ここはどこだ?気づけば俺は見知らぬアジア人たちに囲まれていた。「
状況がよく分からない。俺はさっきまでウンテル・デン・リンデンのカフェでクラウスやフィッシャーと議論を戦わせていたはずだった。
「このようなことは必ず祖国を不幸にするだけでなく、人類の歴史に深い傷を負わせる」
「いいや。まさにこれによって、我々はもう一度、偉大な祖父たちと同じように前進することができる」
「いずれにせよ、もはや我々は勝利するしかない」
俺たちは思い思いに演説した、一人が演説する間二人は聞き手に徹し、そして主張が終わると聞いていた一人が演説するといった具合に。俺たちはいつもそうやって議論したが、途中知らぬ人が割り込むことも少なくなかった。今回は特にそうで、カフェ中の人間が俺たちの演説に耳を傾け、野次をとばし、熱狂した。
「お疲れ様です!」なのに、一瞬の瞬きの間に、クラウスやフィッシャー、カフェの聴衆たちはいなくなっていた。あいつらはどこだ。それに、ここはどこだ?俺はよく分からない場所にいた。暗くて狭い、なのに少しの場所も惜しいとでも言わんばかりにアジア人たちが密集した場所に。思わず顔をしかめずにはいられなかった。
「天宅君、お疲れ様。相変わらず見事な演技でしたよ」
みすぼらしい格好をした女が話しかけてきた。女の顔をまじまじと見たが俺はこの女を知らなかった、そもそも俺にアジア人の顔見知りはいない。だが一つ思い当たることがあった。擦り切れそうな服、ぼさぼさで艶のない髪、知りもしないのに親しげな口調、売りをやってるスラムの女に違いなかった。
「あぁ、ちょうどよいところに。お嬢さん、ちょっとお尋ねしたいのですが」
女は怪訝な表情を浮かべた。俺は硬貨を女に握らせた。
「そんな顔をしないでください。大したことじゃありません……ここはどこなのでしょうか。どうやら道に迷ってしまったようです。できれば案内していただきたいのですが」
女はますます怪訝な表情を浮かべた。が、すぐに笑みを浮かべた、からかうような笑みを。
「『お話しましょう、そしたら教えてもいいわ』」
思い通りにならない女に俺は苛立ったが、それと同時にこの女に興味を持った。見るからに教育を受けていない女のはずなのに、どこかに貴族のお嬢さんのような品を感じたからだった。取り留めのないことを話した。俺は女との会話に心地よさを感じていた。
「お嬢さんお名前は」
「『エリスよ、あなたは何というのかしら』」
「私はマックス・アルベルトです、エリスさん」
「『さんは要らないわ、なんだかむず痒いもの』」
俺はエリスに夢中になっていくのを感じた。身なりの汚さも気にならなくなった。「そろそろ時間です」遠くでアジア人の声が聞こえた。エリスは立ち上がった。
「『楽しかったわ、ありがとう』」
「『こっちよ』」エリスは俺の手を引っ張ってぐんぐん進んだ。俺はエリスのなすがままになっていた。
「『行きましょう』」
女は光で照らされた場所を指さした。そこにはクラウスやフィッシャーがいた。俺たちは光の中に飛び込んだ。
気づけば俺は光に照らされていた。大勢の人間が俺に向かって拍手をしていた。ここは、……舞台?
「ありがとうございます」
右側からエリスの声が聞こえた。俺の周りにはエリスだけでなく多くのアジア人がいた。
「天宅君ありがとうございます。さっきのエチュードで緊張がほぐれました。おかげでいい演技ができました」
「あぁ、エリス。また会えてうれしいよ。ところで私たちは何をしているのでしょう」
「カーテンコールですよ」
「カーテンコール?まるでお芝居ではありせんか」
「もうお芝居はおわりましたよ、天宅君」
「?何のことですか」
「天宅君?」
「エリス、アマヤケというのが何かは知りませんが、先ほども話したではありませんか。私はマックス・アルベルトです」
「……」
「どうしたのです、エリス。顔が真っ青です。……どうやらまた道に迷ってしまったらしい。道を教えていただけませんか。勿論エリスの体調が治ってからですが」
「天宅君!」
「エリス、さっきはアルベルトと呼んでくれたではありませんか。意地悪しないでください。‥‥エリス、エリス?」
「まー君」
しかし天宅は思い出した、それはお芝居であったことを。そしてお芝居は終わりで、マックス・アルベルトは死んだ。
闇夜の中、街灯に照らされて、目の前には景がいた。額と首筋には汗がしたたっていた、どんよりと空気が湿っていた。6月の、まだ夏になりきらない湿気の中で、景は佇んでいた。ずっと待っていたのだ、天宅が帰ってくる日のことを。彼女は笑顔だった。いつの間にか舞台は終わって、天宅は帰る場所へ戻ってきていたのだった。
「おかえりなさい」
返事をする前に景は天宅を引っ張った。彼は景のなすがままになった。そしてぼろぼろの家に引き込まれた、ここは景たちの家だった。天宅の本来の家はその隣にある二階建てのむき出しのコンクリートの家だった、装飾が限界まで削ぎ落された家だ。もし窓が無かったら、家ではなくコンクリートの塊だと思われるだろう。
天宅は景たちの家が好きだった。そこは調和された空間だった。景とルイとレイの家だ、そして彼女らは天宅を待っている。ここならば彼は役者ではなく天宅微人でいることができるだろう。
「もう舞台は終わりでしょ」
景はぎゅうっと天宅の手を握り締めた。「うん、今日でおわり」彼女は乱暴にどんどん引っ張った。乾いた冷たさが天宅を襲った、エアコンが除湿しているのだろう。リビングには布団が敷かれていた。ルイとレイは眠っていた。すー、すー、彼らは気持ちよさそうだった。
「寝ましょう」
彼女は笑顔のまま言った。ルイとレイが同じ布団で寝ている以外には布団は一つしかなかった、景の布団だけがあった。天宅の布団がそこにはなかった。彼の布団は押し入れにしまわれたままだった。「布団出さないと」彼女は笑顔だった。「一緒に寝ましょう。一緒に寝ましょう。エアコンを動かしてるから、少しだけ寒いの。だから一緒に寝ましょう」景はぽろぽろと涙をこぼした。
景は天宅の手を掴んで離さなかった。「そうだね、ちょっと寒いね」天宅は景より先に布団に横になった。すぐに景が横になる。彼女の長い髪が汗でからだにくっついた。汗のにおいと、石鹸の清潔な匂いと、そして景の布団のにおいが混ざり合って、天宅を包んだ。二人は向き合った。景は笑顔のままだった、涙がぽろぽろこぼれた。天宅は景の髪をすいた。「あっ……」お芝居がゆっくりと崩れ去っていった。景は天宅の胸に顔を埋めた。天宅はただ彼女の髪をすいた。そしてついさっきまで演じていた舞台のことを考えた。マックス・アルベルトは若者だった。あるとき隣国との戦争が勃発した。それについて仲間たちと議論を戦わせた日、アルベルトはエリスという娼婦に出会う。二人は親密になり、ついにはお互いを愛し合ったが、戦争が彼らの間を割く。結局アルベルトは最前線に送られて死ぬ、エリスは一人取り残されるのだ。天宅は舞台のことをほとんど思い出せなかった。それが彼の演技法だった。
