大長編 STAND BY ME ゼロえもん ――僕の新世紀・新エロマンガ島―― (家計ぽんこつ)
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プロローグ
日野青年とあの頃の友達


ドラえもんファンの懐古厨おじさんによるちょっと昔の子供たちの話です。
生誕50周年おめでとうございます。


 

 

 

 

 

零年代(あのころ)、子供だった(きみ)たちへ。

 

 

 

 

 

202×年 8月

 

 

 

 夢を見ていた。内容は覚えていないが、ひどく個人的で、独りよがりな夢だったと思う。

 

 閉め切った窓の向こうで、わずかに蝉の声が聞こえる。

 理由もなく夜通し本を読み、寝たのは朝方だったので頭がひどく重い。ぼんやりとした視界に映るのは、見慣れない天井の継ぎ目。そこがコロナウイルス騒動でずっと帰れずにいた実家の客間だということを思い出したのは、三十秒ほどたってからだ。

 

 コンセントにつなぎっぱなしで枕元に置いていたスマホの画面は、午後1時半を示している。同じく近くに放置していた眼鏡をかけると視界はクリアになったが、気怠さが抜けない。しばらく何も考えられず、布団で横になろうとする。

 

 その時、客間の窓から差し込む光に目を射られた。ガラスを通した外の世界からは、快晴の空と伸びていく入道雲が見えた。夏らしい青と白で構成された風景と部屋の畳を照らす光線。それはまるで無為に時間を過ごす自分を責め立てているようで。なんとなくばつが悪くなり、ゆっくりと上半身を起こす。

 

「あんたまだ寝てたの? 小学生じゃないんだから」

 

 襖を開ける音と共に横合いから声が響いた。声の主は、わかりきっている。両親と共に実家に住んでいる姉のものだ。

 

「……年を取ると、睡眠時間が短くなるって聞いたからね。本当にそうか実験してみた」

 

 まあ、結果としては、きっちり7時間ほど眠りこけていたわけだが。寝起きの戯言を聞いた姉は心底呆れたように「昼ご飯はもうないから」と言い放つ。

 

「あっ、そうそう。あんたに頼みたいことあったんだけど」

 

 ぼさぼさの後ろ頭をかきながらリビングに向かう途中、そう言って差し出されのは書類の束。表紙には『201× 古野(この)町こども会 夏休みイベント企画書・会計報告書』と銘打たれていた。

 

「コロナでここ最近やってなかったんだけど、今年はやることになったのよ。めんどくさいから復活しなくてよかったのに」

 

 と、姉は不機嫌そうにため息をつく。話を聞くにどうも言い出しっぺではないにも関わらず、町内会の仕事を押し付けられたようだった。

 

「それ何年か前のだから、今年のやつ作っといて。こういうの得意でしょ? サラリーマンやってたんだし」

 

 姉も若い頃は会社勤めをしていたはずだが、どうもサラリーマンというのを書類ならなんでも作れる仕事だと勘違いしている節がある。最近まで勤めていたメーカーでやっていたのは生産管理の仕事なので、企画書ならまだしも会計報告書など専門外だ。

 

「いやぁ、やろうと思えばできるんだけど――」

「いいからさっさと働け、万年ニート」

「まだ無職になってから二か月だよ……」

 

 あと、一応働く意思はあるから定義上ニートではないはず。たぶん。

 

「私、パート行ってくるからよろしく~。あと、忘れてるかもしれないけど、今日の夜親戚一同集まるから逃げないように」

 

 思わず「げっ」と昭和の漫画みたいなリアクションを取りそうになったが、声をあげる間もなく姉はドタバタと出て行ってしまう。クーラーの稼働音が響くリビングに一人取り残された僕は、押し付けられた書類へ仕方なく視線を落とす。

 ベッドタウンというかもはやゴーストタウンのように歯抜けになった町内の名簿リストが最初に目に入り、ここもずいぶん人が少なくなったと一抹の寂しさを覚えつつ書類をめくっていくが、やはり会計報告書の方は自分の手に余りそうだった。

 

 ネットで調べるか……。

 

 そう思いたち、ノートパソコンがある元自分の部屋――今は甥っ子が使ってる部屋へと向かう。スマホでもいいが、なんとなくそのままネットサーフィンに興じてしまいそうなので、家で事務的なことをする際はPCを使うことが多い。あと、確かこの家には、あそこしかプリンターはなかったはずだ。

 

伸助(しんすけ)君、いる――」

 

 一応声をかけてから部屋のドアを開けた瞬間、机に向かう小柄な背中がびくりと震えた。

 

「……なに?」

「ごめん、ちょっとパソコンとプリンター使いたいんだけど……ダメ?」

 

 小学六年生。思春期に差しかかっている姉の長男坊は、それまでPCのディスプレイへと向けていた不愛想な視線をこちらへ移す。

 

「……別にいいよ。大したことしてないから」

 

 そっけなく言うと同時に、細い肩越しに見えたブラウザのタブを消しているのが遠目に見て取れる。確かこの子はスマホを持っていたはずだけど、なぜわざわざPCを使っていたのだろうか。

 

「悪いね」

「別に」

 

 だが、その疑問を訪ねる前に甥っ子は立ち上がり部屋をあとにする。なんだか迷惑そうだったので声はかけられなかったが、まあいいやと思い直し譲ってもらったPCへと向き合う。

 

「ん?」

 

 しかし、ブラウザのアイコンをクリックして立ち上げた瞬間、連続したいくつかのタブが目の前に現れた。バグか設定ミスのせいか。先ほどまで甥っ子が調べていたものが再度表示されてしまっているようだった。

 

「……ははーん」

 

 そして、なんだか一抹の申し訳なさを感じつつも、そのタブに表示されている検索結果を見て思わずにやけてしまう。

 

 『〇〇 裸』、『〇〇 おっぱい』『エロ 無料 大丈夫』、『セックス 動画』

 

 最近流行りの芸能人、アニメとセットになっているものから単純なものまで……姉夫婦から見れば悩みの種になりそうだが、僕から見ればなんだかかわいらしくも思える努力の跡がそこにはあった。

 たぶんスマホにフィルタリングがかかっているのでこちらを使ったのだろうが、結局、このPCにも設定されているため見ることはできなかったらしい。最後のタブでは『フィルタリング 解除 方法』と検索されており、とあるサイトを閲覧している途中だったようだ。

 

『フィルタリングで必要な情報を得ることできず、困っている方もいるのではないでしょうか?』

『そもそもフィルタリングとはなんなのでしょうか?』

『フィルタリングを解除する方法はいくつかあるようです』

 

 となんだか不確定でどうでもいい文章が並ぶ長々としたページをスクロールしていくと、最後には『フィルタリングを自力で解除する方法はわかりませんでした! お近くの携帯ショップに行くのが確実でしょう!』とそんなことわかっとるわい! と思わずツッコミたくなる結論が示されており、しまいには『いかかでしたか? よろしかったら高評価をお願いします』と真理の扉もびっくりな等価交換を要求された。

 

「なるほどね」

 

 今の子供はその手の情報もスマホを通してすぐ手に入れられると思っていたが、案外、苦労しているらしい。昔と比べてうちのネット周りの環境もずいぶん変わったので、エロに対してどういう感情や考え方を持っているのかわからないと思っていたけど、十数年くらいだと、まだ人間の根本的な価値観というところにあまり変化はないようだ。

 

「こういうこと……」

 

 うろ覚えだが、確かドラえもんの作者も、同じようなことを言っていた気がする。

 登場するキャラクターたちは自分の子供時代がモデルであり、連載開始当時でも古臭かったのにそれが受け入れられたのは、人間の根本的なところは変わらないことが要因かもしれないと。

 

 どこで聞いたんだっけ?

 

 確か社会人になる前、いや、大学よりも前……たぶん、インターネットやテレビではなく、人づてに直接聞いた気がする。だが、いくら思い出そうとしても、中学、高校の頃の記憶はおぼろげで、小学校時代ともなると、どこか他人のホームビデオを眺めている気分になる。

 

 その時、家の外で近所の子供が遊ぶ声が聞こえてきて、北向きで少し薄暗いこの部屋を照らす日差しを――その光を迎え入れる窓、そして、その向こうに広がる住宅街を見た。

 

 自転車を押して帰った夏の夕焼け。白い日差しに染まった大気を揺らす蝉の声。夕立ちの後の地面の匂い。立ち並ぶ鉄塔とそびえたつ入道雲。汗でベタつく背中とTシャツ。木の下にできる濃い影法師。溶けかけたアイスとぬるい麦茶。くぐもった冷房の稼働音。青空の下で少し歪んだビルの群れ。

 

 過ぎていった時間のひとつひとつが、切り取られた漫画の一コマみたいに静止して、忘れていたはずの記憶まで掘り起こされていく。

 そして、そのコマの最後のひとつ……少し遠くなった赤いランドセルと得意げでシニカルな笑みが、頭の中でひらめいた。

 

「……ああ、そうだ」

 

 やっぱり、君か。

 小学六年生の時のクラスメイト――エロえもんだ。

 

 懐かしさに染まる夏の窓を見て、ふと今は甥っ子が使っている――昔は、自分が使っていた子供部屋を見渡した。

 この小さな空間に切り取られた夏の景色が、僕に何かを求めていた。だけど、その正体が自分でもわからず、甥っ子が去っていったドアの向こう側に目を向ける。

 

 故郷の風景やあの頃の友達、抱いていた夢は、僕の人生にとって、もう通り過ぎた過去のはずだった。

 

 それなのに。

 どうでもいいネットのページから。ふと見上げた景色から。脳のどこかに仕舞い込まれていた記憶に連れ出されることがある。

 

 どんなに時間がたっても慣れない感覚に、少しだけ、身を任せることにした。

 



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第1巻 少年奴隷スクール
第1話:コエカタマリンと空気砲


200×年 5月

 

 

 

 この世界のどこかには、エロマンガ島という島があるらしい。

 確か最初は『トリビアの泉』で聞いたんだと思う。自分で色々調べていくとエロマンガとは現地語で「人間です」という意味らしく、オーストラリアにも同じようにエロマンガ盆地という名前の地名があるそうだ。

 

 漫湖。キンタマーニ高原。スケベニンゲン。オマーン国際空港。ボイン川。ヤキマンコ通り。チンコ川。マタモラス自治区。マンビラ高原。

 

 それを知ってからというもの、僕は社会の授業中ずっと地図帳を広げて、なんだかエッチな気がする地名を見つけては、〇をつけている。ちなみに今は歴史の単元のはずなので地図帳を広げているのはおかしいのだが、まあ、算数の授業中に広げるよりはマシだろう。

 

「じゃあ、今日は12日だから出席番号12番……と見せかけて、21番! 日野、ここの行読め」

 

 と、そんなことをしていたら、担任の田中先生が僕を当ててきた。くそっ。一昨日、国語の授業で指されたばっかりだからないと思ってたのに。

 

「あっ、はい」

 

 僕は慌てて教科書を持って立ち上がった。

 そして、指定された段落を目で追い、そこに「将軍(しょうぐん)」、「生類(しょうるい)憐れみの令」という単語を見つけ、思わず息を呑む。

 

「どうした?」

「あっ、はい」

 

 急かすような田中先生の声に押され、僕は仕方なくその段落を読み始めた。

 別に普段からおしゃべりでも、クラスのムードメーカーというわけでもない僕の音読を、クラスのほとんどが興味なさそうに聞いていた。だから、僕もあまり緊張せずに淡々と読むことができて、もしかしたら「イケる」かもしれないと淡い期待が浮かんだ。

 

「第五代――」

 

 だけど、やっぱり……ダメだった。

 

 「将軍」の前で、僕の口は止まる。口に蓋をされ、舌がうまく動かない。まるで『コエカタマリン』を飲んだみたいに言葉が形を持って喉につっかえて、時間だけがいたずらに過ぎていく。

 

「第五代……っ……し……将軍徳川綱吉は、……ぅ……生類憐れみの令を――」

 

 田中先生の怪訝そうな視線や周囲の「何やってんだあいつ」という雰囲気を肌で感じながら、僕はなんとかその段落を読み切った。

 

「じゃあ、次の段落」

「あっ、はい」

 

 そんな僕を待っていたのは、さらりと追い打ちをかけてくる田中先生の言葉だった。

 今まで音読は段落一つで回していたはずなのに、自分だけ段落二つ分。たぶん先ほど詰まって焦ったので授業を聞いていないと思われているのだろう……実際、半分くらいは聞いてなかったんだけど。

 

「……日野」

 

 そして、焦燥にかられながら次の段落をチェックする僕に、どこか呆れた調子を含む田中先生の声がかかる。

 

「前から言ってるだろ? 返事の前に『あっ』って付けるな。癖になっているのかもしれないけど、目上の人に対しては失礼だぞ」

 

 その言葉に、僕は思わず顔を上げた。上げてしまった。

 瞬間、飛び込んでくるのは、教室にいる33人、66の瞳。眼鏡で大人しいやつが怒られているのがよっぽど珍しいのか。この時ばかりとこちらへ視線が集中する。

 

「あっ――」

 

 その視線に気圧されて、先ほどとは違う緊張が僕の喉を締め付ける。声を出すためにお腹に溜め込んでいたものが漏れ出ていき、穴の空いた風船のように意味を成さない『空気砲』だけが口から吐き出される。

 

「……は、は、は、ははははい」

 

 直後、教室中に痛いくらいの沈黙が広がる。シンとした空気が針のごとく僕の顔に、肺の中に、突き刺さっていく。

 呼吸を落ち着かせやっとのことで出た「はい」は、前のめりのフライングスタートみたいに、最初の「は」だけが勝手に何度も繰り返されたものだった。

 

「そんなに緊張しなくてもいいだろ~~」

 

 うって変わって明るく言い放たれた先生の言葉。教室は笑い声に包まれる。普段笑いの中心にいることなど皆無なのでばつの悪さに苦笑いしながら、僕はそのまま次の段落を読み始めた。

 次の段落に小さい「ょ」はなかった。なんとか事なきを得て、ようやく義務教育の責務から解放された僕の視界にちらりと隣の席に座る女子の表情が映り込む。

 

 先ほどの余波でみんながまだクスクスと笑う中――「彼女」だけが、笑わないで無表情を貫いていた。

 

 

 

 

 吃音。またの名をどもり。

 

 親や教師、そして、僕自身も。それが障害であるとは、全く思っていなかった。

 当時は吃音が脳機能の障害であると知っている人も少なく、そもそも「どもる」という行動自体ただ活舌が悪かったり、緊張しがちな性格に問題があると認知している人の方が多かったように思う。

 

 僕の場合、症状は続けざまに言葉を発してしまう連続性と何も言えなくなってしまう難発性が組み合わさっていた。

 周囲に認知されなかった要因でもあるのだが――唯一の救いは、症状が限定的で軽いことだった。

 

 「は」がつく単語からしゃべり始めるとき、特に返事をするときの「はい」は必ずどもってしまうため、そういう場合は「あっ」をクッションとしてつけるようにしていた。

 「しょ、りゅ」といった小さい「ょ」と「ゅ」がある単語も舌がうまく回らず、それらの単語が出てきそうなときは頭の中で言い換える言葉を探したり、どうしても見つからなければ詰まらせながらも、なんとか言い切るようにしていた(なぜか同じ「ヤ」行でも小さい「ゃ」に関しては問題なく発声することができた)。

 

 転入や学年が上がる際の自己紹介、クラスでの出し物や音読、好きなものについて喋る時――そういう緊張や興奮する時は特に症状がひどく、幼いながらも自分が周囲の「みんな」とは少し違うことをいやがおうにも実感させられた。そして、周囲も、やはりちょっと変な奴だと思っていたのだろう。

 にわとりが先か卵が先か。内向的な性格と父の仕事の都合で転勤が多かった環境もあり、小学校に入ると、クラスから孤立するという特技を身に着けるのにたいして時間はかからなかった。

 

 そして、それは――小学六年生の五月――「彼女」たちと同じクラスになったあの年も、同じだった。

 

 

 

 

 

「よっしゃ! 50ダメージ!」

「くっそ! キャップずりぃんだよ!」

「ちょっと男子! そういうエンピツ、学校に持ってきちゃいけないんだけど!」

「お前らだって雑誌とか持ってきてるだろ?」

「はあ? そういうゲームみたいなやつと雑誌は別だし。ちょーガキなんですけど」

「そういや、2組のやつ学校にアドバンスだかDSだか持ってきて千条(せんじょう)に没収されたらしいぜ」

「バカじゃね? くそウケル」

 

 

 僕の後ろでは、クラスのムードメーカ担当の男子たちがバトルえんぴつ――通称バトエンを机に転がして騒ぎ、それを嗅ぎつけたこれまたクラスの中心である女子グループがやっかみをつけていた。

 

 バトエンは、ドラクエやポケモンのキャラクターをモチーフにした鉛筆だ。それぞれの面にダメージとか特殊攻撃が割り振られていて、それを転がしてバトルする。一時期全国的に流行って、僕の学校でもあまりにも男子が休み時間に熱中するので、校長から直々に持ち込み禁止のお達しが出たほどである。

 

 

 僕ら――後年、ミレニアル世代なんて呼ばれる世代層が子どもだった頃、ゲームだけではなく、割とそういうアナログな遊びも多く流行ったと思う。あとから思えば、僕が小学生時代を過ごした2000年代は、古い時代と新しい時代の過渡期にあったのかもしれない。

 

 スマホのような常時ネットと繋がる移動通信媒体は普及していなかったし、物好きな父親か大学生の兄姉(きょうだい)がいない限り一般家庭にパソコンはあまりなかった。iモードが利用できる携帯を持っている人たち以外――特に僕ら小学生にとって、まだ情報源の多くはコロコロやジャンプなどの漫画雑誌、それにめざましテレビやおはスタなんかの情報バラエティで占められていた(どうでもいいが、僕はめざましくんと時の魔術師ってなんか似てるよなと思いながら観ていた)。

 

 そんなわけで。マスなメディアに翻弄されがちなかわいらしいお子様であった当時の子供たちは、大人たちの思惑通り次々と現れては消えていくコンテンツを順当に消費していった。少し背伸びしがちな女子たちは集団洗脳にかかってるかのようにこぞって『恋空』やセカチューの原作、SEVENTEENを読んでいたし、たいした精神的成長がない男子たちは集団洗脳にかかっているかのように『千年殺し』をケツにぶちこみ、「そんなの関係ねぇ!!!」と叫びながら拳を振り下げていた。

 

 

 そんなふうに思い思いの時間を過ごす15分休みの喧噪の中で、僕はひとり机に視線を落とし、定規を片手に自由帳に線を引いていた。図書室に避難できる昼休みはまだよかったが、授業の合間にある中途半端な休み時間はいつも机にかじりつき、教室の風景の一部と化している。

 

 僕のようなクラスに馴染めていない人間にとって、学校生活の中で何よりきついのは、授業中よりもこういう休み時間だった。

 

『自由にできる時間というのは、集団において孤立する人間にとって拷問に等しいものである』

 

 とはよく言ったものだ。

 ちなみに偉人とかの名言じゃない。僕が勝手に作った。

 

 そんでもって、そういうひとりの時間、僕がやることは決まっていた。

 右手にはえんぴつ。広げた自由帳。真っ白な紙の上。そこにいくつもの枠を作り、フキだしを入れ込み、つたない絵を描き込んでいく。

 

 それは、去年の夏頃から始めたマンガ作りだった。友達がいない点と吃音を除けば、まあ平均的に普通の男子小学生だった僕は、ご多分に漏れずアニメやホビー、ゲーム、そして特にマンガが大好きだった。

 だけど、ただ大好きなだけで。そういうものを自分で作ろうなんてことは、一切思っていなかったし、考えもしなかった。

 

 たぶん自分でマンガを作るようになったきっかけの一つは、小学四年生の冬に両親から通達されたゲームの新規購入禁止法案のせいだと思う。

 幼稚園から小学校低学年にかけて、ひらがなはポケモンで覚えたくらいゲームボーイをやり込んでいた僕は、みるみるうちに視力が下がった。そうして、けっこう度が強いメガネをかけることになると、これを深刻視した両親はこれ以上の視力悪化を防ぐため、日野家の家族会議にて「今後一切のゲーム購入及びプレイを禁ずる」という法案を可決してしまったのだ。

 

 僕に友達がいなくなった原因も、吃音と小学五年生の時の転校。そして、このゲーム禁止法案がわりと大きな要素を占めていると思う。

 

 人によって程度の差はあると思うが、小学五年生というのは高学年に入り、ベイブレードやビーダマンといったホビーを卒業し始める頃だ。

 そんな子供たち――特に僕のようなクラスの中心から外れたナード系のやつらが行きつく先は、遊戯王やデュエマといったカードやゲームだった。特にゲームボーイから始まった小型ゲーム機は、小学生にとって主力のコミュニケーションツールだ。これを失うと、話題の幅は一気に狭まってしまう。

 

 実際、僕は四年生までいた前の学校では自分と似た者どうしのゲームが好きな友達がいたけれど、この学校に来てからはなんとなく話題に入りづらく、結局どのグループにも入れなかった。

 

 ゲーム以外で友達を作れなんて親には言われたけど、ゲームソフトは彼ら世代で言うところの『8時だョ! 全員集合』や女子が熱を上げるアイドルであるわけで。最初は転校生ということで珍しがられたが、勉強も運動もテンでダメ、それに加えうまく自分のことを話せない僕からはどんどん人が離れていき、今やまるでハチ公像のように教室の置物と化しているのである。

 

 だけど……不思議とそのことになんの悔しさも、悲しさも感じていなかった。

 

 なんとなく周りより冷めた子供である自覚はあったし、年一度のペースで繰り返してきた転校で孤立するのにも慣れている。

 そうやって、土地と環境に突き放された人生経験で学んだのは、世界は僕と無関係のところで動いていて、どんなにあがいてもそこに僕が介入できる余地はない、ということだった。

 

 それから、僕の日常はすごく単純なものになった。

 

 家、教室、塾、時々図書室。友達と遊びに行くなどというイベントと無縁だった僕にとって、この四つを行き来するのが日課で、世界の全部だった。

 まさかこの年でホームレス小学生になるわけにはいかないので家にはいなくちゃいけないし、義務教育をぶん投げるほどロックな性格でもなかったので教室も同じく。通わされていた塾も、同小のやつが多かったので学校の延長線上みたいなもんだった。僕はメガネで素行も大人しい優等生タイプだと思われがちだったけど、自分の頭の悪さを自覚させられる勉強など本当は大っ嫌いで、塾の課題も適当にこなしていた。

 

 だけど、図書室だけは……他の三つと違い、自分で行くことを選んでいたと思う。

 最初は昼休みに教室から、塾がない放課後まっすぐ家に帰り「友達と遊ばないの?」という親の追求から逃れるための場所だった。勉強と同じように名作文学やら将来の役に立つといった類の――「大人が子どもに読ませたい本」が嫌いだった僕は、図書室に居座りながらも、分厚いちゃんとした本を読むことはなかった。

 

 ただ、うちの学校には、数は少ないものの『キノの旅』シリーズのようなラノベから『時をかける少女』、『ぼくらの七日間戦争』といったヤングアダルト小説に『デルトラ・クエスト』みたいなファンタジー小説、星新一のショートショート集……そういう僕にとっては面白そうで、興味をひかれる本も置いてあった。最初は暇つぶしで仕方なく来ていたはずなのに、いつの間にか僕は湿っぽくて陰鬱なあの空間で、自然と本を手に取るようになっていた。

 

 そして、意外なことに図書室には小説や本以外にも、僕が好きな漫画も置いてあった。

 といっても、当然ながらジャンプやサンデーで連載している流行りの漫画ではなく。『ブラック・ジャック』といった手塚治虫の名作、「マンガでわかる」でお馴染みの日本・世界の歴史シリーズや偉人伝といった学習漫画の類だ。

 勉強は嫌いだったけど、それ以上にマンガが好きだった僕は、おこづかいがなくて新しい漫画を買えない時なんかは、暇つぶしも兼ねてそれらの漫画を読み漁っていたのだ。

 

 そんな日々を過ごしていた小学五年生のある日。出会ったのが、ドラえもんの作者――藤子・F・不二雄先生の伝記漫画だった。

 

 正直なところドラえもんをはじめとした漫画自体は好きだけど、それを描いている人なんかに興味がなかった僕はいつもと同じように「暇つぶしにはなるか」と思い、それを手に取り、読み始めた。

 

 読み始めて、驚いた。

 そこには、僕が今まで知らなかったドラえもんの秘密がいくつも記されていたからだ。

 

 のび太は、少年時代の藤子先生ご自身がモデルになっていること。ドラえもんは、連載開始の予告時点ではデザインも設定も何も決まっていなかったこと。藤子先生は、お亡くなりになるその日もえんぴつを握り、机に向かっていたこと。

 

 読み終わった時、僕は初めて誰かの人生を見聞きして感動するという経験をした。

 何かを作るという情熱。面白さ。そして、何よりあのドラえもんを作った人が、僕と似たような境遇――どちらかというナード側で、いじめられっ子だったことに親しみを覚えずにはいられなかった。

 

 僕も、何かをしなくちゃ。

 

 図書室を出る頃には漠然としたそんな思いが満ち溢れ、こんな僕でも思わず叫んで走りたくなるほどだった。

 だけど、僕には……なんの取柄もない。勉強も運動もダメだし、藤子先生のように絵もうまくないし、のび太のように射撃やあやとり、昼寝の才能もない。先ほどまで膨れ上がっていたやる気はシュルシュルとしぼみ、家に帰る頃にはいつも通り無気力にベッドに横になって漫画を読んでいた。

 

 だけど、その時――本当に唐突に――ふと、ある考えが降りてきた。

 そうだ。描けばいい。僕も、漫画を描けばいいのだ、と。

 

 センスはないかもしれないけど、絵は、きっと練習すればどうにかなる。こういっちゃ失礼だけど、絵は下手糞でもアニメになるような面白い漫画があるということは知っていたし、一度も描いたことはないけれど、僕はこんなにも漫画が好きなのだ。幸い(?)にも、他の小学生と違って友達と遊ぶのに使わない分、時間はたっぷりあった。

 

 それからというもの、僕は自分の部屋、休み時間、授業の合間、暇を見つけては漫画を描いた。もしかしたら、本来は反抗期に差し掛かって発露すべき感情をどこに向けていいかわからなかった僕にとって、その行為自体が両親や学校という自分を取り巻く世界に対する小さな反抗だったのかもしれない。

 

 漫画の中の世界は、自由だった。

 マンガのキャラクターたちには「は」から始まる言葉をどもらせずに言わせることができたし、「ゅ」や「ょ」がつっかえることもない。えんぴつと定規を片手に自由帳に描き込む度に、この現実という水中から浮かび上がって、息をしている気分になる。僕は、実は陸生成物じゃなかったのかもしれない。

 

 そんなふうに――僕にとっては、漫画だけが自分と向き合ってくれる世界で、その中で生きているキャラクターたちだけが唯一対等に付き合える友達だった。

 だけど、案の定、そんなことをして勉強はろくすっぽしなかったので成績はますます下がり、六年生に上がった今ではクラス内でのポジションはなんとなく浮いているやつではなく、変わり者になってしまった。

 

 でも、それでも構わなかった。

 

 今、僕には漫画があった。難しく考えなくてもストーリーは次々にできたし、それに合わせた最適なコマ割りやセリフ回しが流れるように頭に浮かんだ。漫画を描くのが楽しくて、周囲がどう思おうが関係なかった。僕はきっと社会不適合者ってやつなのかもしれない。

 

 そんなことを考えながら、自由帳に描き込んでいると、あっという間に予鈴が鳴った。

 僕は自由帳を脇に片付け、机の引き出しの中から教科書を取り出す。そして、教室の端から三十三人の同級生が敷き詰められたクラスを見渡し、ふと考えた。

 

 僕がいるこの教室は――先週道徳の教科書で見た奴隷船みたいだと。

 

 こんなふうに、自分の思いを込める先がない毎日を、みんなはどう生きているのだろう。大人たちはどうやってあの年まで生きてきたのだろう。そんなことを思いつく嫌な子供だった僕にとって、学校は、クラスというあの空間は、やっぱりただひどく息が詰まる場所だった。

 

 でも、きっとこれでいいんだと思う。そんなことを言ったら、ますます変なやつだと思われるだろう。無理に仲良くなろうと調子を合わせてももうまく喋れないし、相手を困らせるだけだ。僕は、そう自分に言い聞かせひとり苦笑する。

 

 だけど、少しだけ――ほんの少しだけ、思った。

 

 僕はなんで周りの「みんな」みたいに笑えないんだろう。なんでちゃんとしゃべれないんだろう。例え変わり者のレッテルを貼られて、クラスに馴染めなくても、漫画があればいいはずなのに……それなのに、なんでこんなに普通と違うことが、苦しいんだろう。

 

 でも、いくら自分で考えも答えはでなかったし、疑問をぶつけることはできなかった。なんたって、友達が一人もいないのだから。

 



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第2話:くろうみそなお説教と反逆者

 

 事件が起こったのは、その日最後の授業。六時間目の算数開始直後だった。

 

 僕らのクラスはシーンと静まり返っていた。教卓の椅子では、副担任で若手女性教師の高木先生が何も言わずに腕を組んで黙り込んでいる。黒板の上にかけられた時計の針だけが音を発し、時折他のクラスの笑い声がどこか遠くで響いた。

 

 事の発端は、僕らの教室前の廊下でお菓子の包み紙が見つかったことだった。

 授業の始めに高木先生が「誰ですか? これは?」とそのカラフルなプラスチック包装をひらひらと掲げ、名乗り出るまで授業はやりませんと言い始めたのだ。

 

 もう僕らも最終学年だ。小学校生活もそれなりに長い。

 ここからどうなって、どういう結果になるのかだいたいの予測はつく。ついでに、うちのクラスに真犯人がいようがいまいが、彼(もしくは彼女は)決して名乗りではないということも。

 

 僕はぼーっと音のない教室を眺め、退屈なので人間観察に興じることにした。前に座っている幸田(こうだ)は不貞腐れたように腰を浅くかけて椅子に座り、隣の列にいる細川(ほそかわ)は神妙そうな面持ちを作って前をまっすぐ見つめている(ただ机の下ではつまんなそうに指をタップさせていた)。

 

 そして、右隣――「彼女」は、ただ僕が笑われていた時と同じように感情が見えない真顔で前を見据えていた。

 

 近くにいる奴らの人間観察も一通り終えると、本格的にやることがなくなった。実感としてはけっこう時間を潰せたなと思っていたのに、時計の針を見るとまだ十分しかたっていなかった。これが相対性理論ってやつかいと思いながら静まり返った教室で、僕は周囲に聞こえない程度に「やれやれ」とため息をついた。

 人生でもトップテンには入る無駄な時間を過ごしているなと思いつつ、頭の中は今日の放課後図書室で借りる本と次に描こうとしている漫画の構想でいっぱいだった。

 

「もういい! 授業しない!」

 

 ガラガラぴしゃ。

 

 高木先生はそのまま勢いよく立ち上がり、スライド式ドアを開け放ち職員室へと帰って行く。

 再び水を打ったように静かになった教室。しかし、沈黙はほんのわずかな時間で。みんな高木先生の足音が聞こえなくなった瞬間、「ヒステリーだよな、あれ」、「彼氏と別れたんじゃね?」と好き放題言い始めた。

 

 まあ、でも、そういう不満に関しては僕も同感だった。こういうことは転校前の学校でも何度かあったし、たぶん全国共通で指導方法のテンプレートというかマニュアルみたいなものがあるのだろう。

 それはわかっていたけど、関係ない自分まで巻き込まれる意味がわからなかったし、一方的な立場からとにかく生徒に謝罪させようという魂胆が見えてイケ好かなかった。

 

 そんなこんなでギャーギャー騒いでいると、女子の学級委員長である御木本(みきもと)が「ねえ、みんな? このままでいいの? 職員室に謝りに行こうよ」と言い始めた。こういった場合、先生に褒められることを至上命題としているタイプの女子が謝罪を提案するのも、またお約束だ。

 

 なんというか、茶番である。君は教師に裏金でももらってんのか? マッチポンプか? と言いたくなるが、そんなことを言えば泣き出して「ちょっと! 女子泣かせるとかありえない」、「日野、サイテー!」、「死ね」と罵倒されるのは目に見えている。

 

 ……別に実体験とかじゃない。いや、ホントに。世の中そういうもんなのだ。マジで。

 

 かくして僕らは、クラス全員連れ立って職員室に謝りに行くことになった。自分が関係ない説教タイムこそ迷惑なものはないが、僕は「やれやれ」と小声で言いつつクラスの最後尾についていく。

 

 その時、ふと教室を振り返り、あることに気づいた。

 みんながぞろぞろと廊下に出ていく中で、ただ一人――「彼女」だけは席を立っていないことに。だけど、わざわざ声をかける気にもなれなかったし、僕はそのまま金魚のフンみたいに行列へと追随した。

 

 「冷房は何度になるまで禁止」とか「えんぴつの振動が脳にいい影響与えるからシャーペンは禁止」とか「まだ習っていない漢字を使ってはいけない」とか――学校という場所には、科学的になんの根拠もなさそうなルールがいくつもある。

 そして、『職員室』というプレートが設置されたこのドアの向こうに入る時にも、それはあった。

 

「失礼します! 高木先生に用があります! 入ってもよろしいでしょうか?」

 

 と男子の学級委員長である出久杉(でくすぎ)が声を張り上げた。それに対し学年主任でもある体育教師の千条先生が「おう、いいぞ」と許可し、初めて職員室に足を踏み入れることができる。僕らは「失礼します」と言い、次々に机がずらりと並ぶ職員室へと入っていく。

 

 まだ真犯人は見つかっていないので、とりあえず高木先生のところへ行き、みんなで形だけの謝罪を行った。すると、先ほどまで激昂していた高木先生はあっさりと「あなたたちの気持ちはわかりました。授業しましょう」と言い、教室へ戻る準備を始めた。

 

 ……ていうか、それはいいんだけど。真犯人とか、なぜお菓子を持ってきちゃいけないのかの説明とか。なんの問題も解決していない気がするのは、僕の気のせいだろうか。

 まあ、でも高木先生も納得しているようだし。こういうのを様式美、というのだろう。やれやれ。美しいね、日本人の心ってやつは。

 

「おい、ちょっと待て」

 

 しかし、全てが丸くおさまろうとした瞬間、横合いから野太い声がかかった。千条先生だった。

 

「お前ら、一人足りないんじゃないか?」

 

 そう言われ、僕はすぐに気づいた――「彼女」だ。

 やがてみんなもその不在に気づき始め、呼んで来いと言われ学級委員長の御木本と出久杉が教室へと向かう。

 やがて、数分して。先ほどと全く同じ……いや、少しだけ違う。どこか呆れと不満が見え隠れする真顔で「彼女」はやって来た。

 

「どうしてみんな謝りに来ているのに来なかったんだ!?」

 

 なぜか当事者の高木先生ではなく千条先生が「彼女」に向かって怒鳴り散らすが、「彼女」は何も言わなかった。千条先生は体が大きく、角刈り色黒の強面で、一見するとヤーさんみたいにも見える風貌だ。今まで「彼女」があまり怒られている場面も見たことがなかったし、恐怖のあまり口が動ないのかもしれない。

 

 そう思い、僕は「彼女」の横顔をちらりと見た。見て、驚きのあまり目を開いた。

 短く切り揃えた髪の下。その瞳は全く怯えの色はなく、むしろ自信に満ちた眼差しだったからだ。

 

 

 

「謝る必要がないと思ったからです」

 

 

 

 静かな職員室にはっきりとした声が響いた。女子にしては低い「彼女」のものだ。

 そう言い放った口元は笑みを携えている。そして、あろうことかそのまま教師たちをからかうように声を上げて笑い始めた。

 

「あー、お説教なら短くしましょうよ。つまんないですからね。あまり長くやると、千条先生の人気が落ちちゃいますよ?」

 

 笑い声とともに吐き出された言葉に、僕ら生徒はおろか教師たちも唖然としている。だが、はっと意識を取り戻したように「い、いいや! お前には20分ほどやるぞ! 放課後居残りだ! わかったか!?」と千条先生はがなり立てる。それを聞いて「彼女」は、座っている高木先生にちらりと目を向けた。

 

「でも、高木先生がやってることって職場放棄じゃないですか」

 

 そして、火に油を注いだ。

 

「普通の民間企業や公務員だったら懲戒処分とかですよね? なんで何もないんですか? 教師ってやっぱりちょっと一般社会とは違うんですかね? 話し合いの場とか設けないで、とりあえず生徒に謝罪させる経験を積ませるのが教育だと思ってるんですかね?」

 

 よどみのない問いに、一瞬、職員室に沈黙が降りた。

 

「……お前……! いい加減にしろっ!!!」

 

 千条先生の怒りが爆発した。顔を歪ませ、拳を振り上げた瞬間、女子の何人かが短く悲鳴を上げる。

 

「千条先生! それはちょっと――」

 

 その瞬間、職員室に入ってきた担任の田中先生と教頭が慌てて叫んだ。

 それを聞いて、寸前のところで「彼女」が女子だということを思い出したのだろう。男子に対する体罰は珍しくないし、たぶん僕や前に座っている幸田あたりだったら殴られていたと思う。二人になだめられつつも千条先生は「放課後そのまま帰らないように!」とまくしたてた。

 

 その間。千条先生が拳を振り上げた時ですら。「彼女」は一切微動だにせず、ただ教師たちを――その先にある何かを、じっとにらみつけたままだった。

 

 



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第3話:同級生のおっぱい触って呟くんすわ Duel Sandby! それ、死亡フラグね

 さて。六時間目に起きたひと悶着は僕らにとっては大事件でも、世界にとってはそうでもないようで。当然ながら、小学六年生の児童が学年主任に啖呵を切ったことなどローカルニュースにすらならない小さな出来事だ。

 

 当の「彼女」本人は、終業後のホームルームが終わると同時に職員室へ呼び出しをくらい誰も話を聞けない状態だったが、「あの千条にケンカを売ったやつがいる」と僕らの学年は一時期騒然となった。だが、各クラスの担任による速やかな情報統制と「さっさと帰れ!」という退去勧告により放課後一時間くらいたった頃には、その熱も沈静化しつつあった。

 

 そうやって、一日の大半を占める学校生活から解放された浮かれ声も遠くなり、自分以外誰もいなくなった教室で、僕は一人自分の席に座って書き物をしていた。

 いつもと違い、マンガを描いているわけではない。そこに広げていたのは、日直当番の報告日誌だった。

 

 大半の学校がそうだと思うが、クラスの日直は男女二人組が日替わりとなっており、その日は僕とある女子が当番の日だった。

 

「ごめーん、日野くん。わたし用事あるからよろしく~」

 

 ところがどっこい、その女子A子は僕一人に仕事を押し付けて帰ってしまった。僕は放課後日直の仕事を一人でやらされたあげく、それを正直に記載しようものなら後が怖いので「一緒にやりました」と嘘にまみれた仕事の分担と詳細を書き、職員室に提出しなければならないのである。

 

 たぶん耐震強度偽装事件とかもこうやって起こったんだろうなぁとか、だいたい女子小学生にそんなご大層な用事なんてあるわけないだろとぶつぶつ脳内で文句を垂れながら、一人で教室に居残っている間に黒板上の壁かけ時計は午後四時を回っていた。

 

 あ~あ、男子小学生の辛いとこね、これ。

 

 空が少し橙に染まり始めた春の終わり。床に残るワックスの匂いがかすかに混じる五月の教室は、放課後のひんやりとした空気に覆われている。そんな中でようやく日誌を書き終えた僕は、少し薄暗くなった放課後の廊下を歩き職員室に向かう。

 

「失礼します。田中先生に用があります。入ってもよろしいですか?」

 

 別に失礼したくないんだけどなぁと思いつつ、例によってテンプレのセリフを言う。ちなみに本当は「よろしいでしょうか」が正しいのだが、僕の場合「しょ」が上手く言えないので、こっそりと「ですか」に変えていた。今のところバレてはいない。

 

「おう、ご苦労さん。そこ置いといてくれ」

 

 と高木先生や千条先生と話している田中先生は言い、ノートパソコン横を目で指した。時間のかかり方でたぶん僕が一人でやらされていることに気づいているのかもしれないが、この人はそういう事を荒立てるようなことはしない。

 

 まあ、なんというか、うちの担任はそういうやつなのだ。

 僕としても変に騒ぎ立てられて学校での立場が危うくなるのは困る。自分のようなぎりぎり友達がいない変人で踏み止まっているやつが、いじめられっ子にジョブチェンジなど容易に想像できる。

 

「まったく――なんて描いてるから」

 

 何か言われる前にさっさと退散しようと足早に出口に向かっている時、先生たちの雑談がかすかに聞こえてきたが、何の話かも、誰の話題かもわからない。僕は特に気にすることなく、「失礼しました」と一礼してその場をあとにする。

 

 そのまま下駄箱の棚が並んだ玄関に向かうと、じめりとした空気が鼻についた。

 どこかかび臭く、廊下よりもさらに暗い下足場は、下校時間だというのに気分をますます憂鬱にさせる。放課後、塾がない曜日であることだけが救いである。

 

 僕はまたしてもやれやれとため息をついて、下駄箱の蓋に手をかける。靴に染み込んだくぐもった匂いと一緒に誰もいない空間にぎぃという音が響き、簀子(すのこ)の上で上履きから靴に履き替えようとしていた時だった。

 不意に周りでよどむ空気を吹き飛ばすような強い風が舞い込んできた。その方向――開け放たれた玄関扉からは光が差し込み、初夏の風に乗った土の匂いが入ってくる。

 

 そして、その光の向こうにいる人影に気づき、はっとした。

 風に揺れるボーイシュなショートカット。鼻筋のはっきりとした中性的な顔立ち。

 よく目をこらすと――それは「彼女」であることに気づいた。

 

 だけど、僕には……下駄箱の陰に隠れ立っているその少女が、なぜか全くの別人に見えた。

 職員室で教師たち相手にケンカを売っていた時とも、教室に帰ってきた「めっちゃキレてたなぁ~」とあっけらかんと笑っていた時とも違う。

 

 その瞳はうっすらと潤み、何かに耐えるように口を引き結び、うつむいていた。なんだか僕は見てはいけない場面を見ているようで、少し離れた反対側の出口に逃げようとかがんで足元の靴を手に掴む。

 

「あっ」

 

 だけど、その時。

 ランドセルの錠前が豪快な音をたてて外れ、蓋になっている冠裏(かぶせうら)をすべり台にして、後頭部から目の前を教科書とノートの滝が通過した。鍵をかけ忘れていたのだ。よくやる僕の悪い癖だ。

 

「……」

「……」

 

 そして、残念ながら、その音に気付いた「彼女」と目が合ってしまった。簀の子の上で盛大に撒き散らされた教科書。そして、暗がりに浮かぶ僕の顔を見て、「彼女」は少し驚いているようだった。

 

「……日野?」

「……ど、どうも」

 

 どうもってなんだよってあとから自分でも思ったけど、それ以外に返しようがない。

 確か去年も同じクラスだったけど、僕は「彼女」とそんなに仲良くないし、事務的なこと以外で喋ったのも数回くらいだ。それなのに、「彼女」が僕の名前を覚えていてくれたことは意外だった。

 

「なにやってんの?」

「あっ、いや、そのう……」

 

 どう答えればいいだろう。「日直の仕事を押し付けられて遅くなったら、君をたまたま見つけたので気まずくて逃げようとしました」と率直に答えようかと思ったが、最初の「日直」に「ょ」がある。それにあの千条先生にケンカを売るようなやつに、正面切ってそんなことを言える自信はない。

 

 だが、僕が悩んでいる間にも「彼女」は近づいてきた。もしかして先ほどの様子をこっそり見ていたことがバレたのだろうか。僕の頭の中にはゴジラのテーマがアラート代わりに流れ、急いでぶちまけた教科書たちを集める。

 

「なんかよくわかんないけど……大丈夫か?」

 

 だけど、「彼女」が取った行動は意外にも優しかった。

 しゃがみ込んで国語の教科書を一つ手に取ると「ほい」と僕に手渡し、そのまま一緒になって拾い集めてくれたのだ。

 

「あ、ありがとう」

 

 僕はビクビクしながらも一応お礼を言い、心の中でこっそりと怪獣王扱いしたことを詫びる。二人がかりでやると片付けはすぐに終わり、ランドセルにしまっていないのは後二冊になろうとしていた。

 

「……っ!」

 

 そこで、気づいた。むしろ、なんで今まで気づかなかったのだろう。

 残りの二冊のうちの一つ――それは自作マンガノートと化している自由帳だ。しかも、床に落とした拍子に開いて、中身があらわになっている。

 

「あの、これっ……」

 

 僕が気づいたのと、「彼女」が気づいたのは、ほぼ同時だった。

 次の瞬間、「彼女」がなぜか大きく目を見開き、どこか呆然とした様子でマンガノートを手に取った。僕は息を呑む。いつもの鈍くささが嘘のように体が素早く動き、乱暴に「彼女」からマンガノートをぶんどる。

 

「ご、ごめん! これ、なんでもないから! ありがとう。それじゃあ」

 

 だが、それで終わらなかった。

 

「待って!」

 

 マンガノートを片手にそのまま立ち上がろうとする僕に、「彼女」はいきなりしがみついてきた。いや、しがみついてきたなんてかわいらしいもんじゃない。『アイシールド21』みたいなアメフトタックルを正面からくらい、ひ弱な僕は成す術なくバランスを崩し、仰向けに倒れる。そして、「彼女」は容赦なく僕の上にのしかかってきて、僕の右手にあるマンガノートを取り返そうとする。

 

「危ないよ! やめて! ケガするよ!」

 

 僕は思わず叫ぶが、その手は止まらない。「彼女」はとにかく奪おうと暴れ、僕は奪われまいと必死で抵抗し、もみくちゃになる。小学生男女の体格差などたかが知れてるし、僕みたいなひょろひょろだと女子の方が強いなんてこともざらだ。このまま体重をかけられたままじゃ分が悪い。

 

 僕はなんとか体勢を立て直そうと無理やり腰をひねり、上下逆転に成功した。何も考えられず、荒い呼吸のまま「彼女」を組み伏せようとする。

 

「ちょ……」

「えっ」

 

 だが、その時、「彼女」がすっとんきょうな声をあげた。

 その声で、僕は我に返る。

 

 そして、目の前の光景――自分の右腕。その先の、手のひら。それが、彼女の胸の上に位置していることに気づき、お互いに動きが止まる。

 

 瞬間、まるで時が止まったみたいに周囲の音が消えた。

 校舎裏でのひそひそ話。校庭で放物線を描くボールがバウンドする音。空気に溶けていく僕と彼女の荒い息。放課後の学校にある全ての響きが消えた静寂の中、認識は数秒たった後に遅れてやってきた。

 

 

 おっぱいだ。

 僕の手が、この子のおっぱいに触れている。

 

 

 おっぱいだ ああ、おっぱいだ おっぱいだ(字余り)

 

 

 なんて日野少年11歳心の俳句を詠んでみたけれど、それだけでは現実逃避には足りなかったようで。僕はあまりの衝撃的事態に身動き一つできないでいる。

 

 だけど、一方の「彼女」は、僕と違った反応だった。

 

「……あっ、おっぱい触った~、エッチ~、ドスケベ~」

「なっ!?」

 

 こちらとは対照的。恥ずかしさなど微塵も感じさせない棒読みの声で、目の前の状況に引き戻された。僕はドギマギしながら飛び退き、勢いをつけすぎてまた尻餅をついた。このままじゃ尻が腫れ上がってケツだけ星人になりそうだ。

 

 一方、一瞬だけ同じように硬直していた彼女は、それを見て口角を思いっきり引き上げた笑みを浮かべると、「ごめん。ケガ、ない?」と言いながら立ち上がる。

 

「僕は……な、ないけど。君は?」

「私も。ただ……君に触られたところが痛いな~、困ったなぁ~。特にこのへん」

 

 そして、僕が聞き返すと、言葉とは裏腹に全く困ってなさそうな口調で自分の胸を擦り始める。悪魔のようなその笑顔を見た刹那、僕は、なんとなくこの勝負に負けたのだと悟った。

 

「この後……ちょっと付き合えよ。私の胸触ったこと、クラスのやつらにばらされたくなかったらな」

 

 それは彼女も同じようで。勝ち誇った顔でそう僕を脅迫した。

 

 たぶん、これはあれだ。『それでもボクはやってない』みたいな痴漢冤罪(僕のは冤罪じゃないけど)をふっかけられて、和解で済ませるために金銭を要求される感じのあれだ。

 それに気づいて、僕はいつもの「やれやれ」というため息をつくことすらできない。思わずデュエルスタンバイしたくなるくらいの死亡予告だった。

 

 



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第4話:圧倒的っ・・・・・・新世界の神・・・・・・!

 

 僕が住んでいるこの街は、何もない空っぽの街だと思う。

 

 別に生活に不便する超ド田舎ってわけじゃない。人口は15万人ぐらいだから地方都市としてはそこそこ大きいし、近くの音成(おとなり)市のベッドタウンだから住むところは新興住宅地からタワーマンションまである。JRの急行だって停まるし、車がないと不便ではあるけれど、徒歩で行けるだいたいの生活圏にコンビニ、スーパー、ファミレス、家電量販店があって、少し離れた郊外にはジャスコだってある。

 

 だけど、これといった名所とかそういうものは何もない。学校のすぐ裏に地元の人も名前をよく覚えていない山があるくらいだ。

 

 そこそこなんでもあるけど、何もない街。それが僕がここに抱いている印象だった。

 

「だいたい千条のやつ。子どもは何も考えられないし、自分が絶対正義だと思ってるんだよ。だから、正論をぶつけられたら、何も言い返さないで暴力や恫喝に走るしかないんだ」

 

 初夏の水田が青々と茂る登下校路。僕らはガタガタのあぜ道を並んで歩き、警戒心が解けないこちらとは反対に、「彼女」はペラペラと教師への不満を暴露している。暮れなずむ夕日に照らされた横顔を、僕は戸惑いと共にチラチラと伺っていた。

 

 「彼女」は、去年――小学五年生の春、僕と同時期に引っ越してきた転校生だった。

 ただ、共通点はそれだけだ。学校生活において、この子と僕はほぼ接点がない。

 

 まず、最初の自己紹介から違った。僕がどもらないように必死でしどろもどろだったのに対し、「彼女」はスラスラと、それでいて嫌味じゃない雰囲気で自己紹介を終えた。

 いざ学校生活が始まると、「彼女」は勉強も運動も優秀だった。だけど、単なる頭でっかちの優等生というわけでもなく、最近流行りの話題にも詳しく、クラスのどのグループとも話を合わせられるタイプだ。

 それに加え、この年頃特有の異性を排除して同性だけでつるむような幼稚さもなく、かといって女子に「男子にこびてる」と敵対視されるほどベタつくわけでもなく。誰に対しても相手に合わせた絶妙な距離感で接していて、なおかつそれを遠慮と感じさせない明るさもある。いわば「クラス全員お友達」みたいなやつだ。

 

 まあ、要するに、教室の端っこで自由帳にこそこそと自作漫画を描いているような僕とは、対極にいる存在だったのだ。

 

 ただ僕は……彼女のことが少し苦手だった。なんだかそうやってこちらに合わせた爽やかなコミュニケーションを取られると、なぜかひどく見下されているような気分になったからかもしれない。自分でも卑屈だとは思うけど、僕はそういう人間なのだから仕方ない。

 

「だいたい田中のやつも――」

 

 だけど、だからこそ、今横にいる「彼女」に違和感を覚えずにはいられなかった。

 そして、あの職員室で見た時の姿にも。先生やクラスのみんなも思っただろうけど、あんな行動を取るなんて、今までの彼女のイメージからはちょっとズレていたからだ。

 

 僕は適当にあいづちを打ちながら、「彼女」の話に耳を傾ける。「彼女」はなぜか教室にいる時よりずいぶんと砕けた口調だった。

 

 もともと「もう~、プンプン!」みたいにぶりっ子な女の喋り方をするやつじゃなかったけど、サバサバを通り越してなんだか男と喋っている気分だ。容姿や服装の印象もあるのだろうけど、どこか芝居がかった話し方で――それこそ漫画のキャラクターみたいだった。

 それでも、僕は不思議とそれが鼻につかなかった。それどころか教室で「クラス全員お友達」みたいな振る舞いをしている時よりどこか自然で、似合っているようにすら思えた。

 

「君も、田中にはイラついてただろう?」

 

 しばらくして、そんなことを尋ねられた。

 

「席が隣だからな。大人しそうなくせに目つきは反抗心に満ち溢れてたぜ?」

 

 僕はそれを聞いて、今日社会の授業でやった教科書の音読。その一幕を思い出す。

 そういえば――こいつは、僕が例によってどもった時も、笑わずにいてくれた。今までの話を聞くにそれは僕への気遣いというよりも教師への反抗心みたいなものだったのだろうけど、なんとなく……本当になんとなく、僕は自分の悩みを打ち明けてみた。

 

 「は」で始まる言葉――特に返事の「はい」は何もしなければ、いつもつっかえてしまうこと。小さい「ゅ」や「ょ」がつく言葉は、時間をかけなければうまく話せないこと。

 「彼女」はさっきとはうって変わって、僕の話を黙って聞いてくれた。だから、話し終えた後、僕は少しだけ後悔した。こんなしょうもない癖や活舌のことを言われても返答に困るだけだろう。

 

「ごめん。やっぱり――」

「そりゃあ、吃音ってやつだな」

 

 だけど、彼女の反応は、僕の予想していたどんなものとも違う。

 示されたのは、僕が全く知らない未知の単語だった。

 

「きつおん……?」

「そう。れっきとした障害だ。ネットで見たことがある」

 

 僕は口を半開きにした。何かを言おうとしたけど、言葉が出なかった。

 自分が癖だと思っていたあれが、障害としてカテゴライズされていたという事実はもちろんだけど。それをわかっていながら本人に正面切って言う彼女に対しても、驚きを隠せずにいられなかったからだ。

 

 学校では「ガ〇ジ、キ〇ガイなど差別的な言葉を使っちゃいけません」とか「私はそういう人たちを障がい者という言葉を使わずにハードルがある人と呼びたいと思います」(僕はそれはそれでどうなの? と思ったりもしたが)とかなんとか教えられていて、障害を持っている人に対して「あなたは障害者です」なんてことを言うのは、マズいことだと思っていたからだ。

 

「そりゃあ、教師たちが言ってることも正しい面もあるさ。だけど、綺麗ごとで取り繕ったところで、本質が見えなくなるだけだよ。ちゃんと事実は事実として向き合って、そこから、じゃあどうするかっていうのを考えないと意味ないと私は思うぜ」

 

 「彼女」はあっけらかんとそう言い切ると、「まあ、君が……当事者がどう思うかにもよるけど」と少し申し訳なさそうに付け加えた。

 でも、僕は……「障害」と言われたのに、不思議とあまり嫌な気持ちはしなかった。むしろ変に気を使われたりするより楽で、もっと「彼女」の意見を聞きたいと思い「はい」の前には必ず「あっ」をつけるようにしていることも告げてみた。

 

「それは君が自分で考えて、論理的に出した対策じゃないか。なら、君は別に間違ってない。何も考えてない田中の言うことなんて聞く必要ないだろ」

 

 それに対する回答も単純明快で。やっぱり「彼女」は頭がいいんだな、なんて頭の悪い感想を抱いた。

 

「おっ、そろそろだぞ」

 

 そう言うと、「彼女」は駆け出し、僕の少し前を歩く。

 終わりかけた春の夕日が周囲の建物を照らし、道路は影の黒とそれ以外の色に隔てられていた。赤いランドセルを背負った「彼女」の後ろ姿が電柱の影にまぎれ、少し暗い色に染まる。

 

 それを見て、ふと不思議な子だと思った。

 

 今までは人と常に最適な距離を保っているようなやつだと思っていたけど、今日みたいに土足で人の触れてほしくない部分に踏み込んできたり、突拍子もない言動を取ることもある。

 まるで……そう。星みたいだ。ドラえもんで大正時代にやってきたハレー彗星の話を読んだ記憶があるけれど、彼女は周回軌道を描き、離れては近づいてくる彗星のような子だと思った。

 

 

 

 「目的地に到着だ」と淡々と告げると、「彼女」は思わず立ち止まる僕に「何やってんの? 早く来いよ」と続けて催促する。

 そこは街の中心部寄りに立地している比較的新しめのタワーマンションだった。超大金持ちってわけじゃないけど、たぶんちゃんとした会社に勤めているサラリーマンとか公務員の人が買う感じの小奇麗なタイプだ。

 

「あの、ここって……」

「ん? わたしんち」

 

 手慣れた感じで玄関扉のオートロックを操作し、「彼女」はなんの感慨もなさそうに言い放つ。

 

「へぇ……」

 

 などと平静を装っていたけれど、僕は内心戸惑っていた。

 だって、女子の家である。低学年の頃ならまだしも……なんというか、この年になると、一対一で女子の家に行くなど少なからず抵抗があったし、ちょっとだけドキドキしていた。

 

「……お土産とか買ったほうがよかった?」

「……何を言ってるんだ? 君は」

 

 そんなこともあり、思わずわけのわからないことを言ってしまった。そんな僕の戯言は軽くいなして、「彼女」は僕をエレベーターに招き入れる。そのまま六階へ上がると、きちんと掃除されてある内廊下を歩き、隅から三番目のドアの前で「彼女」は足を止めた。どうやらここらしい。

 到着すると、彼女はズボンのジッパー付きのポケットから鍵を取り出し、差し込む。たぶんご両親は仕事か何かでいないのだろう。

 

「遠慮しなくていいぜ」

「お、おじゃまします……」

 

 先に入る「彼女」の後に続き、僕は猛獣の檻に入るようにおそるおそる玄関に足を踏み入れる。

 家の中はやはり誰もいないらしく、薄暗かった。「彼女」がリビングまで進み、壁際のスイッチを入れて明かりをつける。すると、マンションの外装に似つかわしいこれまた小奇麗な部屋がパッと現れた。じいちゃんの家を二世帯住宅にリフォームした僕の家とはまるで違い、なんだか外国の家みたいだ。

 

「こっち、私の部屋」

 

 呆気に取られていると、突き当りの部屋へと案内された。

 

「お、おじゃまします……」

 

 僕は数十秒前と全く同じセリフを吐きながら、敷居をまたぐ。そして、あんまりきょろきょろするのもどうかと思いつつも、思わず部屋を見渡した。

 

 第一印象は、なんだか女の子らしくない、という一点に尽きた。姉ちゃんがいるので別に女子の部屋にファンシーな幻想を抱いているわけじゃなかったけど、まさかぬいぐるみやクッションの類がひとつもないとは予想外だった。本棚があって、勉強机があって、ベットと備え付きのクローゼットがある。僕の部屋とたいして変わらない感じだ。

 

 ただ二つほど気になったのは、机の上に子どもが持つには珍しいノートパソコンが置いてあること。そして、本棚のラインナップの割合が圧倒的に少年漫画で占められていることだ。少女漫画雑誌やファッション誌といった女の子らしいやつもあるにはあるが、それらは有名どころがニ、三冊程度といった感じだった。

 

「まあ、立ってないで座れよ」

「……うん」

 

 僕はそう言われ、素直に絨毯の上に座る……なんとなく正座で。

 

「なんで正座なんだ?」

「いや、その……」

 

 女子の部屋に一人で来ている状況で頭がいっぱいになり忘れてたけど、僕はおっぱいを触ってしまったという事実をダシにこれから金銭の要求をされるのだ。

 こういう場面は、ニュース番組でやっていたなんかの特集で見たことがある。「警察にチクられたくなったら」と脅され、最初はお小遣いから払える範囲で済んでいたものが徐々にエスカレート。パチンコ、親のキャッシュカード、サラ金、自己破産、そして――しまいには、地下帝国での強制労働に従事させられるのだ。

 

「……き……ぅ……きょ、強制労働は勘弁してもらえないかな?」

「はぁ?」

 

 しかし、精一杯の悲壮さを携えた僕の懇願に「彼女」はポカンとしていた。「意味が分からんな」と言うので、僕が先ほど脳内でシミュレーションしていた人生終了ルートを説明すると、ぶっと吹き出した。

 

「そうかそうか! そういうことか! なるほど! 誤解させちゃったな!」

 

 困惑する僕を脇目に豪快に笑い立てられ、今度はこちらが呆気にとられる番だった。

 

「悪かったな。あの状態だと、君、そのまま逃げ出しそうだったから。金をむしり取る気なんてさらさらないから安心したまえ」

「じゃ、じゃあ、なんであんな……ぅ……き……脅したんだよ?」

「うーん、そうだな……うーん」

 

 「脅迫」が言えず、「脅した」に言い換えたが、「彼女」は気にしていなさそうだ。何度もうなり、勉強机の椅子に座ったり、立ったりを繰り返す。何かに悩んでいるようで、それが終わったと思ったら今度は僕の前を行ったり来たりし始めた。

 

 ……帰っていいかな、僕。

 

「……うん。やってみせ、言って聞かせて、させて見せなきゃなんとやら、というやつだな」

 

 そうして、たっぷり三分ほど時間を使い、ようやく自分の中で結論に達したらしい。足がしびれて正座を崩し始めた僕に背を向け、鍵が付いた机の引き出しから何かを取り出し始める。

 

「……これ」

 

 今までの様子が嘘のような――そこら辺の雑音にかき消されそうな小さな声だった。

 その声と共に差し出されたのは、一冊のノートとA4封筒だった。なんだろう? 厳重に保管してたし、まさかデスノートっていうんじゃあるまいな。

 

「あの――」

「見ればわかる」

 

 やはり……デスノートか?

 僕は自分の名前が書かれていないことを祈りつつ、差し出されたそれらを受け取る。そして、まずノートの方をゆっくりと開いていく。開いて、一ページ目でその手を止めた。

 

「え?」

 

 そこにあったのは、絵だった。いや、別にギャグとかじゃない。驚きのあまり思わず声が出ただけだ。

 しかも、そこに描かれていたのは……単なる絵じゃない。コマ割りがされ、ひとつひとつにセリフが振られ、背景の中でキャラクターたちが交流し、ストーリーが進んでいく。

 

 そう。それは――紛れもなく、漫画だった。

 

「これ……」

 

 ただ、商品として売っているものではないことは確かだ。トーンも使われていないし、ペン入れもされていない。何より描かれているのは普通の大学ノートだ。いわゆるネームってやつに近いけど、その割には登場人物の細部の表情や背景までちゃんと描き込まれている。

 僕は「彼女」の方を伺うように顔を上げたけど、その表情は見えなかった。僕の目の前で仁王立ちしていたはずなのに、いつの間にか下を向いて座っていたからだ。しかも、ご丁寧に正座までして。先ほどとは全く真逆の光景だった。

 

 「彼女」が何も言わないので、僕はどうしようかと思いつつも、一枚一枚ページをめくっていく。そして、ページを進めるごとに紅潮し、膝の上の拳をぎゅっと握り締める様子を見て、確信を得た。これは……たぶん「彼女」が描いたものだと。

 

 それに気づいた瞬間、僕の心を支配したのは驚愕に他ならなかった。ストーリー自体は……ちょっとエッチなラッキースケベが入るけど、よくある高校生の男の子と女の子のラブコメだ。

 だけど――技法とかきちんと勉強していないからうまく説明できないけど、奥行きや立体感、キャラクターの表情、身体のバランス……僕が描いている漫画とは、そのどれもが違いすぎる。絵に関しては、同じレベルで語っていいもんじゃない。

 

 最後のページまで読み終わった時、僕は魂が抜けたように放心していた。一年間ずっと見ていたアニメの最終回を見終わった時と同じ――感無量というか、なんというか、そんな感じの脱力感だった。汗ばむ手でノートを閉じ、それを「彼女」もちらりと上目遣いで確認したけど、お互いに言葉を発することはできない。

 

「……なんか言えよ」

 

 羞恥に耐え切れないように。最初に言葉を発したのは、「彼女」の方だった。

 真っ赤にした耳元を見て、おっぱい触られてもなんともなかったくせに漫画を読まれる方が恥ずかしいなんて、最近の若者のテーソー観念ってやつはどうなってるんだろう……などと思ったりもしたけど。そんなこと言える雰囲気ではなかった。僕は少しの間を空けたあと、ごくりと唾を飲み込む。

 

「……すごい」

 

 そして、すごく単純で……すごく正直な感想を告げた。

 正直、同じ年にこれだけうまいやつがいることに絶望した。打ちのめされた。それくらい衝撃的だった。

 

「……すごい! すごい! 本当にこれ君が描いたんだよね!?」

「う、うん」

「すごいよ! プロみたいだ! このコマなんて――」

 

 だけど、それ以上に内心嬉しくてたまらなかった。

 僕の他にも漫画を描いているやつがいること――あのちっぽけな教室という空間に僕と同類がいることが。

 

 僕は先ほど読みながら思ったことを全部告げた。興奮していたので、途中どもってしまう場面も多かったけど、そんなこと気にしてられなかった。今、感じたことを、気づいたことを――僕がどれだけすごいと思っているかを、作ったこの子に全部ぶつけたくて、仕方なかった。

 

「ご、ごめん!」

 

 少しして、勢いよく言い募る僕を「彼女」が制した。僕はそれを聞いてはっと我に返り、自分の言動を振り返る。

 

 うわっ……僕の言動、キモすぎ……?

