世界があともう少しだけ。 (まさみぱんだ)
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世界があともう少しだけ。

時々考える、この世界があともう少し俺達に優しかったらと。

そうしたら親父とお袋は死ななくて済んだのか。

姉貴はあんな死に方をせずにすんだのか。

 

無数に増殖していくたら、れば。

この世界があともう少しだけ俺達に優しかったら姉貴はまだ生きていた、俺のすぐそばでアホ面さげて笑っていた、生意気も程々にしないと彼女できないよニシキと例のあの上から目線のクソむかつく口調で説教たれやがったに違いないのだ。

 

惚れた男に裏切られたのは誰だ。ヒトなんか信じるからそういう目にあう。

 

姉貴は馬鹿だった。

姉貴を騙した男もご同類の大馬鹿野郎だ。

この世界に馬鹿しかいねえなら俺は人を騙し利用しうまい汁を吸う側の馬鹿でありたい、冷たい雨に降られて血と一緒に体温を失っていく姉貴の骸をかき抱いてそう誓った。

すかして利口ぶっても馬鹿は馬鹿、この世界には死んだ方がいい馬鹿ばかり膿のように溢れている。

ならそんな馬鹿を殺したって構うもんか、さしずめ俺は膿にたかる蛆のようなもんだ、腐った屍肉を貪るおぞけをふるう寄生虫、それがたまたま何の皮肉か悪戯か人のカタチをして生まれ出でただけ。

喋って歩いて呼吸して屍肉を喰らう蛆、それが俺、西尾錦だ。

 

渡る世間は馬鹿ばっか。

例外なんてほんの一握りで。

 

昔の事なんて思い出す価値もねえ。

狭苦しいテントで生き残った唯一の身内と野良猫みたく身を寄せ合って暮らした日々。

俺達にはお互いっきゃいなかった。たった二人きりの家族だった。お袋と親父は捜査官に殺された、んだと思う。俺は幼すぎて記憶にもねえが、姉貴がそんなような事を言っていた。

だからだろう、なにかにつけ「お母さん代わり」を務めなきゃと俺と大して年の変わらねえ姉貴がやたら気負っていたのは。

 

「大丈夫、お姉ちゃんにまかしといて」

 

それが姉貴の口癖だった。

お節介でお人好しで世話焼き。人間だってこの手の性向の持ち主はひどく生きにくいだろうに喰種なら尚更だ。日常どんなささいな場面でも姉貴は姉貴風を吹かせたがった。

俺への指導はスパルタと過保護を折衷し、ニク漁りの時は「あんたは何もしなくていい、表で見張ってて」と唇の前に茶目っけたっぷりに指を立てた。

実際俺は突っ立ってるだけで何もしなくてよかった。カグネの出し方もわからねえガキなのを差し引いても、こと食糧回収の面では姉貴におんぶにだっこしてたのは事実だ。

 

だって可哀想だから。

 

馬鹿なガキ。馬鹿な俺。

これは人間が豚や鶏を食べるのと同じ事だと姉貴は言った。俺と自分自身に言い聞かせる口調だった。

姉貴だって本当は少なからぬ抵抗を感じていた筈だ、豚や鶏は家畜だが俺達の食糧は自分たちと同じカタチをしたヒト、会話も意思疎通もできる、自分達と同じ痛覚と喜怒哀楽の感情が備わった生き物なのだ。

年端もいかないガキが同情や躊躇を合理で割り切れるはずがない。

だが姉貴は俺を飢えさせないために無理矢理にそれを克服した。単純な足し算と引き算。食べなければ飢えて死ぬしかない、なら他に選択肢はない。俺たちが野垂れ死なない為にはヒトを狩るしかないのだ。

姉貴はターゲットを絞っていたと思う。

安全第一に考えて、突然失踪しても捜索願いがでる心配がまずない身元不明のホームレスばかりに狙いをつけていたが、それは自衛と保身だけが目的じゃなく、できるだけ良心が痛まないよう、「いなくなってもいい人間」を子供心によく観察していたのだ。

 

いなくなってもいい人間、すなわちいなくなっても哀しむ人ができるだけ少ないだろう人間を。

 

