一矢、5インチ、束ねた腕 (まさみぱんだ)
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一矢、5インチ、束ねた腕

女神アールマティはマヌーチェフルに特別な弓と矢を作らせ、熟達した射手であるアーラシュがその矢を放つ役に選ばれた。

アーラシュが夜明けに矢を放つと、矢は恐るべき距離を飛んでいき、イラン人とその他の民族とを隔てるべき境界の印となった。

ビールーニーによれば、アーラシュは矢を放ったことにより滅んで消えてしまったという。アーラシュは己の肉体を晒しこう言った。

「見ろ! 私の体には傷一つ病一つない。だがこの矢を放ったとき、私は滅びるだろう」と。

そして夜明けにアーラシュが矢を放つとすぐさま、アーラシュの体は裂けて散り散りになった。

 

―イランの神話より―

 

 

 

 

 

東京聖杯戦争が終わって一年が経過した頃、私ことエルザ・西条は、表向きの仕事であるカメラマンを一時休業しイランへ旅立った。

その際も仕事道具のカメラは手放さない。この子は既に私の一部になっている。たとえるならそう、子供みたいなもの。

聖杯戦争後ドイツに帰国した私を、両親は涙ながらに迎えてくれた。親不孝な娘でごめんねと俯き詫びる私を、パパとママは泣き笑いに似た表情で抱きしめて、子供のころよくそうしてくれたみたいに髪をなでてくれた。お前が無事でよかったと言ってくれた。

もう泣かないと決めたくせに優しい言葉に涙がこみあげてきて、ちょっとだけ洟を啜ってしまったのはご愛敬だ。

それからすぐルカのお墓参りに行った。

ひとりぼっちにしてごめんね、ルカ。バカなママでごめんね。

私が留守の間も両親が手入れをしてくれたおかげで、お墓のまわりは綺麗に整えられていた。

ルカのお墓にくるのは一年ぶり。聖杯戦争の準備をしている間は、失った息子のことを思い出すなりただの元母親に戻ってしまう弱さを戒めて敢えて足を向けないようにしていた。

本当はもっと早く会いに来るべきだった、逃げずに向き合うべきだった。

あの子がもういない現実を受け止めるのが苦しくて、あの子を亡くしてしまった事実から目を背け続けていた。

忘れたことなんか片時もないくせに努めて忘れようとしていた自分の馬鹿さ加減が愚かしくて、少し悲しい。

私はルカにたくさんたくさんお話をしてあげた。

東京聖杯戦争で起きた出来事、私がサーヴァントとして召喚した優しい大英雄の話、正義の味方をめざした男の子の話、その温かい笑顔のことを。

話はいくらでも尽きなかった。伝えたいことはたくさんあった。

ルカはお話が大好きな子だったから、きっと喜んでくれたと思う。

まだあの子が生きてた頃、寝る前に絵本を読んであげるのが習慣だった。私がうとうとまどろんで絵本に突っ伏しそうになると、やさしいルカはよしよしと頭をなでて、「ママ疲れた?続きはあしたにする?」と心配してくれたものだ。

五歳にもならない息子に気を遣わせる母親ってどうなのよと自分でもあきれてしまうけど、ルカは聡い子だったから、カメラマンと魔術師を股にかけて忙殺されていた私の事をそれとなく察していたのかもしれない。

ねえそれで大英雄はどうしたの、どうなったのと続きをせがむ無邪気な幻聴が今にも響いてきそうで、鼻腔の奥がまたツンとした。

 

彼が生まれた国、守り抜いた土地に行こうと思い立ったのはその時だ。

 

この目で彼の生きた国を見たい。

この足で彼が生きた大地に立ちたい。

世界各地の紛争や虐殺の現場、過酷な戦場を撮り続けてきた相棒の一眼レフカメラで、彼が生きた国の現代を鮮明に切り取りたい。

 

私はイランへ行く計画を立て始めた。聖杯戦争の事後処理は滞りなく済んで、ただの平凡な魔術師にしてカメラマンに戻った私には、幸いにして持て余す時間があった。聖杯戦争の準備で大分貯金を崩してしまったけれど、まだ少し余裕がある。

