御使い様伝説 (七節蒸)
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幕開
始点


列車がトンネルを抜けると、薄曇りの空から射す光が車内を照らす。ガタンゴトンとレイルを走る音を聞きながら、窓の外へと意識を向ける。深い緑色で覆われた光景は、随分と遠くまで来たことを感じさせる。

何故自分―――加治達也(かじたつや)が、こんな山中で列車に揺られているかというと事の発端は数日前に入った親父の訃報(ふほう)であった。それは、久しく会っていない叔母から。親父が亡くなったため、遺品整理などのために一度実家まで戻ってきて欲しいとのことだった。

……その時、自分はその訃報を聞いてもどこか他人事のように感じていた。両親は自分が幼い頃に離婚し、自分は母方に引き取られた。それ以降、親父とは一度も顔を合わせておらず、どう反応すれば良いのかわからないというのが正直なところだ。そういった理由もあって断ってしまってもよかったのだが……叔母さんには昔、色々と世話になった。ならば、せめて最後の恩返しとして身内の不始末ぐらいは面倒をみよう。過去の自分はそう考え、久々の帰郷を決めたのであった。

……

回想に浸っていると、窓外の光景に変化が生じていることに気がつく。緑林の中にコンクリートの灰色がちらほらと混じり始めている。視線を列車の先に移すと、そこには山麓に多数の建造物が並んでいるのが見て取れる。

帰ってきた……その懐かしい光景に情緒に浸っていると、ふと違和感を感じる。確かに自分は、望郷の念とは別に、何やら言葉で言い表せない胸のざわめきを感じとっていた。

―――しかしこの時、自分はまだ知らなかったのである。この胸のざわめきが一体何を伝えようとしていたかということを……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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1日目

ホームへと降りる。駅は最低限の管理しかされていないのか、地面のアスファルトは所々ひび割れ、侵入防止用の鉄網など錆びて所々に子供が通れそうなほどの穴が開いている。改札も、当然電子通貨など使える筈もなく今にも壊れそうな改札機に切符を通して通過する。

外に出ると、自分を出迎えたのは古い記憶の中にわずかに残る情景とまったく変わらぬ街並みであった。駅を中心とした半円、立ち並ぶ建造物は半分以上が閉まっており、かつての繁栄の名残を感じさせる。足元に敷かれ街中を縦横無尽に駆け巡るレイルは、かつての路面電車のものであり、今となっては錆びきってアスファルトとの隙間から雑草が顔を出している。そんな衰退の道を邁進している街並みを見て呆れ半分、懐かしさ半分を感じていると、背後から声を掛けられる。

「達也くん」

その声には聞き覚えがあった。振り返った先に居たのは年配の女性。こちらを見て嬉しそうに手を振っていた。

「お久しぶりです、京子さん」

彼女は辰巳京子(たつみきょうこ)。つい先日、自分に訃報をくれたその人であった。

「わざわざ待っていてくれたんですか、なんだか申し訳ないです」

「いいのよ。私が呼んだんだから、これくらいはしないとね」

実家への道筋などとうの昔に忘れていた自分にとって、その気遣いは大変ありがたかったため素直に礼を言う。

「それじゃあ、積もる話もあるでしょうけど、それは歩きながらにしましょうか」

「ええ」

そうして、自分は先導し始めた彼女の後に続いて歩き出す。

 

 

 

「久しぶりの故郷はどうかしら?」

前を歩く京子さんが、唐突にそんなことを訊ねてきた。

「……とても懐かしい感じがします」

なるべく角の立たない返答をしたつもりだったが、彼女はすべてお見通しと言わんばかりにころころと笑う。

「ごめんなさい、いじわるするつもりはなかったの」

この街―――葛森(かずらもり)は山麓に作られた街であり、周囲は山々に囲まれた陸の孤島だ。その分自然豊かでもある。かつては、そんな環境に目を付け観光地として売り出そうとしたこともあったらしいが、様々な要因が重なって計画は頓挫、現在はその名残を街のあちらこちらに見ることができる。しかし、計画自体は失敗したものの、その恵まれた自然環境は本物だ。