 そう思ったが、時すでに遅し。「彼女」は僕に背を向けて、まるで生まれたての小鹿みたいに肩を震わせていた。

 

「もしかして、キモかった……よね? ごめ――」

「違うっ!」

 

 上擦った僕の弁明は、部屋中に響く大声でぴしゃりと遮られた。

 

「……その、違う。違うんだ。その、あの、うまく……言えなくて」

 

 「彼女」はそう言うと、右腕をぐいっと顔に押し付ける。十秒くらいたって、僕の方に向き直る。その瞳は――うっすらと水の膜が張っていたけど、顔は笑顔だった。

 

「……ありがとう」

 

 率直なその一言に。今度は、なんだか僕の方が照れ臭くなり……顔を赤くして「うん」としか言えなくなってしまった。

 



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第5話:UFOの空、金色の夕方

 その後、気恥ずかしい沈黙が一分くらい続いた。さっきの続きを語りたかったけど、何から話していいかわからず時計の針が進む音だけが響く。

 

「あのさ」

 

 そうして、再び話を切り出したのはやはり「彼女」の方だった。

 

「改めて頼みたいんだが、君の……あのノートを見せてくれないか?」

 

 僕は、その申し出に「えっ?」と声を上げる。たぶんいきなり全く知らない外国語で話しかけられたみたいな顔をしていたと思う。

 だけど、少し間を開けて、その意味を自分の中で咀嚼して――なんとなく、これまでの「彼女」の言動。その理由がわかった気がした。

 

 もしかしたら……この子も、同じことを思ったんじゃないだろうか。

 

 僕が「彼女」を同類と思ったように、「彼女」も僕のマンガノートを見た時に感じたんじゃないだろうか。

 それは僕の自惚れかもしれない。正直、プロどころか「彼女」の漫画と比べれば、僕のマンガノートなんて漫画モドキの落書きと同じだ。

 

 でも、まっすぐにこちらを見つけてくる「彼女」の視線からは逃れられそうにもなくて。

 どんなに不格好で、ヘタクソでも……僕はこの子の気持ちに応えるべきだと思った。ためらいがちに「わかった」と頷き、ランドセルからマンガノートを取り出す。

 

「……お、お願いします」

 

 学校での揉み合いで少しよれた自由帳を手渡し、改めて見てもらう。なんとなく通知表を親に渡している時と同じ気分になって変なことを口走ってしまったけど、「彼女」は気にしていないようですぐにマンガノートをめくり始めた。

 

 僕は、最初のうちはその真剣な眼差しをじっと見ていたけど、だんだん居た堪れなくなって、先ほどの「彼女」と同じように顔を伏せてしまった。

 なるほど。確かにこれは……恥ずかしい。たぶん自分の中身をさらけ出している分、全裸を見られた方がマシなんじゃないかって気がしてくる。

 

 またしても、沈黙が僕らの間に降りてきた。この自由帳はほぼ最後の方まで使い切っているけど、中身は長編漫画というわけではなく短編の集まりになっている。ひとつひとつを読むのにたいして時間はかからないはずだけど、「彼女」はどうやら全部読む気らしい。

 ページを手繰る手が止まる気配はなく、外ではすっかり日が落ち、カラスの鳴く声がどこか遠い世界から響く歌声のように聞こえる。そんな静寂の中で、パタンと紙の束が閉じられる音が僕の耳に届いた。

 

「どう……でしたか?」

 

 さっきからなんで敬語なのか自分でもわかないけど、緊張していることだけは確かだ。これまで生きてきた短い人生の中で、今、最高潮に心臓が躍動している。

 だけど、痛いくらいの鼓動は次の瞬間、自分でも表現しがたい奇妙な感覚に変わった。

 

 彼女に読んでもらった時。読み終わった彼女が顔を上げた時。

 そして――そこに満面の笑みがあった時。

 

 僕の中で、何かが変わった。僕一人が存在していた自由帳に散りばめた世界が集約し、はっきりと形を成し、僕と彼女の間に現れた。僕の漫画は、彼女に読まれることで、今初めてこの世に生まれたように思えた。

 

「おもしろい!」

 

 「彼女」の第一声は、僕と同じくすごく単純かつ素直なものだ。

 だけど、そこから続くのは、先ほどの僕の感想とはまるで違った。「どこがおもしかった」という詳細なポイントや話の構成、コマ割りにおける視線誘導の重要性とか……そのどれもが、僕の小学生並みの感想と違い……なんというか好意的だけど、すごく冷静で、論理的な分析だったのだ。

 

 やっぱり、こいつはただ者じゃない。喜びもつかの間、僕はさながら初めて強敵と戦う主人公の面持ちで「彼女」の話を聞いていた。

 

「どの短編にも共通する要素は、落語調のシュールギャグにちょっとしたSF要素……君は……たぶんだけど、ドラえもんが好きなんだな」

 

 そして、その講評中、ポロリと出てきた問いにドキリとする。

 

「な、なんでわかったんだよ?」

「一目見ればわかるよ。めちゃくちゃ影響受けてるから」

 

 僕は、唖然とした。正直に言うと、図星だった。

 ドラえもんは前から好きな漫画トップスリーに入っていたけど、あの伝記漫画を読んでから、藤子先生は僕がこの宇宙で最も敬愛する漫画家になっていた。

 

 学校の教師たちのことは嫌々「先生」って呼んでるけど、藤子先生だけは自然と自分で「先生」とつけるようになった。手塚治虫なんかはどちらかという歴史上の偉人って感じだからフルネームで呼び捨てだけど、ともかく古今東西僕がこの世界で唯一「先生」と呼びたいのは藤子先生ひとりだけだ。それくらい尊敬していた。

 

「君、慶應大学みたいなこというんだね」

 

 そのいきさつを語ると、「彼女」はそう言って笑った。なんのことかよくわからないが、その笑顔が――少なくとも、僕を嘲笑しているものではないことに内心ホッとした。

 だって、小学六年生の男子がドラえもんを好きっていうのは、なんだかおっくれってるぅーーーーーーっ! って感じで、あまり同級生には知られたくなかったからだ。

 

「別にいいじゃん。私も好きだぜ、ドラえもん」

 

 でも、そういうふうに「何がおかしいの?」という感じで肯定されると、なんだか好きなことを好きと言えない自分の方が恥ずかしいような気もしてきた。

 

 そうだな。もしクラスのやつらにドラえもんを――いや、作品に対する批評はまだしも、もし藤子先生を馬鹿にするようなやつがいたら、1週間は僕の家を出入り禁止にしてやる。まあ、家に呼ぶような友達なんていないんだけど。

 

「なんでドラえもんが好きなんだい?」

「なんでって言われても……」

 

 国民的コンテンツなのだ。嫌いなやつの方が少ないし、いつの間にか好きになっていたとしか言いようがない。

 

 でも――

 

――ドラえもんの映画、また送ったぞ!

 

 でも、強いて言うなら……たぶん、じいちゃんの影響だろう。

 

 去年の暮れに亡くなったじいちゃんは、ネッシーとか宇宙人とか世界中の神話や伝説とか。そういうオカルトちっくな話や都市伝説、SFが大好きな人だった。

 小さい頃は帰省で会う度に色々なおもしろい話をしてくれた。去年お母さんの地元であるこの街に引っ越して一緒に住むようになってからも、それは変わらなかった。

 

 親やばあちゃんからは「変なことを教えるのはやめてください」と苦言を呈されていたし、それだけだとやばい話が好きなでんじゃらすじーさんみたいに聞こえるけど、変な新興宗教みたいに本気で信じているというよりも「あったらいいよなぁ」という感じで。

 

 不思議なことや楽しいこと、おもしろいこと。

 どんなに年を取っても、そういうものにワクワクする気持ちを忘れなくていいんだと言ってくれたのは、家族の中ではじいちゃんだけだった。

 

「……好きだったんだな。おじいさんのこと」

「……うん」

 

 まだ僕が小さい頃。そんなじいちゃんが送ってきてくれのが、映画ドラえもんのビデオだった。

 まだこの街に来る前――確か幼稚園か小学校低学年だったと思う。僕は当時父親の仕事の都合でここから遠く離れた県にいて、例によって友達作りに失敗した。

 たぶんそんな僕の話を両親から聞いたのだろう。ある日、誕生日でもないのに突然電話と共にじいちゃんから荷物が届いた。

 

――この漫画面白いからな! お前も観てじいちゃんに感想聞かせぇ!

 

 そんなメッセージと共に送られてきたのは、一番初めのドラえもん映画『のび太の恐竜』だった(じいちゃんはよくアニメのことを漫画といっていた)。

 当時からドラえもんのことは好きだったけど、ちょっとパッケージが古臭く感じてあまり観る気になれず……最初は渋々といった感じだった。

 

 だけど、さすがは藤子先生の監修作。観始めると、僕はすぐに夢中になった。観終わった後、僕はすぐにじいちゃんに電話をかけて感想を伝えると、じいちゃんは嬉しそうに話し、意見が食い違った時なんかには「いや! それは違うぞ!」とまるで子どもみたいにムキになった。

 

 それからというもの、じいちゃんは毎年何本かのドラえもん映画やテレビシリーズ、それになぜか『キテレツ大百科』のビデオまで送ってきてくれるようになった。

 

 あの頃、僕はドラえもんを観て、じいちゃんと話すのが一番楽しかったと思う。

 だから、去年じいちゃんと一緒に暮らせるようになって、すごく嬉しかった。

 だから、じいちゃんがいきなり脳卒中で倒れて亡くなったと学校で聞かされた時も――今でも、僕は、どこかじいちゃんが死んでしまったという事実に、イマイチ実感が湧かなかった。

 

「悪かったな、変なこと聞いてしまって」

「いや、別に」

 

 なんてエリカ様みたいな返事をしてしまったけど、やっぱり……じいちゃんのことを話すと、胸がきゅっと痛くなってしまう。初めて来た他人の家なのに。なんだかこのままだと泣いてしまいそうだったので、僕は「それより他の漫画はどうかな?」と講評の続きを「彼女」にせびった。

 

「君と違って絵が下手だから、見るに堪えないかもしれないけど……」

「そんなことあるもんか」

 

 僕は思わず自分を下卑してしまったけど、「彼女」はそれをきっぱりと否定した。

 

「確かに……線の綺麗さとか、華のあるキャラデザとか、そういうパッと見て人を惹きつける絵を描けるっていうのは、大きな武器かもしれない。だけど、絵がヘタクソでも構図やバースの取り方、コマ配置を研究して紙面全体で人を惹きつける画面を描く人だっているし、先が気になるストーリー構成や細かい演出、あとは……天才にしか許されないけど、有無を言わさない勢いで突き進んで笑いを取るような漫画を描く人だっている」

 

 「彼女」はそこまで言うと、僕のマンガノートを開く。

 

「例えば、これ。正直、笑いを堪えるのに必死だったよ。それに笑いだけじゃなくて、ちゃんと熱いし、バトルの描写も誰が何をやっているのかわかるようになってる。私は……羨ましいよ。君みたいな発想力がないから」

 

 「彼女」からそんな好評の言葉を引き出したのは、正直おふざけで描いたもので――口からうんこを吐き出す力を持つゴリラの魔獣の子と人間のパートナーが一緒に戦う漫画だった。

 

「いやぁ、でも、それ……」

 

 ついでに言うと、その魔獣の最大必殺技は「ウンチンコ・ウンゲリラウンゴリラ!!!!!」というゴリラの姿をした巨大なうんこを相手にぶつける術だった。言い逃れようもなく、バオウ・ザケルガのパクリである。

 

「まあ、影響を受けるのは仕方ないさ。残念ながら、ほぼすべてのジャンルとパターンは手塚先生がやってるし、唯一あまり手掛けなかったスポーツものも他の人にやり尽くされてる。私たちは後に生まれたぶん色んな作品を読めるけど、その時点で後手に回っちゃってるという面もあるな」

 

 「彼女」もわかっているのだろう。言いよどむ僕に苦笑いを返した。

 

「でも……だから、そうやって偉大な先人たちが積み上げてきたものから吸収して、自分の中で新しいものに組み替えていくしかないだろう? きっとこの先、ドラえもんみたいに国民的コンテンツになるような漫画は、出てこないだろうしな」

「え? なんで?」

 

 きっぱりと言い切る「彼女」に僕が疑問符をぶつけると、「うーん、そうだな」と少しだけ間を開ける。

 

「君、一発屋芸人って知ってるか?」

「……エンタとかでブレイクして……だいたい翌年くらいには、テレビに出なくなるお笑い芸人とかのことだろ?」

「そう。この先、きっと、国民みんながずっと夢中になるみたいなことが起こりにくくなって……そういう短いスパンのブームを次々作っては共有して、消費していく時代になるんだよ。たぶん漫画とかアニメみたいなコンテンツもね」

「そうかなぁ?」

 

 今のクラスや家族を見ていると、どうにも実感が湧かない。だけど、納得がいってなさそうな僕の様子にも、逆に「彼女」は「その言葉を待ってた」とでも言いたげに笑う。

 

 そして、そのまま机へと向かい、ごそごそと何かをいじり始めた。少しだけ気になって僕が立ち上がったのとほぼ同じタイミングで「彼女」が振り返った。

 

「なるさ……なんたって、こいつがあるからね」

 

 そう断言すると、どこか仰々しい手ぶりで「こいつ」を指し示す。それは――

 

「……パソコン?」

 

 そう。その先にあったのは、部屋に入った時チラリと見かけたあのノートパソコンだった。

 

 



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第6話:科学の力ってすげぇ! 今はなんだって作れるんだ!

 

 

「惜しいな。正確には……インターネットだ」

「インターネットって、あの?」

 

 なんだか得心がいかずぼんやりとした僕の答えに、「彼女」はちょっと肩透かしをくらったらしい。

「うーむ」とどう説明するか悩んでいるようだった。

 

 パソコン。それにインターネット。

 

 僕には、なんだかそのどちらも「彼女」の話とは結び付かなかった。学校の総合学習の時間で習ったから使ったことはあるけど、携帯電話と違い、家にインターネットが繋がったパソコンがある家庭というのは、地方都市ではけっこう珍しかったからだ。サラリーマンのお父さんなんかは会社で当たり前のように使っていたし、デジモンやロックマンエグゼで出てくるように、これから先それが急速に発展すると言われていることは知っていた。

 

 でも、僕の両親はどちからというと流行りとかあんまり気にしないタイプの古い人で、家にはパソコンもなかったし、当然インターネットなんか繋がってなかったのだ。だから、仕事や勉強で使うはずのそういうのが、なんで娯楽とかコンテンツに繋がるのか理解できなかった。

 

「うーん、それはだな……これからインターネットが発達して、できることが増えるようになっていくと、みんなパソコンやロックマンに出てくるような携帯端末を使って、テレビ以外にも色んな暇の潰し方をするようになるんだよ。そうすると、みんなが娯楽にかける時間は細分化ってやつをして、月曜日の夜9時にOLが街から消える、なんてこともなくなっちゃうわけだ」

「へえ……」

「だから、この先求められるのは、インスタント食品みたいな手軽に暇つぶしできて、作る側も独創性とかよりお約束的で効率重視な……そういう一発屋的な作品が求められるようになるかもしれないって、私は思うんだ」

「うーん、僕には……いまいち実感湧かないな。ごめん」

「謝ることじゃないよ。もちろん私だってそうは思ってるけど、別にそういう作品が特別大好きってわけでも嫌いなわけでもない。でも、これからの時代で漫画家になるってのいうなら、そういうことも頭の隅で考えとかなきゃいけないわけだ」

「漫画家に……」

 

 僕は、さらりと出たその言葉に思わず目を見開く。

 だが、「彼女」は僕のその小さな変化には気づかず熱弁をふるい続ける。

 

「それに一発屋芸人になるのだって大変なんだぞ? 楽してるように思えるかもしれないけど、一目見た時のインパクトや覚えやすいフレーズだったりクセになるリズムとか……そういうのをちゃんと考え抜いての結果だろうしね。どんなにお笑いに真剣に取り組んでても、一発屋にもなれずに芸人をやめていく人だって、たくさんいるだろうしな」

 

 確かにそういう人たちって、テレビに出なくなった後も地方とかの巡業やイベントに結構出てて、細く長く稼いでいるという話は聞いたことがある。そういうのも、たぶん「彼女」が言っているような努力や研究の賜物なのだろう。

 

「どうした?」

「あっ、いや」

 

 ……とまあ、『学校へ行こう!』張りの熱い青少年の主張を繰り広げてもらったところ悪いのだが、正直なところ僕はその内容よりも先ほどの「彼女」の言葉――そう、「漫画家になる」というあの言葉だけが、頭の中で繰り返されていた。

 

「君は……漫画家になりたいと思ってるんだ」

「? そりゃそうだろ。というか、君もだろ?」

「いや、僕は……まだそこまで考えてないというか……ただ、好きで描いてるだけだし」

 

 さも当然と言わんばかりの「彼女」に思わず尻込みしてしまい、ごにょごにょと尻切れトンボの返事をする。

 小学六年生にもなると、嫌でも「将来」なんて言葉をちょっぴり意識するし、小さい頃誰もが夢見るスポーツ選手とかパイロットとか――そういう職業がすごく限られた人間しかなれない現実も理解している。たぶん、漫画家というのも、その類のひとつだ。

 

 そして、残念ながら、世の中を斜に構えた態度で見ている僕は、自分にそんな夢見る子供染みた将来を語るのなんて似合わないし、たぶんなれるほどの人間じゃないという自覚もある。

 だけど、その時――それは僕の勘違いかもしれないけど――ほんの少しだけ悲しそうな顔をした「彼女」を見ると、なんだか罪悪感が込み上げて。僕は勇気を振り絞ってみた。

 

「僕も……目指していいのかな?」

 

 そう言った瞬間、ミジンコみたいな僕のなけなしの決意に、「彼女」の表情がパァと明るくなる。

 

「……うん! 当たり前だろ! 漫画が好きなら、誰にだって目指す権利はあるさ!」

 

 「彼女」は弾んだ声で力強く頷くと、「そうだ!」と急に机に向かってパソコンをいじり始める。どうやら何かを思いついたらしい。パソコンの電源を入れるとブォオーと真夏のエアコンみたいな稼働音が中から響き、真っ黒な画面を背景に赤、青、緑、黄色のロゴマークと『Windows XP』という表示が浮かび上がる。

 

「パ……父親のお下がりだから、あんまり性能良くないんだよ、こいつ。立ち上がり遅いし」

「ふぅん」

 

 正直、まったくパソコンのことなどわからない僕は、お父さんのことパパって呼んでだなと思いながら適当に相槌を打ち、後ろから画面を覗き込む。なんだかゲーセンでお金がなくなって、他人のプレイを後ろから観察している気分だった。

 

 しばらくすると画面が切り替わり、ディスプレイを二分するような緑の草原と青空の写真が映し出された。その後、いくつかの表示が現れては消えた後、左上にある『e』のアイコンをクリックし、真っ白な背景に赤字で『Yahoo! JAPAN』の文字が出てくる。

 

「あっ、これは知ってる。ヤフーだよね」

「だいたいのブラウザで検索エンジンに設定されてるし、学校の授業でもこれだよな」

 

 ブラウザ? 検索エンジン?

 と僕の頭の上には疑問符がついていたが、「彼女」の言う通り、この画面は「インターネットを使ってみよう」と趣旨の授業で使っていたから知っていた。 

 

 確かこの白い枠に文字を入力すると調べた単語の情報が出てくるのだ。ヤフーは確かダイエーから福岡のプロ野球チームを買ったソフトバンクという会社がドームに名前をつけていたので、僕みたいなインターネットを普段使っていない層にも割と知名度が高かった。

 

「あれ?」

 

 だけど、その時、僕の脳裏にはある疑問が浮かんだ。

 

「どうかしたか?」

「いや、なんか学校のパソコンと違って……ピポパピー……っ……ヒ、ヒョロロロピーガガガ、ザアァァァーーー、みたいな音、流れないなと思って」

「ああ、それか」

 

 なんだかアホみたいな擬音、しかもわざわざ「ょ」がつく音を選び詰まってしまった僕の問いにも、「彼女」は画面を操作しつつニコリと笑う。

 

「うちはADSLだから。君が言っているそれはダイヤルアップ接続の時に流れる音なんだよ」

「ダイヤル、アップ、接続……?」

「電話回線と同じ周波数を使ってデータ信号を送受信する方式のこと」

「電話と同じなのに……こういう画像とかが出てくるの?」

 

 全くわけがわからないといった僕の問いに「彼女」は「君、なかなか難しいこと聞くね」と首をひねる。

 

「うーん、正直偉そうにしゃべってたけど、私もよくわからん。気になって調べたことはあるんだけど……ごめんな」

「いや、そんな」

 

 たぶん説明されても理解できない自信があると告げると、「彼女」はなんだかおかしそうに頬を緩ませた。

 

「さてと……これだよ。私が見せたかったのは」

 

 砂時計に変わっていたマウスカーソルが元に戻ると同時に彼女が僕の方を振り返る。近づいた顔の距離は吐息が聞こえるほど近くて、僕は少しドキリとした。

 だけど、得意げなその笑みの先に広がる光景――15インチディスプレイの向こう側にあるモノクロの世界に、僕は目を奪われた。

 

「これって……漫画?」

「ご明察の通りだ」

 

 それを聞いた瞬間、いや……電子の海に浮かぶ白と黒で構築された世界を見た瞬間、今までにない衝撃が僕を貫いた。

 

 漫画とは、僕の中では紙に印刷された物体であり、媒体だった。

 だけど、今、僕の目の前にあるのは、紛れもなく漫画だ。読み方は紙と違うけど、「彼女」に貸してもらったマウスでページをスクロールすれば次のページに行けるし、「最新話」と表示されているリンクを開けば次の話へと行ける。しかも、お金をかけず、無料で。こんなにたくさんの漫画が公開されている。

 

 僕はただ息をするのも忘れて、「彼女」が開いてくれたいくつかのタブを行き来した。驚きと興奮に浸り、頭の奥で自分の中の「漫画」という定義が大きく崩れていく音が響いた。

 

「もちろん、商品として流通しているものじゃないけどな。アマチュアの人たちやプロを目指している人たちが描いてるんだよ」

「へぇ……」

 

 「彼女」が紹介してくれたいくつかのアマチュア漫画家(中にはプロの人もいたが)がやっているホームページには、オリジナルのものから既存のキャラクターを使ったいわゆる二次創作と呼ばれるものまで……これまで見たことのない様々な漫画が載っていた。

 その多くは――僕が言うのもおこがましいけど――絵はつたなくて、荒々しいし、ストーリもよくわからないところがあった。

 

 だけど、そのどれもが、プロの作品にはない……何か惹きつけられる不思議な引力を持っていた。好きなものや嫌いなもの、綺麗なところも汚いところも。まるで、自分自信をそのままぶつけたように。商業作品とは違う――どこまでも個人的で自由な世界が、そこにはあった。

 

 「彼女」がおすすめしてくれたいくつかの漫画を、僕は画面越しに読んでみる。

 真っ白なドームに閉じ込められた人たちの話や死んでしまった主人公が記憶そのままに赤ん坊へと生まれ変わるもの。あと、ちょっと変な人たちが集まるファミレスの四コマ、人がカガステルという病気で巨大な虫になってしまう世界を描いたものなんかは、なんでこれが無料で読めるんだろうってくらい面白かった。

 

「そっか」

 

 その時、僕はごく当たり前のことに気づいた。

 うまく表現できないけど、僕の中でコロコロやボンボン、ジャンプ、サンデー、マガジン、ガンガンなんかで描いている漫画家は、最初から漫画家なんだと思っていた。

 

 だけど、違う。当たり前のことだけど、みんな――あの藤子先生でさえ、最初は漫画が好きなただの漫画家志望だったのだ。

 そして、このディスプレイの先には、僕と同じように漫画が好きで描き続けている同類がいる。それに気づいた時、自分を閉じ込めていた小さな教室に『通りぬけフープ』で風穴が空き、一気に空気が流れ込んだように感じた。

 

 僕は、インターネットという新しい次元に繋がるポケットに身一つで放り込まれていた。

 

「でも、これってどうやってパソコンの画面に載せてるんだろう?」

「ほとんどの人は紙とペン……アナログで描いた後、スキャナーを使って画像データにしてるって感じだろうな。完全にデジタルで作業できる機械もあるらしいけど、そういうのはめちゃくちゃ高いから法人とかしか手出せないだろうし」

「完全にデジタルって、画面の上で絵を描けるの?」

「うん。アニメの制作会社とかはそういうソフトと対応するパソコン? を使うんだよ。ほら、ゲームでもDSとか出てきただろう」

「ああ、そっか」

 

 任天堂から出たタッチパネル搭載式のゲーム機を思い出し、僕は合点がいった。

 

「こいつとインターネットがあれば、たいていのことはできる。漫画だけじゃなくて、音楽とか、ゲームとか、小説とか、FLASH動画……一台のパソコンを使って、一人でアニメ映画を作った人もいるらしいぜ」

「アニメ映画を?」

 

 そんなことが本当にできるのだろうか?

 数時間前の僕――PCやインターネットの一端を知らなかった僕なら、正直半信半疑だった。

 でも……きっと本当なのだろうと、今は思う。

 使ったことはある。存在は知っている。だけど、日常生活の一部ではないネットという世界。僕が知らない間に拡張を続けているそれは、どこか白紙の上に描く漫画に似ていて。なんでもできてしまう無限の可能性を秘めているようにも感じた。

 

「科学の力ってすげぇ……」

「うん、実に面白い。君も……どうやらこいつらの力を理解してきたようだな」

 

 まるでどこぞの大学教授みたいに殊更(ことさら)芝居がかった台詞で笑うと、「彼女」は画面から目を離し僕に向き直った。

 

「さてと。インターネットもそうだが、実は……君にもう一つ見せたいものがある」

「え?」

 

 唐突に改まった様子の「彼女」はちょいちょいと背後の足元を指さすので、僕もつられてそちらへ顔を向ける。

 そこにあったのは、先ほど見せてもらい床に置きっぱなしになっていた彼女のマンガノート。

 そして……一緒に渡されたが、興奮のあまり開けるのを忘れていたA4封筒だった。

 

「これ?」

「その通り」

「これも漫画?」

「さて? それはどうかな」

 

 インターネットの話をしていた先ほどにも増して楽しそうな顔だ。僕は首をかしげる。

 だが、その時、得意気なその笑みを見てハッとした。

 これは、あの時の笑い方に似ている。なんだか勝ち誇ったニヤケ顔――そう。「彼女」と揉み合いになって胸に触れてしまった時、脅迫された時の笑顔に。

 

 僕は封筒を取り、ごくりと唾をのむ。

 

 正直、中身が見たい。でも、「彼女」のあの顔は……なんだか嫌な予感しかしない。

 その数秒の間、僕の中で天使と悪魔的な自分が血みどろの争いを繰り広げ、複数の自己人格が議論する脳内会議が紛糾したりとテンプレな葛藤劇が繰り広げられたが、結局、期待が不安をわずかに上回った。

 おそるおそる封を開いてみる。収められているのは、数十枚の紙だった。僕はそれを引き抜いて、目を見開いた。

 

「え?」

 

 そこにあったのは、絵だった。いや、別にギャグとかじゃない。驚きのあまり思わず声が出ただけだ。

 なんだかついさっきも全く同じ下りをしたような気がするが、先ほどと違い、今、僕の目の前にあるのは漫画ではない。白紙の上に描かれているのは、女の人の一枚絵。ポートレートっていうやつだ。だけど、その姿を見て、僕は息が止まりそうになった。

 

 なぜなら……そこにあったのは、何も身に着けていない――裸の女性の上半身だったからだ。

 

 



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第7話:200×年 エロえもん誕生

 

 裸。ヌード。丸出し。すっぽんぽん。おっぱい丸見え。裸体。

 全裸、ぜんら、ZENRA……

 

 突然の衝撃で思わずYAWARAみたいな言い方してしまったが、僕はうろたえながらもそこから目を離すことができなかった。

 

 僕が、その、なんというか、女性の裸について記憶していることは少ない。まだ小さな頃、テレビでやっていたバカ殿様でおっぱい丸出しの女の人たちが出ているのを観ていたくらいだ。

 ただその頃はエッチな気持ちというか……「ちんちん!」とか「うんこ!」と同列のギャグとして見ていたという感じで、エロいとかそういうことはあまり考えていなかったと思う。

 

 ……いや、嘘だ。正直に言うと、幼いながらにちょっとは考えていた。

 確かいつかのバカ殿の放送回を今や懐かしのビデオテープに録ろうとして失敗し、まったく興味のないNHKのニュースを録画してしまったことがあった。

 ちなみにそのビデオに姉ちゃんが録っていたドラマは僕がダビングしたことで消えてしまい、犯人が判明した際にはそれはもう凄まじい暴力の嵐だった。僕は同じ時間帯にあるアニメを録ろうとしたと咄嗟の弁明を繰り出し、おっぱい目当てだったことが発覚するのはぎりぎり回避できた。

 

 これが後に僕の中で語り継がれつつも、日野家の歴史の闇に消えた『バカ殿おっぱい録画失敗事変』の真実である。

 

 とまあ、話は逸れたが、そろそろ目の前の現実に帰る頃合いだろう。

 

 僕は、改めて両手の中にある紙束に視線を這わす。柔らかい曲線を描く上半身。こちらに向かって微笑むお姉さんの口元。まっすぐこちらを見つめる瞳。

 生まれたままの姿をあらわにしたその絵は写実的? というのだろうか。先ほど見せてもらった漫画の絵より少し現実的で、数ページめくっていくとモデルとなっているであろうグラビアアイドルの人たちの水着写真が出てきた。

 

 紙質的に……たぶん雑誌の切り抜きとかじゃなくて、普通のA4用紙に印刷されたもののようだ。小学校低学年くらいの頃から……だったと思うけど、巨乳のグラビアアイドルの人たちがよくテレビのバラエティに出るようになっていたので、僕もその人たちを知っていた。

 

 だけど、古き良き時代ならまだしも、時は21世紀だ。近頃はテレビでおっぱいなんてお目にかかれないし、このお姉さんたちのヌードなんてものも当然見たことがない。

 

 ということは、これは――

 

「どうやら君も……おっぱい星人のようだな」

 

 戸惑いを隠せないまま顔を上げた視線の先には、満面の笑みが広がっていた。

 

「君は巨乳と貧乳、どっち派かね?」

「えっ……?」

「いや……やっぱりいい。何も言うな。先ほどの飢えた狼のような目を見れば、言われずともわかるさ。最近は、『貧乳はステータスだ』などと世迷いごとをいうやつも多いらしいが、やはり巨乳こそが至高……デカパイこそこの世の真理であり、絶対正義だよな……!」

 

 狼どころかまるで今日初めて外界に出た子犬のように――冒険心と恐怖心の境目にいる僕をよそに彼女は「ウヒヒヒヒ」とヤバい薬をキメちゃってる人みたいに笑っている。僕、まだ何も言ってないんだけどな。

 

 そうして僕がその豹変っぷりに唖然としていると、当の本人はどこか怪訝そうに眉をしかめた。

 

「どうした? ボケっとして。もしや、君……隠れヒンニスタンか!?」

「いや、そりゃあ……どっちかって言われると、大きい方が好きだけど」

 

 詰問染みた問いに僕がしどろもどろで応えると、「彼女」は「やはり、私の目に狂いはなかったな」と満足げに頷く。

 いや、ごく自然にスルーしちゃったけど、隠れヒンニスタンってなんだよ。踏み絵でもさせられるのだろうか。信仰の自由は日本国憲法で保障されてるんだぞ。というかなんの会話なんだ、これ。

 

 困惑するこちらを尻目に僕が敬虔な巨乳信徒であることを確認した「彼女」は、ズボンのポケット――家に入る時、鍵を取り出したファスナー付きのあそこから何かを取り出す。

 

「テストを見事にクリアした君には……この秘蔵コレクションを見せる権利を与えよう」

 

 そう言って「彼女」が掲げたのは、車のキーほどの大きさをした長方形の物体。たぶん、USBっていうやつだ。黒色のそれをおもむろにパソコンに差し込んでパスワードを打ち込み、フォルダが開かれる。マウスポインタ―が砂時計に置き換わり、しばらくたつと……目を疑うような光景がディスプレイに映し出された。

 

 そこにあったのは、画面を埋め尽くす肌色、肌色、肌色……やたらと露出が際どい水着のお姉さん方のオンパレードだ。しかも、ほぼ全員巨乳。

 僕は思わず窓際に行き、部屋のカーテンを閉めそうになった。だけど、すんでのところでここが人の部屋だということを思い出し、踏み止まる。

 

 僕だって……おっぱいは、まあ、嫌いじゃない。いや、むしろ好きだ。大好きだ。

 だけど、こいつはまずい。実にまずい。ヤバい。ついでにいうと、所狭しと並べられた画像を見てますます得意げな笑みを深くするこいつは、たぶんもっとヤバい。

 

「見てみろよ、これ。やっぱたまんねえな~」

 

 僕は度肝を抜かれた。女の子でそんなエロオヤジみたいなこと言うやつは、後にも先にも初めてだったからだ。

 斜め後ろで戦慄する僕のことなど気にも留めず。ディスプレイの青白い光の中でニヤニヤしながら、「彼女」は画像をクリックして拡大表示していく。僕はデジタル画面に映し出される胸の谷間に視線を奪われつつ、「彼女」におそるおそる尋ねる。

 

「その……デッサンとか、漫画の練習のために見てるんだよね?」

「いや、おっぱいが好きだからだけど?」

 

 即答だった。

 一切の迷いがない即答だった。

 

 たじろく僕に構わずしんちゃん顔負けのニヤケ面をさらして鑑賞を続ける「彼女」を見て、もはや変な笑いが込み上げてくる。下品な顔してるだろ? 女子小学生なんだぜ、これ。

 

 僕はどこか遠い風景を見る目で彼女の後ろ姿をぼけっと見る。そして、ふとこれまでの「彼女」の言動を走馬灯のように思い出して、あることに気づいた。

 引き出しの中から飛び出してきた漫画とヌードデッサン。プリントアウトされた水着のお姉さん。ポケットから取り出されたUSBにぎっしり詰まったエロ画像。

 

 ……引き出しの中から飛び出して、ポケットから取り出し、PCとインターネットという僕にとって、少し不思議な道具を使う。

 

 そう。その姿はまるで――あの猫型ロボットみたいだ。

 

 

「……エロえもん」

 

 

 自分でもなんとなしに、そんな単語をつぶやいていた。

 その刹那、僕はハッと我に返り、聞こえていないことを願いながら「彼女」の後頭部を見る。

 

「えっ?」

 

 だが、先ほどまで後頭部があったはずの位置にあるのは、まるで起動したてのロボットのように少し驚きを含んだ顔だ。どうやら願いも虚しくばっちり聞かれていたらしい。

 

「あっ、えっと……ご、ごめん! つい……」

 

 無意識に放ってしまった言葉に、僕はあくせくする。

 不可抗力とはいえおっぱいを触ってしまった痴漢に恐らく不法入手されたであろうエロ画像の閲覧。そして、たった今、自分でも大好きな漫画を文字った名誉棄損をしてしまった。

 

 今日だけで三つも罪を重ねている。な、なんでこんなことになってしまったんだ。例えクラスで浮いている一人ぼっちの変人だとしても、罪を重ねるつもりになんてなかったのに。

 

 そうして、じいちゃんごめんよぉ。あんたの孫は小学六年生でこんな重犯罪者になっちまったよぉ。などと懺悔にふけりながら、冷や汗をかいて、今にも逃げ出しそうになっていた時だ。

 

「それ……いいな!」

 

 僕の口から「へ?」と情けない声が漏れる。

 

 「彼女」から返ってきたのは、またもや予想の斜め上をいくリアクションだった。

 だが、ぽかんとする僕を差し置いて、「彼女」は今日一番のスマイルをこちらに向けて見せた。

 

「君、私のこと今度からそう呼べよ!」

 

 薄々感じてたけど……たぶん、というか絶対、こいつは変人だと思った。

 

「い、いやだよ……」

「おっぱい」

 

 拒否した瞬間、「彼女」の口から出た単語に、僕はフリーズする。そのニヤケ顔が指し示す意味は、先ほど揉み合いになって胸を触ってしまったことだろう。

 

「私って、なんか昔から友達にあだ名で呼ばれたことないんだよ」

「……友達?」

 

 そもそも脅迫する、される関係って、友達と言えるんだろうか?

 

「おいおい、傷つくぜ? 自作漫画とエロ画像を見せ合った仲じゃないか」

 

 と、僕が「友達の定義」などという太宰の時代から受つ継がれている極めて普遍的かつ抽象的で走れメロス的なテーマについて考えて現実逃避していると、「彼女」は「……まあ、君が死ぬくらい嫌だってんならいいけどさ」と少し拗ねたような顔をする。

 曇ったその表情を見ると、なんだかこちらが悪いことをしているような気がしてきて……僕はやれやれとため息をついた。

 

「わかったよ」

「おっ! 本当に!?」

「ただし、君と二人でいる時だけ。他人がいる前では言わない」

「えぇ、困ったやつだなぁ」

 

 そりゃこっちの台詞だよ!

 

 などと言いたくなったけど、僕は困惑しながら……少し嬉しかったのも事実だった。

 教室で孤立してからあだ名で呼ぶ合う友達なんていなかったし、こんなふうに漫画のことや……ましてや、エッチなことについて話す相手もいなかったから。

 

「君って……いつも友達とこういう話してんの?」

「こういう話?」

「その、漫画とか、インターネットとか……エロいこととか」

「まさか。女子相手に言う訳ないだろ。そのくらいの社会常識は身に着けてるさ」

 

 ……一応、君も女子なんだけどね。あと、君は数分前の自分の発言省みたら社会常識語れる立場じゃないだろ。

 

「君、失礼なこと考えてるな。私だって話題合わせくらいはするんだぞ」

 

 そんなことを思っていると、「彼女」――改め「エロえもん」はどこか得意げな様子でふんと鼻を鳴らし、僕の背後を顎で指す。

 

 僕が振り向いた先にあるのは、壁際の本棚だった。部屋に入った時に見たやたらと少年漫画が多い本棚だ。そして、彼女の目線を追うと、そこには数ある漫画の中で肩身が狭そうにしているファッション誌が置いてあった。

 

「あれのこと?」

「そっ。まあ、あとはゴールデンタイムにやってるドラマとかアイドルが出てるバラエティとか見とけばなんとかなる。本当は……その時間も、漫画に使いたいんだけど」

 

 あっけらかんとしつつも最後に本音を滲ませた言葉に……僕は、なんとなく、こいつも僕と同じ小学生だったんだなと思った。

 教室でたむろしている女子みたいに……横目でちらちらと誰かを見て、こそこそ話すようなタイプとも思えないが、きっと無理して話を合わせているところもあるのだろう。

 

 そういや、前から気になってたけど、あれってどういう話してんだろう。

 

「本当に聞きたいかい?」

「……遠……ぅ……り、慮しとくよ」

「賢明な判断だな」

 

 僕もたまに嫌な視線を向けられるから気になっていたが、そんなことを言われると聞く意欲も失せる。ということか、僕に関してはだいたいどんな悪口を言われているか想像に難くない。そんなことを打ち明けると「君は変なところで正直なやつだな」とエロえもんは苦笑した。

 

「……裏で誰かの悪口言うのも、誰かから言われるのも、本当は嫌なんだ」

 

 苦い表情のあと、今までとは違い――伏せ目がちなエロえもんの声は、静かなものだった。

 

「同じ意見に頷いて、同じ雑誌買って、同じ番組観て、同じ曲聞いて……それが本当に好きなら全然構わないけど……それが好きじゃないとおかしいとか、普通じゃないって言われるのは、正直、馬鹿みたいだなって、時々思うことはあるよ」

 

 思うけど、誰にも言う勇気なんてないんだけどな。

 と自嘲気味に付け足した後、エロえもんは力なく笑う。僕はその表情を見て、ふと教室での彼女を思い出した。

 

 確かにエロえもんは誰とでもうまくやるけど、誰と一番仲がいいかと言われると、パッと思いつかない。それは僕がクラスの内情をイマイチ把握していないだけかもしれないけど。

 もしかしたら、クラスの「友達」ではなく、今日初めてまともに会話するような仲で、他のクラスメイトとは交流のなさそうな僕だから、彼女も本音をぶちまけているのかもしれない。

 

「女子ってのも、大変だね」

「男子はどうだ?」

「……似たようなことは、あるかもしれない」

 

 男子は女子と違ってバカで羨ましいなんてこと言われるけど、僕からしたらあんまり変わらないように思える。

 

 男子だって裏で陰口叩かれるし、悪口を言っていい奴と言っちゃダメなやつが決まっている気がするし、僕みたいな運動神経悪い変人は体育の授業のチーム分けでハブられるし。女子と違ってそれを嫌がらせだと自覚していないぶん、余計たちが悪い気がする。まあ、なんというか陰湿さではあまり変わらないということだ。

 

「時々、君らライアーゲームとか人生逆転ゲームやってんの? って気分になるよ」

 

 ぼそりとつぶやいた僕の言葉にエロえもんはぶっと吹き出し「言い得て妙だな」とケタケタと笑う。そんなにツボに入るとは思わなかったので、僕は急に数秒前の稚拙な例えが恥ずかしくなり、慌てて弁明した。

 

「あっ、いや、去年転校してきてから、教室の端っこでボケっとそんなことばっかり考えてて。僕……友達いないし」

 

 自分でもかなり痛々しい発言なのに後から気づき、ごまかすために乾いた笑いを含ませる。だけど、エロえもんはそんなこと気にも留めず「そういえば……君も転校生だったね」とどこか――それは僕の気のせいかもしれないけど――親し気な笑みを見せた。

 

「私も……同じようなこと、考えたことあるよ。前の学校で思い知ったからね。あまり普通から外れると、次第に大人がちょっかいを出してきて、クラスの人間関係まで崩れて、何もかも壊れちゃう。

 だから、こっちの学校に来てからは、現実世界での人間関係で心の友なんて作ることをあきらめて、とりあえずクラスのやつらとはうまく付き合えるようになった。その代わりだんだん苦しくなって……その時、インターネットに上がっている漫画を見て、私も、描こうと思ったんだ」

 

 一息に告げられたエロえもんの話に、僕は何を言うべきかわからずしばらく黙り込んでいた。考えて、考えて……結局「そっか」という毒にも薬にもならない一言をひねり出すのが精一杯だった。この時ばかりは、希薄な人間関係に裏付けされたコミュニケーション能力の低さを後悔した。これがいわゆる『KY』ってやつなんだろ。

 

 KY。少し前からテレビが流行らせている言葉でK=空気、Y=読めないの略である。

 

 たぶん……普通の子どもは、色んな同世代や大人とコミュニケーションを取って、自分の言葉に他人がどう反応するかを見て、どこまで自分を出せばいいのか。何をすれば、何を言えば、「空気が読めないやつ」になるかを学んでいく。

 そうやって学年が上がっていって、中学生になって、高校生になって、大人になる。

 

 でも、僕には、その「普通」ってやつが、よくわからなかった。

 何をすれば普通なのか。どう振る舞えば普通なのか。そもそも普通ってなんなのか。それって本当に正しいのか。僕の親はちっとも毎日が楽しそうじゃないし、教師たちは気にくわないことがあるとすぐ癇癪を起こすし。周りの大人たちを見ていると、そんなにいいもんだとは僕には思えなかった。

 

 なんで――なんでなんだろう。

 好きなことを好きっていうのは。

 嫌なことを嫌っていうのは。

 他のみんなや普通と違うのは。

 なんでそんなに……悪いことなんだろう。

 

 じいちゃんと話していた世界の不思議なできごとのように――この世界には、僕が理解できない常識や事象ばっかりだ。

 

「まあ、そんな辛気臭い話はいいとして!」

 

 なんだか重苦しくなってしまった空気を切り裂いて、エロえもんの明るい声が耳に届き、僕はハッとする。見ると、エロえもんは腕を組んで、インターネットやエロ画像の話をしていた時みたいな――あの得意気でシニカルな笑顔に戻っていた。

 

「君に任務を課そう。これから……毎日、放課後私と待ち合わせすること」

 

 だが、唐突に告げられたその提案に僕は「ええっ!?」と柄にでもなく素っ頓狂な声を上げた。

 

「せ、せっかくのお誘いだけど、お断――」

「おっぱい」

 

 そうして断ろうとすると、またしても絶対遵守を誓わされる無敵の単語が僕に投げかけられる。

 

「……毎日はちょっと、塾あるし」

「なんだ中学受験でもするのか?」

「そういう訳じゃないんだけど……成績悪いから」

「学校のテストなんて、教師の匙加減を除けば教科書の範囲しか出てこないぞ? 授業聞いて復習してれば十分だろ」

 

 僕はその発言に唖然とするが、確かにこいつが塾に行っているという話は聞いたことないから事実なのだろう。

 

 まあ、僕は最近授業も真面目に聞いてないし、塾の課題も適当にこなして漫画を描き始めてから成績がぐんぐん下がっているので、彼女の理屈は正しいのだろう。いやはやまったくもってその通り、ザッツライト、いかにも大正解のおっしゃる通りでございます。

 

 でも、例えそうでも、自分がそうだからといって僕までそうだとは思わない欲しいものである。学年が上がるごとに実感させれるけど、やっぱり生まれ持った地頭の良さや要領の悪さというのはあるものなのだ。

 

 などと僕はひねくれた考えを巡らせているが、エロえもんはそんなこと一切介さない。白い歯を見せて薄く笑った後、未だに猥褻物陳列罪なノートパソコンの画面をこちらに向け、おまけに片手には高々と印刷されたグラビア画像を掲げる。

 

「私たちは共犯者だろ? んー?」

 

 眼前に突き出されたおっぱいに僕は顔を背けながらも、しっかりと横目でその谷間だけは凝視する。ふとその先にあるエロえもんと視線が重なり、胃袋をくすぐられている気分になった。

 

「……わかったよ。犯罪以外なら付き合う」

 

 僕はなんだかムズムズするその状態からいち早く解放されたくて、仕方なくそうつぶやく。

 

 すると、エロえもんは「そうか! よく言った!」としてやったり顔。その満面の笑みを見ていると、さてはこいつ僕の反応を見ておもちゃにしているだけじゃないかという気もしてくる。

 

「いやー、漫画の話できる友達がほしかったんだよ。ありがとな」

「う、うん」

 

 だけど――例えそうだとしても。

 僕は、その言葉に。満面の笑みに。「友達」という単語に。ただドギマギしながら頷くしかなかった。

 

 

 

 

 

 横断歩道の白いところ以外は溶岩になっていて、黒を踏んだら落ちて死亡。

 石ころ蹴って、家まで運ぶまでに溝とか排水溝に落ちたらゲームオーバー。

 

 低学年の頃、僕は学校からの帰り道にいつもそんなことをして帰っていた。六年生にもなるとさすがにもうしなくなったけど、それでも、心は少し浮ついていて。

 いつもより薄暗いエロえもん家からの帰り道、無意識に昔『ポンキッキ―ズ』で主題歌だった『歩いて帰ろう』を口ずさんでいた。

 

 僕は、今日もどもりのせいで先生から怒られて、日直の仕事を押し付けられて、教室の隅で一人自由帳をマンガノートに変えているはずだった。

 そんな――後からカレンダーを見返せば、素通りしてしまうようないつも通りの一日のはずだったのに。明日からの毎日と、昨日までは毎日は決定的に何かが違うように思えた。そんな予感がした。

 

 僕は漫画を描いていて、あいつも漫画を描いている。

 

 そして、この世界には、僕ら以外にも色んな人が漫画を描いている。漫画家を目指すということは自分とは無関係な世界じゃない。確かにこの世界に存在している目標で、僕も漫画家になれるかもしれないんだ。

 そう考えると、こんな僕でも、ドラえもんみたいに3ミリくらいは浮足立った気分になり、思わず走らずにはいられなかった。

 

 

 それはゼロ年代――すこしむかしの話。

 

 ノストラダムスの予言の成就も、セカンドインパクトもなく、21世紀が何事もなく始まった頃。

 世間では郵便局が国営じゃなくなったり、同時多発テロが起こってアメリカとイラクが戦争を始めたり、どこかのIT企業がテレビ局を買収しようとしたり、イナバウアーが流行ったり、総理が短い間に何人も辞めたり、ドラえもんの声優が代わったり、色んなことが起こっていた。

 

 だけど、どこか遠くで社会を動かすそんなことは、僕らの世界にとってどうでもよくて。

 もっと重要なことは、他にあった。

 

 確かに、あったんだ。

 

 



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第2巻 恋するとぱんつ
第8話:ドラベース・ドラリーニョ


 

 

「いくぜぇ! 大回転背面満月大根シューーート!!!」

 

 クラスでお笑い担当の男子である安春が叫ぶと同時にサッカーボールが空高く蹴り上げられ、初夏の空に放物線を描いた。コートの外を大きく外れて飛んで行ったそれを見て「おい! 真面目にやらんか!」と千条先生が怒鳴り立て、クラスのやつらからドッと笑いが湧き上がる。ハーフウェイラインの向こう側で起きているその様子を、僕を含めた何人かの生徒はゴールポストの前でボケっと眺めていた。

 

 サッカーにおいては、コートを真っ二つに割るこのラインが、僕らとそれ以外を分ける境界線だといつも思う。

 

 なんの境界線かって? それは聞くまでもないだろう。

 

 この世界には、およそ二種類の人種が存在する。

 運動ができる者とできない者というベルリンの壁より厚く、根深い人種差別である。

 そして、後者の人間にとって体育の授業という義務教育で定められた時間は、運動神経によって人権の有無が決まる小学生男子にはとてつもなく困難な試練であった。

 

 まず前提として、リレー以外の陸上競技など個人種目はまだマシだ。衆目の晒し者になるだけで一時の恥として乗り越えられる。

 問題は、カリキュラムに毎年と言っていいほど組み込まれる運動会の練習とチームスポーツ全般である。特に後者はまずい。運動会の練習は期限付きのため苦難の終わりが見えやすく希望を持ちやすいが、野球やバレー、バスケ、サッカーといった球技は1年中満遍なく配置され、終わりが見えない。さらにそこでミスしようものであれば、スポーツが非常に得意であらせられるクラスの中心人物たちから陰口、舌打ちを叩かれること請け合いだ。

 

 それに加え、あろうことかうちの学校では、総合学習の時間さえ球技大会のための練習という時間に割かれることがあるのだ。

 

 球技大会に参加する種目をクラスで決める投票が行われる際、僕はいつも民主主義制とそれを生み出した古代ギリシャの賢人たちを恨みながら「野球は嫌だ……! 野球は嫌だ……!」と頭上で祈っている。打順が回ってくるので全員必ずバッターボックスに立たなきゃいけないのと一人あたりに割り振られる守備範囲が割と広いので、運が良くても数回はこちらにボールが飛んでくるから絶対に嫌だった。

 

 まったく。球技大会なんざなんかのボールを10回壁に当てて終わりでいいだろ。野球なんてつまんないことやめてさ。

 

 今年こそはなんとか回避したいところだが、根回しできるような人脈など持ち合わせちゃいないので、結局昨年と同じく運命に身をゆだねる他ないだろう。

 そんな未来予想図を描きながら、爽やかな初夏に行われる体育の背景と化していた僕は周囲をちらりと伺う。

 

 僕の周りにいるのは、同じような運動音痴あるいはスタミナがない太っているやつだ。自分を含めてこういう連中は漏れなくゴール前でディフェンスという名のカカシになるのが通例だった。それこそカカシ先生みたいにかっこよければいいけれど、中忍試験どころかアカデミーに入学すらできなそうな僕らに運動神経がいいやつのコピープレイなどできないので、こうやって突っ立って、ボールが来たら邪魔する素振りだけ見せるように務めていた。

 

 僕は晴れ渡った青空を見上げ、きゃあきゃあ言っているクラスメイトたちをあたたかーい目で見守っていた。ああいうクラスのお笑い担当グループがミスっても大爆笑になるだけど、運動神経悪い根暗がミスると空気が白けるし、場合によってはジュニアクラブとかに通っている競技経験者がイライラし出すこともある。ゆえに、僕らのようなのは大人しくしておくのが正解なのだ。

 

「お前らー! ちゃんと授業に参加しろー!」

 

 ところが、そうしていると、千条先生の咆哮がこちらへと飛んできた。やつの中ではふざけているお笑い担当は授業に参加していて、形だけでもディフェンスに徹している僕らは授業に参加していないらしい。

 どうしてこう教師というのは「全員が参加している感」にこだわるんだろう。みんな参加して幸せになるなんて、オリジナルベイブレードが買える応募者全員サービスぐらいだろ。

 

 普段大して仲がいい訳ではない僕ら運動音痴組。だが、そう言われここはどうすべきかとお互いに目配せをし、特に言葉を交わしたわけではないが、「聞こえなかったことにして現状維持に努めよう」という無言の同意が僕らの中に流れる。

 

「おい! 後ろいるやつら……日野! 前に出ろ! 前に! FW(フォワード)やれ!」

 

 と、そんなことをしているとしびれを切らした千条先生に目をつけられて、名指しされた。

 

 FWと僕。それはハム太郎とやたら怖いゴジラの同時上映くらい斬新な組み合わせの気がするが、ついに千条先生がこちらに走り寄ってきたので、僕をはじめとして名前を呼ばれたディフェンスに徹していた運動音痴組が前に出始める。こんなに嬉しくないドラフト指名もありゃしないな。

 

 やれやれと浅いため息をつき、前線に出るまでの時間稼ぎのためノロノロと走り出す僕らを見て「お前ら! なんでベストを尽くさないんだ!?」とまた千条先生の雷が落ちた。

 

「パス回せ! パス!」

 

 こちらにやってきた運動神経がいい人権保有組――その中でも非常に人がいい優等生の出久杉と一瞬、目が合う。彼が先生の言葉を受けこちらにパスを回そうとする。僕はそれにさも気づいていないような振りをして、明後日の方向を見てやり過ごす。

 

 若人が接待プレイなんかしてんじゃないよ、まったく。子供はもっと伸び伸びプレイしなさい。

 と思って無事回避できたと思ったら、タイミングが悪かったのだろう。僕が顔を背けたのに気づかず、出久杉がこちらにボールを蹴り出してしまった。

 

 僕は慌ててそのボールを受け止め――受け止めたはいいが、周囲に同じチームのやつがいないためパスができないことに遅れて気づき、仕方なくホンダのASIMOみたいなぎくしゃくとした動きでドリブルを始める。そして、ものの数秒で後ろから来た敵チームのやつに取られてしまった。

 

「何やってんだよ! クズ! ノロマ!」

 

 すると、今度は横合いから怒号が飛んできた。千条先生ではなく、クラスでも気が荒い幸田だった。

 やれやれ。あんまり強い言葉を使うなよ……泣きたくなるぞ?