そうと決まればさあ行こう、フットワークの軽さが私のとりえだ。

彼が褒めてくれたお気に入りの旅行鞄に着替えと最低限の生活必需品を詰めて、観光客やビジネスマンでごった返すフランクフルト空港からイラン行きの飛行機に乗りこんだ。

貯金は大分削ってしまったから無駄遣いはできない。

エコノミークラスに乗り込んで、窓際の席から窓の外一面に広がる雲海を眺めているあいだじゅう、私は嘗て見た情景を思い出していた。

『ママの笑ったかお、すき』

輝くばかりの愛くるしい笑顔でそう言ってくれた愛しい息子。私がお腹を痛めて産んだ可愛いルカ。

非正規の保育施設からの帰り道、拾った小枝を振って元気よく唄っていた。あの子と手を繋いで、一緒に唄いながら帰るのが好きだった。

私は私のママみたいに良いママじゃなかった。たっぷり愛情を注いだつもりだったけれど、カメラマンの仕事で世界中を飛び回って十分に手をかけてあげられなかった。そんな私をルカは慕ってくれた。

ひとりぼっちにさせられて寂しかったろうにごねることもなく、私が一緒にいてあげられる時間には、不在の日々を取り返すように甘えてくれた。

 

ルカはもういない。

テロに巻き込まれて死んだ。

 

「………」

ドイツを東西に隔てるベルリンの壁崩壊と前後して、それに反対するテロが各地で散発的に起きた。カメラマンとして世界各地の戦場を飛び回っていたのに、なぜ自分の故郷だけは大丈夫だとのんきに楽観していられたのだろう。まるきり油断していられたのだろう。しあわせボケしたあの頃の私はなんておめでたい小娘だったことか。

ドイツの片田舎、煉瓦造りの建物すらまどろむような穏やかな昼下がり。道で拾った小枝を元気に打ち振って、覚えたての歌を大きな声で唄っていたルカと並んで歩きながら、私は五分後の地獄になんてまったく気付かずに。

『ルカ!ルカぁ!!』

光と爆音が炸裂、鼓膜が麻痺。

行く手の建物が突然吹き飛んだ。何が起きたか瞬時に理解できず、それまで手の中に在ったぬくもりが消え失せている事だけがわかった。

行っちゃだめよルカ、いきなり駆け出しちゃだめ、転ぶわよ。だいじょうぶだよママ、あのポストまでかけっこしようよ。

直前、そんなやりとりをした気がする。

私が窘めるそばからわんぱく盛りのルカは手をすり抜けて一散に駆け出して、片手に小枝を握りしめたあの子の背中がどんどん遠ざかっていくのを引き止められず。

爆ぜた光が視界を漂白、崩壊した建材の下敷きとなったルカ。

喉が血を吐くまで名前を呼んで、爪剥がれるまで建材をかきむしってどかそうとして、けれども女の細腕が出せる力はたかが知れていて、重たい柱を持ち上げてあの子を助けだすのはどうしたって無理で。

 

ああ、もしあの時もう少し冷静な判断ができていたら。

たとえば私の得意な風の魔術を行使していたら?

駆け寄ってきた人の目も憚らず、鳴り響く救急車のサイレンすら無視して、風の魔術で柱をどかしていればルカは助かったのかしら。

なんでそうしなかったのエルザ?

秘匿の掟?

神秘は隠蔽されるもの?

くそくらえだわそんな戯言、誰を救いもしないじゃないの。

 

それが反政府組織によるテロ活動だと知ったのは後日の新聞報道でだ。

ドイツの片田舎の小さな町で起きたそう珍しくもない悲劇として、子ども一名が犠牲になったと、たった5インチの記事が報じていた。

ルカの人生はたった5インチの枠組みで片付けられた。

爆発の規模の割に被害は最小限だったと、死亡者が一人ですんだのは奇跡だと、物騒な世相に慣れきった当時の新聞は幸運の文脈で語りさえしたのだ。

私はその新聞を握り潰して、マッチで火を付けた。

即死じゃないのが奇跡とのちに診断された状態で病院に搬送されたルカは、息を引き取る間際にママの笑った顔が好きと言ってくれた。ママだいすきと途切れ途切れの呼吸のはざまから告げてくれた。

ルカの葬儀を終えたあと、あの子を失った現実を忘れようと前にもまして報道の仕事に打ち込んだ。現実逃避と謗られても、あの頃の私にはほかにどうすることもできなかった。

私はカメラを持って世界の紛争地域を飛び回った。自らを次々と過酷な戦場に派遣して、ルカのことは極力考えまいと努めた。

 

無理だった。

 

私は見てしまった、ルワンダの虐殺を。

カンボジアの地雷原を。

イラクの内紛を。

 

鉈で切り裂かれた妊婦の腹から取り出された胎児の死体を、どちらか生き残った方だけ助けてやると殺し合いを強制された親子の末路を、大勢の兵士に犯され嬲り殺された幼い少女を。

