【完結】男女比率がおかしい貞操観念逆転アカデミアだけど強く生きよう (hige2902)
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第一部 サキュレンタム編
第一話 ホロンフローラム


【注意書き】

 原作の登場人物のイメージを損なうような印象を受けるかもしれません。

 

 

 

 xxxxxxxxx

 

 

 

 おれはおかしい。と、彼は理解している。理解して生きてきた。納得とは違うが。

 

「よーし、じゃあ50メートル走。芦戸と蛙吹からー」

「はーい」

 

 桃色をした肌の女性が元気よく答え、猫背の女性がケロッと返事をする。スタートラインにつき、合図とともに走り出す。軽快にグラウンドを踏み、土が小さく舞った。

 春の新しい風が吹き、髪を揺らしていた。心地よい日差しに、汗は柔肌を滑り落ちる。

 やがて彼も含めた全員分が終わり、別の種目に移る。

 

「拳藤さんの握力計でっか! っていうか数値スゴッ!」

 

 彼の視界の端で、『大拳』の個性により巨大な掌をした女性の握力に湧いている同級生たちがいた。彼は思う。果たしてこの学校で正気を保てるのだろうか。

 暗示のように、おかしいのはじぶんだと念じる。世間の常識を思い描いた。

 

 オールマイトの肉体の輪郭がはっきりでるコスチュームは性的すぎるとマスコミが世間を煽り、ツイッターではマスキュリストが男性のイラストを性的消費だと騒ぎ立て、ベストジーニストをパロったAV(ベストしーニストとかいうピスもの。想像したくない)が似過ぎていた為に裁判沙汰になり、スマホの広告では普通の女性が青年に迫られてまんざらでもないし、ソシャゲでは女性の偉人や船が美男子化されている。

 

「次、取蔭ー」

 

 呼ばれた少女が立ち幅跳びのスタートラインに立つ。長くウェーブする黒髪をかき上げ、悪戯に笑ってギザ歯をのぞかせる。『トカゲのしっぽ切り』の個性で両足を切り離して動かし、本体は宙に浮いていた。

 

「えーそれあり?」

「へへへー、麗日さんだって『無重力』使えばよかったのに」

「いやー、自分に使うと酔っちゃうんだよね」

 

 彼はきゃいきゃいと楽しそうにする彼女たちを極力視界に納めないようにする。決して、あっつ~と言いながら胸元を引っ張りばたばたと服で扇ぐ様を見てはならないのだ。それが普通だ。男性は女性の胸や、ちらと覗くブラなどに性的興奮を覚えない。

 ましてや日本屈指の有名ヒーロー養成機関である雄英に在籍する学生が、見知ったばかりの女性に対して性的な目を向けるなどあってはならないのだ。

 

「みんなすごいねえ、わたし肉体系の個性じゃないから置いてかれてる気分だよ」

 

 そう話しかけたのは葉隠と呼ばれた『透明』の個性持ちだ。透明なのでとうぜん、首元から下着が丸見えだった。汗でしっとりしているだろうブラの内側が、なんだかとても生々しい。彼は心を無にしてなんとか気の無い返事で誤魔化す。

 大丈夫、じぶんがおかしいと自覚できている間は大丈夫。心の中で、強く言い聞かせる。

 

「じゃあ体力測定終了ね。成績や順位は端末に送っといたから、各自得手不得手な分野を理解しておくように」

 

 担任のミッドナイトが体力測定の終了を告げる。長い外ハネの黒髪は毛先まで手入れが届いており、ぴったりとしたヒーローコスチュームは悩ましいボディラインを強調している。

 そんな担任の言葉に、「あの」と挙手をする女生徒が一人。

 

「なに? 八百万」

「克服ではなく、理解するだけでよろしいのでしょうか」

「いい質問ね。ヒーローになった時、ボール投げや反復横跳びなんて役に立たないかもしれないし、それよりも個性や将来的な活動目的に合った箇所を伸ばしていく方がいいでしょ?」

 

 なるほど、と真剣な顔で納得する八百万を盗み見る。黒髪を後ろで纏め上げ、利発そうな顔立ちをしており、とにかくまあ~乳がデカかった。男性にとって、髪が長いか短いか程度の認識でしかないその身体的特徴から目を離すのに、彼は途方もない精神的労力を支払った。支払った先には気をやらないようにしていたミッドナイトの立派な乳がある。前門の虎後門の狼。

 

「どしたの? ぼーっとして、大丈夫?」

 

 ミッドナイトが怪訝に腕を組むと後門の狼が大きく口を開けた。ブラの無いぴったりとしたヒーローコスチュームが、胸の変形を如実に表す。

 

「大丈夫、です」

「保健室連れてってあげよっかー?」

 と芦戸が顔を近づけて覗き込む。

「ありがと。でもちょっと疲れただけだから」

 

 せっかくの親切だったが、まさかミッドナイトの胸に気を取られていたとは言えない。変態のレッテルを貼られてしまう。どうも先ほどから視線がチクチクと痛い、気がする。顔に出てたかと青ざめた。普通はいきなり女性に言い寄られて嬉しい男性などいない。

 ぞろぞろと更衣室に向かい、そこで男女に分かれる。

 

 まあおれがおかしいのは理解できるが、と彼は一人ぼっちで体操着を脱ぎ、シャワールームで汗を流す。

 雄英第一学年ヒーロー科14人の中の唯一の男性は呪うように言った。

 

「男女比率がおかしい。これだけは絶対おれとは別におかしい」

 

 彼にとって世界がもたらす理屈の一つ、貞操観念は逆だった。

 実は他にもある。伝説のトップヒーロー、オールマイトが在籍していた「西の士傑」と言われれば、東に雄英ありと返ってくるこんな世界の逆を、彼は知りようも無いし関係の無い事だ。

 いま、士傑ではOFAを継承した少年が新たな一歩を踏み出している。

 

 

 

 †††

 

 

 

 乙女の汗の香りが充満する更衣室では、どこにでもあるようなガールズトークが繰り広がられていた。入学したてでまだ面識も無いので、どこの中学校出身だとか、お互いの個性の話だとか。どこまでふざけて喋っていいのか、下ネタは可なのか、共通の興味はあるのか。

 

 当たり障りのない話題が尽きると妙な沈黙が降りた。ほとんどの人間はその理由を薄々勘づいている。勘づいているが、故に口に出すのをはばかられた。

 隣接しているシャワールームに足を踏み入れると、清潔でモダンなデザインは高級フィットネスクラブのようだった。ぬるい湯が身体を打ち、タイルに流れる音が響く。湯気がたゆたい、各種用意されていたボディソープ等の香りで満たされる。

 ……

 別に仲が悪いだとか、気まずい訳ではない。ただ、誰も最後にして最大の話題に触れられないからだ。

 

 話してぇー、と芦戸は頭を抱えるように髪を洗う。話したい、あいつの汗めっちゃいい匂いしたって下ネタとはいかないけど、ネタにしたいー。

 だがそれを切り出すには時期尚早だ。男にがめついドスケベという烙印を押されてしまう。介抱にかこつけて顔を近づけたが、善意が建前として機能するのでセーフだろう。とにかくエロやスケベといったステータスは、一つ間違うと今後の学生生活に晴れることの無い暗雲をもたらしかねない。もう少し、あとほんの少し仲良くなれば笑い話で済むのだが。

 

 誰か言え。そういえば雄英のヒーロー科に男が一人しかいないのは珍しいって言え。

 大丈夫。「なに~男を意識してんの~? これから一緒にヒーローを目指す学友をそんな目で見るの~? そんなだから女はヤリたいだけって思われちゃうんだよ~」 なんて意地悪な事は絶対言わないから。

 

「そういえば雄英のヒーロー科に男性が一人しかいないのは珍しいですわね」

 

 勇者かよ……と身体を伝う水を拭きながら多くが感銘を受けた。尊敬の眼差しを一身に集める八百万は特に何も気にしていないといった感じで、白い乳房の下まで丁寧に水気を拭きとって続けた。

 

「逆に士傑は男性の方が多くて、ヒーロー科も2クラスあるそうですが」

 

「へ、へーそうなんだ。まあオールマイトが在籍してたってだけあって人気があるんだね」

 と耳郎が勇気を出して背を向けたままさりげなく話を広げる。顔の前では耳たぶから伸びるシールドをツンツンさせていた。斜めに切りそろえられた前髪の下で、半目の視線がロッカーを泳ぐ。

 ぴくりと同好の士の気配を感じ取った取蔭が反応する。

「じゃああれだね、向こうは女子の方が少ないって事かー。あんまり関係ないけど、ちょっとだけ羨ましいかな」

 芦戸が拾って続ける。

「まあでも逆に気を使うよね。男が多いと目のやり場に困るときあるじゃん。前の席のやつの……下着がさ、机に伏せて居眠りしてたりすると見えちゃう事あるじゃん? あるよね?」

 

「あれ注意していいのか迷うんだよねー」

「あ、あるわー。あるある。わたしは見ないけど、他の人に見られてたら可哀想だからさー」

 

 三人は視線を固く結んだ。こいつらなら下ネタを振っても大丈夫そうだな、と理解する。ヤンジャンで連載されている大人気ラブコメ「恋彦†国志」の桃園の誓いを彷彿させる。

 この後すぐにその話題で盛り上がった。異世界に転生した少女が、主人を探していた二人の遍歴の騎士と命を共にする誓いを立てる名シーンである。誓いを立てた誰かが死ぬと自動的に残った者は苦しんで死ぬ魔法の契約だったと後から知らされた主人公の心情は、涙なしには語れない。騎士の内一人は高齢のイケオジ。もちろん寿命でも契約は執行される。

 

 大丈夫。この三人のうち誰かがエロ女爵(小学生で性事情に詳しいとよく付けられるあだ名、蔑称)のそしりを受けようとも、わたしたちは見捨てない。クラスでたった一人の男性である彼に白いまなざしで見られたとしても、一蓮托生だ。

 

 だが猥談はまだだ。この場にはあまりにも不確定要素が多い。

 男性が性事情を疎んでいるのは一般常識として存在する。マンガの世界では男性も結構強い性欲があると知っていたが、マンガはマンガだ。

 なにも三人は、これから三年間を共にするであろう彼に好んで嫌われたいわけではない。ラッキースケベの一度や二度はあるだろうし、むしろあわよくばワンチャン……とさえ考えている。

 なのでここで、ひょっとしたら彼にエロ女爵である事をこっそりと告げるようなヤツがいる可能性を考慮すべきだった。まだ名前すら憶えていない同級生もいる事だし。

 

 芦戸はブローをかけながらそれとなく周囲を見渡す、あまりセクシャルな話題になれていないのか顔を赤らめている者もいる。しかし咎められる事も無かった。エリート校の雄英と言えど案外堅苦しく無く過ごせそうで、少しは気が楽になった。

 

 

 

 †††

 

 

 

 常識に疑念を抱いたのならスマホを見ろ。

 そこに書いてあることが普遍性を持つこの世の理であり、男女間の貞操観念や性的興味ベクトルがおかしいとのたまうのは天動説を声高々に主張するのと同義だ。

 マイノリティとして男性でも性に貪欲な人間はいるが、同性からは竿軽男の嫌悪を込めて、一部の異性からは多淫の愛好を込めてバックやハリットと揶揄される。

 兎は年中発情期が訪れる事から、雄兎を意味するBuckまたは、盛りの付いた雄というスラングである Hung like a rabbit を短くしたHulitが語源だ。

 

 まだ疑うのならユーチューブで適当にマフィア抗争ものの映画を検索しろ。お年を召された淑女が、銃弾とバック、ハリットの応酬劇を繰り広げているPVが転がっている。

 もちろん中学校の英語の授業で、BagとBackの発音で女学生には密やかな笑いが起きる。それを男子学生は軽蔑的な目で見るのだ。

 というか、トラックが後進するときに流れるアナウンスが「バックします、バックします」となって対物性愛がどーのこーの話かもしれないが、文字では表現できない微妙なイントネーションがあるので大丈夫だ。バァックを短く言うのが正しいスラング。

 

 彼は雄英の広大な敷地にある自然公園のベンチで、スマホをスワスワしてそんな情報を仕入れる。

 いかつい刺青の入った女性ラッパーは、握った拳の人差し指と中指の間から親指を覗かせるフィグサインを掲げ、Fucking buck! とリリックを刻む。まあまあ好きなムービークリップでは、大御所女優のサミュLLジャクソンがクォーターパウンダー・チーズを片手にファザファカッ! と凄んでいた。

 

 不安になった時、彼はよくこうやって世界の常識を摂取する。そうすることで、じぶんはおかしいのだと再認識する。そうしなければ、都合よく女性をとっかえひっかえするバックになってしまうだろう。

 それのなにが悪いのか? 刹那主義に身を任せて快楽を貪ればよいと悪魔が囁くが、それは邪の道である。そもそもおれが女性に相手されるとは思わないし、と彼は第二食堂で買ってきたサンドイッチを齧った。

 

 合鴨のスモークとアボガドが入っている。スパイスがほどよく利いていて美味かった。スマホを収めて目の前の自然に目を移す。公園という事で人の手が入っているが、画一的に花壇が配置されているわけではなく、野草を中心に自然状態を維持しながらベンチや噴水などの人工物が配置されている。

 これだけでも見る価値はあったが、雄英にはこんな場所があちこちにあるらしい。一人ぼっちの食事の寂しさも、多少は紛れる。

 

 一人。そう一人なのだ。

 ヒーロー科 第一学年唯一の男子学生である彼を、誰も食事に誘う事は無かった。いや出来なかったのだ。

 例えばであるが、男が女を積極的に性的な目で見るような貞操観念が逆転した不自然な世界があったとしよう。そこではきみは男性で、新学期早々クラスでたった一人の女性を食事に誘えるだろうか? っていうかよっぽどのムードメーカーじゃないと不可能。

 へっ! 女になんてキョーミないね(向こうから話しかけてこない限り)やっぱ男同士でゲームやマンガの話で盛り上がる方が楽しーや! と斜に構えること請け合いである。

 

 しかもなんか軟派なやつと思われそうだし、断られたときのダメージが半端ない。これから三年間、クラス替えも無く、昼休みの食事に誘ったけど断られた異性と学校生活を送るとか、なんかの刑罰? ここ刑務所? 前世でなんかした? 

 故に彼は孤独にグルメしていた。クラスメートを誘ってみようかと考えたが、なにか近寄りがたい雰囲気があった。彼のあずかり知らぬ上記の理由により多くの同級生は距離を取っていたからだ。

 

 まあ、特殊な状況でもあるし、会って一日目だからと悲しみをコーヒーで飲み下す。慰めるように木漏れ日の中で蝶が舞い、小鳥が鳴く。

 するとどこか幼さの残るあどけない声がした。

 

「ねえねえ、きみ、今年の一年生でしょ? ヒーロー科の。そうだよねえ」

 

 彼は声のした方向、つまりは上を見上げる。噛みつきたくなるような太ももと、白い下着に隠されたたっぷりとした尻がふわりと降りて、隣に座る。春の晴天をそのまま切り取ったかのような気持ちの良い長髪が、遅れて重力に従う。なんらかの個性による仕業だろう。

 きょとんとした瞳が彼に向けられた。

 

「あれ? 違った?」

「はい、あっいいえ」

「えーどっちー、変なのー」

 

 けらけらと笑い彼の肩を叩く。彼はそれどころではなかった。下半身も凄かったが、乳も凄い。両手で収まるのか。

 

「おれはヒーロー科の一年です」

「やっぱり! 噂で聞いたよ、まわりはみーんな女子なんだって?」

 空から降りてきた少女は、胸の前で両手の指先を合わせた。たわわな胸が押しつぶされる。

 

「はあ、まあ」

「すごーい! わたし波動 ねじれ。よろしくね。三年生だから、学校で分からないことがあったら何でも聞いて」

 パッと両手を広げると、圧迫から解放された乳房がぽよんと揺れる。彼は心を押し殺し、コロッと変わった話についていく事だけを考える。とりあえず名乗らねば失礼だろう。

 

「あ、どうもよろしくお願いします。おれは──」

「もうご飯食べた?」

「いえ、途中ですけど」

「じゃあ一緒に食べていい? わたしまだだから」

 

 返事を待たずに波動は小脇に抱えていた包みを広げた。大食堂のランチラッシュからテイクアウトした大盛り蟹チャーハンをパクつく。

 

「いいですけど、あの……」

 なんで? とはさすがに聞きづらい。正直、まだ同級生とも打ち解けてないのにいきなり上級生と昼食を共にするのは気まずい。何を話せばいいのやら。

 ちらと盗み見ると、はふはふとチャーハンを頬張っている。目が合った。

 

「はへふ?」

「え?」

 

 ねじれは包みから小盛り蟹チャーハンのパックを取り出し、彼に差し出した。勢いに押されて受け取ると、まだ温かい。

 

「ほいひーよ」

「はあ、じゃあいただきます」

 

 同梱のスプーンで一口やると、波動が正しいとわかる。なんの蟹かはわからないが、他の具材によって引き立てられたそれはカニカマではないことがわかる。

 

「あっ美味しいですね」

 

 そーでしょー、と波動はかつ丼を取り出してパクパクやる。なるほど、その体型はそうやって生み出されたのかと彼は失礼な合点をいかせた。

 

「よかったらこれ、あと一切れしかないですけど。チャーハンを頂いたお礼に」

 

 最後のサンドイッチを差し出すと、目を輝かせて頬張った。

 最後にジャスミン茶の500mlをごくごく飲み干し、一息つく。

 

「ねえねえ、友達出来そう? 別に一人でもいい派?」

 踏み込んだ質問だったが、怒涛の出来事に麻痺した彼の感性はどうでもいいかと判断する。

「どー、ですかね。やっぱりちょっと浮いてる感は……クラスの人とは仲良くなりたいですけど」

「やっぱちょっと寂しいよね! わたしもそうだったし」

 

 どういう事なのかと横顔を見やった。天真爛漫だった表情がほんの少し陰る。

 

「わたしの学年ね、女子がわたしと甲矢 有弓(はや ゆうゆ)って子の二人しかいなかったんだよ~極端だよね。友達作ろうと思ったけど、なかなか男子と仲良くなれなくって。今はね! 通形ミリオって知ってる? 仲良くなれたんだけど。きみはさ──」

 

 波動が彼の視線を受け止め、ニカッと笑って言った。口の端にチャーハンのネギがついている。

 

「──きみは一人みたいだから、わたしには有弓がいたけど。だから一緒にご飯どうかな~って思って……迷惑じゃなかった? 一人でゆっくり食べたい派かな?」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 彼は胸を打たれた。そしてじぶんがひどく穢れているように思えて仕方が無かった。こんな純真な彼女の肢体を性的に眺めるなんて……バカ! アホ! ドジマヌケ! 

 ヒーロー科に籍を置くものはかくあるべしという心意気が眩しい。

 別にエロいことを考えたらヒーロー失格などと馬鹿げたこと主張するつもりはない、彼女にも性欲というものは存在するだろう。それを理解しながらも、彼は強い感銘を受けた。

 危うく目から涙を零しそうになりなる。

 

「いえ。おれも波動先輩とご飯できて楽しいってか……嬉し……」

 

 なんだか気恥ずかしくなって後半は声が小さくなり正確には伝わらなかったが、とりあえずは悪い気はしなかったのだろうと波動は受け取った。

 

「ねえねえ、また一緒に食べる?」

「はいぜひ! でも波動先輩にも友達が、その、甲矢さんでしたっけ……」

「うん! だからねー、週一で食べようよ! 毎日わたしと昼休憩を過ごしてたらクラスの子とご飯食べられないでしょ? わたしも有弓と食べたいし。ほんとはみんなを呼べばいいんだけど、いきなり大人数で来られても戸惑わない?」

 

 すごい、すごい気づかいだ。おそらく最初の押しの強さも計算の内なのだろう。登場の仕方は少しアレだが。

 

「じゃあ来週またここで……あと、ネギついてますよ、口のとこ」

「え? ほほ?」

 と波動は赤い舌を口元に伸ばす。

「いや反対です」

「ほほはー!」

 

 れろれろと動く舌によからぬ妄想をしてしまう。そのこと自体が恥ずかしかった。

 とにかくそのようなわけで、彼は毎週 波動ねじれと昼食を共にすることになったのだ。

 じゃあねー、と彼と別れた波動はてくてくと二年生の棟へ向かう。その途中で彼女の名を叫びながら走ってきた親友に勢いよく肩を掴まれる。

 

「ねじれっ! あんたっ……正気か!?」

「どしたの有弓」

「どーした……じゃあ、ない。でしょおがあ」

 

 有弓と呼ばれたベリーショートの女学生は息を整え、血相を変えたままあわあわする。

 

「雄英のビッグスリーとまで呼ばれるあんたが、いきなり男子と、それも一年生と無理やりご飯食べるとかさあ……場所が学校じゃなきゃ事案よ事案! このご時世、何が原因で燃えるかわかんないんだから! 雄英で三本の指に入るのよ、つまり上から数えて三番以内って意味なのよ、波動ねじれは~」

 むぅーと口を尖らせる。

「嫌そうじゃなかったよー」

「あんねえ、見てたから。あんたがパンツ丸出しで上から降りてくるところ。わたしはもう共感性羞恥で顔を覆ったよ。そのまま小さくなって消えてなくなりたかった!」

「えっ!? うそぉ~見えてた?」

 

 お袋の下着と一緒に洗うんじゃねえよ! とは、多感な時期を迎えた男子学生がいるご家庭ならたまに耳にするセリフである。

 実際に汚い汚くないは別であるが、好き好んで見たい男性はいないだろう。ましてや食事中とあっては食べる気も失せようもの。おそらく上級生なので会食を断るに断れず渋々といったところだろう。有弓は二年生の棟から二人を見下ろし、そう判断した。

 

「しっかりしろねじれぇ~! パンツ見せながらやってきてご飯食べようなんて言う女、ただの変態だろ~! 外だったら通報されてるぞ、あの子もひょっとしたら先生にチクるかも……」

「ん~でも嫌そうじゃなかったけどな。サンドイッチとかくれたし、来週も一緒に食べようって約束したよ? ぜひってコーハイくんも言ってたし」

「マジ!? じゃあねじれの事好きじゃん!」

 

 今までうろたえていた有弓の表情が一変してワクワク顔になる。

 

「またそれ~。こないだも、シャー芯切らしたら隣の男子が一本くれたって話で同じこと言ってたよ」

「いやそいつもねじれの事好きだって!」

「いつも同じ車両に乗ってる同級生は?」

「そいつもねじれの事好き! あんたが羨ましい! なんでそんなモテんの!?」

 

「え~そんな事ってある~?」

 

 有弓はちょっと親切にされたり笑いかけられたりボディタッチがあると、あっ……もしかしてわたしの事……好き? と思ってしまうタイプなのだ! 

 

「今回は一番ある! だって考えても見てよ、変質者みたいな登場の仕方で一緒にご飯食べて次また会う約束するってもう脈ありじゃん! 毛細血管ぜんぶ動脈だよ! ヒマラヤ山脈!」

 

 興奮交じりに熱弁する友人をクールダウンさせながら、そうかなあと波動は慎重になる。この口車に乗せられた事は一度や二度ではない。もちろん彼女自身が手ごたえのようなものを覚えたから挑んだのだが、あえなく撃沈している。

 原因は彼に対する態度を思い返せば薄々と思いつくだろう。波動ねじれは誰に対しても不用意に距離感を詰め、独特の押しの強さでとにかく思った事を言い、尋ねる。そこに性差の区別は無いが、彼女を知らない人間からすれば数撃ちゃ当たると言わんばかりに男性に粉をかけているようにしか見えないからだ。

 いくら波動ねじれに魅力があろうと、その軽薄さの誤解を解かない限り世の男性は距離を置くだろう。

 

 てくてくと教室に向かいながら独自の恋愛観を力説する有弓は、ふとあの一年生とねじれが付き合ったらどうなるかが頭によぎる。

 ねじれと有弓の出会いは雄英からだが、クラスでたった二人の同性ということもありすぐに打ち解けた。ヒーロー科に入れる人数は多くても2クラス程度で、訓練に付いて行けずに転科により減る事はあっても、他科からの編入や転校により増える事は滅多にない。

 つまり人数が少ないので進級してもクラス替えが無く、やがて二人は互いの家に泊まりにいくほど仲良くなった。

 

 女が二人で泊まってやることと言えば夜通しゲームをしたり、スナック菓子をつまみながらネトフリで映画を見るなり、同級生のあの男子がエロいだの好みだのを駄弁る。

 もちろん下の話もする。

 そして有弓は波動のアダルトグッズコレクションを目にすることになる。多少は知識に自信があったが完膚無きにまで打ちのめされ、中学時代のエロソムリエの称号を返却したい気分だった。

 

 言うまでも無く周知の事実として、成人向けコンテンツは15歳からである事が公然の事実であるなどとわざわざ書き記す必要はないだろうが、必要そうなので書き記す。

【この世界では成人向けコンテンツは15歳から買ったり見たりしていいんだよ】

 

「じゃあ有弓はこういうの好きでしょ~」

 そう言ってラップトップの購入履歴に表示されたサムネイルがクリックされると、どストライクなブツだった。どうしよう一発入れたくなってきた。

「う、うおぉ。スゴっ……え、ちなみにねじれはどんなので入れてんの、撫でる派?」

「わたしはこういうのが好きー。あんまり指は使わないかな、電マとかバイブが多いよ」

 

 お、大人だ。有弓は敗北した。いままでに何度もそういったアダルトグッズを買おうとしたが、恥ずかしいやら何やらで指で妥協していたのだ。

 有弓の世代感覚としてはだいたい高校卒業を前後に道具を使うようになるものだと思っていた。井の中の蛙大海を知らずである。だがここから漕ぎ出していけばいいのだ、新たな快楽の大海原へ……バイブで作ったイカダに乗り。

 

「へ、へえー。道具派かあ~……オカズも結構スゴイね……ていうかどんだけあんの? 入れるの間に合わないでしょ」

「ん~すぐ飽きちゃわない?」

「いやいや、こんなの一日何回入れてんだってくらいの量でしょ、AVも電子書籍も」

「え?」

 その時のきょとんとした無垢な表情を、有弓が忘れる事は無いだろう。

 

 有弓は頬杖をつき、澄ました顔で授業を受ける友人の顔を見やる。普段の彼女からはその片鱗すら感じさせない。対人距離感は近すぎるが、それは無邪気からくるものだと知っている。決して性欲からではない。つまり性欲は対人と内心で完全に分離されているのだ。その封じられ煮詰められた業の一匙は、同性である有弓すら少し引いてしまうほど。

 大丈夫か、あの一年。有弓は知らずの内に固唾を呑む。

 

 こいつはモンスターだぞ。

 

 この結田付中学のエロソムリエでさえ首を垂れるほどの、となんかじぶんをバトルマンガの強キャラにしてそんなことを考えていた。

 




わかりにくとの意見があったので、それとなく匂わしていた違いみたいなのを書いときます。
オールマイトや緑谷くんや轟くんとかは士傑にいって頑張ってます。


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第二話 デンシベンセ

「じゃ授業始めるわよー」

 いつもの調子でミッドナイトは教壇に立って生徒を見下ろす。どいつもこいつも、どこか物足りなさを覚えている顔をしていた。

 それを感じ取り、小さく笑って言った。

「今日はお待ちかねの戦闘訓練よッ!」

 

 ミッドナイトの一声に、おぉ~と教室が沸いた。

 体力測定以来 一般教養に加えて個性関連の法律の授業が続き、これといってヒーロー科特有の個性を使った授業は無かったからだ。欲求不満であることが手に取るようにわかる。

 また、今回の実戦形式に合わせてヒーローコスチュームも支給された。アタッシュケースが配られ、各々が胸を躍らせる。

 

「いい? 現場のプロヒーローは大小様々なアイテムを使ってるけど、誰もが一番最初に手にするのがそれ! この三年の間に使って使って、使いつぶして、ボロボロにぶっ壊して、改良を重ねて自分のトレードマークに出来るくらい使い込むのよ!」

 

 生徒たちに与えられたものは画一的な戦闘服ではなく、あらかじめ学生からデザインや個性を使う際の機能の希望を募った上で企業が製作したものだ。

 市場には出回っていないような素材が使われており、防刃防弾防炎その他諸々の性能が詰め込まれたワンオフアイテムとも言える。

 

 いまはまだ卵だが、ヒーローコスチュームを手に入れるという事は、間違いなくヒーローとしての一歩を踏み出した証なのだ。

 ヒーローの根源ともいえるアイテムに、彼女らは胸の内にある強い意志を燃やす。必ずヒーローになるという。

 

「じゃあ着替えてから、ん~どこにしよっかな……じゃあ、訓練グラウンド・エコーに集合! わたしは先に行ってるから……そうねえ、今から十分以内ね」

「えっ!? あの……時間短くないですか?」

 と麗日が戸惑う。そもそもまだ新学期は始まったばかりで、訓練グラウンド・エコーとやらの場所も知らされていない。

 

「迅速に現場に駆け付けるのもヒーローとして必要な事よ? もう授業は始まってるんだから、これも訓練の内!」

 

 発破をかけるように手を叩くと、まず彼がアタッシュケースを引っ掴んで窓から飛び降りる。続いてハッとした拳藤が教室のドアに駆け出した。1-Aしか使っていないヒーロー科 第一学年の棟の廊下は、もちろん人気が無くガランとしていている。リノリウムの床が窓から射す春の陽を柔らかく照らし返していた。全速力で走り、更衣室に向かう。

 

 その道中で彼女は自責した。舐めていた。ヒーローらしい授業に浮ついていた。ミッドナイト先生の言う事は一部の隙も無い正論だ。着替える時間が無いから? 事件の発生場所がわから無いから? だからヒーローの到着が遅れたなどという言い訳は、プロになってからは通用しない。

 

 急に飛び降りた彼にぎょっとしたクラスメートが窓の外を確認すると、何事も無く走っていた。安堵するが、気持ちを切り替える。個性で落下ダメージを受けない者は飛び降りてショートカットし、残りは拳藤を追う。

 

 八百万が生徒手帳を確認すると訓練グラウンド・エコーは走って七分ほどだ。幸いにも第二更衣室を経由すればギリギリ間に合う。(遠い場所の訓練施設自体に更衣室は無い。広大な雄英の敷地で忘れ物したら取りに行くの大変だから)だがそれは着替える時間を考慮しない場合の話だ。多くの生徒はここで躓くだろう。

 

 イジワル。とボブカットの少女、小大 唯はトップギアで走っているにもかかわらず、その物静かな表情を崩すことなく現状を分析する。

 物理的にはどうやっても間に合わない。どれだけ急いでもタイムリミットを五分は過ぎる。着替える時間がボトルネックになっていた。もちろん着脱衣のしやすさも基本設計思想の一つなのでそう手間取ることはないだろうが、ヒーローコスチュームに袖を通すのは今回が初めてなのだ。

 

 つまり──

 と行く手阻む高いフェンスを『サイズ』の個性で小さくして乗り越える。器物損壊にならないように再び元に戻した。もちろんアタッシュケースは小さくしてポケットに入っている。

 

 蛙吹 梅雨は脳裏に描いたルートを再確認しながら逡巡する。

 第二更衣室を経由しなければ間に合うだろうが、それは野外で着替える必要があるという事になる。女性なので多少恥ずかしい程度で済むが、実戦形式の授業でそれは悪手だろう。プロヒーローが外で裸になれば逮捕される。

 

 人を助ける為という免罪符があれば、何をしても良いというわけではないのだ。緊急事態を除き、原則としてヒーロー協会の定めるヒーロー倫理の遵守と、現実に起きている危機の打開を両立させてこそ真のヒーローと呼べる。

 

 最悪トイレで着替えればいいが、これもヒーロー倫理的にアヤシイ。多目的トイレはもちろんの事、トイレとは用を足すための場所であり、決してヒーローが着替える為に作られた場所ではないからだ。

 

 つまり──

『カエル』の個性で第一体育館の屋根まで一息で飛び越えて、迂回する時間を省く。

 

 つまり──必ずどこかでショートカットしなければならないという事。

 それが個性を用いた手段か機転を利かせた手段かは問われないだろう。なにがなんでも制限時間内に現場に到着するという意思を試されている。

 

 クソッ。と耳郎は道中で付けていたネクタイを投げ捨てる。少しでも着替える時間を稼ぎたかった。下着だけになりたかったが、撮られてSNSに上げられれば燃えるのでヒーロー倫理的にアウトだ。ブラウスとスカートを捨てたいのを我慢する。もう服なんてどうでもいい。汚れようが無くなろうが、ピンチに間に合うヒーローであればそれでいい。

 

 第二更衣室に到着するが、床にはかなりの数の制服が散らばっていた。壁掛け時計を確認する、小さく舌打ちした。ボタンを引きちぎりながらブラウスを脱ぐ。

 おそらくドベだ。

 黒のジャケットを引っ掴み更衣室を後にする。肺が苦しい。身体に乳酸が溜まっているのがわかる。

 

 息を乱しながらようやく訓練グラウンドに到着する。厚い壁に囲まれた場所で、市街戦を想定しているのか小さなゴーストタウンをそのまま切り取って持ってきたかのようだった。実技入試で使われたものとよく似ている。

 ゲートをくぐると全員が集まっている。何とも言えない雰囲気で、みな俯き、視線を逸らしていた。

 

「ウチっがっ……はっ、ふぅー。はぁー……最後?」

 

 呼吸を整えながら取蔭に尋ねると、歯切れの悪い肯定が返ってきた。腕時計を見やると三分の遅刻を証明している。

 ひょっとして遅刻者が出たら連帯責任で罰が課されたのかもしれない。耳郎は迷惑をかけてしまったと重い気持ちで周囲を探る。さすがに敵愾心のようなものを抱いているような人間はこのヒーロー科にはいなかった。

 

 いなかったが、どうもクラスメートは沈んでいるというよりも気恥ずかしそうに眼を泳がしているように思えた。

 怪訝そうな耳郎に、芦戸が原因を顎で指す。その先には、体育座りで頭を膝にくっつけて落ち込んでいる彼がいた。

 

 あんなんグラビアかエロ本でしか見た事ねーよ。というのが耳郎の正直な感想だった。

 

「え? なにあれ、処女を殺すセーターのインナー版? いいの? ヒーロー倫理的に」

「いや、わからん。なんであんなバッ……ある意味派手なコスチュームなのか」

「取蔭……いまバックって言おうとしたでしょ」

「そんな事ない」

 

 うずくまる彼の身体を、ぴったりと吸い付く黒のホルターネックは浮き彫りにしていた。ざっくりと開いた背中や二の腕の筋肉が思春期の女性には目に致死毒だ。同色の膝丈のインナースパッツは、もし彼が立ち上がったらその局部が象られるのではないかという期待に胸が熱くなる。

 

「でもまあ、みんなそわそわしてる理由がわかった」

「いやヤバいのはもう一人いんだわ」

「なん……だって」

 

 耳郎は愕然としつつも、三人で眼福と言わんばかりに話の流れでガン見する。そんな視線が向けられているとは知らない彼は、心底呪っていた。何にかはわからないが、たぶんこのコスチュームを用意した企業にだろう。それかデザインをおまかせにしていた自分に対してである。

 

 彼が更衣室にたどり着き、脱ぎながらアタッシュケースを開けた時にまず不良品かと思った。内容物がぜんぜん足りていない気がする。取説で同梱物を確認するが、間違いはないらしい。

 嘘だろ、と言葉を失うがその間にも時間は刻一刻と流れていく。やむを得ず着替えて訓練グラウンドに向かう。

 

 もちろんこれには男性ヒーローをとりまく風潮といくつかの手違いと勘違いが噛み合ってしまった結果だ。

 とあるヒーローのコスチュームが卑猥だとSNSでマスキュリストに燃やされたのはまだ記憶に新しい。その結果企業とヒーローは謝罪に追い込まれた。

 この事件から業界全体としてデザイナーは攻めっけを失いだす。彼のコスチュームも素肌がほとんど隠れていた。

 

 しかしその柄が白と灰色の市松模様で、上がって来た図案を見たエンジニアは透過処理と勘違いした。

 なにこれ、予算が異様に少ないホットリミットのPV衣装? 