大きく深呼吸をする。都会とは違う濃い緑の匂いを感じる。空気が澄んでいて、息をするごとに肺から体内が浄化されていくのがわかる。

「いい場所ですね」

「そう言ってくれると嬉しいわ」

……

話ながら歩いていると橋に出た。橋を挟んで向こう側は、今までの街の様子と様変わりしている。

先ほどまではアスファルトの現代風の建造物が多かったのに対し、向こう側はひと昔前の木造建造物が目立つ。

……確か、ここから先は旧市街だったはずだ。葛森は大まかに新市街と旧市街で分かれている。新市街は街の開発計画の際に新たに増築された区域。旧市街はそれ以前から葛森に住んでいた人たちの区域である。今目指している親父の実家は旧市街の一角に位置しているため、そのまま橋を渡って旧市街へと入っていく。新市街も随分と年季が入っていたが、旧市街のそれとは比べ物になるまい。ただ、それは長年丁寧に使いこまれてきたことがわかる、どことなく威厳さえ感じさせるような……そんな古臭さであった。

懐かしい匂いを感じる……

……

「そろそろ見えてくるわ」

自分を現実へと引き戻したのは、そんな彼女の声だった。彼女が指差す先を見る。視界の端に映り始めたそれは、記憶の奥底に眠っていた幼き頃の情景を想起させた。周囲に負けず劣らず年季の入った木造一軒家。それは自分が幼き時を過ごした古巣であった。

 

 

 

「私の家はすぐ隣だから、何かあったら遠慮なく呼んでね」

そう言う京子さんと別れた後、彼女から受け取った鍵を玄関の鍵穴に差し込む。カチリと音がする。ガラス戸をスライドさせ扉を開くと、そこは長年の放置された埃が積もりに積もった玄関であった。

地面に絨毯のように敷かれた埃に幾つかの足跡があるので、玄関を使っていなかったというわけではなさそうだが……。そういえば親父は母に注意されなければ碌に掃除もしない人だったことを思い出す。そんな男が一人暮らしをしていればまあこうなるかと呆れ半分に納得した自分は、靴を脱いで廊下に上がる。

屋内の空気は木造建造物特有の匂いをはらんでいた。辺り一面は静寂で満たされ、そこにいるとまるで自分の胸の鼓動まで聞こえてきそうな錯覚をするほどだった。そんな中、足音を響かせながら今から数日を過ごすことになるこの家について把握しておこうと家屋の散策を開始する。

……

いくつかの部屋を確認した後、1階の玄関から左に向かった突き当りの部屋の扉を開けた時にそれは起きた。特に警戒することなくドアノブを捻りそのまま引く。

「な!?」

―――瞬間、膨大な数の本が部屋から雪崩のように飛び出してきた。あまりに唐突であったため回避も間に合わず、そのまま本の波に押し流される。

……

雪崩が収まった事を確認し、体の上に積み重なっている本をどけていく。

「……酷い目にあった」

一体何が起こったのかと部屋の中を確認する。

そこは書斎であった。入り口以外の壁には本棚が設置されており、その全てに隙間なく本が詰め込まれている。そればかりか、本棚に入りきらなかったのだろうと思われる本が塔のように部屋のあちらこちらに積み上げられていた。

どうやら先ほどの雪崩は、扉を開けた際の振動で塔のいくつかが倒れてきたようだ。そんな光景に今は亡き親父に怒りを感じていると、床に落ちている一冊のノートが目に入る。

その表紙には、親父の筆跡と思われる文字で『御使い様伝説』と記述されていた。研究ノートか何かだろうか?

少し興味は惹かれるが、こんなものを読んでいては日が暮れてしまう。とりあえず後片付けは明日やることにして、今日は他の部屋を見て回ろう。そう決めた自分は、まだ確認できていない残りの部屋に向かっていくのであった。

 

 

 

