桜は基本的に受け身であったし、士郎は桜に男女関係的な要求もしなかった。料理を教わりに来ている後輩、その様に扱っていた。予想通りとはいえ彼女の心境は安心半分、物足りなさ半分と言ったところだろう。

 

士郎は優しかったし気遣いをされた、それは嬉しかったし心地よかった。髪をかき上げる、髪を耳に掛ける。密かな自慢である胸を強調するように張ってみる、視線があえば微笑みで返す……いわゆる女の子の武器を士郎に使えば、彼は真っ赤になって戸惑った。年上であったが可愛いなどと思ったりもした。

 

それは兄とは違う反応で、随分と心を高鳴らせた。これが“好き”という感情なのか、そう考えた。

 

毎夜迎えに来る兄の心配そうな顔が彼女の女心を刺激した。真也のそういう顔は彼女にとっても初めてで、もう少し困らせてあげようか、そんな意地の悪い事も考えた。とどのつまり。“これは望んだものとは違う”とは思うものの、3人の関係が、彼女の立ち位置が、あまりにも居心地が良いので暫くはこのままで良いかと思い始める桜であった。

 

夕日を浴びて紅に染まる商店街、看板の電飾が灯る頃。桜と士郎の二人は夕食の具材を求めて連れ添っていた。士郎の技量は優れていたが和食寄り、洋食に関しては桜の方が上だった。だもので二人は料理談義をするのが日課となっていた。

 

肉屋で買ったコロッケを二人で頬張りつつ。

 

桜曰く。

 

“ブロッコリーは茹でるとビタミンが溶け出すから電子レンジが良いんですよ”

 

士郎曰く。

 

“魚は眼で選ぶ、死んだ魚の目はおいしくない”

 

などなど会話を膨らませていた。すると二人の前を若夫婦が通り過ぎた。士郎がじっと見送った。ひょっとして私たちもそう見えるのかも、桜は乙女心を踊らした。

 

「美綴と真也って仲良いよな」

 

士郎の発言に、笑顔のまま固まる桜だった。そこは嘘でも“俺たちってどう見えるかな”と言って欲しかったのである。よりにもよって兄の女の子関係の話題だった、辛うじてこう返した。

 

「“私たちは”小学生からの付き合いですから」

「やっぱり付き合ってるのか」

「いえ、そういう付き合いではなくて。仲の良い友人というか、家族とか、そういう関係です」

「桜と真也みたいな関係って事か?」

 

その何気ない一撃は桜をざっくり切りつけた、そのまま卒倒しそうな身体をどうにか立て直す。

 

「先輩、美綴先輩が気になるんですか?」

「そうじゃない。真也ってナリは良いし、女子ともよく話すのに一人だろ。それが不思議なんだ」

 

桜と真也の兄妹仲が良い事は知っていた。だがガールフレンドを作るかどうかは別ではなかろーか、と士郎は考えていた。

 

「兄さんには私が居ますし、」とつい言ってしまった桜だった。

「桜は兄さんにガールフレンドが出来るの反対か?」

「なんで、そんな事、聞くんです?」

 

「あいつ常識人ぶってるけれど中身は極端だろ? 全部一人でやろうとするし、いつかしっぺ返しが来るって思うんだ。だから、そういう娘ができれば直るんじゃないかな、ってさ。妹思いなのは良いけれど、度が過ぎると良くない。だから美綴はどうなんだろうなって思った」

 

兄の隣に自分以外の女が居て、腕を組んで歩いていた。その姿は徐々に遠ざかり、手を伸ばしても届かない。走れば走る程遠ざかる。遠ざかる度に自分の身体にひびが入った。それは蒼月桜という10年掛けて作られた殻だった。遠坂でもない、間桐でもない、彼女が彼女らしくいられた殻(からだ)だった。その殻が納めるモノは何だろう。ひび割れの隙間から覗けば黒い何かがたゆたっていた。眼が合った。

 

桜は俯き前髪で顔を隠した。

 

「……駄目です」

「桜?」

「そんなの駄目、」

 

桜は身体を震わし始めた。

 

(駄目です、兄さんに恋人なんて絶対駄目、そんなの駄目、私が居るんだから、そんな人必要ない、今まで世話をしてきたのは私、それは変わらない、これからもずっとそう、兄さんを起こして、兄さんの服を洗濯して、兄さんにご飯を作って、兄さんと一緒に映画を見て、お風呂上がりの姿を見て良いのは私だけ、お休みなさいって一日の最後の挨拶するのも私だけ、寝顔を見るのも私だけ、他の人には譲らない、私だけ、兄さんは、私だけ、兄さんの、私だけ、兄さんに、私、)

 

「桜?」と士郎が隠れた顔を覗き込む。その瞳に採光は無く、青紫の瞳は昏く沈んでいた。

 

(誰かに渡すぐらいなら、)

 

「桜って、」士郎は手をかざし左右に振った。その瞳には何も映っていない。

 

「いっその事―」

 

「桜!」

 

彼女は身を強ばらせ瞬きを繰り返した。彼女自身なにが起きたのか理解していない。士郎は桜の二の腕を掴みながら、こう言った。その表情には憂慮の念がありありと浮かんでいる。

 

「体調悪いのか? ならもう帰ろう。家まで送る」

「いえ、少し目眩がしただけです。ありがとうございます、先輩。心配してくれて。でももう帰りましょう。でないと食事中に兄さんが迎えに来てしまいます。そうしたら帰らなくちゃいけませんから。それは先輩も嫌でしょう?」

 

桜は魂を惹き付ける様な深みのある表情(かお)をして、言葉を無くした士郎の手を取り誘った。電柱の影から二人を見るのは真也と綾子である。彼はハンカチを噛みしめながらめそめそと泣いていた。客観的に見ればどう見ても、お買い物デートである。しかも夕飯の具材という、新婚夫婦シチュエーションだ。

 

「さくらぁ~、お前は、お前はもう嫁ってしまうのか~」と真也が愚図る。

「いつまでも馬鹿なこと愚図ってないで、真也も兄貴なら応援してやりなよ」

 

という綾子自身も桜の行動に目を丸くしていた。

 

(桜、あんた本気?)

 

舗装された生活道路に影法師が踊る。立ち去る桜の影は異様な程に長かった。

 

 

 

 

 

 

 

つづく!




■お問い合わせ
Q:魔眼で封印具壊せば?
A:小さめのネックレスで首は直視出来ないのです。


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03 プロローグ3

衛宮士郎と蒼月真也の仲が悪い、というのは穂群原(ほむらばら)生徒の共通認識だった。挨拶をしない、眼も合わせない。たまに遭遇すればお互い無言でガンを飛ばし合っていた。誰もが水と油の間柄だと考えていた。

 

かつて桜を襲った事件は皆が知る話だ。真也は暴漢に手心を加えるつもりは無かった、障害が残っても関知しない、その勢いだ。むしろ彼はそれを狙った、この手の連中にありがちな復讐を恐れたのだ。桜の身に迫った危険、それは真也のタガを外した。

 

地を這い血まみれでうめき声を上げ、助けを求める暴漢たち。士郎はやり過ぎだと言った。この娘も無事、俺は怪我なんて気にしない。価値観のぶつかり合いは大なり小なり続き、二人は互いに避けるようになった。経緯を知っている二人の共通の友人は首を傾げた。

 

ある日一成は士郎にこう聞いた。

 

「衛宮。お前にしては珍しい反応だな。そんなに蒼月が気にいらんか」

「嫌っている訳じゃない。ただ会えば必ずガンつけられるから、どうしてもそういう態度になる」

 

士郎は殴り合った相手でも翌日には普通に話しかける性格をしていた。ある日綾子は真也にこう聞いた。

 

「真也。あんたもいい加減にしなよ。いつもの真人間ぶりは何処に行った?」

「士郎が喧嘩売ってくるんだ。どうにもならない。てゆーか綾子、それ言い過ぎ」

 

対立したという事実から生じたすれ違い、これが原因ではないか桜はそう考えた。転じて“誤解が解ければ3人で居られる”と桜は思った。

 

一計を案じた桜はある時こう言った。

 

「兄さん。今日は一緒に帰りませんか?」

「ぶわっ」

 

嬉々として真也が校門に赴けば、愛しの妹の姿。

 

「「………」」

 

その傍らには士郎の姿。

 

「「………」」

 

たちまち強ばる二人。ガンつけと言う表現は正しくない、ただ戸惑ったように見つめ合うと言うのが正解だ。へそを曲げるようにむっすりとしている。

 

「帰る」と真也が歩き出せば、彼の裾を桜は握った。彼女は拒否を言わせぬ笑顔で「一緒に帰りましょう?」と言った。

 

下校途中を3人揃って歩く、と聞こえは良いが2少年は終始無言。桜は頭を抱えた。強引に連れ出したはいいものの好転しない。詳しくないゲームやスポーツの話を振ってみたが反応は“うん”,“あー”,“そう”の生返事が続く。

 

進路の話、芸能人の話、勉学の話、ファッションの話に、アクセサリー。鉄壁な二人に思いあまればルージュの話に至り。つい、

 

「わたし白が好きなんですけれど男の人ってやっぱり黒とか好きなんですか?」

 

と地雷を踏む桜だった。頬を染めて押し黙る士郎と、呆れた表情を見せる真也。

 

(ばかばかばかっ! 私のばかーー!)

 

自己嫌悪と羞恥で逃げだそうか、そう迷っていると凛が現れた。

 

「珍しい組み合わせね」

 

穂群原(ほむらばら)の制服の上に赤いコートをはためかせていた。彼女も帰りなのだろう、その手には学生鞄が握られていた。桜は真也の影にとっさに隠れた。その表情はいつもの楚々とした笑顔では無く、物珍しそうな興味津々の表情である。

 

「遠坂もこれから帰りか?」という士郎の声は僅かに硬い、桜はそれに気づいた。

「ええ。それにしてもどういう風の吹き回しかしら。衛宮君と蒼月君が一緒だなんて」

「ちょっとした気まぐれ。こんな日もある」と真也は言う。

「気まぐれも結構だけれど、暫く夜遊びは控えなさい。繁華街なんて最近物騒だから」

 

「俺はそんな事しない」と士郎が言う。素行不良者扱いされて気分を害したようだった。

「蒼月君は違うでしょ?」

 

優等生らしい発言だ、真也は居心地の悪さを感じていた。

 

「ご忠告痛み入るが俺もしないさ。遠坂も夜遊びなんてしないんだよな」

「もちろんしないわ」

「ならそれでいいだろ。お互い夜遊びなんてしないなら確認しようなんてないし」

「だと良いわね。それじゃまた明日」

 

凛は隠れる桜を一瞥した。きびすを返し髪を手櫛で流し、その場を後にした。士郎は非難めいた視線でこう言った、二人の妙な会話が気になった。

 

「真也。今の会話は何だ」

「特におかしいところは無いだろ。夜遊びはしないと確認し合った、それだけ」

「このあいだ遠坂と話してたな。何を話してた」

「世間話だ。気があるならさっさと告っちまえ」

「なんだよそれ。そもそも真也には関係ないだろ」

「悠長な事言ってたら俺が取るぞ」

「出来る者ならやってみろよ、相手にもされてないくせに」

 

二人の脇を桜が摘まむ、力の限り捻る。

 

「「いってぇ!」」

 

二人の間に立つ桜は人差し指振りながらこう言った。その姿は先生か、子供を窘める親のようである。

 

「遠坂先輩はお高くとまって……じゃなくて気品があるし、化粧が濃い……じゃなくてお洒落だし、つまりお金が掛かります。お金が掛かる女の子って大変なんですよ、次から次へとねだってきりが無いんです。底なし沼です、干からびるまで吸い取ったら捨てられるんです。だいたい。男の子の気を引くような格好をして、そのくせ冷たくあしらうんです。良くないですよね、ああいうの。私の感ですけれど遠坂先輩は猫かぶりです。つまり、遠坂先輩みたいな人はとても大変だと私は思うんです。見た目に騙されてホイホイ付いて行ったら酷い目に遭います。先輩、兄さん聞いていますか?」

 

「桜。遠坂とまでは言わないけれど、もう少し洒落っ気を出してくれると嬉しい。兄としては」と真也は言う。

「桜。陰口をたたくのは良くない。先輩として」と士郎が言う。

「……」

 

どうして遠坂先輩の肩を持つのかと、どうして私の言っている事を理解してくれないのかと、兄だの先輩だの、どうして私に辛く当たるのかと、桜の身体がわななき始めた時だ。

 

真也は一人の女性に気がついた。黒のパンツスーツ姿で年齢は30半ば。ヘアースタイルはクールボブ、黒髪黒眼だったが体つきは日本人のものではないと思われた。切れ長の瞳から発せられる眼光は、冷たく鋭い。母と同質の立ち振る舞いに、真也は戦う女性であろうと察しをつけた。だが真也は警戒しなかった。殺意は無かったうえ、

 

(手に持っているのが黄色のエコバックと言うのが珍妙だ。おまけに大根が飛び出てるし)

 

という生活感丸出しだったからである。真也は思わず「どなたですか?」と聞いた。そしたら桜が「久宇舞弥さん、先輩のお母さんです」と答えた。真也は思わず声を失った。その女性は30代前半にしか見えなかったからである。加えてどう見ても士郎とは似ていない。

 

真也が(10代半ばで産めば30代でも無理はない。名字が違うのは家庭の事情かしらん)と失敬な事を考えた。士郎は血が繋がっていない事を言おうか迷ったが、桜にも伝えていないのだから敢えて言う必要は無いと判断した。

 

舞弥は真也の姿を認めると「士郎のお友達?」と聞いた。

 

「蒼月真也です」

「蒼月?」

「はい。蒼月桜の兄です」

 

舞弥は途端に表情を緩めた。

 

「そうでしたか。桜ちゃんにはいつもお世話になっています」

「いえ。逆に桜がご迷惑をお掛けていないかと心配していました」

 

建前と礼儀を織り交ぜた保護者トークを一通り済ます。士郎は舞弥に変な虫が付かないか心配し、桜は滅多に見ない兄の姿にひょっとして年上趣味なのかと懸念した。真也は知れず溜飲を降ろす。

 

(なんだ、桜も人が悪い。士郎に親が居るならあそこまで反対しなかったのに)

 

かく言う桜も通うようになって知ったのであった。

 

(あれ? これって両親公認?)

 

そう真也が黄昏れていると、士郎はエコバックを覗き込んだ。

 

「舞弥さん、車エビ買えた?」

「これで良いのよね?」

「OKOK、これで天ぷらが作れる」

 

舞弥と士郎の会話に違和感を感じつつ、余所様に干渉はしまいと真也は背を向けた。気づいた桜が「兄さん、晩ご飯どうするんですか?」と聞いた。誘うつもりだったので、真也の夕食を作り置きをしていなかったのだ。だが真也は「新都で適当に済ます」と答えた。すると舞弥が「よろしければ是非いらしてください」という。事前に聞いていた士郎もあっさり頷いた。

 

「いえ、新都に用事もありますし、お気持ちだけ頂きます。士郎、遅くなるかも知れないから桜の送り届け頼んで良いか?」

「構わないけど。夜遊びするなよお前」

 

それじゃと、真也は手をひらひらさせて立ち去った。挨拶に応えて振った士郎の手の甲に、ミミズ腫れがあると気づいたが、彼は特に気にしなかった。

 

桜はため息をついた。

 

衛宮邸のキッチンに包丁の刻む音がする。とんとんとん、小気味良い音は徐々に乱れ、止まった。その音の主は桜である。コルク色の学園服の上に纏う桜色のエプロンも何処か暗い。台所にある格子窓から空を見れば真っ暗だ。天井の電灯も不安げに灯っている。

 

二人の距離は確実に縮まった、だがそれと同時にこれ以上の歩み寄りは無いのでは無いか、と桜は感じていた。なにより気に掛かるのが凛である。何の用件も無く自発的に男子生徒に声を掛けるなど聞いた事もない。凛の意識が兄に向いていた、そう感じたのは気のせいだろうか。

 

隣に立ち桜の補助をしていた舞弥が「桜」と声を掛けた。彼女は慌てて料理を再開した。舞弥は料理が苦手だった。

 

「心ここにあらず、ね。お兄さんの事?」

「申し訳ありません。兄が失礼な事を」

「用事があるのでは仕方が無いでしょう。次からは事前連絡を徹底しないとダメね」

 

舞弥は士郎と兄の仲を取り持ちたいという桜の相談を受け、それを快諾した。舞弥の桜への評価は良かったのである。派手すぎず堅実な性格で、しっとりとした振る舞いは彼女の好みに合っていた。士郎は危ないところがある、桜のような“静”を象徴するタイプが良いだろうと彼女は考えた。なにより、魔術師では無いのが良い。

 

「先輩と兄は仲良くなれるでしょうか」

「そうね………」

 

舞弥の見立てでは時間が掛かりそうだと考えた。世の中どうしても反りが合わない、組み合わせは存在するのである。ただ、なんだかんだ言って男は単純だ、なにより若い。ちょっとした切っ掛けで手を取り合うなど良くある話であろう。

 

「殴り合いの喧嘩が良い特効薬ね。直ぐにも手を取り合う可能性はある」

「そんなドラマじゃないんですから」

 

たはは、と桜が愛想笑いをしていると士郎がやって来た。彼はてんぷら汁が切れている事に気づいてひとっ走りしてきたのだった。余程急いできたのか息を切らしていた。

 

「もう帰って来ちゃったんですか、先輩」

「桜悪い。何処まで終わった?」

「そのまま座っててください。後は揚げるだけですから直ぐできちゃいます」

「分かった、あとは引き受けるから桜はゆっくりしてくれ」

「とんでもないです。今日は私が強引に頼んだんですから最後までやります」

「そういう訳にはいかないだろ。俺だって同意したし、なにより俺がこの家の主なんだからさ」

「主人なら尚更どっしり構えていてくださいね」

 

静かな応酬を繰り返したあと舞弥は呆れたように言った。

 

「これではいつまで経っても夕飯は食べられない。士郎、今日は引き下がりなさい」

「だけど」

「女の子に花を持たせるのも男の甲斐性よ。士郎は甲斐性無しじゃない、そうね?」

 

舞弥の静かな視線と桜の笑顔は、同じ威圧を放っていた。女性二人が相手では分が悪い、士郎は渋々引き下がった。せっせと食卓を布巾掛けしている士郎に聞こえないようにこう言った。

 

「ところで桜。私としては“先輩”では無くて“士郎”と名前で呼んであげて欲しいのだけれど」

「え、あ、それ、はー」

「それとも先ほどの主人なんてどう?」

「や、やだっ。か、からかうのは止めてくださいっ」

 

料理を習いに来た、それが舞弥も知る桜の動機である。だが年頃の娘が男の家に押しかけるなど、そういう理由に決まっている。舞弥のからかいに桜は顔を真っ赤に染めた。

 

「士郎(あの子)をお願いします」

 

舞弥が微笑みながら発したその言葉は彼女の心に絡みついた。今なら引き返せる、桜はその感情をしまい込んだ。

 

 

◆◆◆

 

 

最近の冬木市は息苦しい、それが真也の率直な感想だった。空気は甘くまとわりつき、鼻の奥が詰まるような、頭の芯が重くなるような感覚に襲われる。有り体に言えば瘴気が濃い。それが日に日に強くなる。

 

(うぅーむ、お袋の言うとおりか。原因は分からないが良くないな……)

 

一度家に戻った真也は着替え新都にやってきた。彼の左脇には千歳から借り受けた霊刀がぶら下がっていた。勿論そのままではしょっ引かれるのでロングコートを着ていた。ダークグレーでその丈はくるぶしまである。余計な装飾はないシンプルなデザインで、襟首から裾まですらっと流れていた。ナポレオンコートと言う奴である。母である千歳はロングコートを好んだが、彼は好きでは無かった。ファッション云々以前に裾がひらひらと舞い、動きにくいのである。

 

夜空を見上げれば、高層ビルの間に丸い月があった。

 

「これだけ月が満ちれば物の怪の一匹ぐらいでるだろ」

 

真也はそんな事を言いながらなるべく人気の少ない裏路地を徘徊していった。優れた術士の母が念のためと刀を置いていった、何か良くない事が起きるかも知れない、武器の具合を確かめておく必要がある、というそれなり理論で霊刀の威力を試しに来たのだった。

 

「うっふっふ、今宵は満月。我が妖刀も血に飢えておるわー」

 

だがその歪んだ気合いの入れ様はどうだろう。千歳が見れば踵落としは免れまい。因みに彼の持つ刀は妖刀などでは決してなく、純然たる退魔刀である。とんでもない主に掴まれたと刀も災難であろう。

 

真也が夜をさまようこと一時間、松屋で牛丼を食べて、また歩くこと二時間。ガードレールに腰掛けからあげクンを食べる。ひゅるりと寒風が吹いた。そろそろ時刻が夜から深夜に移ろうかという頃であった。もう桜も帰っている時刻だ、今晩は諦めてそろそろ帰ろうか、彼はそんな事を考えた。

 

彼の目の前を大学生らしき3名が歩いて行った。

 

「さっきのアイツ気味が悪かったな。すげぇ白いし、なんか臭いし」

「歩き方もおかしかったな。ヤバイ薬がばっちり決まった感じだ」

「つーか、ゾンビってあんな感じじゃね?」

 

彼らを捕まえて話を聞くと、えらく気味の悪い20代とおぼしき男が、真っ裸で口を真っ赤に染めて、ふらふらと裏路地を歩いて行ったという。

 

真也はその場所を聞き出すと駆けだした。裏路地に入り、ゴミ箱を駆け上がり、フェンスを飛び越えた。3分ほど駆けた頃だろうか、薄暗いビルの谷間にしゃがみ込み、何かをしている男の影を見付けた。もそもそと動いている。

 

おい、彼がそう呼んでも反応がない。よく見ると奴の足下には犬の頭が転がっていた。犬を喰っているのだろうと、彼は確信した。腐ったゴミの様な臭気がそれを裏付ける。何より生の気配がない。

 

真也に気づいたそれは“あー”とよく分からない声を上げて立ち上がった。彼を捕まえようと、よろよろと両手を掲げて歩み寄る。生気の無い肌と瞳、肉を喰らうその姿。鬼、死鬼(グール)である。知能は無く、あるのは生への憎しみと渇望、ならば語らいは無用。

 

真也はコートを翻し、抜刀した。しゃらんと硬い金属の音がする。彼の魔力に反応して刀身が蒼白く光を放つ。踏み込み、一閃。彼の一刀は死鬼のアストラル(幽体)を破壊し、それは崩れ去った。

 

「ふ、また詰まらぬものを切ってしまった」

 

勝新太郎を思い浮かべながら、刀を仕舞えば。

 

「夜遊びはいけないのよ、そう言わなかった?」

 

そんな場違いな声が飛んできた。真也にはその澄んだ声に聞き覚えがあった。とても聞き覚えがあった。可能であれば聞きたくない声であった。汗をだらだらと垂らしながらその方を見れば、見知った顔が合った。

 

薄暗いビルの谷間、真夜中に顕れる異世界への道。そこに赤い服の少女が立っていた。その瞳は月の光を浴びて鋭く光っていた。容姿端麗才色兼備、立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花。穂群原(ほむらばら)学園で知らない者は居ない、“清楚系”美少女 遠坂凛が立っていた。

 

「アンタ何者?」

 

彼の記憶にある遠坂凛とその言葉遣いはあまりにもちぐはぐで、彼は夢の中に居るのでは無いかと錯覚する程だった。

 

 

◆◆◆

 

 

3方が無機質なコンクリートで阻まれた裏路地の、薄暗い奥まった場所。奥から順に、崩壊した死鬼(グール)・彼、そして凛が並ぶ。裏路地には臭うゴミ箱と、風化した粗大ゴミに、ドブネズミの姿も確認できた。そのような不穏当な場所で、彼はどうしたものかと考えた。

 

問題は大きく分けて二つ。一つは第3者に現場を目撃されたこと。もう一つがこの凛が何者なのかということだ。

 

彼らが善良な一市民であれば、真也が目撃されたことはどうにでもなる。強引に逃げ出してしまえば彼らは手の打ちようが無い。たとえ警官が居たところで、グールが出たなどと言おうものなら、世間様から白い目で見られるのがオチであろう。

 

問題が後者、遠坂凛が何者なのかと言うことだ。凛が現れたのはグールが崩壊したあと、と彼はそう仮説を立てた。一般的な感覚でその光景を思い浮かべるなら、良くて座頭市の真似事、悪くて辻斬り犯だ。だが彼女はそう思っていない。でなければ“あなた何者”と聞くわけがない。つまりグール討伐を冷静に目撃していた事になる。

 

“遠坂凛は同業者”真也は凛を挑発しないようにゆっくりと姿勢を正した。こう言った。

 

「こんな夜に奇遇だな、遠坂。散歩か?」

「ええ、妙な奴がいないか警戒してたの。そうしたら貴方が居たという訳」

「妙な奴か、それは大変だろう。この歪な現代社会では至る所にいる」

「そうね、探すのに苦労はないわ。でも私にとっての妙な奴ってそんなに多くないの。例えば魔剣を持っていたり、それを使いこなす体術と魔力を持っていたりする奴はね」

 

「んむ、確かに多くないかも」

「私の質問に答えなさい。蒼月真也君、あなた誰?」

 

彼はむぅと考えた。横を見ると壁がある、後ろを見ても壁だ、空を見ると月が丸く光っていた、完全な袋小路である。

 

(……)

 

真也は覚悟を決めてつかつかと歩み寄る。やる気か、と警戒した凛はぱっと構えた。その姿はなかなか堂に入ったもので、かなりの腕前としれた。

 

真也は一歩一歩踏みしめる。凛もその体裁きが訓練されたものだと気づいた。互いの殺意が交わる刹那、彼の手首をつかもうとした凛の手は空を切る。真也は凛の後ろに回り込んだ。“え”彼女の目が大きく開かれる、真也の速度が凛の予想を上回ったせいだ。この驚愕は致命的である。驚いている暇があるならば、間に合おうが間に合わなかろうが次の手を打つべきなのだ。

 

これは実戦では無いので、彼はそのまま背を向けて歩き去った。

 

「に、にげるんじゃないわよ!」

 

走れば振り切ることもできようが顔が割れている。学校で待ち構えられればそれまで、桜が居るから転校もままならない。だから彼は一度リセットすることにした。つまり、ガス抜きである。

 

「待てっての!」

 

凛は真也を追う。武術を嗜んでいるだけあって少女でも足腰が丈夫だ。だから真也も少し速度を上げた。凛も速度を上げる、真也もまた少しあげた。凛が上げる、真也も上げる、これを繰り返した。裏路地から、商店街、公園と、JR冬木駅、なるべく人通りの多いところを選んでの、追いつ追われつの逃走劇を繰り返した。

 

流石の凛も汗だく息も切れ切れだ。無理もなかろう。殆ど全力疾走に近い速度で走り回ったのだから。ひぃひぃ、ぜぇぜぇ、よろよろ、息を切らす学園のアイドル。もう動けないと立ち尽くし、両手を両膝において体を支えている。

 

彼は自分のポケットをまさぐりながら、凛に近づいた。“まさかこれを狙って”と息も絶え絶えに後ずさる。彼女は左手を彼に向けるものの、周囲の視線を気にして“これじゃ使えないじゃない”と言った。彼はポケットから財布を出すと、凛の横を通り過ぎて、近くのコンビニに入った。ぽかんと凛は彼を見送った。

 

「いらっしゃいませー」

「からあげクンください」

「なんでよっ!」

 

それはいいツッコミだった。存外いいやつなのかもしれない、彼はそんなことを考えた。

 

 

 

 

 

つづく!



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04 プロローグ4

コンビニを出ると駅前の、手頃なベンチに二人は腰掛けた。真也は購入したコーヒー缶とからあげクンレギュラーをビニール袋から取りだした。一つ頬張ってはゴクリと飲んだ。至福に満ちた顔で、もぐもぐと食べる。凛は不機嫌さを隠さずじぃっと彼を見る。

 

「……」

 

彼は渋々とからあげクンを差し出した。

 

「一個だけだぞ」

「誰がほしいなんて言ったのよ!」

「物欲しそうに睨んでいるから」

「睨んでるのはアンタよ!」

 

爪楊枝に刺さっているからあげクンを凛の口に放り込んだ。もぐもぐごくん、凛は口を押さえながら慌てふためいた。

 

「たべちゃった、たべちゃったあ~」

「おいしいだろ、やっぱりレギュラーだよな」

「そーよね、やっぱりレギュラー……じゃなくてアンタなんて事すんのよ!」

「買い食いする、からあげクンは格別だぞ。何が不満なんだ」

 

買い食いすると桜に怒られるので滅多にできないのであった。買い食いだったばかりの昔が懐かしい、と彼の目は遠い。それどころでは無い凛はその顔を果実の様に赤くしていた。

 

「かかかか、か」

「か?」

「か間接き、」

「爪楊枝は口についてないから、間接キスは成立しないぞ」

「……」

「ていうか遠坂って意外とウブなんだな」

「………………」

 

自覚はないが凛は同年代の少年を馬鹿にしていた。彼女のおぼろげな記憶に浮かび上がる亡き父の姿。美しく気高く、偉大な魔術師だった。父に相応しい娘であろうと、魔術師になろうと彼女は歯を食いしばって頑張ってきた。

 

容姿に気を遣うのもその一端だ。遠坂家の家訓である“どんな時でも余裕を持って優雅たれ”優雅とお洒落は少し違うと考えたが、身なりのなっていない人物が優雅を語っても説得力はあるまい。彼女は必死になって自分を磨いた。

 

その結果彼女はモテた。多くの少年の注目を浴び、告白された事など数知れず。

 

粗野で単純で女の事しか考えていないチャラ男は問題外。スポーツ少年はそれなりに好感を持ったが、そういう少年は凛に近づかない。話しかけただけで真っ赤に頬を染める、初々しいと言えば聞こえは良いが、彼女には幼く見えた。なにより女の扱いを知らない。私と釣り合いはとれないわね、と無意識に思っていた。

 

真也も例外ではない。ナリは良いが素行不良、浮いた話は聞かないがお調子者。誠実な士郎の方がまだ好ましいと考えていた。正直彼女の嫌いなタイプであった。どうしてコイツが私に次ぐ成績なのか、苛立ちすら感じていた。

 

極めつけは度し難いシスコンである。めそめそと泣く真也を綾子が慰めているシーンは幾度となく目撃した。

 

“同い年の女の子の前で泣くか、普通”

 

どうひいき目に見ても格好良くない。たまに言葉を交わせば自覚があるのか無いのか神経を逆なでしてくる。関わるまい、と言うのが凛のスタンスだった。

 

だもので。

 

真也の“ウブなんだな”という発言はえらく凛の矜持を傷つけた、否、煽った。不愉快、放置して立ち去るべきだ、でもこの男には聞かなくては成らない事がある。堪えに堪えてこう言った。

 

「面白い事言うのね、蒼月君は」

 

歪、不自然、噴火する直前の火山、そんな顔である。

 

「そう? だってミス・パーフェクトが男経験無いなんて意外だと誰でも思うだろ。てっきり数多くの男たちを泣かせた上で、釣り合いがとれないから男の子たちを袖にしているのかと」

「人聞き悪い事言わないでもらえる? 私はあなたと違って品行方正なの。そもそも、袖にするしないを男性経験の有無で決めるなんて愚かな人間の判断だわ。崇高な考えがあると思わないのかしら、そういうのを下衆の勘ぐりって言うのよ」

「色々言うけど結局経験無いって事だろ、それ」

 

からかう訳でも無く、悪意がある訳でも無く、真也は淡々とからあげクンを食べる。言うまでも無く真也は凛が苦手だ、可能であれば言葉を交わしたくない相手である。でもマズい光景を見られたから渋々対応している。だもので他一般少女と比較してどうしても対応が荒くなる。

 

「……そもそも貴方に言われたくないわね。蒼月君だって彼女居ないでしょう」

「その発言は男性経験が無い事を認めるんだな?」

 

ひゅるりと夜風が吹いた。彼女の髪を結うリボンは風に薙ぐどころか、鋭利に尖っている。ぴこんぴこんと怒髪天を衝く勢いだ。

 

「………ぷち」

「ぷち?」

 

こめかみに血管を浮かび上がらせ“おほほ”と女は笑う。するとだまって左人差し指を向けた。少女の体から魔力がみなぎって、それが左腕に集中する。その腕には魔術刻印がびっしりと刻まれていた。彼にはそれが指さし魔術の“ガンド”であると分かった。彼女は終始無言だったがその目は“コロスコロスコロス”と語っていた。察した真也は慌ててその腕をつかんで空へ向けた。

 

「公衆の面前でそんなもの(術)を使うな馬鹿!」

「離せ! この、この、こ、このぉぉぉぉぉぉ!」

 

凛の憤りは言葉にならなかった。彼女は品の悪い言葉はあまり知らないのだ。育ちが良いのは意外と本当らしい、と真也は反省した。その天罰だろう。カラン、残りのコーヒー缶とからあげクンが大地に散った。あぁあ~と崩れ落ち、涙する。あまりの展開に凛はどう反応していいのか分からなかったが、辛うじてこう言った。

 

「……関わったのどう考えても失敗よね、これ。好きで関わった訳じゃ無いのだけれど」

「俺だってそうだい」

 

がっくりと大地に両手を突いて涙する、同い年の男の子。道行く人影の視線が突き刺さる。主に凛に突き刺さる。勘弁してよ、凛は黙ってからあげクンと缶コーヒーを買ってきた。黙って彼に差し出した。おぉと涙するその少年はまるで女神を仰いでいるようだった。

 

「遠坂凛。君への侮辱は訂正と謝罪をしよう。君は良い奴だ♪」

「随分安いのねアンタ……」

 

彼はベンチに腰掛けもそもそと食べる。凛は隣に座り仏頂面だ。彼女は周囲に聞かれないように小声でこう言った。やりきれない、と雄弁に語っていた。

 

「私はこの冬木市を治める魔術師よ。アンタの事を聞きたいから、場所を変えましょ。言っておくけれど拒否はみとめないから」

 

彼はむぐむぐと頷いた。話を聞きたいのは同様だったからである。

 

「あと口にものを入れたまま口を開けるな。行儀が悪い」

 

 

◆◆◆

 

 

その喫茶店は凛もよく知る店だった。壁には煉瓦が敷き詰められており、調度品は歴史を感じさせるアンティーク。天井には淡い光が漂い、店全体を暗く柔らかく包んでいた。喫茶店にありがちな奥に深い縦長の部屋ではなく、レストランのような縦にも横にも広がった店だった。

 

テーブル頭上の照明を巧みに使い、生み出す明暗は恋人たちを世俗から切り離す、その様な夜の空間を演出していた。

 

奥まった席にいるのは凛と真也である。右を見てもカップル、左を見てもカップル。真也はカタカタと震えながらコーヒーの詰まったカップを手に取った。

 

(夜遅くにやってる店なんて他に無かったからここに来たけれど、これってまずくないだろうか。誰かに見られて桜に告げ口されたら、かなり危険な気がする……)

 

挙動不審の真也を見て凛は随分機嫌が良い。両肘をテーブルにのせて、組んだ両手にあごを乗せて、挑発するように真也を見ていた。組んだ脚の先にある足首をふらふらと振っていた。

 

「あら? 蒼月君は随分緊張しているみたいだけれど、周囲のカップルが気になるのかしら?」

「まったく気になってません」

「そう?」

「そうです」

「私は嬉しいけれど。どう見えるのかしらね、私たち」

「何が言いたい」

「別に。意外にウブなのね、そう思っただけ」

 

してやったり顔の凛だった。勘違いしてるよこの娘、と真也は思った。もちろん。勘違いの方がまっとうだとは全く気づいていない。

 

「兄妹に見えるんじゃないかな」

「あらいやだ。貴方みたいな可愛げの無い弟だったら厳しく躾ないと」

「ちちち。俺が兄、遠坂が妹だ」

「……貴方、私をどうするつもりよ」

 

勿論シスコンのことを言っていた。

 

「何を考えているか知らないが、俺は妹に手を出すような困った奴ではありません。万が一遠坂が妹なら、兄として、妹を、いやだから………すまん。俺が悪かった」

「なんだか良く分からないけれど不愉快ね」

 

未成年ではないか、不審に思った店員がやってきた。

 

「水のお替わり如何ですか?」

「「はい。頂きます♪」」

 

水の入ったグラスをテーブルに置くと鈍い音がした。凛は椅子にふんぞり返り、腕と脚を組んで真也を睨む。その瞳は警戒をにじませた。

 

「もう何度目かの台詞なんだからいい加減に応えて欲しいわね。アンタ誰?」

「蒼月真也」

「そんな事は知ってるってのよ。どういう人間かって聞いてるの」

「そんな事いってもな。俺は俺としか」

 

「なら質問を変えるわ。あんな事ができる理由は?」

「教わったから」

「誰に」

「母親」

 

「その人の名前は?」

「蒼月千歳」

「あおつきちとせ、ちとせ、あおつき、ちと……」

 

記憶の蔓をたぐり寄せる凛を見て、真也はそれが徒労に終わるだろうと考えた。彼は千歳という名が偽名であろうと考えていたからである。父親不明、自分の母親の出生も知らない。問い詰めても過去の話だと答えない。封印を施さねばならない程の血と力、まっとうな筈が無い。

 

ごく希に会う母親の知人は“千の字”や“ミレニアム”と呼ぶがその由来も知らなかった。子供にも本名を明かさないのであれば、俺も桜と同様に養子ではないかと疑った事もある。そしたら本気で殴られた、それは遠くない過去であった。

 

「心当たりないわね。どういう魔術を使うのよ?」

「知らない」

「は?」

「親で師匠だが、俺が学んだのは剣を使った戦闘術だけだ」

「貴方は魔術を使うんでしょ?」

 

「いや、あなた、これが、さーっぱり。なーんもつかえましぇん」

「受け継ぐ様な魔術刻印はあるのよね?」

「ない」

「ひょっとして、ふざけてる?」

「おちょくる気は全くない。興味が無いって言ったらそうかで終わった」

 

(つまり個の資質に依存ずる魔術と言う事か。特異者? 子であるコイツが魔力を持っている以上、受け継ぐ因子があるのは間違いなさそうだけれど……血に依存? 良く分からないわね)

(お袋が原初のルーンを使うってのは言わない方が良いんだろうな)

「……まぁ良いわ。明日にでも一度挨拶にきなさい」

「何故に」

「よそ者魔術師は管理者に工房建設の許可を貰わないといけない、聞いてないの?」

 

「工房なんて無いし」

「は?」

「だからそんなご大層なものは無い。一般の普通の家だ」

「ならアンタの母親は日頃何やってるのよ」

 

「誰かによる依頼の遂行か俺への戦闘訓練。つまり根源に至る道云々ってのはまったく関知してない。つまり魔術師じゃない。Ok?」

 

凛の表情が憮然としたモノに変わる。凛が憤るのは千歳の有り様だ。魔術を扱うのに魔術師ではない、魔術師でなくても魔力を持ち、それを行使する。更には真也のお気楽な態度が気に入らない、そんな蒼月家の存在が気に入らない、とその眼は語っていた。

 

「とにかく一度来なさい。話はそれからよ」

「お袋はいま不在。帰りは2週間後の予定」

「それで良いから来なさい」

「話は伝えておくよ。それはそれとして俺からも質問がある。登場のタイミングが随分良かったのは何故?」

 

凛は押し黙ったあと語り始めた。どうだろうと冬木に身を置く者だ、無関係ではいられないし、そうはさせない、良い様にコキ使ってやる、その眼はそう語っていた。

 

「10年前に冬木で起こった大火災のこと、知ってる?」

「瘴気が絶えない、未だ焼け野原同然の公園か?」

「そう。瘴気の濃さは変動しているのだけれど、最近高めだから調査してたの。それと時同じくしてグールが現れた。これは一週間前の事よ」

「今日で2体目と言うことか、警戒してたって事ね。でも妙な話だな、いくら瘴気が高くてもそう簡単にグールが生まれる物か?」

 

グールと一口に言っても様々だ。純然たる悪魔の場合もあれば、アンデットの類いも存在する。あれは後者だろう、と彼は考えた。

 

(ならば吸血鬼に吸われたのか? それであれば大事だ)

 

真也がのんびり考え込んでいると凛が呆れた様にこう言った。

 

「だからそれを今調査しているのよ」

「分かった、任せるよ」

「アンタも来るのよ」

「えー」

 

 

◆◆◆

 

 

「私はお腹がすきました」

「さっき食べたばかりでしょ」

「もう眠たいです」

「一晩ぐらい寝なくても死なないわよ」

「女の子はもっと気立てが良くあるべきです」

「あーおーつーきーくん?」

「ごめんなさい。俺が悪かったです」

 

二人は夜の新都を徘徊していた。万が一吸血鬼なら早めに手を打たないと手遅れになる。新都が死都など凛にとっては冗談には成らない。真也にとってもそうなのだが、この不真面目な態度は何なのかと、凛はどんどん苛立っていった。

 

(これなら一人でやった方が良いぐらいだわ)追い返してやろうと凛が振り返るとそこに居るはずの真也が居ない。街灯の光を浴びるガードレールと道路に記された標識が、ぼんやりと浮かび上がる。

 

他には照明が落ちた無人のビルと、暇そうに突っ立っている信号機が見える。(逃げた……?)ふるふると怒りがこみ上げる。(明日会ったら覚えてろ……)と、地団駄を踏めばしゃがみ込む真也の姿が見えた。街の暗闇に紛れ、溶け込んでいた。

 

気分でも悪いのか、と駆け寄れば彼はアスファルトの上に指を走らせていた。暗くてよく見えないが、液体の様に見えた。

 

「当りだな」と彼が言った。

「血?」と凛が言うと彼は頷いた

 

その血痕は街の隙間、裏路地に続いていた。その異様な雰囲気は、まるで異界にでも繋がっている様な錯覚に陥らせた。

 

真也はコートのボタンを開き、いつでも抜刀できる様にする。凛はポケットに魔力を込めた宝石を忍ばせていた。真也が先陣を切り、凛がそのバックアップだ。男の子の後ろに控える、その配役に不満な凛だったが適切だと自分を納得させた。少なくとも体力は桁違いだったからである。

 

裏路地は淀んでいて、不快だった。空気は鼻につき、目に染みて、喉にまとわりつく。頭上の月が笑っていた。その笑いは嘲笑なのか見守る微笑みなのか凛には良く分からなかった。暫く歩いたころで真也がぴたりと足を止めた。その先にあるもの、凛がそれに気づくと警戒しながら近づいた。彼は彼女の傍らで周囲を伺っている。

 

それは先ほどまで生きていたであろう人間の肉塊だ。左首の肉がごっそりと持ってかれている。死んでいた、彼は死んでいた。それにも関わらずうめき声を上げいる。もう数刻すればこの死体は動き始めるだろう。彼女はすくっと立ち上がり赤い宝石をかざした。印を切り呪文を唱えると、アストラルの淡い光が迸った。灰に変わりつつあるそれを見ながら彼女は呟いた。

 

「妙ね。体内にある妖気がまだ少ない事から考えるとこの人は二次的な存在、一次じゃ無い」

「被害が拡散する前に押さえられたのは幸運だな、まだ親玉がどこかにいるって事を除けば」

「親玉って何よ」

「そりゃ、グールの親玉だろ」

「グールの親玉は通常吸血鬼だわ、それが冬木に居るっての?」

 

「吸血鬼は普通血を吸い、肉は食わない。戯れに遺体を破壊することもあるが、滅多に無い。だからおそらく別口だ」

「状況をまとめてみましょ、グールはこれで3体目、1体目は1週間前、2体目は昨日、日が変わってこの3体目。だんだん間隔が短くなってるわ、何か関係があるのかしら」

「2次被害が少ないことを考えると、親玉の活動になんらか制限があると考えるべきだな」

 

「それはおかしい。連中にとって肉をあさることが至上命題よ、制限なんてありえない」

「いずれにせよ。問題は次に、いつ親玉グールが行動を起こすか、と言うことだけれども……2体目は俺が焼いてしまったから分からない、1体目はどんな奴だった?」

「妖気の強さから言って、あんたの言う親玉グールだとおもう」

「だがそれは凛が討伐している、理屈ならもう居ないはずだけどな」

「複数居るってのもなおさら考えにくいわね」

 

真也は髪をかき上げながらこう言った。

 

「長い夜になりそうだ」

「なに格好つけてるのよ」

「……」

 

凛はその騒ぎを遠巻きに見ていた。その視線の先には警官が現場を押さえていた。“Keep Out”のテープを取り囲む野次馬たちが見える。人々は猟奇殺人だと囁いていた。彼女は苛立った。直接調べたいがこうも人が居てはままならない。警察にパイプは無いからどうにもならない。

 

手がかりを探してた二人はこの現場に出くわしたのだった。とうの真也はちょっと見てくると言ってどこかへ行ったきりだ。

 

(何処行ったのよアイツっ!)

 

腕を組んで脚を鳴らし、苛立ちを隠さない。すると目の前に缶コーヒーがすっと出された。真也である。

 

「お待たせ」

 

彼女はむっすりと手に取った。

 

「………収穫は?」

「当りだ。幸か不幸か4人目」

 

彼は隠形術を生かして諜報をしたのだった。現場からボヤが上がる。見れば救急車両が燃えていた。大騒動を尻目に二人は立ち去った。

 

「何をしたのよ」

「遺体にガソリン撒いて火をつけた」

「随分無茶するわね」

「仕方ないだろ。死体が検死中に復活して犠牲者が出たら手に負えない。冬木市がラクーンシティになる」

 

「らくーん? なにそれ」

「なんでもない。ところで凛、警察車両の中で面白いものを見つけたんだけれど、見てみるか?」

 

彼が差し出したのは被害現場を記した地図だった。その地図に二人は自分が倒したグールの場所を書き込んだ。多少のブレ、揺らぎははあるがその線は収束された一つの方向性を示していた。凛が俺に言う。

 

「焼け野原から柳洞寺方向へ向かっているように見えるわね」

「一直線ととるか、蛇行しているととるか悩ましいところだな」

「いずれにせよ、柳洞寺方向ってのは間違いなさそうね」

 

目的地があるのか、それともその道なりに意味があるのか。真也がぼんやり見ていると、地図上の線は神社を踏んでいることが分かった。その神社はパワースポットで有名なところである。あるキーワードが頭の中にぽんと浮かぶ。

 

「遠坂、冬木市の地脈は分かるか?」

 

凛はしばらくの呆けた後、あり得ないと言わんばかりに、首を振ってこう言った。

 

「地脈を吸い上げているってこと? グールにそんな芸当無理よ」

「事実は小説よりも奇なりだ、やってみよう」

「まあいいけれど。地脈の地図は家だから一度戻るわよ」

 

 

◆◆◆

 

 

凛の家は高級住宅街の一画にあった。豪邸で日本には珍しい石造りの家だ。洋館と言う奴である。庭など何坪あるだろうか、ぱっと見たところ野球すらできそうな広さがあった。そして、術が施された宝石が庭の至る所に設置してある。警報術式か、それとも撃退術式か。

 

真也は要塞と言っても良い程のこの家を見て、何気なく「このでかい屋敷に一人で住んでるのか?」と聞いてみた。すると凛はしばらく黙ったあと「数名の使用人と母さんとで暮らしてる」と言った。

 

「母親か。まぁ遠坂も人の子だもんな」

「声に出してるわよ、アンタ……」

「あるぇ?」

 

玄関に至るとこれがまた大きい。ワンルームアパートほどはあるだろう。その場所に黒髪の女が一人待ち構えるように立っていた。20代後半で、チュニックにデニムパンツという動きやすい格好をしている。彼女は遠坂家の使用人だった。

 

「お帰りなさいませ、凛さま」

「いま戻ったわ。この男は蒼月真也。一応客人だから客間に通して」

「かしこまりました」

「母さんは?」

 

「ご自室におられます」

「もう寝た?」

「はい」

「そう」

 

豪邸だとか使用人だとか、非日常な有様を目の当たりにして呆ける真也に凛はこう言った。

 

「すぐ行くから大人しくしてるのよ」

「お、おおぅ」

 

真也が通された客間は客間で立派だった。黒皮のソファーにガラス製のローテーブル。天井にはシャンデリア、チェストもある。調度品は何から何まで高級品だ。敷かれた絨毯のなんと心地良さは一品だ。成金趣味ではなく全体的にシックな装いで、重厚さを醸し出していた。一言で言えば優雅。

 

(むぅ、あるところにはあるもんだ。我が家も金に困っているわけではないけれど、お袋も桜も家財に執着しないから、どれもこれも簡素な物だ。簡素と言えば桜だ。もう少し洒落っ気出してくれるといいのだが、いかんせん垢抜けない。もともと器量良しだから本気で着飾れば相当な物だと思うのだが。何とかせねば。綾子もサバけてる方だし、タイガーはタイガーだし、機会があれば遠坂に相談してみようか、でも桜は遠坂を嫌ってるし……)

 

真也が調度品の造形に感心していると、カチャリと扉が開いた。凛かと思って振り返るとそこには妙齢の女性が立っていた。髪は黒く長くて艶をもち、薄緑色のワンピース、全体としてゆったりした装いである。そう、まごうこと無く貞淑な女性だった。

 

その女性は真也を見るととても嬉しそうにこう言った。

 

「まぁ♪」

 

真也は戸惑った。凛は母と使用人がいると言った。この人はとても使用人に見えない。つまり。

 

(この女性が遠坂の母親……どういう奇跡だ)

 

「まぁ♪ まぁ♪ まぁ。本当にお客様がいらっしゃるなんて♪」

「は、はあ」

 

彼女は歩み寄ると、思い出した様に深々とお辞儀をした。

 

「大変失礼しました。私は遠坂の当主である遠坂凛の母で遠坂葵と申します」

「申し遅れました。私は蒼月真也といいます。夜分遅くに大変申し訳ありません」

「とんでもありませんわ。娘が連れてきたのですから、ごゆっくりなさってください」

 

誘われるまま腰掛けると使用人の女がココアを持ってきた。

 

「お口に合うと良いのですけれど」

 

そのカカオの香りは真也の気分を随分落ち着かせた。美味しいですねこれ、という素朴な感想は葵を随分と満足させた。

 

「ところで娘とはどのような関係でしょうか?」

「ご当主と私は同学年でして、」

 

彼は迷ったあとこう言った。

 

「学業で競い合う仲です」

 

葵はロングコートに隠された長細い何かが武器であろうと見当をつけた。つまり同業である。娘が深夜に連れてきたのだ、自ずと知れた。

 

だがそんな事はどうでも良かった。父である時臣を神格化する程に信奉している娘が、男の子を家に連れてくるなど、葵にとっては驚嘆以外の何物でも無かったのである。

 

恋愛はともかく懇意にして貰おうと考えた。小さい頃から夫の良いところばかりを語り続け、こんな娘にしてしまったのは私の落ち度。娘に男性経験を積んで貰おうという親心であった。礼儀正しいのも合格点、そんな事を考えた。

 

「そうでしたか。娘がお世話になってなんとお礼を申し上げて良いのやら」

 

だから学業を競い合う仲ですお世話なんてしていません、と真也は心中でツッコミを入れた。

 

「とんでもない。ご当主のおかげで勉学にも気合いが入ろうものですから」

「真也さん、とお呼びしてもよろしいでしょうか? 私も葵で結構ですから」

「はい。光栄です」

 

冷静さを装っているものの、綺麗な未亡人に名前で呼ばれて心中穏やかで無い真也だった。

 

「娘の事をどう思いますか?」

 

真也は逆流しかけたココアを何とか胃袋に押し込んだ。葵は親として心配しているとも、男女関係的な意味にもとれる質問をした。とどのつまり好意を持っているかという探りを入れたのである。真也は個人的感想はさておいて客観的な評価を回答とした。

 

「ご当主は勉学も運動も大変優れた方です。人望もありますし、なにより見目麗しい。ご心配なさる事はないでしょう」

(あら、手強い方)

(なんつー事を聞くんだ。この人は)

 

ばばん、と部屋の扉が勢いよく開くと凛が現れた。その手には古文書が握られていた。

 

「母さん! 何かってしてるのよ!」

「これ。大声を出すなど品がない。お客様の前ですよ」

 

彼女はズカズカと葵に詰め寄った。トーンを落とし控えめに。

 

「その男は私が連れてきました、勝手にされると困ります」

「ごめんなさい、お客様など久しぶりで♪ それに凛が男の子を連れきたと聞いたら尚のこと我慢できなくて♪」

 

あらいやだ、ホホホと品良く笑う葵。凛は苛立ちを隠さない。

 

「勘違いしないで、使役のため呼んだのよ。というか一度寝たのにわざわざ起きてくるなんて」

「これ、凛。使役だなんて真也さんに対して失礼ですよ」

「……しんや?」

 

凛の突き刺さる様な冷たい視線、真也は諦めた様にココアを飲んだ。

 

 

◆◆◆

 

 

地図に記したグール発生箇所は地脈図と綺麗に一致した。「嘘……」と驚きを隠さない凛である。事実は事実、グールと地脈と何らかの関係があるとみるべきだろう、二人はそう考えた。気を取り直した凛が言う。

 

「まあいいわ、この地脈に沿ってみましょ」

 

二人は再び新都に足を運んだ。推理通りなら地脈、と言っても枝の一つ。末梢も良いところだがこれを辿れば親玉グールに出会う確率が高い。何より今夜は満月だ、確率も高いと踏んだのだった。

 

夜の道を二人で歩けば人通りは無く静まりかえっている。小道ではあったが灯りには事欠かない。あと1,2時間もすれば空も白むだろう。だが、漂う妖気は尋常でなく非常に陰鬱とした雰囲気だ。

 

凛は先陣を切り颯爽と歩く、その様は夜を切り裂かんばかりである。

 

「ところでアンタはどうやって戦うの?」

「基本的に刀、あとは魔力を使ったどつきあい」

「ふぅん流派は?」

「風神流。早きこと疾風のごとし、猛々しきこと嵐の如く、そんな感じ」

「……聞いた事ないわね。速そうではあるけれど」

 

実はこの名前は隠語で、実際には封神流と書く。千歳には伏せておく様言われていた。

 

「遠坂は?」

「宝石魔術」

「ほぅ」

「分かってるの?」

「何となく」

「アンタね……」

 

文句の一つでも言ってやろうと凛が詰め寄った時「うーあー」と声ならぬ声がした。

 

「何か言ったか? ひどく聞きづらい声だったが」とは真也が言う。

「ううん、なにも」とは凛。

 

ゆっくりと行く先へ視線を向けると、ほんの数メートル先に異様な人影が立っていた。顔は青白く、目はうつろ、口はぼんやりと開いて、口から唾液と血を垂れ流し、ビジネススーツをこれでもかと言うほど汚している。好意的に見れば20代後半のサラリーマンに見えなくも無い。

 

「こいつ、一週間前倒した奴だ」と凛が誰に言うまでも無く呟いた。

「奇遇だな。昨日倒した奴だぞ、こいつ」と真也が言う。

「復活したっての」

「ってことになるな」

 

グールは何もせずじっとしていた。凛が懐から宝石を取り出すと呪文とともに投げつけた。魔術が発動し宝石はグールのアストラル界に干渉した。それはあっけなく崩れ落ちた。

 

「「……」」

 

崩れた灰となったグールを見て凛はぽつりとこう言った。

 

「どう考えたら良いのよ、これ」

「これだけ見たらどう都合良く解釈しても普通のグールだな」

「私こんなのに煩わせられていたわけ?!」

 

凛は憤りをビルの壁にぶつけている。激しい蹴りの応酬だ。その姿に男の純情が崩れる様が見えた。

 

「……」

 

それはさておき、真也は崩れたグールのなれの果てを確認した。それは灰に似ていて、僅かな風ですら空に舞い消えそうな程であった。

 

(うーん、謎は謎のままだが)

 

いずれにせよこれを放置するわけにも行くまい。とてもそうは見えないが、推測通り復活されると厄介だ。回収し、処理もしくは封じておこう、と彼は考えた。コンビニでゴミ袋を買ってくる旨を凛に伝えて、その場をあとにした時だ。

 

もぞり。

 

それはスライムのように蠢くと、CG映画のような滑らかな曲線を描いて復活した。凛は魔術宝石を取り出そうと懐に手を伸ばすが、間に合わなかった。

 

「っ!」

 

それは恐るべき早さを見せたからである。少なくともゾンビ如きでは不可能な速さだった。凛の首を掴み、食いちぎらんと牙を剥いた。

 

真也は駆け寄りながら左手を頭上に掲げると、大地へ打ち下ろした。高速の一刀が、局所的な空気圧力差を生み、真空の刃を生み出した。かまいたちである。その刃は走り、グールの両腕を切り落とす。踏み込み。グールの懐に踏み込んだ彼はそのまま蹴り上げた。数十メートルかち上げて、大地にたたき落とす。

 

急ぎ凛の首を絞めている両腕を外すと放り投げた。凛は苦悶の表情を隠さず、咳き込んでいる。グールは俺らをあざ笑うかのように、かかかかか、と。声を出す。切り落とした奴の両腕が復元されていく。

 

「こんのぉっ!」

 

凛が最大出力でガンドを撃ち放つ。グールに向かうその黒い弾丸は逸れて暗闇に消えていった。それは跳躍し、避けた。ビルの壁に張り付き、愚弄するかの様な双眸を見せている。

 

「真也、コイツ変だわ」凛は構える。

「同感。魔力も随分高い」凛の発言に妙な違和感を感じつつ真也は抜刀した。

「地脈から力を吸い取った?」

「だろーなー」

 

グールは口を開くと黒い魔力の弾を撃ち出した。次から次へと繰り出される様は銃撃の様である。真也は攻撃を避けて切り込むが、近づくと高いビルの上に逃げる。凛がガンドで攻撃するが避けられる。グールはビルの壁に“立って”愚弄するかの様に見下ろしている。一般人が見ればその様は悪夢の様だろう。

 

さてどうすると二人は考えた。時間を掛けると人目に付く、第3者がこの場に現れれば被害者を出しかねない。

 

「素直に向かってきてくれれば即座に切り捨てられるんだけど」

「であれば必要なのはアレの足止めね」

 

二人は眼が合った。

 

「任せた」と凛は駆けだした。

「了解」と真也が答えた。

 

凛は軽量化の呪文と防御結界呪文を自分に掛け、ガンドで挑発しながら夜道を駆けた。裏路地は左右を壁に囲まれている、その地形効果はグールに存分な恩恵を与えた。上下左右、四方八方に駆けるその様はまるで家蜘蛛である。彼女の技量では当てる事は難しい。

 

(聖杯戦争のいい模擬戦ね、これっ!)

 

避ける事は出来る。魔力の弾を喰らっても持ちこたえた。ダメージを覚悟して撃ち出したガンドは宙を切る。それでも当てる事は叶わなかった。逃走と追跡、追撃と迎撃、それを何度か繰り返すと、彼女の目の前に壁があった。袋小路である。

 

しまったと、慌てて振り返るとそこにグールが居た。双眸を赤く光らせている。

 

「っ!」

 

凛は左手を掲げフルオートで撃ち出した。八艘飛びの様な動きで全て避けたグールは、その機動力で凛に迫り、彼女の身体を掴みあげた。防御結界が撓み、虹色の干渉光を放つ。それは限界の証だ、今以上の負荷が掛かれば結界が崩壊する。凛を食い尽くさんと開いた顎は、真也の一閃を食らい宙を舞い飛んでいった。首と胴が泣き別れになったのである。

 

凛が囮になり動きを止め、そこを真也が狙うという作戦だったのだ。

 

彼は迅速にグールの身体に近寄ると刀身に魔力を込め屠った。その威力は凄まじく、灰化せずにそのまま消えた。凛はその威力に目を剥いたが、真也が怒っていた事の方が驚きだった。

 

ころん、と転がった赤い宝石(ルビー)。凛はそれを拾うとそういう事かと理解した。残ったグールの頭は灰になって夜空に舞った。

 

 

◆◆◆

 

 

そのルビーは曰く付きの宝石だった。人に不幸をもたらし破滅させる、呪われた石。石にはこういうことが良くある。扱いに困った誰かが公園に捨てたのだろう。元々魔石としての一面を持っていたそれは地脈を吸い上げ力を貯めた。そこに浮遊霊が加わり真祖的なグールとなった。これが種明かしだ。

 

凛はそれを封印する事にした。魔術師が保管するなら安心だと真也も何も言わなかった。無事解決、疲労感が心地よく妙な達成感と安堵が二人を満たす。

 

「帰るか」

「そうね」

 

こつこつと靴音が響く。真夜中の冬木市はとても静かだった。先ほどの戦いが嘘の様だ。だから、さっそく凛は真也に詰め寄った。

 

「どういう事よあれ」

 

彼には何の事だかさっぱりだ。

 

「言葉が足りない」

「遅いって言ってんのよ、もうちょっとでやられちゃうところだったじゃ無いっ!」

 

てっきり礼を言われるのだとばかり思っていた真也はたちまち憮然とした。

 

「……言いたくないけれど、凛の逃げ足が速すぎなのが問題だ。ちょこまかちょこまかと逃げるから追うのが大変だったんだぞ」

「なによ、私が悪いっての?」

「コンビネーションの事を一切考慮せず、自分だけで突っ走ったんだ。それ以外何がある」

「危険を承知で囮を買った相棒にそういう事言うか、真也は」

「袋小路に逃げ込んだのはどう考えてもミスだろ」

 

「男のくせに女の子のせいにするのね、男の風上にも置けないわ」

「性別なんか関係ないね、凛が悪い」

「なによ、馴れ馴れしい。名前で呼ばないでくれる?」

「気づいてないのか? 真也と名前で呼んだのはそちらが先だ」

「人の母親を名前で呼ぶからいけないんでしょうが」

 

「良く分からない理屈だが、彼女には良いと言われている」

「か、かのじょぉ?」

「おかしい所は何も無いだろ?」

「ふ、ふざけるんじゃないわよっ! 人の母親を彼女って、狙ってるわけっ!?」

 

真也はにへらと笑ってこう言った。

 

「恋愛脳」

「な、な、な、」

「いやぁ、あの遠坂凛がこんな可愛らしいお嬢さんだとは思わなかった。意外や意外。皆が知ったら驚くだろうな」

「私を脅迫する気かっ!?」

「とんでもない。この事実は凛に親近感を持たせるだろう。それに一役買えると思えば俺も誇らしいよ」

 

あははと夜道を歩く真也。殺すしか無い、この男を殺すしか無い。私の矜持のため、母の貞操のため、遠坂家の名誉のため。凛が左腕を抜いた。服で見えないがその魔術刻印は臨界運転(フルドライブ)だ。

 

「はい、君たち。未成年だね?」

「「えっ?」」

 

と二人が見ればそこには警官の姿、少年課だった。間髪入れず真也は凛を抱きかかえた。がその動きはだいぶ妙だった。どのぐらい妙かというと、あちらこちらから落ちてくる玉入れの球を受け取る様なぐらい妙だった。そして走る、走る。コートを翻し、凛の長い髪を棚引かせながら。

 

「待たんか、こらーーー!!!」

 

凛はお姫様だっこに戸惑った。慌ててスカートの裾を抑えるが上手く隠れない。下着が見られてしまったかも知れない、頬を赤く染めながら彼女は叫んだ。

 

「真也! なによあの挙動不審! 一人だけ逃げようとしたでしょっ!」

「ちゃんとこうしてだっこしてるだろ!」

「嘘つくなってーのよっ! 私が白状するからとか思ったんでしょうがっ!」

「それが分かってるなら大人しくしてろ!」

「変なところ触るなこの変態! さっさと降ろせーっ!」

「了解っ!」

「え?」

 

警官から刀を隠すためコートの翻しを抑えつつ、凛を抱きかかえつつ逃げるのは骨が折れた。だから、真也は刀を託すと凛ごと公園の藪に放り込んだ。

 

「刀を預かってくれっ! 後で取りに行くっ!」

 

そう言って真也は走り去った。その後を警官が追いかける。凛は憤りのあまり身体を震わせる。

 

「最ッッッ低!」

 

彼女の頭には落ち葉が一枚乗っていた。

 

 

 

 

 

つづく!



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05 プロローグ5

凛と真也が人知れず冬木を救った、その翌日の早朝である。

 

綾子がいつもの様に起きて、いつもの様に朝食を食べ、いつもの様に学校に来て、いつもの様に脚を弓道場に運べば、桜の機嫌が悪かった。ぱっと見た限りいつもの彼女だったがどす黒いオーラを放っていた。射場に立って構える姿は見るからに硬く、射ればその矢は見当違いの方へ飛んでいった。残心もへったくれも無い。

 

「今度は何?」

 

そう綾子が桜に話しかければ。

 

「なんでもありません」

 

作った笑いにも影が差す。士郎のことで真也と喧嘩をしたのだろう、綾子はそう断定した。

 

「今度は何したの」

 

そう聞いても桜は頑として答えなかった。

 

(今回は長引きそうね)

 

桜と士郎の一件、その真意を問いただそうと思ったが保留にした。真也が先だ、兄貴が動かない事には解決しない、それは長年の経験から分かりきっていた。何よりあのシスコンはまためそめそとしているに違いない。そう2年B組の教室に赴くと彼は居なかった。おやと首を傾げた。

 

「蒼月君なら来てないよ」

 

真也のクラスメイトがそう話しかけてきた。

 

「何で私に言うのよ」

「美綴さんがB組に来る理由ってそれ以外無いじゃん」

「ただの腐れ縁だって」

「私は何も聞いてないよ」

 

ニヤニヤ顔が腹立たしい。不本意一杯の顔でその場を後にした。またサボタージュに違いない。桜を押しつけて遊びに行くとは言語道断、文句の一つでも言ってやらねば気が済まない。武者の様に厳めしく廊下を歩けば、はたと気づく。

 

(桜と喧嘩してサボリ?)

 

それは今までに無い展開だった。彼は桜と喧嘩をすると大抵意欲を無くすからである、遊びに行くなど考えにくかった。はてな。綾子が立ち尽くしていると男子生徒に話しかけられた。自称 穂群原学園 独立愚連隊(ラウンド・ナイツ)筆頭組長のA君である。その名称に意味は無い。恰好良さそうの単語を組み合わせて使っているだけだ。

 

「美綴、真也しらねーか?」

 

綾子は戸惑った。てっきり一緒にサボりだと思ったからだ。

 

「それが来てないのよ。Aも知らないの?」

「なんだ。せっかくアレを持ってきてやったのに」

「アレ?」

「椎名ユナのAブ、」

「なに、それ?」

「……アニマルビデオ。じゃ、じゃーなー」

 

綾子の鋭利な眼光にびびったA君はそそくさと立ち去った。絶対堅気じゃねーな、と捨て台詞も忘れない。バカは放っておいて問題は真也(バカ)である。桜と喧嘩、そのうえ学校休み。サボリかと思ったらそうでは無いらしい。何故だろう、嫌な予感がする。

 

「美綴さん、蒼月君のことなんだけど何か知ってるかな。桜ちゃんも知らぬ存ぜぬだし、家に電話したんだけど連絡取れないし」

 

という大河の相談に血の気が引く綾子だった。

 

(思いあまって首釣ってるんじゃないでしょうね、あのバカ)

 

そんな馬鹿な、でも否定できない。なぜなら彼は重度のシスコンだからです。

 

 

◆◆◆

 

 

綾子には蒼月兄妹を長年見守ってきたという自負があった。半生と言っても良い程だ。だもので、ここで死なれては夢見が悪いと、彼女は授業をサボって蒼月邸にやってきた。目の前には見慣れた白い北欧風の一般住宅が建っていた。門の前に立ち見上げれば、その家から瘴気があふれ出していた。ぐるぐると渦巻く姿は鳴門の渦潮そのものである。

 

冷や汗一つ。

 

ピンポンと呼び鈴を鳴らす、返事が無い。もう一度鳴らす、やはり出ない。彼女は鞄から鍵を取り出して家に入った。なんと言うことは無い、家を空けがちな千歳から2人を頼むと預かっていたのだった。

 

扉を開ければ薄暗い室内。2階へと続く階段から陰鬱な空気が流れ降りてくる、まるで冷蔵庫から漏れ出す冷気の様だ。玄関を見れば彼の靴があった。真也入るよ、と返事を期待せず家に上がれば予想通り返事は無い。部屋の前に立てば扉の向こうから何とも言えない気配が漂ってくる。その様は地球を貫通する素粒子のよう。

 

(うっわ……)

 

一瞬帰ろうかとも思ったが、彼女は意を決し開けた。そこは異空間だった。カーテンは深く閉じられ陽の光は入ってこない。当然電灯すら点いていない。目が暗みに慣れると部屋の影が見えてきた。机の影、椅子の影、鞄の影、ベッドの影、こんもりと膨れあがる布団の影。言うまでも無く真也のうずくまる布団である。

 

どうしたものかと綾子は立ち尽くす。

 

“立ち去れ”

 

だものでその声が真也の物(こえ)だと理解するのに時間が掛かった。

 

“ここは生きとし生けるものの赴く場所では無い。早々に立ち去るが良い”

 

掛け布団とマットレスの間から双眸が光っていた。彼女はそれがどうして蒼いのか知らなかったがどうでも良かった。どちらかと言えばその姿が気になった。彼女にはそれがモンスターに見えた。ホラー映画調のハードなものではなく子供向けアニメに出てくる様な物だ。強いて言うなら、どら焼きお化け。挟まれた餡子の部分に眼がくっついていた。滑稽である。

 

「アンタね……」

 

“蒼月真也は死んだのだ。今其方が見ているモノは残留思念という亡霊にしか過ぎない”

 

呆れて物が言えない。それどころか腹も立ってきた。

 

“立ち去るが良い、我が我で居られるうちに”

 

彼女はおもむろに掛け布団を掴むとひっぺ返した。そこには薄着で包まる少年の姿。どうしてか分からないが彼は目を瞑っていた。因みに。彼はTシャツにトランクス姿である。綾子はもう見慣れた姿だと気にしなかった。

 

「ばっかじゃないの!」

 

彼女は腕を強固に掴んで引っ張った。彼は慌てて眼鏡をつけた。

 

「愚かな人間よ! 世界樹が泣いているのが分からぬかっ!」

「心配してきてみれば元気そうだねバカ真也! さっさと着替えな! 学校行くよ!」

 

彼はドスンと音を立ててベッドから床に落ちた。頭から床に落ちた。

 

「おぉ、なんと言うことだ。イデアが、イデアが崩れる……」

「わ、た、し、はっ! お、こっ、て、る、の、よっ! 皆勤賞お釈迦にした対価がそれか!」

 

彼女は真也の首に腕を回し、力の限り締め上げた。

 

「綾子、済まなかった! 調子に乗った! だからそれ止めてっ! ぐぇぇぇ!」

 

部屋に悲鳴が満ちたあと、男女の荒い息の音がそれと取って代わった。コブラツイストと卍固めの後である。真也は仰向けでぐったりしていた、綾子は両手足を床に突いて辛うじて身体を支えていた。落ち着いた彼女は乱れた髪を整えた。シャッとカーテンを開ければ部屋が明るくなった。窓を覗けばベランダに立つ隣の家の主婦と眼が合った。綾子が愛想笑いで返せば“まったく最近の娘は慎みがないわね”と盛大に呆れられた。全くもって腹立たしい。

 

「で、今回はどうしたのよ」

「誤解なんだ」

「誤解?」

「家の用事で朝帰りしたら、もうぷんぷんで。そしたら置き手紙一つ。早朝からなんの断りも無く士郎の家に行っちゃって。朝食の準備もなく弁当も無く夕飯も無く……おにいちゃんは、おにいちゃんは見捨てられたのです。めそめそ」

「朝帰りとは穏やかじゃないけれど原因はそれだけ?」

「その用事に相方がいて、それが女の人だったのが気にいらにゃい、あひゃこ、いはい」

 

綾子に抓られた。

 

「ほー、へー。女の人と朝帰り」

「ふぃはっていふは、やはしいきょとはしへない」

 

誓って言うがやましい事はしてない、と彼は言っていた。気が済むまで抓ると彼女は立ち上がる。暴れて下着の肩紐がずれたのか、その挙動がおかしい。

 

「ほら、私から言ってあげるから早く仲直りしてよ」

「綾子、それはもうしてくれなくて良い」

「……は?」

 

胡座をかき見上げる昔なじみの姿。彼女は二人の関係が動き出していることを感じた。

 

 

◆◆◆

 

 

蒼月桜は人妻っぽい、と言うのが穂群原(ほむらばら)学園生徒の共通認識であった。大人しく薄化粧、料理も出来てグラマーとくれば無理も無い。なによりちょっとした仕草が男子生徒をくすぐるのである。もちろん其れには訳があった。もともと見目麗しい娘である、彼女にお近づきになりたいという生徒は相応居たが、兄が怖いので遠巻きに見るのみ。自ずとその劣情的な視線が身体に絡む。全身に走るむず痒さが“見られている”結果だと身体が理解するのにさほど時間は掛からなかった。色香に昇華したという事である。

 

そんな桜が繁く男に家に通っているという噂はあっという間に広まった。それが蒼月真也の天敵、少なくともそう思われている衛宮士郎なのだから尚更だった。

 

だもので。真也がひとり廊下を歩けば馬鹿話に花が咲く。

 

A君が言う。

 

「桜ちゃんにとうとうカレシ出来たんだって?」

「まだカレシじゃない」

 

B君が言う。

 

「あの衛宮だって言うんだから驚きだぜ」

「俺も驚いている」

 

C君が言う。

 

「通い妻ってどういう事だよ」

「宿泊はしてない」

 

D君が皆に言う。

 

「1分もあれば十分だろ」

「早漏かよ、お前」

 

“わはは”とやはし立てれば鬼が顕れる。ギンッと睨み付ける眼力は殺意の一歩手前であった。

 

「「「おぉっとぉ!!!」」」

 

冷たく鋭利な刃物で首筋をなぞりあげる感覚、彼らは一斉に飛び退いた。

 

「真也をからかうのは命がけだぜ……」

「妹はヤクネタだって言っただろ」

 

聞いた話をまとめて頭を傾げるのは綾子である。

 

桜は早朝でかけて士郎の家に行く、弁当も無い、夕食の準備も無くなった、夜は士郎が家まで送る様になった。会話も無い、挨拶も無い、なにもない。偶に顔を合わせば無言で避けられる。徹底していた。

 

実は前にも似たような事があった。桜が勇気を出して買ったホットパンツを真也が廃棄したのである。当然彼女は激怒し無視作戦は一ヶ月に及んだ。桜は根に持つ方なのだ。朝帰りが切っ掛けなのは間違いない。おかしくは無い、けれども何かが違う。

 

「良い機会なんだよ。幾ら大事でもいつか兄と妹は離れるし。ちょっと前倒しになっただけさ。わははははは」

 

乾いた真也の笑いが耳に付く。あぁもう、本当にもう、綾子は達観した様に桜を屋上に呼び出した。意思確認のためである。いつもそうであるように、今日もまた其処はガランしていた。空にある雲も流れが速い。雲の隙間から青い空も見えたが、まだら模様ですっきりしない。現れた桜は俯き加減で視線を合わさなかった。

 

「なんの用ですか美綴先輩」

 

綾子は単刀直入にこう聞いた。

 

「士郎と付き合ってるって聞いたんだけど、本当なの?」

「……綾子先輩には、」

「関係ないなんて言ったら叩くからね。何度あんたらの仲裁をしたと思ってるのよ」

「……」

 

綾子は腕を組んで咎める態度だ。

 

「まだ付き合っていません。先輩は気づいていませんから。私が押しかけているだけです」

「ならほどほどにしておきな。真也が心配してる」

「兄妹であればこれぐらいが普通です」

「普通じゃ無いね、やり過ぎだ」

「私たちは少し近すぎました。美綴先輩だって昔からおかしいって言ったじゃないですか」

「血が繋がってないなら、おかしくは無いさ。社会的な話はともかくだけど」

 

桜は顔を上げた。目を開き驚きを隠そうともしない。

 

「真也に昔アルバムを見せて貰ったことがあるのよ。10年以上前の桜の写真が無くてね、当時は何のことか良く分からなかったけれど、そういう事なんだろ?」

「……兄さんは私を女の子としてみていません」

「辛いからって? そんな動機で人を好きになろうなんて、」

「衛宮先輩にも良いところは沢山あります。それを知らないのに勝手なこと言わないでください」

 

「桜、よく考えなよ。逃避の結末は後悔だけなんだから」

「告白することも諦めることもできない綾子さんに言われたくないです」

 

このとき初めて綾子から労りの表情が消えた。

 

「なら……桜は構わないんだね。真也に誰か特別な人が出来ても」

 

千歳の助言、舞弥の願い、士郎の笑顔、兄の背中、己の決意、全ては混ざり合い良く分からない色になった、ただ濁っていた。ぴしりぴしりと亀裂が大きくなる。

 

「……構いません」

「そう」

 

そう言って桜はその場を後にした。誰も居ない屋上で綾子はこう宣言した。

 

「ならもう遠慮なんてしないから」

 

 

◆◆◆

 

 

それは昔の話である。いじめというものはいつの時代でも何処の街でも存在するが当時の冬木市は酷かった。第4次聖杯戦争の影響で10年前から数年に渡って悪影響を与えたのだった。それは災害の爪痕であり聖杯の痕跡でもあった。子供の世界も例外で無く、乱暴を働く子供も多かった。

 

当時の綾子と蒼月兄妹は同じ学区で、彼女はいつも真也の喧嘩を見ていた。相手が武器を持っていようが、複数名であろうが構うことなく突入し蹴散らした。妹を守る兄の姿、それはヒーローみたいで格好良いと幼心にときめいたりもした。

 

そう、過去形である。

 

蓋を開ければ桜以外とんと無関心な子供だった。誰かが虐められていようが怪我をしていようが、我関せずと通り過ぎた。希に理解できないと見つめていた。

 

元来の正義感の強い幼い綾子は、彼への落胆と反発心もあって率先して喧嘩を仲裁した。弱者を助けようとした。三つ子の魂百までと言う奴である、穂群原(ほむらばら)での生き方を見れば想像に難くない。

 

ある時。真也がいじめの現場を遠巻きに見ていると綾子は助けに入った。殴られた痛みを堪えながら、表情一つ変えない同年代の真也にこう突っかかった。

 

「何もしないならどこかに行って。それとも見ているのが楽しい?」

 

彼は助けなかったことを非難されている、そう気がついた。

 

「そいつは他人、助ける義務は無い。それにただ泣いていただけだ。助けが欲しいなら、どうして助けてと言わないんだ? 話はそれからだろ」

 

弱者だろうと助けを求める責は追うべき、それは千歳が施した理屈の結果である。

 

「泣いている声を聞いてなにも思わないの?」

 

桜は妹、守るべき対象だった。でも彼らは他人である。一人助けたら二人目を助ける線は何処に引く。二人目を助ければ三人目も助けるのか。四人五人とどんどん増えていけば、いずれ助けた者同士が争い合う。その時はどうすれば良い。

 

答えを持たない彼は頭を捻りながらそのまま立ち去った。転機は直に訪れた。正義感をかざすタイプは目立つうえ鼻につく。程なくして綾子はいじめの対象となった。彼女が救った子すらそれに荷担した。それでも綾子は助ける事を止めなかった。ただ影で泣いていた。真也はそれを知っていたが何もしなかった。

 

暫く立ってのことである。一人で桜を守ることは難しいと悟った彼は協力者を作る事にした。綾子にこう持ちかけた。

 

「交換条件。美綴が桜を守ってくれるなら、俺は美綴を守る。どう?」

 

眉一つ変えない能面は彼女の苛立ちを誘った。同情、共感、憐憫、そんな感情は持ち合わせていない、そう言わんばかりの態度だった。

 

「なによ、それ」

「俺が見る限り、美綴は俺のやり方が気に入らないみたいだ。でも人間関係はギブアンドテイクが基本、協力すればお互いの納得する結果が得られる」

「納得なんてしないわ。お断りよ、そんな打算的な生き方」

 

彼女は文字通りその手を振り払った。

 

「私はアンタが嫌い」

 

彼はずっと考えていた。彼女の正義感は理屈で分かる、彼女の行いは社会的に見て正しいことだ。悪いこと、間違ったことはしていけない、だれもがそう教えられるから。ならどうして正しいことしている彼女は辛いのか、何故泣くのか。

 

どのような立派な行いでも、必ずしも見返りがある訳では無い。どんな高潔な精神も、何の見返りも無いといつかは折れる。それは人間の順応性の一面でもある。だからその行いを続けたいのであれば、自分で報酬を与えなくてはならない。もしくは与えてくれる人を用意する。綾子にはそれが居なかった。

 

真也は綾子の有り様が壊れてしまうことを勿体ないと思った。なにより桜を守るのにうってつけだ。正義感の強い娘なら虐めることもしまい。

 

彼は一計を案じた。

 

ある時を境に綾子へのいじめはぴたりと止んだ。いじめの主犯格が闇討ち脅迫されたのだった。証拠は何一つ残っていなかったが、綾子にはそれが真也の仕業だと分かった。

 

「余計なことをしてくれたわね。こんな事をしたってアンタの言うことには従わないから。分かってない様だから言うけれど、いじめの対象が他に移るだけよ。それともアンタは新しい犠牲者を助けるの?」

「助けないな」

「ならなんで助けたのよ」

「俺が美綴を選んだから」

 

「ふざけないで。そんなの迷惑、そんなの嬉しくない、今すぐボコった相手に謝ってこい」

「でも美綴はもう泣いてないだろ。それともまだ辛いのか?」

「………」

 

彼女は何も言えなかった。

 

人間というのは決して公平では無い。彼女に真也の様な力があればまた違った結果になっただろう。どうして独善的な人物にあのようなことが出来るのか、彼女はそれを妬んだ。だが。彼女は悩みに悩んでその提案(現実)を受け入れた。

 

“私だって泣くより笑っていたい”

 

という事である。程なくして綾子は蒼月の家に出入りする様になり、二人を見続けることになった。大人しかった桜は次第に元気になり、いつの頃からか二人の力関係は逆転する様になった。

 

“お兄ちゃん嫌い”

“めそめそ”

 

その都度二人の仲を取り持った。翻訳ももうお手の物である。

 

2人は仲が良かった。彼女が眉をひそめる程良かった。特に不安だったのが桜でいつも真也の後を付いてきた。綾子と真也が揃ってテレビゲームに興じれば、桜は二人の間に割り込んできた。

 

桜が真也を男としてみている事に気づいたのは必然だった。それは綾子にとって。二人を見る事が苦痛になった時であり、桜を大切にしてきた真也の思い10年分、それが彼女自身に向いたら、そう思う様になった時でもある。

 

ある時やっかみと期待を込めて綾子は真也にこう言った。

 

「彼女でも作ったら?」

「桜に守る者が現れるまでおにいちゃんはがんばるのです。それまでは彼女なんて作りません」

「だから、桜の健全な成長のことを言っているのよ」

「それだと守るものが居ないじゃ無いか。その間どうするんだ」

「彼女が居ても守れば良いじゃない」

「ばかだなー。まだ見ぬ彼女の立場になって考えろ。自分のカレシが自分より妹を大切にするなんてドンダケ虚しいか。不和の元だ」

「それだと桜に好きな人が出来ないって言ってんの」

 

堂々巡りである。

 

「仮に桜に好きな人が出来たらどうする?」

「認めない、認めないけれど、桜が選んだ相手なら仕方ない」

「その時になったら?」

「その時だな」

 

真也はこんな事も言った。

 

「綾子こそどうなんだ。美人なんだから引く手数多だろ」

「私を美人だとか言う物好きはアンタだけよ。それにどこかの誰かが危なっかしいからね、そいつに彼女ができるまではお預けだ」

「俺の何処が危なっかしい」

「真也は桜のためなら死んでも構わないって顔してるし」

 

「いや、おにいちゃんだし」

「変」

「……おにいちゃんだし?」

「変」

「そっか、なら頼んだ。綾子」

「勘違いしないでよ。手に負えないと分かったら見限るからね」

「おぅ、肝に銘じておく」

 

彼女はため息をついた。

 

 

◆◆◆

 

 

時は現代に戻り穂群原の弓道場である。弓道衣を纏った後輩たちが熱を入れて弓を引いていた。それを見ながら綾子は深々とため息をついた。

 

「どうしてあの真也(バカ)はあそこまで言ってるのに気づかないのよ……」

 

買い物デートなど幾度となくしたし、ムードに欠けるが食事に誘って貰ったこともある。プレゼントされたこともそうだ。だが女友達の域を超えていないのは明白だ、その現実に難しい顔をして唸った。

 

ただ彼がそういう事をする相手は綾子だけである、桜の面倒を見ているその対価、とはいえ脈はあるとも言えよう。だが綾子にとってそれは当たり前の事になっており、彼女は気づく事が出来なかった。

 

(桜はあれで現実的な女だから気が変わる可能性がある。なるべく早くはっきりさせたいんだけど、)

 

桜の同意を取り付けたとは言え突然のことでどうしたらいいのか分からない。もやもやとした綿菓子が頭に浮かぶが一向に形にならない。今更デートしたところで新鮮味も無い。彼氏彼女の定番イベントは既に済ませてしまっている。強いて言えばアレが残っているのだが。

 

(流石にそれは……)

 

破裂する風船の様に頬を染めてから、もう一度ため息をついた。がっくりと頭も垂れた。

 

「美綴さんがため息なんて珍しい」と声を掛けたのは大河だった。

「ええ、まぁ、ちょっとありまして」

「ひょっとして恋の悩み?」

 

瞬く間に頬を染める綾子であった。何か言おうと思うが心がばらばらで言葉にならない。そんな綾子に穏やかな笑みで返す大河だった。悪魔の囁きか、天の采配か。狙った様に真也がやってきた。「綾子いる?」と手近な部員に声を掛ければ、「美綴先輩、旦那さんがきましたよー」と冗談でからかった。桜がちらと綾子を見たが何も言わなかった。「あ、は、はぁぁぁぁぁっ?!」と声を荒らげるのは綾子である。先輩をからかうな、と怒鳴ろうとしたら「旦那さんですよー」と真也が大声で道場の外から茶々を入れる。(ひ、人の気も知らないでっ!)微笑ましいやら、おかしいやら、そんな部員たちの視線を浴びて、綾子は両手両足を乱暴に振って詰め寄った。

 

「何しに来たのよ……」声をありったけ力ませるが、顔が赤くては説得力が無い。

「……顔が赤いな、風邪か?」

 

彼はお約束のツッコミを入れる。内心“初奴め役得役得”とご満悦だった。剛胆な立ち振る舞いの中に見える一片の可憐さ。花を愛でる云々という彼の悪癖である。

 

「おかげさまでね、何しに来たのよ。用事が無いならさっさと帰って」

「なら手短に。礼を言いに来たんだ、今日はありがとう助かった」

 

頭に上った血が一気に下がる。其処にはいつもの格好良い綾子の顔があった。

 

「もう立ち直ったわけ?」

「いんや、認めるのに暫く掛かりそうだけど。それでもだいぶ楽になった」

「そう。いつまでも愚図って貰ったら困るから私としても助かる」

「用件はそれだけ、それじゃまた明日」

 

背を向けた彼を綾子は引き留めた。

 

「それだけ?」

 

己の肩越しに、彼はじっと綾子の顔を見た。次いで真面目な顔で歩み寄った。夕暮れを背景に向かい合う女の子と男の子の出来上がりである。思わず胸を高鳴らす綾子だった。おぉと覗いている弓道部員から声が上がる。彼は真面目な顔でこう言った。

 

「綾子、君はとても美しい。まるで鮮やかな花をつける百日紅(サルスベリ)の様」

 

盛大にすっころぶ音がした。とても響いた。目新しさも何も無い、いつもの展開だった。悲しんで良いのか喜んで良いのか心持ちの落ち着かない綾子であった。彼女は鉄拳を撃ち込んだ。

 

「いい加減それ止めてって言ってるだろ……」

 

それを受け止めた真也は笑い顔でこう言った。

 

「可愛いがいい? それともべっぴん?」

「言うなって言ってんだっ!」

「悪い男に騙されないよう慣れさせようとしている、俺の気遣いが分からぬか。と言うかいい加減慣れなさい」

「アンタねっ! 女の子に可愛いとか言うのは特別だろっ!」

 

真也は帰宅途中の三枝 由紀香を偶然掴まえた。

 

「三枝さん今日も可愛いな」

「ありがとー」

 

ほにゃっとした日向のような柔らかな笑み。幾度となく言われて彼女も慣れた物である。“ほら、コレが模範解答だ”と言わんばかりの自慢げな態度。綾子は身体を震わせた。ふるふると振るわすその怒りは雷鳴か、はたまた荒波のうねりか。

 

「手当たり次第口説いているのかっ!」

 

綾子は真也を追いかけた。

 

「なんでそうなるんだ! 褒めただけだろ!」

 

真也は綾子から逃げ出した。

 

「そもそもなんで百日紅なんだ! ハイビスカスとかサルビアとかあるだろ!」

「横文字なら良いって訳じゃ無い! そもそも百日紅は意外と綺麗な花なんだよ!」

「意外って何だ意外って!」

 

少年の背中を追いつつ綾子はどうやって告白させようか、その思案に暮れた。

 

 

 

まずは気づかせないと、話はそれからだ。

 

それから積極的に距離を詰めて周知する。

 

真也を追い詰める。

 

桜の代役というのが気に入らないけれど。

 

身の回りの世話から攻めるのが王道か。

 

恋敵(てき)は居ない筈だが悠長にしていられない。

 

随分この機会を待ったんだから絶対逃がさない。

 

明日からどうしよう、笑みを隠せない。

 

 

 

真也が凛の家に呼ばれた、綾子がその話を聞いたのは翌日の事である。

 

 

 

 

 

つづく!



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06 聖杯戦争・序1

綾子は自分の好きな食べ物の話題を真也に振ってみた、彼はあっさり答えた、正解だった。その逆も聞くまでも無かった。好きな俳優の話題を振ってみた、正解だった。聞くまでもない話題は駄目だと、新鮮な話題を振ってみた。

 

例えば上映中の映画の話題、綾子の好きな映画は今ないだろと切り捨てられた。人気のラーメン屋に美味しいケーキのお店、今度行くかと能面で誘われて会話が終わる。

 

思いあまってファッションの話を振ってみた、綾子は気を遣わなすぎだと逆に説教された。彼はクラスメイトの女の子からルージュを借りて綾子の唇に添えた。嫌がる彼女に強引に塗った。言うまでもなく公衆の面前(教室の中)で、動くなといつにない強引な接し方。思わずはいと従順に従った。そのシチュエーションはどれほどのインパクトだったのか、終わった頃には綾子は頬を染めていた。その姿に綺麗だと歓声を上げる少女たち、いつもと違う綾子の姿に言葉を失う男の子。手鏡に映る自分を見て、イケているのかと満更ではない様子。“どう?”と真也の顔を伺えば、彼は満足そうに胸を張っていた。違う違う、こうじゃないと綾子は頭を抱えた。

 

今まで見向きもしなかったG君が綾子にこっそり言う。

 

“幼なじみって距離が近いから上手くいかないんだ。だから真也(シスコン)なんか放っておいて今度一緒に遊びに行かないか?”

 

彼はクラス中の女子から罵倒された。今度はA君が自慢げに言う。

 

“迷える子羊よ、真也(オトコノコ)にはエッチしかない。其れで一発だぜ”

 

彼はクラス中の女子から大ヒンシュクを買った。綾子の鉄拳もおまけに付いてきた。こうして最初の一日は綾子の空回りで終わったのである。

 

そして下校時間。綾子の様子がおかしかったな、そんな事を考えながら真也は帰途につく。校舎と運動場を見渡せば、部活動に励む生徒たちが居た。紅に染まるなか彼は大あくびした。

 

(霊刀を凛に預けっぱなしだ。電話して今晩にでも取りに行くか……怒っていなきゃ良いけれど)

 

図々しい希望を考えながら校門を出ると得体の知れない波動に襲われた。それは特定方向に収束した力で、人の精神が織り成した物だった。恐る恐るその方に目をやれば、木立の影、夕暮れの闇、その中に赤いあくまが立っていた。眼が合った。にっこりとした笑みは誰であろうと心を奪われる。そのクイクイと動く右手人差し指は“こっちにいらっしゃい”とかぎ爪の様。

 

逃げようか、でも霊刀がある。彼はイニシアチブを取られた事を不覚に思いながら歩み寄った。其処は校門から死角になっていて人目には付きにくいが、完全ではない。遠坂凛と一緒に居るところを学園生徒に見られたら厄介だ。さりげなく近寄り手短に用件を済ませようと考えた。そうしたら彼は凛の背後に存在する霊体に気づいた。それは凄まじい霊圧で真也の戦闘神経を刺激するには十分だった。

 

「おはよ、遠坂。今日は遅いんだな」

 

だもので違和感たっぷりの挨拶をする。言うまでもなく今は夕方だ。気分を害した凛は腕を組んだ。たちまちムスッとした表情になる。

 

「なに、それ。言いたい事があるならハッキリ言いなさい」

 

2stバイクエンジンの様な甲高い動作音を立てる神経を何とか押さえ込んで彼はこう言った。

 

「他意は無いんだ。気分を害したら謝る」

 

霊体に気を取られてそれどころでは無い。素直な態度に驚いた彼女は“まぁいいわ”とこう切り出した。

 

「重要な話があるの、家に来てくれない?」

「いつ?」

「今からに決まってるでしょ」

「……これから晩飯を求めて新都まで行くんだ。明日にして。明日なら食料(カップ麺)を調達しておくから」

「大事な話だって言ってるのよ、私は」

 

凛の語気が僅かだが荒い。どうしてこの娘はこんな唯我独尊なんだ、彼はそんな事を考えた。

 

「せっかくのお誘いだが、俺には牛丼を食いに行くという決定があるのだ。この使命は覆せぬ」

「私の話は牛丼より下だと言いたい訳?」

「何を言う。俺らの仕事は体が資本、つまり飯だ。それを疎かにする者は良い仕事が出来ないぞ」

「牛丼ってファースト・フードの事よね? それで体云々を語るなんておこがましい」

「まあ牛丼が、と言うより晩飯の調達が問題でね。新都まで行かないと今日の晩飯にありつけない」

「……」

 

もちろん桜が居ないからである。凛はじろりと無遠慮な視線。沈黙を同意したとみて、彼は手をひらひらさせて背を向けた。

 

「じゃ、申し訳ないけれど明日にでも」

「待てっての。重要な話だって言ってるのよ」

「いや、だから晩飯が」

「だったら夕食に招く、それなら問題ないわね?」

 

「「「え」」」

 

その声は、木陰から覗いていた穂群原(ほむらばら)学園生徒たちの偽らざる本心だった。真也もぽかんとしていた。

 

 

◆◆◆

 

 

幾ら当主の招きとは言え急な訪問である。迷惑ではないかと危惧した真也であったが葵には歓迎された。彼には葵のテンションが高い様に見えた、事実その通りであった。幽霊屋敷と揶揄される遠坂邸、訪れる人間など滅多に居ないのである。

 

場所は遠坂邸のダイニング。そこは石張りで古城の一室にも見えたし、ホテルにも見えた。天井にはシャンデリア。白いクロスで飾ったオーク樹のテーブルには中華料理が並んでいた。洋館洋間に中華料理、違和感には事欠かない。

 

「ささ、どうぞ召し上がれ」

 

葵の促し。ここまで来てかしこまれば返って迷惑だろ、と彼は腹を括った。

 

「では遠慮無く頂きます」

 

エビのチリソースをつまんで食べれば美味しかった。食事は穏便に進んだ、葵は笑みを絶やさなかったし、運の良い事に共通の話題があった。

 

「凛はお友達を呼びませんのよ」

「ご当主は……凛お嬢さまは人望をお持ちです、ご心配は不要です」

「と言うより学校のことを全然話してくれなくて」

「葵さんに心配を掛けたくないのでしょう。とても優しい女性ですから」

 

よくもまぁ心にもない事をぺらぺらと話すもんだわ、と言わんばかりの眼の凛だった。真也は誤魔化す様に水を飲んだ。

 

(母親の前で娘をけなすほど世間知らずじゃないやい)

 

葵は終始穏やかである。

 

「真也さんはお食事をどうされていますか」

「もっぱら妹に頼りっきりです。といっても最近好いた相手が出来たようで、私の扱いはぞんざいです」

「あらあら♪ 兄というお立場では複雑なご心境でしょう」

 

気になった彼はこんな事も聞いてみた。

 

「葵さんは料理するんですか?」

「ええ、時々。意外でしょうか?」

「良家の奥方という意味では意外と感じました。でも桜色のエプロン姿はとても似合いそうで……」

 

失礼すぎだ、彼は慌てて欲望ダダ漏れの口を塞いだ。脳裏にエプロン姿の桜が浮かび、それが葵と重なったのである。なんと言う事はない、彼は桜に近い雰囲気を葵に感じ取っていたのだった。葵は桜色のエプロンを好んで着けるのだが、どうして真也がそれに言及したのか、不思議に思った。そして自分と真也の妹が同じタイプだと察しを付けた。

 

「妹さんもそのエプロンを持っているのですか?」

「はい」

 

彼は余裕を欠いて一言で済ました。心の動揺を上手く隠していたが、そこは年の功。葵には手に取る様に分かった。喉を鳴らしながら楚々と笑う。

 

「これでも花嫁修行はしていますのよ。是非またいらしてください。真也さんさえよろしければ腕を振るいますわ」

 

真也は流石に気恥ずかしいのか、居心地悪そうに頭を掻いていた。凛が青い顔であんぐりと口を開けていた。

 

「葵さんさえよろしければ、是非」

 

緊張と憩いが混ざった微妙な雰囲気の食事が終わり、客間である。向かい合ってソファーに腰掛ける凛と真也。彼女は笑顔をピクピクと痙攣させていた。どうにかこうにか怒りと憤りを抑えていた。その精神の波動に呼応したのか、ローテーブルに置かれたグラスの氷がピシリと音を立てて割れた。

 

「同い年が義理の父なんて、絶対阻止するわよ」

 

殺意がダダ漏れである。

 

「彼女は大人、俺は子供。リップサービスだろ。真に受けるない」

 

現実になったら流石に困るとそう言い聞かせた。続けてこう言った。

 

「悪い、調子に乗りすぎた。今日を最後にこの家には近づかん。なんだか葵さんは凛とは違う意味で苦手だ、調子が狂う」

 

妙な発言に首を傾げる凛だった。

 

「……アンタ私が苦手なの?」

「気づいてなかったのか。他の娘と違って会話がしづらい。理由は自分でも分からない」

「ふぅん」

 

それは遠坂家と蒼月桜の関係に起因する事であった。当然二人はまだ知らない。一転笑みを浮かべる凛である。その表情はおもちゃを見つけた子供の顔。ムッスリ顔で真也は言う。

 

「……なんだその目は」

「あらやだー。そういう事だったのね。蒼月君ったら私を意識しちゃってたんだ」

「男女関係的な事を言っているなら、それはない」

 

真顔で否定されて、たちまち憮然とする凛だった。忙しく変わる表情を見てこれが素なんだろうな、と彼は思った。

 

「母さんと扱いが随分違うわよね。幾らなんでもそう言うのってハッキリ言って失礼よ」

「なら葵さんみたいに立ち振る舞ってみれば?」

「私は私、そんなの御免ね」

「それで良いんじゃないかな。遠坂凛はそれで良い」

 

「アンタ、馬鹿にしてる?」

「とんでもない。これでも敬意は払っているさ。逆に凛みたいに生死の堺に立てる程の剛胆な女性(ひと)は……」

 

そこまで言って言うのを止めた。好み? 好意? 桜の顔がちらついたのでその言葉を飲み込んだ。桜に近い雰囲気でも、葵と異なり凛はそういう対象になる可能性がある、彼は無意識にそれを感じ取っていた。

 

「なによ。そこまで言ったなら“好きです”って言ってみたら? 上手く言えたなら頬にキス位してあげてもいいわよ?」

「期待したのか?」

「バッカじゃない」

「俺らはこうしておこう。万が一パンドラの箱になったら厄介だろ。お互いに」

「そう」

(凛は恋愛脳だし)

(こいつ女好きなのに瀬戸際で身を引くわね。誰かに義理を立ててるのかしら)

 

水を一口飲んだ真也はソファーにもたれ掛かった。結構結構と余裕ぶった態度で

 

「しかし凛も切り返しが上手くなったな。男性経験ないとは思えない」

 

と言えば、

 

「どこかのチェリーボーイを躾るためよ」

 

そう切り替えされた。物音一つしない部屋、二人の呼吸だけが聞こえる。真也は努めて冷静にこう言った。

 

「……何処で覚えた。そんな言葉」

「あら、ごめんなさい。気に障った? 可愛いのね蒼月君は」

 

笑みを絶やさない凛の表情はそれはそれは腹立たしい。真也の顔が引きつった。

 

「魔術師という立場を免罪符にして、男から逃げる気弱な娘が偉そうに」

「私だってその気になれば男の10人や20人造作もないから」

「キスどころがデートすらした事ない小娘には無理無理だね」

「女の子に相手にされていない男の子って可愛そうよね。虚映に縋らないと生きていけないから」

 

二人はグラスを同時にテーブルに置くと立ち上がり詰め寄った。ギリと表情を軋ませる。

 

「随分という様になったな遠坂凛! 生娘のくせに!」

「この私が言われっぱなしになると思ったら大間違いよ! この童貞男!」

「その辺にしておけよこの悪魔! いったい何人の男の子をフって泣かした!」

「アンタに素行を言われたくないわっ! この女ったらし!」

 

「俺が、いつ、そんな、真似を、した!」

「聞こえの良い言葉で女の子の反応を楽しむなんて! 悪趣味だって言ってるのよ!」

「花を愛でるという雅の余裕すらないのか嘆かわしい!」

「雅とか言う前に礼儀覚えなさいよ! 大体、鼻につくとか失礼にも程があるわ!」

 

いつかの進路指導での会話である。

 

「自覚があるなら直せよ! てゆーか随分根に持つな!」

「私の何処が高慢ちきなのよ!」

「そこまで言ってない!」

 

二人の前にオレンジジュースが二つ置かれた。葵である。

 

「若いって良いわね。一気に燃え上がるのだから」

 

ホホホと楚々良く部屋を出て行く葵。ぽかんと呆けていた凛は慌てて追いかけた。

 

「ちがうの! 母さん違うんだったら! 私のタイプはこんな変態じゃなくて父さんみたいなっ!」

 

開けっ放しの扉から凛の叫びが木霊する。鼻先を付き合わさん程に近づいた事を、取り繕う様に彼はこう言った。

 

「ふん、ファザコンめ」

 

何事もなかった様に部屋に戻ってきた凛は、真也に刀を返すと聖杯戦争の事に言及した。彼女が呼んだ理由はそれだった。簡単に言えば、何でも願いが叶う聖杯を求めて魔術師たちが殺し合いをする儀式だ。詳細な説明を聞いた彼は特に気にしていない様だった。ただ凛の背後に控える霊体を見てそれがサーヴァントであると察しをつけた。

 

「ふーん、それは面妖な」

「アンタには令呪もその兆候もない。この時期でそれならまず参加はあり得ないけれど、どうするつもり?」

「令呪がなきゃ参加もへったくれもない、そのまま静観するさ」

「万が一襲われたら?」

 

「当然武力対応する」

「サーヴァントは強力よ?」

「強力だから、というのは理由にはならないな。俺にも妹にも学校があるし、学校には友人も居る。俺らだけ逃げるのは気が引けるし、何より逃走自体趣味じゃない。安易な逃走は癖になる。もちろん悪い意味での癖だ」

 

凛は先日のグール戦を思い出す。力と力は引き合う、強ければ強い程そうだ。腕を組んで脚は組み直した、僅かに首を傾げれば、さらりと黒く長い髪が揺れた。

 

「私としては冬木市から離れて欲しいのだけれど。真也がいると無茶苦茶になりそうだし」

「それは俺の関知するところじゃないな。魔術師なら上手い事やってくれとしか」

「妹さんが心配にならない?」

 

「相談はする。妹が逃げたいと言えばそうする。けれど妹にも望みがあるからな、それ次第。まぁ、何とかなるだろ。危ないのは夜だけだし、万が一あれば俺が危険を切り捨てる。そのために鍛えてきたし生きてきた。俺としてもそんな事で妹の生活を壊したくない」

 

「あっきれた。それって妹の我が儘を叶えるためなら苦労は厭わないって事じゃない」

「そういう表現もあるかも知れない」

「シスコン」

「五月蠅い」

 

凛は腕を組んで考えた。真也の戦闘能力はずば抜けているがサーヴァントは強力だ、その程度では敵うまい、と考えた。ただ上手く立ち回れば生き残る可能性は多分にありそうだ。仕方がないと彼女は決断した。凛にとって真也にいま死なれては困るのだ。

 

「アーチャー」

 

凛の背後の控えていた霊体が実体を顕した。白髪、褐色肌、赤い外套姿の男が現れた。その瞬間である。真也の体が戦闘状態に切り替わった。アイドル状態だった神経回路がエンジンの様に甲高い音を立てて回り始める。一気にレッドゾーンへ突入した。

 

英霊だの、サーヴァントだの、正直なところ彼に実感は無かった。過去に対峙した物の怪の延長、その程度の奴だと思っていた。無理もなかろう。過去に生きた偉人の事など、遺跡や書物などの欠損した不完全な記録でしか知る事はないのだから。特に古代の遺物は客観性と物証性に欠け、記録と言うより物語。それから推測して英霊像を正確に結ぶなど無理がある。

 

凛は実物を見せる事によって、彼の認識を正そうとした。事実サーヴァントとはそれ程の物だったのである。真也は声を絞り出した。

 

「なるほど。こんなのが全部で7体も居て、それらが争うとなれば大事だ。そしてサーヴァントたちを維持する聖杯、その力は察してあまりある。万能の願望器とはあながち与太話という訳でもなさそうだ」

 

肌を叩き付けるアーチャーの威圧に真也の顔が歪み始める。其処にあるのは恐怖ではなく歓喜だった。“こいつらなら全開で戦えるかも知れない”という抑圧解放の欲求である。

 

アーチャーは腕を組んで人を小馬鹿にした様な態度だったが、殺気一歩手前の威圧をぶつけた。蒼月真也という人物を探るためである。もし堪えきれず襲いかかろうものなら、それを口実に切り伏せるつもりでいた。動きがないのでもう一押ししてみた。

 

「凛。残念ながら君の好意は徒労に終わったようだ。この男は死の危険にさらされているにも関わらず、それを何とも思っていない。むしろ興奮すらしている。この男は異常者だ。戦闘狂と言う奴だよ。遠からず君に厄介事を持ち込むだろう。今すぐ追い出すか、いっそのこと殺してしまうべきだな。いや、聖杯戦争の事を考えるのであれば、その方が確実だ」

 

真也が殺意を当て返すとアーチャーから警戒を引き出した。真也の封印具は霊的肉体的に封じる物で、精神は何の拘束すら受けていない。アーチャーはその殺意がどういう代物か、気づいたのだった。真也は睨み上げた。

 

「おい、この弓野郎。鏡見て物言いな。自分が人様をとやかく言える人格者だとでも思っているのか」

「凛の説明を聞いていなかったのか? なんならサーヴァントがどういう存在か改めて教えよう」

 

「かつての執念、無念を持っている、そう言いたいならそのイカ臭い口を閉じていろ。そんな奴にとやかく言われる筋合いはない、虫ずが走る」

「つくづく凛が哀れだ。あれだけ懇切丁寧な説明を受け、未だ自分がなにと相対しているのか、それを理解していない。愚者に説法とはこの事か」

「おまえ。自分が人間である事を忘れ、くだらない何かに縋った口だろ? 見えるぜそのスカした面の下に隠してる張り詰めた面がな」

 

何かを得ようとすれば何かを支払わなければならない。その何かが大きければ大きいほど、支払う物も大きくなる。英霊として祭られる程の存在なら、その支払う物は如何ほどの物か。元は人間だった彼らだ、自覚の有無問わず身を切っていったのだろう。つまり、ある偉業を成すとは言い換えればそれしか無いと言う事他ならないのだ。

 

真也はアーチャーの人生を知らない、だが喧嘩を売られて笑っているほど善人ではなかった。アーチャーが構えを取った、まるで何かを掴む動作である。真也はソファーに掛けてある霊刀を左手に掴んだ。

 

「マスターでも無いただの人間が良く吠える」

「弱い犬ほど良く吠えると言うが、お前もその口か?」

 

生死を分ける、一瞬きにも満たない時間。その緊張を破ったのは凛だった。酷く落ち着いた魔術らしい声だった。

 

「やめてアーチャー。彼は敵じゃないの。それと真也、あなた性格変わってるわよ」

「態度は相手によって変える。礼儀を知らない奴と握手する趣味はない」と真也が答える。

「同感だ。付け加えれば知性が無い者も嫌いだがね」とアーチャーが答えた。

「命拾いしたな」

「お前がな」

 

バチバチと火花を散らす俺らを見て、凛は深いため息をついた。こう続けた。

 

「真也。サーヴァントを理解出来た?」

「……十二分に」

「避難するつもりは?」

「だから相談するって」

「しっかり相談しなさい」

 

凛は髪を手櫛で梳きながらこう言った。

 

「話はおしまい。まだ全クラスの召喚が済んでいない筈だから、各マスター達も大人しくしていると思うけれど、油断は禁物よ」

「ご忠告痛み入る」

 

凛は窓の側に立ち、遠坂邸から立ち去る真也の後ろ姿を見た。その姿は朧気で月があってもよく見えない。闇夜に消えていく彼を見て深々とため息を付いた。

 

(シスコンじゃなくて、本当にバランスのとれた性格で、真面目で、真摯で、私にも礼儀正しければ言う事ないのにね)

 

だったらどうするとまでは考えない凛だった。薄暗い部屋の壁にもたれ掛かっていたアーチャーが言う。

 

「凛、あの男と関わるのはよせ」

「なぜ?」

「あの手の類いは時々いる。何とかに刃物という奴だ。年若いが既に手を血で汚しているかもしれん。あの眼も気になる……早めに処断する事だ」

「眼?」

 

「種類は分からないが魔眼の類いだろう。これから仕留めに行く、構わんな?」

「真也には妹が居るのよ。喧嘩は良いけれど殺すのはだめ、見捨てるのも駄目、いい? 少なくとも私が指示するまでは味方として扱って」

 

彼は仕方ないと達観した表情だ。

 

「マスターの意向なら従うさ、だが何故奴の妹を気にする?」

(桜色のエプロン、蒼月桜……まさか、まさかよね)

 

 

◆◆◆

 

 

時は少し遡り衛宮邸である。その家の玄関で靴を履くのは士郎だ。学園から一度帰宅した彼はこれからアルバイトに出かけるのである。見送るのは桜でコルク色の穂群原の制服を着ていた。もちろん士郎は私服。玄関の扉は磨りガラス、夕日が差し込んでいた。もうじき日が暮れるだろう。

 

靴を履き終わり立ち上がった士郎は桜にこう言った。

 

「じゃぁ行ってくる。ひょっとして遅くなるかも知れないからその時は舞弥さんに送って貰ってくれ」

「はい、先輩も気をつけてくださいね。さっきテレビで新都のガス漏れ事件の事をニュースでやっていました、最近物騒です」

「「……」」

 

思わず見つめ合い、二人はそっぽを向いた。桜はスカートの前で組んだ両手をモジモジと落ち着きなく動かし、士郎は頬を掻いている。

 

「あの、」とは桜で、

「あのさ、」とは士郎である。

 

学園の噂は彼も聞くところで、当然彼自身と桜の噂も含まれている。気まずい、士郎はそう思った。すると玄関から廊下を通じて繋がる居間、そこから言い合いが聞こえてきた。妙齢の女性の声、大河と舞弥だった

 

「大河。いい加減に入り浸るのは止めなさい。雷河さんも心配しています」

「えー、私この家の子だもん」

「誰が決めましたか誰が。そんな事だからその年で恋人も居ないんです」

「士郎は良いって言ってるしー」

「士郎に聞けばそう言うのは分かっているでしょう。甘えないでください」

「私だって士郎のごはん食べたいもん」

 

舞弥を嫌って偶にしか来なかった大河は桜の話を聞いて押しかけたのだった。予想通り桜は大河の味方をしたからである。桜の進言もあって舞弥も渋々受け入れた。

 

舞弥は切嗣に言い寄っていた経緯から大河を毛嫌いしていた、大河は切嗣の死後士郎に乗り換えたと舞弥を毛嫌いしていた。年の差はあれ女の戦いである、言い合いなど尽きない。

 

たはは、と愛想笑いしかできない桜と士郎だった。

 

「それじゃ行ってくる。留守番任せた」

「はい、いってらっしゃい」

 

家を出た士郎はむぅと唸りながら道を行く。

 

人妻系美少女と名高い桜が通う様になって、彼の風当たりは少し厳しくなった。当然同性からのやっかみである。桜と士郎がちゃんと知り合ってそろそろ1年、日に日に色っぽくなる様は彼も知るところ、そんな少女が自分の家に通う事は果たして適切なのだろうか、と今更考えた。

 

(料理を習いに来てる、送り届けも万全、やましいところはない……)

 

不安なのは遠坂凛がそのことをどう思っているか、である。

 

(聡明な遠坂の事だ、理解していてくれるに違いない。そうじゃなくても話せば分かってくれる)

 

彼の中で凛はまだ学園のアイドルなのである。それはそれとして気に掛かるのが、桜と真也の関係だ。桜が早朝も来る様になったのは真也と喧嘩したからだ、彼はそう考えていた。桜は真也の名前を口に出すと辛そうに口をつぐんだからである。

 

(真也は気に入らない、真也のやり方が気に入らない、真也は決してそのやり方を改めない、また繰り返す、何度でも繰り返す、だから気に入らない。だがそれはそれだ、二人は兄妹なんだし仲直りさせるべきだ……)

 

そこまで譲歩して、眉をぴくりと動かした。“遠坂凛が蒼月真也を食事に招いた”という噂は士郎の耳にも入っていた。そして綾子の気落ちした姿を思い出した。綾子と真也が付き合っているという話は聞いた事がない、女の子同士の会話で綾子が否定しているのを士郎は聴いている、だが彼女がどう思っているかは士郎から見ても良く分かった。

 

凛がどうして真也を招いたのか、正確なところは知らない。だが真也に言って綾子に気づかせてやるべきだ、彼はそう考えた。なにより。他の奴なら諦めも付くが、凛の隣に真也が居るのは認められないのであった。

 

“真也は遠坂を不幸にする”彼は直感でそう考えていた。

 

すると。突然士郎の視界に白銀の髪が舞った。考えに耽っていた彼は視界にそれが映っていたにも関わらず認識するのが遅れた。なんだ? そう思う士郎の前に少女が一人立っていた。年は10歳前後。白い肌に白銀の髪、瞳は深みのある赤で、藍色のコート纏っていた。その少女は無邪気に笑って士郎にこう言った。

 

「お兄ちゃん、早く呼び出さないと死んじゃうよ?」

 

衛宮邸の様子を伺っていたその少女は、家を出てきた士郎を付けていたのだった。彼はその言葉を理解する前に、少女が消え去ろうとする前に歩み寄った。しゃがんで少女と視線を合わす、にっかりと笑った。

 

「迷子か? 最近物騒だから一人でいると危ないぞ」

 

外国人の小さな子が一人で居るという事実からそう考えた。その少女はぱちくりと数度瞬きをした。予想外の展開に戸惑っていた。

 

「俺は士郎だ、衛宮士郎。名前はなんていう?」

「イリヤ、イリヤスフィール」

「イリヤイリヤスフィール? 繰り返す事で強調してる? イリヤという言葉になにか意味でもあるのか?」

「違うよ、イリヤスフィールでイリヤなの」

 

「あぁそういう事か。失敬失敬。イリヤスフィール、俺が送るよ。家は何処?」

「お兄ちゃん。わたしお兄ちゃんを殺しに来たんだから、そんなご機嫌取るようなことしても許さないんだから」

「俺を殺す? どうしてさ?」

「わたしずーっとこの時を待ってたんだから。キリツグと一緒に殺すんだもん」

 

養父の名前を出されて彼は戸惑った。

 

「イリヤスフィールはオヤジを知ってるのか?」

「知ってるよ、私とお母さんを捨てた人。許せないから殺しに来たの」

「オヤジが? お母さんってどういう事だ」

「……キリツグはどこ? 家に居るの?」

 

切嗣の事を知っていて、死んだ事を知らない。オヤジの昔の知り合いか? と考えた彼は正直にこう告げた。

 

「オヤジは切嗣は死んだよ」

「死んだ?」

「あぁ、五年前に。それより教えてくれ、オヤジを知ってるのはどうしてだ?」

「嘘……」

 

「嘘じゃない」

「……わたし帰らないと。バーサーカーが起きちゃう」

「バーサーカー?」

 

イリヤは幽霊でも見た様な、呆けた表情を見せた。体調でも悪くなったのかと、慌ててその小さな額に手を伸ばせば、イリヤは幻の様にすり抜けてそのまま立ち去った。士郎は追いかけようかと思ったが足を止めた。帰るというなら迷子ではないという事だ。

 

「しまった、バイトに遅れる」

 

舞弥が何か知っているかも知れない、バイトから帰り次第イリヤの事を聞こう、彼はそう考えて走り出した。

 

 

 

 

つづく。




申し訳ありません、タイトル変えました。頭に浮かんだそれがあまりにも電撃的だったもので。分かりやすいってのが一番だと思うのです。あとインパクト。



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07 聖杯戦争・序2

遠坂邸を後にした真也は夜の冬木をトボトボと歩いていた。

 

(どんな願いでも叶える聖杯か……)

 

酷く魅惑的なフレーズである。だが幸か不幸か彼には願いが無かった。

 

(強いて言えば、桜の旦那を見つける事だけど、聖杯を使う物だろうか? 聖杯を使ってスーパー旦那を用意したら桜はそいつを受け入れるのか?)

 

腕を組んで考えた。むぅと唸りもした。塀の上に座っている猫が、通りゆく異種族をのんびりと目で追っていた。

 

(違うな、幸せはもたらすものじゃ無い。つかみ取る物、育む物だ。誰かに与えられた幸せなんて所詮まやかしだ。すぐにボロが出て辛くなる……)

 

士郎の家に通う桜の姿を思い出す。

 

(そうすると桜の行為は間違ってない。桜がするべき事を俺が奪ってしまったのか。成長を阻害してしまったのか。俺がよかれと思ってしてきた事は間違いだったんだろうか)

 

目の前には真也の家があった。2階の東向きの部屋には灯りがともっていた。彼は盛大なため息をついて、黒く鈍い光を放つ金属パイプで出来た門に手を掛けた。

 

(好きな奴が出来るのは良い、良くないが良い。でも会話ぐらい……)

 

と涙する真也だった。

 

(サクラニウムが足りない! おにいちゃんは活動限界を超えてしまうっ! 超えたら初号機みたく暴走だっ!)

 

反省すれど改善の意思のない真也であった。シスコンゆえである。

 

めそめそ、玄関の扉を開ければ、ギィと音が鳴った。それは紛う事なきバイオハザードの効果音。違和感を感じながら、静まりかえった家に踏み入ると、桜以外の何かが居る、彼はそう感づいた。この圧倒的な気配なら見覚えがあった。つい先ほど、嫌と言うほど感じさせられた存在、サーヴァントだ。

 

何故サーヴァントがこの家に居るのか、何が目的なのか。疑念はつきなかったが、物騒な存在が家に居るという事実だけで、動機は十分だった。つまり撃退か、もしくは討伐しかない。彼は桜の無事を確認したかったが、桜は2階、侵入者は1階。このまま2階に上がれば敵に背を向ける事になる。このまま屠った方が確実だと判断した。霊刀を掲げて抜刀する。蒼く光る刀身はシャランと堅い金属音を立てた。

 

気配は玄関を入って直ぐ右手、ダイニングから放たれていた。サーヴァントも彼に気づいて鋭い殺意を放ち始めた。彼は扉をゆっくりと開け、一歩踏み出した、その瞬間である。頭上より杭のように鋭利な武器が振り下ろされてきた。

 

読んでいた真也は、体を一歩ずらし敵の攻撃を避けると、そのまま部屋の中央に走り込んだ。入り口という狭い空間では刀が振るい難いからだ。転がるように振り返ると、天井と壁の境に、女が居た。手足を広げ、長い髪をも広げ、その姿は壁に張り付く蜘蛛のよう。

 

髪はどういう理屈か桃色で、背丈ほどに長かった。長身で細身。纏う服装は黒色で、体のラインを惜しげもなく晒すぴっちりした仕立て。胸から股に掛けては、申し訳程度に隠す丈の短い物だ。昔はやったボディコンといえば説明が早かろう。

 

何より目に付くのが、両目を覆う目隠しである。何とも淫惑的な格好だったが、敵は敵、彼はお構いなしに踏み込んだ。一閃。そのサーヴァントは真也の一刀を躱すと、家蜘蛛のような素早さで、壁、天井、床へと飛び移った。

 

恐るべき機動力であった。

 

ならば部屋の隅に追い込み切り捨てるだけ。如何に素早くとも、部屋の中では速力を活かせまい。真也は床を踏み抜き、間合いを詰める。ジャラリ、鎖がのたうつ音がした。先ほどの杭のような武器は鎖の末端だった。リビングの奥に陣取ったその女は、彼を打ち付けようと鎖を走らせた。波打つ鎖の節と腹。それを見極め、基点となる腹を、ある時は刀身である時は柄で打つ。四方八方から迫り来る鎖をはじき飛ばした。女の表情に驚きと焦りが浮かぶ。

 

彼はこのサーヴァントがあまり強くないと、直感でアーチャーより格下と判断した。

 

(だが宝具とか使われると厄介だ、手早に、無駄なく、切り捨てる!)

 

力を失った鎖が部屋に舞う、その様はまるで舞台に投げ込まれたリボンのよう。真也は疾風のように駆け抜けた。目指すは、一路、女の首である。このタイミングなら避ける事も守る事もままなるまい。女が息をのむ。彼が“殺った!”とそう確信した時である。

 

「兄さんやめて!」

 

開いた扉から桜がボストンバッグを投げつけた。直撃。彼はその衝撃で壁に打ち付けられた。殺意が無かったので避けられなかった。ベチリという珍妙な音のあと、困惑という沈黙がリビングを支配する。サーヴァントの女も戸惑い、立ち尽くしていた。壁にへばりついていた真也はそのまま、ズルズルと崩れ落ちた。戦闘中になんてことをするのか、涙で溢れた兄の目は切ない抗議の意を表していた。

 

「だって止める方法、他に思いつかなかったし……」

 

もじもじと恥じらう妹の姿が可愛かったので彼は許した。

 

 

◆◆◆

 

 

彼は散らかったリビングを片付けた。細かいところは無視して片付けた。ソファーに腰掛ければ、ローテーブル越しの正面に桜が見える。桜色のカーディガンに、白色のゆったりとしたワンピース姿で座っていた。いつもの桜の出で立ちである。

 

(おぉぉぉぉ……)

 

久しぶりの桜の姿と匂い、彼は感極まっていた。桜と真也の二人を見渡せる位置に女サーヴァントが座っていた。目隠しを付け表情なく能面であったが、桜と真也を何度も見比べていた。顔の作り、髪の色、全体的な雰囲気、そういった比較である。彼女は首を傾げた。どう見ても兄妹に見えない。

 

(私も人の事を言えませんね……)

 

と彼女は二人の姉と自分を比べて肩を落とした。真也はサーヴァントを見て美人だろうと考えたが、直ぐに忘れた。目の前に桜が居たからである。

 

「で、桜。この人誰?」

 

我ながら意地が悪い、そう思いつつも彼はそう聞いた。桜はたどたどしく答えた。

 

「私の友達で、日本に旅行に来て、私を頼って、」

 

そこまで聞いた彼は、桜の額を指でこつんと弾いた。

 

「わかりやすい嘘をつくんじゃありません」

「はぅ」

 

額を押さえる桜は涙目である。

 

(サクラニウム充填120パーセントォ!!)

 

その姿と声を聞いて彼は心中で涙を流す、このまま死んでも悔いは無い、地獄の魔王すら屠って見せよう、そんな事を思ったりもした。もっと桜に浸りたい欲望を、蹴って踏んづけてどうにか押し込んだ。彼はサーヴァントに言う。

 

「おねーさんのクラスは? アサシンか? それともキャスターか?」

 

はっと息をのむ桜。女は微動だにしない。

 

「兄さん、サーヴァントの事知ってるの?」

「おにいちゃんに不可能はありません」

 

言うまでも無くつい先ほど凛から聞いたからであった。サーヴァントの代わりに桜が答えた。

 

「ライダーです」

 

あれだけの機動力ならば騎兵の方が適当だろう、と彼は考えた。

 

「ライダー、なんで攻撃した? 兄と聞いてなかったのか?」

「武装もしていましたし、てっきり不審者かと」

 

今度も桜が答えるのかと思ったが、ライダーが答えた。しっとりした声で真也は好感を持った。ライダーは桜と真也が似ていなかった、という判断は伏せた。さて、問題はここからである。なぜ桜がライダーと分かるのか、どうしてライダーが桜と一緒に居るのか、どうして桜がサーヴァントの事を知っているのか。

 

(聞きたくない……めっさ聞きたくない)

 

彼は渋い顔でこう、おずおずと桜に聞いた。

 

「……桜、腕に令呪は?」

「あります」

「……桜は、ライダーのマスター?」

「はい」

「……桜は聖杯戦争の事をライダーから聞いた?」

「はい」

 

何の躊躇いもなく答えた桜を見て彼は遠い目である。

 

(そういえば桜ってすこし天然入ってるんだよなー)

 

聖杯戦争は戦争と言うより殺し合いである。監督役もいるが、マスター同士であれば戦の貴賤などお構いなしだろう。陰湿な手を使ってくる輩も否定できない。桜は殺し合いという現実に気づいていないのだろう、彼はそう考えた。

 

(どう考えても良くない)

 

真也は桜を2階の自室に呼び出した。話を聞かれては困るとライダーは1階のリビングに控えて貰った。

 

二人は真也の部屋、カーペットの上で向かい合って正座である。サクラニウムの補充が済んだ真也は取りあえず落ち着いてココアを飲んだ。桜は落ち着かず、部屋をせわしなく見ている。久しぶりの兄の部屋と匂いと声に、鼓動は早く強く暴れていた。

 

止めども無く押し寄せる身体の疼きをどうにかしようと身じろぐが、鎮めたくても鎮まらない。それは身体の率直な反応であった。先ほどから兄が何か言っている、だが一向に頭に入ってこない。

 

「かくかくしかじかまるまる……だから棄権するべきだ。桜、聞いてるか?」

「は、はいっ!?」

「……聞いてなかったな?」

「え、えーと、そんなことは、」

 

半眼で睨まれた。

 

「ご、ごめんなさい……」

 

真也は頭を掻いてこう繰り返した。

 

「聖杯戦争はかなり厳しい戦いだ。ライダーの力は見ただろ? あんなのが7体も居るんだ。ぶっちゃけ命に関わる。隣町に教会があるらしいんだが、そこに聖杯戦争の監督役が居て、マスターを保護して貰えるそうだ。令呪を放棄して、ライダーには別のマスターを探して貰おう」

 

桜は押し黙り、視線を下げた。彼女は自分の願望を人に否定されると、大抵このような仕草をする。経験上それを知っていた真也はこう聞いた。

 

「ひょっとして桜には願いがあるとか?」

 

桜は令呪の宿った左腕を胸に抱きしめた。図星である。

 

「桜」

「嫌」

「桜ってば」

「嫌」

 

言いたくても言えない、耐えるしか無い、彼女のその姿はとても深刻そうに見えた。

 

“聖杯があれば苦しみから逃れられる”

 

彼女のその抽象的な願いは何を招くのか。

 

「桜のその願いはそんなに重要か?」

 

兄のその問いに彼女はただ頷いた。彼は暫く思案した後、こう言った。

 

「……そっか、わかった。なら聖杯戦争に参加しよう」

「兄さん?」

「馬鹿な顔するんじゃありません。大事な妹が戦うって言ってるのに、のほほんとする兄がどこに居ますか。俺も戦うって言ってるの」

 

彼女はハッと面を上げた。

 

「……私のために戦ってくれるの?」

「そう、桜のために戦うの。恥ずかしいこと言わせるんじゃありません。取りあえずはライダーを交えて相談だな、これから忙しくなるぞ。学校だって行けないかも」

 

桜のために戦うという兄の台詞は、全てを吹っ飛ばして彼女の心と身体を高鳴らせた。不健全な高鳴りだった。想いが極まり真也に抱きつこうと腰を上げた時、

 

「あっ……」

 

ひんやりとした感覚が身体にあった。彼女は慌てて腿を閉じた。

 

「あ?」

「そ、相談の前に私着替えてきますっ!」

「着替え? 出かける訳じゃ無いのに、なぜに?」

「な、なんでもありませんっ!」

 

顔を真っ赤に染めて、そそくさと出て行った桜の後ろ姿を見送って彼はため息をついた。

 

(凛とはこれで敵同士か、人生とは皮肉よのぅ)

 

 

◆◆◆

 

 

場所はリビングに戻り、真也はソファーに腰掛けた。組んだ両手を頭の後ろに、ふんぞり返った。台所に立つのは桜である。3人分のココアを作っていた。彼女は先ほどと同じ服装だった。

 

(着替えたって、何を?)

 

彼はそう疑問に思ったが、どうでも良いと頭の隅に押しやった。問題はローテーブル越しに腰掛けるライダーの姿である。なんで目隠しをしているのか、なぜ眼に毒な恰好をしているのか、何処の英霊なのか幾つか疑問は浮かんだが、最初の質問はこれにした。

 

「ライダー、お前の望みは何だ」

「私に聖杯に掛ける願いはありません」

「……は?」

 

英霊は本来、本人の意思に関係なく世界に行使されるモノ。その英霊システムを間借りしている聖杯は、桜に近い境遇のサーヴァントを、本人の意思なく呼び出す場合がある。ライダーもその口だった。

 

「なら、ライダーに戦う意義はないのか」

「桜を守る、それが理由です」

「なんで?」

「桜は私に近い」

「どういう意味?」

「秘密です」

 

目は見えないが、すんとすまし顔のライダー。問いただしても答えそうにない。根掘り葉掘り聞くのも失礼だ、なにより、召喚理由に大した意味は無い……そう思った彼はこれ以上の追求を止めた。“かっての私に近い”ライダーは桜みたいに少し垢抜けない娘だったのだろう、そう思う事にしたのだった。

 

(願いはマスターとサーヴァントの二人分、桜には願いがあってライダーは無い。と言う事は一つ余るのか。温泉旅行でも頼むかね……)

 

キッチンで背を向ける桜に声をかけた。

 

「さくらー、草津と熱海どっちがいいー?」

「草津が良いですー」

(いやいやまてまて、最後の蟲が一匹が居た。それにしよ)

 

そんな馬鹿な事をしていたら、彼の目の前にライダーの顔が合った。目隠しで顔は見えないが整った顔立ちをしているだろう事は容易に知れた。ソファーに腰掛けている真也に、覆い被さる様に迫っている。彼女は彼の首元に鼻先を近づけ、スンスンと匂いを嗅いでいた。

 

「……なにを?」

 

この状況に至った原因が読めない真也にライダーはぐうと腹の音で返事した。

 

「ぐう?」

「シンヤ、貴方は良い匂いがしますね」

 

さらりと垂れた長い髪が彼に被さった。彼には髪で出来た籠に閉じ込められた様に感じた。薄暗く、甘い匂いがする。触れていなくとも伝わってくる体温はいかほどのものか。思わず眼を回す彼だった。

 

艶のある唇が開けば、牙が見えた。それは唾液に濡れ糸を引いていた。首筋を這う舌は触覚でもあり性器でもあった、くすぐりはいつしか快楽に変わっていった。ライダーさえも真也の首筋に見える膨大な魔力(血の流れ)をみて身体を高鳴らせていった。

 

“じっとしていていなさい、直ぐ終わります”

“まて、俺は、”

“シンヤの血なら私は大きな力を得る事が出来るでしょう。ひいては桜のためです”

 

その嬌声(ささやき)それは現だったのか、それとも夢だったのか。桜のためという言葉は彼の最後の抵抗を奪った。彼女の牙が首筋に触れた時。

 

ガシャン! という何かが落ちて割れる音がした。

 

我に返った真也がその音を見れば妹の姿。信じられないと言う嘆き、ではなく憤りで現実を壊してしまいかねない、壊してしまえという表情をしていた。桜の足下には割れたマグカップとこぼれたココアが3人分。

 

一度喜ばしておいてこの裏切り(仕打ち)。桜の衝撃は如何ほどのものか、憤りが怒りに変わるのにさして時間は掛からなかった。両手を強く握り、身体を震わせ始めた。何か発言せねばマズい、と彼は慌ててこう言った。

 

「桜、ちょい待ち。これはそういう事じゃ、」

「いつまで触ってるんですか……」

 

気がつけば、彼の左手はライダーの胸に触れていた。

 

「あれ?」

 

慌てて手を離すが後の祭り。

 

「残念です。シンヤ、また次の機会に」

 

ライダーは霊体になって消えた。

 

「自分だけ逃げるなっ!」

 

桜の双眸は前髪に隠れ見えない。いっぽいっぽ歩み寄る、その恐ろしさはどうだろう。まるで鬼神か魔神だ。

 

「ライダーとはさっき会ったばかりなのに……」

「お、おちつけ。そういうエッチな事じゃ無くて、血を吸うというそういう行為で、」

「美綴先輩といちゃついたあげく、遠坂先輩にもホイホイついて行って……」

「ちょっとまて。それは誤解。その2人は違う。なんでもないのであって」

「へぇ、ライダーとは何でもあるんですか」

 

彼は己の失策に天を仰いだ。キリシタンではないが十字を切った。彼に影が落ちた。

 

実際のところ彼には人並みの性欲はあった。生物である以上仕方が無い。桜に義理を立てて動画や写真で発散していたが、目の前にある女の身体は余りにも生々しく、現実的で、衝撃的だったのである。だものでライダーの誘惑にあっさり陥落してしまった。もちろん、凛の“童貞”という罵りも後押ししていた。

 

「兄さんのっ! ばかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーっ!!!!!」

 

左頬に強烈な痛みが走る。これは当面口を聞いてくれないな、と彼は涙した。

 

 

◆◆◆

 

 

真也を見送った凛はアーチャーを連れて陽が落ちたばかりの新都に繰り出した。他マスターの情報集めと陽動である。

 

河川敷から綺麗な夜景を見て、愉快になった。駅前のロータリーで怪しい人物を追えば肩すかし、落胆した。下町の住宅街で犬に吠えられ、生意気な子供に腹を立てた。カフェで一息つけばナンパ男に纏わりつかれて、鬱憤がたまる。

 

成果は無し。適当な公園でからあげクン・レギュラーを頬張っていると、背後に控える霊体のサーヴァントにささくれだった。アーチャーが何か言った訳ではないが、その気配は如実に伝わってきた。

 

「楽しそうね、アーチャー」

「いや、意地っ張りもここまでくれば立派なものだと感心していた。君は進んで厄介ごとに首を突っ込む質のようだ」

 

姿は見えないが、人を小ばかにしたような笑みが脳裏に浮かぶ。そしたら凛に暴言を吐く真也の顔も浮かんだ。

 

(どいつもこいつも)

 

どうして私の身の回りに居る男どもは礼儀が成っていないのか。

 

(父さんは、背が高くてスタイルが良くてハンサムで、礼儀正しくて優しくて頭が良くて、強く気高い立派な魔術師だった……)

 

そんな人物がなかなか居ない事は分かってる、だがどこかに居るに違いない。事実父さんは居たのだから。そのために己を磨いてきた、それを求める権利はあるだろう。

 

物思いに耽っている凛にアーチャーは言う。

 

「一度出直したらどうだ。まだ陽も落ちて間もないから人通りもある、マスターが動き出すにはまだ早かろう」

「情報収集は地道なものよ。それに、手ぶらで帰れるかっつーの」

「やれやれ、おまけに負けず嫌いと来たか。あそこまで見せつけられたのだ、分かってはいたがね」

「何が言いたいのよ」

「これはあの男の成果だな。その評価はしなくては成るまい。マスターの素を見る事が出来たのだ」

「真也の事は言わないで」

 

キッと鋭い視線の凛である。アーチャーは肩を竦めた。続けてこう言った。

 

「では凛。探偵の真似事というのはどうだ。新都でガス漏れ事故が多発してるだろう? 調べておくべきだと私は考える」

「根拠は?」

「新都は急開発された街だが流石に数が多すぎるのが一つ。一ヶ月前から急に増えているのが一つ。古い建物新しい建物問わず起こっているのが一つだ。事故の発生時期がばらけていれば納得も出来ようが、私に言わせればあからさまだな。誰かの仕業と判断するのが妥当だ」

「そう、随分世情に詳しいのね」

「情報化社会の恩恵だな。君も毛嫌いせずにインターネットを使ってみたらどうだ」

 

なんと言う事は無い、アーチャーは葵の端末を拝借したのだった。マウスを持ってモニターに向かう英霊の姿はなんとも珍妙である。凛は器用だし機械への順応性も高いのだろうと追求はしなかった。

 

「大きなお世話よ。そんな事よりアーチャー、そこまで自慢げなんだから事件の起こった場所は控えてるんでしょうね」

「過去10件まで控えてあるが、手近なところから調べるか?」

「なら一番新しいところから当たりましょ。何か手がかりが残ってるかも知れない」

 

そのビルはゴシック建築をモチーフにした最近話題になったビルだった。白色で正面にあるエントランスは聖堂のよう。テナントやオフィスが入った複合ビルで、つい先日までは賑やかな場所だった、が。今では閉じられがらんとしている。見上げれば照明は落とされていて、寂しさを隠さない。街の灯りでひっそりと浮かび上がるだけだ。

 

ゲートはもちろん閉じられていて、ご丁寧にも“Keep Out”のテープで封印されていた。もちろん彼女はそんな事に縛られないし、従う理由も無かった。アーチャーに侵入させ、セキュリティを停止すると彼女は裏口から堂々と侵入した。

 

「機械に詳しいのね、アーチャー」

「ものの構造を把握するのは得意でね」

 

そんなやりとりをしながら該当のフロアに立ち入れば、凛の表情がたちまち険しくなった。微かに残る魔力の残滓、そして香の香り。何らかの術を使った事は明白だった。

 

「何の香だろう、これ」

「魔女の軟膏だろう、セリ科の愛を破壊するという奴かな。だとすると相手は女か。サーヴァントになってまで八つ当たりするとは根が深い」

 

凛は一般人を巻き込んだそのやり方に怒りを覚えて、続けて幾つかの現場を探ってみた。だが有効な手がかりは見つけられず、たまたま通りかかった公園に立ち入った。歩き回って時間も夜から深夜に変わっていた。凛はベンチに腰掛け、つぶつぶコーンスープを飲んだ。

 

「アーチャー、どう思う? 私はキャスターだと踏んでいるのだけれど」

「それについては同意見だ。だがなかなか頭の切れる人物のようだな。これだけ派手に動いて尻尾を掴ませない」

 

凛は引っかかって出てこないコーンの粒をどうにか食べようと、缶をトントンと叩いていた。缶の底にある粒は食べた、入り口の内側周りにへばり付いている数個はどうしても取れない。彼女は苛立ちを堪えて、そのまま屑箱に放り込んだ。どうにか全部食べてやろうとするも今回も敗北らしい。

 

「しかたない。収穫もあったし、今日は一度帰りましょ」

「帰っちまうのか。それは残念だぜ。どこまで追えるか見ていたかったんだけどよ」

 

その声に応じる様に、凛はざっと構えた。アーチャーは姿を顕した。

 

樹木の幹の影、そこから青い人影が現れた。男は青いぴったりとしたスーツ姿で、髪を刈り上げ、首筋から一房髪を流していた。一見痩躯なシルエットだが、十分に鍛えられた肉体である。野獣そのものだ。そしてその男は赤い槍を持っていた。

 

凛にはその人物がサーヴァントであると察しが付いた。

 

「ランサー……」

 

凛の呟きにランサーは挑発的な笑みで返した。その笑みは肯定である。ランサーは辺りを見渡した、舗装された広い空間、道路からは樹木で視線が塞がれている、深夜で人気も無い。ただ煌々と街灯が灯っているだけだ。凛を追っていた彼は仕掛けるならこの場だと決めたのである。

 

「まぁ、影から見るのも飽きてきたところだ。軽く運動としゃれ込もうじゃねーか、そう思わねえか? 兄さんよ」

 

アーチャーは夫婦剣を投影し、ランサーは赤い槍を構えた。初めて見るサーヴァント同士の戦闘である、二人が放つ威圧と魔力は膨大で凛は圧倒されていた。だから赤毛の少年がその場に近づいているなど気づきようが無かったのである。

 

 

◆◆◆

 

 

真也は台所に立ちコップに水を注いでグビリと飲んだ。桜に引っぱたかれた左頬がジンジン痛む。桜と関係改善を図れたと思ったらあっという間に振り出しに戻ってしまった。或いはマイナスかも知れない。

 

「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 

と盛大なため息をついた。

 

「顔色が優れないようですが」

「おかげさまでね」

 

彼の背後、リビングにライダーが立っていた。照明は点いていない。窓から漏れ入る光を浴びて、闇に浮かんでいた。ライダーは夜が似合うな、と彼は思った。

 

「桜は?」

「入浴中です。湯船につかりながら、兄さんの馬鹿、兄さんの馬鹿、と呪詛のように呟いています。涙目で怒っています」

「あ、そう」

 

マスターである桜が本気で怒れば令呪を使うだろう、そうで無いなら本気では無いという事だ。良いのか悪いのか、嬉しいのか残念なのか、彼はもう一度水を飲んだ。彼女は近寄りもせず壁の華となっていた。真也はまた血を吸いに来るのかと警戒はしていたが、もうその気は無いらしいと安堵した。ライダーは言う。

 

「迂闊でした」

「なにが?」

「サクラがシンヤを男としてみている事です」

「ないない、それはない。兄妹だぞ、俺ら」

 

「それでは何故サクラが怒ったと?」

「桜はおにいちゃん子だから。昔から他の娘と仲良くしてるとヤキモチを焼くんだ。かわいいだろー?」

「であれば尚更心配です」

 

マスターを心配するというライダーの発言は大いに彼を安心させた。

 

「なんで?」

「サクラのあの反応は過剰です。嫉妬で無いならばシンヤに依存しているかも知れません」

「依存?」

「はい」

 

ライダーに依存だと指摘され、思わず黙り込んだ。そんな馬鹿な、だがしかし。過去を振り返り思い出せば心当たりは幾つかあった。それはそれは昔の話。まだ幼少の頃、貰ったラブレターを桜に破られた事があった。年上の女の人から頬にキスされれば赤くなるまでハンカチで擦られた。部屋の掃除とかこつけて、荷物(エロ本)もよく検査される。

 

(昔からこうだったから何とも思わなかったけれど、これって異常なのか?)

 

桜のあの反応は嫉妬に起因する物だったが、ライダーはまだ桜の事情を知らない、真也は桜の本心を知らない。彼の重大な勘違いは今発生したのである。

 

リリリ、と電話が鳴る。我に返った真也は慌てて電話を取った。

 

「はい、蒼月です」

『衛宮と申します。夜分遅くに申し訳ありません。真也さんですか?』その声は舞弥だった。

「はい。どうかしましたか?」

『士郎がまだ帰らないので、そちらにお邪魔していないかと電話させて頂きました』

 

「いえ。来ていませんが。バイトでは?」

『もう上がった事をバイト先に確認を取っています』

 

真也は一瞬“士郎の奴、夜遊びしやがって”と思ったが“連絡無しというのも士郎らしくない”と考えた。好き嫌いは別にして筋を通す人物だからである。

 

『お騒がせしました。もし士郎がそちらに伺ったら連絡を頂けますでしょうか』

 

モヤモヤとした雲の様な不安が徐々に形になる。凛は“令呪があるか、ミミズ腫れなどその予兆はあるか”と彼に聞いた。先日衛宮家の食事に呼ばれたとき士郎の左手にそれらしい跡があった。連絡する奴が連絡しない、良くない何かが起こった。カチンとイメージが結像する。

 

「舞弥さん、俺が士郎を探しに行きます。すれ違い防止のためそのまま家に居てください」

『え、ええ』

 

真也は士郎のバイト先と、いつも使う道を聞いて電話を切った。彼は駆け足で自室に戻り、防寒具と霊刀を手に取った。玄関で待ち構えていたライダーが言う。

 

「一体何事ですか。血相が変わっています」

「ライダー。俺が戻るまで家から一歩も出るな。万が一襲撃を受けた場合、桜を連れて直ぐ士郎の家まで逃げろ。場所は桜が知ってる。お前の脚なら造作も無いな」

「待ちなさいシンヤ。貴方の説明は不足しています」

「後で話す!」

 

なおも詰め寄るライダーを無視して、彼は原付スクーターに跨がった。士郎がマスターかも知れない、これは根拠の弱い推論だ。そしていま他のマスターのサーヴァントに襲われている、これはただの想像でしかない。ただ一つだけ確実な事は、士郎が死ねば桜が泣く。

 

「死ぬなよ、あのクソッタレ!」

 

彼はヘルメットを雑に被るとアクセルを拭かした。

 

 

 

 

 

 

つづく。




あの兄にしてこの妹あり。リミッターカットォォォ!!!







【お問い合わせ】
Q:何で桜を連れて逃げないの?
A:
真也は状況も顧みますが、基本的に桜の希望を叶えるというスタンスです。別名甘やかすとも言う。脅威があっても桜が日常の生活を望むのであれば、それを排除するというふうに動きます。桜が逃げたいと言って、初めて避難行動を考えます。

逼迫かつ明確な危機が迫ればその限りではありませんが、今後展開していく聖杯戦争は桜の利益と危険、真也の実力、凛と天敵である士郎の動向、戦況が微妙なバランスを取るので、真也に難しい判断を迫るでしょう。

以上を踏まえて。序1での凛との避難するしないの会話を追加しました。

因みに、ご存じの事と思いますが桜は自分の本心を真也に隠しています、これ大フラグになります。


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08 聖杯戦争・序3

士郎は初めそれが映画の撮影、もしくは何かの冗談ではないかと思った。武器を握り対峙する赤い男と青い男。二人の男が繰り広げられる剣戟は、激しいなどと言う言葉では表現できない、現実味を欠いたものだった。離れていても、否、離れていてこそ、それが良く分かった。

 

“関わってはいけない”

 

偶然走った一台の車を切っ掛けに、彼は逃げだそうと身体を動かした。その気配は青い男に察知され、士郎は一目散に掛けだした。

 

気がついたら比較的人通りのある基幹道路、それなりに賑わう駅前ロータリーに抜けた。警察署に駆け込んで事情を話した。見たままを話せば悪戯だと思われる可能性があったので“刃物を持って争っていた”と話した。警官が駆けつけると現場には誰も居なかった。幾つか書類を書いたら気が落ち着いた。

 

あれは何だったのか。

 

酷く現実味を欠いていたが、それは事実だと感覚が告げていた。もう一人誰か居たような気がしたが、良く分からない。

 

舞弥に連絡を入れたかったが、生憎と公衆電話は見つからなかった。携帯が普及し急激にその数を減らしていたのである。心当たりのある公衆電話は現場の近くだ、一人で近づく気にはなれなかった。こんな事があるなら携帯電話を買っておこうか、そんな事を考えた。

 

念のためにと“M”字で有名なハンバーガーチェーン店で時間を潰し、もう犯人はどこかへ行ったに違いないと店を出た。

 

その後はいつもの帰路である。バイト帰りいつも使う近道を通っていると、そこにその男は立っていた。

 

「よう」

 

日中はそれなりに賑わうその場所は、深夜ともなれば人影一つ無い。ぽつんぽつんと街灯が点在し申し訳程度に灯っている。河川と陸を隔てる柵は、幽玄の様に浮かび上がるだけだ。その向こうからは水の気配だけがあった。他には青白い光を放つ自動販売機と、無人のベンチがあるのみ。

 

臨海公園。士郎の前に立つ人物はランサーであった。彼は槍を肩に乗せて、皮肉めいた笑みを見せる。

 

「初動は良かったが詰めが甘かったな。乗り物を使って他の街に逃げれば良かったのによ。たしかタクシーとか言ったか? それでも追おうと思えば追えたが、そこまで暇じゃねぇし」

 

男が赤い槍を回せばヒュンという鋭い風きり音がした。士郎はここで殺されると言う事が分かった。覚悟した訳でも認めた訳でも無い、ただ分かっただけである。無意識に後ずさる。

 

「運が悪かったな坊主。ま、見られたからには死んでくれや」

 

ランサーの眼が光った瞬間である、その男に向かって何かが飛んできた。士郎には暗みもあって視認できなかったが、それは半月状の空気の断層だった。その断層は激しい風切り音をかき鳴らし、埃と小石を巻き上げ散らした。真空の刃“かまいたち”である。

 

その直後に原付スクーターに乗った真也が現れた。ランサーは大きく後ろに跳躍、バックステップすると吠えた。

 

「誰だっ!」

 

真也は間髪置かず右腕を振った。その指揮者のような腕はかまいたちを生み、大地を走り、牽制となった。

 

「士郎! 乗れ!」

 

士郎が飛び乗ったのと、ランサーが槍を振りかまいたちをかき消したのは同時だった。真也はアクセルを捻り走り出した。原付に二尻であるから非常にバランスが悪い。士郎は右手でキャリアを掴み、躊躇ったあと真也の左腰を余った手で掴んだ。

 

「なんで真也がここに居る!」

「説明は後だ! 黙ってろ!」

 

真也は士郎を乗せて臨海公園をでた。二人乗りは真也にとっても初めてでバランスが取りにくい、ふらついていた。ただ道路はガランとしていて走りやすかった。事故を起こす事は無かろうが、言い換えれば人気が無い。

 

「何処へ逃げるつもりだ!」

「人気の多いところだ! だから黙ってろ!」

「あの青タイツはしつこいぞ! 冬木を出ない限り追ってくる!」

「ガソリン少ないんだよ! いいから黙ってろ!」

「俺ノーヘルだ!」

「一つしか無い! そろそろ黙りやがれぇぇ!」

 

ベベベベと50CCのスクーターは必死にエンジンを回しているが、逃げ切るのに十分な速度が出ない。士郎は背後が気になって気が気でない。追ってくるだろうという確信を持ってこう言った。

 

「もっと吹かせよ! 追いつかれるだろ!」

「原チャ二尻で無茶言うな! 黙れって言ってるのが分からないのか!」

「馬鹿かテメェ! そっちは上り坂だ!」

「士郎がごちゃごちゃ言うからだろうが! 黙れという言葉を辞書で引いてこい! この阿呆がぁぁぁぁ!」

 

堪らず真也が肩越しに叫ぶと、バイクの走行軌道上に何かがあった。それは深緑で薄くビラビラ形状だった。前輪が踏みつけるとグリップを失いスリップした。車体は制御不能に陥り、二人は投げ出された。ゴロゴロと盛大に転がった。スクーターは滑り電柱に当たった、ガシャンと致命的な音を立てる。身体の痛みを堪えながら、真也が起き上がれば踏みつけた物体を見て叫んだ。

 

「どうして道のど真ん中にワカメが落ちてやがる!」

 

ガバッと身を起こした士郎が罵倒した。

 

「ワカメに恨まれてるからだろ!」

「身に覚えは無い!」

「ワカメを食い過ぎたんだろ、この馬鹿!」

「なら日本人は全員恨まれてるな!」

「俺はそこまで食ってねぇ!」

「いい加減ワカメを忘れろ! なんで執着してるんだよ!」

 

ランサーの気配を察知した真也は、士郎の首根っこを掴んで空き家の庭に逃げ込んだ。豪邸だったそこは広かったが、更地で塀だけが残っていた。一体何だ、と言おうとした士郎の口を真也は塞いだ。もちろん塞いだのは手の平である。大きい庭石の影に隠れて、朽ちた門を見つめる。その2柱の隙間からはパイプ状のガードレールが闇夜に浮かび上がっていた。その様は怪奇映画の1シーンを想起させた。

 

徐々に近づくランサーの気配。上手くやり過ごせるか、という真也の希望はあっけなく潰えた。

 

「コメディーは終わったか? こそこそ隠れてないで出てきやがれ」

 

ランサーは赤い眼を光らせて立っていた。真也は舌打ちすると、立ち上がってランサーに対峙した。ランサーは真也をさっと探る。見た限り令呪は見当たらない、だが手に持つ武器は魔剣の類いだ。なにより強い魔力を内包し、その佇まいは訓練された物だと分かった。

 

「マスターでもサーヴァントでもない。かといって一般人って訳でもなさそうだが……誰だオマエは」

 

手間を掛けさせてくれたな、という苛立ちは興味に変わった。庭石の影から士郎が声を掛ける。

 

「おい、真也」

「士郎はそこにいろ」

 

なお食い付こうとする士郎に彼はこう言った。

 

「俺は事情を知っている」

「……後で話せよ」

「生きてたらな」

 

無視されたと思ったランサーは苛立ちを隠さない。

 

「シカトとは良い度胸じゃねえか、この野郎」

「悪いね、美人さん以外はどうしても対応が悪くなる」

 

真也はヘルメットとゴーグルグラスを手に取ると放り投げた。その左頬は紅葉型に腫れていた、それを見たランサーは鼻で笑う。

 

「左頬にひっぱたかれた跡があっちゃ、気取っても格好は付かねえな」

「絶世の美女だぞ、勲章だよ勲章」

「ハッ、ほざきやがる」

 

真也の返答が気に入ったのか。ニタリ、そのサーヴァントは挑発するように笑った。

 

「空気の圧力差を利用した技、あれはオマエだな?」

「だと言ったら?」

「多少はやる様だが、その程度でこの俺と事を起こす気か? お前なら俺がどの程度か、分からねえってことはねえだろ?」

「あぁ。お前は確かに強そうだ。出来るなら回れ右して帰りたい」

 

「長引くと人目に付きやすい。見逃がしてやっても良いぜ? その坊主を置いていくならよ」

「そうくるよな、やっぱり」

「1度だけ聞く。さっさと決めな」

 

ドンッ! 大地を振るわす音がした。それは真也が大地を蹴った音だ。まるで大砲の様な音だった。その踏み込みは驚異的で、普通の人間なら姿が掻き消えた様に見えただろう。精通する者なら縮地だと答えたに違いない。

 

世界から音が消え鼓動だけが響く。音すら止まりかねないその刹那。霊刀に魔力を込めて、抜刀、ランサーに打ち込んだ。

 

ギィン! ギリ、ギリ、ギチリ。耳障りな音が続けて鳴った。異なる質の魔力が反発し合い火花が散る。真也が縮地から繋げた神速の抜刀は、ランサーの赤い槍に阻まれた。ただその首を僅かに切っただけだ。

 

「へっ! 返答代わりに打ち込んでくるとは分かりやすい野郎だ!」

 

ランサーは口を歪め笑う。牙すら見せた。

 

「気に入ったぜ! 遊んでやる!」

 

真也にとってライダー戦は状況が良かった。狭い室内では機動力を活かせまい。あれが屋外、木々に囲まれた林だったなら苦戦しただろう。二階にマスターである桜が居るのならば、ライダーは屋外へのおびき出しもままならないからだ。

 

アーチャーとの対峙、ライダーとの戦闘、この二つの戦闘経験。相まみえるのは三騎士の一人であるランサー。以上から出し惜しみしている余裕は無いと、彼は全力を持って奇襲を掛けたのだが、見事に阻まれた。

 

ランサーは槍で真也の刀を押し返すと薙いできた。その凄まじく速い切り返しを真也は捕らえた。視界に映るランサーの姿勢、つまり腕や肩の位置を見た。それに加えて、大気の揺らぎ、大地を伝わる振動、氣の流れ、それらを一瞬で読み、槍の軌道を読み上げた。身を下げ、かつ刀を掲げて、その一撃を受け流す。火花が散った。

 

真也は再度踏み込んだ。身を落とした姿勢を利用して、ランサーの脚を切りつける。見越していただろうランサーはバックステップ。真也は再再度踏み込み、着地する直前のランサーの身体を左手の指で押した。

 

「なにっ!」

 

ランサーの敏捷性は驚異的で、バックステップすら鋭かった。それゆえ真也の押し手は浅かったが、かろうじてバランスを崩す事が出来た、つまりは隙である。縮地。ランサーに突き立てた彼の刺突は槍の柄に弾かれた。恐るべき精度と反応速度であった。ランサーは槍を脚代わりにして蹴りを撃ち込んだ。真也ははじき飛ばされ、その距離は10メートルほど。彼は舌を打った、つまり間合いを取られてしまった訳だ。

 

真也の両足が大地に轍を作っていた。ランサーは赤い槍をヒュンヒュンと鋭く回し、空を切った。その穂先による空圧は大地に傷を残した。ランサーは笑っていた、だが真也にそんな余裕などない。

 

「やるじゃねえか。剣と槍では間合いが違う。だから初手の打ち込みを奇襲に見せかけて、俺の懐に踏み込んだな? あれだけ近ければ槍は大幅に威力を削がれる」

「本音を言うと、初撃で首を撥ねたかった。流石三騎士の一人、恐れ入る」

「槍をかいくぐり踏み込む度胸と良い、俺の攻撃を読んだ見切りといい、とっさに俺を押した機転と良い、息さえ切らさない身体と良い、たいしたもんだ」

 

ランサーは腕を組んで彼をちらと見た。

 

「だが、おめぇ妙だな。眼は俺を捕らえているのに、体が追いついていねえ。痛めてるのか? それとも制限食らってんのか?」

「それを教えたら、引いてくれるか?」

「悪い冗談だぜ。これだけの獲物をわざわざ見逃す手はねーな」

(さて、どうする。もう懐に踏み込む事は不可能。これだけの高速戦闘では魔眼も使えまい。あの槍を一瞬でも止める事が出来たなら……)

 

真也は眼鏡を取ろうとして止めた。魔眼を使うと神経に負荷が掛かる、つまり反応が遅れるのだ。高い敏捷性を誇るランサーを相手では致命的である。

 

「……」

 

策をまとめた真也は突の構え。ランサーが宣言する。

 

「行くぜ」

 

ランサーは10メートルの距離を爆発的な踏み込みで一気に詰めた。これだけ距離を取ったのだ、予想通り突き、そして予想通り心臓を狙っている。だから真也は魔力を練り、左腕に乗せておいた。槍を絡め取り、脇に挟んだ。ランサーのその威力は驚異的でそれでもなお左腕と脇を切り裂いた。

 

真也ごと突き押しているにも関わらずランサーの突進は止まらない。このまま壁に叩き付けるつもりだろう。だがそれは真也の予想通りだ。彼の策は二つあった。背後にある蔵、それにランサーの槍を突き刺せ封じる、その衝突時の反動を利用し心臓を突く。途中で止められたら、右手にある霊刀で首を跳ねる、と言うプランだった。だが、ランサーは真也を掴むと投げ、大地に叩き付けた。その衝撃で息が止まる。つまりは読まれていたと言う事だ。

 

「追い詰められていたにも関わらず良い策を練る。だがな、舐めちゃいないぜ」

 

ランサーの赤い槍が真也の心臓を目標に定めた。

 

「全力のお前と戦いたかったが、ま、これも定めだ。あばよ」

 

突き立てられる寸前、士郎が鉄パイプを持って襲いか掛かった。それには魔力が帯びていた。

 

「やめろテメェ!」

 

ランサーの石突で腹を打たれ士郎は吹き飛ばされた。その隙を突き真也はランサーに頭突きを喰らわした。のけぞるランサーは笑っていた。

 

「足掻きが悪いぜ!」

「生憎と育ちは悪いんだよ!」

「いいねぇ、そういうの嫌いじゃないぜ!」

 

飛び退いたランサーは赤い槍を構えた。その目は大きく開かれていた。

 

「なら小手先も無粋。何処の誰かしらねえが、俺からの手向けだ。受け取りな」

 

ランサーは宝具を使う。この僅かな隙を逃すまいと真也は全力で踏み込んだ。赤い槍に膨大な魔力が迸る。だが彼の踏み込みは一歩及ばなかった。もたらされるのは単純な死である。

 

「刺し穿つ死棘の―」

 

士郎は悲鳴を上げる身体を強引に動かして再度ランサーに襲いかかった。士郎を打ったランサーは加減を間違えたのではない、一般人を止めるにはそれで十分だと踏んだのだ。士郎の質をランサーは知らなかった。加えればランサーが飛び退いた先は士郎が吹き飛ばされた場所でもあった。

 

「邪魔をするんじゃねぇ!」

 

士郎を狙ったランサーのそれは突きだった。薙ぎだったならまた結果は違っていただろう。その穂先は士郎の右腕、肘から手首の部分を貫いた。士郎は血が吹き出た事も激痛が走った事も、それらをものともせず身体全体で、赤い槍を絡め取る。

 

「チッ!」

 

ランサーが強引に士郎を振り払った時だ、その懐に真也が踏み込んでいた。眼鏡越しに見える瞳は蒼く光り、その口元は歪んでいた。ランサーは真也が同じ人種だと悟った。真也は霊刀を5時から11時の方向に走らせた。逆袈裟である。その魔力の籠もった一刀はランサーの脇から肩を切り裂いた。

 

浅い。手応えはあったが死に至るまい。

 

続けて切りつけようとした真也をランサーは蹴飛ばした。彼は転がり、土砂を巻き上げながら土蔵の壁に叩き付けられた。ランサーは切り裂かれ血を流す己の身体を見ると、悪鬼の形相を見せた。

 

「やってくれたな、このヤロウ……」

 

蹴りの衝撃が収まらない身体をどうにか動かして、身を起こす。土蔵の壁にもたれ掛かって真也はこう言った。血を吐き咳き込んでいる。

 

「カリカリするな、格下に噛み付かれるなんて良くある事……違うか?」

 

ランサーはその一言で頭が冷えた。腕を組んで宙を睨み上げる。

 

「これだからガキは嫌なんだ。大人への口の利き方が成ってねぇ」

 

やってられない、と言わんばかりである。

 

「ふむ、一足遅かったか。いや早かったのかな、これは」

 

塀の上、アーチャーが立っていた。月を背に見下ろすその姿はふてぶてしい。彼は凛の命を受けランサーと士郎を追っていたのである。静かで広い庭に鋭い緊張が走った。ランサーは全てを忘れたかのようにアーチャーを睨んだ。ギリ、ランサーは歯を噛み鳴らしアーチャーに言う。忌々しいと言わんばかりだ。

 

「またテメエか。お呼びじゃねえんだ、さっさと失せろ」

「残念ながらマスターの命令でね、その目撃者を追っていた」

 

アーチャーは夫婦剣を携えていた。続けて言った。

 

「だが、ここは引いてくれないか? 今夜は少々騒ぎすぎた。人目に付くのは君も本意ではあるまい。君とはやり合った仲だが、お互いに宮仕えという身分、理解はして貰えると信じている」

 

「俺はそのスカした面が気にいらねえんだよ。そんなに早死にしたいならテメエから片付けてやる」

「その傷、私の見立てではそれ程軽くはなさそうだ。それでもと言うなら構わないが?」

 

ランサーは腕を組んで仏頂面だ、不承不承だと言わんばかりである。彼は視線すら動かさずこう言った。

 

「おい、ガキども。聞いてやる、名乗りな」

 

士郎は右腕から血を滴らせながらこう告げた。彼はふらつきながらも立っていた。

 

「衛宮士郎、正義の味方を目指してる」

 

真也は壁にもたれ掛かりながらこう返した。

 

「蒼月真也、最強おにいちゃんだ」

 

“もう少し気の利いた事は言えないのか”、アーチャーはやれやれと頭を痛めた。傷は響くが余裕の表情でランサーは言う。

 

「シロウっつったか、また俺に狙われたくなかったら町を離れるこった。それとオマエだオマエ」

「なんだ」

 

そういう真也はいかにもしんどそうだ。

 

「もう一度やり合う時までに制限(ギアス)をどうにかしておけ」

「男とデートの約束をするなんて悪い冗談だ」

「口の減らないヤロウだ」

 

再び相まみえる、そんな確信を挑発的な笑みに変えてランサーは闇夜に消えた。士郎は一の腕を負傷。真也は左腕と左脇、吐血もしているから消化器系にダメージを負っていた。早く立ち去った方が良いが、身体が動かない。

 

流れる冷や汗を拭いながら、士郎は義理でこう聞いた。

 

「真也、動けるんだろうなお前。死にそうな顔してるぞ」

 

士郎なら癇に障る聞き方をするだろうな、そう予想していた真也は予想通り腹を立てた。

 

「自分のナリを見ろ、人のこと言えた様か」

 

そんな二人を見てアーチャーは首を傾げた。状況から推測して二人が共闘をしたのは間違いない、修羅場を共にかいくぐったのだ、何らかの共感を得ても良さそうなものだが、二人にそんな気は無いらしい。

 

アーチャーは士郎を仕留めるべきか考えた。真也は味方として扱えと命令されているが、士郎は別だ。この時点で士郎はサーヴァント戦を目撃した不幸な一般人なのである。なにより他の理由もあった。

 

「死にそうな顔してたら説得力はない」

「助けられたくせに態度がでかいな、士郎」

「真也は俺を助けたんじゃない、ただ戦いたかっただけだ。違うのか?」

「特攻したかっただけの奴がよくほざく」

 

「そのお陰で真也は反撃できた、事実を認めないのは愚者の証だろ」

「……愚者の意味を分かってるのか」

「辞書なんか引かなくても分かる、きっとどこかの間抜け面が載ってる」

「……上等だ。歯を食いしばれ、因縁にケリつけてやる」

 

「明日にしてやっても良いぜ。そんなフラフラじゃ勝っても面白くない」

「その人を舐め腐った顔が、いつ湿っぽくなるか楽しみだ」

 

痛む身体に鞭を打ち、士郎は腕をまくった。おぼつかない足取りの真也は首元のボタンを緩める。額が触れん程にガンを飛ばしあう、仲が良いの悪いのか分からない2人を見てアーチャーは剣を降ろした。この士郎は彼の知っている士郎と少し違う、そう感じたからだ。様子を見る事にして、マスターである凛に一任する事にした。

 

「アンタたち、いつまでそうやってるのよ」

 

その声の主を探れば朽ちた門に凛が立っていた。両手は腰、脚を肩幅に開いて不遜な態度。だがその可憐な姿には呆れが混じっていた。

 

士郎は「遠坂?」と驚いた。凛のいる理由が見つからないのである。真也は「……いつからそこに居た」と渋い顔だ。からかわれるネタを提供してしまったのではないかと警戒していた。凛は「衛宮君の“死にそうな顔してたら~”からよ」と嬉しさを隠さない。子供っぽい言い合いをネタに弄ってやろうとそう決めた。

 

凛の振る舞いが知っているのと違う、と士郎は戸惑った。何より気になるのが二人の関係である。それはともかくと士郎は言う。

 

「真也、説明しろ。どういう事だ。あの青い男とそこの赤い男は誰だ。何で俺は襲われた。どうして遠坂が出てくる」

「凛、任せた」

「どうして私に振るのよ」

「見られたのは凛の失態だろ、違う?」

 

たちまち憮然とする凛だったが、事実は事実なので渋々こう言った。

 

「その前に手当が必要ね。衛宮君、右腕を出して。止血だけしておきましょ」

 

傷口は鋭利で綺麗だった。これなら直ぐ治るだろうと凛は当りを付けた。士郎が言う。

 

「なら俺の家にいこう。医療品も一通り揃ってる」

「衛宮君の家?」

「同意。ここからなら遠くないし、士郎を送り届けないと舞弥さんが心配する」

「馴れ馴れしく舞弥さんとか言うな」

 

義理は果たしたと真也はヘルメットを被った。

 

「真也、何処行くのよ」

「もう疲れたから家に帰る。あとよろしく」

「アンタも来るのよ。話もあるし怪我もしてるじゃない」

「えー」

「なに? 文句あるの?」

 

詰め寄り遠慮無く言い合う二人を見て、関係を不審がる士郎だった。

 

 

 

 

つづく!



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08 聖杯戦争・序4

場所は移り衛宮邸。和風の居間、四角い大きめのちゃぶ台に向かうのは凛である。チクタクと時計が時を刻む。彼女は肘を突いて組んだ両手の上に顎をのせている。気怠いその雰囲気は美少女の物だったが、耽る内容は少々物騒だ。

 

士郎は舞弥に引き連れられて奥の部屋で相談中。真也は彼女の背後で壁にもたれ掛かっていた。凛はどうしてこうなったのか考えてみた。新都でアーチャーを伴って行動したのは良い、ランサーと遭遇したのも良しとしよう。

 

「なんであそこに衛宮君が現れるのよ」と独りごちた。

「士郎、新都でバイトしてるから」と真也は答えた。

 

凛は振り向かずそのままの姿勢でこう続けた。

 

「新都に何人居ると思ってるのよ」

「士郎ってトラブル探知機なんだ。子供のころ正義の味方を目指して、毎日ケンカを探してたからその腕前は魔術師並みらしい」

 

「詳しいのね」

「一成に聞いた」

「柳洞君?」

「そう」

 

「それってトラブルメーカーって言うんじゃ?」

「メーカーかと言われると微妙じゃないか。どっちかというとトレーサー」

「あぁ、メーカーは真也だったわね」

「やかましい」

 

凛は続けて考えた。ランサーが追ったのは目撃者を消すためだ。それは凛とて同様である。ランサーが仕留められなかったら凛が仕留めなくてはいけなかったのだ。目撃者を探したのは、アーチャーを動かしたのは、せめて見届けようと思ったから。ところが目撃者は生きていて、おまけに真也も付いてきた。その目撃者が士郎だったので更に驚いた。

 

「真也」

「なに」

「どうしてあの場所に居て衛宮君を助けた訳?」

「……」

 

真也はじっと凛を見た。言うべきか迷っているようだった。

 

「言いなさい」

 

真也は駆けつけた理由を話した。士郎の左手にあるミミズ腫れが令呪の予兆ではないか考えたこと、帰宅時間が遅れているにも関わらず連絡一つ無かったこと、トラブルに巻き込まれているのではないかと推測したこと、以上を話した。ただ桜の思い人だとは伏せた、プライベートな話だからである。

 

「衛宮君がマスター?」

 

凛は初めて振り向いた。真也は身を竦めた。

 

「士郎の左手に令呪の予兆がある」

 

真也はハッキリとそれを確認したのだった。凛は呆気にとられていた。

 

「なんだ、気づいてなかったのか」

「え、なに? つまり衛宮君は魔術師って事?」

「そうなるな」

「わたし彼の事知らないんだけれど。わたし冬木の管理者なんだけれど」

「知らんがな」

「ど、どいつもこいつも……」

 

ちゃぶ台の上にあるお茶をかっ食らうと湯飲みを置いた。ゴンと音が鳴る。

 

「それで?」

「士郎は苦手だが、別に死んで欲しいとは思ってない。OK?」

「ふん、まぁいいわ」

 

気に掛かるのが舞弥である。彼女は士郎から人外めいた存在(サーヴァント)の話を聞くと、何が起こったのか察しが付いたようだ。

 

(あの舞弥って人、聖杯戦争のこと知ってるのかしら。何者?)

「久宇舞弥って士郎の養母みたいだな」

「何も聞いてないわよ」

「そんな顔してた」

「なら私が何を考えてるか分かる?」

「……お茶淹れようか?」

「濃いのお願い♪」

 

その舞弥は士郎の手当てをしたあと話があると、彼を連れて奥の間に籠もってしまった。時計を見ればそろそろ1時間は経つ、凛はちゃぶ台に突っ伏し、机上に置いてあるあめ玉を弄びだした。

 

「で?」

 

凛の問いかけに真也は思わず口をつぐんだ、渋い顔である。彼には凛の意図が手に取るように分かった。うやむやにしたかった問題だが、凛はそれ程甘くなかった。一縷の望みを掛けてとぼけてみた。

 

「で、とは?」

「とぼけるんじゃないわよ」

 

それは彼の身の振り方である。

 

「……避難はしない」

「真也がそう決めたならこれ以上干渉する事じゃないわね」

(おぉ、なんと物わかりの良い)

 

「でもこれからどうするつもりなのか、これだけは確認するわよ」

「言ったろ、基本的何もしない。襲われたら武力対応」

「ランサーに睨まれた、そうアーチャーから聞いたのだけれど」

(……耳が早い)

「他のサーヴァントにも喧嘩を売りそうね、アンタ」

 

真也はこほんと一つ咳払う。

 

「ふむ、では率先的に干渉しよう。攻撃こそ最大の防御だ」

「……ごめんなさい、貴方の言っている事が良く分からないのだけれど」

「首尾良くマスター襲って美人さんサーヴァントを確保。そして、いちゃいちゃ」

 

凛は笑顔ですくっと立ち上がると、歩み寄り身を寄せた。片足を立て腰掛けている真也の胸に左手を添えた。手の届く距離にある凛の姿。か細く白い左手はとても柔らかく、とても暖かい、そう彼は感じた。10代特有の甘い匂いが鼻孔を突く。心臓が一つ強く打った、それが露呈しないか、彼は不安になった。凛は笑みに僅かばかりの鋭さを織り交ぜてこう言った。

 

「ゼロ距離ガンド喰らってみる?」

「ごめんなさい、調子に乗りました」

 

真也は桜がマスターである事を隠すため、凛をからかったのだった。彼は凛との何気ないやりとりが楽しい、それに気づいていなかった。

 

 

◆◆◆

 

 

衛宮邸の奥まった部屋に舞弥と士郎が居た。士郎の部屋で二人は正座で見合っていた。静かで物音一つ聞こえない、木造建築とは言え大声を出しても居間には届かない、それだけの距離が離れていた。舞弥は士郎の部屋を見渡した、相変わらずの殺風景さ、彼女はそう思ったがそれどころでは無かった。

 

“常人離れした人間の存在”、“時代錯誤した物々しい恰好”、士郎の断片的な話を聞いた舞弥はそれがサーヴァントであると確信した。

 

再びこの冬木市で聖杯戦争が起こる。切嗣が残した家、士郎の生まれた土地、次回の聖杯戦争までのインターバル、これらを考慮して、期間限定で冬木市に留まったのだが、見込みが甘かったと思い知らされた。ただ10年で再発したのは切嗣の聖杯破壊が原因であるからその判断を攻めるのは酷であろう。

 

問題は、士郎がそれに巻き込まれた事、否、巻き込まれそうになっていると言う事である。彼の左手にあるミミズ腫れ、それが令呪の予兆であると言う事を彼女は見落としてしまったのだ。だが一番の問題は別にあったと、彼女は思い知らせた。

 

「士郎。2週間ほど冬木市から離れます、いいわね?」

「駄目だ」

「危ないの。怪我をするの。逃げるの」

「舞弥さん。人を説得させるには理屈じゃ無くて納得させるの事が重要だろ。俺はまったく納得してない」

 

予想通りとはいえ、士郎は聞く耳を持たない。幾ら危険を説いても士郎は身に迫る危険を軽視する、というよりは評価しないのだった。

 

「わかりました。ベビードールを着てあげます、それで手を打って」

「訳が分からない!」

「それともオープンタイプが良い?」

「下着の話じゃない!」

「ごめんなさい士郎、胸が小さくて」

 

舞弥は己の胸にそっと手を添えた。彼女が纏うのは黒のワンピースである、長袖で首元はタートルネック。彼女はシックな装いを好むが、身体のラインを意識する着こなしをする。ぴったりとした服越しに見える、小ぶりな双丘に思わず赤面する士郎だった。

 

「俺気にしないから!」

「嘘おっしゃい、時々大河と桜の身体を見てるでしょう。服越しに何を想像しているのやら、いやらしい」

「……」

「気づかないとでも?」

 

「ってそうじゃない! 俺は何で襲われたのかを聞いてるんだ! そういう会話で誤魔化すのは止めてくれ!」

「駄目?」

「駄目」

 

士郎は胡座を組み、腕を組んで舞弥を見つめていた。顔は少し赤いが追求を緩める気は無い、そう語っていた。舞弥は正座で、頬に手のひらを添え、困惑の表情である。伏せ眼がちに視線を逸らしていた。一つため息をつく。

 

ここで押し切っても士郎は二人に聞くだろう。二人が話さずとも士郎は冬木市に留まるはずだ。であれば士郎の手綱を握れる様に話した方が良い、彼女はそう判断した。

 

舞弥は聖杯戦争の事を士郎の伝えた。案の定、士郎は否定的な表情を見せた。

 

「なんだよ、それ」

「ここで重要なのは儀式が現実に存在する事、士郎には止めようが無いと言う事よ。例えそれが人殺しを伴う儀式であろうとも」

「気に入らない。聖杯で願いを叶えるなんてインチキじゃないか」

 

「士郎ならそう言うわね。でも覚えておきなさい、価値観は人それぞれだし普通の人間は利己的なの、魔術師はその極みと言っても良い。200年前の魔術師たちが聖杯戦争のシステムを作り出したのも欲望のため、血で血を洗う戦いを続けてきたのも、ひとえに執念。それは並大抵なものではない。士郎がどれだけ否定したところで彼らは考えを改めない、止められない。だから士郎。もう一度言うわ、冬木を離れるべき」

 

士郎は視線を下げた。その先には畳の緑があった。

 

「遠坂と真也はマスターだというのか」

「令呪を持つ遠坂さんはマスターね、サーヴァントは士郎の言う赤い男でしょう。真也さんは違う様だけれど、状況から考えて何らかの関係者とみるべき。関わるべきではないわ」

「……」

「士郎の正義感は私も知ってる。でも彼らは何の縁もない他人。何の咎もない犠牲者ならともかく望んで戦う人達よ? それでも士郎は庇うというの?」

 

舞弥は聖杯戦争の折、一般人に犠牲者が出る可能性について言及しなかった。あくまで可能性であるし、それを言えば士郎は阻止すると言いかねないからだ。

 

「桜は他人じゃないだろ」

「桜さんも蒼月の人間よ。魔術の技は一子相伝、真也さんの妹なら魔術師ではないと思うけれど関係者である事には違いない。残念だけれど」

「……」

 

士郎は左手に宿る令呪の予兆をそっと撫でた。いま彼には一つの選択があった、関わるか関わらないか。迷いという沈黙を続ける士郎に、舞弥は身を寄せた。彼の首元に鼻先を埋める。彼女の腕は士郎の背に回った。その温もりは“士郎を危険な目に遭わせたくない”と告げていた。

 

「士郎、お願い」

 

凛も桜も気に掛かるが、士郎にとって誰が一番大事な存在かと聞かれれば舞弥である。10年にわたる存在はかけがえが無い。強情を張り巻き込むのは避けたかった。彼は渋々こう言った。

 

「……分かった」

「そう、よかった」

 

彼女は女の身体を使って温もりを士郎に与え続けてきた、それが功を奏したと彼女は喜びを隠さない。

 

「舞弥さんは時々強引になる」

「切嗣にも同じ事を言われたわ。変なところで似てるのね」

 

士郎は、素っ頓狂な声を上げた。切嗣の名前で思い出したのである。

 

「どうしたの?」

「夕方、家の近くでイリヤスフィールって娘に会ったんだけど、オヤジの事を知ってたんだ。舞弥さん心当たりあるか?」

 

その士郎の言葉。舞弥は避けられる運命ではなかったのだと思い知らされたのであった。

 

 

◆◆◆

 

 

切嗣が亡くなって暫く経った頃、舞弥は士郎の歪さに気づいた、それは彼女にとって見過ごす事ができなかった。このままでは士郎が良くない一生を送ってしまう。それを恐れた彼女は幾度となく指摘、注意、説教したが一向に治らなかった。

 

ではどうするか。

 

士郎に女という楔を打ち込む事にした。自分の、女の身体を使って意識させる事にしたのである。スキンシップを過度に図ったり、一緒に寝たり、風呂に入ったり。思春期を迎えてからは着替えを敢えて覗かせたりもした。タイミングを計り脱衣所で鉢合わせするようにも仕向けた。

 

年の差もある、いつか楔となる娘が現れるまでと彼女は割り切った。だが、なかなか現れなかった。

 

士郎が中学生の時である。正義感のもと酷い怪我で帰宅した士郎を見て、慌てた彼女は関係を迫った。士郎は未だ変わらない、精神が成熟すると手の打ちようが無い、という判断だった。彼女は純粋すぎたのである。もちろん士郎を通して切嗣を見ていたことも事実であった。

 

当然士郎は渋ったが、女盛りの身体を持て余している事を口実にした。士郎が受け入れねば他の誰かに頼むと半ば脅迫まがいの事までもした。

 

最終的に、士郎に誰か特定の娘ができるまでと言う条件の下、二人は肌を重ねた。

 

士郎が穂群原(ほむらばら)に入学して暫く立った頃。“気になる娘がいる”という発言を最後に二人の特殊な関係は終わった。舞弥の歪な教育は一応実を結んだのである。だが彼女の心と身体に残った小さな棘は彼女自身気づいていなかった。

 

 

◆◆◆

 

 

義姉であるイリヤスフィールが追ってくる。聖杯戦争が避けられぬ定めと知った舞弥は全てを士郎に話した。切嗣の非常な過去、アイリスフィール、アインツベルン、10年前の悲劇の真実、それを聞いた士郎は立ち上がった。

 

“俺にとってのオヤジは正義の味方を目指した衛宮切嗣だ。俺を助けてくれたのは紛れもない事実”

 

そう彼は決心した。舞弥は言う。

 

「士郎はイリヤと戦える?」

「止める。もしそれでも襲ってくるのであれば倒す」

「其れは殺すという事よ、分かっているの?」

 

しばしの間のあと彼は分かってると答えた。返答に要した間は迷いである、それは士郎を危険な目に遭わすに違いない、だがそれは士郎救済の種となろう、彼女はそれを聞き届けると満足したように目を閉じた。

 

「舞弥さん、二人に話してくる」

「私は準備をしてから行きます」

 

士郎は部屋を後にした。舞台は居間に戻り、しびれを切らすのは凛である。ちゃぶ台に頬杖を突き、トントンとリズムを刻む指は苛立ちを隠さない。彼女は振り返りもせず、背後の真也にこう言った。

 

「遅いわね」

「そうね」

「何で待ってるんだろ、私」

「凛は律儀で面倒見が良いから」

 

突然沈黙した凛に彼はこう言った。

 

「嘘じゃ無い。本当にそう思ってる」

 

彼女は無視した。

 

「なんでアンタ帰らないのよ。帰りたがってたのに」

「顛末を見届けようと思って」

「仲が悪いんじゃないの?」

「それはそれ。男の連帯感って奴」

 

真也からしてみれば士郎がマスターになるなら他人事ではない。敵になるにしろ味方にしろ情報は欲しい、と言うことだ。

 

「凛こそ帰れば? 葵さんが心配するぞ。時間を作れば明日にでも伝えるから」

(葵、葵、葵、母さんのことばかりね、こいつ)

「怖い眼だぞ。可愛い顔が勿体ないぞ」

「どうせ、私は可愛げが無いわよ」

 

またぞんざいな扱いをされて凛は苛立った。

 

「カリカリしないの。俺は心配してるの」

「ふん、心配とか言ってどうせ口だけよね」

 

月のものでも来たのか、と真也は思った。流石に言わなかった。

 

「衛宮君は礼儀正しくて立派よね」

「そうね」

「どこかの誰かと違って、意地悪なこと言わないし」

「そうね」

 

「衛宮君と付き合っちゃおうかしら」

「士郎は駄目だ」

「あら? ヤキモチ?」

「……妹が士郎を好いている、だから駄目」

 

真也は渋々言った。

 

「衛宮君だったの? 妹さんが好きな相手って」

 

凛は噂話に興味は無いのである。

 

「そう」

「でも私の勝手よね、それ」

「ま、そうなんだけどね」

 

真也は驚いた顔を見せた。

 

(桜、凛、士郎の三角関係? 冬木市ラブストーリー! サーヴァント的な意味での血まみれ関係?! 新たな聖杯戦争が始まる! ……二股掛けたらちょんぎろう)

 

真也の態度に凛はますます苛ついた。

 

「遅い! もう1時間経ってる!」

「まだ50分」

「同じよ!」

「凛は待つのが苦手なんだな。いや、待たされるのが嫌いなんだな」

 

「あったりまえじゃない!」

「言い切る凛は本当に凄いと思う」

「様子見てくる!」

 

立ち上がり歩く凛に声を掛けた。その乱暴な歩き方はズカズカと言わんばかりである。

 

「やめておきなさいな。積もる話もあるんだろ」

「アンタはなんでそんなにのほほんとしてるのよ!」

「ほら、俺。忍耐力あるし」

「喧嘩売ってるの?!」

 

「落ち着け。そんなにピリピリしてたら100年の恋も冷めるぞ」

「その程度で冷める恋なんて要らないわ!」

(何というつんつん娘なのか……)

「なら、真也。アンタが私を楽しませなさい。享楽を献上しなさい」

 

「楽しませる? 凛を? 俺が?」

「そう」

 

凛は腕を組んで、むっすりと真也を見下ろしている。なぜだ、と彼は思ったが。月の影響なら仕方ない、と腰を上げた。刀を鞘から抜くと、水平に掲げた。

 

「で?」

「ここから本番」

 

刃の上に彼は500円に似たコインを乗せた。絶妙なバランス感覚で載っている。

 

「ふぅん、器用なものね。でもそれだけ?」

「吩!」

 

刃に魔力を乗せて、気合いと共に引き抜けば、コインは真っ二つ。その断面は鏡のように光っていた。

 

「どうよ」

 

桜には拍手喝采を受けた技である。自慢一杯の彼に凛はこう言った。

 

「つまらない」

「……」

「……」

 

真也は袖を伸ばしゴソゴソと動かした。白い小型の動物が飛び出した。それはバサバサと羽ばたいた。

 

「鳩も出せます」

 

バサバサと羽ばたく鳩は一片の羽毛を落とした。それは凛の頭に乗っていた。彼女は偉い勢いで真也を指さした。怒りは堪えていたが米神に血管が浮かんでいた。

 

「アンタ実は手品師でしょ! 魔術師なんて嘘なんでしょ!」

「いえいえ、マジシャン(魔術師)です」

 

ぷち、という切れる音。凛は真也に詰め寄り、襟首を掴んだ。激しく前後に振った。その様はキツツキのよう。

 

「もー、分かったわ! アンタ私のこと嫌いなのね、そうなのね、そう言いなさいよ! そうすればスッキリするから!」

「あー、うー、あー」

「なにが“とても優しい女性”よ! なーにが“生死の堺に立てる程の剛胆な女性は好み”よ!」

「あ”ー、う゛ー、あ”ー」

「なっ、にっ、がっ! “遠坂凛はそれで良い”よ! 思わせぶりな発言ばっかりし、て、あ、れ?」

 

真也の左腕が少しおかしいことに気がついた。よく見れば左脇が赤く染まっている。血痕だ。しまったと、慌てて救急箱を取った。治療をすっかり失念していたのだった。だが、当の真也はどこ吹く風。大丈夫だと治療を拒否した。

 

「ほら、早く傷を見せなさい」

「もう痛くないから」

「馬鹿言うんじゃないの」

「だから、」

 

「服を脱ぎなさい」

「あらいやだ、凛さまってば大胆ね」

「いい加減にしないと怒るわよ」

「……」

 

本気で怒りかねない凛の姿に彼は根を上げた。その傷を見て凛は眉を寄せた。処置の必要が無い程に治っていたからである。

 

「アンタ、治癒呪文とか持ってるんじゃないの?」

「だから、ない」

「なら何でこんなに早く治るのよ」

「好き嫌いがなくて、沢山食べるから」

(……何者よこいつ)

 

封印具で大半の魔力は封じられ、外部から分かりにくいが真也の魔力は膨大だ。ここまでその身体に近づけば凛に疑念を与えるには十分だった。傷をつつきながら凛は、魔術刻印も持たず、魔術も継承していないなら、遺伝的な要因を疑うべきだと判断した。

 

「ねぇ、サンプルくれない?」

「サンプル?」

「そう」

 

サンプルと言えば血液、髪の毛、精液である。だがそんな物渡す訳に行かないと彼は話を逸らす事にした。

 

「余所様の家で精液よこせとか、大胆だな。ここ(居間)でするのか?」

 

ナニを想像したのか一気に頬を染める凛だった。それは赤い風船が破裂した様であった。

 

「ば、ば、ばっかじゃないのっ! 血よ! けーつーえーき!」

「採血でも十分おかしい」

「ズボン脱ぐな! それ以上脱いだら死ぬから! 舌噛んで死んでやるから!」

「シャツの裾を納めるだけだい。てゆーか、脱がしておいて何を今更。凛ちゃんのエッチ」

「ふ、あ、こ、あ、こっ、ここっ!」

 

憤りの余り言葉にならない。凛は顔を真っ赤に染めて硬直していた。真也は思う。

 

(凛との距離感を仕切り直さないと、いけないかも)

 

彼女に魔眼を知られたら厄介だ、その先にある展開は封印指定もしくはホルマリン漬け、彼はそう考えた。凛を深く信用していなかったのである。

 

 

◆◆◆

 

 

士郎が“マスターとして戦う”と言ったとき真也は驚きもしなかった。何となくそういう気がしていた。その結果を持って真也は今後の身の振り方を考えた。士郎が戦う以上桜とは敵対関係、立場上潰すしか無い。だがそれは桜にとって酷である、共闘するのが一番良いが、問題が一つあった。

 

「士郎に願いはあるのか?」

「ない」

 

聖杯が叶える願いは二つだけ。士郎には無くても彼のサーヴァントにはあるだろう。桜に必要な願いは二つだ。一つは、彼女の秘めた願い。もう一つは、桜の心臓に巣くう蟲を取り除く事だ。ここで共闘条件は成立しない。

 

真也はちゃぶ台に向かい合い、意見を交わす凛と士郎を見ながら考えた。彼には桜の心臓に巣くう蟲が、あと数年鍛練を積めば屠れるだろうという見立てがある。つまり願いは二つあるのが好ましいが、一つでも構わない。士郎の脱落の可能性、闇討ち、幾つかの候補を考慮のうえ願い関しては保留にした。現状、士郎と組むのが適切だ。

 

(不本意だが、非常に不本意だが、断腸の思いだが、桜と組ませて、気づかれない様に影からこっそりと支援。桜のため、桜のため……)

 

頭を抱えて念じる様は自己暗示のよう。真也を余所に凛が言う。

 

「なら敵同士ね私たち」

「俺は遠坂と争う気は無いぞ」

「なによそれ」

「戦う理由は聖杯戦争に勝ち残るためじゃなくて。どんな手を使ってでも勝ち残ろうとする奴を、力尽くでも止める事。遠坂は違うだろ?」

 

「私から見たら貴方は敵なの。聖杯戦争は誰が勝ち取るかというルールのゲーム、ゲームに参加してルールに従わないなんて、そんな事が成立すると思ってるの?」

「都合が良いのは分かってる。それ以外の方針は考えつかない。こればっかりはどんなに言われても変えない」

「そう、なら好きにしなさい。そんな事が出来るのか楽しみだわ」

 

(桜もめんどい奴を好きになったもんだ。不安……)

 

凛はすくっと立ち上がる。

 

「真也、帰るわよ」

 

士郎は送ろうと言いかけたが、それを仕舞い込んだ。余り無様な姿は見せられない。真也は門まで見送ろうと立ち上がった。

 

「俺は残ってく、ついでに召喚も手伝っていく」

「ばかね、見せる訳ないでしょう」

「士郎、あとで男同士の話がある」

「分かった。俺からも話がある」

「凛、今日は助かった。ありがとう。先に帰ってくれ」

「……」

 

程なく舞弥がやってきて3人は召喚の準備に入った。場所は庭の隅にある土蔵である。舞弥がメモを見ながら指示をする、3人は試行錯誤で魔方陣を描いていた。

 

「舞弥さん、こここうか?」と士郎が言う。

「ちがう、こう、こうするの」

「舞弥さん、これでいいですか」と真也が言う。

「もっと上よ、そう、そんな感じ」

 

土蔵を見つめる凛の顔は何故か赤い。加えれば苛立ちもあった。

 

(仲が悪いのに何で協力してるのよ、コイツら……)

 

と言うことである。

 

「真也、そこ間違ってるぞ」

「おぉう、済まない」

「士郎、足をどけろ。方陣を踏み消してる」

「あ、ワリィ」

「こここうか?」

「違うこうだろ」

「ちがう、逆だ逆」

 

苛立ちが募りとうとう凛は噴火した。

 

「あぁもうじれったい!」

 

彼女は土蔵に踏み込むと真也が「まだ居たのか?」と悪意無く聞いたので、凛は「うるさい! 替わるわよ!」苛立ちを隠さず答えた。士郎から道具をふんだくり描きだした。舞弥は躊躇ったが、ランサーの再襲撃を懸念して凛の協力を受ける事にした。

 

士郎が「ハニーフラッシュ?」とボケたので、真也は「それ古すぎ、あと替わるじゃなくて変わるな」ツッコんだ。凛はミニスカートが不安だったので少年二人を土蔵から追い出した。

 

手持ちぶさたの二人は縁側に腰掛けて茶を啜る。夜空に雲はあったが、月は垣間見えた。真也は単刀直入にこう言った。

 

「桜はライダーのマスターだ」

 

士郎は目を剥いた。

 

「どうして棄権させないんだ」

「桜には願いがある。相当に重要らしく頑として言う事を聞かない。俺としては桜が願うならそれを叶えたい。だがこのままではお前たちは敵対関係だ。士郎、桜と共闘してくれないか? 戦況は未知数、お互い素人同士だが知った仲、悪い条件じゃ無いだろ」

 

「桜と組む事に異存は無い、だけど真也」

「俺の話はしてない、桜の話をしてる」

「なら良い」

 

あっさり話が付いた。真也は続けてこう言った。

 

「士郎の話ってのは何だ」

「美綴の事だ」

「綾子がどうかしたか?」

「美綴はお前に気があるぞ」

 

「知ってる、それがどうかしたか」

「そういう好意じゃなくて、男としてみてるって事だ」

「随分と久しいツッコミだな。仲は良いがそういうんじゃない」

「ならなんでへこむんだよ」

 

「綾子がへこんだ?」

「真也が遠坂に招待された、それを聞いてから落ち込んでる」

真也はまさかとか思った。士郎が嘘を言うとは思わないが、認識間違いの可能性はある。判断保留にした。妹を優先したのだった。士郎は非難の眼差しだ。

 

(しかし、もう噂として広まってるのか。頭痛い)

「で、どうするんだ」

「どうとは?」

「美綴と遠坂の話だ」

「士郎、おまえ凛のこと本気だったのか。大して話した事ないだろ」

「そんなんじゃない」

 

それとこれは話が別か、と真也は納得した。気になる女の子が二股掛けられるなんて、ふつう黙ってはいられないだろう。

 

(驚いた。士郎にそういう感情があったとは)

 

真也は士郎を牽制することにした。桜、凛、士郎の関係を考えた上での発言である。

 

「二股を掛けなきゃいいんだろ?」

「なんだそれ」

「言ったはずだぞ、悠長な事言ってたら俺が取るぞって。俺も凛を狙ってるから」

 

そうか、士郎は淡々とそう言った。準備出来たわよ、と凛は二人を呼び出した。士郎は凛から召喚のレクチャーを受けると、気分を入れ替えて呪文を唱え始めた。

 

「告げる。汝の身は我が下に、我が運命は汝の剣に、」

 

魔法陣に魔力が満ち光が溢れる。

 

「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ!」

 

目のくらむような光が土蔵を満たす。そうしたら“しゃらん”というなんとも澄んだ音がした。風に舞い清い音を鳴らす風鈴の様な音だった。そして皆が皆、それが鎧の音と知る。それを纏う者の尊さが奏でた音だったのだ。

 

「問おう、あなたが私のマスターか」

 

そこに白銀の騎士王が立っていた。

 

 

 

 

 

つづく!




シークレット・サブタイトル“衛宮くん家の家庭の事情”


やばい、マトモな奴が居ない。


【真人間ランキング】
綾子>葵>凛>>桜≒舞弥>>士郎≒真也って感じでしょうか。

力も純粋さも度が過ぎるとだめよね。


万が一掲示板が燃えたらレスしませんので、ごめんなさい。





【おまけ】
相関図

桜―(好:小:公)→士郎
桜―(好:大:秘)→真也

凛→??