 もちろん透明の素材もあるので実現可能だが、さすがにマズい。しかし前述の事件でデザイン部の士気は低く、ひょっとしたら自棄になっているのかもしれない。ここで突っ返してリテイクするのは簡単だが、優秀な人材がやりがいを見失い辞めていくのも困る。

 

 これが通らなきゃ辞めてやる。そんな意思を感じさせるほど尖りに尖って、真っ向からヒーロー倫理を突き刺すような迫力がそのデザインにはあった。

 しかし炎上はマズいと考え、エンジニアの独断により黒で加筆修正された。それでもヒーロー倫理的にギリギリだが初期案よりは遥かにマシに違いなかった。

 デザイン部、あんたらの意思はわれわれが可能な限り拾い上げたぞ! 

 そうして部門間を超えた熱い友情の産物は上司に最終チェックされた。

 

 これマジ? こんなの高校生に着せんの!? 深夜アニメかよ……

 というのが上司のファーストインプレッションだった。普通なら即リジェクトものだが、なにやらやり遂げたって雰囲気の部下たちを見ると、胸に熱いものが込み上がってくる。

 懐かしい。昔は自由だった。ヒラだった頃はどうすればヒーローの人気が出るか試行錯誤したもんだ。

 上司は目じりを拭い、チェックの合否に気が焦れる部下に親指を立てる。

 

 そんなわけで届いたのが炎上間違いなしのブツである。しばらくしてその会社は炎上した。

 

 彼は何かタチの悪い悪戯と考えもしたが、動きを補佐するかのような伸縮性や優れた透湿性はまさしくアイテムの域にある。ヒーロー倫理に引っ掛かりそうだが、企業がこれでいいと判断したのだから許されるのかもしれない。オールマイトもぴっちりスーツだし。

 たぶんクラスメートも特に気にしないだろう。彼はそう納得したが、そう思い込まなければやってられない。俗に言う現実逃避だった。

 

 彼が訓練グラウンドに到着した時、誰もいなかった。どうやら一番手だったらしい。ほどなくして二番手が見えた。ファーの付いた丈の短い着物姿で 口元を黒い布で覆った、目隠れ銀髪ヘアーが特徴の柳 レイ子である。『ポルターガイスト』の個性で動かしたアタッシュケースに座って移動している。憂鬱そうな目元の隈は、コスチュームの初披露という場でも相変わらずだった。

 

 おーい、と彼が手を振る。

「あと二分ちょっとあるよー」

 

 それを聞いて柳は少しペースを落とす。走るのはもちろんの事、個性を起動しても体力は消費される。この後の訓練の為に余力を残しておくのも大事だ。

 そういえば二着なら彼と話す時間があるかもしれないと緊張する。

 とうぜん彼女は中学までに何人もの異性と話したことはあるが、二人きりというのは未知の領域である。

 

 まあここは無難にお互いのコスチュームの話題が鉄板。絶対にセクハラにならないように気を付けながら誉め言葉を考えておく。

 なんとなくクラス全員が彼に話しかけにくい雰囲気だったが、これを取っかかりにしてその空気を打破しよう。変な意味ではなくクラスメートとして仲良くなれる機会かもしれない。

 

 それだけにこのファーストコンタクトは重要だ。ミスは許されない。

 んんっ、と咳払いで準備する。が、近づくにつれ目を疑いだす。

 

 え? 肌色っぽい感じの生地が使われてるんじゃなくてなんも無いの? てかなにそのセックスアピールを縫製したようなコスチューム……待ってこれセクハラを回避しながらどう誉めろと? 

 

「柳さんのコスチューム、和風でかっこいいね。幽霊がモチーフ?」

 

 柳は内心でもんどり打った。ぐぉっ、ぅ嬉しい。異性に格好をほめられるのってこんな嬉しいものか。自分でデザインしたから ひとしおなのかもしれない。

 だがそんな喜びに浸っている暇はない。こんどはこちらのターンだ。コミュニケーションとは投げられたボールをキャッチして、同じような速度で投げ返さなければならない。が。

 

「う、うん。ありがと。きみのは……」

 

 なんかスリラー映画ですぐ殺されるファッキンバックみたいだね。とはホラー好きの柳にとっては良い意味で捉えてほしいが、ほぼ初対面でそれはマズい。というか失礼すぎる。

 

「……黒くて、いいね」

 

 ダメだ! 色しか誉めるところが無いッ! 

 

 それ以外はどこに触れてもセクハラになってしまう。

 てかこんなのジャパニーズホラーに出てくる、観たら死ぬ呪いのビデオみたいなもんだよ。観たら濡れる呪いのAVだよ!? 

 せっかくの機会を活かしきれなかった柳は悔しさから脳内で意味の分からないツッコミをし、チラッと視線を下に這わせてから愛想笑いで彼の元を離れた。翌朝、彼女の目元の隈が一段と濃くなったのは言うまでもない。

 

 残された彼は判断に迷う。結局このコスチュームってセーフなのかアウトなのか、いまいちはっきりしない。だが柳の反応を見るに危うい気もする。少し自信が無くなってきたところに小大が息切れもせず走って来た。

 

「あ、小大さんお疲れー」

 

 小大はちらと彼に視線をやると、そのままスゥーと顔を真上に向けたまま「ん」とだけ返事をして横を過ぎ去る。

 

 +y軸に顔を逸らす事ってある!? 

 

 人生で初めての顔の背け方に彼は絶句した。

 春風が固まった身体を慰めるように撫で去る。

 

 そのもの悲しさはさながら「恋彦†国士」で、切り立った崖にのみ咲く伝説の花を煎じなければ治らない病にかかった余命いくばくもない少年と、騎士の内の若い方が勇気づける為に勝手に桃園の誓いを結んだシーンに似ている。

 もちろん新たに契約を結んだ人間が死んでも自動的に残った者は苦しんで死ぬ。なにが魔法の契約だ呪いだろ! と叫んだ主人公の心情は、涙なしには語れない。

 

 っていうかやっぱダメか、このコスチューム。まあ薄々そんな気がしていた。現実からの短い逃避を終え、彼はショックのあまり目立たない隅で丸くなる。

 

 てってってっ、と小走りの小大が止まった。彼に視線をやった時からずっと上を向いている。もしかして、と柳が声をかけた。

 

「鼻血出た?」

「ん」

「あー……まあ彼には見られないように、影になるところまで案内するよ」

 

 柳は小大の手を取って適当な物陰まで歩く。あんな不意打ちなら鼻血を出しても仕方がない。それでエロいやつだと彼に軽蔑されるのは可哀想だ。

 その後も次々とクラスメートが到着する。そのほとんどが学友との短い雑談をしつつもどこか上の空だった。いやー結構キツかったーと言いながら本命である彼の姿を視線で探す、コスチュームが気にならないと言えばウソになる。

 

 そしてそのドスケベ具合に目が点になり、生粋のバックなのかと固唾を呑むが、あの落ち込みようを見るに企業間とのトラブルか手違いがあるようだった。

 

 淑女として同情を禁じ得ないが、かといってなんと元気付ければいいのだろうか? 似合ってるよなどとは口が裂けても言えないが、その逆もまた彼を傷つけそうだ。

 彼女たちは己の無力さを噛み締める。ヒーローを目指す卵として、初めての挫折だった。……初めての挫折が下ネタだとは思いもしなかった。もっとこう、努力ではどうにもならない才能の差とか、そういう感じかと入学前は覚悟していたのに……

 

 故に耳郎が到着した時には みな不甲斐なさと悶々とした気持ちに目を泳がせていたのだ。

 

 しかしそんな中、またもや勇者が現れた。

 

「どこか具合でも悪いのですか?」

 

 彼がその慈愛に満ちた言葉に顔を上げると、両腕に圧迫された白い乳房が目の前で柔らかく形を変えていた。顔を見ずとも、閉じた膝に手をやってかがんでいる八百万のブツである。汗でしっとりとしており、触れれば吸い付いてきそうだった。

 ステレオタイプの催眠術師が使うような、五円玉に糸を通した仕掛けに目を奪われるように、彼もまた釘付けになる。

 

「……具合が悪いというより、少しショックというか。その……変でしょ? おれのヒーローコスチューム」

「そんな事ありませんわ、とても素晴らしいと思います。きっとあなたの個性に合わせて仕立てたものでしょうから、自信を持ってください」

 

 にこやかに語る八百万には妙な説得力があった。それもそのはず、彼女自身が極小の布面積のマイクロビキニをヒーローコスチュームとして纏っていたからだ。

 ああ、取蔭が言ってたもう一人のヤバいやつって八百万の事か、と耳郎は理解する。当の本人は自らの装いに何の疑問も抱いてないが、変質者として扱われてもおかしくない。

 だがそんな彼女の行いは、指をくわえていた自分たちとは違い、彼にとってのヒーローに違いなかった。

 

「そっか……ありがとう八百万さん。少しってかだいぶ恥ずかしかったけど、おれはこれでいいんだよね、なにも間違ってないよな!」

「そうですわ! ヒーローは見た目ではありません、たとえ身に纏うコスチュームの見た目が変わっていても、ヒーローを志す貴い気持ちは変わらないはずです!」

 

 訓練の準備を済ませたミッドナイトがビルから出てきて、彼を見て言った。

 

「おーい、その恰好はヒーロー倫理的にダメだ」

「え!?」

 二人は真顔でお互いの顔を見やり、再びミッドナイトに視線を向ける。

 

「あと八百万、あんたもダメ。何考えてんの……」

「ぇえっ!?」

 

 そりゃそうだろ。動揺する二人を除いた全員の気持ちが一つになった。

 なぜ、気持ちが一つになるという重要イベントが下ネタで消費されるのか。ヒーロー科の青春とは……。

 



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第三話 ブレビカネンゼ

誤字報告してくれた方へ。
いつもありがとうございます。

実験的にですが、
漢字や平仮名が連続して読みにくいけど「、」を挟むとテンポが悪くなるの文には半角スペースを入れて調整しています。




「いろいろ言いたいことはあるけど……まず!」

 ビシッとミッドナイトがバラ鞭で彼を指す。

「そんな露出しちゃダメでしょ! しかも身体のラインが出すぎ! せめて下に短パンでいいから履け!」

 

 場所を移した明るいモニタールームで、1-Aの面々に訓練内容を説明する前にミッドナイトが吠えた。

 

「すみません、企業に丸投げしてたらこんな事に。おれ自身も正直わけわかんなくて嫌なんですけど……オールマイトとかもぴっちりだからいけるかと」

「あの人は別よ。一昔前のヴィランが跋扈してた時代はアイテムの質が今ほど良くなかったから、どーしてもコスチュームが厚くなって動きにくいってのもあったし。それに言っちゃなんだけど、あの格好がシンボルになって市民権を得てるからね」

 

 テレビアニメ、クレヨン・シンちゃんが、頻度は下がったがいまだに全国でケツだけ星人を出来るのも同じ理由だ。国民的なものだから許されるというフワッとした倫理が働いているのは、アニメも現実も変わらない。

 

「あんたの望んだ事じゃないならいいけどね。でも視線誘導は近接戦術戦闘を行う上で有効だということは覚えといて損はないから。まその辺は追々ね……そんで八百万!」

「はい!」

「論外!」

 

「なぜですかッ!?」

「え……そこで反論されるとは思わなかったわ」

「わたくしの個性は『創造』。体内から造り出した物質を、皮膚を通して生み出す関係上これがベストのコスチュームですわ!」

 

 そう言って胸元から黒い短パンを造り出し、彼に手渡す。

 礼を言っていそいそと履くが、女性の体の一部を身に着けるのはなんとなく背徳的だった。人肌程度に温かい。

 

「いやいやいや、だからってマズいでしょ……仮にヒーローとしての活動区域が海辺でもアウトよ。クレームばんばん来るから。経験談」

「乳首と性器が見えなければ法には触れないのでは?」

 

 怪訝な顔でいまいち納得のいってない八百万を、芦戸たちは呆然と見つめる。なに言ってんだコイツ……

 

 

【挿絵表示】

 

 

「お尻や太ももとか胸もそうだけど、過度な露出は場合によっては公衆に嫌悪感を与えるって理由で軽犯罪法違反になるから。ていうかよく企業はオッケーしたわね……ほんとにそれだけ? 他に着るもの入ってなかった?」

 

 ミッドナイトは腕を組み半目で問いただす。

 着替えて集合という課題を出した以上は、適切な場所でコスチュームを完全装備する事が要件に含まれる。時間が無いからと手袋などの装具を省いたのなら減点対象だ。

 

「上着が一枚ありましたが、あれは冬用ですので」

「だからか、たぶん企業は一年通してそれとセット運用すると思ってたわけね。一応聞くけど、まさか丈がメチャクチャ短いとか透けてるとかじゃないでしょうね」

 

 腰に手を当てて得意げに答える。

「トレンチコートなので問題ありませんわ」

 

 それじゃ春先に出てくるヤバい奴じゃねーか。なにが冬用だ。

 

 その場にいる全員が喉元まで出かけた言葉は、八百万があまりにも自信満々だったので飲み下された。

 そして薄々勘付きだす。更衣室で気の利いたことを言ってくれた勇者だと思ったが、まさか……

 

「あーもー、とりあえず下なんか履いて」

 

 その言葉に渋々と従い、ホットパンツを造り出す。ローライズなので水着の腰回りの紐が見えていた。わたしはこんな悪趣味な水着をしていますと合法の範囲から主張しているようで、かえって変態度数が上がってしまった気がする。

 

 そんな八百万が彼に向き直り、不安そうに尋ねた。

「あの……わたくし、ミッドナイト先生の言うように、嫌悪感を抱くような身体でしょうか?」

 

 その言葉でモニタールームに凍てついた緊張が走る。

 セクハラを火薬にした爆弾の生まれ変わりか? 普通の男性ならばここで怒るか軽蔑するか、とにかく良い方向には転がらない事は確かだ。

 なぜ自分から進んで嫌われに行くのか。

 同時に、まさか……と抱いていた懸念が確証に変わる。

 

 たぶん八百万はただの天然だ。そこに男性にセクハラして楽しむといった悪意は存在しない、ある意味でもっとも純真な精神の持ち主だ。

 喋り方といい立ち振る舞いといい、細やかな仕草がどこか浮世離れした感があったし、たぶん箱入り娘のお嬢様なのだろう。

 雄英に受かるくらいなのだから性交の知識くらいはあるのだろうが、それは生理現象や子孫を残すためのものであって、付随する快楽方面はきっとからっきしなのだ。

 

「い、いや。あれは一般論みたいなところがあるから。おれとしては別に嫌悪感なんてそんな」

 

 それどころか劣情を催す肉体だった。脳裏にベストしーニストを思い描かねば、勃ってて立ってられない。

 

 彼の優しさに救われたな、と芦戸は八百万の肩に手を回し、少し離れた場所まで移動して囁いた。こいつには一から教えてやる必要がある。危なっかしくて見ていられない。

 何より場が気まずくなる。まるで家族の団らんの時間中に、芸人が処女であることをからかうシーンが流れた時のような。下手をすればそれ以上だ。

 

「あのねえ八百万……」

「……はあ」

「……くらいする時あるでしょ? ……」

「オナニーって何です?」

「バッ! ……カ、声が大きい」

 

 彼は背後から聞こえる色香の節々を考えないように虚空を見つめる。

 そんな剥き出しの背中を、クラスメートたちは、これお金払わなくて見てもいいやつなのだろうかと思いながらぼーっと眺めていた。

 

 

 

 †††

 

 

 

 紆余曲折あったが、ようやく訓練が開始された。

 二人一組でヒーロー側とヴィラン側に分かれて、制限時間内にビル内の核の奪取かその阻止を競う内容である。初の実戦形式という事もあって緊張感が漂う。

 ミッドナイトがクジを引いて一回戦目の組み合わせが決まった。

 ヒーロー側は蛙吹と拳藤、ヴィラン側は彼と八百万。

 

「それじゃーヴィラン側は先行してビルで迎撃準備ね」

 

 よろしくお願いしますね。と八百万は微笑んで彼と握手し、打ち合わせをしながらモニタールームを出た。

 

「ところであなたの個性はどのようなものでしょうか?」

「うーん、正直あんまり役に立てそうにない」

「でしたらわたくしが前衛を……」

 

 なんだかえらい格好のチームが出来上がってしまったが、モニタールームの面々はもう何も言わなかった。

 

 五分後、ヒーロー側はビルの外でインカムから訓練開始の合図を受け取る。

 

 よっし! と拳藤が手のひらと拳を打ち合わせて気合を入れる。脚の可動域を考慮した、丈の短いチャイナドレスの裾が風に揺れた。灰色の街に深いエメラルドグリーン色のコスチュームが映えている。もちろん下はスパッツを履いているのでヒーロー倫理的にもセーフ。

 

「どうする? ヴィラン側の戦闘力は低そうだけど、正面突破?」

「少し待ってね」

 

 蛙吹は集中して耳を澄ます。風の静寂に紛れて、確かな人の音を拾う。

 

「三階と二階に一人ずついるわ。わたしなら壁を伝って三階から侵入できるから、拳藤ちゃんは下から攻めるというのはどうかしら」

「え、『カエル』の個性でそこまでわかるの?」

 

 ケロッ、と蛙吹は頷いた。

 

 キハンシヒキガエルという両生類がいる。

 このカエルの珍しい点はまず生息地にあった。タンザニア奥地の熱帯雨林、そこにある巨大な滝壺周辺を住みかとしている。

 滝の高さは相当なものであり、膨大な落下水量が轟かす音は隣にいる人間にも大声で話さなければいけないほどだ。また、舞い上がる水しぶきは濃霧のように視界を遮る。

 食物連鎖ヒエラルキーの中間点に位置する生物が外敵から身を守るには格好の場であるが、生存するには一つ問題があった。

 

 果たしてそのような環境下で、このカエルはどうやって同族を見つけ、繁殖しているのか? 

 

 それは並外れた聴力にあった。落雷のような轟音の中でも仲間の鳴き声を聞き分けられるという珍しい特性により、外敵の少ない環境下で種を保存し続けていたのだ。

 

 その稀有な特徴を持つカエルを、蛙吹の個性は模倣した。ほんの些細な衣擦れや床を踏みしめる音を頼りに位置を把握する。

 個性とは生まれ持った時から不変のものではない。自分の個性を理解し、向き合い、鍛えれば深度が増す。

 

「じゃあその案で行こう。梅雨ちゃんが三階で奇襲に成功したら、そのまま核を探すか降りてきて挟み撃ちにするか考える。二階のヴィランが八百万だったら、わたしなら近接戦に持ち込めばなんとかなると思うし」

 

 作戦が決まり、蛙吹は外壁を這って窓を割って忍び込み、ひたひたと天井を這う。コスチュームの手足にはアマガエルのような吸盤がついていた。

 再び集中して耳を澄ます。曲がり角の先に一人いる。有効射程距離内。相方に合図を送り、まずは目標の無力化を実行する。

 

 異形型の個性持ちの中でも、特に動物系は極めれば無類の強さを誇る。人体構造が異なり、人間でないが故に人間の常識外からの攻撃が可能だからだ。

 角に姿を隠したまま、聴覚による情報だけを頼りに凄まじい速度で赤い舌を伸ばす。

 

 まず蛙吹が行ったのは情報の分断である。どのような個性攻撃を受けたか、現在の安否、応援の必要性を喋らせないことに重きを置いていた。

 お手本のような対個性戦が映し出されたモニタールームでは、そのあざやかな手段に動揺する。一歩先を行かれた気分だった。

 

「蛙吹、あいつ……」

 芦戸は悔しそうに拳を握りしめる。

「やりやがった……」

 わたしは普通のキスもまだなのに。

 

 モニターの中では、しなやかで弾力性のある舌が猿ぐつわのように彼の口を封じている。とうぜん二人の舌は否応なく触れ合っており実質ディープキスだった。蛙吹の舌はそのまま視覚を遮断し、身体に巻き付いて自由を奪う。

 

 あっ! これ凌辱ヒーローもののAVで観た事あるやつだ! 

 

「あーわたしこれ知ってマース」

 と二本の大きな角を生やした角取 ポニーが言った。

「丸飲みですねー。ジャパニーズHENTAIカートゥーンで観た事ありマース」

 

 エロアニメをそんな風に言うやつは初めて見た。

 

「ミッドナイト先生これいいんですか!? このままじゃ戦闘訓練じゃなくて、いかがわしい撮影会になるんじゃ」

 取蔭が羨まけしからん状況に可否を問う。

 

「まあ、舌による攻撃は合理的だし他意はなさそうだから……」

 

 マジかよ。芦戸は額の汗をぬぐい、モニターを食い入るように見やった。こんなの……こんなのエッチすぎる。

 

 そんな彼女たちの好奇の視線など知りようのない彼は苦しんでいた。別に頸動脈を絞められているわけでも呼吸を止められているわけでもなかった。

 ただ、素肌やインナー越しに伝わる熱い舌と締め付け、トロリとした甘い芳香の唾液が身をよじるたびに淫靡な音を立てる。それがマズい。

 

「拳藤ちゃん、こっちは無力化したわ。そっちはどう?」

 

 蛙吹は確保テープを取り出す。それを首元にでも巻けばヴィラン役は退場だ。しかし彼はそれとは別の危機に瀕していた。心の中で、現在係争中のパチモンヒーローであるベストしーニストを思い描く。

 頑張れ! 女の子の舌の中というアウェイだけど、性欲ヴィランに負けるな! 負け……

 

 その時蛙吹に電流走る。

 もちろん彼女の行動には一点の曇りも無く、たとえ同性でも同じように対処した事は間違いない。

 だが無力化したという事実からどこか油断していたのかもしれない。あるいは、舌から伝わる熱く固い感触に、戦闘モードに入っていた脳内が混濁する。

 

 あれ? これって噂に聞く男性特有の……いやだとしたら彼はわたしの舌に拘束されて興奮したという事……まさかそんなはずは……でもだとしたら実質オーラル……

 

 蛙吹の拘束が一瞬緩む。その隙を突き、彼はずろぉりと脚から抜け出した。後には中身を失った筒状の舌がほこほこと湯気を立て、唾液が滴る。

 

 なんの暗喩だよ!? やっぱAVじゃん! 

 

「蛙吹もう一回! 頑張れ! やれー!」

 女性だけになったモニタールームから下品なヤジが飛ぶ。

 

 彼はドロドロの身体で、姿勢を低くして蛙吹と対峙する。危なかった。もう少しで確保テープを巻かれたし、別の方も本当に危なかった。

 しかし依然として不利であることに変わりはない。なぜ蛙吹の舌が緩んだのかはこの際考えないでおくことにして、勝つ事だけを考える。

 まずはインカムで相方に状況を説明した。

 

「ごめん、八百万さん。正直勝てそうにない。時間稼ぎくらいしかできない」

『わかりましたわ。ちょうどそちらに向かっているところですので、安心してください』

「え?」

 

 その言葉の意味するところは、近接戦に長けた拳藤を破ったという事に他ならない。

 同時に蛙吹にも通信が入る。

 

『悪い、確保テープ巻かれた。油断するな、八百万はあんなふざけた格好だけど──』

 

 階段口から八百万が飛び出す。一直線の廊下で、彼を挟んで蛙吹を目視した。スピードを一切落とすことなく駆け寄る。

 蛙吹は舌を飛ばして迎撃する。が、寸でのところで踏みとどまった。

 八百万は知っていたのだ。カエルが舌を伸ばす速さは秒間4000メートルもあり、まばたきする暇もない。個性の鍛錬による上乗せが加われば、まず見てからでは対応は出来ない。

 

「ケロッ!?」

 

 故に身体の要所から両刃のカミソリを造り出しながら接近していた。この状況で舌を巻きつければどうなるかは想像に容易い。硬質で鋭い金属音を立てて床を打つそれらは、もちろん脅しなので刃は無かった。

 蛙吹は後方に跳躍し、天井に張り付く。ひとまず距離を置き、リーチ外へ逃れた。そのつもりだったが、八百万は足裏からブーツを貫通する円錐状のスパイクを造り出し、左右の壁を蹴り上がって蛙吹に組み付く。

 

 ホールド時の衝撃と八百万の体重が加わり、二人は床に落下する。蛙吹が眼を開けた時、すでに八百万がマウントをとっていた。

 

「降参ね、負けたわ」

 

 

 

 †††

 

 

 

 四人がモニタールームに戻ると、妙な熱気の残滓というか祭りの後のような寂しさが漂っていた。

 

「梅雨ちゃん、あんたはほんとによくやったよ」

 取蔭が背中を叩いて健闘を称える。だいたいみんな同じ気持ちだ。

「でも拳藤は……何があったの? 八百万の個性って戦闘向きじゃないと思うんけど」

 

 いやー、と拳藤は気落ちして頬をかく。

「完敗だったよ……ていうか、え? 見てなかったの?」

 

 ほぼ全員が目を逸らした。拳藤が戦っている間に、いろいろとすごい事が起こっていてそっちに夢中だったのだ。

 

「じゃあその辺も含めて詳しく講評といきましょうか」

 

 ミッドナイトがリモコンを操作すると、拳藤と八百万の戦闘シーンが再生される。

 

 初動を制したのは拳藤だった。『大拳』の個性で巨大化した指の力で地面を掻き、獣が這うような低さで八百万の背後に回って襲い掛かる。

 対応して八百万は、背中から瞬時に数本の鉄棒を造り出して迎撃する。ハリネズミのように生やされたそれは、もし円錐型ならカウンターで拳藤を刺していただろう。

 

「なにっ!?」

 

『創造』は近接戦向きではないという先入観もあり、予想外の対処法に拳藤は攻撃の手が止まる。八百万は振り返ると同時に身体から切り離された鉄棒の内一本を掴み、苛烈に打ちかかった。

 文武両道を地で行くお嬢様である彼女は、とうぜん薙刀やそれに類する棒術も嗜んでいる。的確に手首や肘を狙い、反撃を許さない。

 

「ジェダイの騎士かっての!」

 

 数合の間に拳藤が鉄棒を掴む。が、八百万は得物から簡単に手を放して一歩踏み込む。身体を入れ、腹部めがけて膝蹴りを放った。

 本来であれば、拳藤のバックステップで回避できた攻撃だった。しかし膝から造り出された鉄棒が伸びて鳩尾に入る。鋭い痛みに加えて横隔膜の動きが鈍り、呼吸が阻害された。脳への酸素供給が滞り、思考は消え去って苦悶以外を感じない。

 膝から切り離された鉄棒がガランと音を立てて落ちた。

 

 拳藤は吐き気を堪えながら口元から涎を垂らし、腹を抱えて膝をつく。八百万はそうして差し出された首へ、不感無覚に確保テープ巻いた。

 

 ふむふむとミッドナイトが顎に手をやる。

「推薦一位の面目躍如ってところね」

 

「まいったよ、八百万」

 拳藤は握手を求めながら言った。

「正直、格闘戦には自信があったんだけど。またリベンジさせてよ」

 

「もちろん受けて立ちますわ」

 差し出された手を握る。

「わたくしも拳藤さんの格闘術には興味がありますもの」

 

 にこやかに言うが、今の一戦で八百万が雄英でも上位の使い手であることは間違いなさそうだった。掌底と同時に手から鉄棒を造り出された場合、果たして避けられるのだろうか。

 初見ではまず難しい。一瞬にして物質を生やすように『創造』することであらゆる格闘打撃のリーチが伸び、ハリネズミのようなカウンター兼 瞬間的防御も可能なのは理不尽すぎる。

 それに加えて前述の戦闘方法は、『創造』のもたらす数多くの手札の内の一枚にしか過ぎないのも底が知れない。

 

 ただ格好が変質者のそれなので、いまいち強さの実感がわかない。印象としては変態のクセに妙に強い止まりだった。

 

 青春ねえ、とミッドナイトが眩しそうに目を細めた。

「じゃあ次、蛙吹はなんで拘束を緩めたの? あそこは逃がしちゃだめでしょ」

 

 言われて蛙吹は彼の方をチラと盗み見る。顔を青くしていた。

 思い出したようにどっと嫌な汗をかく。飲み込まれるように舌で拘束されて勃ったとバレた日には、クラスメートはきっと幻滅し軽蔑するだろう。孤独な学生生活を送ること間違いない。

 

 そんな彼の危惧とは裏腹に、蛙吹は尊敬の念のようなものを抱いていた。

 まず常識から考えて、女性の舌でがっちり巻かれて男性が興奮するはずがない。ということは、アレは意図的に引き起こされた生理現象だ。つまり訓練開始前にミッドナイト先生が言っていた、視線誘導は近接戦術戦闘を行う上で有効という教えの応用を即興でやってのけたという事に他ならない。そしてそれにまんまと乗せられたのだ。

 個性戦では圧倒できたが、それに頼らない実戦面では負けた気がしていた。

 

 ただ、その称賛の気持ちを公衆の面前で明らかにするのは躊躇われた。

 

「……それは、拳藤ちゃんが負けた事に動揺したからね」

「ぐっ、すまない梅雨ちゃん。面目ない」

 

「なるほどね。結構ずぶとい性格してそうだから意外だけど、現場じゃ想定外の状況に変わることはザラだから、場数踏んでその辺のメンタルを鍛えなきゃね」

 

 彼はほっと胸をなでおろす。よかった、バレてないみたいだ。安心したが、いいとこ無しだったことを思いだす。

 

「おれは、特に何もできなくて実質八百万さんにおんぶに抱っこでしたね」

 

 いや撮れ高すごかったから。ありがとう。

 口惜しそうにする彼の肩を、取蔭は勇気を出して軽く叩く。

 

「ま、まあ蛙吹の死角からの攻撃を防ぐのは無理だありゃ」

「そおーそぉー。個性戦って相性がモノを言うらしいし」

 ヘタクソな相槌で耳郎が拾う。芦戸が続けて言った。

「そんな落ち込むなって、次があるし」

 

 この距離感を探る感じ、青春だわー。とミッドナイトが懐かしみを覚える。

「そうね。これから山ほどの挫折や苦悩を雄英は提供するんだから、これくらいで気落ちしてちゃ身が持たないわよ! 時間も押してるから、さっさと第二回戦を始めましょうか!」

 

 この戦闘訓練には二つの目的があった。一つはもちろん個性を用いた実戦形質の訓練だが、新入生のコミュニケーションを活性化させたいという背景がある。

 実際に個性と身体を使って共通の目的に向かわせることでクラスメート全体の理解を深め、今後の学校生活での成長を促すというものだ。

 

 モニターの中では次々と個性による理不尽の押し付け合いが繰り広げられている。

 小大の『サイズ』で小さくなった核を探しまわる芦戸が頭を抱えた。

「だあぁー見つからない!」

 

 頭髪の『ツル』が特徴的な物憂げな表情の塩崎 茨が、ワンフロアをツルで物理的に満たして侵入を拒み、麗日と角取が呆然として匙を投げる。

「これはウチらの個性じゃどうにもならんわー」

 

 そんなこんなで、十四人の戦闘訓練が終わる。最後は余った二人のサシでの勝負だった。

 ほどよい疲労感と流れた汗、学友の個性と性格に触れられた事もあって不思議な充足感に満たされた。

 

 よかった。最初はいかがわしい撮影会になるかとヒヤヒヤしたが、やはり雄英だ、終わってみればしっかりとした戦闘訓練だった。

 

「みんな自分の個性の長所や短所も理解できたわね。今回勝った者も負けた者も、プルスウルトラの精神で研鑽に励むこと。以上!」

 

 いやー疲れた疲れた。という雰囲気の中、小大が「ん」と柳に耳打ちする。柳は思わず、澄ました顔の彼女を見返した。天才過ぎる。

 

「あのっ、先生!」

 柳が手を挙げて、モニタールームから出ようとするミッドナイトに声を投げかけた。

 

「どしたの、何か質問?」

「その~、今まで大がかりな個性の実戦訓練なんてやるのも見るのも初めてだったので、みんなの個性の使い方がすごく参考になるというか、後で見直したいというか、自習?」

「あーそういうこと。じゃあ今回の映像ファイルは各自の端末に送っとくから」

 

 実のところ、彼の戦闘シーンが一回しか見れないのは惜しい気もするなーと考えていたのは結構居た。だがそこだけもう一回というのはいかにもスケベすぎるので言い出せない。そこでいっそ全員分のデータを鍛錬目的で要求した小大の機転はしたたかだった。

 

 その夜。もちろん多くのクラスメートは映像ファイルを自習目的で再生した。後から自分の動きを見返すのは成長に有効な方法で、ヒーローのみならずスポーツ選手や俳優もよくやる。

 そこで甘かったムーブ、取れたはずの選択肢を反省して次につなげることが出来るからだ。

 映像は定点カメラのみだったが、意外と様々なアングルを切り替えられて非常に参考になった。

 

 そして最後に第一回戦のファイルが残った。ティッシュ箱を手繰り寄せる。他意は無い。

 一段落付くと、なんともいえない倦怠感の中で、なぜヴィランは発生するのか、ヒーローとは、平和とはなんなのかをぼーっと考え、一つの結論に至った。

 

 やっぱり戦闘訓練じゃなくていかがわしい撮影会だった気がする。

 

 

 

 †††

 

 

 

 世の女性にとってブラというものはすこぶる邪魔で鬱陶しいものでしかない。ノーブラだと乳首が目立ち、男性が不快感を覚えるのでマナーとして仕方なくつけている。

 しかしヒーローコスチュームを着用する場合はブラを付けなくても問題なかった。薄い生地でありながらもきちんとその問題に対処しているのだ。

 

 ただ、そのぶんやたらと揺れる。個性で殴りあっても頑丈な肉体なのでクーパー靭帯がどうとかいう心配がない分、誰も気にしていないが彼は別だった。

 カメラの性能のおかげか地上波レベルの高画質なので、それはやむを得ずだった。

 

 彼を責めるのは酷だ。男性向けの成人コンテンツの供給が少ない以上、なぜか存在するローアングルカメラから見上げた八百万にときめきのようなものを感じるのも致し方なしなのだ。

 

 特有の虚脱感を覚えながら、同級生に対する罪の意識と自分のおかしい価値観に辟易する。アンニュイな気分のままネットで動画を探した。今回の反省点を改善する必要がある。

 ベストしーニストでは性欲という名のヴィランに打ち勝てなかった。一人でダメなら、チームアップで対抗するしかない。

 

「ヌけ忍! エッチショット」「ウルシ鎖牢でいざ早漏」といったサムネイルをクリックし、次々にカートに入れる。無料サンプルだけでもショックを受けるがまだ足りない。あの1-Aで学校生活を送るにはまだ。

 

 丸々とした恰幅の良い大阪の顔のBMIヒーロー、ファットガムのパロAVである「Fuck Come」までは耐えられたが、ドラム式洗濯機に手足の生えた洗濯ヒーロー、ウォッシュの「コインランドリーに堕ちた洗濯機」を見た時は気が狂いそうになった。複数の女性にワンコインであれやこれやされる洗濯機を鑑賞する時間とは一体何なのか。

 

 だが厳しい選考の末、ようやくパチモンAVヒーローたちが彼の心に集まった。

 来るなら来い、最強の逆襲(アベンジ)が待ち構えているぞ! とゲッソリした彼は床に就く。 

 

 その夜、勢ぞろいしたアベンジャーズが夢に出てきて酷くうなされた。

 



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 戦闘訓練
第四話 フィヘレリックス


 薄っすらと肢体の輪郭が透けて見えるネグリジェを身に着けた八百万が、マホガニー材のデスクの上のラップトップを前にして眉をひそめる。風呂上りらしく、髪はブローし終わっているが肌はまだ火照っていた。

 はちみつフレーバーのマルセイユ石鹼の香りが、クラシカルな調度品が設えられた彼女の自室にほんのりと広がる。

 いつもであれば就寝前のストレッチでもしているところだが、今日は少し違う。

 

 戦闘訓練の合間に芦戸たちから教わった事について、詳しくネットで調べていたのだ。

 記憶を頼りにキーワードを検索してみるが、いずれも同じページに行きついてしまう。

 

【このWEBページは適切でない可能性があります。保護者に確認してみましょう】

 

 さっそくお母さまに「このファンザというサイトでアダルト動画というものを見たいのですが」と聞きに行こうとしたが、思いとどまる。

 画面上で親への確認を勧められるが、芦戸たち曰く、家族には言わない方がいいらしい。

 それに適切でないとはどういう事なのか。なにかしらの犯罪行為を助長するような動画かもしれない。だがそんなものを同級生が勧めるとは考えられない。

 

 まあ明日また聞けばいいかと教科書を取り出す。

 オカズ、なるものらしかったので、一応夜食のおにぎりも用意したが無駄にするわけにもいかない。せっかくだからと予習復習に励んだ。

 やがてキリのいいところまで進んだので、歯磨きして床に就く。天蓋付きのやわらかなベッドに潜り込んで抱き枕にしがみ付いた。そういえばと端末を起動し、戦闘訓練の映像ファイルを再生した。他人の個性の使い方が気になっていたので、自分の番は後回しにしていたのだ。

 

 ぼうっと彼が蛙吹に個性攻撃を受けているシーンを眺めた。その時、んん? と不可思議な感覚を覚える。抱き枕に絡めた脚に力を入れると、それは下腹部から膨張していくようだった。

 初めての体験に好奇心が芽生えたが、日中の戦闘訓練の疲れがまぶたを重くする。そのまま深く静かに眠りについた。

 

 翌朝のすっきりした目覚めで、昨日の妙な感覚の事など頭から抜け落ちた八百万はいつもどおり登校する。

 道すがら、更衣室で芦戸たちに教えられたことを反芻する。

 

「んー、オナニーなんてみんなやってると思うけど……なんかこう、ムズムズするというか、そんな時なかった?」

「そうなんですの? わたくしは覚えがありませんが。みなさんはされてるのですか?」

 

 部屋全体に話を振ると、着替え途中で下着姿の全員が、まあ……と言った具合に肯定した。

 しかしオナニーに必要なオカズは不適切だとアクセスを断られているのだから、やはりそれは不可能な気がする。ほんとにみんなやっているのだろうか? 