夜、さすがに長旅の疲れが出てきたのか瞼が重くなってきた。屋内の探索も一通り終わったので、最低限の戸締りなどだけして床に就くことにする。

風呂場で軽く汗を流してから布団を敷いて、そのまま埃臭い布団を被り明日のことを考える。

目を閉じて思考を巡らせていると意識が遠くなってくる……

そうして自分は……

そのまま……

堕ちていく……

………………

…………

……

気がつくと、知らない屋敷の廊下に立っていた。障子に囲われた廊下が延々と続いており、周囲は薄暗いため廊下の終端を見渡すことが困難であった。

さて、埃臭い布団にくるまって就寝した以降の記憶はない。ならばこれは夢か、とも考えたがそれにしては妙に現実感が付きまとう。ともかく、ここに突っ立っていても仕方があるまい、奥へと行けば誰かいるかもしれない。

そうして自分は、何かに引き寄せられるように廊下の奥へ奥へと進んでいくのであった。

……

ぎいぎいと木張りの廊下を歩いていく。もうだいぶ歩いているはずだが、廊下の端にはいまだに辿り着かない。途中何度か廊下を囲んでいる障子を開けようとしてみたが、障子はまるで空間に固定されたかのようにぴくりともしなかった。

そしてあることに気がつく、先程から何の代わり映えもしない廊下を歩いてるだけだと考えていたのだがどうやらそうではないらしい。廊下が徐々に暗くなってきている。床の木目の切れ目を数えてみると、最初は切れ目が六つ先まで見えていたのに対し、今は精々が切れ目三つ先程度までしか見えないところから考えるに、どうやら気のせいではないらしい。

……一度引き返した方がいいというのは理性ではわかっているのだが、何故だかそうする気にはなれなかった。何故こんなに意固地になっているのだろうという考えが頭をよぎる。しかしすぐに不思議な昂揚感に押し流されてしまう。

……

―――そうして、ついにその時が訪れた。

周囲が闇に満たされる。生まれて初めて体験する真の闇というものであった。そんな中にいると、自分が今本当に歩いているのかもわからなくなり、自身の輪郭があやふやになってくる。自我が闇に溶けていく―――感覚が四方に広がり普段では感じとれないものまで感じられるようになってくる。

『また来たんだね』

若い男の声が聞こえる。

また……?

どういうことだろう……自分にはこんな場所の覚えなどない。

『おや、忘れてしまったのかい』

今度は老年の男性の落ち着いた声が。

『可哀そうだわ』

少女のような甲高い声が。

彼らは一体何を言っている……?

自分のことを知っているのか……?

『知っているわよ、貴方とは随分と長い付き合いだもの』

そういう声には、不思議とこちらを気遣うような感情が感じられた。

これは……哀れみ……?

お前たちは……誰なんだ……?

『僕たちは―――』

―――突如、光が射し込む。

突然のことに、目をつぶってしまう。そして、次に目を開けた時には、周囲の闇も先ほどまでの気配も消え去っていた。

先ほどまで自分は一体何と話していたのか……

背筋に薄ら寒いものを感じながらも、灯りに向かって進んでいく。正体は判らないが、それでもその灯りは、自分にとって文字通り暗闇に射した一筋の光明に思えたのだ。

近づいていくと次第にその輪郭が明らかになってくる。

そうして、それを見た自分は思わず足を止める。

―――それは、着物姿の少女であった。

いや……本当に少女なのだろうか?

そう断言するには彼女の纏う雰囲気が人間離れしすぎている。空間を侵すような存在感、しかし力強さを感じるかと言われるとそうではなく、非常に儚く……触れたら割れてしまいそうな、そんな相反する印象を与える。そんな精霊のような純朴さと、娼婦のような艶やかさを併せ持つ彼女は、無数の灯籠に囲まれて、虚空に座していた。

その魔的な雰囲気に心を奪われていると、彼女はこちらを見て微笑んだ。

「また……巡ったのね」

少女がするにはあまりにも蠱惑的な笑みは自分を捉えて離さない。

彼女は立ちあがって、まるで重力を感じさせないかのようなふわふわとした足取りで近寄ってくる。

そうして自分の眼前で止まったかと思うと、その手を自分の頬に添える。

「ふふ、いい子ね……」

頬に当てられた指先から彼女の熱が、サラサラと流れる彼女の髪からは、何やら花のような匂いが空気と混じり合って感じとれる。

そして彼女のこちらを見つめる赤い瞳に、自分は魅入られてしまっていた。

「き、君は一体……?」

内側からわき上がる衝動を抑えながら、声をなんとか絞り出す。

その言葉に、彼女はまるで悪童のように、

「そうねぇ、貴方が私を見つけられたら教えてあげる」

そう言った彼女は、頬から手を離し自分の胸をとんと押す。

すると彼女はまるで重力に逆らうかのように宙へと上昇を始めたではないか。

―――否、自分が落ちているのだ!