士郎―(好:中:秘)→凛
士郎―(別格)→舞弥

真也―(好:大:公)→桜


(例)
真也―(好:大:公)→桜

・真也:誰が
・好:好意あり(⇔嫌:嫌い)
・大:とても(大中小の3段階)
・公:公になっている。(⇔秘:秘密にしている)
・桜:誰を

意味:真也が桜の事を激Loveなのは皆が知っている。


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10 聖杯戦争・序5 バーサーカー編

セイバーはこの状況をどう見るべきか考えた。見渡せば、木材と石を使った建築物の中。薄暗い其処には見覚えがあった。ただ用途の分からない器具に見覚えは無い。

 

そして目の前には複数名の人物。

 

一人は赤い服を着た黒髪の少女。内包する魔力の強さから魔術師と分かった。その少女はセイバーを見て悔しさを隠さない。どうして士郎がセイバーを引き当てたのか、それをひがんでいた。因みに彼女が自身のマスターだと早合点したのは、セイバーだけの秘密である。

 

二人目は、ダークグレーのロングコートを纏った黒髪の少年。帯剣していたので敵かとも思ったがそうでも無いらしい。マジマジと見つめられてセイバーは気分を害した。“美人さんサーヴァント……”と呟いて、先の少女に足を踏まれた。涙目で飛び跳ねていた。セイバーには二人の力関係が何となく分かった。

 

三人目は、赤い外套の男。サーヴァントだ。見知った母屋の屋上からセイバーを見下ろしていた。彼女には見覚えの無い顔だったが、その瞳は懐かしい誰かを見ている……セイバーにはそう感じた。

 

四人目、黒髪の鋭い面持ちの女性。セイバーが彼女を見たときまさかと思った。セイバーの記憶ではもっと鋭い視線だった。だが目の前の人物は随分と柔らかい面持ちをしている。他人のそら似ではないかと思う程だ。視線が合うとその女性は笑みで返した。“久宇舞弥”そう口にするのはどうにか押さえ込んだ。

 

五人目、赤毛の少年。どこからどう見ても普通の少年だったが、パスが彼と繋がっているのが分かった。どうやら彼が主らしい、と彼女は覚悟を決めた。

 

セイバーはその少年に向かい合いこう宣言した。

 

「召喚に従い参上した。これより我が剣は貴方と共にあり―」

 

バタリと倒れた。

 

「士郎しっかりしなさい!」

「衛宮君!?」

「士郎、死んだ?」

「勝手に、殺すんじゃねぇ……」

 

目の前の騒ぎに、セイバーは上の空だった。

 

(衛宮? ……まさか)

 

その“まさか”は“まさか”だったのである。

 

 

◆◆◆

 

 

居間で寝転がる士郎を見て凛がため息をついた。

 

「召喚の負荷に耐えきれなかったのね」

 

凛の脇に立ち覗き込んで真也が言う。

 

「どういうこと?」

「生み出す魔力の量が少ないのよ。気絶しなかったのは立派だけれど。ここまで少ないとは思わなかったわ。これじゃ一般人に毛が生えた程度ね」

 

一般人でも希に相応な魔力を持つ者は居るという意味だ。屈辱に士郎は身を震わせる。凛もそうだが真也に知られたのが情けなくて涙が出てくる。実際に泣く訳にも行かないので、ムッスリと黙り込んだ。

 

「なら、士郎はこのままか?」

 

真也の表情は優れない。下手をすると共闘がおじゃんだ。

 

「時間が経てば改善するけれど、度合いも時間も個人差に因るわね。ま、乗りかかった船だしこれはサービスにしておく」

 

彼女はポケットから宝石を一つ取り出した。

 

「はい、口を開けて」

「んぐっ!」

 

彼の視線による訴えは“何を飲ませたんだ”と語っていた。

 

「魔力を籠めた宝石よ。それが不足分の魔力を補うから直に動けるようになるわ」

 

真也が聞いた。

 

「直というのは?」

「馴染むのに2,3時間」

「どの程度持つ?」

「日常生活なら一週間、魔術を使えば当然早く切れる。その後のことは勝手にして……どうしてそんなこと気にするのよ」

「動けない奴を殴っても気分が悪い」

 

真也の誤魔化しを真に受けた凛は良く分からないという顔をした。桜と士郎が組んだのはまだ秘密なのである。縁側に腰掛けるのは舞弥とセイバーだ。セイバーは鎧を解き青いドレス風の装束を露わにしていた。二人が交わす言葉はお互いの確認と、第4次聖杯戦争からの経緯である。

 

セイバーは夜空に浮かぶ月を見つめながらこう言った。

 

「そうですか、切嗣は逝きましたか」

「セイバーが戻って5年後に。まだ切嗣を恨んでいる? という質問はデリカシーに欠くわね」

 

セイバーにとってはものの数分前である。

 

「5年でも10年でも遺恨は消えない。だが死者には眠りが必要でしょう。掘り返す気もありません」

「そう、良かった」

「舞弥、マスターはこのことを?」

「ええ、話した。アインツベルンのことも」

 

イリヤスフィールがバーサーカーのマスターとして襲ってくる、この事実は二人に重くのしかかった。まるで囚人を繋ぐ拘束具のようだ。

 

「セイバー、貴女はイリヤを斬れる?」

「……討つべき敵ならば当然です」

「そう」

 

士郎と同じ間があった。それに気づいた舞弥は“誰か”を当てる必要があると考えた。セイバーは言う。

 

「それよりアインツベルンが“狂戦士”を呼び出したというは本当ですか?」

「士郎の情報なのだけれど、イリヤは“バーサーカーが起きちゃう”そう発言したそうよ」

「気になります。弱い英霊を狂化し能力を補うのがバーサーカーのクラスだ。アインツベルンにしては仕込みが悪い。いったい何故」

 

「士郎によるとイリヤは10歳前後の容貌らしいわ。マスターがアインツベルンのホムンクルス、かつ魔力調整を受けているなら、バーサーカーへの魔力供給量は相応にあるとみるべきでしょう。強力な英霊を狂化しているのかも知れない。イリヤはこの家を知っている、アジトを変えた方が良いわね」

「それは反対だ。城とは攻める事にしろ、守る事にしろ、日々生きていく事にしろ、それがら集約精錬されている拠点だ。城を守るために攻めるのも戦略の一つ。簡単に放棄してはならない」

 

「そうね、セイバーの言うとおりだわ。士郎もしばらくは動けないし、様子を見ましょう」

 

セイバーは振り返った。その視線の先には二人の少年と一人の少女が見える。

 

「舞弥、あの二人は信用できるのですか?」

「遠坂凛は遠坂の魔術師、過度の信用はできないわね。でも律儀、お節介な面があるから、そこを突けば利用できる」

「私としては男の方が気になる、あの男からは良くない気配を感じる。危険だ」

「蒼月真也の妹がライダーのマスターなのだけれど、彼女を抑えているうちは問題ないわ。士郎とは共闘するから」

 

「魔術師ではないようだが……何者です?」

「士郎によるとランサーを凌いだそうよ」

「サーヴァントを? まさか」

「士郎は見た物の把握に優れているから、見間違い勘違いは無い。セイバーも注意して、切り捨てどころは間違えないようにしましょう」

 

セイバーは表現に困る表情をした。頼もしさもあったが、不安も浮かび上がっていた。

 

「舞弥は随分と変わった、見た目は穏やかだが中身は随分と摺(す)れたようです。切嗣に似ていないか不安でたまらない」

「10年一昔、それだけあれば人間は変わるのよ。士郎は死なせない、そのためなら躊躇いはないわ」

 

舞弥の一途さは変わっていない、セイバーは表情を緩めた。

 

「セイバー、その士郎の“質”で伝えておきたい事があるの」

「質、ですか?」

 

舞弥は正義の味方たらんとする士郎の有り様と、それにヒビが入っていることを話した。

 

 

◆◆◆

 

 

ちゃぶ台に向かって正座。金髪碧眼、見るからに欧米美少女サーヴァントが、湯飲みを手に持ち茶を啜る姿は、違和感より壮麗さを感じさせた。凛は敗北感で一杯だった、もちろん麗しさという意味である。

 

ちらりと真也を見れば彼はそのサーヴァントを意識していた。距離を置いて堪能していた。不用意に近づくのは流石に自重したようだが、サーヴァントの不愉快そうな顔に気づいていない、否。気にしていない。にらみ返されると彼は笑顔で手を振った。

 

(見境無しか、コイツ……)

 

それはともかく凛は、士郎が呼び出したサーヴァントを見てクラスは何かと考えた。アーチャー、ランサー以外のクラスである。キャスター、バーサーカーには見えない。備える堂々とした風格からアサシンも除外した。ライダーかセイバー、と彼女は当りを付けた。

 

だから凛はその白銀のサーヴァントにこう言った。

 

「私は遠坂凛、アーチャーのマスターよ。こういう間柄だけれど、正々堂々戦いましょ」

 

風格から誠実さを突いたのである。名乗れば答え返すだろうという判断だ。その少女は湯飲みをちゃぶ台に置くと居住まいを正した。

 

「心地良い宣戦布告です。私は、」

 

舞弥の咳払い、余計な事を言うなと言う意味である。

 

「……お互い死力を尽くして戦おう」

 

何とか情報を引き出そうとしたあえなく失敗。凛は涼しい顔の舞弥に笑顔で返した。

 

(この人、衛宮君と違って油断ならないわね。当然と言えば当然の行動だけれど)

 

舞弥がいる限り情報を引き出すのは難しそうだ。今日はこれまでにしておこうと、胡座をかく士郎をみた。驚いた事に彼はもう座るという行為ができた。凛は士郎にこう言った。

 

「衛宮君、もう帰るから」

「悪いけれど見送りできないみたいだ」

「良いわよそんな事」

 

敵同士なんだから、そう言うのは止めた。要らぬ言い争いになるだけだ。帰ろうと凛が立ち上がり部屋を見渡すと、一人足りない。

 

「真也はどこ?」と凛が言う。

「貴女の連れなら先ほど帰りましたが」とセイバーが答えた。

「……」

 

凛は不愉快さを隠さず席を立つ。どうしてそこまでされて追いかけるのか、士郎にはそれが理解できなかった。

 

さて、真也である。衛宮邸を一人出た彼は夜の住宅街をトボトボと歩いていた。細めの生活道路で右に石垣、左にはガードレールがあった。自動車がすれ違うには少々骨が折れるだろう、そんな道だった。彼が一人帰ったのは静かに歩いて考えたかったからである。なにぶん桜の事、それで頭が一杯だった。

 

「んー」

 

彼が考えるのは桜と凛と士郎である。士郎には牽制したがそれで足りるかどうか、それが懸念材料だった。凛も士郎に好意的な発言をしている。万が一凛と士郎がくっつくとそれは一大事だ。とうぜん桜的な意味であり、どうにかせねばと彼は思った。

 

そうしたら背後から何かが飛んできた。それは本革の小ぶりな靴だった。彼の頭に当たった。頭をさすり振り返れば凛が立っていた。肩を怒らせる様を見れば、彼女の心の状態は自ずと知れよう。真也は飛んできた靴を拾い上げ、それを彼女に軽く突きつけた。

 

「凛、これは投げるものじゃない」

「アンタねぇ! 私をないがしろにするのもいい加減にしなさいよ!」

 

いきなり怒鳴られた彼は遠い目だ。

 

(なんつー女王様的な。大事にされないと気に入らないとかそういうのか)

 

という真也もすっかり失念した事については失態だと認めた。

 

「すまない。すこし考え事をしていた」

「また妹の事か」

「それを含む」

 

凛は無遠慮に近づくと、真也の手から靴を奪い返した。礼儀などどこ吹く風である、当然の反応だった。

 

「良いお兄さんね、私が言いたかったのは文句だけ。それじゃ」

 

彼女はそのまま靴も履かず腕を振って通り過ぎた。腹が立って仕方が無い。真也は追いかけた。後ろ姿を見ながら、凛の注意を士郎から逸らす事も必要だと考えた。そして凛が誰かと付き合うという事実を士郎に見せて諦めさせ、桜との仲を推し進めようと考えた。

 

だがどう逸らす。桜が好いているから士郎は駄目だと言っても“私の勝手だ”と凛は発言している。強制すれば反発する、凛のその性格は短い交流でも良く分かった。凛が士郎への好意を匂わせたのは、ひとえに真也への反発だったが彼はそれに気づいていなかった。

 

真也はこう考えた。ならば強制ではなく凛の眼を士郎から他の誰かに向けよう。能動的にである。その誰かというのは誰でも構わなかったが、事態を動かしやすくする為に把握しやすくする為に、取りあえずは自分をと考えた。

 

そもそも上手くいくかはやってみなければ分かるまい。失敗すれば他の手段を考える、成功したら桜と士郎がくっつくまでの期間限定だ。桜と士郎が破綻しても同じ。一日どころか半日で破局するカップルもいるのだ大したことでもあるまい。彼は、それがどういう行為なのか理解した上で、こう切り出した。僅かに胸が痛んだ。

 

「それを含む、そう言ったろ。士郎の事だ。アイツは凛に気がある」

 

凛は驚きもしなかった。告白してきた少年らと同じ眼をしていたからである。だからどうしたと彼女は黙って歩き続けた。真也は追いかけた。

 

「私はもう帰る。追ってこないでくれる? 気分が悪いから」

 

彼女は振り返りもせず、苛立ちを隠さず、歩き続けた。真也は追いかけた。

 

「凛、話がある。聞いてくれ」

 

彼女は無視をした。数度繰り返したが聞く耳持たない。仕方が無いと真也は凛の手を掴んで引き留めた。強引に振り向かせた。

 

「な、」

 

何をと言う前に彼はこう言った。

 

「それで気づいたんだけど、凛が他の男といるのは気分が悪い」

「……は?」

 

真也は一歩近づいた。凛は半歩下がった。

 

「俺、凛の事が好きだ」

 

呆気にとられる凛だった。開く唇にいつもの理性と賢明さはない。まるで時計が止まったかのように動かなかった。次第に下腹部から感情がこみ上げる。それは戸惑いと怒りだった。彼女は睨み付けた。

 

「ふ、ふざけないで。今まで散々弄んだくせに」

「今までの償いをさせて欲しい。俺の側に居て欲しい」

 

真也は凛の両手を掴んで近づいた。両手を握られて迫られているのに、どうして私は靴なんぞを持っているのか、彼女はそれが不思議でならなかった。

 

「真也には妹が、」

「桜を忘れさせたのは凛、君なんだ」

「あ、え、ふん。お断りよ。アンタみたいな礼儀知らず」

「直ぐに許して貰えると思っていない。俺は諦めないから」

 

「え、あ、」

「これ以上凛の心を乱したくない。家まで送ってはいけないけれど許して欲しい」

「う、うん」

「お休み、凛」

 

凛は立ち去る真也の姿を呆然と見送るだけだった。手に掴んだ片割れの靴がポトリと落ちた。糸人形の糸が切れた様であった。

 

真也の動機はひとえに桜の為であった。だが心に呵責という一つの棘があった、それは彼自身が気づかない凛への好意が形を変えたものである。

 

たっぷりと呆けたあと凛は思い出したように歩き出した。その様は逃げ帰るようである。今日は厄日だ、悪魔が笑い、天使が涙する、そんな不吉な日だ、凛はそう考える事にした。

 

霊体のアーチャーが話しかけた。

 

『これからどうするつもりだ、凛』

「振るに決まってるでしょ。今更、今更なんだから。振ってやるわあんな奴」

 

アーチャーは聖杯戦争の事を、これからの行動の事を聞いていたのだ。これは重傷だとため息をついた。

 

『ならどうして即答しなかった』

「だ、だって。いきなりだったし、突然で驚いたし、真面目な表情だったし、真也ってあんな顔もできるのかなって……何言わせるのよ!」

『些末は早めに片付けてくれ。今後に響く』

「言われなくても分かってるっ!」

『それともう一つ』

「なによ」

 

苛立ちを隠さない凛にアーチャーは顕現しこう言った。

 

「敵だ」

 

 

◆◆◆

 

 

それは山のような大男だった。肌は鉛色で荒々しい髪を無造作に流し、筋骨隆々。その巨木のような腕は巨大な岩斧を持っていた。見るからに荒くれだが、異常なほど静かだった。だが秘める魔力は膨大で、漏れ出る余波ですらビリビリと凛の神経を逆なでる。

 

更に異常なのが付き従う子供である。白銀の髪、赤い瞳、青紫のコート。どう見ても10代前半の少女にしか見えないが、凄まじい魔力を内包していた。否、子供が付き従っているというのは誤りだ。魔力の流れを見れば、子供から大男に流れている。子供に大男が付き従っているのだった。

 

「バ、バーサーカー……」

 

凛が驚きを隠さず呟いた。目を見開き戦いている。

 

「あれ? なんだ。お兄ちゃんは居ないんだ。つまんないなぁ、一緒につぶしてあげようと思ったのに」

 

なんという場違いな声だろうと凛は思った。言葉遣いだけでは無い、そのイントネーションすら場違いだった。まるで遊んでいるかの様だ。その子供は貞淑に歩み寄ると、凛に身を下げた。コートの裾を掴んで優雅に微笑んだ。

 

「はじめまして、リン。私はイリヤ。イリヤスフィール・フォン・アインツベルンって言えば分かるでしょ?」

「アインツベルン……」

「凛、あのサーヴァントは桁が違うぞ」

「分かってる」

 

アーチャーの警告は言われるまでもない。凛は戦うか退くか考えた。幸いにして凛とアーチャーの二人だけ。退くのはさほど難しくはない。だが目の前のバーサーカーは倒さなくては成らない敵だ、自力で倒すにしろ他マスターと協力するにしろ情報は必要だ。彼女は戦う事にした、何より何もせず逃げるなど彼女の趣味ではない。

 

「アーチャー、最低でも感触ぐらいは掴むわよ」

「了解だ、だが引き所は間違えるなよ」

 

マスターである凛の意を受けてアーチャーは弓を展開した。バーサーカーまでの距離は50メートル程、距離を稼ぎつつ力を推し量ろうという目算だ。

 

凛はポケットにある宝石を確認してこう言った。

 

「ひとつ聞きたいんだけれど“お兄ちゃん”って誰の事?」

「変なことを気にするのね、でも言わないわ。そのまま死になさい」

「真人間に見える最低男とか?」

「お兄ちゃんは優しくて真面目なの、そんな詐欺師じゃないわ」

「気が合うじゃない、同感よ」

 

イリヤは軽やかに歌うかのように、身を揺らしこう宣言した。

 

「やっちゃえ、バーサーカー」

 

開戦を告げる喇叭の音はバーサーカーの雄叫びだった。その叫びは、腹を振るわし、地を振るわし、まるで魔獣の咆哮そのものである。50メートルほどの距離を、バーサーカーは一気に詰める。ドシンドシンと地響きを打ち鳴らし、一つ脚を進める度に道路が陥没した。

 

バーサーカーの威圧から余裕は無いと判断したアーチャーは、機関銃のような小刻みの一撃ではなく、戦車砲のような強烈な一撃を打ち込んだ。着弾、爆発。吹き荒れる爆発音と巻き上がる粉塵、その中からバーサーカーは現れた。意にも介していなかった。

 

距離がない、アーチャーは宝具を投影するのを諦めた。一つ舌を打ち、干将・莫耶を投影、踏み込んだ。バーサーカーの突進力、敏捷性がアーチャーの予想より高かったのである。ランサー並みだ。逃げる機は失ってしまった。

 

凛は宝石を取り出し投げた。

 

「一番、二番!」

 

凛は仕留めることは叶わずとも、ダメージは与えられるだろうと踏んだ。最低でも怯ませるぐらいは可能だろうと。隙を作れれば次の行動に繋げられる。宝石が弾け魔力が功性エネルギーに変換された。吹き荒れる魔力光の中から敵サーヴァントは現れた。バーサーカーは僅かに速力を落としただけだった。

 

「うそっ!」

 

バーサーカーが岩斧を振り下ろす、アーチャーはその強大な一刀を受け流した、そのはずだった。アーチャーが持つ夫婦剣は干将が大破、莫耶は刃が大きくこぼれた。

 

干将・莫耶が破損したことは問題ない、次の投影までほぼゼロ秒だ。問題なのは攻撃も撤退もできない事である。ただ凌ぐのみだ。加えて、敏捷性も筋力も耐久性もバーサーカーが上回る、長時間持ちこたえる事はできまい。距離を稼ごうにも、その動作すら致命的だ。凛も剣戟の凄まじさに援護したくてもできない。

 

凛はアーチャーを置いて逃げるべきだと考えた。生きてさえいればやりようは幾らでもある。彼は皮肉めいた笑みを浮かべた。それに気づいた凛は彼に背を向けて走り出した、遭遇時に逃げるべきだった、その判断ミスを罵りながら。

 

一合、二合、何度か繰り返したのち、アーチャーは岩斧に吹き飛ばされた。辛うじて直撃は避けたが、アスファルトの上を転がり続け、自動車に叩き付けられた。その威力は如何ほどのものか、丈夫な高級外国車が鉄くずになり果てた。

 

凛にバーサーカーが迫る。その様は火砕流のように絶望的だ。あの巨大な岩斧が振り下ろされれば彼女の命はそこで潰える。彼女は言葉を使わず父に謝り、母に謝り、アーチャーに謝った。

 

(真也ごめん。わたし返事できなかった)

 

迫る岩斧、月影が凛に落ちる。妙に落ち着いた気分でそれを見ていたら、蒼白い光が瞬いた。巨木の様なバーサーカーの腕が宙を舞った。切り落とされたのだった。真也の強襲である。サーヴァント戦の気配に気づいた真也は、駆けつける最中に、霊刀に時間の許す限りの魔力を籠めた。それを斬撃に乗せた。

 

凛はどうして世界が回っているのかと、それを考えた。月が足下にあったり、頭上にあったり。そうかと思えば真也の顔が目の前にあった。彼女はその感覚に見覚えがあった。グール戦の結末、警官から逃げる時と同じ感覚だ。凛は真也の腕の中だった。

 

切り落とされたバーサーカーの腕が復元する。それは時間を巻き戻すかの様。真也は着地すると凛をそっと降ろした。アーチャーはどうにか立ち上がると彼に近づいた。イリヤは珍客に物珍しそうな顔だ。

 

アーチャーが真也に言う。

 

「貴様、何故来た。無関係だろう」

 

曲がりなりにも告白してそのままというのも後味が悪いし、なにより死なせたくない。彼はこう言った。

 

「返事を聞いてないから」

 

凛は地面にへたり込んでいた。彼が見下ろすと眼が合った。凛は未だ放心状態だ。真也がアーチャーに言う。そこにおちゃらけた表情は無かった。

 

「どの程度動ける」

「近接戦闘は無理だ。弓なら使えるがバーサーカーには効かない」

 

二人は視線を交わすこと無くバーサーカーだけを見ていた。真也が言う。

 

「アーチャー、宝具は?」

「回復に時間が必要だ。5分持ちこたえろ」

 

ランサーを凌いだ事実、バーサーカーへの強襲。それらを考慮してアーチャーは真也を利用する事にした。だが撃てる宝具は一振りのみ、それで仕留められねば真也を囮にして戦線離脱、アーチャーはそう考えた。真也が言う。

 

「凛、バーサーカーの能力はランサーと比べてどう?」

「……敏捷性は同じAランク、でも耐久力はA、筋力A+、2ランク上」

 

敏捷性はランサーと同等。ならば直接倒すのは諦めて攪乱するしかない。主力打撃はあくまでアーチャーの宝具だ。保険として魔眼の使用も覚悟した。真也は凛にこう続けた。

 

「バイキルトとかスカラとかピオラとか。そういう呪文持ってないか?」

「なによバイキルトって」

 

アーチャーが代わりに答えた。

 

「凛。支援魔法の事だ。素早さが上がったり、攻撃力が上がったり、この男はその類いの呪文の事を言っている」

 

なんでお前がDQの呪文を知っている、真也の眼はそう言っていた。凛が言う。

 

「そんな結果を導く呪文なんて知らないけれど、筋力向上と防御結界を張る事なら」

「それでいい。一番いい物を頼む」

「言っておくけれど、最高レベルの呪文だと効果が切れたらしばらく動けないからね」

 

凛は立ち上がり詠唱を開始、真也の身体に魔術が掛かった。彼は手を握り力の感触を確かめた。足場を踏み抜くと、アスファルトの道路にひびが入った。イリヤスフィールは己の優位を疑わないのだろう、三人をじっと見ていた。

 

凛に最後の活を入れるためアーチャーはこう言った。だが私心も混じっていた。

 

「断っておくが、多少出来ようとも貴様に凛は不釣り合いだ」

「サーヴァントならそう思うだろうな」

「……それを決めるのは私だからね」

「分かった。期待してる」

「馬鹿ね」

 

笑みと自信が混じった不遜の表情。凛に調子が戻ったことを確認すると、真也は抜刀、バーサーカーに向かって歩み出した。

 

 

 

 

 

つづく!



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11 聖杯戦争・序6 バーサーカー編

凛への接近を許す訳には行かないので真也は切り込んだ。切っ先に左手を添え、下段の構え。バーサーカーは2メートルを超える巨躯である、下から攻めるのが上策と踏んだ。接触時間は3秒後、アーチャーの矢が背後から飛来しバーサーカーを襲う。バーサーカーは岩斧を振るい矢を叩き落とした。隙あり。

 

真也に向けて打ち下ろされる破滅的な岩斧。まともに打ち合えば競り負ける事は一目瞭然である。髪の毛を散らされる程の、紙一重でくぐり抜け、バーサーカーの右脇に潜り込み、一閃、撃ち込んだ。ズムリ、その手応えはなんとも珍妙だった。堅さと弾力が両立している、まるで金属製のゴムである。ただ一つ言える事は、彼の一刀はバーサーカーの表皮を斬っただけだった。

 

(うげ)

 

真也の一刀は巨木すら容易に斬り裂く。凛の強化呪文が上乗せされているならその威力は倍増だ。それにも関わらず攻撃に有効性が見られない。振り返るバーサーカーの双眸がぎろりと光る。彼は“ぬるい”そう言われたような気がした。強襲の一撃と異なり魔力を集める時間が無いのである。

 

彼はバーサーカーの懐であった。巨躯を見上げていた。バーサーカーから見れば手足の届く至近距離だ。相対的に彼は小さい、それ故蹴りの方が手早い。バーサーカーは厳めしい岩のような脚で蹴りを入れた。真也はバーサーカーの姿勢を読んでいたから余裕を持ってバックステップ、そのはずだった。蹴りは彼の腹を掠めた。

 

着地と同時に腹に鋭い痛みが走る。彼は見なくても理解した、防御結界があるにも関わらず肉が裂け出血しているのだ。戦闘活動に大きな支障は無いが、戦闘の激しさを物語るには十分だった。

 

(掠めただけでこれか)

 

だが彼は躊躇うこと無く踏み込んだ。一触即発、一つの瞬きが生死を分ける。その極限状態で彼は笑みを浮かべていた。暴風の様なバーサーカーを前にして、真也は躱し、翻し、受け流し、踏み込み一刀を入れる。

 

大して効いていない。倒すにはほど遠い。だが囮としては十分だ。それがどれほど異常なことか。イリヤは少し興味を持った。異常だとは思ったが己の優位さの前では大して意味を持たなかった。士郎を殺す、その余興には良いだろうと考えた。

 

(ふぅん、リンは良い駒を持ってるじゃない。でもいつまで持つのかなぁ)

 

余裕のあるイリヤに対しアーチャーは警戒心を隠さない。構える矢を真也に向けた。彼はここで殺すべきだと考えた。真也の注意はバーサーカーのみに向いている、如何にランサーを凌いだとはいえ、同等の敏捷性を持つバーサーカーを相手にしていては余裕はないだろう。アーチャーは激しいダメージを負っているが通常攻撃に支障は無い。一本の矢で事足りる。着弾の確認すら必要はない、射たあと即座に凛を連れて離脱、それが賢明だ。だが。

 

(それでは凛との信頼関係が崩壊しかねん)

 

彼は横に立つ己のマスターをちらと見た。凛は戦闘の行く末を見守っていた。傍目には冷静に見えるがその心中はどうだろう。魔術師にも関わらず妙に人情家の彼女だ、穏やかでいられるはずも無い、それは容易に知れた。事実その通りであった。

 

(こんな事ならあの夜に討っておくべきだった……)

 

アーチャーは告白という手段で先手を打たれてしまったのである。彼の苦悩を知らず凛が言う。

 

「アーチャー、宝具の使用までの残り時間は?」

「3分だ」

「そう」

 

彼女は何も言わなかったが、その時が来るのを待ちわびていた。

 

「凛、危ないところを助けられて一目惚れなどと言うありがちな展開は勘弁して欲しいのだが」

「なによ突然」

「今後に響かないか心配してる」

「要らぬ心配ね」

「なら良いが」

「一目惚れなんかじゃないから」

 

それはどちらの意味だとアーチャーは思ったが、これ以上刺激するのを止めた。寝た子を起こす訳にはいかないのである。

 

 

◆◆◆

 

 

時間を遡り衛宮邸、その舞弥の部屋。彼女は洋服ダンスの下から2番目を引き出した。下着が収まるその裏に手を回し、留め具を外すとアタッシュケースを取り出した。それにはアサルトライフルとハンドガンが納められていた。

 

埃も無く変色も無く、錆も無かった。10年という時間の割に保管状態は良好だ。だが機械は見た目では分からない、整備しなくては危なくて使えないだろう。彼女は比較的単純な構造の回転式拳銃を取り出した。シリンダーの回転具合、銃身の状態、撃鉄の動作、それらを確認して懐に納めた。

 

長いブランクに不安が募る。

 

(撃てるかしら)

 

舞弥の姿、それは主に服装のことだったが、それを見てセイバーが言った。

 

「10年経ってもその姿なのですね」

 

彼女は第4次聖杯戦争時の恰好をしていた。

 

「荒事には便利な装備だから」

 

実のところ10年前の服が着られるとは彼女自身驚きだった。舞弥が言う。

 

「士郎は?」

「庭で柔軟体操をしています。この分であれば直に元に戻るでしょう」

「多少は大人しい方がありがたいのだけれど」

「舞弥は過保護ではありませんか? それではシロウに進歩がない」

 

舞弥は頬に手のひらを添え困った表情を見せた。舞弥のこの仕草は私が去った後か、セイバーはそう思った。

 

「セイバーは昔の士郎を知らないからそう言えるのよ……いつの間に士郎と?」

「一緒に戦うパートナーなら名前で呼び合うべきだと。先ほど」

 

手が早い、僅かに嫉妬する舞弥であった。セイバーが言う。

 

「舞弥、これからの事を相談したいのですが」

「そうね、士郎も呼んで話し合いましょう」

 

あの子が頭なのだから、そう言おうとした舞弥の表情が強ばった。凛と真也、監視のため放っていた使い魔から送られてくる視覚情報を見た為だ。そこにはバーサーカーが映っていた。衛宮邸までの距離はそれなりにあるが、イリヤはこの家を知っている。襲いに来ることは明白だ。

 

「舞弥?」

「イリヤスフィールが来る」

 

セイバーの双眸が光る。

 

「到着予想時刻は?」

「今アーチャーが戦っているけれど、芳しくないわね。直にでしょう」

「では打って出るべきだ」

 

アーチャーが倒すかどうかは別にしろ、守るには適さない家なのである。セイバーはそう判断した。もちろん逃げる事など考えていない。舞弥は最低でも偵察はしておくべきだ、と判断した。問題なのは士郎である。伝えれば鉄砲のように飛び出すだろう。セイバーと舞弥が出かければ不審に思うに違いない。仕方が無い、彼女はこう言った。

 

「セイバーは先行して。士郎と私は車で追いかけます」

 

セイバーは士郎の許可を得ると飛び出した。舞弥は装備を持ち、士郎と呼んだ。

 

 

◆◆◆

 

 

戦場は市街地から墓地に場所を変えていた。バーサーカーは砕けた墓石を踏み抜いた。静閑な墓地は酷い有様だ。

 

真也とバーサーカー、アーチャーは一直線に並んでいた。中心がバーサーカーだ。バーサーカーは真也に向いているので、位置的にアーチャーはバーサーカーの背を見ていることになる。撃ち出されたアーチャーの矢が正確にバーサーカーの背部を襲った。命中。矢が爆発し噴煙を巻き上げた。

 

その煙に向かってイリヤが言う。

 

「飽きちゃったな。バーサーカー。そのぶんぶん五月蠅い羽虫から潰すわよ」

 

煙の中から狂戦士が現れると双眸が赤く光った。羽虫とは真也の事だ。

 

バーサーカーはアーチャーの狙撃を物ともせず、矢継ぎ早に真也を攻めた。バーサーカーは自身の外側から内側に向けて打ち抜いた。斬撃が円弧を描く。真也は身をかがめ、岩斧を刀身に滑らせて何とか凌ぐ。ヂャリン、岩斧と霊刀が反発し合い火花が散った。脚位置を変え、シフトウェイト。バーサーカーの膝を蹴り抜き、その反動で真上から振り下ろされる一刀を躱す、大地を砕くバーサーカーの一刀である、躱すは躱したがその礫が真也の全身を襲った。

 

腕を組んで防御したが、真也の分厚い防寒具は裂け、覗く皮膚からは血が垂れていた。いまだ直撃は喰らっていないがこの様である。穿いているデニムパンツはクラッシュ・ダメージになってしまった。

 

真也がバーサーカーの注意を引きつけている隙に、凛が魔術を使った。紫色の結晶がバーサーカーを押しつぶす様に拘束した。次に天から大量の矢が降ってくる、その光景はミサイルと言うより、ホーミングレーザーである。寸分違わず命中し、先の攻撃とは比較にならない破壊がまき散らされる。爆音と衝撃波が響いた。

 

「やったっ!」というのは凛の期待。

 

煙が晴れる。

 

「うそ……」とは凛の驚愕。

 

バーサーカーは未だ健在であった。それどころかダメージの片鱗すら見せない。驚愕と不愉快さ、そして焦燥。凛と真也の態度が気に入ったのかイリヤはこう言った。まるで教鞭に立つ教師の様である。

 

「あは、勝てる訳無いじゃない。わたしのバーサーカーはね、ギリシャ最大の英雄なんだから」

 

凛は思い当たる節があるのか、はっとした表情を見せた。

 

「そうよ、そこに居るのはヘラクレスって言う魔物。貴方たち程度が使役出来る英雄とは格が違う、最凶の怪物なんだから」

 

良く分からない真也はこう聞いた。

 

「先生質問。それはどういうことでしょうか」

「貴方なんかに言うと思った? おばかさん」

 

千歳にしろ凛にしろ魔術を嗜む女は態度が大きい、そんなことを思った彼はこう挑発した。それは彼の癖でもあった。

 

「“乳臭いガキんちょ”に罵られて喜ぶ趣味は無いんだがな……」

 

プチ、それは理性の切れた音。イリヤは笑顔だったが目が笑っていない。

 

「真也! アンタは何でそう人の神経を逆なでする事ばかり言うのよっ!」

 

遠くで凛が激高していた。この距離で聞こえたのかと、思わず青ざめる。

 

「バーサーカー。そいつ殺して」

 

咆哮と土煙を上げて狂戦士が迫ってくる。真也にはバーサーカーがアーチャーの事を完全に失念した様に見えた。だから試験をする事にした。“マスターが激高するとバーサーカーはどうなるか”である。彼は短い時間にイリヤをこう挑発した。

 

「魔術師のくせに沸点低いぞ」

「レディーの扱いを知らない貴方みたいな野蛮人には、無様な死がお似合いよ。肉片になって飛び散ると良いわ」

「随分と品の無い言葉を使う。優雅なのは形(なり)だけらしい。アインツベルンとやらも底が知れる」

「……っ!」

 

眼前に迫る狂戦士がいっそう狂った様な咆哮を上げた。背後から受けるアーチャーの攻撃を避ける事もなく、弾く事もなく、何の躊躇いもなくまっすぐ突っ込んでくる。狂化の度合いはマスターに影響される、彼はそう踏んだ。

 

(あと2分程、もう一踏ん張りか)

 

バーサーカーを迎撃しようと構えたら。

 

“しゃらん”

 

澄んだ楽器の音が辺りに響いた。どこからともなく現れた白銀の騎士はバーサーカーに強靱な一撃を打ち込んだのである。虚を突かれたバーサーカーはその強襲に吹き飛ばされた。その騎士が持つ武器は鋭い風音を刻む不可視の剣、彼女は月光をあびてこう宣言した。

 

「サーヴァント、セイバー。マスターの命により加勢する」

 

金色の髪。翡翠の瞳。月光を浴びる麗しい面持ちは何処までも端正で、少女にも関わらず眉目秀麗という形容が相応しい、真也はそう思った。

 

セイバーはまっすぐ正面からぶつかっていった。その様は疾風である。頭上から振り下ろされるバーサーカーの岩斧をセイバーは真っ向から迎え撃った。ギィン! 金属同士を高速でぶつけた様な、図太いが甲高い音がした。異なる質の魔力がぶつかり、火花を散らす。一合、二合、その旋風の様な打ち合いは続いた。

 

(へー、西洋騎士ってこういう風に戦うのか。互いの力のぶつけ合いというか、力比べというか。剛胆というか、直実というか。相手の動きを読んで隙を突く、もしくは隙を作る、そして切る、俺の殺り方とだいぶ違う。異文化交流万歳)

 

何を呆けてみているのかと、彼は刀を掲げて駆けだした。

 

 

◆◆◆

 

 

駆けつけた舞弥と士郎は自動車を降りると、徒で戦闘現場に近づいた。凛は盛り上がった地形の影から3人の戦闘を見ていた。舞弥は迷った。早急に情報を集めなくてはならないが、士郎を伴っては支障が出る。士郎はまだ身体が上手く動かせない、歩行がどうにか出来る程度である。無茶は出来まい、彼女は士郎に無線機を渡すと、念を押して森の影に消えていった。

 

士郎は凛にゆっくりと歩み寄る。気づいた凛は驚きの顔を隠さなかった。

 

「衛宮君?」

「遠坂、無事か」

「え、あ、うん」

 

真剣に心配され戸惑った。

 

(あぁーもう! なに呆けてるのよ私!)

 

間近にある少年の気配、真也との一件が響いているのである。

 

「なんで来たのよ」

 

まだ動ける状態じゃないでしょ、という言葉は飲み込んだ。実際に動いているからである。

 

「セイバー、一人に戦わせる訳には行かないだろ」

「出来ることあるの?」

「何かある、無かったとしても自分だけ逃げるのはマスター失格だ」

 

魔術師らしからぬ、マスターらしからぬ士郎の発言に疑問を持ちつつも、それどころでは無いと、彼女は深く考えなかった。好きにしろと、身を隠し慎重に戦闘を覗く。

 

「遠坂、アーチャーは?」

「そこに居るわよ」

「どこさ?」

「……あれ?」

 

戦場に駆けつけたセイバーはバーサーカーを見てその脅威を直感で感じ取った。一人では荷が重い、だが退く訳には行かない。戦うのがサーヴァントの役目だからだ。

 

彼女がバーサーカーに一刀を入れると真也が飛び込んできた。足手まといだという考えは、即座に無くなった。“何者だ、この男”疑念は尽きなかったが、実力は認めざるを得なかった。

 

二人の共闘は当初でこそ、たどたどしくヒヤリとする場面もあった。だが、お互い剣を持つ者同士、短時間で互いの呼吸を読める様になった。その結果、相応のダメージを与えられるようになった。

 

例えば。打ち下ろされる岩斧を真也がかいくぐる。間髪置かずセイバーがバーサーカーに迫る。迎撃しようとバーサーカーが切り返した瞬間を狙い、彼がその軸足の膝裏を打ち抜く。当然バーサーカーは体勢を崩し、その隙を狙ってセイバーは魔力を乗せた一刀を撃ち込むという具合である。

 

ただそれを何度繰り返しても、バーサーカーが倒れる気配すら見せない。彼らの有様も酷いものだ。セイバーの鎧は凹み歪み、亀裂が入っている。彼の防寒具は破け、もはやその機能を果たしていない。互いに埃まみれ、加えて血も流している。防御に劣る真也が比較的軽傷なのは、セイバーに守って貰ったからである。

 

二人は互いに並び剣を構えた。セイバーは左手の真也をちらと見た。警戒していた人間と轡を並べるとは皮肉なものだ、彼女はそんなことを考えた。

 

「これでは埒があかない」

「セイバーも宝具を持っているんだろ?」

「私のは少々大げさだ。この地形、今のバーサーカーの位置では民に被害がでるかもしれない」

「なら、やっぱりアーチャー待ちだな」

 

「アーチャーが?」

「そう、アイツは回復後宝具攻撃をするプランなの。俺はその時間稼ぎをやってたの」

「それは何時の事だ」

「そろそろ……」

 

そう真也が凛を見れば側にアーチャーは居なかった。代わりに士郎が居た。

 

(あれ?)

 

バーサーカー越しの凛は身体を大きく動かしゼスチャーをしていた。彼女は遠くを指さした、その先には冬木市で一番高いビルがあった。真也は首を傾げた。

 

(あそこに誰かが居る?)

 

次に腕を組んで人を小馬鹿にした様な顔をした。

 

(えーと、アーチャーの事か?)

 

今度は弓を撃つ様な身振りをした。

 

(エアー弓道?)

 

最後は両手足を広げて、大の字に大きく跳んでいた。

 

(アーチャーが、ビルで、弓を撃つ、大きい……なんぞ?)

 

凛は何度も何度も跳んでいた。

 

(ぴょんぴょん……あぁドッカーン、か……ドッカーンっ!?)

 

直後のことである。空が明るくなり始めた、夜明けにはまだほど遠いから、太陽の筈が無い。直に空を切り裂く音も聞こえ始めた。膨大な魔力を伴って何かが飛来してくる。

 

「ヤバイ! セイバー逃げろ!」

「敵前だぞ!」

 

真也は自分だけ逃げようかと思ったが、色々“拗れそう”なので助ける事にした。今更だと綾子に言われそうだが、彼は桜が関わらなければ適度にまっとうなのである。

 

「あぁ、もうめんどくさい!」

 

彼はセイバーを抱きかかえ走り出した。お姫様だっこである。飛来する何かに気づいたバーサーカーは空を見上げた。

 

「無礼な!」

「文句は後で聞く!」

 

それを見ていた凛と士郎のこめかみに血管が浮かび上がる。音速を超えて飛来するそれを、バーサーカーが迎撃しようと岩斧を振るった直後であった。あるいは直前かもしれない。ともかくその瞬間、目がくらむ様な閃光が辺りを吹き荒れた。セイバーと真也の二人は激しい爆音と衝撃波に襲われて、吹き飛ばされた。

 

アーチャーのカラドボルクⅡによる攻撃だった。

 

 

◆◆◆

 

 

薄れゆく意識の中で真也は桜の幻を見た。二人が出会った頃の桜は内気で日がな一日家にいた。少し大きくなって公園を駆ける様になって、中学校に上がるとき制服が可愛いとはしゃぎまくっていた。穂群原に入学して16歳の誕生日を迎えたとき“私もう結婚できるんだから”そう言われて彼はショックを受けた。そして今。桜は純白のドレスを纏って、バージンロードを真也と共に歩いている。祭壇の先に待つのは……。

 

「って走馬燈にそのビジョンはまだ不要だっ!」

「起きなさい! このバカ真也!」

 

気を失っていた真也が急に叫んだので凛は呆気にとられた。彼女は瞬きを数度繰り返した。

 

「あれ?」

 

真也は己の身体を確認した。酷い怪我だが動きに支障は無い。五体満足だ。だが頬が酷く痛む。見上げれば寝転がる彼を馬乗りに跨ぐ凛が居た。はしたない、彼はそう思ったが、襟首を掴まれているので、言うのを止めた。心配された事が分かったからである。だがこう言った。

 

「ここは地獄に違いない。なぜなら凛が居るからだ」

「……アンタ、心配してあげた女の子にそういう事いうわけ?」

「女の子ってのはもちっと優しいだろ。ビンタして叩き起こすのは如何なものか」

「それってアンタの妄想じゃない」

「少なくとも桜と綾子はしないと思う」

 

他の女の名前をだされて、たちまち凛の機嫌が悪くなる。彼は目眩がやまない頭を振り、こう聞いた。“大丈夫? 怪我はない? 無茶しないで”凛は気遣いの言葉を掛けてあげようという気はさらさら無くなった。

 

「どれぐらい気を失ってた?」

「……3分程ね。どんな幻を見ていたのかしら。腹が立つほど嬉しそうに伸びてたわ」

「さっきのはアーチャーの攻撃か」

「そう。何をぼさっとしてるのよ、せっかく警告してあげたのに」

「あの謎踊りで分かるかい……って何故に機嫌が悪い?」

「自分で考えなさいよ」

 

アーチャーはバーサーカーが足を止めた僅かな瞬間をやむなく狙ったのであった。

 

「凛、取りあえず目は覚めたから退いてくれ」

 

彼が崖から這い上がると廃墟が見えた。爆心地を中心に外側へ、土は盛り上がり、木々は折れ、墓石は跡形も無くなっている。パチパチと燻る炎などとても心象が悪い、それこそ大戦の後か、煉獄である。

 

彼は自分が無事なのを不思議に思った。セイバーが楯になったからであったが彼が知るよしもない。その炎が絶えない爆心地では未だバーサーカーとセイバーが戦っていた。

 

「……アーチャーは狙いを外したのか?」

「寸分違わず命中したわよ、それでも生きてるのよバーサーカーは」

「まーじーでー」

「ランクA相当の宝具による攻撃で無事ってインチキも良いところよ」

 

剣戟の音が響く、だがセイバーのそれにキレが無かった、と言うよりも消耗で一方的な防戦だ。彼もまた爆発の衝撃でダメージを負った。アーチャーは引き続き援護しているが焼け石に水だ。真也はバーサーカーを睨んでこう言った。

 

「なぁ凛。バーサーカーの秘密、あの不死性って何だろうな」

「宝具によるもの、そう考える方が妥当だけれど。見当が付かないわね」

「と言う事は不完全な不死って事だな。魔力が尽きれば倒せる」

「まぁね、完全な不死なら英霊になっていないでしょ。でもイリヤスフィールが供給してる魔力量は尋常じゃないわ。アテになんてできないわよ」

 

「イリヤスフィールってあのちびっ子?」

「そうよ……ってアンタそういう趣味じゃないでしょうね」

「凛に告ったの忘れたのか」

「分かってるわよ、そんなこと……」

 

目を逸らし歯切れが悪い。おまけに頬も赤い。落ち着き無く身を捩っている。真也はその原因について考えるのを止めてこう言った。

 

「話を続けて」

「……久宇舞弥によると、あのイリヤスフィールって奴“バーサーカーを一回殺すなんて、貴女のアーチャーやるじゃない”って言ったらしいわ」

「ヘラクレスって、あの?」

 

凛は無線機を持つ士郎から聴いたのだった。舞弥は読唇術でそれを読み取った。

 

「そう。エウリュステウスが与えた12の功業で有名ね。12回殺しさえすれば……なんだけど」

「Aランク相当の攻撃をあと11回も撃ち込む戦力がこちらにはない」

 

二人は黙り込んだ。攻撃する手段がない、イリヤが圧倒的に優勢なのだから逃がしても貰えまい。散開離脱すれば戦力を分断する事になるから、結局は同じ。誰かを犠牲にして運良く逃げおおせたとしても、イリヤには顔がばれている。再発見されない様に、未だ不明の他マスターを探しだし、協力を持ちかけ、戦力を立て直す。真也は頭を抱えた。

 

(……ムリゲーすぎる)

 

ずーん、と重苦しい空気が支配した。セイバーはジリ貧、アーチャーの攻撃は焼け石に水。絶対的優位でイリヤは姿を見せていた。戦場の地形は朽ちた闘技場の様になっていて、観客席に相当する、見通しの良い崖の上にイリヤが立っていた。

 

真也は思いついた様にこう言った。

 

「凛、アーチャーにあのちびっ子を撃つように言ってくれ。優秀なマスターかも知れないが、戦はとんと素人のバカ娘だな。戦況に浮かれてる」

「位置が悪くてできないそうよ」

「なんざそら」

 

イリヤは見通しの良い場所に居る。彼は不思議がったが弓兵(プロ)が出来ないというのなら出来ないのだろう、そう考えた。

 

「ところで士郎は? 来てるんだろ?」

「あそこよ」

 

凛が指を指せば、置いてきたその場所に士郎は居なかった。

 

「どこ?」

「……どこ?」

 

 

◆◆◆

 

 

士郎は戦場を周回するように、森の中を移動していた。早歩きだ。身体はまだ動かしにくいがそんなこと気にしていられなかった。藪の中に飛び込んで幹が身体を突いた、痛みが走る。樹木の根に足を取られ転んだ、鉛がくっついているのでは思う程の、重い身体だった。それでもじっとなどしていられなかった。

 

(イリヤ、イリヤスフィール、姉、姉さん……)

 

舞弥はイリヤを監視していた。士郎は舞弥を探そうとしてイリヤの姿を見てしまったのだ。遠目に映るその幼子は初めて会った時と違って見えた。マスターだから? 違う。戦場に居るから? 違う。姉だと、家族だと知ってしまったからである。

 

彼は脂汗を流し息を切らせた。樹木にもたれ掛かった。息を切らしながら見上げれば、木々の隙間から星々が見える。

 

(イリヤは敵だ。敵マスターだ。俺らを殺そうとしている。バーサーカーは強大。他の方法はない。倒すべきだ)

 

彼は幾度となくそれを考えながら足を動かした。崖に張り付き登った。土に汚れ、這い上がった。視界が開けると彼は思わず笑みをこぼした。彼がこれから何をしようとしているのか、それが分かっているにも関わらず喜びが勝ってしまった。

 

(イリヤが退いてくれる確証はない。だが話し合いもせず決めつけて良い訳がない)

 

士郎は重い足取りで、だが心は軽く。イリヤに歩み寄った。二人は眼が合った。

 

「シロウ?」

 

崖の上に佇むイリヤは驚いたように眼を見開いた。どうしてセイバーのマスターが、無防備に現れたのか理解できなかった。

 

(馬鹿かアイツは……)

 

その士郎の行動を見て、理解できないと眼を見開いたのは真也も同じだった。士郎が死ぬことだけは避けねばならない。時間が無い、彼は刀身を確認しつつ側に居る凛にこう言った。

 

「凛、イリヤスフィールを殺す。斬殺する」

 

凛は必死に話しかける士郎の姿を見た。一瞬顔見知りなのかと考えたが、それに答える相手は居ない。セイバーの命は風前の灯火だ、セイバーが落ちれば総崩れだ。彼女は迷った。なし崩しの共闘が裏目に出たのだった。選択を誤るとセイバー陣営と修復不可能な事態に陥る。真也が続けていった。

 

「すまない、俺は凛を巻き込む。だけど凛の同意を取り付けないと強襲は失敗する。これは凛の同意が絶対条件だ」

 

もし凛が士郎に警告するならばイリヤに知れバーサーカーが立ちはだかるだろう。アーチャーの宝具による余波で真也はダメージを負っている。バーサーカーを凌ぐのはもう無理だ。だがマスター程度なら造作はない。凛は伏せていた目を上げてこう言った。

 

「馬鹿にしないで。私は魔術師よ、殺し合いだというのは受け入れてるから」

 

彼女は笑っていたがそこにはやるせなさも混じっていた。真也は頷くと飛び出し闇夜に消えた。士郎は必死に話し続けていた。我が身も省みず。

 

(そう。衛宮君って魔術師じゃないんだ)

 

セイバー一人では戦わせられないと言った事も思い出した。そして凛は真也が消えたその暗がりをじっと見つめていた。

 

(真也、アンタは誰なの? 魔術師? それとも何? わたし真也のこと何も知らない。好きな食べ物のことも、家で何をしているのかも。ねぇ、真也は……私に真也のこと教えてくれるの?)

 

その暗がりは凛の不安を解いてくれなかった。

 

 

◆◆◆

 

 

イリヤを見上げる士郎は縋るようにこう切り出した。

 

「姉さん、話は全部聞いた」

「そう、シロウは私を姉と呼ぶんだ」

 

イリヤは微笑んだ。切嗣が居たならアイリスフィールと瓜二つだと言っただろう。

 

「もう止めてくれこんな事は。家族同士が争うなんて間違ってる」

「関係ないわ。マスター同士だから戦うの。それはシロウだって理解してるのよね?」

「理解してる。それでもだ。それでも家族が殺し合うなんておかしい。そんな事しないから家族なんだろ」

 

「キリツグは私とお母様を捨てたの。そんな男を家族とは呼ばないわ。士郎も同じ、だから殺してあげる」

「違う! オヤジはイリヤを愛してた! だから!」

「ならセイバーを自害させなさい。それならシロウだけは見逃してあげる」

 

士郎は振り返った。そこには血を流し、傷つき、それでも戦うセイバーの姿があった。彼は躊躇いののち胸を張った。

 

「それは出来ない。セイバーとは一緒に戦うと約束した。それを裏切ることなんてできない」

「そう、シロウってそうなのね。なら良いわ、そこで見ていなさい。お姉さんが教えてあげる。目を背けられないから現実だという事を」

「待ってくれ姉さん。俺が憎いんだろ? なら皆は関係ない、俺はどうなっても良い、皆を見逃してくれ」

「だめ、士郎には苦しんで貰わないと。先にあいつらを殺すわ」

 

真也はイリヤまでの距離、陸上競技場トラック2周分の距離を一気に詰めた。夜空には相変わらずの月。冴え冴えとする月光を浴びて、二人のサーヴァントが戦う光景は、それこそ劇でも見ている様だった。彼は至近距離にイリヤを捕らえると、一足飛びに詰めた。音など一欠片もない。気配すらない。本能で悟ったのか、雪の娘は死神にでも魅入られた様に、何の感情も無く真也を見た。眼が合った。蒼い瞳が子供を貫いていた。

 

士郎は姉に近づく黒い影を見た。その影は蒼白い刃を持っていた。士郎は悟った。イリヤの死である。

 

(姉、義理の姉、あの無邪気な笑顔をみせた幼い姉が、)

 

死ぬ。

 

(腹を切り裂かれ、臓物をまき散らし、無残に、)

 

死ぬ。

 

(何も話してない。親父の事も、アイリスフィールと言う人の事も。親父は何度イリヤを救い出そうしたか。どれだけ愛していたか。なのに、お前は。その姉を、イリヤを殺そうというのか―)

 

士郎の、真也への怒りは図らずとも令呪を介しセイバーに伝わった。

 

― ヤメロ! ―

 

それは肉声か幻聴だったのか、士郎にも分からなかった。本能に従うまま抜いた真也の刀身は鞘を走り、月光を浴びて光り、イリヤスフィールの衣服を裂き、皮膚を切り、肉を断った。刃は子供の脇に食い込んだ。そのまま真一文字に打ち抜こうとした一刀は、子供の死に至る前に、セイバーの不可視の剣で止められていた。

 

ガキンッ!

 

散った火花をアクセントに、金色の髪と白銀の鎧が踊る。何故だ、真也はそう考えた。セイバーは数百メートル先でバーサーカーと戦っていたはずだ、それが何故この瞬間ここに居る。イリヤを討つ事はバーサーカー打倒の唯一の手段、何故セイバーがそれを止める。彼はそれが士郎の仕業だと悟った。

 

「シロウォォォォッ!!」

「シンヤァァァァッ!!」

 

二人の叫びは理性を持たぬバーサーカーの心にすら届いた。

 

 

 

 

 

 

 

つづく!




やっとここまで来た。舞弥と士郎の絡みは全てこのイベントの伏線。士郎の動機についてこれ以上の解は持ちませんので、お答えできませんごめんなさい。

炎上したら目は通しますが返信しません、も一つおまけにごめんなさい。











【おまけ】
麻婆神父「聖杯戦争やれよお前ら」

サーセン。



【おまけ2】
状況的に仕方が無いのですが、真也ってば凛を共犯者にしました。このフラグ後々引きます。どろどろと凛にまとわりつきます。凛は士郎を真っ直ぐ見られないでしょう。昼ドラ万歳。

因みに、真也と凛ですが、彼には士郎牽制以上の意図はありません。無自覚な好意は少し。それは後日。真也はヤバイっすよ、私が言うのも何ですが。BGMはひぐらしのなく頃に ED 「why,or why not」 でおながいします。


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12 聖杯戦争・序7 バーサーカー編

セイバーは手にある己の剣を見た。それは真也の刀を叩き、止めていた。刃同士がせめぎ合い耳障りな音を立てている。彼女は初め自分の行動が理解できなかった。

 

“なぜ私はこの男に刃を立てた?”

 

理解が追いついてくる、令呪の命はこの男を止めること。イリヤを殺そうとしたこの男を止めること。イリヤに躊躇いがあるセイバーはその命に無意識に従ったのだった。舞弥から聞き及んでいた士郎の性質とヒビ、そう言うことかと理解した。

 

“とんでもないマスターに当たったものだ”彼女は初めそう思った。戦の最中に敵に情けを掛けるとは理解しがたい。だが“大切な誰かを守る”というのは酷くまっとうだ。後で苦言を呈さなくては、彼女はそう思い剣を返した。セイバーは士郎の剣だと誓ったのである、誓いとは覆せないから誓いなのだ。

 

逼迫している互いの刃、それを基点に真也は踏み込んだ。飛来してきたばかりのセイバーは足がまだ地に着いていない、彼女の胸のプレートに肩を当て寸勁を打つ。切り返し、宙を舞うセイバーの間隙を突き、真也は刀身をイリヤの首に向けて走らせた。セイバーは空中で身体を捻り、彼を切りつけた。殺すつもりは無かったが、真也の技量、セイバーの体勢から余裕は無かったのである。“済まない”そう彼女は一言呟いた。その切っ先は凛の防御結界を易々と通り抜け、右脇腹から左胸に向かって切り裂いた。

 

「っ!」

 

彼は痛みで蹈鞴を踏む。運が良かったのか悪かったのか、結果的にその行為が彼を救った。セイバーと同じ様に瞬間飛来してきたバーサーカーが目の前に落ちたのである。直撃は避けたものの彼は吹き飛ばされた。セイバーははじき飛ばされ崖から落ちた。

 

「痛い、痛いよ」

 

イリヤの嘆きに呼応して、狂戦士が怒り狂う。その様は竜巻だ。

 

「許さない、あいつ、許さないんだから!」

 

彼は吹き飛ばされた。身体は転がりながら、坂を駆け上がる程の勢いで転がった。幸運にも林の中だった。鬱蒼とした木々の中、ダメージに喘いでいる暇は無い、急ぎ迎え撃たなくてはならないのである。凛はもちろんアーチャーからも隠れた事を確認して、彼は眼鏡を外した。

 

ギチリ、のしかかる神経への負荷を代償に、世界に線と点が顕れた。大樹の陰に隠れて、気配を探れば、狂戦士が怒濤の様に押し寄せてくる。激高したマスターの影響で、完全に狂っていた。岩斧で樹木を手当たり次第打ち倒している。何を追っているのかも理解していなかった。

 

バーサーカーの敏捷性はランサーと同等だ。だが油断のならないランサーに対してバーサーカーは比較的単純。如何に速かろうと、読めるのであれば対応は可能である。狂いまくっている今なら尚更だろう。

 

狂戦士が彼の隠れている大樹を倒そうとしたその直前、真也は線に沿って木を切った。それを狙っていた岩斧が目標を失いあてども無く宙を切る。隙あり。彼は倒れる樹木に紛れて踏み込んだ。目の前に岩斧が迫る、狂っていても、否、狂っていてこその切り返しの早さ。

 

吹き飛ばされた影響で彼の身体は上手く動かない。鈍く重い腕に活を入れ、上段に構えていた霊刀を打ち下ろす。その刃は岩斧の線を捕らえ、断ち切った。何の音も無く、岩斧の切れ端が宙に舞う。

 

狂戦士が吠えた。それは威嚇か警戒か。

 

シフトウェイト、突の構え。バーサーカーをサーヴァントとして顕界している点を見定め踏み込んだ。必殺の刹那、彼の身体が止まった。電池が切れたかの様にゆっくり止まり、止まったら鉛にでもなったかの様に完全に動かなくなった。魔眼と干渉し、凛の魔術がかき消されたのだった。

 

半分以下になった岩斧をバーサーカーが打ち下ろす、その結末は肉塊だ。間に合うか間に合わないか、それを考える時間すら惜しんで、真也は下半身の力を抜いた。バランスを崩しバーサーカーの一閃を際で躱す。大地を穿つその一撃に彼ははじき飛ばされた。

 

崖を転がり続ける真也をバーサーカーが追撃を掛ける、凛は慌ててイリヤに駆け寄った。倒すか人質にするかはその時の流れ次第だ。イリヤは出血と痛みで意識がもうろうとし、凛に対応できない。それを察したバーサーカーは真也の追撃を断念、跳躍、イリヤを抱きかかえると闇夜に消えた。イリヤの城までは距離があるからである。

 

 

◆◆◆

 

 

墓所に静寂が戻った。それは比較してと言う意味で、実際には炎が燻り音を立てていたし、戦禍の跡は殺意として未だ漂っていた。

 

最初に動いたのは舞弥だ、まずは無事を確認するべきだと士郎に駆け寄った。セイバーも立ち上がり、それに続いた。転がっていた真也は、眼鏡を掛けると凛が近づく前に立ち上がり歩き出した。術が切れている事は明白、それにも関わらず動けることは驚異的である。凛はとにかく手当が先だと引き留めたが彼は止まらなかった。

 

「ちょ、真也、手当、」

「あとで良い」

 

何用だと警戒するセイバーを押し寄せて士郎は向き合った。真也は苛立ちを隠さず士郎に歩み寄ると胸ぐらを掴み上げた。

 

「やってくれたな、この野郎……」

 

真也はイリヤと士郎の関係を知らないのである。士郎は不愉快さを隠さずにらみ返した。

 

「それはこちらの台詞だ、勝手な事をしやがって」

「するかもなと思った。だが本当にするとは思わなかったぞ」

 

理解できない、出来るはずがない、真也は衝動を抑えてどうにかこう言った。

 

「一応聞いてやる。釈明があるなら言ってみろ」

 

だが我慢ならないのは士郎も同じである。姉を目の前で斬殺され掛かったのだから。

 

「そんなものは無い。謝るぐらいなら最初からやらない」

「それは道理だ」

 

真也は左手で士郎の胸ぐらを掴み、右拳を振り上げた。

 

「マスターへの狼藉はこれ以上見逃せない。その手を離して貰おう」

 

セイバーは剣を真也の首元に突きつけた。真也は士郎から視線を外さない。

 

「……正義の味方と騎士道はさぞ相性が良いだろうな」

「愚弄する気か、貴様」

「やめなさい!」

 

凛は肩を怒らせて仁王立ちだ。真也は振り払うように士郎を離した。凛の一喝が効いて頭に登った血が降りたのである。二人は声の緊張を解いていた。

 

「士郎、お前はイカれてるよ。自分より他人だなんて理解の外だ」

「同意見。子供を躊躇無く殺すなんて真也はどこかがおかしい」

 

士郎は本心を隠した。姉では無く子供と言ってしまった。

 

「敵マスターだぞ」

「例え傷ついてもやっちゃいけない事がある。人間性ってそういうものだ。真也、お前に呵責はあるのか?」

「殺し合いでヒューマニズムを説くか」

「少年兵を殺して心に傷を負う兵士の事を知らないのか。それすら無いお前はただの機械だよ」

 

二人は睨み合ったとそのまま背を向けた。凛は舞弥に言う。

 

「明日、時間を頂けますか?」

 

静かな声だったが僅かに震えていた。理性を持って衝動を抑えていたが、僅かに綻んでいた。

 

「場所と時間はこちらから連絡します」

「分かりました」

 

凛が3人を見送ると真也の姿が既に無い、慌てて追いかけた。

 

「勝手な事ばっかり!」

 

自動車の後部座席に士郎を乗せると舞弥は鋭い視線だ。声も数段ましに低い。月を背にしたその影に染まった面に双眸だけが光っていた。その迫力は夜叉のよう。

 

「士郎、話は二つよ。一つ、イリヤが姉だとどうして言わなかったの。家族を死なせない為に衝動的にやってしまったと」

「関係ない。あいつの非情が許せなかっただけだ」

 

彼は身体を震わせていた。自分が何をしたのか、理解し始めたのだろう。とっさとはいえ、誰かを殺しかけたのである。例えそれが最も嫌悪する相手であろうとも。まっとうな人間の反応を士郎の中に見て、舞弥は取りあえず良しとこう言った。

 

「……もう一つ。仲間を危険にさらしたなんて聞こえの良い言葉はもう言わないわ。セイバーも私もそれを踏まえた上で士郎の側に居る。でも自分が死んだらイリヤと話す事も適わない、これは肝に銘じなさい」

「……」

「二人に共闘を申し入れます、良いわね?」

「真也は受け入れない」

「それとこれとは話が別」

「分かった」

 

バーサーカー戦、マスターではなくサーヴァント打倒に戦力は多い方が良い。

 

「よろしい。では沙汰を申しつけます。罰として今後一週間、家事の一切を禁じます。空いた時間を使ってよく考えなさい」

「は? 舞弥さん料理なんて出来ないじゃないか」

「だから?」

 

青い顔で押し黙る士郎を見届けて舞弥はハンドルを握った。助手席に乗り込むセイバーは不思議な顔だ。食事当番の禁止がどうして罰になるのか良く分からなかった。だが、それはそれとしてセイバーは言う。

 

「では私からも士郎に一つ罰を。帰ったら道場に来てください。その性根をたたき直します」

「……鍛錬じゃ無くて?」

「罰と申し上げたはずです。シロウは言って聞かないようですから、身体に教え込まさないといけません」

「……はい」

 

舞弥はアクセルを踏んだ。

 

(予想していた展開の一つだけれど、先が思いやられるわね)

 

 

◆◆◆

 

 

入浴が終わり部屋に戻った桜は、ぼんやりした後おもむろにアルバムを取り出した。そこに収まる写真は桜と真也の10年分の記録だった。千歳と希に綾子も混じっているが二人の写真が多い。彼女はその写真に指を走らせると深いため息をついた。

 

写真の二人は距離が近い。抱きかかえていたり、覆い被さっていたり、様々だがどの写真の桜も幸せそうに笑っていた。写真と桜、それを交互に見ていたライダーは腕を組んで考えた。二人の関係が良く分からない。ライダーが血を吸う為に近づいた時の桜のリアクションにしろ、引っぱたいた時の反応にしろ、浴室での涙混じりのふくれ面にしろ、反応がおかしい。

 

ライダーは初め依存と考えたが違うのではないか、そう思い始めた。真也は否定したがこの桜の様子を見る限り、恋する乙女である。好意に相互依存が混じればそれは愛情となる。深い愛情と激しい嫉妬は表裏一体だ。だから依存に見えたのではないかと、ライダーは考えた。

 

桜はアルバムをめくりながらこう切り出した。

 

「ライダー」

「はい、サクラ」

「男の人ってやっぱり露出の多い方が好きなのかな」

 

桜はライダーの恰好を言っていた。ライダーの黒いスーツは背が高くスレンダーなスタイルでないと似合わない姿である。桜の様な小柄でグラマーなスタイルでは、格好良さより淫靡さが強調されよう。

 

「私の感ですがシンヤは桜のような肌を隠す着こなしが好みでしょう」

「……男の人って控えめな娘より派手な娘の方が良いのかな」

「シンヤは桜のような控えめな娘が好みでしょう」

「………男の人ってエッチな娘は嫌いなのかな」

「シンヤも男ですから温和しそうに見えて実は、という展開に弱いと思われます」

 

「ライダー」

「はい」

「男の人だって言っているのにどうして兄さんの事言うの?」

「サクラはシンヤの写真しか見ていません」

 

桜は手を止めた。

 

「サクラはシンヤの事を、」

「やめて」

「差し出がましいですが、サクラは何に縛られているのですか?」

「もう遅いの。もう私動けない。もう聖杯しかない」

 

“苦しいのに離れられない、嬉しいのに離れなくてはいけない”ライダーは桜の葛藤が、その原因が良く分からなかったが、どうにかしたいと考えた。このままでは聖杯を手に入れるどころか自滅しかねない。それでなくとも情緒不安定に陥るかも知れない。桜にはその様な目に遭って欲しくなかった。桜の性格から判断してすべては真也次第だという事は容易に知れた。

 

(シンヤが強引に迫れば折れるでしょう)

 

ライダーに必要なのは確証である。そうすれば後は実行だけだ。取りあえず今は、とライダーは時計を見た。いくら何でも遅すぎる。

 

「サクラ、私はシンヤを迎えに行きます」

「なら私も、」

「湯上がりに寒空では体調を崩します。待っていてください」

 

桜は既にパジャマ姿だ。

 

「分かりました。ライダーお願い」

「はい」

 

背を向けたサーヴァントを桜は呼び止めた。笑顔だが表情に影がある。

 

「つまみ食いは駄目だからね」

「100CC程は頂けないでしょうか」

「駄目です。ライダーにはちゃんと魔力を供給してるでしょ」

 

ライダーは肩を落として蒼月の家を後にした。

 

 

◆◆◆

 

 

(どうしてこうなるのよ)

 

凛は悪態をつかずにいられなかった。戦場であった墓地を出て小道に入ったところで真也を拾った。彼が倒れたのは、支援魔術が切れた反動があるにも関わらず、強引に動いた為だ。命の別状は無かったが、手早い手当は必要だ。彼女は応急手当を施すと自分の身体に筋力強化の呪文を掛けた。真也を担ぎ上げようとしゃがみ込めば、数メートル先にサーヴァントが立っていた。

 

女性、桃色の長い髪、ボディコンのような黒い装束、そして目隠し。凛はなぜこのタイミングで現れるのか、そう文句を言ってやりたくなった。

 

『アーチャー』

『3分待て』

 

どうにか、切り抜けないといけない。凛は膝元の真也をちらと見ると、ポケットにある宝石を掴んだ。沈黙を続けるそのサーヴァントにこう言った。

 

「何かご用かしら、サーヴァントさん」

「……」

「夜の散歩って訳じゃないわよね、パーティ帰り? それにはドレスが少し地味か」

「……」

 

何かがおかしい、凛はそんな事を考えた。バーサーカー戦を偵察していた? それならばここに居るはずが無い、とうに帰投しているはずだ。消耗したマスターおよびサーヴァントを討つ? アーチャーは死に体、脅威を考えればセイバーを狙いそうなものだ。仕留めやすい方をと考えれば納得も行くが。

 

(そもそもなぜ襲ってこない?)

 

沈黙を続けるそのサーヴァントに凛は苛立ち始めた。

 

「口が利けないんだったら申し訳ないんだけれど、用件があるなら手短に済ませてくれない? わたし待たされるのが嫌いなの」

「その男と貴女はどういう関係ですか?」

 

凛はしっとりした声に驚いたが、その発言にも驚かさられた。凛とは初見。サーヴァントが凛を敵マスターとして認識しているなら生かしておく理由がない。バーサーカーとの共闘を持ちかけるとしてもその発言は不可解だ。

 

(真也を狙ってる?)

 

凛の警戒の質が変わった。彼を掴む凛の手に力がいっそう籠もる。

 

「関係ないでしょ。それともなに? 恋仲とか言ったら立ち去る訳?」

 

ライダーは凛と真也の関係を考えた。彼は負傷している、恩人であれば手荒な事はしたくない。助けた以上敵対関係でもないだろう。が、桜にとって敵かどうか、それはそれで重要だ。

 

「もう一度聞きます。その男との関係は?」

 

凛は悩んだ。告白されてはいるが返答はしていない。そういう意味ではただの友人である。正直に答えるか、ハッタリを噛ますか。真也を狙っている事を前提にするなら、他人だと答えれば凛は見逃されるだろう。見逃すつもりが無いのならとうに攻撃されているからだ。転じて、今後の行動に繋げる事が出来る。凛はこう言った。

 

「ただの知り合いよ。行きづりで助けただけ」

「ならば立ち去りなさい」

「助けたんだから、何処へ連れて行くのか教えてくれても良いんじゃない?」

「答える義務はありません。貴女を見逃すと言っています、その対価として考えてください」

 

凛は真也のコートに追跡用の宝石を忍ばせると静かに立ち上がり、数歩下がった。靴音を鳴らし近づくそのサーヴァントをみて、美人に間違いないと凛は当りを付けた。嫉妬を通り過ぎて腹が立つ程の美しさである。サーヴァントは真也を抱きかかえ夜空に消えた。凛はほぼ確信を持って真也の家に向かった。当然苛立ちは収まらない。

 

『アーチャー、屋敷で回復に努めなさい(宝石を忍ばせる必要も無かったか)』

 

ライダーを出迎えた桜は自分の目を疑った。ライダーの腕の中に居る真也はぐったりとして動かない。応急手当がされているのは分かったが、放っておく事など出来ない。どうしてこんな怪我をしたのか、その疑念は刀傷で察しが付いた。聖杯戦争に巻き込まれた、それ以外あり得ない。心の中で何度も謝り、桜は泣きそうになるのをどうにか堪えた。

 

「ライダー、居間へ兄さんを」

 

ライダーは白いシーツの上に真也を寝かすと、桜が戸棚から試験管の瓶を取り出すのを見た。それは無色透明で、僅かに粘度があった。

 

「サクラ、それは?」

「家に伝わる霊薬、といっても母さんが作った物だけれど」

 

桜は瓶を取り出すと口に含み、真也に口移しで飲ませた。彼は数度咽せると、そのまま眠りについた。骨に達する傷が瞬く間に塞がり、呼吸にも苦しさが無くなった。ライダーは感心したようである。

 

「良く効くものですね。サクラも携帯してください。今後必須になるでしょう」

「私には効かないの。母さんと兄さんしか効果が無いから持ち歩いても意味は無いかな」

「どうしてですか?」

「それは、」

 

ライダーには話しておくべきか、迷っていると呼び鈴が鳴った。一回鳴り、もう一回鳴り、暫く間を置いたら連続してなり始めた。こんな夜更けに誰だろう、桜はそう考えた。それと同時に夜更けに来る理由がある人だと考えた。

 

「追い返しますか?」

「ううん、出る」

「敵かも知れません、控えます」

「敵なら呼び鈴は鳴らさないと思うよ」

 

玄関に立つ人物を見て、桜はどうしてと呟いた。心の中で繰り返すそれは祈り、否、呪いだった。遠坂凛が自分の家に居る、それは彼女にとって極力避ける事であり嫌忌することでもあった。

 

「何かご用ですか?」

 

桜の声は震えていた。

 

「真也いる?」

 

拒絶を許さない凛の物言いだった。兄の名前を出されて桜も退けなくなった。恐れが無くなった。唇を強く結ぶ。

 

(サクラ、この人物を追い出しますか?)

(そのまま隠れていて)

 

桜は廊下に立ち、凛は土間に立っている。見下ろす桜の眼は鋭く光っていた。

 

「こんな時間に何の用ですか、遠坂先輩。非常識だと思います」

「そうね、非常識だわ、それは認める。でも非常時だから来たのよ。はやく真也を出しなさい」

 

ムッと苛立つ桜だった。用件を忘れて思わず言い返した。

 

「さっきから聞いていれば、私の兄を呼び捨てにしたり物扱いしたりいい加減にしてください」

 

実際凛も苛立っていたのだった。何気ない言い回しに苛立った。

 

「“私の”兄?」

「おかしいですか?」

「蒼月桜さん? 貴女こそ物扱いしているのに気づいてる?」

「私たちは兄妹です、遠坂先輩とは立場が違います」

 

ライダーは玄関が異空間になっている事に気づいた。人寄せつけない、排除しようとする力、見えない棘が刺さるようで非常に居づらい。

 

「仲の良い兄妹(きょうだい)だからって物扱い、それ不健全ね」

「薄情な姉妹(きょうだい)よりは良いでしょう?」

「ようやく分かった。真也がシスコンになる筈だわ。こんな兄にべったりの妹が居たんじゃ安心して彼女を作れない」

「馬鹿を言わないでください。兄さんは私が、私だけが大切なんです。そんな事も知らずにこの家に来たんですか?」

「ふぅん、良いご身分ね。兄をキープしつつ男の家に通うなんて。可愛い顔してやるじゃない。人は見かけによらないって本当だわ。それとも見かけ通りなのかしら?」

 

桜の年齢不相応の色気のある身体。凛はそれを見て、誘惑しているのではないかと遠回しに言ったのだった。ヂリ、それは二人が放つ威圧の衝突だ。

 

「失礼な事を言わないでください。何の事情も知らないくせに」

「アンタの事情なんて知らないわ。さっさと真也を出しなさい」

「警察呼びますよ」

「なら、真也が怪我してる事も私は言わなくちゃいけないけれど、それでもいい? 私はアイツを助けてここに来たんだから」

「怪我なんてしていません。遠坂先輩の勘違いです。もう帰ってください」

 

凛は挑発的な笑みを見せた。

 

「それはおかしいわね。道路には真也の血も残っているのに。私の身体にも真也の血が付いているわよ、見る?」

 

凛はこれ見よがしに自分の指を見た。ピクリと大きく反応した桜を見て、挑発できると考えた。血だと認めさせれば桜の虚偽を突く事が出来る。譲歩も引き出す事が可能だろう。

 

凛は曲げた人差し指に舌を這わせ舐め取った。桜の怒りが頂点に達する。歯を食いしばり、身体の前に置く両の握り手をきつく握った。震える身体をどうにか押さえた。

 

「真也が怪我をしてないなら桜さんには関係ないわよね。誰の血か分からないんだから」

「鉱石魔術を使うだけあって血の扱いに躊躇いがないんですね、それとも自慢ですか? ハッキリ言って変態ですそれ」

 

予想外の桜の発言に凛は驚いた。そしてやっぱりか、とも考えた。いつものように人を見透かすような不遜の表情だったが、随分と柔らかい。

 

「どうして私が魔術師だと、鉱石魔術を使うって知ってるのかしら、蒼月桜さん?」

 

桜は己の失態に俯くだけだった。

 

 

◆◆◆

 

 

凛は悩んでいた。居間のソファーに腰掛け、腕と脚を組む。桜を挑発したのは流石に大人げなかったか、と少し反省した。だが所有物扱いされては黙っている訳にもいかない。

 

凛の足下ではその真也が身を横たえていた。意識は無いが血色は良い、一晩寝れば目は覚めるだろうと思われた。傷が既に塞がっている事を不思議に思い、彼女は問いただしたが桜は蒼月の事だと一蹴した。むかっ腹がたった、理性を総動員し事なきを得る。

 

(それはともかく、)

 

彼を挟んで反対側のソファーにはサーヴァントが腰掛けていた。脚を閉じ重ねた両手は膝の上、恰好の割には随分と貞淑的な座り方だった。そのサーヴァントは凛にある種の態度で臨んでいた。殺意ではないが、好意的な態度でもない。彼女は適当な表現が見当たらなかったが、強いて言うなら飼い主の脇に居る犬。不審者である凛を警戒していた。

 

(お節介虫にも見えるわね、なぜ?)

 

霊体状態では干渉できない、ライダーは桜を守るため自主的に顕現したのだった。凛は前向きな、戦闘的な態度で臨む事にした。敵か味方か分からない以上、下手にでる理由はない。

 

「サーヴァントさん、貴女のクラスは? アサシンか、ライダーと踏んでいるのだけれど」

「……」

「ここまで来たら話しても良いんじゃない?」

「ライダーです」

 

湯を張った手桶を持つ桜が代わりに答えた。凛は素っ気なく返事を返しただけだったが、内心怒っていた。まるで怒濤の如く疾走する蒸気機関車である。

 

(私に隠し事なんて良い度胸じゃない……)

 

凛はどの時点で桜がマスターになったのかそれを知らなかったが、ライダーが真也を知っていた時点で有罪は確定だ。魔術師は秘匿する者、それを忘れて報復を誓う凛だった。桜は手桶の湯にタオルを浸すと真也の顔を拭った。

 

(ふぅん、兄妹仲は本当に良いのね。健気なものだわ)

 

桜は真也のシャツに手を掛けると、部外者が居る事に気づいて顔を上げた。

 

「遠坂先輩。席を外してください」

「どうしてよ」

「兄さんの身体を拭きます」

「そう」

 

と立ち上がり廊下に出たら、疑念がよぎった。何かがおかしい。何がおかしい。廊下は薄暗く寒かった。怒りが沸いた。

 

「ちょっと桜! アンタ何やってるのよ!」

 

勢いよく扉を開ければ盛大な音がする。そこには半裸の真也が居て、桜が身体を拭いていた。桜の手は彼の下着に掛かっていた。彼女の顔は赤い、どういう思いで拭いていたかは一目瞭然である。

 

「なに堂々と入ってきてるんですか! 早く出ていってください!」

 

桜は慌てて真也に覆い被さった、凛に見せない為だ。凛には縋り付くようにも見えたし、所有物扱いしているようにも見えた。もう我慢ならんと桜の首根っこを掴み上げる。薄手の柔らかい生地が伸びに伸びた。

 

「なに自然に拭いてるのよ! アンタおかしいわ!」

「おかしくありません! 私たちの事に口を出さないでください!」

「妹が兄の身体に手を付けるなんて倫理的に外れたこと口を出すに決まってるじゃない!」

「変な言い方しないでください! 身体を拭いているだけです! おかしくないです!」

「嘘言うな! ならなんで顔が赤いのよ!」

「遠坂先輩には関係ありません!」

 

凛は桜の手ぬぐいを奪い取ろうとしたが、そうさはせじと桜は必死に抗った。

 

「大ありだって言ってんのよ!」

「私は蒼月です! 遠坂じゃありません!」

「尚更悪い!」

「妹が兄の世話をするのは当然です! 遠坂先輩はそんな事も知らないんですか!」

 

どうもおかしい、桜は凛を警戒しはじめた。凛は桜に詰め寄った。

 

「何処の地方ルールよそれ! 勢いに任せて適当な事言うな!」

「世界的規模で決まってます! 根源の渦に行けば分かります!」

「そんな下品な事だったら魔術師は全員自害よ! 自害!」

「下品だなんて失礼な事言わないで! 私と兄さんの関係はもっと高尚なんだから!」

 

「嘘言うな! 下半身直結の欲望じゃない!」

「えぇそうですよ! 私たちは心も身体も繋がってるんです! 遠坂先輩が出しゃばる隙間はありません!」

 

解釈は人による。手を繋いでもそう表現する事は可能だろう。

 

「知らないからって適当なこと言うな!」

「おあいにく様! 私たちは一緒に寝た事もお風呂に入った事もあるんです! お邪魔虫は早く帰って!」

「さっきから黙って聞いてれば嘘ばかりね! どうせ子供の頃でしょうが!」

「兄さんは大きな胸が好きなんですよ! これです! これ! 知ってましたか! 知らないでしょ!」

 

桜は自分の胸を掴み持ち上げた。凛よりも数ランク上のバストがたわわに振れた。サイズが合わないのか、成長したのか、下着からこぼれ掛かっていた。ブチリ、としめ縄が切れたような音がした。胸が控えめなのは凛が気にするところであった。

 

「こ、このぉぉぉ!」

 

凛は桜に飛びかかり押え付けた。桜は凛の髪を引っ張った。凛は桜の服を掴み破った。桜は凛の腕に噛み付いた。凛は桜をひっかいた。桜は覆い被さる凛の腹に蹴りを入れ吹き飛ばす。凛は飛びかかり桜を殴りつけた。二人はドタバタと暴れた。暴れに暴れた。スカートがめくれ下着が見える事もお構いなし、胸に執着していた凛は桜のブラをはぎ取りもした。揺れに揺れる蒼月の家、ライダーはこともなげに呟いた。

 

「拭き終わりました」

「「え」」

 

彼女は真也を抱きかかえると立ち上がった。

 

「どうやら二人には複雑で深い確執がありそうです。真也は私が自室まで運びますから、じっくり話し合うと良いでしょう。終わったら呼んでください」

 

ソファーはひっくり返り、カーペットは波を打つ。チェストの上にあった小動物のぬいぐるみはどこかへ飛び散り、写真立ては倒れていた。ゴミ箱は蹴り飛ばされ、その中身をぶちまけていた。

 

二人は乱れた服もそのままに、座り込んだ。凛はソファーに突っ伏していた、桜はカーペットの上にベタ座りである。凛は突っ伏したままこう桜に投げかけた。

 

「久しぶりね、桜」

「……はい」

 

凛は何を聞こうか分からなかった。どうして避けていたのか、どうして名乗らなかったのか、どうして冬木に居るのか、どうして連絡一つ無いのか、あれこれ浮かび最初の質問が定まらない。姉に喧嘩をふっかけるほど元気なら、細かい事は後でも良いとこう聞いた。

 

「どうして桜が真也の家に居るのよ」

 

桜は一つ間を置いた。

 

「私は間桐の家から助け出されたんです」

「助け出された? どういう事?」

 

凛は桜が養子に出されたと聞いていた。

 

「遠坂に捨てられた私は間桐臓硯から虐待を受けたんです。そこを母さん、蒼月千歳さんに助けられた。そして私はこの家の人間になった」

「……虐待ってなによ」

「“水”の属性を付ける為、4歳の私は魔術処理を施されたんです」

「……」

「やっぱり知らなかったんですね、姉さんは」

 

桜は背を向けたままだった。

 

 

 

 

 

つづく!




凛も凛で色々な人物に挟まれます。



【お知らせ】
士郎は家族、姉であるイリヤを死なせたくない一心で突発的にやってしまったのです。家族を思う気持ちって割り切れませんよね。

真也に突っかかったのは二人の関係だからです。逆の立場なら真也も謝りません。



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13 聖杯戦争・序8

士郎は、サーヴァントがどの程度強いのかは、知っていた。新都の公園でランサーとアーチャーの戦闘を見ていたからだ。だものでセイバーとの鍛錬も凄まじいと覚悟をしていた。

 

「シロウ、立ってください。まだ30分も経っていません」

 

凄まじいどころの話で無かった。開始直後から怪我をしない程度に、意識を失わない程度に、打たれ続けた。体中ミミズ腫れだ。彼は全身の痛みに耐えながら、本気ではなく真剣に怒るとこうなるんだろーか、と他人事のように考えていた。セイバーは笑っていた、目も同じだ。だが彼女が持つ竹刀は怒りを隠さない。

 

(それでも俺の為を思ってやってくれるなら、膝を折る訳にもいかないか)

 

そこは衛宮邸の道場である。帰宅後、セイバーは有無を言わさず士郎を連れ込んだのであった。彼は立ち上がり正眼に構えると踏み込んだ。何をするまでもなく頭部に痛みが走る、面を打たれたのだった。続けて右腕一の腕、つまり肘から手首の間を打たれて、手を離す。残った左手で竹刀をつかみ、突の構え。あっさり弾かれて右脇腹を打たれた。苦悶の声を上げる。セイバーは足払い、士郎は盛大に転んだ。

 

それを幾度となく繰り返した。時間はどれほど経っただろう、足下には滴った汗の滴が散っていた。なんとか起き上がろうとするが身体に力が入らない。見上げるセイバーの面は不思議な事に困惑の表情だ。彼女は腰に両手を添えてこう聞いた。

 

「シロウ、質問があります」

「なに?」

「姉であるイリヤスフィールを助けようと令呪を使ったのは、100歩譲って良いとします。私は離れていましたし、シロウが身を挺し切り込めばシロウが傷ついていた。あの男の速さはサーヴァントクラス、加えてその斬撃は鋭く躊躇いがない、シロウが死んでいたかも知れないからです。切羽詰まった状況で、令呪を使い私を遣わせた判断は賢明と言って良い。イリヤスフィールとシロウ自身を守るには他に手段が無かった」

 

彼は黙っていた。無我夢中でそんな事を考える余裕は無かった。ただ姉を助けたい、姉を殺そうとした真也が許せなかっただけだった。だものでセイバーの“士郎が自身を守る為”という発言は彼にとって意外だった。ただ意外なだけで理解が及ばない。まるで夢の中の自分がしでかしたような心持ちだった。

 

「なぜ、謝罪をしなかったのですか?」

「遠坂には謝るつもりだった。でも真也は……悪い事をしたとは思ってる」

「そう思っているならば、なぜ面と向かって言わないのです」

「言えないから」

「シロウ、私はその理由を聞いています。言って頂けないと私も今後の行動を決めかねる」

 

セイバーは追求では無く困惑の表情だ。共に戦うと約束した相手、それでは義理が果たせないと彼は重い口を開いた。ただ陰口を叩いているようで気が引けた。

 

「……アイツは人を傷つけても何も感じない。容赦呵責ってものがない。だから何度でも繰り返す、必要だと判断すればどんな酷い事でも出来る。家の中に入る為に扉を開ける事と人を殺す事に差は無いんだ。イリヤを斬ろうとした時の顔を思い出せセイバー。見たんだろ?」

「……」

 

過去、暴漢を半殺しにした時の真也を思い浮かべると、そこには蟻を潰しても気づかない、そんな顔をしていた。目の当たりにしたセイバーにもそれは直感で分かった。

 

「たぶん。真也にとって桜以外の全てのものは等価値だ。自分の命ですら。真也はイリヤをそうしようとした、俺はそれを止めた。謝るって事はそれを認めるって事だから、それはできない」

「士郎の意見が正しかったとしても、それとこれとは別問題でしょう。なにより建前でも謝れば収まる事もあります」

「真也もそれは期待してない」

「何故言い切れるのです」

「分かるから。俺らはそういう仲なんだよセイバー。例え非があっても謝らない。少なくとも面と向かっては。真也もそうする」

 

言い切られ戸惑うセイバーだった。

 

「シロウの話を聞く限り、仲が良いのか悪いのか私には判断がつかない。理解し合っているように見える」

「悪い。真也も言う。絶対そう言う」

 

セイバーは困惑した表情でため息一つ。俗に言うヤレヤレ顔だ。

 

「……あの男と過去に何があったかは知りません。だがそれは見方一つだ、組織活動には非情にならなくてはいけない場合もあります」

「繰り返すけれどセイバー。非情な行動じゃない、非情なあり方なんだよ。真也は世界の破滅すら何の感慨も無く決断できる奴なんだ」

 

大げさな、と思ったがセイバー自身そう言った危険さは感じていた。だがそれとこれは別だとこう言った。

 

「あの男へのシロウの評価は分かりました。ですがシロウがイリヤスフィールを守る為に彼らを危険にさらした事は事実でしょう」

 

セイバーは仲間とは言わなかった。仲間と称するには互いの事情を知らなすぎた。急造チーム、行き当たりばったりの粗が出たとセイバーは頭を痛めた。事前に知らせていたら、知っていたら違う方法もあったに違いない。殺さずに人質に取る、真也のタイミングであれば可能だっただろう。

 

「反省はしてる。だからこうして罰を受けている」

「まぁどうしても反りが合わない人物というのは居ますから、仕方は無いのですが」

 

バーサーカーは強大だ。大国に対抗するため、いがみ合う歴史を忘れ小国が連合を組むなど良くある話だ。だが士郎と真也が手を組む事など可能なのか、セイバーはそれが気がかりだった。

 

(舞弥は何事もやってみなくては分からないと言っていたが)

「セイバーは真也に謝るのか?」

「機会があれば。ですがその機会は限りなくゼロに近い」

「どうしてさ」

 

舞弥とセイバーが、バーサーカー戦直後の真也に対し、士郎擁護の立場を取ったのは陣営の違いだった。この段階で二人が士郎と異なる発言をしたり叱咤すれば、セイバー陣営の結束が成っていないという、組織的な脆さを露呈する事になる。交渉役の舞弥は交渉の手段として謝罪もしようが、セイバーは武力行使が役割だ。

 

「個人的な関係を持てばその限りではありませんが、それは難しいでしょう。私が彼に謝罪する事はできない」

 

セイバーは難しい顔だ。謝る事が出来ない、それは相応の苦しみだ。士郎は頭を下げた。

 

「セイバー済まなかった。俺の我が儘に巻き込んだ」

「……私はシロウを主と決めました。主の我が儘に付き合うのも配下の務め。家族を守りたいという意思は責められるものではないでしょう。ですがシロウ、今後は自重してください。今回は切り抜けられましたが、それは偶然に過ぎません。次はどうなるか分からない。いいですね?」

 

「わかった」

「自重すると言ってください」

「自重する」

「もう一度」

 

「自重する」

「結構です。ですがもし手に負えないと判断したら、見限らせて頂きます」

「真也をマスターにした方が良いんじゃないか? アイツ強いし」

「あの男に嫌悪感を持つのは私も同じです。もう夜も遅い、今日はここまでにしましょう」

 

セイバーが竹刀を片付けて、士郎が立ち上がった時、彼女は唐突にこんな事を言い出した。酷く真面目な表情だったので、彼は真面目な事を言われるのかと思った。だものでその発言を聞いたとき、理解が追いつかず反応が遅れた。

 

「良い事を思いつきました。私に話しかける前と終わった後に“自重する”を付け加えてください」

「……は?」

「ささ、シロウ。実践です」

 

彼はとても真面目な顔だ。

 

「自重する、セイバーこれって凄く話しづらい、自重する」

「良い感じです」

「自重する、嘘だろ、自重する」

 

舞弥が呼びに来るまで、異様な会話が続いていた。

 

 

◆◆◆

 

 

真也は夜を駆けていた。右に白いガードレール、左には樹木が鬱蒼と立ち並んでいた。蹴り出す大地はアスファルト、分厚い靴底越しにも冷気が伝わってくる。冬の夜だから当然だがそれを考慮しても冷たかった。

 

暫く駆けていると白銀色が見えた。それは髪の毛で、可憐な少女の持ち物だった。その少女は年齢相応の幼い顔立ちだったが、その表情は酷く大人びて見えた。誰かと話している、何を話している。

 

“まぁいい。関係ない、どうせ死ぬんのだから”

 

至近距離に獲物を捕らえると、左の親指を鍔に当てた。彼の抜刀は大樹すら切り倒す。支援魔術も掛かっている、人の身体など造作も無いだろう。

 

― ヤメロ! ―

 

それは肉声だったのか幻聴だったのか、真也には分からなかった。本能に従うまま抜いた彼の刀身は鞘を走り、月光を浴びて光り、イリヤスフィールの衣服を裂き、皮膚を切り、肉を断った。刃は子供の脇に食い込んだ。そのまま真一文字に打ち抜いた。

 

幼い子供の身体が二つに分かれて飛び散った。腹部から真っ二つだ。下半身は足下にあった、上半身は崖を転がり落ちて、同級生の足下に落ちた。戦は終わり。静寂が戻った戦場には慟哭だけがあった。同級生は泣いていた。“姉さん”と何度も繰り返していた。真也は初めてその子供が同級生の家族だと知った。子供の亡骸は唇から血を流し、斬面からは臓腑を垂らしていた。

 

仕方が無いだろ、彼はそれ以上の感想を持たなかった。聖杯戦争は人殺しの儀式。同級生は死なずに済んだ、転じて同級生に好意を寄せる妹も悲しまずに済む。簡単な判断だった。刀を振り、付着した血を振り払う。舗装道路に血の月が描き上がった。

 

遺体を抱いた同級生が目の前に居た、憎悪を隠さず真也を睨み上げていた。その少年の口は魔物の様に歪み、瞳から流れる血はどす黒かった。

 

“朝起きたら顔を洗うような当然な面だな。お前に呵責はあるのか?”

 

そんなものは無い、と真也は答えた。彼の心中にあるのは妹だけ。助かって良かった、と真也は言った。

 

“助かる? お前は誰を助けた?”

“桜をだよ”

“違うな、お前は桜を助けるふりをして自分を助けた。だってそうだろう? 姉を殺された男が、そいつの妹に何の感情も持たないとでも思ったのか? お前は桜を免罪符にして殺したかっただけだ”

 

真也の目の前に士郎が居た。士郎は血に濡れた夫婦剣を持っていた。真也の腕の中にあるのは桜の遺体。斬殺されていた。

 

“お前に呵責はあるのか?”

 

腕の中の桜は冷たい。二度と笑わない、兄と呼ぶ事もない。もう妹は過去になってしまったのだから。“さくら”という力の無い呼び声は言葉にならなかった。

 

目が覚めた。

 

彼の部屋は明るくカーテンの隙間からは朝日が差していた。薄暗い彼の部屋には勉強机、クローゼット、本棚があった。壁にはハンガーに掛かった衣服が見える。全てが彼を非難しているように見えた。彼は夢の内容を覚えていなかった。ただ“呵責”と言う言葉と、陰鬱な気分だけがあった。

 

“イリヤスフィールを斬り捨てていたら、俺はどうなっただろう”

 

真也はベッドから右手を取り出すとそれを見た。右手に残る、刃越しに感じた、小さく、柔らかい、幼い感触、それは一晩経っても鮮やかで呪いのように残っていた。彼はそのまま右手で顔を隠した。隠す相手は士郎か、桜か、凛か。否、自分自身だった。それは寝起き一番の台詞である。

 

「最悪」

 

エプロン姿の桜が朝食の準備を済ませ、真也の所へ持っていこうとした時である。チャイムが鳴った。嫌な予感がした彼女は一瞬、居留守を使おうと思った。だが案の定チャイムの連打である。彼女は渋い顔で、非情にやるせない気分で応対に出た。其処にはやはり姉の姿があった。濃紺のコートの下は、赤いタートルネックにフレアミニ、おまけにニーソックスである。まるで田舎の勘違いファッションだと桜は思ったが、言うのは避けた。事を荒立てずに追い返す算段である。だが。

 

「また来たんですか」

 

初撃からケンカ腰だった。

 

「どうしたのよ。早く学生服に着替えないと遅刻するわよ?」

「今日は休みます。兄さんの世話があるので」

「私が替わるわ。学校に行きなさい」

 

靴を脱いで上がろうとした凛に、桜は立ちふさがった。組んだ両手は身体の前に、背筋は真っ直ぐに伸ばす。礼儀正しい振る舞いだったが、その顔は警戒心どころか敵意むき出しである。

 

「結構です。余所様にして頂く理由はありません」

「私にはあるの」

「どのような理由があろうともお帰りください。身内の事は身内で済ませますので」

「桜の兄なら私の弟よね」

 

桜はこの姉をどうしてくれようかと考えた。虐待を受けた事を話せば気に病むと考えたのだが、読みが足りなかったのである。もちろん姉の図々しさという意味だ。

 

「罪悪感って言葉を知ってますか?」

「私は真也に大事な話があるのよ。桜こそ邪魔だからどこかへ行きなさい」

「兄さんに用なんてありません。遠坂先輩に用はありません」

「子供には付き合いきれないわね」

 

凛は桜を手早く避けて階段に足を掛けた。桜はトントンと小気味よく登る姉のスカートをめくり上げた。凛は顔を真っ赤にして慌てて裾を抑えた。下着を確認した桜の瞳が鋭く光る、まるで猛禽類のよう。

 

「なっ!」

「へぇ、随分派手ですね。っていうか、布面積少なすぎだし、生地も薄手で形も丸わかり。こういう事して男の人を誘ってるんですか? ミスパーフェクトがビッチだなんて皆が知ったら威光も地に落ちますね」

 

凛はガンドをくれてやろうかという衝動をどうにか抑える。桜は勝ち誇った顔だ。

 

「黙っててあげても良いですよ? その代わり二度とこの家に来ないでください」

 

一転凛は反攻した。二股を追求しても良かったが敢えてこう言った。桜の悔しがる顔を見たかったのである。

 

「特定の誰かだけに見せるなら、問題ないんじゃないかしら。例えば彼氏が居れば惚気よね」

「……出て行け」

「桜がこの家に居られるように母さんには黙っててあげる。だからさっさと学校行きなさい。言っておくけれどライダーを残すなんて小細工するんじゃないわよ」

 

階段を登る凛は勝者の笑み。瘴気を振りまく桜は敗残兵である。

 

「ひ、卑怯者ーーーっ!」

 

因みに、凛は真也にも黙っているというカードも持っていた。

 

 

◆◆◆

 

 

「なにか用か」

 

それが彼の第一声である。薄暗い部屋で、彼は布団の潜り込んでいた。凛が扉を開けた時、いっしゅん眼鏡を掛けていない顔をみた。ちらとしか見えなかったが、瞳は蒼く光る。魔眼だ、彼女はそれを理解した。それも良くない種類の魔眼だった。アーチャーは嫌悪感から注意を逸らしていたので見落とした。

 

「ピリピリしてるわね。まだ怒ってるの? まぁ当然と言えば当然だけれど」

「夢見が悪くて酷く気分が悪い。今の俺は凛に不愉快な思いをさせる、申し訳ないけれど帰ってくれ」

 

今更かと彼女は思った。そしてやっぱり自覚が無かったのかとうんざりした。この性格を矯正しないと後々困る、そんな事も考えた。だが話が逸れるのを防ぐため不問いにした。

 

「どんな夢?」

「覚えてない」

 

そう、と彼女は髪をかき上げた。

 

「起きなさい。新都へ行くわよ」

「帰れ」

(こいつ、告白した女の子にそういう態度とる?!)

「何用か知らないけれど凛一人で行け。俺は今日一日籠もる」

「起きろって言ってんのよ」

 

「お断りだ。しつこいぞ」

「気分が滅入るぐらいで引き籠もるなんてまるで子供ね。傷は治ってるはずよ、起きなさい」

「傷はまだ張ってるし筋肉痛もある。動くと辛いので謹んで辞退する。病人に鞭を打つなんてなんてブラックだ」

 

彼の声に調子が戻り始めた。そろそろかと、仕上げだと彼女は餌を撒いた。

 

「真也の都合なんて知ったこっちゃないわ。起きて着替えなさい」

「身体が痛くて着替えられない、だから行かない。お断り」

 

布団から飛び出た手は揺れていた。まるで犬を追い払うかのよう。凛のこめかみに一筋の血管。

 

「着替えたら行く訳?」

 

ふぅんと凛は腰に腕を添える。

 

「おう、手伝えるものならやってみろ。お嬢様」

 

ふふんと真也は鼻息荒く凛を挑発すれば、“一丁上がり”と彼女は拍手喝采である。

 

「なら着替えさせてあげる。クローゼットはこれね」

 

ミスパーフェクトは笑顔であった。

 

「へ?」

 

彼はベッドに腰掛けていた。凛はクローゼットやら洋服ダンスやらを開けて、軽快に服を出している。あれが良い、これが良いとコーディネーターまがいの事をやっていた。

 

(……なんだこれは、どういう状況だ。あの気位の高い凛が男の着替えを手伝うなんてありえん)

 

彼女は意外だと思った。ブランドものがあったからだ。

 

「へぇ、意外とこだわってるのね」

「そりゃどーも」

「モテないのに」

「五月蠅い」

(シスコンも一概に否定できないわね。女が近づかないから)

 

凛はそんな事を考えながら、ベッドの上にコート、ジャケット、シャツ、パンツ、ソックスを並べ、満足気味である。凛のか細く白い指、肌はきめが細かく傍目に分かるほど艶があった。彼は直感的に良くないと感じた。凛に身体を触れられたら何かが終わる。

 

「ちょいまち。着替える。着替えるから凛は一階で待っててくれ」

「一人じゃ着替えられないんでしょ」

「凛、君は社会道徳的、倫理的に問題がある行動をしているぞ」

「道徳はともかく倫理に問題は無いんじゃない?」

 

凛はベッド上の服に指を置いていた。片足を軽く曲げ前屈み。長い黒い髪が揺れていた。ちらと美しい髪越しに見えるその姿は流し目美人である。妙な色気に彼は唾を飲んだ、そして後ずさる。

 

「道徳に問題があるなら十分だ。桜を呼んでくる」

「桜なら良い訳?」

 

ピクリと凛の身体が振れる。不愉快だと言わんばかりであった。

 

「おかしいところは無いだろ? 兄妹だし」

「そうね、兄妹なら問題ないわね」

 

含みを持たせた言いように疑問を持ったがこの状況を急ぎどうにかせねば。彼のさくら、と呼ぶ声は遮られた。

 

「桜ならもう居ないわよ」

「なんで?」

「学校に行かせたから」

「なんで?」

「あの娘、邪魔よね」

 

凛には得体の知れない迫力がった。殺意は無いが異様な威圧感、強制力があった。彼が不思議に思ったのは、どうしてそれに臆しているのか、と言う事である。時折みせる桜の負の波動に似ている、彼はそんな事を考えた。

 

「……なんで怒ってるの?」

「アーチャー」

 

凛の呼び出しに弓兵が姿を現した。戦闘は当面無理だが付き添い、日常活動ぐらいは問題がないからだ。だが彼の表情は優れない。このタイミングで呼び出された事に不安が募る。

 

「凛、今度はどんな難題だ。言うまでも無いが私はダメージを負っている。付け加えるならこの男の前で気分も優れない」

「じゃ、アーチャーあとよろしく」

「「はぁ?」」

 

真也とアーチャーの声が綺麗に重なった。

 

「だからアーチャー。真也を着替えさせてあげて」

「ちょっとまて、凛。君は何を言っている」

「だから、真也の服を脱がせてこれを着せるの。簡単でしょ」

「き、君はそんな事をサーヴァントにやらせるのか……」

「これから誰に会いに何をするのか、言ったわよね。時間もあまりないし早くして。それともなに? 年頃の女の子にそんな真似させる訳?」

 

アーチャーは必死な形相だ。真也はその慌て様をみて気分が良くなった。だが余りにも危険な展開に彼はすぐさまアーチャーに加勢することにした。真也は慌てて凛に言う。

 

「まて、凛。なら行かない。何用か知らないがアーチャーに着替えさせれられる位なら死んだ方がマシだ。でも死にたくないから行くの止めにする」

「着替えるのを手伝ったら行くって言ったわよね?」

「いや、だから」

「言ったわよね?」

「……」

 

凛は笑顔で部屋を出て行った。残されたのはベッドに腰掛ける真也である。部屋の中央にぽつねんと立ち尽くす屈強な弓兵の姿があった。静まりかえった部屋、互いの呼吸だけが聞こえた。それはまるで“これからホテルで一戦を構える、緊張しているカップル”の様。真也は地獄行きだと断罪された亡者の面持ちでこう言った。

 

「おい、何とかしろよお前のマスター。性悪すぎだ」

「私が同意しているとでも思ったのか、貴様は」

「どうしても嫌だから令呪使えって脅せよ」

「こんな事でくだらない事で令呪が使えるか。虚け」

「凛だって魔術師、そんな馬鹿な事するか」

「あれは貴様を相手にするとタガが外れる、否定できん」

 

“かちこちかち”時計の音が無情に響く。アーチャーは心底気が進まない表情で恐る恐る、彼の着ているパジャマに手を掛けた。

 

「くはっ」

 

痛みで声が出た。

 

「妙な声出すな! 戯け!」

「傷が痛むんだよ、もっと丁寧に扱え!」

「男に優しくする倒錯的な価値観など持ち合わせておらん!」

「俺だって持ってないし、お断りだっ!」

 

「苦悩しているのがお前だけと思ったか!」

「向こう向いてろ、きめぇ!」

「弄れ(まさぐれ)というのか、ホモか貴様!」

「サーヴァントなら宝具で何とかしろ、この無能!」

 

「そんな宝具などあるか! ……ええい! 付き合いきれん!」

 

あろう事かアーチャーは彼を組みひしいだ。腕を背中に捩り上げ、頭を掴みベッドに押え付けた。その姿はまさしく強姦魔である。

 

「え、わ、ちょ、何する本気かおまえ!」

「こんな事をしている自分が情けなくて頭が割れるわ! 四の五の言わずにさっさと脱げ!」

「ざけんな! 凛を懐柔してこい!」

「あれが命令を取り消すか! 気の進まない仕事は、割り切って迅速に処理するしかなかろう!」

 

「痛たっ! 痛いって言ってるだろこのアチャ公!」

「天井の染みを数えている間に終わる! 我慢しろ!」

「何時の時代の台詞だそれ! ……ちょ、ま、い、いっやぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

事が済んだ。事後とも言う。窓の外ではちちと鳥が鳴く。ベッドの上でめそめそとすすり泣くのは言うまでも無い。

 

「さくら。ごめん、おにいちゃん汚されちゃったよ……」

「無様だ、これ程無意味で空虚で陰鬱な気分になる仕事は初めてだ……」

 

あははと凛は涙を流しながら笑っていた。屈辱に身を震わせるのは英霊と英霊モドキである。真也は悔しさの限りであったが、嫌みの無い凛の笑いに屈するだけだった。

 

実際のところ凛は着替えさせても良いと思っていた。真也は怪我人であったし、強引に連れ出そうとしているのも事実だったからだ。昨晩の戦闘に対する褒美、そんな事も考えていた。だが彼は妹の名前を出してしまったのである。凛を差し置いてあまつさえ妹を頼ろうとした。だもので彼女はライダーを隠匿していた報復に切り替えたのだった。

 

 

◆◆◆

 

 

二人の頭の上には青い空が広がっていた。新都の街角の広告用ディスプレイには墓地が崩壊した事をニュースで報じていた。清々しい気分が台無しになったと彼は渋い顔だ。当事者どころか主犯の一人である事は言うまでも無い。彼には懸念する事があった。彼の横に居る連れの機嫌が悪い。新都に近づく程酷くなる。適当な話題を振るも反応が薄い。渋々これからの事を確認し会う事にした。

 

「久宇さんからじゃなくて凛が会合を申し入れた?」

「そうよ。理由は分かってるわね」

「一言言わないと気が済まない」

「文句ある?」

「表情を少し緩めたら? 向こうにも狙いはあるだろ。糾弾大会は御免被る」

「アンタはなんで落ち着いてるのよ。昨日はあんなにカリカリしてたのに」

「一晩経ったら頭が冷えた」

 

実際は妙な夢の影響であった。もっとも士郎を目の前にすればどうなるかは分からない。

 

二人が向かった先は小洒落たカフェである。板の床で、柱、天井にも枝を切り落としてそのまま持ってきた様な樹木が走っている。木目をそのままデザインに生かした作りだ。壁の色はアイボリー、間接照明で屋内全体が淡く光り、日中なのに随分落ち着いた雰囲気を見せていた。知る人ぞ知る穴場の店だった。

 

その奥のテーブルに舞弥が居た。真也はその姿に思わずぽかんと足を止めた。舞弥はベージュ色のニットのワンピース姿で、裾からはストッキングに覆われた美脚が覗いていた。オフタートルで首筋がちらと覗けば、温和な笑み。彼女への印象は隙の無い出来る女だったが、柔らかなメイクで随分と印象が異なる。

 

“ほへー”と見惚れていると、凛は肘鉄を喰らわした。笑顔だったがその目は“見え見えの手に引っかかるんじゃないわよ”と如実に語っていた。私心も多分にあった。

 

舞弥が切り出した。

 

「遠坂凛さん、蒼月真也さん、わざわざお呼び出しして申し訳ありません。蒼月さん、呼び出した手前恐縮ですが、お身体は大丈夫ですか?」

「いえいえ、お構いなく。頑丈さには自信がありますので」

 

舞弥は彼の周りに居ないタイプの女性である。だもので心配させんと努めて軽快にと答えた。扱いの差が気に入らない凛は、テーブルの下、彼の足を全力で踏ん付けた。痛みの余り涙する。

 

「久宇さん。事前に断っておきますが、私たちは関係を明確にさせる為に来ました。それ以外は受け入れるつもりはありません」

(んな、決裂を前提にしなくても)と真也は思った。

「状況は理解しています。あなた方の憤りはもっともでしょう」

「随分他人事ですね」

「もちろん非を詫びないつもりはありません」

 

舞弥は深々と頭を下げた。

 

「本人に成り代わりここに謝罪します。大変申し訳ありませんでした」

「……」

 

30代半ばの大人が17歳の小娘に頭を下げたのだ。その行動は受け入れざるを得ない凛だった。

 

(衛宮君っていいお母さん持ってるのね。本心はどうか知らないけれど)

 

舞弥が続ける。真也は黙っていた。

 

「真也さんはご存じでしょうが、士郎は幼い頃から正義の味方に成ろうとしてきました。ですがその奥底は普通の心がある。己を脅迫しているにしか過ぎません。真也さん、貴方を止めたのはその証」

「普通の心は結構ですがあれは命を掛けた戦いでした。私たちの事はともかく、彼は貴女どころか彼自身の命も危険にさらした、向いていないんじゃないですか?」

「バーサーカーのマスターは士郎の義理の姉です」

 

そう言う事かと凛は理解した。士郎が必死に話しかけた理由も理解できた。

 

(そうか、姉さんならしかたない)

 

と、真也が発言しなかったのは僥倖だろう。凛に聞かれれば激怒する事間違いなしだ。

 

「あの子は姉を失いたくない一心でした。あなた方と違って魔術師ではない。何の訓練も受けていない、昨日までは一般人だった17歳の少年です。そこをご考慮頂けないでしょうか」

 

真也が言う。

 

「質問。なぜバーサーカーのマスターが士郎の義姉なんですか?」

 

舞弥は静かに語り出した。士郎の養父である衛宮切嗣は第4回の聖杯戦争に参加しアインツベルンのマスターとして戦った。パートナーとしてアインツベルンの娘であるアイリスフィールを娶り子をもうけた。それがイリヤスフィール。

 

切嗣は聖杯戦争を勝ち抜き、アイリスフィールを失いながらも聖杯に手を掛けた。だが彼はそれを土壇場で破壊した。聖杯が破壊された結果が大災害である。幼い士郎は死にかけ、そして切嗣に助けられた。

 

聖杯を手に入れられなかった切嗣はアインツベルンに切り捨てられ、イリヤスフィールと二度と会う事は無かった。

 

「イリヤは切嗣に捨てられたと思っている。私の推測ですがアインツベルンはイリヤをマスターとして過酷な処置を施したはずです。その反動は推し量れません」

 

(お家事情という意味か)とは凛である。真也が言う。

 

「舞弥さん。士郎が正義の味方であろうとする理由とそれらは関係があるんですか?」

「切嗣は正義の味方に憧れ、そうなろうとし、諦めました。士郎は子が親の意思を引き継ぐのは当然だと言わんばかりに“誰もが幸せにあります様に”という父の理想を引き継いだ、それが理由です」

 

(はた迷惑な親子ね……)凛は内心でそう考えた。舞弥が言う。

 

「士郎は決してあなた方を軽視した訳ではありません。当初イリヤに自分の身を差し出しています。これだけはご理解ください」

 

(イリヤの事情を知っていて止めようとした。そこを俺が切り込んで突発的に令呪を使った。まぁ理屈は合うか)とは真也である。彼はこう続けた。

 

「士郎が皆の為にあろうとするのは分かりました。どうしてそれがブレるんです? 刷り込みに近い程の強烈な印象なら、姉を敵と見なして見殺しにしても良いようなもですけれど」

「……それは私の育て方が功を奏した、とお考えください」

「?」

 

目を逸らし俯き加減、突然歯切れの悪くなった舞弥に首を傾げる真也だった。

 

「お話しは伺いました。衛宮君の身の上を考えればあの行動も理解できます。ですが、それはそれ、私たちには関わり合いの無い事です。今後は―んぐ」

 

真也は、慌てて凛の口を手で塞いだ。

 

「んーっ! んーっ! んーーーーっ!」

「舞弥さん、遠坂さんと話をしたいので席を外します」

「どうぞお構いなく」

 

真也は拗ね顔の凛を見て、どうしたものかと考えた。士郎の動機が理解できた、状況も分かっている、手持ちの札を考えれば今後の行動は自明の理。凛が理解していない筈がない、なのに共闘を拒否するのが分からない。

 

遠くの席にいる舞弥はやれるだけの事はしたとコーヒーを飲んでいる。真也はやり手だなと思った。当然の事を当然にするというのは意外に難しいからだ。凛にこう言った。

 

「凛は何でカリカリしてる」

「何でアンタはしないのよ」

「交渉中だろ」

「アンタ、斬られたのよ? 分かってる?」

 

「俺の事だ。凛が切られた訳じゃないだろ」

「私が斬られていたら?」

「気遣いはありがたいが交渉の類いは熱くなったら負けだ。聞いてくれ。何時バーサーカーが襲ってくるか分からない。仮に凛と桜が組んだとしてもアーチャーは大ダメージで暫く動けない。アーチャー、セイバー、俺の3人がかりで倒せなかったんだ。ライダーと俺だけでバーサーカーを倒すのは無理だ。他のマスターが今もって分からない以上セイバーは必須。異存は?」

 

魔眼と支援魔法が併用できない以上、ライダーだけでは戦力が足りない、彼はそう判断した。彼の性格的に数を揃えたいと考えた、人数が居れば不用意の事態に対してフォローも効く。

 

「あるわよ。危険だって言ってるの」

「彼女の話を聞いてなかったのか。ああなった原因が分かったんだ。ならあとは対策を取るだけ。イリヤ以外の相手なら士郎が普通に戦う事は明白、違うか?」

 

「ただの希望的観測じゃない。いい? 衛宮君はいい人よ。真摯だし真面目だし一生懸命だし。平和なときならそれでいい。でも切った張ったの最中に不安定な彼が居たら危険すぎるわ。真也、アンタ同情してる訳?」

 

「同情じゃない。俺は士郎の姉を殺そうとした。もし立場が逆で、イリヤスフィールが桜だったら俺でも止める。いや、確実に殺してた。凛、これは士郎の失態じゃ無くて不幸な事故とみるべきだ。強いて言うならバーサーカーの脅威を目の当たりにしてなし崩し的に共闘まがいの事をした俺らのミスだろ。凛、聞いてくれ。問題ってのは原因がある。問題だけを見ると何も進まない。原因を解消するとその先にある利益も得られる」

 

「真也、結論を言いなさい」

「士郎と桜を組ませる」

「正気?」

「もちろん。セイバーとライダーはクラス的な相性が良い。ライダーが牽制してセイバーが止めを打つ、バーサーカー以外ならまず負けないだろ。士郎の手綱は舞弥さんと桜に握らせる。これが俺らの置かれた状況で最善。回答が無ければ作る、だろ?」

 

「衛宮君と真也が一緒に居る事こそが不安なんだけど」

「俺は遊撃に回る。士郎とは一緒に居ない」

「遊撃って囮って事?」

「俺はイリヤスフィールの目の敵にされてる。逃げ回るなら一人の方が都合が良い。凛はアーチャーの回復がてら何とかして他マスターを探してくれ。まぁ俺も可能なら探す。バーサーカーの襲撃がいつか、俺がいつまで逃げ回れるか、それがキモだな」

 

真也は自信ゆえか何でも一人で済ます傾向がある、凛はそれに気づいた。“真也の手綱は私が握るしかないか”そう彼女は考えた、一つため息をついた。冷静に考えれば真也のプラン以外なさそうだ。

 

「桜の意向はどうするのよ。衛宮君と共闘するとは考え難い」

「桜は士郎を好いている」

「アンタを斬ったのよ」

「桜はアレで相当一途だからその程度で心変わりをするとは考えにくい。けれど今は緊急時だ、動揺を防ぐ為にも黙っておくしかない。これに関してはセイバー陣営にも徹底して貰おう」

 

真也は、桜の好意が本気だと考えていた。兄にべったりの桜が男の家に通う事実を根拠にしていた。

 

「……分かった。真也とは共犯だしね」

 

イリヤ殺害に対する同意の事を言っていた。

 

「何のこと?」

「何でも無いわ。でも真也、手を出しなさい」

「手? なぜ?」

 

凛は強引に左手を掴むと自分の右頬に当てた。突然の出来事に彼は言葉がない。彼の左手には柔らかく温かい感触があった。それは手を通じ、彼の心に伝わった。

 

「いい? この温かさを良く覚えておいて。これは命の温かさ。私はこれを失うかも知れないと思ったの。真也が斬られたとき私がどう感じたか、分かる?」

「……」

「もう一度聞くわ。私が斬られてたら?」

「……」

「答えて」

「……怒ります」

「忘れないで」

 

舞弥の元に赴く凛の後ろ姿は颯爽としていた。そこまでしなくて良いのに、彼は自覚のない自分の不義を取り繕うように何度も繰り返した。

 

 

◆◆◆

 

 

ちゃぶ台に向かう凛はどうしたものかと頭を痛めた。真也を連れて赴いたのは良い。話が拗れるからと真也の代理を務めたのも良しとしよう。

 

「「「……」」」

 

衛宮家の居間が緊張感で縛られていた。とても歪で、身じろぎすらしにくい。見えない剣戟が聞こえる、それが凛の感想だった。凛の正面には士郎が座っていた。その背後、襖を背景にセイバーと舞弥が礼儀正しく正座していた。真也は凛の背後、畳一枚分離れて壁と畳の境に腰を置いていた。ちゃぶ台の残りの辺に居るのは桜である。控えるライダー共々正座だった。アーチャーは屋根で監視だ。

 

空気を感じ取ったのか、桜は眉尻を下げ、不安そうに行く末を見守っている。

 

「「「……」」」

 

士郎がゴトリと湯飲みを置いた。

 

「遠坂」

「なに?」

「済まなかった」

 

士郎は頭を下げた。

 

「何のことに対して?」

「戦況を顧みず“遠坂を”危険にさらした事だ。俺らの事情に関係ないのに巻き込んでしまった。このとーり!」

 

打って変わって素直な態度に凛は意表を突かれた。だもので士郎の言い方を見落とした。真也は気づいたが敢えて言わなかった“当然だな”と気にもしなかった。二人はそういう仲なのである。舞弥は目頭を押さえていた。

 

(真也が関わらないと本当に素直なのね)と言うのが凛の率直な意見だった。続けてこう言った。

 

「久宇さんから話は聞いた。衛宮君の事情も考慮する、話し合い次第だけれど衛宮君の行動を何らかの方法で制限するかも知れない。それが共闘の条件。承諾できる?」

「自重する」

 

桜が胸をなで下ろした。凛と真也が目配せをすると、彼はゆっくりと真也の立ち上がった。その姿、桜には10年前遠坂を出た時の見送る家族の姿と重なった。

 

「……士郎、桜の事を頼む」

「兄さんは?」

 

言いしれぬ不安に桜の声が震える。共闘と聞いててっきり士郎と真也が戦うのだとばかり思っていたからだった。

 

「士郎とは反りが合わない。俺は別行動」

 

真也から戦況とその決断を聞いた桜は呆然としていた。何を言ったのか理解できていなかった。ライダーは無言で真也を非難していた。ライダー陣営は初めて聞かされたのである。

 

真也が屋外に出ると既に日が沈み、星がきらめいていた。彼が玄関で靴を履いていると、見送る桜の姿があった。眉を寄せ辛そうに兄を見つめていた。

 

「兄さん」

「そんな目で見るな。決心が鈍るだろ」

「どうしても、一緒に戦ってくれないの?」

「俺と士郎は水と油。それは無理というもの。桜ならよく知ってるだろ? どうしても反りの合わない奴はいる」

 

「でも」

「大丈夫。こっそりフォローはするから、2週間少々海外旅行でも行ったつもりで……っていうのは不謹慎か。まぁ大船に乗ったつもりでいろって」

 

真也は桜に耳打ちした。

 

“ちゃんと好意を伝えろよ”

 

その兄の言葉は桜を呪いのように縛り付けた。もう彼女は拒否する事など出来なかった。その権利など無かったのである。桜はそのまま真也に背を向け、衛宮邸の奥に向かっていった。兄の背中を見るのが辛かったからである。

 

玄関を出ると、桜を除く全員が揃っていた。真也は士郎を視界に入れないように、玄関を歩いた。

 

「待て真也、桜を連れて帰れ。やっぱり良くない」

 

凛とセイバーは一瞬、士郎を制止しようかと考えた。だがそれは遅かった。真也は抜刀して士郎の首元に突きつけた。

 

もちろん脅しであったが皆はそう解釈しない。

 

その後はなし崩しになった。セイバーは真也の首に剣を突きつけた。ライダーは士郎の首に鉄杭を突きつけた。凛は宝石を掴み、士郎に対し発動直前である。舞弥はハンドガンを構えて真也を狙っていた。唯一アーチャーのみ、干将・莫耶を構えて凛を守る姿勢に居た。

真也は落ち着いた声だった。

 

「士郎。お前は言うのが遅い。もっと早く言うべきだった」

 

修羅場を目の当たりにしているにも関わらず士郎も落ち着いていた。

 

「どんな理由があろうとも家族は一緒に居るべきだ。そこに遅い早いはない」

「士郎、お前桜をどう思ってる」

「家族みたいなものだ」

「なら問題は無いな」

「言葉遊びをしているんじゃ無い。桜を連れて帰るんだ。怪我をさせた事は謝る、だから家族は一緒に居ろ」

 

真也はその謝罪の裏に意図があると踏んだが、それでも非常に驚いた。彼もそうであるように、士郎が真也に謝罪するなどあり得ないからだった。士郎はイリヤの一件で家族の有り様に神経質になっていた。姉であるイリヤと一緒に居たい、家族が離ればなれなのは良くない、離れれば会話ができない、それは不和の元になる。家族同士が殺し合う、桜が同じ目にあうのを彼は恐れたのだった。士郎が変りかけている事を彼は感じ取った。だが状況は許さないのである。

 

「事実を言うぞ、俺はバーサーカーに狙われてる。でも俺と士郎は相容れない、強引に組めば破綻だ。いま見てるように今回の一件でそれが良く分かった。セイバーとライダーは能力的に相性が良い。バーサーカーを除けばかなり優位に進められる」

「お前はどうする」

「逃げ回るなら一人の方が好都合だ」

「お前は、そこに自分の勘定が入っているのか」

「それをお前が聞くのか? 衛宮士郎」

 

真也は、自分がそうあろうとしている士郎の理想を揺さぶった。それは“試金石でもあり置き土産”でもあった。舞弥は少しだけ表情を緩めた。

 

「士郎、ほとぼりが冷めるまで俺に近づくな。不用意に近づくと殺しかねない」

「全員剣を降ろしなさい」

 

凛がそう言うと、真也はそれを待たず士郎の家を後にした。のど元にナイフを突き立てられたかのような表情で立ち尽くす士郎に彼は気づかなかった。

 

 

◆◆◆

 

 

二人は人気の無い夜の小道を連れ立って歩く。呆れを隠さないのは凛であった。彼女はその声を夜道に響かせていた。

 

「呆れた。何処が頭が冷えたよ」

「いや、だって。ただでさえピリピリしてるのに、勝手に持っていった桜をこの期に及んで連れて帰れとか言うんだ。怒るじゃん、普通」

「だからって普通抜く?」

「憤りというか何というか」

「次に同じ事したら叩くわよ?」

「分かった。遠慮無くやってくれ」

 

凛は盛大にため息をついた。胃に穴が開きそうと項垂れた。

 

「桜を持っていったって、桜から押しかけたんでしょ。必要以上に彼を悪者にするのは止めなさい」

「それはそれ、これはこれ」

 

凛が何時から妹をさくらと呼ぶようになったのか、彼はそれが気になったがどうでも良いと忘れる事にした。

 

「そんなもの?」

「そんなもの。凛もいつか結婚して子供が出来て、見送る日が来れば分かる」

「何いってんのアンタ……」

 

突然のとんでもない話題に地に足のつかない凛だった。

 

「ずっと育ててきたからな。娘を見送る父親の心境だ」

「馬鹿じゃない」

「馬鹿とは酷い。凛だって結婚願望はあるんだろ」

「そりゃ、まぁ……ってアンタ私をからかってるの?」

「からかう? なぜ? 大事な事だろ。恥ずかしがる凛の方がおかしい」

 

年頃の娘に振る話題としては不適当だろう。“私と結婚したいのか”その妄想が飛び跳ねる。凛が再起動するのには相応の時間が必要だった。もちろん動揺を治める為だ。

 

「桜、上手くいくかしら」

「イリヤを思う士郎の気持ちが桜にも向けば何ら問題は無い。まぁふたり次第だな」

 

桜、桜、桜、真也の物言いに不安になる凛だった。

 

「ねぇ、“桜を忘れさせたのは凛、君なんだ”って誰が言ったのか覚えてる?」

「もちろん。なんだ嫉妬か?」

「死になさいよ」

 

数歩前をゆく真也の後ろ姿。手を繋ごうか考えた、或いは腕を組もうとも。でも二人は未だただの友人だ。一息ついた夜の道、空にはお月様。告白の返事をするには悪くないシチュエーションだ。だが、返事をしようにも桜の姿が脳裏に浮かび上がる。桜の境遇を知ってしまった、桜が真也に何らかの思いを抱いている事にも気づいてしまった。

 

(私が遠慮だなんてらしくない)

 

とは思うものの一歩踏み出せなかった。だもので、士郎と桜が決着するまでは返事を保留する事にした。それにいまの距離感が悪くないとも思っていた。色々言っているが、凛は返事をして変わってしまう事が怖かったのである。それは二人のつかず離れずの関係が終わる事であり、彼女自身の事も指していた。

 

無言で歩き続ければ分岐点、二人の共通の帰路はここで終わりだ。真也は挨拶代わりに手を上げた。

 

「ん、死なないうちに帰る。じゃ」

「真也、私に言う事無いの?」

「おやすみ」

「そうじゃなくて。明日からどうするのかって事よ」

「どうするって、話したろ。囮をするって」

 

凛は苛立った。どうして相談しないのかと。どうして助けを求めないのかと。どうして、頼ってくれないのかと。

 

「そう。なら勝手にすれば」

 

機嫌が良くなったり、悪くなったり。最近の凛はおかしいと思う真也だった。ピンと思いついた。

 

「そういえば凛って明日からどうするんだ? アーチャー大破だろ」

「そうね、役に立たないわ」

 

言い過ぎでは無いかとおもう真也だった。

 

「と言う事は、暫く静観するんだろ?」

「そうよ」

 

ちらと視線に期待を込める凛だった。

 

「だったらあの二人の面倒見てやってくれない?」

「……は?」

「だからあの二人を魔術的な意味でレクチャーしてやってくれないか。二人とも素人だし、凛も情報集めが出来るし、どのみちバーサーカー戦に限っては凛も共闘するんだろ? 良い落とし所だと思う」

 

実際のところ凛もそのつもりだった。士郎はともかく桜が居る。だが選りに選って真也に言われたので怒りが収まらない。霊体で控えるアーチャーも同様だった。

 

(この男は外道だ、間違いない。しかも自覚が無いから尚質が悪い)

 

真也を斬った男を手伝ってやれと言っているのである。俯き肩を怒らせ震える凛のその姿は、桜に似ていた。彼はそんな事を考えた。

 

「……俺、変な事言ったか?」

 

真也は純粋に戦術的な話をしていた。魔術師である凛もそう思っているだろうと言う判断もあった。だものでこの発言には滅法驚いた。

 

「嫌」

「……いや?」

「そう。そんなの嫌」

「あのさ。嫌じゃ無くて理由を教えてくれると助かるんだけど」

「イヤ」

 

「じゃなくて、」

「イヤなものはイヤ」

「……凛は最近おかしいぞ。何処か悪いのか? それとも悩みがあるなら話を聞くぞ」

「私は普通よ!」

 

凛はとうとう我慢できなくなった。真也には何が何だか分からない。

 

「普通だったら怒りません」

「怒ってないわよ!」

「もう夜遅いから声を抑えなさい」

「なによ! 勝手な事ばかり!」

 

謂われ無き非難に我慢できないと応戦開始。

 

「勝手ってなんだ!」

「勝手じゃない!」

「訳を話せ訳を!」

「自分で考えなさいよ!」

 

「コミュニケーションって言葉を知ってるか! 双方向って意味だぞ!」

「知らないわよそんなの!」

「嘘つけ! 英語Ⅱで出てきたろ! 習ってるはずだ!」

「ええ知ってるわよ! 138ページのタイタニックの話題よね! それがどうしたっての!」

 

どうやら凛は理性が無いという訳ではないらしい。だが酷く機嫌が悪い。そう思った真也は渋々こう言った。

 

「分かった。要望があったらきこう。それで手を打ってくれ」

「随分と偉そうね。私が頼んでいる訳じゃ無いのに」

 

腕を組んでじっと睨み上げる同い年の少女を見て、どうしたものかと考えた。“なんかめんどい”と言うのが率直な意見である。

 

「……俺のお願いを聞き届けてください。お願いします」

「そう」

「はい」

 

凛は人差し指を突きつけてこう宣言した。

 

「真也。アンタ暫くの間、私の家を拠点にしなさい」

「……済まんもう一度」

「私の家に来いって言ってるの」

「理由を」

 

「拠点防衛用戦力と言えば分かる?」

「危ないのは夜だぞ。そんなの意味ないだろ」

「だから夜に居なさい」

「連日徹夜はちょっと避けたい」

 

「泊まりに決まってるでしょ」

「……凛の家に泊まりに行く?」

「何度も言わせないで」

「もうあの家には行かないと言ったと思ったけど」

 

「状況が違うの分かるでしょ? 真也が居れば私も安心だし」

 

複数の意味に取れる発言にアーチャーは頭を痛めた。葵の警護と、真也の状況把握と、無事な姿を確認できる、と言う意味である。

 

「断る。他の用件にしてくれ」

「ならこの話はおしまいよ。二人のレクチャーはしない」

「俺がいると危険だって言ってるだろ」

「そんなの何処でも同じよ。安全な場所があるなら言ってみなさい」

 

月が静かに見物していた。

 

「なに我が儘を言ってる!」

「私の何処が我が儘よ!」

「思いっきりそうじゃないか! 凛の言い様は筋が通らない!」

「思いっきり通ってるじゃない!」

 

「凛が自ら危険を招き入れてどうするんだ!」

「他の人を巻き込む訳にも行かないでしょ!」

「拠点の防衛って言ったよな! 矛盾してるぞそれ!」

「あぁもう! どうして分からないのよ! 私は真也の事が心ぱ、」

 

警邏の警官が現れた。

 

「あのねぇ君たち。今何時だと思ってるの? 近所迷惑でしょ? そもそも最近物騒なんだから。昨日も直ぐそこの墓地で……」

 

と言いかけてその警官は真也だと気づいた。

 

「誰かと思えばお前か」

「お久しぶりです。Hさん」

 

真也が激しかった頃“世話”になった警官だった。

 

「こんな時間に何をしている」

「友人と意見交換ですよ。少し熱が入りましたけれど」

 

警官Hはその友人が少女だと気づいた。

 

「二人とも署まで来なさい」

 

冬木市の商店街にある派出所。パイプ机に並んで腰掛けるのは冬木の魔術師二人。名門の娘と、実力だけはある素行不良の少年である。そんな事は露知らず、警官Hは白い紙コップでお茶を差し出した。彼はボールペンを用紙にトントンと叩き付けつつ、呆れつつこう言った。

 

「どうしてこんな時間に言い争いなんてしてたの」

「凛が悪いんです」

「真也が悪いんです」

 

警官Hは盛大なため息をついて、真也を派出所の外に連れ出した。その姿は経験者のそれだった、つまり解決策も知っている。

 

「真也。喧嘩の理由は知らないが彼女に謝れ」

「そう言う訳にも行きません。道理はこちらにあります」

「謝ってしまえ。それはそういうものだ。男が折れないと拗らすぞ」

「しかしですね」

「真也、彼女が折れると思ってるのか?」

 

派出所の外から窺える凛は、すまし顔で茶を飲んでいた。腹の据わった様に彼には見えた。

 

「……」

 

梃子でも動きそうに無いと諦めた。

 

「まぁアレだ。気の強い娘さんを彼女にした時点で諦めるんだな。いやしかしお前が彼女とは驚きだ。とうとう妹立ちか?」

「そんなところです」

 

真也は観念して凛の前に立った。彼女は真也に目もくれず茶を啜っていた。

 

「凛。済まなかった。謝る」

「それで?」

「……明日伺う」

「今晩からね。真也の家によってから家に向かいましょ」

「……」

 

二人のいざこざはここまでとなる。場所は変わり衛宮邸だ。縁側に腰掛け一人月を見上げるのは士郎だった。身を切る寒さだったが気にならなかった。庭は静かで虫の音一つ無い。風音すら無かった。セイバーが影から様子を伺っていたが彼は気づかなかった。

 

『それをお前が聞くのか? 衛宮士郎』

 

真也のその言葉が茨のように魂に絡まった。心地良い言葉は直ぐ忘れるものだ。だが辛辣な言葉は何時までも残る。それが図星であれば尚更だろう。

 

士郎の場合それに加えて最も嫌っている人間からの言葉だった。おまけに自分が発言したと来ている。だから。深く深く突き刺さり、切っ掛けとなり迷いとなった。

 

「オヤジ。俺、自分が分からなくなった。全ての皆を助けるはずだった、でも俺はイリヤだけを助けようとした。なんで、なんで、なんで」

 

その言葉は空虚に消えていった。

 

 

 

 

 

つづく!




真也タヒね。いいからタヒね。流石にタヒね。と言うか凛をよくしすぎた気がする。


【Q&A】
Q:士郎が真也よりイリヤを取った理由が分からない。
A:たとえば義理の家族に20年育てて貰ったとしても本当の血族が居ると知れば会いたい、と思うケースが事実あります。イリヤと真也、どちらを取るかというのはあくまで個人的主観に依存します。ここに普遍性はありません。原作の士郎は本当の家族を亡くし、切嗣も失っています。イリヤは士郎の知らない切嗣や義母(アイリスフィール)の事も知っています。話を聞きたいでしょう。だものでイリヤと直接会っている時間が少ないとは言えここは見逃せません。

それに劇中で繰り返していますが、士郎がじっくり考ればイリヤを見逃したかも知れませんが、状況的にとっさです。ここは考慮するべきでしょう。






【このSSの士郎について】
このSSの士郎はUBWの皮を被らんとしている普通の少年、そう設定しています。理由は以下の通り。(あくまでも個人解釈です)

SNでもUBWでもそうですが、原作通りの正義の味方になろうとする士郎がセイバーと凛に好意を持った理由が理解できないと言う事です。皆の為にあろうとするのに、特定の誰かを好きになるってどういう事?

リメイクに当り士郎を考察し直してどうにもならなかったのがこれです。ググっても回答は見つからず。歪さと言ってしまえばそれまでなんですが、私自身がそれを説明できない、致命的です。

HFでは桜を守ると意識替えしてますが、聖杯戦争時の短期間で、自ずと変えられるなら切嗣との約束と死にかかった出来事意味ないじゃん、とも考えまして。自我が柔らかい幼い頃から10年掛けて舞弥が矯正するという流れにしています。

皆の為にあろうとする原作士郎のあり方を最大限尊重するのであれば、HFの鉄心ルートが一番正しい。ただそんなことさせたくなかったので性格を変えました。もちろん昼ドラの為ってのもありますが。

性格を変える事によりここの士郎は女の子に対して人並みの欲求をもちました。さもなければ凛に対して想いも抱きませんし、桜の世間的な評判を気にして家に通わせる事を拒否するでしょう。


つらつらと書きましたが。ここの士郎が原作士郎に見えないのは当然です。本人がどうありたいか、という希望はともかく中身は思いっきり普通の17歳の少年ですから。とっさの状況では素が出てしまいます。ならどうして初期設定からまっとうな性格にしなかったのか、と言う事ですが。そうすると聖杯戦争自体に参加しないからです。普通の判断なら舞弥と逃げるでしょう。

歪のままじゃいけないのか? と言う事ですがそうすると、つまりは鉄心ルート。

どうせ士郎を改変するならSHIROUにしても良かったのか、と今更ながら思ったり。でも直ぐ死にかける士郎を真也が必死にフォローすると言うのがリメイク前のプランでしたから、それを手直しした以上破綻するか。

話を戻して。普通の少年の士郎がイリヤに直接会って、聖杯戦争の事を知り、イリヤが姉と聞かされ、バーサーカー戦まで半日程度しか経っていません。訓練された凛や、逝かれてる真也はともかく、普通の少年に姉の殺害をとっさの判断で見過ごせというのも酷でしょう。私はそう思います。

因みに。もしあそこで士郎が納得した上でイリヤを見捨てれば、正義を守る為に姉を犠牲にしたと思うでしょう。そうするとあとは良くて歪化、最悪鉄心エンド。この設定だとあの選択はどう考えても外せなかったのです。

このSSの登場人物は自己本位的な判断をします。士郎は大きいのをしました。真也は凛に対し一回やってます、或いはイリヤを殺そうとした事もカウントされるかも知れません。真也から離れようとする桜もそれに近いですね。後半、真也はでかいミスを噛まします。

私が言うのも何ですが、読むだけストレス溜まります。スカッとしません。何の具体策も示さないのにネチネチ言う上司や、何をやっても文句しか言わない取引先の課長みたいにストレスが溜まります。でも人間くささってこう言う事じゃないか、と考えています。どうしろとは申しませんが、慎重にお考えください。


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14 聖杯戦争・1

桜は真也に寄り添いながら寝息を立てていた。彼の首元に鼻先を埋めている桜の表情は穏やかで満たされていた。不安や悲しみと言った負の感情とは無縁に見えた。陽にかざせば青く見える柔らかい髪、そっと撫でれば寝言のような寝息のような曖昧な声を発した。

 

二人は床を共にしていた。どちらかと言えばひんやりする桜の身体は、柔らかくしっとりとして温かかった。同年代の少女と比較して、その肢体はふくよかで艶めかしい曲線を描いていた。彼女は気にしていたが適度な重さがとても心地よい、彼はそんな事を考えた。

 

何時の頃からこうなったのだろう。それを考えたが良く思い出せない。切っ掛けはホラー映画である。怖くて寝られないからと言って夜更けに彼の元を訪れた。数度繰り返すうちに何時しか当たり前になった。夜着も徐々に薄くなり、気がつけば肌を晒していた。身体を重ねるのに時間は掛からなかった。

 

後悔はあった。痛みもあった。誰にも言えない事がその証である。だが髪を振り乱し苦悶の中にも悦びを魅せる妹の姿を見ていると、それは些末な事なのだと考えるようになった。何気ない日常でも妹は幸せに見えた。10年生活を共にした彼ですら初めて見る幸せな姿だった。ならば彼に戸惑う理由などない。彼の存在理由はそれ以外にないのである。

 

カーテンの隙間から夜空を見れば丸い月が浮かんでいた。視線を感じて妹を見れば、視線が合った。その端正な面持ちは蕩ける様で、瞳は揺らいでいた。

 

“身籠もりました。兄さんの子です”

 

妹の告白。彼はその頬に指を優しく添えた。彼女の瞳に浮かぶ涙は頬を伝った。懺悔、希望、不安、幸福、複雑な感情を織り交ぜて、薄紅色の唇は艶めかしく光る。彼はありがとうと短い言葉を贈って唇を近づけた。

 

殴られた。

 

何事かと見上げるとベッドの脇に凛が立っていた。腕を組み怒りを隠さないその様は金剛力士の如く。なぜ凛がここに居る、その問いに彼女は左手で答えた。腕に刻まれた魔術刻印が唸りを上げる。破壊的な魔力光に包まれて彼は目を覚ました。

 

見上げる先には天井があった。見慣れた大量生産品の合成天井では無く、木材を丁寧に加工し作られた高級な天井である。ベッドから身を起こすと其処は洋間だった。壁と壁の境、壁と天井の境には深みのある木材が額縁のように走っている、とても手間が掛かっていた。三つ並ぶ窓には遮光カーテンがゆったりと流れている。高級そうな刺繍が施されていたが、彼には見当も付かなかった。カーテンの隙間からは朝日が漏れ込んでいたが、部屋を照らすには光量がとうてい足りなかった。部屋はブラウンをふんだんに使っており、光を吸い込まない程に深みのある部屋だったのである。

 

部屋には彼が収まるベッドの他に丸いテーブルとチェアーがあった。ぼぅと考えること約10秒。彼はようやくその部屋が遠坂邸の部屋だと気づいた。それは問題では無い、悩ましいと言えば悩ましいが、いま苦悩する問題では無かった。

 

(……なんつー夢を見るんだ俺は。妹に手を出すなんておにいちゃんの風上にも置けん)

 

己の不始末に頭を抱えようとしたら、こめかみがズキズキと痛む事に気づいた。原因は彼の左拳であった。喰い込む程に打ち込まれていたのである。彼は無意識に己を殴ったのであった。左手を労るようにこう言った。

 

「でかした左手。褒めてつかわす」

 

先日。凛の頬に触れた手もその左手であったが、それに因果関係があるのかは神のみぞ知る。彼は思う。サクラニウムが足りない、と。だからあのような倒錯的な夢を見るのだ。先日のバーサーカー戦で消費したに違いない、どうにかして補充せねば。彼はそんな事を考えながらベッドからのそりと抜け出した。

 

長袖の黒い襟無しシャツにライトグレーのスウェットパンツ、それが彼の出で立ちである。Tシャツにボクサーパンツでも良かったのだが、余所様の家であるゆえ慎重を期す事にした。万が一見られようものならそれはそれで事だ。葵は気にしないかも知れないが、凛は過剰反応するに違いない。

 

(ガンドを打ち込まれるな、間違いない)

 

その惨事に戦きながら、部屋と廊下を隔てる扉を開けた。すると其処に桜が立っていた。おや、と彼は思った。どうして桜がここに居るのだろう。しかも見覚えのない純白のネグリジェを纏っていた。ちりばめたフリルと相まってとても愛くるしく見えた。まるでどこぞのご令嬢である。何時買ったのだろうか、彼はそんな事を考えた。桜は呆けたように真也を見詰めていた。夢の中の桜を思い出し罪悪感を抱いたが、余りの可憐さにその戸惑いを一瞬で脳裏から消し去った。彼は堪らず桜に抱きついた。

 

「かわいいっ!」

 

サクラニウムの補給である。“ぎゅうっ”と音が聞こえてきそうな程に抱きしめると、違和感がある。似ているが少し違う。桜の肢体は肉感的である。ぽっちゃりは過剰な表現だが、抱きしめれば食い込む程に柔らかい。だが今日の桜はずいぶんと華奢だった。ダイエットでもしたのかと腕の中に居る桜を見た。紛う事なき黒髪だった、おまけに長い。付け加えるならつり目である。彼は思った。

 

“どうして桜が凛の顔をしているのか”

 

心臓が脈を打つ事13回。ようやく現実を理解した彼は血の気を引いた。青ざめた。

 

「うわわわわわわわっ!!!!」

 

彼は全速力で部屋に戻った。もちろん後ろ向きである。ベッドに脚を引っかけ、マットレスの上で後転し、そのままベッドから落ちた。“ゴン!”と頭をカーペットに打ち付けた。沈黙が訪れる。

 

打った頭が痛む、それ以上に頭の中が痛い。聖杯戦争の戦術的必要性で訪れた遠坂の家、その当主に抱きついたのだ。大失態である。追い出されるのは一向に構わないが、著しい礼の欠如は申し開きのしようが無い。流石の彼も申し訳なさで一杯だった。

 

だがどうした事だろう。いつもであれば跳んでくる罵りの言葉が、今日に限って一向にやってこない。しぶしぶ彼はこう切り出した。苦虫をかみつぶしたような顔である。

 

「おはよ、凛」

「おはよう」

「洗面台ってどこ?」

「廊下を突き当たって右」

 

我を取り戻した凛はようやく真也が頭を打った事に気がついた。慌てて駆け寄ろうとする彼女を制した。

 

「寝ぼけてたとはいえとても失礼な事をした。許してくれ」

「いいけど、別に」

「それと今とても間抜けた面してると思うから、そのまま立ち去ってくれると非常に嬉しい」

「あ、うん」

 

「慚愧の念に堪えない。なんと言って詫びたら良いのか分からない」

「……大げさね。30分後に朝食だから。部屋は分かる?」

「夕食の部屋で良いのか?」

「そう」

「顔を洗って形をまともにしたら向かいます」

 

凛から見る真也はベッドの上に残った両脚だけである。突き出された手はひらひらと舞っていた。その様は人形劇の如く。

 

「遅れないでね」

「わかりました」

 

凛は扉を閉じもせずに立ち去った。一歩二歩、歩みを進めるごとに笑みがこみ上げてきた。可笑しさと、恥ずかしさと、嬉しさもそれなりに混じっていた。慌てたような悲鳴を聞きつけて葵がやってきた。

 

「何の騒ぎ?」

「なんでもない」

 

葵は娘の違いに気づいた。寝起きの悪い娘が朝から笑っているのだ、葵が不思議がるのも無理はない。

 

「どうしたの? 寝起きにしては機嫌が良いようだけれど」

「なんでもない。安心しただけ」

「?」

 

寝ぼけていた彼女もまた真也を失念していた。すっぴんであった事、髪も整っていなかった事、夜着であった事、それらを見られたこと自体年頃の娘にとっては相応の失態だ。加えれば抱きしめられたのである、引っぱたいたとしても、文句はどこからも出てこないだろう。それでも彼女の機嫌は悪くなかった、どちらかと言えば良かった。年頃の少女として見られていると考えたからだった。だが。

 

(凛と桜を間違えた? 俺が? なんで? なんで? なんでーーー!)

 

凛に真也の心など見通せるはずなどないのである。勿論この二人に限った話ではない、誰も彼もがそうである。男女なら尚更だ。

 

 

◆◆◆

 

 

真也が遠坂邸を訪れたのは夜も遅く、葵は既に就寝していた。彼女が滞在を聞き及んだのは今朝の事。葵はとても驚いた。

 

“聖杯戦争がらみの、魔術師同士の判断の結果”

 

凛のもっともらしい説明はどうでも良かった。亡き夫を信奉する娘が、身近に男の子を置くとは衝撃の以外何物でも無いのである。以前から真也に対する娘の接し方が何処かおかしいと感じていた葵は“これはいよいよか”と考えたりもした。

 

遠坂家の食堂。白いクロスの上に並ぶのは洋風の朝食である。葵はクロワッサンの入ったバスケットを真也に差し出した。

 

「沢山食べて下さいね」

「ありがとうございます」

 

優雅な振る舞いの中に見せる娘の機嫌はずいぶんに良い。逆に娘が連れてきた少年はいつになく恐縮している。彼は先ほどの一件を引いていた。お構いなしに葵はニコニコと笑っていた。

 

「真也さん、短い間ですけれど自分の家だと思ってくつろいで下さいね」

 

戦いに来たのだ、彼はそう異議を唱えようかとも思ったが彼女の好意を無下にする事もできないと素直に頷いた。

 

(葵さんって少し天然入ってるな)

 

そんな事も考えた。正直なところ葵も浮かれていた。食事の、それも朝食のテーブルに娘以外の人物が居るなど記憶にないほど久しいのである。

 

「真也さんのご予定を教えて頂けますか」

「夜はこの家に詰めますが日中は基本的に出歩きます」

「本日はどうされます?」

「新都に行きます。明日は学校へ」

 

コーンスープを啜っていた凛が不思議そうな顔をした。察した彼は言う。

 

「情報集め。家に籠もっているのは何もしていないのと同義だ。守ってすらいない」

「分かってるわよ。気がついた事があったら報告して」

 

日中なら問題も無いだろうと凛も同意した。

 

(そういえば真也って交友が広かったわね。私も真也の情報を集めておくか。桜に聞いても言わないだろうし、適当な人物って誰だろ)

 

放し飼いにするのは気が引けたが、過度に拘束するのも格好が付かない。手元にあるならまずは良しと彼女は考えた。娘の思い知ってか知らずか、葵は日常運転だった。

 

「夕方には戻られると言う事ですね?」

「はい」

「真也さんのお好きな料理は何でしょうか」

 

話の展開について行けない彼は「なんです?」と聞き返した。

 

「以前お約束した話です。真也さんさえ宜しければ腕を振るいますわ」

 

ぴく、と凛の身体が振れた。葵は娘に目配せをした。その瞳は“凛も手伝いなさい”と言っていた。余計な事をと内心で呻く凛だった。

 

落ち着かないのは真也である。彼自身とうに忘れていた約束だった、本気だったのかと2度驚いた。そして焦りも浮かんだ。母娘家庭に乗り込んだこと自体気が引けるというのに、そんな事までされては落ち着かない、彼は慇懃に断った。コンビニ弁当の方がマシだった。

 

「あ、いえ、お構いなく」

「遠慮無くおっしゃって下さい」

「お気持ちだけで十分です」

「私にとっても良い機会です、助けると思って是非お受け下さい」

「そこまで良くして頂く理由はありません」

「誰かに食べて頂けるなら作り甲斐もあります、私たちのを召し上がっては頂けないでしょうか」

 

妙な言い回しに凛は眉をひそめたが真也は気づかない。彼の目の前には美しい貞淑な未亡人。組んだ両手は胸の前、その姿は懇願するようである。嫋やかな振る舞いに混じる悲しみの表情。それを見て断れるだろうか、断れるはずがない。

 

(うー、あー、うぅぅぅぅぅぅぅぅぅー!!!)

 

追い詰められた彼は渋々好物を告げた。葵の狙いは簡単である。意地を張る娘とどこか一歩身を引いてる少年、手料理という武器を使って距離を近づけようというのだった。葵は少し古い人間だった。

 

 

◆◆◆

 

 

邸内を案内する凛は笑う。涙を流して笑う。あははと遠慮が無い。

 

「ハンバーグってまるで子供ね♪」

「五月蠅いな」

「せめてドリアとかシチューとかにしなさいよ♪」

「放っておいてくれ」

 

目尻の涙を拭いて同い年の少年を見れば、むっすりと黙り込む真也だった。実際のところ彼も同意見である、追い詰められていたため思わず本音を言ってしまったのだった。偽りなき本心である、恥ずかしいが言い返す事もせず、凛のからかいに耐えていた。これ以上弄るのも可哀想かと、凛は話題を変えた。

 

「いつも食べてる訳? ハンバーグ」

「……いつもじゃない。時々桜が作るのを食べるだけ」

 

桜の18番であった。

 

「外食では食べないの?」

「美味しくないからな」

 

ある意味調教ではないだろうか、凛はそんな事を考えた。桜の味以外では満足できない、そういう意味である。瞬く間に不機嫌になった。

 

「ふーん、そう。前から聞きたかったのだけれど、アンタ桜に依存してない?」

「家事全般を任せっきり、と言う意味では合ってる」

「曲がりなりにも魔術師でしょ? 自分の身体の管理なんて初歩の初歩じゃない」

「俺は順応性があるの。桜が嫁いでも今の時代飯なんぞどうにでもなるから」

「前に言ったかも知れないけれど不健康よそれ。若いからって無茶すると年を取ってから反動が来るんだから」

 

女性らしい発言に彼は面食らった。

 

「外食なんて滅多に無かったんだ。直に戻るから心配は不要」

「戻るって桜の居る生活の事?」

「士郎と上手くいっても今すぐ嫁ぐって訳じゃない。聖杯戦争が終われば桜は帰ってくる。おかしくないだろ」

 

突然トーンを下げた凛に彼は訝しがった。その瞳に見えるのは怒りではなく悲しみである。

 

「真也にはもう私が居るんだから、桜の事を言うのは止めて」

「……は?」

「冗談よ。冗談」

 

彼女はそそくさと立ち去った。冗談にしては過激な発言だと思ったが追求はしなかった。

 

凛がぴっと指さしたのは地下へと続く階段であった。

 

「ここは入らないで。工房だから」

「わかった」

 

凛は深みのある木製の扉の前に立って真也を指さした。

 

「ここも駄目」

 

彼女の寝室である、そんな気は毛頭無いと彼は肩をすくめた。

 

「了解」

「母さんの部屋も駄目よ」

「分かってますって」

「母さんは少し天然だから、万が一誘われても断って」

 

未亡人の寝室に誘われる、とんでもないシチュエーションである。娘が連れてきた若い男に、忘れていた女の高鳴りを思い出す。いけないと思いつつ焦がすような身体の疼きを抑えられない。些細な出来事で急接近、亡き夫を裏切るという罪悪感に囚われつつも……そこまで妄想した。思わず頬を掻いた。

 

(AVの見過ぎだ……)

 

凛は単に部屋に入るなと言っていたが、彼の想像は上回っていた。見透かした凛はえらい剣幕である。唸りを上げるドーベルマンと言っても過言ではない。

 

「……アンタね」

「しない。というか凛が言うまで想像だにしなかった」

「妹とか未亡人とか。前々から気になってたんだけど、アンタってそういう不道徳な趣味をもってるのね。17歳のくせに不健全よ」

「あのな。桜には手を出してないし、葵さんにそう言うつもりも無い。いったい人をなんだと」

 

「久宇舞弥にも鼻を伸ばしてたし、いくら何でも見境がなさ過ぎ」

「美人に見とれて何が悪い」

「開き直ったわね……」

「だからしないって言ってる」

 

「ふん、怪しい物だわ」

(なんというか、凛はどんどん面倒臭くなる。なぜだ)

 

機嫌の乱高下が激しい。理性を持って説明しても受け入れない。桜の名前を出すと無条件で機嫌が悪くなる。そもそも綺麗なものに見とれて何が悪い。

 

「何? 言いたい事が言えばハッキリ言えば?」

 

そこまで言うならお望み通りに手を出してやる、と考えはしたが堪えた。葵に揺さぶられているのは事実であったがそこまで人の道を踏み外すつもりもない。虚構(AV)と現実(リアル)の区別は付けていた。憤りに震える身体を押え付け、一呼吸。

 

「済まなかった。凛に不愉快な思いをさせた」

「そう。それで?」

「義務と義理は果たす」

 

硬い言葉を使って、やりとりに魔術師同士の意味合いを持たす。凛は告白の返事をしていない、曖昧な間柄である。何に対して果たすのか彼にも理解できなかったが、とにかく謝った。警官Hの助言に基づき折れたのである。不機嫌な恋人には抱擁が定番であるが、その度胸は彼に無い。

 

「その為には俺らの関係を明確にするのが肝要だ。凛、協力してくれ。万が一誘われたらどう言って断れば良い? ただの共闘者では説得力に欠けると思うぞ?」

 

真也は凛が返事をしない事に何らかの理由があると考えていた。恋仲であれば、戦術的な理屈を押し曲げてまで、遠坂邸に引き入れる事に不自然さはない。逆に。ここまでして返事をしないなら出来ない理由がある。そこを突いたのである。付け加えるなら“返事をしてない”事を遠回しに非難する陰湿さだ。

 

怒りが収まらないのは凛である。

 

(女の子に責任を転嫁するなんて、この最低男……)

 

もう容赦すまいと胸を張って微笑んだ。その様はまさしくあくま、否、普通の少女であった。

 

「私を抱いたとでも言えば?」

「……嘘をついてどうする。というかその嘘をついた後の展開とフォローを考えないのか」

「あら酷い人ね。今朝私に何をしたのかお忘れ?」

「あれは違う! 事故だ!」

 

凛は主導権を奪い返した。

 

「義理堅い蒼月君はあの行為を大した事ないとは思っていないわよね?」

 

言葉が出ない。言い返せない。真也はたじろいだ。案外純情だと凛は思った。だが真也は桜と凛を間違えた事実に苦しんでいただけだ。その違いに凛は気づかない。ここぞとばかり畳みかけた。

 

「私の身体の具合はどうだった? お気に召して頂けたのなら嬉しいのだけれど」

「妙な言い方するな」

「もう一回する? 私は構わないわよ?」

「……ごめん。忘れて、忘れさせてください」

「“やってしまった事はもうどうにもならない”何処の国のことわざだったかしら」

「イタリア」

 

真也はがっくりと打ち拉がれた。おほほ。完全勝利と高らかに笑う凛であった。ただし。抱きしめられた感触を思い出し動揺するのは彼女も同様である。

 

 

◆◆◆

 

 

トボトボと住宅街を歩くのは真也である。新都に赴こうと遠坂邸を出たまでは良いが、自我が定まらず住宅街を彷徨っていた。目も虚ろで生気が無い。その様はまさしくゾンビである。見上げれば珍しく晴天。日もそれなりに昇ってあと数刻経てば昼だというのに、彼は陰湿な雰囲気を漂わせていた。“どんよりどよどよ”である。

 

(どうするんだ。凛に弱み握られたし。今後何かある度に持ち出される。そうに決まってる。どうすんだ、どうするんだ……どうしようもない)

 

凛が怖い、葵も怖い、二人の笑顔が苦しい、二人の好意が辛い。選択は常に桜にとっての最善、彼はその生き方を続けてきた。遠坂家に身を寄せるのは予想外だが、ここまで罪悪感に囚われるのは異常だ。だが彼にはその理由が分からない。

 

それは桜と遠坂家の関係に依存する問題だった。彼は図らずとも凛を抱きしめてしまい、無意識に感じていたストレスを一気に顕在化させたのだった。

 

「逃げたい。遠坂邸(いえ)から逃げ出したい。このままあの家に居るとシスコン(自我)が崩壊してしまう。何でか良く分からないけれど激しくそんな気がする……」

 

だが戦況は許さないのである。何よりこの状態に持ち込んだのは彼の行動・判断の影響が大きい。

 

どうしてこうなったのだろう、彼は考えた。桜と士郎を組ませた事だろうか。桜を連れ帰らなかった事だろうか。士郎への牽制のため凛に告白した事だろうか。全ては桜と真也のすれ違いから始まったのだが、彼は桜の真意など知るよしもない。

 

確実な事は、聖杯戦争が終わるまで、桜と士郎の恋の行方が判明するまで、辛抱しなくてはいけないのである。

 

「さくらー、おにいちゃんがんばるからなー」

 

がっくりと項垂れとぼとぼと歩く。ひたすら歩く。数歩歩いてピタリと立ち止まった。“くくく”と笑ったあと仰け反り髪をかきむしる。目を開き叫ぶその姿は狂人の如く。

 

「あんな異常行動を犯したのは戦闘でサクラニウムを大量消費したせいだ! バーサーカーぶっ殺す!」

 

彼は責任転嫁をしたようだ。

 

「イリヤスフィールはソ○マップ看板を背景にグラビアポージングさせてやる!」

 

彼の脇を親子がそそくさと通り過ぎていった。

 

「ママー、あのお兄ちゃんなんか変」

「しっ! 見ちゃいけません!」

 

彼は「サクラニウム、サクラニウム、サクラニウム、サクラ……」と呟きながら住宅街を歩いて行った。

 

気がつけば蒼月邸の前。彼は誘われるように家に入った。多少ほこり臭いが気にならなかった。フラフラと階段を上れば桜の部屋の前。ここに居ない桜に一言謝って、その部屋に入った。ベッドに勉強机に本棚、家具は真也の部屋とさほど変らない。だが白色と暖色を中心としたカラーリングで部屋は仕立てられていた。見るからに女の子の部屋である。化粧台を買ったのは桜が小学5年生の時だった、彼はそれを思い出した。

 

何が良いだろう、写真でも良いが身につけられる物が良い、彼はそんな事を考えながら部屋をぐるっと見渡した。ピンと思いついた彼は洋服ダンスを引き出した。納められている白系の下着に目をくれず、隅にある小さめの木箱を手に取った。開けるとリボンが収まっているのが見て取れた。

 

どれにしようかと探ると、黒や紺といった温和しめなリボンが続く中、一際目立つ色のリボンがあった。それはこの家において桜の最も古い記憶。彼女が連れてこられたとき付けていた赤紫色のリボンである。彼はそれをおもむろに取り出すと左手首に巻き付けた。

 

(おぉ、力が満ちる……)

 

下着に手を付けなかっただけマシだが、余りの倒錯ぶりだった。もちろん彼に自覚は無かった。彼はシスコンだからである。足取り軽く家を出た。手首のリボンが大きな波乱を巻き起こす事など彼は知るよしもない。

 

 

◆◆◆

 

 

セイバー、アーチャー、ライダー、各陣営が結んだ協定は少々複雑だ。セイバーは聖杯に願いを持っているが士郎は持っていない。ライダーに願いは無いが桜にはある。思惑は一致、互いに顔なじみと言う事で協定は滞りなく結ばれた。

 

その様な中、凛は少し浮いた恰好だ。共闘はバーサーカーに限ってのみで、それまでは敵では無いという微妙な立場を取った。彼女もまた聖杯に願いは無いが勝つ気でいる、バーサーカーの対処が済めば二人とは敵になるからだ。殺す気は無い、ただ小突くだけである。悔しそうな顔が見られればそれはそれで良い。幸運にも桜の兄は確保済みである。だが士郎、桜ともに素人では共闘に不安が残る。短い期間とは言えやれる事はやっておくべきだと二人に最低限のレクチャーをする事にしたのだった。

 

少し時間を遡り衛宮邸。もう少しすると凛がやってくるそんな頃だ。登校時間はとうに過ぎているがそんな暇は無いと終結するまで休む事にした。セイバーは道場に士郎を呼び出した。二人だけで話がある、セイバーの言葉に重要な事だと、長丁場になると察した彼はお茶の用意を持参してやってきた。

 

二人は道場の中心に正座で向かい合っていた。士郎はいつもの恰好だが、彼女は甲冑を解いて青い装束姿だった。鎧も装束も魔力で編んだもの、士郎が彼女に供給してる魔力は凛から提供された宝石だ。魔力消費を抑えるならば装束も控えた方が良いのだが、生憎と女物の服に心当たりは無い。舞弥に相談してみるか、彼はそんな事を考えた。

 

二人はずっと茶を啜る。切り出したのは士郎だった。

 

「セイバー、話ってのは?」

 

彼女は暫く沈黙したあとこう切り出した。言いにくい話ではあったが誰かが言わなくてはならない話だ。聖杯戦争が終われば消える身、セイバーはその役を受けた。

 

「陣営、仲間の話です」

「仲間?」

「私たちはライダー陣営とアーチャー陣営と一定の協定を結びました」

 

彼は頷いた。

 

「端的に言います。彼女らに過度の信頼は置かないで下さい」

 

士郎は戸惑った。セイバーがそう言う事を言うとは思わなかったからだ。絵物語で見る騎士は誠実・信義・忠誠、そして正義、それらを信条にしている筈だ。だから信頼するなとは意外であった。なにより彼女もまた士郎の仲間だ。それを信用するなと言うのは矛盾している。

 

「説明はしてくれるんだろ?」

「友人を作るのも良い、見知った顔を仲間と呼ぶのも良いでしょう。ですが仲間というのは言葉以上に複雑です。シロウが彼女らを気に入るのは構いませんが、無二の信頼に足りうるかは別問題です」

「セイバーは二人を信用していないって事か?」

「“完全には”信用していない、です」

 

「シロウ、人間関係は4つの要素に分けられます。“信用できる”、“信用できない”、“敵”、“味方”この4つはそれぞれと組み合います。信用できる味方と信用できない敵は問題ありません。ですが信用できない味方と信用できる敵というのは扱いが難しい」

「んー、仲間と一言で言っても一枚岩にならないって事か?」

 

彼女は頷いた。

 

「国同士であれ人同士であれ、手を組む時は必ず思惑、背景に注意しなくてはなりません。ライダーのマスターである蒼月桜ですが、彼女とは思惑が一致している。ですがあの男の血族です。いざという時に妹の立場を選択する可能性がある。シロウとあの男は反発していますし、注意するべきです」

「裏切るって事か? 桜はそんな事しない」

「血族、身内という概念はシロウが考える以上に強い。姉であるイリヤを助けた士郎に敢えて言うべき事ではないでしょう」

 

士郎は黙って聞いていた。

 

「次に遠坂凛ですが、共闘はバーサーカー戦までだと明言しています。つまりそれ以降は敵対関係になる。内情を知られるのは好ましくない。必要以上の交友は控えて下さい」

「俺は遠坂と戦うつもりはない」

「向こうはそう思っていないと言う事です。聖杯を得られるのは最後の一組のみ、遠坂凛が勝利を狙っている以上私たちは戦う定めだ」

「俺はそう言う事をする為に聖杯戦争に参加したんじゃない。どんな手を使っても勝とうとする奴を止める事―」

「一つ伺いますがシロウ。私がアーチャーに襲われても、倒されてもそれを語るのですか?」

 

彼は質問に答えられなかった。かつての彼ならそれを理解する事無く突っぱねただろう。

 

「今すぐ結論を出せとは言いません。ですがバーサーカー戦が始まる前までには答えを出してください。それに遠坂凛はあの男と通じている可能性がある」

 

二人の距離が近い事は彼も知っていた。遠坂を信じるな、桜を信じるな、誰も彼もが信じられなくなる。これでは反目すると確信できる真也に好感を持ちかねない。“信頼できるのは敵”どれほど虚しいか。彼は声のトーンを落とした。

 

「……セイバーは俺を裏切るのか?」

「その発言は私への侮辱と受け取りますが?」

 

鋭い視線に彼は慌てた。

 

「ごめん、その」

 

彼女はふっと張り詰めた表情を緩めた。

 

「私は貴方の剣だと誓いました。誓いとは破る事が出来ないから誓い。それを覚えておいて下さい。もしシロウが私を裏切ったならば、その時はシロウを斬り、私も自害します」

「なんで? 聖杯が欲しいんだろ?」

「私の見る目がなかった、と言う事ですから。荷担だけしておいて責は負いたくないなどと言うつもりはありません」

「ありがとうセイバー」

 

彼女は湯飲みに浮かぶ茶柱をじっと見た。思いに耽る。

 

(とっさの判断でイリヤを守った以上その心配はない。問題は正義の味方たらんとする殻をどうするか、と言う事か。これは舞弥と相談した方が良いな。出来るなら正したい。叶うなら、その姿を見届けたいが……)

「なら遠坂や桜にも誓って貰おうか。そうすれば問題は無いだろ」

 

屈託無く笑うマスターの顔を見てため息をついた。

 

「シロウ、誓いという概念を持たない人間には意味が無い。現代の人間は神前で婚姻の契約を交わしても容易に破棄するそうですね。まったく、嘆かわしい。誓いをなんだと心得ているのか」

「セイバーの時代には浮気とかなかったのか? 色恋沙汰と騎士って良く聞く話だけど」

「その質問は二度としないでください」

 

突然機嫌の悪くなったセイバーをみて思わず腰が退ける。

 

「この際言っておきますが女というのは独自の価値観を持っています。理屈、法、道徳、仲間意識はそれなりに尊重しますが、最終的に己の決まりで動きます。ここに理屈はありません。そういう生き物だと理解して下さい。“男にとって愛は生活の一部だが、女にとって愛はその全部である”とある詩人の言葉です。本質を良く表した言葉だと私は思います」

「ごめん、良く分からない」

「男性の価値観で、女との約束信頼を計ってはいけません」

 

セイバーは遠い目である。彼女は王妃の事を考えていた。

 

「女傑もいますが希です。少数を論じても意味は無い」

「舞弥さんは? ずっと俺の面倒を見てくれたんだぞ」

「舞弥は歪だ。その範疇から外れている」

 

養母を悪く言われてムッとする士郎だった。

 

「考えてみて下さい。血の繋がらないシロウを10年かけて育て上げた。あれ程の器量だ、言い寄られた事もあるでしょう。個人の幸せを追っても誰も責められない。だが舞弥はそうしなかった。彼女は純粋です。己の全てを費やしてシロウを肯定している。大切にしなさい」

 

10年前の切嗣への献身を思い出せば理解は容易だった。

 

「言われるまでも無い」

「私からの話は以上です。そろそろ遠坂凛が来る頃だ、準備をしましょう。シロウ、酷な事を言いますが遠坂凛は男性の気を惹き方を心得ている、特に用心して下さい」

 

バレていたのかと彼は頭を掻いた。士郎が湯飲みを盆に置いてこんな事を言った。

 

「セイバーも女の子だろ? 信頼するのはやっぱり難しいのか?」

「私は騎士と申し上げた筈ですが」

 

うふふ、鋭いセイバーの表情を見て彼は愚問だったのだと悟った。

 

 

 

 

つづく!




Q:真也が非情ってどういう意味?
A:
大半のサーヴァントと魔術師には容赦と呵責が無いかも知れません。でも何割かは実行しつつも気が進まないとか思うんじゃないでしょうか。人間くささという意味です。ケイネス先生もソラウの為に必死でしたし。例えば。必要があったとしてもセイバーは子供を切るのに躊躇いがありそうです、凛もするでしょう。第5次アーチャーや5次アサシンも、切った後我が身の不幸を儚んだりしそうです。でも、桜前提の真也は、必要とあれば平然と切り捨てます。切る前の躊躇い、その後の呵責がありません。士郎が言っているのはこれ。なのですが……その真也にある変化が(ry



Q:士郎謝らないのイクナイ!
A:13話。冒頭のセイバーとの会話を修正しました。真也の帰り際、桜を連れて帰れ云々の流れで発言するよう修正しました。後書きの士郎考察も少し手直し。



【戯れ言】
鈴谷と桜は似ている気がする。髪型とかエロ担当のところとか。でも鈴谷がエロ担当って2次界隈だけだっけ。そんな私は鳳翔さんが好き。


【メタっぽい独り言】
バーサーカー襲撃はセイバー、アーチャー、ライダー各陣営を纏める接着剤です。原作でもそうですがあのタイミングでイリヤが襲ってこないと、凛との共闘フラグが立たないんですよね。そうすると凛は桜の敵、つまり真也の敵になって……うわ、まともな未来が見えない。



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15 聖杯戦争・2

ライダーは衛宮邸の居間、畳の上に腰掛けていた。砂壁、畳、髪襖、欄間、その部屋は和式の部屋で広かった。10人収まっても余裕があった。木材を主体にして作られたその部屋は機密性が低く、どこからともなく冷気が忍び込んでくる。和風木造建築の特徴であったが、家としてそれは欠陥ではないかと彼女は思った。圧迫感が無いのは悪くないが、それでも石で造られた家の方が落ち着くと思うのは、彼女の故郷が石の文明だったからである。

 

だが。この有様ではそれも台無しだ、彼女はそんな事を考えた。見渡せば聖杯戦争の参加者たち。遠坂凛、衛宮士郎、セイバー、蒼月桜、各々の思惑で渦巻いていた。その様を例えれば、稲妻走る暗雲か、不吉な月蝕の前触れである。

 

凛はどうにかしてセイバーとライダーの情報を入手しようと苦心していたが雲行きは良くない。もともと王であったセイバーは駆け引きを心得ていたし、ライダーは用心深かった。セイバーから見れば凛はいずれ戦うマスターである。ライダーは凛と桜に何らかの関係があると見ていたが、セイバーと同様に過度の信頼を置いていなかった。

 

凛は桜にライダーの事を聞いたが答えなかった。桜もまた凛がいずれ敵になる事を理解していたからである。真也は詳しくは知らないと凛に、弁明した。

 

“サーヴァントとマスターに信頼関係は必須。サーヴァントが懸念を示した以上、幾ら兄妹でも秘密にするべき事はある。アーチャーも凛にそう言ってるだろ? 俺を信用するなってさ”

 

凛の“それとない”追及を受けた真也の回答だった。もっともだと理解は示したが不愉快だと彼に文句を言った。凛の可愛らしい癇癪に閉口した彼は甘味物の献上を約束させられたのだが、それはここだけの話である。

 

士郎は己の未熟さを理由にセイバーの詳細を知らされていなかった。答えようにも答えられない。凛は不満が溜まるのみである。もっとも彼女自身アーチャーの事を伏せているから人の事は言えない。

 

「それじゃ始めるわよ」

 

気分を入れ替えて凛は二人の暫定教え子を見下ろした。畳の上に正座、凛はパイプ椅子に腰掛けている。彼女はミニスカート、脚を組んでいるので士郎にとっては目の毒だ。

 

凛のレクチャーは士郎と桜の現状把握から始まった。桜は真也と同じように千歳から魔術を教わっていなかったが、予備知識と精神集中の手ほどきは受けていた。桜の属性は“架空元素・虚数”である。特殊性故に凛には手が出せない。魔力操作の基本を教えるに留まった。

 

問題は士郎である。扱う魔術が強化だというのは良しとしよう。彼女にとって衝撃だったのは一度構築してしまえばそのまま使い続けることのできる魔術回路を、鍛錬のたびに一から作るという真似をしていた事だ。開いた口がふさがらない。

 

「なに、衛宮君ってそんな事ずっと繰り返してきた訳?」

「そうだけど」

「楽しい?」

「楽しいなんて思った事はない」

「そりゃ、そうでしょうね」

 

不特定多数を助けるため死にかけの訓練を毎日繰り返してきたのは、自分に価値を置いていない現れだ。凛は舞弥から聞いた話を思い出した。腕を組んでため息を一つ。

 

(……久宇舞弥が過保護になる訳だ)

 

何時大怪我するか、死んでしまうか分かったものではない。保護者の立場であれば気が気でなかろう。因みに。以前の凛であれば理解しにくい内容である。彼女には最近心配する対象が出来てしまったので、舞弥に共感を覚えるようになっていた。

 

凛は持参した宝石を手に取った。

 

「はい、口開けて。あーん」

「あーん」

 

士郎の口に放り込んだ。彼の身体が熱を帯びる、鼓動が早くなる。思わずちゃぶ台に突っ伏した。いきり立つのはセイバーである。

 

「遠坂凛、シロウに何をした」

 

セイバーは凛を魔術師と認識している。共闘を決めた以上理性的な行動をすると考えていたが、目の前でマスターの調子を崩されては黙っても居られない。抜刀こそしなかったが、返答次第では切り捨てると碧い瞳は語っていた。殺気一歩手前の思念に晒されて……凛は涼しい顔だった。

 

「落ち着きなさい。魔術回路をOn/Off出来るようにしただけよ」

「……嘘偽りは無いでしょうね」

「勿論。協定は守るわ」

 

士郎は突っ伏しながら手を振っていた。問題無いと言うゼスチャーである。セイバーは落ち着いたがその表情に不満をありありと浮かべている。

 

「遠坂凛。奔放は結構だがこのような手荒な真似は今後は控えて頂きたい。私のマスターを振り回すのは看過できない」

「そうね、ごめんなさい。次からは事前に伝えるわ」

「それとライダー。その手を離せ」

 

ライダーはセイバーの首根っこを掴んでいた。もちろんセイバーが飛びかかるのを防ぐ為である。彼女は屈辱に身を震わせていた。その様は通行人に吠え掛かる犬とそれを抑える飼い主、桜は笑い声を必死に押し殺していた。

 

(セイバーと衛宮君の信頼関係は十分か。ライダーは意外と面倒見が良い、もしくは空気を読む。それはそれとしてセイバーが保護者に見えるのは気のせい?)

 

凛は探りを入れたのだった。

 

 

◆◆◆

 

 

レクチャーも一通り終わったころ舞弥がドリンクと菓子を持ってきた。凛は乱入してきた母、葵の姿を思い出した。母親はどの家もそうなのか、或いは母親にも免許がありそれに行動指針が記されているのか、彼女はそんな馬鹿な事を考えていた。なんと言う事は無い、我が子の様子を心配しているだけである。士郎以外女ばかり、心配するなと言う方が酷であろう。

 

凛はグラスに注がれたオレンジ・ジュースをじっと見る。これに毒でも入っていたら、彼女はそんな事を考えた。暫く悩んだあとストローに口を付けた。トレーから無作為に選んだ上、士郎も同じように選んでいる、だから心配など無いのだが、そう言う心配をしなくてはいけない関係というのも相応にストレスだ。

 

(信じるって意外と勇気が要るものなのね)

 

部屋を見渡せばちゃぶ台の対面に桜がいた。彼女はノートを広げてせっせとメモしている。聞いた事を記し、思いついた事を記入していた。ライダーは桜の背後で壁の華だ、士郎はトイレだと席を外していた。

 

凛は畳の上に置かれた座布団に足を崩してぺたりと座る。髪を手漉きで流し気怠そうにストローを含んだ。形の良い唇はルージュで艶やかに光っていた。凛の振る舞いを見て唸るのはセイバーである。“うむむ”彼女は暫く悩んだあと立ち上がり凛の隣に腰掛けた。セイバーの青い装束でオレンジジュースを飲む姿は滑稽さよりは愛くるしさが有った。

 

「なにかご用?」

「遠坂凛。貴女の協力には感謝している、正直なところバーサーカーを相手にするに当たって貴女は心強い」

「お褒めに頂きまして光栄ですわ」

 

ちゃぶ台に頬杖を付き“しな”を作る凛に対し、右に座るセイバーは姿勢正しい。何とも対照的な二人だ、桜はそんな事を思った。

 

「だが貴女は男性を弄ぶ趣味を持っているようだ。プライバシーに干渉するつもりはないが、私たちは戦いを控えている。暫く自重して頂きたい」

「弄ぶって失礼ね」

「その公序良俗に反する恰好を言っています。不用意に男性の気を惹くのはお世辞にも褒められるものではない」

「こ、公序、」

 

セイバーは黒いミニスカートとニーソックスの間から溢れる凛の肌を見た。汚いものでも見るかのように眉を寄せている。そば耳を立てていた桜もウンウンと激しく同意だ。己の衣装を見たライダーは思わず裾を掴んだ。これもはしたないのかと自信が無くなった。

 

穏やかな表情の中、憤慨するのは凛である。辛うじて笑みは保っていたが、口元は苛立つようにピクピクと痙攣していた。

 

「セイバーさん? 貴女がどのような貞淑観念を持っているが知らないけれど、世情が違うの。そこをご理解頂きたいわ」

「男性が女の振る舞いに目を奪われるのは何時の時代でも変らないでしょう。それに蒼月桜は礼儀を弁えている。世情のせいにして慎みがないと自分で言っているようなものです」

 

長袖に長い丈のスカート、肌の露出は殆ど無い桜は満足気味だ。居たたまれなくなったライダーは霊体化した。我慢ならないのは凛である。笑みは消し去り、腹の底に滾るマグマを辛うじて抑えていた。暴れ出して共闘をお釈迦にする訳にはいかないのである。

 

「胸元を開けている貴女に言われたくないわね」

「単純に露出の事を言っているのではありません。貴女の振るまいを含めた全てがいかがわしいと言っています」

「いかがわ……」

 

士郎が凛に惑わされている、その原因が凛の服装と仕草にあるとセイバーは踏んだのであった。余所のマスターに己のマスターを骨抜きにされては敵わない、と言う事だ。ただ保護欲も混じっていた。桜は我慢できずとうとう吹き出した。良く言ってくれたと心中で拍手喝采である。

 

「言ってくれんじゃない……」

「貴女はご存じないと思うが年頃の少年は性的な意味で多感です。これは事実として受け入れてください。そして性的な刺激は冷静な判断を阻害する、共闘に置いて害悪でしかない。戦術的かつ理性的な対応を求めます。遠坂凛、貴女は“女”を必要以上に強調しすぎる。それではまるで踊り子だ」

(む、むかつくーーーーーー!!!!)

 

遠坂凛、初めての大惨敗であった。飄々と戻ってきた士郎が、部屋の歪な雰囲気に飲まれたのは言うまでも無い。

 

 

◆◆◆

 

 

バーサーカー対策のため他マスターを探す事は必須である。加えてイリヤスフィールが何時回復するか分からない以上悠長ともしていられなかった。引き籠もっていてはままならない、士郎ら一行は早速行動に起こす事にした。夜も更け静まりかえった頃に、士郎は桜とセイバーを伴って繰り出す事にした。

 

士郎は木刀を竹刀袋に入れて携帯していた、素手よりはマシという判断である。桜は散々迷ったあとアイスピックを手に取った。初め肉切り包丁を持ち出したのだが士郎が強固に止めた。温和しいイメージの桜が刃渡り20センチを超える包丁をもつ姿、いい知れない怖さを感じたからだった。桜は渋ったが“訓練していない以上、分を超えた武器は怪我をする”というセイバーの忠告に基づき折れた。

 

士郎も桜も私服、もちろん防寒具を着ていた。セイバーは青い装束の上にコートを羽織っていた。傍目には美少女二人を連れる少年の出来上がりである。

 

その日は冬木市の旧都、つまりは住宅街を回る事にした。

 

舞弥の提案で巡回経路を決めた。強襲を避けるため移動にはなるべく見通しの良い場所を選んだ。逃走経路も想定した。なにぶん初日である、疲労を想定し定期的に強い灯りのある場所を選んだ。舞弥は先回りして経路の下見だ。不用意な集団がいないか、街灯が切れ視界が悪くないか。

 

“本当は警邏の巡回情報も欲しいのだけれど”

 

舞弥の徹底した安全対策にセイバーは呆れた。

 

“襲わせないと意味が無い”

 

士郎と桜は苦笑せざるを得なかった。暫く歩いて3人が訪れたのは夜の公園である。其処は定点ポイントで、舞弥は見通せる離れた場所で3人を監視していた。怪しい動きがあれば、耳に付けた無線機で桜と士郎に通信を入れる手はずとなっている。

 

3人はベンチを見つけると近づいた。士郎は端に座った。桜はその隣である真ん中に腰掛けようと近づいて、セイバーに肩を掴まれ止められた。

 

「桜。今日は随分冷えますので何か飲み物を買ってきて下さい」

 

彼女は小銭を手渡した。舞弥から受け取っていたのだった。どうして私が、と桜は思ったが士郎の為ならと渋々従った。

 

「あ、はい」

「俺が買ってくる」

「いえ、シロウはそこに居て下さい」

 

威圧のあるセイバーの笑顔。彼はたじろいだ。桜は慌てて自販機へ駆けてゆく。察した士郎はセイバーに言う。

 

「あのさ、セイバー。そこまでしなくても」

「シロウ?」

「いえ、なんでもないです」

「シロウは女に押し切られやすい。嫌われ役を買っている私の立場も考えて頂きたい」

 

セイバーは桜が押しかける様になった一件を舞弥から聞き及んでいた。もちろん強引に押し切られた。基本的に来るものは拒まずという彼だった。

 

「はい……」

 

3人はベンチに並んで腰掛けた。セイバーが真ん中である。士郎の隣を考えていた桜は少し気分を害した。デートではないのだ、セイバーの“何か問題でも?”という視線に晒されては異議など唱えられようもない。

 

桜はコーンスープ、士郎はミネラルウォーターである。セイバーはミルクティーだった。寒空にカフェインであるのは桜の嫌がらせだ。もちろん利尿作用という意味なのは言うまでも無い。

 

見上げれば星々が煌めく。戦いに望んでいないのであればそれなりのシチュエーションだ。桜が士郎の姿を伺うとどう角度を変えてもセイバーが写る。疎ましく思う桜であった。視界には存在するが認識からセイバーを消して桜は言う。

 

「先輩、今日は敵さん来るでしょうか?」

「どうかな。寒いから現れないかもな」

「そうですね、今日は冷えますね」

「あ、そうだ。桜。布団が足りなかったら言ってくれ。離れは寒いだろ」

「大丈夫です。寒いのはへっちゃらですから、私」

「そうなのか?」

 

セイバーが呟いた。努めて何気ない言い回しだったが悪意は詰まっていた。

 

「桜はよく食べるからでしょう。お替わりは4回でした」

 

桜の眉がピクリと動いた。歪な笑い顔だった。

 

「セイバーさんだってお替わりしてたじゃないですか」

「私は2杯です」

「どんぶり2杯ならセイバーさんの方が多いです」

「そういえば桜。おかずのエビフライですが私だけ小さかった理由を求めます」

 

士郎は舞弥から罰として台所に立つ事を禁じられていた。なので、桜が仕切っているのだった。

 

「偶然です。嫌がらせしたみたいな、人聞き悪い事言わないで下さい」

「そうは思えない。桜のエビフライは一番大きかった」

「セイバーさんって食い意地が張ってますね。それとも単に意地が悪いんですか?」

「発言には気をつけた方が良い。育ちが知れる」

 

「そうですね。姑みたいな人には気をつけないといけませんしね」

 

セイバーから表情が消えた。

 

「蒼月桜」

 

桜は辛うじて笑っていた。

 

「なんですか?」

 

“ギスギス”そのような擬音が聞こえる。どうしてこんな事に、士郎はそう思ったが今は大切な時である。勇気を振り絞った。

 

「あのさ、二人とも」

 

ジロリと睨まれた。蛇に睨まれた蛙である。“どちらの味方?”という最悪の質問から、彼を救ったのは舞弥であった。

 

『誰かが接近している。注意しなさい』

 

通信を受け取った士郎は立ち上がり、竹刀袋を手に取った。暗がりから現れたのはランサーであった。臆する事無く歩み寄り、いつものように挑発めいた笑みを浮かべている。

 

「よう、やっぱり逃げなかったなお前」

 

セイバーと桜も立ち上がる。士郎は一歩前に出た。ランサーは彼女らを見るとヤレヤレだと詰まらなさそうな顔をした。

 

「夜の逢瀬ってか。いい気なもんだぜ。女を連れて歩くとは馬鹿を通り越して呆れるしかねえ」

「二人はそんなんじゃない」

「ま、自分の選択だ。覚悟してくれや。嬢ちゃんたちも馬鹿な奴に捕まったと思って諦めてくれ」

 

ランサーは赤い槍を握り直した。彼なら士郎に初動を見切られること無く心臓に突き立てる事が出来るだろう。

 

「待った」

「命乞いなら聞かねえぞ」

「話を聞いてくれ。俺たちはバーサーカーと戦った。セイバーとアーチャーと真也、この3人がかりでも手も足も出なかった。仲間を探してる。マスターに継いでくれ、共闘を申し入れたい」

「共闘だ?」

 

士郎の発言を聞いてランサーは桜とセイバーを見た。どちらだ? 彼は思った。誰がサーヴァントで、誰がマスターか、と言う意味だ。そしてバーサーカーがそれ程強いのかと興味を持った。だが、いけ好かないマスターの性質を考えれば共闘は考えにくい。ランサーのマスターは率先して聖杯を求めていない。聖杯を手に入れるのに相応しい者を探している。数に物言わして安全に戦う事に同意するか、と聞かれれば非常に疑わしい。

 

ランサーは己の赤い槍で肩をトントンと叩いた。士郎を値踏みするようである。

 

「話を通してやってもいい。だが俺にも立場っつーもんがある」

「……共闘を組むメリットが俺らにあるか、って事か」

「まぁ望み薄だな。なにより楽しくねぇ」

「なら、貴様の首をもって交渉するとしよう」

 

動いたのは白銀の騎士王だった。彼女は一瞬で鎧と剣を展開、一瞬きの間にランサーに打ち込んだ。彼女の一閃はランサーの槍を捕らえ打ち抜いた。“ギィン!” 異なる質の魔力が反発し合い、重い音と激しい閃光をかき鳴らした。その威力にランサーは後ずさる、彼の脚は大地に轍を刻んだ。間髪置かずセイバーは踏み込んだ、追撃である。ランサーは一つ舌を打った。

 

セイバーとランサーの筋力は共にB。だが魔力はBとCでランサーが一ランク劣る。魔力を乗せるセイバーの一撃は重い。

 

薙ぎは横から振るという動作の為、どうしてもワンインスタント遅れる。剣と比較して槍は大型で重いので剣と同じ様に扱う事は出来ない。その為基本的に突きが主力となる。ロングレンジの突きは間合いが広いが、柄の末端を掴むという持ち手の都合上、強力な一撃で受け流されると堪えられない。ミドルレンジの突きであれば、防御にも繋げやすいが、リーチというメリットが弱くなる。

 

ランサーはセイバーのパワーを見越してミドルレンジで突きを連続で打ち込んだ。同等であれば重い槍の一撃をセイバーはそのパワーで凌ぐ。セイバーはランサーの予想を上回っていた。彼女は剣で槍をいなすと、槍と剣の接合点を基点にして踏み込んだ。クロスレンジ、セイバーの距離である。彼女は一刀を打ち込んだ。

 

彼女の持つ剣は風の結界を纏い刀身を隠している。間合いが読めない。だから大きく避けざるを得ない。ランサーの敏捷性はA、セイバーはC、それを生かして彼女の一撃を躱すが、打ち込む・捌かれる・避ける、この繰り返しである。ランサーは勝ちに行く事は出来ない。もっともそれはセイバーにとっても同様だ。消極的なランサーの戦いを見てセイバーは挑発した。

 

「どうしたランサー。槍兵の名が泣くぞ」

「へっ、得物を隠すような臆病者がほざくか」

「失礼な事を言う。手の内を明かさないのはセオリーだ」

 

だがセイバーの内包する魔力量は膨大である。時間を掛ければガス切れでランサーの敗北は必至だ。もっとも彼はそのような消極的な戦いは好まなかった。戦闘経験からそれを悟ったランサーは忌々しくこう言った。

 

「一応聞くが、見逃す気は無いか?」

「マスターの正体と居場所を開かすなら、検討しよう」

「そりゃあ道理だ」

「10秒猶予を与える。降伏しろランサー」

「ほざけ」

 

ランサーは槍を構えたが、穂先は見当違いな方向を向いていた。なんだと訝しがるのはセイバーである。赤い槍に膨大な魔力が満たされる。セイバーは宝具だと当りを付けたが、レンジが長い。彼女は切り込むか離れるか判断に迷った。ランサーの眼が大きく開く。それはまさしく狩猟者の如く。

 

「ならば戯れ言はここまで。セイバー、貴様の心臓をもらい受ける」

 

それは交渉決裂の宣告でもあった。

 

「ゲイボル、」

「ライダー!」

 

その瞬間である、桜の叫びと共に騎兵が闇夜に身を躍らせた。ライダーは正確無比な鉄杭をランサーの米神に打ち込んだ。彼は辛うじて躱すが宝具は強制キャンセルだ。桜が叫ぶ。

 

「距離を取って小刻みに攻めて! その人に宝具を使わしちゃ駄目!」

「二人がかりかよ! 聞いてねえぞ!」

 

ライダーは鎖を繰り出し、鉄杭を打ち込んだ。それは弧を描いて波を打った。桃色の髪を棚引かせ鎖を繰り出す様は舞台を舞う演者である。鉄杭は回り込み、ランサーの死角から襲いかかる。同時にセイバーも切り込んだ。躱せるのは片方のみ、ランサーはセイバーの一撃を槍で凌ぐと、ライダーの鉄杭を敢えて受けた。それは彼の左肩を抉った。鮮血が飛び散る。

 

“じゃらり”と言う鎖の音が忌々しい。“ヒュゥゥオ”低いうなり声を上げる風の結界が疎ましい。ランサーは被弾した肩から血を垂らしながら唾を吐き捨てた。

 

「ったく。癇癪を起こした女はただでさえ手に負えないのに、二人ときてる」

「自分の選択なら、覚悟するのでしょう?」とはライダーである。抑揚無く告げた。

「減らず口はここまでだ。討たせて貰うぞランサー」とはセイバーである。

 

絶体絶命のなかランサーはそれでも悪態を忘れなかった。

 

 

◆◆◆

 

 

少し離れたビルの上から様子を伺うのは凛である。彼女はアーチャーと視覚を共有して戦闘を伺っていた。風が吹き、凛の髪とコートが棚引いた。

 

「真っ直ぐ帰らないかと思えば、強かな事だ」

「当然でしょ。手ぶらで帰れるかっつーの」

 

セイバーに罵られた事も根に持っていた。

 

「アーチャー、二人の動きをよく覚えておいて」

「無論だ。だがセイバーとライダーの組み合わせは想像以上に脅威だな。どう攻める凛。マスターは狙えないのだろう?」

 

遠距離攻撃に徹する、奇襲を掛ける、バーサーカーと違ってセイバーとライダーにアーチャーの通常攻撃は有効だ。また、マスターを狙えないというのは殺さないと言う意味であり、無力化どまりでも問題は無い。

 

「バーサーカー戦でどちらかが脱落する可能性もあるし、ゆっくり考えましょ」

「暢気だな。希望的観測に縋るとはらしくない」

「『まだ見ぬ未来に備えないのは馬鹿者だが、恐れるのは愚か者だ』誰の言葉か知ってる?」

「初耳だ」

「私よ」

「ほう。まぁ怯えられても困る」

 

アーチャーはヤレヤレと腕を組んだ。

 

(この魔術師らしさをあの男の前でも保ってくれればありがたいのだが)

 

見下ろす先の公園では戦闘が続いていた。セイバーとライダーの波状攻撃でランサーは追い詰められていた。敏捷性も徐々に落ちている。だがランサーはあの程度で諦める男ではない、何か機会を待っている、そうアーチャーは読んでいた。ランサーの戦闘を見るのはこれで3度目。一度目は彼自身が相対し、二度目は衛宮士郎と蒼月真也との戦闘だった、彼はそれを思い出した。

 

「凛」

「なに?」

「あの男の事だ」

「……真也が家に居るメリットを考えないの?」

 

凛は表情を変えなかったが、またその話かと苛立った。アーチャーも察したがそれでも進言しなくてはならなかった。

 

「奴の実力は認めよう。今この瞬間でさえも奴が拠点(遠坂邸)に居る事は一定の効果がある」

「なら良いでしょ」

「それでも蒼月真也を討つべきだ。奴は受肉したサーヴァントのようなものだぞ。バーサーカー戦を思い出せ。縛る令呪もない、聖杯戦争以前に危険すぎる」

「どうやって? アーチャーは未だ回復していないし、頼んでもライダーはもちろんセイバーだって同意しないわよ」

 

「命令をくれ。そうすれば必ず仕留めよう」

「らしくないわね。いま真也を殺すとライダーは確実に敵対するわ。ランサーに見込みがない以上、二人抜けるのはバーサーカー戦への影響が大きすぎる。まず身体を直す事を考えて。それ以外の事はそれからよ」

「それはバーサーカー戦が終われば、殺して良いと言う事だな」

 

「アーチャー。貴方は口は悪いし、皮肉屋だけれど信頼してる。だから意見進言も聞くし尊重もする。でもそれは駄目。“なぜだ”なんて聞いたら許さないから」

「自分の判断が間違っていると思わないか?」

「言ったでしょ。恐れるのは愚か者だって。そんな事考えたら何も出来ないわ」

「ならば備えはしているのか。奴が裏切るかもしれないと言う事に」

 

「万が一そうだったとしても、裏切らせないようにすれば済む話ね。人が従うよう仕向けるのも人間関係ではありだから」

「だからその手段を聞いている……まさか、凛。君は、」

 

それは既成事実という意味である。

 

「うっさい。万が一って言ってるでしょ」

 

凛は耳まで真っ赤にし無言だった。聞く耳を持たないマスターに彼は頭を痛めた。こう言う問題が降りかかるとは彼にとっても完全に予想外である。彼は葵から聞き出していた二人の形染めを思い出した。

 

(聖杯戦争が始まる前から“こう”では流石に分が悪い)

 

彼の視界の端に収まるのは赤毛の少年である。

 

(最悪奴を使う事になるかもしれんな)

 

 

◆◆◆

 

 

ライダーは鎖を繰りながらも違和感を感じていた。ランサーは満身創痍だ。左肩を抉られ腕に力は入らない、額からも血を流す、息を切らす。五体満足ではあるが、敏捷性も目に見えて落ちている。与えたダメージではもはや宝具も使えまい。だが警戒のアラームは鳴りっぱなしだ。何かを待っている。

 

その通りであった。ランサーはわざと敏捷を落とし油断させていた。狙うはマスターである。場所は公園、見通しが良く足つきも良い。彼が全力で踏み込めば士郎か桜のどちらか片方は人質に出来る。趣旨に反するが“一度目の相手からは必ず生還しろ”というマスターの命令がある以上仕方ない。付け加えれば真也との再戦も心残りだ。

 

セイバーが踏み込んだ瞬間、士郎へのルートが開けた。この機を辛抱強く待ったランサーが踏み込んだ。際で悟ったライダーは鎖を繰り出しランサーを絡め取った。そのまま振り回し、数度大地に叩き付けた。ランサーのもがきで鎖は外れ、その身体は宙を舞い地面に落ちた。彼はそのまま林の中に駆け、消えていった。

 

セイバーとライダーは追撃のため駆け出した。忌々しげにセイバーが言う。

 

「距離を取らせるとは、何を考えている!」

 

気づいていなかったのかとライダーは頭を痛めた。因みにライダーが気づいたのはランサーに対し距離を取っているからである。俯瞰すると言う事だ。絶えず切り込んでいるセイバーが気づくのに遅れたのは無理もなかろう。もちろん。備える性格も考慮する必要はあるだろうが。

 

「マスターの安全の為です。頭を冷やしなさい、この猪武者」

「それは失礼した。だがその二つ名について話があります」

「私にはありません」

 

ランサーの策は2段構えだった。ランサーは一人、だが相手はマスター含めて4人。誰か一人は気づくだろうと考えていた。だが。投げられるまでは予想していたが叩き付けられるのは完全に予想外だ。足と腰にダメージを負った、林に逃げ込んだはいいものの逃げ切るのは非常に難しくなった。

 

セイバーとライダーが消えていった林の中から剣戟の閃光と音が聞こえる。士郎は疎ましげにそれを見ていた。二人が戦っている、彼女らはサーヴァント、俺はマスター、役割が違う、駆けつけても出来る事は無い、下手をすれば足を引っ張る、だからこれは当然のこと。だが。

 

“それをお前が言うのか衛宮士郎”

 

この言葉が彼を苛んだ。救うのは自分の役割だ、長年考えてきた思念が渦巻いた。一つの剣戟音が切っ掛けになって、駆け出そうとした彼を桜は止めた。彼の身体にしがみついていた。

 

「離せ桜!」

「駄目です! 二人を信じてあげて下さい!」

 

必死な桜の姿を見て彼は思いとどまった。俺がこの場を離れたら誰が桜を守るのか、桜を連れて行ったら危険に巻き込む事になる。士郎はギリと食いしばって耐えるしかなかった。

 

暗がりのなか樹木に背を預け様子を伺うのはランサーである。鬱蒼とした樹木が連なるその場所は、月の光も星の光も届かない。ただ彼を狙う二つの存在だけがあった。

 

彼には誤算が一つあった。樹木という障害物があれば鉄杭は防げると踏んだのだ。だが。鉄杭は樹木を避け回り込み正確に彼を突いた。例えるなら有線式誘導ミサイルである。

 

「チィッ!」

 

迫り来る鉄杭を、額を動かし紙一重で避けた。それは樹木に突き刺さり大きな穴を開けた。木々の間を走る鎖を道しるべに“ヴンッ”と音を立ててセイバーが肉薄する。その姿はまさしく閃光。セイバーは掲げた剣を振り下ろした。その一閃は樹木を断ち切った。“メキメキ”と音を立てて樹木は倒壊する。辛うじて避けたランサーは蹈鞴〈たたら〉を踏んだ。

 

彼は身体に鞭を打ち、姿勢を整える。槍を大地に突き立てて支点とし、セイバーの追撃を受け流す。その力を利用して大きく跳躍。彼が逃げ回りつつも仕込んだ仕掛けもそろそろ大詰めだ。着地すると彼は鎖に囲まれていた。ライダーの鎖は木々を渡り罠となっていた。もちろんランサーの機動力を削ぐ為である。その様はまさしく蜘蛛の糸。

 

「捕らえました」木の上から降り立つのはライダーである。

「これで終わりだ、ランサー」セイバーはランサーの前に現れた、鋭く構え直す。

 

二人は並んで立っていた。戦場だというのに華があり、まるで映画のワンシーンである。ランサーは大げさにため息をつく。やってられないと言わんばかりであった。

 

「魔力馬鹿の小娘に馬鹿力の根暗女か。俺って奴は本当に良い女に縁がねぇ」

「魔力馬鹿とは誰の事だ」とはセイバー。

「根暗とは聞き捨てなりません」とはライダー。

「良いコンビネーションじゃねえか、凸凹コンビって奴だな」

「「不愉快です」」

 

セイバーが介錯しようと近づく直前である。林の至る所から火の手が上がり初めた。その勢いは激しく、林中にガソリンでも巻かれていたのかと思う程だ。ランサーは逃げ回りながら炎のルーンを至る所に刻んでいたのだった。

 

「さて、どうする? これだけ火の手が上がればその辺の住人も騒ぎ出す。マスターを連れて早く逃げた方が良いんじゃねえか? この時代の放火は確か重罪だった筈だ。現行犯も当然だが、目撃されても面倒だぜ?」

「ランサー、貴様」

「わりいな、こちらにも都合がある」

 

忌々しいと言わんばかりのセイバーであったが、一刻の猶予もない。二人は退いた。炎に巻かれながらもランサーは笑っていた。

 

「女に嬲られるとは俺も焼きが回ったもんだ」

 

 

 

 

 

つづく!




