ウマ娘短編 少女達の蹄跡 (騎虎)
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黄金旅程――キンイロリョテイ(ステイゴールド)――

タイトル通り、主人公はキンイロリョテイです(ステイゴールドの名前でもよかったけど、ある意味キンイロリョテイが定着してるしね)。
 気を付けて頂きたいのは、原作のキャラクターが三人、命を落とした事になっています。一人は明確に「死」の引き金となる描写があり……と言えば、まぁ誰か分かって頂けるかと。残り二人は台詞の端に上るだけですが、ある程度知識のある方なら(こんな小説読もうって方なら)すぐ分かるはずです。またオリジナルのウマ娘も一人死亡していますので、そういう展開が苦手だという方はブラウザバックをお願い致します。


 普段通り、私は宿舎を出た。海外で戦うウマ娘には、専用の宿舎が用意されている。国際交流、それもG1レースとなれば、自然厳格にもなった。国の威信がかかっている、と入れ込んでいる奴もいる。私には理解できないが。

「どうした、リョテイ。元気ねぇじゃん」

 不意に、話しかけられた。横を見ると、少し間の抜けた顔がこちらを覗いている。

「……なんだ、ヤマトか」

「なんだは無いだろ、なんだは」

 そう言って、そいつは楽しそうに笑った。何が楽しいのか、私には分からない。

「もっとリラックスしなって。お前がそんなんだと、後輩達もかたーくなっちまうぜ?」

「知らん……全く、馴れ馴れしい奴だ」

 今日、ここ香港で行われる国際G1レース。その四つのG1全てに、日本勢のウマ娘が出走登録をしていた。メインの香港カップはアグネスデジタル、香港マイルをエイシンプレストン、香港スプリントをダイタクヤマト、メジロダーリング。そして、ヴァーズに登録されているのが、私だ。

「なんだ、緊張してるのか? お前らしくもねぇじゃん」

「お前は、いつも通りだな」

 そう言われて、ヤマトはガハハと笑う。以前テイオー先輩が言っていた事を思い出した。ヤマトは、私の良く知るアイツにそっくりだと。バカみたいな走りをして、持たずにズブズブ沈む。しかし周りがそう考えて油断すると、最後まで走りぬいてしまう。勝てると思われない中で勝つ。そんなアイツにそっくりだと。実際、ヤマトもそういう勝ち方をしたことがあった。

「まぁ、お前聞いたところによると、一番人気だそうじゃないか」

「……ああ、まぁな」

「そらそうだよなぁ。何と言っても、お前はあの世界最強、ファンタスティックライトにも勝ったんだ。当然だ」

「……過去の話だ。それに、アイツに勝ったのは私だけじゃない。ジャパンカップじゃオペラオーが勝ってるし、凱旋門じゃあのブロワイエが勝ってる。エルコンドルパサーも先着してるんだし。あの年もあともう一人、確か……ニュートンとか、何とかが勝ったんだろ?」

「でもよ。それでもなお、だぜ。世界最強クラスのウマ娘なのは違いねえんだからさ」

 そう言われれば、その通りではある。しかし正直、あの時の事はよく覚えていないのだ。夢中だった。それだけ、必死だった。それだけだ。

「まぁいいや。とにかく! お前、頑張れよ。私達の先鋒なんだからな」

「……ああ。分かってる」

 わかっている。普段通り、普段通りと思ってきた。それでも、心の奥底にある思いは消えるどころか激しく燃え上がる。今日だけは、勝ちたかった。

 

 思えば、私は今まで、どれだけ勝ちたいと思ってきただろうか。思ってしまうのだ。私には、才能なんてない。あんな連中の、あんな走りを見せられて、それが嫌でも身に沁みた。どれだけ必死になっても、アイツらに敵う訳なんか無い。そう思ってしまった。

 私が出る事さえ敵わなかった、ウマ娘憧れの舞台、ダービー。前走皐月に次いで勝ち、二冠を達成したアイツ。トレーナー連中やメディアの間では「運が良かった」と囁かれて、夜寮のトイレで泣いているところを見てしまった。アイツは二冠を取るだけ取って、ケガでターフを去ってしまった。

 そして、ようやく私が掴んだ舞台、菊花賞。そこで、私が八着に終わる中猛烈な勢いで勝ちを捥ぎ取った、占い好きのアイツ。ケガに見舞われて結局G1を勝ったのはその時だけだったが、あの時のアイツは、多分誰が相手でも負けなかったんじゃないかと思う。

 国外に出て行って、成果を出した奴もいる。日本で選手登録されているウマ娘として初めて海外G1を制したアイツ。その直後に海外G1を制して、国内のマイル戦線では無敵だったアイツ。そんな奴に食らいついて、桜花賞制覇からつい最近まで、長い間ファンを沸かせ続けたアイツ。そいつをオークス、秋華賞で負かして、通算G1五勝を積み重ねたアイツ。乱暴だったが根は優しかったアイツは、ジュニアC組時代にシニアの混合レースの有馬記念で勝ってみせた。そんなアイツにいつもくっついていたひ弱なアイツも、G2を勝っていた。期待が高まる中で、病気で倒れてしまったけれど。会った事は無いが、地方にも同級生で凄い奴がいたそうだ。そいつは史上初めて、地方のトレセン学園から中央シリーズに殴り込み、勝ったと話題になっていた。

 皆、俺の前に立ちはだかった、同級生達だった。こんな連中に勝てる訳がねえ、と持った。そして、特にそれを思い知らされた奴が、二人。

 一人は、最初私達の中で誰よりも才能を評価されていた。しかし中々結果が出ず、それでも頑張り続けて遂に春の天皇賞で念願のG1を掴んだ。その時、そのすぐ後ろにいたのが、私だった。私自身、これで遂に勝てる、とちらりと思ったのだ。しかし、勝てなかった。

 そして、もう一人。最初は、確かに素質はあるが集中力が無いとか、逆に変に集中し過ぎて入れ込んでしまうとか、いろいろ言われていた。結果も出ず、例えばダービーでは結構期待されていたが惨敗、その後はバカみたいな大逃げの走りを繰り返しては、同期や先輩に捕まり沈んでいた。そんなアイツが、翌年不意に変わった。誰も追いつけない。女帝とまで言われていた先輩も、それまで負け知らずだった後輩も、一人を除いてアイツの影さえ踏めなかった。そう、その影を唯一踏んだのが、私だった。

 

 宝塚記念。ファン投票によって選ばれたウマ娘のみが参加できる、まさに「夢のグランプリ」の第一戦。私はそこに、自分でも驚いたが選ばれることができた。あの二着に敗れた春の天皇賞が評価されたのだろうと思った。その中でも特に注目されていたのが、その不意に変わったアイツだった。前走で圧倒的な逃げ切りを見せて優勝。このレースは、アイツが逃げ切るか、それとも昨年の天皇賞・秋でアイツを躱した最強の女帝がここでも抜き去るのか。それが最大の注目点だった。多分私の事など、誰も見ていなかっただろう。それが、悔しかった。初めて悔しいと思ったかもしれない。他の同級生は私よりずっと早くに注目されていたし、評価も高かった。でも、アイツは素質はそれなりに評価されていたが私と同じく勝ちきれない奴だった筈だ。そのアイツが、いつの間にかスターの仲間入りを果たしている。身勝手な話だが、悔しかった。思わずレース前に、面と向かって言ってしまった程だ。

「お前、随分人気じゃないか」

「そうね。良いレースにしましょう、リョテイ」

「……おい、言っておくぞ。サニーやフクキタルはともかく。おめぇにだけはぜってぇ負けねぇ。お前より、先にG1は取ってやる」

 そう凄んで見せても、アイツはにこやかに笑うだけだった。

「あなたも、本気で走ればG1でも取れると思うわよ」

「……どういう意味だよ」

「手を抜かないで、って事。じゃあ」

 そう言って、アイツはさっさと行ってしまった。腸が煮えくり返る、というのはこういう事かと思った。絶対に追い抜いてやる、と思って臨んだ、2200メートルのレース。最後の直線で、大逃げに逃げるアイツに迫る。単独二番手、勝てると思った。ここまでくれば、差せる。そう思った。あれだけの大逃げをすれば、バテて足が鈍るに決まっているのだ。しかし、アイツは落ちてこなかった。信じられなかった。アイツはバテる事無く、そのままゴールまで行ってしまった。

 レース後、私は周りからよくやったと褒められた。確かに、アイツ以外のウマ娘には先着したのだ。G1を制したウマ娘達を抑えて、格下レース三勝だけの私が二着。確かによくやった、というレースではあるのだろう。それでも、私には悔しさしか無かった。アイツに、負けた。内心で、自分と似たようなものと思っていた、アイツに。

「お疲れ様。危なかったわ」

 汗を拭きながら、アイツはそう言ってきた。

「……嫌味の、つもりか」

 絞り出すように、そう言った。それ以上話せば、私はアイツを殴っていたかもしれない。別にアイツが、反則をしたわけじゃない。逆ギレも良い所だが、その時の私は本当にそうしかねなかった。だから、それだけ言ってその場を去った。

 最初は、自分の才能に自信があった。私は凄い。本気になれば誰にも負けない。そんな自意識過剰な自信を持って、だから練習なんて真面目にやってこなかった。それで、勝てる訳もない。そうして負けが込むと、今度は自分の才能に見切りをつけてしまった。私はどうせ、勝てやしないと。あんな凄い連中を相手に、勝てる訳がないと。同期も凄い連中だらけだが、上にも下にも、大勢の「怪物」がいた。そうして、ついに勝手に「似たようなもん」と思っていたアイツにも、負けた。もう私は勝てない。私には才能が無い。そういう思いが、どんどん強くなっていった。

 そんな私が変わった切欠が、アイツの事故だった。

 

 その時、私はまだ本気では走っていなかった。遥か先頭をいくアイツを追い越すには、ギリギリまで足をためて、最後の直線に賭けるしかない。そうトレーナーに言われて、それに従っていた。しかし同時に、アイツの速過ぎる走りを私は知っている。この秋の天皇賞は二千メートル。この前の、アイツの影を踏んだ宝塚記念は二千二百メートル。二百メートルも短いのに、アイツがバテるとは思えなかった。

「クッソ……!」

 やはり、勝てない。アイツには、私は一生勝てない。そう思った、その時だった。

「……え?」

 アイツが、止まった。私だけじゃない。他の連中も全員、茫然とした表情だったと思う。バテたとか、そういうのではない。本当に、ガクガクとアイツの体が揺れて、そして一気に失速、そのまま立ち止まってしまった。その横を、私は走り抜ける。その時見えたアイツの顔は、真っ青だった。

「おい! スズ……」

 思わず呼びかけそうになる。しかし、今はそれどころではない。レースはまだ続いている。走り抜かねばならない。何が、あっても。

 先頭は、私より大分年上のウマ娘に変わっていた。私は必死に走り、何とか彼女を捉えそうなところまでは追い詰めた。しかしそこで、私の足は止まってしまった。あの衝撃のせいだったのかもしれないと思うが、理由は今でも分からない。私は二着。一着は、私達の三歳年上のベテラン選手、オフサイドトラップだった。本来なら、一着から三着に入ったウマ娘は、ウイニングライブというのを行う。その為の準備が必要なのだが、私はそれどころではなかった。救護室に飛んでいき、喚くように訊いた。

「スズカ、おいスズカ! どこだよ、おい!」

「し、静かに! 落ち着いて、彼女はここにはいない」

 白衣の男にそう言われて、私はなおも食って掛かった。

「ここにはいないって、どこに!」

「……彼女は、今大学病院に向かっている。足が完全に砕けて、ここじゃどうしようも」

「足……が……って……」

 聞いた事がある。ウマ娘は人間と違い、猛烈な速度で走る事ができる。それは強靭な肉体のおかげだが、それでも限度はある。無理をし過ぎれば、負荷に負けて足が砕ける。そうなれば、選手としてはおしまいだ。

「そ……んな……」

「というより……それで、済めばいいが……」

「ど、どういう意味だよ……!」

「……アタシ達は、人間を遥かに超えた速度で走る。それが急に運動を止めたら、心臓にかかる負担も人間の非じゃない。……最悪、心臓や血管がイカれる」

 そう、不意に後ろから言われた。振り返ると、栗毛のウマ娘が立っていた。

「オフサイド……トラップ……先輩」

「ウイニングライブは中止、だってさ。それをアンタに伝えに来た。……ま、無理もないね。ああなっちゃ……三年前の宝塚も、そうだったね。アタシはあれは、テレビで見てただけだったけど」

「それ、って、つまり……」

「……ああ、そうさ。アンタだって分かってる筈だよ。これは、そういう事さ」

 そう言って、彼女は踵を返す。

「じゃ、そういう事だ。ライブは中止でとっとと帰れ、が上のご命令だよ。表彰式はあるっぽいけどね。まあ二着のアンタには、そんなにだろ。気ぃ付けて帰りな」

 そう言った彼女は、しかしすぐに立ち止まる。マスコミが、詰めかけていた。口々に、今日のレースの感想は、サイレンススズカの競争中止の理由はわかるか、などと言っている。

「今、ここでは止めとくれ。表彰の時にそういう席もあるだろ」

 そう言って、彼女はマスコミをいなしていく。私も、彼女についていく事にした。後から聞いた話だが、私の顔色は酷いものだったらしい。確かに、表彰式では一応二着のトロフィーを貰ったはずだが、記憶にないのだ。茫然としていたのだろう。覚えているのは、オフサイドトラップがメディアに向かって言った、言葉だ。

「ええ。やっと、ですから。ケガもあって……アイツが、いなくなって。……やっと勝てて。笑いが止まらないですよ」

 そう聞いたマスコミの中には、明らかに顔色の変わった者もいた。確かに、ダントツの先頭を走っていたウマ娘が競争中止となり、その容体ははっきりしないが誰もが「最悪の想定」をしている中で言う発言としては、不適切だったかもしれない。その時の私も、思わず立ち上がりそうになった。しかし、彼女はあくまで淡々と言った。

「スズカには、気の毒だと思いますけど。でも、アタシも負けるつもりで走っていませんから。それだけです」

 そう言って、彼女は立ち上がった。後日、彼女のこの発言は大きくバッシングの対象になる。そして彼女自身、その後に大きな結果は残せず引退、今は後進を育てているらしいが、評判はあまり聞かない。おそらくファンも、もう彼女の事を忘れている人が大半だろう。あのレースは、サイレンススズカが天国に旅立ってしまった悲劇のレース、「沈黙の日曜日」。でも、今の私には分かる。彼女の、あの時の気持ちが。誰一人、彼女の勝利を祝おうという空気を出していなかった。勝った彼女ではなく、スズカが足を止めた、あの大ケヤキの向こう側を見ていた。それが、たまらなく悔しかったのだろう。彼女はレース場を出た私の前で、こう言っていた。

「笑いなさい。アンタは二着に入った。立派な物よ」

「でも……私は、スズカが」

「……そうね。確かに、そうだわ。でもね」

 そう言って、彼女は私をグッと抱きしめてきた。私は驚いたが、抵抗する気にはならなかった。

「それでも、勝ったのはアタシで、そして二着は貴方。スズカじゃないわ。……笑いなさい。……せめて、貴方だけは、そうあって」

 そう言った、彼女の声は少し震えていた。彼女は孤独な勝者として、受けるべき称賛も受けずに消えていく。それが分かっていたから、せめて私には覚えていて欲しかったのだろう。秋天覇者、オフサイドトラップの名を。

 

レースが始まるまで、まだ少しある。選手達はリラックスして、少しずつ気合を高めていくところだ。アグネスデジタルなどは、世界中から強豪ウマ娘達が揃っているという事で大はしゃぎしている。私は、全員と距離を取って、一人でジッと空を見ていた。その時、不意に電話が鳴った。トレーナーかと思い画面を見ると、全く予想していない名前がそこにあった。

「……メジロ、ブライト……?」

 慌てて電話に出る。すると向こうから、懐かしい声が聞こえてきた。

「やっほー、リョテイ。もうすぐレースでしょ? 激励の電話をしようと思って」

「お、お前」

「皆、あなたの事応援してるのよ? 久しぶりに、同期で集まってね。で、私が代表」

「同期、って……」

「あ、テレビ電話に切り替えよっか」

 そう言って、パッと画面が切り替わる。すると、そこには懐かしい顔ぶれが揃っていた。

「元気ー? 期待してるからねー!」

「サニー……久しぶり、だな」

「リョテイさん! 頑張って下さいねー! シラオキ様のお告げでは、青い服のウマ娘に注意との事です!」

「フクキタル……お前、相変わらず占い占いなんだな」

「ヘーイ、頑張ってくだサーイ! パールはアメリカなので来れませんでしたケド、きっと応援してマース!」

「タイキ……そうか、パールの奴はアメリカ、だったな」

「頑張って……って、言っても、あんまり知らないよね、私の事……」

「マーチか……そうでもないぞ。テレビで、良く見てたよ」

「アタシ達の代表なんだから。しっかり頑張って」

「ドーベル……お前、背負わせてくれるな……」

「おい、負けるんじゃねえぞ! 無様な負け晒したらぶん殴ってやる!」

「ジャスティス……お前も相変わらずだな……」

 そう言って、不意に彼女の胸にある写真に目を落とす。

「そうか、ダンディーもいるんだな」

「……ああ。だから、負けるんじゃねえぞ」

「それに、ほら」

 そう言って、ブライトがもう一つの写真を胸に掲げる。そこには、茶髪の大人しそうな少女の姿。

「スズカ……」

「勝てるか、勝てないかは、時の運もあるわ。でも、悔いのないようにね」

「……ああ。分かってる、ブライト」

 あの日。ブライトも、あのレースを走っていた。彼女は五着。思えば、彼女は常に私達を背負って走っていた。最初は世代最強候補として。そして、後輩を迎え撃つ立場になった時には、総大将として。サニーブライアンの引退、シルクジャスティスやマチカネフクキタルの不振、そしてサイレンススズカの事故。私の様な同世代格下組も結果は出ず、彼女は押し出されるように最も激戦区となる中・長距離路線の世代エースとなり、そして後輩に敗れた。私達が、彼女に背負わせてしまったのだ。

「なぁ、ブライト」

「ん?」

「……私、絶対に、勝つから」

「……分かった。頑張ってね!」

 そう言って、ブライトが電話を切った。目を閉じて、ふうと息を吐く。勝つ。絶対に、勝つ。

 レースの時間が、目前に迫っていた。通路を通り、いよいよコースに出る。皆緊張の面持ちで、ターフへと向かって行った。その中で、私は不思議と落ち着いていた。確かに相手は、名うての強豪ばかり。それは、重々分かっている。それでも、私に気後れは無かった。ターフに出ると、割れんばかりの歓声があたりに響いた。世界中のファンが注目する、大レースだけある。その観客席を見ていると、不意に信じられないものが私の目に飛び込んできた。栗毛の、中年に差し掛かりつつあるウマ娘の姿だ。

「あ、アンタ……オフサイドトラップ……」

「その年まで、よくやったね」

 不意に、歓声が小さくなり彼女の声が聞こえた気がした。言葉を交わせる距離ではない。それでも、何となく彼女が何を伝えようとしているかは分かった。おそらく、彼女の側でもそうだった筈だ。

「その年、って。あん時のアンタと同じだぜ」

「まぁ、そうか。……アタシは、現役六年目でやっとG1を取れた。正直、才能が足りないと思ったよ。怪物みたいな同期がいてね」

「……知っている」

「その同期がさ、引退したと思ったらまぁ後輩も強くて強くて。アタシなんてやっぱり駄目だなぁって思った矢先に……あんな事があって」

「……知っている」

「ねぇ、リョテイ。必死に、必死に走って御覧なさい」

 彼女は、確かに私にそう呼びかけた。

「そうしたらね……天国に、届くかもしれないわ」

「天国……?」

 その意味は、分からない。オフサイドトラップが、目を閉じる。もう話は終わったと言わんばかりに。彼女の声は聞こえなくなり、観客の歓声が戻ってくる。大勢のファンが、私の名前を呼んでくれていた。人間もいる。ウマ娘もいる。国内から、応援に来てくれたらしい。

「頑張って下さい!」

 そう叫んでいるのは、栗毛のウマ娘だった。見た事の無い顔だ。後輩だろうとは思うが、知らないという事はそんなに有力視されているウマ娘ではないのだろう。軽く手を振って応えてやると、彼女は嬉しそうに笑った。

 誘導され、大外の14番ゲートに入る。全員が、ジッと前を見つめる中、ゲートが、空いた。

 実績で考えれば、私は他の奴よりは上だ。日本でG2を一つ、そしてドバイの国際G2を一つ取っている。私の不振で、それまでのトレーナーが交代させられた。それが悔しくて、結果を出したいと思った。ドバイでは、世界王者だとかいう奴の鼻を明かしてやりたかった。それで、全力以上のものが出せた気がする。今回は、どうだろう。私はこれが引退レースでもある。最後の最後、G1タイトルを掴めるかのチャンスという訳だ。

 会場には日本人らしきファンも多くいた。最大の目当ては私なのか、他の子なのかは分からないが。そんな日本からのファン達は、今はもちろん私に声援を送ってくれている。ただ、同時に諦めているようにも見えた。最後だ、悔い無く走れ。ここで二着に入れば、ある意味おいしいじゃないか。私の「勝ち」を本気で信じている人が、どれだけいるだろう。仕方のない事でもある。私はそれだけ、不甲斐ないレースをしてきたのだ。しかし。今日は、もう今までとは違う。今日だけは、是が非でも勝ちたい。そう思った。

 中段に着けて、きっちりとレースを展開する。私自身は、ここまで問題のないレース運びをしている、と思った。しかし、レースは相手がいるものだ。私がどれだけ完璧でも、相手がそれを上回れば負ける。今日は、そういう日かもしれないと思った。

 私は後ろから五・六番目を追走していた。まだ、私は仕掛けない。勝負をかけるのは最後の直線だ。レース中盤、ドバイのエクラールが一気に先頭に出ると、スパートをかける。グイグイと距離が開き、気が付けばかなりの開きになっていた。皆慌ててペースを上げたけれど、届きそうに無いほどの距離が開いてしまっている。青い服のエクラールが、最後の直線に差し掛かる。あの世界王者を思い出させる青だ。

「クソ……」

 ダメなのか。やっぱり、私には無理だったのか。そういう感情が過る。私も最後の直線に入るが、エクラールとの距離は絶望的なまでに開いていた。終わりだ。いくら何でも、ここから追いつける訳はない。セーフティリードだ。必死に走って、二着は確保できそう、といったところか。やはり、私には二着がお似合いという事か。そう思って、一瞬力が抜けた。その時、不意にブライト達の顔が見えた気がした。

「うー、ダメですかねぇ……やっぱり青い服に注意って……」

 心配そうな顔のフクキタルが。

「いや、アイツは追い込み型だ、ここから」

 そう言って、ダンディーの写真をグッと抱きしめるジャスティスが。

「ここで勝てば、日本生まれ日本育ちのウマ娘、初のG1デス。何とか……!」

 食い入るような視線のタイキが。

「先頭は、ちょっとバテは来てるけど」

「でも、この距離を詰めるのは……」

 そう言い合うマーチとサニーが。

「でも、諦めて欲しくはないわね……頑張って」

 そう祈るドーベルが。そして。

「……大丈夫。信じましょう、リョテイを」

 そう言って、ジッとレースを見つめるブライトの姿が。見える、気がした。

「うわあああああああああ!!」

 吠えた。もう、どうにでもなれと思った。どうせ最後だ。これが最後だ。本気の本気で、走ってやろうと思った。走るのが大好きで、大好きで。そのままいってしまった、アイツの様に。

 その時だった。青い服に、緑色が重なって見えた。濃い茶髪に、栗色の長髪が重なって見えた。目を見開き、呟く。

「お前」

 あの時。宝塚記念、2200メートル。アイツの影を踏んだ、あのレース。今日より、200メートル短い。

「お前!」

 あの日、秋の天皇賞。永遠にアイツに追いつけなくなった、あの2000メートル。今日より、400m短い。

「お前に!!」

 影を踏んだだけだった。捕まえる事は叶わなかった。しかし、今日は違う。200メートル、ある。400メートルも、長い。

「お前に、私は!!」

 気が付くと、アイツの顔が目前にあった。あのすました様な顔。走る事だけを考えていた、あの顔。今やっと分かった気がした。スカした気持ちの内側に秘めた、思いを。宝塚の時、なぜあんなに悔しかったのか。身勝手な怒りだけじゃない。純粋に、アイツと戦い負けた悔しさだ。アイツに、私は。

「勝ちたかったんだァッ!!」

 アイツが、笑った。そして、私は我に返った。

「……え」

 レースは、終わっていた。ゴール板は、ずっと後方にある。地鳴りの様な歓声に、ようやく気が付いた。

「私は」

 慌てて、電光掲示板の方を見た。一着は、まだ出ていない。

「写真……判定……?」

 そんな馬鹿な。あれだけの差があった。一着は、エクラールに決まって。

「あ……」

 ビジョンに、ゴールの瞬間が大写しになる。そして、結果が出た。最後の最後。エクラールを交わして、ほんの僅かな差で。一着、14番。

「わ……たし……?」

 茫然と、呟いた。何の感情も、沸いてこなかった。理解が追いついていなかったと言っても良いかもしれない。トレーナー達が大声で叫んでいた。やった。やったぞと。

「やったぞリョテイ! 凄いじゃないか、羽が生えたようだったぞ!」

「わ、私……」

 勝ったのか。私は、勝ったのか。信じられなかった。それでも、確かに掲示板には、ビジョンには、私の番号。私の名前。

「あ……あ……」

 膝が折れた。立ち上がれなかった。ぼうっと、ターフの芝を眺める。その肩を、誰かがぽんと叩いた気がした。栗毛の髪が、視界をかすめた。ハッとして顔を上げる。そこにはトレーナーや、会場のスタッフ達がいた。表彰と、インタビューの時間だ。その為に、来たのだろう。当然そこに、栗色の長髪を靡かせる、儚げな顔の少女などいる筈はなかった。それでも、いたのだと思った。アイツが、いてくれたのだと思った。

「……なぁ、トレーナー」

「ん?」

「……前にさ。あの、99年の天皇賞さ。あの時、トレーナー言ってたよな。スぺシャルウィークの背を、スズカが押してくれたって」

「ああ」

「……私には、アイツ厳しいんだなぁ。それとも、分かってたのかな」

 そう言って、立ち上がる。体中の力は抜けていた。気持ちのいい、疲労感だった。

「私には、そうだよな。背中を押したら蹴っ飛ばす奴だ、私は。前に立てば、私が噛みつきに来るって分かってたんだな」

「どうしたんだ、さっきから」

「いや……こっちの話さ」

 そう言って、ニヤッと笑う。そして心の中で呟いた。私は、お前の分まで走ったぞ。




 正直何のプランニングも無いんですが。ただ最近、何となくあの香港ヴァーズを見返していて、モリモリ書きたい欲が出てきて書きました。元々ウマ娘にするつもりもなく、『優駿劇場』の様な形式で書くつもりだったんですが、アニメ二期も決まった事もありますし、アプリはよ来いって祈願で一つ。
 シリーズとして続けるかは未定ですが、ただ一番好きなサニーを書きたい欲はあるので……続けるかも。
 ちなみにトレーナー交代でにおわせた程度の熊沢ジョッキーですが、彼を下手に出すと優駿劇場の丸パクリになりそうだったのでこの程度の描写となってしまいました。


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実力の証明――サニーブライアン――

 ジャパンカップ、素晴らしかったですね。アーモンドアイは強かった。これで引退なんてもったいない……という気もしますが、今後は母親として素晴らしい仔を産んで欲しいものです。私はデアリングタクト推しでしたが、彼女も最後の最後で三着入ってくれましたね。コントレイルともども、今後が楽しみです。
 前回書きました通り、いちばん好きな馬がサニーブライアンなのです。なので彼……この世界では彼女の話だけは書きたかった。
 前回からえらく間が開いた上に、前回以上に取っ散らかりましたがよろしければ読んで頂ければ幸いです。今回は前回ちらっと出したオリジナルのウマ娘もそこそこに出番があります(主役もオリジナルだし)。まぁ前回のキンイロさんもキャラデザ以外何も不明なのでほぼオリジナルみたいなものですが。



 彼女は、生まれてからずっと、目立たない女の子だった。

 普通の女の子よりは、目立ったかもしれない。彼女は、人間とは違う種族故に。だから生まれた時は、周りの皆に祝福された。しかし人間の赤ちゃんであれ、生まれてくれば祝福されるものだ。

 幼稚園、小学生、中学生。別になんて事はなく、普通に過ごしてきた。そして、「彼女達の種族」の憧れの場所、中央のトレセン学園に入学。成績は、上の下位といったところだった。

 周りには、凄い娘達が大勢いた。それと較べれば彼女は平凡で、目立たなかった。そんな彼女でも、デビューは果たす。お世話になる事になったのは、温和そうな中年のトレーナーだった。年齢はもう三十代後半だというが、そうは見えないほど若々しい男性だった。

「君が、サニースイフトの……へぇ」

「あ、あの、よろしくお願いします!」

「そう固くならなくていいよ。まぁ、僕はそんな名トレーナーって訳じゃないけど、一生懸命やるから、よろしくね」

 トレーナーはそう言って、優しく笑った。彼女は既に、そのトレーナーの事は母親から聞かされていた。彼女の母親の姉妹、サニースワローが十年前にダービーで二着にまで入れたのは、このトレーナーさんのおかげ、と聞いていた。だからあの人を信じなさい、と言われていた。そうトレーナーに伝えると、彼は頭を掻きながら苦笑する。

「でも、結局あの子にはタイトルを取らせてあげられなかったからな……」

「おか……母は、本当に凄い人だから、って」

「そう言って貰えるのは、嬉しいけれどもね」

 彼はそんな風に言っていた。彼女は必死に練習して、そして迎えたデビュー戦を、見事勝利する事ができた。その時はトレーナーと二人で、ささやかな祝勝会を開いた。

 しかしそれからずっと、彼女は勝てなかった。思うような結果が出ず、初めて挑んだ大レースでは五着以内が掲示される掲示板にさえ乗れなかった。それでも、トレーナーは彼女を見捨てずに真剣に向き合い続けた。