 

「まあまあ、幸田。いばんなよ~」

「は? いばってねーっつの」

 

 その隣でいつも金魚の糞みたいに引っ付いている細川がニヤニヤ笑いながら僕と幸田を交互に見た。言葉では僕をかばっているが、なんとなくバカにされていることはわかる。

 

 僕はそれに悔しさを感じることすらできず、こういうジュニアクラブがあるスポーツって大抵そこに通っているやつが偉そうにし出すから嫌いなんだよなぁとか、素人相手に本気になるなよどうせ授業なんだからとか、色々と不平不満を心の中でぶちまけつつも、千条先生の監視があるので最低限のやる気を見せながら走り出した時だった。

 

「おい! ボール行ったぞー!」

「へ?」

 

 誰かの声が聞こえたのと振り返ったのと――振り返った先、すぐ眼前にボールがあることに気づいたのは、ほぼ同時だった。

 

 誰かがふざけて思いっきりロングシュートを決めたらしい。それはとてつもないスピードのはずなのに、映画のスロー再生みたいにゆっくりと僕には見えた。

 まるで目の前に暴走トラックのヘッドライトが迫っている野生動物みたいに僕の体は硬直する。僕は死にましぇーんなんて言う暇もなく、当然の帰結としてサッカーボールは僕の眼鏡をぶっ飛ばし、顔面を一瞬押しつぶした後、跳ね返り地面にバウンド。僕はその反動で後ろ向きに倒れ、ガンと頭を打ち付ける。

 

 一瞬、周囲で千条先生のホイッスルの音と大声が聞こえた。しかし、そのざわめきも遠くなり、暗くなっていく視界には初夏の澄み切った青空と流れていく雲がうっすらと見えた。

 

 いやぁ、本当にいい天気だよ。体育の授業は最高だね、まったく。

 



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第9話:あいあいパラソル

 

 

 ぼんやりとした視界に映ったのは、見慣れない天井だった。

 

 そのくすぶった白色を見て、ゆっくりと首をひねり、周囲を覆っているピンク色のカーテンの存在と自分が体操着のままベッドに寝かされているという事実に気づく。枕元には眼鏡と教室で着替えた服が畳んで置いてあった。

 

 保健室だ。たぶん、あの後、気を失ってここまで運び込まれてきたのだろう。

 それにしても……頭を打ったとはいえ、サッカーボールが顔面直撃して気を失うとは。我ながらなんとも滑稽である。まるでギャグ漫画みたいだ。だけど、まだ少し痛む鼻面と左側の鼻孔に詰められたガーゼが、一応現実だということを告げていた。

 

 眼鏡をつけ、後ろ手をついてズシリと重い上半身を持ち上げると、カーテン越しに壁掛け時計が見えた。体育があった六時間目はとっくに過ぎて、ホームルームも終わっている時間だ。ドア向こうの廊下からはギャーギャーと騒ぎ声が聞こえてきた。

 その声を聞き、ふと僕はエロえもんと先日交わした約束のことを思い出していた。今日は塾がない日だが、さすがにあいつも今日は待たずにそのまま帰っているだろう。

 

「やれやれ」

 

 僕はぎしりと鳴るベッドのスプリングに促されるまま立ち上がる。人がいる気配がないので、養護の先生は職員会議か何かだろう。とりあえず汗臭い体操服を上下とも脱いでパンツ一丁となり、そのまま服を右手に掴んだ時だ。

 

「よっ。災難だっ――」

 

 カーテンが勢いよく引かれる音と一緒に、ここ最近聞き慣れた声が背後から聞こえてきた。その声に導かれ僕が振り向くと、これまた見慣れた笑顔を貼り付けたエロえもんと目が合った。

 

 だが、その様子がおかしい。まるで静止したアニメみたいに口角を吊り上げたまま、数秒視線だけを上下に動かし、再び僕と目を合わせるとみるみる顔を赤くする。

 それをボケっと見ていた僕が、パンツ一丁という自分の状態に気づいたのは、エロえもんが無言のままカーテンを閉めた後だ。

 

「ご、ごめん……」

 

 カーテン越しに聞こえてきた謝罪に、僕もうわずった声で「う、うん」と返答する。

 なんだろうね。そんな普通の女の子みたいな反応されるとこちらも調子が狂う。これもラッキースケベってやつに分類されるんだろうか。

 

 僕が着替え終わってカーテンを開けると、エロえもんは先生が使う机の上でノートに何かを描ていた。たぶん漫画のネームかデッサンの類だろう。僕が出てきたのに気づくと、「さ、さっきは悪かったな」と慌ててパタンとそれを閉じた。

 

「ずいぶん派手にやったな。教室から服持ってきた時は驚いたぞ」

「……君が持ってきてくれたの?」

 

 服を見た時は、友達でもないのに持ってきてくれるなんて奇特なやつもいたもんだと思っていたが、なるほど。この子だったのか。

 

「私、実は保健委員なんだぜ」

「そうだったけ?」

「うん。応急処置くらいなら習ってるし、そのガーゼも一回詰め替えたんだがな」

 

 ハニカミながらエロえもんは立ち上がり、僕の鼻に右手を近づける。目前に迫った彼女の指に少しドキリとする。

 

「ぶっ」

 

 と思ったら、ズボッと容赦なく鼻からガーゼが抜かれた。真っ赤に染まったガーゼの先はすっかり乾ききっていて、解放されたに鼻の穴にかすかな消毒液の匂いが届く。

 

「起きたらガーゼ代えてあげて言われたけど、この分だと大丈夫そうだ」

「なんか……いろいろとご面倒をおかけしたみたいで……」

「体育ダルかったから、いいサボリの理由になったよ。それに漫画のネタになりそうな経験だったしな」

 

 にっこり笑ってガーゼをゴミ箱に投げ捨てるエロえもんに、僕はこいつ女子だけど顔だけじゃなくて言動もイケメンだなよぁと呆けつつ、あらためて感謝した。

 

 その後、職員室まで二人連れ立って行き養護の先生に特に何も問題なさそうだと報告すると、定年間近のおばちゃん先生は「サッカーボールで気絶する子なんて何十年ぶりに見たよ」とあっけらかんと笑った。

 

 あと、職員室から出る途中「おう、名誉の負傷だな!」と千条先生にも声をかけられた。一応、体の異常はないかなど一通りの確認をされ、最後に「まあ、今度からは授業に積極的に参加しろよ! ちゃんと周りを見るんだぞ!」と非常にありがたいお言葉を頂いた。

 僕は内心文句のひとつでもつけたくなったが、その発言を聞いたエロえもんの目つきが鋭くなったのを傍目に見て、一触即発の危機を回避するため適当に相槌を打ってその場をあとにする。まったく、どいつもこいつも病み上がりに気を使わせないで欲しいね。

 

 何はともあれやるべきことを終えた僕らは、別れを告げる大声や給食袋を振り回しながら廊下を走る音の間をすり抜け、ランドセルを取るために教室へと向かった。

 

「じゃあ、また放課後。いつもの空き地な」

「うん」

 

 教室がある三階へと向かう途中、誰もいない階段の踊り場でエロえもんからそう切り出され、僕も頷く。

 

 

 エロえもんの家に行ったあの日から。僕らは互いに外せない用事がある時以外は、通学路から少し離れた三丁目の空き地で放課後落ち合った。

 そこで、あるいはエロえもんの家で、互いの漫画を見せ合って反省会をしたり、僕が持っている漫画とエロえもんが印刷してきた漫画の描き方が載ってるホームページやネットの漫画……あとはエロ画像だったりを貸し借りしていた。

 

 エロえもんはある日「なあ、自作漫画以外の話は学校でもやらないか?」と言ってきたが、それに関しては僕がやめとこうと拒否した。

 

 マンガやゲームの類は教師に見つかったら今年度が終わるまで没収されてしまうのもあった(ましてやエロ画像など親に通報ものだ)けど、この頃の男子と女子というのはどのクラスでも一部を除いて冷戦時代の米ソみたいに対立していて、しかも僕はスクールカースト最底辺にいるようなやつだ。僕と一緒に帰っているところを見られたり、クラス内で親しげにオタク臭い話なんてしたら、たぶんエロえもんの立場が悪くなろうだと思ったのだ。

 

 エロえもんは「うまくやるから気にすんなよ」と言ってくれたが、僕はそれだけじゃなくて――たぶん、エロえもんとつるむことにちょっと抵抗を感じていたのだと思う。

 あのおっぱい事件で脅迫されているという状況もあるけど、それ以上に、少し前まで彼女はドラえもん映画ですらまだ行っていないような月の裏側くらいかけ離れた存在だったし、何より漫画に対する本気度が僕と違った。

 

 付き合う中で、エロえもんには色んな漫画に関する技法や知識を教えてもらったし、ラフスケッチを含めると彼女は何百枚も絵の練習をしていて、そのどれもが僕からすれば小学生レベルとは思えなかったのに「まだまだヘタクソだ」と残念がっていた。

 

 ちなみにそれを見て、僕も最近は基礎からやり直し、時間の確保のため学校の宿題や塾の課題はますます適当に済ませるようになった。おかげでテストの点数は散々で、「塾の月謝だって安くないのに……」とお母さんには嫌味を言われた。

 

 それでも僕は、脅迫から始まったエロえもんとの交流を続けていく中で、不思議と学校で過ごすのがずいぶん楽になったと感じた。相変わらず毎日嫌なことしか起こらないし、奴隷船のように窮屈だけど。

 自作漫画のことやインターネットという未知の存在、吃音、教師と学校への不平不満。そういう自分の世界を共有できる誰かが一人でもいることが、心のどこかでは、やっぱり嬉しかったのかもしれない。

 

 それに加え、僕らはそういう身近なこと以外にも、この1か月半足らずの間に色々な話をしたと思う。

 

 アポロ郡の小惑星に到達した日本の探査機の話とか、二億年後に地上を支配するのはイカの子孫だとか、世界は実は五分前にできているっていう説があるとか、人が死ぬと二十一グラム体重が減るのは魂が抜けるからだとか、シベリアの永久凍土の中にはマンモスのミイラがあるらしいとか、6月24日はUFOの日と決まっているのだとか。

 

 それらは「漫画家になるにはいろんなことを知っておかなきゃいけないんだよ」というエロえもんの提案から始まったものだったけど、いつしか僕らは学校やクラスへの愚痴より自然とそういった話題を帰り道のオトモとして選択するようになった。

 漫画やアニメ、インターネットの話もおもしろいのだけれど、自分たちの日常とはかけ離れた世界のことや漠然とした未知について話し合うのは、すごく楽しかった。

 

 そう、楽しかったのだ。

 

 そんな話をできるのは家族でも生前のじいちゃんぐらいで、まさかクラスメイトでこういう話題を共有できるやつがいるとは思わなかったし、学校生活の中で楽しいなんて感じることがあるとは思いもしなかった。

 ある時、思わず「じいちゃんと話しているみたいだ」と伝えると「女子にじいちゃんに似てるなんていうやつがいるとは思わなかったよ」とエロえもんは呆れた様子だった。

 

 エロえもんは、そういうことを僕以上に詳しく知っていた。

 そして、僕以上に楽しく、真剣に、そういうことについて考えていたと思う。

 

 それは、あの芸能人や政治家が不倫していたとか、近所の誰誰とこの息子さん実はとか、世間で受けがいい学校や仕事とか――自称情報通の大人たちがよくする話題とは違い、本当に自分が好きで、知りたいことを知ろうとしているように僕には思えた。

 

 

 そんな経緯で、今日もランドセルを取った後、僕らは時間をズラしてバラバラに学校を出て、いつもの空き地に集合する予定だ。

 

 ドアが開けっぱなしになっている教室では、ホームルームからあまり時間も経ってないこともあり、4分の1くらいのクラスメイトが残っていた。あんな事件があった直後ということもあり、教室のドアをくぐった瞬間、僕らは少しだけ注目を浴びた。

 

「わりぃ、わりぃ! 日野、大丈夫だったか!?」

 

 と真っ先に駆けつけて声をかけてきたのは、クラスのお調子者ポジションの安春だった。どうやらこいつがあのロングシュートの犯人らしい。

 

 思いがけない反応に僕が「あっ、だ、大丈夫だった。ありがとう」と若干挙動不審になりつつ答えると、「そっか! ごめんな! 本当に!」と爽やかな笑みを見せて、出久杉たちを中心とした教室後方でおしゃべりしているグループへと戻っていく。

 

 なんだろう。ああいうふうにまっすぐに裏表のない感情をぶつけられると、自分の人間としての小ささというか、卑屈さが浮き彫りになって、なんだか謝らせてしまったこちらの方が申し訳ない気持ちになってくる。疎らに教室でたむろするグループからこちらを伺うような視線もあり、なんだか居心地が悪い。

 

 僕は右腕に抱えた体操服をさっさと体操着袋に押し込んで帰ろうと、自分の机に足を向けた。

 

「付き合ってくれて、ありがとう。じゃあ、僕は――」

 

 といかにもよそよそしくエロえもんに声を変えた時、僕はそれに――先ほどから一言も喋らないで突っ立っていたエロえもんの視線の先に気づいた。

 

「あっ……」

 

 僕は、なんともマヌケなことに、今の今までその存在に気づかなかった。

 

 教室の黒板。普段は明日の日直くらいしか書かれていない右側の3分の1を埋めていたのは、不格好な三角形と中央を割るように引かれた一本線。かなり大きな相合傘の落書きだ。

 

 

 そして――その傘の中には、僕の名字とエロえもんの名字が書き込まれていた。

 

 

 心臓がどくん、どくんと強く鳴り、鼓動が早くなる。

 幼稚な落書きだ。そう思おうとして、どこか他人事のように「バレてんぞ!」とか「ケッコン!! ケッコン!! さっさとケッコンーー!!」と相合傘の周囲に書かれている文字たちを目で追っていくが、いくらそれらを眺めても、身体は動こうとしない。

 

 僕は電池が切れかけたAIBOみたいにゆっくりと首をねじり、クラスを見渡した。

 

 興味がないように我関せずで喋り込むグループ、ひそひそと笑いこちらを見るグループ、「おっ、気づいた」とか「ヒュー」とか隠し立てることなく笑うグループ。

 反応はそれぞれだけど、男子も女子も、そのどれもがまるで最近流行りの恋愛バラエティを観るみたいに僕とエロえもんに好奇の視線を向けていた。

 

 その反応や黒板の落書きから察するに、たぶん、見られていたのだ。僕とエロえもんが空き地でやっていることや一緒に帰っているところを。

 

 そして、それに気づいたと同時になんとなく……これは、僕に対する見せしめみたいなところもあるんじゃないかと思った。単純に楽しそうなおもちゃがあるから遊んでみただけなのかもしれないけど、クラスの中心にいるエロえもんと仲良くして調子に乗ってるなんて思われている可能性だってある。

 

 そう考えてると、僕は体が強張ってしまった。なんでもないイタズラだけど、今まで透明人間みたいに過ごしてきた分、こんなにも多くの意思に晒されるのは久しぶりで。顔がわからない、けれど確実に近くにいる悪意に……どうしていいかわからず、立ち尽くしてしまった。

 

「うわぁ、なにこれ。ウケルんだけど」

 

 その時、耳元でハツラツとした声がした。エロえもんだった。

 僕と二人の時とは違う教室モードの明るい喋り方で、「もう、しょうがないなぁ」と黒板消しを掴む。他のやつらに悟られない程度にこちらに「気にすんな」という視線を寄越してきた。エロえもんが落書きを消し始めると、ようやく僕の時間は動き出して、慌てて黒板の前に行く。

 

 横で容赦なく相合傘を消し去っていくエロえもんを見て、やっぱりこいつは僕より男らしいな、なんてかっこ悪い尊敬を抱きながら僕もワタワタと黒板消しを手に周りのからかい文句を消していく。

 だけど、そうして、残るはエロえもんの近くにある一言のみとなった時、黒板消しを持つ彼女の手がピタリと止まった。

 

「? みどりか――」

 

 エロえもんにどうしたのか聞こうと名字を呼び掛けた時、そのからかい文句に目が止まる。

 

 

 

『マンガ家バカップル』

 

 

 

 そこには、白のチョークでそう書かれていた。

 そして、それを見た瞬間、今まで平然としていたエロえもんの耳元が真っ赤に染まり、そのままうつむきがちになってしまう。僕はハッとした。

 

 エロえもんは、自分で漫画を描いていることはクラスのみんなに秘密にしている。鍵付きの引き出しに入れていたくらいだ。きっと、今はまだ――誰にも知られたくはなかったんだろう。

 

 僕はクラスで一人だったからそんなこと気にせず学校でも描いていたけど、自分の漫画を誰かに読まれたり、描いてることを知られるのが恥ずかしいという気持ちは、痛いほどわかった。

 それは本当に漫画が好きで、本気でやっているからこその感情で――ぎゅっと唇を噛むエロえもんの横顔を見た瞬間、自分でも信じられないくらい猛烈な何かが足元から湧き上がってくるのを感じた。

 

「日野……?」

 

 僕は黒板に背を向けて、教室内を見渡した。

 相変わらずお喋りしているグループ、違う。ヒソヒソと遠巻きに笑っている女子たち、違う。先ほどはやし立てていたやつら、違う。

 その時、自分の席に座り、ニヤニヤと笑いながらこちらをじっと見ている二人組――幸田と細川と目が合った。

 

 こいつらだ。

 

 証拠はない。だけど、なぜか直感がそう告げていた。無言で近づいていく僕に、教室が少し静かになり、放課後の喧噪が遠くなる。

 

「あれ、『マンガ家バカップル』ってやつ、幸田と細川?」

「だったらなんだよ」

 

 正解だった。

 

 幸田は気に食わないといった目つきで僕を見上げ、細川はまさかこっちに来るとは思っていなかったのか少々うろたえている。

 僕は奥歯を噛み締めて、先ほどから自分の中に渦巻いている気持ちを押さえ込むのに必死だった。

 

「……僕は別にいいけど、謝れ」

「あ?」

「あいつの漫画をバカにしたことは謝れっ!」

 

 自分でも信じられないくらい大きな声が出た。教室を震わせた。

 同時に頭がかぁと熱くなって、次の瞬間、右手には痛みと今まで感じたことがない嫌な感触が残っていた。無意識のうちに幸田の頬を殴っていた。

 

「何だよっ! オイ!」

 

 一瞬呆気に取られていた幸田は、すぐに立ち上がって僕の胸ぐらを掴んで押し倒した。中学生みたいなガタイの幸田とヒョロヒョロの僕では、たぶん二倍くらいの体重差があるだろう。伸し掛かられるといくら力を入れてもビクともせず、僕はタコ殴りにされながら何度も不格好な蹴りを入れた。不思議と痛みは感じなかった。

 敵うはずないのに。ただ、相手を屈服させて、謝罪させるという暴力的な意識だけが、今の僕を突き動かしていた。

 

 僕らが転がると周りの机が床を引っかいて不協和音をあげ、巻き込まれた椅子が倒れ、もはや体の一部……いや、本体といっても過言ではない僕の眼鏡がまたもや吹っ飛んだ。ぼんやりとした視界の外で、クラスメイトたちの嬌声と叫び声が聞こえる。殴られたり、肘打ちされた体のあらゆるところが熱くなって、でも恐怖は感じなかった。脳ミソのストッパーが外れてしまったみたいに、ただひたすら取っ組み合いを続けた。

 

「おい! お前ら! なにやってんだ!」

 

 その時、僕の視界を支配していた幸田の体がふっと消えた。

 幸田を遥かに凌ぐ力が互いの肩にかかり、僕らの体は強引に引き離された。僕は息も耐えだにまだ幸田に向かおうとしていたが、「いい加減にしろ!」と鼓膜を直接揺さぶられるような声に静止する。

 

 振り向くと、担任の田中先生が普段の昼行燈みたいな表情からは想像もつかない真っ赤な顔をしている。向こうでは、幸田が同じように千条先生に羽交い絞めにされていた。

 

「お前ら! 六年生になってまで何やってんだ! 全員職員室に来い! いいな!?」

 

 田中先生の怒声で、教室は嘘のように静まり返った。

 教室に残っていたやつらは高木先生の手によって職員室へと連行され、僕と幸田は保健室へと連れていかれる。

 

 教室を出る時、エロえもんと一瞬だけ目が合った。

 だけど、僕らは互いに何も言えず、そのまま教師たちに背を押され、教室をあとにした。

 

 



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第10話:坊やだからね

 

 

 本日二度目の来訪に、養護の先生は驚きと同時に呆れを含んだ表情をした。右頬と左手にガーゼを貼られている間、養護の先生と田中先生は僕のことについていろいろと話をしていたみたいだけど、頭上で飛び交う会話を僕は一切聞いていなかった。

 

 少し離れたところで丸椅子に座っている幸田とふいに目が合い、互いに気まずくなって視線をそらす。喧嘩している間は不思議と痛みを感じなかったのに、その瞬間、殴られた頬や拳が熱を帯びてズキズキと痛み出す。

 幸田を殴った時の感触。驚愕に歪んでいた細川の顔。そして、少し――涙ぐんでいたような気がするエロえもんの目。それらが心と体の間をぐるぐると回り、やがて重い後悔へと姿を変えていった。

 

「立てるか?」

 

 やがて、養護の先生が少し離れたところにいる幸田の治療に向かうと、田中先生は僕を職員室の自分のデスクまで連れ出した。

 

「まったく、今日の日野には驚かされっぱなしだぞ」

 

 廊下で高木先生と少し話した後、田中先生は先ほどまでの様子が嘘のように笑った。

 誰かが用意してくれたのか。机上には僕と幸田のランドセルと体操着袋が置いてある。僕は冗談めかした先生の言葉にも、ただ視線を落とし、足元を見ているだけだった。

 

「……悪かったな」

 

 田中先生は、低いトーンの声でぼそりと呟いた。

 そう言って、僕の頭をぐりぐりと撫でた。

 

 それはあまりに予想外の出来事で――この人は、そういうことをする人じゃないと思っていたから。僕は驚いて、恥ずかしくて、どうすればいいかわからずにただ下を向き続けていた。

 

「先生、今まで、お前が大人しいやつだって思ってから。そうだよな、色々あるよな。十二歳だもんな」

 

 まだ十一歳なんですけど……とは思ったけど、なんだかこの場で言うの違う気がして。代わりに、僕はゆっくりと顔を上げて先生の方を見た。

 

「お前ら、漫画描いてるんだって?」

 

 ようやく視線が合った僕に先生が尋ねた。

 僕は最初驚いたけど、そもそもの喧嘩の原因を思い出して、一人納得する。たぶん、僕らが保健室で手当てを受けている間に事情聴取され、誰かが洗いざらい吐いたのだろう。僕は観念して「……はい」と少しふてぶてしく答える。

 

「漫画かぁ……先生も、お前らくらいの時観てたよ。ガンダムとかヤマトとか。最近の子は知らないだろうけど」

 

 だけど、先生の声は咎めるでもなく、ただ少し笑いを含んだ平坦な声だった。

 

「それって、漫画じゃなくてアニメですよね」

「……そう言われると、そうだな」

 

 今度は思わずツッコンでしまい、それを聞いた田中先生はへっへっへっと気が抜けた笑い声を上げた。

 

 なんでだろう。

 今は、教師の顔なんて1ミリも見たくないのに。職員室なんて1秒でも早く出たいのに。

 

「……ヤ、ヤマトは観たことあります」

 

 理由はわからない。だけど、僕は――自分でも意図せず田中先生にそう告げていた。

 

「おっ、マジか?」

「その、じいちゃんが好きで、どっかの再放送録画してて」

 

 僕は先生も「マジか」なんて使うんだなと思いつつ、しどろもどろに答える。

 

「どこまで観た?」

「最後までです。その、地球を見た艦長さんが亡くなるところまで」

「沖田艦長か……すべてが懐かしい。あれ? ちょっと違うか?」

 

 先生が全然似てないモノマネをするので、僕は笑っていいのか、またツッコンでいいのかわからず、ただ少しだけ口の端を上げた。いつもとは少し違う苦笑が、切れた口元に痛かった。

 

「今日のことは……先生にも責任があると思う。だから、親御さんには俺から説明するけど、漫画のことは内緒にする。今日はまっすぐ帰れよ。あと、学校で漫画を描くのはいいけど、持ってくるのはダメだぞ。いいな?」

 

 淡々としたその言葉に、僕は黙ってうなずいた。そうするしか、なかった。

 職員室を出て靴を履き替えた後、僕は久しぶりに一人で、帰り道をトボトボ歩いて帰った。言われた通り、まっすぐ自分の家に向かって歩きながら思った。

 

 大人ってのは――本当によくわからない。

 いつもは僕らのことを否定するくせに、こういう時は肯定したりする。

 いつもは面倒ごとを避けたがるくせに、こういう時は責任を取ろうとしたりする。

 

 本当に、本当に……よくわからないけど、でも、僕は今日初めて、田中先生とちゃんと「会話」をしたような気がした。

 

「……よっ」

 

 そんなことを考えている時、ふと背後から声をかけられた。

 この1か月で慣れ親しんだ、女子にしては低い声。振り向いた先。曲がり角の陰から出てきたのは、やっぱりエロえもんだった。

 

 僕はなんだか探偵みたいだなと思いつつ、立ち止まる。夕日を背に立つエロえもんにどうしていいかわからず、ただ「ど、どうも」と挙動不審な笑みを浮かべる。エロえもんの表情は逆光でよく見えない。

 エロえもんは何も言わずに、僕の横に小走りで駆け寄ってくる。僕もそれ以上何も言えず、ランドセルで蒸れる背中を並べて、どちらともなく歩き始めた。

 

「……ごめん、あんなことして。ひいたよね」

 

 僕がそう言うと、エロえもんはこちらをちらりと見たが、再び前を向く。

 

「ああ。私がいうのもなんだけど、正直ドン引きだ。なんであんなことしたんだよ……手は漫画家の命だぞ? つまんないことに使うなよ」

 

 僕はその返答に自分でも予想外にショックを受けながら――それでも、エロえもんがこうやって昨日までと同じように話してくれていることが、嬉しかった。

 

 そして、ふと考えた。

 

 自慢じゃないが、内弁慶の僕は、学校であんな大喧嘩などしたことがない。嫌がらせや暴言を吐かれても、たいてい苦笑するか、聞こえなかったフリをしてやり過ごしているだけだった。それなのに、あの時、なぜ――あんなにも、怒りが込み上げてきたのだろう。

 

 僕は幸田を殴り、今はガーゼが貼られている右手を見た。そして、エロえもんの先ほどの言葉を思い出す。その時――少しだけ、答えがわかった気がした。

 

「つまんなくないよ」

 

 僕は足を止めた。少し前を歩くエロえもんが振り向く。

 その顔を見て、僕はまっすぐに言葉を吐き出す。

 

「僕にとっては……その、つまんないことじゃなかったから。君の漫画のこと、馬鹿にされたくなかった」

 

 僕や他のことは、いくら馬鹿にされても構わない。

 でも、こいつは、本気で漫画に取り組んでいる。本気で漫画について考えている。

 だから、こいつの漫画をあんなふうに馬鹿にされたことだけは、どうしても許せなかったんんだ。

 

 先ほどとは逆の順光の立ち位置で、今度はエロえもんの表情がよく見えた。だけど、その表情が持つ意味はわからなかった。驚いているようにも、怒っているようにも……泣いているようにも見えた。

 

「私さ」

 

 エロえもんは一度下を向き、ランドセルの肩ひもをぎゅっと握り締める。

 

「もうちょっと……うまくやれると思ったんだ。その、クラスの立ち位置とか。君と一緒に帰っていることとか、漫画描いていることとか、バレても……でも、全然ダメだ。私、自分が思っているより弱い人間なんだなって、思ったよ」

 

 そんなことない――そう言おうとした瞬間、エロえもんが顔を上げた。

 そこには、今までとは違う――見たことのない満面の笑みがあった。

 

「……ありがとな」

 

 その時、エロえもんから出た言葉は、今までのどの言葉よりも小学生らしく聞こえた。

 だから、僕は何も言えず「うん」としか言えなくなってしまう。

 

 後から思えば、あの時、初めて僕らは脅迫するされるといった関係でも、姉弟や師弟のような教える側と教わる側といった関係でもない――本当に対等な友達になったのかもしれない。

 

 



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第11話:さあ、友達を始めようか

 

 

 それから僕とエロえもんは、学校でもこそこそせず、普通に話すようになった。

 

 エロえもんは、もう漫画を描いているのを隠すこともなく、時折からかい半分で見せてほしいと言われると、ためらいなくクラスメイトに見せるようになっていた。そして、彼女の漫画を読むと、バカにしていたやつらはたいてい「……へえ、お前、けっこう本格的じゃん」と目の色を変えていた。

 

 ちなみに、そのまま話ついでに僕の漫画まで「読ませてくれよ」と言われることもあった。彼女の漫画を読んで期待値が上がったまま僕の漫画を読んだやつらはたいてい「……へえ、お前、けっこう馬鹿じゃん」と目の色を変えていた。もっぱら例の「ウンチンコ・ウンゲリラウンゴリラ!!!!!」のせいである。

 

 ……まあ、なんというか、世の中そんなもんなのだ。

 でも、エロえもんの漫画がちゃんと評価されて、クラスの中でも堂々と話せるようになったことは、正直ちょっと嬉しかった。

 

 

 あの喧嘩騒動の翌日から――僕を含めて――クラスの人間関係は、少しだけ変化した。

 もともと透明人間兼クラスの置物だった僕は、完全にクラスという空間に現れるバグみたいな存在として扱われた。

 

 自分がやったことだからある程度は覚悟していた。

 だけど、翌日の朝、教室のドアを開けた時――みんな時が止まったようにお喋りをやめ、いっせいにこちらを見てきた光景は、きっとこの先、ずっと覚えていると思う。

 

 めまいがして、呼吸が止まりかけた。痛いほどの静寂と容赦ない視線の海の中、僕は自分の席に座った。これまでも教室では一人だったけど、常に人に意識を向けられた一人というのがこんなにも違う――きついものだというのは、想像していなかった。

 

 そんな中で、僕に話しかけてくれたのはエロえもんだけだった。

 もともとクラスでの立ち回りが上手かったエロえもんの周りにはすぐ人が戻ってきたけど、「日野とは、話したいと思ってるから話してるだけだよ。男子とか女子とか関係なしに」という彼女に対し、冷ややかな視線を送る女子たち――特にトップカーストに所属しているような――もチラホラいた。

 

 たぶん近いうちに僕らがあずかり知らぬところで、多数派によるクラスの勢力図に関するサミットが開かれるのであろう。

 

 だって、みんな好きだろ? 民主主義が。

 

「よお」

 

 だけど、そんな状況の中、僕らに話しかけてきたやつがいた。

 そして、それは……思いがけない人物だった。

 

「幸田……?」

 

 その日の昼休み。僕とエロえもんが話していたところにやってきたのは、昨日喧嘩したばかりの相手――幸田だった。その隣にはちょこんと従者みたいに細川も引っ付いている。

 

 昨日の続きをしに来たのだろうか。それとも、先生や親に怒られた復讐でもしに来たのだろうか。僕とエロえもんは無言のまま身構える。教室全体にも緊張が走っていた。

 

「その……昨日は、悪かったな」

 

 だけど、幸田の口から出てきたのは、予想外の言葉だった。

 中学生みたいな体を縮こまると、気恥ずかしそうにそっぽを向き、頬をかく。それを隣で見ていた細川は、どこかキザっぽく歯を見せてほほ笑んだ。

 

「君らの描いた漫画、読ませてくれよ。こう見えて、僕、漫画にもけっこう造詣があるからさ」

 

 幸田とは対照的な細川の高い声が、僕らにそう告げた。

 僕とエロえもんは顔を見合わせて、どちらともなく自分たちのマンガノートを差し出した。

 

 

 今思えば、それがきっかけだったと思う。

 もともと小学生が興味を持つ対象の移り変わりなんて早いものだけど、徐々に僕を遠巻きにする雰囲気は薄れていき、ほんの少しの人間関係の変化を残して、クラスはいつも通りの空気へ戻っていた。

 

 僕は相変わらずクラスでは浮いていたけど、エロえもんや漫画の話題を介して出久杉や安春、御木本といったお人よしや優等生が集まるグループ、オタク系のグループと少しだけ言葉を交わすようになった。

 

 そして、一番大きな変化は、そういうグループに所属していない幸田と細川と、一番話すようになったことかもしれない。

 

 幸田は無神経で、暴力的で、沸点も低いという良くも悪くもヤンキー気質なやつで、クラスの一部からは正直嫌われていた。だけど、本気でやっていることに対しては真摯で、例えオタク趣味でも馬鹿にしてくることは、あの相合傘騒動以来なかった。

 

 細川も親がPTAの会長でゾイドのプラモとか最新のゲームとか携帯とか持ってるけど、「俺らとは違う」ぼっちゃんとして扱われ少し浮いていた。だけど、アニメとかゲームに関しては僕らより詳しくて、漫画を読んでくれる度に読者目線で的確なアドバイスをくれた。

 

 別に『友情テレカ』を持つほど永久不滅の繋がりってわけではないけど、そうやってつるんでいくうちに、クラスの「普通」からちょっとずつズレている僕ら四人は、奇妙な連帯感を持って自然と一緒にいるようになった。

 

 そうなると、当然猫をかぶっていたエロえもんの本性もあっさりバレて、彼女の方もすっかり隠すことなくインターネットを駆使して手に入れたゲームの裏技、強いキャラやカードの情報(そういう情報は、近所の兄ちゃん経由や口コミでしか知れなかったので貴重だった)……そして、エロ画像を二人に提供するようになり、仲間うちでいる時だけ、幸田と細川からも「エロえもん」と呼ばれるようになった。

 

 一見、いじめられっ子のようなあだ名だが、僕らはある種の畏敬の念を込めて彼女をそう呼んでいたように思う。

 

 それは……なんだか不思議な光景だった。

 

 僕が描く漫画は、僕のために生まれた、僕だけの世界だったはずのに。

 いつの間にか僕には、エロえもんや幸田との喧嘩を通して、漫画やインターネット、エロ画像、他のくだらない話題を共有する小さな繋がりが、いくつもできていた。

 

 他の人や世界には、「それがどうした?」とでも言われてしまいそうな――取るに足らない小さなことだったかもしれないけど、僕にとっては、まるでネッシーやツチノコの実在が確認されたように、世界を少しだけ変えてしまう大きな出来事だったんだ。

 

 

 

 

 

 エロえもんが千条先生に啖呵を切ったり、僕と幸田が喧嘩した事件も……梅雨が明ける頃になると、停滞していた梅雨前線と一緒にみんなの頭の中から消え去り、学校は日常へと戻っていった。

 

「何やってんだよ! ノロマ! さっさとしろよ!」

「そんなこと言われてもー」

「仕方ないよ。日野はメガネが本体なんだからさ」

 

 頭上から、僕にイライラした声を投げる幸田と細川の小馬鹿にした笑いが降りかかった。

 水泳の前はいつもそうだが、この日の二時間目――国語の授業も終わる間際からみんな落ち着かず、教室はいつにも増してそわそわとした気分に包まれている。

 

 そうして、チャイムが鳴った直後。クラスの男子たちがビニールのプールバッグを肩にかけて教室の外へと飛び出していく中で、僕はランドセルの奥にしまったはずの眼鏡ケースをようやく探し当てたところだった。

 

「こらっ! 廊下走んな! 何組だお前ら!?」

 

 その時、教室の外で怒鳴り声が響いた。この声は……確か教頭だ。校内の「捕まると説教が長いランキング」においては六年連続トップスリーに入る逸材である(自社調べ)。たぶん捕まったのはさっき教室を飛び出した先行組だろう。まあ、なんというか、ご愁傷様という感じである。

 

「見つかったら巻き込まれそうだから、西口の渡り廊下から行こうか」

 

 僕がそう提案すると、幸田は「お前のノロマもたまには役に立つじゃねえか!」とうって変わって僕の背中を叩く。

 

「そんなことより早く行こうよ。いいポジションを確保しなくちゃ」

 

 いつもより浮足立った細川の言葉だが、それには僕も同意だ。

 僕ら三人は廊下の突き当りで説教を受けているクラスメイトを尻目に、反対側へと進み、教頭から見えない曲がり角に差し掛かると一気に駆け出した。

 

 



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第12話:我らの名は、エロの騎士団!!

 

「いいか、お前らの考えていることなどスルッとマルっとわかってんだ! 準備体操前に飛び込みなど絶対に考えるなよ!」

 

 大量の蝉しぐれの中、千条先生のがなり声と容赦ない日差しが、頭の上から僕らを押さえつける。先週やっと梅雨が明けたばかりだというのに、七月中旬の太陽はもうすっかり夏の装いだった。

 

 空の上から降り注ぐ日差しは、プールサイドを火であぶった鉄板のように変え、プールの水面をきらきらと反射させている。まるで『無無明亦無(むむみょうやくむ)』みたいに上下左右満遍なく白い光に焼かれ、向こう側のプールサイドにいるスクール水着の女子からは「くそ焼ける~」とか「夏にプールとかマジありえないんだけど」などと不平不満が漏れ始めた。

 

 夏にプール入らなかったらいつ入るんだよ、などと思ったりしつつも、僕はアツアツのタイルの上で焼き土下座のような柔軟体操に耐えている。

 いや……僕だけじゃない。たぶん、今年はクラスの男子全身そうだろう。その証拠に普段は体育の授業中ずっと猿みたいにうるさくしているクラスメイトたちも、茹だるような暑さの中、粛々と準備体操をこなしている。

 

 もちろん、余計な説教をくらえばプールで泳ぐ時間が少なくなるという理由もある。

 だが、それ以上に――

 

「よーし! 準備体操終わったら、男子は俺に、女子は舞子(まいこ)先生の指示に従え! 舞子先生お願いします!」

「はい。じゃあ、女子はこっちで整列してくださーい」

 

 もっと大きな理由が、男子たちにはあった。

 

 黒の下地に緑の線が入った競泳水着に身を包んだ女性――舞子麻衣(まいこまい)先生がそう言って手を上げ、胸が揺れた瞬間、男子たちがいっせいに横目でちらりと見る。女子たちから「キモっ……」と侮蔑の言葉が投げかけられる。

 

「じゃあ、お腹に水かけてゆっくり足から入ってー。飛び込み禁止ねー」

 

 舞子先生がそう言ってプールに入り胸が揺れた瞬間、男子たちが思わず顔ごとそちらへ向ける。女子たちから「ヤバっ……」と嫌悪を含んだ視線が向けられる。

 

「……お前ら! 授業をなんだと思ってんだ! 最後の自由時間なくすぞ! ああ!?」

 

 と、そこで千条先生の雷が落ちた。「さっさとしろ!」と鳴り響くホイッスルに背を押され、僕らは渋々プールに入って一列に整列。プールサイドを掴み、「バタ足始め!」という先生の号令と共に生ぬるい水中へ顔を沈め、大きく水面を蹴り始める。

 

 塩素のツーンとした匂いと共に、ところ天の助みたいな色をした長方形の水面の両辺に白い滝のような水柱が上がった。

 

 

 

 

 

「おいっ! そこ! 男のシンクロは禁止だ!」

 

 陽光を弾く白い水しぶきに混じり、本日何度目になるかわからない千条先生のホイッスルが鳴った。どうやらお調子者軍団が『ウォーターボーイズ』のマネをして、水中倒立でもやっているらしい。水中にいるのでその怒号も聞こえないらしく、先生は「お前らいい加減にしろー!」と水面から両足だけ出しているスケキヨ軍団にざぶざぶと向かっていく。

 

 しかし……この短時間にあれだけ怒ってよく疲れないな。二酸化炭素の排出量すごそうだし、わりとあの人ひとりで地球温暖化に貢献してるんじゃなかろうか。

 

 などと僕はその光景を尻目に見ながら、プールの端っこで幸田、細川と並んで何をするでもなく立っている。

 

 水泳の授業では、毎回、最後の十分間好きに過ごしていい自由時間というものが与えられている。みんな適当に競争したり、潜水対決や宝探しゲームをしたり、思い思いにプールの時間を満喫しているが、僕らだってただぼーっと突っ立ているわけじゃない。この貴重な時間を無駄にするほど馬鹿ではなかった。

 

「僕、最近思っていることがあるんだけど……」

 

 僕はある一点――具体的には、舞子先生とその周りで楽しそうに談笑している女子たちを見て、思わずつぶやくと「あん?」と同じ方を見ていた幸田が怪訝そうな声を上げる。

 

「水泳の時だけ、じ……っ……じょ、女子になれないかなってさ」

「……お前、らんまじゃねえんだから」

 

 小さい「ょ」が入る単語であることも忘れ、自分でも思ったより切実な声が出てしまい、幸田からは気色悪いこと言うなよという目つきで見られる。

 

「いや、でも気持ちはわかる。君は裸眼だしな」

 

 と左隣にいる細川からは援護が入る。まったく持ってその通りで、学年でもトップクラスに近視の僕は、眼鏡を外した今の状態では、10メートルも離れていないこの距離でも舞子先生の姿はぼんやりとしてしまう。

 この時ばかりは、楽しいゲームの時間と等価交換で視力を持っていかれた過去の自分を恨んだ。クソ、この借りは高くつくぜ任〇堂。子どもを夢中にさせる面白いゲームばっかり作りやがって。

 

 舞子先生の周りには級長の御木本を始めとした数人……エロえもんもいる。ただ、あの女子の輪に入る勇気など僕らには到底なく。なんとか脳内にこの夏のセーブデータを作ろうと、ピンホール効果に一縷の望みを託し目を細め続けた。

 

 

 舞子先生は、うちの学校の卒業生で、同じ県内にある国立大学から来た教育実習生だ。

 そう。つまり、正確に言うと、教師ではなく大学生。女子大生なのである。

 

 女子大生……何度聞いても、素晴らしい響きだ。

 

 クラスの女子たちとは違うスラリとした体。初夏の日差しを反射する長い髪の毛。親しみやすい笑顔を振りまきながらも、やっぱりちょっと子供とは違う仕草。

 

 そして、おっぱい。

 

 舞子先生が初めての挨拶で教卓の壇上に上がった時、僕らクラスの男子はすぐに騒然となり、すぐにチキンレースが始まった。

 男子はみんな舞子先生のおっぱいやらパンツやら太ももやらを凝視したくて仕方ないのだが、あんまりじろじろ見ているとクラスで「エロエロの実の能力者」と吊し上げをくらうので、最初のうちは、皆こそこそとお互いにばれないように見ていた。

 

 ただ、その中で僕と幸田、細川の3人はもともとちょっとクラスから浮いていたこともあり、そのチキンレースには参加していなかった。まあ、つまり、けっこう堂々と見て、水泳の時間なんかではプールサイドに座り小声で感想を言い合っていた。

 

 すると、「まあ、水泳はしょうがない」、「不可抗力だよな」という暗黙の了解が生まれ、この時間だけはチキンレースの対象外となった。僕はそこに日本社会に未だ強くはびこる談合の萌芽を見たような気がした。

 

 あと、おっぱい以外にも、幸田と細川はなんとか合法的な手段で先生のパンツを見ることができないかと必死に……いや、訂正しよう。僕も「やれやれ」と言いながら、二人に混じって必死になっていた。

 ちなみに先生が履いているパンツに関しては、100%いちご柄であるという説がまことしやかにささやかれたが、真相は定かではない。結局、誰も見ることはできなかったのだ。

 

「君らもよくやるなぁ……あきれ果てたぞ」

 

 その時、背後からかかった声に、僕らは振り向く。

 見上げた先にあったのは、失礼ながら、舞子先生のおっぱいとは比較対象にならないドラえもんみたいな寸胴体型。さっきまで舞子先生の近くにいたエロえもんが、いつの間にか僕らの真後ろのプールサイドに立っていた。

 

「少なくとも、お前には言われたかねえよ」

「確かに。君、最初にやった水泳の授業での言動、ちゃんと覚えてる?」

 

 この1か月近くですっかりエロえもんの言動に馴染んだ幸田と細川から手厳しいツッコミが入るが、僕も同意見だ。しかし、当の本人は「ああ、そんなこともあったねえ」とどこ吹く風だった。

 

 細川が言っている今年最初の水泳でのできごとは、僕もよく覚えている。

 

 おっぱい以外にはあまり興味がないエロえもんは、僕らのパンツ作戦には参加しておらず、舞子先生のおっぱいに関しても「あれくらいの大きさじゃあ、私は揺るがないよ。プロの目は厳しいんだ」とお前はいったい何のプロなんだよ言いたくなる見解を示していた。

 

 しかし、舞子先生は……かなり着やせするタイプだったようで。今年最初の水泳の授業でその豊かなおっぱいが本性を現した時、男子だけではなく女子からもざわ…ざわ…と声にならない驚きが漏れていた。

 

「なんだあの化物は……!?」

 

 と、その時、そんなざわざわとした空気をぶっ壊すつぶやき(大きめ)をして立ち上がったのが、エロえもんだ。しかも、腕をクロスさせて顔半分を覆うように掌をかざす妙なポーズをしていたので、クラスのみんなは「あいつ、どうしちゃったんだろう?」的な先ほどとは別の意味でざわざわしていた。

 

 僕はこの時、共感性羞恥という単語を身を持って知ったような気がする。その後も、エロえもんは女子の集団の中でひとり真剣な目つきでガン見していて、こいつは将来大物になるに違いないと僕は思った。

 

 つるみ始めてわかったことだが……エロえもんはけっこう直近観たアニメや漫画の影響を受けやすいやつなのだ。最近は『カードキャプターさくら』や『ツバサ・クロニクル』の作者がキャラクターデザインをやっているアニメを観てるそうで、時々言動がおかしくなっていた(ちなみにその話題になった時、僕はなんとなくさくらを観ているのがバレると恥ずかしかったので、ツバサだけ観たことあると答えたけど、誘導尋問されてわりとすぐにバレた)。

 

 ついでに、僕がそれを見て「やれやれ」と右手を額に当て首を振っていると、「お前もけっこう痛々しいやつだよな」と幸田から真顔で、「いいコンビだよ、君ら」と細川から冷めた目を向けられた。納得いかない。

 

 そんなこんなで、水面が真夏の輝きを反射してキラキラと光を放ち、みんながはしゃぎまくっている中、僕ら四人は今もこうして出張おっぱい鑑定団を続行中なわけである。

 

「き……っ……きょ、競泳水着の舞子先生……ち……ちょーいい……何も言えねえ」

「やっぱり、大きさも大事だけど――」

「形が大事だよな、形が」

 

 と僕ら男子三人が月並みな鑑定結果を述べていく中、エロえもんは――

 

「私は……味だな」

 

 と、頭上でとんでもないことを言いただした。

 僕ら三人は顔を見合わせてとりあえず聞こえなかったことにしておいたけど、内心、こいつは将来犯罪者になるに違いないと僕は思った。

 

 余談だが、授業終わり、冷たい洗浄シャワーをギャーギャー言いながら浴びて、目を洗浄している時にエロえもんと隣同士になったので「君、最近おっぱい好きが悪化してない?」とそれとなく自重の勧めをすると

 

 

 

「人は……おっぱい以外を好きになることはあっても、おっぱいを嫌いになることはない」

 

 

 

 とまるでどっかの新興宗教の教祖みたいなことを言い始めたので、僕は戦慄した。

 世界中が君レベルのおっぱい好きになったら人類社会の終わりだぞ。と思いつつも、それ以上は深追いせず、教室へと戻った。

 

 

 

 次の社会の授業は体が気怠く、思わずあくびが出た。

 

 机の横に引っ掛けた水着袋の中で、濡れてぐちゃぐちゃになった水着とマント式のバスタオルから、まだわずかに残る塩素消毒液と水の匂いがする。クーラーはなく、風は扇風機と自然風だけ。それに乗り、髪が乾ききってない長髪の女子からも同じような匂いが漂ってきて、まるで教室全体があの25メートルプールに浸かっているみたいだ。

 

 授業に集中できずぼんやりと教室中を見ていると、幸田は爆睡。細川はこくり、こくりと首を前後に動かし、エロえもんはノートに何やら落書きしている。他のみんなも同じようもので、誰一人として授業に集中しているやつはいない。

 

 田中先生もそれには気づいているはずだが、水泳の授業の後はこうなることをもうあきらめているのか、ワイシャツの背中に大きな汗染みを作りながら淡々と授業を進めている。

 

 その平坦な声は、開け放たれた窓から聞こえてくる蝉の合唱と他の学年がやっているプールの歓声とないまぜになり、あまり理解できそうにない。その騒音に隠れ、斜め後方では、女子たちが学期の最後にやる「お楽しみ会」で何をするかというすごくどうでもいい話題をこそこそと話している。

 

 彼女たちの話を聞き、ふと教室前方の掲示板にぶら下がっている7月のカレンダーと窓の向こう――殺人的な陽光で白く染まる校庭と天頂へと膨れ上がる入道雲を見て、ぼんやりとした頭でその事実に気づく。

 

 

 夏休みは、もう目の前だった。

 

 



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第3巻 めちゃくちゃな姉!
第13話:時をかける夏休み


 

 光陰矢の如し、歳月人を待たず、time waits for no one……どれも時間はあっという間に過ぎていくという意味合いの言葉だ。

 

 同じような格言が世界中に散らばっているのを見る限り、昔の人はみんな時間が過ぎるのを早く感じていたのだろう。だけど、僕らにとって夏休みまでの日々はじれったく、いつもよりゆっくり時間が流れていて、まるで餌を前に「待て!」とお預けを繰り返されるパブロフの犬みたいな気分だった。

 

 そんなふうにして待ちに待った――夏であり、夏休みだ。午前中の終業式で地獄の窯のように蒸し暑い体育館で校長の長話を聞いた後、教室に戻って、一部の成績優良児を除き親に見せたくない通知表と受け取りたくない夏休みの課題と守りたくない規則正しい生活スケジュール表を受け取った大半のクラスメイトは、「きりーつ! 気を付け! れいっ!」の号令が終わると同時に廊下へと駆け出していた。

 

 僕はその光景を見て、ふと去年の終業式の日のことを思い出していた。確か去年は、誰の目にも留まることなく図書室へ向かった。そうやって下校時間のピークが過ぎるのを待って、何冊か本を長期レンタルし、重くなったランドセルとリコーダーやら雑巾やらが詰まった手提げ袋を持って猛暑の陽ざしの中で下校するだけだった。夏休みの予定も親戚の法事で集まる以外はまるまる白紙だった。

 

「日野!」

 

 だけど――

 

「帰りに夏休みの予定話そうぜ」

 

 今年の夏休みは、去年とは違う夏になりそうだ。

 振り返った先で笑っているエロえもんと幸田に細川。いつもの三人に僕は少し戸惑いつつも「う、うん」と答えた。

 

 

 

 

 

「自由研究、どうするよ?」

「ダックスフンドの胴体はどうやったら伸びるのかとかでいいんじゃない?」

 そんな遺伝子改造レベルの実験が小学生にできるか。それだったら僕はナマズにウ――(諸々の事情で自主規制)を生やす研究でもするよ。

 

「じゃあ、お前も何かアイディア出せよ。なるべく一時間くらいでパッと終わりそうなやつ」

 

 僕が幸田と細川の会話にツッコミを入れると、逆に幸田から恨みがましい視線と文句を投げられた。僕はうーんと首をひねりつつ『創世セット』を使い、新世界の神になるという二人以上に現実感のない提案しかできなかったので、みんな「お前に聞いたこっちが悪かった」と呆れ顔だった。

 

 

 ラジオ体操という極めて健全な風物詩的イベントにはとっくの昔に行かなくなった僕は、夏休みが始まってからというもの、いつもより遅い時間に起きてはお母さんに「夏休みだからってダラダラしないの!」と嫌な顔をされた。

 だけど、お説教の効果はまるでなく、そのまま午前中は自分の部屋で漫画を描いたり読んだり、気分転換にリビングで寝転んでさして興味がない情報番組やらテレビショッピングやら甲子園を目指す高校球児たちの姿を観て、時折運悪く起きてきた姉ちゃんに「ちょっとジャマなんだけど」と蹴りを入れられる日々を過ごしていた。

 

 まあ、つまり無為に貴重な小学生最後の夏休みを浪費していたわけである。午後はいつもの三人と遊んだり、エロえもんの家に行ったり、塾の夏期講習に嫌々行ったりしていたけど、基本的にはドラえもんに『タイムライト』片手にお説教をくらいそうなくらい時間を無駄にしていた僕は、結局八月まで何をするでもなくダラダラとしていた。

 

 そんなことだから、当然「夏休みの友」という名の夏休みの敵には一ページも取り組んでいない。

 

 だって、サバンナのシマウマとかガゼルだってわざわざライオンに近づかないのに、彼らよりひ弱な僕が大量に学習机に積み重なっている天敵の群れに近づく道理があるだろうか。いや、ない(反語)。

 そう、これはれっきとした生存戦略に基づく極めて本能的な判断であり、あたかも日本海海戦で秋山真之(さねゆき)が見せたような用意周到で論理的な作戦系統なのである。

 

 とまあ、僕がそんな自己肯定一点突破型の言い訳を長々と展開すると、「本能的かつ論理的って時点で矛盾してるよな」とエロえもんに的確な指摘された。ぐうの音も出なかった。

 

 

 さすがに八月も第二週に入ると、宿題に関するお母さんの言葉は口頭注意レベルから絶対遵守の眼力へと切り替わる。

 

「丸写しはマズいだろ。途中の計算式とか変えたり、いくつか間違えないと」

「このメンバー全員が走れメロスはさすがに……」

 

 そんなわけで。今日は珍しく僕の家で夏休みの宿題を持ち寄って、互いにできているところを写しあったり、エロえもんがインターネットから拾ってきたいくつかの読書感想文の例を自己流に改ざんすることに勤しんでいた。誰一人として真面目にやらないところがあれだが、幸田なんかは去年一ページもやってなかったらしいからかなり進歩していると言えるだろう。

 

 それに、僕と細川はこれに加えて塾の課題まであるのだから性質が悪い(ちなみに細川が通うのは僕と違い、中学受験する人たちが通うレベルが高い塾だ)。前々から思ってたけど、今こそ僕は日本の画一的な教育に是非を問いたい。だいたいやらされる勉強っていうのは、結局身につかないものなのだ。

 

 まあ、やらされなかったら自分では絶対にやらないんだけど。

 

「あちぃ……」

 

 幸田が麦茶が入ったコップに口をつけながらうめき、集中力の切れた細川が扇風機に向かって「アーアー、ワレワレハ~、ウチュウジンデアル~」と変な声を出し始めた。なんとか机にへばりついている僕とエロえもんも、もはや手を動かすのも億劫になっていた。

 

 僕らは今、日野家のリビングで勉強会……もとい夏休みの宿題写生大会を絶賛開催中である。

 

 僕の部屋には、みんなで集まって宿題をできるような大きい机はないからリビングでやっているのだが、基本的にテレビの健康番組に全幅の信頼を置いているうちの両親は冷房病による自律神経へのダメージを過度に恐れており、僕の家では両親か祖母の同意が取れなければ勝手にクーラーをつけてはならないという謎のルールがあったのだ。

 

 なので、僕は最初うちじゃない方がいいんじゃないかと提案したけど、幸田の家はおしゃべりな妹さんがいるのでこういった悪行をしている親にチクられるといい、細川の家も専業主婦の教育ママが常時在中。最初第一候補にあがっていたご両親が不在の時が多いエロえもん家も「あー……ちょっと今は無理なんだ」と珍しく断られてしまった。

 ということで、消去法で父は仕事に母はスーパーのパート、祖母は老人会の旅行で姉も就職の面接という奇跡的なタイミングで家の人が誰もおらず、心置きなく写生大会を実施できるうちが会場に決定したのであった。

 

「地球温暖化ってやっぱあんのかねぇ」

 

 とうとうエロえもんはペン回しをしながら、さして興味がなさそうにそんなことを言い始めた。僕も下敷きをうちわがわりにパタパタと仰ぎ、「温暖化ねぇ……」とやはり興味なさげにつぶやく。

 藤子先生は環境保護を早くからテーマとして取り上げていたし僕もおおむね賛成だけど、それにしても暑いもんは暑い。昭和より平均気温だって五度くらい上がってるんだし、地球より僕らの命の方が先に干乾びてしまいそうだ。そうなる前にぜひともどこかの偉い誰かには頑張っていただきたいものである。

 

 僕はどこか他人事みたいに地球の未来を案じながら、生ぬるい風ばかり提供してくる吐き出し窓を恨みがましく眺める。窓の外は何も描かれていないキャンバスみたいに真っ白で、外から聞こえてくるのは鳴き狂う蝉たちの声だけだ。

 

 僕は最後の気力を振り絞って汗で少し湿った理科のプリントに目を落としたけど、宿題の文言も暑さのあまりおかしな単語ばっかりに見えてくる。重症だ。本気で『テキオー灯』か『水加工ふりかけ』が欲しい。『あべこべクリーム』ぐらいなら今の科学技術でも似たようなもん作れるんじゃなかろうか。

 

「ああ、もう無理だ。やめーた」

 

 とエロえもんがついにペンを投げると、「中止だ中止!」と扇風機を陣取る細川も叫び、「なぁ、クーラーつけようぜ。バレねえって、どうせ」と幸田も倒れ込む。

 

「でも……」

 

 と僕は躊躇するが、まあ、確かに誰もいないし律儀に守る必要もないだろう。お母さんが帰って来る時間の三十分前くらいには切って窓を開けっぱなしにすれば、元通りになるはず。僕はリモコンを手にピッと電源をつけた。

 

「おっ、来たぜ」

「ようやく無駄な抵抗をやめたか」

 

 と幸田と細川が窓を閉めると、気温はすぐに下がっていく。科学の力様様である。

 

「おい、……し……ゅ……宿題はどうするんだよ」

 

 だけど、ダレた気分は戻らず、結局誰一人として宿題の続きに取り掛かろうとしない。僕の問いかけに幸田は「俺、今日はパス」と後ろ手をついてテレビを観て、細川は手をひらひらと振り持ってきたDSを始めてしまった。

 

 残るエロえもんと目を合わせるが、返ってきたのは「まあ、私は焦ってやんなくても大丈夫だからいいや」という謎の答えだ。

 

「え? なんでだよ?」

「いい女というのは……常に謎が付きまとっているものなのだよ、ワトソン君」

 

 僕は思わず「何言ってんだ、バーロー」と言いたくなったが、なんだかもう怒る気にもなれず机に突っ伏した。

 やれやれ。ぜひとも目の前に座っている21世紀のホームズに、コ〇ン君がいきなりパラパラを踊り出した謎も解決してほしいものである。

 

 ……だけど、まあ、立派すぎる決心というのは、3日坊主になるものなのだ。僕も明日の僕にやらせることにしよう。

 

 



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第14話:限りなくブラックに近いグレー

 

 

 ということで、幸田が観ている『大好き! 五つ子』と細川がボタンを連打する音をBGMにエロえもんが持ってきてくれた漫画を読み、時々すこぶるどうでもいい雑談をするというダラダラタイムに突入してしまい、またしても時間を無駄にしてしまった。

 

『いいですか? これから娯楽の主戦場はネットに移ります。とにかくネットとテレビ、つまり放送と通信によるシナジーです。シナジー効果のわけですよ』

 

 不意に耳に入ってきた「ネット」という言葉に僕は漫画から目を離し、視線を向ける。五つ子は終わり、いつの間にかお昼のワイドショーに番組は変わっている。どこかのIT企業の社長がテレビ画面の向こうではそんなことを語っていた。それは過去のインタビュー映像だったらしく、画面が切り替ってスタジオに戻るとどこか偉そうな態度のご意見番的なオジサンが何やら非難を繰り返していた。

 

 インターネットの急速な普及と発展。それを大人たち――特にこれくらいの年齢の人たちは、あまりいいものと捉えていないことは、なんとなく子供の僕たちも感じ取っていた。

 

 夏休みの開始前にもインターネットや携帯で遊ぶのは危険な事件に繋がる可能性があると言われたし、エロえもん曰くソフトではなくハードのモノづくりで成功体験を収めたこのご意見番くらいのオジサンたちは、「IT」とか「ソフト」とか「ネット」とか、そういうものやサービスを取り扱っている会社に対してなんとなく不信感だったり、楽して金を稼いでいるというイメージを持っているんじゃないかということだった。

 

「モノを作るっていうのも大変だろうけどさ。そういう頭を使って新しいサービスやらコンテンツを絞り出すっていうのも、同じくらい大変だと私は思うんだけどな」

 

 テレビのご意見番的な人――いや、彼だけじゃなくて、その向こうにいる誰かに突き付けるようにエロえもんはぼそりとつぶやき、どちらかというと難しい話が苦手な僕と幸田はボケっと聞いていて、細川がゲームをしながら大きく頷いていた。

 

 ゲーム好きな細川は前からゲームデザイナー? やプランナー? っていうゲームを作る人になりたいと言っていたので、たぶんエロえもんの話には共感するところがあったのだろう。

 エロえもんの家でインターネットをしている時も既存の名作ゲームをまとめている『おもしろゲーム大全集』というサイトを熱心に見てたり、『シフトアップネット』というFALSHを使ったブラウザゲームがたくさんあるサイトのすごさを興奮した様子で語っていた。

 

 そこ以外にもインターネットには様々なフリーゲームがあって、そのほとんどは任天堂やソニーが出しているゲームよりはるかにシンプルなものが多かったけど、見ず知らずの人とランキングで競い合ったり情報を交換するというのが面白く、ゲームを禁止されていた僕と持っていなかった幸田もけっこう夢中になっていたのだ。

 

「たぶん、これからゲームもそういうふうにオンライン? が主流になっていくと僕も思ってんだけどなぁ」

 

 と細川はウキウキした様子で語っている。だけど、一転少し暗い口調で「まあ……うちインターネット繋げてもらえないんだけどさ」と苦笑いした。

 意外なことに、細川のうちはかなり裕福な家庭にも関わらず、家にはインターネットの接続環境がなかった。

 

「そんなくだらないことやっている暇があったら受験勉強しろ、だってさ。それにゲームクリエイターなんて……不真面目で、しょうもない仕事なんて目指さないで、ちゃんとした仕事とか会社にしなさいって」

 

 いつものキザっぽい話し方はすっかり鳴りを潜め、細川はどこか力なく笑う。

 僕らはなんとなくかける言葉が見つからず、「まあ、ババアとジジイの言うことなんて気にすんなよ!」という幸田の雑な励ましにちょっと助けられた気分になる。

 

 細川のお母さんはPTA会長をやっていて、自他ともに認める教育ママだ。

 僕の家でも苦言を呈されたことがあるけれど、細川家では『クレヨンしんちゃん』と『ボボボーボ・ボーボボ』の視聴が「低俗だ」ということで禁止されているらしい(僕はそれを聞いて、おいおい北〇鮮かよと思ったけど)。

 

 たぶん、そんな家庭だからご両親ともに仕事以外に使われるネットなど子供に悪影響しかないと思っているのだろう。ゲームは受験勉強の成果報酬としてまだ難を逃れているみたいだけど、テレビや新聞では『ゲーム脳』とか『非行や引きこもりの入口』とまるで麻薬みたいな扱いをされているので、いつ取り上げられるかとビクビクしているみたいだった。

 

『こちらは箱根に来ている皆さんでーす』

 

 すっかりBGMと化していたテレビの中。先ほどまで連日の猛暑に冷房病の対策、芸能人の不倫、政治家のスキャンダルをまるでタイムリープしているみたいに繰り返していたワイドショーの内容は、いつの間にか夏の観光特集に変わっていた。なんの悪戯か。インタビューを受けているのは打ち上げ旅行に来ているゲーム会社の人たちのようで、中継先のリポーターがマイクを向けていた。

 

「ちゃんとした仕事って……なんなんだろうなぁ」

「さあな」

 

 僕が漏らした呟きにエロえもんがぶっきらぼうな返事を寄越す。

 時々テレビとかでCMをやっているような大きな会社や役所でも、不祥事とか事件とかで記者会見をやって謝っているのを見たことがある。でも、きっと、そういう会社でも、やっぱり僕らの親くらいの世代にとっては「ちゃんとした」会社なんだろうということだけは、なんとなくわかる。

 

 でも、大人たちが何を持ってちゃんとした会社であるかどうかを基準を作っているのかは、結局いくら考えてもわからなかった。

 

「そういやさ、お前ってピーエスピーってやつ持ってるか?」

 

 そんなことよりさ、とでも言いたげな幸田の明るい声に細川がしばらく考えた後、「ああ、あれ」と得心した顔をする。

 

「なにそれ?」

 

 携帯ゲーム保有禁止条例批准地域に居住している僕が尋ねると、細川が得意気に笑う。

 

「知らないの? ソニーが出しているプレステ版の携帯ゲーム機みたいなもん」

「そう、それ! 近所の兄ちゃんが持ってんだけど、それでもインターネットできるらしいぜ! あれなら親にバレずにネットやり放題じゃねえか!」

「あー、まあ、そうなんだけど……てゆーか、DSでもできるんだけど……」

「そもそもインターネット環境がなきゃできないんだよ」

 

 興奮した様子の幸田とは対照的に細川はどこか歯切れが悪そうで、エロえもんが話の続きを引き継ぐ。

 

「じゃあ、エロえもん()は?」

「説明書見た限りだと、無理だな。無線LANルーターかWIFIコネクタが必要なんだけど、うちにはないし。それに、細川のゲーム機には使用制限がかかってるみたいだから、たぶん仮にあったとしても接続できない」

「解除する方法とかねえのかよ?」

「設定されている暗証番号が4桁の数字だからな……試行回数は1万通りだ。不可能と思ったほうがいい。仮にそこを突破できても、次は合言葉のパスワードもあるからな」

 

 僕と幸田の質問にもエロえもんの淀みない回答が返され、僕らは思わず揃ってはぁとため息をついてしまう。

 

「それにしても……君って、やっぱりすごいな」

 

 エロえもんはあまりゲームしないタイプだから、そこまではよく知らないと思っていたけど、やっぱりインターネットのことになると頼りになる。

 幸田も「さすが毎日エロ画像を漁ってるだけあるぜ」とからかい半分に同意すると、「私だってゲームくらい知ってるよ。ドリー〇キャストが最高のゲーム機なんだろ?」とちょっと意地を張った感じで答えた。

 

「また渋いところをあげたねぇ」

「パ……父親がゲーム好きで、昔やってたの横で観てたから。あの(ひと)は……母親は、そんなくだらないものやってたらロクな大人にならないってよく言ってたけど」

 

 細川の言葉にエロえもんは一瞬だけ苦虫を噛み潰したような――なんだかいつものしたり顔とは違う、ほんの少し嫌悪が混じった薄い笑みを浮かべた。

 

 僕はそれを見て、ふと、エロえもんの家に僕らが行くときは、いつもご両親がいないことが気にかかった。それに思い返してみると、エロえもんと会話している時にお父さんの話はちょっと出てくるけど、お母さんの話題は今日初めて聞いた。

 

 人の家の事情はそれぞれだからあまり踏み込む気にはなれないし、勝手な想像だけど……もしかしたら、エロえもんはあまりお母さんと仲良くないのかもしれない。

 

「しかし、ドリー〇キャストなんてだっせー名前だよな! プレステの方が面白そうだぜ!」

「君、わかってないなぁ。確かに商業的にはあまりうまくいかなかったけど、21世紀に入る前からインターネット接続ができたり、当時としては凄いグラフィックだったり、時代を先取りしてたってことで、けっこうマニアからは評価高いんだぜ」

「だって、俺ゲームマニアじゃねえし」

 

 などと幸田と細川がどうでもいい応酬を繰り広げる中、僕は「へぇー、そんな昔からインターネットに繋がるゲーム機とかあったんだぁ」とこれまたどうでもいいことを考え……考えて、ふとあることを思い出した。

 

「そういえば、プレステでもインターネットって見れるんだよね?」

 

 僕は細川とエロえもんの方を見て、そんなことを尋ねる。

 

 僕が思い出したのは、前に観た映画――ドラえもんみたいに未来からやってきたロボットと現代の子どもたちが、地球を侵略しようとする宇宙人と戦うSF映画だ。その一幕にインターネットで情報収集したいとロボットが言い出し、パソコンがなかった主人公はプレステを代わりに使おうとする場面があったのだ。

 

「プレステならその無線なんたらってやつもいらないんじゃない?」

 

 僕が映画のことも交えながら説明すると、幸田は「お前、今日は珍しくさえてるじゃねえか!」と僕の背中を思いっきり叩く。痛い。

 

 だけど、エロえもんと細川の反応は微妙だった。

 

「そもそも親に見られないでこっそりやりたいっていうのが前提だからなぁ。君、そこらへんのとこ理解してる?」

 

 とは細川の話。

 

「据え置き型のハードだとリビングで見られる可能性高いし、リスクヘッジがやりづらいな。それにどちらにせよネット環境が必要であることに変わりはないから、画像のダウンロードとか印刷できるパソコン使ったほうがいいしな」

 

 とはエロえもんの談。

 

 二人の論理的な指摘を前に僕は「なんか……ごめん」と恐縮し、幸田は「お前、今日もやっぱりだめじゃねえか!」と僕の頭を思いっきり叩く。痛い。

 

「まあ、でも目のつけどころは悪くない気がする。君は、なんというか既存の作品とかモノとかからインスピレーションやアイディアを得て、新しいものを作るのが得意みたいだしな」

 

 肩を落とす僕を慰めるようにエロえもんが言ってくれる。それって遠回しにパクるのが得意ってこと言ってるんじゃないか……と思ったけど、彼女は笑って否定した。

 

「違うよ、前も言っただろう。これから全くイチからの新しいものは作られないって話。君の言っているその映画だって、確か……ドラえもんの二次創作から監督の人が着想を得て作ったらしいぜ」

 

 僕はそれに「ああ」とちょっと納得した声をあげる。

 

「ドラえもんの最終回ってやつ?」

「そっ」

「それ、俺も聞いたことあるぜ」

「僕も。のび太が科学者になって壊れたドラえもんを直すって話だよな」

 

 僕らの会話に幸田と細川も加わる。

 それはけっこう巷では有名な話で、確かドラえもんファンの人がインターネット上で公開した自分なりの最終回が評判となり、広まったものだった。

 

 それは自分でも本当に不思議で、インターネットはないし、僕は友達も少ないはずだからどこで聞いたかもわからないけど、そういう裏話とか怪談チックな都市伝説とか色違いのポ〇モンをゲットできる裏技とかは……なぜかいつの間にか知っていることが多かったのだ。

 

「でも……僕は、あれちょっと納得がいかないな」

 

 あの原案を最初に書いた人も……たぶん僕と同じ藤子先生とドラえもんが大好きな人なんだろうし、すごく優しくて感動できる結末だと思った。

 

 だけど、その最終回を聞いた時、確かに感動的なんだけど、個人的には少し違和感があるというか……なんだか納得がいかなかった。

 

 だって、のび太だってそりゃあ成長するだろうけど、僕みたいなダメな部分に共感するやつからしたらなんだかのび太にも置いて行かれた気分だし、あいつがそんなすごい立派な大人になっちゃあのび太としての……こう……なんというか、のび太らしさがないじゃないか。

 

「たぶん君が言いたいのは、アイデンティティっていうやつだね」

 

 僕がしどろもどろに説明したことを咀嚼して、エロえもんが一言でまとめてあげてくれた。なるほど。また一つ賢くなってしまった。

 

「でも、のび太って将来公務員になってるらしいぜ。近所の兄ちゃんが言ってた」

 

 とここで思わぬところから思わぬ情報が飛び込んでくる。幸田だった。

 というか、さっきから幸田の主な情報源になっている近所の兄ちゃんは何者なんだろう……妙にオタク臭いけど。

 

「公務員って市役……ぅ……所とかで働いてる人だろ?」

「いや、なんか環境なんとか局で働いているんだろ? 俺、よく知らねえけど」

「現実世界でいうところの環境省の官僚だな」

 

 幸田の説明にエロえもんが情報を加えると、僕はちょっと突き放された気分だった。

 なんだよ、のび太。全然落ちこぼれじゃないじゃないか。

 

「のび太も努力したってことだよ。まあ、君もせいぜい頑張りな」

 

 となんだか落ち込んだ気分のところに細川が追い打ちをかけてきた。まったく、持つべき者は友達なんてよく言うぜ。ありゃあ、嘘だな。

 

「でも、あれってなんか訴えられてんだろ? 裁判か何かで」

「たぶんそれ、お話をもとに漫画を作った人だよ」

 

 僕もその話は聞いたことがあった。

 確かそのお話の原案を作った人はちゃんとドラえもんには藤子先生が作られた最終回があるって明記してサイトに載せていたんだけど、それをもとに藤子先生そっくりの絵柄で漫画を作った人がいっぱいそのそっくり漫画を売ってしまって、小〇館に警告を受けたのだ。

 

「著作権問題ってやつだね」

 

 僕と幸田の話に「ただ……正確には、賠償して和解したから裁判までいってないけど」とエロえもんが割って入ってくる。

 

「欧米とかではパロディを権利で認めているところもあるんだけど、日本ではそういう法律ないからね」

「じゃあ、そういうのって描いたらまずいの?」

「グレーゾーン……ってとこだな、一応。そういう作品はいっぱいあるから全部摘発するのはコストがかかるし、君が言っていた映画みたいに商業作品やプロでもパロディを堂々とする人もいる。まあ、でも、あくまでその作品の権利を持っている人に見逃してもらっているだけだから、裁判起こされたらほぼ100%負けるようになってんだよ」

「じゃあ、なんでわざわざそんなことするんだよ?」

「そ……訴えられたら、やばいじゃん」

 

 細川の後に僕も続こうとしたが、訴訟の小さい「ょ」が出なくてとっさに訴えられるに変える。

 もちろん、僕だって藤子先生の作品やドラえもんのことは好きだし、パクリ……もといインスピレーションを受けた漫画を描いたことあるけど、それはなんというか僕個人やせいぜい教室のやつらが見るような小さな規模のものだ。