士郎サイドは巻きます。展開は急ですが、ごめんなさい。真也が主体なので。



【どうでもいい独り言】
実際のところ、17歳の少年が見る女の子の場所っていったら、脚より顔かおっぱいではなかろうか、そう思います。年を取ると見る場所が下がるって言う理論です。UBWアニメだと凛の脚を強調してましたけれども、あれ変ですね。士郎が脚フェチならその限りではありませんが。え、わたし? 腰から脚にかけて(ry



【もっとどうでも良い独り言】
セイバーとライダーの共闘は長年の夢でした。もう思い残す事はない……


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16 聖杯戦争・3

その部屋は焦げ茶色を基調としていたがアイボリー色も使われていて、落ち着いた雰囲気の中にも明るさがあった。その部屋に足を踏み入れた真也はさりげなく葵にこう聞いた。

 

「この部屋は洋館と違う雰囲気ですね」

「夫を亡くしたあと気分を変えたくて」

 

なる程と彼は頷いた。調度品はシンプルなデザインだった。物書きが出来る机に椅子、そして化粧台が置いてあった。観葉植物の緑がアクセントになっていて葵のセンスを感じさせた。衣類や小物は全てクローゼットの中だ。部屋は敷き詰まっておらず、空間があり開放感があった。石造りの家でも重苦しさが無い、センス次第で何とかなるのだなと彼は感心しきりだ。存在感があるのはキングサイズのベッドである。彼が僅かに気後れしている事に葵は気づいた。

 

「凛が小さい頃は一緒に寝る事もあったので」

「子供は寝相が悪いですしね」

「ええ。朝起きると頭と足が逆さになっている事もありました」

 

少々浮いている物が一つあった。それは巨大なテレビでDVDプレイヤーやらアンプ、スピーカーが繋がっていた。AVシステムという代物である。

 

「これですか。確かに迫力がありそうです。リビングに置かないのは何故ですか?」

「凛は興味が無くて。ここであれば落ち着いてみられますし」

「勿体ないですね。映画って面白いのに」

「娘は一刻も早く一人前になろうとがむしゃらで、そういう余裕もありませんでしたから」

「想像できます」

 

葵はラックからDVDを取り出すとプレイヤーに納めた。

 

「で、葵さん。何故私はここに居るのでしょう」

「いやですわ。真也さんが観たいとおっしゃったのに」

「そーでしたね」

 

2人そろってソファーに腰掛けた、頬杖を突こうと思ったがリラックスし過ぎだと止めた。その代わり脚を組んだ。大画面に映し出される映画をぼんやり観ながら彼は思う。

 

(どうしてこうなった)

 

その部屋は葵の寝室だった。

 

時を遡ること数時間前。新都から戻った彼を出迎えたのは葵だった。凛は衛宮邸に向かったまま戻ってこない。陽が傾き沈み掛かり、空は紅から群青色に塗りつぶされる。そろそろ時間だというのに凛が帰ってこない。少し待ちましょうと待っても帰ってこない。夕飯が遅れてしまうと葵は支度を始めた。そう、ハンバーグの件である。

 

彼は様子を見に行くかと腰を上げたが陽は既に落ちている。仰せつかった役割は警護だ、家を空けるのは憚られた。あちらにはサーヴァントが3人も居る。加えて凛は一流だ。心配する方が失礼だと彼は取りやめた。

 

使用人も帰宅してしまい、巨大な家に二人だけである。食堂と厨房は隣接する間取りの為、彼が控える食堂からは調理の音が筒抜けである。トントン、カチャカチャ、とは調理の音。パタパタとはスリッパの音である。落ち着かない。時折見える彼女の後ろ姿がいっそう彼の心を乱す。

 

彼女は軽快で艶やかだった。黒く長い髪をうなじで結っていた。若葉色のワンピースに桜色のエプロンを纏っていた。彼は何故かその姿に目を奪われた。魂を抜かれたかのように魅入っていた。桜に似ていた。

 

いい知れない不安に囚われる。彼は宛がわれた部屋に戻ろうかとも考えた。出来たら呼んで下さいと言おうとも考えた。“何様だ俺は”と断念した。

 

白いクロスで覆われた食卓に向かい文庫を取り出した。ハリウッド映画を文庫化した物で、彼が所持する数少ない文庫である。容易な文調で書かれていて読むのが楽だ。本来なら携帯ゲーム機が良いのだが流石に憚られた。読む、読む、読む。葵の鼻歌も聞こえ始めた。困った事に文字が頭に入らない。

 

居ても立っても居られず、手伝いましょうと葵に声を掛けた。振り向いたその女性は桜だった。

 

“?!”

“真也さん?”

 

数度瞬きを繰り返したが意識の焦点が合わない。頭を数度軽く叩いてようやく葵だと認識した。

 

“どうかしましたか?”

“なんでもありません。手伝います”

“とんでもありませんわ。ゆっくりなさって下さい”

 

口調は柔らかいが譲歩するつもりはない、それを悟った彼は引き下がった。それすらも桜に似ていたからである。椅子に腰掛けた彼は目頭を押さえた。

 

“どうかしてるぞ、俺”

 

寝ぼけてもいないのに、それでも見間違えた。否、認識をし損じた。彼はシスコンだと自覚があったが、桜と離れまだ三日と経っていないのにこの様かと頭を抱えた。原因は桜との物理的な距離ではなく、桜と葵の関係にあった。それは桜と凛よりも濃かったのである。

 

“どうぞ召し上がって下さい”

 

葵が作ったハンバーグはとても美味しかった。桜の作るそれとは少し味付けが異なるが、とても似ていたし満たされた。不用意に“おいしい”とまで言ってしまった。嬉しそうに微笑む葵の姿が怖い。自分の中に桜以外の女性が存在してしまう様でとても恐ろしかった。そんな馬鹿なと彼は精神を強固に律した。彼はそれが出来てしまうのである。

 

2人きりの食事。初めでこそぎこちなかったが早々に和んだ。彼はそれが不思議でならなかった。話題は学校の出来事やら家での生活である。趣味の話になったとき葵は真也が持参した小説に気がついた。

 

“映画に興味をお持ちですか?”

“ええ。アクション関係をよく見ます”

“私も映画を観ますのよ”

 

真也は年齢相応にCGを多用したアクションやSF、パニック物を好んだ。葵は希に凛と外出する事もあるが、用がなければ滅多に外出しないインドア派である。映画も趣味の一つだった。映画の話に花が咲き、古い物にも名作はあると彼に紹介した。

 

“今度観てみます”

“宜しければ今から観ませんか? 私も観たくなりましたし”

“喜んで”

 

以上が葵の寝室に彼が至る流れである。彼はてっきりリビングかそういう施設があるのだとばかり思っていた。まさか彼女の寝室だとは夢にも思うまい。よりにもよって。

 

“ローマの休日”

 

同年の女の子の母親と、その寝室で恋愛映画である。彼は断った。凛との約束もあった上、道義上宜しくない。だが葵の懇願を拒否する事は出来なかった。その様が桜に似ていたからである。彼はそれに気づいていなかった。

 

現金な事にいざ映画を見始めると名作ゆえに彼は動揺を忘れた。“この女優さんえらい美人さんだ”と思ったりもした。エンディングも良かった。主人公とヒロインは最終的に――ったのである。最近の映画にはまず見られない終わり方だった。流れるエンドロール。彼は恋愛映画も悪くない、そう葵に言おうと左を向くと彼女は寝ていた。

 

「……」

 

姿勢を崩しソファーにしな垂れかかっていた。すぅと穏やか寝息を立てていた。余りの事に声が出ない。彼には寝てしまえるという神経が理解出来なかった。葵と彼は他人、つい先日まで名前も知らなかった関係である。凛の言葉が脳裏に木霊する。

 

“母さんは少し天然だから”

 

少し所ではない。男と見られていないのは構わないが、彼はそう見ていない。流れる髪は黒々と艶があり頬に掛かる様はほつれ髪。一枚のワンピースが隠すのは成熟した肢体である。その艶めかしい曲線は嫌と言うほど見て取れた。ボリュームのある唇がほんの少し開いているのがまた悩ましい。

 

「……」

 

煩悩を振り払いこれからどうするべきか考えた。使用人の人達は既にいない。凛はいつ帰ってくるか分からない。放置すれば風邪を引く。起こすべきだと声を掛けた。起きない。何度か名前を呼んだ。起きない。過剰に悩んだあと肩を掴んで揺すってみた。起きない。

 

「ん……」

 

悩ましい声に情動を煽られた。頭を抱え得てしゃがみ込んだ。

 

(美人、未亡人、嫋やか、天然、料理上手、寝付いたら起きない、どれだけ属性持ってるねんこの人は……)

 

カーペットの上に正座して精神集中。呼吸と鼓動、副交感神経をも制御して動揺を押さえ込んだ。彼は葵を抱き上げるとベッドに寝かした。長い髪に寝癖が付かないように枕の上に流した。照明をベッドライトのみにして部屋を出た。扉を締めた。倒れた。その様は支えを失った箒のよう。彼の心臓は張り裂けんばかりに強く脈を打っていた。そのまま廊下を這って自室に向かっていった。

 

(し、死ぬ……)

(合格です、真也さん)

 

彼の苦悩は露知らず、狸寝入りの葵はそんな事を考えた。真也が葵を意識している、それを見込んだ上で、浮気性があるか、娘の身体だけを見ているのではないか、それを見定めたのだった。

 

 

◆◆◆

 

 

葵の部屋から戻った彼は戦闘服に着替えた。SWAT風の装いだが歴とした魔術礼装である。千歳が拵えたもので彼の仕事着でもあった。彼は装備を確認すると部屋の隅に向かってしゃがみ込んだ。体育座りで頭を抱えて震えるその様は筆舌に尽くしがたい。言うまでも無く葵を抱きかかえた影響である。その様を端的に表すなら“ガクブル”であろう。

 

夜から深夜に変わり暫く経ったころ凛が帰宅した。ランサー戦の顛末を見届けたため遅くなった。彼女は苛立ちを隠さず手足を大きく振って自室に戻った。室内着に着替えて寝間着を持つと浴室に入った。湯船のお湯は彼女の身体を温めたが、ささくれだった機嫌は一向に落ち着かない。自室に戻り寝床に潜る。夜の暗がりに抱かれるも一向に眠気が襲ってこない。逆に落ち着けば落ち着くほど憤りが強くなる。

 

(あのポンコツ英霊め……)

 

彼女はセイバーに言い倒された事を根に持っていた。寝返りを打った。目を開けば映るのは自分の部屋である。天蓋の付いたベッド、高級な絨毯、広さといい、調度品のあつらえといい、見るからにお嬢様の部屋である。だが粗があった。

 

よく見ると片付いていない、掃除が行き届いているかと言われれば不十分である。魔術の品もあるので使用人たちに片付けを依頼する訳にはいかないのであった。彼女自身が片付ければ良いのだが、そんな余裕も無かったしその予定も無かった。何処に何があるのか把握出来ればそれでいい、彼女はその様な考え方の持ち主だった。もっとも物探しに奔走するようでは意味が無い。真也に部屋に入らないようにと言ったのは、片付いていない部屋を見られたくない為である。もちろんまだ早いという駆け引きもあった。

 

「……」

 

もう一度寝返りを打った。すると枕に沈み込んだ己の手が見える。何か大切な事を忘れている、彼女はそれに気づいた。頭に浮かぶのは料理である。それはタマネギなどを混ぜた挽肉で作られた料理だ。それを捏ねて作るのだが、未だそう言う便利な機械は無い。人力、つまり手を使うのだ。その手が捏ねる予定だった料理は何だろう。

 

「ハンバーグ!」

 

彼女はベッドの上で跳ね起きた。今頃である。真也がガタガタと震えていると扉を叩く音がした。こんな時間に誰だ、彼は無意味な事を考えた。この家には彼を除けば二人しか居ない。一人は随分前に就寝した、もう一人は先ほど帰ってきたばかりだ。考えるまでも無かった。

 

「……」

 

葵から受けたダメージが残っているので出来る事なら今晩は会いたくなかった、彼はそう思いながら扉を開けた。渋々開けた。其処には純白のネグリジェを纏い、ショールを羽織った涙目のご令嬢が立っていた。

 

「食べたの? 母さんのハンバーグ」

 

何かと思えば開口一番それである。彼は慌てて顔を逸らした。苦い顔を見られたくなかったのであるが、その態度で彼女は全てを察した。凛に義理を立てて断る事はしなかったのだと理解した。怒りがこみ上げる。凛は一歩詰め寄った。真也は一歩後ずさった。

 

「食べたのね?」

「お帰り。遅かったな」

「食べたのね?」

「寒かったろ。今晩も冷えたから」

「食べたのね?」

 

彼は首を強制的に回して凛を見た。

 

「……はい食べました」

「私が作る筈だったのに!」

「夜も遅いから。明日にしよう、」

 

あろう事か彼はその名前を出してしまった。

 

「葵さんが起きてしまうから」

「酷い!」

「なぜ」

「母さんの事ばっかり!」

 

「そんな事はない、」

「嘘!」

「だから明日に、」

「嫌!」

 

凛の声が石造りの廊下に響き渡る。葵を起こしてしまっては申し訳ない、彼はそんな事を考えた。

 

「分かった。譲歩しよう。取りあえず客間へ、」

 

凛にはお見通しであった。

 

「最ッ低!」

「……」

 

真也が葵に対して何らかの感情を持っている事は凛も感じていた。日頃の対応を見れば火を見るより明らかである。桜は凛より葵に近い、それが原因だったが凛は知るよしも無い。

 

全ては彼の接し方が問題であった。凛の要求にはもっともらしい回答で拒否をする、もしくは誤魔化す傾向があるが、葵には躊躇いながらも素直に折れるのである。常々彼女はそれが不満だった。“私と扱いが違う”と言う事である。男の贔屓というのはとても女性心理を揺さぶるのだ。

 

加えて。セイバーの屈辱に耐え、木枯らしに吹かれながら戦闘を観察してきた。アーチャーに対して擁護もした。彼女が苦労し、彼に尽くしたにも関わらず、目を盗んで母親とイチャついていたのである。その状況が明確に想像出来るのも腹立たしい。極めつけが凛より先に葵の手料理を先に食べた事だ。ランサーの起こした炎に煽られた事も幾らかばかりの影響もあったが、彼女は我慢がならないと爆発した。

 

もちろん彼には彼女の苦労など知りようも無い。良く分からないけれど怒っている、と言うのが彼の見解だ。彼は葵を起こして宥めて貰おうかとも考えた。

 

“娘さんを何とかして下さい”

 

無様である。騒ぎを続けて起こしてしまえば結末は同じだ。付け加えれば葵と凛のダブルパンチは避けたい。付け加えれば。いま葵の姿を見れば抱きかかえた感触が蘇ってしまう。

 

(あぁぁぁぁ、うぅぅぅぅぅー)

 

たっぷり悩んだのち彼は部屋に凛を招き入れた。繊細な判断と行動が求められる一大作戦だ、もちろん穏便に丁重にお帰り頂くのみである。椅子はここだと手招きしたら。彼女は事もあろうにベッドの上だった。

 

マットレスの上にぺたりと座り、白い枕を抱きしめていた。背を丸めてその枕に口元を埋めていた。彼を睨むその瞳の目尻には涙を浮かべていた。ベッドの上に上がったのは抱きかかえる何かが欲しかった為である。

 

二の句を告げないのは真也である。凛は魔術師だ。普通の男がよからぬ企みをすれば返り討ちに出来よう。だがシスコンとはいえ彼はサーヴァントと渡り合う。それが分からない凛ではない。

 

(葵さん、貴方の娘さんは無防備すぎます)

 

彼の隣で寝入ってしまった母親を思い出した。

 

(そうか。遺伝か。旦那さんは大変だったに違いない)

 

したいようにさせた方が良いと、指摘するのを止めた。椅子を手に取り、ベッド脇に腰掛けた。背もたれを抱いて上肢を支えた。凛との距離には最大限の注意を払った。遠くても近くても駄目なのだ。アーチャーがこの場に居ない事を罵った。彼は痴話喧嘩に付き合っていられないと屋根の上である。作戦開始、真也はこう切り出した。

 

「寒空のなかお疲れ様。何か飲み物持ってくるか?」

「……」

 

彼女の無言は不要だと語っていた。

 

「済まなかった。凛の気持ちを考えもせず不快な思いをさせた」

「……」

「罵ってくれていい」

「……口先だけよね。真也って」

「……」

 

とにかく謝ってしまえ作戦はもう効かない。マズい、この展開は非常にマズい、彼はそう思った。言葉だけではいつか行き詰まる事を予想はしていたが、これほど急だとは思わなかった。遠坂家に身を置き、接する機会が多くなった事も原因の一つだが、葵の影響が大きかった。

 

ただ時間のみが過ぎた。凛の表情から憤りが潜め、悲しみが混じり始めた頃、彼は腹を括った。スキンシップを用いた説得である。彼は凛の手を握ろうと思ったが、不運にも枕を抱きかかえていたのでそれが出来なかった。ストレス、葛藤、軋轢、心理的不安定を押え付けた。身を乗り出して彼は凛の顔に手を回した。彼女は何が起こったのか理解出来ていない様相である。凛の身体を寄せて額同士を触れ合わせた。互いの呼吸を感じるどころか、味すら感じ取れる距離だ。口付けの一歩前である。限りなく近い。

 

凛は初め身体を強ばらせたが、間もなく落ち着いた。非情にゆったりとした様である。眠ってしまってもおかしくない程だ。

 

「話してくれ。力になる」

「もう良いから。その代わりもう少しだけ」

 

何時しか二人は呼吸を同調させるようになった。彼の心臓が痛むほどにストレスを受けていたのは言うまでも無い。

 

 

◆◆◆

 

 

真也が赴いた新都では収穫が無かった、だが凛は落胆もしなかった。不明なサーヴァントはキャスターとアサシンである。いずれも痕跡など残しようもなさそうだ。凛は新都でのガス漏れ事故が魔術による物だと彼に告げた。

 

「キャスター?」

「多分ね」

「魔力集め……企んでるんだろーなー」

「向こうから共闘持ちかけてくる可能性もあるわね」

 

「でもそれは俺らの手札が見られてるって事だろ、向こうに主導権は渡したくないな」

「難しいわね。せめて尻尾を出してくれれば良いのだけれど」

「だけど凛。よくキャスターに対して腹を立てないな。無関係の人間を巻き込んでるのに」

「そんな訳無いでしょ。これでも内心煮えくりかえってるわよ」

 

彼女は一転穏やかな表情である。そうは見えないと彼は肩をすくめた。

 

「で、そろそろ本題。帰宅が遅れたのは?」

 

凛はランサー戦との事を掻い摘まんで話した。桜が無事だった事、士郎を抑えた事に安堵した。

 

「そう、ランサーには逃げられたか」

「少し惜しいわね」

「そんな気はしてたな。戦いの結果よりその質に重きを置きそうだ。武人ぽい」

「武人なら勝利に執着するべきよ」

「ちがうって、己の戦い方で勝利に固執するってこと。勝利だけに固執すると、何でもありになるから」

 

イリヤを斬り付けたシーンが漠然と浮かび、彼はその重苦しいイメージを振り払う。凛は言う。

 

「武力系はもう揃ってるから、重要でないといえば重要ではないけれど」

「キャスターに期待しよう。直接戦闘をするスタイルではないから、話ぐらいは聞いてくれそうだ」

「そ、れ、で、ここからが本題なんだけど」

 

凛の表情に憤りが混じる。ちょっと聞きなさいよと身を乗り出してきた。彼が聞かされた話は思いも寄らない内容だった。

 

「セイバーに踊り子って言われた?」

「そう。まったく思い出しただけで腹が立つ!」

「気にするなんてらしくないな。ポリシーあるんだろその恰好」

「そうじゃなくて」

 

話は簡単である。凛は同意が欲しかっただけだ。

 

「踊り子とは言い得て妙だ。ミニスカートは軽快さ、活動的を感じさせるからな。躍動的な凛にはあってると思う。俺は今のままで良いと思うぞ。まぁ目の毒ってのは否めないけれど」

「ストリートガール扱いされたのよ私」

「大げさな。それだけ気にするならニーソックスじゃ無くてストッキングにすれば? 寒いし身体を冷やすのは良くないし、俺も見てみたい」

 

どちらかというと何故セイバーがそんな事を言いだしたのか、彼はそれが気になった。事実ならばあの剣の英霊は随分と人間くさい、という事になる。桜のライバルにならなければいい、彼はそんな事を考えた。

 

「ふぅん、そういう趣味なの」

 

凛は悪戯めいた瞳で自分の太腿に指を添わせた。ネグリジェの薄い生地越しに見える足を強調しているのである。

 

「そういう目で見てたんだ。ひょっとしてガーターベルトとか好き? 持ってないけれどお望みなら着てあげても良いわよ? もちろん貴方に買って頂く事になるけれど」

 

思わず想像してしまい彼もそろそろ限界だ。

 

「あのな、そろそろ気づいて欲しいんだけど」

 

困惑する真也の顔を見て凛は愉快そうに笑う。

 

「なに?」

「このシチュエーションを考慮してくれ。男の子を煽るのは流石に軽はずみだぞ」

 

夜、男の部屋、ネグリジェ、ベッドの上、役満である。彼女は頬を染めて一つ咳払い。

 

「寝る」

「そうして」

 

扉を開けば廊下である。当然だが其処は暗く、背を向ける凛は暗闇に囚われているようだった。彼女の発した声は、蕩ける様でまるで別人のように感じられた。

 

「今朝の質問だけれど」

「今朝?」

「母さんの部屋に入る、それを断る理由」

 

今それを言い出す理由が分からず彼は首を傾げた。凛は視線を逸らし唇を強く結んでいた。凛には真也の振る舞いが紳士的に見えたのである。これ以上引き延ばすのは誠実さを欠くうえ、一刻も早く関係を確定したいと考えた。

 

(ごめん桜、もう無理)

「それがなに?」

 

一拍。

 

「私が居るから、で良いんじゃない?」

「……返事にしては分かりにくい」

 

部屋から溢れる淡い光を浴びて浮かび上がる身体は、暗闇に溶ける様で輪郭が曖昧だった。幻想的、もしくは夢の人物である。流し目に宿る瞳は潤んで、快活さを感じさせる凛の姿がなんとも蠱惑的である。

 

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 

扉が閉った。彼は倒れた。眼を回してカーペットの上に大の字である。顔は果実のように紅葉し、心臓は弾けんばかりに強く打っていた。身体の反応を強引に押え付けていた反動である。全ては牽制の為、そう割り切っていたはずだ。だが凛をどうしてここまで動揺するのか彼には理解出来なかった。そう。彼は遠坂凛という少女に当てられ始めているのである。

 

(これはいよいよマズい、直接サクラニウムを補給しないと駄目かも……)

 

方や凛も同じような状態だった。自室のベッドの上で毛布にくるまれながらも、高鳴る身体を持て余していた。晴れてお付き合いであるが、額を付けた時に交わした言葉に囚われていた。

 

(あそこまでしたなら我慢しなくても良いのに……と考えるのは身持ちが軽すぎか)

 

床の上で蠢く二つの身体、それを思い描きながら彼女は身体を弄り始めた。

 

 

 

 

つづく!



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17 聖杯戦争・4

凛はいつも通りに曖昧な意識のまま目が覚めた。顔を洗い部屋に戻って身繕いを始めた。ブラウスに腕を通し、食事を取り家を出た。

 

見上げる空には雲があった。敷き詰められてはおらず、ひっきりなしに動いて形を変えていた。隙間から青い空が見えた。晴れそうでもあったし曇りそうでもあった。彼女の家は住宅街の奥まった所にある、登校中の他生徒に出会うにはもう少し時間が掛かった。それを見越して彼はこう告げた。葵にも聞かれたくない内容だからだ。

 

「秘密にするべきだ」

 

足を止めて振り返ると其処に少年が立っていた。コルク色の学ランに濃紺のダッフルコートを羽織っていた。学校に真剣を持ち込む訳にはいかないので帯剣はしていない。そのため陽が落ちるまでには家に帰らないといけない、朝食のとき彼がそう言っていた事を凛は思いだした。こうしてみると普通の学生に見える、彼女はそんな事を考えた。

 

「秘密って何?」

「俺らの関係の事」

「関係?」

 

わざと聞いているのか、彼は渋面である。

 

「付き合ってる事だ」

「……」

 

ツバメが馬鹿にするかの様に飛んでいった。どうしてそれを失念していたのか自分に呆れた。そして昨夜の出来事を思い出して頬を染めれば、彼の発言内容にたちまち不機嫌になる。忙しい娘だ、彼はそんな事を思った。

 

「隠さないと困る訳?」

「理解していない様だから言うけれど君は学園のアイドルだ。大騒ぎになる。そうなったら聞き込みもままならない。違う?」

「聞き込み?」

 

本日は二人とも学校に用がある。キャスターとアサシンの情報を集める為である。瞬き二つ、彼女は“あ”と気の抜けた声を出した。学校に向かっている理由を失念していたのであった。彼は不信を隠さない。

 

「今朝は抜けに抜けてるな。まだ寝ぼけてるのか?」

「うっさい」

 

昨夜の凛は簡単に寝付けなかったのである。寝不足が原因だったが真也は知るよしも無い。ようやく彼の意図を理解した凛は再び不愉快になった。皆に知られるより先に桜には説明したいとは思うが、隠すと言う真也の発言が気に入らない。何を企んでいるのか、不審を詰めた眼差しで彼を見た。

 

「秘密っていつまでよ」

「少なくとも聖杯戦争が終わるまでは秘密にした方が良い。万が一家に押しかけられたりしたら事だ。凛の家に居るなんて事がバレたら目も当てられない」

 

もっともな説明である。論理的で無理がない推論だった。彼女に異論など無いが彼の冷静な振る舞いに苛立った。隠す事に躊躇いが無い、気にも止めていない、知られない方が良いのかと勘ぐった。

 

「それ、素直に受け入れて良い訳?」

「質問の意味が分からない。説明の通りだけれど」

 

ムスッと半眼で睨む凛を見て、彼女らしい表情だと彼は思った。そして、この顔を見たいが為に彼女を怒らしているのではないか、そうも思った。彼は趣味が悪かったのだ。

 

「良いわ。その提案を受け入れましょ」

「おぉ助かる」

 

双方にメリットがある事なのに、なぜ上から目線なのか彼は不思議でならない。

 

「その代わり厭らしい事も無しだから」

「厭ら?」

「……」

「……」

 

凛は流し目で彼を睨んでいたが、その発言内容が恥ずかしく頬を染めていた。彼は暫く考えてそう言う事かと理解した。話を逸らす為に茶化した。額を合わせただけであのダメージである、彼にとってもそれは避けるべき話だった。

 

「それは何か? 聖杯戦争が終わったらしても良いと?」

「気が変った。当面お預け。真也の態度で決める」

「つまり、ご機嫌を取れと言う事だな」

「そう言うのを止めてって言ってるの」

 

皮肉、事務的、どうしてその様な気に触る言い方をするのか、もう理解している積もりだったが腹は立つし悲しくもなる。不満を隠さない凛の表情を見て彼は追撃を掛けた。

 

「……ひょとして手を出して欲しいとか?」

 

調子に乗らせないと凛もこう言った。

 

「そう言う事。私に尽くせば手ぐらい繋いであげても良いわよ?」

「……」

「……」

「止めておく」

 

「あら? 恥ずかしいんだ?」

「これでも動揺してるんだ、そう言うのは止めてくれ」

「動揺ってなによ」

「言葉通り。これ程揺さぶられるのは17年間で前例がない」

 

もちろんこの動揺が指している意味は二人で微妙に異なる。これは驚いた、そんな表情で凛は言う。

 

「アンタ、本当に付き合った事無いの?」

「無い」

「キスは?」

「無い」

「手を繋いだ事も?」

「無い」

「あら驚いた。女の子にちょっかい掛けるのに根が純情なのね♪」

 

笑みを浮かべていた。意地の悪い笑みである。彼は腹が立ち言い返した、が負け惜しみである。

 

「男女的な意味なら、無い」

「なによその言い方」

「単に手を繋いだ事があるかどうか、と言う意味なら有る」

「そういう意味ね。桜?」

「綾子」

 

彼は地雷を踏んだ。

 

「……どうして美綴さんが出てくる訳?」

「付き合い長いから」

「どういう事?」

「いわゆる幼なじみって奴。知らないのか? 穂群原では有名だと思ったけれど」

 

綾子と真也は穂群原へ入学してからと言うものの、学校以外では滅多に会わなくなった。真也のシスコン、桜への配慮が原因である。であるから。真也を女好きかつ交友が広いと認識している凛は、女友達の一人だとばかり思っていたのだ。彼女からしてみれば寝耳に水であろう。

 

気がつけば指定ポイントである。同伴登校というのも避けるべきだと別ルートを取る事にしていたのだ。凛の不安を余所に彼は平常運転である。

 

「んじゃ、ここで一度お別れだ。俺は別の道で行くから」

 

二人の背後に綾子が立っていた。眼を見開いて硬直していた。信じられないモノでも見た様な表情である。纏うライトグレーのダッフルコートは寒々しく、学生鞄をぶら下げる手は今にも力が抜けそうだ。

 

綾子をそう言う対象として意識していない彼はいつも通り……その筈だった。それはセイバーを召喚する時の事。

 

“真也が遠坂に招待された、それを聞いてから落ち込んでる”

 

という士郎の発言を完全に失念していたのである。バーサーカーと戦い、死にかけ、共闘を取りなし、凛の家に身を置いた。この数日間が余りにも激動だった為だ。綾子と真也は思わず見つめ合った、否、凝視し続けた。

 

「……」

「……」

 

朝の挨拶でも良い、いつもの様に褒めても良い。彼は何か発言するべきだったのだ。綾子の消沈は士郎も知るところ、つまり穂群原生徒の知るところである。戸惑う彼を見れば、真也もそれを知っていると彼女は判断するだろう。転じて綾子が真也に好意を持っている、それを彼が自覚していると語っている様な物だ。そしてまた逆も然り。

 

(そう、ようやく気づいたんだ。私の気持ち)

(マジか。何で今頃)

 

彼は桜と綾子の取り決めを知らないのであった。

 

「おはよう真也」

「……おはよう。部活はどうした」

「最近物騒だから暫く中止。それより真也。学校休んだけれど、どうしたのよ」

 

綾子は凛との関係を聞く事が怖く、連絡が出来なかったのである。綾子は彼の背後で立ち尽くす凛を見た。

 

「風邪」

「真也が? 珍しい事もあるもんだ」

「まぁね」

「それでどうして遠坂がここに居るのさ」

 

「ばったり出くわした」

「そう」

「そう」

 

いつもの様に堂々とした笑みを浮かべて綾子は言う。否、警戒を隠す事も無い。

 

「おはよう、遠坂」

「おはよう、美綴さん」

「学校休んだろ、遠坂も風邪?」

「いいえ。私は家の用事」

「そう、それは良かった」

 

真也に身を向けた綾子は満面の笑み。彼にとっても見覚えの無い表情だった。その迫力に思わず腰が退けた。

 

「真也、一緒に学校行かない?」

「せっかくのお誘いだけれど、騒ぎが怖いから一人で登校したい」

「それはそうだ。“一人なら”まだマシね」

 

釘を刺した綾子は身を翻した。その発言は背を向けたままである。

 

「遠坂、こういうの止めてくれる? その気も無いなら近づかないで」

 

立ち去る綾子を見送って、彼は凛が笑っていた事に気づいた。いつもの様に可憐な笑みだったが言いしれぬ怒気を孕んでいた。

 

「ねぇ、蒼月君。二股を掛ける気?」

「んなつもりは毛頭無い」

「そう、ならどうするの?」

「告白された訳じゃ無いんだ、何も出来ない」

「つまり?」

 

口から溢れ出た溜息は重く、髪を掻く指は異様なほど鋭かった。

 

「自然消滅」

「最低」

 

 

◆◆◆

 

 

学園に一歩足を踏み入れた真也は早々に手荒い歓迎を受けた。例えば友人であるA君は彼の背中を全力で叩いた。

 

「よっ、真也!」

 

バチンとステーキ肉を叩いた様な良い音がした。間髪置かずB君は彼の頭を叩いた。

 

「おいっす!」

 

スイカを叩いた様な音を立てた。1人や2人では無かった。通り過ぎる男子生徒に背中を激しく叩かれた。背中も頭も激しく痛んだ。誤解だ、そう言っても収まらなかった。堪忍袋の緒が切れて、やり返そうと詰め寄ったが其処には涙混じりの怒り顔。

 

「……」

 

彼も彼らも17年間彼女無しである。彼らの気持ちは痛いほど分かった。学園のアイドルにお呼ばれしただけで動機は十分なのだった。彼は黄昏れた。話はそれで終わらず授業の中休み。2-Bのクラスメイトたちはおもむろに立ち上がり、机を移動させ教室の中心に広間を作った。

 

真也の知人であるAさんがその中心を指さした。何のことか分からず首を傾げるのは真也である。

 

「なに?」

「座り」

「なんで?」

「ええから、座り」

 

彼を取り囲むのは彼がよく知る女生徒たち。余所のクラスも他学年も混じっていた。共通するのは軽蔑と怒りである。逆らうと身に危険が及ぶ、そう感じた彼は渋々正座した。

 

「この扱いの説明を求める」

 

彼はそう言った。声高らかに宣言するAさんは裁判官のよう。

 

「真也。言わんでも分かっとるな?」

「分からない」

「ほう、分からんと言うたな?」

「君の説明は不足している。緻密な意思疎通は人間関係を構築するに於いて、」

 

「ぬけぬけと……みんな弾劾裁判や!」

「何で」

 

Bさんが言う。

 

「有罪です!」

 

Cさんが言う。

 

「有罪!」

 

Dさんが言う。

 

「有罪っ!」

 

「全員一致で有罪! これより断罪する!」

「訳が分からん!」

 

彼女たちは詰め寄り罵った。

 

「綾子を何だと思ってん?! シスコンのくせしはって!」

「そうだそうだ! シスコンのクセして身の程を知れ!」

「美人で面倒見が良くて、スタイルだって良いのに何が不満ですか!」

「散々綾子に美人とか可愛いとか言って、沢山迷惑掛けて、世話させて、余所の娘にホイホイ鞍替えするなんてこの最低男!」

 

予鈴が鳴った事に気づかず吠えて吠える少女たち。暫く経って大河がやって来た。何事かと目を丸くする彼女に、真也は救いを求めて手を伸ばす。

 

「藤村先生! 助けて!」

 

それを遮り、女生徒が懇切丁寧な説明をした。

 

「裁判の延長は10分だけだからね」

 

大河は彼を見放した。

 

呼ばれた事は家の都合。凛には何も感じていないという、嘘でも無いが本当でも無い釈明を繰り返し、綾子への謝罪と説明責任を果たすという償いを確約してその場は放免された。

 

話は簡単である。幾ら優等生だろうと魔術師ゆえ同級生と一線引いている凛と、人望がある綾子では扱いの差が生じるのも当然だった。

 

なにより穂群原には綾子と真也、この両名と同じ中学出身の生徒も多かった。そう、桜、綾子、真也の関係を知っている彼女たちは綾子に同情していたのだ。これなら先手を打って付き合っていると暴露した方が良かったのかも知れない、聖杯戦争後の後始末を考えると彼は頭が痛くなった。

 

柳洞寺に美人が居るという良く分からない情報を辛うじて集めた彼は逃げる様に下校しようとした。そう過去形である。下駄箱で扉を開ければ一枚の封書が入っていた。

 

“蒼月真也さまへ”

 

それはラブレターであった。なんとも可愛らしい文字が煩悩を誘う。彼には恋愛経験が無い、付き合った事も無い、モテるなどと言われた事も無い、ナンパすればシスコンと罵られ、自然ラブレターなど貰った事も無い。舞い上がった。

 

「……モテ期?」

 

状況を考えればその手紙が何なのか分かりそうなものだ。そもそも今時ラブレターなどあり得ない。浮かれた彼はそれに気づかなかった。“すっぽかせば失礼だし、断るつもりだった”良い訳も万全である。鼻歌を交え待ち合わせ場所に赴けば当然罠であった。

 

目の前には嫉妬に身を震わす屈強な5人の男たち。

 

「安藤宗佑、サッカー部!」

「伊藤光輝、剣道部!」

「上田颯太、ラグビー部!」

「江成伊月、空手部!」

「小沢連、エコ研!」

 

そう。凛に振られた男の子たちである。

 

「「「玉砕戦隊Dieレンジャー!」」」

 

ポーズも決まればまさしく特撮戦隊ものである。真也には彼らの背景に爆発する様を見た。

 

「さよなら」

 

無駄な時間を使ってしまった。ラブレターをビリビリと破り、立ち去ろうと背を向けた真也の頭にサッカーボールが命中した。つんのめり地面に突っ伏した。サッカー部が言う。怒りを隠さないその様は正しく断罪する神の戦士。

 

「神を愚弄する傍若無人なその振る舞い! もはや勘弁ならぬ! ここで討ち果たし! 地獄に落としてくれるわ! 集いし神の戦士たちよ! 悪鬼の首を打ちとれい!」

「「「応!」」」

 

サッカー部にはボールをぶつけられ、剣道部には竹刀を打ち込まれ、ラグビー部にはタックルを、空手部には正拳突き、エコ研にはペットボトルのキャップを投げつけられた。俗に言うフルボッコである。真也は彼らに同情していた、心苦しさもあった。暫くは無抵抗だったが彼らの嫉妬は執拗で底が見えない。我慢ならぬと全員を返り討ちにした。

 

「ふん、他愛なし」

 

パンパンと手の埃を払えば、目の前には死屍累々である。サッカー部は息も絶え絶えだ。

 

「流石“冬木の羅刹”と呼ばれし漢よ。我らの力を持っても敵わぬか……」

「ほう、その字を知って我に挑んだか。胆力だけは褒めてやろう。もっとも蛮勇だがな」

 

2人ともノリノリである。

 

「だが、これ程熱くなったのは久しく覚えが無い。我は逃げぬ、何度でも掛かってくるが良い」

「ふ、愚かなり羅刹よ。我らが何の策も無く挑んだと思ったか」

「なに?」

 

真也の肩を叩く硬い竹の感触。振り返れば彼の頬に竹刀の先端が突き刺さる。大河であった。そう彼らは事前に彼女を呼んでいたのだ。

 

「珍しく学校休んでどうしたのかと思えば、心配するだけ無駄だったわね」

 

大河は真也の弁明を聞かず脳天に一発撃ち込むと、首根っこを掴んで引きずっていった。

 

「話があります。蒼月君は生徒指導室までいらっしゃい。残りは後で出頭すること」

「あ、え、襲われたのは俺なんですけれど。俺も怪我をしてますけれど」

「「「蒼月君に辛い目に遭わされました」」」

「お前らぁぁぁぁっ!」

 

彼らの言い分は凛という意味で嘘ではない。最終的に全員反省文を提出させられ、拳骨を喰らい放免された。

 

 

◆◆◆

 

 

同時刻。校舎の屋上で相対するのは氷室 鐘と凛である。凛は人伝に鐘が真也の過去に詳しいと聞きつけ、呼び出したのだった。もちろん、最も詳しいのは桜と綾子だが聞ける訳が無い。

 

「こうして話すのは初めての事のように思う。何用だろうか」

 

表情の変化が少ない、距離が読めない鐘に僅かな戸惑いを感じつつも凛は切り出した。鐘は驚いた様である。

 

「蒼月真也の過去?」

「詳しいと聞いたのだけれど」

「小学校と中学校が同じだっただけだが。聞いてどうする」

「ほら、彼って有名人だって聞いたから。その興味を持ったのよ」

 

「冬木に居て知らないのか」

「私、小学中学と県外の学校に通ったから」

「なるほどな。汝が知らないというのも“不公平”だろう」

 

凛は思わせぶりな鐘の言い様が気になった。鐘は一つ間を置いてこう端的に告げた。

 

「蒼月真也、一言で言えば彼は悪党だ」

「悪党?」

「冬木の羅刹、聞いた事はないか?」

 

またけったいな呼び名だと凛は思った。彼女はこれをネタにからかってやろうと考えたが鐘の話を聞くにつれてその気は無くなった。鐘の語る真也は凛を不安にさせるには十分だったからである。

 

「最近ようやく落ち着いたが冬木市は10年前から暫くの間、異常犯罪者、自殺者が多かった。犯罪も多発していた事は知っている事と思う。破滅的な大火災が人々に心理的な影響を与えたと言われているが未だ結論は出ていない。犯罪行為を犯す未成年、俗に言う不良も事欠かなかった。私の暮らす地域も例外では無く日々怯えていた。

 

その余波は子供たちにも及び大人たちも手を焼く状況だった。その様な中、彼は10年前にひょっこり現れた。妹といつも一緒だった。兄妹と言っても似ていなく子供たちの憂さ晴らしの対象だった。その子供は妹を守るためにいつも喧嘩をしていた。子供ながらにませていて、子供を率い、妹を守るだけの組織を作ってさえいた。

 

年月が経ち、その子供が中学に成長すると喧嘩も大事になった。争いが争いを呼ぶという奴だ。生傷が絶えないどころではない、それこそ血を血で洗う、闘争と言って良い程の様相を見せた。その子供、彼は滅法強かった。闘争と言っても一方的だったな、彼はいつも勝者だった。警察も動いていたが何分手が足りない、事実上野放しだった」

 

気後れしながら凛はこう聞いた。

 

「学校は、大人はなにもしなかったわけ?」

「したな、一度だけ」

「体裁のためか目先の手段に訴えた。警察に突出し彼を勾留したのだよ。抑止力が無くなった不良たちは暴走、その結果学校と地域は瞬く間に荒れた。藤村先生の家を知っているか? 大地主だが、別名極道のものだ。子供の争いに介入しないと静閑していたそうだがとうとう動く事態になった。

 

当時彼が藤村組に何度か足を運んだという目撃がある。おそらく藤村雷河と取り決めをしたのだろう。専守防衛だった彼は攻めに転じた。今にして思うが、単に興味が無かったのだな。妹さえ無事ならそれで良かった。妹が住む社会を守る事が、結果守る事になる、それに気づいた彼は冬木の中学を制圧した。冬木の羅刹という二つ銘はこのとき付いたものだ」

 

「それで制圧した」

 

凛の投げかけに鐘は首を横に振った。

 

「他学の主だった派閥・不良を全員再起不能にした。見せしめだったのだろうな。直接見た訳ではないが相当に凄惨だったらしい。まさにヴラド公だ」

「それが本当だとして、どうして穂群原であんなのほほんとしてる訳? 怖がられないのが不可解だわ」

 

「繰り返すが、彼は妹さえ無事なら普通の少年だった。成績は優秀なうえ風紀を乱すような事も……有るには有ったが、私に言わせれば可愛げのあるものだ。女たらしと言う生徒もいるが、コミュニケーションの範疇だと私は考えている。強引に迫った事もない、本当に嫌がる生徒には近づかない。シスターコンプレックスという性癖も親密さを後押ししているだろう。

 

中学最後の冬だったか。噂を聞きつけたのか、それとも何も知らないのか、馬鹿者たちが現れた。事もあろうに彼の妹にちょっかいを掛け襲おうとした。そこを救ったのが衛宮士郎だ。彼が駆けつけた時、衛宮はボロボロだった。彼のしつこさは異常な程で妹を守り切った。3人の付き合いはそこから始まったと聞いている」

 

(……仲が悪いはずだわ。自分より他人、自分より桜、同族嫌悪って事か)

 

凛は鐘の語りを租借したあとこう聞いた。

 

「氷室さん、一つ聞いて良い? 貴方は蒼月君に思うところは無いの?」

 

「法律道徳的に問題がある事は承知している。だが世界はそれ程調和的ではない。警察力、法の目から溢れて泣く人達は確実に居る。何より。彼の妹が住む社会に身を置く私は恩恵を受けた一人だ。非難など出来ないだろう。他の者もそうだ。

 

遠坂、汝が何故彼に興味を持ったのかは知らない。だが十分に気をつける事だ。彼はここ暫く落ち着いているが、その本質は変わっていないと見ている。ひとたび妹に何かあれば豹変するだろう。もう一つ。彼と美綴は小学校からの付き合いだ。私はぽっと出の君より美綴を応援している。まぁ、余計な世話ではあるが」

 

「そう“不公平”ってそう言う事」

 

鐘は頷くと話は終わったと背を向けた。

 

「もう一つ、なぜ蒼月君を彼と呼ぶのかしら」

「ありがちだが、腕っ節が強いというのは何かと乙女心をくすぐる。妹を守る彼の熱意が自分にも向いたら、と考えた事もあった」

「……」

「気にしなくてもいい。もうその気は無い」

「どうして諦めたの?」

「私にとって彼は激しすぎる。違う言い方をすれば手に負えない。汝はどうだろうな」

 

鐘は姿を消した。一人になった凛は己の身体を抱きしめた。桜ではなく凛を選んだ、彼の発言が本当なのか不安になったのである。

 

(信じて良いのよね?)

 

凛の問いは彼に届く事は無かった。

 

 

◆◆◆

 

 

予想外、盲点、伏兵、奇襲、綾子の脳裏に浮かんだのはそんな言葉だった。凛が真也に目を付けるとは夢にも思わなかったのである。二人は関係を否定したが彼女の直感は警告していた。一刻の猶予も無い。

 

お洒落を活動的な物からフェミニンな物に変える。メイクを施し真也が知らない自分を演出する。デートはカップルの多い所を選び、女の子だと意識させ彼から告白を……というプランを練っていたがそんな猶予は無くなってしまった。

 

帰宅した綾子は母親に泣きついた。

 

“お母さん! 男の子を掴まえるにはどうすれば良い?!”

“胃袋を掴む”

“悠長にしている時間が無い!”

“なら身体を使うしか”

“からっDAっ!?”

 

綾子は自分の部屋で悩みに悩んだ。彼女を支配するのは“性的な意味での肉体関係”である。考えた事は無い、そう言えば嘘になる。だがいざ挑むとなると身体は鉛の様に重い。行為への羞恥も恐怖もあったが、それは彼女がもつ最大であり最後の武器である。それで拒まれればもう打つ手が無い。天下無敵のシスコン野郎には不安が拭い知れない、と言うことだ。準備期間が無いのが惜しまれる。

 

足りない分は補う。そう考えた彼女はクローゼットの奥底に仕舞い込んでいたそれを取り出した。手に持つのは縦のラインが入ったニットのワンピース。俗に言う“縦セーター”である。真也と付き合いの長い彼女であるから嗜好などお見通しだった。いつか使うかもとは考えていたが、実際に使うとなると非常に勇気が要る。自分に似合わないと言うのもあるが、何より性的である。

 

意を決して着替えた。

 

それはベアショルダーネックで肩を大きく出したネックラインである。立て鏡に映る己の姿を見て彼女は声を失った。

 

「……」

 

ゆったりとした衣類であるゆえ、一見身体のラインは見にくいが、柔らかい生地のため姿勢によっては丸わかりになる。なにより露出が多い。首から肩へのラインは卵の様に滑らかで、裾から伸びる脚は子鹿の様に弾んでいた。

 

彼女は自分のことを女らしいと思ったことは無いが、これで行けるのではないかと思い始めた。幾つかそれらしいポーズを取っていると下着の肩紐に気づいた。あからさまな下着の作りである。変えたいが見せ様の下着など彼女は持っていなかった。やるなら徹底的だとはぎ取った。その恰好は身体を覆っているという感覚に乏しく、着ているのか裸なのか曖昧だった、落ち着かない。

 

鏡の中の己に言い聞かす。

 

「よし、美人だぞ綾子。鉄則はその気にさせること。ここまでやればあの真也(シスコン)も落ちる」

 

落ちたらどうなるか、想像すればその顔は果実のよう。勿論トマトかリンゴである。

 

「う、うわぁぁぁぁっ!」

 

気が済むまで枕に鉄拳を打ち込むと、彼女は他の誰かに見られない様にコートをしっかり纏って彼の家に赴いた。不安と期待と、複雑な感情が折り混ざって彼女の身体は小さく震えていた。

 

 

◆◆◆

 

 

夕暮れに染まる生活道路を歩くのは凛と真也である。夕飯の食材を手にぶら下げて、商店街から凛の家に戻る途中であった。日没までそれ程時間は無いが、ついでだからと彼の家の様子を見に行く事にした。二人連れだって夕食の買い出しというのは相応のイベントだが彼は気が重かった。凛の説教が止まらないのである。

 

「向こう見ず」

「……」

「無頼漢」

「……」

「短慮軽率」

「……」

 

彼女が言及しているのは勿論校内乱闘と、その結果の事だ。呆れて物も言えない、と彼女は見せつける様に溜息をついた。

 

「騒ぎを起こさない為に秘密にしたのに起こしてどうするのよ」

「俺が騒ぎを引きつけて、凛の行動をしやすくした、そう考えて」

「こじつけも良いところね。もう少しマシな良い訳を考えなさい」

「秘密にしてこれなら、公表すればもっと大騒ぎになったと思います」

 

「そのまま逃げれば良かったのよ。真也の脚なら造作も無いのに」

「男の子には連帯感って物があるの。彼らの気持ちも理解出来る。言いたくないけれど原因の半分は凛だぞ。凛に振られた可哀想な男の子たちなんだから」

「その文句は私に言うべきね。筋違いだわ。みっともない」

「馬鹿だな。振られた鬱憤をその娘に晴らすなんて、それこそ格好悪すぎだ」

 

「真也に当たるなら同じじゃ無い」

「だからその鬱憤が溜って仕方なかったんだろ。晴らさずにはいられないって奴。ガス抜きだよガス抜き。俺も反撃したしトントンだ」

「衝動が抑えられないなんて、未熟も良いところね。それとも子供?」

「欲望、憤怒、嫉妬、恐怖、負の感情ってのはあらゆる動機の根源だぞ。彼らは魔術師じゃ無い一般人。ていうか理性は経験が物を言うから、元気だけしかない高校生にそれを求めるのも酷だろ。こんな事もあるさ」

「真也に怪我をさせた事が不愉快、そう言えばご理解頂ける?」

 

拗ねる様な凛の表情を見て彼は頬を掻いた。誰かに心配される、そういう扱われ方に慣れていないのである。彼は遠回しに説明をし始めた。

 

「……理性ってのは動機にならない。人間の判断力と行動力には限界があるから、見落としもすれば行動が足りない時もある。すると間違える、間違えれば辛い目にあう。何かと辛い人の世で理性を持って生きるなら、死か世捨て人という結論に至る。それでも生きるのは負の感情があるから。

 

負の感情ってのは理性って厄介な代物に対する武器だ。だから辛い現状に立ち向かい、何かを求めようと歩く事が出来る。つまり強い負の感情を持つ人間ってのは成し遂げる力を持ってるって事だ。ハングリーさって奴だな。

 

歴史書を紐解けば良い。偉業を成し遂げた武将、英雄だって、それなりにエグい事をしているのが良い例だ。凛、負の感情ってのは恥ずべき事じゃ無いぞ。禍根の渦に至る、魔術師だってそういう欲望を持っている」

 

気がつけば自分の家の前。門を開ければキイとさび付いた蝶番が音を立てた。

 

「立派な講釈だけれど、何が言いたいのよ」

「俺がそう言う負の感情を持たず、理性的で控えめな人間だったら、凛の目には止まらなかったって事。まぁ俺に関わったのが運の尽きだと諦めてくれ」

「そう、自惚れてるのねアンタって」

「違うって。俺にはトラブルがついて回るって事だ。凛、考え直すなら今のうちだぞ」

 

凛は盛大な溜息をついた。やってられないとうんざりした。

 

「あの時声を掛けたのが運の尽きね。回れ右して立ち去れば良かった」

「あの時?」

「グール戦の夜の事」

「そうかもな」

「胃に穴が開いたら責任取りなさいよ」

 

笑いながら扉を開けると、玄関に見慣れない靴があった。黒のロングブーツである。桜のものでは無い、千歳のものでも無い、見覚えが無い靴だった。物取りにしては妙に洒落た靴だ。不可解さを感じつつも念のためにと、彼は傘立てにある木刀を引き抜いた。異変を察知した凛も神経を切り替えた。

 

居間へと続く扉を開けるとそこに立っていたのは綾子だった。鉢合わせした理由は簡単だ。真也が帰宅を悟った彼女は出迎えようとしただけである。お帰り、遅い、何処に行っていたのか、綾子のその言葉は真也の肩越しに見える凛の姿にかき消された。

 

「「「……」」」

 

彼の目の前には綾子が居た。背後には凛が居る。長い沈黙が続いた。これ程辛い沈黙が存在することを彼は初めて知った。

 

綾子がこの場に居る理由は難しくない。長い付き合いのうえ、彼女は合い鍵を持っているからだ。だがこのタイミングでここ居る理由が彼には思いつかない。極めつけが凛である。二人は関係を秘密にしたが、家に連れ込んでは誤魔化しも出来ない。

 

「どういう事、これ」

 

綾子は不愉快さを隠すこと無く凛を睨んでいた。凛と真也は共に制服姿、加えれば食材の入ったビニール袋を手からぶら下げていた。どう都合よく解釈しても、ただの知り合いには見えない。

 

「蒼月君?」

 

凛の表情は笑っていたが帯びる気配は笑っていなかった。“観念して説明しろ”と言っていた。綾子の艶めかしい姿を見て何用か察しを付けたのだった。彼は下手に取り繕うよりは端的に述べた方が良いと判断した。心中で謝罪してからこう告げた。

 

「凛と付き合ってる」

「嘘をつくならもっとマシな嘘をつきなよ」

「嘘じゃない」

「ミスパーフェクトが真也を相手にする訳が無い」

「嘘、じゃない」

 

強い物言いに揺さぶられた。一歩後ずさった。

 

「今朝、何でもないって」

「騒がれたくなくてそう言った」

「私聞いてない」

「昨日のことだから」

 

「嘘だ」

「嘘じゃない」

「真也は勘違いしてるのよ、桜に好きな奴が出来たからそれでやけっぱちなって」

「済まない」

 

「私ずっと真也のことが好きで」

「済まない」

「でも桜が居たから我慢して」

「済まない」

「やっと動き出せるって、嬉しくて、」

「済まない」

 

彼はゆっくりと首を振った。綾子は俯き身体を震わしていた、直に握り手に力が籠もり始めた。感情がこみ上げ呼吸が乱れ始める。面を上げた綾子の頬には幾重もの涙が走っていた。真也の頬に鋭い痛みが走った。

 

「私を選んだって言ったのは真也なのに!」

 

彼を押しのけ一歩踏み込んだ。綾子は凛を引っぱたくと、凛もまた綾子を叩き返した。

 

「最低!」

 

泣き子の様に立ち去る綾子の後ろ姿を、真也はただ見送るのみである。出来る事などありはしないのだ。

 

「綾子とは買い物に行く仲だったんだけれど、どうしてくれるのよ?」

 

重苦しい空気をぬぐい去ろうという彼女の発言は彼に届くことは無かった。

 

(……俺は綾子に何をした?)

 

それは彼が持っていない筈の心の反応である。テーブルに置かれた夕食の用意、それは彼をあざけ笑っていた。

 

 

◆◆◆

 

 

遠坂の家に帰宅した彼はいつも通りだった。何食わぬ顔で食事を取り、ぎこちない凛と意見を交換し、葵と凛が寝静まるのを待って屋根に登った。腰掛けて見上げる空には雲が敷き詰められ月も星も見えない。ただ陰鬱な重圧のみがのしかかる。彼が抱きかかえる霊刀がいつになく冷たい。戦闘服が重い。冬の身を切る空気のみが救いだった。

 

「……」

 

彼の脳裏に焼き付いたのは綾子の涙であった。誰かを泣かす事が良くないことは知っている、理屈で分かる。だが。何故その光景が脳裏にこびりついたのか、何故繰り返し脳裏に再生されるのか。なぜ忘れようとする程に強く心に刻まれるのか。彼はそれが理解出来なかった。当然である、それは彼にとって生まれて初めての経験だったからだ。

 

「精が出るわね」

 

気がつけば出窓から凛が現れた。ネグリジェの上にガウンを纏っているがこの寒さでは辛かろう。

 

「もう1時だぞ。早く寝てくれ」

「2時よ」

「尚更だ」

「程々にしなさい。根を詰められて、いざという時に不調だと意味が無いから」

 

隣りに腰掛けた凛を一瞥すると、彼は再び天を仰いだ。彼女は立てた両膝に鼻先を埋めて身体を丸めていた。視線は下がり気味、彼女の気分も優れない。勿論綾子との一件である。

 

「どうしてそんなに辛そうなのよ」

「自分でも良く分からない。だから相談できない」

「綾子を振ったの後悔してる訳?」

「聞くな。きっと不愉快な話だ」

 

「言いなさいよ」

「……後悔とは少し違う。ただ酷く気になる。自分が正しいのか分からなくなった」

「選んだ、ってどういう事」

「昔の話」

 

「話して」

「話せない。多分凛に吐露して楽になってはいけない事だ。俺が背負うこと。凛と綾子の立場が逆だったら、これ程の侮辱は無いと怒り出す」

「綾子とは古い付き合いって聞いたけれど」

 

「ただの知り合いからカウントするなら10年。もういままでのような関係には居られないんだろうな」

「関係あったの?」

「関係?」

「その、肉体的というか」

 

「だから、ない」

「ごめん」

「なんだ、急に」

「私、自分の事しか考えてなかった」

 

「気にするな。そんなの誰だってそうだ。時は容赦なく進んで人を変える。人の居場所を変える。人間はずっと同じ所に居られない。別れはいつか来るさ。綾子とはそれが今日だったんだろ」

 

「ドライね。虚無主義?」

「現実主義。俺にはそれしか無いから」

「変らない関係ってあると思う?」

「さあ。強いて言えば血族かな。こればかりは変らない」

 

「血統を重んじるとは思わなかった」

「それすら信じられなくなったら人間お仕舞いって事」

「信じられないって、悲しいわね」

「全くもって同感。ほら、もう寝てくれ。目に隈の出来た凛は見たくない」

 

「私だって寝不足なら居眠りだってするのよ。ミスパーフェクトって仮面なんだから」

「意地を張るのが遠坂凛だろ。なら張り通せ」

「そんなに私が邪魔?」

「凛の気遣いは涙が出る程嬉しい。けれど少し一人にしてくれ。凛が側に居ると考えが纏まらない」

 

凛は腰を上げた。

 

「アンタってなんでも一人で抱えるのね」

「俺が考えなきゃいけない問題だから」

「桜なら?」

「桜でも頼らない。桜は誰かに甘える様な弱い兄じゃ守れなかった」

「そう」

 

彼女は背を向けたままである。

 

「明日教会へ行って」

「教会? なぜ?」

「アンタ、監督役に目を付けられたの」

 

繰り出されたアーチャーの発言は凛の姿が消えたのを見計らった様であった。事実その通りである。

 

「屋根で星を見ながら物思いに耽る、か。まるで真っ当な人間の様だな。顔色一つ変えずイリヤスフィールを殺そうとした人間には見えない」

「随分とタイミングが良いな、弓兵」

「いつも使っている席に今日は先客が居たという訳だ。席が空くのを待つのは構わんだろう」

「そりゃごもっとも」

 

アーチャーは良い機会だと話す事にした。一拍、こう切り出した。

 

「言わなくても理解しているだろうが、私の仕事はマスターを勝利に導くことだ。問題があれば排除する。それが物理的であろうと、魔術的であろうと、精神的だろうとそれは変らない。お前が信頼に足りうるか、この懸念はバーサーカーに対するそれと拮抗してている」

「要するに釘を刺しに来たって事ね」

 

もちろん凛に対しての事である。

 

「平時であれば可愛げもあるが、今は大事な時なのでな。貴様の真意は何処にある」

「俺の返答に問わず、お前が俺を嫌っているのは変らない。なら俺に答えるメリットは無いね」

 

「ほう。存外冷静だな。疑われても構わない、その様に解釈出来る。それとも初めからそのつもりだからか?」

「アーチャーが俺を嫌っていることは知っている。バーサーカー戦のとき何度か狙っただろ。そんな奴に愛想良くする必要は無い、違う?」

 

「さぁな。覚えが無い」

「どうしても気に入らないならケリを付けようか。俺は構わないぞ。手負いのサーヴァントに対して俺に支援魔法は無し。きっと良い勝負になる」

 

真也は立ち上がり刀に手を伸ばした。眼鏡越しに見える双眸が蒼く光る。万物の存在を根源からかき消しかねない深淵の灯火だった。それはアーチャーの警戒を最大限に煽った。真也の危険性を実感するには十分だったのである。

 

(不本意だが、保険として衛宮士郎を叩き上げるしかあるまい)

 

アーチャーは忌々しい目つきを残し姿を消した。真也は米神を片手で掴んで呻きを上げた。

 

「何で俺は苛ついてる。どうしてこう冷静でいられない。俺は、俺の何が壊れたのか、分からない」

 

彼に答える誰かはこの世に存在しないのである。

 

 

 

 

 

つづく!





書き手ですら恥ずかしい展開、胃が痛い展開というのは、読み手の方にはどう映るのだろう、そんな事を考える今日この頃。いえ、自重なんてしませんけれど。リミッターカットしてますし。おすし。


暫く戦闘はありません。ドロドロドロだけです。ドロドロです~~~~(m-_-)m


【シスコンの推移まとめ:躊躇いとか呵責とか】
・イリヤを殺しかけて、良く分からないが自分に不愉快になる
・桜と離ればなれ、凛と葵に煽られまくりストレスが溜る。
・凛とおでこをごっつんこ。これが致命的
・綾子を泣かして自分がおかしいのではないかと疑い始める←今ここ





【タイガー道場行き選択】

「二人とも大事なんだ!」


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18 聖杯戦争・5

教会と言う言葉は二つの意味を持つ。一つは教えそのもの、もう一つは建築物である。混乱を避けるのであれば教会堂と言うのが適切であろう。ただ宗教において教会堂を含めたシンボルは教えそのものであるから、問題が無いと言えば問題は無い。

 

真也の目の前にはその教会堂があった。欧州で見られる石造りの教会と異なり、日本ではありふれた鉄筋とコンクリートで作られた建物だ。その理由としてコストもあげられるが主な理由は耐震性である。地震が多い日本において石造りの建築物は不向きなのだ。遠坂家も石造りの家であるが、なにぶん魔術師の本拠地だ、何らかの対策を施しているのだろう、彼はそんなことを考えた。

 

バロック様式を模した現代建築の教会堂。その扉。意を決して開ければその中に広がる、礼拝堂は相応の作りで、幻想さと神聖さを醸し出していた。見上げれば屋根まで続く高い天井はアーチが支えていたし、ずらりと並ぶ長椅子は木製だった。

 

立派な教会堂である。その中で彼の気に触ったものが二つあった。一つは神聖なまでに白い内壁。まるで“お前が汚れている”と言わんばかりだ。もう一つが祭壇に掲げられている十字のシンボル。人類史上最も普及した概念武装だが、彼はこれがなにより嫌いだった。

 

“彼は”人々の罪を背負い死んだというが、生きること自体が罪なのだ。町にしろ、国にしろ、大陸にしろ、地球にしろ。生きるというパイは有限である。それを取り合う以上争いは避けて通れない。これは資源争奪、受験戦争、就職活動と言う意味で同じだ。これは俺のパイだからお前は諦めて死ねと言われれば死にものぐるいになる、つまり教えと現実が根本で乖離している。そもそも。どうとでも如何様にでも作り出せる罪という曖昧なモノを持ち出して、“私が身代わりに引き受けよう”など勘違いも甚だしい。

 

(罪を肯定した上で生きた方が現実的でまともだ)

 

100歩譲ってその教えを認めるとする。神が人を作った以上責める相手が違う。神が全知全能であるなら間違いようが無い筈だ。原創の人間が原罪の果実を食べる事すらあり得ない。それはつまり矛盾である。

 

もっとも。宗教の真実性はともかく、心理学的に罪を見た場合、罪悪感というのはそれ程生やさしい心理反応では無い。罪に苛まれる、つまり呵責に耐えられる人間は少ないのである。“許しが欲しい”それは宗教の始まりに他ならないが、彼はそれがまだ分かっていなかった。

 

真也の目の前には男が立っていた。その男は丈の短いスータンの上に濃紺のコートを羽織っていた。胸にはシンボルである十字のネックレスがぶら下がっていた。見るからに神父であるが、祭壇を背に見下ろす様は、聖職者には不似合いな不遜さだった。

 

その男は真也の姿を認めると笑みを浮かべた。彼にはとても友好的に見えなかった。その隙の無い立ち振る舞い、服越しに出すら感じられる肉体の威圧は、極限にまで鍛え上げられた武器の様だった。これでは神父と言うより断罪者の様である。

 

「貴方が言峰神父ですか?」

 

ただならない雰囲気に、真也は警戒を隠さずそう聞いた。返ってきた言葉は深く、重く、身体の芯に響いた。だがそれは心地よい言葉ではなく不安にさせる声だった。上司に仰げば一週間持つまい。

 

「いかにもそうだが、どちら様かな? 礼拝者には見えないが。告解なら入信して貰わなくては困る」

「蒼月真也、そうお伝えすればご理解頂けると思います」

 

その名を聞いて綺礼は態度を変えた。表情も姿勢も何一つ変わっていないが、真也にはそれが分かった。言峰教会の神父ではなく、監督役の立場である。或いは代行者だ。

 

「ほう。凛の言っていたイレギュラーが“お前だった”とはな」

 

綺礼の思わせぶりな言い様に、真也は目を細めた。凛を下の名前で呼んだ事から親しい間柄であろうとは察しを付けたが、それ以上に警戒していた。

 

「冬木で私は有名ですしね。言峰神父が私の事をご存じでもおかしくは無い。初対面で恐縮ですが用件をお聞かせ願いたい。私も色々と立て込んでいますし、なにより教会が嫌いです」

「それは結構だ。では結論から言うが、蒼月真也、いずれかの陣営に属せ」

「ご存じの筈ですけれど私はアーチャーのマスターの元に身を置いています」

「それは属していると理解して良いのか? ライダーのマスター、蒼月桜の兄であるお前が“妹と敵対する”とは俄には信じられないが」

「それが用件ですか?」

 

初顔合わせであったが綺礼は真也の事を知っていた。彼がシスコンだと言う事も知っていた。にも関わらず凛の元に身を置いているのは、単に居るだけであり属していないと考えているからだった。綺礼は凛を経由して真也を呼び出したが、もちろんその推測を凛には伝えていない。彼は今の状況を好ましいと考えていたからである。それは監督役の立場ではなく彼の嗜好だった。

 

「過去の聖杯戦争でもマスター以外の人間が補助という形で参加した事がある。それは構わない。だがフリーランスというのは困る。関わるというならどこかに属せ、これは儀式なのだ」

 

真也の返答は拒否だ。なので言葉を慎重に選んだ。ライダー陣営に属せば凛の元を離れなくてはならないが、そうなれば士郎への牽制がお釈迦になる。最悪、3陣営の共闘関係が崩れる恐れがあった。

 

「私は好きこのんで今の立場に居る訳ではありません。私には令呪が無い以上、聖杯戦争には無関係だ。成り行きでバーサーカーに狙われていて、どうにもならず今の状態に居ます。貴方が監督役ならばどうにかして頂きたい、それで話は済みます」

「ほう。お前が妹を見捨てるのか」

「成り行き、と言っています」

 

綺礼は見抜くような笑みで見下ろした。

 

「理由は分かった。だが、目撃者はご退場頂く決まりだ。端くれであろうとお前も魔術師。秘匿するのであればその限りではないが、フリーランスは他マスターから見れば厄介な事極まりないだろう。部外者というのなら諦める事だな」

「部外者である以上、儀式の決まりに従う理由はない。ならば申し出は受けられない。私は好き勝手にさせて頂く」

 

真也にとって狙い通りの結末である。話は終わったと真也が背を向ければ、綺礼はこう続けた。

 

「確認するが戦うつもりがあるのか?」

「降りかかる火の粉は払う性質だ」

「戦いに躊躇いは無いようだが、お前は争いを是とするのか?」

「神父さん。貴方が誰と比べているのかは知らないが、争い、戦争は現実だ。歴史がそれを証明している。それに目を逸らせば喰われるのは自分が守るべきものだ。ならば躊躇いなど出来ようはずが無い」

 

「お前の言う守るべきモノとは酷く狭いようだが、一体誰を指している」

「神父がそれを問うのか? 身近な存在だよ。ありふれたものだ」

「他者の不幸は関知しないか、中々罰当たりな事を言う男だ」

 

綺礼の笑い方は控えめであったが真也を煽るには十分だった。綺礼は心底愉快そうだったからである。これが愛想笑いであったなら真也は気にする事すら無かっただろう。

 

「人聞き悪い事を言う。守るべきものの安全が確保されているのであれば、見捨てたりはしない。社会とはそういうモノだろ。警官だって自分の家族が危険にさらされては職務になど就けるはずがない」

 

「では問おう。世界の存続と守るべき存在が、天秤に掛けられるモノだとしたらお前はどうする。守りたいと欲したものが、世界から悪と罵られる存在であったらどうする」

「そんなふざけた質問に答える義務はない」

 

躊躇いもせず、憤慨もせず、静かにそう宣言した。真也は“そんなわかりきった事を聞くな”と言っていた。綺礼はそれに満足した様である。

 

「よかろう、好きにするといい」

「……今なんて?」

「聞こえなかったか? お前を認めると言ったのだ。聖杯戦争とは謂わば聖杯を手にする資格を得るための試練だ。イレギュラーな存在に屈する様では所詮その程度という事だろう。もし全マスターがお前に敗れるというなら聖杯を掴む資格などない。お前がマスターではないのが残念だが、それは些細な問題だろう」

「……」

 

晴れて認可されたのである。それはそれで好ましいが言いしれぬ不安に囚われる真也だった。

 

「話は以上だ。凛の元に戻るが良い」

「……」

「どうした? 何か質問でもあるか?」

「話は変わるけれど言峰神父。この教会って挙式出来る?」

 

個人的な感想はともかく、綺礼は厳かな雰囲気を持っているのは事実である。催事には悪くない、真也はそんな事を考えた。あくまで妹に拘る言動である。綺礼は心底可笑しそうに、挙式のパンフレットを手渡した。

 

 

◆◆◆

 

 

真也を見送って、綺礼に話しかけたのはギルガメッシュであった。白いラインの入ったジャージを着崩した出で立ちで、まるでダウンタウンでたむろする若者であったが、暴力的なまでの気品を漂わせていた。

 

「あの男を気に入ったか、綺礼」

 

ギルガメッシュは長いすに腰掛けると、見下ろす様に綺礼を見上げた。ふんぞり返るその様は正しく不遜の王である。

 

「冬木の羅刹と呼ばれた男だ。ギルガメッシュ、お前とてこの町に身を置いて10年だろう? 聞いた事はないのか」

「雑種の名前など覚えん。何ともけったいな名前だが何をした」

「争い事に絶えない男だ」

 

綺礼は喧嘩に明け暮れた時代の真也の話をギルガメッシュに聞かせた。

 

「なかなかの武勇伝だが、そう言う荒くれ者は何時の時代にも居る。家族的犯罪組織の始まりにはなろうが、綺礼が気に入るとは思えんな」

 

「一つ聞かせよう。未成年者が関わるゆえ殆ど知らされていない話だ。あの男が闘争に明け暮れた原因の一つとして、不良グループの愚鈍なまでの執着さがあった。この手の輩は負けを認めない。いや、原因を見定める知的さも、争う目的すら持ち合わせていない。ただ負ける事だけが屈辱的なのだ。武器を揃え数を揃えれば、今度こそは勝てると錯覚する。ギルガメッシュ、お前なら殺してしまうが今の時代それを行えばただでは済まん。

 

その折だ。ある不良グループが闇討ちされ、山奥の廃棄された工事現場に連れ去れた。深い縦穴に閉じ込められた連中が見た物は、頭上から垂れ下がる2本のロープだった」

 

「そこは笑うところなのか?」

「もちろん連中は這い上がろうとそのロープを掴んだが、それにはある細工がしてあった。滑車を上手く使い、誰かが重りとなり支えねば登れない仕組みだった。それに必要な重さは一人を除く全員分。つまり這い上がれるのは一人のみだ」

「何処の誰かは知らないが不可解な事をする。一人抜け出し助けを求めれば済む話であろう。暇を持て余すにしても理解が出来んな」

「その穴には灯油の匂いが充満し、ロープをゆらす度に火花が散った。ファイアースターター、つまり火打ち石が取り付けられていた」

 

ギルガメッシュは目を細めた。

 

「ここで問題なのは実際に炎に巻かれるかどうかは問題では無い。炎に巻かれようと重りとなった人間は支え続けねばならない、つまり抜け出せるのは一人のみ、そう思わせるのが重要だ。事実その連中もそう考えた。心理的な動揺を誘う為の細工だと考える事も出来ようが、それが事実だった場合失うのは己の命だ。踏み出す事は出来なかっただろう。

 

一晩経ち、二晩経ち、助けが来ない事を悟った連中は仲間同士で争い始めた。打ち倒し重りにする為にそれこそ死にもの狂いで争った。殴打し、殴打され、腕の立つ者を倒す為、複数人で襲い、裏切り。一人また一人、仲間だと思っていた人間を打ち倒していった。

 

涙を流し許しを請う懺悔の声、一人だけ助かるのかという怨嗟の声、動かなくなるまで殴打し続けなくてはならない罪悪感、殺してしまうかも知れない、殺さなくては死ぬという恐怖に駆られた。殴りたくない、一人だけ助かりたくない、だが死にたくない、彼らは争い続けた。辛うじて見える薄暗闇と灯油だと錯覚させた雨水の気配も、精神を追い込むには十分だ」

 

「なかなか興味深い話だが、それでどうなった」

「最後に残った一人が死にもの狂いで這い上がり、保護され全員が助かった。その罠はフェイクだった」

「くだらん結末だな。綺礼、お前は我の時間を無駄にしたぞ」

「連中は精神に異常をきたしていた」

「ほう」

 

ギルガメッシュは笑みを浮かべた。

 

「連中は10代半ばの未成年だった。極限状態に置かれた連中は、助け出されたとき半狂乱の精神状態だった。彼らは仲間を信じる事が出来なくなり、集団行動が出来なくなった。暴力行為と暗闇、そして他人に強い拒絶反応を示す様になり、今でも精神病棟に入院している。見事無力化され冬木市に平和が訪れた、という訳だ」

「それを演出したのがあの男か」

「その連中はあの男と繰り返し争っていたグループだった。参考人として事情聴取を受けたが、咎められる事は無かった。ロープ、滑車、少量の灯油に、火打ち石、どれもこれもが簡単に手に入る物だ。証拠など無かった。嘘発見器も使用されたが無意味だった。動揺どころか同情すら見せないあの男に警察は追求した。あの男はこう答えたそうだ」

 

“よく思わないのは当然でしょう? だって遺恨があったんだから。誰かは知らないけれど酷い事をする、とは思いますけれど”

 

「あの男には良識というモノがない。しかも呵責の無い事が素晴らしい。ただ妹が社会的に困るから常識人と振る舞っているだけだ。本人の自覚無くな」

「どこかの誰かにそっくりだが……だが我は気に入らん。我の与り知らぬところで勝手に采配するなど看過できん。それにあの眼だ、あの傍若無人な眼が気に入らん。魔眼の類いだろうが、綺礼、我は我の望むままにするぞ」

「好きにしろ。勝手にすると言ったのは他ならないあの男だからな。故に私も好きに動かさせて貰おう」

「楽しそうだな、綺礼」

「あぁ、実に楽しい」

 

綺礼は、人並みの良識を持ち、道徳を信じ、善である事が正しいと理解していながら、正反対のモノにのみ興味を持つ人間だった。二人の関係は、その正反対と妹を置き換えるのみである。

 

 

◆◆◆

 

 

(もう一押し欲しいわね)

 

舞弥はそんな事を考えた。そこは衛宮邸の彼女の自室である。彼女が向かうパソコンには先のランサー戦が記録映像として再生されていた。ランサー、セイバー、ライダーの3名は息つく暇も無く戦場を駆けていた。影すら追いつかない打ち込みの速さである。画面に時折映る人影が、剣戟を振るい火花を散らすその様はとても戦闘には見えない。少なくとも舞弥には見えなかった。幽霊が舞い散る火花を愉しんで踊っている、昔話でも童謡でも何でも良いが、その方がしっくりくる。サーヴァントを知らない人間が見ればSFXか悪い冗談だと思うだろう。

 

その冗談の直ぐ近くに士郎が立っていた。サーヴァントたちが林の中に消えた後、追いかけようとした士郎は踏みとどまった。舞弥が見るのはその彼の振る舞いである。桜に止められているとは言え自制したのは彼女にとって驚きであり、喜びだった。

 

苦渋の決断で参加した聖杯戦争だったが、士郎にとっての状況は悪くない。危ういバランスで成り立つ共闘、未だ見えないバーサーカーへの対策、真也の異常性、危険を数え上げればきりが無いが、それらの危険に目を瞑ってでもメリットは十分にある、彼女はそう考えた。

 

だが、そのもう一押しが難しい。人が短期間で大きく影響を受けるのは親しき者の生誕であり死去であり恋愛である。男の場合女を知る、というのも加わる。

 

舞弥は初め桜をと考えていたがその気も失せた。桜にはブラコンの傾向がある、何時手のひらを返すか分からない。なにより魔術師とは距離を置きたい。士郎が人で有る事を望む舞弥にとって、魔術師の有り様、その影響を受ける事は避けたかった。

 

人らしく有るというのはバランスの取れた精神状態を指す。喜怒哀楽、いずれかが欠落しても強くてもそれはおかしいのだ。魔術師はその対極に位置する。根源の渦という真理を求める事と人間性とは相反する為である。必要があれば、家族を切り捨てるし子をなす事もする。心が無い行動も可能、自分を殺すのが魔術師の根幹だ。何かを強く願うとは言い換えれば他を顧みないと言う事に他ならない。転じて他を顧みていては真理には手が届かない。

 

理由は簡単だ。求める真理と自分との位置が測れない為である。距離が分からない以上どれ程の速度で走れば、どの程度の時間で到着するかが分からない。ならば狂的なまでに求めるほか無かろう。

 

それはかっての切嗣も同じであった。士郎に切嗣と同じ道を踏んでは欲しくなかった、それは切嗣自身の願いでもあった。切嗣の最後の一言が士郎を呪いの如く縛り付けるとは切嗣自身考えてはいなかっただろう。

 

舞弥がぼぅと動画を見ているとセイバーがやってきた。いつもの青い装束で威風堂々の立ち振る舞い。舞弥はセイバーが着飾ったらどうなるか、そんな事を考えた。

 

「舞弥。二人だけの話とは何用ですか」

 

舞弥はセイバーを呼びだしたのだった。彼女は座るよう誘うと、茶を注ぎとセイバーに手渡した。舞弥の前に正座するセイバーは紛う事無い美しさを持っていた。張り詰めた雰囲気がその美しさに剣の様な堅さと鋭さを持たせていたが、ほぐれれば誰もが心を奪われるだろう。舞弥は一つ茶を啜る。こう切り出した。舞弥はセイバーに白羽の矢を立てたのだった。

 

「正義の味方たらんとする士郎の殻を壊したい。セイバー、それを貴女に手伝って欲しいの」

 

丁度良いとセイバーも頷いた。彼女も常々思っていた事だった。

 

「それに関して異論はありません。ですが私に出来る事など無い様に思うが」

「行動自体は難しくないわ。士郎に女の子と意識させるように接してくれれば良いから」

 

セイバーは良く分からないという顔をした。

 

「それがシロウを救う術だと?」

「女を知って男が変わる、この原理はセイバーの時代でも同じよね?」

「それはそうですが私は聖杯戦争が終われば消える身だ。なにより女を捨てている」

「期間限定で演じてくれれば良いわ。具体的な行動は私が指南します」

 

突飛な要求にセイバーは困惑気味だ。彼女は王であり騎士である。演じるというのは門外漢だ。舞弥は任せておけと自信満々である。

 

「完全になりきれと言っている訳では無いの。士郎はセイバーを十分意識しているから、貴女の行動に少しエッセンスを加えるだけで良い」

「舞弥がすれば良いでしょう」

「私はもう無理ね、新鮮味が無いもの。年も年だし」

「?」

 

愛想笑いの舞弥の表情には、困惑と羞恥と口惜しさが混じっていた。セイバーは暫く考えたのち舞弥の申し出を受け入れた。早い段階で矯正出来れば、矯正しきれなくとも効果を得られれば、戦闘に対する懸念も払拭出来る、なにより見届ける事は彼女にとっても幸いだ。

 

「それで具体的にどうしろと?」

「細かい事は追々指示するけれど……とにかく面倒を見てあげて。過剰なぐらいが丁度良いわ。身体的な意味で近づいてくれれば良い。絶えず士郎の隣に座る、なるべくコミニュケーションを多くする。魔力温存と警護のため同じ部屋で寝るのでしょう?」

 

「ええ、そのつもりです」

「聞いては駄目よ。そのまま忍び込んで。聞けば拒否するに決まってるから。あの子ももう少し積極的になってくれれば良いのだけれど」

 

困ったものだと、舞弥は頬に手を添えた。

 

「舞弥。攻略には情報が必須です。シロウの過去を知りたい」

 

舞弥はクローゼットを開けるとアルバムを取り出した。それには10年間の士郎が納められていた。

 

セイバーが最初に見たのは切嗣と動物園に行った時の写真である。退院したばかりの士郎には適切な刺激だと連れて行ったのだった。背後に映る家族連れのご婦人が旦那そっちのけで切嗣に見とれているのはご愛敬である。セイバーは黙って捲った。

 

次は傷だらけの幼い士郎が写っていた。彼は絆創膏だらけ包帯だらけであった。猫の喧嘩を仲裁しようとした傷、子供同士の喧嘩を止めようとした傷、街路樹に絡まった風船を取ろうとして落下した時の傷。切り傷、擦過傷、打撲が絶えなかった。セイバーは呟いた。

 

「ふむ。生傷が絶えない」

「車に跳ねられ掛けた子供を助けようと、飛び出して身代わりになった事もあったの」

「……大したことなかったのですね?」

「一ヶ月入院したわ」

 

深々と舞弥は溜息をついた。当時を思い出せば頭がズキズキと痛む。セイバーは神妙な顔でページを捲る。“うぅむ”その端正な顔は想像以上に手強いと語っていた。視線を走らせれば、そこには五平餅を食べる幼い士郎が写っていた。口の周りがソースでベトベトに汚れている。セイバーはふっと笑みを漏らした。

 

「アルバム写真とは便利なものですね。人の一生を追える、共有しているようだ」

「動画もあるけれど見る?」

「はい」

 

舞弥はビデオテープを取り出すと再生した。テレビ画面に映る士郎は踊っていた。彼の背景に校舎と運動場、そして体操服姿の子供たちが見える。それは運動会の映像であった。セイバーの気を引いたのは士郎の姿、彼女の好きなライオンを模した被り物である。語る舞弥の声は弾んでいた。

 

「着ぐるみ競争があって、その時のものよ。本人は恥ずかしがって嫌がっていたけれど、いざ着るとノリノリで」

 

画面の中の幼い士郎が駆け寄った。

 

『舞弥舞弥! ガオー!』

 

その姿にセイバーは凝固した。呆けた様に画面を見詰めていた。ツボに入った様である。

 

「……」

「セイバー?」

「……舞弥、このシーンを印刷出来ませんか?」

「ええ、もちろん。まだ見る?」

 

舞弥は笑みを禁じ得なかった。“ハイキング”,“遊園地”,“餅つき大会”,セイバーがビデオテープを漁っていると“イリヤへ”とラベリングされたテープを見つけた。彼女が戸惑っていると舞弥は切嗣からのメッセージと告げた。彼女は黙ってそれを仕舞った。

 

一通り見終わったセイバーは舞弥に言う。

 

「ところで舞弥。話を聞く限り昔の士郎は今より酷かったようだが、どうやってあそこまで矯正したのです」

 

舞弥はピタリと動きを止めた。話すべきか迷ったあと彼女はセイバーに暴露した。

 

「……実は、」

「……は?」

 

衛宮邸の廊下を歩くのはセイバーである。予想以上に時間を使い既に真夜中だ。桜も士郎も就寝し物音一つしない。彼女は暗闇など恐れなかったが、その表情には困惑が浮かんでいた。舞弥が士郎に何をしたか、それを聞き及んだ為だ。

 

(舞弥も無茶をする………)

 

半ば呆れつつもそれ程強烈な印象であれば確実だろうともセイバーは考えた。彼女は士郎の部屋の前に立ち、心中で一言詫びて襖を開けた。布団にくるまり寝息を立てるのは彼女のマスターである。とても戦争中だとは思えない程の穏やかな寝顔で、まるで誰かの役に立つ夢でも見ているかの様だ。暢気と称するか剛胆だと称するか、彼女は判断に迷った。

 

(まったく、とんでもないマスターに当たったものだ)

 

溜息一つ。セイバーは魔力で編んだ青い装束を解除した。編んだ髪を解くとこんじきの髪がさらりと音を立てて流れた。美しく滑らかな肢体を冬の空気に晒す。一拍。彼女は四つん這いになると掛け布団を捲り、士郎の隣りに潜り込んだ。

 

士郎と同じ枕を共にするセイバーが見るのは彼の横顔である。彼女に動揺はまだ無い、単純に舞弥の指示に準じているのみである。だがその心中は複雑怪奇。舞弥の実例を踏まえればセイバーも習うべきだが、行為に至るとなれば躊躇いがある。なる様にしかならない、彼女は意識を暗闇へと手放した。

 

 

 

 

 

 

つづく!




このSSを書いていて気づいたのですが、ドロドロを書いているとSAN値がザクザク削られます。頭がおかしくなります。困ったことにそれに気がつきません。ここがおかしい、とお気づきの方は突っ込み入れて頂けると助かります。(意:前話、尻のアーチャーの台詞を修正)






【ちょっと真面目な独り言】
このSSの前向きな意味での売りって何だろう。

士郎、凛、桜、全員が参加してる事だろうか。
隠れヤン属性でも桜が明るい所だろうか。
それとも葵と舞弥が居るところだろうか。
少しHな所だろうか。
綺礼に称賛されるオリ主だろうか。

各ヒロインを可愛く描写ってのには注力していますけれども。
凛にしろ綾子にし……イテテ、胃が痛ぇ。

桜の本気はもう少し後ですよ。


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19 聖杯戦争・6

ここは何処だ、士郎はそんな事を考えた。

 

足下には草が生い茂り透明な風に靡いていた。それは剣の様に尖って鋭かったが、揺らぎには優しさが感じられた。見上げる空は群青色で星が幾つか瞬いていた。満天の星々を仰ぐ様な、圧倒的される美しさはでは無かった。だが、道端に咲く華の美しさとはこう言うことを言うのだろうな、彼はそう考えた。夜か、昼か、良く分からない。明るくもあったし暗くもあった。

 

見渡せば草原。空と大地の境に彼女は立っていた。鞘に収めた剣を大地に突き立て凜々しく立っていた。目を凝らせば丘の上に立っていただけだったのだが、そう見えた。彼方から溢れるまぶしい光を浴びて、彼女は厳かである。傷だらけの鎧も、敵を見据える鋭い面持ちでさえも、美しく見えた。それがとても自然で、翔んでいるのかと錯覚する程である。

 

光が差した。

 

雪の様な白い肌と、水の様な蒼い瞳、そして紛う事なきこんじきの髪は宝石の様に輝いていた。

 

“あぁそうか、夜明けだ。夜明けならとても彼女らしい”

 

彼はまばゆい光りに包まれ、目が覚めた。

 

「う……」

 

士郎はまどろみの中見た夢を思い出していた。彼が夢に見た彼女とはセイバーだったと理解した。最初の疑問は剣だった。彼は風の結界で隠されるセイバーの剣を見た事が無い。だが夢のセイバーが持つ剣とは違う一振りだ、彼はそんな確信を持った。

 

“カリバーン”

 

どうして剣の銘が判ったのか不思議でならなかったが、それ以上にあんな夢を見たのか判らない。少女が登場する夢は初めてでは無かったが、ここまで明確な夢は異常だ。

 

だがとても気分が良い、否、心地良い。誰かに側に居て貰い、その誰かに守られるという感覚は言葉では言い尽くせまい。そういう意味では舞弥も同じだが彼女は一歩退いた場所に立っていた。守られてはいるが側に居るという感覚は乏しい。随分贅沢な夢だ、そう思いながら瞼を開ければそこにセイバーが居た。

 

(……)

 

眉尻は穏やかに下がり、薄紅色の唇は艶やかに光っていた。流れる金色の髪は頬に掛かり、水の様に滑らかだった。寝息を立てるその様は、日頃見せる彼女からはとても想像が出来ない無防備な寝顔だった。

 

彼が感じる彼女の細い肢体は、柔らかく温かかった。かって舞弥から与えられた温もりを思い出した。ぼうと見詰めること数分間。彼はおもむろに手を伸ばしその頬に振れてみた。柔らかい感覚が、彼の神経を刺激する。

 

「んぁ……」

 

悩ましい声に薄れつつあった夢が強烈に塗り直された。現実を把握するにつれ、鼓動が暴れる、脂汗がでる、目も血走っていたかも知れない。同じ寝床。士郎の腕の中に身を寄せるセイバーは現実だった。

 

「¥!$*@!!!!!!」

 

彼は大声で叫んだが、なんと言ったのか彼にも理解出来なかった。

 

 

◆◆◆

 

 

早朝。未だ暗い空を仰ぎながら、衛宮邸の台所に立つのは、桜である。葱を切る包丁の音、味噌汁をかき混ぜるお玉の音、慌ただしく動きつつも軽快であった。

 

士郎が先のバーサーカー戦の罰として家事全般を禁じられた為、替わって彼女が任されているのである。台所仕事もその一つだ。家事全般は慣れているうえ嫌いでは無い。だが。何故一人でこなさねばならないのか、彼女はそれが不満だった。

 

セイバーは家事が出来ない、料理以外は出来るはずの舞弥は何かと理由を付けて手伝わない。セイバー陣営とは共闘の間柄だ、共闘とは共に戦うという意味だ、対等ではないのか、これは対等では無い、桜はそんなことを考えた。桜の不満は脳裏に浮かぶ一節に集約されていた。

 

“姑(舞弥)小姑(セイバー)にいびられる嫁”

 

桜と士郎の接する時間を減らす、全ては二人の距離を必要以上に近づけない舞弥の企てである。不満とはいえ甘んじて受けるより他は無い桜であった。凛から魔術の手ほどきは受けているものの大した事は出来ない。状況が停滞している以上、自然暇な時間が出来る。

 

身体を動かしていた方が楽と言えば楽だ。一応とは言え舞弥とセイバーには感謝される。手伝いたくても手伝えない士郎には申し訳なさそうに謝罪される。なにより兄に置いていかれたと言う事実を忘れることが出来る。渋々なのだ。士郎を支える事は転じて聖杯に繋がるはずだ、彼女は自分に言い聞かせてせっせと家事に勤しんでいた。

 

つんざく様な士郎の悲鳴が聞こえたのは、桜が手のひらに乗せた豆腐を包丁で切っていた時である。危うく指を落としかねない悲鳴に桜は駆けつけた。

 

その信じられない光景を見て彼女は言葉を失った。士郎はTシャツにスウェット姿で壁と畳の境に腰を下ろしていた。見えない手に押され壁にピタリと押しつけられている様な彼を見れば、後ずさり飛び退いたのが見て取れる。

 

それは良い。100歩譲ってその奇行に目を瞑ろう。問題は士郎が寝ていたであろう布団に居る娘である。彼女は敷き布団にぺたりと座っていた。士郎が飛び起きた結果、掛け布団はあらぬ所にある。幾らその娘が白人だとは言え、白いシーツを背景にすれば肌色は嫌と言うほど目に付いた。その娘は全裸であった。

 

これはどういう事だと、士郎に詰め寄れば彼は青い顔で知らぬ存ぜぬと言い張った。

 

怒りがこみ上げる。それ相応の恥ずかしいアピールもしてきたというのに、彼は全く気がつかなかったというのに、つい先日やってきた娘にあっさり手を出すとは勘弁ならない。桜がどうしてくれようかと身を震わせていると、先手を打ったのはその娘だった。

 

その娘、セイバーは舞弥に指導された内容を思いだし、掛け布団をたぐり寄せた。胸元を隠す。その様は事後そのものであり、加えて桜にはNTRに見えた。士郎が服を着ている事などどうでも良くなった。

 

「これで判ったでしょう。桜、貴女はお邪魔虫なのです」

 

脈絡もへったくれも無い、抑揚も無い棒読み発言であったが桜には効果は十分である。何を言っているのかと士郎は声を荒らげたが二人の耳には入らなかった。

 

「ど、どう、いう、ことで、でで、すか? せんぱい?」

「いやだから、俺も、さっぱり!」

「桜、私とシロウは身内です。口を挟まないで頂きたい」

(み、身内?!)

 

そのセイバーの発言は桜を大いに揺さぶった。もちろん身内で関係を持っても良い、と言う意味である。そんな事よりも問題はこの状況だ。それはそれとして桜は詰め寄った。

 

「何を言っているんですか! セイバーさんは先日召喚されたばかりの余所者じゃないですか!」

「私とシロウは誓い合った仲だ。桜とは違う」

 

桜には“私とシロウは(将来を)誓い合った仲だ”と聞こえた。

 

「シロウは私のマスター(主人)。共闘程度の仲で大きな顔をして貰っては困る」

「しゅ、主人っ!?」

 

理解が追いつかず桜が硬直していると、セイバーは舞弥から宛がわれたポシェットを手に取った。彼女は四角いフィルム状のパッケージを取り出した。そう、それは“うすうす”のアレである。セイバーはその隅を口にくわえると四つん這いでシロウに迫った。

 

「シロウ、んー」

 

セイバーの振る舞いは、作業的、棒読み、行為の意味すら分かっていない大根役者であるが、士郎には効果が抜群だった。無理も無い、全裸の美少女に迫られて意に介さない高校生はナニかがおかしいのだ。桜は身を震わせた。否定するどころか、拒否するどころか、今にも受け入れかねない士郎の姿を見て桜の血管は切れた。

 

「先輩のっ! ばかぁぁぁぁぁっ!」

 

桜は兄に好意を持っているが、兄妹故に結ばれないと嘆いていた。好きな相手に好きだと伝えてはいけない、だが毎日顔を合わさなくてはならない。辛く苦しい時間を何年も過ごした。助けを求めてもがく折、怖い兄に臆しない士郎に出会った。士郎に受け入れられれば兄から離れられる。彼女はそう考えた。

 

ところが士郎は凛に向いていた。彼女なりの精一杯の誘惑もしたが気がつかない。士郎に告白すれば良いのだが、拒絶されれば全てが終わりだ。士郎にも近づけず、兄からも離れられず、動けず立ち止まっていたところ聖杯の事を知った。聖杯はどのような願いも叶える事が出来る。

 

だが桜の願いはどちらかと結ばれたいのではなく、助けて欲しいだった。彼女は願いを考えた時それに気づいてしまった。

 

その理由とは。

 

桜にとっての身内とは千歳と真也のみである。と言ったところで血の繋がりがないのは彼女も知るところだが、このまま離れてしまえば他人になってしまう。そうなったら彼女は何処の誰になるのか。遠坂に捨てられ、間桐では道具として扱われ、蒼月からは自分から離れれば。

 

桜は本来一つであるべきルーツがバラバラで極端すぎた。彼女は個としてのよりどころが不安定なのだった。間桐で受けた致命的な虐待を癒やすには絶対の安心と拠り所が必要であり、それを与えたのは真也であったが、それは激しい歪みを生んだ。血の繋がりがない桜には“真也の妹”という前提が絶対になってしまった。

 

簡単に言えば。士郎と結ばれる事は血の繋がりがない以上妹ではなくなる。兄と結ばれる事もまた妹でなくなる事を意味する。

 

これを正す事など不可能なのである。彼女が聖杯を求めた理由だった。真也がもう少し桜の自立を促すように接していれば、ここまで拗れる事はなかったが絶対の安心を与えるという意味に置いて、それが成立しない。

 

とはいえ。彼女は一人で生きていける程強くは無い。士郎の側に居れば彼を求めるし、兄の側に居れば兄を求める。決断出来ない。それが良くない事だとは承知しているがどうにもならない。

 

(駄目だな、私って)

 

パスを通じてそれを悟ったライダーは、それでも二人は共にあるべきだと考えた。兄妹以上の関係になれずとも、血が繋がらない以上相応の幸せを得る事は出来る。人生に苦しみはついて回る、なにより幸せとは育むものだからである。やはり真也を説得しなくてはならない、ライダーはそう考えた。

 

好都合にもセイバー陣営は桜を牽制していた。ライダーから見ればセイバーと士郎の距離が近い事に異存はない。桜と士郎の距離を近づけない様にする、これも良い。問題は真也を説得する事のみ、だったはずだが予想外の事態に直面した。桜の境遇である。桜は扱き使われていた。

 

例えばある日の早朝。朝食の準備に追われる桜に舞弥はこう言った。

 

「桜さん。朝食の準備が終わったら、家の掃除と庭の掃除と洗濯とお買い物をお願いしますね」

 

と言う舞弥は満面の笑み。

 

「えっと、私一人でですか?」

 

桜は笑顔で戸惑った。

 

「私は銃の訓練に山奥へ行きます。セイバーは温存しなくてはならない魔力を費やしても士郎を鍛えなくてはいけない、手伝えないのは心苦しいのだけれどお願いね。そうそう、罰は罰だから士郎が手伝うと申し出ても断って」

 

桜の時間は空いている、それを見越した上でのぐうの音も出ない見事な舞弥の采配である。一重に、桜と士郎の時間を割く為であった。

 

「……判りました」

 

食料の調達も同様である。買い出しに出かけようとした桜に舞弥は声を掛けた。

 

「桜さん、お米も買ってきて下さいね」

「2kgでいいですか?」

「10kgでお願いします。ほら、沢山食べるでしょ? セイバーも“桜さんも”」

「……はい」

 

桜は身体の大きさに見合わずよく食べる為、それを突かれたのだった。彼女は張り裂けん程に食料を詰め込んだ大きなビニール袋を両手からぶら下げて、肩に米袋を担ぎ、商店街から衛宮邸まで歩いて帰った。その女子高生の様は悲痛さよりたくましさを感じさせ、町内のおばさま達には好評だったのだが別の話である。桜は力が強かった。

 

そしてそれは掃除の時。パタパタと手際よくこなす桜を尻目に、舞弥は窓枠を指でなぞった。その指には埃が付いていた。

 

「桜さん、申し訳ないのだけれど丁寧にお願いします」

「あの、性格が変わっていませんか?」

「御免なさいね。私は埃っぽいのは駄目なの。体調管理は重要だから協力してね」

「判りました……」

 

桜は全く信じていなかったが、舞弥の体質など調べようが無い。彼女は泣く泣く受け入れた。極めつけが洗濯の時である。桜はそれを見て目を丸くした。落雷でも受けたかの様に呆然と立ち尽くしていた。彼女の足下にある物は大きな桶と洗濯板である。彼女とて現物を見るのは初めてであった、とても驚いた。それ以上に驚いたのが衛宮家に存在する事であり、この文明社会でそれを使用しなくてはならない不可解さに苦悩した。舞弥は言う。

 

「御免なさいね、桜さん。洗濯機が壊れてしまって」

「……もう好きにして下さい」

「そう言って貰えると助かるわ。新しいのが届くまでお願いします」

 

故障は全くの偶然であったが、桜の余りの運の無さに舞弥も同情した。付け加えれば桶の水は冷水だった。真冬である。舞弥はお湯を使ってもいいと申し出たが桜は突っぱねた。“気にしませんと”と意地になった。桜はハラハラと泣きながら身を切る冷たさと格闘していた。

 

もちろんライダーも黙って見るつもりは無く桜を手伝おうとした。だが料理は出来ない、食器を洗えば割る、洗濯ではシャツを破る、彼女は余り器用では無かった。荷物を持つにもその姿は人目を引きすぎた。騒ぎになり買い物は遅れに遅れた。散々だった。好意だけ貰うという迫力ある桜の笑顔を見たライダーは、敗残兵の様に引き下がるのみである。

 

ゴシゴシと洗濯板と格闘する桜の様は、鬱憤を晴らすかの如く。気配を感じて視線を上げればそこには士郎の姿。彼は心苦しそうに立っていた。

 

「あ、先輩ー」

「桜、手伝う。手伝わせてくれ」

 

セイバーがどこからともなく現れた。理由は簡単である、士郎と桜を監視している為だ。

 

「駄目ですシロウ。シロウは罰を受けている身、雑事は桜に任せて鍛錬の続きをしましょう」

「でもだな、」

「どうしてその罰を受けたのか、その理由を思い出して下さい」

 

士郎は苦悩の表情を見せた。桜に家事を押しつけている事もそうだが、真也を斬り付けそれを黙っている事が何より辛かった。言いたくても言えない。謝りたくても謝れない。義理と人情に挟まれ立ち尽くす士郎をセイバーは引き摺っていった。桜はセイバーの言う罰が何の事か見当も付かなかったが、それどころでは無かった。うふふと笑いながら洗濯に明け暮れた。ヒュウと木枯らしが吹いた。そして夕飯どき。この時ぐらいは会話ができると桜は考えていたが甘かった。

 

「あの、先輩、」

「桜さん、今日の夕食は塩辛い気がするけれど、気のせい?」

 

舞弥は澄ました顔で何となくそう感じる程度の味付けを指摘した。

 

「ご、ごめんなさいぃぃぃ?」

 

箸を持つ桜の手は憤りで震えていた。もはや表情も取り繕わない。

 

「そんな事ないと思うけれど……」

 

余計な事を言わせまいと、フォローしようとした士郎にセイバーは寄り添った。

 

「ささ、シロウ。唐揚げです、あーん」

 

ライダーは砂糖の瓶をを舞弥に差し出した。

 

「舞弥、差し出がましいですがこれをお使い下さい」

 

思惑と怨念が渦巻く衛宮家の居間。士郎はバーサーカー戦以前に倒れてしまうのではないか、そんな事を考えた。

 

一日の終わりである深夜。桜に宛がわれた離れの客室にはプチプチと何かを潰す音が鳴り響く。彼女は部屋の床の上に正座で、背を丸めて俯いていた。髪が垂れ下がり表情が見えない。表情が見えないのは髪に隠れているからであり、決して影が差しているからでは無い。影で塗りつぶされた顔に二つの目玉だけがギョロリと乗っていた、その様な幽鬼に見えるのも気のせいだ。もしくは夜の町を世界の外側から覗く超常の存在、その眼に見えるのも誤りである。

 

プチ、プチ、プチ。

 

彼女はエアークッションを持っていた。俗に言う“プチプチ”である。何かを潰す音とはそれだった。一つまた一つ丹念に潰していく。空気の溜った粒を、押して歪ませる。たるんでいたビニールの皮が張り詰めるその様は、人が苦しむ様に見えた。まるで許容以上の何かを強引に詰め込まれて、のたうち回っている様だ。

 

押す、押す、押す。

 

乾いた音を立てて弾けた。断末魔の声にしては物足りないと思ったが、少し気が楽になった。

 

「……」

 

舞弥の手のひらを返した様な扱いが腹立たしい、私が何をしたと言うのか。セイバーの正妻めいた振る舞いが苛立たしい、後から出てきておこがましい。

 

プチ、プチ、プチ。

 

セイバーの振る舞いは言うまでも無く舞弥の指導である。当初でこそ辿々しかったセイバーの演技も徐々に板に付いてきた。その様な事は露知らない桜には、恋を知らない無骨な剣の英霊(セイバー)が何とか気を引こうと奮闘しているその過程に見えた。

 

(先輩も先輩です……)

 

もっとも気に触るのが士郎である。セイバーに言い寄られて、一応は拒絶するものの形だけだ。だが凜々しさのみを見せる彼女が世話を焼く様は、著しい認識の差異を呼ぶので無理は無い。俗に言うギャップ萌えである。人目が気になる士郎は桜をチラチラと見たのだが、桜から見れば気にするなら拒否しろよと言いたくもなる。桜はエアークッションを雑巾の様に絞り上げて、それを亡き物とした。ブチブチと連なる音は悲鳴のよう。

 

「うふふふふふふ」とはもちろん桜だ。

「……」とはライダーである。

 

ライダーは桜の日常を見て胸を痛めたが手の打ちようが無い。桜を手伝う事は士郎との距離を推し進める事に他ならない、だが何もしない事は境遇を放置する事になる。目を盗んで蒼月の家に帰ればもぬけの殻だった。連絡も無くあの兄はどこをほっつき歩いているのか、ライダーはそう文句を言おうと決めた。

 

 

◆◆◆

 

 

凛は夢を見た。始まりはグール戦の時、彼に助けられたのは事実であったが礼は言わなかった。私も相応の労力を払ったのだからお互い様だと考えていた。衛宮邸で士郎を待っていた時の事、待てないから愉しませろと我が儘を言った。バーサーカー戦の時、死にかけたところを助けて貰ったが何も言っていない。告白されたが自分の都合で返事を先送りした。そのくせ彼の都合を考慮せず家に来る様強引に仕向けた。ハンバーグの件も思い出すと顔から火が出そうだ。帰宅時間に遅れた事は彼女自身の選択であり、そもそも一報入れれば済んだ話だ。彼の都合を考えず、こちらの要望を押しつけたのみである。それ以上に我慢できないことが綾子との一件だった。彼は10年越しの綾子では無く凛を選んだ。その結果辛い思いをしている。

 

“私のするべき事はなんだ。私は彼の何だ”

 

そのとき凛の奥深いところで一つの音が鳴った。撃鉄の音に似ていたがもっと軽い。だが繋いだ物はとても大きかった。それは接点機であった。動き始めた回路は彼女自身想像だにしない物だった。もちろん魔術回路では無い。

 

凛がベッドの上で起きあがると不思議な事に朝の不快感が無い事に気がついた。倦怠感も無く妙に頭がスッキリしている。室内は冷え込んでいたが不可解な事に気にならない。習慣でショールを手に取り羽織ったが無くとも問題は無かった。カーテンを開けると明けの明星が見える、日の出までには暫く時間を要するだろう。彼女は顔を洗い、髪を梳き、身繕いを済ませると台所に向かった。彼が目を覚ますまでにはまだ時間がある、だがもう失態は許されない。彼女は白を基調とし赤のチェックが入ったエプロンを身につけると、腕を捲った。「んっ」と自然に声が出た。気合いは十分である。

 

ここ数日の真也の就寝は遅い。夜の警戒の為というのも勿論あったが、綾子の一件で生じた疑問に支配されていた。答えの出ない問答を繰り返し眠れない。床につく頃には空が白み掛かっていた。

 

凛が彼の部屋の前に立ったのは7時頃。もう陽も完全に昇り、雀が囀っている。ノックしようとしたが“まぁいいか”と彼女は扉を開けて部屋に入った。彼の部屋は客間では無く、かって凛が使っていた部屋である。理由は明瞭、客間はフロアが違うからだ。凛と葵の部屋から距離があってはいざという時に駆けつけられない。鍵も内側から掛けられるが掛かっていなかった。そのベッドは以前凛が使っていた物、そう教えればどのような顔をするのか彼女は少し気になった。

 

真也はベッドの上で膝を立てて毛布にくるまっていた。寝ていると言うよりは休憩しているにしか過ぎない、彼女はそう溜息をついた。休める時に休むのもプロだ、後でそう苦言を呈する事にした。シャッっとカーテンを開ければ、纏う装備もそのままである。流石にブーツは脱いでいたが、霊刀はベッドの直ぐ脇に立てかけてあった。事が起これば即座に引き抜く事が出来る状態である。遠坂邸に張り巡らされた結界を信用していないと言わんばかりの態度であった。完全なものなど無いがいつになく神経質だ、彼女はそう思った。そして凛は“それを解きほぐすのは私の役目”とベッドに両手と両膝を立てて彼に近づいた。ギシリとマットレスが音を立てた。

 

真也は気配を察知する事に関して自信があった。事実そうだった。例え身動きできない程疲弊していようと感づく事が出来る。千歳との訓練がそれを証明していた。であるから、この状況に陥った事は彼にとって異常であり危機感を持つ事であった。凛は彼の額に唇を添えていた。手で前髪をかき分ける念の入り様である。

 

「……」

 

余りの事態に彼は言葉が出せない。

 

「おはよう、目が覚めた?」

 

彼の寝起きは基本的に良い方だが、渋面は隠せなかった。何のつもりだ、何を考えている、そんな事をしても対価は払わない、色々言葉は浮かんだが取りあえずは憤りを引っ込めた。

 

「挨拶の前に一つ聞きたい。君は何をしている」

「もちろん、真也を起こしに来たのよ」

「ノックして起こせば良いだろう。或いは声を掛けて起こせば良い」

 

凛は真紅のタートルネックシャツに黒のミニスカート、いつもの恰好と思いきやニーソックスでは無く黒のストッキングを穿いていた。そういえばそんな要望(戯言)を言ったかも知れない、わざわざ応じるとは義理堅い娘だ、彼はそう思った。彼はどちらにも性的嗜好は持ち合せていなかったが、ベッドの上でその恰好は刺激が強すぎた。大問題であった。彼の心中どこ吹く風、凛は少し変だった。

 

「私に寝顔を見るって特権を享受させてくれても良いでしょ」

「何の特権だ」

「もちろん“彼女” 本当はキスがしたかったけれど、ファーストキスはちゃんと確認し合いたいし」

 

凛は何時ものあっけらかんとした表情かと思いきや、随分穏やかである。それこそ恋人を慈しむ様だ。何を言っているのかこの娘は、彼は余りの軽率ぶりに呆れるより腹が立ってきた。

 

「……何度も言うけれど男の部屋に押し入るなんて、軽率だぞ」

「朝よ?」

「そういう問題じゃ無い。同じベッドの上だ」

「分かってる」

 

「分かっていない。押し倒されても文句は言えない行動だぞ、それ」

「良いわよ」

「……何を言ってる、君は」

「だから良いわよ? そうね、今からだと母さんに感づかれるかも知れないから、朝食の後にして」

 

起きがけに交わす会話としては余りにも刺激が強すぎた。少し身を退いた凛は膝立ちである。腰を少し浮かせていた。ギシリとマットレスが悲鳴を上げる、長く黒い髪が揺れた。

 

「あのな、当面お預けって言ったのは何処の誰だ」

「ごめん、あれ訂正する」

「……へ?」

「私だって、望んでる」

 

落としどころ無く、落ち着き無く。そのか細い手は髪、唇、下腹部、を触れた後、自身の胸元に組んで置かれた。視線は俯き加減で頬を染めていた。薄紅色の唇は強く結ばれていた。いつもは閉じられている脚は開き気味である。可憐であっても躍動さを印象づける、凛にしては酷く劣情的だった。彼は思わず唾を呑んだ。羞恥と期待に身を焦がす、発情した女の子の姿である。朝は性行為に適している、彼はどうでも良い知識を思い出した。理性を煽りに煽る凛の振る舞いに彼は衝動を辛うじて抑えた。彼の顔は真っ赤である。

 

「どうしてもって真也が言うなら、その、今でも良いけれど」

「凛は経験無いだろ、相応に痛いはずだぞ」

「判ってる。だから、その、できるだけ優しくして」

「落ち着け。良いから落ち着け」

 

耳をくすぐる声だった。凛は自身の身体を抱いていた。不安を隠すようにも見えたし愛撫しているようにも見えた。

 

「……」

「……」

 

呆けた様に見つめ合うこと数刻。凛は意を決した様にスカートのホックに指を伸ばした。その行為が何を意味するのか、それを悟った彼は慌ててこう言った。

 

「待った、朝食にします」

「……そう。もう用意が出来てるから早く来てね」

 

物足りなさそうな表情を隠す様に凛は身を翻した。黒く長い髪がふわりと舞った。部屋を出て行く彼女の背中に真也が「おはよう」と言えたのは奇跡であった。

 

「はい、おはよう」

 

返した笑顔のなんと魅力的な事だろう。彼はベッドから転げ落ちた。暫く動けなかった。

 

 

◆◆◆

 

 

凛は朝が弱い。加えて朝食を食べない。使用人が来るのは朝を少し過ぎてから。であるから一人で簡素な朝食を取るのが葵の習慣であった。だが数日前から一人の少年がやってきたので、せっかくだからと葵が朝食を振る舞う様になった。

 

今日もそのつもりで葵が台所に赴けば凛が立っていた。白く清潔なテーブルクロスの上に手際よく料理を配膳していった。トーストにオムレツ、サラダ、コーンスープにヨーグルト。ありふれたものだが、配膳といい彩りといい、非常に気を使っている事は十二分に見て取れた。

 

「母さん、おはよう」

「おはよう、凛」

「母さんの分もあるから座ってて」

「そう、ありがとう」

 

これはどうした事かと葵が戸惑っていると、テーブルに真也が座している事が見て取れた。朝の挨拶を交わして腰掛けた。対面の少年も困惑を隠さない。凛が離れたタイミングを伺って、葵は失礼かと思いつつもこんな事を聞いてしまった。

 

「真也さん。凛に何かしましたか?」

「それが全く心当たりがありません」

「本当ですか?」

「妹に誓って言います。心当たりはありません。逆にお聞きしたいぐらいです」

 

妹に誓うという変わった言い回しが気になったが、単に仲が良いのだろうと葵は聞き流した。寝起きに受けたダメージを引き摺る真也は青い顔だ。

 

「ご当主はこんな性格では無かったと」

 

確かにそうだがそう言われると母の立場上反論もしたくなる。

 

「凛は気立てのいい娘です。取っつきにくいのが難点ですが」

 

取っつきにくいのはコミュニケーションを図る上で致命的だろうと彼は思ったが、葵に反論など出来ないので素直に謝った。ただ。

 

(気立てがいい事と甲斐甲斐しい事は似て非なるものだろう)

 

“甲斐甲斐しい”それは今の凛を的確に表す評価であったが、そう評した彼自身信じられずエプロン姿の凛を呆然と見るのみである。

 

カチャカチャと朝食を進める。凛は終始笑みを絶やさない。営業スマイルではなく自然な笑みだった。凛の視線は常に彼に向けられていたが、不思議と不快感は無かった。それが非常に落ち着かない、ギリギリとストレスが溜る。彼は凛にこう言った。取り繕う為である。

 

「今日は外出します。戻りは夕方の予定です」

「聞き込み?」

「それも有るけれどバーサーカー戦の予行演習もしたいです」

「そう」

 

凛は手伝いたかったが、生憎と衛宮邸に用がある。渋々断念した。彼は遠回しに聞く事にした。

 

「凛は朝が弱かった筈です? 今日は、どういった、風の吹き回しで?」

 

葵はぎこちない聞き方に吹き出しそうになった。その娘は母親の前でとんでもない事を口走った。

 

「母さんの手料理はもう食べさせたくない。私のを食べて欲しいって……ひょっとして迷惑だった?」

 

葵の手はピタリと止まった。不安を隠さない凛の姿に彼は度肝を抜かれた。ぎこちなく返答する真也は人形のよう。そう、口がカクカクと動く腹話術のアレである。

 

「そんな事は無いでス」

「よかった。私にだって彼女の意地も自覚もあるの」

「うん、ありがとウ」

「要望が有ったら言って、出来るだけ尊重……叶える」

 

ひょっとして未だ夢の中なのだろうか、それとも死んでしまったのか。目の前の凛と彼の記憶にある凛がどうしても重ならない。認識のズレを正そうと、無理に重ね合わせれば反発し衝撃を生んだ。その衝撃で身体の力が抜けた。“からり”彼はナイフとフォークを落とした。

 

「真也、口に合う?」

「はい、とてもオイシイデス」

 

実際の所、味など分からなかった。

 

「ごちソウサマデシタ」

「はい、お粗末様」

「でカケマス」

「待って。見送るから」

 

彼は柱に額をぶつけた。極めつけが玄関である。凛はおもむろに手を伸ばすと、彼の頬に添えた。指で目ヤニを取った。

 

「はい、OK。身だしなみはしっかりね」

「イッテキマス」

「行ってらっしゃい。気をつけて」

 

彼は躓いた。そのまま石畳にダイブした。凛は慌てて駆け寄った。どうしたのか、どうもしていない。怪我をしていないか、していない。家の軒先で騒ぐ二人を見つつ、葵はしみじみと物思いに耽る。

 

(凛ったら完全にスイッチ入ったのね。あんな娘が見られるなんて長生きするものだわ。あの人が生きていたらどう思うかしら)

 

凛は乙女回路臨界運転であった。

 

 

 

 

つづく!




【桜の悩み】
ごくごく簡単に言えば、好きと言っても良いし、愛してると言っても良いですが。恋人同士の行動をしても、夫婦生活の行動をしても、兄妹の枠は崩せませんのですべて真似事にしかならないという訳です。妹系エロゲでよくある“妹じゃ嫌です”ってフラグが回避出来ない。いっやーつらいわー。でも、子供を作っても兄さんって言うのはそれはそれでアリかもし、れ、ません?……ナイナイ


【凛】
ホロウであったデレ凛を自分なりに味付けしました。※ホロウのデレ凛はほんの少ししか出ません(PC版に限る


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20 聖杯戦争・7 キャスター編

桜は頑張っていた。舞弥が心苦しくなるほど頑張っていた。桜は今時の女子高生ゆえ、手を抜きだらけるとばかり思っていたが、舞弥の予想は大きく外れた。現代っ子という意味で舞弥の女子高生像は歪んでいたのだった。

 

桜は広い庭に散らばる落ち葉の処理に、広い床面積を持つ衛宮家の雑巾掛けを、精力的に手早く済ます。水場の掃除もその出来に文句がない。洗濯も生地に応じてもみ洗いや陰干しにするという常識を弁えていたし、側溝攫いなど自発的にやっていた。魚のはらわたに戸惑いはない、生臭くても気にしない。立場上料理の味に言及するが本音を言えば文句はない。新鮮食料の目利きも大したものだ。作業の段取りを心得ていたし、細かい事に気が利く、汚れ作業も気にならない。

 

桜の姿が見えないと、舞弥が探して見上げれば屋根瓦の修繕をしていた。流石に危険だと制止した。周囲が見えなくなる傾向が見受けられたが、それに目を瞑っても十分だった。

 

“星の巡りが悪いとはこの事ね”

 

舞弥は桜が魔術師の家系である事を心底悔やんだ。もちろん士郎の相手という意味だ。そしてそれは、とある早朝の事。舞弥が自動車に荷物を積み込んだのと桜が玄関から出てきたのは同時だった。桜が穏やかな笑みで話しかけた。

 

「今日も遅いんですか?」

 

舞弥の詰め込んだジュラルミンのケースにはブルパップ式のアサルト・ライフルが納められていた。5.56ミリのライフル弾を使うありふれた物である。勿論日本ではありふれていない。

 

「ええ。意外と手こずっているのよ」

 

10年のブランクはそう簡単に埋められるものでは無かった。舞弥は何時もの能面であったが桜にはその苦悩が見て取れた。彼女は余り表情を表に出さない。美人なのに勿体ないと思う桜であった。桜は紙袋を手渡した。それには弁当と水筒が収められていた。

 

「舞弥さん、お弁当です」

「ありがとう。助かるわ」

 

チクリと舞弥の良心が咎めた。

 

「日没までには戻る予定です。何かあれば連絡します」

「分かりました」

「それと、桜さん」

「はい?」

 

舞弥は黙って紙幣を差し出した。

 

「今日は羽を伸ばしてらっしゃい」

「あ、いえ、そんな、良いです」

「私が言うのも何だけれど桜さんはここ数日間家事に追われてるわ。息抜きも必要よ。見返りだと思って、ね?」

 

桜は迷ったが頑なに拒否するのも失礼だと、謝礼を述べてお小遣いを受け取った。舞弥を見送ると桜は貰った紙幣を広げてみた。千円札だとばかり思っていた。

 

「い、いちまんえんっ!」

 

普通の高校生にとっては高額である。舞弥を良い人認定した桜は足取り軽く家に戻っていった。兄が見ていたなら“一万円で魂を売ったのか”と嘆いただろう。

 

桜は金銭に困っている訳では無かったが、蒼月家では家計を預かる身である、その金額がどれほどの価値を持つのか理解していた。良く言えば質素、悪く言えば貧乏くさい。真也は金の使い方を覚えろと桜に言うが彼女は堅実な娘だった。108円の和菓子を買って後は家計に充てる徹底ぶりである。

 

「たいやき、美味し♪」

 

桜が訪れたのは商店街に在る小ぶりな公園だ。小ぶりとは言っても滑り台に鉄棒、砂場にシーソー、設備は相応に整っていた。彼女にとってこの公園は、良い記憶と悪い記憶の両方があった。桜が虐められていた場所でもあり、兄が彼女を守るため喧嘩に明け暮れた場所でもある。

 

ベンチに腰掛けふっと過去を探れば。桜の目の前を幼い兄が駆けていった。木の棒やバットを持った子供たちに、幼い兄が無手で切り込んでいった。幼い彼が武器を敢えて持たなかったのは、喧嘩の後始末の為だった。数人がかりで武器まで持ちだしては、例え怪我を負わされても親は強く言い出せないのである。我が兄ながら陰険だ、桜は昔を思い出しながらそんな事を考えた。自然と笑みがこぼれる。

 

回想から戻り現在。彼女が視線を走らせれば公園には相応に人気があった。もうじき昼なのだが、母子連れが目に付いた。“昼食を外食で済ませるつもりなのか”そう思った桜は気分を害した。食育を疎かにするとは母親の風上にも置けない。

 

それは桜自身の経験による物だった。養母である千歳は仕事で家を空けがちだった。加えて子育てが上手くなかった。幼い桜でも気づく程に拙かった。千歳と真也は例えるなら上司と部下の関係である。桜の記憶にある千歳は説教しかない。否、指導か論議という言葉が適当だった。

 

その結果。桜と真也は親密さを互いに求める様になった。親以上に時間を共有する事になり片時も離れなくなった。真也は桜を守り安心を与える事に終始し、そこに自分の価値を構築した。桜は身の周りの世話という形で兄に献身した。幼い頃から歪な程に思い続ける相手が居ればその結果は自ずと知れよう。シスコンとブラコンの誕生である。

 

子をあやす母の姿を見て、ふっと自分の姿を重ねる。母は当然桜自身であり、子は自分の子供だ。士郎と真也、二人が居ないその場所で想った相手はどちらだったのか。

 

「買い食いとは感心しない」

 

肉欲混じりの幸せな妄想に耽っていると桜は突然声を掛けられた。低く、耳の奥に障る声に慌てて身を起こせば葛木宗一郎が立っていた。長身痩躯、隙が無い程の姿勢の良さであったが、違和感を感じる程に手足が長い。皺のないスーツはモスグリーン、は虫類を想起させるその鋭い面持ちと相まって、桜には彼が蛇に見えた。彼女は宗一郎が苦手だった。

 

「葛木先生? どうしてここに」

「最近物騒だからな、その見回りだ。して蒼月桜。兄の具合はどうだ。インフルエンザと聞き及んでいる」

 

桜は兄の看病で学校を休んでいるという設定なのだった。宗一郎の巡回も事実である、そのついでに桜に話しかけたのだった。

 

「はい。流石に安静にしています」

「衛宮もインフルエンザだそうだ。看病も大変だがお前自身が罹っては意味が無い。気をつける事だ」

「はい、ありがとうございま、」

 

桜は気を失った。彼女の首筋に食い込む宗一郎の手は蛇の頭の様であった。桜の知覚外からの攻撃で彼女は気を失った事すら気づかなかった。彼は朽ちてはいたが暗殺者、訓練を受けていない人間を安全に失神させる事など容易かった。見れば公園から人気が消えている。人よけの術である。

 

桜には凛に劣らない魔術師としての才があるがまともに訓練を受けたのはこの数日だ。それでも術の発動に違和感を感じたが、宗一郎の登場に気を取られたのだった。紫のローブが空間から舞い降りた。宗一郎は抑揚ない声でそれに言う。

 

「これで良いのかキャスター」

「はい。お手を煩わせてしまい申し訳ありません。宗一郎様」

 

ライダーは力仕事であれば家事に追われる桜を手伝えると衛宮邸だ。食料の調達、ごく短時間の外出だからとサーヴァントを衛宮邸に置いてきたのは失策である。日中の戦闘は御法度である事を過信してしまったのだ。無関係な人間を巻き込むこと叶わず。冬木市全域から精気魔力を吸収しているキャスターにとっては気にする問題では無かったのだ。何よりこれは戦闘では無い、そうこじつける事も可能だ。

 

キャスターは互いの指を組み合わせ印契を結び、呪文を唱えた。複雑な指の形が生み出す神経の刺激と、音声による振動は彼女の内世界に訴えかけた。己の魔力に意味を持たせ形とした。術の完成である。

 

彼女は桜を傷つける狙いは無かった、必要が無いのではなく、傷つけてはキャスターの計画に支障が生じるからだった。キャスターの狙いは一つ、桜の持って居る情報である。

 

高い抗魔力を持つ桜を操る事はキャスターにとっても骨だ。だが聞き出すのみであれば然程難しくはない。キャスターは集めた大量の魔力もある、加えて桜に有効な鍵を持っていた。キャスターの人差し指が桜の額に触れれば術が桜に浸透する。

 

(あら、意外と良い魔術回路を持っているのね)

 

桜の記憶を読み取るには関所が邪魔をしていた。キャスターは真也のイメージを持ちだした。キャスターが用意したその鍵は、学校に保管されている写真やバーサーカー戦のおり遠目に見た姿から作り出した拙い物だったが、桜は真也に依存しているので程なく開いた。桜と蒼月家の関係、桜と遠坂家の関係、士郎と真也の関係、共闘と聖杯への願い、情報を一通り入手したキャスターは桜を解放した。

 

キャスターは笑みを隠さない。

 

「彼らの関係はまさに砂上の楼閣。簡単に事が運べそうですわ、宗一郎様」

「そうか」

(可哀想なお嬢ちゃんね。よろしい、情報を提供してくれた対価として関係を取り持ってあげます。いえ、取り返してあげるかしら?)

 

キャスターは姿を消すと、宗一郎は桜に活を入れた。桜はぱちくりと目を開いた。何が起こったのか理解していない。ただ、目の前に宗一郎が居たのだけは変わっていなかった。

 

「蒼月桜、気をしかと持て」

 

桜の目の前にはいつもと変わらぬ寡黙な教師の姿。意識が飛んでしまったのだと桜は思った。彼女は慌てて、取り繕う様に立ち上がった。

 

「葛木先生、ありがとうございました」

「“疲労”している様だな。急ぎ帰れよ」

「はい、失礼します」

(やだ、先生の言う通り“疲れて”るのかな私)

 

それは言葉を使った誘導である。宗一郎は強い魔力を持たない一般人だ、マスターである筈がないという先入観。加えて家事という名の日々の激務が原因だと桜は思い込んだ。今晩は早めに寝ようと彼女は食料を手に立ち去った。

 

キャスターとてプライドはある。共闘に異存はなかったが、セイバー、ライダー、アーチャーの戦力に物を言わせて不利な条件に甘んじるつもりも無かった。なによりバーサーカー戦の後も考えなくてはならないのである。キャスターは戦力分断を図る事にした、それでも彼女には勝算があったのだ。

 

 

◆◆◆

 

 

葵が昼食を終えた頃である。凛は衛宮邸へ真也は外出し、彼女はリビングでのんびりと過ごしていた。凛にしろ真也にしろ何かと慌ただしい時間が増えたので、数少ないリラックスできる時間であった。ペラと雑誌を捲ればそこには大物芸能人の結婚が報じられていた。

 

(聖杯戦争が終わったら真也さんはどうするのかしら)

 

もちろん家に帰るだろうが“あの”凛がそれを温和しく受け入れるのか、それが気がかりであり楽しみでもあった。雑誌を見ながら意外と早いかもしれない、そんな事を考えていると使用人がやってきた。来客だという。

 

葵とて魔術師の家の人間である。聖杯戦争の事は知っていたし、訪問者は滅多に無い遠坂家ゆえ来客に警戒した。窓から門を見下ろせば男女のペアが見えた。女に見覚えは無かったが、男には見覚えがあった。凛の担任である。追い返すかという使用人に葵は会うと答えた。ただ屋敷に入れるのは避けるべきだと出迎える事にした。

 

門、つまり結界の一歩外に立つ男は宗一郎だった。

 

「担任の葛木です。お嬢様の容態は如何ですか」

 

凛もまたインフルエンザで休んでいる事になっている。わざわざ担任が様子を見に来るなど妙だと葵は思った。

 

「ほぼ同時に休み始めた生徒が4人居ますのでご理解ください」

 

そう言う事かと葵は合点した。宗一郎の物言いは二通り解釈できる。4人も居るならついでに見回る、と言う意味。もう一つは仮病ではないのか、と疑っている意味だ。葵は疑っている方だと考えて多少不愉快になった。だが営業スマイルで応じた。

 

「ご心配をおかけしております。なにぶん娘は伏せっておりますので面会はご容赦下さい」

「いえ、ご在宅なら問題ありません。クラスの皆が元気な姿を待っているとお伝え下さい」

「ありがとうございます」

 

と言った葵は宗一郎の隣りに立つ女性をちらと見た。滅法な美人だった。その女性は穏やかな笑みであった。

 

「宗一郎の妻でメディアと申します」

「これは失礼しました。凛の母で葵と申します」

 

葵は警戒を少し解いた。男一人より、夫婦、夫婦より家族の方が警戒は少ないのだ。

 

「立派な洋館があると聞いて、居ても立っても居られず夫に付いてきてしまいました。ご気分を悪くされていなければ良いのですけれど」

 

実際古い洋館なので見物にくる人間はちらほら居るのだった。もちろん幽霊屋敷と揶揄する町の住人ではない。葵は言う。

 

「洋館にご興味が?」

「ええ。ご覧の通り日本人ではありません。石造りの建物を見ると故郷を思い出しまして」

「ご出身はどちらですか?」

「ギリシャです」

「まぁそうでしたか」

 

日本を出た事がない葵は非常に興味を持った。写真で見るその町はとても美しいのである。

 

「宜しければお茶でも如何ですか。是非ギリシャの事をお聞かせ頂けないでしょうか」

 

庭先ならば問題ないだろうと言う葵の判断だった。その女性は許可を求めてちらと宗一郎を伺った。彼は頷いた。その行為にも意味はあった、少なくとも葵は奥ゆかしさ、育ちの良さをメディアに感じ取ったであろう。

 

「お邪魔で無ければ」

「とんでもありませんわ。どうぞこちらに」

 

凛と真也が不在であるにも関わらず、葵は結界の外に出てしまった。それがその女、キャスターの狙いだった。葵の抗魔力は一般人並みである。キャスターは容易に彼女を支配下に置いた。そして桜と同じ様に記憶を読み出した。狙いは凛と真也の関係であったが、真也が葵に逆らえない事も判明した。念の為にと夫である時臣の事も読み取った。キャスターは真也と遠坂家について大凡の察しを付けた。キャスターは葵にある暗示を施し、この場の記憶を封じた上で姿を消した。

 

一人残った宗一郎は言う。

 

「ではこれにて失礼します」

 

葵は戸惑いながらも答えた。

 

「ご迷惑をおかけします。何のもてなしも出来なくて」

「いえ、お気遣いだけ頂きます」

 

宗一郎は立ち去った。

 

「……?」

 

葵は白昼夢でも見ていた様な気分であったが、魔術を掛けられた経験も訓練も受けた事が無いのでそういう事もあるのだろうと忘れる事にした。

 

 

◆◆◆

 

 

シミュレートというのは難しい。悪い条件で考えるのが普通だが、悪い条件というのはキリが無い。であるから、彼は幾つか条件を変えて試行してみる事にした。

 

フィールドは文字通り平面で障害物はない。相対するのは山の様な大男、バーサーカーである。彼の攻撃は近接戦闘が基本だ。かまいたちも使えるがバーサーカーの防御力の前では牽制にすらならない。

 

バーサーカーの岩斧は先の戦闘で彼が魔眼を使用し破壊している。アインツベルンのマスターとはいえ短期間でバーサーカーが使う様な大型の、尚且つ魔力が宿った武器は用意できないと彼は想定した。鋼の戦斧を想定した。

 

彼は最大速力で踏み込んだ。狙う死の点は一つ、サーヴァントとしての顕現を意味する点である。鳩尾にありビー玉ほどの大きさだ。ただ問題が一つあった。それはバーサーカーに魔眼とその点を知られていると言う事だ。バーサーカーは両手で斧を持ち腹を見せない。

 

片腕でも良い、切り落とし防御を崩す事が必要だが筋力では圧倒的に劣る。事前に魔力を存分に溜めて打ち込んだが躱された。バーサーカーの敏捷はAだ。踏み込み、打ち込む、躱される。これを繰り返す事数回、霊刀に乗せた魔力が揮発し攻撃力が落ちる。身体能力に魔力を回しているので補充が出来ない。

 

反撃の時だとバーサーカーが戦斧を振り下ろした。彼はバーサーカーの身体の位置を読んでいた、それに従い躱そうと上肢を動かせばそのまま脳天から潰された。シミュレート終了。彼自身は避けたつもりだった。支援魔法が無くては身体が精神に追いつかない。

 

(……)

 

気を取り直しシミュレート2回目。サーヴァント・ライダーを仲間として設定。彼女の敏捷はAだが攻めあぐねている。平坦なフィールドでは自然動きが平面になる。加えて平面を蹴り出すという足場の都合上どうしてもトリッキーさが失われる。近づくのは危険だ。ライダーは中距離から鎖を手繰るがバーサーカーの筋力の前では無力だった。バーサーカーの腕を絡め取り、投げつけようとしたが逆に繰り飛ばされた。鉄杭を打ち込むのも不可能である、投擲では文字通り歯が立たない。

 

彼が近づき魔力を籠めておいた霊刀をかざし牽制とする。その隙を突いてライダーはバーサーカーを絡め取った。巨躯に鎖を何十にも巻き付ける。隙あり。機を逃さずと踏み込めばバーサーカーはライダーの鎖を筋力A+に物を言わせて断ち切った。彼は死んだ。真っ二つだ。

 

(……)

 

3回目。ライダーは騎英の手綱(ベルレフォーン)を撃ったが躱された。バーサーカーの敏捷はAであり当てるのは容易ではない。彼が牽制するにしても巻き添えを喰らう。足場の悪い地形、障害物があればバーサーカーの敏捷性を封じ命中させる事も可能だろう。だがベルレフォーンの余波を受けないという意味で、その安全位置から、その威力により生じる障害物が舞い散る世界を、間髪置かず踏み込むのはひいき目に見ても難しい。バーサーカーの宝具十二の試練(ゴッド・ハンド)のデータは凛から入手済みだ。回復する時間を与えれば意味が無い。可能性の問題だが予想される結果が流動的すぎる。命を賭けるには分が悪い。

 

(……)

 

4回目。ライダーは魔眼を使った。石化の魔眼“キュベレイ”である。バーサーカーの魔力はA。重圧の判定がバーサーカーにかかり全ステータスが1ランク落ちた。

 

筋力:A+→A、敏捷性:A→Bである。

 

だがライダーは魔眼の使用により身動きが出来ない。彼女が視線を外せばバーサーカーは動き出してしまう。加えて重圧は石化ではない為バーサーカーはライダーを襲う事が出来る。

 

彼は間髪置かず踏み込んだ。事前に籠めた魔力で打てる斬撃は一回分。脚を打ちバランスを崩すか? 否、両腕が健在である以上鳩尾の点が突けない。彼は山の様に待ち受ける、バーサーカーの戦斧を一刀両断した。シフトウェイト、狙うはバーサーカーの鳩尾の点。戦斧を切り落とした動作からの立て直し、つまり切り返しの最中にバーサーカーに殴られた。死亡。極至近距離なら素手の方が早いのである。そもそもバーサーカーの眼前で、斬る、突くの2アクションは愚行だ。

 

敗因、基本的な身体能力の不足。

 

シミュレーション終了。真也がゆっくりと目を開ければ、連立する樹木が見えた。何時も千歳と訓練を行う林の中である。正眼の構えからゆっくりと刀を降ろし、トスンと岩に腰を落とした。前屈みで握り合う両手に顎を乗せた。

 

最低限必要な事は、魔眼と支援魔術の併用もしくは近距離でバーサーカーの動きを一瞬でも止める事。だが凛の支援魔術は併用できない。セイバー、ライダー、アーチャーの3英霊、戦力に物を言わせれば動きを止めるぐらいは出来そうだが、直死の魔眼が露見する。セイバーと士郎は黙ってくれても凛はそうはいくまい。彼女にも魔術協会に属するという立場があるからだ。己の身を危うくしてまでも秘密にしてくれるかどうかは分からない、“少なくとも彼は”そう思った。

 

ライダーはメドゥーサ。英霊としての格はともかく彼女は戦士ではない。ヘラクレス相手では分が悪い。豊富な実戦経験を持ち、一触即死の暴風の様なバーサーカーの懐に潜り込める敏捷性と胆力、凶暴なまでに冷静で精密な攻撃力、そして一瞬でも動きを止められる能力を持つサーヴァント、心当たりはあったが残念ながらその人物とは物別れに終わっている。

 

状況は芳しくない。イリヤスフィールを狙わずに魔眼を使わずにバーサーカーを倒せるのか、どれほど考えても答えが出ない。彼は首に掛かる細い金属製のネックレスに手を伸ばした。過去に何度も外そうとしたが外せなかった千歳が施した封印である。外す方法は彼女しか知らないが生憎と不在だ。彼女が居れば外せるが、そもそも彼女が居ればバーサーカーなど笑って屠るだろう。己の運の無さに呆れるより他はない。

 

(凛に魔眼を話すべきか?)

 

だが踏ん切りが付かない。下手をすれば封印指定である。幽閉だろうがサンプル化だろうがいずれにしても桜を守れなくなる。彼にとってそれは死ぬ事以上の大問題だった。多分大丈夫だから毒を飲んでみる、など出来よう筈もない。

 

“せめて凛が身内だっ、”

 

そう考え掛けた時である。額に刻まれた凛の痕跡が疼いた。最初は指で押される程度の感触だったが、徐々に強くなった。拳をねじ込まれている様な感覚になり、直に猛烈な痛みに変わった。

 

「……痛ぅ」

 

錐、否、鉄板にすら穴を開けるドリルを眉間に打ち込まれている、彼にはそう感じた。その回転する刃が額の皮膚に穴を開け、頭蓋を貫通し、脳に達した。頭蓋の中にゴリゴリという骨を削る音が響き渡る。頭の中を蹂躙される感覚、脳組織がスープの様にかき回される感覚、頭蓋から耳へと逆流する音の流れは不快以外の何物でも無い。

 

「あ、ぐあ、」

 

瞼は極限に開き、こぼれ落ちかねない程に飛び出た眼球が見た世界に意味は無かった。それはただの白である。純白と言えば聞こえが良いが、何の意味も持たない色、無意味な世界であった。それが永遠と続いていた。音の速度を超えても、光の速さでも果てに届かない閉じた世界。意味が無い世界に放り込まれれば、無限とも言える時間が、彼を無色に塗りつぶすだろう。想像を絶する痛みが走り、彼はのたうち回った。落ち葉が舞い、落ち葉に塗れた。

 

「ぎ、ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 

アートの一つにタイリングという技法がある。小さな絵を並べ連ねて大きな絵を作るものだ。桜と言う小さな絵が集まり構成されていた蒼月真也という絵は、ここ数日で急激に侵食されていた。遠坂凛という絵に作り替えられつつあったのだ。

 

発熱、倦怠感、痛み。インフルエンザによる症状とは免疫系とウィルスの戦いによる反応である。彼が晒されている反応とはまさにそれだった。彼の存在を維持し続けようとする動きと壊し組み替えようとする動きが争っていると説明できる。

 

ただ身体的影響に収まるそれと異なり、彼の場合は精神体つまり自我だ。精神の組み替えは甚大なストレスを生みそれが激痛という身体的反応に表れた。それは水と一緒に布を呑まされ引き抜かれる苦しみでもあった。指先に針を突き立てる痛みでもあった。痛みを制御できる彼が堪えきれなかった。

 

「ぎっ!」

 

瞳孔を針先にまで絞り彼は額を岩に打ち付けた。額が割れ血が流れた。頭が割れそうな痛みを命綱にして崩れ落ちた。大地に身を投げるその様は正しく道半ばで潰えた者だった。勇気を持った前のめりでは無く、恐れ後ずさり倒れた者である。視界に映っていた物を認識すれば落ち葉であり倒木であった。

 

“凛が身内になるなど二度と考えてはならない”

 

命の残骸であるそれらを見ながら彼は揺蕩っていた。如何ほどの時間が過ぎたのか。例えるなら木枯らしに吹かれた落ち葉が彼の半分を隠す頃である。痛みが治まり辛うじて目を動かせば目の前に桜が立っていた。まさかと思い起き上がれば誰も居なかった。

 

「……」

 

真也は聖杯戦争が終わるまで桜に会いに行くつもりが無かった。それはバーサーカー戦の後の事。士郎に任せたと言った手前もある。士郎に刃を突きつけた負い目もあった。なにより桜は真也に依存している、ライダーのその指摘を相応に気にしていたのだった。ようやく惚れた男が出来たのだ、邪魔してはなるまいとそう考えていた。

 

だが今にも泣きそうな桜の幻を見てしまったのである。彼とて魔術師だ、本物の幽体や幻影、幻術や錯覚と言った知覚認識に対する訓練を受けていた。その彼は遠坂家で“寝ぼけて”凛を桜と間違えた、葵を桜と“見間違えた” それだけでも異常な事なのだが、ついに無いものを見た。時間に比例して酷くなる。彼はいよいよ追い詰められたと考えた。現状維持にすら支障が出ては大問題だ。

 

「姿だけでも見に行くか……」

 

遠目に見るだけだと、彼は衛宮邸に足を向けた。その幻がキャスターが生み出したモノだと思いも寄らない。彼の背後で夕日を浴びてはためく紫のローブは、妖艶な笑みを浮かべていた。それは事態が彼女の予想通りに進むという確信であり愉快さであった。

 

 

 

つづく!




つまりデコチューで大ダメージ。でももう不可逆ですよ。



【補足】
キャスターが桜を殺さなかったのは、真也(魔眼)を手に入れる為です。桜を殺せば真也は完全に敵対しますから。真也と桜の関係は宗一郎が知っています。

その為にセイバー、アーチャー、ライダー陣営を自壊させる事が必要でした。ライダーが奪われればキャスターが動いている事が露呈、その結果、不安定な関係が結束方向に動くのを避けたかった。キャスターにとって今の不安定な士郎たちの関係は好ましいのです。

ライダーは何をしていたかというと、桜の負担を低減する為衛宮家で働いていたのですが、桜は令呪を使った訳ではありませんので気づきません。加えて桜が深刻なダメージを受けた訳でもありませんので、これも同じです。マスターが足の小指をタンスにぶつけてもサーヴァントは気づかないだろう、という理論。

桜は不安がるライダーに“令呪もあるし、日中だし直ぐ帰えるからライダーは待ってて”とでも言ったのでしょう。たいやきの買い食いを秘密にしたかったのかどうかは、彼女のみぞ知る。


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21 聖杯戦争・8 キャスター編

夕焼けに染まる冬木市、その住宅街。衛宮邸に隣接する民家の庭に聳える大樹あり。そこに身を隠すのは真也である。枝影に隠れる様は、相応に様になっていた。不安定な足場をものともせず、どっしりとしたバランス感覚であった。忍者か特殊工作員と称しても過言では無い様であったが、その目的は極めて個人的であった。

 

「桜が居ない」

 

眼下の武家屋敷風民家には人の気配が感じられる。ちらりほらりと人影も見えた。縁側を歩いた青い影はセイバーだった。士郎の声も聞こえた。

 

「桜はいずこ?」

 

そうこうしていると玄関が開き凛が現れた。彼女は士郎と二言三言言葉を交わすと門へと向かい姿を消した。舞弥の姿が見えない事に気がついたがどうでも良いと意識から消去した。

 

何故桜の姿が見えないのか。台所にでも立っているのか。何故桜の姿が見えないのか。入浴でもしているのか。一瞬でも良い、一部分でも良い、一目姿が拝めれば。

 

(肩に伸びる髪の長さは絶妙で、重苦しさを感じさせず、それでいて淑やかさを損なわない。柔らかさと量感に富んでいるその肢体は健康的、適度な重さと抱きしめた時の満ちている感覚が素晴らしい。美しい顔立ちは餅の曲線に他ならない。余計な装飾無しで感じさせる美しさは真理である。奏でる声は澄み切った水の音、たゆたい、そして滴り、身体の奥深くに染みいるのだ。笑って良し、怒って良し、拗ねて良し、何でも良し……おぉ麗しの妹よ。無事な姿を一目おにいちゃんに見せておくれ)

 

だが現れない。待てども待てども現れない。一体これはどうした事だ、何の因果か誰かの呪いか。

 

(おぉ憎い、神が憎い、我が手より妹を奪おうなど、我(シスコン)への冒涜だ。ぶすっと一突きで滅ぼしてやる……)

 

とそこまで考えて彼は盛大な溜息をついた。がっくりと肩を降ろす。“追い詰められている”と涙した。いつか見た、妹に手を出した夢を思い出す。いま会えば押し倒しかねない。もう帰ろうと立ち上がった時である。

 

“兄さん”

 

桜の声に彼は慌てて振り向いた。もちろん誰も居ない、ただ樹木が茂らす枝の隙間から住宅街が一望できるのみである。それはキャスターの魔術だった。彼から離れたところに微小な魔法陣を複数展開させ、可聴できない強さの音声に、指向性を持たせて打ち込んだのである。その複数の音声の束は彼の耳元で重なり共鳴した。彼には耳元で囁かれた様に聞こえたに違いない。もちろん術の発動を悟られない様にする為である。

 

「……」

 

真也が衛宮家の塀を飛び越えて庭に降り立てば、何とも間抜けな音がした。木琴をチープにした様な音である。強いて言うなら竹琴か、もしくは下駄の音である。例えるなら“カランコロン”だ。ただ確実な事はそれが警報という目的を持った音、だと言う事だ。

 

「……結界?」

 

と彼が呟けば母屋の縁側から何かが飛び出した。それはレーダーの様に頭を振ると、彼目掛けて駆け出した。否、押し迫る。ドドド、と言う足音は大地を振るわす雷鳴の如く。彼には押し寄せる巨大な津波に見えた。

 

むろんセイバーである。どのように対応行動するべきか彼は迷った。セイバーは鎧を展開していない上に、手に持つのは竹刀である。対して、彼は何時ものラフな恰好だが、コートの下に隠し持つのは霊刀、真剣である。抜けばそれが意味を持つ。“冗談では済まされない”という意味だ。鞘打ちで応じようかとも考えたが、生憎と肩からぶら下げていて、セイバーの突進力はそれを待ってくれない。目の前に迫る彼女を見て彼は達観した表情である。

 

(殺気めいた表情でも美人は美人さんやな……)

 

彼は竹刀を突きつけられた。真也はセイバーより随分背が高い、というよりはセイバーが小柄だ。自然下から突き上げる様な構えになる。彼にはのど元にある竹刀の切っ先が真剣に見えた、それ程の威圧だった。

 

「誰かと思えば貴方ですか」

「よ、お久しぶり」

「物取りに掛ける情けはありません。今から処断するので覚悟して頂きます」

「即断即決だね、嫌いじゃないよそう言うの。でも裁判位はしてくれないか」

 

「不要」

「うわ、言い切ったよこの娘」

「加えて不敬罪も適用します」

「なぜ」

 

「私を小娘と侮辱したその罪は軽くありません」

「“小”娘なんて言ってない」

「その見下した態度で十分だ」

「血気盛んな女の子だね」

 

「今なんと言いました?」

「分かった。“好戦的”でどう?」

「反省の態度も見られない、加えてシロウの敵だ―」

「一応、共闘の間柄なんだけれど」

 

「問答無用!」

 

セイバーが竹刀を振り上げた瞬間である。

 

「待ってくれセイバー」

 

士郎が現れた。

 

「よー」

 

真也は努めて気さくに声を掛けた。

 

(この男、シロウが現れるのを見越して時間稼ぎを……)

 

迂闊。してやられたとセイバーは悔しさを隠さない。セイバーは姿勢も警戒も解かず、士郎に進言した。

 

「シロウ。この男はトラブルの元です。命令して頂ければ直ぐに片付けます」

「ゴミか、俺は」

「せめてもの情けだ。生ゴミ、不燃ゴミ、粗大ゴミ、好きなゴミを選ぶと良い」

「その発言は色々な意味でショックだよ」

「だがペットボトルは駄目だ。貴方にリサイクルする価値など無い」

「情け容赦ない貴女が素敵」

 

士郎は頭を掻いた。どうしてこの様な真似をしたのかと考えて、考えるまでも無いと溜息をついた。士郎はこう告げた。

 

「堂々と入れよ。桜に会いに来たんだろ? 追い返したりはしない」

「士郎の顔を見たくなかったんだ」

「面と向かってそれだけ言えれば、清々しい」

「衛宮君に会えると思ったら恥ずかしくて、つい、」

「キメェ」

「もちろん言ってみただけ」

「桜なら今買い物に出かけてる。セイバー、竹刀を降ろしてくれ」

 

セイバーは不承不承竹刀を納めた。士郎は言う。

 

「どうする? 桜を待つか?」

「いや帰る。長居は出来ないしセイバーが怖いし」

「衛宮士郎。シンヤを預かっても?」

 

その声はライダーであった。士郎は同意した。真也はライダーに首根っこを掴まれ引き摺られていった。セイバーは士郎に詰め寄った。肩を怒らせ両手を腰に添え、見上げ咎める姿を例えれば“ぷんすか”が適当だろう。

 

「シロウは甘すぎます。何の咎めも無しなど、増長するだけです」

「桜が心配だったんだろ。真也(シスコン)なら無理はないって」

「何故あの男の肩を持つのです。嫌っていたのではないのですか」

「んー、強いて言うなら男の連帯感?」

「まったく不可解です。理解しかねる」

 

彼は笑みを浮かべた。

 

「何故そこで笑うのです」

「安心した。それが理解できないセイバーはちゃんとした女の子だったんだなって」

「……言葉のアヤです。忘れて下さい」

「分かった」

 

彼の前に俯いて前髪を垂らし、羞恥を隠すセイバーがいた。初めて見るその姿に彼の鼓動が強く打った。

 

 

◆◆◆

 

 

真也のライダーに対する第一印象はクールだった。交友が広い彼は経験があったしその自信があった。だが今回ばかりは外れたと落胆した。言葉の抑揚、言葉遣い、仕草、それらは平坦だったが彼女は怒っていたのである。

 

「よくものこのこと顔を出せたものです」

 

そこは衛宮邸の離れ、桜に宛がわれた部屋である。ライダーはいつか見た様にベッドに腰掛け脚を組んでいた。真也は床に正座だった。何故この様な扱いを受けるのか、彼は異議を唱えたかったが甘んじて受けた。ライダーの性格をよく知らない以上下手に逆らうのは賢くない。

 

「怒っているなら理由を話してくれ。可能なら改めよう」

「怒ってなどいません。シンヤの図々しさに呆れているのみです」

「その理由を聞いている」

「シンヤはサクラを見捨てています」

 

「どこをどう解釈してその結論に至ったのか知らないけれど、俺は桜を見捨てていない」

「サクラをこの家に置いていった、共に戦うと約束しておきながらあっけなく反故にした、そう言えば宜しいでしょうか」

「あのな。共闘に至った理由話しただろ。なにより桜の意思だぞ。そもそも、心配したから、見捨ててなんて居ないから、様子を見に来た。OK?」

 

「桜が辛い目に遭っていると言うのに」

「分かった。殺してくる」

 

ライダーは冗談かとも思ったが、彼の瞳が鋭く光っていたので慌てて止めた。彼女が寒気を覚える程であった。

 

「止めなさい、最後まで話を聞きなさい」

 

首根っこを掴まれ動けない。真也の足の裏がカーペットを蹴ってどんどんズレていった。その様は昆布の如く。

 

「安心してくれライダー。肉片一つ残さないから」

「冷静になりなさい。共闘が崩れます。バーサーカーを対処出来ねば、結果は同じです」

「HANASE!」

「離しません」

「士郎の野郎! 桜をたらし込んでおいて金髪美少女サーヴァントとイチャイチャとは良い度胸だ! セイバーこっちに来い。はいマスターどうぞ私を存分にご賞味ください、とかいって組んずほぐれつ!」

 

埒があかぬとライダーは鎖を幾重にも巻き付けた。床に転がした。床の上で飛び跳ねる彼は正しく俎上の魚(そじょうのうお)。彼女は身を傾げ覗き込む。暴れる真也を窘めるその様は子供を説教する母親である。

 

「ライダー! お前は味方じゃないのか!」

「私はサクラの味方です。シンヤの味方ではありません」

「はなせーっ!」

「シンヤのサクラに対する―」

 

情熱、愛情、執着、彼女は悩んだ上でこう告げた。

 

「倒錯さは判りました。とにかく落ち着きなさい」

 

ライダーが手短に桜の境遇を話すと彼はそう言う事かと落ち着いた。

 

「そう。家事にかこつけて桜を牽制してるって事か。まるで灰被り姫だな」

 

ライダーは首を傾げた。すんなり受け入れた事が意外だった。意外そうなライダー姿を見て彼はショックを受けた。

 

「あのな。セイバーを襲ったら共闘がお釈迦だろ。そもそも兄である俺がそんな事をしたら、士郎はともかく、他が桜をどう思うか、考えるまでも無い」

「いえ、苦情を申し立てるという意味です」

「……」

「……」

 

「ちょっと所用を思い出した」

「ですから待ちなさい」

「HANASE!」

「兄が口を出せば妹の立場が悪くなります。サクラが了承している以上ここは耐えるべきです。それよりシンヤ、ここからが本題です」

 

暴れていた真也は腰を落とした。ライダーが真剣だったからである。

 

「どうぞ」

「サクラを連れ帰るべきです」

「なぜに」

「私の見立てではサクラはシンヤを求めています」

 

「何を言い出すかと思えば。桜は士郎に好意を持っている、ライダーがそれに気づいてないのか」

「私が推測するに今の状況は全てはシンヤがサクラを不安にさせている事が原因です。サクラが拒否してもそれは言葉のみです。手を掴んで、抱き上げて、強引に連れ帰りなさい。サクラの様なタイプは強引に縛り付けた方が良い。憎悪と愛情は表裏一体、シンヤが応えればサクラは深くシンヤを愛するでしょう」

 

「ライダーの意見は推測の域を出ない。桜は士郎の家に繁く通っていたのは事実、それは好意が無いと出来ないことだ。ライダーの見解は尊重するが行動を起こすには根拠が弱い」

「その理由にはこじつけを感じます。まるでそうあっては困るから理由を後付けしている様に感じます」

「桜は本心を隠す傾向があるから、ライダーの見解が正しかったとしよう。でも兄妹というカップリングは茨の道だ。士郎と共にあれるならそれは正しい道、違う?」

 

「……」

「……」

 

「私はシンヤが良いと思うのですが」

「なにが?」

「サクラの伴侶になるべきです」

「冗談は止めれ」

 

「判りました。対価無しとは言いません。サクラを連れ帰れば私もつけます。お買い得です」

「へ?」

「背の高い女はお気に召しませんか」

 

ライダーは人差し指を入れて胸元を見せた。だが能面なのであまり色気を感じない。誘惑に傾いてしまう彼だった。

 

「本当?」

「嘘です」

「……帰る」

 

そんな馬鹿な、だがしかし、ひょっとして。と期待してしまった自分が悲しくも愚かしい。彼は渋い顔で立ち上がった。ライダーは言う。

 

「サクラに会って行きなさい」

「元気だって分かったならそれでいいや。来た事は内緒にしてくれ。ぎゅっとしてしまいそうだし」

「すれば良いでしょう」

「あのな。折を見てまたくるよ。その時は電話でも掛ける」

 

ライダーは真也のベルトを掴んだ。

 

「会って行きなさい」

「予定があるから駄目」

「バーサーカー戦対策ですか?」

「そんな感じ。だから今日は駄目」

 

「なら明日は来られますね」

「いやだから、」

「今日は、と今言いました」

「えーと、」

「来なさい」

「……分かりました」

 

彼は思わず頷いた。彼女の気迫が徐々に強まったからである。

 

 

◆◆◆

 

 

早朝目が覚める。射撃訓練に向かう舞弥を見送ったあと道場でセイバーと汗を流す。桜の作った朝食を食べ道場でセイバーと汗を流す。昼前に凛がやって来る。昼食を皆で食べ午後は凛の魔術講義を受ける。昼食を共にすると言うのは士郎の提案だ。食事を共にすると言うのはコミュニケーション的に意味があるのである。

 

凛の帰宅後、魔術講義を復習する。桜の作った夕食を食べる。陽が落ちればセイバーらを連れて夜の冬木市を練り歩く。もちろんキャスターとアサシンを探す為だ。収穫が無い事に落胆を覚えながら帰宅。そして夜。士郎はいつもの様に強化の鍛錬に励んでいた。

 

胡座をかき呼吸と神経を整える。

 

「……」

 

そこは土蔵の中だ。雑多とした庫内、適度な圧迫感、外気と切り離された感覚が魔術の行使に適していた。そう理由を付けたところで彼が一番慣れている場所だからだろう。彼の前にあるのは鉄パイプである。魔術回路を起動させそれにそっと手を添えた。

 

・基本骨子、解明

・構成材質、解明

・基本骨子、変更

・構成材質、補強

 

鉄パイプという存在の隙間を走る魔力は弾けて消えた。失敗だ。彼は息を吐いた。それは通常の呼吸のつもりであったが、落胆が混じっていた。凛の指導で成功率は随分向上している。彼女が施したのは精神集中や魔力の捉え方、魔術行使における正規の基礎訓練でありそれが効果を見せていた。だが芳しくない。滅多に成功しないが希に成功するに変わった程度だ。

 

「……」

 

焦燥が募る。セイバーとの鍛錬で近接攻防の感覚が掴めつつあったがそれは非常時の為の物だ。マスターである彼はサーヴァントと戦う事は無い、戦ってはならないのである。それが当の然だ。戦いとは実際に剣を持って振るう事のみでは無い。状況判断やサーヴァントへの支援も戦いの一つだ。周囲の人間にそう言われた、彼もそう思った。

 

だが。

 

理屈で分かっていても納得が出来ない。幾ら役割とは言え、セイバーたちが戦っているのに何も出来ないのが悔しい。黙ってみているのが辛い。なにより今のままでは足手まといになりかねない。先のランサー戦を思い出せば一目瞭然だ。ランサーは士郎へ強襲を掛けたが、もしあれが成功していたら。結果的には逃げられたがそれはそれだ。マイナス要因は少ない方が良い。サーヴァントを倒せなくとも、逃げられなくとも、せめて糸口ぐらいはたぐり寄せられる様になりたい。

 

「………」

 

そう思ったところで、目の前にある強化に失敗した鉄パイプは現実の厳しさを教えていた。思念が深く沈み込む。

 

「そろそろ倦怠感が出てきているのではないか?」

 

その声が士郎を現実世界に引き戻した。座したまま振り返り見れば赤い外套服の男、アーチャーが士郎を見下ろしていた。

 

「何か用か」

 

士郎は彼が好きでは無かった。人を小馬鹿にした様な物言いが鼻につくのだ。そういう人間が存在すると理解はしているが、実際に面と向かうと立つ物は立つ、もちろん立つ物は腹だ。なお士郎が嫌う理由はただその礼儀のみである。

 

「今のお前の身体は腹にある宝石から供給される魔力で保っている。魔術は成功しようと失敗しようと魔力を消費する、程々にしておく事だ」

 

「そんな事言われなくても知ってる。アーチャーが俺に何の用だ。遠坂の側に居なくて良いのか」

「マスターの家はここと違って結界が万全でな、そうそう襲われる事はなかろう。他にも番犬が居る」

 

士郎はその番犬が何を意味しているのか気になったが、聞き流した。なにぶん遠坂家は名門だ、魔術的に強力な何かが存在してもおかしくはない、彼はそう考えた。彼が遠坂家に関して知り得る事は必要最低限のみである。

 

「そーかよ。嫌みを言いにわざわざ来るなんて良い性格してる」

 

気分を害した、皮肉めいた男に笑って付き合う必要は無い、士郎は立ち去ろうと立ち上がった。扉を開けて外に出た。

 

「衛宮士郎、お前の魔術は強化と投影だな?」

 

士郎にとってそれは聞き流せない言葉だった。強化の事は凛に伝えた、だから知っていてもおかしくはない。だが投影の事を知るのは舞弥とセイバーのみだ。余計な事を言うなと釘を刺したのはその二人に他ならない。あの二人が漏らすとは考えにくい、考えたくない。士郎は必死の形相でアーチャーを睨んだ。

 

「どうしてそれを知ってる」

「安心しろ。あの二人が私に伝えたのではない。お前と私の魔術は同系、だから知っている」

「話が見えない。仮にお前が“そう”だから俺が“そう”だと分かったとして、アーチャー、お前は何が言いたいんだ」

「この夜更けにわざわざ与太話をしに来たのだと思っているのか。鍛えてやろう、そう言っている」

 

 

◆◆◆

 

 

「道場があったな。付いてこい」

 

歩み始めた弓兵に月の光が落ちていた。付き従いつつも、警戒を解かないのは士郎だ。何故アーチャーが同系なのか、何故それを知っているのか気になった。なにより不可解なのがアーチャーが士郎に手ほどきをする理由である。裏がある、当然そう考えた。

 

「遠坂とはバーサーカー戦のあと敵対する、なのにどうしてだ」

「お前の魔力生成量は少ない。魔力切れになれば身体を動かす事すらままならない。そうなればバーサーカー戦に於いてお前は足手まといになりかねない」

 

理には適っている。士郎自身、魔術鍛錬に対し停滞感、息詰まり感、閉塞感を感じていた。もしそれが打破できるのであれば願ったり叶ったりだ。だが不安は払拭できない。まるで砂漠に迷い渇き苦しんでいる旅人の前に、何の脈略もなくペットボトルが置かれている様な都合の良い不自然さだ。

 

「アーチャー、二人に相談したいが良いか?」

 

士郎の発言を聞いてアーチャーは笑みを浮かべた。もちろん好意的な物ではなく、小馬鹿にした笑いである。士郎には嘲笑に見えた。

 

「子供かお前は」

「……いま何つった」

「私たちは期間限定とは言え共闘の仲であり、新規に他陣営と手を組むのではない。お前自身の事だ。自分の事すら自分で決断できないのであれば、とんだ見込み違いだ。鍛錬以前の問題だな。怪我をしないうちに令呪を破棄する事だ」

「論点をすり替えるな。陣営の話だ。余所の陣営と何かしようってのに相談無しに進めるなんておかしい」

 

用心深い、加えて組織に付いて考えている、アーチャーは心中で舌を打った。短期間で効果を出すには手荒に事を進めなくてはならないが、それをあのセイバーが見過ごすか、アーチャーにはその確信が無かった。少なくとも成果を見せるまでは秘密にしておきたかったのである。

 

(セイバーが吹き込んだのか? 面倒な事を)

「アーチャー、お前の狙いは何だ。そもそも遠坂は承知しているのか?」

「お前に危害を加える、もしくは殺害するのであればこんな回りくどい方法はとるまい」

「お前は真実を語っていない」

 

子供じみた理由だがやむを得まいと、アーチャーは渋々決断した。

 

「私は蒼月真也を警戒している」

「だからなんだ」

「あの男は凛に告白したぞ」

「……」

 

アーチャーは嘘は言っていない。凛が返事をした事を伏せただけだ。密かな好意を凛に寄せている士郎にとってその発言は衝撃的であり、微妙な言い回しに気がつかなかった。

 

「ここだけの話だが凛には相応しくないと考えている。故にその牽制をしたい。今のお前では凛の歯牙にも掛かるまいが、実績を積めばその限りではなかろう。私は個人的にも凛を気に入っている。それは聖杯戦争後の事を含めてだ」

「どうして俺に言うんだ」

「凛に気がある事はお前の接し方を見れば一目瞭然だ。射止めるかどうかはお前次第だが……黙って見過ごすか?」

 

士郎はアーチャーは凛が返事をする前に何とかしたいのだと解釈した。加えて黙ってみている事はマスター以前の問題だと士郎は考えた。

 

アーチャーはあの二人がその関係を聖杯戦争が終わるまで内密にする、と言う申し合わせを知っていた。つまり士郎は当面知る術が無い。仮に発覚しても士郎の成長が間に合わなかっただけだ、と弁明も立つ。付け加えれば士郎が叩き上げられた時点で発覚しても何の問題も無い。

 

「……どうすれば良い?」

「良い地図がある。それに従って進むだけだ」

「分かった。頼む」

(恋は盲目か、良く言ったものだな)

 

あっさり手のひらを返した士郎を見て、アーチャーは複雑な心境だった。この士郎にしてあの凛である。

 

 

◆◆◆

 

 

道場に灯りが付いた。その中心で立ち会うのは士郎と弓兵。どの様な過酷な鍛錬でも受けて立つと士郎は鋭い面持ちで弓兵を睨み上げた。赤い外套服の男は開口一番こう言った。

 

「服を脱げ」

「……」

 

そして沈黙が訪れる。士郎は目の前の屈強な男をじっと見た。筋肉ダルマは過剰な表現だが相応に逞しい。士郎は真面目な表情のまま暫く黙っていたが、耐えきれずこう聞いた。聞き間違いだと非常に芳しくないからだ。主に身の上の危険と言う意味である。

 

「悪い。もう一度言ってくれるか」

「何度も言わせるな。服を脱げ、と言っている」

 

士郎は手のひらを口に当てて明後日の方向を見た、考えるポーズである。続けて腕を組んで首を傾げた、むぅと唸る。考えるポーズだ。思い至った士郎はこう言った。

 

「気持ちは嬉しいんだけれどそういう趣味は、」

「誰が若道の趣味など持ち合せている!」

「いやだって、服を脱げとか、」

「えぇい! 黙れ!」

 

この展開はもうウンザリだとアーチャーは士郎を組み拉いだ。“己に繋がる衛宮士郎ではない”そう頭で理解はしていても士郎は士郎。脱がす理由を前もって説明すれば良かったのだが、アーチャーにとっては苦渋の決断だった為つい説明に粗が生じてしまった。腕を背中に捩り上げ、頭を掴み床に押え付けた。その姿はまさしく強姦魔である。

 

「え、わ、ちょ、何する本気かお前!」

「こんな事をしている自分が情けなくて頭が割れるわ! 四の五の言わずにさっさと脱げ! というか一語一句同じ台詞とはどういう了見だ!」

「2回目かよ! 誰かを襲ったのかよ! やっぱりホモじゃねえか!」

「黙れと言っている! 好き好んでしているとでも思ったのか! この戯けっ!」

 

アーチャーは士郎の両手首を掴んで万歳させると、トレーナーを捲り上げた。ビリと破れる音がした。床の冷たさが身に染みる。強姦魔は敵だ、悪だ、決して許してはならぬと士郎は誓った。アーチャーは逃がさぬと士郎のベルトに手を掛けた、その掴みを基点に引き釣り寄せ跨がった。もちろん士郎は青ざめた。

 

「おちつけ、な、なっ?!」

 

気の進まない仕事は迅速かつ無心で済ませる、その信条の元アーチャーは鬼気迫る顔。

 

「舞弥さん! たすけーっ! むぐっ!」

 

アーチャーは士郎の口を塞いだ。もちろん手のひらで塞いだ。暴れ藻掻く士郎に構わず、フリーの手の平を彼の腹部に添えた。無骨な指が士郎の恐怖を誘う。彼が感じるおぞましさは如何ほどのものか。あぁなんと言う事だろう。知らない男の口車に乗って、ほいほい付いて行ったばかりに、こんな目に。哀れ士郎はこれから―

 

(お、犯される!?)

 

これは堪らないと、セイバーを呼ぼうと、士郎が令呪を使おうとしたその直前、自分の身体が熱い事に気づいた。そう言う趣味があるのかと己に絶望しかけたが、発熱しているのは魔術回路だと気がついた。

 

「……?」

 

不思議な事に魔術回路が無い筈の領域も熱を帯びていた。じんわりとした熱が、直に焼き付く程に熱くなった。時が刻むこと暫く。アーチャーは士郎を解放した。

 

「立て」

 

アーチャーの指示に従い、士郎がふらりと立ち上がる。ジワッと汗を掻き、呼吸も荒く、頬を紅葉させる士郎の姿を見ながらアーチャーは告げた。自己嫌悪に支配されていたのは言うまでも無い。

 

「仕込みは終了だ」

「……俺の体に何をしたんだ」

「これから閉じている全ての魔術回路を開く。衛宮士郎、お前に施したのは予備加熱の様なものだ」

 

アーチャーは右拳を士郎に突き出した。完全には握られておらず僅かに開いている。丁度、何かの柄が収まりそうな大きさだった。本能で察した士郎はその拳に左手を添えた。アーチャーは凛がこの場に居ない事を心底感謝した。

 

「意識を集中しろ、全て見ろ、何一つ見落とすな」

 

アーチャーの右手に小さな稲妻が走ると、夫婦剣の片割れ“干将”が姿を現した。投影である。アーチャーの魔術行使の影響を受けて、共鳴し、士郎の魔術回路が目を覚ます。

 

「か、は、」

 

士郎の全身を火花が駆け巡る。その衝撃に耐えきれず彼は蹲った。アーチャーはお構いなしだ。

 

「お前の魔術回路とは作る物ではなく表すものだ。一度作ってしまえば後は表面に出すか出さないかの物でしかない。お前の師や凛には考えられない盲点だろうよ。まっとうな魔術師なら通常の神経そのものが回路になっている異端など知りはしまい」

 

身体を走る衝撃が、正座で脚が痺れる程度に収まった頃、アーチャーは促した。静かに佇むその様は師匠の様である。

 

「やってみろ」

 

蹲る士郎が身を起こす、その様は泉の水を手柄杓で掬うかの様。自己暗示を掛け結んだ夫婦剣の片割れは、直ぐに砕けて消えた。

 

「……」

 

士郎の状態を見立てたアーチャーは夫婦剣の片割れを投影、蹲る士郎に向けて打ち下ろした。第3者が居れば無防備な少年に斬り付ける残忍な男に見えただろう。だがそうはならなかった。

 

“ギィン”と耳を突く金属音がする。アーチャーのその一刀は士郎の“干将”によって防がれていた。やれば出来るだろう、とアーチャーはご満悦だ。士郎は己が編み出した高精度の投影品に面食らっていた。声が出せないのは体調が戻らない事も影響したが、投影の実感に戸惑っていたからだ。

 

「衛宮士郎。お前は戦う者ではなく生み出す者に過ぎない。余分な事など考えるな、お前にできる事はそれだけだ、ならばそれを極めてみろ。イメージするものは常に最強の自分だ。外敵など要らぬ、お前にとって戦う相手とは自分のイメージに他ならない」

 

アーチャーは干将・莫耶を揃えて投影した。その夫婦剣を見る士郎の眼差しは探る様である。立ち上がり両の手のひらを見る。

 

“投影、開始(トレース、オン)”

 

自己暗示と共に小規模の稲妻が走れば、現れたのは陰と陽、2極を表す二振りにして一振りの夫婦剣だった。幅広の片刃の短剣である。その刃が描く曲線は恐ろしいまでに美しかった。彼は何度も握り返した。相応に重い剣が不思議な事に身体に馴染む。

 

アーチャーは黙って構えた。士郎は戸惑った後その構えを真似た。

 

「俺とお前が成すこの型は言ってしまえば二刀流だ」

 

アーチャーは左手の莫耶を小さく振って士郎に打ち込んだ。その一撃は士郎の右手にある干将を砕き彼を吹き飛ばした。バランスを崩し、蹈鞴を踏む事さえ出来ず道場の壁に叩き付けられた。ショートフックの様な短い動作の一撃が非常に重い。背中を打ち咳き込む士郎にアーチャーは言う。

 

「だが一般的な二刀流と異なり両手に同じ重さの、同じ形の武器がある。この剣はリーチが短い、つまり小回りが利くという利点を持つが、それはあくまで一面を表しているに過ぎない。剣の重心と握り手の位置を決して忘れるな。幾ら軽くても腕のみで振るな。攻守全てを己の重心を基点に練り出せ。それば武器ではなく己の身体の延長と知れ。型に攻守の区別は無い。つまり双剣とは、」

 

「踊るって事か」

「その通りだ」

 

士郎は砕かれた干将を投影し踏み込んだ。左手の莫耶を正拳突きの要領で突いた。アーチャーは内から外へ向ける一振りでそれを弾き返す。士郎は己の軸足を基点に、そのはじき返された反動で身体を回す。右手にある干将でアーチャーを斬り付けた。その士郎の一撃は空を切った。アーチャーにとっては受け流す必要も無い、回避のみで十分だったのだ。

 

士郎のそれは勢いを乗せた大ぶりの一撃である。空を切れば身体を無防備に晒す。アーチャはその士郎の隙に膝を打ち込んだ。脇に打ち込まれ身体をくの字に曲げた。呼吸が止まり崩れ落ちる。

 

「相手との位置、相手が持つ武器の特性、相手の性格、そして己自身……全てを内包しろ。お前は半分しか理解していない」

 

士郎は額の汗を拭い立ち上がった。

 

「そこまで言われれば幾ら俺でも気づく。これは敵を倒す技じゃない、結果的に敵を倒す技だ。剣を持ち技を繰る俺自身が剣となる……生み出す者ってそう言う事なんだろ?」

 

アーチャーは初めて笑みを浮かべた。対峙した二人が織りなすその技は水の様に滑らかで淀みなく。その演舞の銘は“流極水演舞”。二人は踊っていた。脚裁きの音、刃が風を切る音、そして希に刃同士が“しゃらん”という鋭い音をかき鳴らし……士郎は倒れた。仰向けになり手足を広げ、喘ぐ様に呼吸を貪る。衣類は汗でへばり付いていた。見下ろすアーチャーは少々不満だった。彼は言う。

 

「魔術回路の覚醒から、投影、この短時間で良くやった方か」

 

見れば3時間は経っている。士郎は文句を言う気力すら持ち合せていなかった。

 

「また折を見てくるが日々の鍛錬を怠るな……お前に言う事ではなかろうがな」

 

そろそろ戻らねば凛が気づくかも知れない。アーチャが士郎に背を向けると彼の目の前にセイバーが立っていた。彼女は笑っていた。微笑では無くただ笑っていた。

 

「何か用か?」

 

彼女は黙って竹刀を投げつけた。何のつもりだとアーチャーはセイバーを見た。

 

「アーチャー、貴方の技は見事です。相当な修練を積んだのでしょう。是非私も手合わせをしたい」

 

セイバーは構えた。青い装束に白銀の鎧と何時もの恰好だ。これで得物が宝具であれば洒落にはならないが、その手にあるのは竹刀だった。アーチャーにはセイバーの動機が分からない、転じて幾ら手合わせとはいえども、彼には応じる理由が無い。

 

「謹んで辞退する、さらばだ」

 

付き合いきれないと姿を消そうとしたアーチャーにセイバーは打ち込んだ。その竹刀の一刀はアーチャーの腹を掠めた。その一撃は如何ほどのものか、竹刀の切っ先が空気を巻き込み彼の鎧を抉っていた。戯れにしては度が過ぎる、アーチャーは態度を硬化させた。

 

「……どういうつもりだ」

「つれない事を言うなアーチャー……参る」

 

彼女は笑っていた、否、そう見えただけだ。彼女は笑ってなどいなかった。袈裟切り、真一文字、唐竹割り、怒濤の様に繰り出されるセイバーの一撃は鋭く重かった。幾ら竹刀でも洒落になら無い威力である。セイバーは笑いながら怒っていた。辛うじて躱していたアーチャーは我慢ならないとこう告げた。

 

「その不遜かつ挑発かつ怒りの籠もった表情は何だ。とても手合わせを所望する態度には見えない」

「乙女に随分と酷い事を言う」

「……は?」

 

アーチャーは我が耳を疑った。セイバーが自身を乙女など称するとはあり得ない。近くに桜は居ない、彼女は演じてなど居なかった

 

「セイバー。君は随分と感情的だな、どういう風の吹き回しだ? とても英霊には見えない」

「知りたくば、私を倒して見せろ」

 

セイバーは一歩推し進めた。アーチャーは一歩たじろいだ。

 

「何を怒っている。私は君のマスターを鍛えてやったのだが、それを理解していないのか?」

「そんな事は知っている。シロウを鍛えて貰った事には感謝の言葉も無い。だからこそ私は駆けつけたくなる衝動を抑えてシロウを見守ったのだ。だがそれはそれだ。主人の屈辱は私の屈辱、私が憤るのも理解できよう?」

 

アーチャーはバーサーカー戦のダメージが回復しきっていなかった。加えて彼のスタンスは二刀流である。分が悪い。セイバーに打たれに打たれた彼は道場の床に崩れ去った。突っ伏した。俗に言う“フルボッコ”だった。

 

「ふんっ」

 

竹刀を床に突きつけ息荒いのはセイバーである。理解できないと士郎は言う。

 

「なんでさ」

「例え訓練とは言え刃を振り下ろすなど過剰です。もし怪我をしたらどうするつもりだったのですか」

 

正論を突かれ反論できない士郎であった。

 

(シロウ、貴方は危なっかしい。過保護になった舞弥の気持ちが良く分かる。短い時間ですが、私の全てを持ってシロウを正す。そして守る)

 

セイバーは士郎に向き直りこう告げた。その表情は真顔だったが僅かばかり揺らいでいた。

 

「ところでシロウ、がおーといって頂けませんか」

「がおー??」

「もう一度、」

「がおー????」

「もう一度、」

 

不条理さと屈辱に身を震わすのはアーチャーである。這いつくばる道場の冷たさと堅さがまた腹立たしい。“ぐぬぬ”と溢したくなるのも無理はない。そして道場の外。ライダーは道場での一部始終を見ていた。

 

(アーチャーが何故他マスターに指南を?)

 

ライダーにも魔術の心得があった。だが士郎の成長速度、アーチャーの指導の的確さは同系などでは説明が付かない。何か隠しているに違いない、彼女はアーチャーに注意を払う事にした。

 

「がおー???????」

「もう一度」

 

舞弥がやってくるまで二人は繰り返していたという。

 

 

 

 

 

 

つづく!




【教えて! アーチャー先生っ!】
士郎が本質的な意味で変わってしまっている、つまりアーチャーが士郎を狙わない。アーチャーが士郎を指南するには、この条件が無いと成立しないイベントです。本人が教えますので、士郎の急成長に不合理がありません。しかも効率よく安全。1stバーサーカー戦で散々言われた士郎の設定変更の理由の半分です。ようやく暴露、長い道のりだったZe……。

他にも
・アーチャーが真也をめっさ警戒している。
・真也殺害を凛が承諾しない(桜とか好意という意味で)
・士郎は凛に気がある
といった条件もあるのですが展開次第でどうにでもなるのかなと。例えばバーサーカー戦への戦力拡充として士郎を鍛えるとか。





【Q&A】
Q:士郎のヒーロー的な意味での活躍が少ない

A:
投影も使えない段階で戦場にツッコめばそれは原作士郎と変わりませんし、このSSにおいて士郎サイドはサブなので必要最低限の描写しかしていません。ご了承下さい。

後半に見せ場を予定していますが、ドロドロがテーマですので少ないです。もっとも、その後半にたどり着くが凄い微妙です。バッドエンディング的な意味です。プロットはエンディングまで起こしてるのですが実際に書くと色々不具合が生じます。書く→プロット修正、この繰り返し。ぶっちゃけ綱渡り状態です。

士郎の活躍を見たいという方は優れたSSがたくさん在りますのでそちらを……と思ったら唐突にdain氏の「Fate/In Britain」を思い出しました。どこまで読んだっけ、読み直してみようか。と思いつつ、その余裕が無いというジレンマ。相応に古い作品ですので最近Fateを知った方、ご興味のある方はググってみて下さい。思い出補正もありますが面白かったです。


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22 聖杯戦争・9 キャスター編

明くる日の衛宮邸。桜は敷地の外回りを清掃していた。塀の外を手際よく軽快に掃除に励んでいたが、その表情は重苦しい。有り体に言えば仏頂面だ。兄が訪れた事を昨日知った桜は一晩経っても不機嫌さが収まらなかった。

 

“ライダー、兄さんにこっそり会ったの?”

“こっそりではありません。セイバーたちも会っています”

“どうして言ってくれないの?!”

“サクラは買い物に”

 

“知ってたら行かなかったのに!”

“知っていれば私も止めましたが”

“酷い!”

“安心して下さいサクラ。明日来る予定です”

“……何時頃?”

“そこまでは把握していません。ただ事前に電話を掛けると言っていました”

 

というやりとりが昨夜有ったのだった。

 

(ライダーも気が利かない。時間を聞いておいてくれれば色々準備が出来るのに)

 

その準備とは、一日の予定を済ませておくという意味であり、タイミングが合えば料理を用意するという意味であり、身繕いしておくという意味であり、下着を変えておくという意味もあった。

 

“久しぶりだから、ひょっとして或いは”

 

あの自制心の塊の様な兄も妹を我慢できないかもしれない、と桃色妄想を膨らませばあり得ないと涙を流す。ピタリと手に持つ箒が止まった。ふと思い返せば兄とはもう何日も会っていない。声すら聞いていない。これ程離れたのは初めてだった。二人は修学旅行の時ですら毎日電話し声を聞いていたのだった。友人に呆れ返られたのも良い思い出である。

 

共闘を結び衛宮家に寝泊まりする様になり、慌ただしい日を送っていた桜であったが、異なる環境にも慣れ考える余裕が出てきた。考えてみれば。今兄は何をしているのだろう。大船に乗ったつもりで居ろ、と言っていた以上何らかの行動をしているはず。桜は兄の実力を知っていた。サーヴァントとも渡り合う以上滅多な事は無い筈だ。

 

ならば女関係は? 桜は兄が重度のシスコンだという事を知っている。まず無いとは思うが万が一という事もあり得る。それは綾子という意味であり凛という意味でもあった。不安になった。付け加えれば。自分には無頓着な兄であるから不健康な生活を送っているに違いない。桜の世話焼き願望がムクムクと膨れあがる。

 

(ご飯どうしてるのかな。コンビニとか牛丼で済ましちゃうから、明日にでもご飯作りに行こう……)

 

昼間なら問題ないはずだ。許可も下りるはず。

 

「あの御免なさい」

 

我に返った桜の前に女が立っていた。その女は黒のブラウスにベージュのタイトスカートを纏っていた。一枚羽織る防寒具はデニムのジャケット。見るからに品の良い若奥様であった。陽にかざせば青く見える長い髪はプラチナブロンド。20代後半の、ライダーに負けず劣らずの美しい女だった。絶世の美女とはこういう人を言うのだろう、と桜は思った。そして桜は。その女が強大な魔力を擁し、それを隠し、一般人を装っていた事に気づく事は無かった。

 

嫉妬を覚えつつも桜は努めて笑顔である。

 

「はい、何でしょうか」

「郵便局を探しているのですが迷ってしまって」

 

衛宮邸は住宅街でも奥の方にある。不可解だとは思いつつも、迷ったのならそう言う事もあるのだと桜は納得した。

 

「ここをまっすぐ行くと広い通りに出ます。それを下ると商店街にでます。商店街を坂に向かって登るとすぐ見つかると思います」

「ありがとうございました」

「いえ、大したことじゃありませんし」

 

その女は意味ありげにじっと桜の顔を見た。居心地悪いと桜は身を竦めた。

 

「あの、何か?」

「人違いであったなら申し訳ないのだけれど、貴女は蒼月桜さん?」

「どこかでお目に掛かりましたでしょうか」

 

桜の表情に警戒が浮かび上がる。彼女はライダーを呼ばんと令呪を意識した。

 

「あなた方ご兄妹は冬木で有名ですから。私はつい最近越してきたのですけれど、近所の方に話を聞くと必ずあなた方の事を耳にします。特にお兄さんの武勇伝は退屈しません」

 

そう言う事かと桜は愛想笑いだ。

 

「お騒がせします。ですが兄も最近は温和しいので、」

 

大目に見てあげて下さい、そう続けようとした桜にその女はこう続けた。それは桜にとって呪詛の様に聞こえた。

 

「でも、これでお母様も一安心でしょう。やはり兄妹ですから他のパートナーを見つけるのが正しい道」

「……それはどういう事でしょうか?」

「ご存じないのかしら? お兄さん、遠坂さんの家に居候しているそうですよ。とても仲睦まじくてご近所でも婚約も近いと評判で」

「嘘、嘘です。だって兄さんは私をずっと守るって、」

「御免なさい。ただの噂だから気にしないで」

 

桜の中でピシリと何かが割れた。その女は呆然と立ち尽くす桜に一言詫びると立ち去った。

 

(宗一郎様、私を窘めて下さい。ほんの二つ三つ石を投じるだけで、彼らは連鎖的に瓦解してしまうでしょう。余りにの脆さに私は浮かれています……)

 

その女、キャスターは笑みを浮かべていた。

 

 

◆◆◆

 

 

凛は幾つかの理由で頭を痛めていた。

 

一つは膠着状態である。キャスターもアサシンも一向に見つからないのだ。イリヤスフィールが回復するまでに戦力を整えなくてはならないと言うのにその手がかりすら掴めない。聖杯を求める以上戦いは必須。それすら無く、接触すらしてこないのであれば、何かを狙っている、と見るべきだろうが見当も付かない。

 

キャスターとバーサーカーが同盟を組んだ、考えたくないシナリオであったが、その可能性は低い様に思えた。バーサーカーはセイバー、アーチャー、真也の3人がかりですら倒せなかった相手である。キャスターがまともな思考の持ち主であれば、バーサーカーと組むのはあり得ない。凛らを倒した後バーサーカーと戦う事になるからだ。

 

(そもそもあの苛立たしい程、高慢ちきなイリヤスフィールが他の手を借りるとは考えにくいわね)

 

もう一つは桜である。家政婦紛いの扱いを受ける桜を見て、凛は舞弥の策略だと直感で思い至った。士郎に常識人で居て欲しい舞弥から見れば魔術師は避けうるべき人種だ。魔術師の娘である桜とは距離を置こうとするのは当然だろう。だが凛にとって曲がりなりにも妹である。扱き使われるのは面白くない。どうにかしたいと思うが当の桜が納得している以上どうにもならない。

 

なにより桜が舞弥から牽制を受けているの原因はただ一つ、それは好意である。牽制が共闘に直接関係がない以上、凛に口を出す理由が無いのだ。共闘はあくまで暫定的な関係であるゆえ事を荒立てては意味が無い。

 

そして最後はセイバーである。

 

(何考えてるのよ、この剣の英霊は……)

 

セイバーは数日前から突然甲斐甲斐しくなった。当初から面倒見が良い性格だとは思っていたが、その世話の焼き方は異常である。

 

当初。士郎へのぎこちない接し方から、桜への牽制という意味で舞弥の差し金かと思ったが、最近は単に接し方が分からなかっただけではないのか、と凛は思う様になった。つまりセイバーの、士郎への接し方が自然なのだ。

 

凛はちゃぶ台に肘を突いてセイバーを見た。

 

セイバーは座布団の上にぺたりと座り、士郎の側を片時も離れない。少なくとも凛の見る範囲ではそうだった。召喚された時に見た硬い鋭い表情では無く、温和な笑みである。都合よく見れば保護者、素直に評価すれば恋人のそれである。セイバーの守ろうとする気配が士郎を覆っているのが凛には見て取れた。溜息が出た。

 

(これが演技なら大したものだわ。アカデミー賞間違いなしね)

 

万が一セイバーが“そう”なのであれば桜にとって伏兵も良いところである。姉の目から見ても桜は美少女に該当するが、それでもセイバーは凛が敗北を認めた程に美しかった。そのセイバーに慈しみの表情を向けられれば大半の少年など為す術もなかろう。凛が衛宮家に魔術指南に来る様になり数日目。桜の余りの不憫さに付き合っている事を未だ話せない凛だった。

 

(衛宮君はどう思ってるのかしらね)

 

じっと士郎を見詰める凛の表情は複雑な心境を表していた。第3者から見れば彼女のそれは非難している様に見える。士郎と視線が合った、彼は慌てて目を逸らした。頬も赤い。

 

つまりはそう言う事である。士郎は未だ凛に淡い想いを抱いていた。言い出せぬまま終わるだろうと半ば諦め掛けていたそれはアーチャーの指南で自信と期待を持った。更に腕を上げ実績を積めば、と言うのが彼の算段である。

 

彼の思いを悟った凛の胸中は複雑だ。好意を向けられるのは悪い気分ではないが、凛自身は彼氏持ちである。それを公表すれば話は早いのだがそれができない。士郎から告白されていない以上振る訳にも行かない。桜が告白すればまだ良いのだが、その素振りすら見せない。

 

(どうしろっていうのよ、この状況……)

 

凛が呻いているとセイバーは立ち上がり凛の隣りに腰掛けた。セイバーは澄まし顔だったが、凛には不愉快さが混じっている事に気がついた。

 

「何かご用かしら?」

 

凛も澄まし顔で湯飲みを啜る。セイバーも同じだ、湯飲みを手にしていた。

 

「遠坂凛。前にも言いましたが必要以上に煽る恰好はやめて頂きたい」

「ちゃんと脚は隠してるわよ」

「前より卑猥では意味が無い」

 

凛はニーソックスではなく黒ストッキングを穿いていた。黒いそれが放つ淡い光沢に、足を崩して座る姿勢と、撓む太腿が混じり合えば、困惑的な曲線を描き出す。ミニスカートの組み合わせは眼に毒である。士郎は思わず見とれていた。

 

「えーみーやー君? どこを見ているのかしら?」

 

士郎は慌てて目を逸らした。

 

(シロウにも困った物だ)

 

セイバーは溜息一つ。凛が言う。

 

「衛宮君にはセイバーも桜も居るでしょ。穿いてくれと頼んでみたら? 言っておくけれど“私は駄目よ”」

 

その言い回しに、ちゃぶ台に向かいじっとしていた桜の身がピクリと振れた。士郎は言う。

 

「セイバーも桜も家族みたいな物だ。そんな事は頼まない」

「まだ言ってるのね、そう言う事」

「何が言いたいんだよ」

「なんでもないわ」

 

意識していては説得力など無いだろう。凛は呆れを隠さなかった。セイバーはこう言った。

 

「私は剣です。必要以上の感情を持っては困る。ですがまぁ、士郎の好意はうれしい」

 

その声が弾んでいた事にセイバー自身気がついていなかった。セイバーは続けた。

 

「繰り返しますがもう少し落ち着いた恰好にして頂きたい」

「……今まで黙ってたけれど、貴方が言う?」

 

凛は半眼である。その目は反則だろうと語っていた。

 

セイバーはセーラー服姿だった。漆の様な真っ黒な生地に、襟にはホワイトのラインが走っていた。胸元には紅色のリボンが華を咲かせていた。スカート丈は膝頭、黒いソックスとの間に見える脚の肌が生々しい。金髪少女が日本の制服を着るだけで、もはや言うべき言葉は無いのだが、彼女はダークグレーのカーディガンまで装備していたのである。

 

失敬なとセイバーは異論を語る。

 

「スカートの丈が違うでしょう。そもそもこの服装は由来のある学徒の正装と聞きましたが」

 

物はいい様だ、と凛は思った。

 

「遠坂凛、よもや私のマスターを籠絡しようなどとは」

「安心しなさい、そんな気は毛頭無いから」

「良いでしょう。但しシロウからは距離を取って頂きたい」

「ねぇ、セイバー。貴女のそれって本当に演技?」

「何が言いたいのです」

 

二人は鼻先が触れんばかりに近づいた。士郎に聴かれない様な小さい声量である。

 

『衛宮君に本気になったりはしないわよね?』

『馬鹿な事を。私はシロウの剣だ、そんな訳が無い。そもそも私は女を捨てている』

『なら良いけれど。ところでその服どこで入手したのよ』

『舞弥からもらい受けましたが、それがなにか?』

 

凛はとある魔女の話を思い出した。ある国の王女が魔女と恐れられ、罵られ、本当の魔女になってしまったという話だ。

 

(セイバーはどういう理由か分からないけれど女を捨ててる。そのセイバーに女としての振る舞いをさせて、それを呼び起こそうとしているって事か。久宇舞弥の考えそうな事だわ。姑息というか悪知恵が働くというか、何というか……)

 

それは環境が人間を変えるという意味である。舞弥の狡猾さは見習うべきかも知れない、凛はそんな事を考えた。

 

(……桜も気の毒に)

 

講義が終わり凛の帰宅時間となった。玄関に立ち扉を開ければ夕日が見えた。いつもの様に士郎が見送りで立っていた。士郎は靴べらと格闘する凛を暫く見守っていたが、我慢できないとこう言い出した。

 

「俺頑張るから」

「なによ、改まって」

「ただ言っておきたくて」

「……別に良いけれど」

 

いつもの様に玄関を出て、扉を閉めた。いつもの様に石畳を歩き、門の外を出ようとした凛を待ち受けていたのは桜だった。彼女は片腕で身を抱きしめ、俯き加減で凛を見詰めていた。その胸中は不安だ、凛はそれを感じ取った。

 

「珍しいわね、何か用?」

「……」

 

先日から姉の様子がおかしい、と桜は感じていた。材料は幾つかあったが、大きな物が二つ。何かとポリシーを持つ姉がニーソックスからストッキングに替えた事、いつもと変わらぬ不遜さの中に幸せオーラを放っていた事。姉の変化に訝りつつも漠然としていて良く分からなかったが、今朝、見知らぬ人物からの噂を聞いてそれは確信と変わった。

 

沈黙を続ける妹に、凛は眉を寄せた。

 

「言いたい事があるなら早く言いなさい。まだ言うべき事が纏まってないならその後にして」

 

桜の前を凛が通り過ぎかかる。

 

「兄さんに何かしましたか?」

 

凛は足を止めた。桜は俯いたままだ。日没の光りが二人を包んでいた。

 

「そんな事より折角の真也の計らいなんだから、ちゃんと掴まえなさい。桜が上手くいかなかったらお釈迦でしょ。大変そうだけれど」

「兄さんに何をしたんですか」

「変な事を聞くのね。それじゃ」

 

凛はどうにか誤魔化そうとしたが桜はそれを許さなかった。

 

「……兄さんと付き合ってるなんて嘘ですよね?」

 

言わない事と嘘をつく事は別である。これまでかと、心中で桜に謝って凛は告げた。

 

「告白された。OKした」

「嘘です」

 

気まずそうに目を逸らす姉の姿を見て、桜はそれが事実だと悟った。

 

「いま私の家に居る。心配しなくて良いからね」

 

凛が言いきる前に桜は倒れた。その様はゼンマイが壊れた人形の様であった。

 

 

◆◆◆

 

 

桜が倒れた事はセイバー陣営に相応の衝撃をもたらした。凛との経緯を知らない彼らは当然疲労だと考えた。手荒に扱いすぎた、その反省のもと舞弥は士郎の懲罰期間を前倒しで解除した。セイバーは牽制を止めなかったが桜に相応の気遣いを見せる様になった。

 

そして夜。その日の巡回は見合わせとなった。母屋と離れを結ぶ廊下を歩くのはライダーである。手には士郎の作った夕食が乗っていた。彼は見舞いを申し出たが、凛とのやりとりを聞いていたライダーは刺激したくないと慇懃に断った。

 

彼女が桜に宛がわれた部屋の扉を開けるともぬけの殻だった。

 

「……サクラ?」

 

桜が寝ていたであろうベッドに手を触れるとまだ温もりがあった。抜け出して間もない、と言う事である。何処に行ったのか、待つかそれとも探すか、そう迷っているライダーの視界に白い何かが映った。それはボトムのインナーだった。部屋の隅に脱ぎ捨てられていた。

 

「……!」

 

察したライダーが部屋を飛び出すと、士郎の部屋に向かう桜が居た。足取りは覚束なく、心の拠り所を失っていた。幽鬼の様であった。

 

「サクラ、まだ起きてはいけません」

「……」

「部屋に戻るべきです」

「……いいの」

「こんな時間に“そんな恰好で”衛宮士郎の部屋で何をするつもりですか」

「ライダーには関係ない」

 

ライダーは桜の行く手に立ち塞がった。

 

「落ち着きなさいサクラ。自棄になってはなりません」

「もう後が無いの」

「駄目です。サクラは冷静さを欠いています」

「……離して。令呪を使ってもいいんだから」

 

桜の様を見れば、狩猟者に追い詰められた兎である。サーヴァントであるライダーには令呪を持ち出されては為す術がない。彼女は主を見送るのみであった。

 

士郎は自室の机に向かい悩んでいた。ペンを持ちわら半紙に書き記す事は魔術に関してである。図象化してみれば、凛から教わった事とアーチャーから教わった事が微妙に食い違う。魔術の行使とは無色の力である魔力に、手続きを用いて意味を持たす事に他ならない。その手続きとは呪文であり、印であり、魔術刻印、そして礼装であるのだが。

 

「何か違う」

 

士郎が成す投影という現象にはその手続きが無い。強いて言えば自己暗示なのだが、その様な簡易な方法で投影が何故できるのかが不可思議だった。わら半紙に手の汗が移る頃、士郎はペンを机に放り投げ畳の上に寝そべった。どれほど考えても答えなど出てこない。だが凛に聞く訳にも行かない。

 

(アーチャーに聞くしか無い、けれど)

 

聞いても答えを与えてくれるかは非常に疑わしい。拒否されるのは構わないが、辛辣な嫌みと皮肉を効かされるのは御免被る。アーチャーに対しては感謝はしているが、馬鹿にされるのはやはり面白くない。手足を広げて大の字、士郎が渋い顔で唸っていると、襖越しに声をかけれらた。

 

「先輩……居ますか?」

 

桜であった。時計を見れば夜の10時。こんな夜更けにどうしたのかと訝しがった。そして身体はもう大丈夫なのかと心配になった。

 

少し迷ったあと士郎は桜を招き入れた。桜が倒れた事は彼にとって憂慮する事であったが、それ以上に責任を感じていた。彼はセイバー陣営の頭なのだ。つまりは責任感である。流石に、今回ばかりは真也に詫びを入れなくてはならない、そう痛む頭を堪えつつ士郎はこう聞いた。

 

「桜。身体の様子はもう良いのか?」

 

彼の目の前に正座する桜は俯き目も合わさない。いつもはほんのりと赤みがかっている健康的な表情からは血の気が失せていた。瞳は濁っていた。見からに様子がおかしい。部屋に戻らせるべきだ。彼が口を開き掛けた瞬間、桜はふらりと立ち上がりこう告げた。

 

「先輩、私としませんか?」

 

精気の欠いた声だった。死人でももう少しまともな声だろう、彼はそう思った。

 

「するって、何をさ」

 

桜はスカートを捲り上げた。その中に見えるべき下着は無く陰部を露わにしていた。展開の不可解さと、その困惑的な光景に彼は声を出せなかった。

 

「良いですよ好きにしても。いえ、先輩の好きにして下さい」

 

桜はそのままの姿勢で歩み寄った。彼女のそれは彼の鼻先まで近づいた。戸惑う士郎に焦れた桜は全ての衣類を脱ぎ去った。年齢不相応な艶やかな肢体を少年の部屋で晒した。己の胸を揉み上げれば、指の隙間から白い肉が溢れた。

 

「どうですか、大きさは。少し自信があるんです」

「……服を着るんだ。今の桜はおかしい。ライダーを呼んで来るから」

「馬鹿な事を言わないで下さい先輩。ここまでした女の子に恥を掻かせるつもりですか」

 

桜は士郎を押し倒した。彼の目の前に違和感を感じる程に蕩けた少女がいた。触れ合ってはいなかったが、体温が感じられる程に距離が近い。触れずとも見るだけで、柔らかみが想像できる肢体だった。放つ香りが鼻孔を突いた。垂れ下がる髪はメトロームの様に波を打ち、彼の理性を揺さぶった。

 

「さ、せんぱい。溶け合いましょー」

 

場違いの様なそれでいて当を得ている様な、桜の誘惑だった。唇が触れかねん程に近づいた時である。

 

「シロウ! 無事ですか!」

 

襖が勢いよく開くと其処にセイバーが立っていた。髪は結っておらず肩に掛かっていた。それは湿り気を帯び纏まっていた。彼女はバスタオル一枚であった。入浴していたところを飛び出したのである。むろんライダーの一計だ。叫ぶ桜は鬼のよう。

 

「邪魔をしないで!」

「シロウから離れろ! この泥棒猫!」

 

セイバーは士郎を抱きかかえると桜から引き離した。その様は奪い返す様である。そうはさせぬと飛びかかろうとした桜にセイバーは踏み込んだ。鳩尾に拳を突き立てられた桜は身体をくの字に曲げ気を失った。

 

 

◆◆◆

 

 

真也と出会った頃の幼い桜は感情の起伏が乏しかった。最初は乏しいながらもそれなりの反応があったのだが徐々に大人しくなっていった。大人しすぎていた。何か能動的な行動をすれば罰せられる、そう思い込んでいた。ただ言うことだけを守り、何かを愉しむでも無く、悲しむでも無く、淡々と日々をこなす有り様であった。

 

“桜を任せた。日中はお前に任せるが夜は必ず一緒に居ろ”

 

そう言い残し千歳はいつもの様に仕事に赴いた。家には桜と彼のみだ。桜は千歳の言いつけを守って家の仕事をする。学校にも行くが友達とも遊ばず作らず、まっすぐ帰ってくる……それが桜の全てであった。用事も済ませれば部屋の隅で蹲りじっとしていた。時折思い出しては怯える様にその身を震わせていた。

 

当時の真也は桜を守るべき者だと認識していたが、その距離を計りかねていた。守ると言う事は妹の敵を滅ぼす事。それには己の腕を磨く事。そう考えた彼は何かの影に怯える桜を一人部屋に残し、ひたすら庭で鍛錬に励んでいた。木刀を持ち風神流の型をなぞる。桜と食事を共にするが互いに無言。それが終われば桜は無言で食器を片付ける。

 

“妹の扱いが分からない”

 

己に苛立ちを覚えながらも彼は鍛錬に明け暮れた。

 

当時、桜と彼は同じ部屋だった。桜は就寝時、必ず枕元に電気スタンドを置いていた。彼がどうしてだと聞いても桜は答えなかった。言いたくないとも言わず、秘密だとも言わず、ただ押し黙る。正直なところ寝にくいと彼は思っていたが妹の好きな様にさせた。

 

それから数日たったある夜の事。時間は草木も眠る丑三つ時。スタンドの電球が何の前触れも無く切れた。なんと言う事も無い、電球が寿命を迎えただけである。これでようやく熟睡できる、そう思った彼は愚かしい思い違いをしていた事に気づかされた。

 

最初はヒューヒューという音だった。何の音だと彼が布団から這い出ると、妹の呼吸の音だと思い至った。次に妹はガチガチと歯を鳴らし始めた。明らかに異常だ、そう感じた彼は桜と名前を呼んだ。反応が無い。もう一度名前を呼んだ。反応が無い。そのうち布団の上からでも分かるほど震え始めた。布団の上から妹を揺すると途端に飛び出した。畳に爪を立て、四つん這いで逃げてゆく。その様はまるで怯える動物だった。壁を背にして後ずさっていた。

 

眼は見開き、充血し、瞳孔も開いていた。口は大きく開き、唾液が垂れるのも気にしていなかった。フラッシュバック。あまりにも強烈な体験をした為、記憶と共に感情も呼び起こす心理的現象。直感的にそれに思い至った彼は暴れて怪我をする前にと、桜の腕を握った。

 

桜は捕まれた自分の腕を見ると暴れ出した。恐怖そのものを体現した様相で、少なくとも6歳の子供がしてはならないという形相だった。耳をつんざく信じられない悲鳴、いや、絶叫が響き渡る。

 

彼には妹のその姿が6歳の子供のそれであると結びつけられなかった。体などどうなっても構わないと言わんばかりの力で暴れた、のたうち回った。桜は蟲は嫌だ、蟲は嫌だと何度も繰り返した。もちろんそんな物は居なかった。だが桜には見えていたのである。忌まわしき記憶としてだ。

 

“嫌だ嫌だ。ごめんなさいごめんなさい。許しておじいさま許しておじいさま”

 

彼は千歳が言っていたことを思い出した。桜は魔術師であり祖父である間桐臓硯から4歳の頃より2年間。筆舌に尽くしがたい虐待を受けていた。外法で作った蟲に体中を犯され改造されていたのである。

 

その時彼は漸く妹が怖がっている事に気がついた。忘れてはならなかった、その蟲を取り除いたのは他ならない彼だったのだ。暗闇と肌を這う蟲の感覚、解放された今尚、桜の心を蝕んでいるのだった。彼は桜の両肩を掴むと、

 

“蒼月桜!”