 そして彼女はトライアルレース、弥生賞を迎える。ここで三番以内なら、ウマ娘達が夢見る最高の舞台、クラシックへの道が開かれる。彼女は必死に走って、何とか三着に入る事が出来た。その時は思わず涙が出る程嬉しかったが、本番皐月賞で良い走りをしなければ意味はない。その為には、もっと自分を追い込まないといけない、と思った。少し無理をして、二十日後の若葉ステークスにも出走する事に決めたのだが、そこでは四着と結果は出せなかった。その為に、皐月賞の頃には彼女はすっかり「一応クラシックには出るらしい」という程度の扱いになってしまった。

 そして、迎えた四月一三日。ウマ娘サニーブライアンは、中山のレース場で静かに本番を待っていた。

 

 サニーブライアンは、完全に緊張していた。緊張してはいけない、と頭では分かっていても緊張してしまうものだ。それを察したのだろう、トレーナーが声をかける。

「心配するな。お前は、お前の走りをすればいい」

「は、はい……!」

 そう言ってくれるトレーナーの顔は、いつも通りだった。ポンポン、と肩を叩かれて、少し緊張が解れる。

「私、注目されてないですよね、はっきり言って」

「……まぁ、な。はっきり言って、お前が勝つと思ってる人なんてそういないさ。あのメジロの希望、メジロブライトや弥生賞を勝ったランニングゲイル、まぁこの辺が注目されるのは当然だな」

 ウマ娘のレースは、かなりの注目度を誇る。トゥインクルシリーズの大レースともなれば、生中継され多くのファンが見る事になるのだ。ファンの間でも「贔屓」が生まれるのは当然ではあった。親の血統などの要因で人気の娘、レースで良い走りを見せた娘の注目度は、当然高くなる。その点で彼女は、名門の娘でもなければレースで素晴らしい結果を出した、というほどでもない。注目されていなくても仕方がない部分はあった。

「おお、そうだ。お前の走りだがな。前に決めた通りで良いな?」

「はい。一か八か、それで」

「おう。メディアにも、もう言ってあるからな。サニーブライアンは逃げます、って」

 二人の作戦は一つ。とにかく、ハナを奪う事。全力で飛ばし、レース全体の支配権を奪う。彼女が有力視されていない事、そして有力視されている娘達がレース後半までは後方待機、最後に一気に加速し追い抜きにかかる所謂「差し・追い込み型」が多い事が「ミソ」だとトレーナーは判断していた。サニーは、それを信じるだけだ。とはいえ、不安はある。

「私、一番外のゲートなんですよね……逃げられるかな……」

 彼女のスタート位置は、大外18番枠。当然の事ながら曲線のあるレースにおいて外側は距離が長くなる。大外から逃げる場合は内側に切り込んで行かねばならなくなるのだ。しかし、そこもトレーナーは織り込み済みだ、と言ってくれた。

「お前、スタート苦手だろ。だから却って外の方が良い。内だとスタートダッシュに失敗したら、包まれて身動きできなくなるぞ」

「な、成程……」

「外なら、ちょっと走る距離が長くなるのと、進路妨害取られないように相当飛ばさないといけなくなる、この二点がちょっとしんどいだけだ。お前なら大丈夫だよ」

 そう言われて、サニーも覚悟を決めた。元々、勝てる見込みはないと思われているのだ。なら最初から一気に走って、その結果沈んでも仕方ないと言われるだけだろう、と思った。

「トレーナー。私、頑張ってきます!」

「おう。悔いのないようにな」

 そう言って、トレーナーはもう一度、彼女の肩をポンと叩いた。それで、サニーもスイッチが入った。

 レース本番。彼女は大外枠のゲートに向かう。ゲートに入ると、ふうと息を吐いて、一度体を揺らす。ちらりとスタンドを見ると、色とりどりの横断幕が目に入った。やはり目に付くのはメジロブライトやランニングゲイルといった人気あるウマ娘達の横断幕だ。サニーの名前は、ちらりと見た限りでは見つけられない、と思った時だった。決して大きくはないけれど、彼女の名前の入ったボードを胸に抱える人の姿が見えた。

「あ……お母……さん」

 サニースイフト。ウマ娘としては、ほとんど結果は残せなかった。唯一出た大レースでは、一九着惨敗。それでも彼女にとっては、大切な母親だった。

 その横で大声を張り上げている、中年のウマ娘もいる。叔母の、サニースワローだ。かつてクラシック第二戦、ウマ娘にとって夢のレースの一つ、日本ダービーで二着に入った事もあるのが自慢の、サニーブライアンの親戚では一番の成績を残した人だ。

 そして、その二人の横に、トレーナーが立っている。彼は腕を組み、彼女をじっと見つめていた。

「応援して、くれるんだ」

 嬉しかった。人気がなくたって、何だと思った。数じゃない。私を応援してくれる人は、いるのだ。そう思えた。

 ガシャン、という音と共にゲートが開く。彼女は足に力を籠めると、一気に飛び出した。宣言通りの逃げ。速度をそのままに内に入り、先頭を取りに行く。しかしここで、少し予定外の事が起きた。雄叫びと共に、一人のウマ娘が上がってきたのだ。

「先頭はアタシが貰う!」

「嘘……つっかけて来る!?」

 彼女はサニー以上の人気薄だった。同じ事を考えたのか。それは分からないが、負ける訳にはいかなかった。一度は彼女にハナを奪われるが、何とか抜き返す。それで彼女は諦めたのか、もう抜き返しには来なかった。

 何とか予定の形に持ち込んだ彼女は、ここでゆっくりと力を抜いていく。そうする事で体力の消耗を抑え、最後の最後で抜かれるのを防ぐのだ。サニーが有力選手であれば、後ろの娘達は追い抜きに来るだろう。しかし来ない。抜こうと動いてはこない。これならチャンスがある、と思った。トレーナーの作戦通りだ。皐月賞は二千メートル、もうすぐ最後の直線に入る。まだ差がある。ここで一気にメジロブライトやランニングゲイル達が動いてくるはずだ、と思った。スタンドのどよめきが聞こえてくる。先頭を走っているのが誰か分からないウマ娘だから、というのはあるだろう。後ろからは地鳴りの様な音が聞こえてくる。私の後ろで、十七人のウマ娘が追い込みに来る。その恐怖が心臓を押し潰しに来た。それでも、まだスタミナは残っていた。ここで一気に足に力を籠める。

「行けーッ!!」

 吠えた。残り百を切る。まだ他の娘達の姿は視界に入らない。つまり、私が先頭なのだと思った。行け、行けというトレーナーの声が聞こえる気がした。言われなくても、行く。視界の端に黒い髪が見えた気がした、その瞬間ゴール板の横を駆け抜けた。

 一気に力が抜け、立ち止まる。ふう、と息を吐きだして、掲示板を見上げた。一着から五着までのウマ娘のゲート番号が表示される電光掲示板の、一着の部分に表示されていた番号は、18番だった。スタンドは地鳴りの様などよめきに包まれている。それはそうだろう。一着、更に言うなら二着・三着も自分と同じくらいの人気しかないウマ娘で、完全に大荒れのレースになったのだ。最も注目されていたメジロブライトは四着、ランニングゲイルは六着止まり。ブライトなどは明らかにショックを受けた様子だった。サニー自身も、この結果は信じられない思いだった。頑張ろうとは思ったし、作戦がハマったとも思った。しかしこれ程の結果が出るとは思わなかった。

「私……私、勝った、んだ」

 嬉しい、という感情も浮かばなかった。茫然としてしまって、何の感情も湧かなかい。それでも、スタンドのどよめきは何とも心地よかった。ふわふわした気持ちのままスタンドの方に歩いていく。スタンドではお母さんと、伯母さんの二人が大喜びで出迎えてくれた。

「おめでとう! やったね!」

「やったじゃないか、おめでとう! 私ももうデカい顔できないね」

 そう母親達に言われて、ようやく実感も湧いてきた。そしていざ実感が湧くと、途端に感情が溢れて止まらなくなった。

「わ……私、私、勝ち……勝て、た……」

「そうだ。お前が、勝ったんだ」

 いつの間にか、彼女の横にはトレーナーが立っていた。思わず抱き着いて、そのままわんわんと声を上げて泣いた。トレーナーはずっと、肩をポンポンと叩いてくれていた。

 しばらく泣くだけ泣いて、落ち着いて顔を上げると、周りをメディアの人達が取り囲んでいた。大泣きしているところを見られ、写真も撮られたのだと思って顔が赤くなる。

「あ、ええ、と、あの」

「サニーブライアンさん、一着おめでとうございます。素晴らしいレースでしたが」

「あの、ありがとう、ございます。ええと……」

 何を言っていいのか分からず、わたわたとしてしまう彼女を見かねて、トレーナーが後を引き取った。

「まあ、作戦通りに行きましたね。良かったです」

「トレーナーは、ええ……と、サニースワロー以来のクラシックで、初制覇という事になりますが」

「ええ。彼女の時は、二着と言っても、まぁメリーナイスには離されてしまったので。思った以上に、走ってくれましたよ。やった、って感じですね、嬉しいですよ」

「作戦は、見事にハマりましたが」

「まあ、有力どころが控えたんでね。スローに落とせば何とかなるか、とはね」

「有力な選手達が、最後追い上げて来ましたけれど、どうでした、その時は」

 そう質問が飛ぶ。これは、私が言わないといけないだろう、と思った。何とか、口を開く。

「ええ、と。あまり、余裕はなかったんですけど。ただ、直線は長かったです。必死でしたね」

「次は、当然日本ダービーとなると思いますが」

「はい。頑張ります!」

 そう言うと、一斉にカメラのシャッター音が響いた。

 

 レースを終え、取材を終え、そしてウイニングライブを終え。寮に帰って食事と入浴を終えて、やっと落ち着いた気がした。自分の部屋の中で、ふうと息を吐く。まだ、ふわふわした感覚は少し残っている。私は自動販売機で買ったジュースを飲んで、目を閉じた。

「ふう……皐月賞ウマ娘、か……私が……」

 作戦会議の時に、トレーナーに言われた事を思い出す。

「有力視されていない奴が大逃げを打つと、大半の奴はいずれバテるだろうからそのペースに巻き込まれないように、と待機する。特に有力どころは皆差し・追い込みだからな。後方で牽制し合うだろう。その間に少しペースを落として、体力を残しておけ。お前の武器は粘り強さだ。最後の直線、ある程度距離を持って、スタミナの余裕が多少あればお前は勝てる」

 結果として、その通りになった。あの人を信じて良かった、と心から思う。運もあっただろう。それでも、勝ちは勝ちだ。

「次は……日本ダービー……」

「そうね」

 不意に、そう声をかけられた。声のした方を向くと、そこに立っていたのは同い年で同室の、栗毛のウマ娘だった。

「あ……スズカ……」

「……見ていたわ。おめでとう」

 そう言って、彼女は横の椅子に腰かける。彼女は今日の皐月賞に出られなかった。トライアルレースの弥生賞、サニーが三着に入ったあのレースに、彼女も出ていた。しかしレース発走前に、何故かゲートをくぐって外に出てしまった。その後入り直したが、精神的に落ち着けず出遅れ、結果は八着と惨敗した。それでもその素質は、世代の中でもメジロブライト達に並びトップレベルと言う声もあった。

「……私ね、今どんな気持ちかわかる?」

「え?」

 いきなりそんな事を言われても、分かる訳がない。きょとんとしている彼女に、彼女は押し殺すような声で言った。

「……凄く、悔しい」

「あ……」

「私も、皐月賞を目指して来たわ。それでも、私はまだ未熟だった……あの時の事も、ちょっとした事で動揺して。だから、出られなかったのは仕方のない事、私の責任。それでも……ううん、だからこそ、悔しい」

「……そう、だよね」

 だから、と言ってサニーをジッと見つめてくるスズカの視線は、ゾッとするほどの気迫に満ちていた。

「ダービーには絶対に間に合わせるから」

「うん」

「良いレースにしましょう」

「うん。分かってる。……一緒に逃げよう?」

「それは……どうなるか、分からないけど」

 そう言って、彼女は少し笑った。彼女は一部で、掴みどころがないとか、冷たいとか言われているらしい。でも、同じ部屋にいるサニーには分かる。彼女は寂しがり屋で、そして走るのがとにかく好きなウマ娘。私達と、そう変わるものじゃない。

「じゃ、おやすみなさい。今度、私はプリンシバルに出るから」

「うん。ちゃーんと、チェックしておくよ」

「……できれば、見に来てほしいのだけれど」

「え? ……もう、本当寂しがり屋だね」

 そんな事を言い合いながら、お互いベッドに入り込んだ。そしていつの間にか、彼女は眠っていた。

 

 サニーは学園の中で、一躍有名人になった。クラシックの一冠を制したのだから当然、ではあるが、ここまで注目されるとは彼女自身、思っていなかった。学園内のどこを歩いていても、誰かが彼女を見ている。レースの翌日など、シンボリルドルフ会長に呼ばれて直々に褒められた。

「良い走りだったぞ。皐月賞制覇、おめでとう」

「ありがとうございます!」

「……しかし、これからが大変だろう。一度のG1制覇で満足していてはダメだ。常に上を目指す。そうでないと、どんどん追い抜かれてしまうからな」

「は、はい!」

 緊張でガチガチになっている私に、会長はぼそりとこんな事を言った。

「しかし……あの時の事を思い出したよ」

「あの時……?」

「いや、何でもない。私の、思い出話さ」

 話はそれで終わりだった。彼女は舞い上がって、ウキウキ気分で部屋を出る。何しろルドルフ会長といえば、トレセン学園のウマ娘の憧れの一人だ。絶対的な強さを持った、伝説の皇帝。呼び出されるだけでも緊張するのだ。

「あー……もう、緊張したなぁ……」

「どうしたんだ?」

 不意に、そう声をかけられた。振り向くと、大柄なウマ娘と小柄なウマ娘が並んで立っている。二人とも、サニーのルームメイトだ。

「あ、ジャスティスにダンディー……」

 シルクジャスティスと、エリモダンディー。大柄なシルクジャスティスは、その能力自体は高いと期待されているのだが、ムラのありすぎる性格などが災いしてデビュー以来全く勝利できずにいた。先日ようやく初勝利を飾ると、あの皐月賞の前日にもう一勝を上げている。もっと走り方やレースの勝負論を覚えればすぐにでもG1レースで勝負できると言われる程、才能はあると言われていた。もう一人、エリモダンディーはジャスティスとは対照的に小柄で大人しい少女だ。彼女は真面目にレースに取り組み、ジャスティスが「間に合わなかった」皐月賞に出走している。

「会長室……ああ、呼び出されたのですか?」

「う、うん。皐月の事で」

「凄かったよなぁ、お前。まぁ他の連中が情けなかったんだけどよ。大体ダンディー、おめぇも情けねえよ、もっと早く仕掛けてだな」

「ま、まぁそれを言われたら辛いですけど……」

「それを言うなら貴方は出てきてさえいないじゃない……」

「ぬぐ……」

 シルクジャスティスがそう言って黙る。少し意地の悪い言い方になってしまったか、と思った。

「次は、日本ダービーですよね。私、次は負けませんから」

「そ、そうだ! 俺もな、ダービーには絶対に出てやるからな!」

 二人はそう言いながら、歩いて行った。改めて、彼女は思う。私は今、狙われていると。次のレースでは、全員が私を目指して走ってくる事になるのだろう。気は抜けないと思った。その時は、そう思っていた。

 彼女はより一層、練習に力を入れるようになった。少し無理をしているかもしれないが、それでもしっかりやらないと、私よりずっと才能に溢れた子達には歯が立たないだろう、と思っていた。折角、皐月で勝てたのだ。ダービーでも、無様な負けはしたくないと思った。それに彼女は太りやすく、少し油断するとすぐ体重が増えてしまい体が重くなる。それが理由で大敗でもすれば、恥ずかしい事この上ないと思った。練習だけでなく、彼女は一度ダービー前にレースに出ようかとも思っていたのだが、練習中に他の娘とぶつかり、足を少し傷めてしまった。幸いダービーに影響する様な大怪我にはならなかったが、ダービー前にレースに出る事は止められてしまった。

「お前な。そんな無茶したら壊れるぞ。それだけは許せない」

「そ、そうですか……分かりました」

 トレーナーにはっきりそう言われてしまっては、引き下がるしかなかった。それに、トレーナーも彼女の体を心配して言ってくれている事はよく分かった。それは嬉しかった。

「無理せず、しっかり基礎練習をしていればいいさ。レース経験自体は、もう充分積んでいる。後はとにかく、本番の作戦だな」

「作戦、ですか。やっぱり大逃げで……」

「うーん、今のところはそれで行くつもりだがな。少し、気になる所はある」

 そんな事をトレーナーは言っていたが、彼女にはその意味ははっきりとは分からなかったが、間違いなく何かを考えているんだろうと思った。それを信頼するだけだ。サニーはとにかく、トレーナーの指示通りに練習に励み続ける。

 そうして、いよいよレースが間近に迫ってきた。出走登録されているウマ娘達の名前が発表され、そして枠順が決まる。皐月賞にはいなかったサイレンススズカ、シルクジャスティスの二人がいる。私の発走ゲート枠は、皐月と同じ大外十八番だった。それを受けて、トレーナーは大喜びでマスコミにコメントを残す。

「大外十八番、というのはこちらとしては理想的。皐月と同じく大外から一気にハナを奪って逃げ切る。サニーは距離が伸びた方が向いていると思っているので距離の不安はない。絶対勝つとは言えないが、十分勝算はある」

 そんなコメントを聞いて、彼女は少し不安になった。そう上手く行くのだろうか。特に、このレースにスズカが出てくるのが気になった。彼女も大逃げでくれば、自分は彼女と競り合わなければならなくなる。そうなれば体力をセーブできず、最後の直線で逃げ切れなくなるだろう、と思った。しかし、その不安は強引に押し込む事にした。トレーナーを信じる。そう決めたはずだ。だから彼女も、トレーナーと同じ事を言った。とにかく逃げる。皐月と同じ形で勝負し、そして勝つ。そんな事を言っていると、メディアの人達が苦笑いを浮かべているのが分かった。その時は、その意味が分からなかった。しかし、翌日になりその意味が分かった。分かってしまった。

 翌日、日本ダービーの特集記事が雑誌などで出ていた。それを何となく手に取り、読む。日本ダービー、最有力ウマ娘はメジロブライト。皐月賞では差し切れなかったが実力はトップレベル、と書かれていた。それ自体は、納得はいく。二番手ランニングゲイル、三番手シルクジャスティス、四番手サイレンススズカ。そうして名前が続き、そして自分の名前を見つけたのは、六番目だった。

〈六番手サニーブライアン。有力ウマ娘達が後方で牽制し合う中逃げ切り、皐月賞を制覇。その勢いはあるが、レース展開が有利にハマったからこその勝利だろう。実力ある逃げ先行型のサイレンススズカが出てくる以上、競り合えば彼女のスタミナは最後まで持つか疑わしい。サイレンススズカに逃げ潰され、後方からの追い込み勢を抑えきれるとは思い難い〉

 そんな事が、書いてあった。そして、最後にこう書かれていた。

〈皐月賞を勝った勝ちウマ娘ではあるが、その勝利はフロックだろう〉

 その一文を見て、視界が真っ暗になる様な感覚を味わった。それから、その日をどの様に過ごしていたか、よく覚えていない。気が付いた時には、夜になっていた。スズカは普段通り、くるくると部屋を旋回しながら何かを呟いている。日本ダービーの作戦でも立てているのだろうと思った。いつもは気にならない彼女の癖が、妙にイラついた。

「……ちょっと、トイレに行ってくるね」

 そう言って、部屋を出る。トイレの個室の中に入って、息を吐いた。その時、不意に涙が溢れてきた。フロック。偶然。私が勝ったのは、運が良かったから。自分でも、そう思っている部分はあった。それでも、他人にそう言われるのは辛かった。声を殺して、泣いた。それでも嗚咽は外に漏れる。サニーは知らない事だったが、たまたま廊下で彼女を見つけた一人のウマ娘が、様子が少し変だとその後をつけていた。そしてサニーがトイレの個室に入り、そして嗚咽を漏らしているのを聞いた。彼女はそれを他人に話す事は無かったので、その事を知っているのはそのウマ娘とサニーだけだ。ただ、その発端となった記事自体は他のウマ娘やトレーナー達も見ていた。ある者は自分が評価されている事を知り、ある者は自分の評価を不当と怒る。それ自体はいつもの光景だ。その中で、サニーブライアンのトレーナーはニヤリと笑っていた。

「こいつは、良い。ここまで都合よく事が運んでくれるとは」

 彼女に注目が集まりすぎるのは、好ましくなかった。注目されると、どうしても他のマークがきつくなる。数年前、強力な先行逃げ切り型で三冠にリーチをかけたウマ娘が、菊花賞で完璧なマークを受けて敗戦した事もあった。しかし、思った以上に彼女の評価は上がらなかった。少し気の毒な気はするが、その分有利になったと思えばいい。彼自身はそう思っていた。だから、翌日にサニーがすっかり気落ちした様子で出てきたときは驚いた。

「どうした、随分元気ないが」

「……トレーナー、あの、記事見ました……?」

「記事? ……ああ、ダービーの特集か? そりゃ、見たが」

「トレーナーは、どう思いました……?」

「どう、って……別に、あんなのは気にすることはないさ。サニースワローなんて、ダービーじゃ下から三番目の評価だったんだ」

「でも、私は皐月を勝ったんですよ!」

 彼女はそう叫んで、拳を震わせた。

「なのに……そりゃ、分かってます。私より、ブライトやジャスティス達の方が、才能があるってことくらい。でも……でも、私は」

「なら、見返してやれ」

 トレーナーは、静かにそう言った。

「それしかないさ。もう評価は下された。もう出てしまった評価は変えられない。だが見返すことはできる。次に出る評価を変えさせることはできる」

「……はい」

「僕は、お前がそれをやれるだけの力を持ってると思ってる」

「はい」

 彼女は力強く、そう言った。それを聞いて、トレーナーは大丈夫だ、と思った。このダービー、十分に勝ち目はある。

 

 そして、ダービー当日。十八人のウマ娘が、指定されたゲートに入っていく。満員の観衆のボルテージが上がっていく。日本で行われるあらゆるレースの中で、最高の舞台と称される事も多い夢の大レース、日本ダービー。そのスタートが迫っている。

「いよいよダービーか……誰が勝つと思う?」

「俺はやっぱり、シルクジャスティスが強いと思うがなぁ」

「俺はサイレンススズカが逃げ勝つと思うぜ、単純な足の速さなら一番だろ」

 そんな会話を聞きながら、トレーナーはジッとコースを見つめる。やはり、サニーの評価は高くない。それで、良いと思った。

「皐月賞勝ったのに、人気ねぇんだな……」

 今日も観戦に来ていたサニースワローがそうぼやく。確かに、サニーの家族は納得できないだろう。曲がりなりにも皐月賞を勝ったのに、六番目の評価というのは低すぎる。

「……うーん、まぁ確かに色々、幸運ではあったと思うけど」

「でもよ、皐月賞だぜ? クラシック一冠を勝ってこの扱いはよ」

「それは思うけれど」

「何、構わないさ。人気や評価なんてのはどうでも良い、一着が取れれば」

「取れる、んですか……?」

「スイフト、お袋のお前が信じてやらにゃどうにもならんだろ」

「それは、そうですが」

「見返してやって欲しいよなぁ。……私は二着、って言ったって大差だったしな。出来れば取って欲しいよ、ダービー」

 サニースワローはそう言ったが、実際の所サニーブライアンが勝つ、と思っている人間は決して多くはなかっただろう。しかしそんな中で、ポツリとベレー帽の老人が呟いた。

「うーん。フロックか。G1に、フロックがあるかねぇ」

 どれだけの人間が、その言葉を聞いただろうか。それでも、見抜いている人間は、確実にいた。

 その頃、サイレンススズカは悩みの中にいた。彼女自身は、ひたすら先頭を走り、とにかく速く、速く走りたいと思っている。ただ、彼女のトレーナーはそれを認めなかった。無理をすることはない。大逃げは戦法としてリスキーすぎる。その意見は最もではあった。過去に安定して勝利を重ねてきたウマ娘達は、その多くは先頭三、四番手に控える先行、或いは中段からやや後ろで待つ差しと呼ばれる戦法を取っている。もちろん大逃げで成果を出したウマ娘も過去に何人もいるが、安定感という点では劣る、と判断する者は多かった。

 ただ、彼女は不満だった。純粋に、走る事が好きだったから。我慢して控える、というのが嫌だった。常に先頭で、走り続けたかった。

 しかし、勝つ為にはそうも言っていられないのだろう。ダービーに勝ちたい気持ちは、彼女とてある。サニーが逃げるのは、おそらく間違いない。彼女と戦闘争いをすれば共倒れになりかねない。勝つ為に、ハナは彼女に譲る。それで、彼女の心も決まった。

 ファンファーレが鳴る。競技場のボルテージが上がっていく。一生に一度の晴れ舞台、日本ダービー。そのゲートが、開いた。誰よりも最初に飛び出したのは。

《さあ先行争い行った行った行った行ったーッ! 皐月賞勝ちウマ娘、サニーブライアンが内に食い込んで早くも先頭!》

 TV中継の実況アナウンサーが叫ぶ。皐月賞と同じように、サニーが猛然と切り込み先頭に立った。同じ逃げ型のサイレンススズカは抑え先団止まり。これはサニー達にとっては望み通りの展開だった。サイレンススズカとハナの奪い合いになれば、勝ちの目は一気に薄くなる。皐月賞の直後、一緒に逃げよう、と言ったが実際にはそれをされては困るのだった。最も、あの時はダービーを本気で勝ちたいとは思っていなかったかもしれない。ある意味、皐月賞で満足してしまっていた部分はあった。ダービーでは恥ずかしくないレースを、という程度だった。でも、今は違う。全身全霊で、勝ちに行く。

 二コーナーを回ったところで、サニーブライアンが先頭、サイレンススズカは三番手、ブライトは真ん中より少し後方、という形になった。最後方にはシルクジャスティス、そしてエリモダンディーが控える。そのタイムを見たアナウンサーが言う。

《ペースはそれ程早くありません!》

「そうだ、それでいい」

 トレーナーが呟く。レース全体のペースを落とし、最後の直線で突き放せるだけの足を残す。最も恐れていたサイレンススズカとの潰し合いは起こらない。ペースも落とせた。

「ねえ、大丈夫、ですかね……?」

 心配そうに、サニースイフトが訊いた。ブライトが中団へ上がってくる。ジャスティスやダンディーもいよいよスパートをかけようという体勢で、ついに最後の直線に、入る。府中の直線は長い。ここから一気に速度が上がる。サニーブライアンと二番手の距離は、それ程離れていない。一斉に追い上げが来た。しかし。

 サイレンススズカは、苦しい位置にいた。我慢した筈が、息が上がってくる。こんな筈ではなかった。変に心を押し殺した、そのせいなのか。ただ、私以上にサニーは苦しい筈だ。そう思った彼女の視界に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。

「そ……んな……」

 差が、開く。サニーの背中が遠のく。まだ、足があるのか。誰より早く走っていた筈なのに。

「やられた……またペースを持っていかれた!?」

 そう呟いたのはブライトだった。またしても、あの逃げにやられるのか。それだけは、避けなければならなかった。

「クッソ……だが、行ける!」

 そう吼えて、一気にシルクジャスティスが加速する。更にエリモダンディーも来る。マチカネフクキタル、ランニングゲイルらも突っ込んできた。そんな追い込み勢に、スズカは呑み込まれる。それでもサニーは先頭で一気にゴール目掛け突き進む。

「行ける、行けるぞ! もう一息だ!」

 サニースワローが叫ぶ。

「頑張って、お願い……!」

 サニースイフトが願う。

「……良しッ!」

 トレーナーが、そう呟いた。もう残り百メートルを切っている。シルクジャスティスが、渾身の力を振り絞って上がってきた。サニーとの距離が縮む。縮む。しかし。

「クソ……!」

 あと、少し。だが、ゴールはもう目前まで迫っていた。

《サニーブライアンだ、サニーブライアンだ、これはもう、フロックでも、何でもない! 二冠達成!》

 実況アナウンサーのその叫びと共に、サニーブライアンは先頭でゴール板を通過した。驚異的な追い上げを見せたシルクジャスティスが二着、メジロブライトが三着、エリモダンディーが四着、ランニングゲイルが五着。競技場が、どよめきと歓声に包まれた。二冠達成。本当に実力ある者でなければ、到底達成できない大記録。

「やった! やった!」

「やったぜ! やったぜ、見たか!」

 サニースイフトとサニースワローが抱き合いながら叫ぶ。

 会場中を包む大歓声の中で、サニーは大きくガッツポーズをしてみせた。後方でシルクジャスティスは悔しそうな顔で呻き、ブライトも肩で息をしながら座り込んでいる。声をかけてきたのは、エリモダンディーだった。

「負け……ました……」

「最後は、ちょっと、怖かったけどね……勝てて、良かった」

「本当に……強いですね、サニーさんは。私なんかより、ずっと」

「そんな事無いよ。エリモだって」

 そう言った時、不意に足元に違和感を感じた。少し、疼く様な、鈍い感触。しかし、それはほとんど気にならなかった。喜びが、勝っていた。本当に、生きてきてこれ程嬉しい事はないと思った。

 

 二四〇〇メートル。レースの距離としては、中距離の中では長い部類に入る。これより長いレースは、殊にG1の大レースとなるとそれ程多くはない。その距離を、逃げ切った。逃げ切られた。

「……あんな」

 あんなレースが、できるのだ。終わってみれば、サニーに全て支配されたという気がした。先頭を走る逃げ戦法は、風を受けるという点やスタミナ面で最後に不利となる。差してくる後方勢に追い抜かれる、という展開が多くなる。それは間違いのない理屈ではある。だが、逆にレースを完全に支配する事も出来る。後方のウマ娘は、基本的には受け身だ。

「私も……あんな風に」

 本当に強い、とは何なのか。人によって、その答えは千差万別だろう。自分にとっての「本当に強い」とは、あの姿なのではないか。そう思わずにいられなかった。自由に走って、そして勝ち切ってみたい。自分を抑えて、負ける事がこれ程悔しいとは思わなかった。初の晴れ舞台で、九着惨敗という結果。自分が心の底でやりたかった事をしたルームメイトが、遥か前方で一着を取った光景さえ、他のウマ娘達の背中に隠れて見えなかったのだ。

「……もう、私は」

 心に決めた。私は、もう自分を抑えない。勝ちさえすれば、結果がついてくれば、認めてもらえるだろう。もう、こんな思いは二度としたくない。そう思った。

 