「まー君」
「うん」
景が胸の中でささやいた。「まー君」「うん」天宅はただそれに答えた。「まー君」「うん」しばらくして、景がゆっくりと顔をあげた。今度は天宅がささやいた。「景ちゃん」「うん」
「ただいま」
「おかえりなさい」
景はもう泣いてなかった。それを見て、天宅は微笑んだ。
マックス・アルベルトとエリスの話は、執筆前にちょうど映像の世紀を見てたので、それに影響されて思いつきました、一応オリジナルです。まあ似たような話は世界中にあるでしょうが。
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2
自分のものが一つもない場所では人は生活できない。それゆえ、
彼が帰ってきた翌朝、天宅は景と共に目が覚めた。目が覚めても、二人は横になったままだった。何も言わなかった。景は彼をじっと見つめ、天宅は彼女の髪をすいた。そうやって無言のまま、二人はじゃれあった。エアコンの電源はタイマーで切れていた。朝の、わずかな間の、薄暗い、熱を持たない空気の中で、彼らはお互いを確かめ合った。ピピピピピ、アラームの小さな音が静寂を破った。この音が景の起きる時間を教えた。ルイとレイはまだ寝ていた、彼女は一足先に朝の支度をしなければならなかった。
「おはよう」
「うん、おはよう」
二人はささやきあった。「手伝うよ」天宅は言った。「まだ寝てていいわ」景は起き上がった。「お芝居が終わって、疲れてるでしょう」天宅も起き上がった。「もう目が覚めちゃったよ」景は少し迷って「じゃあルイとレイの準備をお願い」
天宅はルイとレイが今日着る服の準備をして、彼らの時間割を確認した。そしてランドセルやナップサックを開けて忘れ物がなさそうか確認するのだった。今日は体育があるらしかった、水泳だった。レイは準備ができていたが、ルイはまだ準備していなかった。天宅は干された水着やゴーグルなどを持ってきてルイのナップサックの近くに置いておいた。中には入れなかった、最後に確認するのは彼らのやるべきことだった。そして最後に連絡帳とクリアファイルを開き、何か提出するものがないか確認した。二人分の水泳カードを取り出して、天宅は夜凪の印鑑を押した。あとは水泳に参加できるかできないかを書くだけだった、それは二人が起きてきてから体調を見てやることだった。
景は台所に立っていた。彼女は夏服の制服姿で、その上にエプロンをしていた。もうすっかり高校へ行く準備を整えていた。彼女は味噌汁をつくりながら、その隣で卵焼きを焼いていた。古い炊飯器がもくもくと水蒸気を吐き出している。
「今日はパンじゃないんだ」
四人の朝ご飯はほとんど決まって食パンだった。
「うん、ルイとレイが飽きたって言ってたから」
「何か手伝おうか」
「大丈夫、座って待ってて」
天宅はおとなしく座った、それほど広くない台所で出来ることは限られていた。
天宅は景の後姿を眺めた、懐かしいと思った。あのときは、舞台が始まる前に見たときは、景はパジャマ姿で、朝ご飯は食パンだった。
「じゃあ僕がいない間、景ちゃんを頼んだぞ」
「うん任せて!」
「まー君もお芝居頑張ってね!」
天宅はその日ルイとレイたちだけを玄関で見送った。二人は元気そうだった、景はパジャマ姿で制服に着替えようとはしなかった。もうとっくに家を出る時間を過ぎていた。「学校行かなくていいの?」「うん」消え入るような声だった。彼女はその日学校を休んだ。そしてずっと天宅の腕にしがみついた。彼女は天宅と目を合わせなかった、ずっとうつむいていた。「そろそろ迎えが来るんだ」「うん」彼女は身を縮めていた、自分から離れようとは決してしなかった。天宅は彼女を抱きながら、ずっと景の髪をすいた。その黒髪の隙間から、ときどき、真っ黒の、不安に囚われた瞳が現れた。天宅は何も言えなかった、彼女の深い不安の前では、どんな慰めも嘘になるように思われた。結局、迎えのワゴン車が来るまで、二人は離れなかった。
「行ってくるね」
「いってらっしゃい」
景は最後まで「行かないで」とは言わなかった。
そうして、天宅は一か月この家に戻らなかった。代わりに彼が帰ったのは隣のコンクリートの家だった。公演の間、天宅はそこに住んだ。何か演じなければならないとき、天宅は決まってあの家に帰った。景たちの家には一切足を踏み入れなかった。そして、景たちがコンクリートの家に入ってくることも、会うことも拒んだ。演技のために必要なことだった。あの家は孤独の空間だった、何一つ、彼の受け入れるものはなかった。そこでなら彼は
「景ちゃん」
「?」
ジリリリリリ、目覚まし時計の大きな音が聞こえた。
「いや何でもない、二人を起こしてくるよ」
ルイとレイはタオルケットの中に潜り込んでいた。まだ眠りたいとき、彼らはそうやって朝から逃げた。ジリリリリ、目覚ましは鳴り続けていた。「おはよう。ルイ、レイ」天宅はタオルケットを軽くゆすった。「おはよう、もう起きる時間だよ」目覚まし時計を止めてタオルケットをもう一度揺った。うぅー、少し不機嫌そうなくぐもった抗議のうめきが聞こえた。天宅はタオルケットの中に手を入れて、二人の頭を撫でた。そうなって撫でていると二人は自然と目を覚ますのだった。もそもそとルイとレイが顔を出した。天宅は微笑んだ。「おはよう」彼は何度目か分からないおはようを言った。「あれ?」「……まーくん?」二人はまだぼんやりとしていた。そして今度は二人の目を見ながら撫でてやるのだった。
「まーくん!」
ルイとレイは彼に飛びついた。「お帰り!」「お帰り!」「ただいま」天宅は二人を抱きしめた。「あのねあのね」二人は全身で喜びを表現した。一か月ぶりの再開で話したいことがたくさんあるのだろう。彼は微笑んだ。「朝ごはん食べながら話そう。学校に遅れたら大変だよ」二人は天宅を引っ張って食卓に連れて行った。もうご飯とみそ汁と卵焼きが並べられていた。
「ルイ、レイ。おはよう」
「おねーちゃんおはよう!」
「おはよう」
四人はそれぞれの位置に座った。「いただきます」四人は手を合わせた。調和された空間の中で、景とルイとレイが待つ家で、彼は陽光に抱擁される。彼女らの温かさが彼を癒すだろう。ありがとう、天宅はつぶやいた。「何か言ったー?」ルイが天宅に問いかける。
「ううん、何でもないよ」
景たちを玄関で見送って一通りの家事を済ませた後、天宅は映画館へ向かった。友人と一緒に映画を見る約束をしていた。彼は歩いた、天宅は一軒家を眺めては軒先の咲き始めの朝顔や、澄んだ青色の紫陽花を愛でた。たまに、草木の手入れをする住人たちと目が合った、中には見知った顔の人もいた。