 

 でも……エロえもんの話にあるような本格的なパロディ漫画を描いている人たちは、僕とは違ってお金と手間をかけているだろうし、プロってわけじゃないから、会社や学校で褒められるわけでも、将来の役に立つわけでもないのに。

 

「何も考えていないか、申し立てがつくまでお金儲けできるとか……もしかしたらそんな理由でやっている人もいるかもしれないけど――」

 

 僕の話にエロえもんも腕を組み「うーん」と珍しく悩む素振りを見せる。

 

「たぶん……ほとんどの人は、その作品とかキャラが好きだから。好きってことを表現したいから、やってるんじゃないか」

 

 エロえもんが捻出した答えに幸田が「なるほど……まさしく愛だな!」と笑い、「からかうなよ。誰でも言えること言ってるだけだ」と照れたように口元を緩ませた。

 

 だけど、僕はその時……エロえもんのすごさは、こういうところにあるんだなと内心思った。こいつは確かに少し変なやつなんだけど、色々知っているだけじゃなくて、その知識から考えを整理して、「自分の意見」というやつを持っているように思える。

 それは、普段から「やれやれ」と言いつつ教師や親の言うことを無条件で聞いている意気地なしの僕には到底真似できないことで。恥ずかしくて言えないけど……ちょっと憧れる部分だった。

 

「まあ、そんなわけで、エロえもん。そろそろアレにしようぜ」

「……ああ、アレか」

 

 幸田がまるでオレオレ詐欺をしかけている最中の詐欺師みたいによこしまな笑みを浮かべると、それに呼応してエロえもんもニヤリと笑う。

 

 どうでもいいけど、「そんなわけで」ってどういうわけなんだよ。前後の繋がりがまるでないぞ。まあ、僕も幸田も国語の成績は5段階中の2で横並びだから、偉そうに接続詞の正しい使い方なんて言える立場じゃないんだけど。

 

 そんなわけで、僕が若者の日本語力低下を嘆く教育学者みたいな思考を巡らせている間に、エロえもんは持ってきたリュックをごそごそと探り、その中からいつも自分の家で使っているパソコンと印刷してきた紙の束を取り出した。

 



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第15話:姉、襲来

 

 

 僕ら四人はこれまでの夏休みでも予定が合う日に集合して遊んでいたけど、その内容といえば海水浴やプールに夏祭り、花火大会、キャンプ――といった爽やかな青春ドラマ染みたものじゃなくて、なんとなく誰かの家に集合して漫画を読んだり、ゲームをしたりと……まあ、せっかくの夏休みをダラっと使うものだった。現代っ子、ここに極まれりである。

 

 そして、何より――

 

「科学の力ってすごすぎる……」

「知ってるか? 技術の発展は、争いとスケベによってもたらされるんだぜ」

「こいつは……とんでもないツァリーボンバーだぜ……」

「みんなわかってないな。大きければいいってもんじゃないだよ。やっぱり僕みたいに繊細な教育を受けてると、慎ましやかなおっぱいの魅力や趣ってのもわかるようになるんだ」

 

 何より、僕らが一番夢中になったのは、エロえもんがインターネット経由で入手するエロ画像の鑑賞会だった。

 

 目の前に山積みになった学校の宿題に塾の課題。外に出るのも嫌になるくらいの猛暑。小学校最後の夏だというのにたいしたイベントもない毎日……僕らは何か行動を起こすわけでもないけれど、どこかそういう空虚な夏に焦りに近い何かを感じていたのかもしれない。

 

 その「何か」っていうのは、来年から始まる中学生活への不安とか、家庭や学校といった今の自分たちを取り巻く環境とか……一言では表せない複合的な社会への反抗心だったのかもしれない。

 そんなふうにせっかくの夏休みに鬱屈とした毎日を過ごしていた僕らは、この日々を食い破って変えてしまう「何か」を待っていた。

 

 そして、そのヒントになり得そうと期待を寄せていたのが、エロえもんを通して数か月前に知ったインターネットとエロの世界だった。

 

「なあ、もっとエロい画像ダウンロートできねえの?」

 

 しかし、いささかそれもマンネリ気味になりつつあるのが実態だった。

 悲しいかな。人は与えられることに慣れてしまうと、現状に満足せず、その先の進化を求めてしまうものなのだ。

 

「もっとエロいって……どういうの?」

 

 幸田の問いに僕が聞き返すと、幸田は珍しく「お前、そりゃあ――」と言葉を詰まらせる。

 

 

 

「あれだろ……その、セックスとかだろ」

 

 

 

 幸田がそう言った瞬間、さっきまでエロ画像を見ながらギャーギャー言っていた僕らの動きがピタリと止まった。

 窓向こうから相変わらずの蝉しぐれに混じり飛行機が遥か上空を突っ切る音が聞こえ、テレビではワイドショーの終わりを告げる流行りの歌手の歌が鳴り響いていた。

 

「セックスって、あれ、だよね。授業でやってたみたいな――」

「うるせぇな、セックスはセックスだろ! 近所の兄ちゃんが言ってたぜ」

 

 一瞬の沈黙がけっこう恥ずかしかったのか。僕が尋ねると幸田はムキになったようにソース元である「近所の兄ちゃん」を出してきた。なんだかウィキペディアみたいだな。

 

 ちなみに僕が言っていた授業というのは、去年やった理科の内容だった。

 

 そこでは「セックス」という言葉は出てこなかったけど、雄と雌がある動物は精子が卵子に入ると受精というものをすると習ったのだ。その時の授業は――僕も含めて――普段授業を真面目に聞かずに寝ている男子も、プロフィールメモを回している女子も、みんな不思議と食い入るように教科書と教材ビデオを見つめていたのは、今でも覚えている。

 

 その後の休み時間でも、クラスの女子たちは教室のいろんなところでコソコソ話をして、男子のお調子者の誰かが「セックスー、フォーーー!!!」とか叫んでいて。確か僕はそこで「セックス」という言葉を知ったのだ。

 

「うーん……厳しいな。このコレクションだって、ひっかからないサイト探し当てるのにかなり時間かけたんだぞ」

 

 ただ。さすがのエロえもんもそれには難色を示す。ただそれはやりたくないというわけではなく、難易度の問題だった。

 

 エロえもんのパソコンにはフィルタリングがかかっていて、閲覧できるサイトには制限があった。

 ヌードや……セックスとかの18禁のエロサイトにはもちろんアクセスできなかったし、ネットショッピングの類もダメ。エロえもんが搔き集めたグラビアの画像も、たまに運よくフィルタリングをかいくぐったサイトに貼られていたものをコピペしたものがほとんどだった。

 

「頼むよ。一生のお願いだから」

 

 細川の一生のお願いを聞いたのは今月で2回目だ。何回転生してんだ、君は。

 僕らの視線にエロえもんは思案顔で「うーむ」とパソコンをじっと見て黙考する。

 

「……ダメだな。結局、そこらへんの権利を握っているのは親だし。それに、悪いんだけど……うち、ちょっとの間ネットが使えなくなりそうなんだよ」

 

 エロえもんからの衝撃の通達に僕らは「ええーーー! なんでだよ!?」と口を揃えて愕然とする。

 

「まあ、ちょっとな」

「インターネットが使えないエロえもんなんて、ただのおっぱい星人の小学生じゃないか」

「失礼だなぁ。まあ、しばらく我慢しろよ」

 

 ショックだったけど、いつもと違い皮肉にもなんだか歯切れの悪いエロえもんの様子を見て、僕らも仕方な引き下がった。

 しかし……インターネットが使えないとなると、僕らのエロ……とりわけセックスという未知の存在に関する捜査は難航を極める。

 

 

「なんかエロ本を捨てるための白いポストがどっかにあるみたいだけど」

「でも、近所の兄ちゃんそれをなんとかこじ開けれないかってしてたら、警察に捕まったらしいぜ」

「十過(とおすぎ)駅の裏にはまだエロ本自販機があるって噂で聞いたことあるな」

「それ他県だろ。僕たちの小遣いじゃあいけないよ」

「前は裏山の駐車場にゴールドラッシュがあったけど、今は掘りつくされてるらしい」

「くっそ~! 圧倒的に全滅じゃないか!」

 

 

 あとは昔ながらの――互いに持っている情報を寄せ合うアナログ手法しかなかった。

 ちなみにゴールドラッシュとは、成年向け雑誌――いわゆるエロ本がなぜか捨てられまくって堆積している場所のことだ。

 

 

 他にも、祭りの射的では高校生以上限定でエロDVDやビデオが景品として出てるとか。金曜日の深夜に特命〇長というおっぱいが見れるドラマがやっているとか。近所の兄ちゃんが通う中学校の図書館では人体図鑑で外国人の全裸が見られるとか。

 

 僕らの耳に入る情報はすべて断片的で、「らしい」や「みたい」という伝聞の域を過ぎなかった。

 

「そういえば……幸田ん()は? 捨てられるエロ本とかないの?」

 

 ふと思い出して、僕は幸田に尋ねる。

 

 幸田のお父さんは、学校の近所にあるコンビニのオーナーだ。幸田が家事をして妹の世話を焼いているところなんて想像できないけど、両親が不在の時は妹さんの分まで食事を用意して、犬の世話もしていると以前言っていたのだ。

 

「ダメだな。学校の近くだからクレーム? が来るんで置いてねえみてえだ」

 

 あと、そもそも売れなかったものはどっかに返品されるから勝手に捨てれないらしい。

 

「ダメかぁ~」

 

 最後の希望も絶たれ、僕らはクーラーの稼働音響く部屋の中でうなだれ、沈黙があたりに垂れ込む。事態はまるで昨今の日本経済のように八方塞がりの様相を呈しているところだ。

 

 ガチャリ。

 

 だけど、その時――その沈黙に割って入るかのように、玄関の方で音がした。

 同時に「ただいま~、あっちぃ、マジ死ぬ、ざけんなよ」と若者言葉の見本市みたいな声と廊下を歩いてリビングへと近づいてくる足音が聞こえる。

 

 マズい。よりによって「ヤツ」だと……!

 

「やべえぞ……オイ!」

「隠せ! はやくはやく!」

「ハリアップ! ゴー! ゴー!」

 

 僕が目配せで第一種警戒体制を告げると、まるで予告なしのガサ入れを受けて悪あがきをする人たちみたいにエロえもんがパソコンをしまい、残りの三人はそこらへんの床に散ったエロ画像とネットから印刷したのが一目でわかる読書感想文の例文を片付ける。

 

「あー、ツカレタ。おい、メガネ! アイス持って――」

 

 となんとか証拠隠滅が完了した直後に廊下とリビングを繋ぐドアが開いた。

 

「……あれ? 友達?」

「こ、こんにちは……」

 

 ヤツ――黒のリクルートスーツに身を包んだままドアを蹴った姉ちゃんは、リビングを見渡すと目を白黒させ、しばらく動きが止まった後「ふーん、あんた友達いたんだ」とどうでもよさそうな顔をする。一瞬で興味を失ったようだが、一応同級生の前でパシリを控えるくらいの気遣いは見せてくれ――

 

「……ちょっとあんた! また勝手に私の部屋の本棚いじったでしょ!」

 

 ――と安心したのも束の間。

 瞬歩のように一瞬で間合いを詰められ、背中を蹴られた。僕はその衝撃で前につんのめり、土下座みたいな格好になる。そして、その体制のまま視線の先――リビングに転がっている少女漫画に気づいた。

 

 それらは『神風怪盗ジャンヌ』とか『のだめカンタービレ』とか『NANA』とか……僕が読んでも面白かった名作少女漫画の数々で、本来なら姉ちゃんの本棚に差さっているものだ。エロえもんに読ませるため、留守中にちょいと拝借していたことを忘れていた。

 

 まあ……確かに僕が悪いのだけど、わざわざお姉ちゃんキックを食らわせなくてもいいじゃないか。こういう時は、あれだ。前、ニュースで聞いたあれだ。

 

「……ぅ……しゅ、集団的自衛権の行使を――」

「あぁ?」

 

 言葉が喉の奥に絡まる。しまった。小さな「ゅ」だ。何も考えてなかった。

 

 いや、そもそも背中を擦って起き上がる僕を見下ろしてくる目は、一切の発言を許可していない。やはり、パワーこそ力。圧倒的な強者を前にすれば、弱者はひれ伏すしかないのだ。

 

「誤魔化しても無駄だから! あんたのことは一応生まれた時から知ってるからね。いい! 二度と部屋入んなよ!」

 

 と声高々に勝利宣言をすると、大きいストラップをジャラジャラつけた携帯をパカッと開いて電話をかける。たぶん彼氏だろう。二階に上がる頃には、嫌になるくらい聞き飽きた姉ちゃんの声が少しだけ変わり、まるで知らない女の人のようになっていた。

 

 



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第16話:へぇ、あんたもエロ漫画読みたいんだ

 

「なかなかエキセントリックなお姉さまじゃないか」

 

 一連の様子を見て、細川が苦笑いする。エキセントリックの意味がわからないけど、たぶん褒められてないことは確かだ。

 

「いーなー、お前はねーちゃんがいて」

 

 と幸田からは皮肉なのかマジなのかわらかない発言。今の光景見てどうしたらそういう感想が出てくるんだ?

 残るひとり。エロえもんは何も言わずに姉ちゃんが上がっていった先の階段をじっと見て、おもむろに目を見開く。

 

「ありゃあ……Cだな」

「……あのさぁ」

 

 初対面で人の姉のカップ数を目測してんじゃないよ。お前の目は写輪眼か。

 

「スーツのお姉さんってのもなかなかどうして……悪くない。就職活動中か?」

「まあ……そうだけど」

 

 前半のセクハラ面接染みた発言はスルーして、エロえもんの質問には不満気に答えた。

 

 姉ちゃんはもともと人の形をした『どくさいスイッチ』みたいなもんだけど、最近は就職活動という『悪魔のパスポート』を携え、ますます僕に対するあたりが強くなっている。ストレスのせいか最近話題のキレる若者の体現者みたいだ。昔、親の本棚でキレる若者にしないための子育てみたいなハウツー本を見つけたけど、残念ながらあまり学習成果をあげられなかったらしい。この前、僕も幸田と喧嘩しちゃったし。

 

「だけど……姉ちゃんが焦るのも仕方ないと思う」

 

 「失われた二十年」なんて呼ぶらしいけど、バブル崩壊から続く不況もあってか、来年専門学校を卒業する姉ちゃんは就職活動に苦戦しているようだった。

 

 それに、なんかよく知らないけど法律が改正されて、会社で人を雇う時に派遣っていう働き方が多くなって、正社員の雇用が減っているらしい。少し前、すごいハイスペックな派遣の女の人がかっこよく活躍するドラマがあって「私も派遣でいいかなぁ」なんて姉ちゃんは言っていたけれど、それを聞いた親は「真剣に考えなさい!」と猛反発していた。

 

 最近ニュースでも就職していない人のことが「ニート」なんて取りざたされているし、うちの親はけっこう世間体を気にするタイプだから、僕が知らないところで姉ちゃんもいろいろ言われているであろうことは想像に難くなかった。

 

 僕のそんな話を聞くと、先ほどまでアホ面でセックスを見る方法を議論していた三人はうんうんと頷いていた。

 

「こんな閉塞感に満ちた社会じゃ、そりゃあ小学生の将来なりたい職業ランキングで公務員が一位になるよ」

 

 とは細川の談だ。

 

「漫画の主人公とかも、お前みたいな自分からは何もしないで『やれやれ』とか言いながら巻き込まれるやつが増えそうだよな」

 

 とは幸田の談だ。

 

 やれやれ。こいつは相変わらず僕をけなしてくるな。やれやれ。

 僕は女子高生のデコ電並みにやれやれを特盛にしつつ、後が怖いのでそこらへんに散らばっている少女漫画を回収していく。

 

「ほい」

「ありがとう」

 

 エロえもんが近くに置いてあるコミックを渡してくれたので受け取ろうとした時、僕はそれを手を滑らせて落としてしまう。「やべっ」と折り目がつかないうちに拾い――

 

「あっ……」

 

 床に落ちた拍子にたまたま開いたページを見て、ハッとした。

 そのページは最悪の出会いから始まり、反目しあったり、すれ違ったり……その他諸々の少女漫画的困難を乗り越えて、主人公であるヒロインと男の子が結ばれる場面だった。

 

 そう。文字通りベッドの中で結ばれる。

 そう。つまり、セックスだ。セックスである。セックスなのだ。

 

 少女漫画は少年漫画に比べて直接おっぱいとか乳首が出るわけではないけれど、けっこうこういう直接的な描写が多くて、僕も初めて読んだ時は思わず「Oh……!」とアメリカ感な反応をしてしまったものだ。まったく最近の女学生ってえのは、こんなハレンチなもの読んでやがったのかい。男子に比べてオマセになるはずでぃ!

 

 とはいっても……具体的には、二人が何をしているのかまではわからない。

 

 ただお互いに一糸まとわぬ姿になって、赤らんだ顔を含めた上半身のアップと繋いだ手のみが描かれていて、次のページになれば翌朝「脳みそフット―しそうだよぉ……!」とか言ってヒロインが顔を赤らめているのである。あらあら、カマトトぶっちゃって(死語)……かわいいじゃないの。

 

 と僕が少女漫画ワールドに当てられてアメリカ人になったり、江戸っ子になったり、オネエになったりしていると、「お前、頭大丈夫か?」と心配そうな視線を三人から向けられた。どうやら情緒不安定な心が顔面にも表れていたようだ。恐ろしいね、ロマンチックってやつは。

 

 僕は平静を取り戻し、改めてさっきのベッドシーンを眺めてみる。

 そして、ふと考えた。

 

 なんで……セックスっていうのは、少女漫画だと見てもいいけど、現実の写真とか動画だとダメなんだろう。少年漫画にも時々乳首が出ているものがあるけど、あれもやっぱり絵だからいいのだろうか。

 

 そんなことを悶々と考えて、僕は机の上にほったらかしにしているプリントを裏返し、下手くそなおっぱい付きの女の人の上半身を描いてみた。細川は「君、何やってんだよ」と呆れ顔だったが、途中で投げ出すのもあれなので一応全身を完成をさせようとギャグ長の顔をつけ「あっはーん」という偏差値10くらいの台詞を言わせてみせる。

 

 だけど、最後の仕上げに下半身――股の下を描こうとしたところで、ピタリと鉛筆を滑らせる手が止まった。

 

 股の下。僕たち男子にはちんこがついているところ。そこに何があるかは、よく知らない。とりあえずちんこと金玉が女子にはついていないことは確かだし、確か赤ちゃんを産む時の子宮っていう臓器があるのは、知識として知っている。

 

 だけど、そういう事実以上の「何か」が――なぜか、そこにはあるような気がするのだ。

 

「ん? なんだ?」

「いや、別に」

 

 エロえもんの方をちらりと見て、なんとなく気まずくなって目をそらした。

 こいつに聞いてもよかったけど、なんか気が引けた。おっぱいと違って、なんというか、下半身に関する話題はエロえもんとはやってはいけないような……僕の中には、理由がわからないそんな自制心がどこかにあったのだ。

 

「でもさ、お前ら漫画とか絵描いてるんだろ? いっそのこと自分たちで描けばいいんじゃねえの?」

 

 と幸田からはぶっきらぼうに提案されるが、そもそも何をしているのか知らないから描けるわけないじゃん。というのが、僕とエロえもんの共通認識だ。

 

「なんか……もうだめそうだな」

 

 再加熱しそうだった「どうやってセックスを見るか委員会」はそこで打ち切りとなり、僕らは再びダラダラモードに移行する。

 

「なんだかなぁ」

 

 僕らには、予感があった。

 このまま、こうやって夏休みが過ぎていって、後半は泣きべそ半分に宿題をやって、また二学期にこれまでと変わらない日常を繰り返して、卒業する。

 

 そんな――すごくつまらないけど、確実な予感だ。

 

 だから、何か僕らの毎日を変えるほんのちょっとしたきっかけが欲しかった。「セックスを見る」というのは、僕らにとってそれになり得る気がしたのに。お先は真っ暗だ。

 そうやって、あーあ、セックスが何やってるかわかる漫画があればいいのに……などと考えている時だ。

 

 

――エ……ロ、マ……島

 

 

 突然――本当に思いがけず、頭の中に閃くものがあった。

 

 それは最初、はっきりと形を成してしなかった。

 何か、どこかで聞いた。今、思い出さなければいけない。小さい「ゅ」や「ょ」が吃音で詰まる時のように、もう少しのところで言葉が引っ掛かって焦燥が積るけど、なんとか掴みかけたその単語を手放すまいと、必死にひねり出した。

 

 

 

――エロマンガ島

 

 

 

 それは、以前テレビで聞いたことがあって、地図帳に印をつけていた世界のどこかにある島の名前。

 エロマンガ島。えろまんがとう。エロ漫画島……そう、エロ漫画。エロ漫画だ。

 

「そうか……! エロ漫画だ!」

 

 そうだ……その手があった。

 

 リアルがだめでも、漫画ならいいんじゃないか。

 きっと、少女漫画にセックスが描いてあるのだって、実在している人じゃなくて、キャラクターで、絵だからだろう。少年漫画にだって乳首が描いてあることあるし、きっとそういうのが買えるんだったら……エロ漫画だって、僕らでも買えるんじゃないだろうか。

 

 もしかしたらさっきのプレステみたいに根本から方向性が間違っているかもしれないけど、僕はその思いつきを興奮に任せてみんなに発表する。

 

 すると、僕の熱気にあてられたように――みんなの目の色が変わっていった。

 

「それ、コペルニクス的発想だな……!」

 

 「なんだよ、それ」と聞こうとしたけど、エロえもんは興奮した様子で僕の肩をバシバシと叩く。こいつがこんなにテンション上がっているところを見るのは、舞子先生のおっぱいを鑑定している時以来だった。

 

「君の漫画を見てて、前から思ってたんだよ。君は確かに勉強も運動もまるでダメだけど、ひらめきというか……他の人ならスルーしてしまうようなところに気づく発想力があるんだ!」

 

 エロえもんの言葉に「そういや」、「確かにそうかもな」と幸田と細川も同意する。

 僕はまるでダメは言いすぎだろ……と思いつつも、そんなふうにべた褒めされることが滅多にないので少しくすぐったくなる。

 

「スケベの天才だな!」

「よっ! エロ日本一!」

「やはり天才か……」

 

 ……訂正。

 なんだろうね。なぜか褒められているのに全然嬉しくない。

 

「よし! 決まりだな!」

 

 幸田が自分の太ももをバシンと叩き、勢いよく立ち上がった。

 

「夏休みも、もうすぐ残り半分だ! 俺たちはなんとしてもこの夏休み中に……エロ漫画を手に入れるぞ!」

 

 残り三人も幸田につられ柄でもなく立ち上がり「チームドスケベ、ファイヤー!」と声をあげ、「あんたらうっさい!」と二階の姉ちゃんに怒鳴り込まれた。

 

 

 

 

 

 大人になって後から振り返ってみると、それはとんでもなく無理やりなこじつけで、馬鹿な間違いだった。

 

 小学六年生のあの時でも、冷静に考えればエロ漫画を――成人向け漫画を子どもが買えるわけないってことは、みんな頭のどこかではわかっていたのかもしれない。

 だけど、僕らはそれを――ようやく見つけた、何もない平面の夏休みを変えるきっかけを、まやかしだとは気づきたくなくて。誰も言わず、意識的に胸にしまいこんでいたのだと思う。

 

 とにもかくにも。僕らの最低な夏休みは、八月も中旬に近づいた頃、何かが始まる予感と共にようやく動き出したのだ。

 

 

 

 そして――これが、僕らが一緒に過ごした最後の夏休みでもあった。

 

 



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第4巻 大人になる前で
第17話:今、描きにゆきます――サムデイ・イン・ザ・レイン――


 

 

 幸田と細川と別れた後の帰り道。上空で少し強い風が渦巻き、どこか別の世界からやってきたような黒雲と共に遠雷があたりに響いた。

 

「雨だ」

 

 隣のエロえもんがつぶやいたのと、ほぼ同じタイミングだった。

 

 熱を帯びたアスファルトにぽつり、ぽつりと水滴が滲み、僕の鼻面にも冷たい感触が落ちてきて、何かを予感した肌がぞわりと鳥肌を立てる。やがて、それはバケツをひっくり返したような大雨へと姿を変えると、僕らの顔面を容赦なく打ち付けた。

 

「こりゃあ! あれだな! 最近話題のゲリラ豪雨ってやつだ!」

「ゴリラ!?」

「ゲリラ!」

 

 僕らは慌てて駆け出しながらそんな会話をするが、滝のようにドドドッと轟音を立てて落ちてくる大粒の雨に世界の音は支配され、すぐに会話すらままならなくなってしまう。エロえもんが「あそこ!」と指をさした先にあったスーパーを目指し、僕ら二人は全速力でその光へと向かって地面を蹴った。

 

 荒い息を吐き出しながらスーパーの軒先に転がり込んだ時にはびしょ濡れで、水を吸った髪と服がべったりと体に張り付く。足元のスニーカーもグショグショで気持ち悪い。夏の大気からは瞬く間に熱が消え去っていた。

 

「すごいな」

「うん」

 

 空を灰色に塗り込める雲を見てエロえもんがつぶやき、スニーカーを脱いで中に溜まった水を出しながら僕も同意する。濡れ鼠の服を絞れるところだけ絞った後、エロえもんは夕飯を買って帰るというので、僕も同行することにした。

 

「悪いな。付き合わせて」

「いや、僕もこれだとまだ帰れないし。エロえもんって、いつも夕飯買って帰るの?」

「ああ……うちの親、二人とも帰るの遅いからさ。夜は総菜とか弁当が多いんだよ。時々自分で買えって夕飯代も渡される。おかげでここらへんのスーパーと弁当屋のレベルは、けっこう把握してるぜ」

 

 スーパーの中に入る途中の会話でエロえもんは笑いながらそんなことを言った。それに僕は少し驚きつつも「ふーん」と当たり障りのない返答をする。

 

 幸田の話を聞いた時も思ったけど、二人と違って僕の家ではたいてい僕以外の誰かがいることが多い。お母さんもパートに行ってるけど、だいたい夕方頃には帰ってくるし、お母さんがいない時は、ばあちゃんが夕飯を準備してくれる。お父さんも仕事で夜遅い時もあるけれど、ゴルフ以外の時は休日家でゴロゴロしている。

 そういうふうに……家には誰かがいて当たり前だと思っていたけど、そうじゃない家というのもやっぱり世の中にはあるのだ。

 

 スーパーの中に入ると、まるで秋風みたいなひんやりとした空気が肌に伝った。雨で濡れているのもあるのだろうけど、冷房が強いせいだろう。特に冷蔵食品が並ぶコーナーの前は寒いくらいだ。

 

「そういやさ、あれ、どうする?」

 

 秋を飛び越して冬みたいな生鮮食品コーナーを通り過ぎた後、エロえもんが出し抜けにそんなことを聞いてきた。

 

「あれ?」

「漫画賞の件」

「……ああ」

 

 それは夏休み前に二人で話していた計画で、この夏休み中にちゃんとした読み切りの漫画を一作完成させて、とある漫画誌の新人賞に応募してみようということだった。

 

 ただ、結局、塾やら夏休みの宿題やらで立て込んでいて……いや、正直に言うと、夏休み中にダラダラと過ごしていたせいもあり、夏休みも折り返し地点が見えてきているというのに、まだネーム――しかも、半分くらいしか進んでいなかった。

 

「君は?」

「私も……似たようなもんだな。描いていたんだけど、いざ賞に応募するって考えると、何が面白くて、どういうもの描きたいのか……よくわかんなくなって、止まっちゃってるよ」

 

 それは僕も同じだけど……一応、僕の場合はストーリの終わりと描きたい場面は頭の中にあるので、後は途中の整合性を取って後半の話を繋げるだけだ。

 

 でも、夏休み後半に入るにあたり夏休みの宿題を仕上げなきゃいけなし、幸田、細川と話していたエロ漫画入手プロジェクトもある。それに僕はエロえもんと違ってペン先や軸どころかちゃんとした原稿用紙やインクなどの消耗品すら持っていなかったので、来週ある親戚の集まりでお盆玉という名の購入資金を速やかに回収してからではないと、仕上げ作業には入れなかった。

 

「そういうのがあるんだ、すごいな。うち、親戚づきあいとかあんまりないから」

「そうなの?」

「ああ。遠方だし、葬式とかでしか会ったことないな」

 

 その話を聞いたエロえもんは少し羨ましそうに言った。

 

「提案なんだけどさ」

 

 それからちょっとの間を置いて、総菜コーナーで手持ち無沙汰に大盛りカツどん弁当を眺めている僕にエロえもんが笑いかける。

 

「君……私とコンビ組む気ないか?」

 

 うまそうだなぁとアホ面で総菜が敷き詰められた茶色の一角を見ていた中、彼女が告げた言葉に顔を上げる。思いがけない提案に僕は「コンビ……?」と目を丸くした。

 

「そう。君が原作で私が作画。それなら、なんとか〆切まで間に合うかもしれないし。それに……私、好きだから」

「へ?」

 

 

 その一言に、僕は思わずピタリと動きを止めた。

 

 まるで視界に入る風景が全て一時停止しているDVDの世界であるかのように――ピタリと時が止まったみたいで。世界を震わせているのは、イートインコーナーのラジオから流れる前線の動きを伝える天気予報だけだった。

 

 

 

「――君の漫画」

 

 

 

 だけど、その直後発せられた言葉で、僕はハッとする。

 

「……は、は、は、ははははい。はい、ああっ、はい」

「……改まっていうと、なんか恥ずかしいな」

 

 緊張のあまり先頭に「あ」をつけるのを忘れて、「は」が連続してしまう。僕があわあわと口を動かすと、エロえもんも耳元を赤くしてニヘラっと笑う。

 

「で、どうだ? コンビ?」

 

 少ししていつもの調子に戻ったエロえもんが尋ねる。

 

「僕は……大歓迎だけど、エロえもんが大変じゃない?」

「いや、作画はむしろ好きだから大丈夫だ……ただ、ちょっと君にも手伝ってほしいところはあるけど」

「もちろん。消しゴムかけから部屋の雑巾かけまでなんなりと、大先生」

「ちゃかすなよ」

 

 僕の軽口にエロえもんが右頬の口角を吊り上げる。最近気づいたことだけど、それは照れ隠しの時に見せるシニカルな笑みだった。

 それにしても、コンビか。まるでF先生とA先生みたいだ。もっとも二人はそういう作画と原作に分かれた体制ではなかったけれど、ネームにもエロえもんがアドバイスをくれるみたいだし、たぶんしばらくはそうやって互いの作業を手伝い合う形になるだろう。

 

「明日明後日は塾だったよな?」

「うん」

「じゃあ、水曜からさっそく打ち合わせ――」

 

 とカレーライス弁当とフランスパンに挟さまれたメンチカツを手に取り、エロえもんがレジに向かおうとした時だった。

 

「よーし、パパ特盛牛肉焼いちゃうぞー! 会社休みだしな!」

 

 僕らのすぐ横を、背後から来た家族連れが通り過ぎた。両親と幼い兄妹の四人家族みたいで、父親の宣言に「えー、じゃあ私フィレミニョンステーキのレアがいいー」、「いい肉使ってる!」と子どもたちが笑う。まるで日本の核家族はこうであるべきとでもいうような平和そのものの一家団欒である。微笑ましい光景だ。

 

 だけど、エロえもんは――その後ろ姿をじっと見ると、なぜか急に言葉数が少なくなってしまった。理由はわからないけど、僕もそれにつられなんとなく押し黙ってしまう。

 

 レジに並んでいる間、所在なく見上げた窓はまだ雨に濡れている。その向こうでは、蝉の声は消え失せ、まるで地鳴りのような強すぎる雨音が支配している。明るいBGMが流れる店内とは、まるでガラス一枚隔てた別世界みたいだった。

 

「もしさ――」

 

 レジを通った後、エロえもんは独り言のようにぼそりと呟いた。

 

「自分も周りも、どうにもならないってわかってても……でも、どうしてもどうにかしたい時って、どうすればいいんだろうな」

 

 突然投げられた脈絡のない問いに、僕は首をかしげる。なんの話だろう? 日本の少子高齢化対策についてだろうか?

 

 質問の意図がわからず思ったことをそのまま口に出すと、「悪い、忘れろ」と笑われた。

 スーパーの強い冷房に当たりぱなっしだと風邪をひきそうなので、雨は降っているけどそのまま外に出て軒先へ向かう。

 

 大量の雨がコンクリートに落ちて爆ぜる音。道路脇に溜まったその水を車のタイヤが撒き散らしていく音。外は明るく人工的な店内の音とは違い、夕立の響きに満ちている。そんな音の濁流の中、重苦しく立ち込める雨雲に押さえつけられるように僕たちは黙っていた。

 

 そうやって呆然と佇んでいると、足元にアマガエルが跳んできて、僕は思わず彼(彼女?)とじっと目を合わせてしまう。

 

 カエルは昔から苦手、というより嫌いだ。確か低学年の時に同級生がケツに爆竹を入れたり、石で潰したりする遊びをやっていて、それに誘われたけどあまりにひどすぎて逃げ帰ると臆病者の烙印を押された時からだと思う。

 あと、よく間の抜けた顔と眼鏡のせいでケロロ軍曹に似ていると言われるのも関係している気がする。というか、八割そっちのせいだと思う。

 

「ほら、あっち行け」

 

 と脅すようにスニーカーの端で触れると、アマガエルは大して慌てる様子もなく、数秒後にゆっくりと方向を変え、ぴょんと駐車場脇の草むらへ跳んで行く。その方向を追い顔を上げると、道路を挟んだ先にある街の中心部が遠目に見えた。

 

 雑居ビルや高層マンションの下層は薄っすらともやがかっていて、よく見えない。暗い世界を切り抜くいくつかの窓灯りが、まるでバミューダトライアングルをさまよう幽霊船のように揺らめていていた。

 

「なあ」

 

 雨煙る風景を眺めていた時、近くなのにどこか遠くに聞こえるスーパーの業務通達の放送にエロえもんの声が混ざった。

 声の方に目を向ける。雨に濡れて短い髪の毛が貼りついたエロえもんの横顔は――どこかいつもと違って見えた。なんだかひどく儚げで、このまま排水溝に流されていく雨と一緒に溶けて行ってしまいそうな……なぜかわからないけど、そんな気持ちにさせられた。

 

 その時、不意に雨に濡れたエロえもんの背中――貼りついたTシャツから浮かび上がる灰色を見て、ドキッとした。

 

 あれは……下着、だろうか。慌てて目をそらしてしまったので、エロえもんは一瞬不思議そうな顔をしたけど、僕が平静を装うと話の続きを始めた。

 

「このまま雨が降り続いたら……どうなるんだろうな?」

 

 気を取り直し、確かドラえもんでそういう話があったなと思う。のび太が大雨で大洪水になる夢を見て、ドラえもんも巻き込んでノアの箱舟を作るのだ。僕がその話をすると、エロえもんは「そういえば、あったな」と微笑んだ。

 

「そしたら……学校も、家も、街も、全部流されたら、ずっと、夏休みでいられるよな」

 

 もしそうなったらホームレス小学生になって、夏休みを満喫するどころじゃないと思うけど。

 そんな非論理的で小さな子供みたいなことを話すのは、エロえもんらしくなかった。

 

「……なぁんてな」

 

 冗談ぽくエロえもんが付け足すのと時を同じくして、雨足は弱まり、やがて完全に途絶えた。

 だけど、雲はまだ分厚く空を覆ったままだった。

 

「じゃあ、また水曜日な!」

 

 それまで静かだったヒグラシたちが鳴き始めた頃、雲間から降りていく光の梯子を見て、エロえもんはいつも通りの笑顔で別れを告げた。

 

 だけど――洗い流された夏夕焼け空の下。去っていくエロえもんの後ろ姿を見た時、ふと僕の胸に不安が湧き上がった。

 

 今度の水曜日、僕は本当にエロえもんに会えるのだろうか?

 

 たぶん、それは、何も根拠がない過剰な心配だったと思う。

 でも、もしエロえもんの言う通り大洪水が起きるくらいの大雨が降ったら。僕やエロえもんが交通事故に遭ったら。重度の熱中症や食中毒にかかったら。いきなり未知の変なウイルスで病気になったら。

 

 確率的にそんなことはめったに起こらないんだって、さすがの僕もわかってるけど。

 

 でも、もし万が一そうなったら、エロえもんとはもう会えない。それでも、僕やあいつが死んだ後も、夏は続いて、蝉は鳴いて、夕立ちは降って、毎日同じようなニュースがテレビでは流れていく。

 

 急にそんな当たり前のことが、怖くなった。その瞬間、僕は駆け出していた。

 

「あのさっ!」

「ん?」

 

 とっさのことで言葉に詰まる。

 なにせ自分でも、なぜこんなことをしたのかわからないのだから。

 

「家まで送るよ」

「い、いきなりどうしたんだよ? 気持ち悪いな」

「送る」

 

 辛辣なエロえもんの言葉にもひるまず、僕はまっすぐに彼女の目を見た。

 

「エロえもんと……もう……ち……っ……少し話したいから」

 

 何も考えずにち「ょ」っと言いそうになり、少しに変える。

 エロえもんは僕の言葉に何か言おうとして口を開きかけたけど、結局そのまま何かを発することなく閉じて、足元を見る。

 

「……うん」

 

 そして、うつむいたまま、一言だけ返答した。

 それを聞くと、自分から提案したにも関わらず、言葉が見つからず黙ってしまう。

 

 僕は……いつでもうまく言えないことばかりだと思う。吃音があってもなくても、たぶんそれは変わらなくて。その時、初めて漫画以外でも、もっとちゃんと自分の気持ちを表現できるようになりたいと思った。

 

「今さっきの質問だけどさ」

「ん?」

 

 僕は必死に手繰り寄せた話題を、喉から吐き出す。

 

――自分も周りも、どうにもならないってわかってても……でも、どうしてもどうにかしたい時って、どうすればいいんだろうな

 

「い……ぅ……しょに……漫画描くよ。君の気が済むまで」

 

 また小さい「ょ」だ。エロえもんの前だとあまり気を使わないので、つい使ってしまう。

 

「……質問の答えになってなくないか?」

「あっ、はは。いや、えっと、なんの解決にもならないけど、気晴らしにはなるかなって」

 

 代わりにエロ画像もらおっかな、などと思い出したように付け足すと、ようやくエロえもんの顔に――笑みが戻った。

 

「そっか。そうだな。うん……君は、そういうやつだもんな」

 

 僕はその言葉を聞いて「お前、エーミールかよ」と思ったが、口元を緩ませるエロえもんを見て、それが皮肉ではないことに気づき、少しほっとしてしまう。

 

 雲が風に流されて空が戻ってくると、雨上がりの冷えた空気はあっという間に夏の様相を帯びていく。

 

「……晴れたな」

「うん」

 

 雲間から漏れていく漏斗状の陽ざしが、水滴をつけた雑草やクモの巣、僕らの肌を撫で、地上に残った雨を光の粒へと変える。僕の眼鏡に付いた水滴も、エロえもんの肩にかからないほどの短い髪も、その陽光でみるみるうちに乾いていく。

 

 空はすっかり開け放たれて、次第に強くなっていく夕日が雲の下でオレンジと灰色の濃淡を描いている。まだら模様の夕空の下、『夕焼け小焼け』のチャイムがどこか遠くで鳴り響いて。僕たちはその中で、少しぎこちなく会話を再開した。

 

 エロえもんの背中に、もう下着は見えなかった。

 道路を走る車の排気音も、夕日に染まる建物も、電線の上で会話するカラスの鳴き声も。すべてはゲリラ豪雨が降り出す前と同じで、世界は何もかもいつも通りに戻っているように思える。

 

 だから、気のせいにしておこうと思った。エロえもんの先ほど言葉が……どこか弱弱しく、震えているように感じたのは。

 



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第18話:水、炭素、アンモニア、石灰、リン、塩分、硝石、硫黄、フッ素、鉄、ケイ素、その他少量の15の元素、及びその個人の「遺伝子の情報」

 

 

 『ゲッツ!』、『残念!』、『ヒロシです……』、『すみこだよぉ~』、『どけどけ~、どけどけ~』、『んー! んー!』、『グ~』、『どーでもいーいですよ―』

 

 

 

 その夜、僕はリビングの低いテーブルの前に座りスイカをかじりながら、何年か前に地デジ化でブラウン管から買い替えた薄型テレビを見ていた。

 

 その画面の中では芸人さんが入れ替わり立ち代わりネタを披露し、台所前のダイニングテーブルで肘を付いてチ〇リーのタバコを吸っていたお父さんが時折「ぶっ」と吹き出していた。

 

「お父さん、煙草吸うならベランダに行くって、前言わなかった?」

 

 だが、そうしていると、台所で洗い物をしているお母さんから鋭い声が飛んだ。

 それを聞いたお父さんは嫌な顔をしつつも、「はい……」と灰皿を持ち、ソソクサと階段を上がっていく。最近は世の中は「分煙」なんてものがブームらしく、お父さんの会社でも室内にあった喫煙スペースがビル裏に移動になったようで「21世紀は厳しいなぁ……」とぼやいていた。

 

 もっとも、うちの分煙ルールはわりかしお母さんの機嫌に左右される。

 そして、その日の機嫌は冷蔵庫の開け閉めする音や調理器具の取り扱い方でなんとなくわかる。

 

 今日はどちかというと機嫌が悪い。おそらく昨日、お父さんの携帯に設定されている着メロが、お母さんだけダー〇ベイダー襲来のテーマになっていたことが発覚したからだろう。

 

『あなたと……合体したい……!』

 

 お父さんが二階のベランダを開ける音と同じタイミングで番組が終わり、パチンコのCMが入った。アニソンと共にロボットの映像が流れると、別にエッチな単語があるわけでもないのに僕はちょっと恥ずかしくなって「興味なんてございませんよ~」という顔をして、スイカにかぶりつく。

 

 そして、勢い余ってスイカの種を飲み込んでしまった。昔はよくやってたけど、久々にやっちゃったなぁと思う。たぶん消化しきれないで明日のうんこで出てくるだろう。

 

 そういえば小さい頃、僕はスイカの種を飲み込んでしまった時、胃の中で発芽して、やがて図書館で読んだ『ブラックジャック』の植物人間のように、体中からスイカの蔦が生えてきて死んでしまうんじゃないかと思った。若さゆえの過ち、というやつだ。

 

 確かその時も夏休みで、こっちの方に帰省中だった。僕は「どうしよう! ボク明日死んじゃう!」とじいちゃんに泣きついて、家族みんなに笑われた。あの時は、「死ぬ」ということがどういうことかわからなくて、ただひたすら不安で仕方なかったのだ。

 

 だけど……自分のためには泣いたくせに、じいちゃんが死んだ時、僕は泣かなかった。泣けなかった。

 

 告別式や葬式では、親戚の人ではあるけど知らない大人たちがみんな「久しぶり~」と笑っていたかと思えば、出棺の時に急に泣き出して、お昼ご飯で寿司を食べる時になったらケロっと忘れたようにまた談笑して――僕にはなんだかそれがすごくおかしく見えて、ちょっと不気味だったから。どういうテンションでいればいいのかよくわからなかったのだ。

 

 ただ……棺桶に入っているマネキンみたいなじいちゃんの顔だけが、記憶に残っていた。

 

 もうじいちゃんは、僕とこの世界にある不思議な事について話すことも、ドラえもんのビデオを一緒に観てくれることもない。

 もうじいちゃんはこの世にいないから。僕が死んだら、じいちゃんとのそういう思い出も、きっとこの世界から一緒に消えてしまう。僕には人が死ぬということがどういうことかわかっていなかった――今でもよくわかっていない――けど、それだけは、とても恐ろしいことのように思えた。

 

 その時の感情を思い出しながらスイカの種を口から皿に飛ばしていると、今まで考えてもみなかったことが頭によぎった。

 

 僕が死んだら……僕はどこにいくのだろう。

 

 科学的な観点からすると、脳みそが死ねば、眠ってる時と同じように何も考えられないし、気になる漫画の続きを読むことも、こうやってテレビを見ることもできないだろう。天国や地獄なんてものは宗教上の観念で、実在は誰も証明できていないし、生きている間はきっとわからないだろう。

 

 じゃあ、僕以外の世界はどうだろう?

 

 しばらくは周りの人たちが僕のことを覚えていてくれるかもしれなけど、家族や親戚の人、同級生がみんな死んだら、きっと僕がいた証拠ですら、この世界から消えてなくなってしまう。

 

 今思えば、直接的なきっかけは藤子先生の伝記だけど、僕が漫画を描き始めた一番のきっかけは、じいちゃんの葬式なのかもしれない。

 

 僕の気持ちや感じたことや思い出、好きなこと。

 それを残しておけば、きっと僕や僕を直接知っている人が消えた後も、僕は僕の漫画を読んだ誰かの中に、この世界の欠片として残り続ける。たぶんそういう思いが、心のどこかであったのかもしれない。

 

「こら。食べ終わったらお皿くらい下げなさい。もう六年生でしょ? 言われなきゃできない?」

 

 そうやって僕がぼっーとしていると、背後から声がかかった。お母さんだ。僕は「そんな言い方しなくてもいいじゃないか」と少しイラっとしながらも、表情からお母さんのイライラ指数を観測し、ここは大人しく従って風呂か自分の部屋へと即時撤退が吉と判断する。

 

「そういえば……お昼、お友達来てたみたいだけど」

 

 台所のシンクに皿を置いたと同時にかけられた声に思わず動きが止まる。夕方、家を出る前の玄関でパートから帰ってきたお母さんといつものメンバーがニアミスしたのだ。

 

 僕はどう答えるべきか少しだけ黙考し、結局「うん」と日本語会話講座初級レッスン1で習うような返事をする。

 

「あの体の大きな子って……幸田くん? この前喧嘩した。それに細川くんって親御さんPTA会長よね?」

 

 僕はそれに「そうだね」と少しレベルアップした日本語で答える。おめでとう、これでレッスン1は終了。道行く日本人に道を聞かれても、完璧に答えられるぜ。

 

 僕の完璧な日本語力に恐れを成したのか。

 お母さんは何も言わず「そう」とだけ言う。僕は今すぐこの場を立ち去りたかったが、お母さんが台所の出口を塞ぐように立っているので、どうすることもできない。手持ち無沙汰に冷蔵庫を物色し、食べたくもないヨーグルトをひとつ開けて、スプーンで口に運ぶ。

 さっきスイカ食べたばっかりなのにこんなに腸をゆるゆるにするものばっかり食べれば、明日はゲリ便ハイドロポンプ確実だな。

 

 お母さんは……たぶん僕が幸田と遊ぶことをこころよく思っていない。細川についても親御さんがPTAで属するグループが違うようで、あまりいい顔をしない。エロえもん曰く「そりゃあ、派閥ってやつだね」とのことだ。そういうのがあるのは国会だけだと思ってたけど、PTAでもあるらしい。

 

 PTAみたいな小さな集まりで、そんなもん作って面白いんだろうか。つくづく人間というのは争いが好きな生き物なのだ。3万年前ぐらいのアダムとイヴの時代に行って、神様に競争本能を取り除いてもらった方がいいんじゃないか。

 

「他に、仲のいい友達はいないの?」

「……」

 

 僕はその問いに対し黙秘権を行使する。

 あのできごと以来、クラスで会話をするやつくらいはできたけど、一緒に遊ぶくらいの関係性なのはあの三人くらいだ。まあ、これでも数か月前よりはマシになったのだから勘弁してもらいたいものである。

 

「何だお前? クラスで他に友達いないのか?」

 

 と思い取調室と化した台所から逃げようとした時、新たな刑事が二階から降りてきた。お父さんだった。なんじゃこりゃあ……多勢に無勢。僕はこれ以上の黙秘は不可能と判断した。

 

「いや……いるけど」

 

 まあ、嘘なんですけどね。

 もし仮に言ったとしたら、この場がどうなるかくらいわかる。さすがに僕だって、それくらい空気は読むさ。

 僕はそれ以上は何も言わずヨーグルト口にかき込む。「何か食べている時に喋るな」という教えをこの時ばかりと忠実に守っているのに、両親はどこか不満げだった。

 

「そういえば、あの女の子って○○さん?」

 

 もうそろそろ潮時だろと思いヨーグルトを食べ終わった瞬間、お母さんから追加の質問が飛んできた。ぬかった。ヨーグルト残しておけばよかった。

 

「親御さんお会いしたことないけど、かわいらしい子ね。もしかして……ガールフレンド?」

 

 圧迫感がにじみ出ていた先ほどとはうって変わった声の調子に――僕は、なぜかさっきより苛立ってしまった。

 僕からすれば、エロえもんはジャニーズ系っていうのか……かわいいより、かっこいいという顔立ちのように思えるけど、大人からすればそう見えるのかもしれない。

 

 でも、この人たちは……エロえもんのことを、僕らのことを、何も知らない。

 

 僕はエロえもんに対して、うまく言えないけど、一緒に漫画という夢を共有する仲間であり、ライバルのような感情を抱いていた。だから、色眼鏡でしか見ない大人の定義で僕らの関係性を決められたくなかったし、実際にそんなふうになるのも御免だった。

 

 僕は何も言わず両親の脇をすり抜け、そのまま少し不機嫌な態度のまま風呂場へと向かった。脱衣所のドアを閉め、洗面台のすぐ横にある洗濯機へ放り込む。

 

 眼鏡をはずした時、ぼんやりとした視界の端に入る肌色に、ふと目を留めた。洗面台の鏡に映る全裸の自分だ。幸田のようなスポーツマンのクラスメイトと違うヒョロヒョロの体に我ながら嫌気がさしながら、ちらりと股間の方を見る。周りはまだ生えていないのに、僕だけ異様にちん毛が大量で、プールの着替えの時、幸田にボボボーボ・ボーボボとからかわれるのだ。

 

 学習漫画シリーズの人体の不思議で見たけど……ちん毛というのは、赤ちゃんを作るために必要な金玉を守るためにあるらしい。金玉の中にはスイカの種と同じように子どもを作るための精子ってのがいるのだ。僕も昔、その目に見えない精子のうちの一匹だったのだ。

 

 そして、理科の授業で習ったようにセックスをすると精子と卵子がひとつになって、赤ちゃんができる……らしい。

 

 そう考えると、今、僕の金玉の中にいる彼らは、生きていると言えるのだろうか?

 生まれるまでの間、人は死んでいるのと同じなんだろうか?

 

 まえ『14才の母』というドラマでは中学生の女の子が妊娠してしまい、周りの人が激怒する場面があった。

 そういえば、ドラえもんには『人間製造機』というひみつどうぐがあって、しずちゃんに赤ちゃんを一緒に作ろうと言ったのび太はめちゃくちゃに殴られていた。

 ハガレンだと、エドたちの師匠が流産した子供を人体錬成で蘇らせようとしたら、失敗した挙句、対価として二度と子供が産めない体にされてしまった。

 

 これらの知識から推測するに……どうやら赤ちゃんというのは大人になってから、しかも、ちゃんとしたセックスで作った子供ではないと、ダメなものらしい。

 

 だけど、それがなぜダメなのかはわからない。

 子供がセックスをしちゃいけない理由も、「ちゃんとした」方法以外で子供を作るのが喜ばれないわけも。きっと大人たちは質問しても、「そんなことを子供は知らなくていい」、「とにかく悪いことだから」と頭ごなしに否定するだけだろう。

 

「悪いこと……」

 

 宿題でズルをする。友達が一人もいない。周りに合わせることができない。アニメとかゲームばっかり。真面目に勉強せずに漫画を描く。インターネットでエロ画像を見る。

 

 

 子供だけで――エロ漫画を買いに行く。

 

 

 大人から怒られることを並べてみたけれど、僕にはそのどれもが、そんなに悪いことだとは思えなかった。だって、無差別テロで民間人を傷つけたり、オレオレ詐欺で誰かをおとしめたり、ブラック企業が従業員を過労死させて殺したり……そういうのに比べれば、些細なことに思えたのだ。

 

 そんなことを考えていると、ふと雨宿りしていた時にチラリと見えたエロえもんの下着が脳裏をかすめた。

 半透明になった服が貼りついた肌色の肩。背中にうっすら見えるエロえもんの下着。それを思い出そうとすると体の下のほうがこそばゆくなり、ムズムズする。エロ画像を見た時と似ているけど、少し、違う。今までに感じたことのない不思議な感覚だ。

 

 そっか……今まで、あまり意識しないようにしてきたけど、あいつだって女子なのだ。

 あんまり目立たないけどおっぱいだって一応ついてるし……下には、ちんちんの代わりに別のものがあるのだ。

 

 だけど、さっきは親からエロえもんとの仲をそういうふうに言われたことに憤っていたのに、数分後の今、僕はこんなことを考えてしまっている。最低だ、僕って。

 そうやって勝手に自己嫌悪に陥り、しばらく鏡の前でボケっと突っ立っていると、突然、乱暴な音が背後でした。脱衣所の扉を開ける音だ。

 

「……汚ねえもん見せんな! ボケ!」

 

 姉ちゃんだった。

 

 振り向いた僕と目があった瞬間、容赦なくケツを蹴られ「40秒で風呂出な! あとが詰まってんだから!」と続けざまに無理難題を押し付けられる。

 いくら僕が烏の行水だとはいえ、40秒は無理があるだろう。ラピュタに行くわけでもあるまいし。しずちゃんなんて1日に3回も風呂に入ってるんだから、1日1回のバスタイムくらい好きにさせてほしいものである。

 

 僕はケツをさすりながら軽くため息をついて、風呂場へと緊急避難した。

 やれやれ。人が透けた下着とちんこの相関性という哲学的な思索に興じていたというのに。こいつが最近問題になっているドメスティックなバイオレンスってやつかい。すみやかに児童相談所に報告しなきゃ。

 

「あんたさ」

 

 と僕がストップ! 児童虐待的なフレーズを頭に浮かべていると、脱衣所との仕切りドア越しに姉ちゃんの声が聞こえてきた。なんだろう? また嫌味のひとつでも言われるのだろうか。もう両親だけで間に合ってるのに。

 

 

「あいつらと遊ぶの、楽しい?」

 

 

 と――思ったが、姉ちゃんからの質問は、予想外のものだった。

 僕はそれにどう答えていいかわからず、少し考える。

 

「……嫌いじゃない、と思う」

 

 そうやってやっとひねり出した答えに姉ちゃんは「ふーん」と一言だけ。まるで興味がなさそうな「ふーん」だったけど、「あのさ」といつもとは違う口調で話を続ける。

 

「……母さんと父さんの言う事、あんま気にしないでいいから。小学校の友達なんてそのうち付き合いなくなるし……好きなやつらと遊んどきな。あの人たち、価値観がバブル崩壊前で止まってる昭和人だから、私たちとは違う人種なんだよ」

 

 姉ちゃんの思いがけない言葉に、僕はボディソープを取る手を止めた。どう返していいかわかんなくて。でも、なぜかちょっとだけ泣きたくなって――

 

「姉ちゃんも……し……しょ、昭和生まれじゃなかったっけ?」

 

 と思わず上げ足をとってしまう。ついでに「あとバブル崩壊は確か平成に入ってからだったと思うけど」と付け加えると、仕切りドアをバンッと叩かれた。

 

「は? なんか言った? クソメガネ」

「なんでもないです」

「あんた、なんで学校の勉強はできないのにそういう妙なことは覚えてるのかなぁ」

 

 姉ちゃんはそう言うと、脱衣所のドアを勢いよく閉め立ち去ってしまう。僕はそれを聞いて安心したような、少し寂しいような気持になる。

 

 姉ちゃんは……まごうことなき女王様だけど、言ってることはだいたい筋が通っているし、時々ちょっとだけ優しい。だから、実はあんまり嫌いじゃなかった。

 

「……やれやれ」

 

 民衆から強烈な支持を得る独裁者ってのは、こういうふうに生み出されるものなのか。勉強になったぜ。僕は鼻をすすりながら、風呂桶にすくったお湯をいっきに頭からかぶった。

 



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第19話:僕らのサマーウォーズ

 

 

 

 次に四人全員が一日予定が空いたのは、その週の金曜日だった。

 例によって三丁目の空き地、『落書きは決してしないこと!』と注意書きの貼紙が貼ってある看板の前で僕らは待ち合わせ、その足で学校へと向かった。

 

 

 

 

 

「はい! 夏休みの自由研究で調べたいことがあって……どうしてもパソコン室が使いたいんです!」

 

 青空のもと、静かな夏休みの学校に細川のハツラツとした声が響いた。

 

 場所は本校舎から少し外れた所にある用務員宿舎の入口。少し離れたところには、僕らが入学した頃にはもう使われずオブジェと化していた小型焼却炉が、錆びだらけの体を鈍く光らせていた。(ダイオキシンが発生するとかなんとかで使用禁止になったらしい)。

 

 いつもと違い優等生然とした細川の立ち振る舞いに用務員のおじさん(というかおじいちゃんに近い年だが)は「あー! そうかい!」と威勢よく笑い、鍵を渡してくれた。

 なんというか、細川はこういう「大人に好かれる子供」を演じるのがうまい。背後でこっそり「たした名役者だぜ」と幸田がおかしそうに笑う。

 

「しかし、おじさんネットってよくわかんねえけど、最近の子は自由研究にパソコン使うのかい!? 将来は科学者かぁ? ええ? なに調べんだ!?」

「ハハハ……ちょっと科学の実験方法の確認を……」

 

 思ったよりグイグイ来るおじさんに細川が乾いた笑みを浮かべる。まあ、エロ漫画を読むというのはある意味生物学……つまりは、自然科学の勉強なので、嘘は言っていない。嘘は。「確認」するのがエロ漫画を入手する「方法」だなんてことは口が裂けても言えないが。

 

「そういりゃあ、孫が最近ケータイでネットのゲームしたいって言ってんだけどよぉ、ああいうのって大丈夫なのかねぇ!? 脳みそ壊れるんじゃねえのか!?」

「ハハハ……ちょっと僕ケータイ持ってなくて……」

 

 嘘だ。僕らの周りでは携帯電話を持っているのは高校生以上の人が多かったが、確か細川はクラスで唯一持っていたはずだ。もっともそれはネットが使えない電話機能のみのものだが。

 

 あと……少し気になったなんだけど、これくらいの年代の人たちって、なんで「ネット(⤵)」みたいな感じでちょっと語尾を下げるんだろう。僕らは「ネット(⤴)」と語尾を上げる発音なのに。

 

「じゃあ、僕らこれで……」

「おおっ! 頑張れ! 目指せよノーベル賞!」

 

 残念ながら期待には沿えそうにない。イグ・ノーベル賞も怪しいところだ。

 

 話が長くなりそうだったので折を見て細川が切り出すと、おじさんは豪快に笑い、「二時~四時の間は巡回と別の仕事あるから、鍵は勝手にこの中入って戻しとけ!」と指示した。

 

「なんか……巡回中とか、簡単に鍵盗めそうだな」

 

 幸田の呟きに僕も同意する。なんともフリーダムに自由を掴めって感じであるが、まあ、あまり干渉されずに放任してくれるのはこちらとしてもありがたい。

 

 僕らは普段より施錠されているドアが多い玄関扉から校舎内へと入り、あまり先生たちには会いたくないので職員室を遠回りするルートでパソコン室を目指す。人がいない夏休みの学校は静かで、まるで異世界みたいだ。音らしい音といえば、校庭で練習試合中のサッカークラブの掛け声くらいで、真昼間なのに小さい時に観た『学校の怪談』を思い出してちょっと怖い。

 

「なんだ日野? びびってんのかよ?」

「び、びびってないっすよ。僕をビビらせたら、たいしたもんっすよ」

 

 途中で幸田にからかわれ、思いっきりキョドってしまい、残り二人にも「しっかりしろよ」と笑われる。

 

 そうだ。今日の目的を考えれば、怖がってる場合じゃない。

 エロ漫画を入手するにあたって僕らが考えたのは、まずここら辺で最も大きい街である音成(おとなり)市に行くことだった。

 

 僕らが住んでいるこの街でも、エロ本が売っている店があることは噂で知っていたけれど、なんとなく知り合いに見つかったら気まずい。それに音成市であれば規模が大きい分、そういう店も多く、可能性が広がるだろうと考えたのだ。

 

 だが、音成市は――親の車で連れて行ってもらったことはたいていあるけれど、誰も一人で行ったことがないというのが実情だった。それに県の中心的な市ということもあり、ここと比べ規模も大きいので、闇雲にエロ漫画屋を探したところで無駄足になってしまうかもしれない……そこで事前に店の場所や安全に買う方法にリサーチをかけることにしたのだ。

 

 エロえもんの家でネットを使えれば一番良かったのだが、まだ無理だそうなので、仕方なく学校のパソコンを借りることになった。ちなみに本当は安全性の観点から、公民館と駅前に一店舗あるネットカフェという店も候補に上がったけど、その二つは小学生だけでは利用できず、結局理由を偽って学校のパソコン室を使う許可を得たのだ。

 

「でも、学校のパソコンもフィルタリングかかって見れないんじゃないかな?」

「それに関しては……まあ、試行錯誤してみるしかないな」

 

 パソコン室のドアに鍵を差し込むと、ムアッとした空気と熱気が一気に肌を滑り、僕らは「うへぇ」となる。細川が思わずバックからペットボトルのジュースを取り出し、口に含んだ。

 

「おい! パソコン室でジュース飲んでじゃねえよ、ハゲ! こぼしたらどうすんだ!」

「ま、まだハゲてないよ~。てか、いきなり叩くなよ。本当にこぼしちゃうだろ」

 

 それを見た幸田が細川の後頭部をはたき、「何やってんだ」と僕とエロえもんは呆れた目を向けながら窓際へと移動する。

 

 ずらりと並んだ筐体とブラウン管テレビみたいなディスプレイのうち一つに座り、前の窓を開ける。相変わらず蒸し暑いが、入ってくる風と幸田が部屋の隅に置いてあった扇風機を見つけ、それも合わせるとずいぶんマシになった。

 

「よし……やるぜぇ~、やるぜぇ~、超やるぜぇ~」

 

 エロえもんが威圧感のあるモニターの前に座り、気合を入れながら電源を押す。

 僕らは適当にキャスター付きの椅子を持ってきて、ゲームセンターで格ゲーの対戦を観戦するように後ろからそれを見守る。

 

 まずはエロえもんがネットでエロ漫画を買う方法を検索し、ヒントになりそうなサイトを見つけたらクリック。もしフィルターに引っ掛かったら、以前家でやってみたいくつかの方法を試してみる。もしそのうちのひとつでも成功すれば、後は四人フル稼働で調査していくという段取りだ。

 

「……クソ遅いな、こいつ」

 

 ――のはずなのだが、パソコン素人の僕らから見ても古い学校のパソコンは、父親のお下がりだと言っていたエロえもんのノートPCを下回る起動スピードの遅さで、僕らは出足をくじかれた気分だった。

 

「六十度の角度で叩いてみたら? ブラウン管テレビはそれで直るけど」

 

 僕がドラえもんで覚えた豆知識を冗談交じりに告げると「そんなことしたら壊れちゃうだろ!」とわりとマジでエロえもんに怒られた。それを見て細川に「君、冗談も馬鹿っぽいなぁ」と苦笑される。

 

 やれやれ。こんなブラウン管の前でそんな評価されたくないぜ。

 

 しばらくして画面に『Windows 98』と出たが、また暗転し、その2分後くらいにブルーになるとようやく起動音が鳴った。

 

 だけど、その後も解像度が低い画面の端にちょっとうるさいイルカが出てきたり、やたらとカクカク動くアプリケーションがいっぱい出てきて時間がかかったりと、エロえもん家のパソコンに慣れてることもあり、かなりじれったくなってしまう。

 

「だいたい、こんなに余計なアプリケーション詰め込む必要ないのに。日本のメーカーって必要ないものまで入れようとするからなぁ」

 

 よくわからないけど、そういうのっていっぱいあった方がいいんじゃないの? とエロえもんに聞くと「ユーザーが使うのであればな」と返ってくる。

 

「必要のないもの載せて、それがバックグラウンドで動いてたりするとその分にリソース――処理する能力が割かれて、動きが遅くなっちゃうんだよ……クラウドとかが普及すれば、あんまりアプリケーションを入れないのが主流になるかもしれないけど」

「クラウド?」

 

 なんだそりゃ? 自称元クラス1stのソルジャーか?