 

そして発狂した。

 

息子の死で既に軋んでいた精神が、過負荷に耐えきれず弾けた。

世界中の戦場でくりかえされる血みどろの日常はあの日ルカの身に降りかかった災いとなんら変わりなくて、四肢をばらばらに切り刻まれた男の子はルカで、母親に抱かれて焼け死んだ赤ん坊もルカで、地雷で足を吹っ飛ばされて松葉杖を付く少女もルカで、どの子もみんなみんな五分後のルカで五分前のルカにしか見えなくて。

だから私は、すべての母と子が救われる世界を聖杯に願ってしまった。

すべての母と子の嘆き悲しみが等しく報われる優しい世界の実現を、聖杯なんていう得体の知れないモノにねだってしまったの。

 

「………ばかねほんと」

真っ白い雲海を映す窓にそっと手を添え、物憂く呟く。

今ならそう言える。

虚勢でも強がりでもなく、客観に照らして自嘲できる。

殺し合いでしか手に入らないモノに平和を願ったところで殺し合いがやむずない、そんな大前提の矛盾すら見落としていたなんて。

だれかの命や願いを踏みにじり犠牲にすることでしか実現に至らしめられないモノなんて、信じる価値などありさえすまい。

 

私が信じるのは私のサーヴァントだけでよかったのに。

ただ彼だけを信じていればよかったのに。

ああ、けれども彼は聖杯にかける私の願いを力強く肯定してくれたじゃないか。

胸を張れ、顔を上げろと叱咤してくれたじゃないか。

私が胸に抱いた願いは尊い、何も恥じることはないと鼓舞してくれじゃないか。

聖杯など信じるに値しないなんて言ったら彼への侮辱になるだろうか?ねえアーラシュ、あなたは怒る?

 

「怒らないでしょうね」

 

あなたは優しい人だから。

私のサーヴァントはそういう人だ。優しい優しい大英雄……いいえ、「だった」と過去形で記述するのが正しい。

もし大聖杯が生贄の命をくべることでしか起動しないような代物ならそれは神の恩寵でもなんでもなくて、そんな馬鹿げた奇跡のまがい物が、すべての母と子を救うことなど絶対にありえまい。

眩い雲海を切り取った窓にこつんと額を預ける。窓が映し返すのは失恋して傷心旅行に出た小娘のような顔。

天国に限りなく近い青空と一面に敷き詰められた分厚い雲の下、飛行機が飛び去っていく下方にいくつもの戦場があり何人もが死んでいく。

 

たった5インチの地獄に閉じ込められてしまった私のルカ。

人はこうもたやすく獣に堕ちる。

 

「しっかりしなさいエルザ。こんな顔で彼の故郷に行くつもり?」

酷い顔した己を叱咤、頬を叩いて喝を入れ直す私に、機内食の配膳カートを押してきたスチュワーデスがぎょっとする。

 

 

 

イランへ飛んだ私は、本屋で入手したガイドブック片手に精力的に名所名跡を回った。

完全に仕事を離れ、はるばるドイツからやってきた若い女のおのぼりさんとして単身観光を満喫した。

イスラム教の聖典クルアーンによれば女性は顔と手以外を隠し、近親者以外には目立たないようにしなけらばならないことから、保守的なイスラム社会では女性は頭をふくめた体を隠す服装をすることが多い。アバヤやビジャム、ヒマールと呼ばれる黒い布ですっぽりと頭を覆った女性たちが、近代的なビル街や砂岩の民家が犇めく村々を歩くさまは新鮮だった。

仕事を忘れてと前置きしたくせに、カメラマン魂が疼いてシャッターを切ってしまった。

どうやら私は骨の髄までカメラマンだったようだ。たんなる職業病かもしれない。

巽のような静止の魔眼はないけれど、ルカの褒めてくれた自慢の笑顔で交渉したら大抵は快く撮影の許可をくれた。物珍しさが先行したのは否めないかな。

綺麗な顔が頭巾に隠れてしまうのはちょっともったいないけど、それもイスラムの文化だ。目にするもの触れるものすべて刺激的でいつしか私は時間を忘れ夢中になっていた。

 