 教室に着き、そういえばふと一人だけ確認していない人物がいた事を思い出す。さみしそうに読書をしている彼に近づき、八百万は曇りなき眼で挨拶の後に彼に尋ねた。

 

「オナニーはされますか?」

 

 嘘でしょ。芦戸は他人事ながら冷や汗が噴き出た。彼女だけではなく、その場にいた全員が凍り付く。『創造』のほかに『時間停止』でも使えるのかというくらい静まり返った。温度も下がった気がするから『冷気』も持っているかもしれない。

 

 もちろん彼もその影響を受けた一人だ。

 八百万が小首をかしげて無垢な表情で投げかけた、ある意味でポピュラーな質問に途方もない重圧を感じる。『重力』も使うのかもしれない。

 普通は怒るか、良くて苦笑いで誤魔化す。

 だが相手は昨夜お世話になった相手だ。勝手にヌいといて、オナニーなんてしてませんなどとキレイ事をヌかす訳にもいかない。

 

 それも戦闘訓練の映像ファイルという、本来であれば学術に利用する為の物だ。八百万とて、いや、誰もがそれでオカズにされるとは思うまい。

 そんな学生生活の一端で致しておいて虚言を吐くのと、純真な八百万の問いに正直を口にする事。どちらを選ぶかと言われれば、犠牲となった三億もの生命からなる粘質な罪悪感が難き道を歩ませる。

 

「そりゃあ、まあ」

 

 そりゃあ、まあ!? それを聞いた多くの者がガタッと心の中で立ち上がる。「男の子だって、ほんとはエッチなんだぜ」ってエロマンガだけの物じゃなかったの!? 

 

「やはりみなさん、されているようですわね……」

 八百万は顎に手をやり、神妙な表情で続けた。

「参考までにお尋ねしたいのですが、どういった物をオカズ? にされているのですか」

 

 教室を包む静寂が、いたたまれないといった感じから一言も聞き逃すまいとする清聴に変わった。

 気になる。

 彼女たちにとって男性のオカズとは、宇宙よりも深い大いなる謎だった。いわゆる男性向け成人コンテンツの存在は知っていたが、別に進んで見てみようとは微塵も考えない。なので当然調べた事も無い。数は少ないらしいというのは聞いたことがある程度だ。

 

 まさか自分たちと同じオカズではないだろう。たとえば昨日の戦闘訓練の映像ファイルとか。

 

 だが彼にはその謎は迷宮入りしてほしかった。勘弁してくれ、八百万さんが蛙吹さんにマウントを取ったシーンだったとは口が裂けても言えない。

 万事休す。というところで拳藤が顔を赤らめながら、恐ろしく速い手刀で八百万を気絶させた。そのまま肩で担ぎ、頬をかいて気まずさと照れくささを一緒くたにする。

 

「なんか……ごめんね。八百万にはちょっと後で説明しとくから」

「あーうん。でも悪気があって言ったんじゃないだろうし、いいよ別に、気にしてないから。それに拳藤さんが謝る必要はないよ」

「そうだねそうだね、あはは……うん……じゃあ、まあ」

 

 助かった。彼はどこかに運搬されていく八百万を眺めながら安堵する。

 

「あそこまでいくと一週回ってちょっと可愛げが出てくるよねー」

 

 いつのまにか葉隠が彼の横から話しかけてきた。よくこの状況でいけたな、とみんな感心する。

 

「まあね。あんなに強いのにちょっと抜けてる感じが子供っぽいからかな」

「昨日の戦闘訓練のやつねー。見てた見てた。推薦一位なだけあってすっごい強個性だよね」

「葉隠さんのも凄いって言われない? 『透明』なんてめったに聞かないし」

「えーそう? なんか覗きに使えそうで羨ましいとか言われてたから、あんまり胸を張れないんだけど。ありがとね」

 

「あーわかる。それわたしも言われたわ」

 と取蔭が会話に加わる。腕を組み、不満そうに口を尖らせた。

「目だけ切り離して~とかさ。するわけないってのに。失礼しちゃうよね」

 

 あ、なんかすごい普通な感じで話せてる。

 先ほどの緊張感とは打って変わって、ほがらかな空気が流れていた。もちろん戦闘訓練によるコミュニケーション強化の効果もあるだろうが、笑ってしまうほどの八百万の感性が、なんとなく話しかけづらい雰囲気を打ち崩したのだ。

 

 彼はもちろん、彼女たちも異性と話したい。

 小学校低学年くらいまでは一緒に遊んでいた気がするが、それを過ぎるとなんとなく女性グループ男性グループで別れだした。隣の席だと雑談する程度だが、会話の輪の中に入るのはかなり珍しい。

 ましてや雄英を受験するとなると、最後の一年間は勉強や実技に向けての個性訓練で手いっぱいだ。

 

 中には男性と付き合ったこともある者もいるが、なんとなく一緒に下校していくのを繰り返すうちに一、二回のデートで自然消滅した。金も無く、遊びに行ける範囲も狭く、同級生に見られると気恥ずかしい空気のある中学生活で長続きさせるのは難しかったのだ。

 

 だからこの環境は彼女たちにとってまたとない機会だった。

 ここには男性グループは存在しない。彼が友達を作るなら、必然的に女性グループの会話の輪に入る事になる。別に付き合いたいだとかは言わないが、異性と話して笑わせる楽しさを味わうには十分だ。

 

 互いの個性の話で盛り上がる中、一人の少女は陰鬱そうに溜息をついた。

 窓の外を眺め、早く先生が来てくれないか切に願う。

 

 

 

 †††

 

 一方そのころ士傑では、正体不明の謎の男により学校の防犯ゲートである士傑バリアーが破壊され、その機能が失われた。

 教師に就任したオールマイトにインタビューしようと駆け付けたマスコミが敷地内に押し入り、ひと騒動起きたそうな。

 

 †††

 

 

 

「それじゃー学級委員決めるから。やりたい人ー」

 

 教卓に立ったミッドナイトの言葉に、全員が立候補した。もちろんリーダーシップを学べるという点もあるが、それよりなによりも共通の懸念を回避するためだ。

 八百万にやらせるのはマズい気がする。

 品行方正、成績優秀な彼女が適任であることは誰もが認めるが、学級委員ともなると発言の機会が増える。それに伴い、今朝のようなことが無いとも限らない。

 

 万一に委員長が八百万、副委員長が彼となった場合は目も当てられない。委員の仕事で二人が密室になろうものなら、八百万は必ず男性の性事情についての疑問をピッチャーマシンのように投げつけるだろう。悪意が無いだけに余計タチが悪い。

 いまはまだ彼の寛大な精神に助けられているようだが、それも無尽蔵ではないはず。いつあきれ返って、やっぱり女性ってスケベな事しか考えてないという認識を持たれ、全員が副次被害を受けるとも限らない。

 

 守らねば、彼の良心を無邪気なセクハラから。

 14人の中から2人選ぶとなると、1/91という薄い確率であるがなんとしても防ぐ。

 出来れば男性と委員の仕事で放課後に残るというラブコメのような美味しい青春を味わってみたかったが、背に腹は代えられない。

 

 芦戸が勢いよく挙手をした。

「はいはいはい! 多数決、多数決でいいんじゃないでしょうか!」

「んー先生としては昨日の訓練結果を鑑みたいところだけどな。多数決も、割れて一票差で決まるってのもねー」

 

 じゃあこうしましょう、とミッドナイトはさも名案のように言った。

 

「とりあえず訓練でトップだった八百万を委員長にして──」

 

 1/91がいきなり1/13になった。

 

「──副委員はじゃんけんで決めましょう」

「あの、なんでじゃんけんなんですか?」

「運も実力の内だから」

 

 にべもなく突き返された言葉に一同は対応を迫られた。

 このままでは結構な確率で八百万と彼がセットになってしまう。

 だがそんな絶望的な状況を打破する個性がこのクラスには存在した。出し抜けに彼とじゃんけん勝負を持ちかける。

 

「じゃーんけーんぽんっ……あっ勝ったー」

「いやあの勝ったーって、おれはグーを出したけど、葉隠さんは……」

 

 彼は制服の袖から先に存在するであろう葉隠の手に目をやる。もちろん『透明』なので何も見えない。

 

「パーだよ」

「え、でもおれには何を出したか」

「パーだよ」

「葉隠さん、じゃんけん強いって言われない?」

「うん、負けた事ない」

 

 そっかー、そんなに強いんならしょうがないかー。

 そんなわけで、学級委員は八百万と葉隠に決まった。

 

 

 

 †††

 

 

 

 広大過ぎる雄英の敷地内を長距離移動するとなると、個人では貸し出しの電動自転車、集団だと自動運転バスに乗るのが普通だ。

 1-Aの面々もまたコスチュームに着替えてバスに揺られ、レスキュー訓練の為にUSJなる施設へと移動した。

 

「ていうかさあ」

 取蔭が座席の肘掛けに頬杖をついて、あきれ半分に対面に座る学友を見つめる。

「そのコスチュームで通すつもり?」

 

 きょとんとして八百万が自分の肉体を見下ろす。バスが揺れると胸も揺れた。

 

「ミッドナイト先生に指摘された箇所は前回直しましたし、まだ問題でしょうか?」

 

 ホットパンツ履いただけじゃん。まあ、露出面積が強さに直結するので特に言う事は無かった。問題はその隣だった。

 取蔭はあえて言及しなかったが、彼が恥ずかしそうにいいわけを口にする。

 

「おれはいま企業にリテイク出してるところ。ただ、普通の服じゃなくてアイテムだから作るのに時間が掛かるって言われて……ごめん、変な格好で」

「あっ、大丈夫大丈夫。気にしてないから全然。なぁ耳郎」

「革ジャンだけ羽織ってるパンクロッカーみたいでいいよ、うん」

 

 みんな優しいなあ、と彼は心遣いにしんみりした。

 同時にバスの中の空気も、そっかーもうしばらくしたら見納めかーと哀愁が漂う。

 

 

 

 やがてアミューズメントパークのような巨大施設に到着する。昼前という事もあり、真上に登った太陽がさんさんと輝いてその容貌を照らした。

 大きなゲート向こうは切り立った山や荒廃して崩れ落ちた街並み、濁流の川を模したウォータースライダーまである。

 

 ミッドナイトがコスチュームの腕時計を確認してため息をつく。

「やっぱ間に合わなかったか」

 

「全員いますよ」

 と彼が答える。

 

「いや、外部講師を招いてたんだけどねー。救助訓練で二次遭難的なことになったら助けなきゃいけないし。困ったわね」

 

 そうぼやくと、不意に彼の目の前に影が落ち、次の瞬間には何者かが降り立つ。

 

「いやー間に合った間に合った」

 

 闖入者は不敵に笑って振り返る。大きな耳と、スカートスーツから覗く丸くてフワフワの尻尾が特徴的だった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 おー、プロヒーローだー。と誰かが感嘆する。

 

「おっそい」

「悪い悪い、手続きがいろいろ面倒で」

 白い長髪を両手でかき上げ、不遜に言った。

「面白そーなんで不定期で遊びに来るから、よろしくー」

 

「と、いうわけで、これからちょくちょくミルコ先生が見てくれるから、戦闘関連でわかんないことあったら聞くように」

 

 ビルボード上位常連を生で見るのは初めてだったので、一同は羨望と憧れの眼差しを向ける。

 まんざらでもないと言った感じでミルコは大きな声を張った。

 

「さっそくだが、おまえらにはここで救助活動を行ってもらう。けど半分は救出される側だ。被災者の気持ちも理解しねーと取れない選択肢もあるからな!」

 

 ルールは単純だった。

 まず二人一組のチームを作り、救出側と被災側に分ける。

 被災側はランダムに選ばれた災害ゾーンに先行する。一定距離を進むと人工的な災害が起きるので、それを耐えながら救出側の到着を待ち、帰還するというのが訓練の概要だった。

 

「人形とかを被災地に置いとくんじゃだめなんですか?」

 と、芦戸が挙手をして疑問を投げかけた。

 

「いい質問だな。確かにヒーローは基本的には救出が仕事になる。けど被災して初めて見えてくるヒーローとしての選択肢ってのもある。弱者の視点に立てってこった。それに民間人と一緒に閉じ込められたり、事件や事故に巻き込まれたりするのも稀にあるからな。どーやって元気付けるかってノウハウも、案外バカにできない」

 

 塩崎が深く感心して頷く。

「なるほど、市民を保護するサバイバル能力も必要になるのですね」

「そういう事だ。この中にワープ系の個性持ちはいないから特に注意する必要は無いだろうが、被災側は個性使って離脱するなよ。互いのメンタルケアをしながら待つ訓練でもあるからな。まあ不測の事態が起きたら駆け付けるから安心しろ」

 

「だとしたら八百万がやっぱ頭一つ飛びぬけてるな。被災地の踏破能力は異形型に及ばないだろうけど、どんな現場にも即席で対応できる道具を造り出せるし」

 うーむ、と戦闘訓練で思うところがあったのか、拳藤が難しい顔で思案する。

 

ミッドナイトがクジボックスを手に取る。

 

「じゃ、組み合わせと災害ゾーン決めるわよ。個性の関係上 不利になる現場かもしれないけど、その中で出来る事と出来ない事を把握すること」

 

 クジの結果、山岳ゾーンの救助側は麗日と小大、被災側は彼と小森になった。

 

 彼は小森を視線で探す。赤と白の水玉模様のコスチュームに大きな帽子だったのですぐに見つかった。ふんわりとした茶色いボブの前髪からは、悪戯好きそうなクリっとした目が見え隠れしている。そして意外にも胸がデカい。

 よろしくね。と小森に話しかけるが、気の無い返事でどこか落胆した様子だった。

 嫌われているのだろうか? 彼は不安を募らせるが、まあそれもやむなしの格好だったので気持ちを切り替えるしかない。

 

 十四人のクラスだったので三人組が二チーム出来、みなそれぞれの持ち場へと向かう。

 救助側はファーストエイドキットを含む一通りの救助用品が入ったリュックを担ぎ、被災側にはそれぞれのシチュエーションに合った装備が提供された。水難ゾーンなら浮き輪、暴風大雨ゾーンなら川辺でのバーベキュー中という事でキャンプキットといった具合だ。

 

 山岳ゾーンは【中級程度の山で遭難中】というシチュエーションらしく、大きなリュックの中にはライターの小物から寝袋などの本格的な道具が揃っていた。

 背負うと結構な重量があり、肩に食い込む。ショルダーハーネスやウェストベルトを締め、山岳ゾーンに足を踏み入れる。

 

 山道と言うほどのものは無く、辛うじて進めそうな岩場を通る。足元は大小の岩がごろごろと転がっており、油断すると足をくじきそうだった。植物らしきものはぽつぽつと生えてはいるが、枯れ木が目立つ寂しい山だ。

 標高はそれほど高くなかったが、頂上に着くまでだいぶ時間が掛かった。不自然に平らだがそこはご愛嬌といったところ。障害物も無いので風が吹きすさぶ。

 揺れるつり橋を渡り、目的地に到着する。

 

「やっと着いたね」

 

 彼は額の汗を拭い、振り返って言った。

 すると思ったより体力を消耗したのか、小森の顔色は悪い。

 

「だ、大丈夫!? 後は待つだけだし、休憩しよう」

「ちょっと、疲れたのかな。なんか寒い気が」

 

 言われてみれば、春にしては肌寒さを覚える。いや、それどころか明確に冷えてきた。相変わらず風も強く、空は晴れ渡っているのに体感温度は冬の季節だ。

 

「寒ッ! なんだこれ雪山ってこと!?」

 

 嘘だろと、USJの謎の技術力に脱帽する。雪こそ降っていないものの、このまま救助側を待っていては凍死しかねないほどだ。

 とにかく風だけでも凌げそうなところは無いかと周囲を探ると、小さな洞窟があった。急いで身を隠す。

 

「小森さん、寝袋に入りなよ。火とかはおれが点けとくから」

 でも、と青い顔で反論した。どう考えても彼のコスチュームの方が寒そうだ。

「おれは体力あるから、この寒さでも多少は大丈夫」

「ごめんね、わたしなんかの為に」

 

 その卑屈な態度に疑問を抱きはしたが、いまはそれよりもすべきことがあった。ガスバーナーを用意し、水を沸かす。リュックには少量の携帯食料もあった。

 なるほど、と彼はこの訓練のシチュエーションを改めて理解する。【中級程度の山で遭難中】とはまさにそのままの意味で、遭難してから一日か二日の状況が再現されているようだった。

 だから昼食前に行われ、飲食料もガスの燃料も残り少なく設定されている。無駄遣いは出来ない。

 

 あったまった湯を小森に与えるが、目に見えて衰弱しているようだった。コスチュームはもちろん防寒性能も高いが、急激な温度変化と透湿が間に合わず、汗が冷えたのが原因だろう。

 よし、と思い立って、彼は洞窟を後にした。

 

 どこにいくのだろう。小森はぼんやりとしながらその背中を見送った。そんなにわたしと一緒に居たくないのかな、と心に思い出したくない過去が勝手に湧いて出てくる。

 その黒く冷たいトラウマを止める事は出来なかった。しばらくすると孤独も相まって、じんわりと目じりに涙が溜まる。

 

 そんな時に彼が戻ってきた。枯れ木の枝を抱えている。切りつけられるような寒さの中、集めて回ったようだ。身体はさすがにガタガタと震えている。

 

「一人にさせちゃってごめん。でもこれで多少はあったまると思うから」

 

 見よう見まねで焚火を作り、彼もいそいそと寝袋に入る。少しでも体温の低下を防ごうと、小森に寄り添った。彼女にはそれが辛かった。

 それが訓練故の行為だという事を痛いほど理解しているからだ。本当は自分に近づくのも嫌なはずなのに、彼が仕方なく我慢しているのが堪らなく苦痛でしょうがない。

 わたしは嫌われているという証拠が欲しかった。それさえあれば、もしかしたらという妙な期待をせずに、侮蔑を受け入れられる。

 

 ぱちぱちと燃え盛り、揺らめく炎を見ながら小森が言った。

 

「嫌でしょ、わたしなんかと二人きりなんて」

「え? そんな事ないけど」

 

 突然の自己否定に彼は戸惑う。少なくとも彼女を嫌う理由は見当たらない。

 

「はっきり言ってくれた方が精神的に助かるから。実戦訓練でわたしの個性見たでしょ」

「見たけど、別にそんな小森さんの事を嫌いになるなんて……」

「そういうのいいから。わたしが一番よくわかってるもん」

 

 まったく見当もつかない彼に、小森は虚ろな表情で言った。

 

「どーせあんたも、やらしい個性だと思ってるんでしょ」

「ごめん全然わかんない」

 

 そのとぼけた言葉を鼻で笑って返す。もとより嫌われているだろうから、何を言っても構わなかった。

「わたしの事、心の中じゃチンコの個性持ちだって軽蔑してるんでしょ。知ってるんだから」

 

 言ってそのまま膝に顔をうずめて、脳裏に浸み込んでいく過去を傍観した。

 

 

 

『カビ』の個性を持つ親の元に生まれた小森 希乃子に『キノコ』の個性が発現したのはなんら不思議ではない。

 両親の個性により生み出された菌は、様々な発酵食品や医療に幅広く役立ったと聞く。それと似た個性なのだから嬉しかった。

 幼少の頃より読んでいたキノコ図鑑を手に、よく個性訓練に励んだものだ。

 

 だが性知識が半端に蓄えられた小学校高学年時にそれは起きた。

 

『小森の個性ってさ……アレに似てない?』

『ちょっといやらしいよな』

『個性が卑猥』

『絶対ひとりで似せたキノコ作って入れてるよ』

 

 それは中学になるとより具体的な蔭口となり、彼女の心は苛まれた。

 キノコが男性器の暗喩として用いられる事があると知ってから、好きだった自分の個性が嫌いになった。

 男性から謂れのないエロ女爵のそしりを受け、何もしていないのに距離を置かれた。親の個性まで侮辱された気がした。

 

 それを否定する為に雄英に行くと決めた時も、同性にからかい半分で忠告された。そんな個性でヒーローなんてなれるわけない、なれてもネタにされるか妙なクレームを入れられるのがオチだ。

 そんな事はわかってる。ただ、親から譲り受けた個性を下品だと揶揄されて終わりにしたくなかった。ヒーロー免許という箔をつけてやりたかった。

 

 ただそれだけだ、小森 希乃子が雄英に来た理由は。

 ただのそれだけ。それだけで彼女の人生は十分だった。

 

 

 

 そんな陰鬱な記憶に彼の言葉が割り込む。

 

「おれは別に、小森さんの個性を見てチンコなんて連想しないよ」

「嘘」

「そりゃあ松茸とかは言われたら似てるかもだけど、それは認めるけどさ……小森さんが出すキノコは絵本に出てくるような感じだし」

「わたしのことエロいやつだって思ってるくせに……近づいたらチンコ菌が移るって、あんたもほんとは思ってるんでしょ……」

 

 一部の心無い男性に言われた事を思い出してしまったのだろう、小森は静かに鼻をすすった。

 彼は本心から小森の個性をいやらしいだとか卑猥だとは思わないが、いくら言葉にしたところで、彼女がこれまで受けてきた仕打ちの傷を癒すことはできない。

 焚火が消える。枯れ木ではすぐ灰になってしまい、燃焼時間が短かった。

 

 洞窟内の温度が下がった。

 風の音が責め立てるように轟々と鳴る。

 

「小森さん、そっちの寝袋に入っていい?」

 

 は? いまなんて言った? ただでさえ寒さでカロリーを消費し、空腹も加わって思考能力が乏しくなっている状態の小森は理解が追い付かなかった。

 返事を待たず、彼は小森の寝袋のジッパーを開けて背中合わせで潜り込む。寒さをしのぐ場合、背中から温めるとよいとマンガかなにかで読んだ気がする。

 

 彼は青い唇で震える声を発した。

 

「嫌かもしれないけど、ほんと寒くて」

「い……嫌じゃない、けど。けど」

 

 小森は動揺しながら固唾を飲む。お互いコスチュームを身に着けているが、彼の背中は丸出しだった。男性の筋肉質な感触がほぼダイレクトに伝わってくる。ぱつぱつになった寝袋の中で身体が火照り、顔が上気したのがわかった。同時に彼の身体の体温が低い事も。

 そっか。あの寒い中枯れ木を取りに行ったからかと、突き返すような態度を取った事に気が咎める。

 

 気まずい沈黙の後、彼がぽつりと独り言のようにこぼした。

 

「おれは『キノコ』の個性をチンコだとは思ってないし、小森さんが卑猥でいやらしいなんて、ましてや軽蔑なんてしてないって言っても信じてもらえないのはしょうがないけど」

 声の振動が、背中を通して小森に伝わった。

「だから、別の事は信じてほしい」

 

「……何を」

「『キノコ』の個性をチンコだって騒ぎ立てるやつらの方こそ、卑猥でいやらしくて、おれは軽蔑してるって事」

 

 燃え尽きた灰が一陣の風で霧散した。

 小森は黙って深く息を吸い、唇を噛んで嗚咽を堪えた。

 

「それだけは信じてくれる?」

 

 消え入りそうな返事は、彼の背にだけに振動となって伝わった。

 

 

 

 †††

 なんか暑い……? 

 †††

 

 

 

「あっち! 洞窟みたいなところがある、あそこに避難してるんじゃないかな?」

「ん」

 

 寒風を耐えながら、救助側の麗日と小大は洞窟をのぞき込んだ。薄暗いが奥には人影らしきものが確認できる。

 やっと見つけたと安堵し、近づいて固まった。言葉が出ず立ちすくむ。

 

 ぱたたっ、と液体が落ちる音がした。麗日が横を見ると、小大がまばたきもせず鼻血を両方の穴から出していた。

 

 こんな話がある。

 人は死に追い詰められると、時としてやるべき事を差し置いてヤルというものだ。海賊に襲われた船では、逃げるや戦う、無抵抗の選択肢よりも性交が優先されたりするらしかった。

 また、嘘か真か、男性は死に瀕すると勃起するとも言われている。要するに生存本能が理性を上回り、性欲という形で出てくるのだ。

 あるいは吊り橋効果というやつかもしれない。

 

 いま、救助側の目の前の光景はそれを如実に示唆していた。

 信じがたい事にこの寒さの中、なぜか二人とも全裸で横たわっていたのだ。

 

 ヤッたのか!? 思わず生唾を飲み下す。

 わたしたちは無念にも間に合わなかったのか、はたまた間に合わなかったから良かったのか。とにかく行為中でなかった事については幸運かもしれない。さすがに今後の学生生活が気まず過ぎる。

 というか、こっちが一生懸命に捜索してる時にナニやってんだ? 

 

 まあそんな訳はなかった。

 矛盾脱衣、あるいは逆説的脱衣という現象がある。あまりに寒いと、人間の身体は温めようとする働きが強まる。その際の体感温度差が激しいと脳がバグり、極寒であっても猛暑を覚えて脱衣してしまうのだ。

 もちろんその異常行動に本人の意思は無く、なぜ脱いだかという記憶も残らない。

 二人は一緒の寝袋で暖を取っていたが体温の低下を止められず、暑さを覚えてしまったのだ。

 

 とにかく偶然にも局部が隠れている彼と小森に毛布を掛け、暖を取ってゆっくりと回復を待つ。

 

「ねえ小大さん……」

 麗日が色の無い瞳で火を見つめる。じっくりコトコトとスープが煮込まれていた。

「ウチら、間に合ったんだよね? 救助訓練は合格だよね」

 

「ん」と、鼻にティッシュを詰めた小大が答える。

「そうだね。まあ、ある意味間に合わなくて取り返しのつかない事になったけど」

 

 しばらくすると、いい匂いにつられて小森が目を覚ます。

「えっ!? なんでわたしコスチューム脱いでるの?」

「ん」

 と小大が慧眼を向けて言った。その成人向けな内容にボッと赤面する。

「んなッ!? す、すする訳ないじゃん! こんな状況で、しかもここ学校だよ!」

 

 ワザとらしい反応に、麗日は半目を向ける。

 

「わーっ! なんでおれコスチューム脱いでるの?」

「ん」

「え? なに?」

「ん」

 

「えっと……あ、麗日さん、小大さんはなんて?」

 

「それは、えーと」

 とてもじゃないけど、そんなエロい言葉はウチの口からは言えない。

「まあ、とりあえずスープ作ったから食べなよ」

 

 なぜ麗日が目を逸らすのか、逆になぜ小大が視線を突き刺すのか。後になって誤解を解くのに、彼と小森は大変な労力を支払う事となった。

 しかしその勘違いも仕方の無い事だった。

 救助側の二人が見た小森の顔は、入学時からの沈んだ表情とは打って変わって、とても満たされていたので。

 

 

 

 †††

 

 一方、彼と小森がチンコチンコ言っていた頃の士傑では、相澤先生や緑谷、爆豪、轟たちがヴィラン連合に襲われるも、オールマイトが頑張って撃退していた。

 

 †††

 

 

 

 小森 希乃子が雄英に来た理由は、親から譲り受けた個性を下品だと揶揄されて終わりにしたくなかったからだ。ヒーロー免許という箔をつけてやりたかった。

 ただのそれだけ。それだけで彼女の人生は十分だった。

 今は違う。

 同じような個性で苦しんでいる誰かを、プロヒーローになる事で勇気づけたいと考えている。

 彼がそうしてくれたように。

 





【挿絵表示】

八百万さんが蛙吹さんにマウントを取ったシーンだったとは口が裂けても言えない。
シーンの挿絵ですが、書いてる途中でこの視点のカメラは無いと気づいたので没になった南無南無です。


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第五話 カクチノーサム

 1-Aが四苦八苦しつつも救助訓練を終えてシャワールームで汗と汚れを落としている頃、ミルコは職員室のモニターで戦闘訓練の映像ファイルをチェックしていた。生徒がどの程度遣うのかを確認するためだ。

 隣でミッドナイトがあれこれ注釈を付けながら他愛のない会話をする。

 第一回戦を眺めながら、ミルコが呆れ顔で言った。

 

「こいつアホなのか? 視線誘導にしてもやりすぎだろ」

「わかってると思うけど、生徒だからね」

「手ぇ出す訳ないだろ。個性に引っ張られてたガキの頃ならまだしも、プロだぞ」

 

 バックやハリットの語源が示す通り兎の性欲と繁殖力は高く、発情期は長い。『ウサギ』の異形型の個性持ちであるミルコも、その影響を受けていた過去があった。

 それがいわゆる、個性に引っ張られるといった現象だ。

 異形型に散見され、例えば『カエル』であれば寒くなると眠ってしまったり、『狼』だと遠吠えに反応したりと言った具合だ。もちろん個性を訓練する事である程度は解消して、人間に近い生活を送る事は出来る。いくら個性が他の動物であったとしても、それが宿る主体は人間だからだ。

 

 ではミルコが今も性の金棒を振り回しているのかと言うともちろんそうではなく、エロガキだったのは中学までだ。

 なぜならその時、彼女はすでにプロヒーローに必要な要素の一つ、純粋な強さを手に入れていたからだ。

 そもそもなぜ兎の繁殖力が高いのかというと、食物連鎖ヒエラルキーの低位に位置するからだ。被捕食側であり弱かったから、種の絶滅を防ぐために繁殖能力が高い。逆説的に、強ければその必要性は薄れる。

 地元で偶然見かけた牡蠣の密漁団をボッコボコにしてから、性欲は一日一善に収まるようになった。

 

 プロになってからはますますその強さに磨きがかかった。事務所も持たず、フリーでやっていけるのは伊達ではない。発情期の影響は多少受けるが。

 だから治安の悪い国に行けば一瞬で攫われるような彼のバックコスチュームを見ても、淑女らしくしていられるのだ。

 

「だいたい、わたしより弱いヤツは趣味じゃない」

「あらそう。でもあんたより強いとなると相当数が減るんじゃない? オールマイトとか?」

「んー、いいなーって思ってた時期もあったけど。考えてみれば、象徴をオカズにするのも気まずい感じして萎えたから無し」

 

 オールマイトで入れられるか? というのは仲の良い女性同士では割とポピュラーな質問であるが、だいたい不敬な気がするという理由でオカズにされない。

 ではなぜメディアやマスキュリストがオールマイトのコスチュームは性的であると騒ぎ立てるかと言うと、まあそういう事だ。騒ぐことに目的があり、オールマイトのバッシングは手段でしかない。

 

「エンデヴァーは?」

「理想の夫婦ランキングの常連と不倫しろってか。アメリカならいざしらず、ここじゃあ二度とプロを名乗れなくなる」

「ベストジーニスト」

「亀っぽいのはなんか生理的にヤダ。あいつら兎を見下してる」

 

「それ被害妄想だから。んー、なら『シールド』の……クラストもダメか。じゃホークス。今はビルボードであんたより下の順位だけど、今後はベスト5に入るとかなんとか言われてるくらい人気だけど」

「へらへらしてて女気が無い」

「あんたより強くて女気のあるヤツなんてワープ系の個性よりレアなんだから、どっちか諦めるべきね」

「知らね。別に結婚したいとか思ってないし、男とかめんどくせぇし……そういうおまえはどうなんだよ」

 

「結婚したいーけど出会い無いー」

「まあ、お互い個性のせいで相手には苦労するよな……この『キノコ』も大変そうだ。人生とか、プロ後とか」

 

 ミッドナイトの『眠り香』は、肌から放たれる香りで相手を眠らせる個性だ。こういった、中学生が妄想するような悪用方法が可能な個性は、性的なレッテルを貼られやすい。

『ウサギ』も好色だと思われているのでミルコの男性人気は低い。メス兎はオスほど性欲が強くないにも関わらず。

 なのでなんとなく、二人は小森に同情的になった。

 

「彼女ねー、今のところはヒーロー科唯一の男性に邪険にされてないからいいけど」

「まあヒーロー志望が個性でレッテル貼ってるようじゃな。これで全員分?」

「そ、気になった子いる?」

 

 ミルコは席を立ち、んー、と背伸びして身体をほぐした。

 

「とりあえず、後で『カエル』に聞きたいことがある」

「蛙吹ね。教師なんだし、覚えなさいよ」

「つっても非常勤だしなあ」

「関係ないから、それ。いまあの子らはたぶん更衣室にいると思う」

 

 わかった、とミルコはつかつかと更衣室に向かい、ドアを開けた。シャワー後の温かく湿った空気とボディソープの香りにふわりと包まれた。

 突然の教師の登場に、それまで続いていた和気あいあいとした会話が打ち切られる。

 

「えーと。蛙吹、ちょっとこないだの戦闘訓練で聞きたい事があるから、後で職員室来い」

 

 それだけ言うと、バタリとドアを閉じる。その短い間に小森を盗み見る。生きるのにいろいろと面倒な『キノコ』の個性持ちが男性と二人きりだったので、メンタルケアが必要かと思ったが杞憂だったようだ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 ああいう男がもっと増えりゃあな、とミルコは廊下を戻る。

 

 

 

 靴下を履きながら、取蔭が不安そうに尋ねた。

「え、梅雨ちゃんなんかやった?」

「……そんな事ないと思うけど」

「ふーん、まあ梅雨ちゃんだから心配ないか。てかさ、どうだったの? 山岳ゾーンの救助訓練」

 

 すでに八百万によって彼に対する話題のタブーは取り払われていたので、もはや遠慮は無かった。

 視線が参加メンバーに集中する。小森はロッカーの方を向いており、小大はいつもの調子で表情は読み取れなかった。ただ、麗日は乾いた笑みで頬をかいた。

 期待と興奮が入り混じった生唾が飲み下される。

 おいおい、一体何が起きたっていうんだ。

 

「ん」

 小大の説明に場がざわめき、小森が顔を真っ赤にして振り返る。

 

「ちょっとそれ誤解だってば!」

「そんな……学校でなんて。うらめしい」

 柳がネクストステージに上がった学友に畏怖の念を覚える。

 それは一種の幻想であり、憧れのようなものだった。例えば人気の無い体育倉庫で、などというシチュエーションは吐いて捨てるほどエロマンガで使われている。

 

「誤解って……じゃあなんで全裸だったんだよ!?」

「知らないよ!」

「い、いやでもしょうがないよ。危機に瀕するとそういう事しちゃうって事例もあるみたいだし、事故っていうか」

「ちょっ! 麗日まで何言ってんの」

 

 芦戸が小大に問い詰める。

「結局おまえらは救助に駆け付けた時見たのか? ていうかあいつの、まあいろいろと見えたのか?」

「ん」

 

 っつぁーマジかー。ギリギリかー。

 

 その誤解は、矛盾脱衣の仕組みが明らかになる午後の講評の時間まで続いた。

 つまり昼食の間はまだヤッたという認識のままだった。

 

 女子更衣室でそんな状態になっている事を知らない彼は、これを一種のチャンスだと捉えていた。最近なんか普通に喋れてるし、救助訓練の出来事を話のネタにすれば自然な流れで昼食を共にする事が出来るはず。

 そっと聞き耳を立て、ぞろぞろと女子が出てきたところで自分も更衣室を後にする。偶然を装い、いや~寒かったからシャワーの時間長くなったよー、とぎこちないセリフを麗日に吐く。

 

「あ、うん。そう、寒かったもんね」

 しかしどぎまぎした態度で、視線を合わせようとしない。

 二人は熱々だったみたいだけど。と小森を除く誰もが心の中で突っ込んでいるので仕方がない。猫のような好奇心に満ちた八百万は拳藤の手刀で連れ去られた。

 

 なんか距離がまた遠くなった気もしたが彼は諦めなかった。波動先輩の押しの強さを心に、ちょうど近くにいた柳に話しかける。

 

「そういえば、柳さんはどうだった? 水難ゾーン」

 

 昼食なので自然と固まってランチラッシュへ向かう道すがら尋ねられた質問に、彼女は内心で頭を抱える。

 

 えぇー、救助訓練の内容を振ってくるって事は、こっちも聞き返さなきゃならないって事でしょ? いやクラスメートの性体験なんて聞けるわけないじゃん。コスチュームの時といい、なんでわたしばっかこんなコミュニケーションの取りにくい話題なんだよ! 