 

 解読不能の言語にポカンと半口を開ける僕らにエロえもんは、グーグルという会社の偉い人が提唱した――ネットを通じて必要なソフトとかサービスの機能を使いたい時だけ使えるようにする、という考え方だと教えてくれた。まあ、結局よくわからなかったのだけど。

 

「しっかし、こいつエロえもんのパソコンとえらい違いだぜ。こんなに図体でかいのによ」

 

 幸田がモニター横の筐体に手を当ててぶつくさ言うと、エロえもんが電話線の確認をしながら苦笑する。

 

「ムーアの法則っていうのがあるんだよ」

「ムーア?」

「コンピューターの性能は1.5年ごとに倍になって、2020年くらいまでシスーカンスー的にどんどん上がっていくっていう話。だから、後になればなるほど数年前のパソコンとは性能に差が出てくるんだ」

「へえ~」

 

 じゃあ、僕らが大人になる頃には小学生も一人一台携帯型のパソコンを持って、自分のネットナビでバトルしてるのかもしれない。

 

「『電脳コイル』でやってみたいに着脱式のウェアラブルカメラを使って、ゲームとかもできるかもしれないな。そこらへんの公園背景にポケモンバトルとか」

 

 エロえもんの言葉に僕ら、特にゲームクリエイター志望の細川は興奮した様子で「すげー!」と叫ぶ。しかし……小学生っていうのは本当にバトルが好きだな。まあ、僕もそうだけど。

 

 そんな会話をしながらもエロえもんは手際よく作業を進め、市外局番からアクセスポイントを選択する。

 

 

 ピポパピー、ヒー、ヒョロロロピーガガガ、ザアァァァーーー

 

 

 例によってあの音が流れ、『ダイヤルアップ中。電話をかけています。しばらくお待ちください』と灰色の枠内に案内が表示される。

 

「来たな……!」

「ああ」

 

 幸田が鼻息を荒げ、エロえもんもそれに頷く。

 無事接続が完了し、それからたっぷり3分ほどかけ、目の前には見慣れた検索エンジンの真っ白な画面が現れた。僕らは、「エロ本を安全に買う方法」と「音成市にあるエロ漫画屋を探す」という二つの目的のうち、まず前者から始めることにする。

 

「いざ!」

 

 とエロえもんが意気込み、とりあえず「小学生 エロ本 買う 方法」とキーボードをクラッシュするような勢いで打ち込み、最後の仕上げと言わんばかりにッターン! とエンターキーを押した。

 

 ……のだが、またしても画面に現れるのは、カーソルが変化した砂時計のマーク。画面は固まるばかりで、数分たっても変化ゼロ。先ほどからどうも僕らのやる気とパソコンが反応してくれる速度が比例しない。

 

「ったく、エロえもんちのパソコンと比べて遅すぎるだろ。本当に同じ日本かよ」

「まあ、使えるパソコンあるだけマシじゃない。島根だったらパソコンないしな」

 

 そりゃあ、島根に対する名誉棄損ってやつだろ。島根になんの恨みがあるんだよ。

 などとエロえもんが腕を組み画面をにらんでいる間、戦力になれない僕らは後ろで無駄話を展開する。

 

「あっ」

 

 そうしているとようやくページが切り替わり、画面には検索結果が表示される。先ほどまで井戸端ならぬパソコン前会議に興じていた僕ら三人は、エロえもんの横や後ろからディスプレイをのぞき込む。

 検索結果の上の方に出てきたのは、有名な質問サイト。ネット上ではよく目にするのでわりと知っているサービスだ。

 

「しかし……」

 

 このコンテンツ内だけでも、すごい量の質問である。

 日本全国には、こんなにネットを使えるスケベな小学生がいるのか。やれやれ。この国の未来はどうなっちまうんだ。大人たちはカラオケで『LOVEマシーン』歌ってる場合じゃないだろ。

 

 と僕が自分のことを棚に上げ、変態大国日本の将来を案じているとエロえもんが「まあ、一応覗いてみるか」とあまり期待してなさそうな声で一番上にある『小学四年生です。エ〇本こっそり買う方法ありますか?』という質問をクリックする。

 

「し……っ……しょ、小学四年生……」

「どんだけエッチな環境にいるんだ、こいつ……」

「エロの英才教育でも受けてんのか……」

 

 フィルタリングに引っ掛からないか不安になりながらも、僕らは自分たちより年下のスケベエリートに恐れを抱き、再度ページが切り替わるのを待つ。

 

「よし。いったぞ」

「「「おおっ!」」」

 

 やがて、何事もなくページを読み込みはじめ、エロえもんの言葉に僕らは感嘆の声をあげた。

 しかし――

 

「……うーん」

 

 出てきた回答は、『大人にならなければ買えません。下らない質問はやめてください』といった真っ当だが冷酷な反応や『親に相談すれば?』という無理に決まってんだろ言いたくなる答え、『条例って知ってる?』という直接的な回答になってないもの、『自販機探せ』、『祭りの射的』といった知ってたけど、自分たちの地域じゃ無理と結論が出たものばっかりだ。他の質問も覗いてみたが、どれも似たような感じだった。

 

「他のところいくか」

 

 エロえもんが一度ページを戻り検索結果を下へとスクロールしていくと、同じような『女子小学生だけど、エロ本買う方法ありますか?』というタイトルで質問しているサイトがあり、そこをクリックする。

 

「くそっ!」

「ついに出たな……」

 

 しかし、その数秒後僕がうめき、細川が息を呑む。『このページへのアクセスを制限しました』と地球儀にバッテンマークがついた絵と共に警告文が表示されたのだ。本日最大の敵になるであろうフィルタリング画面の登場だった。

 

「頼むぜ、エロえもん!」

「任されよ!」

 

 幸田の激励にエロえもんが顔つきを変える。

 エロえもんは一度ブラウザからデスクトップ画面に戻ると、事前に調べてきたらしい方法を次々に試していく。

 

 

一つ目、ブラウザ設定のプロキシサーバーやらIPアドレスやらポートやらを変更し、ブラウザ再起動

→ネット自体に接続できなくなってしまったので、ダメ。

 

二つ目、URLの変換サイトを使う

→サイト自体ブロックされるので、ムリ。

 

三つ目、タスクマネージャーからフィルターソフトを選択し、プロセスの終了

→「権限がない」というメッセージが出てアウト。

 

四ツ目、コントロールパネルからフィルターソフトのアンインストール

→以下同文。

 

 

「なんか……」

「もう……」

「ダメかもな……」

 

 その他にも色々と手を尽くしてみたものの、どれも上手くいかず僕らの間には敗戦ムードが広がっていく。エロえもんだけは「まだだ! まだ終わらん!」とキーボードを叩き続けたが、やがて万策尽きたのか急に動きを止め、ガクリと頭を垂れた――

 

「フヒー、ヒヒヒヒ、こうなりゃWindowsのOSごと消去してやる……!」

 

 のだが、マウスを持ちながら、まるで(マウス)を見た時のドラえもんみたいに発狂し始めたので、言葉の意味はよくわからないが、「それはまずいんじゃないの?」とみんなでなだめた。

 

「他に手は? もう本当に残ってないの?」

「あと一つだけは……あるけど。可能性は、あんまり……家のやつは弾かれたし……」

 

 僕が冷静になってもらおうと尋ねると、すっかり自信喪失した様子で応える。それに幸田が「諦めたらそこで終了だろうが!」とげきを飛ばす。

 

 それを聞いて、エロえもんは「まあ、ここまで来たらダメもとか……」とその最後のひとつである――翻訳サイトの『ウェブページ翻訳』機能を使って、先ほどブロックされた『女子小学生だけど、エロ本買う方法ありますか?』というページに入ってみる。

 

 

 

「えっ?」

 

 

 

 数分後――僕らは目を見開いた。

 

 

 

「これって……まさか……!」

 

 あっさりとディスプレイに映し出されたのは、これまで出たことのないページ。

 

 そこは、この数時間で親の顔より見たほどの付き合いとなった警告画面の欠片もない――今までブロックされていたWEBページだった。

 

 

 



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第20話:東京アンダーグラウンドにようこそ!

 

 

 

「「「「うおおおおおおーーーーーー!!!!」」」」

 

 

 

 僕らは勝ちどきを上げた。

 

 正直言うと、エロえもん以外はほぼ何もしてないのだが、上げずにはいられなかった。さながら、ロケット打上げ成功時の管制室と化した蒸し暑いパソコン室の中でひとしきり興奮を分かち合った後、「早く見ようぜ!」と再び画面に戻っていく。

 

「……なんだこれ?」

 

 しかし、そこに映っていたのは、最初に見た質問サービスより殺風景な灰色の画面だった。左端には上から順に数字が並び、その横には『最果ての名無し』と同じ名前と今日の日付、数時間前の時刻、IDというアルファベットの羅列が並んでいる。

 

 

 

「これ……2ちゃんってやつじゃね?」

 

 

 

 それを見ていた細川が少し不安そうにつぶやき、エロえもんが「だな」と頷く。僕は思わぬ単語に驚き「アクセスして大丈夫なのかな……?」とうろたえた。

 

 インターネットやPCについて、0と1の組み合わせで動いていることしか知らない(デジモンの進化シーン参照)くらい音痴の僕でも、『2ちゃんねる』を含む――いわゆるネット掲示板と呼ばれるものが存在することは知っていた。

 

 以前、エロえもんから、『ジョン・タイター』という2036年から来たタイムトラベラーを自称する人が、アメリカの掲示板に書き込んでいった予言をまとめたサイトを見せてもらったことがあった。

 2ちゃんねるも少し前『電車男』というドラマがあり、お父さんがそれを笑いながら観て「こいつお前に似てるけど、こんな大人になるんじゃないぞ」と僕に言っていたので、良くも悪くも印象に残っていたのだ。

 

 ドラマの中で掲示板を使っていたのは、『キタ―――(゜∀゜)―――!!!』とか叫ぶ大人になってもアニメや漫画、ゲーム、プラモなんかが大好きな――いわゆるオタクの人たちが多かった。本来のオタクって、もっと広い意味で使われる言葉らしいけど、少なくとも僕の周囲はそういう人を指す蔑称のような感じで使われていたのだ(僕は、大人になってもそういうのが好きでいちゃいけないのがなんでかわからなかったけど)。

 

 ただ、バスジャックの犯行予告や個人情報が特定されて晒される事件もあったりしたので、テレビや新聞では「犯罪の温床」、「嘘の情報しか載っていない」と攻撃されてたり、学校でもそういう掲示板は絶対に使ってはいけませんと教えられていた。

 

「ああいうのって、オタクのひと以外誰か使ってんのかな?」

 

 と僕が聞くと、細川が「そりゃあ、あれだね。都心のIT企業とかに勤めてるネットのプロみたいな人じゃね?」と一泊の間を開け、なんとも曖昧な返事を寄越してくる。

 

 まあ、とにもかくにも、ネット掲示板に関しては、そんな「ウェルカムトゥ東京アンダーグラウンドなヤバイやつらの集会所みたいなもん」という認識を持っていた僕らだが、もう入ってしまったもんは仕方ないと腹をくくり、その掲示板を読んでみることにした。

 

 

 

 

 

女子小学生だけど、エロ本買う方法ありますか?

 

 

1:最果ての名無し 200×/8/×(金) 10:56:21 ID:2NbStxiQe

だれか教えてください。おねがいします。

 

2:最果ての名無し 200×/8/×(金) 10:56:39 ID:QfnIc4K3i

糞スレ立てんな 氏ね

 

3:最果ての名無し 200×/8/×(金) 10:56:51 ID:dPskIK1ey

こんな時間から消防の振りしてスレ立てとかWWW

 

4:最果ての名無し 200×/8/×(金) 10:56:57 ID:1Fyk4ZCRg

エロゲばっかしてないでちゃんとハロワ行けよ おっさん

 

5:最果ての名無し 200×/8/×(金) 10:56:59 ID:I57BIU44g

釣りスレ乙 逝ってよし

 

6:最果ての名無し 200×/8/×(金) 10:57:12 ID:DNJttlg9O

ググれカス

 

7:最果ての名無し 200×/8/×(金) 10:57:18 ID:fMnwz6lSe

名前のとこにfusianasanって入力してみ? エロ画像見放題のサイトに行けるから

 

8:最果ての名無し 200×/8/×(金) 10:57:18 ID:F6yDSVfSL

おうちや学校の住所はわかるかな? 買えるとこ教えてあげるよ

 

9:最果ての名無し 200×/8/×(金) 10:57:29 ID:2NbStxiQe

>>8

ごめんなさい。わかんないんですっ(><)

 

10:最果ての名無し 200×/8/×(金) 10:57:37 ID:DNJttlg9O

詳細キボンヌ   (;´Д`)ハァハァ

 

 

 

 

 

「……」

 

 やっとのことで入れたそのページを、僕らは呆れ半分の目でジトーと見ていた。

 

 さらにスクロールしていくと、最初の話題は脱線していき、最後には猫みたいなキャラクターの絵と『ちんこもみもみ もーみもみ』という小学生みたいな言葉が書かれているところでページは終わっていた。

 

「ネットは広大だぜ……」

 

 幸田がなんだか逆に感心したようにつぶやいていたが、僕も同感だった。

 

「この線はダメそうだな」

 

 ぶっきらぼうなエロえもんの言葉に他の三人も頷く。

 

 リスクはあるが仕方ない。僕らは「エロ本を安全に買う方法」と「音成市にあるエロ漫画屋を探す」という二つの目的のうち前者を破棄し、多少の危険を冒しても手に入れる方向へと舵を切った。なるほど、これがリスクヘッジってやつだな。

 

「思ったよりも時間かかるし、君らも各自パソコンで調べてくれ。もしフィルタリングでブロックされたら、さっきの方法でいけるはずだから。わからないことがあれば、私に声をかけてくれ」

 

 エロえもんの提案に今まで見ていた僕ら三人も「おう」とそれぞれ周囲のパソコンに散り、夏休みの宿題をする時の十倍以上は集中してリサーチを開始した。

 

 僕も含めて全員気合が入っていて、必要な情報交換以外は無駄なおしゃべりもしなかった。ひたすらカチカチ、カタカタとパソコンを操作する音とくぐもった稼働音が響き、宿題や塾のことも普段の学校や家での息苦しさも――何も考えずに、動作が遅いパソコンに向き合っていた。

 

 考えていることはエロ漫画を買う店を探すことだけだった。

 

 そうすること、約30分ほど。エロえもんが有力な情報を手にした。音成市の中心街から少し外れた場所にそれらしき店があることを特定したのだ。

 

「いい感じの店じゃねえか」

 

 その一言に尽きる。幸田の言う通り、店舗の大きさもそれなりにあって、中心街から少し外れてるから補導の危険性も少なそうだし、完全なエロ漫画屋というわけでもないっぽいから僕らでも店内を様子見することもできる。

 

 まさに僕らのために用意されたようなエロ漫画屋――その名は、『みんなのジパング ガンダーラ 音成店』だ。

 

「で、どうする?」

 

 エロえもんが地図サイトにその住所を打ち込み、十五分ほどかけて印刷した紙をひらひらさせながら僕らに問う。

 

「エロ漫画の相場がわかんねえから、なるべくお金は使いたくないよな」

「となると、移動は……自転車か」

「みんな持ってる?」

 

 細川の提案を僕が拾うと、全員問題ないようで首肯する。

 

「でも、音成市だぜ? 本当にたどりつけるかな?」

「大丈夫だよ。どんな道のりや乗り物を選んでも、方角さえ正しければ」

 

 細川の弱気な声にすっかりいつもの調子を取り戻したエロえもんが得意気に言う。

 おいおい、そんなセワシ理論で大丈夫か? と僕は聞きたくなったけど、エロえもんは「大丈夫だ、問題ない」と自信たっぷりだ。

 

「よし! 決まりだな! あとは日時だが……今週末はどうだ?」

 

 と幸田が聞くが、

 

「僕は明日夏期講習が……」と細川。

「僕はじいちゃんの法事と親戚の集まりが」と僕。

「あー……すまんが、今週末はちょっとな。来週はどうだ?」とエロえもん。

 

「あー、来週お袋いない日多いし、親父も店だから妹と犬の面倒みなくちゃいけねえんだよ。水曜日か木曜日ならいいんだけどよ」

 

 それを聞いたエロえもんは善は急げとばかりに一番近い「じゃあ。水曜は?」と僕と細川に聞く。僕は幸いなこと(?)に塾以外の予定はこの夏休み真っ白なのでいつでも問題ない。

 

「僕はだいじ……問題ないけど」と僕。

「僕は夏期講習が……」と細川。

 

「じゃあ、木曜日は?」

「僕は問題ないけど」と僕。

「僕は夏期講習が……」と細川。

 

「またかよ! いい加減にしろ!」

「そ、そんなこと言われても~」

 

 幸田に詰め寄られ、細川は泣きそうな顔で僕とエロえもんを交互に見て助け舟を求めるので、「まあまあ」と二人がかりで胸ぐらを掴む腕をほどく。

 

「仕方ないなー……塾はさぼるよ。家を出た後、携帯で体調不良だって電話かける」

 

 幸田の腕から解放された細川はまるで僕みたいなやれやれといったため息をついた後、苦笑いをこぼした。

 

「本当にいいの? 細川?」

「……僕だって、そういう気分の時もあるよ」

 

 僕の問いに細川は微笑んだ。幸田はそれを見て「……悪かったな」と謝ったけど、「別に。いっぺんさぼってみたかったしさ」と吹っ切れたように言い放った。どこかすっきりとした笑顔だった。

 

「よし。じゃあ、大人たちには言うなよ? 言ったら絶交だからな!」

「ああ、このチームドスケベに参加したからには、選択肢は二つ……! エロ漫画を手に入れて生きるか! エロ漫画を手に入れずに死ぬかだ!」

「エロ漫画を買うのってそんな命がけなの?」

「どうせまた変なアニメでも見たんでしょ」

 

 幸田の宣言にエロえもんがまた妙なことを言い出し、それに僕と細川がツッコミを入れつつも、先日僕の家でやったように再度奮起を誓う。

 

 そんな中で、僕はエロえもんが手に持っている地図に記されているその名前――僕らが木曜日に冒険へと向かう『みんなのジパング ガンダーラ音成店』に、そこで待っているであろうエロ漫画たちに想いを馳せる。

 

 

――エロマンガ島

 

 

 頭の中を過ぎったのは、やはりあの言葉。

 

 大変恐れ多いというか、めちゃくちゃ失礼というか、こんなこと言ったらご本人は激怒されるかもしれないけど……藤子先生にとって、『新宝島』がそうであったように。

 

 

 この時――確かに僕らにとっては、『みんなのジパング ガンダーラ』が、まだ見ぬエロ漫画という財宝が眠る夢の島だったのだ。

 

 




作中に出てくるちんこ音頭の歌詞に関しては、作曲・作詞の方が個人的権利を放棄されているとのことでしたので、特に申請などなく使わせていただいております。

参考URL
https://www.chinko-ondo.org/outline/right.html


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第5巻 シャイニング夏休み
第21話:Wild Flowers


 夏休みに早起きなどここ数年したことなかったのに――その日は不思議と早く目が覚めた。7時にセットしたはずの目覚まし時計は午前6時15分を指していた。

 

 このまま二度寝しようとタオルケットを抱き枕代わりにして瞼を閉じたけど、これまた不思議と目が冴えていつまでたっても眠気が訪れない。僕は仕方なく枕元に置いた眼鏡をかけてベッドから置き上がり、のろのろとカーテンを開けた。

 

「うわっ……」

 

 差し込んできた淡い明かりに、思わず目を細める。

 

 少し霧がかかった地面に白みがかった空から万遍なく朝日が振りまかれ、朝露に濡れた草の葉がきらきらと光を帯びている。

 窓を開けると、ノースリーブの寝巻で露出した肩にぶるりとくる冷たい空気が肌を滑り、どこかでヒグラシと鶏が鳴く音が聞こえる以外は、ただただ静かで。そんな霞みに沈む夏の早朝が、僕の前に広がっていた。

 

「……あれ? どうしたの?」

 

 リビングに向かうと、台所に立っているお母さんが僕を見て目を丸くした。少なくともこの夏休みこんな時間に起きた記憶はないので、よほど珍しい光景だったのだろう。脱衣所の洗面台で「オェーーー!!!」とゲロを吐き出す鳥みたいにえずいていたお父さんも、こちらに来ると「あれ? なんだお前?」とダイニングテーブルに座っている僕に目を見張った。

 

「出かけるから。その、自由研……き……きゅ、究でち……少し遅くなるかも」

「あら? そうなの」

 

 あまり余計な詮索はされたくないので短く最低限の情報だけ告げた。

 

 だけど、早起きに機嫌をよくしたのか。お母さんはそれ以上何も追及せず朝食の準備を進めている。お父さんも「どこ行く?」とも「何時に帰る?」とも聞かず、新聞を広げながら朝のニュースを見るという器用な行為に勤しんでいる。僕はそれを見て、ふと思った疑問を口にした。

 

「二人とも……いつもこんな早い時間に起きてるの?」

 

 それを聞いた両親は一瞬顔を合わせた後、僕の方を見て微笑む。

 

「お前くらいの年だとまだわかんないかもしれないけど、大人になるとさ、だんだん早起きになるんだよ」

「子供の時と比べて、寝る時間も少なくなるの」

「ふーん」

 

 両親の答えにあまり興味がなさそうに返事をする。それを聞いてお母さんはクスリと笑い「出かけるんなら、お父さんと一緒に朝食食べちゃいなさい」と言われ、僕は頷く。

 

 外から近くの公園でやっているラジオ体操の声が聞こえる頃。出てきた朝食は、ご飯と納豆と昨日の昼飯の残りのソーメンという絶望的に合わない組み合わせだ。それにいくらソーメンが「夏向きのすずしい料理だよ!」と言われても、3日連続で出されちゃ気が滅入る。

 

 だけど、僕は、何も言わずにソーメンをすすり、ご飯を納豆にかけて頬張った。

 エロえもんや幸田の家のことを知ってるから、作ってもらった料理にケチをつけるのが少し気が引けたというのもある。

 

 それに……お母さんも、お父さんも――堅苦しいし、時代遅れだし、僕の気持ちなんて全然わかってないけど、いつもこんなに朝早く起きてご飯を作って、仕事に出かけている。それは、すごいことだと、ちょっと思ったからだ。

 

 

 

 

 

 7時過ぎ頃に朝食を食べ終えた僕は、8時の集合時間には少し早かったけど、どこかはやる気持ちが抑えきれずにそのまま準備をして、集合場所であるいつもの空き地に向かった。

 

 蝉はもう元気でせっせと鳴き始めて、昇ったばかりの太陽は早朝に満ちていた冷たい空気を暖めている。それでも真昼よりはまだマシだが、自転車のペダルを漕いでいるとうっすらと額に汗がにじみ出てくる。

 

「あれ?」

 

 そうして、到着したのは集合時間の30分前。早く着きすぎたなと思ったけど、自転車を押しながら上げた帽子のつばの先には、見慣れた人影が立っている。

 

「よお」

 

 そこにいたのは、自分と同じようにキャップを被り、背中にはスポーツバックを背負ったいつもの三人だった。

 

「みんな早くない?」

「なんかパッと目が覚めちまってさ」

「私も」

「僕も」

 

 幸田の言葉に僕らは互いに顔を見合わせ苦笑いする。

 なんだ、みんな同じだったのか。

 

「よっしゃ! では、これよりチームドスケベ第1回エロ漫画入手遠征を――」

 

 と幸田が朝の大気を震わすジャイアンリサイタル並みの大声で、今日の宣戦を叫ぼうとした時だ。

 

「あー、にいちゃん! なにしてんのー!? きょう、ママゴトするっていったじゃん!」

 

 その間に割って入るかのように無邪気な声が聞こえた。

 僕らがビクリとして声の方を振り向くと、そこにいたのは幼稚園児くらいの女の子。周りには同じ年頃の男女が何人かたむろしている。「あれ幸田の妹じゃね?」と細川が声の主を指すと、幸田は顔を真っ赤にした。

 

「うるせぇな! さっさと消えろ、チビども!」

「あー、きえろとかいっちゃいけないんだー!」

「くそっ、無視して行こうぜ」

 

 そのままだとついてきそうな勢いだったので、僕らは各自持ってきた自転車に飛び乗り、ペダルを力いっぱい踏み込む。

 

「あーーー! ずるーーーい!」

「マテーーー! ルパン!!!」

 

 僕らの後をチビッ子たちが全速力で追いかけてくるが、彼らは……エロ漫画を買いに行くという過酷な戦場に連れていくにはまだ早すぎる。

 

「悪いね、ボクたち! この自転車一人用なんだ!」

 

 生ぬるい風を切って走る中、必死に追いすがるチビッ子軍団の方を振り向いて細川が笑った。たいていの自転車は一人用だろと思いつつ、体力に自信がない僕は余計なツッコミを入れず、ただ全力でペダルを回し続ける。

 

 

「走れ……ママチャリ……! 俺と一緒に走れぇぇぇぇっ!!!!」

 

 

 隣では体力の配分をまるで考えていない幸田が叫びながら、他の三人の前に躍り出る。

 こうして僕らの絶対に負けられない戦いは、少々慌ただしく始まったのだ。

 

 

 

 

 

「あちぃ……」

「死ぬ、マジで死ぬ……」

「……」

 

 

 結論から言おう。

 

 空き地を出発してから約30分後。僕らは今にもへばりそうになりながら、なんとか自転車を前進させている状態だった。最初のスピードはどこへやらである。

 

「おい……弱音を吐くな……」

 

 ぐったりとした男子三人を尻目に先頭を走るエロえもんは、肩で息をしつつまだ前を見え据えている。スケベなことになると人が変わるのはいつものことだが、今日の気合の入り方には鬼気迫る勢いがある。

 しかし、そんなエロえもんとは対照的に僕らは「次スーパーかコンビニ見つけたら入ろうぜ」と早くもダレたムードだった。

 

 僕らは今、すっかりお馴染みの夏日和を取り戻した太陽の下、音成市へと続く国道をひた走っていた。

 まっすぐに伸びるコンクリートの道は、容赦なく僕らの肌を刺す日差しを照り返し、さながら地面に黒い太陽があるようだ。これから夏にツーリングやサイクリングに出かけようと思っている人には、「君さぁ、コンクリートロードはやめたほうがいいと思うぜ」とアドバイスを送りたい。ちょっと嫌なやつっぽく言うのがミソである。

 

 県道沿いの道は、最近ぐっと増えた全国規模のコンビニやファミレスなどの飲食店、あとは車のディーラー、ドラッグストアにガソリンスタンド、パチンコ屋、レンタルチェーンと変わり映えのしない景色が続き、僕らはさっそく道程に飽き飽きしていた。

 

 だけど――

 

「おっ」

 

 炎天下の中しばらく走ると、ほんのり涼しい湿り気を帯びた涼風が前方から吹いてきた。

 目の前に大きな橋が見えた。僕らの街と隣町を隔てている川にかけられたもので、大人と車で音成市へ向かう際によく使っている見覚えのある橋だった。

 

「ここを渡ればあとちょっとだぞ!」

「おぉ! ……どれくらい?」

「10分の9くらいだな」

「……」

 

 エロえもんの掛け声に思わず喜びそうになったが、ここまででも1割という衝撃の事実に絶望する。

 

「まあ……少しずつでも進んでるってことだよ」

 

 河原を吹く風に流されていくエロえもんの激励に促され、僕らは『4.5m 頭上注意』という注意標識がある入口へと入っていく。

 橋の横にある歩道は狭く、しばらく1列縦隊を維持。まるで大きなジャングルジムみたいな鉄骨の網の中を通り抜ける。時折、車を運転してる人から物珍しそうな視線を投げかけられ、ちょっと気まずくて足元に目を落とした。

 

 橋を抜けた後は、また同じような退屈な景色が続いた。

 

 だけど、橋という区切りのポイントを見たことで、確かに進んでいるという実感を得られたのが大きかった。数分後に見つけたコンビニに駆け込んで休憩した後(節約のため水筒を用意していたので、飲み物は買わなかった。すんません)、体力と共に僕らのやる気も劇的な回復をみせていた。

 

 いくつかの錆びたバス停を抜け、歩道橋を潜り抜け、乾涸びたミミズの屍を超えていき、灼けたアスファルトから立ち上る陽炎の先へと向かう。メガネはダラダラと流れる汗で曇り、シャツやズボン、帽子と身に着けている全部のものが汗にびっしょり濡れても、風であまり気持ち悪さは感じない。

 

 肺に入る空気は熱く、粘着質で、息が詰まりそうになるけど、ちょっと楽しい。みんなも似たような気持のようで細川なんかは調子に乗って立ちこぎしたり、幸田は『Runner』や小さい頃流行ったサクラ大戦の有名なサビ部分の替え歌を永遠とリピートしている。

 

 僕が顎にしたたる滝のような汗をぬぐい顔を上げると、濃い絵具をこぼしたような抜ける青空が見えた。そのブルーを背景に飛行機が突っ切っていく。少し遠くにある空を震わす轟音が聞こえる気がした。

 

 役所前を抜けると徐々に民家やアパート、工場が増え始め、だんだんと道の勾配がきつくなってきた。まず最初に僕が「もう無理だ……」と音をあげて自転車から降り、それを見て細川が「情けないなぁ」と言いつつ数秒後に自転車を止める。

 すると、なし崩し的に残りの二人も降りて、果てしなく続くように思える坂道を自転車を押して進む。

 

 坂道を上りきると息も絶え絶えに自転車に飛び乗り、「ひゃっはーーーー!!!!」、「これが俺の自動運転や!!!」、「日本の自転車は世界一チイイイ!!」と思い思いに絶叫し、ひとりでに自転車が進んでくれる下り坂を満喫。これまでの汗を吹き飛ばす風が髪を後ろへ撫でる。

 

 そのまま速度を保ちながら駆け抜けて、線路の高架下にあるトンネルへと入っていく。暗い道を突き進む。陽光が差し込む出口の先には、どこまでも高い青空が広がっていた。光の窓のようなトンネルの出口を抜けると、強烈な陽光が僕らの目をさしてクラクラする。

 

「あー、目がぁー、目がぁー」

「おい! どこに行こうとしてんだ!?」

 

 僕がフラフラとしていると、エロえもんが「しっかりしろよ」と歩道側に引き戻してくれた。

 

 



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第22話:夏に食うラーメンはどう作ってもうまいのだ

 

 

「あれ……」

「学校だな」

 

 そうして、道程を進めること1時間ほど。

 

 車道を挟んだ僕らの左手には、緑のバックネット越しに嫌というほどよく見るくすんだ白い壁が見える。知らない学校……しかも、中学校だ。

 他の風景は素通りしていたけど、その校舎が目に入ると来年から中学生になるという現実が頭の中を占領し、僕らは思わず立ち止まってしまう。

 

 たぶん中学になったらやる「部活」ってやつだろう。グラウンドでは野球部らしき丸坊主の生徒たちが大声をあげながら百本ノックをやっている。ここからだと小さく見えるその風景は、なんだか野球盤や箱庭を連想させた。

 

「見とれてないで早く行くぞ」

 

 そうやってボケっと突っ立ていると、エロえもんに再度せっつかれその場をあとにする。

 だけど、僕は一度だけ振り返り、小さくなっていく中学校の景色を見る。

 

 僕らの学校も……全く見ず知らずの人から――外側から見れば、こんなふうに小さく見えるのだろうか?

 僕に嫌な思いをさせていたあの教室も、体育の授業も、何もかもちっぽけなことなんだろうか?

 

 僕にはとてもそうは思えなかったけど、もしかしたらそういう可能性もあるのかもしれない。ちょっとだけ、そんなことを思った。

 

「僕らも来年から中学生かぁ」

 

 そんなことを考えていると、横合いから感慨にふけった声が聞こえる。細川だ。

 その言葉で……僕らは、低学年の頃と少し違ってきているとあらためて思う。前ほど「うんこ」や「ちんこ」で爆笑もしなくなったし、コロコロやボンボンを読むやつも今や少数派だ。

 

 けど、だからといって僕らの毎日にも、夏休みの宿題の進捗具合にも、残念ながら驚くくらい変化はない。周囲の大人たちの態度だって「もう六年生だぞ」というありがたーいお説教のフレーズが増えただけで、結局ああしろこうしろと命令してくることには変わりないのだ。

 

 大人になるってことは、あの教室の強化版みたいな息苦しい世界を生きていくことなのかもしれない。僕は……それに耐えられるのだろうか。タイヤを走らせながらちょっと不安になる。

 

「もし細川が受かったら、中学は別々だな」

「うん。まあ、受かるかどうかわかんないんだけどね」

 

 幸田のつぶやきに細川が頷く。

 細川の志望校は県内にある中高一貫の進学校だ。とある大学付属の学校で偏差値も高く、ここら辺ではそこに受かれば胸を張れると言われている(子供じゃなくて親の方がだけど)。そのせいで、細川は僕らと一緒に遊ぶ時以外は、ほとんどと言っていいほど毎日塾に通っていた。

 

 だけど、それでも模試の判定はあまり芳しくなくて、母親からの小言が増えていると、よくぼやいていたのだ。

 

「……昔は、70点でも80点でも、褒めてくれたんだけどね。ママ」

 

 それは今にも蝉しぐれにかき消されそうな小さな声で。

 僕らは何も言えなかった。

 

「なーに女々しいこと言ってんだよ、オカマ! お前よりエロえもんの方がよっぽど男らしいぜ!」

 

 幸田がそう言って細川の背中を思いっきり叩くと、細川は自転車のバランスを崩しそうになりながら「いったいなぁ~。君、加減ってもの知ってる?」と少し涙目で怒る。

 

「まあ、でも……そうかも」

「おいおい、そいつは心外だなぁ」

 

 僕がのっかると、エロえもんが乾いた笑いを見せる。そんなやり取りをしているうちに僕らはまた普段通り笑い始めた。細川も笑っていた。

 

 たぶん……小学六年生にもなって「ママに褒められたい」なんて言うやつは、その後マザコンの烙印を押され、まともな学校生活を送ることはできないだろう。

 だけど、僕らは――笑顔だったたけど――細川のことを本気で笑っているやつは、誰もいなかったと思う。

 

 

 

 

 

 それからさらに道を進むと、見たことのある風景が消えていき、僕らは県道を少し外れて均質的な住宅街に入り込んでいた。

 

 影絵になった木々や家、子供の嬌声。立ち並ぶ民家と電柱。少し細い路地裏。なんの変哲もない、日本のどこにでもありそうな町並みなのに少しだけ異世界に迷い込んだ気分になる。僕らは行ったことのない手段で、行ったことのない場所に来ているのだと、その時初めて不安に駆られた。

 

 夏日に照らされた無機質な通りを走っている時、そういえば……と、僕は小さな頃のことを思い出した。

 小学二年生の時、これまた父親の仕事の都合で関西のある県にいた時のことだ。

 

 

 

 当時から覚えが悪かった僕は、どの転校先でも1週間くらいは母親に描いてもらった地図をもとに登下校していた。ただその日、僕は初めて家から学校に地図を見ないで行けたことで調子に乗り、あろうことかそのメモを学校に置いて帰ってしまった。

 当時は気づかなかったけど、行きと帰りというのは物の見え方や道順が違って見えるもので、当然の結果として迷子になり、泣きべそをかきながら不安と共に重くなるランドセルに耐え切れず、市街地の道の軒先に座り込んでいた。

 

 子供に対する声かけ事案などと疑われたくなかったのだろう。僕の前を通りすぎる人たちはちらりと一瞥するだけで、誰かが何かしてあげるだろうというか感じで通り過ぎていくだけだった。

 

「ぼっちゃん? どないした? 迷子かいな?」

 

 だけど、その時、唯一僕に声をかけてくれる人がいた。全然知り合いでもない、一人のおじいさんだった。

 そのおじいさんはよれよれのジャンパーに少し汚れたステテコを来て、黄色みがかった歯を見せて笑った。目にはぼろぼろの眼鏡をかけていて、禿げ上がった頭の上に野球帽みたいな帽子をかぶっていた。

 

 その姿は僕のじいちゃんとは違い、失礼だけど、お世辞にも綺麗とは言えない身なりだったと思う。当時は北朝鮮の拉致被害者のニュースが頻繁にテレビで流れていて、学校でも知らない人について行ってはいけませんと教わっていた。

 

 ただ――他に依るすべがない僕は、おじいちゃんのいくつかの質問に答えていくうちに少し落ち着いて、母親から困った時の電話番号を控えているメモがランドセルに入っていることに気づいた。それを見せるとおじいさんに「電話使えるところ行こうや」と手を引かれ、なぜか入ったのは近くの眼鏡屋さんだった。

 眼鏡屋さんは客でもない僕にも親切で、母親が迎えに来るまでジュースを出してくれて、おじいさんは僕の話相手をずっとしてくれたのだ。

 

 その時、テレビに出て偉そうに正義を説くコメンテータや周りの大人たちより、そのおじいさんや眼鏡屋さんの方が、なんだかすごく立派な人のように僕には思えたのだ。

 

 

 

 そうやって若かりし頃の思い出に浸っていると、やがてほとんどの建物が消えていき、一面殺風景の広々としたところに出た。民家すらなく、田んぼがひたすらに続いている広い土地だった。

 

 真っ白な入道雲を背景に小さな鉄塔たちが並んでいるのが見えた。

 山の上まで連なる鉄塔は僕たちが向かう方向の田んぼにも突っ立っていて、まるで大昔からそこにある遺跡のようだ。なんとなくナウシカに出てくる巨神兵みたいだと思った。

 

「こういうのも人間が作ってるんだよなぁ」

 

 あらためて見ると思わず感心してしまい、そんな呟きを漏らしてしまう。笑われるかと思ったけど、みんな意外と「だな」、「確かに」と真剣な顔で同意してくれた。たぶん旅のテンションってやつだろう。

 

 ガタガタの歩道を進み、知らない畑の畦道を通り抜けると、先ほどまで遠かった鉄塔がすぐ近くにあることに気づいた。当たり前だけど、鉄塔たちはこの日差しにジリジリ焼かれても身じろぎひとつしない。上に伸びる電線の下を潜り抜けて、再び県道に復帰すると夏の日差しを反射して光るアスファルトに吹き飛んだ汗が染み込んでいった。

 

 

 

 

 

 あんなに遠いと思われていた道のりも半分以上を切ったところで、僕らは昼休憩を挟むことにした。水筒の中身も尽き、タイミングよく通りかかった『小池商店』というコンビニでお茶やジュース、昼飯を買うことになった。

 

 ただ、そこはコンビニといってもおばあさんとおばさんの二人でやっているような古いタイプの店で、近くの農家から卸した野菜の直販所だったり、おばさんの作ったと思われる自家製パンが置いてあるような店だ。店の表示を見ると夜の8時には閉まるらしい。

 

 飲み物はあまり他の店と変わらないくらいだったけど、駄菓子やアイスは安かった。僕らは誘惑に負け、エロ漫画購入資金に手を出す。昼飯に加えブ〇メンとバラ売りで売っていたチ〇ーペット、ダブ〇ソーダを一本ずつ買い店の外に出た。

 

「あっち! ケツ焼けた! コンクリクソあちい!」

「やべー、超やべー、クソやべー」

 

 おばあさんに断りを入れてから、店前のコンクリートに座ったはいいが、その瞬間ケツが熱せられる。僕らは仕方なく、バックを座布団代わりにしてブ〇メンの麺をすすり、すぐに溶け始めるチ〇ーペットを僕とエロえもんで、ダブ〇ソーダは幸田と細川で分け合い、かじった。

 

「シ、シミテクト……」

 

 舌の上で広がっていく甘い冷たさに口をすぼめると、みんなが「チカクカビンかよ」と笑う。その後、残ったブ〇メンをのびないうちに空きっ腹に収めていく。朝から何も食べていないので、思わず鼻でラーメンを食べる勢いだった。

 

「あんたたち、ちゃんとお水も取りなさいね」

 

 そうやって僕らが思わずダラダラとしてしまっていると、思いがけないことが起こった。店内からおばあさんがお盆に麦茶を載せて持ってきてくれたのだ。僕らは「ありがとうございます!」と柄にもなく素直に礼を言い、ごくごくと喉に流し込んだ。

 

「あまり見ない顔だけど、どっから来なさった?」

 

 空いたグラスを下げた後、水を店の前に撒きながらおばあさんが尋ねる。

 僕らが街の名前とともにガッツポーズをして「チャリで来た!」ということを告げると、「はぁ、遠いところからよう来なさった」と目をしばたたかせる。

 

「なんか……いいよな、こういう店」

 

 おばあさんが中に戻った後、店のドアに吊るされた風鈴や軒先に並べられた朝顔を見て、幸田が少し寂しそうにつぶやく。

 

 幸田の家も以前は個人経営のコンビニで、似たような昭和チックな店構えだった。でも、数年前に大手のコンビニとフランチャイズ契約を結んで、看板も中身も一気に差し替えたのだ。

 

「儲かってるみてえだけど……なんか今は売上目標とかロイヤリティ? がどうとかこうとかで、余裕ないっていうか。親父もお袋も……昔の方が、楽しそうだったな」

 

 いつもとは違う煮え切れらない態度と言葉だった。

 たぶん……どの家でも同じだと思うけど、大人の「そういう話」に子供は入れてもらえない。例え本人が当事者だとしても、だ。幸田にも、そういう悩みとか不満があるなんてことは、数か月前にはまったく思いもしなかったことだろう。

 

「じゃあ、幸田がそういう店に戻せばいいんじゃないの? 大人になってからさ」

 

 僕がそう言うと、幸田は一瞬だけ目を丸くして「お前! コンビニのケーエイなんてそんな簡単じゃねえの!」と頭を叩いてくる。痛い。

 

「まあ……でも、そうだな。いっちょやってやるか」

 

 でも、その後、幸田はいつも通りの不敵な笑みを浮かべて「お前もたまにはいいこと言うじゃねえか」と今度は肩を殴ってきた。痛い。

 だけど――確かに痛いのだけど。その痛みは、数か月前、幸田を殴った時とは少し違う痛みで。

 僕は……あの時、幸田と喧嘩をしてよかったと、ちょっとだけ思うことができた。

 

 

 

 

 

 再び県道を走り続けると、家、工場、コンビニ、田んぼと畑、パチンコ屋、風化して広告の意味を成していない看板、テーマパークにありそうなお城みたいな謎のホテル……しばらくそういうのが次から次へと現れては、消えていった。そのどれもが似たような建物で、有り体に言えば退屈だった。おまけに日差しは午後になり鳴りを潜めるどころかますます強くなっていく。

 

 だけど、僕らは目的地が近づくにつれ、誰も文句は言わなくなっていき、ただ一心不乱にペダルを踏みこみ、タイヤを回し続けた。

 

 僕らを突き動かすのは、すごくシンプルな理由だ。

 

 セックスが……見たい。

 セックスが見たい。おっぱいが見たい。ちんこをどうすればいいのか。男と女が裸で抱き合って何をするのか。布団の中でおっぱいを揉んでその後どうするのか。

 

 知りたい。読みたい。見たい。

 

 セックスが見たい。セックスが見たい。セックスが見たい。セックスが見たい。セックスが見たい。見たい。見たい。見たいみたいみたいみたい。

 

 体の内から湧き上がる衝動に身を任せ、自転車を繰る姿勢も思わず前のめりになる。

 

「あっ!」

 

 そうしてさらに進んで大きな公園のわき道に出ると、エロえもんが何かを発見し声をあげた。

 その指さす先にあったのは、突如現れた道路の真ん中を割るような線路。音成市にある路面電車の軌道だ。

 

「ということは……」

 

 僕らはちょうど目の前に迫っていた道路の案内標識に視線を移す。陽光に照らされた青の下地には白色で『音成市街 直線』と書かれており、僕らは「おおおーーー!!!」と声を揃えた。

 

 

 

 やがて……少し高いところから見えてきたのは、あんなに遠いと思っていた僕らの目的地。

 

 積乱雲が積み重なった青空の下。陽炎で少し歪んだビルの群れが僕たちを待っていた。

 車で何度も来たことはあるはずなのに。地方都市特有の駅を中心に高い建物が広がっているその光景は、どこかアニメで出てくる基地のようにも見えて。自転車でこここまで来たという達成感もあいまって、僕らの胸は大きく高鳴っていた。

 

 



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第23話:限界突破! エロマンガー!

 

 僕らの中で「街の方」といえば、たいてい住んでいる街で駅前の商業施設が密集している都市中心部――あるいは、この音成市全体を意味するものになる。

 

「やっぱ、音成ってすげえよな」

 

 きれいに舗装された幅の広い歩道の上で信号待ちをしている時、幸田がやけにキョロキョロと周りを見回しながら淡い感嘆を漏らす。

 

 音成市は青白くそびえたつ連峰と海に挟まれるようにある街だ。

 県庁所在地で経済の中心ということもあり、この県の市町村で一番人口が多い。国立大学や色んな美術館に博物館。僕らの住んでいる街にはない全国チェーンの店だってたくさんあるし、ガラス張りの駅周辺にはランドマークの高層ビルをはじめとして、大きなホテルや百貨店、商業ビルが立ち並んでいる。いつもの親の車と違って自転車で回ってみると、街並みもきれいで城下町なのにちょっとヨーロッパみたいな雰囲気だなんて考えてしまう。

 

 だけど、駅近くにある大きなアーケード商店街を抜けて少し裏手の道へと入ると、人通りが一気に少なくなって、ちょっと寂れた感じだった。家族と一緒に来る時は中心部ばっかりだからわからなかったけど、これも不景気や少子高齢化の影響ってやつなのかもしれない。

 

 だが、今日僕らはそんなふうに観光しに来たわけでも、社会科見学をしに来たわけでもない。

 世間的にはお盆休みの人もいるせいか。普通の平日よりも人通りが多い夏の街を一気に駆け抜け、僕らは市郊外にある真の目的地へと急いだ。

 

 そして、30分後。

 

「来たな……!」

「ああ」

「ついに」

「ここが……」

 

 駐車場の隅に自転車を停め、エロえもんが学校でプリントアウトした地図と店の看板を見比べ「間違いない」と断言する。

 

 ジリジリと焼きつく日差しの中、僕らは顔を上げ、その黒い外装の平屋を見た。陽ざしを跳ね返す白地に赤色の文字の看板には、確かに『みんなのジパング ガンダーラ音成店』と書かれている。

 

 そう。僕らはついに、あのエロ漫画が売っているであろう宝島へとたどり着いたのだ。根性論とか嫌いだったけど、これまでの道程を思うとさすがの僕もちょっと泣きそうになってくる。

 

 だが、決戦はここからなのである。挑むような目つきで『深夜2時まで営業』、『半額セール実地中! 下取り強化!』、『成人向け美少女漫画・同人誌・ゲーム 豊富な品揃え! どこよりも安く!』という心強い言葉が並ぶ文言をにらみつける。

 

「成人向け美少女漫画ってエロ漫画のことか?」

「成人向けって書いてあるからそうじゃね?」

 

 幸田の質問に細川が「……たぶん」と付け加えて答える。

 成人向け――その言葉に少しだけ不安が生まれるが、『18歳未満立ち入り禁止』とはどこにも書かれていない。

 

 僕らがそうやって腕組をして直立不動の仁王立ちで立っていると、すぐ傍を通り過ぎた二人組のお兄さんがぽつりと「ガイナ立ち……?」と漏らした。それに隣のお兄さんが「ガイナ立ちってなんだ?」と聞くと「おぅふ、ストレートな質問キタコレですね~!」と急に笑い始める。僕は去っていく二人の背中を見た。

 

 一人は背が高くてすごくガリガリで、もう一人の人は対照的に背が低くて太っている。共通しているのは二人とも眼鏡で、サイズ感が合っていないチェックシャツにジーパンという装いのところだ。『電車男』で見た人たちのような……いわゆるちょっとイケてない雰囲気がある。

 

「たぶん……あれ、オタクの人だな」

 

 と僕が思わずつぶやくと、エロえもんと細川も頷いて同意する。

 

「でも、お前らもオタクじゃねえか。自分でもマンガ描いたり、ゲームクリエイターってやつ目指してんだから」

 

 すると、幸田がにやりと笑いながら指摘した。僕らは思わぬ指摘にポカンとしたが、「そういえば……そうだな」と納得してしまう。

 

 そうだ。今までちょっとは自覚あったけど、僕らも、まあ、オタクと言えばオタクなのか……幸田の言葉に、僕らは考えを新たにして、もう一度その店構えを見てみる。

 そう考えると、先ほどの二人のように――ここはなんだかオタクのプロたちが集合している魔窟というか甲子園というか本選トーナメント会場というか……うまくいえないけど、自分たちより先輩でレベルが高い人たちがいるようでちょっと気が引ける。

 

「とにかく! ここでぼーっと突っ立ってても何も始まらん! 行くぞっ!」

 

 ちょっと及び腰になる僕らをエロもんが叱咤し、それに幸田が続く。僕と細川もちらりと視線を合わせ、遅ればせながら二人の後に続いた。

 

 ずっと日差しが強い室外にいたせいもあるのだろう。自動ドアをくぐってどことなく薄暗い店内に入った瞬間、周りの風景がやたらと暗く感じた。だけど、その光景とは反対に店内はなんだか明るい音に溢れていた。

 天井に設置された冷房からゴォォーと寒いくらいの風が流れ込んでいたけど、その騒がしい音も打ち消すくらいのBGM……たぶんアニソンだろう。やたらとハイテンションで明るい曲調だ。

 

 よく見ると、すぐ近くにその音源であるテレビモニターがある。クレジットがあるので、たぶん何かのアニメのEDだ。録画を流しているらしく、教室の黒板を背景にして高校生っぽい男女5人で軽快なダンスを踊る映像が、8月の店内でエンドレスに流れ続けていた。

 

「すげえ! これがアキバってやつか!」

「しーっ……!」

 

 幸田がわりと大きな声で言うので、じろりとした視線がこちらに集まってくる。僕らは少し背を縮こませがら、そそくさと店内の奥のほうへと入っていく。

 その時――ふと、こちらを一瞥してきた店員の一人と目が合った。ぼさぼさの髪の下に底が厚いメガネをかけ、店のエプロンをした中肉中背のおじさんだ。

 

 なんだろう。単に幸田が悪目立ちしてしまったのか。それとも小学生がこんなところに来てるし、万引きでも疑われているんだろうか。

 

「おい、はやく行くぞ」

「う、うん」

 

 僕は少し気になりながらも、エロえもんに促されて店の奥へと進んだ。

 

「しかし、すげえとこだな……」

 

 奥に進めば進むほど視界を侵食し、濃くなっていくオタクワールドに幸田のそんなつぶやきが漏れる。

 

 一言で言うと、この店は純粋なエロ漫画屋というわけではなく、普通の漫画やアニメのグッズだったり、中古ゲームやカードなんかも売っている……オタク系に特化した本屋とホビー屋とリサイクルショップの総合店舗という感じだった(こういう店のことなんていうんだろ?)。

 

「東……き……きょ、京とかだと深夜にもアニメやってんだな……」

「それ、誰が見るんだよ?」

「そりゃあ、オタクの人でしょ」

 

 店内のいたる所にところ狭しと貼られているのは、やたらと肌色の面積が多いアニメキャラの女の子たちのポスターだ。その左下の枠に記載されている放送時間を見て、僕と細川が小声でそんな会話する。

 

 だが、周りの人たちは僕らのことなどあまり視界に入っていないようで、じっと棚で漫画やグッズの吟味をしたり、背中のバッグに丸めたポスターを何本も差して出口の方を指さしていたり、何かのオンラインゲームの話をしているらしく「最近は……ノージョブです」、「あの装備、グッとくる」と笑いながら雑談をしていた。

 

 なんだか……そうやって大人が自分の好きなゲームやアニメ、マンガのことについて話している光景は新鮮だった。ドラマとかニュースの映像では見たことがあるけど、実際に目の当たりにするのは初めてだったからかもしれない。

 でも、みんな誰かと比べたりするんじゃなくて、大人になっても純粋に自分の好きなことしているという感じで、なんだか楽しそうだった。

 

 その姿に感化されたかは、わからない。

 だけど、僕も情報量に尻込みしつつも、漫画雑誌の本棚のところで立ち止まり、ふとそのラインナップに目を移す。

 

 そして、度肝を抜かれた。

 

 そこには週刊誌から月刊誌にいたるまで、僕が見たことのない雑誌がいっぱいあった。世界にある漫画雑誌はコロコロとボンボン、ジャンプとサンデーとマガジン、ガンガンの6つくらいだと思っていた僕は、包装されていないそのうちのひとつをぱらぱらと読む。

 

 その漫画は僕らが読んだバトル漫画やギャグ漫画とは違って、ひたすらかわいい女の子たちが学校や部活で楽しくおしゃべりして、ちょっと子気味いい掛け合いをする日常を過ごすという漫画で、ずっとそんな感じで続いていくのだ。他の雑誌でも同じような漫画が多かった。どうやらオタク界隈では、こういう漫画が流行っているらしい。

 

 そして、その中には……成人向けとは書かれていないが、グラビアアイドルの人が表紙を飾っているものもあり、例によっておっぱい星人の僕は思わずそれを手に取る。

 

 たぶん青年漫画ってやつなんだろう。僕がページをぱらぱらとめくっていくと、『新連載!』と銘打たれた巻頭カラーの漫画で僕は目を見開く。新連載開始1ページ目、そこに描かれていたのは主人公っぽい高校生が女の人の乳首を吸っている場面だったからだ。

 

「おい、これ18禁じゃねえのかよ」

 

 それを横から見ていた幸田が僕と同じように目を見開き、驚愕の声を上げた。

 

「でも、成人向け漫画って書いてないし……」

「嘘だろ。これ、ガチでエロ漫画だろ」

「いや、でも――」

「おい」

 

 僕と幸田、それに細川がそうやって不毛な議論をしているところで背後から鋭い声が飛ぶ。エロえもんだ。

 

「今日の私たちの獲物は……こんなもんじゃないだろ」

 

 僕らはその言葉で当初の目的を思い出し、「わかってるよ」と開いていた漫画雑誌を平積みされていた棚に戻す。

 気を取り直し、店内に入った時に確認したフロア案内図を思い出しながら、「そこ」へと足を進める。さながらラストダンジョンに挑む勇者一向の気分だった。

 

 

 



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第24話:エロの使い魔

 

 そうして、『ルールを守って正しくオ〇ニー!』とデカデカとポスターが貼られた本棚に来た時、僕らは何かを察した。

 

 ここは……今までと明らかに違う。

 

 その本棚から先にある一区画は、特に立ち入り禁止となっているわけではないが……なんというか、ちょっと周囲と雰囲気が違った。店内に流れる音楽は先ほどと同じなのに、まるでラスボスがいるフロアに足を踏み込んでBGMが変わったような――そんな警告染みた心臓の高鳴りが耳元で響く。

 

 本能が告げていた。ここからは……戦場なのだと。

 

「……どうする?」

 

 ここが、僕らが足を踏み入れられるぎりぎりの範囲(つーか、限界!)である。

 個人的には、ここは一番身長も体格も大きい幸田に期待したいところだが――

 

「……お前ら先に入れよ……! 男だろ……?」

「いや、女だけど」

 

 僕らが彼に視線を集めると、幸田は言い出しっぺだからという理由で僕とエロえもんを先に行かせようと背中を押してきた。

 そうやって少しわちゃわちゃと口論をしていると、近くにいたおじさんからちらりと視線を向けられたので、僕らは少し離れた本棚の陰に移動し、四人で円陣を組むように向かい合った。

 

 そうしてあれこれ理由をつけ、普段は絶対に言わないような歯の浮く台詞でお互いを先発メンバーとして推薦しあうこと十数分。

 

 多国間貿易交渉並みの平行線の話し合いを経て、結局ジャンケン勝ち抜きで最下位のやつが先頭を切るという無難な結論に至った。途中ここまで来てひよった細川が「僕ちょっとトイレに……」と逃げ出しそうになったが、幸田に襟首を掴まれてシブシブその場に留まる。

 

 だけど……実を言うと、僕も細川にならって逃げ出したい気分だった。なんせ僕はすこぶる運が悪い。

 

「最初はグー! じゃんけん――」

 

 だいたいこういう話し合いの末でジャンケンする時、結果は――

 

「ポン!」

 

 

 ……僕の一人負けなのだ。

 

 

 

「では、日野クン。君が名誉ある我々の先発メンバーだ」

 

 すっかり喜色満面の細川が僕の肩を叩いた。

 それぞれ出された手は、チョキ、チョキ、チョキ、パー。もちろん、パーは僕だ。幸田はなぜか神妙な面持ちをしてうんうんと頷き、エロえもんはあたたか~い目で僕を見守っている。

 

 だいたいエロえもん、君、そのあだ名のくせにグー以外の手を出すってのは、どういう了見なんだよ。

 

 僕はやれやれとため息をつく余裕もなく、心臓をバクバクとさせながら再びあの本棚が並ぶ――成人漫画の区画へと向かう。『石ころぼうし』か『透明マント』が切実にほしかった。

 

 そうやって、先ほど雲を霞と逃げ出した位置に戻り、ごくりと唾を飲み込む。少し後ろでは「私たちもついて行くから心配するな」とエロえもんたちが待機するが、僕は一向に足を踏み出せない。

 落ち着け、落ち着くんだ、僕。こういう時は、あれだ。漫画の名言を思い出せ。大切なことはだいたい全て漫画が教えてくれるのだ。

 

 

 『目が前向きについているのはなぜだと思う? 前へ前へと進むためだ』

 『道を選ぶということは、必ずしも歩きやすい安全な道を選ぶってことじゃないんだぞ』

 『欲しいものは手に入れるのが俺のやり方さ』

 

 

 ……よし、こんなところだろう。使いどころが圧倒的に間違っている気がするが。

 藤子先生、ごめんなさい。

 

 さあ、行こう! 僕は勇気を振り絞り、その一歩を踏み出した。これは人類にとって小さな一歩だが、僕にとってはアームストロング顔負けの偉大な一歩なのである。

 

 だが、踏み出した瞬間――僕の視界を構成する世界は、大きくその様相を変えた。

 

 肌色。肌色。肌色。肌色。肌色――肌色の洪水が目の前に現れた。僕は思わず足を止めて、周囲を見渡す

 

「え?」

 

 その時、ふと平積みにされている漫画を見た。普通の漫画と比べて大判だけど、たぶん、単行本だろう。表紙を飾っているのは、はだけたおっぱい丸出しの高校生っぽい制服を着たパンツ丸見えの女の子で、こちらを見て顔を赤らめている。

 

 え? 見……てる? 表紙絵の女の子が僕を見てる? 表紙絵の美少女が僕を見てるぞ!

 

「なんだこのエロ漫画……エロ漫画すぎんだろ……!」

「物売るってレベルじゃねえぞ、これ」

「……おい、あんまりキョロキョロすんな」

 

 やがて、数分もしないうちに後から来た3人も僕に合流し、こそこそとつぶやき合う。

 

 まるで夏休みによくやっているホラー映画を観ている時と同じように。見ちゃいけない気がするのに、目が離せない。僕はそのうち一冊を手に取ってマジマジと見るが、きちんとビニールで包装がかかっているので開くことはできない。やはり中身を――セックスを鑑賞するには、購入するほか手立てがないようだ。

 

「こういうのってさ、ペンネーム? 本名?」

「ペンネームに決まってるだろ。実名でエロ漫画を描くやつがあるか」

 

 先ほどから思考が機能していない僕が右横にある作者名を見てそんなことを聞くと、エロえもんが呆れたようにツッコミを入れる。冷静に考えればわかることだ。

 

 しかし……もしそんな人がいるとしたら、とんでもなくかっこいいけど、めちゃくちゃロックな漫画を描きそうではある。ロックの本場ロンドンの市民をいきなり皆殺しにするとか。

 

 僕らはとりあえずこのエリアの全貌を明らかにするため、未知の単語でジャンル分けされた本棚の奥へ奥へと足を進ませる。その中で視覚の次に僕らを戸惑わせたのは、匂いだった。

 

 別に閉め切られている訳でもないのに、少し周りと違う……むわっとした空気が充満していた。どこかで嗅いだことのある匂いだと記憶の中を探り、それが時々連れて行ってもらう古本屋チェーン店だと気付いた。インクと人の体臭と熱気がこもって、醸成されて……そんな感じだ。

 

 時折、本棚に向かい合っている人からちくりとした無言の視線を受ける。注意されるかと思ったが、たいていの人は何も言わずにまた本棚の物色に戻るだけで、何も言わない。それに他のエリアと比べて無言の人が多い気がする。

 

 あと、僕が驚いたのは、けっこう女の人も多いということだった。ただ女の人たちは男の人たちとは別の棚に集まっていていることが多くて、『BL』やら『同人』とかいうコーナーの前であまり厚さがない本を手に取っていた。

 

「今の本さ」

「うん」

「……ナ〇トとサ〇ケが裸で抱き合ってたぞ」

「ど、どういうことなんだってばよ……」

 

 僕と細川がひそひそと話していると、エロえもんが「二次創作の一種だろ」と補足を入れる。

 

 あまりじっと見るのも悪い気がして、視線を絶えず動かしながらそんな人たちを見ていたけど……なんだか不思議な感じだった。なんというか、みんな、それぞれの距離感を持っていて――他人だから当たり前と言えば当たり前なのだけど――お互いの領域に踏み込んだり、干渉しないようにしている。そんな感じだ。

 

 なんかどっかで見たことのあるような感じだな……と思い、記憶を探っていくうちに、僕はそれがなんなのかを思い出した。

 そうだ。よくある名作アニメランキング~みたいな特番で見た『エヴァンゲリオン』ってアニメのATフィールドみたいな感じだ。

 

「なあ、そろそろ適当に見繕おうぜ? 買わなきゃ読めねえだろ」

 

 そんなことを考えていると、横で痺れを切らしたように幸田がつぶやいた。

 

「そういえば……みんな今何円持ってる? 僕は820円」

 

 僕は先週末に親戚の集まりで回収したお盆玉を確保してるけど……それは絶対に漫画の道具を買うのに使うと決めていたから、今回持ってきたのは普段月一でもらう小遣いをかき集めた小銭だけだ。途中の小池商店で誘惑に負けて使ってしまったから――今の手持ちは、820円だけ。それでも、普通のコミックス二冊は買える大金である。

 

 だが、いくつか手に取ってみたエロ漫画はどれも1冊1000円以上するものばっかりで、急に財布に詰め込んだ小銭の重さに心細さを感じる。探せば820円以下のものもあると思いたいけど、みんなの財政状態が気になったのだ。

 

「私は1500円だな」

「僕、2300円」

「……200円」

「……」

 

 しかし、どうやらそれは杞憂に終わったようだ。こういう時、日本の小学生に横たわる格差社会ってやつを実感するね。

 

 僕らは相談を重ね、結局巨乳派の僕とエロえもん、普通及び貧乳派の幸田と細川に分かれてお金を出し合い、1冊ずつ購入する運びとなった。資金が不足している側の僕と幸田は、その対価としてレジに持っていく係を引き受けることになった。資本主義社会、ここに極まれり。神の見えざる手ってのはどうやらエロ漫画の購入にも適用されるらしい。

 

「さて、私たちはどうする?」

 

 僕らは二手に分かれ、エロ漫画の選定を開始した。エロえもんと僕も横に並び、じっと無数のエロ漫画が差してある棚や平積みされているエロ漫画の表紙を吟味する。

 

 だけど、表紙と裏表紙からわかるのはタイトルと出てくるであろう女の子、それに作者の名前くらいだ。区分けも会社の名前くらいでしかされていないので、決め手となる情報は限られている。僕らは結局表紙の絵の好みとおっぱいの大きさで決めていき、最終的に二冊まで候補を絞った。

 

 その二冊を手に持って並べるエロえもんの眼差しは真剣そのもので――その横顔を見て、僕はふとこの状況を冷静に捉える時間を得た。

 

同級生の女子と近くの街まで来て、エロ漫画を選定している。客観的に考えると……かなり意味不明な状況である。

 

 だけど――僕がそんな数か月前には思いもしなかった行動をして、今この場にいるのは、きっと、勇気を振り絞って僕に自作漫画とインターネットとエロ画像を見せてくれた――そんなふうに常識に捕らわれずいつも僕を引っ張って、傍にいてくれるこの友達のおかげなのだ。

 

「エロえもん、好きな方選びなよ」

 

 そんなふうに思うと、やっぱり全てのきっかけとなったこいつが、僕らのエロ漫画を選ぶべきだと思った。

 

「いや、ここまで来たんだから。最後まで――」

「でも、僕はエロえもんに折半してもらってなかったら買えなかったし。それに――」

「やめろよ。そういうの」

 

 エロえもんがぴしゃりと僕の言葉を遮った。

 それは今までにない強い口調で、僕は少し戸惑う。

 

「あっ、ご、ごめん。だって、その――最初に私の部屋で言ったじゃないか」

「え?」

 

 エロえもんはそこまで言うと、珍しくドギマギした様子で。一度開きかけた口を閉じると、僕に向き直ってまっすぐ目を見てきた。

 

「私たちは……共犯者だろ?」

 

 エロえもんは笑っていたけど……なぜかその声は少し切羽詰まったように聞こえて、僕は困惑を隠せないでいる。

 

「……うん。ごめん、ちゃんと話し合って決めよう」

 

 だけど、何かそこには切実なものがある気がして、僕はわざとらしく笑ってエロえもんの要求に応えた。

 そうして、約30分後。議論に議論を重ねた結果、選んだ一冊がついに決まった。幸田・細川組と合流し、僕らは後ろ髪をひかれる思いをしつつエロ漫画コーナーを出る。

 

 後は――最後の難関を突破するだけだった。

 

「よし……いくぜ」

「う、うん」

 

 僕と幸田は緊張した面持ちでエロ漫画とお金を握りしめ、あまり顔を見られないように帽子を目深に被る。気休めだが、体が大きい幸田を半歩前にしてレジへと進む。

 

 ターゲットのレジカウンター確認……ヨシ!

