――っ。
目が覚めた瞬間にまず感じたのは鈍い頭の痛みだった。ズキズキと脳の中を噛みだすような痛みに思わず、言葉にならない声が口から出かかる。続いて感じるのは喉の渇きと胃のむかつき。天下の土曜日の寝起きだ言うのに最高に最悪な出だしだ。
こうなった原因には心当たりがある。
――あぁ、飲みすぎた。
原因は至極単純、ただの飲みすぎである。昨日久しぶりに授業に顔を出したときに偶然出会った友人とそのまま飲みに行き、酷く飲みすぎた。駆けつけ一杯からのビールに始まり、焼酎、ハイボール、挙句の果てにはウイスキーやらラム酒やらのロック。はっきり言って後半の記憶はないのだが、目を開けて見れば見知った風景が目に入ったので、どうにかして家に帰ったのだろう。
――あぁ、気分わりぃ。
酒飲みの宿命である二日酔いは、他の人だけではなく俺のこともしっかりと愛してくれているようだった。そして、その愛は何とも重く迷惑なものである。いつものように昨晩の自分を呪いたくなる。この頭痛と胃のむかつきを俺は今まで何度体験してきただろうか。数えるのも億劫だ。それならいい加減反省して酒を控えろと言われそうだが、酒を飲むのはやめられない。
ほら、かの大文豪である夏目漱石先生も言っているだろ?
『美味い酒は、飲まねば惜しい。少し飲めば飽き足らぬ。存分飲めば後が不快だ』ってね。
え? 漱石はそんなことを書いていないって。
まぁ、あれだ。飯も酒も生きる上では欠かせないものだし、似たようなものだろう。
――もうひと眠りするか。
こう、何度もシンバルをガンガンと頭の中で鳴らされては起きる気もしない。味噌汁でも飲めば多少はましになるかも知れないが、作る気力どころか起きることすら億劫だ。それに今日は土曜日でバイトもない。
今までの体験上こういう時は寝るか、ベッドの中で時間を浪費するに限る。気分が悪くて動く気力がないのなら、よくなるまで待てばいい。いくら人間の人生が短いからと言ってもこれくらいの浪費は許されるだろう。
せっかくの休みを二日酔いで潰すのはダメ人間だと叱責されそうだが、ここで考えて欲しい。
今は昔、かの坂口安吾大先生はその著書である堕落論にて、こう語っている。
『人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない』
そう、人間は生きている以上必ず落ちるのだ。堕落するのが人間だし、堕落しなければ人間は救われない。かの坂口安吾先生がそうおっしゃっているのだ。間違いないだろう。俺の人生のバイブルは安吾先生の堕落論と、太宰治の人間失格である。
祖国のために戦った若者は闇市に堕ち、夫を失った女は新しい恋に堕ちる、そして俺は酒と煙草に堕ちる。そこに何の違いがあるだろうか。ないに違っている。
人間を救う手段はただ堕ちることならば、俺がこうして堕落していることは、俺の人生において必要不可欠なことであるし、この堕落が将来の救いに繋がる。ならば、ここは来るべき救済に備えて今日という土曜日を二日酔いとともに堕落して過ごそう。
そんなみっともない言い訳をして、いざ瞼を閉じようとしたとき、音が聞こえた。
――ガチャリ。
玄関のほう方向から聞こえた音は、鍵を施錠する音。そして遠慮なく扉を開ける音が聞こえた。
「……はぁ、全く」
ため息とともに声が聞こえた。女性にしては、少しだけ低い声。今までの人生で聞きなれた声だ。そして、今は聞きたくない声でもあった。
――うげっ。
心の中で思わずごちる。よろしくない。大変今の状況はよろしくない。
俺の内心をよそに、訪問者はつかつかと足音をたてながら俺の部屋の前までやってくると、容赦なく扉を開け放った。
「…………はぁ」
そしてソイツは未だに起き上がれず、ベッドの上で横になっている俺を見たとたん顔をしかめた後に、深いため息をつく。
少し癖のあるショートヘアに赤い髪留め、整った顔はどこかしら可愛いというよりも奇麗だと感じさせる。特徴的な泣きぼくろを伴った鋭い眼光が俺を見下す。諦めと、怒りが交じり合った表情の彼女にとりあえず声をかける。
「……あぁ、円香、おはよう」
乾いた喉から捻りだすように出した声は酷く枯れていた。
「おはよう? 何言ってんの? 今、何時だと思ってるの」
その声色は先ほどよりもさらに低い。
――あぁ、これ結構怒ってるな……。
「は、8時くらいかなぁ……」
「11時です」
絞り出すように出した言葉は一瞬にして切り捨てられた。実の兄に対して酷い態度だ。
彼女は勝手知ったる他人の家とばかりに鞄を部屋の隅に置くと、そのままいつもの定位置である座布団に腰を降ろした。
「そうか、それじゃあ、こんにちは、だな」
「そうですね。まぁ、どっかの誰かは今起きたようだけど」
「いや、少し前から起きていたぞ」
そう、起きていた。ただ起き上がる気力と元気がなかっただけで。
「……どうだか」
そう言った後彼女は再び立ち上がり、そのままカーテンを勢いよく開けた。薄暗かった部屋が一気に太陽の日差しを受け明るくなる。どうやら、今日は天気がいいらしい。何ともはた迷惑な話だ。
薄暗い時はそこまで気にならないのだが明るくなると、ところどころで古臭さが目立つ部屋だ。まぁ、今どき珍しい木造アパートだし多少のボロさは仕方がない。それにボロさと引き換えに破格の家賃だ。安さは正義。貧乏学生にはこの部屋ですら有難いものだ。
そして、部屋は日光を浴びても大丈夫だが、今の俺に日光、いや光源は辛い。思わず布団の中に顔をうずめる。
「いきなり何するんだよ!」
布団の中に籠城しつつ抗議を飛ばす。
「何って……。カーテンを開けただけだけど」
「勘弁してくれ……二日酔いで辛いんだ」
「知ってる。お酒臭いし……」
「なら、もう少し寝かせて――」
その次に出てくるはずだった言葉は出なかった。彼女が勢いよく、俺が籠城をきめていた城を取っ払ったからだ。
急に視界が明るくなる。何だか頭痛が酷くなった気がした。
「起きて」
彼女は短くそう言う。
「なんでだよ!」
俺の疑問はもっともだろう。何といっても今日は土曜日で予定もない。どう時間を使おうとも俺の自由なはずである。
そんな楽園をいきなり追放されたのなら誰だってこういう反応になる。
「んっ!」
そんな俺に彼女は持っていたスマホの画面を見せる。見慣れたアプリ画面は某有名トークアプリであるチェインのトーク履歴。
トークの上部には俺の名前。どうやら俺と円香とのトーク画面のようだ。とりあえず最新のやり取りを見る。そこにはそんなやり取りがあった。
『明日の予定が急に無くなったから、買い物に付き合ってくれない? 明日、昼に家に行くから出れる準備しておいて。無理な場合は返事して、無理じゃないなら返信はいらないから』
そして、そんなメッセージの横には既読のマークがついていた。
――?