 マズい、このままだと小森が喘いでる姿を脳裏に浮かべながらご飯を食べる事になる。興味はあるけど食事時はちょっとヤダ! 

 こうなったら……

 

「わたしも、他の災害ゾーンがどうだったか気になる。午後の授業でレポート書く前にどんなだったか話さない?」

 そう、山岳ゾーンのターンを作らせずに昼食を終わらせればいいのだ。

 柳の危機感を察した芦戸が必死のパスを拾う。

「あーいいね。なんか凄いギミックが凝ってたから気になるし、ちょうど昼時だから一緒に食べながら聞きたーい」

「一回口に出して整理しといた方がいいかもね」

 

 や、やった。芦戸に続いて葉隠ナイスパス! ちょっと卑猥に聞こえるけど。

 

 こうして柳は窮地を脱した。

 その日はクラスメートと和気藹々とした食事を迎えることが出来て、彼はしみじみと喜びをかみしめた。こうやって仲良くなれたのも波動先輩のおかげだ。

 

 後に救助訓練のレポートは、山岳ゾーンだけ官能小説の導入と言われる。

 

 

 

 †††

 

 

 

 ごろんとベッドに寝転がりながら、湯上りで火照った肌の八百万はタブレットでシェアされた救助訓練のレポートを読んでいた。

 他チームの動きや、自分の個性と判断ならどうするかという思考実験は勉強になる。

 ふむふむと読み進め、もしも小森の立場だったらと考える。んー? と違和感に指を這わせてたどたどしく一段落付くと、おぼろげになった意識の中で宇宙を覚えた。

 

 世の中にこんな素晴らしい事があるとは思ってもみなかった。

 芦戸曰く、ペアレンタルコントロールなるもので成人向けコンテンツにアクセスできないらしい。さっそくアマゾンでタブレットを買い、Wifiに繋ぐ。

 彼女はネットで、桜色をしている宇宙の外側を見た。

 

 後日、さっそく休憩時間に師である芦戸に尋ねる。

 

「そのう、わたくし男性とのまぐわいにとても興味があるのですが、どうやったら出来るのでしょう?」

 

 それはこっちが聞きたかった。なぜこちらが非処女である事が前提なのか。

 

「まあ、普通は彼氏を作って仲良くなって、って感じじゃないの」

「どうすれば彼氏が出来るのでしょうか」

 

 こっちが聞きたい。まるで彼氏持ちである事が前提の問いかけに、煽っているのか? という気持ちをグッとこらえる。

 

「まあ、男性が思い描く理想の女性像っていったら清潔感があって清純でって感じゃないの? そういうところを気をつければ、たぶん、きっと……」

 

 しかしスカートが長いと処女感が出てモテないだとか、逆にアピールが必死過ぎて引かれると立ち読みした女性雑誌ononには書いてあった。女性の下着が見える事は不純だと思ってるクセに、男性の心理とはまったく複雑怪奇だ。

 

「あっ! だからあいつにあんまり性的な事言うなよ!」

「わかりましたわ、少々手遅れな気もしますが……」

 

 これでセクハラ時限爆弾は解除された。われながら上手い説得の仕方だと自画自賛する。だがしょんぼりとする八百万が可哀想だった。迷子になった子犬のようにおろおろしている。

 

「まあ、全然気にしてなかったし、今後気を付ければいいって」

「……そうでしょうか」

「根に持つようなヤツじゃないって。後はまあ結婚したい職業ランキング上位にプロヒーローが入ってるし、実力付ければそのうち彼氏とか出来るんじゃね?」

「なるほど、実力ですか……」

 

 ふうむ、と顎に手をやり真剣に考えこむ八百万に、芦戸はもう一歩踏み込まなかった事を後に後悔する事になる。

 

 

 

 †††

 

 

 

 †††

 

 

 

 果たしてこの個性社会において、格闘術を鍛える事に意味はあるのだろうか。

 ある。

 場合によっては殴った方が早く、個性の使用を制限されたり、無効化される状況も珍しくないからだ。

 また、個性に合わせた独自の格闘術は無限のバリエーションがあり、初見殺しにもなりえる。

 

 ラビットヒーロー『ミルコ』こと兎山 ルミが雄英に招かれたのは、その為だ。

 

「好きに打ってきていいぞ」

 そう言って、ハイネックレオタードにニーハイのコスチュームに身を包んだミルコは、両腕を顔の前でコンパクトに構えた。重心を後ろに預け、半身を相手に向けるスタイルはキックボクシングに似ていたが、腰の位置はやや低く、猛獣が飛び掛かる予備動作にも見えた。

 

 どこからでもかかって来い、と言われはしたものの対峙する彼は最初の一歩が踏み出せないでいた。彼我の距離は三メートルほどだが、果てしなく遠く感じる。立ち向かう事が危機に直結すると本能的に感じている。

 クラスメートが見学している事すら忘れた。

 

「心配すんな、こっちからは手を出さねぇから。おら来い」

 

 舌なめずりでそこまで言われると、挑まない訳にはいかなかった。一息で距離を詰め、脇腹へ横蹴りを放つ。が、脛でいなされる。

 かなり我流だな、というのが拳藤の所感だった。フットワークはボクシングに近い、薄っすらとダッキングが乗った打撃も見受けられる。シラットらしい返しのテイクダウンを狙った動きも所々で挟んでいた。

 だがその全てが防がれている。攻めきれない。組み付きは膝が怖くて頭を下げられず、好機の顔への打撃を脚で弾かれたときは何が起きたかわからなかった。

 

「運動量は激しいが、体力には自信あるみたいだな。基礎もかなり出来てる、悪くない」

 

 それだけ言うと、ミルコの脛は吸い付くようにぴたりと彼の局部にあてがわれた。それだけで恐怖のあまり身動きが取れない。タマがヒュンとした。どっと冷や汗が流れる。

 ミルコは女生徒たちに言った。

 

「もしヴィランが男性で、ヤバそうならここ狙え。殺すことなく無力化できる便利な急所だ。露見すりゃメディアになんか言われるかもだが、市民が死ぬよかマシだ。バッシングは我慢しろ」

 構えを解き、逆におまえは、と肩を叩いて楽にしてやる。

「そこを狙われる。コスチュームには防打性もあるが無尽蔵って訳じゃねぇから、あんま身体を正面に向けるな。それと、男性の価値観では同性に金的するのはかなりタブー視されてる。だからって相手が使ってこないって訳じゃない。現場じゃそんなキレイ事言ってられないしな」

 

 そのまま肩を抱き寄せ、顔を近づけて囁いた。キャロットジュースのような甘い香りが彼の鼻をくすぐる。

 

「おまえ、戦闘訓練で勃たせて蛙吹の拘束から逃れたんだろ」

 

 藪から棒に言われた言葉に彼は固まった。誰にもバレていないと思ったが、今日来たばかりの教師に見抜かれている。

 

「な、なんで」

「蛙吹は、拳藤が負けたという報告に動揺したから拘束が緩んだと言ったが、その報告はおまえが拘束を逃れた後だった。嘘をつくって事は、なんか別の事情があると考えるのは当然だろ」

「いやあのそれは」

「わたしが無理に聞き出した事だから蛙吹を責めるのはやめてやれ。別にそういう手を使ったから叱ろうって訳じゃない、むしろその逆だ」

 

 てっきり勃った事に対して不潔だとか変態だとかで説教されると思っていただけに、彼はぽかんとした。

 

「そういう使える手はなんでも使うって姿勢は貪欲さがあって嫌いじゃない。けどプロ後は控えろよ。ま、どうしても隙を作りたい時に使えばいい……次! 拳藤だっけ?」

 

 果たしてこの先、意図的に勃起させて相手の隙を作る事などあるのだろうか。あるとすれば、相当奇妙で切羽詰まった状況に違いない。

 ぼんやりとそんな事を考えながら、個性ありきの格闘でゼロ距離が弱いと指摘されている拳藤の組み手を眺めた。

 

「そう言えばさ」

 取蔭が耳郎にぼそぼそと呟く。

「水風船にプチトマトを二つ入れて膨らませた感触がアレだってSNSでバズったけど、本当なのかな?」

「さあー。でもあんなぷよぷよしたのが急所ってなんか可哀想だよね」

 

 

 

 †††

 

 

 

「最近なんとか打ち解けられました」

 

 ちゃぽりと波動がジャスミン茶のペットボトルから口を離し、朗らかな笑みを浮かべた。

 

「よかったー。わたし、コーハイくんがずーっと一人ぼっちだったらどうしようかと思ったよ。別に本人がいいならそれもいいけど、環境のせいで仲良くしたくてもできないのって辛そうだもん」

「戦闘訓練で一緒に戦ったりしたのが良かったんですかね」

「うわーやったなー、核を奪い合うやつでしょ。懐かしー」

「波動先輩も経験があるんですか?」

 

「うん。あれは新入生のオリエンテーリングみたいな側面あるからねー。これからもちょくちょくルール変えてやると思うよ。二年だとシチュエーションが増えて面白いよー、人質救出とか、飛行機ハイジャックとか。ねえねえ、結果は? 勝った? 負けた?」

「勝てましたけど、おれは手も足も出なくて……相方が一人で全部やっちゃいました」

「うんうん、そういう時もあるある。個性戦は相性だから。でもパートナーはずいぶん強いんだね。ねえねえ、その子どんな個性なの?」

「生物以外はなんでも作り出せるんだったかな? そんな感じだったと思うんですけど」

 

 彼は波動にスマホを手渡して、訓練の動画を見せる。

 

「わーおもろーい。凄いよねぇ個性って。この子の格好も同じくらい凄い!」

 

 子どもが初めてのおもちゃを見るように目を輝かせている。

 八百万のコスチュームに少しも引いていない所を見るに、本当に無邪気な人なのだろう。しかも聞くところによると、波動先輩は雄英でもトップスリーに入るほどの実力者らしい。優しく、気遣いができてしかも強いなんてまさに才色兼備だ。

 天使かもしれないと彼は思った。

 

 そんな透き通った瞳が、不意に触れがたい鋭さを持つ。表情は朗らかなままなのがどこか不気味だ。

 波動は軽く画面をタップし、上部に表示された現時刻を手早く確認した。

 彼女の雰囲気の変貌に何事かと彼がスマホをのぞき込むと、ちょうど自分が蛙吹の個性攻撃を受ける直前のシーンだった。今更ながらに凄い格好をしているのは八百万だけではなかったと思い出して焦る。

 

「いやこれはですね。ちょっと企業との解釈違いというか向こうの不手際で変なコスチュームになってしまって。おれがデザインしたわけじゃ……」

 

 さすがに変態だと引かれただろうか。窺うように波動の顔を盗み見ると、いつもの天真爛漫な表情だ。先ほどの剣呑な雰囲気は見間違いかと瞼をこする。

 

「この『カエル』の個性持ちさん、相当強いね」

「あ、やっぱそう思います? でも、もうちょっと なんとかなったんじゃないかなあって。今さらですけど」

「ちょっと待ってね。んー、いま考えてるから」

 

 そのまま目を閉じて腕を組み、たーっぷりと時間をかけた思慮深い沈黙の後に言った。

 

「そうだね。まず事前に明かされたシチューションからヒーローが攻めてくるのはわかってたんだし、不用心な立ち位置かも。バリケードなんて大袈裟なものじゃなくても、椅子とかを隣に置いとくだけでだいぶ違うからね」

 

 アドバイスを言う時の波動の真剣なまなざしに、彼は感銘を受けた。やはり雄英で三年間学んだだけはある。

 

「そうなんですか? ほ、他には何か」

「個性の関係なしに、わたしならこうしないって実戦面での違和感みたいのはいろいろあるよー、でもねー」

 

 というところでタイミングよく予鈴が鳴る。

 

「……でもこういう経験値からくる感覚って言葉にするの難しいかも。何回か動画を見返したら上手く伝えられるんだけどなー……」

「あ、じゃあこのデータ 先輩のスマホに送りますんで、よかったら暇なときにでも見てもらえませんか? 体育祭近いし、ちょっとでも地力上げときたいんです。正直、おれの個性ってあんまり役に立たなくて」

「うんいいよー」

 波動は晴れやかな笑顔で了承した。

「かわいいコーハイくんの頼みだし。こういう先輩っぽいことって憧れてたんだ。体育祭、頑張ってね。応援してるから」

 

 連絡先を交換し、そのまま戦闘訓練の映像ファイルのコピーを転送する。

 じゃあまたねー、と別れた波動はてくてくと二年生の棟へ向かう。その途中で、こっそり様子を窺っていた有弓に勢いよく肩を掴まれる。

 

「ねじれっ! ど、どどどうだった?」

「どうって、なんにもないよー。普通にご飯食べてただけだもん」

「告られなかった!? オッケーした?」

 

 あまりにも真剣な有弓に、思わず苦笑してしまう。

「だからそんなのじゃないってばー」

 

「いやでも連絡先とか交換しなかった?」

「それは聞かれたけどさー」

 

 おお女神よ! と有弓は頭を抱えた。そんなの、そんなの来週には性の単位を満たして飛び級で卒業じゃん! 

 

「チャンスだって! 絶対あんたの事好きだから、じゃなきゃ向こうから聞いてこないって!」

 

 まあまあ落ち着いてよ、と有弓をなだめる。それは波動が意図的な会話運びをした結果なので、別に彼の好意が含まれているとは考えにくい。

 しかし。だったらいいな、とは思う。

 

 自身の距離の詰め方で男性が引いているのを自覚してない波動からしてみれば、彼の対応の仕方は珍しかった。友好的で、先輩と慕ってくれて、頼りにしてくれる。

 だから。だったらいいな、とは思うけれども。

 

「ごめん有弓、ちょっと体調悪いから次の授業休む」

「どしたの、食べすぎ?」

「そうかもー」

「ふーん、わかった。先生に伝えとく」

 

 波動はそのまま一人で棟を歩く。

 

 仮に彼が好意を寄せてくれていたとしても、どうせすぐにダメになると波動は理解していた。今まで何人かにアタックして玉砕したこともあるが、もし付き合ったとしても自分の内を晒す事は出来ない。

 きっと引かれてしまうから。

 

 授業中という事もあって、廊下には誰もいなかった。耳を澄ますと、数学を教えている先生の声がうっすらと響いている。

 一人分の足音が小さく反響した。

 

 なんとなしに指先を窓側の壁に擦りながら、波動ねじれは誰もいない廊下を一人孤独に歩く。

 

 わたしはおかしい。と波動は理解している。理解して生きてきた。納得とは違うが。

 

 

 

 

 †††

 

 

 

 日本におけるオリンピックと称される士傑ほどではないにしろ、雄英の体育祭の人気は国内トップクラスだ。

 学内には許可を得たアンテナショップ等がご当地グルメの屋台を広げ、スタジアムの観客席では好青年がソフトドリンクの売り子として練り歩いている。

 

 そんな喧騒を耳にしながら、生徒たちは薄暗いゲート通路で入場の合図を待っていた。誰もかれもが緊張で落ち着かない。この催しはネットやテレビでも中継される。そうとあってはカッコ悪いところは見せられない。

 

 それに予選と決勝戦の二部構成という短い舞台であるが、プロヒーローのスカウトの場でもある。

 

 体操着に着替えた1-Aの面々はだから、一層のプレッシャーだった。ヒーロー科に在籍する事がプロへの第一歩なら、体育祭は二歩目なのだ。

 息苦しい空気の中、少しでも緊張を解きほぐそうと彼が拳藤に話しかける。

 

「そういえばさ、朝早くに校門の入り口で変な人たちがいたらしいけど、知ってる?」

「ああ、何人かのマスキュリストがなんか横断幕持って抗議してたらしいよ。雄英体育祭を一般公開する事について」

「え、なんで?」

「なんか昔、個性の制御をミスって服が脱げちゃった男子生徒がいたらしくて。それから男性を性的消費しているとかなんとか」

「ああ、あったねそんな話」

 

 確かに当時話題になったが、情報供給過多なネット社会では今は昔の話だ。

 せっかく忘れ去られたのに、今でもその事を蒸し返されて困るのはその男子生徒な気もする。世論やヒーロー、本人の意見としては、映像事故になる可能性があるなら個性を使わない判断も重要だったという事で落ち着いていた。

 最終的に個性を使いこなし、プロになる為に雄英に入学したのであって、体育祭で好成績を残す為ではないからだ。

 

「わたしが通りかかった時はちょうど警官に解散させられてたけど、結構物騒な事言ってたよ。人権を無視して体育祭を断行するなら、今後、性的消費された男子生徒の報いを受けるだとかなんとか」

「こわ~。それは同性でも引くなあ……まあ確かに映像見た時はびっくりしたけどね」

「確かに」

 

 と拳藤は小さく笑って言ったが、それは不可抗力とはいえ男子高校生が全裸になった瞬間を覚えていると白状したに等しい。え? あ~あったねそんな事も、と中学までの彼女ならそう返していただろう。

 どうも彼と過ごしていると異性との距離感が狂う。

 気恥ずかしくなって、曖昧に会話を打ち切った。

 

 ほどなくして1-Aがグラウンドに足を踏み入れると、割れんばかりの声援が響く。かかる期待に足が武者震いする。

 普通、サポート、経営科の計七クラスが揃うと、主審のミッドナイトがバラ鞭を片手に選手宣誓を八百万に任命した。

 

 これまでとは別種の緊張感が1-Aに漂う。拳藤が芦戸に目配せすると、小さな頷きが返ってきた。快楽としての性教育は一通り済んでいるはず。

 頼むから変な事を言うなよ。いや、さすがにそういうシチュエーションでない事は理解しているが、どうも嫌な予感がする。

 

 大きな朝礼台にあがった八百万は、澄んだ声を響かせる。

 

「宣誓。わたくしたちは雄英に籍を置く学生として科を問わず、人に手を差し伸べる精神を学び、時に競い合う仲間としてこの体育祭を正々堂々と戦う事を誓います。また、今回ヴィランの襲撃に遭われた士傑の方々に対しても、志を同じくする仲間はここにあることを表明します」

 

 大きな拍手の後に、八百万は一呼吸おいて口を開く。

 

「最後にわたくし事でありますが、体育祭で一位になれたなら、それを自信としてある方に告白したいと思います。以上です」

 

 スタジアムに響いたその言葉は一瞬の静寂を生んだのち、大きな声援と喝さいの渦となった。

 なんとも女気溢れる青春の宣言である。先の選手宣誓と相まって誰もが好感を覚えた。

 きっと長年想いを募らせた相手なのだろう、はたまた幼馴染かもしれない。そんな想像を膨らませ、心の底から八百万を応援した。

 

 彼もその内の一人で、のんきに麗日に話しかける。

「八百万さん勇気あるなー。誰だろうね、相手って」

 

 油をさしていないロボットのように首を向ける。

 え、わかんないの。

 

 芦戸は頭を抱えた。たぶんわたしがこないだ あんな事を言ったからだ。ど天然箱入りお嬢様の八百万には、たぶんまだ好きとかその辺の事がわからない。いやわからないからこそ告って知ろうとしているのかもしれない。

 とはいえ性交は好きの延長線上にあるのであって、今の八百万は逆走している可能性がある。

 そしてもし彼女が告ろうものなら、なぜか貞操観念の緩い彼は流されてオッケーする可能性は高い。とうぜん、その後も押しに弱そうな彼は……

 

 止めなければ! 八百万が彼の事を好きなら問題は無いが、少なくとも恋愛感情を確認しなければ不幸なことになるかもしれない。その責任がわたしにある! 

 

「いやー青春って感じねー」

 ミッドナイトが惚れ惚れして言った。

「それじゃあさっそくだけど予選の第一種目は──」

 

 スタジアムの巨大なモニターがドラムロールと共に目まぐるしく文字を映し変える。

 

「──バトルロイヤル! やっぱエンタメは流行りも取り入れないとね」

 

 ぱっちりと決まったウィンクで、雄英体育祭は始まりを告げた。

 



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 体育祭
第六話 ベスピペス


「ルールは簡単! 七クラス全員で二十人の生き残りのバトルロイヤルをやってもらうわ、流行ってるヤツな感じよ!」

 

 パッとモニターに簡略化された地図が表示される。実技試験で使われたような市街地だが、工業地帯や湖、森林などの環境が取ってつけたように配置されている。

 

「これからあなたたちは六つの集団に分けられて、別々のゲートからスタジアムに入場する。十分間は交戦不可の準備期間として扱うから、その間にいろんな所に隠してあるサポートアイテムを探すもよし、有利な場所に陣取るもよし! なんでもありよ!」

 

 ランダムで拾えるアイテムでヒーロー科と他科の実力差をカバーしようというのが雄英の目論見だった。

 もちろんヒーロー科がアイテムを使えばその差は広がるかもしれないが、1-Aの個性とはシナジーが起きにくいものを配置している。

 

また、可視化されたレーザーが上空に放たれ、そこを中心点として時間の経過とともに立ち入り禁止区域の輪が狭まるので、いつまでも有利な場所で戦えるとは限らない。

 

「禁止区域が近づくと配布した腕輪が鳴いて知らせるけど、潜伏がバレない為に小音量だから注意してね」

 

 格闘打撃は、支給された靴やグローブ、肘、膝、のプロテクターで保護された部位のみ使える。これらは全てアイテムであり、特殊な衝撃吸収素材が攻撃を和らげる。

 危険な肘や膝の打撃も無力化でき、受けた側は数値化されたダメージが一定量を超えると腕輪が失格を伝える。

 普通科等の戦い慣れていない生徒が怪我をしないための配慮だ。要は誰でもゲーム感覚で安全に戦える措置。

 

 拳藤が個性を起動すると、合わせてグローブも大きくなった。ちょっと試していい? と軽く取蔭を腹パンするが、よく干した布団を殴ったような感触が返ってくる。もちろん取蔭にダメージは無い。

 見た目はただの指ぬきグローブだが、その効果は折り紙付きのようだ。

 

「それと、動的な面白さを演出するために、倒した人数が多い生徒はボーナスとして次の最終種目でシード枠が与えられるから。自信のある子は狙ってみてね~」

 

 説明と装備が配り終わり、いよいよバトルロイヤル会場のゲートへと移動する。

 ヒーロー科が固まるのを防ぐため全クラスが六つに分けられていた。スタジアムを囲むように、等距離上に位置するトンネル状のゲートの扉は観音開きとなっており、当然スタートダッシュを切ろうと誰もが前へ前へと位置取ろうとする。

 

 とはいえやはり男性は、異性との肉体的な接触を嫌ってか比較的後方にいる。スカウトの目のあるヒーロー科と違って、楽しい学校行事の範囲内だからというのもある。

 しかし彼はそうもいかない。女性の柔らかい肉体を掻き分け、なんとか最前列にたどり着くもカウントダウンが進むにつれて押し合いへし合いが加速する。

 

 固い扉に押し付けられた彼には、他科がこんなにヤル気に満ちているのは意外だった。が、俯瞰してみれば混雑しているのは彼の周りが主な気がする。

 だがそんな圧力は、彼の脇腹から伸びる手が扉を支えると不意に消えた。肩越しに振り返ると、拳藤が少し力んだ顔で人の波の盾になっていた。

 

 真面目な彼女らしい行動だったが、彼からしてみれば情けをかけられているようでもある。後ろ手で脇腹をくすぐると、小さな笑い声と共に拳藤の力が抜け、後ろに押されて彼に密着した。

 想定してなかった異性の香りと身体の温度に触れ、どぎまぎする拳藤に彼が小さく囁く。

 

「なんかフェアじゃないから。一応敵どうしだし」

「わ、悪い。そういうつもりじゃ」

「でもありがとね」

 

 彼は背中に押しつぶされた拳藤の立派な双丘と、呼吸で生々しく胎動する腹を感じながらも動じる事はなかった。この程度では問題ない。アベンジャーズの一睨みでヴィランは委縮する。

 

 その様子を遠巻きに見ていた男子生徒たちが面白くなさそうに小さく舌打ちし、短く視線を合わせた。

 

 カウントダウンがゼロになる。号砲が鳴ると同時にゲートが開かれ、生徒が一斉に飛び出す。

 彼がちらと空に視線をやると、やや中心寄りにレーザー光が放たれている。最終決戦地は住宅街になりそうだ。ホログラムが大きく残り人数を表示しており、観客たちへ様子を中継する為のドローンが何機も浮かんでいた。

 

バトルロイヤルの形式上、最後まで隠れて敵をやり過ごすのが上策だ。ボーナスは気になるが、できれば戦わずに終わらせたいところではある。

 

 ひとけの無い小さなオフィス街を小走りで進むとコンビニが見える。商品棚は空だが、アイテムを配置するならうってつけだった。入店すると、外からは見えなかったがアイスの棚にアタッシュケースが置いてある。

 開くとカラフルなピストルとホルスターが入っている。水鉄砲のようなそれを手に取り、レジスターめがけて試射するとペイント弾が着弾し、蛍光色の液体が飛び散った。

 なるほど、流行りだ。

 ハンマーの部分はディスプレイになっており、おそらく残弾数の【9】が表示されている。

 

 しかし遠距離アイテムがあるとなれば、不意打ちで他科からやられる可能性が高くなった。ペイント弾のダメージを腕輪がどう処理するかは不明だが。

 とりあえず住宅街には継続的なアイテム回収を必要としない人間、例えば幸運にも強力なアイテムを初手で拾ったり、アイテムより個性を使った方が強いヒーロー科が有利な場所を陣取ろうと集まっているかもしれない。

 正直、八百万や蛙吹と接敵すれば手も足も出ない。妥当な戦略としてスタジアム外郭との中間点に移動する事にして、アイテムを装備しコンビニを出る。出るが明らかに後を付けられている。しかも結構な人数だった。

 

 ミッドナイトが言った、なんでもありというのはチームアップも含まれるのだろう。これでは身を隠すどころではない。

 

「そんなにヒーロー科を潰したいのか?」

 

 さすがに愚痴がこぼれる。しかしどうしようもないので腹を括るしかない。

 二度目の号砲が鳴る。十分間の準備期間が終了した。同時に彼にペイント弾が飛んでくる。遅れて『火球』の個性が着弾した。

 さすがに相手をしていられないので、狭い路地裏を曲がりながら逃げる。

 

 すると『ジャンプ』の個性持ちが彼を飛び越えて立ちふさがった。個性を活かした鋭い飛び蹴りを半歩引いて躱し、先を急ぐ。逃走距離を稼げば、いずれ足の速い者と遅い者で分断できるはずだ。それに体力勝負なら自信があるので、向こうを消耗させられる。

 

 見通しの悪い交差点に差し掛かると、妙な駆動音が聞こえだす。ありえるか? と疑念を抱くと飛び出してきた深紅の原付に轢かれそうになる。ブレーキ痕が流線を道路に刻む。

 

「あっぶな! てか運転ありかよ。しかもここ一時停止だろ」

 

 彼は標識から暴走車へと順に視線をやって文句を言う。

 ロールなのかドレッドにしては丸みを帯びた桃色の謎ヘアー少女が、スチームパンクなゴーグル越しの視線を向ける。まるでSFアニメのポスターのようだった。

 

「あー失礼しました。免許持ってないので減点も何も無いからいっかーって感じでした」

「より悪いだろ」

 

 ヤバそうなヤツだな、と彼が引いていると、少女が来た方向から複数の罵声や怒声が聞こえる。

 

「待てこら発目ー! 逃げんなー!」

 

「どうやらお互い追われる身のようですね」

 発目と呼ばれた少女が彼の来た方を見やり、顎で指す。同じようにぞろぞろと追手が迫っていた。

「あなた、ヒーロー科ですよね? ちょうど肉盾が欲しかったところです。ここは共闘と行きましょう。後ろ、乗ってください」

「肉っ……て」

 

 彼の返事を待たず、発目はエンジンを吹かす。慌てて後ろに乗る。二人分の体重では速度が出なかったが、走るよりはマシだった。

 

「どこに向かってるの?」

「工業地帯ですかね、すぐそこですよ」

 

 彼は脳裏に地図を思い描く。たしか外郭に近いところだった。禁止区域の接近が気になるが、今さらもう遅い。彼と発目の追手がそれぞれ潰しあってくれればいいのだが。

 ほんの一分で、ビジネス街から油と薬品臭の漂う工業地帯へ到着した。出来の悪いゲームのステージ変遷のように唐突だ。

 発目は適当な工場に目星を付けると、原付を乗り捨ててそそくさとフェンスをよじ登って侵入する。

 

付いて行くと無人工場のようで、グレーを基調とした内装にラインや土台、目を引くイエローのロボットアームが並んでいた。

 

「それじゃあわたしは奥の工房で迎撃の準備をしてるんで、適当に足止めしといてください」

「足止め?」

 

 まさかと窓から外を覗くと、二人の追手たちは最悪な事に手を組んだようだった。

 

「発目どこだー!」

 

「ずいぶん恨まれてるみたいだけど何したの」

「さあー才能に対するやっかみじゃないですかね」

「しょっちゅう工房を爆破しやがってコノヤロー! こないだの異臭騒ぎもおまえだろー! 臭過ぎてしばらく飯食えなかったんだぞ!?」

 

「才能ね」

「天才とは理解されないものです、悲しい事に……五分でいいですから耐えてくださいよ。一網打尽といきましょう」

 

 まったく心のこもってない悲しみを口にすると、火災報知機を作動させて奥に消えた。

 けたたましいベルの音に気付いた追手たちが工場になだれ込む。

 

「ええー、マジかー。わざわざ居場所を知らせるー?」

「いたぞ! ヒーロー科の彦プ野郎が! 囲め!」

 

 作業ラインに身を隠すとペイント弾が頭上を飛び交い、何人かがぐるりと回りこんでいる。

 彦プ? と彼は怪訝に思いながら、消火器の栓を抜き薬剤を散布する。とりあえずはこの場を凌がなくてはならない。一網打尽と言ったからには、発目は何かしら強力なアイテムを準備しているのだろう。

 

「ここにはおまえに尽くしてくれる女はいないぞ!」

「はあ? 何言ってんだ」

「たまたま今年のヒーロー科の男女比率が傾いたからったってチヤホヤされやがってよー」

 

 発目を追っていた生徒たちには、どこか遊び心のようなものがあった。悪ふざけの延長線上のような。

 しかし彼を追っていた生徒たちの動機はどこか湿ったものだ。多数の女性たちの庇護欲を刺激して利益を得る、俗に言う彦プレイをしているように見えた彼への嫉妬と妬み、軽蔑が彼らを突き動かしている。

 

別に女性とイチャイチャしたい訳ではないが、ズルいというか、なんとなーく嫌悪を覚えてしまうものなのだ。

 いまもどこかでオタサーの彦と呼ばれる存在が、サークルをギスらせてクラッシャーとなっているかもしれない。

 

「あー、それは彼女たちに失礼だろ」

「よく言うぜ、どーせおまえも女に貢がせて、将来インスタで毎日寿司だか肉の画像ばっかあげる口だろ」

「わけがわからん」

「確かめてやる、そうやって訓練かなんかの点数を稼いでないか」

 

 実際のところ、1-Aの彼女たちは確かに彼のお世話になった者もいるし、ラッキースケベも体験している。だが、それが理由で利害関係になった事は無いし、ましてや訓練などでワザと手を抜いて彼に好成績を譲るような事などもってのほかである。

 

「まあ、相手してわかってくれるなら……」

 

 十分に煙幕として機能した段階で飛び出し、手近な一人の腹を前蹴りで突く。空気に阻まれた感触だったが鳩尾にクリーンヒットしたらしく、追手の一人の腕輪は戦闘不能と判断した。両肘のプロテクターと靴がそれぞれ強力な磁石でくっついて、失格となった者の動きを封じる。

 

 軽い射撃音や放たれた個性の音が響く中、「撃つのはやめろ、同士討ちになる!」と誰かが叫んで静かになった。

 ふーん、と彼は持っていたピストルで適当に射撃する。

 

「だからやめろって言ってるでしょ! 経営科か普通科か知らんが理解できないの!?」

「おれらは撃ってねえよ、サポート科だろ」

「アイテムを石器武器か何かとしか思ってないおまえらだろ」

 

 最後は彼が適当に言ったが、不和を生むには十分だった。

 

「理系だからって賢ぶりやがって」

「うっせー、文明が滅んだら真っ先に死ぬのはおまえら文系だろーがよ!」

 

 煙幕と仲間割れに乗じて何人か相手取る。どうやら惜しくも実技試験に落ちたヒーロー科志望のようで腕に覚えがあるようだが、その差こそが決定的だった。彼は大振りの攻撃を躱してカウンターで急所を打ち抜き、一撃で戦闘不能にする。