 並んでいるお客さんがいないこと確認……ヨシ!

 周囲に他の店員がいないこと確認……ヨシ!

 その他障害となりそうなもの確認……ヨシ!

 

 ヨシ! 今だ! 今日も一日ご安全に!

 

 僕らはその瞬間、歩調を速めて一気にレジへと向かう。

 あと、十歩……五歩……三歩……一……!

 

 

 

 

 

「失礼ですが、お客さん」

 

 

 

 

 

 その時だった。

 

 

 

 

 

「何してんの?」

 

 

 

 

 

 背後からかかったその声――まるで季節外れのシベリア寒気団みたいな冷気に足を絡み取られ、僕らは思わず動きを止める。

 振り返った先には、ぼさぼさの髪の下に底が厚いメガネをかけた――入店した時、僕と目が合ったあの店員のおじさんの顔があった。

 

 何してると聞かれても……エロ漫画を物色した後、購入しようとしてますとしか答えようがない。そして、おじさんのそれが問いかけではないことには、表情からすぐに気づいた。

 

 何か、言わなくちゃいけない。何か。

 

 だけど、口も体も動かない。『ゴルゴンの首』で石化させられたみたいに身じろぎひとつできなかった。実際には数秒のはずなのに。その人が次に口を開くまで、何時間もたった気がした。目の前が、真っ白になった。別に手持ちのポ〇モンが全滅したわけじゃない。

 

 僕らは呆然として、「ちょっと来て。そこの二人も」と冷たく告げるおじさんの言葉に逆らえず、そのままエロえもんと細川も連れ立って、店の裏側のフロアに連れていかれた。

 

 あまりにもあっけない幕切れだった。

 

 



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第6巻 My Favorite
第25話:漫画男


 

 おじさんの後ろを歩いている時、僕は何週間か前にばあちゃんが見ていたテレビのニュース特集を思い出していた。

 

 画面では万引きGメンと名乗る中年のおじさんが目を光らせていて、スーパーで万引きしたおばさんを捕まえ、警察へ自首するように説教をする場面が映っていたのだ。「夫と子供には言わないで……」と懇願するおばさんに対し、万引きGメンは冷たい言葉をいくつも重ねて断罪していた。

 

 悪いのは100%おばさんで、被害者はスーパーの人たちの方で、正義の味方は万引きGメンなのだけど。なんだかその絵面は拷問ショー染みた演出で、ちらりと観ただけなのに僕はひどく不快な気分になったのだ。

 

 そんなこと思い出している間に僕らが通されたのは、店員さんたちの控室のような無機質な部屋だった。

 

 壁際には古びたロッカーと事務机があり、その上には勤務表が映し出されたパソコンが置いてある。部屋の三分の一を占める大きなラックには書類が詰め込まれた段ボール、アニメ調の絵柄のゲームやフィギュアが入った箱、漫画やライトノベルの束……色々なものが積まれ、溢れかえっている。

 

 ビニールでパッケージングされた商品の在庫だけではなく、店員さんの私物も置かれているようだ。僕は現実逃避するようにオタクのサクラダファミリア、あるいはシュヴァルの理想宮のようなその前衛的構築物を眺め、ふとあることに気づいた。

 

 その奥隅に紛れ込むように見えたもの――インク瓶にホワイトの修正液、アクリル製の定規やら筆ペン、ブラシ……そして、ペン軸と原稿用紙。乱雑にプラスチックケースに入れられたそれらは全て、僕がお盆玉で買おうとしていた漫画を描くための道具だ。

 

 誰か……店員さんの中に漫画を描いている人がいるのだろうか?

 こういう店だから、店員さんが漫画好きのオタクであっても不思議じゃないけど。

 

「なあ? 僕らどうなっちゃうんだよ……警察とかに突き出されるのかな……」

「うっせなぁ、お前ちょっと黙ってろ」

 

 ぼうっとそんなことを考えていたら、隣から聞こえてきた細川と幸田のひそひそ声に僕は現実へと意識を引き戻された。

 

 そうだ。これはテレビの向こうで起こっていることじゃない。

 

 事件は現場で起こっていて、自分たちは当事者。僕らはこれからあの万引き特集みたく、小学生なのにエロ漫画を買おうとした罪で断罪され、学校や家に連絡を入れられるのだ。

 そう思い恐る恐るあのおじさんの方を見るが、当の本人は相変わらずの表情――くたびれて感情が抜け落ちた顔のまま、部屋の隅に置いてあったパイプ椅子を抱えていた。

 

「これ、座って」

 

 折り畳んであったパイプ椅子を開き、部屋の真ん中に置いてある細長い机を前にして、僕ら四人は指示通り横一列に並んで座る。それを見たおじさんも反対側にキャスター付きの椅子を持ってきて、僕とおじさんは真正面から対峙した。

 

 よく見ると、おじさんの胸元には「七梨(ななし)」と名字が刻まれたネームプレートがあって、上には店の名前と「店舗責任者代理」と役職が刻まれている。店舗責任者代理……つまり、おじさんはここの店長代理というわけだ。

 

「これ、君たちが買っちゃいけないものだということはわかるよね?」

 

 そう言って乱暴に置かれた机に置かれたのは二冊のエロ漫画――僕らが買おうとしていた単行本だ。とてもじゃないが、「わかりませんでした」とは言わせない雰囲気があった。

 

 僕らは互いに目を合わせず、押し黙った。店長さんも何も言わなかった。

 壁掛け時計が時を刻む音だけが流れ続け、店長さんの正面に座っている僕はいたたまれなくなり、顔を伏せて足元をじっと見ていた。

 

「俺が……責任取ります」

 

 その時、隣から思いがけない言葉が耳に入り、僕は顔をあげた。

 

 僕らの中で「俺」なんていうのは、一人しかない。幸田だ。僕はこいつが敬語を使っているのを初めて聞いた。

 

 その言葉を聞いて、僕の中に驚きと同時に不安が生まれた。田舎の情報網は時によってインターネットより早く悪評が広まることがある。サラリーマン家庭の僕らと違って、幸田の家は自営業だ。そこの息子がエロ漫画を買って警察にしょっ引かれたことが知られたら……店の経営にも影響があるではないかと思ったからだ。

 

「あ、あ、あの!」

 

 その可能性を考えるに至り、僕は思わず立ち上がる。声はうわずっていたが、意を決して店長さんをまっすぐに見据える。

 

「僕が、その、言い出しっぺだから! その、僕が責任を――」

「へぇ、どうやって?」

「……それは、その……」

「俺には、君らみたいな子供が責任を取るって、どうするのかよくわからないな。まあ、大人になっても何が責任で、どうすればいいのかなんてわかんないけど。少なくとも、小学生の"すいませんでした"が"いいよ"で通る世界だったら、法律も警察もいらないと俺は思うけどね」

 

 なけなしの勇気と薄っぺらい決意は、店長さんの正しい意見にいとも容易く折られてしまう。

 僕がそうやって二の句が継げずに再び視線を落としていると、隣のパイプ椅子が音を立てて軋んだ。この部屋に入ってから何も言わずに沈黙を貫き通していたエロえもんだった。

 

 エロえもんはエロ漫画をちらりと一瞥すると、財布からお金を取り出し、それを机の上に叩きつけるように置いた。

 

「これ、売ってもらえませんか」

 

 そして、毅然とした態度でそう言い放った。

 

 その目は座っていて――職員室で千条先生に啖呵を切った時と同じ、大人に対する嫌悪と憎しみにも近い反抗心を込めた視線を、店長さんに向けていた。

 

「無理」

「なんでですか? お金はあります」

 

 大人相手になるとムキになる。エロえもんの悪い癖だ。

 

「自分たちが子供だからですか? 子供だから、いけないんですか? 買ったら犯罪になるんですか?」

 

 眉ひとつ動かすことなく自分を見てくる店長さんに対し、エロえもんはひるむことなく矢継ぎ早に問いを投げかけていく。特性『せいしんりょく』か? こいつ。

 

「いや、君たちは犯罪者にならないよ」

 

 だけど、それを聞いた店長さんの声色が少し変わった。

 これまでの「別にどうでもいいんだけど」というような感じとは違う――冷たく、平たい調子だった。

 

「なるのは……販売する俺たちの方だ」

 

 店長さんはそう言うと、僕らに淡々と事実だけを告げた。

 

 うちの県では「青少年保護育成条例」というものがあり、18歳以下の人に「有害図書」と分類されるものを売ってはいけないこと。

 

 成人向け漫画――エロ漫画は出版社側がゾーニングマークを付けたり、販売店がビニール包装や陳列棚を分けたりと有害図書指定を受ける前に「自主規制」をしていること。

 

 その規制の中には、18歳未満の人への販売禁止も含まれていること。

 

「この店には俺以外にも従業員はいるし、取引先だってある。条例に違反したら自治体にも目をつけられるし、地元のローカルニュースくらいにはなる。それでも……君が俺たちを犯罪者にしたいんだったら構わないよ。売っても」

 

 店長さんの話に――理路整然と均質的なトーンで語られる理由に、僕は本当に落ち込んでしまった。たぶん他のみんなも同じだったと思う。

 

 その説明は、親や教師が僕らを怒鳴りつけて叱るのとはまったく違った。怖さも、迫力もない。

 だけど、僕らの心に何かズシンと重くのしかかるものがあって、すごく正しいけれど厳しいことを言われている気がした。きっとそれは、この店長さんが僕らを「教育すべき子供」としてじゃなくて、「縁もゆかりもない他人」として諫めていたからかもしれない。

 

「わかってくれたかな?」

 

 最後にダメ押しで問われた言葉に、エロえもんは無言のまま珍しく引き下がった。

 たぶん店長さんが周囲の大人と違って……自分たちの正しさを押し付けて頭ごなしに否定するのではなく、きちんと理由を説明してくれたからだろう。

 

 再び僕らの間に沈黙が降りる。そんな中で店長さんは僕らの落ち込んだ顔を見渡して「まあ……でも、君たちくらいの時は、そうだよな。そういうの、興味が出る時期だよ」と薄く笑う。

 初めて見るその笑顔はどこか引きつったシニカルな笑みで――うっすらと髭が残る顎も皺を湛えた口元も全然違うのに、なぜかちょっとエロえもんが笑った時と似てるような気がした。

 

「俺もそうだったけどさ……周りの大人が言う『これをやるな』とか、学校の授業で習うような『みんな仲良くしましょう』なんていう綺麗事って、クソくだらなくて、嘘っぱちだってわかるようになってくるよな」

 

 だけど、そこで店長さんの顔からは笑みが消えた。

 

「それでも……やっぱり、まだ君たちくらいの時には、たとえ嘘でも『それが正しい』んだって言っておいた方がいいこともあるんだ。

 

 俺個人は……こういうエロに興味を持ったり、好きなことは、何も悪いことじゃないと思っている。本当なら好きに見たり、読んだりしてもいいと思う。

 

 だけど、世の中にはね、君たちくらいの子を悪意を持って利用しようとする大人もいるし、大人でも思い至らないようなトラブルに巻き込まれたりもする。そういうのから守るためだったり、法律や性の問題にうるさい人たちの攻撃材料にされないためにも、作家さんや出版社の人たちは子どもに見せない努力をしてる。だから、販売している俺たちもそれに応えなきゃいけないんだ」

 

 店長さんは……たぶん僕らのことを、少しだけ慰めようとしてくれたのかもしれない。

 だけど、その話を聞いて僕らは自分たちがやろうとしていたことが、そんなに多くの人へ迷惑をかけることだったのかと思い、また後悔が重くのしかかってくる。

 

「まあ……そういうことだから、学校へも家へも連絡は入れないよ」

「えっ?」

「さっき言っただろう? 君らは別に犯罪者じゃないから。実際に買ったわけでもないし、ただ今後もそういうことされたら困るから注意というか……お願いをしただけだよ」

 

 その言葉に、僕はほっと胸をなでおろした。幸田と細川も同じ気持ちらしく、なんとなく僕らの間に流れる空気も少し軽くなった気がする。

 ただ、その中でもエロえもんの顔だけは相変わらず険しいままなのが不安だ。やっぱりまだ店長さんに不信感のようなものを抱いているのかもしれない。

 

「あの……」

「ん?」

 

 僕はエロえもんの不満が爆発しないようになんとか話題を切り替えたくて……ふと視界に入ったそれへと目を向ける。店長さんの後ろ側――先ほど見た漫画道具が詰め込まれているプラスチックケースを。

 

「それって、その、漫画を描く道具ですよね?」

 

 僕が店長さんの背後へと視線を向けると――なぜだろう。店長さんの薄い笑みが揺らいだ気がした。

 

「……ああ、うん。俺の私物だよ」

「おじさんも漫画描いてるんですか!? この二人も漫画描いてるんですよ」

 

 それを聞いた細川が目ざとく明るいよそ行きの声の後、僕らを見た。重苦しい空気の中、こういうふうに切り出せる細川に僕は驚いた。案外、一番勇気があるのはこいつかもしれない。

 

 だけど、細川の声とは裏腹に店長さんは僕とエロえもんを見て目を伏せた後、少し寂しそうに笑った。

 

「うん……そうだね。描いて"た"よ。週刊少年誌で……一度だけ連載をさせてもらったこともある」

「えっ……!?」

 

 困ったように笑う声で告げられた衝撃の事実に、僕は度肝を抜かれた。

 

 じゃあ、この人は……僕が人生で初めて実際に目にするプロの漫画家ということだ。こんなところで漫画家と話せる機会があるとは夢にも思わなかった僕は、ごくりと息を呑む。

 

 だけど――一つだけ、気になったことがある。今、この店の店長さんをやっているから当然といえば当然なのだけど、漫画を描いてい「た」ということは、今は……漫画家をやっていないということなのだろうか。

 

「何かアドバイスとかありませんか! こいつら今度賞に応募するんですよ!」

 

 だが、そんなことを気にも留めていなさそうな細川はご機嫌取りのつもりなのか、追加で質問する。店長さんは曖昧な笑みを浮かべ、「うん、そうだな……」と顎髭をさすった。

 

「まずはひとつでもいいから、作品を完成させることだと思う。ネームの段階でも、ペン入れ後でも、漫画はね、意外と何回でも修正できる……他のもっと大事なことと違ってね」

 

 その回答を――最後に付け加えられた一言を聞いた瞬間、僕は鳥肌が立つような感じを覚えた。

 店長さんの口調はなんともないふうだったのに、なぜかそれは焼け付いた喉から出る苛烈な声に聞こえて。痛烈な沈黙が、再び僕らの間に広がった。

 

「なんで……やめちゃったんですか?」

 

 そんな中、僕は覚悟を決めてゆっくりと尋ねた。

 

 予感がする。それを、この先を聞いたら、絶対に後悔する。

 まるで嫌いなホラー映画を指の隙間から覗き見ようとする気持ちが僕を支配する。だけど、聞かずにはいられなかった。

 

 

 



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第26話:名無しの唄

 

 

 『名無しのあいつ』。

 

 「七梨」という名字を文字った皮肉交じりのあだ名。それが、俺の学校での名前で、キャラクターで、存在価値だった。

 

 インターネットなんてものは、まだ創作世界のテクノロジーであった頃。当時のオタクたちの話題の中心といえば、地上波で放送される『ガンダム』や『宇宙戦艦ヤマト』といったそれまでの子供向けとは一線を画すアニメであり、本屋に置かれた『アニメージュ』なんかが唯一の情報源であり、数少ないオタク仲間と世間から小さなコミュニティで世間から隠れながらあーでもない、こーでもないと言い合っていた――そんな時代の話だ。

 

 そんなオタクの一人だったが、あいにくと学校に同じような仲間はおらず、友人すらいなかった俺は、学校が終わるとまっすぐに家に帰り、一人でアニメのワンシーンを模写し――特に好きだった漫画作りをしたりと、一人の部屋で机に向き合っていた。

 

 別にドラマチックな不幸や大きなトラウマがあったわけじゃない。ただ、気づいたら、そんなふうに『普通』から外れてしまっていたのだ。

 

 だけど、それでも構わなかった。両親や教師はいい年してアニメや漫画に夢中になる俺に呆れ、学校のやつらは奇異の視線を向け今でいうイジメというやつにもあったが、漫画を描いていると、そんなもの苦にはならなかった。

 

 たいていのやつらの人生は、決まっている。

 

 高校卒業と同時に就職して、安い給料で無理して車を買って、適当な女と結婚して、家のローンに縛られ老後まで社会に奉仕する。そんな日本における平均的で、普通で、幸せな素晴らしい人生だ。

 

 まっぴらごめんだった。俺は、お前らとは違う。

 

 ちゃんと自分が好きなものも、情熱を込める先も、夢もある。世間の有象無象になって名無しになるのは、お前らの方だ。俺はそうはならない。なぜか根拠もないそんな自信を後ろ盾に、俺は漫画を描き続けていた。

 

 その頃、まだ出版不況など影も形もなく、毎月どこかの雑誌で新人賞がいくつも開かれており、俺は毎月のようにそれらの賞に応募していた。

 そして、佳作ではあったが、高校卒業直前にとある雑誌から賞をもらった。子供の頃からずっと読んでいた憧れの雑誌だった。

 

 生まれて初めて行く東京で、生まれて初めてパーティという場所を経験した。

 授賞式では、それまで顔も見たことがなかった漫画家たちがいた。コミックスのあとがきぐらいでしか知らない――紙面の向こうにしか存在し得なかった人間たちがいる。

 

 そして、俺も今日、その人間の一人となったのだ。興奮と困惑が入り混じった今までに感じたことのない感覚だった。

 

 同じ賞で受賞した同期とはそのパーティで知り合い、その後予想外にもすぐに打ち解けた。

 漫画家を目指す者にもタイプがいろいろあるが、その時の同期はオタク系が多く親しみやすかったのもある。

 お互い周囲にオタク話をする相手なんて滅多にいないし、何より皆「漫画家になる」という共通の夢に向かって努力を重ね、これから志を共にする同士なのだ。互いに競い合う相手とはいえ、仲間のような感覚を俺は持っていた。

 

 とはいえ、俺は佳作の身だ。同期たちとのレベルの差は明らで、その時は仲間を得た安心感よりも自分の技量に対する焦りが心の中を支配していた。

 

「担当している先生のとこ一人アシ抜けたんだけど、行ってみる?」

 

 その焦りを見抜いたのか。担当の編集者から提案された俺は、二つ返事で引き受けた。

 

 

 

 

 

 先生はいわゆる若手のホープというべき存在で、雑誌の看板を担うベテラン作家たちに迫らんとする新進気鋭の作家だった。単行本は新人として異例とも言える勢いで売上を伸ばしており、俺自身もその雑誌の連載陣――いや、現在進行形の漫画の中では、一番面白いと言っても過言ではないと思っていたのだ。

 

 そんなライバル視するどころか雲上人のような人がアシスタント先なのである。はたして自分の拙い技術でそんな職場が勤まるのだろうか……不安は尽きなかったが、とにもかくにも俺は漫画家として次のステップへと踏み出した。

 

 結論から言うと、心配は杞憂に終わった。

 というより、実際に職場に入ってみると、そんな心配や不安に駆られる暇などなかったという方が正しい。分刻みの週刊連載のスケジュールでは「できる・できない」、「教わった・教わってない」など関係なく、次々と仕事を任され、不安に駆られる暇などなかった。

 

 予想通り周囲のアシスタントと俺のレベル差は目も当てられないほどひどいもので、最初は明らかに使えない新人が入ったことに淡々とした職場の雰囲気が苛立っていたのを肌で感じた。

 自分の作品だから当然といえば当然だが、先生は非常に仕事に厳しく、どんなに時間をくっても妥協を許さず、俺は一つの仕事に数十回はリテイクをくらった。

 

 漫画というのは才能でポンとできるものではなく、いわゆる伝統工芸の職人技のように技術の集積によって生み出されるものだと身を持って体感した。

 

 1週間。24時間×7日。168時間。

 

 たったそれだけの時間の中で、編集と打ち合わせをしてプロットを修正し、先のネームを切り、残りの時間で作画作業を完成させるのだ。連日の徹夜や泊まり込みは当たり前でほとんど職場に住んでいるようなものだった。

 

 だけど、俺は決してやめなかった。どんなに辛くても、この日々が漫画家という夢に繋がっていると思えば耐えられた。感覚が麻痺していたのかもしれないが、楽しくすらあった。学校で無理やりやらされた勉強やスポーツより、はるかに自分が成長していることを感じた。

 

 進化と取得。その連続の日々が続いた。他の仕事がどうなのかわからないが、週刊連載という激流の中で時は早く過ぎ去っていった。人の入れ替わりはあったが、そうやって現状にしがみついて二年もたつ頃には、俺は職場で戦力の中心になっていた。

 

 その頃、前から計画が進んでいた先生の作品のアニメ化が決まった。すると、職場は輪をかけて忙しくなった。だけど、それに伴い単行本の売れ行きも爆発的に伸び、先生からの評価も上がっていた俺は同世代と比べて何倍もの給料をもらえるようになっていた。あまり使う暇がなく溜まっていくばかりの通帳の金額を見て、これが漫画の世界なのだと思った。

 

 まともに連載が続けば、億万長者の世界。エンタメ界のメジャーリーグ。

 逆に一回の連載で業界から消え、その後行方知らずになる同業者なんて珍しくない。

 

 漫画家を目指すようなやつは、ギャンブラーと一緒だと思う。いや、ただのギャンブラーはまだいい。失うのは一時の夢と握り締めた金だけだ。

 それまでの人生で積み上げた時間、あったかもしれない普通の幸せと生き方。そういうもんを全部投げ捨てることになる。実際、同期や元アシスタントの同僚の中には音信不通となったやつもいた。

 

 時折、もうやめてしまおうかと思うこともなくはなかったが……巻末のオマケページ、そのアシスタント一覧に自分の名前が載っているのを見ると、自分が確かにこの世界に存在しているのだという確証を――あの頃の「名無し」ではないという自信を得られ、自分を鼓舞できた。その時間は紛れもなく俺の青春で、世界の全部だった。

 

 

 

 

 

 それから数年後。アニメも軌道に乗り、看板作品としての地位が盤石で揺るぎないものになった頃、先生は職場を法人化した。俺はそこで現場を取り仕切るチーフアシスタントに近い立場に就いた。年は30歳近くになろうとしていた。

 

 サラリーマンになる大人をあんなに忌み嫌い、見下していた俺は――いつの間にかいっぱしのサラリーマンになっていた。

 

「お前……いつデビューするんだ?」

 

 そんな折。実家の父から電話がかかってきた。実家を出る際は漫画家という夢に難色を抱いていた両親が、毎週雑誌と先生の単行本を購入してくれていたという事実を、その時初めて知った。そして、電話がかかってきた週の新連載は、奇しくもあの授賞式で仲良くなった同期のものだった。

 

 それをきっかけに、俺は全力で突っ走ってきた自分のこれまでと――これからを不意に考える時間を得た。

 

 アシスタントの数も増えて、連載年数も重ねたことで、職場はかつてのようなブラック企業然としたものではなく、かなり余裕のある体制になっていた。休日もかなり増えた。しかし、俺は――いつの間にか自作漫画を担当に提出するどころか、ネームを切ることさえここ数年していなかったことに、その時になって初めて気づいたのだ。

 

「……近いうちに連載取るよ」

 

 俺は、父親に短くそう告げ、電話を切った。アシスタントで自力がついていたこともあり、休日を利用して1か月程度で久々のネームを切り、それを受賞時の担当に見せようとした。だが、担当は数年前に異動で編集部を外れていることを直後に思い出した。

 

「七梨くんはプロアシでやっていくんもんだとばっかり思ってたよ」

 

 確か引継ぎ時に後任の担当者を教えてもらっていたが、念のためかけた電話口で元担当は驚いた口ぶりだった。

 

 そして――歯車が狂い始めたのは、ここからだった。

 

 



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第27話:名無しアルバム

 

 最初のうちは、看板漫画のチーフを務めているという自負も、十年近い年月を全て漫画に費やしてきたという自信もあった。自分が本気を出せば、すぐに連載企画も通る――十代の頃から業界に身を置いて現実をわかっていたはずなのに、なぜか俺はそんなふうに思っていた。

 

 だが、当然ながら、「漫画を作る技術力が高い」のと「面白い漫画を作る能力」は全く異なるものだ。俺が20代を費やして高めていたのは前者だ。後者の方は全く手つかずだった。

 

 それに気づいたのは、マヌケなことに父親に連載を取ると告げて1年以上たった頃だ。看板漫画のチーフアシという立場から期待もあったのだろう。最初の頃、新しい担当は「じゃんじゃん送ってください!」と明るい調子だった。

 

 その言葉通り十数作の読切、連載の企画書を送ったが、どれも新しい担当の反応は芳しくなく、やがて数を重ねるにつれ返答までの期間が開くようになった。だけど、それに気づいたところで現状は何も変わらなかった。

 

 焦りだけが、募っていた。時間が足りない。自分に欠けている能力を埋めるのには、もっと時間がいる。30というある種のボーダーラインが迫っているのも焦りに拍車をかけた。

 

 そんな折、仕事終わりに珍しく先生から俺に声をかけてきた。内容は最近(といっても1年近く前からだが)、俺がやっていることについてだ。

 

 先生からすればだが、うまく機能している職場のスケジュールに風穴を開けられるようなものだ。俺の担当と先生の担当は違っていたが、たぶん話が漏れたのだろう。

 

 だけど、これはチャンスでもあると思った。

 

 とにかく時間が欲しかった俺は、先生にアシスタントをやめたいと申し出た。貯金は十分すぎるくらいあったし、十年近い付き合いの中で先生とはそれなりの関係性は築いていたので応援してくれるのではないかという期待もあった。

 

「あっ、そう」

 

 だが、先生は難しい顔で黙りこくると、その数分後「後任と引継ぎ、ちゃんとしてくださいね。僕は関与しないから」と俺に条件を突きつけた。

 

「えっ? じゃないよ。社会人として当然だろ。七梨くんは立場だってあるんだから」

 

 言われてみれば、それは常識的な考え方だった。

 俺はこの世界しか知らないが、職場はすでに法人化していたし、普通の企業であれば退職に際して後任者に引継ぎを行うのは当然だろう。

 

 何よりこの人は、この雑誌の看板漫画家だ。もし遺恨を残せば、この先同じ雑誌での連載は難しくなるのではないか。そんな打算的な危惧もあり、俺は先生の条件を呑んだ。

 

 自分でも知り合いを通して依頼をかけてみたり、担当編集を通して探してもらったが、結局後任は来ることなく、なんとか少しずつ周囲へ作業を引き渡した。金銭的な余裕は十分あるはずなのに、先生は一向にアシスタントの人数を増やそうとはしなかった。

 その時になって俺はようやく自分をこの世界につなぎとめているものが、先生の職場と担当編集しかないことに気づいた。

 

 そんなふうに時間と手間はかかったが、俺はようやくあと腐れなく職場を辞めることができた。

 だが、時間は手に入っても、状況は一向に好転しなかった。俺はアシスタントからただの漫画家志望の無職になっていた。

 

 俺はこの業界に入る前、受賞さえすればトントン拍子で漫画家になれるものだと思っていた。時にはストーリー展開に行き詰まり、〆切に追われ、自分の思い描いたものと現実の差に苦悩する――作家というものは、そんな苦悩を抱きながら、それでも戦っているのだと思っていた。

 

 だけど、現実は違う。

 

 そもそも、読切も企画も通らなければ、苦悩する機会すらない。そして、多くの人は、そのチャンスも与えられない。漫画しか描けないのに、漫画を描く場所がないのだ。

 

「うーん」

 

 編集部のブース。そうやって何十回も繰り返された却下の後、担当編集は困ったように笑い、「これは七梨さん次第ですが――」と俺に向き直った。

 

「スポーツもの……野球でいきましょう!」

「えっ?」

 

 それは、青天の霹靂ともいえるような――思いがけない提案だった。

 

 スポーツものは当たればでかく、王道のストーリー運びが確立されているため、新人によくあてがわれるテーマだ。

 ただそういったテンプレートが確立されているということは、有象無象の作品となりやすいということでもある。間隔が小刻みな週刊連載においては1試合中に何度も引きを求められることがあり、ストーリー進行が他のジャンルと比べて遅くなりがちで、よほど読者を惹きつけるキャラを作るか現実でのスポーツイベントなどの時流に乗らなければ人気が出ず、ひどい時はまともな公式戦の描写すらなく打ち切られるケースも珍しくなかった。

 

 世界大会やオリンピックが開催される年でもなかったし、自分の持ち味はパース感覚を活かしたアクションシーンにあると思っていたので、平面的な絵が多い野球はどう考えてもそこまで相性が良くない。それに自分には野球の経験どころか運動部の経験もないし、ファンというわけでもなく、一回も企画を出したことがなかった。

 

「あー、ちょっと……上からの意向で。でも、このままだと、企画たぶん通りませんよ。ここは私を信じてください。イケたら儲けもんですし……先生の場合、年齢も年齢ですから。まずはいちはやく連載の実績と経験を作る必要があります」

 

 だけど、その言葉に――俺は提案を受け入れ、ネームと企画を練った。正直、落ちるだろうと思いかなり手を抜いたものだったが、それは今までの苦労が嘘だったようにあっさりと連載会議を通過した。

 

 正直やめようかと思った。でも、もうここで止めることはできない。それに俺はようやく、漫画家になったのだ。無職でも、アシスタントでもない――本物の漫画家に。

 

 

 

 

 

 連載に漕ぎつけた作品の内容は、ひどいものだった。

 どこかで見たことのある設定。過去無数にあったであろうストーリ展開。ツギハギのキメラみたいなキャラの性格と行動。よく創作者が「勝手に物語が動き出した」なんていうことがあるが、連載中そんなことは一切起こらなかった。

 

 なぜ俺は、こんなことをしている。なぜ、こんな誰にも望まれない化物を生み出している。そんな思いばかりが原稿の紙面に伝った。

 

 長いアシスタント経験で連載のペースに慣れていることだけが唯一の救いだったが、明らかな泥舟だ。アシスタントたちの士気も低く、職場の雰囲気は悪かった。だけど、そんなこと気にしている余裕もなかった。

 

 それは学生の頃、クラスのトップヒエラルキーを牛耳っていたやつらに教室の壇上で無理やりやらされたお笑い芸人のモノマネに似ていた。絶対に冷笑される、嘲笑される。そんなことはわかっているのに、逃げることはできない。唯一の違いは、その場に立つことを自分で選んだ――選んでしまったということだ。

 でも、うんこみたいな作品だとわかっていたとしても、俺はうんこ製造機として最後まで描き続けるしかなかった。なぜなら、それが出版社との契約で、俺はそれを請け負った個人事業主で、漫画家だからだ。

 

 

 打ち切りが通告されたのは、雑誌に7話目が載った直後だった。

 提示された全話数は12話。残り5話――すでにペン入れまで終えている翌週分を除けば、4話分を使いまとめきらないといけない。

 

 言い渡された直後は、頭が真っ白になった。こんなのでも自分の中の物語があったのに、それが突然プツリと途切れるのだ。だけど、数秒たって空白になった脳内を満たしたのは、安堵だった。悔しさや憤りよりも、生み出した作品から解放されることを喜んでいる自分がいた。

 

 漫画家は個人事業主だ。

 どんなことが起ころうと、それは自分の責任で、出版社はただの取引先だ。寄りかかる組織などなく、自分がやってきた仕事のツケは全て自分に返ってくる。

 

 この作品は、失敗だった。だけど、これでもう、俺は名無しじゃなくなった。これでようやく『漫画家』として連載、コミックスを出したという実績を残すことができる。国会図書館にだって俺の作品が保管されるのだ。

 

 単行本は1万もいかない……せいぜい数千部くらいだろうが、刷られさえすれば例え売れなくてもその時点で印税は入ってくる。それを合わせても仕事場の家賃やアシスタント代の支払いでかなりの赤字だが、アシ時代の貯金で相殺し、ぎりぎり借金は免れる。

 

 俺は、選択を迫られていた。年はすでに三十を超えていた。

 

 ここで業界から足を洗うか。新しくアシスタント先を見つけ、再び漫画家志望に戻るか。

 俺は後者を選択しようとしていた。性懲りもなく、この経験を肥やしにすれば、次はきっとうまくいくという無理やりな自信で自分を納得させようとしていた。

 

 そんな時、最近仕事用に買った携帯電話に担当編集からメールが来た。

 タイトルは『単行本の件につきまして』――部数が決定したのだろうか。あるいは、単行本作業のスケジュールを詰めるのかもしれない。俺は何も考えずにボタンを押して、メールの本文を表示した。

 

 

 

 

 

『申し訳ありません。

コミックス、出ません』

 

 

 

 

 

 そして、そこに表示された2文字にある乾いた笑いが漏れた。

 意外とショックはなく、たた他人事のように「ああ……そうか」と呟きが漏れただけだった。

 

 漫画雑誌というのは、多くは雑誌単体での損益というのは重要視されていない。雑誌の連載というのは、新人が作品を発表する機会を作ることとコミックスという商品を売るための宣伝という二つの目的が主だからだ。

 つまり、俺に通告されたのは、例えその宣伝費が埋没費用となっても、このコミックスを出すよりはマシという事実。それが企業としての判断だった。

 

 

 

 

 

 アシスタントたちも立ち退き、ガランとした仕事場で一人の夜に考えを巡らせた。

 

 俺は……どこで間違えたのだろう。

 先生のもとにプロアシとして残らず、独立した時。自分の意思を突き通さず、折れて担当の意向に従ってしまった時。職場の雰囲気が悪いのをわかっていながら、何もしなかった時。

 

 いや、違う。どれも違う。決定的なのは、そこじゃない。

 

 たぶん、この作品を……最初から失敗すると決めつけた時からだ。どんな題材でも、自分の持ち味を活かそうと思えばできたはずだし、野球以外のところで自分の描きたいものを入れることだってできた。何より……この雑誌を読んでいる読者――子供たちの中には、野球をしている子だっていたはずだ。俺は紙面の向こうにいるその子たちのことを考えたことが、一度たりともあっただろうか。

 

 スポーツものは取材を重ねて誠実に試合やそのスポーツに関わるキャラの内面を構築する人もいるし、現実にはあり得ない技やキャラクターでエンタメに振り切って読者を楽しませる。

例え自分の経験がなかったとしても、そんなのは些末事なのだ。いい作品を作ろうと思えば、努力のしようはいくらでもあった。

 

 ただ、俺が……最初からくだらない失敗作と決めつけて、いいものにする努力を放棄しただけで、そんな意思すら欠けていた。そうできる可能性だって0じゃなかったのだ。

 

「俺は……」

 

 ただの漫画家気どりだ。漫画など描いていなかった。漫画家になど、なっていなかったのだ。

 考えればわかる当たり前の結論にたどり着いたところで、再び携帯が震えた。ノロノロとした動作で握りしめ、送り主も見ずに反射的にメール本文を開いた。

 

 

 

『連載、お疲れ様でした。

 

 もしまだ新しい職場決まってないなら、どうですか?

 七梨くんの手がほしいです』

 

 

 

 送り主は――先生だった。

 

 

――後任と引き継ぎ、ちゃんとしてね。僕は関与しないから

――あー、ちょっと……上からの意向で

 

 先生の刺すような視線。編集の急な路線変更。煮え切らない態度と歯切れの悪い口元。

 

 まるで見たことのないグロテスクな画像をもとにしたパズルのピースがはまっていくように。俺の思考は、悪い方向へと舵を切っていく。

 

 まさか。そんなこと……そうだ。先生は純粋に俺を労って、アシとしての技術を買ってくれて、また戻ってきていいよと言ってくれているのだ。こんなのは実力でこの業界を勝ち進んでいる先生への逆恨みで、ただの被害妄想だ。俺が失敗したのは、ただ俺が無能だった。おもしろい漫画を描く能力がなかった。ただ、それだけの話なのだ。

 

 だけど――俺は急激に込み上げてきたものを抑えきれず、トイレに駆け込んでゲロった。

 

 誰よりも漫画が好きなはずだった。誰よりも漫画を描くのが好きなはずだった。

 だけど、今、眼前の便器の中にあるのは、汚物と化した夢の残骸だけだ。

 

 肩書だけは、あの頃の目標をかなえた。漫画家志望の中には、連載までたどり着けない人たちだって大勢いる。よくやったじゃないか。もういい。もう……十分だ。もう漫画などに関わりたくない。

 

 俺は口からゲロを垂らしたまま、震える手で携帯を手に取った。

 

 先生に断りのメールを入れると、そのままこちらで知り合った人たちとは一切の連絡を絶った。部屋を解約し、大量の資料とこれまで自分がアシとして関わってきたコミックス、受賞した読切作品が載っているものと連載開始記念に取っておいた週の雑誌。それらの一切合切を処分して、スーツケース一つに収まるほどに身辺整理をした。

 

 それが俺の漫画人生の果てに得た全てだ。

 そうして、翌月には東京から故郷へ戻った。

 

 



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第28話:WORLD END

 

 

 店長さんが語り終わった後、僕らがいる部屋に響くのは無機質なエアコンの風音と店の表側からうっすら聞こえる明るいアニソンの断片だけだった。重苦しい空気に誰も何も言えない。ただぼんやりとどこかを見つめる店長さんの曇った瞳に、僕らは映っていないようだった。

 

「アシスタントとして、色んな人から愛される漫画に携われたのは、嬉しかったよ。曲がりなりにも連載を持てたことも。それに……俺は、夢をあきらめた後も、親のつてで職にありつけたから、まだ恵まれているんだ」

 

 込み上げる熱いものを必死で押さえつける様子に、僕はきゅぅと胃が締め付けられるのを感じた。先ほど深く考えもせず、店長さんが話すきっかけを作ってしまったことを後悔する。

 

 うつむきがちに話す店長さんの姿――それは十二歳の僕の手に余るあまりにも残酷で、苦しい世界の体現者だった。

 

「いっそのことノストラダムスの予言が成就して、世界なんて、滅べばよかった。現実なんて、必要ないと思ってた」

 

 下を向いたまま、店長さんは吐き捨てるようにつぶやく。

 

「ただ、自分の好きな世界があれば……それを描き出せさえすれば、よかったんだ。幸せだったんだ」

 

 唇が震え、喉の奥に引っ掛かるような声だった。先ほど説教していた大人が子どもの前で泣きそうになっているのだ。普通の人からすれば、ドン引きするような光景かもしれない。でも、僕は何も言うことができなかった。

 

 自分が一番好きなもので1ページ、1コマごとに批判され、見向きもされず、自分が作ったものが、この世界にとって価値がないという現実を突きつけられる。

 

 それは同じ漫画を描いている端くれの僕でも、どれだけ痛いことか、よくわかったからだ。

 その時、僕は、親や教師――周囲の大人たちがなぜ夢がある仕事を否定して、「ちゃんとした」、「普通」の仕事を勧めるのか、少しだけわかった気がした。

 

 きっと……夢というのは、希望であると同時に、それ以上の呪いなんだ。

 

 それも呪いが解けた後には、何も残らないどころか借金や失った時間、履歴書の空白――取り返せない人生という置き土産だけが残る……そんな呪いなんだ。

 

 

 

「なんでだよっ……!!!」

 

 

 

 だけど、その時。

 

 僕らがまだ知らなかったそんな事実を切り裂くように、怒声が響いた。歯が砕け散らんばかりに食いしばり、青筋が浮かぶくらいに拳を握りしめ、エロえもんが立ち上がる。

 

 エロえもんは決して緩まぬ視線で店長さんを見た。突然の大声に店長さんも驚いたようにノロノロと顔を上げてこちらを見た。

 

「漫画家なら……死ぬ寸前までえんぴつ握ってろよ!! 線を引けよ!! 諦めんなよ!! 今はインターネットでだって作品を発表できる!! もしかしたら、まだ――」

「そうだね。そうかもしれない」

 

 空間を揺らすような腹の底から出た言葉を、店長さんはあっさりと遮った。

 

 それはとても静かな同意だった。ただ平坦で、穏やかで。

 それでいて、どうしようもないほどの否定を込めた同意だった。

 

「でもね、誰もが藤子・F・不二雄みたいに……死ぬ直前まで漫画家でいられるわけではないんだ。知ってるかい? 藤子先生でさえ、もう来年はのび太たちを冒険させる場所がないって悩んでいたんだ。あまりにもコンテンツが大きくなりすぎて、ドラえもん以外のことをしたくてもできないともね」

 

 店長さんは眩しい太陽を見つめるみたいに目を細めて、エロえもんを見た。

 

「皆、自分が好きなものを作っても……いつの間にか自分の手を離れて、最初の気持ちが消えていく。周囲の要望に応えて好きじゃないものを作ったとしても……それを求められ続けて、作ることも、すごく難しいんだ」

 

 静かにそれだけ言うと、両手を組み、その中にあるものを閉じ込めるようにぎゅっと強く握る。

 

「俺は、手塚治虫のような先駆者の天才じゃなかった。藤子・F・不二雄のように全てをかける落ちこぼれにもなれなかった。ただの……普通のやつだった。俺がやってきたことは、全部、無意味だった。俺の作ったものに、価値はなかったんだ」

 

 それだけは決して揺るがぬ事実だと名探偵のごとく言うと、店長さんはまっすぐに僕らを見つめた。

 

「あの本棚には……今の君たちにとって面白い漫画は、まだ置いてないよ。焦らなくても、漫画以外にも面白いことはこれから先たくさんある。だから――」

 

 そして、一度瞼をつむり、どこか寂しそうに笑い、僕らに告げた。

 

 

 

「大人になるまで……二度とここには来ないでね」

 

 

 

 

 

 「来ちゃだめだよ」じゃなくて「来ないでね」。

 それは、命令より強い拒絶と心の底をえぐられる絶望に包まれた懇願だ。

 

 店をあとにした僕は、店長さんの言葉を何度も脳内で反芻しながら音成市を自転車で走り抜けて帰路についた。

 

 日が傾き始めたとはいえ、まだ八月の中旬だ。自転車をいくら速く走らせても風は生ぬるく、肺を満たすむわっとする空気も相変わらずだ。

 それなのに――まだ八月も、夏休みも、まだまだ残っているはずなのに。台風が過ぎ去った後のような秋風が、僕の肌をなでた気がした。なんだか、もう夏休みが終わってしまったみたいだった。帰路を走っている間、ずっと……何も起きなかった自分たちを浮き彫りにするような夕凪が、僕らにまとわりついていた。

 

 橙に支配される空の下。少しだけ自転車を停めて振り返り、小さくなった音成市の街並みを眺めた。

 大きなエナメルのカバンを抱えて塾に向かう制服姿の中高生。買い物袋を提げた主婦。携帯電話片手にまだ忙しなく歩き回るスーツのサラリーマン。

 今日という1日を終えようとしている街が、やけに遠くに見えた。その瞬間、今までに感じたことのない言葉にできない何かが、胸を支配した。

 

 

 

 僕は……どこにも行けない。

 

 

 

 それはたぶん――確信を持った予感だった。

 きっと、これから先の人生でそんな劇的なことなんて起こらないと、薄々感じていたのだと思う。

 

 

 白亜紀にフタバスズキリュウを帰しに行くことも。宇宙一の用心棒との一騎打ちも。アフリカの秘境を見つけることも。海の底でAIバギーと共に世界を救うことも。魔法でスカートめくりも。異星で独裁政治に反旗を翻すことも。ロボット少女との悲しいお別れも。地底世界で恐竜の絶滅を回避することも。7万年前の日本に家出することも。不思議なモヤを通って迷子になるのも。アラビア世界で絵本の世界との境界線を探ることも。天上人の計画を止めるのも。ブリキの国を崩壊させることも。夢の世界で塵になる恐怖も。自分が作った星の観測も。星間を走るSLの上で宇宙生物と戦うことも。

 

 

 そんなことは、これから過ごす未来では起こらない。

 いや、大冒険でなくても、少し不思議な日常さえ、僕には手に入らない。

 

 僕はたぶん、のび太から一人で会社を興したり、環境省の職員になるようなバイタリティや特技を除いたのび太以下の人間で、未来から人生を変えてくれる猫型ロボットが来てくれるわけでもない。おじいさんにヴェル〇ースオリジナルを100個もらえたとしても、きっと、そんなに特別な人間じゃないのだ。

 

 そんなことは、漫画やアニメやゲームの中にしかない虚構で。僕らの人生にドラマチックな展開なんか存在しなくて。どんなにその世界に立ち入っても、最後には、何もないこの毎日へ帰ってくるだけなんだ。

 

 あの店長さんの話を聞いてから、僕は……漫画に人生の全てをかけてもいいと、思えなくなってしまった。あんなに夏休み中に描きたいと思っていた漫画の続きが、今は一コマも頭に浮かばない。

 

 たぶん、怖いのだ。もし大好きな漫画に全てを注ぎ込んでも、店長さんみたいに何も報われなかったら。何も得られなかったら。今度こそ僕は、この世界から完全に突き放されてしまうから。この狭苦しい奴隷船みたいな世界で生きるしかないって認めてしまうことになるから。

 

 その時……初めて、店長さんが言っていたように、この毎日が終わればいいって気持ちが、わかったかもしれない。

 

 北朝鮮のテポドンが落ちてきて、鳥インフルエンザが大流行して、あちこちでテロが起こって、大きな災害が畳みかけるように襲って。

 

 そんな小さな子供みたいな妄想と一緒に、今、将来という未知への不安がはっきりと形を成して押し迫ってきた。僕らの目の前には、ただひたすらに重く、苦しい実感が、確かな質量を持って横たわっていた。

 

 もう一度振り返り、音成市を――その風景の中で忙しなく生きる人々の流れを、一瞥した。そして、思った。

 

 不謹慎極まりないけど、みんな心のどこかで期待してるんじゃないだろうか。

 閉塞感に満ち溢れ、陰鬱と続くこの世界が、何か劇的な変化によって終わるような――そんな決して人には言えない空虚な願望を、どこかに隠し持っているんじゃないか。

 

 夕日に照らされて橙に染まった景色の中、黒い影が喪服みたいに僕たちを染め上げている。自転車を押して帰路に就く姿が、葬列のごとく夕焼けから抜き出されていた。その影を見ていると、エロえもんたちと出会ってから色づき始めた世界が、モノクロに変わっていくのを感じた。急に漫画を描くことが、馬鹿みたいに思えてきた。

 

 まぶしい光を振り撒きながら、山向こうに沈んでいく太陽。夕方の風が吹き抜けてざわめく雑草。ここまで来てエロ漫画を買うこともできず、無駄足に終わった僕ら。

 

 なんだかそれは……とてつもなくむなしく、脱力感に満ちた光景だった。

 きっと、今日、店長さんから話を聞くまでの僕と明日からの僕は違う。世界が終わるときって、こんな夕焼けなのかもしれない。

 

 ただひたすらそんなネガティブなことばかりを考えながら、夕焼けに急き立てられるようにがむしゃらにペダルを漕いだ。

 

 そうやって、僕らが自分たちの街へ戻ってくる頃には、夕日もすっかりと地平線の向こうへと沈んだ。

 

「じゃあな」

「ああ」

 

 疲れていたせいもあったのだろう。言葉少なげに別れを告げ、幸田と細川と道を分けた後、僕とエロえもんは無言のまま自転車から降り、並び立って歩いた。郊外のあぜ道は街灯が少なく、自転車で走るにはちょっと危なかったからだ。

 

 迫ってくる夜の青とまだわずかに残る残骸の橙が混じり合って、空はコーヤコーヤ星みたいな濃い紫色の光に染まっていた。風もなく、雲もないよく晴れた夜空だった。

 

 田舎とはいえ僕らの家の周りは光害で星がそんなに綺麗に見えないけど、周囲に田んぼしかないここら辺は暗く、空気も澄んでいるから星がよく見える。天の川までは見えなかったけど覚えたての夏の大三角形はすぐにわかった。

 

 今日は月の明かりが強くて、黄金色の輝きの周りで夏の星たちはどこか肩身が狭そうに白く瞬いている。月は1年ごとに3.8cm地球から離れているらしいけど、それでも僕たちが生きている間、地球に天変地異をもたらすほど距離が空くなんてことはないだろう。

 

 でも、あの星たちは違う。彼らは地球からずっと遠くにある星なのだ。今、地球に届いて僕が見ている明かりは遥か大昔のもので、もうあの星たちはこの宇宙には存在していない可能性の方が高い。

 

 他の星からすれば、きっと地球だってそうなのだろう。

 核戦争やパンデミックに世界規模の気候変動、人口減少。どんな原因はわからないけど、きっといつか人類は絶滅しちゃって。70億年後か80億年後には巨大化した太陽に地球は飲み込まれて、人類がいたという証すらも消えてしまう。

 

 そう考えると、やっぱり僕がこうしている時間も、僕が今まで作ってきた漫画も、全部が無意味に思えてくる。

 

「漫画家って大変なんだな……」

 

 歩いて自転車を押しながら、なんとなく僕はぽつりと言った。それは独り言のように漠然としたつぶやきで、エロえもんからも返事はなかった。

 

「……私、あのおじさんと同じこと、思ったことあるよ」

 

 だけど、しばらくして、エロえもんは思い出したかのようにそう答えた。

 昼間の蝉に取って替わったヒグラシたちの声もとうに枯れ、代わりに夏虫たちの合唱が夜に満ちていた。その間をすり抜けて、エロえもんの声は不思議なくらい僕の鼓膜に響いて、頭の中ではあの時の静かな店長さんの言葉がよみがえっていた。

 

――いっそのことノストラダムスの予言が成就して、世界なんて、滅べばよかった。現実なんて、必要ないと思ってた

 

――ただ、自分の好きな世界があれば……それを描き出せさえすれば、よかったんだ。幸せだったんだ

 

「だけど……だから、許せなかったんだ。あのおじさんが……諦めた振りをしているのが」

 

 エロえもんがそう言ったのと同じタイミングで、頭の上からバチっと小さな音が響いた。

 僕らはいつの間にか壊れかけて点滅する電灯の下にいて、光に吸い寄せられた蛾たちが鱗粉を振り撒きながら、何度も体当たりを繰り返している。白い蛍光灯に照らされたエロえもんの横顔からは、表情が読み取れなかった。

 

「世界を滅ぼしたいなら……ち……っ……『地球破壊爆弾』でも、使ってみる?」

 

 軽口を叩いた僕にエロえもんは何も言わず、「君は本当にドラえもんが好きなんだな」とどこか寂しそうに笑うだけだ。

 

 それから僕らの間に言葉はなかった。遠くで響く喧噪とくたびれた自転車がきしむ音に小学生二人分の足音が混じる。祭りが終わった後のようなもの悲しい響きだけが、僕らの間にある全部だった。

 

「なあ」

 

 その時、唐突にエロえもんが足を止めた。少し先へと足を進めてしまった僕は振り返り、彼女を見た。先ほど違い、その顔には何かを企むような笑みが浮かんでいる。どこかで見覚えのある表情だった。

 

 

 

「この後……ちょっと付き合えよ」

 

 

 

 それが、初めてちゃんと会話をした――あの玄関ホールで取っ組み合いをした時と同じ台詞と表情だということに気づいたのは、その提案に頷いた直後だった。

 

 



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第7巻 Great Escape
第29話:God Knows


 

 僕は尋ねた。

 エロえもんは答えた。「学校に行こう」、と。

 

 

 

 

 

 雲の欠片もない静かな晴天の夜だった。月光を受けて白く光るグラウンドには、怪物みたいな校舎の黒い巨影が落ちている。まるで昆虫の複眼のような闇に染まった無数の窓枠が、僕らをじっと監視している。

 

 家路から逸れた僕らは近くのコンビニに自転車を置き、その足で小学校へと向かった。外周をぐるっと歩いて見てみたが、職員室にもすでに灯りはなく、唯一の光源はあの用務員のおじさんがいるプレハブみたいな宿舎の窓だけだ。

 

 周りに民家がなく、車の通りも少ない裏門近くまでたどり着くと、エロえもんはじっとその門構えを見据える。そして、おもむろに通路を塞ぐ折り畳み式のアコーディオンゲート――僕らの背丈よりちょっと高いそれに手をかけ、「足支えてくれ」と僕に告げる。

 

「えっ?」

 

 戸惑う僕を尻目に、エロえもんはそのまま体を浮かせた。僕は少しためらいがちに彼女の足首を持って、上へと押し上げる。まるでクモのようにスルスルとエロえもんは上っていき、ゲートの向こう側へと着地した。

 

「ほれ」

 

 エロえもんはあっさりと内側から鍵を開錠し、わずかに空いた隙間から僕を招き入れる。

 

「これって不法侵入じゃない?」

「まあ、そうだな」

 

 あっけらかんと言い放つエロえもんは僕に「こっちだ」と指を差し、裏門から早歩きで移動する。どういうつもりなんだろう。エロえもんの真意がわからない。僕は不安を顔に滲ませながらも、彼女について行くしかなかった。

 

 エロえもんの背中を追い、そこが見覚えのある場所だと気付くのに時間はかからなかった。

 

「ここでしばらく待機だ」

 

 たどり着いたのは本校舎から少し外れた――先週、パソコン室の鍵を借りに来たあの用務員宿舎だった。指示に従い、少し離れたところにある旧時代の遺物、小型焼却炉の陰に隠れること十五分ほど。

 

 やがて、宿舎のドアが開いた。演歌っぽい調子の鼻歌を歌いながら出てきたのは、用務員のおじさんだ。左手に持っていた懐中電灯のスイッチを入れると、漏斗状の光が闇を切り抜き、おじさんは校舎の裏手へと消えていく――宿舎のドアに、鍵はかけずに。

 

――二時~四時の間は巡回と別の仕事あるから、鍵は勝手にこの中入って戻しとけ!

――なんか……巡回中とか、簡単に鍵盗めそうだな

 

 僕はその時、ふとあの時のおじさんの笑い声と何気ない幸田の言葉を思い出した。同時にエロえもんが何をしようとしているのかも理解する。

 

 さすがに止めた方がいいんじゃないか……しかし、そう思った時には、もう遅かった。エロえもんはぱっと駆け出し、まるで泥棒みたいに(実際そうなのだけど)ドアを素早く開けると、宿舎の中へと忍び込んだ。僕は状況に流されるままに慌ててその後ろへ続く。

 

 ドアの向こうは、6畳もない狭い畳敷きの和室だった。隅のブラウン管テレビではNHKかどっかの歌謡ショーが流れ、真ん中には小さなテーブル、壁際にはこれまた小さな冷蔵庫と電気ポットが設置されている。そして、その上には――コルクボードにくぎ打ちされたフックに、鍵がずらりと並んでいた。

 

「これ頼む」

 

 エロえもんはそのうちのいくつかを適当に見繕い、ズボンのポケットに突っ込む。何本か僕にも渡された。これで指紋が付いたので共同での犯行となってしまう。

 

 だけど……なぜだろう。これまで、不安で、彼女を止めなきゃいけないと思っていたのに。

 

 宿舎を急いで飛び出した時、僕は得体の知れない高揚感に包まれていた。こんなことはマジの犯罪で、やっちゃいけないとわかっているのに。昼間、あの店長さんから叱られたばっかりなのに。なんだか、もうすべてがどうでもよくて。僕は先ほどまでと違い、エロえもんの横に並び立って、宿舎を飛び出していた。

 

 僕らは用務員のおじさんと出くわさないように注意し、本校舎西側の勝手口の扉を開けた。

 校舎の中へ続く薄暗い廊下は、まるで異界への入口のようだった。埃っぽく、暗闇に閉ざされたその道を僕らは慎重に進んでいく。

 

 僕らが初めてまともに喋った玄関ホールを通り過ぎ、エロえもんが千条先生に啖呵を切った職員室のプレートの下を抜け、パンツ一丁を見られてドギマギした保健室を横切り、エロ漫画を買う方法を調べたパソコン室を視界の端に捉える。

 

「怖いか?」

 

 光度に慣れてきたおかげで暗闇から浮かび上がるエロえもんの横顔が見えた。

 いつもの得意気に加えて、ちょっといたずらっぽい笑みだった。

 

「……別に」

「嘘つけ」

「本当だよ」

 

 少しムキになった子供っぽい僕の声が、静まり返った廊下に響く。外にいた時は聞こえていた夏虫のささやきも、どこかでバイクのマフラーが震える音も、今は不思議と聞こえなかった。

 

 人気なく、電灯が全て消え落ちた校舎の中。人工的な灯りは、時折壁際に現れる防災ブザーの赤と避難口の上に設置された誘導灯の緑だけだ。

 

 僕らを照らすのは綺麗な月明かりしかなくて、降り注ぐ光が校舎の中を満たしていた。風景の全てが淡く光を帯びていて、なんだかそこは夜の水族館――いや、まるで海の底を歩いているみたいだった。足を進める度に、黒と白が折り重なる夜の洪水に僕らは飲み込まれていく。

 

 青に染まった廊下の踊り場も、県のコンクールで誰かが受賞した絵も、薄汚れたタイルに囲われた長方形の洗面台も。いつもとは違いどこかよそよそしい学校の風景の中、目的もなく僕らは歩き続けた。

 

「……おっ、我らが教室だ」

 

 そんな折、頭上のプレートを見て、エロえもんがニヤリと笑った。いつもと違う風景に気を取られ、僕はそれに気づかなかった。ポケットから鍵を一つ取り出して、エロえもんはドアへと差し込む。スライド式ドアは何事もなくいつも通りの音を立てて開いた。毎日聞いていた音のはずなのに、ずいぶんと久しぶりに聞いたような気がする。

 

 教室の中は、月光を受けてほのかに輝く天板が整列し、黒板の日直欄の上では終業式の日付が記されている。まるで、ここだけ世界から隔絶され、夏休み前で時間が止まっているみたいだ。

 

 小さな夜に包まれた、小さな学校にある、小さな教室にいる、小さな僕たち。

 すごく蒸し暑いのに、その孤独に冷えた景色を頭の中で俯瞰すると、なぜか僕は真夏の夜に凍えそうだった。

 

「なんだか……この世界に私たちだけみたいだな」

 

 同じようなことを考えていたのだろうか。そんなことを言うエロえもんの方に顔を向けると、「……すまん」と照れ臭そうに下を向いた。

 窓辺の席で机の天板をじっと見ているエロえもんは、いつもと違い、すごく小さく見えた。なんだか月明かりに透き通るようなその横顔を見ていると、ふいに変な予感に襲われた。

 

 ……エロえもんが、このままどこかに行ってしまうのではないか。そんな予感が。

 

「なあ」

 

 そんなふうに全てが静止した青の時間の中で、エロえもんは机の中に入っているプラスチックケース――僕たちの地域では道具箱と呼んでいたものを引き出す。鉄とプラスチックが触れ合う無機質な音が響いた。

 

「もしこの机の引き出しがタイムマシンの入り口に繋がってたら……君ならどうする?」

 

 その問いに、僕はしばらく黙考した後、「わからない」と一言だけ答えた。

 

 だけど、それは……嘘だった。昨日までの僕なら、迷わず、未来に行ってエロえもんと一緒に漫画家になった自分を見に行こうと言うだろう。過去に行って、じいちゃんに僕にも友達ができたって報告するだろう。

 

 でも、今の僕は……きっとその引き出しの先にタイムマシンがあったとしても、過去にも未来にも行こうとは思わないだろう。あの店長さんの話を聞いた時から、僕は決定的に何かが変わってしまったのだと思う。

 

「私は……早く未来に行きたい」

 

 曖昧な僕の答えとは対照的に、エロえもんはそう言い切った。

 

「子供は、もう嫌だ。でも、親や教師みたいな大人にもなりたくない……何かになりたい。子供じゃないけど、あいつらみたいな大人でもない。何かに」

 

 僕は黙ったままだった。言葉が喉に詰まり、出てこなかった。吃音とは関係なしに、どんな言葉を使えば正しいのか。うまく自分の思いを表現できるのか。今の僕には、どんなに時間を尽くしても、何もわからなかったから。

 

 僕の無言の回答にエロえもんは静かに笑った。笑っているのに泣いているような――僕がよくする苦笑とも違う、初めて見る表情だった。僕はその顔を見て、今までに感じたことのない胸が締め付けられる感覚を覚えた。

 

 でも、それでも、僕も早く未来に行きたいとは、言えなかった。

 

 だって、僕たちのもとにドラえもんは来ない。ジョン・タイターの書き込みだってきっとでたらめだし、未来なんてたぶん、この何も起こらない日々の連続の先にあるだけなんだ。

 

 僕たちが立っている暗い教室に薄い月光が差し込んだ。その窓辺に寄りかかり、僕らはどうしようもなくただ現在(いま)に取り残されていた。

 

「私も……もしかしたら、漫画家になんかなれないのかもしれないね」

 

 僕の無言を、否定と受け取ったのか。エロえもんは少し寂しそうに笑った。

 僕は、拳を握りしめ、エロえもんをまっすぐに見つめる。

 

「なれるよ」

 

 そして――断言した。

 これだけは、絶対に言葉にして伝えようと思ったから。

 

 だって、君はいつでも揺るがなかった。

 千条先生に殴られそうになった時も、相合傘を描かれた時も、舞子先生のおっぱいを凝視していた時も……あの店長さんから漫画家の辛い現実を聞いた時も。

 

 エロえもんが向かい合った大人たちからすれば、つまんないことなのかもしれない。男のくせに女子にこんな感情を抱くなんてかっこ悪いのかもしれない。

 だけど、僕にとって――君は間違いなく、現実世界で初めて出会うヒーローだった。だから、そんなふうに迷った顔を見たくはなかった。僕はあの店長さんの話に打ちのめされてしまったけど、君にはいつもみたいに自信満々の顔で「漫画家になるに決まってる」と笑っていてほしかったんだ。

 

「〇〇は、漫画のし……ぅ……し……キャラクターみたいだから」

 

 本当は「主人公」と言いたかったのだけど、こんな時ですら僕の口はうまく動いてくれなかった。

 

「君に名字を呼ばれたのは……久しぶりだな」

 

 ほんの一瞬だけ苦笑いを浮かべたエロえもんにそう言われ、自分でも無自覚にあだ名ではなく……「彼女」の名前で呼んでいることに気づいた。

 

 その時、気づいた。いや、本当はずっと心のどこかで理解していたのかもしれない。

 もうバカなあだ名で呼び合えるような――子供の時間が、終わろうとしていることを。

 

「私……もう、その名前じゃないんだ」

「えっ?」

 

 だけど、その時、発せられた言葉に目の前の現実が揺らめいた。見開いた視界越しにエロえもんの表情が歪む。

 

「親、来週離婚して、母親が親権持つから。だから……もうその名字じゃなくなる」

 

 僕は、吐き捨てられた事実に動揺し、口を開きかける。だけど、結局出てきたのは言葉にならない空気の塊だけだった。

 

 僕の周りで両親がそういうことになった子は初めてだった。日本の離婚率からすれば、決して珍しいことではないのに。そのせいか、僕はこれまで離婚など不倫した芸能人がワイドショーでそうなったのを聞くぐらいで、テレビの向こう側の話だと思っていた。

 

「なんで……?」

「元から仲はあんまり良くなかったけど……たぶん、私と父親の血が繋がってないって、わかったのがきっかけだと思う」

 

 『私と父親の血が繋がってない』。

 

 それは、生まれ育ったこの国で使われている純度100%の日本語のはずだった。だけど、僕にはその意味をわかっても、理解はできなかった。

 

 エロえもんは言葉少なに事情を説明した。

 

 両親は共働きで、夜帰ってきても二人の間にほとんど会話はなかったこと。

 離婚調停に入る前。父親が珍しく早く帰ってきた時、仕事鞄にこっそりと入れていた封筒――その中身を見てしまったこと。

 

 エロえもんの話は、まるで遠い異国の言葉で行われる演説のように聞こえる。

 でも、僕も、そこまで子供じゃない。その一連の話から……彼女の母親が、過去に何をしたのかはなんとなく察することができた。察することが、できてしまった。

 

「父親は、今でも私のことは娘だと思ってるって言ったけど……男親は裁判で親権取りづらいし……顔を見るのが、辛いって。毎日顔を合わせるのが、耐えられそうにないんだってさ」

 

 エロえもんは乾いた笑みを浮かべた。はっきりと「父親」と言った。そこには「パパ」と呼びかけていちいち直していた頃の面影は、まるでない。彼女は下唇を噛んだまま、背負っていたカバンの中を乱暴に取り出し、ぶちまけるように宙へ放り投げた。

 

 僕ら以外誰もいない教室に、大量の紙切れが四散した。月明かりを反射して白く輝き、まるで蝶の羽のように僕らの周りをひらひらと舞い、地面へと落ちる。

 それは――漫画だった。僕が彼女の部屋に初めて入った時に見せてくれた、あのちょっとエッチなラブコメ漫画だ。

 

 だけど、そのうちの1枚を手に取った時、僕は呆然とした。

 あるものは斜め半分に破られ、あるものはしわくちゃにされていて――それがエロえもん自身の手によるものなのか、彼女の両親の手によるものか。「……ごめん。八つ当たりだ」とだけ告げる彼女の表情からは、読み取れなかった。

 

 ただ、僕は――黙って床に散らばった漫画だったものの残骸を拾い集めるほかなかった。ただ、その最中、一枚だけ白と黒で構成された漫画とは明らかに違う異質が紛れ込んでいることにきづく。

 カラフルなそれを手に取り、近くで見てみる。名前も聞いたことがない女子校の私立中学。夏期オープンスクールのチラシだった。

 

 

――まあ、私は焦ってやんなくても大丈夫だからいいや

――うち、ちょっとの間ネットが使えなくなりそうなんだよ

――自分も周りも、どうにもならないってわかってても……でも、どうしてもどうにかしたい時って、どうすればいいんだろうな

――あー……すまんが、今週末はちょっとな

 

 

 その時、これまでの彼女の発言が、僕の脳内で思い起こされる。

 

 おそるおそる右下にあったその学校の所在地を確認した。それは遠く離れた他県のもので――エロえもんに言われなくても、彼女が遠くに行ってしまうことがわかった。

 

「……来週末、引っ越すんだ。母親の実家がある県。それで、そこ、受験しろって」

 

 そして、エロえもんが初めて聞く震える声で、その推測を裏付けた。今、世界で一番聞きたくない事実だった。

 僕も一昨年まで転勤族だったから、別れなど慣れているつもりだった。

 

 だけど、だけど、だけど……!