 また、負けた。芝生の上に座り込んで、ブライトは茫然としていた。今回は一応、ウイニングライブ出演の叶う三着には入っている。しかし、そんな事はどうでもよかった。また、負けた。同じ相手に、同じようなやられ方で。名門と言われた、メジロの看板を背負った、自分が。

 試合前に、最も自分を可愛がってくれていた先輩から、激励の言葉を貰っていた。そういえば、その先輩もダービーの出走で一番の評価を受けながら、逃げ馬に届かず敗れていた。そして先週、同じメジロの出身で姉妹の様に過ごした少女がオークスを勝っていた。

 あの人の無念を晴らしたかった。彼女に続きたかった。それなのに、この様だ。元々はそれ程期待値が高かったわけでは無い。かつて名門と言われたメジロ家も勢いを失いつつあり、自身もデビューでは勝利こそしたがタイムは遅いものだった。それでもその後複数の勝ち星を挙げて、やがて世代トップレベルと目されるようにもなった。メジロ家復活の、希望の星と言われるようになった。それは重たくもあったが、嬉しくもあった。それなのに。

「おい、立てるか?」

 係員に言われ、肩を貸されて何とか立ち上がる。ふらついた足取りで、コースを後にする。サニーをなめていた、とは思わない。それでも、ジャスティスとどちらが差し勝てるかの勝負とは思っていた。それが、これだ。

「……ブライト」

 不意に、声をかけられた。何度も聞いて、そして今は一番聞きたくなかった声。顔を上げると、そこには二人のウマ娘がいた。黒髪のショートカットの女性と、黒髪で長髪の少女。

「ライアン……さん」

「残念だったね……お疲れ様」

「……私、は」

「言わなくてもいいよ。……分かる、から」

「あの、ブライト……その」

 長髪のウマ娘はそれだけ言って、しかし言葉が続かなかった。どう声をかけていいのか、分からなかった。

「ドーベル……に、続きたかった……んだけど」

 それだけ言って、もう何も言えなくなった。ライアンが、グッとブライトを抱き寄せた。

「よく頑張ったよ。……別に、これが最後のレースじゃないんだ」

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 ブライトはもう、それしか言えなかった。

 

 それから、数日後。サニーブライアンの足に、骨折が判明した。レース中に折れたのでは、と言われるが、詳しい事は分からなかった。二冠となれば、当然秋の菊花賞を制して三冠へ、という期待も高まったのだが、それは夢と消えた。骨折からの復帰が、間に合わないと判断されたのだ。

「……残念だったな。お前は、距離が長い方が力が出せると思ってる。菊も、勝負になると思ったんだが。菊は無理だが、来年春の天皇賞を目指す事にしよう」

 トレーナーはそう言ったが、サニーはある意味で満足していた。

「いえ……もちろん、菊花賞に出られないのは残念ですけれど。でも、良いんです」

「え?」

「私の事を、皆が認めてくれた。私は、それが嬉しいんです。見返したかったから」

「……そうだな。僕は、一番人気より一着が欲しい、って言ったんだが」

「それも、分かりますよ。……トレーナーさん、私、本当に、貴方に会えて良かった。貴方に会えなかったら、多分、こんな成績は上げられなかったと思います」

 そう言って、彼女は笑った。或いは、己の運命を悟ったかのように。

 結局その後、彼女はレースに復帰する事は無かった。その後の経過が思わしくなく、別の故障も併発してしまい、引退が決まる。二冠ウマ娘は、己の実力を証明したダービーを最後に、ターフを去った。

 彼女がターフを去った後。彼女が復帰後の目標にするつもりだった春の天皇賞を制したのは、その前のレースを三連勝し勢いに乗るメジロブライトだった。

 そして、その年のシリーズを沸かせ続けたウマ娘が一人。スタートからゴールまで、誰もついてこられない。圧倒的なスピードを持ち、最後の直線で再加速して突き放す。運命の日、一一月一日のあの時まで、ファンを、関係者を、ウマ娘達を驚嘆させ続けた影なき逃亡者。もう、自分を抑えない。もう、誰にも負けたくない。

《二番手は、エルコンドルパサーだが離れている!!》

「……やっぱり、凄いじゃん」

 引退し、トレーナー転身を目指していたサニーは、テレビの前でそう言った。画面の中で、彼女はそれまで負け知らずだった後輩を遥かに突き放していた。

《グランプリ王者の貫禄!! どこまで行っても逃げてやる!!》

「頑張ってね、スズカ」

 そう言って、彼女は微笑んだ。




 色々とリアルが忙しいもので、次があるか、あるとしてもいつになるかは未定ですが。次回やるならダイタクヤマトか……或いは世代を変えるか。ジャスティスとブライトは好きだけどどう考えても暗い終わりしか想像できないし……うーむ。
 またあの年の皐月賞やダービーに関わった馬達全てを登場させたわけではありません。あまり多過ぎても取っ散らかってしまうので……特にオースミサンデーやシルクライトニングは登場させると尺を割かざるを得ず、そうなると完全に話がてんわやんわになってしまうと思い記述しませんでした。
 今回は前回と比べて、「人」も現実に寄せたというか、実在の方々らしき人も何人か。問題があれば修正なり削除なりします。
 最後のレースは、最初は金鯱賞にするつもりでしたが青嶋アナの実況する毎日王冠が好き過ぎてこちらに……ただこれだと、スズカの次のレースが例の11/1なんですよね……なんかよからぬフラグみたいになってしまった。
 また本作では原作アニメにて「母親が同じ場合は兄弟扱い(ビワハヤヒデとナリタブライアン)、父が同じ場合はシンパシーを感じる(サイレンススズカとスペシャルウィーク等)、父と子では尊敬しているなどの関係性(シンボリルドルフとトウカイテイオー等)」という設定があるらしいと思われたので、それを採用しています。ただこれだと現実のデビュー年と合わせた結果ウマ娘の成長速度が意味不明にはなってしまう事にはなってしまって悩みどころではありますが……。


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称賛無き王者――オフサイドトラップ――

 今回はオフサイドトラップです。ここまで97世代で二人、もとい二頭を取り上げましたが、自分は彼も大好きなのです。自分が競馬にハマる切欠になったのはサイレンススズカでした。今でもスズカは五本の指に入る位好きな馬です。だからこそ、彼の事は忘れてはならないと思っています。あの秋の天皇賞を制したのは、まぎれもなくオフサイドトラップでした。幾度もケガに見舞われ、それでも現役を続けて、最後にG1を勝った彼は、まぎれもなく名馬だったと思っています。
 今回は前々作の『黄金旅程』以上に「死」を描きました。ご注意下さい。


 アタシは、期待されていない。昔はそうではなかった筈だった。世代でも注目株だと言われ、実際にデビューから三戦目で初勝利を挙げるとそれを含めて三連勝、クラシック有力候補と言われていた。でも、勝てなかった。皐月賞七着、ダービー八着。そしてレベルアップを狙った夏のレースで、足を怪我。菊花賞には参加さえできなかった。今でも思い出す。皐月、そしてダービーの最後の直線。アタシの遥か前で、彼女は誰も見ていなかった。

《完全に抜けた! そして外から、外から来た、外から七番のサクラスーパーオー! 一六番のフジノマッケンオー! 勝ったのはしかし、ナリタブライアン! ナリタブライアン圧勝!》

《先頭はナリタブライアン、ナリタブライアン先頭! そしてエアダブリン、しかしナリタブライアン一人旅、千切った千切った、完勝二冠達成!》

 彼女はあまりにも強かった。あまりにも、眩しかった。勝てる訳がない。そう思い知らされた。そう思ったのは、アタシだけではない筈だ。アタシ達の誰もが、分かっていた。アタシ達の世代で、一番強いのは彼女だと。シャドーロールの怪物、ナリタブライアンだと。

「おめでとう。大したものだ」

「……いや。まだ、これからだ。私は、ルドルフ会長も超えてみせる」

「その前に、まず私を倒してみせるんだな」

 そんな会話を、彼女は一つ上の姉としていた。ビワハヤヒデ。昨年菊花賞を勝ち、そしてその後も天皇賞、宝塚記念制覇と安定した活躍を続けている。彼女もまた超一流のウマ娘だった。今やファンの期待は、最強姉妹の直接対決。アタシなどは、もう相手にもされていない。ケガした足を引きずりながら、そう思った。

 そんな彼女が、気落ちしている所をアタシに見せた事がある。その年の菊花賞が五日後に迫った夜。彼女が、不意にアタシ達の部屋に現れたのだ。

「オフサイドトラップ。済まないが、ちょっと付き合ってくれないか」

「え? ……良いけど。付き合う、ってどこかに行くのかい?」

「別に、外じゃない。食堂でいいんだ。この時間なら、他に誰もいない」

「この部屋じゃダメなの? オフサイド、足が悪いんだから歩くの辛いだろうし。私の事は気にしなくても良いよ」

 アタシと同室の、サムソンビッグがそう言う。ブライアンは首を振って、言葉を返した。

「いや。……オフサイドトラップ、一人に聞いて欲しいんだ。済まないが」

「何、愛の告白でもしようって訳? アタシはそういうの」

 お茶らけてそう言ったが、言葉は最後まで続かなかった。ブライアンの顔が、いつになく真剣――最も、普段から仏頂面ではあるけれど――だったから。

「ま、良いよ。御覧の通り、暇だから」

「……済まないな。サムソン、別にお前に悪意がある訳じゃないんだ」

「そんなの、気にしてないよ」

 そう言って、彼女はにっこりと笑う。彼女は決して、才能に溢れた素晴らしい選手、という訳では無い。皐月賞、ダービーに出はしたが皐月賞はブービー、ダービーは最下位。それに皐月賞で最下位になった娘はレース中に心房細動を起こしてしまっていた。幸い重大な事態にはならず、彼女は復帰している。この前、アタシがケガをしたレースでも一緒に走ったのだが、そういう訳でサムソンビッグは「無事に走り終えた者達」の中では皐月賞でもやはり最下位なのだ。

 それでも、彼女のファンは多かった。アタシも彼女の事は好きだ。素直で明るく、ひたむきで頑張り屋。レースで中々勝てなくても、愛される娘というのはいる。彼女はまさにそれだろう。彼女は一度だけ、重賞と言われる大きなレースを取った事がある。きさらぎ賞というその大会を勝った時は、誰も勝てるとは思っていなかった様で相当驚かれ、そして祝福されていた。

 廊下を歩き、階段を下り、アタシ達は誰もいない食堂の椅子に腰かける。向かい合って、最初に口を開いたのはアタシだった。

「で? 一体どうしたのよ。いつも群れないアンタが、こんな風に声掛けてくるなんて珍しい事もあるじゃない」

 彼女は、ほとんど他の者とは関わろうとしない。大体一人、いるとしたら姉のビワハヤヒデか、やたらと彼女に絡みに行くヒシアマゾンだ。それ以外のウマ娘は、滅多に彼女のそばにはいかない。

「……お前しか、思い浮かばなくてな」

「え?」

「他の奴は、レースを控えている。お前は、その、ケガをしているから」

 言いにくそうに、彼女は言った。アタシは思わず噴き出した。

「アンタね。はっきり言ってくれるじゃん。まぁ、事実そうだけどさ」

「……姉貴が、引退を決めた」

「え……?」

「明日にでも発表になると思う。……あの負けは、やはり足の故障だったんだ」

 今から二日前に行われた大レース、秋の天皇賞。そこに出走したビワハヤヒデは、最も人気を集めながら五着と敗れていた。その負け方は普段の彼女からは考えられない、反応の鈍いものではあった。

「そう、か。……それを、アタシに言ってどうするんだい?」

「どうしようというんじゃない。ただ……聞いて欲しかった。どうしたんだろうな。自分でも、分からない」

 そう言った彼女の声は、確かに震えていた。ショックだったのだろう。目指していた一人が、不意にいなくなってしまった。直接対決の機会は、永遠に失われてしまった。

「……ああ。そうかい。成程ね。確かに、見せたくないわな」

 そう言って、アタシは腕を組む。サムソンには、見せたくないだろう。今度の菊花賞で、共に走るのだ。弱みは見せたくない筈だった。

「まあ、アタシで良ければ付き合うよ。暇だからね」

「……済まない」

 そう言って、彼女は項垂れた。その日から、アタシと彼女は少し、仲良くなった。

 

 その後も、彼女は止まらなかった。菊花賞を勝ち、シンボリルドルフ会長以来の三冠を達成。姉不在の有馬記念でも、ヒシアマゾンを三バ身突き放しての勝利。その時点で、彼女に勝てるウマ娘など誰一人いない。誰もがそう思っていた。しかし。年が明けて最初に走ったGⅡ阪神大賞典を独走勝利した直後に、異常が発生する。疲労が溜まり、股関節に故障を発生。その後半年に渡りレースに出走できなくなったのだ。そして、それはアタシも同じだった。一度はケガも治り、再起を目指しレースにも出走したが、その後しばらくして再びケガが再発。彼女以上に長い休養になってしまった。

「全く……情けない、ったら」

「そう言うな。まだ、私達は復帰を目指せるんだ」

 アタシ達は揃ってリハビリに励みながら、そんな事を言い合っていた。共にリハビリをする中で、彼女の事が少しずつ分かってきた。何時もクールで近寄りがたく見えるが、実際にはそこまで人当たりがキツい訳では無い。付き合ってみると、意外に可愛い所もある。例えば、絵はかなり下手だ。前に見せてくれた絵は、こう言っては何だが酷いものだった。幼稚園児の絵かと笑ったら、ムッとした顔をされた。そんな事を言い合える位には、アタシ達は仲良くなっていた。

「私は、またあの舞台に戻ってみせる」

 ランニングしながら、彼女はそう言う。アタシはその横を走りながら、苦笑して応える。

「まあ、アタシも諦める訳にも行かないからね。アタシには大した実績もないし」

「それでも、まだトレーナー達は期待してくれているのだろう?」

「そりゃ、こんなケガばっかりしてるアタシを見捨てないでいてくれるんだからね」

 実際、見捨てられても不思議ではなかった。この世界は決して甘いものではない。結果を出せない者は見捨てられていく。アタシの様に、それ程実績がある訳でもないのにケガをした娘は、引退勧告をされても不思議はないのだ。

「だから、アタシは絶対に帰ってみせるよ。アンタと戦えるかは知らないけどね」

「何、戦えるさ。きっとな」

 そう言って、彼女は笑った。アタシも、何とかもう一度彼女と一緒に走りたいと思った。勝てなくても、彼女と同じターフに立てるだけで良いと思った。しかし、それは叶わなかった。アタシがケガと復帰を繰り返しながら復帰を目指した頃に、彼女の引退が発表された。アタシは彼女の口から、引退するという事を聞かされた。

「引退する事に、したよ。もう、私はあの頃の様に走れない」

 確かに、今の彼女は最早かつての力を失っていた。秋の天皇賞を一二着で惨敗すると、ジャパンカップ六着、有馬記念を四着。翌年の阪神大賞典を一着、春の天皇賞を二着で持ち直したかにも思われたが、次走の高松宮記念を四着と敗れる。そして、そのレースから一か月後、ケガが発覚。その後治療に当たっていた。

「色々と焦ったな。……高松宮記念は、ミスだった。一二〇〇メートルで、フラワーパークやビコーペガサス、ヒシアケボノに勝てる訳はなかったな」

「そんなに、悪いのか?」

「まぁ、そうだな。トレーナー達も、私の為に動いてくれたよ。次は、トレーナーとして三冠ウマ娘を育てたいな」

「そいつは良いね。……アンタなら、できるよ。あー、ただ、愛想は良くしないとな。教わろうって娘達がビビっちまう」

「……そうだな、違いない」

 そう言って、彼女は笑った。その後、アタシはもう一度復帰を果たす。体を気遣いつつ、幾つかの重賞レースで二着、三着に入った。勝ち切れないとも言えるが、レースを走れないよりはマシだ。少しずつでも、前進する。焦ってはいけない。そう、思っていた。そう、分かっていた筈だった。しかし。エプソムカップを六着に敗れた時に、嫌な感じがした。もう、二度経験している感覚だ。三度目の、大怪我。流石に、目の前が真っ暗になった。もう、終わりだ。アタシはもう現役五年目になる。この年齢、それも重賞未勝利のウマ娘がこんな負傷ともなれば、見捨てられるのが当たり前だった。しかし、トレーナー達はアタシを見捨てなかった。

「お前はまだやれる。いや、お前の素質はまだこんなもんじゃない」

 そう、言ってくれた。それで、アタシの心も決まった。それにブライアンも、アタシを励ましてくれた。

「お前は、重賞未勝利で終わる様な奴じゃない。もう一度、私に走る所を見せてくれないか」

「気軽に言ってくれるねぇ。ま、良いや。見せてやるよ……だから、アンタも頑張れよ」

 それでなくても、アタシは今の状態で引退すれば誰にも記憶されまい。せめて、重賞を一勝。そうすれば、覚えていてくれるファンは少しはいるだろう。せめて、誰かには覚えていて欲しかった。ブライアンの様な、誰もが知るスーパースターにはなれなくても、時々誰かが思い出してくれるだけでいい。せめて、その位にはなりたかった。

 時間は、どんどん流れ去っていく。気が付けば、アタシは現役組の中でも特に年長の部類に入る様になっていた。サムソンビッグも、引退を決めてトレセン学園を出ていった。彼女はこの世界には残らず、完全に去る事を決めていた。

「そうか、アンタは完全にレースの世界から足を洗うんだ」

「うん。具体的にどうするかは決めてないけど」

「アンタなら、どこ行ってもやっていけるよ。……でも、寂しくなるね。皆いなくなっちまう」

「そうだねぇ。でも、また会えるよ。オフサイドやローレルが引退したらさ、皆で会おうよ」

「……そうだね。会いたいね」

 そんな会話を最後にして、彼女とも別れた。櫛の歯が欠けたように、次第に減っていく現役の同期達。この世界では当然の事だ。力の無い者、衰えた者は去るしかない。ならば、アタシは?

 

 現役六年目。この年も、アタシは勝ち切れなかった。復帰レースから、二着・二着・二着・三着。もちろん上位には食い込んでいるのだから、決して悪くはないのかもしれない。しかし、悪くはない、で満足して良い年齢はとっくに過ぎてしまっている。もう時間はない。いつ、走れなくなってもおかしくないのだ。そこで、思い切って戦法を変える事にした。今まではずっと、レースを通して前の方に位置取る先行策を取ってきたが、それを止めて後ろに控える後方待機策に切り替える。戦法を変えるというのはリスクが伴う。今まで積み上げてきた経験がゼロになる。それでも、やるしかないと思った。そして結果的には、これがハマった。七月一一日の七夕賞、先行し粘るタイキフラッシュを捉え切って重賞初制覇。六年目にして、遂に掴んだ重賞タイトルだった。スタンドを見ると、サムソンビッグが見に来てくれていた。あの笑顔で、はしゃいで手を叩いているのが見える。

「やったね、おめでとう!」

「……やっと、追い付けたね。アンタに」

 そう言ったアタシの周りに、記者達が押しかけてくる。いつもは横目で見ていた光景の中に、今日はアタシがいる。それが、嬉しかった。

 その次の重賞レースも、アタシはものにした。この戦法は驚く程ハマる。最も、最初からこの戦法を使っていれば大活躍できたか、と言われればそれはまた違うのだろう。何より、戦法でどうにかできるような物ではない力の差を、アタシは見せつけられている。

 レース終了後、アタシはトレーナーに呼ばれた。次走をどこにするか、という相談だった。トレーナーは、秋の天皇賞を目指さないか、と言ってくれた。今のお前なら、勝負になる筈だと。アタシは一瞬迷った。G1レースは、あの惨敗のダービー以来になる。重賞二連勝とはいえ、G3とG1ではモノが違う。しかし。

「……アタシ、出たいです」

 挑戦したかった。もう、現役もそう長くは続けられまい。重賞二勝は、それなりの実績だ。最後にG1レースで、勝てないまでも好走すればそれなりには語って貰える存在にはなれるだろう。戦う。また、あのG1の舞台で。もう、ナリタブライアンもサムソンビッグもいない。その舞台で、いやそんな舞台だからこそ戦いたい。

「出走してきそうな、強豪というと」

「……サイレンススズカ、だな。宝塚でエアグルーヴから完全に逃げ切って一着だ。他にG1勝ちの経験者となると、メジロブライトやシルクジャスティスあたりも出てくるだろう。他には、キンイロリョテイだな。宝塚で二着、スズカには負けたがエアグルーヴには先着している。春の天皇賞でも二着だし、あのエアグルーヴに先着できるんだ、力はあるだろうな。」

 トレーナーがそう言って挙げた名前は、自分より三つ後輩にあたる世代のウマ娘達のものだった。もう、時代は大きく変わっている。後輩でも、引退している娘達は大勢いるのだ。

「成程ね。サイレンススズカって、今物凄いものね。彼女が大本命か」

「今のままだと、そうだろうかな」

 全員、アタシより格上と言っていいウマ娘達だ。アタシはG1レースでは、五着以内にも入った事がないのだから。

「これが最後のG1、かもしれないからね。精一杯やるわ」

 そう言って、アタシはトレーナーと分かれた。サムソンに電話して、その事を伝える。彼女はとても喜んでくれた。

「え、本当!? 今度の天皇賞だよね、凄い!」

「まあ、出られるかは分からないけどね。今の所、出るつもりって事さ」

「楽しみにしてるよ、レース見に行くね。あ、そうだ。皆には言ったの?」

「いや。お前が最初だよ。まぁ、そうだな。ブライアンには、伝えておくかな」

「だね。あー、ブライアンか。また会いたいな……。ローレルやダブリンも引退したし、皆いなくなるね……あ、マッケンオーはまだ走ってるんだっけ……」

 そんな話を、しばらくサムソンとしていた。その後、ブライアンにも電話をした。彼女も、やはり喜んでくれていた。

「そうか、楽しみにしているよ。しかし秋の天皇賞か。少し、嫌な思い出が蘇るな」

「え……あ、あぁー……」

 彼女は秋の天皇賞には一度出場している。しかし、その時の彼女はケガの不安もありハードなトレーニングはできず、結果一二着という大惨敗を喫している。

「秋の天皇賞には魔物が住む、とか言うな。優勝最有力と言われるウマ娘が勝てないジンクスがあると」

「ああ、聞いた事あるわね。ルドルフ会長もそうだっけ、オグリさんも」

「それに、姉貴もな。姉妹揃って、あんな下らないジンクスにやられるとは思わなかった」

「まあ、ある意味大丈夫だよ。アタシが最有力なんてあり得ないしさ。いくら重賞二連勝って言ったって、こんなオバさんが選ばれる事なんてないさ」

「そ、そこまで自分を卑下しなくてもいいだろう」

「いやいや。分かってるつもりだよ。……そういえば、この前急に腸閉塞起こしたとか言ってたけど、あれは大丈夫なの?」

「え? ああ、もう大丈夫だ。一応経過観察中だがな。天皇賞までには、まぁ治すさ」

「気をつけてよ。アンタにも見て貰いたいからね、会場で。一着はともかく、三着までには入りたいねぇ」

 そう言って、アタシは笑った。この時のアタシは、間違いなく幸せだった。全てが順調で、そして楽しかった。調子は上々。誰が来ても、いい勝負はできる。そう思っていた。そんな矢先だった。忘れもしない、九月二七日。その日、アタシはオフだったので自宅でゆっくりしていた。そんな時に、電話が鳴った。そこに表示されていたのは、見た事の無い番号だった。

「誰だろ……」

 不思議に思いながらも、電話に出る。電話越しに聞こえてきたのは、思いもかけぬ人の声だった。

「オフサイドトラップ君、か?」

「え……? は、はい」

「そうか……ビワハヤヒデだ」

「え? ビワハヤヒデさん、ですか?」

 どうして、ハヤヒデさんがアタシの電話に。そう思った。彼女はアタシの連絡先など知らないはずだ。

「ど、どうして」

「ブライアン、ブライアンが」

「え? アイツが、どうしたんです」

「ブライアンが……死んだ」

 そう聞いた瞬間、体からフッと力が抜けた。頭がぼうっとして、今聞かされた事実を理解しようとしない。

「え……? 何、を」

「昨日、また酷い疝痛を起こして……な。病院に行ったんだが……もう、手遅れ、だったと」

 嘘だ。腸閉塞は、良くなっていると言っていたのに。

「最初は、我慢していたようだ。頑張ったよ……苦しかった、だろうに。君の連絡先を、教えて。伝えて、欲しい事があると」

 嘘だ。あんなに強かったじゃないか。病気なんかで。

「君の、レースは、見に行けそうに……な、い……って……」

 電話の向こうから、嗚咽が聞こえた。アタシは、もう何も考えられなくなっていた。ただただ、嘘だ、嘘だと呟いていた。

「だから、すまない、と。君の……勝利を……願って……」

 そこまで言って、もう彼女は耐えられなくなったようだった。アタシは、ようやく少しずつ、状況を理解する事ができるようになりつつあった。それでも、信じられなかった。信じたくはなかった。しかし、事実なのだと思った。彼女の嗚咽が、それを残酷にも証明していた。

 三冠ウマ娘、ナリタブライアンが内臓疾患によって急逝した。そのニュースは、瞬く間に日本中に広まった。一〇月二日には、追悼式が行われた。関係者やファン達に交じって、アタシやサムソン達も参列した。久しぶりに会ったアイツに、あの笑顔はなかった。

「久しぶり、だね。……こんな、形で、会うなんて……」

「ああ。……そうだな」

「まだ、信じられないけど……でも、事実、なんだよね」

「ああ、そうだろうよ……アタシだって、信じたくないさ」

 そんな事を、言い合った。会場には多くの先輩や後輩、そして同期達がいる。皆、信じられないという表情だった。あまりにも、早過ぎたのだ。会の途中で、ビワハヤヒデが堪え切れなくなって泣き崩れる。同期のライバルだったウイニングチケットが、肩を貸しながら一度退室していった。それを追って、同じく同期のナリタタイシンも出ていく。彼女は、ブライアンと比較的仲の良かった一人だったと聞いていた。

 式が終わり、アタシが帰り支度を進めていると不意に声がかけられた。声をかけてきたのは、ビワハヤヒデだった。

「オフサイドトラップ君、だね。少し、良いかな」

「は、はい。アタシは、構いませんけど」

 ビワハヤヒデは頷くと、アタシを連れて会場の別室へと連れていく。その部屋に入った時、アタシはハッと目を見開いた。そこには、幾つかの道具が並べられている。アタシ達がレースやその後のウイニングライブで使う、道具の数々。

「これ、ブライアンの」

「ああ。……形見分けだ。前に電話した時、最後まで伝えきれなかったのでな」

「え?」

「……最期の最期に、言っていた事だ。レースを見には行けない。君の勝利を願っている。そして、最後に。これを」

 そう言って、彼女が一つの道具を手に取った。白い毛が、モール状になっている道具。アイツの、代名詞。

「これを……付けて、欲しいと」

「あ……アタシ、に?」

「ああ。それを、どうしても伝えたかったようだ。だから、持って行ってくれ」

 そう言って、彼女はアタシにそれを握らせた。アイツの代名詞、シャドーロール。言葉を、発そうとした。しかし、喉が震えるだけで声は出なかった。視界が歪んだ。がくり、と膝が折れた。声を上げて、泣いた。本当に、いなくなってしまったのだ。それをはっきり認識した。そして、覚悟を決めた。

「……ビワハヤヒデさん」

「なんだ……?」

「アタシ……勝ちます。絶対に、勝ちます……!」

 絞り出すように、そう言った。良いレースを、なんて甘い事は言わない。勝つ。勝つ。絶対に。

 

 一一月、一日。その日、レース場には大勢の客が詰め掛けていた。ファン達の期待は何と言っても「影無き逃亡者」サイレンススズカだったろう。トライアルの毎日王冠で、それまで無敗だった「ターフを舞う怪鳥」エルコンドルパサーと、朝日杯王者の「未知なる栗毛」グラスワンダーを一蹴。余りにも強い彼女の逃げは、多くのファンを魅了した。そして彼女の同期で、かつては彼女に先着した事もあるメジロブライトやシルクジャスティス、そして宝塚ではスズカには敗れるも「女帝」エアグルーヴを上回ったキンイロリョテイ。こういった面々が有力視されていた。アタシの注目度は、さして高いとは言えない。それでも、良いと思った。そんな事はどうでも良かった。首に掛けたシャドーロールを、そっと撫でる。アタシは、ただ勝つだけだ。アイツの強さを、もう一度証明する為に。

 全員がゲートに収まり、発走を待つ。観客の歓声が一瞬静まり、そしてゲートが、開いた。誰よりも早く、一気に先頭に立ったのは。

《さあサイレンススズカが、期待に応えて早くも先頭!》

 そのスズカの背をジッと見ながら、アタシは三番手に付ける。形の上では、これはかつてのアタシの戦法である先行の位置だ。二連勝している後方待機ではない。しかし、これで良い。アイツの逃げは余りにも先へ行く。下手に後方待機を選べば、どう頑張っても追いつけなくなる。しかし、それにしてもアイツは早過ぎる。あり得ないほどのハイペースだ。逃げ・先行策を取るウマ娘は、基本的に途中でペースを落とす。そうでないと潰れてしまうからだ。アイツ自身、これ程勝てるという事は抑えてはいるはずだ。それなのに、この早さは何だ。

「クソ……出鱈目やりやがる」

 マズい、と思った。このままでは、アタシも潰されかねない。三・四番手をキープする為に、かなり無理をしている。離され過ぎず、しかし飛ばし過ぎず。難しい局面になった。そもそも、アイツはバテるのか。アイツが夏に勝った宝塚記念は、今日のレースより二〇〇メートル長いのだ。その距離を、アイツは逃げ切っているのだ。

 無理だ、という思いが脳裏をかすめた。アタシ如きが勝てる筈がない。アイツは、アタシの様な奴とは住む世界が違う。そうじゃないか、何を調子に乗っていたんだ。アタシは、今までG1レースで一度も、五着以内にさえ入った事の無い、三流じゃないか。そんな風に思った、その時。首元で、ふわりとシャドーロールが揺れた。