床はいつの間にかに消滅し、底にある無限の闇へと落ちていく。

そうして、意識までもが闇に飲まれようとするその瞬間―――

「待っているわ……」

少し物悲しさを感じさせるような彼女が、何故だか印象に残った。



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2日目

翌日。

朝から遺品整理に着手していた自分は、昼になるころには既に疲れ果てていた。

窓から外の様子を確認する。空は相変わらずの曇天で、雨が降ったりやんだりしている。

……少しお腹も減ってきたことだし、お昼は外食にしようか。

靴を履いて、傘を手に外に出る。

ポツポツポツ……

小降りの雨が、傘にはじかれる音に聞きながら歩く。雨の中の旧市街は、人影が消えてひっそりとしていた。まるで街を独り占めしたかのような得意げな気分になりながら歩いていると、前から誰かが歩いてくるのに気がつく。

「げっ」

こちらを見た女性にいきなりそんな反応をされた。

……知り合いだろうか、彼女の顔を見る。

年は……20代前半くらいだろうか、パッチリとした目からは意志の強さを感じさせる。記憶の中を探すが、残念ながら彼女に心当たりはなかった。覚えていないものはしょうがない、軽く会釈だけして横を通り過ぎようとする。

「……ちょっと、まさか私のこと覚えてないの?」

こちらをまるで信じられないものを見るかのような目で睨みつける彼女。

しかし、本当にわからないものはわからないのだ。しかたがないので正直に白状する。

「すいません、どちら様でしたっけ?」

その一言は、彼女の機嫌をより一層悪化させる。

「もういい!」

そう言うと彼女は、踵を返しそのまま走り去ってしまった。

「……何だったんだ、一体?」

そこには、ただただ呆気にとられた自分だけが取り残された。

 

 

 

新市街での昼食後、自分は食後の運動として街の外縁をぐるりと遠回りする帰路についていた。

その途中、妙なモノを発見する。

木々で覆われた砂利道の脇になにやら黒い塊が落ちていた。近づくにつれて、強烈な腐臭が鼻を突く。思わず鼻を塞ぎながら、近づいて匂いの元を確認する。

―――それは、野犬の死骸であった。

死骸は全身がズタズタに引き裂かれており、その顔はまるで断末魔を挙げた瞬間で時が止まったかのような凄惨な有り様だった。しばらく放置されていたのか、このじめじめした熱気の中で傷口から見える肉が腐り始めていた。

……熊にでもやられたのだろうか。

そのあまりにも唐突な死を濃く感じさせる出来事にしばらくの間唖然としていたが、こんなことをしている場合ではないと我に返る。

警察に通報するべきだろう。少なくともこんなことができる生物が人里近くに出現したというだけで理由は十分だ。

来た道を引き返し、この街唯一の交番へと向かう。

……

数十分後、再び現場に戻ってきたとき、そこには人だかりができていた。流石は田舎というべきか、自分が警察に駆け込んだ後あっという間に話が街中に広がっていた。

そんな人だかりの中に、知ってる顔を見つける。

「京子さん」

「あら、達也くん」

買い物帰りだったのだろう、手には中身が詰め込まれたスーパーの袋が握られていた。

「買い物の帰りですか?」

「ええ、途中で熊が出たって話を聞いてね」

「……やっぱりこれって熊なんですかね」

「多分ね、一応猟友会の人たちが出てくれるって話だけれども……こうも多いと嫌になっちゃうわね」

「……」

恐らく京子さんが言っているのは、俺の親父のことであろう。親父は、街はずれで無残な姿になって発見された。下手人は山に生息する猛獣だろうと推測され大規模な山狩りが行われたものの、結局成果は上がらなかった。