小汚いダンボールハウスの中にゴミのように横たわり動かない浮浪者。

脂でごわついた髪、乾いた白目には蠅がたかって死んでるか生きてるかもわからない。姉貴が手をかける前から既に腐臭が漂い出していた。

テントの天幕を遠慮がちにめくりあげ、「ごめんください」と礼儀正しく断り、饐えた体臭が噎せ返るように立ち込めるテント内をそーっと横切っていく。

天幕の隙間から固唾を呑んで見送る俺の視線の先、姉貴は手際よく、もうなれっこになった「食事」の支度を整えていく。

背に抱えていたリュックをうんしょとおろし、解体と後始末に必要な物一式を取り出して深呼吸後、毅然と姿勢を正して浮浪者に向き直る。

浮浪者の傍らにきちんと正座し、厳粛な顔と声で詫びる。

 

「ごめんね」

 

悲痛なだけじゃない、自ら命を屠る責任と覚悟を負った哀しくも厳しい声。

それが肉を捌く前、姉貴が必ずやるへんてこな儀式だった。

息すら忘れて見入る俺の視線の先、無造作に伸び放題の前髪に隠れた浮浪者の窶れ顔が、少しだけ和らいだような気がした。

このフケと垢まみれのホームレスが誰かに優しく声をかけられたのは何年ぶりだろう。だからだろう、最後に頬の筋肉を痙攣させてごく淡い笑みを浮かべたのは。

天幕の隙間から斜にさす一条の光に浄められ、それはさながら赦しのような笑みだった。

 

今思えば、あれは贖罪の儀式だった。

 

食糧に感情移入するなんざ馬鹿馬鹿しいと、ただの肉に同情するなんてお人好しも過ぎると今の俺は言ってやりたい。

姉貴だって本当はヒトなんて食いたくなった。

でも生きる為には仕方ない、人間だって他の生物の命を犠牲にして生きてる。なら仕方ねえ、拾った本で読んだ食物連鎖の生きた実例だ。

俺達はそうできている。この体は生理的に人肉しか受け付けない、人間の肉からしか生存に必要な栄養分を摂取できない。

 

喰種。

俺達の通称……ヒトに付けられた忌み名。

 

いっそ心の造りも違ってりゃよかったのに。

カタチとココロが同じ構造をしてるから仲間と混同して不必要な罪悪感に苛まれる、料理の味が一切わからないバカ舌と同じく俺達の心もヒトと通じ合えなきゃよかったのに、同じものを見て綺麗と感動し痛みに裂かれる、そんな面倒くせえ機能はなからいらなかったのに。

 

それでも姉貴はヒトに手をかける前に「ごめんね」と言った。

糧となる他者に敬意を払い、犠牲の上に生かされる自分の存在を常に厳粛に受け止めていた。

 

俺には姉貴しかいなかった。

二人きりの家族だった。

世界でたった一人姉貴だけが心を許せる存在だった。

 

だから

 

 

「生きてニシキ」

 

 

だけど

 

 

「……き…て」

 

姉貴の最期のお願い。

苦しげな呼吸の隙間から掠れた声を搾りだし、縋るように懇願する顔には死相が濃い。

もう手遅れだ。わかってる。わかってるよ畜生。

何したって無駄だってわかってる、馬鹿で足手まといの姉貴なんざ捨ててとっととこの場からおさらばするんだてめえだけでも逃げ延びて生き延びるんだと理性が警告する、でもできない、腰が抜けてアスファルトにへたりこんだまま一向に立てない。

アスファルトを打つ雨の音が銃声のように鼓膜を撃ち抜き、雑音がどんどん酷くなる。

雑音に紛れて消えそうな姉貴の心臓の音に必死に耳をそばだてる、でもどんどん小さく薄れていく、喰種の鋭敏な五感を今この時ほど呪った事はねえ、死に際の身内の血痰まじりの喘鳴も血を失って急速に青ざめていく肌も次第に虚ろになっていく瞳もなにもかもが焼き付くような鮮明さで刻み込まれる。

 

「姉貴、姉ちゃん、死ぬな!」

 

ひとりぼっちにしないでくれ。

あんたはたった一人の家族なのに。

 

なんでだよ、なんで裏切られてチクられたのにそんな安らかに笑ってられるんだ、もうなにもかも全部諦めちまったのかよ。たくさん働いていっぱい稼いでいい家に住むんじゃなかったのか、ふかふかのベットと服はどうしたよ、玉の輿の野望はドブに捨てちまったのか。

 

頬に添えられた手が雨粒に濡れて静かに滑落していく。

 

やめろ、姉貴……

 

 

 

―「アネキ!」-

「ニシキくん?」

 

 