「こんにちは」
そういう人たちとはほんの少しのあいさつを交わして、天宅は立ち去った、彼らも必要以上には何も言わなかった。花々や木々、そして家々の住人たちが天宅を見送った。一軒家がなくなり、少し道が広くなると、次はアパートやマンション群が彼の前に現れた。これらは過剰だと思えるほど建てられ、それでも足りないのか、毎年新しいマンションが競って建てられた。天宅はそれらを見上げた、あの無数の玄関や窓の向こうで、天宅たち四人が暮らすように、人々が生活しているのだろう。しかし彼はその様子をうまく想像することができなかった。人の姿は見えず、マンションは沈黙し、光に反射するガラスと、ペンキで塗装された高い壁が、彼の前にそびえたっているだけだった。汗がじわりとにじんだ、もうすぐ昼だった。
住宅街を抜けて、彼は大通りを横切った。片側3車線の車道ではひっきりなしに車が行きかって、街路樹の内側の歩道では足早に人々が歩き去っていった。誰も天宅に関心を持つ人はいなかった。人々は前だけを見て、たまにうつむいて、決して横を見ようとはしなかった。彼らはいちいち他人に興味を持たなかった。それが彼には嬉しかった、見知らぬ人が、知ったような口で自分のことを語られる辛さを、天宅は知っていた。
太陽が天頂に到達したころ、天宅は映画館にたどり着いた。待ち合わせ場所には、もうすでに友人が待っていた。星アキラは帽子とマスクをして顔を隠していたが、自然に周囲の関心を惹いた、天宅はすぐに声をかけた、正体がばれる前に。
「久しぶり」
天宅はアキラに声をかけた。気づいた彼はマスクから口を見せて笑った。天宅も笑った。「久しぶり」
「待たせちゃったかな」
「時間ぴったり、僕も今来たところだよ」
たわいもないあいさつを交わしながら、天宅はアキラの顔をうかがった。そしてその中に、確かな親愛を見つけて安心するのだった。「先にご飯食べよう、何か食べたいものある?」「うーん、ハンバーガー」二人は歩き始めた。
「いつ以来だっけ」
「1か月ぶりくらいじゃない?」
アキラとは反対に、天宅は素顔を曝した。声を掛けられるほど有名ではなかった。黄色いM看板の店の中で彼らは食事をとった。ポテトが揚がるときの、あの独特の音と、人々の話し声が店内を満たしていた。
「この前の舞台は盛況だったみたいだね」ポテトをつつきながらアキラは言った。「まさか、観てないよね」天宅はアキラの顔をうかがった。彼は少し笑った。
「君があんまり嫌がるから観てないよ」
天宅は微笑んだ。「もし観てたら」余韻をたっぷりと取って、さも重大なことであるかのように宣言した。「君の出てる作品のDVDを全部レンタルして見ちゃうよ」アキラは苦笑した。「別に見てもいいんだけど」「ダメだよ、僕は君の作品を見ない。だから君も僕の作品を見ない。約束したよね?」「一方的にね」
「僕は微人君がどういう演技をするか見てみたいんだけどな」
アキラはつぶやいた。それでも一方的に結ばされた守る義理のない約束を彼は守った。「アキラくぅ~ん、約束守れて偉いね~、よしよし♡」猫なで声でアキラの頭を帽子越しに撫でた。彼は嫌そうに逃げた。「ちなみにこれアリサさんの真似ね」「母さんはそんなことしない!」
「それで、何見ようか」彼らは再び映画館の前に戻ってきた。天宅は一つのポスターを指さした。百城千世子が主演の映画だった。アキラは特に何も言わなかった。
「百城さん元気してる?」
「うん」
「まだ僕のこと嫌いって?」
「……うん」
平日の昼間ということで劇場内にはそれほど人はいなかった。彼らはちょうどド真ん中の特等席に座った。「そっか、残念」照明が徐々に落ちていく。「僕は彼女の演技好きなんだけどな」
映画が終わって彼らは歩きながら感想を話し合った。彼らは大通りを避けた、適当なところを横に曲がって、人通りの少ない住宅街を歩いた。そこならばアキラがファンに見つかることはなかった。
天宅は内容をあまり覚えていなかった、ただ百城の≪きれい≫な演技だけが彼の印象に残った。アキラは映画の内容も百城以外の役の演技も細かく覚えていた。天宅は自然と聞き手になった。アキラの評論を聞いて、それを促すのが彼の役目だった。
「よく覚えてるよね」
アキラは苦笑した。「微人君は忘れっぽすぎるよ……それで、どうだった?」「百城さんのことしか覚えてないや」
それからまた天宅はアキラの評論を聞いていた。彼の話を聞くと、さっき見たほとんど印象に残らなかった作品が映画史に残る傑作のように思えてきた。もう一度見ようかと思ってすぐにやめた、優れているのはアキラの知識で、その映画ではなかった。
一通り話し終わった後、天宅とアキラは無言で歩いた。ほとんど話さずに、目的地もないまま歩いた。この街では、どこまで行っても道が途切れることはなかった、その気になれば永遠に歩くことができた。全く知らない家々の間を通り抜けて、朝顔や紫陽花が、庭で土いじりをする住人が、マンションが、遠くに見える高層ビルが、すれ違う車が、目の前に現れては消え、現れては消えた。ずっと変わらないのは彼らの足音と、傾きつつある太陽だけだった。この太陽もあと数時間もすれば彼らから離れ、夜がやって来るのだろう。そして沈黙がなければ、足音は会話に押しつぶされて、遠くに退くのだろう。天宅はときどきアキラの横顔を盗み見した。そこに現れる、ほとんど気づかれないような、深い影を、天宅は知っていた。
「微人君」
「ん?」
天宅はアキラの言葉を待った。深い影が、アキラの訓練された表情を押しのけて、現れようとしていた。重い沈黙が彼らにのしかかった。アキラは何か言おうとしていた、彼はかぶりを振った。「いや、何でもないよ」アキラは少し笑った、天宅は微笑んだ。そのまま彼らは歩いた。彼らの足音が聞こえる。アキラは、天宅は知っていた、ずっと待っているのだと。天宅はアキラの家に行った時のことを思い出した。本棚いっぱいの演技の指南書、体を鍛えるためのマシーン、そして積み上げられた彼のノート、ぼろぼろのノートには彼の努力の跡が残されていた。そしてなによりも、彼の隠された深い影が、星アキラは孤独の中にいるのだということを、雄弁に語った。いつの間にか彼らは住宅街を抜けて大通りに出ていた。
「今日は晴れてよかったよ」
気象庁は梅雨入りを宣言していた。「そうだね」「そろそろ帰ろうか」アキラはうなずいた、彼は天宅とは違って暇ではなかった、もしかしたら今から予定が入っているのかもしれなかった。
「またね」
「バイバイ」