「……ブライアン」

 そうだ。何を考えているんだ、アタシは。勝つんじゃないのか。証明するんじゃないのか。アタシが勝って、もう一度。ナリタブライアンの、シャドーロールの怪物の、強さを。

 足に力を籠める。もうレースは半分を過ぎている。スズカは既に第三コーナーを曲がり終えようとしていた。その時だった。彼女の体が、がくんと揺れた。

「え?」

 サイレンススズカが、止まった。バテた、という様なものではない。抑えるというものでもない。本当に、止まった。足が何度がパタパタと前に送られ、しかしそれも惰性で動いている様に見えた。そして、彼女はコースの外側にふらふらと離れていった。故障だ。アタシにはすぐに分かる。彼女の足が壊れたのだ。何度も見てきた。アタシ自身も、そして同期達を、先輩達を、後輩達を。そして、だからこそ分かってしまった。彼女のケガは、アタシやブライアン達がしたケガより、更に酷い。あれより酷いものは、アタシの記憶には一つだけだ。その一つ、三年前の宝塚記念、そのケガをしてしまった先輩は。

「考えるな!」

 叫んだ。叫んで、言い聞かせた。考えるな。考えるな。今はレース中だ。何があっても、どんな事があっても、走り抜かなければならないんだ。アタシはコースの内側を通り、最後の直線で一気に先頭に立った。スズカの体を避ける為に二番目の娘が外に動き、他の娘達も半ば茫然としながら外側に回る者が多かった。アタシは一気にゴールを目指し加速する。他の娘達も、気を取り直したか追い上げてくるのが分かる。しかし、抜かせない。抜かせられない。アタシは勝つ。それが、アタシがアイツにしてやれる、唯一の事だから。

「届けぇーーーーッ!!」

 ゴールが、近づく。歓声が、小さく聞こえた。目の前に、ゴールがあった。やっと掴んだ。これが、念願の。

《先頭はオフサイド、オフサイドトラップ先頭、内の方からキンイロリョテイ、内の方からキンイロリョテイ、しかし何と、勝ったのは、オフサイドトラップ! 驚きましたオフサイドトラップ!》

 ゴール板を駆け抜けたアタシに、しかしどれだけの人が歓声を送ってくれただろうか。ほとんどの人は、アタシの事など見ていなかった。皆、四コーナーの手前を見ていた。救急車に乗せられて、サイレンススズカはターフを去っていく。掲示板を見ると、二着に入ったのはキンイロリョテイ、三着にはサンライズフラッグ。どちらも、スズカと同じ世代。心配になった。同じ世代のウマ娘があんな事になってしまっては、平静でいられる筈はない。そんな事を考えているアタシは、自分でも驚く程冷静だった。

 控室に戻る途中、係員が申し訳なさそうな顔で近づいてきた。

「オフサイドトラップ選手。申し訳ないのですが、今日のウイニングライブは……」

「中止、でしょう。分かってます。……ライスシャワー先輩の時も、そうだったって聞いてるんで」

「ええ、そうです。……せっかく、悲願の初制覇なのに……申し訳ありません。ですが、表彰式は、ありますから」

「仕方ないですよ。貴方が意地悪で、そう言ってる訳じゃないって分かってますから」

 そう言いながら、廊下を歩いていると叫び声が聞こえた。声のした方へ向かうと、黒髪のウマ娘が半狂乱で叫び続けていた。

「スズカ、おいスズカ! どこだよ、おい!」

「……やっぱり、ね」

 そうならない方が、おかしいと思う。もし、アタシが彼女の立場だったら。それこそ、一緒に走っているレースで、ブライアンがああなったら。それでも、いや、だからこそ、落ち着かせないといけない、と思った。丁度、その黒髪のウマ娘は、医療スタッフから最悪の事態もあり得る、と聞かされて茫然としていた。

「ど、どういう意味だよ……!」

「……アタシ達は、人間を遥かに超えた速度で走る。それが急に運動を止めたら、心臓にかかる負担も人間の非じゃない。……最悪、心臓や血管がイカれる」

 そう、声を掛けた。彼女が振り返る。二着に入った、キンイロリョテイだった。気の強そうな瞳が、潤んでいた。顔も青ざめて、とても二着に入ったウマ娘とは思えない顔色だった。

「オフサイド……トラップ……先輩」

「ウイニングライブは中止、だってさ。それをアンタに伝えに来た。……ま、無理もないね。ああなっちゃ……三年前の宝塚も、そうだったね。アタシはあれは、テレビで見てただけだったけど」

「それ、って、つまり……」

「……ああ、そうさ。アンタだって分かってる筈だよ。これは、そういう事さ」

 そう言って、アタシは踵を返す。

「じゃ、そういう事だ。ライブは中止でとっとと帰れ、が上のご命令だよ。表彰式はあるっぽいけどね。まあ二着のアンタには、そんなにだろ。気ぃ付けて帰りな」

 しかし、アタシの足はすぐに止まる。マスコミが、押しかけてきていた。これ自体はいつも通りだ。優勝したウマ娘は、いつもカメラとマイクに囲まれる。

「ここでは止めとくれ。表彰の時にそういう席もあるだろ」

 そう言って、アタシはマスコミをいなしていく。キンイロリョテイが、後ろからついてきていた。フラフラとして、足取りが覚束ない。三着のサンライズフラッグを探すと、彼女もやはり真っ青な顔をしていた。おいで、と言って手招きすると、彼女もふらつきながら近づいてくる。

「大丈夫かい?」

「は、はい……あの、あの。スズカは、どうなって」

「……公式な発表は知らないね。予想は出来るけど……でも、アンタには聞かせられないよ」

 そう言って、アタシはまた歩き出す。表彰の場では、キンイロリョテイもサンライズフラッグも、ぼんやりとした感じでトロフィーを受け取っていた。アタシだけが、堂々とトロフィーを受け取った。笑顔は流石に作れなかったが、堂々と掲げてみせる。

 その後、インタビューの時間が始まった。しかしやはり、二人は受け答えができる状態ではなかった。アタシも、当然質問が飛んでくる。

「おめでとうございました。レースの感想を伺いたいのですが」

「ええ、まぁ。アタシ自身は、気分良く走れましたよ」

「ご自身は、これで悲願の初G1制覇、という事ですが」

「ええ。やっと、ですから。ケガもあって……アイツが、いなくなって。……やっと勝てて。笑いが止まらないですよ」

 そう聞いたマスコミの中には、明らかに顔色の変わった者もいた。確かに、ダントツの先頭を走っていたウマ娘が競争中止となり、その容体ははっきりしないが誰もが「最悪の想定」をしている中で言う発言としては、不適切だったかもしれない。両脇の二人の顔色が、また変わるのを感じた。それでも、アタシは止めなかった。

「スズカには、気の毒だと思いますけど。でも、アタシも負けるつもりで走っていませんから。それだけです」

 そう言って、アタシは立ち上がった。これで、アタシは悪役一直線だろう。今日のレースは、間違いなく歴史には残る。オフサイドトラップの勝ったレースとしてではなく、サイレンススズカが天国に旅立ってしまった悲劇のレースとして。

 それが、悔しかった。もしスズカが無事だったなら、アタシが勝てたかと言われれば否だろう、と思う。それでも、勝ったのはアタシだ。勝者として刻まれるのはアタシの名前だ。やっと、掴んだG1だった。誰にも望まれない、誰にも祝福されない勝利だとしても。

 寮に戻る為のバスに向かう。いつもなら、ファンが大勢待っている場所だ。しかし、今日はほとんど誰もいない。たった一人。たった一人だけが、アタシの事を待っていた。

「サムソン……」

「オフサイド……やったね、って……ちょっと、言いにくいけど」

 そう言って、彼女は笑う。あの、笑顔だ。

「でも、確かに勝ったんだよ。オフサイドは」

「……ああ」

「きっと、ブライアンも……ブライアンも、喜んでくれる」

「そう、かな」

 そう言って、無理に笑おうとした。でも、ダメだった。顔が引きつって、上手く笑えない。笑いが止まらない、という訳にはいかなかった。勝ちたかった。真っ向から、彼女を抜き去りたかった。勿論、そういう思いはある。しかし、こうなってしまった。アタシが彼女を壊した訳じゃない。そう叫びたかった。

「あ、あの娘」

 サムソンが、そう言った。振り返ると、そこにはキンイロリョテイが立っていた。視線がぶつかる。まだ、彼女の眼は弱かった。近づいて、話しかける。

「笑いなさい。アンタは二着に入った。立派な物よ」

「でも……私は、スズカが」

「……そうね。確かに、そうだわ。でもね」

 そう言って、彼女をグッと抱きしめた。彼女は一瞬身を固くしたが、抵抗はしなかった。

「それでも、勝ったのはアタシで、そして二着は貴方。スズカじゃないわ。……笑いなさい。……せめて、貴方だけは、そうあって」

 アタシは、誰にも称賛されずに歴史に埋もれていく。こうなってしまった以上、仕方ないとも思った。それでも、分かって欲しかった。これからも走り続けるだろう彼女には、伝わって欲しかった。

 不意に、ぽん、と肩を叩かれたような気がした。ハッとして振り返る。そこには、誰もいない。

「どうしたの、オフサイド」

 サムソンが訊いてくる。アタシは、そっと鞄の中に手を入れた。勝負服から着替えて、それは今鞄の一番上に置かれている。

「……ねぇ、ブライアン」

 静かにそう呟いて、そっとシャドーロールを撫でる。サムソンが、リョテイが不思議そうにアタシを見ていた。

「アタシ、頑張ったよね」

 そう言って、目を閉じた。風が、頬をかすめていった。

 

 




 ウマ娘のアプリ配信日が決まったりツインターボちゃん達の実装が発表されたりウマ娘まとめのカンリニンチャンが復活したりと色々嬉しいニュースが続きました。
 今作では、「死」というものをより鮮明に取り上げました。オフサイドトラップを取り上げたウマ娘二次創作は幾つか見ていますが、それらは当然というべきかナリタブライアンの死、サイレンススズカの死については触れていません。ウマ娘というコンテンツの性質を考えれば当然で、そちらが正しいと思います。ですが、この作品ではあえてそのタブーに触れました。競馬を楽しむ上で、このような事故は起こり得る、という事から目を背けてはいけない、と思うからです。御不快に思われる方もいらっしゃるかもしれません。御批判は、甘んじで受け入れます。


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ASTRAY PRIDE――フラワーパーク――

 ウマ娘アニメ二期、始まりましたね。面白いですね。こんなに何度も見返したくなるアニメは久しぶりです。シングレも面白いし……いやぁ、盛り上がってますねウマ娘。
 前回オフサイドトラップを主役にしたので、今回はなるべく明るい終わり方を出来る馬を取り上げたいなと。というよりも、「死」を封印して話を作る、というのが今回のテーマでした。そこで思いついたのがフラワーパークでした。
 ウマ娘において、父と子というのはシンパシーを感じる、という様な設定があります。今回はちょっとそれを発展させ、トレセン学園入学以前に何か教えているかも、という想像を働かせる事にしました。ウマ娘に引退はあるのか、あるとして引退後どうするのか、その辺を埋めようとした結果です。
 今回は過去一番取っ散らかってしまいました。読み辛いでしょうが、よろしければ読んでいって下さい。


 盛り上がるレース、と言えば何だろう。かつては八大競争という言い方があった。世界と戦う、という名のもと作られたジャパンカップは、日本対世界の図式で大いに盛り上がっている。他にも春のグランプリである宝塚記念、牝馬三冠最終戦のエリザベス女王杯も、大いにファンが沸くレースだと言える。

 そう、ファンが集うのは、中距離以上のレース。格の面でも、人気の面でも、中長距離の芝レースこそが、日本のレースにおける花形。それを端的に表す言葉がある。「王道路線」。その道を行けない者たちは、日陰者。少なくとも、彼女はそう感じていた。自分達は、王道から外れた者達だと。正道についていけなかった、落伍者だと。そう言われている様な気がしていた。彼女の競争生活は、それを覆す為にあったと言っても良い。彼女は走った。やがて、人々は彼女の走りに熱狂する様になった。

 それまで長距離に重きを置いていたトゥインクルシリーズは、この頃に距離体系の整備やグレード制の導入を開始、安田記念のG1格付けやマイルチャンピオンシップの創設が行われる。彼女は、その流れのど真ん中にいた。後に「マイルの皇帝」と呼ばれるに至る、その革命者の名前は、ニホンピロウイナー。

 彼女が引退して、約十年。今や、短距離路線は立派な選択肢として存在していた。最初から短距離路線を志向するウマ娘も増えた。多くのスプリンターが生まれ、その激しいレースに多くのファンが熱狂する。そんな時代の礎をを築き上げたのは、紛れもなく彼女だった。そんな彼女を慕う者達が、その教えを乞う。何人ものウマ娘が、彼女の元で強くなった。その中でも、特に優れた者が二人。一人は既に引退しているが、安田記念連覇を成し遂げているヤマニンゼファー。そして、もう一人が今後の活躍に高い期待がかけられている快速のウマ娘、フラワーパークだった。

 

 その日、フラワーパークは珍しく緊張していた。デビュー戦こそ一〇着と惨敗したが、その後三連勝。その次のレースは三着で連勝記録こそ止まったが、その後もう一度勝利、二着、そして初めて挑んだ重賞レースで勝利。調子は最高だった。このまま、短距離界の頂点を目指す。彼女がデビューする前年に、短距離で絶対王者であったサクラバクシンオーが引退していた。彼女の後継者となり、スプリントの王者となる。それが、今の彼女の夢だった。そのチャンスが、やってきた。

「次走だが、予定通りでいいか?」

 そうトレーナーに聞かれ、彼女は迷う事無く言う。

「もちろんです!」

「よし。高松宮杯、エントリーしておくぞ。これを勝てば、お前は春の短距離女王って事になる。頑張ろうぜ」

「はい!」

 この年、彼女達にとって非常に大きなニュースがあった。それまで芝二〇〇〇メートルのG2戦であった高松宮杯が、芝一二〇〇メートルのG1レースへと変更されたのだ。それまでの高松宮杯は、かつてハイセイコーやトウショウボーイ、オグリキャップといったスーパースター達が出走する事もある人気中距離レースだった。それが、芝一二〇〇メートルのG1へ、時期も五月へと変更になり大きく様相を変える事となった。開催場所自体は中京レース場のままであった為、同レース場で行われる唯一のG1レースという事になる(後にチャンピオンズカップが加わる)。一二〇〇メートルの距離は秋のスプリンターズステークスと並んでG1としては日本最短であり、フラワーパークの様な短距離路線のウマ娘にとっては新たに生まれた夢舞台であった。

 トレーナーとの打ち合わせを済ませた後、彼女は一人の女性に電話を掛ける。誰よりも尊敬する人に、報告をする為だ。

「もしもし、フラワーです! 私の次走、決まりました!」

《お、そうか。まぁ、聞かなくても分かるけどね。シルクロード勝ったんなら、もう決まりだろ》

「はい。高松宮杯、絶対勝ちますから!」

《そう入れ込むなよ。今からそんなに肩に力入れてたら持たないぞ》

 そう言って、彼女は笑った。

《ま、頑張りなよ。私、見に行くからね》

「本当ですか!? ありがとうございます!」

《そりゃ、流石にあんたの初G1挑戦だ。見に行かなかったら悪いだろ。楽しみにしてるからね、まずは、ケガなんかしないようにね》

「はい、失礼します、ウイナーさん!」

 そう言って、フラワーパークは電話を切った。ウマ娘の進路は幾つがあるが、最も花形と言われるのが中央の『トレセン学園』に入り、そこで行われる『トゥインクルシリーズ』で結果を出す事である。そうなればスーパースターの仲間入りとなり、一躍有名人にもなれる。そしてトレセン学園入学を目指す少女達は、幼年期からその時に備えた基礎練習を予め積んでおくことが多い。その際に世話になるのが「ジュニアトレーナー」と言われる者達で、かつてトゥインクルシリーズで活躍したウマ娘達がその任についていた。レース引退後のウマ娘達への就職先の一つとして用意されたもので、フラワーパークもまた一人のジュニアトレーナーの元で基礎を積み、トレセン学園への入学を果たしたのだ。彼女にとっては、親の様なものだった。その彼女が、北海道からわざわざ愛知県で行われるレースを見に来てくれるという。それは、何より嬉しかった。

 数日後、彼女はオフであった為に自室でのんびりと過ごしていた。同室の娘は出かけている。友人と遊びに行く約束があると言っていた。昼食後、初夏の日差しの温もりもあってうとうととしている彼女の耳に、不意にノック音が飛び込んできた。

「ふぇ? はーい、どちら様で……」

 そう言いながら、部屋のドアを開ける。すると、そこに立っていたのは二人のウマ娘だった。フラワーパークの顔色が変わった。

「は、はぇ……?」

「おはよ。向こうでやる事がなくってね、だいぶ早いけど来ちゃったよ」

 そう言ったのは、黒髪のサバサバした雰囲気の女性。フラワーパークが、最も憧れる女性。

「ウイナーさん!?」

「おい、俺は無視かよ」

 横からそう言ったのは、濃い茶色の髪をした女性である。

「ぜ、ゼファーさん」

「ん? 今お前一人?」

「え、ええ。同室のファイトガリバーちゃん、遊びに行っていて」

「ちょっと、食堂おいでよ。話聞きたいからさ。流石に勝手に入っちゃマズいだろうしね、その同室の子がいないんじゃ」

 そういうと、二ホンピロウイナーはさっさと歩き出す。フラワーパークは慌ててその後に続いた。

「びっくりしました、いきなりお二人が」

「まぁ、びっくりさせようとしたからね。発案はゼファー」

「緊張してる後輩ちゃんを、リラックスさせようって事じゃないすか、姐さん」

 そんな事を言い合いながら、三人は食堂に入る。食事時以外の食堂は、いうなれば談話室の代わりになっている。今は数人が、思い思いの雑談に花を咲かせていた。三人も適当な机を見つけ、椅子に腰かける。

「じゃ、まずは前走の事から聞こうかな。どうだった?」

「は、はい。緊張はしました、けど。勝てて良かったです……」

「一番人気のヒシアケボノ……だっけ? なんつうか大きい娘だね……」

 ニホンピロウイナーが驚いたように言う。彼女は確かに大きい。昨年のスプリンターズステークスを制した時には、「史上最重量G1ウマ娘」として話題になったほどだ。

「まあでも、ジュニアクラスでシニア混合レース勝ったんだから、大したもんだね。ビコーペガサスとかを抑えたんだろ?」

「はい。同級生ですけど、尊敬します……」

「でも、お前勝ったんだろ、この前はさ。自信持てって」

 ゼファーはそう言って、コーラをグイっと飲んだ。

「お前もケガが無けりゃなあ。そしたら、案外取れてたかもしれんぜ、スプリンターズステークス」

「それは、仕方ないです……私が、焦っちゃって」

 フラワーパークは、デビューが遅かった。本来デビューする予定だった日の直前に、足を骨折してしまい大幅に出遅れる事になってしまったのだ。

「でも、そこからは大したものよね。デビューこそ負けたけど、とんとん拍子じゃない」

「い、いえ、そんな」

「俺だって、重賞は四回目の挑戦でやっと取れたってのに。お前一発目でいきなりだろ? 大したもんだよ」

 ゼファーはそう言って笑う。最も、その彼女が四回目の挑戦にして遂に掴んだ悲願の重賞はG1、安田記念なのだ。ダイタクヘリオス、ダイイチルビーをはじめ多くの有力者が揃ったレースで、十一番人気に過ぎなかった彼女は最後の直線で一気に突き抜けて勝利。一躍マイル路線の有力者となった。

「今度の高松宮杯、ヒシアケボノも出るんだろ? 一度勝ってるんだし、これは自信もっていけるじゃない」

「そうですね、また勝てるように、頑張ります」

「後怖いのは……ビコーペガサスか。惜しいレースは続いてるし、侮れないってところか。この二人が、特に要注意って感じだね」

 ウイナーがそう言った時だった。バタバタと、廊下を誰かが走ってくる音がした。

「ん?」

 ウイナーが音の方を見る。一人の男が、食堂に駆け込んできた。

「あ、トレーナーさん……?」

 フラワーパークが呟く。彼はフラワーパークの姿を認めると、大急ぎで近づいてきた。

「おい、大変だぞ。さっき、えらい事を聞かされた……って、ウイナーにゼファー!? 何で君らがここに」

「可愛い後輩の激励ですよ。……ところで、どうしたんです」

 ウイナーが訊き返す。彼は椅子に座ると、ふうと息を吐いて言った。

「さっき、出走面子に追加があって、な。大体は予想通りか、まぁ理解できるって面子なんだが。一人、とんでもねえのが」

「とんでもない……?」

 フラワーパークが不思議そうな顔で訊く。これ程にトレーナーが言うという事は、余程の大物だ。しかしサクラバクシンオーが引退して以来、ヒシアケボノやビコーペガサス達以外でそれ程の大物というのはあまり思い浮かばない。

「誰です? そんなとんでもない、なんて」

「……ナリタブライアンだ」

 そう言われて、三人の口が一斉に開いた。

「は?」

「おい、何だって?」

「う、嘘でしょ、トレーナーさん」

「俺も、最初はそう思った。でも事実だ。ナリタブライアンが、出走してくる。高松宮杯に」

 全員が、茫然としていた。確かに「とんでもねえ」ではある。しかし、それは凄いとか、強豪とかとは少し、ニュアンスが異なってくる。

「だ、だって、ナリタブライアンさんって、三冠ウマ娘で、王道路線の選手でしょ!?」

 フラワーパークはそう言いながら、思わず立ち上がっていた。ウイナーも、ゼファーも信じられないという表情を変えない。

「な、なんで高松宮、一二〇〇に」

「俺も分からん……分からん、が。そのうちに、多分本人の口から理由は出てくると思う。とにかく、彼女が出てくるならこのレース、俄然注目度が違ってくるぞ。今までだって低いとは言わないが、『シャドーロールの怪物』が出てくるとなりゃ」

「ま、待てよ。アイツ、確か前走は天皇賞だったよな」

 ゼファーが呟く。トレーナーはこくり、と頷いた。

「そうだ。前走は天皇賞、三二〇〇メートル……」

「なんだよ、そりゃ……」

 ゼファーは茫然とした顔で、そう零した。ナリタブライアン。二年前にシンボリルドルフ以来の三冠を達成、その暴力的ともいえる強さから『シャドーロールの怪物』と恐れられた。ここ最近はケガの影響もあり低迷しているが、それでもなおその人気や名声は揺るがない。

「まあ、何にせよ俺達のやる事は変わらないさ、フラワー。初めてのG1、しっかり……」

「……おい、フラワー」

 不意に、ウイナーが口を開いた。三人が、彼女の方を見る。彼女の声色は、先程までとはまるで違うものだった。低く、重く、威圧感のある声。

「あんた……負けるんじゃないよ」

「え……?」

「……私の、私怨だけどね。あんたに、負わせる事になるのは申し訳ないけどさ。……頼む。負けるんじゃないよ」

 そう言って、彼女は拳を握った。フラワーパークには、その言葉の重みは今一つ分からなかった。しかし、ゼファーとトレーナーの二人は、よく分かっていた様だった。

 もう、十年以上前の事になる。彼女はあらゆるものと戦っていた。それまで、トゥインクルシリーズにおいて特に重視されていたレースはクラシックの五レース(秋華賞はまだない)、それに春、秋の天皇賞と有馬記念だった。平たく言えば、中距離以上のレースだった。長く走れるウマ娘こそ、最強のウマ娘。それが、当時の認識だった。その中にあって、彼女は落ちこぼれだった。皐月賞で、二〇着惨敗。競争を中止したウマ娘一人を除けば、最低の着順。遥か先頭を行く少女の後ろで、彼女のゴールの瞬間はカメラに映る事さえなかった。

《真ん中ミスターシービー抜けてきた、外の方からメジロモンスニー、メジロモンスニーかミスターシービーか、ミスターシービー出た、ミスターシービーが出た、ミスターシービー優勝!》

 そうアナウンサーが叫んだ頃、彼女はまだゴールの遥か手前を走っていた。余りにも、絶望的な差だった。

 その後、彼女は日本ダービーへの出走を諦めた。距離がさらに伸びる日本ダービーで、結果が出せるとは思えなかった。それから、彼女はずっと「裏街道」をひた走った。王道路線を落伍した者と言われようと、彼女は走った。それしか、彼女には無かったのだ。

《ハッピープログレス先頭、内からニホンピロウイナーが伸びてくる! 内からニホンピロウイナーが伸びてくる、シャダイソフィア現在二番手、内からニホンピロ、内からニホンピロウイナー来たハッピー先頭かハッピーか、ハッピーかニホンピロウイナーか、外ハッピープログレス内からニホンピロウイナー伸びた、変わるのか! 変わるのか、変わった、ニホンピロウイナー躱した! ハッピープログレス懸命に二番手を粘る、ダイゼンシルバーが三番手に上がった、ニホンピロウイナー一着! ニホンピロウイナー一着!》

《ニホンピロウイナー先頭か、その外側からマルタカストーム、そしてジムベルグ、更に、更にダスゲニー突っ込んでくる、ニホンピロウイナー先頭か、リキサンパワー頑張った、更にギャロップダイナも出てくる、さあ先頭は、先頭は、先頭はしかしニホンピロウイナーだ、ニホンピロウイナー抜けた! ニホンピロウイナー抜けた、そして、内の方から突っ込んできたのはスズマッハ、スズマッハ一気に突っ込んできたが、やっぱり勝ったのはニホンピロウイナー!》

 彼女は、マイル以下の距離を勝ち続けた。時にはそれ以上の距離のレースに出る事もあったが、主戦場はあくまでマイル以下。それまでであれば、決して一流とは呼ばれなかっただろう。事実、彼女のマイルチャンピオンシップでの勝利は決して大きなニュースとなった訳では無かった。翌週に行われるジャパンカップ、ミスターシービーとシンボリルドルフが、これまで歯が立たなかった外国のウマ娘に念願の日本ウマ娘初勝利を齎せるか。多くの者が、そちらに意識を集中させていた。それが、彼女には悔しかった。しかし彼女にできるのは、ただ走る事だけ。故に彼女は走った。二〇〇〇メートルの大阪杯では敗れたが、京王杯と安田記念を連勝。その頃になると、彼女はこう言われるようになった。『良バ場のマイル以下なら、シンボリルドルフにも負けない』。風は、変わりつつあった。彼女は二〇〇〇メートル、秋の天皇賞に出走する。そこには、シンボリルドルフの姿もあった。そのレースで、彼女は猛烈な走りを見せるも三着に敗れる。そして次走のマイルチャンピオンシップを勝ち切ると、それを最後に引退した。

 彼女は間違いなく革命者だった。彼女の活躍は、大袈裟に言えばトゥインクルシリーズの様相そのものを変えた。その根底にあったのは、強烈な負けん気だった。どれだけ努力しようと、どれだけ結果を出そうと、彼女は決して一番にはなれなかった。彼女は所詮「短距離路線の王者」だった。スターウマ娘と聞いて誰もが思い浮かべる存在には、決してなれない立場だった。同い年に一人。一つ後輩に一人。『三冠』の重さは、どうにもならなかった。

 それでも、彼女には一つの希望があった。目を掛けた後輩のヤマニンゼファーが鮮烈な活躍を残し、その名を轟かせてくれた。直接の関わりは無いが、ニッポーテイオーやダイイチルビー、ダイタクヘリオス、ニシノフラワーやサクラバクシンオー、トロットサンダーら多くの有望なマイラー、スプリンターが現れた。確実に、「非王道路線」の価値は上がっている。もう、私が味わった思いはさせたくない。彼女の想いはそれだけだった。そう、思っていた。

「ウイナーさん……」

 フラワーパークの声が、ウイナーの意識を引き戻してくれた。

「あ、すまないね……ちょっと、昔の事をね」

 そう言うと、彼女は立ち上がる。

「今日は、帰るね。それじゃ……」

「帰る、って、どこか宿でも取ってるのか?」

「適当なビジネスホテルでも見つけます。ゼファーは確か、仲のいい先輩の家に泊めて貰うって……」

「あ……えっと……」

 ゼファーが口ごもる。フラワーパークは不思議そうに彼女を見つめた。普段はとにかく歯切れのいい先輩なのだ。この様なもごもごとした言い方は、聞いた事が無かった。

「なんつうか、まあ、そうだけど」

「だから、私一人で……そういえば、その先輩って誰なの?」

「え、えーっと……」

「んー!? あれ、何でピロちゃんがここにいるの!?」

 不意に、大声が響いた。四人が振り返る。フラワーパークだけが、良く知らない声だった。他の三人はその声の主をよく知っている。トレーナーにとっては、かつて誰よりも喝采を浴びたスーパースターとして。ゼファーにとっては、友人の恩師として。そして、ウイナーにとっては。誰よりも複雑な気持ちを抱く相手として。

「ミスター……シービー……」

 ウイナーが呟いた。黒髪の女性は、にこやかな笑顔を浮かべて四人のそばに近づいてきた。

「あんた、確か北海道でジュニアトレーナーやってるんじゃなかったっけ?」

「そういう、お前もだろ。もうトレセン学園の人間じゃないはずだ」

「ん、まぁね。久しぶりにルナちゃんの顔が見たくなってさ。そろそろ、私ジュニアトレーナークビになりそうだしねぇ……」

 そう言った彼女は、ふとゼファーの姿を見止める。お、と言って彼女はずいと身を乗り出した。

「ゼファーちゃんも来てんだ! というか、あーそうかぁ、そういう事かぁ」

「どういう事?」

「いやね、グローバルが家に友達が来るんですよー、って言っててさ。そうかゼファーちゃんの事だったかぁ」

「友達ってのは、ヤマニングローバルの事かい」

「え、まあ、そうっす……まさか、その」

 まだごにょごにょとした口調のゼファーを見て、ウイナーは溜息を吐く。ヤマニングローバル、かつてゼファーが世話になった先輩の一人だ。そして、ミスターシービーが育てたウマ娘でもある。普段なら気にもしなかったろう。ゼファーにもグローバルにも、関係のない事だ。しかし、間が悪かった。今は、少しでも「三冠」に関わる様な単語を聞きたくない気分だった。ナリタブライアンの名前で、完全に傷口が開いてしまった気分だった。

「で、なんで二人はここに? こっちの先生に転職?」

「違う。フラワーの応援だよ。今度の高松宮に出るから」

「あ、成程ねぇ。じゃあ、私も応援しよう! 今度の高松宮の面子、私の知り合いいないしねぇ……まだ確定してないけど」

 そう言って、彼女は朗らかに笑う。ミスターシービー。ニホンピロウイナーにとって、ライバルであり、目標であった。彼女の存在が、ウイナーを奮い立たせた面は、確実にあった。