 

 大人になれば飛行機や電車を乗り継いで1日もかければ会いに行ける距離だけど、そんなお金も手段もない今の僕らには、それはとてつもない距離で。エロえもんの引っ越し先は、ハルカ星やハテノ星雲みたいな宇宙の果てとなんら変わりないもののように思えた。チラシの中では、僕らのことをあざ笑うかのように教職員と生徒がにこやかな笑みを見せていた。

 

「笑っちゃうよな。今時、規則でセーラー服に三つ編みおさげだぜ? しずちゃんかよ」

 

 『着せかえカメラ』のファインダーを覗くように、目の前にいるエロえもんに頭の中でチラシの中のセーラー服と三つ編みを被せてみる。エロえもんには、全然似合わなかった。

 

「……パパもママも……私にどうしたい? なんて、一言も聞いてくれなかった。相談もしなかった。ただ、そう決まったから。いつも、それだけなんだ」

 

 どうということない平坦な声だったが、それは僕の胸に重く響いた。

 

 そう。僕らはいつだって、こうなのだ。

 仲良くなっても転校しなくちゃいけないし、じいちゃんが死んじゃうのに何もできなかったし、クラスに馴染めなくても学校には通わなきゃいけないし、お金があってもエロ漫画を買うことはできなかった。

 

 どんなにこの世界に反抗しても、結局僕らは何もできない子供のままで。自分たちの意思とは無関係なところで世界は動いて、成す術なく奪われて、そのまま流されていくしかない。

 

 エロえもんが拳を握りしめながら、下を向き、黙りこくった。

 空間に沈黙が満ちた。その静けさが、もうエロえもんと会えなくなるという事実を僕に再度自覚させた。教室の隅――月明かりが届かない闇に視線を落とすと、どうしようもない不安と悔しさが生まれた。闇は深く、濃く。僕はそれをどうやっても、掃う手段を持たなかった。

 

 やがて、数分経ってから、エロえもんが顔をあげた。何もできずにその横顔を眺めていた僕と目があった。

 

「ねえ――」

 

 数分ぶりに発せられたエロえもんの声。

 その二文字は、瞳の輝きは、何光年もの先から届けられたもののように思えた。

 

 

 

 

 

「……やろうよ」

 

 

 

 

 

 続いて僕の鼓膜に響いたのは、そんなひらがな四文字分の音だった。

 

 



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第30話:エンドレスエイト

 

 僕は、その言葉が持つ意味を理解できなかった。ただポカンとアホ面を下げて「えっ?」と問い返すと、僕の返事を聞く間もなくエロえもんが、突然Tシャツを脱ぎ出した。

 

「何を――」

 

 僕は言いかけて、開いた口を止めた。

 

 脱ぎ去ったTシャツの下から現れたのは、日に焼けて少し浅黒い肌。ショートのズボンからむき出しになっている太もも――そして、白いスポーツブラの下にある小さな膨らみ。

 

 それは、まるで突然目の前にアカシックレコードが現れたようにも思えたし、前ニュースで見た百年に一度しか開花しない花が咲いているようにも見えた。いずれにせよ、僕にとって全く未知の存在が、そこには立っていた。

 

 彼女は異世界人のような仕草で前髪を払い、未来人のような唇を震わせ、超能力者のような目元で僕を見据え、宇宙人のような表情を浮かべた。

 

 この子は――いったい誰なんだろう。

 ふと、そんな疑問が頭に浮かんだ。そして、即座にそれを自分で否定する。僕は何を言ってんだろう。エロえもんに決まってるじゃないか。

 

 だけど、月明かりを受けてほのかに青く光り、少しかすれた声の少女は、まったく知らない女の子のように思える。夜の影に彩られたその顔はまるで作り物みたいで、僕はそこから視線を逸らすことできなかった。同時に心臓を鷲掴みにされたような――今まで感じたことのない疼きが、胸に走った。

 

 こちらに向かって彼女が歩み寄り、緊張した面持ちで目の前に立った。

 そして、硬直する僕の手首を掴み、己の方へと強く引き寄せた。瞬間、なされるがままの僕の掌が固く、少しだけ柔らかいものに触れた。

 

 放課後の玄関ホールでマンガノートを取り返そうともつれ合った時と同じ――だけど、何かが違うものが僕の手の内にあった。少し厚い布越しに捉えた感触がなんなのか。視覚でその光景を認識する前に、僕はそれを理解していた。

 

 いつもの四人でエロ談義をする時は「思いっきり揉んでみてぇ~」なんて馬鹿なこと言ってたけど、僕の指はピクリとも動かなかった。いや、動けなかった。まるでサッカーの時と同じように棒立ちになり、ただ掌から伝わる自分のものではない温もりだけがこれが現実なのだと告げていた。

 

 そんな僕を見たエロえもんは、微笑んでいた。

 だけど、本当は笑っていないことだけがわかった。怒っているようにも見えたし、悲しくなっているようにも思えたし、寂しくなっているようにも感じた。

 

 ただどうしようもない切実さだけが、赤く染まった耳元からこぼれ落ちている。その思いを、この昂ぶりを、どうすればいいのか。僕には全く見当がつかなかった。

 

 そして、その時、ふと――本当に唐突に、僕は理解した。

 

 僕たちは、この先、今までとは同じでいられないのだと。エロえもんが遠くに行こうが行くまいが、きっと関係ない。何かが変化して、この夏休みのように過ごせることはないのだと。そう、はっきりと悟った。

 

 エロえもんは困惑する僕を力の限り押し倒し、両腕を押さえつけた。幸田と喧嘩した時のように机の脚が床を引っかく音が聞こえた。自由帳を奪われたあの時とは逆に、彼女が僕の上に跨り、頬を赤く上気させてまっすぐにこちらを見下ろした。

 

 肌の柔らかさと指の感触、触れる温度。瞳孔が開いた瞳。中性的な顔立ちを構成する鼻筋と唇の形。月明かりに揺れるショートカットの髪の毛。

 

 膝立ちになり、夜の教室から切り取られたエロえもんだけが、僕の視界を支配していた。

 ウシガエルの鳴き声や車の排気音、夜風に揺れる木々の葉擦。窓の外から聞こえていた一切の音が消え、僕の中には痛いくらいの静寂と早鐘をうつ心臓の鼓動だけが同居していた。

 

 得体の知れない緊張と不安と興奮が体の隅まで血液を巡らせて、呼吸の仕方を忘れそうになって、時折水面から顔を出すように息をする。

 青い視界の中で、いつも見ていたはずのエロえもんの体だけがほのかに赤い色見を帯びて、今までに嗅いだことのないむせ返るような匂いが鼻をついた。五感で捉える彼女の全てが、僕が今まで生きてきた12年間に経験した何物とも違った。

 

 

 

 宝島。エロマンガ島。人間です。

 

 

 

 教室を包む淡い光に隠された秘密に手を伸ばそうとした瞬間、そんな意味を成さない単語の群れが脳内で明滅した。

 その直後、エロえもんが――友達が――急に全く別の恐ろしい何かに思えた。

 触れ合う肌を、体の熱を通して、エロえもんの中から押し寄せてくる衝動を必死に受け止めようとする。

 

 だけど――

 

 

「ごめん」

 

 

 たぶん。

 そう言葉にした瞬間が、僕とエロえもんの未来を徹底的に隔てたのだと思う。

 

「……なんで?」

 

 口を衝いて出たような彼女の疑問を聞いても、僕は何も言えないままだった。ケガをしているのにそれを隠して強がっている野良猫みたいな表情が、僕から言葉を奪った。

 

 自分でも、どこからこんな力が湧いてくるのかわからない。だけど、僕の腕を押さえつけていた彼女の手首を持って無理やり押し返し、上半身を起こした。

 口ごもりつつ、もう一度「ごめん」と拒絶の意思を告げると、エロえもんもまた「なんで?」と小さく繰り返し、ペタリハンドみたいな握りこぶしで僕の胸を何度も弱弱しく叩いた。エロえもんが僕の胸を打つ度に、その問いかけは心に重くのしかかった。

 

 なぜ自分でもそうしたのかわからない。

 なぜだかわからないけど……彼女は、ここで僕とセックスをするべきじゃないと思った。

 

 エロえもんは、きっと、何もできない今の自分に納得できなくて。だから、セックスをすることで僕らを取り巻く窮屈な世界に反逆して、特別な何かに変わりたかったのかもしれない。

 

 その相手に僕を選んでくれたことは、正直に言うと、嬉しかった。

 そして、その時、やっとわかった。

 

 

 

 僕は……たぶんこの子のことが好きなんだと思う。

 

 

 

 でも、それがどういう「好き」なのかは、自分でもわからない。

 ひとつはっきりと言えるのは、単純に女の子として好きってだけではないと思う。

 

 それよりも漠然として、霧がかったようにもやもやしていているけど。

 僕は、この世界で一番信頼できる親友として彼女が好きで、漫画という同じ夢を持っていた相棒として好きで、そして……一人の人間として、エロえもんが大好きだったんだ。

 

「君は……僕とは違うから」

 

 だから、ここでセックスをしたら、君を傷つけてしまう。例え僕らの道がここで別れることになっても、きっとそうすべきじゃない。エロえもんは、もっとちゃんとした別の方法で、特別になるべき人間なんだ。

 

「エロえもん」

 

 僕は、もう一度……今度は名字じゃなくて、あのあだ名で彼女を呼んだ。彼女はしばらくうつむいたままだったけど、やがて顔を上げた。瞳が真っ赤に染まっていた。

 

「僕は――君の漫画が、好きだ」

 

 体と心の全てが、痛かった。だけど、それでも伝えたかった。

 

 これから先の未来で、君の漫画を、君自身を、あるいは別の何かを、誰かが否定するかもしれない。鼻で笑うかもしれない。蔑むかもしれない。

 だけど、僕はいつまでも君の味方でいたい。例え世界中が敵に回ったとしても、僕は君が生み出す世界を見続けていたいんだ。

 

 月明かりを弾く滴がエロえもんの瞳から溢れ、頬をつたい、顎先で震えている。ぽとり、またぽとりと落ちる水滴が床に濃い影を作った。落ちていく涙に。初めて見る泣き顔に。僕も泣きたくなったけど……僕は泣かなかった。泣くべきじゃないと思ったし、彼女と一緒に泣く権利はないと思った。

 

 だから、僕は、エロえもんの肩を引き寄せて――そのまま、強く抱きしめた。

 

 エロえもんは一度びくりと肩を震わせたけど、ただ少し体を強張らせるだけで、僕の薄い胸に額を押し付けた。友情とか、恋だとか、憧れとか。僕にそうさせたのが、どういった種類の感情なのか、自分でもよくわからないけど。

 でも、僕はそれでも、あの教室で僕を見つけてくれた――唯一無二の友達にしてあげられることが、ただ、ずっと欲しかったんだ。そして、セックスとかエッチとか、どうやってやるのかわからない僕にできることは、限られていた。

 

 

 僕はエロ漫画を買うことも、友達の涙を止めることもできない――ただただ無力な小学六年生だった。

 

 

 エロえもんにTシャツを着せて、散らばった残りの漫画を拾い集めると、僕らは二人で教室の壁に寄りかかって床に座り込んだ。椅子と机の脚に囲まれた檻のような景色が目の前に広がり、一つ目線が下がると全く違う世界になるのだとどうでもいいことを思った。

 

 そうやって――どちらからともなく、隣り合った手を握った。まっすぐに天井を見上げるエロえもんの横顔は先ほどまでとは違っていつもと同じ――いや、いつもより幼い表情に見えた。

 

 ひそひそ話をするように小さな声で、僕たちはこれまでのことをひたすらに話した。

 最初に自作漫画を見せ合ったあの日から今日までのこと。幸田や細川のこと、そして、好きな漫画のこと。知っていることも。知らなかったことも。相手のことも。自分のことも。限られた時間の中で、何度も、何度も。

 

 だけど、これからのことは、お互い一切話題に出さなかった。

 

 エロえもんとちゃんと話し始めたのは、この数か月の間だけだったのに。僕たちの中には、色んな思い出がしまってあった。まるで別次元に繋がっているように、僕らの間には無限の過去が広がっていた。ただ心が通じ合える誰かが隣にいてくれることが、それだけで嬉しかった。

 

「私もね……好きだよ。日野の漫画」

 

 初めて僕の漫画を見た時からずっと――エロえもんはそう言ってくれた。

 それからの日々では。授業中も、休み時間も、登下校の間も、オープンスクールで連れていかれた遠い街の景色の中でも、君と君の作る漫画のことを考えていた。そう言ってくれた。

 

「君は私のことを主人公みたいって言ってくれたけど、違うよ。君があの教室にいてくれたから、私は……私でいられた」

 

 僕の手を握るエロえもんの力が強くなる。さっき「主人公」という単語言えなかったのにわかってくれたことに気づいたのは、後からだった。

 

「君が私にとっては……主人公だったんだ」

 

 僕には「心の友よ」なんて、クサい台詞を言える度胸はなかったけど、ただエロえもんの手を離せずに……いや、離さずにいた。今思えば、それは12歳の僕らにとって、性別やしがらみ、立場を超えて、ただ『友達』としてそれが許されるぎりぎりの行為だったのだと思う。

 

 それでも、言葉にならないほどエロえもんに伝えたいことがたくさんあった。

 

 僕はきっとこの夜のことを、一生忘れない。忘れちゃいけないと思った。

 エロえもんの涙に反射した夜の明かりも。押し寄せてくる学校の暗闇も。二人を包んでまとわりつく湿気も。繋いだ手から感じるあたたかな温度も。残しておきたいこの日の欠片を全部、全部、思い出のポケットにしまっておこうと決めた。たぶんエロえもんも同じ気持ちだったと思う。

 

 子供として、純粋に友達としていられる最後の時間を、僕たちはそうやって過ごした。

 

 

 

 

 

 僕らは、用務員宿舎に鍵を返しに行った。

 

 おじさんは鍵を盗んだことに対してはすごい剣幕で僕らを怒鳴ったけど、意気消沈した僕の顔と泣きはらしたエロえもんの目元を見て、何か察してくれたらしい。

 宿舎の施錠管理ができていなかったことを僕らに詫び、「……悪戯のひとつくらい、子どもはするもんだよな」と親や学校への連絡はしないと約束してくれた。

 

 

 

 その帰り道。夢から覚めた後にのしかかる現実の痛みを抱えながら、僕とエロえもんは二人並んで自転車を押し歩いた。僕らが逃げ込んだ夏休みが、終わろうとしてた。

 

 湿気を含んだ真夏の重たい夜に沈黙が溶けていった。蝉に取って代わった夏虫と蛙の声の中で僕たちはひたすらに無言を貫いて、一歩ずつ前へ前へと家との距離を縮めていく。このまま『どこでもドア』をくぐって遠くへ行けたらと思ったけど、きっと僕らはまっすぐ互いの家に帰るだけだろう。

 

 僕たちは明日からそれぞれの場所で、それぞれの明日を生きていかなきゃいけない。

 

 今まで口に出さず、目を背けていた事実に、僕は唇を引き結ぶ。今日までの時間の中で、エロえもんはこんなに近くにいたのに。きっと、もう、会うことはない。

 その事実を信じることはできなくて。でも、たぶんそれは変わらない未来の決定事項で。僕らはただ何も言えず、冒険の帰り道を続きから歩き続けた。自分の力ではどうすることもできない絶対的な確信が、歩みを進ませていた。

 

「私ね」

 

いよいよ道が分かれる時になって、エロえもんがぽつりと漏らした。

 

「引っ越し先でも……漫画、描くよ。中学に入ってからも描いて、描いて、描きまくって……絶対に漫画家になってやる」

 

 すぐ近くを通り過ぎた車のヘッドライトが、その顔を照らした。

 泣きはらした目元だけど、口元は笑っていた。僕がいつも見ていた得意気でシニカルな笑みだった。

 

「それで早く家を出る。早く……一人で生きていけるようになりたい」

 

 僕は、何も言えなかった。彼女も、それ以上何も言わなかった。

 僕らはしばらく金縛りにあったみたいに動けずにいたけど、やがて――エロえもんが今までに見せたことのない満面の笑みを僕に投げかけた。

 

 

「君も……描けよ」

 

 

 その笑顔を見た時、永遠に続くように思えた夏休みが、自分の中で終わっていくのを感じた。

 

 胸に焼き付く感触を握りしめる僕を置いていき、エロえもんの背中は、夏の夜に――僕が進めなかった未来に吸い込まれ、やがて溶けていった。

 



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第8巻 Emotion
第31話:ノスタルジック爺


 

 

202×年 8月

 

 

 

 

 

 

「駅前の店、畳んでるとこ多かったなぁ」

「テナントもどんどん抜けてるし」

信郎(のぶろう)はインドに赴任して何年になるんだ?」

「武蔵はまだ練馬で俳優目指してんのか?」

 

 

 

 並べて繋げた居間のテーブルとキッチン前のダイニングテーブルでは、県の内外から集まった親戚たちが勢ぞろいし、雑談に花を咲かせていた。大人たちは互いに瓶ビールや日本酒を注ぎ合い、その周りではチビッ子たちが叫びながら駆け回り、テーブルに置かれたパーティ用のオードブルや寿司をつまんでいく。

 

 祖父母はすでに亡くなっているが、親戚の集まりといえばリフォームしたこの家と昔から決まっていて、毎年お盆や正月は親族たちがこの手の宴会を開くのが子どもの時から恒例だった。

 

 だけど――この光景もずいぶんと久しぶりだなと思う。2020年の初頭に起こったコロナウイルス騒動のせいで県内の親戚はともかく、遠方や海外に住んでいる親族とはなかなか一堂に会する機会がなかったのだ。

 

「どうだ!? 東京の暮らしは!?」

 

 部屋中を走ったり、寝転んでタブレットを見る子供たちを避けながら姉の指示のもと料理を運び、誰かが溢した酒瓶の後始末をしていると、ふいにそんなことを横合いから言われた。普段は北海道に住んでいる叔父だ。基本的に楽しい人なのだが、酔うと顔が真っ赤になって声が大きくなり、何度も同じ質問を繰り返すのが毎年の風物詩になっている。この質問も、大学時代に東京に出てから毎年されていた質問だった。

 

「あっ、はい。満員電車に慣れるまでは大変でしたけど、もう長いですし。悪くないですよ」

「で、結婚は? 彼女いねえの?」

 

 ……ああ。そういや、この質問も毎年恒例だったな。

 

 僕は後ろ頭をかきながら苦笑いを浮かべ「あっ、はい。ちょっと仕事に追われて……」と追われる仕事もない無職のくせに、堂々と嘘をつく。

 

「お前なぁ、仕事なんて何年たっても落ち着かないもんなんだよ。帰ったらすぐ彼女作れ! すぐにだ!」

「酒も飲まねえ、タバコも吸わねえ、女も抱かねえ……お前、何が楽しみで生きてんだ!?」

「いや、ははは……」

 

 そうやって曖昧な笑みを貼り付けてごまかしていると、周りに話を聞きつけた年配の叔父連中が集まり「女を抱けえっ!! 抱けーっ!!」と騒ぎ始めるので、僕は空いたビール瓶を片付けるフリをしてその場を後にする。

 時は令和だというのに平成を通り越してノスタル爺な昭和空間から逃げるように台所にビール瓶を置き、ふと先ほど叔父からかけられた言葉が脳裏を過ぎった。

 

 

――お前、何が楽しみで生きてんだ!?

 

 

 その問いを思い出し、誰も見ていない台所の暗がりでひとり卑屈に片頬を持ち上げる。

 

 ……正直言うと、今の僕には、特に生きる上での目標とか楽しみとか、そういった類のものはない。ただ、なんとなく死ぬ理由もないから生きている。そんなところだ。

 

 こんなふうになったのは、いつからだろうか?

 

 再会を祝う親戚たちの明るい声色から逃げるようにリビングを遠回りし、避難場所にしようと昼間目星をつけていた元自分の子供部屋へと向かっていた時、胸の内から湧き上がってくるる自問自答に気づく。

 

 だけど、そんなことも、もう覚えていない。いや、今の今まで考えもしなかった。小学生のあの頃と比べ、うまくなったのは小さな「ゅ」と「ょ」の発音をなんとか詰まらないように喋ることだけで、毎日の過ごし方や時間の使い方は下手糞になっているからかもしれない。

 

「あれ?」

 

 足音を殺して暗い廊下を歩いている時、子供部屋から漏れる明かりに気づいた。ドアを遠慮がちに開けると、イヤホンを両耳にさしてベッドの上で甥っ子がスマホを見つめている。

 そういえば、よく考えたら最初のうちはリビングの方にいたけど、途中から姿が見えなかったな。なんてことを思い出していると、こちらに気づいたのかピクリと顔を上げ、スマホを一度タップして片耳を外す。

 

「ゲームしてんの?」

「……別に」

 

 そっけなさすぎる返事に「君はエリカ様か」と思わず突っ込むと「誰それ?」と返されてしまった。自分もジェネレーションギャップってやつを突きつけられる世代になったのかと密かに震撼しつつ、取り繕った笑みを見せる。

 

「ちょっと避難させてくれよ。叔父さんたち、面倒くさくてさ」

「別にいいけど」

 

 不愛想な顔のままだが、どうやらここに置いてくれるようなので僕も「よっこらしょういち」とベッドを背もたれにして床に座った。

 

「最近の小学生ってさ、スマホで何してんの? 妖怪ウォッチ?」

「……フォトナとかマイクラとか」

「……ごめん。聞いといてなんだけど、全然わかんない」

「おじさん、ゲームやんないの? オタクっぽいのに」

「まあ……オタクにもいろいろあるんだよ。あと、年を取るとさ、だんだん新しいゲームに手を出したり、最後までやり切るのきつくなってくるんだ。人にもよるけど」

「でも、ユーチューブとかだと大人でも実況してるじゃん」

「うーん、あの人たちは趣味っていうより、あれが仕事だからなぁ」

「ふーん」

 

 甥っ子は興味なさげにそうつぶやくと、再び手元のスマホへと視線を戻した。ちらりと見えた画面では、ゲームをしながらSNSを一緒に開くという器用なことをやっていた。

 

「リビングの方、行かなくていいの?」

「えぇ……いいよ。こっちの返事、しなくちゃいけないし」

 

 廊下の先から聞こえてくる声に思わずそんなことを尋ねると、甥っ子は画面の方を顎で指した。どうやらチャットルームで返信を打っているようだ。クラスのグループか何かだろう。いきなり部屋に来たおっさんがウザイとか書かれてるのだろうか。

 

「なるほど。じゃあ、仕方ないね」

 

 いずれにせよ自分もかくまってもらっている立場だ。小学生には小学生の人間関係ってやつがあるのだろうし、ここは大人しく引き下がっておくのがいいだろう。

 そんなことを思いながら自分もポケットからスマホを取り出し、普段は閲覧ばかりでほとんど書き込まないSNSを開き、タイムラインに流れる投降やニュースを無意味に眺める。

 

 どうやら今日も不用意な発言として政治家の言葉がマスコミに切り抜かれ、どこかの誰かの不倫が発覚して、遠い外国では戦争が起こっているらしい。それに対してSNS上では絶え間ない中傷と正義の押し付け合いが繰り広げられ、有名人や身元不明のアカウントがプロパガンダっぽい発言と拡散を続け、それに扇動されたやつらがそういう話題とは距離を取っている人やコミュニティへ勝手に突撃して、燃やすだけ燃やして帰っていく。

 

 まあ、なんというか……ご苦労様という感じである。無職に言われたかないだろうが。

 

 見るのも億劫になりつつ、他にやることもないので下へスクロールしていくと、ふとあるニュースに目が留まる。コロナで明けで休校がちだった学校が再開した後、不登校になったり、自殺する学生の数が増えたらしい。

 この子は大丈夫だろうか――などといらぬ心配をしてちらりと視線を向けてみたが、それに気づいた甥っ子から「なんだこいつ? 大丈夫か?」と逆に心配そうな視線を投げかけられる。

 

「なに?」

「いや、なんでも」

 

 僕はそれに苦笑を浮かべながら、再び手元に目を落とす。記事の続きによると、最近は小中学生でもいくつもSNSのアカウントやチャットグループを持っていて、それぞれで本音と建前――自分を使い分けているらしい。そこでは、メッセージの着信はためない。既読無視はクズ。各グループのノリや会話の流れからずれたらダメ……など、有り体に言えばあのクラスという空間の延長上みたいなルールに支配されているようだ。

 

 僕らが学生だった時も学校掲示板と呼ばれるものやブログサービスはあったけど、やっぱり、インターネットは現実と切り離されたどこか別世界だった。

 こんなふうに良くも悪くもネットはリアルまで拡張されてなくて、画面の向こうにいるのは名無しのどこかの誰かで。だからこそ良くも悪くも、見栄とか自尊心とか必要なく色んなことをさらけ出していたのかもしれない。

 

……懐古厨ってやつだな、僕も。

 

 ニュース記事を読み終わり、そんなふうに一人自嘲した。学生時代にたいした思い入れなんてなかったはずなのに、最近、こうやって昔のことをふと思い出す機会が増えた気がする。大学を卒業してから学校という場所に一切関わり合いがないせいもあるのだろう。

 

 まあ、実際、今の子供たちっていうのは大変だと思う。少子化の影響でクラスが少ないから人間関係も固定されやすいし、自分でも原因がわからないやらかしで集団から疎外されれば、その後もずっとそれを引きずるのだ。もし僕が今の時代に生まれていたら、とっくに不登校になってるだろう。

 

 そんなことを考え、なんとはなしに今日の昼間甥っ子が使っていた――エロサイトを閲覧しようとしていたノートパソコンをぼんやりと見やり、あの小学六年生以降のことを思い出した。

 

 



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第32話:サマータイムマシンブルース

 

 

 中学に入ると、小学校とは全く異なる環境が始まり、僕らは目まぐるしい変化に襲われた。

 

 教室という小さな空間に押し込められるのは相変わらずだったが、如実に僕らは周囲との違いと自らの立ち位置を理解するようになって。日々を過ごすうちに、それは小学校の時よりもより細分化されたグループや強固なスクールカーストとなっていった。

 

 僕は、その後の学生生活でも基本的なナードの立ち位置は変わらなかったけど、中学に入ってからは部活に塾と至極真っ当な学生生活を送り、多くはないけれど休日や部活の時間を共に過ごす友達もできた。

 そして――そうやって、忙しない普通の低空飛行を続ける毎日の中で、次第にマンガノートからは遠ざかっていった。

 

 あの夏以降、僕は漫画を描くことはなかった。描けなくなった。

 店長さんの話を聞いたから。一緒に漫画を描いていた彼女と会えなくなったから。言い訳を探せば何かしらこじつけられるものはあるのだろうけど、正直なところ何かこれといった理由があったわけじゃない。

 

 ただなんとなく、自分が特別な才能を持っている人間ではなくて、自分より才能を持っている人でさえ敗れていくのを知ったからだ。たぶんあの夏休みのできごとがあろうがあるまいが、いずれそうなっていたと思う。

 

 どこにでもある、くだらない――誰もが一度は子供の頃に体験するありふれた挫折だった。

 

 その後、漫画に携わる出版や小売流通、印刷、広告、映像制作といった業界の会社に就くわけでもなく。ただ、普通の工業機械メーカーによくいる普通のサラリーマンで、工場によくある生産管理の仕事をこなしていた。

 

 十年近く働いたその会社を――クビになったのが、つい二か月前のことだ。

 

 正確には自主的な希望退職ではあった。海外工場への投資失敗で前々から業績が芳しくなかったうちの会社は、コロナウイルス騒動に端を発する不況で財務に深刻なダメージを負った。株主と銀行から提案されたのは大規模な構造改革とリストラで、利益率の低い事業部を対象として営業部と管理部門、現場作業者を含めた製造部門で希望退職者を募ることになった。高年齢層だけではなく若手から中堅社員も対象にする徹底的なもので、僕がいた100人ほど勤めていた工場も閉鎖が決まっていた。

 

 ただ――希望退職とは表向きの文言で。退職金が出るとはいえ、その希望退職に応募しなければ無理やりな配置転換、遠隔地への転勤、異業種企業への出向、最後には追い出し部屋と……実質的には退職勧告となんら変わりないものだった。

 

 僕らに残されている業務は怒り狂う現場作業者に頭を下げ続け、撤退に伴う顧客からの在庫引き当て要求分の製品をなんとか作ってもらった後、速やかに退職してもらうことだった。

 

 同情してくれる作業者の人たちもいたけど、そもそもここに残っていても未来はないのだ。生産管理部門の同僚たちも含め大変はやってられないと辞めていき、撤退計画はスムーズに進まず、その調整に伴う残業時間だけがかさんでいった。会社の懐事情もあり、その残業時間ももみ消された。労働組合はなんの役にも立たなかった。

 

 そんな事情もあり、僕の退職時期は工場の閉鎖とほぼ同時だった。その時点まで残ったのは仕事に対する責任とか会社に対する恩義とかそういう類の感情じゃなくて……ただなんとなく流れでそうしただけだ。最後の身辺整理を終えてまだ会社に残る人たちに挨拶回りを行い、工場の敷地内にあるスタッフ事務所を出た時、ふと闇夜に沈む工場を振り返った。

 

 

 そうだ。もう、ここに来ることはないのか。

 そんな当たり前のことを、その時になって初めて思った。

 

 

 正直なところ、別にこの仕事が好きなわけでもなかった。キャリアの目標があるわけでもなかった。どんなに綺麗ごとで取り繕っても、所詮サラリーマンの仕事など生きる糧にするものだと思っていたし、作っている製品に思い入れがあるわけでもない。つまるところ勤務態度自体に問題はないけど、やる気はない社員だったと思う。

 

 だけど、10年近く通ったその場所には、もう機械が稼働する音が響くことも、油と汗の匂いが風に流されることも、深夜まで残業する灯りがともることもない。

 社会に送り出すための物が作られることはなく、ただとある会社の工場があったという過去だけが残り、やがてそれも消えていく。

 

 そう思うと、なんだかとてもむなしく、やるせなく感じた。僕がやってきたこれまでの時間はなんだったんだ。深く深く息を吐き、墓標のような工場を見ながらそんなことを思った。子供の時、「やれやれ」と言いながらついていた浅いため息とは違う――本当に救いのない吐息だった。

 

 その時、なぜか僕の脳裏をよぎったのは、入社から今日まで過ごした記憶ではなく、小学六年生の夏休みに出会ったあの店長とエロ漫画を買えなかった帰り道。そして、月夜に浮かぶエロえもんの涙だった。

 

 会社をクビになったことは――親には余計な心配をかけたくないので告げなかったが、勘が鋭く昔から隠し事を言い当てられる姉にだけは一応報告しといた。昔は仲が悪かったが(今でも別によくはないが)、大人になって距離が開くようになると、いつの間にか僕は大切なことはだいたい姉に相談するようになった。お互いの距離感というのがわかって、それでいて家族の中で最も年が近いからかもしれない。

 

 そうやって、次の仕事を探すでもなく、ただぼんやりと無職の日々を過ごしている間――いや、そのもっと前から、僕には常にはどうしようもない閉塞感が漂っていたと思う。

 

 

――僕は……どこにも行けない。

 

 

 小学六年生の夏休み。あの帰り道で感じた予感は、半分正解だった。

 

 当たったのは、結局何者になれずこの現実を生きているという事実。

 当たらなかったのは、僕らの日常には何も起こらないという推測。

 

 あのゼロ年代に子供だった僕らがその後に目の当たりにしたのは、平坦であるはずの日常に起こった多くのイレギュラーだった。

 

 世界を巻き込んだ金融危機から度重なる大きな災害にパンデミック――そういったものを十五年ほどの短期間に経験し、僕たちを取り巻く「いつもの世界」は案外簡単に壊れてしまうものだと自覚した。それらをごまかすように――周囲から振り落とされないため学生時代は自分を偽る努力をして、社会人になってからは馬馬車のように働く日々の中で、そんなことを考えていたという記憶すら薄れていった。

 

 だけど、それでも――時折どうしようもなく自分の中から込み上げてくるものがあって。仕事も、人間関係も、生活も、何もかも放り出したくなる衝動に駆られる時があった。

 

 何かになるどころか今日の生活を守るのに精一杯の僕は、普通以下の人間のくせになんとか普通を装って、無理して笑顔を貼り付けて、周囲にすがりついて。そうやって毎日を生きていた。

 その甲斐もあり、うだつの上がらない社会人となった今でも社外の友人と数か月置きに会う程度の人間関係、それと暮らすには困らない収入は手にすることができた。

 

 だけど……ただ、そうやって、漫然と他人となんとかうまく生きていく普通の日々は、なぜかひとりぼっちだったあの日の教室より、僕を孤独にさせた。

 

「――あのさ」

 

 どうしようもない思考の渦から僕を引き上げたのは、頭上からの声だった。ぼんやりと夢から覚めたような視線の先には、相変わらず片耳イヤホンでスマホをタップしている甥っ子がいた。

 

「……東京って、楽しい?」

 

 だが、淡々とした口調から出てきたのは、思いがけない言葉だった。

 

「なんで? 修学旅行かなんかあるの?」

「いや、なんとななく。おじさん、東京で働いているんでしょ?」

 

 確かに元弊社の本社は東京にあったけど、働いていた職場は埼玉の北寄り――ここよりも田舎にあった工場なので、正確には東京ではない。でも、まあ、この子からすれば千葉とか神奈川とか関東近辺は東京みたいなもんだろ。自分も子どもの頃そうだったし。

 

 僕が怪訝そうな顔をしていると、甥っ子はスマホから一度目を離し、こちらをちらりと見てきた。どこか投げやりな態度の中に――少し切実なものを感じ取った直後「……将来、東京の大学行こうと思って」とついに観念した様子でつぶやいた。

 

「マジ?」

「誰にも言ってないから……言いふらさないでよ」

「言わないよ」

 

 こんなにも早くからそんなことを考えているなんて驚いたが、思い返してみれば彼くらいの年の時、僕も少しは将来なんて言葉を意識し始めていたようにも思える。なんだか懐かしい感覚にふと頬を緩め、甥っ子の問いに答えることにした。

 

「東京かぁ……大学時代はそれなりに楽しかったけど、社会人になった後は家と職場の往復だったし、コロナで自粛が流行ってた時は楽しいっていうよりビクビクしてた。みんな表向きは誰でもかかる、差別は許さないっていうけど、感染したら職場でバイキンマン扱いされること必至だったからね」

 

 僕の回答が期待していたものと少し違っていたのだろう。無表情の中に少しだけ肩透かしをくらったような変化が見て取れた。

 

「まあ、なんでもあるし、いろんな人がいるよ。でも……この街とは違って、人と人との繋がりは薄いから、逆に居心地はいいかな」

「それって、居心地いいの?」

「おじさんにとってはな」

 

 時々帰りたくなるけど、やっぱり……帰ると、ここは自分の居場所ではないなと再認識させられる。

 

「嫌いなの? ここ?」

「別に嫌いってわけじゃないさ。ただ、帰ってくると――タイムマシンに乗って、未来にやってきた気分になるんだよ」

 

 意味わかんないと言いたげな甥っ子に僕は苦笑を浮かべて話し続ける。

 

「例えば、子供の頃に当たり前にあった空地がなくなってたり、ローカルCMがリニューアルされてたり、会う度にみんな年を取っていたり、亡くなってたり……帰る度に、育った街が自分の知らない世界に置き換わってるんだ。きっと、君にはまだわからないだろうけどね」

 

 タイムマシンっていうより浦島太郎のほうが近いかなと笑うと、「ふーん」と事務的な返事を寄越される。やはり、あまり伝わっていないようだった。無理もないと思うが。

 

 東京とこの街。

 

 途切れた会話の後、僕は甥っ子と交わした言葉の中にあったその2つが背中をなぞり、ゆっくりと頭の中に入り込んでいくのを感じた。心を捉われた単語が連れてきたのは、高校二年生――なんでもない冬の日の記憶だった。

 

 



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第33話:オナニーマスター日野

 

 

 その日は確か後期の中間テスト期間の最中だった。部活も休みなので友人と今日の出来について適当に喋りながら、まだ日が高い午後の帰り道を歩いていた時だったと思う。

 僕の横を下校途中の小学生たちがすり抜けていった。この時間帯なら、別にそれはなんでもない日本中どこにもある風景だ。

 

 それなのに――冬空のもと、冷たい空気をものともせずに駆けていくランドセルの後ろ姿を見た時、思いがけない既視感が僕に絡みつき、思わず足を止める。そして、思った。

 

 僕は、この街でずっと暮らしていくのだろうか。

 この街が変わっていくのを、人が去っていくのを、ずっと見続けていくのだろうか、と。

 

 その風景の何が、僕を付き動かしたのかはわからない。だけど、僕はその日を境に腰を据えて勉強に取り組むようになったのだ。

 

 いま思えば、たぶん東京の大学に行き、向こうで就職しようと――今でも再就職は東京近隣でしようと決めたのは、もしかしたら、あの夜の学校でのできごとが原因なのかもしれない。

 それはまるでのび太がつむじ風を見る度にフー子のことを思い出していたように。この街に住んでいると、ふとした瞬間にエロえもんの面影にぶつかることがあった。

 

――君も……描けよ

 

 その言葉を思い出す度に、思った。

 遠くへ行きたい。ここじゃないどこかに。

 

 具体的に何か目的があるわけではなかったけれど、そうしないとあの夜の約束に責め立てられているように思えて。とっくの昔に終わったはずのあの夏休みから、一生抜け出せない気がしたのだ。

 

 今は色を失った昔の思い出に引っ張られて、僕は初めてエロえもんの家に行った時に見たいくつかのWEB漫画のホームページを、ふとスマホで検索してみた。

 

 だけど、多くのサイトがサービス終了に伴い閉鎖され、かろうじて残っていたものも最後に更新された日付は10年以上前のものがほとんどだ。それらの多くは完結することなく、履歴を追うと年を経るごとに更新頻度も落ちていた。

 

 今、WEB漫画と言えば出版社などがアプリや直営サイトで出しているプロの作品が多くを占めるけど、当時のWEB漫画はほとんどがアマチュア作家によるものだ。遺跡のようなサイトを巡りながらなんとなく作者の行方を調べてみると、その後プロの世界に行って活躍している人も何人か出てきたけど、大多数は消息不明だった。

 

 仕事や家庭で忙しかったり、あるいは別の趣味を見つけたり……最悪、亡くなっているなんて人がいても、別におかしくはないだろう。あのゼロ年代から今に至るまでに流れたのは、そんなふうに人を変えるのに十分すぎる時間だ。

 

 僕だって、子どもの時と比べ、大人になってから漫画との付き合い方はずいぶん変わっている。今でも漫画は人並みに好きだけど、それはあの頃のような情熱を持った「好き」ではなかった。やっていることは無料連載の漫画を追ったり、ネットで評判の漫画で気に入ったものを時折買うぐらい。僕にとって……漫画は趣味の部類には入る暇つぶしの道具と化していた。

 

 当たり前だが、あの頃、漠然と根拠もなく信じていた漫画家になれるかもしれないという思いは、今は微塵もない。それどころか、一人で立ち上げた会社が炎上したり、環境省の調査員になることもなく――のび太から潜在的なバイタリティと善性の良心を差し引いたような人間となった僕は、今や成功者や楽しさを忘れずにいる人間をうらやむ小市民だ。

 

 ネットサーフィンついでに手持ち無沙汰にスマホをいじっていると……そんな僕と同じように――やっぱり、インターネットの世界もあの頃と比べずいぶんと変わってしまったと、再認識させられる。

 

 

 インターネットが急速に日常へと浸透していくにつれ、その世界は僕の中で昔のような未知と興奮が詰まったものではなくなっていった。

 

 夏休みのパソコン室で覗いたような――ウェルカムトゥ東京アンダーグラウンドなヤバイやつらの集会所だったインターネットは、今はもう小学生から棺桶に片足を突っ込んだ老人まで誰もが使う最も大きな情報インフラとなっている。

 大きな力を持った人たちが発言力や既得権益に物を言わせて支配する――新聞やテレビといったオールドメディアとあまり変わらなくなってしまったSNSやサービスもある。

 

 そうやって大衆化したインターネットの世界では、リアルと紐づいたアカウントで交流するSNSが急速に発展し、現実に即した良識とモラルが空間に広がっていった。

 

 その一方でこれまでの社会ではインターネットを使うことはなかったであろう人たちが入ってきたことで、これまで暗黙の了解のようにあった独自のモラルや共通認識はどんどん崩壊していっているようにも思う。それまで紙面の週刊誌が担っていた下世話な話題はSNSのトレンドが取ってかわり、次々と投下されるネタに逸脱を粛正するような糾弾合戦が行われ、数時間後には何事もなかったかのように同じアカウントが良識や正義を語っている。

 

 それは、昔の名無したちがやっていた悪口や中傷合戦が、正しさの皮を被った殴り合いに変わっただけなのかもしれない。でも、「どっちも自分が正しいと思ってる」正義の押し売りは、なまじ自己正当化の理由がある分、底辺同士の素直な殴り合いだった頃より窮屈かつ陰湿で――なんとなく、小学六年生の教室を、僕に思い起こさせた。

 

 きっと僕が子どもの時からインターネットにはそういう面もあり、むしろ無法地帯である割合は多かったのだろうけど、最近はそういうのを目にする機会が増えてように感じる。たぶん僕自身も大人になって、その類の話題ばかりを無意識に選んでいるのだろう。

 そう考えると、子どもの頃は感じなかったけど、のび太の結婚前夜にしずちゃんのパパが言ってたことがどんなに難しいのか、今ではよくわかる。

 

 僕はいつの間にか、人の幸せを妬み、他人の不幸を楽しむ――嫌な大人になってしまった。

 

 そのくせ、そんな自分や世界を変えようと努力することもしなかった。少年時代に見た夏空で立ち昇る入道雲のように――電脳の網はどんどん広がって、多くの人と情報と金が行き交う華やかな世界になっているのに、一向にわくわくすることはなかった。

 

 小学生の時のように自分の生きた証を残したいとも思わなくなったし、誰かと深い関係性を持ちたいとも思わなかった。人付き合いの一環で勧められたいくつかのSNSをやってみたけど、リアルに紐づけられた多くの意思と下手な自尊心が邪魔をし、どれも長続きはしなかった。

 

 趣味と言えるものもなく、本当の自分をさらけ出せる相手もいない。

 ただ仕事をして、家に帰って、暇つぶしにネットのどうでもいいニュースに目を通して、時折学生時代の友人から来るラ〇ンに当たり障りのない返事をして、休日には溜まった家事をこなし、時折半強制の会社のイベントに参加していた。

 そうした生活をしているうちに通帳の金額は、自分の想像以上のペースで増えていった。あの時、自分一人では買えなかったエロ漫画が何百冊も買えるような金額だ。

 

 だけど、通勤用の中古の軽自動車や最小限の娯楽を買う以外、特にその貯金に手を付けることもなかった。ずっと満ち足りていないのに、何かを欲しいとは思わなかった。何かをしたいとも、何かになりたいとも思わなかった。

 

 漫画やアニメの主人公のように決定的なトラウマや不幸もない人生だったのに。なぜ僕は、こんな人間になってしまったのか。ある日、今までわかっていたのに目を逸らしていた事実を、退職後の暇にあかして寝る前にふと考えた。そして、その時になって、ようやく気付いた。

 

 

 

 たぶん僕は、いつも一人だったんだ。

 

 

 

 最低限空気を読んだり、思ってもないことを言って、人付き合いができるようになっても。

 ちゃんとした家庭で育って、ちゃんとした進学をして、ちゃんとした会社に就職しても。

 

 毎日のように来る友人からの意味のないラ〇ンに辟易し、スマホを壁に叩きつけてぶっ壊したくなった。

 いつの間にか自分の責任にされていた仕事で頭を下げた時は、家に帰ってからも納得がいかず謝罪相手や周囲の人たちの顔面を殴り倒す子供じみた妄想で心を慰め、自分の幼さに苛立ちと羞恥が募った。

 休日一人部屋の中で無作為にインターネットサーフィンしてアニメを観たり、残業で終電を逃し雪が降り積もる田舎道を1時間近くかけて帰る時が、一番気が安らいだ。

 

 そういう自己完結のオナニーマスターで、社会不適合者である姿が、本当の僕なのだろう。

 

 でも、それを認めてしまうと今まで取り繕い、すがりついていた人生に帰れなくなる。

 だから、僕はそれをわかっていながら、なんとか現状にしがみつくしかなかった。年を取るにつれ縮小するどころか大きくなっていく自分の中のずれは、そうやって必死に世界の縁を掴む手を幾度となく切りつけてきたけれど、何もない空っぽの僕はそれでも手を放すわけにはいかなかった。

 

 それに気づいた午前0時。僕は自分でもよくわからなくて、耐え切れなくて。感情をごまかすようにパソコンを開き、子供の頃に観ていたドラえもんの旧作映画が配信されているサブスクに入る。そして、選んだ何本かを夜通し垂れ流していた。

 

 久々に観たドラえもんは、やっぱり面白かった。藤子先生は天才だと思った。

 

 だけど、子供の頃じいちゃんと観ていた時と違い、他には何も感じなかった。あの頃のように感動もしなかったし、笑いもしなかった。

 パソコンの画面に映し出される映像が眼球を素通りし、頭の隅にある現実が警告しても就職活動をする気にもなれなかった。

 

 自分で自分の感情がわからなかった。

 もともと何も感じない人間のくせに。喪失などあのゼロ年代に置いてきたはずなのに。

 

 どうして、今頃、僕は自分の中に何かあるはずだと必死になってかき集めているのだろう。空っぽの人間に、そんなこと許されるはずないのに。

 

 アパートの部屋の窓がうっすらと明るくなってきた頃、最後の一本が終わり、新聞配達をするバイクの音がどこか遠くで聞こえた。僕の中に残っていたのは、源泉のわからない焦燥と己に対する諦観だけだった。

 パソコンを閉じ、部屋に差し込む朝日を遮るように頭からタオルケットを被り目を閉じた時、またしても真っ暗な網膜に浮かんできたのは、エロえもんの泣き顔だった。

 

 彼女は――残酷ば僕の判断をどう思っただろう。

 

 もし『人生やりなおし機』が目の前にあって、あの夜の学校に戻れたら。

 僕は、エロえもんとセックスをするだろうか? やっぱり、それ以外の何かしてあげられることを探すだろうか?

 

 でも、大人になっても――いや、大人になったから、彼女にしてあげられることが何も思いつかない。きっと、あの時エロえもんとどんな選択をしようと、僕らの未来は変わらなかったように思えるし、降り積もる時間の中で人生の1ページとして忘れていくようにも思える。

 

 僕は――なぜ、何もできないんだろう。こんなにも、何者にもなれないのだろう。

 

 子供の頃、周囲にいた大人はあんなにも強く、狡猾で、傲慢であるように思えたのに。僕はあの頃に嫌悪していた彼らにすらなれず、ただ過ぎていく日々の中で一日分だけ年を取っていくだけだ。エロ漫画を買えなかった小学生の時から、僕は何も変わっていない。

 

 これまでも、そして、これからも――世界に流され、抗うこともできない、ただただ無力な大人だった。

 

 僕は追憶を振り切るようにゆっくりと立ち上がって、スマホをズボンのポケットにしまう。

 

「ひとりかくれんぼは終わり?」

「……うん。ちょっとね」

 

 皮肉染みた甥っ子の言葉に苦笑いを浮かべると、彼はなぜか怪訝そうに眉を寄せた。よほどひどい顔をしていたのだろうか。「かくまってくれてありがとう」とだけ告げ部屋を出ると、そのままリビングへと向かった。

 

 この街に帰ってきたからだろうか。昼に甥っ子のエロ検索の履歴を見たからだろうか。

 今、長い回顧を経て、こんな僕でも、欲しいものが一つだけ見つかった気がした。

 

 

――私もね……好きだよ。日野の漫画

 

 

 僕よりもはるかに砕け散りそうだった心を気丈に抱えていたあの子が、かけてくれた言葉。

 本当にシンプルで、なんの装飾も建前もなく――僕を肯定し、この世界につなぎ止めてくれたあの言葉。今はもうわずかに残滓だけが残るその響きを、もう一度聞きたかった。

 

 どうすればそれが叶うのかなんてわからない。それでも、僕は居ても立っても居られず、姉に断りと酒を飲んでないことを告げ、実家の軽自動車のキーを借りた。

 



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第34話:202×年 ゼロえもん誕生

 

 外に出ると、むわっとした湿気が肌にまとわりついた。同時に大気を満たす夏虫たちの合唱が鼓膜を揺さぶり、アスファルトの上に土と緑が混じり合った匂いが鼻につく。

 

 それは子供の時はあんなに身近にあったのに、いつの間にか忘れていた夏夜の空気だ。生温い夜風に乗り、どこか遠くで地方線の電車が揺れる音が聞こえた。東京や勤め先の工場近くでも聞いていたはずなのに。そういえば、そういう音もこの世界にはあったのだなと、ふいに思った。

 

 駐車場で軽自動車のキーボタンを押し、車に乗り込みエンジンをかける。ゆっくりと震える車内でスマホの地図アプリを起動し、音成市の駅前を目的地に設定する。

 

 なぜそこを選んだのか。明確な理由もないけれど、僕はあそこを――『みんなのジパング ガンダーラ音成店』を目指した。正確な住所は覚えていないし、ネットで調べてもあの時とは違いなぜか情報はひとつも出てこなかった。

 まさか両親や姉に「音成市にあったエロ漫画売ってる店ってどうなったか知らない?」などと気軽に聞けるわけもなく。ひとまず近くまで車で行き、あとは歩きで探すことにしたのだ。

 

 コンビニ、ファミレス、パチンコ店……国道に出ると、ヘッドライトに照らされた沿道では小学生の時と変わり映えしない田舎の街並みがあった。ただコロナの影響かそれ以前に潰れたのか――レンタルチェーンや飲食店がいくつか空き店舗になっていて、少し寂れた道なりだ。

 

「こんなに近かったっけ……」

 

 それから十分もしないうちに『4.5m 頭上注意』の看板が見えた。あの夏にも自転車で通った鉄橋だ。車ということもあるのだろうけど、昔はここに来るまでにはもうへばっていたのに、夜に沈む川の流れはあの時と同じで。その変化のなさがますます重ねた時間を自覚させ、苦笑が深くなった。

 

 目の前に立ちはだかっていた坂道も。光の出口が見えた高架下の小さなトンネルも。翌年に怯えた中学校も。巨神兵のようにも思えた鉄塔も――車を走らせる道程で見た全てが、あの時と比べ小さく、短く、なんでもないもののように感じた。

 

 音成市内に着くと適当な駅前の駐車場に車を停めた。

 夏期休暇で帰省している人も多いのだろう。地元の友人たちと飲んでいるらしい若者や家族連れの間をすり抜け、マスクを着けた人波の中、記憶だけを頼りに街はずれへと足を運んだ。

 

 地図アプリ片手に早足で歩く。少し乱れた呼吸が喧噪にさざめく街の空気を肺に送り込み、理由のわからない焦りだけ吐き出されていく。街頭から抜き出された小さな影がショーウインドウに写った。まるで小学六先生の自分と並走しているみたいだった。

 

 市街地を出て数分もしないうちに、僕は駆け出した。

 肺が痛い。ふくらはぎが痛い。背中が痛い。足裏が痛い。運動不足の体はすぐに悲鳴を上げたけど、ひたすらに道路沿いのガードレールの内側を走り続けた。

 

 思えば、エロえもんと別れたゼロ年代のあの日から、僕はずっと何かが欠けたまま毎日を生きていた。

 

 いろんなことができると思っていた。全部叶えられると思っていた。どこにでも行けると思っていた。だけど、世界の終わりなんて望む前に、自分が今を生きることに精一杯で。あの夏の日のことも彼らと見た夕焼けごと忘れてしまっていた。

 

 それでも……本当は、心のどこかで待っていたのかもしれない。

 この路地の向こうに踏み出せば――あの時の僕らにとってエロ漫画がそうであったように――行き詰ったジリ貧の毎日を抜け出せる何かがあるんじゃないかと。あの時、エロえもんが僕にくれた言葉と同等の世界を変える何かがあるんじゃないかと。

 

 僕は目の前にあった路地を曲がった。その瞬間、奇妙な既視感に襲われた。

 今まで忘れかけていたのに近くまで来ると、どんどんな脳内から記憶が呼び起こされ、思い出の断片が道を示してくれた。体力が切れ小走りになったけど、それでも前へ進むのはやめなかった。坂道を下る。横断歩道を渡る。立ち並ぶ街頭を通り抜ける。

 

 もう少し。ほんの少し。

 

 それだけで構わない。それだけが欲しい。先のない毎日を、何もない自分を、変えてくれる何かがほしい。自分の中で漠然としていた望みが形を持ったものに変わった時、同時に胸中を確信が支配した。

 

 ここだ……!

 

 曲がり角が見えた時、僕は持て得る最大限の力で地面を蹴った。

 この先に――きっと、僕を救ってくれるものがある。言語化されたその思いと共に熱を帯びた脳内で去って行ったエロえもんの背中が明滅した。

 

 そして、僕はその角を曲がった。曲がり、見て、一瞬放心して、肩で息をしながら、地面に視線を落とし、曇る眼鏡の向こうでアスファルトに落ちる汗を見て、苦笑とも自嘲とも言えない笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 そこにあったのは、ひとつの残骸だった。 

 夜の黒から抜き出されたような照明の下、廃屋が眠っていた。

 

 

 

 

 

 

 僕らに達成感をもたらした宝島の看板は塗りつぶされていた。幸田曰くすげえアキバだった空間はガラリとし、エンドレスに流れ続けたアニソンも、所狭しと貼られたポスターも、当然エロ漫画が敷き詰めてあったあの本棚も置いていない。

 

 ところどころ薄れた『――まで営業』、『半額――実地中! 下――化!』、『――人――美少――・――・ゲー―― 豊富な品揃え! どこよりも――!』という看板脇の文字だけが、確かにそこに『みんなのジパング ガンダーラ音成店』があった証拠で――僕はそれを見て、ようやくあの店が潰れたという事実を認識することができた。そして、それを理解した時、思わず乾いた笑いが漏れた。

 

 そりゃそうだ。

 

 小学六年生の時、わかってたじゃないか。ここは現実だ。漫画やアニメみたいな超展開は――この世界にありゃしないのだ。

 

 僕たちが生きる21世紀にひみつどうぐはまだない。未来から手助けしてくれる友達も来ない。

 

 だから、そうやって選ばれなかったやつが、世界や自分を変える特別な何かを手に入れるには、たぶん地道に積み重ねるしかないのだ。他人からどう言われても、普通からこぼれ落ちても。夢という呪いに捕らわれ、もがき、努力し続けた人だけが、手に入れることができるのだ。

 

 そして、それを始めるには……僕は、年を取りすぎた。

 あの時代はすでに亡く、残されたのは、大人になってしまった子供時代の残骸だけだ。

 

 エロ漫画を買えなかったあの帰り道のように――僕は、僕らにとっての宝島だった廃屋に背を向け、ノロノロと来た道を引き返した。

 

 歩いている間、空っぽの店内を、あそこに確かに存在していた人たちのことを思った。

 

 ゼロ年代から、ずいぶんとオタク趣味を取り巻く環境は変わったと思う。

 自室でひとり、あるいは互いにプライベートを知らない同好の士と楽しむような――日陰の恥ずべき趣味として笑われてきたものが、いつの間にかクールジャパンなんて取りざたされ、今までそういうものを見下してきたであろう人たちも突然アニメや漫画好きをアピールし始め、学校や職場でもコミュニケーションツールとして使われ、僕より下の世代ではリアルで堂々とオタクを自称する人も珍しくない。

 

 だけど、僕は変化していくその様を見て、時々言いようのない違和感を覚えることがあった。

 

 漫画もアニメもゲームもネットも、別にオタクだけのものじゃない。そういうふうに市民権を得ることはきっとすごく正しくて、前向きな方向性なのだろうけど。どこか――現実をうまく生きれない僕らの手にあったものが、離れていったような寂しさと嫉妬を覚えたのだ。

 

 彼らは……どうなのだろうか?

 

 あの店で働いていた店長や店員、訪れた人たちは、今でも変わらずオタクなのだろうか。今でも変わらずエロ漫画を買い続けているのだろうか。それとも、オタク趣味とは別の場所を見つけたのだろうか。そうやって世界と自分の折り合いを、見つけていったのだろうか。

 

 だけど、あの頃教室の隅で一人漫画を描いていた僕のように――現実に救われない、閉じた世界にしか居場所を見出せないやつは、どうすればいいのだろう。

 

 この世界に納得できず、でも、自分も世界も変える力がないやつは、どこに行けばいい? どう生きればいい?

 

 車のヘッドライトの明かりが目の前を照らし、通り過ぎた。誰に投げかけたわけでもない問いかけは、夏のアスファルトを走る排気音にかき消される。

 

 どんな疑問にも答えてくれた友達は、もう、僕の隣にはいない。

 そのことを改めて実感させられた。

 

 その瞬間、今まで感じていなかった強烈な喉の渇きを覚えた。市街の明かりはまだ遠くに見える。スマホで検索すると近くにコンビニがあったので疎らな街灯を辿っていき、案内に従って進んでいく。

 

 蛾や羽虫がまとわりつく寂れた蛍光看板の文字は、聞いたことのない店名だった。今どき珍しく大手のフランチャイズではない、個人経営のコンビニだ。そういえばあの道すがらでも『小池商店』という似たような店でアイスや昼飯を食ったことを思い出す。無駄に広い駐車場には3台ほど車が停まっており、僕はその間を抜けて年季が入った自動ドアへと向かう。

 

「パパ! はやく!」

 

 だけど、センサーが僕に反応する前にドアが開いた。うつむきがちだった視線をちらりと上げると、僕と同年代くらいで恰幅のいいツナギ姿の男性が女の子と手を繋ぎ、店内から出てきた。僕はなんとなく軽く会釈してその脇を通り過ぎようとする。

 

 そして――その瞬間、何かに気づき、思わず振り向いた。

 目が合った。彼も同じように顔を向け、一瞬だけこちらを見た。

 

「パパー、何してんの?」

 

 でも、娘さんの言葉に髭を伸ばした彼は「なんでもねえよ」と野太い声で笑う。そして、その後はこちらを振り返ることなく、そのまま停めてあったミニバンへと乗り込み、去っていった。

 

「幸田……」

 

 すれ違った彼の名前をぼそりとつぶやき、閉じてしまった自動ドアの向こうをガラス越しに眺めた。

 

 向こうはこちらに気づいたのだろうか。気づいても、あえてスルーしていたのだろうか。真相はわからないが、娘さんを連れた幸せそうな背中を見送ると、僕は自然と笑みがこぼれた。

 

「そっか……」

 

 もう、僕もそんな年なのだ。学生時代か社会人生活序盤までに何人かの女性と出会い、別れ、あるとき結婚して、家庭を築く。日本における普通で王道の人生を歩めるよう努力していれば、そんな未来もあったのかもしれない。

 

……何をやっているんだろうな、僕は。

 

 夢に挑む前からあきらめたくせに。そのあきらめた先でも、普通になることすらできない。寄せた頬の皺に自嘲の影を濃くして、飲料コーナーへと向かう。人工的な白色蛍光灯の下、無意味に並んだペットボトルの列を眺めて立ち尽くした。

 

 エロえもんが転校していった後も、幸田と細川とは小学校を卒業するまでお馴染みの三人組として過ごした。

 

 幸田とは同じ公立の中学に進学したけど、もともとは別世界の人種だ。中学入学と共にクラスが別になってからは合同授業や廊下で会った時に話をする程度の仲になり、やがてそれも途絶えた。彼が工業高校に進学してからは、どこでどう生きているのかも知らなかった。

 

 細川は見事に受験に合格し、例の中高一貫の進学校に進んだ。ある県で公務員として働いているという風の噂を聞いたことはあるけれど、卒業以来一度も連絡を取ったことはなかった。

 

 会う機会を作ろうと思えば、いろいろと方法はあるのだろうが……たぶん、もう、一生会うこともないと思う。

 

 ミネラルウォーターを適当に一本取り、そのままレジに向かおうとしたが――どことなく後ろ髪を引かれる思いで、窓際の雑誌コーナーへと向かった。そして、マガジンラックの片隅、トイレ前の一角を見て、おや? と思う。

 

 そこにはやたら肌色の面積が多い表紙が、モザイク模様のように押し込められていた。何年か前までは全国どのコンビニでも設置されていた――エロ本コーナーだった。

 

 確か2019年の夏頃……だっただろうか。ラグビーワールドカップや翌年に行われるはずだった東京オリンピックで訪日観光客が増えるのに考慮して、大手のコンビニがいっせいにエロ本の販売を取りやめ、コーナーを撤去していったのだ。

 女性や子供が安心して買い物できる環境を作るためとかそもそも占有スペースに対し売上が少ないとか……色々な真っ当な理由があげられ、それはあくまで法規制ではなくコンビニ各社の判断とされていた。

 

 コンビニでエロ本が買えた時代は、もう過去の歴史になっていくのだ。僕自身コンビニどころかエロ本自体買わない人間だけど――今まで当たり前にあったはずの景色が、そういう強制的な自浄によりなくなっていくことに一抹の寂しさを覚えずにはいられなかった。

 

 この店はフランチャイズ店じゃないし、田舎なので自主規制もやっていないのだろう。ラックの片隅に置いてあるそれらに視線を落とし、下側で平積みされたある一冊に気づいた。

 

 小さく肩をすぼめるように息をしているエロ本――その中の一つに、エロ漫画雑誌があった。やたらとごちゃごちゃした文字フォントの下では顔を赤らめた水着の女の子が、アイス片手に股を開きながら舌なめずりをしていた。僕はそれを手にし、ふとあの時彼女と選んだエロ漫画たちと店長さんのことを思い出していた。

 

 

 僕が知らない間に――どれだけのエロ漫画雑誌が、消えていったのだろう?

 どれだけのエロ漫画家が、誰にも知られることなく、筆を折ったのだろう?

 どれだけの人生が、変わったのだろう?

 どれだけの人の世界が……終わったのだろう?