頭に?マークが浮かぶ。メッセージのやり取りがあった時刻を見ると、24時の数分前を指していた。
――あぁ、なんとなく読んだような読んでないような……。
その時刻はがっつりと飲んでいた。痛む頭で少し昨日のことを思い出してみる。そうするとそんなメッセージが来たような来てないような記憶があった。いや、来たんだろう。そして、トークを開いたのだろう。トーク履歴という証拠がしっかりとそれを物語っていた。
「あー、えー……」
すっかり記憶から抜け落ちていたと言いにくいため言い淀む。
「はぁ、どうせ酔ってて覚えてないんでしょ……。いいから早く起きて」
そんな俺に彼女はため息をつく。
「あー、その悪かった。全く覚えてなかった」
頭は痛むし、胃はムカつきがおさまっていないが、それを我慢して起き上がる。そして、思い出す。何だかこんなやり取りを過去に数回したことがある。
「悪かったけど、酔っているときに送ってくるお前にも少しは原因があるだろ。毎週金曜日の晩なんて基本的に飲んでること知ってるだろ」
勿論俺が全面的に悪いのだが、飲んでいると分かっている人間にそのようなメッセージを送るほうにも問題があると、少しばかり言い訳じみた視線を円香に飛ばしてみれば、
「約束を破っておいて、そのうえ言い訳? いいから、さっさとシャワー浴びてきて、酒臭い」
相も変わらずバッサリと斬って捨てられた。
「……あいよ」
起きてからずっとシンバルが鳴り響く頭を我慢して、シャワー室へと向かう。ノロノロと歩く俺の背中に、
「兄さんがシャワー浴びている間に昼食作っておくから……」
そんな声がかかった。
「あいよ、ありがとさん。楽しみにしてるわ」
俺は振り向かずにそういってそのまま、足を進めるのだった。
最後に一つだけ言っておこう。彼女の名前はここまで出てきた通り、円香。苗字は樋口。
俺との関係はただの妹と兄。
そんな彼女だが、何でも最近――
――アイドルなんてものを始めたらしい。
「えぇ、期待してて」
彼女のその言葉は、柔らかな春風に乗り、俺の耳に確かに届いた。
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第一話
西に落ちていく太陽によって赤くそまった帰路を歩く。昼でも夜でもない黄昏時、昔からこの時間が大好きだった。色のコントラストも、何処からか漂って黄昏時特有の昼とも夜とも言えない香りも、遊んでいる子供たちの楽しそうな声も全部好きだった。俺の中で一日の終わりを感じるのは夜ではなくこの時間だ。
大学やバイト先での昼間の俺と、家で過ごすプライベートの俺、その切り替えが行われるこの黄昏時こそが一日の終わりと言うにはふさわしい。
ビルとビルの間に沈む夕日は実に堂々としている。せこせこと働く俺たち人間のことを露にも止めず、春の夕日は山も人も街も、その全てを自分の色に染める。優しく、全てを包み込むように……。
もしも、この落ち行く夕日を、染まり行くビル群を、紅く変わる人々を、そして、満開の春の桜を、一枚のキャンパスに収めたのならきっと素晴らしい絵が出来るに違いない。何分絵は専門外だが、きっと名画と呼ばれるものはこんな日頃の何気ない風景から生まれるものと古今東西相場が決まっているのだ。
思わず絵を描きたくなる。非常に残念なことに俺に芸術的感覚やら絵画の才能なんてものはない。昔から絵を書いてみれば、本人も預かり知らぬところで、高名な画伯が塗抹したこの世のものとは思えないような絵に変化するし、美術の成績だって2より上を取ったことがない。
――しかし、それでもかまわない。
俺が書いた絵が例え夕日に染まる街だと分からなくても問題ない。ただ、俺が思うように筆を動かせればそれでいいのだ。この心づもりで筆を持てば、例え出来た作品が人になんと見られようとも、璆鏘の音は胸裏に起き、五彩の絢爛は自ずから心眼に映るのだ。
芸術関係は専門外なので分からないが、この素晴らしい黄昏時の世界を言葉に書き記したらどうなるだろうか。人に感動を与える自然は翻訳できる、とは某名作の登場人物の言葉だと記憶している。自然は翻訳するとすべて人間に化けてしまうそうだ。例えば崇高、例えば偉大、そして例えば雄壮。
なら、俺の眼前に見えるこの風景を翻訳すれば何という言葉が当てはまるだろうか。
雄大、荘厳、幽玄、崇高、飄然、絢爛……。
色々な形容詞が浮かんできては消えていく。そのどれもが当てはまる気がするし、そのどれもが当てはまらない気もする。少しの時間歩きながら色々と考えて、そして辞めた。
有史から人類が作り出してきた形容詞がどれほどの数になるのか無知な俺では分からない。しかし、その量は那由他にもあの大蔵経にもインドのラーマ―ヤナともその量を競うかも知れない。でも、この幽玄で荘厳で尚且つ雄大でも絢爛でも崇高でもあるこの風景を現すのは無理だ。無難なところに落とすことは出来る。でも、この風景を落とすのはもったいない。凄いものはただ凄いものと見れば絵にもなれば句にも読まれる。言葉に出来ないほどの素晴らしい光景ならば言葉にしなければいい。雄弁は銀、沈黙は金。そして沈黙は詩的だ。
そんなことを考えながら足を進めていた時だった。いつの間には我が家の前まで着いていた。今どき珍しい木造二階建てのアパート。壁には隠しきれていないヒビが這っているし、二階に続く階段はところどころでペンキは剥げて錆びついている。
そんなボロアパートだが、春の夕日で赤く紅く染まる姿は、絵になった。
――ん?
そんなアパートの二階の角部屋。我が愛しの我が家の電気がついていることに気はつく。こんなボロアパートに住んでいる時点で察してもらえると思うが、そこらにいる学生よろしく俺の財布事情はあまりよろしくない。バイトの関係上、普通の学生よりかお金に余裕はあると思うが、それでも都内で一人暮らしは厳しい。そんな我が家の財政上、家を出るときにはしっかり消灯したのを確認している。
――誰か、来てんのか……。
消した電気がついているとなれば考えられる可能性は、幽霊やらの超常現象でもない限り一つだ。
錆びかかった階段を一段上った俺の頭上を、赤く染まった桜の花びらが一枚、春風に乗って通り過ぎて行った。
「おかえり」
玄関の扉を開けると、予想通りの声がした。声と同時に漂ってくる食欲をそそる匂い。
「ただいま」
靴を脱ぎながら台所を見えれば、黒のエプロンをした円香が台所に立っていた。コンロにかけてある鍋と彼女の手にあるお玉を見るにどうやら何かを作っているようだ。
「夜飯作ってくれてんのか、ありがとな」
洗面所で手を洗い、彼女の元へ向かう。
「……別に。私が食べるついでに作ってるだけだから」
「そうか、そうか……。おっ、煮魚か」
コンロにかかっていた鍋を覗き込めば、煮汁のなかに魚の切り身が4切れほど沈んでいた。種類は恐らく鯛だろう。
「うん、今日新鮮な鯛が売ってたから」
コトコトと音を鳴らす鍋から灰汁を掬いながら彼女は言う。その手つきは淀みない。
――うまくなったもんだな。
その手際を見ながら思わず吐露する。数年前料理をお袋から料理を教わっていた時には見ているこっちが冷や冷やしたものだったし、味付けも酷いものだった。今は昔、円香が作った甘味と酸味と苦みとが入り混じった野菜炒めを思いだす。
「何か手伝おうか?」
「それじゃあ、もうすぐ完成するから食器だして」
俺の申し出に彼女は煮汁を手にもつ味見皿に入れながらそう答える。
「あいよ」
キッチンの流しの上にそなえ付けてある食器棚から茶碗を二つ取り出す。なんやかんやでが少なくない人数がやってくることもあるため、我が家の食器は一人暮らしにしてはかなり多い。そこらの一般家庭に並に食器があるのが我が家だったりする。
茶碗を炊飯器の横におき、次は大皿を取り出そうとした時だった。
「ん」
俺の前の前に味見皿が突き出された。どうやら、味見をしろとのことらしい。
煮汁の入った皿を受け取り、一口飲んで彼女に返す。
――あぁ、美味い。
少しだけ味の濃いその煮汁は俺の好きな味付けだった。俺の好みを知っている彼女がいつも通り濃い目に味をつけたのだろう。
「どう?」
彼女の問いかけに、
「美味かったよ」
そう返す。
「そう、よかった」
俺から味見皿を受け取った彼女は、再び皿に煮汁を掬い口に運ぶ。一口運んだあと、「うん、ばっちり」と小さく呟いた。
「はい、これ」
「ありがとう」
円香に煮魚ようの大皿を渡し、台拭きの準備をする。
「ねぇ、兄さん」
年季の入った机を拭いている最中、背中から声が掛かった。
「どうした?」
振り向かずに手も止めず返事をする。
「……人の前に立つときって」
彼女はそこまで言って言葉を止めた。
――あぁ、そうかアイドルだもんな。
彼女が言わんとしたいこと、聞きたいと思っていることは分かる。しかし、聞かれるまでは応えない。なぜならこれは彼女の問題だから、彼女の悩みだから。
「ううん、何でもない気にしないで」
結局彼女はその先を言わなかった。
――もう高校生だもんな。
俺の袖を掴み体に隠れていた円香はもういない。自分で困難に挑み、悩みを解決しようとする一人の少女がいるだけだ。
何だか妹の成長をみれたようで嬉しくなる。彼女にはこのまま真っすぐ、素直に成長していってほしい。
「そっか」
彼女が何も聞かないのであれば、答えることは出来ない。それにそもそも俺はアイドルではない。しかしながら人の前に立ったことのある者として、アドバイスは出来る。基本的な心構えを伝えることは出来る。
なに、可愛い妹に一つアドバイスをするだけだ。
「なぁ、円香。――お客様は神様だ」
――お客様は神様だ。
今は昔、あの人に弟子入りした際に言われた言葉を伝える。
勿論、ここでいうお客様は神様はだと言う言葉は、客を神だと思い横暴や無茶苦茶を許すと言うことではない。
神様の前で芸をするのだから、清い心で精一杯の芸をしろということだ。
「何それ?」
「俺が大切にしていることだよ。神の前で芸をするのだから、出来る限りの準備をして、最高の芸を、清い心で行う、ただそれだけさ」
「…………」
その言葉に対する返事はついになかった。
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第二話
少しばかり、昔のことを思い出してみる。あの人と初めて出会った時のことを。
大きな夕日が西へ沈む黄昏時、西日によって赤く染まった商店街の外れ。今どき見ることのないシルクハットに燕尾服。印象的な柔和な笑顔を浮かべながら彼は優しく微笑んだ。
――私が誰かって?