天宅はそこから一人で来た道を引き返した、アキラはタクシーに乗って去って行った。家の近くに帰り着くころには夜がやって来ていた、ぞろぞろとサラリーマンの集団の中で彼は歩いていた、彼らの多くはマンションやアパートの中に吸い込まれていった。昼間と同じように、天宅は彼らが生活している姿を描くことができなかった、彼は立ち止らずにマンションの横を通り抜けた。そして見知った一軒家の間を歩いて、二つの家が見えてきた。一つはコンクリートの家で、もう一つは景たち待っている家だった、彼は迷わず景たちの家のドアに手をかけた。「ただいま」「おかえりー」焼き魚の匂いが胃袋を刺激した。
コミックを読み直したら夜凪家は平屋ではなく2階建てであることを発見しました。前回の話をほんの少しだけ修正しています。
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3
その日は雨だった。天宅は雨音で目を覚ました。隣の布団にはルイとレイが、彼らの隣には景が眠っていた。まだ起きる時間ではなかった。目を閉じて、もう一度眠ろうとすると、静かな雨音が、暗闇の中に入り込んで、天宅を揺するのだった。彼は立ち上がって、眠っている彼女らを刺激しないように静かに台所に向かった。コップに水を注ぎ、それを飲み干して、家の中に忍び込んでいる雨音に耳を傾けた。雨は降り続いた、そして梅雨の寒さが、彼のからだを目覚めさせて、もう眠る気にはなれなかった。「おはよう」つぶやきは雨音と静寂の中で溶けていった。彼は朝ご飯を作り始めた。
ちょうど味噌汁が出来上がったころ、景が起きてきた。「おはよう」天宅は振り返って挨拶した。彼女はちょっと離れたところに佇んでいた。「どうしたの?」
「夢を見て」
「うん」
「まー君がどこかに行ってしまう夢を見たの」
天宅は微笑んだ。「お芝居はしばらくないよ」「うん……」彼女は口を閉じて天宅をじっと見つめた。それは一つのポーズだった、不安が忍び寄ってくるとき、彼女はまるで天宅を試すように彼を見つめた。火を止めて、天宅は彼女のもとへと赴き、そして抱きしめた。「僕はいなくならないよ」
「会えないときもあるけど、でも絶対にここに帰ってくるから。景ちゃんも、ルイも、レイも、一人にしないよ、僕はいなくならないから」
胸の中に確かに彼女の熱が感じられた、景の匂いが天宅を優しく包み込んだ、それは少女のような、大人のような、どちらでもないような、ふわふわした匂いだった。「今日は寒いね」「うん」景が探るように天宅の背中を撫でた。しばらくはそうやって二人はお互いを温めあった。
傘を差した三人を見送って、家事を済ませた後、天宅は散歩に出かけた。特別どこかに行くのではなく、生まれたときから住んでいる、家の周りの、彼が最もよく知る街を歩いた。それが一人でいるときの彼の習慣だった。
天気や時間によって、街は全く違った様子を見せた。昼の街ではよく人とすれ違った。彼らは天宅に関心を払うことはなかった。皆、彼らの生活があり、それで精一杯だった。深夜では、反対に、彼は誰ともすれ違わなかった。ここは眠らない街の一部ではあったが、確かに人々は眠った。しかし彼はその静寂の中に確かな呼吸を感じた。人々は眠っているが、完全に休んでいるのではなかった。祭りの日の、息を殺しているような、活気の、うねるようなエネルギーがそこにはあった。クリスマス前日の子どもが眠りながら興奮するように、この街の人々も眠りながら明日を待ちわびているようだった。
雨の日、人々はより一層うつむき、誰とも目を合わせないように、足早に去って行くのだった。ため息と、苛立ち、そしてわずかな喜びの気配があった。喜んでいるのは、花々や木々だった。滴る水滴に誘われて、紫陽花や朝顔はより艶やかに、天宅の心にその存在を刻印づけた。
天宅は自分の街が嬉しかった。雨の日も、晴れの日も、どの時間でも嬉しかった。彼はこの街を誰よりも知っている自信があった。もし知らないものがあったとしても、それをよく観察することで、彼は自分のものにすることができた。
「今日も散歩したの?」
「うん。どうしてわかったの?」
「まーくんの傘が濡れてたから」
彼女らは天宅の習慣に困惑した。「健康的ね」「おじーちゃんみたい」天宅は笑って見せた。「歩くのが好きなんだ」
天宅は説明した。それは正しかったが、真実ではなかった。確かに天宅は歩くのが好きだったが、散歩の理由は歩くことではなかった。彼は見回りの任務を課せられている兵士のように、自分の街をすみずみまで歩いた。そして空腹を覚えると帰宅し、食事をとり、使った食器を洗い、また歩き、誰かが帰ってくる前に帰宅し、彼女らを出迎えるのだった。これが何もない日の彼の一日だった。
彼の習慣は誰にも理解されず、意味のない行為だと見なされた。実際、彼らが天宅微人のように生活することは意味がなかった。そうすることよりもやるべきことあった。しかし天宅は無為に時間を浪費しているのではない。彼は、あのコンクリートの家のように、生まれ育った街までもが、自分を疎外するのではないかと恐れているのだった。
二人を出迎えて、天宅はルイとレイを着替えさせた。傘をさしていても、どうしても衣服は濡れてしまう。梅雨の一瞬の冷たさが、二人の健康を崩さないように、彼は暖房を入れた。「暑くなったら切るんだよ」彼はまた外に出た、今度は晩御飯の食材を買いに出かけた。
「あったかいものが食べたい!」
天宅の頭には季節外れの鍋が思い浮かんだ。
思いのほか鍋は好評だった。気温は結局15℃近くにまで落ち込んだ。夏に向けて衣替えしてしまったあとの突然の寒さには、鍋はありがたかった。梅雨への文句と学校での出来事が話の中心だった。会話が途切れたころ、その間を突くかのように、景が少し大きな声で天宅の名前を呼んだ。
「まー君」
「どうしたの?」
「実はまー君に言わなきゃいけないことがあるの」
天宅は微笑んで続きを促した。
「私役者になろうと思うの」
「私役者になろうと思うの」景はもう一度言った。そして続けて「実はもう応募して、来週五次選考があるわ」と事も無げに言った。天宅は自分がどんな顔をしているのか分からなくなった。
「びっくりした?」
ルイとレイは笑っていた、それはいたずらが成功したときの表情のようだったが、子どもの時にしかできない宝物を自慢するときの誇らしげな笑いだった。天宅はよよよ、と泣き崩れる演技をした。
「僕だけ仲間外れだったのか、しくしく」
大袈裟なしぐさにルイとレイは気をよくした。「びっくりした?おねーちゃんすごいでしょ!」
「ごめんなさい、本当はすぐにでも相談したかったのだけど、ルイとレイが」
「お前たちかー」天宅はルイとレイの頭をわしゃわしゃと撫でまわした。キャッキャと笑い、二人は逃げた。天宅もそれを追いかけようと立ち上がったところで、「三人とも立たないで、ごはん中よ」
三人は反省して元の場所に戻った。ルイとレイはニコニコしたままだった、景も笑みを浮かべていた。天宅は必死に笑顔を取り繕った。
「私役者になれるかしら」