 その頃。ナリタブライアンは、シンボリルドルフ達の質問を受けていた。

「どういうつもりだ? どう考えても、アンタの走るべきレースじゃないだろ!」

 そう言ったのはヒシアマゾンだった。彼女の言は、間違いなく正論ではある。彼女自身が高松宮杯というレースを下に見ている訳では無い。しかし、向き不向きというものがある。三〇〇〇メートルを走る能力と、一二〇〇メートルを走る能力は全く別物なのだ。ナリタブライアンは、二〇〇〇メートルを超える距離のレースにおいては当代随一と言えた。しかし、それ以下のレースにおいてもそうだとは言えない。むしろ、三〇〇〇メートルも一二〇〇メートルも関係なく一流の成績を残すようなウマ娘など、そうそういるものではない。

「あのレースに出たい。そう思う理由があるのだろう。それを聞かせて欲しい」

 ルドルフにそう問われ、ブライアンは口を開く。

「私は。シンボリルドルフ、貴方に追いつき、そして超えたかった。その為に、私はあのレースを勝たなくてはならない」

「……どういう、事だ?」

 ルドルフの問いに、しかしブライアンは答えなかった。彼女が出たいと言った以上、それを止める権限は他の誰にもない。彼女の実績を上回るものなど、現役選手の中には一人もいない。ナリタブライアンの名が、高松宮杯の出走枠、その一つを埋めた。当然、多くの反響が上がった。ファンも関係者も、一様に困惑し、中には堂々と反対するものもいた。彼女のトレーナーも、最初は間違えているのかと思った、と述べた。距離が変わった事を知らないんじゃないか、と。しかし、そうではなかった。ナリタブライアンは確かに、己の意志で出走を決めたのだ。その彼女を、レースの前日に訪ねてきた者がいた。会いたいという人がいる、と連絡を受けて食堂に降りてきた彼女の前に立ったのは、ミスターシービーだった。

「やっ! ご無沙汰だね、三冠決めた時に挨拶して以来かな?」

「シービー……明日のレースについて、か」

「ん、まあね」

 そう言って、シービーは席を勧める。二人は向かい合って座った。

「ま、散々色んな人に聞かれたろうし……今更『どうして出るの?』とは訊かないよ。それだと、多分答えてくれないだろうしね」

「……では、何を?」

「訊き方を変えるって言うのかな。……ねえ、貴方、もう駄目なんじゃないの? 体」

 ズバリ、と彼女は言った。ブライアンの顔が、強張った。

「何、を。自分で言うのもなんだが、状態は上がっている」

「そうね、着順だけならね。……でも、貴方にはもうかつての力はない。まぁ、元々が強過ぎたから、それでも第一線で戦えるのだけど」

「……まあ、百歩譲って、私の限界が来ているとして。何を言いたい?」

 そうブライアンに問われ、シービーは寂しげに笑って返した。

「貴方は間違いなく、力で人々を魅了できる超一流。誰もが貴方に期待したわ、『皇帝』越えを。そして貴方にとっても、シンボリルドルフを超える事は悲願だった筈」

「……」

「三冠を取った時。貴方の思う、皆が思う『皇帝越え』は、G1八勝だった。そうじゃない?」

「……」

「でも、それはもうできない。貴方はそう気が付いた。もう自分の体は、それをやれるだけの力を残していないと。だから、別の方法でシンボリルドルフを超えようとしている。違うかしら?」

「ッ……!」

 ブライアンの顔色が、変わった。

「後全力を出せるレースは、一つか、二つか。最後の力で、その全力であなたの夢を叶えるには、これしかない。ルナちゃんはマイル以下の大レースを勝ってはいないからね。貴方は三二〇〇の春天こそ取ってないけど、三〇〇〇の菊は取っている。その貴方がスプリント、一二〇〇を取れば、ある意味で彼女を超えられる。一二〇〇でも、三〇〇〇でもG1を勝てる。レース体系が整えられた今、そんな事をやろうとするウマ娘なんて一人もいない。私の知る限り、そんな真似をして実現できそうな人は……大昔に一人だけ、ね」

 ナリタブライアンは、『シャドーロールの怪物』と呼ばれている。その彼女の遥か前に、ただ『怪物』と呼ばれたウマ娘がいた。八大競争の勝ち星は一つだけ。皐月賞や日本ダービーは、二着に敗れている。だがそれでも、多くの人々が彼女を怪物と呼び、畏怖した。彼女の成績は、あまりにも異様だったのだ。唯一の八大競争勝ち星は芝三二〇〇メートルの天皇賞。レコードを叩き出す事五回、そのレースは「ダート一七〇〇」が二度、そして「ダート二一〇〇」「芝一六〇〇」「芝一二〇〇」。重いハンデを課せられた事もある。ドロドロの重バ場を走った事もある。それでも、どんな条件でも、彼女は走り、そして勝った。

「貴方は『シャドーロールの怪物』として、彼女の様な記録を作るつもりでしょう。そうする事で、貴方はルドルフとは決定的に違う実績を持つ事になる」

「……確かに、私の中にある『本当に強いウマ娘』の理想は……あの人だ」

 そう、ブライアンは言った。その眼には、強い光があった。

「本当に強いウマ娘とは、距離など関係なく他を圧倒できる。展開も、レース場のコンディションも、何も問題にせず勝てる。そういう者の事を言う」

 G1の勝ち数では、今やルドルフを超える事は叶わないだろう。ならば、自分の万能性を示し、それを以てルドルフ越えを果たす。それが、今の彼女に残された夢だった。

「そう。それは、貴方の自由だと思うわよ。私が確認したいのは、後一つだけ」

「何を……?」

「……貴方、今度の高松宮杯、勝てると思ってる?」

 そう問われ、ブライアンは少し押し黙った。やがて、重々しい口調で口を開く。

「簡単ではない、だろう。私は、走った事もない距離で、普段から短距離を走っている者達といきなり当たる。だが……負けるつもりで、走りもしない」

「うん、よろしい」

 そう言って、シービーは立ち上がった。話は終わった、とでも言うように。

「楽しみに見させて貰うわよ、ブライアンちゃん」

「……ええ」

 そう言い合って、二人は別れた。シービーには、もう一人話すべき相手がいた。

 

 レース当日。フラワーパークは、中京レース場にいた。高松宮杯は、午後三時四十分発走予定である。それまで、彼女達は控室で静かにその時を待つのだ。

 そして、同時刻。ニホンピロウイナーは、一人のウマ娘と会っていた。

「私にとって、あんたに勝てなかった事。それが、一番悔しいんだよ」

 そう、ウイナーが吐き出す。言っている相手は、ミスターシービー。

「ルナちゃんにギリギリで負けた事じゃないんだ」

「分かって言ってんでしょ、あんた。あれはむしろ、私にとっては誇りだよ。あのシンボリルドルフが、この私に追い詰められた。二〇〇〇メートルっていうアイツの庭で、私は皇帝を追い詰めた」

「確かに。マイルならルドルフにも勝てる、って言われてたけど、実際そうだったって思ってるよ、私はね」

 でも、と言ってシービーは笑う。

「私だったら、マイルでも勝てたかもね、貴方に。私、実はマイル距離得意なのよねぇ、何なら一番得意だったかも」

「言ってろ。確かに、あんたには一度も勝てなかったが」

「……でも、それは所詮つまらないたらればね。私には、そんな度胸なかった。私は周りの期待に応えたくて、王道路線を突き進む事を選んだ。体がボロボロになっていくのを承知でね」

「あんたは、こっちに来るべきじゃなかったよ。あんたはスターになれる素材で、実際にスターになった。私みたいに、走れなかった奴とは違う」

 そう言って、ウイナーは自嘲する様な笑みを浮かべる。

「しかし、私の前には、いつも立ち塞がってくるね。三冠ってやつがさ」

「同期に私、一個下にルナちゃん。そして、貴方があの時一番期待していたゼファーちゃんの同級生に、トウカイテイオーちゃんがいた」

 トウカイテイオー。シンボリルドルフに憧れ、彼女と同じく無敗で二冠を達成、無敗三冠も十分あり得ただろう傑物。残念ながらケガもあり無敗三冠は夢と消えたが、その後復活を繰り返してファンから愛され続けたスーパースター。

「あの秋天、貴方盛り上がってたものねえ。ゼファーとテイオーが当たる、私の仇をあの子なら討ってくれる、って」

「私怨だよ。逆恨み、って言っても良いかもね。私は一度、シンボリルドルフと戦い、そして敗れた……それを、あの娘は知ってくれていた。だから、言ってくれたのよ、きっと仇を取るって。それが、嬉しかった。結局、テイオーの復帰が遅れて、対決は無かったけどね」

 ウイナーはそう言い、ふうと息を吐いた。

「悔しかったのは、その後よ。あの娘はG1を二つとっていた。年度代表をとれるかも、って言われていたし、私もそう思っていた。そうなりゃ、快挙でしょう? でも、ダメだった。G1一勝のビワハヤヒデに、持っていかれた。あの時は、本当に悔しかった。結局、私達はまだ落伍者のままなのか、って」

 ビワハヤヒデ。その年の菊花賞を制し、その後春の天皇賞や宝塚記念を制した優秀なウマ娘だ。そして、ナリタブライアンの姉でもある。

「本音を言えば、貴方が出たいんじゃないの? レースに。自分の庭で、三冠ウマ娘と戦えるなんてそうそう無いわよ」

 シービーが、悪戯っぽく言う。ウイナーは、絞り出すように応えた。

「ああ、そうね。でも、私はもう現役じゃない」

「貴方は、ルナちゃんに負けた。私にも勝てなかった。色んな意味で、ね」

「……ええ」

「……貴方、あの子……フラワーパークちゃん、だっけ。あの子に、そういう話はしたの?」

「いいや。あの子は、あまりその辺の事を知らなかったから。ゼファーは知ってくれていたから、思いの丈を話はした」

「うん、よろしい」

 そう言って、シービーはふふ、と笑った。

「あんまり、背負わせるもんじゃないわよ。のびのびとやらせてやる事。……って、私が言っても駄目かぁ、トレーナーとしては、ピロちゃんの方が上だしねぇ」

「まあ、背負わせる気はないよ。私の私怨だからね、所詮。外道者の逆恨みさ」

 そうウイナーが言った時、レース場の方で歓声が上がった。前走が、終わった様だ。

「さて、いよいよね」

「……ああ」

「私としては、どっちを応援すべきかなぁ。三冠の後輩のブライアンちゃんか、同期の教え子のフラワーちゃんか……」

「好きにしろ」

 そう言い合う二人の前を、大勢の人間が通り過ぎていく。いよいよメインレース。G1、高松宮杯。そのレースを争う面々が、一人ずつパドックに現れ、ファンにその姿を披露する。特に今日はG1レース、勝負服での登場である。華やかな衣装に身を包んだ彼女達が一人ずつ現れる度、大きな歓声が沸いた。ウイナーとシービーがパドックの見えるところについたころ、一際大きな歓声が沸いた。

《さあ、そして続きまして登場するのは、四枠五番、ナリタブライアン!!》

「流石に、風格があるわね」

 シービーが呟く。白と桃色の勝負服が、鮮やかに映えていた。単純な人気で言えば、彼女の人気は他を圧するだろう。しかし、彼女のファン投票結果は、現在二番人気にとどまっている。

「一番人気ヒシアケボノ、二番人気にブライアンちゃん、か」

「短距離G1制覇が評価されてだろうな。ブライアンは、中距離の実績と単純な人気だろうね」

 ヒシアケボノらが現れ、そして七枠十番の番となる。

《七枠十番、フラワーパーク! 現在三番人気です》

「中々人気者じゃん」

「ここ最近トントン拍子だからね。勢いそのまま、勝って欲しい所だけど」

 そう言うウイナーの姿を、フラワーパークは見つけた様だった。笑顔を浮かべ、そちらに手を振る。それを見て、シービーが呟いた。

「あ、ヤバ」

 その場にいる誰もが、その時はフラワーパークを見ていた。そのフラワーパークが、不意に手を振ったのだ。手を振る先を見るのは自然な事だった。そして、この場にいる者で、二人の顔を知らない者は極々少数だと言っていい。

「お、おい、あれ!」

「うおっ、シービーとウイナー!?」

「……どうしよ?」

「どうするも何も、どうにもならんでしょ」

 たちまち、二人の周りに人が集まってきた。ウイナーはファンの相手をしつつ、ちらりとパドックの方を見る。フラワーパークが、申し訳なさそうな顔をしていた。その顔が、なんだかおかしく思えた。にっこりと笑って、胸の中で「頑張って」と言った。

 

 ついに、その時が来た。ゲートの中で、フラワーパークは静かに目を閉じる。深呼吸を一つして、落ち着いた。初めてのG1レース。ウイナーさんが見に来てくれている。ゼファーさんが応援してくれる。それだけで、勇気が沸いてくる気がした。

 ちらり、と横を見る。ナリタブライアンは、堂々としているように見えた。流石に幾度も修羅場を戦ってきた、古強者だと思う。それでも、この距離の大レースは初めての筈だ。ならば、負けない。負ける訳にはいかない。ファンファーレが鳴り、そして、ゲートが開く。

《さあゲートが開いたァ!》

 実況アナウンサーの声は、今のフラワーパークの耳には入らない。好スタートを切れた。その勢いのまま、一気に先頭に立つ。するりと外側を通ったスリーコースに抜かれるが、問題はない。短距離の強豪、ビコーペガサスとヒシアケボノはすぐ後ろにいるだろう。ナリタブライアンは、何処にいるのかすぐには分からない。

「ブライアンちゃん、後方ね」

 双眼鏡で見ながら、シービーが言う。その横にいる茶髪のウマ娘が、ビジョンを見ながら呟いた。

「ブライアン以外の人気どころは、皆前の方ね」

「スプリントレースは、一つのミスが命取り。今の所大きなミスはない、と思うが」

 ゼファーがそう言うと、その茶髪の少女がうんうん、と頷く。

「私も一応、短距離勝ってるからね、分かる分かる」

「ジュニアのG2っすよね」

「良いじゃんかー、勝ちは勝ちだよ、ゼファーちゃん」

 そんな事を言っている間に、既にレースは半分を過ぎた。一二〇〇メートルは余りにも短い。一分少々で決着はつく。

「どう、専門家?」

 シービーがそう問う。ウイナーは目を細めて、そして呟いた。

「行けるよ。フラワー」

 その時、先頭が最後の直線に突っ込んできた。先頭はフラワーパークに変わっている。二番手にヒシアケボノ、スリーコース、さらにビコーペガサスらが続く。ナリタブライアンは、まだ後方だ。

「先頭で、逃げ切れるかな」

「逃げ切れるさ。あの子はね、中々根性あるんだよ」

 フラワーパークは先頭を逃げる。ヒシアケボノとビコーペガサスがフラワーパークを捕まえようと追い込んできた。あと少し、あと少しで、勝てる。

「くっ……! 負けるかーッ!!」

 あと少しで、初代女王の座が手に入る。ウイナーさんに、恩返しができる。自分の時代を、引き寄せられる。

 その後ろで、ナリタブライアンはもがいていた。周りが早過ぎる。信じられない速度だと思った。彼女の体には、長距離の走りが染みついていた。頭では分かっていても、体が勝手に必要以上に体力をセーブしようとしてしまっていた。

「ぐ……早い……!」

 それでも、本気の全力疾走の速さ自体では、負けていなかった。残り二百メートルをきろうとする頃、四番手にまで上がってくる。この時の速度だけなら、ヒシアケボノやビコーペガサスにも負けない速度は出ているだろう、と思った。現に何人ものウマ娘を追い抜き、ここまでは上がって来れたのだ。しかし、それでは駄目だ。それでは、捉えられない。舐めていた訳では無かった。しかし、思い知らされた。自分は、ここでは怪物足りえない。完敗だと思った。

《ビコーペガサス突っ込んだ、先頭はフラワーパーク、フラワーパーク! やっと来たナリタブライアン、今四番手に上がって直線差してくるがダメ! フラワーパーク、フラワーパーク!》

「よっしゃぁっ!!」

 ゼファーが、叫んだ。ヤマニングローバルが、手を叩いた。シービーが、口笛を吹いた。そして、ウイナーは静かに、手をグッと握りしめた。二着にビコーペガサス、三着にヒシアケボノ、四着ナリタブライアン。結果的に、三冠ウマ娘ナリタブライアンはスプリントの精鋭達に屈する形となった。

「……見事、だった。フラワーパーク」

 ナリタブライアンにそう話しかけられて、フラワーパークは思わず飛び上がった。勝ったとはいえ、相手は自分より遥かに実績を積んだウマ娘だ。

「あ、ああ、ありがとうございます!」

「完敗だ。舐めていた訳では無いが……凄いな、お前達は」

「……私達の、庭、ですから」

 フラワーパークはそう言って、にこりと笑う。

「私が、三〇〇〇メートルで戦えば、多分相手にもなりません。そこは、貴方の庭ですから。でも、ここは私達の場所なんです。だから、貴方にだって、負けないつもりで走りましたから」

「……そうだな。ありがとう、素晴らしいレースだった」

 そう言って、ナリタブライアンはレース場から出ていく。四着の彼女は、ウイニングライブにも参加する事なく去っていく。そして、これが彼女の最後のレースになってしまった。だがそれは、この時点では誰も予想だにしない事だった。

 フラワーパークは、これが初のG1制覇となる。レースを終え、報道陣に囲まれる彼女は満面の笑みを浮かべていた。

「フラワーパークさん、今、誰に感謝を伝えたいですか」

 そう問われ、彼女はすぐに応える。

「両親と、ケガをした私を支えてくれたトレーナーさん達と。そして私に戦い方を教えてくれた、ニホンピロウイナーさんや、ヤマニンゼファーさんに」




 96年の高松宮杯、やはり一番の注目はナリタブライアンの出走だったと思います。ケガ以降G1を勝てていない三冠馬が、何故か全く畑違いの短距離G1に出走というのは、注目されて当然だったでしょう。そしてそのレースを勝ったのは、ミスターシービーと同じ年に生まれ、ルドルフに食い下がり、そしてマイル以下のレースの価値を大いに高める事に貢献したニホンピロウイナーの娘、というのは実にロマンを感じます。
 最初はフラワーパークと二ホンピロウイナーだけのつもりだったのですが、テイオーと同い年でビワハヤヒデに年度代表馬争いで敗れたヤマニンゼファーがいたなと思い、さらに「ヤマニン」と言えばシービーの息子であり、三冠馬になっていたかもしれないと言われるヤマニングローバルがいたな……と後から後から出したい馬達、もといウマ娘達が増えてしまいました。
 次やるとしたらどうでしょうね。個人的にはメイセイオペラなどドラマチックだと思いますが、ただ彼(もとい彼女)だとプロジェクトXの影響を受けてしまいそうですし。ダイタクヤマトも面白いと思うのですが、出さなきゃならないヘリオスの性格がまだ掴み切れないですしね。


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誇りの歌――メイセイオペラ――

 今回はメイセイオペラです。JRAの『the LEGEND』でCMになったり、『プロジェクトX』で取り上げられたりと結構注目度が高い馬かなぁと思いますね。私が最も好きな97世代の一頭でもありますね。
 好きな馬ですし、話自体は物凄く作りやすいだろうなと思っていたのですが、如何せん自分が書いたら『プロジェクトX』をなぞる様な感じになってしまいそうと思い書かずにいました。ただ、あちらは「都会で夢破れた人」に焦点が当たっていたので、それならばトウケイニセイやアブクマポーロらを中心に「馬」だけで回せば大丈夫かなと。今回もとっちらかりましたが、よろしくお願いいたします。


 その時、私は初めて、悔しさに泣いた。目の前で起きた事を、受け入れきれないでいた。私だけではなかったと思う。周りの人達も、茫然としていた。

《トウケイニセイは伸びない、トウケイニセイは伸びない。二番手ヨシノキングが内、差し返してライブリマウント、ヨシノキング、並んでゴールイン》

 アナウンサーのその声も、頭の中をすっと抜けていくようだった。余りにも、衝撃が大きすぎた。トウケイニセイ、『岩手の怪物』が、負けた。

「やっぱり、中央とじゃレベルの違いが」

 誰かがそう呟く声が聞こえた。レースを終えた面々が、引き返してくる。一位のライブリマウントは、競技場の異様な雰囲気に戸惑っている様だった。それはそうだろう。ここに押し寄せた人々は、皆地元の英雄が意地を見せるシーンを望んでいたのだ。しかし、現実は非情だった。中央から来たライブリマウントが、地方の誇りを打ち砕いて行った。

 トウケイニセイが、引き揚げてきた。その表情は暗い。トレーナー達に囲まれて、固い表情をしていた。思わず、私は声をかけていた。

「トウケイニセイさん!」

 彼女は無言で、しかし私の方を見た。

「あの……私、私……」

「貴女、トレセン学園には、もう入っているの?」

「え……は、はい! 今、一年生で」

 そう言って、私は一度唾をのみ込んだ。そして、一気に言った。

「私、私! きっと、きっと……中央のウマ娘にも、勝ってみせますから!」

「……そう」

 そう言うと、彼女がゆっくりと私に近づいてくる。そして、静かに髪を撫でてくれた。

「期待してるわ。貴女……名前は?」

「……メイセイ、オペラです」

「そう。……期待しているわ」

 そう言って、彼女は去っていった。私はしばらく、そこで立ち尽くしていた。その日、私の運命は決まったのかもしれなかった。

 

 トゥインクルシリーズ。中央トレセン学園に所属するウマ娘達によって行われる、華々しいエンターテインメントイベント。彼女達は基本的には東京、大阪、京都などで大レースを戦いつつ、地方の競馬場でも興行を行う。多くのファンが押しかける、一大イベントだ。

 それに対して、中央に所属しないウマ娘達は「地方所属」と呼ばれた。一時は地域のファンんに支えられ賑わっていたが、近年は不振にあえいでいる場所も多い。中央で活躍できずに地方に下ってくるウマ娘も多く、格で言えば明確に下の立場だと言えた。それでも、時には中央と互角以上の戦いを見せる英雄が現れる。その才能を嘱望され中央へ移籍、トゥインクルシリーズそのものの価値を世間に認めさせたとさえ言われるハイセイコー。世界と戦う舞台、ジャパンカップにおいて外国ウマ娘や中央の強豪達を押さえて『皇帝』シンボリルドルフにあと一歩と迫ったロツキータイガー。大井の暴れ者として名を馳せたイナリワン。そして笠松のシンデレラ、『芦毛の怪物』オグリキャップ。地方には、地方の誇りがあった。

 しかし、その誇りは打ち砕かれた。中央と地方の交流が本格化した年、中央より地方に挑戦状を叩きつけたライブリマウントが帝王賞、ブリーダーズゴールドカップを連勝。多くの地方所属の強豪を倒してみせた。地方所属ウマ娘やそのファンにとって、残された最後の希望は『岩手の怪物』トウケイニセイだった。

 彼女は全国的な知名度は決して高くは無かった。ほとんどのキャリアは岩手でのものであり、中央への注目度が圧倒的に高い状況にあって彼女はほとんど注目されてこなかったのだ。その上デビュー戦を勝利した直後、ケガによりいきなり長期療養に入らざるを得なくなる。しかしその強さは本物だった。復帰後は圧倒的な成績で勝ち続け、数多くのタイトルを制覇。ライバルはモリユウプリンスただ一人という状況で、いつしか彼女は『岩手の怪物』『魔王』と呼ばれるまでになった。彼女は岩手の、地方の誇りを掛けてライブリマウントと南部杯で激突する。しかし、その結末は残酷だった。ライブリマウントは直線で抜け出す。何とか食らいついたのはヨシノキング。トウケイニセイ、モリユウプリンスは二人から遠く離された。完敗と言っていい、三着敗戦だった。この時、既にトウケイニセイは全盛期を過ぎていたという側面はある。それでも、結果は結果だ。彼女はその結末を受け入れるしかなかった。水沢競技場は、シンと静まり返った。彼女はその後引退レースを勝ち、現役を引退する。そして地方は、完全に中央に敗北した形となった。ライブリマウント以外にも、エンプレス杯ではエリザベス女王杯以来不振にあえいでいたホクトベガが『南関東最強』アクアライデン以下を圧倒し勝利、逆に地方から中央へと向かった者達もライデンリーダーが桜花賞トライアルを劇勝した以外は苦戦、ライデンリーダーもG1には届かず敗退した。

 更に翌年、今度はエンプレス杯圧勝のホクトベガが時代を作る。誰も彼女の相手にならず、完敗を続けた。その後コンサートボーイらが地方G1を制しある程度復権は果たすものの、中央の壁は高かった。中央G1を制する者は未だ出ず。しかし、その期待を背負う者はいた。南関東最強の、アブクマポーロである。コンサートボーイとの初戦では彼女に敗れるものの、再戦で圧勝。翌年には多くの大レースを制覇し、中央地方を問わず多くの挑戦者を相手に圧倒的な走りをしてみせた。そして、その彼女が迎えた帝王賞。そこに挑む、一人の『岩手の怪物の再来』がいた。

 

 緊張は、していた。G1の経験自体はある。まだ勝ててはいないけれど、良くなっている自信はあった。いつの間にか、人から『岩手の怪物の再来』と言われるようになった。あのトウケイニセイと同じだけの素質と見られているという事だ、と思う。それは、光栄な事だった。

 あの日。憧れ続けていた人が、敗れる姿を見た。それ以来、中央のウマ娘達に勝って、地方の強さを見せつけるのが私の夢になった。いずれ、中央のG1に勝つ。それが、今の目標。その為に、そして『岩手の怪物』の名を継ぐ者として、ここで負ける訳にはいかないと思った。先の川崎記念。南関東のアブクマポーロの前に、四着と完敗。二着テイエムメガトン、三着トーヨーシアトルは共に大レースを制した事もある名選手だった。敗れても仕方のない相手ではあったのかもしれない。しかし、そう思いたくは無かった。

 緊張しながら、パドックを出てゲートに向かう。その途中で声を掛けられた。南関東の、アブクマポーロだった。

「あんた、川崎でも会ったよね」

「え、はい」

「……緊張してるね。まだG1級を勝った事は無かったんだっけ。まぁ、無理もないと思うけど」

 そう言って、彼女は軽く肩を叩いてきた。

「あんたとの試合は、楽しみだったんだよね」

「え……?」

「私、今は南関東じゃエースでさ。去年ここでコンサートボーイさんに負けて、そしてその後に勝って。去年取れなかったこのレースは、今年こそ頂く。南関東のエースとしてね。だから、あんたにも負けたくないの。あんたが岩手を背負ってるから」

「……私だって」

 思わず、叫んでいた。

「私だって、負けたくないです! 私は……私は、あの人の仇を取らないといけないから」

「あの人……?」

 彼女は一瞬怪訝な顔をした。そして、はたと思い至ったようだった。

「そっか。……なるほどね。じゃあ、ますますあんたには負けられない」

 そう言って、彼女はくるりと背中を向けた。

「コンサートボーイさん、戦えなかったからね。当然、私も。走ってみたかったなぁ。岩手の魔王、か」

「私じゃ、不満でしょうけど」

「フフ……そう、かもね。でも、楽しみなのは事実よ。あんた、『再来』なんでしょ?」

 そう言って、彼女は歩き出す。私も、出口へと向かった。

「見せてあげるわ。南関東の強さを」

「示して見せます。岩手の魂を」

 そう言い合って、私達はゲートに入る。中央の強豪バトルライン、トーヨーシアトルらも顔を揃えた。

《さあ一番人気はアブクマポーロ、満を持しての、今年の帝王賞です!》

 実況が言う。ゲートが、開いた。一斉に十三人が飛び出す。私は一気に先頭に飛び出した。逃げる形で、全体を引っ張る。アブクマポーロは最初は三番手にいたがすっと下がっていった。バトルラインが三番手に上がる、トーヨーシアトルとアブクマポーロの姿は見えない。そのまま私は先頭を維持してレースを進める。今の時点で一位でも、それ自体に大した価値は無い。最後の直線が勝負。逃げる形の私は、道中はペースを落としてスタミナを残しつつ、最後の直線で再度突き放す形をとりたい。

「行ける……行けるッ!」

 最後の直線。私はまだ先頭、最後の力を振り絞る。誰も抜いてこない。

《メイセイオペラ、メイセイオペラ、トーヨーシアトル、トーヨーシアトル、内を突いて、内を突いてバトルラインも伸びてくる!》

 勝てるかも、と一瞬思った。しかし。背筋に、ゾッとした感覚が走る。そして。

「お先に」

 不意に、耳元で言われた。声のした方を見ると、アブクマポーロが涼しい顔をして一気に駆け抜けていった。途轍もない加速だった。私はもう、今以上に早くは走れない。やがてバトルラインが私の左側を通って抜けていく。

《さあ抜け出した、さあ抜け出した、アブクマポーロだ、アブクマポーロだ! アブクマポーロです、アブクマポーロです、二番手争いは、バトルラインか、アブクマポーロ! アブクマポーローッ!! アブクマポーロ、永遠にその名を刻んだ、アブクマポーロ!》

 私は何とか彼女に食らいつき、三着でゴールした。結果としては上々と言えるかもしれなかったが、私はショックで茫然としていた。また、負けた。完敗だった。

「そんな……」

「お疲れ様。……ちょっと、焦りすぎてたかな」

 彼女はそう言って、にこりと笑うとスタンドに近づいていく。大歓声に応える彼女を、私は見つめる事しかできなかった。

「く……う……!」

 悔しさに口が歪む。前回、川崎記念で敗れた時よりは、その差は縮まっている。それでも、負けは負けだ。俯いたまま、私はレース場を後にする。トレーナーが、声をかけてくれた。

「大丈夫か? よく頑張ったよ、三着は立派だ」

「……でも、負けは負け、です」

「まあ、そうだな。負けは負けだ。でも、これで終わりって訳でもない。リベンジの機会はあるさ」

「……はい」

 私は絞り出すようにそう言った。リベンジの機会はある。その言葉を信じるしかなかった。そして、その機会は本当にやってきた。同じ年の南部杯。盛岡レース場での大一番だ。マイル戦、ダート1600mのレースに、アブクマポーロが遠征してきた。そのレースに、私もエントリーしていた。

「また会ったね。今度はあんたのホームだ」

「……アブクマポーロさん。貴方に……勝ちます」

「良いね。私、今年はまだ負け無しなんだ。止められるなら、止めて御覧よ」

 彼女は自信たっぷりにそう言った。私達は静かにゲートに入り、そしてレースが始まる。私は三枠の利を生かして内から一気に先頭に出る。まずは良し。肝心なのは、最後の直線だ。テセウスフリーゼが並びかけてくるが、まだリードは取っている。最後の直線、私は完全に他を突き放した感覚があった。アブクマポーロも、中央のタイキシャーロックやバトルラインも並びかけてくる気配はない。後、二〇〇メートル。行ける、と思った。あの時に感じた感覚は無い。彼女の気配は、ない。