――私はエンターテイナーだよ。うーん、エンターテイナーって言っても分からないかな?
まだ下の毛も生えそろっていない俺のたどたどしい質問の数々に彼は一つ一つ丁寧に答えてくれた。
――何が出来るのって?
彼と何の会話をしたのか今ではその殆どを思い出すことが出来ない。しかし、あの質問の答えだけは明確に思い出せる。
『エンターテイナーって何ができるの?』
そんな馬鹿な質問をした俺に、彼は
――――キミを笑顔にできる。
夕日によって赤く染まった彼の柔和なその時の笑顔を俺は、一生忘れないだろう。
ある春の黄昏時、近所の寂れた商店街の一角にて、俺は、彼と出会ったのだった。もう、十年近く前の話だ。この出会いがよかったのか悪かったのか今では分からない。分からないが一つだけ確かなことは、あの人との出会いは俺の人生を大きく変えた。これだけは間違いようのない事実だ。
大学からの帰り道、いつものようにポケットに入っているトランプとスーパーボールを右手と左手のそれぞれで触りながらボンヤリと歩いていた時だった。
急に後ろから服を引っ張られた。思わず立ち止まり、後ろを見る。
「やっほー、お兄さん」
そこには凄い美人がいた。透明感のある陶器のような白い肌に、大きな藍緑色の瞳。円香よりも少しだけ長い髪は、毛先が黄昏時の海を思い浮かばせるような青とも藍とも言えない色をしていた。
彼女とはかれこれもう短くない付き合いだが、その俺の贔屓目を抜きにしても彼女の顔はとても整っていた。恐らく街角でアンケートをしてみると100人中99人が彼女顔に美を見出すだろう。冗談を抜きにしてそう思わせるほどの物が彼女にはあった。
「なんだ、透か」
彼女の名前は浅倉 透。4人いる円香の幼馴染の一人であり、円香よりも少し早くアイドルになった少女だ。
「なんだって……酷いなぁ」
いつも通りゆっくりと、だがハッキリとした声で彼女は言う。その容姿も相まって、彼女はどこか透明感を感じさせる。
――透明感。
そう、浅倉透のことを他人に説明するとすれば、その三文字をもって事足りる。強烈な、見た目とは裏腹に彼女は常に目を話すと何処かに消えてしまいそうであり、言動も行動も彼女の行動原理は誰にも分らない。
カリスマと透明感、その二つの相反する言葉が交じり合った存在が浅倉透という少女だった。
「別に酷くもなんでもないだろ」
「んー、なんだか、私の扱いが雑な気がする」
俺の態度に不満があるのっか、彼女は少しだけ形のいい眉を顰めてそう言った。何気ない動作だが、そんな動作でも彼女が行うと絵になる。それを見る度にやはり美人は得だと思う訳だ。俺も是非とも来世というものがあるのならば、美人に生まれたいものだ。
妹である円香も顔は整っているのに、何故か俺の顔はどう自分で盛ってみても中の下か中の中が精一杯。顔がかっこいいだの、イケメンだの言われたことはこれまでの人生で数回しかない。その数回もきっとお世辞だろう。
「別にそうでもないけどな」
よく知らない相手なら気を使うが、こいつの家は俺の実家の横であり、親同士も仲がいい。昔からしょっちゅう家に遊びに来ていたし、その時に面倒を見ていたこともある。俺からすればこいつは第二の妹のような存在だ。そんな奴に気を俺は持ち合わせていない。
「で、どうしたんだ今日は? 仕事終わりか?」
「ん、そんなところ。レッスン終わり」
「ふーん、そうか」
「あ、そう言えば」
そんなどうでもいい会話をしていた時だった。透が急に何かを思いついたかのように声を出した。その声に一瞬だけ身構える。昔からこいつがこんな声を出すときは禄でもないことを言い出す合図だ。
「そういえば、何か見せてよ」
ほれみろ言わんこっちゃない。
「何かって何だよ」
「うーん、ほらいつもやっているヤツ?」
そういって彼女は小首を傾げた。傾げたいのは俺のほうだ。
「でも、出来んでしょ。お兄さんは魔法使えるんでしょ」
――魔法。
今は昔、まだ幼さの残る円香と透に拙い芸を披露したことを思い出す。
「勿論、俺は魔法使いだ」
そういって少し口端を上げる。
あの時と今では歳もう技術も大きく違う。しかし、根本的な心の持ちようは何も変わっていない。
――俺はエンターテイナー。誰かが望むのなら、魔法使いでも、ピエロでも大道芸人にでも何にでもなる。
にやりと笑ってから右手で弄んでいたスーパーボールを取り出す。
緑色のボールを親指と人差し指つまみ、透に見せる。
「ミドリ」
透がそう呟いたのを確認した瞬間、左手で一瞬ボールと透との視線を遮る。左手と右手が交差する一瞬でスーパーボールをすり替える。
「アカ」
またもや透がそう言った瞬間に同じように左手でボールと透との視界を遮る。今度はボールを右手の袖に落とす。
「消えた」
透の視線が右手に集中しているその隙に左手でポケットに入っている飴玉を取り出し、見えないように握りこむ。
そして、最後にもう一度左手で右手と透の視界を遮る刹那左手に握りこんでいた飴玉を右手に移し変えてやる。
「あ、飴」
きっと彼女の視界ではミドリのボールがアカに変わりそして、最後に飴玉に変化したように見えたはずだ。
「ほら、やるよ」
「いいの?」
「勿論。なぜなら俺は魔法を使えるからな、飴玉くらい簡単に出せる」
握っていった左手の甲をも右手の人差し指で数回叩き、開いて見せる。そこには透の視線が右手の飴に集中した瞬間に仕込んだ飴玉があった。
「うふふ、ありがとう」
そういって彼女は笑い、飴を袋から出して口に入れた。
「んで、なんで所にいるんだ? 買い物か?」
「うーん、いやお兄さんの家に行く途中」
円香には透を含めて三人の幼馴染がいる。勿論俺も全員と顔見知りだ。そんな彼女たちは何故か時々俺の家に来ることがあった。ちなみに全員がアイドルであり、同じユニットでもある。
まぁ俺とすれば見られて困るものも特にないし、全員妹のような存在だ。来るなら勝手にしろというスタンスなのだが、結構好き勝手にやっているこいつ等を見てると俺の家を一体なんだと思っているのか疑問に感じることがある。きっと、体のいいたまり場と勘違いしているに違いない。
「お前たちは俺の家を何だと思ってんだ……」
「うーん……秘密基地みたいなぁ?」
「はぁ」
予想通りの回答に思わずため息がもれてしまった。
「あ、そういえばお土産もあるよ。はいこれ、今川焼。お母さんから」
頭を抱えたくなっている俺をよそ目に透は手に持っていたビニールを俺に差し出してきた。
「あ、悪い、ありがとう。おばさんにもお礼言っておいてくれ」
「分かった」
「とりあえず、俺の家に来るなら向かうか」
目的地が同じならここで立ち話をするだけ無駄だと透と共に俺の家へと足を進めることにする。
「あ、そういえば今日は誰がくるんだ?」
横を歩く透に聞いてみる。円香の幼馴染三人の中は一人をのぞき基本的に自由人だ。特に透に限って言えば勝手に円香から俺の部屋の合鍵を借りて部屋に居座っていることもある。