不安のない、真っすぐな、透明な瞳が彼を覗いた。「なれるよ、景ちゃんなら」うぉぉーと、ルイとレイが興奮した。「まーくんが言うんだから間違いないよね、おねーちゃん!」
[大丈夫。大丈夫、景ちゃんなら大丈夫だよ、そう大丈夫、景ちゃんなら……」天宅は努めて明るくふるまった。
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4
結局景は審査に落ちた、彼女は少しだけ驚いた様子だった。「バカでも分かるように演じたのに」天宅はその報告を聞いたときも、うまく笑えているか自信がなかった。
景がルイとレイと一緒にお風呂に入って、その間天宅は晩御飯の皿洗いをしていた。「私役者になろうと思うの」景のことが頭から離れなかった。天宅はステンレスのシンクに向かって微笑もうとした、あのとき、景が役者になると宣言した日、天宅微人なら、微笑まなければならなかった。しかし彼の表情は、鈍く、影のような、ほとんど形を成さないものに過ぎなかった。彼は何度かシンクを磨いてみた、そこには変わらず一つのぼやけた影があるだけだった。
「あなたは役者になってはいけない。……絶対に。すぐにでもやめなさい」「どうして?」「役者は幸せにはなれないわ、あなたの両親のように」「でも僕のお父さんとお母さん、笑ってたよ。幸せそうだったよ」「……」「あっちの世界に行けば幸せになれるんでしょ?僕も覗いたことあるけど、とても≪きれい≫なところだったよ」「……」「だから、お父さんとお母さんみたいに、皆あっちの世界に行きたくて役者さんになるんでしょ?」「そう……。あなたは」「アリサさん?」「あなたはもう壊れてるのね」
「大丈夫だよ、景ちゃんは大丈夫だよ」彼は鈍く笑った。
天宅はなかなか眠ることができなくなっていた。目をつぶっても、頭がさえて、からだが興奮するように熱くなった。彼は三人の呼吸に耳を傾け、自分の呼吸を一定のリズムに整えようとした。しかし、どこからともなくやってきたからだの熱が彼を邪魔するのだった。そのうち、もぞもぞと景の布団が動き、彼女が起き上がった。
「眠れないの?」天宅が声をかけた。「うん、オーディションの時の感情が残ってるの」天宅も起き上がった。「僕も寝れないんだ」それぞれの布団の上で、二人は映画をみた。景がテレビの前で、その間にルイとレイが眠って、天宅はテレビから一番遠くにいた。寝ている二人を起こさないように、音は小さかった。
景は画面の向こうを見つめているのだろう、天宅は彼女の後姿を見ていた。彼が景の髪をすいても、抱きしめても、どんな言葉をかけようとも、彼女の感情をリセットすることはできなかった。彼にできることは、不安を癒すことだけだった。悲しみも苦しみも、癒すことはできなかった。しかし天宅は、意味のないことだと分かっていても、悲しみや苦しみを抱く景の側に、できるだけ居続けた。たとえそれらの感情に囚われても、独りではないことを示すために。
「思い出した、笑顔の感情」
映画を見終わると、景は天宅に笑顔を見せた。「どう?自然に笑えてるでしょ?」二人は横になった。しばらくして、向こう側の布団から寝息が聞こえてきた。三人は眠っていた。やがて夜が明けて朝がやってきた、その日天宅は最後まで眠れなかった。
「最近は早起きなのね」
天宅は台所に立っていた、眠れなかったとは言わなかった。おはようを済ませた後、彼は黙った。「体調が悪いの?」「ううん、少し考え事」
ルイとレイが起きてきて、食卓を囲むとき、景は昨日の成果を二人の前で発表していた。「明るいおねーちゃんだー!」ルイは喜んでいるようだったが、レイは不安そうに景を見つめた。天宅はレイの頭を撫でた。「ねぇ、まーくん」
「おねーちゃん、役者さんになれるよね?」
天宅はレイの不安そうな瞳をぼぅっと眺めた。「おねーちゃん、普通の人じゃないでしょ。何もないのに涙が勝手に流れたり、一日で別人みたいになったり。そういう人が役者になるんだよね?だから、おねーちゃんは役者にならないといけないよね?」天宅は景を見た。
「役者は諦めて就職しようと思うの」
「どうして?」
「だって、役者は駄目だったんだもの。まー君にばかり負担を掛けたくないわ」
天宅は鈍く笑った。「そんなこと、気にしなくていいのに」「まー君はそういうけど、でも。お母さんと約束したの、二人を立派な大人にするって。だから……」
「おねーちゃんは役者さんにならないとダメ!」
レイが叫んだ。「役者さんにならないとおねーちゃん怖い……」レイが泣き、それにつられてルイが泣いた。景は二人を見ておろおろしていた。「三人とも……」天宅が声を掛けようとしたところで、インターホンの音が鳴った。彼女らの動きが一瞬止まった。「僕が出てくるよ」天宅は玄関の方へ向かった。
「あれ、微人君?!」
ドアを開けると、そこにはアキラがいた。「え、君、え?」アキラは混乱してるようだった。「君に住所教えたことあるっけ」「いやないけど、あれ?……」
「えっと、ここで合ってるはずなんだけど」
「僕に会いに来たんじゃないの?」
「いや、実はオーディションがあって」
天宅は何となく事情を察した。「景ちゃん、お客さんだよ」天宅は家の中に向かって呼びかけた。景がやって来ると、アキラは天宅と彼女を交互に見比べた。「微人君って妹さんいたんだね……あれ、いやでも名字が違うし」アキラは天宅を見たが、天宅は薄く笑っただけだった。アキラは腑に落ちない表情をしながらここに来た理由を説明した。
「君に最終審査に出てほしい」
いつの間にかルイとレイもやって来て、アキラの説明を聞いていた。「ウルトラ仮面だ!」天宅は一歩下がって彼らのやり取りを見ていた。ルイとレイがどんどん笑顔になった、二人を見て景も安心したような表情を浮かべた。「僕も行きたい!」「私も!」「二人は学校に行きなさい」景はそう言ったが、二人は粘った。アキラは少し困ったような表情を浮かべた。
「行って来たらいいさ」
天宅は笑った。「ルイ、レイ。景ちゃんがちゃんと演技できてるか見ててあげてよ。たぶん景ちゃんも緊張するだろうし、知り合いがいた方がいいだろうし」
「いや、でも……」
「頼むよ、アキラ君。事情は後で説明するから」
しばらく天宅とアキラはお互いを見合った。「ちゃんと説明してよ」アキラがため息をついた。「まーくんは行かないの?」ルイが天宅を見上げた。
「実は僕スターズの社長さんと知り合いなんだ。一緒に行ったら、なんだかコネみたいになって嫌でしょ?」
天宅は一人取り残された、彼はすぐに散歩に出かけた。眠っていない、ぼぅっとした、無意味に興奮したからだを引きずって、いつもの街を何度も、何度も確認しながら歩いた。そして彼の街が何も変わっていないことを知って、天宅は心底安心したのだった。太陽が高く天宅を照らした、その光が目を刺激して余計に彼を疲れさせた。