ふと思う、巽が生きていればいいカメラマンになったかもしれない。

魔眼の有無に限らない、彼はまっすぐないい目をしていた。物事を歪めずありのままに捉える目、私にはちょっと眩しすぎるまっすぐな眼差し……

彼を同業者兼好敵手と呼べる未来がこなかったことが少しばかり惜しまれる。

そうそう、イランにきたらこれだけは絶対やっておきたかった。

道行く男性をつかまえて、手振り身振りを交えたカタコトで尋ねる。

「すいません、このへんでひよこ豆のペーストがおいしいお店はありますか」

「ああ、それならこの道をずっと行った右っかわ、ムスタファの定食屋がおすすめだよ。値段も手頃だ」

「ありがとう!」

「どういたしましてお嬢さん。スリと追い剥ぎにゃ気を付けな」

足取りも軽く、さっそく教えてもらったお店に行ってみる。

そこは現地の人が常連として通い詰める市場に面した庶民的な食堂で、ゴツい一眼レフカメラを携えていきなり飛び入りした外国人に、先客はびっくりしていた。気にしない気にしない。じろじろ不躾な好奇の視線を向けてくる現地の人たちににこにこ愛想をふりまきながらテーブル席に座り注文、殆ど待たせずに料理が運ばれてきた。

「これがフムス……ひよこ豆のペーストね。いただきます」

見た目はスープに似ている。いそいそとスプーンで一口すくって……

「おいひーい!イケるじゃないこれ」

片方のほっぺを押さえご満悦で笑み崩れる私の様子があんまり無邪気だったせいか、店内を埋めた客がどっと沸く。警戒心は霧散したみたい、よかった。私は夢中でスプーンを動かす。スパイシーで美味、いくらでもお腹に入る。あっというまに食べ終えて、スプーンを行儀よく端におく。

「ごちそうさま。さすが彼の好物だっただけあるわね、絶品だわ」

「彼?お嬢ちゃんの恋人かい」

「うーん……だったらよかったんだけどね」

お皿を片しに来た店主のからかいまじりの言葉に、曖昧な笑顔で返事を濁す。いつだったか彼が話してくれた、郷土料理のひよこ豆のペーストが好物だと。だからイランにきたら絶対に食べておきたかったのだ。

食後もしばらくまったり居残って、すっかりうちとけたお客や店主と世間話をしていた。

ドイツ人の観光客、それも若い女の一人旅というのは相当珍しいのだろうか、私は変人もしくは物好き認定されてしまったらしい。食堂の常連さんは話好きで気さくな人ばかりで、ガイドブックには載らない穴場の観光スポットやスリへの対策などを親切に教えてくれた。

「ホダーハーフェズ!」

見送る店主とお客一同に手を振って食堂をでて次にむかったのは、路地を一本逸れた地元民の居住区。

白い砂岩造りの伝統的な家々が犇めく区画。路地の上空には窓から窓へと物干しロープが渡されて洗濯物が翻っていた。ああ、いい風。赤毛を押さえて目を瞑る。路地を抜けると、そこは青いモザイク貼りの噴水を中心にしたこぢんまりした広場で、子どもたちがサッカーボールを蹴って遊んでいた。

ルカもサッカーが大好きだったな。私が狙いをはずしてボールを蹴りそこなうと大喜びしたっけ。それからママのドジと笑いながら助け起こしてくれた。

いつでもどこでも子供たちの笑顔は変わらない。戦場でも都会でも彼らはスニーカーを履いて、あるいは裸足で、行きつ戻りつ縺れあうようにボールを追っている。

ボールを蹴ってじゃれあう子供たちへおもわずカメラを向けていた。先頭をひた走る、一際やんちゃそうな男の子の笑顔をズームアップする。あ、気付かれた。ボール遊びを中断した子どもたちの一団がこっちにやってきて取り囲まれる。