 

と大きな声で呼んだ。桜はビクリと身を震わせ大人しくなった。

 

“桜。これは桜の名前だ。自分で名乗るんだ”

“まとう、”

“その娘はもう居ないだろ。桜、自分の名前を言うんだ”

“でも”

 

桜は間桐で虐待された。蒼月に来てまた虐待されることを恐れた。だからお客として慎ましくあろうとした。

 

“良いか桜。桜はもう蒼月桜なんだ。だからもう辛いことは思い出さなくていいんだ”

“もう怖いのはいや”

“俺だって嫌だ。だから俺が桜の怖い事から守る”

“そんなこと誰にもできない。おじいさまは怖い人だから”

 

千歳が間桐臓硯を殺した事を桜は知らない。永遠に知る必要が無い事だからと伝えていなかった。桜は大人の都合で連れてこられたと思っていた。またか、また捨てられたのか、と諦めていた。桜の諦めた表情を見て彼はふんぞり返った。

 

“ふふ、桜よ。蒼月を、うちの家を馬鹿にしちゃいけない。虫使いの死に損ないなんて眼じゃないね。あうとおぶがんちゅー”

“でも、”

“良し。なら証を立てよう。桜、庭に行くぞ”

 

彼の家には広めの庭が有りその一画に巨大な岩があった。3人の大人でようやく一抱えできそうな大きな岩だ。彼は木刀を持ちその岩の前に立った。パジャマ姿の桜は縁側でおどおどしていた。夜空の月が落とす陰、庭木や岩の陰、夜の闇を恐れていたのだ。

 

彼の声は桜の怯えを振り祓うかの様である。

 

“そもさん”

“せ、せっぱ”

“紙は切る。粘土は千切る。鰹節は削る。では岩は?”

“……割る?”

 

彼は魔力を練り上げ、集中し、木刀に乗せた。アストラルの蒼白い光が迸る。上段に構え、まっすぐ打ち下ろした。岩を左右真っ二つに切った。ゴロンと大きな音がした。

 

目を丸くする桜は声も出せない。彼は妹を招き寄せ断面を見せた。それは鏡の様な滑らかな断面、とまでは行かないが紙のような一様の表面だった。紙やすりの表面が適当だろう。彼は自慢げである。彼が力の違う使い方を初めて知った瞬間でもあった。

 

“斬る、だろ?”

“すご……”

“今のは風神流の技だ。桜、俺は木刀で岩を断つほど強いんだ。母さんはもっと強い。二人で桜を守る。まだ怖いか?”

 

桜は彼が掲げる木刀を見ると、怖いのか安心したのか首を小刻みに横に振った。

 

“さあ桜。もう一度聞くぞ。桜の名前は?”

“……あ、蒼月桜”

 

彼は良しというと桜を抱き上げた。桜は慌てふためいた。

 

“お兄ちゃん、自分で歩ける”

 

彼は笑った。それは彼にとって初めての笑みでもあった。

 

“な、なに”

“初めてお兄ちゃんと言ったな?”

 

桜はそのまま俯いてしゃべらなくなった。部屋に帰った二人は一緒に寝た。怖くない怖くないと彼は夜通し言い続けた。

 

“俺が桜を永遠に守る”

 

幼い真也が桜に誓った絶対の安心。それは彼女を立ち直らせるのに必要不可欠だったのである。時は戻り現代の衛宮邸、その離れ。ベッドの上で魘されるのは桜だった。今の全ての状況は彼女が発端だ。自分が悪いと分かっていた。それでもこみ上げる悲嘆と恐怖はどうにもならなかった。

 

“嘘つき……”

 

毛布にくるまれ嗚咽を漏らすマスターの姿を見て、ライダーはある決意をした。

 

 

 

 

 

つづく!




【型月3年H組 昼メロ先生!】

さくら「それでは授業を始めます、」
しろう「桜!」
さくら「今更なによ!」
しろう「俺が悪かった」
さくら「馬鹿っ! 寂しかった!」
せいばー「この泥棒猫……」
さくら「お、お母様!」

麻婆神父「聖杯戦争やれよお前ら」


当初(リメイク前)はこんな半分ギャグのコンセプトでした。登場キャラクターの認知能力は下げた方が明るくなるんだろうな……リアル志向を取り入れすぎると駄目ね。


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23 聖杯戦争・10 キャスター編

時を遡ること一日半、つまり真也がセイバーにゴミ扱いされた後の事である。衛宮邸を発った彼は新都を彷徨っていた。

 

本屋で時間を潰し、服屋を巡り、大型電気店で携帯電話を見つつ店員を冷やかした。自動販売機でコーンポタージュを買い、駅のロータリー近くに腰掛けた。目の前にはバス停と電車の駅が見える。人々はせわしなく歩いて行った。老人、サラリーマン、家族連れ、平日だというのに、学生服もちらほら見えた。彼の目の前を制服姿の少女たちが談笑しながら歩いて行く。スカートの丈は短く脚を積極的に見せていた。何時もの彼であれば、視線で追いかけただろう。或いは声も掛けたかも知れない。だがそんな気には全くなれなかった。

 

頭が重い。胃が重い。脚が重い。何もかもが重い。彼は盛大に溜息を付いた。

 

「遠坂家に帰りたくない……」

 

彼を悩ましているのは凛である。いつもと変わらぬウェーブ掛かった髪、華奢ではあるが淑やかさを持つ肢体。赤のタートルネックシャツに黒いフレアミニスカート、恰好こそ見れば何時もの凛でっあたが致命的な点が一つ。

 

「なんでデレた……」

 

ある朝目が覚めたらデレていた。何の脈絡も無く、伏線も無く、それは女性特有の心理に起因する事だったが、彼にしてみれば訳が分からない。別にデレること自体に問題は無い。距離の近い事が非常に困る、献身的なまでに世話を焼かれるのが非常に困る。ギリと全身に痛みが走った。麻酔無しで歯を削られる痛みが駆け巡っている様だ。精神力で呼吸はどうにか整えたが、脂汗が止まらない。手足も震えている。彼の凛への評価は、怖いでも辛いでもなく、次の一言に集約できる。

 

“凛が痛い”

 

空を見れば直に陽が落ちる。ビルの上の方は橙色に照らされて、下の方は影の色だ。外出時間は特に決まっている訳ではない。陽が落ちても暫くは人の往来が相応にある為、直ぐに危険という訳では無いが、夜の警護という目的を考えれば日没までに帰るのが肝要だ。だが。

 

彼は重い身体を動かして電話ボックスに入った。テレカなぞ持っていない為現金支払いだ。10円玉が無い、渋々50円玉を投入した。呼び出し音を辛抱強く待ったあと繋がった。

 

『はい、遠坂です』

 

葵の声だった。いつもであれば使用人が対応するのであるが、聖杯戦争中に限り早めに帰宅させていた。ありがたいと彼は安堵した。

 

『蒼月です。今日のゆう、』

『少し待って下さいね』

『え、あの、』

『真也?』

 

為す術もなく凛の声である。彼は少しだけ葵に不満を持った。

 

『……少し遅くなります。晩ご飯は要りません。適当に済ませます』

『面倒事? 今何処に居るの?』

『違います。大丈夫です。新都です』

『場所を教えて。すぐ行くから』

『いえ。一人で大丈夫ですから』

『待っ、』

 

凛に耐えきれず彼は受話器を置いた。彼女が居るならアーチャーも居ると言う事だ。警備は心配ない。

 

「なぜ敬語だし。俺」

 

通話料のおつりは出てこなかった。

 

 

◆◆◆

 

 

凛はぼんやりとしていた。白いクロスに覆われたテーブルに両手を重ね、その上に頬を乗せる様は突っ伏していると表現しても良い。彼女のその心象は憂鬱、アンニュイである。目の前には真也が食べるはずだった夕食、シチューが並んでいた。焦点が合わない。それはぼやけて凛の瞳に映っていた。彼の連絡は凛が夕食を準備した後だった。手間を掛けようと早めに仕込んだのが仇になったのである。

 

「……」

 

怒りは無いがとにかく落胆していた。凛の初めての彼への夕食が無駄になってしまった、それも理由の一つだが、彼女の願いはただ元気を取り戻して欲しい、食べさせて元気を取り戻させたい、これに尽きた。主の居ないスプーンを手に取りシチューをかき回した。冷えて既に固まっていた。

 

(まだ綾子の事気にしているのかしらね。それともやっぱり桜の事……)

 

実際のところ、それは些細な事だった。彼女にとって、真也の“一人で大丈夫”この言葉がとにかく辛い。本当に大丈夫なら良いのだが、そうで無いのは明白だった。悩み、苦しんでいるのに何も出来ないのが辛いのである。

 

今の真也は何かが違う。初めて会ったのはグール戦の時であったが、その記憶を辿ると今の彼は別人の様だ。イリヤスフィールを躊躇いもなく斬り付けた彼にはとても見えない。彼は悩みとは無縁の人間、その筈だった。何時の頃からか彼は苦しみ悩む様になった。

 

彼女が思い当たるのは、1stバーサーカー戦の翌日、久宇舞弥と会合を持つため彼を訪れた時、彼が“気分が悪い”と言った事を良く覚えていた。今にして思えば、戸惑いと苦悩を見せる様になったのはそれからだろうと察しが付いた。そして綾子との決別。彼がおかしくなったのは凛と出会った事が主要原因だが彼女はそれに気づいていなかった。

 

物思いに耽っても事態は好転しない、彼女は黙って食事を片付けた。サラダはラップを施して冷蔵庫にしまった。彼女はこみ上げる涙をどうにか堪えた。

 

書庫でヘラクレスの文献を漁っていた凛は、夜の9時を過ぎている事に気がついた。帰ってきているかもと真也の部屋を訪れればもぬけの空である。まさかと思い葵の部屋に赴けば母親に呆れられた。

 

後ろめたさはあったが彼の部屋に無断で入った。かつて彼女が使っていた部屋であり、暫く無人だった部屋だ。管理のため希に手を入れていた程度の、特に印象を持たなかった部屋が違って見えた。遠坂には今まで無かった雰囲気、匂いが満ちていた。

 

カーテンを閉めた。暖房のスイッチを入れ戻ってきた時寒さを感じない様にした。明るすぎず暗すぎない様にスタンドライトを灯した……彼女は夜の準備をした。

 

部屋の隅に旅行鞄が置いてあった。片手持ちで革製の角張った鞄だ。余りに典型的な鞄である。誰の趣味なのだろうと凛は首を傾げた。桜とも真也とも思えない。それは千歳の物だったが、凛は知るよしも無い。

 

気がついた時には鞄を開けていた。越権行為だ、プライバシーの侵害だ。そう思いつつも、知りたいという欲求が堪えきれず開けてしまったのである。そこには衣類や日用品が雑多に収められていた。否、詰め込まれていた。だらしがないと呆れつつも心が躍り出す。

 

鼻歌交じりに温和な瞳。衣類を取り出しては、たたみ直し整然と収めていった。グレーの衣類を手に取ればそれはボクサーパンツだった。未使用の下着は直ぐ使うので取り出しやすい位置に収めた。顔が赤くなる。

 

「……したぎっ!?」

 

自分のしでかした行為に遅れて気がついた。両手を胸に起き、呼吸を整えた。気を取り直し詰め直す。何かが詰まったビニール袋を手に取った。それには使用した下着が収められていた。遠坂家の滞在は短期間、ため込む腹づもりらしい。洗おうかと考えたが流石に気恥ずかしく机の足下に置いた。

 

試験管の様なガラス容器が数本納められていた。それは傷を癒やす無色透明の液体である。魔術に関する薬品だと凛は察した。わざわざ持ち歩いている以上、相応な物だろう。つまり手にするそれは蒼月家の魔術である。無造作に置いておく方が悪い。駄目だ、戻せ、信頼に関わる。手の汗がガラス容器を伝わる程に葛藤したあと彼女はそれをポケットに収めた。調べれば真也を知る事が出来る、その欲求に勝てなかった。桜だけ知っているのは不公平だ、それを弁明とした。

 

一通り片付けが終わると彼女はベッドの枕元にある板、ベッドボードに宝石を一つ置いた。黒い布の上に置かれた赤い宝石には魔力が籠もっている。微弱だが破魔の効果があり悪夢を祓う。

 

思いついた事を全て済ますと凛はベッドの上に腰掛けた。ギシリとマットレスの音が鳴る。時計を見れば10時を回っていた。まだ帰ってこない。連絡は無いが、残りはキャスターとアサシンである。三騎士やバーサーカーならともかく後れを取る様には思えなかったが、不安が募る。

 

“一人で大丈夫だから”

 

それを振り払う様に身を横たえた。戯れに枕に鼻先を埋めると、遠坂では無い人間の匂いがした。それがこの部屋に、家に染みこむと良いい、そんな事を考えていたら彼女はそのまま寝てしまった。

 

凛が目を覚ますと朝だった。少しのつもりが熟睡してしまうとは不覚、風邪を引かなくて良かったと身を起こせばベッドの中だった。衣服に乱れは無かった。どこかの誰かが死ぬ気で凛をそうしたのだった。

 

だが彼女は不満を隠さない。気遣いは嬉しいがそんな事をするぐらいなら起こして欲しかった。無事な姿を見たかった、声を聞きたかった。ベッドボードの横にメモ書きがあった。

 

“収穫無し”

 

なぜわざわざメモを残すのか。文句を言おうと食堂に足を運べば葵のみで真也が居ない。

 

「……真也はどこ?」

 

彼女は朝の挨拶すら忘れたいた。葵は首を傾げて言う。

 

「用があるともう出かけたけれど……凛が知らないの?」

 

避けられている、と直感で理解した。胸が締め付けられた。葵には会って何故私を避けるのか。

 

“私は真也の何?”

 

どうにかなってしまいそうな不安を全て飲み込んだ。一瞬その表情を陰らせた娘を見た葵は察した。

 

 

◆◆◆

 

 

凛が衛宮邸に出かけ暫く経ったころ真也は遠坂邸に戻ってきた。衣類の洗濯をしに実家に戻ったのは良いが、肝心の下着を忘れたのだ。もちろん忘れた理由は凛が鞄から取り出した為である。忘れた自分に呆れたが良い機会だと不問いにした。遠坂邸と蒼月邸を往復するのも良い気分転換になる。

 

(洗濯って簡単だったな)

 

衣類をまとめて突っ込み、粉洗剤を入れて、スイッチを押すだけだ。これならば桜を手伝う事も出来よう、と軽い心持ちで遠坂の門をくぐった。今この館には凛が居ないのだ、それだけで気が楽だった。

 

ところが部屋に戻れば下着が無い。忘れたと思った筈の下着を詰め込んだビニール袋が無い。ベッドの向こう側を探す、無い。テーブルの下を探す、無い。ゴミ箱の中、無い。はてな。

 

「洗濯させて頂きました」

 

ベッドの下を覗き込んでいた彼はその声に固まった。ぎこちない動作で首のみ回し、見上げれば葵が立っていた。軽く曲げた両膝に両手を立てて、身を屈めるその姿は子供を見つけた母親そのものである。いつもの様に穏やかな笑みだった。

 

彼は呻いた。なぜ葵の気配に気づかないのか、それが不思議でならない。まるで警戒装置が全て止まってしまったかの様である。葵が敵意を持っていれば為す術がない、彼はそう考えた。そしてまた、それならそれでも良いとも考えてしまった。流石の彼もその異常性に恐怖した。尚、彼が警戒しない人物は桜のみである。

 

彼は這いつくばったままこう言った。その言い様は苦情ではなく懇願だった。

 

「……あの、流石にそれは困ります」

 

葵はしゃがみ込んだ。膝立ちで覗き込む様に近づいた。彼は慌てて飛び退いた。ベッドのフレームに背を押しつける様は、見えない力に押え付けられているかの様。葵が胸元が見えない様に手で押さえ、長い髪を揺らしていた。その彼女に見詰められる様は筆舌にしがたい。悪戯めいてもいたし、気遣われているようにも見えた。真也は蛇に睨まれた蛙であった。

 

(実は分かっててやってるんじゃ無いだろうな、この人……)

 

正解である。葵は真也の反応がおかしくて、楽しくて、可愛くて堪らないのだった。

 

「何故ですか」

「いえ、そこまでして頂くと恐縮すると言いますか、気恥ずかしいと言いますか」

「お気になさらないで下さい」

(無茶言うし)

 

葵は穏やかな表情から一転満面の笑み。

 

「真也さん」

「はい?」

「凛は夕方に戻ります。お忙しいとは思いますが、それまでに戻っては頂けませんか?」

 

仕事ですと突っぱねようと思ったが、葵の頼みでは拒否できなかった。従順に頷くのみである。釘を刺されてしまったと項垂れた。

 

葵の願いに頭を抱えながらも、真也が訪れたのは新都にある警察署、その近くにある食堂だ。木造建築の2階建て。昭和から続く隠れた名店だった。彼の目的は食事では無い、そこに通う人物である。扉を開けてその人物を見つけると、挨拶を述べ向かい席に腰を落とした。その人物は胡散臭そうに真也を見ると箸を置いた。

 

「お前が警察署の近くに来るとはな。何を考えている」

 

その人物は刑事だった。ライトグレーのスーツ姿で歳は50。顔に刻まれた皺と、髪に混じる白髪が年齢以上に見せていた。

 

「と言うよりまたサボリか」

「久しぶりにJさんの顔を見たくなっただけです」

「本音は?」

「人生相談、って奴です」

 

「お前がか」

「俺も人間ですよ」

 

J氏は真也を舐る様に見た。

 

「確かにな、悩んでいそうだ」

「そう見えますか?」

「見える、あの時のお前を思い出すと信じられない」

「あの時ってどの時です」

 

J氏は笑い出した。

 

「確かにそうだ。心当たりが多すぎる。で、相談ってのは?」

「最近、冬木市で変わった事はありませんか?」

 

お冷やを飲む真也は何食わぬ顔。妙な事を聞かれたJ氏は警戒を隠さない。

 

「真也、お前何を企んでいる」

「何も。ちょっと気に掛かってるんです。人生的な意味で」

「無いな。有ったとしても一般人である真也に業務内容を言う訳にはいかん」

「刑事さんが関わる様な話じゃ無いです。噂やちょっとした事です」

 

「ほー。そのちょっとした事がどうして気になる」

「昔、Jさんの部下を助けた事がありました。それで手を打ちませんか?」

「結果的に、だろう」

「確かにそうです。俺が居合わせなかったら怪我じゃ済まなかったでしょうね。結果的に」

 

「相変わらず憎たらしい小僧だ」

「俺に手錠を掛けた人が言いますか」

「自業自得だろ」

 

J氏は煙草を一本取り出すと火をつけた。煙を吐き出した。

 

「……美人が冬木市に居るそうだ」

「知ってます。俺の家に居ますから」

「相変わらずのシスコンか。聞け、それが並大抵の美人じゃ無い。想像を絶する美しさ、だそうだ。直接お目に掛かった事はないが、署でちょっとした噂だ」

 

想像を絶する美しさ、と聞いてサーヴァントを連想した。セイバーは絶美少女であったし、ライダーの素顔は見た事は無かったが、それでも神がかり的な美しさだとは予想が付いていた。この刑事はライダーの事を言っているのかと思った。

 

「歳は30前後。外国人では当てにならんがね」

 

妙だと真也は思った。セイバーはどう見ても10代半ば。ライダーは20代半ばだ。その二人を見て30歳前後と判断する人物は居ないだろう。別のサーヴァントではないかと彼は考えた。断定は出来ないが疑うには十分だ。

 

「……何処に行けば会えますか?」

「さぁな。商店街や柳洞寺の近くで目撃情報がある程度だ」

 

真也は席を立った。

 

「ありがとうございます」

「妙な事は考えるなよ」

 

彼は首を竦めるだけだった。何が妙なのか彼には分からなかったからだ。聖杯戦争は一般人からしてみれば妙かも知れないが、刑事が言及する妙とは犯罪の事だろう。

 

住宅街に戻った真也はまず人通りの多い商店街をぶらついた。都合良く見つかる訳でもなく、買い物の振りをしてなじみの人間に聞いてみたところ確かに目撃情報はあった、その程度である。

 

(明日、柳洞寺に行ってみるか。一成にバレると嫌なんだけれど)

 

遠坂家を出て、新都を放浪し、刑事と話し、商店街を聞き込みすれば既に夕方だった。そろそろ戻らなくてはならないが、ライダーとの約束があった。だが自分がおかしい、桜と会うべきか、その判断が付かない。彼は衛宮邸の近くまで来たがそのまま脚を返した。そのタイミングを語れば、凛の帰宅後、桜の倒れた後である。遠見の魔術でそれを見ていたキャスターは次手を打つ事にした。

 

 

◆◆◆

 

 

遠坂の台所で凛が掻き混ぜるのは昨夜作ったシチューである。作り直すべきか、迷ったが一晩おいたら随分と味が良い。手間を掛ければ良いという物では無かろうと、そのまま振る舞う事にした。

 

「……」

 

先ほど帰ると真也から電話があった。電話に出た葵は変わろうと凛を呼んだが彼女は拒否をした。私は怒っているのだと、そのポーズを示さなくてはならないのである。直に玄関の開いた気配がした。今か今かと待ち構えていた凛はエプロンを取り椅子に掛けると、手足を大きく振って歩き出した。文句も決めてある。

 

“勝手にしないで”

“何の一言もなく”

“私がどれほど心配したか”

 

だが、玄関に立つ彼の姿を見たらその気も失せた。無事な姿が見られただけで不満は吹き飛んでしまった。幸せそうな娘の姿を見て葵は現金なものだと吹き出した。組んだ両手を腹部に添えて、凛は一歩踏み出した。彼女が見上げる先には彼の困った表情があった。最初に伝えるべき言葉は一つしか無い。

 

「お帰りなさい」

「……ただいま戻りました」

「夕食の準備は直ぐ出来るから、手を洗ってきて」

 

身を翻しパタパタと凛が立てるスリッパの音は軽快そのものだ。誰がどう見ても喜んでいる様に見えただろう。彼は耐えきれず、壁に額を打ち付けた。

 

場所は変わりリビングである。彼に夕食の記憶は無かった。何か話したが何を話したのか覚えていなかった。ただ凛の微笑みだけが記憶にあった。今その凛は彼の左隣りに居た。二人はソファーに並び腰掛けていた。二人の距離は握り拳一つ分である。体温も匂いも柔らかみすらも感じられる距離だった。

 

彼女は何も言わず文献を読んでいた。書庫で読めば手間が無い筈なのにわざわざ持ち出したのは、側に居たいという願いのみだ。霊刀の手入れをしていた真也は我慢できずにこう聞いた。ただ視線は合わせなかった。

 

「言いたい事があるんじゃ無いのか」

 

文句、苦情、と言う意味である。彼には凛が何も言わない事が不可解だった。彼女は一枚捲ると静かに告げた。

 

「気づいてる?」

「なにが」

「私の距離。少し手を伸ばせば、動かせば抱き寄せられる。真也の好きに出来る」

 

彼は手を止めた。

 

「……凛。俺にそのつもりは、」

「良いの。大体分かったから。それでも良いから。私待ってるから」

 

何が分かったのか、彼はそれを問いただす事が出来なかった。二人が寝静まったころ真也は屋根で刀を抱きかかえ、蹲っていた。下がる視線は遠坂家の前を走る道路に注がれていた。物思いに耽る彼の焦点は合っていない。

 

思い出すのは先のバーサーカー戦の夜の事。彼は心にも無い好意を凛に告げた。凛を騙していると言う自覚は初めから有った。承知していた。凛と士郎が結ばれれば桜が泣く、手を打つには早いほうが良い、これは最善の策だった。桜の為にと今までずっとそうしてきた。疑問に思う事すら無かった。だが、これは正しい事なのかと、彼は生まれて初めて疑問に思った。そんな筈は無い。今頃何を言う。今更だ。だが何故これ程辛い。

 

“間違っている? 桜の為にしている事なのに?”

 

ぼうと見ている視線の先。遠坂家に沿って走る小道を幼い桜が歩いていた。泣きじゃくり必死に兄を探していた。その幻は闇に消えた。

 

「……」

 

彼はふらりと立ち上がった。間違ってなどいない筈だ、彼は己にそう言い聞かせた。そうでもしなければ動けなかったのである。

 

凛がそろそろ眠りにつこうかという頃、扉を叩く音があった。彼女は直感で真也だと分かった。こんな時間に何の用だ。扉を開ければ装備を調えた彼が立っていた。やっぱりそうなのかと、凛は精一杯の笑顔を見せた。

 

「桜の所?」

「悪い、少し顔を見たくなった」

「こんな夜にどうして?」

「強いて言えば胸騒ぎ」

 

凛は桜が倒れた事を知っていたが、真也には伝えていない。どうしてそれに気がつくのか。彼女は唐突に氷室鐘の話を思い出し、やはりそうなのだと、その事実を受け入れた。

 

「良いわ。でも早く帰ること。アーチャーも居るけれど、真也の単独行動は危険だから」

 

彼女は小箱から魔力を籠めた宝石を取り出し彼に差し出した。

 

「これを持っていって。使えば駆けつけるから。何があっても直ぐに駆けつけるから」

「悪いけれど気持ちだけ貰っておく。それは葵さんに渡してくれ」

 

凛の身体に触るのが怖い、気遣いを受け取るという事が出来ない。

 

「そこまでしてくれなくて良いから。俺は一人で大丈夫」

 

凛は一歩強く歩み寄った。真也は無意識に一歩後ずさった。

 

「なら行かせない。アーチャー使ってでも止める」

「何かあっても使わない、それならどう? 意味は無いだろ」

「真也が持つ事に意味があるの」

「どんな意味がある」

「これは私たちの第一歩だから」

 

真也は暫く固まっていた。歯を食いしばり凛の手の平からそれを取った。

 

「気をつけて」

 

彼は何も言う事が出来ず、廊下の暗がりに消えていった。

 

「真也さん、こんな時間に外出?」

 

それは入れ替わりでやってきた葵だった。二人の事が気がかりで寝付けなかったのである。

 

「ねぇ、母さん。父さんに頼られてないって感じた事あった?」

「何よそれ」

「真也ってシスコンなの」

「……妹さんを大事にしてるって事?」

 

葵は“妹の名にかけて”と真也が言った事を思いだした。

 

「それはもう良い、受け入れた。でも頼ってくれないのが辛くて。本当に必要が無い奴ならそれでも良い。でも真也はそうじゃない。苦しんでるのに何も出来ないのが辛い」

「つまり、甘えてほしいと」

 

凛は頷いた。その瞳は彼が消えた暗がりを求める様にじっと見ていた。

 

「贅沢な悩みね」

 

甘えたいが普通先だろうと、葵は溜息を付いた。

 

 

 

 

 

つづく!




痛ぇ、心が痛ぇ。凛の健気さが辛い。キータッチが重い、文字綴りが進まない、こんな事は初めてだ。こんな事ならデレさせるんじゃ無かった。デレが無ければこのイベントは無かったのに。もう真也に受け入れさせたい、凛を笑わせてやりたい。でも桜がぁ、プロットがぁ……あ、あ、あ、あー、(錯乱

今話で真也が衛宮邸に行く予定でしたが、推敲する度にSAN値が削れます。耐えきれず半分で投稿です。ごめんなさい。次回こそ。








【Q&A】
Q:セイバーが邪魔
A:セイバー陣営の立場で考えてみておくんなまし。

セイバー陣営とライダー陣営が結んだのはあくまで共闘、それに個人的事情を配慮することは含まれません。

舞弥が士郎を真人間にしたいから女の子の部分を見せてあげて下さい、と凛に言えば彼女は知ったこっちゃないと突っぱねるでしょう。それと同じです。

セイバーから見れば自分のマスター(士郎)が他のマスター(桜)に骨抜きにされては叶わない。抱いた女に情が移っては困る、せめて聖杯戦争が終わってからにしろと……というのが彼女の意見です。もちろんこれは建前であり、本心はセイバー自身気づかぬところで舞弥に育成されてます。

それ以前に、私たちは桜の事情を知っていますがセイバー(陣営)は知りません。凛を主に警戒していたセイバーから見れば、温和しくしていた桜が何の脈絡もなく裸で迫っていた訳で、そりゃー驚きます。温和しい振りをして虚を突くとは、この女狐! って感じです。あーあの台詞女狐に変えようかな。

因みに。セイバーが原作通りの性格だった場合桜を止めはしませんが、その場合舞弥がその役を努めますので、桜が止められるというイベントは結局起こります。


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24 聖杯戦争・11 キャスター編

月明かりを浴びてトボトボと歩くのは真也である。日付が変わるにはもう暫く時間が掛かるが、10人が10人口を揃えて答える紛う事なき深夜であった。左手にある和風住宅は灯火が落ちて何も語らない。右手にあるアパートも沈黙していた。自動車が二つ並べば塞がってしまう程度の小道ではもはや人影すら無い。

 

塀の上に佇む黒猫と眼が合った。足が止まった。彼は声を掛けた。

 

「うなー」

「……」

 

猫は一瞥をくれると立ち去った。汚物から逃げるかの様である。

 

「ふ、猫にも馬鹿にされるわ……」

 

またトボトボと歩き出す。

 

「無様だ。冬木の羅刹と呼ばれたあの日が懐かしす……」

 

あの頃は楽だった。迷う事など無かったからだ。分かりやすい相手には腕力に訴え、大立ち回りをするだけだった。知恵が効く相手には策を巡らし陥れた。見知らぬ大人に何度も怒鳴られ何度も殴られた。挑発し殴らせた事もあった。堪えなかった。気にならなかった。だから何度でも繰り返した。挫折する事なく、嫌気も差さず、打ちのめされる事も無かった。

 

“何故こうなった”

 

数日前からか感じる様になった“痛み”は、気がつけば慢性化していた。この瞬間でさえも鈍く痛む。彼はそっと左手首のリボンに右手を添えた。

 

「サクラニウム、最近効きが悪いな……」

 

彼は商店街に向かうと公衆電話を手に取った。ピポパと電話を掛ければ士郎の声である。

 

「山」

『……川?』

「んむ」

『なにやってるんだお前』

 

「電話を掛けている」

『そう言う事じゃない。電話を掛けて合い言葉も無いだろ』

「名乗らなくても誰か分かったじゃないか」

『いや何というか、普通に名乗れば済む話じゃないかと』

 

「士郎に名乗るのが気に触ったんだ」

『実はお前はツンデレじゃないかって最近思う』

「よせやいキモイから」

『……で、用件は?』

 

真也はここで漸くどちらに会いに行くのか、それが分かっていない事に気がついた。目的は桜だがアポを取ったのはライダーである。ところがどうした事か、士郎はこう切り出した。

 

『……真也。お前に言わなくちゃいけない事がある』

「何だよ改まって」

『桜の事だ』

「ほほう」

 

とうとうやったか、告白したか、どちらがしたか、士郎からなら一発殴って許す、桜にさせたなら一発殴る、と真也は笑いながらも米神を痙攣させていた。

 

『……』

「言い難いのは分かる。怒らないからお義兄さんに言ってみな?」

 

ちゅーしたのか、まぁそれぐらい当然だよな、小学生じゃあるまいし、一発殴って大目に見よう、と真也は笑みと怒りが混じり始めた。

 

『……』

「……」

 

らしくない、と真也は思った。士郎は臆面無く言う方だ。特に真也に対しては遠慮が無い。その士郎が言い淀むとは相当言い難いのかと考えた。察した。受話器を持つ握り手に力が入る。ミシミシと音を立てた。

 

『……実は、』

「ヤったのか」

『……なにが?』

「ヤったのかと聞いている」

 

『……』

「……」

 

士郎は桜の裸を思い出した。

 

『そんな事しない!』

「まだ学生の分際で妹を孕ませるとは良い度胸だ! 責任取れるのか!? 取れないだろ!? 表出ろ!」

『生出しなんて無責任な事するか! そもそもそんな短期間で妊娠は分かないだろ!』

「やっぱりヤってやがったか! てゆーか、なんで判明する期間なんて知ってやがる!」

『だから違う! 桜にそんなやましい事はしない!』

「桜(超絶美少女な妹)と一つ屋根の下でお前はそれでも男か! 桜にそんな価値は無いとか言うか! キ○タマ付いてるのか! このヘタレ! このイ○ポ野郎!」

『いい加減落ち着け! このシスコ○!』

 

勘弁ならぬ、もうカチコミだ、と真也が受話器を叩き置こうとした瞬間である。

 

『シンヤですね?』

 

電話機の向こうからとても色っぽい声がした。ライダーであった。彼女は士郎の騒ぐ声を聞きつけ、受話器を取り上げたのだった。いつもと変わらぬ抑揚、言葉遣いであったが、憤りが感じ取れた。当然である。約束の日は違えていないがこれ程時間が遅くなれば、文句の一つも言いたくなるだろう。真也の頭が冷えた。

 

「……遅くなりましたが、これから向かいます」

『墓地近くの林に来るように』

「なんで?」

『話があります』

 

電話が切れた。

 

「体育館裏に来いって奴かなー」

 

あははと乾燥した笑みで受話器を置いた。

 

「ちょっと君良いかな?」

 

真也の肩に手を置いたのは警官だった。深夜の商店街で騒げば当然の結末であろう。

 

「さよならっ!」

「またんかコラァ!」

 

真也は逃げ出した。

 

 

◆◆◆

 

 

真也は一歩踏み出した。枯れ葉を踏んだ。カサリと音がした。そこは冬木の寒さに捲かれた林の中である。民家も遠く人目に付かない。足場が悪く踏ん張りが利かない。樹木という障害物が連立し視界が悪い。月明かりが無ければ一寸先の闇である。

 

彼が重苦しい気分なのはそこが彼にとって修練場だったからだ。母であり師でもある千歳に良い様にあしらわれる忌まわしき場所だった。ただ日々の修練のお陰か、頻繁に転がされたお陰か、その場所は手に取る様に分かった。躓く事も迷う事も無い。

 

「……」

 

物音一つしない。何時もであればそれなりに遭遇する梟の鳴き声も気配も無い。木々を走るすきま風が時おり枝葉を鳴らす程度だ。その静かな場所に意思が生み出すある種の気配が満ちていた。それを感じ取った彼はコートの中、左脇にぶら下げたそれを取り出した。先日セイバーに後れを取った事を教訓に、樹脂製のスナップを取り付けて直ぐに取り外せる様になっている。彼は霊刀を左手に握った。その場所には功性の意思が満ちていた。

 

風切音。たゆたう暗闇から飛来したそれを鞘打ちで弾くと鉄杭だった。弾かれ威を失ったそれは、蛇がのたうつ様に暗闇に消えた。彼はその暗闇を睨んだ。

 

「……説明を求める。今の本気だっただろ」

 

真也のその声はライダーに向けられていた。月明かりを浴びて、闇夜に浮かび上がるその姿は神話のワンシーンの様であったが、優美さには少々欠けていた。脚を肩幅に開いて仁王立ち。両手を渡す鎖が揺れる様は獣の鼓動である。ライダーは身じろぎせずこう言い放った。

 

「シンヤは女を怒らす技に長けているようです。これほど腹を立てた事は記憶にありません」

「だから、説明しろ」

「黙りなさい。不愉快です」

 

彼女の姿が消えた。もちろん逃げたのではなく襲う為である。空中に身を躍らせた彼女に、鞘を打ち付けようと瞬時に構えると、鉄杭は左舷から飛来してきた。慌てて身を退けば、目の前をそれが撃ち貫いていった。鼻先を掠めた。

 

“ヤバイ”

 

彼は初手でそう判断した。彼がライダーと戦うのは2度目である。1回目は自宅の居間であったが、それがどれほど好条件だったのかと思い知らされた。ここは屋外で彼女はその速力を存分に活かせた。加えてローマ神殿の柱の様に立ち並ぶ樹木は恰好の足場だ。上から下、右から左、はたまた左下から右上へ。騎兵は立ち止まる事なく駆け抜けた。もちろん駆けるのみではなく、斬り付けた、打ち込んだ、投擲した。立体機動による攻撃である。

 

ある時騎兵は右斜め下から左上へ駆けた。ナイフの様に振るわれた鉄杭は真也の胴体を掠めた。衣類である礼装に引っかかり彼は回転しながら大地に叩き付けられた。

 

即座に立ち上がり気配を探れば、ライダーは真左から真右へ駆け抜けた。超高速で機動する騎兵を迎撃しようと意識と姿勢を向ければ、死角から鉄杭が飛んできた。際で気づいた彼は首のみを捻り躱すが、頬を掠め切り裂いた。浅かったが血が垂れた。

 

ライダーの動きは奇抜だった。如何にサーヴァントと言えども直線的な動きであれば、支援魔術無くともある程度の対応は出来るが、彼女はそれを許さなかった。

 

慌てて樹木に背を預ければ頭上に気配があった。目の前に騎兵が打ち下ろした鉄杭の先端が迫る。回避に必要な時間が足りない。身体を右へ振るのにも、左へ振るのにも足場が悪くワンテンポ遅れる。彼は背を預けていた樹木を鞘打ちした、その反動で大きく飛んだ。

 

彼が着地する寸前、背後から鎖がチェーンソーの様に迫る。姿勢制御。右手を伸ばし大地に突きつけ倒立、床上体操の要領で跳躍した。着地予定の場所を鎖が抉った。支えが右手一本であった為、鎖は腕を掠める程度だったが、胴体を置いていては直撃を受けたに違いない。彼女のその様は猛獣を追い立てる、ビーストマスターの鞭そのものであった。

 

真也は空中で身を翻し、目の前にあった樹木に着地、蹴り出した。大きく跳躍。岩場の影に隠れた。間髪置かず、隠れた岩の、半分程の岩が飛んできた。ライダーの怪力Bである。慌ててバックステップ、回避。岩と岩が衝突し大きな音を立てた。

 

彼が大地に這いつくばれば、割れた岩の向こうに騎兵が立っていた。一瞬きののち掻き消えた。ただ、樹木を蹴り出す音のみが林に響き渡る。矢継ぎ早に繰り出される攻撃に息を付く暇も無い。危険を冒してでも流れを強引に変える必要があった。真也は脚を広げどの方向にでも打ち込める態勢を取り鞘を構えた。功性の気配が大きく近くなる。右、左、右、左と唱えること約10回。

 

(……右っ!)

 

察知した気配と感に従い右舷を鞘で打ち貫いた。その一振りはライダーを捕らえ、蹈鞴を踏ませた。追撃、踏み込み突いたその鞘の先端は空を切った。彼は舌を打った。

 

鞘打ちではなく通常の斬撃であれば、流れを変えられたに違いない。だが出来なかった。真也はライダーに襲撃されてからと言うものの、抜刀しようか迷いに迷って、結局抜けずにいた。それは自殺行為に等しい事だと理解していた。敵を捕らえる事は倒す事より難しいのだ。

 

だが理由が分からない。ライダーが彼を襲う理由が分からない。アーチャー、セイバーならともかく寄りにも寄ってライダーだ。ライダーを仕留めてしまえば、桜の願いがフイになる。

 

ライダーは鎖を繰り出しこう言い放った。

 

「驚きました。この地形で押し切れないとは」

「幾ら英霊だろうと、馬鹿力のゴリラ女にひけは取らない」

 

ライダーの癖は読みつつあった。もう数手堪えれば何とかなる、彼はそう踏んだ。と言いつつ彼は相応に酷い有様である。翻弄され骨折こそしていなかったが、打撲や切り傷に事欠かなかった。

 

「同じ陣営だから殺しはしないけれど、ふん縛ってお仕置きしてやる。洗いざらい吐いて貰うぞライダー」

 

真也の発言に彼女は忌々しげだ。抑揚の無い声が、僅かに振れた。

 

「シンヤの愚かさには呆れ果てて物も言えません。私が何故ここまで苛立っているか、この期に及んでまだ気づかないのですか」

「……何を言ってる」

「サクラの様な娘に、あそこまでして置いて」

 

ライダーから見れば桜は“誰かに守られなければ生きられない少女”その物である。それは彼女の姉と同じだ。真也は訳が分からないと眉を寄せた。

 

「ライダーの言っている事は要領を得ない。言いたい事があるなら順だって話せ」

「にも関わらず余所の女に現を抜かすとは」

「……ちょい待て」

 

ライダーは真也に向けて踏み込んだ。直線的な機動である。彼にはライダーの意図するところが全く分からないが、この機は逃さないと迎撃した。彼は霊刀を収めた鞘を左手に掴み抜刀準備。彼女が機動を直線的な物に変えたのは、視線の為であった。

 

彼女は眼帯を取り去った。石化の魔眼“キュベレイ”発動。ライダーは高い抗魔力を持つ真也が石化する事はあるまいと踏んだ。何より彼が魔眼の存在を知っている以上効果は弱まる。狙いは重圧であった。

 

ライダーは真也を殺すつもりは無かった。ただ桜の苦しみと己の憤りを思い知らせる為“少々手荒に痛めつける”と言うのが狙いである。だが彼女は一つ誤りを犯した、否、犯していた。真也は腕が立つ、それ以外の事を知らなかったのである。敢えて積極的に知る必要も無いと気にも止めなかった。彼女もまた桜以外に重きを置いていなかった。

 

真也とライダーの距離は約2メートル。真也は涼しい顔で、全く変わらぬ身体裁きで迎撃行動に移った。この時彼女は彼の身につけている眼鏡がそう言う代物だと悟った。真也は抜刀しその刀身をそのまま投げ捨てた。ライダーの注意が刀身に注がれた、真也から注意が逸れた。

 

彼はその隙に乗じて鞘の先端、つまり小尻をライダーの鳩尾に打ち込みカウンターとした。くの字に曲がり彼に向かって突っ伏した。真也はライダーの襟首、は衣装の都合上掴めなかったので胸元を掴み大地に叩き付けた。肌が露わになったがお構いなしだ。

 

二人は組み合う様に互いを牽制していた。真也は鞘でのど元を突こうと構えていたし、ライダーの左手は真也の首を掴んでいた。真也は冷めた目で言う。

 

「勝負あったな」

「この状況を見なさい。私はシンヤの首を潰し切る事が出来ます」

「俺は二度も切り捨てる事が出来たけれど全て鞘打ちにした。ヒステリーもいい加減にしろ」

 

真也は桜を裏切った訳では無いと判断した。でなければ、ここまでされて反撃しないなどあり得ない。凛に寝返ったのならライダーを倒す筈だ。

 

「なぜ斬り付け無かったのですか」

「……桜のサーヴァントだからに決まってるだろ、この冷血漢の不感症女」

「冷血と言われるなど心外です。でなければ手加減などしません」

「は、不感症は否定しないのか」

「シンヤにはそれを確かめる術は無い、つまり答える必要はありません」

「そりゃごもっとも………手を離せライダー。これ以上は俺が手加減できない」

 

彼の目がぎらついていた。ライダーは手を離し、真也は身を起こした。

 

「いいでしょう。少々不満が残りますが不実を働いては出来ない行動と判断します。私への暴言も不問にします」

 

地べたに身を半分起こし、彼を見上げる騎兵のサーヴァントは慰み者にされても尊厳を失わない貴人の様に見えた。あくまで上から目線で語るその態度に彼は苛つき始めた。

 

「言っておくけれど。ライダーのしでかした事を笑って済ますつもりは無いぞ」

「私が本気なら林ごと焼き払っています。わざわざシンヤに接近戦など挑みません」

 

それは騎英の手綱(ベルレフォーン)をロングレンジから撃つという意味である。指定場所にのこのこと現れた以上、そうする事も可能だろう。だが挑み負けた以上負けだ。

 

「負け惜しみか、見苦しい」

「気づいていませんか? シンヤは私の信頼を勝ち取ったと言っています」

「何のことだ」

「ですがまだ足りません。私は満足していません」

 

ライダーは立ち上がり真也に乱された着衣を整えると、身体に纏わり付いた長い髪を手櫛で流した。さらりと髪が流れる。彼女のその仕草は屋外で事に及んだ女性が身繕いする様にも見えた。漸く彼女の素顔を見ている事に気づいた彼は、多少の気まずさを感じつつもこう告げた。

 

「ライダー。全て話せ。お前は何を考えている」

 

警戒を解かない真也に対しライダーは気怠そうだ。流し目で彼を見ていた。

 

「それです」

「何が」

「シンヤは今何をしていますか? 何を考えていますか?」

 

ライダーの言っている事が理解できず、彼は眉を寄せた。共闘を結んだ時隠れてバックアップすると話した筈だ、彼の目はそう語っていた。彼女は真っ正面から彼に向き合った。

 

「シンヤがサクラの為に動いている事は理解しました。ですが、それのみでは私たちは致命的な欠陥を抱える事になります」

「つまり、情報交換をしたい、と言う事か?」

「互いを知り合うべき、と言っています」

「ライダーは桜のサーヴァントだ。俺はそれ以上求めない。俺に話す理由は無いね。大体それは今更だろ。その台詞は初めて会った時に言うべきだった」

 

「衛宮家での一連の出来事を経験してその上で気づいた事があります。隠し事は不和を呼び、何かに付け入る隙を与える事になります。衛宮士郎とは陣営が異なる以上ある程度はやむを得ませんが、最低限私たちは互いの事を知り合うべきです。

 

一つミスを認めましょう。私はシンヤを信頼していませんでした。それに関して何もしませんでした。考える事はサクラの事のみです。私の真名をサクラに明かしたのはサクラの願いだったからですが、私はサクラに思いとどまる様に伝えました。結局はサクラの指示に折れましたが」

 

「マスターでも無い人間にサーヴァントが簡単に信用なんて、そりゃ出来ないわな」

「その通りです。信頼とは勝手に生まれる物ではありません。積み重ねるものです。気づいていない様なので言います。シンヤは生来持つ力ゆえ今まで万事一人でやってきたようです。事実それで済んできた。貴方はそれが出来てしまう。ですがシンヤはそれがどれほど危うい事か、気づくべきです」

 

「何が言いたい」

 

「私はサクラを守る事に異存はありません。シンヤもそうでしょう。ですが今の私たちはサクラを中心としたヤジロベーの様なものです。片方がおかしくなるとバランスを崩し落ちてしまう。シンヤの場合サクラにすら隠している事がある。サクラもまたシンヤに隠し事をしている。責める気はありません。プライバシーもありますし、知る事は必ずしも良い結果を生みませんから。チトセがサクラに魔術の予備知識すら教えなかったのは、可能な限り魔術の世界とは無縁で居て欲しかったからでしょう。

 

ですが状況は非情に迫ります。ならせめて私たちは手を繋ぐべきです。もう隠し事は無しにしましょう。言いなさい。シンヤ、貴方は何者ですか? 今何をしていますか? シンヤが私に心を預けねば私もシンヤに預ける事は出来ません」

 

「ライダーの言う事は尤もだ。けれど世の中そう簡単じゃ無い。思惑ってのは人によってバラバラだ、組織が個人の思惑に配慮したら運営なんて出来ない。そもそもライダーは聖杯戦争が終われば消える身だろ。見聞きした事は英霊の座に情報として送られるそうだけれど、座に居る本人と守秘契約が交わせない以上、伝える事は出来ない。申し訳ないけれど諦めてくれ」

 

一つ間を置いた後彼女はこう告げた。

 

「私は二人の姉に手をかける定めを持っています」

 

それは彼女にとって身を切る程に痛む事実だった。

 

「エウリュアレーとステンノーだっけ? それがどうし、」

「まだ足りませんか?」

 

ライダーの瞳から涙が一滴溢れた。

 

「他に差し出せるものと言えばこの身しか残っていません」

 

彼は頭を掻き毟った。悩みに悩んだ後こう告げた。

 

「……何が知りたい」

「全てです」

 

 

◆◆◆

 

 

涙を見せるとは卑怯だ、そう思いつつも真也はライダーを連れて蒼月邸に戻った。屋外で話せる内容では無いのである。彼はライダーをダイニングテーブルに誘い、二つの白いマグカップにコーヒーを注ぎ、一つを彼女に差し出した。じっとそれを見詰めた彼女は言う。

 

「私は人間としての栄養摂取法に興味はありませんし、貴方たちの作法は私には合いません」

 

ライダーは抑揚無く答えた。単に事実を語っているだけだ。

 

「気分の問題なんだ。コミュニケーションを円滑にする為、と理解してくれ」

「……そう言う事であれば」

 

コーヒーの味に戸惑うライダーを見て真也は己に呆れた。頬杖で支える頭が妙に重い。

 

(これだけの美人なのに何とも思わないんだな、俺)

 

言い出した手前、素顔を隠しては話す事もままならないと彼女は目隠しを外していた。もちろん彼に影響が無い事は確認済みである。暗がりでは良く分からなかったその端正な顔が、電灯が灯る室内では良く分かる。好みかどうかは別にして彼が知る女性の中で断トツの美しさであった。神々しいとはこの事かと彼は思った。だが戸惑いもしない、慌てもしない、何の情動も起きない。

 

(シスコンもここまでくれば立派だな、うん)

 

そして桜はもちろんだが、凛、葵の3人にしか反応しないのは明らかにおかしい、と考えた。

 

(……そういえば桜と凛と葵さんってそういえばどこか似てるな。雰囲気というか匂いというか)

 

物思いに耽っているとライダーが現実に引き戻した。

 

「シンヤ、そろそろお願いします」

 

彼は頷いた。コーヒーを一口啜る。

 

「今から話す事は秘中の秘だ。俺とお袋しか知らない。桜にも黙ってる」

 

彼女は沈黙を持って同意を示した。

 

「俺には4つの特徴が有る。一つ目、魔眼」

 

彼が眼鏡を外すと蒼く光っていた。その深みに彼女は一つ息を呑んだ。彼はテーブル上の金属製の小皿、そこに置かれたコインと爪楊枝を手に取りコインを殺した。世界との繋がりを消されたそれは薄くなり消えた。流石の彼女も目を剥いた。

 

「……バロールの、」

「そ。秘密って言ったけれどこれはイリヤスフィールにバレている可能性はある」

 

彼は眼鏡を拭くと身につけた。

 

「とんでもない物を随分とあっさりと語ります。残りの3つがそれ程重いのですか?」

「どうして俺がサーヴァントとやり合えるのか、と言う意味で2つ目と3つ目が関わる」

 

彼は首元の細いネックレスを指さした。彼女が目を凝らすとその表面に文字が刻んであった。彼は言う。

 

「2つ目がこれ」

「礼装ですか?」

「俺は単に封印具って呼んでるけれど」

「何を封印するものです」

 

「俺の魔術を抑制する物」

「抑制する必要があると言う事でしょうか」

「これは3つ目の蒼月の魔術に関わる。その前にコーヒーのお替わりは?」

「頂きます」

 

彼は一つ息をして語り出した。

 

「俺は一般魔術師が使う様な呪文を知らないんだ。魔術自体を知らない、というと語弊があるか。魔術という儀式、手法を知らないんだ。呪文、印、シンボル、を知らないって意味。なぜなら俺の師である母もそうだから。知らないなら教える事は出来ないよな。でも俺らは魔術師って名乗ってる」

 

彼女は良く分からないという表情をした。彼は言う。

 

「少しまどろっこしいが聞いてくれ。魔力ってのは完全無色の力だ。それ自体では何も出来ないけれど、必要な手順に従うと任意の現象を生み出せる。

 

魔術師ってのは印を組み呪文を唱え、念じ、己が内に結界を構築する。この結界に魔力を注いで魔術って言う現象を生み出すのが魔術師だ。魔力ってのは砂の様な小さな粒だ。結界とは容器、四角い箱に入れれば四角い形を持つ、三角の箱に入れれば三角の形を持つ。けれど、その結界を必要な手順なしで直接作り上げる、つまり儀式を用いず魔力を操作できるって言ったら信じる?」

 

「不可能ではありません。もともと肉体は簡易的な魔術の結界の様なものです。魔力を籠めて肉体を補強したりする様に、魔術師でも一般人でも大なり小なり操作は可能です。ですが、それの効果は限定的、微弱です。実用に耐えうる物では無いでしょう。仮にそうならシンヤの言う儀式が不要になります」

 

ライダーはそれに気づいた。

 

「……そうですか、生身の人間であるシンヤがなぜサーヴァントと身体能力が競るか」

「そう。俺の魔術ってのは、魔力を直接操作し身体能力を向上させている……この表現は語弊があるか。肉体の限界を超えた現象を魔術で作り出している、と言う事」

 

「シンヤのそれを魔術と呼ぶのを良いとしましょう。ですが私はシンヤが身体強化以外の魔術を見た事がありません。魔力を直接扱えるならば他の現象も生み出せるはずです」

「俺が行使できるのは肉体の操作と直接触れた物を簡単に弄る程度。外部への複雑な行使は出来ない。やり方が分からないんだ。お袋は自分で知るものだと言ってるけれど」

 

「何者ですか?」

「俺も知らない。何度も聞いたけれど答えようとしない。たぶん俺はお袋の劣化コピーだな。ハードは複製したけれどソフトが欠損してるって言う」

「卑下は好みません」

「気をつける」

 

ライダーはコーヒーを一口啜るとこう告げた。

 

「心しなさい。その魔術は諸刃の刃です。心理的影響が大きすぎます。魔術の手続きは、引き金でもあり安全装置でもあります。術が意図するだけで生じてしまうのなら、迷い、苦悩、といった精神の乱れが肉体的な現象に跳ね返るでしょう。シンヤ、その封印を外してはなりません。激しい葛藤は、最悪肉体を破壊しかねません」

 

現在進行形で感じる痛みがそれかと、言われて腑に落ちた。ライダーは言う。

 

「最後の4つめとは?」

「俺がシスコンだって事」

「良く分かりました」

「あれ? あっさり納得? オチのつもりだったんだけれど」

 

「それ程の特性を持てば真っ当な人間では精神が耐えられない。暴走するか自滅します。サクラの為だけにある精神構造がシンヤに秩序を与えていた、と言う事でしょう」

「……褒めてる?」

「10年前、サクラに出会えた事を感謝するべきです」

 

 

◆◆◆

 

 

「んじゃ、俺からも一つ。ライダーがあの行動に至った理由を聞きたい」

「サクラが倒れました」

「士郎の野郎!」

 

真也は霊刀を掴み駆け出した。ライダーは彼の首根っこを掴んだ。もうタイミングも慣れたものだ。

 

「HANASE!」

「落ち着きなさい。倒れた原因はシンヤにあります」

 

ピタリと動きが止まり、ゆっくりと首のみ回した。その様はグリス切れのおもちゃの如くぎこちなく。

 

「……なぜに」

「遠坂凛が付き合っていると言いました」

(内緒だって言ったのに)

 

呻き顔で彼は続けた。

 

「……それがどうして桜に繋がる」

「後で説明します。サクラの内面を知らないシンヤを咎める事はできません。ですが立場上聞きます。それは真実ですか?」

 

彼はドモリまくった。瞳も泳いでいた。非常に動揺していた。誰の目から見ても怪しすぎた。

 

「っと、で、すね、」

「言いなさい」

「……士郎が、凛に、好意を、持っている、から、です。それ、の、牽制、に、でし、て、はい」

「それは本当ですか?」

 

ライダーは疑いの眼差しを向けていた。

 

「……何をおっしゃっているのでしょうか」

「今のシンヤは先日までと何かが違います」

「何かって?」

「耳を貸しなさい」

「?」

 

側耳を立てると見せかけて、ライダーは真也の首根っこに噛み付いた。暴れる彼を強引に抱きしめ押え付けた。血を啜る。ジュルジュルと啜るその様はトマトジュースを飲むかのよう。

 

「あ、あ、あーーーー」

 

と言いつつ彼はドサリと音を立てて床に倒れた。女を知らない少年の血を堪能した彼女は満足気味だ。唇に付着した血を舌で舐め取った。

 

「……悪くありません」

「ら、ラいダー、さ、流石、の俺、もいい加減、辛抱の、限界、だ、ぞ」

 

相応の血液と魔力を吸われた彼は、力が抜けて起きるに起き上がれない。かく言うライダーは涼しい顔だ。

 

「シンヤの行動はとても褒められる物ではありませんが、義務から生じた物と判断します。不問としましょう」

「わ、訳が分からない……」

「一つ屋根の下で未だ童貞ならばそれが証。不実な者なら早々に不貞を働くでしょうから」

 

彼はガバッと起き上がった。

 

「童貞童貞ってやかましい! てゆーか、さっきから気になってたんだけど随分上から目線だな!」

「私はシンヤの様な乙女心を弄ぶロクデナシに理解を示し受け入れました。それが不服ですか?」

「……ライダーってそういう顔するんだね」

 

彼女は半眼で笑みを浮かべていた。強いて言うのであれば男友達の浮気を咎めるそれである。

 

(嘘が誠になったと言う事ですか。本人が気づいていないのがせめてもの救いですが)

 

彼の態度を見て彼女はそれを直感で感じ取った。だがやぶ蛇を恐れて言い出せない。立場上凛より桜なのである。

 

 

◆◆◆

 

 

ライダーの告白を受けた真也はまさかと思った。俄には信じられなかった、信じたくなかった。だが事実は変えられない。“凛と付き合っている”それを聞いた桜が倒れた事は事実なのである。

 

彼が居るのは衛宮邸の離れ、桜に宛がわれた部屋だ。彼の妹はベッドの上で静かに寝ていた。身じろぎ一つ無く、唇は紫色で青ざめていた。まるで死人の様である。彼はそっと桜の右手に手を添えた。随分冷たい。

 

「なんで……」

 

二人の側に立つライダーは抑揚無くこう告げた。ただ随分と穏やかだった。

 

「私の意見を伝えます。念を押しますが私の独善です」

 

彼は反応しなかった。ただ桜の身のみを案じていた。

 

「サクラの様なタイプにあそこまでした以上、責任を負うべきです」

「……タイプってなんだ」

「一人では生きていけない、そういう娘は居ます。それ程大切なら受け入れるべきです。サクラのだけの特別な誰かになりなさい」

「なんだその言い回し。昨日は伴侶とか言ってなかったか」

 

「サクラの聖杯への願いを知りました。サクラはシンヤの妹である事が絶対の前提です。社会的な決まりで婚姻は結べなくても出来る事はあります」

 

彼は押し黙った。

 

「シンヤは意固地すぎます。サクラの何が不満です」

「不満なんてあるもんか。可愛いし、料理だって上手だし、笑ってくれるだけで満たされる。でもずっと妹としてみてきたんだ。今更」

「シンヤがそう思う様になったのは何故です」

 

沈黙を続ける彼にライダーは一言その名を呼び促した。

 

「……俺が兄で無くなると、桜が妹で無くなると、桜の特別になると俺は今までの今の生き方を続けられない。桜の為にこの身体と命を費やす、それができなくなる。恋人でも夫でもどちらでも良いけれど、桜を守る為に傷ついたら桜は悲しむだろ。でもそうで無いなら、無茶を出来る。怪我をしたって良い。例え死んでも特別な誰かで無いならそれ程辛くない」

 

「今でもサクラは心配しています。シンヤが怪我をして運び込まれた時、どれほど悲しんだか。シンヤが死ねばサクラがどれほど悲しむか、それが分からないシンヤではないでしょう」

「だから桜を支える誰かが欲しい。俺以外の誰かが」

「シンヤ、その生き方はサクラに酷すぎる。愛し合い傷つけ会うのは人の性です。シンヤがサクラを傷つけないように生きる事、これはサクラへの侮辱です。本当に愛しているならサクラを傷つけることを厭うべきではありません」

「ライダー、俺と桜は義兄妹だ」

 

「知っています」

「桜と出会う前の俺はただの生き物だった。空っぽで何も無かった。桜と出会ったとき他の生き方を思いつかなかった。この10年、ただそれだけを考えて生きてきた。その為に多分多くを犠牲にしてきた。今更変えるなんて無理だ。誰も許さない、俺が許さない」

「でも桜を苦しめている」

「でも俺は兄以外の答えを持たない」

 

ライダーは溜息を一つ付いた。

 

「仮に、サクラがシロウと結ばれたとしたら、その後はどうするつもりですか」

「本気で考えた事無かったな。どうしようか……そうだ、そうだな。そのままがいい。何も変わらない。桜を守る。それだけ」

 

「衛宮士郎とサクラを見ながら?」

「そう」

「一人で?」

「一人で今までやってこられたんだ。これからもきっと大丈夫さ」

 

真也は桜の額に唇を添えた。

 

「悪い。全部忘れてくれ。桜に余計な負担は掛けたくない」

 

ライダーはもう一度ため息をついた。今度は深い溜息だった。真也は笑いながら言う。

 

「幸せが逃げるぞ」

「誰のせいですか」

「俺じゃないやい」

「シンヤは頑固、というより不器用ですね」

 

凛に靡いても良いのに、と彼女は立場を忘れそんな事を思ってしまった。彼の頭に手を乗せて撫でた。彼は仏頂面である。ただ好意は嬉しいと手を払う事はしなかった。

 

「頭を撫でるのは男がやるもんだ」

「ではもう少し男らしくなって下さい」

「そんなに女々しいか? 俺」

「サクラを思う余り色々見落としていそうです。気をつけなさい。自ら進んで首を絞めている様に見えます」

「そうかも、な」

 

彼はゆっくりと立ち上がった。

 

「もう戻る。見送りは良いから」

 

彼はそう言うと部屋を出た。数分経った頃、つまり真也が離れから十分離れたあとライダーはこう言った。

 

「サクラ、もう良いですよ」

 

死体の様な寝顔がみるみるうちに歪んでいった。

 

「う、う、うぇぇぇぇぇぇぇ!」

 

桜は泣きじゃくりだした。その様は正しく子供である。“ワンワン”泣き出したが表現としては適当だ。

 

「狸寝入りで盗み聞きとは良い趣味ではありません」

「だ、だって。だって。嬉しくて泣き出しそうだったんだから」

「少し落ち着くべきです。酷い顔です」

「ライダーごめんね。もう聖杯なんてどうでも良くなちゃった」

 

「家に帰りますか?」

「ううん、先輩との約束があるから。これだけは守らないと」

「そうですか」

「兄さんを困らせたくないの。私は妹で良い。万が一姉さんとくっついても邪魔しちゃうんだから」

 

「私としては少々不満が残りますがサクラがそう言うのであれば。この事実を真也に伝えてきましょう」

「それはもうちょっと待って」

「何故ですか」

「聖杯はもう要らないって言ったら兄さん“なら即刻棄権だ”って言いかねないし」

「それはそうですが」

 

ライダーはある選択に迫られていた。桜の“聖杯はもう要らない”と“妹で良い”という事実を真也に今伝えるべきか、と言う事である。

 

「お願い、ライダー」

「……分かりました」

 

悩みに悩んだ悩んだあげく、ライダー女は先送りする事にした。真也は未だ己の本心に気づいていない、桜と真也が共にある事を願うライダーにとって、凛に塩を送る訳にはいかないのである。なによりマスターである桜の意向は尊重するより他は無い。

 

ただこの判断は大きな誤りであったと彼女は後に後悔する事になる。真也には敵が多すぎた。それはキャスターという意味であり綺礼という意味でもあったが、ライダーは知るよしも無い。

 

桜は組んだ両の手を胸の上にのせてうっとりとしていた。真也の独白は桜にとって告白でもあった。一語一句全て反芻すれば、頬も赤くなり瞳も潤む。現金なまでに血色の良くなったマスターを見てライダーは仕方ないと諦めた。自然溜息が出た。気がつけば桜は掛け布団を口元に寄せて恥じらっていた。

 

「ライダーごめん、少し外して。私はその、」

「分かりました。明日もあります。程々に」

 

下着の中から水の跳ねる音がした。

 

 

 

 

 

 

つづく!




【糞どうでも良い独り言】
りん「渋谷凛って娘、まぁまぁよね。ねぇ、どちらが可愛いと思う?」
しろう「渋谷」
しんや「しぶりん」
弓兵「松岡」
3人「「「えっ」」」

……┌(┌^o^)┐


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25 聖杯戦争・12 キャスター編

明くる日の朝。台所に向かう桜は鼻歌を聴かせスリッパをパタパタと鳴らしていた。その彼女を柱の陰から覗くのは士郎である。彼には桜が何事も無かった様に振る舞っている、そう見えた。だが彼はそう思わない。疲労で倒れたのは良い、良くないが良い、だがどう接して良いのか、それが分からない。つまりは桜が士郎を誘惑した件である。彼が唸っているとライダーが縁側から手招きしていた。とにもかくにも朝の挨拶だ。

 

「おはよう。ライダー」

 

彼女は頷きを挨拶代わりにして、開口一番用件を切り出した。

 

「衛宮士郎。無理は承知で言いますが、昨夜の事を忘れて下さい」

「そうしたい。その為にも説明して貰えると助かる」

「月のものです」

 

彼女はもっともらしい嘘をついた。

 

「……は?」

「ですから月のものです」

「……あー」

 

士郎は思い当たる節があった。それと性欲が関連すると言う事である。だとしても桜の行動が極端ではないかと思ったが本人に確認する訳にもいかず、その一件を忘れる事にした。

 

「分かった。忘れる」

「助かります。衛宮士郎」

 

硬いライダーの態度に彼はかねてからの要望を伝えてみた。

 

「ライダー。そのフルネームで呼ぶの止めないか?」

「何故でしょうか」

「確かに俺らは陣営が違うけれど、必要以上に硬くする事も無い、と俺は思う」

 

彼女は昨夜真也に伝えた事を思い出し、少し考えた後こう答えた。

 

「理解は出来ます。では衛宮と」

「出来るなら下の名前で呼んでくれると嬉しいんだけど」

「……分かりました。では士郎と」

「あぁよろしく頼む、ライダー」

 

桜以外どうでもいい真也はこの様な事気にしないのだろう、ライダーはそう考えた。事実、彼はセイバーに名前で呼ばれなくても気にしない。それは彼女の目から見てもとても寂しい様に思えた。

 

「士郎。一つ伺いたい事があります」

「なに?」

「シンヤは人間関係を意図的に構築しています」

「知ってる。学校での人間関係も打算で作ってるからなアイツ」

 

「そうでしょうね」

「それが自分の損得ならまだ良いんだけれど、桜を基準に置いてるからな。喜怒哀楽も作る程の徹底ぶりだし……そーか。ライダーもそれに気づいたか」

「それを知っていて何故普通に接するのですか」

「嫌ってるから」

 

「理解ができません」

「嫌ってるならこれ以上嫌いようが無いだろ。だから臆面なく言い合える」

「……なるほど。シンヤが唯一感情をぶつける相手、と言う事ですか」

「なんか嫌な言い方だな」

 

ライダーは少し笑みを浮かべた。

 

「士郎。これからもシンヤの敵でいて下さい」

「そこは味方とか、友達って言うんじゃ無いのか」

「シンヤをたたき直すにはそれ位激しい方が良いようです」

「ライダー、真也と何かあったのか?」

 

「ええ少し。士郎とセイバー程ではありませんが」

「やっぱりそう見えるか?」

「はい、そう見えます」

「セイバー、何時の頃からか変なんだよな」

 

彼は困惑の印として髪をかき上げた。

 

◆◆◆

 

 

そのセイバーは舞弥の部屋に居た。部屋の中心に立ち、肌を晒すセイバーに舞弥はある物を宛がった。セイバーは舞弥の指示通り、それに腕と脚を通していく、というよりは為すがままであった。セイバーは舞弥の持つそれが下着の類いだと悟ったが、余りに面妖さにたじろいでいた。彼女の心中どこ吹く風、舞弥はこう呟いた。

 

「そう。桜さんはもう士郎に近づかないと」

「はい。そう言質を取りました」

「裸で迫って拒否されれば普通は脈が無いと諦めるわよね」

「後悔を?」

「残念とは思うわよ。本当に」

 

真実は異なるが、彼女らにはそう見えたと言う事である。仕方が無いと舞弥がセイバーを姿見の中に誘えば、彼女は頬を染めて冷や汗を一つ流した。その表情は硬い、引きつっていると評しても良い。

 

「舞弥、この下着はいかがわしさを感じるのですが、」

 

舞弥の瞳が鋭く光る。それは智略・謀略を巡らせる軍師の様。セイバーはレースの下着を身につけていた。純白で柔らかなフリルをあしらっていた。

 

「これぐらい普通よ」

 

舞弥はお構いなしだ。

 

「ですが、これを私に着せてどうしろと」

「別に見せる必要は無いの。士郎と居るとき意識してくれれば良いから」

「はぁ」

 

セーラー服から取って代わって、白の襟付きブラウスを纏い、首元には紺のリボン。それと同じ色のスカートを纏った彼女はどこぞのお嬢様である。ただその下に纏う下着が問題で、ごわごわする、食い込む、こすれる、彼女は初めて知る感覚に戸惑い身を捩らせた。全ては舞弥の策略だ。

 

(その、なんというか。変な気分に、)

 

幾つかの思惑が渦巻く衛宮邸。いつもの時間に凛がやってきた。桜の調子はどうかと伺えば平常運転である。否、それどころかいつも以上に明るかった。真也と何かあったに違いない、おっかなびっくり問いただせば桜はあっけらかんと笑って言った。

 

「遠坂先輩。兄さんをお願いしますね」

「……は?」

 

思いも寄らない発言に流石の凛も呆気にとられた。

 

「……それは仲を認めるって理解して良い訳?」

「ええ構いません」

「どういう風の吹き回しよ」

「私は今まで通りするだけです。彼女という立場は譲りましたけれど、妹の立場は譲りませんから」

 

雲行き怪しい展開に凛の表情が険しくなる。

 

「ごめん、何を言ってるのか分からない」

「世話をするのは私って事です」

「あのね、そんな事成立する訳無いでしょ」

「私が二人の仲を認める条件です。嫌なら良いですよ、認めないだけですから」

 

妙に威圧のある桜の笑顔に気圧される。

 

(桜になんて言ったのよ、アイツ……)

 

兎にも角にも。帰宅次第問いただそうと決意する凛だった。その桜に食料の調達に出かけようと士郎が声を掛けた。桜は何食わぬ顔で付き従った。二人を見送るセイバーは不満顔だ。

 

「なぜシロウは私でなく桜を連れて行くのか」

 

セイバーはその容姿故非常に目立つ。察した凛は意地の悪い顔であった。

 

「あら、ひょっとして焼き餅?」

「何を馬鹿な」

 

セイバーはいつもの様に不愉快さを示した。だが内股を意識する様に片足を寄せ、身体を抱く様に腕を組むその姿には艶があった。セイバーの佇まいに凛は閉口するしか無い。

 

(セイバーをこの短期間でここまで変えるなんて、あの女、変な薬品でも使ってるんじゃないでしょうね……)

 

時が経つ事数刻。縁側に腰掛けるライダーはセイバーの姿を追い意識を左右に振っていた。セイバーは庭を何度も往復していたのである。最初は不満顔であったが、徐々に懸念の相が浮かんできた。立ち止まり門へ視線を走らせれば主は姿を見せず。辛抱強く待つ事1分。まだ現れない。

 

「遅い!」とセイバーは言う。

「サクラと士郎が出発してまだ30分と経っていません」とライダーが事務的に答えた。

 

ライダーの助言が耳に入らない。また数度往復し、ピタリと止まる。

 

「シロウは無事だろうか。不安だ。まさか事故に」

 

サーヴァントに襲われている、と考えないところ重傷だ。ライダーは事務的に答えた。

 

「落ち着くべきです」

 

この剣の英霊は歩き方に艶めかしさがある、ライダーはそんな事を思った。もちろん 下着の効果だった。

 

「ライダー、貴女はシロウの昔を知らないからそう悠長な事が言えるのです」

 

個人的感傷を隠す事もしないセイバーに言う事は無かろうとライダーは沈黙を続ける事にした。右往左往するセイバーが止まると、妙な怒気を漂わせてライダーに詰め寄った。

 

「……ライダー。いつからシロウと?」

「先ほど申し出を受けましたが」

 

憤りに身を震わせるセイバーであった。

 

「なんでさ」

 

それが士郎の率直な意見だった。彼は自室で正座。見上げればセイバーが腕を組んで見下ろしていた。怒っている事は聞くまでもなく見て取れた。桜を連れて買い物から戻れば、彼は待ち構えていたセイバーに連れ去れたのである。

 

「シロウ」

「はい」

「この際言っておきますが、優しさも度が過ぎると不実と見なされます」

「ごめん。意味が分からない」

 

セイバーはシロウの頬を抓った。もちろん舞弥の指南である。

 

「痛い、セイバー痛い」

「男女的な意味で気が無いのなら、必要以上の気遣い親密さは避けるべきでしょう」

「何のことだよ」

「ライダーに名前で呼ばせている事です」

 

そんな事かと彼は堂々とこう言い放った。

 

「仲間にも色々あるって確かに聞いた。なら逆に色々な人を仲間って呼んでもいいだろ?」

 

彼女はたちまち頬を膨らませた。なぜこの主は自分の憤りを理解してくれないのか、と彼女は苛立った。辛抱強くこう告げた。

 

「女というのは基本的に自分を特別扱いされたい、その願望を持っています。それは1000年経っても変らないでしょう。皆の王子様ではなくて誰かの王子様というのを心がけてください」

「……セイバーの事か?」

「私は騎士ですから」

「???」

 

士郎はセイバーの言っている事が理解できなかった。なぜライダーに名前で呼ばれる事と女性の扱いを指南されるのかが、繋がらない。セイバーは戸惑う士郎を立たせて彼の手を掴み寄せた。

 

「さ、私を相手に演習です。手を取り腰に手を回し抱き寄せて下さい」

「あの、展開に理解が追いつかないんだけれど」

「経験上言いますが、男らしさというのは重要です。優しさも結構ですが時には荒々しく行くのも必要です」

 

訳が分からずされるがまま、士郎がセイバーの腰に手を回すとそれに気づいた。彼女のブラウスは白色で、下着がうっすらと透けて見えた。気まずそうに視線を逸らす彼の視線で、それに気づいた彼女は堪らず座り込んだ。ぺたりと座り、身を抱き寄せる様に蹲っていた。頬を染め視線を逸らす様は恥じらう乙女そのものである。いたたまれず士郎は髪を掻いた。

 

彼女の奏でる声はか細かった。

 

「私をはしたない女だと思いますか?」

「舞弥さんに何か吹き込まれたろ。どうして引き受けたんだ」

「その前にシロウ、向こうを向いて頂けませんか」

 

彼は腰を下ろした。片足を立てて肘を乗せた。彼の背後に柔らかい気配があった。彼女もまた腰を下ろし、揃えた両膝を抱きかかえていた。

 

「切嗣の話です」

「オヤジの?」

「シロウが切嗣の息子だと知ったとき心配がありました。理由は今でも良く分かりませんが私は土壇場で切嗣に裏切られました。ですからシロウも裏切るのではないかと」

「そう思ってて何故?」

「あの男とシロウがイリヤスフィールの事で争った時に気づいた事があります」

 

士郎は黙って聞いていた。

 

「私は国を守るという大義を免罪符に少数を切り捨てた。いえ、少数というのは私の誤魔化しですね。為政の基準で考えれば相応の人数しょう。100や200では済みません。あの男は必要な事だと冷徹にイリヤスフィールを切り捨てようとした。それは私も同じだと気がつきました。

 

昔私は人の気持ちが分からないと言われ、見切りを付けられた事があります。確かにそうです。国を動かすのは人、人形には人は付いてこない。シロウを見てそれに気づいた」

「俺のどこを見てそう考えたんだよ?」

 

それは士郎が全てを投げ打ってでもイリヤスフィールを助けようとした事であった。言い争う士郎と真也を見てどちらが正しいのか、そう彼女は疑問に思った事が始まりだ。

 

「秘密です」

 

彼女は立ち上がり士郎の前に前屈みで身を寄せると、彼の唇に人差し指を添えた。もちろん舞弥の指南である。

 

「ですから、私もシロウに気づいて貰いたい、そう思っています。それには私がこうする事が最良だと信じています。答えは言いません。自分自身で気づいて下さい。ですがそのためなら私は尽力を尽くしましょう」

 

「セイバーは今でも良くやってくれてる」

「ですから尽力を、です。短い間ですが覚悟して下さいシロウ」

 

彼女の手が士郎の頬に触れた。

 

「あのさ、セイバー近いんだけど」

「はい」

「分かってやってるだろ……」

「シロウはとても可愛いですね。舞弥の気持ちが良く分かります」

 

艶のある微笑みに、何も言えない士郎であった。それを襖の隙間から見ていた凛は呆れ顔である。昼食の用意が出来たと伝えに、わざわざ足を運べばこっそりと逢瀬に励んでいた、彼女にはそう見えた。

 

(やっぱり、身近な方がいいのね。遠くの高嶺の花より、近くの……)

 

セイバーの方が格上である。不愉快さを隠さず彼女は居間に戻っていった。二人が冷めた昼食を食べる羽目になったのは言うまでも無い。

 

 

◆◆◆

 

 

彼は炎に巻かれていた。息苦しいが無理に吸えば肺が焼かれてしまう、だが息を止める事などできはしない。暗い。何も見えない。目が開けられない。纏わり付く炎が肌を刺す。無理に目を開ければ目玉が焼かれる。炎にまかれ、煙に塗れ、堪らず逃げた。ひたすら逃げた。どれほど走ったのか、どこをどう走ったのか、気が付けば高台に立っていた。

 

辛うじて息を吸えば卵の腐った匂いがする、咳き込んだ。瞼を開ければその匂いが眼球を刺激した、涙が止まらない。

 

薄目に見る空は雲が敷き詰められていて蓋がされている様だった。炎の照り返しで鈍く赤く光るその様は、石綿か炭の様に見えた。視線を下ろせば地平線は何処までも続き、終わりなど無いように思えた。好きなだけ走れるとみるか、どれだけ走っても終わらないとみるか、彼には後者に思えた。

 

見下ろせば燃えていた。町と人が燃えていた。至る所で炎が暴れる様は悪魔が踊っている様である。立ち上る噴煙は天に昇る事はなく、逃げ道を失った様に同じ場所を彷徨っていた。炎に炙られた人の魂が、苦しさに追い立てられてのたうち回っていた。誰が蓋をし、誰が炎を点けた? 誰かが“それはお前だ”と罵った。見れば足下に骸が転がっていた。この事態を止めようとした者たちだ。彼らは彼が滅ぼした。直世界が終わる、彼自身の命も尽きる、彼女の手によって。

 

“どこで間違えた”

 

意識が戻った。額にひんやりとした感覚があった。華奢だったが柔らかい。真也はその手を握り返した。

 

「大丈夫ですか? 魘されていましたけれど」

「最近悪い夢が続いてる」

「どんな夢ですか?」

「良く覚えていない、全部無くなる夢だ。でも俺は止まる事が出来なくて、」

 

瞼を開ければ桜ではなく葵だった。

 

「……」

 

寝起き一発目に葵は刺激が強すぎた。彼は堪らずベッドの上で“ごろり”と転がり床に落ちた。側に立つ葵とは反対側の、壁とベッドの隙間である。彼女が急ぎ回り込めば、彼はカーペットに這いつくばっていた。寝ぼけたのだと葵が慌てて駆け寄れば、彼は制止する様にこう告げた。

 

「何故でしょうか」

「何故とは何故でしょう」

「なぜ葵さんがここに居るのかという意味です」

「私の家ですから」

 

「そう言う事では無くてですね。目が覚めたらどうして葵さんが居るのか、と言う事です」

「魘されているようでしたので」

 

扉はウォールナットの木製で厚く重い。廊下からベッドまで相応に距離があった。廊下から聞きつけるには無理がある。

 

「嘘ですよね」

「はい。強いて言えばそんな気がしました」

 

彼が遠坂邸に戻ったのは真夜中も良いところである。青い顔で戻ってきた彼は堪らず寝てしまったのだった。それは桜が倒れた事であり、ライダーに吸われた事でもあった。彼は桜の決断など知るよしも無い。

 

朝になっても彼が起きてこない。連日の警備が祟ったのかと凛と葵の二人はそのまま寝かす事にした。そして昼。凛の事で話をしたい、そう思っていた葵は昼食を理由に起こしに来たのだった。ノックをしても返事が無い、呼べど叩けど返事が無い。何気なくノブに手を掛ければ鍵が掛かっていない。のほほんと部屋に入れば魘されていた、という流れだった。

 

彼は突っ伏したままである。

 

(女の人はこれだから怖い。良く分からない理屈で行動する……)

 

デレた凛を思い出せば心臓が痛くなった。例えでは無く肉体的な意味での痛覚だった。葵に悟られる訳には行かない。失礼かと思いつつ、突っ伏したままこう告げた。痛みで歪む顔を見せない為である。

 

「取りあえず着替えます。席を外して頂けないでしょうか」

 

掛け布団にまみれる彼はTシャツにパンツ一丁だった。起き上がれない理由は朝の生理現象である。

 

「手伝いましょうか」

「いえ、お気遣いだけ頂きます」

「私は構いませんが」

「私が構いますので」

 

葵はいつもの様に遊びたい衝動に駆られたが、彼の様子がおかしい事に気づいた。

 

「昼食の用意が出来ています。いらして下さいね」

「はい、直ぐに行きます」

 

その日の昼食はカレーライスだった。ライスとカレーが一枚の皿に盛りつけられていた。彼は意外だと思った。レストランの様にライスとルーが別皿の方がなんとなく遠坂家らしい。テーブルの向こう側に座る葵はいつもの様に笑っていた。食事の話題として適切では無いと思ったが、繰り返されては叶わないと彼はこう進言した。

 

「良家の奥方が男の部屋を訪れるなど不用意ではありませんか?」

「もう昼ですけれど」

 

あくまでマイペースな彼女に、彼のリズムは乱される一方だ。

 

「時間的な意味ではありません。私が礼儀を知らない人間だったならどうするんですか」

「つまり、私を手籠めにすると? 私はもう若くありませんが」

「そう思っているのは葵さんだけです。俺から見ると十分にそう言う対象です」

「あら♪」

「……照れるところじゃありません」

 

彼は常々凛と葵から原因不明のストレスを感じていたが、それでも遠坂家に居座ったのは、一重に桜の為である。それは耐えるべきだと考えていた。耐えなくてはならないと考えていた。だが、その前提が崩れてしまった。

 

次の説明は彼の主観である。

 

桜が苦しんでいる以上凛との振りはお仕舞いにするべきだ。だが今の段階で暴露すれば共闘の致命傷になり得る。それでは桜の願いが叶わない。最低バーサーカー戦までは関係を維持するべきだ。だが桜が苦しんでいる。判断が付かない。

 

この状況で葵に煽られた彼のストレスは最高潮に達した。それは彼の許容量を超え、あふれ出した。彼はもう隠し続ける事が出来なくなった。それは罪に耐えられなくなった事に他ならない。

 

彼は切り出した。とうとう切り出してしまった。

 

「正直に言います。俺は以前からご当主や葵さんに、とても動揺しています。自分でも信じられない程です」

「性的な意味でしょうか」

「……精神安定的な意味です」

 

彼は一つ息を吸い、丹田に力を籠めた。

 

「俺はこの家に来るつもりはありませんでした。それでも来たのは一重に聖杯戦争を勝ち抜くため、つまり打算的な判断です。必要が生じれば葵さんに危害を加えるかも知れません。過度な信用はなさらないでください。葵さんも魔術師の家の人間なら理解して頂けるはずです。俺は遠坂家にとって余所者に過ぎません」

 

「……」

 

葵は真也の告白に違和感を感じていた。彼の発言は“自分を信用するな”と言っている事に他ならない。だがその発言の意図が分からない。真也の張り詰めた表情は追い詰められている証だ。自分の行動に耐えきれ無くなったのか。何らかの罪を犯しそれに藻掻いているのか。葵は思い切ってこう切り出した。

 

「凛に何かしましたか?」

 

彼は答えられなかった。ピタリと挙動を止めるその仕草は肯定だと言っている様なものだ。

 

「まさか、娘を手籠めに」

「してません、する気もありません、そもそも物理的に不可能です」

「……それはどういう意味でしょうか」

 

告白した娘に性的欲求が無いなど不自然極まりない。後の祭りである。誤魔化す事は出来ないとたっぷり悩んだ後彼はスプーンを置いた。

 

「俺は、絶えず最善の行動を取ってきました」

「ハッキリおっしゃって下さい」

「ご当主に告白を」

「好意をお持ちなのですよね?」

「それは在ってはならない事です」

「……」

 

葵はますます混乱した。話を聞く限り弄んだと判断しても良いのだが。なら、何故いま悩む。懺悔まがいの事をする。寄りにも寄って母親である。“それは在ってはならない事です”という発言も不可解だ。まるで誰かに好意を持ってはいけないと言わんばかりである。

 

目を瞑り静かに考える様は、判決を下す裁判官の様だった。彼は視線を降ろしたまま上げなかった。

 

「誰かとお付き合いした事はありますか?」

「ありません」

「好きになった人は?」

「居ません」

 

彼女は真也の形を見た。俯いているがその姿は何度も見ていたので容易に思い出せた。

 

「不思議です。恋人が10人居てもおかしく無さそうです。何故ですか?」

「……妹が居ます」

「妹さんが大事?」

「はい」

 

腑に落ちた。

 

「妹さんを守る為に、凛に告白を?」

「……はい」

 

真也は洗いざらい話した。妹が養子だと言う事、前の家で虐待を受けていた事、桜に出会う前の自分、その後の生き方、そして桜と士郎と凛の関係。因みに間桐の名前を出さなかったのは、この話に関係ないからである。

 

(なるほど……)

「以上です」

「お話しは分かりました」

 

ここまでだと、彼は覚悟した。追い出されるのは当然、罵倒は彼女のイメージに合わなかったが罵られる事は間違いあるまい。引っぱたかれるかも知れない。だがそれでも構わなかった。罪には罰が必要だ。罰を受ければ手打ちとなる。だが葵はそれをしなかった。その結果彼は今以上に苛まれる事になった。

 

「美味しいケーキがありますが、ぜひ付き合って下さい。気分も紛れます」

「……あの、怒らないんですか?」

「Aをしましたか?」

「してません」

「B?!」

「してませんたら」

「……ま、まさかC」

「聞く順番が逆です」

 

彼は表現が古いと思ったが指摘はしなかった。

 

「何もしていないなら、特に言う事はありません。好きなのに好きになってはいけないなど、私に言わせればずいぶん可愛らしい関係です」

 

彼は顔を上げた。その表情は知りたくない事実を知ってしまい打ち拉がれている様だった。強いて言うなら知らない罪を突きつけられた罪人である。

 

「……今なんて、言い、ました、か」

「真也さんは凛への好意に気づいていなかった、と言う事です」

「……」

「何とも思っていない相手に苦しむ訳がありませんし」

 

「……気のせいだったなら、謝罪します。何故そこまで俺の肩を持つのですか」

「私は真也さんの事を気に入っています」

「そう思われる心当たりがありません」

「ご存じないと思いますが、凛は家に帰ると真也さんの事しか話しません。前も今も」

 

「悪口ですね」

「いえ、ただの不満です。駆け引き、打算無しの不満です。娘が貴方を連れてきた時も驚きましたし。遠慮無く言い合いをするところなど目を疑いました」

 

それはグール戦の後日、真也が刀を受け取りに行った時の事である。言い合う二人を葵は目撃していた。

 

「真也さんを泊めると聞いた時も驚きました。冷静な娘をあそこまで感情的にさせたのは、驚きを通して感心します。真也さんは遠坂の人間と相性が良いようです。私も、まるで何年も前から知っているかのような気がします」

「……」

 

葵が何を言っているのか彼にはとんと理解が出来なかった。

 

「真也さんは生い立ちを伺う限り誰かに甘えた事はありませんね」

 

彼は全て一人でやってきた。己を鍛えるのも自己の意識形成ですら一人で行った。守るべき桜に甘える事など無かった。幼い桜には絶対の安心が必要だった。誰かに甘える、弱い兄など許されなかったのである。それに気づいた幼い真也は、そうあろうと己を作った。残念な事に、彼はその人格を作り上げてしまった。

 

「凛に甘えてください。弱さを見せてあげて下さい。それは切っ掛けとなるでしょう。凛の為でもあり真也さんの為にもなります。それに今更です。私から話す事は出来ませんが、今更だと凛もそう言います」

 

一拍。彼女は少し強い口調でこう言った。

 

「ですが、娘と深い関係になってしまったら。覚悟を決めて下さい。妹さんでは無く、凛を一番にして下さい。好意があるか分からないなど許しません」

「惚れるより慣れろ、ですか」

「はい、とても相性がいいと思いますよ」

 

笑顔で昼食を続ける葵に彼は笑顔を作った。打ち拉がれている彼は左手首のリボンが無い事に気がついていなかった。

 

 

◆◆◆

 

 

遠坂家の窓を見れば女の影があった。その女は覚束ない足取りで外出する真也の姿の見ていると堪えきれず“あはは”と笑い出した。その女はキャスターであった。葵に暗示を掛けていたキャスターは、凛が外出した頃を見計らい堂々と侵入し、巧みに隠れていたのだった。

 

「宗一郎様から聞いた話と随分違うわね。狂人かと思えば随分可愛らしい坊やだこと」

 

ソファーに腰掛ける葵を見ると笑みを浮かべた。彼女は採光の欠いた瞳で意思が感じられなかった。まるで人形の様である。キャスターは葵から真也の告白を全て読み出したのであった。

 

「予定とは異なるけれど良いでしょう。交渉相手が狂人から一般人に変わるだけ」

 

キャスターは葵の顎を掴んで持ち上げると愉快そうである。

 

「遠坂葵と言ったかしら。貴女は優しいわね、娘(凛)想いのいい母親だわ。だけれど愚かすぎる。娘(凛)を思うのなら坊やを追い込むべきでは無かったわね。せめて罰を与えるべきだった。誰かが無意識の呵責に気づかせればあの坊やは己自身に罰を与えてしまう。それが娘(凛)の為になるかしら? まぁだからこそ、この機に便乗させて貰うのだけれど」

 

キャスターは葵を操った訳では無い。彼の部屋を訪れたのも問いただしたのも許したのも全て葵の意思だ。真也は葵に逆らえない、これを知るキャスターは葵を操り情報を聞き出そうと画策すれば、手を煩わす必要も無かったと言う事である。

 

「それにしても滑稽ね。坊やの妹が自分の娘だと知ったらどう思うのかしら。貴女の言動は娘(凛)を選んで娘(桜)を捨てる事と他ならないのに。2回も親に捨てられるなんて不憫だこと」

 

キャスターはもう一度笑うと姿を消した。

 

 

 

 

 

 

つづく!



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26 聖杯戦争・13 キャスター編

遠坂邸を出た真也は物言わず歩いていた。ただ手足を大きく振り、徒歩よりは強歩に近い。目的を持った歩みではなく、ただ歩いていた。処理できない内に溜る鬱憤を、大地を蹴るという動作で晴らそうとしていたが、とても追いつかない。目の前に電柱が迫る。彼は左拳を打ち込んだ。その衝撃で電柱が音を鳴らした。まるで音叉のようである。何事かと通行人が視線を投げたが、そこには電柱に拳を添えている少年が居るだけだった。

 

「あれが他人に対する接し方か。まるで桜のよう……」

 

桜と葵の姿が重なった。非常に似ていた。凛以上に桜に似ていた。佇まい、抑揚、何気ない仕草などそっくりだ。見れば見る程似ているところが分かる。桜に説教されたようで非常に堪えた。葵の宣告を思い出す。

 

「なるほど、なるほど納得だ。シスコンが妹以外の娘に好意を持つなんて、無理がありすぎる。痛むはずだ……どうする」

 

どうするも何も無い。凛を選ぶと言う事は桜を捨てる事に他ならない。桜を思い出せ。凛と付き合っていると聞いて倒れた桜を思い出せ。当たり前の選択だ。それに今更だ。今更過ぎる。だが何故悩む。悩む理由などお前に無い筈だ……内に生じた葛藤で心臓が痛み出した。まるで掴まれ握りつぶされたような痛みだった。

 

「答えを示しましょう」

 

彼の神経が瞬時に切り替わる。背後の声に振り返れば紫のローブが漂っていた。顔は見えず影すら無い。彼は幻だと察しを付けた。

 

「キャスター」

「その通り」

「何の用だ」

「あら、酷い。共闘の為に声を掛けたというのに。私を探していたのでしょう?」

 

彼はキャスターに向き直りコートの内、左脇にぶら下げる霊刀を意識した。何時でも抜刀できるように姿勢を変えた。彼は警戒を隠さない。

 

「事情は知ってそうだ。このタイミングで現れた、と言う事は悪巧みの準備が整ったって事か」

「準備など当然でしょう。貴方なら、何の考え無しで会うかしら」

「いいだろ。キャスター、お前はどこに居る」

「キャスターである私が本拠地を明かすと思って?」

 

「ならせめて姿を見せろ。ダミー相手に契約など結べるか」

「学校で待ちます。穂群原(ほむらばら)学園と言ったかしら」

「貴様……」

「あら、怖い顔。応じるも拒否するも貴方の自由よ。但し一人でいらっしゃい。仲間を呼べばどうなるか、は敢えて言わないわ」

 

ローブの影にある口元が笑みの様に歪むと、その幻は消えた。

 

柳洞寺を本拠地に置くキャスターにとって真也はある意味鬼門だ。サーヴァントを阻む結界は彼には効果が無い。山道に門番もいるが、避けて通れば役に立たない。本拠地が明るみになれば、何時どこから襲われるか分からないという脅威に晒される事になる。居場所を隠す事は必須条件だった。

 

ダミーで共闘が締結できれば話は簡単だが、真也の指摘した通り相手にされないだろう。いたずらに時間を過ごし、バーサーカーに回復時間を与えるのは彼女とて望むところではなかった。

 

だが自身を晒すには保険が必要だ。真也に掛かれば支援魔術が無くともキャスターなど一溜まりも無い。そこで彼女は学校に目を付けた。学校というのは限定された空間だ。日中でも第3者の出入りが少ない。つまり校内に居る人間のみどうにかすれば目撃者はどうにでもなる。

 

「どう考えても罠だよな」

 

数日ぶりの穂群原(ほむらばら)の校門の前に立ち、彼は思案に暮れた。キャスターの狙いは何だ。わざわざ閉鎖した空間を狙った以上、一般人を無差別に襲う事は良しとしない、そう見る事はできる。だが。

 

「全校生徒を人質に取ったと見るべき、か」

 

どうする、と彼は悩んだ。一人で来いとのご指名だ。士郎たちに知らせば、キャスターが凶行に走らなくても、この機会はご破算。焦り始めていたのはキャスターだけでなく真也もまた同様だった。共闘が結べるかどうかは別にして、何らかの手がかりは欲しい。

 

「~~~っ」

 

それなりに悩んだあと、彼は仕方が無いと誘いに応じる事にした。彼は装備を確認した。平時の装備で礼装では無い。長袖シャツにデニム。ロングコートを羽織り、コート内には霊刀が一本。治療薬が3本、腰のポーチにに収められている。装備を調えて戻る時間は無い。せめてライダーには伝えるか、そう考えて断念した。ベッドの上で死人の様に伏せる妹の姿を思い出せば、サーヴァントの行使は避けるべきだ。

 

意を決して一歩踏み込めば、運動場に人の気配は無い。静まりかえっていた。木枯らしが吹きグラウンドの砂が舞った。運動場に手を添えれば符陣の気配は感じられない。屋上、木陰、建物の隙間、怪しい人影も無し。狙撃の心配は無いと彼は校舎に向かった。

 

校舎に一歩足を踏み居れば、香の匂いがした。彼には何の匂いか分からなかったが魔術に関わるものだと察しを付けた。程なく倒れている生徒を発見した。見渡せば1人や2人ではなかった。全校生徒が同じ状況だろうと予想をつけた。彼は近くの男子生徒に掛けより、首筋に手を添えると気を失っているだけだと気がついた。ただ衰弱が相応にある。

 

この事態を収めるのにはキャスターを抑えるのが肝要だ。彼は階段を駆け上り2階に上がれば、おびただしい数の敵が待ち構えていた。

 

それらは生物の骨格を持っていたが、肉も内臓も血も無く、むき出しだ。ただ、有機的な構造体の至る所に鋭利な隆起があった。牙か棘に見えるそれらが存在するのは、構築する時に功性の思念を受けた結果だとどこかで聞いた。ざっと目を走らせれば、4本脚、4本脚だが直立しているタイプ、小型、大型、多種多様な魔法生物たち。共通するのは動物型のみと言うことだ。それらは竜牙兵であった。

 

彼は詰まらなさそうな顔である。

 

「ドラゴン・トゥース・ウォーリアってか。漫画で見た奴より随分ダサいな」

 

ただ廊下を埋め尽くす程の数を使役する以上キャスターの能力は侮れまい。その数は100か或いはそれ以上。

 

(さてどうする)

 

契約と言いつつこの対応は不可解である。狙いは他にある、と見るのが肝要だ。だが彼に考える余裕は与えられなかった。一体の竜牙兵が襲ってきた。抜刀。刀身が鞘走り、魔力の迸る証として光りの粒が宙に舞った。一閃、飛びかかる大型犬の様な竜牙兵を切り裂いた。それは砕け、幾つかの関節で構成される別の何かになった。術式が生きているのか、小刻みに動いていた。

 

陽炎の様に現れたキャスターのダミーが告げた。

 

『最上階最奥の部屋で待ちます』

「そんなベタなプロットを今時出したら編集者に怒られるぞ」

 

階段は1階から3階まで繋がっている。そのまま3階に向かえば挟み撃ちにされ恐れがあった。時間指定はされていない以上、2階を殲滅させるのが確実だと彼は判断した。

 

無数の竜牙兵が迫り来る。彼は右手に霊刀、左手に鞘を持ち、切り込んだ。右手の霊刀の一振りで、飛びかかるカンガルー型の竜牙兵を切り裂いた。左手の鞘で飛来するコンドル型の竜牙兵を叩き落した。目の前に居るラプトル型の竜牙兵を霊刀で唐竹に切り裂いた。そのまま鞘を肩に乗せる様に、背後に突き立てた。その鞘の先端はゴリラ型竜牙兵の肋骨に入り込み、彼は一本背負いに似た動きで投げつけた。それは複数の竜牙兵と衝突し砕けた。

 

チンパンジー型、馬型、トリケラトプス型、多種多様の動物型竜牙兵が怒濤の様に押し寄せてくる。これではまるで博物館だ。

 

一閃、一閃、一閃。一刀を振るう毎に竜牙兵が残骸と化した。例え大型であろうと一体一体は脅威では無い、彼にとっては軽い一撃で砕くことが出来るからだ。だが数が多い。厄介なのが小型動物タイプだ。ハムスターの様な複数のそれによじ登られ、食らいつかれた。痛みが走る。払おうとすれば、目の前に中型以上の竜牙兵が迫り、彼に払う暇を与えない。

 

彼は小物を無視し大物を狙い続けた。何時しか、身動きが取り難くなる程に小型竜牙兵に取り付かれた。目の前に弩弓の勢いで突進してくる竜牙兵が居た。イノシシ型だ。彼はそれを敢えて受けると吹き飛ばされた。その威力は凄まじく彼は背後の竜牙兵の群れに突っ込んだ。転がり、滑り、壁に叩き付けらる様はボーリングの様。ダメージと引き替えに、叩き付けられた衝撃で纏わり付いた小型竜牙兵を打ち払い、背後に迫る竜牙兵の群れを薙ぎ払った。

 

舞い散る骨の破片が収まった頃、彼は立ち上がっていた。唾と共に血を吐いた。

 

「来いよ。ストレス溜まってたんだ」

 

真也の声に応じるかの様に竜牙兵の群れがにじり寄る。小型竜牙兵が真横に並び、牙をならすその様は昆虫の触角のように見えた。有機的に動くという意味である。彼は笑みを浮かべていた。

 

「お前らもお遊戯しに来たって訳じゃ無いんだろ? 踊るなら踊るで、やるなら全力だ」

 

竜牙兵が怒濤の様に押し寄せた。その様は津波の様。

 

「そう、こなくっちゃ、なぁっ!」

 

彼は踏み込んだ。彼にとって竜牙兵は脆いが数が多い。一振りに一体ではキリが無いと彼は戦術を変えた。群れに突っ込み敢えて喰らい付かせた。身体をドリルのように強引に回す。四肢に喰らい付く竜牙兵を巻き込みながら、右手の霊刀と左手の鞘を打ち振るった。霊刀を10時から4時の方向へ振るい、鞘を7時から1時の方向へ振るう。回転連舞。回転力を加えたその左右二振りと、巻き込んだ竜牙兵すら刃とし、竜牙兵の一群をなぎ払った。

 

間髪置かず、跳躍。“天井に着地”し、霊刀と鞘をクロスさせ小ぶりなTレックス型の竜牙兵に向けて、その身を砲弾替わりに打ち込んだ。Tレックス型の破片が弾丸の様に飛び散り、他の竜牙兵にダメージを与えた。それらは機動力を激しく落とした。酔っ払いのように動く物、壁を転がるように動いてみる物、地を這っている物、転倒と起立を繰り返す物。彼はゆらりと立ち上がれば事務的にそれらを砕いた。駅員が切符を切るかの様な単調な動きだった。

 

校舎の端にある階段まで教室一つ分。立ちふさがる竜牙兵は籠城する兵士の様だ。それは追い詰められているという意味である。彼は全身から血を流しながら、それでも歩みを止めること無くそれらに向かっていった。

 

 

◆◆◆

 

 

それから数刻経った。廊下には竜牙兵のなれの果てと、荒い呼吸の音があった。なれの果ては廊下に敷き詰められていた。呼吸は視界を埋め尽くす程である。彼は壁に背を預けもたれ掛かっていた。二階の敵性勢力は掃討した。これより進撃作戦第2段階である。額から流れる血を拭うと、彼は階段を上がっていった。

 

3階も盛大な迎えがあると思えば、拍子抜けだ。ただ立ちふさがる様に一体の竜牙兵が立っていた。それは2本の脚を持ち、骨盤と脊髄を介して大きな頭蓋を支えていた。頭蓋には目玉が収まる窪みが二つあり、上あごと下あごはかみ合っていた。右手にはブロードソード、左手にはラウンドシールド。人型の竜牙兵である。

 

それは何かに命令された様に真也に駆け寄ってきた。素早く隙が無い。その腕前は一流どころの剣士が相応だろう。楯をかざしながら剣を鋭く打ち下ろす竜牙兵の腕を彼は切り落とした。高速重心移動。軸足を変えて、竜牙兵の側面に身体を滑らせると、移動に使った脚力を一刀に乗せて竜牙兵を打ち砕く。

 

彼の背後に迫る刃があった。これは陽動かと、彼はそのまま回転を続けその影を切り裂いた。その影は身長162センチ程の少女型。栗毛色のさっぱりしたボブカットで、穂群原(ほむらばら)の女子生徒の制服を着ていた。鋭さの中にも大らかさを持ち合せた顔立ち。それはブロードソードを持った綾子だった。彼女は9時から3時へ走る、真也の真一文字で真っ二つになった。支えを失った上半身が床に落ちた。それは台に乗った花瓶が落ちるかの如く。残った下半身は数歩歩いた後、崩れ落ちた。

 

「あ……」

 

彼は眼を見開き立ち尽くした。何が起こったのか理解が追いつかない。それは事実だと理解していたが、受け入れたくないと心が拒否をしていた。彼は霊刀も鞘も落としはしなかったが、力が抜け掛かっていた。綾子の骸は色を失い塩の像と化した。そして崩れ、ただの塊となった。それはキャスターの術が生み出した高精度の傀儡である。彼女は桜の記憶から美綴綾子という存在を嗅ぎ付け、襲い、詳細なデータから親でも見間違う程の外観を持つそれを作り出したのだった。それは彼女の仕込みである。

 

「な、な、なん、で……」

 

彼には見抜くことが出来た。精度が良いとは言っても所詮は外観のみ。呼吸もしなければ、帯びる魔力も道具の様に少なく硬い。だが彼は切り捨てた。確認する必要が無かったのである。なぜなら彼にとって妹以外の全てのモノは等価値だからだ。剣を持って向かってきた以上、妹でない以上、彼は例え綾子であろうと切り捨てることが出来るのだ。イリヤスフィールを切り捨てた様に。それは彼にとって死の宣告に等しかった。

 

立ち尽くし俯き歯を食いしばる。霊刀と鞘を握りしめた。

 

「そうか、そうかよ。俺はこういう奴か」

 

彼は無人の廊下を、再奥の教室に向かって歩き出した。

 

(済まない、綾子)

 

あれ程居た竜牙兵は一体も居なかった。もう役目は済んだとばかりに、否、必要は無いと言わんばかりである。

 

(済まない、凛)

 

キャスターは2階で真也を疲弊させ、体力と集中力を削った。3階では人型竜牙兵を一体だけ配置し、相応な品だと警戒させた。簡単に打ち倒せば見かけ倒しだと思うだろう。それは隙となり、その隙に傀儡を宛がった。綾子が本物か、偽物か、彼にその対処する余裕を与えない為である。全ては彼に自覚させる為の罠だった。

 

「……引き際だ」

 

キャスターは“お前は凛を傷つける、綾子以上に傷つける”と彼に突きつけたのである。真也が凛に対し揺れ動いているのは彼女が桜の血縁だからだが、彼はその様なことを知らない。ならば綾子と同じように凛にも出来る、と考えるだろう。

 

彼がその教室の扉を乱暴に開けると、彼から見て反対側、窓の側にキャスターが立っていた。笑みを浮かべるその女は綾子を抱いていた。指をその首元に添えていた。何時でも殺せるというポーズであった。

 

それを見た彼は目を細めた。今にも飛びかかり斬殺しかねない勢いである。

 

「調査済みか。魔術師は辞めて会計士になったらどうだ。そのマメさなら物になる」

「言わなくても分かっていると思うけれど、この娘は本物よ。剣を捨てなさい、異端の魔術師さん。それとももう一度この娘を死なせてみる? 坊やの様な人でなしに10年付き合って捨てられたこの不憫な娘を」

 

彼は剣を床に置くと、教室の隅に蹴飛ばした。気づいてしまった以上もう出来なかったのである。控えていた一体の人型竜牙兵が彼ににじり寄る。

 

「鞘も捨てなさい」

 

従順な真也を見てキャスターは満足そうな笑みを浮かべた。

 

「ホストの割には客の扱いがなってない」

「この状況で剛胆なこと。とても打ち拉がれているように見えないわ」

「用件を話せ。手短にだ」

「良いでしょう。無駄は私も好まないから……私と手を組みなさい」

 

キャスターがそう発言した時、厚かましいにも程がある、彼はそう思った。どこの学校でも見られるパイプと木板で構成されたシンプルな勉強机。キャスターはそれに腰掛け、脚を組み、優美に振る舞っていた。それに対して彼は直立不動だ。身動き一つしなかった、否、出来なかった。人型の竜牙兵が彼の首筋にブロードソードを突き付けているからである。加えて上から目線、極めつけが人質である綾子を絶えず視線に収まる様にしている、彼の苛立ちははち切れんばかりであった。

 

「その魔眼があればバーサーカーとて易々倒せる。けれどその点を突くのが難しい。だから坊やは手数を増やそうと仲間を探した。私なら魔眼に影響を受けない支援魔術がつかえる、なら私と坊やだけで十分ね」

 

「人目に付くのは御法度、それを破った貴女と組めと?」

「坊やはそんな事は気にしてはいけない、妹以外の価値を持ってはいけない、そういう人間よね?」

「……」

 

「坊やにとって悪い話では無いと思うわ。セイバーのマスターに願いは無い、だがセイバーにはある。アーチャーのマスターはー勝利を狙っていて、共闘はバーサーカー戦まで。そのバーサーカー相手ではセイバー、アーチャー、坊やの3人がかりでも倒せなかった。私と組めば、強力な支援魔術にライダーも居る。私は妹さんの身を保証する」

 

キャスターはこれ見よがしに綾子を突きつけた。キャスターの術が発動し、綾子の表情が苦悶に歪む。キャスターは真也にメリットを提供し、綾子をその一押しとしたのである。真也は睨み付けたままだ。

 

「さて、返答は?」

「……良いだろ」

 

キャスターは苛立たしさを感じる程の笑みを浮かべた。

 

 

◆◆◆

 

 

1stバーサーカー戦を遠見の魔術で偵察していたキャスターは当初士郎たちが考えた様に共闘するべきだと考えた。だがセイバー、アーチャー、ライダーの同盟に加われば後からやってきた陣営という枠に陥る可能性があった。影響力、発言、扱いという意味である。それは屈辱的だった。なによりバーサーカー戦後の事を考えれば手の内を晒すことは避けたい。直接的な攻撃力に劣る彼女にとって情報は命だ。

 

苦慮していたところ真也の魔眼を知った。彼がバーサーカーの岩斧を切り落とした件である。当然彼女はそれを入手するべきだと考えた。幸いにしてイリヤスフィールは負傷し時間的な猶予があった。彼女はまず情報を集める事にした。

 

幸運にも士郎たちの関係は、思惑が交差する微妙な力関係で成り立つ脆い物だった。だがキャスターの暗躍が知られれば結束に影響を与えるかもしれない、これを考慮し極秘裏に行動した。

 

桜を襲いその記憶を読んだ。桜はもともと遠坂家の人間で凛を姉に持ち、葵を母に持つ事が分かった。そして兄と士郎の間で揺れ動いている事と、その兄が常軌を逸するシスコンであると言うことが分かった。

 

桜の記憶から遠坂家を辿り彼女らの情報を集めようとしたが、駆け出しの桜と異なり一流魔術師である凛を襲うことは不可能だ。そこで葵に目を付けた。彼女の記憶から、真也が遠坂家に居る事を知ったが、キャスターは桜の記憶にある真也像からそれは牽制だと考えた。

 

狙い自体は簡単である。桜以外の全てのモノは等価値、その真也に士郎たちと組む事以上のメリットを提供すれば容易に寝返るだろうと踏んだ。

 

だが問題が一つあった。桜は士郎を追っている、本心はともかくそう行動している。桜の同意を取り付けねば真也は納得しまい。桜に士郎を諦めさせる、これが最初のステップだった。桜の記憶から士郎に無理に迫っている事が容易に知れた。そこでキャスターは桜に、凛と真也が付き合っていることをリークし動揺させた。真也には桜に会うよう幻術を用い仕向けた。

 

彼女のシナリオは次の通り。凛と真也が付き合っている事を知った桜は追い込まれ士郎に迫り拒絶される。そうなれば桜は兄しか残らないが、“苦しみから逃れる”という聖杯への願いは残ったままだ。その状態で真也が衛宮家を訪れば、共闘が自壊するのを待つのみだ。真也が桜を士郎に預けたのは、桜が士郎に好意を持っている、そう考えているからに他ならない。結果セイバー陣営とライダー陣営は分解、真也もアーチャー陣営を離脱、後は共闘を持ちかけるのみ、その筈だった。

 

ところが。桜が妹でも良いと言い出したのだ。挙げ句の果てに聖杯は要らない、最後まで共闘の責任を負うとまで言い出した。キャスターは慌てた。葵を使うか、真也が不義を働いていることを凛に伝えるか、幾つかのプランが浮かんだがとにかく真也の情報が必要だった。

 

改めて目を向ければ真也がおかしい。凛への告白は牽制だったはずだ。妹以外どうでも良い彼にとっては偽りの関係だ。凛に理想的な恋人を演じる事が出来たはずだ。だが、とてもそうは見えない。キャスターは嘘が誠になったのかと推測した。姉妹だから似ているから、そうなったのかと考えた。

 

葵への独白で真也が揺れ動いている事が判明した。予定変更である。交渉相手が、妹だけに価値を置く狂人から、一般人に変わっただけだ。つまり人質という手段が有効になった、と言うことだ。ただ今のままでは不安定だった。キャスターは条件を確定したほうが好ましいと考えた。幸いにして桜は決断を真也に伝えなかった。つまり彼は桜と凛に挟まれ追い込まれていた。それは弾けんばかりに膨らんだ風船の様なものだ。後は些細な切っ掛けがあれば良い。膨らんだ風船は爪楊枝の一刺しで容易に割れる。

 

キャスターは桜の記憶から綾子を辿り、襲った。彼女を元に精密な傀儡を作った。そして本人を人質にした。実際に殺すつもりが無かったのは、男に捨てられた娘、と言う似た境遇もあった。

 

 

◆◆◆

 

 

いざ真也をおびき寄せれば面白い様に事が進んだ。彼は思惑通りに彼女の足下に這いつくばっていた。彼は人型竜牙兵に両足と利き腕を切り裂かれ倒れていた。満足に動くのは左腕のみである。綾子を人質に取られた以上抵抗が出来なかった。

 

彼女は笑みを浮かべた。気が晴れた。女を弄んだ男に天誅を下したのだと清々しかった。戸惑いも呵責も持たない異常者、利用するだけ利用し始末しようと思っていたがこれはこれで気分が良い。

 

這いつくばる真也は竜牙兵に頭を掴まれ、顔を持ち上げられた。その顔には苦悩、戸惑い、落胆、不安、失望、負の感情が見て取れた。キャスターは心底嬉しそうだ。

 

「御免なさい。出来ればこの様な真似はしたくなかったのだけれど、坊やは怖いからこうでもしないと安心できないのよ。でもまぁ安心しなさいな。契約が滞りなく結ばれた暁には、癒やしてあげるから」

「……左手が残っているけれど?」

「それはこれの為よ。左腕も潰したらペンが持てないでしょう?」

 

彼女は一枚の用紙を取り出した。彼は呻いた。心底うんざりしたようだ。その用紙自体ではなくそれを持ち出したキャスターの性格にである。

 

「自己強制証明(セルフギアス・スクロール)……」

「その通り♪」

 

それには“真也がキャスターの軍門に降る。桜は聖杯戦争期間中はキャスターの仲間としての義務を負い、その対価として、桜を尊重し安全を確保する、桜に聖杯を与える、桜の願いを叶えさせる”と記されていた。

 

「あとで妹さんにもサインを頂くとして、異存はあるかしら」

「一つ付け足したい」

「あら、ご不満?」

「そこに記されているのは、妹の義務と対価だろ。俺の分が無い」

 

彼女は肩をすくめた。彼の図々しさにだ。

 

「随分欲張りな要求だけれど、自分の取り分が欲しいという事ね。ま、良いでしょう。全ては等価交換が基本。魔術師である私がそれを疎かにしては本末転倒だわ。それでご希望は何?」

「貴女が欲しい」

「……は?」

 

余りにも意外な発言で彼女の声がひっくり返った。

 

「愛する必要は無い。聖杯戦闘期間中、貴女と身体の関係を持ちたい。調べてるなら性的に限界だってのも知ってるんだろ?」

「い、妹さんはどうするつもり?」

「それを貴女が聞くか。俺をこうしたのは他ならない貴女だぞ」

 

彼の狙いはキャスターの見極めである。容易に応じればビジネスライク、益がないと分かれば直ぐ切り捨てられる恐れがある。拒めば、相応のプライドが見込め多少なりとも信用できる。彼はそう目論見を立てたが、実際の所どうでも良かった。フードは目深に降ろされ顎しか見えないそのキャスターは絶世の美人と聞いていたがどうでも良かった。彼はただ勘弁ならなかったのである。彼はペンと証書をキャスターに投げ返した。

 

「……」

 

キャスターは戸惑った。この様なことは想定外だ。魔眼は欲しい、だがその様な要求は受け入れられない。キャスターは寡黙で誠実な人を好む。少なくとも真也はその対局に居る存在だ。複雑が事情が無ければ、損得無しで殺してしまっても良い程である。その様な相手に自ら進んで身を差し出すなど彼女の矜持が許さない。なにより宗一郎が居る以上浮気に他ならない。だがしかし。

 

彼女がペンと証書を持ち葛藤している隙に、彼はポーチから治癒薬を収めたガラス瓶を取り出し飲んだ。真也は立ち上がる事すら出来ないと警戒を怠っていたキャスターは、それに気がつかなかった。竜牙兵には待機を命令してしまっていた。

 

「……お断りよ。このままサインなさい。それが嫌なら死んで貰うわ」

 

証書から視線を外したキャスターの前に真也が立っていた。慌てて呪文を唱えようとしたがもう遅い。彼は印を組もうとした彼女の両手を右手で掴み防いだ。引き寄せそのまま床に押し倒した。

 

床に打ち付けられた衝撃で痛みが走るがそれ以上に嫌悪感があった。彼女はこの状況をどうにか覆すべく、時間を稼ぐ事にした。暴行を働く男に対し暴れることは逆効果だ。彼女は経験上それをよく知っていた。

 

「私はお前の様な軽薄な男は嫌いよ」

 

だがその声は震えていた。彼はキャスターが悪女なのか魔女なのか純情なのか、判断に迷ったが、どうでも良い事だと直ぐ忘れる事にした。彼の声は抑揚無く事務的だ。だが斬り付ける直前の様に鋭い顔だった。

 

「全くもって俺も同感。では先ほどの“身体を”ってのは止めにする。その代わり“個人の関係に於いて互いに裏切らない”ってのに変更したい」

「そんな契約内容、」

「そうね、婚姻みたいだ。なら自己強制証明は使わず互いの手を開かして条件を詰めるしか無い。Win-Winってやつ。真名は?」

「お前を信用しろと?」

「それはお互い様だろ。貴女は裏でこそこそやってたんだ。それ位で無いと割が合わない。それも嫌だというなら、」

 

真也の双眸が光った。眼鏡越しでも十分に感じられる程深みのある蒼だった。彼の左手がキャスターの首に食い込んだ。

 

「悪いけれど死んで貰う。綾子を知ってるって事は桜の記憶を覗いたろ。凛との事を知ってるって事は、葵さんの記憶を覗いたな? この二つだけで殺す理由に十分だ。桜の幻影を使って、桜自身をも利用して、そう仕向けた。そして俺の内を暴いた。実に巧妙な心理戦だと思う。称賛に値するよ。俺は、俺が他人の心が分からない人でなしだって事が良く分かった。この教訓は生かす。それを教えてくれた貴女には感謝の言葉も無い。説教して貰えなくなったら人間お仕舞いだからな。

 

でもさ。そう見えるか分からないけれど、ハッキリ言って腑が煮えくりかえってる。残念だけれど、拷問とか知らないし、生きたまま切り刻むなんて趣味じゃ無い。でも殺すだけじゃ気が済まない。君に屈辱を与える方法はこれ以外思いつかないんだ。今から君を犯す。安心してくれ。フードは取らないから顔を見ない。名前も聞かない」

 

ローブの首元を掴むと下腹部に向けて切り裂いた。紫色の布きれが舞った。キャスターの唇が恐怖と憤りで歪んだ。彼に性欲は無かった。ただの復讐である。

 

「何処の誰かのまま、ただ捌け口になってくれ。その後消滅させる。大丈夫。痛みは無いから。貴女が人間だったなら大問題だけれど、俺らは聖杯戦争の参加者だ。覚悟はしてるんだろ? 人道騎士道誇りとか言える立場じゃない事は理解していると思うけれど」

 

キャスターは逃れようともがき暴れ出した。どうにか呪文を唱えようとあがいた。せめて一小節の隙があれば糸口を作れる。それを察した彼は彼女の横隔膜と打とうとして止めた。その代わり手の平を露わになった鳩尾に添えた。何をと、不可解に思ったキャスターは突然得体の知れない衝撃に襲われた。

 

「きゃぁぁぁぁ!」

 

それは身体の芯を、全神経を、ペンチで潰し切られた様な衝撃だった。

 

「どうだ。己の体内にあるオドが謀反を起こす感覚は?」

「か、は、」

「どうしてって顔してるな。答えたいけれど俺も知らない。ただ出来るって事実があるだけ。暫く魔術は使えないだろ、身動きも出来ないだろ、じっとしてる事だ。何時間掛けても気が済むなんて事はないだろうから、適当なところで切り上げる」

 

キャスターは眼を見開き、瞳は針のよう。喘いでいた口は真空でも吸いそうな程だ。彼女は目尻から涙、口から唾液を垂らし、男の名を呼んだ。それは助けを求める声だった。真也は暫く悩んだあと手を離し、キャスターから離れた。

 

「やめた。その人の所に帰ると良い」

 

事態が飲み込めない彼女は、とにかく起き上がると、床に蹲りその露わになった身を覆うように抱きしめた。屈辱を隠す為だったが、それ以上に不可解だと彼を見上げていた。

 

「なぜ?」

「誰かを思うのは人としての最後の一線、お袋の言葉であり家の家訓だ。キャスター、貴女は実にやり手だよ、たった一言で俺のその気を削いでしまった」

「甘い坊やだこと。私が改心するとでも?」

 

「誰かに助けを求めて幸運にも助かって、この期に及んでまだ減らず口を叩くか。貴女の悪女願望も大した物だ。だが貴女には向いていない、素直になると良い」

「何も知らずぬけぬけと」

「確かにそうだ。君がどんな可哀想な人生を送ったのか、そんなこと知ったこっちゃない。納得が出来ないなら理由を提示しよう。

 

実際の所、バーサーカーの脅威は除かれていない。共闘の可否を俺の一存で決めるのもアレだ。君に縄を付けて皆の元へ引き摺っても良いんだけれど、そんな真似をしたら悪女に成り切れない君は侮辱されたと納得しないだろ。そもそも契約ってのはWin-Winだ。仕切り直しって事。

 

それに殺さないだけ。殺そうと思えば殺せる。興が失せたと言ってる。俺の気が変わらないうちに消えてくれ。言っておくけれど次は無い。そうそう、君が幻術を使う事、暗躍していたこと、葛木宗一郎をマスターにしている事は周知するから」

 

「殺せるけれど、殺さないだけ、それは本当かしら」

「それ以上の挑発は命に関わるぞ」

「良いでしょう。貴方からは、妹さんからも手を引きます。ですがその判断は後悔に繋がるでしょう」

「貴女の負けず嫌いも、極めつけだな」

 

真也はロングコートを脱いで、綾子に羽織らせると彼女を抱き上げた。そんな権利など無いと承知していたが、真冬の教室に寝かしておくのも酷だ。償いなどにはなりはしない、そう言い聞かせながら、綾子を保健室のベッドに寝かせると彼は学園を後にした。

 

 

◆◆◆

 

 

自宅に戻った真也が自室で装備の手入れをしているとチャイムが鳴った。時計を見れば、帰宅後飛んできた事は想像に難くない。彼は姿見に映る己の形を見た。身体の汚れは落としておいた。襟付きシャツに、スラックス、整髪料は使っていないが悪くない。小洒落た恰好だ。ジャケットを羽織ろうとして、其処が室内だと彼は気づいた。悩んだ上でそれをベッドに投げ捨てた。待たせるのは失礼だ、最大限の敬意を彼女に払わなくてはならない。

 

玄関の扉を開けると凛が立っていた。頬が赤く、髪も乱れ気味で、息も切らしている。怒っているかと思ったが、その表情は不安一色だ。彼女は息も切れ切れに“どうして”と彼に聞いた。彼は笑顔に努めた。笑顔が適当かどうか分からなかったが、他に表情を思いつかなかった。

 

「取りあえず上がってくれ」

 

リビングに凛を招くとテーブルに付くよう誘った。彼は言う。

 

「コーヒー、紅茶、ココア、何が良い?」

「……コーヒー」

「インスタントだけれど」

「それでいい」

 

互いに一口飲めば、少しは落ち着くだろう。少なくとも慌てふためいた状態でそれを切り出したくは無かった。しばしの沈黙が訪れる。目を伏せて唇を強く結ぶ凛の、その胸中に宿る不安は如何ほどのものか。彼女が耐えられず見上げれば、真也は手の平を向けて制止した。

 

「凛の聞きたいことは分かってる。その前に仕事の話をしたい」

「……分かった」

「キャスターに襲撃された。追っ払ったけれどね」

 

彼女は眼を見開き驚いた後、声のトーンを落とした。

 

「どうして連絡してくれなかったの」

 

渡した宝石は使わなかったのだと落ち込んだ。理解はしていたが実際にそうされると辛いものは辛い。

 

「1人で、というご指名だったし狙いは俺だった。キャスターは俺らを分断しようと暗躍していた。そして穂群原(ほむらばら)で戦闘をした。大量の竜牙兵を繰り出して手こずった。キャスターのクラスらしく魔術は強力って事だな。敵兵力を沈黙させた後、言峰神父に後始末を頼んだ。俺との話が済んだら直ぐに士郎の家に戻って皆に話した方が良い。マスターは葛木宗一郎、本拠地は柳洞寺が臭い。あの女、キャスターの事だけれどかなり質が悪い。俺が言える事じゃないけれどね」

「分かった」

 

彼は一つ呼吸を置いて、姿勢を正した。彼の目の前にはコーヒーカップを口に運ぶ途中の彼女が居た。

 

「ここからが本題だけれど。凛……俺と別れてくれ」

 

彼は深々と頭を下げた。カップを口に運ぶ凛の手は止まっていた。そうかも知れないと彼女は思っていた。衛宮邸から家に戻れば、彼の部屋はもぬけの殻だった。葵は何も言わずに首を振った。

 

「……理由を聞かせて」

 

その声は震えていた。堪らずこう聞いた。

 

「料理がまずかった? 我が儘だった? 嫉妬深かった? 迷惑だった? 髪型? 罵った事? 高慢だった? それとも男の子たちを弄んだ事?」

 

彼は全て否定した。彼女の挙げた、彼女が欠点だと思っている事は全て彼にとって喜ばしい事だった。

 

「君は良い奴だ。魅力的だし、尊敬もしてる。素質があって、努力を怠らず、気が強くて強い自分を持っている所なんて最高。君には良い男が現れる、俺が保証する。居なかったら世の中が間違ってるんだろ。俺がまっとうなら君を幸せにできた。でも俺は違う。だから言うよ、俺を信用するな。

 

イリヤスフィールを殺しかけて、綾子に泣かれて、凛の家に行って、気がついた事がある。俺は桜が絡むとタガが外れる。どうやら俺はおかしいらしい。俺はきっと君を傷つける。綾子の様に、或いはそれ以上。煩わせて悪かった。許して貰おうだなんて思って居ない。だけれどもう欺し続けることが出来ない。あの時、士郎の家からの帰り道、凛に告白したのは、嘘だ」

 

彼は頭をもう一度下げた。これで終わりだと思った。罵られて当然、ガンドを喰らっても文句は言わないつもりだった。だが凛は真也の想像を上回っていた。

 

「……知ってたわよそんな事」

 

彼は慌てて顔を上げた。その表情は驚きを隠さなかった。

 

「真也が桜の為に告白したって気づいてた」

 

氷室鐘の話。迫っても拒絶する事。桜を心配する様。そうではないかと凛は思っていた。それを知った彼は声が出ない。なんで、うめき声のような音を出すのが精一杯だった。

 

「それでも嬉しかったから」

 

凛は面を上げると真也を真っ直ぐに見詰めた。それは嘘偽り無い彼女の思いである。

 

「気づいていないかも知れないけれど、今の真也は不安定なの。放っておけない。考え直して。別れるなんて言わないで。私は真也の隣りに居たい」

 

決意が鈍る。嬉しさの余り正直泣きそうだった。だが彼にはその資格が無い。綾子を斬り捨てた時の絶望が、斬り付けられる程に明瞭に浮かび上がる。彼は首を横に振った。

 

「凛の助けは要らない、俺は一人でやっていく。俺はそうしてきたし、そうしなくてはならない。もう、俺に関わらないでくれ。凛の人生を台無しにしたくない」

 

どれ程の時間が過ぎたのか。少なくとも手元にあるコーヒーが冷めて冷たくなっていた頃、彼女は盛大に溜息を付いた。腕を組んでやってられないと、不愉快さを隠す事も無かった。拗ねているように見せたのは、彼女の最大限の譲歩であり気遣いだった。

 

「あー、もう、分かったわよ。押しつけは私も好きじゃ無いしね」

「済まない」

 

彼はもう一度頭を下げた。

 

「アンタ、大きな魚を逃がしたわよ」

 

そう言った彼女はいつか見たように、初めて見た時のように、尊大な笑みを浮かべていた。

 

「知ってる。ただ俺に凛は大きすぎた」

「桜の方は任せなさい。動きがあり次第連絡するから。でもその後は敵同士だから覚悟しなさい」

「凛、君は桜を殺すか?」

「怒るわよ」

 

「なら俺はもう降りる。バーサーカー戦までは付き合うけれどその後は関知しない」

「どういう風の吹き回しよ。シスコンのアンタが」

「義理と人情のその折衷案、そう思ってくれ」

「そう、まぁ良いわ」

 

桜が理由では無いなら、幾らか気分が楽だった。少なくともシスコンという呪縛からは外す事が出来たのだから。玄関で靴を履く凛に真也はこう告げた。

 

「俺の手が居るなら遠慮無く言ってくれ。あとキャスターは高度な幻術を使うから気をつけろ。多分葵さんも何かされてる」

「分かった」

 

彼は「それじゃ」と言った。彼女は「さよなら」と言った。玄関の扉が閉る、その隙間、最後の瞬間に見えたのは彼女の笑顔だった。

 

(弄んだ相手を笑って見送るか……)

 

本当に大きな魚だったんだな、思った時にはその扉は閉っていた。彼がリビングに戻れば二つのコーヒーカップがテーブルに並んでいた。これは最初で最後であったのか、と理解した彼は、心臓の痛みを堪えようと手で押さえた。

 

「骨身に染みるってこの事だな。魂をがんじがらめに縛られて、手も足も動かせない感じだ。どれほど望んでも、永遠に満たされない、絶えず渇き続ける感覚。どれほど喘いでも息苦しい感覚が続く。永遠に終わらない様だ。これはキツイ。そう、そうか、これが罰か……痛ぅ」

 

凛を騙した。凛を悲しませた。凛を失った。その精神の軋轢は、魔術を発動させ、激痛となって彼を襲った。

 

「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

彼は心臓を抑えながらリビングをのたうち回った。テーブルを蹴飛ばし、ひっくり返した。二つのコーヒーカップが、宙を舞い、落ちて、割れた。その傷みは永遠に終わる事が無いように思えた。彼はそれが相応なんだろうなと、受け入れた。

 

蒼月家の門を出た凛は暫く歩いていてが、徐々に足を速めた。強歩、早足、何時しか駆け出していた。前がよく見ない、溢れて何も見えない。だがこみ上げる声だけは堪えないといけない。

 

(泣かない。私は泣かない。遠坂凛は泣いてはならない)

 

“意地を張るのが遠坂凛だろ。なら張り通せ”

 

いつか聞いた彼の声を思い出した時、とうとう堪えきれなくなった。その声に何事かと人々が振り返る。彼女は臆面もなく涙と嗚咽を溢していた。泣いていない、泣いていない、と何度も繰り返しながらその家を後にした。声にならない声を聞いたのはアーチャーだけだった。

 

 

 

 

 

つづく!





しろう「チャンス到来?!」ガタッ!
さくら「元鞘?!」ガタッ!
しんぷ「私の出番が来たか!」ガタッ!!





凛の“そんな事知ってた”展開を予想されていた方いらっしゃるでしょうか。葵の説教はこれの伏線でした。ぶっちゃけ。真也に酷い目に遭わせようとすると誰かが泣くという。この凄まじい設定です。ご意見ご感想お待ちしております。そろそろ話しますが、綾子も凛もまだ出番があります。ドロドロはまだまだ続く。

ぶっちゃけ。別れのシーンは手が震えました……いてぇ、胃が痛ぇ。


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27 聖杯戦争・14 キャスター編

「即刻仕掛けるべきです。さすれば疾風の如く斬り込んでキャスターめの首を討ち取ってみせます」

「馬鹿ね。私たちは交渉に行くのよ。日没を待つべきね」

 

ちゃぶ台を挟んで言い合う二人を見つめるのは士郎である。陣営云々とは言うが、それなりに仲が良い二人を見て“喜ばしい”と思う士郎であった。啜る茶も旨い。

 

時を遡る事30分前。その日の魔術講義が終わり、夕食の準備をしようと士郎が台所に立てば凛が慌ててやって来た。何事かと問いかければキャスターを見つけたという。彼女はマスターは葛木宗一郎、本拠地は柳洞寺が怪しいと言った。

 

なるほどと温和しく凛の話を聞いていたセイバーは、キャスターが共闘を妨害しようと暗躍していた事、真也に接触し御法度となる一般人を巻き込んだ戦闘活動を行った事を知るや否や、彼女は烈火の如く怒りだした。どうしたと士郎が聞けば暗躍する者を放置すれば後々面倒な事になる、と彼女は吐き捨てた。堂々としない存在が気に入らないのだろう、彼は思ったが実際は異なる。前回の聖杯戦争において召喚されたキャスターが一般人を巻き込み凶行に走った事を彼女は思い出したのだったが、士郎たちは知るよしも無い。

 

凛は繰り返し諭すように言う。

 

「強行して追い詰めるのは良くないわ。真也の入手に失敗した以上、焦っている恐れがあるし、堂々と行きましょ」

「キャスターは白昼堂々行動していたのです、付き合う理由はありません」

「あのね、日中にサーヴァント戦を仕掛けるつもり? 柳洞寺にだって人は居るのよ」

「あの男の話では、学舎の学徒は眠らされていたと言う。であれば同じ状況だと考えても良い」

「それは希望的観測よ。いい? こちらにはサーヴァントが3人居る。加えてあちらは一人、焦る必要は無いわ。むしろそれがキャスターの狙いかも知れないんだから」

「遠坂凛、貴女は手ぬるい。今この瞬間ですらキャスターは動いていると言うのに。敵に準備の時間を与えるなど論外だ」

「だから、交渉に行くのよ」

 

意見は平行線である。ライダーは沈黙を貫いている、桜は何か発言をしなくてはと考えたが、二人の気迫に押され腰が引けていた。士郎はどうしたものかと考えた。

 

「シロウからも言って下さい!」

「衛宮君、何か言いなさいよ」

 

二人に睨まれ熱いお茶をゴクリと飲んだ。喉が焼けた。思わず咳き込んだ。美少女二人にえらい剣幕で睨まれればやむを得まい。

 

「よし。なら折衷案でいこう」

「何よ、折衷案って」

 

不審さを隠さない凛に彼は愛想笑いをしながらもこう続けた。

 

「斥候をだそう。遠坂たちは近くで待機。情報を集めて、日没と同時に乗り込む、これでどう?」と士郎は自信満々だ。

「落としどころか……セイバー、貴女は?」と凛は仕方が無いと頷いた。プランも妥当だと思われた。

「多少不満がありますが、構いません」セイバーは士郎を頼もしさを感じつつ頷いた。

「桜は?」と凛が言う。

「え、あ、はい、良いと思います」突然声を掛けられた桜は挙動不審だ。

「決まりね。偵察はアーチャーにやらせる」

 

凛の発言にセイバーが反応した。

 

「彼はもう活動が?」

「ええ、問題ないわ」

 

アーチャーがバーサーカー戦の折りダメージを負った件である。尚、セイバーにボコられた影響で半日ほど回復が遅れたのだが、彼女は知るよしも無い。

 

「シンヤに連絡してきます」とライダーが立ち上がると凛は「戦闘直後よ、役に立たないわ」と消沈した面持ちで答えた。妙だと訝しがるのは士郎を除くその場に居る全員、つまり女性陣だった。“役に立たないわ”とは随分扱いが悪い。頃を見計らい、一人で茶を啜る凛にライダーが声を掛ければ俯き彼女は眼を合わさない。

 

「遠坂凛、何かありましたか?」

「真也に聞いて」

「……」

「もう、シスコンじゃ無いからアイツ。フォローは任せた」

 

ライダーは察した。

 

「……分かりました」

 

心中で一つ謝罪をしてライダーはその場を離れた。

 

 

◆◆◆

 

 

実際の所、キャスターも追い詰められていた。綿密なシナリオを描く余裕が無い。要点だけを押さえ、あとは状況次第、つまり出たとこ勝負だ。その場当たり的な対応は彼女の望むところでは無かったが、何よりも速力が求められた。

 

魔眼の入手を断念したキャスターはセイバーに目を付けた。バーサーカーの打倒は断念し、聖杯のみを入手する。彼女にはサーヴァントを全員倒さなくてもセイバーが居れば聖杯を呼び出す手段を持っていた。

 

彼女の願いである受肉は、聖杯が内包する魔力をそれほど消費しない。英霊はアストラル体であり、記憶、意思、肉体……存在という意味で大半が用意されている。受肉とは画像ファイルを印刷するようなものだ。

 

ただし聖杯を起動するにあたり、サーヴァント最低4人分の魔力、つまり魂は必要だった。アーチャーは即座に倒す必要がある。可能であれば入手したいが、セイバーと同時入手はリスクが大きすぎた。アサシンは準備が済み次第自害させれば良い。ランサーはセイバーを入手後、キャスター自身も行動し共に倒す。

 

ただライダーの扱いが厄介だ。桜には手を出せないが彼女が願いをもう持って居ない以上、事が済めば自ずから手放す事も見込めた。そうでなくとも最悪、ライダーを倒しても良い。なぜなら契約は蒼月兄妹から手を引く事でありサーヴァントは別だ。用が済めば最後にセイバーを自害させる。暫定的にライダーの分断、セイバーの入手、アーチャーの打倒が必要なステップになる。

 

士郎ら一行が柳洞寺に到着すれば結界が施されている事に気がついた。それは二つの意味を持つ。一つはキャスターの根城がここだと確証が取れた事。もう一つはサーヴァントに偵察は無理だと言う事だ。

 

「どうするのですか、シロウ?」

「衛宮君?」

 

2少女の謂われ無き非難に閉口する士郎だった。

 

(どーしろってんだ……)

「先輩頑張ってくださいね」

 

桜の声援が虚しい。援軍には心許ない、と言う意味だ。彼が思案に暮れていると、舞弥はアタッシュケースから装備を取り出し始めた。それらを身につけ始めた。不安に駆られる士郎に対し舞弥は落ち着いた物言いだ。

 

「私が潜入します」

 

セイバーは同意した。舞弥の腕が10年前の様に、とまでは行かなくとも相応に戻っている事を知っていたからだ。なによりサーヴァントや魔術師以外は警戒が薄いだろうと判断がそれを後押しした。凛は他に適任が居ないと同意した。凛も桜もサーヴァントを行使する必要がある、敵陣に単独行動では不安が残る。そして士郎は。

 

「そんなのダメだ」

 

と言い放った。1stバーサーカー戦以来の強い口調であった。凛は意外そうな顔である。桜は推測通りだと乾いた笑みだ。舞弥はいつも以上に冷静であった。

 

「このメンバーでは適任よ」

「ダメだ。舞弥さんに行かせる位なら俺が行く」

「士郎にはマスターとしての務めがある、それを思い出しなさい」

「これでも腕を上げてる、舞弥さんだって知ってるだろ」

 

凛は何のことだと首を傾げた。彼女はアーチャーの企みを知らないのだった。

 

「偵察に過剰な武力は必要ないわ。冷静さ迅速さ柔軟さ器用さ、それらが複合的に必要なの」

「でも」

「敵陣の目の前なの、手間を掛けさせないで」

 

ピンときた凛は桜に耳打ちした。

 

(衛宮君ってひょっとして)

(そうなんです。マザコンの傾向があるんです)

(シスコンにマザコンか、世も末ね……)

 

因みに桜は舞弥が養母だと言う事を知らない。殆ど面識の無い義姉にあれ程執着した以上、養母なら当然だと凛は溜息を付いた。真也を思いだしズキリと凛の胸が痛んだ。誰かを強く想う、そういう意味である。

 

「ダメだ、舞弥さん。俺が行く、行かせてくれ」

「士郎は隠密行動なんて出来ない。任せなさい、昔取った杵柄よ」

「でも、」

 

埒があかないと凛が口を挟もうとした時である。

 

「聞きなさい。士郎が士郎の持つ役割を努めてくれるから私は行動できるの」

「なんだよ、それ」

「これはヒント、よく考えなさい」

 

甘やかすが抑えるところは抑えるのだと、凛は感心しきりだ。舞弥は士郎にスタングレネードを一つ渡すと、アサルトライフルを構え森の中へ消えていった。

 

 

◆◆◆

 

 

柳洞寺の参道入り口から少し離れたところで右往左往するのは士郎である。凛は落ち着けと数度助言をしたが、彼は一向に落ち着かない。桜が言っても同様だった。セイバーが窘め漸く落ち着いた。彼はベンチに腰掛け、身を屈め、両肘を両膝に起き、両手を組んだ。それに額を押しつけじっとしていた。その姿は神に傅き祈る人。願うは舞弥の無事のみである。“柳洞寺の住人は全員眠っている”という報告を最後に、定期連絡が遅れていた。彼の焦燥が募る。

 

士郎らの前にキャスターの幻影が顕れた。全員が即座に戦闘姿勢を取った。

 

「久宇舞弥は預かりました。セイバーのマスターだけいらっしゃい」

 

真也を警戒していたキャスターは、柳洞寺全域を見張っていたのである。舞弥はそれに引っ掛かったという訳だ。士郎は飛びかかりたい衝動を必死に堪えていた。交渉事は凛の得意分野だ。彼女の口調は挑発めいていた。

 

「あら、折角来てあげたのに扱いが酷いわね。接客がなってないわ」

「密偵には相応の扱いでしょう」

「仕方が無いでしょ、どこか化石みたいな魔術師がルールを守らないのだから」

「あら、何のことか分からないわね」

 

「白を切るならそれはそれで良い。さっさと軍門に降りなさいキャスター。この戦力差を覆せるならね」

「今時の魔術師は品性が皆無なのね、困ったこと」

「二度聞かないわよ」

「ならば始めましょう」

 

全員の前に淡い光りが浮かび上がる。魔術だと全員が構えれば、それは映像だった。荒廃した墓地の中心に、巨躯の男と小柄な少女が互いに武器を持ち打ち合っていた。その二人の位置を地球に見立てると、月の様な動きで走る一人の影があった。その影は弾丸のように、白銀の少女に向かっている。

 

キャスターの狙いを察した凛はマズイと宝石を取り出した。桜はその影が何か理解した。例え薄暗闇だろうと見間違えるはずが無い、例え士郎と結ばれていようとも。その影は白銀の少女を斬り付けようとし、令呪によって瞬間移動した少女の剣によって止められた。一合打ち合った後、兄はセイバーに斬られた。桜は眼を見開いた。ライダーは激しい焦燥に駆られた。今の桜は兄しか見ていない。凛は宝石を投げつけその映像をかき消したが手遅れだった。

 

「最高の舞台でお迎えします」

 

キャスターの幻はそう事務的に言うと掻き消えた。

 

「桜、聞きなさい。黙っていたのは真也の提案なの」

 

凛の釈明は桜には届かなかった。彼女は壊れた人形のように首だけ回すと士郎を見た。その眼は大きく開かれていたが、瞳は針先のように小さかった。桜のその声は地鳴りのようだった。深い深い地の底から響いてくる。

 

「……先輩、これ、本当なんですか」

 

凛は言うなと何度も念じた。士郎は視線を逸らし食いしばり、手を強く握った、言うべきか葛藤していた。だが嘘をつける筈が無い。黙っている事と、嘘をつく事は別だ。彼は一言済まないと告げた。

 

「バーサーカーがやったと思ってました、私」

 

桜は歪に笑っていた。どのような表情をすれば良いのか分からず、とにかく作り出した笑み、今の桜は他に表現のしようが無い。セイバーが弁明の余地も無いと進み出た。

 

「蒼月桜、その責は私にあります。シロウの命令は倒せでした。斬り付けてしまったのは私の力不足、」

「それは違う。セイバーは俺の命に従っただけ」

 

桜の瞳から涙が溢れた、否、幾筋も流れ続けていた。色恋沙汰という意味で身は引いたが、それでも彼女にとって士郎は優しく尊敬する先輩であったのだ。

 

「酷いです、こんな事黙ってたなんて……」

「済まない」

「よくも、よくも、よくもよくもよくもよくも!」

 

桜は般若の様相である。凛が急ぎ桜を眠らせようとしたが一歩遅かった。

 

「ライダー!」

 

桜の叫びは令呪に反応しライダーに伝わった。1stバーサーカー戦の再現だ。ライダーは士郎らに向けて飛びかかっる。セイバーは宝具を展開し迎撃のため踏み込んだ。セイバーもライダーも互いの不運さに苦笑するより他が無かった。対ランサー戦で共闘したのはつい先日である。

 

セイバーもライダーも筋力は共にB。まともに打ち合えば剣と鉄杭では勝負にならないが、ライダーにはセイバーと同じ距離で打ち合う必要が無かった。ライダーは鎖を手繰り、セイバーを迂回するように鉄杭を撃ち込んだ。それが士郎に向けて高速に迫る。同時にライダーは敏捷性を生かし士郎に向けて踏み込んだ。敏捷性はAのライダーに対しセイバーはCである。

 

セイバーから見たその瞬間は、ライダーの立ち位置がセイバーの間合いの一歩外であった、同時に鉄杭が士郎に命中する一歩前だった。その駆け引きは2度に渡る真也との戦闘の結果だ。ライダーを迎撃するか士郎を守るか、その判断に迫られたセイバーは士郎を守る事にした。ダメージを受けてもマスターは守らなくてはならない。その結果セイバーの刃は鎖を断ち斬り士郎を守ったが、ライダーに回し蹴りを喰らい道路沿いの崖に叩き付けられた。粉塵が舞い、岩が崩れ落ちた。砲弾が撃ち込まれた様である。

 

暴れる桜はアーチャーに羽交い締めにされていた。ライダーが桜の状況を確認した時には令呪の効果も切れていた。セイバーは蹌踉めきながらも立ち上がり、士郎はそれを確認すると、桜に近寄りこう告げた。

 

「なんて言ったら良いのか分からないけれど、とにかくごめん」

 

敵でも見るかの様に、暴れ、金切り声を上げる桜を見て、士郎は自分もこの顔をしていたのかと恐れ戦くのみである。そして桜とはこれっきりになるだろう、彼はそんな確信を持った。凛は宝石を一つ掲げ桜を眠らせた。

 

「ライダー。言いたい事はあるだろうけれど、今は敵前なの。桜を連れて帰って」

 

やむを得まいと、ライダーは桜を抱きかかえると夜の町に消えた。仕方が無いと凛は諦め顔だ。

 

「予定変更、キャスターを討つわよ。契約する態度じゃないわ。アーチャー、先行して参道の偵察。交戦は控えなさい」

「注意しろよ凛。このタイミングであの映像、相当に質が悪い」

「分かってる」

 

キャスターがもっと早い時期で、例えば衛宮邸で仕掛けてきたならば、例え日中でも凛は襲撃を掛けただろう。結果的にライダーを失っても、真也を戦線に投入する時間的余裕もあった。舞弥を偵察に出す事もなく、囚われる事も無かった。この土壇場ではセイバーが回復する余裕も無い。用意周到、先見の明、称賛する事も出来ようが、凛にしてみれば屈辱以外の何物でも無かろう。

 

(真也の奴どうやってキャスターをあしらったのよ)

 

毒には毒、と言う事だ。キャスターに身体を刻まれつつも“身体の関係を持ちたい”と言い放つ人物はそうはいまい。

 

 

◆◆◆

 

 

参道を見上げれば彼方に構える門が見えた。石畳の階段が続き、灯籠が街灯の様に連なっている。神聖なはずのそこは不愉快な気配を漂わせていた。しつこく纏わり付き、払っても払ってもにじり寄る。まるでハエか蚊を相手にしているようだ。

 

とにもかくにも。舞弥の奪還が最優先だ。キャスター討伐を優先すれば1stバーサーカー戦の二の舞になりかねない。真也の襲撃から6時間と経っていない以上、手間の掛かる企みは出来ない筈だが、これから向かうのはキャスターの陣地である。相当に危険があった。せめてもの救いは柳洞寺の僧侶たちが全員眠っている、これが判明している事だ。であれば魔術とサーヴァントの行使に遠慮は要らない。

 

(久宇舞弥の功績だけれど、もう少し上手くやって欲しかったわね。捕まったら意味が無いじゃない)

 

偵察は情報収集が至上命題、危険が伴うのは当然だ。危ないと思ったから帰ってきましたでは、子供のお使いである。そういう意味に於いて舞弥は使命を果たしたのではあるが……彼が不安だと凛は少し遅れて歩く士郎にこう言った。

 

「いい? 衛宮君。結構厳しい状況よ」

「分かってる」

「幻術を使うそうだから……違うわね。幻術を好んで使う奴だから気を引き締める事」

「分かってる」

「私も久宇さんを見捨てるつもりは無い、突っ走るのだけは止めて」

 

押し黙る士郎を見て彼女は頭を痛めた。

 

(くっそー、真也に偵察やらせるべきだった。最適任じゃない。柳洞寺の結界も意味が無いし、ちょっと位怪我をしたって、)

 

己の発言に凛は俯いた。別れる前の自分はそれを受け入れる事が出来ただろうか、そう問われると自信が無い。渋々受け入れたとしても、士郎のように不安に駆られただろう。冷静でいられたかどうかも怪しい。“別れた事は正解だったかもしれない”そう思うと彼女の胸が痛んだ。己は魔術師だ、一般人と同じような情緒を持っては、何事もままならない。だが。

 

凛はもう一度士郎を見た。彼は不安を隠す事なく、参道の終着点を凝視していた。その瞳は門ではなく舞弥を見ている事は容易に知れた。大切な存在に躊躇う事なく行動できる士郎が羨ましい、そこまで想われるイリヤスフィールと舞弥が羨ましい。“せめて必要だと言ってくれたなら” 今更だと彼女はその思念をかき消した。

 

足下の影に気がつき視線を挙げれば弓兵の背中が見えた。凛にはその背中が警戒しているように見えた。事実そうであった。アーチャーの視線の先には一人の侍が佇んでいる。陣羽織を纏い、群青色の長い髪を後頭部で結い流していた。鮮やかさの中にも静けさを醸し出すその様は群青色の華である。だが放つ鋭い気配が儚さを塗りつぶしていた。

 

様子がおかしいアーチャーに問いかければその声は硬かった。

 

「凛、こいつは厄介だぞ」

 

その侍は凛たちに目もくれず空に浮かぶ月を見つめていた。

 

「良い月夜よの」

 

良い声だと凛は思った。男性にしては高めだったが、心地よく響く。風に乗って運ばれる羽のようだ。

 

「一句読めば心も落ち着こうが、生憎と心得が無い。筆ぐらい持てばと悔いの念も起こるがそれは今更なのであろうな。さて……」

 

その侍は凛らを見下ろすと笑みを浮かべた。己の境遇を自嘲するかの様である。

 

「ご足労頂き恐縮の限りだが、何用だ。見ての通りこのアサシン、門の番を仰せつかっている。命が惜しくば早々に立ち去るが良い」

 

アサシンがキャスターの配下に下っている事実は凛に相応の衝撃を与えた。キャスターの用意周到さ、陰湿さに閉口するばかりだ。二人の足取りを追っていた凛と真也を無駄足だと笑っていたようなものだからである。セイバーが一歩前に出た。その手には風王結界を纏う剣が握られていた。

 

「貴公の主に用がある。我らがこの月夜に対峙する理由など問うなよ、アサシン」

「確かにな。ではこちらの用向きを伝えよう。主が先ほど伝えた通り、その小人は通しても良い」

 

アサシンは士郎を見ていた。

 

「戯言に応じる義は無い、押し通る」

「華にしては勇ましいものだ……よかろう、その面妖な得物で踏み込んでくるが良い。この月夜であれば、我が秘剣も止水の如く閃くであろうからな」

 

抜刀。アサシンが手にする刀身は月光を浴びて静かに光っていた。それこそ止水に浮かび上がる月の様であった。士郎はアサシンの持つそれがただの刀だと直感で理解した。

 

「剣士の割に口数が多いが、口上にしては悪くない……参る」

 

セイバーはアサシンに向けて、階段を駆け上った。アサシンは音も立てず構えた。二人の関係は正しく動と静である。誰もがそのまま打ち合うだろうと思った。鍔迫り合いの音か、互いの刃を受け流す硝子の様な音か、互いの刃が空を切る音が聞こえてくるだろうと思った。だが二人は止まっていた。時が止まったかの様に動かない。

 

セイバーはアサシンが持つ間合いの一歩外で止まっていた、否、踏み込めなかった。彼女の直感Aが一歩踏み込めば斬り捨てられると警告していたのである。敏捷性と剣技に於いて彼女は劣っていたのだった。何より、アサシンの間合いの方が広い。

 

突の構えで穏やかな殺意を放つアサシンに対し、下段に構えるセイバーの表情に余裕が無い。時が止まったかの様に制止したセイバーに凛は援護をするべきか迷った。アーチャーが言う。

 

「止めておく事だ」

「やっぱり、足手まとい?」

「私の見立てだが飛び道具はアサシンに効果が無い。私が矢を撃っても全て切り落とされるだろう」

 

「アーチャーの宝具は?」

「柳洞寺の結界で威力が削減される」

「効果はあるってことね。遠距離狙撃やってみましょ」

「気がついているか? 門の向こうにサーヴァントの気配がある。隠していないと言う事は敢えてその存在を示していると言う事だ。撃墜されれるのがオチだろう」

 

「セイバーを足止め役にしてアーチャーの通常攻撃は?」

「この参道のみ結界が無いが、狭すぎる。狙撃方向は門に向かう直線的な攻撃のみだ。セイバーを巻き添えにしても良いというのであれば構わないが」

「駄目に決まっているでしょ」

「だろうな」

 

セイバーが宝具を使えば当然柳洞寺が吹き飛んでしまう。アーチャーは干将・莫耶を投影、そのままアサシンに向かって歩き始めた。

 

「アーチャー?」

「やむを得んだろう」

 

凛が問いかけたのは意外だったからである。この行為はアーチャー自身、良い策だとは思っていない。なぜなら彼は誰かと共闘した経験が殆ど無いからだ。それは彼自身が送った“……ただの一度も理解されない。彼の者は常に独り 剣の丘で勝利に酔う。故に、生涯に意味はなく……”という生き方に他ならない。アーチャーがセイバーの横に立った時、彼女は一瞥を投げたが何も言わなかった。

 

「二人掛かりとは無粋よの」と言うアサシンは涼しい顔だ。

「人質をとって置いて何を言う」心外だとセイバーは言わんばかりだ。

「耳が痛い。ならば急ぐ事だ。主は少々辛抱さに欠けていてな、ゆるりとしていては捕らえた女がどのような目にあうか保証は出来ん」

 

今まで堪えに堪えてきた士郎だったが、とうとう我慢が出来なくなった。凛の制止を振り切って彼は門へと続く階段を上り始めた。

 

「セイバー、遠坂、ごめん。俺は行く。舞弥さんが殺されたらオヤジに顔向けできない、後悔しても仕切れない」

 

凛は仕方が無いと溜息を付いた。セイバーは目の前の敵を見据えたまま、主である士郎にこう告げた。

 

「シロウ、無茶はしないでください」

「ごめん、セイバー。俺はまた繰り返す」

「シロウは繰り返してなどいません。今度は事前に聞きましたから。シロウは一人ではない、これを良く覚えて置いて下さい。アサシンを倒したら直ぐに駆けつけます。ですから、可能な限り時間を稼いで下さい」

 

彼は一瞬呆けた後、1stバーサーカー戦以来感じていた迷いを理解した。消え去った。

 

(あぁ、そうか。一人で勝手しようとしてたのが間違いだったのか)

 

彼が答えを得た瞬間でもあった。彼は己のサーヴァント、否、身内にこう告げた。

 

「セイバー、アサシンの持つ剣はただの剣だ。宝具じゃ無い。多分何か切り札がある、気をつけてくれ」

「分かりました」

 

士郎は階段を登っていった。舞弥への懸念は消えないが、彼の足取りは軽かった。主を見守るセイバーは敵を前にして少し笑った。

 

(これで演技も終わり、残すは聖杯を手に入れるのみ……)

 

偽りとは言え士郎との関係が終わってしまう事に、寂しさを感じるセイバーだった。

 

 

 

 

 

つづく!




アサシンって幸運Aなんですね。ちょっと意外です。




【例えばこんなIF】
りん「義理よ、義理だから」
しんや「分かってますって」
さくら「兄さんこれは本命です」
しんや「ありがと」
あやこ「はいこれ。言っておくけれど本命」
しんや「ん」
りん「ガンドガンドガンド!」

はらぺこ「さ、シロウ、ん~♪」
しろう「なんでリボンだけなんだ」
一同「「「あざとい」」」

……何故だろう、眼から汗が。


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28 聖杯戦争・15 キャスター編

桜が士郎と出会ったのは中学生の時である。暴行され掛かったところを彼に助けて貰ったのが始まりだった。再会したのは穂群原(ほむらばら)。運命の出会いかもしれない、そう考えた自分に呆れつつも、そうであれば良いと考えた。料理を学ぶ事を良い訳に押しかけた時、彼は当初拒否をした。しつこく食い下がり、渋々認めさせた。迷惑を掛けているだろう、そう思いつつも喜んだ。

 

クラスの友人にもなぜ彼だと聞かれた事がある。彼女は誤魔化した。彼なら兄という呪縛から助けてくれるかもしれない、その様な事は誰にも言えないからである。共有する時間を重ねるにつれて、彼の良いところを知っていった。小さかったが確実に好意を持った。それが兄より大きくなれば良いと本気で願った。そして、彼が桜を見ていない事も何時しか気がついた。

 

聖杯の事を知り、“士郎への好意は真也の妹という呪縛から逃れる為だった。だが士郎と結ばれてもその呪縛は逃れられない。聖杯にはそれから解放を願う”という自分自身の真実を知った時、彼女は打ち拉がれた。兄に置いていかれ、追い打ちを掛けられた。この時は本当に辛かった。士郎の声、何気ない気遣いが嬉しかった。舞弥とセイバーの牽制を受けながらも何かと気遣いを受けた。ほんの些細な事で救われた。助けられたのは事実だった。だからこそ桜は笑うしかない。

 

(星の巡り合わせが悪いって本当ですね。だってそうでしょう?)

 

全ての発端は、桜が真也に“妹という呪縛から逃れたい”という願いを伝えなかった、伝えられなかった事にある。彼は“士郎に好意を持つ妹が何か願いを持っている”そう判断したからこそ、ライダーと初めて出会った夜に士郎を助けに行ったのだ。

 

もしその願いを話していたなら、真也は士郎を助けに行かないだろう。そうすればサーヴァント戦を目撃した士郎はランサーに一度殺害される。その後凛に蘇生され、家に帰ればもう一度ランサーに襲われる。舞弥が居る以上、置き去りにして逃げる事ができない士郎はそこでお仕舞いである。

 

先に舞弥が殺害された場合。流されるまま土蔵でセイバーを召喚、凛と合流し、聖杯戦争の事を知り、言峰教会に向かい、バーサーカーと遭遇する。この展開では士郎への共闘もちかけ、真也の凛への告白イベントが生じない。凛がマスターである事を真也が知っている以上、桜が聖杯を欲している以上、生徒が下校した校内で士郎を襲い追いかける凛は恰好の的だ。彼女は士郎なら造作も無いとアーチャーを家に戻している。魔眼を使えば遺体すら残るまい。この時点での彼は桜以外の全ての物は等価値だからである。

 

凛を失った士郎は単独で聖杯戦争に参加する事になる。バーサーカー戦に真也が参加しない以上、キャスターはセイバーに目を付ける。彼女の魔術で士郎は柳洞寺に誘われ、令呪を奪われた上で殺害される。なぜならアーチャーが居ないからだ。

 

タイミングの都合でアーチャーが存在していた場合。舞弥を失い凛を失った士郎は、再び正義の味方を再び目指す、ならばアーチャーはは士郎を殺害するだろう。

 

聖杯戦争が無ければ、桜は舞弥から牽制を受ける事は無かった。だがいつかは妹という呪縛に突き当たっただろう。いずれにせよ桜と士郎は結ばれなかったのだ。

 

(助けてくれた事、本当に嬉しかったんですよ。先輩と居る時兄さんの事を忘れられた。感謝も、尊敬もしてます。先輩に手を挙げるなんてしたくなかった。でもそれだけは許せなかった。だって、私は“そうだから”先輩を好きになったんですよ)

 

真也という好意を持つ人物を傷つけられた悲しみと怒り、その激情を士郎という好意を持つ人物に向けざるを得ない苦しみ。その激しい葛藤は大聖杯に居るそれを呼び起こすに十分だった。

 

ライダーが蒼月の家に戻った時、真也がリビングで倒れていた。慌てて駆け寄れば失神しているだけだと判断した。彼女は気を失っている桜をベッドに寝かすと、続けて真也もベッドに寝かし毛布をかぶせた。ライダーは真也の涙を拭うと部屋を出て行った。彼女は、桜の影が蠢いている事に気がつかなかった。

 

 

◆◆◆

 

 

士郎が山道を登り切れば門が聳えていた。正面から入ろうと物音立てず歩み寄ったが、彼は迂回する事にした。キャスターはセイバーたちに注意を向けているに違いない、そう考えたからである。干将・莫耶を投影し、勝手口から侵入すれば、本殿の軒先に舞弥が蹲っていた。隈無く視線を走らせれば、正門に紫のローブを纏う人影が見えた。真也からの情報からキャスターに違いないと士郎は察しを付けた。音も立てずに舞弥に駆け寄った。

 

「魔術師も地に落ちたもの。これではまるで盗賊だわ。全く嘆かわしい」

 

キャスターが目の前に立っていた。境内は彼女の結界、士郎の侵入に気づいていたのである。もちろん士郎も予想はしていた。物陰から出た士郎は胸を張って対峙した。恐怖も不安もあったが、舞弥を攫ったキャスターに対しての怒りが勝っていた為である。

 

「俺は魔術師なんかじゃない」

「なら何者?」

「魔術使いだ」

「ま、何とでも名乗ると良いわ。剣を捨てなさい、坊や」

 

凛の読み通り追い詰められているキャスターに余裕が無い。無駄口を叩き、時間稼ぎをするべきか迷ったが、これは士郎にとって予想通りの展開だ。宗一郎の姿が見えないのが気になるが、やむを得まいと、彼は腹を括った。舞弥はキャスターの背後、数メートルのところである。舞弥、キャスター、士郎を線で結べば彼の背後には、物が置ける程度の台があった。彼はスタングレネードが炸裂する時間が来るのを待つ為、無駄口を叩く事にした。

 

「舞弥さんを離せ」

「取引できる立場だとでも?」

「うるさい。お前の様な奴と取引などしない。舞弥さんを離せ」

 

取り付くしまが無いとキャスターは溜息を付いた。これ見よがしに手を士郎に翳した。魔術を使おうとしている事は明白である。

 

「よろしい。ならば立場を教えてあげましょう」

 

心中でカウントダウンしていた士郎は、しゃがみ込み目を瞑り耳を塞いだ。彼の奇行に意表を突かれたキャスターは無防備だった。激しい閃光と爆音が士郎の背後で吹き荒れた。眼と耳をやられたキャスターはたじろいだ。士郎は斬り込み一刀を振るう。その斬撃はキャスターを切り裂き、打ち倒した。止めを刺そうと駆け寄ったが、本殿の中から現れた人影に気づき、断念。舞弥を抱え走り出した。目指すは一路、正門である。

 

走る、走る、走る。幾ら女性といえ相応に重さがある。全力疾走は厳しいがそれでも力のあらん限り士郎は走った。激しい閃光と音によって五感を飽和させ意識を揺さぶり、無力化する事がスタングレネードの目的だ。目と耳を潰されたキャスターは魔術が使えない、彼はそう踏んでいた。事実そうだった。門まであと10メートル。

 

「衛宮」

 

彼はその声に止まってしまった。止まらざるを得なかったのである。それは“止まらねば殺す”という警告だった。士郎は腕に抱えた舞弥を石畳の上に降ろすと振り返った。月光に浮かび上がる人物は殺意も敵意も感じられない立ち姿、宗一郎だった。

 

「衛宮、インフルエンザはもう良いのか」

 

その声は抑揚無く淀みなく。彼は教鞭に立つ何時もの姿であった。その立ち振る舞いに欺かれてはなるものかと丹田に力を籠めた。士郎は努めて生徒らしく答えた。

 

「ええ、俺の身内を攫われたと知ったら全部吹き飛んでしまいました」

「随分都合の良いインフルエンザだ」

「葛木先生、念のため聞きます。退いてくれませんか」

「お前が今手にしているものは何か、それを忘れたか」

「そうですね、説得力は無い……ならマスター同士、遠慮は要らないって訳だ」

 

士郎は忍び寄る宗一郎に干将・莫耶を構えた。宗一郎の背後に控えるキャスターは沈黙していた。マスターを立てるという配慮もあったが、それ以上にマスターの敗北など微塵も考えていなかった。

 

幽鬼の様な立ち振る舞いの宗一郎に、士郎の心のアラームは鳴りっぱなしだ。セイバーとアーチャーの鍛錬から、まともに打ち合ってはならないと理解した。だが舞弥を抱えては逃げ切れない。彼は腹を決めた。

 

剣を持っている士郎に対し、宗一郎は無手である。間合いは有利、士郎は己の距離になり次第仕掛けるつもりだった。だが宗一郎はその一歩外で立ち止まり構えた。昔映画で見た酔拳にも似ている、士郎はそんな事を思った。

 

間合いは宗一郎の方が広い。直感で仕掛けてくると悟った士郎は、刀身をクロスさせ刃を身体の外に向けた。大きな鋏を持っている様な姿である。二振りを身体から離しているため重心は身体の芯の外だ。つまり、剣の重量を利用し即座に態勢を変えられる様にしてあった。

 

士郎の目的はとにかくセイバーたちが駆けつけるまで時間を稼ぐ事である。舞弥もセイバーも、彼にその実力があると見込みを立て、信頼し、彼を送り出したのだ。その責は追わねばならない。即死さえ免れれば、骨の1本や2本、構わない。その覚悟を持っていた彼はその見通しが甘かった事を知る。

 

士郎の瞳に映る宗一郎の身体がブレた。士郎の側頭部を狙って、ガードを回り込む様に飛んできた宗一郎の拳は、士郎の右手にある干将を砕いた。拳が剣を砕くなど有り得ない、と士郎は目を剥いた。そしてキャスターの術かと察しを付けた。防御のため士郎が反射的に身体を動かしたのは鍛錬の効果だったが、防げた事は運に他ならない。

 

それはそうとしても宗一郎の初撃を躱せた事は幸いである。どこから攻撃が飛んでくるか分からない以上とにかく宗一郎の間合いは危険だ、だが舞弥が居る以上逃げる事は叶わない。残った左手の莫耶を突き出す様に構え、右腕は頭部に添えてガードした。防御の構え。投影する時間が無い。右腕で頭部の防御が間に合うかは分からないが無いよりマシだ。宗一郎の拳は、士郎の防御をかいくぐり、彼の後頭部を打った

 

「がっ!」

 

足から力が抜け、蹲った。士郎は己の出した声が踏まれた蛙みたいだと、どこか他人事の様に聞いていた。意識はまだ在ったが身体が動かない。コンセントが抜けてしまった扇風機の様だ。

 

「宗一郎様、後は私にお任せ下さい」

 

近寄るキャスターに残った左手の莫耶を投擲したが、キャスターに命中する前に宗一郎によって砕かれた。士郎は鳩尾に宗一郎の一撃を喰らい完全に崩れ落ちた。その衝撃は意識を揺さぶり失神に一歩前である。朦朧とする意識の中ですら士郎はキャスターの取り出した珍妙なナイフ“破戒すべき全ての符”をじっと見ていた。

 

“同調開始。基本骨子、解明。構成材質、解明……”

 

彼は無意識にそう唱えていた。

 

 

◆◆◆

 

 

時を遡ること数刻。つまりセイバーが士郎を送り出した直後である。セイバーとアーチャーに対峙するアサシンが流れる水の様に構えたとき、セイバーは隣のアーチャーが笑みを浮かべている事に気がついた。

 

「何がおかしいのです」

「セイバーと轡を並べる機会が来ようとはな。驚きを通り越して、不覚にも踊り出してしまいそうだ」

「それ程意外か? 貴公の言っている事は要領を得ない」

「星の巡り合わせ、と言うのだろうな」

 

彼女が良く分からないという顔をした頃には、弓兵は狩人の顔である。

 

「セイバー、君が斬り込め。切り口を開く」

「承知した」

「私を信用するのか」

「シロウを鍛えて貰った、その返礼だと思って下さい」

 

「君の甘さも大概だな。遠からず命取りになるだろう」

「アーチャー、貴公はその皮肉めいた態度を改めるべきだ」

「私の性分だ。もう何ともならん」

「あの男に似ていると言っています」

 

もちろん真也の事である。

 

「侮辱にも程があるぞ、セイバー」

「そう思うのであれば直しなさい」

 

古い友人の様な二人の関係に、アサシンは苦笑するより無い。

 

「見合っているのも飽きてきた。来ぬと言うならこちらから行くぞ?」

 

二人は同時に踏み込んだが、先行したのセイバーである。彼女は迷いなど無いように、撃ち出された矢のように斬り込んだ。その瞬間は、アサシンの間合いであり、セイバーにとっては間合いの外である。猪武者のように迫り来るセイバーの首を斬り落とさんと、アサシンが踏み込んだ時である。彼の目の前に夫婦剣の片割れ“莫耶”が在った。アーチャーが投擲したのだった。

 

セイバーとの距離からアサシンは莫耶を叩き落せば、流石に構え直す時間が無いと判断し、その敏捷性を活かし躱す事にした。アサシンのそれはA+であった。アサシンが脚の位置を整えないうちに、つまり斬り落とすのに適した姿勢になる前に、セイバーが一刀を振るった。彼女の刃が4時から10時の方向に走る。

 

セイバーが風王結界で刃を隠す以上、アサシンには正確な間合いが読めない。彼はその一刀を大ぶりで躱すと、その先に“干将”の刃があった。アーチャーの投擲である。彼はアサシンの回避先を読んでいた。

 

セイバーが斬撃、アーチャーが投擲、息の尽かせぬ連撃で、二人はアサシンを門に追い立てた。逃げ道を塞ぎアサシンの敏捷性を封じるのが目的である。加えて門に近ければ士郎へ近づく意味も持っていた。

 

(意外と呼吸が合ってるじゃない……)

 

セイバーとアーチャーは実は知り合いなのではないかと勘ぐる凛であった。実際はセイバーを知っているアーチャーが合わせているだけであったが、効果は十分だった。彼はセイバーの事を殆ど忘れていたが、並び立つ事によって徐々に思い出していたのだった。数日前、道場で彼女にボコられた事も一因だ。

 

連撃を数度繰り返した後、アサシンは立ち止まり構えた。愚かな事を、とセイバーは思った。このタイミングでは斬撃か投擲のどちらかは確実に当たる。その機を逃すつもりは彼女には無かった。

 

「いざ……」

 

アサシンの呟きは呪文であったのか、セイバーはそう思った。でなければこの現象は説明できまい。アサシンの刃はその瞬間、二振り在ったのだ。斬撃の一つはセイバーを襲い、もう一つはアーチャーの夫婦剣を叩き落した。彼女は階段に膝を突いていた。躱すため姿勢を乱す程に飛ばねばならなかったのである。

 

「多重次元屈折現象……」

 

信じられないと凛は呟いた。驚きを隠せないのはセイバーもアーチャーも同じである。狐に化かされた様な3人を見て流石のアサシンも愉快そうだ。

 

「見ての通り奇術の類いよ」

 

アーチャーは迷った。これ以上の追い立ては不可能だ、つまりこれ以上進む事が出来ない。だがどうする。士郎を落とされれば、セイバーは敵の手中に落ちる。そうすれば状況は最悪だ。彼は固有結界を発動し、アサシンに対し飽和射撃をするべきか考えた。だがセイバーに手の内をバラす事になる。

 

剣を携えアサシンに迫るセイバーは騎士そのものであった。

 

「アーチャー下がれ、私が血路を開く」

 

決死の覚悟で挑むセイバーの姿を見て彼もまた覚悟を決めた。

 

「騎士道にこだわっている場合か、もっと良い方法がある」

「どうするつもりだ」

「斬り込め。何も考えず、アサシンの首を落とす事のみを考えろ」

「何を考えた」

「やれば分かる」

「?」

「なに、昔取った杵柄だ」

 

二人同時に駆け出した。セイバーがアサシンの間合いに入った時、彼女の目の前に三つの斬撃があった。一の太刀:頭上から股下までを断つ縦の斬撃である。アーチャーは頭上に掲げた干将でそれを受けた。二の太刀:一の太刀を回避する対象の逃げ道を塞ぐ円の軌跡を持つ斬撃である。それはセイバーの鎧を掠めアーチャーの腹を切り裂いた。三の太刀:左右への離脱を阻む払いの斬撃、それはアーチャーの莫耶で止められていた。

 

アーチャーはセイバーの楯になっていた。強いて言うなら二人羽織が近い。セイバーの斬撃を受けアサシンが崩れ落ちた。アーチャーも堪らず蹲った。何か言おうとしたセイバーと駆け寄る凛にこう告げた。

 

「凛、セイバー行け。時間を無駄にするな」

「貴方に感謝を」

 

セイバーは門へ消えていった。凛はポケットの宝石を確認しながらこう言った。

 

「意外だわ。まるでどこかの誰かみたい」

「他に方法が無かった、仕方なかろう」

「斬撃が3つ以上だったらどうしてた訳?」

「根拠はあるが、語る暇が無い。急げ」

 

逃げ道を塞ぐ斬撃、技の性質から燕返しではないかと彼は察したのだった。物干し竿と言わんばかりの長刀もその判断を後押しした。

 

「回復後直ぐに来なさい」

「3分くれ」

「1分」

 

人使いが荒いと、彼は笑うしかない。凛もセイバーの後を追って行った。アーチャーは斬られた腹を押さえゆっくりと立ち上がった。消滅こそ免れたが、回復早々にダメージを負ったと不満も溢したくなる。

 

「私の目も節穴か。アーチャー、お前が身を挺すとは思わなかったぞ」

 

アサシンに実戦経験は無いのだった。

 

「セイバーは囮など引き受けないからな。相応な危険を犯して必ず血路を開く、と考えるだろう」

「それだけではあるまい」

「惚れた弱み、と言えば信じるか?」

「お前も人の子という事か、まぁよいわ」

 

目を閉じ息絶えたアサシンを尻目にアーチャーは蹌踉めきながら階段を上がっていった。

 

「戯言を信じるな、他に方法が無かっただけだ」

 

固有結界を内密にし、安全性に見込みを立てた上で血路を開く方法である。アーチャーが門へ消えて暫く経った頃。アサシンの骸が黒い影に飲まれて行った。それがここに来たのは桜の強烈な印象を探ったからだ。それは初めての獲物に満足するとそのまま姿を消した。

 

 

◆◆◆

 

 

「シロウから離れろ下郎!」

 

何事かと凛が境内を覗いた時、セイバーと宗一郎が戦っていた。

 

(セイバーと戦うなんてキャスターのマスターって馬鹿なの?)

 

そう凛が率直な疑問を浮かべればそれが間違いだったと知る。宗一郎の良く分からない技を受け、セイバーは押されていた。傍目に見て漸く分かる程に摩訶不思議な技だった。何より異常と思えるのが、宗一郎の拳とセイバーの刃がぶつかれば、金属音を奏でる事だ。火花すら散っている。

 

状況確認。凛がさっと見渡せば他にキャスターと士郎が居た。彼女は運良く背を見せている。キャスターはセイバーの強襲に戸惑っていた。宗一郎の行方を案じていたのである。この機を逃す凛では無かった。凛は脚力強化と重量軽減の術を掛けた上で、ゆっくりとキャスターに近寄った。ここはキャスターの結界、当然彼女は凛に気づくだろう。魔術刻印が唸りを上げる左腕で牽制しつつ、会話が出来る頃には二人の魔女は火花を散らしていた。

 

キャスターはゆっくりと立ち上がる。凛はこれでもかと言わんばかりに悪態をついた。

 

「来たわよキャスター。色々考えたんだけど、やっぱり貴女には消えて貰う事にしたわ」

「我が家にようこそ。アーチャーのマスターさん。でもお嬢ちゃんの様な出来損ないの魔術師には用が無いの」

「は、言ってくれんじゃ無い。太古の干からびた魔女が。目障りだし邪魔だし煩わしいし、何よりその格好が気にくわないのよね。今時紫のローブなんてどこの田舎者よって感じでさ」

「大きく出たわね。まさかとはおもうけど本気で私に勝てると思っているのお嬢さん? だとしたら腕比べどころの話じゃ無いわ。見逃してあげるから、まずその性根をなおしていらっしゃいな」

 

「そんなの、勝てるに決まってるじゃ無い。だってそうでしょう? 貴女みたいな三流魔術師に一流である私が負けるはず無いんだもの」

「そう、なら仕方が無いわ。その増長、厳しくしつける必要があるようね」

「幻術を使うそうだけれど抗魔力を持つ魔術師には効かないわよ。もう一つ、悔しがる顔を見たいから言うけれど、アーチャーも健在よ? 貴女がどう戦うか見物だわ。ほら、急ぎなさいよ。貴女のマスターがピンチみたいだけれど?」

 

セイバーと打ち合っていた宗一郎に向けて夫婦剣の片割れが投擲された。もちろん士郎である。宗一郎はなぜ士郎が立ち上がれる程に回復しているのか理解できなかった。暫くは動けないと確信に近い手応えを持っていたからだ。何より砕いた筈の夫婦剣を、どこから持ち出したのか手にしている。

 

キャスターも宗一郎も共々、士郎が投影魔術を使う事もセイバーの鞘を内包している事も知らなかったのだ。宗一郎が士郎の攻撃を捌けば、それはセイバーから見れば好機に他ならない。彼女は反撃に転じた。ライダーとアサシンから受けたダメージがあったが、どうにか押し切れると判断した。

 

キャスターの注意が逸れた瞬間、凛は支援魔術に物を言わせて一気に踏み込んだ。格闘戦である。ここがキャスターの陣地である以上、キャスターに凛の魔術が効くか疑わしかったからだ。

 

魔術師が格闘戦をするなど夢にも思うまい。意表を突き畳みかける、その筈だった。凛の掌底はキャスターの防御フィールドで防がれていた。見抜かれていたと慌てて距離を取ろうとする凛を、見逃すキャスターでも無かった。凛は不可視の力場に拘束された。形勢逆転である。悔しそうな凛をあざ笑っていた。

 

「魔眼持ちの坊やを忘れるなんて、お馬鹿だこと。あの子も魔術師でしょう? この私が体術を警戒しないないとでも思った?」

 

こんな簡単な事を見落としたのかと、凛は自分を罵った。

 

「それとも、忘れたかったのかしら? 坊やはお嬢ちゃんから離れたでしょうからね」

「な、」

 

どうしてそれを知っているのか、何故その言葉がこれ程辛いのか、それは心の傷だった。

 

「気づいていないみたいだけれど、ここは私の神殿。私の生み出す幻術に耐えられはしないわ。心に傷があるなら尚更。そのまま夢の中で終わらない呵責に苛まれなさい」

 

凛はキャスターに囚われた。

 

 

◆◆◆

 

 

人間は個性を持っている。自分がこうだから貴方もそうだ、と人は思いがちだが実際は異なる。同じ人間の姿を持っていてもその中身は異なる。客観的に、同じ条件、同じ環境に置いても、人間の反応が異なる事はその一例だ。

 

同じ教育環境に与えても成績という名の成果は異なる。同じ映画を見せても、詰まらない、楽しい、感想は異なる。誰かに対し、共感できる人間と出来ない人間が居る。ある誰かにとっては大事な事だが、他の誰かにとってはくだらない事だ、趣味など良い例だろう。これらは元来生まれ持った性質や成長の仕方で変わってくる。違う人間である以上、当然の現象だ。

 

凛には一つの心のしこりがあった。それは1stバーサーカ戦の事。仮に凛が士郎の立場であったら、彼女は真也を許しただろうか。

 

この考えを抱いたとき彼女は一蹴した。個人の価値観が異なるのは当然だ、ただそれでは組織活動ができないから、共通の認識、つまりルールを設けて、限定的に自我を抑え、それに追従する必要がある。独善的である魔術師とて、一般社会と隔絶しない限りそのルールに従うより他はない。つまりは秘匿。

 

イリヤスフィールを選んだ士郎の行動は、凛から見てその共通の認識から外れていた。真也を妨害した事は、士郎自身の不利益、最悪絶命に繋がる事すらあった。そうまでして義姉を守ろうとした理由は何だ。

 

簡単である。凛と真也にとってイリヤスフィールは赤の他人だが、士郎にとってはそうではなかった、単純な話だ。義姉と士郎の関係が薄かろうと、それは凛と真也の基準でしかない。それがおかしいなどと言う権利など無いのである。仮に士郎があの場で義姉に殺害されても、凛にその責が無いのと同様だ。凛には関係が無い。そういう関係だった。

 

キャスターは術を用いてそれにつけ込んだ。士郎を凛に、イリヤスフィールを時臣に置き換え見せ付けた。

 

幼い頃に死別し、写真や母の寝物語程度にしか知らない父である時臣を救う為に、真也を殺害したとしても誰にも文句は言われないのである。正しい筈だ。間違いなど無い。時臣は身内であり、真也は既に赤の他人である。それどころか嫌っても問題は無い人物だ。出会い暫く経ったころ気になるようになり、心にもない告白をされ浮き足立った。告白が虚偽だった事などどうでも良くなる程に恋い焦がれ、一方的に別れを告げられた。誰もが気にするな、当然の選択だと言うだろう。それでも彼女は受け入れられなかった。

 

“真也が凛と時臣の関係を知っていたら”

 

彼の骸に縋る彼女が溢す涙は後悔以外の何物でも無い。

 

凛たちは知り合う事を前提とした共闘を結ぶべきだったのである。味方とは、互いに知っていなくては成り立たない。利害であり性格であり背後関係という意味だ。それが無い集団を烏合の衆という。平和な会社と会社員の関係であれば問題も無かろうが、命を掛けた状況下では些細な事が致命的になり得る。真也はなし崩しの関係だと言ったが、正しく適当だろう。彼らは腹を割って話し合うべきだった、だからキャスターにつけ込まれた。或いは。思惑と隠し事、それらを前提とするならば今に至る状況は当然の帰結だと受け入れるのみだ。

 

 

◆◆◆

 

 

凛がキャスターに捕われた事に気がついた士郎は、キャスターに干将・莫耶を投擲した。本音を言えば身内であるセイバーを助けに行きたかったが、キャスターの支援魔術を受けた宗一郎相手では足手まとい以外の何物でも無い。二振りで一振りの夫婦剣は命中し、彼女の背中に突き刺さった。

 

「あぁ!」

 

キャスターの悲鳴に気を取られた宗一郎は、怒濤のように飛来してきた矢によって串刺しになった。宗一郎は無数の矢によって塗りつぶされた。アーチャーであった。彼は正門の柱に背中を預け、弓を構えていた。

 

「宗一郎様!」

 

士郎は再投影。主であった骸に駆け寄るキャスターに士郎は斬り付けた。そして、踏み込んだセイバーに背中から斬り付けられた。紫のローブは、風に舞う旗のように揺らめくと消え去った。あっけなさ過ぎるキャスターの最後に眉を寄せたのはアーチャーだ。

 

(仕留めた、か?)

 

境内からキャスターの施した結界が消え、圧迫感が無くなった。いずれにせよ戦闘は終わりだ。士郎の呼吸は境内を埋め尽くしてしまう程に荒かった。石畳の上で大の字に寝転がる士郎にセイバーは歩み寄った。彼女は両膝を石畳に突いて士郎の額に左手を添えた。

 

「良くやりました、シロウ。私にとっても誇らしい」

「問題は山積みだけどな」

「確かにそうです。ですが今日のところは引き上げましょう。勝利を祝うのも戦の内です」

 

セイバーは士郎の手を取り引き起こした。セイバーが舞弥を背負うと、士郎はアーチャーにこう聞いた。

 

「アーチャー、お前どうする? セイバーもアーチャーもダメージを負ってる。俺の家に来るのが良いと思うけれど」

 

気を失っている腕の中の凛を見ると、彼は仕方が無いと同意した。葵が気になるがマスターもサーヴァントも居ない遠坂邸が襲われる可能性は低いからだ。バーサーカーは真っ直ぐに真也を狙うであろうし、ランサーは人質を取るぐらいなら死を選ぶ、そう考えたからだった。彼は凛の流す涙をそっと拭いた。

 

 

 

 

 

つづく!