 しかしそれも長くは続かない。所詮は消火器の薬剤を振りまいただけなのですぐに視界は晴れてきた。

 どうするかと悩んでいると、発目が奥の工房から飛び出して彼を正面から抱きしめる。

 

「さあ一気に逃げますよ!」

 

 そのまま手元のスイッチを押すと、ジェット推進を取り付けられたブーツで天窓から空高く昇った。

 残されたサポート科や彼の追手は呆然と工場を見渡し、いつの間にか仲間が何人もやられているのに気づく。視界が効かない状況とはいえ多勢に無勢のはず、明らかにこちらに分があった。

 

「……ただの彦プじゃなかったのか」

 

 実力差を覚えながらトボトボと工場をあとにすると、工場の非常ベルの音が薄れて今さら腕輪が鳴っている事に気付く。

 

「ヤバいぞここから離れろ!」

「だあー! 発目にやられた!」

「邪魔だおい、どけって!」

 

 血相を変えてその場を離れるが発目の目論見通り、ほぼ全員が禁止区域に飲まれて失格となった。

 

 

 

 †††

 

 

 

 上空を飛行していた二人はほどなくして市街地へ着地する。

 発目がガッツリと手を回して抱きついている彼の肩を叩いた。

 

「もう大丈夫ですよ」

「あの、発目さん、飛ぶならそう言っといてよ。ベルト無しはさすがに心臓に悪い」

 

 彼はこわばった身体をほぐしながらホルスターのピストルをそれとなく探るが、どこかに落としたのか失くなっていた。

 

「……もっとこう、あの状況に対抗できるアイテム持ってなかったの? 造ったアイテムってその飛行ブーツだけ? 援護無しって結構大変だったんだけど。まあもういいけどさ」

「そーですね。わたしはずっと後を付けられていたのでアイテムを探せなくて。あなたこそ、ピストル以外になにか持ってなかったんですか?」

「うん、まあね」

 

 彼は無造作に発目の鳩尾に膝を入れる。その直前で止めた。ピストルの銃口を顎下にあてがわれていたので。

 

 発目は新しいおもちゃを与えられた子供のような笑みを浮かべる。

「いいですねえ、用済みになったら即切り捨てるその容赦のなさ。事前に相手の戦力を把握してからというのも気に入りましたよ」

「発目さんこそ、それ、おれのでしょ。飛行中に抜き取った?」

「ヒーロー科相手に丸腰はマズいので。それに──」

 

 彼が拳を振り抜き、発目が射撃する。それぞれが『ポルターガイスト』で飛んできたドラム缶を弾き、光学迷彩のアイテムで忍び寄っていた普通科を撃つ。

 

「──それに激戦区に劇的入場するわけですからねえ!」

「じゃあ、もう少しだけ共闘って事で」

 

 とは言ったものの、お互いがお互いをさっさと見捨ててその場を離脱したのでチームアップは一瞬だけだった。

 

 

 

 †††

 

 

 

 上空の残存人数に目をやると、誰でも否が応に鼓動が速まる。あと一人の脱落で決着がつくのだから。

 彼もその内の一人だった。レーザー光とは近いのに腕輪が禁止区域の接近を告げる。遭遇戦は避けられない。蛙吹と八百万にだけは会いたくなかった。

 道路を歩くのは危険だ。出来るだけ民家の庭を進み、塀で視線を切るよう努める。

 

 このまま人数が二十人まで減ってくれれば、そう祈っているとお隣さんがいた。フェンスと低木の生垣の向こうに、拳藤が彼と同じように驚いた顔をしている。

 初手で動けたのは彼だった。踵を返して民家の玄関に向かい侵入する。なるべく足音を殺して二階に向かった。そのなかの一部屋に入ると夫婦の寝室のようだ。窓際から離れ、化粧机の椅子を身近に置く。

 

 予想通り、勝算があると踏んだ拳藤は追撃してきた。とはいえ死角の多い民家に入られた点では彼女の方が不利だ。アイテムや不意打ちを警戒しながら一部屋ずつクリアリングし、後を追う。

 静かな足音が二階に上がってくる。きぃ、きぃ、とドアが開く音がした。彼にとっては不幸な事に、その最後が寝室だった。つまり居場所を確定されたという事になる。

 乾いた口でつばを飲み込みドアを注視していると、拳藤が『大拳』で壁を吹き飛ばして突入した。同時に彼を視認して急所を手で守りつつ迫る。

 

 予想外の奇襲に虚を突かれた彼は、かろうじて椅子を拳藤に蹴り飛ばすも片手で弾かれる。

 もう逃げても遅い、射程距離内。と拳藤は勝利を確信した。が彼は引かずに、椅子を弾いてガードの空いた手の方から踏み込んで身体を入れ、脇腹を鋭く打った。そのまま肘も合わせてコンパクトに攻め続ける。

 

 拳藤は上げた前腕で顔を守りつつも壁際に追い詰められる。同時に、やっぱよく見てるしセンスあるな、と尊敬の念を覚えた。ミルコ先生の授業でゼロ距離が弱いと言われた点を彼は覚えていて、そこを容赦なく刺してくる。

 手首から先を大きくする個性の特性上、格闘戦は中距離で終わらせる方が拳藤にとって好ましい。それ以下だと個性は解除せざるを得ない。

 しかし彼女とて授業から何もしなかったわけではない、切り返しの手段は持っていた。

 

 上げた腕はガードの為だけではなく、背後の壁を『大拳』で握って上半身を固定する為でもあった。腕と腹筋、脚の力で下半身を素早く持ち上げて、彼の胸を蹴り飛ばす。ベッドに倒れ込んだ相手にすかさず追撃して覆いかぶさり、両足を胴に回した。彼の片手を握って後ろへ倒れ込んで上体を無理やり起こさせ、手早く三角締めへ移行した。

 

 頸動脈洞が圧迫され脳への酸素供給が急激に滞る中、彼は懸命に締め技から逃れようとしたが『大拳』の力によって抑え込まれるとどうにもならない。

 

「タップしなければこのまま落とす」

 

 頸動脈洞の失神はクセが付くので、拳藤としては諦めてほしいところだ。

 常人であればとうに意識を失っていてもおかしくはないが、拳藤の脚を掴む彼の手にはまだ力が籠っている。それもゆるりと滑り落ちた。

 

 三度目の号砲が鳴る。すなわち二十人が決定し、第一種目の終了を知らせる合図が。

 

 三角締めを解くと、彼が虚を突いて素早くマウントを取る。

 

「わっ! 待て! もう終わったから!」

 両手を見せて戦う意思がないことを示すと、彼は酸欠で真っ赤な顔を呆然とさせた。

 

「え? マジ? おれどうなった?」

「腕輪が失格を知らせないから、ギリギリで誰かが脱落したんじゃない?」

 

 それを聞くと、緊張から解放されたせいか全身の力が抜けた。ごろりと拳藤の隣で仰向けになる。

 

 聞いていい? なんで個性使わないの。と口にすべきか、拳藤は肘枕で彼の顔を眺めながら心の中で迷う。

 基本的に、明らかになっていない相手の個性を理由なく聞くのはマナー的に怪しい。小森のように性的な、あるいはヴィラン向きだったりすると妙なレッテルを貼られる場合があるからだ。

 それに本人があまり役に立たないと言っていたのだから、本当に無個性に近くてコンプレックスなのかもしれない。

 

「本気で絞めたから、しばらくはそうして呼吸を整えた方がいいよ」

「勝てると思ったんだけどな。『大拳』と寝技の相性があれほど強力だと思わなかった」

「そう言ってくれると研究した甲斐があったよ、ありがと。でも正直、格闘センスだとわたしより──」

 

 そんな会話シーンを、『ポルターガイスト』で浮かせた箒に乗って移動している柳が窓越しに見つけた。

 

 なんで寝室でピロートークしてんの。うらめしいから今は声かけるのやめとこ~、と華麗にスルーした。

 

 

 

 †††

 

 

 

「以上二十名が最終種目のトーナメントに進出! おめでとー!」

 

 ずらっとホログラムに名前が列挙される。さすがと言うべきか、1-Aは全員生き残っていた。

 

「それじゃあ最終種目の前に昼休憩とレクリエーションを挟むから、各自 自由に過ごしてね~」

 

 こういった行事ごとでは、ランチラッシュの自動デリバリーを利用して外で食べる生徒も少なくない。芦戸と取蔭、耳郎もその例にもれず、せっかくだから彼も誘ってみようとしたが、姿が見えない。

 

 さっきまであの辺にいたはずだが、と芦戸は近くにいた女子生徒に尋ねる。

 

「ねえ、ヒーロー科の男子生徒知らない?」

「ああ、なんか発目ちゃんが……わたしと同じサポート科の子なんだけど、バトルロイヤルのお礼がしたいとかなんとかで工房に連れてったよ」

「それは……二人でって事?」

 

 訝しむ口調に、女生徒はまさかといった感じで笑った。

 

「まあ変な事にはならないと思うよ、あの発目ちゃんだから。いい身体つきしてますねーとか言ってペタペタ触るくらいには仲良さそうだったし、ちょっと胸囲とか計らせてくださいよーみたいな冗談言ってたし」

 

 なんだそのスマホのエロバナー広告みたいな接し方は。

 というか、なぜか異性に対するガードの弱い彼からすれば、それは仲がいいから許しているボディタッチや冗談ではないだろう。

 

 くそっ、知らない人について行っちゃいけませんって釘を刺すべきだったかもしれない。

 どうにも嫌な予感のする三人は工房の場所を聞き、念のため探る事にした。

 

 足早にサポート科の棟を進み、発目のプレートが付いてる工房を見つけた。耳郎がみみたぶから伸びるプラグをドアに差す。もう片方を携帯スピーカーに差すと、部屋の会話が出力された。

 固唾を飲んで耳を澄ます。まず発目の感嘆の声が聞こえだした。

 

『おおー! 思ったより太くて硬いんですねえ!』

『いやそんな照れるな』

 

 三人は顔を見合わせた。男性は大きさや硬さを褒められると実は嬉しいらしいと、AVやエロマンガで見た事がある。

 耳郎が芦戸に焦った様子で言った。

 

「どうしよう、もう導入シーンなんじゃないのこれ?」

「え? てことはもう脱いでるの? ていうかむしろ警察案件なんじゃ」

 

『血管もなかなか凄いです、ほうほう。それにしても、最初は小さかったのに大きくなると三十センチ超えはさすがですね。長さ的にわたしの顔よりあるんじゃないですか?』

 

 芦戸が愕然とした調子で取蔭に投げかける。

「さ、さんじゅう? って、マジか。え、そうなの?」

「えっえっわかんない……十センチくらいじゃないの? 見た事ないからわかんないけど、えっなんもわかんない」

 

『しかしツルツルなんですね、意外というか、まあそれが普通ですか』

『あの発目さん、あんまりそこばっかり擦られても』

『ああ、すみません。ちゃーんと全身のコリをほぐしますから』

 

 あっ! これリンパもののAVで観た事あるやつだ! 

 ていうか、そうか、ツルツルなのか。

 

『わたしお手製の電動アイテムも使っていきますねー』

『え? いやそれは少し怖いというか』

『ちょっとずらしますねー。あ、わたしからは見えてないんでー』

 

「う、わーこんなの許されないだろ! もう聞いてられないって! ウチらでなんとかしなきゃ!」

 

「あんたら何やってんの?」

 小森が奮起する三人に半目をやって呆れ声で言う。工房の前で騒いで見るからに怪しい。

「すっごい探したんだから。もうランチラッシュのデリバリー届いてるけど?」

 

「いやそれどころじゃ……」

 芦戸がかくかくしかじかすると、小森の口元が温度を失くす。

 

「どいて」

 

 それだけ言うと、問答無用でキノコを爆発的に増殖させて工房の扉を押し破り、部屋に入る。唖然とした三人もすぐに我に返って後に続く。

 しかしてその光景は施術ベッドの上でうつぶせになって息を荒くする、オイルでテカテカの彼と、背を向けて満足そうにタブレットをスワスワしている発目だった。

 

幸か不幸か、彼の下腹部にはタオルが一枚掛けられているので見えてはいない。見えてはいないが見るからに事後だった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「おやあなたたちはヒーロー科の、どうしたんですか?」

 剣呑な雰囲気の闖入者に対して、発目は猫が迷い込んできた程度のリアクションだった。親指で背後の彼を指してぞんざいに言い放つ。

「みなさんもアレ、使ってみます? 気持ちいいですよ、スッキリしますし」

 

 つ、使うって……

 とんでもない鬼畜だった。いかに性的な欲求はあれどヒーロー科に身を置く者として、いやそれ以前に人道を歩む者として許してはおけない。

 凌辱ものの壺役チャラ女が言うようなセリフにふつふつとした怒りを滾らせる芦戸たちを置いて、小森が彼に歩み寄り自分の体操着を脱いで上半身に掛けてやった。

 

「……大丈夫?」

「え、あれ小森さんなんでいるの? ていうか芦戸さんたちまで」

 

 芦戸が軽く握りこぶしを作り、その内側に『酸』を溜め込む。相手はサポート科とはいえ最終種目に勝ち進んだ実力がある。

「発目とかいったな、おまえ、自分が何したかわかってるのか」

「何って、彼には身体測定に付き合ってもらってましたけど」

 

 ほら、と向けられたタブレットを三人は顔を突き合わせて改める。三十センチ以上、三十センチ以上……と探していると、平常時(小さい時)パンプアップ時(大きい時)の比較データのようで、どうやら太くて硬くて顔より長くてツルツルなのは腕周りの事らしかった。

 

「男性向けのコスチュームやアイテムを造ろうにも、同級生はなかなか測定させてくれなくて困ってたんですよねー。ほら、女性とは骨格の作りがまるで違うのにデータが無くて」

 

 取蔭がホッと胸を撫でおろす。

「よかったー、あそこが三十もあったらどうしようかと思ったよ」

「どこの事なんですか?」

「いやそれはこっちの話」

 

「でもお手製の電動アイテムってのは」

 辺りを見回すが、健全に使われているところを見た事が無いハンディマッサージャーのようなものは無い。

 

「あー? ですからアレの事ですよ」

 タブレットがタップされると、施術ベッドの上から多数のマジックハンドが伸びてきた。

「測定のお礼にオイルマッサージをする約束だったので。一流のトレーナーがやるレベルなんで効果は確かですし気持ちいいですよ。使います? アレ」

 

「じゃあ別に無理やりエッチな事してたわけじゃ……」

「失礼ですね。わたしは指一本たりとも彼に触れてませんし、見てませんよ。ガン見のあなた方と違って」

 

 よかった。雄英で秘密裏に行われていた悪事は存在しなかったのだ。やはりリンパのヤツで都合よく至れるのはAVの話。いまはただ、その事を喜ぼう。それでいいじゃないか。三人はその思いとツルテカでほぼ全裸の彼の姿を胸に、発目へ謝罪の言葉を口にしてその場を後にした。

 

「おい待て、話と違う」

 

 後にしようとしたところで小森の凍てついた言葉が彼女らを引き留めた。

 

「え、話って?」

 

 しかし事態を飲み込めていない彼の前ですべてを説明するわけにもいかないので、小森は怒りをぐっと堪えて、乳首が見えそうな身体から目を背ける。

 

「まあいいから、服着たら」

「え、あーそういえばそうだった、ごめんごめん。発目さん、このオイルって洗い流していいんだよね」

「いいですよ、奥に流しがあるんでそこでどーぞ」

「流しではちょっと」

「狭いけどお湯も出ますよ? わたしは汚れたり汗かいたらいつもそこで洗ってますけど」

「あー、わかった、そうする」

 

 発目を除く四人はその間の時間を廊下で潰した。

 蛇口から流れる水と、ぱちゃぱちゃと彼が身体を洗っている音が聞こえる。

 

 イメージしかないけど、ラブホで相手のシャワーを待ってる時間みたいだよね。とは口にすると野暮なので、そのままに風情を味わった。

 

 

 

 †††

 

 

 

「んー、なんか身体が柔らかくなった気がするなー」

 と小森に話しながら先を行く二人の背を、芦戸たちはついていく。その道すがら八百万の事について話し合った。

 

「まあ、わたしが実力あればそのうち彼氏できるって言っちゃったのが悪いんだけどさあ」

 

 芦戸の後悔に、ふむ、と取蔭が顎に手をやる。

 

「思うに芦戸が危惧する理屈だと、わたしや耳郎、拳藤とかが告っても付き合えるってことにならないか? まあ八百万に比べてお金持ちじゃないけど。そのシーンが想像できる?」

「え、いやどうだろ。あらためて言われるとさすがに急すぎて無理な気が……」

「だろ? いくらガードが甘そうって言っても、出会って三ヶ月も経ってないのに付き合う男性がいるか?」

「じゃあ……じゃあ八百万は確実にフラれるって事? え、それはそれでヤダ。見たくない」

 

 ある意味で誰よりも無垢な心の持ち主が傷つくところを想像して、三人は胸が切なくなった。初めて意識した異性に拒絶されたまま、彼女に三年間を過ごさせたくはない。

 八百万は間違いなくいいヤツだ。ただ時間が足りなくて、衝動のまま動いた結果の不幸を回避できるならさせてやりたい。それに何かいろいろと拗らせそうな気もする。

 

「でも八百万に好きだとかそういう事を教える時間なんて、ウチらにあるのかな」

 

 そんな必要は無い、と取蔭は両断する。

 

「というか、わたしらがやる事は何も変わってない、八百万が告ると宣言する前も後も。でしょ?」

 

 逡巡して合点をいかせた芦戸が不敵に笑う。

 

「……確かに変わってない。体育祭だもんね、プロヒーローのスカウトの目がある」

「なるほど。八百万がどうあろうが、ウチらはただ一位を目指せばいいだけの話か。依然変わりなく」

「そ。わたしらが負ける前提であれこれ考えるのは間違ってるって事よ」

「はあー安心したら急にお腹空いたー。デリバリー何頼んだ?」

 

 芦戸の腹の虫が鳴り、三人は他愛も無く笑いあうのだった。

 

 

 

「にしても1-Aがみんな最終種目に残れて、なんか嬉しいよね」

 彼がなんとなしに小森に話を振る。少し情けなさそうに呟いた。

「まあ、おれはちょっと八百万さんに勝てるイメージないけど」

 

「わたしは一位になるから」

 小森は彼に視線をやらず、歩きながら前だけを見て言った。

「八百万にも勝つから」

 

 それを聞いて、彼は自分の志の低さに気付く。戦う前から何を言っているのだと恥ずかしくなる。なんとしてでも体育祭で活躍してスカウトの目に留まるという、小森のハングリー精神に胸を打たれる。

 

「そっか、そうだよね。やっぱさっきのは聞かなかった事にしてほしい。おれも、負けないから」

 

 彼の宣戦布告に、ふーん、と小森は素っ気なく返すだけだった。

 



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第七話 グラギアナム

 ミルコは教員用の控室で、ズコー、と空になった紙パックのキャロットジュースをストローで吸いながら、タブレットである生徒のプロフィールに目を通している。なるほど、()()()シラットとボクシングか、と合点をいかせる。

 

 やっと昼食にありつけたミッドナイトが対面に座って一息ついた。

 

「1-A全員が最終種目に進んで一安心だわ、担任としては」

「いくらアイテムがあるからって、ヒーロー科とは実戦訓練量が違うしな。全員は意外だったけど。てかさ、こいつ、この個性でどうやって実技試験を突破したんだ?」

 

 タブレットをテーブルに置く。彼の資料が表示されていた。

 

「ああ、破損した仮想敵の装甲とかで関節や駆動系を壊したり、非常停止ボタン押したり」

「そんなエレベーターに付いてるようなボタンがあるのか?」

「クラッキング対策に物理停止機能は必要よ。もちろんハッチで覆われてるから冷静にならないと気づけないし、近づくのは容易じゃない。そういう観察眼もヒーローに必要だからってのもあるけどね。葉隠とかはそれで点数稼いだみたい」

「ふーん、ま、ただ強いだけならプロでもゴロゴロいるしな」

 

 ミッドナイトが紙コップの紅茶を一口やって頬杖をつく。

 

「彼、工場で終わりかと思ったわ」

 

 そんな心配事をミルコが鼻で笑い飛ばす。

「ハッ! 相手は他科だろ? やられるわけねーよ。個性無しなら、格闘戦は1-Aで最強だろうし」

 

 意外な評価に目を丸くする。

「へぇそうなんだ。小森の件で贔屓目にしてるわけじゃなく?」

 

「そんなケチな事するわけねぇだろ」

「個性有りなら?」

 

「下から数えた方が早い。こればっかりは生まれ持ったもんだからな」

 このルールでは、とは省略して続けた。

「最終種目も難しいだろ。プロになっても続くかどーか……」

 

「うわっヒドイ」

 

「絶対に無理とか、学んだ事が無意味って言いたい訳じゃねえよ。ただ、ヒーロー飽和社会で個人事務所を持つのは難しいって話。サイドキックなら中堅くらいはいくんじゃね?」

「まだ三年あるわよ」

「あいつがどんな理想を持っているか知らねぇけど、いずれは現実にブチ当たるんだから早めに教えといた方がいいと思うけどな。その壁を乗り越えるにしろ受け入れるにしろさ。戦闘系はよっぽどの強個性じゃなけりゃ、個性と体術のシナジー持ってないとキツいわけだし」

 

 そうねえ、とミッドナイトは思慮深く腕を組んだ。事務所も持たず、一人で転々としながら活動してビルボード級まで上り詰めたミルコの言葉には無視できない重みがあった。

 

「まあ、ビルボードがヒーローの全てって訳じゃないしね」

 

 

 

 †††

 

 

 

「え、マジ! そんな倒したの? シード枠もあるんじゃない?」

 

 耳郎が羨ましそうに言う。

 発目の工房から彼を救出? した後、五人は澄んだ湖に面したオープンテラスで昼食と屋台の軽食をつまんでいた。自然と第一種目の内容の話になる。

 へえ~やるじゃん! という芦戸の称賛に照れながら、彼は蟹チャーハンを飲み下す。

 

「まあ、工場地帯でいろいろあったから。さっき会った発目さんって人がいて──」

 

 発目の策略に嵌り、立ち入り禁止区域に飲まれた者はもちろんカウントされないが、それでも彼が工場で倒した人数はせいぜい五人程度。全体数から見れば大した数ではないが、生き残った者の中では上位のスコアだった。 

 道中でどれだけ多く倒しても、市街地で潜伏して体力を温存していたヒーロー科と戦って生き残らなければ意味は無いのだ。

 最強と名高い八百万の倒した人数は意外にもゼロだった。適当な家の内壁と同じ素材でドアの無い小さな隠し部屋を造り出し、そこで悠々と籠城していたらしい。

 

「へえ~、あのバリバリに武闘派の拳藤と引き分けたんだ」

 取蔭が意外そうに感心する。

 

「いや、おれの負けだよ。落ちる前に運よく他の誰かがリタイアしたってだけで」

 

 ふーん、三角締めかー。と彼の話を聞いて芦戸たちはその様子を思い描く。拳藤、腕を挟むとはいえ自分の股間に彼の顔を押し付けたのか……技を掛けたいような、逆に掛けられたいような気持ちになる。

 そんな湿り気のあるモワモワした雰囲気を小森が切り裂く。

 

「へえー、大変だったね。でも、その後の事は気を付けた方がいいんじゃない? 今回は無事だったからよかったけど」

「何が?」

 

 何が? じゃない。

 妄想から戻った芦戸は、とぼけた顔で答える彼を見て内心で頭を抱える。フツー出会ったばっかりの女生徒と個室で二人きりになるか? よくよく考えれば服を脱ぐような状況に身を置くな! 

 なんてこった。八百万の天然に歯止めがかかったと思ったら、こいつもこいつでどこかが緩い。このままではいつか本当にエロ同人みたいな目に合うかもしれない。

 

「だから、あれだよ……不用心って言うかさ」

 

 しかしどう伝えるべきか。やべーぞレイプだ!! となったいきさつを語るわけにもいかず取蔭がもごもごしていると、小森は不機嫌さを隠さずきっぱりと言い放つ。

 

「いつか悪い女に襲われるかもしれないでしょ」

 

 さすがの彼もその言葉の意味するところを理解する。最近、心のアヴェンジャーズの活躍に気が抜けていたようだ。

 あらためて強く意識する。

 おれはおかしい。

 女性に対しての性的欲求を抑えるだけでなく、女性から見た自分の立ち振る舞いも考えなければならない。

 

 バックじみたヒーローコスチュームで羞恥心が麻痺していたが、今回の件は十分に危機感と恥じらいを覚えるべきだった。

 

「ごめん! 心配かけた。おれは発目さんがどういう人間か共闘したから知ってるけど、みんなは彼女を知らないって事を失念してた」

「ていうか、いくらアイテムでマッサージするからって全裸になるとかありえないから」

 

 いや、衣類は途中でずらされたのであって最初から脱いでたわけではないんだけど。そう喉元まで出かけたが、なんとなく小森が工房に殴り込みに行きそうなので黙っておく。

 怒られてどんよりと落ち込む彼に、耳郎が助け舟を出した。

 

「まあ反省してるし何事も無かったんだから、これ以上怒んなくても。小森もちょっと厳しく言いすぎ」

 

「ありがと、耳郎さん。でも……」

 彼があらためて頭を下げる。

「小森さんが怒るのも、みんなが心配するのもわかる。おれだって逆の立場だったら同じように怒るし、心配もする」

 

 いや、わたしらが男性と二人きりなら、それはほっといてくれ。事件性は無いから。

 しかしまあ世の中は男性が女性を襲う犯罪も無くは無いので、ありがたく受け取っておくことにした。彼にそう言われて悪い気はしない。

 

「まあ、わかればいいけど」

 小森はそっぽを向いて頬杖をつき、留飲を下げた。

 

「おれ、そういうところがなんか鈍くて。正直助かるよ、怒ってくれて。おかげで、改めて気を付けなきゃってわかったし」

「だからもういいって……これ、食べる?」

 

 そういって差し出されたタコ焼きを喜んで頬張る彼を見て、芦戸と取蔭、耳郎は互いの顔を見やる。

 なんだろう、タチの悪いDV女に引っ掛かった薄幸の男みたいでなんか……なんか。いろいろと、教えてやらなきゃならないな。

 

 うむと頷き合い、三人は昼食の残りを平らげたのだった。

 とりあえず、体育祭が終わったら防犯ブザーを勧めよう。

 

 

 

 †††

 

 

 

 レクリエーションの為に生徒たちはスタジアムに集まるが、自由参加なので姿が見えない者もいた。案の定、八百万は体力を温存する為か不参加だった。

 開催を彩るのは本場アメリカから招かれたチアボーイたちだ。白と青を基調とした短パンから伸びる眩しい膝下を振り上げて、エールを送っている。ノースリーブから時折覗く腋が蠱惑的だった。

 心なしか観客席の熱量が第一種目よりも高い気がする。

 

 多くの女生徒は生で見るのは初めてだったので遠慮のない視線を向けるが、1-Aの面々は欲望に忠実になる事が難しかった。

 

 他科は男女比率が半々なので、男性から女性へ向けられる呆れのような感情も分散される。なんとなく群体から群体へ負の感情を抱かれても、ほぼノーダメージだ。

 しかしヒーロー科の男性は彼だけなので、軽蔑は直接串刺しにされるような感覚だ。

 正直、なんとなくわかってきた彼の性格上、女の子がエッチな事に気を引かれるのはしょうがないと笑って済ましてくれそうではある。実に都合の良い男性だ。

 が、ここはカッコつけてグッと堪えよう。あーうん、別にちょっとエッチな感じなのって興味ねーし、というスタンスを保つのが正解。

 

 そう思考していたうちの一人、柳に彼が特に意味も無く声をかける。

「チアってテレビとかでしか見た事なかったけど、生で見ると結構凄いね」

 

 なんでいつもわたしだけそんな返しにくい話題なの。

 そうだね、見え隠れするおヘソが凄いエッチだね。とは口が裂けても言えない。どーすればいいのか。それとなく周囲に助けを求めるが、すでに危機を察したのか距離を置かれていた。

 

 男子高校生って何考えてるかわからなくて うらめしい。

 柳は元々口数が多い方でもなく、趣味もネットでホラーを漁るというインドア派だ。男子生徒と積極的に話した経験は無くは無いが……。

 なので彼が性差を気にせず話しかけてくれるのは嬉しいし会話を続けたいのは山々だが、どうしてか話題がセンシティブで返答に困る。

 

 そうだね凄い迫力だね、あたりがベストアンサーだろう。

 だがそれでは、今後も返答に困る状況に右往左往するだけだ。周囲がハラハラしながら見守る中、柳は意を決して一歩踏み込んだ。

 

「あ、ああいうのって一回くらい着てみたいと思う?」

 

 なんかちょっとキモイ感じになったが、果たして大丈夫なのか!? 

 

「いや~どうだろ、おれはちょっと恥ずかしいかな」

 

 それはひょっとしてギャグで言っているのか!? 

 あんなエッチなコスチューム着といてどういう心境なのだろう。ツッコミ待ちなのか。

 

「きみのコスチュームの方が凄かったけど」

「いやあれは企業との連絡がうまくいってなくってさー。あんなの映画だったらすぐ殺される役の服だよ」

「わ、わかる! わたしもそう思ってた!」

 

 笑い話にする彼に、柳もつられた。やった、渡り切ったという達成感を覚える。

 セクハラという地雷原が敷き詰められた危険地帯を抜けた。ここまでの下ネタは大丈夫というマイルストーンを置いたのだ。

 

 こうしてまた一つ、彼はクラスの女生徒と仲良くなれた。

 仲良くなれる切っ掛けが全部下ネタな気がするが。

 

 

 

 †††

 

 

 

 レクリエーションは何事も無く終わり、いよいよ最終種目が開始される。

 その小休止もかねたインターバルで、彼は意外な人物から声をかけられた。

 

「ねえねえ、第一種目どうだった?」

 

 振り返ると、体操服姿の波動がいた。わざわざ一年の会場を訪ねてきてくれたらしい。憧れの先輩が様子を見に来てくれるなんて嬉しすぎる。もし彼に尻尾があったなら、千切れんばかりに振っていただろう。

 

「なんとか突破できました。波動先輩のアドバイスのおかげです」

 

「すっごーい!」

 波動はパッと花が咲くように喜んでから、上目遣いで少し遠慮がちになる。

「えー、でもわたしのアドバイスってそんなに効果あった? 嬉しいけど」

 

「待ち構える時に障害物を身近に置いとくヤツとか、あれ教えてもらってなかったらギリギリで落ちてたと思います。他にも細かいとこでいろいろと」

「ふんふん、それは先輩冥利に尽きるね」

 腕を組み、満足そうに頷く。

 

 その短い会話の間に周囲は小さなざわめきを見せた。

 

「……あれ三年の波動さんじゃね?」

「マジ? BIG3の?」

「てか普通に話してる男子は何者だよ?」

 

 例えるなら一年の教室に三年生が現れるようなものなので、当然の反応と言えば当然だ。しかも学校きっての実力者ともあれば尚の事。

 小休止という事もあるが、もともと彼の様子をちょっと見に来ただけなので、波動は会話をそこそこに打ち切る。

 

「それじゃあお互い優勝目指して頑張ろうね!」

 

 ばいばーい、と手を振ってその場を去る。

 やっぱ素敵な人だなあ、と彼は手を振ってしみじみ思った。優しくて強いだけじゃなく、後輩に対する面倒見の良さまで兼ね備えているなんて。

 しかも、お互いという事は波動も最終種目に進んだのだ。ここはカッコいいところを見せたい。

 

 優勝するという気持ちを新たに、彼はスタジアムへ向かった。

 

 

 

 個性有り、一対一のトーナメント戦に観客は湧き、参加者は緊張と戦意を滾らせる。

 

 

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 シード枠は二回戦勝者とぶつかるので、彼は順番待ちの選手に混ざり生徒用観客席で試合を見学した。一回勝ったらベスト4に残れるのは少しバランスが悪い気もするが、実戦的なアドリブが求められるバトルロイヤルの成績を重要視してのことだ。

 また、三位は白星の多い非シード枠が優先される。

 

 正方形のリングに、第一回戦 一試合目の対戦者である塩崎と麗日が上がる。

 

「どっちが勝つと思う?」

 と、拳藤が彼の隣に座ってリングを眺めて言った。

「個性の相性で言えば塩崎って感じだけど」

 

 ミルコの格闘訓練により、お互いの手の内は一通り明かされている。

 塩崎は中遠距離では『ツル』を触手のように動かして捕縛、近距離では外付けの肉体のように纏い、巨体を活かした打撃やタックルからのテイクダウンを得意としていた。

 対する麗日は浮かして転ばせる合気を遣う。彼女に攻撃力は必要ない。掴みと同時に、服越しでも人体に触れられれば『無重力』は自動的に起動する。そのまま転がせば、縦軸の無限回転により体内の血液は頭部と脚に集まってレッドアウトするからである。

 

 その意味では、血液の通う生命に対していかなる防御力も貫徹する一撃必殺であるが、塩崎は『ツル』で簡単に接地して平衡を得られる。

 二人の個性を知る1-Aの面々は、塩崎有利と考えていた。

 

「おれも塩崎さんが有利だと思う。けど合気には『入り身』があるから、可能性はある」

「あー、っていうかそう言えばきみも使えたんだね、びっくりしたよ。第一種目で椅子を払ったわたしの手の方から身体を入れたやつでしょ」

 

 合気における入り身とは、厳密には相手との距離を詰める、攻撃を避ける、あるいはカウンターの為の前動作という事を指すのでは無い。次の一手に繋がる、『結び』と呼ばれる間合いを作る事にある。

 例えばボクシングにおけるクリンチは前進する事で起こるが、その間合いは一時の停滞であり、次の一手に繋がる結びではないので逆説的に入り身ではない。

 後進したとしても結びが発生するのなら、それは入り身と言えるだろう。

 

「それそれ。塩崎さんの『ツル』を潜り抜けて、入り身を使える距離まで近づければ麗日さんにも勝機はあると思う」

 

 が、試合開始前の麗日の構えを見て、みな怪訝そうに眉をひそめる。合気のそれではないのだ。

 

 軽く半身を引き、掌は胸の前で合わせるように構えている。指先は触れ合っておらず、ふんわりとした花のつぼみのようだ。少林寺拳法の変則的な合掌礼に見えなくもない。

 隠していたのか、付け焼き刃の対策か。どちらにせよ塩崎のやる事は決まっている。バックステップで距離を取りつつ『ツル』で麗日を攻撃する。『ツル』を伸ばした分だけ『無重力』に対する当たり判定は増えるが、接地できるので問題は無い。

 試合開始の立ち位置からして目測で五メートルはある。近づけさせない為の間合いは十分に取れる。

 

『それじゃあ第一回戦! ……始めッ!』

 

 ミッドナイトがバラ鞭を振り下ろして言った合図と同時に、塩崎はその場を飛び退き最速で髪の『ツル』を伸ばして攻撃する。そして驚愕した、すでに麗日が目前に迫っている事に。

 速すぎる。

 まずは掌底と『無重力』による等速直線運動での場外を防がなければならない。

 反射的に『ツル』で身体を接地して固定し、編み上げた太い複腕で迎撃する。肉薄する麗日は頭を地面すれすれまでに落としてそれを躱しながら、超低姿勢で塩崎の腹を蹴り上げた。

 そうなると『ツル』の固定が裏目に出る。蹴りの威力を減衰できず鳩尾に入った踵は、塩崎の横隔膜に衝撃を与え、鋭い痛みと呼吸困難により一撃で失神させる。

 

『勝者、麗日さん! 二回戦進出!』

 