《メイセイオペラがリード、メイセイオペラ、メイセイオペラが先頭、二〇〇を通過、メイセイオペラがリード、バトルラインが突っ込んできた、バトルラインが突っ込んでくる、ぐんぐんとタイキシャーロック、追い込んでくるタイキシャーロック。大外からはアブクマポーロ、二番手争いアブクマポーロ、メイセイオペラ、メイセイオペラ、ゴールイン! メイセイオペラ勝ちました! メイセイオペラが勝ちました!》

「よしッ!」

 ゴールの瞬間、思わず叫んでいた。後続とは三バ身離れた、快勝だった。二着はタイキシャーロック、アブクマポーロはハナ差の三着だった。これが、私のG1初勝利。四度目の挑戦で掴んだタイトルだった。お客さん達は皆、私に拍手を送ってくれている。それが嬉しかった。やっと期待に応えられた、と思った。

「おめでとう。いやー、負けたよ」

 アブクマポーロが、そう声をかけてきた。その声色は、レース前と変わっていないように聞こえる。

「……はい。私の勝ちです。やっと、貴方に勝てました」

「やー、マイルも私苦手じゃないと思ってたんだけどね。良いレースだったよ。強かったね、あんた」

 そう言って、彼女はくるりと背を向ける。その時、ほんの少し、彼女の肩が震えている様に見えた。

「あの……」

「次はどうすんだい? やっぱり大井の大賞典?」

「……ええ。一戦挟んで、向かおうと思っています。今度は、二〇〇〇で、関東であなたに勝ちます」

「そいつぁ、いいや。楽しみに待ってるよ」

 そう言って、彼女は去って行った。その後私は盛岡のレースを勝ち、東京大賞典に向かう。そこにはアブクマポーロ、そして彼女の先輩コンサートボーイ、かつてライブリマウントとも戦ったアマゾンオペラらがいた。私はそのレースは二番手に控えたが、追い込んでくるアブクマポーロに一気に躱されて二着に終わる。結局、二〇〇〇メートルでは彼女に勝てない。そう思いながら歩いていると、トレーナーに声をかけられた。

「お疲れ様。残念だったな」

「……トレーナー。私、本当に『岩手の怪物』なんて呼ばれて、いいんでしょうか」

「ん?」

「トレーナー、トウケイニセイさんの事も、よくご存じですよね。私は、どうなんですか。あの人と、較べて」

「……ま、はっきり言ってしまえば、まだまだお前は彼女の域には届いていないと思ってる。大分、良くなってきたがな」

 彼はそう言って、ぽんと頭を撫でてくれた。

「でも、彼女はもう走らない。あれ以上には行けない。お前はまだ上に行ける」

「……はい」

 私は、まだ上に行ける。トレーナーがそう言ってくれるなら、それを信じる事にした。

 そして、年が明けて。私の次走をどうするか、トレーナーと話し合う事になった。第一の候補は川崎記念。そしてもう一つは、フェブラリーステークス。川崎記念は去年、四着に敗れている。そしてフェブラリーステークスは、中央G1制覇を目指すという私の夢に合致する。

「どうする? アブクマポーロは、どうやら川崎に出てくるらしいが」

「……少し、考えさせて下さい」

 私はそう言って、一度トレーナーと別れる。迷っていた。私の目標は、中央G1を勝つ事だった筈だ。しかし、アブクマポーロにリベンジしたい気持ちもある。どうしたら良いのか、分からなかった。その時、トレーナーが走ってきた。

「おい、オペラ。電話だ」

「え……? 誰からです」

「アブクマポーロ、だ」

「え?」

 驚いて、電話台に向かう。出ると、確かに電話口からアブクマポーロの声が聞こえた。

《あー、もしもし? あんたの連絡先知らないからさ、トレセンにかけるしかなかったんだけど、良かった、捕まって》

「ど、どうしたんですか……?」

《あのね。私、今度川崎記念に出るのよね。知ってるかもだけど》

「え、ええ。そう聞きました」

《……あんた、川崎記念に来る?》

 そう言われ、私は思わず怪訝な表情になる。なぜ彼女が、それを聞こうとしてくるのか分からなかった。

「それを聞いて、どうするんです」

《……私の、希望を言っても良い?》

「え? ……はい」

《あんたには、フェブラリーステークスに行って欲しいのよね》

「ど、どうして」

《……あんたなら、中央の連中に一泡吹かせてくれそうだからさ》

 彼女はそう言うと、ふふと笑った。

《川崎記念にも、多分中央連中は何人か来るだろ。そいつらは私が返り討ちにしてやる。あんたは、フェブラリーで中央連中に一泡吹かせてくれよ》

「私に、それができる、と?」

《できるよ、あんたなら。だって、私去年、あんたにしか負けてないんだよ?》

「あ……」

《あのレースのあんたと、タイキシャーロックだけが去年、私の前にいた。タイキシャーロックとはハナ差だからね、惜しいと思えるけど。あんたには完敗だった。二〇〇〇なら、負ける気しないけどね》

「……言ってくれますね。貴方にはいつか、また借りを返しに行きますから」

《『いつか、また』って、事は、決まりだね》

「……ええ」

 心は、決まった。横で私と彼女の話を聞いていたトレーナーが、表情を動かした。

「私、フェブラリーステークスに行きます」

《よっしゃ。楽しみにしてるよ。なぁに、気楽に行きな。あんたが負けてもまだ二番手が負けただけだ、私がいるからね》

「御心配に及ばず。貴方の出番はないですよ」

《フフ……その意気、その意気。じゃ、頑張って》

 そう言って、彼女は電話を切った。私は受話器を置き、トレーナーの方に向き直る。

「良いんだな、それで」

「はい。私、行きます」

 よっしゃ、と言ってトレーナーは書類を取りに出ていく。心は決まった。後は、練習あるのみ。見せつけてやる。岩手の、地方の底力を。

 

 フェブラリーステークス。毎年最初に行われる中央G1、砂のマイル戦。過去一五回の開催で、歴代王者の中にはあのライブリマウントもいる。そして当然、全員が中央所属のウマ娘。

「だが、勝つ道はある、と俺は思っている」

 トレーナーは力強くそう言ってくれた。

「去年の優勝者はグルメフロンティア、お前は彼女に東京大賞典で先着してる。そして、出走面子が確定したんだが」

 そう言って、彼は出走表を私に差し出す。

「ダートで実績のある面子、という点では、去年二着のメイショウモトナリ、四着のワシントンカラーや武蔵野ステークス勝ちのエムアイブラン、そのエムアイブランに前走で勝ったオースミジェットあたりがいる。バトルライン、タイキシャーロックもいるな。だがお前は南部で勝った。桜花賞勝ちのキョウエイマーチはダートの経験は薄い。マチカネワラウカドあたりも油断はできんだろうし、大ベテランのミスタートウジン、ドージマムテキなんてのもいる」

「中々凄いメンバーに見えますが……」

「だが、お前だってそうだ。G1制覇の経験がある者はお前以外じゃキョウエイマーチだけだぞ。しかも彼女のG1は距離こそ一緒だが芝の桜花賞だ。お前はダートの一六〇〇のG1を勝ってる。大丈夫さ。お前は、今や岩手一のウマ娘なんだ」

「……はい!」

 力強く、そう言った。不安がない訳では無い。それでも、それは心の奥底に押し込む事にした。私達は練習と対戦相手の分析に励み、そして当日を迎える。

 その日、既に私は東京入りしていた。緊張は、していた。それでも自分に気合を入れて、勝負服に着替える。パドックに出ると、思った以上の人の数に気圧されそうになった。それでも、胸を張る。ここで怖気ついでしまえば、岩手が舐められる。そう思った。

「あれが、メイセイオペラか」

「なんか凄いらしいじゃん。地方じゃかなりの成績だって」

「でも、この前の東京大賞典はアブクマポーロに負けたんだろ?」

「でも一六〇〇の南部じゃ勝ってるんじゃなかったか」

 色々な声が聞こえてくる。私は緊張しながらも、何とか無事にお披露目を終えた。いよいよ、レースが始まる。体が固くなっているのを感じた。感じた事の無い重圧だった。無様な負けだけはできない。そう思うと、心臓が締め付けられるようだった。その時、不意に後ろから声をかけられた。

「あの……」

「ひゃい!?」

 思わず声が裏返る。振り向くと、そこにいたのはすらりとした短髪のウマ娘だった。頭には桃色のヘアバンドをつけている。誰かは分からなかったが、可愛らしい人だと思った。そして、静かな迫力を湛えていた。

「えっと、メイセイオペラさん、ですよね」

「は、はい。あの、ごめんなさい、貴方は……?」

「え、えっと。私、キョウエイマーチです。さっき、パドックで二つ前に出た」

「あ……」

 一応、今日一緒に走る面々の顔は、パドックでのお披露目前に一度は見ていた筈だ。そしてパドックでは名前も出ていた。それなのに、記憶に無かった。どれだけ緊張していたのだろうか、と思う。

「ご、ごめんなさい! 私、緊張してて……」

「い、いえ、ごめんなさい。私の方こそ、いきなり。あの、私、あんまり知ってる子いなくて……」

「え、そうなんですか?」

「バトルラインさんは大分前にあっただけで、先輩ですし……ビッグサンデーちゃんは、先日会ったところですが……」

「は、はぁ……。あの、なんでそれで、私に?」

「その、ちょっと、緊張していて。それで、お話しできたらなぁって。それに、同い年ですし」

 そう言って、彼女はにこりと笑った。その微笑みに、吸い込まれそうになる。中央のスターは、これだけ人を惹きつける力があるのかと思った。

「お、同い年なんですね。ごめんなさい、私、中央の事はあまり……」

「いえいえ。私、最近あまり勝ててませんから。最後に勝ったのは……ローズステークス、か」

「それ、って、G1ではないですよね」

「はい。2ですね。同級生が皆凄くって……クラシックはドーベルちゃんが強いし、マイル戦線に行ったらシャトルちゃんやパールちゃんがいて……。オペラさんも、凄く強いライバルの方がいらっしゃるって」

「そうですね……南関東の先輩のアブクマポーロさんに、2000ではどうしても勝てなくて……地元の南部杯では勝てましたけど……」

 そんな事を言い合いながら、私達はレース場に出る。広い、と思った。そしてお客さんの数も多い。その迫力に、気圧されそうになる。

「す、凄いですね」

「ここは地方競技場より、直線も長いですから。そこは気を付けないと、ですよ」

 そう言って、彼女はゲートに向かう。そして、彼女はぼそりと呟いた。

「ダートのマイルは初めてだからなぁ……ダート自体久しぶりだし」

「え……?」

「デビューはダートだったんですけど。三戦目が最後で、それからずっと芝でした。あ、私以外にはちゃんとダートのスペシャリストが揃ってますよ。だから油断は駄目です」

「ゆ、油断はするつもりはないですけど」

「でも、実績ならオペラさんが一番だと思いますよ」

 そう言って、彼女は自分の枠に入った。彼女は七番、私は九番だ。彼女のおかげで、大分緊張は解けてきた。優しい人なんだな、と思う。しかし、勝負は勝負だ。彼女だろうが誰だろうが、勝ち切る。ファンファーレが鳴る。そしてゲートが、空いた。全員が飛び出す。私の勝ち方は、前の方に付けてレースを進め、最後の直線で先頭を躱して一着を狙うやり方だ。スタートは大事になる。しかし、私は一瞬出遅れてしまった。まだ少し体に固さがあったのか。しかし、致命的なミスではないだろうと思った。しかし、そう思った私の前を、猛烈な勢いで走り出ていく影があった。

《さあキョウエイマーチ、ビッグサンデー! 芝で活躍の両者が行く格好になりました!》

 速い、と思った。先程までの可憐な少女の姿はそこにはない。背筋が凍るような走りだった。このコースは最初の一〇〇メートル部分だけは芝コースになっている。言うなれば彼女の庭だろう。ダートは久しぶり、という事は芝を中心に走っていたという事だ。そこまで思って、そして思い出した。トレーナーが言っていた。確か、私以外で唯一G1を勝っているウマ娘。私でも知っているG1、クラシックの一つ桜花賞を勝ったウマ娘の名前は。

「キョウエイマーチ、さん……!」

 そうか、彼女が。そんな事を思いながら、私はコーナーを曲がる。私は今五番手の位置につけている。一番人気のワシントンカラーはすぐ後ろ、すぐ横には帝王賞で先着されたバトルラインがいる。

「よう、どうだい中央は」

 不意に、そう声をかけられた。

「広いし、大きいですね。……でも、やる事は一つです!」

「そうさな……ただ、こっちにも意地があるんでね!」

 彼女は叫び、足に力を入れる。私もペースを合わせた。並んで、コーナーを曲がる。先頭のキョウエイマーチの背が、近づいてきた。少し苦しそうな顔に見える。ダートは芝に比べてパワーがいる。しなやかな彼女の勢いは、やはり芝の方が生きるのだろう。それでも、彼女は予想以上に粘った。私も全力で駆け上がるが、中々捉えきれない。この勝負根性が、桜の栄冠に繋がったのだろうと思った。それでも、私だって負けられない。ライブリマウントに誇りが砕かれ、ホクトベガに手も足も出なかった。だが、今の私なら、中央だろうと。

《メイセイオペラ先頭か、キョウエイマーチ頑張った!》

「く……」

「行けるッ……行くッ……!」

 砂を蹴る。背中に、岩手の人達の期待を感じた。テレビで、会場で、きっと私を見てくれている。そして、あの二人も、きっと。

「ニセイさん……ポーロさん……私、絶対に、勝ちますからッ!」

 歯を食いしばる。キョウエイマーチを完全に追い抜いた。後ろからは誰も来ない。背筋に走る感覚はない。ゴール板が、見えた。直線をとにかく長く感じる。しかし、それもあと少し。届く。届く。

《完全に、抜け出したのはメイセイオペラ、メイセイオペラやりました!! 歴史に名を刻んだのはメイセイオペラ!! 初めて地方所属のウマ娘が、中央のG1を制しました! メイセイオペラが決めました!!》

 その瞬間、私は思わず叫んでいた。拳を握り、減速し、そして大きくガッツポーズして、もう一度叫んだ。観客席から、オペラ、オペラとコールが聞こえた。

「やった……やった……!!!」

「……おめでとう。凄かった、ですね」

 そう、声をかけられた。横を見ると、キョウエイマーチが汗を滴らせながら立っていた。

「やっぱり、足取られちゃったかな……ペースは良かったと思うんですけど、粘り切れませんでした」

「いえ、凄かったです……流石ですね」

「じゃ、行きましょうか。確定後に勝利者インタビューがありますよ」

 そう言って、彼女が手で指し示す。私達は並んで歩いて、まず控室に入った。そして順位が確定すると、控室を出た私の周りにマスコミの人達が集まってくる。

「中央G1優勝、おめでとうございます、今の気分は」

「最高に嬉しいです。落ち着いてレースができて、良かったです」

 そう言った私を、シャッター音が包む。

「岩手の皆様、見てらっしゃると思います。何か一言」

「はい、あの、皆様の応援のおかげで、こういう結果になったと思います。本当に、ありがとうございました! これからも、応援よろしくお願いします!」

 そう言った私に、別の記者から質問が飛んだ。

「これで、どうですか。今の国内ダートの頂点に立った、という事になるかと思うんですが、その辺りは」

「……そう、ですね」

 そうか。中央ダートのG1は、このフェブラリーステークスしかない。それに勝ったという事は、即ちそういう扱いになるという事なのだろう。しかし、それには釈然としない。思わず、言ってしまった。

「でも、あんまりそう思いませんね」

「え、そうですか」

「私、まだ二〇〇〇でアブクマポーロさんに勝てていないので。それなのに、頂点なんて言ってもおかしいですし」

 それに、と言ってにこりと笑う。これは、言っておきたいなと思った。地方の、意地として。

「私なんて、トウケイニセイさんに比べれば全然、まだまだですから。それを思ったら、そんな風にはとても」

 後日、私の言葉は驚きを持って迎えられた様だった。地方の強さは、はっきりと示された。地方から出てきた田舎娘が、中央のダートG1を持って行った。しかも、その彼女が負け続けている相手が一人いる。彼女が「全然、まだまだ」及ばないという相手がかつていたという。地方にはまだ怪物がいるのかもしれない。そんな風に、中央シリーズのファンが言っているのを聞くのは気持ちよかった。そして私は岩手に帰る。また水沢の、盛岡の、大井のレースが私を待っている。




 いかがでしたでしょうか。中央の敵としてキョウエイマーチを特にピックアップしたのは、元のレースの展開上彼女との先頭争いが一番の見どころだったかなと思う事です。勿論私自身がキョウエイマーチも大好きな事もありますが。
 メイセイオペラをもって、一旦書いてみたいなと思っている子は大体取り上げたかなぁと。ダイタクヤマトはダイタクヘリオスのキャラクターがまだはっきり分からないので書き辛いですしね。次は小ネタみたいな作品になるかなぁと思います。


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掌編 夢のVS

 アプリリリースが迫ってきましたね。実に楽しみです。
 『ウマ娘』の良い所は、全く違う世代の馬達が同じ時間軸で競い合える事にあると思います(その割にこのシリーズでは現実の時間軸準拠でやってますが)。マルゼンスキーとゴールドシップが同じ舞台に立てる、というのは凄い事だと思います。
 そこで、今回は「既にウマ娘になっている子」と「まだなっていない子で、なって欲しいなと思っている子」の組み合わせを五組、『夢のVS』としてプロレスの煽りVの感覚で作ってみました。アニメ二期の天皇賞春の「TM対決!」の盛り上がり方を見て、こういうのもあるんじゃなかろうかと。
 勿論なって欲しい、というのは山ほどいる訳ですが、今回は既存のウマ娘と夢の対決をして欲しい、という面子を選ばせて頂きました。
 これまでの作品とは全くのパラレルになります。本来なら新たに枠を作って投稿すべきかもしれませんが、このシリーズを続けるかは更に不透明なのでこの様な形をとりました。今後は「時系列無視の小ネタ作品」的なものは「掌編」としてあげる事があるかもしれません。


 時を超え、世代を超えて。あり得ない筈の、戦いが起こる。

 

「私は、世界もこの手にしてみせました。相手が誰であれ、勝ちますよ」

 青と白の勝負服に身を包んだ少女が、笑って言う。

「香港スプリント。今まで、多くの日本ウマ娘達が挑んで、挑んで、そして跳ね返されてきた。そんなレースを、勝ったんですよ。それも、二度続けてね」

 その顔には、自信がみなぎる。一度たりとも、彼女は三着より下に落ちた事はない。それ故か。

「勿論、あの人の事は、知っていますし。尊敬もしていますけれど。でも、超えていかなければ、どんどん滅びの道を行くだけです」

 そう言って、彼女は不敵に笑って見せた。

 

「へぇ……言いますね」

 彼女はそう言って、にこりと笑う。

「良いですよ。生意気な後輩を指導するのも、学級委員長の仕事ですから」

 桃色と白色の勝負服が、すらりとした少女の肢体を包んでいる。張り詰め、一切無駄のない美しいボディライン。

「私は……勝つだけ勝って、勝つべき戦いが残っていませんでした。でも、彼女なら、最速を競い合える。そう思います」

 桜色に輝く瞳は、ただただ己の行く先だけを見つめている。己の道を定めて以来、彼女の強さは揺るがない。

「海外に行きたいとは、あまり思いませんでしたね。国内の、私を応援してくれる人達の為に走りたかったので。それに、海外に出ていった、結果を出しただけで偉いって訳でもないでしょう。大事なのは、どれだけファンの方達の、心に残るか、じゃないですか。それが、私達の戦いです」

 

――二人の、王が。その魂をぶつけ合う。

 

「私が負けてしまったら、それは退化という事ですから。常に進化を続けていかないと」

「私は、いつも通りです。ファンの方達に喜んでもらう。驚いてもらう。その為に、驀進するだけですから」

 

――いざ。芝1200m、電撃の短距離戦。

 

「勝ちますよ。龍王の名に懸けて」

「負けません。桜の誇りに懸けて」

 

 メインレース。芝1200m、スプリント戦。

 “龍王”ロードカナロアVS“驀進王”サクラバクシンオー。

 

 

 

「あの娘には、感謝してるんだよ」

 「皇帝」は、ポツリとそう言った。

「私の頃には、到底考えられなかった年度代表ウマ娘に選ばれた。短距離路線だけを突き進んだ、あの娘がね」

 年度代表ウマ娘。毎年、たった一頭だけが選ばれる、栄誉。

「私はどれだけ頑張った所で、絶対に手が届く訳が無かった。私は、所詮落伍者だったからね」

 それでも、彼女の強さを疑う者はいない。黒髪を靡かせたその姿が、それまでの常識を打ち壊した。

「だから、あの娘は本当に凄いと思う。偉いと思う。……でもね」

 

「日本で、マイル戦の評価が低かった事は、知ってマース。でも、ワタシにはあんまり関係ナッシング! 元々、『そちら』には、行けませんでしたシ」

 美しい金髪を持つ、尾花栗毛のウマ娘は明るくそう言った。そこに、無念の色は無い。

「トレーナーさんにハ、10ハロンなら行ける、と言って貰いまシタ! でも、やっぱりワタシのベストは8ハロンデース」

 そして、彼女はこう言ってのけた。

「だからこそ、ワタシは日本でナンバーワンの短距離ウマ娘になれまシタ!」

 

「あの子は、本当に強い相手を知っているのかな。どうにもならない、と思わせてくれるような、相手を」

 彼女は、静かにそう言う。しかし、その言葉には重みがある。

「結局、勝ちってそんなに自分を成長させちゃくれないんだよ。負けて、負けて、絶望を乗り越えて。だから、私は強くなった。私の周りにはいたからね、化け物が」

 

「デモ、皆が言うんですよネ……確かに、タイキシャトルはストロング! ベリーファースト! でも……一人、あの人には、っテ」

 彼女は、そう言って一度目を閉じる。そして、その眼が再度見開かれた時。そこに、青い炎が宿る。

「それは……悔しいデース」

 

「だから、一度教えてあげたくてさ」

「だから、証明したいデス」

 

――「王道」から落伍し、抗った者と。

「本当の強さ、ってやつを」

 

――「王道」を戦えず、乗り越えた者。

「ワタシが、ストロンゲストだと」

 

 日本を冠する名を持つ、革命家か。アメリカ生まれ日本発の、世界王者か。

 メインレース。芝1600m、マイル戦。

 “世界を制したマイル王”タイキシャトルVS“マイルの皇帝”ニホンピロウイナー。

 

 

 

 彼女は、何故地方で戦うのか。そう問われ、彼女は笑顔で応える。

「だって、私はトップウマドル目指してますから」

 だから、仕事に手は抜かない。レースも、ライブも、何処であろうと。

「ガード下の路上ライブから始まって、色々なところでやってきました。今は本当に楽しいです。やってきて、良かったなぁって思いますから」

 

 中央シリーズと、地方シリーズ。そこには、埋めがたい差が存在する。

「まあ、設備も違うし、向こうで結果を残せなかった子が『都落ち』してくる事も多いしね。そこは、もう認めるしかないですよ」

 彼女は寂し気に、そう言う。しかし、だからこそ燃え上がる思いがある。

「でも、なんて事は無いって思いもありますよ。同じウマ娘ですから。というより、本音を言えばね。私のいないところで、よくやってくれたなと」

 そう言って、彼女はニヤリと笑う。“魔王”たる迫力を滲ませて。

 

「楽しみです。どんなレースでも、どんな仕事でも、楽しむ事にしていますから」

 対戦相手の名前を見ても、彼女はそう言ってのける。

「私が苦しい顔をしていたら、ファンの皆も苦しくなっちゃいます。だから」

 いつでも、笑顔で。結果が出なくても、誰より必死に、誰より目立つ。そうして積み上げてきたものがある。

 

「楽しむ余裕、なんてありませんでしたね。いつ爆発するか分からない爆弾を抱えて、何とかやってきたってのが実情ですから」

 デビュー直後、大怪我を負った。一年半の休養を挟み、復帰後も常に不安を抱えながら戦い続けた。

「だから、私も決して強いところでやり続けた訳でも無いので。重賞初挑戦も大分遅かったし。その意味では、あの子と似ているかも」

 

――中央の、意地と。

「私は、誰よりも輝く、トップウマドル目指してますから。勝って、センターでしっかり私の事を見て貰いたいです」

――地方の、誇りと。

「私に期待してくれる、人達がいるので。私一人のメンツじゃありませんから。何としても、勝ちますよ」

 

 いざ。砂塵舞うダート、2000m。

 “砂塵の逃亡者”スマートファルコンVS“岩手の魔王”トウケイニセイ

 

 

 

「やっと、戦えるなって。俺からすれば、逃げられた、って感じだからね」

 短髪の彼女は、そう言って不敵に笑む。

「はっきりさせてやろうってさ。俺は、俺なら、証明してやれる。短距離路線ウマ娘の、強さを」

 水色に赤いラインの勝負服。張り詰めた肉体。一切無駄のない、洗練された意匠と身体。

「それに、仇討ち、って面もあるからな。今度は逃げるんじゃねえぞ、テイオー」

 

「ボクは逃げたって訳じゃないんだけどなぁ……」

 そう言って、少女は口を尖らせる。一見すれば、無邪気そうな少女にしか見えない。しかし、その体には確かに、一流の者が持つ迫力が満ちている。

「ボクだって出たかったんだよ。秋の天皇賞で復帰して、って思ってたんだけどねー」

 しかし、その復帰は遅れた。結果的に、両者の対決は流れた。

「でも、ボクからすれば、別に彼女はそこまで特別な相手、でもないし」

 

「そうだろうよ。アイツからすれば、俺は雑魚も良い処だろうからな。相手にもしてねぇだろ、俺みたいな短距離ウマ娘」

 自嘲気味に彼女はそう言う。その姿が、彼女の「恩師」にダブる。

「でもな。はっきり言うぜ。それが、アイツの命とりよ。アイツは注目度の低い相手を軽く見過ぎる悪癖があるんでな」

 

「そういう訳じゃないんだけど……うーん……」

 そう言って、彼女は苦笑する。

「まあでも、確かにボクは、思わぬ相手に足元をすくわれる事は多かったな」

 それは、油断と言う訳では無い。ただ、彼女は常に頂点を見てきた。上を見過ぎて、下が疎かになっていた。

「その辺りが、ボクの弱さだったと思う。カイチョーは、四着以下になった事は無いから」

 

「おう、その会長さんを、追い詰めた人を知ってるか」

 その声色に、自信を漲らせて彼女は言う。

「あの人はな、皐月じゃブービーだった。でもな、日陰だった短距離路線で戦い続けて、俺達の道を拓いてくれた。そして、2000メートル、アイツらの土俵で、迫ってみせたんだ。俺達は、あの人になりたくて、あの人に憧れて、走り続けたんだ」

 だから、と彼女は続ける。

「あの人の仇を、取りたいんだ。あの人の無念を、晴らしたいんだ。俺は」

 

「2000mは、ボク達の場所だから。負けられないよね」

――“帝王”が、迎え撃つ。

「2000mだろうが、俺はもつ。見せてやる、俺達の迅さをな」

――風が、全てを吹き飛ばす。

 

「必ず」

「勝つ」

 

――そよ風、と呼ぶには強烈過ぎた。

――天才はいる、悔しいが。

 芝2000m。王道路線、最短距離。

 ヤマニンゼファーVSトウカイテイオー

 

 

 

 日本ウマ娘達の、夢を背負った少女がいる。

「アタシなら、勝てると思ってまシタ。勿論、相手も強いけど」

 アメリカから、日本にやってきた。それでも、彼女は日本の夢を背負って戦った。

「あと一歩で、手が届いたのに……そこは、残念デス。でも、アタシのレースを見て、盛り上がってくれたファンの人達がいるなら、満足デス。どうしたら皆が盛り上がってくれるか、が大事ですから」

 

「盛り上がってくれるかが大事、ね。まぁ、そこは賛成かな」

 黒髪を掻きあげながら、彼女は言う。

「ただ、あの子は何時もメインイベンターでしょ。私は、ずーっとジョバー(やられ役)だから」

 同期に、スーパースター。一つ下に、絶対王者。その中にあって、彼女は決して目立つ存在ではなかったかもしれない。

「でもね、知ってる? ジョバーって、実は実力者なんだよ。力がないと、ジョバーはやれない」

 彼女自身、G1を制している。そして、日本ウマ娘に初めての栄光を齎したウマ娘でもある。

 

「あの会長を、抑え込んだんですよネ。三冠ウマ娘を、二人も。世界の強豪達も。それは、凄いと思います」

 まだ、日本と世界に大きな壁があった時代。日本ウマ娘が惨敗を続けた、ジャパンカップ。それを、日本ウマ娘として最初に制した“エース”。

「それから、どんどんレベルアップして。アタシの時には、アタシとスぺちゃんとエアグルーヴ先輩で、上位独占できるまでに」

 そう言って、彼女は自信ありげに笑う。

「でも、一番はアタシデース!」

 

「凄いよね、あの子。国内じゃまぁ圧倒的な成績なんでしょ? 単純な実力なら、私より全然上だと思うよ」

 でもね、と彼女は自信あり気に言う。

「あの子が国内で唯一負けた一戦。あれ、負けた相手は……逃げる子でしょ? 逃げってね、魅力的よ? レース展開を上手く動かしてやれば、下剋上も結構できる。私はずっと好位からの差しだったけど、逃げでやっとG1であの子に勝てたし。それまで無敗だった、あの後輩にも土をつけたしね」

 

――世界に羽ばたいた者と。

「好位に着けて、差します。お客さんも盛り上がると思いマース!」

――日本の誇りを示した者。

「もう一度、見せたいなって。スターも、皇帝も、世界も置き去りにした“エース”の走りをね」

 

 舞台は芝、2400m。王道路線、最高潮。

 “ターフに舞う怪鳥”エルコンドルパサーVS“日本のエース”カツラギエース



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チャンピオン――クラシック83年世代と“皇帝”

 ウマ娘アプリ、リリースおめでとうございます! 嬉しい! めでたい!
 早速楽しませて頂いております、難しいけど!