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29 聖杯戦争・16

凛が目を覚ました時に最初に見た物は見覚えの無い天井だった。鉛のように重い身体に活を入れ身を起こせばやはり見知らぬ部屋である。アーチャーに問いかければ衛宮邸の離れだという。その部屋にあっては違和感を感じる鞄を見て、桜が使っていた部屋だと察しを付けた。趣味が悪いという訳ではなく、自分の部屋に置かれた友人の鞄、そういう類いの違和感だ。身体に魔力を走らせればおかしいところは見当たらない。立ち上がり身繕いすれば服に皺が付いている。脱がされるよりはマシかと諦めた。

 

部屋を出て母屋の居間に及べば士郎が立っていた。エプロン姿で朝食の準備をしているその姿は紛れもなく主夫である。桜が居なくなったので自然彼が食事の当番だ。互いが互いに気がつくと朝の挨拶を交わした。

 

「遠坂、もう良いのか」

「だから、起きてるの……」

 

初めて見る凛の寝起きに彼は少し引いた。もちろん良い意味では無い。

 

「気分は、聞くまでもなく悪そうだ」

「最悪よ」

「コーヒー飲むか?」

「紅茶ある?」

「すこし待ってくれ」

 

ちゃぶ台に向かってぺたりと座り、ぼうとTVを見ていると、いつの間にか目の前に紅茶があった。士郎が置いたのだが彼女はそれに気づかなかった。彼は朝食を配膳しつつ凛に問いかけた。

 

「遠坂、朝食だけれど、」

「要らない。食べない主義なの」

「そっか。ならセイバー呼んでこないとな」

 

セイバーが瞑想して居るであろう道場へ向かおうと、士郎がエプロンを取り纏めていた時である。思い出した彼女はこう聞いた。それには嫉妬も混じっていた。

 

「投影魔術なんて驚いた。衛宮君って何者?」

「実は俺も良く分からない。事実なのは使えるって事だけだ」

「儀式ではなく戦闘に耐えうる投影だなんて、聞いた事ないわ」

「アーチャーに教わった。同系らしい」

「……そう」

 

まさか、と思ったが凛は考えるのを止めた。怠い、とにかく億劫だ。彼女は朝に弱い方だったがそれでもこの脱力感は異常だ。キャスターの幻術を受けたせいだろう、そう考えたとき、殺してしまった彼の姿を思い浮かべた。胸が詰まるように苦しくなった。我ながら重傷だ。こんな事では先が思いやられる。一刻も早く忘れるべきだ。そう何度も念じた。だが一つの疑念が宿る。何故キャスターは別れた事を知っていたのか、振ったのではなく振られた事まで知っていたのである。

 

「遠坂」

 

物思いに耽っていた彼女は士郎の声で我に返った。彼はちゃぶ台の向かいに腰掛け凛を見据えていた。居間には食事の匂いが漂う。なんと言う事だろう。凛は士郎たちの朝食に気づかない程に没頭していたのだった。見れば居間に二人っきりだ。士郎に配慮しセイバーも舞弥も席を外していた。彼の決意は露知らず凛は気怠そうに答えた。

 

「なに?」

「遠坂に伝えたい事が二つある。聞いてくれるか」

「良いけれど、その前に紅茶のお替わりいい?」

 

腰を折られたと愛想笑いするより他は無い士郎だった。こほんと一つ咳払い。士郎はこう切り出した。

 

「まず一つ目。舞弥さんとセイバーに親身にされて気づいた事がある。俺はずっと皆の為にある事と、特定の誰かの為にある事の違いに悩んでた」

「……」

 

凛は手に持つ紅茶の波紋をじっと見ていた。

 

「俺は問題をはき違えていた。皆の為にある事と特定の誰かの為にある事の違いは信頼。信頼は時間と比例するから、不特定多数の人とは作れないよな。俺はそれが分かってなかった。信頼してないって思われれば、そりゃ怒る。俺はあの時、1stバーサーカー戦の事だけれど、最低舞弥さんとセイバーに一言だけでも言うべきだった。そんな簡単な事だった。そうすれば遠坂と真也にも伝える事が出来た。たとえ失敗したとしてもその意味は大きく違う。そんな事も知らずに、一人で全て背負おうとして、だれも信頼せず、仲間仲間っていって恥ずかしい」

 

凛は沈黙したまま聞いていた。士郎は切嗣に一言詫びた。

 

「誰も彼も助けると言う事は、誰からも信頼されないって事だ。当然だろ? 普通の人には敵が居る。敵を助ければ味方だった人も敵になる。気がつけば敵しか居なくなる。負の連鎖だ。俺はそれで良いと本気で思っていた。だけれど、それが酷く寂しい人生だと感じた。遠坂、もう一度謝る。あの時は本当に済まなかった」

「正義の味方は、もう良いの?」

「もういい。俺は家族の為にある。そしてもう一つ」

 

彼は居住まいを正した。

 

「俺は遠坂だけの味方になりたかった。笑った顔も、怒った顔も、叱ってくれた時の声も、俺の名前を呼ぶ時の声も、不謹慎だけれど、遠坂と一緒に居られた事は夢を見ていたみたいだった。俺は遠坂の事が好きだった」

「過去形なんだ」

「俺は遠坂より身内の方が大事みたいだ。柳洞寺の参道を登る時、俺は舞弥さんとセイバーの事しか考えなかった。遠坂の事は完全に頭から消えてた。遠坂と信頼関係を結べればと思ったけれど、キャスターは倒した、アサシンも倒した、ライダーとは決別、ランサーも駄目、ならバーサーカーをどうやって倒す? 姉さんを殺すしか無い。でも俺はそれを受け入れられない」

 

「具体的に考えてるんでしょうね?」

「実はまだ纏まってない。ただ何とかして会おうと思う。危険かもしれないけれど、何度でも話し合いたい。セイバーと舞弥さんは理解してくれてるから」

 

凛は笑った。

 

「そうね。それに付き合う理由は私に無いわ。なら急ぎなさい。私が倒してしまう前にイリヤスフィールをどうにかしなさい。無謀だけれど愛情溢れる決断に免じて衛宮君を倒すのは最後にしてあげる」

「俺の自己満足に付き合ってくれてありがとう。もう思い残す事は無い」

「衛宮君は優しいのね。それだけ思われるセイバーたちが羨ましい。どこかの誰かは意地悪な事ばっかり言うの」

「もし泣かされたら、遠慮無く言ってくれ。俺が代わりにぶっ飛ばすから」

「法の不遡及って知ってる?」

 

穏やかだった士郎の表情が鋭くなる。もし真也がここに居れば直ぐにでも拳を振るっただろう。

 

「……あの野郎」

「良いのよ。もう帰るわね。少し疲れた」

 

士郎の見送りを受けて彼女は衛宮邸を後にした。

 

(信頼、か。桜のこと隠してたの間違いだったかしらね。母さんにも真也にも桜にも全員に話して会わせるべきだったかもしれない)

 

その朝は突き抜けた様な蒼い空であった。不思議な事に彼女の身体は少し軽かった。

 

 

◆◆◆

 

 

目を覚ました桜が最初に見た物は登ったばかりの太陽だった。カーテンの隙間からそれが見えた。はてなと考えた。見慣れている物なのに妙に懐かしい。そのカーテンも、身体を包む布団の感触も、感じるその場の空気も、匂いも、部屋の圧迫感も、全てが懐かしい物だった。

 

「……」

 

のそりと寝返りを打てば柔らかい白色と、暖色で彩色された部屋が一望できた。ここで漸く彼女は自分の部屋だと気がついた。どうしてここに居るのか、衛宮邸の離れに居たのでは無かったのか。陽炎のような記憶を思い出せば涙が溢れた。衝動に駆られたとはいえ反逆紛いの事をしでかしたのだ。もうあの家の敷を跨ぐ事は適うまい。

 

自分の家に帰ってきたと言う事はライダーが運んだのだろう。彼女はのそりとベッドから這い出た。部屋着に着替え、顔を洗い、髪を櫛で梳き、身繕いをし。冷蔵庫を覗けば朝食ぐらいはどうにかなりそうだった。この家を出てまだ一週間と経っていない、食料品の鮮度は落ちているが問題は無い。

 

エプロンを纏い髪を結った。少し髪が長くなったかもしれない、そんな事も考えた。それは冷蔵庫から、ほうれん草とベーコンそして卵を、取り出した時の事であった。

 

「おはようございます。サクラ」

 

彼女が振り返ればライダーが立っていた。

 

「おはようライダー。カーテン開けて貰って良い?」

 

彼女が開ければダイニングとキッチンに陽の光が差し込んだ。朝日を浴びて輝くライダーの髪は宝石のよう。

 

(そういえばアテナか誰かに嫉妬された髪だっけ……)

 

嫉妬を禁じ得ない桜であった。それはさておき彼女は言う。

 

「これから朝食作るけれど、ライダーも食べる?」

「コーヒーだけ頂きます」

「少し待っててね」

 

桜は少し意外だと思った。ライダーは今まで一切の飲食をしなかったからである。彼女と真也がこのテーブルで話し合いをした事など桜は知るよしも無い。ライダーが白いコーヒーカップを持つ貴重なワンショットを目に焼き付けると、桜はスクランブルエッグを作り出した。フライパンが音を立てる。それを見ていたライダーは首を傾げた。

 

「サクラ。二人分にしては少量では?」

「一人分だから。それともライダーも食べたくなった?」

 

実物を見て食欲が出るとはますます意外、ライダーの分を作ろうと桜は笑いながら冷蔵庫を開けた。

 

「いえ、シンヤの分ですが」

 

その手が止まった。ライダーの言葉を理解するのに暫く時間が掛かった。桜は全てを忘れて駆け出した。ライダーは黙ってコンロの火を消した。ダイニングキッチンを出た桜は階段を駆け上がり、脚を踏み外した。脛を段差の角に打ち付けたが気にせず登り続けた。スリッパは脚から脱げ落ち、階段の根元に散らばっていた。息を切らし、ノックも忘れ、その部屋を開けるとベッドに駆け寄った。兄が居た。

 

寝息を立てるその頬に触れてみる。柔らかく温かい。本物である。少しやつれ、顔色も悪いが、紛れもない兄だった。涙が幾筋も頬を走った。溢れた涙が、頬を伝わり、顎からぽたりぽたりと滴った。嗚咽を抑えるのがやっとだ。

 

「私、帰ってきたんだ……」

 

それは桜がと言う意味であり、兄がと言う意味も持った。転じて日常を意味した。桜は堪えきれず縋り付いた。その手は毛布を破りかねない程に掴んでいた。ライダーはリビングでコーヒーを静かに楽しむのみである。

 

 

◆◆◆

 

 

真也が目を覚ましたのはそれから30分後だ。何故ベッドで寝ているのか、不可思議に思いながら身を起こすと胸が痛んだ。もちろん比喩では無い。心臓を左手で押さえ、暫く蹲っていると幾らか楽になった。相対的な意味であり、痛み自体は収まっていない。

 

着替えもせず部屋を出て階段を降りた。扉を開けるとそこはリビングである。テーブルにはライダーと桜が向かっていた。二人は朝食を取っていた。

 

「おはようございます。兄さん」

「おはようございます。シンヤ」

「おはよ」

「兄さん。朝食どうしますか?」

「スープだけで良い」

「少し待って下さいね」

 

彼はライダーの隣りに腰掛けた。そこは彼の指定席である。母である千歳の席にライダーが座っているのは何とも奇妙な感じだ、彼はそう思った。手元にあるのはマグカップ型のスープカップで、コーンポタージュが収まっていた。そこから生える銀色のスプーンを手に持って意味も無く掻き混ぜた。飲んだ。美味しかった。慣れ親しんだ味である。彼はこう言った。

 

「なんで?」

「先輩に追い出されちゃいました」

 

真也の意図は“士郎の家に居るはずの桜がどうしてここに居る”という意味である。あっけらかんと答えた妹に違和感を感じた。次の問いかけには、追い出された事は大事ではないか、なぜあっさりと答えるのか、という意味があった。

 

「なんで?」

「その、ついかっとなって先輩を襲っちゃって……どうしよう」

 

桜自身は深刻に考えていたが、真也にはとてもそうは見えなかった。強いて言うなら皿を割ってしまった、その程度に見えた。彼の身体は傾いていた。

 

「なんで?」

「兄さんを斬ったのセイバーさんだって、知ったから」

 

彼はすっかり忘れていた。彼の身体はもっと傾いた。

 

「それには俺も荷担している。俺も謝るから士郎の所に戻るぞ」

「もう良いの」

「なにが?」

「聖杯はもう要らない」

 

更に傾いた。

 

「士郎の事はどうするんだ」

「もう良いの」

「……士郎の事を諦めた?」

「うん」

 

沈黙が訪れた。彼の身体は45度以上傾いていた。

 

「はうっ!」

 

卒倒した。

 

「兄さん!」

 

倒れたマスターの兄を見て“倒れたくもなるでしょう”ライダーはそんな事を考えながらコーヒーを飲んでいた。

 

 

◆◆◆

 

 

どうしたら良いのか分からないが、とにかく現状把握だ、そう考えた彼は士郎に電話した。キャスター戦の顛末である。全員無事だと知り溜飲が下がった。

 

『なんとか終わった』

「そう。キャスターは倒したか。桜が迷惑を掛けた。済まなかった」

『どういう風の吹き回しだよ。真也が謝るなんてさ』

「色々あったから」

『いや良い。黙ってた事に同意した俺も共犯だ。悪かった』

「桜はまだ動転してると思う。ほとぼりが冷めればまたよろしく頼む」

『いや、もう来ない方が良い』

「士郎」

『多分、桜は真也の側に居ないとダメだ。そんな気がする』

 

士郎を襲った時の狂気じみた桜を思い出したのだった。

 

「……分かった。学校では今まで通り接してくれると嬉しい」

『お安いご用だ。そんな事より真也。お前、一人でやったんだって?』

「キャスターの事か」

『経験上語るけれど、信頼しないと信頼して貰えないぞ』

 

真也はライダーの事を思いだした。

 

「言いたい事は理解できる」

『多分、お前の理解は足りてない。気をつけろ。お前そんな事じゃ全部無くしかねないぞ。最悪一人になる』

「敵の忠告は随分重いな」

『それと。遠坂泣かしたら覚悟しとけ』

 

そんな事はもうあり得ない、と返す前に電話が切れた。心臓が痛んだ。兎にも角にも桜に話を聞かねば身の振り方も決められない。真也はソファーに腰掛けた。そして硝子製のローテーブルを挟んで、やはり同じように腰掛ける妹を見据えた。

 

「説明してくれ桜。どうして聖杯が欲しいなんて思った。何故今諦めた。どうしてあの時諦められず今諦める事が出来た。桜に全ての責任が在るとは思わない。負わせるつもりもない。ただ、多くの人に迷惑を掛けてしまった。謝りに行かなくちゃいけないけど、それには桜の説明が必要なんだ」

 

真也のその発言にライダーは滅法驚いた。ライダーが桜の夢で見た真也像を語れば、妹を甘やかす、言ってしまえば駄目兄だった。そう、真也は桜に説教をしていたのだった。

 

黒革のソファーに腰掛ける桜は揃えた膝に両手を置いて姿勢正しく座っていた。その視線は臆する事なく真っ直ぐに兄を見据えていた。覚悟を決めた証である。

 

「その前に聞きたい事があります」

「なに」

「美綴先輩はどうしましたか」

「何で綾子が出てくる」

 

「答えて下さい兄さん。とても大切な事です」

「……告白されたけれど断った」

「遠坂先輩は?」

「少し付き合ったけれど別れた」

 

「私の為ですか?」

「理由は色々だ。言っておくけれど、桜の為だなんて思わないでくれ」

 

半分嘘である。彼は桜を見捨てられず戻ったが、凛を傷つけたくないのも理由だった。

 

「あくまで俺の都合だ」

「私悪い子なんです。美綴先輩が兄さん好意を寄せてるって言った時、そんな無駄な事をって確信した。遠坂先輩にも同じ事を言った。兄さんは私を裏切らない、それに甘えてたんです。だから兄さんと遠坂先輩が付き合ってるって聞いた時ショックでした。けれど罰が当たったんだなって、そう思った」

 

彼は黙って聞いていた。

 

「私を拒絶するなら優しくなんかして欲しくない、ずっとそう想ってた。兄さんの優しさがずっと辛かったんです。だから私は先輩と聖杯に逃げた。でもういいの、私兄さんの側にずっと居ます」

「……俺は桜にとって兄以外に成るつもりは無い」

「それでも良いです」

「バカを言うな」

 

「バカじゃありません」

「あのな、女の人にとって結婚出産が全てだとは言わないけれど、幸せの普遍である事は間違いない。桜はそれを捨てるのか」

「もう一つあります。大切な人のお世話をする事です」

「ダメだ」

 

「嫌です」

「ダメだって言ったら駄目」

「イヤな物は嫌。大体私が誰かと結婚したら兄さんはどうするんですか。兄さんはご飯だって片付けだってできないじゃないですか」

「それは妹が気にする事じゃない」

 

「なら誰が気にするんですか」

「俺の事だ。桜には関係ない」

「兄さんの事です。言っておきますけれど、美綴先輩、遠坂先輩以上の人なんて現れませんよ」

「そうだろうな」

 

「そこまでされた以上、妹にも意地があります」

「訳が分からない。妹はいずれ兄の元を去るから妹って言うんだ」

「兄妹はどれだけ経っても兄妹です。ずっと変わりません」

「……桜」

 

「はい」

「我が儘もいい加減にしろ!」

「兄さんが悪い! 私がこうなったのも全部兄さんのせい!」

「何時から人のせいにするようになった!」

 

「兄さんと出会った時からです!」

「嘘をつけ! 何も言わなかったじゃ無いか!」

「兄さんが勝手にするから!」

「希望と違ってるなら違ってるって言え!」

 

「全部嬉しかったから言える訳無い!」

「どれだけ苦労したと思ってる!」

「だから、その恩返しをさせて!」

「桜が幸せになるのが恩返しなの!」

 

「勝手に決めないで! 私の幸せ私が決める! 妹は兄さんの人形じゃ無いの!」

「あぁもう! 兄妹はダメだって言ってるだろ! 何度言えば分かる!」

「分かりません! ぜーったい、分からないんだから!」

 

更に言い合う事数刻。息が切れていた。真也が幾ら睨もうとも、彼の妹は一歩も退かなかった。桜は窓の外を見てぽつりと呟いた。その視線は過去を見ていた。

 

「私気づいちゃったんです」

「なにが」

「兄さんと離れてどれだけ幸せだったか」

「それがどうしてこうなる」

 

「兄さん、安心してください。死ぬまで、ううん、お墓の中でも生まれ変わっても私がお世話します」

(……重い。我が妹ながら重い)

 

ライダーはこの兄にしてこの妹ありと考えたりした。とんでもない事を口走っているのにも関わらずとても幸せそうな顔である。戦況は芳しくない、と思いつつ彼は妹の説得を続けた。

 

「桜、俺は怒ってるの」

「はい、私を怒って下さい」

 

妹は身を乗り出した。嬉しそうな顔を見せていた。

 

「冗談じゃ無くて」

「はい、遠慮無く叱って下さい」

 

更に身を乗り出した。組んだ両手は顎元に、その姿は懇願するかのよう。だが妹は頬を染めていた。

 

「あの、な」

「兄さん、悪い私を罰して下さい。はやくっ」

 

どうにもならない。彼は妹の肩を掴んで、ソファーに押しやった。彼は諦めた。時が解決してくれるかもしれない、そんな期待を持ってこう告げた。

 

「言っておくけれど、お袋の説得が残ってるからな。俺は桜の味方なんてしないぞ」

「構いません。お母さんも説き伏せちゃうんだから」

 

溜息が出た。盛大な溜息だった。堪らず髪をかき上げた。暫定的とはいえ、それを認めるのは非常に憚られた。

 

「……お帰り桜」

「はい、ただいま戻りました」

 

二人を見ていたライダーはコーヒーを静かに啜っていた。その心中で狂喜乱舞していたライダーは真也が時折心臓を抑えている事に気がついた。

 

「……」

 

 

◆◆◆

 

 

身体が重い。それが真也の率直な意見だった。死にかけた事も数度あったが、これ程の脱力感は初めてだった。ソファーにもたれ掛かる彼の姿は、まるで病人、下手をすれば死人のようであった。それ程疲れ切っていた。苦悩を堪えんと、手を額に当てればその指の隙間からは台所でエプロンを揺らす妹の姿が見えた。

 

「桜の接し方間違った……」

 

その呟きは懺悔のようであった。彼の隣りに腰掛けていたライダーは言う。

 

「それは言い過ぎでしょう」

「桜の幸せを奪ったんだぞ、俺」

「サクラは幸せです」

「それは一般的じゃ無い」

「今更です。少なくともシンヤの接し方の結果が今のサクラなのですから。臆面無く言い合い、笑えればそれ以上求めるべきではありません」

 

ライダーの言葉は理解できる。だが受け入れられない。そう苦悩しながらぐったりしている真也にライダーは言う。

 

「シンヤ、一つ聞きたい事があります。なぜサクラの元に?」

「それをライダーが聞くのか」

「後悔を?」

「分かった。ライダーに隠し事は無しだ。どの選択をしても後悔はあった。俺は凛の事が好きだ。側に居たい。自分でも信じられない。でもそれは桜も同じだ。凛を選ぶと言う事は選べば桜を苦しませる事だ、そんな事出来ない、出来る訳が無い」

 

彼は凛と付き合っている事を聞いて、妹が倒れた事を言っていた。

 

「そして凛を選べば俺は彼女を危険に晒す。だけど……どれだけ考えても答えなんて出なかった。なら単純な計算の結果に頼るしか無かった。要因を積み上げメリットとデメリットを機械的に判断した」

「そうですか」

「そう俺は男としてじゃなく兄として戻った。許せないか?」

「シンヤは運が悪いですね」

「最近そんな気がしてきた」

 

桜は妹で良い、そう決めた事を知らないのだった。暫くぼうっとしていると目の前に桜が居た。彼女は笑っていたが米神に血管を浮かび上がらせていた。訳が分からないと真也は眉を寄せた。

 

「まだ話があるのか」

「思い出しました。バーサーカーの件でお説教します。そこに座って下さい」

 

彼女が指さしたのは床の上。彼は正座で桜の説教を2時間受ける事になった。そして夜。またしても二人は言い合いをしていた。真也はこの妹をどうしてくれようかと考えていた。桜はどうしてこの兄は意固地なのかと考えていた。兄の部屋の出入り口で押し問答である。パジャマ姿の妹は枕を持って押しかけていた。

 

「一緒に寝て、」

「駄目です」

「何もしないから、」

「駄目です」

「この間まで時々、」

「もうこの間じゃありません。だからダメです」

 

暫く離れていたのだからそれ位と妹は潤んだ瞳を見せた。つまりは泣き落としである。聖杯戦争前ならば確実に折れたのであるが。

 

「桜はもう年頃なんだからそんな事ダメです。お休み桜」

 

兄は斬り捨てた。残酷なまでに無慈悲な音を立てて扉は閉じた。トボトボと部屋に戻っていった妹は敗残兵のよう。彼は部屋の電気を消しライダーの前を通り過ぎた。照明の落とされた部屋は窓から漏れ入る街灯と月明かりのみである。薄暗い部屋のに浮かび上がる彼女は孔雀サボテンの花に見えた。それは夜に向かって咲いていくのである。

 

「シンヤ」

「ライダーも女の人なんだから、早く出て行きなさい。夜に男の部屋だなんて、軽率だぞ」

 

ベッドに潜り込んだマスターの兄は実は別人ではないかとライダーは疑った。それ程信じられない発言だったのだ。“桜のサーヴァント以上は求めない”と彼が言い放ったのはつい先日である。それはさておき彼女には確認しなくてはならない事があった。

 

「シンヤ」

(無視無視)

「シンヤ」

(無視無視)

「シンヤ」

(無視無視)

 

真也は布団から手だけを出して振っていた。犬でも追い返す様である。

 

「服を脱ぎなさい」

「無視無視……は?」

 

彼女は掛け布団を引っぺがすと、真也に跨がった。状況に理解が追いつかず彼は呆けた。彼女はTシャツの裾に手を掛けた。もちろん脱がすつもりだ。そうはさせじと彼は抵抗した。

 

「わ、何するお前!」

「温和しくする事です。不用意な怪我をします」

「強姦魔かよ!」

 

彼女はシンヤの手首をそれぞれ掴むと押しつけた。

 

「ちょ、やめ、」

「安心しなさい。天井の染みを数えている間に終わりますから」

「その台詞サーヴァントの間で流行ってるのか!」

 

かって襲われたアーチャーにも同じ事を言われたのだった。

 

「いい加減にしないと、むぐ!」

 

彼は口を塞がれた。唇ではなく彼女の手の平だった。ライダーはとてつもない美人である。付け加えてスタイルも良い。そんな女性に迫られる事はとてつもない幸運だが、桜と凛に義理がある。どうにか逃げねばと考えていた彼はそれが勘違いだと悟った。

 

真也のTシャツを捲っていたライダーはその手を止めていた。真也の左胸にあるそれを凝視していた。彼女のその声は、微かに震えていた。信じたくないと告げていた。

 

「いつからです」

 

何の事だと自分の胸を見れば、鬱血したような痣があった。心臓の真上である。腑に落ちた。その痣は彼の魔術が彼自身を攻撃している証だった。

 

「多分、凛と別れた時から。違うか、凛を傷つけた時からだ」

「痛みますね? 今この瞬間でさえも」

 

彼は渋々頷いた。

 

「聖杯を狙いましょう」

「だめだ。戦う理由がない以上、桜に危険な真似はさせられない」

「死ぬまでその痛みを受けるつもりですか」

「これは俺の罰だ。償えるかは知らんけれどね」

 

凛を欺いた事を示していた。

 

「心臓はただの臓器ではありません」

「知ってる、霊的にも大きな意味を持つ器官だ。なにせ魂の収まり場所だからな」

「生命、記憶、意識、感情を司るそれに負担が続けば、最悪シンヤの存在自体を脅かすやも知れません」

「らしくなく遠回しな言い方だな。どれぐらい持つ?」

「……もって三ヶ月です」

「そう」

 

彼はこれは参ったと、ベッドに身を投げた。それまでに桜をどうにかしないといけないとは無茶も良いところである。

 

「聖杯は万能です。その可能性に掛けてみるべきです」

「俺が許さない限り再発するだろ」

「聞きなさいシンヤ。今のままでは私は消えるに消えられません。未練を残し亡霊になりかねない程です」

「そこまでしてくれなくても良い、とは言わない。ライダーの気遣いには涙が出そうだ。けれどダメだ」

 

「サクラを一人にする気ですか」

「今の状況を考えろ。仮にイリヤを狙ってバーサーカを倒したとする、もちろん、セイバーも倒したとしよう。だが凛がいる。彼女が勝ちを狙う以上、いずれ敵対する事になる。今の凛に俺を配慮する理由はない、それどころか嫌悪して当然だ。そして。俺は凛に刃を向ける術を持たない。他に質問はあるか?」

 

ライダーは呻いた。何故こうなるのか、憤りの余り誰かを呪ってしまいそうだった。桜はただ助けを求めただけだ、真也はそれを助けただけ、その方法に問題があったとしても、応報がこれでは割に合わない。誰も死んではいないのに、彼一人死に向かっている。

 

何より呪ましいのは打つ手がない事だ。桜に話せば彼女は決死の思いで戦いに赴くだろう。だが凛と桜が争う事態など真也にとって毒酒を飲む事に等しい。時間的猶予を更に縮めかねない。だが兄を失った桜がどうなるか予想も付かない。袋小路だ。聖杯を求める事すら出来ないとは冗談にしても質が悪すぎる。

 

無力さを呪いかねない程に悔やむライダーに彼はこう告げた。それは彼にとって出来うる最大の配慮だった。

 

「桜は明日から学校に行く。無駄に授業は遅らせられないからな。桜が帰ったら3人で出かけよう」

「……シンヤ、せめて良い夢を」

 

彼女は身を翻した。美しい髪が靡く様は泣いている様に見えた。

 

「ライダーもな」

「無茶を言わないで下さい」

 

 

 

 

 

つづく!




次話で第一部完! になります。多分短めです。



【禁断の座談会の様な裏話】
Q:俺って遠坂の事好きだったはずだろ
A:だってあそこまでイリヤに執着した以上、無理じゃん。凛は未だ勝利を狙ってるし。
Q:今までの伏線は?
A:予定ではここで告白タイムだったんだけれど、土壇場(キャスター最終戦)で矛盾に気がついたの。
Q:なっとくいかねぇ! 桜も持ってかれたし!
A:妹であるなら性的な事は禁止、という設定に正したから妥協しなさい。本音を言えば俺だって士郎を投入してドロドロさせたかったんだよ。腹いせで付き合ってやるとかそういう意味で。
Q:もうドロドロ控えめ?
A:個人的に次話は怒濤の展開だと思ってる。プロットに矛盾があってイベント取り消しを祈る程。


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30 反転衝動

“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”誰が言ったか知らないがその言葉に諸手を挙げて同意するのはランサーである。坊主というのはもちろん綺礼であり、袈裟というのは教会や十字と言ったシンボルであった。連れてこられた当初でこそ気にもしなかったが、今では目にするだけで不愉快になる。鳩尾の奥にある消化器官が見えない手で握られているかのような気分だ。それが綺礼の部屋であるなら尚更だろう。

 

日中でも陽の光が及ばないその部屋は、間接照明に照らされて瀟洒な雰囲気を醸し出していた。ターキーレッドのソファーにチェスナケットブラウンのローテーブル。壁には絵画が飾られ、その様を例えるなら会員制高級バーかホテルが適当だ。センスが悪くないのも腹立たしい。

 

腹の底にわだかまる鬱憤をぶっきらぼうな態度に変えて、アサシンとキャスターの顛末を報告し、さっさとバーサーカーの根城を探しに戻ろうとした矢先、ランサーは綺礼に呼び止められた。碌でもない事に違いないランサーはそう辟易した。

 

彼が仰せつかった役は偵察であったが、ある時を境にセイバー、アーチャー、ライダーの各陣営を個人レベルで監視すると言う内容に変わった。ある時期とは真也が綺礼を訪れた直後に他ならない。そして、個人レベルでの監視とは言ってしまえば人間関係の事だ。

 

綺礼の意図が読めなかったが仕事だと割り切り、衛宮邸に赴けば待っていたのは聖杯戦争そっちのけで繰り広げられる愛憎劇である。

 

“なにやってやがる、このガキどもは……”

 

騎士に呆れ、弓兵と騎兵に同情しているうちにキャスター戦が終結。漸く探偵業から解放かと、ささやかな開放感に浸ればランサーは水を差された、と言うのが経緯である。

 

「ランサー、あの男、蒼月真也に手を貸してやれ」

 

綺礼の新たな指示を聞いて彼は嫌気がさした。裏があるに決まっている。分かっていつつもこう聞いた。

 

「あの坊主に協力しろってのはどういう事だ」

 

ランサーは綺礼と眼も合わさない。せめてもの反抗だったが綺礼は気にも止めなかった。綺礼は姿勢正しく厳かに、立派な聖職者の形であったが、ランサーには綺礼が笑っているように見えた。綺礼が笑うなど縁起でも無い、とも考えた。

 

「あの男は巻き込まれてしまった被害者だ。監督役の立場上、なんの手助けも無しというのは許されんだろう」

 

もちろん綺礼の言葉を真に受けるランサーでは無い。

 

「今頃か」

「バーサーカーの拠点は未だ突き止められていない、これが問題と言えば問題だが各陣営もバーサーカー戦を契機としている以上、そのタイミングに固執する理由はあるまい。ランサー、お前とて冬木市全域を闇雲に奔走するのは本意ではなかろう」

「走るのは嫌いじゃねぇ」

「そうだったな」

 

犬扱いされているのか、狗扱いされているのか、問いただそうとして止めた。聞いたところで誤魔化されるのがオチだ。

 

「坊主への接触方法は俺に一任、って事で良いのか?」

「条件は日中にこれを着て、あの男と一緒に居るところをアーチャーのマスターに見せる、それだけだ。他は好きにしろ」

 

綺礼はソファーに置いてあったスーツを手渡した。

 

「サイズは合っている筈だ」

「用意周到じゃねーか」

「一級の誂えだ。もう少し嬉しそうな顔をしたらどうだ」

 

綺礼の考えそうな事だとランサーは心底うんざりした。そして悪趣味にも程がある、と心中で吐き捨てた。

 

「ガキどもの好いたはったに手を出すとは、大人げねえ」

「もちろん見返りは用意しよう。蒼月真也との共闘に当り全力戦闘を許可する」

「……それすらも見込みの内ってか」

 

綺礼はアーチャーに抱きかかえられ柳洞寺を後にする凛の様子から大体の見当を付けていた。ランサーを動かした後の展開もほぼ確信を持っていた。ランサーが放つ侮蔑の視線に笑みで返した。

 

槍兵が消え、その気配が感じ取れなくなった頃である。ギルガメッシュはソファーに腰掛けグラス内に波打つワインの色を愉しんでいた。

 

「その娘にただ見せるだけで良いのか、綺礼」

「あの娘は拒絶されても諦めきれない程に込んでいるからな。それで十分だ」

「雑種どもの色沙汰に興味も理解も無いが……あの男に入れ込んでいるのは娘だけではあるまい」

「望もうとも望まざろうとも、あの男は苦悩をまき散らす者だ。あれ程の逸材はそうはいまい。驚けギルガメッシュ。これ程の高揚感は久しく覚えが無い」

 

「剥き出しの感情が交わる舞台は果たして喜劇か悲劇か」

「どちらでも構わん」

「そうであろうともよ。目の前の災難をどう解釈するかは観客席に居る者が決める。眉をひそめ同情する者も居ようが、お前は笑い飛ばす側だ」

「失敬な事を言うなギルガメッシュ。私は聖職者だぞ」

 

「けしからん聖職者も居る者だ……時に、ランサーの言っていた黒い影とやらはどうするつもりだ」

「様子を見るほか有るまい。ランサーが仕掛けるのを戸惑う程の何か、気には掛かるがな」

「焦る事はなかろうな。その影とやらもその男の結末も自ずと結果は知れよう」

「ほう。関連がありそうな物言いだが、その根拠は何だ」

 

「感、我の直感だ。心しろ綺礼。此度の聖杯戦争、荒れるかもしれんぞ。前回とは比べものにならん程にな」

 

ギルガメッシュはワイングラスをテーブルに置くとソファーに身を横たえた。ギルガメッシュが真也の滅殺に及んだ時こそが、何かを起こすトリガーになり得るのかもしれない、綺礼はそんな予兆を持った。

 

 

◆◆◆

 

 

そこは蒼月家のリビングである。真也はソファーにもたれかかり、ただ宙を見ていた。桜は学校へ向かった。ライダーも警護のため随行した。つまり彼は家に一人だ。共闘は崩れたが、バーサーカー戦まで付き合うと凛に約束したため彼は病欠続行なのである。もっとも、もう退学してしまっても問題は無い。

 

“せめて最後まで見届けさせてください”

 

と言うライダーの希望もあり、念の為にと凛と士郎が脱落するまで顕界して貰う事にした。

 

「……」

 

“もって3ヶ月”ライダーの言葉が脳裏に何度も浮かんでは流れた。死の恐怖は数度感じた事があったが、ゆっくりと這い寄る死の恐怖は初めてだった。首を真綿で絞められている感覚。死も怖いがなにより気に掛かるのが桜である。何時どの段階で告白するべきか、それを考えると悩ましい。少なくとも聖杯戦争後にはしなくてはならないのだが。

 

「泣かせるだろうな……」

 

それを考えると気が重い。どうして黙っていたのかと詰るだろう。それを契機に嫌悪してくれれば、それはそれでありがたいのだが、その考えは余りにも後ろ向きだ。とはいえ他に手段が無いの事実である。TVの中に居るコメンテーターが色々言っているが耳に入らない。

 

『新都のポンペイビルで昏睡事件が発生しました。ガス漏れが原因として疑われていますが現在調査中です。患者は15名に及び病院に搬送されました。全員命に別状は無いとの事です』

 

彼がそれを聞き流さなければ、“本当にガス漏れか? キャスター以外の何かが生命力を吸い取っているのではないか”そう疑っただろう。残念ながら物思いに耽る彼が気づく事はなかった。

 

桜には友人も居るが、基本的に母である千歳に託す以外無い。蒼月真也という抑止力を失った冬木市がどうなるかそれを考えると頭が痛い。聖杯戦争とは別に士郎には伝えておくべきか、真也はそんな事を考えた。士郎が家族の為にあるというなら、冬木市の治安に無関心と言う事はあるまい。

 

「本当に運が無いな俺。桜が暴走する前にこの事態になってれば士郎に預ける事も可能だったのに。せめてライダーが顕界し続けてくれたなら……」

 

ぼやいてもどうにもならない。やれる事をやるしか無い。残りの3ヶ月有効に使うより他は無い。

 

「取りあえずコーヒーで飲もう」

 

独り言が多い事に苦笑いしながら立ち上がれば、呼び鈴が鳴った。時計を見れば午前9時である。新聞の勧誘なら追っ払おう、宗教の勧誘なら余命3ヶ月だと冷やかそう、そう玄関の扉を開ければランサーが立っていた。

 

「……」

 

サーヴァントを前にして彼が呆気にとられたのは幾つかの理由がある。殺意が無かった事、得物である槍を展開していなかった事、そして。

 

「なんでスーツ姿」

「何時もの形じゃ日中出歩けねーだろ」

 

黒茶色のパンツにジャケットとベスト。襟元から覗くパールグレイのシャツには縦のストライプが入り、タイはロイヤルパープル。ジャケットの胸のポケットにはタイと同じ色のハンカチが覗いていた。ランサーはスリムなビジネススーツを纏っていた。

 

ビジネスマンと言うよりは富豪のご子息である。それも温厚ではなく好戦的な野性味溢れるやり手だ。日本人の少女であれば一溜まりもないだろう、彼はそんな事を考えた。

 

(どこの出身か知らんけど、流石外国人。めっさ似合う……)

 

ランサーは狩猟犬を連想させる風体であるが、正装するだけで洗練さを醸し出すとは有り得ない。実は貴族とか高貴な血筋なのでは、と真也はそう考えた。黒髪黒眼だが欧米風の出で立ちである真也も相応に様になるが、これは勝てないと白旗を揚げた。つまり嫉妬した。言葉の節々が刺々しくなるのも無理は無い。

 

「何をしに来た」

 

ランサーはいつか見たように挑発的な笑みを浮かべていた。

 

「ごあいさつだな、燻ってるかと思って来てやったのによ」

「せっかくだけれど俺に用は無い。帰ってくれ」

「話がある。面かしな」

「受ける理由が無い。帰れ」

「バーサーカー戦、手伝ってやっても良い……そう言ってもか?」

 

真也はこのとき初めて狩猟者のような鋭い表情を見せた。そう来ないとな、とランサーは腹の底で笑った。

 

「一度しか聞かねーぜ。どうする?」

「……いいだろ。とにかく話は聞こう」

 

ランサーを家に入れるのは避けるべき、そう考えた真也は公園を指定した。それはランサーの狙いでもあった。二人はベンチに並んで腰掛けた。真也はいつものようにロングコートを羽ばたかせていた。もちろん脇の下に霊刀をぶら下げていた。ランサーは背もたれに身を預けふんぞり返っている。真也は両膝に両肘を乗せて、前屈みだ。余裕があるランサーに対し真也は神経質になっていた。自然真也の物言いは棘が付く。

 

「一度拒否しておいて、か。ランサー、お前何を考えてる」

「目論見なんざ有るに決まってるだろ。この際問題はバーサーカー討伐の戦力が増強できるって事だ」

「……事情に精通してそうな物言いだな。ランサー」

「まぁな。お前が聖杯を求めていない事も、お前らの共闘が瓦解した事も把握してる。日中にこんな形できたのは刺激しない為だ。なんつったか……そうTPOだ。TPO」

 

それは桜が学校に通っている事からの推測である。ランサーは何食わぬ顔で缶コーヒーを飲んだ。

 

「俺が何を考えているか分かるか?」

「信用できないって言ってるんだろ? そりゃーそうだ。逆に疑いもせずあっさり受け入れる奴なんざこちとら願い下げだ」

「ならどうして持ちかけた」

「俺らはバーサーカーを倒したい、という目的を共有してる。だがお前はマスターを狙うのは避けたい、と考えている。バーサーカーのマスターに手を掛けず、サーヴァントのみを叩く可能性、のるかそるか」

 

疑わしい視線で睨み返す真也を見ながら、ランサーはそろそろだと腹を括った。らしくなく心中で一言詫びた。この企みが失敗すれば良い、とも考えた。

 

 

◆◆◆

 

 

同日同時刻。遠坂邸から蒼月邸に向かうのは凛である。衛宮邸から戻った彼女は一日悩みに悩み、桜が実の妹であると真也に告白する事に決めた。彼女が今まで黙っていたのには理由がある。

 

一つ。今を遡る事10年前。間桐桜の失踪と間桐臓硯の殺害が同時期であった事だ。第3者の視点で見れば、誰かが臓硯を殺し桜を連れ去った、そう考える方が自然だろう。真也にとってその事実を誰かに知られる事は禁忌に他ならない。

 

実際凛もそう思っていた。もし出会ったならば容赦すまい、そう考えていた。だが幼い桜が2年間にわたり筆舌に尽くしがたい虐待を受けていた事を知り、それを不問にした。12年前、遠坂時臣が娘である桜を間桐に渡した事は紛れもない事実であり、現遠坂家の当主である以上彼女にもその責の一端がある。

 

二つ。葵が桜の存在を知れば連れ戻したいと言い出す可能性が有る事だ。それは桜と真也を引き離す事に他ならない。一つ目の理由を持ち出せば真也に拒絶する術が無い。

 

そして最後は桜と交わした“母さんには黙っててあげる”という約束である。

 

だがこれ以上隠し通す事は良くない、そう考えたのだった。凛から見れば桜は実の妹であり、真也から見れば桜は義理だろうが妹だ。同じ人物を妹と呼ぶならそれは家族の関係に他ならない。

 

ならば。思惑の違いだ、陣営の違いだ、固執するのは利口では無い。少なくとも前提にするのは誤りだ。士郎の身体を張った家族への想いに相応の感銘を受けた。キャスターによって見せられた幻影から、親しい人間に隠し事を作るデメリットを知った。彼女はそう考えを改めたのである。

 

順番であればまず桜を説き伏せるべきだが、姉と殴り合いをする程の根性を持っている。加えて士郎を斬り付ける程の強い情念も持っていた。一筋縄で行かない事は容易に想像できる。ならば外堀から埋めよう。母である葵に黙っているという約束をしたが真也に黙っているという約束はしていないのだ。今の彼は以前のような妹だけを考える存在では無い、凛の想いも汲んでくれる、そう考えた。

 

以上が凛の言うのが建前である。本音は別にあった。

 

(真也と話す。腹を割って話す。真也に桜が実の妹である事を話す。桜と、葵と、真也を改めて紹介する。そこから全てやり直し)

 

別れを告げられた日を思い出せば不可解な点がいくつかあった。彼が無理して笑っていたのは明白だ。彼の言う凛を傷つけると言う発言も突飛だった。何故あのタイミングでそんな事を言い出したのか考えればキャスターが怪しい。

 

それはキャスター最終戦直前の事。桜に1stバーサーカー戦の映像を見せた事は、ライダーとの分断に他ならない。当然真也も分断しようと考えるだろう。なによりキャスターの“坊やはお嬢ちゃんから離れたでしょうからね”この発言もおかしい。凛はキャスターに何か吹き込まれた、と考えた。彼はそのキャスターと単独で戦っていたのである。

 

(聞くだけだ。それを確認するだけ会いに行こう。我ながらどうかしてる。土下座すれば許してあげても良いとか。必要ないなんて嘘だ、そう一言言ってくれれば)

 

生活道路を歩く凛が公園にさしかかった時、ベンチに腰掛けるランサーと真也の姿が見えた。道路とベンチは直行する位置関係だった。3人の位置関係を表せば、凛、真也、ランサーの順である。つまり真也は凛に対して背を向けている。彼女の姿を確認できるのはランサーだけだ。

 

「なんで、真也とランサーが……」

 

 

◆◆◆

 

 

呆然と見つめる凛の姿を、視界の端に捕らえながら、ランサーは続けた。

 

「ただし条件が二つある。お前と組むのは今すぐって訳じゃ無い。いまバーサーカーの根城を探してるが、見つからない以上俺が居ても意味が無いからな。だから暫く離れる。今日来たのは先にバーサーカーが襲って来ても言いようにっつー事前申し合わせだ。突然手を組むって言っても、そうはいかないだろ?」

「もう一つは?」

「俺と組んだ理由を他陣営に言うなとよ。俺の雇い主は腰抜けでな、誰にも知られたくないんだとさ。事情に精通し、暗躍してるってな」

 

「随分と虫が良いが、どうやって皆に説明すれば良い?」

「監督役にサーヴァントは要らないかと持ちかけられた、でどうだ。いけ好かねぇ奴だって知ってるんだろ? そーだそーだ、バーサーカー戦後は暴露しても良い」

「バーサーカーがどうにかなれば聖杯を掴む目算があるって事ね」

 

ランサーがサーヴァントなら強気になるのも無理は無い、と真也は考えた。

 

「何故俺に持ちかけた。セイバーのマスターでも良いだろう」

「お前がマスターじゃない、だからに決まってるだろ」

「……そりゃそうか」

 

士郎にも凛にも借りがあった。イリヤを殺さずバーサーカーを倒せるならば……だがお世辞にも胡散臭い。彼は足下を見ながら暫く考えた。士郎の“お前は半分しか理解していない”という言葉が脳裏を駆け巡る。判断保留だ。彼はこう告げた。

 

「俺は遊撃だがライダー陣営、頭はマスターだ。協議したいから一晩時間をくれ。他陣営に話さなければ良いんだろ? 携帯を渡しておく」

 

もし誰にも言うなという条件だったなら彼は拒否しただろう。それは綺礼の目論見でもあった。

 

「んなもん使うか」

 

ランサーはルーンの刻まれた石を渡した。

 

「そいつでお前の居場所が分かる。仕事の都合上遅れるかもしれねぇが踏まえておいてくれや」

「分かった」

 

ランサーが立ち上がったとき凛の姿は無かった。それは綺礼の企みが成った事を意味していた。

 

「坊主」

「なんだ」

「気づいてない様だから言うが、今のお前はかなりヤバイ状況だぜ?」

 

それはランサーが出来うる最大限の警告だった。

 

「知ってるよ。もう散々だ俺は」

「お前は半分しか気づいてない。底は抜ける為にあるってな。覚えておきな」

 

 

◆◆◆

 

 

今の凛は理性より情動に支配されていた。好意と嫌悪。愛情と憎悪。許しと糾弾。怒りと悲しみ、それらの感情が交じり合った、例えるならスープのような物だ。

 

どうしたら良いのか分からない、理性は真っ白な濃霧で敷き詰められていた。悲しみは止まる事を知らない、別れを告げられた時の記憶は薄れるどころかか強くなる一方だ。忘れられる、彼女の願いはキャスターの幻術で否定された。未だ心の奥底に彼が居た。彼女は足下さえ見えない暗闇の中、無我夢中で手探りに出口を求めていた。

 

そんな折、彼女は士郎の言葉で僅かな希望を持った。だからこそ勇気を振り絞り一歩踏み出したのである。桜が言った様に側に居られれば、そう思った。

 

その状態の凛がランサーと話す真也を目撃したのである。それが夜だったなら、殺意を飛ばし合い、武器を向け合っていたのならば話は別だった。二人はベンチに腰掛け白昼堂々話しているのである。不可解な事にランサーはスーツを着ていた。当然何か意味があるだろうと思うだろう。その意味とは何だ。その状況は“二人がどういう関係なのか”という疑念を凛に埋め込むには時間が掛からなかった。

 

些細な言葉で救われる、些細な言葉で深く傷つく。つまり精神が不安定な時においては、受ける言葉や態度と言うものを物を過剰に評価する。口論している相手の些細な言い回しすら癪に障るのと同様だ。

 

生じた小さな疑惑を、彼女は瞬く間に確信と化してしまった。憎しみとなった。なぜなら真也は一度、虚偽という名の不義を凛に働いているからである。綺礼が用意するのは些細な火種でいい。炎上させるのは彼女自身だからだ。綺礼の狙いは揺れ動いている凛の心理を利用し、真也がランサーのマスターだったと誤認識させる事にあった。

 

後は簡単である。凛は思い出という事象に、それらしい理由を付けるだけだ。その理由に裏付けを取る必要は無い。怒りを前提とし、それを正当化する為に、好きなように解釈するだけだ。誰も彼もが行う心理反応である。

 

(そう、そう言う事。何時マスターになったのか知らないけれど、ずっと欺していたって事。魔術師どころか、共闘相手とも見られていなかったって事か。バーサーカー戦まで付き合うって言った事も、聖杯戦争から手を引くって言った事も嘘。桜の為の牽制では無くて、私を油断させる為、つまりバーサーカー戦を突破させるまでの保険。楽しかったでしょうね。私が手の平で踊っているのを見ているのは。おかしかったでしょうね、真也に浮かれていた私は。イリヤスフィールを殺しかけて不愉快になった事も、綾子を振って辛そうにした事も、私に動揺しているって言った事も、何から何まで全部嘘。ばっかみたい、あんな奴に喜んでたなんて)

 

彼女はその場を立ち去った。怒りと憎しみがこみ上げる。唇を強く握れば涙も溢れた。歩む筈の足運びは大地を壊してしまう程に強かった。

 

(許さない、許さない……許さない! 許さない!許さない! 復讐してやる!)

 

アサシンの攻撃を受け負傷し、無理に戦闘活動を続けたアーチャーは遠坂邸の結界の中だ。1stバーサーカー戦から相応に日数が経ち、最低日中は回復に努めねばならない状況だったのである。つまり、彼女に助言する存在は居なかった。

 

 

◆◆◆

 

 

自室に戻った凛は早々に復讐方法に付いて考え始めた。どうすれば良い、どうすれば真也を苦しめられる。どうすれば気が晴れる。武力による攻撃は却下だ。ライダーは未だ健在、反攻されこちらも被害を受ける可能性がある。そもそも戦闘活動で真也が苦しむとは思えない。桜を傷つければ別だが、妹にそんな事出来る訳が無い。

 

思案に暮れていると部屋の扉を叩く音がした。葵であった。彼女は赤いリボンを凛に差し出した。

 

「これ凛のよね?」

 

母の手にあるそれに見覚えがあった。手に取ればただのリボンでは無いと直ぐ分かった。魔女の髪を結う特別な物だからだ。

 

「何処にあったのよ?」

「真也さんが泊まっていた部屋に落ちていたの。あの部屋は昔凛が使っていたでしょう? だから凛の物かと思ったのだけれど」

 

凛は溜息を付いた。彼女がその部屋を使っていたのは随分前だ。こんなに綺麗な訳がない。

 

「母さんって本当に天然なんだから、」

 

ならばそのリボンがどうしてその部屋にある。凝視し遠い記憶を漁れば、それは幼い頃凛が使っていた物であり、桜に手向けとして渡した物だと思い出した。真也(シスコン)がお守り代わりに持ち出し身につけていたのだと、推測した。彼女はうってつけの復讐を思いついた。笑みを堪える事が出来ない。

 

(なんて馬鹿な奴)

 

凛は笑顔を持って葵に告げた。

 

「不思議ね。それ12年前私が使っていたリボンなの。桜に渡した物だけれど、どうしてこの家に、真也が泊まっていた部屋に在るのかしら」

 

葵はおぞましい程冷たい娘の笑いに戸惑っていたが、その名前を聞き及んだ途端目の色を変えた。

 

「……桜?」

「知ってた? 真也の妹って桜って言うの。その娘は16歳なんだけれど、私たちの桜も生きていれば16歳……これって偶然よね?」

 

 

◆◆◆

 

 

学校から戻った桜が家の玄関を開けると、最初に見た物は見覚えの無い婦人の姿だった。否、見覚えが無いと思いたかった。その若草色のワンピースは桜にとって12年前以上昔の記憶である。その婦人は金切り声を上げて、呆然と立ち尽くす兄に縋っていた。

 

ぞわりと悪寒が走った。その事態は桜にとってとうの昔に捨てた望みだった。そして桜が10年に渡り必死に避けてきた事態でもあった。その婦人は背後の桜に気がつくと、振り返り、喜びの表情を見せた。

 

「桜!」

 

実の母は嗚咽を漏らし泣いていた。その胸の中に居る桜は12年を隔ててすら惹かれる肉親の温もりに戸惑っていた。彼女は義兄に気づいた。彼は立ち尽くし、笑いもせず、視線すら合わさず、俯いていた。桜にはその姿が嘆いている様に見えた。絶望している様にも見えた。どうしてそんな辛そうなのかと。

 

“まるで今日が最後みたいじゃないですか”

 

桜の不安に応えたのは姉だった。桜は漸く実母の隣りに実姉が居る事に気がついた。

 

「もう安心よ。これで家族一緒に居られるわね」

 

実姉の言っている事が理解できない。桜にとって家族は千歳であり真也しか居ないのだ。

 

「帰るわよ、桜。遠坂の家に」

「……兄さん?」

「……済まない」

「どうして、謝るの?」

 

真也は義妹の怯えに応える事が出来なかった。

 

「私たちは法的手段に訴える用意がある」

 

心地よい、嬉しい声に詰られる事がこれ程辛いとは思わなかった。心穏やかになる姿に、敵視される事がこれ程堪えるとは知らなかった。それが真也の偽りない思いだった。

 

そこは遠坂家の客間である。初めて招かれた夜に彼が訪れた部屋だ。あの時は対等だった。友人の一歩前の関係だった。ソファーに腰掛ける凛はあの時と何一つ変わらない。なのに。今の彼女は断罪の御使い以外何者でも無い。彼は項垂れるのみだ。

 

「けれど私の妹の事だもの。大事にしたくないわ。桜の引き渡しに無条件で応じる事、母である葵への釈明は禁止、私の妹への説得をする事、妹のサーヴァントにも説得する事、2度と私たちに接触しない事、以上の条件を受け入れれば、間桐臓硯の殺害と誘拐に関して目を瞑る……ご不満はある?」

 

どうするも無い。受け入れねばお仕舞いだ。ソファーに腰掛けていた真也は立ち上がると、一歩左に移動し、両膝と両手をカーペットに付け、伏せた。頭をこれ以上下げられない程に下げきった。

 

「凛を欺した事、傷つけた事、不愉快な思いをさせた事は謝る、この通りだ」

 

真也の土下座が凛に油を注いだ。それすら嘘だと彼女は思った。

 

「頼む。それだけは許してくれ」

「分かってないわね、交渉できる立場だと?」

「凛」

「早く出て行きなさい、気分が悪いから。真也の顔なんて見たくないわ」

 

暫く頭を下げていたが、どうにもならないと理解した。

 

「……承知した。条件を受け入れる」

 

彼は立ち上がり彼女に背を向けた。見るからに消沈する真也の後ろ姿を見て凛は気分が良かった。だがまだ足りない、まだ気が晴れない、そう考えながら見送った。

 

桜が居る部屋の前。真也はノックをしかかった状態で硬直していた。なんと説明したら良いのか分からない。いや、説明など意味が無い。事実を告げるしかない。覚悟を決めた彼は、ノックをし扉を開けた。

 

その部屋はつい先日まで真也が泊まっていた部屋である。ベッドに腰掛け俯いていた桜は、真也の姿を見ると駆け寄った。彼は手を翳しそれを制した。彼はできうる限りの笑顔でこう告げた。

 

「良かったな。本当の家族が見つかって」

「兄さん?」

 

兄の言っている事が理解できない。本当の家族とは何だ。私たちの事ではないのか。

 

「今日から、今から、君はこの家の人間になる。違うか、戻る」

 

それは最も言って欲しくない人物に、最も言って欲しくない言葉だった。気が遠くなりそうだった。

 

「い、嫌です! そんなの嫌!」

「馬鹿を言うんじゃ無い。血の繋がりってのは大事なんだ。想像以上に深いんだ。大丈夫、少し経てばそれが当然だと思うようになるから」

 

これ以上桜に別れの言葉を伝える事は彼にも無理だった。部屋を出ようと背を向ければ、彼の手をか細い指が掴んでいた。振り返らなくても分かる、その手を掴む少女は泣いていた。必死に縋っていた。

 

「そんな事言わないで。私帰りたい。兄さんと母さんと過ごしたあの家が良い。蒼月が良い。私は兄さんが好き、捨てないで」

「済まない」

 

10年彼女を守ってきた優しいその手は、ゆっくりとだが確実に桜の手を振り払った。桜は崩れ落ち泣き伏せった。彼女に出来る事はそれだけなのである。

 

 

◆◆◆

 

 

部屋を出れば側にライダーが立っていた。真也には彼女の言いたい事が手に取るように分かった。だが聞く事は出来ないのだ。彼は一言謝ると彼女に背を向けた。廊下を歩く真也の行為は桜を置いていく事そのものである。それを受け入れられないライダーはこう進言した。何時もの口調であったが、懇願以外の何物でもなかった。

 

「待ちなさいシンヤ。サクラを攫って逃げるべきです」

「俺は偽物だ。本物には敵わない」

「今更でしょう。10年の絆を否定するつもりですか」

「良いんだよ、俺は長くない。実の母と姉が居るなら、救いになる」

 

「であれば尚更です。最後まで共に居るべきです」

「凛は法的手段も考えている。未成年誘拐、殺人、公になれば犯罪者だ。逃亡生活なんて長くは持たない。そんな事になればどのみち終わりだ」

 

ならば遠坂凛と葵を殺せ、マスター同士ならどうとでも成る、ライダーはそう言いかけて止めた。真也に出来ない事は彼女自身も十二分に分かっていた。

 

「分かりました」

 

だがそれは真也自身も予想していた事だった。短い付き合いだがライダーの考えは手に取るように分かった。

 

「ライダー、馬鹿な真似はしないでくれ。しないと約束してくれ」

「その要求は受け入れられません」

「頼む、ライダー、頼むから。そんな事は止めてくれ」

 

肩越しに見せる彼の顔は歪んでいた。涙こそ流していなかったが、彼は泣いていた。

 

「……サクラの事は心配しないでください」

「済まない」

 

壁際に立つ凛が窓を介して見下ろせば、遠坂の門を出る真也の背中が見えた。知れず笑みが浮かぶ。これ以上の復讐はあるまい。だがまだ足りない。気が晴れない。彼女が受けた屈辱と苦しみはこの程度では収まらないのだ。

 

気配を感じ視線を投げれば、薄暗い部屋を背景にライダーが立っていた。凛は腕を組み流し目だ。ライダーが凛に手を出せない事は、把握済みである。

 

凛は意外だと思った。そこに立つ騎兵はあからさまな怒りを見せていたからである。彼女の印象ではライダーは冷静と優雅、俗に言えばクールである。

 

その憤りは如何ほどのものか。風が無いのにも関わらず揺らぐ髪は、まるでのたうつ蛇のよう。目隠しをとれば鬼の形相が見えるかもしれない、彼女はそんな事を考えた。己の黒い髪を繰りながら凛はこう挑発気味に聞いた。

 

「言いたい事がありそうね」

「遠坂凛。真也に欺された貴女の憤りは理解はできます。受けた屈辱をどの程度評価するかは個人によりますから。ですが貴女に貴女の思惑がある様に、私にもあります」

「言いたい事は簡潔に言いなさい。無駄よ」

「シンヤに感謝しなさい。彼の懇願が無ければ私は貴女を殺しています」

 

「意外ね、もっとクールだと思ってた」

「当然でしょう? 私にとってサクラとシンヤは身内、貴女は部外者、赤の他人なのですから」

 

侮蔑を隠さず言い捨てるとライダーは霊体となり部屋から消えた。当然桜の部屋に行ったのだ。凛は脱力した様に壁にもたれ掛かった。カーテンの匂いが鼻孔に突くと、涙がこぼれた。彼女とてこんな事はしたくなかった。だが奥底で滾る怒りと憎しみは消えない。消し去る事が出来ない。したくないがせざるを得ない、葛藤が生み出した涙である。

 

「……私だって、身内になっても良いって思ってた。それを踏みにじったのは真也なのよ。許せるはずが無いじゃない」

 

凛の嘆きは部屋の暗がりに消えていった。

 

 

◆◆◆

 

 

自宅に戻った真也はリビングのテーブルに拳を打ち落とし、叩き割った。部屋がその衝撃で振れた。テーブルだった二つのなれの果ては倒れた。それに載っていた小皿やリモコンは床に落ちてどこかに行った。彼は笑った。笑うほか無い。どうしたら良いのか分からない。

 

「凛だ! 寄りにも寄ってあの凛だ!」

 

彼は堪らず蹲った。見えない何かに頭を踏まれているようだ。落ちていたグラスの破片を握りしめた。脆く軽い、耳障りな音が鳴ると手の平から血が流れだした。うめき声が口から流れ出す。

 

「殺せるはずが無い、恨めるはずが無い。好きな相手を必死で諦めれば、その彼女に全部持ってかれた。桜も、ライダーも、何も無くなった。底は抜ける為にあるって本当だ、したのか、俺それだけの事したのか、まだ足りないか、もう無いぞ、何も残ってない、強いて言えば、命ぐらいだ、しかも何時止まるか分からないポンコツだ……目的を持たない命に何の意味がある!」

 

床に額を打ち付けると家中が揺れた。自害するか、そう考えたとき彼の脳裏に美しい白銀の髪が浮かんでいた。柔らかい風を浴びて棚引いていた。そう、彼には一つだけ残っていた。それに気がついた彼は装備を調えると夜の冬木市に繰り出した。バーサーカーの打倒、彼に残されたのはそれだけだった。

 

様子を伺いに凛が桜の元を訪れれば、彼女の妹はベッドの端に腰掛け身動き一つしなかった。俯き下がった視線は大地という床の先にある地獄の釜を見ているかのようだ。桜の声に生気は無かった。凛は努めて軽快だった。

 

桜が消沈するのは想定の内だ。それは時が癒やすだろう、と考えた。遠坂桜が間桐桜になった時のように、蒼月桜が遠坂桜に戻るのも同じ事だ。ならば凛はその手伝いをするのみである。

 

「少しは落ち着いた? 殺風景だけど少しずつ揃えていきましょ」

「どうして」

「決まってるでしょ。人の心が分からない、人でなしをまともに扱う理由なんてないじゃない」

「どうして」

「ばかね、大切な妹を殺人鬼の家に置いておける分けないでしょ」

 

桜は顔を上げた。その真意を問う為だ。

 

「殺人鬼?」

「そう、知らなかったと思うけれど間桐臓硯は殺されたのよ。桜の母親……はもう関係ないか、真也の母親が殺したんでしょうね。あの妖怪を殺せるような奴なんて早々居ないから」

「私はそれで救われた。私を捨てたのは遠坂です、間桐に捨てたのは遠坂です。間桐で虐待されていた私を救ったのは蒼月です! 私は、私は幸せだったのに!」

 

「桜、アンタは長い事一緒に居たから勘違いしてるのよ。考えてごらんなさい、アンタは誘拐されたのよ? その人間の肩を持つのはおかしいでしょ。12年ぶりに家に帰って来れたんだからゆっくりしなさい。母さんだって喜んでる」

 

母という言葉からかって交わした約束を桜は思い出した。

 

「姉さん、どうして? 言わないって約束したのに」

「言ってないわよ。母さんが気づいただけ。馬鹿よね、アイツ。桜のリボンを持ち込んで、忘れていったんだから」

「嘘です! 12年前のリボンを見て、魔術師で無い母さんが思いついたなんて無理がありすぎます!」

「いい? 真也を犯罪者にしたくないなら余計な事母さんに言うんじゃ無いわよ?」

 

取り付く島が無いと凛は出て行った。彼女は、かつて桜の心臓に埋め込まれて未だ残っている物も、桜が真也の妹である事が絶対条件だと言う事も知らない。凛は桜から真也の妹である事実を奪ってしまったのである。

 

「……そう、姉さんは私から兄さんを奪うんですね」

 

トランス状態に陥った彼女の影から無数の帯が揺らめき伸びていく。その勢いはアサシンを喰らった比では無かった。桜の無意識の同意を得た大聖杯の中に居るそれは、彼女の力を存分に利用することが可能になったのである。

 

 

 

 

 

 

第一部 完!




世の中義妹どころか真妹とのイチャイチャが溢れているというのに、姉妹丼だって溢れているのに、なんだこの絶望的な展開。私はなぜこんな話にしてしまった。遠坂姉妹とのイチャらぶ聖杯戦争で良かったじゃないか……それにしてもヒロインが敵対するなんて一次作では絶対出来ない展開ですな。某ア○ーシャなんて目じゃねーZE


   (*゚Д゚)・:∴カハッ




ダメージ凄いんでQK入ります。


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第二部
31 カイーナの環・1


その日は良く晴れた暖かな日だった。風も無く空に浮かぶ雲もする事が無いとのんびりしていた。衛宮邸は住宅街でも奥まった所にあるため人通りも少なく車も余り通らない。まるで時間が止まったかのような静けさだった。その静かな衛宮邸の居間で一人茶を啜るのはセイバーである。

 

(静かなものだ)

 

セイバーが居間から庭を見れば雀たちが戯れているのが見えた。跳んでは降り立ち、集っては離れ、囀っていた。暫くぼうと見ていると、唐突に“燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや(いずくんぞこうこくのこころざしをしらんや)”という格言を思い出した。どうして知っているのか、彼女は不思議に思ったが知っている事に不都合は無いと気にするのを止めた。

 

雀のような小さな鳥には鵠(くぐい)のような大きな鳥の志は理解できない、と言う意味である。出典を遡れば。中国の陳渉が、若いころ農耕に雇われていた時に、その大志を嘲笑した雇い主に贈った言葉だ。 だが“この格言はどちらがおかしいのだろう”彼女はそんな事を考えた。陳渉の立場で考えれば、志を理解できない雇い主を嘆いているのだろうが、価値観など人によって異なるのだ。一族を背負う雇い主に言わせれば、陳渉の言葉は地に足が付いていない若造の大言荘厳だと考えただろう。

 

男ならば一国一城の主を目指せ、とは言うがそれには相応の対価が必要だ。その対価とは人間性、人道性に他なるまい。大望を持ちそれを掴み取ろうとする事、それは今有るシステム(系)を崩し己の希望通りに再構築することに他ならない。人を気遣っていてはそのような事は不可能だ。如何に立派な思想だろうと、どうしても強いる、強いられてしまう人々が生じる。その人々は転じて敵になる。

 

脇目も振らない生き方、それは身内もお座なりにする事に他ならない。いつしか内も外も敵だらけとなろう。その先にある結末は、暗殺に処刑と、碌でもない終わり方である。かく言う彼女自身も、国を人々を守ろうという大志の果て、己の身内に刃を向けられ、その結果得られたものは死者の群れと絶望のみであった。

 

(血反吐を吐いて全てを捨てても手に届かない物がある。答えを求める事自体間違いなのかも知れない。理想の王か……今となっては虚しい言葉だ)

 

1stバーサーカー戦を思い起こせば、あの時士郎がイリヤスフィールの殺害を認めていたならば、彼は正義の為に身内を犠牲にしたと思うだろう。そうすれば舞弥が解きほぐしつつあった彼の特性を、彼自身が固めてしまう事は想像難くない。仮に聖杯戦争を生き残ったとしても碌でもない結末が待っている。彼女が己すら捨てて国に尽くそうとした事、彼が己すら捨てて正義に殉じようとした事、それは同じだ。彼女はそれを否定した士郎の選択にそれらを見いだしたのだった。

 

(選定のやり直し、この願いという答えを私は求めるべきだろうか。他の誰かが王となりやり直したところで結末は同じなのではないか。やり直した結果が望む結果だと誰が保証できる……)

 

セイバーが物思いに耽っていると、ガラリという玄関の開く音が響いた。家の周りを清掃していた主が戻ってきたに違いあるまい。時刻は午前11時。昼食の準備を始める時間だ。今日の昼食は何だろうか、それに思いを馳せていると目の前にイリヤスフィールが立っていた。紺藍色のコートにロシア帽。ルビーのような朱い瞳に、白銀の髪を流していた。脇に立つ、士郎は頬を掻いていた。どうやって説明するべきか迷っているようだった。セイバーは声が出ない。

 

「……は?」

 

士郎曰く。“掃除をしていたところ木陰に隠れていたイリヤを見つけたので招いた”との事である。セイバーに異論は無い。イリヤスフィール(以下イリヤ)との再会は彼女とて望んでいた事であるし、無いのだが。

 

「何故こうも突然なのですか。シロウ」

「いやだって、相談してたら姉さんがどこかに行っちゃいそうだったし……」

 

セイバーは仏頂面だ。手に持つ湯飲みの水面も彼女の心象に呼応して揺れていた。不満を隠さないセイバーの姿を見て、イリヤはその表情を陰らした。

 

「シロウ。やっぱりお邪魔みたいだから帰るよ」

「そんなことないって。セイバーは少し心配性なんだ」

 

誰のせいだ、彼女はその不平を飲み込んだ。

 

「主の招いた客人であれば、私に異存などありません……ようこそおいで下さいました。歓迎いたします」

 

居間に揃った女性陣、それは舞弥、セイバー、イリヤの3名なのだが、彼女らは無言で見つめ合い言葉を発しない。主である士郎の意向とは言えイリヤは敵マスターである。それも一因だが、二人にはそれが霞んでしまう程に複雑な事情があった。イリヤスフィールから見れば、セイバーは母と己を捨てた切嗣のサーヴァントであり、舞弥に至ってはその愛人だと疑われても致し方ない立ち位置だったからである。

 

彼女らを前にしてどうするべきか考えた士郎は、安直だがお茶と豪勢な茶請けを出した。羊羹を興味深そうに食べるイリヤを見て士郎はコホンと一つ咳払い。

 

「姉さん、改めて紹介するよ。セイバーと舞弥さんだ」

 

士郎の促しでセイバーは湯飲みをちゃぶ台に置いた。

 

「イリヤスフィール。覚えているかどうかは分かりませんが、」

「覚えてるよ」

「そうですか。壮健で何よりです」

 

続いて舞弥である。切れ長の瞳にイリヤが映っていた。

 

「久宇、舞弥です」

「誰?」

「切嗣の助手をしていました」

「どういう関係?」

 

舞弥は一瞬声を詰まらせた。イリヤはそれだけで察した。

 

「そう、キリツグは私とお母様を捨てて幸せに暮らしてたんだ」

 

彼女は怒る訳でも無くただ悲壮を見せた。舞弥が続ける。

 

「それは違います。切嗣は一瞬たりとも貴女を忘れた事はありませんでした。病魔に犯された身体を押してまで何度も助け出そうとした。結界に阻まれ叶いませんでしたが」

「聞いてくれ姉さん。前の聖杯戦争後のオヤジの事を伝えたい」

 

士郎は知る限りの事を嘘偽り無くイリヤに伝えた。切嗣が士郎を養子にした事。その5年後に原因不明の病で息を引き取った事。士郎が正義の味方を目指し、舞弥とセイバーによって救われた事。最後に彼は一つの願いを言葉にした。

 

「姉さんがどれだけ辛かったのか俺には想像できないし、過去の分は俺にはどうにもならない。だからこそオヤジが出来なかった事、心残りだった事を俺が替わって姉さんに償いたい。これからの姉さんの辛いことを俺にも背負わせてくれ。俺は、俺は姉さんと一緒に暮らしたい」

 

イリヤは驚いた顔を見せた。

 

「私たちはマスター同士なのよ」

「知ってる。でもそれを諦める理由にはしたくないんだ。柳洞寺の裏にオヤジの墓がある、一緒に会いにいかないか」

 

セイバーは意外だと思った。包み隠さず率直に伝える、という作戦は彼らの経験による判断であった。だがそれは士郎にとって都合の良い内容でしか無い。セイバーはイリヤが怒り出す可能性を憂慮していたのである。少なくともこれ程簡単に話が進むとは予想していなかった。切嗣への復讐を第一優先としていたイリヤだったが、更に優先される事項を得てしまったのである。人間は二つの事項に対し同時に怒ることは出来ないのだ。舞弥が一本のビデオテープを差し出した。

 

「これは切嗣からのメッセージです。見ては頂けませんか?」

 

イリヤはパンドラの箱でも見ているかのような目だ。セイバーは続けた。

 

「シロウはイリヤスフィールの事を最優先に考えています。最初に戦火を交えたあの時を思い出して下さい」

「あの後どうなった? 知り合いみたいだったけれど」

 

静寂に包まれた。皆が皆沈痛な面持ちである。

 

「え、えっと。へんなこと言った?」

 

突然変わった空気に怯えるイリヤであった。苦手な虫を見つけてしまったような姿である。

 

「拗れました」

 

とはセイバーで。

 

「拗れたわね」

 

舞弥だ。士郎は愛想笑いをするのみである。彼の思いを知ったイリヤは表情を和らげた。

 

「そう。シロウって優しいんだ」

「なら、」

「でも、ダメ。聖杯を持ち帰る為だけに10年間生きてきたの。今更変えられない。あの男の居場所を聞こうと思ったんだけれど、それは止めておくね。シロウに辛いことはさせたくないし」

 

イリヤは立ち上がり皆に背を向けた。

 

「姉さん。俺は諦めないから。何度でも言うから」

「ダメだと言っているのに、本当に困ったシロウ。でも良いわ。その想いに免じて何度でも聞いてあげる」

 

また会える、その確約を取れた彼は安堵した。直ぐに打ち解けられるとは彼も思っていなかったのである。

 

「何処に行けば会える?」

 

真也を倒すまでは来てはならないと一つ念を押して、彼女は城の位置を教えた。衛宮邸の門の前に立てば、徐々に小さくなるイリヤの後ろ姿が見えた。じっと見つめる士郎にセイバーはこう問いかけた。

 

「シロウ、実際にどうするつもりなのですか?」

「分からない。ただ一つ、バーサーカーが居る限り、姉さんがマスターで有る限り難しいって事だけは確実だ。でも今は説得を続けるしかない」

「シロウ。最悪私が、」

 

彼女のその発言には二つの理由があった。一つはイリヤと士郎が共にあるべき事に賛同している事。もう一つは己の聖杯への願いに自信が無くなりつつある事である。士郎は断腸の思いで申し出たセイバーの言葉を遮った。

 

「それはダメだ。そんな事をしたら俺は動けなくなる」

 

即答した士郎の言葉に安堵はするものの、彼女の沈痛さは消えない。

 

「初めて知りました」

「なにがだよ」

「身内同士で争うと言う事がこれ程辛いとは」

 

見えなくなったイリヤの後ろ姿を士郎はじっと追っていた。

 

 

◆◆◆

 

 

時を遡ること約半日。家を飛び出た真也は真夜中の冬木市を徘徊していた。もちろんバーサーカーを倒す為である。この状況で遭遇すれば倒すどころか返り討ちされる事は明白だが、もはやどうでも良かった。まずは住宅街だと徘徊した。商店街、学校、公園、墓地、空き地と回ったが収穫がない。新都も彷徨った。中央公園、臨海公園、工事現場、裏路地も同様に見つからなかった。

 

時計を見れば午前2時を回っていた。コンビニに入り缶コーヒーとからあげクンを購入した。公園のベンチに腰掛け、食べようとしたが喉に通らない。そこは凛の口に放り込んだ場所であった。それは何時の頃だったかと思うが良く思い出せない。彼はコーヒーのみを胃に押し込むとその場を後にした。からあげクンはそのまま廃棄した。

 

そこはビルの谷間である。人通りは無くネオンも無い。申し訳程度に街灯が立っている程度だ。このまま進めば黄泉に紛れ込んでしまうのではないか、そう思わせるに十分な程、暗く静かで薄気味悪かった。冷たい風が纏わり付く様は、黄泉に引き擦り込もうとする亡者かと思われた。

 

「……」

 

歩いていた彼は立ち止まると周囲の気配を探った。何時の頃からか誰かに見られている、彼はそう感じた。感覚では無い。直感である。現に彼の五感はなんの警告も発していない。遠くない、直ぐ近くだ。だが探りきれない。

 

(追跡しているが、殺意がない。実体が無いが存在する……幽鬼の類い?)

 

彼に心当たりは無かった。残りのサーヴァントはセイバー、ランサー、アーチャー、ライダー、バーサーカーである。彼が察知できない程に気配を消し、さらに追跡できる英霊など存在しないのである。強いて言えばランサーかアサシンだがランサーにその理由は無く、アサシンは既に消滅している。

 

直感に従い、つまり何の根拠もなく裏路地から裏路地へ渡り歩けば、妙な場所に出くわした。薄暗いその道は晴れだというのに濡れていた。ピチャリと水たまりを踏んだ。鉄の匂いがする。目を凝らすと“中身の詰まった”スニーカーがあった。千切れたMA1ジャケットの袖にも中が詰まっていた。他に指やら目玉があった。水たまりとは血だまりである。そこには死体が転がっていた。彼はそれらが5人分だと察しを付けた。末端部分しかないのは食い散らかした後なのだろうとも考えた。だが妙だ。残った遺体の断面を見ると、裂けたのでもなく、砕けたのでもなく、千切られたのでも無い。炭のように黒色化し崩壊、つまりボロボロに成っていた。一体何がどんな方法で喰らったのか。極めつけが周辺域の魔力量である。それこそアイスクリームをスプーンで掬ったかの様にゴッソリと無くなっていた。

 

「……」

 

サーヴァントかそれとも他の何かか。いずれにせよ人間業ではなさそうだ。夜が明けたら綺礼に一報を入れる、そう決めると彼は立ち去った。明日のワイドショーは忙しいだろう、彼はそんな不謹慎な事も考えたが、何より不可解な事が一つあった。

 

(なぜ桜を連想した?)

 

会えない事が相当堪えているに違いない、彼は未練を振り切る様にそのまま闇夜に姿を消した。聞こえない声で“兄さん”と何度も繰り返す黒い帯の塊に彼が気がつくことは無かった。

 

 

◆◆◆

 

 

彼の一晩に渡る捜査は収穫無しである。昇ったばかりの太陽が、東の空を紅に染めていた。明けの明星も浮かんでいる。相応に美しいその光景は彼に何の情動も与えなかった。この精神状態で一句浮かべばそれはそれで異常だ。彼は苦笑しながら蒼月邸の門を開けると、足を止めた。

 

それは紫色であったが大部分を血黒色で汚していた。人型であったが末端、つまり手足が消えかかっていた。フードの影から覗くのは陶器の様な白い肌と血に濡れた唇である。玄関の前でキャスターが倒れ、蹲り、そして消えかかっていた。キャスターは逃走と欺瞞に秀でると聞く。士郎たちが討ち漏らしたのだと真也は判断した。

 

(逃げたは良いが、新しいマスターも見つけられず、どうにもならなかった、って事か)

 

士郎らを非難するつもりは全くなかった。キャスターは陣地内であれば魔法の真似事も可能だ。加えてあれ程のまやかしを使うのであれば、誤魔化されても無理もない。何の意図を持ち彼の家に来たのか、彼はそれを考えようとして止めた。偶然だろうと考えた。力尽きたところが偶々彼の家の前だっただけだ、彼はそう考えた。コートを翻し抜刀。

 

「次はない、俺は確かにそう伝えたぞ」

 

せめてこれ以上苦しまないように、と刃を首に突きつけた瞬間である。

 

「宗一郎様……」

 

亡くして尚求める人の声、彼の手は止まってしまった。

 

「……」

 

彼は葛藤したあとキャスターを抱きかかえ家に入り、ソファーに寝かした。士郎たちがキャスターを討伐し二日経っている。顕界も際だろう。彼はキャスターの右手を掴むと握り、彼女の手の平を自分の胸に宛がった。

 

「聞こえるか。死にたくなかったら死ぬ気で繋げ」

 

聞こえたのか聞こえなかったのか、それとも魔力の源を感じただけか。小人の囁きの如き、か細い声で呪文を唱えると、彼女、キャスターは真也とパスを繋いだ。彼の魔力が流れ込む。消えかかっていた身体が塗り直された。蒼白だった身体に血の気が戻るかのようだ。

 

隠れたローブの下にある開いた瞳には生気と意思が満ちていた。真也が立ち上がるのとキャスターが身を起こすのは同時だった。何も言わず背を向けた真也にキャスターは問いかけた。

 

「聞きたい事があるのでは無いのかしら?」

「貴女を助けたのは気まぐれだ。何も求めないし、求められても応じない。ただ、聖杯を求めるなら出て行くこと。それを望むなら余所に行ってくれ。そうでないなら好きにするといい。所詮キャスターの魔術で組んだ契約だ、そちらで破棄できるんだろ?」

「これは驚いたわ。随分と優しくなったこと。まるで別じ、」

「俺は夕方まで寝る。邪魔をしないなら、寛ごうとも入浴しようとも、どうでも良い」

 

取り合う気は無い、彼の態度に憮然とするキャスターだった。悪女願望がある事は既に露呈しているのである。

 

「手持ち無沙汰なら家の片付けと、できるなら夕飯もよろしく。お金はここ」

 

彼はそう言ってリビングから出て行った。彼女が己の居るリビングを見渡せば散らかっている事が見て取れた。テーブルの残骸が二つ。テーブルに載っていたであろう小皿や、リモコンが床に散らばっていた。

 

「これはまた随分と散らかしたもの……」

 

彼女は溜息を付くと片付け始めた。言われたからでは無い、単に散らかっているのが我慢ならなかっただけである。

 

 

◆◆◆

 

 

真也は令呪を持たない以上、直接契約するほかは無い。その為供給される魔力の大半を顕界に取られ殆ど魔術は使えない、そう思っていたキャスターの期待は良い意味で裏切られた。注がれる魔力量が尋常では無いのである。大魔術は不可能だが多少の無理は利きそうだ。彼女が真也の下に訪れたのは、追い込まれた上での賭だったのだが、彼女はご満悦である。

 

(まだ運命という神には見捨てられていない……それで十分だわ)

 

頼った、縋った、とは意地でも思わないキャスターであった。彼女は満足そうに右手を掲げると、呪文を唱え破損したテーブルを修復した。まるで時間が巻戻ったかの様である。散らかった物を片付ける為に魔術を使うのはポリシーに反すると手で整えた。床の埃が気になった。カーテンの隙間から陽の光が差し込んでいるからだった。カーテンを開けると朝日が差し込んだ。縁側の向こうには相応に立派な庭があった。綺麗に割れて居る岩が視界に入ったが気にしなかった。

 

彼女は元主婦の感で掃除機を見つけるとおもむろに掛けだした。袖を捲り床の雑巾掛けをする。食器も洗った。リビングと異なり台所は整理整頓が行き届いていた。真也の管轄外だからである。冷蔵庫を開けると、食材は心許ない。日中であれば出かけるのも構わないだろう。なにせ残っているのは魔術師紛いの連中である。キャスターは千歳の服を借りると財布を手に商店街に向かって行った。これは作戦だと言い聞かせながら。

 

真也が眼を覚ましたのはその日の夕方である。多少の気怠さを感じながら身を起こせば、内包する魔力が随分と少ない事に気がついた。彼が髪をかき上げたのは、その理由を探っているからである。

 

「……」

 

一階からこの家にとって異分子である人の気配がする。ライダーは桜と同系だったのだな、彼はそんな事を考えた。キャスターを思い出した彼は着替えを持って浴室に向かった。火傷しそうな程に熱いシャワーを浴びてリビングに入るとそこは別世界だ。窓硝子に曇りは無く、フローリングは輝き、ソファーに抜けた髪は無い。どういう理屈かへし割った筈のテーブルも直っている。

 

「片付けろとは言ったけど、ここまでやられると勿体なくて使うのに躊躇しそうだな」

「あら、漸くお目覚め?」

 

振り返るとゼニスブルーの美しい髪が揺らいでいた。彼に見覚えの無い女性は、見覚えのある服を着ていた。ローライズのデニムに、鳥の子色のバタフライ・スリーブブラウス。彼の母である千歳はスポーティな恰好を好み、フェミニンな服を持たない。それを嘆いた桜がプレゼントした物だった、と彼は思い出した。その女性の年の頃は30前後、どこからどう見ても主婦だが、耳が尖っていた。

 

「ま、サーヴァントを一人顕現させる程の魔力を消費して、普通に動けるだけでも大した物だけれど」

「……」

「申し訳ないとは思ったけれど服を借りたわ。貴方の母親は少し淑やかさに欠ける様ね、地味というかシックというか、無骨な衣服の多いこと」

「……」

「まだ髪が濡れてるわよ、ちゃんと拭いてきなさいな。せっかく綺麗にした床に滴ってしまうじゃない」

「……」

 

戦ったキャスターのイメージとその素顔が一致しない真也は呆けるしか無い。ポカンと魂が抜けたような彼を見て、キャスターもおかしいと眉を寄せた。

 

「なにか仰いなさいな。それとも契約の影響で話す事が出来ないのかしら」

「……誰?」

「本当に不愉快な坊やね……」

 

彼の目の前に出された料理は初めて見る物だった。オリーブオイルやハーブ、豆類をふんだんに使っていた。地中海料理だと察しを付けたが良く分からない。取りあえずメインディッシュと思われるラザニアの様な料理を口にした。珍妙な味である。

 

「なんていう料理?」

「ムサカと言うのだけれど、ギリシャ料理はご存じないかしら」

「んなもん初めてだよ」

「意外だわ。香辛料が揃っていたからてっきり」

 

「桜の趣味なんだ」

「そう言えば妹さんを見ないわね。まだ学校かしら。兄である坊やに随分と執着しているようだから、拗れる前に説明しておきたいのだけれど」

「居ないよ」

「居ない? それはどういう意味かしら。この家に戻った筈だけれど」

 

「俺らは義兄妹でね。本当の家族が見つかって、その人たちの元へ返した」

「そう」

 

随分と急な話だ、あの妹がそれを納得したのか、と幾つか疑問に思ったが彼女は言うのを止めた。

 

「ごちそうさま。美味しかったよ」

「綺麗に平らげてなんだけれど、一服盛られているとか思わなかった?」

「それは考えなかったな。次回から気をつける」

 

毒気を抜かれたキャスターを尻目に彼は二階に戻っていった。身体と装備を調えていれば日も暮れた。時刻は夜の10時。玄関でブーツを履いていると彼の後ろにキャスターが立っていた。

 

「留守番よろしく」

 

彼は顔も向けずそうキャスターに伝えた。

 

「一つ良いかしら」

「どうぞ」

「私が訪れた理由を聞かないのは何故? なぜ私を助けた?」

「気まぐれ」

 

「嘘を仰いな」

「貴女には魔力を供給してる。俺の意に沿わないなら何時出て行ってもいい。その後何しようと勝手だ。貴女にとって悪い話じゃ無いと思うけれど、何故そんな事を気にする」

「砂漠で渇いている旅人の前に水筒があったら?」

 

真也はブーツの紐を結ぶ指を一瞬止めた。

 

「……覚えているか分からないけれど、貴女は死の間際男の名前を呼んでいた。君は誰かが居ないと駄目な女性の様だ」

「……」

「葛木先生が好きだったんだろ? 愛してたんだろ? 失って辛い、でもどうにもならならなくて無我夢中で彷徨った。僅かな望みに縋り、些細な関係どころか、敵ですらある俺の所に来た。答えは言わなくて良い。俺がそう思った、それだけ。桜も誰かが居ないと駄目な娘だった」

 

「……」

「そんな折り貴女がまた現れた、それが理由」

「その娘の代わり、と言うこと」

「重ねている事は否定しない。繰り返し言うけれど嫌なら何時でも出て行くといい。止めもしないし干渉もしない」

 

真也は立ち上がり玄関のノブに手を掛けた。

 

「坊や。私にアーチャーの首を捧げなさいな。そうすれば仕えましょう」

 

彼女が求めたのは復讐である。宗一郎を仕留めたのはアーチャーなのだ。

 

「あのな、勘違いしてるけれどアーチャーと戦う理由は俺には無い。バーサーカーを倒すだけだ」

「そうだと良いのだけれど」

 

真也がランサーのマスターだ、凛にそう思われている事など彼は知るよしも無いのである。彼は皮肉めいたキャスターの態度に僅かばかり仕返しをしたくなった。居候のくせに厚かましい、という意味である。

 

「そうそう。とても言い難いんだけれど。貴女の料理は不味くも無いけれど美味しくも無い。暫くここに居るつもりなら何とかしてくれ」

「宗一郎様は美味しいと言ってくれたのだけれど……」

 

キャスターは米神を痙攣させていた。

 

「俺は葛木先生じゃない。てか、全部食べたんだ誠意は感じ取ってほしい」

「もうそのままバーサーカーの餌食になりなさいな。そうすれば私としてもスッキリするから」

「後ろから噛み付かれかねないから、もう行くよ」

「せいぜい気をつけなさいな坊や。私の時間と期待を無駄にしないことを祈るわ」

 

彼は堪えきれず笑い出した。キャスターは返答次第では攻撃してやろうと本気で考えた。

 

「何がおかしいのかしら」

「さっきから気になってるんだけど、その言い回し、初めて会った時の凛そっくりだよ」

「あの情動的なお嬢ちゃんが?」

「そう。それじゃ行って来ます」

 

そう言うと真也は扉を閉めた。桜が遠坂家に戻った理由について思案していたキャスターは、反射的に“行ってらっしゃい”と応えてしまい自己嫌悪に陥ったのはここだけの話である。

 

 

 

 

 

 

つづく!



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32 カイーナの環・2 アーチャー編

キャスターに家を預け夜の住宅街を練り歩くのは真也である。心当たりのある、戦いに向きそうな場所を全て当り、更に数度訪れた。だが探せども追えども一向に見つからない。イリヤも彼を探している、それを考えれば直ぐに再会できそうなものだが、現実は意外と難しい。

 

イリヤ、イリヤ、イリヤ、あの恐ろしいちびっ子はどこに居るのか。気がつけば顔姿が良く思い出せない。まだ一週間経っていないにも関わらず、記憶が薄れている。はてな。思い出すイメージは朱い瞳と白銀の髪。そしてローティーンと言う情報だ。はてな。彼は記憶力に自信があった。コミュニケーションスキルという意味で、人の顔姿は得意とするところだ。

 

「……」

 

凝視したのは斬り付けた一瞬だ、あれから胃が痛くなる程の出来事があった、忘れたとしても無理は無い、彼は気にする事無くそのまま流した。自販機の前に立ち、硬貨を入れた。コーンスープは品切れだった。仕方が無いのでお汁粉を買った。ガードレールに腰を下ろし見上げれば曇天の空、今にも降り出しそうだ。

 

「桜と草津に行くって約束、不意になったな……」

 

思わず声に出た。空になった缶を10メートル先のゴミ籠に投げれば、見事に逸れた。溜息を付き、ゴミ籠に入れ直せばまたあの気配があった。先日と同じように五感は沈黙している。ただ何かある、その何かに見られているという直感だけがあった。敵意では無い、警戒もしていない、ならば何故俺を見るのか、意図不明だ。ただ。その気配に覚えがあった。遠い昔、かくれんぼで隠れる桜に見られている印象に似ていた。

 

「……」

 

真也が軽く身体を動かし全身の筋を伸ばすと、彼の姿が消えた。次の瞬間、彼の身体は宙にあった、跳躍したのだった。民家の塀を蹴り、再跳躍。電柱より高く跳ぶと夜の住宅街が見渡せた。屋根と屋根が連なる光景はどことなく雲海を思い浮かべた。その屋根を八艘飛びの要領で住宅街を駆けた。その様は猟犬よりも鋭く、駿馬よりも早く、疾風のごとし。時刻は夜の11時。人通りは無いが、起きている人間は居るだろう。誰かに目撃されば一大事だが、それは今更だ。目撃談が噂になった頃、彼はこの世に居ない。

 

幾度か目の跳躍。眼下に広がるのは、夜に塗り潰された住宅街である。申し訳程度の街灯の明かり、民家から溢れる営みの灯火、何の根拠も無いが彼にはカゲロウの灯りに見えた。直ぐに消えてしまうと言う意味だ。捕らえた。彼の着地予定点、そこから続く脇道に何かが見えた。それは黒く、わだかまっていた。帯のような黒い物が蠢いている。彼は着地すると、アスファルトを蹴った。その踏み込みには何の躊躇い、目指すはただその影のみだ。見れば街灯の明かりを浴びて、道路に人影が落ちていた。彼に気づいたそれは逃走を始めた。鬼ごっこで鬼である兄に追われる桜のようだ。

 

逃さないと追い込めばそこは袋小路だった。目の前には何も存在しない、ただ前と左右に民家が有るのみである。そんな馬鹿なと、気配を探れどやはり何も居ない。直感で彼はその何かが消えた事に気がついた。そして。その3世帯分の民家に人の気配が無い事にも気がついた。電気も付いている、窓越しにTVの画面が見えた。人は居ないが人が居た気配はあった。別の言い方をすれば、まるで突然人が消えてしまったかの様である。

 

「……」

 

昨夜、新都で遭遇したあの猟奇殺人事件と関連があるのか、ないのか。気が進まないが綺礼に報告だ。ただ伝えるだけでは不十分だ。状況を聞く必要がある。ここは今なお凛と桜の住む町なのだ。直接赴いた方が良いだろうと、彼は一路言峰教会へ足を向けた。その途中である。新都へに続く大橋を見上げる臨海公園で、その男と遭遇した。白髪に褐色肌、朱い外套服のサーヴァント。アーチャーが立っていた。彼は口元をつり上げた。

 

 

◆◆◆

 

 

時を遡る事数刻前。遠坂邸の地下、工房にある結界内でたゆたっているのはアーチャーである。それはアサシンに負わされた傷を癒やす為の処置であったが、無理が祟ったのか予想以上に時間が掛かっていた。完全回復には更に時間が掛かる、それを考えると頭が痛い。何故ならそれはマスターから目を離す事と同義だからだ。

 

溜息が出る。召喚時に見せた不遜さ気まぐれさの中にも見せた、冷静さは何処に行ってしまったのか。あれでは年相応の多感な娘と変わらない。戻ってくれれば、と切に願えばあの魔眼が脳裏にちらついた。全く苛立たしい。全てはあの男のせいだ。

 

マスターの意向故従ったが、セイバー陣営とライダー陣営と組むのは反対だった。つぶし合いをさせ、数を減らし、疲弊させる。そこを討つのが確実だ。にも関わらず、彼のマスターは、馴れ合いにわざわざ首を突っ込み他マスターの面倒(魔術講義)まで見たのである。酔狂にも程がある。全てはあの男が原因だ。

 

辛うじて乗り越えてこられたが、今後の保証は無い。あの精神状態では不安が尽きない。どうにかせねば。この様な事態になるなら真也と初顔合わせしたあの夜に、凛に確認などせず、殺してしまうべきだった。そうアーチャーが後悔の念に駆られていると、そのマスターの声が念を通じて聞こえてきた。何故だろう、その声は酷く冷静だ。冷静すぎ、冷徹にも聞こえる。

 

『アーチャー、回復状況は?』

 

彼は多少の戸惑いを覚えたが、何時もの通りに応えた。

 

『8割と言ったところだ。何か問題が起きたのか?』

『ランサーのマスターが判明した。真也よ。ずっと私たちを憚っていたの』

『ほう、それは初耳だ』

 

マスターの説明を聞いた彼は本当かと疑った。幾度か遠坂邸の屋上で睨み合った事があったが、その様な素振り、気配は感じなかったからだ。

 

『して、凛。私に何を望む。回復しきる前に呼びかけた以上、その話を伝えた以上、何かあるのだろう?』

『真也を殺して。私が動くとライダーが警戒するから、一人で行って貰う事になるけれど、問題はある?』

 

彼はたいそう驚いた。今まで幾度となく進言し、拒絶してきた彼のマスターがどのような意趣返しなのか。

 

『バーサーカー相手ではないからな。仕掛けるかどうかは状況次第だが、行動そのものに支障は無い。だが良いのか? 凛の妹の兄なのだろう?』

『桜は確保済みよ。敵マスターなら躊躇う理由はないわ』

 

守護者として、サーヴァントとして、彼の記憶にある凛を知る者として。蒼月真也の殺害、はアーチャーにとっての希望でもある。要らぬ追求をしマスターの気が変わっては面倒だ。真也を殺害したとしてもこの冷静さであれば問題は無かろう。

 

『では迅速に済ませよう。なに、後始末は慣れている』

 

アーチャーはそう言って消えた。そして凛が居るのはリビングである。ソファーに腰掛け静かに紅茶を嗜んでいた。これで良い、これが最善。討つべき者だから敵なのだ。真也も同じ事をするだろう、問いかければ同じ結論に至るだろう。イリヤを躊躇無く斬り付けたのは彼なのだ。だから勝利の為に凛を欺すことが出来たのだ。互いに魔術師ならば躊躇う理由などありはしない、彼女はそう自分に念じ続けた。

 

「凛」

 

彼女は母の声で我に返った。凛の目の前に座る葵のその様は、大事な何かを忘れてしまったかの様な落ち着きの無さだ。不安を隠さない母の姿を見て、凛は至極冷静だった。

 

「なに?」

「桜の調子が悪いのよ。ずっと伏せったままで、何か良い方法ないかしら」

「環境の変化、真実を知ったこと、色々心労が重なったのよ。しばらく様子を見て改善の兆しが無いなら改めて考えましょ。魔術を簡単に使うのは良くないわ」

「なら良いけれど……」

「悪いけれど仕事中なの。折を見て様子を見に行くから今は邪魔しないで」

 

幾ら娘とは言え、当主の立場を取る以上葵は強く言えない。

 

「……そう」

 

だが葵の不安は消えない。なにかとても重要な事を見落としている、そう彼女はそう思った。10年前、何者かが間桐臓硯を殺害し桜を連れ去った、というのは事実である。それを知った当時の葵はあらゆる手を使って探したが見つからず、文字通り泣く泣く諦めた。それは一重に千歳の手管が優れていた為である。

 

その桜が真也の家に居たのも事実だ。彼の言動は全て虚偽だった、それは凛にとっての真実だが、葵には真偽を見定める方法が無い。身内、実の娘である凛に言われた以上、葵は信じる他はない。気に入っていたとはいえ葵から見れば真也は赤の他人なのである。呵責と躊躇いが無い、という凛の言う真也像を信じるならば、その人間に娘を預ける事など出来よう筈も無い。必要が無ければ、否、必要があれば簡単に殺してしまうだろう。

 

だが葵には一つの引っかかりがあった。それは真也が葵に懺悔した時のこと。それも演技、つまり虚偽だと仮定しよう。牽制の為に告白したという罪の告白が、嘘だと言うなら、それは凛が言う真也の虚偽と矛盾する。凛は真也が嘘をついたと言う、その嘘も嘘だと言うならば、真実は何だ。葵はその矛盾に気がつかなかった。葵は諦めていた娘に気を取られていた、糸が切れた糸人形の様に突然伏せった娘に動転していた、そして残念な事に。葵は理論的な思考が苦手であり、その矛盾をただ違和感として持つのみである。凛は真也の懺悔を知らないのだった。

 

尽きない漠然とした不安を胸に、葵が部屋を出るとライダーが立っていた。彼女は凛に対し殺意を抑えない、葵に対しては侮蔑を隠さない。ライダーの心中を知らない葵から見れば、苦手、というのが率直な見解だ。ホストの様だがアーチャーの方が遙かに接しやすい。

 

「なにかご用でしょうか」

 

ライダーは葵に一瞥を投げると無言で立ち去った。凛の手にあるティーカップは震えていた。決意が鈍らないように、それをテーブルに置いた。彼女の決意とは、蒼月真也という汚点を消し去る為、情動を断ち切り、あろうと願った父のような魔術師に成る為である。報復も兼ねて一石二鳥だ。

 

 

◆◆◆

 

 

アーチャーと対峙する真也には幾つか理解できない事があった。なぜアーチャーが単独で立っているのか、なぜ彼に対峙しているのか、なぜ何時ものような呆れ顔をせず、侮蔑を籠めて睨んでいるのか。なぜ、なぜ、なぜ。否、真也は理解していたのである。ただ認めたくなかっただけだ。アーチャーは口端をつり上げた。

 

「この夜更けに一人で彷徨くか。正気の沙汰とも思えんが、まぁいい。お前が一人という事実は確かだからな」

 

真也の神経が“戦闘状態(アサルトモード)”に切り替わる。彼はその切り替わる感触を知っていた。彼の本能が戦いは回避できない事を告げていた。それでも。例え一縷だろうと、望みに縋りたかった。

 

「夜の散歩、って訳じゃ無いだろ。アーチャーが何の用だ。何故凛の側に居ない、何故ここに居る」

 

そこは臨海公園である。フェンス越しに聞こえる波の声、真也にはそれが殺人試合を楽しむ観客の歓声に聞こえた。弓兵は皮肉めいた笑みを浮かべた。その笑みは“お前はまだ理解していないのか”と語っていた。真也は全てを悟り、その事実を受け入れた。

 

(凛が、凛が、俺を殺せって言ったのか。それ程怒ってるのか、それ程怒らせたのか、それ程怒る事なのか)

 

それは彼の意見でしかない。彼女の怒りは彼女の物だ。魔術師同士、公平に裁く審判など居はしないのだ。国と国が争うように、ただ食うか食われるかの関係である。彼が凛に対し無抵抗と言ってしまっても良い程に強く出られないのは、虚偽を働いたという負い目もあるが、なにより桜から始まる遠坂という存在を重要視している為だ。だがそれは真也の都合であり、凛には関係ないのである。それが彼の住む魔術師という世界なのだ。

 

(もう……笑うしか無い、な)

 

ぽつりぽつりと空が泣き始めた。彼は俯きアーチャーを見据える事すら出来ない。天から落ちる水の粒が、一つ、また一つ真也の足下を濡らしていった。

 

「私がこの場に立つ理由だが、心当たりはあるか?」

「あぁ。あるよ。心当たりはありすぎる」

「殺したい程愛してる、と言う訳だ。流石に妬ける」

「実際に殺される、となると話は別だけどな」

 

「ほう。無駄口を叩く余裕はあるようだ」

「余裕が無ければ退いてくれるのか?」

「そんな訳は無かろう」

「アーチャー。凛に伝えてくれ。バーサーカー打倒まで待ってくれないか。どの道俺は死、」

 

「既に凛は決断している。お前の提案に意味は無い」

 

凛はバーサーカー戦に当りイリヤを狙うと決断している、つまり誰かの手は借りないと言う事だ。ただ士郎に配慮し、時を待っているのみである。

 

「その為にもお前が居ては支障が出る。戯れはここまで、と言う事だ」

「そう、か」

「これ以上貴重な時間を、手間を、貴様に費やしたくない。ここで死滅しろ」

 

アーチャーは無手のまま眼を見開いた。殺意が突風の様に吹き荒れた。真也はコートを翻し抜刀した。彼にも命を対価とした目的がある以上、むざむざ殺される訳には行かないのだ。なにより戦う存在なのである。そして。空間を塗り潰す程に紡がれるそれは弓兵の宝具であった。

 

“I am the bone of my sword……”

 

真也に支援魔術は無い。今の彼がアーチャーに対し出来る事と言えば、単発の弓を斬り落とす程度である。だが彼は真也に得体の知れ無さを感じていた。戦闘経験から全力を持ち、確実に、完全なまでに仕留めようとした。つまりは、固有結界“無限の剣製”による飽和制圧射撃だ。アーチャーは決して真也を見くびっていなかった。

 

それは彼の心象世界。見上げればスモッグが敷き詰められており空が見えない。全てに迷いそうだ。どういう理屈か空中に観覧車張りの歯車が浮遊し、かみ合い、回っていた。軋みをあげるそれは悲鳴のようだ。足下には痩せこけた不毛の赤い大地があった。それは血に染まっているかのよう、一体どれほどの犠牲を払ったのか。そして、その大地に突き刺さる無数の剣は、まるで戦士を弔う墓標のようだ。

 

“Unknown to Death. Nor known to Life……”

 

それは剣の丘である。

 

「固有結界!?」

 

真也が眼を見開いた。それは魔術師の到達点の一つ。知識として知ってはいたが、実際に見るのは彼とて初めてである。驚愕に支配される精神を無視し、彼の身体は眼鏡を投げ捨てると駆けだした。

 

“Unlimited blade works”

 

アーチャーの心象世界はここに成った。彼の背後に顕れたのは無限の刃。その刃先全ては真也に向いていた。数秒に満たずその刃の群は真也を貫き灰燼と化すだろう。過去の戦闘データから距離も間合いも見込んである。真也の踏み込みでは間に合わない。これで終わりだ。

 

だがどうした事かその男は眼鏡を捨てると、アーチャーに向かうどころか見当違いの方向へ駆けだした。とち狂ったのか、アーチャーはそう思った。現にその男の握る霊刀の切っ先は、何も無い宙を突いていた。ギシリ、と硝子を擦り合わせた様な耳障りな音がその世界に走った。

 

アーチャーは慎重になる余りミスを犯した。例え周囲への被害が出ようとも、1stバーサーカー戦のように遠距離から“壊れた幻想”を使用するべきだったのだ。支援魔術を持たない真也には音速を超えて飛来する宝具を迎撃するのは不可能だ。無限の剣製とは攻撃対象を結界内に収める必要がある。結界は緻密な式の塊だ。要の式が一つ綻べばあとは連鎖的に自滅する。鳥の籠と言う結界に捕らえた獲物は儚い鳥では無く劇物、その結果は言うまでも無い。

 

アーチャーの作り出した結界から手応えが消失した。心象世界にヒビが入り、崩壊していく。その様は割れた窓硝子が崩れ落ちるかのよう。原因不明の事態だが、緊急事態だと彼は判断した。真也は霊刀を手に真っ直ぐアーチャーに向かっている。前髪に隠れ顔が見えない。

 

アーチャーは魔力の大半を失ったが戦闘行動はまだ可能だ。彼は干将・莫耶を投影し、構えた。カウンターを狙うか、捌き態勢を整えるか。いずれにせよこの機は逃せない。この場で確実に仕留めるしかない。なぜなら、次の機会には必ずランサーが居るからだ。真也がランサーのマスターだと思っているアーチャーは当然そう考えた。

 

切り結ぶ際の距離。アーチャーの心臓が強く打った。彼を睨み上げる真也の双眸は、蒼く光っていた。光っているというのに、吸い込まれんばかりに深い瞳。その孔は地獄よりも深い場所に続いていた。それは死という無である。

 

(バロールの魔眼!?)

 

流石のアーチャーも目を剥いた。数ある魔眼の中でも伝説中の伝説、実在するとは思わなかったのだ。不平不満、罵詈雑言、呪いに恨み、とにかく運命の神とやらに一言言わないと気が済まない。寄りにも寄ってこの様な男に、この様な代物を与えるなど正気の沙汰では無い。

 

だが臆する事は無い。その性質上、突くか斬らせないと意味が無いのだ。アーチャーは投影すれば幾度でも武器は作り出せる。1stバーサーカー戦の時に真也の太刀筋は見ている。なにより支援魔術の無い真也であれば、数合打ち合えば仕留められるだろう。一度切り結んだ後、距離を取り矢による遠距離攻撃に切り替えても良い。焦らなければ、ミスをしなければアーチャーの勝ちだ。

 

そう、真也の背後、崩壊する結界の隙間から見える外の世界に、キャスターが立っていなければ。アーチャーは気を取られた。“何故倒したはずのキャスターがここに居る。あれは幻影か? それとも策か?” それは刹那に等しい時間だが隙に他ならない。彼の懐に真也が迫っていた。死突の構え。

 

「痛ぅぅぅぅぅ!」

 

“凛”のサーヴァントというキーワードが真也の心臓を切り裂いた。痛みによりその切っ先は顕界を殺す点を逸れ、アーチャーの心臓つまり霊核を貫いた。

 

「がはっ!」

 

弓兵が血を吐いた。苦悶に歪むその顔を見て、キャスターは嬉しそうに唇を歪めた。真也の突進がアーチャーに衝突、二人がもつれる様に倒れ込む。アーチャーは断末魔の様相を以て右手にある干将で真也の首を狙った。真也は左腕を掲げ、それを犠牲にし太刀筋をずらした。斬り落とされた真也の左腕が宙に舞う。真也は腕から吹き出る血液をアーチャーの目に掛けた、目くらましである。衝撃で手放したアーチャーの莫耶が宙に浮いていた。霊刀を引き抜いている暇は無いと判断した真也はそれを右手で掴み、アーチャーの首に突き立てた。その刃は死の線をなぞり容易に首を切り落とした。どう、と音を立てアーチャーだったそれは大地に骸を晒した。アーチャーの敗北である。

 

骸に馬乗りになる真也は、採光の欠けた瞳で、凛のサーヴァントだった骸をぼんやりと見ていた。空から降り注ぐ雨粒が、二人の血を流し薄めていく。転がり落ちたアーチャーの頭を尻目に、キャスターは財布でも落としたかのような足取りで、斬り落ちた真也の腕を拾うと呪文を唱え取り付けた。

 

「違和感は数刻で消えます」

 

キャスターは何時ものようにフードで顔を隠していたが、満ち足りていた。

 

「何故こうなる」

「聖杯戦争に参加する者が戦火を交えた、当然の結果です」

 

これで凛は聖杯戦争から脱落だ。彼女の誇りも、家の名誉も打ち砕いた。完膚なきまでに。

 

「何故こうなる」

「敵同士です」

 

士郎とは物別れに終わっている以上、バーサーカー打倒は凛にも益がある、その筈だった。

 

「何故こうなる」

「仕掛けたのはアーチャーです」

 

もう関わらない、その筈だった。凛の性格を考えれば諦めはしまい。また狙ってくるだろう。

 

「何故こうなる」

「殺さねば殺されていました」

 

最後に残った目的に縋ればこの様だ。

 

「なんで、こうなる……」

 

また凛を苦しめた。

 

「何も間違っておりません」

 

キャスターを睨み上げる真也の顔は鋭かった。雨に濡れ、その頬には幾筋もの水の轍が走っていた。涙は流していない、だがキャスターにはその慟哭が手に取るように分かった。彼女は黙って魔眼殺しを手渡した。

 

「聖杯戦争に関わるな、そう言った筈だ」

「アーチャーの首をと、申しました」

 

怒気孕ませる真也の物言いに、キャスターは身を翻した。まるで踊りに誘おうとする男を戯けてあしらう貴婦人の様だ。真也は幽鬼の様に立ち上がるとアーチャーの心臓から霊刀を引き抜いた。刀身に付着した血を振り払えば、雨に濡れたアスファルトに血の半月が浮かんだ。そんな物は初めから無かったのだ、そう言わんばかりに滲み、崩れ、流れた。彼は雨の中を歩き出した。彼に続くキャスターは従者のよう。彼は背を向けたままである。

 

「仇の最後は直接見届けないと気が済まないか。業が深いなキャスター」

「これから如何しますか?」

「もう止められない。もう引けない。ここで断念すれば、何の為に桜の手を振り払ったのか、何の為にアーチャーを殺したのか、それが分からなくなる。だから、聖杯戦争そのものを無かった事にする」

「従者は主に付き従うもの。どのような方針でも従います。例え自ら進んで茨の道を歩くお方であろうとも」

 

キャスターの皮肉めいた称賛に、真也は苦笑するしか無い。

 

「俺に関わったのが運の尽きだと後悔する事になる。凛の様にな」

「私はアーチャーの首を希望しました。マスターはそれに応じました。契約は成立です」

「良いだろう。お前には地獄の底まで付き合って貰うぞ」

「御意。お疲れの所恐縮ですが、バーサーカー戦に関し急ぎ進言したい事があります」

「戻ったら聞く」

 

彼は振り返りもせず、そのまま歩き続けた。

 

(士郎。お前の言う通りだ。泥沼だよ。もう二度と抜け出せない)

 

二人が立ち去った後。アーチャーの骸は真也を付けていた黒い影に飲まれた。一般人では物足りなかったそれは、サーヴァントを喰らうと満足したように身体を震わせ、消えた。

 

 

 

 

 

 

つづく!



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33 カイーナの環・3

真也が帰宅し、雨に濡れた身体を風呂で温め、自室に戻れば既に日付が変わっていた。正直このまま布団に潜り込み、現実逃避をしたかったがそう言う訳にもいかないのである。様子を見るにしても、これはすべき事をしてから、初めて選択できる行動なのだ。真也が身体から湯気を立ち上らせながら、Tシャツをタンスから取り出せば、キャスターが目敏く声を掛けた。

 

「それは?」

 

彼女は真也のネックレスを注視していた。

 

「礼装、封印具だ」

 

彼女の指はネックレスに触れていた。手短に説明すれば、プラチナの様な金属の環が連なり一つの装飾品になっていた。その環一つ一つに極小のルーン文字が緻密に刻まれている。彼女の指は己の髪を弄るような仕草だったが驚きを隠さなかった。真也はこう聞いた。

 

「外せるか?」

 

それができれば今後の展開も楽になる。だがキャスターは小さく首を振った。

 

「極めて困難です。正規手順以外の方法で外すには相応の魔力が必要となりましょう。それこそ聖杯がため込む程の魔力が」

「手順とはなんだ」

「詳細は調査しなくては分かりませんが、恐らくマスターにとって親しい者であれば可能かと。誰に施されたのですか?」

「お袋から譲り受けた。キャスターが目を剥く程の代物なのか」

「私の生きた時代でもこれ程のものは希です。マスターの母君は何者ですか?」

 

彼自身知らないのだった。

 

「まぁいい。お袋が居ない以上どうにもならない。キャスター早速だが、」

「承知しております」

 

彼の早速とは今後の打ち合わせの事を言っていた。キャスターは己のローブに指を掛けると脱ぎだした。するりとローブが落ちた。衣擦れの音がいやに耳に付く。彼は慌てて止めた。

 

「待て、何をしている」

「この状況が読めないほど子供ではありませんわ。ですから私を寝室に呼び入れたのでしょう?」

「違う。そうじゃない。それと自室って言え」

 

単に個人装備がある都合である。加えて落ち着き考えるには自分の部屋が一番だ。

 

「私は構いませんが」

「俺が構うの! 人を色情狂扱いするな!」

「マスターもそろそろ限界でしょうに。ですからあの時私を手籠めにしようと、」

「それはもう忘れろ。ただでさえ結構な量の魔力を渡してるんだぞ、わざわざ疲労する様な事をするか」

 

キャスターの浮かべる笑みは柔らかい物だったが、なぜだろう彼は意地の悪さを感じた。

 

「心身を癒やすのに人肌以上のものはありません。配下であればマスターの回復は最優先でしょう? マスター、まさかとは思いますが情交と勘違いされましたか」

 

真也は憮然とした表情を隠さない。

 

「からかってるな、お前」

「さぁ? マスターの御心はマスターのものですから。私には計りかねます」

 

キャスターは口元を隠し、涙を堪え笑っていた。彼女の意図を察した彼は、誤魔化すように頭を掻いた。

 

「そんなに悲壮そうだったか、俺は」

「ええ、とても。アンデッドの様でしたわ」

「……悪い。気を使わせた」

「その様に気を張り詰めては、為し得る事も為し得なくなります。気を静めなさいませ。マスター」

 

カーペットが有るとは言え、冬期のフローリングに直座りでは配慮が無いとキャスターに毛布を渡した。女性は下半身を冷やしてはならない、という意味である。

 

「今の私には関係ありませんがお気遣いは頂きます。ですが、妙に詳しいですのね」

「桜から教わった」

「不健全な関係ですこと」

「それなら苦労は無いよ。さてキャスター、今度こそ仕事の話だ」

 

ココアの入ったマグカップを手にするキャスターの口調は深刻そうだ。

 

「先のバーサーカー戦とアーチャー戦から判断します。全力戦闘を前提とするならば、魔力は1分程度で底を尽きます」

 

真也とキャスターの貯蔵魔力量。真也の魔力生成量にキャスターの顕界に必要な魔力。そして真也への高位支援魔術、防御結界、バーサーカーへの支援攻撃、イリヤスフィールへの牽制、それらを初めとする消費魔力量から考える推測だった。流石の彼も落胆を隠さない。

 

「ウルトラマン以下か、ボクシングだって一ラウンド3分有るのに。令呪が無いのが悔やまれる」

 

つまり聖杯を介さず直接契約している故の結果だ。

 

「並みのサーヴァントであれば問題ありませんが、バーサーカー相手では厳しいと言わざるを得ません」

「加えてイリヤスフィールは魔眼を警戒してる、か。都合良く行かないもんだ」

「如何なさいます」

 

真也は腕を組んで、ベッドのフレームに背を預けた。むぅと唸る。

 

「分かった。バーサーカー討伐はランサーと組もう。キャスター、君にはフォローを頼みたい」

「ランサー、ですか?」

 

彼女は眉を寄せた。ランサーの名前が出てくる理由が分からないからだ。

 

「そ。ランサーに協力を持ちかけられた。 腕も立つしルーン魔術も使えるらしい。なんでもバーサーカーの宝具“十二の試練(ゴッド・ハンド)”を突破できる算段もあるそうだ。奴のマスターは信用という意味で不安はあるけど、ランサー自身は信用できる。賭ける価値は十分にある」

 

神妙な表情のキャスターであった。握り拳を口元に、俯き加減。予てよりの懸案が浮かび上がったのだ。彼女の心中露知らず、真也はあっけらかんとしていた。

 

「なにか問題でもある?」

「それは何時の事でしょうか」

「ランサーに持ちかけられた日付の事を言っているなら、君を拾う前日だけど」

「妹さん、桜様が遠坂家に帰ったのは?」

「その日だけど」

 

真也はランサーと会った時の状況を話した。キャスターは直前の凛の状態を踏まえ、凛のその後の行動を予想した。女心的な意味である。

 

「ランサーの登場がタイミング良すぎますわね。まるで狙ったかのようです」

「つまり何か? 俺はランサーと話し合っているところを目撃され、マスターだと凛に勘違いされた?」

「お嬢ちゃんとの和解は可能かも知れません、如何なさいます?」

 

しばらく考えた後彼は首を振った。

 

「時機を逸した。俺はアーチャーを倒してしまった。激昂している事は想像難くない。言葉は通じまい。明確な証拠がない以上、被害者は犯罪者の弁明など聞きはしないよ。共闘に於いて理由を話すな、というのがランサー陣営の条件である以上、ランサーも証人にならない。これらの前提でキャスターをメッセンジャーにすれば、火に油だ」

「ふふ、不運ですこと……マスターご決断を」

 

彼はしばし思案した後こう言い放った。

 

「バーサーカー戦はランサーと俺でやる。キャスター、君は参加させない。とにかく隠れてくれ」

 

キャスターは驚いた。てっきりランサーとキャスターを従え、バーサーカー戦に望むとばかり思っていたからだ。それが普通だろう。

 

「……質問をしても宜しいでしょうか」

「言いたい事は分かる。君の支援があればバーサーカーや今後現れる敵は有利に倒せるかもしれない、けれどそれだと見えない敵を倒せない。ランサーのマスターかどうか確証は無いけれど、誰かが隠れて俺らの状況に笑ってる、そんな気がする。だから、とにかく君を隠す。キャスターの存在が知られれば、その誰かにも知られるだろう。キャスターという存在に手を打たれるのは面白くない。俺は今の流れを変えたい。君を使ってクソッタレの状況を、横から張り倒す。息苦しい落とし蓋を砕き、全てをひっくり返す。徹底的に隠れろ、そしてその誰かについて可能な限り情報を集めろ。キャスター、君をジョーカーにする」

 

「情報戦というわけ、ですね」

「そうだ。ランサーも色々嗅ぎ回っていたそうだし、遠慮は不要だ」

「しかし、アーチャーのマスターに視覚共有で知られた可能性があります」

「それは大丈夫。彼女は性格的に他者への同調、同期と言った魔術が苦手だから。あの可憐さで、荒いと言うか、剛胆というか、パワータイプなんだよ」

 

殴りかかってきた凛を思い出し、腑に落ちるキャスターだった

 

「なにより、あの高速戦闘中でのお喋りは致命傷だ。そんな素振りは無かった」

「分かったのは戦闘終了だけ、という事ですね」

「万が一見ていた場合、ランサーとキャスターを同時に従えている事になるから、流石におかしいと思うだろう。その時は改めて方針を考えよう。その場合それが説明の切り口になるけど、それはそれで頭が痛いな」

 

あくまで凛を前提とするこのマスターに頭を痛めるキャスターであった。思わず目頭を押さえた。

 

「調子でも悪いのか?」

「なんでもありませんわ」

 

キャスターの心中お構いなしにこう続けた。

 

「どちらにせよバーサーカーは差し迫った問題として存在する。俺の感だけれど、あと一日二日で再戦だ。癪だがランサーのマスターの手の平で踊ろう。恐らく、俺がそうすることも読んでいるんだろうな。バーサーカーを倒しその後、ランサーのマスターを探しだし討つ。この方針でいこう」

「それでも倒したい理由を伺っても宜しいですか?」

 

彼は心臓の痣をキャスターに見せた。彼女は医者のような落ち着いた姿で、指で触れると呪文を唱えた。

 

「あと一ヶ月と言うところでしょう。末期になれば、記憶思考にも影響が顕れるはずです」

「ライダーは3ヶ月って言ったけれど」

「進行したのかも知れません」

「一応聞くけれど、どうにかなる?」

 

「保護術を施してもそれは焼け石に水。その事象はマスターの体内、マスターの術の結果です。保護の結界を施してもかき消してしまうでしょう。無理に施せば反発し、進行を促進しかねません。マスター自身が呪っている以上どうにもなりませんわ。マスターの意思、記憶、感情、思念、全てを初期化すれば話は別ですが……無意味ですわね。それは死と同義です」

 

ただ、とキャスターは心の中で続けた。真也の心臓を再構成すれば可能かもしれない。その臓器は思念を司るからだ。だが単純に再構成するだけでは意味が無い。凛に対し罪悪感を感じる真也の思念をどうにかしないと結果は同じである。ではなんとする。キャスターの心中どこ吹く風、真也はこう続けた。

 

「いいさ、1ヶ月だろうと3ヶ月だろうと方針は変わらない。末期症状を考えるなら、尚更早めにケリを付けないとな」

「ここまでされ、まだあのお嬢ちゃんに罪の意識を?」

「もうそれだけじゃ無いけれど、傷つけた事は変わりないだろ」

 

呆れるより他は無い。目頭を押さえた。

 

「なんだよ、さっきから」

「なんでもありませんわ」

 

そう言いつつ、キャスターは真也を中心として集めた情報を整理し、推理し始めた。

 

(マスターの罪……町の賊を一掃したのは、恩恵を受けた人間が居る以上相殺。その上で罰するというのであれば、彼らにも罰が必要でしょう。別れを告げた事に関しては不貞を働いた訳では無いからこれも相殺。そもそも色恋沙汰に善悪を問えば、それに理屈がない以上収集がつかなくなる。

 

問題は虚偽の告白をした事だけれど。マスターは桜様を失い、その彼女は今頃立てない程に打ち拉がれている事は想像難くない。今の状況は妹を人質を取っているような物。遠坂の人間に手出しが出来ないマスターから見れば、お嬢ちゃん自身も人質に他ならない。知ってか知らずか、その上で私怨からマスターの命を狙い、サーヴァントを差し向け返り討ち、サーヴァントからしてみれば無駄死……あら、大変。お嬢ちゃん気づいてる? 誰かに唆されたとしても、やり過ぎたわよ、貴女)

 

キャスターは凛の気持ちが理解できる、やり過ぎた事も同様に分かる。程度に差はあれど男に弄ばれた境遇は同じだからだ。だからこそその結末が良く分かる。真也は対価以上の罰を受けた。凛はその追い打ちをした。キャスターが魔女と罵られ死んだ様に過剰な報復の行く末は破滅。凛の運命は、何処に落ち着くのか、キャスターはそれを思い浮かべた。経緯はどうあれキャスターは真也の配下なのである。敵である凛をどう思うかは自ずと知れよう。

 

「……なんか楽しそうだな。キャスター」

「こちらの話です」

「一つ言っておくけれど。人の咎に怒るのは良いけれど、笑うのはお世辞にもアレだぞ」

 

時代劇の大岡越前が罪人をあざ笑えば台無し、と言う意味だ。

 

「あら酷い。私はマスターの唯一の味方だというのに」

 

自覚がないのか、慣れたのか、キャスターは真也の助言を意にも介してなかった。女はこわい、としみじみ思うのは真也である。

 

「そういえばまだ聞いてなかった。真名は?」

「メディアです」

「コルキスの? ギリシャ神話の?」

「はい」

 

彼の不安は大きくなるばかり。ライダーと言い影のある女性サーヴァントに縁でもあるのか、と思ったりもした。毛嫌いされるセイバーはきっと清廉な英霊なのだろう、とも思った。少し悲しくなった。

 

実体化霊体化を繰り返し、魔力を消費するのもばからしいと真也はキャスターを一階の千歳の部屋に寝かせた。夜が明けた早々に彼はキャスターを自宅から移動させる事にした。蒼月邸は凛に知られているからだ。行き先は敢えて指定せず任せた。

 

玄関に立つそのキャスターは髪を結い上げ千歳のスーツを纏っている。その様を例えるなら、世間を知らず妙齢まで過ごしたお嬢様が無理矢理社会に出ようとする姿、そのものである。少々無理があるがキャリアウーマンに見えない事も無い、彼はそう思う事にした。キャスターは真也の手を持ち、その左手の平に念話の符陣を刻み込む。その様を見つつ彼は一つの懸念を伝える事にした。それを聞いた彼女は眉を寄せた、荒唐無稽な内容はまるでお伽噺に他ならない。

 

「妙な気配、ですか?」

「そう。イカ、タコ、深海生物を連想させる影みたいな奴なんだけれど、人の姿もあった。気のせいかも知れないけれど、付けられてる」

「警戒されている、狙われている、という事でしょうか」

「というより俺と遊びたがっている小さな子供、そんな感じだ。ついでに気を配ってくれ」

「分かりました」

「それじゃ、よろしく」

「ご武運を」

 

真也に見送られたキャスターは一路新都に向かった。人を隠すには人、と言う事だ。旅行鞄を持ちながら彼女は思う。

 

(事態が動けば、その誰かがセイバーたちに接触を図る事が考えられる。監視は必要ね。それにしてもあの不安定なマスターはイリヤスフィールを殺せるかしら。いずれにせよ転機となる事は確実、良い方に転べば良いのだけれど)

 

彼女は無意識に自身の鳩尾に手の平を添えた。腕が立つとは言えサーヴァントと距離を置き戦うマスターなど前代未聞だ。敢えて敵の思惑に乗るなど、剛胆と言って良いのか、無謀と言って良いのか、評価に困る。なにより例え死にかかっても呼ばない限り手出し無用という無茶な指示も受けた。死亡した場合その後は好きにしろとも言われた。簡単に言えば、怪我をしようと死にかけようとも例え死んでしまっても、黙って見ていろと言う事だ。経緯はともかく、契約した以上マスターの死は彼女とて望むところでは無い。にも関わらずこの命令、考えるだけで憂慮の念が浮かび上がる。気を揉む。心臓に悪い。胃が僅かだが痛んだ。

 

(ライダーも苦労したに違いない)

 

遠見の魔術、つまり水晶玉の中でのみ知る騎兵に、奇妙な共感を得るキャスターであった。

 

 

◆◆◆

 

 

衛宮邸の道場で、士郎に相対するセイバーは攻めあぐねていた。右から打ち込もうが左から打ち込もうが、捌かれるのは目に見えているからだ。事実、数度打ち込むも失敗に終わっている。一刀目は、士郎の持つ剣を打ち、押し返そうとすれば、剣を絡め取るように躱された。二刀目は、士郎の持つ剣をはたき落とそうとしたが、躱され危うくカウンターを貰いかけた。三刀目は、士郎を殺さず、負っても軽い怪我で済む程度の本気具合で踏み込めば。躱し、斬り付け、また躱し、また斬り付けた。それを第3者が見ていたならば、安全ケージを取り払った、二つの裸の扇風機のその翼を、神業で噛み合わせた様な剣の応酬、と表現しただろう。道場に漏れ入る光が、刃に反射し、白刃が舞い散ったのである。その様はまるでミラーボール。

 

今を遡る事数刻前。朝食の後片付けをしている士郎が“試したい事がある”とセイバーを誘った。妙に自信めいた主の姿に、増長を恐れたセイバーは諫めねばと応じれば、予想外の事態であった。彼女にとって今の士郎は、向かっている鏡に他ならないからである。

 

セイバーは白銀の鎧姿で、手にする得物は風王結界を纏う愛剣。士郎は何時ものツートンカラーのトレーナーだったが、手にする剣は一振りの西洋刀。両刃の剣で、鍔から柄に掛けて黄金の細工が施されている美しい聖剣だった。彼女はその剣を知っていた。士郎が手にするそれは彼女がかつて所有し、奮った、彼女の戦闘経験が宿る“選定の剣(カリバーン)” 投影できる剣は干将・莫耶の一振りだと思えば、彼女の主はこの様な芸当をしでかしたのである。多少の悔しさを感じながらも、剣を収めた。

 

「シロウ、ここまでにしましょう」

「道場に来てからまだ10分も経ってないけど」

「これ以上は怪我で済まなくなります。それにシロウも無茶をしすぎている」

 

事実彼は両の肩で息していた。剣を振るうのではなく、剣に振るわれていたのだった。鍛えているとは言えセイバーの剣舞は彼に荷が重かったのである。気がつけば両の腕も痛い。投影解除。彼は床に大の字で寝転がった。

 

「セイバー、感想を聞きたいんだけれど。使えそうか?」

 

やれるだけの事はやった、困憊疲労の中にも見せる士郎の達成感に水を差したくは無い。だがしかし。主にどのような回答をするべきか、彼女は悩んだ上でこう告げた。

 

「有効です。倒す事は叶わなくとも確実にダメージを与えられる。ですがシロウ、それでもサーヴァントとの交戦は控えるべきでしょう。緊急時の対応として下さい」

「セイバーならそう言うよな」

「冗談を言っているのではありません」

「分かってる。足腰がついて行かない以上、効果は限定的だもんな。自重する」

「分かって頂ければ結構です。しかし驚きました。見た目だけでは無く剣の経験まで再現するとは」

 

セイバーに称賛され流石の士郎も悪い気がしない。

 

「他にも投影できるのですか?」

「見た剣だけ。干将・莫耶とカリバーン、後はルールブレイカー」

 

シロウは寝っ転がったまま、投影。その手に奇天烈な短剣が顕れた。それは危険な刃物だと、セイバーが嫌悪したのはここだけの話である。

 

「それはキャスター戦の時に見たのですね。ですがシロウ、何時カリバーンを?」

「夢で見た」

「夢?」

「そう。セイバーが朝焼けの草原に立っていて、とても綺麗だった」

 

士郎は剣の事を言っていた。セイバーはそう解釈しなかった。彼女の頬がみるみる染まっていく。そして士郎は気づかない。

 

「セイバー?」

 

綺麗だ、と士郎の声で脳内再生する事たくさん。彼の声で我に返ったセイバーは一つ咳払い。

 

「確かに私たちはパスで繋がっています。記憶を夢として共有する事もあるでしょうが、プライバシーの侵害です。控えて頂きたい」

「あ、ごめん」

 

とは言うものの、どう控えるのか見当も付かない。

 

「それに私はシロウの剣だ。軽々しく女性扱いされても困る」

「あ、うん。前にも聞いた」

「ですが、シロウがどうしてもというのであれば、私は別に、」

「セイバー?」

「み、短い間ですが、わ、私は全力を尽くしましょう。し、シロウさえ宜しければ、その、今夜にで、も」

「???」

 

セイバーが絡める指は、絡まった糸を解すかの様にモジモジと。セイバーの寝室は士郎の部屋の隣である。同衾したのは一度のみ。警護の為と、せめて同じ部屋にと希望をしたのだが士郎が断固拒否をした。一度知ってしまった人肌の温もり、彼女は悪くないと考えていた。衛宮邸の道場に、何の脈絡も無く、突然しおらしくなったサーヴァントが立っていた。訳が分からないと士郎は首を傾げた。それ故その声は突然だったのである。

 

「相変わらずね」

 

道場の出入り口に凛が立っていた。胸を張り、手を腰に不遜な笑みである。魔術講義の時と、キャスター戦の時と様子が明らかに違う。士郎は直感で何かがあったと、理解した。

 

 

◆◆◆

 

 

突然やってきた学園の元アイドル。立ち話も何だからと、士郎が居間に招けば偶然面子が揃っていた。ちゃぶ台を囲むのは凛、セイバー、舞弥、そして士郎である。何用かとセイバーが切り出せば、凛の発言は士郎にとって思いもよらない事だった。

 

「真也が裏切っていた?」

「そう」

 

思わずセイバー陣営の3人が眼を合わせた。士郎が続ける。

 

「悪い。もう少し説明を付け足してくれ。理解が出来ていない」

「真也はランサーのマスターだったのよ。私たちはまんまと欺されたって訳。それに気づいて倒そうとしたのだけれど、返り討ちにされたわ」

「……アーチャーがやられた?」

 

その事実は士郎にとっても無視できない事実だった。敵陣営とは言え、互いに思惑が有ったとは言え、師に他ならない。アーチャーを失った事に責任を感じているのか、声のトーンを僅かに落とした。

 

「そう。真也みたいなのを見逃したのは私の責任よ。衛宮君もいつかは相まみえるし、私は真也を見逃すつもりも無い。そこで提案なんだけれど、私を雇わない? それなりに腕は立つつもり」

「桜はどうするんだ」

「私の家にいるわ」

「いや、妹だろ」

「桜は実の妹なの」

 

凛は経緯を手短に話した。

 

「真也と違って衛宮君が裏切らない限り絶対裏切らないから。どう?」

 

セイバーは鼻息荒く凛に向かって身を乗り出した。殺る気迫に満ちていた。

 

「遠坂凛。アーチャーの倒された状況を教えて頂きたい。あの男の手口を知る必要がある」

「ごめん、そこまでは把握してない。他者との知覚同調って苦手なのよ」

 

士郎はとても微妙な表情である。

 

「何よその顔」

「別に」

 

舞弥が言う。

 

「ライダーは?」

「私がアーチャーを失った事に気づいた途端ノーマークになったわ。だからもう気にしてないんでしょ」

 

それも理由の一つだがライダーは伏せる桜から離れられないのである。それでも尚ライダーが凛を襲わないのは真也との約束があるからだ。

 

「遠坂、3人だけで話をしたい」

「当然よね。のんびり待つわ」

 

士郎の部屋に場所を変えて、彼らは“衛宮家セイバー陣営緊急会議”を開催する事にした。そこは凛の居る居間から離れること数部屋である。ここであれば凛にも話は聞かれない。舞弥とセイバーは正座、士郎は胡座をかき、向き合った。最初は士郎である。

 

「遠坂の話、どう思う?」

 

セイバーは即答である。

 

「シロウ、即刻討ち取るべきです」

「あのさ。もう少し考え、」

「不要」

「なんでさ」

「前々からあの男に良くないものを感じていましたが、遠坂凛の話を聞いて私は確信しました。恐らくアーチャーも感じていたからこそシロウに指南したのです」

 

それは確かに事実である。

 

「出会ってまだ一週間と経っていないセイバーがどうしてそこまで真也を嫌うのさ」

「私の直感です。どうしても嫌悪感が拭えません」

「嫌悪感と直感って違うんじゃ」

 

セイバーはガーっと声を荒立てた。士郎は少し腰が引けた。

 

「シロウは手ぬるい! ランサーのマスターである事を隠蔽するなどその様な背信行為、見逃すことは出来ません!」

「陣営の違いだから手の内はバラすなってセイバーが」

「ナイフを隠し持つ程度であればともかくサーヴァントです! これは大砲を隠し持っていた事に他ならない! 聖杯戦争における共闘でサーヴァントを隠し持つなど言語道断!」

 

セイバーに対し舞弥は冷静だった。

 

「義兄妹か、確かに似ていない兄妹だとは思って居たけれど、また複雑な家庭の事情ね」

「舞弥! 家主を殺害し子を攫うなど外道の行いです! 感心している場合ではありません!」

 

正義感溢れるセイバーには聞き流せない話だった。そして士郎は女性陣そっちのけで思案に暮れていた。間桐臓硯殺害はともかく、彼が思い出すのは“ランサーVSセイバー&ライダー”戦である。

 

(あの時点での真也は弩級シスコンだったはず。その真也が作戦でも桜に敵対? 嘘だろ?)

「士郎には気になる点があるのね?」

「ある。少なくとも鵜呑みには出来ない話だ。それに遠坂も何か変だ。張り詰めてる、追い詰められてる感じがする」

「サーヴァントを失ったのであれば、当然よ。その原因が自分なら尚更ね」

「そうなんだけれど、さ」

「背後から狙われていたかもしれないのです! サーヴァントである私が見過ごせる訳ありません! 聞いているのですかシロウ! 私は怒っているのです!」

「……」

 

だがアーチャーが討たれた事は事実である。士郎は判断を保留した上で、凛を仲間として招き入れる事にした。

 

「日中はセイバーが鎧姿になれないから日没の際を狙って真也を強襲しましょ。あの家はただの家だから」

 

という凛の殺害前提の発言もそれを後押した。万が一何かの間違いで、真也を殺してしまえば取り返しが付かなくなる、それを恐れたのだ。凛を一人にするのは避けるべき、と言う事である。士郎は凛に対し独断で動かない事も追加で確約させ、蒼月の家に向けて出発した。その日の夕焼けは、血の色の様に赤かった。

 

 

 

 

つづく!



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34 カイーナの環・4

士郎たちが出発する数刻前。真也は千歳の工房を漁っていた。工房と言っても一般住宅の洋間をそう呼んでいるだけの簡易的な物である。フローリング床の上に机や薬品庫、そして本棚が置いてある6畳の薄暗い部屋だ。何かいい物がないかとやってきた訳だが、渡り人である千歳が構えたこの家には遺産・遺品という物が無い。全ては彼女が冬木にやってきた10年前より誂えたそれ相応の物となる。もちろん良い意味では無い。

 

魔術の知識、剣術やその他の戦い方は、千歳の口伝と実技により学び、古文書・文献と言ったものは無い。ペラリペラリとコ○ヨ学習ノートを紐解けば差し障りの無い事ばかりだ。唯一まともな物が治癒薬の合成方法と言うのがもの悲しい。彼とて勇者の剣や必殺技を記した奥義書を期待していた訳では無いが。

 

「なんかこう、裏目裏目というか、この苦境が恣意的に感じるのは気のせいか」

 

そう彼はぼやいた。勇者に試練を与える神はとても意地が悪いに違いない。

 

「RPGだってもちっとマシだろ。アイテムとか仲間とかさ……」

 

またぼやいた。現状、唯一の味方がキャスターのみである。

 

「……ま、神代の魔術師が味方なら破格の待遇、か」

 

ふとその姿を思いだした。ライダーに負けず劣らずの美貌だが、意にも介さない自分がもの悲しい。胸裏に宿るのは凛と桜のみ、強いて言うなら綾子もだが彼女の場合義理という意味合いが大きい。結婚できるのだろうか、彼はそんな事を考えた。あと一ヶ月で死ぬなら、血を残すべきとも考えたが、そのような相手は居ない。そもそもバーサーカー戦でくたばる可能性もある。伝承者という意味で、死んでしまえば母である千歳に申し訳なくも思うが、どうにもならない。出来る事をするだけだ。読み終わったノートを仕舞い、新しいものを取り出した。ペラリとページを捲る。

 

「おぉ、我が息子よ。死んでしまうとは情けない。我が母よ、貴女の器量なら再び子をなす事も容易でしょう。まだ見ぬ弟に託しましょう……と言ったらあの無表情系豪腕不条理マザーも流石に怒るだろうか。それともあっさり受け入れるだろうか」

 

記憶にある母は彼に対し怒った事も笑った事も無い。ただ淡々と生き方と戦い方をを指導してきた。かといって人間味が欠けているという訳でも無い、事実桜には微笑んだ事もあった、説教という名で愛し抱きしめた事もあった。桜が全ての彼は今に至るまで気にもしなかったが、この扱いの差に意味はあるのかとも考えた。

 

「実子では無く桜と同様に養子とか。いや違うな、魔術は同系。そもそも引き取って育児放棄も無いだろ」

 

それ以前に10人が10人親子だと答える、母の面影を強く残した彼の容貌である。幼少の頃は少女と間違えられた事も少なくない。幸いにして中学の頃から二次成長が始まり、男の娘という人生設計は回避できたが、千歳の因子を強く継いでいる事には違いない。

 

「父親が嫌いだった、もしくは願わない子供だった……あのマザーを手籠めにできる男なんて居るのか。いや居ない。噂に聞く魔法使いなら或いはってところだけれど……ま、今更か」

 

手がかり無し。最期のノートを戸棚に仕舞うと彼はリビングのソファーに深く腰掛けた。脚を組み、腕は頭の後ろに回し組んだ。脳裏に凛と桜と葵が仲良くしている光景が浮かび上がる。いつかそうなれば良い、彼はそんな事を考えた。ぼうと宙を見ていると来客を伝えるチャイムが鳴った。誰かと思えばランサーである。玄関に立つその槍兵はいつぞやの様にスーツ姿だった。真也は不満顔である。

 

(相変わらずイケてるな、こいつ)

「よう。返事を聞きに来たぜ」

「付けられてないだろうな」

「んなヘマするかよ」

 

「捲いたって事か、誰に付けらた」

「女」

「何処の誰だ。その奇特な女性(ひと)は」

「ありゃぁお前んところの生徒だな。もう少し歳食ってたら引っかけたんだけどよ」

 

どこぞの3人娘だ。ヘラヘラする槍兵に真也はうんざりした表情である。

 

「で、どうする」

「組むよ」

「そう来なくっちゃな」

「話がある。取りあえず上がれ」

 

「茶ぐらい出せよ、坊主」

「お前は坊主と轡を並べるのか」

「そりゃ違いねえな。茶ぐらい出せ、真也」

「呼び名だけじゃ無く、態度も改めろ」

 

「おべっか、へつらいは俺の性分じゃねえ」

「イメージの事を言っている。ったく。何処の英霊だ。後世の事も少しは考えろ」

「聖人じゃあるまいし、死んだ後の事まで考えるかよ。それに真実なんてそんなもんだ」

「確かにそうだ」

 

たわいの無いやりとりをしながら、真也はランサーをリビングに招いた。黒皮のソファーに硝子製のローテーブル。二人は面と向かい合っていた。ランサーはふんぞり返り、脚を組んで、コーヒーを啜っている。その様はハリウッド俳優がくつろぐ映画のワンシーンである。ヒーロー物と言うよりギャング・マフィア物だ。真也は両膝に両肘を置いて前屈み、どちらが家主かこれでは分からない。日本の謙虚礼節という概念を教えてやろうと思ったが止めた。謙虚なランサーというのも想像が付かない。

 

「ランサー。アインツベルンの拠点が見つかった、って事で良いんだな?」

「そうだ。市内を悠々と歩くマスターの後を付ければ直ぐ分かったって寸法だ。剛胆というか、暢気というか、無警戒というか、呆れるほかは無いな。ま、そのお陰で根城が分かったって訳だが」

 

それはイリヤが衛宮邸を訪れた日の事だ。

 

(ちびっこの後を追いかけ、家を突き止める槍兵か。これは事案だな)

 

間抜けめと笑うランサーに対し、コーヒーを啜る真也は何食わぬ顔である。

 

「で、何時仕掛ける」

「今晩。日没直前に出発しよう。一番人目に付かない」

「即決ってのは嫌いじゃねぇ」

「あぁそうそう、俺はもうライダー陣営じゃ無い」

「そうか」

 

ランサーはソファーに腰掛け、肘当てを使い頬杖を突く。その面に表情は無く、面白くも無い映画を延々と見せられている様だった。

 

(やっぱり、そうなった事を知っている、違うか。そうなる事を知ってたのか。そしてランサーもそれを気に入らないと、ま、ランサー個人を信用するには十分だな)

「ライダーのマスターに話したか?」

「話してない」

「なら、問題ねぇ」

 

「アーチャーに襲われた」

「んで?」

「倒した」

「そうか! あのいけ好かねぇ皮肉ぶったあの野郎がくたばったか! ま、それ位やってくれねえとな! あの俺は苦労してきたんだと言わんばかりの余裕の無い態度と面が前から気にくわねぇ……」

 

カカカと笑っていたランサーはピタリと笑うのを止めた。配慮がなさ過ぎである。彼はただ詰まらなさそうだ。

 

「……あのお嬢ちゃん、諦めるか?」

「追ってくる。間違いなく」

「戦えるのかよ」

「大丈夫だろ。昨日の今日だ、策を打つにも流石に時間が無いだろう」

 

「もし出くわしたら、どうする」

「最低限はしないとダメだろうな、駆け引きぐらいは何とかするさ」

「腰が据わってねぇな。ったく、シャキッとしろよシャキッと」

「ランサー。俺らは今、バーサーカー戦の為に組んでいるんだよな?」

「……そうだ。俺らはバーサーカーの為だけに組んでいる。だからお嬢ちゃんを討つ理由がねぇ」

「すまない、助かる」

 

ランサーは何も言わなかった。ただその鋭い猟犬の様な目は何時になく力が無い。礼など言うな、と語っていた。

 

 

◆◆◆

 

 

しばらく適当な話をし、装備を調え、時間だと玄関を開ければ血の様に紅い夕焼けだった。縁起でも無い、ランサーはそう思った。この家には戻れないかもしれない、真也はそう思った。門を閉じ、その家を後にした。真也は普段着で何時もの様にロングコート、左脇には霊刀をぶら下げている。背負うバックパックにはSWAT風の礼装を収めていた。直前で着替える算段だ。ランサーはスーツを脱ぎ青色の時代めいた戦闘装束だ、その上に人目を憚りロングコートを羽織っている。契約を交わしていない以上、霊体化になれば会話が出来ないからだ。ランサーが言う。

 

「今からだと到着は夜更けだな」

「一度新都に出てタクシーを拾おう。言っておくけれど、料金半分出せよ」

「ぬかせ、サーヴァントが金なんぞ持ってるか。霊体になるから良いだろ」

「一人でも4人でも料金は変わらないんだよ。あー、この時間なら途中で深夜料金だな」

「真也だからシンヤ料金ってか」

 

臆面無く、遠慮無く、ゲラゲラゲラと笑うランサーを前にして、必死に怒りを堪える真也だった。そのネタでからかえるのは綾子のみである。桜と士郎はそもそも言わない。そして。真也の足がピタリと止まった。続いてランサーも止まった。ランサーが黙ってルーンの文字を真也の身体に刻む。防御結界と魔眼と併用できない支援魔術を施した。ランサーはただただ詰まらなさそうだ。

 

「ツいてねぇ」

「……あぁ、全くだ。どうして、こう成るんだろうな」

 

そこは住宅街の十字路。そこに士郎たちが立っていた。彼は二人の仲間を従えていた。一人は白銀の騎士、もう一人は紅の魔術師。士郎は左足を一歩前に出し、胸を張り、真也を見据えていた。その表情には鋭さと精悍さ伴い、俗に言う主人公立ちという奴である。真也は苦笑するより他は無い。

 

(確かにこの組み合わせなら、俺らは悪役だ)

 

紅の魔術師は人よけの呪いを一帯に施していた。その姿を見た真也の心臓がギリと痛んだ。正直、吐き気すらあった。陽が沈み、辺りが暗闇に閉ざされる。街灯は灯っていた、彼はそれに気がつかなかった。士郎が歩み出ると、セイバーが剣を構え後に続いた。彼女の前にランサーが立っていた。彼は槍を肩に乗せて笑みを浮かべていた。牽制である。彼は“仕方がねえだろ、悪く思うな”と態度で言っていた。セイバーは苦々しさを隠さない。凛はただただ真也を睨んでいた。

 

「みんな、手を出さないでくれ」と士郎は右手を挙げて二人を制した。

「しかし、シロウ」

「手を出すなセイバー。俺は真也に話がある」

「……分かりました」

 

士郎の意図を察して真也も歩み寄った。

 

「ランサー」

「あいよ」

 

二人は対峙すると睨み合った。その距離は人一人分。真也の方が背が高いので必然的に士郎が睨み上げる恰好となる。しばらくガンを飛ばしあった後、切り出したのは真也だった。

 

「しばらく見ない間に、いい目をする様になったなお前」

「酷い面だ、余りに酷くて俺は見てられない」

「時間が惜しい。用件を言え、士郎」

「俺が聞きたいのはランサーのマスターなのかって事だ。本当か?」

 

「本当だ」

「こんな夜にランサーを連れて何処へ行く」

「話せる理由なんてない」

「お前が決める話す話さないじゃない。全部話せ」

「だから無い」

 

理由を言えないのである。ここで暴露すれば計画は水の泡だ。

 

「よく考えろ。その返事だったら俺は敵になる、成らざるを得ない」

「気にする事は無い。俺らはずっとそうだったろ?」

 

士郎は真也の胸ぐらを掴んだ。

 

「桜は俺にとっても大事な後輩だ」

「知ってる」

「お前は桜の兄だ、そんな事はしたくない」

「もう違う。凛から聞いたんだろ? 桜が居ない以上、俺らはただの知り合い。そしてマスター同士だ。聖杯戦争に参加するマスター同士は狙い狙われ、殺し殺され合う関係だ」

「一つだけ聞く。お前から離れたのか。お前が桜を手放したのか。お前はそれで良いと思ってるのか」

「……そうだ。俺は桜を見捨てた」

 

真也の発言を聞いて、士郎の頭に登り掛かっていた血が一気に下がった。違和感に気がついたからである。

 

(……やっぱりコイツ変だ。なにか隠してる)

「衛宮君、もう良いでしょ。真也は敵よ。そう自分で証言してる」

 

凛の言葉が士郎の耳に障る。黙っていろ、と叫びたくなるのを辛うじて堪えた。士郎は胸ぐらを更に引き寄せた。士郎の眼圧は真也を貫かんばかりである。

 

(耳の穴かっぽじってよく聞け。ボコって、ふん縛って、洗いざらい吐かせてやる。負けなら隠しても意味が無いからな)

(士郎には関係の無い話だ。殺す気で掛かってこい。言っておくが俺は配慮なぞしないぞ)

(黙れ。意地でも真也を桜の元に返す。遠坂が桜の姉さんなら、遠坂もだ。家族は一緒に居させる)

(なぜ)

(姉さんの時の借りを返す)

(やめろ。もう遅い。全てが手遅れだ。全力で来い、それが最低限の礼節だ)

(俺が勝手にやるだけだ)

(違う意味で面倒になったなお前。その行動の結果を受け入れる覚悟があるならやってみろ)

(良いだろ、勝負だ)

 

それはアイコンタクト、と言う奴である。過去の経験、互いに知る思考方法から、取り交わしたのであった。情報のやりとりは無くただの思念の応酬だが、それで十分だった。凛どころか女性陣には睨み合っている様にしか見えないだろう。士郎は突き放す様に真也の襟を振り払った。演技もあったが、憤りも混じっていた。

 

士郎は“おっぱじめる”為に距離を取った。後ずさるのではなく、背を見せ堂々と離れた。真也は背後から斬り付けない、士郎はそれを確信していた。真也もまたそうする積もりは無かった。二人を見ていたランサーは察し“ヘッ”と笑った。そう捨てた物では無いと語っていた。セイバーは彼女が知らない何かを理解した様なランサーが面白くない。

 

「何がおかしい、ランサー」

「マジメに喧嘩できるって事だ。結構結構」

「?」

(さーてと。この展開は嬉しい誤算だが、こうくると意外と面倒だな。あの坊主、士郎つったか)

 

セイバーを倒せば士郎も敵対せざるを得ない。それは真也が味方を失う事と同義だ。真也に負い目のあるランサーは、機を待ち問題を先送りすることにした。つまり少なくとも今ここではセイバーを討てなくなったと言う事だ。士郎は凛の近くに戻ると振り返り真也を見据えた。その距離は10メートルほど。彼は首を回し、肩、腰、足首を回し関節を解した。真也は抜刀する“しゃらん”硝子の様な硬い音が響いた。士郎は凛にこう告げた。

 

「遠坂、援護だけ頼めるか?」

「無茶よ。真也はサーヴァント相手に張り合う化け物なんだから。それにこの機を逃す理由は私に無いの」

「俺がやる。俺はこの陣営の頭だ。従ってくれ」

 

士郎の琥珀色の瞳は真也を捕らえたまま、凛には目もくれない。拒絶すれば放り出される事は明白だ。彼女は折衷案を提示した。

 

「……衛宮君が危険だと判断したら手加減はしない。それで手を打ちなさい」

「分かった。セイバーはランサーを」

「承知しました」

 

唸りを上げる風王結界、愛刀を下段に構えるセイバーを見てランサもまた槍を構えた。穂先はセイバーの足下を向いている。

 

「さて、セイバーよ。やり合うのは二度目だが、今日はでっかい姉ちゃんが居ねえな。呼びに行くのを待ってやっても良いぜ? 一人じゃ不安だろ?」

「私一人で十分だ。風向きが悪くなれば逃げ出す腰抜け槍兵など恐れるに足らず」

「勇ましいこった。だがセイバー。もう少し男心を学んだ方が良い」

「……何が言いたい」

「マスターの心サーヴァント知らずってな。そうでないなら男の真似事に無理があったってことだ」

「愚弄するか!」

 

二人は互いに踏み込んだ。セイバーは手加減無用の剣幕である。殺したくはない、と思うもののそれは時の運だとランサーも全力だ。そしてマスターチーム。

 

「Fixierung(狙え、),EileSalve(一斉射撃)!」

 

凛の左腕にある魔術刻印が唸りを上げ、その指先から呪いの弾が撃ち出された。高い魔力密度を持つその魔術の弾は軽機関銃どころか、重機関銃並みの威力を誇る。それはフィンの一撃。彼女とて倒せるとは思って居ない、それは真也の動きを封じる足止めの為の牽制射撃だ。

 

だがそれは彼にとって糾弾に他ならない。飛来する黒いわだかまりの群れを一つ弾く、一つ掻き消す毎に、心臓の痛みが増していった。その鼓動は身体を満たす事は無く。呼吸が乱れ、血の気が失せ、脂汗が吹き出る、そして身体から力が抜け始めた。次第に押され始めた。一つ弾く毎に姿勢を崩し、一歩、また一歩と後ずさる。身体は鉛にでも成ったかの様に重い。真也は堪らず声を上げる。

 

「痛っ!」

 

真也に向けて踏み込む士郎には算段があった。士郎は真也の技量をよく知らない、1stバーサーカー戦のおり遠目に見たのみである。だが真也もまた士郎の技量を知らないのだ。少なくとも投影魔術を行使するなど知るよしも無い。であるからして、意表を突き、強襲し、降参させる、それだけでいい。実際に倒す必要は無い。サーヴァントと渡り合う一級魔術師である真也からしてみれば、駆け出し魔術使いである士郎に“してやられた”と思わせればそれで勝敗が付く。実際のところ真也もそう考える。カリバーン投影は最後の手段だ。何故なら怪我で済まない恐れがある。

 

凛のガンドを捌く真也に余裕は無く、迫る士郎の姿も霞む視界の中だ。辛うじて見れば士郎は無手、何か策があると踏んだが、とんと思いつかない。暗器でも持っているのか、と彼は思った。身体の中にある戦闘向けキャパシティを整理、再構成(デフラグ)、かき集めたキャパと記憶にある士郎の戦闘情報を比較すれば、暗器を持っていたとしても比較的余裕がある。真也のその判断は誤りであった、というよりは士郎が特異すぎ、そして成長が急すぎた。それはアーチャーの仕込みであり、狙いそのものだ。

 

「投影開始(トレースオン)!」

 

士郎の両手に顕れた、二振りで一振りの夫婦剣。真也は目を剥いた。理由は二つ。一つ、実用に耐えうる投影など聞いた事も無い事。二つ、なぜアーチャーと同じ武器を投影するかと言う事。切り結ぶ際、士郎は最大全力で踏み込んだ。士郎には真也の間合いなど読めない、だがアーチャーならこの距離だろうという確信があった。それは真也の想像を上回る、速さと技量であった。あ、という間に踏み込まれた。真也が辛うじて打ち込んだ一閃は、士郎の夫婦剣に受け流された。士郎は剣と身体の重心を利用し、真也の一閃まで利用しシフトウェイト、その動きはまさに達筆。

 

士郎は両刃で受けた様に見せかけ、実は片方のみで受けていた。左手の莫耶で真也の刀を打ち流す。コックが両手の包丁を擦り合わせる様に、右手の干将を抜き取り真也に向けて走らせた。双剣と士郎の身体が輪ゴムの様に弾む。巧い、と真也は思った。これほどの技量をいつの間に身につけたのかと、驚くほか無い。だがそれは真也に余裕が無い事と同義だ。全身の力をかき集め、士郎の干将を躱すと、士郎の四肢を斬り付けた。

 

「ぐっ!」

 

うめき声が漏れ崩れ落ちた。切り落としはしない、ただ無力化するだけである。凛が居れば癒やす事も可能だ。士郎の手を離れた干将・莫耶が、回りながらアスファルトに突き刺さった。そして。彼の目の前にある呪いの弾を、真也は左腕で受け止めた。ランサーの施した防御結界と干渉し合い、ガンドの呪いが消えた。凛は左腕を向けて詰まらなさそうな視線を向けていた。侮蔑を隠さない。

 

「節操がないわね、真也。ま、だからこうしてるんだけど」

 

その声に身体が痛む。堪えきれず表情に出た。

 

「三日で良い、時間をくれ。その後は好きにしろ」

 

真也は俯せに伏せる士郎の首に刃を添えた。斬り落とす事も出来た。だがしなかった。もし士郎を殺せば、セイバーは主の仇だとなりふり構うまい。最悪、凛と組む事も考えられた。それ以前に士郎を殺す事など出来ないのである。

 

「厚顔無恥って知ってる?」

「取引をしたい。引いてくれ、マスターの命だ。悪い取引じゃないだろ? 気づいていると思うが士郎は手加減した。誠意は感じ取って貰いたい」

「今更、信用できるとでも?」

「する必要は無いさ、ただそうしないと士郎が死ぬ事になる」

 

それは駆け引きだ。凛が宝石を取り出そうとする仕草を見せた。そして士郎は時を待っていた。

 

「動くな」

 

彼は、刃を凛に向けた、向けてしまった。それは彼にとって毒酒を飲む事に等しい。堪えきれないほどの痛みが、彼の肉体と精神を襲った。堪らず左手で心臓を押さえた。凛に向けた切っ先が、揺れながら下がる。枯れ葉が舞い落ちるかの如く。

 

「痛ぅぅぅぅ」

 

思いも寄らない突然の行動に、凛は意表を突かれた様に戸惑ったが、苦しむ様を見て笑みを浮かべた。

 

「なに、今更可哀想な振りで気を引いてるのかしら? それとも本当に病気?」

「……凛が気にする事じゃない、違うか」

「そうよね、真也は私を欺した。裏切った。その痛みが本当ならいい気味だわ。言っておくけれど、私が受けた苦しみはそんなんじゃ割に合わない。アーチャーの仇、討たせて貰うわよ。地の果てまでも」

 

「分かってるさ。俺は凛を苦しめた。それでも足りないというなら、好きにすると言い。殺したいなら好きにしろ。だけど今はダメだ。今はする事がある」

「真也の都合を聞く義理がある? 今ここで仕留める」

「思い出すよ。その気の強さ、出会った頃の凛だな、が、」

 

彼は血を吐いた。抑えた左手の指から血が漏れ、滴った。真也の様子に不可解さを感じながらも、凛は宝石を一つ取り出した。真也は声を絞り出す。

 

「出会わない方が良かった、んだろうな」

 

あから様の作り笑い。その声は悪夢に魘されるうめき声の様だ。その発言に凛の腕がピクリと振れた。真也は意識を保つのが精一杯だ。

 

「歯を食いしばれ、この馬鹿真也! キツイの行くぞ!」

 

士郎は夫婦剣を再投影し、再度強襲を掛けた。真也は士郎の回復の早さに、度肝を抜かれた。それは鞘の効果であるが、もちろん真也はそんな事を知らない。治癒の魔術を使用した、素振りも、反応も無い。完全な奇襲だった。士郎は双剣をもって8時から2時の方向に打ち付けた。体重も、双剣の重さも乗せた重い一撃だった。身体に力の入らない真也は刀を打たれ、仰け反った。勝敗を決しようと士郎が踏み込んだ。真也は辛うじて士郎を蹴飛ばしたが、足腰に力が入らない。その結果蹈鞴を踏み、士郎に対し距離を取ってしまった。凛から見れば、その真也は恰好の的だ。

 

「Ein KOrper(灰は灰に) ist ein(塵) KOrper(は塵に)!」

 

それは雌黄色の宝石“トパーズ” 魔力の籠もった真空の刃が顕れた。今の真也はランサーの支援魔術を受けている。その気にさえなれば、いなす事も、躱す事も、カウンターを当てる事も可能だ……出来るはずが無いのである。防御すら出来なかった。

 

迫る真空の刃は、怒濤の様に向かいくる鷲の群れだ。防御結界と魔力の刃が、接触、魔力の干渉で不協和音が鳴り響く。夢から現に至る、ほんの僅かな時間。凛の魔術はランサーの結界を突破した。翼音は死の調べ。死を伝えるその風の音は彼を包み込んだ、直撃である。結界により威力を削がれたが十分だ。真也は全身を捩られると、切り刻まれ、巻き上げられた。その様は、竜巻に翻弄される、布きれ。全身から血をまき散らし、うめき声も上げる事も叶わず、ぼろ雑巾の様に、アスファルトに叩き付けられた。それは濡れた雑巾を叩き付けたかの様な音を立てた。

 

「やたっ!」

 

凛は歓喜の声を上げた。情動と汚点を断ち切り、我が身を魔術師と成す。加えてアーチャーの仇も討った。討った少年の指が僅かに動いた。一つ舌を打つと、止めを刺そうと駆け寄り足が止まった。血に塗られ大地に転がる姿に心を奪われた。

 

「あ……」

 

計らずとも声が出た。何故停まる。足を止める必要など無い、その筈だった。全てを断ち切る為に、止めを刺す。だが宝石を持った腕が鉛にでも成ったかのように動かない。なぜ討てない。なぜこの男は反撃しなかった。なぜ防御すらしなかった。ランサーのマスターならそれは有り得ないはずだ。違うのか。なぜ、今頃、キャスターに見せられた幻を思い出す。

 

いや、関係ない。今更だそんな事は。真也はランサーのマスターであることは疑いようも無い事実。“これから仕掛ける”とい念話を最期にアーチャーは死んだ。真也もそれを認めた。ならば。同じマスターだった者として、同じ魔術師として、最大限の敬意を払う。せめてこれ以上苦しまないように。凛は悲鳴の様な声で17年間魔力を籠めた9つ有る宝石の一つを取り出した。

 

「3番!」

 

僅かに時を遡り、真也が切り刻まれたその直後である。ランサーが切れた。真実を知らずやりたい放題の凛に、それに荷担した自分に。その憤りは如何ほどのものか、顎を砕かんばかりに、食いしばっていた。その憤りは魔力となった。

 

「ゲイ、」

 

槍兵の声と共に、手に持つ朱い槍に膨大な魔力が満ちる。

 

「宝具!?」

 

発動を阻止しようと、セイバーが斬り込んだ。それはランサーのフェイントだった。ゲイボルクの発動をキャンセルした。籠めた魔力を無駄にしたが、大騒ぎするほどの事でも無い。燃費型宝具の利点だ。ランサーの敏捷はA、セイバーはC。セイバーの虚を突きランサーは彼女を蹴飛ばした。カウンターである。騎士の身体は宙を舞い、アスファルトを転がり続けた。

 

「セイバー! この勝負は次に持ち越しにする!」

「逃げるか!」

「仕切り直しだ!」

 

ランサーは真也と凛の間に割り込み、その宝石を発動直前に叩き割った。

 

「遠坂凛、下がりなさい!」

 

隠れていた舞弥が飛び出した。手に持つアサルトライフルはプルバップ式の“ステアーAUG” それはサプレッサー装備していた。舞弥は支えの右足を後ろに。ストックを肩にあて、銃身を身体に密着させた。トリガーを引けば、銃口から閃光と共に、5.56x45mmNATO弾が断続的に撃ち出された。フルオート。その赤褐色の光は、真也に向かっていった。

 

真也は舞弥をバックアップ(非戦闘員)だと思ったのだ。1stバーサーカー戦がそうであった。加えれば、それ以降の戦いを見ていないのである。ランサーすら、時折アタッシュケースを持って衛宮邸から外出するところを見ているのみである。完全にノーマークだった。

 

「チッ!」

 

流石のランサーも忌々しげに舌を打った。槍をバトン回しの要領で、扇風機の様に回し、舞弥の銃弾を弾いた。ランサーの防御が間に合わず、一発が真也の脇腹に当たった。 躓き蹴飛ばされた枕のように、アスファルトの上を転がった。蹴飛ばしたセイバーが体勢を立て直しつつある。このままではジリ貧だ。状況を把握したランサーは即座に腹を決めた。

 

「突き穿つ死翔の槍(ゲイボルク)!」

 

30の鏃が音速の2倍の速度で大地を穿った。目標とする着弾地点はランサーの目と鼻の先。爆風と礫が舞い上がる。その様は爆撃の如く。立ちこめる粉塵中からランサーが飛び出した。瀕死の真也を背負うと一目散にその場を後にした。礫を受け、ランサー自身もダメージを負い、血を流していた。

 

「おい、真也! 死んだか!」

 

背負う人の身体に力は無く、手足は人形の様に垂れ下がっていた。出血が激しく手足、指先から滴っていた。まるで血のシャワーを浴びたかの様だ。体重が減っているのではないかと錯覚して仕舞いかねない量だが彼はまだ生きていた。

 

「勝手に殺すな……」

「細面の割に存外しぶてえじゃねえか!」

「言ってろ……」

 

猶予は余り無いが、意識はある。取りあえず安堵したランサーは真也が意識を無くす事を恐れて話しかけ続けた。

 

「敵に回った女は手に負えないってのは本当だな! まったく情がねぇ!」

「まったくだ。凛が一流だって改めて思い知った。驚けランサー、お前の結界を突破したぞ」

「適当な場所で癒やしてやる。それまで堪えろ」

「……すまない。凛に刃を向けるのはやっぱ無理だった」

「……そこまで大事ならなんであの女を手放した」

“確かにそうだ。今の状況が間違いなら俺はあの時桜を捨てて凛に走るべきだった。けど倒れた桜を見捨てる事など出来はしない。結局桜も居なくなったけれど。よかれと思えば裏目に出る、正誤の判断も付かなくなった。ほんと人生ってのは難しい……なんで、こう成ったんだろうな”

 

うわごとの様な独白に、ランサーは舌を打った。真也では無く綺礼の笑みが脳裏に浮かんだからだ。その裏目に仕向けたのは他ならないランサーなのだ。

 

 

◆◆◆

 

 

爆煙に涙が流れ、咳き込んだ。士郎の無事を確認しようとするセイバーの手を振り払い、士郎は二人に詰め寄った。

 

「舞弥さん! 遠坂! 動けない相手に追い打ちを掛けるなんて、撃つなんてやり過ぎだ!」

 

女性陣がここまでするとは思わなかったのである。舞弥は冷静に答えた。

 

「馬鹿を言わないの。敵マスターよ」

「どう見ても戦闘不能だろ! あの状態なら、降伏勧告をするべきだ!」

 

だが、彼女らにとって士郎の安全が第一優先なのだ。“かもしれない”では済まないのである。何故なら互いに命を賭けたから。運の悪い事に戦況判断が非常に難しかった。歩み寄るセイバーも冷静だ。

 

「舞弥の言う通りですシロウ。あのタイミングではランサーが遠坂凛を襲った可能性がありました。舞弥は発砲する事によってランサーの選択を狭めたのです。マスターを攻撃されれば、守らざるを得ませんから」

「でもさ!」

「忘れたのですかシロウ。彼の男は同じように考え、アーチャーを仕留めています。躊躇などしては成りません。そもそも、シロウとて斬り付けられたではありませんか。鞘の加護が有るとは言え首を落とされれば死は避けられません」

「真也はそんな事しない!」

 

舞弥はライフルの弾倉を交換しつつ、続けた。

 

「聞きなさい士郎。100歩譲って経緯と事情に目を瞑るとしても。彼が敵だという事実に目を背けては駄目よ。蒼月真也はランサーのマスター。そして彼らも戦いに応じた。刃を向けた。それを間違えないで」

 

士郎がどう思おうと証拠が無ければ戯言だ。根拠、道理を伴わない指令、意見、は不協和音をもたらすだろう。彼は握り手に力を籠めた。悔しさを隠さない。

 

(何でこう成る)

 

アスファルトに滴る血痕は闇夜に続いている。それを見たセイバーは舞弥に言う。

 

「あの男は死んだと思いますか?」

「連れて行ったと言う事はまだ死んでいない、と判断するべきね」

「魔術で癒やせば、直ぐに回復できるでしょう。三日と言っていましたが、それが気になります。血痕を辿り、追撃を掛けるべきです」

 

二人の言っている事は正しい。反論しようにも、証拠が無い。なにより本人が認めている以上、為す術がない。今は機を待つしか無い。

 

(勝手に死ぬなよ、あのばか)

 

凛は真也が吐いた血を、アスファルトに滴ったそれを、ぼんやりと見ていた。“出会わない方が良かった”真也のその発言が嫌に耳に残った。黒い影が彼らを強襲したのはその13秒後の事である。

 

 

 

 

 

 

 

つづく!




シンちゃんフルボッコその1。

らいだー「べるれふぉーん!!!(怒)」バリバリ
しんや「やめて!」


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35 カイーナの環・5

日が完全に暮れた。何の脈絡も無く、何の意味を持たない場所に姿を現したそれは何時もの様に真也の気配を探り、その後を辿った。真也の気配は何処であろうと感じ取れる。髪の匂い、汗の匂い、肉の匂い、血の香り、それは生物の証。足音、筋肉繊維の鳴動、骨の軋み、それは動物の痕跡。鼓動、魔力の振動、魂の色、蒼月真也という存在。宿主の無意識に深く刻まれた、真也の妹という概念がそれを可能にするのである。宿主を操る、それを目的とする筈のそれもその影響を強く受けていた。加えてメリットも多い。真也の側には高い確率でサーヴァントが存在する。なにより死体である可能性も大きい。魔力を欲していたそれは嬉々として真也を追った。

 

激しい剣戟と魔力の奔流が満ちる場所に近づけば真也の姿は既に無かった。消えた後だった。落胆したがサーヴァントは見つけた。残念な事に死体では無かったが、まぁいい。直接喰らうとしよう。蠢き、捕らえようと影を伸ばせば、そこに凛が立っていた。黒い影は彼女の背を認めたのである。

 

 

◆◆◆

 

 

戦闘終了後。ランサーと真也が逃げた方向をぼうと見ていた士郎はセイバーの声に我に返った。

 

「これから追撃ではなく追跡をかける。みんな、俺らは倒すんじゃなく捕らえるんだ。相手は負傷している、挑発、陽動、強襲、積極的戦闘は控える事」

 

彼は3人にそう告げた。渋々ながらも皆が同意した事を確認し、出発を意味する号令を出した、その時である。それは何の脈絡も無く、予兆も無く顕れた。

 

それは何かだった。表現したいが残念な事に適当な言葉が当てはまらない。それは彼が今まで見聞きした、どの生き物に似ていないからだ。地球上における生物の系譜、系統からも外れている様に思えた。それ以前に、生き物かどうかも怪しい。それはただ黒く、立体感が無い。重さも、密度すら感じさせない。強いて言えば現実世界に顕れた一枚のポリゴンが近いだろうか。だが不可解な事に、セイバー陣営の4人が4人ともそれの正面を見ていた。異常だ。皆の立体感、位置感覚が狂い始める。3次元に住む人間が2次元の住人を見るとこの様な感じなのではなかろうか、士郎はそんな事を無意識に思った。ビデオゲームという意味でポリゴンという概念を持っているのは士郎だけだった。

 

未知との遭遇か、であれば刺激的な行動は慎むべきだ、彼はその考えを消し去った。彼の直感がそれは仇なすモノだと告げていたからである。凛とセイバーは魅入られたように動かない。舞弥も同じようなものだ。どうする、と彼は悩んだ。選択を誤ると壊滅する、その予兆があった。

 

それは突然激しく蠢き始めた。黒い無数の帯が、打ち上げられるロケットの噴煙の様に戦慄き始める。それは警戒する動物の行動にも見えた。士郎には怒っているように見えた。一瞬、影で作られた人のカタチが見えたような気もした。まるで凛の姿を見て隠れたかの様だ。目にするのも汚らわしい、そう言わんばかりである。無数の帯がピタリ止まると、それは音も立てず、一瞬で数十メートルもの地面を走った。それは凛に向かっていた。

 

「セイバー!」

 

怒号の様な士郎の叫びで我に返ったセイバーは、凛に向かって疾走。彼女を抱きかかえた。士郎は投影開始、投影対象“カリバーン” それは今の彼の持つ最大の武器だ。様子を見るなど悪手、彼はそれを感じ取った。風船掴む様な仕草の両手、その間に稲妻が迸る。無数の帯は有線ミサイルの様に誘導し、セイバーと凛を狙い続ける。凛とセイバーが死ぬビジョンが彼の脳裏に走った。焦燥が募る、投影完了時間を考慮すると際どい。セイバーに抱かれた凛はそれを察して宝石を投げつけた。

 

「4番!」

 

その帯は宝石を綺麗に絡め取ると内包する魔力ごと喰らった。

 

「うそ!」

 

士郎は凛の時間稼ぎに感謝した。投影完了、カリバーンを不可視のカタパルトに装填、射出準備。それは1stバーサーカー戦の折、アーチャーが撃った“カラドボルクⅡ”の再現だ。見聞きした不完全な情報を参考に射出行程を独自に組み上げた。つまりはオリジナル。基本をアーチャーによって刻まれた彼はそれが可能なのだ。己の中で何度かシミュレートもしていた。セイバー監督の下、射出直前まで実演した事もある。ただし問題が一つ。実際に撃ち出すのは初めてだ。それでも悠長な事は言っていられない。士郎は矢継ぎ早に行程を走らせた。―――目標補足(ターゲット・マーク)、射軸確保(ライン・クリア)、弾頭種“選定の剣(カリバーン)”―――

 

「射出(ガン・ブレイジイング)!」

 

撃ち出されたそれは一瞬で音速を超え黒い影を掠めた。発射時の反動想定が甘く、狙いが逸れたのだ。だが雷雲の如き魔力の奔流に晒されたそれは、驚いた様に身体を震わすと消えた。映画のフィルムが切れたかの様に消えた。静けさが戻っていた、そう気がついたのは何時の頃だろう。影など初めから無かったのだ、そう言わんばかりの静けさの中、最初に声を発したのは士郎だった。

 

「みんな無事か」

 

セイバーは頷くと凛を降ろした。凛は大丈夫だと手の平を向けつつ、影が立っていた場所に歩み寄ると、その場所のマナがこそぎ落とされている事実に気づく。

 

「何あれ」

 

凛に呟きに応える者は誰も居なかった。

 

 

◆◆◆

 

 

影が何なのか凛にも見当が付かない。心当たりも無い。分かっている事は得体の知れない何かが冬木市に存在している事のみだ。聖杯戦争に関わるモノなら良いが、そうでは無いなら冬木の管理者として見過ごせない。士郎は凛の進言を受けて冬木教会に赴く事にした。彼とて冬木に住まう者だ、異常は見過ごせないのである。

 

それは教会へ向かう坂を登る途中の事。妙に落ち着かない舞弥にセイバーがどうしたのかと話しかれば舞弥は「冬木教会の神父はあの言峰綺礼よ」と答えた。セイバーは「前回のマスターが今回の監督役? その男が教会に居るのですか? 」と驚きを隠さない。凛が「そ、おまけに元代行者。昔は相当な腕前だったらしいわ」と続けると、セイバーは「遠坂凛がなぜ知っているのです」と慎重な表情だ。凛は「兄弟子でもあるから」と素っ気なく答えた。どうでも良い事だと言わんばかりである。もちろんセイバーは「きな臭いですね」と警戒の色を隠さない。「きな臭いと言われれば、否定のしようが無いわ」と凛は肩を竦めた。

 

その会話を聞いて思案に暮れるのは士郎である。綺礼が切嗣と戦った事は舞弥から聞き及んでいたからだ。どのような立ち位置で顔を合わせるか、悩んだ上で相手次第だと腹を括った。舞弥の呟きはが独白するかの様だ。

 

「正直会うのは気が引けるわね」

 

綺礼に負わされた傷が疼く、知れずそっと手を添えた。アインツベルンの城でアイリスフィールと共に戦った記憶を思い出す。士郎は良く分からないという顔である。

 

「何でさ」

「私も戦った事があるの」

 

それは因縁と言う事だ。士郎は二人にこう告げた。

 

「舞弥さんとセイバーは外で待っててくれ」

「しかし、シロウ」

「二人も気分的に良くないだろ。俺も会わせたくない」

 

教会に到着すると、舞弥は凛と士郎を見送るのみである。

 

「士郎。言峰綺礼は切嗣と戦った相手よ、十分気をつけなさい」

「分かった」

 

凛と士郎が教会の扉を開ければ、立派な礼拝堂が待ち受けていた。想像以上の厳かな雰囲気に満たされていた。気にも止めず祭壇に向かう凛の後を士郎が追えば其処に綺礼が立っていた。まるで訪れるのを悟っていたかの様である……事実待ちわびていた。何故なら黒い影と真也に関わりがあるだろう事は、真也自身から聞き及んでいたからである。ランサー戦を経たならば士郎らが遭遇する事は予想できた。綺礼はランサー戦を視覚共有で見ていたのであるが、もちろん二人はその様な事を知るよしも無い。綺礼は士郎に一瞥を投げたが気にしなかった。彼は士郎より優れた娯楽を愉しんでいるからだ。綺礼は何時ものように尊大な調子で、だが何時も以上に機嫌良く、こう凛に問いかけた。

 

「この夜更けに騒がしいと思えばアーチャーのマスターとはな。それに加えて連れ人有りか」

「セイバーのマスターなのよ、彼」

「そうか」

「何よ、随分機嫌が良さそうじゃ無い。気味が悪いわね」

 

「私とて人の子だ。おかしくは無いだろう」

「どういう冗談よ、それ」

「母君は元気かね?」

「ええ、いつも通りよ」

 

「それは結構だ。それで用件を聞こうか。リタイアで保護を求めてきた訳ではあるまい」

「負けたわよ」

 

それは綺礼も初耳だったが眉一つ動かさない。真也はランサーに伝えたが、その時知覚共有をしていなかったのだ。

 

「そうか。それは残念な事だな。亡くなった師も早い脱落に残念がっているだろう。いや、無事で良かったと喜ぶかもしれん」

 

聖杯戦争は漸く中盤、セイバー、ランサー、バーサーカー、ライダー、とまだ4体も残っている。名門の参加者としては成績が悪い。綺礼は哀れみも悔やみも見せず、淡々としていた。凛にはそれがありがたかった。

 

「保護を求めにきた、と言う訳ではないなら用件はなんだ。手短にしてもらえると助かるのだがな」

「綺礼の嫌みを聞きに来たんじゃ無いの。気になってる事があるのよ」

「聖杯戦争に関してなら、特定の陣営に荷担は出来ない。どうしてもと言うなら見返りを要求するが」

「そんなこと知ってるっての」

 

凛が黒い影の事を手短に伝えれば、綺礼は眉一つ動かさない。もちろん彼女は訝しがった。

 

「目撃情報は初めてだが、その情報は既に得ている。目下調査中と言うところだ」

「綺礼が動いているって事は、そう言う事?」

「聖杯戦争に関わるかは今のところ断定が出来ないが、異端の存在であれば見過ごせないからな」

「被害は?」

 

「初期は生命力を吸われ昏睡する程度だったが、徐々に酷くなり今ではまるごと喰われている。先日は3世帯、14人一斉に喰われた」

「サーヴァントの仕業?」

「断定は出来んが、サーヴァントではないだろうと言う意見がある。霊体は物体への影響力を持たないという原則を考えれば自ずと導けよう。実体を持たない何かが生命を、この場合人間の事を指すが、それを喰うという事象を考えるとその原則と矛盾する。私も同意見だ」

「誰よ、綺礼に意見する酔狂な奴って」

 

「蒼月真也だが。凛が聞いていないのか?」

「……真也は信用できないわよ」

「さて。遺体の状況や、入手した現場の検分記録を見る限り、報告内容との齟齬は見当たらない。少なくとも“嘘は言っていない”と思うが」

 

己に言い聞かせる様な凛の姿を見て、綺礼は満足そうにこう続けた。

 

「命を喰らうサーヴァントは過去にも居たが残るサーヴァントは、セイバー、ランサー、ライダー、バーサーカーの4体。マスターが目の前に居る以上セイバーではなかろう。ランサーは3騎士の一人、その様な搦め手を使う英霊は召喚されない。強いて言えばライダーとバーサーカーだが、」

 

沈黙を守っていた士郎が初めて口を開いた。

 

「それは有り得ない」

「君はなんと言ったかな?」

 

綺礼は敢えて聞いた。

 

「衛宮士郎」

「では衛宮士郎。何故そう思う」

「姉さんはそんな事しない」

 

1stバーサーカー戦はランサーを通じ綺礼も知っていた。従って、イリヤと士郎が義姉弟と言う事も知っていた。イリヤが一方的に士郎を狙っていた事も。綺礼は思わせぶりな視線を士郎に投げた。つまり綺礼は、切嗣、アイリスフィール、イリヤスフィール、舞弥、セイバー、士郎の関係を知っていると言う事だ。愉しくて堪らない。

 

(衛宮士郎。お前がイリヤスフィールの遺恨を逃れた、この意味に気がついているのか? お前達は知らず。己の善(身内・仲間)を守る為にあの男を敵(悪)に仕立て上げようとしている。規模は違えど、これではまるで拝火教の悪魔だな)

 

綺礼は3回目の聖杯戦争でアインツベルンが召喚したサーヴァントがそれだった事を思い出した。そして。それが前回の聖杯戦争で生まれ掛けた事も思い出した。綺礼は続けた。

 

「確かにアインツベルンはその様な不完全な英霊は使役しまい。ではライダーだが」

「それもちがう。桜はいま遠坂の所に居る」

「なぜ、蒼月真也の妹が凛の家に居る」

「遠坂の実の妹だ」

 

士郎のその発言は兄弟子なら知っておくべき、という判断であった。

 

「ほう、あの蒼月桜があの遠坂桜だったとはな。なるほど、そう言う事か」

「いいでしょ、そんな事は」

 

余計な事をと、凛は不愉快さを隠さない。

 

「よくは無いだろう。師の令嬢である以上、私とて無関係ではない。彼女は覚えていないかもしれないが、幾度と会った事がある。昔の話だがな」

 

綺礼は桜の属性が架空元素・虚数と言う事を思い出した。時臣から聞いていたのである。それ故養子に出された。間桐の魔術が吸収と束縛だと言う事も思い出した。桜の髪と瞳の色は間桐の証だ。相当に過酷な魔術処理を施されたであろう事も察しが付いた。

 

つまりあの影は桜の生み出したモノ、その可能性がある。だが桜自身はその様な真似はしまい、一般人を襲う理由が無いのだ。また如何に素質はあろうと、訓練を受けていない以上その様な芸当は出来まい。では誰がしでかしている。影の出現タイミング、桜が遠坂に戻ったタイミング、桜が身を置いたマキリの聖杯への執着、臓硯の性質、聖杯の中身に居るモノ……それは仮定に過ぎないが、綺礼は愉快で堪らない。企みに値する価値は十二分にあった。凛は綺礼の笑みが気になった。今にも声を出して笑い転げる、それを必死に堪えている様に見えたからだ。

 

「であるならば、召喚されたサーヴァント以外の存在と言う事になる。それはそれで困ったものだが」

 

士郎が言う。

 

「真也が何処に居るか、アンタには心当たりはあるか?」

「知らないのか“お前たち”が。妹と共に居ないのであれば、もはや生きてはいまい。奴は妹の為だけに存在する者だからな。もし。共に居ない上で死んでいないのであれば、つまり妹の為だけの存在では無いならば自ずと知れよう。奴には闘争しか残っていまい」

「アインツベルンの城……」

 

綺礼と士郎の会話そっちのけで、凛はある疑念に囚われていた。全ては桜の為だけの行動だった、その筈だ。だが綺礼はそうではないという。桜の為だけの存在では無い、というならばそれは何を意味するのか。関係ない、今更だ、そう浮かんだ疑念をすりつぶした。答えを出す前に、考えるのを止めた。何故なら凛は当事者であり、綺礼は当事者では無い、その筈だから。何よりもう後戻りなど出来ないのである。凛の心中察する綺礼は笑みを浮かべた。士郎が言う。

 

「言峰神父だっけ? 一応礼は言っておく」

「構わんよ。聖杯戦争に関わらないのであれば、私とて冬木に身を置く者だ。住人を荒らす簒奪者は看過できん。だが急がねば成らんな。手を打つのが遅れるほど事態は悪化する。手遅れになっては目もあてられん」

「案外良い人だな、アンタ」

 

今度こそ綺礼は堪えきれず、小さく笑いを溢した。教会を出た士郎はセイバーと舞弥に合流し、交わした内容を伝えた。真也を追う、つまりアインツベルンの城に向かう事が決定した訳だ。兎にも角にも今晩は解散である。覚束ない足取りの凛に士郎はこう言った。

 

「俺らは明日姉さんの所に行く。真也が迫ってるなら行かないと……遠坂?」

「あ、うん、何でも無い。黒い影の為にここに来たのに、夜が明けたらバーサーカーの根城。展開が急だわ」

「真也は負傷している。今晩は流石に無理だろうけれど明日は分からない。俺らは明日の朝に出発するけれど、遠坂はどうする?」

「行くわよ。責任があるんだから」

「遠坂、その言葉忘れるなよ」

 

士郎らが立ち去り静まりかえった礼拝堂。サンタクロースのプレゼントを心待ちにする子供の様な綺礼に対しギルガメッシュは不愉快さを隠さない。

 

「綺礼、愉悦はここまでだ。小聖杯の破壊など見過ごせん」

「急ぐには当たるまい。あの男は小聖杯を殺せないだろうからな」

「ほう、その根拠は何だ。貴様、何を考えている」

「連中に伝えた通りだ、それができるなら一人ではいまい」

「雑種の考えなど読むにすら値せん。だが役者の格を考えれば我が動くにこれ以上の舞台はない。あれは我の物だ」

 

それは許可を求めているのではなく、宣言だ。

 

「構わん。好きにするといい、ギルガメッシュ」

「次の娯楽を見つけたと言う事か。ま、程々にしておけ。好物も喰らいすぎれば不愉快となろう」

 

ギルガメッシュが立ち去り、今度こそ静まりかえった礼拝堂で、佇む綺礼は予言者のよう。

 

「“此度の聖杯戦争は荒れる”そう言ったのはお前だったな。肉親に対し裏切りを働いた者が囚われるカイーナの環。その環は第九圏 裏切者の地獄“コキュートス(嘆きの川)”にある底も底だ。心するが良い英雄王、お前とてその環に引き擦り落とされるかもしれんぞ」

 

 

◆◆◆

 

 

刻を遡る事数刻前。ランサーは適当な場所でルーンを刻み真也の傷を塞ぐと、再び移動した。血痕を絶ち、追跡を封じる為だ。だが、困った事に真也の脇腹にある銃創が塞げない。無理に癒やしをかければ癒着してしまう。腹部に撃ち込まれた弾丸を摘出する魔術など、近代を過ぎないと存在しない。理由は簡単、神話の時代に銃など存在しないからだ。つまりランサーには癒やせない。

 

二人がやってきたのは廃屋の敷地内である。そこは人通りが相応にある道路と面しており、裏を掻くという意味で隠れるには打って付けだ。ただその結果一般人に発見されては意味が無い。真也はコンクリート製の塀によってもたらされる死角に潜む事にした。ランサーは真也をゆっくりと塀にも垂れかけさせた。さてどうする、ランサーは悩んだ。

 

「凛ってさ、桜の実の姉だったんだ。この間初めて知った。納得だ。揺れるはずだ」

「無駄口叩くな。体力を消耗する」

 

脇腹の穴も問題だが、血も足りない。真也が携帯する治癒薬は体力もそれなりに回復できるが弾丸を摘出しない以上使えない。加えてこの真冬に屋外、体力は消耗する一報だ。だが腹の銃創に、加え血だらけ、衣服は切り刻まれ見るに堪えない。ホテルは使えない、通報されるのが落ちだ。凛が追っている以上、家には戻れない。監視されてるとみるべきだ。ランサーは無駄だと思いつつこう聞いた。

 

「しけこめる女とかいねーのか?」

「いないよ、誰も居ない。止血だけして、明朝、明るくなったら弾を摘出。その後塞ごう。治癒薬があるから、出血と体力は何とかなるだろ」

「食い物とか包まれるモノを調達してくるわ」

「その前に、その辺の低い木を3本もってこい」

「何の呪いだそれは」

「風よけと、カモフラージュだ。小さい頃からよくやる手なんだよ」

 

真也の言う通り敷地内にある木を三つ抜いて、真也に被せるとランサーは消えた。塀の向こう側には人の往来がある。コンクリートの壁を一枚隔てたその暗がりに、血だらけの怪我人がいるとは思うまい。朽ちた門を通り、覗く酔狂な人間など居ないのだ。

 

(それにしても凛、容赦なかったな……)

 

容赦なく魔術を奮ったその姿を思い出すと、自然と笑みがこぼれた。

 

(そう、出会った頃はあんな感じだった。今のキツイ方が良いと思うのは何故だろう。俺が変えてしまったのか。それとも元々ああいう資質があったのか。戻れるなら、戻れた方が良い。魔術師ってのはそうじゃないと、何かと不便だ……)

 

凛に聞けばなんと答えるのか、知りたいとは思ったがその内考えるのを止めた。もはや意味が無いのである。意識が混濁し、無意識との間を漂っていると、ガサリという妙な音が聞こえた。彼には何の音か理解できなかった。だから。

 

「こんなところで何やってるのよ」

 

綾子が被せた枝木を手で避けて、彼を覗いていた事実がしばらく認識できなかった。山越に麓の村を覗くダイダラボッチに見えたのは彼だけの秘密だ。

 

「……どうしてこんな場所に居る」

「どうしてって、探してたから」

「馬鹿を言え、偶然で見つけられる場所じゃないぞ」

「……真也の匂いがした?」

 

綾子は既に懐かしさすら感じる、コルク色の穂群原(ほむらばら)学園服だった。端正なその顔が困惑に染まっていた。ライトブラウンの髪がさらりと揺れた。

 

「そんな説明で納得するか」

「その枝」

「枝がなんだ」

「昔やった隠れんぼ。木の枝を3本折って、隠れ蓑にする、それって真也がよくやった隠れ方。ほら、抜いた後が3つ有る。朽ちた門から丸見えだ」

 

それは幼い頃共有した記憶である。そんな馬鹿なと、真也は認めない。

 

「偶然、偶々、それを見たってのか」

「一度登校した桜がまた休んだ。衛宮も遠坂も休みっぱなし。“桜の見舞いに”アンタの家に行ったらもぬけの殻で。違和感を感じまくり。なんて言うか、そう悲壮感みたいな奴。桜と真也の何時も使う靴が無くて、リビングの片付け方も何時もと違う。その上見慣れない男物のスーツもあった、から」

 

リビングはキャスターが片付けた。スーツはランサーが置いていった物である。

 

「から?」

「妙な胸騒ぎを感じて。ずっと探してたのよ。真也の隠れそうな所を片っ端から全部」

 

話し方がおかしいのは、綾子自身接し方が分からないからだ。そう、彼女にとって振られて以来の再会となる。有り得ない、そう思った彼は後頭部を塀に打ち付けた。ふらつきながらも立ち上がった。

 

「綾子、今から大事な事言う。回れ右して家に帰れ。綾子は何も見なかった、全部忘れろ、いいな? 綾子には俺に関わる理由は既に無い、だろ?」

「……そうしてほしい?」

「そうして欲しい」

「そう」

 

少しだけ寂しそうな表情を浮かべ、立ち去ろうとした瞬間である。

 

「嬢ちゃんは真也の知り合いか。コイツ、怪我してるんだが匿ってくれねぇか?」

 

見知らぬ怪しい男の突然の登場に驚いたが、怪我という言葉に綾子は囚われた。真也は忌ま忌ましさを隠さない。

 

「ランサー、貴様……」

「安心しな、マスターは客人を迎える準備で一杯だ」

 

綺礼は今か今かと士郎らを待ち構えている、と言う意味だ。

 

「何よその怪我」

 

暗がりに目が慣れれば、真也が酷い有様だと気がついた。

 

「転んだ」

「もう少しまともな嘘をつけ」

「なら絆創膏くれれば良い」

「病院に行く怪我だと思うけれど」

 

「それは無理なんだな」

「なぜ?」

「警察沙汰は避けたいんだ」

 

中学時代、綾子がよく聞いた彼の台詞である。

 

「家に来て。手当てするから」

「なぜ」

「怪我人なら仕方ない」

「気にするな、そう言ったぞ」

「気にしない関係なら警察に通報するよ。もしくは今ここで大声を出しても良い」

「……」

 

ぐうの音も出ない真也だった。

 

 

◆◆◆

 

 

幸いな事に美綴の家は無人だった。母親はパート、弟は遊びに新都へ行っている。手当をする、と半ば意地で真也を家に招き入れたは良いものの、判断を間違えたのでは無いのか、そう憂慮する綾子であった。そこは美綴邸の浴室である。狭くも無いが広くも無いユニットバスだ。浴室を暖める為、熱めのシャワーは出しっ放し。湯気が籠もる。白色のその浴室は、血の色に染まっていた。

 

床に敷いたバスルーム用のマットレス、その上に真也は全裸で仰向けだ。目のやり場に困るので腰にはタオルを掛けてある。綾子にとって彼の裸は初めてでは無い。小さい頃から何度も見た事があり、最期に見たのは中2だった事を思い出した。当時の真也は全く動じなかった。綾子が動揺を忘れるほど、桜が大騒ぎした事を思い出した。だがそれは問題では無い。重要な事は、その彼の脇腹に穴が開いて、血が漏れ出している事だ。彼女はこれから腹にある異物の摘出をしなくてはならないのだ。

 

(私を振った男が私の家の浴室で、全裸で、脇腹に穴が開いていて、血だらけで、何なのこの状況……)

「んじゃ、嬢ちゃん。始めるぜ。用意は良いかよ?」

「え、あ、はい」

 

ランサーが槍で真也の腹を切り、加熱消毒した鉄の菜箸で綾子が取り出すという算段だ。

 

「真也、麻酔無しだが良いな」

「やってくれ」

「……いいの?」

「麻酔を使うといざという時動けない」

 

いざとは何だ、そう疑問に思ったが聞くのを止めた。どうせ碌でもない事に違いない。真也は綾子が用意したタオルを噛んだ。ランサーはゲイボルクを顕現させた。これは悪夢か現実か、綾子には訳が分からない。そもそもこの青タイツの男は誰だ。彼女の心中露知らず、ランサーは精密機械の様な動きで真也の脇腹に穂先を突き立てた。

 

「……っ」

 

真也の顔が苦痛に歪む。その槍の鋭利な刃は一分の乱れなく、無駄無く、腹を切開した。血があふれ出す。綾子は念入りに消毒した指で傷口を開くと、そこにあるのは初めて見る人体の内部である。余りの生々しさに吐き気を催した。箸を持った手が震えた。手元が狂い、箸先が腹の内部を突くと、痛みで真也がうめき声を上げた。

 

(そ、卒倒しそう……)

 

だが今は駄目だ、取り出してから卒倒しよう、彼女はそう腹を括った。唇を強く噛んだ、泣き出さない為である。だが瞳からはボロボロと涙があふれ出した。綾子が何度か腹の中を箸で突き、真也が何度かうめき声を上げた後、彼女はそれを摘まみだした。鉛を銅合金でコーティングした金属の塊が、箸から抜けて浴室に落ちた。甲高い落下音を立てると、それはコロコロと転がっていった。瞳から採光を消し、綾子はそのまま失神した。ランサーが彼女を支えると、ルーン文字を真也に刻み、傷口を塞いだ。ランサーが真也に言う。

 

「……どうすんだ、この状況」

「俺が部屋に連れて行く。ランサーはこの部屋の血を念入りに流してくれ」

「この嬢ちゃん、半裸だな」

 

綾子は下着姿にバスタオルを捲いていた。ランサーはにやけ顔だ。

 

「茶化すな。お前にやらせる訳にはいかないだろ。流石に」

「俺の女に触るなってか」

「ハタくぞ」

 

真也は気怠さを堪えながら全身の汚れと血を洗い流すと、身体を拭き、スウェットに袖を通した。それは綾子が持ってきた、彼女の弟である実典の物だ。彼は綾子を抱きかかえると、そのまま2階に上がっていった。

 

綾子は自室のベッドの上に寝かされている事に気がついた。オイスターホワイト色を基調とし、若葉色のカーテンでアクセントを付けた自室だ。寒々しいか、清潔感があるか、どう評価するかは人によるだろう。弟には女の部屋ではない指摘された部屋であり、真也にはシンプルで良いと評価をされた部屋だ。彼女がむくりと起き上がると、部屋の隅に真也が座っていた。胡座を組み壁にもたれ掛かり、じっとしている。瞑想しているようにも見えたが、意識がある事は直感で分かった。沈黙が訪れた。何を話して良いのか分からない。話しかけたのは綾子が先だった。

 

「あのさ、」

「ごめん」

「……なによ、突然」

「迷惑を掛けた事、助けて貰った事、そして、」

 

彼の指し示す指の先、それは部屋の隅だ。透明なビニール袋があり、それには綾子が付けていた下着が入っていた。ふと己の姿を見れば、Tシャツ一枚である。恐る恐る、襟首に指を差し入れ中を覗けば案の上だ。怒りが沸いてきた。

 

「真也。濡れてたわよね、私の身体」

「はい。拭かせて頂きました」

「風邪引くものね、ベッドも濡れるし。仕方ない」

「仰る通りでございます」

「ま、下手に下着に手を付けず、Tシャツ一枚で済ませたのは褒めてやる」

「お褒めにあずかりまして光栄です」

 

綾子は怒り笑いの様相で、人差し指をクイクイと動かした。その指はさっさと来いと言っていた。彼は不可抗力だとは思いつつ、立ち上がり頬差し出した。例えるなら不承不承、苦虫を噛み潰した様な顔だ。綾子は怒りと羞恥で頬を染め、涙を浮かべ、振りかぶった。その直後。その部屋にとても良い音が響いたという。

 

 

◆◆◆

 

 

スウェットに着替えた綾子は自分の机に向かい、摘出した金属の塊をコロコロと指で弄んでいた。頬杖を突く。彼女にはそれに関する知識は無かったが、想像は容易い。ふと見れば腐れ縁の少年は部屋の中央でおにぎりを頬張っていた。それは彼女が拵えた物だ。他には卵焼きと、豚汁もあった。彼女は非難めいた目である。

 

「何これ」

「おばさんにバレてないか? さっきパートから帰ってきただろ」

「靴は隠したけれど、多分バレてる。何これ」

「俵おむすびって変わってないな。桜は三角だし」

 

「早々変わらないって。何これ」

「卵焼きは味が変わった?」

「卵焼きじゃ無くて、だし巻き。何これ」

「えーと、」

「いい加減吐け。これ弾でしょ?」

 

彼はごちそうさまと一言述べて箸を置いた。

 

「聞かないでくれ。綾子を巻き込みたくない。図々しいのは百も承知してる。直ぐ出てくよ。忘れてくれればそれで済む話だから」

「……」

 

彼女は机に突っ伏した。頭も抱えた。関わるべきではない、深入りしてはだめだ、どう考えてもまともでは無い。この腐れ縁は、昔から法律に触れる際の事をしてきたが、今回は極めつけだ。幽霊の様に文字通り消える、だが実体を持つ槍を持った男。切り刻まれた衣服に、銃創。直ぐに追い出す、もしくは警察に通報だ。悩んだ。悩みに悩んだ。出した回答は理屈では無かった。

 

「終わった、私の人生終わった。正真正銘ロクデナシに台無しにされた……」

「過去形にするにはまだ早いぞ」

「確定ってことよ」

 

彼女はおもむろに立ち上がると、真也に歩み寄る。振りかぶると拳を打ち下ろした。それは綺麗に彼の左頬を打ち貫いた。真也は避けもせず、堪えもせず、為すがまま。大の字でごろりと寝転がる。

 

「……怪我人だぞ」

「うるさい! この最低男! せめて一発殴らせろ!」

 

綾子は跨がると左右の拳で殴り始めた。

 

「一発じゃ無い」

「一発で足りる訳無いだろ!」

「女の子はせめて平手打ちにするべき。グーパンはやめれ」

「だまれ! この女の敵!」

 

右、左、右、左。それは拳、否、想いの応酬である。彼女のその手が赤く腫れてきた頃、嗚咽を漏らし始めた。ぽつりぽつりと涙が、真也の頬に落ちた。

 

「何やってるのよ、アンタ。振られてたくさん泣いて漸く落ち着いてたのに、また現れて。見捨てるにも怪我してるし、撃たれて、たくさん血を流して、放っておける訳無いじゃ無い……」

 

臆面無く泣きじゃくる幼なじみに、彼はただ済まないと謝るのみである。彼を見据えるその表情には未だ涙を湛えていたが、何時もの調子が戻り始めていた。

 

「そう、自覚あるのね。私を利用してるって自覚が」

「もういいのか」

「罪を自覚してる奴を殴ったら、そんなの自己満足。違う、子供の喧嘩だ。話せ。許してやるから事情を全部話せ。話さないなら死んでやる」

「滅多な事を言うな」

 

彼女は立ち上がり、机の引き出しからカッターナイフを取り出すと、躊躇いもなくその手首を切りつけた。血があふれ出す。真也は目を剥きつつもこう叫んだ。

 

「ランサー!」

 

 

◆◆◆

 

 

真也の綾子象は唐竹を割った様な性格、その筈だった。ところが桜に負けず劣らずの深みを持っていた。真也はただ驚くのみである。追い詰められた彼は渋々話しだした。凛も桜も士郎も魔術師である事、聖杯戦争の事、桜と凛が姉妹である事、怒らせて取り上げられた事、狙われている事、寿命の事、全てである。彼女には神秘を見られている、ランサーであり、手首の傷を塞いだルーン魔術もそうだ。だから敢えて全て話した。嘘だと怒り出すなら好都合。だが10年顔を合わせた少女は戸惑いつつも、真也の顔を見るのみである。疑っていない事は明白だ、ただ突飛な真実をどのように受け入れるか、困惑していた。

 

「あのさ。俺が言うのもアレだけど、荒唐無稽と思わないのか」

「唇を強くつぐむ、ほんの少し唇を舐める、右肩を僅かに上げる、首を右に少し傾げる」

「なんだそれは」

「真也が嘘をつく時は大体これをやる。少なくともアンタは嘘をついてない」

 

彼が出来る事は項垂れ、ただ謝る事のみである。その行為はこの期に及んでまだ信頼していない証だったからだ。

 

「……ごめんなさい」

「ふんっ」

 

ランサーは翌朝、落ち合う場所を真也に伝えどこかに消えた。もちろん綺礼に知られない為だ。もちろん、気を利かした。その部屋の灯りが消えたころ時計を見れば夜の10時だ。これほど早く床につくのは彼にとっては久しぶりだった。彼女は仰向けで天井をぼうと見ている。彼は背を向けていた。その距離は拳一つ分ほどだ。彼女はパジャマを摘まみこれ見よがしに意識させた。

 

「触ってみる?」

「触らない」

「あ、でも。ただじゃ駄目ね。愛してるって言った触らせてもいい」

「出来ない」

「アンタね……嘘でも言いなさいよ」

「そこまで恥知らずじゃない、つもりだ。それに。もう嘘は懲りた」

 

呼吸の音だけが聞こえる。とても静かだった。

 

「前に来たの何時だったか覚えてる?」

「最後に来たのは小6の時だ」

「帰るところを同級生に見られてからかわれて、真也は気にしなかった。私だけが意識してた」

「そう。俺は気にしなかった、気にも止めなかった。ただその後桜に告げ口されてとても難儀した」

「はは、そりゃ大変だったろ」

「思い出したくない」

 

呼吸の動きすら感じられる距離だ。

 

「桜が運動会でハードルで転んで、泣いて、真也がそれをバットで壊した」

「良く覚えてるな」

「止めた私も巻き添えで怒られたから。先生に拳骨喰らった真也は、のほほんとして、私だけ必死に謝ってた」

「俺だって謝ったさ」

「一言だけだったろ」

 

綾子は寝返りを打つと、彼に背を向けた。

 

「秘密基地を作った事もあった。放棄されてたバスを改造してベッドを作って、そのまま寝てしまって、気がついたら朝だった。散々怒られた」

「小6だ。傷物にされたと勘違いした親父さんにボコボコにされた」

「早合点したと、あの後お母さんにボコられたんだけどね。知ってた? アレ、謝りに来た千歳さんにお父さんが見惚れてた事も一因だ」

「見た目は良いからな、お袋」

「千歳さんが真也に対し一歩引いてるのはどうしてよ。桜は普通なのに」

「俺も知らない」

 

二人は背を向け合っていた。

 

「なんで遠坂と別れたのよ。私が言うのも何だけれど、あれだけの優良物件無いよ」

「俺は凛を傷つけてしまうから」

「なによその理由。その程度で諦められる好きだった訳?」

「精神的な話じゃない。物理的な意味だ。あの時の俺は、凜を殺してしまいかねなかった。だから別れた。ま、今となってはどうでもいい話だ。でも綾子は、遠坂じゃ無いから。だから綾子には応えられない」

「知ってたわよそんな事。今日殺されるかもって毎日思ってた」

「……なんで?」

 

真也は思わず振り返りたくなる衝動を抑えた。ただ突飛な発言に身体が緊縮した。

 

「桜の為なら死んでも良いって奴が、他人の命を気遣う?」

「なんで?」

「私が半端な気持ちでアンタの面倒見てたとでも思ってた訳?」

「いや、それおかしいだろ」

 

流石に聞き流せず、彼は身を起こした。その少女は背を向けたままだ。今更聞くなと不愉快さを隠さない。

 

「そうよ。真也に選んだって言われた時、それを受け入れた時からもうおかしいのよ私は」

「桜も重い娘だったけど綾子もそうだったのか。もっとさっぱりしてると思ってた」

「気がつかないのはアンタだけよ」

 

それ程の事を同い年の少女にしてきたのかと、彼は項垂れるしかない。ベッドの上で胡座を組んだ。ギシリとマットレスが音を立てる。

 

「桜って養子だったんだ。凛の実の妹だよ、先日初めて知った」

「桜じゃない桜と同じ匂いのする女の子、か。シスコンには刺激が強いわ」

「全くだな」

「……ひょっとして未練がある訳? ここまで嫌われて」

「未練ていうか、なんというか。向こうが嫌ってるだけで、俺は嫌ってないし」

「……それ失礼すぎじゃない?」

「何が」

「アンタね、今の状況分かってる?」

「女の子の部屋で寝てます。夜です」

「母親の暗黙の同意まで取り付けて、ここまでお膳立てされて、他の娘を第一に考える訳?」

「……変だよな、やっぱり」

 

起き上がった綾子の表情は、さも不愉快だと言わんばかりだ。唇を尖らせ拗ねている。

 

「あったまきた。ほら、もういいから。エッチしよ。怒らないから」

「無理です、やめれ」

 

綾子がおもむろに脱ぎ出せば、ボトムのインナーのみである。カーテンから漏れ入る夜の灯火、闇夜に浮かび上がるその肢体は、幻想さを感じさせた。彼女は寄せてあげて、もみ上げた。嬉し恥ずかしの体である。

 

「どう? カップサイズは桜には及ばないけれど、遠坂よりはあるのよ? 責任とれとか言わないから、ほら。触ってみ」

 

残念ながら彼は動揺すら見せなかった。腕を組んでふてぶてしい面構えである。

 

「良いか、綾子。俺が善人になったと思ってるなら大間違いだぞ。何も変わってない。桜だけだった俺に凛が追加されただけだ。余り挑発すると酷い目にあう。必要だって判断すれば、孕まして捨てることだって出来るんだ」

「俺はワルだぜ、だなんてガキか」

「ワルって言い方随分古いな」

「粋がる前に、嘘をつく時の癖なおしな」

 

「善処する、だから服を着ろ」

「アンタそれでも男?! 乙女がここまでしてるのに!」

「これでも義理を立ててるんだよ。あと声が大きい」

「二人に?」

 

「綾子にもだ。出なきゃこれだけしんどくない」

「しんどいんだ」

「だから、寝て良いか? 少しだけ」

「いいよ。わたしができるのはそれ位だ」

「ばか言え、とても嬉しかったさ」

 

真也が寝息を立てた頃、これ位は許されるべきだと、綾子は寄り添った。

 

 

◆◆◆

 

 

カーテンの隙間から見える空は未だ暗い。陽が昇るまでまだ数刻必要な冬の朝。その少女は気配に目覚めた。薄目に映る馴染みの少年の姿は、彼女が初めて見る顔をしていた。直感でこの少年が何をするのか悟った。

 

「何をする積もりか知らないけれど、真也、アンタ、生きてかえってくるのよね? 」

 

SWAT風の礼装を装備し終えると、その少年は何も言わず霊刀を手に取った。

 

「私の本心を言うよ。ここに居て。匿ってあげるから」

「すまん。それはダメだ。その願いは聞けない 」

「どうしてよ。残り短いならゆっくりすれば良いじゃない。10年間桜の為だけに生きてきて、遠坂の為に辛い目に遭ってる。まだ辛い目に遭うつもり?」

「凛だけじゃない。もう俺は引き返せないから。それに、ただ待つのは趣味じゃ無い」

 

綾子は身を起こした。

 

「嘘だね。真也は、遠坂を辛い目に遭わせたから、必要以上に罰を受けないといけない、そう考えてる。真也の筋書きはこうだ。全部倒して真也が残る。その上で聖杯を手に入れない。桜も願いがない以上、それが可能。聖杯は誰も手に入れなかった。遠坂の敗北も意味が無い。なぜなら勝者が居ないから。その後、ランサーさんのマスターも倒して、誰にも真相を語らず、悪人のまま死ぬ、どう?」

 

真也は身体を止めた。それは図星だ。

 

「なぜ」

「遠坂が桜だったら、って考えれば簡単さ」

「幼なじみがこれほど厄介だとは思わなかったな」

「聞きな。いい? すれ違って肩がぶつかった、人を跳ねた、この二つが罰が同じだと思う? おかしいわよ。殺され掛かってまでなんで? 昔から一緒だった桜はともかく、遠坂はつい先日でしょ? 洗脳されたって自分の命の危険が迫れば考えを変える、少なくともとっさには。親だって子に殺され掛かれば、反射的に自分の命を守る。生き物なら当然の行動。惚れた弱みって言うけれど、自分が原因だとしても、常軌を逸してる。けど真也は狂ってない。狂った奴ってのは求める為にその良識、常識、タガが外れた連中の事を言うから。真也が狂ってるなら、遠坂を殺してでも自分の者にするね。にも関わらず、それを受け入れ耐えている。真也にとって遠坂の血ってなに? お姫様に仕える騎士だって、もう少しまともさ」

「なんでだろうな。自分でも良く分からない」

 

綾子は深々と溜息を付いた。腕を組んで、やっていられないと言わんばかりだ。

 

「分かってはいたけれど、ここまで頑固、意固地だとは思わなかった。あーもう。真也の精神構造、人間業じゃない。手に負えないってこの事だわ」

「俺も呆れてる」

 

一つ深呼吸。彼女は決意を伝える事にした。

 

「10年付き合った奴に“迷われる”と寝覚めが悪い。遠坂姉妹は引き受けた。アンタが二人にこだわってるように、私も真也にこだわってる。なにがあっても私は真也の味方で居てやる。これだけは忘れるな」

「さっぱりした性格でいてくれたなら楽なのに」

「真也の躊躇いになれたなら本望だ」

「俺にとって綾子に会えた事は幸運だったんだな、ありがとう」

「もし、無事に戻れたらさっきの続きをしよ。私に溺れさせてやる」

「戻れたらな」

 

叶う事など無い、だがせめてもの気遣いを彼は口にした。そう言うとその少年はその部屋の窓から姿を消した。音も無く、気配すら立てず、消えた。初めからその部屋に居なかった、そう言わんばかりだ。無音の室内。彼女は黙ってクローゼットからロングコートを取り出した。それはキャスター戦の時、真也が綾子に羽織らせた物である。節々が裂け、破れている。血痕も残っていた。あの真也が怪我を負う程である、相応の修羅場だった事は想像に難くない。つまり助けられた。流石の綾子もこの事実がなければ、彼を見捨てただろう。

 

「最期まで桜の為だけだったら良かったのに。ほんと嫌な奴」

 

何も求めない。せめて帰って欲しいと願いを込め、彼女はそれを強く抱きしめた。

 

 

◆◆◆

 

 

未だ薄暗い冬木市の住宅街。雀たちが囀るにも今しばらく時間が掛かる、そんな頃。冬木大橋へと続く十字路で槍兵と落ち合うと、彼は立ち止まる事無く歩き続けた。

 

「急ぐぞ、ランサー。士郎たちが追ってくるかもしれない」

「あの嬢ちゃん、えらいカッカしてたが、お前何をした。孕まして捨てたか」

「するか。10年越しの娘に告られて断っただけ」

「……あー」

 

純粋、一途という意味である。

 

「あーってなんだ」

「いい女じゃねえか。もったいねえ」

「俺がマトモだったなら、そう思うんだろうな」

 

遠坂の血だけに反応するという意味である。ランサーはその良い訳がましい態度が気に入らなかった。

 

「女を泣かせてる自覚があるなら直せ。俺には気に入らない奴が三ついる。戦に手を抜く奴、女を大事にしない奴、そして臆病者だ。真也、お前は全部だ」

 

封印と、凛から離れた事と、綾子一人すら背負えない、と言う意味だ。

 

「気に入らないなら、降りてもいい」

「仕事は仕事だ」

 

ほんの少しだけ、その身体は軽かった。

 

 

 

 

 

つづく!