その時の奴が戻ってきたのだろうか……

そんなことを考えていると、京子さんがハッとした顔でこちらを見て頭を下げる。

「……ごめんなさい、無神経だったわ」

「いえ……気にしてませんので」

そして彼女は、改めてこちらを向くと真剣な表情で言った。

「でも達也くん、気を付けてね。それこそ滅多にないことだけど過去の記録では、獣が街中まで入り込んできたってこともあったみたいだから」

「はい、気を付けます」

答えを聞いて安心そうにした彼女と別れ帰路の途中、自分は何か頭の中に引っかかりを覚えていた。

京子さんの顔を思い出すと何かが引っかかる……すでに今日どこかで見たような……

そうしていると頭の中で点と点が繋がる。

「そうか、斎か」

思い返してみれば昼頃に会った女性、どこか京子さんの面影があった。自分の推測が正しいのであればそれもそのはずで、彼女の名前は辰巳斎(たつみいつき)、京子さんの娘で自分の従妹になる。会ったのなどそれこそ数十年ぶりで顔つきもすっかり変わっていたため誰だかわからなかった。

……しかし、先程の彼女のリアクションから察せられるように自分達の仲はあまり良好とはいえなかった。彼女は非常にさっぱりした性格で思ったことをすぐに口にするタイプだ。どちらかというと内向的な自分とは相性が悪く会話などほとんどしていなかった。

不幸中の幸いというべきか、気を付けていれば彼女と関わることはなさそうなので注意しておくべきだろう。誰だって見えてる地雷を踏みたくはないのだから。



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3日目

灰色の空、灰色の地面。空気はじめじめとした湿気をはらみ汗が肌を流れる。アスファルトで舗装された道は雨を弾き水たまりを作っている。

そのような新市街の街並みを自分は歩いていた。それは予定していた計画に狂いが生じたことに起因する。当初の予定として、遺品整理は数日で終わらせるつもりであった。しかしすぐにその判断を覆すこととなる、遺品の数があまりにも膨大すぎたのだ。こうなってしまえば長期戦の構えでいく他なく、こうして改めて生活に必要な日用品を買い集めているのであった。

スーパーや雑貨店などの生活に必要なものを売っている店は、だいたい新市街に集まっている。また本屋や駄菓子屋などの娯楽品も手に入れることが出来る為、新市街にはこの街で生活するために必要なものがすべて揃っているといっても過言ではない。そのためだろうか、新市街には旧市街より人の気配を濃く感じていた。

ショウケースに展示してあるアンティーク時計を眺めていると、ガラスに映った女性に気がつく。背後にいる彼女は少し申し訳なさそうな顔をしながらこちらを見ていた。

「すみません、少しお時間よろしいでしょうか」

振り返った自分への第一声は、内容とは裏腹にシンと空間に響くものであった。

「……なんでしょうか」

「道をおたずねしたくて……」

先日のことがあったため少し警戒していたが、今度は本当に初対面だったようだ。……しかしだ、道など聞かれたところで葛森の地理など答えられることのほうが少ない。だが、そんな自分の事情など知りようがない彼女は話を進めていく。

「この街の郷土資料館や図書館の場所を知りたくて」

……軽く記憶を漁ってみるが残念ながら心当たりがない。

「申し訳ないが俺も葛森には野暮用があって滞在しているだけでね、地理には詳しくないんだ」

「そうだったんですか、それは失礼しました」

「……ただ交番の場所ならわかるから、そこで聞いてみたらどうだろう」

そう言って彼女に交番の場所を教える。

「ありがとうございます」

そう言うと彼女は、軽く会釈してから去っていった。

しかし彼女は何者だろう、葛森の人間ではないようだが。年は恐らく二十にとどいてないくらいだろうと思う。……まあ自分には関係のないことか。

湧いた疑問を頭の片隅に追いやり歩き出す。

 

 

 

葛森の西端の外れ、そこには直径数十メートル程度の小さな湖がある。那垂湖(なたれこ)と呼ばれるこの湖は様々な生物が生息しており、昔はここでよく釣りをしたことを覚えている。周囲は森に囲まれており、岸辺からは今にも壊れてしまいそうなぼろぼろの桟橋がかけられていた。