「こんにちは」

「おねーさんガイジン?どこからきたの?アメリカ?イギリス?」

「ふふ、あててみなさい?」

「イタリア!」

「フランス!」

「オーストラリア!」

「ドイツ!」

「はい、そこのキミあたり」

「やったあ!ご褒美は?」

「世界一プリチーでワンダホーな私の笑顔よ」

「えーケチ」

不満げなブーイング、次いで屈託ない笑い声が上がる。よかった、がっちり心を掴めたようだ。こう見えて子供の相手は得意なのだ。

膝をそろえて屈みこみ、ぐるりを取り囲んだ子どもたち一人一人を見つめる。

どの子も貧しい身なりをしている。明らかにサイズがあってないだぼだぼのTシャツ一枚、逆に半ズボン一丁だったり。

大半が泥だらけの裸足、おさがりのスニーカーを履き潰した子もいる。けれども皆表情は明るく逞しく、未来への希望にみちあふれていた。

「ねえ、聞きたいことがあるんだけどいいかな」

「なに?」

まっすぐな目が一心に見上げてくる。私は生唾を嚥下し、勇を鼓して質問を口にする。

「アーラシュ・カマンガ―って知ってる?」

知らないって言われたらどうしようと内心不安がっていたのはヒミツだ。今の子は漫画やゲームに夢中になって、大昔の伝説の英雄なんて知らないんじゃないか懸念していた。

子どもたちが互いに顔を見合わせる。私はドキドキしながら反応を見守る。口火を切ったのはボールを腋に抱えたわんぱく坊主だ。

「アーラシュ!速き矢のアーラシュな!知ってる知ってる」

「弓兵の中の弓兵、射手の中の射手、世界一かっこいいイランの大英雄!」

「昔の名前はペルシャだっけ?まあいっかどっちでも」

「うちのばあちゃんが大好きなんだ、夜寝る前にいっつも話してくれる」

「歌にもなってるんだぜ。ええっと……彼こそはアーラシュ、王と女神の寵愛たまわりし最強の弓兵、心優しき大英雄。ペルシャとトゥランに国境を引き、あまねく民を守りたもうた……畜生、続きはド忘れしちまった」

「かっこいいよなー弓で大地を割り砕くなんて。きっとすっげーデカい弓矢なんだぜ、アーラシュも巨人みてえなゴツい大男でさ、身長が山くらいあるんだよ」

「んで女にモテモテなマッチョなんだよな?」

「女神さまに愛されて、王様にもめちゃくちゃ頼りにされてたんだぜ」

「この国の人間でアーラシュ知らないヤツなんていないよモグリだよおばさん、俺達みんなちびの頃から耳タコだぜ。ばあちゃんのばあちゃんのそのまたばあちゃんからずっとずっと語り継がれてるんだ、ってててなんでつねるの!?」

「どさくさまぎれにおばさんって言ったでしょボク。地獄耳なのよ私」

一人が口を切るや僕も俺もと競って伸びあがり偉大な弓兵の武勇伝を披露する、憧れと興奮にきらめく目と初々しく紅潮する頬、次々手を挙げて口々訴えてワッと群がってくる。

凄まじい熱気で押し寄せてくる子どもたちに圧倒されて、じんわりと熱いものが胸にこみあげてくる。

 

ああ、アーラシュはここに生きてる。

今も皆に愛される、本物の大英雄だった。

聞いてるアーラシュ?

みんなあなたのことが大好きよ。

あなたが遺したものは、この子たちの中にちゃんと受け継がれてるよ。

 

胸の中でもういない優しい人へ語りかけ、子どもたちの集合写真を記念に一枚撮って路地をあとにした。

それからどこをどう歩いたのか覚えてない。ガイドブックなんてもう見ず、迷路みたいに複雑に入り組んだ路地をあてずっぽに歩きぬく。

胸元にぶらさげた一眼レフカメラをずっと握っていたせいで、手のひらがじっとり汗ばんだ。

瞼の裏が次第に火照りを帯びて、瞬きで熱を逃がしたはずみに水分まで一緒にこぼれそうで、私はどんどん歩く速度を上げていった。

子どもたちの前では笑っていられた、かりそめでも気丈さを保っていられた。今はだめ、ひとりになると途端に弱くなる、あっけなく自制が綻ぶ。自分がこんなに泣き虫だなんて知りたくなかった、あの人に会って知ってしまった。

みんなみんな笑っていた。

誇らしげに得意げに、笑いながらあの人のことを話していた。

アーラシュ・カマンガ―は何千年前の伝説の中の英雄にあらず、先祖代々土地に根付いた人々の中で今なお生き続ける希望の化身なのだ。

「ろくに取材もできず……カメラマン失格ね」

本当はもっと話を聞きたかった、あの人のことを聞かせてほしかった。

でも、だめ。だめだ。愛しさと切なさが胸の中で絡まりあって息が苦しくなる。

聖杯戦争の傷はまだ完全に癒えきってない。

私はまだ、彼を裏切って滅びに追いやった私自身の弱さを許せそうにない。

路地で迷ってるうちにすっかり日が落ちてあたりが暗くなった。このあたりの治安はそう悪くないとはいえ、そろそろホテルに帰らなきゃ。

砂岩の民家に挟まれた路地をとぼとぼ歩く。手にしたカメラがずっしり重い。観光にきたのにへこむな私、心機一転どころか本末転倒じゃない。写真いっぱい撮ってくるって両親に約束したのに……

空はもう暗く星々がささやかに瞬き始めている。低所得層の居住区は街灯が少なく、派手なネオン看板もないためドイツや東京と比べて星がよく見える。

 

アーラシュも同じ星空を見たのかな。

星座、教えてあげればよかった。

 

「…………」

遠く目を細め、極上の天鵞絨を敷いたような濃紺の夜空を振り仰ぐ。

ルカにも見せてあげたい。せっかくイランにきたんだもの、あの子ができなかった体験をして出会えなかった人に会いたい。

あの子のぶんまで思い出を作って

「…………」

あの子のことまで思い出にして?