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36 カイーナの環・6 バーサーカー編

真也と別れた日から桜はずっと伏せっていた。もちろん伏せるだけではなく、眠る時間が多くなり、更にはそれが加速度的に悪化していった。つまりは衰弱である。大聖杯の中に居るそれから伝わる呪いの影響もあったが、兄に掴んだ手を振り払われた、置いていかれた、二度と会えない、それによって生じた心理的衝撃が彼女にとって相応の物だった、と言うことだ。

 

桜は葵に対し姉に対し。要望も言わない、不平も言わない。幾度となく問いかけても、その口が心を告げる事はなかった。食事にも手を付けず、ライダーに頼んで漸く少量の流動食を食べる程度である。血色が悪い、毛髪と肌に張りがない、頬も痩け始めていた。肺活量の低下、呼吸も浅く、狭い。今ではベッドの上で身を起こす事すら難しい。今の状況を、つまり遠坂に戻った事を拒絶する事は彼女の出来うる最大の抵抗だった。

 

桜の傍らで腰掛けるのは葵である。ベッドに横たえる娘の手を握る彼女はただ憂いを湛えていた。幾度となく話しかけても、その娘は悲壮な笑みを浮かべるだけだ。一歩引いている、心を開いていない事は明白である。だが葵はその理由にとんと見当が付かない。

 

「せっかく帰って来られたのに……」

 

凛は一日に一回、顔だけ見ると立ち去るのみである。二人は言葉を交わさず、視線すら合わせない。何故だ、もう会えないと諦めていた家族が戻ったというのに、この家には悲壮感しかない。何かが欠けている。とても大事な何かが。目を瞑り寝ている娘の手は、冷たく、細い。

 

ノックの音が二回響いた。扉が開けば現れたのはライダーである。 彼女はトレーを持ち、手ぬぐいと、桶を持ってきた。それには僅かに熱めの湯が入っていた。彼女は長い髪をうなじで結い上げると、葵に構う事なく毛布を捲り、桜の身体を拭き始めた。葵に許可を取る必要すら無いと語っていた。黙々と淡々と見える騎兵の手は、最大限の配慮と気遣いが籠められていた。それを認めた葵は胸のつかえを吐き出す事にした。桜という共通の、大切な存在を持っている以上、仲違いする必要が無い、彼女はそう思ったからである。

 

「ライダーさん。私たちは何かを間違っているのでしょうか」

 

ライダーは手を止めずに桜の世話をしている。話しかけるなと言わんばかりだ。だが葵とて退けないのである。

 

「何か知っているのであれば、教えて頂けないでしょうか。ライダーさんが私たちの事をよく思っていない事は承知しています。まだ短い間ですが、お伺いするところ、ライダーさんの桜に対する想いは疑っていません。ですが私もこの子の親です。想いで劣るつもりはありません」

 

ライダーは手ぬぐいを湯につけると、それに浸し絞った。その絞り方は少々過剰で、葵にはそれが苛立ちだと理解した。

 

「遠坂葵。貴方は優しい人物です。ですが、無垢すぎます。自分には関係ないところの悲劇を見て悲しんでいる。今風に語ればテレビに映る飢餓を哀れむようです。己は安全な所に立ち、さも悲哀を共有している様な態度、悲嘆に暮れている態度、その性質殺意すら沸きます」

 

ライダーは葵に目もくれない。ただ桜の世話をしていた。葵は毅然と立つと、強い口調でこう問い返した。

 

「それは、どのような意味でしょうか」

 

その言葉は聞き流せない、そう語っていた。子を思う気持ちを侮辱されたからだ。

 

「私にそれを語る事は許されていません。真実を知りたいならばご当主に聞くと良いでしょう」

 

ライダーのその物言いは“何かがある”と言っている様なものだ。葵は桜の額に手を添えると、一言「失礼します」と言い立ち去った。

 

 

◆◆◆

 

 

「あまり虐めないでね」

「目が覚めましたかサクラ」

「頭の上で喧嘩されてまで寝ていられる程無神経じゃないの」

 

桜のその声は掠れ弱々しい。瞼すら開いていなかった。数日前世話をするしないで兄と言い争った人物とはとても思えない。ライダーは主に悟られぬ様、憂慮の相をとった。桜がうっすら開けた瞳には、窓越しに見える晴れた空が映っていた。

 

「今何時?」

「昼を少し回った頃です。ゼリー飲料を入手してきました。これなら食べやすいですし、喉も通りやすいでしょう」

「どうやって買ってきたの?」

「それは秘密です」

 

「そんな事したらいけないんだからね」

「お金は置いておきましたから」

「お金って、どこから?」

「遠坂凛の財布からです」

 

桜はくすりと笑った。桜はライダーの濡れタオルに成されるがままである。

 

「兄さんはどうしてるかな」

「家には居ないようです」

「行ったの?」

「昨夜、覗いてきました」

 

本音を言えばもっと早く行きたかったのだが、桜が心配で動けなかったのだ。当初、凛が桜に何かしでかす、そう考えていたからである。少し時間が経ち、その可能性は低そうだとライダーは判断した。凛は桜を見ておらず見ている者は真也のみである。これも彼女の判断を後押しした。

 

今時点ライダーも頭が冷えていた。凛のあの怒り様は過剰ではないか、虚偽の告白以外に要因があるのでは無いか、と考えた。だがライダーから見れば兄妹を引き裂いた事には変わりない。真也の時間は刻々と迫っているのである。どうにかせねば、と思うが何の案も浮かばない。“サクラ、シンヤと共に逃げませんか?”と幾度となく繰り返し進言したが、“それはダメ。兄さんとお母さん(千歳)が犯罪者になっちゃう”と首を縦に振らないのである。

 

「また独断行動をしているに違いありません」

「うん。兄さん、行動力あるから」

「また一人でしょう」

「そうだね。兄さんは一人で何でも出来ちゃう人だから」

 

「ずっとああなのですか?」

「そう。兄さんの役に立ちたい、とはずっと思ってきたの。でも兄さんは私よりずっと頭も良いし、強いし、行動力があるから。無理に付いていくと足手まといにしかならないし」

 

“姉さんなら、役に立つんだろうな”彼女はその考えを掻き消した。認める訳には行かないのである。

 

「私はずっと待ってるだけだった。ライダーは良いよね、一緒に戦えるんだから」

「戦いとは剣を持つ事のみではありません」

「それは分ってる。けれど、危ない時に傍らに居られるのってとても幸せだと思うよ」

「シンヤも戦い以外の生業を持っていれば、良いのでしょうね。パン屋とかどうでしょうか」

「兄さんは料理は苦手だから」

「シンヤは器用です。その気になれば容易でしょう」

「それはそれで困るかな。兄さんが料理できる様になると私のできることが減っちゃう」

 

ふと、ライダーは思った。凛と桜を失った真也はいま何をしている? 何が残った? はたと気づけば蒼月邸に置いてあった、あの男物のスーツは一体何だ。真也の物かと気にも止めなかったが考えてみれば妙である。スーツを取り出しリビングに放置する理由が分らない。着替えるなら自室だろう。そもそも真也には少々大きい様に思えた。どこかの誰か、が訪れかが脱いでおいていった、そう考える方が自然だ。

 

それは一体誰だ。何故真也に接触した。真也に接触し、利益を得る者。今の状況に利益を生じる者。今の状況とは真也の孤立を指し示す。一般人なら良い、一般的な魔術師なら良い、真也はサーヴァントと張り合う程の存在である。それは彼の最大の特徴だからだ。その真也を孤立させた、それが持つ意味は何だ。

 

凛はアーチャーを失った。残りのサーヴァントはセイバー、バーサーカー、ランサー、そして彼女。ライダー自身に願いはない。勝利にも執着しない。それはセイバー陣営も知る事実だ。この兄妹が無事になるなら今すぐ消えても構わない。誰かが彼を孤立させ、他の誰かの意向に関わる事無く、意図通りに操り戦わせようとしている……ライダーはそう考えた。“シンヤは戦っているかも知れない”ライダーはそうは言わなかったが、深刻めいた己のサーヴァントの姿を見た桜はそれを察した。

 

「ライダー、兄さんを助けてあげて」

「私を行使することはサクラに負担を掛ける事になります。控えた方が賢明でしょう」

「最近変なんだ私。時間感覚がバラバラで、朝起きたと思ったら、いつの間にか夕方で、これから寝るんだと思えば、もう昼だったり。一日の長さも日によって、あっという間に終わったり、延々に続きそうだったり。ライダーと昨日話した事と一昨日話した事と、順序が判らなかったり」

「それはいつからですか?」

 

「兄さんに置いていかれちゃった日から。怖い夢も続いてるの。人を襲う夢、人を殺しちゃう夢。その夢の中では私は何時も血に濡れていて、それが愉しいって思ってる。この間は先輩たちとても怖い顔で私を見てた。私を殺そうと襲ってきた。ああ、私はきっと悪者なんだなって。仕方が無いかな、って。みんなから沢山の物を奪って笑っているから。ライダーは私が前に居た家の事を知ってるよね? 何をされたのかも」

「……はい」

「夢だけじゃない。間桐の家に居た頃の事をよく思い出すの。暗くて、痛くて、苦しくて。助けてって、ずっとずっと叫んだのに、赦してって何度も謝ったのに、あの人(臓硯)はずっと笑っていた。違うかな、私のなれの果てを楽しみにしていた。兄さんが居なくなった途端思い出すなんて、わたしって本当に弱いんだなって。会えないと思っただけで、こう成っちゃうの」

 

ライダーはそっと毛布を掛けた。

 

「もし兄さんが死んでしまったら、私はそんな怖い夢しか見なくなって、何時しかそれだけになって、今の私が消えて、夢の私が現実になる。私はきっと兄さんに嫌われちゃう。そんなのはいや」

「シンヤはサクラを嫌いなどしません。万が一そうなったらシンヤは蘇ってでもサクラの味方になるでしょう」

「それは嬉しいかな。でもだめ。そうなった私たちはお母さんに殺されちゃうから」

「……チトセの事ですか? シンヤを倒せる程の腕前なのですか?」

「兄さんが手も足も出ないほど強いの。多分バーサーカーより強いかな。お母さんはあの人の様に、どうしようも成らなくなった人間を殺す仕事をしてるから、もし私たちがそうなったら、お母さんはどんなに嫌でもそうせざるを得ない。家族同士で争うなんて、殺し合うなんて、そんなのしたくない。させたくない。だからお願いライダー。私たちの為に兄さんを守って」

 

“共に死ぬならそれはそれで幸せだ”桜はその思いを飲み込んだ。意を決したライダーは立ち上がる。

 

「サクラがそう言うのであれば。何かあれば令呪を使って呼んで下さい」

 

 

◆◆◆

 

 

日付が変わり、未だ陽も昇らない冬の朝である。薄暗い遠坂邸のロビーに続く階段を降りるのは凛であった。足下など見えないが17年歩いた家なので目を瞑っていても足を踏み外す事はない。赤いタートルネックのシャツに黒のミニスカート、黒のニーソックス。その上にやはり赤のハーフコートと、ゴールデンイエローのマフラーを首に巻いていた。その朝は士郎らと共にアインツベルンの城へ向かう日だ。彼女がこれ程早く起きる事は滅多にない。正直なところ眠気は残っている上、身体も頭も半分寝ている。幸いな事に衛宮邸には自家用車がある。車内で僅かばかり寝られるだろう。

 

階段を降りきったところで、待ち構えていたのは葵だった。寝間着の上にショールを羽織っていた。千草色の、丈の長いワンピースは彼女の何時もの姿である。何故待ち構えている事が出来たのか、そう考えた。そういえば早朝に出発すると昨夜伝えた事を思い出した。何用か、そう葵の前に立てば、何故だろう、穏やかな母の割には何時になく鋭い眼差しだった。面倒事だと凛は直感で悟った。きっと桜の事に違いない。

 

「忙しいの、帰ってから聞くわ」

「凛。貴女、真也さんになんて言ったの? 」

 

凛の足がピタリと止まった。真也の事だとは夢にも思わなかったのだ。

 

「だから、帰ってからにして」

「こんな早朝から出かけるなんて、大事なことなのよね? だから今引き留めたの。凛はいったい何をしたの?」

「別に。お互いの立場に基づき、ただ理性的に要求を示しただけ」

「その要求って何?」

 

「何が言いたいのよ」

「桜が帰ってからずっと引っ掛かってる事があるの。真也さんとのこと、あれ程大事にしてたのに、そんなに冷たくなるなんて。手のひら返し。そう、ひっくり返ったみたい」

「当然でしょ? 理由は話したわよね?」

「ええ、聞いた。良心と呵責の無い人。人を傷つけることに罪悪を感じない人。10年前、間桐臓硯さんを殺して、桜を攫った人の子供。でもどうして、そんな人に桜があそこまで懐くのか、私はそれが判らない」

 

「桜は臓硯殺害を知らなかった、だからでしょ。何食わぬ顔で育てて長い間暮らせば、例え犯罪者相手でも情は沸くもの。よく聞く話じゃない」

「子供を攫う事件をインターネットで調べてみたの。強制労働だったり、いかがわしい事を強いたり、臓器目的とか、」

 

嫌悪で、柔らかな表情が歪んだ。口に出すのもおぞましい、と言う意味である。

 

「人身売買という意味で、養子という事もあるのよ」

「それなら尚更おかしいわ。ならどうして10年も育てるのよ。子が欲しい家庭なら、幼い頃から一緒に居たい、そう思うはず。凛、貴女は何か隠しているわね?」

 

凛は背を向けたまま歩きだした。

 

「もう行くわ。待ち合わせをしてるから」

 

この時葵はしばらく違和感として感じていた矛盾を理解した。

 

「凛と話していて気づいたのだけれど、 欺されたというのは本当なの?」

 

凛の足が再び止まる。背は向けたままだ。

 

「何よそれ。赤の他人を信じて、娘を疑う訳?」

「嘘をついて告白した、その懺悔が嘘なら、真実は何?」

「なによそれ」

「真也さんから聞いたの」

「いつ?!」

 

溜らず振り返れば、咎めの表情を向ける母がそこに居た。

 

「真也さんがお寝坊したときよ」

「な、なによそれ。私には言わず、母さんには話したって事?!」

 

溜らず怒りがこみ上げる。

 

「言いなさい、凛」

「話す理由なんてない。プライベートな話だわ」

「それほど深刻に考えていては説得力ないわよ」

「なんの説得力よ」

 

「やっぱり気づいていなかったのね。凛、貴女は魔術師であろうと無理をしている」

「馬鹿な事を言わないで、私は魔術師なんだから」

「嘘を仰い。つい先日までとは大違いよ。真也さんと会う前より悪化してる。それ程思い詰めている娘を母である私が、はいそうですかと見過ごせる?」

「私は思い詰めてなんかいないわよ」

 

「なら桜に対する接し方はなんなの」

「……」

「真也さんが頼ってくれないと嘆いた凛が、同じ様に一人で抱えるつもり? 母として言うわね、全て話しなさい」

 

口を強く結び、視線は下がり気味。その仕草を見て葵はやはりそうかと悟った。凛はぽつりぽつり話した。桜が臓硯によって虐待されていた事。余所の家の魔術であるから詳細は分らないが、髪と瞳の色が変わる程に相当に過酷な魔術処理を受けたであろう事。殺害とはいえ事実上助け出した事。桜の明るい性格から、立ち直らせる為に尽力を尽くしたであろう事。

 

その上で桜を取り返し、その対応をした事。それは、桜の引き渡しに無条件で応じる事、葵への釈明は禁止した事、桜への説得をする事、ライダーにも説得する事、2度と遠坂に接触しない事、以上の条件を受け入れれば、間桐臓硯の殺害と誘拐に関して目を瞑る、と言った内容だ。想像していたとは言え、葵はその真実に呆れるほかない。怒りすらも沸いてきた。ライダーのあの態度も納得だ。

 

「凛、二人に謝りなさい」

「いやよ」

「何を意固地になってるの。凛も間違っている、そう思っているのでしょ?」

「どうしてそんなに肩を持つのよ。娘が欺されて辛いのに。母さんだってもう忘れなさいって言ったじゃ無い」

 

それは真也が遠坂邸を出た時の事である。引き留めた葵に対し、彼は謝罪してその家に背を向けた。

 

「そうね、真也さんは凛では無く妹さんを選んだ。母親の立場ならもう言うべき事は無いけれど、その妹さんが桜(娘)だったのよ。私(母)が放っておける分けないでしょうに。だからこう言うわ。私も一緒について行くから謝りなさい」

「母さん、もう遅いわ。真也はもう敵なの。私たちは倒すべき間柄になってしまった。なにより真也はもう私を赦さない。私は全部奪って殺そうとしたんだから」

「凛が羨ましいわ」

「どこが!?」

「私は時臣さんと喧嘩らしい喧嘩なんてしなかったから」

「喧嘩じゃなくて殺し合いをしたの、私たちは」

「真也さん、抵抗した?」

「……」

「ほら見なさい。それは殺し合いとは言わないわ」

 

一拍。葵はぽつりぽつりと語り出した。それは色褪せつつあったが、彼女にとって大事な記憶、思い出である。

 

「10年前の私は、魔術師の家だからとそれを免罪符に何でも従っていた。いえ、考える事を放棄していた。今になって思うのだけれど、もし喧嘩が出来たなら、あの人は生きていたかも知れない。桜も養子に出さずに済んだかもしれない。尤もこの場合、こんな事には成らなかったのだけれど。良い? 遅いなんて亡くしてから言う言葉よ。後悔の無い人生なんてないけれど、失ってさえいなければ何度でもやり直しが出来る。もうダメだと諦めさえしなければ。謝ってきなさい。私の感だけれど真也さんは簡単に赦すわね。だって桜と同じぐらい凛を大事にしてるから」

「そんな筈ないわ。話したたでしょ? 真也の言うことは全部嘘。私に告白したのも嘘」

「好きな娘を捨ててまで妹を選んだのに、その妹をああも簡単に手放した、それは何故? それは凛も大切だったから、そうは思わない?」

「そんなに肩を持つ程気に入ったのなら母さんにあげるわよ」

 

葵は人差し指を顎に添えて、その未来図を考え始めた。母のその態度に流石の凛も慌てた。

 

「ちょっと、」

「凛にとっても桜にとっても良い落とし所?」

「父親なんて冗談じゃないわよっ! 大体年齢を考えなさいよ! 17よ、真也は17歳!」

「真也さんには女としてみられている様だし」

「……うそよね、それ」

「実際にそう言われたから」

 

凛と桜。どちらが葵に似ているかと聞かれれば桜の方が近い。ルックスではなく雰囲気の話だ。凛はそうだろうとは想ったが、その未来予想図に気が気では無い。葵は慌てふためく娘の態度に笑みを浮かべた。

 

「どうでも良い人の事なら、考えもしないし悩みもしない。まだ時間があるわ、よく考えなさい。でも遅くなるほど選択肢は減る、悪化する。出来る事ならお互い素直な立場で話し合う事が大切よ」

「ばっかじゃないの」

 

ズカズカと乱暴に歩くその仕草は苛立ちを隠さない。扉が閉るその隙間、葵はこう告げた。

 

「気がついてる? 凛は、真也さんって未だ名前で呼んでる。許せないほど好きなら、一歩踏み出すだけね。それは貴女次第」

 

凛は何も言わず扉を閉じた。ただ怒りを堪える表情だけは見えた。それは葛藤している証拠だ。言うべき事は伝えたと葵は、取りあえずはと安堵した。それはそれとして。

 

「凛があそこまで激情家だったとは一体誰に似たのかしら。いえ、気が強いと言えば強いのだけれど」

 

ふと、縁深い少年の顔を思い出す。葵はパンと両手を打ち合わせた。とても良い事を思いついたと言う意味である。

 

「そうね、そうよ。それはそれとして、真也さんにも申しつけないといけないわね。うちの娘をたぶらかした事は事実なのだから。全て終わったら食事に招いてお説教しましょ」

 

とても困った顔をするに違いない、それを思い浮かべると心が躍る。そして4人揃って食事するシーンを思い浮かべば、凛と桜が笑っていた。葵は欠けているものが何か、漸く悟ったのである。

 

同時刻。桜に宛がわれた薄暗い部屋で立つのはライダーであった。気配を感じ、窓を見れば外出する凛の姿が見えた。この早朝に外出だ。何かがあるとライダーは悟った。彼女は寝息を立てる桜に一言断って、追う事にした。彼女の胸元に光るのは試験管の様な硝子瓶である。それは蒼月家の霊薬、治癒薬だ。かつて真也が遠坂家に身を寄せていた頃、凛が無断に持ち出した物であり、ゴミ箱に捨てられた物だ。それを偶々見つけた彼女は回収したのである。妙な胸騒ぎにそれを持参する事にした。だがそれでは霊体化できない。実体のまま追跡しなくてはならない。細心の注意を払わねばならない難しい追跡劇を彼女は強いられる事になった。

 

 

◆◆◆

 

 

陽が昇り空が赤色から白色に収まった頃、真也の乗るタクシーは止まった。そこはアインツベルンの城へと続く、森への入り口だ。周囲に民家はなく勿論人通りもない。降り立てば郊外の割には意外にしっかりした2車線の道路だ。彼は土建屋の友人から、地方に仕事を回す為のバラマキの結果だ、そう聞いた事があったが、どうでも良い事だと直ぐに忘れる事にした。そこには町中では見られない濃い朝靄が立ち籠めていた。真也は財布から一万円札を取り出すと、タクシー運転手に渡した。それは料金メーターが示す料金の3倍だ。

 

「おつりは要りません」

「口止め料、の割には随分としけてるが高校生なら仕方が無いか」

 

タクシーの運転手は真也の知り合いだった。ロータリーに並ぶタクシーは本来前から乗るのが決まりだが、早朝に未成年が森へ向かうなど怪しい所の話ではない。無理を言って知り合いであるその運転手Kに頼んだのだった。

 

「早朝に無理を聞いて貰った謝礼です。豪勢な昼食を楽しめますよ」

「見渡す限り葉っぱしかないこの郊外で帰りはどうするつもりだ」

「歩いて帰って、適当にヒッチハイクでもします」

「馬鹿な真似するつもりじゃないだろうな」

「いやだな、俺がすることは何時だって馬鹿な事ですよ。この10年そうだったでしょ?」

 

「確かにお前は喧嘩に明け暮れる不良だったが、自分本位の行動はしなかったからな。どうしてか今回ばかりは違う気がしてならない。お上さんと桜ちゃんは知ってるのか?」

「これはKさんの良く言うけじめって奴です。俺の自分本位の行動なんですよ。だから二人には言っていませんし、知りません」

「言っても聞かない、止めても止めない面だ」

「その通りです。俺はKさんに手荒な真似をしたくない、何も聞かないでください」

 

Kは溜息をついた。

 

「まるで悪役の台詞だ」

「かも知れません」

「お前が万札なんて出すから釣りはない。用意しておくから“後日取りに来い”」

 

そう言うとKは車を走らせた。真也は彼の配慮に頭を下げた。森の入り口に向けて歩き出し、地面がアスファルトから砂利になった頃、ランサーが真也の隣りに立っていた。同じように歩いていた。霊体状態で同乗していた事を知るのは二人のみである。右を見ても森、左を見ても森、何時しか完全に森の中だ。立ち籠める朝靄は、淀み、行く手を誤魔化す様に漂っていた。渡り鳥並みの方向感覚を持つ真也だったが、正確な道を知るランサーが居なければ相応に難儀しただろう。森に入って暫く経った頃、魔術的な意味での結界に触れたが、何の反応もなかった。この森の主も待ちわびていると言う事だ。準備を整えた敵陣に乗り込むというのに、この二人は案外だった、否、何時ものやりとりだ。

 

「優男とハイキングか、いけてねえ」

 

背負った槍で肩をトントンと。ランサーはさも気が乗らないと言わんばかりである。真也はしかめっ面だ。

 

「誰が優男だ。これでも冬木の羅刹って呼ばれた事もある修羅だぞ修羅」

 

ランサーは鼻で笑った。

 

「良いか? 修羅ってのは戦に突っ込んで、殺しまくって、死んだ事に気づかず、死してなお戦を求める、バカヤロウのこと事だ。お前がそんなお上品かよ」

「悪かったな、頼りなくて」

「見込みは少々外れたが、情の無い人間と殺りあっても詰まらねえからな。良しとしてやる」

 

軽薄な笑みを浮かべていたが、その身体を織りなす筋肉は張り詰めていた。まだ見ぬ戦いに思いを馳せている様だ。それはバーサーカー戦を指しているのではなかった。

 

「なんだそれは」

「つれねえな。初めてやり合った時にそう言ったろ。“もう一度やり合う時までに制限(ギアス)をどうにかしておけ”ってな」

「そういえばそんな事を言ったかもしれない、が。諦めろ、制限は外せないんだ」

 

「諦めちゃいないぜ。真也、お前に喰らった一太刀、今でも夢に見るからな」

「嘘つけ、サーヴァントは夢なんて見ないだろ。寝ないんだから」

「それだけインパクトがあったって事だ。ったく、間抜けなネズミかと思えば、サーヴァントとやり合うクズリ(イタチ科)だったとはな。ま、それ位でないと世の中面白くねえが」

 

「ランサー。お前の聖杯への願いは何だ。金、女、って訳じゃ無いだろ。何故不要な戦闘を望む」

「不要じゃねえよ。俺の望みは死闘。全身全霊を以て命を掛けた戦いを望む」

「なら、お前は酔狂だな。痴情のもつれに敢えて首を突っ込んでいる」

「酔狂、ね。これをそう呼ぶなら、酔狂も悪くねぇ」

 

二人は獣道を塞がんばかりに横たわっている朽ちた巨木を易々と飛び越えた。

 

「なぁ、ランサー。正しいと思った行動が、間違ってたってこと有るか? それが取り返しの付かない事だった事があるか」

「あぁあるな。数え切れないぐらいだ。つか、数えた事すらない」

「お前は気にしないのか。それともどうやって折り合いを付けてる」

 

ランサーは肩に乗せていた槍を掴むとその穂先を天に向けた。

 

「俺は誰かに命を預けた事はあるが、この槍を誰かに預けた事は一度たりとも無い。自分で決め、自分で奮い、自分で殺した。良いか、殺すってのは、相手の命、人生、尊厳、全てを奪うって事だ。だから俺は手を抜かない。全身全霊を以て、相手を打ち砕く。最大限の敬意を以て、目を背けず、打ち倒した敵のちり様己が魂に刻む。だから背負える。辛いからと目を背けるなんざ最悪の所行だ。奪った命を背負えないなら、そいつは向いてねえって事だ。とっとと武器を置き、鍬か筆に持ち替えた方が良い。それも生き方の一つだろ」

「向いてない奴がしてしまったら、せざるを得なかったら、どうしたら良いと思う」

「酒を呑んで、歌でも歌って、忘れた振りをするしかねーんじゃねーの」

「最後の最後で台無しだ」

 

「うるせえ。知らない事を答えられるか。どうしても辛ければ、泣くのも良い、酒に逃げるのも良い、誰かに慰めて貰うのも一つだ。でもな人生ってのは幸も不幸もついて回る。自分のしくじりだろうと、誰かにはめられようとも、本意で無かろうと、それから目を背けるな。お前の人生は、他の誰のものでも無い。お前のものだからだ。己の命に、生き方に、責を背負うから、自由に出来る。だからお前の物になる。それを生きるという。どういう結末だろうと、投げ出すんじゃねーぞ、坊主。生まれは選べずとも、生き方は選べるんだからな。背負えるならお前はここで止まって、馴染みのお嬢ちゃんの元に帰っても良い。誰も責めはしねえよ」

「判っているのか? したい事が判っていても、それが出来ない事もある。それは言うほど優しい事じゃない。やりたい事ができる、それを成し遂げる、それは一つの才能だ……そうか。そういうお前だから、お前は英霊になったんだな」

 

ランサーはまたもや軽薄な笑みを向けた。真也はまたおちょくられるのだとうんざりとした顔で身構えた。

 

「心配すんな。死闘や悲壮は、どこかの誰かが適当に脚色して、歌や詩になって伝説になる。英雄なんざそんなもんだ。不運続きで死にそうな目に遭っても、未だしぶとく生きてる真也なら、案外いけるんじゃねーか? 別れた女に殺されかかる程の、だらしない男がヘラクレスを倒すなら格好のネタだ」

「まぁ、知らない誰かが、語り継いで、背びれ尾ひれついて、英雄譚になったら確かに痛快だな」

「ただし真也の場合ぜってえ喜劇だがな。それは保証してやる」

「ったく。そういうお前はどうなんだ。悲劇か、喜劇か、どちらだ」

「クー・フーリン」

 

真也は思わず聞き返した。耳を疑った。まるで告白されて聞き直した位の間抜けだとは思いつつ。

 

「ま、ここまで脚を突っ込んだんだ。伏せるのも義理がねえだろ」

「ランサー、お前のお陰で良い案を思いついた。乗るか?」

「搦め手は趣味じゃねえが、お前が頭だ。好きしろ」

「なら行くか。ハイキングも飽きてきた」

「いいぜ。駆けるのは嫌いじゃねえし、それが戦場に向かうとなれば文句はねえよ」

 

二人は笑みを浮かべると掻き消えた。森を疾走する二人は木々を駆け抜ける疾風である。その森に住まう、どの獣よりも速かった。その速さは士郎らを引き離すのに十分だった。

 

 

 

 

 

つづく!



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37 カイーナの環・7 バーサーカー編

立派そうな扉を開ければ、そこは吹き抜けの2階構造の、やはり立派そうなロビーだった。広さはどれ程だろう。バスケットボールのコートは楽に収まる様に思えた。陽の光は入らず明かりは電灯のみ。黄金色の灯火がその場を煌びやかに浮かび上がらせていた。床は黒と白のタイル、ここで舞踏会を催せばさぞ立派そうに見えるだろう。

 

観客も居た。立派そうな彫像が至る所に突っ立っていた。手も無く足もなく、彼らが持っている身体は腰から上だけだ。招かれざる客を見据えている胸像の彼らは、これから催される劇を詰まらなさそうに見るに違いない。もしくはそれを見届ける事が己の務めだと、真摯に努めるかもしれない。いずれにせよ、殺し合いを見物する存在など、碌でもない性格だろう。

 

(そう考えると魔術師って碌なもんじゃないな)

 

真也はそう自嘲した。異境に足を踏み入れる探検隊の心境で、ランサーと真也の二人がそのロビーに足を踏み入れると目の前に階段があった。蔓の細工の施された手すりと赤い絨毯。シンデレラが登りそうな、アンティーク調の雰囲気を持つ階段だ。豪華な調度品の数々はランサーの興味を惹かなかった。彼の隣りに立つ真也も似た様なものだ。真也がぼやく。

 

「あるところにはあるもんだ。こういうの」

「この成金趣味、いけ好かねぇ」

「落ち着けランサー。金の掛かった良い舞台じゃないか。美術のしょぼい舞台はやっぱり安っぽいからな」

「すぐ台無しになるぜ」

「ごもっとも」

 

カツコツと足音をかき鳴らし更に奥へと踏み入れば鎮座するそれと対峙した。巌の様な大男、狂気を司る最強のサーヴァント、バーサーカーである。彼は黙したままその両手に戦斧を持っていた。大型のバトルアックスだ。メイスの様に長い棒の先端に、巨大で分厚い扇子形状の両刃が付いていた。羽を広げたコウモリにも見える。ラブランデスの斧、それの模造品だ。

 

バーサーカーの顕現を殺す点は鳩尾にありビー玉ほどの大きさだ。イリヤにしてみれば、とにかくその死の点を突かれる事だけは避けねばならない。バーサーカーは両手で斧を持ち腹を見せない。警戒されている事は明白だった。ランサーは真紅の槍の石突きを床に突き立てた。胸を張り、得物と並び立つその姿は威風堂々。

 

「我はランサーの位を頂く英霊なり。聖杯戦争の理に従い、槍を交えんと欲し、此度押して参った。狂戦士の位を頂く戦士と、その主とお見受けするが相違ないな?」

 

階段の上、つまり二人を見下ろす位置に立つイリヤは穏やかな笑みだ。スカートの裾をつまみ、僅かに身を下げ、二人に返礼をした。優雅なものだ。

 

「ようこそ、槍を司る英霊とその主よ。私はこの城の主であるイリヤスフィール・フォン・アインツベルンと申します。お二方のご到着を今か今かと待ちわびておりました。心より歓迎いたします」

 

その振る舞いは正真正銘のご令嬢である。本当に殺し合いをする関係なのか、と言うのが真也の正直な感想である。招かれた結婚式会場を間違えたかの様な居心地の悪さだった。もしくは修学旅行のバスを間違えた。真也に並び立つランサーはイリヤを見据えたまま真顔でこう急かした。イリヤに届かない様な小さな声だ。

 

(真也、お前も何か言え)

(え)

(頭だろうが。ビシッと決めろ)

 

突然振られ、練りだした口上は苦し紛れである。

 

「我が名は蒼月真也。積年の因縁を晴らさんと、一槍、馳走に参った。いざ尋常に果たし合いたい。見知りおけ、我は冬木の羅刹と呼ばれし武士(もののふ)なり」

「ここは私たちの城。あなた方は来賓で持て成すのは私たちよ、ランサーのマスターさん。それに貴方の武器は槍じゃなくて剣、それ以前に貴方は魔術師でしょ」

「台無しだ」

「五月蠅い」

 

ランサーのツッコミに真也はコホンと一つ咳払う。そして一歩進み出た。

 

「イリヤスフィール。一応聞くけれど、投降する気は無いか? バーサーカーを自害させ、」

 

それは士郎への配慮だ。

 

「自分のサーヴァントを自害? おかしな人ね。絶対的に優位な私が負けを認めると思うの? バーサーカーが勝つに決まってるもの。そんな事する理由は無いわ」

「ま、そうだろな。負けると思うなら逃げるだろうから」

「それだけじゃないわ。私は貴方を逃がすつもりはない。漸く会えたのだから。最初に会った夜の事、貴方が私にした事を覚えてる?」

「よく覚えてるさ。忘れよう筈がない。あの夜が全ての始まりだったからな」

「よかった。覚えてないなんて貴方に言われたら、悲しみのあまり倒れてしましまいそう」

「何を言ってる?」

 

イリヤの妙な言い回しに真也は違和感を感じた。イリヤは大人びた微笑みだったからである。

 

「貴方に斬られた後、血がたくさん出て、力が抜けて、身体が動かなくて。命からがら城に戻れば、熱も出て、苦しくて、ベッドの上でずっと暗闇を見てた。考えたわ、どうしてこんなに苦しいのか、って。忘れようとすると返って貴方の姿が心に浮かび上がるの。鮮明に、ハッキリと、強く、強く。寝ても覚めても何度も貴方を見た。一瞬たりとも忘れた事はなかった。すぐ殺しに行きたいのに、それができなくて、ずうっと想いだけが募っていった。ねえ、この傷見て。残ってしまった、もう消えないの」

 

イリヤはブラウスの裾を引っ張ると、脇腹を真也に見せた。白いその肌には刀傷が刻まれていた。彼女の奇行に眉を寄せるのは真也である。

 

「魔術で消せるだろ、それ位」

「消さない、消したくない。これは誓いで、証だから」

 

妙、真也の感想はそれに尽きた。異様な雲行きに居心地が悪くなる。雪の娘が奏でる声は死の調べ。

 

「これを見る度思い出すの。苦しみと憎しみと怒りが私の身体に満ちる、私は満たされる。ねぇ、私を見て。私だけを見て、殺してあげる、殺してあげるから。殺して良いのは私だけ、誰にも譲らない。ねぇ、すてきでしょう?」

 

笑みが消え、一転、紅の瞳は殺意の籠もった鋭いモノと変わった。

 

「この傷(痛み)に誓うわ、貴方を殺す」

「真也、俺が何を考えてるか判るか」

 

それはランサーだ。敵を見据えたままの真剣な表情が、なお辛く聞こえる。

 

「言わなくて良い」

「戦いの中、あのちびっ子に唾を付けてやがったか。嬢ちゃんも怒る筈だぜ」

「黙れ。妙な事を口走るな」

 

真也は一つ深呼吸し、抜刀した。“しゃらん”と鉄琴の様な音を奏でたそれは、彼の魔力に呼応し蒼白い光を放っていた。

 

「宣戦布告の口上にしては少し情熱的、だけど謹んで受けるよ。俺も君を殺す為にここに来た。始めようイリヤスフィール。七日前の決着を、今ここに付ける」

 

 

◆◆◆

 

 

バーサーカーの筋力は全サーヴァント中トップのA+。敏捷性も耐久もAだ。敏捷性を誇るランサーですらAとバーサーカーと同等。ところが耐久はC、バーサーカーの攻撃を喰らえば一撃で戦闘不能に陥る。加えて彼のゲイボルクのランクはB、通常攻撃ではダメージが届かない。真也も似た様なものだ。つまり、ランサーも真也も通常攻撃ではバーサーカーを倒せない。

 

二人の様は切っ掛けを探る為に対峙と、いうよりは手が出せず立ち尽くしている、という表現が適当だ。臆する様に見えるイリヤは小悪魔的な笑みを見せた。それは好きな子をいじめたい子供が見せる表情そのものだ。もしくは悪戯を思いついた子供である。イリヤは蒼く光る真也の瞳を見てこう意地悪く告げた。

 

「来ないの? それともバーサーカーが怖くて足が動けない? それだけの魔眼を持っていて、だらしが無いわ」

 

真也は魔眼殺しを付けていなかった。真也はポケットから石を取り出すとイリヤに投げた。それは彼女に届く前に、不可視の力場に弾かれ、あらぬ方向に飛んでいった。彼女の足下には古代ヘブライ語で書かれた魔方陣が敷かれていた。

 

「付け加えて失礼な人。レディに石を投げるなんて」

「結界ね。ま、普通そうするか」

「それだけじゃないわ。私に近づくと13の極大の呪いが貴方を襲う。倒せなくても、防ぎきれなくても、バーサーカーが駆け寄る時間を稼ぐだけでいいから。この屋内では一秒掛からない」

「バーサーカーが倒されるとは夢にも思っていないんだな」

「当然でしょう?」

「OK。前哨戦と洒落込もうイリヤスフィール。君はこう思っているはずだ。俺らがバーサーカーを倒すにはこの魔眼を使うしかない、だから俺さえ抑えれば後は消化試合だと……ランサー」

「クー・フーリン」

 

その真名を告げたのはランサー自身だ。イリヤは驚きと言うより呆れを隠さない。

 

「呆れた人ね。その程度の格の英霊で真名を明かすなんて。それともやっぱり怖くておかしくなったの?」

「ランサーなら12の試練を突破できる、と言ったら信じるか?」

「できっこないわ。バーサーカーはそれ故の最凶にして最強なのだから」

「ランサーの真名を繰り返し唱えろ、イリヤスフィール」

「ばっかじゃない」

「口調が変わったな。不安を恥じる事はない。なにせランサーは光神ルーを父に持つヘラクレスと同じ半神半人。英霊の格としては同等だ。君ならそれを正しく評価できるだろう。それとも慢心してみるか?」

 

イリヤの表情から笑みが消えた。認めたくはないが認めざるを得ない。優位性は未だ維持しているが“圧倒的”という形容詞が消えた事を、だ。真也はこれ見よがしに魔眼を見せ付けた。

 

「バーサーカーの宝具である12の試練“ゴッドハンド”は、Bランク以下の攻撃を無効化し、11回までの自動蘇生を行う。つまり12回殺さないと倒せないと言う事だ。さらに一度受けた殺害方法では二度と殺せないから、Aランク以上かつ12種の攻撃が必要と言う事になる」

 

ランサーはゲイボルクにアンサス(火)のルーンを刻んだ。赤いアストラルの光がその槍の宝具ランクを一つ上げた。イリヤはそれから目を離せなかった。

 

「そう、ランサーはキャスター適正を持つほどのルーン魔術の使い手だ」

 

ランサーは真也の駆け引きに応じ、イリヤに対しこう続けた。

 

「アンサス(火)、ウルズ(力)、エイワズ(死)、ラグズ(移動)、スリサズ(雷神トール)……まだあるぜ? 少なくとも12個以上はな」

「原初の18のルーン魔術……」

「そういうこった……ゲイボルク(刺し穿つ死棘の槍)!」

 

その穂先はバーサーカーの宝具を突破し、一回殺した。バーサーカーは蘇生される己の身体を黙って見ていた。主から開戦の指令はまだ出ていないのだ。

 

イリヤが戸惑う様に「ゲイボルク……因果逆転の呪い」と呟けばランサーは「ざっと、こんなもんだ。真也、“見た”か?」と戯けて見せた。真也はこれ見よがしに魔眼を見せ付け「あぁ“見た” 一回確実に殺した。イリヤ、君は今こう思っただろ? あと11回殺される前に俺を仕留めて、そのあとランサーを倒せば良い。まだ余裕は十分ある」と挑発した。ランサーは槍を構えた。その穂先はバーサーカーの足下を向いていたが、その獣の様な眼はイリヤを捕らえていた。

 

「四枝の浅瀬。一騎打ちの大禁戒“アトゴウラ”。その身を持って受けてみるか」

 

それはランサーの能力を向上させるルーンであり、一対一を強制させるもの。バーサーカーを一撃で葬れるものではない。だがイリヤはどう思ったか。彼女にその恐れがあると思わせれば十分だ。イリヤは真也に忌々しげに言い捨てた。

 

「結局、ルーンを描かないとならないのでしょう? その時間は与えないわ」

「確かにな。だが何文字いると思う? それに必要な時間は? ご覧の通りランサーは一人じゃない。俺が時間を稼ぐ事だってできる」

 

真也が胸のポケットから魔眼殺しを取り出すと身につけた。打ち合わせ通りにランサーが支援と結界のルーンを真也に刻んだ。イリヤの不可解な眼差しを真也に向けた。魔眼を使わないのかと語っていた。

 

「そう、これは作戦だよ。魔眼と支援魔術は併用できないから。残念ながらね」

「当然だわ。その魔眼は神秘が重すぎるの。そうそうな施術は掻き喰われる」

「魔術って奥が深いな」

「弱い渦は強い渦に掻き消される、ただの理屈。 魔術師のくせにそんな事も知らないの?」

「耳が痛い。生憎と俺が使える魔術は身体能力の向上だけでね」

「そう言えば貴方が呪文を唱えたところを一度も見た事はないわ。サーヴァントと張り合う魔術師だから、魔法使いに匹敵する程の使い手かと思えばとんだ劣等生だったのね」

 

真也は肩を竦めた。イリヤは己の立ち位置、二人に対しての優位性を計りかねていた。

 

「さて、まとめだ。ご覧の通り、魔眼を使えば一突きで殺す事が出来るけど身体能力が落ちる。だが支援魔術効いている俺はランサーに匹敵する。ランサーは属性を付加した上でゲイボルクを何発撃てる? アトゴウラはルーンを描かないといけないが、その効果は君のよく知るところ……パズルの要素はこんな所だ」

「気にしないわ。そんな低レベルな駆け引きに私が囚われるとでも?」

「そう? 俺なら両方気にするけどな。いや、君だって気にしてるだろ。だって、もしそれが本当だったとしたら、失うのはバーサーカーの命、しいては君の敗北だ。その可能性を軽視する程お気楽な君でもないだろう。それに気づいているか? いま君はとても余裕の無い顔をしている。もう一度聞くぞ。君はランサーと俺を同時に警戒しないといけなくなった訳だが、それでも尚、慢心してみるか?」

「バーサーカー!」

 

イリヤのその号令には怒りと戸惑い、そして不愉快さも混じっていた。

 

 

◆◆◆

 

 

身が竦むどころか、寿命すら縮みかねない、狂戦士の咆哮を開戦の喇叭に例えて、二人は駆けだした。二人の敏捷性はA。イリヤには二人の姿が掻き消えた様に見えた。彼らを追従しているのは狂戦士のみである。

 

一回目の攻撃。二人は左右から同タイミングで踏み込んだ。バーサーカーはどちらを狙う? この段階ではバーサーカーはどちらかを敢えて狙う必要が無い、ただ待ち構えれば良い。至近距離なら二人同時に叩くことが可能だろう。バーサーカーの筋力はA+だ。戦斧と拳を腕力のみで奮ってもその効果は十分にある。ただし、二人が仕掛ける攻撃が通常方法という前提が付く。

 

真也が眼鏡に手を掛けた、外すか、外さないか。ランサーがルーンを描こうと人差し指を立てた。どちらが本命か。両方とも本命だった場合、バーサーカーはあっけなく死ぬ。ご丁寧にもランサーの方がルーンを描く時間を踏まえ少し足を遅らせた。それは二人が仕掛けるタイミングが時計の様に一致している事を示していた。であるから、バーサーカーは戦斧を床に、つまり足下に叩き付けた。その威力は強大無比。巨大な戦斧に膨大な筋力と体重、その二つが組み合わさった槌の様な一撃は床を抉り、大穴を開けた。まるでクレーターだ。床を構成していた材質が砕け、礫となり、飛び散った。その様はまるで散弾銃である。バーサーカーは意にも返さない礫だが、二人にとっては無視できない威力だ。二人は溜らず避けた。ランサーは忌々しく吠えた。

 

「狂化を抑えていやがったか! 通りで見切りがいい! 」

 

狂化を抑える事、それは能力とのトレードオフだ。今のバーサーカーは能力がダウンしている。筋力A+→A、敏捷A→B、耐久A→Bだ。飛び退いたランサーのぼやきにイリヤは「アオツキシンヤ、先の戦いで貴方が教えてくれた事よ」そうしれっと答えた。1stバーサーカー戦の折、真也はイリヤを怒らせ狂化の変動を見たのである。彼女はそれを有効活用しただけだ。

 

「真也! お前は女癖悪すぎだ!」

「無駄口叩くな! 来るぞ!」

 

イリヤが命令を下した。

 

「バーサーカー、可能ならランサーを先に仕留めなさい。食事は前菜からがマナーよ」

 

バーサーカーはランサーに向かった。彼は急遽バックステップ。ランサーの敏捷性はA、今のバーサーカーはBだ。それ程広くない室内である。床を蹴り、壁を蹴り、立体起動でバーサーカーをあしらった。体重が異なる以上、ランサーの様な曲芸はバーサーカーには不可能である。

 

「真名名乗って、前菜扱いかよ! ったく、俺の名も地に落ちたもんだぜ!」

 

バーサーカーの懐に真也が居た。目が眩むばかりに霊刀の刀身が光っていた。ランサーが時間を稼ぎ、魔力を刀身に溜めたのだ。

 

二回目の攻撃。真也の狙いは強大な一刀を浴びせ、隙を作り、それに乗じて顕現を殺す、という算段だった。踏み込み、一閃。だがバーサーカーの胴を打つ筈の、その一撃は戦斧に止められていた。真也は目を剥いた。そんな筈はない。今のバーサーカーは敏捷Bの筈、Aの真也に打ち漏らす理由がない。

 

「狂化を落としていたのではなく意図的に変動させている?!」

 

戦闘が始まったにもかかわらず、イリヤがただ立っている理由に気がつかなかったのだ。真也は己の見通しの甘さに舌を打った。可能性は考慮していたが、これほど柔軟に融通が利くとは思わなかったのである。非戦闘員だという判断は甘かったのだ。イリヤが冷酷な表情を見せた。虫をもいで愉しむ子供の様だ。

 

「正解。さぁ、どうする? 防御がお留守よ」

 

戦斧が真也を打ち砕かんと、脳天を狙い打ち落とされた。バーサーカーを強襲しようと既に踏み込んでいたランサーは予定を変更し真也を蹴飛ばした。それはランサーの全力だ。手加減できる余裕が無い程のタイミングだったのである。蹴飛ばされた真也は廊下を滑り、壁に激突、大穴を開けた。真也にダメージ発生。その様を例えれば、城壁に向けられ撃ち込まれた砲弾だ。爆弾が炸裂したかの様な激しい衝撃音が響き渡り、瓦礫が崩れ、粉塵が巻き上がった。真也はふらりと立ち上がると、唾を吐いた。壁材の破片が入ったからだ。

 

「ランサー。お前、本気で蹴ったな」

「狂化の変動、あんな見え透いた手に引っ掛かるトロいお前が悪い」

「嘘をつけ、ならどうして事前に言わなかった」

「言う機会が無かっただけだ、細かいこと気にするんじゃねぇよ」

「覚えてろよ、この英霊野郎」

「俺が覚えてるのは、気に入った女だけだ」

「あの姉妹にちょっかい出したら覚悟しとけ」

「真也の指図は受けねえな」

 

二人の品のない掛け合いを見ていたイリヤは溜息をついた。できの悪い子供に呆れる親である。

 

「品性も優雅さも欠片もないのね。これでは野蛮人よ。全く嘆かわしい」

「お嬢ちゃんもやってみれば良い。結構楽しいぜ?」

「魔術師ってのは基本ボッチだから、それは無理な話だ」

「なんだ、ボッチってのは」

「トモダチが居ないって事だ」

「あー、」

「……」

 

ランサーが繰り出す憐憫の視線。イリヤは辛うじてその侮辱を堪えた。二人がバーサーカーに対峙するその距離は一足飛びの一歩外である。狂戦士が吠えた。バーサーカーとランサー、そして真也が繰り広げるそれは、一触即死、ひとまばたきが生死を左右する高速戦闘だった。それ故二人はロビーを駆け回る。バーサーカーに対し中々攻める切っ掛けを得られない。

 

戦斧を躱す。蹴りを躱す。戦斧を受け流し、やり過ごす。離れては近づき、やり過ごす。直撃は今だ無いが、二人は息を切らし身体のあちらこちらから血を流していた。掠めただけでダメージを受ける、それ程の威力だった。精神力の消耗も激しい。イリヤは侮蔑を籠めてこう見下ろした。

 

「どうしたのかなぁ? 怖くなって攻められなくなったのかなぁ? 大人なのに無様ね。ドッグハウスの中に隠れて怯えて吠える子犬みたい」

「大人への礼儀が成ってねぇな、あのガキ」

「そのちびっ子は淑女(笑)だ。気にするな」

「なんだ、その、括弧、笑いってのは」

「人々に笑顔と笑いをもたらす、優雅で気品のある道化師だって事だ」

 

ランサーはゲラゲラと笑い出す。

 

「確かにその通りだ! 下品な地が出ていやがる!」

 

イリヤは表情を消し沈黙を保っていたが、その眼差しは怒り狂っていた。理性を持って魔術回路を操作し、バーサーカーの狂化を制御する。ここで感情的になっては1stバーサーカー戦の二の舞だ。

 

 

◆◆◆

 

 

そして三回目の攻撃である。ランサーの蹴りを食らった真也は足が遅い、バーサーカーは彼を討とうとその方を向いた。ランサーはエイワズ(死)のルーンを描き、バーサーカーの背後に迫りよるが、それはバーサーカーの読み通りであった。見切りで、背後に向けて戦斧を打ち払った。大ぶりの一撃だ。ランサーもまた読んでいた、跳躍。赤い槍に魔力が籠もる。

 

「ゲイ、」

 

地に対し水平に奮われたバーサーカーの猛烈な薙ぎが、突如軌道を変え、持ち上がった。その様を例えるなら天翔る昇竜である。想像外の有り得ない軌道を描いた戦斧はランサーを空中で薙ぎ払った。槍で受け止めたものの彼は空中だ。踏みとどまる事もままならず、吹き飛ばされ、城の内壁に叩き付けれた。受け身は取ったがダメージを追った。堪らず落下、崩れ落ちる。バーサーカーは薙ぎで生じたその回転力を生かし、迫る真也に回し蹴りを見舞った。直撃は避けたが、それでも威力は十分だ。巨木の様な脚が掠め、ランサーが施した結界が悲鳴を上げる。そのまま吹き飛び、滑り、壁に叩き付けられた。戦場の沈黙、それは勝敗の証と誰かが言った。狂戦士の呼吸音だけが響いていた。

 

「勝負あったかな」

 

イリヤは薄ら寒い笑顔を見せた。魔女の微笑みそのものである。だがランサーがふらりと立ち上がった。血を吐き捨てた。

 

「まだまだ、こんなもんじゃ足りねえ。俺をたたき伏せるなら、もうすこし気合いを入れないと駄目だ」

 

壁と床に叩き付けられた真也は最後の霊薬を飲んでいた。骨折や、損傷した内臓が修復されていく、が、修復しきる前に、無理矢理立ち上がった。ダメージ的にはランサーの方が上だが、そのランサーが立ち上がった以上、座り込んでいる訳にもいくまい。カツンコツンと、足音を立て二人はバーサーカーに向けて左右から挟む様に歩み寄る。その様は満身創痍。イリヤが笑った。

 

「往生際が悪い、というより、これではまるで道化ね。死に損ないの虫けらの方がまだ可愛げがあるわ。懇願しなさい。地に伏せなさい。そうすれば楽に死なせてあげる」

「やはり君は生粋の魔術師で戦士ではないんだな。俺らがやる事にまだ気づいてない」

「当然よ。そのような優雅さの欠片すらない蛮族と一緒にされる事自体不愉快だわ。もう見飽きちゃった。そいつらを殺しなさい、バーサーカー」

 

狂戦士の咆哮は最大だ。つまり狂化が最大に成った事を意味した。それはもう小細工を労する必要ない、という証だ。二人は一斉に踏み込んだ。持ちうる速力をつぎ込み、その姿を重ねる。4度目の攻撃。真也が先鋒、ランサーが後衛、だがこれはフェイント。真也の影に隠れ、ランサーはゲイボルクにスリサズ(雷神トール) のルーンを描く。彼は真也の肩に足を乗せ跳躍、これは陽動だ。

 

「ゲイボルク(突き穿つ死翔の槍)!」

 

音速を上回る30の鏃がバーサーカーに命中。一度殺し、仰け反らした。跳躍するランサーの足下を、真也が最大速力で踏み込んだ。バーサーカーは、ダメージをものともせず、跳躍し向かい落ちてくるランサーを薙ぎ払った。最大狂化の恩恵で、槍を傾け滑らし威を削いだが、錐揉みするかの様に壁に叩き付けられた。

 

「がはっ!」

 

今度ばかりは受け身もままならずランサーは血を吐いた。バーサーカーの豪腕で叩き付けられるのが2度目ならば、もはや俊敏な動きはままならない。バーサーカーは、眼前に迫る真也に戦斧を打ち振るった。バーサーカーはフェイントだと心眼で感じ取ったが、タイミングが厳しくその戦斧の一撃は躱された。方や真也も、決死の覚悟で踏み込んだ勢いを殺せず、すれ違った後に大きく離れた。

真也を遣り過ごしたバーサーカーは、勢いを維持したまま、床に向けて壁を滑走するランサーに向けて踏み込んだ。この機は逃さぬ。ランサー(片割れ)を確実に仕留める。アインツベルンの城を震わせんばかりの咆哮があった。それは死の宣告だ。

 

真也も同様にすれ違った勢いを殺さなかった。いつの間に魔眼殺しを外したのか、バーサーカーの背後に魔眼を灯らせる真也が迫っていた。狂戦士が意に返さないのは、狙いは顕現の点では無いという真也の作戦を戦闘中に見抜いたからだ。ランサーに向いたバーサーカーは、壁を滑るランサーを潰そうと斧を振りかざした。

今のバーサーカーは最大狂化であり、敏捷はAだ。魔眼殺しを外し、支援魔術を消してしまった真也に追いつく事は出来ない。このタイミングでは真也が追いつく前にランサーを潰している。その後は簡単だ。ランサーが居なければ己に強化することすら出来ない、異端の出来損ないの魔術師である。

 

だがバーサーカーにとってもイリヤにとって予想外の事があった。城の壁を落下中のランサーは、渾身の力を以て壁を蹴り、バーサーカーに向けて跳躍した。これは間合いがズレることを意味する。

 

「ゲイ――」

 

そして、ランサーの渾身を持った殺意は、バーサーカーとて無視できず、一瞬背後に迫る真也から意識を逸らしてしまった。最後は、魔眼殺しを外しても、暫くは支援魔術の効果が残る事だ。つまりバーサーカーは、隙をこじ開けられた。真也は霊刀を持って、バーサーカーの背にある一つの点を突いた。

 

この結末に至る理由は次の通り。イリヤは優れた魔術師だが、戦士ではない。戦いという意味での駆け引きには劣るのである。彼女は、真也からランサーの真名を聞かされ警戒せざるを得なかった。そのとき真也はご丁寧にも、魔眼をイリヤに向け幾度となく挑発していた。心理的な揺さぶりだと悟ったイリヤは、魔眼とフェイクであるアトゴウラの二つを警戒しなくては成らなくなったのである。

 

初撃のゲイボルクはクー・フーリンの威を見せるモノではなかった。宝具12の試練の発動確認する為に、その宝具の場所を見る為に真也はランサーにゲイボルク(刺し穿つ死棘の槍)を打たせた。ランサーを警戒させ緊張させた上で戦闘を開始し、敢えて被弾した。それは、緊張していたイリヤに優位に立たせる事に他ならない。軽薄なやりとりですら“強がり”という効果を狙ったものだ。

 

イリヤは、死の点つまり顕現の点さえ殺されなければ、どうとでも成ると確信していた。12の試練は神の呪いであり、手足を切り落とされようと、バーサーカーは死ぬことはない。残った手と足で、潰してしまえば終わりだ。つまりイリヤは魔眼を持ってバーサーカーの背に迫る真也を過小評価してしまった。

直視の魔眼は伝説中の伝説、実際の所イリヤすら目の当たりにするまでは、ただの伝承と思っていた。つまり“死をもたらす”という伝承以上の事を知らないのである。長く伏せっていた為、調査の時間も悪い意味で相応だ。だが1stバーサーカー戦から、突くと斬る、この二つによってのみ、その効果を生じさせられる事は分っていた。バーサーカーを行使する彼女にとってそれ以上の事は必要がなかった。

 

それ故に。脳と眼球のセットの能力である直視の魔眼は、視認する“死”は所持者の認識・限界に大きく左右される。使用者が“死”を理解出来ないモノは線も点も視えない。言い換えれば、認識することが出来れば、どのようなモノも殺すことが出来る。イリヤはバーサーカーの死に囚われる余り、真也という魔力と魔術の概念に秀でる魔術師が、直死の魔眼を持っていると言う意味を見落としてしまった。つまり、真也は宝具十二の試練(ゴッドハンド)を殺した。二人の策略は今ここに成ったのである。

 

宙に身を投げるランサーが眼下に見据えるのは、たった一つの命しか持たない狂戦士だ。ランサーの双眸が光った。その姿は正しく猟犬。響くは戦士の咆哮。それは勝利の宣告に他ならない。

 

「――ボルク(刺し穿つ死棘の槍)!」

 

因果の逆転がここに成り、その真紅の穂先はバーサーカーの心臓を貫いた。断末魔の咆哮が城内に響き渡った。バーサーカーは、心臓を破壊されてなお膝を折らず、咆哮を上げながら、なお少女を守ろうと戦斧を掲げた。ランサーは、己の槍を以て、最大の敬意を示しその首を切り落とした。ごろりと首が落ちた。膝を折り、大地に膝を突き、地に身を投げた。バーサーカーの敗北がここに確定した。

 

イリヤは階段を駆け下り、その首に駆け寄った。現実を理解できていない、否、現実を受け入れたくないその少女は、ただ、ぼうと己のサーヴァントだったモノを見つめていた。無視できない視線を感じ、その方を見れば真也が立っていた。その眼を見た雪の娘は怯えた表情を見せた。何故なら。彼の仄暗く光る瞳が、彼女の死の点を捕らえていたからである。

 

 

 

 

 

 

つづく!



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38 カイーナの環・8

先ほどまで壁だった石の塊、先ほどまで胸像だった青銅の塊、手すりだった木の破片。そこいらじゅうに散らばった、城のロビーを構成していた諸々のなれの果て。その中に佇むランサーは随分としんどそうだった。持ち慣れた真紅の槍ですら億劫そうだ。精悍な面は埃と汗に汚れ、額から血を流し、口元には吐いた血の痕が走り、疲労感と相まって酷い有様である。

 

だが、一仕事終えたという達成感がありありと浮かんでいた。真也も似た様なものである。全て一人でやってきた真也だったが、誰かと困難を乗り越える事も悪くない、と思ってすらいた。ランサーが初めから自分のサーヴァントだったなら、今の状況にも避けられたかもしれない……らしくなく、その様な意味の無い妄想すらしていた。

 

「お疲れ。流石のクー・フーリンも手こずったな」

「ぬかせ。楽勝にきまってるだろ」

「嘘つけ。土壇場で一発でかいの喰らったろ。冷や冷やしたぞあれ。最後でゲイボルクが出なかったらかなりやばかったからな」

 

ランサーが睨みを利かせていなければ真也が12の試練を殺した直後、彼はバーサーカーによって叩き潰されていただろう。

 

「は、あの程度でくたばるなら英霊なんぞやっちゃいねえよ」

「減らず口をたたけるなら心配ないな」

 

意味の無いくだらない事を言い合う二人の耳に。

 

「やだっ! バーサーカー! 死んじゃやだよう!」

 

イリヤの悲痛な声が届いた。見ればイリヤはバーサーカーの骸に縋り付いていた。再び立ち上がり、安心を与えて欲しいと嘆いていた。映画を編集し、そのシーンだけを取り出せば同情、憐憫、哀愁を誘う光景である。彼の瞳にはその姿がどこかの兄妹と重なった。心ここにあらずの様相で真也はしばらく見ていたが刀を手に足を踏み進めた。亡霊の声に誘われるかの様である。ランサーの声には咎めも、称賛も無い。

 

「やるのか?」

「これはけじめだ。俺は戦う前に投降しろと警告した。彼女は拒絶した。彼女は俺を殺すと言った。俺もまたそう言った。俺は命を賭け、彼女も賭けた。勝敗は決まった。負けたから掛け金を返せなんて通用しないさ。聖杯戦争に参加した生粋の魔術師である彼女なら尚更だ」

「あの坊主はどうする」

「士郎との勝負は俺の勝ちと言うことだよランサー。俺にはそれ以上の意味もそれ以下の意味も持たない。けど士郎はそう思わないだろうな」

 

足音に気がついたイリヤは、怯え堪らず後ずさった。真也のゆっくりとだが確実な歩みに、その身を恐怖で硬直させていた。イリヤが抜いた一本の髪は、風に巻き上げられる様に揺れると、宙で毛玉の様に絡まり一つの形を成した。それを例えれば、あやとりで織りなした鳥が近いだろう。カナリアかフィンチと言った可愛げのある姿のそれは、彼女が生み出した独立動作の使い魔である。生み出したのは8羽。高速で飛来するそれを真也は霊刀を振るい、殺した。

 

怯えるイリヤの次手は、ミサイルにも宇宙船にも見えるブレード型の使い魔だった。硝子細工の剣、表現としてはそれが適当だろうか。彼女の頭上に浮かぶその剣は4振り。レーザーの如き速度で撃ち出されたそれを真也は斬り付け、殺した。彼女の殺し方、狙い方があまりにも素直で読みやすい。

 

視界の片隅にある影が動いたかと思うと、二人の女が立ちふさがる様に現れた。白銀の髪、紅い瞳、イリヤに似た彼女たちは白を基調とした装束を纏っていた。メイドの様だが看護婦をイメージさせる仕立てである。一人は身の丈程あるハルバートを構え、もう一人は手刀を向けていた。その腕には魔術刻印が唸りを上げていた。イリヤの命で控えていた彼女らは主の危機を見逃せず飛び出したのだった。

 

ハルバートをもつ片方が襲い来る。己の体重より重いその武器を軽々と振り回すその様は死をもたらす扇風だ。彼はその一撃を斬り落とした。突如武器の重量が減り、バランスを崩したその女の腹部に柄を打ち込んだ。カウンターである。そして腹部に蹴りを入れ壁に叩き付けた。無力化した。

 

機械の様なタイミングで飛来する呪いの塊を斬り殺すと、一瞬でその懐に踏み込んだ。その女の鳩尾に拳をたたき込み、無力化した。今の真也の速度は、彼自身にもランサーから見ても遅いものであったが、それでいて尚、その二人は追従できなかった。一人は蹲り、一人は地に伏せ、呻いていた。真也はその二人に目もくれず、イリヤに向けて歩いた。

 

「安心してくれ、この二人は殺しちゃいない、俺の狙いは君だけだ」

 

真也の足音が嫌に耳に付く。まるでナイフで心臓を撫でられているかの様だ。もしくは頭蓋を直接小突かれている不快な感覚。彼女に歩み寄るのは絶対の死。その少女は怯え、足下の確認すらせず、背を向け駆け出すと、躓いた。その城のロビーは戦闘で瓦礫と化していた。それを確認する余裕すら無かった。

 

破壊され、荒れ果てた城のロビーである。生き残っている電灯は、数えるしかない。地を這うイリヤは、その城の影にまぶされていた。唯一の光は、死を意味する蒼く光る瞳だった。皮肉にも程がある。恐怖のあまり這う事も出来なくなった、バーサーカーのマスターを真也は見下ろした。身体が震え、歯も鳴りだした。

 

「消えて無くなるだけで痛みは無いから。怖ければ目を瞑っていると良い」

 

魔眼を持ってその幼い身体を見れば、全身を埋め尽くす程に走る、おびただしい数の魔術回路と、魔術処置が見て取れた。これほどの負荷ならば真也と同様に、彼女もまた長くは無いだろう。何らかの機能も持っているかもしれない。これらを殺せばどうなるか、彼はそんな事を考えたが、忘れる事にした。殺そうとするモノの寿命を考えてどうになる、と一蹴した。

 

イリヤは死の恐怖に怯えていたのではない。彼女はとうに死を受け入れていたからだ。その身は英霊たちの魂の受け皿としてのみ作られた。小聖杯として機能すればどの道人格はなくなる。なにより1年持たない身体だ。なのに何故、怯え震える。彼女を見下ろす絶対の死。この眼をもって彼女の全ては消えて無くなる。そう。一緒に暮らしたいと、精一杯の思いと共に告げた弟の記憶も消え失せる。復讐のみだった彼女が持った、ほんの僅かだが、確かな温かい気持ち。それが完全にこの世から消失する。それは如何ほどの恐怖か。

 

「こわい、怖いよ。シロウ、助けて……」

 

紅い瞳から涙が溢れた。真也が掲げた切っ先は恐怖に震える幼い声で止められた。

 

「勝手なことを。それは今更だろう。そう思うのであれば戦うべきではなかった。全てを放棄し、士郎の元に帰るべきだった。それができない仕方の無い事なら、これは当然の結末だ」

 

イリヤの死の点は何の因果か心臓だ。その点は相応に大きく、背後からでも突く事ができる。仰向けにさせる手間が省けるというモノだ。

 

「さよなら」

 

彼の死突は点を逸れ少女の脇にある床を突いていた。彼はおやと首を傾げた。疲れているから手元が狂ったのかもしれない。何せ相手はあのヘラクレスだ、こんな事もあるだろう。そう思い、もう一度突けばまた外した。二度もミスをするとはらしくない。足場が悪いのだろうか。そう思い床を確かめれば、気になる様な、歪みや不安定さはない。足を滑らせたのかもしれない。足場を確認し慎重に突けばまたまた外した。その切っ先はイリヤの目の前に落ちている。息を呑むかの様な怯えた声が響いた。妙だ、いくら何でもおかしい。外部の要因に違いない。イリヤが結界を張った、暗示を掛けられた、その他、魔術的な要因を確認したが異常は無い。その後も数度繰り返したが点を突けない。見えない力に、逸らされているかの様だ。

 

「もう点を突くのはやめだ。ならば、その首落とす」

 

振り下ろした刃は、紙一重で止まっていた。身体は正常だ。だから際で止める事が出来た。外部的要因ではなく、問題は彼の内にあった。真也はギリと柄を潰さんばかりに握りしめた。イリヤを殺せない、彼はその事実に気がついてしまった。

 

「ふざけるな!」

 

彼は渾身を持って霊刀を振りかざし、打ち下ろした。刃は止まっていた。

 

「この期に及んでなぜ殺せない! 一週間前だ! この幼い身体に刃を突きつけたのは、ほんの七日前だぞ! あの時は何の躊躇いも無かった! セイバーさえ邪魔しなければ真っ二つにできた! しかけた! なぜ今それができない!」

 

もう一度力任せに突いた。それは当然だと言わんばかりに、諦めろと言わんばかりに、床を穿っていた。何度も突いた。悉く外れ床を掘っていった。その様を例えれば針の穴に糸を通せない、不器用な裁縫師に他ならない。つまり。その存在に意味が無い、と言う事である。

 

「イリヤスフィール! 俺はお前を殺せない! この意味が分っているのか! 凛の敗北が確定してしまう! 凛が真実を知ってしまう! 何の為にこの場に立っていると! 何の為に這いつくばり、往生際悪く生きてきたと! 全てなくなる! 今度こそ全てが無くなる!」

 

見下ろす少女は怯えるだけだ。声すら出せず、涙を流し、身を繭の様に丸めるだけだ。カツンと最後の死突が止まった。

 

「お願いだ。殺させてくれ、たのむ、たのむから」

 

凛に別れを告げ、桜を見放し、全て無くなった。だから完全に戻った、その筈だ、彼はそう思った。それは誤りだ。凛と桜。この二人に挟まれた彼は、二人の利害に挟まれた。片方を立てれば片方が立たず。それは葛藤を生み、苦悩を生み出した。苦しみという概念を知れば、当然人も持っていると知る。そうすれば、今まで通り傷つけることなど出来るはずが無い。

 

(キャスターは殺す理由が無かっただけだ。殺そうと思えば殺す事が出来た。その有り様が桜に似ていたから、ただしなかっただけ。殺そうと思えば出来た、ただそうしなかっただけ、その筈だった……)

 

バーサーカーの止めを刺したのはランサーだ。作戦だと体の良い口実を付け、無意識にそう仕向けた。魔術師ならサーヴァントを殺す事など躊躇うはずがない。出来るはずだ。出来なくてはならない。ならば。

 

「それが出来ない俺は何だ」

 

心を得た彼は人を殺す事に躊躇いを持った。何かと理由を付けて、それを回避する様になった。追い打ちが、凛のサーヴァントを殺害してしまった事である。深い後悔と呵責はもうしたくないと彼に刷り込みをかけた。人はそれをトラウマと呼ぶだろう。人ですらない存在すら手を掛けられなくなった。

 

「そうか。俺は兄でもなくなって、誰かの特別にもなれず、魔術師でも無くなっていたのか。セイバーを討つ事もできないから、凛の脱落を無効にする、勝者の居ない聖杯戦争と言う結末も、泡と消えた。俺はランサーの背後に居るマスターを殺せない。そいつはきっと凛に暴露するだろう。俺は、何も出来ない。今度こそ完全に無くなった……俺はどうしたら良い」

 

膝を折り、座り込んだ。身体から力が抜けた。霊刀を杖にせねば上肢すら支えられなかった。バーサーカーの遺体が消え、それは近くに居るイリヤに回収された。その時だ。

 

「最悪の結末だ。これほど興の沸かぬ見世物も珍しい」

 

その声は、尊大な言い回しの割には軽い声だった。率直に言えば耳に障る軽薄な声。だがそれが、否が応にもよく心に響いた。否、鷲づかみにされたが表現として相応しい。強制的に強いている様である。突如、頭上から降り注いだ声にランサーが見上げれば男が立っていた。

 

階段の上、先ほどまでイリヤが立っていた場所に佇むのは、黒いライダースーツを纏う男だった。黄金の様なこんじきの髪とルビーの様な紅い瞳、その男は万物をひれ伏せようとする重厚な面を持っていた。その男、ギルガメッシュは階段の上に立ち、汚物でも見るかの様な眼差しで真也を見下ろしていた。ギルガメッシュは真也がイリヤを殺せないという綺礼の確信を持った断言に、落胆と僅かばかりの称賛を送っていた。もちろん落胆とは真也に対してであり、称賛は綺礼にだ。真也はそのまま俯いていた。

 

「雑種。貴様の相手を務めた者は、神の血を引くヘラクレスだ。身に余る栄誉をその様な薄汚い慟哭で穢すか」

「お前が何処の誰かは知らない。失せろ、今の俺は何をしでかすか判らない」

 

真也の双眸が蒼く光っていた。

 

「控えろ。我を仰いで良いと誰が許した。誰の許しを得て、我に口を開いている。気がついているのか、その不愉快な目が存在しうること自体、我への挑戦、王への冒涜だ。その罪、万死に値する。即刻、我の前より消え失せるが良い」

「そっちが現れて消えろとは随分と良い性格をしている。立ち去れば良いのか?」

「痴れ者が。我が失せろと言ったのだ。疾く自害するが礼であろう!」

 

王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)発動し、ギルガメッシュの背後に複数の宝具が顕われた。威嚇する様に立ち塞がるのはランサーである。

 

「なんでてめえがここに居る」

「芝居は終わりと言う事だ。退くが良いぞ、ランサー。貴様に命じられた使命はバーサーカー戦まで。それが終わった以上関わる理由はあるまい?」

「そうか、あの男はお前の仲間か」

「ただ同じ陣営に属する、いけ好かない、信用できない野郎だ。仲間なんかじゃねえよ」

 

さてどうする。ランサーが身の振りを考えていると綺礼より念話が入った。

 

『下がれランサー』

『取り込み中だ。後にしろ』

『下がれと言ったぞランサー。お前を使わしたのはバーサーカーに狙われたその被害者を助ける為だ。それが終わった。他に理由はない』

 

綺礼は真也を殺すつもりだと、ランサーは悟った。綺礼が持つ令呪は残り一つ。意に背く行動を取れば令呪による強制は自害だ。万が一真也殺害ならば、誇りにかけて綺礼を討つ。そう覚悟を決めたランサーはギルガメッシュに対して、槍を守備寄りに構えた。

 

「真也。ここからは商売抜きだ。僅かだが時間を稼ぐ。お前の脚ならどうにかなるだろ。全力で逃げな」

「なぁランサー、アイツは強いのか?」

「ああ。いけすかねえが、強さは折り紙付きだ……お前は何を考えた?」

「やるよ。ランサー、俺はやる」

 

彼はそう言うと、ふらりと立ち上がった。それを察したランサーの発言は手向けだと言わんばかりだ。

 

「もう敵になっちまったが。真也、お前は気に入っていた。その眼は使わない方が、都合が良いはずだ」

 

真也は黙って魔眼殺しを身に付けた。治癒、結界、身体強化を真也に刻んだ。彼の手にある霊刀には北欧神話の軍神ティールを意味するテイワズのルーンを刻んだ。何か言ってくるであろうと思っていた綺礼は何も言わない。ランサーの疑念はますます強くなる。

 

(直ぐ殺されては不都合がある、時間的な意味で何かを狙っているのか)

 

いずれにせよ、負傷したまま敵前に放り出す事など出来はしないのだ。真也は苦笑を禁じ得ない。

 

「もう敵だってのに、人が良いなお前は」

「見届けてやる、派手にやれ」

「ランサー、世話になった」

「礼なんざ言うんじゃねぇ」

「ばか言え、結構楽しかったぞ。誰かと組んで苦楽を分かち合うっていいもんだな。もっと早く気づけば良かった」

 

真也見上げる人物は、一挙手一投足すべて不遜な態度だった。意図的に行うならば返って疲れるだろう、真也はそんな事を考えた。見てみるが良い、一階の真也を見下ろすその男は、わざわざふんぞり返っている。

 

「意味なき者、価値なき者が我に刃向かうか」

「関係ないだろう。刃を持つ者に、刃を向けた。単純な話し。王がその理を知らないのか。それがいやなら宮殿に帰り、臣下に泣きつくと良い」

「ふ、愚鈍もここまでこじらせれば、興も募る、か。名乗れ雑種」

「蒼月真也」

「刻め、そして畏怖せよ。我はギルガメッシュ。この世の全てを統べる王なり」

「シュメールの王君とは、驚いた」

 

何故そのような人物が居るのか不思議に思ったが、直ぐに忘れた。それに意味は無い。

 

「跪くが良い。我を仰げば、道を見いだせるかもしれんぞ」

「断る。でなければこの場に立ってはいない」

 

真也は抜刀すると鞘を捨てた。腕を組み見下ろす不遜さは同じだが、その様を見たギルガメッシュは笑みを浮かべた。

 

「愚鈍も愚鈍なりに引き際を悟ったか。良かろう。その身と魂、せめて華々しく散らせてみるがいい。趣を興じれば、この愚挙なる舞台にも華が咲くというモノだ。我の刻を無駄にさせるなよ、雑種」

「悉く自分が中心か」

「たわけが、王道を征く者が雑種に配慮する道理などなかろう」

 

それは開戦の狼煙だった。真也は大地を蹴ると宣戦布告と言わんばかりに咆哮を上げた。

 

「同感だ!」

 

士郎たちが森に入ったのは真也たちより早かった。それでも尚、到着が遅れたのは森を走る真也たちが速すぎたのである。追いつくと良いと考えていたが姿も影も形も見えない。或いは先行しているのかもしれないと、抱いた淡い期待は藻屑と消えた。

 

城から離れた森の中ですら、戦闘による激しい音と地鳴りが届いていたからである。始まっている、そう思った彼らは急ぎ森を抜け、アインツベルンの城を視界に捕らえれば、聞こえていた音は剣戟ではなく、絨毯爆撃の様な激音だと気がついた。周囲を伺いつつ、城壁に取り付き、開いた穴から中を覗けば真也が見知らぬ相手と戦っていた。セイバーは目を剥き驚きを隠さない。何故ならギルガメッシュは先の聖杯戦争で争った相手だからだ。そもそもクラスは全て埋まっている。共に覗き込んだ士郎は、ギルガメッシュの宝物庫より撃ち出される宝具の数々を魅入られる様に解析していた。

 

(ダインスレフ、ハルペー、デュランダル、ヴァジュラ、カラドボルク、ゲイボルク……)

 

突如呆けた主にセイバーは彼の肩を揺する。

 

「シロウ?」

「いや。なんでもない。セイバー。侵入しよう。姉さんを探さないと」

「危険です。誰が敵か味方か判りません」

「金ぴかと真也のどちらかは味方って事か」

 

凛の発言に違和感を覚えるセイバーだったが、切迫した状況である。聞き流す事にした。

 

「その判断は早計です。あの金髪の男もイリヤスフィールを狙っているのかも知れません。劣勢の蒼月真也を黙ってみている以上、ランサーは彼の仲間の可能性があります」

 

士郎はセイバーの発言に違和を持った。

 

「セイバーはあの金髪を知っているのか?」

「ええ。ですがその説明をしている猶予はありません。これ程暴れているにも関わらず、姿を見せないならば、バーサーカーは倒されたとみるべきでしょう」

「ならイリヤスフィールは……」

 

死んだのか、凛は慌ててその発言を飲み込んだ。焦燥を堪えて士郎は強く食いしばった。セイバーが続けた。

 

「それは判らない。蒼月真也がイリヤスフィールを狙っていた以上、討ち倒したのならば戦闘を行う必要が無い。城内の有様を見れば相応に激しい戦闘だった筈です。消耗も激しいでしょうし連続戦闘は避けうる事が自然な判断だ。あの男の脚ならそれが可能しょうから」

「真也が敢えて戦う理由がある、目的は達せられていない、つまり姉さんはまだ生きているってことか」

「あくまで可能性です。とにかく迂闊に仕掛けられない。思惑と関係が見抜けない以上、踏み込んだ途端あの3人を敵に回す可能性がある。そうなれば目も当てられません。機を伺うべきです。私たちは裏手から入りイリヤスフィールを探す、その間に潰し合いをさせ消耗させましょう。勝敗が決した瞬間は気が抜けるものです。奇襲を掛けるのであれば、その時が最善です」

 

セイバーの発言を聞いた凛は独白するかの様に呟いた。

 

「真也が殺されるのは困る、ってのは都合が良すぎ?」

「それは何故です遠坂凛。あの男は貴女にとって敵だったはずです」

「聞かなくちゃいけない事が出来たのよ」

 

銃弾の様に撃ち出すギルガメッシュは圧倒的だ。士郎は決断を下した。

 

「セイバーと俺はここで待機。遠坂は裏手から入り込んでイリヤを探してくれ」

「遠坂凛、裏手まで案内します。シロウ、くれぐれも単独行動はしない様に」

 

士郎が同意したのを見ると、セイバーと凛は連れだって歩き始めた。凛は不可解さを隠さない。

 

「どうしてセイバーがこの城の間取りを知ってるのよ」

「私は前回の聖杯戦争で、アインツベルンのサーヴァントでした」

「じゃ、なに? セイバーは前の聖杯戦争で縁深き者と敵対していた訳?」

「はい」

「……今回の聖杯戦争ってぐちゃぐちゃね。頭がこんがらがってくる」

 

凛の先を行くセイバーの表情に余裕はなく、言いしれぬ不安に駆られていた。敵である人間が敵かどうか確証が無い、選択を誤ると取り返しが付かなくなる、彼女の直感がそう告げていた。

 

(敵は、誰だ。この戦場に居るのか……?)

 

 

◆◆◆

 

 

矢継ぎ早に繰り出される宝具“ゲートオブバビロン”の連続射撃により、ギルガメッシュと真也の戦闘は一方的な展開を見せていた。もちろん優勢なのはギルガメッシュだ。真也は逃げ回るのみである。床を蹴り、壁を走り、天井に着地する。ロビーを面で動き、躱せる物は躱す、躱せないモノは霊刀で受け止め滑らし凌ぐ。直撃こそ避けていたものの、その威力は驚異的で、一発でも食らえば真也は終わりだ。ランサーと同等の敏捷を誇る真也だったが、それらを全て掻い潜り踏み込むなど神業に近い。唯一の幸運は、ギルガメッシュが慢心している事だ。用心深く、制圧飽和射撃を受ければ、為す術もなく肉塊となろう。

 

“ダインスレフ”を霊刀で受け流したが空中である。当然踏ん張りが利かず、そのまま吹き飛ばされ壁に打ち付けられた。崩れ落ちた。2発目。迫る“ハルペー”を転がり躱す。3発目“デュランダル”を渾身を持って弾いた。態勢が乱れる。

 

焦燥が募る。切っ掛けが掴めない。これではいずれ消耗し、仕留められるだろう。回避に徹する真也の視界にあるモノが目に映った。城の正面扉を粉砕するギルガメッシュの一撃を回避したその際、左腕を掲げ、十字を切る様に二回打ち振るった。

 

指先が空気を切り裂き、真空の断層を作り出した。真空の刃“かまいたち”である。彼が唯一持つ飛び武器だ。二つの半月状のそれは大気を疾走した。一つはギルガメッシュの宝具に掻き消された、虫を轢いても気づかないダンプの様な力の差で蹂躙された。もう一つはあらぬ方に飛んでいき、ギルガメッシュが気にも止めないそれは、彼の頭上にあるシャンデリアを斬り落とした。落下するそれを粉砕しようと、ギルガメッシュが剣の群れを頭上に向けると、その瞬間を狙い真也が踏み込んだ。縮地。その速さで世界が歪む。

 

落下するそれに構うことなく打ち込んだ真也の一撃は、運悪く落下軌道を変えたシャンデリアに阻止された。二人は同時に跳躍した。ガシャンと、落下したシャンデリアは、けたたましいが軽薄な音を立てた。それを契機に二人の立ち位置はひっくり返った。真也が2階、ギルガメッシュが1階だ。その侮辱にギルガメッシュの怒りは最高点である。

 

「我を地に付かせるか! 我を見下ろすか! その罪、地獄で焼き尽くすが良い!」

「落ち着けよ英雄王。格下に噛み付かれる、そんな事だってある。それが嫌なら、もう少し慎重になるべきだ。視点を変え、多面的に物事を見ると良い」

 

真也には侮蔑も挑発もない。己の持つ全てをつぎ込み、ただギルガメッシュに挑む者として立っていた。その静かな佇まいにギルガメッシュの憤慨も自然収まった。

 

「くだらん、慢心せずして何が王だ。我の眼は玉座にのみ存在する。他者の視点など持つに値せん」

「確かにそうだ。他人の顔色をうかがう、せせこましい王様なんて俺だって御免被る。だが王よ。国を失いなお玉座にしがみつくのは無様だと思わないか」

「愚かとはほとほと罪だな。この世の全てが俺のモノ、つまりは我の国よ。よいか。草木の一片、石ころの一つ、財宝、人民、酒、悦楽、大地の恵み、雲の動き。現在、過去、未来、太古であろうと、彼方にある時の終焉だろうと、それは変わらぬ」

「そこまで言い切られると本当に清々しい。でも、だからこそ、この最後に陛下を選んだ」

「ふん。己の帳尻合わせに我を利用するか。どこまでも分を弁えぬ不遜な輩よ。よかろう。どれ程あがこうとも、手を伸ばそうとも、決して届かぬ極みがある事を、己の死を持って知るが良い」

 

ギルガメッシュの背後に、今までとは比べものにならない数の宝具が顕われた。

 

「散れ」

「参る」

 

ギルガメシュの放つ剣の群れが、真也の立っていた場所を文字通り、粉砕した。だが真也はただ逃げていたのでは無い。ギルガメッシュに意図的に破壊させ、この城を崩させていたのだ。その衝撃で天井と壁が崩落、ギルガメッシュに降り注ぐ。それは隙である。真也の手にある霊刀が閃光と咆哮を上げる。降り注ぐ瓦礫に構う事なく彼は踏み込んだ。その刃が目指すは英雄王の首。全身全霊を以て挑んだ真也の身体は、対神宝具“天の鎖(エルキドゥ)”に囚われていた。崩落が収まった頃、立っていたのはギルガメッシュである。宙に締め上げられる真也に、ギルガメッシュは当然の結末だと言わんばかりだ。

 

「我は技と策に興味が無い、それは何故だか分かるか。奸計は力を持たぬモノが縋る見るに堪えぬ無様な代物よ。全てをねじ伏せる、我にその様な矮小は存在せぬ」

 

鎖が首に食い込み腹に食い込み、手足はねじ上げられた。堪らず真也は絶叫を上げた。

 

「がぁぁぁ!」

「貴様の役目はここで終わった。潰えるが良い」

 

ギルガメッシュは一振りの剣を装填した。それで十分だ。直撃を喰らえば、ランサーの結界など一溜まりも無い。射出しようとした直前である。ギルガメッシュはある違和感に気がついた。それは天の鎖の手応え。この感触はまるで。

 

「天の鎖(エルキドゥ)のこの手応え……貴様、まさか」

 

流石のギルガメッシュも目を剥いた。

 

「……この会遇すら神の采配と言う事か、不愉快極まりない。だが。神の血を引く者を討つのは、神の血を引く者のみだ。どのようにしてこの地に生まれ落ちたのかは知らんが、雑種如きに貴様の骸を、肉片一つ、血の一滴すら晒すのは許される事では無い」

 

ギルガメッシュは士郎らに気づいていた。

 

「塵一つ残さず消滅する事が我の慈悲と知れ」

 

ギルガメッシュが背後の宝物庫から引き抜いたのは“乖離剣エア”である。それは細長の回転体をつなぎ合わせた様な、異形の武器、兵器だった。異方向に回転するそれは、空間の断層を生み出した。空間が巻き上げられ捻られる、それはまるで空間の渦潮だ。その威力は如何ほどのものか、城どころか天と地を振るわした。

 

「エヌマ、」

 

発動する瞬間のギルガメッシュを一連の鎖が襲った。崩壊し掛かった城のロビーに現れたのは黒衣の騎兵だ。ライダーは二人の戦いに手が出せず機会を伺っていたのである。彼女はエア発動の僅かな隙を狙った。タイミングが早すぎれば、ゲートオブバビロンを使われる、遅すぎれば当然終わりだ。ギルガメッシュは身を翻し、真也を見下ろす位置に降り立った。城内を切り裂く様に駆ける騎兵に怒りを隠さない。

 

「女如きが我の邪魔立てをするか!」

 

装填。雨の様に宝具を撃ち出した。ライダーは渾身を持って、城のロビーを立体的に駆け抜けた。一刀が真也の脇腹をかすめ吹き飛ばした。拘束を解かれた彼は、落下、微動だにしない。血の溜まりが広がる。真也の様を見たギルガメッシュは激昂した。雑種どもに晒さない、彼の思慮不意にされたからである。ライダーが隙を見てどうにか真也を連れ出そうとするが、ギルガメッシュは射撃の手を緩めない。機会が無い、宙に身を踊らせるライダーに焦燥が浮かぶ。早く手当てをしなくては真也が本当に死ぬ。

 

「ならばもろとも屠ってくれる! エヌマ・エリ、」

 

ギルガメッシュが掲げたエアを射出されたカリバーンが弾いた。それは士郎らの介入である。介入理由はライダーの登場、及び、エアへの警戒感だ。エアを発動されては壊滅だと士郎が感じ取ったのだった。士郎の視界の端を見れば、ロビーの隅で凛が手を振っていた。それはOKのジェスチャーである。イリヤの確保及び無事の意味だ。真也がイリヤを殺さなかった、それで十分だと、士郎は掛けだした。セイバーも主に続いた。隅で見ていたランサーが遅え、と言った。士郎は連続投影。展開しておいた設計図はそのまま維持している。

 

「投影開始(トレースオン)! 選定の剣(カリバーン)!」

 

聖剣を手にギルと真也の間に立ちふさがった。士郎に弾かれギルガメッシュの手を離れた乖離剣エアは転がり落ちた。それを見たギルガメッシュはこれ以上怒りようが無い程に怒りの形相を見えた。選んだ相手にのみ使うエアを二度も邪魔されたあげく地に落としたのだ。

 

「我に逆らう愚か者どもが! 身の程を知れ!」

 

王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)を士郎に向けた。彼に並び立つのはセイバーである。降り注ぐ膨大な数の宝具を二人は凌いでいた。弾かれた宝具が、至る所に突き刺さっていった。士郎は“まるで剣の墓場だな”と他人事の様に考えていた。

 

「ライダー! 今のうちに真也を頼む!」

 

士郎の声に呼応するかの様に騎兵は真也の元に降り立った。彼を仰向けにすれば片腹を抉られていた。出血は当然、腑物すらはみ出していた。心臓が止まっていたが呼吸は辛うじて残っていた。真也のしぶとさに感心しながらも、ライダーは胸の谷間から霊薬を取り出し口うつしで飲ませた。抉られた脇は、肉を焼く様な音を立て、煮立てる鍋の様な湯気を出し再生されていった。残りは心肺機能の回復である。真也が魔眼殺しを付けていたのは幸いだ。ライダーは蘇生の術を施した。士郎の令呪が光を放つ。

 

「俺が凌ぐ! 斬り込め!」

 

かつて真也を倒した令呪を、今度は助ける為に使う。

 

「しかし、シロウ! 一人では凌ぎきれない!」

「この機は逃せない!」

 

士郎の手にあるカリバーンには亀裂が入っていた。あと数合で砕けるだろう。彼女もまた覚悟を決めた。

 

「セイ、」

 

それは士郎が令呪を行使する直前の事。“ぞわり”表現できない不可解な感覚が、その場に居た全員を襲った。誰も彼もがその存在感を無視できず、全員が手を止め目を剥いた。その視線の先に其処に黒い影があった。ギルガメッシュと士郎の間である。乖離剣エアの行使による魔力の奔流を追い、セイバー、ランサー、ライダー、ギルガメッシュ、4人のサーヴァントの魂を追い、真也の足取りを追い、顕われたそれは見てしまった。心臓が止まっている真也を見てしまった。

 

同時刻、遠坂邸。

 

ベッドで寝ていた桜が目を開くと、頭を抱え金切り声を上げた。その事実に耐えきれず、暴れベッドから落ちた。転んで頭を打った。額から血が流れ出しその肢体を染めた。地にひれ伏さんばかりに蹲るその様は“絶望”の権化だ。彼女は笑い始めた。

 

「あはは、死んじゃった。兄さんが死んじゃった。私を残して、死んじゃった」

 

夢などではない。夜な夜な町を徘徊して、言い寄る男達を、罪無き人々を喰い殺していたのは間違いなく彼女自身。

 

「なんだ、少しずつおかしくなってたんじゃ無いんだ。兄さん、わたし、とっくに壊れていたんです」

 

骸となった兄の姿が脳裏に焼き付いた。

 

“なんで、なんで私の周りにある世界はこんなにも私を嫌っているんだろう。ただ、母さんと兄さんと3人で暮らしたかった、それだけだった。これはそんなに無理な願いだったの?”

 

少女の意識はそこで終わった。いや、正確に言えば変わった。いままで押え付けていた無意識が表層に浮かび上がっただけの話し。額から流れた血が、瞳に伝わり、血の涙を流す。それは赤い入れ墨の様な文様に変わっていく。凛が見ていれば令呪だと言っただろう。髪は白くなり、まるで灰だ。瞳は赤く、血の様にどす黒く。全身を魔力で編んだ黒い帯が覆っていく。

 

“それすら許されないこんな世界なんて終わってしまえば良いのに”

 

その呪いを吐いたのは黒い少女だった。遠坂の屋敷全体を揺さぶる尋常ではない気配。駆けつけた葵が見た部屋はもぬけの殻だった。ただ観葉植物が黒色に変わり死んでいた。葵は間に合わなかったのだ、そう理解した。

 

 

◆◆◆

 

 

黒い影の頭が恐怖を感じる程に膨らんでいく。風船に水を入れ膨らます様に似ていたが、その内部で荒れ狂っているモノは膨大な魔力に他ならない。それを阻止する事はもうできない、その場に居た誰もが感じ取った。

 

「やべぇ! 全員散れぇ!」

 

ランサーの悲鳴に近い怒号が響いた。彼を通じ見ていた綺礼は、『成った』と笑みを浮かべた。セイバーが士郎を抱えて逃げた。ランサーはイリヤの傍に居た凛ごと抱えて逃げ出した。ライダーは真也である。時が止まった、その刹那。爆発的な魔力の衝撃が吹き荒れた。そのエネルギーは最高ランクF5竜巻に匹敵し、強固な城を崩壊させた。城から溢れた破片が空を切り裂く隕石の様に飛んでいった。

 

大気と大地の震えが収まった時、彼らが見た物は爆心地そのものである。大地は抉られ、盛り返っていた。木々は城を中心として根こそぎ倒れていた。城は3割ほど形を残していたが、見るに堪えない有様である。もう住む事は叶うまい。

 

魔術の知らせを感知したセイバーは瓦礫を撤去すると、地下に続く扉を開けた。其処に避難していたイリヤの従者である。彼女は二人を助け出した。爆心地跡を凛が追い求める様に歩けば彼は直ぐに見つかった。ライダーの心肺機能を再開させる術を受け、息を吹き返した。咳き込んでいた。脇腹の傷は不完全ではあるが、治癒し掛かっていた。これならば助かるだろう、ライダーはそう安堵した。そして。恐る恐る歩み寄る凛に気づいたライダーは真也を抱きかかえた。なにを、と呆然とする凛に対し。

 

「遠坂凛に触らせると思いましたか」

 

そう言い捨てると、彼を連れて森の中へ消えていった。

 

「……連れて行かないでよ。聞きたいことがあるんだから」

 

凛の足下に転がる霊刀がもう手遅れだと告げていた。

 

「運は無いが、女には恵まれてるな」

 

ランサーは、詰まらなさそうに、やるせなさそうに呟くと抱いていたイリヤを士郎に手渡した。状況が読めない士郎は戸惑うのみだ。

 

「ほら、もってけ」

「ランサー、どういう事だ。どうして真也は姉さんを見逃した。なんでランサーが姉さんを助ける」

「めんどくせえこと、ごちゃごちゃほざくんじゃねーよ。助かったならそれで良いだろ」

 

腕の中いる姉の姿を確認すると、士郎は安堵の息を付いた。気は失っていたが怪我はない。子供とは言えど相応の重さがあったが、士郎は返って安心した。命の重さという意味だ。ランサーはそれが面白くない。

 

「士郎っつったな。お前は真也を踏み台にして、姉を手に入れた。これだけは忘れるんじゃねぇぞ」

 

それはどういう意味だ、士郎の問を無視して彼は立ち去った。子供に当たるとは我ながら大人げない、そう自嘲した。

 

 

◆◆◆

 

 

蒼月の家には戻れない。凛に監視されているとみるべきだ。当然遠坂邸は論外である。アインツベルンの敷地内にある、朽ちた廃屋にたどり着いたライダーは真也を寝かせる場所を探せば、幸いにしてベッドのマットレスと毛布があった。彼を寝かせ、その額に手を乗せれば発熱があった。一時的にとはいえ死に、脇腹を吹き飛ばされたのだ。体力消耗も相応だろう。すきま風が走り、底冷えもする室内である。

 

ライダーは判断に迷った。桜から流れる魔力が激しく乱れた事が気に掛かる、桜が念話に応じない事に不安が募る。可能であれば凛が帰宅する前に、桜を連れ出し、この兄妹を連れてどこかに逃げたいが、桜も真也もこの調子ではそれも難しい。とにかく真也の回復を待つ事が専決だ、彼女はそう判断した。ライダーは彼の服を脱がせると、彼女自身も黒い装束を解き、腰掛け、彼を腕の中に招き寄せた。毛布と腕に包まれる彼はその身体を震わせていた。震えは発熱の為か。ライダーには悪夢に魘される子供に見えた。割れた窓から見える空は分厚い雲に覆われていた。日中だというのに薄暗い。まるで蓋をされたかの様だ、彼女はそんな事を思った。

 

「シンヤ、ここは冷えますね」

 

それから数刻。真也の容態が落ち着いてきた事を確認すると、食料を求めてライダーは外出した。容態が落ち着くとは意識が戻りやすい事でもある。しばらくすると彼は目を覚ました。身を起こすと全裸だと言う事に気がついた。怪我も出血もないが、酷く気怠い。左脇腹が突っ張っているが問題は無い。そもそもここは何処だ。どうして俺はここに居る。よく思い出せない。

 

部屋の隅に纏められているのは、彼が身につけていたSWAT風の礼装である。何時脱いだのだろう。俺は着ていたはずだが、覚えがない。不可解に思いながらそれを手に取れば、破損が激しい。とくにジャケットは酷い有様だ。左脇腹など大穴が開いている。これは困った。備品を壊したと知られれば、母に小言を言われる。だが休んではいられない。戦いに行かないと。壊れてしまったものは仕方が無いから、ジャケットは投棄だ。

 

一通り装着すれば、 黒いパンツに黒いブーツ、上半身はタートルネックの白い長袖シャツだ。上半身の防御に不安があるが仕方が無い。どの道、サーヴァント相手では在っても無い様なモノだ。彼は覚束ない足取りで歩き出した。幽鬼の方がまだまともだろう。

 

どうにも落ち着かない。妙に身体が軽い。その理由を探れば霊刀が無いことに気がついた。これは大変だ。あれが無いと戦えない。ところが小屋を見渡しても見つからない。何処へいった。こまった。武器が無ければ勝てない。勝てないならば負けてしまう。彼は現実に気がついた。バーサーカーは倒したが彼は負けた。負けて、全て無くなった事を思いだした。彼は駆けだした。

 

夜の森は非常に危険である。舗装されていない以上、歩くことも覚束ない。木の枝、岩、崖、危険物は事欠かない。危険生物も同じだ。昆虫、は虫類、ほ乳類。生きている人間を襲う生物など数えれば限りが無い。だから人は夜火を絶やさないのである。アインツベルンの森とはいえ日本だ。ハイエナなど居ないが、熊や野犬ぐらい居る。

 

彼には、自分が何処に向かっているのかも分からなかった。それでもお構いなしに歩き続けた。躓き、転びもした。野生生物の気配を感じるがどうでも良い。

 

(どうしてこうなったんだっけ?)

 

わき上がる負の感情、涙が流れた。

 

 

◆◆◆

 

 

答えが欲しかった訳ではない。ただ、幼い頃全てを捨ててしまったあの娘に安心して眠って欲しかった。ただ、欺してまでも信じてくれたあの優しい娘を傷つけたくなかった。ただ、陽の下を歩く明るいあの娘を巻き込みたくなかった。

 

願いはどうあれ、彼は一人でやっていくと望んだ。だからこれは当然の結末。それでも良かった。一人である事に疑いなど持たなかった。なにも感じない筈だった。今までそうだった。これからもその筈だった。だから役目が終われば死ぬことも出来た、その筈だった。凛と出会うまでは。すべき事が無くなった。出来る事が無くなった。今度こそ何も無くなった。

 

(なら帰らないと。帰る? 何処に?)

 

還る場所などもはや無い。ならば何処でも同じだ。とうとう気力が萎え彼は倒れた。お前の役目は終わった、そう誰かが言った。夜の森にいるのは彼一人だ。

 

(だれか、だれか、たすけて)

 

だが誰も居ない。一人で居るとはこう言うことだ。

 

(そっか。なら仕方が無い)

 

肉体が、精神が、魔術回路が、彼の全てが止まりかけていた。地を舐める彼の瞳には石ころが映っていた。もう数秒経たず彼はそれと同じになる。その映像が、揺らぎ、色褪せ、霞始めた。

 

“―――”

 

消失し掛かっていた彼にとって、その声は何だったのだろう。騎士に使命を与える王か、溺れる者に差し出された一本の藁か、ロボットに対し活動再開を指示するコマンドか。ただ一つ確かなことは、それは彼にとって存在する理由であった。つまり彼を必要とする遠坂の血である。

 

「兄さん」

 

心の奥深く、魂にすら刻まれたその声を聞いた真也の瞳に採光が戻った。這いつくばる彼が見上げれば一人の女が立っていた。女と言うには少し若い。10代後半だろう、或いは20代前半かもしれない。彼はその少女に見覚えが無かった。灰の様な白い髪、血の様な紅い瞳、全身から放つのは、怒り、憎悪、嫉妬、負の情念、それは呪いだ。そのような知り合いは居ない。

 

呪いを纏う少女など心当たりが無い。だが彼には誰か分かった。間違えるはずがない。如何に姿が変わろうとも誰も彼をも呪っていようと、それは彼にとって間違いなく桜だった。彼女は膝を突くと、その手を兄の頬に添え親指で撫でた。卵でも触るかの様な手つきだった。

 

「良かった、生きていてくれたんですね。兄さんの気配を感じた時、びっくりしちゃいました。わたし」

 

全てを呪うにしては随分と温和な声だった。

 

「英霊たちの魂が7人分必要なんですけれど、まだ二人分しか無くて、これから集めるところなの。でも怖い人達が沢山いて困ってたんです。本当はもう少し時間を掛ける筈だったんですけれど、兄さんが死んだって思ったら、つい表に出てきちゃった。だから、にいさんのせい。手伝ってくれますよね?」

 

妹の言っている事が分らない。だがそれ以上に重要な事があった。

 

「俺をまだ兄と呼ぶか、俺はお前を捨てたんだぞ」

「変な兄さん。私たちは兄妹なんですよ。引き離されても死んでも、それは変わらない。ねえ兄さん。兄さんの妹って概念が想像以上に強固で力がうまく使えないんです。ほら、わたし。兄さんを困らせる妹じゃ駄目だから。でも兄さんが来てくれるなら、わたしを認めてくれるなら何の問題もありません」

「力ってなんだ。桜、お前は何を考えてる」

「60億の人間(みんな)殺しちゃうの。この町の人達も、世界の人達も、みんな」

 

妹の言っている事が理解できない。少なくとも彼の知る彼女はそんな事は言わないはずだ。10年前出会ったばかりの彼女ならいざ知らず。ゲシュタルトが崩壊する。

 

「桜、それがお前の望みか。お前が、その狂気を望むのか」

「皆にそうであれと願われたから、そうするんです。変な兄さん。本当なら一緒に帰りたいんですけれど、まだうまく力が使えなくて。ごめんなさい、来て貰えますか?」

「……どこだ。何処に行けば桜に会える」

「柳洞寺の地下にある大空洞で待ってます。参道まで来て頂ければ、わたしが出迎えますから。そこで返事を聞かせて下さいね。わたしを拒否したら兄さんだって許さないんだから」

 

桜は影に飲まれる様に消えた。彼の妹は、全てを呪いながらも、彼を求め、微笑んだ。他人事のような言い方に違和感を覚えたが、どうでも良かった。思い出せ。幼い桜を思い出せ。怯え泣いていた桜を思い出せ。お前は幼い頃、ただ桜の為だけに在ると誓ったのだ。誓いとは破る事ができないから誓い。それを破ったお前には、身に余る幸運だ。そもそも。

 

“その望みが人道に背く破滅でも、トオサカが願った以上お前に抗う術は無い”

 

彼は火が入った炉心の様に、力強く立ち上がると夜の森を臆すること無く、柳洞寺に向けて歩いて行った。全てを無くした彼に、桜のさしのべた手を再び払いのける事など出来なかったのである。

 

~~それは星を祭る祭壇だった。天と地を繋げるが如く燃える炎、揺らめく炎の身は無明である洞窟を照らし、堅く覆い被さる天蓋を焦がしている。しかし、この祭りは正しいものではあり得まい。空を繋ぐと言うが、天は地の底であり、無明を照らす松明は赤ではなく、黒色。空気は濁り、風は封殺され、壁に滲む水滴は悉くが毒の色、龍が棲むとされる地の国は、その実、巨大な龍の胃袋を模していた。ここを訪れるモノはみな、人ではない

この様な異界に救いを求め、このような異景を祭ろうとするモノは、陽の光から逃れる蛇蝎磨羯の類いに違いない~~

 

その祭壇の禍々しい光を浴びて浮かび上がる彼の妹は、魔に魅入られた少女か、闇を祭る聖女か。

 

(……呪われた巫女が適当だ)

 

何かに取り憑かれ呪っている様に見えた為である。彼が妹の姿を認めた時、祭壇を望む岩場に腰掛ける彼女は、己の胸にある心臓に指を差し入れていた。彼は目を見張った。彼の妹は、心霊医療など出来ない筈だ。抜き出したその指が持って居たモノは、小ぶりの妙ちくりんな蟲だった。それはキーキーと泣きわめいていた。妹はおもしろおかしそうに、それを見て笑っていた。何か話している様だが、彼にはとんと聞こえない。

 

「桜、それは?」

「10年前の負債をいま返して貰うの」

「誰からのだ」

「兄さんが知らなくて良い存在」

 

彼の妹は笑いながらそれを潰した。

 

「返事を聞かせて下さい。兄さんは手伝ってくれますか?」

 

彼は導かれる様に歩み始めた。地に落ちる影が徐々に濃くなる。

 

「最初に贈ったプレゼントは桜色のハンカチだった。桜が贈ってくれたプレゼントはマグカップだった。桜が大好きなお菓子を我慢して、貯めたお小遣いで買ってくれた物だ。最初の喧嘩は俺が桜のプリンを食べてしまった事。障害物競争で桜が転んだハードルを壊した事もあった。あれは桜にも随分怒られたな。怖い怖くないって言い合ってホラー映画を見た事もあった。結局怖くて一緒に寝た、小5だっけ?」

「はい」

「最初の化け物退治に出かける前の日。桜は泣いて俺を止めて、お袋に説得されて、その日は一緒に寝た」

「わたしが中1の時です」

「ルージュの相談もあったな。塗り方が分からないって。お袋も無頓着だから二人で試行錯誤した。全部覚えてる。桜はどうだ?」

「もちろん覚えています。すべて覚えています。兄さんも覚えていてくれたんですね」

「桜。俺はお前に付く、桜と共にある。お前が望むなら、俺は刃となろう。楯となろう。お前が本当に心から世界の破滅を望むなら……俺もそれを望む」

「嬉しいです」

 

桜は岩場を降りると兄にしな垂れかかった。首に腕を回し、妖艶な瞳を近づけた。

 

「では兄さん。契約の証を」

「契約?」

「はい。兄さんとわたしを繋ぐの。怖い人達が沢山居るから、兄さんも魔力は沢山あった方が良いでしょう?」

 

彼の妹は魔力で編んでいた装束を解くと、その白い肌を露わにさせた。彼女が意図するそれはパスを繋ぐ手段を意味していた。生憎と桜も真也も他の方法を知らなかった。桜は魔術師としての教育を受けていない、真也はそもそも知る必要が無かった。初めて見る、年齢にそぐわない、妹の蠱惑的な肢体に戸惑うばかりである。脳裏に凛の姿が浮かんだ。ズキリと心臓が痛んだ。

 

「……俺は経験が無い。桜に痛い思いをさせる」

「そんな事気にせずに好きな様にして下さい。全部受け止めちゃいますから。知ってましたか? わたしって結構丈夫なんです。さ、溶け合いましょー」

 

妹はおかしくなったのか、何も変わっていないのか。目の前に居る少女は妹なのか、妹ではないのか。目の前の妹と記憶に居る妹の姿が、綺麗に重なる様で僅かにズレている。それの意味は何だ。ただ一つ言える事は彼女は、今の彼にとっての全てだ。それ故生じたその疑問に意味は無い。

 

二人は歩み寄った。祭壇の光を浴びて地に落ちる二つの影は何時までも蠢き、その足下には彼を長らく封じていた封印具のなれの果てが落ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

つづく!



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39 カイーナの環・9

それは衛宮邸の居間のこと。ちゃぶ台を囲むのはセイバー陣営の面々だ。アインツベルン城から戻った士郎ら一行は、イリヤが戻った事に、安堵と幸運を噛みしめつつも頭を痛めていた。問題は山積み、とにかく状況が読めない。ちゃぶ台に向かい湯飲みを啜れば夏期講習を申し渡された様相で士郎は呟いた。

 

「あの金ぴかはなんだ」

 

セイバーがそれに答えた。やはり湯飲みを持っていた。それには“せ”とひらがなで書かれた、お土産屋によくある表面が滑らかな湯飲みだ。舞弥が買ってきた物である。当初馬鹿にしているのかと憤慨したが、既に慣れた。逆に気に入ってすらいた。

 

「シロウ。彼は前回の聖杯戦争に於いてアーチャーのクラスとして呼び出されたサーヴァントです。10年経った今なお顕界している理由は不明ですが」

「ランサーと真也は味方じゃなかったのか。金ぴかと真也が戦っていた時、ランサーは黙って見ていた事が不可解だ」

 

セイバーの隣りに陣取る舞弥が答えた。やはり湯飲みを持っていた。

 

「話を聞く分には、直前で仲間割れ……というのは無理があるわね。共にバーサーカー打倒を狙っていたならば、イリヤを士郎に手渡す理由がランサーにないから。マスターを殺す事は聖杯戦争に於いて常套手段よ」

「なぜ真也は姉さんを殺さなかったのか。勝負は真也が勝った筈だ」

 

イリヤが答えた。作法が良く分からず戸惑っていたが、義理の弟の促しで好きな様に茶を愉しんでいた。

 

「殺したくても殺せない、そんな事を言っていたわ。あの時わたしを殺しかけた人とは別人ね。ねぇ、シロウ。一体何があったの?」

「桜が消えた。遠坂家に戻ったはずの桜が消えた。ライダーが真也を連れていった。家にも戻っていない、何処へ消えた」

 

セイバーも理解出来ないと神妙な顔だ。

 

「あの男が連れ去った……と言うのも無理がありますか」

「それが出来るならとっくにしてる。それ以前に桜の引き渡しを受け入れないだろう。というか、なんで真也はバーサーカーと戦った」

「それはイリヤスフィールが狙っていたからでしょう」

「弩級シスコンの真也が桜と別れ離れになれば、死んでしまう事は想像難くない。だがアイツは死なずバーサーカーと戦った。そもそもどうして、桜を明け渡すという遠坂の条件を呑んだんだ」

 

それは何故だ、何を意味する。綺礼は“妹だけではない真也には闘争しか残っていない”と言った、士郎はそれを思い出した。

 

(桜と遠坂は実の姉妹……)

 

士郎の頭に“真也が遠坂を桜と同じように扱っているとしたら”という仮説がぽんと立った。それが事実なら真也が凛を欺す事などあり得ない。凛が嘘をついているか、勘違いしている事になる。セイバーが続けた。

 

「シロウ、遠坂凛は?」

「これから来るってさっき電話があった。遠坂の母さんとの話し合いで少し揉めたらしい、本人はひた隠しだったけど、声に張りが無かった」

「せっかく戻った子がまた居なくなれば衝撃も相応でしょう」

「あの黒い影は何だ。姉さん、心当たりはあるか? 」

「無い訳では無いけれど、推測どころか憶測の域すら出ないわ。とても話せない」

 

イリヤの背後に控えていた二人の内の一人が口を開いた。イリヤの従者であるセラだ。彼女はイリヤを連れていく士郎を見過ごせず衛宮邸にやってきた。勘弁ならぬと不愉快さを隠さない。

 

「エミヤシロウ、先ほどから聞いていれば姉さん姉さんと馴れ馴れしい。分を弁える知恵すら無いのですか。 貴方はあの衛宮切嗣の後継者、つまり我々にとって忌むべき存在。恥を知りなさい」

 

イリヤに似た容貌のメイドは士郎を嫌っていた。それどころか事ある毎に突っかかってくるのだ。自然士郎は渋面顔になる。誤魔化す様に茶を啜る。方やイリヤは香り立つ日本茶に、新鮮さを感じ上機嫌である。

 

「控えなさいセラ」

「しかしお嬢様。この品性の欠片もない振る舞い、お嬢様のお側付きを預かる者として、見過ごす訳には参りません」

「私が良いって言ってるのよ、控えるべきはセラよ」

 

主に命じられては為す術がない。セラは、士郎に忌々しげな侮蔑の籠もった視線を、浴びせるより他はない。空気を読まないのはメイドの片割れリーゼリットであった。

 

「……」

 

身を乗り出し、手肘をついてちゃぶ台の上の最中を手に取ると、無表情に食べていた。確信は持てなかったが士郎にはちゃんと喜んでいる様に見えた。イリヤより随分と大人びた容姿に相反する幼い言動。彼女に対しどう接するべきか悩んでいた士郎だったが、思春期を迎えた少女の様に接する事にした。ただ困った事に、その肢体は子供のそれではない。特に胸の膨らみは彼が見た事がない大きさだった。人知の及ばぬ大きさに、多少なりとも意識しながら彼はこう申し出た。

 

「リーゼリットだっけ? まだあるぞ。食べるか?」

 

彼女は頷いた。その様を例えるなら餌を目の前に差し出された小動物のよう。

 

「リーゼリット、アインツベルンの従者が餌付けされるとは何事ですか」

「欲しいならあげる」

「要りません!」

 

士郎が居間を見渡せば。

 

(この家も随分人口密度が上がったな)

 

心中でそう呟いた。イリヤ、セラ、リーゼリット、セイバー、舞弥、そして士郎である。昔馴染みである大河に知られれば大騒ぎとなろう。彼はインフルエンザで伏せっている事になっているのだ。にも関わらず女性陣を連れ込んでいると知られれば、どうなるか。それを考えると頭が痛い。ふと時計を見ればそろそろ凛がやってくる時間だ。

 

(遠坂の言う真也に聞きたい事って何だ)

 

来たら問い詰めねばなるまい、彼はそんな事を考えた。

 

 

◆◆◆

 

 

カランコロンと衛宮邸の結界が鳴れば、瞬時にセイバーと士郎の神経が切り替わる。セイバーが鎧を展開すると同時に、士郎は干将・莫耶を投影した。それを見たイリヤが目を剥いた、アーチャーと同じ武器、同じ性質だった為である。士郎はセイバーを先攻させ、皆には隠れる様に指示をした。

 

縁側を抜け庭に出れば。武装状態のセイバーが剣を構えたまま硬直していた。対峙するのは真也である。だがどうした事だろう、何時もであれば果敢に斬り込むセイバーが随分距離を取っている。真也は無手、彼の間合いはあれ程広かっただろうか、士郎はそんな事を考えた。

 

「シロウ! 近づいてはなりません! 直ぐに皆を連れ逃げて下さい!」

 

悲鳴の様なセイバーの声だ。なぜ彼女は必死なのか。斬り付けたいが、斬り付けられない。何故ならそれは彼女にとっての敗北に他ならないからである。彼女は直感でそれを感じ取っていた。己のサーヴァントの視線の先にいる同級生は、ロングコートを羽織り、長袖Tシャツにデニムを纏っていた。何時もの恰好で静かに佇んでいた。そしてトレードマークの眼鏡。デザインが気に入らないが替えがないとぼやいていた事を思い出した。

 

だが何かが違う。その様な誤魔化しの言葉など、まやかしだ。甚大、圧倒、致命、破壊、暴風、消滅、真也を見た士郎の脳裏に浮かんだのはそんな言葉だった。セイバーすら恐れる魔界に等しい彼の間合いという結界に、士郎は臆する事無く踏み込んだ。二人の関係は力量差に依存しない故である。この状態でおいてですら、その関係は健在だった。それ以上に真也が無理をしている、士郎はそれを感じ取ったからである。

 

「駄目だ、シロウ、」

 

彼女の剣を持つ手は震えていた。彼は手を翳し、懇願する己のサーヴァントを落ち着かせた。

 

「大丈夫。コイツとは中学時代からで長くは無いけど、密度は濃いんだ。扱いは慣れてる」

 

士郎はセイバーを守る様に対峙すれば、陽を浴びて落ちる真也の影は酷く小さい。その影は、少女のカタチをしているのは気のせいか。それはともかく士郎は切り出した。

 

「取りあえず無事で良かった。けれど真也。事情を説明してくれないか。俺らは何が何だか分らない。いったい遠坂の人達と何があった?」

 

表情一つ変えない同級生は初めて動きを見せた。

 

「黒い影の事でも無く、ランサーとの事でも無く、俺の変化でも無く、その質問をするか、お前は」

「その疑問が解ければ、たぶん全部解けるから」

「……士郎、ここに来た用件は二つだ」

「先輩、こんにちわ」

 

その声はどこから聞こえた、誰が発した。士郎が見渡してもその発したであろう少女の姿は見えない。そえゆえ。真也の足下にある影が、伸び、飛び出す絵本の様に立ち上がり、それが桜と成った時、非常に驚いたが心のどこかで腑に落ちた。この状況に於いて真也の傍らにいる者は、否、真也が傍らにいる者は桜以外有り得ない。士郎は黒い影と桜が関係していると確信した。

 

顕われた桜は黒を基調とし、赤のラインが入った禍々しい服をしていた。燃え尽きてしまった様な灰色の髪、生気を感じさせない骨の様な肌の色、だがその瞳だけが、妙に赤かった。世界の壁に孔を開け、見える地獄の色はそんな赤なのだろう。その体を表すのであれば、呪い。だが妙に劣情を催すのは何故だ、士郎はそんな事を考えた。意識する少年の視線を感じ取った桜はくすくすと笑う。もう遅いですよ、とその笑みは語っていた。

 

「先輩、あの時は御免なさい。つい、かっとなっちゃって」

「あの時ってどの時だ」

「キャスター戦の話しです。先輩たちを襲っちゃったから」

「桜、無駄口は叩くな。長居は無用だ。士郎、セイバーを差し出せ。サーヴァントという意味だ」

 

家族に言及されては士郎も態度を変えざるを得ない。態度を硬化させた。

 

「何を考えてる」

「答える義務はない。イリヤスフィールで妥協しろ。セイバーはどの道消える定めだ」

「駄目だ。セイバーには願いがある。答えろ、真也。桜は遠坂家に戻ったはずだ。なぜここに居る。お前たちに何があった」

「その問いに答える義務はない、理由もない、意味も無い。士郎、せめてもの情けだ。セイバーを置いて、イリヤスフィールと久宇舞弥を連れてどこかへ逃げろ」

「逃げない。お前、何をしようとしている」

「これが最後だ。差し出すか、差し出さないか。この場で決めろ」

「断ったら?」

「強引に奪う」

「生憎と私の主は一人だけだ!」

 

セイバー踏み込みを例えれば大砲の一撃である。士郎が時間を稼いでいる間に、可能な限り魔力を練り込め、踏み込んだ。誰もが戦闘が始まるのだろうと考えた。或いは真也を倒せるかもしれない、そうとも考えた。それは誤りである。その光景にセイバーはおろか士郎ですら己の目を疑った。彼女の持つ武器、風王結界は真也の左手によって掴まれ、拘束されていたのである。

 

「な、」

 

セイバーは声も出せない。真也の左手に込められた魔力と、風王結界の魔力が反発し、金属をトーチで切断するかの様な鮮やかな火花が散っていた。プラズマが纏わり付く様に迸る。即座に我に返ったセイバーが、引き抜こうと大地を踏み抜いたが微動だにしない。

 

「勘違いをするなセイバー。俺の言ったサーヴァントとは従者の意味じゃない」

「単に聖杯を完成させる為、って事か」

 

士郎の回答を合図に、真也はセイバーの腹に蹴りを入れ吹き飛ばした。土煙を上げ、衛宮邸の庭を転がり、塀にぶつかった。沈黙が訪れた。桜が笑う。当然の結末という意味であり、兄を称賛する意味も込められていた。令呪を通じて、セイバーが死んでいない事を感じ取った士郎は安堵しつつも、真也を睨み上げた。狙いはともかく、セイバーを攻撃した事実は見逃せないのだ。殴りかかりたい衝動を抑え、理性を行使した。いま彼に出来る事は、とにかく有利な状況を引き出す事のみだ。

 

「聖杯が欲しいと言ったな。真也、お前の願いは何だ」

「草津の温泉に行く事だ」

「……なんだそれ」

「冗談だ。セイバーは貰っていくぞ」

 

真也は狂った訳ではない、士郎はそう判断した。ならば付け入る隙はある。真也は士郎の前を無防備にセイバーに向かって歩み寄る。士郎は、干将・莫耶を解除。カリバーン投影。真っ向勝負で勝てる相手ではない。だが、セイバーの戦闘経験が宿る聖剣であれば、意表を突く事は可能だ。その剣を持てば見かけだがの戦闘能力を大幅に上げる事ができる。その意表で、仕留めると覚悟を決めた。

 

「黙って家族を見捨てるとでも思ったのか」

「……シロウ、逃げて」

「真也?」

 

その3つの言葉は士郎であり、セイバーであり、そして彼女だった。今の彼にとって最も会いたくない人物であった。その声は彼にとって、空を飛べと命令されているロボットに、地を這えと命令するコマンドに他ならない。彼の妹は全てを滅ぼしたいと願った。例え彼自身が死んでも構わなかった。だが彼女の存在は別だ。その願いに彼女が居ては彼にとって困るのである。だから、考えない事にした。意識から、思考から、掻き消した。だが。幾ら居ない事にしても現実は変わらないのである。彼女としでかした事は無かった事には出来ない、例え神でも変えようのない事実であった。

 

無視出来ないその声に、振り返れば。門の近く、石畳の上に凛が立っていた。その距離自家用車5台分。だが彼にとっては至近距離、近似ゼロ秒の距離だ。漆黒のウェーブの掛かった長い髪、つり上がった目尻に、ケンブリッジブルーの瞳、赤のハーフコートと、ゴールデンイエローのマフラーを首に巻いていた。その出で立ちは彼が初めて見る姿だったが、その彼女の、色、カタチ、匂い、存在感。それは妹の願いと彼女の存在を維持するという、相反する矛盾を生み出すには十分だった。

 

その矛盾は、彼の魔術に干渉し彼自身を攻撃した。今の彼には、彼の魔術回路を抑制する安全装置はない。その呪いの威力は倍では収まらず、想像を絶する痛みが彼の肉体と精神を襲った。意表を突かれた事もあったが、その呪いは一瞬で彼の精神を刈り取った。うめき声を上げる事すら叶わず彼は崩れ落ちた。

 

一体兄の身に何が起きたのかと桜が慌てて駆け寄り、その身を起こせば、眼、鼻、口、耳から血を流していた。完全に失神していた。戸惑うのは桜だけではなく、その場に居合わせた凛と士郎もさることながら、離れから見ていたイリヤらも理解が出来なかった。

 

「まただ」

 

士郎の呟きに桜は眉を寄せた。

 

「また? それはどういう事ですか、先輩」

「前に戦った時も突然不調になった。いきなり気絶するなんて、前回より酷いけど……」

 

姉は術など使っていない。兄は姉の姿を見た途端に倒れた。原因はともかくその事実に気がついた桜は、

 

「姉さん」

 

私の兄になにをしたのか、そう呪いを残すと、兄を抱き寄せ、地に落ちた黒い影に沈んでいった。

 

 

◆◆◆

 

 

真也が目を覚ますとそこは大空洞だった。いけ好かない祭壇の黒い光だけがあった。ぼうとそれを見ていると、ようやく心臓の痛みに気がついた。まるで刻まれている様だ。封印状態に対して平時の痛みは倍増、気を抜いていては行動に支障が生じる程である。どうしてこう成ったのか、それを考えた。考えるまでも無かった。

 

「勝手すぎるか。都合良く無かった事になんて出来ないか。世の中上手くいかない」

 

憤りを込め、髪を強くかき上げ、人相が変わる程に両手で顔を擦ると、ようやく落ち着いてきた。禍々しい塔が彼を見下ろしていた。これは何なのか、その疑問を掻き消した。考え、答えを出せば動けなくなる。桜の為に居られられなくなる、それは正確な表現ではない。桜の願いを叶えられなくなる。桜を手伝えなくなる。それが桜の為なのか、彼は考えない事にした。そして封印を解いた事による障害は新たな症状を生み出した。彼は己の変化に気がつかなかった。それはかつてキャスターが予言した事でもあった。

 

妹が居ない、それに気がついた彼は空洞を抜け新都に繰り出した。今の桜にはサーヴァントの相手はまだ荷が重い、つまり妹が人を襲っているに違いない。その悪夢から眼を逸らしてはならないと、ビルからビルを跳躍し、夜の新都を駆け抜けた。

 

夜に行動をすると言う事は人目を避ける事に他ならない。心疚しい事があるのか、まだ人目に付く事は避けるべきという単なる戦術的な理由なのか。彼は、妹が呵責を持っている事を、恐れながらも祈り、その場に降り立った。そこはビルの谷間だ。夜に於いてなお昏き場所。

 

そこには食い散らかした跡があった。いつか見た光景に似ていた。ただ食い残しはなく、肉片一つ無く、血だまりすら無く、ただ血痕が少々残っているだけだ。漂うのは血の臭い。大地に刻まれるのは、生きながらに喰らわれた痛みと恐怖。それが残留思念として残っていた。魂すら喰らったのだろう。迷う事すら誰かを祟る事すら叶うまい。己のふがいなさに、苦悩と後悔が走り続ける。妹を探さねば、そう踵を返せばそこにギルガメッシュが立っていた。その表情を語るならば侮蔑のみだ。

 

「我に無礼を働いた穢れた娘を追ってみれば、なんという下らぬ巡り合わせだ。いや、必然か」

(誰だこいつは)

「無様にも生き恥をさらすか。貴様にエアを使わなかったのは僥倖と言わざるを得まい。潔く身を散らす事が貴様の唯一の価値であったのだが、もはや貴様には一片の価値すらない。いや、この地に這う虫螻どもに、その魂と身体を苗床にされては、仕方の無い事か?  連中の怠惰、欺瞞、傲りは、この星を覆わんばかりだ。穢れに穢れた救いがたい者どもは多すぎるからな」

(何を言っている)

「その穢れた連中の娘に囚われるとは不始末にも程がある。その腐った苗床で骸を食い散らかされるが良い。呪われた貴様にはそれが相応よ」

(この男は俺を知ってる?)

「この槍で死に絶える事が最後の慈悲と知れ」

 

金髪の男は真也を知っている、だが真也は金髪の男を知らない、見た事がある、だが思い出せない、その戸惑いは隙である。ギルガメッシュの背後から一条の赤い槍が撃ち出された。

 

(あ、これ死んだか)

 

真也の命を狙ったその槍は、夜と月が生み出す影から顕われた黒い帯に巻き付かれた。列車が急ブレーキを掛けた様な、火花とつんざく音がした。その槍の威力は強大で、その帯の持ち主である娘が渾身と両の腕と右胸を犠牲にしてようやく止まった。その娘とは桜だった。だらりと両の腕を垂らし、口から血を吐いていた。痛みもあったが気にならなかった。兄を殺そうとした事は、痛みを掻き消す程の憎しみを生み出した。ギルガメッシュは忌まわしそうに手を上げた。次弾装填。背後の宝物庫から顔を出す宝具は、総数42。

 

「聖杯の出来損ない、か。まさかアレに届く程完成するとはな。惜しいと言えば惜しいのだが 選別は我の手で行う。死に行く前に、適合しすぎた己が身を呪うが良い」

 

斉射すれば二人は肉片すら残るまい。ただ真也は二度も見逃すほど愚かではなかった。刻まれる時間というモノの最小単位、その隙間。ギルガメッシュは四肢を斬り落とされた。ギルガメッシュの視界に迸るのは真也の手刀である。魔力の籠もったそれは蒼白く輝いていた。二人の距離は観光バス3台分。真也はその距離を1まばたきに満たない時間で詰めたのである。

 

「がっ!」

 

それは潰されたカエルの様な声だった。手足を失えば、身体を支える事は叶わない。地を舐める事は必然。だがそうならなかった。ギルガメッシュの首を掴む手が彼を支えていたからだ。その様を例えれば、壊れた人形をどの様に捨てようか迷っている子供である。

 

「き、貴様! この我に!」

「お前が何処の誰かは知らない。ただ言いたい事が二つある」

 

真也はその頭と胴体のみと成った英雄王を、後頭部からアスファルトに叩き付けた。アスファルトに落ちた影が蠢き、伸びた帯に捕われた。その様は聖骸布を巻かれる死者に似ていたが、生憎と聖骸布ではなく呪いだった。

 

「ぐあぁぁぁぁ!」

「お前は肉を持っているけどサーヴァントだな。妹が腹を空かせているから燃料になってくれ。もう一つ、お前は妹を傷つけた。その落とし前は付けさせて貰う」

 

英雄王の肉体が、締め上げられ、砕かれ、細切れになり、コールタールの様な呪いの泥に沈んでいった。それは溶けていった。

 

「ギ、ギザ、ま」

 

妹に喰われる彼の様を例えれば溶ける蝋人形に他ならない。それが人類最古の英雄王と呼ばれた者の最後の言葉だった。

 

 

◆◆◆

 

 

影から手を引き抜くと真也は膝を落とす己の妹に駆け寄った。

 

「無事か」

「少し痛いですけれど、大丈夫です」

 

傷は既に塞がって居たが、宝具を受けたのだ。癒えるには時間が掛かる。

 

「それよりお腹が重いのが苦しいです」

「そんなに重いのか?」

「はい、3人分です」

 

ギルガメッシュの魂は数十万人に該当する、それを飲み込んでなお満ち足りない妹に彼は驚く他はない。桜が捕らえたサーヴァントはアーチャー、アサシン、ギルガメッシュ、締めて5人分である。

 

「確かにあの性格なら消化は悪そうだ。しばらく休もう」

「ねえ、兄さん。あの金髪の人が誰か知らないの?」

「覚えはない。向こうは俺を知っていそうな口ぶりだったけど、あんな強烈な性格、忘れるはずが無いんだけどな。桜、お前は俺が知っている事を知っているのか」

「ええ。英雄王ギルガメッシュ。お城で兄さんが戦った相手です」

(……覚えてない?)

 

彼は戸惑いつつも、妹の手を取った。

 

「立てるか?」

「はい」

 

ビルの谷間に淀む影の中を梳く様に二人は歩いていた。桜は右隣を歩く兄を不思議そうに見た。

 

「ねえ、兄さん。どうして首を落とさず、わざわざ手足を斬り落としたの?」

「許せ桜。お前の兄は腰抜けだ。敵すら殺せない腰抜けになってしまった」

 

ギルガメッシュの断末魔を思い浮かべれば、妹に食い散らかされた人々の叫びが彼の脳裏に響き渡る。まるで何時間も音叉の怨嗟を聞かされているかの様だった。彼の脳裏にその悪夢が浮かび上がる。悲鳴という人の声が良く分からない音になる。肉が弾ける音、骨が砕ける音、死ぬ音。その惨状を幻視し思わず目を背けた。桜は笑いながら人を喰っていたに違いない。食事は愉しむモノだ、そう言わんばかり。彼の妹にはその善悪はない、人間が動物を殺し食べる事と同じだ。彼の妹は、人でない一つ上の存在になりつつある。

 

(これが桜か、これがあの桜なのか)

 

そう理性で思いつつも、彼の本能は紛れもなく桜だと認識していた。

 

「桜、どういう人達を襲った」

「社会のゴミですよ兄さん」

「理由無くゴミというのは感心しない」

「ゴミです。あの人たちが居なければ、兄さんは喧嘩をせずに済んだ。警察に捕まる事だって無かったのに」

 

桜はゴロツキ達を喰らっていた。子供でないだけマシだ、人の命に差は無いが価値には差があるだろう、そうでも思わないと、その状況を受け入れられなかった。ギリと自然食いしばる。この狂ってしまった妹の凶行を止めるべきだ、この狂ってしまった妹と差し違えるべきだ、彼の心がそう告げた。だが遠坂の血を引くその妹に、そんな事は出来はしない。桜もまた兄の違和感に気がついた。それは彼女が初めて見る兄の苦悩だった。おかしい、苦悩ぶった事は幾度となく目にしたが、本心から苦しむなど無い筈だ。一体何故。

 

「にいさん?」

 

彼は妹を桜を抱きしめた。謝罪の言葉を口にした。

 

「何で謝るんですか」

 

そして涙を流し。

 

「どうして泣いているんですか」

 

妹はただ戸惑うのみである。

 

「なんでもないさ」

 

かつて兄が姉と付き合い別れた事、その頃から兄の様子が違った事、姉の姿を見て気を失った事。目の前の兄が何に縛られているか、その妹は理解した。

 

「大丈夫ですよ。しばらくの辛抱です。今度は私が兄さんを助けますから」

「大丈夫って?」

 

腕の中の彼の妹は昏い笑みを見せるだけだった。

 

 

◆◆◆

 

 

真也が、落ちていた真紅の槍を拾えば、それはギルガメッシュが彼を殺そうと撃ち出したモノである。彼が回収する前に死んでしまったため残ったのだ。赤い槍に思い当たりはあるが、それかどうか確証はない。彼は武器に詳しくないのである。

 

「宝具だな、これ。どうする?」

「私は戦い方なんて知りません。兄さんが使って下さい」

「生憎と剣しか心得がない。宝具の使いこなしには相応に時間が掛かるし、扱えない武器なんて拳にも劣る。真名も分らないとなると、な」

「なら捨てちゃいますか?」

「せっかくだから貰っておこう。役に立つかもしれないし放置するには物騒だ」

「兄さんは何時もそう。そうやって捨てないから、モノが増えるんですよ」

「物持ちは良い方なんだ」

「部屋は散らかりまくり、片付ける私の身にもなって下さい」

「分った。大空洞に持って帰る。それなら良いだろ」

 

桜は名案を思いついたと手の平を打ち鳴らした。

 

「そうです。兄さん、私たちの家に寄っていきましょう。家の様子も見られますし休憩もできます。一石二鳥です」

 

妹であって妹ではない存在を見て、認識がズレる。軽い目眩すら起こした。

 

「桜は俺を食べないのか」

「変な兄さん。妹はそんな事しません。でも、違う意味で食べたいなって」

「……馬鹿を言え、怪我してるんだぞ。治っているのは見た目だけの筈だ。それに腹も重いんだろ。身体に触る」

「家に帰ればベッドがありますから。それに兄さんが元気をくれれば、へっちゃらです。そんなの気になりません」

「休憩って、桜、おまえ」

 

艶やかに微笑む妹がそこに居た。

 

「妹がこんなにHだったなんて、兄としてはとても複雑だよ」

「酷いです。兄さんのせいなのに」

「なんだそれ」

「ずっと、ずーっと好きだったのに、兄さんからはキスすらしてくれなかった」

「しただろ」

「ほっぺになんて、キスの内に入りません。切なくて、悲しくて、苦しくて、ずっと一人で慰めてた。だから、ぜんぶ、にいさんのせい」

「ちょっと待て。俺からはってどういう事だ」

「兄さんの寝込みをおそっちゃった」

「……いつ?」

「初めては私が小5の時。それから身体が高鳴った時に、大体月一ぐらい。兄さんは全く気がつかなくて、気がつかない振りをしてるのかなって期待した事もあったのに、本当に気がつかなかったんですね。酷いです」

 

小さく舌を出し、戯ける妹がそこに居た。

 

(人を殺してしまったというのに、殺しているのに、これからまだまだ殺そうというのに、なんだこの日常的な会話は。もう、俺もおかしくなったのか。どこが日常だ……俺はいつまで正気を保てる)

 

妹に求められるまま指を絡め合い、闇夜に消える兄妹をビルの屋上から見つめるのはランサーであった。

 

 

 

 

 

つづく!



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40 カイーナの環・10

覚めれば見慣れた天井である。そこは彼の家、彼の部屋だ。おもむろに視線を降ろせば、板に足を四本取り付けただけのシンプルな勉強机が見えた。その上にはデスクライトやテキスト、ノートが雑多に置かれていた。自分は高校生だった、彼はそれを思い出した。壁には穂群原(ほむらばら)の学園服が掛かっていた。随分と懐かしさを感じさせた。

 

視線を更に横に動かすと本棚があった。DVDや書籍が収めてあった。漫画はそれ程多くない。嫌いと言う訳ではなく、内容の割にかさばるため避けているのである。であるから、友人から借りたり、漫画喫茶で済ます事が多い。

 

改めて見渡せば、妹の言う通りガラクタが多い。クローゼットの前に狙撃銃“H&K PSG-”を模した電動エアーガン立てかけてあった。もちろんサバイバルゲームに興味は無く、ただ何となく気に入っておいてあるだけだ。友人の家に遊びに行きインスピレーションを感じた物があれば、頼んでもらい受ける事はしばしばだ。買い取る事すらあった。クローゼットに収めた段ボールには、子供が遊ぶロボットのおもちゃや、アメコミのフィギュア、本物であろう壊れたブランドの時計、使い道のない銀塩の一眼レフカメラ、VHS-Cのビデオカメラもある。A君曰く“種々雑多”、B君曰く“カオス”そのような段ボールである。リサイクルをするには微妙なモノが多い故、渋々処分をした。捨てたのではない。何気なく士郎に溢せば彼は二つ返事で引き取った、そう言う事だ。集めては妹に怒られ、衛宮邸の土蔵に献上する、そんな事を希にだが繰り返した。彼はそれを思い出した。

 

(ガラクタを集める様になったのって何時だったか)

 

そう思いだしても記憶に無いので毛布にくるまった。腕の中に変わり果てた妹がいると漸く気がついた。もう戻れないかもと覚悟を決めバーサーカーに挑めば、この様な形で家に戻って来た。闇夜に肌を晒す妹は静かな寝息を立てていた。

 

もぞりと身体を動かすと、腰の辺りに水を滴らせた様な冷たい感触があった。白いシーツに染みが落ちていた。妹のものである。それが夢に落ちる前の出来事を思い出させた。見た夢はなんだったか。葵と凛と桜があの屋敷で笑っている夢ではなかったのか。その夢がとても遠い。今の状況を誰かに相談したい。それに意味は無い。したところで、彼の行動は変えられないのだ。

 

妹が自分の意思で、世界の破滅を望んでいる以上、どうにもならない。妹がそれに至った理由を聞いてはならない、考えてはならない、知ってはならない。知れば、妹を倒さねばならなくなるかもしれない。だがそんな事は出来はしない。凛と桜に挟まれただけで気を失ったのだ。その理由を知った直後、また気を失う。妹を手伝えなくなる。彼に存在理由が無くなる。心臓が痛んだ。溜らず蹲る。残された時間はどれだけだ。世界が終わるのが先か、己が終わるのは先か。出口が見えない。右を向いても上を向いても、真っ暗だ。

 

 

◆◆◆

 

 

家の外から死者の嘆きが聞こえれば、人の気配が消えていく。不可解だ。影は妹が操っているはずだ。その妹が寝ているのに何故影が動く。他の何かなら捨ててはおけない。妹が人を殺すのは仕方が無いが、他の誰かは見過ごせない。抱えた矛盾を飲み込み彼はベッドを抜け出した。身繕いもそこそこに家を出た。

 

その災いは妹だった。冬木市の住宅街を見下ろせる高台に立てば、人々が影に喰われていた。まだ空には星が煌めく時間である。夜が明けるには数刻必要だろう。津波の様な黒い影が家々を覆い尽くすと、水に浸したオブラートの様に地面に溶けていった。人が喰われた。家屋には傷一つ無いにも関わらず、人生を営んでいた人だけが喰われた。被害は40棟、60人。問題はそれだけの魔術の発動に関わらず、魔力を感知できなかった事だ。つまり、あれは魔術ではなく挙動に過ぎない事になる。朝になれば大騒ぎだろう。“あの影は誰が操っている”その疑念は消しきれず心の片隅に小さく残った。心臓が痛み、表情が歪んだ。

 

「早く逃げろよ。でないと壊れた兄妹が喰っちまうぞ」

 

そう呟いた時には昏かった空がぼんやりと白んでいた。何をする事も無く、ぼうと町並みを見下ろしていると、妹の声で話し掛けられた。

 

「こんな所にいたんですか兄さん」

「どうしてここに?」

「兄さんの居場所なら世界の果てでも分かります。酷いです、一緒に朝のまどろみを過ごしたかったのに」

 

振り返れば、桜の背後に見慣れぬ男が控えていた。黒い陣羽織に、消し炭色の袴を纏っていた。呪われた容貌だが、風流な雰囲気を醸し出していた。その男は主の兄に皮肉めいた笑みをもって、挨拶とした。敵かと思ったがそうではないらしい。

 

「その男は?」

「アサシンです。ようやく再構成出来ました。でもアーチャーは損害が大きくてしばらく掛かりそうです。首の切断面が完全に死んでいて、その面がどうやってもくっつかないんです。何処の誰かは知らないけれど、どうやったんでしょう」

 

黒い影がアーチャーを喰らったのは、真也が立ち去った後だ。つまり彼女はアーチャーを倒した人物を知らないのである。

 

「桜。残りは何体だ?」

「2体です」

「セイバーと誰にする」

「ライダー、と言いたいんですけれど、彼女は私たちによくしてくれましたから。ですから、イリヤスフィールを狙います」

「なぜ?」

「あの娘は私と同じ、もう一人の小聖杯です。無くても良いんですけど、天の杯が完全に動けば誕生も確実ですし」

(……小聖杯? 私と同じ? 天の杯?)

「先輩の家にお邪魔した時に見て分りました。あの娘はバーサーカーとキャスターの魂を持っている筈です。それで揃います」

「桜、頼みがある。ランサーとは因縁があるんだ」

「因縁ですか?」

「アイツとは全力を持って戦うという約束を交わした。バーサーカーを倒せたのはランサーのお陰だ。だから」

「いいですよ、兄さんの我が儘を聞くのも妹の役目です。こちらも直ぐに生まれる事は出来ませんし待ちます」

「助かる」

 

妹に作った笑みを見せると、彼は再び街を見下ろした。何時しか影は消えていた。

 

「今日はもう良いのか?」

「兄さんが辛そうだから、生まれるまで止めます」

(生まれる?)

「100人、200人食べたところで焼け石に水ですし、当面は問題ありません」

 

妹が兄の背中に身を寄せ、胸に腕を回した。その背中に頬を添えた。彼は己の胸にある妹の手を恐る恐る握った。

 

「辛いですか? 苦しいですか? 可哀想な兄さん。兄さんは純粋だった。私だけの兄さんだった。苦しむなんて事無かったのに、姉さんなんかと出会ってしまったばっかりに、呪われてしまった。でももう少しの我慢です。私が全部無くしちゃいますから」

「草津、行きそびれたな」

「兄さんが居るなら何も要りません。兄さんが居るなら何処でも同じです。ここは悲しいでしょう? 兄さんはもう休んで下さい。サーヴァント集めは私がやります。でもどうにもならなくなったら絶対助けて下さいね」

 

彼の足下に影が落ちると徐々に沈んでいった。

 

「ギルガメッシュに負わされた怪我は?」

「まだ掛かりますから、無理はしません」

「気をつけてくれ。アサシンが居るなら……まぁいいか。俺も心残りは無い。そいつの剣技は俺よりずっと上だ」

 

彼女は淑やかに笑い出した。強大な力を得て、余裕が出来た。

 

「変な事言ったか? 俺」

「逆です。言ったでしょう? 今度は私の番。私が兄さんを守ります。辛い事も苦しい事も全部無くなって、兄さんは私の中で永遠になるんです。兄妹はずっと一緒です。本当なら吸収しちゃうんですけれど、兄さんだけは特別。だから兄さんを私と同じにしちゃいます」

「同じ?」

「直ぐに分ります。先に祭壇へ帰ってて下さい」

 

既に下半身まで沈んでいた。

 

「……さくら、ごめん」

「どうして謝るんですか?」

「俺は桜を助けられない。止められない。10年前出会うべきじゃ無かった。そうすれば桜はこうはなら無かった」

 

なぜ、そんな辛そうな顔をするのか。なぜ、そんな悲しい事を言うのか。あの女が、あの女さえ居なければ。

 

「兄さんは辛い目に遭って疲れてるの。その日が来るまでのんびり散歩でもして下さい」

 

彼女の兄は歪な笑みだ。精一杯の作った笑みを見せると完全に泥の中に沈んだ。桜のそれは呪いの言葉である。

 

「………姉さん」

 

桜の影の中。彼がその世界に足を踏み入れるのは2度目だ。一度目は衛宮邸から撤退する時。ただ一度目と異なり意識を持ったまま潜るのは初めてである。見渡す限り真っ黒だ。正しい表現をするならば、一切の光がない世界。その何も無いはずの世界に、ある意思があった。意思と言うよりは、怒り、恨み、妬み、悲しみなどの負の感情である。人が持つあらゆる悪がそこに満ちていた。見渡す全てが呪いで、数える事などできはしない。彼方であり近傍でもある、測定出来ない底から、その呪いが降ってきた。或いは。手の届かない彼方の空から、登ってきたのかもしれない。腕の様な触手の様な、その呪いは彼を捕らえると彼を侵食、汚染し始めた。

 

彼の身体は呪われしまった。今や彼の容貌は桜と同じだ。黒い髪は灰の様な無味な白になり、皮膚は陶器の様な冷たい白、身体には地獄の炎の様な赤い入れ墨が走る。呪いの手が彼の心臓を掴むと、桜に心臓を文字通り握られた。それは命(意思、記憶、感情、思念)を支配された事を意味し、桜の狙いでもあった。ただし、その世界を埋め尽くす程の呪いですら汚染できないものが二つ存在する。呪いよりなお深い魔眼と、遠坂の為だけに存在する精神構造だ。

 

誰かの記憶が奔流となって流れ込む。それは鉄砲水の様に圧倒的だったが、彼は正気を失う事無くそれを見た。広がるのは薄暗い地下の神殿。神殿と言っても邪神の類いだ。緑に見えるのは、苔か、腐敗の色か。そこに横たわっていたものは、蟲たちの苗床にされた妹の諦めだった。4歳の幼い妹は養祖父臓硯に、肉体、神経、魔術回路、精神と魂を犯され続けた。その虐待は千歳に救い出されるその日の到来まで続き、二年間に及んだ。性別が異なる、精神構造が異なる、それ故その絶望は半分も理解できなかった。

 

そしてその記憶の更に奥。魔眼が虚数世界の底に横たわるそれを捕らえた。それは生まれる事を望む胎児であった。形を成したばかりのそれは、既に呪っていた。それから生える菌糸の様なそれは、妹の無意識を犯していた。それは妹を操っていた。

 

(そうか。俺の妹はお前に誑かされていたのか)

 

桜を助けねばなるまい。世界の滅亡は桜の意思では無い、それを知ってしまった以上、見過ごせない。今までそうであった様にこれからもそうなのだ。だがどうする、どうしたらいい。どうすれば桜を助けられる。その身はもはや桜(アンリマユ)の側。それ以前に桜に刃を向ける事など出来るはずが無い。彼では桜を倒すどころか、止める事すら出来ない。

 

(どうしたら良い)

 

 

◆◆◆

 

 

その洒落た部屋は新都にあるキャスターの仮の住まいである。パティ色を基調としブラウンのカーテンでアクセントを付けた、シックなカラーリング。ベッドはキングサイズで、手足を広げる事も出来る。はしたないとは思いつつも、一度やってみれば随分と気分が良い。壁一面を成す、窓ガラスからは新都を一望出来た。晴れれば日本海も見渡せる絶景だ。夜景も美しく申し分ない。

 

そこは高級ホテルの一室である。彼女の主はホテルにでも泊まると良い、と彼女に告げクレジットカードを手渡した。彼女はその助言に忠実に従った。ただ、二人には金額という意味で大きな隔たりがあった。ホテル内にあるレストランの味も悪くない、ロビーに置いてるガイドブック、それに記される周辺のレストランも興味をそそる。イタリアン、チャイニーズ、フレンチ。彼女の使う宿泊費の総額は、真也の想定する金額の5倍はあるだろう。とても悲しい意思疎通の齟齬であった。だがそれらはあという間に些末になった。

 

良いマスターだ、キャスターがそう思ったのはその日の夕方までである。彼女が蒼月の家を発ったその数時間後、想定通りにランサーがマスターを訪れた。ここまでは良い。彼女のマスターは想定通りにアインツベルン城に向け出発した。ここまでも順調だ。突然セイバー陣営にボコボコにされた。予定外である。遠見の水晶玉に、カフェオレをぶちまけたのは彼女だけの秘密だ。報復だといきり立ったが、辛うじて堪えた。彼女の命は情報収集であり、戦う事では無いのだ。

 

ランサーの面倒見の良さに驚きつつ、美綴綾子という味方の存在を微笑ましく思い、緊張と期待と興奮を持って二人の夜を見守れば、何も起こらず落胆した。そしてアインツベルン城、バーサーカー戦。バーサーカーを倒した事に胸をなで下ろし、イリヤスフィールを殺せなかった事に憂慮し、そしてギルガメッシュ乱戦を食い入る様に水晶玉を覗けば。彼女のマスターはボコボコにされた。注いでいたコーヒーを溢れさせ、腿を火傷をした事は彼女だけの秘密である。

 

彼女は己のマスターに主従関係以上の想いは持っていない。望んでもいない。求められない事は、彼女にとって僥倖だ。とはいえ嫌っている訳でもなかった。慟哭をひた隠しにしながら戦いに赴くその様は、彼女には涙を堪えながら立ち上がる子供の様に見えた。可愛いマスターだ、というのが彼女の所感である。

 

非正規とはいえ契約も正式に交わした相手である。それゆえ果たすべき忠義は過分でも構うまい、と考えた。彼女にとって彼は男女関係を抜きにして重要な存在となった。だが彼女のそのマスターは運が無い。消えかかったところを反転した桜に回収されしまったのである。その結末は彼女のマスターにとって最悪の展開だ。もう我慢出来ぬ、この危機に傍観していては、なんの為の臣下か。手を拱いていては、役立たずと自分で言っている様なものだ。だがしかし。情報収集に徹し、彼女から連絡を取る事は叶わず、と厳命されているのである。

 

彼女は泣く泣くその責務に没頭した。なぜだろう。彼女はその頃からその左手を鳩尾に宛がう様になった。よく考えてみれば、桜に従う、否、従わざるを得ない極限状態のマスターに接触を図れば、彼は否が応でも妹の望む命をキャスターに下さなくてはならない。それでは本末転倒である。そう自分を何度も誤魔化した。であるからして。彼女は調達した、すり鉢にシソ科のヒキオコソシとリンドウを入れすりつぶし、呪文を唱えれば、ボンと煙が立ちあがる。生成した白い粉を、煎じて飲めば、突っ伏した。

 

「ぶ、無様だわ。こ、この、魔女とまで蔑まれた私が」

 

フルフルと身体が憤りで小刻みに震える。

 

「ストレスで胃痛とは。己に胃薬を処方するとは。お、おほほほ。流石ですわマイマスター。これ程の恥辱、受けた事はありません……」

 

であるからして。

 

『キャスター』

 

というマスターからの何食わぬ念話が届いた時、彼女はプツと切れた。立ち上がり、背筋を伸ばし、めいいっぱい空気を腹に取り入れた。

 

『マスターーーーーーーッ!!!!』

 

彼の頭蓋に木霊する事8回。その金切り声に思わず、蹌踉めいた。彼の立つ場所は大空洞に通じる入り口の、脇。森の中だ。小川に突っ込んで冷たくなった右足に難儀しながら。

 

『何を怒ってる』

『怒ってなどおりません! 呆れているだけです!』

『なら良いけど』

『よ、く、あ、り、ま、せ、ん!』

『説教なら後でちゃんと聞く。それより時間が惜しい』

 

彼からはキャスターの姿は見えないが、仏頂面は見て取れた。彼女のそれは渋々の体。

 

『状況は把握しております。今後は問題に直面する前にお申し付け下さい』

『問題ってのは事後に生じるものだぞ』

『困った時のみ連絡されるのは愚者の行為と申し上げております』

『わかった。気をつける』

『結構です。ゆめゆめお忘れ無きよう』

『キャスター、今の桜は一体何だ。どういう状態だ』

『大聖杯の内にいるサーヴァントの様な存在に憑依されている、が説明として適当です』

 

 

◆◆◆

 

 

『桜様の申し出を受けたのは妙手と言わざるをえません。あの状況で桜様を拒絶していれば、マスターは殺されていたでしょうから。先の日に、あのお嬢ちゃんに殺され掛かった様に抵抗すら出来ず、いえ、せず死んでいたでしょう。マスターはその様な臣下泣かせの困った精神構造をお持ちです』

『皮肉はいい。そのサーヴァントの様な物とはなんだ』

『前々回、つまり第3回の聖杯戦争に於いて、アインツベルンが召喚したイレギュラーの英霊、反英雄“アンリマユ”それが正体です。大聖杯に残されている記録からの情報ですので間違いは無いでしょう』

『拝火教の悪魔が桜を操っている? それはどういう事だ。なぜ桜が操られる』

 

『桜様はアインツベルンの作る小聖杯と並び立つモノです。この地の聖杯を作り出した御三家の内の一つ、マキリ、その魔術の家によって生み出されました。何者かまでは分りませんが、恐らく当時の当主がアンリマユの断片を桜様に移植したのでしょう。それは人知れず、徐々に桜様を小聖杯として作り替えた』

『そのアンリマユの狙いはなんだ。あの黒い影と関係は?』

『黒い影とはアンリマユが行使する桜様の魔術です。桜様が元来持っている“架空元素・虚数”と後付けされた“吸収と束縛”との融合の結果です。アンリマユの狙いは、恐らく受肉することでしょう』

『世界を滅ぼす為か』

 

『正確には全ての人間を殺す為、です』

『アインツベルンってバカなんだな』

『幾ら高潔であろうと強い願いというのは狂気に等しい、という事です』

『状態は分った。どうすれば桜を助けられる。ついでにアンリマユの誕生を阻止出来る』

 

キャスターは盛大な溜息を付いた。

 

『なんだそれは』

『その質問は聞かれるだろうとは思っておりました。ですがあまりにも馬鹿馬鹿しく』

『ハッキリ言ってくれ』

『マスター自身が止めれば良いでしょう、と心の底から申し上げたいのですが。その魔眼は神の呪いすら殺す代物です。負荷は相応かも知れませんが、大聖杯に赴きアンリマユを殺す事とて可能でしょう。いえ、桜様とアンリマユを繋ぐ点を殺しさえすれば解放も可能。その後私が大聖杯を閉じる事もできますし。生まれる前のアンリマユであれば破壊する事も可能です』

 

『できない』

『そうでありましょう。そうでありましょうとも。桜様の望みはマスターの望みでありましょうから』

『分ってるさ。矛盾してるって言いたいんだろ。桜を止める事は桜に刃を向ける事だ。この身は既に桜のモノ、桜に刃を向けるなんて出来ない。出来る事と言えば、俺の中にある凛と桜、その凛の部分を使って、凛を視界に収めない様にしながら目を盗んで話すぐらいがせいぜいだ。俺はあの桜を妹だと認識してる。手を振り払い、見捨てた桜はそれでも俺を兄と呼んだ。桜への敵対行動は無理だ』

 

『マスターは遠坂という血に呪われていますわね。これではまるで令呪に縛られるサーヴァントの様ですわ』

『言い得て妙だ』

『何故嬉しそうなのですか。私は褒めてなどおりません。私にはマスターのご意志を計りかねます』

 

 

◆◆◆

 

 

『まったく、不運ですこと。英雄王との戦いの後、マスターを回収したのが、桜様では無くお嬢ちゃんでしたら話は簡単でしたのに。ライダーが連れ去りさえしなければ』

『それはいいっこ無しだ。ライダーは桜のサーヴァントだし凛を嫌ってる。答えが分ってるなら誰だって選択に悩まない』

『ではどうなさいます』

『凛と士郎に俺らを討たせる。もちろん桜を殺すのは無し』

 

『マスターはどうなさいます?』

『どの道先がないから死んでも問題ない』

『あのお嬢ちゃんの置かれた状況を知っての上で、そう仰います?』

『そう』

 

『おほほ、酷い方。マスター程の碌でなしは早々居ませんわよ』

『皮肉は良い。俺だって判ってる。でも他に打つ手が無い。この逼迫した状況で戦力を持つのは彼女らだけだ。俺らが桜が勝てば、凛たちは死んで俺らはお袋に討たれる。お袋はそういう仕事で、それが可能な人物だ』

 

キャスターがその話を気に止めた。

 

『マスターの母君はそれ程の?』

『今の俺ですら勝てない。だから別の回答を作る必要がある。それは桜は無事に遠坂に送り返すこと。士郎たちに俺らを倒させるには彼らを纏めないと』

『ですがマスター。仮に桜さまを解放したとしても、遠坂に戻る事を良しとはしませんわ』

『だから桜の記憶を封じろ。蒼月、間桐の記憶を消し、遠坂に捨てられる前までもどせ。お前ならそれができるな?』

 

『可能です。ですが桜様が、あのお嬢ちゃんが受け入れるでしょうか』

『確かに勝手な話だ。だが桜はまだ16歳。人殺しの過去を背負うには若すぎる。俺が死ねば桜がどうなるか分らない、それを防ぐ必要がある。同じ桜という妹を持つ姉兄なら、妹の事を考えるって信じたい』

『桜様の記憶を封じる事に関して、私は口を挟める立場ではありません。お嬢ちゃん……凛様と相談なさいませ』

『にしてもキャスター。この短期間でよくそこまで調べられたな』

 

『私が以前何処に陣取っていたか、それをお忘れ?』

『柳洞寺は大空洞の真上ね、なっとくだ』

『サーヴァントは小聖杯である桜と相性が悪い為、対抗する術式を開発しております。ご承知起き下さい』

『気が利くと言いたいけれど、できるのかそんな事?』

 

『はい。どのように大聖杯のシステムにアクセスするかが問題でしたが、それも無事解決です。マスターは大聖杯と繋がっております。マスターを介し大聖杯の術式に細工を加えれば容易』

『ハッキングみたいなモノか。どうにか間に合わせてくれ。それは必須になる』

『マスターが時間を稼いで頂けましたので作業に集中出来ました。間に合わせて見せましょう』

『だから皮肉は良い』

 

 

◆◆◆

 

 

『しかしマスター。凛様はともかく、セイバーたちが提案に応じるでしょうか』

『話してみないと、と言うところだが。世界の危機が迫っているなら、動かざるを得ないだろ』

『桜様を殺す手段に訴えるかも知れません』

『凛を説得して、凛に士郎らを説得させる、か。難しいな。見返りがあれば……セイバーには願いが有ると言っていた。その線で攻めよう』

 

『それは無理ですね』

『なぜ?』

『聖杯は万能の願望機ではありません。あらゆる解釈を持って人間を殺す方向性をもった渦です。セイバーの持つ願いがどのような願いか知りませんが、秩序・善の属性を持つ者に値する結果にはなり得ないでしょう』

『セイバーの願いは叶えられない、と言う事か。また微妙な話だな。お前の願いは叶わない、だから手伝え、と言っている事に等しい。あの堅い性格だ。全てを放り投げる性格ではないだろうけど』

 

『でしたら、受肉を持ちかけてみますか? あの坊やに熱を入れているようですし、案外受け入れるかも知れません』

『受肉か。けれど、その出来損ないの願望機でどうやって受肉する?』

『マスター、貴方の臣下が誰かお忘れですか』

『神代の魔術師である君なら造作も無い、か。ところでアンリマユはどうやって受肉する? 君程の魔術の腕を持っているとは思えない』

 

『大聖杯の基幹システムを応用していると推測します。呪いが物質化し泥となった、質量を持った事もその影響でしょう』

『システム?』

『魂の物質化です。“天の杯(ヘブンズフィール)”と言うそうです』

『……それ、魔法じゃないのか?』

『はい。第3魔法だと記録されています』

 

『極秘の第3魔法……不味いな』

『なにがでしょう』

『魔法の使用は御法度なんだ。無事済んだとしてもこの地の管理者である凛が責任追求される』

『それが問題ですか?』

『遠坂家に3人揃わないと意味が無い。キャスター、お前も受肉しろ』

 

『凛様をフォローしろと?』

『そうだ』

『……個人的には躊躇うご指示です』

『この期に及んで駄々をこねるな。セイバー、ライダー、キャスターの3名だ。できるか?』

『ライダーも、ですか?』

 

『彼女は桜を心配してる。嫌だとは言わない筈だ。それに姉にだけプレゼントってのも不和の元だろ』

『ではセイバーは諦めなさいませ。桜様の持つ5体。そしてあと一人。ランサーかセイバーで計6体。この魔力量でライダーと私の受肉は可能です。セイバー陣営に内密にすれば、いえ、そもそも彼らに報いを与える理由は無い筈です。彼らは漁夫の利でイリヤスフィールを手に入れたのです。あえて危険を冒す必要はありません』

『だめだ。桜を抑えるには俺ら以外の勢力が必要。それにはセイバーと士郎に他ならない。これは士郎らに対する見返りであり、その後の事に関わる。士郎には冬木を守って貰わないといけない。一人は辛いだろうが、誰かが傍に居れば苦境でもそれは幸いだ。それに葵さんと桜と凛の家族3人を一緒に居させるべきと俺が言っている以上、士郎は別だとは虫が良いだろ。その前提で作戦を考えてくれ』

『人が良いというか、剛気というか。マスターは少し変わりましたわね』

 

『質問は無しだ』

『英霊の魂を7体揃え、あちらの世界への孔を開き、魔力を確保すれば如何様にもなりましょうが。マスター、その意味をおわかり?』

『分ってる。アンリマユを生み出す事と同義だ。桜が持つサーヴァントは5体だから、まだ孔は開いていない訳だけれども、その時間猶予はどれ程見積もれる』

『アンリマユの成長度合いとから推測すると、孔を開き、即座に受肉作業に入れば3体分の時間は優に稼げます。ただ、成長度合いの見通しは確実ではありませんし、孔を開く事は成長を促進させる事と同義です。なによりそこに至るまでの工程が確定できません……危険は相応にあると覚悟なさいませ』

 

『分った。その線で進めよう』

『ランサーは如何なさいますか?』

『俺が、倒す』

『……よろしいのですか?』

 

『ランサーとは決着をつける約束だ。それに、ランサーならきっとこう言う“リスクを重視して、妥協するのはイケてねえ、安易な道を選ぶのは趣味じゃねぇ。半端な奴なら相手にしねえ”ってさ。聞いてくれ、キャスター。俺らは何もせずこのままなら全部失う。なら、その見返りは全部得るべきだろ? まぁ、セイバー次第なんだけど、多分大丈夫だ。君の言う通り、彼女の情は士郎にある』

『矛盾してますわマスター』

『俺の心臓の事なら気にしなくていい。キャスターでも聖杯ですらどうにもならない、なら仕方ない』

『有ります』

 

『……まじ?』

『マスターの母君は魔術師ですね?』

『そうだけど?』

『腕前の程は?』

『俺よりずっと上』

 

『今どちらに?』

『仕事中。このタイミングなら帰宅は聖杯戦争終結後だな』

『マスターの心臓を再構成する事により、解決が可能かと』

『再構成なら意味が無いだろ。作り直しても同じなんだから』

『ですからその際に強い思念を込めます。愛情と言えばおわかり?』

『高い魔術的な技能と俺に対する愛情を持つ者、まさか君だとか言うなよ』

 

そんな事は幾ら忠義を尽くそうとも臣下にすぎないキャスターには不可能だ。

 

『ですから、マスターの母君です。心臓を再構成するだけの魔力を聖杯から確保、母君が戻り次第、再構成処置』

 

そうだろうな、と彼の声は少し落胆していた。

 

『それはない。お袋は俺に対して母親的な心を持っていないんだ』

『……喧嘩でもなさいましたか』

『俺が覚えている限り、彼女から母親的な意味での抱擁を受けた事は無いよ。恐らくお袋は俺を根本的に嫌悪してる。理性を持って母親らしく振る舞っているだけだ。理由は知らんけどね。もちろん桜には親として接していたけれど』

『……』

(……お袋の奴、試練だとか言ってどこかで見てるんじゃ無いだろうな)

 

彼女のそれは溜息と言うよりは苦悩に近かった。

 

『どうして、次から次へと不運が続くのかしら。見えない何かに振り回されているようだわ』

『俺に言われてもな』

『マスター。自分の死を念頭にしていませんか。マスターの生を願っている者も居るはずです』

『そうだな、そうかもしれない。けど、どうにもならないだろ』

 

『なりません。せめて生き残ると宣言なさいませ。出来る出来ないは別です。命を賭して、大義を掴むなら善いでしょう。ですがマスターは矛盾しております。宜しいか? マスターを代償にあの二人が幸せを掴むなどあり得ません』

『キャスターの言いたい事は分る。俺だってあの二人を見届けられれば、そう思う。凛も桜も最終的に俺を許してくれるかもしれない。諦めた俺を怒るかもしれない。だがキャスター、君は記憶に障害が出るかもしれないと言ったな? それが既に起きている。末期の俺が皆を覚えているか、正気を保っているかどうかすら非常に怪しい。正直に言うと、セイバーの顔が思い出せないんだ。士郎の母親の名前もな。その俺に手加減するのは危険すぎる。全力で掛かる事が肝要だ』

 

おかしい、いくら何でも症状の進行が早すぎる、キャスターはそう呻いた。進行を操作出来る人物……キャスターの心当たりは一人のみである。

 

『マスター。その原因ですが、』

『いいんだよ、これで。キャスターの気遣いには涙が出る。でも、俺はあの二人をかき回しすぎた』

 

キャスターは納得がいかなかった。生きる意思さえあれば道を開く可能性がある。ならば、どうする。彼に生きる意思を与えられる者、姉妹以外で真也に影響を与える者、キャスターにはある人物が浮かび上がった。

 

『やるぞキャスター。こいつは大博打だ。ライダーに連絡を取ってくれ』

『承知いたしました』

 

声のトーンが上がった従者に、彼は少しだけ驚いた。

 

 

◆◆◆

 

 

桜と真也が立ち去った後、士郎らセイバー陣営の面々は急遽その対応に追われた。二人に何があった、何故人を喰らう、何故セイバーを求めた、これからどうするべきか。混沌とする衛宮家の居間で、回答という名の秩序を与えたのはイリヤであった。桜を目撃した彼女は、互いに小聖杯である事を確信したのである。大聖杯内にアンリマユが潜んでいる事、生まれるには英霊を7体あつめ孔を開く必要がある事を話した。そして、桜がそのアンリマユに操られている事も。

 

完全では無いが、状況を把握した士郎はまずは十分だと立ち上がった。キャスター戦のおり解析した“破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)”を使い、桜を解放するのである。自ずと真也も解決するだろうとの確信があった。だが、2つの大問題が立ち塞がる。ルールブレイカーを使い、イリヤをセイバーの主とし彼女のステータスを大幅に上げた今なお真也を抑えるには不安が募る。 加えて、バロールの魔眼という最悪の代物まで持っているのだ。戦力が足りない。残るサーヴァントは、ランサー、ライダーの2体。どうにか協力を取り付けたいが、どこに居るのかすら分らない。加えて猶予も無い。蒼月兄妹が再び現れるまでに戦力を整えなくてはならないのだ。

 

二人を助けたいという士郎の方針に対し、舞弥とセイバーは異を唱えた。躊躇う事無く殺すべきだと進言した。二人にとって士郎は最優先なのである。なにより真也と相対したセイバーは、手心をもって倒せる相手だと侮っていなかった。複雑な事情を持つイリヤも渋々ながらも同意した。桜が凛を姉と呼んだ事を根拠に、士郎は保留とした。凛は回答を避けた。

 

陽が落ちかかった紅の時、住宅街のアスファルトに薄い影を落とすのは、主力の、セイバー、凛、士郎の3名である。ルートを決め、時間通りに歩き、他サーヴァントとの接触を図る。舞弥とイリヤは少し離れた車内でバックアップだ。セラとリーゼリットは不承不承留守番をしている。セイバーとイリヤが居ない以上、彼女らが襲われる心配は無い。多少なりとも得た希望に士郎の表情は明るかった。

 

「もはや聖杯戦争は形を成していない。事情を話せばランサーも受け入れてくれると思う」

 

士郎に応えたのはイリヤだった。

 

『ランサーはともかくライダーが微妙ね。サクラのサーヴァントだもの、もう食べられてるかもしれないわ』

「桜とライダーは仲が良かったからな。彼女は助けたがっているはず、多分大丈夫だよ」

『逆に食べられてたら、それを判断材料としなさい。率先して己のサーヴァントを喰らう程なら手遅れよ』

 

彼らはイヤーフック型の無線機で会話していた。士郎はもちろんのことイリヤもその機械に早々に馴染んでいたが、機械に不明瞭な凛は戸惑い落ち着かない。士郎が言う。

 

「姉さんは逃げて欲しいんだけど」

『だめ。アンリマユが世に出れば どこにいたって同じだもの。可愛いシロウだけ戦わせる訳にはいかないの』

 

士郎は落ち着かなく頭を掻いた。ローティーンの身体を持つ少女に、世話を焼かれると何かと困る。一つ年上の18歳と言われてもピンとこないのだ。彼は誤魔化す様にこう聞いた。

 

「それよりセイバー。調子はどうだ」

 

数歩先行する彼女は振り向くと、堂々と宣言した。

 

「安心して下さいシロウ。マスターはイリヤスフィールとなりましたが、私がシロウの剣だという事は変わりありません」

「そうじゃなくて」

 

真也に負わされたダメージも、消費した魔力も、イリヤによって完全に回復していた。新たなマスターから供給される魔力は、士郎の倍では収まらない。抑えていても全身から溢れる魔力は相当なものだ。魔力放出を持って身体能力を向上するセイバーは、今やバーサーカーに逼迫する程の力を得ていた。

 

『気になっているのだけれど、セイバー。私の弟にちょっかい出したらだめよ』

「ちょっかいとは聞き捨てなりません。私とシロウの関係は正当だ。やましい事など無い」

『念のために伺うけれど、正妻って言いたいのかしら』

「なっ! にを馬鹿な事を。私はシロウの剣だ」

『とてもそうは見えないけれど。そうでないなら勘違いをしているのね。可愛い弟の伴侶は私が選ぶから』

 

セイバーはイリヤに色々思う事はあるが、少し疎ましく思っていた。主である士郎の命を狙ったあげく、手の平を返し、あの家にやってきた。事情も事情だ、それは良しとしよう。だが姉の様に振る舞い士郎との関係に口を出されては勘弁願いたい。だもので彼女は士郎に詰め寄った。

 

「シロウからもイリヤスフィールに言って下さい」

「え」

「シロウ、私とどちらが大切なのですか。まさか、姉とは言いますまいな? 姉など碌なものではありません」

『剣の英霊ともあろう者が、偏見とは嘆かわしいわね。それとも姉に恨みでもあるの?』

「イリヤスフィールには関係の無い事です」

 

セイバー、イリヤ、士郎。一緒に居る家族を、凜はぼんやりと見ていた。そこにあるものは羨望と嫉妬と、後悔である。

 

 

◆◆◆

 

 

3人の前に、沈黙した家々が連なっていた。影に喰われた人達の家だ。暗く、物音一つ無い。ニュースでは大々的に報道され、“KeepOut”と印刷されたテープで封印されていた。“真也は桜をどう思っているのか”士郎はそんな事を考えた。ちらほら見える警官とマスコミであろう人影。関わっては厄介だと士郎たちは立ち去った。夕方だというのにその街に人影は無くひっそりとしていた。誰も彼もが恐れていた。会話が途切れ、カツコツと足音だけが響く中、士郎は意を決しこう告げた。

 

「遠坂、そろそろ話してくれ。真也に聞きたい事ってなんだ。今の状況はそれが関係するんだろ?」

 

凛は観念して話し出した。この状況が彼女の行動に起因するなら、もはや隠し通す事は不可能である。

 

「一つ言わなかった事があるのよ。魔道の家が一子相伝ってのは知ってるわよね? 如何に資質があろうと伝承出来るのは一人のみ。ところが私たち姉妹は、魔道の名門という強い庇護が無ければ、その存在自体が危うくなる程に非常に希有な才能を持って生まれた。私は五大元素使い(アベレージ・ワン)、桜は架空元素・虚数。また、この冬木にはもう一つの魔道の名門があって、それを間桐というの。今から10年前。その家は衰退、断絶し掛かっていて、当主間桐臓硯はその後継者を求めていた。私たちの魔術師としての大成を願った父さんは桜を養子に出す事にした。利害を一致させたって訳。間桐と遠坂は同盟関係だったから。

 

桜が養子に出された2年後、つまり10年前。間桐の当主、間桐臓硯は暗殺され、同時に桜は失踪した、ここまでは良い? ここから先は状況に基づく私の推測。もともと桜は私と同じ髪の色、私と同じ瞳の色だった。けれど今は髪も瞳もすみれ色。これは何故か分る?」

「……魔術処理を受けた」

 

士郎の呟きに凛は頷いた。

 

「狙いは間桐の属性をつける為だろうとは思うけれど、間桐臓硯はそうとう無茶をしたんでしょうね」

「誤魔化すな。そうとうってなんだ」

「虐待紛いの事を受けていたはず」

「遠坂。それは真也の母親が桜を救い出した、って言わないか? でなきゃ10年も育てる訳が無い。桜が笑うはずが無い」

「私もそう思う」

 

イリヤは表情無く聞いていた。彼女は切嗣に捨てられたと欺され、それを知らず士郎を殺そうとしたからだ。口を挟める訳が無い。舞弥は侮蔑の表情を浮かべていた。凛にと言うよりは魔術師の家に対しての意味が大きかった。アインツベルンも間桐も遠坂も碌なものでは無い、だから魔道の家は嫌なのだと、その眼は語っていた。声を上げたのはセイバーだった。それには侮蔑と怒りが籠もっていた。

 

「遠坂凛。貴女の言っている事は恩人に仇をもって返した、という風に聞こえるのですが」

「私も、そう思う」

「それは私たちも憚っていた、と言う風に聞こえます」

「認める」

「貴方の妹を立ち直らせ守ってきた、あの男に対し、貴女が何をしたのか覚えているのか」

「忘れるはず無いでしょ。この手で殺しかけたんだから」

 

セイバーから表情が消えた。

 

「何があったのかは知らないが、貴女の行動は人の道に反するものだ。次ぎに発する言葉は十二分に留意しろ。我らはお前の悪事の片棒を担がされたのだ。生半可な釈明では納得しない。答えろ遠坂凛。その罪、どのように償うつもりだ」

 

士郎はセイバーを制止した。

 

「遠坂、それを知っていてどうしてそんな事をした。それが今の状況とどう関係する」

「それは、」

「その辺にしておけ。よってたかって、いびるってのは端で見ていて気持ちの良いもんじゃねえ。それが、知らず善人ぶってる連中なら、滑稽すぎて笑う事もままならない。いや、哀れと言うべきだな」

 

スーツ姿のランサーが闇夜から現れた。彼は驚きと警戒を隠さない士郎に軽薄な笑みを見せた。

 

「よう、精が出るな。坊主」

 

セイバーが割って入った。今の彼女は普段着姿で、帯剣はしていない。だが即座に斬り付けられる準備は整えている。

 

「ランサー。丁度良い、貴様にも洗いざらい吐いて貰おう。その思わせぶりな言い方、返答次第では容赦しない」

「セイバーよ。今のお前はタネがバレている事に気づかず、見世物を続ける奇術師だ。笑うに笑えねえ」

「その発言、聞き捨てならない」

「恥の上塗りをするなって事だ。真実って奴を教えてやる。言っておくが、いい話じゃねえぞ。厠に顔を突っ込んだ方がまだマシな程、最悪の気分になる事は保証する。それでも付いてくるか?」

 

 

◆◆◆

 

 

無言を貫くランサーの後に続けば、そこは“紅州宴歳館 泰山 ”である。知る人ぞ知る、辛い店で有名な店だ。凛と士郎が店に入れば綺礼が麻婆飯を食べていた。4人掛けのテーブルに、大皿5枚。既に食い散らかした後であった。その辛さを想像し思わず顔をしかめるのは士郎である。綺礼は最後の一口を食べると、レンゲを置いて両肘を立て指を組み合わせた。二人に一瞥を投げる。何故だろう、聖職者と言うよりは大学教授に見えた。ランサーは詰まらなそうな顔で、足早に去った。綺礼は二人を席に促した。

 

「二人だけか」

 

応えたのは凛である。

 

「綺礼の顔は見たくないってさ」

 

凛は気にせずパイプ椅子に腰掛けた。

 

「ふむ。ならば仕方あるまい」

「それより呼び出した理由を聞かせて欲しいんだけど」

「知っている事を全て話せ」

 

呼び出しておいてそれか、と士郎は不満に思ったが、腰を折るのも賢くないと、椅子に座った。士郎は大聖杯の中にアンリマユが存在し、それが桜を操っているだろう、一連の事を話した。綺礼は満足そうに頷いた。それが士郎の癇に障った。

 

「ふむ、私の予想とほぼ同じだ。ならば手を打たねばならんだろう。簒奪者が良いように暴れている、この状況は見過ごせないからな」

 

店員は目の前にある空になった皿を片付けると、厨房に下がっていった。士郎が言う。

 

「言峰。ランサーと言峰はどういう関係だ」

「ランサーは私のサーヴァントだ」

「……は?」

「ランサーがアンタのサーヴァント?」

 

士郎は間の抜けた声を出した。凛は眼を見開き、驚きを隠さない。というよりは、その言葉の意味を理解出来ないと言った様相だ。

 

「ちょっと待てよ。それはどういう事だ。言峰がマスターだなんて聞いてないし、そもそも監督役がありなのかそれは」

「誤解の無い様に言っておくが。もとより私に望みなど無い。ランサーを得たのも、よりよい願望者に聖杯を与えたかっただけだ。各陣営を一通り調べたところで、誰を支援するか迷っていたところ、あの男を思いついた。知っての通りあの男はマスターでは無いにもかかわらず、聖杯戦争に巻き込まれた。バーサーカーのマスターは、マスターでは無いあの男を限定して狙っていた、つまり私怨だ。聖杯を求める儀式と言う意味に於いて、お世辞にも好ましい状況では無い。 当の本人も、どうにかしてくれと私に陳情している。私には監督役としての立場もある以上、無視は出来なかった。だから貸し与えたのだが……どうした凛。酷く顔色が悪いが」

 

綺礼は表情一つ変えない。だが士郎には笑っている様に見えた。士郎の声は掠れていた。

 

「遠坂、ランサーのマスターが目の前に居るぞ」

「状況を確認したい。衛宮、お前は何を言っている」

「俺たちは真也がランサーのマスターだと思っていた」

「それは勘違いだな。繰り返すが貸し与えたに過ぎない。その深刻そうな表情はなんだ。説明しろ」

 

士郎から経緯を聞いた綺礼は、静かにこう告げた。

 

「第4次聖杯戦争の話だが、マスターとして参加していた間桐雁夜は刻印蟲に犯されていた。間桐の魔術は、蟲を使うと聞いている。桜が魔術処理を受けたというならば、魔道生物にその身を陵辱されていただろう事は想像がたくない。私も蒼月桜の事は調べた。役所から取り寄せた資料によると、10年前の間桐桜、いやこの時点では既に蒼月桜だな。自閉症の疑いがあると診断されている。4歳の子供が魔道生物による虐待陵辱を受けたと考えるのが妥当だろう。幼少の虐待は、トラウマで済む話ではないからな。あの家は、あの男は、その彼女を立ち直らせた、凛。とんだ失態だな。謝って済む話では無いぞ」

 

綺礼のその声に抑揚は無く。何時もの様に尊大で厳かだった。それ故、断罪の宣告に他ならない。凛は表情無く、生気でも抜かれてしまったかの様に、固まっていた。右隣にいる同級生を、静かに見るのは士郎である。声を荒らげ詰ろうとしたがその気も失せた。怒りより、憐憫が浮かんだのだ。綺礼はお構いなしだ。

 

「大凡の状況は読めた。知っての通り、彼女の兄に対する執着は冬木に住まうものなら知るところだ。これは推測だが、兄と引き裂かれた蒼月桜は相応の精神状態だったはず。もちろん良い意味では無い。使い魔である影を通じ、仮死状態の兄を見たならば、反転もやむを得まい、と言うところか。バケモノである事を受け入れた蒼月桜があの男と合流した、これは最悪の展開と言っていい。遠坂である妹と引き離され、遠坂である凛に敵視され、最後に縋った願いすら失った。全てを無くしたあの男は、もはや反転した妹を止めることはもう出来んだろう。止めたくともな」

「言峰。遠坂であるってどういう意味だ」

「意外と抜けているな、衛宮。それとも気づいていない振りをしているのか? 変だとは思わなかったのか? あの男の10年間の行動を振り返ってみろ。全ては妹である蒼月桜の為だけにあった。良心を持たず、躊躇いと呵責が無い。己の一切を顧みず、ただ妹の為だけにあった。その男が何故妹を手放した。それは何故だ。遠坂と桜は姉妹、ここに居る遠坂凛は妹と同じ遠坂の血を引く者。それはあの男にとって、絶対とする妹が二人現れた事に等しい。逆らえる筈がないだろう」

「まて。桜は一緒に居たいと願ったはずだ。蒼月でいたいと言ったはず」

「確かにそれは疑問だ。凛、あの男の間に何があった」

 

真也が凛に告白し“傷つけたくない”別れを告げた事を絞り出した。彼女のそれは壊れたおもちゃの様な声だった。

 

「衛宮、キャスター戦後のあの男の状態はどうだった」

「変だった。俺に謝った事なんて一度も無かったアイツが俺に謝った」

「中々に面白い話だ。二人の遠坂に挟まれたあの男は、心の様な物を持ったのだろう。キャスターが起こした、穂群原(ほむらばら)での騒動は把握している。為す術もなく倒れた学園関係者の中、一人だけ医務室のベッドに寝かされていた者が居た。その者はあの男と縁が深い者だ。その者にはあの男の血が付着していた。奴が好んで着るコートも羽織らされていた」

「桜以外の存在に、命を掛けた」

 

士郎の問いかけに、綺礼は一瞥をもって応えた。

 

「その時点であの男は凛が桜の実の姉だとは知らなかった、そうだな?」

 

凛は沈黙をもって肯定とした。

 

「ならば話は簡単だ。傷つけたくないと発言した以上、心を持ったあの男は、妹以外の存在を、この場合は凛を殺す事が出来ると勘違いしたにあるまい。あの男が凛に対し必要以上にの呵責を感じたのも無理はなかろう。何せ凛は遠坂だ。本能でそれを感じ取っていたのだろうな。ふ、なかなかの青春劇、愛憎劇だ。その結果被害者を出しては、笑い話にもならないが」

 

士郎はこの店に他の客が居ない事に感謝した。腰を浮かせ、綺礼を睨み下ろした。胸ぐらを掴まなかったのは、彼にとっても驚きだった。

 

「言峰。さっきから聞いてれば他人事の様に話しやがって。各陣営を調べたっていったな。狙ってやったんじゃないのか」

「発言はよく考えてするものだ。精神状態など外見から分るはずが無いだろう。体調不良とどう見分ける。面談した訳では無いうえ、私は精神科医では無い。思春期の恋愛事情など神父が関わる話では無かろう。そもそも、ランサーとあの男が一緒に居た光景をどう思うかは、その考えを持つ本人のものだ。己の判断と行動に責が負えないならば魔術師以前の問題だ。違うか?」

 

士郎は言い返す事が出来なかった。

 

「勘違いして貰っては困るが、私もちろん責は感じている。この危険な状況は見過ごせない。早急に手を打たねばならない。アンリマユと言う世界の破滅を願う者を、蒼月真也というセイバーを圧倒する程の者が、警護をしている、この状況はお世辞にも良くないが、絶望という訳ではない。3騎士のセイバーとランサーが未だ健在。なにより、切り札がある」

「なんだ切り札って」

「遠坂凛、これは蒼月真也打倒の切り札だ。ガーディアンを失えばそれほどの脅威ではなかろう。蒼月桜は戦闘訓練も魔術訓練もを受けていないからな」

「ちょっと待てよ。遠坂を使って真也の不意を突くってのか」

「その表現は正しくない。蒼月真也にとって遠坂凛は刃そのものだ。聞けばセイバーを手玉にとる程の存在が、凛を見ただけで気を失ったそうだな。対峙するだけでその効果は十分だろう」

 

勘弁ならぬと等々士郎は声を荒らげた。テーブルに拳を叩き付けた。

 

「俺らに遠坂を楯にして、桜と真也を倒せっていうのか!」

「知らない間に随分と丸まったなお前は。一体どうした。正義の味方を目指したお前らしくも無い。あの二人は冬木を、世界を脅かす明確な敵だぞ。正義の味方には敵が必須だ。嬉しそうに、殺すと言ったらどうだ」

「言峰。テメェは何を言ってるのか分ってるのか。桜は俺にとって大事な後輩、確かに嫌ってはいるが、真也はその兄だ。遠坂は、桜の姉だ。家族同士で殺し合えというのか」

 

「繰り返すが理解している、責も感じている。我々は、誤りを犯したのだ。ならば償わねばならない。これはカイーナの環に墜ちかねん程のな罪なのだ」

「我々? 勝手に巻き込むんじゃねえ」

「先ほどから感じている違和感はそれか。衛宮士郎、お前が何もしていないとでも思ったのか」

「お前なんかと一緒にするな」

「お前がセイバーを召喚する前の話だ。アーチャーとランサー戦を目撃したお前が今生きているのは何故だ。それはあの男に助けられたからだろう?」

 

士郎にその時の記憶が蘇った。

 

「1stバーサーカー戦の時を思い出せ。切嗣の遺恨を引き継いだお前が今尚生きているのは何故だ。本来ならばあの時お前はイリヤスフィールに殺されていた。だが生きている。それは何故だ。あの男に助けられた。例え殺されずとも、その場合は連れ去られたに違いない。アインツベルンの城に捕われたお前は、セイバーたちの死を黙ってみる運命が待っていただろう。 復讐とは他人に委ねるより、己の手によって果たすべきモノだからだ。又聞きより、直と見るべきモノだからだ。そうならなかったのは何故だ。イリヤスフィールの遺恨をあの男に喰わせた。アインツベルンのマスターとしての誇りと使命、己のサーヴァントを失った、悲嘆と恨み、彼女の10年にわたる情念の負債、と言えば良いか。それは何処に消えた? あの男に喰わせた。

 

お前に投影魔術を指南したのはアーチャーだったな。その結果、素人同然のお前がこの短期間で腕を上げた。不可解な点はあるが、その理由は問題では無い。戦いに於いて、仲間を助けている、役に立っている、それはさぞ快絶だろう。守りたい者を守れる力、それは愉悦だろう。その力をお前はどの様に手に入れた。アーチャーが別陣営であるお前に指南した理由、それはあの男が居たからだ」

 

アーチャーと真也はかつて遠坂家の屋根で、一触即発の対峙をした。ランサーはそれを見ていたのである。

 

「アーチャーとあの男の関係はお世辞にも良好では無かったからな。恐らくアーチャーはあの男がこの事態を引き起こす事を予期していたのだろう。いや、我々がしでかす事をか。その結果お前は第2次キャスター戦を乗り越える事が出来た。あの男が遠坂凛と遠坂桜の間でのたうち回っている事も知らずにな。衛宮切嗣の負債を押しつけ、お前の修練の切っ掛けと成長の時間的猶予を得た、それは何故だ。あの男を踏み台にした事に他ならない」

 

口が渇く。喉が渇く。身体が水分を欲しているのに、汗が止まらない。この神父は一体何を言っている。

 

「お前が答えを得たのは何時だ? 第2次キャスター戦後だろう? つまり生き残ったからだ。それすらもあの男を踏み台にした結果だ。10年信じ続けた正義の味方という己を殺した。その負債は何処へ行った。誰かを守れる力、温かい家族、その理想(奇跡)の代償がこれだ。お前にも償いの刻が来たと言う事だ。衛宮士郎、我々はこの世の全ての悪を作り上げてしまったのだよ。それとも返り咲いてみるのも悪くは無いのではないか? 喜べ少年、君の願いは、この地獄でようやく叶う」

 

衝動のあまり、殴りかかろうとした士郎の拳を止めたのは、今まで呆けていた凛の声である。

 

「二人を殺すしか無い、と言うんでしょ。綺礼」

「その通りだ。私も荷担してしまったのだ、その責は負おう。罪を働いた者に謝罪するどころか、殺さねばならないのだ。凛の心中は察しよう」

「どういう吹き回しよ。綺礼が気遣うなんてさ」

「これでも聖職者なのでね。迷う者には手をさしのべねばならん」

「いいわよ。覚悟は決めたから」

 

二人が店をでれば、商店街を貫く通りである。まだ7時前。何時もであれば相応に人通りのあるこの道は、閑散としていた。シャッターの下りた店舗が続いている。これではまるで、ゴーストタウンだ。ゴムで出来た道を歩いている様な心持ちで、士郎は数歩先の凛の背中を見た。足取りは確実で、乱れなど無い。だが、その中身はがらんどうである。

 

「遠坂、あの二人を殺すって本気か」

「本気も何も、他に方法が無いじゃない。私を使って真也を無力化。セイバーとランサーを使いその気に乗じて二人を討つ。合理的だわ」

「今の遠坂に、俺は気に入らない事が一つある」

 

立ち止まり、振り返った同級生に表情は無かった。

 

「打ち拉がれて、泣き崩れて、それで解決するならいくらでもするわよ。でも、現実は変わらない。それともなに? それが気に入らない衛宮君が協力しないっていうなら、してあげても良いけど」

 

手足を自棄に振り、歩み寄る。士郎の懐に忍び込めば、下から覗き込み、無防備に詰め寄った。彼の眼下には、空っぽになった学園のアイドルが居た。

 

「ほら。殴るなり罵るなりしなさいよ。それとも、わたしを犯せば満足する? 桜の様に陵辱してみる? するなら早くして。躊躇いなんて時間の無駄だから」

 

彼女はスカートを掴むと、たくし上げた。薄桃色の下着が見えた。ほんの僅かでもそれに気を取られた己に激しい怒りを感じた。彼は足早に歩き始める。その脚は五月蠅いほど音を立てた。

 

「帰る。急ぎ対策を立てないと」

「しないの?」

「しない。そんな事したらそれこそ俺は最低になる。真也に殺される」

「もうあの二人は居ない、会えないってまだ理解してないんだ」

「だまれ。これでも堪えるのに必死なんだ。家に帰るまで口を開くな。何も聞きたくない」

「そう。責めてくれないなんて意外と酷いのね、衛宮君は」

 

紅州宴歳館 泰山から少し離れた所に停車する自家用車があった。車内では控える、セイバー、舞弥、イリヤの3名は沈黙を保っていた。彼女たちは無線で一部始終を聞いていたのである。静かでは無く、沈黙。その様を伝えれば、葬儀の列が適当だろう。舞弥は疲れた様にシートに身を預けると、やるせなさそうに髪をかき上げた。

 

「彼とは敵同士だった。彼は何も言わず、武器を持ち、私たちと対峙した。武器を持ち対峙する相手の都合を考えてはならない。これは戦場に於いて鉄則。誤れば私たちが死んでしまう」

 

助手席のセイバーは背筋を伸ばし、姿勢正しくしていたが、膝の上に置いた両手を壊れない程に握りしめていた。

 

「舞弥の言う通りです。ですが、これ程惨めで陰鬱な気分も初めてです」

 

イリヤが見上げれば、サイドウィンドウ越しに月が見えた。それは笑い、笑い、そして、笑い転げていた。空から墜ちてしまいかねない程だ。ランサーも同じ様に、店の屋上で、寝転がり、侮蔑する月をぼんやりと見ていた。

 

 

◆◆◆

 

 

所変わり、新都にある高級ホテル。その一室で、水晶玉に映る綺礼を凝視するのはキャスターであった。それは切り刻んでしまえる程に、冷たく、鋭い視線だった。地獄の炎すら凍ってしまいかねない程だ。

 

「言峰綺礼、だったかしら。愉しそうね。実に愉しそうな顔をしているわよ、貴方」

 

彼は静かに、二人が消えた磨りガラス張りの引き戸を見ているだけだ。だが彼女には大笑いしている様に見えたのである。証拠など無い、だが数々の男を見てきた彼女は直感で黒幕だと感じ取った。

 

「主の屈辱は私の屈辱、この報復はメディアの名を持って果たす事をここに誓いましょう」

 

水晶玉を撫でるその親指は、綺礼の首を横斬っていた。

 

 

 

 

 

つづく!