 そしてそれに負けない程嬉しいのが、遂に公式HPにキャラクターとして「ミスターシービー」が登場いたしました。いやぁ嬉しい。一期アニメのキャラデザに一目ぼれしてから待ち望んでおりました。勿論元々のミスターシービーが大好きというのもあるのですが。早くミスターシービー育てたいな……。
 そういう訳で、ミスターシービーのラストランとなった85年春の天皇賞を元にした作品です。本作に登場するミスターシービーはデザインは一期アニメ準拠でそれ以外は妄想の産物ですので、悪しからずご了承ください。
 また、この作品はアリスの『チャンピオン』に強い影響を受けています。あの曲本当に大好きなのですよね。


「ねえ、カイチョー」

 一人の少女が、そう問いかける。静かなその部屋の中にいるのは、今はその少女と、もう一人。威厳を纏った、茶髪の女性。

「なんだ、テイオー」

「カイチョーが、さ。今まで出会ってきたウマ娘の中で……一番、凄いなって思ったのって、誰なの?」

「どうして、そんな事を?」

 その問いに、テイオーと呼ばれた少女は応える。

「ボクは、カイチョーに憧れてここに来た。ならカイチョ-にだって、そういう人がいるんじゃないかなって」

「それは、難しい質問だな。……一人、どうしても敵わないな、と思わされた相手なら、いたよ。ただ憧れ、とは少し違うな」

「誰なの?」

「お前も良く知っている名前だ」

 そう言って、彼女がテイオーに告げた名前は、彼女にとっては意外なものだった。

「え?」

 思わず、テイオーはそう訊き返していた。

「意外か?」

「うん。だって、カイチョーはあの人には負けてないでしょ? ボク、カイチョーの大レースは全部見てるから知ってるもん」

「確かに、私は彼女にレースで負けた事は無い。その意味では、お前の疑問は最もだろう。ただ、な……」

「ただ?」

「……私は、レースで勝つ事、強さを示す事が最も大切だと、思ってきた。金科玉条の如く」

 そう言って、彼女は立ち上がる。そして窓の外をみやりながら、呟いた。

「だが、それではあの人には、及ばなかった。……私には、どうやっても行けないところにあの人はいた」

「……?」

 テイオーは不思議そうな顔をして、それを聞いている。

「王者とはどうあるべきか。……私はずっと、それを考えているよ」

 そう、静かに彼女は――“皇帝”シンボリルドルフは言った。その脳裏に、長髪を靡かせた一人のウマ娘の姿を浮かべながら。

 

 彼女は、静かに脚に包帯を巻きつけていた。もうボロボロで、言う事を聞かなくなっている脚だ。本来なら、もう走るべきではないのかもしれない。それでも、走りたかった。それが、最後の義務だと思っていた。

「……入るよ」

 不意に、そう声をかけられた。何度も聞いてきた、彼女にとっては馴染みの声だ。

「良いよ。……来てくれたんだ、嬉しいね」

「ああ。あんたの、死に水を取りに来たよ」

 黒髪の女性はそう言って、どっかと彼女の横に座り込む。控室の長椅子に、二人。今までありそうで、なかった事だった。

「入れたんだ。もう、部外者なのに」

「無理言ってね。まぁ、皆分かってるからさ。入れてくれたんだよ、きっと」

 そう言って、彼女はふうと息を吐く。

「あんた、もうボロボロじゃないか。何でそうまでして、走る」

「……アタシを、見たいって言ってくれる人がいる。だから、かな」

「……晒し者になってもか」

「失礼な。晒し者なんてつもりはないよ。今日だってしっかり勝ってくるさ。アタシはトリプルクラウンだよ」

「……ッ!」

 不意に、入ってきた女が立ち上がった。拳を握り、目を怒らせて。

「だから、だからこそ言ってるの! あんた、あんたは、そんな姿を見せちゃいけないんだ! ボロボロになって、無惨にやられて、KOされて這いつくばる様なんて、見せちゃ……!」

「……どうして、そう思うの?」

「あんたは! ……私、達の。皆の、誇りなんだ……見たくないんだよ。あんなに強かったあんたが、誰もが目を奪われざるを得なかったあんたが、ガクガクの脚でよたよた走る所なんて、見たくないんだ!」

「アタシはさ。……三冠ウマ娘、なのよ。エース」

 そう言って、彼女は立ち上がる。

「日本史上初の、三冠ウマ娘同士の対決。二年連続で、三冠ウマ娘が生まれた、奇跡みたいなこの期間……ファンの人達が、どれだけワクワクしているか、貴方だって分かるでしょう」

「それは、分かるわよ。でも、もう十分でしょう! ジャパンカップと、有馬と。……十分よ。あんたは、もう十分夢を見せた。もう、休んでも」

「そうはいかない、わね。春の天皇賞、最高の舞台の一つ。ここでのレースを見せない訳にはいかないでしょ」

 そう言って、彼女は部屋を出ていく。ただ一人、その場に残された“エース”カツラギエースは、静かに立ち尽くす事しかできなかった。

 レース場は、熱気に包まれていた。春の天皇賞は、トゥインクルシリーズの中でも最高級のレースの一つ。それに加え、これまでG1の舞台で、二度戦ってきた二人の三冠ウマ娘、その三度目の対決。多くのファンが、詰めかけていた。

「今度も、ルドルフが勝つかね」

「盤石に強いからなぁ、ルドルフは……」

「いや、でも……」

 そんな声を聴きながら、腕を組んで静かにターフを睨むウマ娘が一人。

「えらく仏頂面じゃない、ピロウイナー」

「……リード。あんたどう思う? このレース、勝てると思う?」

「難しい、とは思うよ。ルドルフは強い。体調が万全でも、勝ち負けできるかって所だろうに」

「……そうね」

「でも、信じたい。でしょ? ……私も、あなたも」

「……そう、ね。私は結局、彼女の影を追っている。……私が惨敗して、遥か彼方に見えなくなった、あの影を」

「皆、そうなんじゃない?」

 そう言って、リード――“最後の八大競争覇者”リードホーユーは微笑む。

「私達、結局はあの子のファンなのよね。私達にとって、あの子は最大の壁で、そして一番のアイドルだった」

「その光の眩しさに……私は、耐えられなかったのかもね。だから、落ちた」

「でも、今は貴方も太陽よ、立派な」

「そう、なら嬉しい、がな……」

 そう言って、彼女は――“マイルの皇帝”ニホンピロウイナーは、静かに目を閉じた。

 ターフの上では、出走を待つウマ娘達が静かにウォーミングアップを行っている。そこに、あのウマ娘が現れた。歓声が、一際大きくなる。

「頑張れー!」

「一矢報いてやれ!」

「俺は信じてるぞ!」

 男の声。女の声。老いた声。若い声。その場にいる誰よりも、彼女は歓声を浴びている。観客だけではない。

「あ、あの! 私、サクラガイセンって言います」

「ああ、今四連勝中の! いやー、調子良いね」

「いえ、そんな。私、ずっと、一緒に走りたくて……」

「そっか、確か大レースは初めてだっけ? 同い年同士、よろしくね」

「おい、最近お前どうしたんや! らしくない走りしおって」

「いやぁ、相手が強いだけだって。そういうコバンだって、最近さっぱりじゃん。前は揃ってジャガーにやられたし」

「ぬかせェ! 今日こそはお前押さえて一着や!」

 そんな風に、彼女の周りには人が集まる。それが、理解できない者がいた。

「……何故。何故、これ程までに人を惹きつける」

 思わず、口に出して言っていた。彼女が、気が付いた。

「お、ルナちゃん! 今日もよろしくね!」

「……その呼び方は、やめて下さいと申し上げた筈です。会長」

「会長も無しだって。ルナちゃんが三冠取ってくれて、アタシは晴れて会長クビになったんだから」

「貴方が自分から出ていかれたのでしょう。本来なら、貴方が選手として引退なさるまでは私は副会長です」

「そんな固い事言いっこ無しだって。今日だって、一番人気はルナちゃんだもん。一番強いのが誰か、皆分かってるって事」

 そう、自分は誰にも負けない。誰よりも厳しく、自分を律し、鍛え続けてきた。そうして、結果がついてきた。無敗三冠。有馬記念制覇。そして、目の前にいるこのウマ娘とは、二回同じレースを走り、二度先着。格付けは済んだ、と言う人は多い。しかし。それでも。

「じゃ、頑張ろうね、お互い」

「……ええ」

 声援が送られるのは、彼女だ。人の輪の中心にいるのは、彼女だ。それが、不思議だった。悔しい、腹立たしいと言う感情ではない。ただ、不思議だった。強い者が、最も優れているのがこの世界の常識ではないのか。何故敗れた彼女に、人は声援を送る。若き“皇帝”シンボリルドルフは、まだその理由を理解できていなかった。

 

 二年前の、皐月賞。ニホンピロウイナーは、現実に打ちのめされた。脚の速さには自信があった。前回は六着に敗れてしまったが、本番で勝てばいいと思えた。しかし、現実は非情だった。全く前に動こうとしない脚。酸素不足で暗くなる視界。フラフラになりながら、完走するのが精一杯だった。その遥か彼方で、彼女は輝いていた。ゴール板を通り過ぎ、崩れる様に大地に倒れる。係員が、トレーナーが慌てて駆け寄ってきた。

「大丈夫か、ピロウイナー」

「……へい、き。で、も……わ、たし」

「無理して喋らなくていい。……俺の責任だ。お前のスピードとスタイルは、短距離向きだってのは思っていたのに」

「……わ、たし、は……」

 トレーナーに支えられながら、視界の隅に彼女の姿が映った。手を上げて、長髪を靡かせた彼女は、あまりにも眩しかった。涙が零れた。

「あんな風に……なれないんだ」

 それ以上、言葉にはならなかった。ただ声を上げて、泣く事しかできなかった。 

 日本ダービー。カツラギエースにとっては、格好の雪辱の舞台だと言えた。皐月賞では一気呵成に逃げを狙うも、不良バ場に脚を取られ十一着と不本意過ぎる結果に終わる。しかし、この日は違う。曇り空ではあるが、バ場は良。今度こそ、勝ち切ってみせる。そう誓ったダービー本番、カツラギエースは中団やや後方に控える形でレースを進める事になってしまう。この頃、ダービーには「十番手以内で第一コーナーを曲がらねば勝てない」というジンクスがあった。二十人を超える出走が当たり前だったこの時代、前に行けねばレース後半身動きが取れなくなる。カツラギエースは、そのポジションを取り切れなかった。思ったほど前に行けず、苦しい展開になってしまう。しかし彼女程ではない。彼女は最後方にいた。

「あいつ、下手打ったな。これであいつは消えた」

 そう、思った。しかし、彼女は上がってきた。ゆっくりと前に前に押し進み、そして最後の直線で一気に先団を差し切り、優勝。六着でゴールしたカツラギエースは、その光景をまざまざと見せつけられた。

「あ、あんた。なんで、あんなんで勝てる」

「余り、勝った気はしないけどね……ちょっと、最後のコーナーで危なかったから。失格でも文句言えないよ」

 彼女はそう言うと、観客に向かって手を上げる。大観衆の視線が、彼女一人に注がれていた。カツラギエースは、それを黙って見つめる事しかできなかった。

 リードホーユーは、デビュー以後苦戦が続いた。骨折などで、春のクラシックには参加さえできず。それでも鍛錬を重ね菊花賞に間に合わせる。二冠の彼女を止めるかもしれない、秘密兵器。カツラギエースと共にそう見込まれた彼女は、先行策を敢行しレースを進める。カツラギエースと二、三番手を進みながら、第三コーナーの坂にかかろうかという時だった。レース場が、どよめきに包まれるのを感じた。訝しむ間もなく、視界の端に彼女の姿が見えた。

「……え!?」

 後方待機からの追い込み型である彼女が出てくるには、あまりにも早い。それだけではない。第三コーナーの上り坂で一気にまくるのは、絶対的なタブーだと言われていた。まだ、先は長い。ここからスパートをかければ、普通ならば潰れる。しかし、彼女は止まらなかった。それどころか第四コーナーの下り坂を、一気に加速しながら駆け下りていく。京都の坂は、ゆっくりと下る。それが常識だった。あんな走り方をして、勝てる筈がない。そう思いつつ、彼女の走りに圧倒されている事に気が付く。彼女は、私達の物差しで測る事ができる様な、そんな才能ではない。そう、思ってしまった。大地が弾み、観客がその天衣無縫の走りに酔いしれる中、彼女は十九年ぶりの三冠を達成する。リードホーユーは四着。それまでのタブーとされた戦法をやってのけた彼女に、全く届かなかった。

「何なんだ……あんなの、滅茶苦茶じゃない……」

「滅茶苦茶なんだよ、あいつは。それで勝っちゃうんだから、嫌になる」

 横にいたカツラギエースが、そう言った。

「まあ、そんなあいつだから、三冠にもなれるし。……それに」

 そう言って、カツラギエースは観客席を見渡す。レース場が、震えていた。大スターの誕生に、酔いしれていた。

「人の心を、掴める」

「……凄い、んだね。やっぱり」

「ああ。……だからこそ、私は勝ちたいよ。あいつにね」

「勝った、じゃない」

 彼女が、こちらに近づきながらそう言った。

「この前の京都、勝ったのはエースで、二着がリード。私四着よ?」

「……言わなくても分かってんでしょう。トライアルで勝っても、ここで負けてちゃ何にもならない」

「どうして」

 リードホーユーは、呟くように言っていた。

「どうして、あんな走りが、できるの? 私と、私達と同じ、ウマ娘なのに。私には、あんなのできない。どうして、貴方には」

「……できない、んじゃなくて。しなかった、んじゃないの?」

 彼女は静かにそう言った。リードホーユーが、ハッと顔を上げて彼女を見る。

「誰もしなかった。勝てると思えなかったから。私はした。それのおかげかは分からないけど、勝てた。それだけよ。タブーなんて言うけどね。タブーを犯さなければ、大負けはしないけど大勝ちもできないわ。私は、犯してでも大きなものを手に入れたかった」

「……博打だったっての?」

「そうよ、エース。結局はそうでしょ。百パーセント、確実に、堅実に。そんなのつまらないし、退屈だし。それに、それじゃ大きなものは生涯得られない」

「大きな、もの」

「確実に百の結果が得られる選択肢を取るか。それとも、五十か二百か、どっちかになる選択肢をとるか。私は、二百を取りたい。五十を掴む事になっても」

 彼女はそう言って、にこりと笑った。

「何より、勝ちたかったもの、私」

「え……?」

「こうでもしないと、勝てない……かもってね」

 そう言って、彼女はくるりと背を向けた。リードホーユーは、彼女の言葉を反芻する事しかできなかった。

 

 その後、彼女は脚の不安からジャパンカップ、有馬記念を回避。その消極的な姿勢を批判する声もあった。そして、同時にそんな「ひ弱」な三冠ウマ娘が生まれる様な世代の、その実力を疑う声もあった。しかし、一年最後の大レース、有馬記念。その舞台で、そんな声を吹き飛ばしたウマ娘がいた。

《メジロティターン、メジロティターン来ている、外の方からアンバーも来た、アンバーもやってきた、先頭はリードホーユー、リードホーユー一着、二着にデュデナムキング!! リードホーユーです、クラシック級リードホーユーが見事並み居る強豪を退けました!》

 彼女が勝ったのは、私達が弱いからではない。それを示す為の、激走だった。初めての重賞レース勝利を有馬で飾り、そしてその代償として、彼女は選手生命を失った。それでも、後悔はない。翌年から「グレード制」が導入され、クラシック三冠レースや有馬記念の様な大レースは“G1レース”と呼ばれる事になる。“八大競争”としての有馬記念、その最後の覇者になれた。勝負に行って、二百を掴んだ。それで、十分だった。

 翌年のジャパンカップ。日本のウマ娘のレベルを上げるべく、世界の強豪と戦うとして整備されたG1レースだが、日本勢は毎年敗北。世界のレベルの高さの前に打ちのめされ続けてきた。しかし、その年は違う。何しろ二人の三冠ウマ娘が揃い踏みするのだ。今年こそは、日本勢が勝つ。ファンの誰もがそう思った中、激走を見せたのがカツラギエースだった。普段なら先行策で行くところを、ハナを切って逃げる戦法を取る。多くの者が、その逃げを暴走か、一か八かのやけくそかと見た。そして、最後の直線で彼女の脚は鈍る。一年後輩の三冠ウマ娘、シンボリルドルフが迫る。誰もが、ルドルフの差し切り勝ちを想像した。しかし。

《ルドルフ来た、ルドルフ頑張れ! カツラギエースは頑張った、カツラギエースが粘る、カツラギエースを追ってルドルフ! ベッドタイム、カツラギ来る!》

 シンボリルドルフが、躱せない。体力が尽きたと思われたカツラギエースとの距離が、縮まらない。

《外からマジェスティーズ! カツラギエースが勝ちました!!》

 勝ったのは、カツラギエースだった。日本ウマ娘初の快挙。しかし、その意外過ぎる結末を観客は歓声ではなく、驚きの騒めきで迎えた。勝利のインタビューで、カツラギエースは高らかに言った。してやったり、と。そして、彼女は十着に終わる。彼女の走りが冴えなかった理由を、薄々だがカツラギエースは感付いていた。

「ねえ……あんた、もう脚が」

「うーん……もうちょっと、頑張れると思うんだけどな。それに、体のどこかが悪いなんて、皆そうだし。今回は、冴えなかったねえ……ま、負けは負け。遂に大レースで、エースに負けたか」

「……私、次の有馬をラストにしようと思う。あんたも、そうしない?」

「ううん。アタシは、もうちょっとだけ走るよ」

 それまでの戦法を変えた。乾坤一擲の勝負だった。それに、カツラギエースは勝った。やれないのではなく、しなかった。それで後悔したくはなかった。

 

 静かに、彼女はゲートの中に入る。脚の具合は、良くはない。それでも、走る。自分が走る姿を、見たいという人達がいる限り。

「あんた、あんたは、そんな姿を見せちゃいけないんだ!」

 カツラギエースの言葉が脳裏に蘇る。確かに、そうなのかもしれない。自分のこんな姿を見たくない、という人も、いるのだろう。どちらかを取るか、となると、難しいなと思う。

 しかし、と思う。最初から、最後まで、ずっと強い。それは理想かもしれない。でも、私はそうはなれなかった。幸か不幸か、あまりにも強い後輩に恵まれた。それならば。

「こういうのも、良いんじゃないかな。後輩君相手に、足掻いて、足掻いて、そして」

 ゲートが、開いた。全員が、飛び出していく。ルドルフは先行集団の後ろに着けた。そして、彼女は後ろから二番目。十五人はバラバラと別れ直線を疾走する。ルドルフは次第に先行集団へと近づいていく。

「ルドルフは、前に上げていく形か」

 カツラギエースがそう呟いて、横にいるウマ娘に目をやる。

「……しっかり見てなよ、ギャロップ。あいつの、走りを」

「うん……」

 そこに立っていたのは、何処か気の弱そうなウマ娘だった。静かに手を組み、必死でレースを見つめている。

「勝てる、かな」

「まともじゃ勝てない。今のルドルフは、紛れもなく日本史上に残る最強ウマ娘……でも」

 リードホーユーがそう言い、食い入るように見つめる先で、彼女は動いた。

《あっとここで行った! 菊花賞と同じように、坂の手前で行きました、白い帽子がぐんぐんぐんぐん行きます!》

 場内が、沸いた。観客の誰もが知っている、あの光景。京都の坂の上り、そこで一気に先頭に出る。タブーと呼ばれた戦法で、しかし彼女は見事に勝った。あの日、大地が弾んだあの日。十九年もの間生まれなかった三冠ウマ娘が生まれた日。ダークブラウンの艶やかな髪を靡かせて。タブーを破り、ライバルを蹴散らし、そしてその場にいた全ての者に夢を見せた、あの走り。

「掴みに行く。あの子は、そういう人」

 リードホーユーが言う。観客達の大声援が、大地を揺らす。あの日の様に。彼女がルドルフを躱し、先頭に並ぶ。その瞬間、確かに京都レース場は揺れた。

「こ、これが……あの人の」

 サクラガイセンが呟く。

「嫌ンなるなァ、人気者!」

 先頭を走るスズカコバンが叫んだ。

「いつもそうや! いつも、ウチはお前やエースの引き立て役や!」

「……」

 彼女は、応えない。おや、とスズカコバンは思った。こういう時、必ず言い返してくるのだ。気さくな、飄々とした口調で。

「なんや、そんな必死なんかィ!」

「……ああ、そうさ」

「……え?」

 思わず、横を見た。彼女の顔は、真っ青だった。

「お、お前」

「……コバン、ありがとうね。楽しかった」

「お、おい!!」

《スズカコバン先頭だ、スズカコバン先頭だ、さあスズカコバン先頭だ、内からニシノライデン! そして外からシンボリが来た!》

 シンボリルドルフが、上がって来た。最後の直線に入ろうかという所で、彼女は一気に加速する。外を回って、彼女を追い抜く。その瞬間だった。

「ねえ、ルドルフ」

 不意に、声をかけられた。

「何ですか?」

「……後の事、お願いね。不甲斐ない先輩で……ごめんなさい」

「貴方は」

 青い顔をした彼女は、それでもルドルフににこりと笑いかけた。ルドルフはそれをちらりと見て、前に向き直る。分からない。何故、レース中にあんな事が言える。

「私達の使命は、一心不乱に勝利を求める事。一意専心に、勝ち方を極める事。そうじゃないのか」

 分からない。考えても、分かりそうには無かった。だから、今はひたすら走る事にした。スズカコバンを躱し、先頭に立つ。その外側から、サクラガイセンが突っ込んでくる。その様子を見ながら、彼女は呟いた。

「……皆、凄いなあ。アタシ、ちょっと、天狗になってたかな」

 ファンの期待に応えたかった。応援してくれる人達の為に、走った。あの時。菊花賞後、体を休めたいとジャパンカップと有馬記念を回避した時。がっかりした人達の顔が、脳裏に焼き付いて離れなかった。アタシは、こんな事で休んではいけない立場になったのだと思った。何故なら、アタシは、チャンピオンだから。しかし、それは思い上がりだったのかもしれないと思った。

「ファンを喜ばせられるのはアタシだけ、そう思ってたのかもしれないな。酷い話だ。皆、皆ファンを惹き付けてるじゃない。アタシだけがスターみたいに、何調子に乗ってたんだろう」

 自分を置いて、先頭に立った一年後輩の三冠ウマ娘の背を見つめる。

「ルドルフ。貴方は、強さで皆を引っ張れる。博打で、ギリギリをやって、それで何とか勝てるアタシとは違う。……チャンピオンは、貴方にこそ相応しい。だから」

 勝つにはこれしかないと思った。あの菊花賞の時の様に、賭けた。あの時は勝った。そして、今度は。

「おめでとう。シンボリルドルフ」

《シンボリルドルフ先頭だ! シンザン以来の五冠ウマ娘! そして僅かに外サクラか、サクラガイセンが外! そして内にいたのがスズカコバン! シンザン以来の五冠ウマ娘です、シンボリルドルフです!!》

 一着、シンボリルドルフ。二着サクラガイセン。三着スズカコバン。彼女は、五着。

「……終わった、んだね」

「うん。きっと、これで終わり」

 彼女は、これがラストランだと宣言している訳では無い。それでも、カツラギエースとリードホーユーには何となく分かった。彼女はやり切った。人々が待ち望んだ王者として現れ、結果を出し、そして新たなる王者に敗れ、表舞台を去る。チャンピオンとして逃げず、そして沈んだ。

「……凄い。本当に。私、何やってたんだろ。同い年で、一緒に走れたかもしれないのに」

 ギャロップダイナが呟く。

「私、私も……あんな風に、走りたい。ううん、走るんだ……絶対に……!」

「……やっぱり、ああいう風には、なれないな。でも……そうだな。グチグチ言うのは、もう止めだ」

 ニホンピロウイナーが、噛み締める様に言った。

「あんたみたいに、私もなってみせる。私も……希望に、なってみせる……!」

「お前、さっき……いや、ええわ。よう、分かったし。知っとるしな。やから……もう、休み」

 スズカコバンが彼女に近づき、そう言って労った。

「一緒に走れて、光栄でした。私、忘れませんから」

 サクラガイセンが、涙ぐみながら頭を下げた。そして。

「……私は、今やっと、貴方の凄さが分かりました」

「え? そりゃー無いでしょ、ルナちゃん。アタシ三冠なのに」

「力ではない。実績でもない。私は貴方を、ずっと行雲流水の人だと思っていました。しかし、違った。貴方は、精励恪勤の人だった」

「相変わらず、言う事が難しいなぁ、ルナちゃんは。……三人のウイニングライブ、楽しみにしてるね。じゃ、アタシは戻るわ。もうくったくた」

 そう言って、彼女はふらふらとした足取りで帰っていく。レース場にいた全ての目が、その瞬間彼女に注がれた。ルドルフが、その背に呼び掛けた。

「私は、忘れません。あの時。貴方が私を追い抜いた瞬間の、歓声を。私がゴールした瞬間より、大きく聞こえましたよ」

 おかしな話だ。ゴールの瞬間でなく、レースの途中に一番の歓声が沸く。しかし、レースを終えた今のシンボリルドルフには理解できた。レースの結果だけを見ていては分からない。着順やタイムを眺めるだけでは決して理解できない、彼女の力。人は数字に感動するのではない。それが、今分かった。

 控室に戻った彼女を、二人のウマ娘が出迎えた。彼女の目が、驚きに見開かれる。

「……母さん。先生」

「よく、頑張ったわ」

 茶髪のウマ娘が、そう言って彼女を抱きしめる。そして、静かにベッドに寝かせた。

「い、いえ。そんな、寝たままお話なんて」

「良いの。貴方は、もう充分頑張った。ありがとう」

「……不肖の、弟子です。負けっぱなしで。とても先生の……“天マ”トウショウボーイの弟子だなんて」

「そんな事は無いわ。貴方は、これだけ愛されたのだもの。それに、貴方はこうして帰って来てくれた。それだけで、充分」

「ねぇ、何か、して欲しい事、ない? 何でもしてあげる。久しぶりに、母親らしい事をさせて」

 そう言ったのは、彼女と同じ髪の色をした、おっとりした顔のウマ娘だった。

「母さん……そんな、子供じゃないんだし……でも、そうだね。……久しぶりに、母さんの料理が食べたいな。トレセン学園の食堂のご飯も、美味しいんだけどさ。久しぶり、に」

 そう言って、彼女は目を閉じた。涙が一筋、頬を伝って落ちた。

「帰り、たいな。……家に。ちょっと、疲れちゃったよ。お母さん」

「もう、帰って来て良いのよ」

 そう言って、母親シービークインが静かに彼女の頭を撫でる。

「お帰りなさい。貴方は、お母さんの自慢の子供よ。ミスター……シービー」

 

 それから、八年後。ミスターシービーが三冠を達成してから、十年後。一人のウマ娘が、奇跡を見せるべく戦っていた。

「彼女、凄いわね。普通なら、もう諦めちゃうでしょうに」

「諦めないですよ。それが、一番の武器だと思っています」

 シービーとルドルフが、レース場の観覧席でその様子を見ながら静かに語らっていた。

「以前、聞かれたのですよ。私が今までで、一番凄いと思った相手は誰か、と。私は貴方だと言いました」

「え? 光栄だけど、それエースやダイナが聞いたら怒らない?」

「そうはならないと思いますよ。……レースで勝った、負けたは時の運もあります。色々な要因が重なるのが、勝負の世界です。私が貴方に敵わないと思ったのは、何というか……その、人を惹きつける力ですよ」

「でも、それならルナちゃんだって十分あると思うけど」

「私は、少し怖がられてしまいますから」

「それは、まあ……ちょっと、近寄りがたいオーラ出し過ぎなのよ」

 二人は穏やかに、そんな話をしている。レースは既に中盤に差し掛かりつつあった。

「……私は、貴方と私を超えるなら、あの子だと思ったんです。才能があり、そして人を惹きつける魅力がある。貴方にトウショウボーイさんがいたように、あの子には私がついてやれる。言うなれば、貴方の魅力と、私の実力と。その二つを兼ね備えた存在になれると」

「成程ね。貴方、自分が取り損ねたみたいに悔しがってたものね。あの子の菊花賞断念を」

「ええ。私はどうしても、三冠というものを絶対視してしまいますから」

 レースが、終盤に差し掛かっていた。青と白の勝負服の彼女が、最後の直線に入ってくる。

「あの子は、私に憧れていると言ってくれた。でもあの子には、貴方の魅力も身に着けて欲しかった」

「その辺は、天性のものがあるわよ、あの子。だって、ほら」

 そう言った瞬間、彼女は紫の勝負服を着た葦毛のウマ娘を躱し、先頭に躍り出た。

「あんな事が、できるんだもの」

「ええ」

 

《トウカイテイオーだ、トウカイテイオーだ、トウカイテイオー、奇跡の復活!!》




 本作は後輩に敗れ去り退場するヒーロー、という体で書きました。ミスターシービーというヒーローホースを破るにふさわしい実力を持った、日本史上最強馬の一角、シンボリルドルフ。しかし、レースでは一度もシービーに負けなかったルドルフが、しかし一番「勝てない」と思った相手もシービーなんじゃないか、という妄想が下敷きにあります。人気という点では、ルドルフは不利でした。圧倒的に強いし、といってナリタブライアンの様な派手な勝ち方をするのではなく。しかも戦う相手がトウショウボーイ産駒で19年ぶりの三冠を見せてくれたミスターシービーだったり、三冠馬シンザンの息子で二冠馬のミホシンザンだったりする訳ですからね。ロマンを求める人間からすれば、どうしてもルドルフは「ヒール」の立ち位置にはなってしまうのかなあと。ウマ娘に置き換えるにあたって、シービーとルドルフがお互いに「彼女にはかなわない」と思っていたら素敵だなぁという発想が根底にありました。
 そしてそれらを考えた時に、トウカイテイオーはシービーとルドルフの良い所を集めた様な存在になりえたのかもしれない、と思ったのです。テイオーが登場するのはそれ故です。アニメ二期も佳境ですしね。
 そして最後に、無念だったのはダイナカールを出せなかった事です。出したかったのですが、エアグルーヴが彼女の実の娘であることが確定した感があるので、そうなると年齢設定やら何やらが滅茶苦茶になってしまいそうなので断念しました。ウマ娘は二年で中学生くらいの見た目になるとか設定すれば行けるかもですが、それはやりすぎですしね……。アプリでは陽気なお母さんとしてちらっと登場してくれたので、嬉しかったです。