死んだだれかのぶんまでなにかをしてあげようだなんて、とんでもない思い上がり。そこには生者のエゴしかない。

錐に貫かれたように胸が疼く。自己満足でもかまうものかと開き直って、ポケットのパスケースから写真を一枚とりだす。お気に入りのサッカーボールを抱いて微笑むルカと、その傍らにしゃがんだ私の写真。肌身離さず持ち歩いてる生前のルカの写真を胸の前で抱きしめ、高く翳して空を見せてあげる。

「イランにきたんだよ、ルカ。お星さま見える?きれいでしょ」

返事がないのを承知で死者に語りかける。

東京の夜空は排気ガスとネオンで薄く曇って、星があんまり見えなかった。

それでも山の上ホテルの屋上から見た夜景はとても綺麗で、ドロップスめいてカラフルな輝きの残像が、あの人の笑顔と共に網膜に焼き付いてる。

「!あっ、」

感傷的な物思いはいたずらな風に中断された。

「待って、返して!」

折から吹いた風に写真をさらわれ、悲鳴じみた抗議が喉から迸る。やだなんで、しっかり握っていたはずなのに、手放してなるものかと誓ったのに。

片手に拾った小枝を振って、楽しそうに唄っていたあの子の姿がフラッシュバックする。私の手をすりぬけて素早く走り去っていく小さな背中、数瞬後の惨状さえまざまざと。

やめておねがい、あの子を連れていかないで。

もう二度と私から奪わないで。

返して、返して。心の中で絶叫、息を切らして坂道を駆け上がる。

 

手を伸ばせばすぐそこをヒラヒラと写真が舞っているのに指先がもう5インチ届かない。

私の叫びは、願いは、いつだってたった5インチだけ届かない。

 

「きゃっ!」

道のど真ん中で躓いて勢いよく転ぶ。激痛を上回る悔し涙がじわりと滲む。擦りむいた膝と肘がひどく疼く。めげるもんか。これっぽっち、あの子が味わった痛みに比べたらなんてことない。あの人が引き受けた痛みに比べたらどうってことない、へっちゃらだ。もう私をお姫様だっこして空を飛んでくれるサーヴァントはいないのだから、歯を食いしばってゴールまで一人で走り抜けるしかない。

ゴールなんて本当にあるのかしら。

そこに辿り着けば本当に終わるのかしら、この痛みも哀しみも絶望すらもなにもかも報われるのかしら。

まけない。へこたれない。くじけるもんか。風よ、ただの風よ、エルザ西条をなめるな。

私はルカのママだ。

今もまだルカが大好きだと言ってくれたママのままでいたい。

私は彼のマスターだ。

今もまだ彼がよしと言ってくれたマスターの底意地と諦め悪さを貫きたい。

「はっ、はっ、はっ」

息が苦しい。ずきずきする膝と肘の痛みを堪え、一生懸命坂道を駆け上がる。こんなに必死に走ったの何年ぶり?ああ、ルカを止めようとしたあの時ぶりか。

坂のてっぺんに出るなり一気に視界が拓ける。

なだらかな斜面に発展した居住区の頂上、即ち丘の頂上にとびだすなり、汗を拭うのも忘れ視界に飛び込んできた情景に目を奪われる。

高層ビルが林立する首都の摩天楼、その周辺に犇めくスラム街のバラック小屋。丘の裾野から斜面の上へと広がる、白い砂岩でできた四角い家々を擁する眺望。当然ながら地平線なんて見えない。

見えないはずなのに。

 

一瞬だけ、見えた。

肉眼に千里眼の恩寵が宿った。

 

三千年を遡る昔、アーラシュが生きてた頃の悠大なるペルシャの情景が、貧富の差が厳然と分かたれた現実をおしのけるように眼前に打ち広がった。

超常の一矢で断絶の国境を穿たれた茶褐色の大平野、乾いてひび割れた砂岩の大地が、世界のさいはてに幻の地平線を描いていた。

国境を引かれた土地と、国境のない星空と。

 