「んー、樋口が後からくるだけ、かな」
「なんだよ、小糸ちゃん来ないのか……」
彼女からの返事にあからさまに肩を落とす。
――福丸 小糸。
円香の幼馴染のうちの一人。小柄な体格に、同顔が特徴的な彼女は制服を着てなければとても高校生には見えない少女だ。
「お兄さんって明らかに小糸ちゃんのこと好きだよね」
「まぁな。実際可愛いし」
円香はともかくして、透ともう一人は俺に対して遠慮のえの字もないような人間だ。俺がいなくても勝手に部屋にあがっているし、好き勝手部屋のものを使う。まぁべつに気を遣う間柄ではないと言えばないのだが、親しき中にも礼儀ありという言葉彼女たちの辞書にはないようだ。
その点、小糸ちゃんは礼儀がしっかりしている。さすが優等生だ。俺に対しても敬語だし、何より気を使ってくれる。
その可愛らしい容姿に、常識ある態度。可愛がるの仕方がない。
「お兄さんって……ロリコン?」
「違うわ!?」
とんでもないことを言いだす透に突っ込みを入れる。
俺が好きな女性のタイプは包容力のある年上のお姉さんだ。少なくとも年下は全員恋愛対象外である。
「ふーん……そっか」
含みのある視線を向ける透を無視して話を変える。
「そういえばお前この間も俺の家に忘れ物していっただろ。タオルおきっぱなしだったぞ」
しっかりしているように見える透だが、その実中身は実際には正反対だ。俺の家に来てはしょっちゅう物を忘れて帰る。ハンカチ、タオルから始まり、酷い時だと財布や携帯すらも忘れて帰る。タオルやハンカチならまだ分からんことはないが、携帯や財布なんて家にたどり着く前に気づきそうなものだが、彼女はそのまま次の日まで気づかないこともある。
「あー、いつの間にかないと思ってたけど、お兄さんの家だったかぁ」
「いつものボックスにおいてあるから持って帰れよ」
忘れ物があまりに多いため我が家には彼女を忘れ物を保管するボックスがいつの間にか出来てしまった。その名も人呼んで浅倉ボックス。
「あー、うん。ありがとう」
「今日は何もおいて帰るなよ」
無駄だと思いつつも、透に一言注意する。
「あー、うん、分かった」
そんな俺に小言を透は分かったのか分かっていないのか、よく分からない気の抜けた返事を返すのだった。
今日も今日とて世界は平和である。
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第三話
俺はその人を常にキーウィと呼んでいた。これは別に彼のことが嫌いだからだとか、心理的に
距離を取りたいからだとかそういうわけではない。ただ単純に俺が彼の本名を知らなったことと、彼が師匠と呼ばれることを嫌ったからだ。
彼曰く、『人を喜ばせたい。その心があるのならもうすでに立派なエンターテイナー。技の巧拙や、パフォーマンスの差異はあれど、そこに立場の上下はないよ。だから弟子入りとかそんなものはないんだ』、そういうことらしい。
勿論彼の名前はキーウィではない。キーウィとは彼の芸名だ。彼は芸をする時、必ずキーウィと名乗っていた。
結局のところ、彼がこの街に留まっていたのは三か月程度だった。ある程度芸も教わったが、それも触りだけとか、簡単なものばかりで本格的なものを教わったことはなかった。
三か月、たかが三か月、されど三か月。三か月が短いかそれとも長いかそれは人によるだろう。俺の中でその三か月はとても短く、しかし凝縮された思い出の詰まった三か月だった。
100日にも満たないその期間で俺は彼から一番重要なことを教わった。
『お客様は神様だ。芸をするとき目の前に神がいると思って芸をする。清い心で、指先一つ、動きの一つに気を遣う。芸の練習をするときも神様に見せることを意識して行うんだ。そうすればそこに――神が宿る』
だからだろうか、俺は彼の芸に――
――――神をみた。
「ほら、小糸ちゃん! 飴だよ、飴!」
握りこぶしを開き、あらかじめ仕込んでおいた飴玉を差し出す。きっと、目の前の少女には何も握らていなかった手を握って開いたら飴玉が現れたように見えただろう。簡単な手品だが見栄えの良さとインパクトは強さから気に入っていた。
「あ、ありがとうございます」
そういって少女は頭を下げる。彼女の名前は福丸 小糸。円香の幼馴染の一人で共にアイドルをやっている少女だ。150cmにも満たない小柄、少し癖のある黒髪のツインテール、幼い顔立ち。その三点が相まって高校生には見えないが、歳は円香の一つ下の高校一年生だ。性格は真面目で、礼儀正しい。俺のような勉強が出来ない人間と違い、高校では新入生総代を努めことからも彼女の真面目さが分かるだろう。
「いいよ、いいよ。どんどんな食べな。あ、そうだクッキーも出して上げよう」
先ほどの手品の応用で今度はクッキーを取り出す。円香からあらかじめ連絡があったため仕込みは万全だ。
「うわー! ありがとうございます!」
「いいよ、いいよ! 次は何を出してほしい? チョコレート? ラムネ? それともグミとか?」
「ねー、おにーさん、雛菜もお菓子食べたーい。出してー」
小糸ちゃんと話している俺に横から声がかかった。少し間延びした特徴のある声の主は市川 雛菜。円香の幼馴染の一人であり、共にアイドルをしている少女である。歳は円香の一つしたの高校一年生。小糸ちゃんと同い年だ。歳は小糸ちゃんと同い年だが、背格好は大きく違う。身長は小糸ちゃんと比べると頭一つ分高く、円香や透を含めても一番高身長だ。体つきも一番発育がよく大学や社会人に間違えられることもあるとか何とか。
「いつもの棚にあるから、勝手にとって食え」
ちなみに性格の方も小糸ちゃんと180度違い。透と傍若無人コンビを結成している。
「えー、それつまんなーい!」
「分かった分かった。はい、飴だ。これで満足か?」
文句を言う雛菜に飴を一つ取り出して差し出す。
「むー、つまらなーい!」
「雛菜、ちょっと声を落とせ! 苦情がきたらどうする」
基本的に雛菜の声は大きい。いや、元気がいいのは何よりなのだが、我が家は何といっても木造のボロアパート。防音性のは心もとない。今まで騒いでもクレームがきたことはないが、今日も来ない保証はどこにもない。
「ほら透のように静かに……」
そういって透の方に視線を向ければ、
「…………」
もくもくとクッキーを頬張っている透がいた。見慣れたパッケージのそれは俺がいつもお菓子を収納している棚にあった、それ。どうやら彼女が知らぬ間にクッキーを取り出していたようだ。
「? 美味しいよ、クッキー」
もくもくとクッキーを頬張っていた透と目が合う。
ちなみにいつもの定位置で円香が携帯をいじっているため、この六畳の部屋には5人の人間がいると言うわけだ。中々な人口密集度である。
「それはよかった。でも、せめて食べる前に許可取って欲しかったな」
「あー、クッキー食べてるよ」