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41 カズム・1

衛宮邸に続く坂を登るのは舞弥である。この道は我が家に繋がっている訳だが、その道なりを想像すると思わず滅入った。彼女の筋力、体力は同年齢の平均女性より高いが、それでもその手にある重量物は手に余る。その両手につり下がるものは、食料を詰め込んだビニール袋であった。はち切れんばかりに膨らんで、今にも裂けそうだ。足下のアスファルトは、不愉快な程いつも通りで何も語らない。もっとも。“買い出しご苦労様”と労われてもどう反応しても良いのか困る。

 

アインツベルン陣営が居候をする様になり、食い扶持が増え、調達するべき食料は随分増えた。イリヤの持参金がある故、生活費に不安は全く問題が無いが、二日おきの買い物は勘弁願いたい。八百屋の亭主に“お、とうとう妊娠かい”とセクハラをされるのだ。真に厄介極まりない。本来であればローテーション、それどころか士郎が率先的に買い出すのだが、何時襲撃があるか分らない以上、セイバー、イリヤ、凛、士郎の主力を単独行動させる訳には行かないのである。つまり、衛宮家の家事全般は、舞弥、リーゼリット、セラのノーマーク組3名が家事全般を受け持っており、調理の苦手な舞弥は、必然的に買い出しか掃除を担当する事になったと言う訳である。

 

であるからして、舞弥の目の前に、普段着姿のキャスターが現れた事は、驚愕以外の何物でも無い。だがこれはどうした事か。倒したはずのキャスターは、殺意すら無く、静かに微笑んでいた。まるで、これからお茶にでも誘われるのではないか、そう錯覚してしまいそうだ。彷徨う亡霊に対峙する様な面持ちで、舞弥はこう話しかけた。

 

「未だ顕界しているとは驚きました。私たちに復讐を?」

「まさか。私のそれはもう成りましたから。今はとある方の僕、とだけ言っておきましょう。ただ知りたい事があってそのご協力願うわ」

 

キャスターが指を翳し、暗示を掛けようとした瞬間、舞弥はなんの躊躇いもなくそう告げた。

 

「情報を希望しているのであれば、率先して応じる用意があります」

「あら、命乞い?」

「確かに死亡は避けたい所ですが理由は別にあります。私なりの誠意と理解して下さい」

 

キャスターの主である宗一郎を討ったのはアーチャーだ。アーチャーは真也に倒された、そう凛から聞いていた。キャスターのいうある方とは誰か、簡単な推理である。

 

「そう、察しの言い方だこと。できるなら、その察しを主にも分けて頂きたかったわね」

「希望する情報を言って下さい」

「折角の申し出だけれど、一分一秒を争うから直接読み出させて頂くわ」

 

キャスターは言峰綺礼、衛宮切嗣、アイリスフィールの関係、つまり第4回聖杯戦争の情報を読み出した。切嗣は情報を重要視しており、キャスターも驚く程の緻密な情報を得る事が出来た。そして遠坂時臣の死因を読み出した後に、舞弥を解放した。

 

「記憶は封じさせて頂くわ。申し訳ないけれど、性分だから」

「問題ありません。二の腕のたるみも合わせて消去してくれると助かります」

「我が主が偉業を成し遂げた暁に、私の元を訪れなさいな。ダイエット薬を格安で調合しましょう?」

 

舞弥が我に返ると、生活道路に一人立ち尽くしていた。不可解に思ったが、胸のつかえが少し取れていたので、気にしない事にした。

 

 

◆◆◆

 

 

場所は変わり遠坂邸。ダイニングのテーブルでぽつねんと腰掛けるのは葵である。白いクロスの上に置かれたカップにはレモンティーが注がれていたが、口は付けられていない。浮かぶレモンも既に出し殻状態だ。桜が消え、ライダーも消えた。凛も聖杯戦争が終結するまで、衛宮家に泊まる事になった。人の気配が全くないこの洋館に彼女は一人。まるで幽霊屋敷に住んでいるかの様な気分である。英国では幽霊の棲む物件は人気だそうだが理解出来ない、したくない、葵はそう考えた。家はこれ程大きいのに、食事に使うテーブルはこれ程大きいのに、部屋が埋まる事は無い、席は何時も余っていた。葵は溜息を付く事すら出来ず、ティーカップの水面映る己の顔をじっと見ていた。

 

「時臣さん。残してくれたこの家は広すぎます」

 

記憶の中の夫は何も答えてくれなかった。

 

「だめね、亡くなった人に頼るなんて」

 

その様な事10年前に卒業したはずだ。意を決して紅茶を飲めば、苦みについ舌を出した。呼び鈴が鳴る。誰かと警戒しながら扉を開けると、敷地を隔てる門の外に立っていたのはいつか見た外国人の女性だった。失礼だとは承知しながらも、閉じた門越しに警戒と戸惑いを織り交ぜ、何用かと問いかけるとその女は深々と身を下げた。片膝を突き、頭を垂れた。時代めいた仰々しい挨拶に戸惑うのは葵のみである。遠坂の家は、住宅街の外れ。人目が少ない事に、感謝し彼女は慌てて門を開いた。また凛に怒られると思いつつ。葵が恐る恐るもしと声かければ。

 

「我が主、蒼月真也の僕でメディアと申します」

「真也さん? 僕?」

 

突然の事で理解が及ばない。

 

「突然の訪問にかかわらず葵様直々のご対応、身に余る光栄と存じます」

「メディアさん、でしたか。貴女は私を知っているのですか?」

「はい。かつては凛様の敵であったこの身、葵様に無礼を働いております」

 

敵であった、今は違う。無礼を働いたと言うが思い当たる事が無い。葵の理解が及ばないまま、キャスターは続けた。

 

「本来であれば葵様にお目通りを計るなど、とても許されるべき事ではありません。ですが、火急の事態ゆえ恥も外聞も捨てはせ参じました。葵様。身勝手は百も承知でお願いいたします。何とぞお力添えを頂けないでしょうか。我が主は、御家をことを第一に考えております。それが命の燃やし尽くし所と言わんばかりに」

「とりあえずお話しを伺わせて下さい。どうぞこちらへ」

 

真也の名前を出されては葵も無碍には出来なかった。

 

 

◆◆◆

 

 

キャスターが通されたのは遠坂家のリビングである。硝子製のローテーブル越しの葵はティーポットを手に、紅茶で持て成していた。火急だと伝えた上でのマイペースぶりに流石のキャスターも閉口するしかない。とはいえ、立場上急かす訳にも行かずじっと耐えていた。

 

「どうぞ」

「恐縮です」

 

キャスターの二つの用件を聞いた葵は二つ返事で頷いた。

 

「分りました。協力します、いえ是非背負わせて下さい」

「葵様の寛大なる、」

「キャスターさん。それは止めて頂けませんか? その、くすぐったくって」

「では、お言葉に甘えまして相応に。葵様、何分猶予がありません。酷な事を申しますが、」

「ここです。この部屋で時臣は殺されました」

「凛様はご存じなのですか?」

「いえ。知るのは私と綺礼さんだけです。犯人は未だ見つからず。聖杯戦争に関わる者、だろうとは思うのですけれど。当時私は実家に避難していて、現場を直接見た訳ではありません。使用人が駆けつけた時には事切れていたそうです」

「失礼します」

 

キャスターは立ち上がり呪文を唱えると、その部屋に残された残留思念を読み取った。石造りの古い洋館だった事が幸いし、当時の状況を辛うじて読み取る事が出来た。石は思念を残しやすいのだ。かつてこの部屋で時臣、ギルガメッシュ、綺礼が陰謀を巡らせていたのである。それを知ったキャスターは人間関係のあまりの深さに目眩を起こしそうだった。だが葵には奇行にしか見えない。

 

「あの?」

「石は意思という訳です」

「はあ」

 

笑っていいのか分らない。キャスターはバスケットボールでも持つかの様な仕草をすると、その間に幻影を浮かばせた。

 

「葵様、この短剣に心当たりはありますか?」

「恐らく凛の持つ短剣です。綺礼さんから譲られた儀礼用の短剣だとか」

 

綺礼のあまりの悪趣味さに、思わず顔をしかめるキャスターだった。

 

「葵様、その剣をお借りしても宜しいでしょうか。理由は聞かないで頂けると助かるのですが」

 

葵は目を瞑りしばらく考えた。真也のサーヴァントだというなら、二つ返事で貸したいが凛に無断で貸すならば理由は必要だろう。

 

「キャスターさんはなぜ真也さんのサーヴァントに?」

「一度敵として戦い、破れ、その後軍門に降りました」

「何故真也さんの元へ?」

 

躊躇いののち彼女は答えた。

 

「宗一郎様、前マスターの仇を討つ為です」

「そう、敵の元に身を投げる程必死だった、それ程に悔しかったと言う訳ですね。真也さんはなぜキャスターさんを受け入れたのですか?」

「……私が桜様に似ているから、と」

 

あまりにも、彼らしい理由で葵は笑みを隠せなかった。

 

「あの子たちに必要というのであればお持ち下さい。凛には私から伝えておきます」

「ありがとうございます。私の存在は聖杯戦争が終結するまで、どうかご内密に」

「分りました。陰謀ものスパイものの映画は大好きですから」

 

主と縁深きこの婦人は少々ズレている、キャスターはそんな事を思った。

 

 

◆◆◆

 

 

そこは穂群原(ほむらばら)学園の屋上である。見上げれば陽が南中に達しており、直昼休みだ。コンクリートを一枚隔てた下層フロアには教室があり、生徒たちが思い思いの様で授業に向かい合っている。キャスターがこの場所を選んだのは、人の気配が多く、尚且つ人目に付かない場所である。事実、屋上には誰も居なかった。

 

その場に立つ真也はぼんやりと屋上を見渡していた。時々授業をサボって昼寝をしていた事もあった。なぜか別クラスの綾子がやってきて、文句を言い彼を教室に連れ帰る、それは学園の生徒がよく知る日常の一コマである。その頃。士郎とはただ反目し合う関係で、凛とはただの同学年だった。キャスターがこの感傷的な場所を選んだのは、他に意図があるのでは彼はそんな事を考えた。

 

「マスター、ご決断を」

 

キャスターの報告を聞いた真也は余り驚かなかった。意外とも思わなかった、予想通りとも思わなかった。ただ、違和感が無かった。

 

「マスター。確かに証拠はありません。ですが黒です、言峰綺礼は間違いなく黒です。あの男は遠坂時臣の弟子、凛様の兄弟子です。心の状態を把握する事も難しくは無いでしょう。加えて、前回の聖杯戦争の参加者であり、今回の聖杯戦争の監督役、遠坂、アインツベルンの事情に精通している筈です。加えてマスターと戦ったあと凛様たちは言峰綺礼と会い、情報を交換しています。推測ですがその時点で桜様とアンリマユの関係に気づく事も可能です。ギルガメッシュすら教会の人物でした。ランサーを持ち、全ての陣営について把握し、一連の騒動、いえ陰謀の中心に立つ事が出来ます。確証がない以上躊躇うマスターの気持ちは分ります。我々の置かれた状態をお考えください。あの男はアンリマユの誕生を是としている可能性があります。危険すぎます。あの男に悟られては我らの悲願が水泡と化しましょう」

 

真也は屋上に設けられたフェンス越しに、彼方に見える新都を見た。苛立たしい事に明瞭に見えた。まるで考えるまでもない、と言わんばかりである。

 

「言峰綺礼がランサーのマスター、か」

「はい」

「キャスター、これは汚れ役だ。本来俺がしなければならない事を、お前に押しつける事とになる。それでも進んで引き受けるというのか」

 

彼女は傅き頭を垂れた。

 

「偉大なる我が主よ。僕に過ぎぬ私へのお気遣い、歓喜の余り言葉となりません。ですが偉業をなすことに躊躇われては本末転倒。忠臣たる私が賜った使命を成し遂げる事に、なんの躊躇いがありましょうか」

「凛たちにランサーは必須だ。早すぎても遅すぎても計画に支障が生じる。隠れ、見張り、見定め……言峰綺礼を最高のタイミングで討て」

「全ては御心の成すままに」

 

主の決断にキャスターは笑みを浮かべた。私情を挟んでいなければ良い、彼はそんな事を考えた。そして落ち着きなく頭を掻いた。

 

(臣下モードのキャスターを相手にすると、大事な何かが壊れそうだな……)

 

思わず言葉にもなった。

 

「こうガラガラって。庶民感覚的な何かが」

「ご到着ですわ、マスター。感動の再会と言う事ですわね」

 

立ち上がったキャスターの視線に促される様に、その方を見ると。屋上に設けられた屋内へと続く階段、それを収めている小屋の前に、黒い装束と淡いアメジスト色の長い髪を風に流すライダーが立っていた。何日ぶりだろう、彼はそう思った。最後に会ったのは桜を遠坂家に置いてきた時だ。数日しか経っていないのに、随分と懐かしく感じた。キャスターは幻術を用いライダーに接触したのである。

 

「ライダー、久しぶり」

 

と真也が努めて明るく挨拶すると。ライダーはズカズカと歩み寄って、右ストレートを真也の左を頬に打ち込んだ。

 

「へぶっ!」

 

その拳は猛烈で真也は前転、後転、側転、バク転を織り交ぜつつ、屋上を転がり続け、転がりが止まらず、端のフェンスに衝突し漸く止まった。彼はずり落ちた。その様を例えるなら、大股開き。余りにもみっともない態勢のまま、沈黙が続いた。キャスターはそれをおかしそうに見ていた。ライダーは打ち貫いた姿勢のままである。真也はのそりと立ち上がると、パンパンと衣服に付いた埃を叩いた。

 

「おい、この冷血不感症女。本気で打ち込んだだろ、お前」

 

この場合の本気とは全力という意味では無く、手加減しなかったという意味である。いずれにせよ、真也でなくては頭が飛んでいった事は間違いない。全盛期のバリー・ボンズもびっくりの勢いで。ツカツカとライダーが臆面無く詰め寄ると、ずいと真也に詰め寄った。流石の彼もその威圧に思わずたじろいだ。ライダーの魔眼殺し越しにですら、怖い顔が見て取れた。不意に、バケモノとしてのメドゥーサと対峙している様な感覚に陥った。髪の毛が蛇で、のたうち回ると言う意味である。迂闊に口にしてはもう一発食らうに違いない、だもので彼は必死にそれを堪えた。

 

「シンヤ。勝手に消えて今の今までどこに居たのですか。どれほど探したと思っていますか」

「マスター。ライダーは冬木市全域を走り続けていました。もちろん桜様とマスターを探す為です」

 

背後から届くキャスターの声に苛立ちつつも、ライダーはガンたれを止めなかった。

 

「キャスターの事も聞いていません」

「……言う機会が無かったんだよ」

 

ライダーは頭に拳骨を堕とすか、首を絞めるか、肩を握りつぶすか、多々考え、頬を抓りねじり上げる事にした。かつてセイバーが士郎にした事を思い出したのである。

 

「いた、痛い!」

「シンヤ、私は怒っています。どのようにしてこの怒りをシンヤに伝えれば良いのか、その手段を持たない事を非常に悔しくおもいます」

「いてててててて!!!」

「ライダー。マスターの素顔を知っているなら、その魔眼殺しを取り去ってご覧なさいな。それを付けていると外観は見えないのでしょう? 話を聞きたくなる、聞かざるを得なくなる事請け合いよ」

 

キャスターの知った様な物言いに、苛立ちを感じながらも魔眼殺しを取り外し、マスターの兄を見れば彼女は言葉を失った。そこには脱色した様な、禍々しい姿の真也が居たのである。ただし、頬を粘度の様に捻らす、情けない顔をしていた事は言うまでも無い。

 

「とりあえす、その指をはなへ」

 

ライダーは渋々解放する事にした。

 

 

◆◆◆

 

 

穂群原の屋上で催されるのは密会である。参加者はもちろんライダー、キャスター、真也の3人だ。彼女らはキャスターが持参したピクニックシート上に正座で睨み合っていた。というよりはライダーが一方的にキャスターを睨んでいた。彼はピクニックシートに違和感を感じつつ、桜に見られれば色々な意味で危険だ、彼はそんな少し暢気な事を考えていた。沈黙が続き、拉致があかぬとコホンと一つ咳払い。彼はこう切り出した。

 

「ライダーには相談があって来て貰った。相談ってのはこれからの事」

「これからですか?」

「そう。桜の事、そして全部終わった後の話だ。異存は?」

「ありません」

「キャスターとその算段を立てた」

 

桜がアンリマユに憑依されている事、桜の記憶を遠坂まで遡り封じる事、その為には士郎らに真也を倒させる事、事後の対応としてセイバー、ライダー、キャスターの受肉、彼はそれらを掻い摘まんで話した。その説明で抜けた事、不十分なところはキャスターが補足説明を加えた。

 

「この計画で重要な事は聖杯戦争の後の事だ。ライダーにはこれを念頭に凛の同意を取り付けて欲しい」

「お断りします」

「……なんでだ」

「承服出来ません」

 

「桜はまだ16だ。人殺しの咎を背負わせるつもりか」

「それはシンヤの事を忘れさせる事を意味します」

「あの娘は、間桐で傷つき、蒼月で翻弄された。その結果人を殺めてしまった」

「忘れましたか。傷つけ合う事は厭うべきものでは無いと」

 

「程度ってあるだろ。失恋のレベルじゃ無いぞ。ライダーは桜の人生を台無しにするつもりか」

「私に言わせれば10年遅い言葉です。シンヤはサクラに愛を与え、同時に、苦悩を与えた。私に言わせれば、シンヤがサクラを支え共に背負うべきです。そもそも何故遠坂凛に頼むのです」

「他に頼る人が居ない。戦況は話しただろ」

「分りました」

 

「おぉ、たすかる」

「チトセを探してきます。キャスターの手を借りれば可能でしょうから」

「まったく分ってねえし……あのな。お袋が隠れているなら、キャスターでも骨が折れる作業だ。やめておけ。そもそも、探し出してどうする」

「シンヤを引っぱたいて組み拉いでもらい、キャスターの宝具でサクラ解放、その後アンリマユを調伏します」

 

「今この状況で現れないなら恐らくお袋にその意思はないって事だ。手伝いはしない」

「聞いてみなければ分らないでしょう」

「あのさ。全てを手に入れるって俺の話を聞いてたか? お袋に介入されると台無しになる」

「あの女の手を借りる事には嫌悪感を拭えません。今の状況を招いたのは、遠坂凛がサクラとシンヤを引き裂いたからです」

 

「その原因は俺だ」

「関係ありません」

「いや、あるだろ」

「お断りします」

「……なに意固地になってる」

「シンヤに言われたくありません」

 

半眼で睨む真也の視線、ライダーはついとそっぽを向いた。

 

「なに器の小さい事を言ってる! けちけちするなよ! お前それでも地母神か! 人間のいざこざぐらい、笑ってばばーんと受け入れろよ!」

「私はギリシャ神ですから」

「あぁそうだろうよ! ギリシャの神々は人を答えの無い苦悩と混沌に追い込むのが好きだからな!」

「理解しているなら問題ないでしょう」

 

 

◆◆◆

 

 

協力してくれ、お断りします、何が不満だ、遠坂凛が不満です、その理由を話しただろ、お断りします……二人はそれを何度も繰り返した。意見は平行線のまま、交わらない、傾向すら見せない。仕方が無いと、真也は卑怯と思いつつ、気恥ずかしさを覚えつつ、ライダーにその想いを伝えた。

 

「ライダー。この聖杯戦争は異常だ。参加者の大半が関係者、俺らはその意味に気づく事無く、いや、見ない振りをして争いを始めた。今や誰もが誰かを傷つけ、誰もが誰かに傷つけられてる。皆が加害者であり被害者だ。俺はこの状態を何とかしたい。この負の連鎖を断ち切りたい。その為には、どこかでリセットする必要がある。そうすれば遺恨は消えなくても明日は見えるはずだ。一人が皆を許し、皆は一人を許す、それには部外者、この場合はお袋の事だけど、その力を借りては駄目だ。俺ら自身の手で行わないといけない。とまあ博愛主義を翳してみるが、とどのつまり俺はあの二人が憎しみあうところは見たくない。だからライダー、その為に手を貸してくれ」

 

真也は腕を組み、口はへの字。己が口走った恥ずかしいセリフに耐えていた。

 

「返答の前にシンヤ、遠坂凛とサクラどちらが大切です」

「なんだそれは」

「答えなさい」

 

上から視線に納得がいかなかったが、素直に答えた。ここまで拗らせたのだ、格好を付けても仕方あるまい。

 

「両方。けど勘違いするなよ、あの家に3人揃えるって意味だ」

 

彼はまた頬を抓られた。

 

「いっててて! だって仕方ないだろ!」

「今までのシンヤの行動を聞く限り、とてもそうは見えません。遠坂凛を贔屓している様に見えます」

「だって俺、凛にイロイロしちゃったし」

「サクラにだってしているでしょう、10年間です」

 

「だったら尚更良いだろ。凛と出会って一ヶ月も経ってない」

「大体。今の今まで連絡一つ寄越さず、また勝手に突っ走りこの始末。そもそもサクラがどれほど辛い目にあっていたと思うのです」

「仕方が無いじゃないか、凛が会うなって言ったし。幾ら俺でも遠坂の結界に気づかれず侵入するなんて無理だ。ライダーが来てくれていたなら、そうならなかったと思うぞ」

「人のせいにする様になりましたか。その性質、矯正しないといけません」

 

ライダーは組んだ拳をバキボキと鳴らした。ライダーに反撃する事叶わず、苦悩しながら彼女の断罪、否、折檻の到来に恐れ戦いていると、助け船を出したのは静閑していたキャスターである。

 

「その辺にしておきなさいなライダー。マスターが遠坂を相手にすると役立たずになる事は知っているのでしょうに。判断能力すらおかしくなるマスターにその様な質問をしても意味が無い、時間の無駄です」

「もうすこしオブラートで包んだ表現を求める」

「ところでシンヤ、キャスターとはどのような関係です」

 

「主従関係、何もいかがわしい事はしてない」

「ええ。主が地獄に落ちれば、躊躇わず共に墜ち、傍に立つ関係です」

「妙な言い方するな」

「あら酷い。地獄まで供をせよと仰った事、お忘れ?」

 

何故その様な思わせぶりな発言をするのか、彼はこの良く分からないサーヴァントに文句を言いたかった。キャスターのそれはちょっとした報復である。主の危険を幾度も見せ付けられ、だが手を出すなと命じられ、ストレスが相応だったのだ。ライダーが詰め寄った。

 

「私たちの目が届かないことを良いことに、次から次へと、」

「だから違う。第一、次から次へってなんだ!」

「他にも居るのでは?」

 

キャスターが、くくくと笑い始めた。綾子とイリヤの事である。察したライダーは疑いの眼差し。彼女は有無を言わさず彼の首筋に噛み付いた。血を吸った。経験者と露呈した。ゴゴゴ。地響きと共にライダーの髪が巻き上がる。孔雀と言うよりは八岐大蛇だ。

 

「違う、キャスターじゃない」

「なら誰です」

「……桜」

「その上で、遠坂凛を頼ろうと?」

「都合の良い事は判ってる。土下座でもなんでもする。この通り」

 

彼は深々と頭を下げた。

 

「だけど他に頼れる人が居ない。俺では桜を救うどころか差し違える事すら出来ないんだ」

「頭を下げるべきは私では無く遠坂凛でしょう」

「叶うならそうしたい。だができない」

 

ライダーは真也の心臓の事を思い出した。

 

「……シンヤはどうするつもりですか」

「ライダーも知っての通り心臓の症状は健在。俺は逝くよ。人達を巻き込んだから、その責任を負う、そんな聞こえの良い台詞は今更言わない。ただ遠坂の人たちの為に逝くなら本望だ」

 

彼女は腹を括りまずこれを先に告げた。それは彼女のしこりである。

 

「シンヤ、一つ謝罪を。サクラが倒れた夜の事を覚えていますか? あの時サクラは狸寝入りで全て聞いていました。そして妹で良いと決断しています。私はそれをシンヤに伝えようとし、しませんでした」

「そう」

「怒らないのですか? あの時伝えていたならシンヤは遠坂凛と共にいてこうならなかったはずです」

「ばっかだな。未来が分かってるなら誰だって間違えはしない。それに、桜に止められたんだろ? 許すよ、いや気にしてない」

「……連絡役と説得役の努め、引き受けます」

「ありがとう、ライダー」

 

キャスターはルールブレイカーを用いライダーと真也の再契約を交わした。桜(アンリ・マユ)の眼を誤魔化す為だ。サーヴァント2体分の維持に必要な魔力は桜から供給され問題は無かった。対黒桜用の結界を真也を介し大聖杯に施した。そして記憶消去用の術式結晶(コードセル)をライダーに手渡した。それは何の因果か真紅のルビーだった。そして別れの時。二人が次に会う時は敵同士である。二人は抱き合った。

 

「ごめん。ライダーには最後まで手間を掛けさせる」

「そうですね。この展開は意外です」

「ライダーは温かいな。誰かに抱きしめられる事がこんなに嬉しいなんて初めて知った」

「受肉の件、受け入れましょう。子育てに不得手なチトセに一言言わないと気が済みません」

「手は上げるなよ、馬鹿みたいに強いから」

「何かありますか?」

「凛に伝言を」

 

彼はその短い言葉をライダーに託した。

 

「もっと早く言うべきです」

「……俺もそんな気がする」

「お取り込み中のところ恐縮ですが。マスター、ライダーをお借りしても?」

「どうぞ」

 

多少名残惜しそうにライダーから離れれば、真也は屋上の隅でフェンスにもたれ立っていた。屋上の対角ではライダーとキャスターがなにやら話していた。キャスターの術で彼には何も聞こえない。

 

「ライダー、貴女はマスターに近い存在のようです。その上で伝えたい事があります。これは私の独断、それを承知して下さい」

「シンヤに知られたくない、と言う事ですか」

「マスターの心臓は桜様に握られています。つまり、症状の進行を操っているという事です。そして桜様は意図的に促進させている……これの意味はおわかり?」

「……つまりサクラは、シンヤを使って遠坂凛に復讐を?」

 

「恥ずかしながら私には扱いかねる事柄です。凛様にお伝えするかどうかは、ライダー、貴女に一任します」

「キャスター、私はあくまでもサクラ側。なによりこれは混乱をもたらします。そしてそれは貴女のマスターであるシンヤを苦悩させる原因となるでしょう。その上での発言ですか?」

「聖堂教会の神は人の行動に正義を求める。その教えは人々に理由と答えを求める、正義とは正しい事、正しい事には悪い事がある、つまり罪と罰。私はギリシャの神々にその名を連ねる者、どこぞのメシアが伝える教えなど関係ありませんから。この混沌は我らにとって希望となりましょう」

 

「私もギリシャの神々に名を連ねる者です。必ず伝えましょう」

「メディアと申します」

「メドゥーサです」

「よしなに」

「首尾良くお願いします」

 

ライダーは真也を見ると、微笑み立ち去った。屋上を発った騎兵は学園脇の森へ消えた。歩み寄る己のサーヴァントに不審さを隠さないのは真也であった。

 

「何の話?」

「女同士の会話です、野暮ですわよマスター」

「悪い話じゃなさそうだし、良いけど。ライダーが笑うなんて良いのか悪いのか……それじゃキャスター。フォロー頼んだ。そろそろ戻る」

「マスター、もう少し時間を頂けませんか?」

「何故に」

「もう一人のゲスト、マスターにとってはある意味主賓です」

 

キャスターの視線は真也の肩を通り過ぎていた。彼が背後に感じたその気配は、振り返らずとも知り得るものだった。正直振り返りたくなかった、このまま立ち去りたかった。だが。彼にとってその人物はそれを許す存在では無かったのである。

 

「真也さん」

「あ、葵さん? なんでここに?」

「キャスターさんに頼まれて。学校なんて久しぶりでドキドキしました。姿が見えないと分っていても、気づかれているのでは無いかって。キャスターさん遅れてしまって御免なさい」

 

キャスターを睨めば、とぼけられた。葵は躊躇う事無く真也の懐に進むとその頬に手を添えた。

 

「こんな変わり果てた姿になってしまって」

「葵さん。何も聞かず、あの家に戻って下さい」

「どうするつもりですか」

「安心して下さい、あの二人は是が非でも葵さんの元に返します」

 

「真也さんは?」

「俺の事は気にしないで下さい。それが俺の役目ですから」

「なりません。3人揃って帰って下さい」

「それは無理なんです」

 

「全てキャスターさんから聞きました。心臓の話も。いいですか、真也さん。私も関係者なんですよ。それは凛と桜がしでかした事、親である私にも責の一端があります。関係ないなどと、酷い事を言わないで下さい」

「葵さん、お願いです。その願いを取り消して下さい。でないと俺はこの身をあなた方に費やせなくなる」

「家族は一人でも欠けては駄目です。それに後悔があるなら尚更、何年経っても癒える事はありません。真也さんの犠牲に成り立つ遠坂はもうあり得ません」

「最悪俺が、俺自身が、ご当主を殺してしまう恐れもあります。分って下さい」

 

葵は躊躇いの後、真也を引っぱたいた。心地よい音と痛みに、唖然とするのは真也である。彼女は打った頬の痛みを消す様にその頬を撫でた。

 

「御免なさい真也さん。真也さんの懺悔を聞いた時に私はこうするべきでした。聞いて下さい。私たち夫婦の負債を押しつけてしまいました。桜を立ち直らせて頂いた事には、感謝の言葉もありません。桜が迷惑を掛けました、お世話になりました。凛が迷惑を掛けました、お世話になりました。真也さんがした事はもう気にしていません。御免なさい、そして、ありがとう。家族は一人でも欠けてはいけません。帰ってきて下さい。そして、あの娘たちを、私たちを守って下さい。それが私の願いです」

 

彼の涙は葵の手を濡らした。それは彼が封殺した願いでもあった。

 

「……はい、必ず」

「それと。私の前でも凛と呼んであげてください。他人行儀はもう止めましょう」

「はい」

 

キャスターはマスターの身の軽さに呆れつつも微笑んでいた。

 

 

 

 

 

つづく!



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42 カズム・2

綺礼と別れ、家に戻った士郎たちは作戦会議を始めた。気分は酷く悪いが、泣き言は言っていられない。状況は刻々と進んでいる、動く身体があるならば嫌でも動かさねばなら無いのだ。

 

そこは何時もの居間である。何時もの様にちゃぶ台を囲むのは、セイバー陣営の面々だ。士郎は明るく努めていたが、その表情には影があった。士郎が重苦しく「方針は変わらない。アンリマユの誕生は絶対阻止だ」と厳かに言えば、舞弥はいつも通りの落ち着きをもって「士郎、セイバーが居ないけれど」と聞いた。その問いにはイリヤが「セイバーは屋上で警戒してるわ」と答えた。舞弥は理解出来ないと首を傾げた。

 

「士郎。セイバーを作戦会議に出席させなくて良いの?」

 

それに答えるイリヤの態度は年長者のそれだ。

 

「見ているだけで陰鬱になりそうな雰囲気だもの、居ない方が良いわ。どのみち警戒は必要でしょ」

「続けるぞ。真也と俺らの関係から考えられる攻防パターンは3つある。一つ目。真也が先行してきた場合。この時は遠坂を使って真也を封じて倒す。遠坂を見るどころか、近づくだけで、その効果が生じるから問題は無い。けれど遠坂が切り札って事は向こうも分ってるだろうから、これは一番可能性が低い。桜と真也が二人同時で来た場合も大体同じ。遠坂を守りつつ真也を無力化して桜を倒す。二つ目。桜が先行してきた場合。桜は遠坂を狙ってくるだろうけれど、桜は戦い方を知らないから突くとしたらここだ。可能であれば足止め後、ルールブレイカーを使って桜を解放する。俺らにとっては一番好ましい展開になる」

 

士郎はお茶を飲んだ。

 

「三つ目。戦わずに攻めてくるパターン、つまり、俺らにとって最悪の展開になる」

 

舞弥が静かにその意味を確認した。

 

「人質を取るのは常套手段ね」

「被害を出したくなければ、姉さんを差し出せ、と言ってくるかもしれない」

「世界を滅ぼそうというのに、そんな駆け引きをするかしら」

「真也は俺らが阻止しようとする事は分ってるはずだ。なにより、被害は出したくないと俺が決断する事を見抜いている筈」

「全く貴方たちは面倒な関係ね。分かり合ってるなら手を取り合えば良いのに」

 

イリヤは湯飲みの茶柱を不思議そうに見ていた。思い出す事は彼女を殺せなかった敵マスターの嘆きである。

 

「シロウ、あの男はそれをすると思う?」

「真也自体は良く思っていない、と思う。けれど桜(アンリ・マユ)に従っているなら、従わざるを得ない。だから先手を打ちたい。ランサーには偵察に出て貰っていて、見つけ次第連絡が入る事になっている。これは機動力が勝負だ。発見次第、セイバーに俺と遠坂を運んで貰って、ランサーと合流し強襲を掛ける、これが基本プラン。だがサーヴァントはあの影を見るだけで威を削がれてしまうから、いずれにせよ厳しい事は間違いない。アジトが見つかれば一番良いけれど」

 

舞弥もそのプランに異存は無かったが、綺麗すぎだと感じた。目の前の義理の息子は受け入れないだろうとは思いつつ、こう告げた。

 

「遠坂さんを囮にするというのは?」

「桜の影は神出鬼没だ。危険すぎる。切り札の遠坂を失えば俺らに後が無い。真也は虚を突くのが巧いから、一番あり得る事は戦力分断を仕掛けてくる事だ。自動車を突っ込ませる、火災を起こす、停電させる、色々考えられるけど、それは囮。混乱を起こしその機に乗じて強襲を掛ける。つまり一撃離脱、またはそれの繰り返して、こちらの消耗を狙うかもしれない。その為のセイバー(警戒)なんだけど、セイバー以外の俺らは休まないといけないから」

 

舞弥は溜息を付いた。ただでさえ戦力に乏しいというのにセイバー陣営は非道に訴えられないのである。

 

「嫌らしい性格なのね」

「それは同感。ワンマンアーミーの真也に対抗するには、緊迫した状態でも一糸乱れぬフォーメーションが必要だ。けれど正直俺らは日が浅い。方や桜と真也は10年の関係、想定していても防ぎにくい。だから、俺らに出来る事は連携を密にする事、極力一緒に居る事だ。申し訳ないけれど全員居間で雑魚寝だな。真也に隙を見せるのは致命的だ」

 

舞弥が居間を見渡せばその凛が居ない。彼女が「そう言えば遠坂さんは?」と何気なく聞けばイリヤが「リンならフラフラと出て行ったわよ」と応えた。

 

「変だな。トイレにしては長す……あ」

「士郎、幾ら何でもデリカシーに欠けるわね」

 

ばつ悪く誤魔化す様に頭を掻く士郎。それを見る舞弥とイリヤは呆れを隠さない、ピンポーンという来客を告げる音が鳴った。何時もと何も変わらない音色だが士郎には随分間が抜けて聞こえた。時計を見れば7時を回り、陽もすっかり落ちて星も見えている。勧誘か、N○Kか、誰か分らないが危険だ。早々にお引き取り願おう、そう思いつつ玄関の扉を開ければ、そこに立っていたのは見知った同学年の生徒、美綴綾子だった。

 

Beepとプリントされたライトグレーのスウェット、デニムのミニスカートに黒のスットッキング。クリーム色のスニーカー。アウターにはホワイトとココアブラウンが織りなすツートンのカーディガンを羽織っていた。チェスナットブラウンの髪はボブカットで挑発的に刈り揃えられていた。そこから覗く鋭い眼差しは健在だったが、随分穏やかさを感じさせた。活動さを感じさせる中に柔らかさ持っていた。普段着だが、スタイルが良いので随分と様になってみえる。モデルになれるのでは無かろうか、士郎はそんな事を考えた。そして余りにも意外な来訪、珍客に彼も戸惑うより他はない。

 

「美綴?」

「よ。久しぶり衛宮。インフルエンザをこじらせてる割には元気そうだ」

「なんでさ」

「遠坂を探してるのよ。家に行ったらお母さんしか居なくて、どこに居るのか聞いても教えてくれなくて。そう言えば衛宮も“そう”だったって思い出したってわけ。いやー、我ながら盲点だったわ」

 

気まずそうに照れを隠す綾子に対し、士郎は状況を思い出した。

 

「申し訳ないんだけど今忙しくてさ。お引き取り願えないだろうか」

「聖杯戦争だろ?」

「……は?」

「聞いたよ、真也から」

「……美綴も魔術師とか?」

「正真正銘一般人」

「なのに話したのかアイツ」

「おかしい? 10年越しだよ」

「ならなんで今頃? もっと前から関わっても良いだろ」

「最近教わった。遠坂に直接会って話したい事があってさ、取り次いで貰えない?」

「話ってなんだ」

「女同士の会話ってこと。相変わらず野暮だね」

「まぁ、良いけどさ。上がって」

 

綾子が初めて訪れる士郎の家は随分と賑やかだった。凛が居るだろう離れに向けて、廊下を歩けば、出会う人物は女性ばかりなり。和風建築に外国人は随分と新鮮さを感じたが、問題はそこでは無い。綾子のその言葉尻は少々刺々しかった。

 

「衛宮、この家随分賑やかね。外国の人ばかりだ」

「そうだな」

「そう言えば衛宮のお母さんも日本人らしくないね」

「そうかもな」

「衛宮ってひょっとしてハーフか、クォーター?」

「なんでさ」

「日本人らしくない体型だし、赤毛だし」

「純日本人」

「先祖に外国人が居るかもね」

「可能性は否定出来ないな。日本人は中東と同じルーツを持つって言う説もあるし」

「あー、聞いた事あるわ。YAP遺伝子だっけ?」

「意外と詳しいな」

「意外は余分だ」

 

廊下を曲がる。家主と二人気になった事を確認しこう聞いた。

 

「でだ。衛宮。さっきから気になってたんだけど、なんで女の人ばかりなのよ」

「色々あって」

「念のため聞くけれど。私をどうこうしようって腹だったわけ? このハーレムに加えようとか」

「するか」

「なら良いけれど。それにしてもみんな綺麗ね。腹が立つぐらい」

「そう思う」

「おぉ、衛宮よ。お前もか」

「シーザー乙」

 

離れにたどり着き、凛に宛がわれた部屋をノックすれば返事がない。幾度叩けども声がない。綾子に頼み扉を開ければもぬけの殻。はてな。おかしい。呼べど叫べど返事がない。漠然とした焦燥が沸く。騒ぐイリヤを放置して部屋から部屋を渡り歩けば、やはり見当たらない。トイレ、浴室、道場、土蔵、どこを探しても影どころか凛のリの字さえ見えない。

 

「あれ?」

 

半眼で睨む綾子を放置し士郎が心当たりを探っていると、

 

「コラー」

 

イリヤが騒いでいた。

 

「なんだよ姉さん」

(姉さん?)

 

綾子の足下にいる人物は、やたらに可憐だが贔屓目に見ても10代前半である。複雑な家庭事情に違いない、綾子は何も聞かない事にした。

 

「リンなら外出した様ね。靴がないわ」

「……外出した? 何しに?」

「さっきから何度も言ってるのに。シロウなんて知らない」

「ごめん、謝る。だから教えてくれ。遠坂はどこへ行ったんだ」

「本当に謝ってる? 申し訳ないと心から思ってる?」

「もちろんだ。この通り。ごめんごめん」

 

しゃがみ、姉と同じ視線にし、拝み手で謝罪の意を表す弟に、イリヤは幼い彼女をあやす父の面影を士郎の中に見た。

 

「血は繋がって無くても親子なのね。いいわ、許してあげる。リンは葬儀の列にでも並びそうな悲壮さを醸し出していたから、多分碌でもない事を考えてるわよ」

「碌でもない事……」

 

考える事数秒。脳裏に彼を挑発した凛の姿が浮かび上がった。士郎は血相変えて、玄関に向けて走り出した。慌てるのは綾子である、彼女に全く事情が読めないからだ。綾子が「ちょ、どうしたのよ!」と玄関で靴を履く士郎に問いかければ彼は「遠坂は罰を受けたがってたんだ。まずい」と応えた。制止したのはイリヤである。

 

「待ちなさいシロウ。どこを探すというの」

「まだ遠くに行ってない筈だ。見つけ出して止めないと」

「もう相応に経ってるわ。闇雲に探していては手遅れになるわね」

「でもさ!」

「リンには符陣(マーカー)を刻んでおいたから追跡出来るわよ」

 

彼は姉に駆け寄ると「流石姉さん! 愛してる!」と頬にキスをした。イリヤは「当然ね」と意にも返さない。色々な意味でショックを受けた綾子は「ちょ、衛宮?」と戸惑っていた。

 

「でも、そこまで読んでいたらなら、釘を刺して欲しかった!」

「引き留めても別の機を伺って同じ事をするわ。私にリンの根本を正す事は出来ないから。止めるなら急ぎなさいシロウ」

「セイバー!」

 

主の呼び声に現れたのは綾子より少しばかり歳下であろう、これまたたいそうな美しい娘であった。綾子は驚くばかりなり。

 

(またふえたっ! すごい美人!)

「何事ですかシロウ」

「遠坂を探しに行く! 姉さんを背負ってくれ!」

「分りました」

「舞弥さん! リズセラ! 留守番頼む!」

 

纏めるな、省略するなとセラの異議が飛んでくるが彼はお構いなしに靴を履いた。

 

「ちょ、待ちなって。私は訳が分からないんだけど」

「遠坂を思いとどませないと、真也に殺される!」

 

綾子は訳が分からないまま、出発した士郎を追いかけた。

 

「あぁもう! 一緒に行くから置いてくな!」

 

 

◆◆◆

 

 

聖杯戦争の影響か、それとも簒奪者への恐怖か、平時賑やかな新都が閑散としていた。時刻は午後の7時半、ネオンはいつも通り灯っているというのにうら寂しい。まるで墓場の様である。大量失踪事件が続き早々に締める店が多いのだ。人影もまばらで、都合で融通の利かない大型チェーン店と駅前交番が細々と運営している程度である。

 

彼女が歩くその道も例外ではない。何時もであれば相応に人通りのある、その通りも嘘の様にひっそりとしていた。だがこの様な場合でも、否。この様な人が避けるべき場所、時だからこそ、そういう人種はいるのだ。彼らは自分だけは大丈夫だと思っているのである。ビルとビルに囲まれた、人通りが少ない相応の道、コインパーキングの電飾広告と街灯が放つ光の、そのお零れが照らす程度の薄暗い脇道、そこに柄の悪い男達が数名たむろって居た。

 

ニット帽に、ブルゾン、カーゴパンツ、ゆったりとしたスポーツカジュアルの装い。顔ピアス、不自然な程黒い肌、髪の傷みなど考慮しない強く染めた髪はチリチリで、皆が皆一様な恰好だ。映画や雑誌でよく見る、アフリカ系アメリカ人の恰好だけを真似た連中である。ポリシーなどあるまい、彼らを見下ろす凛は不遜に見下ろしていた。

 

「アンタたち、暇そうね」

 

突然声を掛けられたゴロツキ達が、その方を見れば少女が一人立っていた。とてもこの時間、この場所に居そうでは無い雰囲気と容貌で、理解出来ぬと警戒の眼差しを見せていたが、その見目麗しさに品のない笑みを浮かべ始めた。

 

「暇っちゃあ暇だな」

「そーそー」

「どうしたの君」

「最近物騒だから、俺らと一緒に居た方がいいよ?」

 

凛は淡々とこう告げた。

 

「面倒だっての」

「あん?」

「私溜ってんのよ。付き合ってくれない? アンタたち、そう言う事だけなんでしょ?」

 

しばらく呆気にとられていた男たちだったが、凛の意図に気づくと、その手の表情を作った。もちろん人様に見せられる真っ当なものでは無かった。

 

鼻が曲がりそうな程強い香水の臭いを放つ男たちは、凛の頭と、二つの腕、そして二つ脚を掴み、拘束した。流石の凛も為す術がない。為す気も無い。ぼんやり見上げれば、これから彼女を貪ろうとする欲望に歪んだ、男たちの顔の様なものが見えた。彼女はそれを意識から消した。更に視線を高くぼんやり空を見上げれば、ビルの隙間から見上げる空は、腹が立つ程に綺麗な星空だった。皮肉としては効き過ぎている。冬の大三角を見ながら、彼女はゴロツキ立ちに暴行されるのだ。いや、暴行というのは正しくない、彼女はそれを望んできたのだから。この行為に意味があるのか、そう聞かれば誤りである。彼女の贖罪にはあの兄妹が必要だが、凛はその二人を倒さなくてはならないのだ。ならば、せめてこの身には罰が必要だ。怪我をしてしまえば、戦いに支障が出る。桜は蟲に陵辱されたという。士郎にそれを望んだが、彼は拒絶した。ならばこうするより他はない。

 

「どうしたの? カレシにでも振られた?」

「そんなところ」

「酷いカレシだね、こんな可愛いのに」

「私が酷い事をしたのよ」

「へえ、どういう意味?」

「関係ないでしょ、早くして」

 

腿を掴む男たちの指の感触がおぞましい。力加減など知らない男たちの腕が、彼女の腕を締め上げ、痛みが走る。コートは脱がされ、真紅のシャツは捲り上げられた。顎を掴まれ寄せられた時、堪えきれず涙が溢れた。口付けは駄目だ、それだけは駄目だ、抗おうと唇を強く結んだが力を抜いた。諦めた。桜と同じように諦めた。彼女の涙が男たちの欲望を煽る。

 

「お、泣いているの君?」

「ひょっとして、処女?」

「おいおい、マジかよ」

「ぜってー遊んでると思ったのに」

「最初は俺からな」

「さっさと済ませろよ」

 

一人の男が、凛の腿に割り込み。

一人の男が、凛の胸に手を伸ばし。

一人の男が、凛の唇を奪い取ろうとし。

 

凛が求めてはならぬ助けを彼に求めた時、ガチャンという何とも軽い音が響いた。何事かとその方を見れば、自転車が乗り捨てられていた。コンクリート製の、薄汚れたビルの間に二人立っていた。一人は赤毛の少年、一人はチェスナットブラウンの少女。兄妹ではないだろう、似ても似つかぬ人相をしているからだ。カップルか、そう考えたがそれを改めた。並び立つ二人は、まるで共闘者である。二人は凛に対し怒りと呆れを持っていたが、男たちには何の感慨も持っていない。それどころか視界にも映っていなかった。綾子は間に合った事に安堵しつつも盛大な溜息を付いた。

 

(また、馬鹿な事を。真也を追い込むって分ってないのかこいつは)

 

綾子を凛の友人だと思った連中はやはり同じように接する事にした。彼らはもう収まりが付かなかったのである。短絡的に同じレイプ願望の仲間だと思ったのだ。

 

「この娘のトモダチかな?」

「ちょうど良かった。一人じゃ不安がってるんだ、一緒に遊ばないか」

「そこの君は邪魔だな、帰れよ。それとも混ざるか?」

 

漸くゴロツキどもに気がついた綾子は、侮蔑を込めて言い捨てた。

 

「アンタら分ってる? そいつ、蒼月真也の関係者だぞ」

 

沈黙が訪れた。呆気にとられた。この少女が何を言っているのか理解出来ずに暫く固まっていた。漸く絞り出した声は掠れていた。

 

「……そんなハッタリ聞くかよ」

「知ってるぜ。インフルエンザで寝込んでるってな、だったら連れてきたら?」

「今なら見逃しても良いけれど。どうする?」

 

綾子の挑発的な態度に、不愉快さを隠さない一人の男が「あん?」と詰め寄ると、同じように不愉快な笑みを浮かべた。

 

「へぇ、生意気だとおもったけど、よく見るといけてるじゃん」

 

警戒した士郎が一歩踏み出すと、綾子は手を翳し制止した。

 

「先に言っておくわ。少しばかり苦しいと思う」

 

そう告げた綾子の顔は挑発的な笑み。何を、と言いかけたその男の言葉は綾子に掻き消された。

 

「ぶっ!」

 

綾子の掌底が男の鳩尾を貫いたのである。体重の流れと関節を締めるタイミング、練った威力を無駄にしない洗練された一撃だった。鍛えられていないその男は為す術もなく、吹き飛ばされ地に伏せた。強風に翻弄されるゴミ袋の様だ。

 

「私さ、アンタらみたいな奴嫌いなんだ。怪我しないうちに失せな」

 

このアマ下手に出てれば、等々。お約束を口にするニット帽の男はナイフを取り出した。その言い回しに覚えがあった綾子は、その男を思い出した。容貌は随分違っていたが、顔立ちと話し方は同じだ、間違いない。

 

「あ、アンタの事覚えてるわ。冬木市第3中のSだろ」

「知ってるのか?」

 

士郎の発言は確認の意味を含んでいた。もちろん、叩きのめして良いのか、という意味である。

 

「冬木の羅刹、この名をかたって粋がってた奴だよ。バレて真也にボコられたんだけど。県外に越したって聞いてたけれど、戻ってきたのか」

 

直前まで粋がっていたその男は、哀れに感じる程怯えていた。他の者たちも腰を抜かす寸前だ。彼女を指し示す人差し指は、震えていた。

 

「殺しの情婦(ブラッド・コールガール)!」

「後始末屋(ダスト・スイーパー)!」

「羅刹の広報省(ヨーゼフ・ゲッベルス)!」

「冬木のサッチャー・マーガレット……鉄血、美綴綾子!」

(……そんな風に思われてたのか、私は。17歳の乙女だってのに)

 

苦悩めいた綾子に士郎は呆れていた。

 

「何したんだ、お前」

「真也の尻ぬぐいをしてきただけよ」

「あ、納得」

「良いかアンタたち。私はこれでも忙しいんだ。失せれば私は何もしない。でも上手く隠れなよ、真也の報復はきついぞ」

 

数名が幽霊でも見たかの様に逃げたが、数名が逃げずに怒の形相で歩み寄る。自尊心と恐怖がせめぎ合うその姿は滑稽だった。真也と綾子をよく知らない者たちだったのである。ナイフを片手ににじり寄れば、控えていたセイバーが鋭い眼差しで、主の前に踏み出した。

 

「セイバーは下がれ」

「しかし、」

「彼らは一般人だ、セイバーを使う訳には行かない」

 

臆する事無く二人はゴロツキ3名に推して進む。士郎は首に手を添えコキコキと回した。ミキサーの歯の様に鋭かった。綾子は左腕を、ぐるぐる回した。観覧車の様に腰が入っていた。叩きのめした。熨されうめき声を上げる連中を余所に二人は軽かった。まるでアミューズメントで遊戯に興じるかの様だ

 

「美綴ってさ、武芸十八般だとは聞いてたけど、本当だったんだな」

「器用貧乏って奴、極めてる衛宮には叶わないよ」

「極めてなんかいない」

「そういう奴はそう言う事を言うもんだ。というかさ、いつの間に体術なんて習ったんだ」

「ある奴に倣った」

 

綾子が見下ろせば、同級生がそこに打ち拉がれていた。身体を抱き寄せ、蹲る凛は綾子を睨み上げていた。なぜ、邪魔をしたのかそう語っていた。

 

「帰るよ遠坂」

「どうしてよ……」

「文句は後で言ってやるから、とにかくそのみっともない形を何とかしな。衛宮、向こう向いてろ」

「なんでさ」

「本気で言ってるなら、はたくけど?」

 

暗がり浮かび上がるのは着衣の乱れた凛である。悟った彼は顔を一気に染めた。

 

「ぐえ」

 

セイバーに襟首を引っ張られる弟の姿に、溜息を付くのはイリヤであった。

 

 

◆◆◆

 

 

凛を連れ衛宮邸に戻れば居間にライダーが居た。ちゃぶ台に向かい正座する姿はなんとも珍妙だ。リーゼリットとセラは警戒したが、舞弥が取りなしたのだった。士郎は敵意が無い事を確認すると、凛を離れに連れて行く様セイバーに命じた。ちゃぶ台に向かい真正面のライダーを見据えると一言ぽつり。

 

「なんでさ」

「あなた方と遠坂凛に用があります」

 

士郎の左に正座する綾子は内心げんなりしていた。目隠しで素顔を隠していたが、隠しきれない程の美しさを、溢していたからである。いくらなんでも不公平だ、彼女は不満を抑えられない。次ぎに真也は気にしないのだろう、そう考えた途端幾分和らいだ。

 

「衛宮、この人誰よ」

「ライダー、桜のサーヴァントだ」

「そう。ライダーさんだっけ、悪いんだけど私も遠坂に話があって私が先なのよ。先に話させて貰うわね」

 

ライダーは綾子を凝視した。その威圧は邪魔をするなと言っていた。

 

「何処の誰かは知りませんが、私の邪魔をしない様に。私は火急かつ重要な使命を負っています」

「そんなの私だって同じだ。というか私の話は重要じゃ無いって言いたい訳?」

 

付き合ってられないと、ライダーが立ち上がり背を向けると、回り込んだ綾子が立ちふさがった。ライダーは身長172センチ、綾子は162センチ。身長差が随分あるが、綾子は臆する事無く睨み返していた。

 

「退きなさい」

「後からやってきて図々わね。それとも私には順番を論議する立場にすらないって事? 何処の英霊か知らないけれど呼び出されてせいぜい1,2週間の筈、遠坂との付き合いは私が長い、遠慮しな」

 

睨み合い火花を散らす二人。緊迫の空気に正直なところ士郎はドキドキだった。気が気では無かった。一般人がサーヴァントと対峙するとは無謀を通り越して自殺行為だ。だが胸を張り、真っ直ぐにライダーを見据える綾子の瞳。姿勢、声、顔立ち、性格。ライダーにとってはそれは好ましいものだったのである。

 

「桜のサーヴァントだっていうなら、私が遠坂と話す事は桜の為にもなる、これでどう?」

「サクラとシンヤを知っているのですか?」

「知っているも何も10年来の付き合い」

 

ライダーがちらと士郎を見ると彼は頷いた。信頼に足る人物か、ライダーは綾子の首元に鼻先を近づけた。舐る様な見定め。唐突な予想外の接近に綾子は慌てて飛び退いた。頬が赤い。

 

「な、」

「なるほど。確かに二人の匂いがします。それに悪くなさそうです」

 

ライダーのそれは微笑みと言うより、獲物を見つけた様な笑みだった。綾子は得体の知れない身の危険に戸惑うのみである。

 

「悪くなさそうって、なにが?」

「いいでしょう。名前はなんと言いますか」

「美綴綾子」

「では、アヤコ。共に話すというのはどうでしょうか」

 

突然名前で呼ばれ、落ち着かない彼女であった。

 

「人には聞かせたくない内容なんだけど」

「それは私も同じです。サクラとシンヤの命が掛かっていますから」

「……わかった。それで手を打つ」

「それではアヤコ。急ぐとしましょう。士郎、話が終わるまで私たちに近づかない様に」

 

ライダーに両肩を掴まれ押され歩く、促されるままの綾子は何故だろう。ホテルに連れて行かれる様な錯覚に陥っていた。もちろん性的な意味である。

 

 

 

 

 

つづく!



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43 カズム・3

綾子がその部屋に入れば真っ暗である。タンスのような重量感、窓の輪郭のような物、時計と思わしき影、そして誰かが居そうなベッドが置いてある様な気がした。絨毯と部屋の匂いから洋間と察しを付けたが、目が突然の暗みに慣れず何も見えない。手探りで電灯のスイッチを探せば、把握しているライダーが明かりを点けた。ここはかつて桜が使っていた部屋なのだ。二人が見る視線の先、凛はベッドの上で膝を立て蹲っていた。綾子は困ったものだと溜息を付いた。

 

(重傷だわ)

 

綾子がベッドの端に腰掛けるとギシリと音を立てた。凛の髪が揺れたのは彼女が反応したのではなく、単にマットレスが歪んだ為である。陽気に行くか、同情路線で行くか、綾子は悩んだのち普通に話しかけた。それは教室で話しかける口調である。

 

「久しぶりね、遠坂。元気そう……には見えないけれど、取りあえず安心した」

 

返答は無かった。

 

「で、どう? 馬鹿な事をしたって反省してる?」

「……どうして美綴さんがここに居るのよ」

 

その声に張りは無いが、会話が出来るならそれほど悪質では無い、それが分った綾子は胸をなで下ろした。正拳突きはお手の物だが、引っぱたく事は慣れていないのである。

 

「最近学校に来ないでしょ、どうしたのかってさ。いやー探した探した。まさか衛宮の家だとは思わなかったわ」

「インフルエンザで休んでるの。藤村先生から聞いてない?」

「聞いた。けど俄に信じられなくて。あの遠坂凛が熱病に罹るなんてさ」

「何よそれ」

「今の遠坂は好きな相手に心にも無い事をして、凹んでる初心な女の子に見える」

「言いたい事ははっきり良いって。単に喧嘩を売ってるだけなら今度にして。やり合う気は無いから」

「この間真也に会った」

 

息を呑む音がした。それは誰にとっても想像以上に大きな音だった。

 

「今にも千切れそうなほどボロボロだった。身体だけじゃ無い、精神もね。何かあった、そう思った。心当たりは遠坂しか居なかった、理解出来た?」

「随分と肩を持つのね」

「あそこまで悲壮感を出されると、流石にね」

「面倒見が良いのもそこそこにしておくべきよ。あんなケガ、いい気味」

「遠坂がどうして真也のケガを知ってるのよ。まるで、誰にされたか知っているみたいだ」

 

無駄話に意味がある、そう理解したライダーは静観する事にした。

 

「美綴さんは騙されたのよね? どうしてそこまでするのよ」

「騙されてなんかいない。私が勝手に突っ走っただけ。シスコンだって分かってたのにさ。流石の私も突然降って湧いたチャンスに、らしくなく浮かれてたってこと。憤慨もしたけれど10年も顔をつきあわせたんだ、それほど単純じゃない。聞いて遠坂。真也の奴何かするつもりだ。悲壮の決意って奴」

「もうないわ。桜と一緒にいる真也は幸せで、全てを終わらせようとしてる」

「そう。状況が変わったって事ね。遠坂の言う、その終わりが何を意味するのか知らないけど、それは違うね。それは悲壮の決意って奴だ。真也は遠坂姉妹の存続を願う筈だから。遠坂がそれを知らない筈がない、いや気づいている筈だ。でなければ、あのシスコンが桜を手放す筈が無いから。でなければ真也が遠坂の為に動く訳が無いから。真也にとって二人の存在は自分の命以上に大切だから。その真也にしでかした遠坂は、だから凹んでる」

 

訪れた沈黙を契機とライダーは、凛を見下ろした。その立ち姿には綾子の様な気遣いは無かった。彼女にそこまでの義理は無いのである。

 

「遠坂凛。ランサーのマスターの事ですが」

「知ってるわよ。綺礼でしょ。それが何?」

「貴女が目撃したランサーと真也の会合、それがシンヤを孤立させる言峰綺礼の狙いだったと言う事もですか?」

「なに、それ」

 

凛は顔を上げなかったが、知らない事実を目の当たりにし手を強く握りしめた。

 

「シンヤからの伝言を預かっています」

 

皆を纏めて桜と真也を倒す事、受肉の事、聖杯戦争後の事を告げた。

 

「返答を求めます」

「良いんじゃない? 成し遂げられれば、全員ハッピー」

「冗談を言っているのではありません」

「わかってるわよ。桜と真也を殺せって言うんでしょ、言われなくてもするわよ」

「何も判っていません」

「一緒に二人を倒せとか、桜の記憶を封じろとか、キャスターをプレゼントするとか。勝手なことばっかり。私の事なんて何も考えてないじゃない」

「いい加減にしなさい。考えているからこそ気遣い、貴女の同意を欲したのでしょう」

「桜の事ばっかりだって言ってるのよ。真也と出会ってから辛いことばかり、もういい加減にして」

「辛いのは貴女ばかりではありません。サクラも私もです。貴女を傷つけたと悔いたシンヤは己を呪いました。それは心臓に向かいシンヤの命を削っています。そのシンヤが辛くないと? 正直に言います。遠坂凛、貴女への殺意は変わっていません。叶うならこの場で八つ裂きにしたい。言峰綺礼の罠にまんまと引っかかり、二人を追い込んだのは貴女です。ですが遠坂凛、貴女はサクラにとって身内に他なりません。シンヤもあなた方二人が、仲の良い姉妹であるようにと強く願っています」

「そんな訳無いでしょ。真也は怒ってるわよ。大事な妹を奪って殺し掛けた。許す訳無いじゃない。真也は出会わない方が良かった、って言ったんだから。お前なんかと出会いすらしなければ、ってね」

「馬鹿を言いなさい。貴女を傷つけた変えてしまった事を悔いているだけでしょう。シンヤの考えそうな事です。私としてもあの性格を矯正したいのですが、残念ながら私の声はシンヤに届きません。断っておきますが心地よいだけの関係などまやかしです。愛し合い傷つけあう事は人の性です。傷つけないように生きること、それは客扱いしている事に他なりません。大切な関係であれば厭うべきではありません。傷つけた事を悔いるなら、その分深く愛しなさい」

「どこの英霊か知らないけれどライダーはとても人がデキているのね。ならアンタが真也の特別になれば? キレイだし腕も立つ。私の出る幕なんてないわよ」

「シンヤが望むのであれば吝かではありませんが。生憎と私はそういう相手として求められていませんので」

「確かにね。桜以外どうでも良いだろうし」

「貴女たち姉妹以外どうでも良い、です。聞きなさい。遠坂家はサクラを捨て、間桐家はサクラを虐待した。サクラは欠損するシンヤと出会い立ち直った。何の因果かシンヤは貴女と出会った。別陣営のマスターになった事もそうですが、貴女たち3人の関係は歪すぎた。今の関係の状況に陥った事は、ある意味当然です。ですが3人はまだ生きています。良いですか?

 

助けを求めるには対価が必要です。シンヤは貴女にしでかし、貴女はシンヤにしでかした。私に言わせれば貴女がしでかした事の方が大きい。であれば貴女が誠意を持って償うべき事でしょう。ですがシンヤはそれを求めてもいない、提示もしていない。つまり打算の無い関係を求めています。損得を問わない助け合う関係を何というか知っていますか? やる事をやって全てやり尽くしてどうにもならなくなったこの修羅場に、追い詰められたシンヤは貴女に助けを求めた。そんな事が許されるのは身内のみです。もし第3者であれば、馬鹿にするなと怒り出す話です。プライドも何もかも捨てて共にサクラを助けてくれないか、と頭を下げました。貴女はどうしますか? このまま全てに目を背け、今の様に閉じこもっていますか? シンヤは一歩踏み出しました」

 

引き継いだのは綾子である。

 

「言おうか迷ってたけれど、遠坂にボコられた後、真也が何をしようとしてたのか言ってやる。真也は聖杯戦争の参加者を全て倒し、その上で聖杯を手に入れないつもりでいた。勝利者の居ない聖杯戦争、そうすれば遠坂の敗北は無かった事になるから。ランサーさんのマスターを倒し、勘違いを遠坂に知られる事無く葬り去ろうとした。真也は迫る寿命の中、それでも遠坂の事だけを考えた。ハッキリ言っておく。私は遠坂が嫌いだ。桜ならまだ諦めも付く。桜と同じ10年顔会わせたのに、私はそこそこの扱いで遠坂は遠坂ってだけで真也にそこまで大切にされた。良心と呵責を持たない桜の為だけの性質、それを正すのは私の役目だった。時間を掛けて矯正するつもりだった。私がしたかった。でもアンタは遠坂ってだけでそれをあっさりと成し遂げた。ずるい、羨ましい、妬ましい、憎い。でも二人を助けられるのは遠坂だけだ。遠坂がどれだけ辛いのかは知らない。その何とかって人に嵌められた事は同情もする。でも遠坂が真也を変えた、変えてしまった事は紛れもない事実。その責任はとりなよ。勝手なのは分かってるけれど、助けられる力を持って、助けられる立場にいて、何もせずに手を拱いてあの二人が死んだら、それは見殺しと同じだ。私アンタを恨むから」

 

その声のトーンは高かった。

 

「美綴さん、もう一度聞いていい? あそこまでこっぴどく振られてどうして肩を持つのよ」

「それはまったく同感だ。質の悪い奴に捕まったと思って諦めるしか無いね」

「報われないのに?」

「もう報われた。桜だけだった奴に死ぬ気で助けられちゃ、ね。私としてはそれで十分。で、遠坂はどうする? このまま籠もってたら負け犬のままよ?」

「……誰が負け犬よ」

 

漸く綾子を見上げた凛のその顔は、悲嘆に暮れた跡が見えた。過去形だと気づいた綾子は手間を掛けさせたこの友人に、挑発的な笑みをもって返した。

 

「アンタだってそうでしょ? 分ってない様だから言うけど。妹の方が大事だからって、言われてはいそうですかって引き下がったのよ? それって、彼氏の妹に負けましたって認めた様なものじゃ無い。ここまで馬鹿にされて黙ってみてるわけ? 私にも言われたから分るけど、遠坂に出会う前の真也は桜の為なら死んでも良いって思ってた。私は何時殺されても良いって思ってた。遠坂はあっさり引き下がった。私は諦めない。まだ聞きたい?」

「美綴さんってタフなのね。根っこはもっと繊細だと思ってた」

「そう? 遠坂に言われるなら本望だ。だって遠坂凛もタフの筈だからさ。で、どうする?」

「やるわよ。遠坂では無い美綴さんにそこまで言われちゃ引き下がれないじゃ無い。それに、別れ話を美綴さんに暴露したあのデリカシーゼロバカに一言言わないと気が済まないわ」

「幼なじみだから」

「関係ないわよ」

「何でも知ってる仲ってこと。遠坂のしらない事もね」

「ふざけんな」

 

ライダーが口を挟んだ。帯びる雰囲気は和らいでいた。

 

「遠坂凛、回答を聞かせて下さい」

「私は桜を裏切った。真也はこれから桜を裏切る。酷い姉と兄。それでも助けたいから、一緒に汚れてくれって言うんでしょ。分った。あのバカとは共犯なのよ」

 

胸を張り見下ろす綾子は自信を持ってこう宣言した。

 

「言っておくけれど、退かないからね」

「いいわよ。好きにしなさい」

「あれ、意外な反応だ」

「だらしない弟の頼みとあっちゃね。姉としては見守るだけよ」

「ま、アンタたちにはそれが落としどころか。話を聞く限り、真也も桜の兄で居たがってるようだし」

「そういうこと」

「嘘言いなよ。未練たらたらのくせして」

「言っておくけれど望み薄よ。真也は遠坂の為だけにあるんだから。それでも追いかける?」

「そんな覚悟10年前に済ませた」

「上等じゃない」

「言っておくけれど、めそめそ後を翻訳してからいいな。10年のアドバンテージは伊達じゃ無い。遠坂だって胡座をかいてるとひっくり返すから」

「それは結構。遠坂の当主としてその挑戦承ります」

 

二人は笑い出した。

 

「なんだか腹減ってきたし腹も立ってきた」

「それは名案だ。けれど食べ過ぎるなよ。再会した時デブってたら台無しだ。顎の下とかね」

「失礼ね。美綴さん程食い意地は張ってないから」

 

立ち上がった凛に向かい合い見下ろすのはライダーである。打って変わり神妙な騎兵の態度に凛は彼女に感謝しつつも、まだ説教が有るのかと辟易したが、予想は違っていた。

 

「遠坂凛。これは貴女に渡しておきましょう」

 

それは凛の手でも握り覆える程度の大きさの赤い宝石、ルビーだった。指で摘まみ明かりに翳せばその結晶の中に、立体的に構築された術式が見えた。単純な意味を持つ一つ一つのシンボルが、緻密に複雑に関係し合い一つの大きな意味を持っていた。ステンドグラス、万華鏡、凛が持ったイメージはそれだった。それは彼女が初めて見る高度な礼装だった。

 

「なにこれ」

「サクラの記憶を封じる術式結晶(コードセル)です。私は封じる事には反対ですが、貴女に渡しておきます」

「ふぅん。術式を圧縮結晶化したのか。とんでもない代物だけれど、流石キャスターってところね」

「遠坂凛。伝えておかないといけない事が4つあります。心して聞いて下さい」

「まだあるの?」

「むしろここからが本番です」

 

席を外すかと気を使った綾子にライダーは首を振った。

 

「いえ、もう関係者ですからアヤコも聞いて下さい。一つ目、シンヤの精神構造の件です。 シンヤは遠坂という血に逆らえません。遠坂凛と出会う前のシンヤであれば、サクラが死ねと命じられれば死ぬ、それ程です。今から10年前。無色だったシンヤはサクラという少女と出会った時、その為だけにあるという自己を構築しました。影響を持つ者とはサクラの血に連なる者、遠坂の血を引く者と言う事です」

 

凛は握り拳を口元にそえて、思い当たる節を復習していた。

 

「そう、調子が悪くなったり、吐血したりしたのはそう言う事」

「繰り返しますがその呪いは心臓に向いています。つまり、今のシンヤは生命どころか精神、記憶、思念……存在喪失の危機に立っています」

「二つ目は?」

「サクラとシンヤはパスを繋いでいます」

 

凛はさも不愉快そうな表情を見せた。方や綾子は良く分からないと首を傾げた。

 

「どういう事よ」

「落ち着いて聞いて。美綴さん。あのシスコンはとうとう一線を超えたって事」

 

カチコチと時計が時間を刻む事しばらく。綾子は底冷えのする笑みを浮かべた。

 

「ふーん、そう。とうとうやったかあのバカ」

 

綾子は暴れ出しはしなかったが、その憤りは表情に表れた。食いしばる歯が悲鳴を上げていた。二人の温和しい態度に意表を突かれたのはライダーである。

 

「意外です。強い憤りを見せるかと」

 

堪えていた凛であったが、ライダーの冷静な指摘に我慢出来ないととうとう声を荒らげた。

 

「遠坂の為だけにある真也が、全部無くして、止まりかけていた状態で、遠坂である桜に求められれば為すがままな事ぐらいわかるっつーの! くっそー。手を出すなって真也に釘を刺しておくんだった。そうすれば!」

「サクラに殺されていた、でしょう」

 

ライダーの冷静な指摘に凛は悔しそうに黙り込んだ。綾子は余りのショックに目眩を起こしていた。不可抗力とは言え、真也は綾子の全てを見たにも関わらず何もせず、一緒のベッドで添い寝までしたのに何もせず、あれだけ勇気を出し誘惑したにも関わらず、あれだけ恥ずかしいセリフを口走ったというのに、それを拒絶したあの男はあっさりと、妹の誘惑に応じたのだ。いきり立つ綾子は端と気づく。

 

「ちょっとまて。それって、遠坂が求めれば真也は応じざるを得ないって事? それって逆レイプみたいなものじゃない」

 

沈黙が訪れた。

 

「そんな事しないから安心しなさい」

「僅かな間について説明を求める」

 

 

◆◆◆

 

 

三つ目はライダーにとって戸惑う内容であった。知れず唇と握り手を強く結んだ。初めて見る、似合わない態度に凛は驚いた。

 

「珍しいわね。言い淀むなんて」

「サクラはシンヤの症状を進行させています」

「……何それ」

「推測ですが、サクラは遠坂凛の事を忘れさせようとしています。復讐の為に」

「その為に兄の寿命を削る?」

「……はい」

 

凛の表情が瞬く間に鋭くなった。綾子も同様である。

 

「遠坂、私の考えている事が分る?」

「幾ら引け目があっても道具扱いは認めるな、でしょ?  桜、本人に直接確認するわ。ライダー。4つ目は?」

 

ライダーは今度こそ躊躇った。心の底から葛藤した。正直に言えば凛に伝えたくは無い。凛が立ち直った以上、伝えなくとも良いはずだ。だが、依頼は果たさねばならぬ。何よりそれはマスターの姉を強く動かす原動力となろう。それは二人を助ける可能性を高める事に繋がる。だが凛に塩を送る事に他ならない。伝える、伝えない、反問する事暫く。ライダーは内心で深々と溜息を付いた。的を得ているというか、ツボを押さえているというか。真也の手管がワザとではないなら、大した物だ。

 

「なによ。早く言いなさいよ。この状況なんだから、ちょっとやちょっとの事じゃ驚かないわよ」

 

ライダーの心中どこ吹く風、何も知らない凛は既に平常運転だった。渋々口を開く。

 

「シンヤから貴女に言づてを預かっています」

「別件って事?」

「いえ、関係する事はするのですが」

「なによ、歯切れ悪いわね。ますますらしくない」

「……」

「早く言えっての」

「……“助けて”と」

 

身体を硬直させ、頬を染めた凛がそこにいた。不意に告白でもされたかの様な、表情であった。その言葉の意味に気づいた綾子は茫然自失の体である。今まで。真也が誰かを頼る事など無かった。その綾子ですら協力を求めるというレベルで留まり、手伝ってくれという表現で済ますのである。桜に絶対の安心を与える、完全な兄は誰かに頼る事など出来なかったからだ。親である千歳も同様。彼はその生涯において、初めて誰かを頼ったのである。

 

「あの真也が?」

 

虚偽ではないのかと疑う凛であったが、ライダーには踊り出す寸前の子供に見えた。

 

「はい」

「嘘じゃ無いでしょうね、それ」

「私の立場を考えなさい。事実で無ければ嘘でも言いたくありません」

 

遠くを見る視線の凛はとても幸せそうである。

 

「そう、助けてって言ったの。あの自信と実力の塊が。頼ってって言っても頼らなかった真也が」

「もう良いですか?」

「もう十分」

「何故助けるのか、どうするつもりなのか、その理由を聞いていません」

「決まってるでしょ。二人とも連れ帰るのよ。身内を助けるのに理由は居る?」

「今更ですか」

「ここにきて意地が悪いわね、アンタ。二人とも大切なのよ。私の勘違いなんて馬鹿な理由で失う訳にはいかない、無くしたくない。真也が桜を背負うなら、私も背負わないと。私たちにとって桜は同じ妹だから。真也が私を必要って言ったなら、それ以上要らないわ。桜に罵られても成し遂げる」

「真也は逝くつもりです」

「そんなの許さない。ここまで関わってその後は知りませんなんて認めない。許してやるもんですか」

「全く腹が立ちます。私とて言われなかったのに。遠坂凛。これは貴女に渡しておきましょう」

 

それは一振りの日本刀。ライダーがアインツベルン城で回収した真也の霊刀である。凛は知れず握りしめると胸に抱いた。

 

「つーか、もっと早く言え」

「貴女には今まで散々手を焼かされました。その貴女が喜ぶ事を簡単に与える理由はありませんから」

 

凛が弾む様に部屋を出て行くとライダーと綾子は微笑みあった。凛の歩く姿は軽快で、颯爽として笑みの中にも自信がみなぎっていた。皆が知る遠坂凛が帰ったのである。綾子はそれを真也に知らせたい、知らせたくないと悩み、結局知らせるべきだろうと考えた。きっと彼は喜ぶ、彼女はそれが嬉しくて堪らないのだ。損な役回りだと、心底思う。綾子は目の前の美人が気になりこう聞いた。

 

「腹が立ちます、という発言が気になっているんだけれど、ライダーさんは違うのよね?」

「安心して下さい。シンヤに恋愛的な感情は持ち合せていません」

「……それってどういう意味? 恋愛的以外って事?」

「手間の掛かる子ほど、情が沸くという訳です」

 

理解出来る自分が悲しい、と綾子は項垂れた。

 

「普通の恋愛がしたかったのに……どうしてこう成ったんだろ」

「ところでアヤコ。私たちは似た境遇同士、 懇意になっても問題ないと思うのですが」

「えーと、それは深読みしなくて良いのよね?」

「もし、全てが終わった時にまだ私が顕界していたならば、あの二人の事を教えてくれませんか? それはとても楽しい時間でしょうから」

「そんな事ならお安いご用。真也の馬鹿な武勇伝から、桜の重くて恥ずかしい話まで、全部聞かせるよ」

 

綾子は防寒具拾うと袖に腕を通した。

 

「ライダーさん。私の役目はここまでだから、もう帰るけれどあの姉兄妹を頼んだ。無事に連れて帰って」

「アヤコの存在はあの二人のとって幸いだったのでしょう。チトセに替わって礼を言います」

「そう言われるなら、10年見守ってきた甲斐があるってもんだ」

 

綾子は笑って衛宮の家を後にした。

 

 

 

 

 

つづく!



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44 カズム・4

セイバー陣営に計画を話した凛は最後ににこう纏めた。

 

「つまり、皆で桜の為だけの芝居をするって事ね。観客を化かす大喜劇ってわけ」

 

凛の背後で控えていたライダーが立ち上がると彼らを見下ろした。

 

「確認します。サクラとシンヤ、最後までこの二人の味方でいてくれますか?」

 

その計画の大胆さ、無謀さに面食らっていたセイバー陣営の面々であったが、士郎を切り口に皆が一様に頷いた。

 

「乗った。意地でも遠坂をあの二人の元へ連れて行く、家族は一緒に居させる、その希望は変わらないし、それが俺に残った最後の責務だ。そもそも拒否出来る立場でもない」

 

継いだのはイリヤである。

 

「ま、仕方ないわ。あの男には借りがあるし」

 

舞弥も同意した。一人沈黙を続けるセイバーは、皆の視線を浴びてゆっくりと答えた。

 

「私も異存はありません」

 

ライダーが問う。

 

「セイバー、貴女の名と剣に誓いなさい」

 

主の許可を得た彼女はこう宣言した。

 

「我が真名はアーサー・ペンドラゴン。そしてこれが我が宝具―」

 

その剣を纏っていた風の結界が霧散すると、黄金と白銀が織りなす美しい一振りの西洋刀が現れた。

 

「エクスカリバー」

 

凛は驚いた顔を見せたが、直ぐに収めた。セイバーが有名所の為だったが、彼女が何処の英霊であるかなど、もはや些末である。

 

「セイバー、それ見せて貰って良いか?」

「どうぞ」

 

手にするセイバーの宝具に士郎の魔術回路が猛烈な勢いで回り始めた。皆が纏まった事に感謝と安堵を織り交ぜるのはライダーである。

 

「他言無用として下さい。決してここに居る人間以外に話さない様に」

 

理解出来ないと眉を寄せたのは士郎である。

 

「ランサーもか?」

「ランサー陣営もです。理由はその時がくれば自然と分るでしょう」

 

ライダーとセイバーが己の真名と能力を全て話した後、暴露大会となった。桜と真也に対抗するには烏合の衆では話にならないのである。それは今日に至るまでに得た彼らの教訓であった。凛の矛先は士郎に向いた。何故アーチャーに似ているのか、それは前々からの疑問である。

 

「知ってのとおり投影魔術を使う。投影出来るのは剣の類いだけ」

「衛宮君のお父さんも投影魔術を?」

「違う」

 

継いだのはイリヤであった。

 

「シロウの本質は固有結界よ」

 

士郎の投影を知ったイリヤはその本質に於いてアーチャーと同じだと判断したのである。アーチャーが異なる可能性の士郎のなれの果てと気がついた。その単語を聞いた凛は目を丸くした。口も呆気にとられ開いていた。我ながら間抜けな声だ、凛はそう思った。

 

「……は?」

「シロウの本質は固有結界“無限の剣製”なの。投影魔術はそれから零れたもの」

「何で知ってるんだ姉さん」

「お姉さんだからに決まってるでしょ」

 

姉だから、その説明に理解はしないが納得した士郎であった。

 

「使い方は?」

「それは自分で見つけなさい、シロウ」

 

何故士郎がそんな大それた物を持っているのか、疑問と嫉妬に耐えるのは凛である。

 

「こ、固有結界とか、なに平然と語ってんのよ、こいつら」

「声に出てるわよ、リン。みっともないわ」

「うっさい!」

「姉さん、なんで遠坂は怒ってる」

「良く聞きなさいシロウ。固有結界は人間の持ち物じゃないの。だからリンはそれを持ってるシロウにヤキモチを焼いてるのよ」

「……それは俺が人間じゃ無いって事か」

 

綾子にハーフなのかと聞かれた事を彼は思いだした。

 

「そういう後ろ向きな考えは止めなさい。シロウは人間、それで問題ないわ」

「でもさ、とても気になる」

「シロウの血筋を辿ると死徒か真祖、もしくはその因子を持った者がいるのでしょ。でないと説明が付かないから。私の弟であるシロウは、そんなこと気にしないわね?」

 

イリヤのその言い様には、深く考えるなという意味が籠もっていた。彼は取りあえずは納得した。

 

「衛宮君、吸血衝動とかあるの?」

「ない。トマトは生で食べるのが一番だ」

(先祖返り的に能力だけ持つって、何よそれ……)

「遠坂がそんなに怒る事なのか」

「あのねえ、衛宮君。固有結界が何かご存じ?」

「大体は」

「それを知ってて聞く訳? 固有結界とか、バロールの魔眼とか、どうして魔術に対してちゃらんぽらんな奴にこんな特性が付くのよ」

 

憤りながらも苦悩を滲ませる凛などどこ吹く風、士郎はライダーにこう聞いた。

 

「ライダー。真也のスペックを教えてくれ。魔眼だけか?」

「シンヤの魔術は、身体能力を超える現象を生み出す事です」

「意外とオーソドックスだな」

「身体強化ではありません。例えば筋力を向上させ何かを持ち上げるのではなく、それを持ち上げる結果を作り出すと言う意味です。呪文を必要とせず手足を動かす様に自然と発動します」

「はぁ?」とは士郎で。

「そ、」とは凛である。

「固有結界の一種かしら。キリツグも体内時間を操作する結界を持っていたけれど、暗示すら無しで発動させるなんて。それともバーサーカーの様に常時発動させているのかしら、どちらでも良いけれど、驚く事ばかりね、リン」

 

イリヤは平然としていた。真也と戦った事のある彼女はそうではないかと予想していたのである。噛み付いたのは士郎であった。

 

「ちょいまち。遠坂が使う様な魔術を、ゼロインスタントで発動させると言う事か?」

「いえ、その効果は肉体の延長線上の概念に限定されます。それにシンヤは魔術を覚える事に興味がありません」

 

そこで悟った凛は腕を組んで、深々と溜息を付いた。やっていられないと言わんばかりである。

 

「ようやく判った。あれだけの魔力を持つ真也が魔術に興味を持たない事が。真也は根源に触れたのよ。バロールの魔眼を持つってそう言う事なんだわ」

 

平静を保っていたが継いだイリヤも僅かに悔しそうだ。

 

「そうね。全ての魔道は根源を求める道。根源に触れたのなら魔術に興味は持たない、道理よ」

 

ふてぶてしく凛が「先天的というなら、受精した時に原因があるのだろうけれど、精神的欠損を持っていた理由も分るわ。もっともその程度で済んだ事自体奇跡よ」と言った。凛の受精発言にショックを受けつつも士郎が「でもさ、根源に触れた割にはそれらしくないな。そういう感じがしない。全てを知ってるなら、今の状況も回避できそうなのに」と言う。その問いに答えたのはライダーだった。

 

「根源に触れれば、あらゆる解を持つと言われます。当然生きる意味の回答すら含み、無に回帰すると言われます。恐らくシンヤは存在を維持する為、無意識にその事実を封じたか、消去したのでしょう。本来生まれ持つべき、人の性質もろとも」

「その上でのシスコンって訳か」

 

合点がいったと士郎は頷いた。凛が言う。

 

「両親にその要因があるってこと。ライダー、真也の親って?」

「母をチトセと言いますが、会った事はありません。ただ非常に腕が立つとの事です」

「あー、なんか、こう、むしゃくしゃする」

「リン」

「判ってるわよ」

 

イリヤの呆れに凛は慌てて誤魔化した。

 

(ん? 根源に至った痕跡が魔眼なんだから、眼球か脳を調べれば……)

「遠坂凛」

「何も言ってないじゃない」

 

凛を頼った事は正しい選択だったのか、ライダーは不安を感じていた。真也を手に入れ解剖するつもりではないのか、とう言う意味である。凛の現金さ、ふてぶてしさを目の当たりにした士郎は、真也に同情しつつもこう続けた。

 

「ところで遠坂、どうやって戦う? 俺は待ち構える方が良いと思うけれど」

「条件が複雑すぎるから何とも言えないけれど、基本的に同意。ライダー、セイバー、衛宮君の投影魔術、この条件なら不意を突かれなければ何とかなる」

「ランサーは?」

「言ったでしょ。芝居だって。桜には優位だって思い込ませて、実はこちらが優位というバランスが肝要となる。今時点での真也は強力だから総力を持って向かい討てば、こちらの損害も免れない。そうなれば計画はご破談。でも手加減しすぎて桜に怪しまれれば意味が無い。不自然の無いように、こちらが劣勢だと思わせつつ、徐々に削って追い詰め、最も良いタイミングで桜を解放する。だからランサー、正確にはそのマスターには秘密にして、桜にも仲間だとは思わせず、偵察を続行して貰って、ここ一番という時の隠れ戦力になって貰うって訳。皆に説得しておいてアレだけれど、かなりの無茶ぶりね」

 

口を開いたのは今まで静閑していたセイバーである。

 

「遠坂凛。ランサーのマスターはあの神父だ。都合良く動くとは考えにくい」

「確かに懸念要素ね。だからそれは真也がどうにかするそうよ」

「我々の手で神父を討ちランサーを招き入れる、というのは?」

「暗殺隠密が得意な奴なんてウチらに居ないじゃない。綺礼にバレて相打ちになったら目も当てられないわ。真也を信じましょ。やり手が付いているようだから」

 

セイバーは余りにも綺麗な凛の手のひら返しに、一抹の不安を感じた。

 

「遠坂凛、あの男に対しどのように対応するかその算段を持っているのですか? シロウをマスターにしていた時の私は文字通り刃が通りませんでした」

 

微妙な顔の士郎がそこに居た。へっぽこだと言われているような気がしたのである。応えたのはライダーだった

 

「足がかりは二つあります。シンヤの症状が進行する事は、心臓と言う器官の特性上シンヤの弱体化を意味します。ですがそれは遠坂凛という切り札の効果が、弱くなる事でもある為注意が必要です。またシンヤはトラウマを持っています。人どころかサーヴァントすら殺せません。トラウマとは深層心理に刻まれたもの、記憶を削がれても有効でしょうが、物の弾みと言う事があります。過信はしないように」

「あのばか、本当にデキレースをするつもりか」

 

それは士郎の不満という名の呟きだった。凛が言う。

 

「搦め手は手加減がしにくい。だから私たちの取るべき道は正攻法。決戦の時が来たら外側から剥いていきましょ。私が居れば桜は警戒して真也を前面に出さない、だから敢えて私抜きで真也を倒す。供給される魔力が膨大だろうとセイバー、ライダー、ランサーで抑えダメージを与え、疲弊させれば弱体化するわ。そして回復する前に心臓を破壊する。心臓は、思念、意思、感情を司る器官。それを抑えれば記憶障害も、遠坂の制限、つまり桜の支配も解ける。その後再構成。その為には真也の機動力を削ぐ必要があるけれど、足場のない広い場所が良いわね。こちらは数があるから、真也の様な強襲型の戦力に立体機動で攻められると対処がしづらい」

 

「遠坂、ただ再構成するだけでは駄目だとライダーが言ったと思ったけれど」

「アテがあるのよ、今は任せてくれない? 問題は桜が単身で攻めてくるケースなんだけれど、桜の狙いは2体分のサーヴァントの魂と私への復讐。幾ら膨大な魔力を持っていても、魔術の腕も、戦いも素人、でもそれは桜自身も知っているだろうから可能性は薄いか」

 

ライダーが補足を加えた。

 

「サクラはアサシンを配下として持っています。いずれアーチャーも立ちふさがるでしょう」

 

そのクラスの名前を聞いた凛は沈痛な面持ちで押し黙った。イリヤがアーチャーの魂を持って居ない以上、その可能性は考えていた、否、考えたくなかった。

 

(私の代償か……)

 

イリヤの発言には気遣いが籠もっていた。

 

「サクラの厄介なところは神出鬼没な所よ。サクラは私を狙ってるはずだから、それで行動がある程度限定出来る」

 

大胆なイリヤの提案に凛は念を押した。

 

「イリヤ。貴女、何を言っているのか分ってるの?」

「そう、私を囮にする。ライダーの話だと私は2体持っているのでしょう? 私を敢えて渡して、」

「バトルフィールドを大聖杯に指定?」

「アインツベルン城を一回挟んだ方が良いわ」

「どうやってよ」

「サクラは天の杯を動かしたがってる。正装は城に置いたままだから、それで時間が稼げるわ。可能ならその時までにアーチャーとアサシンを倒したいわね」

「姉さん」

「そんなに早く心臓を引き抜くと駄目だから、直ぐには殺されない。だからシロウ、助けに来てね」

「……ああ」

 

二つ返事で受諾したが、この計画は想像以上に厳しいのだと、彼は今更ながらに思い知らされたのだった。凛が言う。

 

「ランサーの連絡を待って先手を掛けるか、桜の出方を待つか、桜が単身で攻めてくるなら真也がいない筈だから、ランサーが居なくても勝算はある。基本プランはこんな所か。ねえ、衛宮君。一応聞きたいのだけれど、私が使えそうな武器を投影出来る?」

「……カリバーン? それともダインスレフ?」

「剣なんか持った事もないわよ。というか、衛宮君。魔剣を提示した意図を教えて欲しいのだけれど」

 

凛の笑顔には怒りが混じっていた。士郎は引きつった愛想笑いで誤魔化すのみだ。イリヤが言う。

 

「宝石剣なんてどうかしら」

「イリヤ、それマジ?」

「本気という意味で聞いているなら、本気よ。準備は今晩中に済ませておくから、投影は戦闘直前にシロウにしてもらないさい。セイバー、今晩シロウを独占させて貰うから」

「……承知しました」

 

そこはかとない不安を感じるセイバーだった。凛はちゃぶ台に手を突き立ち上がる。

 

「そろそろ会議はお開きにしましょ。衛宮君、夕飯の用意はわたしがするから」

「けどな」

「作りたい気分なの。駄目?」

 

困惑、嬉しさ、鬱憤、希望、様々な感情のこもった、凛のか細い笑顔に士郎は黙って頷いた。凛の作った中華料理は好評に終わった。

 

 

◆◆◆

 

 

皆が寝静まった頃。ふと目を覚ました士郎が居間に赴けば、縁側に腰を掛け背を向けるセイバーの姿を見た。彼女は微動だにせず月を見上げていた。

 

「不寝番ご苦労様」

 

彼女の隣りに腰掛けた士郎が、夜空を見れば丸い月が浮かんでいた。恐ろしいぐらい蒼い色の月だった。

 

「シロウ、戻って下さい。休める時に休む事も大事です」

「良いだろ少しぐらい。セイバーと同じで月を見たい気分なんだ」

 

士郎がそう言うと、彼女は黙ってその碧の眼を月に向けた。彼はセイバーの憂いた横顔を見つつ。

 

「俺で良ければ話を聞くけど」

「どうしてですか?」

「そんな気がしただけ。というのは実は嘘だ。セイバーが悩んでいるように見えるから」

「そう見えましたか」

「みえた」

 

彼女の物言いは静かというより、抑揚が無いという表現が適当だ。感情を押し殺している証だった。

 

「シロウ。誇りも何もかも捨て進言します。私にとっては貴方が全てだ。蒼月真也の計画は危険です。叶うなら今すぐにでも大聖杯に赴き、宝具を用い破壊したい」

「確かにそれが確実だ。でもだめだろ。遠坂は俺らを信用してその場所を教えてくれたんだから」

「その対価は世界の破滅です」

「まだ決まった訳じゃない」

「なぜあの男に協力を?」

「借りは返さないと」

「その結果多くの民が死んでもですか」

 

士郎が見るセイバーの端正な表情には影が落ちていた。彼女がいつからこの様な顔をするようになったのか、それを考えると心が痛い。清廉潔白だった彼女を汚したのは自分なのだろう、彼はそんな事を考えた。このゴタゴタに巻き込んだのは士郎なのである。そしてまた、剣を持つ以上そんな物はありはしないだろう事も分っていた。

 

「1stバーサーカー戦の時、あの時俺は姉さんを見捨てる事が一番簡単だった。真也を見過ごして姉さんを殺させる。けれど、その後俺はどうなったと思う? 舞弥さんが10年掛けて解してくれた心を、姉を見殺しにした事を理由にもう一度固めたに違いない。自分を大事にしない正義の味方になった俺は、知らない誰かの為に身体を張って、心配してくれる家族に背を向けて、何時しか家族を失ってどこかで一人のたれ死んでいた」

 

言いかけたセイバーを士郎は手を翳して制した。

 

「例え話をする。怪物が迫り、みんなで逃げた。でも逃げ切れない。皆で掛かれば倒せるかもしれない。戦うか、逃げるか。彼らは囮を用意して逃げ切った。まだ追ってくる、また囮を用意した。何度も繰り返すうちに仲間はどんどん減っていった。今度は誰が囮になるのか? 疑心暗鬼、仲間割れ。それを繰り返して、最後の一人となった人はこんな事なら、最初から皆で戦っていれば少なくとも仲間同士、いがみ合う事は無かったのに、そう後悔して死んだ。結局皆は死んだ。これは笑い話か? 誰かを犠牲にするのはとても簡単なんだ。仕方が無いと目を瞑るだけでいいから。大事な事ほど安易な手段に走ってはだめだ、俺はそう思う」

 

「シロウ、一つだけ。状況次第ではあの兄妹を討ちます。例えこの身が地獄に落ちようとも」

「なら、その時は俺も共に墜ちる。セイバーは俺の剣、剣を無くしちゃままならない……これは俺のうぬぼれか?」

「なりません。シロウ。貴方は生き残るべきだ」

「正直に言う。セイバーのその状況は最悪の状況だ。俺一人だけ生き残ってる。セイバーは皆を犠牲にして、俺一人だけ生き残れって言ってる。それは無理だ。なにより、セイバーの居なくなった後の事なんか考えられない」

 

彼は彼女を強く抱きしめた。

 

「セイバー、俺の傍に居てくれ」

「申し訳ありませんシロウ。今の私は、応える事が出来ない。しばらく時間を下さい」

 

彼より遙かに強い力を有する腕の中の彼女は、とても柔らかくとても華奢だった。温もりを分かち合う二人に、水を差したのは彼の姉である。その声に彼は慌てて退いた。セイバーは彼のその対応に不愉快さを隠さない。やましい事など無いはず、と言う意味だ。二人を見るイリヤの瞳は悪戯めいていた。

 

「夜伽話は済んだ?」

「ええ、たっぷりと」

「そう。それは結構ね。セイバー、約束通りシロウを返して貰うから」

「借りる、でしょう」

「知らないの? 私とシロウは姉弟なんだから。セイバーにあげるなんて言ってないわ」

 

警戒を隠さないセイバーに、イリヤは顔色一つ変えない。彼女は何時もそうである様に妖精の様に微笑んでいた。

 

「シロウ、毛布をもって土蔵にいらっしゃい」

「もうふ?」

「この冬空であそこは寒いでしょう」

「確かに」

「イリヤスフィール。何故この様な遅い時間なのです」

「何を言っているのかしら。重要な作業は静かな夜と相場が決まっているわ。セイバー、警戒を怠らないようにね。貴女がミスをすると私たちは全滅よ」

「無論務めは心得ています」

「良い子ね。さ、シロウ早くなさい」

「わかった」

 

セイバーは胸騒ぎを感じつつも、主の背中を見送った。

 

 

◆◆◆

 

 

ガラクタが所狭しと置いてある土蔵の中。窓からは月の明かりが差し込み、二人の姿が浮かび上がっていた。例えればスポットライト、それはその姉弟を闇夜から切り離すかのようである。士郎は敷いた毛布の上で胡座をかいていた。目の前に立つ姉は、教鞭に立つ教師の様だ。

 

「良く聞きなさいシロウ。今からシロウには宝石剣を投影する為の前準備、解析をしてもらうわ。大聖杯を作り上げたとき遠坂の大師父も立ち会っている。私の中にはその時魔道翁が手にしていた剣の記録があるから、シロウは“私の中に入って”解析するだけでいい。その場所には私が連れて行くから、余計な物は見ない事。200年前に遡る事だから負荷は相応。気を引き締めなさい」

 

「危険って事か」

 

「研鑽とは己に向き合い、永い時間を掛けて試行錯誤するもの。だから、付け焼刃では、魔術回路の稼働にどうしても偏りが生じる。でも、シロウに教えた人は、シロウの事を全て分っているから、どの回路をどの順番で、どのように励起させれば良いか知っていた。だから、シロウの魔術回路は全てが偏り無く乱れなく、とても理想的な状態で動いてる。切っ掛けさえ掴めれば、固有結界も開ける程だから条件は悪くないわ。けれど相応に危険な事よ。覚悟はある?」

 

「もちろん。俺はもう決めた」

「良い子ね。それじゃ耳を塞いで、向こうを向いていなさい」

「……なんで?」

「だから言ったでしょ。解析の準備を始めるって」

 

姉の指示に為すがまま背を向ける事一刻。肩を突かれ、振り返れば目の前に全裸の姉が立っていた。肉欲とはほど遠い妖精の肢体に月の光が影を落とす。彼の瞳に映る、姉の表情は、艶を帯びておりとても10代前半に見えない。

 

「……」

 

姉の頬は熟れた果実の様に紅葉し、潤んだ瞳は魔石のように怪しく光っていた。彼は漸く自分の姉が18歳だと言う事を自覚した。声が出ない。蛇に睨まれたカエルの様に、彼は硬直していた。士郎の頬にか細い指が触れた。微かに開いた小さい唇の隙間から、漏れる甘い吐息が士郎に掛かると目が回った。世界が歪む。

 

「聞きなさいシロウ。戦う敵を殺しきれないこの戦いはとても厳しい物になる。恐らくシロウにも死にかける程の試練が待ち受けているはず。手段を選んでいる余裕はないわ。だから打ち勝つ為にパスを繋ぐの」

「勝つって何にさ」

 

指摘する内容が違うと思いつつ、魅入られたように士郎は為すがままだ。

 

「もちろん、運命というくだらなくて最高のもの。ねえ、シロウ。私が生成する魔力は、セイバーに提供してもなお余裕がある。だから私の可愛いシロウに提供しても十分。幾らでも投影出来るようになるわ。これは固有結界を開ける様になった時の保険でもある」

「姉さんなら他に方法を知っているんじゃないのか」

「だめよシロウ。私の中に入るって言ったでしょ。覚悟はあるのかって聞いたでしょ。だから、ね?」

「……姉さん、俺はセイ、」

「イ、ヤ♪」

 

イリヤは覆い被さる様に士郎を押し倒すと、彼の唇を塞いだ。彼の腕の中にある雪の様な白い幼い肢体はじんわりと汗ばみ、燃える様に火照っていた。土蔵の傍で控えるのはもちろんセイバーだ。胸騒ぎに少しだけだと様子を伺えば、目の前に繰り広げられるのは艶事である。もちろん彼女は怒っていた。彼女の嫉妬はまさに荒れ狂う竜である。

 

(シロウ、事が済んだらお説教です……)

 

押し殺す嬌声(こえ)が聞こえた時、セイバーは耳まで赤くした。

 

 

◆◆◆

 

 

同時刻。そこは海浜公園にあるベンチである。闇夜に聳える冬木大橋は何時もの通り、味気ない。腰掛ける真也が空を見上げれば既に10時。人通りは無くひっそりとしている。彼の状態を説明すれば、かれこれ1時間待つが未だ待ち人来ず、である。約束を取り付けた訳では無いが、会えるだろうという確信を持っていた。だが流石に待ち疲れてきた。目的の無いゆっくりとした時間は、思索するには十分だった。溜息が溢れる。彼は自分の立てた計画が、桜を裏切り、凛を利用する事と同義だと考えていた。その代償は己の命で払う、その筈だった。だがそうはいかなくなった。葵にも逆らえないのである。もう一度溜息が出た。

 

「桜と自分に対しあそこまで格好を付けて、これか。桜の為にあると誓い、凛の事も考えて、そのあげく二人を守り続けられるという都合の良い事を考えてる。我ながら身が軽い……なりふり構ってられないか。なら土下座だってなんだってしてやる。引っぱたかれたって構うものか。逃げ出しては成らないんだよな、ランサー」

 

真也は突然現れたその気配を知っていた。その声も当然知っていた。

 

「呼んだな? 真也」

 

闇夜から現れたのはランサーである。その身体捌きはやましい事なく堂々と。彼は真紅の槍を背負い、挑発的な笑みを見せていた。挨拶代わりの大きく開いた口が見せる牙は野獣のそれである。ランサーは衝動を抑えんと槍を握りしめた。彼は、こう切り出した。

 

「いい夜だな。静かで月が明るい。こういう夜は化け物が出ると相場が決まってる」

「化け物ってお前の事だよな」

「真也、お前から現れるとは意外だぜ」

「公園で待ってたのは俺だ」

「嘘つけ。俺を呼んでたんだろうが。ビンビンに殺気立って分らないほど鈍かないぜ。ギルガメッシュを殺った時のお前は見ていた。ようやく全力で渡り合えるって訳だ」

「お前のマスターはなんと言っている?」

「偵察の任を負っていたんだが……真也、お前が悪い。抑えていて尚この威圧。これ程まで挑発させられては、我慢なんてできっこねえ」

 

身体の芯を突く槍の様なランサーの殺意を浴びて真也はなお冷静だった。

 

「約束は守るさ。だが最中に水を差されても困るだろ? いま舞台を用意している。舞台にはこの聖杯戦争に関係した全ての人間が集まる。見届け人は彼らだ。恐らく、お前のマスターもそれを狙っている。万が一、俺がここで死ぬと台無しだろうからな。この場は顔合わせって事にして、退け」

 

「今更顔合わせかよ」

「これから敵同士となるその宣誓だ。後腐れ無く、文句は無いだろ?」

「ケッ、連れない野郎だ。忘れんなよ」

 

踵を返し、背を向けた因縁のある槍兵。その背中に真也は、態度を変えてこう聞いた。それは教えを請うもののそれである。

 

「なぁランサー。例えばなんだけど姉と妹が居て、どちらか選べば死んでしまう状況にたった場合、お前ならどうする?」

「なんだそのだせえのは。言ったはずだぜ。背負えるならそうすれば良い」

「最近気がついたんだけど、俺は意外と頭が悪い」

「しかたねえな」

 

ヤレヤレと、槍で肩をポンポンと叩く。

 

「姉でも妹でもどちらでもいいが、諦められる程度の存在なら選べば良い。それができないなら両方の手を離すな。その結果、例え3人とも死んだとしても悔いはねえだろ。未練を持ったまま死ぬ奴程、無残なものはねえぜ。それこそ死にきれず彷徨う事になる。生き残ってもし忘れられるなら、その程度の相手って訳だ。良いか坊主。成果ってのは狙いより小さくなるもんだ。なら狙いはデカく困難にだ。その年からそんな妥協してると、小綺麗に収まっちまうぞ」

 

「ん。助かった」

「お前な、何時までもそんな様だと」

「違うさ。これからやる事をランサーに聞かせただけ。答え合わせをしただけだ」

「はん。素直じゃないガキは可愛げがねえ。ま、多少マシヅラする様になったから良しとしてやる」

「ランサー、敢えて言峰綺礼の元に居続けた事、感謝する。凛を庇ってくれたんだってな」

 

「どうやって知ったかは問わねえが、礼を言われるこっちゃねえよ。お前が死んだなら、刺し違えでも言峰の口を封じようとも思ったんだが、案の定お前は生きていやがった。それに嬢ちゃんは、真実に感づいていたからな。辛くとも真実を知れば、どうすれば良いのか身の振り方は得られる。セイバー陣営共々、できうる限りの事はしたつもりだ。後はお前がやれ。他人の女の世話を続ける程酔狂じゃねえ」

 

「ランサー。遠からずその時が来る。決着はその時だ」

「忘れるんじゃねーぞ」

「お前こそ、乗り遅れるなよ。停車時間はとても短い」

 

ランサーが消え暫く経った頃。真也が僅かな希望に想いを馳せていると、彼を待っていたのは桜の影だった。ランサーとの会話は見られていない筈。なら何の用だ。何故桜では無く影だけが現れる。

 

「桜?」

 

目の前佇む深海の魔物。彼は聞こえない呼び声に応じ、なんの躊躇いもなく戸惑いも無く、それに歩み寄る。海流に揺らぐ海藻の様な無数の黒い帯は彼を捕らえると、繭の様に幾重にもまき付けた。拘束した。そして影の中に取り込んだ。ギルガメッシュに負わされた傷も癒え、とうとう彼女は動き始めたのである。

 

 

 

 

 

つづく!



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45 カズム・5

様々な想いが渦巻く夜を越えた衛宮邸。その家の一画で凛はずいぶん早くが覚めた。カーテンの隙間から溢れる朝日は、澄み切っていたが随分と柔らかかった。静かな朝だった。嵐の前の静けさだろうが、だが今はその静かさを甘受したい。寝返りを打つ。

 

彼女が間借りしている部屋は衛宮邸の離れだ。かつて桜が使っていた部屋だそうだが、気にならない。綾子が来る前に知ったなら気にしただろう。我ながら身代わりが早い。呆れもするが、為すべき事を決意した以上、必要以上に気に病む事も無い。前はこの様な性格だった。今までがどうかしていたのだ。その理由を考えれば、思わず綻んだ。決まっている。あのバカのせいだ。その責任は取らせる。

 

ふと思う。あのバカは一体何なのだろう。10年前にふらりと訪れて少しずつこの冬木市に食い込んでいった。誰も彼もがその影響を受けている。凛然り、桜然り、綾子然り、士郎とて例外では無い。正か負かは別にして、それだけの影響力を持つ人間というのは、それはそれで立派なスキルなのではないか。世が世なら、王か英雄にでもなったかもしれない。だがそれは些細な事だ。凛にとって彼はもう確定された事実なのである。例え今“実は俺がアンリマユなんだ”と言われてもその認識は変わらないのである。力に物を言わせて、屈服させ、家に連れ帰るまでだ。

 

その時の事である。桜、真也、聖杯、アンリマユ、頭に流れたキーワードが積み上がり、一つの仮説を凛に提示した。無色だった10年前の真也は桜に染まった。第3回の聖杯戦争では、無色であった聖杯はアンリマユに汚染された。正気に返った桜が聞けば憤慨しそうな話ではあるが、引き合ったに違いない。似たもの同士と言う事だ。これが因縁なら嫌気がさすほど出来すぎている。

 

時間を見れば6時半だ。この時間なら士郎が朝食の準備に勤しんでいる頃だ。立派な者である。だがしかし。ライバルである筈の真也には生活能力が無いと言う。桜が居なければ直ぐにインスタント、ファーストフードに走るのだ。自己保存の概念がない以上やむを得ないかもしれないが、それは面白くない。サーヴァントと張り合う魔術師が成人病で死ぬなど、他の魔術師からしてみれば馬鹿にされていると思うだろう。彼女もそうだ。何より自分の管理責任能力を問われてしまう。

 

よし、たたき直そう。真也が桜に甘えすぎた事も、今の状況に至った原因の一つだ。厳しい姉に甘い妹、バランスとしては良い案配だ。そんな何気ない日常を胸に秘め、凛はベッドから起き上がった。

 

 

◆◆◆

 

 

そこは衛宮邸の居間である。凛が向かうちゃぶ台に、朝食をリーゼリットが手際よく配膳していく。士郎が調理し、彼女は配膳係と言う事だ。意外な事に波長が合うらしい。ぼうと二人を見ていると、凛の目の前に紅鮭が置かれた。その皿を掴む白魚の様な指は人の物では無い、ホムンクルスだ。見上げれば真紅の瞳があった。

 

その表情に感情は乏しかったが、感情の様なモノは確実に見て取れた。微笑んだならば、誰であろうと見惚れるに違いない。思わず視線が合った。仏頂面の凛を理解出来ないリーゼリットは微かに首を傾げると、そのまま台所へ戻っていった。その足取りが軽快で嬉しそうに見えるのは気のせいか。セイバーも気の毒に、そう思い彼女の姿を探せば、彼女も既にちゃぶ台に付いていた。何故だろう、とても不愉快そうに見える。それはちょっとしたお家騒動の予兆であった。

 

「遠坂、少し良いか」

 

朝食が始まる直前、士郎が差し出したのは一振りの短剣である。どうした事か、彼は右手を真っ直ぐに差しだし、顔の左半分を見せない。凛は彼の奇行を不思議に思ったが、それに気を回す余裕が無かった。インチキではあるが、その短剣は遠坂家の悲願である。柄は無難でありふれたモノだが、その刀身は異形だった。透明な凹凸に富む表面形状で、光を、弾き曲げて、美しく輝いていた。

 

まさに万華鏡(カレイドスコープ)である。形容するのが難しいが、クリスタルで作られたアサガオのつぼみが近いだろうか。見た目はなまくらだが、凛がその気になれば無制限の魔力を放つのである。謝礼を述べ、その短剣を受けとれば実に手に馴染む。声の調子が上がるのも無理は無い。

 

「へー、流石ね。予想以上に良い出来じゃない。でも今渡されても直ぐ崩れるのよね。少し勿体ないわ」

「遠坂、それは昨晩打ったモノ、これの意味が分るか」

「この時間まで存在してる?」

「6時間。俺らもさっき気づいたんだが、他の宝具と違って、その剣はこの世界にあり得るモノだ。だから修正力が働かない。だからもう渡しておく」

 

マジマジと見つめていた凛は、とても可憐な笑みを見せた。何の脈絡もない微笑みに、不吉さを感じた士郎の危険察知はフルドライブ。思わずたじろいだ。

 

「そう、幾らでも作れて、売り物になるって事よね、それって」

「……それはどうだろうか」

「衛宮君、上納金期待してるから♪」

 

凛は冬木の管理者だ。魔術師はその土地を使う代金を払わねばならぬ。士郎が魔術師ではなく魔術使いだから免除を申し出たところで、その様な戯言を聞き入れる凛ではあるまい。決まりなら仕方ない。だが何故だろう、真也は免除されそうな気がする。それは不公平では無かろうか。士郎のその様は、通知表を見るかの如く。

 

「あのさ、遠坂。真也にも取り立てるんだよな?」

「あらイヤだ。契約内容は守秘しなくてはなりませんの。お話し出来ませんわ」

「……」

 

士郎は真也に集ろうと心に決めた。ランチでも売店の総菜パンでも言い、毎日集ってやると誓ったのである。士郎がうんざりしながら台所に戻れば、すれ違う様に現れたのはイリヤであった。彼女はセラを引き連れてやってきた。呆れを隠さずちゃぶ台に付いた。

 

「程々にしておく事ね、浅ましいわよリン」

「五月蠅いわね。ウチの魔術は幾らお金があってもそれに越した事は無いのよ。お嬢様のイリヤとは違うんだから。お金の工面なんてした事無いでしょ」

「管理工面はセラに一任してるから」

「金銭とは本来忌むべきモノ、主たるお嬢様が関わる事ではありません」

 

セラの上品ぶった物言いにおもわず凛の表情が歪む。

 

「はいはい、かのアインツベルン様は私たちとデキが違いますかーって」

 

そのとき凛の頭の中に、諸般の情報が集まり組み合わさった。模造品とはいえ手元にあるものは一級品の魔術礼装である。これは士郎が打ったものだ。凛の懐にはもう一つとんでもない礼装がある。それはキャスターが作ったコードセル、魔術礼装だ。

 

(受肉したキャスターに魔道具作らせて、遠坂ブランドで売れば……)

 

まさにその時、凛の頭の中ではチャリンチャリンと金貨が音を立てながら積もっていったのである。なんという罪深き音色であろう。それは人から善性を奪い、狂気に走らせる罪深き存在なのだ。魔術師である凛は例外、とは言い切れまい。

 

「っ! っ! っ!」

 

畳に這いつくばってドンドンと叩く凛であった。こみ上げる笑いが抑えられない。

 

「と、遠坂?」

 

士郎のその声は驚愕では無く懇願、これ以上イメージを壊さないでくれという意味である。

 

「放っておきなさいシロウ。気にしたらだめよ。見た目に欺されたらこう成るという授業料を払ったと思って忘れなさい。あの男に比べれば、シロウの払った被害額は小さいから」

 

イリヤの嫌みなどどこ吹く風。妄想から復活した凛は輝いていた。涙を浮かべ喜んでいた。笑いが止まらない、腹の底から幾らでもこみ上げる。

 

「いやー♪ いやー♪ なんかこうバラ色の未来が見えてきたわぁ♪ 真也にはほっぺにキス位してあげないと駄目かぁ♪」

 

ウンザリする衛宮家セイバー陣営の面々である。その様な中、不愉快さを隠さない女性が一人居た。言うまでも無くライダーだ。

 

「遠坂凛。それ位にして下さい。正直不愉快です。シンヤはそのような俗事でキャスター委譲を申し出たのではありません」

「ごめん、ライダー、もうちょっとだけ♪」

 

己のマスターとその兄と、縁深きこの少女は守銭奴のごとき振る舞いである。だもので少々強い言葉を使ってしまった。

 

「遠坂凛。今の貴方は賎劣です」

 

ピタリと止まる。加えて沈黙も訪れた。それが痛い程張り詰めていた事は言うまでも無い。凛が腕を組んでライダーを睨み見返せば、そこまで言われる事かとむかっ腹立てていた。

 

「ライダー。貴女言いすぎじゃない?」

「相応かと。貴女の変わり身の早さには呆れていますから」

「なによ。真也とのいざこざはもう終わったんだから」

「貴女には呵責がないのですか」

「ちゃんと桜には感じてるわよ、というかそれ嫌み?」

 

助け船を出したのはセイバーだ。

 

「ライダーの言う通りです。誠実こそ尊ぶべき美徳でしょう」

「さっきから気になってるんだけど、何かあったのセイバー?」

 

士郎の身体がピクリと振れた。壊してしまったおもちゃを舞弥に見つけられた時の記憶が蘇ったのは言うまでも無い。

 

 

◆◆◆

 

 

「リンが心配する事じゃないわ。衛宮の事だから」

 

とはイリヤである。

 

「リンが気にする事ではありません。衛宮の事ですから」

 

とはセイバーであった。ちゃぶ台を挟んで向かい遭う二人は、視線も合わさずに火花を散らしていた。察した凛はこう言った。

 

「衛宮君、ちょっと左頬見せてご覧なさい」

「いやちょっと。首が回らなくて」

「見せないなら回り込むけれど?」

 

あくま、と呪いながら士郎が左を頬を見せれば案の定である。凛は楽しいおもちゃを見つけたと喜びを隠さない。

 

「衛宮君」

「はい」

「綺麗な紅葉腫れね」

「はい」

「リン、断っておくけれど、全てはシロウと繋がる為。宝石剣投影と固有結界への布石なの、それのご理解は頂きたいわ」

「良かったわね。献身的なお姉さんで♪」

 

俯き呻く士郎を見たセイバーは再び腹の蟲が暴れ出した。その物言いは穏やかであったが、節々は刺々しい。

 

「殿方がこれ程不実とは……シロウ、分っているのですか。私は怒っているのです。私より後に来たイリヤスフィールに身体を預けるなど」

「すまん」

(問題そこ? 後先の問題?)

 

凛の疑問は直ぐに解けた。

 

(セイバーの時代なら正妻、妾も当然か。アインツベルンぐらいの上流貴族になればそう言う事にも馴染みがあるって事か。リズ、セラとストックは十分。セイバーにはお気の毒だけれど、こっちはいくらかマシね。ライダーは白、キャスターも白、綾子も白、シスコン様々……まさか真也の奴、こっそり母さんと会ってたりしてないでしょうね)

 

言い争いを続けるイリヤとセイバーをぼうと見ていた凛は、端と気づく。まさかと思いつつ視線を舞弥に走らせれば彼女はマイペースだ。表情を探ってみるが良く分からない。悔しいが年季は向こうが上だった。凛の疑惑を余所に、衛宮家のお家騒動は攻守交代。イリヤのターンである。弟が責められるのは面白くない。

 

「士郎には大量の魔力が必要だった。ご飯も魔力の大食らいのセイバーが、シロウを責めるの?」

「その手段について納得が出来ないと申し上げています。イリヤスフィール、貴女なら他の手段を持っていたのでは?」

「そう。セイバーはやっぱり覗いていたの。悲しいわね、かの騎士王がのぞきだなんて」

「っ!」

 

図星だがセイバーの怒りは止まる事を知らない。

 

「イリヤスフィール、良い機会です。白黒明確にさせましょう」

「なにを明確にするのかしら」

「私はユーサー・ペンドラゴンの血を引く者です」

「そういう事ね。家の格で劣る気は無いけれど、妾なんてよくある話しでしょ。アハトお爺さまも囲ってるし」

「私に妾になれと?」

「だから正妻の座はセイバーにあげる。私はお姉さんという立場が気に入ってるの。妻だと対等になってしまうし」

「ならば何故?」

 

「だから言ってるでしょ。可愛い弟との事だもの。最後になるかも知れないのだから、出来るだけの事をしておきたかった。道義上問題があるかもしれない事は自覚してるわ。私だって、旅行に行ったり、一緒にお茶を飲んだり、乗馬に興じたり、本来なら時間を掛けて絆を育みたかった。取り戻したかった。姉弟と言っても義理の訳だし、10年の隔たりを短い時間で取り戻すには、うってつけよね。幾ら経験の無いセイバーでも、その行為が絆を作る切っ掛けになる事はわかるでしょ? いまのシロウは私との関係について悩んでる。考え直している。シロウは人伝に聞いた情報から姉(わたし)という幻想を作っていた。そこに本物の私はないわ。女神と信者が作る様な信仰の関係なんてまやかし。ほら苦悩めいているシロウを見なさい」

 

女性陣の視線を浴びた士郎は呻いていた。士郎はイリヤの言う通り悩んでいたが、今は気恥ずかしさの理由が大きい。これではさらし者である。

 

「どうかしらセイバー。親しい関係をもつ人同士の、正当な通過儀礼だと思わない? 簡単に言うと幼い頃にするべきだった姉弟喧嘩を今しているって事。士郎は私に口答えなんてしないから、他に方法が無かった。まあ反抗は許さないけれど」

「貴女は苦悩していないではありませんか」

「私は姉だもの。可愛い男の子と違うわ。そもそも。のんびりしてるセイバーが悪いのでしょ」

「私とて、手を拱いていた訳ではありません。シロウが、」

 

「ばかね。馬鹿正直に許可を求めるからそうなるの。シロウの様なタイプには押し切らないとだめよ」

「それではシロウの意思を蔑ろにしているようなものでは無いですか」

「だから言ってるでしょ? お姉さんで良いって。対等では無いんだから」

「釈然としません」

「迷ってる暇があれば飛び込みなさいセイバー。それで纏まる事もあるわ。それともかの騎士王は敵陣を前にして、十分に優位な戦力を持たないと怖じ気づく様な、戦いをしてきたのかしら?」

 

イリヤの説明に納得出来ないが、及び腰になっていたのは事実である。セイバーは悔しそうにイリヤを睨むのみだ。舞弥はおかしそうに笑っていた。リーゼリットはのんびりしていた。理解していないのか、気にしていないのか。イリヤが望んだ結果であれば気にしていない、と言う事だ。真実を知ったセラは仇敵を睨む勢いだ。エミヤシロウ、エミヤシロウと呟くそれは呪詛の様。士郎はいたたまれず、台所で食器を洗う振りをしていた。

 

凛はイリヤの大胆な懇親の考えと、ライダーの有する愛憎の考え方、その二つを元に一つの考えを構築していった。秩序の中では秩序に沿ったモノしか生まれない。最初の神であるガイアは混沌(カズム)から生まれたという。新しいモノを生むには、ごちゃごちゃに掻き混ぜた混沌に戻す必要がある。桜と関係を持った事に意味があるならば、凛は何をするべきか。具体的にイメージした凛は頬を一気に染めた。

 

(で、でも、幾ら何でも母さんだけは駄目ね。かなり危険な気がする)

 

凛が妄想から帰れば未だ衛宮家の食卓は混沌としていた。だからこう言った。

 

「折角の料理が冷めるからその辺にしておきましょ。食事もまた真理だわ」

 

 

◆◆◆

 

 

居間のちゃぶ台に突っ伏すのは凛である。両手を重ねその上に顎を置いている彼女は、見るからに不愉快そうな顔をしていた。彼女の他、複数名の人間が居たが、誰も彼もが黙り込んでいた。当初でこそ無駄話もしたが、1時間経ち、2時間経ち、半刻、一晩、丸一日、も経てば会話のネタなど底を突く。凛は部屋の壁に背を預けているであろう士郎に意識を向けた。もちろん視線は向けていない。

 

「衛宮君」

「なんだ」

「私、待つのは良いけれど待たされるのは嫌いなの」

「……要するに、享楽を提供しろって?」

「察しが良くて助かるわ」

 

「断る。そう言う事は真也に言ってくれ」

「連れないのね。微笑んだだけで顔を真っ赤にしてたあの頃が懐かしい」

「俺だって成長ぐらいする。遠坂の本性がとびっきりの跳ねっ返りでも、慣れる」

「慣れたなら良いじゃない」

「遠坂との距離感はもう掴んだって事だ」

 

言い過ぎたかと、恐る恐る凛をみれば、彼女は微動だにしていない。つむじが見えるのみだ。凛のぼやきに応じたのはセイバーである。

 

「リン、開戦の喇叭は既に鳴りました。その様にだらけていてはサクラの思うつぼ、気を引き締めるべきです」

「分ってるわよ、そんな事」

 

凛が身を起こせば士郎の左隣に陣取っているセイバーが居た。この正規の場所は譲らないと言わんばかりである。この一両日、二人が別行動している所を見た事が無い。少なくとも凛は知らなかった。言うまでも無くイリヤへの牽制だった。そのイリヤは士郎から少し離れた所に、“ちょん”と座っていた。近づいては離れる立ち位置を希望と言う事である。衛宮家も遠坂家もどこもかしこも骨肉の争いだ。凛は苦笑せざるを得ない。

 

「衛宮君、ランサーからの情報は?」

「ない」

「街の様子は?」

「特になし。静かなもんだ」

 

「何やってるのかしらね、あの娘」

「そうやって呟いてばかりだと逆に呼び込む」

「望むところだっつーの」

「失敗を微塵も考えていないんだな、遠坂は」

 

「あったりまえじゃない。結果が出る前からそんな事考えてどうするのよ」

「不安がらないところは大した物だと思う。ついでに立ち直りの早さも」

「ひょっとして喧嘩売ってる?」

「これでも褒めてるんだ」

 

数刻が経ち、士郎がその日の夕食を考え始めた頃、その時はやってきた。庭に良くない魔力が満ち始めた。誰かが“来た”と呟いた。強襲を掛けないところ先方の準備は万全の様だ。 見下す妹の表情が脳裏に浮かび上がる。その為の時間稼ぎか、凛は疎ましく思ったが準備時間が必要だった事は凛も同様だ。士郎は手はず通り先行したセイバーを見送った後、号令を掛けた。

 

「姉さんと舞弥さん、リズセラは引き続き居間に待機。必要に応じてバックアップを頼む」

 

 

各々が戦闘態勢に移行する。慌ただしい中、凛は背後のライダーにこう告げた。その騎兵は色々苦言を申しつけながらも、凛の警護を受け持っていたのだ。

 

「いい? サーヴァントは状況に応じて逐次投入する。セイバー、ライダーの順、スターティングはセイバーから。ライダーは様子を見て投入、私が指示が出来ない場合の判断は任せるから」

「わかりました」

 

新聞紙の上に置いてあった靴を履き縁側を抜ければ、そこにはつい先日見た光景が広がっていた。おぞましい程の微笑を浮かべる桜に、油断無く剣を構え対峙するのはセイバーだ。凛は魔物を討伐せんと立ち向かう聖騎士の壮大な宗教絵画を思い浮かべた。ただその魔物が妹とあっては冗談にしては質が悪い。

 

兎にも角にも状況判断だ。ざっと気配を探れば敵勢力は二名である。庭の中心に陣取る桜と、その傍らに見慣れない男が一人たっていた。漆黒の陣羽織、鉛色の袴、濡羽色の長い髪。容貌は大分変わっているが、物干し竿と言わんばかりの長刀は忘れようはずが無い。凛はそれがアサシンだと気がついた。

 

想定されたパターンの一つ、真也を抜いた襲撃だ。桜はセイバーが能力を上げた事を知らない、宝石剣も知らない、ライダーが控えている事も知らない。なにより、キャスターのハッキングによりサーヴァントに対する優勢が失われている事を知らない。この状況に不合理な点は無い、凛はそう判断した。アーチャーの登場に留意しながらも凛は桜に歩み寄る。手足を大きく振り、堂々とした物だった。

 

凛はセイバーの横で止まると、片手を腰に添えた。その不遜な態度は“遅かったわね”そう言わんばかりだ。姉の姿を認めた桜は、血に濡れた昏い笑みを浮かべた。殺意ははち切れんばかりだ。凛は僅かに首を傾げると、やはり笑みを浮かべた。これは荒療治になりそうだと実に嬉しそうだ。二人の距離は乗用車5台分、静かな間合いだったが、セイバーは荒れ狂う稲光を確かに見た。先手は桜であった。

 

「姉さん。イリヤスフィールを差し出しなさい。そうすれば、そこそこ遊んだあと殺してあげます」

 

桜の脅迫を凛は意にも介さない。主導権は私が持つと言わんばかりの物言いだった。

 

「桜、しばらく見ないうちに随分変わったわね。挨拶すら忘れるなんて、姉としては頭が痛いわ」

 

聞く耳持たない姉の態度に苛立つも、優位な立場を信じて疑わない桜は余興と言わんばかりに応じる事にした。

 

「そうです。私はもう変わりました。もうただ待ってるだけの娘じゃないの」

「前から地味だったけれど、今は暗いわよ」

「この期に及んでも上から目線ですか。それともお馬鹿になって立場が分らないんですか?」

「失礼ね。そんな失礼な事しないわよ。私はいつだって人を気遣っているんだから」

 

「いけしゃあしゃあと。魔術講座の時を忘れたんですか。バカだの、しようのない娘ね、だの、とても偉そうでした」

「ばかね、教師が生徒より腰が低くてどうするのよ」

「キャスター戦の時だってそうだった」

「組織活動に於いてリーダーは必須よ。衛宮君は素人、桜は一般人、そんな事も分らないから、アンタはそうなのよ。だから素直に投降しなさい。そうすれば二人共々可愛がってあげるから」

 

「……なんですって?」

「だって、桜。アンタは争い事向いてないじゃない」

「そうやって、ふんぞり返って、傲慢で、兄さんを振り回してきたんですか」

「そうよ?」

 

それの何処がおかしいのか、当然だろう、姉のそのもの言いが苛立たしい。

 

「私考えたんです。兄さんが戻ってきて、私の物になったのに、どうして満たされないのか、苦しいのかって」

 

だがやはり凛は話を聞かなかった。

 

「話を戻すけれど桜。もう少し明るいメイクにしたら? そんなんじゃ誰も寄りつかなくなるから」

「……結構です。もう特別な男の人は居ますから」

「あ、思い出した。雑誌で見てことあるわ、そういう恰好。ゴシック調? 違った。ギーガー調か」

「その高慢ちきな顔、台無しにしてあげます」

 

桜の顔が強ばった。怒りを堪えている様子がありありと分る。

 

「あらイヤだ。調子に乗ってるって自覚が無いのね」

「調子に乗ってるじゃありません。さっき姉さんも言ったじゃ無いですか、教師より生徒の腰が低くてどうするのかって」

「桜が先生面をするには、のんびりしすぎよ。上に立つって柄じゃないわ」

「私の立場が上って事です、まだ分らないんですか」

「玄関を見てきなさい。訪問販売はお断りなのよ。この家」

「へぇ、知りませんでした。いつ付けたんですか?」

「少し前にさ、厚かましい奴が来たのよ。挨拶も無く勝手に入り込んだ上、セイバーを置いてけって。高慢ちきってイヤよね?」

 

怒りが天元突破した桜は奥の手を出す事にした。悪い事をしたと苛まれているかと思えば、この姉の図々しさは目に余る。目の前の姉は非常識で知識や知能が乏しい者に違いない。ならば用いるべきは言葉では無く、力だ。

 

「漸く分りました。姉さんは自分の悪性に自覚を持たない困った人だって」

「鏡なら洗面台よ」

「もういいです」

「あら、イリヤを諦めるってこと?」

「姉さん、これの現実をどう覆しますか?」

 

桜の纏う呪いが濃くなった、凛がそう警戒した直後である。桜の足下に落ちた影から、伸びるかの様に人影が顕れた。背丈はランサーより頭半分低いが、凛より随分高かった。細身の体付きであったが、バランスは良い様に見えた。黒の襟無しシャツ、デニムパンツ、トレードマークであるロングコートはダークグレイ。だらしない恰好は相変わらずだ。その所感は瞬く間に消えた。凛が忘れた事の無いその彼は、顔が無かったのである。

 

 

 

 

 

 

つづく!



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46 カズム・6

長いので分割しました。既読の方は次話へお進みください。


その表現は適切では無い。凛にはそう見えたと言う事だ。顕れた真也の顔は、黒とあかね色が織りなす呪いの帯が、幾重にも絡まり纏わり付き、眼・耳・鼻・口を、覆い隠す様に封じられていた。影の特性か、頭部から有るべき立体性が失せ、まるでどこぞへの世界に繋がる孔の様になっていた。頭部のみのマミーと言えば滑稽に聞こえようが、その意味は蒼月真也という存在の抹殺に他ならない。桜は、兄の頭部のみを虚数空間つまり影の中に、置いていたのである。

 

流石の凛も態度を一気に硬化させた。“桜は真也を使って凛に復讐しようとしている”ライダーの苦悩めいた言葉が頭の中で幾度となく繰り返された。何かするであろうと予想はしていた、だが自分の妹がここまで走るとは思わなかった。姉の変化を見た桜は気分が良い。事実その声のトーンは高かった。桜の心境は正しく、できの悪い生徒を叱咤しつつも、優越感に浸る困った教師のそれある。

 

「間桐の魔術は束縛、それを忘れましたか? 桜(わたし)にはこんな芸当(魔術)はできませんけれど、桜(わたし)に刻まれた特性を、アンリマユ(わたし)が利用するぐらいは可能なの」

 

それは桜の策だ。感覚を封じれば遠坂凛という切り札は効かなくなる。単純な理屈。

 

「しん、や?」

 

凛は声を絞り出すのが精一杯だ。

 

「無駄ですよ、姉さんは届きませんから。今の兄さんは感覚を封じているから。大分弱くなっちゃいますけれど、私の言う事を何でも聞いてくれるの」

 

驚愕が戸惑いに変わり、怒りを通り越し冷静になった頃。手心はもう加えまい、凛はそう決意した。これでも妹に気を使っていたのだ。事実、その表情に労りは無かった。

 

「随分と楽しそうね、桜。そんな趣味が合ったなんて意外、いや納得だわ」

 

「勘違いしないで下さいね。私だってこんな事したくないけど、仕方が無いです。だって、姉さんが生きてるから。あれだけの事をした姉さんを兄さんは許しました。なら私も酷い事をして、許して貰わないと不公平でしょう? 

 

流石が私の兄さん。今の兄さんには、光も音も匂いも空気も無くて、時間の流れすら断たれてる世界で、魔力だけで強引に生きてる。この状態でもう丸一日。常人なら発狂してしまいかねない死ぬより辛い状態に陥れた私に、怒らないんですよ。 ただじっと耐えて、私に尽くしてる。自分は衰弱してるのに“桜、大丈夫か”って聞いてくる。私を心配してくれる。

 

姉さんは兄さんを殺そうとした、私は兄さんを死ぬより辛い目に遭わしている、なのに怒らない。つまり、兄さんは姉さんより私の事を思ってるって事です。そう、そうです。私は姉さんのそんな顔が見たかった」

 

姉妹の事だと今まで静閑していたセイバーであったが、勘弁ならぬと口を挟んだ。

 

「行き過ぎた愛という厄介な物は幾度となくお目に掛かったが。サクラ、お前のそれは極めつけだな。お前の兄がどれ程お前を案じているのか、それが分らないのか」

「セイバーさんって誰かを好きになった事無いんですね。どんなに好きでも振り向いてくれないって」

 

それは苦しいこと。

 

「どんなに近くても触れてはいけない」

 

それは悲しいこと。

 

「どれだけ想っても結ばれないと言う確定された未来」

 

それは絶望。

 

「それが分りますか? したくなくてもせざるを得ない衝動」

「桜、アンタ、真也の状態判ってんの?」

「もちろん。兄さんは少しずつ忘れてます。その内姉さんの事も忘れるから。忘れれば、私は兄さんを辛い目に遭わせずに済む。だから、これは、ぜんぶ、ねえさんのせい。姉さん。死んで下さい」

「一つ聞くけど、私への当てつけの為にそうしてる訳?」

 

「姉さんだって、兄さんを殺そうとした。あの場所に兄さんの血が大量に落ちていましたから。そう言う事でしょう?」

「答えなさい」

「ええそうです。おかしいですか?」

「私は真也の命を狙ったけど、真也の存在自体を否定した訳じゃ無い。だって、一回も忘れた事なんてなかったんだから。けどアンタは違う。真也を目的じゃ無くて手段にしてる。はっきり言うわ、それは道具扱い。とにかく解放しなさい。桜、アンタ後悔するわよ」

 

「兄さんは出会わなければ良かったって、私に言ったんです。そんなこと認められる訳無い、それを言わせた姉さんが憎い。だから最大の苦しみの中で死んで下さい」

「それで私を殺すって訳。だったらさ、私が死んだらアンリマユと手を切る?」

「する訳無いでしょう。姉さんを殺して、世界を滅ぼして、兄さんと永遠になるの」

 

桜は目を瞑り、一拍の溜めの後、こう続けた。

 

「さよなら姉さん。再会したとき実は結構嬉しかったんですよ」

 

桜の足下に落ちる影から黒い帯が伸びる。凛を仕留めんと襲い来る様は、まるで彼岸花だ。セイバーは凛を抱きかかえると跳躍。凛でも対処出来る地点に着地した。彼女は帯を斬り捨てようと思えば出来たが、敢えてしなかった。まだ悟られる訳にはいかないのである。

 

「へえ、セイバーさん随分パワーアップしてる、どうして?」

「手の内を敵に明かすと思ったか、サクラ」

「そう、マスターを鞍替えしたんだ。意外と尻が軽いんですね」

「重い方が良いと考えていたが、先ほど改めた。何事も度が過ぎると毒にしかならない、とな」

「私が毒女だって言いたいんですか」

 

セイバーの腕の中の凛は笑いを堪えていた。その例えが余りにも合致していたからだ。

 

「リン、毒女とはどのような意味ですか?」

「毒婦の事よ」

「なるほど。自覚が無いならなお質が悪い」

 

二人の挑発に桜は我慢がならない。何故なら桜本人は純粋だと思っているからである。自分の想いを馬鹿にされれば、誰とて腹は立つ。それが例え歪んでいようとも。だもので。紡ぐ桜の言葉は呪詛のよう。

 

「アサシン、セイバーを殺しなさい」

 

控えていたアサシンは主に命ぜられるまま、セイバーたちに歩み寄る。ゆったりとした歩みで、とても合戦上に赴く剣客には見えない。だがそれ故に恐ろしかった。アサシンの敏捷性はセイバーも知るところ。桜に括られた影響で更に強化されており、尚且つ平坦で障害物の無いフィールドだ。状況はお世辞にも分は良くない。それでも勝利をたぐり寄せるのが彼女の戦い方だった。セイバーは抱いていた凛を降ろすとこう言った。

 

「離れていて下さい。アサシンは私が抑えます」

「セイバー、今のアサシンの敏捷性は貴女と桁が違うわよ」

「心得ています」

 

セイバーが愛刀を構えれば、アサシンもピタリと止まった。それは間合いの一歩外の距離だ。もちろんその距離はアサシンの物であり、セイバーは一歩及ばない。いつか見た様に、ゆるりと佇むアサシンに対しセイバーには余裕が無い。だがそれでも礼を欠いてはならぬとこう言った。

 

「因縁だな、アサシン。倒した筈の貴方とこうして再び相まみえようとは」

 

アサシンは静かな表情であった。眠っていると見誤ってしまいそうな程だ。その口調は句を詠んでいるかの様だった。

 

「死して呼び出され、また死して呼び出された。巡り合わせと呼ぶには少々質が悪い。前の生では魔女に門番を申しつけられ、その不幸を嘆きながらも仕方なしと、その努めに甘んじていたが未練もあった」

 

目を開き笑う。不適さの中にも雅がある、セイバーはそう思った。

 

「地を存分に駆け、剣を奮えるなら、この身の不運も帳尻が合おうというものだ。佐々木小次郎の影武者であるこの身であれば尚のこと」

「そうか、貴方はあの地に縫い付けられていたか。そうとは知らず失礼な事をした」

「征くぞ」

 

凛はこの戦いを行うべきか、それを考え倦ねていた。桜の手に落ちたアサシンは脅威だ。アサシンの敏捷はA++である。能力を上げたとは言え、方やセイバーの敏捷性はB。根性で追従出来る差では無い。直感を用い、耐久に物を言わせれば数手は持ちこたえられる。それを前提にライダーを投入しペアを組ませればまず勝てる、その確信はあった。アサシンの筋力と耐久力は変わっていない、如何に敏捷性に優れようと、ただの鎖とはいえライダーのそれはアサシンにとって天敵だ。強襲を掛け、絡め捕り、セイバーで止めを刺す。ここで倒すべきか?

 

アサシンを失った桜はどう動く。簡単に倒してしまえば、アーチャーが使えるまで身を隠すだろう。その間もアンリマユは成長を続ける。真也の意識が封じられいる以上、“桜の基準で”良い妹を演じる必要が無い桜を追い詰めれば、人々を再び喰らい可能性は十二分にある。

 

ランサーの動きもいまだ不透明だ。綺礼はアンリマユの誕生を是としている、恐れがある。つまり、凛たちが勝つ事を表向き支援しているが、どこかの時点でランサーを用い反旗を翻す。ランサーが完全に味方になっていない状態で、こちらが有利になるのは贔屓目にみても芳しくない。綺礼の望みは凛らと桜が争う事を愉しみつつ、アンリマユの復活を願っている事だからだ。

 

なにより。桜には有利そうに見えて、劣勢だと思わせなければならない。初期条件で桜は己の優位性を疑っていない。その均衡を保つ為に、一つ負ければ一つ勝利を与えなければならない。例えばアサシンを倒した場合、見かけ上イリヤを引き渡す。例えばアーチャーを倒した場合、ランサーと決着を付けその魂を与える。例えばイリヤを与え優位に立たせ、凛が追い込まれている様に見せかけて、実は逆。大聖杯に追い込み一気に畳みかける。桜の視点は狭い。良くも悪くも兄に捕われている。木を見て森を見ずと言う奴だ。少なくとも今の状況であれば、アサシンを倒すのは時期尚早だ。凛はそう判断した。

 

だが。いたずらに時間を費やし、真也が凛を忘れ完全に桜の手に落ちれば、それは最悪の展開と言って良い。そもそもその極限状態の真也がいつまで持つのか、その懸念もあった。凛の瞳に映る彼の姿は呼吸すらままならない、空気の渇きに苛まれている。微動だにしないがとても苦しそうだ。焦燥に駆られる。全戦力を投入し、この場で解放したいという欲求を凛は辛うじて押さえ込んだ。

 

 

◆◆◆

 

 

セイバーも凛と同じ結論に至っていた。アサシンを倒さない、その為には桜を動かすしか無いが、それは凛と士郎の役目だ。その為には、決着を付けずに時間を稼ぐ必要がある。だがそれは言うほど簡単な事では無い。セイバーの直感が危険を訴えていた。前回は相手に地の利が有ったとは言え、アーチャーと二人がかりで倒したのだ。ただアサシンの間合いは分っている。多重次元屈折現象(キシュア・ゼルレッチ)という切り札も知っている。

 

打倒する勢いで攻めてもアサシン攻略は難しい。それ故、受けに回り、カウンターを狙う。消極的な攻めは、彼女の趣旨に反するが、この際我が儘は言っていられない。幸いにして耐久は大幅に上がりバーサーカーに匹敵する程だ。胴体は強固な鎧で防御されている故、守るべきは頭、首のみでいい。彼女は柄を握る拳を頬に寄せ、その不可視の刃をその頭に翳した。雄牛の構え。その様を例えるなら、その刀身は帽子の鍔だ。頭上に輝く陽の光が、風王結界が生む風の巣に乱され彼女の額に落ちる。その影は淡く揺らぎ、正しく陽炎のよう。彼女の立ち位置はアサシンが手にする長刀、それが練り上げる結界の一歩外である。木枯らしで舞う枯葉ですら、その均衡を破りかねない程の静寂を、破ったのはアサシンだった。

 

「セイバーよ、我が剣の質を見抜き、虚を突き反撃を狙う、のは構わんが、少々消極的ではないか?」

「今の私には勝負に拘っている余裕が無い。アサシンそれは貴方も知っているはずだ」

「耳が痛い。この世が地獄になり果てるかどうかの、瀬戸際とあってはな仕方無しか。だが、こうして睨み合っていても拉致があかん……ならば」

 

ドクン、セイバーの心臓が強く打った。アサシンが一歩踏み出した事、目の前にアサシンの斬撃が迫っていた事、地を這い土を舐め、砂埃に塗れた彼女が、身を起こした事、その三つは、彼女にとって全て同時だった。アサシンは普通乗用車1台分の距離を刹那の時で詰め、セイバーが反応しきれない打ち抜きで、彼女の死角を狙ったのだ。彼女が躱せたのは直感と幸運にすぎない。直感に従い、全力をもって飛び退いた。幸運をもってその一撃を躱した。初手で勝負が付かなかった事実に、アサシンは喜びを隠さない。

 

「我が居合い、よくぞ躱した。だがいつまで躱せるかな?」

 

セイバーは面に付着した土埃を拭う事無く立ち上がった。恐るべきは敏捷性である。畏怖すべき剣技だ。だが、初撃を躱した事は紛れもない事実である。黒化した影響か、キャスター戦の折と異なり、太刀筋を捕ら得る事が出来た。それは桜の配下となった代償でもある。捕らえたところで反応しきれる斬撃では無いが、それはセイバーにとって一片の光明だ。タイミングさえ捕らえられるなら勝機はある。

 

ライダーが未だ控えている事実に多少の不満を感じつつ、感謝もしつつ、セイバーは構えをとった。不謹慎だとは思いつつ、彼女もまたこの立ち会いに興が募り、そして己を戒めた。実際の所ライダーには手が出せなかったのだった。初めから並び立っていたならば話は別だが、アサシンとセイバーの間合いは既に剣士の距離だ。下手に手を出せば、セイバーのリズムを崩す恐れがあった。猛々しいまでに煌めく騎士の瞳を見よ。万が一、セイバーが討たれればその瞬間にアサシンを狙う、ライダーはそう腹を決めた。まるで敵討ちの様だと苦笑するより他は無い。セイバーは柄を握る拳を右頬の傍に置いた。今度は、刀身を屹立させた。それは八双の構え。強いて言うなら、杵を持つ構えが近い。

 

「我が剣技を前に余裕が無いと悟ったか」

 

やる気になったセイバーにアサシンもご満悦だ。口元も歪む。彼は奥義を繰り出すべきか迷い、止めた。燕返しには構えが必要だとセイバーは知っている。その隙を見逃す彼女ではなかろう。なにより。

 

「無粋」

 

一太刀に勝負を預ける事が誉れだ。セイバーの手にある風の結界が、つむじ風の様に唸りを上げていた。深と静まりかえった、衛宮家の庭。暗殺者と騎士の殺意が破裂した。アサシンの踏み込みと、セイバーの風王結界が解かれたのは同時だった。今まさにセイバーの首を跳ねようとしていたアサシンの身体は、吹き荒れる風に押しとどめられたのである。彼は体格の割には随分軽い。如何に敏捷に優れようとも、風に煽られては逃れようが無い。巻き上げられては足つきすら覚束ない。それがセイバーの狙いだ。彼女の碧の瞳が見開かれた。

 

「あぁぁぁっ!」

 

彼女の雷光の様な一撃は妙に軽い音を立てた。まるで手応えが無い。否、とても小さかった。風が踊り狂う衛宮家の庭は土埃が舞い上がり、落ち葉は砕ける。乱破な世界の中で、愛刀を打ち抜いた彼女が見た者は、大きく飛び退いたアサシンであった。彼は露わになったセイバーの剣、その刀身を刀身で受け止め、彼女の渾身の一刀を利用し大きく退いたのであった。恐るべき身のこなし、恐るべき剣技であった。軽い音とは、彼の持つただの長刀と彼女の神造兵器の刀身同士がぶつかった音である。セイバーの手にある美しい剣を見たアサシンは。

 

「美事」

 

実に愉快だと呟いた。アサシンは己の“長刀の僅かな変化”にまだ気がついていなかった。

 

 

◆◆◆

 

 

時を遡ること数刻。それは桜と凛の対峙だ。

 

「さて、姉さんの相手は私です」

「そうくるわよね、やっぱり」

「当然です、相手の都合なんて考える理由なんてありませんから」

 

凛は懐に有る宝石剣を意識した。まだ駄目だ。これはまだ見ぬ事態に対する切り札、今抜く訳には行かない。

 

(あー、すごい腹立つ。ここで全戦力を投入して泣かしたいわ)

 

悔しさを腹に押し込んだ凛の隣りには士郎が立っていた。

 

「桜、俺も相手だ」

「酷いです先輩。あんなに親切にしてくれたのに」

 

そうは言う桜であったが、悲しみは微塵も感じさせなかった。

 

「あの時の桜に戻るなら、そうしてもいい」

「本当に意地悪です。あの時の私も今の私も同じなのに。元カノには優しくするのが、先輩でしょう?」

「付き合ってた訳じゃ無いだろ」

「そうですね。でも毎日先輩の家に通って、一緒に料理したり、料理当番を奪い合ったりして、恥ずかしい思いもして全部見せたんですよ? それって、薄情じゃ無いですか?」

 

「俺が優しくする、そう言ったら桜はアンリマユと手を切るか? あれ程兄想いだった桜が、そんな事をしている姿を見る事が俺にはとても辛い」

「もう遅いの。だって私は兄さんのモノだから。残念でしたね、先輩。先輩が私を受け入れていたら、こんな事にならなかったのに」

 

二人に分け入った凛の口調に感情は無かった。それは押し殺している結果だった。

 

「そろそろ、その不愉快な口を閉じなさい」

 

“アンタが衛宮君に好意を持った振りをするから、あのバカは私に嘘の告白をした”

 

凛はその言葉を飲み込んだ。

 

“桜の為だけにあった真也なら、キャスターの持ちかけたセルフギアススクロールに喜んで署名し、操られ、桜の為になったと笑いながら死んでいった”

 

凛はその言葉を飲み込んだ。

 

「聞いていて正直気分悪いわ」

「そうですね、私も不愉快です。姉さんさえ居なければ、こう成らなかった。今でもお母さんと兄さんと私で静かに暮らしていたんです」

 

“自分は何も悪くない、そう考えられる桜、アンタがとても腹立たしい”その姉は辛うじてその言葉を飲み込んだ。

 

 

◆◆◆

 

 

桜の足下に落ちた影から、無数の帯が立ち上る。凛が宝石“トパーズ”を握り構えた時と、士郎がカリバーンを投影した時と、傀儡となった真也が二人に対し強襲を掛けたのは同時だった。凛と士郎は意表を突かれた。真也が動けるとは思いも寄らなかったのである。それは桜の子供だましの簡単な引っかけだった。

 

“兄さんが動けるなんて、思いも寄らなかったでしょう?”

 

その致命的な子供だましを切り抜けたのは、士郎が手にするカリバーンであった。セイバーの戦闘経験が宿るその剣は、寸分違わず真也の首を狙った。士郎が辛うじて、それは条件反射のレベルであったが、抗い左腕を斬り落とす事に留まった。その斬撃で真也の突進が停止する。凛は目の前の彼に向かい、雌黄色の宝石“トパーズ”を投げつけた。

 

「Ein KOrper(灰は灰に) ist ein(塵) KOrper(は塵に)!」

 

威力は弱めたものの、それはあの夕方の再現だ。魔力の籠もった真空の刃に、彼の身体は巻き上げられ、斬り付けられ、全身から血をまき散らし、彼女にとって特別な彼の身体が、地に叩き付けられた。その時間はとても緩やかだった。嫌みな程、ゆっくりと見せ付けられた。もろもろの全てがこみ上げる。僅かでも気を抜けば泣き出してしまいそうだ。桜は笑っていた。二人の苦悩を感じ取っていたからだ。

 

「酷いですね。二人とも。トモダチなのに、元カレなのに」

 

士郎は聖剣の切っ先を突きつけた。

 

「桜、真也は無力化した。投降しろ」

 

凛はおかしいとは思いつつ、桜に向き直った。脆すぎる、だがダメージを与えたのは確実だ。事実、真也は塀の足下に蹲っている。

 

「奇襲の割には、悪くなかったわ。完全に予想外だったから。でもこれで終わりよ」

 

真也を抑えたのだ。桜を捕らえルールブレイカーで解放、その為に凛がライダーを呼ぼうとした時、真也はなんの予兆もなく立ち上がった。まるで、見えない手が腹のみを掴んで、強引に立たせた様な動きだった。手と足と首に力が入っておらず、諸々をもたげるその様は、幼い頃に見た棒使い人形の動きに似ていた。それは悪夢にすらなった動きだ。

 

二人は目を剥いた。真也の全身に刻まれた切り傷が、瞬く間に塞がっていった。極めつけが、士郎が斬り落としたはずの左腕である。皮膚が破れ、筋肉が砕け、露出する骸骨が血に濡れていたその断面が、泡ぶくの様に盛り上がったかと思うと、成長する若葉の様に伸び、そして腕となった。二人はその過程の中に魔力の働きを見た。切り落ちた腕の断面に、見た事も無い術式が描かれていた。それは魔術を用いた再生だ。セイバーと同等かそれ以上の再生能力、驚きを隠さない二人の顔を見た桜は自慢げだった。

 

「驚きましたか? すごいでしょう? 兄さんの魔術回路を使えばこんな事も出来るんです。もちろん私が魔力を提供して、私が操っているお陰なんですけれど。勿体ないですよね、兄さん自身はこの使い方を知らないの」

「その割りにトロいのは何でだ」

「流石先輩、洞察力が良いです。兄さんは野生動物を上回る感覚で戦況を把握するんですけれど、今は私が封じちゃってますから」

「そう、桜、アンタが操っているって事」

 

「正解です。さてどうしますか、先輩、姉さん。確かに今の兄さんは鈍いですけれど、痛みは感じてるんですよ? 暗闇の中の兄さんは、突然襲われた激痛に、失神しかけています。魔力で強引に復元された訳ですけれど、初めて知る身体の感覚に、戸惑って、嘔吐しています。無理も無いですよね、術を使わなければ治らない怪我を、初めて知る己の能力で治しちゃうんですから。全身の細胞が暴れる感じ、何度も何度も、吐くものなんて無いのに吐いています。また、斬りますか? あ、いま。“桜無事か、大丈夫か”って聞いてくれました。意識を失いかけているのに、聞いてくれました。これって自分より私の事が大事って事ですよね? もう一度兄さんを仕向けますね。兄さんを斬って下さい先輩、兄さんを切り刻んで下さい姉さん。そうすれば私はまた幸せになれる。兄さんは身を顧みず、私の事を想ってくれるから」

 

桜は両手を頬に沿え、恍惚の表情だ。瀕死状態の兄に気遣われた彼女の瞳は蕩け、頬は赤く染まり、唾液が大量に分泌されていた。性的興奮すら感じていた。凛と士郎。二人が最初に感じた感情は畏怖だ。その後戸惑い、そして怒りを感じた。凛はもとより、士郎ですらキレかかった。桜は真也の妹という強い概念を持っている、であるから真也を想っているはずだ、そうライダーは言った。だがこれはなんだ。桜のこの所行を、愛する者に対する行為だというのか。士郎は、桜の反転した愛情、病的な慈愛、狂った想い、その余りの昏みに、封じた“正義の味方”が揺り動かされた。目の前の少女を敵だと、士郎が認識し掛かった時、彼を止めたのは彼の姉であった。イリヤである。

 

「それ以上の狼藉を働くなら自害するわ。だからここは引きなさいサクラ。私が死ねば天の杯は動かなくなる、そうなれば全てお仕舞い。悪い取引じゃ無いと思うけど。サクラが生まれればどの道死ぬんでしょ?」

「素直に出てきてくれてありがとうイリヤ。姉さんをここで殺して貴女を連れ去ります」

「そう、お姉ちゃんが怖いのね」

 

イリヤに表情は無かった。それ故真実味を帯びていた。桜にはそう感じられた。

 

「……なんですって」

「怖いからここで始末する。それだけの魔力を持っていて、姉を恐れてる。みっともないわ。今のサクラは魔力という虎の威を借りた、うさぎさんってこと。いえ、穴蔵に潜るモグラさんかしら。ナイフを持って粋がっている、強がっている連中と替わらない。貴方はどちらかしら。最終的に身の証を立てるのは行動よ」

 

二人の小聖杯が火花を散らす。緊張を解いたのは桜であった。

 

「感謝します。イリヤ。ここで殺してしまっては味気ないところでした。ですからここで殺すのは止めにします。まだ私の気は晴れませんから。まだ兄さんの愛を感じたいから」

 

冷静さを装っていたが、耳にする事すらおぞましいと言わんばかりのイリヤである。

 

「天の杯はアインツベルン城に置いてあるわ。時間が無いなら急ぎなさい、見つけるのは大変なのだから」

 

 

◆◆◆

 

 

「アサシン」

 

彼は視線をセイバーに向けたまま、主である桜の呼びかけに沈黙をもって応えた。

 

「イリヤを抱いてアインツベルン城まで走りなさい」

 

想像通りの命令に彼は呻くのみである。もっともおくびにも出してはいない。

 

「はて、それはどうした事だ。その影に放り込めば瞬く間に彼方の城に辿り着くのではないのか?」

「この娘を私の影に捕らえると死んでしまうでしょうから。だからアサシンが運ぶの」

「それは難儀なことだ。だが主よ。こちらも取り込み中だ。セイバーを倒せ、そう言ったのは誰であったか」

「黙りなさい」

 

「まったく、これだから女と小人は手に負えん。前の主もそうであったが、魔の心得がある女性(にょしょう)は皆こうなのか。人使いの荒さは瓜二つよ」

「黙って。減らず口も程々にしないと酷い目に遭わせるから。アサシンの脚なら造作も無いでしょう? だから早くしなさい」

「私はこう見えても虚弱でな。身体捌き(敏捷)には多少心得があるが、剛健さ(耐久)となると、些か心許ない。そもそも私は騎兵ではないのだが」

「脚が折れても良いから、運びなさい。もう“言わない”から」

 

それは桜の最後通牒である。

 

「参道より連れ出された恩がある以上無碍にはできぬか。済まぬセイバー。ご覧の通り水を差されたが、宮仕え故、主には逆らえんのだ」

「良いでしょう」

 

セイバーは剣を下げつつも警戒を怠らない。

 

「娘、こちらに来い」

「イリヤスフィールよ。レディに対する扱いがなってないのね黒のアサシン」

「これまた難儀そうな御仁よの。だが、まあ良いわ。旅は道連れ世は情け、扱いに骨の折れる異国の貴人であろうと、旅の共が居れば身の上の不運も紛れようからな。この務めは果たそう」

 

イリヤを抱きかかえたアサシンの顔には笑みが浮かんでいた。

 

「セイバーよ、また斬り合えるかな?」

 

嘲笑では無い、もちろん挑発では無い。もう一度戦えればこの上ない喜びだという、彼なりのお誘いだ。しかめっ面ではデートすら誘えまい。

 

「その定めならば、幾度でも」

「感謝するぞセイバー」

 

アサシンが衛宮家の和風建築の塀を跳び越えると、もうセイバーたちには追跡する事は叶わなかった。恐るべき隠形である。いずれ立ち塞がるであろう黒アーチャーよりも厄介かもしれない、セイバーはその様な事を考えた。桜がその有効活用を思いつかない事を祈るのみである。

 

「姉さん、怖い私から逃げるか、挑むかはご自由に」

「冗談。首を洗って待っていなさい」

 

桜はおぞましい笑みを浮かべると、影の中へ消えた。凛の瞳は桜を射貫いていたが、その意識は後ろ髪引かれる様に真也の姿を追っていた。降って湧いた静けさ、祭りの後の様な侘しさを感じる己に苦笑しつつも士郎は動き出した。

 

「遠坂」

「分ってる」

「舞弥さん、車を頼む。目的地はアインツベルン城、跡地だ」

 

 

◆◆◆

 

 

「突貫の割には良い出来だわ」

 

カーテンが閉ざされた薄暗い蒼月邸の居間で、そう呟いたのはキャスターである。肩をコキコキと鳴らせば彼女の目の前には設置型の礼装があった。4本脚の木製テーブルには聖堂教会製の装飾に富んだ敷物が敷かれ、その上には神道に用いる神鏡、仏教の独鈷杵などが配置されていた。中央には神鏡、その周囲には独鈷杵(どっこしょ)だ。

 

白熱電灯の明かりに照らされるそれは、ギリシャ風神殿のようにも見えた。突き立てられた独鈷杵が石柱と言う事だ。和洋折衷も良いところだ仕方が無い。一から作っている時間的余裕が無いため彼女は法具店を駆け巡り、買いそろえ、魔術的な細工を施した上で構築したのである。つまり、キャスターは一般的に入手出来る礼装のレプリカで小規模の祭壇を作り上げたのであった。

 

これは桜から真也を介しキャスターへ流れる魔力をストックするバッファである。いざとなればキャスターを介さず直接真也に供給される仕組みだ。大した量では無いが用心に越した事は無い。使わずに済んだならばそれはそれだ。悪巧みは幾度となくしたが、誰かを生かす企てというのは予想外に気分が良い。

 

「誰かの為……宗一郎様が今の私を見たら、不愉快に思うのかしら」

 

悔しさの余り復讐に走ったが、あの時共に逝くべきではなかったのか。のうのうと生きながらえて居る事は不誠実ではないのか。その問いに答えられる人は既に居ない。祭壇を前に、喪に服せば故人の姿と声が呼び起こされた。その寡黙な人物は思い出の中ですら寡黙であった。

 

“好きにせよ。キャスター”

 

確かにあの人ならそう言いそうだ。彼女はその幻を胸に抱くとその家を後にした。

 

 

 

 

つづく!



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47 カズム・7

冬木教会。綺礼はその自室でランサーからの情報を待っていた。ソファーに腰掛けつつも、その心中はある疑念に囚われていた。

何故、桜は忽然と姿を消した。何かを狙っている、何を企んでいる。蒼月桜は姉である凛に遺恨を持っている筈だ。セイバー陣営を強襲してもおかしくは無いのだが、その情報が無い。彼らは連絡をしてもこない、もしくはしたくない状況にある? その仮定に至った彼は己のサーヴァントに念話を入れた。知れず企んでいるならば、手を打たねばならない。

 

『ランサ-、衛宮士郎らの動きはどうだ』

『黒い影の偵察、そういったのは何処の誰だ』

『調べろ。気に掛かる』

 

時が経つこと暫く。そろそろ連絡が来るであろう頃、綺礼は腰を上げた。それは彼にとって予定外の事だったのである。

人の気配を感じ礼拝堂に赴けば、祭壇の前に跪き神に祈りを捧げる人物が一人あった。黒色でくるぶし丈の、ゆったりしたローブ状のトゥニカ(貫頭衣)を纏っていた。

だが驚いた事にその祈る様は綺礼でも目を止める程、堂に入っていた。信仰心は本物の様だ。ならばむざむざ死なせる道理も無かろう。唯一神を仰ぐ者にとって、その刻の到来はまだ先の事だ。

 

「この教会の神父様でいらっしゃいますか」

 

その人物は女だった。綺礼に気づき、立ち上がると頭を下げた。頭巾は深く見えるのは口元のみだ。

 

「いかにも。名を言峰綺礼という。そういう貴女は巡礼者かな?」

「はい」

 

その声は掠れて生気が無い。死に冒された者のものだ。

 

「なんの断りも無く立ち入ってしまい、誠に申し訳ありません。お声は掛けたのですが、御柱を前にして居ても立っても居られず」

「それは構わない。御柱への門戸は何時も開かれているのだから。巡礼者である様だが、なぜこの地を訪れた。この地は穢れている、立ち去った方が良い」

「神父様。私は懺悔に参りました。死別した夫を想う余り、禁を破ってしまったのです」

「ふむ。咎人であろうと、救いの手を掴むのが私の努めだ。告解室が向こうにある。来なさい。ところで名はなんという」

 

女が頭巾を下げれば綺礼は目を剥いた。その女の肌は骨の様の白く、痩せこけていて、髪は白く艶はなく、まとまりは無かった。眼は濁り、その輪郭は曖昧である。綺礼は死病に冒されたその顔に見覚えがった。それは、かつて彼が看取った妻の姿だった。

 

何の前触れも無く綺礼の身体が衝撃に襲われた。それは身体の内部から弾けたものであり、その内部とは心臓であった。綺礼は背後より心臓を短剣で貫かれたのである。それは綺礼が時臣を殺害した時の再現であった。綺礼が何事かと背後を探れば気配があった。魔力で編んだ欺瞞というヴェールが解かれる。彼を殺害した者は、キャスターであった。

 

「言峰綺礼、我が主の命により滅びなさい……レスト」

 

力を持った言葉が、アゾット剣に封じられた魔力を解放する。形を持った魔力は綺礼の心臓を破壊した。

 

「がはっ!」

 

彼は血を吐き、力を失い、うつぶせに倒れ崩れた。

 

「報復には少々物足りないけれど、こんなものかしら」

 

キャスターはルールブレイカーを彼の胸に突き立て、ランサーとの契約を解除した。聖堂教会の仕来りに倣い、綺礼を祭壇に寝かせた。胸の上で手を組ませ、ロザリオを持たせた。

キャスターは舞弥の記憶から綺礼の妻に辿り着き、可能な限り模した人形を作ったのである。切嗣が数枚の顔写真を手に入れていた事は僥倖だった。

キャスターは綺礼の持つ、黒鍵、令呪も全て消し去った。神の迎えを待つ死者には必要が無いものだ。死者は死者、安らかな眠りは必要だろう。

 

「ご苦労様」

 

キャスターがそう言うと綺礼の妻を模した人形は、なんの前触れも無く、崩れて塩になった。

 

「あとは姉妹喧嘩の監督ね。吐き出すだけ吐き出させて、収まると良いのだけれど」

 

彼女はそうぼやくと、祭壇を前に並ぶ長いすの一つに腰掛けた。暫くすると待ち人来たり。ランサーである。彼はマスターである綺礼の死を悟り駆けつけたのであった。キャスターが料亭の女将の様な振る舞いでランサーを迎え入れれば、彼は手品のタネを明かされた様な顔だった。

 

「真也の手際が良い、と思ったらバックに居たのはお前か。あの野郎とんだ食わせ者だぜ。苦境のなか虎視眈々と反撃を狙っていやがったか」

「こうして話すのは初めてかしら」

「そうだな。遠目に何度か見た程度だ」

「柳洞寺の回りでこちらを探っていた事もあったわね」

 

「気づいていたか」

「当然よ。柳洞寺は私の神殿でしたから」

 

ランサーはこの状況をどうするべきか、悩んだ上でこう告げた。その声は淡々と。つまり事務的という事である。

 

「言峰はいけ好かねえ奴だったがマスターはマスターだ。討たれた以上見過ごすことは出来ない」

「貴方の主は、貴方の忠誠と誇りに報いた事があったかしら」

 

沈黙。場所が場所だけに喪に服している様な感覚に陥った。キャスターの肩越しには弔われている綺礼の姿があった。溜息がでる。敵であるキャスターにここまでされては文句など言えよう筈も無い。

 

「用件を言え」

 

彼は不承不承の体である。

 

「何故俺を待っていた」

「これを凛様に渡して頂ける? 無断借用申し訳ないと添えてお返し頂けるかしら」

 

差し出された短剣は見るからに曰く付きだ、ランサーはそう思った。

 

「それは何の意味を持つ?」

「全てが終わった時、私が直接お伝えします」

「マスターを失った俺を、サーヴァントを失ったあの嬢ちゃんの元に走らせて、何をさせるつもりだ」

「さて。私は単に宅配を頼んだだけですから」

 

彼は舌を打った。企みは趣味ではないのだ。

 

「良いだろう。お前の企みに乗ってやる。ただ一つ条件を出したい」

「マスターの意図に添うものなら、拒絶する理由はありません」

 

彼は黙ってエオローのルーンを、キャスターに描いて見せた。

 

「友情、保護を意味する文字ね、これの意図するところは?」

「覚えておけ。何かに役に立つかもしれない。真也にとっても嬢ちゃんにとってもな」

 

 

◆◆◆

 

 

士郎たちが舞弥の運転する自動車を降りて暫く経った頃。当然彼らはアインツベルン城に向かう森の中である。

待ち受けて居るであろう戦いに身を震わせれば、朝靄の中で待ち受けていたのはランサーであった。彼は腕を組み、見下ろす様に睨み上げていた。

士郎にとって会うのは、これで2回目。1度は目撃者として殺され掛かった時、もう一つは綺礼にこてんぱんにされた時だ。

 

「よう、また会ったなセイバー陣営。一人も欠けていない様で何よりだ」

 

セイバーとライダーが警戒を見せた。彼女らにとってはランサーはまだ綺礼のサーヴァントなのである。彼に応じたのは凛であった。張り詰めた緊張をものともせず、それがどうしたのかと言わんばかりであった。

 

「どうして、ランサーがここに居るのよ。偵察は?」

「俺のマスターが死んじまってな」

「綺礼が死んだ?」

「死んだ。背中から心臓を一突きだ。ご丁寧にも祭壇の前で弔いもしてあった。下手人の後ろに居る奴には心当たりがあるが、それは良い。どうしたもんかと考えて、組んでやっても良い、そう言いに来た訳だ」

 

「呆れた。持ち掛けて来て、判断するのはそっちって事?」

「主をむざむざ死なせたマヌケ槍兵にも、主を見定める権利はあるって事だ」

「一つ聞きたいんだけど、ランサーのあれは、真也の孤立を狙ったモノ?」

 

彼は躊躇いもなく、肯定の意を示した。それがどうしたという開き直りでは無く、彼の中では誤魔化しようのない事実だからである。凛は厳しい表情を向けたが、直ぐに緩め、呆れた。

 

「心底呆れたわ。アンタ、随分軽いのね」

「今更いいっこ無しだろ。それとも何か? 遺恨を引き摺るか?」

「終わった事だし。良いわよ、雇ってあげる」

「即断即決は嫌いじゃねえ。だが一つだけ、伝えておかなくちゃならない事がある。下る以上指示にも従うが、俺は真也との命を掛けた全力勝負を望む、嬢ちゃんならこの意味は分るな?」

 

「なにそれ。昨日の敵は今日の親友、明日にはまた敵ってこと?」

「なんだ、見かけによらず余裕が無いんだな。相手が敵であろうと、気が合うなら膝交えて語り明かすのが情だろうに」

「いつの時代の人間よアンタ。そういうね、明日には殺すけど今日は親友だー、なんて今時はやらないの。やるとしたら徹底的にやらないと相手にも失礼じゃない」

「はあ。そりゃまたつまんねえ世の中になったもんだ」

 

「今は現代」

「なら、真也は俺の側だな。嬢ちゃんは考え直した方が良い。向いてねえ」

「なによそれ」

「アイツとはそういう、やり合いつつも語らう間柄って事だ。ま、説教が多かったけどな。もう一度聞くぜ? 俺は奴と全力をもって戦う事を望む。その結末は神のみぞ知るって事だが……それでも俺を雇うか?」

 

凛が思案した時間は意外なほど短かった。

 

「いいわ。その条件呑んだ」

「その理由を聞きたい」

「私がこの土壇場で、そんな些末に怯える様なら真也は頼ったりしないわ。いま真也とは運命とか言う、くだらないけれど厄介な敵を相手に真剣全力勝負中なのよ。だからさっさと下りなさい。この私が直々に契約してあげるから」

「へっ」

 

己の決意を軽薄な笑いで返され、凛はたちまち憮然とした。

 

「なによ。文句有る訳?」

「些末と来たか。そこまで言い切られると清々しい。あのバカが入れ込む筈だぜ」

「私からも言っておく。私のサーヴァントになる以上扱き使うけれど、その覚悟はある?」

「マスターにするならアンタみたいなのが良いって思ってた」

 

契約後、彼が差し出したのはアゾット剣であった。

 

「こいつは渡しておく」

「これ、どうしたのよ」

「綺礼をやった得物だ。嬢ちゃんに返せとよ」

「これをわざわざ私の家から持ち出した事に何の意味が?」

「さぁな。ただまあ気が利きそうな奴だったから、要らぬ世話なんじゃねーの」

「そう」

 

凛と契約を結んだランサーはご満悦である。凛はランサーの態度に驚くばかりなり。今の彼はただの男友達にみえた。有り体に言えば、学校でくだらない話をしている男子生徒を見ているかの様気分であった。

 

「真也の悔しそうな顔が目に浮かぶぜ」

「悔しがる?」

「するに決まってんだろ。俺にちょっかい出される事を特に嫌がってたからな」

「悪くないわね。やきもきさせるのも気分が良いわ」

 

戯ける凛も満更ではなさそうだ。ランサーは心底おかしそうに笑った。

 

「……なによその笑い」

「いや、女運があるんだか無いんだか、ってな」

「あるに決まってるでしょ。この私が見つけたんだから」

「そりゃ意外だ。てっきり真也が唾を付けたのかと思ったが」

 

「聖杯戦争が始まる前の話よ。その時の真也はグールを倒した直後で、私はその背中を見てたって訳。私に気づいて振り向いた時の驚いた顔は今でも思い出すわ。まるで悪戯が見つかった子供みたいな顔だった。分った? 引き合わされた桜や、目を付けられた綾子とは違う。真也は私が見つけたんだから。つまり、私が拾ったの」

「惚気は他でやってくれや」

 

もう十分だと言わんばかりのランサーである。

 

「さて、最初の命令よ、ランサー」

「おう。幾らでも戦ってやる」

「ばかね、ランサーは予備選力。暫く隠れて貰うから」

「そりゃねーだろ」

 

あはは。苦虫をかみつぶしたようなランサーを、涙を堪え一通り笑い尽くした後、凛は一転しおらしい。

 

「あの時、気遣ってくれてありがとう。嬉しかった」

「礼を言われる事じゃねえよ。俺が嬢ちゃんたちにしでかした事に比べれば、それこそ些末だ」

 

 

◆◆◆

 

 

場所は変わり、アインツベルン城の跡地。“時間が無いなら急ぎなさい、探すのは大変だろうから” イリヤのその意味を今更ながら悟った桜であった。

 

辛うじて完全崩壊は免れていたが、それは見た目という意味であり、住まいという観点で見た場合は全損だろう。誰がこうしたのか、桜がこうした。

 

「あの部屋よ」

 

イリヤが指さした箇所は城の上層部である。正装保管の為だけの部屋だった。助かった、これなら直ぐに回収出来る。その部屋に赴き探すのみだ。

 

「正装はその部屋の崩れた場所に置いておいた、この意味は分る?」

 

桜が視線を下ろすと、そこには瓦礫の山である。思わず顔が引きつった。

 

「……これを掘り返せと?」

「収めてあるケースは金細工をちりばめたパールホワイト。直ぐにわかるでしょう。相応に丈夫な代物だから、破損はしていない筈よ」

「貴女が掘り起こしなさい、イリヤスフィール!」

「出来る訳ないでしょう。サクラみたいに力持ちではないの」

 

桜はその事実を受け入れるより他は無い。苛立ちを堪えながら彼女は作業に取りかかった。

桜は己の体重の3倍を超える、城のなれの果てを次々に投げ始めた。放物線を描き、城の周囲に投げ積んでいった。

このペースならば意外と早く終わりそうだ、その見通しは甘かった。瓦礫の山が歪み音を立て始めたのである。

それはそれは心臓に悪い音であった。瓦礫上層部の重量が、瓦礫基礎部を圧縮し、バランスを取っていたのだが、急激な変化に対応出来ず崩れだした。

 

「っ!」

 

危険を察知した桜は跳躍。着地した彼女が見た光景は、雪崩そのものである。ゴロゴロと崩落するそれを、ぼうと見続ける事半刻。ようやく静まりかえった頃、嫌みとばかりに小石が彼女のつま先に当たった。憤りで身が震える。何故こう成るのだ。全人類を滅ぼそうとしている私がなぜ土木作業などせねばならぬ。イリヤの冷静な指摘が忌々しい。

 

「振り出しに戻ったわね」

「ば、馬鹿にして!」

 

再び瓦礫を刻み、掴み、除去し始めた。今度は慎重な手つきである。一つ崩しては、様子を伺う。一つ崩しては、回り込み、全体のバランスを確認した。これでは積み木崩しの“ジェンガ”そのものだ。 全く以て腹立たしい。

 

「アサシンに手伝わせてはどう?」

「黙りなさい!」

 

駕籠代わりにされたアサシンはダメージを負い使えないのである。

 

「私はその辺を散歩しているわ。手伝える事があったら呼びなさい」

 

ある訳が無い。イリヤはそれを分った上で申し出たのだ。桜は渾身を持って瓦礫を放り投げた。八つ当たりと言わんばかりである。

 

 

◆◆◆

 

 

イリヤは城の周囲を回り、形を保っている城の反対側に回り込んだ。すると岩が積み上がる城の基部に簡素な木製の扉があった。勝手口という扉だった。

開けて中に入れば倉庫である。酒樽、破損した家具、ボイラーなどが見えた。

雑多な巨大なものを愉快そうに見学すれば、彼女の足下にこれまた愉快そうなものが落ちていた。

 

「なにをしているの貴方」

 

彼の姿を例えれば、水揚げされたクラゲである。手足をだらりと伸ばし、力なく座り込んでいた。彼は激しい疲労を負っていた。衰弱と判断しても過言では無かろう。その理由は言うまでもない。首を動かすのも億劫だと視線のみ走らせれば、彼の声はうめき声のよう。

 

「……なんで子供がこんな所に居る」

「そう、覚えてないのね。わたしは貴方を知っているの」

「それは済まなかった」

「気にならないの?」

 

「それどころじゃ無い、という事もあるのだけれど。俺は自分に無頓着なんだ。忘れてしまった事には申し訳ないと思うよ」

「少しご一緒して良いかしら」

「どうぞ。ご覧の通りの有様で、大したおもてなしは出来ないけれど」

 

イリヤは真也の隣りに“ちょん”と腰掛けた。

 

「どうしてこんな場所にいるの?」

「日光がきついんだ。だものでちょっと休んでる」

「激しく衰弱すれば人でもそうなるけれど、今の貴方は死徒に見えるわね」

「血を吸うと治るかな」

 

「貴方の身体に満ちる魔力は十分、原因は別よ。身体を見せて貰っていい?」

「はしたないぞ」

「意外とばかなのね」

 

シャツを捲り彼の胸の痣を見たイリヤは息を呑んだ。これではもって数日だ。

 

「そう。これなら衰弱も当然ね。どうしたの、これ」

「家の妹は重いんだ」

「礼儀を覚えなさい。レディの扱いを知らないなんて品格を疑うわ」

「体重じゃない。執念というか執着というか……つまりヤキモチ焼きって事。姉を贔屓したってヤキモチ焼いた家の妹が暴走して、折檻じゃなくて、えーと。お仕置きでもなく……そう、拗ねたんだ」

 

「物は言いようだわ。自業自得という気もするけれど」

「そうかもな」

「前々から、サクラはそういう風だったの?」

「そんな筈はない、と思いたいんだが今にして思えばその傾向はあったんだろうな」

「でしょうね、今の貴方はその証」

「おにいちゃんは命がけだ」

 

 

◆◆◆

 

 

イリヤは真也の石灰色化した髪におもむろに触れ、次に白骨色化した皮膚に触れた。彼女の表情は驚きと困惑である。

 

「信じられないわ、アンリマユの魔力汚染を直接受けていて正気を保っているなんて」

「こちとら遠坂の呪いを受けているからな。それに比べれば60億の呪いなんて眼じゃないね。あうとおぶがんちゅー」

「貴方、本当に人間?」

「化け物」

 

「恰好付なんて、子供なのね。ますます意外」

「化け物呼ばわりは小学生の頃からだよ。もう慣れた」

「というよりバケモノなんて抽象的な表現は、曲がりなりにも魔術師なら避けるべきよ」

「残念ながら月夜の晩に狼になったりはしない。俺だって俺が誰なのか、知らないし。良く分からない物って抽象的にせざるを得ないだろ。UMAなら良いのかな」

 

「自分のルーツについて知りたくないの?」

「言ったろ。無頓着だって」

「そう。自分に執着しないから疑問にも思わない……ね、噂話にお付き合いしてくれない?」

「噂話か、それも悪くない。のんびりした時間は最近とんと久しいからな」

 

一拍。思わせぶりな視線をもって、イリヤはこう切り出した。

 

「今から18年前に聖杯が降りたという話、興味あるかしら」

「この冬木にも降りてるだろ。君もその口のはずだ。今更噂話にすることか?」

「神託よ。真の聖杯が2000年ぶりに顕われた」

「そりゃすごい。君は顔が広いんだな。神託は聖堂教会の秘中の秘だろ」

「私の言いたいところは真たる聖杯なのだけど、信じてないのね」

「んな与太話はいそうですか、って信じませんよ」

 

真の聖杯とは、手に入れた者のあらゆる願いを叶えるという願望機であり、最高位の聖遺物。しかし真実の聖杯を手にした者はおらず、伝説の域を出ないとされている。

 

「今から2000年前、救世主の血を受けた杯がそうなったって言われてる。奇跡を起こす真の万能機と言われるが、もしそんな物が本当にあるなら、どこぞの魔法使いか使徒が手に入れて活用してるだろ。冬木の聖杯が偽だって言われてるなら、真の聖杯が在ったっておかしくはないんだけどさ」

 

「常識に囚われては発展はないわ。大胆な仮説を立て、それを検証する。魔術も科学もそのセオリーは変わらない」

「そう、君は魔術師か。まあ、時間はあるしその論議にお付き合いしようか」

「さて、どうして今まで見つからなかったのだと想う? 仮説を立ててみなさい」

 

腕を組んで顔をしかめる。唇はへの字だ。彼はこう仮説を立てた。

 

「その真の聖杯とやらは、この地に降りたのではなく、少しズレた世界に降りた、というのはどうだ。マテリアルプレーンではなく、アストラルプレーンという訳。この次元に無い神秘なら、幾ら探しても見つからないし、どれ程暴れても俺たちは気がつかない。魔法使いや死徒だって気づく事は難しい。追跡出来るのは第2魔法の使い手のみだろう」

 

「願望機は願望を持つモノがいてこそ意味があるのよ? 貴方の言うズレた世界に降りたところで意味は無いわ」

「だから、願いを持つ者を呼び寄せる。神託の様なモノを受け取った、聖杯に選ばれた存在が、召喚に応じて幽体(アストラル体)でその世界に向かう。肉ではなくアストラル体なら壁の突破も容易だからな。そこで神秘を求めて戦うという訳だ」

 

「願いを持つ者が召喚するのではなく、される側というのはユニークなアイデアね」

「クールジャパンなら定番だよ」

「それはどういう意味?」

「サブカルって意味。大した事じゃ無いから、聞き流してくれ」

 

「その聖杯戦争はどのような儀式なのかしら」

「多分、この地のそれと大して変わらないさ。この手には試練がつきものだからな。栄光、名誉、財産、力、それらを求めるものが集まれば、自然競争という戦いに落ち着くだろう」

 

「なら、サーヴァントの様な存在がいてもおかしくは無いわね。願いを持つ者の能力的な強さで決まってしまうから、補助的な存在を用意した」

「ファンタジー物のお約束だ。勇者に伝説の剣を与える、妖精、女神、そんなの。かのアーサー王も湖の乙女からエクスカリバーを受け取ったと言うし、勇者が沢山居れば、それに応じて補助も沢山あったっておかしくは無い」

「勝ち得ただろうそのどこかの誰かは何を願ったのかしら」

 

 

◆◆◆

 

 

「案外ありふれたモノだったりな」

「ありふれた?」

「伴侶ってことだ」

「呆れるわね。真の聖杯にそんな物を願うなんて。聖杯を使わなくたって叶えられる」

 

「聖杯が願いを選ぶなら、その願いに順位を付けるなら、その存在自体に願いがあるって事だ。万能の願望機が願いを持つなんて、そんなのいかさまだろ。冬木の聖杯の様に出来損ないも良いところだ。

そして激戦をくぐり抜けた二人は手を取り合い、共にある事を誓い、神秘にそれを願った。神秘は二人の願いを認め、二人を新たな世界に送り出した。ハレルヤ、世界は神の愛で満ちている、素晴らしいね」

 

「貴方本当に変わったのね」

「そう?」

「分ってる? 前の貴方も一つの強い思いに賭けていたの」

 

「それを言われると辛い。でも、ある人に言われたよ。もう俺が居ないと駄目なんだってさ。正直打ちのめされた。だって、そうだろ。今まで自分を無い事にしてやってきたんだ。それで切り抜けてきた。俺を全否定された気分だった」

 

「それで貴方は回答を得たの?」

「どうだかね。今でも“遠坂”には逆らえないし。ただ、俺の分も皆で背負うから諦めないでくれと言われたら、イヤですって駄々をこねるなんて、そんな格好悪い事は出来ないだろ。試行錯誤中ってこと」

「そう。貴方は答えを求める事ではなく、求め続ける事を知ったのね」

 

ズズーンと城が響く程の地響きがあった。姉妹喧嘩の音だ。ふらりと立ち上がる彼の姿は、イリヤが驚く程にしっかりしていた。姉妹の一大事となれば、痛みも苦しみもこの男は無視するらしい。その行為を自己の欠如と見るか、自己を持った上での親愛とみるかはイリヤには判断が付かなかった。

 

「二人が呼んでるからそろそろ行くよ。お伽噺にしては中々面白い話だった。それじゃ」

「先ほどの話だけれど受肉したサーヴァントとそのマスターは今どうしているのかしら」

「さあ? 案外子育てに悩んでいるのかもな」

 

 

 

 

 

つづく!



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48 カズム・8

刻を遡ること数刻。そこは森と草原の境である。草原の側に立ち見渡せば、樹木が壁のよう続いていた。小枝がカサリと動けば、凛たちが木陰に隠れる様に顔を覗かせていた。彼女らの瞳に映る物は、半壊している城である。バーサーカー本戦の後からなにも変わっていない。

 

ただどうしたことだろう。何かがポップコーンのように飛んでいた。さてなんとする。敵戦力はアーチャー、アサシン、桜、真也と強力。こちらの手札と比較しても、迂闊に近づくのは危険だ。兎にも角にも目先の救助対象はイリヤである。サーヴァントが影の外に出ているならば、地形という戦術上のパラメーターが有効だ。桜という城を攻略する足がかりとなろう。

 

「ランサー、偵察お願い」

「またかよ」

「計画内容は話したでしょ。なにより実績を買ってるって事。信頼には応えなさい」

 

有無を言わせぬ凛の姿にどこか綺礼の面影を視るランサーであった。笑顔の分質が悪い。

 

「まったく。とんでもないマスターを選んじまったな」

 

偵察より戻ってきたランサーがもたらした情報もまた頭が痛い。

 

「アサシンと真也が居ない?」

 

凛のその発言は予想外と言う意味である。

 

「遠坂。アサシンは足腰が逝ってるんじゃ無いのか。そんな事を言っていたし。真也も桜に折檻されて寝込んでるとか」

「理屈には合うけれど、過信は出来ない。これは悩ましいわね」

 

士郎の進言に凛は押し黙る。セイバーのそれもまた助言であった。

 

「リン、アサシンの隠形は確かに恐るべき物ですが、攻めに転じた時その威は失われます。私たちで捕らえることは可能でしょう」

「ならばいたずらに時間を費やすのも上手くない、か。決まりね。アサシンが回復する前に仕掛けましょ。ランサーは真也を警戒しつつイリヤを確保。言っておくけれど、」

「わーってる。真也を見つけてもここでは仕掛けねえよ。空気ぐらい読むぜ」

「決まりね。みんな準備は良い?」

 

それは控えていたライダーである。

 

「遠坂凛、私はどうしますか?」

「方針は変わらず。突入タイミングは任せる」

「分りました」

 

瓦礫を次から次へ放り投げる桜は、計らずとも上機嫌であった。一定数除去すれば後は消化作業であったからだ。この分なら日没前には、正装を回収できるであろう。気を使うが頭の使わない単純作業を彼女は好んだ。ただ彼女の姉はどういうわけか、水を差すのが好きなのだ。桜はそれを今更ながら思い知らされた。

 

バーサーカーが手にした岩斧と同等の瓦礫を放り投げた時、その姉は現れた。瓦礫の上から疎ましくも見下ろせばセイバー、凛、士郎の3名が立っていた。セイバーと士郎は神妙な表情だが、姉は相変わらず不遜な表情だ。何故だ。見下ろしているにも関わらず、姉に見下されている。その不愉快さが払拭出来ない。

 

「精が出るわね桜。廃墟の女王(ロイヤル・ダスト)って所かしら」

 

そのネーミングの臭さに辟易しつつ、王女では無く女王と呼ばれたことに苛立った。だが駄目だ。姉のペースに乗ってはならない。そう己に言い聞かせた。この期に及んで、姉に囚われる己を嘆きながら。

 

「もう来ちゃったんですか。もう少し怯えてくれた様が良かったのに。それとも恐怖を感じない程に鈍感なんですか。それって生き物として終わってますね」

「先手って好きなのよ」

「でしょうね。さて、姉さん。死ぬ覚悟はいいですか?」

 

桜は立ち上がると、黒い帯を海藻の様に揺らめかせた。

 

「一応言っておくわね。私の真也を取り上げて御免なさい」

「……それで謝っているつもりですか。前に言ったと思いますけれど、兄さんを呼び捨てにしないで下さい。それと、姉さんのでは無く、私のです」

 

傾いた太陽は、その廃墟を紅に染めていた。その姉は紅よりなお赤かった。“赤は情熱と決意の色だ” 幼い頃兄が語った言葉が思い起こされる。それが何より忌まわしい。姉がその権化であるという意味に於いて、その時から姉の存在を予期していたのではないかという意味に於いて。

 

「ねえ桜。また聞くけれど、アンリマユと手を切るつもりは無い?」

「しつこいです。私にそんな事をする理由が無い」

「どうしてよ? 世界を滅ぼして、どうするわけ?」

「姉さんって知っている様で知ってないんですね。皆にそうあれと願われたから、そうするの」

 

「桜の願いじゃ無いんでしょ? ただ、操られているだけ」

「違いますよ。あの子は私、私はあの子、同じです。手なんて切れないし、する気は無いし、そもそも出来ない」

「そう。私には二つの立場があるの。一つはこの土地の管理者。もう一つはアンタの姉っと、もう一つあった。アンタの兄の所有者」

 

一つ一つの物言いが神経を逆なでる。

 

「アンタは真也を殺したくない。それは私も同じ。この際立場はおいておいて、折衷案としては良いんじゃない?」

「何が折衷案ですか」

「だってそうじゃない。アンタは世界を滅ぼしたい、私は維持したい。ほら、相殺」

「ふざけないで下さい。同じな訳無いでしょう。世界の残る事がどうして相殺なんですか」

 

「真也の居る世界が残る、どう? 私にとっての世界の維持は魔術師としての目標。桜、アンタが譲歩するなら、私は魔術師としての立場を捨てても良い。だって、私たちが争う事は真也の寿命を縮める事になる」

 

桜の表情がピクリと小さく振れた。やはり桜はそれに気づいてた、凛は確信したのである。

 

「だから、アンリマユと手を切りなさい。死なせたくないでしょ?」

「そうですね。私たちの前に二度と現れないなら、考えてあげても良いですよ」

「そんな言葉信じはしないけれど、実はそれでも良いかな、そうしようかなとも考えた。我ながら弱気になったもんだわ。でもそれはだめ。真也が私たち姉妹が共に居る事を願ってるから」

「どうしてそんな事が言えるんですか」

 

「アンタ、それ本気で聞いてる? もしそうなら、アンタは真也を何も分ってない事になる。なんの為にアンタを遠坂の家に置いてきたのか、それを考えなさい」

「姉さんには感謝してるんです。お陰で兄さんが戻ってきた。私だけの物になった」

「露骨な話題替えだけど、まあいいわ。それで?」

「兄さんに抱かれたんですわたし。この身体にまだ感覚が残ってます。痛い事がこんなに嬉しいなんて、初めて知りました」

 

「そう? それがどうかした? 私はアンタと違って器が大きくて、そんな事気にしないから。なにより今のアイツが桜を拒めないって判ってる」

「へえ。姉さんは私の次で良いって事ですか。妾でも良いなんて意外」

「お人形遊びで満足しているお子様は相手にしないって事よ」

「なんですって?」

 

「だってそうじゃない。アンタは自分の都合の良い様に真也を弄ってる。症状を進行させて、私もろとも忘れさせようとしている、真也の寿命を削っている。桜、幾らアンタに引け目があってもそんな事認める訳無いでしょ。でもアンタは妹だから、見捨てる訳には行かない。二人とも連れ帰る」

「傲慢ですね。自分の過ちすら認めない」

「さっき言ったじゃない。ごめんって。それに、桜。アンタ気がついてる? アンタだって真也にしでかしてる。真也の心臓のこと、精神構造のこと。追い込んだのは私たち姉妹」

「姉さんさえ現れなければそうならなかった事です」

 

「アンタが衛宮君と真也の間でフラフラするからでしょ。この際だから言うけれど、桜だけの真也ならキャスターに利用されて最後は死んでたわよ? 笑いながら、ね。桜が聖杯戦争に参加する、そう決めた時にそれは確定された事実だった。私が居たから回避出来た」

「私だって好きで参加を決めた訳じゃない! 好きって苦しいんですよ?! どれだけ好きでも、振り向いてくれないってもっと辛いの! それが判らない姉さんに語る資格は無い! 誰かを好きになるなんて赦されない! 姉さんは兄さんを苦しめた!」

「そう。私は真也を苦しめた、その分愛してあげるの。アンタはどうする?」

「兄さんが苦悩する原因になった!」

 

「というか桜、アンタ無茶苦茶ね。兄を苦しめた私を糾弾して、当の本人もそうしてる」

「兄さんは苦しんでいません。兄さんは喜んでいます」

「矛盾しているというか、傍若無人というか、そう、自覚がないのね」

 

凛は思わず腕を組んだ。溜息も出る。

 

「私だってしたくなかった! 姉さんがいるから、せざるを得なかったのに!」

「それを突っ込まれると痛いわ。したくないけどせざるを得ない、私もそうだった。でもさ。苦しんで喜んで、それって人間になったって言わない? 都合の良いだけの関係なんて、まやかしじゃない」

「私をその境遇に置いたのは遠坂です! 忘れたとは言わせない!」

「そうわかった」

 

「へぇ、何が分ったんですか」

「桜、気合いを入れなさい。今のアンタがしでかしている馬鹿なこと、そして真也、ぜんぶ持っていくから。桜、アンタを引っぱたいて抱きしめたあと頭を撫でる。真也は引っぱたいたあとキスをするわ。いい? 桜も真也も帰るの。その為には何でもするから。だから全力できなさい。いつぞや殴り合った時みたいに、手加減しないからね」

 

静観していた士郎はゲンナリと。

 

「遠坂、挑発しすぎだ」

 

そう呟いた。士郎は爆弾を解体する心境である

 

「あら、失礼ね。紛う事なき本心だけど」

 

凛は気にせず笑うのみ。その結末は桜の怒りである。彼女は我慢ならぬと声を張り上げた。

 

「アーチャー!」

 

桜の数歩前に現れたのは凛のかつてのサーヴァント、アーチャーであった。腕を組み、他人を蔑むような皮肉めいた表情は何一つ変わらないが、色が変わっており印象が大分異なった。カラーリングはアサシンと同じだ。一言で例えるならばティターンズカラーである。黒髪のアーチャーというのも新鮮であろう。

 

ただ首に帯が巻かれている桜の黒い帯が気になった。それが包帯の様に見えたからだ。気がつけば3人の背後にライダーが立っていた。手にする鎖がチャラと軽い音を立てる。無限の剣製はセイバー陣営全てが知るところ。固有結界発動後に踏み込んでは、援護が間に合わない恐れがあったのだ。ライダーを見下ろす桜は不愉快さを隠さない。侮蔑の色すら浮かんでいた。

 

「そう、ライダーは私に刃向かうんだ。せっかく見逃してあげたのに」

「今の主はサクラではありません」

「意外と尻が軽いのね」

「ライダーも桜たちが死ぬ事に反対って事だ」

 

士郎の言葉に呼応するかの様に、凛は一歩進み出た。

 

「アーチャー、私を恨んでる?」

 

そうは聞くものの、凛は呵責の様な仕草はおくびにも見せなかった。風邪でも引いたのか、とまるで体調を伺う様である。もちろんその心中、察して余りある。知ってか知らずか、アーチャーの態度はなにも変わっていなかった。

 

「まさか。蒼月真也の殺害は私の希望でもあったからな。君がもっと早く決断してくれていれば、こうはならなかったとは思うがね」

「皮肉っぽいところ、相変わらずなんだ」

「これは性分だ。死んだところで変わるものでも無かろう」

「一応聞くけれどアーチャー。恨んでいないなら、何しに現れたのよ」

「桜がな、解放してくれんのだ。ほら」

 

この時流石の凛も息を呑んだ。セイバーと士郎も目を剥いていた。アーチャーの左腕は己の髪を掴み、己の首を持ち上げていたのである。

 

「首が切れたまま、頭と胴が泣き別れしているというのに死ぬ事が出来ない。今の私は終始殺され続けている、と言う事だ。首無し騎士(デュラハン)と呼ばれるのは痛快だが、これが予想以上にしんどくてな。桜は凛を殺せば解放すると言った、まだ説明は必要か?」

「仕方ないか。それはとても辛そう」

 

凛の表情には諦めとやるせなさ、悔しさもあった。

 

「死ぬ程にな。だから凛、死んでくれ」

 

彼は固有結界の開闢を意味する言葉を紡ぎ始めた。

 

 

◆◆◆

 

 

 

「So as I pray, UNLIMITED BLADE WORKS.」

 

弓兵の心象世界は成立し、固有結界はここに成った。士郎の魔術回路が刺激され火花が散った。とにかく、固有結界が成ってしまった以上、作戦は変更だ。ライダーとセイバーは慌ててマスターの元に合流するより他は無い。

 

凛は、スモッグに蓋をされた息苦しい空と、軋みを上げる巨大な歯車と、血に濡れた大地に突き刺さる剣の墓標を視た。

 

「これが固有結界……」

 

凛の呟きは驚愕に他ならない。彼女とて実物を見るのは初めてだ。その彼女を見下ろすアーチャーは先達のよう。

 

「凛。セイバーとライダーの攻略を前に練ったが、それを覚えているか? 攻撃に勝るセイバーと速さに勝るライダー。この二騎の連携は手に余ると言う結論に至った。ではなんとする。答えは明解。遠距離から圧倒的な物量で串刺しにしてしまえば良い。以前の俺であれば、相応に危険のある手であったが今は違う。桜より供給される魔力は無尽蔵。二人で考えた攻略で死ぬとは、皮肉だな、凛」

 

無限の剣製は士郎たちに宝具の雨を降り注いだ。途切れること無く押し寄せる剣の群れは津波の様。通常の矢と異なり、数は少なくとも一振り一振りの威力は桁が違う。まさに絨毯爆撃である。凛たちは散開させられた、せざるを得なかった。立ち止まれば集中攻撃を受ける、そうなれば凌ぎきれないのだ。

 

「なんで固有結界がこんな長時間持つのよ!」

 

結界内は何の障害物もない一様なフィールドだ。もっとも障害物があったところで、どれ程の意味を持つかは定かではない。セイバーとライダーは移動と防御を織り交ぜて主を守るのみだ。

 

セイバーは士郎を守るため迫り来る複数の宝具を弾いた。イリヤをマスターとし筋力はA+、耐久はAと余裕は大分あった。防御の割合が多く、躱す事は希だ。

 

分が悪いのはライダーである。彼女は凜を抱えながら走り続けたが、彼女は躱すが基本だ。だが彼女を抱きかかえていては、杭形状の短剣が振るえないのである。ただ逃げるのみ。加えて凛は生身、過度の機動はダメージとなる。

 

「ぐっ!」

 

猛烈な加速を受け生じた凛のうめき声に、ライダーの注意が逸れた。一条の槍型宝具がライダーの脚を掠めた。その衝撃で、転がり地に伏せる。セイバーと十分距離を取っていたアーチャーは、墜落したライダー先に仕留める事にした。凛に向かい宝具の群れが押し寄せる。致死のそれらをはたき落としたのはランサーであった。彼は途中で引き返し、隠れ、タイミングを伺っていたのであった。凛は感謝しつつもつい文句を言った。

 

「イリヤを探せって言ったじゃない!」

「素直じゃねーな。ここはありがとう、だろ?」

 

青い槍兵が野生めいた笑みを見せると、彼女は照れつつも小さく謝罪の言葉を述べた。実際のところ凛は令呪を使うつもりであったのである。思わぬ乱入に、アーチャーは手を止めた。二人が相見舞えたのは初戦も初戦、邂逅という事だ。

 

「ほう。ランサーを引っかけていたか。凛は意外と気が多いのだな。流石の私も悔しいぞ」

「その辺にしとけや、弓兵。見苦しいぜ」

「どうだランサー。凛の魔力は心地よいだろう?」

「ああ。てめえのムカつくスカし面も気にならない程にな」

 

ランサーは悪態をつきながらも、セイバーと士郎の両名と合流すると士郎にこう聞いた。

 

「坊主、アレはできるか。悔しいがこののっぺりとした地形では分が悪い。近づく前に串刺しだ」

 

ランサーの意図を察した士郎は頷いた。

 

「俺が切り口を作るからライダー、ランサーの順で攻めてくれ。ただその時間はとても短いから難しいぞ」

「は。誰に言っていやがる」

「セイバーは防御」

「衛宮君、私は?」

「真也の姿が見えない、そう言うこと」

「何もせずに見ているだけって、苦手なのよね」

「切り札は奥の手、だろ?」

 

セイバーとライダー、そしてランサーが構えた。士郎は彼女らの背中を視つつ。

 

「セイバー、今から俺は封じたもう一人の俺を呼び起こす。固有結界の展開は俺では無理だ。入れ替わらないように、展開は極短時間とするけれど、もし戻らなくなったら、」

「安心して下さいシロウ。引っぱたいて元に戻しますから。戻るまで何度でも」

「ん」

 

 

◆◆◆

 

 

「話は纏まったか」

 

再開された怒濤の様な宝具の攻撃は集中砲火に他ならない。まさに剣林弾雨だ。それらを3つのサーヴァントが、全力をもって凌いでいた。彼らに命を預け、紡ぐ言葉は士郎だけが持つ呪文である。詠唱開始。

 

“体は剣で出来ている ”

 

それはもう一人の士郎が持つ心象世界。紅の荒野に突き立てられた剣は墓標、見上げる空は昼でも夜でも無い黄昏の刻、それが日没か日の入りかは誰にも分るまい。

 

“この体は無限の剣で出来ていた”

 

心象世界は成り、彼の剣製を始めた。もたげるもう一人の自分を抑えつつあっては、打てる宝具の数は少ない。数が少なくては威力に劣る。従って、彼が狙うのは集中射撃のみである。射出された宝具群は、地球と月が引力に引き合うように、互いに支え合いながら、らせん軌道を描く。その様は岩盤採掘機であろう。士郎の狙いはアーチャー打倒では無く、道を切り開くこと。彼には仲間がいるならばそれで十分だ。その道は反攻の狼煙でもあった。士郎が作り出した道をランサーとライダーの2英霊が疾走する。その二人を例えるなら彗星である。

 

アーチャーは士郎の固有結界展開に驚いたが、予期していなかった訳ではない。それを反撃の切り口にすることも、脚が立つライダー、ランサーの強襲も読んでいた。そして意味が無い事もアーチャーは悟っていた。この間合いでは、次弾を撃ち出し終わりだ。

一秒足らずの未来に於いて、アーチャーに対して迫る二騎は、彼に届く前に串刺しだ。その筈だった。

 

彼がライダーの正体を知ってさえいればその勝利が訪れただろう。ランサーが一歩横に逸れた時、槍兵の背後に隠れていた騎兵が現れた。アメジスト色の髪を疾走する風に棚引かせる様はまさに太陽フレア。それはアーチャーにとって日蝕の終わりに見えただろう。もしくは悪い夢の終わりに見えたに違いない。痛い程に光るメドゥーサの瞳が彼の眼を射貫いた。つまり彼はライダーの魔眼を見てしまったのである。石化の魔眼“キュベレイ”の発動。彼の対魔力は低く、為す術もなく囚われた。また魔眼かと彼は誰かを罵らざるを得なかった。彼の敗因はただ一つ。

 

戦闘開始直前までアーチャーは桜の影の中に居た事である。

 

その魔眼の切っ掛けは重圧だった。騎兵の誇る速度は圧倒的で、瞬く間に距離を詰められ石化が始まった。アーチャーの傍に控えていた桜に対応出来る速度では無かった。同じくして迫るランサーが手にする真紅の宝具に魔力が満ちる。桜を巻き込んではならないのだ。ならばその宝具の選択は当然であった。

 

「刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)!」

 

因果の逆転がなり、真紅の穂先が弓兵の心臓を貫いた。クロスレンジの距離で対峙する、青い槍兵と赤かった弓兵は、この土壇場ですら変わらず、罵り合い侮蔑し合うのみである。

 

「主替えか。ランサー、貴様も軽いな。鞍替えした罪に呪われてしまえ。誇りを捨てた槍兵にはそれがお似合いだ」

 

口から血を吐く弓兵に、槍兵はその表情に労りはない。

 

「アーチャー、お前の状態は把握している。心中察するがそれはそれだ。聞け。最期ぐらい己を己の為に使ったらどうだ。誰かへの呪いが遺言なんざ、未練を残した証だぜ」

「未練などと笑わせてくれるなよランサー。俺らはとうに潰えた者たちだ。今更それを問うたところでなんになる。英霊は英霊らしく、使い潰されるべきだろう」

「お前の性根の悪さは救いようがねえな」

 

「そんなこと、言われなくとも分っているさ」

「嬢ちゃんに伝える事が有れば聞く」

「達者でな、と」

 

それが何かに翻弄されつづけた弓兵の最期であった。

 

 

◆◆◆

 

 

真紅の槍に貫かれた黒の弓兵は陽炎の様に揺らぎ、消えた。桜の中に魔力として収まった。アーチャーのまさかの敗北にサクラは恐れ戦くのみ。ライダーが静かに歩み寄る。

 

「申し訳ありませんサクラ」

 

黒い帯を繰り出し、ライダーを拘束するもあえなく引きちぎられた。宙を漂うそれは舞台にまう紙吹雪。彼女は目を剥いた。馬鹿な。有り得ない。小聖杯たる己にサーヴァントが刃向かうなどと、己の力が効かないなどあってはならない事だ。カッターの様に突き立てた帯はライダーの鉄杭で弾かれた。障子紙を水で濡らした様な脆さである。

 

右を見ればランサーが立っていた。左を見ればセイバーである。そして中央にはライダー。その背後には士郎と凛も居た。特に士郎はみょうちくりんな短剣を持っていた。それに貫かれれば全てが終わる、彼女は本能的にそれを悟った。アサシンは長距離走をさせた影響で戦闘に使えない。敏捷性を失ったアサシンなどウドの大木だ。兄も同様に、憔悴し立つことすらままならない。撤退だ。影に逃げ込もうとした時、その時既に桜はライダーの鎖に囚われていた。

 

「サクラ、しばらくの辛抱です。悪い夢はこれでおわります」

 

彼女はその騎兵の言葉をどう解釈したのだろう。助けを乞うその声は遠坂という指令でもあった。

 

“兄さん助けて”

 

思いの外早く片が付いた、と脱力するのは凛である。彼女の視線の先には、ライダーによって抑えられた桜に、歩み寄る士郎の姿があった。彼の手にある物は“破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)”だ。桜とアンリマユの契約を断てば正気に戻る。それはそれで問題なのであるが、少なくとも世界の終わりは回避出来る。その後種明かしをし真也と一緒に平謝りをせねばなるまい。凜のその未来は、妹の助けを乞う僅か6文字の言葉で砕かれた。

 

実際のところ凛には何が起こったのか理解出来なかった。ただ、セイバーとランサーが叫んでいた事だけは分る。桜の傍らに黒い人影がパラパラアニメの様に表れたかと思うと、ライダーの身体が宙を浮いていた。彼女の身体はその人影にカチ上げられ、アインツベルン城跡地のどこかに落ちた。その様を見た凛は、場外ホームランなどと暢気なことを考えた。

 

なぜだろう、その直後に平衡感覚が無くなった。眼も耳も真っ白で、例えるならホワイトノイズ。視覚と聴覚の許容量を超える刺激を受けて麻痺していた。触覚も同様だった。全身を隈無く、偏り無く叩かれ麻痺し、身体が無くなってしまったかの様な、この物質世界と切り離されてしまったかの様な気分になった。眠たいのに眠ることが出来ない、起きたいのに起き上がる事が出来ない、とても不快な感覚だ。

 

声が聞こえる。少女と男性の声だ。罵声怒声ではなく、静かな物言いだったがその声には警戒と戸惑いと憂慮が混じっていた。

 

薄目を開けば目の前に緑色の草があった。ストレリチアだ。耐寒性の植物で越冬出来る。何故それを知っているのか、思い巡らせれば母の影響だと思い出した。何故それがここに有るのか。イリヤか過去のアインツベルンの誰かが気まぐれに移植したのかもしれない。

 

ぼうとしていれば何故だろう、世界が横たわっている。大地が上から下に走り、植物は右から左に向かって生えていた。ランサーもセイバーもそうだ。植物と同じ向きに立っていた。

 

二人の間、少し離れた場所に誰かが立っていた。凛より随分背は高いが同い年だと分った。ロングコートに隠した野暮ったい恰好に見覚えがある。だがその風貌に見覚えがない。桜と同じ髪の色、桜と同じ肌の色、桜と同じ瞳の色、もっとも魔眼殺しを掛けていてはその奥に灯る色など分りようもない。あれは誰だ。そこでようやく凛は現に帰った。

 

ガバリと起き上がれば、彼女の周囲一面は、爆撃でもされたのかと疑いたくなる様な有様だった。桜の立つ位置を中心に、土が盛り返り、草木が倒れている。その影響半径は野球場程もあった。

 

アインツベルン城を崩壊させたあの爆発の再現かと思えば、桜の背後は何事も無かった様に佇んでいる。扇状の、もしくは半月状の、威力を持った何かの影響だと凛は推測した。巻き上げられた土砂と草木などが雨のように降り注ぐ。空を見上げれば、巻き上げられたそれらが、飛んでいる羽虫一群に見え、精神衛生上宜しくない。

 

「嬢ちゃん、無事か」

 

凛の傍らに立つのはランサーであった。立ち上がれば、視線の先に桜を左腕に抱いた真也の姿が見えた。理解が追いつかない凛にランサーはこう告げた。

 

「真也の技だ。それに襲われた」

「技って、どいう技よ、これ」

「真也の手刀が音速を超えて衝撃波を生み出した。それに魔力を乗せてこの威力って事だ」

 

見ればランサーもセイバーも宝具を構えている。二人は一撃をもってその衝撃波を断ち、各々のマスターを守ったのだった。筋力と耐久の差故、セイバーよりランサーの負荷が大きく彼はダメージを負っていた。おくびに出す彼では無かったが、治癒はせねばなるまいと凛は手早く呪文を唱え始めた。先手はセイバーであった。

 

「蒼月真也。聞いてはいたが想像以上だな。貴様人間か」

 

背後の士郎を庇いつつ、セイバーがそう問えば。

 

「お前たちが何処の誰かは知らない。なぜ士郎と凛、その二人と一緒にいるのか、何故ここに居るのか、その理由も問わない。ただ妹にしでかした落とし前は付けさせて貰った。これ以上続ける気は無い、退け」

「……そうか」

 

彼はもう桜と凛と士郎の事しか覚えていなかったのである。桜はとても自然な状態で兄にしな垂れかかっていた。彼女を守ってきた絶対の安心がそこに有ったからである。

 

「嬢ちゃん」

「少し待って」

 

真也は3人以外覚えていない、その事実にこれは困ったと凛は呻いた。計画のことを覚えているのか、ここで決着を付けるべきか、ランサーの決着を付けるという願いもある。探らねば。背後を探ればライダーの起き上がる気配があった。彼は手加減をしたらしい、トラウマは有効だ。

 

凛は歩み寄る。慎重を期せねばなるまい。凛に反応すれば、桜の破滅と凛の生存に挟まれていることになる。ならば、計画の詳細を忘れていようとも、桜を助けたいという根幹は覚えているはずだ。

 

「良いご身分ね真也。真打ちは後から登場って訳?」

 

凛の声を聞き、姿を認めた彼は、強ばった。顔も苦痛に歪めている。彼は姉妹に挟まれている、ならば打つ手はある。凛は歩みを止めた。これ以上近づいては彼の進行を早めてしまう。

 

「兄さん、下がりましょう」

 

態勢の立て直しだ。アサシンの回復を待ち、兄の症状を促進させ記憶を消す。セイバー、ランサー、ライダーを手玉に取ったこの兄がいれば何を恐れることがある。天の杯は殲滅させた後でも構わないのだ。

 

「姉さんなんかと話しては駄目です」

「黙ってなさい、桜」

 

凛は真也の死を意味する眼を躊躇うこと無く見据えた。受け入れた。

 

「良い? 色々言いたいことはあるけれど。これだけ伝える。全力で掛かってきなさい。アンタの全部ねじ伏せてあげるから」

 

凛の堂々とした、さも当然と言わんばかりの有り様に彼は笑みを堪えられない。

 

「おかしい事言った? 私は宣戦布告したつもりなのだけど 」

 

彼女のその物言いは、できの悪い弟を余裕を持ってあしらう姉の姿であった。

 

(こうこないとな。遠坂凛はこうでないと頼った甲斐が無い)

 

挑発めいた妹の姉に、彼は唇の動きだけで助けを乞うた。

 

“二人で待ってる”

 

凛は無言で頷いた。

 

「……っ!」

 

真也が突然うめき声を上げた。心臓を抱え、蹲ったと思えば、気を失っていた。口から逆流した血は、嘔吐のように大量であった。眼、耳、鼻からも血を滴らせていた。兄に縋り付く桜は労りを見せたが、凛はその意味を理解していた。

 

「大丈夫ですか、兄さん。可哀想に、姉さんを見たからですね。ここに用はありません。もう退きましょう」

 

凛は怒りを食いしばる。彼女はそれを微塵も隠さない。

 

「桜、アンタ。ワザとやったわね」

「大聖杯でお待ちしています。決着を付けましょう?」

 

桜は分かり合っている姉と兄が不愉快極まりないのだ。

 

(絶対に許さない)

 

それはどちらに向けて放たれた呪詛なのか。

 

 

◆◆◆

 

 

二人が消えた後イリヤが現れた。彼女は様子を伺い隠れていたのである。イリヤと凛が全員に治癒を施した頃、既に陽は落ちかかっていた。森の外に控えて居るであろう舞弥に無線で状況を知らせた後、彼らはアインツベルン城の瓦礫の中で一夜を過ごす事にした。追撃を掛けたかったが、休息が必要なのは士郎たちも同じだった。初めての固有結界展開で彼は憔悴していた。幸いな事に彼は彼のままだった。

 

機能を維持している部屋を見つけた彼らはそこを一夜の宿とした。部屋の片隅には石油ストーブが煌々と灯る。それは城の倉庫から持ちだした物で、破損していたが士郎が修理したのであった。

 

その部屋にはベッドが二つ。イリヤと士郎は早々に寝息を立てていたが、凛は中々寝付けない。アーチャーの“達者でな”という最期の言葉が心に残る。彼のその言葉に含みはない、その確信はあったが凛はそれを素直に受け取ることが出来ないのである。

 

むくりと起き上がり部屋の扉を開け、一歩踏み出した廊下は吹きすさんでいた。隙間風どころではなく、正真正銘冬将軍である。起きがけの身体にはその寒さが堪える事この上ない。身を震わせながらも風上に視線を走らせれば星空が見えた。そこは廊下の終点であり、崩壊した城の断面でもあった。

 

その展望台に居るのはセイバーである。崩れた壁のなれの果てに腰掛け、残っている壁に背を預け、立てた片膝を抱えていた。青い装束姿で鎧を解いていた。その碧の瞳に映るのはもちろん星々であった。

 

「まだ受肉を迷ってるの?」

 

凛は羽織ったコートの襟を立てるとセイバーの横に立ち、セイバーと同じようにその光景を見た。朽ちた廃墟の空には星々が煌めき、それは存外美しかった。廃墟に美学を感じる種族はそれ程多くなく、英国と日本ぐらいの筈だ。太古とは言えブリテンは英国。セイバーもそれを感じているのだろう、それに思い至れば二人がシンパシーを得てもやむを得まい。

 

「理屈では決まっています。私は彼に借りがある。その彼にそう頼まれた以上断る術は無い。なにより、それは私の望みでもあるのです。シロウを見届ける事が出来る。そして、受肉し天寿を全うした暁にはカムランの丘に帰る、それはキャスターの保証付きだ。何から何まで、お膳立てがされている。なのですが、」

「その気持ちは分る。素直に受け取れられない、って事でしょ? 美綴さ、綾子の気持ちが分るわ。私に酷い事して、計らずとも私に更に酷い事させて、許すから許してくれなんて。そんなのズルいじゃない。どうすればいいのよ」

「リンはどうするつもりです」

「多分セイバーと一緒。色々言ってはみたけれど、不安はある。ちゃんと話してみないと分らない」

 

夜の冬風に吹かれ、星に願いを馳せれば、いつしか相応の時間が経っていた。

 

「リン、明日は決戦です。備えて下さい」

「そうするわ。セイバーも程々にしておきなさい」

 

凛が消えた後。

 

「今夜の星は妙に騒がしい」

 

セイバーの漏らした呟きは、星空に消えていった。翌朝。大空洞にて待つ、という書き置きを残してイリヤが消えていた。アサシンのスキル気配遮断である。桜はアサシンの回復がてら待機させ、虚を突き攫ったのであった。

 

 

 

 

 

つづく!