目が覚める。

最初に飛び込んできたのはお人好しを絵に描いたような、もういない誰かさんそっくりの貴未の顔。

「どうしたの?すごいうなされてたよ」

眉を八の字にした心配顔でおずおずと覗きこみ、綺麗な手で前髪を梳く。

冷たい掌で額をなでられるたび、風邪の初期症状に似て悪寒を孕んだ熱が引いていく。

「ここは……」

「私の部屋。忘れちゃったの、泊まってたでしょ」

貴未が困ったように笑う。

そして俺は今の今まで貴未の膝枕に寝かされていた事に気付く。慌てて跳ね起きれば、貴未が少しだけ残念そうな顔をする。

「……寝てた?何時間?一時間?」

「それよりもっと」

「二時間か」

「もうちょと」

貴未が人さし指と親指で輪っかを作る。俺は頭を抱え込んで唸る。

「……三時間?マジかよ、クソ」

俺とした事が、女の膝枕で高鼾で眠りこけてたなんて。

いや待て。という事は……

とある疑問が浮かび、困惑の色を帯びた眼差しをベッドの上で横座りする貴未に向ける。

「ずっと膝枕してたのか、お前」

「……まあ、そうなるかな」

「ばっかじゃねえの」

思った事をそのまま口に出す。貴未がへへ、とはにかむ。

俺が重しになってるせいで三時間も動けず立てずトイレにもいけず、ずっと膝枕を強いられていたというのに貴未の顔は何故かこの上なく幸せそうなのが解せねえ。この女はニンゲンの中でも変わってる方だ。ひょっとしたらそんな風変りな所が気に入って今でもキープしてるのかもしれない。

いわばちょっと高級な非常食だ。

「だってニシキくんよく寝てたから起こすの可哀想かなって……」

邪悪な算段を練る俺の胸の内などいざ知らず、痺れた膝をくりかえしなで貴未が付け足す。

「でも、そろそろ起こそうかどうしようか悩んでたの。すごいうなされてたから」

「嫌な夢見た」

「そっか」

「どんな?って聞かねーのか」

「聞かれたくないんでしょ?」

 

わかるもん、私も。

 

貴未が柔和に微笑み、無防備に呆けた俺の顔に手をゆるく手をさしのべる。

不意打ちだった。

白くしなやかな手が片頬をやさしく包み、行儀よく揃えた膝へと再び導いていく。

 

「何も言わなくていいから、もう少しだけこのままでいさせて」

「膝、痛くねーのか」

「痛いよ。もう痺れて感覚ない」

「じゃあ」

「でも、ニシキ君の方が痛そう。そんなカオしてる」

 

殆ど力なんて入ってねえ華奢な手なのに、何故かその導きには抗えなかった。

再び貴未の膝に頭を預けて上を仰げば、ちょうど視線が垂直に交わり、どちらからともなく照れてそっぽを向く。

 

「あのね、ニシキくん」

「……何だよ」

「ごめんね」

 

『ごめんね』

 

「な」

「寝言聞いちゃって……頑張って忘れるから、その、ね」

今にも泣きそうに目を潤ませ、幸薄そうに白い頬を紅潮させ、俺達以外誰もいない部屋をきょろきょろと見回してから耳元に口を寄せてくる。

 

「嫌いにならないで」

 

 

……ああ。

本当に馬鹿だ、この女。救いようのねえお人好し。騙すのが簡単すぎて張り合いがねえ、平和ボケしすぎてヒトの中でも非常食にする位しか価値のねえノロマのグズ。

 

 

なのに、なんで姉貴と被るんだ。

頼りなく震えながら囁く声が、凛と背筋を伸ばして姉貴が発した謝罪と被るんだ?

 

「……盗み聞きのツケ。もう一時間延長な」

膝枕でごろりと不貞寝する。

潤んだ視線に背中を向けても、俺の頭を子供みたいになでる手付きから沈黙の孕む愛情の深さと献身の切実さが伝わってくる。

 

まだ掛けたままだった眼鏡を億劫げに取り外し畳んで置く。

途端に視界がぼやけ、夢と現実、欺瞞と本音の境が曖昧になる。

感化でも改心でもない、嫌な夢を見て弱気になってるだけだと今だけニクと見做したヒトに甘える狡さを許す。

過去の悪夢に疲れきって目を閉ざせば、人肌のぬくもりと心地よいまどろみを伴う安堵感が押し寄せてくる。

 

 

 

時々考える、この世界があともう少し俺達に優しかったらと。

でも、今。

少なくとも一人だけは、俺に優しくしてくれるヒトがいる。

喰っちまったらおしまいだけど、あともう少しだけこのままで。



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