「これを見せたかったの、アーラシュ?」

風が緩やかに凪いで、呆けたように立ち竦む私の手へと嘘みたいにあっけなく写真が戻される。

遮るものない夜空では一際眩く星が輝いてる。

ラピスラズリの粉末を溶かし込んだような夜空を、まっすぐ透き通った意志を持って一条の箒星が過ぎっていく。

夜空を断ち割る境界線のような、僅か5インチ先の地獄を分け隔てる国境を具現化したような、神々しい白銀の軌跡が暗闇の彼方に吸い込まれていく。

「[[rb:流星一条 > ステラ]]……」

 

 

 

俺が見せたかったのはこれだよ、エルザ、ルカ。

 

 

 

 

耳元で懐かしい声が囁いた気がした。

「………私とルカへのプレゼント?」

ああ、ばかねエルザ。

彼はもういないのに。こんなのばかな小娘の感傷にすぎないのに。

彼は約束を守ってくれた。私の地獄に境界線を引いてくれた。私が見たかったものを見せてくれた。

1991年の東京聖杯戦争で私は何も得られなかった。

何一つ達成できず、何一つ目的を叶えられず、エルザ・西条とアーラシュ・カマンガ―は道半ばで退場を余儀なくされた。

「ううん、ちがう。この手に何も掴めなかったなんてあるもんですか」

あの戦争で無駄だったことなんて何もない、何ひとつとしてない。

七人七騎のマスターとサーヴァントの戦いには意味があって、無駄な死と消滅なんて一個もなかった。

バーサーカーも、ライダーも、ランサーも、キャスターも、セイバーも、アサシンも。

消えて逝ったサーヴァントたちが遺した想いと託した願いは、真に誇り高く尊いものだったと戦いの渦中に身をおいて彼らをそばで見てきた私が断言する。

 

「私のアーチャー。優しいサーヴァント。私の願いを共に叶えると言ってくれたひと」

 

ごめんなさい、裏切って。

ごめんなさい、あなたを死なせて。

ごめんなさい、もっと一緒にいたかった。

ごめんなさい、ずっと一緒にいたかった。

 

「私が、私なんかがマスターでごめんなさい」

 

こんなただの女が、ただの弱い人が、ただの元母親がマスターでごめんなさい。

あなたを最後まで生かしてあげることができなくて、既になくした子どもを選んでしまって。

それでもルカの写真を手放せない、ルカと一緒に撮った形見の写真を手放せない。

あの子の写真をこの上なく大事に胸に抱きしめたまま胸からあふれて喉へ逆流する想いはとめどなく、奥歯で嗚咽を噛み砕き、彼が生きた時代から変わらず美しい星空を仰ぐ。

 

「ゆるしてアーラシュ」

 

本当にばかよエルザ、彼はこんな言葉ほしくないのに。

いまさら謝っても困らせるだけなのに。

私はルカが大好きでいてくれたママのままでいたかったのに、あなたの前ではただの恋する女の子にもどってしまった。

伸ばした手に星の光は遠く何も掴めず、もう片方の手で縋った写真はなにも答えてくれず、孤独に立ち尽くすしかない私の足元から甘い匂いが立ちのぼる。潤んだ視線を落とし、地面に花が咲いてるのに初めて気付く。

群生して咲く可憐な青い花。天国に限りなく近い、戦場の青空を切り取ったような……

「ネモフィラ?」

イランの気候で咲くなんて知らなかった。現地の人が植えたのだろうか。たしか花言葉は……

 

 

 

[[rb:私 > 俺]]は[[rb:あなた > おまえ]]を許す。

 

 

 

私が下を見ないから気付かなかっただけ、目の前の眺望に意識をとられていたから気付けなかっただけで、ネモフィラは丘一面に咲き乱れていた。

暗い夜空と青い花が埋め尽くす地面のコントラストの鮮やかさに幻惑されて。甘く爽やかな芳香に包まれて、自分が立っている場所と時代の認識が狂いだす。

青い色素をもつ花は自然界でも珍しく、ネモフィラは希少な例外だ。

天鵞絨で漉したような淡い星明かりを浴びて、無辜の民の涙の雫から芽吹いたような可憐な花は冴え冴えと輝いてる。

「っ……」

 

ああ、本当にばかねエルザ。あなたはとっくに許されていたの。

ああ、本当にばかよアーラシュ。なんていうお人よしなの。

 