家に帰ると、もう疲れ果てていて、動く気にはなれなかった。天宅は水を浴びるように飲んで空腹をごまかし、壁を背にして、体を投げ出すように座った、そして遠くに見える時計を睨めつけるように、三人が帰ってくるのを待った。
一秒、一分、一時間、天宅は待ち続けた。なかなか彼女たちは帰ってこなかった。帰ってこないのではないか、という思いが彼の胸に去来した。帰ってこないのかもしれない、いや帰ってくる、帰ってこない、帰ってくる、……。
波のように、一定のリズムで、感情が揺れ動いた。天宅は波を見ていた。そして引いていく波に誘われて、海の中に吸い込まれていった。水に揺られながら、天宅は暗い場所へと沈んでいく。不思議と息は苦しくなかった。彼はもがこうとしたが、意味のないことだった。彼はゆっくり沈んでいった、沈没した、もう戻ってこれない船のように。
「まーくん!」
「あれ?」いつの間にか天宅は眠ってしまっていた。「そんなところで寝てたら風邪ひいちゃうよ」ルイとレイが天宅を揺すった。
「ごめん、帰ってくるのを待ってたんだけど、眠ってたみたい」
「別にいいよ、それよりも!おねーちゃんすごかったんだよ!!」
「かっこよかった!」
「あぁ、そういえば、オーディションだったね。どうだったの?」
「おねーちゃんが一番かっこよかった!!」
「景ちゃんは?」
「買い物に行ってるよ」
ルイとレイは景の演技を褒め続けた。「野犬がいて」「おねーちゃんがどばーんって」興奮して、話が途切れ途切れだったため、どんなオーディション内容だったのかは分からなかった。しかし二人の表情から、天宅の選択は間違っていなかったことを感じ取った。
「ルイ、レイ。景ちゃんは確かに普通の人じゃないかもしれないけど、でも、凄かったでしょ?普通じゃないことって、悪いことじゃないんだよ」
天宅は二人を抱きしめた。
「怖いって思うこともあるかもしれないけど、でも、見ててあげて。そうすれば、本当は怖くないってことが分かるから」
「ごめんなさい」レイが謝った。天宅はもっと力強く抱きしめた。
「怒ってるんじゃないんだよ。レイがそう思うことも、自然なことだから」
でも人はどこか普通に見えて、別の部分は普通じゃないんだから。普通なんてその程度のものだから、景ちゃんをちゃんと見ててあげてね。天宅は言わなかった、それを教えるには二人は幼すぎるような気がした。代わりにじっと二人を抱きしめた。
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5
三人は買い物から帰ってきた景を出迎えた。
「おかえりなさい!」
「ただいま」
天宅は多くの聞きたいことを抱えていた、彼女はどこか上の空だった。合格した喜びで現実感がないのか、それとも駄目で落ち込んでいるのか。その様子から天宅の知りたいことをうかがい知ることは困難だった。
ルイとレイに聞くことも出来たが、天宅は彼女の口から聞きたかった、彼女が演じるという行為をどのように捉えるのか、天宅は知りたかった。
しかし景は何も言わなかった。晩御飯の準備をするときも、食卓を囲むとときも、その黒髪やスカートからのびる脚は何も変わってはいなかった。ただ、ときどき彼女の横顔から見える瞳だけが、いつもと違って、ぼんやりと、更に透明に、ここではないどこかを見つめているのだった。
食事を済ませた後、彼女は家の外に出て空を見上げていた。天宅はすぐにでも景の側に座りたかった。しかし彼女は家の中に留まるのではなく、外に出た、その事実が天宅を躊躇させた。それはポーズに違いなかった、彼女は一人になりたいと訴えているのだろう。四人の家ではなくその外側へ、そうすれば彼女は普段の役目から解放され、自分を見つめることができるに違いなかった。
天宅は、形の上ではルイとレイと一緒にテレビを見ていたが、本当はテレビなど全く見ていなかった、彼の心は外にいるはずの景のことばかりが占めていた。
彼は胸の奥から衝動が沸き上がってくるのを感じた、しかしそれに従って景を抱きしめに行ったところで、どうなるのだろうか。景は戸惑いながらも彼を受け入れてくれるだろう、まるで母親のように、まるで少女のように。その想像が彼を苦しめた。天宅は自分の衝動を子供じみたものと見なした、そしてそれを強く押さえつけ、耐えるようにテレビを眺めた、胸の奥では深く景のことを想いながら。
「おねーちゃんまだ外にいるのかな」
「多分、景ちゃんは一人になりたいんだよ。だからそっとしててあげよう」
「ねぇ、まーくん」
「どうしたの?」
「まーくんって本当に役者さんなの?」
天宅は愛想よく笑った。「どういう意味?」レイが天宅を見上げた。
「だってまーくん、全然おねーちゃんみたいじゃないんだもん」
「僕は景ちゃんじゃないからね」
「そうじゃなくて、なんか、まーくんって」レイはしばらく黙った。天宅はできる限り優しく笑いかけた。
「えっと、じゃあ、何でまーくんは役者さんなの?」
「え?」
いつの間にかルイも天宅を見ていた。二人は天宅の答えを待っていた。
「何でって、」
今度は天宅が黙った、静寂が訪れた。「何でだろうね、忘れちゃったよ」天宅は精一杯笑顔を取り繕った。
「本当に忘れちゃったの?」
二人の純粋さが、そのときの天宅には尋問に思えた。彼は痛みを思い出した、それは普段は忘れてしまっている過去の経験だった。天宅は鈍く笑った。
そのとき、静寂を破って、車のブレーキ音が響いた。三人は顔を見合わせた。なにやら外から話し声が聞こえた。「ちょっと見てくるよ」天宅は玄関を開けた。
「黒山墨字、映画監督だ。お前は?」
「夜凪景、役者」
ルイとレイが眠った後、彼は皿を洗った。後ろでは彼女がテーブルに突っ伏しながら天宅を見ていた。彼はときどき振り返って笑って見せた、景もそれに反応して笑みを返した。
「天宅?お前なんでこんなところに……」黒山は苦い顔をした。
「まー君この人と知り合いなの?」
あの後、黒山は彼女を役者の世界に誘った、そのことから天宅は景がオーディションに落ちたことを悟った。
「うん。……お久しぶりです、黒山さん」
「お前たち知り合いか?いや、……もしかしてコレか?」黒山は小指を立てて見せた。天宅は笑った。
「いえ、そういう仲ではありませんよ。僕たちはただ」天宅は黙った。家族、四人の間柄を指すときに使うその言葉を言い出せなかった。
「まあお前たちがどんな関係だろうとどうでもいい。こいつは俺が見つけたんだ、邪魔すんじゃねぇぞ」
「景ちゃんは誰のものでもありませんよ、彼女だけのものです」
「違う、壊すなって言ってんだ」
黒山は天宅を睨んだ。「景ちゃんは壊れませんよ」天宅は小さく言った。
「他でもない黒山さんが見つけたのでしょう?」