「お、おう。次からそれを食べる前に頼むな」
「あー、分かった」
ポリポリとクッキーを食べている透は俺の言葉の意味を理解したのだろうか、いやしてないだろうな。
「透せんぱーい! そのクッキー一枚くださーい!」
そういって体を透の方に向けた雛菜に、
「うん、いいよ。クッキー、一緒に食べよう」
透はクッキーを差し出す。
「あはー、ありがとー」
いや、確かに雛菜にクッキーを渡したのは透だが、もともとそのクッキーは俺のものであり、俺にもお礼なりなんなり言うべきだと思うのだが、雛菜にそれを言ったところで暖簾に腕押しのような気がするので黙っておくことにする。
――まぁいいや。アイツらは食べてるときは基本的に無害だし。
傍若無人コンビをほっておいて小糸ちゃんに対して今度はペンを花に変えるマジックを披露しようとした時だった。
「透せんぱーい、おにーさんって、小糸ちゃんにだけ優しくなーい?」
「あー、あれだよ、雛菜。お兄さんは、ロリコンだから」
飛んでもない爆弾が俺の預かり知らないところから放り込まれた。
「ちょっと、まて透! 今、なんて言った!?」
「え、お兄さんがロリコンだって」
「誰がロリコンだ!?」
知っての通り俺はロリコンではない。俺の好みは年上の包容力あるお姉さんであり、ロリコンとは事実無根だ。
「えー、お兄さん」
「あはー、やっぱりー。おにーさん、ロリコンだったんだー」
「ちげぇーよっ!」
いつもの傍若無人コンビに訂正という名の突っ込みを入れる。こいつらはあることないことスグに言うから注意が必要だ。そして、なまじカリスマ性と影響力があるのもたちが悪い。そのままほっておくと実家の周りとんでもない噂が流れそうなのでしっかりと否定しておく。
「ぴ、ぴぇ……」
ほれみろ言わんこっちゃない。アイツらが騒ぎ立てるせいで小糸ちゃんが少し引いてしまったじゃないか。透や雛菜に何と思われようともダメージはないが、小糸ちゃんのようなタイプに距離を置かれるのは少しばかり心に響く。
小糸ちゃんは純粋なのだ。馬鹿二人の戯言をそのまま受け取ってしまう。だが、そこがいい。是非とも透や雛菜に染まらず純粋なまのキミでいてくれ。小糸ちゃんは俺の癒しである。
「小糸ちゃん、大丈夫だから。あの馬鹿二人が適当なこと言っているだけだから心配しないで。おい、お前ら適当なこと言うんじゃねぇぞ!」
「だって、ほら……。私や雛菜に対する態度と小糸ちゃんに対する態度が明らかに違うし」
そんな透の言葉に、
「あはー、確かにー」
雛菜が頷きながら同意の意志を示す。
「それはお前たちに可愛げがないからだよ! ちっとは小糸ちゃん見習え!」
「じゃあ私に可愛げがあれば、優しくしてくれの?」
クッキーを食べる手を止めて、透は俺を見る。アクアマリンの透き通った瞳が俺を射貫く。
「あ、小糸ちゃんみたいに手のかからない子になったら考えてやる。そして、俺は元々優しい」
「ふーん、そうなんだ……」
結俺と透と雛菜の特に意味のない馬鹿話は円香に「うるさい」と斬って捨てられるまで続いた。
――ってかアイツら結局なにしにきたんだ?
結局、散々騒いだ挙句飯まで食って帰って行った円香たち一行。アイツらは一体俺の家に何をしに来たのか、俺の疑問に答えてくれる人はついにいなかった。
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第四話
――…………。
人々が生み出す雑踏を聞きながら、首から下げている小瓶を握りそして、そっと目を閉じる。
真っ暗な暗闇な中、聞こえるのは大勢の人の談笑と動き回る足音。雑音を聞きながら、大きく息を吸い込み、吐き出す。そして、それを三回繰り返した。
――…………。
いつものように浮かんでくる様々な雑念を消すために、頭の中のノイズを一つ、また一つ消していく。普段なら雑念だらけでいい。煩悩だらけでいい。堕落だって大歓迎だ。
しかし、この時ばかりはそうはいかない。普段の堕落した俺を、煩悩まみれの俺を消し去らなければいけない。なにせ、これから俺は神の御前に立つのだ。持つべきなのは俗世を憂う心ではなく、美しいものをただ美しいと思える純粋さのみ。
――…………。
また一つ、息を吸い、吐き出す。ゆっくりと、ゆっくりと。また一つ、そして一つ。ノイズを消していく。
――…………。
そして、全ての準備が終わった時だった。合図が出た。
――さぁ、行こう。
待機していた目の前の扉を開ける。真っ白の扉は何の抵抗もなく俺を歓迎した。
扉の向こうは荘厳な世界だった。天井から吊るれた数々のシャンデリアに、赤いカーペット。純白のテーブルクロスを敷いた丸テーブルが均等な感覚に置かれ数々の料理が並べてあった。
部屋の中にいた人々は、煌びやか衣装に身を包み、料理と酒に舌鼓を打つ。まるで絵本の立食パーティーのような光景がそこにはあった。ゆっくりとステージへと足を進める。談笑をしている人々はまるでこちらに気づかない。
壇上に上がるとそこには一人の恰幅の良い男性がいた。今回のクライアント、とある大企業の社長、それが彼の肩書。
彼がホテルのスタッフからマイクを受けており、何かを指示する。すると、いきなり部屋中のシャンデリアの明かりが一斉に消え、そしてスポットライトが彼を照らした。
雑音が刹那に消える。
「あー、皆様。この度はわが社の創業記念パーティーに来てくださり、ありがとうございます。改めて御礼申し上げます。さて、料理やお酒はある程度楽しめましたでしょうか? 皆様のお口に合えば幸いです。まだまだパーティーは続きますが、ここで一つ催し物を……。皆様が楽しめましたら幸いです」
彼が言い終わると、彼を照らしていたスポットライトが消えた。
そして、刹那、スポットライトが今度は俺を照らす。
――…………。
最後に一つ息をして、静寂を裂くように口を開く。
「この度はこのような場所に呼んでいただき、誠にありがとうございます」
――ゆっくりと、しかしはっきりと言葉を紡ぐ。
「私は『白鴉』と申します。ご存じの方はまたお会いできて光栄です。お初にお目にかかる方は名前だけでも覚えていって下されば幸いです。拙い芸ではありますが、皆様に楽しんでいただければ何よりの馳走です」
シルクハットを取り、深く一礼。
顔を上げ、シルクハットを右斜め前の地面に上を向けておく。単純な動作が指先一つに集中する。いつものルーティンだ。
――…………。
ここはもう既に神の御前。一瞬たりとも気を抜けない。
音楽が始まる。手始めに音楽に合わせて腕を振り、そして挨拶代わりに鳩を出す。
『芸をするときは神の眼前にいると思え』
――ゆえに俺は芸をするときに神をみる。
缶ビールを開けて中身を一気に半分ほど飲み干す。冷えた炭酸が喉を通り、食道を抜け胃に落ちていく。まさにこの世の中で至高の時間だ。
――くぅうううう。やっぱビールだよな、ビール!