 

 

 そんな答えのない問いを頭の中に浮かべながら『あなただけしか知らない夏……見せてあげる』とデカデカと書かれた煽り文句、表紙の左上に並んだ名前を見ていく。

 

 テープで封をされているので中身は確認できないが、掲載されている作品の漫画家一覧だろう。小さく並んだその列に視線を這わせていた時、大きく目を見開き、動きを止めた。

 

 

 

 

 

 『21ゼロえもん殿下』

 

 

 

 

 

 その文字の連なりを見た瞬間、息が詰まった。まるで深い時空の狭間から引き揚げられた気分だった。望んだものが全て入っているポケットを見つけたように、僕は人目をはばからず立ち尽くし、その名前をじっと見つめていた。

 

 



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第35話:Last page of Juvenile

 

 

 実家に帰ると、すでに親族の集まりはお開きになっており、姉からは「あんたどこまで行ってたの?」と恨みがましい目を向けられた。僕はスマホの充電が切れて道に迷ったとそれをごまかし、数日前に帰省してから使わせてもらっている客間へと早々に退避する。

 

 さすがに親戚の集まりを抜け出してエロ本を持って帰るのも気が引けて、僕はあのエロ漫画雑誌をコンビニでは買わず、実家に帰りスマホで名前を検索してみた。

 

 結果の上の方に出てきたのは、イラストや漫画を投降できる有名なサイトにSNSのアカウント、何年か前に改名した成人向け書籍の通販・電子書籍の販売サイトだ。ちょくちょく無料をうたった海賊版の違法エロサイトも出てきたが、なんとなくそちらには行く気はなれず、検索ページの後ろの方に出てきたwikiのリンクを選ぶ。成人向け漫画家の情報をまとめたデータベースのサイトだ。

 

 

 

『21ゼロえもん殿下』

 

 

 

 性別、年齢、出身地不明。

 成人向け漫画家としての活動は2010年代中盤からで、出した単行本は三冊。それらに未収録の雑誌掲載作や同人誌を含めると、読切作品は30作近い。件の名前を販売サイトに移動し作家名で検索すると、何度か掲載誌の表紙も飾っているみたいだ。エロ漫画業界にはあまり詳しくないが、年数的にたぶん中堅どころといったところだろうか。

 

 少し調べていくと、エロ漫画というのはかなり入れ替わりの激しい世界らしく、単行本1、2冊――あるいは、それすら出さずに作品を発表しなくなる人が多いらしい。

 

 その多くが一般の方に行ったり、同人活動に場を移したり、漫画家自体を引退したり……一般にも言えることだが、もともとの出版不況にコロナの影響で書店が苦しい中、実店舗での取り扱いも減り、稿料や単行本の収入が下がっているらしい。もともとニッチなジャンルゆえに大きく部数が伸びるということもないため、ずっと業界に留まっている人の方が珍しいようだった。

 

 なんだか……ストーカー染みて自分でも気持ち悪いなとは思いつつ、今度はページの上の方に出てきたSNSアカウントの方に行ってみる。

 

 『21ゼロえもん殿下』とアカウント名の後ろには『四時限ソケット発売中』と最新単行本の宣伝が続けられており、プロフィール欄の先頭には直近の仕事と『えっちな漫画描きなので18歳未満の方はフォローご遠慮ください』と記されている。

 

――あの本棚には……今の君たちにとって面白い漫画は、まだ置いてないよ

 

 僕はそれに――ふと、あの時の店長さんの言葉を思い出した。思わず画面を下へとスクロールしていき、最近の投稿内容を見てみる。もしかしたらあの子かもしれない――そんな思いももちろんあったけど、それ以前になんとなくこの漫画家の人となりを知りたくなったのだ。

 

 

 @21zeroemondenka・8月7日

『貧乳キャラを勝手に巨乳にするなんてことは、貧乳派・巨乳派の対立と分断をあおるだけ。その逆もしかり。緊急の国際法整備が必要(過激派)』

 

 @21zeroemondenka・8月7日

『それはともかく、ドラ〇もんズって……全員なんかちょっとエッチだよね』

 

 @21zeroemondenka・8月7日

『女体化ドラ〇コフは邪道。ドラ〇コフたんはそのままでいいのだ……』

 

 @21zeroemondenka・8月7日

『まあ、かわいいならどっちでもいいんですけどね』

 

 

「……」

 

 なんだろう、この人。情緒不安定なのかな?

 

 その他には最近観た漫画やアニメ、映画、オタク界隈で話題になった時事ネタなとの感想を中心に――時折巨乳キャラの画像と一緒に『おっぱい!おっぱい!』やら『ナイス……おっぱい』やら『思ったよりおっぱいだった』、『うひょひょこいつはお楽しみおっぱい』……とひたすらおっぱいに関する投稿ばかりで、人となりはそれ以外全くわからない。

 

 僕は少し悩んだ末に先ほどの販売サイトに行き、電子書籍の閲覧アプリをダウンロード。電子決済で21ゼロえもん殿下さんの最新単行本――『四時限ソケット』(定価1100円)を購入してみた。同じくらいの月額で最新作も読み放題のサブスクサービスもあったけど、とりあえず一冊試しに購入してみるだけなのでこちらを選んだのだ。

 

 決済完了画面からダウンロード中の表示に切り替わっている間、そういえば……とまたあの時のことを思い出した。

 

 みんなとエロ漫画を買おうとした時は、あんなに遠くに思えたところまで行って、自分一人では小遣いをかき集めても届かず、結局買えずじまいだったのに。今は――なんのためらいもなく、もののわずか数分で購入し、この掌に収めることができる。車が空を飛んだりはしないけど、あの頃と比べ僕も世界もずいぶんと変わったんだなと、ふと頬が緩んだ。

 

 そうしているうちにデータのロードが終わり、僕は閲覧アプリからその単行本『四時限ソケット』を開いた。

 

 最初に現れたのは、カラーの表紙。夕方の教室でこちらに手を伸ばし、顔を赤らめるショートカットの女の子だ。はだけたセーラー服から片方の大きな胸が丸出しになったその子を見て、僕の脳は自然と初めてエロえもんの家に行った日に渡された封筒――その中にあったヌードデッサンのことを思い出していた。もう記憶はおぼろげなのに、なぜかどことなく懐かしい気がしたのだ。

 

 画面をスワイプして次に行くと、目次があり、収録作品とページ数の一覧が載っている。この単行本のページ数は約200ページ。収録作品は10作品でおまけも含めてだいたい1作品20ページ前後で終わる単発読切となっている。

 

 これも先ほど調べたことだが――エロ漫画というのはベテラン作家でもない限り、1冊丸々同じ登場人物とストーリーが連続して描かれることはない。雑誌掲載時、その作品単体で行為を入れた起承転結を完結させ、「使える」ものではなければならないからだ。その結果、エロ漫画の単行本というのは、こういった短編集という形になるのが常のようだった。

 

 僕は意を決して、スマホの画面を手繰る。そうして、21ゼロえもん殿下さんのエロ漫画を読み始めた。

 

 『四時限ソケット』――そのタイトルのテーマに合わせているのか。

 

 収録されている作品に出てくるのは、文化祭のお化け屋敷をやっている最中に犬の妖怪に憑依された女性教師と男子学生。二人っきりの科学部で次々に惚れ薬を作り、後輩の男の子を実験台にする白衣の先輩部長。廃部を迫りに来た生徒会長に対し、全く意味とルールがわからないカードゲームで撤回を求め、最終的にセックスに持ち込もうとするメガネっ娘のボードゲーム愛好会員――と、どれも学校を舞台にしたものだ。

 

 ひとつのひとつの作品は全く別の独立した作品だが、注意深く読んでいくと前後の作品に出てきたカップルが背景としてコマの端にいたり、話の冒頭に友人として登場していたりと、これが同じ学校で行われているものだということがわかる。

 

 

『このおっぱい妖怪! おすわりっ!』

『あんたには……立派なおっぱいがついてるじゃねえか』

『5おっぱい!!!!!』

 

 

 作風として共通しているのは、最終的に行きつくのはセックスなのだが、どれも全体的にギャクやコメディが多く、おバカで明るい。時折出てくるパロディネタはどれも懐かしいもので、恐らく作者が自分と同世代だなということはわかる。

 出てくるヒロインもタイプはバラバラだが、そのどれもがエロさとかわいさが同居した魅力的なキャラデザだった。唯一属性として共通しているのは、巨乳ものが多い……というか、それしかない。

 

 さては、21ゼロえもん殿下……あんたもおっぱい星人だな?

 

 なんとなくそんな気はしていたけど、そのあまりにも徹底した姿勢に僕は苦笑を漏らす。自分でも後から気づいたが、それは普段よくする諦観に満ちた苦笑とは違う――子供の時、みんなといる時に「やれやれ」とついていたため息と、同じ類のものだった。

 

 僕は真っ暗な部屋の中、次々に画面をスワイプしていき、次の作品へと移っていく。

 

 コマ割りや話の構成も洗練されており、長方形の画面に切り出された女の子たちを形作る線は流行りの絵柄を取り入れつつも繊細で細く、全体を通してどこか少女漫画らしさを感じさせた。男性向けのエロ漫画でも女性作家は珍しくないそうなので、パロディネタこそ少年漫画が多いが、なんとなくそうかもしれないと思う。

 

 ただそういう作者自身への推測とは関係なしに――僕は、ただひたすらにその線に、その線が引かれるまでのことを考えた。

 

 この単行本を出すまでに――いったい何本線を引き続けてきたのだろう。いくつネームを切り続けたのだろう。どれほどの孤独な時間を……積み上げてきたのだろう。そんなふうに感嘆と単純に「……スケベだねぇ」というジェットコースターみたいな感情の揺さぶりを繰り返し、やがて最後の作品に辿りついた。

 

 単行本の大トリを飾っていたのは、『ジュブナイル』というタイトルの作品だった。

 

 出てくるのは今までと同じ学校の女子生徒だが、僕は読み始めてすぐにショートカットでセーラー服姿の女の子が――表紙の子だということ。そして、今までの作品とは、少し様相が異なることに気づく。

 

 

 舞台は、とある夏。放課後の夕方。

 地面に影絵を落としながら彼女が走って向かったのは、いかにも昭和然とした古ぼけた一軒の書店だ。

 

――おい! ロリコン! あんた東京の学校受けるってマジ?

 

 店番をしている学ラン姿の気の弱そうな男子学生が苦笑いする。

 

――軒先でそんなこと言わないでよ。

――いいだろ。どうせ客なんてめったに来ないんだから。

 

 二人は幼馴染で、男の子は二つ年上。少女は昔男みたいだとからかわれた時に「そのままでいいんじゃないか」と肯定してくれた彼に好意を抱いていることが、数コマで描写されている。

 

――やめなよ……あんたみたいなの、東京行ったら捕まるよ。

 

 男の子の方は、節々の描写から――いわゆるロリコンであることが示唆されていた。

 

――あんたのせいだよ? クラスでわたし、ゴリラ女って笑われてんだ。

 

 女の子は年々強くなっていく想いとは逆に、年を経る度に自分の体が彼の嗜好とはどんどんズレていくことに――どうしようもないやるせなさを噛み締め、本棚の物陰で彼を押し倒し、無理やり行為へと及ぶ。

 

――ごめんね。

 

 だけど、身体だけの繋がりを経ても、彼らはただすれ違うだけだった。彼女は何も言えずに逃げるように店から走り去っていった。

 

 

 僕は、そこまで読んで、心の奥底にしまってあった感覚を強く引きずり出された。

 あの頃、僕らが感じていた――自分を支えるための何かを欲していた感情とその危うさが、どこか儚さと切なさを感じるくらい画面から匂い立っていたのだ。

 

 まるで夢を見ているみたいだった。ずっと昔に置いていき、通り過ぎた時代の感情が、画面の向こうにある一コマ一コマに確かに存在していた。

 他とは明らかに違う――唯一、情緒的で切ないストーリーの最後のページは、桜が舞う春、彼がいなくなった書店を振り返り、何かが吹っ切れたように晴れやかな顔で微笑み、前へと歩き出す少女の後ろ姿。そして、最後のコマには薄汚れた店の看板で物語は閉じられていた。

 

「……あっ」

 

 だけど、僕は余韻に浸りながら次ページに移ろうと、そのコマを見た瞬間、大きく――ただ大きく、目を見開いた。

 

 

 

 

 

『みんなのガンダーラ ジパング』

 

 

 

 

 

 最後のコマに書かれていた煤けた看板。

 そこには、確かにそう書かれていた。

 

 わざと店の名前の前後を入れ替えたのか。記憶が曖昧だったのか。無意識のうちにつけた名前なのか。あるいは、それは単なる偶然の一致かもしれない。だけど、その1ページは、その1コマは、僕の心を決定的に揺さぶった。

 

 刹那、スマホの画面を滲ませたその水滴に気づいたのは、数秒遅れてからだ。

 

「えっ……?」

 

 正体に気づくのに時間はかからなかった。涙が出てきたのだ。無論、ちんこからではない。ちゃんとこの両目からだ。

 

 その数秒後、自分の喉から聞こえてきたのは、激しい嗚咽だった。

 止めどなく溢れる滴をぬぐいながら、自分でもなぜエロ漫画を読みながら泣いているのかわからなかった。まるであの夜にエロえもんと一緒に泣かなかった分まで『約束先取り機』を使った代償として泣いているような――今、この瞬間まで、空っぽの自分に溜め込んでいた澱みを吐き出すように、僕は泣き続けた。

 

 僕は……たぶん今まで辛かったのだ。年を取るばかりで空っぽのままの自分が。何もできずに会社をクビになった無力さが。すがりついていた社会に梯子を外され、この世界で普通をうまく生きれないことが。今更、辛いことを辛いと、そんな当たり前を自覚することができた。

 

 止めどなく溢れる涙をぬぐい、鼻水を垂れ流した汚い顔のまま。僕は、頭を垂れて、何かに耐えるようにじっとスマホの画面を握りしめていた。

 

 いつでも諦めずに前を向けとか。ちゃんと現実を生きろとか。どんなに力強い言葉も、まっとうな綺麗事も、僕の心には響かなかったのに。

 

 それは世間で公に語られる感動する話や何分で泣ける話みたいに――誰にでも理解できるものじゃないし、比較するには下劣で、あまりにも矮小な奇跡なのかもしれない。

 

 『21ゼロえもん殿下』があいつ――『エロえもん』かどうかは、定かではない。確かめる術もない。だけど、この漫画の中には、僕たちがいたあの夏の世界が、確かに生きている。そんな誰にも話せない秘密の確信があった。

 

 エロ漫画みたいな虚構に救われた気分になるなんて、安い人生だろうか。絶望ごっこも大概にしろよって、思われるだろうか。

 でも。僕は、今、確かに――このエロ漫画に、生きるのを助けてもらった。それは誰がどう言おうと、紛れもない本物で、この現実に存在する事実だった。

 

 いつか――日々大量に供給されるコンテンツの波に飲み込まれ、この『四時限ソケット』という単行本が、その中の『ジュブナイル』という20ページの短い作品が、記憶から忘れ去られて、消えていく未来があるのかもしれない。

 

 だけど、僕だけは絶対に覚えていよう。このエロ漫画を読んだ時の少年みたいなあの興奮を、高鳴りを、切なさを忘れないでいよう。ふと、そんなことを思った。

 

 僕はようやく頭を上げて、もう一度スマホの画面を見た。

 

 僕の手元には、今、望んだものがほとんど一瞬で手に入る四次元ポケットがある。膨大なエロい情報の海に、エロえもんのお下がりのパソコンより速く、より手軽に、周りの目を気にすることなく、アクセスできる。

 

 僕が子供だったゼロ年代とは違い、小学生ですら一人で手軽にインターネットを通じて何かを発信している時代だ。ほぼすべての人がクリエイターになれて、正しさや面白さ――そんな価値観の洪水が広がる世界で作品を発表し続けるのは、本当に大変だと思う。

 

――俺がやってきたことは、全部、無意味だった。俺の作品に、価値はなかったんだ

 

 いつか、あの店長さんのように夢が砕け散ってしまうことがあるかもしれない。自分の作ったものが無価値だと信じてしまうかもしれない。理解してしまうかもしれない。

 

 でも――違うよ。違うんだ、店長さん。

 

 何かを作るというのは、本当に救われなくて、くだらなくて、誰にも理解されないことなのかもしれない。

 

 でも。それでも。

 きっと、報われなくても、忘れ去られても、嘲笑されても、眉をひそめられても、世の中の正しさや普通に糾弾されても。何かを作ることは、何かを作ったということは、誰でもできることじゃない。本当にすごい。本当に……素晴らしいことなんだ。

 

 業界にいるわけでもない。何も作っていない元サラリーマンの無職に何がわかる。当事者からすればそういうふうに思われるかもしれない。

 だけど、少なくとも、僕は――21ゼロえもん殿下〟先生〟の『四時限ソケット』を読んだ僕は、そう思ったんだ。

 

 僕はこの気持ちを、どうにかして21ゼロえもん殿下先生に伝えたくて。あのSNSのアカウントのメッセージ欄を勢いのまま開き、その空白を見て、少しだけ思い直す。

 

 もし仮に21ゼロえもん殿下先生が彼女だったとしても――あの子は、子供の時の友達だ。

 『ジュブナイル』に出てきた少女がそうであったように。彼女にとって、僕がもう過去の場所であったならば。一方的な哀愁を持ち寄って押し付けたところで、たぶん迷惑なだけだろう。

 

 僕はSNSのアプリを閉じて、再びブラウザへ――あの販売サイトへと戻ると、『四時限ソケット』の感想と五段階評価が書かれたレビュー画面へと向かう。

 

 

レビュー投稿者:100日後にGカップになるJK

 絵のタッチがすごく好きで(続きを読むにはタップしてください)

 

レビュー投稿者:三山通

 イチャラブギャグ最後の砦。昨今のネト(続きを読むにはタップしてください)

 

 

 すでに二つほどレビューがされているのを横目に見ると、同じようにこの作品を好きでいてくれる人がいるという事実に少し嬉しくなる。僕は鼻をすすりながら、ユーザーレビューの右上にある『感想を描く』というボタンをタップし、表示された空白に文字を少しずつ、時間をかけて打ち込み始めた。

 

 この文章を21ゼロえもん殿下先生が見るかはわらかない。

 そもそも先生はあいつじゃないかもしれないし、こんな長文の感想など自分で言うのもなんだが気持ち悪いかもしれない。

 

 でも、僕は、今ようやく見つけたのだ。あの夜できなかった友達のために――そして、自分のためにできることを。こんなに長い時間をかけて、やっと、見つけたんだ。

 

 だから、このレビューを書ききらなきゃいけない。一円にもならないし、履歴書を埋めるのに役に立つわけでもない――そんな便所の落書きで、チラシの裏にでも書いておく程度のことなのかもしれない。

 だけど、何者にもなれなかった僕だけど、いつか電子の海に消えていく文章の連なりかもしれないけど、今の僕には、このエロ漫画の感想を書くことが、どうしようもなく必要だった。

 

 それから長い時間をかけて書き終え、天井を見上げて深く深く息を吐いた。もう涙は止まっていた。

 送信する前に僕はユーザネーム欄が空白だったことに気づき、適当に『ななしのエロ太』と打ち込む。

 

「……」

 

 だけど、少ししてなんとなく『ななしのエロ犬』と変えて、送信ボタンを押した。

 

 ブラウザを閉じると、現れたのは先ほど何も書かずに開きっぱなしにしていたSNSのアプリ。そして、メッセージ欄の空白だった。僕はそれを見て、自分でも不思議と晴れやかな気持ちで笑っていた。

 

 あの頃の僕らは、『普通』と折り合いをつけることも、現実のどこかに居場所を見つけることもできなかった。

 

 だから、僕には君が必要で、君も僕を必要としてくれた。

 だけど、何かを変える行動すらしなかった僕と違って……たぶん、君は、もうこの世界と戦い、仲直りする手段をちゃんと手に入れたのだろう。

 

 僕は――ただの21ゼロえもん殿下先生のファンだ。

 この空白を埋める言葉は、自分の中に。僕たちが一緒に過ごした季節の中に置いていこう。

 

 あの時代のインターネットの書き込みみたいに――何者でもないくらいの名無しの応援が、僕にはちょうどいいのだと思う。

 

 夢を描くこともないけれど、それなりに人生をこなしてきた僕。

 最初に目指した場所ではないけれど、夢に向かい続けているかもしれない彼女。

 どっちが正しいかなんてわからないけど、少なくとも僕は21ゼロえもん殿下先生のエロ漫画の中に、あの時の感情を思い出すことができた。それは、たぶん――先生が与えてくれたすごく些細で、贅沢な時間だった。

 

 それだけでいいじゃないか。

 だって、音成市からの帰り道で夜空を見上げた時、思っただろ? 人類はいつか滅亡して、地球は跡形もなく消え去ってしまうって。

 

 だけど――だから、何かを好きでいるのも、自分に絶望するのも、未来にわずかな希望を抱くのも。どう生きても、全部オナニーなんだ。オナニーだけが、人生なんだ。

 

 なら、僕はあと少しだけ、前を向こう。もう少しだけ、自分を好きになろう。そして、子供だったあの頃にお別れを言おう。

 

 あの夏の夜、彼女と約束した未来にはなれなかったし、のび太みたいないい人間にはなれなかったけど。それでも、それでいいと……今は思えるんだ。

 

 

 

 

 

 

 ……それはともかく。レビューを書き終わった後、僕にはやることがあった。

 

 もう一度閲覧アプリを開き、匂い対策のために窓を開ける。横にはティシュ箱を設置し、四時限ソケットの中から特にエロかった作品を一つ選ぶ。

 

 エロ漫画を構成する要素は色々あり、一般誌と比べて表現やテーマの制約も緩いが、唯一絶対入れるべきものがある。そこから生まれる実用性こそが、エロ漫画の根幹なのだから。

 どのエロ漫画も、そこに繋がるようにストーリーを集約させ、先生方は短いページ数で実用性とのバランスを考え、自分の描きたいものを入れようと苦心されている。

 

 ならば……やらないわけにはいかないだろう。

 ふーっと何があるわけでもないが悲観的なため息をついて、苦笑して、ズボンを下ろす。実家でやるのは主義じゃないのだが、まあ、今日は特別だ。

 

 

 

 やれやれ。僕は自家発電を開始した。

 

 

 



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最終巻 STAND BY ME
四時限ソケット(作・21ゼロえもん殿下) レビュー投稿者:ななしのエロ犬


 

 

 エロ漫画の単行本を購入するのは初めてで、21ゼロえもん殿下先生の作品を読むのも初めてです。長い割にヘタクソで中身のない感想になります(一部バレ含みます)。

 

 10作の個別読切(各話に同じ学校であることを暗示する薄い繋がりはありますが)は、一貫してハイテンションなやり取りやパロディを多く含むギャグ系統のエロコメといった感じで、全体を通してコミカルなストーリーテリングになっています。ただし、導入部~前半のエロコメパートは軽めのボリュームでまとまっており、エロパートも構成的に十分あります。どの作品も安定的に実用性の高いものになっていると思います。

 

 女の子のジャンルとしては、学校という舞台がありほんとど同じですが、校庭やプールサイド、科学室、文化祭のお化け屋敷の中など……舞台に変化を持たせ、マンネリ化を防ぐ工夫がされています。属性も委員長タイプに不思議系ガール、クールな理系美少女、女性教師とそれぞれ違ったタイプのヒロインが出てきますが、性格的な造形としては、思春期ゆえの性的なものへの興味や羞恥心に振り回されながらもエッチなことを積極的(多少暴走気味?)に取り組む姿勢が根底にあり、性に対して一貫して純粋な感情が描かれています。

 

 また各話の相手役の男子はヒロインに振り回されることが多いですが、どのキャラもきちんとスケベな気持ちがあり、主導権を握らせるだけでなく、きちんと自分の意思と性癖を持ち合わせています。多少アブノーマルな面があってもそれをお互いに素直にぶつけ合い、両者の欲求が合意のもと達成させられるという描写になっているので、全体的にポジティブで明るい雰囲気に仕上がりになっています。ベーシックな行為の流れと擬音、台詞のバランスの良さもあり、どことなく普遍的な心地よい読後感を得られるのではないでしょうか。

 

 女の子の外見的な描写は属性により細かな違いはありますが、共通しているのは巨乳です。この先生は一貫して巨乳ものを描き続けられているみたいですね。

 

 エロ漫画は裸体だからこそ人体を描く技術にごまかしがきかないらしいですが、素人目に見てもおっぱいを中心に各体パーツの描写には十分な健康的なエロさがあり、特に違和感はありませんでした。エッチです。

 

 絵柄としては、線は細く柔らかいタッチですが、最近のアニメの流行も取り入れて新鮮味も両立しています。女の子の服の装飾、行為に至るまでの表情の変化なども丁寧で、全体的に繊細な画面作りを心掛けているのかなと感じます。絵柄のバラつきは少なく、全体的に親しみやすく綺麗な絵が前述の軽くコミカルなストーリ展開・エロパートとマッチし、小生のようなエロ漫画初心者でも取っつきやすい窓口の広いエロ漫画と言えのではないでしょうか。

 

 ただ、ひとつだけ。単行本の最後に位置する『ジュブナイル』という話だけは、前述した作品群とは大きく異なる印象に仕上がっています。

 

 これまでのコメディテイストな明るい画面とは違い、絵も夕刻の陰影を強調した若干濃いものになっています。ただ丁寧な線と背景の空白とのバランスゆえにごちゃごちゃとした印象は見受けられません。コマ枠内のバランスに気を使っておられるのだと思います。

 

 詳細は省略しますが、ストーリーとしては男勝りの女の子と東京への進学を決めた年上の男の子の話です。ただ、エロ漫画において没入感を阻害させないため無個性になりがちな男性が特殊性癖を持っていることを強調し、それに起因する二人の感情のすれ違いが、作品の印象に大きく寄与するポイントだと思います。

 

 どうしようもないやり場のない感情。自分や世界への葛藤。それは大人や「普通」を生きる人にとってはとても些細で、理解し難い葛藤なのかもしれません。

 

 自己と世界の断絶と再生。これはエロ以外の一般作品でもよく目にする手垢のついたテーマではありますが、本作品はエロ漫画という媒体を活かし、ヒロインはセックスという手段でそれらを解決しようと試みます。しかし、物語の結末としては結局ヒロインと男の子の心の距離は埋まることはなく、一般作品であれば問題の解決と成長という一連のプロセスを得てたどり着くはずの結末は、何も得られないほろ苦いものになっています。

 

 それが徹底的にムダを排した最低限の台詞と繊細な表情の移り変わりで進む情事にも表れ、これまでの作品と違いどこか文学的なエロさになっています。ただ、こういったシリアス系統……少し悪い言葉で言い換えれば、サブカル的で実用性に劣る作品とも取られかねない印象の中、作品のエロさを引き立てているのが、ヒロインが行為を通して伝えようとしている切迫した感情の静かな爆発だと思います。

 

 性的な成長も終わりを迎え始めた少女の体は、好意を寄せる少年の性的対象とはどんどんかけ離れていき、男の子が東京の大学に進学を決めたことで感情面だけでなく、物理的な距離までもが離れていく。それに耐え切れず体の繋がりを強要する。思春期特有の不安定なアイデンティティと自己形成を他人との繋がりのみに求めてしまう危うさ――そうした心の動きを丁寧に掬い取った行為の描写が本作品の真骨頂なのではないでしょうか。

 

 ただ、翌春、女の子らしくなったヒロインが微笑む最後のページには、ヒロインが起こした行動の先に生まれた変化と微かな救いがありました。切なさと晴れやかな感情が同居したラストページ。ここに先生がエロ漫画に込めた情熱の欠片とキャラクターへの優しさが感じ取れます。実用面などで賛否はあるかと思いますが、個人的にはすごく好きな終わり方です。

 

 一つの学校を舞台にヒロインたちの衝動と感情の揺さぶりをコミカルに、そしてほんの少しの切なさを込めて描いた本作は、一般漫画のラブコメとも日常系とも違う……エロ漫画でしか表現できないものだと思います。大人になったおじさんにそんな青い感情を思い起こさせ、いい意味で虚構を追体験させててくれたとても素晴らしい作品でした。

 

 

 

 先生の描くエッチな女の子が好きです。先生の描く世界が好きです。

 人は……おっぱい以外を好きになることはあっても、おっぱいを嫌いになることはありません。先生には、これからもぜひ好きなものを描き続けていただきたいです。

 

 

 



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最終話:僕の新世紀・新エロマンガ島

ここまでご覧いただきありがとうございました。
本筋の日野くんの物語はここで終わりですが、あと一話だけあります。
(本日お昼頃投稿します)


 

 翌朝、部屋に差し込んだ日差しで、僕はごく自然に目を覚ますことができた。

 昨日と違い、もう、夢を見た記憶はなかった。あれをやると眠りが浅くなるというのが一般的な通説のようだが、不思議と眠りが深く、久々に頭の中がすっきりとした気分だった。

 

 珍しく昼前に起き上がってきた僕に姉は大きく目を見開き「……大災害でも起きるんじゃないでしょうね?」と怪訝そうな顔をした。

 だが、時計をちらりと見ると「昼飯の準備でもしててよ。私、伸介(しんすけ)を迎えに行ってからそのままパート直行だから」と例によって雑用を言いつけられる。甥っ子は僕がグースカ寝てる間、塾の夏期講習に行っていたらしい。

 

「駅に迎えに行くのは何時頃?」

「十二時半だけど」

「車貸してくれる? 僕が行くよ」

「……ニート、どういう風の吹き回しなわけ?」

 

 いつの間にか『ニート』に改名されている名前のことはスルーし、僕は相変わらず勘の鋭い姉の追及に取り繕った笑みを浮かべる。

 

「い、いや、別に。無職だからできることを積極的にしようかと……」

「ふーん……まあ、いいや。じゃあ、私このままパート行くからよろしく。昼飯は伸介と適当に済ませてよ」

 

 と言われ「りょーかい」と僕が身支度を整えるために洗面台に向かおうとした時、姉が「そういえばさぁ」と僕の背中に投げかける。

 

「あんたもだけど、伸介、昨日の夜、部屋に戻ってゲームしてたでしょ」

「ああ……そうだね」

「最近、あんまり居間にいないですぐに部屋に引っ込むし……ついに反抗期って感じ? あの年頃の男の子って何考えてるのかなぁ? あんたわかんないの?」

「うーん、まあ――」

 

 彼と同じくらいの頃。何を考えていたか。

 1%ぐらいは将来や自分のこと。9%は漫画やアニメやゲーム。となると、残りの90%は――決まっている。

 

「ほぼ9割は、エロいことだな」

「あのさぁ……私、わりと真面目に話してるんだけど」

 

 一応これでも大真面目だと反論しそうになったが、後が怖いのでここは大人しく「さーせん」と引き下がる。それに呆れ返ったのか。姉は「あんたに聞いた私が馬鹿だった」とパートに行く準備を始めていた。

 

 僕は疎らに伸びた無精ひげにシェービングジェルを付けて剃りながら、少しくすんだ実家の鏡。そこに映る大人の男の顔をじっと見た。

 

 僕は子供もいないし、結婚どころか彼女すらいないが、子供だったことはある。

 そう。確かに、あったのだ。

 

 その時の感情をまた少しだけ思い出しながら、刈り取られた髭たちをジェルと共に洗い流した。

 

 

 

 

 

 普段は寂れているであろう夏の駅前は、帰省を終えて都心部へと戻っていく人たちで珍しく賑わっている。流れていく人の流れの向こう――自治体の観光ポスターが貼られた出口近くで、マスクをつけた甥っ子はスマホをいじりながら手持ち無沙汰に立っていた。

 

「よっ」

 

 目の前まで来て僕が蒸れたマスク越しに話しかけると、甥っ子は少し意外そうに目を見張る。

 

「何やってんの、おじさん?」

「君を君のお母さんの車で迎えに来ました。昼飯、どっかで食って行こうよ」

 

 なんだか迷惑そうに繰り出された質問に、僕は苦笑しながら状況説明する。それに甥っ子は「ふーん」といつも通りの不愛想な返事を寄越した。

 

 毎年繰り返される蝉の合唱を頭上から浴びながら、僕らは連れ立って停めていた軽自動車まで歩いた。車内はものの数分でサウナのように熱されており、マスクを外して一度窓を全開にして熱気を逃がしつつ、クーラーをつけてから車を発進させる。

 

 昼飯はどこでもいいと言うので適当なチェーン店に行こうと県道沿いを走っていた時、ふと地元に昔からある書店が目に入る。僕は助手席に座る退屈そうな横顔を見て「本屋寄ってもいいかな?」と尋ねる。

 

「え? なんで?」

「なんか……超エロい漫画が、僕を呼んでいる気がするんだよ」

 

 当然甥っ子から出た問い。僕は牽制するように冗談っぽく笑う。

 

「……勝手にすれば」

 

 それに甥っ子は呆れた調子で答えた。

 

「好きな漫画ない? 昨日かくまってくれたお礼、してなかったからさ」

「いいよ、別に。てゆーか、おじさん、大人だからエロい漫画無料で見れるサイトとか行けるんじゃないの?」

 

 甥っ子の指摘に「うーん、そうだな」と笑う。海賊版とかを無断アップロードしているエロサイトのことだろう。

 

 僕だって普通の人間だ。キリスト的な清廉潔白な者だけが罪人に石を投げなさい理論に準じ、そういうサイトを一回も見たことがないかと問われれば、嘘になる。

 だけど――これからは、ちゃんと正規の手段を使い、手に入れて、読みたいと思う。そうやって作っている人にちゃんと還元できる手段が、子供の時と違って、今はあるのだから。

 

「大人ってのはね、ちゃんと金を出してエロ漫画を買うもんなんだよ」

「なんで? 無料で見れるのに」

 

 ハンドルを右に切りながら、僕は甥っ子の率直な質問に口元を上げる。

 

「スケベな大人だからルールを破っていいんじゃない。スケベな大人だからこそ、ルールを守らなくちゃいけないんだ」

「なんか……おじさん、かっこつけてるけど、言ってることめちゃくちゃかっこ悪いからね?」

 

 広告料で賄われる動画サイトとか――身近な娯楽は無料の方が多いこの子には、理解し難い感覚かもしれないけど、まあ、いつかわかってもらえればいいや。僕はどこかに無責任に笑うと、なるべく日陰の場所を選んで本屋の駐車場に車を停めた。

 

 本屋に入ると店頭の出入り口でマスクをつけて、足踏み式のポンプスタンドで手にアルコールをプッシュし、「ちゃんとウイルス殺さないとな」と甥っ子にも促す。

 

「ウイルスって生き物なの?」

「さあ……確か無性生殖とか子孫をつくるとか……そういうふうに遺伝子を残してないから、生物の定義から外れるんじゃなかったか?」

「じゃあ、おじさんも彼女いないから生物じゃないね」

「……」

 

 僕は皮肉染みた甥っ子の言葉に――軽く頭上目がけチョップを浴びせる。

 

「何すんだよー」

「おじさんの場合は自分の怠慢だから仕方ないけど、色んな事情で子供ができなかったり、結婚を諦めちゃう人だっているからね。僕にはいいけど、他の人にはそういうこと言うなよ」

「おじさん以外には言わないよ」

「……それはそれでどうなの?」

 

 まあ、なんて偉そうに説教してみたけど、正直なところ、今のチョップは自分の私怨が9割だ。あの頃は気づけなかったけど、子どもの時に親や教師のような周囲の大人がそうであったように――僕だって、完璧な人間になんてなれないのだ。

 

「さっきからだけど、おじさんって、そういう説教するタイプだった?」

「こう見えておじさんも大人だからね。いろいろ考えてるんだよ」

「なにを?」

 

 そんな具体的に聞かれたら答えに困るな。

 

「……まあ、あれだ。日本経済の行く末とか世界の平和とか」

「絶対テキトーなこと言ってるでしょ?」

 

 虚言はすぐに看破され、僕はそれをごまかすために「やれやれ」と何の意味もないため息をつく。甥っ子はじとりとこちらを見ていた。完全に痛い大人を見る目だった。

 そんなふうに雑談しながら店内に入り、僕は「本当に何もいらないの?」と再度尋ねてみる。すると、甥っ子は「だって――」と顔をうつ向かせる。

 

「少し前まではキメツとかやってたけどさ……最近、みんな漫画の話とかしないんだもん」

「え? そうなの?」

「うん。ゲームとか多いけど、うち課金禁止だから。そのぶん時間かけなきゃ話ついていけなくなるし……漫画とかアニメも、本当はけっこう好きなんだけど」

 

――本当は……その時間も、漫画に使いたいんだけど

 

 甥っ子の話を聞き、ふとあの時エロえもんの部屋で話していた会話を思い出していた。

 なるほど。やっぱり藤子先生のおっしゃる通り、時代が変わったとしても、意外と人間というのは同じことをする生物するみたいだ。僕は「そっか」と笑いかけ、どう言葉をかければいいか少しだけ考えてみる。

 

「じゃあ、ゲームは嫌い?」

「そんなことないけど……もっと、自由にやりたいってのは思う。おじさんが小学生の時は、課金とかしてたの?」

「うーん、課金以前にスマホもソシャゲもなかったからなぁ。そもそも、ゲーム禁止されてたし」

「え!? それどうやって生きてたの!? 学校で友達いなかったでしょ!?」

 

 こいつ……なかなか鋭いな。

 

 僕は後ろ頭をかきながら「まあ、でも、うん。課金じゃないけど、似たようなことはあったから、それなりにきつかったな」とマスクの下で苦笑いをする。

 

「でもね――僕は、人と好きって気持ちを共有するのも大切だけど……一人で好きな世界に浸るのも、周りと違うものを好きっていうことも……たぶん、そんなに悪いことじゃないと思うんだ。たぶんどっちも正しいし、どっちが間違ってるってことはないって、今は思ってるよ」

 

 僕がそう一言に自分の考えを告げると、甥っ子は「おじさん、めっちゃマジレスじゃん」とポカンとする。

 

「……参考ぐらいにはするよ」

 

 だけど、どこか曖昧な笑みを見せた後、そっぽを向いてぼそりと言った。僕は何を言うべき迷い、結局また「そっか」とだけ返した。

 

 甥っ子がやっぱり漫画を買うというので彼が少年漫画コーナーに行っている間、僕も漫画を何冊か見繕った後、再就職に備えて選考試験用の参考書を1冊手に取り、本来の目的である――趣味・アート本のコーナーへと向かう。

 

「何それ?」

 

 そうして棚に差さっている一冊――『デジタル時代の漫画の描き方 初心者編』というタイトルの本を手にしてパラパラとめくっている時、いつの間にかコミックスを選んで戻ってきた甥っ子が手元を覗き込んできた。

 

「君くらいの時にやってたんだけど、また……久々にちょっと描いてみようと思ってね」

「プロの漫画家でも目指すの?」

「まさか。僕みたいなやつが目指したら、プロに失礼だよ」

「じゃあ、今から始める意味ないじゃん」

「まあ、そうだな。あえて言うなら――」

 

 その意見に僕はどう返していいか困ったが――少しして、21ゼロえもん殿下先生の『ジュブナイル』のラストページで少女が見せたように、笑う。

 

――お前何が楽しみで生きてんだ!?

 

 同時に昨晩の叔父からの問いを思い出して、自分の中で答えが見つかった気がした。

 

「人生の楽しみ……ってやつだね」

「ふーん」

 

 僕の中では小さくて、大きな変化も。甥っ子はさして興味もなさそうにいつもの「ふーん」で返すだけだった。

 

「どんな漫画描くの?」

「スぺクタルな冒険もので、笑いと感動とラッキースケベを盛り込んで250ページ読み切り」

「絶対途中で挫折するね。間違いない」

「……そうだな」

 

 なんかそういうフレーズのお笑い芸人いたなと思いつつ、真っ当な指摘を受け乾いた笑いが漏れる。まず1~2ページくらいのショートストーリーからやってみようと思いつつ、僕はそれを棚に返すことはなく、甥っ子が持ってきた漫画を預かり、そのままレジへと向かった。

 

 レジで会計をしている間、天上からぶら下げられた透明なビニールシートの向こう側で立っている店員さんを見て――ふと、あの時の店長さんのことを思った。

 

 あの人は――そういうものを売ってる大人だから。夢に打ちのめされた大人だから。

 だからこそ。僕たちの前では、ちゃんとした大人でいようとしていたのかもしれない。夢の裏側もひっくるめて全部伝えようとしてくれたのかもしれない。

 

 僕は紙袋に包まれた本の束を受け取り、出口で待っている甥っ子のもとに向かう前にちらりと書店の中を――本棚に並ぶ漫画やラノベ、小説たちを見た。

 

 ライバルとなる娯楽やコンテンツが溢れかえり、紙の本が売れなくなる時代。

 WEB雑誌や投稿サイト、アプリのおかげで作品を発表したり、デビューできる窓口は広がったけど、1日に1店舗の本屋がつぶれ、年々業界規模は縮小している。

 

 ゼロ年代と違い、出版も、コンテンツも。サブカルチャーはもてはやされてはいるけど、一部を除いて全体的にはジリ貧だ。昔から厳しい世界ではあったのだろうけど、たぶん今後作家専業で一生飯を食っていける人なんてのは、たぶんほとんどいなくなっていくのだろう。

 

 でも――そんな世界の終わりみたい場所でもがいて、戦っている人たちがいる。

 

 僕は、21ゼロえもん殿下先生とも、あの店長さんとも違う。挑戦することもしなかった――敗北者を名乗る資格もない僕にできることは、決まっている。

 

「なにぼっーとしてたの?」

「いや、ちょっとね」

 

 甥っ子の問いにためらいがちな笑みを浮かべつつ、その横顔をちらりと見た。

 

 もしかしたら、この子もいつか知るかもしれない。

 現実は――マンガみたいにはうまくいかなくて、アニメの世界のようにキラキラもしていなくて、ラノベで使われる明るい言葉より罵倒に溢れていて、ゲームより不公平なシステムに支配されていて、JPOPやアニソンでよく語られるほど愛も夢も溢れちゃいないってことに。

 

 きっと、漫画とかアニメとかゲームとか音楽とかエロとかは……どこまで行っても低俗な娯楽で、余暇時間を消費されるために存在するエンタメで、世界を劇的に変えたり、救ったりはしないだろう。

 

 でも、それでも。

 いつだって僕らの傍にいて、ほんの少しだけ――誰かが生きるのを助けることはできる。21ゼロえもん殿下先生のエロ漫画を読んだ僕が、そうであったように。

 

 きっとそれは、世界の救世主みたいな立派なやつからしたらとんでもなく小さくて、下劣なことなのだろうけど……でも、それに負けないくらい素晴らしいことだと、僕は思う。

 

「ほい、これ」

「……なにこれ?」

 

 書店から出た後、強烈な日差しに目をクラクラさせながら車に乗り込むと、甥っ子が先ほど購入した漫画と僕が個人的に見繕ったコミックスを渡した。

 

 ひとつは『幽霊荘の宇宙人さんは漫画のためなら!?』というタイトルで、もうひとつは『なぜここにドメスティックな先生が!?』。二つともいわゆるスケベ成分多めのエロコメだ。

 もちろん成人向け漫画ではない。少年漫画のプロたちが考えたぎりぎり少年向けのエッチな漫画である。

 

「帰省中暇だから買ったけど、明後日には東京の方に戻るし……やっぱり重ばるから部屋に置いといてくれない? 悪いんだけどさ」

「えー、嫌だよ」

「まあ、そう言わずに頼むよ」

「……しょうがないなー」

 

 渋々と言った感じで引き受けてくれた助手席の方を見ると、ちらららとエロコメ漫画の方に視線を行っていたが、まあそれを指摘するのは野暮というものだろう。エロサイトはまだ早いしこっちで予行演習しといてくれと思い、僕は何も言わずに車を出す。

 

「どうせお礼のつもりなら、グーグルプレイカードの方がよかったんだけど」

 

 すると、少ししてエロコメ漫画の表紙を見て甥っ子がそんなことを言い出した。

 この子は、どうも姉に似て勘が鋭い節がある。どうやら隠していたこちらの真意もバレバレだったようだ。となると、こちらもあまり隠し立てすることもないだろう。

 

「健全な少年ってのはね、ラブコメとかバトルで時々出てくるサービスシーンを読んで、ニヤニヤするもんなんだよ。僕が子供の頃はサ〇デーとかボ〇ボンで――」

「えー、今どき雑誌なんて高いし買わないよ。マンガ読むならアプリで無料だし」

「そうなの?」

「うん。それにお母さんが……サ〇デーとかボ〇ボン子供の時に読んどると、おじさんみたいにオタクになるから、読むならジ〇ンプにしなさいって」

「……なるほど」

 

 一理ある。完全なる当社比データだが。

 

「てか、サ〇デーはコ〇ンがやってる雑誌って知ってるけど、ボ〇ボンってなんなの?」

「え? あー……そういや、もうないんだったな」

 

 今日何度目になるかわからないジェネレーションギャップを突きつけられ、淡い寂しさを覚えつつも、この子に渦巻いている――かつて、自分にもあったはずの感情を思い出す。

 

 あの頃、僕たちは何も知らなくて、バカで――それは今でも変わらないけど、大人たちが思っているほど、何も考えていないわけじゃなかったとも思う。抱いた感情や起こした行動は「正しくなかった」かもしれないけど、決して「間違い」ではなかったとも。

 

 どこかの雑誌編集部が言っていたけど、子供だましと子供向けは違うのだ。だから、僕もテキトーに誤魔化さず、この子の感情と向き合うべきだろう。

 

 だって、今のこの子には――いや、僕には、それが必要で、大切にしたいのだ。

 

 すこしむかし。いつかの夏に感じた少し不思議で、少し楽しく、少し優しく、少し苦しく……そして、少しスケベな気持ちを。正義とか社会とか道徳とか政治とか。どこかの偉い誰かの言葉で語られる――世界を揺るがす大きなテーマや立派なお題目に心を支配されるより、あの頃近くにあった小さくて、くだらない感情を、僕は時折思い出したい。

 

「姉ちゃん――お母さんには言うなよ。僕が殺されるから」

「言わないよ。共犯者ってことで」

 

 一応釘を刺しておこうとそう告げた時、甥っ子から返された言葉に思わず息が詰まる。

 

――私たちは……共犯者だろ?

 

「……ああ、そうだったね」

 

 胸にまだわずかに残る懐かしい響きを奥にしまいこみ、赤信号にブレーキを踏む。

 

 フロントガラスの向こうでは、あの夏と何一つ変わらない青空と入道雲がそびえ立ち、目の前の横断歩道を自転車で小学生たちが通り過ぎようとしていた。どうやら僕らも渡ったあの橋の方向へ行くようだ。

 

 僕は、目の前で切り取られたそんな夏の風景を見て、少しだけ笑う。

 

 今思えばあれは、古い時代が終わり、新しい時代の幕が上がったばかりの――混然としていたあの零年代(じだい)だから許された、僕らだけのジュブナイルだったのかもしれない。

 

 そう。僕が子供だった頃、21世紀は諦観と衰退と――ほんの少しの未来を含んだ新世紀だった。

 

 そんな僕らが大人を生きる時代にまだひみつどうぐはないけれど、僕は自転車の代わりに軽自動車を運転できるようになった。自分の金でエロ漫画を買えるようになった。

 タイムマシンがないからあの頃には戻れないし、残念ながら立ち止まっている間にも、時間は容赦なく流れ続ける。この街の景色も、漫画の形も、思い出が持つ意味も、全部変わっていく。

 

 そして――僕自身も、きっとそうだ。

 

 信号が青に変わる。前に進むために、ゆっくりとアクセルを踏み込む。

 流れていくバックミラー越しの風景に、自転車で駆けていく小学生たちの背中を見送る。彼らの中で生きている――そして、自分の中でひっそりと生きていた夏が、遠ざかっていく。

 

 そうやって、エロ漫画のページ数のように時間は、早く、だけど確実に流れる。自分の欲望をどうしたらいいかわからないあの衝動を、僕はもう覚えていない。

 

 

 

 そして、あの夏。友達と一緒にエロ漫画を買いに行ったような日々は……二度と手に入らないだろう。

 

 

 



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エピローグ
ガールマテリアル



今回で完結です。
お付き合いいただきありがとうございました。


 

 

 

 この世界のどこかには、エロマンガ島という島があるらしい。

 

 確か最初は『トリビアの泉』――いや、小学生の時、友達から聞いたんだと思う。インターネットで調べていくとエロマンガとは現地語で「人間です」という意味らしく、オーストラリアにも同じようにエロマンガ盆地という名前の地名があるそうだ。

 

「人間です……ね」

 

 ふとそんな昔のことを思い出しながら、私は上半身が丸々あるリアルドールタイプのオ〇ホを床の上でああじゃない、こうじゃないと動かす。悲しいほど洗濯板な自分の胸は参考にならないので、おっぱいだけはいつもこうやって資料を参考にしている。「21ゼロえもん殿下のおっぱいって不自然だよな」、「巨乳好きのくせに固そう」、「おっぱい童貞」と叩かれている所以(ゆえん)である。

 確定申告の時、こういうアダルトグッズを経費として落とせるのがこの業界のいいところ(?)ではあるが、そろそろ新しい方法を模索する時が来ているのかもしれない。

 

 私は仕事用の椅子に座ると、デスクを大きく陣取るデジタル作画用の液晶タブレット、それに……横に置いたデスクトップパソコンへちらりと目をやる。今はあまり見たくないその画面には、数時間前に来た『ネーム、いかがですか?』との進捗確認メール。付き合いのある出版社の編集さんからだ。

 

「……わーかってますよ~、おっぱい、おっぱい」

 

 即席で作ったクソみたいな歌を一人の部屋で口ずさみながら、後ろ手を組んで椅子の背にもたれかかり天井を見上げるが――いくらうなっても、いいアイディアは出てこなかった。

 

 連載企画というわけでもないので普段なら「もう少し待っていただけないでしょうか」などと言うところだが、相談するにしても雛型くらいは出しておきたい。この時期はコミケで忙しかった同業者(ある程度業界で名が通っている人の場合、商業より同人の方が稼ぎがいいのだ)が多いので、あちらとしても原稿を落とすのではないかとひやひやしてるのだろう。

 

 と、その時、ふいにベッドの上に置いていたスマホが鳴ったような気がし、ビクリと振り返る。だが、自分の勘違いだったようで、当のスマホくんは何も言わずに大人しくベットに横たわっていた。

 

「ファントムバイブレーション……ってやつか」

 

 たぶん編集からの連絡を気にしすぎたせいだろう。私はほっと胸をなでおろしつつも――ファントムバイブレーションって……なんかエロいなと思い、取っ掛かりを掴んだ気分になる。

 

 乗るしかねぇ! このビックウェーブに!

 

 私は勢いのままデスクの空いている箇所にネーム用紙を広げ、えんぴつ片手に浮かんでくるアイディアを箇条書きにしていく。

 

 スマホを拾った関西弁の女子〇生が、その持ち主だった幽霊に四六時中スマホのバイブレーションを押し付けられる……うん、よし。このネタで今回は乗り切ろう。たぶん描き始めればなんとかなる。タイトルは……『スマホを拾っただけやのに~!』とかでいいだろう。

 

 ひらめきに身を任せ逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、と頭の中で反芻し、腕組をしながら、真っ白な紙面をにらみつける。

 

「私が信じる……私を信じろぉぉぉぉぉぉーーーーー!!!!!」

 

 いざ! 定規を携え、えんぴつで線を引いていく!

 だが、その数秒後――手に迷いが生まれ、ピタリと動きが止まった。

 

「……」

 

 はい、無理。

 ダメだ。描けない描けない描けない描けない描けない。

 

 

 

「あ~~~!! わたしゃあ、もう破滅じゃあ~~~!!!」

 

 

 

 そのまま椅子から立ち上がり、ベッドにダイブ。自分への嫌悪感で「あ~」と体を右往左往転がし――最後には、もうこのまま眠ってしまおう。うん。きっと明日の私がなんとかしてくれるだろうと、ひどく甘い見通しの自己肯定を繰り出し、枕元に置いてあるスマホを手持ち無沙汰に見る。通知には今月分の携帯料金のお知らせが来ていて、現実逃避先で思わぬ現実を突きつけられてしまう。

 

 年を重ねたせいだろうか。最近、ふとこういうふうに現実にまとわりつかれる時が、増えた気がする。

 

 エロ漫画だけでなく――出版業界全体が、一部を除いて毎年厳しくなっているし、エロ漫画家にとっては重要な収入源である同人即売会も少しずつコロナ規制から復活してきてたり、ネット上に場所を移しているが、今後どうなるか未知数だ。同業者には引退したり、音沙汰がなくなる人だって、珍しくない。もっと気楽に考えてもいいのかもしれないけど、なんとなくそんなマイナス方向なことばかり考えてしまう。

 

 そして、そうやって誰が聞くわけでもないため息を一人の部屋に溶かす時――決まって脳裏をよぎる響きがあった。

 

――僕は……君の漫画が、好きだ

 

 いつかの夏。私が一番辛い時、そばにいてくれたあの子が、かけてくれた言葉。

 本当にシンプルで、なんの装飾も建前もなく――私を肯定し、この世界につなぎ止めてくれたあの言葉。今はもう、少しだけかすみがかったあの暖かさに、一度だけ触れたかった。

 

 私は押入れ兼務のクローゼット奥にしまい込んだ封筒を――その中のA4用紙の束を引っ張り出す。それは小学六年生の時――生まれて初めて人に見せた漫画だ。破れた跡が残るツギハギには、年月を重ねて劣化した黄色いセロハンテープが鈍く光っていた。

 

 漫画を描くことは、タイムシンに似てる。

 

 時折、そんなふうに思うことがある。昔描いた漫画を見返せば、過去の自分が考えていたことに出会うことができるし、ネームを描いている時はまだ見ぬ世界(みらい)に行っている気分になる。

 そんなふうに――普段は忘れているのに。今の私を形作ったであろうあのできごとを、今でも時折思い出すことがある。

 

 小学六年生のあの夏の後も、私は漫画を描き続けた。

 母はあからさまに嫌な顔をしたが、一緒に母の実家で暮らしていた祖父母は理解を示してくれて、私をかばってくれたことが唯一の救いだった。

 

 その後、母から言われたあの三つ編みセーラーの私立中学に合格し、最初は嫌々通学していたけれど――余計な気を使わないで済む女子校は案外居心地が良く、高等部の時に入った漫画研究会では、今でも連絡を取り合う友達もできた。

 

 週刊少年誌や月間誌の賞に応募して、小さな賞に引っ掛かかり、読み切りが一度載った。アシスタントも経験しながら、何度も企画を担当編集に出して連載を目指していたけど、そこから連載会議を通ることは――一度もなかった。

 

 そこから当時お世話になっていた先生の連載が終わり、仕事が途切れていたタイミングで知人に共同ブースに空きができたからと同人即売会に誘われた。そこで今の出版社の担当に声をかけられて、とある雑誌を中心に成人向け漫画を描いている。

 

 そんなふうに――多くの人がそうであるように――私もまた、特別な天才ではなかった。自分の全てを投げ打つ才能もなく、ただなんとかこの場所にしがみついて、何度も他人とうまく付き合うことを放棄しそうになりつつも、徐々に自分と世界の折り合いをつける方法を身に着け、自分を納得させることができるようになった。

 

 だけど、そうやって周りの世界と同化するほどに、自分の中の何かが犯されている気分になった。

 今はそれなりに大人になって、エロ漫画家だって個人事業主で、いろんな手段でコミュニケーションが必要とされることがわかる。絶対に間違えないなんてことはないけれど、人の気持ちを想像して正しい振る舞いをすることだって常にしている。

 

 だけど、時々――この先もずっと漫画を描き続けることに、漠然とした不安が押し寄せる夜がある。

 

 周囲が会社でキャリアを積んだり、結婚をして家庭を築く中で、私の人生は自分の描き出す世界に固執し、留まり続けている。世間一般的にはあまり公にできる分野でもないし、創作について相談できる同業の知り合いも多くはない。そういうふうに孤独な時間の積み重ねの中で、なぜ自分はエロ漫画を描いているのかわからなくなる時がある。

 

 自分が好きなことで、他人様から金をもらっているのだ。

 

 サラリーマンや公務員の中には、漫画家の端くれである自分より大変な思いをしている人たちもいるだろう。そんな人たちが自分たちのお金と時間で読んでくれたり、実際に「使ってくれる」ことはありがたいし、自分でもかわいいキャラデザインのヒロインを生み出せたり、実用性の高いエロさを引き出せたときは嬉しくなる。

 

 それでも、〆切に間に合わせるために手癖で焼き直しのような原稿を作った時は、なぜもっとちゃんと描いてあげられなかったんだろうと、マンガやキャラに申し訳なくなって、やっぱり自己嫌悪に陥ってしまう。

 そうしていくうちに――次第に十代の頃に自分を突き動かしていた「何かになりたい」という衝動は色あせていき、今やめてしまえば……もしかしたら、人生の軌道修正をできるのはないかという思いにかられる機会が増えていった。

 

 あの時、あんなに早く行きたかった未来にいるのに。

 

 自分の中に描きたいものがなくなったら。いつか来るかもしれないその時のことをふと考えて、恐怖でネームを切る手が止まる時がある。

 

 そんな思いを払拭したくて――つい先日出した『四時限ソケット』は原点回帰で自分の好きなジャンル――巨乳ものをテーマにした(描いてきたものは8割以上巨乳ものだが)。同好の士からは概ね評判で、自分でも単行本作業をしながらいい感じに仕上がったなと思ったけど……最後の『ジュブナイル』という作品は、かなり自分本位なオナニー作品になってしまって、ちょっと後悔していたのだ。

 

 私はそれが気になり、なんとなく――私の作品も取り扱ってもらっている有名な販売サイトに行き、『四時限ソケット』のページへと行く。レビュー欄にはいくつか好意的な感想が書かれていて嬉しくなりながらも、「ん……?」と目を見開く。

 

 隠れていた最後の――つい数日前に投稿された『ななしのエロ犬』というユーザーのレビューが……ひらすらに長いのだ。それはかなりの長文でスマホをスクロールしてもしても、まだ終わらない。

 

「長すぎるだろ……」

 

 なかなかの大長編に込められた熱量に。なぜかこちらが照れ臭くなって、笑ってしまう。

 その文章を読んでいると、なぜか私は初めて漫画を見せた――あの時の感情を、あの男の子のことを思い浮かべていた。

 

 小学校六年生の時、私の漫画を、絵を、褒めてくれた友達がいた。

 全然運動も勉強もできなくて、かっこ悪くて、スケベで、ちょっと間抜けで。

 でも、自分のために誰かを傷つけることは絶対にしない――優しくて、強い男の子だった。

 

 だから、私はあの子と一緒におっぱいや漫画の話をしている時が一番楽しくて、本当の自分でいられた。たぶん彼がいなかったら、子供だった私はどこかで自分を保っていた糸がぷつりと切れて、周囲の環境に押しつぶされていたと思う。

 

 彼のことは、同じ時間を過ごす相棒として信頼していたし、同じ夢を持つ仲間が近くにいてくれたことが支えになった。

 思い出すのは、いつも「やれやれ」といって困ったように笑う顔や並んで帰る時に合わせてくれた歩調、私の漫画を真剣に読んでくれる時の眼差し。

 

 それは――たぶん、初めての思いだった。

 

 恋なんて呼ぶにはあまりにも幼くて、漠然とした気持ちで。当時は自分でもわからなかったけど。後から振り返った時、思い出の中の私は、いつも友情とない交ぜになったほんのりと温かい感情を抱いていた。だから、両親の離婚と引っ越しが決まった後、エロ漫画を買いに行った夜のことを思い出すと、今でも鮮烈な痛みが胸に走る時がある。

 

 あの時の私は馬鹿で、他にどうしようもなくて。それでも、何か世界を変える手段が欲しくて、なんとか離れ離れになるあの子の心に自分を繋ぎとめようと必死だった。彼が勇気ある優しい拒絶をしてくれたから、お互いを傷つけずに未来に進めたけど。あんなことをしてしまったことだけが、唯一の心残りだった。

 

 なんでだろう……この長文レビュー画面をスクロールしていくと、懐かしくて、温かい気持ちが、次々にわき上がってくる。

 

 なぜ私はエロ漫画の感想を読んで、泣きそうになっているんだろう。

 

 今までも感想を頂いて嬉しいことはあったし、辛い時にずいぶんと励まされた。その逆の誹謗中傷はもちろん、時にはエロ漫画なんて一ページも読んだことがなさそうな人が、SNS上で一方的な批判や自己主張を押し付けてくることもあった。

 

 だけど、今、顔も素性も知らない――なんの繋がりもないけど、この世界のどこかにいる自分の作品を読んでくれた誰かが、こんなにも私が込めた気持ちを読み取ってくれた。

 その時、彼やその後仲良くなったみんな――彼らと過ごした日々が、こんなにも自分の一部だったんだと気づいて。鮮明に思い起こされたあの夏の匂いや音が涙に変わり、いい大人なのにどうしようもなく泣きたくなった。

 

 

『先生の描くエッチな女の子が好きです。先生の描く世界が好きです。

人は……おっぱい以外を好きになることはあっても、おっぱいを嫌いになることはありません。

先生には、これからもぜひ好きなものを描き続けていただきたいです』

 

 

 そのレビューの最後を締め括る言葉にハッとした。目を大きく見開き、私は思わず小学六年生の時によくしていた得意気でシニカルな笑みを浮かべる。それはいつかどこかで、私が言っていた言葉と同じだったから。

 

 

 

「さては、ななしのエロ犬……君もおっぱい星人だな?」

 

 

 

 私はスマホを置き、大きく伸びをしてから――もう一度椅子に座り、机上のネーム用紙と向き合い、えんぴつを握る。

 

 私は、漫画が好きだ。

 漫画を描くのが好きで、エロ漫画が好きで、かわいい女の子を描くのが好きで、巨乳のお姉さんのエッチな姿が好きだ。

 この気持ちがある限り、まだペンを握れる。これから先どんなにきつい現実が待っていても、たぶんどうにかなる。

 

 

 

 きっと、未来は大丈夫だ。

 

 

 

 だから、私は描き続ける。もしかしたら、あの時の青い衝動を、どこかにいる誰かが思い出してくれるかも。そんな秘かな願いをこの紙面と液晶画面の上に乗せて。

 

 私の作る世界のどこかで――また、あの時の友達と出会えるように。

 

 






参考文献

以下を参考にさせていただきました。
この場を借りて列記、及び感謝申し上げます。

『小学館版 学習まんが人物館 藤子・F・不二雄 (小学館版学習まんが人物館)』
 さいとうはるお・黒沢哲也 小学館

『藤子・F・不二雄SF短編集<PERFECT版>7 タイムカメラ』
 藤子・F・不二雄・藤本匡実 寄稿『父の持論』



引用文献

てんとう虫コミックス ドラえもん第1巻 「一生に一度は百点を…」、「ご先祖さまがんばれ」
藤子・F・不二雄 小学館

てんとう虫コミックス ドラえもん第9巻 「ジーンと感動する話」
藤子・F・不二雄 小学館

てんとう虫コミックス ドラえもん第12巻 「右か左か人生コース」
藤子・F・不二雄 小学館



書いてるときお世話になったBGMの曲リスト

『ピーターパン・シンドローム』  Sound Schedule
『ソラニン』 ASIAN KUNG-FU GENERATION
『Wild Flowers』 RAMAR
『グロウアップ』 Hysteric Blue
『WORLD END』 FLOW
『モザイクカケラ』 SunSet Swish
『God knows...』 涼宮ハルヒ(平野綾)・畑亜貴・神前暁
『スタンド・バイ・ミー』 Ben.e.King
『secret base 〜君がくれたもの〜』 ZONE
『Forever Blue』 今井ちひろ・松浦有希・高木洋
『少年期』 武田鉄矢・佐考康夫
『友達の唄』 BUMP OF CHICKEN
『ボクノート』 スキマスイッチ
『もどかしい世界の上で』 牧野由依・佐々倉有吾・島田昌典
『ガーネット』 奥華子
『想い出は遠くの日々』 天門
『歩いて帰ろう』 斉藤和義
『JUVENILEのテーマ〜瞳の中のRAINBOW〜』 山下達郎



一方的な謝意になりますが、以下の方々に格別の尊敬と特別な感謝を申し上げます。

藤子・F・不二雄先生
お世話になっているエロ漫画の先生方
スティーブン・キング先生
ゼロ年代に何かを作っていた方々。今も、作り続けている方々。

拙い素人の作品をここまで読んでくださった皆様



僕が子供だった頃――インターネットを通して面白いものを見せてくれた、遊ばせてくれたどこかの誰か様




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