しばらく黒山と天宅は見合った。「そうだな」引き下がったのは黒山だった。「じゃあ夜凪、俺は待ってるぞ」黒山は乱暴に去って行った。
「ねぇまー君」
「どうしたの?」
「向こうの人って皆ああなの?」
「どういうこと?」
「ひげ剃ってなくて、なんだか乱暴な感じで、それに」
「それに?」
「まー君を睨んでたわ」
天宅は笑った。
「黒山さんは気に入らなかった?」
「生理的に受け付けないかも」
天宅はまた笑った。「確かにちょっと人を選ぶかもね」
「でも、お仕事一緒にしたことあるけど、いい人だよ。それに、映画の賞を何本も取ってて、一応その界隈では有名な人なんだ。景ちゃんはすごい人にスカウトされたんだよ」
「ふぅーん、人は見かけによらないのね」
皿洗いを終えて、天宅は彼女の隣に座った。自然と景が体重を預けてきた。彼女の髪が天宅をくすぐった。
「私オーディション落ちちゃったわ」
天宅は黙って続きを促した。
「私を含めて四人が最終審査に残ったわ、……他の人がどんな人なのか覚えてないけど。審査はあの、身振り手振りで声を出さないあの」
「パントマイム?」
「そうそれ」
天宅は彼女の髪をすいた。そうすると彼女はより一層彼に体を預けて、声が柔らかくなっていった。
「野犬が目の前にいるっていう設定だったわ。私ね、野犬なんて見たことなかったから戸惑っちゃって、そしたら、あのひげの男が設定を追加してくれたの。野犬は空腹だって、私必死になったわ。だってそこにはルイとレイがいたんだもの」
景は温かかった、そして彼女のにおいが天宅を包み込んだ。
「夢中になって、腕とか噛まれちゃったけど全然痛くなかったわ、演技だから当たり前よね。でもそのときの私はそんなこと全然気にしてなかったの、とにかく二人を守らなきゃって。野犬を倒して、ルイとレイが私の手を握ってくれて、そのとき思い出したの、これは演技だって。そしたら」
天宅は景の言葉を待った、そしてゆっくり景は口を開いた。
「そしたら皆が笑顔になって、拍手してくれて」
「ねぇまー君」景の瞳が天宅を覗き込んだ。「お芝居って楽しいのね」景は微笑んでいた。
「私役者になりたいわ」
「なれるよ、景ちゃんなら」
天宅は優しく笑った。「ありがとう」二人はしばらく黙ってじゃれあった。「眠くなってきたわ」その夜二人は同じ布団で眠った。先に眠ったのは景だった、天宅はしばらく起きていた。
天宅は過去の痛みを思い出していた。それは天宅微人が役者を目指し始めたきっかけの一つだった。彼は何故自分が役者をやっているのか知っていた。しかしその痛みは、景たち三人の調和によって癒され、また忘れてしまうのだろう。
天宅はかみしめるように痛みを味わった。そしてそれは久しぶりにやってきた眠気によって、確かに遠くへゆっくりと退いていくのだった。
「お父さんとお母さんはどんな人でしたか?」「言いたくありません」「何かいつもと違うところはありましたか?」「言いたくないです」「最後に話したことは何ですか?」「……」「両親に会いたいですか?」「そんなこと聞かないでよ」「お父さんとお母さんはどんな人でしたか?」「ねぇ、どうしてそんなこと聞くの?」「何かいつもと違うところはありましたか?」「僕の思い出を汚さないでよ、勝手に思い出に入ってこないでよ」「両親に会いたいですか?」「お願いします、お父さんとお母さんを汚さないでください、お願いします、お願いします、お願いします……」
天宅はそっと景のほほを撫でた。あなたが幸せでありますように、天宅は微笑みを思い出した、ルイが幸せでありますように、レイが幸せでありますように。天宅は微笑んだ。
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6
彼が忘れたいと願った過去がそうであったように、何か大きな変化が起こっていると天宅には思えた。しかし変化が何を意味しているのか分からなかったので、天宅は何も変わらないように、彼の習慣を繰り返すように努めた。
「いってらっしゃい」
彼女らを見送って、家のことを済ませて、散歩に出かける。そして彼女らを出迎えて、また眠る。朝がやって来る。そう、そして今日は灼熱がやってきた。蛇口を捻って顔を洗おうとすると、澄んだ水の代わりに、熱湯があふれ出た。梅雨が明けて、夏がやってきた。
「熱中症に気を付けてね、のどが渇いたと思う前にちゃんとこまめに水分補給するんだよ」
「まーくんもね」
彼は忠告を無視してわざと日差しを歩いた。そうすれば、普段はエアコンに妨げられている夏の感覚を取り戻すことができる。天宅は散歩のとき水を飲まなかった、家に帰ってくると、頭痛と吐き気、そしてだるさに拘束されて、水を浴びるように飲み干すと、床に倒れるように座って、微睡みの中に落ちていった。
彼はぼんやりとした夢に揺られた。夢はゆりかごのように彼の表面を撫でていった。天宅はそれが心地よかった、ルイとレイが彼に甘えているように感じた、景と一緒に眠っているように感じた。しかし、彼が昼寝から目覚めるとき、天宅は決まって現実の醜さと残酷さを思い出した。それは彼が忘れていたことだった、忘れたいと願っていたことだった、きっと本当は忘れられないものに違いなかった。
天宅は彼女たちが帰ってくるのを待ちわびた。三人はこの痛みを癒してくれる。
「ただいま」
「おかえりなさい」
天宅は帰ってくる彼女らを母親のように出迎えた。ルイとレイを撫でて、抱きしめて、景には微笑んだ。
「今日も暑かったね」
「学校はどうだった?」
「水泳の授業でね……」
食卓を囲みながら、天宅は痛みが過去に退いているのを実感した。彼の生まれ育った街のように、彼女らは天宅を受け入れた。
「実は今日撮影があったの」
だからこそ、彼の過去がそうであったように、大きな変化の予兆は天宅の愛する場所からやってきた。「撮影?学校があったんじゃないの?」
「そうなの。学校に向かっていたら、あのひげ男に誘拐されて」
「えぇー!!おねーちゃん変なことされなかった?!」
天宅は笑った。「黒山さんらしいといえばらしいけど、大丈夫だった?」
「うん、着いた場所がスタジオだったから、そこは信用できたわ。車に連れ込まれたときはどうしてろうかと思ったけど」
「僕が後で言っとくよ、景ちゃんに変な事したらダメだって」
「おねーちゃんほんとに大丈夫?」
ルイとレイが心配そうに景を見上げた。「大丈夫よ……実はお土産があるの」
「お土産?」
「うん、本当は駄目らしいのだけど、三人に見せたいからって強引にもらってきたものがあるの」
「へえ、何をもらってきたの?」
「CMの素材」
「見ててね」そう言って景はDVDを再生した。天宅は鈍く笑った、そこには景が映し出されていた、四人の最も古い思い出の一つを想起させた。「これは……」天宅は口をつぐんだ、「すごい!」ルイとレイは興奮したように景を褒めたたえた。