「やっぱ最高に美味いなー。ビールは!」
有史以来人間がいくつ物を発明して来たのか俺は知らない。その数は那由他にもあの大蔵経にもインドのラーマ―ヤナともその量を競うかも知れない。そんな数多くの発明、発見の中でもビールの発見は5本の指にはいると確信している。あれほど完成された飲みものは他にはない。
ビールと日本酒とラム酒とウイスキーは人類の発明したもので十本の指に入ると信望して、信仰している。古代ギリシアの芸術は端粛を理想としたそうだ。芸術の理想が端粛なら、飲み物の理想はビールだろう。
今は昔、中世の欧州では錬金術という学問が流行ったそうだ。錬金術とは文字通り、金を作り出すという学問だ。結果の方はすでご存知の通り失敗に終わっている。まぁ、鉄くずから黄金を作り出すことは無理だったのだが、この世には黄金に負けずの価値があるビールという飲み物がある。
ビールの色は黄金であり、金もまた黄金色である。黄金もビールも人を狂わせる。
こう考えてみれば黄金もビールも変わりない物に感じる。程よく求めるなら人生を豊かにするが、求めすぎると身を滅ぼす。お互いに身を滅ぼすのならまだ気持ちのよくなれるビールの方がいいのではないだろうかと俺は思う訳だ。しかも金は食えないから腹は膨れんが、ビールを飲むと腹が膨れる。その点においても黄金よりビールの方が優れていると言えるだろう。
かのルイスキャロルが書いた不思議の国のアリスでは、主人公のアリスが瓶に入った液体を飲み、『少し飲んで、その味がサクランボ入りのパイとプリンとパイナップルと七面鳥の焼き肉とタッフィーとトーストを混ぜた様な味。素晴らしい味。』と称しているが、まさしくアリスが飲んだ液体が俺にとってはそのままビールになるという訳だ。きっとアリスもそのまま成長したらビールが世界で一番美味い飲み物だと分かってくれるはずだ。はい、そこただのアル中とか言わない。そんなことは俺が一番分かっている。
「はぁ……まったく」
ビールを飲み至極上機嫌の俺にため息と、絶対零度に似た冷たい視線が突き刺さる。いつもの席、何時もの座布団に陣取る我が妹の円香だ。
「なんだ? 円香もビール欲しいのか……? 他の誰かならともかく、可愛い妹の頼みとあれば断れないな。冷蔵庫の一番上にストックがあるから好きに飲め」
「何馬鹿なこといってるの。私はただ飽きれているの」
はぁ……、とまた深くため息をついてた後、
「まったく、今何時だと思っているの?」
そう頭を抱えながら言った後、円香はベランダへと続くガラス窓を見る。
俺もついでに窓を見てみれば、そこは澄み渡った青空が見えた。本日は青いキャンパスを遮る障害物は少ないようで、雲は申し訳ない程度に隅のほうにまばらに見えるだけだ。本日は晴天なり。
「何時って? そりゃ、14時だけど……」
円香の問になんにもないようにそう返答する。
そしてまたビールを一飲み。
――あぁ、やっぱりビールは美味い。
「……ちょっとだらしなすぎ。土曜日の昼から酒を飲むって何か思わない?」
そういわれて少しばかり考える。
今日は土曜日。仕事も大学もない休日。そして今は昼下がり、空を文句なしの快晴。そして、俺はそんな中自室で缶ビールを飲んでいる。
――……。
「最高だな」
出た結論はそれだった。休みの日に昼間から飲むビールは、ただえさえ美味いビールの中でもトップ3に入るくらい美味い。普段では味わえない背徳感も合わさって最高と言ってもいいだろう。それくらいには美味い。
そんな天上天下の飲みものが片手にあるのだ。
これを最高とは言わずして何という?
それ以上の言葉を俺は知らない。知っていたら是非とも教えていただきたいものだ。
「はぁ……全く何時からそんなダメ人間になったのやら」
またしても深いため息を吐かれてしまった。ため息を吐くと不幸になる。その言葉が本当だったら、彼女はこの数分でどれだけ不幸になったのやら、口を開けば可愛くないことをいう彼女だが、黙っていれば身内の贔屓目を抜きにしても美少女だ。何せ、アイドルをやっているくらいだし、それは正しいだろう。そんな美少女を不幸にするやつにはそれ相応の罰がそのうち当たるだろうな。まぁ、俺なんだけど。
「ずっと前からこんなんだけど、俺」
「はぁ……そう言えばそうだった。兄さんとは兄妹だってことバレないように注意しないと」
「それに関しては問題ないだろ。未だに中学の同級生や、教師でさえ首を捻っているのに」
言うまでもないかもしれないが、俺はこのような自由奔放な問題児だが、その実円香は学校では大人しく手のかからない模範生に近い。そして、俺よりも遥かに顔がいい。中学からの同級生はしばらくは俺と円香が兄妹だってことを信じてくれなかった。それくらいには似ていない兄妹が俺たちだった。
「…………そうだったわね」
円香はそういうと立ちあがり台所の方へと足を進めた。どうやら、コーヒーでも煎れにいくらしい。数分後、マイカップを片手に円香が帰ってきた。
「そういえばこの間透が言ってたけど、レッスン大変だとか……」
「別に……」
円香はそっけなくそう言うと本棚にあったファッション誌を取り出し読み始める。その態度で察することが出来た。何せ俺は円香が生まれてからずっと兄をやっているんだ。少しの行動や表情の変化で彼女のことはある程度わかる。
「そうか、そうか……」
「何?」
俺の微笑みに彼女は不吉な物を見たかのような視線を投げる。我が妹ながら鋭い視線だ。
「いや、何もないよ」
「なら黙っておいて」
ファッション誌に再び目を通す円香はどうやらこれ以上俺と話す気はないようだ。
だから俺も本棚から適当にさての充てになるような本を適当に取り出して言う。
「アイドル頑張れよ」
適当に取り出した本の表紙には『トリストラム・シャンディ』の文字。
――おっとこれはラッキーだな。
これ以上に暇つぶしに読める本はない。適当なページを開き読み進める。
「……………」
この日ついに俺の最後の言葉に対する返答はなかった。
しかし、これでいいのである。返事はなくとも俺は彼女が行動によってそれを証明する少女だと知っている。
こうして、ある晴れた昼下がりは過ぎていった。
彼女たちの活躍はもう少し先になりそうである。
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第五話
恥の多い生涯を送って来ましたとは、知っての通りかの太宰治の第一手記の冒頭だ。これと同じように今までの俺の人生を振り返って見ると、俺という人間はまぁ禄でもない人間だということにすぐに結論がつくことになる。
人間失格の主人公が恥の多い人生なら、俺の場合は禄でもない人生を送って来ましたと言ってもいいのかもしれない。
昼からビールを飲むことを至高の喜びとし、学生の本分である勉学の方も大学にろくに行かず、さらにかくなる上は、ことあるごとに二日酔いになり妹から苦言を呈されているような人間だ。こんな適当な人間がまともな人間であるはずがない。
そんな適当な人間性ゆえに俺は決まった予定を組むことがほとんどない。しかし、勿論物事には例外と言うものが存在する。
偶数月の第二週の土曜日13時。その日だけは予定という言葉が嫌いな俺が例外的に入れている予定だ。
毎年、手帳を買ったらまずその日程だけ丸を付ける。そのくらい大切な予定だ。
――その予定を入れるようになって早3年。俺は一度もその予定を破ったことはない。
シルクハットをいつもの定位置に置き、息を大きく吸って吐き出すと同時に両手を動かしながらハキハキとした口の動きで声を出す。
「はい、皆! こんにちは! 白鴉だ」
4月の第2週の土曜日。時間は13時ジャスト。目の前には十数人の子供たち。
「あー鳩のおにいちゃん!」
一人の少女が待ってましたと言わんばかりに声を出した。
「鳩のお兄ちゃん! 待ってたよ!」
少女に続き少年が声を出す。
その二人に釣られるようにして部屋の中にいた子供たちが騒ぎ出す。「鳩のお兄ちゃん! 今日は何するの?」「ねぇねぇシロだしてよ、お兄ちゃん!」「ねぇ鳩のおっちゃん、飴だしてよ」など、部屋の中央俺の真向いに座る一人を除き子供たちは言いたい放題喋っている。
それはそうだ。ここで芸をするのはこれが初めてではない。一人を除き全員が最低一度は俺の芸を見ている。その一人こそが先ほど反応していなかった少女だ。
「おいおい誰が、鳩のお兄ちゃんだ? 言ってるだろ。俺は白鴉。言うんだったら鴉の兄ちゃんにしてくれ。そして、颯太、おっちゃんと言ったことちゃんと聞こえてるからな!」