本当は来る予定などなかったのだが、近くを通った時に懐かしむ想いに負けてつい寄り道してしまった。街から少し外れてしまっているが先日の事件は街の反対側で起こった出来事のため大丈夫だろう。

湖面に近づく。水は濁っており中の様子を窺うことはできない。しかし時折、水面に映る影がそこに潜むものたちへの想像を掻き立てる。

……暇を見つけてまた釣りに来てもいいかもしれないな。

そう考えて桟橋に視線を移す。

「ん?」

―――まだ小学生くらいだと思われる少女が、桟橋の上に立っていた。

どうやら先客がいたらしい。気配が薄く実際に見るまで存在に気がつかなかった―――いや、実際に見ている今でさえ注意していなければ、そのまま空気に溶けてしまいそうな……そんな儚さを感じる。彼女はこちらに気づいていないのかぼんやりと湖面を見つめ続けている。

……いけない。ついつい彼女を見続けてしまっていたが、こうも長時間知らない男から無遠慮に見つめられていては彼女も愉快ではあるまい。……たとえこちらに気がついていないとしても。

踵を返して湖から離れ始める。そうして数歩進んだ時。

ぽちゃん。

背後から何か水が跳ねる音がした。

訝しんで振り向くと桟橋の上から彼女が消えていた。まさか本当に溶けてなくなってしまったか……などと阿呆なことも考えたが、水面に立っている波紋を見て背筋に冷たいものが走る。

湖に向かって走り出し、そのまま躊躇うことなく湖に飛び込んだ。

いくら温かい時季とはいえ、さすがに水中は冷たく皮膚がピンと張りつめている感触がする。水が濁っているため先を見通すことはできないが、それでも必死に腕を振り回した。

右手が何か大きなものに当たった!

そのままそれを掴んで引き寄せる。

……重い! が持ち上げられないほどではない。

水面上に持ち上げたそれの正体は、想像通り先ほどの少女であった。

彼女を桟橋の上にあげて、そのまま自分も上がる。

「はぁっはぁっ」

息苦しい、水を吸った服が肌に張り付いて気持ちが悪い。服の下に何やら異物感を感じて覗きこんでみると、何匹かの小魚が入りこんでいた。上着を脱いで魚を湖に投げ捨てる。

そうこうしているうちに気がついたのか、彼女は相変わらずどこを見ているのか分かり辛い瞳でこちらを見つめていた。

「どうして私を連れ戻したんですか?」

彼女はそんなことを言い出した。その表情からは不満が見て取れ、とてもではないが命の恩人に対する態度ではなかった。

……正直、少しイラついたが、ここでキツイ言い方をして同じことをされてはたまらない。なるべく刺激しないような言葉を選んで話しかける。

「何があったかはしらないけど、もう少し色々と考えてからでも遅くはないんじゃないか」

彼女の口からは溜息が漏れた。

「……別に自殺しようとしたわけではありません」

そう言うともう話すことはないとばかりに、そのまま走り去ってしまった。

そうして、そこには全身びしょ濡れのまま唖然とした自分だけが取り残されたのであった。

 

 

 

夜、疲れていた自分は、早めに床に就いていた。部屋の天井にぶら下がった電球が燈色に怪しく輝く。そんな灯りを見つめていると意識が燈色に溶けていくかのように感じられてぼんやりとしてしまう。

……おぉぉ……ん……

野犬の鳴き声だろうか……耳を澄ましてみるがもう聞こえない。そんなことをしている間にも、意識はだんだんと曖昧になり夢と現実の境界があやふやになってくる。そのまま、意識がぼぅっと濁り途切れてしまうその瞬間―――

……おぉぉ……ん……

どこか空虚さをはらんだ声が、空にこだました。



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4日目

サァ……

雨が優しく屋根を叩く音で意識が覚醒する。まだ寝足りないのか瞼が重く意識に霞みが掛かっている。その気持ちよさに身をゆだねていれば、意識は再び堕ちていくことだろう。

怠惰的な衝動に身を任せようとしていると、突如眉間に突き刺さるような鋭い音が部屋中に響き渡る。

ビクリと体を硬直させた自分は部屋の片隅を見る。そこには先日買ってきた目覚まし時計が置かれていた。薄い円柱型の本体の上部にベルが2つ付いたレトロチックな時計である。店頭で見つけた時はお洒落で良いじゃないかなどと思っていたが、その爆音で起こされた今となっては、その存在がただただ憎たらしい。