こんなのはただの偶然、ばかな小娘の感傷を投影しているだけにすぎない。

ここにネモフィラが咲いてることも私が風に弄ばれて丘の上に導かれたのも偶然で、そこにあなたの心を見てしまうのは、私がまだあなたを忘れられないからよ。

 

私はこの世界を許せるかしら。

哀しいことばかり苦しいことばかり、私から最愛を奪ってしらんぷりをしている、残酷な世界を許せるかしら。

 

「アーラシュ、私ね、夢ができたの。聞いてくれる?」

 

砂漠を渡ってきた乾いた風に吹かれ、ルカの写真を胸に抱いたまま毅然と顎を引く。

正面の虚空をまっすぐ見据え、瞼の裏を過ぎる愛しい男の面影にきっぱりと宣言する。

 

 

「聖杯なんかに頼らなくても地獄に境界線は引ける。あの聖杯が私たちを弄んで殺し合いを仕向けるようなものなら、そこから生まれるのは地獄だもの。やっとわかったの、あなたと巽と……あの戦争を駆け抜けた皆が教えてくれた。だから私、私ね、あなたがしたようにはできないけど、一からやってみる。私はただの女でただの人、ただの元母親で、できることなんてちっぽけかもしれない。あなたみたいに女神さまから授かった弓矢で大地を断ち割って国境を作ることも、自分を犠牲にして戦争終わらせるなんてこともきっとできっこない。でも、でもね、こんな私がだいすきだって、私の笑った顔が大好きだってルカが言ってくれたの。この願いには叶える価値があるって、胸を張って顔を上げろってあなたが背中を押してくれたの。叶わなくても諦めず、一生かけてあがきぬくに値するって」

 

 

だから私は顔を上げる。

ネモフィラの咲く丘を二本の足で踏みしめて、箒星が降り注ぐ異国の夜空をきっかり見据えて、5インチ先の地獄に全生涯を賭して戦いを挑む決意を打ち立てる。

 

 

「最愛の我が子とサーヴァントに背中を押されて、やってみなきゃ嘘でしょ?」

 

 

両手を重ねルカの写真を抱きしめる私を、幻覚として生じただれかが後ろから抱きしめてくれる。

腰に回された逞しい腕、背中に重なる厚い胸板。体温も感触も伴わないのに不思議と温かい抱擁だった。

 

 

「手はじめに写真を撮るわ。世界中の戦場を飛び回って、そこの現実を報道するの。今度はくじけない、へこたれない、途中で逃げ帰ったりなんて絶対しない。吐いたってかまうもんですか、聖杯戦争でもっと痛い目を見たんだもの、転んでもただじゃ起き上がらないエルザ・西条のド根性を見せてあげる。生え抜きの雑草魂よ。あの聖杯戦争でだれにも知られず死んでいったひと、だれにも悼まれず見落とされた子たちがたくさんいる。5インチ先、5分後の地獄を他人事だと思ってる人たちにまずは知ってもらわなきゃ。きっと動いてくれる人がいる、ほっとけないって腰を上げてくれる人がいるはずよ。そして……それからね。ガンガン仕事をしまくってガンガンお金を稼いで、何年何十年後になるかわからないけど、戦争で親をなくした子の為の施設を作りたい。子どもをなくした親の支援をしたい。こう見えて家庭料理は得意なの、施設じゃ料理人を兼任して経費削減も考えてるのよ。レパートリーはドイツ料理が主だけどそれはそれ、これから勉強あるのみね。なんなら魔術師のコネクションもフル活用してやるんだから!」

 

 

 

荒唐無稽な夢物語?

世間知らずの小娘の誇大妄想?

ねえアーラシュ。

心優しい大英雄が嘗て愛したペルシャの星空にむかって意気揚々と大きな独り言をまくしたてる私を、あなたは笑うかしら。

 

 

 

 

笑うもんかよ。

 

 

 

 

 

受肉を伴わない幻の腕が、一際強く力を込めて私の胴を抱きしめてくれた。鼓動さえ響かせそうな厚い胸板が、私とルカごと抱きしめるよう背中に寄り添ってくれていた。

きっと彼は微笑んでいる。どこか遠くで。限りなく近くで。

泣き笑いに似て切なく表情を崩した私を見守って。

「……ありがとう」

 

 

 

帰りにあの食堂に寄って、ひよこ豆のペーストのレシピを聞かなきゃ。

私はアーラシュ・カマンガ―の元マスター、エルザ・西条。

彼がくれた勇気と希望をつがえて地獄に弓を引く。 



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