両手を動かし、口を大げさに開けながら言葉を発する。口調は砕けた口調で、笑顔を絶やさずに。なぜなら俺はエンターテイナー。客が望むならどんな口調にでもなる。子供たちが親しみを持てるのなら喜んでそのキャラクターを演じよう。
「えーでも、鳩だすじゃん」
「シロだしてよ、シロ!」
「だって鴉というよりかは鳩の方が印象強いし」
俺の言葉に子供たちは次つぎと返す。ちなみ先ほどから出ているシロというのは俺のペット兼相棒の鳩のことだ。文字通り体が白かったためシロと名づけられた鳩だ。雛の時からずっと俺が育ててきた俺の大切な大切なパートナー。
「残念だけど今日シロはお留守番だ」
俺の言葉に部屋の中にいた殆どの子供たちがブーイングをする。
「えー、シロ今日は来てないの?」
「シロがいないとハトのお兄ちゃんでもないじゃん」
「ハトのお兄ちゃんじゃなくなると何になるの?」
「うーん、ただの冴えないオジサンじゃないの?」
ワーワーキャーキャー好き勝手騒ぐ子供たちに笑みを浮かべながら手を動かす。
「そりゃなんて言っても屋内でシロは出せないよ。次は屋上で開催する予定だからそれまで待ってろ。それに俺はハトじゃなくてカラスだから、シロがいろうがいまいがカラスだ。そして、健太、冴えないは余計だし、俺はオジサンじゃなくてお兄さんだ!」
バカでかいホールや専用の部屋ならともかくここはただの談話室。それにこの建物内では衛生面も考えるとハトなんてとてもじゃないが持ち込めない。屋上で行う時ですら例外中の例外で、特別な許可を貰っている状態だ。
「「「はーい」」」
俺の言葉に納得したのか子供たちは元気よく返事をする。ただ一人今日が初参加の少女だけはあたりをキョロキョロと見渡して不安げな顔をしている。
「さて、シロは出せないけど」
そこで言葉を区切ると、シーツをかけて簡易作業台にしていた机の下から真っ黒な布とスティックを取り出す。そしてそのまま机の隅、いつもの定位置に置いてあるシルクハットに布を被せるとその上からスティックで三度シルクハットのツバ付近を叩いて見せる。
「シロは今日はこれなかったけど、ほら!」
そう言うのと同時にマントを取る。
「あ、シロの人形!」
「可愛い!」
何人かの子供たちが気づいて声を上げる。布を被せるついでにシルクハットに仕込んで置いた真っ白なハトのデフォルメされた人形に気づいたからだ。
俺はそのハトの人形を取り出すと、ゆっくりと客席に足を進める。そして、ある少女の目の前に立つとその少女に人形を差し出して言う。
「私の名前は白鴉。そして、この子は今日ここにはこれなかったけど相棒のシロ。この人形みたい白くて可愛いハトなんだ。ねぇ、君のお名前は?」
ゆっくりとハキハキした口調で、そして言葉に合わせて手を動かすのも忘れない。人形を受け取った少女は人形と俺とを交互に見た後、おずおずと手を動かした。
彼女の口は動いていなかった。しかし、俺には彼女の言葉は確かに聞こえた。
『私の、名前は、ユキです』
そう彼女は手話で会話をしていた。彼女は生まれつき耳が聞こえないそうだ。
「ユキちゃんか、良いお名前だね」
俺はそのユキちゃんに手話で返す。今日のこれまでの会話も全て出来る限り手話も使って行っていた。
何故なら俺はエンターテイナー。目の前の人が笑ってくれるなら手話であろうが点字であろうが使覚えてみせる。
『うん、ありがとう』
俺の言葉にユキちゃん、小さな手を動かしてそう返してくれた。
それに、手話を使いながら芸をするのは今日が初めてではない。ここで芸をするようになって早3年。日常会話で使う程度の手話はもうすっかり覚えてしまった。
「さて、皆聞いたと思うけど、彼女はユキちゃんだ。新しいお友達だ。仲良くするように! そして新しい仲間に拍手!」
俺の言葉に部屋にいた子供たちは元気よく返事をすると一斉に拍手を始めた。パチパチとなる拍手の音は彼女には聞こえないが、何か行われているのか分かったのか、照れた笑顔で小さく周りの子供たちに手を振っていた。
どうやら数人の手話の出来る子供たちが彼女に手話での会話を試みているようでユキちゃんは驚きながらも嬉しそうに手を動かしている。
――よかった。馴染めそうで……。
芸をするためにテーブルに戻る傍らで考える。
――しかし、それは本当にいいのだろうか?
再び子供たちを見渡す。談話室にいる数十人の子供たち。しかし、その様子は普通の子供とは少し違う恰好をしている子供が多かった。車いすに乗っている少年。点滴台をその傍らに置いている少女。サングラスをした少年に、足をギブスで固定さている少女。
そうここは都内でも有数な規模の病院。そして、ここにいる子供たちはここで入院している子供たちだ。
――そんな子供と仲良くなって馴染むとなると、それは長期の入院を指すことに他ならない。そんなことを本当に望んでいいのだろうか?
そこまで出かかった疑問を頭を振るようにして全て空にする。
――駄目だ、駄目だ。
ここは既に舞台の上。神の御前に立っているのだ。やるべきことは悩むことでない。ただ渾身の芸を清い心で行うしか既に道はないのだ。
「はいはい! じゃあそろそろ始めるから静かにしろ! ユキちゃんとの会話は終わった後にするように」
「「「「はーい」」」」
俺の言葉に子供たちは一斉に頷くと、視線を俺の元に向ける。まず取り出したのは特注したキーボードとスーパーボールだ。
今この部屋には、目の見えない子供がいる。耳の聞こえない子供がいる。足を怪我した子供がいる。数年この病院に入院し続けている子供がいる。
そんな子供たちに俺がすべきことは何か?
目の見えない子供に、空の青さの素晴らしさを伝えることでも、耳の聞こえない子供に、璆鏘琳琅の音を届けることでも、足を骨折した子供に地を蹴る気持ちよさを教えることでも決してない。
そんなことは医者や学者の仕事だ。エンターテイナーの預かり知るところでない。
俺が出来ることは何時だって一つ。
――目の前の子供を笑顔にする。
目が見えない事実を、耳が聞こえない事実を、足が動かせない事実をどこか遠い所へ忘却させ、ただ『楽しかった』という思い出を作ること。
ただそれだけの話だ。そのために俺は芸を磨いてきた。
芸を終えて、子供たちと談笑をするまでが、ここでの何時もの流れだった。そして、その談笑は大抵の場合、子供たちがお昼の検診を受けるまで続けられることが多く、今日も例にも漏れずに壁の時計は3時を指していた。
子供たちが全員退出したタイミングを見計らって一人の少女が声をかけてきた。
「お疲れさまです。今日も大人気でしたね」
さらりと伸びる奇麗な銀髪を揺らしながら少女は近づいてくる。
陶器のような白い肌に彼女の銀髪の髪、優し気な目元、そして整った顔、その全てが相まって、彼女はどこか神秘的に見えた。
彼女の名前は幽谷 霧子ちゃん。この病院でたまにお手伝いをしている看護師見習いの少女であり、今日みたいに俺が芸をするときに手伝ってくれる子だ。
「今日も喜んでくれてよかったよ。それにしてもアイツら……」
霧子ちゃん苦笑いを返しながらシルクハットの中身を見せる。
芸が始まるまで中に何も入っていなかったそこには飴や、ガム等のお菓子から始まり、缶ジュースにゼリー、挙句の果てにはプリンまで入っていた。ひょんなことから芸を見せてくれたお代のかわりにお菓子を入れるということが子供たちの中で決まりのようになってしまった。結果、今ではこのような有様だ。
「うふふふふ、皆カラスさんの芸が好きなんですよ」
「とは言ってもなぁ……」
ガムや飴はともかくとして、ゼリーやプリンは恐らく病院で出されたデザートだろう。あの年頃のプリンやゼリー等のおやつの貴重価値を俺は知っているつもりだ。だからこそ、そんな価値のあるものを貰えて嬉しい反面、もっとしっかり食べて元気になって欲しいと思う気持ちもある。
「このゼリーやプリンなんて絶対ここで出されたデザートだろうし、霧子ちゃんもアイツらに言っておいてくれないか? お前ら、しっかり食って、早く元気になれって」
シルクハットの中身を机の上に並べてながら一人愚痴る俺に、
「うふふふふふふ、言っては見ますけど多分無駄だと思いますよ」
霧子ちゃんは笑いながら言葉を返してくれた。
「それに、カラスさんの芸を見た後は治療頑張っているって看護婦さんやお医者さんが言ってました。だからあの子たちにはプリンさんやゼリーさんよりカラスさんの芸の方が大切なんだと思います」
「うん、そういって貰えると俺も嬉しいよ」