這う這うの体で布団から抜け出し目覚ましのスイッチを切る。まだ頭は重いが目はすっかり覚めてしまった。怪しい足取りで洗面台までたどり着き顔を洗うが、ガラスに映る顔は何だかむくんで見える。

……なんだか体が熱く、少し熱っぽい気がする。先日、湖に飛び込んだのが祟ったのだろうか。胸の奥の火照りが不快でしょうがない。

その熱に我慢できず傘もささずに外に出る。

空気は相変わらず湿気をはらみ不快感を与えるが、それでも肌をさす雨粒が冷たくて気持ちいい。そのまま雨に身を任せ続ける。しばらくそうしていると体が冷えてきたのか体内の熱が引いていくのを感じる。

さすがにこれ以上は逆に体調が悪化する、そう考え屋内へ引き返そうとした自分の耳が話し声を拾う。それは隣家の辰巳家からであった。

この時の自分が何を考えていたのかはわからない。ただ直観的に何かを感じ取って会話の内容に聞き耳を立てる。

「まだ見つかりませんか」

「ええ、外縁部なども探しちゃいるのですが……」

話しているのは女性と男性。女性は京子さんだろう、男性は……この声には聞き覚えがある、駐在警官の1人だったはずだ。何かを探しているようだが……

「野犬のこともありますし、私心配で……」

「安心なさってください、娘さんは必ず見つけます」

……まさか、斎のやつが行方不明になった?

嫌な考えが頭をよぎる。野犬の死骸、昨夜の遠吠え……これだけの要素が揃っていれば否が応でも繋げて考えてしまう。

そんなことを考えていると話が終わったのか警官の足音がこちらに近づいてくる。盗み聞きをした後ろめたさからか、自分は逃げるようにその場を後にした。

 

 

 

屋内に戻った自分は遺品整理をするわけでもなく畳に寝そべり天井をボーと見つめていた。とても作業に集中できる気分ではなかった。自分の頭の中では先ほどの会話が、壊れたカセットテープのように繰り返し再生されていた。確かに斎とは仲が良かったとはいえないが、それでも身近な人間の失踪という事実は思った以上に自分を動揺させたらしい。

カチッ、カチッ、時計の秒針が時間を刻む音が室内に響く。やはりまだ体調が悪いのか頭がぼやけてくる。思考がまとまらず、記憶は回帰していく。

……

……幼いころ、まだ小学生くらいの時は斎とは仲が良く毎日のように遊んでいた。あまり活発ではなかった自分を斎がいつも引っ張り回していた。それでも決して不快なものではなく……まあ上手くかみ合っていたのだろう。ああ……でも……

……

 

 

 

揺れている、揺れている。波に揺られるように、とぷんとぷんと。音はなく、辺りは優しい静寂に満たされていた。

『……て』

波紋が静寂を侵しす。じわりと自分の中に染みわたっていき心地よい。

『…きて』

なんといっているのであろうか……その心地よい声をもっと聞かせて欲しい。

溶けていた自分を搔き集め耳を澄ます。

『起きて』

「っ!?」

瞬間、まるで無理矢理引き上げられたかのように意識が覚醒する。

落下にもにたそれは背筋を冷やし、混乱を引き起こしていた。周囲を確認する、そこはここ数日ですかり見慣れた居間であった。……どうやら、いつのまにかに寝てしまっていたらしい。

緊張して汗でもかいたのか、なんだかとても咽が渇いてしまった。水を飲みに行こうと障子を開ける。

「……」

―――そこは、一面が赤く染まった世界であった。

空も、大地も、遠くの山々も全てが赤く染まっている。雨はいつの間にかにやみ、雲の消え去った空には赤い月が浮かぶ。月は痛々しいほど美しく、見ているとなんだか無性に哀しくなってくる。