「初めて三人に料理を作ったときのことを思い出したの。覚えてる?カレーつくろうとして、でも初めてだったから、失敗しちゃって」
景は懐かしむように笑った。
「それまではまー君がつくってくれてたから、私料理があんなに難しいとは知らなくて、でも三人に美味しいものを食べてほしくて、完成したとき、もう焦げ臭いにおいがしてたでしょ?」
「そんなこともあったね」ルイが言った。
「三人ともおいしいって食べてくれて……文句も言わないで。そのとき、私が泣いちゃったの覚えてる?三人ともびっくりして、おろおろしてたわ。そのうち私につられてルイとレイも泣いちゃって、まー君がもっとおろおろしてたわ」
「泣いたのは情けなかったんじゃないの、嬉しくて、安心したの」景は安らぐように笑った。
「私ってこんなに綺麗だったのね」
その笑顔を見たとき、天宅は微笑んだ。「うん、景ちゃんは綺麗だよ。こんな演技ができるなら、役者の頂点に立つことも夢じゃないんじゃない?」
「ほんとー!?」
反応したのはルイとレイだった。「やっぱりおねーちゃんはすごいね!」景はぼんやりと天宅を見つめた。「そうかしら?」
「そうだよ、だって景ちゃんだもん」
「ねー」天宅はルイとレイに同意を求めた、彼らは喜んで賛成した。彼女ははにかんだ。彼は景を褒めた、子の成長を喜ぶ父親のように、子が離れていく悲しみをごまかす母親のように。
天宅は知っていた、変化の震源地が夜凪景であることを。彼はその変化の意味を測りかねていた。夜凪景は役者になった、ただの少女であることをやめて。そのことがこの四人の関係をどうしてしまうのか、天宅は知らなかった。だから天宅は、愛する四人に向かって微笑み続けた、何も変わってしまわないように。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
しかし今日は彼が見送られる番だった。ある日曜の夕方、彼は一人で外に出かけた。会わなければならない人がいた。
彼は彷徨うように街を通り抜けていった。彼は汗をかいた。しかしその汗は、彼女に会う前には消し去らなければならなかった。天宅は約束の場所にたどり着く前に、新品の洋服を買いそろえ、トイレの個室で着替えた、着ていたものはゴミ箱に捨てた。そして鏡に映る新しくなった自分を眺めて、ゆっくりと、隙のないように、安心させるように、微笑んで見せた。
「お久しぶりです、お義母さん……」
「久しぶりね、微人」
彼は鏡に向かってやってみたのと同じように、星アリサに微笑んだ。彼女は表情を変えることなく天宅を見ていた。
「いつ以来ですかね」
「二か月ぶりよ」
二人はレストランに腰を下ろした。窓の向こうには夜が訪れた街の姿があった、彼が歩いてくる最中に夜になっていた。
「もうすっかり夏になりましたね」
「そうね」
「冷房なしじゃやっていけませんよ」
「ええ」
「でも、暑さで嫌になっても、僕は夏が好きです」
「昔からそうだったわね」
「この前トマトを食べたんですが、びっくりしましたよ。季節によってあんなに味が変わるなんて」
「トマトは嫌いじゃなかったかしら?」
「はい、嫌いでした。でも、食べられるようになったんです」
天宅は微笑んだ、アリサは表情を変えずにじっと彼を見ていた。そしてその静かな瞳に促されるように、天宅は饒舌になった。
二人は穏やかに食事した。天宅は何度も笑いかけた、アリサは静かに受け止めた。だから天宅は自分から、アリサが聞きたいであろうことを話した。
「景ちゃんはどうでしたか?」
アリサは目を瞑った、そして静寂が訪れた。聞こえるのは、店が流している音楽と、ほんの少しのざわめきだった。
「夜凪景を見たとき、あなたのことを思い出したわ、微人」
「僕のことですか?」
「ええ」
彼女はワインに口をつけた。「あなたたちは似ているわ」
「僕と景ちゃんが、ですか?いいえ、僕たちは違う人間です」そう言って、天宅は自分が鈍く笑っているのを感じた。
「そうね。演技の方法論は全く別ものだったわ。あなたは自分を捨てた、夜凪景は自分を探している。真逆ね、でも……」
「昔のあなたにそっくりよ」アリサは天宅を見つめた。
「黒山から聞いたわ、夜凪景の家に出入りしているそうね」
「はい」
「あなたが、彼女をああいう人間にしたのかしら?」
アリサはほとんど睨むように彼を見た。
「いいえ、僕ではありません」天宅は微笑んだ。「僕と景ちゃんは幼馴染です。あのコンクリートの家の隣が彼女の家なんです。昔はよく一緒に遊んでいました……あの時以来、僕がお義母さんに引き取られて、彼女とは疎遠になりました。そして僕があの家に帰ってきたとき、もう景ちゃんはああなっていました」
「そう……」また、彼女は静かに天宅を見つめた。
「夜凪景は黒山のところの事務所に入ったわ」
「はい、景ちゃんから聞きました」
「あなたは止めなかったの?」
「なぜですか?」
「役者は幸せにはなれないわ」
「いいえ、僕のお父さんとお母さんは幸せでした」天宅はかぶりを振った。
「あなたはいつまでも変わらないのね」彼女は目を瞑っていた、しかし天宅には、景が天宅を求めるときのように、星アリサは何かに耐えているように見えた。ただその仕草は景と違って、不安を感じさせず、まるで神聖な祈りのようにも、微笑みのようにも思えた。
アリサはまた静かに天宅を見つめるのだった。彼女はその話題を話すのをやめた。代わりに天宅は饒舌に話した。そうして穏やかに、彼らの時間は過ぎていった。
「送っていくわよ」
帰り際、アリサは天宅に声をかけた。天宅は微笑んだ。「今は歩いて帰りたい気分なんです」
「あなたは本当に歩くのが好きね」
天宅はわざと遠回りして帰った。習慣とは反対に、本当に、彼は歩きたい気分だった。繁華街や、ビジネス街、路地裏を通り抜けた。明日やって来るはずの月曜日に抵抗するように、まだ人々は自分の家には帰ろうとはしていなかった。
天宅は星アリサの静かさが好きだった。その静かさの前でなら、もう戻ってこない過去のように、優しくなれるような気がした。彼は過去を抱きしめるように、街を徘徊した。
「安心してもらえたかな」
天宅のつぶやきは、人々の雑踏に踏みつぶされて、彼以外には誰も聞こえなかった。
「安心してもらえたかな」
天宅は呪いのように繰り返し呟いた、しかし彼の顔には、まるでただの少年のような微笑みが浮かんでいた。星アリサの静かさは、覚悟のようにも、うれしさのようにも、悲しみのようにも、思えた。だからせめて、彼女の不安を呼び起こさせないように、天宅は手紙をつづるように彼女に笑いかけるのだった。
親友(アキラ君)と主人公は兄弟だった?!
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