俺はただ清い心で精一杯の芸を行っただけだ。その芸が彼ら彼女らに面白いと思ってもらえたのかは分からない。しかし、今のところ俺の芸は彼らの頑張りの糧になっているようだった。もし、それが本当の話であるのなら非常に喜ばしいことだ。
「私も毎回楽しみにしてます。今日も大変楽しかったです。これ、いつものです。こんな物で悪いですけど、クッキーを焼いてみました」
そういって彼女が差し出してきたのは奇麗にラッピングされた小袋だった。俺の芸の手伝いをしてくれるようになって以来彼女は子供たちに倣いこうして何か贈り物をくれるのが常だった。この間芸をした時はバレンタインのシーズンもあってかハート形のチョコレートを貰った記憶がある。
「気にしなくていいのに、それに霧子ちゃんにはいつもお手伝い頼んでるしさ」
本当ならばアシスタント代わりに使っている俺のほうが何かを送らないといけない立場だ。
「いえ、私少しだけ調べたんですけど、カラスさんみたい凄い芸を出来る人を呼ぶとすると、とてもお金が掛かるんですよね。それなのにカラスさんは一円も報酬がないにも関わらず毎回芸をしてくれて……本当だったら私が――」
「――霧子ちゃん」
霧子ちゃんの言葉を遮るように少しだけ大きな声を出す。
「あ……、すみません」
その声を受けて霧子ちゃんが少しだけたじろいた。
「いいんだよ、謝らなくて。それに霧子ちゃんには一つ知ってて貰いたいんだ。物の価値について」
「物の価値?」
「そう、物の価値。確かに霧子ちゃんの言う通り、大きな会場で芸をすればそれだけ大きなお金は貰えるし、お金持ちの前で芸をすれば凄い金額を貰える可能性もある。でもね、俺に取ってすればお金なんてどうでもいいんだよ。俺はそんな物のためにエンターテイナーになった訳ではないだ」
今でも鮮明に思い出せる。あの黄昏時の商店街の一角で、たった一人の子供のために芸をしてくれた彼のことを。
どうしようもなくその芸に惹かれ、どうしようもなく彼の背中をただ目指した。
「俺のためを思って自分の大切な物をくれることがどれだけ嬉しいか。お金じゃない。金額じゃない。そこには何ものにも変えられないものがあるんだよ」
初めて彼の芸を見たとき俺は学校帰りということもあり金銭は何も持っていなかった。あったのは帰って食べようと思っていた学校の給食で出た好きな饅頭だけだった。こんな物しかないと差し出した饅頭を受けとると彼は嬉しそうに目を細めると俺にお礼を言った。
当時は分からなかったが今なら分かる。
あの突饅頭を受け取った当時のキーウィの喜びが。
当時の俺にとっての饅頭がこの子達のプリンだ。
「あの子たちは俺のために好物を食べるのを我慢してくれた」
そう言いながら並べられたお菓子の数を数を手にとっては見る。
「このお菓子たちには文字通り千金の価値があるんだよ。お金では決して買えないね」
この場所は俺にエンターテイナーとしての始まりを思い出させてくれる。あの時の俺の気持ちを思い出させてくれる。
だからこそ、俺はここで芸をすることを辞める訳にはいかない。決してあの時のことを忘れないために。
「勿論、霧子ちゃんが俺のために作ってくれたこのクッキーもそうだよ。このクッキーを貰えるなら芸なんていくらでもやってみせるさ」
ここまで話して、
「まぁ、俺は仙人じゃないから霞を食べて生きてはいけないから、お金のために芸をすることは勿論あるんだけどね。なんだか長い話をしてごめんね」
そういって笑っておく。最後の最後で締まらないのは本当に俺らしい。
「うふふふふふふ、何だかカラスさんのことを今までよりよく知れたような気がします」
話し終えてから気づいた。話過ぎたことに。
――しまったなぁ。勢いとはいえベラベラ話すつもりはなかったのに。
霧子ちゃんの雰囲気がそうさせるのか、ステージでない俺の緩み切った精神がそうさせているのかは知らないが、喋るつもりのないことまで話をしてしまったことに今更ながら遅い後悔をする。
――まぁ、でも
「じゃあ、今度からはもっとカラスさんのことを思って作りますね!」
そういって笑って霧子ちゃんは笑った。
――美人が笑ってくれたのならよかったのかもしれない。
後悔しても発言をなかったことにすることはできないのだからそう前向きに考えることにする。
「じゃあ次も期待してるよ」
「はい、期待してください」
霧子ちゃんとの談笑は片付けが終わるまで続いた。
芸で使った道具を片付け部屋全体の原状復帰も終わりかけた頃だった。ふと思い出したことを霧子ちゃんに伝える。
「あ、そういえばこの間の音楽番組見たよ。L'Antica凄い人気だね」
いつも芸の手伝いをしてくれる霧子ちゃんには病院の見習い看護婦という顔の他に二つ顔がある。一つは学生としての霧子ちゃん、そしてもう一つは現役アイドルL'Anticaとしての一員の霧子ちゃんだ。
この病院で始めてあった時も彼女の美貌にはびっくりしたが、アイドルになったと聞いた時にはさらに驚いた。霧子ちゃんほどの子がオーディションで合格するのは納得がいく。しかし、霧子ちゃんはアイドルのオーディションを受けるような性格の子ではないと思っていた。
だからこそ、アイドルになったと聞いたときはとても驚いたのを覚えている。
しかも今では超売れっ子アイドルだ。L'Anticaというと若い人たちの間では知らない人の方が少ないと言われるくらい周知されている。
「あ、見てくれてたんですね。新曲どうでしたか?」
霧子ちゃんが所属するL'Anticaというグループは紫と黒のゴシックな衣装が特徴であり、グループとしてもクルール系ボーカルユニットだ。当然霧子ちゃんもその一員ということでグループのイメージ通りのキャラとして活動しているわけだけど、初めて雑誌で霧子ちゃんを見かけたときその雰囲気の変わりように驚いたものだ。
普段の彼女とはまるで違う別人のように見えて、でもそれは間違いなく霧子ちゃんだった。彼女のまた新しい魅力が知れた一方、そのような一面を引き出したプロデューサーは凄いなと感心したものだ。
「ラビリンス レジスタンスだよね。カッコいい曲でとてもよかったよ」
新曲のラビリンスレジスタンスもグループのイメージにあったカッコよく、テンポのいい曲だった。
「本当ですか、それはよかったです」
「CD出たら絶対買うよ!」
「うふふふ、ありがとうございます」
彼女はそういった後、ハッと何かを思い出したかのようにつづけた。
「あ、そういえば恋鐘ちゃんがカラスさんの手品を見たいっていってましたよ。トランプマジック絶対に見破ってやるって!」
霧子ちゃんがいう恋鐘ちゃんとは、アイドルユニットL'Anticaのリーダーを努める月岡 恋鐘、その人を指す。訳があって彼女のこともアイドルになる前、上京した時から知っているのだが、出会った時からずっとトランプマジックを見破ろうとやっきになっている少女だ。
性格の方は一言で言うと純粋。疑うという言葉の「う」の字をしらない子だ。
勿論そんな子なため、トランプマジックの種を暴ける気配は今のところ0を通り越してマイナスだ。
そういえば彼女も素の時とアイドルとの時のギャップが激しい子だなぁ。出会ったころから今までの彼女のことを思い出して、ふとそんなことを思った。
「ほう、それは楽しみだなぁ」
「そのマジック私も一緒に見てもいいですか?」
「勿論だとも」
そんな雑談をしている間に時計の針は16時を指そうとしていた。
――はぁ。
吐き出したいため息を、代わりに胸の中で吐露する。今日の予定は昼間の一件ではない。もう一件ある。
俺はその仕事には行きたくなかった。しかし、絶対に行かないといけない仕事だった。
いくら俺が嫌がろうが、ごねようが水が高い所から低い所へと流れるように時計の針は進む。その時間は呆気なく近づいてきた。
俺は霧子ちゃんとの別れを告げると道具の入ったギターケースを背負い部屋を後にする。霧子ちゃんには俺は帰路についたように見えるだろう。
だが、違う。今日のもう一つの仕事は同じくこの病院内で行われる。その場所は別棟の13階。そこは普通の人が訪れることはほとんどない場所であり、霧子ちゃんすら入ったことことがないだろう場所だ。
偶数月の土曜日、昼の仕事が終わった後、もしくはその仕事に関係なくここには足を運ぶことがあった。勿論、芸をするためである。
別棟13階、個室しかないこの階は終末期医療を受ける患者のみが入院している階だ。
俺がここを訪れるのは今日で10回目だ。
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