 一瞬の沈黙の後に、観客席はよくわからんがとりあえず盛り上がった。

 

「いったい何が……合気じゃない?」

 

 そんな彼の疑問に答えが返ってくる。

 

「ありゃあ躰道だな。なるほど、麗日の『無重力』と噛み合ってる」

「知っているんですかミルコ先生……ていうかどうしてここに」

 

 いつの間にか彼の隣で、脚を組んだミルコが生の人参スティックをぽりぽりやっていた。小さな魔法瓶に入っているところを見るに、彼女が持参したお弁当かおやつなのだろう。

 

「一応教師だしな。生徒が学べる時に学ばせるってもんでしょ、ってミッドナイトに言われた」

 

 躰道とは重心の変化や身体を回転させるアグレッシブな格闘術であり、その際に軸がブレないように腕は身体に密着させる事が多い。必然的に両手の距離は短くなるので、『無重力』の解除が両指の肉球を合わせるという個性とは相性がいい。

 

「塩崎との距離を急激に縮めたのも躰道の技の一つだ。身体を旋回させながら近づく独特の歩法で、達人なら三メートルを一気に詰める。そこに瞬間的にでも『無重力』が加わると……ってとこだろ」

 

 麗日の体術はミルコの慧眼が明かした通りだった。

 手で花のつぼみを作るようなあの独特の構えが、自身に一瞬だけ『無重力』を付与し解除する事を可能にしている。それは、自分に使うと酔うというデメリットに引っ掛からないほど僅かな時間であった。

 

「最後の倒れ込むような姿勢の低い蹴りはカポエイラですか?」

「似てるかもだが、あれも躰道の重心を操る蹴りだ。普通、ああまで体勢を崩すとどうしても復帰が遅くなるが『無重力』ならその欠点を補える。麗日向きだよ。あの練度からして、わたしの訓練じゃ隠してやがったな」

 

 

 

 続いて第二試合目の八百万が入場してくる。最悪下着姿かもと頭をよぎったが、裾をまくり上げて前腕と脛を露出しているに留まっていた。

 相手は普通科の、典型的なフィジカル系だった。『動物』の変形型個性により、単一の哺乳類の特性を肉体に反映させる事が出来る生徒で、試合開始早々にゴリラを取り入れる。

 あっという間に肉体は隆起し、体操服をはちきれんばかりに膨張させるゴリラ人間と化した。

 

 これはさしもの八百万でも分が悪い。鉄棒を『創造』してリーチを伸ばす打撃が有効なのは、あくまで相手のタフネスが人間の範囲内の話だ。全身が強靭な筋肉の動物相手は想定していない。

 棒ではなく鋭利な三角錐ならば勝機はあるだろうが、確実にグロイ事になる。というか最悪死ぬ。

 いくらスカウトの目があるからと言っても、相手を死に至らしめるなら自らの負けを認めるべきだ。

 これは学校行事だという事を忘れてはいけない。

 

 コスチュームは変態だが1-A最強と謳われる八百万でも、相性負けかといったところ。

 

 対する普通科の生徒からすればラッキーだ。相手は推薦入学者。それを倒したとなれば、ヒーロー科への編入も夢ではないかもしれない。

 そう考えていると、八百万は両手で顔を覆って『創造』したガスマスクを直接装着し、四肢から白い霧を放出した。

 煙幕? と警戒するゴリラ人間の眼球にその気体が触れた瞬間、鋭い熱と痛みが襲う。

 

「いっッ! 痛ッ! あっつ!」

 

 顔を抑えて咳き込みながら転がるゴリラ人間に、八百万はガスマスク越しのくぐもった声で言った。

 

「いわゆる催涙スプレーですわ。後遺症の残らないカプサイシン系なので安心してください。降参するのでしたら中和剤を『創造』しますが、続行なら暴徒鎮圧用の物を」

「するッ! ゲホッ、降参! まいった!」

 

『勝者、八百万さん!』

 

 

 

 ミルコが頭をかきながら、呆れた口調で言った。

 

「あーまあ気体も物質に含まれるから『創造』出来るのか。もうなんでもありだな」

 

「それどころじゃないよッ!」

 後ろの葉隠が椅子から立ち上がり、彼の両肩をバンバン叩く。

「八百万は下着姿で出てくるって思ってたのに! そしたらわたしが全裸でも許されるかもって思ってたのにー!」

 

「いやどっちにしろダメだと思うけど。ヒーロー活動としての訓練ならともかく、学校行事だし」

「んじゃあどうやって戦えばいいのわたしはー!」

 

 葉隠は全裸から繰り出す不可視の大技や絞め技を得意としている。文字に起こすととんでもない表現でびっくりしたが、どれほど大きな予備動作も伸びきった手足の隙も、見えないのならば無いも同然だ。

 そのアドバンテージは彼も身をもって知るところで、格闘訓練で対峙した時は背後から文字通り裸締めにされ、すぐにタップして降参した。落ちる落ちないよりも、彼のコスチュームは背中丸出しだったので、葉隠の汗ばんだ柔肌と二つの突起の感触がダイレクトに伝わった事の方が危なかったからだ。

 

 とにかく逆に言えば、葉隠は衣服を着ている状態だと技の隙が目立つ。

 

 猛抗議する葉隠をよそに、モニタの中では小大が相手の体操服を『サイズ』で小さくして動きを封じたりと、次々に対戦が行われた。

 

 

 

 

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 やがて第三回戦 第一試合が始まり、四つの角を自在に操る『角砲』の個性、角取ポニーが自信たっぷりに言う。

 

「有名なジャパニーズコミック、ハンターハンターを読んで編み出したこの技を使う時がきたようデスね……名付けて『無限四角流』!」

 

 あ、負けそう……

 

「ふふふふふ、上下左右 正面背後、あらゆる角度から無数の角がアナタを切り刻みマース!!」

 

 角取はなんか予想通り負けた。なぜそんなマイナーな登場人物の戦い方を真似たのか。彼女の本国のグリーヴァスを参考にしたなら勝っていたかもしれない。

 

 

 

 小森と対峙する蛙吹は、舌による拘束を諦めていた。おそらく毒性のキノコを体表に生やして反撃してくる。致死性のものは使ってこないだろうが、粘膜接触は避けるべきだ。

 もちろん舌が封じられたからと言って攻撃出来ない訳ではない。蛙吹にも得意とする体術はある。

 目線ほどの高さまで両こぶしを上げ、脚幅を狭く取り、やや前に重心を置く。空気が冬の雨のように重くなった気がした。相当な遣い手であることが肌で分かる。

 

『カエル』の脚力を活かしたムエタイの構えだ。

 

 対する小森は素人がするようなファイティングポーズといったところで、練度のようなものは感じられない。そもそも彼女はつい最近まで、ヒーロー免許を取る事を最終目的として雄英に入学したのであって、その先にあるヒーローになるという地点はどうでもよかった。

 その意識の差が、他のクラスメートに比べて体術が劣る原因となっていたのだ。USJで彼女は変わったが、たった数週間で追いつけるものではない。

 

 そんな小森が勝ち上がっている理由を、蛙吹はもちろん試合を観察して知っていた。要は間に合うかどうかだ、一撃で決めなければ確実に負ける。

 

『始めッ!』

 

 蛙吹が呼吸を止めて瞬動する。建物を一息で飛び越えるような跳躍力で小森を有効射程距離内に収める。腰の回転の乗った滑らかなハイキックを側頭部めがけて放つ。が、弾力のある巨大なキノコが小森の前腕から生え、カサがシールドのように防御した。菌糸の集合体と言ってもよいそれは対打性があり、縦の斬撃か刺突でなければ有効ではない。

 それでも大木を切り倒す斧のような蹴りの衝撃は、小森を大きく吹き飛ばして転倒させる程の威力だった。

 

 本来であれば倒れた相手にマウントを取るなり蹴るなり出来る蛙吹が優位だが、彼女の脛や足の甲から大きなキノコが生えていた。これでは本来の威力が出せない。ならばと、立ち上がった小森にドロップキックを放ち場外を狙うもカサのシールドで威力を分散させられる。

 息を止めるのも限界だった。

 小さな咳と共に降参を表明する。

 

「ケロっ……ここまで進行が速いとどうしようもないわね」

 

「ごめんね梅雨ちゃん。それ、使うつもりなかったんだけど……どうしても一位にならなくちゃいけなくなったから」

 立ち上がった小森が申し訳なさそうに言った。

「わたしの個性で生み出した株は二時間くらいで全部消えるから安心して」

 

 蛙吹の呼吸器官系を蝕むスエヒロダケは小森の個性で生み出された変種で、ほぼ確実に肺に寄生して感染症を引き起こす恐ろしいものだった。

 肺呼吸なら防御無視の初見殺しな上、知っていても然るべき装備でないと対策できないというのがまた凶悪だ。拳藤と耳郎がなすすべなく敗北したのもやむなしと言ったところ。

 

 

 

 いよいよ最後のシード枠の試合が始まる。彼がゲートを抜けると日の眩しさに目を細める、やがて順応した視界から観客席を見上げると、無数の人が歓声と応援を送っている。さっきまでクラスメートがこの場に立っていたというのに、どこか非現実的に思えた。

 

 リングに上がると、相対する芦戸は脱力しながら小さくジャンプして身体を慣らしている。

 

 その様子を観客席から眺めていた小森が、ミルコに小さく尋ねた。

 

「彼、負けますよね?」

「たぶんな……負けてほしいのか?」

「別にそういう訳じゃないですけど……芦戸の『酸』だとわたしの『キノコ』が溶かされて相性が悪そうってだけです」

 

 ふむ、とミルコは頬を掻いた。小森としてはただでさえ心理的に躊躇しているスエヒロダケを、なるべく使いたくない相手って事か……まあ、食らった側はキツいだろうしな。

 

「芦戸の『酸』はアイテムや個性で生み出された物質の破壊に長けてる。もちろん加減無しで生身の相手に使うのは論外だから、どう転ぶかはわからん」

 

 そうですか。と小森はリングから視線を逸らさず言った。

 うー、なんかむずがゆい、というミルコの心境をよそに試合は開始された。

 

 

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 彼はミルコの教え通り、身体の正面を見せずに軽いフットワークで近づく。

 軽めのジャブとローキックで、打点の高低差を意識させる対角コンビネーションで攻めつつ、『酸』を飛ばされても対応できるよう心掛けた。

 

 対する芦戸は変則的なカポエイラだ。ジンガと呼ばれる、左右にステップを踏む構えよりも速く小刻みなフットワークで、ダンサーがリズムを取っているようにも見えた。

 しかしそこから繰り出される蹴りを、彼は恐れていた。

 

 打撃は腕より脚の方が数倍の威力が出ると言われている。しかも脚技が主体のカポエイラとなれば、迂闊に手を出せない。

 そして芦戸がこの体術を使えば、例え蹴りを掴まれても『酸』を出せば相手は離さざるを得ないし、引いて躱されたとしても足先からそのまま放たれる『酸』で中距離まで対応できる点にある。

 蹴りは威力があるが、掴まれると後が続きにくいという欠点を無視できるのは文句なく強い。

 

 それを理解していてもなお、芦戸は軽い打ち合いに徹する、今はまだ。

 彼はシラットを使う。特徴的なのは手数の多さ、凶悪な肘、返しのテイクダウン、何より足払いの多さを警戒した。こちらが蹴技を出すという事は、その瞬間は一本の脚で立っているという事だ。単純な話だが、当然そこを狙ってくるだろう。

 また、腕技の少ないカポエイラにはボクシングも辛いところ。顎にいいのを貰うと一撃の可能性もある。

 

 最初に有効打を入れたのは彼だった。脇腹にブローが突き刺さる。だがヒットしたという感覚が無い、ズラされた? 膜を打ったような。どこかおかしい。

 芦戸が悪戯っぽく密やかに笑みを浮かべる。

 

「悪いね。わたしの『酸』は溶解度だけじゃなく、粘度も変えられるんだよねえ」

 

 彼の打撃は、ローションのごとく滑る『酸』と、絶えず動くジンガによって芯を捉えられなかったのだ。打撃主体のストライカーである彼にとっては致命的ですらある。

 しかも芦戸の皮膚から分泌された『酸』は時間と共に彼女の体操服に浸み込み、摩擦係数を低くした。それは掴みや寝技への移行を著しく阻むことを意味する。

 

「隠してたわけじゃなかったけど、格闘訓練でベタベタになるのも嫌だったから」

 

 足払いやテイクダウンの危険性が無くなると、芦戸が攻めだす。

 するりと肩の裏を地面につけ、脚を広げた回し蹴りで彼の横腹に踵を叩きつける。ブレイキンの代表的なパワームーブ、ウィンドミルだった。そこから繋がるコンビネーションでカポエイラの技を織り交ぜながら嵐のような連撃を放つ。

 

 ダメージ覚悟で脚を捉えようとしてもヌルリと抜けられる。芦戸の顔が下にあるからと言って爪先蹴りをしようにも、足元がローションまみれの上体では確実にバランスを崩してしまう。

 その思考が終わらぬうちに彼は尻もちをついてしまった。そこに芦戸がずるりと組み付きマウントを取り、躊躇なく拳を振り下ろす。

 

 グラウンド勝負か? と誰もが思ったが、彼も受けた脚技から飛散したローションでデロデロになっているので打撃は十全に発揮されず、ポジションから容易に抜け出す。芦戸に組み付こうとするが、やはりローションに足を取られてスっ転ぶ。

 そのまま くんずほぐれつのグダグダになった。いやこれは──

 

「こ、これはマサカ!?」

「知っているのか角取!!」

 驚愕する角取に取蔭が食いつく。

 

「かつてジャパニーズTVで放送されたこともあったという泥んこレスリング! 男性が水着姿でドロドロになりながら戦うけど健全なヤツに違いありません!」

「む、むかしのテレビってそんなエッチなのやってたのかよ」

 

 動揺する1-Aに、ミルコが静かに訂正する。

「いや、あれはヤールギュレシというトルコの伝統的なオイルレスリングだ」

「あ、そうなんですか。よかった。てっきりエッチなヤツかと……」

「半裸でやるんだが、相手の半ズボンを脱がすか破れると勝ちになる」

 

 もっとエッチなヤツじゃん。

 実際にはお尻や背中を地面につけてもポイントとなる。

 

「けどこれは芦戸の戦略ミスだな、こうなると相手が悪い」

「どういう事ですか?」

 と小森。

 

「ヤールギュレシは本来、なかなか勝負が付かない。元は打撃禁止ってのもあるけど、今回の場合にしてもよっぽどうまく極めなきゃ抜けられるし、打撃は踏ん張れない上に芯を捉えにくい。芦戸には一日の長があるから勝てるって踏んだんだろうが……」

 

 なるほど、と小森は納得して席を離れた。

 

 その背に柳が声をかける。

「あれ、見ていかないの?」

「彼が勝つから」

 

 勝敗を見届けることなく次に備えて控室に向かう。しばらくすると歓声が聞こえた。

 やがて第四回戦 第一試合の麗日 対 八百万戦が始まる。廊下に出て自販機で何か買おうかとしたところ、ばったりと彼に出会う。体操服は予備に着替え、シャワーも浴びているようでローションは落ちていた。

 

「やっぱ勝ったんだ」

「なんとかね」

「芦戸は知らなかったみたいだけどUSJで体力には自信があるって言ってたし、持久戦なら有利でしょ」

「運もあった。実戦なら『酸』で溶かされてる」

「でもわたしには勝てないよ。見たでしょ、スエヒロダケ。棄権したら?」

 

 試合前の緊張のせいか、彼には小森の声がどこか刺々しく感じられた。

 

「んー、でもまあしばらく苦しいってだけならやってみよっかな」

「梅雨ちゃんでさえ呼吸を止めてる間にわたしを倒せなかった。菌を肺に入れても体力まかせに粘るつもりだろうけど、そのぶん指数関数的に苦しむってわかってる? 胞子舐めてない?」

「あー……ありがとね。でも諦めるわけにはいかないから」

「は? なんで礼言うの?」

 

 わたしには勝てないから諦めろ。そこまで言われるとさすがに腹が立つ。が、それは小森の優しさであると彼は気付いた。

 もちろん彼が勝つのはほぼ不可能に近い。だが波動に体育祭で頑張りたいからと助言を求めた手前、戦わずして引くわけにはいかなかった。事実としてバトルロイヤルでの対拳藤の立ち回りは彼女のアドバイスあってのものだ。

 それに、お互い優勝目指して頑張ろうと言った波動の言葉が、彼の胸でまだ灯っている。

 

 不思議な沈黙が訪れた。自販機の駆動音が静かに唸っている。しばらくすると遠い歓声がそれを破った。決着がついたのだろう。

 

「じゃあそろそろ行こっか」

「後悔するよ」

 

 スタジアムに入場し、小森はスクリーンのトーナメント表を見上げる。案の定、八百万が勝ち進んだ。そして彼では八百万に勝てない。なら自分が八百万に挑むしかない。

 もし麗日が勝っていたのなら、彼に勝ちを譲ってあげてもよかったというぬるい思考が脳裏によぎり、その雑念を払う。あまりにも彼に対して失礼だ。

 選手宣誓で八百万があんな事を言い出さなければ、少しは肩の力を抜けたかもしれないのに、と理不尽な現実に気落ちする。

 

 騒いでいた観客が、しだいに口を閉じて静かになる。緊張が満ちた。

 ミッドナイトが鋭く試合開始を告げる。

 

 

 

 原則的に、小森と対峙するという事は呼吸を止めている間にいかにして彼女を倒すか、という命題からは逃れられない。つまりタイムリミットがある。

 彼が速攻を仕掛けるも、要所にカサのシールドを生やされて打撃は効果が無い。

 とはいえグラウンドに持ち込まれると対処方法に詳しくない小森は一瞬でケリがつくので、掴みを嫌ってジリジリと下がる。

 

「このまま場外に押し出されれば小森が負けか」

 

 拳藤がぽつりとこぼした言葉を取蔭が拾う。

 

「けどさあ、それまで無呼吸で打ち続けるのって無理じゃね? だから梅雨ちゃんは一撃に賭けたわけだし。芦戸的にはどうなん? 直接やりあった感じからして」

 

 返事がないので振り返ると、芦戸は目を閉じてがっくりとうなだれている。

 そっか、こいつも勝ちたかったもんな。と取蔭はそっとしておくことにした。

 

 ほんとは落ち込んでいるのではなく、さっきの試合を反芻していた。

 闘っている最中は必死でそれどころではなかったが、ローションで男性と揉みくちゃになる感触は言葉では言い表せない。凄かった。

 お店のヤツじゃん。

 なんだか気恥ずかしくもあるが、同時にほどよく固い身体の弾力を覚えているうちに浸る。ほんと凄かった。

 

「あっ!」

 と誰かが声を立てた。

 

 小森が顔狙いの短い打撃を放つ。だがそれは誰の目からしても悪手だ。シラット相手に素人のパンチは、転がしてくれと言っているようなもの。

 彼は不用心に伸ばされた拳を前腕で流し、掴む。カサのシールドがあるので、ここから肘へ繋げるのは有効ではない。関節を責めてグラウンドに持っていき、そこから確実に絞める。

 

 シラットとボクシングに寝技は無いので得意ではなかったが、小森ならば抜けられないと踏む。

 手順を考える必要も無いほど身体に染みついたテイクダウンの所作はしかし、実行されることは無かった。

 

 掴んでいたはずの小森の手がぬるりと抜け、かわりに横腹に蹴りを食らう。不意打ちに思わず苦悶の声が出る。

 

「やっと息した」

 

 彼は自分の掌を見る。なめこが生えていた。

 

「芦戸さんとの試合見てたんだ、てっきりずっと控室にいたのかと思ってた」

「どうでもいいでしょ、少なくともこのルールじゃわたしに勝てないってわかった?」

 

 小さな咳が出た。思ったより苦しい。呼吸器官を抑えられてからは体力どうこうの話ではない。だがまだ戦える。このまま場外までゴリ押せる可能性はある。

 が、彼は拳を下ろした。

 

「降参するよ」

 

 小森は俯いて低く言った。

「……ごめん……いろいろキツく言って」

「気にしなくていいよ、わかってたから。おれが小森さんなら同じこと言ってた。そりゃ、同級生に無駄に苦しんでほしくないよね」

 

 命に別状はないとは言え、凶悪な技をクラスメートに使わなければならない小森の顔を見たら、意地を張って戦う気も失せた。

 彼にとってはこの場の勝ち負けなど、罪悪感に苛まされる彼女の心境に比べればどうでもいい。

 別に体育祭で一位になる為に雄英に来たのでは無い。三年後にヒーローになる為に来たのだ。

 

「決勝、頑張ってね」

「……ありがと」

 

 ミッドナイトが若い青春に身を震わせながら叫ぶ。

 

『勝者、小森さん!』

 

 

 

 †††

 

 

 

 決勝前のインターバルに、小森は対戦相手の控室の前に立っていた。

 何度も躊躇った後に、ようやくノックする。どうぞ、とあっけなく返って来た。

 

「あら小森さん」

 どこから持ってきたのか、貝殻をモチーフにしたネプチューンカップで優雅に紅茶を楽しんでいた八百万が、意外な来客に小さく驚く。

 

「いま、話せる?」

「構いませんわ」

「なんであいつに告るの?」

 

 ブッ、と紅茶が短く吹きだされた。

「どなたの事でしょう?」

 カマかけだと思っているのか、シラを切る。たぶん気付いていないのは彼だけだ。

 

「いや、あんたが知ってる男なんてクラスに一人しかいないじゃん。まあ、女かもだけど」

 

 誤魔化すのを諦めた八百万は、頬を赤らめてもじもじする。

 

「その……恋人が欲しいですし、まあ、その先も……」

「好きなの?」

「それは……付き合ってからわかる事なのではないでしょうか?」

「ああ、そう」

 

 それだけ言うと、小森は控室を後にした。

 

 八百万の主張が俗悪であるとは言い切れない。

 お互いに好きだと確かめてから付き合うのか、付き合ってから好きかどうかを確かめるのか。その順序に正誤など存在しない。しいて言えば童貞厨はプラトニック感のある前者を好むらしいが。

 それに年頃の女子高生といえば、どーやったらヤレるのか、どーにかして彼氏が出来ないものかと漠然と頭を悩ませている。なにも八百万だけが特別に強欲というわけではなく、きちんと段階を踏んでからという筋を通している。

 

 時間がきて、二人はリングに上がった。

 どちらが勝つかという予想を誰もが口にし、歓声よりもざわめきが広がる。

 万能の『創造』か、凶悪の『キノコ』か。

 どちらにせよ、決着が付くのにそう長くはかからないだろう。

 八百万は科学的に菌を無効化する手段を『創造』出来る。その準備が整うまでに小森がスエヒロダケを寄生させられるかどうか、というのが下馬評だった。

 

 ミッドナイトが相対する両者を見やる。

「二人とも、準備はいい?」

 

 結局のところエゴだ、と小森はミッドナイトに頷きながら自覚する。

 彼がいなければ、こういった公の場で個性を使う事はなかっただろう。第一回戦で『キノコ』を見た観客の反応の全てが好意的なものでない事も我慢できる。

 以前の自分なら耐えられなかった。

 

 山岳ゾーンで彼が言ってくれたことを信じているから、ここに立っている。

 恩を感じているし、尊敬の念もある。

 それだけに八百万が告白する事に対して強い拒否反応を覚えた。

 

 別に彼が誰と付き合おうと、それは彼の自由だ。

 八百万でも、取蔭でも、知らない人でも、たぶんどうでもいい。

 

 だがその誰かが、別に好きでもないのに彼に告白する事が、うまく言い表せないがとにかく嫌だ。気に入らない。

 人の恋路に首を突っ込むのは野暮なのは理解している、平時ならば黙って見ているだろう。だが今は八百万を降し、優勝する事でそれが公然とまかり通る。それが許されるのであれば──

 

 ミッドナイトがバラ鞭をゆっくりと振り上げた。

 

 ──だったら遠慮なくエゴを押し通す。

 

『始めッ!!』

 

 小森が両手をかざす。

 八百万が全身の皮膚から滅菌液を滲ませ、ガスマスクを『創造』する。同時に大小無数のキノコの濁流に押し流された。

 後に残ったのはリングの半分を埋め尽くし、観客席に届かんばかりの、巨大な津波のように佇むキノコ群の塊だった。

 

 一拍の後、体育祭第一学年の優勝者が告げられる。

 

『八百万さん場外! よって……勝者、小森さんッ!!』

 

 呆気に取られていた観客たちが、ようやく個性のスケールの大きさを理解し、乾いた笑いを出す。笑うしかなかった。それは次第に大きな歓声に変わりスタジアムを包む。

 

「まさかこれほどの物量を出せるとは思いませんでしたわ」

 八百万がキノコの塊から這い出ると、小森は小走りで駆け寄って手を差し出した。

 固く掴んで立ち上がる。

 

「残念ですが、諦めるしかないようですね」

 

 それを聞いて、小森はなんだか可愛らしく思えた。どう考えても出会って数ヶ月の男性に告ったところで返事は濁されるだろうに、この天然のお嬢様は付き合えると信じて疑わないのだ。

 

「あいつには、良い所があるから」

「え?」

「いや、告る告んないの話。そういうところ、知ってからでもいいんじゃない? 一位になったらそれを自信にしてって言ってたけど、相手の事を知って理解するのも自信になると思うし」

 

 言われて八百万は目を伏せる。大きく息を吐き出し、晴れやかに笑って言った。

 

「そうですわね。まぐわってみたいという気持ちばかりが先行して、少し急ぎ過ぎていましたわ」

 

 リングの上で二人は固く握手した。ぐるりと取り囲む観客席からは喝采が響く。

 その上には雲一つない晴天が広がっている。

 軽やかな風が小森と八百万を撫で、髪をなびかせた。

 

 体育祭、第一学年が終わる。

 

 

 

 †††

 

 

 

「最後のは発目の工房に押し入った時に使ってた技か。あんなデカくなるとは」

 表彰台に立つ小森、八百万、麗日を眺めながら、取蔭がボヤく。

 耳郎が納得して後を続ける。

「たぶんあそこで見せるつもりなかったんだろーけどね。決勝まで八百万にスエヒロダケを意識させといて、ガスマスクを『創造』する隙に打つ隠し技って戦略みたいだったし」

 

 決勝戦の戦闘にあれこれ議論を咲かせる生徒や観客の視線の先では、ガラじゃないんだよなーという雰囲気のミルコがメダルを授与していた。

 もっと適任がいそうなものだが、救助訓練中にヴィランに襲撃された士傑の体育祭が近々行われる。その警備増強のため雄英教師も手を貸す必要があり、ミーティングや準備に追われて人手が足りないのだ。

 

「なに言やいいんだ? えー、麗日、個性の起動が四肢に依存してるタイプは欠損するとヒーローとして終わりだ。だから蹴りを混ぜるのは理にかなってる。偉い」

 

 へへへ、と照れながらメダルを掛けてもらう。

 

「八百万、脱いだらもっと強いおまえが体操服で良く戦ったな。偉い」

 

 光栄です、と恭しく頭を下げる。

 

「小森……よく自分の個性と向き合えたな、こういった場で使えたのは、偉い」

「でも、使うつもりの無かった技で、クラスメートに苦しい思いをさせてしまいました。自分のエゴを優先して」

 

 ミルコはその小さく震える口調に気付き、どーしたものか頭をかいてから、そっとハグしてやった。

「おまえはいいヒーローになるよ。わたしの商売敵になるくらいの」

 

 観客にわからないように それとなく胸で滲んだ涙を拭ってやってから1-Aの面々を見せてやる。みな、小森の優勝を祝福していた。

 

「誰も気にしちゃいねぇよ。勝ったんだから堂々としてりゃあいいんだ。わかったか? わかったな?」

 

 こくりと頷く頭をわしゃわしゃと撫で、メダルを掛けてやる。

 小森が顔を上げると、拍手喝采が鳴り渡る。

 

 体育祭は学校行事であり、観戦イベントであり、スカウトの場であると同時にもう一つ、重要な役割を担っている。

 ヴィランに対するけん制なのだ。

 だからみんな観に来る。将来においてヴィランをくじき、戦うヒーローを応援するために。

 

 ミルコがマイクに叫んだ。

 「今悪い事考えてる」

 

 というところでミッドナイトが音声を切った。

 学校で煽るな。

 

 †††

 

 †††

 

 

 

 一人の男が中継されている雄英体育祭を流し見しながら、スマホでツイッターのタイムラインを確認する。

 

『男子生徒が組み付かれたところで過呼吸になった、モノ化される瞬間を見たショックで悔しくて涙が止まらない』

『海外の友達の女性に見せたら血の気の引いた青い顔して、こんなことはわたしの国では許されないって、真っ赤になって怒ってた。ほんとこの国の異性は遅れてる。海外に移住したい』

『こんなので盛り上がってるのは犯罪者予備軍のクソだけ。クソリプしてるのも案の定アニメアイコン。あまりのひどさに言葉を失ったし、悔しくて涙が止まらない』

『青春ポルノに怒りでずっと身体が震えてる』

 

 やはり世の中は淀んでいると男は確信した。世界は男性消費に憂いているのだ。もはやヒーロー協会も政府も当てにならない。誰かが立ち上がらねばならないのだ。

 通形ミリオの悲劇から、雄英は何も学んでいない。わが国でも指折りの教育機関が男性を性的消費し、あまつさえ学校行事を興行化し利潤を得るなど言語道断。

 決意を言い聞かせるように独り言ちた。

 

「警告はした。体育祭を断行するのなら性的消費された生徒の報いを受けると」

 

 大丈夫だ、必ず女性の化けの皮を剥ぎ、どれほど汚らわしい存在かを白日の下にするから。男はそう念じて、テレビの中の人物に憐れみと同情の視線を送った。

 勝者に惜しみない拍手を送る、ヒーロー科唯一の男子生徒に対して。

 




職場体験でオチ付けて絞めるつもりでしたが、そこから不定期で時系列バラバラで短編連作みたいな感じでやるかもです。よろしくおねがいします。

以下 アンケートの例文

自分でデザインしたから ひとしおなのかもしれない。


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 職場体験
第八話 ルテンベルキリス 前編


フィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
消えちゃった感想でセンシティブな内容云々ってあったけど、中の人もちょうど同じ事を思ってるので、蔑むような事にはならないよう気を付けました。
けどヤバそうだなと思ったらメッセージか感想で一報してもらえると助かります。

追記、主にフェミニやマスキュリ関連の事です。


 ツイッターでバズったのが切っ掛けだった。

 

 一人の男がいた。どこにでもいるような大学生の中から無作為に選んだような。

 ある日、内容は正確には覚えていないが、夢精パッドのCMで青い液体が使われている事についてのツイートしたところ通知が止まらなくなった。

 

『男性がいるのに飲み会で白子料理を注文された』というツイートには、初めての万越えのイイネ数が付き動悸が速まった。

 

 白子を普通に食べるだけならいい。だがそれに絡めた下ネタを振られたときは本当にイヤな気持ちになった。そう感じるのはじぶんだけだと思っていたが、違った。

 

 リプ欄には多くの賛同の声がぶら下がっていた。共に男性蔑視と戦おうだとか、性的搾取がどうとか、勇気をもらいましただとか、とにかく男を褒めており一定の尊敬を持っているように見える。

 

 そうか、ぼくは良い事をしたのか。と、男は思った。

 

 それからだ、男がツイッター上でマスキュリストとして活動する、俗に言うツイマスとなったのは。

 フォロワー数は瞬く間に増え、今では死ぬほどどうでもいいツイートにもイイネが付くし、街の広告やマンガ、動画を見て意見すればプチバズだ。

 投稿するだけで、世の中が少しずつ良くなっているような気がする。

 

 やがてツイマスのオフ会にも参加した。

 ネット上で知り合った人と出会うのに抵抗感はあったが、ツイッター上で仲の良い()()()という人物に強く誘われたので断り切れなかったのだ。DMならともかく、リプでのやり取りだったので、マスキュリストの活動に消極的だとフォロワーに思われたくなかったのもある。

 

 花火田はツイマス界のアルファツイッタラーで、過激な発言でたびたび炎上していたが実際に会ってみると感じの良い中年男性だった。

 身なりも綺麗で、話し方も上品というか、力強く魅力に溢れていた。その声を聴いていると、不思議な高揚感と結束力が心から湧き上がるようだ。

 

 そんな花火田にオフ会で一目置かれるような扱いをされると、男が舞い上がるのも当然だ。

 それから関係は深まり、先日は仲間たちと雄英の校門前で体育祭中止のゲリラデモを行いもした。結果は想いを踏みにじられるものだった。

 

 ああ、われわれはかくも無力なのか。わが国で屈指のヒーロー養成機関があの体たらくでは外国に笑われるだけだ。

 男は雄英体育祭の中継を思い返し、ヒーロー科唯一の男子生徒に対する憐れみと同情を強く胸に抱いた。

 そうして決起の断行を誓う。

 

 後日、かねてよりの計画が実行されようとしていた。

 高層マンションの一角にある花火田宅に集められたメンバーはみな緊張している。

 本当に出来るのかという不安もあるが、なにより渡されたアイテムが違法性を否が応にも強調する。本来であればヒーローや一部の公務に携わる者しか手にできないはずだ。ライセンスの刻印も無い。

 このキナ臭いアイテムの出所、それを用意した花火田の背後関係に気が引けないと言えば嘘だ。

 

 ふと、男は昔が恋しくなった。自宅のソファで寝転がり、スマホ片手にツイートしていた頃を。

 なにもここまでする必要はあるのか? ツイッターデモで十分ではないか。いくらなんでも行き過ぎた犯罪行為に手を染めるなんてどうかしてる。

 

 だがそんな猜疑やぐらついていた覚悟も、ひとたび花火田が短い演説をぶてば改まった。胸の中に熱い高揚が満ちる。そうだ、たとえヴィランの汚名を被ったとしても、誰かが立ち上がらなければならない。

 各々はアイテムのマニュアルを読み、セーフティを掛けて軽く使用感を試した。そんな中、男が声を潜めて花火田に尋ねる。

 

「ところで、あの後ろにいる人はいったい……今までのオフ会では見ない顔ですが」

 

 ちらと目をやった先の人物は、一人離れた場所でつまらなそうに壁に寄りかかっている。黒いジャージ姿だが、その上からでも筋肉質で大柄な体躯が目立つ。なにより顔の左側を縦に走る大きな傷と悪趣味な義眼が、凶漢さを誇示するようだった。

 スーパーの片隅に貼ってあった、重要指名手配書の人相に似ている気もする。

 

「ああ、用心棒のようなものだよ。われわれのような崇高な志を持ってはいないが、念のために雇ったんだ。念のためにね。きみたちにアイテムを渡しはしたが、戦わせたくはないから。アイテムはあくまで脅し道具として使ってほしい」

「そう、ですか」

 

 花火田にそう言われると、不思議とどうでもよくなった。これから行う使命の方が重大だからかもしれない。

 やがて暗くなってきたので、その日は解散した。仲間たちと、いや戦士たちと別れて男は帰路につく。バスに乗り、ぼんやりと流れる景色を眺める。

 自動車学校の送迎バスが目についた。

 

 そういえば最近通っていない。というか、マスキュリストの活動が忙しくてここのところ大学にも顔を出してない。

 不意に、男の心のモヤが薄れる。

 せっかく受験を頑張って入った大学なのに、なにしてんだ、ぼく。というか留年したら面倒だし、免許の受講料ももったいない。

 

 が、花火田の言葉がどうにも頭から離れない。

 これから行う社会への救済に比べれば些細な事だ。そんな気がする。

 

 そんな気がした。

 免許や単位よりも、花火田さんや戦士たちの期待に応える事の方が何故だか大切に思えてしょうがなかった。

 体育祭で見た彼の姿を脳裏に描き、ぶつぶつと口を開く。

 