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49 大聖杯決戦編1

アインツベルン城で一夜を明かした、士郎ら一行は柳洞寺に辿り着いた。イリヤの安否に不安が募るが、急いては事をし損じると己を言い聞かす。イリヤと士郎を繋ぐパスは健在、それは彼女が無事である証だが、相手は己の兄にあそこまで強いる妹だ。安穏とアテに出来る状況でも無いだろう。

 

この地の管理者である凛に導かれるまま、参道を登り、途中で道を外れ、草木が生い茂る道無き道を暫く歩けば、大空洞へ繋がる入り口に辿り着いた。

 

「士郎。私はここまでだけれど、存分に気をつけて」

「安心してくれ。皆で帰ってくるよ」

 

舞弥は子を強く抱きしめるとその頬に唇を添えた。

 

「セイバー、この子をお願いします」

 

彼女は強く頷いた。

 

 

◆◆◆

 

 

新都に聳えるセンタービルは、冬木市でもっとも高いビルだ。オフィス、ホテル、レストラン、様々なテナントが収まり、祝祭日ともなれば人で賑わう。その多目的高層建築ビルの屋上に二人の人物が立っていた。一人は女性、もう一人は男性である。屋上は関係者以外立ち入り禁止だが、二人はその様な決まりに縛られない存在であった。

 

女性は幻想的で時代めいた姿だった。纏う衣類は古式の衣装であったが、セージグリーンのスモックワンピースに似ていた。それは半袖で、スカートの丈は臑に掛かっていた。そして、武装である。

 

楔帷子の鎧を身に着け、纏う真朱色の外套は足下まで掛かり、左腕には丸みを帯びた逆三角の楯があった。右手には質素だが身の丈程ある槍を持っていた。頭に備えるハーフヘルムには鷲の翼が雄々しく広がっていた。

 

その女は30歳前後の容貌。真也より小柄で、桜より大柄だった。肌は白く、真也と同じ黒い髪。真也と同じ黒い瞳、真也に似た顔立ち、否、真也が似た顔立ちだ。

 

彼女に並び立つ男性の髪は白く染まる。それは老いの象徴であったが、今なお雄々しく力強かった。生やした髭は威厳の象徴でああり、事実彼はそれを有していた。纏う衣装は黒。古代の漢の衣装“円領袍”に似ていたが西洋の仕立てであった。還暦をとうに過ぎた外観年齢だが、秘める力は未知の世界の理。異星というより異星系。まだ幼年期に居る人類には届かない、遙か未来の常識を老人は体現している。

 

二人の視線の先には柳洞寺があった。一般人であれば輪郭は曖昧となり色褪せる距離だが、二人には明瞭に見えた。だが見定めている物はその奥、地下に鎮座する大聖杯である。高層ゆえ冷たい風が荒れ狂う。それをものともせず老人の声は強く重く響いた。

 

「ただ見ているだけかね」

 

その女性は三つに編み上げていた、長く黒い髪を風に揺らしていた。

 

「あの子らは未来を己の手で掴もうと足掻いている最中です。諦めたくは無い。今はただ見守るのみ 」

「諸々の道理を超える存在が、親であり家族であると私は思うがね」

「ロマンチストですね。その様な言葉貴方から聞くとは、それほど私をけしかけたいですか」

「世の中の理が全て理屈なら、これ程退屈なものは無かろう。正しい式も連ねすぎれば、己自身を縛り、停滞、そして無へと向かう。エラーとは存在の為に生み出された可能性なのだよ。君の子もその可能性なのだと私は思うがね」

 

淡々と語り合う二人は、視線を合わすことはおろか、交える事すら無かった。二人の距離は自動車1台分、それは好意的に見ても友好的な距離ではない。人が見れば、関わりたくはないが、関わらざるを得ない距離だと考えるだろう、少なくともその女性はそう思っていた。

 

「腕に相応の自負はありますが、被害を出さずにアレを仕留めるには少々骨が折れます。魔力供給の件、感謝の言葉もありませんが、人に説教を施すのであれば、その気分の悪い笑みを止めて頂きたい。正直に申し上げて不快です」

「君は人ではなかろう。遙か太古に大地から姿を消し、神秘によって復活した存在だ」

「直です。キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ。人と子を成した事が、正しい事かその回答が得られます」

「回答とは得るものでは無く作るモノだ。ま、君が干渉しては彼らの試練を台無しにしてしまうからな。躊躇うのも無理は無いが」

 

その老人の表情に変化は無い。だがその言葉調子は確かに上がっていた。

 

「しかし、君が我が子の為にと拾った娘がトオサカに連なる娘とはな。こうでなくては面白くない。君はその事を知っていたのかね?」

「いえ。桜を見た時ただ希望だと」

「見たまえ。あすこには混沌という名の希望がある。“我らの逢瀬”も確定された希望だ」

 

その時初めてその女の表情に変化が現れた。10人が10人声を揃え評する機嫌の悪さであった。

 

「度重なる皮肉と嫌がらせ、程々にしておく事です。今まで幾度となく繰り返し伝えしてきましたが、私にとって貴方は不愉快な存在です。不要な発言は慎んで頂きたい」

「私が贈った言葉で不要なものは何一つ無い。君のその癇癪を起こす直前の表情、私にとってはこの上ない楽しみなのだから」

「黙りなさい。このエロジジイ」

 

 

◆◆◆

 

 

士郎たちが侵入すると、暫くはトンネルの様な横穴が続いていた。トンネルと言っても相応に大きく、翼の無いジェット旅客機が収納出来そうな程の広さはあった。黙しながら歩く一行の静寂を破ったのは士郎であった。

 

「なあ遠坂。どうして桜は姉さんを攫ったのだと思う?」

「姉を直々に殺したいんでしょ。サシでね」

 

やっぱりか、と士郎は気難しい顔だ。単純に交渉のカードにしたいのだろうという彼の希望は藻屑と消えた。骨肉の争いもここまで拗れると感覚もおかしくなる。セイバーが繋いだ。

 

「私たちの分断を図る、その為のカードと言う事でしょうか」

「でしょうね。頭使ったじゃない、あの娘」

 

凛は冷静に見える。だが中身はどうなのか、ライダーはそれが気がかりであった。洞窟内を照らすヒカリゴケを便りに歩き続けること数刻。暗がりの中に人影があった。その人物は、歩く事も無く、構える事も無く、静かに佇んでいた。アサシンである。

 

ランサーを認めた彼は愉快そうに結んだ唇の端をつり上げた。ライダーとセイバーが己の武器を携えるが、それを制止したのはランサーであった。

 

「奴の狙いは俺の様だ。先に行け」

 

応えたのはセイバーであった。

 

「わざわざ一騎打ちに応じる事は無かろう」

「セイバーよ、思い出せ。どうして妹の嬢ちゃんはあのちびっ子を攫った? 応じなければ、つまり……そう言うこったろ?」

 

アサシンは沈黙を続けていた。つまり肯定と言う事だ。

 

「ランサー、済まない。借りておくぞ」

「おう。後でしっかり取り立ててやる」

 

皆がアサシンのやりすごさんと、警戒しつつも歩み始めた。最後まで残ったのは凛である。契約期間は浅くとも、彼女はランサーのマスターなのだ。最後まで残るのが筋だろう。なにより、もう会えないかもしれないのだ。彼が告げた言葉は凛にとって意外な事であった。

 

「嬢ちゃん、あのバカには追跡用のルーンを刻んだ石を渡してある。キャスターに話を通しておいた。見失ったら辿れ」

「ランサー、少し耳を貸しなさい」

「あん?」

「ありがとう。貴方が居てくれて良かった」

 

頬に感じた柔らかい唇の感触。マスターの待遇にランサーも満更ではないと、屈託の無い笑みを浮かべた。

 

「言っておくが、餞別にはならねえぜ?」

「馬鹿ね。これは足止めの報酬よ。良く聞きなさい。マスターとして命じる。アサシンを倒して駆け付ける事。アンタには特別製の舞台を用意してるんだから」

「扱き使う主って事は身に染みてる。さっさと行きな。嬢ちゃんにも大仕事が待っているんだろ?」

 

彼女は笑みを浮かべると、そのまま洞窟の闇の中に消えていった。ランサーは槍を一回し。ヒュンと鋭い風鳴りがある。

 

「さて、お出迎え痛み入る、と言いたいが亡霊が一体俺に何の用だ」

「これは奇異な事を言う。お前は我らが生者だとでも思ったのか。我らは手違いで、呼び出された彷徨う者に過ぎぬ。この地に生きる者とは根本的に異なる、お前がそれを知らんのか」

「四の五のうるせえよ。其処をどけ。俺は急いでいる。電車の停車時間は短い」

「そう言う訳にはいかん。主の命でお前を真也殿に会わせる訳にはいかんのだ。そう厳命されている」

「そういう事かよ。聞きしに勝る兄思いの妹だな」

 

妙な脱力感に支配されつつも、ランサーは構えた。アサシンの足下を狙うその穂先は、諸々の全てをひっくり返す牙の様に、開戦の狼煙を待っていた。アサシンも背にある長刀を抜いた。闇属性に染まろうともその刀身は光を失う事は無い。その様を例えるならば、真夜中の三日月である。彼が手にする刃はただの刃。主が闇に染まろうとも変わる事は無いのだ。

 

「はて、私が聞いた理由と異なる様だ」

「あん?」

「出来の悪い兄には仕置きが必要だと、ランサーとの決着など許るさんと聞いている」

 

相応の鋭い笑みを見せていたランサーであったが、一転、憮然とした表情となった。それでも構えを解かないのは、目の前のアサシンが油断なら無い為である。

 

「ったく、あの野郎。また怒らせやがったな。決着を付ける気があるのかないのか、問いたださねえとな」

「それは私も同じ事だ。セイバーを待たせている故、ゆるりとしておれん」

「はっ、セイバーに粉を掛けやがったか。見た目の堅さの割に気が多いじゃねえか」

「合戦上に一片の華が咲くならば、心奪われる事もやむなし、そうは思わんか」

 

アサシンの構えは刺突、雄牛の構えに似ていた。極限にまで鍛え上げた刀身が瞬けば、月光を浴びて瞬く水面が浮かび上がる。

 

「言いたい事は分る。だが決着の舞台は先約済みだ。ご退場願うぜ」

 

アサシンの足下を向いていた穂先は、その心臓目掛けて疾走した。主の命に呼応する生き物の様であった。

 

 

◆◆◆

 

 

アサシンが手にする長刀はただの剣である。魔槍ゲイボルクとまともに打ち合えば、ダメージは免れない。刃が欠けるで済めば御の字だろう、最悪は折れかねまい。従ってアサシンは、敏捷性と卓越した剣技を生かし、ランサーを迎え撃つのである。彼の剣技は随一だ、些細な隙であろうと見逃さない。

 

相対するランサーの得物は槍。剣と槍の相違点は基本的に間合いである。当然槍の方が長く有利だがアサシンの得物は長干竿、間合いはほぼ互角となるが、それでもなお有利な点が二つあった。長刀は基本的に末端の柄を持ち手とするが、槍は穂先以外全てが持ち手だ。つまり、棒として扱えると言う事である。何より槍は剣より重い。ランサーは大ぶりを避け、小刻みに小さく攻める手段を選んだ。小さい突き、小さい振りであれば切り返しも容易で不測の事態にも応じやすい。振りが小さい分その威は落ちるが、それを補うのが持ち手の柔軟さと重さという槍の特性である。

 

二人が戦うのは初めてであるが、黒アーチャー戦をアサシンは見ていた。ランサーもまた、セイバーから情報を得ていた。互いに手の内も、奥の手も露見している。初手から奥の手を持ち出せば、その結末はどうなるか分らない。何より二人は武人だ。真っ正面より打ち合った。

 

ランサーは柄の中程を持ち、間合いはミドルレンジ。狙うは突きから薙ぎの連携である。アサシンが右に避けても左に避けても、その穂先はアサシンを捕らえるだろう……その筈だった。

 

突きを躱されたところは良い、薙ぎに繋げれば、アサシンの身体に穂先が追いつかない。回り込まれる様はスローモーションの如く。アサシンの敏捷はA++、ランサーはA+、1ランク上だ。歩術も加算されアサシンの白刃がランサーの首に近づいた。ランサーは追撃も迎撃も諦め、そのまま走り抜ける事にした。

 

本能的に穂先を下げ、末端の石突きを上げた。赤槍は、ランサーの首を狙うアサシンの太刀筋を阻み、打ち合い厳禁のアサシンは刃を引いた。ランサーの首を諦めざるを得なかった訳だが、それはこの瞬間の話である。

 

文字通り切り抜けたランサーが慌てて切り返せば、目の前にアサシンの姿があった。追撃を掛けられたのである。防御も回避も攻めもままならないタイミングだ。ランサーは仕切り直しだと、迫る刃に踏み込んだ。重い槍を抱えて動いては機会を逸する。踏み込みに於いて彼は右手にある槍の質量を、踏み込みつつ腕を伸ばした。慣性保存の法則だ。重い槍の質量を壁になぞらえて、手で押したとも言い換えられようか。

 

ランサーは左肘をアサシンの胸に打ち込んだ。それの持つ意味はカウンターである。舐めるな、とランサーが心中で吠えた事と、アサシンが大きく飛び退いた事は同時であった。手応えが軽い。

 

ランサーが構え直した時には、アサシンもまた構え直していた。つまり。生き残る為の本能衝動であったランサーのカウンターを持ってしても、アサシンは捕らえられなかったのだ。アサシンまでの距離は自家用車3台分。倒せなくともダメージを期待したランサーであったが、それもままならないとあっては不満の一つも溢したくなる。

 

「チッ、やるじゃねえか。身体を捻らせ威力を削いだ。その姿勢で更にバックステップ、お前の身体捌きは尋常じゃねえな」

 

垂らした前髪越しに見えるアサシンは非道く機嫌が良い。此度の追撃でランサーを討ち取っていた筈であったのだ。いずれにせよ、小手調べはここで仕舞いだ。

 

「流石ランサーの位を頂く者、と言ったところか。美事なものよ。これ程の手練れとは思わなかったぞ」

「手を抜いてたって事かよ。大した余裕じゃねえか」

「急くものではない。私はお前を称賛しているのだ。脚捌き、身のこなし、手遣い、槍の使いこなし、どこを摘まんでも不満が無い。思うがまま剣舞に興じたいが、主の手に落ちたこの身とあっては、我が太刀筋もいずれ見切られよう。それは少々困るのだ」

「回りくどいぜ。決着を付けたい、そう言いな」

 

アサシンはこの時初めて構えらしい構えを見せた。

 

“燕返し”

 

セイバーから聞いていた通りの構えだ。一の太刀、頭上から股下までを断つ縦の斬撃である。二の太刀、一の太刀を回避する対象の逃げ道を塞ぐ円の軌跡を持つ斬撃である。三の太刀、左右への離脱を阻む払いの斬撃。その三太刀が同時に襲い来る“多重次元屈折現象(キシュア・ゼルレッチ)”それにアサシンの敏捷が加われば、如何にランサーとて打つ手が無い。

 

「前もって伝えておこう」

「イチイチうるせえよ。この間合いは俺のゲイボルク(宝具)の一歩外。だが、お前の脚と技、その長刀を持てば、お前の間合いだ。言われなくても分ってる」

「さて、ランサーよ。この果た死合い、断ってなどくれるなよ?」

「追い詰めておきながら、その是非を問うとはお前も意地が悪い……良かろう。受けて立つ」

「礼を言うぞ、ランサー」

「構うな。ここまでお膳立てされたあげく、逃げたとあっては師に顔向けが出来ん、それだけだ。だがお前が奥の手を出す以上俺もまた死力を尽くす」

 

ランサーが指を宙に走らせ描くルーンは、アルギス、ナウシズ、アンサス、イングス……四肢の浅瀬(アトゴウラ)である。宙に刻まれる北欧の文字、アサシンは警戒の前に興が募った。

 

「ほう。奇術を使うか。まやかしの類いであっても美しいものよ。やはり筆ぐらい持つべきであったか」

「奇術を使うのは貴様も、同じだろうが」

「それを言われては耳も痛くなる。かまわん。幾らでも何でも使うが良い。お前の槍が届く前に仕留めるならば、なんら変わりはしないからな」

 

真紅の槍を構えるランサーの重心は前のめり。躱す事も防ぐ事も考えない、狙うは首級、ただ一つ。そしてそれはアサシンも同様であった。互いの鼓動すら聞こえそうな、沈黙を破ったのはアサシンの意外な言葉であった。

 

「実を言うとな」

「あん?」

 

一触即死の緊張に水を差されたと、ランサーは気分が悪い。

 

「主の兄殿と剣を交えてみたかった。かの御仁も凄腕の剣客だからな。セイバーも優れた剣士だがその太刀筋は剛、剣技の応酬という意味に於いて少々ものたりんのだ。転瞬に満たぬ間に、繰り返される剣技の応酬、剣閃の瞬き。それに想いを馳せれば心が震える。生と死の間隙に身を置けばさぞ愉快であろう」

「そら気の毒なこった。味方、それも主人の兄となれば叶わぬ願いだ、諦めろ」

「主はこう言った。ランサー、お前を倒した暁には死合を認めよう、とな」

 

その言葉を聞いた彼はもう一つルーンを描いた。それはアトゴウラとは別口である。

 

「用意は済んだぜ」

「いざ」

 

二人の心の臓が、一つ強く拍った。

 

 

◆◆◆

 

 

アサシンのそれは神速の踏み込みである。その速さを例えれば、その身体が描く線、つまり輪郭が曖昧になる程だ。鉛筆で描いた線を、擦りぼやかした様とも言えようか。その身体捌きが加われば、太刀筋など追えよう筈が無い。

 

アトゴウラによりランサーはアサシンと同等の早さとなったが、ランサーの槍が如何に鋭くともその攻撃は一条。三の太刀を繰り出す燕返しを躱す事など不可能だ。ならばその威を削ぐより他は無い。

 

二人の刃が邂逅する刹那、足下より炎の柱が立ち上った。それはランサーが追加で描いたアンサス(火)のルーンである。二人の踏み込みにあっては、発動直後のアンサスなど微々たるものだ。だがランサーの搦め手は、アサシンにとっては意表を突かれた事に他ならない。相撲で言うところの猫欺しだ。湧いた炎によってアサシンの踏み込みに陰りが生じれば、ランサーは構う事なく火焔に踏み込んだ。

 

アサシンに迫る者は牙を剥くランサーである。さてなんとする。躱し、次手を考慮していては勝算は極めて低い。脆いその身ゆえ炎に捲かれれば、敏捷性は失われよう。瞬時に決断しアサシンは燕返しを打った。彼の手にする長刀が光を放つ。

 

ランサーが手にする真紅の槍は、炎に捲かれつつもなお赤かった。互いの剣戟が交差した刹那。勢い余りランサーは前のめりに転倒した。その痩躯の腰と肩は深く引き裂かれていた。左肩から縦に裂かれた傷は致命傷、霊核である心臓を断っていた。だがどうした事か。彼の手には槍が無い。何処へ行ったのか、そう視線を走らせれば、アサシンの様子がおかしい。彼は腹から赤い棒を生やしていたからだ。

 

「かはっ!」

 

アサシンは吐血と共に、彼の腹を貫いた棒を握った。それはゲイボルクであった。ランサーは緻密な槍捌きを犠牲にし、ただ貫く事のみを狙った。心臓は外れていたがそれで十分だ。アサシンの耐久はE。ゲイボルクのダメージは彼の機動力を大きく削いだ。尚且つ、火焔に捲かれるその身は急速にダメージを追いつつあった。

 

うめき声を上げ、腹を貫いたゲイボルクを抜こうと試みるも、力が入らない。この場を離れるべきだ、と歩むもそれもままならない。よたよたと歩むも、火焔の急激なダメージで等々脚から力が抜けた。膝立ちするアサシンの目の前には、文字通り獄炎が広がっていた。陣羽織が燃え炭になり、髪が燃えれば、その灰は炎が起こした風に塗れ宙を舞った。手足など焼け焦げ見るも無残な有様だ。炎に塗れ為す術がない、とうとう彼は終いを受け入れた。膝を着いたアサシンは、少し離れた背後に居るであろうランサーを見定めもしなかった。

 

「ふ、槍術を極めた武士(誉れ)だと思えば、とんだ奇策師であったか。我が眼も曇ったものだ」

 

炎越しに見える槍兵は血を吐き、確定された死が生み出す苦痛に苛まれながらも、尚立ち上がる。今までもそうで有った様に、これからもそうである様に戯けて見せた。

 

「悪いんだけどよ、子供の喧嘩に首を突っ込む困った大人の末路としては、この当りが落としどころだと思わねえか? なんつーか、そう。大人の義務って奴だ」

「セイバーに感謝するがいい。刀が歪んでいなければ、今こうして見届ける事は叶わなかったのだからな」

「負け惜しみにしちゃイケてねえが、感謝するぜアサシン。兄を仕留めても良いという、お前の一言で頭が冷えた」

 

アサシンは負け惜しみを吐いた己を恥じるのみである。

 

「……躯だけではなく魂もあの娘の深みに囚われていた、と言う事か。お前の勝ちだ、ランサー」

 

その言葉を残しアサシンの身体は火焔の中に崩れ去った。満身創痍のランサーは洞窟の壁に背を預けた。見上げれば、炎に炙られ全てが揺らいでいた。

 

「くそったれ、最後の最後で運がねぇ。人生上手くいかないってのは本当だ。全力戦闘したかったが大人の責務とあれば、しゃーねーか。ガキどもを引っかき回したその後始末はしねえとな」

 

己を嘲笑しつつも、不思議な事に満たされてもいた。綺礼にバゼットを奪われ、不満だろうが仕事はきっちりこなす事は当然だと死闘は半ば諦めていたが、情という軽薄な掛け合いをしながら、死闘に身を投げたバーサーカー戦は実に楽しかった。それを思い起こせば、自然笑みが溢れた。

 

「あばよ、真也。しっかりやれ」

 

彼は最期まで、死してなお膝を折らなかった。

 

 

 

 

 

 

つづく!



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50 大聖杯決戦編2

「きついわね、これ」

 

凛が誰に言うとでもなく呟いた。洞窟には生々しい生命力(魔力)が溢れていた。活気に満ち、生を謳歌しようとする誕生の空気に士郎も過食症気味だ。堪えながら暫く歩けば大きく広げた空洞に出くわした。学校のグラウンド程の大きさはあった。見上げれば闇に霞み見えないが、天井まで10メートルはあろう。突然先鋒のセイバーが足を止めた。愛剣を構える。

 

「下がっていて下さい。居ます」

 

彼女の声に震えは無かったが緊張はあった。殿を務めていたライダーの鎖が音を立てる。士郎には何も感じられなかったが、何か居る事だけは直感で理解出来た。例えるなら、真夜中の森を逃げる感覚だ。振り返ってもなにも見えない、聞き取れない。ただ、何かに狙われているという、確信のみあった。

 

突然、視界が強い光で染まる。それはアーク溶接機の光にも見えた。稲光は少し大げさかもしれないが、とにかく強い魔力同士が、接触反発しあう光だという事が分った。何事かと思う前にそれは、何の前触れもなく鎮まった。視力が戻った頃見える物は、唸りを上げるセイバーの風王結界のみである。士郎が問いかける前にセイバーは応えた。

 

「強襲されました」

「強襲?」

「はい、あの男の拳です」

 

士郎は魔術をもって視覚を強化する。左右に視線を走らせれば、暗闇の中、行く手を遮る様に二つの蒼い光が浮かんでいた。ランサーと別れた士郎たち一行を待ち受けていたものは、この計画に於いて最大の障害となる人物であった。ダークグレイのコートを纏い、だらりとぶら下がった拳は蒼白く光っている。魔力を籠めている証だ。その人物は無手、そして魔眼殺しは掛けていなかった。それを確認したセイバーの声は幾分明るかった。

 

「朗報ですシロウ。拳では死の線は切れない、点は突けない。これは切り口となります」

「トラウマか」

「恐らく」

 

漂う致死の緊張感、それをものともせず凛はセイバーの一歩前に歩み出た。

 

「来たわよ真也。いきなりご挨拶じゃない?」

「……」

「何か言ったら? 直接話すのは久しぶりなんだから」

 

様子がおかしい。セイバーが凛の前に一歩出た。彼は凛に向かって確かにこう告げた。

 

「誰だお前は」

 

その最悪の展開に凛は息を呑んだ。皆にとっても、凛にとってもだ。静かに告げるライダーの心境は、近しき人に余命を告げるそれそのものだ。

 

「彼女が遠坂凛です」

「そうか。それは失礼した。ここを通す様に言われている。その気があるなら通れ。なにもしないなら手は出さない。ただしその娘以外は駄目だ。俺の許可無く、ここを通ろうとする者は一切の希望を捨てろ」

 

一拍。理解出来ない沈痛な空気に真也が戸惑えば、更に困惑した。

 

「あぁ、もう。絶対泣かない、そう決めてたのに……これは来たわ」

 

目の前の遠坂凛という少女が、突然涙を溢した為である。彼女は何時もの様に不遜な笑みを作ろうとしたが、生憎と涙は止まらなかった。彼女は一歩踏み出すと、両手を胸の前で組んだ。祈りでもあり、懇願でもあった。

 

「アンタって私を泣かすのが趣味なのね。ねえ、真也。覚えてる? アンタは私に出会うべきではなかった、そう言った。でも私たちは実際に出会って、例え嘘だろうとアンタは告白までしたの。嘘でも私は嬉しかった。責任を取らせる、そんな陳腐な台詞は言わない。でも、無かった事になんてさせないんだから。させてやるもんですか」

 

目の前の同年代であろう少女が、何を言っているのか。彼にはとんと理解出来ない。当然だ。彼の記憶は凛と出会う前まで巻き戻されている。だが、今にも泣き崩れてしまいそうな少女の姿を見る事はとても辛かった。幾ら考えても記憶を探ろうとも、その理由が分らない。ならば対応は一つのみ。心当たりが無い以上、ダメージは避けるべきだ。だから彼はこう言い放った。

 

「俺はお前を通せ、とだけ言われている。それ以上近づくならば敵対行動と見なす」

 

彼は心臓を抑えた。

 

「お前は俺にとって災いだ。とっとと失せろ」

「っ!」

 

余りの衝撃に身体が硬直し、歩みも止まる。唇が震え出す。

 

「先に行ってくれ遠坂」

「でも、」

 

凛の感情を抑える堰は決壊寸前だ。気を抜くとなし崩しに成ってしまいそうだった。士郎の気遣いが無ければ、事実そうなっていただろう。

 

「大丈夫だ。この馬鹿はボコってふん縛って、遠坂の足下に跪かせてやる。こいつは遠坂の事を忘れてなんか居ない。辛いから思い出したくないだけだ。文字通り胸を痛めてる、だから行ってくれ。その代わり、姉さんを頼む」

「……ごめん」

 

凛は真也の横を脇目も振らず駆けて行った。真也は嘆きを堪える彼女を見向きもしなかった。空洞を後にし、暫し走ると再び洞窟になっていた。足はいつしか歩みに成っていた。歪む唇を堪える為に強く食いしばる。強く握った拳の甲で涙幾度となく拭うが、生憎とどれ程拭っても収まりそうに無い。胸裏に思い出したくないビジョンが蘇る。それは別れを告げられ、彼の家を飛び出した記憶だ。何故二度もこの思いをしなければならない。よりにもよって同じ人物からだ。

 

「最ッ低!」

 

桜なのか真也なのか己なのか。ここに居ない誰かか、それともどこかの何かなのか。その言葉は誰に向けて放たれた言葉なのか、彼女にも良く分からなかった。

 

 

◆◆◆

 

 

縁深い二人の最低最悪の再会に気を揉みながらも、二人のサーヴァントと一人のマスターは戦の準備を始めた。

 

「シロウ、下がっていて下さい」

 

士郎は素直に下がった。真也に思うところは色々あるが、真っ向勝負できる相手ではないのだ。セイバーが主が下がった事を確認すれば、ライダーは並び立っていた。

 

「ライダー、あの男の敏捷はアサシンと同クラスです。加えて筋力は今の私と同等です。案はありますか?」

「ええ」

 

幾つかの言葉を交わすと二人は、構え、真也に対峙した。それは同意を意味するジェスチャーである。

 

「では手はず通りに」

「セイバーに伝えておきたい事があります」

「なにか?」

「そろそろ名前で呼びなさい。あの男呼ばわりは不愉快です」

 

「ライダー、貴女の物言いは保護者の様だ。今までそうしてきたのですか?」

「冗談を言っているのではありません」

「ではアオツキと」

「それではサクラと被ります」

「……シンヤと」

 

真也VSライダー&セイバー&士郎、この対戦カードはセイバーとライダーが主力となる。

 

真也の脅威はとにかく速度だが、舞台は広大で一様なフィールドである。障害物も無く、立体機動は不可能。天井は10メートルもあり、それを足場にするには少々高すぎる。アサシンの様に見切りに対するスキル(宗和の心得)は無い。出発点と移動速度が分っているならば、対応は可能だ。加えて無手である。

 

セイバーは多少ではあるが苛立った。彼は本当に負けるつもり、否。倒させるつもりでで挑んだのだ。もしこの試練を突破し、友になり得たのであれば、己の命を粗末にするなと、一言言わねば成るまい。“遠坂”を前提とする彼にそう言ったところで届かないかもしれないが、それはそれだ。

 

ライダーの心境は更に複雑だ。拳では魔眼を活かす事ができない、彼はそれを知っていた筈だ。魔眼殺しは魔眼を防ぐ礼装でもある。それでもなお魔眼殺しである眼鏡を取り払っていた事は、彼の置き土産に他ならない。それを悟ったライダーは怒りと悲しみと憤りに支配された。鉄杭を握る拳が力で奮える。

 

誰がこの姉兄妹をここまで追い込んだ。その想いがこみ上げ、形となった。

 

「シンヤ、今助けます」

 

彼女は魔眼殺しを取り去った。一人立つ真也に対し、セイバー、ライダーは散開せず並んでいる。イリヤをマスターとしたセイバーに、真也の超音速斬撃(かまいたち)は効果を持たない、それは先のアインツベルン戦で判明済みである。だが扇状に広範囲攻撃出来るそれは、耐久が低いライダーには分が悪いのだ。彼が左右の拳に魔力を籠めれば、エネルギー密度の余り大気に干渉し、プラズマを起こしていた。

 

彼が持ち得る手は接近戦のみである。障害物が無い以上、セイバーとライダーが飛び道具を用いた場合、回避し、虚を突き、攻める。これは当然の結論であった。そう判断した真也は二人に対し真っ直ぐ踏み込んだ。その結末は自明の理である。彼は彼女の魔眼を見てしまったのだ。

 

ライダーが誰なのかもう覚えていなかった彼は、セイバーを眼前にして石化の魔眼“キュベレイ”に囚われた。距離が相応にあった故、石化には至らず重圧に収まったが、高速機動中に於いてその急変動は致命的である。突如己の身体が鈍くなり、その脚はもつれ姿勢を崩した。彼の目の前には構えるセイバーの姿があった。彼の速度は速すぎたのである。修正を行おうと思えば、既に敵の目の前だった、と言う事だ。

 

真也を迎え撃つセイバーの剣には躊躇いがあった。力加減をどうすればいい? 弱すぎても強すぎても駄目だ。目的は無力化である。心臓を破壊、その後凛の元へ運ぶ事である。真也の拳はまだ威を失っていない。それを喰らえばセイバーとてただでは済まないだろう。

 

真也の拳は薙ぎの太刀筋、つまりフックだ。セイバーが刺突をもって彼の心臓を狙えば、彼女自身が致命的なダメージを受ける恐れがある。やむを得まい。キャスターが居るのであれば、多少の怪我はどうにでもなろう。そう覚悟を決めた彼女は11時から5時の方向へ、刃を疾走させた。打ち下ろした彼女の愛刀に手応えがあった。

 

それは刹那の事。

 

セイバーをやり過ごした真也は転倒し、勢いを維持したまま地を這った。その様は胴体着陸に失敗した旅客機そのものだ。転がり、弾み、頭を岩場に打ち付け、胴体より伸びる“3肢”に力は無くデンデン太鼓の様に暴れ縺れた。

 

空洞内を響き渡る音が収まった頃の事。真也の出方を伺うセイバーの足下には彼の左腕が落ちていた。二の腕の途中から、左指先まで。それは彼女が斬り落とした、彼の落とし物だ。そのセイバーから自家用車2台分離れた所に立つライダーは、不満をありありと浮かべていたが苦情は申し立てなかった。やむを得ないと渋々同意だ。彼女の瞳は離れた所で蹲る彼の身体に注がれていた。急がねば。拘束し心臓を破壊しようと、セイバーとライダーが踏み出せば、

 

「投影開始(トレース・オン)!」

 

どうした事か、背後にいるであろう彼女の主は臨戦状態だ。彼女は直感的に己の死を感じ取った。彼はその最悪な結末を打ち払うべく、投影した宝具を躊躇う事なく撃ち出した。それは音を超える速さで、駆けるライダーとセイバーの間を通り過ぎ、真也が蹲って居るであろう闇の中へ消えていった。なぜ追撃を? 過剰攻撃ではないのか? 彼女らの疑問が氷解するのに時間は掛からなかった。

 

直後、金属同士を激しく押しつけ、酷く擦り合わせた様な音が洞窟内に響き渡る。その音は甲高く、連なり、嫌に耳に付く。その音の発信源であろう場所には、鮮やかな火花が散っていた。

 

暗闇の中、その瞬きを浴びて人影が断続的に浮かび上がる。まさか。セイバーのその疑念は現実となった。ライダーも足を止め、憂いた表情を見せていた。3人の視線の先には真也が立っていた。その深い怪我にも関わらず彼の右手には士郎が撃ち出したグングニルが囚われていた。火花とは、射出された神槍を拘束する為の魔力の反発であった。

 

 

◆◆◆

 

 

そう言えば、士郎と真也は良く分からない連帯感を持っていた、ライダーはそれを思い出した。そういえば、第4次でランスロットも宝具を掴むという芸当を見せていた、セイバーはそれを思い出した。

 

「済まない二人とも。刃物を奪われた」

 

下手に近づき二人の制限となってはならない、士郎は失礼とは思いつつ、離れた所から謝った。

 

「構いません。逆に私たちが礼を言わなくてはならない程です。あのまま無防備に歩み寄っていては逆に倒されていたでしょうから。だがこれで魔眼が威を持つ事になる。戦術を変えねば成るまい、」

 

そう言いかけたセイバーは一つの事実に気がついた。左手を欠いた以上、真也は右手のみで槍を持っていた訳だが持ち方が熟れていない。トリスタンやパーシバルなど己を含めて、円卓の騎士の中にも槍を扱う者は大勢いたが、その様は明らかに劣っていた。というよりその様は未経験者そのものである。

 

「ライダー、シンヤは槍を使いますか?」

「いえ。剣のみの筈です」

「シロウ、あの投影品の維持時間を教えて下さい」

「物にも寄るけれど5~7分。負荷を掛ければ当然早く壊れる」

「生兵法であるならば、必要以上に案じる必要は無いでしょう」

 

だがセイバーには気がかりが一つあった。彼女は真也の傷を見るとこう告げた。

 

「手当は良いのか。私が言及できる立場ではないが、その傷は相応の筈だ」

 

セイバーが負わせた痛みは相応の筈だが、目の前の人物は意にも介していなかった。胴と左腕、断たれた傷口は健在だが出血は治まっていた。それは先日のこと。彼自身の魔術回路を用い桜が強引に再生した影響で、僅かであったがその使い方を覚えたのであった。目を凝らしてみれば、ゆっくりとだが癒着が始まっている。

 

「お前たちが気にする事ではない」

 

彼は淡々と言い放った。彼女らは助けに来たのだ。非常に気にする事なのだと、不満も募る。

 

「ライダー、魔眼の効果を教えて頂きたい」

「重圧は維持しています」

 

敏捷はライダーと同等、筋力はセイバーの1ランク下だ。ライダーは注意を真也から逸らしていないが案配が難しい。近すぎれば石化が始まってしまう。

 

「ライダー、方針の変更を提案します」

「分りました。ランサーと戦った時の様にペアを組めと言うわけですね」

「不服ですか」

「当然でしょう。私は貴女が嫌いですから」

「それは結構だ。後は仲良くなるだけだからな」

 

本当に凸凹コンビだ、士郎はそう思った。

 

 

◆◆◆

 

 

かつてライダーとセイバーの二人は、ペアを組みランサーを相手に戦った。つまり経験者という事だ。事実コンビネーションは悪くない。真也に対し二人は距離を詰めたが、真也は待ちの姿勢である。ダメージにより機動力が落ちているならば当然の選択であった。

 

先手はライダーである。彼女が手に持つ鉄杭の間合いは中間距離、真也の外だ。打ち込まれた鉄杭を、真也は槍を振り弾いた。セイバーはそれに構わず距離を詰め続ける。ここまでは予定通り。ライダーは距離を微調整しつつも、鎖を手繰り、波を生み出した。弾かれたはずの鉄杭(重り)を基点に振れた鎖は、蛇の様にうねり真也を絡め捕った。 ライダーは鎖を引き、真也のバランスを崩せば、彼の目の前にはセイバーが居た。彼に向けて疾走する風王結界はフェイント。彼はライダーの力に逆らわず、それを利用し逆に踏み込んだ。クロスレンジ。彼は頭突きを打ち込もうとしたが、その状況に於いてはセイバーが有利であった。彼女の柄が彼の鳩尾を捕らえる。カウンター成立だ。

 

「ぐはっ!」

 

今の真也の耐久はB。セイバーの筋力はバーサーカーと同等のA+。カウンターの条件も相まって彼は血を吐いた。 内臓へのダメージ発生。だが与ダメージは不足だ、彼女の直感がそう囁いた。セイバーは真也を捕らえている鎖を掴むと、引き寄せ、振り回した。その様はドングリの笛である。済まないと一言詫びて、真也を足下の地面に叩き付けた。

 

そこは大空洞である。地面とは、軟らかい土では無く岩盤だ。その衝撃のあまり岩盤は絶えきれず、亀裂が入り、砕けた。破片が爆発的に打ち上げられた。その真也の様を例えれば鎚の頭そのものである。一拍。地を振るわす衝撃が収まっても、岩盤に打ち込まれた彼は微動だにしない。ライダーはやり過ぎではないのか、と案じた。これで終わればと念じたセイバーは、蹴り上げられた。

 

「ぐっ!」

 

彼女の身体は砲弾の様にカチ上げられ、天井に叩き付けられた。砕かれた天井の岩盤と共に落下。諸々はそのまま落ちたが、セイバーはライダーに受け止められた。騎兵の腕の中の騎士は、咳き込みつつ。

 

「気遣いは無用だ。下ろせ」

「悪態が付けるなら心配は不要でしょう」

 

ライダーはゴミ袋を捨てるかの様に、セイバーを放り投げた。ペタリと尻餅をついた彼女は非難の眼差しである。

 

「ライダー。貴女のその扱いには不満がある」

 

苦情に応じる義理はないと、真也を確認しようとライダーが歩み寄れば。

 

「まだだ」

 

士郎の声に止められた。二人の視線の先に真也が立っていた。彼のその様に、二人のサーヴァントは息を呑んだ。右肘はあらぬ方向を向いていた。骨が皮膚を突き破り、露出していた。左足は腿で千切れ掛かっていた。皮膚と僅かばかりの筋肉繊維でぶら下がっていた。腹は裂けていて、出血が止まらない。左腕は既に無い。12本ある肋骨は7割が折れ、内蔵に突き刺さっていた。

 

彼の血は、額、こめかみ、頬、首、胸、腰、臑、足首、至る所からこぼれ落ちていた。裂ける皮膚は、身体を走る落雷か。その激しい息は、闘牛の断末魔に他ならない。彼は四肢と腹を犠牲にして頭部を守ったのであるが、彼は瀕死の体だ。ただ、彼が持つ魔術の効果で立ち上がったに過ぎない。血を吐きながら紡ぐ言葉は、己の血で溺れているかの様だった。

 

「どうしたどうした英霊ども。何を躊躇っている。幾ら四肢をへし折っても、胴を砕いても俺には意味が無いぞ。全力で殺しに来い」

 

異常だ、セイバーは思った。話では理解していたが、目の前の存在が理解出来なかった。堪えきれず、つい。問いかけてしまった。

 

「もはや貴方は、自分が何処の誰かも分かるまい。何故そこに立っているかすら。何故そこまでする?」

「なぜ? 馬鹿な事を聞くな。良いか? この奥には嬉しかった事、辛かった事、悲しかった事、全てがある。それを壊すというのなら、世界がそれを認めないというのなら、俺はそんなもの認めない。守るべき者が、世界の敵だというのなら、おれは世界の敵になる。世界が滅びようと知った事か。それが許せないというのなら、来いよ、どこかの誰か。俺の全てをねじ伏せて見せろ」

「貴方は何を願う」

「あの娘が安心して寝れる夜を」

 

桜の狂った歓喜の声が響き渡った。真也が突然止まったかと思うと彼は突然蹲った。足腰が効かないのだ、額を足下の岩盤に打ち付け、そして吐いた。逆流する嘔吐物は胃液と血のみ。

 

「あ、あ、A……Ahaaぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

右腕はその機能を失っている。左腕は無い。堪えきれない程の、全身を這いつくばる不快な感覚を治める為に、彼は全身を足下の岩盤に叩き付け、擦り付けた。裂けた傷の断面にある肉が、あぶくの様に弾けながら膨れあがる。断たれた左腕も同様だ。骨芽細胞が猛烈な勢いで活動し始め、上腕骨の断面が盛り上がり始めた。骨が伸び始めたのである。その様を例えるならば早送りしている高層ビルの建設映像が適当だろう。蔦の様に伸びる筋肉繊維と血管が骨を這う。それは左腕の再生だ。

 

身体は高熱を発し焼かれる様だ。吹き出した汗は一時も持たず乾き、全身を這う血液は水分を失い固まった。全身を焼かれる痛みに、仰け反った。眼球が反転する。砕けた右肘関節と折れている左大腿骨。つまり骨が強引にはめ込まれた。その神経刺激は、末梢神経から脊髄を爆走し脳幹を貫いた

 

「ぎ、ぎゃああああああああああああああああああ!!!!」

 

それは桜が彼に強いた身体の復元である。回復に数ヶ月かかる怪我を一分足らずで再生するのだ。それは細胞の暴走と言っても過言では無い。爆発的な身体の活性がもたらした刺激は彼を壊しかねない程の痛みであった。

 

彼の身体の猛烈な代謝は、細胞自体を破壊した。過負荷(オーバーロード)という訳だ。破壊した細胞を補う為に、細胞が分裂する。分裂しすぎた細胞はエラーを起こす。エラーを起こした細胞は他の細胞に壊され復元された。足りない物は強引にぶち込まれた魔力が補った。彼の身体が内包する物は、誕生という存在の衝撃と、死という存在の平坦化、つまり生と死の混濁である。相異なる存在のせめぎ合いが生む痛みは想像を絶した。彼の身体は、母と異なり彼の能力に見合う物では無かったのだ。

 

死体など見慣れているセイバーですら目を背けた。ライダーは彼の様を見続けていた。己に焼き付けているかの様である。散々のたうち回り、掻き毟り、吐いて、吐き続けたあと。彼はふらりと立ち上がった。天を仰ぐ。その霞んだ瞳が捕らえる物は万物の死である。

 

「へ、へへ、へへへ、」

 

その笑いが意味するものはなんだ。この再生を強いた桜への憤りか。それとも従わざるを得ない己の不甲斐なさか。それともこの状況を躊躇う事なく受け入れている嘆きか。否。存在自体への嘲笑である。親にすら誕生を祝福されなかった己の意味は。言葉を失う二人に対し、士郎はただ静かに見つめていた。やはりそうなのだと、彼はこの土壇場で悟ったのである。それは士郎が彼を嫌悪していた理由であった。彼は己の事を全く考慮に入れていなかった。

 

「に、2度目だ。このドギツイのは前にも体験した記憶があ、る」

 

桜の衛宮邸襲撃時に、士郎と凛に見せた事を言っていた。

 

「いや、3度目だ。間違いない」

 

それは忘れ去ったはずの彼方の記憶。それは彼がこの世に生まれた時の事を言っていた。

 

「死には恐怖と痛みがつきまとうが、死ねば痛みも苦しみもない無に帰る。だが生まれる事がこれほど痛いとは、なんというか皮肉だな。これ程痛いと知っていれば、誰とて生まれる事を躊躇うぞ。なあ、そうは思わないか? なあ。アンタらは、そんなに痛い思いをして生まれて何をしてきた? それに見合う物はあったか?」

 

理解出来ない問いかけ。それは二人にとっては隙に他ならない。彼は、まだ。己に刻まれた存在理由(フレーム・ワークス)に従っているのである。彼は右手を高く掲げると真下に打ち下ろした。

 

その掌底の切っ先は音速を超え、衝撃波を生み出した。それには膨大な魔力が籠もり、刃となった。サーヴァントに効かない事は彼は覚えていた。だからこの空洞を利用した。屋外という無限の空間とは異なる密閉された環境で、縦打ちされた円弧状のそれは広がる事無く、天井と大地に沿い、破壊の密度を増加させたのである。

 

桜より供給される膨大な魔力と、己の魔力の大半をつぎ込み、生み出した超音速斬撃(かまいたち)、は騎士と騎兵を飲み込んだ。破壊的な空気の波動は大空洞どころか、柳洞寺が鎮座する山全てを奮わした。

 

どれ程の時間が経ったのだろう。空気と大空洞と魔力の揺れが収まった頃、真也に対峙する者が一人居た。士郎である。真也の技が生み出した大地という岩盤に斬り立てた轍、それに足を置き立つ彼は一振りの聖剣(カリバーン)を正眼に構えていた。

 

これは正気の沙汰ではない。幾ら弱体化したとは言え、魔力が底を尽きかけているとは言え、敵であり、良く分からない目の前の知人はサーヴァントと張り合う存在である。幾ら、宝具を投影しようとベースがヒトである士郎に叶う相手ではない。なにより長らく反目し合ってきた関係だ。不殺さずのトラウマがあろうとも、彼だけは別勘定だという確信があった。

 

それでも尚、士郎は立ちはだかった。その負債を払う時が来たのである。今にして思えば、反目し合いつつも殴り合いなどした事は無かった。毛嫌いしつつも、希に手を取り合う事もあった。語らう事もなく今の関係を続けてきた。ついに、相対する刻が来たのだ。

 

士郎のその声は、見慣れた学園の教室で、見知った友人に声を掛けるかの様である。

 

「よう」

「よう」

 

返事を返す真也もまたその調子である。

 

「真打ち登場だな。騎士と騎兵を剥いて、漸くKingのお出ましって訳だ。最期はお前だって、そんな気はしてた」

「そうか。やっぱり俺の事は覚えてたか」

「俺にとってお前は、最初であり全てだ。忘れるものかよ」

「死闘に身を投げて、のたうち回って、気が済んだか、おまえ」

 

「どうかな」

「俺はさ、気が済んだなんて、お前には有り得ないって思うぞ。今のままじゃな」

「そう言われるとそういう気がする。お前はその理由を知ってるか?」

 

一拍。士郎は躊躇いの後こう続けた。それは告白である。長らく内に籠もった鬱憤だ。

 

「今だから思うんだけど、お前が居たから俺は自分の立ち位置(正義の味方)が一体何なのか、分かった気がする。お前は自分を勘定に入れずただ桜の事を考えていた。前の俺もそうだった。正義の為に自分の事を考えていなかった。だから俺はお前が嫌いだったんだな。近親憎悪って奴だ。お前はどうして俺が嫌いだった? 俺が正義の味方を止めるって予想していたからか?」

「違うな。俺はお前が羨ましかった。お前は俺の先を行っている、その劣等感は絶えなかったよ」

「どうしてさ」

「多分。士郎に認められなかったから、じゃないかな」

 

「なんだそれ。お前の方が強いのに」

「化け物じみた力を奮っても、お前は俺を恐れなかった。恐れない事は当然なんだって態度が悔しかった。俺よりずっと弱いお前を屈服させる事が出来なかった。強さとは腕力ではない、それを体現するお前に俺は嫉妬してた」

「冬木の羅刹に嫉妬されるなんて光栄だ」

「確かにそうだ。穂群原のブラウニーに勝てない羅刹なんて物の数に入らない……実はさ、何をやっても俺の気が済まないって理由、実は分ってる。何故なら俺の行動理由は全て俺のものじゃないから。どれだけ走っても気が済むなんて事はあり得ない」

 

「そんな事だろうと思った」

「少しは気の毒そうに言えよ」

「お前をどうこうするのは俺の役目じゃない。ただその手伝いをするだけだ」

「誰の役目だ」

「知るか」

 

一つ息を吸い、一つ吐いた。それを数度繰り返した後、二人は脚の位置を整えた。

 

「言い切った事だし、そろそろ始めるか」

「そうだな。これ以上は時間の無駄だ」

「こちとら魔力も残り僅か。全てをこの一撃に賭ける。俺の大義はお前を乗り越える事」

「俺のはもっと簡単だ」

 

「なんだそれ」

「気づいているか? お前、妹じゃ無くて守るべき者って言ってる。それに気づかせてやる。歯を食いしばれ。ちょっとばかり痛いぞ、ばか真也」

「ふざけるな、戦う理由ぐらい宣言しろ」

「なら聞かせてやる、耳の穴かっぽじって良く聞け」

 

そう言うと士郎は走り出した。戸惑いつつも真也も構えた。彼の決め手は右拳。魔力が籠もり蒼い光を帯びる。威力は格段に落ちているが、士郎を仕留めるには十分だ。

 

対する士郎は刺突、雄牛の構え。彼の手にする一振りは選定の剣、ただし投影レベルを落としている。宿るセイバーの戦闘経験に頼ってはどのような結末を迎えようと意味が無いのだ。

 

大地を蹴る脚の音。互いの意地が交差する刹那。弾けたそれは彼の紛う事なき怒りであった。それは。かつて淡い想いを抱いた者の当然の権利である。

 

「遠坂を泣かすなっ言ったぞ! ばか真也!」

 

士郎を今正に捕らえようとしていた真也の拳がピクリと止まった。彼の中にある遠坂という願いは二つ。破滅を望んだ桜と存在を望んだ凛、この二つは相殺していたが、もう一つあった。存在しろという葵の願いが丸々残っていたのだ。

 

己の突進力と体重を乗せ士郎は、手にする剣を真也に突き立てその心臓を貫いた。真也の拳は士郎の胸を捕らえ、その心臓を破壊した。二人はほんの僅か、堪え合った後、血を吐き、もつれ込むに倒れた。

 

 

 

 

 

 

つづく!



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51 大聖杯決戦編3

凛が到達したそこは広大な空間であった。円の形状をしており直径にして約3キロ、天を仰いでも果ては見えない。経験は無いがドーム球場の中心に立てばこの様な印象を持つのだろう、彼女はその様な事を思った。

 

空には黒く禍々しい太陽が浮かび、その足下には巨大な岩があった。鎮座するそれは小規模のエアーズロックと称してもいい程の巨大さで、大きなクレーターを有していた。その岩、つまり崖を登れば二百年間稼働し続けたシステムを見る事が出来るだろう。大聖杯と呼ばれる巨大魔法陣はそのクレーターに収められているのだった。

 

そのクレーターの中心より塔が聳えていた。それは黒い炎を立ち上らせ、その内部ではドクン、ドクン、と誕生を待ち望む何かが脈を打っていた。この帝国を照らす明かりとは、それから漏れている魔力の波だ。遠坂の文献は語る。“最中に至る中心”,“円冠回廊”,“心臓世界天の杯” この地下の帝国は、その異名に恥じない異界そのものである。

 

「アレがアンリマユ、か。この世の全ての悪ってのも、あながち与太話でもなさそうね」

 

溢れ出す魔力ですら甚大だ。圧倒的なまでの戦力差にくじけそうになるが、彼女には退けない理由がある。一つ息を吸い、丹田に力を籠め歩き出した。

 

「嬉しいわ姉さん。逃げずに来てくれたんですね」

 

暫く歩けば、出迎えは予想通り桜であった。見上げる崖の上に立つ彼女は禍々しさを隠さない。アンリマユとは実体を持たないサーヴァントである。人間の空想がカタチとなり、人の願いをもって受肉する影に過ぎない。故にその力は影を生み出す依り代にゆだねられる。桜は、今やアンリマユそのものだった。この世の全ての悪、という呪いを外界に流出させ、指向性を持たせる機能が桜という少女なのである。

 

「参った。綺礼が居たら神の代行者とかいうんだろうな」

 

黒い尖塔を背に、佇む姿はあまりにもそれらしかった。

 

「イリヤは?」

 

凛の問いかけに桜が指し示せば、その先に蹲る人影が見えた。それは桜が立つ同じ崖の上、力なく垂れ下がるのは白銀の髪である。

 

「あれ、イリヤをまだ殺してなかったんだ。どういう風の吹き回しよ。分断が成った時点で理由は無いでしょうに」

 

桜は3体分に相当するギルガメッシュ、アーチャー、アサシン、ランサーの計6体を有していた。

 

「そう、イリヤが持つ分で揃います。姉さんの言う通りこの娘を攫ったのは姉さんたちを分断する為です。それが成った以上、この娘を生かすしておく理由はありません。でもこの娘はバーサーカー1体分しか持ってなかった、これはどういう事ですか。姉さん、キャスターの魂は? 何を考えているの?」

「そう。予定外の事態に遭遇して、イリヤの心臓を引き抜く事を保留したか。そうよね。想定外の事態に陥ると、素人は思考停止するもんだから。投降しなさい桜。そうしたら教えてあげる。分りやすくね」

「違います。イリヤの命を対価に取引です。何を企んでいるんですか。言わないなら、この場で影を搦めてイリヤを殺しても良いんですよ」

「そうするといいわ。それが桜にとって“益のある行動”だと思うならね。それにどの道そうするつもりなんでしょ?」

 

桜の影に距離という概念は無い。いつでも殺せるならば、思わせぶりな挑発を以て封じる事にした。

 

何より、知覚は全く出来ないが、この場に居るであろう最後のサーヴァントはそれの阻止をする、凛はその確信を持っていたからである。ただ、そのサーヴァントは徹底的にやり合わせる腹づもりだとも確信していた。

 

干渉しないのはありがたいが、監督されている様で気分は良くない。余裕ぶった姉の態度に、桜は不快感を禁じ得ない。見下ろす視線に怒気が混じる。それは怨嗟と言っても過言ではなかった。

 

「相変わらず上から目線なんですね。不愉快です」

「悪いわね。性分なのよ、これ。というかさ桜。アンタ、自分の立ち位置を自覚してる? 私を見下ろしておいて、上から目線なんですねって、笑い話にするには少しイタ過ぎだと思わない?」

「まぁ良いです。姉さんのそれには慣れた、というより諦めましたから。説教が通じないなら躯に教えるのみです。この私が直々に躾てあげますから感謝して下さい」

「へぇ、大きく出たじゃない。どこぞのサーヴァントに憑依されて、膨大な魔力を有して、強くなったと勘違いして、力に振り回されている事に気がつかず、やりたい放題の勘違い女の子に何ができると言うのかしら」

 

「そう、それですよ。姉さん。幾ら凄腕の魔術師でも、姉さんは純情無垢な女の子って事です。なら私に勝てる筈がない」

「何よそれ」

 

険しい姉の表情を見た桜は随分と機嫌が良い。

 

「私見てました。ワンワン泣いて、姉さんったら可愛い。姉さん処女でしょ? あの程度で堪える様な、初心な女の子はやめておいた方が良いですよ。姉さんみたいな清廉を尊ぶ女の子は、兄さんみたいな悪い人は荷が重すぎます。氷室先輩はそれに気づいて早々に手を引きましたけれど、美綴先輩みたいに兄さんの悪いところを受け入れて、自分が汚れる事に厭う事なく、平気で10年耐えられる様な、どこか壊れた人じゃないと相手にはできませんから。でも姉さん。気をつけた方が良いです。綺麗な心と身体じゃ、世の中を渡る事すら難しいですよ」

 

意外な事に凛は冷静であった。自分でも不思議な程に落ち着いていた。あぁそう言う事だったのか、と桜の侮蔑に苛立つどころか感謝すらしていた。悩んでいた事は綺麗事では済まない事であったのか、とその事実を受け入れた。逆に桜はその状況に戸惑った。見下ろす姉は満ちた笑みを浮かべていたからだ。

 

「仕方が無いでしょ。アンタと違って誰かを好きになったのって初めてだったんだから。覚悟が足りなかったのは認めるけれど」

「……今なんて?」

 

「ほら、魔術師って普通の人と一線引くべきじゃない? 下手に親しくなると、神秘の漏洩が難しくなる。かといって魔術師同士が仲が良くなるなんて事はまず無い。伝承される魔術は門外不出だし、名門になるほど嫌でも格を意識しないといけない。

 

ところがアンタの兄は魔術師のくせに、魔術を覚えない、興味が無い。遠坂の魔術にすら興味を示さなかった。家に居た時、ここが工房だと告げても、あっさりとした物だったわ。暫く監視したけれど素振りすら見せなかった。秘匿を気にせず、交流を持てる相手、立場を共有し察しあえる相手って貴重なのよ。気を許したり、関係を維持しておこうって思っても仕方が無いじゃない?

 

そんな折り告白されて、アンタの言う通り経験なんて無いから、距離感を試行錯誤するしかなかった。流石の私も少し暴走気味だったって事。気になる男の子って意味では二人目なんだけど、それはまあ良いわ。桜、アンタはね。気の毒なんだけれど、そういう大事な工程をすっ飛ばしてるのよ。だから己にとって都合の良い事だけを相手を求める。相手に強いる。

 

アンタがそれを愛と呼ぶか好きと呼ぶかは勝手だけれど、それは正しいものだと思い込んでる。一つ聞いておく。アインツベルン城での事だけど、あの時促進させたわね」

 

「ええ。だってそうすれば兄さんは姉さんを忘れるから」

「分ってるの? それは」

「そう、兄さんを殺す事」

「そう、やっと認めたか。だから何度でも言うわよ、桜。アンリマユと手を切りなさい。そして3人で新たな関係を模索しましょ」

 

「嫌です」

「どうしてよ。慣れればそれはそれで楽しいわよ。少なくとも今よりは。ずっと」

「もういいの。私が欲しかったのは私だけの兄さんだった。世界を捨ててでも、私だけを選んでくれる兄さんだった。私だけじゃない兄さんなんて要らない。あれだけ愛してあげたのに姉さんを選んだ兄さんなんて嫌い。姉さんを頼った兄さんが嫌い。姉さんと通じ合う兄さんなんて大っ嫌い!」

 

姉は腕を組んで溜息を付くと睨み上げた。憤りではなく、呆れだ。

 

「あったりまえでしょ。真也はアンタの兄。私はあんたの姉。同じ妹を助けようって通じ合うのは当然じゃない」

「助ける? 助けるって何ですか?」

 

「桜、アンタは馬鹿だから分ってないけれど、アンタは馬鹿な事をしているの。いい? アンタに殺され掛かって、記憶を封じられて自分が誰かも分らない。何が何だか分らないまま戦わされて、この瞬間でさえも、あのバカはアンタを助けようとしているの。アンタはそれが分っていない。

 

桜。もう一度言うけれど、アンタのしている事、人を殺めてしまった事、真也にしでかした事、私が全部持っていく。あの馬鹿はあんなんだから、ちゃんと監視しないと駄目なのよ。だから自分よりアンタを、私たちをなんて考える。甘えるアンタだけじゃいつか駄目になるわ。私たちなら真也を助けられるって事。

 

考えなさい。誰も居なくなった世界で桜と2人きりになって一体何をするわけ? ただ居れば良い、ただ息を吸っていれば良い、肉って躯が存在すればいい、それを生きているって言う? アンタが間桐でどんな目に遭ったかは分るなんて言わない。でもその後の10年間は幸せだったんでしょ? それを壊す気? 聞くわよ桜。蒼月千歳はどうするつもりよ」

 

その名は桜にとって厳禁であった。彼女の養母は今の桜を決して許さない、それは彼女にも良く分かっていた。兄と異なり懐柔は出来ない。ならば殺すより他は無いのである。そしてそれは、桜にとって最後通牒でもあった。

 

「アンタを10年育てた親を殺す気? したくないでしょ。綾子も衛宮君も皆待ってる。だから、アンリマユと手を切りなさい」

「無理です」

「桜」

「もう遅いの」

 

「アンタね、真也の妹なんでしょ? その有様になっても真也は別だなんて考える程のブラコンだ。何を意固地になってるのよ」

「姉さん。もう遅いの。なにもかも手遅れ」

「誰が手遅れだなんて決められるのよ」

「私は姉さんも、お母さんも、みんな殺します」

 

2度目の溜息は呆れでは無かった。手が付けられない、付ける薬が無いと言う事だ。

 

「あったまきた。もう堪忍袋の緒が切れた。やめ、やめだやめ。私たち二人でって思ってたけれど、止めた。私が連れて行く」

「何をですか」

「判らない? 真也は私が幸せにする。アンタの言う結末は断固お断り。揃って生きて、しわくちゃになっても、喧嘩して、笑い合うの。アンタはかつて自分で言った様に、妹として黙ってみてなさい。自分がどれだけ馬鹿な事をしたのかって思い知らせてあげるから」

「そんなの無理ですよ。できっこない」

 

「どうして言い切れるのよ。私はできない事はしない主義だけれど、やり遂げる自信はあるわ」

「姉さんは勘違いをしてる。だって兄さんはもう死んだから」

 

時が止まった。この妹の言っている事が理解出来なかった。仮にその発言が事実であれば、それは決定打となる。聞き間違いでは許されない。だから凛は。

 

「今、なんて言った?」

「兄さんの心臓は止まったまま、もう10分は経っています。さっき兄さんを殺すって言わなかったでしょ? だってもう殺しちゃったから。“誰だお前は”,“お前は俺にとって災いだ”可哀想な姉さん。好きな人からの最後の言葉が誹りなんて」

「そう」

 

その時、凛の最後の何かが切れた。それがもたらした冷静さは己でも驚く程であった。

 

「蒼月家の家訓は“誰かを想う心が人としての最後の一線”だったわね。そして桜はその家の人間。桜、これが姉としての最期の言葉になるから」

「ええそうです。私は兄さんを殺して人間ではなくなりました。これでもう私たちは後に退けません。終わりにしましょう?」

「“蒼月”桜、私はアンタを殺すわ」

 

開戦を告げる喇叭は鳴ったのである。それを合図に凛はさっと戦場を見渡した。桜は大聖杯の基盤システムが収まる鉢状岩盤の上だ。その空洞は巨大、もはや大地と称してもいい程の大きさである。多少暴れたところで崩落の心配は無いだろうが、これから始める争いが多少で済むかどうか、凛にその自信は無かった。

 

間もなく桜の周囲に黒い人影が立ち上がる。影の巨人と言えば洒落た表現ではあるが、紙で作られた神道の人形を、黒く塗り潰した様な頼りない形をしていた。勿論其れは見た目の話であり、その一体の巨人が有する魔力はサーヴァントの持つ宝具に匹敵する。凛が見上げれば、その数4体。

 

その光景を例えるならば、一人の人間が4機のロケットに囲まれているが適当だ。それ程のサイズ比であった。その巨人たちが凛に向けて歩き始めた。その光景は異常、というより理解の外だ。質量を有しないそれは地響きを起こさなかった。地を滑るかの様に歩き、その巨躯は空気を揺らさない。正に歩み寄る悪夢。確実な事は一つのみ。何もしなければ、彼女の命運は尽きるという事だ。

 

実際の所、宝石剣は使用したくなかった。アンリマユは第3魔法の恩恵を受けているが、そのものではない。言い逃れも出来ようが、宝石剣の行使は魔法そのものである。魔法の乱用は御法度であり、生き残ったとしてもその責を問われる。だが、残された者の責務として、この状況を収めねばならない。彼女は懐の宝石剣を静かに抜いた。

 

巨人の腕(かいな)は凛を消すのに十分な脅威である。ただ、その巨人が飛び道具を持たないならば、戦術は至極明瞭だ。接近を許す前に消滅させるのみ。記念すべき最初の一撃はこの世界のマナを使う事にした。

 

「解放、斬撃」

 

凛の手にある無色透明の刀身が七色の光を放つ。その手より放たれた黄金の一撃は巨人をものともせず屠った。次弾装填、平行世界の一つから魔力をかき集める。七色に輝く刀身を奮い、黄金の刃を持って2体目を討ち倒す。続く3体目、4体目を視界に捕らえた。挟まれては厄介だ。凛は回り込みながら位置を合わせた。軸線良し、頭上に掲げた宝石剣を真下に打ち下ろした。唐竹の斬撃は残った2体を纏めて消滅させた。真っ二つである。

 

岩盤上の桜は呆けるより他は無い。何が起こっているのか、理解出来ないと言った様相だった。無理もなかろう。彼女の予定では最初の一体目で終わっていた筈だった。残りの3体は、ただの威嚇である。怯え戦けば愉快であろう、そう思っていた。ところが目の前の姉は、逃亡を図るどころか、真っ正面から戦い挑み、第1部隊を殲滅させたのである。見下ろしている筈の姉は、笑みを浮かべていた。

 

“だいたい覚えた”

 

これからアンタを仕留める、浅葱色の瞳がそう語っていた。

 

 

◆◆◆

 

 

なんなのだこれは。納得がいかない。握り拳どころか、桜は肩も怒らせた。なぜこうなるのだ。アサシンを失ったが、ランサーは倒した。兄を犠牲にし、セイバー陣営の主力は殲滅した。ここまでは順調だった。残りは優れていようとも普通の魔術師である姉のみだ。なぜ、最後の最後で予定が狂う。怒りに流されるまま桜は巨人を生み出した。繰り出した7体が押し寄せる様は、月夜に荒れ狂う津波以外例えようが無い。

 

「解放、一斉射撃 !」

 

第2部隊の兵士たちは、凛の右手にある黄金色の光りに悉く消えていった。それどころか、光と熱というその余剰エネルギーは大空洞の内壁を破壊し、非道く振るわせた。小エクスカリバーとも称するその攻撃が続けば、この空洞が崩落するかもしれない。それが大聖杯の基幹システムを直撃し、破壊されれば全てがお仕舞いだ。桜がどのように対応するか考え倦ねれば、第2部隊の最後の一兵が消滅した。いつの間に登り切ったのか、姉は桜の視線の先に立っていた。立ち位置は同じという意味である。

 

「はぁい。来たわよ桜」

 

なにが“はぁい”だ。その余裕ぶった態度が腹立たしい。だが生憎と桜にその苛立ちを表現する程の余裕は無かった

 

「一体、なんですか。それは。一体何をしたんですか」

「何って、見たままよ? アンタが繰り出した影を倒して、ここに辿り着いた、簡単でしょ」

 

桜の周囲に更に影の兵士が立ち上がる。その数は13体。桜の背後にいるアンリマユが凛を危険視したのであった。注ぎ込んだ魔力量は数値にして一億を超えていた。

 

「また大盤振る舞いね。よーく考えなさい、そんなに無駄使いして良いの?」

「どうしてここに立てるんですか。私が引き出せる魔力量は、姉さんの数千倍です。姉さんの魔力量では一体すら倒せないのに」

「だから見たままよ。私は呪いの解呪なんてできないから、巨人という魔力の塊を私の魔力で打ち消しているだけ」

「それが嘘だって言ってるんです」

「信じたくないのは分るけれど、現実から目を逸らせば何の解決もないわ」

 

教師ぶった態度が苛立たしい。怒りを堪えれば、仁王立ちの姉の手に七色に輝く何かがあった。それに気がついた。

 

「そう、それですか」

「ま、ここまでやれば幾らトロい娘でも気づくわよね」

「誰の宝具ですか。まさか、キャスター?」

「呆れた。ゼルレッチの名前も知らないのね」

 

「ゼル、レ?」

「って、知っている方が摩訶不思議か。蒼月は魔術師の家でもアンタはなにも教わってないんだから。真也だって実物は見た事無いでしょうし。丁度良いわ、魔術講義の続きといきましょう。でもマンツーマンだから、授業料は高いわよ。いい? 魔術をサポートする武装、儀礼を補助する礼装は、大きく分けて二系統ある。

 

一つは増幅機能。魔術師の魔力を増幅し充填する。簡単にいえば予備の魔力タンク。典型的な補助礼装で、私の宝石もこれ。もう一つは限定機能。その礼装そのものが一つの魔術を意味する特殊な魔術品。最大の利点は、魔力さえ流せば使用者が再現できない神秘を実行できると言う事。単一の用途しかないのだけれど、その分強力。宝具もこれに属する。このゼルレッチは無限に連なる平行世界の大気から、魔力を集めて光の斬撃を放つ限定武装、ここまで言えばわかる?」

 

凛の短剣は奮われる度に巨人を討ち倒していった。

 

「つまり、今私たちがしている事は、高度な魔術戦闘ではなく単純に魔力をぶつけ合うキャットファイトって訳だ」

 

新たに生み出した第3部隊も消失してしまった。

 

「さて桜。私は幾らでも応じるけれど、アンタはどうする? このまま打ち合いを続けても良いけれど、それだとこの空洞が崩れそうだし、それはアンタにとっても面白くないでしょ? だから、観念しなさい」

「ふざけないで、姉さんが無制限なら私は無尽蔵なんだから!」

「そ。ならとことん付き合うわ。でも言っておく。アンタがこれからする事は全て無駄だから。全ては私の手の平の上よ」

 

その言葉は、桜に最後の決断を促すには十分であった。彼女は呼吸を整え、念を集め、己が体内結界を構築する。それに満ちるは魔力だ。それは魔術の行使である。凛は目を剥いた。

 

「驚いた。何よそれ」

 

桜は蒼月千歳から魔術を教わっていない筈なのだ。

 

「これは私が唯一覚えている間桐の呪文です。姉さんが基本を教えてくれたので、行使できるようになりました」

 

凛のその表情は怒りと言うより侮蔑だ。

 

「そこまで蒼月を侮辱するの、アンタ」

「使わせる姉さんが悪い」

「そう言うと思ったわ」

 

二人の声は高らかに。

 

「声は遙かに、私の檻は、世界を、縮める」

「接続、解放、大斬撃ー!」

 

二人のそれは。戦争でもなく、戦いでもなく、喧嘩でもなく、ただの意地の張り合いだ。桜は無駄だと思いつつも巨人を生み出し続けた。凛は無駄だとは思いつつも、巨人を殺し続けた。その大空洞に鎮座する大聖杯の御前で、閃光と消滅は幾度となく繰り返されたのである。

 

「なんで? どうして?」

 

桜に疲労は無いが、遠坂凛という精神的な圧迫感は増すばかりだ。

 

「魔術講義2限目と洒落込みますか。仮に測定不能な程の魔力量があったとしても、使う量は術者に依存される。ダムに水道の蛇口を取り付けるって言えば適当な例えよね。間桐桜っていう魔術回路の瞬間最大放出量は一千弱。なら、どんなに貯蔵があっても、一度に放出できる魔力量は私とさして変わらない。どう? 理解出来た?」

「私は間桐じゃない!」

「そんな権利あると思う? 兄を殺し、母を殺すと宣言したアンタが、今更どの面下げてその家名を口にするわけ? でも、名字無しって何かにつけて不便よね。だから遠坂を名乗らさせてあげる。私の寛大さに感謝しなさい」

「何も知らないくせに! 遠坂は私を捨てたくせに!」

「良いわ。それが“蒼月”桜の遺言になるから聞いてあげる。言ってみなさい」

 

「そんなに聞きたいなら教えてあげます。4歳だった私は間桐臓硯に陵辱され続けた。知ってますか? 私の最初って蟲だったんですよ? たった2年です。たった2年で、眼も髪も姉さんの色とは変わってしまって、細胞の隅々までマキリの魔術師になる様に変えられた。マキリの教えは鍛錬なんてモノじゃ無かった。あの人たちは私の頭の良さなんて期待してなかった。身体に直接刻んで、ただ魔術を使うだけの道具に仕立て上げた。苦痛を与えれば与える程、良い道具になるって笑うんです。蟲倉に放り込まれれば、ただ息を吸う事さえお爺さまの許しが必要だった。あは、どうかしてますよね。でも痛くて痛くて、止めてくださいって懇願すればするほど、あの人たちは私に手を加えていった。

 

どうしてですか。同じ姉妹で同じ家に生まれたのに、あんな暗い蟲倉に押し込まれて、毎日毎日おもちゃみたいに扱われた。人間らしい暮らしも、優しい言葉も掛けられた事は無かった。死にかけた事なんて毎日だった。死にたくなって鏡を見るのなんて毎日だった。でも死ぬのは怖くて、一人で消えるなんて嫌だった。だって私にはお姉さんが居たから。私は遠坂の娘だから、お姉さんが助けに来てくれるんだって、ずっとずっと信じていたのに。なのに姉さんは来てくれなかった。どうしてですか。同じ姉妹なのに、同じ人間なのに……どうして私だけこんな目に遭ったのか、答えは簡単です。それは全て遠坂のせい。だから今更戻るなんてあり得ません。分りましたか? 馬鹿な事を言わないで下さい」

 

「ふうん。だからどうしたってうの、それ」

 

その言葉を聞いた桜は停止した。目の前の姉の言っている事が理解出来ない、違う。理解できないのは、そう発言する意図だ。何故だ。何故それを肯定するのか、目の前の血を分けた姉は、同情すら見せない。それ程に人でなしだったのか。声が震える。ここは、可哀想ね、頑張ったわね、辛かったでしょう、御免なさい桜。私を許して、では無いのか。

 

「な、なに、を」

「その気の毒なアンタは10年前助けられて、10年間守られてきた。それで満足出来なかったアンタは聖杯戦争に手を出した。そしてこの有様。ねえ、桜。どうして私が引け目のあるアンタにここまでしてるか分る?  真也の妹という強い概念を持つくせに、アンタは私への復讐を優先した。持っていた幸せに気がつかず、それを自分で壊して私は可哀想だと嘆いている。そのアンタに同情なんてすると思う? 罪悪感なんて起きる? 正直、むかっ腹すら立つわ。まだ自覚していない様だから言ってあげる。アンタはその兄を殺したの」

 

強く心臓が鳴った。痛い程だ。

 

「やめて」

「桜、アンタは兄を殺した」

「やめてって言ってるでしょう」

「桜。アンタは最後までアンタを守ろうとした蒼月真也を殺した」

「聞きたくない! 私をそうさせたのは姉さんなのに!」

 

地に落ちる影より立ち上った巨人は総勢20体。二人の距離は自動車1台分である。一斉に抑えられれば、為す術がない。だが凛は微動だにせず、静かにそれを見つめていた。何故ならそれらは立ち上がりきらず、途中で止まり、霧散した為である。

 

「あ、」

 

桜は漸くその事実に気がついた。彼女のミスはただ一つ。突然湧いた大量の魔力に感覚が狂い、無限にあると勘違いしてしまったのだ。凛は宝石剣を放り投げると、桜に踏み込み、胸ぐらを掴み上げ、足を払い、転倒させた。組み拉ぎ、その首にアゾット剣を突きつけた。

 

「勝負あったわね」

 

だがどうした事か。凛の勝利宣言を受けて尚、桜は笑みを浮かべていたのである。

 

 

 

 

 

 

つづく。



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52 大聖杯決戦編4

その戦場跡は酷い物だった。天井の至る所に亀裂が入り、崩落し、あちらこちらに欠け落ちた岩が転がっていた。大地、つまり足下の岩盤は生々しく抉られていた。存在する物はただの静寂である。それ故、その二人は互いの状態が良く分かった。

 

「真也、死んだか?」

「黙れ、傷に響く」

 

二人は生きていた。二人は仰向けで、あべこべに寝そべっていた。上肢を起こせば向かい合うのは道理である。真也の胸を見た士郎は呆れていたが、それは真也も同様であった。

 

「なんで心臓を刺されて生きてるんだ」

「なんで心臓を打ち砕かれて、治ってる」

「「……」」

「「だれがお前に言うか」」

 

真也が未だ活動出来るのは彼の持つ魔術の特性だ。心臓の隔壁に開いた穴を、不可視の力場を作りで塞ぎ、出血を防いでいた。それはカサブタの概念である。心臓は止まりかけてはいたが、魔術をもって血液そのものをを押し出し、循環させていた。魔術のポンプという訳だ。その魔力の源泉はキャスターが構築した祭壇(バッファ)であった。再生を行うにはほど遠い魔力量だが、彼は己の従者の、手際の良さと配慮に感心するより他は無い。

 

(流石主婦だ。気が利く)

 

受肉を果たしたその暁には、その忠誠と働きに報いねばなるまい、彼はそんな事を考えた。その時は凛の従者やもしれないが、それはそれだ。士郎の場合はもちろん全て遠き理想郷(アヴァロン)の加護である。ふと眼が合った。

 

「俺を一回殺したな、この野郎」

「黙れ、こっちは今尚士郎に殺されっぱなしだ」

 

そうは言いつつも、二人は己の右手を握ると、軽く小突き合わせた。まだやる事がある。達成感を分かち合うのはその後だ。気合い一閃。自由に乏しい身体に気合いを入れ、よろめき合いながら、互いに支え合いながら立ち上がれば、ゴロリ、ゴトン、と音がした。それは天井から崩落した岩盤の、積み上がりが崩れた音である。

 

それから現れたのはセイバーとライダーであった。葵がその光景を見ていれば西遊記の孫悟空が生まれるシーンを思い出したであろう。もちろん堺○章の方である。士郎と真也はゴジラの誕生を連想したが、もちろん敢えて言わなかった。ライダーはセイバーの手を掴み、積み上がった岩塊を足場に、セイバーを引っ張り上げた。そして彼女を背負うと歩き出した。

 

セイバーの耐久はバーサーカーと同等のAである。真也の手加減(トラウマ)が狙いを僅かに逸らした事も起因し、攻撃を耐えたのであった。だがダメージは相応でライダーの為すがままだ。首から上を動かし士郎と真也の無事を確認すると力なく微笑んだ。真也は安堵するより他は無い。

 

「ライダーも無事だったか。本当に良かった」

「はい。セイバーが楯となってくれましたから。貴女に感謝を」

「アオツキシンヤ」

 

ライダーの右肩に顎を置く、セイバーは笑っていた。

 

「実は貴方に謝罪をと思っていたのですが、その気も失せました。逆に苦情を申し立てたい程です」

「なら俺が礼を言うよ。計画に応じてくれたこと感謝の言葉も無い」

「シンヤ、私は言いたい事があります」

 

そこには目隠しを付けた、もっとも親しいサーヴァントの微笑みがあった。だが何故だろう、腰が引けた。

 

「愛の告白、とか?」

「もちろん」

「まじ?」

「愛の鞭を思う存分振る舞うとします。終わったら覚悟する様に」

「……」

 

散々抓られた左頬の痛みがぶり返す。3人のやりとりを見て、士郎は理解出来ないと呟いた。

 

「というか、真也。二人を思い出したのか」

 

その問いに答えたのはライダーであった。

 

「サクラは記憶の消去ではなく、記憶の呼び出しを妨害していた。そして、それをシンヤに強いていた、が正解です。実戦経験、戦況も忘れてしまえば意味が無くなりますから。」

 

士郎は感心しきりだ。

 

「ライダーって意外と物知りなんだな」

「魔術の心得はあります」

 

彼女には気がかりが一つあった。真也からの魔力供給が止まっているのだ。彼女は単独行動のスキルを持っている為、一日であれば顕界は可能だ。キャスターも二日は顕界できるであろう。だが桜が魔力供給を止めたタイミングが良すぎる。それは彼が技を放った直後であった。これは偶然か? 知ってか知らずか、マスターの兄は通常運転だ。

 

「悪い、士郎。肩貸してくれ。急がないと。下手すると二人は俺が死んだと思ってる」

「このまま放置すると、心臓の機能が完全に停止して、真也は正真正銘ロボットか。それは勘弁してやる。真也のロボットダンスなんて見ても面白くないから」

「調子に乗りすぎだ、このバカシロ」

「ノリシロみたいに言うんじゃねえ」

 

真也は士郎の肩を借りながら、心臓を堪えながらも歩き始めた。数歩後を行くセイバーとライダーには、二人が肩を組んでいる様に見えた。

 

「士郎。ランサーは?」

「アサシンに足止めされた。この時間なら多分、」

「そう」

「なにか約束でもしてたのか」

「決着を付ける筈だった」

「そうか」

 

歩く度に痛みが走る。だが先送りはもう沢山だ。

 

「士郎。謝る。安易にイリヤを殺そうとした事、家族は一緒に居るべきってお前の言葉。痛い程に身に染みてる。済まなかった」

「なんだ突然」

「出来る時にしておくべきだってな。士郎にはまだ間に合うから」

 

「「……」」

 

「真也、お前に俺の負債を喰わせた事謝る。ごめん」

 

「「……」」

 

「嘘に決まってるだろ 、タコ」

「初めから信じてない、イカ」

「ばーか」

「ばーか」

 

二人の背を見つめるサーヴァントは、静かに見つめるのみである。

 

 

◆◆◆

 

 

桜を組み拉ぐ凛の口調は淡々としていた。

 

「そうよね、孔はまだ開いてない以上、使いすぎれば無くなるのは道理よ。不発に終わった前回の聖杯戦争、魔力は殆ど使われず持ち越したにも関わらず10年のインターバルがあったのは術式再起動に必要なクールダウンや、周辺環境が落ち着くまでの必要時間。つまりアンタが使ってたのは霊脈から引き上げた10年分の魔力って訳だ。

 

英霊7人分の魂を再現する魔力量の1/6の訳だから、それでも相応な量なのだけれど、アンリマユを成長させる分と分け合ってたから、こんなものよね。蒼月で家計を預かっていたって聞いたけれど、私への復讐に目が眩んで、魔力という収支バランスを見損なったって訳。主婦は向いてないんじゃない?」

 

それは確かに桜の見落としだ。だがこの状況は彼女の望んだ結末でもあった。

 

「もう良いわね。これで終わり、家に帰るわよ桜」

「帰る訳無いでしょう、帰れる訳が無い。だから姉さん、私を殺しなさい」

「そう、兄と同じようにアンタもそのつもりだったのか。真也を殺し、私に妹を殺させる、それがアンタの復讐。そこまでやるとは思わなかった。違うか、分っててもどうにもならかったって事ね。本当に腹が立つ程姉妹だわ私たち。でも、そうはいかないから。早く立ちなさい。家に帰るわよ。母さんもきっと喜ぶわ」

「何処に帰るって言うんですか! 兄さんを殺した以上、お母さんにはもう会えない! 会わす顔が無い!」

 

「ばかね、遠坂の家に決まってるじゃない」

「帰りません! 今更、今更です!」

「安心して。アンタの記憶消すから」

「……え?」

 

「アンタの中の蒼月と間桐の記憶を消すの。次に目が覚めた時にはアンタは病院のベッドの上、事故で記憶を無くしたという設定で、仮面を被った皆に同情されながら退院、晴れてアンタは遠坂の家に戻る。そしてこっちの母さんと、私と、生活するって寸法。全て元通りって訳。良かったわね。最後の最後でアンタの願いは漸く叶う」

「い、いやです!」

「いや? どうしてよ?」

「私の家はあそこじゃ無い!」

 

「本当に馬鹿な娘ね。お兄さんを殺して、母親を殺すって決めて、思い出は残したまま、逝きたいなんてそんな都合の良い話はないわ。これは私たちがしでかした事だから諦めなさい。そうそう事前に言っておく。私はこれからアンタの姉を演じ続ける事になる。出来るだけ良い姉に務めるけれど、多分桜を好きになる事は一生無い。私たちは生涯、家族のフリをし続けるの。皮肉なものね。血の繋がらない家族と温かい家庭をもって、血の繋がる家族とは仮面を被るなんて」

 

凛がポケットから取り出した物は術式結晶(コードセル)である。それは魔力を注がれ、呼応し鈍い光を放つ。これを桜の身体の撃ち込めば全てが終わる。見た事は無かったが、放射能性物質の光はこう言うものなのだろう、桜はそう恐怖した。

 

「キャスター、破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)を用意しなさい」

 

魔力で編んだ欺瞞というヴェールを脱ぎ去ったキャスターは空中から現れた。“ふわり”と音を立て、ボトルグリーンのマントが広がる様は翼の様。ヴァイオレットカラーのローブは古式の誂えだ。マントと同じ色の頭巾を目深に被り、口元が見えるのみ。

 

「何故私が居るとお気づきに? 私が編んだ欺瞞は少なくとも現世の魔術師で感知できるようなものではありません」

「アンタの役目を考えば、この場に居ない事が一番不自然なのよ。私たちを監督していた、そうでしょ?」

「中々に鋭い方ですこと」

「簡単な推理よ」

 

「お考え違いの無い様に申し上げておきます。私はマスターより凛様のフォローをせよと確かに申し付けられておりますが、これは主替えを意味しているのではありません。委譲とはあくまで命令権の委譲、ゆめゆめお間違えのなきよう」

「アンタの主と私の狙いは同じ、文句ある?」

「ええ一つだけ」

「なら、早く言いなさい。時間の無駄だから」

 

キャスターが片足一歩分身体を引き、左手の平で誘ったその先には彼らが立っていた。セイバー、ライダー、士郎、そして。凛は目を剥いた。彼女の瞳には真也が立っていたからである。士郎の肩を借りて、その表情は苦痛に歪む。満身創痍の体ではあったが、確かに存在していた。それは桜も同じであった

 

「真也?」

「兄さん?」

 

驚くのは姉妹ばかりなり。

 

「真也、なんでアンタ生きてるのよ」

「実は凛様。ここだけの話なのですが」

 

キャスターの説明を聞いた凛は脱力するより他は無い。

 

「魔術って。真也、アンタ死ぬつもりだったんじゃ」

「マスターに影響を与える方がもう一人いらっしゃるでしょう? 凛様のよく知るお方です」

「……そう、やっぱりこの状況で母さんと会ってたんだ」

「坊やと引き分けになった事も葵様のお陰です」

「心配して損した」

 

それと同時に兄と妹の視線が合えば、その妹は怯えるのみである。

 

 

◆◆◆

 

 

士郎の肩を離れた真也は一歩踏み出した。一歩、また一歩と、妹に近づいた。歩く度に身体の芯が痺れるが、ここは踏ん張り所だ。兄の歩みに応じて妹は一歩、また一歩後ずさる。

 

「桜。俺らの負けだ。俺らは、士郎たちと姉さんに負けた。悪い夢はここでお仕舞い。帰るぞ」

「兄さんは全部知ってたんですね。いえ、この茶番を全部作り上げた」

「考えはした。でも俺は桜に抗えなかったから皆に助けを求めた。だからこれから皆に御免なさい、ありがとうって言うんだ。俺も一緒に付いていくから。それと茶番って言うのは良くない。桜救出大作戦って大事で立派な計画だ」

 

桜を見る真也の瞳は蒼く光っていた。それに危機を感じたアンリマユは、桜に帯状の影を作らせた。それを例えるなら黒いプロミネンス。虹の様に弧を描き、回転する様に走るそれは魔力で編んだ鋸だ。桜の魔力は空。アンリマユもまた魔力を成長に費やしてしまっている。それ故この地に落ちる霊脈から、魔力を引き上げる事にしたのである。

 

「シンヤ、これを使うと良い」

 

セイバーが放り投げた物は彼女の宝具であった。それは蒼と金が織りなす神造兵器。風王結界は在らず白銀の刀身が輝いていた。彼は担い手では無い以上、それはただの剣でしか無いが、彼にとってはそれで十分だ。襲い来る二つの黒い帯を彼は殺した。

 

「酷いです! 裏切ったばかりか欺していたなんて! 私だけ知らなくて、皆で私を笑ってたなんて!」

「それについては弁解のしようが無い。でも誰も笑ってなんかいない。命がけで桜を助けようとした。取りあえず謝っておく。済まない。全部済んだらもっと謝る」

「信じられません!」

「でも、それはお互い様だろ。桜も本心を誤魔化す為に嘘を付いている」

 

「何で分るんですか! 私の何が分るって言うんですか!」

「例え俺がロボットでも、俺らの関係が歪でも10年は幻じゃ無い。桜は今自分がしでかしてしまった事に、後悔し、恐がり、怯えている、だろ? 思い出すよ。興味本位で、お袋の部屋に忍び込んで霊薬を割った時の事を。今の桜はその時の桜にそっくりだ。“どうしようお兄ちゃん。お母さんの大事なモノ壊しちゃった。追い出されちゃう”って泣いていた……8歳の時だったか?」

「違います! 私はみんなを殺すんです! 殺しちゃうんです! 姉さんだって、お母さんだって、おにいちゃんだって殺しちゃうんだから!」

 

桜の背後より黒く禍々しい帯が放射状に広がった。そのたった一つでさえ、疲労し尽くした今の真也を殺すには十分な物。凛と出会う前の彼であれば、それを笑いながら受け入れたであろう。士郎に殺される以前の彼であれば、嘆きながらもそれを受け入れた。

 

だが彼はもう解放されているのである。迫り来る黒い影が、広がるその様は彼岸花。彼は手にあるエクスカリバーを以て殺した。身体は鈍く、魔力など底をついている。今の彼が行使する力は直死の魔眼。死をもたらすそれを以て妹を助けるのだ。直死の魔眼が呼応し唸りを上げる。桜までの距離は自動車1台分つまり、もう数歩で妹に手が届く。

 

「もう気が済んだだろ。これでも結構しんどいんだ。そろそろ聞き分けてくれると助かる」

「こないで! こないで下さい! 私は兄さんを殺して!」

「怒ってない」

「何度も酷い事をして」

 

「もう気にしてない」

「姉さんも、兄さんも、私を助けようとしてくれたのに、それに気がつかなくて、ううん、違う。気がつかない振りをしていた。悔しくて目を背けた。こんな私は、もう死ななきゃ駄目なんです。大丈夫です、一人で死にますから」

「それは駄目だ。桜が死ぬと悲しむ人が居る。桜が死ぬと俺も多分駄目になる。だからそれは止めてくれ」

「私は沢山人を殺してしまいました。誰が許すって言うんですか!」

「俺が許す。違うか、お姉ちゃんとお兄ちゃんが桜を許す。葵さんも許すし、セイバーもライダーも、士郎も。キャスター、君はどうだ」

 

桜を見定めたまま振り返りもせず、真也がそう問いかければ。

 

「私はマスターの僕、口を挟める立場にはございません。ですが、ここで桜様に死なれると苦労が報われませんから」

 

彼女はそう笑って応えた。

 

「と言うわけだ。全会一致。桜を許す」

「っ!」

 

一瞬揺らいだ桜の身体が魔力を帯びる。影が伸び真也を捕らえようと弧を描く。斬殺ではなく、締め上げ圧死させるつもりだ。彼はその帯の死の線を断ち切った。

 

「だめ、駄目です、兄さん。見ての通りです。分っているのに駄目だと分っているのに、私は自分を止められない。アンリマユの言われるがままなんです。こんな弱い娘は、いつか同じ事を繰り返してしまう」

「俺もそうだ。分っていて俺は桜を止められなかった。だから俺はここに居る。だから凛はここに居る。3人でやっていこう。それでも尚、自分が許せないというなら、こうしよう」

 

桜の目の前の兄は、右手にある剣を掲げる事なく、その左手で彼女の頬を叩いた。頬が痛い、ジンジンと痺れる。何が起きたのか理解が出来ない。この10年、その妹は兄に叱られた事は無い。口喧嘩すら無かった。だがどうした事だろう、それが何よりも熱く、心に訴えかけた。

 

「済まない桜。桜と再会した時これが出来ていれば、こんな事にはならなかった。俺を許してくれ」

 

その想いと共に与えられた抱擁に彼の妹は涙が止められなかった。兄の胸には穴が空いていた。穴から覗く心臓は動いていなかった。それでも助けに来た事実に、腕の中の妹は、込み上げる感情を堪えきれず嗚咽を漏らしだした。その姉は、不器用な兄妹に呆れつつも笑うのみだ。

 

「やっと駄目兄からランクアップね。それにしても随分と手間を掛けさせてくれたわ。この代金は……なによ?」

 

妹を抱きしめるその兄は凛を手招きしていた。

 

「すまない、凛。手を貸してくれ。俺一人だと多分手が足りない」

 

訳が分からず凛がその右手を差し出せば、彼はそれを握り、強引に引き寄せた。抱きしめた。遠くも近い3人のきょうだい達は最初は戸惑い、そして互いの存在を噛みしめた。その温もりを分かち合っていた。

 

「済まない、桜。勝手な兄で。すまない、凛。俺は酷い奴だった」

 

堪らずその姉の声も震え出す。

 

「ごめん、桜。酷い姉で。ごめん、真也。我が儘で」

「「姉と兄(俺ら)で桜を守るから」」

「……ごめんなさい!」

 

こみ上げる諸々を堪えられず、涙に濡れる妹は赤子の様だった。

 

「家に、帰ろう」

 

 

 

 

 

つづく



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53 大聖杯決戦編5

3人を見守るキャスターは戯けて見せた。

 

「因みにマスターは葵様に引っぱたかれました。それを真似ておられるだけです」

 

姉と妹の微妙な視線を浴びて、その兄は表現に困惑するのみだ。とてもバツが悪い。

 

「キャスター、君は性格に難があるぞ。折角の感動シーンが台無しだ」

「今頃お気づきに成られましたか?」

 

やっていられないと言わんばかりの真也に対し、立ち会った皆は、皆一様に笑っていた。

 

「キャスター」

 

主の命に従い、彼女は己の宝具を取り出した。

 

「兄さんわたし嫌です。お母さんも兄さんも忘れたくない」

「……良いんだな?」

「構いません。忘れるなんてそんなずるい事、しちゃいけませんから」

「だってさ」

 

真也は凛の促しに同意した。

 

「キャスター、聞いての通りだ」

「桜様。少しばかり衝撃があります。お覚悟なさいませ」

 

あらゆる魔術効果を初期化し、サーヴァントとの契約を破るその宝具は桜の胸を貫いた。黒い令呪が砕け散っていく。桜を介し契約していた真也も同様だ。髪は戻り黒く、肌も相応に赤みを帯びていた。気を失った桜をしっかりと受け止めたライダーは、真也からロングコートを借り、と彼女に羽織らせた。ライダーも桜が戻り安堵を隠さない。その微笑みは地母神に相応しいものだった。

 

「これどうしようか」

 

凛の手の平にある物は記憶消去用の術式結晶である。キャスターが拵えた物だ。

 

「その術式結晶はダミーです。魔力を籠めればただ光を放つ、その機能しか持たない限定礼装。お土産になさっては如何でしょうか?」

「……は?」

 

とは真也である。キャスターが何を言っているのか分らない。

 

「駆け出し魔術師にはいいテキストとなりましょう。ほら。凛様はまったくお気づきになりませんでしたから」

「……つまり、何か? 君は初めからこの状況を予想していたって?」

「子供の争いは如何に激しくとも最後は仲を直すものです。これは何時の時代でも何処の国でも変わりません」

 

凛は怒りの余り、身体が震えだした。キャスターを最初に呼び出した魔術師が嫉妬したのも無理がない、凛は魔女と罵りたくなるのを辛うじて堪えた。キャスターの委譲を受け入れるか否か考え直さねば、凛はそんな事を考えた。

 

安心して気が抜けたのか、真也は膝を折ると、尻餅をついた。彼は仰向けに寝転がった。息が荒い。バッファの魔力もそろそろ尽きる。何より、彼の身体はもう限界だ。心臓の呪いは後々に考えるとして、兎にも角にも癒やさねば話は続かない。キャスターは解決策を見つけるまで、真也の身体を凍結保存する事を検討しつつ、考慮に入れつつ、次の様に申し出た。

 

「マスター、とにかく心臓の再生を行いましょう」

 

主に駆け寄り印を掲げれば、彼女を止めたのは現代の魔術師であった。手を掲げ二人の間に割り込んでいる。

 

「それは私がやるから、キャスターは受肉を始めなさい」

「凛様、意地を張る状況では無いのですが」

「幾らキャスターでもこればかりは出来ない。アンタが神代の魔術師であろうと、例え魔法使いであろうとね。アンタじゃ無理、私なら出来る。黙って見ていなさい」

 

この遠坂凛という少女は出来ない事はしない、出来るというなら出来るのだろう。それを思い出した真也は従者にこう告げた。

 

「キャスター、凛に頼むよ」

 

マスターに言われては引き下がるより他は無い。

 

「凛様。万が一マスターが死ぬような事になれば、」

「うっさいわね。その時は好きにしろっての」

 

神代の魔術師は渋々引き下がった。気を失っているイリヤを抱きかかえる士郎を見つつ、大聖杯に対峙し呪文を唱えるキャスターを見つつ。真也が視線を戻せば、傍らに縁深き同い年の少女が座っていた。彼女は膝を付き、赤いシャツの襟首に手を入れ、何かを探っている。

 

「なあ、凛。心臓を治す手立てはあるのか」

 

彼女が取り出したものは赤い宝石であった。

 

「これ、家に伝わる魔力が籠もった宝石なの。なかなかの物でしょ。これで再生するから」

「水を差す様で悪いんだけど、ただ再生するだけでは意味が無い」

「その質問を本気で聞いてるなら、治した後に引っぱたく。聞いて。今の真也は遠坂から解放されてる。だから桜を引っぱたく事が出来た。解放を念じるつもりだけれど、私が治すって事は、また制限が掛かる恐れがある。可能性の話だけれど、それでも良い?」

「死ぬか縛られるか、究極の選択だな」

「そう思う」

 

頭上の女の子は不安を見せていた。拒否しないで、そう語っていた。拒否など出来よう筈が無い。

 

「他に生き方は知らない、やってくれ」

「良いの?」

「うぬぼれだが俺の力は強すぎる。コントロールする誰かが必要なら、凛と桜にして貰えるなら嬉しい。だから、こう言うよ。凛に治して欲しい」

「私、真也の事大っ嫌い。勝手だし、優しくなかったし、真也と知り合ってから辛い事ばっかり。でもアンタが桜の事、私の事、遠坂の為に、どれだけ辛い目に遭っても助けようとした事は良く分かった。見せて貰った。だからアンタにあげるのはこの二つ。それは私の気持ちとこの言葉。良く聞きなさい」

 

期待と不安を交えるその少年に、ありったけの想いを籠めて凛はその言葉を贈った。

 

「許す」

 

その言霊を聞いたキャスターは堪らず手を止め、振り向き凛を見た。彼が己を呪った原因を考えれば、その解呪の鍵は当然である。こんな簡単な方法を見落としていたのかと、キャスターは己の迂闊さに呆れるより他はない。難しく考えすぎだ。

 

「……ありがとう」

 

凛はその少年の唇に己の唇を添えると、身を起こし、肩に掛かった長く黒髪を背に流した。宝石を彼の胸の上に翳し、念じ始めた。力を持った文言を紡げば宝石が光を放つ。その魔力が織りなす神秘は彼の心臓を再構築していった。

 

 

◆◆◆

 

 

キャスターが、そのマスターを評するならば疲労感であろう。だが悲壮感はもう無かった。彼がその頭を凛の膝に乗せている事実も、影響しているに違いない、キャスターは呆れと安堵を織り交ぜつつこう告げた。

 

「現状調査(下ごしらえ)が済みましたので、それでは受肉の儀式を執り行います」

「よろしく」

 

真也はぼうと己の従者の背中を見送ると、額に柔らかい感触があった。

 

「まだ心臓痛い?」

 

それは凛の手の平であった。頭上には彼女の案ずる表情がある。

 

「しんどいけれど痛みは無いよ」

「馴染むのに時間掛かるから」

「暫くは自重するさ」

「だと良いけれど」

「するって。だから神代の魔術師の業を見学するとしよう」

 

キャスターの立ち位置は大聖杯の基盤システムが鎮座するエアーズロックモドキから随分と離れていた。あちら側に通じる穴が小聖杯の中に顕われる以上、近づく必要が無いのである。キャスターの足下には桜とイリヤが並び寝ていた。

 

キャスターは両手を水平に広げると勢いよく手を合わせた。パンと心地よい音が鳴る。合掌印。それを胸元に引き寄せ、指先同士は付けたまま、手の平と指の腹同士を遠ざけた、膨らませた。その印契を称するなら指で作られた籠だ。彼女が次々に印契を切っていけば、周囲の魔力がざわめき始めた。その指先は光を放ち、空間に事象記号を刻んでいく。呪文が無いと凛が不思議に思えば、キャスターの唇は小刻みに動いていた。人間には聞き取れない言語、初めて見る神代の魔術に凛も目が離せない。高速神言、と士郎が呟いた。

 

魔力が思念によって作られた器に収められ意味を持つ。その意味同士が組み合わさり、複雑かつ大きな意味を持つ。キャスターの足下に巨大な魔法陣が顕われた。それが輝きを放てば、その上に新たな魔法陣が重ねられた。キャスターの肉体が行使する魔術的なシンボルは、印契、腕の動き、そして全身に及んだ。彼女のそれは演舞の様だ。次々に描かれた魔法陣が積み上がっていく。それは積層型立体魔法陣である。

 

「うそ、」

「こりゃすごい」

 

大魔術を目の当たりにした凛は呆けるより他は無い。魔術に無頓着な真也も感心しまくりだ。術式という物はシンプルな物程安定し制御しやすい。簡単な機械は壊れにくく、長持ちする事と同じだ。転じて、複雑な機械は些細な衝撃で不調を訴え、壊れやすい。それ故、受肉を為し得る魔法陣という術式は、何層にも及び今では立体構造を持っていた。その緻密さ複雑さ、それを管理し維持する技能。神代の魔術師の業は、士郎と真也はもちろんのこと、凛ですら理解の外である。

 

キャスターが腕を下ろした時、皆の前に術式で構築された建築物があった。例えれば、水晶で作られた神殿が適当であろうか。一分掛からず構築したそれは、受肉を実行するテンプレートではなく、彼女が状況に応じて即興で興した物だ。見ればイリヤも桜も魔法陣に囲まれている。彼女はそれを苦も無く成し遂げたのであった。

 

術が発動すれば式に則り、イリヤが持つバーサーカーの魂を桜に転送した。英霊7体の魂が揃い、あちら側の世界と繋がる孔が開く。魔力が黒い小聖杯である桜から、大聖杯に逆流し始めた。アンリマユの成長度合いを測定すれば、まだ余裕はあった。

 

「セイバー、いらっしゃいな」というキャスターの誘いに、セイバーは「私は最後で良い」と遠慮した。真也が「セイバーが最初」と言えば、凛が「セイバー、脚本家がそう言っているんだから、素直に受け取っておきなさい」と継いだ。「しかし」と渋るセイバーにキャスターは「貴女は私たち二人と違って、魔力が切れれば直ぐに消えてしまう。異論は?」と逃げ道を塞いだ。柔らかい物腰だが、手を焼かせるなと言わんばかりである。

 

セイバーは士郎の同意を得ると一歩踏み出した。彼女の目の前に聳えるそれは、水晶の階段と水晶の屋根を持ち、それを支える無数の柱もまた水晶で成っていた。意を決しそれに身を投げれば、神々に謁見する様な厳かな雰囲気である。神殿の中に消えていったセイバーを見送った真也は己の従者に何気なく聞いてみた。

 

「キャスター、受肉の術式がギリシャ神殿の形を持つ事に意味はあるのか?」

「ええ。地母神の力を顕現させていますから。地は肉となる、そう言う事ですわ」

「その地母神って誰よ」

「デーメーテール、といえばおわかり?」

 

有名所である。

 

「なあ凛。デーメーテールって普段温厚だけど怒ると怖い人じゃなかったか? 飢饉を起こすとかどうとか。セイバーが変な影響を受けなければ良いけれど」

「誰でもそうだから良いんじゃない?」

「あ、納得」

 

凛は膝の上にある彼の鼻を摘まんだ。

 

「キャスター、どれ位時間が掛かる」

 

不安と落ち着きを隠さず士郎が問えば。

 

「落ち着きなさいな。もう終わったから」

 

キャスターが目配せすると、神殿の前、階段の下にセイバーが俯せに倒れていた。士郎が慌てて駆け寄れば、彼女は気を失っていた。

 

「ダメージがあった影響よ。暫く経てば意識が戻るでしょう」

 

だが士郎にキャスターの声は届かない。士郎が抱きかかえれば四肢は力なく、しな垂れていた。彼女の頭を手で支えれば、体温、存在感、なにも変わらない。だが決定的に今までと異なる事が一つあった。大樹、ご神木を見た時に感じる、何時までも変わらない、何時も其所にある安心感。彼女は命尽きるまで傍らに居続けてくれるのだ。その事実に思わず視界が滲んだ。

 

視線を感じその方を見れば、思わせぶりな同級生の視線。真也は相応に祝福していた。力なく笑っていた。凛は少々意地が悪かった。からかいの笑みを浮かべている。士郎は腕で眼を擦り誤魔化すと、そこにはふてぶてしい士郎が立っていた。

 

「俺に対して貸しを作ったつもりか」

 

つっけんどんな態度であったが、抱きかかえたセイバーはしかりと支えていた。

 

(衛宮君も真也に対しては相変わらずか。本当に素直じゃないわね)

 

答えたのは真也であった。

 

「当たり前だろ。そんな美人さんがこれから士郎の傍に居るんだ。一生感謝しろ。これから話す前と話し終わった後に、真也様万歳と唱えろ」

「誰がするか、このばか」

「アンタらね、こんな時ぐらい仲良くしなさいよ」

 

笑いあうマスターたちに対しキャスターの表情は優れない。彼女の視線の先にはアンリマユが収まる尖塔があったのである。その胎動は彼女の予想を上回っていた。

 

「マスター、限界です。アンリマユが急速に力を得つつあります。このままでは桜様が再び囚われるかも知れません」

 

キャスターの発言に異を唱えたのは凛であった。

 

「ライダーとキャスターの受肉は?」

「あちら側の孔は桜様の中にあります。我らは後でも、どうとでもなりましょう。或いはこの空洞の崩壊が先やも知れませんが」

 

桜と凛の攻防で、空洞が崩壊し掛かってるのだった。軋む音、亀裂の入る音、岩が岩に当たる音。崩落が始まっていた。真也は苦悩めいた表情である。

 

「凛」

 

士郎はなんと言ったらいいのか分らない、だものでただ困った様にその名前を呼んだ。

 

「遠坂」

 

たちまち憮然とするのは凛である。

 

「なによ。私たちの性格でこう成ったって言いたいわけ?!」

「「そこまで言ってない」」

 

神殿を開放したキャスターはこう告げた。

 

「マスター、如何なさいますか? 閉じる事も可能ですが」

「士郎」

「異議無し」

「凛」

「分ってるわよ」

「破壊だ。大聖杯もろとも葬れ」

 

彼はゆっくりと起き上がると、凛に言う。

 

「皆を連れて脱出してくれ。俺らはコイツを処分する」

「私はこの地の管理者なんだけど」

「であれば、こそ。俺はキャスターのマスターだ。ライダーには気を失っているセイバーと桜を運んで貰う。さて質問。イリヤは誰が運ぶ?」

「衛宮君が居るでしょ」

「士郎には最後まで付き合わせる」

 

彼は黙って頷いた。元よりそのつもりであった。

 

「いつ崩落するか分らないってのに、どうやって脱出するのよ」

「凛様。私は二人までなら転位可能です」

「と言う事。異論は?」

「なによ、偉そうに。こんな事なら制限を外すんじゃ無かった」

「心配しなくてもちゃんと効いてる。だから葵さんを早く安心させて欲しい。心待ちにしている筈だ」

「母さんがアンタの無事を見たくないとでも?」

「凛、頼む」

 

暫く睨み合った後、仕方が無いと、あからさまな溜息を付いた。

 

「報告書を提出しなさいよ。言っておくけれど私の照査は厳しいからね」

「ん」

 

ライダーはセイバーと桜を脇に抱え。凛は己に体重減少と、脚力強化の術を施した上でイリヤを背負う。見送った3人は大聖杯に向かい歩き出した。

 

「凛様は転位の人数制限の虚偽にに気づいていたのでしょうか」

「多分な」

 

 キャスターはふわりと浮いた。

 

「では、マスター。お先に」

「ああ。頼んだ。でも花火は見せて貰えると助かる」

「では特等席を誂えておきましょう」

 

キャスターは弾む様に二人を飛び越えると、崖の上に消えた。その崖の麓で盛大な溜息を付くのは真也であった。

 

「これを登るのか」

「嫌ならここで待ってろよ」

 

手を掛け、足を掛け、士郎は崖を登り始めた。気は進まないが後塵を拝するのは面白くない。真也もその後を追った。ゆっくりと確実に登っている、と言えば聞こえは良いが、一つ登れば、一つ休憩する有様である。例えるなら陸に上がった魚だ。スタイリッシュさとはほど遠い。体調という条件は真也より士郎の方が良い、それ故。

 

「急げ真也。遅れるぞ」

 

士郎のその声は軽快である。

 

「ふざけんな。こちとら心臓を治したばかりなんだよ。言っておくが息をするのだってしんどいんだ」

「言っておくけど、それは俺も同じだ。真也、お前は気合いが足りてない」

「後で泣かす」

「忘れる」

 

負けてなるかと二人がデッドヒートを繰り返し、崖の中程に来た頃の事。

 

「ぐっ」

 

と妙ちくりんな声がした。何事かと視線を上げれば、崖から投げ出された紫のローブが見えた。唖然としていれば、そのローブは崖を転がり落ちていった。キャスターである。異常事態に気がついた真也は慌てて崖を降り、駆け寄れば彼女は血を吐いていた。刀傷ではなく、拳打によるダメージだった。落ちた影に真也が見上げれば、崖の上に人が立っていた。崖の途中にいる士郎の呟きは、まるで亡霊でも見たかの様である。

 

「言峰、綺礼?」

 

二人を見下ろすその男はゆっくりと笑っていた。

 

 

 

 

 

つづく!



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最終話

キャスターの負ったダメージは致命的なモノでは無かったが、それはキャスターに限っての話であり、計画という意味では致命的だ。身を横たえる従者の顔は、苦痛に歪み眉を寄せ血を吐いていた。その声は正しく息も絶え絶えだ。

 

「申し訳ありません、マスター。このダメージでは魔術の行使は、」

「キャスターは霊体化して凛たちと合流、桜の中に有るあちらへの孔を閉じろ。それがアンリマユの燃料なら閉じれば終わる筈だ」

「成長阻止臨界点は超えています。閉じるか破壊するよりありません」

「なら予定変更。俺らは言峰綺礼の討伐とアンリマユ誕生阻止を図る。俺らが失敗した場合、桜の魔力をつかって体勢を立て直し、アンリマユの討伐に当たれ。戦力はセイバーとライダー、キャスター、そして凛だ。 もしそうなったら当初の予定通り遠坂の事を頼んだ」

 

真也がそう告げると、キャスターは口惜しそうに、姿を消した。

 

 

◆◆◆

 

 

左が真也、右に士郎。鉢である岩盤の上に二人が立ち並べば、黒い尖塔に立ち塞がるは言峰綺礼である。新しいガーディアンの誕生という訳だ。塔からあふれ出す魔力の光、それを背に受ける様は光背そのものである。

 

「士郎、綺礼は元代行者だ」

「知ってる。お前、体術の心得はあるか?」

「喧嘩殺法」

「それって素人って事じゃないか」

 

「五月蠅いな。ちゃんと勉強してる」

「なんだその勉強って」

「プロジェクトAとか少林サッカーとか」

「分った。お前実は馬鹿だろ」

 

「実戦経験は士郎より上だ。そういうお前はどうなんだ」

「アーチャーから基本は習った」

「と言うか、宝具投影しろよ」

「お前を説得する(ボコる)のに、グングニルとカリバーンを投影して、その後お前に心臓を破壊されてる。対アンリマユ用にエクスカリバーを残して、今日はカンバンだ」

 

「……そんなモノも投影出来るのか」

「正しくは、永久に遥か黄金の剣(エクスカリバー・イマージュ)。神造兵装を辛うじて再現出来る劣化品。それでも、姉さんの魔力供給を受けないと使えない代物だ。つまり、干将・莫耶ですら投影してしまうと、後が無い」

「つまり何か。崖を登るのにすら難儀する俺らが、元とはいえ代行者をゲンコツで倒すと」

「怖ければ逃げろよ。尻尾巻いて逃げる奴が居ても役に立たないから」

 

「言っておくけどな。凛ではなく士郎を選んだのは凛がこの土地の管理者だからだ。死なない限り助けないからな」

「こちらのセリフだ、ばか」

 

何故だろうか、進退窮まった状況に於いて二人は笑みを浮かべていた。それが現実逃避なのか、軽口による発破の掛け合いなのか、二人には良く分からなかった。

 

「相談は終わったか?」

 

綺礼を見る真也の顔は、不審と戸惑いである。理解出来ないという意味だ。

 

「言峰綺礼、おっぱじめる前に幾つか質問がある」

「この状況だ、答えられるものなら応えよう」

「どうしてこの場所が分った。どうやって入った。大聖杯の場所を知る者は凛だけの筈だ」

「大聖杯を維持出来る程の霊脈は多くない。柳洞寺の参道前に衛宮の自動車があった。崩落した穴を覗けば、案の定という訳だ」

 

「タイミングも見計らっていたと言う訳か」

「もちろんだ。セイバーは気を失っていたが、ライダーはほぼ無傷。だから詠唱中のキャスターを狙った」

 

継いだのは士郎である。静かに見据えこう問うた。

 

「死んだ筈のお前がどうして生きている」

「私の心臓は聖杯の泥で出来ていている。キャスターの術では死にきれなかったと言う訳だ。キャスターは人間の心臓を前提に術を打ったのだろうな。優秀すぎた、そんなところだろう」

「どうして、聖杯の泥になんてなった」

「前回の聖杯戦争に於いて、私は一度死んだのだよ。時同じくして契約していたサーヴァントが泥に飲まれた。パスを通じて流れた泥は心臓モドキとなった。ここまで言えば分るか?」

 

再び真也である

 

「もう一つ聞きたい。枠という意味では最後の問いだ。なぜ俺らに立ち塞がる。キャスターは俺のサーヴァント。俺への遺恨なら、俺を直接狙えば良いだろう」

「理解しながら聞くとはお前も大概に質が悪い」

「言峰神父、お前が言う事に意味がある」

「信じるかどうかは勝手だが、“お前が私を殺そうとした事自体に遺恨は無い ”」

 

足を肩幅に広げ、軽く肘をまげ、佇む綺礼の姿は自然体。体術の心得がある、二人はそれを悟った。

 

「蒼月真也。お前は私と同じだった。幸福を感じられないと言う存在に於いて、私より酷かった。お前は幸福を感じない事すら疑問に思わなかった。ただ蒼月桜の維持の為だけにあった。

 

だがお前は遠坂凛と出会い、苦悩を得、善悪の認識をする様になった。遠坂葵にその存在を肯定され、挙げ句の果てに遠坂凛に癒やされたお前は、人並みの幸福を感じる様になった。だからこそ遠坂凛を先に帰させたのだろう? 近しき者の幸せを願う、身を案ずる、責を負う、それはありふれた善意だ。

 

以前のお前なら、遠坂の存在を最優先し、キャスターに命じた上で一人残し、連れ帰った筈だ。それがもっとも合理的な判断だからな。キャスターはサーヴァント、大聖杯を破壊した上で、霊体化してしまえば、脱出など造作も無いだろう。

 

だがお前はそれをせず、この場に残った。それは何故だ。お前の今の行動は、傍目類似しているが根本に於いて異なる。それは自己の尊重に他ならない。見届ける、責を負う、こうありたいと願い、周囲と折衝を図った」

 

「盗み聞きか。神父らしくない趣味だが、つまり何が言いたい」

 

「生まれながらに持ち得ぬ者だったお前は、聖杯戦争という僅かな期間で、私が求めても得られなかったモノ、手に入れたというのに、手に入らなかったモノ、どのような戒律をもってしても、指の隙間からこぼれ落ちた無数の澱、お前はそれを手に入れた。正直言えば感傷なのだよ。蒼月真也、私はお前を羨んでいる、妬んでいると言っても良い」

 

「そうか。言峰綺礼、お前はあり得ただろう俺のなれの果てか」

「どちらがなれの果てなのかは、まだ分らんがね」

「もう一度聞く、なぜ俺を直接狙わなかった。なぜキャスターを狙った。死に体の俺らなら造作も無かっただろう」

「お前を倒せば、キャスターは私の存在に気がつく。格闘戦に劣るとはいえサーヴァントだ」

 

綺礼は手の平を上に向け、広げた。泣き出しそうな空を探る仕草であるが、その腕の広がりこそが彼の世界の大きさだ。

 

「私が支配出来る世界は手足が届く距離に限定される。距離を維持され、飛び道具(魔術)を使われれば打つ手がない」

「なるほど。それは道理だ」

「何よりそれでは、誕生を祝福出来ない」

「……アンリマユの肯定か。予想はしていたが、本気だったか」

 

「恐らく。結論は異なれど考え方は蒼月、お前と同じ筈だ」

「善悪は認識によって生まれる」

「その通りだ。善悪が問えぬならば、生まれ出でるモノを祝福するのは道理であろう。愛情とは、その存在を肯定する強い思念に他ならない。つまり、私はアンリマユに愛情を注いでいる、と言う事か」

 

綺礼は己の出した結論に満足さを隠さない。対し真也の心は痛んだ。それは生まれて初めて持った母親に対しての確執である。再び士郎が問いかけた。

 

「なぜキャスターをし損じた。女の人は殺さないって訳でも無いだろ。それとも奥さんか娘さんを亡くしでもしたのか」

「さてな。私は討ち取るつもりであったが、ご覧の通りこちらも心臓を破壊され死に体だ。お前達と同じように見た目ほど余裕は無い。手元が狂ったのかもしれん」

「言峰、お前はその回答に自分自身納得していない」

 

「確かにな。ではこれならばどうだ。私の願いはアンリマユの誕生のみだ。蒼月真也は死を前にして得た。私は死を前にして、なお得られない。ではコレは? 初めからこの世に望まれなかったモノ。誕生する意味と価値のないモノ。悪が存在する意味。悪が救いを得る事が正しいのか、得られない事が正しいのか、アンリマユは死を間際にしてその答えを示すだろう」

 

「だからキャスターを見逃したのか。賛同者が欲しいなんて意外と俗物的だ」

「違うな。私はその答えを求めている」

 

真也が士郎を継いだ。

 

「アンリマユがどちらの答えを示そうとお前の答えとはならない」

「ほう、お前なら答えを提示出来るのか」

 

「そんなものは無いさ。生憎と俺は、正誤を求める聖堂教会の教えは嫌いでね。強いて言えば、答えは己が内に求め続ける事が正解。言峰綺礼。お前に一つだけ言っておく。

 

俺は確かに、生まれながらにして持ち得ぬ者だった。けれど初めから望まれなかったモノではない。お前の言う通り誕生は祝福されるモノだからだ。そして、それはお前も同じだ。生まれ出でた時、お前の誕生に意味があった」

 

綺礼は表情らしい表情を見せた。

 

「言峰綺礼、お前の親はどうした」

「私が殺したよ」

 

「多分それが決定的な違いだ。俺はせずにすみお前はしてしまった。祝福してくれた存在を殺して(否定)しまった。生まれたアンリマユが祝福する言峰綺礼を殺すならば、アンリマユが示す答えは同じ。そして、お前が俺のなれの果てというなら、お前が止まれない、止まらない事は良く理解出来る。だから言峰綺礼、今からお前を討つ」

 

「持ち得る者が持ち得ない者を討つか、これはまた罪深い」

「善悪は認識なんだろ?」

「確かにそうだ。蒼月真也、お前は私にとっての悪だ」

「上等」

 

綺礼は無手だ。対して士郎も真也も無手。生憎と大聖杯が収まる岩盤の表面は多少の凸凹はあるものの、ほぼ平坦と言っても良い。つまり何の障害物も無い一様のフィールドである。奇襲が不可能ならば、取り得る手段は真っ向勝負。つまりは格闘戦だ。

 

だが、士郎と真也のフィジカル・コンディションは最悪と言っていい。その様な劣勢の中、強いカードが一枚有った。二人は互いの考えている事なら手に取る様に分るのである。2:1ならばそれは武器となる。

 

「真也、お前、言峰綺礼を殺せるか?」

「やるしか無いだろ」

 

二人と一人が動いたのは同時だった。2:1という数のアドバンテージを活かすにはタイミングが重要だ。二人は綺礼への初撃を左右同時攻撃とした。だが馬鹿正直に踏み込んでは、迎撃してくれと言っている様な物だ。それ故二人は左右に位置を切り替えながら肉薄する事にした。

 

真也が左、士郎が右。

士郎が左、真也が右。

最後は、

士郎が左、真也が右だった。

 

真也が右拳を打ち込めば、士郎は回し蹴りである。二人の攻撃は綺礼の腕に防がれていた。真也は桜とのパスにより魔力は足りているが、心臓の制限により根本的に力が入らない。魔術がうまく発動出来ないのだ。

 

士郎の場合、鍛えられてはいたがスペック自体は一般人の延長線上である。共に攻撃が通じなかった。

 

退くか、続けるか、その選択に迫られた二人は、再び攻撃を選んだ。綺礼に何のダメージも負わせていないのだ、一度離れ仕切り直した所で、結果は同じ。綺礼の笑みは緩いと物語る。

 

最初は真也だった。拳を大きく引き、掲げ、綺礼の左舷に踏み込んだ。綺礼までの距離が近いにも関わらず、モーションの大きな攻撃を選んだのは陽動である。

 

綺礼の注意が真也に注がれたその瞬間を、士郎が狙う。彼は身体を回し、右肘を、綺礼の脇腹に撃ち込んだ。肘打ち。右足を軸にし、回転力を乗せていた。肋骨は人体急所の一つだ。筋肉も少なく骨は折れやすい。如何に綺礼とはいえダメージは免れまい。それは甘い考えだと二人は思い知らされた。

 

なぜだろう。士郎の目の前に綺礼の肩が遭った。ダンと綺礼の足が岩盤を踏み抜く音は、尋常でない程に大きく、重かった。打ち抜きの衝撃が岩盤を伝わり、士郎に届く程だ。それは震脚であった。

 

続けて、ズンという重い衝撃が士郎を襲った。綺礼の肩は士郎の重心を打ち貫いたのである、それは靠撃(こうげき)だ。士郎は蹈鞴を踏むどころか吹き飛ばされた。衝撃により呼吸もままならない身体が、岩盤に叩き付けられた。肋骨に入ったヒビは鞘に癒やされたが、意味の無い攻撃を繰り返しては、体力が目減りする一方である。

 

綺礼が士郎に撃ち込んだ攻撃は、自然、真也から遠ざかる事でもある。間合いを外された真也は綺礼に腕を掴まれ引き寄せられた。ダンと重苦しい音は2度目の震脚。綺礼の拳は、真也の芯を捕らえた。

 

寸勁とは。呼吸方法や、重心移動、骨格の位置関係、筋肉の張り、重力までも用い、最小動作で最大の威力を生み出す技法である。もちろん体格体重に比例し193センチ、82キロの綺礼が生み出すそれは人間の常識を越えていた。真也は吹き飛ばされ、岩盤を転がった。内臓へのダメージが生じた。

 

「がはっ!」

 

真也は岩盤に手を立て、四つん這い。痛みを堪え、身体に鞭を打ち、どうにか身を起こせば、口から血が溢れていた。吐血はもう慣れたと口を拭えば、目の前に綺礼が居た。

 

「この腐れ神父。拳法習う暇があるなら教えを説けよ」

「もちろんこれは説教だ。異教徒の身体に説いているからな」

 

歩み寄る綺礼の身体が弧を描く。そんな馬鹿なと真也は驚きを隠さない。綺礼の為す、歩みの動作と攻撃の動作の繋がりに、途切れがないのだ。予備動作のない攻撃など奥義級である。

 

右肘が襲い来るがダメージにより躱しきれない。真也は脳天を狙っていると見定めた、綺礼の肘に敢えて踏み込んだ。頭突きである。頭蓋を鈍い音が貫いた。静寂が訪れた。綺礼と真也はその姿勢のまま硬直していた。

 

「威力が乗り切らないうちに頭をねじ込み相殺したか。なかなかの技量と度量だ。特筆するべきはお前たちのコンビネーションだな。見事なモノだ。とても即興には思えない」

 

真也の額が割れ血が流れていた。それがまた綺礼の肘を濡らしていた。

 

「だが詰めが甘い。蒼月、その状態からどうするつもりだ」

 

どうするも、こうするも無い。攻撃のみである。

 

 

◆◆◆

 

 

格闘技に限らず、戦いの全ては積み立てが全てだ。勝てる様に己を鍛える、勝てる様に技を学ぶ、勝てる様に相手を調べ、勝てる様に地形効果を活用し、勝てる様に間合いを図る。勝敗とはそれら準備の積み立て、その帰結に他ならない。残念ながら今の真也はその準備がなっていない。

 

それでも勝ちを狙うならば何かを削るか、イカサマをするのみだ。真也は立ち上がると同時に、右手に掴む小石を親指で弾き綺礼に撃ち込んだ。転がされた時に掴んだのである。

 

サーヴァントに張り合う存在が、この様な小細工に訴えた事が意外だったのか、単に意表を突かれただけなのか、綺礼は二の足を踏んだ。

 

真也は迫る綺礼の肘打に構わず踏み込んだ。それはフェイントだ。胴に拳を撃ち込むと見せかけ、潜り込み、腿を掴み持ち上げた。綺礼の肘が真也の背中を貫いた。ミシリ、それは左肩甲骨にヒビが入った音だ。

 

「ぐっ!」

 

綺礼の技は体重移動(シフトウェイト)が基点、足を持ち上げればそれは叶うまい。真也の意図を見抜いていた士郎の拳は、急所である綺礼の米神を狙っていた。綺礼は筋力と体重に物を言わせ、真也のベルトを掴み、仰向けに倒れる様に彼の身体を持ち上げた。投げる様に身体を捻る。さすれば、士郎の目の前に真也の身体があった。綺礼と士郎の眼が合った。

 

「「っ!」」

 

綺礼に投げ飛ばされ二人はもつれ合う様に転がった。そして岩盤に叩き付けられた。腕を回し、頭部を守ったが、四肢が痛む。擦過傷、裂け傷もある。なにより骨に響く感触が堪えがたい。正直にいえば、のたうち回りたいぐらいだ。

 

痛みを堪え士郎が身を起こせば、目の前の真也は蹲り身を震わせていた。骨折に衝撃が加わり激痛となっているのである。士郎はそのまますっくと立ち上がった。気遣いたいが今それをしても意味が無い。綺礼を見る士郎の目はイカサマを疑う目であった。

 

「流れる様な重心移動、鎚の様な踏み込み、肘打……神父が八極拳だなんて」

「詳しいのだな。その通りだ。師の套路を真似ただけの内に何も宿らぬ物だが、死に損ないの相手には十分の様だ」

 

士郎が背後の尖塔に気を配れば、それは膨張していた。内部に異形の英霊が、形を成している。腕、足、翼も視認出来た。それは一刻も早い誕生を渇望していた。もう時間が無い。士郎は覚悟を決めた。

 

「真也、どうにかして死ぬ気で隙を作れ」

「あ、あ、」

 

蹲る彼の言葉は、悶絶か応答なのか、判別が付かない。だが、同意は確実に見て取れた。

 

「投影開始(トレースオン)!」

 

士郎の手にあるモノは片刃の夫婦剣、干将・莫耶である。どうした事か、綺礼は腕を腰に回し、胸を張っていた。その醸し出す雰囲気は大学講師である。できの悪い学生を嘲笑する視線であった。

 

「今頃か。使いたくなかった、使えなかったのではないのか」

「うるさい。お前には関係ない」

 

実際の所これは自殺行為だ。士郎に残っていた投影のキャパはエクスカリバーイマージュ、一振り分。干将・莫耶を投影してしまえば、足りなくなる。それでも投影せねばならぬなら、足りない分を補う必要がある。何を以て補う? 己を削るより他は無い。

 

覚悟を決めた士郎に真也もまた腹を括った。魔術を発動させれば、癒やされたばかりの拙い心臓は、負荷に堪えきれず意識が遠のいた。それでも尚、彼の踏み込みは足下の岩盤を打ち砕く程である。真也は腕を十字に組み頭部をガード、突貫した。

 

彼の踏み込み、彼の疾走は平時の1/10もない。動きも単調だ。それでも綺礼の意表を突くには十分だった。元来、綺礼の追える速度ではないのである。

 

迎え撃つ綺礼はそのタイミングを辛うじて読んだが、カウンターを狙えば己もダメージを受ける。そこで闘牛士の要領で身を翻すと、真也の足を払い、相撲の要領で鉢状岩盤から放り投げた。崖を肉の塊が転がり落ちる音がする。

 

仕留めきれなかったが、まあいい。分断がなれば好都合だ。片割れを潰す、その後残りを確実に潰す。姿勢を正し、士郎に向き直った綺礼の目の前に莫耶があった。完全に予想外の攻撃に綺礼は躱す事叶わず、その投擲は綺礼の右肩を打ち貫いた。肩から右指先に、血を滴らせながらも綺礼は笑っていた。

 

「投擲も可能とはな。付け加えれば狙いも悪くない。多芸なものだ」

 

綺礼は夫婦剣の片割れを引き抜くと、背後に広がる暗がりに放り投げた。武器として使う事も考えたが、とっさに解除されても面白くない。右腕は完全に逝っていた。

 

突如昔を思い出した綺礼は、堪えきれず笑みをこぼした。綺礼のそれは何時もの馬鹿にした様な笑みではなく、心底愉快そうな笑みであった。何時もと異なる様子に、士郎も怪訝そうに眉を寄せた。

 

「なにがおかしい」

「あの時もこうだった。10年前に切嗣と戦った時も、私は右腕を潰された。因縁とはこう言う物を言うのか。来い、衛宮士郎。あの時は心臓を狙い敗北したが、此度は確実に頭を潰す」

 

朦朧と真也が瞼をあければ、鉢状岩盤から溢れる光が見えた。彼は舞台から転がり落ち、照明が当たらない、観客席から見えない、光と影の淀みの中に大の字である。

 

戻らねば。一人で太刀打ち出来る相手ではない。だが身体が動かない。戻り、戦わねば。ここで終わっては合わせる顔が無い。立ち上がらねば。

 

「……っ」

 

そうは思うが力が入らない。ここで膝を折っては、あの男に笑われる。だが限界だ。ここまでか、と諦めかければ。その男とは誰だったか。

 

士郎か? 違う。アーチャーか? それも違う。男友達は相応にいるが、笑われ心底悔しさを感じる人物などそうは居ない。誰だったかと思い馳せれば、大の字に伸ばした左中指に冷たい感触があった。

 

何事かと、視線を走らせれば、それは赤い何かであった。焦点定まらない眼球が見ているモノは真紅の槍である。それはかつてのギルガメッシュ第2戦の折、回収した槍であった。鉢状岩盤の麓に転がしておいた物が、崩落の衝撃により転がってきたのだ。

 

濁っていた瞳が鋭利に輝くと、彼はふらりと立ち上がる。

 

「お節介め」

 

士郎の瞳に映る綺礼は、鉢という舞台の際に立っている。己の武器は、右手にある一振りの干将のみ。目の前の男には敵わないだろう、それは直感で分かっていた。一人では勝てない。

 

ひっくり返すカードは、舞台から転げ落ちた同級生だ。気配を読むには遠すぎる。だが確実に士郎の意図を理解している、その確信はあった。だが遅い。あまり遅れては悟られる恐れがある。普通の魔術師ならともかく、目の前の男にそれは致命的だ。

 

「どうした。来ないならこちらから行くが?」

「……」

 

士郎が腰を落とせば重心は前のめり。柄を持つ右手は頬の近く、切っ先は下へ向いて、クロスさせ左手を刃先に添えれば、同級生とのタイミングが取れた。遅いと、心中で文句を唱えつつ士郎は踏み込んだ。

 

士郎を迎え撃つ綺礼は“そうだろう”と予想していた。如何にダメージを負っているとはいえ、弱体化しているとはいえ、聖杯戦争に於いて何度も死にかけ、生き残ってきた存在だ。綺礼は蒼月真也の強襲は予想していたのである。

 

付け加えるならば、僅かな間を持った士郎の態度に確信を持った。目の前には夫婦剣の片割れを持ち迫る子供と、背後には崖を駆け上る子供の気配があった。士郎は斬撃か、投擲か。この距離とその構えでは投擲に切り替えるには無理がある。それを以て綺礼は斬撃と判断した。万が一投擲に切り替えたとしても、斬撃から投擲までの構え直しに時間が掛かる。対処する余裕は十分にあるだろう。

 

故に、先に背後の子供を仕留める事にした。気配を読み、間合いを探り、振り向き視れば。その子供は真紅の槍を持っていた。“なんだそれは”綺礼は予想外のそれに気を奪われた。あの英霊は消滅した筈だ。だが、この世界に残したモノが在ったのだ。

 

崖上に立つ綺礼に目掛けて、崖を駆け上がる真也の身体は、重い。鈍い。力が抜けそうになる。だがこれが最後だからと、己の身体に言い聞かせた。これで仕留められなくては、もう終わり。綺礼に殺されるだろう。よしんば殺されずとも、誕生したアンリマユに殺される。だから動け、そう何度も言い聞かせた。

 

それ以上の問題が不殺のトラウマだ。槍を見よう見まねで構え、突進したは良いが穂先がブレる。この槍を以て、この穂先を綺礼の心臓に突き立てねばならぬというのに、無意識がそれを拒絶する。綺礼に近づく度に、崖上に近づく度に、その抵抗は大きくなる。まるで強風に逆らって走っているかの様だ。

 

崖上の振り返った綺礼と眼が合った。読まれていた。だがやり直しは効かないのである。突っ切るしか無いが槍は暴れ安定しない。綺礼の心臓と言う狙い諦め、この際何処でも良いと目を瞑り崖の斜面を踏み抜けば。

 

“槍を使うなら脇を締めろ、マヌケ”

 

それが幻聴なのか、英霊の座からの呼びかけなのか。真也にとっては大した問題では無かった。あの槍兵は確かにこの世界に居たのだ。共に戦い笑い合った事が事実ならば、ならばそれで十分だろう。

 

“お節介槍兵め”

 

笑みが溢れた。彼の疾走は崖を登り切り、その手にある真紅の穂先は綺礼の心臓を捕らえた。

 

「ぐはっ!」

 

士郎の目の前には仰け反った綺礼の後ろ姿があった。どうした事だろう。その胸には真紅の槍が突き立てられていた。はてな。あの同級生はどこからあの槍を持ちだしたのか。最後の敵が岩盤に串刺しにされ、絶命した事を確信すると、士郎は干将を放り投げた。時間が無い。

 

振り向き視れば、アンリマユは誕生直前である。胎盤を突き破ろうと手足を動かしている。彼は自分の家族たちに済まないと謝り、己が心象世界に展開する設計図は、人の手に余る“神造兵器”である。

 

「投影開―」

 

その自己暗示は赤槍の投擲に中断された。士郎が数秒後、通過するだろう地点に、それが突き立てられていたのである。良く分らないが同級生はそれを使えという。迷った彼がその槍を手にとれば、彼の魔術回路がそれが宝具だと囁いた。

 

「解析開始(トレース・オン)!」

 

真名判明。この対人宝具ならば、アンリマユすら仕留められる。加えて低燃費型宝具ならば彼にも撃てる。ただレンジが短いのが欠点だ。

 

彼は躊躇う事なく崖から身を投げると、大魔方陣の上を走り出した。回路を走る膨大な魔力の影響で意識が揺れる。歯を食いしばり、帰りを待つ人達を思い浮かべ必死に抗った。

 

麓で見上げるその黒く禍々しい塔は、忌々しくも天空の塔だ。ただし、天の蓋が抜けないならば、所詮井の中の蛙。士郎が魔力を注ぎ込めば、その宝具が敵を討たんと吠えた。真名解放。

 

「刺し穿つ死棘の槍(ゲイボルク)!」

 

その魔槍の呪いが成立したのはアンリマユが誕生する前だった。従って、例え胎盤が裂ける光景を士郎が見たとしても意味が無い、すでに死は確定されているのである。因果の逆転は、そのサーヴァントの心臓を貫き、破壊し尽くした。

 

「―――!」

 

誕生をキャンセルされたその悪魔は、知覚できない断末魔を上げながら崩れ、胎盤の中で息絶えた。

 

 

◆◆◆

 

 

役目を失った黒い尖塔が崩れ出す。亀裂が入り、裂け続けた。それの進行は収まる気配がない。傾き、重量バランスが崩れたそれは、尖塔の中程から曲がり始めた。直に、真っ二つに折れるだろう。大聖杯も既に停止していた。

 

塔の裂け目には、生まれ損なった悪魔の腕が突出し垂れていた。人によって生まれさせられ、人によって否定された、哀れな反英霊の最後であった。悪魔とはこの様に、人間の都合で生まれさせられるのか、士郎のその感傷は一秒も持たなかった。

 

決壊したダムの様に羊水を吹き出したのである。水圧死。こんな馬鹿な死に方をして堪るかと彼は血相変えて逃げ出した。鉢の縁にいる同級生は四つん這いで蹲っていた。死んではいないなら、小突いてでも歩かせよう。慌てて駆け寄ればその同級生は這う岩盤に拳を打ち込んだ。良く分からないが、憤っているらしい。

 

「おまえ、どうしたんだこの槍」

「分るか士郎。この意味が。俺はあの軽薄な槍兵に負けたって事だ。完全無欠の敗北、完敗だ。おまけに勝ち逃げされた。とどめが不戦敗だ。くそ、腹が立つ!」

「悔しがる真也なんてゲシュタルト崩壊しそうだ。もっと見てみたいけれど脱出が先だ。死ぬ気で走れ」

 

あちらこちらで巨大な岩石が落下している。その内の一つが大聖杯の基盤システムを直撃、破壊した。200年に渡るシステムが終わった瞬間であった。真也は己の末路であったかもしれない骸に、僅かばかりの弔いを捧げると、士郎と共にその場を後にした。

 

大空洞は崩壊を続けていた。足下の亀裂を踏み越え、落石を読み、避ける。二人は痛みを堪えつつ、肩を貸し合いながら、小刻みに走り続けた。大聖杯が収まる広大な空洞を後にし、士郎と真也が戦った空洞に達し、アサシンとランサーが戦った洞窟に向かえば、岩石で塞がっていた。行き場が無い。つまりは雪隠詰めという事だ。

 

何故だろうか、天より光が落ちていた。見上げれば孔があった。それは天のおとし蓋に開けられた孔だった。綺礼が侵入したであろう、その孔から見える空は紅に染まっていた。夕方だ。朝一で突入したが相応時間が経っていたらしい。士郎は静かにこう問うた。

 

「なあ真也。天井まで10メートルだ。岩盤を抜けるのに更に10メートル。跳べないか? 何時ものお前なら出来るだろ」

 

出来ない事など分っていた。

 

「済まない」

 

肩を組んでいた二人は組み合った。崩落は激しさを増す一方である。至る所で崩れ、岩が落ち砕けていった。その音と衝撃が身体に響くが気にならなかった。地下水脈があったのか、ひび割れた岩盤から水も噴き出している。水が足下を濡らすが心配する事はない。溺死より圧迫死が確実に先だ。真也が言う。

 

「最後の最後が、和解した天敵か」

 

士郎が答えた。

 

「まぁ、これ以上悪い話は無いから、あとは上がるだけだな」

「じゃあな士郎」

「じゃあな真也」

 

目を瞑り、組み合う腕に力を籠め、最後を覚悟すれば。

 

「お取り込み中申し訳ないが、逃げる気はあるか?」

 

それは余りにも唐突な声だった。崩落の轟音が響き渡る空洞内にて、その声はいやに強く聞こえた。まるで直接心に響く様だった。

 

なにより不思議なのが余りにも場違いな声だったからである。例えるならば、沈む征く豪華客船。浸水する海水に追い立てられた主人公が、とある一室に飛び込めば安全な己の家だった……それ程にその声は、この現状に対し落差を有していたのである。組み合う二人が、かみ合う歯車の様に頭を動かし、その方を見れば一人の女が立っていた。

 

デニムパンツにスニーカー。カーキ色のミリタリー風ハーフコート纏っていた。黒く長い髪は、襟首で三つに結っていた。化粧っ気のない表情には鋭い瞳が浮かんでいた。綾子を更にハンサムにして、女性的に成熟させればこの様な顔になるだろう、士郎はそんな事を思った。彼はその女性と面識がない。遠目に見た事があるのみである。だがこれ程に強い存在感を示す人物を他に知らなかった。

 

「真也の、母親?」

 

士郎の呟きに対し、真也は凝視したまま固まっていた。どのように対応するか、判断が付かなかった。そうしていると一際大きい、破滅的な地響きがあった。とうとう天井が抜け始めたのである。3人の頭上に岩石の落下群が迫る。

 

その女は、応とも否とも言わない子供を前にして小さく溜息を付いた。仕方が無いと言った様相で二人を脇に抱えると、跳躍した。右脇に士郎、左脇に真也を抱える女は、落ちる岩を足場代わりに八艘飛びに駆け上がっていった。徐々に高度が高くなる。

 

士郎の瞳には、埋まっていく大空洞の様が逐次流れていった。

 

大地でもあり、天井でもあった岩盤を抜けると空があった。その女は最後の落下岩盤を踏み抜くと、高く、高く跳躍した。空気は冷たくも美味しかった。

 

士郎の眼下には地下帝国に飲まれていく柳洞寺があった。崩落する柳洞の山は紅に染まり、不謹慎ながらも雄大さと美しさを感じさせた。火柱を噴き立て溶岩を垂らす火山を見ているかの心境だ。

 

それよりも素晴らしい事が空を飛ぶ事である。それは飛翔ではなく跳躍であったが、彼にとってその差は無かった。眼下に広がるのは樹木の絨毯である。太古に置いて飛翔が魔法であった事を今更ながら思い知らされた。遠くに、冬木の住宅街と、更に遠くには新都が見えた。紅に染まるそれらは、長い一日が終わったのだと告げていた。

 

高度が最高点に達し大地が徐々に近くなる。森の中に突入し、落ち葉を散らせながら着地したと思えば森の中だ。抱えられていた腕が緩む。予想よりは雑に下ろされれば脱力感に襲われた。四つん這いの士郎の瞳にはただの大地があった。握り掴めばその手に土と石があった。よく調べれば菌類、微生物確認出来るだろう。

 

終わった。助かった。その言葉がグルグルと頭を駆け回る。気がつけば遠くに救急車のサイレンが聞こえる。明日になれば大騒ぎだろう。いや、これだけ騒ぎが続いたのだ、その話題は三日持たないかもしれない。

 

「怪我はないか。衛宮士郎君」

 

しっとりとした、その声に見上げれば、恩人であろうその女性は笑いもせず、呆れもせず、ただ淡々としていた。だが、旧知の人物と話しているかの様な雰囲気であった。堪らずこう聞いた。

 

「俺を知ってるんですか?」

「もちろん。恐らく君以上に知っている」

 

訳が分からない。どこかで会ったかもしれないが全く記憶にない。記憶を浚う様に視線を泳がせれば真也が目に付いた。千歳を挟んで反対側の彼は同じ四つん這いだが、伏せに近い。どうしたことか、彼は疲労と痛みを忘れる程の、怒りの形相で睨みあげていた。

 

「このババア、今更ノコノコと何しに現れた」

「仕事だと言っただろう。胸騒ぎがして急いで帰ってみれば、この騒ぎだと言う事だ。今ひとつ、親には敬意を払え」

「嘘を付け。何故狙った様なタイミングで現れた。何故この場所が分った。それは見ていたから、違うか?」

「同じ事を言わせるな。ま、お前の形を見ていれば散々な目に遭った事は予想出来るがな」

「っ!」

 

激怒の余り立ち上がれば、真也は右拳を掲げ踏み込んだ。止めたのは士郎である、怒りを微塵も隠さない同級生に多少戸惑いつつ。その母は冷静だった。

 

「言っておく。状況から判断するに君たちは失敗した。脱出に失敗するなど詰めが甘い。欲張りすぎた結果なのだろうが……ま、男の子はこれ位やってくれないと困る」

 

情状酌量の上及第点だ、そう言わんばかりの母親に子の怒りは頂点だ。

 

「離せ士郎! 一発殴らないと気が収まらん!」

「だめだ! 親は殴っちゃいけない!」

 

千歳の発言に、色々思うところがある士郎であったが、士郎は暴れる同級生を抑える事に手一杯だ。

 

 

◆◆◆

 

 

士郎を衛宮家に送り届け、千歳が自分の家に辿り着けば、その家に明かりが灯っていた。気配を探れば桜のモノでは無い。その数二人。物取りにしては様子がおかしかった、悪意が無いのである。付け加えれば人のモノですらない。

 

左脇にある真也を玄関脇に下ろし、右手にある真紅の槍を意識しながら扉を開ければ、二人のサーヴァントに出迎えられた。左にライダー、右にキャスターである。

 

キャスターは頭巾を目深に被り、窺える表情は口元のみ。友好的な笑みを浮かべていたが、営業スマイルと言う事は見て取れた。対するライダーはあからさまである。彼女は不機嫌さを隠していなかった。

 

「さて。これはどう判断するべきなのだろうな。物取りに帰りを出迎えられては対応に困る。剛胆、厚かましい、開き直り、お前らはどれだ」

 

千歳に応えたのはキャスターであった。

 

「蒼月千歳様ですね。我らは桜様と真也様のサーヴァントです」

「聖杯戦争が終われば消える身のサーヴァントが何の用だ。何故未だ顕界している」

「僭越ながら、桜様と直接契約を結ばせて頂きました。小聖杯たる桜様の内にはあちら側への孔がありますので」

「解せんな。聖杯が閉じた今、英霊であるお前達が現世に留まる理由などあるまい?」

「千歳様。まだなにも終わっておりません。寧ろこれからが本番となりましょう」

 

ライダーの握り手は強い。唇は真一文字に結ばれていた。

 

「なるほど。心残りで消えるに消えきれない、と言う事か。桜と真也は相応の信頼関係を築いた様だ。時に桜はどうした?」

「遠坂家、生家におられます。強い疲労はありますが命に別状はありません。ご心配は無用です。明朝には目を覚まされるでしょう。お休みは住み慣れたこの家宅で、とも思いましたがお心の傷を癒やす事は我らにはできません。正直に申し上げまして、桜様とマスター、そして千歳様の関係に苦慮しております」

「ふん。キャスターのそれは気が利くと言うよりはお節介だな」

「マスターは実に世話のし甲斐がある方です」

 

「私は放任主義だ。構い過ぎては子の為にならない。程々にして貰おう」

「我らの用件とはその放任主義の事です。今に至る全てはそこから始まっています。ならばその解決はそれを知る事が必然でしょう。失礼ながら屋敷の勝手は把握しております。お茶の用意も出来ておりますので、どうぞリビングにお進み下さい。時間は相応にございます。討議も実りのある物となりましょう」

「色々言うがキャスターよ。お前は私を問い詰めたいだけだろう? 」

「さて。子育てという過去に罪悪を持っているのか、それを決めているのは千歳様ですから」

 

「売られた喧嘩は買う性質だ。応じよう」

「千歳様の寛大さには畏敬の念すら感じます。では、こちらへ」

「その前にライダーの懸念を解消するとしようか。真也を2階に運べ。失神しているが治療は済ませてある。ベッドに放り込むだけで良い」

 

ライダーが千歳の視線を辿れば、玄関にある磨りガラス越しに人影が見えた。もたれ掛かっているだろうその人物は僅かたりとも動かない。

 

「チトセ、貴女のそれはとても親の行為には見えません」

「言っただろう。放任主義だと」

「サクラにもその様な接し方をしてきたのですか?」

「急くな。それを聞きに来たのだろうが。お望み通りゆっくり話してやる」

 

ライダーは黙って千歳の脇を通り過ぎると、彼を抱きかかえ2階に運んでいった。ライダーが真也を抱きかかえるのは2度目だ。1度目は1stバーサーカー戦の後、負傷した真也を2階に運んだ時が最初だ。その時と比べると随分細く軽い。それに関して、少なくとも。表面上は、何とも思わない母親に、困惑、戸惑い、憤りを感じるのみである。

 

 

◆◆◆

 

 

久しぶりに見る自宅のテーブルには純白のテーブルクロスが掛けられていた。3人の前には真朱色の布が敷かれ、白いティーカップが置いてあった。菓子は和栗のカップケーキだ。紙のカップから飛び出る頭はこんもりと膨れ、その焼き焦げ加減は確かに栗色だった。

 

千歳に相対するのはライダーとキャスターである。千歳のカップに紅茶を注ぐキャスターはローブを手で押さえ。その手つきは余りにも女性らしい。

 

「キャスター。なぜテーブルクロスの上に布を敷く。トレー、もしくは無くても良かろう?」

「機能という意味ではその通りですが、カップも白色ですし白一色では味気ないでしょう」

「その様な物か」

「その様な物です。以前より感じておりましたが千歳様はそれに類する感性が欠けておられるご様子」

「余計なお世話だ」

 

それは3人が茶を啜り、一息経った頃である。

 

「私は受肉した過去の英霊だ」

 

千歳の余りにも突然の、直球の回答に、促そうとしていたライダーは口どもる。キャスターはやはりそうかと、驚きは隠さなかった。

 

「今から18年前、僅かにズレた世界で神秘を求める争いがあった。勝者となったサーヴァントだった様な者は受肉を願い、マスターだったような者との間に子供を儲けた」

「その子が、」

「そう、それが真也だ」

 

キャスターは解を得た心持ちである。

 

「この世に蘇った古の英霊、そしてこの世に生きる普通の人間。二人が成した子供……なるほど。命を結んだ時の衝撃は相当でしょう。父と母の存在という大きさと言う意味に於いて、そのギャップを例えればダム程にありましょうから」

「その事実は幾つかの副作用を生んだ。根源に触れた事による魔眼の所持、人間性の欠如、そしてサーヴァントとしての一面。あの子は遠坂を半ばマスターの様に認識していただろう。遠坂凛に精神構造を再構築され、解放されるまでな」

「理解しました。マスターの存在を」

 

ライダーが口を開いた。彼女は紅茶に手を付けていなかった。

 

「一つ聞きたい事があります。何故シンヤに親としての愛情を注がなかったのですか?」

「今回の聖杯戦争に真也を毛嫌いするサーヴァントは居たか?」

「居ました」

 

ライダーはセイバーを思い出した。

 

「あの子は、秩序と善を重んじるタイプと相性が極めて悪い。それは私も同じだ。どうにか克服しようとしたが、嫌悪感が拭いきれず何とも成らなかった。理性を持って接する事が限界だった。それもまた命を結んだ時の副作用だろうが……人と子を成した試練にしては質が悪すぎる」

 

カップの水面に映る千歳の表情は揺らいでいた。子を愛する事が出来なかった、その事実に対する感情は、やるせなさ、やり場のない怒りであった。不遜に見える彼女も相応に苦悩していたのである。ライダーはそれを感じ取った。

 

「桜を構い過ぎた事はその反動と償いだ」

 

キャスターが言う。

 

「なぜ説明なさらなかったのですか?」

 

「真実を告げたところで何の意味がある。この世界での私には歴史が無い。頼る人もおらず、権威者に目を付けられればお仕舞いだ。安住の地を求めて彷徨っていた私に出来る事など無かった。加えて真也は先天的に能力が高くてな、それ故他の子供と遊ばせられなかった。他の子と同じ環境に置く事が出来なかった。

 

悩んでいたころ桜を見つけ宛がった。次第に二人共に回復し始めたよ。何時しか仲睦まじい兄妹となった。多少度が行き過ぎている、とも思ったが兄が妹を守るのは当然だと、妹が兄を慕うのは当然と、良い傾向だと喜べば、根本的に間違えていた。桜は兄に依存し、真也は妹の為だけにある傀儡になっていた。気がついた時には手遅れだった。

 

二人の歪な関係は長持ちしない。いずれ破綻する事は見えていた。桜の叶わぬ想いはいつか反転し、兄への恨みになるだろう。真也は桜がもたらす死を、笑いながら受け入れる。それが確定された未来だった。だから私は聖杯戦争という混沌に賭けた。賭けざるを得なかった」

 

「旦那様はどちらに?」

「死んだ。全ては理想の為と己を勘定に入れない馬鹿者でな。どうにか正そうとしたが、結局叶わなかった。この地に降り立った数年後、ほんの少し目を離した隙に、見知らぬ誰かを庇い死んだ。大した外傷もないのにもう動かなかった。あっけなかった。墓は英国にある」

 

「後悔しておられますか?」

「後悔の無い人生などありはしない。だが私はあの子らに対して目を背けはしない、それが今の私が出来る回答だ」

 

千歳はティーカップを置いた。はす向かいのライダーはじっと千歳を見ていた。目隠し越しなので、視線は読み取れないが、見定められている事は良く分かった。千歳は言う。

 

「ライダー。質問はあるか?」

「話の内容次第では殴りつけるつもりではいました。ですが、それは止めとしましょう」

「ほう。それは何故だ。子の嘆きと苦しみを知りつつも、なにもせず黙って見ていた親だぞ。見たところお前はそれが気に入らない筈だ」

「最後の最後で試練という信念を曲げ子を助けた。憎まれ役も程々にしておく事です」

 

褒められているのか、非難されているのか、呆れられているのか、良く分からない。誤魔化す為に千歳は紅茶を一口啜った。熱かったそれは大分温くなっていた。

 

「お前は何処の英霊だ」

「メドゥーサです」

「なるほどな。ギリシャの神々に連なる者であれば、そう考えるのもおかしくは無い」

「チトセとシンヤはやはり親子なのですね。その物言い、瓜二つです」

「私は茶化されるのが嫌いだ」

「覚えておきましょう」

 

キャスターは毟ったカップケーキの一欠片を口に入れた所だった。いつの間にかフードを下ろしていた。

 

「千歳様はどちらの英霊なのですか?」

「真名は“―――” と言う。 蒼月千歳という名前はもちろん偽名だ。この事実を伝えるかどうかはお前達に委ねよう」

「伝える必要は無いでしょう。あの子たちには不要な物です」

「マスターを子供扱いか。お前も大概だ」

 

「私にも子は居ましたから」

「話はしまいだ。お前たちはどうする?」

「私はサクラの元に帰ります」

「ならば私はここに残りましょう。万が一があってもいいように」

 

「好きにするといい」

「千歳様。これからどう為されますか?」

「決まっているだろう。明日、遠坂葵に会う。キャスター、急だがセッティングをしてくれ」

「かしこまりました」

 

 

◆◆◆

 

 

「蒼月千歳です」

「遠坂葵です。お待ちしておりました」

 

それが二人の最初の言葉となった。後始末に奔走されていた凛であったが、その人物の来訪には手を止めざるを得なかった。突き抜けた様な晴天の下、2階の窓から門を見下ろせば葵と千歳の姿が見える。

 

千歳はインディゴカラーのデニムパンツに、レトロ調のベースボールプリントTシャツを纏っていた。アウターは襟首にファーの付いたレトロ調のブラック・カジュアルブルゾンだった。若作り、活動的な着こなしで20代半ばに見えた。

 

葵は何時もの若葉色のワンピースに桜色のショールを羽織っていた。その出で立ちは良家の奥方そのものである。

 

同世代である筈の二人は実に対照的であった。

 

普段着姿の二人に凛は呆れつつも、千歳の姿に目を奪われた。すらりとした肢体は颯爽とした身のこなしだ。黒い髪が流れる様は風のよう。凛の第一印象は“ハンサムな女性”であった。濡羽色の長い髪は、陽の光を浴びて、澄んだ黒が深く輝いていた。凛は多少の嫉妬を感じつつ。

 

「真也の黒髪は母親譲りか」

 

そう呟いた。背後より歩み寄るのは桜である。

 

「姉さん、兄さんから仮の報告書がFAXで届きました。詳しいのは明朝に送る、だそうです」

「ん、見せて」

 

実際の所、葵が持つ千歳へのイメージは良くなかった。桜を攫った事は目を瞑るにしても理由はどうあれ、臓硯を殺した事は事実なのである。趣味である映画も相まって、アマゾネスの様な女子レスラー。或いはマーヴェルコミックスに登場する様な筋肉質なイメージを持っていた。もしくは刃の様な鋭いニキータ(女性暗殺者)である。

 

ところが目の前のその人物は、葵より背が高く目鼻立ちは鋭いものの、か細い。とてもそういう荒仕事に身を置く人物には見えない。但し、方向性は真逆だ。おっとり型の葵に対し、千歳は冷徹型だった。強いて言うならば、やり手のキャリア・ウーマンと言ったところであろう。だもので。リビングに通し、席を促し、千歳が腰掛けた早々、頭を下げた事には驚いた。

 

「この度は不肖の息子が大変なご迷惑をおかけしました」

 

それ故、葵は千歳を信用する事にした。

 

「とんでもありません。私たちこそ、蒼月さんに謝罪しなくてはなりません。ここにお詫び申し上げます」

 

葵もまた頭を下げた。

 

「ですが、不肖というのは余りに酷いと思います」

「貴女方にしでかした事を考えれば、それほど的は外していないでしょう。もっともそれは私の失態でもあります。この場を以てお詫びいたします」

 

千歳は再度、深々と頭を下げた。一拍。葵を見据える千歳はこう切り出した。

 

「本日伺った事は他でもありません。子供達のことです」

「理解しています」

「最初にお伺いしたい事があります。なぜ桜を養子に出されたのですか?」

「桜は類い希なる魔術師としての資質を持っていました。夫は、大成を願い養子に出しました」

 

「遠坂さんはそれに対しどのような行動をされましたか」

「ただ仕方が無いと。魔術師の家に嫁いだ定めだと。なにもしませんでした」

「貰われ先で何をされるか、予想されていましたか?」

「いえ」

 

「少々皮肉めいた言い方をしますが、ご了承下さい。私はただ事実を述べます」

「はい。その前にお茶を召し上がって下さい。私はこの葉が好きで、気に入って頂けると思います」

「……頂きます」

 

出鼻をくじかれた千歳であった。

 

「遠坂さんは子を養子に出した。その子は貰われ先で虐待された。私はその子を非合法の手段に訴え、引き取った。その子は立ち直ったものの、性格に問題を生じてしまった……誰かを非難するにはクリーンハンドが前提です。ですが、私たちは互いの臑に傷があります。

 

遠坂さん、私は仕事で暫くこの地を離れます。そこは遠く厳しい場所で、子連れは難しいと悩んでいました。かといって子供を置いて行くには不安が残ります。そこで提案があります。桜をお返しいたします。その対価として成人するまで、真也の後見人となっては頂けないでしょうか」

 

「つまり兄妹を引き離すと?」

「そうではありません。新しい関係を構築する、下準備を作る、と言う意味です。真也には一人暮らしをさせますが、何時でも会える様に取りはからって頂ければ、それで十分でしょう」

 

葵はティーカップに浮かぶ波紋をじっと見ていた。

 

「蒼月さん、千歳さんとお呼びしても?」

「構いません」

「自分の子供に、10年育てた子に執着は持たないのですか?」

「仰りたい事は分ります。理由はともかく、親が子を捨てるなどあってはならない。ですが遠坂さん」

「葵とお呼び頂ければ嬉しいです」

 

「……葵さん。真也は生まれた時から欠けていた。私は真也に愛情を注ぐ事ができなかった。嫌悪感を拭いきれず克服する事が出来なかった。悩んでいた折、桜を見つけました。虐待から救い出す、それを免罪符に桜を攫い、自分の子の為にと宛がった。その結末は葵さんの知るところです。

 

ここまでは不可抗力と判断も出来ましょうが、この後は異なるのです。私の実子と、養女の関係は歪でした。何も無ければ最悪の結末を迎えたでしょう。私はそれに対し打つべき手段を持ち得なかった。それ故、聖杯戦争という混沌に一縷の望みを掛けた。試練、と言えば聞こえが良いですが」

 

「黙って見ていた、と言う事でしょうか」

「はい。私に親を語る資格はありません」

 

「正誤はともかくとして、千歳さんが苦悩された事は理解出来ます。それでも敢えて言いますが、親が子を捨てるなどあってはなりません。経験上語りますが、後悔のみが残ります。私は10年間自分を恨み続けました。

 

ですから、桜を助け出し今まで育ててきた千歳さんに同じ轍を踏んでは貰いたくない、そう思って居ます。ですが、私たちの経緯は余りにも複雑です。この際今までの事は考えず、子供達の将来の事のみを考えませんか?」

 

「明確に仰って頂けないでしょうか」

「実は名案が浮かびまして♪」

 

パンと可愛らしく手を叩いた目の前の婦人の提案は、千歳にとって理解の外であった。

 

「……余りの突飛な提案に戸惑っています」

「おかしいでしょうか? 落とし所としてはベストだと思います」

「子供達が、受け入れるとは思いませんが」

「確かに不満を持つでしょうが、それは千歳さんのプランも同様です。家とは生活の基盤、それを断つ事は、もっともらしい理由を付けても引き裂くことに他ならない、それよりは良いと思います。ですからこの際、親の一存で決めても良いかと。その後どうするかは、また改めて考えませんか?」

 

この遠坂葵という人物は少々ズレている、だが意外と大物かもしれない、千歳はその様な事を思った。千歳は躊躇いながらも葵に同意した。

 

「お母さん」

 

部屋を出た千歳を待ち構えていたのは桜であった。彼女は盗み聞きしていたのである。白のワンピースに、桜色のカーディガン。見慣れた姿だった。千歳は桜に歩み寄ると、その頬に手を添えた。その母子に10年の絆を見出した葵は、己の判断は間違っていなかった、と喜びを隠さない。

 

「私は良い親では無かったようだ。子を千尋の谷に、というノリを平気でしてしまうからな。葵さんに会ってそれを思い知らされた。だがこの10年はとても楽しい物だった。なんだかんだ、桜にも助けられた。教わる事もあった」

「お母さん?」

 

千歳は不安を隠さない義理の娘に微笑んだ。

 

「心配しなくていい。知人に借りを作ったので、それを返さないとならない。暫くこの地を離れるが戻ってくる」

「それって私たちのせい?」

「子に心配されては親失格だな」

「兄さんには会わないの?」

 

「今会えば殴り合いになるかもしれん。それは桜も望まないだろうから止めておこう」

「兄さんは怒ってないと思う。余りにも色々な事があって、ただ落ち着かないだけ」

「分っているさ。だからこそ今は会わない方が良いだろう。頭を冷やす時間が必要、と言う事だ。お互いにな」

 

千歳は桜の頬に唇を添えた。

 

「桜もしっかりやりなさい」

 

背後の葵は、何時もの穏やかな笑みだった。

 

「千歳さん。いつか、真也さんに愛していると伝えてあげてください」

 

千歳は躊躇った上で頷いた。資格が無いと秘めていた言葉であったが、葵に促されては、もう誤魔化せまい。

 

千歳は桜の背後に居る凛に歩み寄るとその手を取り掴んだ。

 

「少々意外な展開となりましたが、凛さん、これからよろしくお願いします」

「任せて下さい」

 

凛は力強く頷いた。

 

 

◆◆◆

 

 

それから時が経ち、気がつけば桜の咲く季節となっていた。穂群原(ほむらばら)学園校舎の最上階、その教室の窓から見えるグラウンドには、咲き乱れる桜があった。士郎が腰掛けるのは窓側の席である。後ろから数えて2番目。優良な席だが彼の表情は優れなかった。頬杖を突き、桜をぼんやりと見れば溜息が出た。頭も痛い。その態度を不可解に思い、話しかけたのは一成である。

 

「どうした衛宮。気がすぐれんようだが」

「ちょっとな」

「際どいところであったが、無事進級出来たのだ。もう少し冴えのある顔をしたらどうだ」

 

学年末に2週間も休んだのだ。その取り戻しは非常に大変であった。

 

「衛宮、何があったかは知らんが、もう少し前向きになるべきだと考える」

「一成にいわれちゃ、そうするしかないな」

 

柳洞寺は壊滅した為、彼らはお寺再建の最中なのである。もちろん真実など言えよう筈も無い。

 

「でも、少し違うんだ」

「違う? 違うとはなんだ」

「憂鬱と言えば憂鬱なんだけどさ」

「煮え切らんな」

 

黒板の上にある時計を見れば、ホームルームも直だ。気分が重い。

 

「そう言えば聞いたか? 転入生がどこかのクラスに配属されるらしい。これが異国のお人でな、滅法な美しさだそうだ」

「そーか、そーだよなー」

「?」

「一成。放課後も友人でいてくれるか?」

 

訳が分からない一成に対し、士郎のその態度は縋るよう。

 

「衛宮の意図するところは良く分からんが、もちろんだ」

 

教師が教室に現れれば、号令が掛かった。

 

「ホームルームを始める、全員席に着け」

 

教壇に立つ教師は学内清掃、健康診断など学内行事の予定を伝えると、要領の得ない事を言い出した。

 

「あー、これから皆に伝える事がある。騒ぐな、とは言わん。だが程々にしておけ、特に男子」

 

目の前の教師が何を言っているのか分らない、士郎を除いて、不可解さに支配される生徒たち。なんだ、どうしたことか、とざわめいた。その教師が扉の向こう、つまり廊下に立っている人影に声を掛けた。

 

扉が開いて現れた人物に教室が静まりかえった。壇上に立ったその少女が纏う制服はコルク色、誰がどう見ても穂群原の学園服である。教室の静まりかえりが、嵐の前の静けさだと腹を括った教師はこう告げた。

 

「手続きの都合で皆より二日遅れたが、本日よりこのクラスの一員となる。今日から皆と一年間“勉学”を共にする学友だ。そこの所忘れない様に」

 

教師の促しにその少女が一歩前に出た。その紡ぐ声はソプラノの様。

 

「アルトリア・フォン・アインツベルンと申します。縁あって皆様と同じ学舎に通う事になりました。本日より一年間、よろしくお願いいたします。近しき者はセイバーと呼びます。皆様にもそう呼んで頂ければ、この上ない喜びです」

 

静寂。自己紹介の文言をし損じたか、と不安に駆られたセイバーが、教室の隅にいる士郎に助けを求めれば、彼は腕を組んでムッスリ顔だ。数秒後やってくるであろう惨状に、恐れ戦き、冷や汗を流していた。そして世界は回り出す。

 

「小さいっ! 可愛いっ!」

「綺麗な瞳! エメラルドグリーン?!」

「よっしゃぁぁぁ! 最後の1年で運が向いてきたぁ!」

「ねぇ! シャンプー何使ってるの! リンスしてる?!」

「国どこっ!? イギリス?! フランス!? それともドイツっ!?」

「顔小さっ! 腰高っ!」

 

以上が好意的な少年少女の混成チームである。以下は言うまでも無い。

 

「うわ、天然のアイシャドウだ……」

「はん。性格はどうだかね」

「これでミスパーフェクトもお仕舞いね、ざまあみろ」

 

混迷極まる3年C組。すっくと立ち上がったのがA君である。彼はおもむろに近寄ると、胸に手を添え深々と頭を下げた。それは紳士の真似事であった

 

「貴女は実に罪作りなお方だ。稲光にも満たない僅かな間に、私の心は貴女に奪われ尽くされてしまいました。だが恋とはなんと素晴らしいのでしょう。今では世の中のつまらぬモノが、美しく輝き始めました。私Aと申します。麗しの方、是非私の手をお取り下さい。そして私と恋のすばらしさを語り合いましょう」

 

ディ○ニー張りの大げさな振り付けにセイバーは冷静だった。抜け駆けかとヤジが飛ぶ中、彼女の声は淡々としていた。

 

「お気持ちは嬉しいのですが、私には将来を誓い合った相手が居ますので、貴方の想いを受け取るわけには参りません」

 

哀れA君は青い顔である。今お前が飲んだジュースは下剤入りだ、とでも言われたかの様な絶望具合だ。或いは落第を申しつけられた学生とも言えよう。

 

「そ、それ、は、ど、どこの、ど、どなたでしょうか」

「皆様のご学友であるシロウ、衛宮士郎、その人です」

 

クラスメイト全員により、突き立てられる鋭利な視線。針のむしろとは、こう言う物を言うのか。それを悟った彼が、窓から見上げる空はとても美しかった。3年A組の凛は二つとなりのクラスから聞こえてくる、爆弾の様な騒ぎに諦め顔だが、同情も混じっていた。手に持つシャープペンシルをカチカチと。

 

(こう成るわよね、やっぱり)

 

彼女は士郎の命運を祈るのみである。

 

 

◆◆◆

 

 

そして放課後の事。屋上のフェンス越しにグラウンドを見下ろせば、必死の逃走劇が繰り広げられていた。鬼気迫る男ばかりの群衆が、執拗に追う人物は一人のみ。敢えて誰が追われているかなど言うまでも無い。二人の少女はそれに構う事なく、フェンスにもたれ掛かっていた。綾子と凛である。二人は手にするコーヒー牛乳のパックを啜りつつ会話に華を咲かせていた。その声は綾子であった。

 

「ふーん、そう。留学するの止めたんだ。二人のため?」

「それも理由の一つ。ウチにはキャスターが居るから、アレの知識を放っておく理由はないわよね」

「なるほど。昔のすごい魔術師から教わった方が良いか」

「教わるじゃないの、盗むと言ってくれない?」

 

「どっちも同じだ」

「重要よ」

「他の理由は?」

「大師父が諸々をもみ消してくれて助かった訳なんだけど、それで風当たりが強いのよ。時計塔って権力に執着する奴らの温床だから、我らの権力を蔑ろにされたって、ね」

 

「なるほどね。そんなところに留学したら、当てつけで勉強どころじゃなさそうね」

「そういう事。綾子は進路どうするの?」

「地元の大学に通って教員を目指す事にした。赴任先が穂群原なら言う事無しだけど、コレばっかりは何ともならないわ」

「ツテがあるから、その気があるなら言うだけ言ってみるけど?」

 

「願ったり叶ったりだけど、何でそんなツテを持ってるのよ」

「衛宮君と真也の知り合いが、役所に口利き出来るのよ」

「じゃ、お願い」

「綾子も大概軽いわね」

 

「最近気がついたんだけど、馬鹿正直だけじゃ世の中渡っていけないじゃない?」

「ま、良いけれど。私も人の事言えないから」

「で、桜の様子はどうなのよ。一見、普通に見えるけれど」

「そう、そう見えるだけ。夜泣きが激しいのよ。昨夜なんて、徹夜して真也と宥めてたわ」

 

「無理もないか。幾ら操られていたって、そう簡単に割り切れる事じゃない」

「それも有るけれど不安がってるのよ」

「不安ってなによ」

「ほら、真也って自己を持ったじゃない? 私たちのいざこざに、何か思うところが有るんじゃないかって、それを怖がってる」

 

「恨みって事?」

「誰もがそうなんだけど、特に桜は、ね。真也本人はそれを否定してるんだけど、考え事が多いし、桜は何か感じ取ってるみたい」

「悩み聞いてあげたら?」

「アンタね、もしそれに関する事なら私が聞ける訳ないでしょ。桜と同じような物なんだから」

 

「そりゃそうだ。“アンタ私の事恨んでる?”なんて事聞けないか。“うん”なんて答えられたら、凛はまた泣き出すし」

「ひょっとして喧嘩売ってる?」

「馬鹿ね、心配してるって事よ。ため込むのは良くないと思うのよ。どうにかするべきね」

「ねぇ、綾子。聞いてくれる?」

 

「なによ、いきなり」

「あのバカ、ライダーにばかり相談するのよ。どう思う?」

「キャスターさんは真也よりだし、おっとりしてる葵さんはそう言うの苦手そうだし、ライダーさんはなんだかんだ凛にも気を使ってるし。なにより凛に相談すると桜に角が立つ。落としどころとしてはいいと思うけれど」

「そんな事言われなくても分ってるわよ。綾子って本当に男の子思考だわ、ここは共感、同情するべきところなのに」

 

「それは私に求める事じゃないね。それで、その真也は?」

「必死にリハビリ中だけど暫く掛かるわね。100メートル歩いて気分悪くなって吐いたのよ。学校に通えない、授業に耐えられない、留年確定。我が家の人間が留年なんて、頭が痛いわ」

 

綾子は手に持っていたコーヒー牛乳のパックを握りつぶした。そのパックが生き物であれば、悲鳴を上げただろう。それ程に痛々しい握り方であった。

 

「で、凛。そろそろ話してくれない? アンタら結局どうなったの?」

 

凛はコホンと一つ咳払う。

 

「新年度より遠坂真也となりました」

「……結婚?」

「安心しなさい。養子よ。私の弟、桜の兄、桜共々ウチの籍に入ったのよ」

「あのさ。あれだけ大騒ぎしてそれ?」

「親同士の決めた仲、って訳。まったく。本当に勝手なんだから」

 

凛は腕を組んで空を見た。話を聞かされた時の、衝撃と憤りは思い出しても腹が立つ。

 

「ちょっと待ちなって。千歳さんは?」

「だから言ったでしょ。桜共どもって」

「遠坂千歳?」

「そう。藤村先生のお爺さん、先ほど言ったツテってこの人なんだけど、役所に口が聞くのよ。千歳さんも真也も知り合いだから、セイバー、イリヤ共々色々都合付けて貰ったらしいわ」

 

凛は溜息一つ。

 

「提案する母さんも母さんだけど、受け入れる真也たちも大概ね。二人は蒼月って家名に執着がないのよ。異端とは言え魔術師、相応の歴史がある筈なのに、あっさりと手放して。系譜を一体何だと思ってるのかしら。それを知った桜も毒気を抜かれて、なら私もって、とんとん拍子に纏まったわ。蒼月ってどんな家だったのかしらね」

「あー、御免。家族関係が読み切れない」

「桜と真也が母さんの子供になった。千歳さんは母さんの妹。戸籍上やむを得なくこうしたけれど、絶対ではないのよ。狙いは私たちきょうだいに二人の母親が居る、ってところ。私は母さん、千歳さんと呼ぶ。真也は葵さん、お袋と呼ぶ。桜は決めかねてる。御家事情にしては複雑怪奇すぎだわ」

「文句の割には満更でもなさそうだ」

 

「いいのよ。これが一番良い関係。桜にとっても私にとってもね」

「そう、姉で良いって訳。カレシ作るの?」

「出来る訳無いでしょ。あんな事があったんだから」

「あの妹にしてこの姉ありか。うひゃひゃひゃ♪」

 

腹を抱えて笑う友人は遠慮が無かった。凛が容赦しまいと決意した瞬間でもある。目尻に堪った涙を拭った綾子は自信満々であった。

 

「なら私が貰っても良いのね」

「駄目に決まっているでしょう、美綴さん」

「なにそれ」

 

不審さを隠さない綾子に対し、凛は不遜な笑顔であった。

 

「養子でも遠坂家の長男、伴侶は当主である私が決める。それ以前に弟はまだ未熟なんだから、彼女なんてとんでもない」

 

納得が行かない、当然でしょ、二人が言い争っていると桜が現れた。

 

「御免なさい。姉さん。遅くなりました」

 

桜のそれは、凛と同じ髪の色、凛と同じ瞳の色である。真也が視て、キャスターが認識させ、真也が間桐の因子を殺したのだった。もちろん小聖杯ですらない。精神は暫く掛かるが、肉体に限って言えば遠坂桜が完全に帰ったのである。

 

「夕飯のお買い物して帰りましょう」

「良いところに来たわ。桜、美綴さんは真也を狙ってるって」

 

む、と桜は警戒を隠さない。凛は足下の鞄を掴むと両手に持った。淑やかなその表情は勝利宣言である。

 

「美綴さんにはお世話になりましたし、門前払いはしませんけれど、敷居を跨ぐ時は覚悟して下さいね。私たち遠坂姉妹がお相手しますから。あ、そうそう。真也は私たちが嫁ぐまで特定の相手は作らないと宣言していますので。それではごきげんよう」

 

歓談の声と共に、仲の良い姉妹が揃い立ち去れば、ひゅるり風が吹いた。打ち拉がれるは綾子のみである。今の彼女は、打ち鳴る寺の鐘の中に放り込まれた様な顔をしていた。

 

「振り出しに戻った、てゆーか、一匹増えた? あ、あのシスコン野郎……」

 

綾子の決意は叫びとなって、轟いたという。

 

「おぼえてろーーーっ!!」

 

 

◆◆◆

 

 

イリヤはキャスターと真也に聖杯としての機能、全ての魔術刻印、大半の回路を殺され、その対価として大幅な寿命を得た。それでも尚凛を上回る魔力生成量を誇るのだから驚くより他はない。その身体は健全な成長を取り戻し、背も伸び始めている。いつか士郎を腕を組み公園を歩きたい、というのが彼女の差し当たっての願いだ。イリヤの処置代は、士郎への貸しとした。もちろん貸し付け主は凛である。

 

セイバーは学園に通いつつ、士郎の鼻を明かしたいと料理クラブに所属した。さい先は良くないが包丁捌きだけは評価されている。稼ぎが無いので凛の取り立ても無い。イリヤとは仲が悪い。士郎的な意味である。

 

士郎はランクを落とした宝石剣を投影し、魔術礼装として凛に売っている。販路を持たない士郎の替わりに凛が売り、そのマージンを稼ぐというからくりだ。もちろん魔術媒体として彼女も購入もしている。それとは別に上納金を収めねばならないのだが、猶予尽きで放免された。彼はがめつすぎだと真也に泣きついたが、彼にもどうにもならなかった。セイバー、イリヤ、舞弥、セラ、リーゼリットに翻弄される毎日を送っているが、その家は笑顔が絶えなかった。

 

キャスターは、一段落した頃、桜の中にある孔から魔力を引き出し、ライダー共々受肉を済ませた。凛が委譲を辞退した為、未だ真也がマスターだ。その代わり、彼女は凛の講師を引き受けた。従者から教わる訳にはいかない、と言う事だ。真也からキャスターへの命令は“遠坂家の為になる様に動いてくれ”と漠然としているので、彼女は好き勝手にやっている。凛の頭痛のタネでもある。

 

ライダーは真也のリハビリヘルパーが終わった後、桜を中心に遠坂の人達を見守りつつ骨董品屋でバイトを始めた。その美貌からちょっかいを出そうとする者が後が絶たないが、真也の身内だと一言言えば殆どが尻を捲いて逃げた。それでもしつこく迫るナンパに辟易した彼女は、つい“シンヤのモノですので”と虚偽を口走ってしまい、大騒動になった。

 

葵は失ったモノは多々あれど家族が増えたと、賑やかになったとご満悦だ。キャスターと仲が良く、お茶の話題は大抵ギリシャに関する事だった。いつか旅行をしたい、と考えているが目処は立っていない。

 

 

 

そして3年が経った。

 

 

 

アイルランド北東部、レンスター地方ラウス州の町であるダンドーク。その町にある牧場に一人の人物が現れた。

 

黒い長袖シャツに腕を通し、黒いズボンに黒いトレッキングブーツを履いていた。アウターであるコートのみが真紅であった。生地は色褪せ、破れ、穴が開き、フードを目深に被る、その容貌を表現するなら浮浪者一歩手前である。

 

お世辞にも良い形ではなかったが、清潔ではあった。髪も爪も整えられ、汚れと匂いがなかった。大事な知人に会うのだ。最低限の身なりは必要だろう。

 

その人物は牧場に踏み入れると丘を登り始めた。緑の草が柔らかい。見通しのいい場所で、風がよく走る。ここが野戦場だったと言われれば、納得の地だ。暫く歩くと立石と対面した。見渡す限りの草原にその石は、立っていた。

 

風雨にさらされ、苔むして、元の色は分らない。ただ、伝承とされる程の歳月を経てきた事だけは良く分かる。その人物は背負ったバックパックを下ろすとフードを下げた。

 

「来たぞランサー。3年ぶりだ」

 

その立石はアルスター神話に登場する、赤枝の騎士団の英雄、クーフーリンに縁のある石である。死を悟った彼は己の身体をそれに縛り付け最後まで戦ったのだ。そこはランサーの終焉の地であった。

 

その人物は片膝を地に付けて僅かに頭を下げた。下げすぎてはならない、だが見下ろしても駄目だ。師であり、戦友でもある関係なのである。

 

「悪い。もっと早く来られればと思ったんだけど、桜が心配で1年見送った。もう2年は、陸路で来たから時間が掛かった。歩いて、ヒッチハイクして……ヒッチハイクって分るか? 凛には馬鹿だの無駄だの散々言われたけれど、飛行機を使って簡単に会ったら駄目だって思った。旅の工程も1年の予定だったけど2年掛かった。紆余曲折、旅路は捻れまくったよ。そう簡単に会えないって意味だったんだろうな。家に手紙はちょくちょく出してきたけど、帰ったら絶対お小言だ。

 

聖杯戦争は終わった。全部終わったよ。皆に助けられて何とかなった。もちろんお前にもな。2年の旅には色々な事があった。人助けだと思えば恨まれて、人を信じれば裏切られた。助けた人に命を狙われて、貸し借りのある死徒に助けられた。笑い話にもならない。実を言うと人間不信になった事もある。まぁ、その都度お前の説教が聞こえるもんだから、ここにこうして立っている訳なんだけど」

 

その石に手を添えた。冷たい石はほのかな魔力を帯びていた。

 

「もう一つ愚痴を聞いてくれ。実はさ。助けた人達に受け入れられて、新しい帰るところが出来た。けど少しわだかまりがあった。その人達は俺の行為に感謝してくれたけれど、俺は素直に受け取れられなかった。俺は自分が無かった。その人達を助けた事は、俺がした事なのか、その自信が無かった。少しその人達と離れて、考えて、自分がした事なのか、そうでないのか、何度も反問して、結局その人達が喜んでくれたなら、それでいいって結論になった。俺は本当に頭が悪い。だからだな。たったこれだけの事をお前に伝えるのに3年も必要だった。聞いてくれ。決闘の約束を反故にしたこと、本当に済まなかった」

 

眼を閉じ黙せば。一つ吹いた風は強く荒々しかった。髪を手櫛で荒らされた様な感覚だった。だからその声には滅法驚いた。

 

「誰だオメエ」

 

背後の声に振り向けば若者が一人立っていた。夕日を背に浴びるその人物は、15,6の歳の頃。デニムにライトグレーのパーカーと年相応の恰好だ。だが野性味帯びた荒々しい雰囲気は、存在的な古さを感じさせた。神秘が溢れていた世界に相応しいという意味である。その少年を視たその人物は似ている、と思った。よくよく視れば僅かに異なるが、立ち方、話し方の抑揚、そっくりだ。

 

「ここは私有地だ。それ以前に余所者が触れて良い石じゃねえぞ」

「この地の者か?」

「そうだが」

 

その少年は眉を寄せた。まるで記憶を探る様である。

 

「どこかで会ったか?」

「いや初めてだよ」

 

その人物は立ち上がるとその少年にこう告げた。

 

「突然なんだけどさ、アンタは槍を使うだろ?」

「修練中の身だが、どうして分った」

「似た奴を知ってるから。もし、ここの英雄に顔向け出来る腕前になったなら、日本を訪れてくれ。アンタに渡したい物、返したい物がある。もちろん、腕前はためさせて貰うけれど」

「大英雄と肩を並べるなんて、出来るわけ無いだろ、そんな事」

「目標はデカく、困難に、だ。アイツならそう言う。あのお節介槍兵ならな。それじゃ、待ってる」

 

みょうちくりんな物言いに少年は面食らった。お構いなしにその人物は荷物を背負うと歩き出した。

 

「何処へ行く」

「ここが目的地だから、これから帰るんだよ」

 

少年が振り返れば徐々に遠ざかる背中が見えた。何かに背を押されたその少年は堪らずそう聞いた。

 

「お前、名前は?」

「アオ……トオサカシンヤ」

 

肩越しの真也の顔は、屈託のない笑顔だった。彼にとっては懐かしい友人に会った様な、心持ちだったからである。

 

 

◆◆◆

 

 

その一週間後。遠坂家に届けられたのは、真也の最後のエアメールであった。リビングに集いし女性陣が、桜の手にあるそれを一斉に覗き込めば、こう書かれていた。

 

“遅くなったけれどランサーへの挨拶は済ませた。いまロンドンに居てもう少し滞在したら飛行機で帰る。親切な人が居てさ、宿と良い仕事を紹介してくれて、それで旅費とお土産代を稼ぐつもり。帰国は一ヶ月後の予定”

 

簡潔といえば聞こえは良いが、素っ気ない文面である。それを読む遠坂の人達の反応は様々だ。好意的な面々が多い仲、凛のみ苛立ちを隠さない。辛うじて堪えるものの米神の痙攣が治まらなかった。

 

「迎えに行ってくる。帰りにまた2年掛けられたらたまらないわ。ライダー。その手紙を綾子にも見せてあげて。教育実習の励みになるから」

「分りました」

「キャスター! 供をしなさい!」

 

凜はおもむろに立ち上がると、両手両足を乱暴に振ってリビングを後にした。付き従うキャスターは澄まし顔だが、その物言いには意地の悪さがあった。

 

「どちらへ?」

「ロンドンに決まってるでしょ! あの放浪バカ探して捕まえて連れ帰るのよ! ランサーが刻んだルーンの石(マーカー)を捕らえるのにアンタが必要なんだから!」

「凛様。やはりルーンは必須科目にするべきです。不得手だと避けていては大成も遠のきましょう」

「うっさい! 母さん、留守番お願い!」

「はいはい」

 

娘を見送る葵は笑みを絶やさない。苛立ちを表す言葉とは裏腹に、凛の表情は既に安堵一色であった。リビングのソファーに腰掛ける桜はその手紙を持ったまま微動だにしない。

 

「サクラ?」

 

どうしたのかとライダーが覗き込む様に桜の様子を伺えば、兄の手紙に雫がポツポツと滴った。彼女は笑顔で泣いていたのである。

 

“P.S.桜へ、お袋と和解した”

 

その家の庭にある一本の桜は咲いていた。聖杯戦争が終わり4度目の春であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

おしまい。



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