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吹き荒れる風――ヤマニンゼファー――

 えらく間隔があきました。仕事もありますが……大体ウマ娘のアプリが面白いのがいけない。ウイポの新作も出たし。
 さて、今回はヤマニンゼファーです。私の見たい「夢のVS」の一つが「ヤマニンゼファーVSトウカイテイオー」なんですよね。実際にテイオーは宝塚に間に合わないとなった後、復帰の目標を秋天に定めていた時期もあるという事で、あり得た対戦ではある訳ですが。彼らの父は、それぞれ秋の天皇賞で激突したシンボリルドルフとニホンピロウイナーです、ヤマニンゼファーにとっては父の叶わなかった「秋の盾取り」の仇討に挑む舞台であり、またそのピロウイナーが僅かに届かなかったルドルフの最高傑作であるテイオーと戦うというストーリーは非常に感情に訴えかけてきます。
 


 ――十年前。少女の夢は、無残に散った。暗くなる視界。動こうとしない脚。よろめき乍ら必死に進み、何とかゴール板を通過した時には観客のほとんどが彼女の方を見てもいなかった。観客の視線は、一人のスーパースターに注がれていた。ひゅう、ひゅうと喉が鳴る。立っている事さえできず、ターフの上に崩れ落ちた。ソックスが泥水を吸い上げて汚れていく。トレーナーが、駆け寄ってくるのが微かに見えた。 

「大丈夫か、ピロウイナー」

「……へい、き。で、も……わ、たし」

 何とか、言葉を絞り出した。それ以上は出てこない。言いたい事は、ある筈だった。だが、口が動かない。喉が動かない。そして、頭も動かなかった。

「無理して喋らなくていい。……俺の責任だ。お前のスピードとスタイルは、短距離向きだってのは思っていたのに」

「……わ、たし、は……」

 トレーナーに支えられながら、視界の隅に彼女の姿が映った。途轍もない末脚で、他の者達を圧倒して勝った同級生だ。この一年、クラシック級のレースは彼女を中心に展開されるのだろう。そして、自分はその舞台に立つ事も叶わない。そう、少女にははっきりと分かった。手を上げて、長髪を靡かせた彼女は、あまりにも眩しかった。涙が零れた。

「あんな風に……なれないんだ」

 それ以上、言葉にはならなかった。ただ声を上げて、泣く事しかできなかった。この時、少女の――ニホンピロウイナーの道は、決まった。華やかな王道路線を外れ、地味な扱いのマイル・短距離路線へ。「王道」から外れるしか、彼女に残された道は無かった。

 それから、二年後。少女は再び、あの時と同じ距離のレースを走る事になった。しかし、もうしの立場はあの時とは違う。今の彼女は、“皇帝”だった。

 

 一〇月二七日、秋の天皇賞。注目は史上初の天皇賞春秋連覇を狙うシンボリルドルフだった。宝塚記念直前のケガが無ければ、海外遠征も視野に入れていた程の実力者。“皇帝”の異名で知られ、それまでレースで敗北した事はただの一度のみ。その彼女が圧倒的一番人気に押される中、いよいよレースが始まろうとしていた。観客席では多くの観客が、応援するウマ娘に声援を送る。その中で一人、どこか冷めた視線でそれを見つめる少女がいた。彼女はウマ娘ではあったが、あまりレースに興味を抱けなかった。周りから繰り返し、中長距離のレースは向いていないと言われ続けてきた。それはつまり、例え競争ウマ娘としてデビューできたとしても決して「王道路線」では結果を残せない、と言われている様な物だった。それで、レースに熱意を持てるはずもない。

「ルドルフさーん! 頑張れー!」

 そう叫んでいるのは、濃い茶色の髪をポニーテールに束ねた少女だ。彼女はシンボリルドルフの熱心なファンだと言っていた。体の柔らかさと、見事な勝負根性を持っている。スピードも抜群だ。ああいう子が、スターになっていくのだろう、と彼女は冷めた目で見つめる。自分は無理だ。できて、日陰の短距離路線。そこでしか生きられないというのは、余りにも寂しく思えた。

「今日の出走メンバー、そんなに凄いって感じじゃねえな」

「二番人気が未G1勝ち、宝塚三着が最高のウインザーノットだもんなぁ。三番人気のニホンピロウイナー、マイル以下ならそれこそ“皇帝”って感じだが、二〇〇〇じゃなぁ……大阪じゃ八着だったし、毎日王冠も四着、ってんじゃなぁ……」

 そんな事を、近くの観客が言っていた。それを聞いて、彼女は少し興味を惹かれた。手元にあるパンフレットに視線を落とす。八番、ニホンピロウイナー。主な勝ちレース、マイルチャンピオンシップ、安田記念。典型的な短距離路線のウマ娘という事だ。もし自分がデビューすれば、この人を目標にする事になるのだろうかと思った。「二〇〇〇じゃなぁ」という、先程の観客の声が脳裏を過る。所詮、その程度の扱いなのだ。観客の耳目を集める大レースは、ほとんどが二〇〇〇メートル以上。それ以下の距離のレースにもG1はあるが、その扱いは日本ダービーや有馬記念などと比べて低いと言わざるを得なかった。

「やっぱり、そうなんだよな」

 そう、呟いた。どれだけ短距離路線で結果を残そうと、それにどれ程の意味がある。自分はそんな短距離路線でしか生きられないと宣告されて、まともに走る気になどなれなかった。そんな事を思っていると、レースが始まった。圧倒的一番人気のシンボリルドルフは少し出遅れ後ろからのレースになった。しかし流石に力が違う。最後の直線に入る頃にはしっかりと前につけ、そして先頭に出る。これで決まったと誰もが思った。しかし、外にウインザーノットが競り合いに来る。その更に外側に、白と緑、黄色のラインの勝負服が来た。彼女は思わず、目を見開いた。

《ルドルフ先頭だ、ルドルフ先頭であります、その外からウインザーノット、残り二百を切ってニホンピロウイナーも来ているぞ!》

 ニホンピロウイナーが、シンボリルドルフに迫っていた。マイラーが、王道の皇帝を追い詰めていた。周りの観客が大声を上げた。

「ルドルフ、ルドルフ粘れ!」

「ウインザーとピロウイナー来てるぞ、おい!」

「……頑張れ」

 思わず、呟いた。二番手のウインザーノットの脚が僅かに重くなった。ニホンピロウイナーが並びかけてきた。更にその外、別のウマ娘の影。

《ルドルフ出た、ルドルフ出た、外の方からギャロップダイナ! 外からギャロップ!! あっと驚くギャロップダイナ!!》

 レース場は、驚愕に包まれた。勝ったのは、それまで全く無名と言っていいウマ娘、ギャロップダイナだった。会場中が勝ったギャロップダイナと、二着に敗れたシンボリルドルフに視線を注ぐ中、彼女はずっと二ホンピロウイナーを見つめていた。彼女は、ウインザーノットと同着の三着だった。“皇帝”まで、後一歩のところまで迫った。短距離路線のウマ娘が、あわや現役最強の皇帝を喰らいかけた。その走りに、痺れた。思わず、走り出していた。ニホンピロウイナーが、帰って来ていた。その彼女に、声をかける。

「あの!」

「……ん?」

 ニホンピロウイナーが、彼女に気が付いた。ゆっくりと、近づいてくる。

「何? 君、ウマ娘か……」

「は、はい! あの、その……私、初めて見て」

 言葉が、出てこなかった。言いたい事は沢山あるのに、声にならなかった。

「えっと、あの」

「……君、名前は?」

 そう問われ、名前を名乗る。ピロウイナーが、にこりと笑った。

「そうか。君も、トゥインクルを目指すの?」

「あの、私……今まで、興味が持てなくて。でも、今日のニホンピロウイナーさんを見て、その」

「そうか……ありがとう。君、ひょっとして短距離向きだ、って言われたんじゃない? それで、あー、短距離路線なんてたかが知れてるし、そこ目指してもなー、って」

 ズバリと言われた。ぎくりとして、しかし顔をぶんぶんと横に振る。

「いえ、そんな」

「良いの。気持ち、分かるから。私も、絶望したわ。自分は王道を歩けない。外れた道を進むしかない、って。でも……今は、違う。グレード制が整備されて、短距離やマイル路線にも道が拓けた。もう、短距離路線は落伍者の集まりなんかじゃない。そんな風に、言わせてみせたい」

 そういう彼女は、とても凛々しく、美しく見えた。

「私、次のマイルチャンピオンシップで引退するつもりなの。元気なうちに、身を引きたくてね」

「え……そんな! あんなに、凄いレースができるのに」

「私の夢の為よ。……短距離やマイル路線を盛り上げて、中長距離に負けない位の人気を集めたい。その為に、凄いスプリンターやマイラーを育て上げてみたい。それが、今の私の夢。指導するなら、自分が動ける方が良いじゃない」

 そう言って、ニホンピロウイナーは笑った。

「良かったら、見に来てよ。次のマイルチャンピオンシップ。後……貴方さえ、良ければ。待ってるからね。ヤマニンゼファーちゃん」

 そう言って、彼女は去っていった。そよ風が、ヤマニンゼファーの頬を撫ぜた。この日、この時に、彼女の将来は決まった。ジュニアトレーナーとなったニホンピロウイナーの二期生としてトレセン学園入学、期待されるも入学直後に骨膜円を発症、デビューが遅れてしまう。デビュー戦では調整不足を不安視されたこともあり十二番人気と低評価だったが、短い直線で一気に伸びると一着でゴール。更にその後も条件戦をクリア、重賞クリスタルカップで三着と結果を出した。しかし骨膜炎の再発により再び休養となってしまう。通院していた病院で、偶然あのシンボリルドルフに憧れていた少女に会った。同い年で、同じ学園に通っているのに、ほとんど会話を躱した事は無かった。

「あんた……トウカイテイオーだね。無敗二冠ウマ娘の」

「え……っと。キミは?」

「知らないだろうな。ヤマニンゼファーだよ」

 そう言って、ゼファーはテイオーの体を眺める。華奢な見た目だが、驚く程のバネを秘めた体だ。柔らかく、強靭なその体で、彼女は無敗の二冠を達成した。しかし、その代償として、三冠目には挑む事すら叶うまい。脚を骨折し、菊花賞出走は絶望的だと言われていた。

「二冠、凄かったな。見てたよ」

「うん、ありがと。でも、それで終わるつもりはないから」

「え?」

「ボクはカイチョーみたいな、無敗の三冠ウマ娘になる。それが、夢なんだ。だから、菊花賞には必ず間に合わせる」

 テイオーは力強く、そう言った。なるほどな、と思う。スター性という奴だ。そう言えば、よく師匠のニホンピロウイナーも言っていた。「人を惹きつける、天性の力を持っている奴ってのがいる」と。

「成程ね。ま、頑張れよ。応援してるから」

「キミは、今はどこを?」

「え? まだメイクデビューと条件戦クリアだけの、しがない短距離ウマ娘。クラシックなんかハナから考えてなかったね。俺にゃ長すぎる」

「短距離……それじゃ、目標はスプリンターズステークス?」

「出られりゃ良いね……ま、あんまり目指しちゃいないよ。今年は地固めって、話してるから」

「ふーん……ねぇ、キミには憧れの人って、いるの? ボクはカイチョーみたいになりたくて、ここまで努力してきた。キミは?」

「聞きたいか? ……あんたの憧れのカイチョーさんに、後一歩届かなかった人さ。ただ、そうだな……俺達の道を拓いてくれた、俺達に輝ける場所をくれた、そんな人さ。お前も見てただろ、あの天皇賞・秋を。無敵の皇帝が不覚を取った、三つのレースの内の一つ。あの秋天で、皇帝の首を後一歩で取り損ねた人さ」

「あ……」

 テイオーが、納得した顔をした。

「それで、短距離なんだ」

「逆さ。短距離しか走れないと言われて、腐ってた俺を救ってくれたのさ」

 そう言って、ゼファーはテイオーと別れた。その後、残念ながらテイオーは菊花賞を戦う事は出来ず、復帰はシニア級の大阪杯までずれ込む事になった。一方のゼファーは復帰後条件戦を勝つとスプリンターズステークスに出走、七着に終わった。決して順風満帆とはいかない。それでも、未来は見せた。

 翌年、彼女は条件戦を勝利しオープンクラスに上がる。更に京王杯を三着とし、実績を積んだ。次の目標は、決まった。電話で、あの人にその事を伝える。

「次の目標、安田記念に決めました、姐さん」

《そうかい……遂に、だね。前のスプリンターズはお試し……ってなもんだし。また応援しに行くよ。相手は、キツそうだけどね》

「ええ……分かってます。相手の強さは、よく理解してるつもりですから」

 力強く、そう言った。そして、本番を迎えた。安田記念。その年の安田記念は、非常に豪華な顔ぶれとなった。“華麗なる令嬢”ダイイチルビー、“笑いながら走るウマ娘”ダイタクヘリオス、“これはびっくり”ダイユウサクといったG1勝利経験のあるウマ娘らが揃い、更にホワイトストーンやカミノクレッセといった力のあるベテランも揃う。その中にあって、未だに重賞勝ち星のないゼファーは十一番人気に過ぎなかった。それでも、心の中には期するものがあった。調子はいい。ここで、勝ってみせる。

「あー! ウイナーパイセンじゃんおつかれっすー!」

「こらァ! 貴方、なんて口の利き方……バカじゃないの!? いや分かってるけど!」

 ゼファーの視線の先で、ニホンピロウイナーは出走する面々に囲まれていた。直接教えを受けた事はなくとも、彼女を慕う者は多い。マイル・短距離路線を主戦場にするウマ娘にとっては、彼女は憧れの存在であり、敬愛の対象だった。

「元気が良いね、皆。ヘリオスは元気が良すぎるけど……あ」

 彼女が、こちらに気が付いた。ゆっくりと、こちらに近づいてくる。

「元気そうね。まずは良かった。あんまり、固くならずにね」

「はい。……必ず、勝ちます」

「ま、実績で言えばあんたは完全に格下だけど……勝負に絶対は無いよ。一発、かましてやんな」

「はい!」

 そう、元気よく答えた。かつて、彼女も戦い、そして勝ったレースだ。これに勝って、“ニホンピロウイナーの後継者”として周囲に認めさせたい。それには、格好の舞台だった。

 レースが始まると、ゼファーはしっかりと好位置につけてレースを進める。かなり良いスタートを切れた。余裕をもって位置を少し下げ、そしてじっくりと狙っていく。最後の直線、遮るものは何もない。カミノクレッセやムービースターが追い上げてくる。ダイタクヘリオス、ダイイチルビーは伸びてこない。風が、吹いた。

《カミノクレッセ上がってくる、その真ん中を通ってムービースターも伸びてくる、ムービースターも伸びてくる、カミノクレッセ、しかし、ヤマニンゼファーだ! ヤマニンゼファーだ! 初の重賞は何とG1です!》

「よっしゃァッ!!」

 ゴールの瞬間、そう叫んでいた。低評価を覆した、快勝だった。これで、一気に短距離路線の主役になれる。そう思ったのだが、その後は惜しいレースが続き、勝ち切れなかった。マイルチャンピオンシップではダイタクヘリオスのリベンジを許し、去年の雪辱を果たすべく乗り込んだスプリンターズステークスでは、最後の最後でニシノフラワーに差し切られてしまった。そのまま翌年以降も連敗してしまったが、京王杯で久しぶりの勝利を挙げると安田記念を連覇、G1の舞台でニシノフラワーに借りを返した。安田記念の連覇はニホンピロウイナーも達成していない。その意味では、達成感はあった。

 レース後、ゼファーはトレーナーと次走について相談する。夏を休み、秋の目標をどこにするか。普通ならば、マイルチャンピオンシップかスプリンターズステークスだろう。しかし、ゼファーもトレーナーも、心に決めていたのは別のレースだった。

「ゼファー、予定通り、で良いか?」

「はい。問題ないですよ、俺は大丈夫です」

「……たった四百メートル、と言えなくはないが。ただ、キツいぞ。マイルの様なスピード感覚じゃ潰れる。まずは1800の毎日王冠を目指すぞ。二百伸ばして、二百伸ばす。それで、距離の感覚を掴め」

「はい」

 それで、ゼファーの目標が確定した。秋の天皇賞。かつてニホンピロウイナーが、皇帝を後一歩まで追いつめた舞台。安田記念を制した後に、ゼファーが最も勝ちたいと願ったレースだった。

「しかし、お前が天皇賞か。最初に言われた時は、意外と言えば意外だったがな」

「そうですか? 秋の盾は、最高の名誉の一つでしょう」

「だが、お前はマイラーだしな。それに、それに誇りを持ってもいる。そのお前が2000のG1、というのはな」

「ええ。俺はマイルに誇りを持ってます。マイル路線は王道路線を戦えない連中の溜まり場じゃあない。迅さと上手さとスタミナのバランスが取れていて始めて結果を出せる舞台だ」

 それは、常々彼女が言っている事だった。マイルにはマイルの誇りがある。そして、状況は変わりつつあった。

「マイル・短距離路線にはスターが大勢出ましたし、未来の芽も出ています。

ニホンピロウイナーによって切り開かれたマイル・短距離路線は、その後多くのスターを生み出した。秋の天皇盾も制した“マイルの帝王”ニッポーテイオー、“私の夢”バンブーメモリー、“華麗なる令嬢”ダイイチルビー、“笑いながら走るウマ娘”ダイタクヘリオス。下の世代でもニシノフラワーやサクラバクシンオーといった面々が育ってきている。それはゼファーにとっても喜ばしい事だったし、自分の道は間違っていなかったという誇りにもなった。

「ただ、やっぱり根本の部分で、まだ変わっていないと思うんです、俺は」

「根本?」

「……俺達は、まだ王道路線の“下”だと思われている。本来なら、王道も、マイル短距離も、ダートも、価値は同じ筈です。もっと言えば、障害も、ばんえいも、繋駕速歩も、騎乗速歩でも。でも実際には、そうじゃない。勿論、ある程度仕方ない部分はあると思います。ただ、それを変えようとしちゃいけないって事は無い」

 そう言って、ゼファーは右拳を掌に叩きつけた。

「俺は、天皇賞に出ます。理由は三つ。二つは、個人的な理由で、まず姐さん……ウイナーさんの仇討の為。もう一つは、トウカイテイオー……同い年で、王道路線で結果を出し続けた、あのスーパースターに勝ってやりてぇ。そして、三つ目。俺が、このマイル・短距離でしか生きられなかった俺が、秋の盾を取る事でマイル・短距離のウマ娘の強さを知らしめてやりてぇ。そうすれば、俺達の価値はもっと上がる。上手くすれば、年度代表だって取れるかもしれない。だから……行きます」

「そうか。……トウカイテイオー、秋の天皇賞で復帰予定だったな。それにメジロマックイーンも来るぞ。簡単じゃない」

 トウカイテイオー。あのシンボリルドルフに憧れた少女は、今は三度目のケガによってリハビリ中だった。宝塚記念での復帰を目指したが、それには間に合わず。今は秋の天皇賞を目標にしている、と聞いていた。そしてもう一人の大本命がメジロマックイーン。一昨年、去年の天皇賞・春を連覇、前回の天皇賞・春こそライスシャワーに躱されたが二着、その後宝塚を制覇とその実力は現役でも最強の一角だと言われている。そしてこの二人は、それぞれ天皇賞・秋には苦い思い出があった。トウカイテイオーは昨年の天皇賞・秋に出走するもメジロパーマー、ダイタクヘリオスの逃げに翻弄され七着惨敗。メジロマックイーンはその前年、二年前の天皇賞・秋に出走し一着でゴールするもレース中の斜行(他のウマ娘の走行進路を著しく妨害する事)により失格。去年はケガにより出てもいない。それだけに、この最強の二人による昨年の天皇賞・春以来の激突が見られると盛り上がるファンは多かった。その中に、ゼファーは殴り込もうとしていた。

 トレーナーとの打ち合わせ後、ゼファーはニホンピロウイナーに電話をかけた。彼女も、ゼファーの決断には驚いたようだった。

《あんた、天皇賞って。随分思いきったなぁ……なんで、また》

「俺は……あの光景が、ずっと忘れられないんです。貴方が皇帝を追い詰めた、あの光景を」

 あのレースは、二つの点で未だに語り草となっている。それはまだオープンクラスにすら上がっていなかったギャロップダイナが衝撃のG1初勝利を挙げたレースとして。そして、“皇帝”シンボリルドルフが二度目の敗北を喫したレースとして。しかしゼファーにとっては違う。マイル・短距離路線を走るウマ娘達には違う。

「貴方は、俺達に夢を見せてくれたんです。皐月賞で惨敗した貴方が、同じ距離で皇帝を追い詰めてみせた。王道を走る事を一度は諦めた貴方が、王道で最強の“皇帝”を追い詰めた。それが、俺にとってどれだけ大きな事だったか」

《皐月で惨敗って、嫌な事思い出させんじゃないよ》

 ニホンピロウイナーの苦笑する声がする。その声を聴くだけで、勇気が出る気がした。

「俺は……貴方の仇を討ちます。次の天皇賞、トウカイテイオーが出てくる。シンボリルドルフに憧れ、彼女の域に後一歩と迫ったスーパースターが。……彼女に勝って。そして、秋の盾を取る。それが、俺の今の夢です」

《そんなん言ってると、掬われるよ。天皇賞ウマ娘のマックイーンにライスも出てくるだろうしね。まぁ、でも……期待してるよ》

 そう言って、彼女は電話を切った。ゼファーは大きく息を吐き、そして気合を入れなおす。勝つ。必ず、勝つ。

 

 それから、少し時が経った。秋の天皇賞、その出走メンバーが確定する。そこに、トウカイテイオーの名前は無かった。彼女の復帰は、結局間に合わなかった。そして彼女と並ぶ本命、メジロマックイーンもケガで引退を発表している。大本命不在のレースは、既に波乱の予感となっていた。一番人気はメンバーで最も実績を残し天皇賞春秋連覇の偉業がかかるライスシャワー。しかし彼女は典型的なステイヤーであり、2000メートルの秋天は短いという見方が強かった。二番人気は有馬記念三着などの実績があるナイスネイチャ、しかしG1は未勝利である。三番人気はツインターボ、ここ最近二連勝と波に乗っている事が評価されてだろうが、彼女もG1での実績はない。その中で、G1二勝を挙げているにも拘らずヤマニンゼファーの評価は五番人気にとどまった。マイルでは強いが所詮はマイルまでのウマ娘、現に直前の1800m毎日王冠では六着、掲示板すら確保できなかったではないか。そんな声が聞こえていたが、ゼファーは気にも留めなかった。肝心なのは本番だ。中距離の走り方が、少し分かった気がしていた。

 レース当日。多くのファンがレース場に押し掛ける中、二人のウマ娘が観客席に立っていた。一人はニホンピロウイナー、そしてもう一人は、黒い長髪を靡かせたウマ娘である。

「……ここであんたに会うなんてね」

「おかしい? 今日はセキテイリュウオーちゃんの応援」

「ああ……そういや、あの子もトウショウボーイ門下生だっけ」

「そうそう。あの子張り切ってたからね……お師匠に勝ちを届けるんだって。あの子、懐いてたからね……生きてるうちに、勝ったところ見せたかったって言ってたから」

 そう言いながら、彼女はふふ、と笑みを浮かべる。

「でも、ゼファーちゃんにも期待してるよ。あの子の脚は魅力だよねぇ」

「単純な早さなら、間違いなく一番だと思っているよ。問題はペース配分」

「懐かしいなぁ。秋の天皇賞か……私が、最後に勝ったレースだ」

「そう言えば、そうなるんだね」

「ニッポーテイオーちゃんが前に勝ってたし、もう少しゼファーちゃん、人気出ても良い気がするけどねぇ」

 ニッポーテイオー。ニホンピロウイナーの引退後、空位となったマイル路線王者の座に就いたウマ娘。そして宝塚二着、天皇賞秋で一着と王道距離でも結果を出した。

「ただ、あの娘はそれ以前にも中距離の経験がある中での勝利だった。ゼファーは2000m自体が初めて……そこは、不安だけど」

「でも、だからこそ価値がある。距離以外の実力は完全に上位だと思うし……楽しみね」

 そう彼女が言った時、ファンファーレが鳴った。十七人がゲートに入り、そして、ゲートが開いた。その瞬間、一人のウマ娘が待ち切れないとばかりに駆け抜けていく。ツインターボがいつも通りの大逃げを見せ、それをロンシャンボーイが追う。ゼファーは三番手に付け、じっくりとレースの様子を見守った。いつもに比べれば速度はセーブしている。落ち着いて、じっくりと。そう自分に言い聞かせながら、ゼファーは少しずつ速度を上げていった。二番手のロンシャンボーイを躱し、そしてじりじりと先頭を走るツインターボに迫っていく。しかし、他のウマ娘達が後ろから迫って来ていた。そして最後の直線に入ろうと言う所で、遂にツインターボが失速する。それを躱してヤマニンゼファーは先頭に立った。ナイスネイチャが、ライスシャワーがやってくる。そして。

「勝つのは、私だァーッ!!」

 突っ込んできた、ダークブラウンの髪色のウマ娘。セキテイリュウオー。今年、全てのレースで掲示板内を確保している成長株。人気は、六番人気。

「……本当に、思い出すね」

 黒髪のウマ娘が、そう呟いた。

「あの時も、勝ったのは人気薄、実績薄の子だったね。セキテイリュウオーちゃんは、あの子よりは実績あるけど」

「……ギャロップ、か。そうなると?」

「さあね。ただ、こうなると有利なのは後ろの子でしょ。もう、ゼファーちゃんにはスタミナが残ってない」

 ゼファーの息が、上がって来た。既に彼女にとっては長い距離に差し掛かっている。いつもなら終わっている筈のレースが、終わらない。当然だ。四百メートルも長いのだ。

「クソ……!!」

「勝つのは私だ……私だ!!」

 セキテイリュウオーが走る。必死に走る。彼女にはG1勝ちの経験がない。初の栄冠を掴む為に、必死に速度を上げていく。その体が、僅かにゼファーの前に行く。

「お師匠に、勝ちを……勝ちを!!」

《ここでセキテイか! セキテイリュウオー来ている、セキテイリュウオー先頭に立った!》

 アナウンサーが叫ぶ。ゼファーの視界が次第に暗くなっていく。息が続かない。脚が動かない。王道とは、これ程のものなのかと思った。だが。

「俺だって……負けられねぇ、負けられねぇんだ! ここで、勝たなきゃ……ここで勝って、俺は、証明してみせる!!」

 喉が張り裂けそうだった。体中の感覚はもう失われていた。ただ、訳も分からず前へ、前へとだけ思った。

《この二人の叩きあいだ! この二人の叩き合い!》

 限界は、とうに超えていた。最後は気力だけだった。二人のウマ娘が、ほとんど並んでゴール板に迫る。

「持ち直した、ね。普通なら、あそこで後ろに躱されたら終わりなのに」

「……あの子はね。体は弱かったし、前面に闘志を押し出すタイプでも無いけど。あんな根性のある子、そうはいないよ」

「そっくりね、ピロちゃんに」

「……そうかもね、シービー」

《セキテイリュウオーか、ヤマニンゼファーか!! セキテイリュウオーかヤマニンか!!》

 アナウンサーがそう叫んだ瞬間、二人の体はゴール板を通過した。その差はほとんどない。勝ったのは。

《インコース、僅かにヤマニンか!? セキテイリュウオーか、ヤマニンゼファーか、二人並んでゴール板前!!》

 掲示板、一着に示された番号は、八番。勝者、ヤマニンゼファー。二着セキテイリュウオーは、ハナ差で敗れる形となった。

「勝……った……」

 それだけ呟いて、ゼファーはフラフラとターフに倒れた。芝が顔をくすぐる。体に力が入らなかった。

「勝った……んだ……俺が……2000mを、天皇賞を……!」

 そう呟いた横で、悲痛な泣き声が聞こえてきた。セキテイリュウオーが、内ラチに縋りついて泣き崩れていた。声は、掛けなかった。掛けられなかった。二人の差は、本当に僅かだった。しかし、それが全てだ。一着と二着には、決定的な差がある。勝者か、敗者か。

 ゼファーは何とか体に力を入れて、立ち上がる。次第に、勝った実感が湧いてきた。歓声が、空気を震わしていた。トレーナーが、おめでとうと言ってくれた。そして。

「おめでとう、ゼファー」

「あ……」

 ニホンピロウイナーが、下りてきていた。にっこりと笑って、そして抱きしめてくれた。

「姐さん、俺……!」

「やったね……勝てたじゃない、王道を。見せて貰ったよ、ありがとう」

「やりました……俺、やれましたよ!」

「最後、ヘロヘロだったのにね。よく頑張ったよ。次はどうすんだい? ジャパンカップ?」

「まさか。マイル……いや、スプリンターズステークスかな。去年はニシノフラワーにやられましたし、ここを勝てれば、俺は三階級制覇って事になる」

 これで、マイルと中距離のG1を制覇。短距離のスプリンターズステークスを取り、三路線のG1覇者となれば、これはニッポーテイオーも成し遂げていない大記録となる。

「そいつは、ちょっと魅力的でしょ? 一丁頑張ってみますよ」

 そう言って、ゼファーは改めて観客席を見た。一人の幼いウマ娘が、小さな手を夢中で叩いているのが見えた。

「あの子は……?」

「今、目をかけてる子でね。あんたの走りをみせてやりたかったんだ」

「へえ……そいつは、楽しみっすね」

「きっと、デカい事をしてくれる。まぁ、まずはあんただね。パッとやろう、今日は」

「ええ。……そうですね」

 そう呟いて、ゼファーはもう一度掲示板を見た。確かに一着の所に輝いている、自分の番号。それが誇らしかった。不意に、突風が吹いた。芝が揺れ、大ケヤキがさざめいた。その風が、疲れ切った体に心地よかった。

 




 ウマ娘が想像以上に盛り上がっておりまして、これによって競馬人気が向上すればいいなと思っています。ただその一方で、このコンテンツの危うさも感じています。結局のところ、このコンテンツは多くの競馬関係者の方々の善意の上で成立しています。どれだけ人気が集まろうが、関係者の方々の反発が強まればすぐにでも消し飛ぶでしょう。私自身この様な作品を投稿していますが、やっている事が完全なグレーゾーンであることは認識しています。改めて、少しでも問題があると判断すれば、ただちに作品を削除するつもりでいます。


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