「たぶん彼は知らないんだ、あいつらは性的加害者なんだって。そんなやつらがヒーローなんて許されるわけがない……」

 

 

 

 †††

 

 

 

「やっぱ先輩強いですね」

 

 すっかり恒例になった週一での昼食時に、スマホで再生される動画を波動と見ながら彼が言った。

 掌のスクリーンには体育祭第三学年の部の最終種目の決勝が行われている。

 

 一対一なのは第一学年と同じだが、ステージは巨大な廃工業地帯に設定されていた。卒業も近いという事もあり、より実戦的な遭遇戦を想定しているようだ。

 空撮している何機ものドローンが、観客のいるスタジアムに中継している。

 映し出された波動の戦い方は悪く言えば大雑把で、良く言えば合目的だった。

 彼女の個性『波動』によって放たれた衝撃波が、辺りの工場施設を軒並み倒壊させる。大体の対戦相手はこれで降参した。

 

「こういう大きい技を使っていい場所は楽なんだけどねー。狙いを付ける必要も無いし。でも一位になれなかったのは、ちょっと残念だったかな」

 波動は鮮やかな色合いの生春巻きをたいらげ、興味で目を輝かせて話を変えた。

「ねえねえ、そういえば職場体験先ってもう決まった?」

 

 体育祭が終わればお決まりの話題である。

 ヒーローの卵が実戦へと踏み出す第一歩であり、コスチュームを着て学校外で活動するという事は、本格的に市民から認知されるという一大イベントなのだ。

 毎年この時期になるとヒーローフリークたちが新人のコスチュームをチェックする為、カメラ片手に街を散策している。

 

「ありがたい事にオファーは結構貰ったんですけど、逆にどの事務所がいいのかわからなくて。ていうか、ホントにいいのかなーって感じです。おれの個性、地味だし」

「なるほどねー。でも知ってる? 個性は派手で強ければいいって訳じゃないんだよ。例えば隠密性が求められる状況や、人混みの中でヴィランと対峙する場合もあるから」

 

 波動の言った事は単なる慰めではない。

 派手で強力な個性だと確かに人気は出るが周囲に損害が出やすく、それが重大かつ明白な瑕疵があると認められれば自費負担だし、個性損害保険料も高額に設定される。

 また、小森の『キノコ』のように一定時間で自然消滅する物質を生み出すのなら問題ないが、その場に残るタイプだと専門の清掃会社を呼ぶか自分で後始末をしなければならない。

 強個性だからと免許取得後に即個人事務所を立ち上げるも、上記の理由で経営難に陥るヒーローは意外と多い。

 

 凶悪なヴィランと戦うならば強力な個性も必要だが、何事もケースバイケースという事だ。

 

「そう、なんですか。言われてみればそんな気も……じゃあ割と地味な感じの事務所の方が合ってるのかな」

「んー。それも一つの選択肢だけど、やっぱり所属するヒーローも似た感じの個性が多いから、可能性を広げる意味では大手で新しい事を学ぶといいんじゃないかな?」

 

 言われて彼は腕を組んで難しい顔をする。とてもではないが、エンデヴァーのような派手な個性の事務所で働くイメージは湧かない。

 そんな姿をそわそわしながら見ていた波動が口を開く。

 

「……見てあげよっか?」

「えっ! いいんですか」

 彼はスマホを取り出してオファー一覧のPDFを表示させ、波動に手渡す。相手はBIG3と呼ばれる一人だ。とうぜん職場体験や実際のヒーロー活動にも精通しているのだから、学生の目線でアドバイスを求める相手としてこれ以上はないだろう。

 

 波動は緊張を隠して画面をスクロールする。

 彼を指名した大手事務所は意外と多かった。

 個性こそ目立った所は無かったものの、体育祭でベスト4に残った実力と確かな格闘センスが静かな注目を集めていたからだ。

 もちろんそれだけで青田買いの本命にはなりえないし、ましてや一線級の活躍を期待されるほどプロの世界は甘くない。省エネで堅実なサイドキックとして、彼は有望株だったのだ。

 

 やっぱりその辺の事わかってる事務所は多いなー、と思いながら ら行を確認する。あった。

 

「こことここと、あとねえ、県外だけどこの辺と……海の近い都市部のここもオススメかも。大手は従業員数が多いから腕利きを教育係つけてくれる余裕があるし、いろんな人から体験談を聞けるからオススメなんだよ~」

 

 ピックアップされた事務所はどこも聞いた事があるような所だった。

 学生の個性は、個人情報の観点から受け入れ事務所側が内定する事ではじめて開示される。個性を知らずにオファーするのは双方にリスキーかもしれないが、プロなら体育祭の活躍でだいたい把握するので問題ない。

 問題ないが、自分の個性があまり役に立たないと理解している彼からすれば、どうしても気後れしてしまう。

 

「大丈夫ですかね? ちょっとおれには場違いな感じがするというか」

「全然気にする事ないよ、向こうからオファーしてるんだから。わたしも最初の職場体験は大手だったけど、すっごい良いところで、そこで学んだから今のわたしがあるってくらいかな~」

 

 BIG3がそこまで露骨に褒めるとなると、彼は当然気になる。

「へえ、ちなみにどこだったんですか?」

「ん? ここだよ」

 

 と言ってスマホを指す。ら行の中にリューキュウ事務所とあった。ビルボード上位に位置する、文句なしの一線級ヒーロー事務所だ。

 長を務めるリューキュウの個性『ドラゴン』は文字通りドラゴンへと体躯を変える変形型だ。高校生あたりの支持はやや低いが、高速のサービスエリアに売っているような、竜の絡みついた剣のキーホルダーが好きそうなチビッ子層からの人気が特に高い。

 グッズの売り上げも好調で、経営的にも成功している。

 

「リューキュウはねぇ、見た目はちょっと冷たい感じだけどホントは凄ーく優しくって頼りになるから、そこにしたらいいと思うな」

 

 尊敬する波動ねじれがそこまで言うのだから、初めての職場体験先として間違いないだろう。

 唯一の心配事と言えばきわど過ぎるコスチュームに関してだが、職場体験の日までにはヒーロー倫理に触れないリテイク品が届くはずなので大丈夫なはずだ。

 

 こうして彼は職場体験先を決めた。

 その夜、不安と期待が入り混じった思いを胸にベッドに潜り込む。果たしてどんな人が教育係に付いてくれるのだろうか。紛らわせるようにほんの少しだけスマホをスワスワしてツイッターを眺めていると、ある動画を目にした。

 いわゆる謝罪会見で、スーツを着た大人が揃って頭を下げている。どうやらヒーローコスチュームの製作会社らしく、ヒーロー倫理に触れるようなものをプロに納品した事が問題となっていたようだ。

 

 アイテム業界もいろいろ大変なんだな、と彼は他人事のように流して目を閉じた。

 夜の無音に耳を傾けていると、ふと胸中が小さくざわめく。

 あれ? でもさっきの会社、おれがコスチュームのリテイク出してたとこだったような……

 

 翌日、その嫌な予感が的中した事をミッドナイトから聞かされることとなる。

 

「嘘でしょ先生!?」

「んー、なんか会社の製造ライセンスが一時停止措置受けたみたいでさあ。まあ、その間はアイテムに関するやり取りが出来ないみたい。悪いけどまた八百万に服を創ってもらって。ミルコにも監修させるから、ね?」

 

 どうやら彼のコスチュームは炎上のゴタゴタで納品が間に合わないらしい。

 同情の視線を向けるミッドナイトと共に、破廉恥なバックコスチュームを隠す為に八百万の世話になった。

 

「あ、それとミルコから伝言」

「なんですか?」

「きみ、格闘訓練は赤点だって。補習あるから」

「赤点って、え? 試験とか特になかったですけど」

 

「いやーなんか単に弱すぎるって理由」

 

 身もふたもない理由に愕然とするが、否定できないので甘受するしかない。

 こうして彼は一人居残り補習を受けるのであった。

 

 

 

 †††

 

 

 

 やっぱり場違い感あるよなあ、と彼は青空を反射する高層ビルを見上げ、さりとていつまでも臆してはいられないので意を決して自動ドアをくぐる。広く清潔感のあるエントランスホールに足を踏み入れた。

 

 一階のカフェで待ち合わせていた男性事務員と合流し、エレベーターで最上階を目指す。

 

 なぜそんな高い場所に事務所を構えたのかというと、『ドラゴン』の個性の関係上、周囲に何もない場所で起動して即現場へ駆け付ける事が望ましい。だから屋上へのアクセスが容易な階を選んだのだそうだ。

 到着を待つ短い時間に事務員が気さくな感じで説明するが、彼は緊張と不安でそれどころではなかった。

 

 ちゃんとやれるだろうか。という幾度目かの自問に同じ答えで勇気づける。

 自然とコスチュームの入ったアタッシュケースを握る力が強くなる。少なくとも、体育祭の時よりは強くなっているはずだ。

 問題は教育係と上手くやれるかどうか。いったいどんな人なのだろう。一週間付きっきりで顔を合わせる事になるので、気が気でない。

 

 こぎれいなエレベーターホールを抜け応接室に通されると、黒いソファに二人の女性がくつろいでいた。

 一人は気品のある黄金色の短髪をしており、サイドスリットの入ったヒーローコスチュームを身に纏っている。艶やかな太ももが眩しかった。切れ長の目が彼を捉える。小さく微笑み、涼し気な声で歓迎した。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「はじめまして、リューキュウです。ま、堅苦しい挨拶は抜きにして、よくきてくれたね。迷わなかった? 学生だとあんまりこの辺は来ないでしょ?」

「あっはい、なんとか」

「まあ座って座って。飲み物、紅茶でいい? コーヒー?」

 

 凄い、本物のヒーローだ。彼はそのオーラに圧倒された。普段は動画越しか遠巻きにしか見た事ないプロと話しちゃってるよと感激する。

 外部講師のミルコも現役なのだが、学校という環境は学生のホームだし、ラフな性格も相まってプロ感のようなものは薄れていた。教師として親しまれているとも言える。

 しかしそんな胸に迫る感動とは別に、リューキュウの対面に座ってぼりぼりとお茶菓子のクッキーを食べているもう一人に目がいく。

 

「あのー、なんで波動先輩がいるんですか?」

「んー、わたしもリューキュウの事務所を選んだからだよ~?」

 

 とぼけた顔でそう答えた。

 考えてみればどの学年にも職場体験はあって当然だ。三年生でようやくモノにした遅咲きの個性であったり、他科からの編入してくるケースが無いわけではない。そういった生徒の為の配慮と、少しでも多くの現場を体験させることは有益だ。

 

「あら、二人とも知り合いなの?」

「言ってなかったっけ? 仲いいんだよ。一緒にお昼ご飯食べたりしてるよね?」

「そうですね。波動先輩にはいろいろよくしてもらってます。対個性戦のアドバイスとか、他にもいろいろ」

 

 ふーん、とリューキュウは紅茶を一口やって、一考の後に切り出す。

 

「じゃあ尚更ちょうどいいか。ねじれ、職場体験中は彼の面倒見てあげてね」

「いいよー」

「えっ!? プロの人が教育係に付いてくれるんじゃないんですか? いや、波動先輩が頼りになるのは知ってますけど」

 

 ちょっとしたおつかいを頼まれたかのように了承する波動に、彼はうろたえる。リューキュウの言う面倒を見るとは事務所の案内とかではなく、教育係としての意味を含む事は明白だ。それを学生に任せて大丈夫なのだろうか。

 

「ねじれは現場に出ても問題ないレベルだし、もともと今回の職場体験では後進の育成を学ぶ予定だったから」

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ、リューキュウもこう言ってるし」

 

 彼は一瞬 作為に満ちた人工的な運命を感じたが、あまり強く拒否しても波動を傷つけるだろうし、見知った人に教えてもらうのは気が楽だったので考えない事にした。

 その後しばらく歓談したのち、波動は彼を連れて事務所を案内し更衣室で別れた。コスチュームに着替える間、先日 有弓に言われたことが頭の中でもやもやと漂う。

 

 

 

『マジで!? 一緒の事務所! 運命じゃん!』

 下校時の下駄箱で勢いよく波動の肩を掴み、有弓は興奮気味に口走る。

『チャンスだって、あーいう感じの子は押しに弱いタイプだからイケるって!』

 

 波動はその勢いに苦笑する。

『運命って大袈裟だなー』

 

 二人が同じ事務所なのはもちろん、一切の計らいなくたまたま偶然の巡り合わせが偶発的に期せずして無作為に交差した結果である事は説明する必要も無い事実だ。

 なので有弓が運命と評すのも無理からぬ話。

 

『そういうロマンチックなのに弱いんだって、男は。ネットにそう書いてあったし』

 

 有弓がなおも食い下がって応援するのには訳がある。

 ヒーロー科の職場体験先は各地に散らばるので、ビジネスホテル等の宿泊費用は雄英が持つ。つまり男女二人が大手を振って一週間も外泊するのだ。もちろん部屋は別とはいえ、もしも関係が進展すれば一週間。一週間の夜である。

 多感な女子高生にとってこれがどれほどの価値を持ち、期待と妄想を膨らませるか計り知れない。

 羨ましいことこの上ない。嫉妬心を覚えないでもないが、後押しは親友の役目だ。もちろん必要なマナーと言うか、夢が膨らむ薄いエチケットがたくさん入った箱は持たせた。

 

 だが、と有弓は鼓舞しておきながら一抹の不安を覚えもする。

 泊まりに行った時に見たねじれのオカズのジャンルが結構スゴイやつだったけど……まあ大丈夫か。AVはAVだ、その辺の区別がついていないはずがない。へーきへーき。

 

 

 

 もんもんと募らせた妄想に浸った波動の意識は、背から投げかけられた彼の声で引き戻された。

 

「すみません待ちました?」

 

 待機室で外を見ながら待っていた波動は固唾を飲んで振り返り、彼のヒーローコスチュームを目にする。一瞬の空白の後、いつもの調子で言った。

 

「戦闘訓練の時とは変わったんだね」

「あれで街に出るのはちょっと……」

 

 乾いた笑いで言った彼のいでたちは、サイドベンツの入っているゆったりしたAラインのトレーナーとハーフパンツだ。色はシラットの道着を意識しているのか、黒で統一されたそれはどこにでもあるようなスポーツウェアにも見える。

 

「ふーん、でもこれちゃんとしたアイテム? なんか違わない? 大丈夫?」

 

 一目で見抜いた慧眼に驚きつつも、事情を説明する。

 

「そんなわけで、クラスメートに創ってもらった服で隠してますけど、下はまだ戦闘訓練の時と同じなんです」

「へえ、それは災難だったねー」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 心なしかがっかりしている波動に付いてパトロールに向かう。

 都心部という事もあって通行人は多く、「あ、体育祭で見た子だ」と時々スマホを向けられもした。

 

 彼はその道中で、なんだかデートみたいだな、もし先輩と付き合えたならなあ、とぼんやりした妄想をしてみる。

 こんなに良くしてくれるのなら、ワンチャンあるんじゃないかと期待を抱かないでもない。

 先輩は優しくて、頼りになって、強くて、尊敬できる素敵な人だ。

 だから。だったらいいな、とは思うけれども。

 

 仮に波動が好意を寄せてくれていたとしても、どうせすぐにダメになると彼は理解していた。

 ぴったりとしたコスチュームに包まれた肉置き豊かな肉体を盗み見る。歩くたびに揺れる豊満な乳房、抱きついて顔を押し付けたくなるような尻と太もも。下衆だとわかっていても視線が向かってしまう。あらためてボリュームがスゴイのだ。

 

 おれはおかしい。世間一般の感覚とズレていて、エッチな事がしたい。とてもしたい。しかもそれだけでなく、可能ならばいろんな女の子とエッチな事がしたいと思ってしまうほど性に貪欲だ。

 もし付き合ったとしても、そんな自分の内を知られてしまったら。

 

 きっと引かれてしまうだろう。

 

 幻滅されるよなあ、と叶わぬ恋に落ち込んでいると、波動が思い出したように振り返る。

 

「そうそう、コーハイくんのこと何て呼べばいい? コードネームって決まった?」

「それがその~。おれ、特徴が無くってなかなかピンとくるのが思いつかなかったんですよ。まあ、卒業までに決まればいいらしいんで。ちなみに先輩のコードネームって何ですか?」

「ネジレチャン」

「え?」

「ネジレチャン」

「あのそれ、え? マジですか?」

 

「基本的に活動中はコードネームで呼ぶことになってるから、それでよろしくね~」

「わかり、ました。ネジ……ネジレちゃ」

「ん~?」

 

 にこやかに顔をのぞき込んでくる波動に、彼は顔を赤くして視線を逸らした。

 年上の女性を名前呼びするだけでもハードルが高いのに、加えてちゃん付けするとなると相当親しい間柄ではないか。まるで付き合っているかのような。

 

「あの、やっぱ先輩って呼んじゃダメですかね。ちょっと照れるっていうか」

「いいよ~」

 

 ちょっと残念だけどな、と波動は歩みを進める。

 

 その後のパトロールは順調なもので、強いて言えば街路樹を見上げる学校帰りの少女たちを見かけたくらいだ。そのわけを聞くまでも無く、同じように見上げてみれば猫が枝にしがみ付いている。三メートルほどの高さで、前足であれこれと探っているがもどかしそうだ。

 

「降りられなくなっちゃったみたいだねー」

 波動が個性を起動する。彼女の体内に蓄えられたエネルギーがゆったりと螺旋を描きながら両足から放出され、その体躯を僅かに浮遊させた。長い髪がふわりとたゆたう。

 

「じゃあ、おれが登って助けてきますよ」

 

 言うが早いか、彼はするすると樹木を登る。体捌きはさすがのもので、あっという間に猫の首筋を掴んで降りてきた。

 

「この猫、きみたちの?」

 彼がしゃがみこんで少女たちに目線を合わせて尋ねる。が、当の少女たちはもじもじと目を泳がせる。緊張しているのか歯切れ悪く「知らない」とだけ答えた。

 

 それも仕方のない事だ。ぱっと見、彼のコスチュームは普通だ。しかし下から見上げるとトレーナーの下のヒーロー倫理に喧嘩を売る背中が丸見えだったので、真面目で無害そうな見た目の下にあんなスケベな格好をしているヒーローがいるなんて……と、その場にいた少女たちに凄まじいギャップの衝撃を与えていた。それがいわゆる清楚系バックと呼ばれるジャンルだと知るのはまだ後の事である。

 

「首輪がついてるんで、逃げ出しちゃったんですかね。こういう場合って警察になるんですか?」

「まずは動物病院だね、マイクロチップがついてるだろうから」

 波動は視線を少女たちに向け、続けて言った。

「じゃあこの猫ちゃんはわたしたちが保護するから、心配しないでね」

 

「あ、はい」

 少女たちは心ここにあらずといった感じで、抱きかかえた猫にちょっかい出して遊んでいる彼をぼーっと眺めている。

 

 まあ、気持ちはわからないでもない。と、波動はまだ青い性に小さく苦笑した。同時に実戦的な思考を働かせる。

 しかしなるほど、腰裏の()()を隠す為にAラインのトレーナーか。サイドベンツが入っている仕様も頷ける。思い返すに、たしか彼の体術にはシラットが入っていた。付け焼き刃というわけではなさそうだ。

 確実に体育祭の時より強くなっている。

 

「どうかしました?」

 波動の視線に気づいた彼が尋ねるが、なんでもないよーとはぐらかされる。

 

 こうして、まだ年端も行かない少女たちの性癖を歪めた事など露ほども思わない彼は、職場体験の順調な滑り出しを感じていた。

 腕の中の猫がにゃんと鳴いた。心地よい風が吹く。

 

 ヒーローの社会的尊厳に亀裂を走らせるほどの凶行に直面する兆しなど、まるで感じさせない昼下がりであった。




次回 明日


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第九話 ルテンベルキリス 中編

 やがて日が暮れ、二人は事務所に戻るべく帰路につく。

 帰宅ラッシュも過ぎ、オフィス街のビルの明かりはまばらに灯るばかりだ。暗いアスファルトの上を車がせわしなく走っている。コンビニから塾帰りの学生たちがファミチキ片手に出てくる。

 

 昼過ぎから開始したにしては長時間の任務に感じられるが、万一の個性の誤射を防ぐため、法律で定められた休憩義務を挟んでいる。

 あと残っている仕事といえば、パトロール中の活動報告書を事務所で作成し反省会で終わりだ。ヴィランとの接敵および個性の使用も無かったのですぐに済む。

 

 すべてが順調に終わりつつあったが、波動の脳内では一つ重要な案件が残っていた。『絶対に夕食に誘え!』という有弓のアドバイスである。

 もとよりそのつもりだったし、そうする事に何の抵抗も疑問も無かった。仮に相手が彼でなくても、『ねえねえ、この後ご飯たべに行かない?』と言っていただろうし、去年も一昨年もそうしてきた。はずなのに。

 

「ねえねえ……」

 胸の中の躊躇を覚えたまま口を開くと、肩を並べて歩く彼が「なんですか?」と答えた。敬意と羨望に満ちた瞳をしている。

 波動は思わず喉まで出かかった言葉を飲み込み、別の問いを投げかけた。

 

「……どーだった、実際に現場に出た感想は?」

「んー。正直不安だったんですけど、波動先輩が付いてくれてたんで割と安心できたというか、あんまり緊張せずにすんでよかったです」

 

 そう言われると波動はまんざらでもない。が、妙だなあと内心で小首をかしげた。雄英で初めて会った時は普通に食事を一緒に出来たのに、今となっては躊躇いがある。

 やがて、そうかぁ、と合点をいかせた。

 ああ、きっと断られるのがイヤなのだ。いまこうして二人で歩いている関係にひびが入りそうだから。

 

 らしくないなあ、と自身の心境の変化に戸惑っているとインカムに通信が入った。すぐ近くの歌羽駅がヴィランの集団に不法占拠されたらしい。それだけならまだいい、いやよくないが、問題はヴィランたちの声明であった。

 

『われわれはァ、アダルトコンテンツを扱う全てのインターネットサイトの閉鎖を要求する! これは性的消費に苦しむ社会への救済であり、誰かが手を汚さねばならない聖戦である!』

 

 駅の前には既に警察やヒーローが待機しており、一般人の退避が行われていた。遠巻きに野次馬がスマホを向けている。

 今のところ迅速に事に当たっているように見えるが、事件に対応している男性と女性の温度差は明確だった。

 

 男性からすれば、今のところ人質はおらず人命が関わっていない時点で脅威度は一段下がる。ヴィラン側、ヒーロー・警察側の双方に不必要な犠牲が出ないよう、慎重に事を進めればよいだけの話。

 対して女性は内心でハチャメチャに焦っていた。オカズを失うという点もあるが、早急に解決しなければ、交通インフラの一つを潰された不満が企業へ向かうかもしれない。

 

 時として、自己責任論や結果論を手に、ヴィランよりも被害者側を責める人間はどこにでもいる。

 企業が要求を呑めば済む話。たかがアダルトコンテンツを扱うサイトとインフラなら、後者の方が重要という論調を展開するのだ。

 そうなる前に可及的速やかに事を進めたいが、必死過ぎてはスマホを手にした衆人観衆にどれだけエッチなんだと思われかねない。それはそれで恥ずかしい。

 

 声明を中継で見ていた多くの女性が不安を覚えたが、男性であるはずの彼も同じくうろたえた。

 ちょっとまってくれ、ただでさえ少ない男性向けのオカズの供給どころを潰されてはたまったものではない。

 とはいえ、仮免も持ってない学生が勝手に突入する訳にもエラソーに現場に口を出す訳にもいかない。すでにヒーロー・警察たちが対応している以上は静観するのがベストだ。

 

 しかしながら、大げさすぎるというか回りくどい気もする。

 もし本当にアダルトコンテンツを扱うサイトを潰したいなら、大手本社に直接乗り込んでサーバーを破壊した方が手っ取り早い。

 陽動、という言葉が彼の脳裏をよぎった。手早くスマホでその場所を確認する。

 

 夜の黒いアスファルトに、ぱたりぱたりと雨粒が落ちた。

 

「先輩。パトロール先、もう一つ増やしてもいいですか?」

「えっ? いい、けど。どしたの? ……ちょっと!?」

 

 きょとんとした波動が言い終わるのを待たずに、彼は駆け出す。思い過ごしならそれでいい。ただ、万が一にでも危惧した事態が進行していたのなら取り返しのつかない事になる。

 

「手、出して!」

 

 切羽詰まった雰囲気の彼に、個性で飛んで並走した波動が手を差し出す。彼が握ると、そのまま都会の夜の空を飛翔する。

 

「どこにいけばいい!?」

 風切り音とぬるい雨音の中で波動が短く叫ぶ。彼が指した方向へ進む道すがら、端的に委細を聞いた彼女も焦燥感を覚えた。 

 

 やがて東京湾に近いオフィスビルに着く。

 一度彼を地上に降ろし、波動が予断なく告げる。

 

「わたしが外から確認するから、もし突入するような事があったら応援を呼んで」

「わかりました」

 

 彼が頷くと、波動はビルの17階まで浮かび上がり、一拍の後に衝撃波でガラスを破壊し突入した。

 つまり嫌な予感は的中したのだ。陽動でヒーローと警察を釘付けにしている間に、ファンザの本社に忍び込むというのは。

 どうやら交通インフラを人質にしたアダルトコンテンツの制限ではなく、なにか別の狙いがあるようだ。

 

 彼はすぐさまスマホを取り出すが、電波を示すアイコンが消える。インカムも通じなかった。

 

「は!? 電波妨害? だとしたらもっとこの辺は騒ぎになって……いや、ヒーローが突入してきたから通信を遮断したのか、連携と増援を断つために。そういう段取りがあるって事だとしたら、かなり計画性のある……」

 

 冷静に思考を巡らせると、だんだんとマズい状況に追い込まれている気がした。

 電波妨害になんらかのアイテムか個性が働いていると仮定した場合、ここから離れて救援を呼ぶべきだろうか。

 だがもし影響範囲が広大だったら? 走って範囲外に出て、そこから応援を呼ぶにしても時間が掛かるかもしれない。相手が入念な組織的準備をしている可能性を捨てきれない以上、いくら先輩でも万が一という事もある。

 

 周囲を見渡すが、車も人影も無い。暗い夜に雨の音だけが広がっている。

 悩む時間は無い。必要以上にあれこれ考えるより先に、彼の身体は動いてた。今はただ、波動ねじれが心配だった。

 

 彼はそっとガラス越しに一階のホールを覗く。明かりは灯っていないが、エレベーター付近に二人の人影が確認できた。いでたちは警備員のようだが、警邏せずにその場にとどまっている。つまりは階上を封鎖したいのだ。とうぜん階段の守りも固めているだろう。

 

 彼が正面出入り口の自動ドアを手で押すとあっけなくスライドした。すでに不正に開錠されている証拠。

 見通しの良いロビーでは身を隠して近づくのは難しい。

 それならせめて虚を衝ければと走ってエレベーターに近づく。警備員の内の一人がそれに気づいた。警告なしに両腕を『結晶化』させて突っ込んでくる。個性を起動した際に腕輪が弾け、内部の液体を取り込んでより硬質になった突起は、自傷なしには掴むことも受け流すことも難しい。

 

 初めて向けられる純粋な敵意に一瞬、彼は不安に駆られた。

 クラスで一番弱いおれが実戦で通用するのだろうか? 見張り相手にあっけなく負けるなんてこともあるかもしれない。なんせおれの個性は実戦であまり役に立たない。

 いや、今そんな事を考えても仕方ない。

 弱気な心を、ミルコとの補習を思い返すことで塗りつぶす。

 

 

 

 †††

 

 

()()()シラットとボクシングだろ?』

 

 補習ゆえに二人きりのトレーニングルームで、ジャージ姿のミルコが準備体操しながら言った。特に脚は、この後彼を死ぬほど蹴り飛ばすため入念に伸ばす。

 妖刀を研ぐような畏怖すらあった。

 

『だから、というのは?』

『おまえ、じぶんの個性についてどう思ってる?』

『どうって……無個性よりはマシくらいですかね』

 

『その通りだ。わたしは嫌いじゃないけどな、おまえの個性。とにかくまあ、だからその体術の選択は正しい。ま、消去法なんだろーが』

 腕を伸ばしながら、浅く嘆息して続けた。

『おまえが攻防を個性に頼れない以上、相手は個性を使う時間に比例して原則的にアドバンテージを得続ける』

 

 故に相手が個性を使う時間を減らす短期決戦が望ましいが、威力のある蹴りは掴まれると終わる。だから顎や鳩尾へのクリーンヒットで一撃が狙えて、かつフットワークとダッキングやスリッピングアウェーで躱せるボクシングは理にかなっていた。

 

『んで、現状で最も発生件数の多い軽個性犯罪は突発的で、ロクに個性を使いこなせないヤツが引き起こしてる。しかもそういう弱虫は群れる事が多い。だから乱戦や対多数を想定しているシラットは合目的的だ。それに、もう一つ利点がある』

 

 一息ついたミルコが部屋の隅のアタッシュケースを彼に放り、シニカルに笑う。

 

『サポート科に作らせた。ある程度は遣えるんだろ? ()()。おまえにとって絶対に交戦すべきでない天敵は、体術が通用しない相手だしな。違うか?』

 

 

 

 †††

 

 

 

 彼は駆ける速度を落とすことなく、サイドベンツのスリットに左手を入れ、腰裏にマウントしてあるアイテムを抜き出す。

 迫る大振りの横殴りを、音も無く展開した三段警棒で流し、返す刀に首裏を強打して昏倒させる。そのまま二人目へ接近した。

 迎え撃つように伸ばされた幾条もの『髪』の束は、右腕を流れるように振るって切断する。距離を詰め、顎を打ち抜いた際の脳震盪で落とす。

 

 彼の右手には、黒色のマット塗装された刃物が逆手で握られていた。カランビットと呼ばれる小型のナイフで、その形状は虎の爪のように湾曲している。

 体術が通用しない相手にはアイテムに頼る他ない。だから鎌や斧などの多種多様な武器術も存在するシラットなのだ。携帯性を考慮するなら三段警棒とカランビットくらいだが、無いよりはマシだ。

 

 アイテムを収め、一息ついてエレベーターの昇るボタンを押し、倒れている二人のヴィランを見下ろす。

 一人目は腕輪、二人目はよく見ると頭部に小さなカプセルがいくつも付いたリングをしている。個性をブーストするアイテムのようだが、だとしたらどこから手にしたのだろうか。

 

 手繰る思索の糸を断ち切るように、ヴィランの装備していた()()()()()()()()()

 どうも嫌な予感がする。波動先輩が無事だといいが、とエレベーターに乗り込む。

 

 ゆっくりとした浮遊感に身を包まれながら、補習をやってよかったとしみじみ痛感した。

 

 

 

 †††

 

 

 17階のエレベーターホールで待機していたヴィランは、エレベーターが一階に向かった事に眉をひそめた。そしてまた昇ってきている。おそらくヒーローを乗せて。

 本当はずっとこの階で停めておきたかったが、長時間の停止は管理会社に連絡がいく。最初から電波妨害を起動すれば問題ないが、周囲が騒ぐので、ヒーローが来たら使うという段取りだった。

 

 だが問題は無いはずだ。エレベーターの中には、自身と身に纏う物質を小さくする『縮小』の個性使いがあらかじめスタンバイしている。

 既に小さくなっており、ヒーローがやってきたら『縮小』を解除し装備しているアイテムで不意打ちする。たとえヒーローでも、ヴィランがいないと油断した狭い空間内なら防ぎようがない。

 

 問題はないはず。と、ヴィランは数字を重ねる表示灯を睨みつける。やがて到着し、扉が開いた。同時に一人の人間がどさりと倒れ、薄暗いホールにエレベーターの明かりが差し込む。

 

「お、おい! 大丈夫か!?」

 

 倒れたのが仲間だと知ったヴィランは思わず駆け寄って介抱する。そうして、エレベーター内で端に身を寄せていた彼の影が床に落ちたのに気づき、見上げると同時に意識を失った。

 

 

 

 エレベーターの中で不意打ちされアイテムの溶液をかけられてしまい、ハーフパンツが溶かされてしまったが行動に問題ない。インナースパッツは少し恥ずかしいが、愚痴を言う暇などなかった。

 彼がそっとエレベーターホールから、なにやら鈍い音が響くオフィスルームを覗く。そして目を疑った。波動ねじれが巨漢に殴り飛ばされ、壁に打ち付けられていた。

 追撃が入る──

 

「先輩ッ!」

 

 反射的な行動だった。声を出すと同時に飛び出して相手の注意をこちらに向け、整然と並べられているデスクの上を一足飛びで駆ける。モニタを引っ掴んで放り投げ、防がれた隙に鳩尾を狙う、振りをして波動を抱えてその場を飛び退く。一拍遅れて巨漢の剛腕が鋭く空を貫いた。

 

「へえー、けっこう動けるじゃねえか」

 巨漢が見下ろして感心したように言った。深くかぶったパーカーのフードの下の表情は読み取れないが、口元は嗜虐に満ちて歪んでいる。

 

 巨漢を警戒しながら波動の安否を確認する。

「大丈夫ですか」

「逃げて……」

 意識はあるものの、喋るのも辛そうだった。目元と頬は腫れ、口内を切った血が唇から垂れている。コスチュームの上からではわからないが、身体を動かせない所を見るに、全身に打撲痕があってもおかしくない。

 

 彼は怒りよりも先に状況の把握に努める。あの波動ねじれがここまで一方的にやられるハズがない。

 月明かりが青白く照らすオフィスには巨漢を除いて五人のヴィラン。一人はデスクに座っている。三人は護衛といった感じでアイテムが目視で確認できた。最後の一人は感じの良いスーツを身に纏った中年男性で、離れた場所で傍観している。その足元には目隠しされた男性会社員が膝立ちで拘束されていた。

 なるほど、人質がいたから波動先輩は手を出せなかったのか。

 

 仮に逃げるとして、人ひとり分を抱えて走る事など造作も無い。だが目の前の巨漢がそれを許すかどうかは別の話。先の一撃は空ぶったとはいえ、相当な膂力だった。

 どうすべきか逡巡していると、デスクに座っていた男が不意に立ち上がって目を凝らす。ひょっとして、と友好的な口調で言った。

 

「ひょっとして、きみ、雄英のヒーロー科の子か? クラスで唯一の男性の」

「そう、だけど」

 

 巨漢が攻撃してくる様子が無いところを見るに、どうやら男の指揮下に収まっているらしい。

 戦って勝つ見込みが怪しい現状では、情報収集と逃げる策を練る時間を稼ぐしかない。

 そもそもこいつらの目的は何だ? どうも単にファンザを使用できなくするとかではなさそうだ。もしそうならとっくにサーバーを物理的に破壊するなりで済んでいる。

 

「そうか。辛いだろうな、きみのような立場の男性は、女性に囲まれて。さぞ大変な思いをしてるんだろう? わかるよその気持ち。目の前の人間に性的消費されるかもしれないという恐怖」

 

 同情と憐憫を含ませた口調に、彼は肩透かしをくらってぱちくりとまばたきする。その感情の向けられ方は予想外だ。

 

「だが心配しなくていい。この救済措置をもってして、そういった周囲に対する不安や猜疑からはようやく逃れられるんだから」

 

 そう語る男の表情は慈愛に満ちていた。

 気味の悪い善意に不穏な気配を覚える。

 

「おれは別に困ってない。だいたい、悪事を働いといて何が救済だ」

「確かにわれわれは駅を占拠し、こうして不法侵入を犯しているがマスキュリストとしての矜持は持っている。その辺のヴィランと一緒にはしないでほしい」

「無関係な人質を取っていて何が矜持だ」

「ああ、違う違う。この人はわれわれの仲間なんだ」

 