あまりの事体に言葉を失う。神秘的な光景、しかしそれは自分に不安を感じさせる。何か……このままでは取り返しがつかないことが起こってしまいそうな、そんな不安を。

走り出す。誰でもいい、とにかく一人でいたくなかった。

「誰かいませんか!」

隣の辰巳家の呼び鈴を鳴らし、ドアを何度も叩く。迷惑だとかそんなことを考えている余裕はなかった。……何の反応もない。他の家も同じように回ってみたが、どこも同じであった。おかしい、これだけ騒いで誰一人出てこないというのは異常だ。こうなったらと覚悟を決めて家の窓ガラスを破壊し、そこから侵入して家屋を捜索する。しかし相変わらず人ひとり見つけることが出来ない。

「……一体どうなっているんだ」

街中を駆ける、まるで何かから逃げるかのように。街はもはや自分以外の人間が死に絶えてしまったかのような静けさに包まれていた。そんな頭に浮かんだ考えを振り払うかのように走り続けた。

―――限界はそう遠くはなかった。

足をもつれさせて地面を無様に転げまわる。そのまま大の字になって変わり果てた空を仰いだ。

早鐘を打っていた心臓が落ち着いてくると改めて考える。……どうしてこうなってしまったのだろうか、少し前までは街はこんなではなかったはずだ。しかしいくら考えても答えなど出る筈もなかった。

手を月に向かって伸ばす―――指の隙間からは赤い光が漏れている。……不思議だ。自分はこの世界の在り方に不気味さを感じつつも、どこか惹かれていた。理由はわからない、ただまるで時間が止まってしまったかのようなこの世界が何故だかとても美しく感じるのだ。

―――そんな想いに浸っていた自分を現実に引き戻したのは、肌を刺すかのような獣の唸り声であった。

それは建物の影と同化してこちらを睨みつけていた。……否、それは別に睨んでいるつもりなどないだろう。まるで機械のような無機質な目―――しかしこちらを委縮させるほどの重圧でこちらを見つめている。

それが影の中から這い出てくる。全長は優に5メートルは越えているだろうか。黒い体毛が全身を覆い、人間など容易に引き千切れそうなほど鋭利な牙が口の隙間から見え隠れしている。

こんな生物が存在するのか……!?

姿形だけ見れば狼に近いのかもしれないが、これだけの巨体、これだけの存在感が目の前の存在を自分と同じ生物と考えるのを拒絶させる。むしろ太古に存在していた魔物の類といわれた方がまだ納得できただろう。

逃げなければ殺される。しかし濃厚に垂れ流される死の気配が体を動かすことを許さない。化け物はこちらが動けないのがわかっているのか一歩、また一歩と距離を詰めてくる。しかし恐怖を感じて動かない肉体とは裏腹に精神は異様なほどに冷めきって状況の把握につとめていた。野犬の死骸も親父もこいつがやったのであろう……恐らくは斎も。そして―――自分もここで死ぬのであろう。

永遠に感じるような数秒が過ぎ去り、ついにその時がやってくる。化け物が顎を開く。そこは一寸の光も通さぬほどの闇となっており見通すことはかなわない。しばらく見つめているとまるで自分がその闇の中に落ちているかのような錯覚に陥る―――否、闇が落ちてきているのだ! その巨大な顎で獲物を食い千切らんとするために。

そうして―――断頭台は振り下ろされる。無造作に、無感動に。最後に見た光景……それは、迫りくる闇であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「っ!?」

目を覚ます。咄嗟に周囲を見渡すが、そこは列車の座席であった。

確か……そうだ、親父の遺品整理のために実家に向かっているんだった。前日まで色々と立て込んでいたため疲れてついうたた寝してしまったのだろう。

……何やら恐ろしい夢をみていた気がするが思い出せない。

列車がトンネルを抜け薄曇りの空から射す光が車内を照らす。それから少しすると故郷である葛森が見えてきた。

帰ってきた……その懐かしい光景に情緒に浸っていると、ふと違和感を感じる。確かに自分は、望郷の念とは別に、何やら言葉で言い表せない胸のざわめきを感じとっていた。

―――しかし、この時の自分はまだ知らなかったのである。この胸のざわめきが一体何を伝えようとしていたかということを……



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