 男がそう言うと、拘束されていた中年男性は解放され、誤解を解くように小さく笑った。

 

 ヤバいな、と彼は固唾を飲む。

 陽動が抜けられた後のプランと人質の偽装まで計画している。素人たちの突発的なバカ騒ぎでも、個性の万能感に浮かれた能天気集団でもない。本格的な犯罪組織だ。ガキだからと油断してくれる事を期待していたが、まわりのヴィランにそういった気配は無い。

 どいつもこいつも目の瞳孔が開きっぱなしだ。虚空を見つめるような瞳のクセに、油断なくおれを見据えている。まばたき一つせず、妙な高揚感に頭まで浸かっているような。

 

「われわれが世間一般にヴィランとして見られても仕方ない、その汚名は甘んじて受ける。だが、誰かが泥を被ってでも白日の下にし、世界に問わなければならないんだ。われわれのような一般市民を助ける資格が、ヒーローにあるのかという疑念を」

 大仰に手を広げ、憂国の士を気取って続けた。

「果たして助けられたいか? 誰かを性的消費するようなヒーローが差し伸べた手を握りたいか? 児童ポルノや強漢ものが好きな異常性癖者がヴィランを倒したからなんだ? ヒーローは分け隔てなく市民を助けるつもりかもしれないが、市民は助けられたいヒーローを選ぶ権利があるはずだ」

 

 それが正しく清廉な動機であるかのように語ると、男は賛同を求めるような視線を彼に投げかけた。きっと感極まって理解してくれるはずと信じて疑わない。

 

「あんた何言って……いや、何をしようと」

 

 次に男が発した言葉に、彼は心底恐怖した。同時に、逃げられないのだと悟る。どうあっても立ち向かうべきだと理解した。ここでその非道の所業を始末しきらねばならない。

 

「われわれは、すべてのファンザユーザーの購入、閲覧履歴をネット上に公開する」

 

 彼は言葉を失った。

 そんな事が許されるのか? 否、たとえ神や父親でさえ踏み込んではいけない領域というものは存在する。その内の一つがアダルトサイトの履歴だという事は言うまでもなく人類の不文憲法で定められているはずだ。

 

 昨今のアダルト文化のフォーマットは、ほぼダウンロードやストリーミングに傾いている。そもそもアダルトコンテンツは一人でこっそり楽しむ物なので、電子データを扱うスマホやタブレットで十分、というか都合がいい。物理的な本やAVレンタルは、書店やメディア再生機器の減少に比例して廃れていった。

 故に、ほとんどの人間のオカズはネットに一極集中していた。

 いまやワンコインの定額サービスに加入すれば見放題の世の中で、誰もが手軽に気軽に安心して性欲を満たしている。

 それは誰にもでもある、誰にも知られることの無い特別な時間に違いなかった。

 

 その聖域を土足で踏みにじるような看過できない凶行が、いま、目の前で起ころうとしていた。

 事態を把握すると、彼は恐れから義憤に駆られ……次いで背筋が凍りつく。

 

 ある意味では世の女性よりもマズい立場にある事に気づいたのだ。

 

 ちょっと待てよ。「ヌけ忍! エッチショット」「Fuck Come」その他諸々のおれの購入履歴が流出したら……

 それらは心の性欲ヴィランに負けない為に、パチモンAVアベンジャーズを招集する致し方ない手段であったが、そんな言い訳が信じてもらえるとは思えない。全国の薔薇好きの方々から熱いエールが送られることになるだろうが、それ以上にマズい事になりそうな気がする。

 

 どっと冷や汗が噴き出す。今すぐにでもなんとかしたい。しなければならない。

 ケリを付けるべきだ、今ここで。

 

 再び怒りの炎を燃やし、男をねめつける。

 

「あんたらが何をしたいのかさっぱり理解できないが、あんたらを止めなきゃならないって事ははっきりと理解した」

「わからない? 本気で言っているのか? すべてのヒーローは一般市民によって選別されなければならないんだ、ヒーローにふさわしい清い心を持っているかどうか。われわれが手を汚し、履歴を公開する事で誰が相応しくないか炙り出される……まあヒーローでない人間も晒すことになるが、後ろめたい事だという自覚があるなら最初からアダルトサイトなど利用しなければよかったんだ」

 

「どんなアダルトコンテンツを見てようが、誰かを助けたいって気持ちや普通の生活を送る事とはなんの関係ないだろ!」

「いいや、あるよ。そういうやつらは犯罪者予備軍だからね。いつヴィランに転身するかわからない人間がヒーロー免許を持っている事は、一般市民にとって恐怖でしかない。隣人にしてもそうさ。きみは知らないだろうが、その女だって同じだ」

 

 言って男はタブレットを操作する。その端末はデスクの上に置いてある炊飯器ほどの大きさのクラッキング用アイテムと有線されていた。アイテムはサーバーと有線されており、いまも膨大な顧客情報を抜いている。

 雄英体育祭で聞いた名前で検索を掛けるとすぐにヒットした。男は顔をしかめて吐き捨てる。

 

「……信じられないほど下劣な趣味だ、こんなのを観てよくヒーロー面ができるな。これを知ったらきみだって考えが変わるだろう」

 

 波動が青い顔をして彼を盗み見る。

 拒絶される。その自覚が無いわけではなかった。

 

「先輩は優しくて、頼りになって、強くて、尊敬できる素敵な人だ。どんな性的嗜好だろうと、そこは変わらない」

「……がっかりだな。たまにきみのような人間がいる。女性に肩入れしてチヤホヤされたいだけの打算的偽善者が。本心では蔑んでいるくせに、口ではそんな上っ面の耳障りのいい言葉を垂れる」

 

「違う! おれは本心から」

「そうかな? その女自身がよくわかってそうなものだが」

 

 言われて彼は反射的に波動に視線をやる。さっと顔を背けられた。女性からすれば当然の反応だった。アダルトコンテンツを、それも下劣だと言われる種類のものを好んでいると暴露されれば誰だってそうなる。

 例え彼がどれほど気にしないといったフォローを入れても、それは単なる慰めや先輩という立場を気遣ってのものとしか受け取れない。

 幻滅された、という深く冷たい実感だけが胸に広がる。

 

「信じてください先輩! おれは別に」

「そんな心にもないキレイ事をどれだけ並べても虚しいだけだ……もういい、やってくれ」

 

 男がそう命じると、興味の無い問答にあくびを嚙み殺した巨漢のヴィランが、首の骨を鳴らしながら彼に近づき不敵に笑った。

 

「ま、おれにはどーでもいいけどな、こいつらの思想なんて。金さえ貰えて、ついで誰かをブン殴れんだから……サシでやろうや、さっきは無抵抗の女を殴るだけでつまらなかったしな。逃げられるなんて思うな、遊ぼうぜ、ガキ。おれの暇つぶしに殴り殺されてくれ」

 

 どうやら格闘戦を望んでいるらしい。彼は抱えていた波動の背をデスクに預けさせ、被害が及ばぬよう前に出て慎重に構える。

 異形、変形型の個性ではなさそうなのは不幸中の幸いだったが、相手はデカい。二メートルほどの背丈に筋骨隆々の恵まれた肉体はそれだけで脅威だった。

 

 まず体格差によるリーチの不利。敵はアウトレンジから一方的に攻められるが、こちらは敵の顎や鳩尾といった急所までの距離が遠くなる。足払いや返しのテイクダウンでグラウンドに移行しても体重差があるので優位性を確立できない。というか掴まれると終わる。

 

 サーバールームに伸びる有線ケーブルを切断したいところだが、ヴィランの仲間が守っているのでそれも難しい。

 時間稼ぎに徹して持久戦に持ち込むか、隙があれば一撃を入れるしかない。

 

 ヴィランが無警戒に交戦距離に入ると、力任せの鋭いストレートを放った。

 それをフットワークと上半身の動きで躱す。対応できない程ではない。明るい月の光と闇に順応した瞳も相まって、幸いにもよく見える。

 何発か捌いて様子を見るが、打撃は単調で大雑把。格闘技を少し齧った名残はあるものの、ストリートの喧嘩以下。

 入り身で懐に潜り込みさえすれば勝機はあるかもしれない。

 

 ヴィランが拳を振りかぶりながら半歩踏み込んでくる。それに合わせて彼は半身を入れた。合気における『結び』が成立する。

 そのはずだった。結びが綻びる。

 

 ヴィランの身体が爆発的に膨れ上がり、それまでとは比べ物にならない程の速度で振るわれたフックは彼の左肩に入った。衝撃で脳が揺れ、身体がボールのように跳ね、いくつものデスクの上のモニタや書類を蹴散らかしながらフロアの端まで吹っ飛ばされる。窓の強化ガラスにひびが入るほど叩きつけられ、ようやく静止した。

 

 ハッ、と笑いを堪えきれずにヴィランが噴き出す。

 

「たまにいるんだよな。圧倒的な格上に、どっかで習った小手先の技術でどうにかこうにか勝てそうって勘違いするバカが」

 そう言って大笑いするヴィランの上半身は、個性『筋肉増強』により纏った筋繊維で不自然なまでに膨張している。それにより引き裂かれたパーカーが地に落ちた。暴かれた顔の左側には大きな傷。

「何回やっても飽きねえな、そーゆーバカを力でねじ伏せるのは。マジで傑作だ、吹っ飛ばされる直前の表情はクセになる」

 

 その嘲笑を聞きながら、彼は追撃に備えて立ち上がる。幸いにも脚は動く。だが──

 

 巨漢のパーカーが引きちぎれたことで明らかになったその相貌には見覚えがあった。

 指名手配級ヴィラン、通称「血狂い」マスキュラー。プロヒーローすら殺すほどの実力を持った凶悪犯。

 現時点で圧倒的な格上。撤退以外の選択肢は取るべきではない。

 

 赤い筋繊維の外殻を纏ったマスキュラーが歩くだけで、水に浮かべた葉をどかすようにデスクの列を崩しながら近づいてくる。

 本来であれば日中をパトロールするような彼と接敵するようなヴィランではない。ちょうど地下に潜る逃亡資金が心もとなくなったので、裏の仲介所経由で花火田に雇われたという不運が重なったのだ。

 

 ──勝てない。

 

 だらりと赤紫に腫れあがり骨折した左腕を無視して彼は逡巡する。額から血の雫がとろりと頬を流れた。身体のいたるところが熱を持ったようにひどく痛む。殴られる反対方向に跳躍してこの威力。まともにくらったら死んでいただろう。

 

 たしか指名手配書には『筋肉増強』とあった。

 外付けの筋肉を纏うという攻防一体の個性がシンプルに強力なのは事実だ。悔しいが、ヤツの言う通りおれじゃ無理だ。生半可な打撃では分厚い筋肉に阻まれて内臓にダメージを与えられない。

 

 個性の相性の壁にぶち当たる事を覚悟していなかったわけではないが、まさかこんなにも早く、それも実戦で味わう羽目になるとは思わなかった。

 ミルコ先生が絶対に戦うなと言っていた、体術の通用しない典型例。死亡要因となる天敵。

 つまり……だからどうなる? 負ける? 死? 

 

「どしたあ? まだやれんだろユーエイ生。仮免だなんだ気にして個性使わねぇならこのままあっけなく死んじまうぞ、それともようやく理解したか?」

 マスキュラーは半笑いで歩み寄る。

「おまえらが仲良く小賢しい体術や個性を学んだところで意味がねえ、圧倒的な暴力には敵いっこねえって事がよお!」

 

 彼は頭狙いの大振りのフックをスリッピングアウェーで辛うじて凌ぐ。その勢いのまま転がって大きく距離を取った。使い物にならなくなった左腕が切り捨てたいほど邪魔だ。痛みや死への恐怖は、幸いにもアドレナリン等の神経伝達物質により抑えられている。

 そして本物の、正真正銘の悪意との戦闘能力の差に身体が、生存本能が逃走を選択しているのがわかる。

 

 今すぐにでも、波動ねじれを背負って立ち去りたかった。見捨ててさえ構わないという思考がよぎりもした。ヴィランを前に尻尾を巻いて逃げるなど情けない限りだが、死ぬよりマシだ。

 

 それでも、だからといって。

 

 紙一重の防戦を続ける彼の瞳を見て、マスキュラーは猟奇的に顔をゆがめる。コイツは本物のバカだ。まだ自分が何か出来ると妄信している。そういう狂信者をへし折ってやる事ほど愉快な事は無かった。

 

「だいたいよォ、そういう技だの型だの……そんなもんは生きるか死ぬかのやり取りを知らない雑魚の言い訳だ。いくら鍛錬を積み重ねたところで、おまえがおれに勝てる理由は一個たりともねぇ!」

 こういう手合いは煽れば煽るほど、そんな事は無いはずと意地になるとマスキュラーは知っていた。そしてそれを己の筋肉で容赦なく粉々にするのは至上の快楽の一つだという事も。

「ま、無駄だったってこった。実戦の殺し合いに比べたら学校の訓練なんてお遊戯なんだよ。わかったか? わかったら……血ぃ撒き散らかして死んどけッ」

 

 マスキュラーの主張は、認めたくないが一理ある。死線を潜り抜けた経験は、強さに影響する要因になりえるかもしれない。

 しかし諦める口実にはならない。

 

 ファンザの顧客情報の流出は、ヒーローたちにとって大きな打撃になりうる事は想像に容易い。

 ヒーローネームで活動しているものの、事務所の代表ならホームページに本名が記載されているし、探そうと思えば芸能人と同じように卒アルから簡単に割れる。

 

 もちろん良識ある人間は性欲に関して理解を示すだろう。だがミルコやミッドナイトのように性を結びけられやすい個性持ちには、妙なレッテルを貼るアンチが多い。それにヒーローそのものを快く思わないヴィランのような連中には格好の炎上材料だ。

 

 マスキュリズムの主張というよりも、現代ヒーロー社会の土台に亀裂を走らせようとしているのかもしれない。

 

 また学生社会においても、誰かが面白半分にクラスの女性の名前で検索して揶揄する事はありうるし、雄英や士傑などの有名校なら体育祭で名前が全国に出ている。

 1-Aの面々の履歴がネットに流出すれば、たとえ彼が検索しなかったとしても彼女らからすれば気まずい事この上ないだろう。

 彼はその時の彼女たちの気持ちを想像して心を痛めた。

 ようやく仲良くなれたのに、また微妙な関係に逆戻りだ。ひょっとしたら修復できないかもしれない。

 

 それに一度大規模に購入履歴が流出すれば、今後誰も安心してオカズを探せない。クラスメートのみんなはどこでオカズを調達すればいいんだ? 多感で無駄に旺盛な十代の性欲を何で満たせばいい? 

 

 その起こりうる理不尽な現実は、彼が誰よりも身に染みていた。

 数少ない男性向けのアダルトコンテンツを探し回り、時には使い物にならないブツを掴まされたり、泣く泣く女性向けのAVでちょびっと映っている女優で抜く虚しさ。そんな思いをするのはじぶん一人で十分だ。

 

 幸か不幸か、電波妨害があるのでサーバーから有線で抜いた顧客情報は流出せずに物理メディアに保存されている状態だ。

 ここで食い止めなければ後が無い。アダルトコンテンツをこっそり楽しんでいる全ての人間の希望が、たった一人、彼の双肩にかかっている。

 果てしなく重いそれを、歯を食いしばって背負う。

 

 ──それが出来るのは、今、おれしかない。それに──

 

「──引けない理由がまた一つ増えた」

「ああ?」

「おれが雄英で学んできたことは、おまえみたいなヴィランを捕まえる為のものだ。無駄なんかじゃない」

 

 彼はその決意を心に灯す。

 ここで負けたら、ヤツの言う通り学校での学びが全て無駄とみなされるようで気に入らない。

 クラスメートはみんな良い人だ。ヒーローになる為に必死で訓練をこなし、ひょっとしたら今もどこかの職場体験先で戦っているかもしれない。

 ミッドナイト先生やミルコ先生も、生徒想いの頼りになる教師だ。プロでの経験が豊富なだけあって、教科書だけでは学べない事がたくさんあったし、まだまだ教わる事は多い。

 

 そんな素敵な人たちと過ごした学生生活を、たった一人のヴィランに踏みにじられてたまるか。

 

 マスキュラーがせせら笑いで口を開く。

「てめぇをぶっ殺したらよ、同級生が仇討ちに来るかもな。そしたらそいつらもぐちゃぐちゃにして遊べて一石二鳥じゃねーか! いいのかよそんな駄菓子のオマケまで付けてくれちゃって!!」

「いまだにおれを殺せてない程度の実力で何言ってんだ。同級生はみんなおれより強い。先生はもっと強い。おまえは負けるよ」

「ハハッ! そりゃいい。試したくなってきた」

 

 迫るマスキュラーを迎え撃つ狭間に彼は思考を巡らせる。

 現状では勝てる見込みがない。筋肉の外殻を物理的に抜けない以上、アイテムでなんとかするしかない。あるいは頭部は筋肉で覆われていないので、顎へのクリーンヒットによる脳震盪を狙うのが手だ。

 問題なのは、どのみち攻撃を当てるのならば相手の間合いに深く潜り込まねばならず、一撃をミスれば返しのベアハッグで絞殺されるだろう。肋骨や背骨がへし折られ、血反吐を撒き散らしながら内臓をズタズタにされるイメージが嫌でも脳裏によぎった。

 

 あまりにも薄い勝算に気を落とす。

 本当に、ヤツの言う通り雄英で学んだことは無駄だったのだろうか。圧倒的な暴虐の前に技は無力なのか? 

 いや──

 内心で頭を振る。

 

 無駄なんかじゃない。

 たしかにヤツには殺し合いの経験があり、おれは持ってない。けどおれにだってヤツが持っていない経験がある。それは──

 

 マスキュラーが向かってくる哀れなおもちゃに歪に笑い、対格差を活かしたアウトレンジで拳を振るった。彼はその一撃をダッキングで躱し、流れるような入り身で近距離戦に持ち込む。同時に腰裏に手を回す。

 しかしマスキュラーは冷静にその状況を把握していた。先ほどから打撃を外されるのは納得いかないが、彼の右手に握られた順手のカランビットは視認している。いくら格下相手の遊びでも、油断や慢心は無かった。

 

 強固な筋肉を前に、こういったアイテムを持ち出された経験は少なくない。

 カランビットの斬撃が鋭いのも知っているが、形状からして刺突には不向きだし あの短い刃渡りでは内臓に届かない。おそらく失血を狙った行動だろうが、外殻越しに動脈を断つ事が出来るのは三カ所に限られる。

 

 それは可動域を確保する関係上、どうしても外殻が薄くなる両手首の橈骨動脈径か首筋の頸動脈だ。前者は40分の流血で危うくなる程度なので実戦的ではない。だから一撃を狙うなら数秒の失血で意識不明に陥る頸動脈。

 順手なのもそのためだろう。対格差によるリーチ不足を少しでも埋めたいのだ。

 

 その読み通り、鋭利な切っ先は上体に向かってきている。

 

 純粋な暴力を崇拝しながらも、マスキュラーは戦闘面での理性を捨ててはいなかった。それどころか、踏んだ場数の経験則から迅速な対応を選択できる。だからこそ指名手配級のヴィランなのだ。

 こと戦闘に置いて一切の隙は無い。

 

『筋肉増強』で一瞬のうちに首周りを補強する。視線は大きく動かせなくなるが、これで頸動脈は守られた。向こうから懐に飛び込んでくるのなら、後は回避潰しのベアハッグなりタックルからのグラウンドなりで終わらせる。

 

 これで詰みだ。勝利を確信したマスキュラーがほくそ笑んで彼を眺める。最後に賭けた一撃が無為に帰した時の相手を見るのも、たまらなく好きだったからだ。

 そして瞠目する。

 

「は?」

 

 常軌を逸した信じがたい光景に、一瞬の空白が生じる。

 

 彼に躊躇は無かった。

 不感無覚に渾身の力で股の間の()()を蹴り上げると、マスキュラーは身体を前かがみに硬直させ、ぐるりと白目向いて泡吹いてぶっ倒れた。巨体が生々しい音を立てて床に転がる。

 そのザマを見下ろして言い放つ。

 

「おれにだっておまえの持ってない経験がある! 殺しだとかそんなものよりずっと立派で頼りになる、クラスメートとの訓練や、ミッドナイト先生やミルコ先生の教えが!」

 

 男が愕然としてその光景を見やる。あの屈強な用心棒がやられた事よりも、もっと信じがたい状況に口からこぼすように言った。

 

「お、おまえ……おまえいったい何考えてんだ……」

 

 彼は握りこぶしの人差し指と中指の間に親指を挟んだフィグサインを男に突き付け、堂々と答えてやる。

 

「おれは今、波動先輩とエッチする事を考えてる!」

 

 俯いていた波動の瞳孔が はっと開く。

 

 それが本心偽らざる言葉だと、彼の下半身を見やれば一目瞭然だった。

 ソレは黒いインナースパッツの上からでも如実に存在を主張していた。痛々しいほどに隆起しており、天を衝くかの如くご立派にそそり立っている。

 見れば誰もが思わず気を取られ、思考に一瞬の空白の隙を割り込まされてしまうほどのあまりに雄々しい益荒男がそこにはあった。

 

 カランビットはフェイク。意識をそちらに逸らしている間に勃たせて相手の隙を作るという、エッチな事に貪欲な彼でなければ不可能な、ミルコに教わった視線誘導。そして一番最初の格闘訓練で教わったタブー、男性の価値観では同性に行う事は禁忌中の禁忌とされるが絶大な効果を発揮する金的。

 

 彼は雄英でいったい何を学んでいるのか。ご両親が知れば心配になるかもしれないが、その経験が無ければ遥かに格上の指名手配級ヴィランを倒す事など不可能だっただろう。

 

「こ、こんな状況で何を……く、狂ってる。おまえは、おかしい」

「知ってる。おれはおかしい。理解している。理解して生きてきた。納得とは違うが」

 

 言って彼は無意識に過去を振り返る。

 ずっと、じぶんでも不思議だった。みんなとは違う事に不安だった、違う事が嫌だった。コンプレックスだった。やがて生まれ持ったどうしようもないサガだと諦めもした。

 物心ついたときに父親から渡された夢精パッドは使った事が無い。定期的に生理用品代を渡されるが、全てアダルトコンテンツに消えていった。

 

 けどもしかしたら、おれがエッチなのは今日いまこの場所で、波動先輩やアダルトコンテンツをこっそり楽しんでいるクラスメート、全ての人たちを助ける為だったのかもしれない。

 

 それなら案外、悪い気はしない。おれがエッチだって事が波動先輩にバレたって、それで引かれても構わない。それでいい。そんな気がした。

 だからこそ、男に言われた言葉がひどく気に障る。

 それだけは否定しなくてはならない。

 

「先輩は優しくて、頼りになって、強くて、尊敬できる素敵な人だ。本心からそう感じている。この想いが上っ面の耳障りのいい言葉? キレイ事? 冗談じゃない。どれだけAVを観ていようが、どんな性癖だろうが、それを知ってどれだけの人間が嫌悪感を覚えようがおれには関係ない!」

 

 波動は吸い寄せられるように彼の背に視線を向けた。

 男はなんとか理屈をこねくり回す。所詮は外面の為の虚言、ヒーローを気取って取り繕っているだけだと内心では主張するが、何も言い返せないでいた。彼の猛々しくいきり立つ生命の源が言葉よりも雄弁に、それが真実だと物語っているのだから。

 

「おれだって自慢できるような性癖じゃ無い……いろんな女の子とたくさんエッチな事がしたいと思ってる。おかしいだろうけど、それでも」

 ぽつりとこぼすように言った後一拍置き、静まり返る室に叫んだ。

「おれは波動先輩が好きだ! 一番エッチな事がしたい! 文句、あるか!」

 

 あらゆる委細、社会的通念、世間体を跳ねのける物言いに男は飲まれそうになる。それでもなんとか強く噛み締めて、唸るように言った。

 

「ふざ、けるなよ……おまえのような異性に媚びるハリットがいるから、いつまでも男性は性的消費されるんだ。わかっているのか? いまやおまえはすべての男性の敵だ」

「たしかに現実で性的嫌がらせに苦しむ人や性犯罪は存在するし、そんな行為は許せない。けどおれの性癖や波動先輩を好きな事と、あんたの言う世の男性が性的消費される事って関係あるのか?」

 

 言われてみればそうだ。冷や水をかけられた気がして、男は少しばかり冷静になる。というか、何やってんだぼく。高校生相手に大怪我させて。会社に忍び込んだり、犯罪じゃないか。てかこんなことして大学とかどーすんだ? 退学処分? 

 

 男は無意識のうちに花火田を見やる。いつもの助言か救いを求めるように。

 だが、その口から出た言葉は鼓舞するような力強い言葉ではなかった。

 

「その二人に天誅を、われわれの大義の為に」

 

 周囲のヴィランが彼に向けて一斉にアイテムを構える。

 いくら訓練を積んだ雄英生といえ、負傷した状態で複数人のアイテム持ちは分が悪い。

 

「ちょ、ちょっと待て! 待ってくれ花火田さん! それは、アイテムは脅しにしか使わないはずだぞ!? それに相手はまだ子供だ! みんな!」

 男は動揺したが、声は届いているようには見えない。

 

 五分五分、いや、もっと悪い状況だが、マスキュラーを相手取るよりは遥かにマシ、と彼が腹を括ったその瞬間、窓ガラスが空気を切り裂く甲高い音で砕けた。その破片に紛れて一人の影が身を翻し、ヴィランから彼を庇うように悠然と屹立した。遅れてガラス片が床に散らばる。

 あまりに唐突な出来事に、全員の視線が集まる。月に浮かび上がった輪郭が明かす、その特徴的な耳には覚えがあった。

 

 彼がその名を叫ぶ。

 

「ミルコ先生!」

 

 おう、と不敵に笑って、ニンジンのガラの入ったパジャマを着たヒーローは長い月銀の髪をかき上げた。

 

 男が動揺して口走る。

「どッどうしてここが!?」

 

「どうしてって……なんで兎の耳がデカいか知らねーのかよ?」

 当たり前のことを聞くなといった感じの溜息で続ける。

「悪いヤツらの騒ぎを聞きつける為に決まってんだろ」

 

 言い終わるが早いか、ミルコはクラッキング用のアイテムをデスクごと踏み潰していた。なんとなくこれが悪事を働いてそうという勘で。

 

「み、見えな……」

 

「はあー? どうして兎の脚が速いか知らねーのかよ」

 呆れた顔で続ける。

「一秒でも早く悪いヤツらのたくらみを蹴り飛ばす為に決まってんだろ……つーか、うちの生徒をさんざんボコしやがってよお──」

 

 夜闇に爛々と赤く滾る瞳が見開かれた。

 

「──わかッてんだろぉーなあ!!」

 

 ミルコの怒声が響いた。飛来する鉄球を首を動かすだけで避け、残りのヴィランにスリッパで蹴りかかる。

 彼女の苛烈な蹴りは、キックボクシングやムエタイ、カポエイラの技のようで全く違う。

 重く、鋭く、生身で受けようものなら吹っ飛ばされるような。「世界最強の蹴りの体術は?」と彼女に尋ねれば、当然のように「わたし」と返ってくるような。

 アイテムでブーストされた個性の被害が彼や波動に及ばないよう慎重に立ち回らねばならないが、制圧は時間の問題だろう。

 

「先輩! 大丈夫ですか!?」

 

 その間に、姿勢を低くした彼が波動に駆け寄る。俯いた顔の表情は読み取れない。

 

「だい、じょうぶ。なんとか、動けるくらいには落ち着いたから」

 

 そう言ってふらりと立ち上がり、彼を守るように一歩前に出た。脅威はまだ存在しているかのように。

 

「てめえ、マジでぶっ殺す、死にてえって後悔するような殺し方で」

 

 彼が呪詛の唸りにハッと見やると、顔面蒼白で脂汗を滝のように流しながら、怨嗟を唱えるマスキュラーがいた。踏んだ場数の経験と勘は伊達ではなく、金的は想定していた。

 ぎりぎりで対応してファウルカップを間に合わせ、潰れてはいないが一時的に気を失う程度にダメージを抑えていたのだ。

 

 だがそれでも股間回りの筋肉を増強しすぎると自分の男性器が潰れるおそれと、脚の可動域に問題が出るので守りがそもそも薄く、気が動転した際の筋肉の弛緩は致命的であった。

 下腹部から突き上げるような鈍痛が響く。

 

「こいつ、まだ」

 彼が構えたのを、波動が手で制す。

 

「大丈夫、わたしがやるから」

 

 その言葉を信用できない訳ではないが、今の波動のダメージでは碌に動けないだろう。それに体育祭を思い返すに、彼女の得意とする技はかなり大雑把だった。

 体育祭で見せた廃工業地帯をまとめてなぎ倒すほどの威力をオフィス街で放てば周囲への損害も大きく、ヴィランの多くはビルの外に飛ばされるだろう。犯罪者といえども、命を奪うのはヒーローとして最後の手段だ。

 

 事実として、彼女は構えられたものの最早まともな打ち合いが出来る身体ではなかった。

 マスキュラーが憎しみに顔を歪ませ、全身を筋肉で覆い爆ぜるように駆ける。技術も思考も何もない、一発の砲弾のような、純粋な質量と運動エネルギーによる突進。

 

 それに対し、彼我の距離が遥かにある段階で、波動は構えたまま僅かに踏み込んだ。

 いま、彼女が行おうとしているのは寸勁と呼ばれる打法である。

 限られた動きの中で運動エネルギーやその流動、すなわち勁を最大化させる技術であり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。寸頸より振りかぶって殴った方が当然威力は出る。

 

 ゼロ距離戦闘や不意打ち、身体を大きく動かせない場合に有効な技だが、突進する肉塊を止めるには誤った選択に思える。

 

 しかしながら、波動のそれはただの勁ではない。

 その単純にして最小の動作には、複雑にして最大の力が組み込まれていた。

 

 原則的に、個性はその使用者を傷つけない。あまりに強大過ぎたり制御が未熟な場合を除いて、例えば火を吐く個性持ちが舌を火傷しないように、ミッドナイトが自身の『眠り香』で眠らないように。

 故に彼女が衝撃波を放つ際に使用する個性『波動』は、彼女を傷つけずにエネルギーとなって体内に蓄積している。重く静かに螺旋を描きながら。

 

 足先、ふくらはぎから太ももの足捌き、腰と胸部のひねり、頭部の重心操作。さらに肩から腕、肘、前腕とよどみなく流れる『勁』の技巧で、彼女の体内で生み出された衝撃波を生み出す『波動』は導かれる。

 

 その収斂の極地は拳であった。

 

 ほんの一寸。『勁』と『波動』は練り上げられ、一つの小さく圧縮された衝撃波となり、重い雷鳴のごとく空気を震わせて解放された。上下を含めた数フロアの窓ガラスすべてに亀裂が入り、デスクが瞬間的に浮いた。電灯が瞬時に砕け散る。

 空間を奔る螺旋の純粋な衝撃波は突進するマスキュラーにカウンターで入り、筋肉の外殻をも貫き、内臓を鋭く穿つ。迫る巨体が崩れ落ちるように床を滑り、波動の横をすり抜けて何枚かの壁を破壊しようやく停止した。

 

 波動ねじれの勁は飛ぶ。彼女にとって寸勁とはゼロ距離戦闘に用いるものではない。離れた敵を最小手数で撃つ飛び道具。

 言うなれば飛勁であった。

 

 ふらりと力を失った波動の身体を、彼が抱き留めた。

 

「先輩!」

「ちょっと、疲れただけだから」

 

 そう言った彼女は肩を借りて弱々しく下を向いている。決して、未だぐつぐつと熱を持ったままの彼の下腹部を注視しているわけではない。わけではないが固唾は飲んだ。

 どさりとヴィランが倒れた。ミルコは瞬動して最後に残った身なりの良い中年男性の腹に膝を入れる。が、妙な違和感。粘土の塊のような感触。

 

「なんだ? ()()()()()()……」

 

 糸が切れたように床に転がる中年男性を見下ろしながら、まあとりあえずは生徒の保護に思考を切り替える。

 

「救急車呼んでくるからおまえらはそこで」

「待ってください、敵の狙いはファンザだけじゃないかもしれません」

 彼が遮った。ミルコが怪訝な顔をする。

 

「はあ?」

「こいつらの本当の目的はアダルトサイトの履歴を流出させることです。なら、忍び込んだのはここだけじゃないはず」

 

 顎に手をやり思案していたミルコがハッと合点をいかせる。

 

 ファンザはAVやエロゲーに秀でており、会員登録者数も多い。今回の事件の標的になるのも妥当だ。アダルトサイトの二大巨頭としてあげられるだろうから。

 そう、二大巨頭。であるならばもう一つのアダルトサイトも射程に入っているはずである。

 

「DLsaitoも危ないって事か」

「はい。しょっちゅうクーポンを配ってくれて音声作品やマイナーな同人ジャンルに秀でてるしおれも数少ない男性向けや女性が多く映っているという理由でGLものを探すときによく利用してますし性癖により諸説あるでしょうがファンザと並ぶほどの大手なので二大巨頭と言ってもよく利用者も多いですから履歴が目的なら狙われていてもおかしくありません」

 

 やけに詳しいなコイツ。しかも急に早口になった彼に一瞬たじろぎながらも、ミルコはその判断を妥当と評価した。関係ないけど気のせいか彼の下半身がこんもりしているように見える。いや、まさかな……

 

「なら一応見てくるわ。えーっと、体育祭で二位の、あー、浮いてたヤツだよな? おまえ、このビルから飛んで適当な場所に避難できるか? 残党がいるかもだし……おい、おーい!」

「えっ!? あ、うん、はい」

 

 バッと赤い顔を上げた波動が しどろもどろになりながら答えた。

 

「そんじゃちょっと行ってくるわ」

 ミルコは夜に消えた。並び立つビルの屋上を跳ねまわりながら、先ほどの光景を思い出す。やっぱ勃ってるよーにしか見えなかったんだがなー。

 

 

 

 残された二人はしばらく立ちすくんで、ミルコが去った窓から外を眺めていた。

 そのうち波動の指が風に揺れたように彼の手に触れると、どちらからと言うでもなく ぎこちなく絡まった。『波動』が緩やかに力場を形成し、書類が舞い上がるなか二人は向かいの屋上にゆったりと浮遊していき、そこで隣り合わせに腰を下ろす。

 

 やがて電波妨害の範囲から出たミルコの通報により周囲が騒がしくなってきた。すでに応援に来たヒーローはビルの中に突入しているだろう。

 二人は顔を合わせず、何も喋らなかった。

 気まずいのか、疲れ果てたのか、緊張しているのか、傷が痛むのか、気恥ずかしいのか、達成感に酔っているのか、眠たいのか、なんでもいい他の理由か。

 

 あるいはその全てかもしれないが、とにかく二人は高層ビルの屋上で眼前に広がる黒い夜と無数にきらめく灯りを眺めていた。

 耳にうるさいほどの夜風が身体を打ち、乱暴に髪が流れた。サイレンが響き渡る。

 

 喉が渇いたと不意に気付く。そういえばお腹も空いた。

 

 けれどもなぜだか、ずっとここでこうしていたかった。




次回 ヤル気あれば明日か明後日かも

ヒロアカもの宣伝

【完結】私は脳無、インブローリオ。ヴィラン連合の敵。
脳無にされた少女とMt.レディの勘違い百合もの。

【完結】偶像の象り
もしも爆豪が無個性で緑谷が『グリセリン』と『酸化汗』個性で、二人の境遇が逆だったら、のお話。

【完結】吉良吉影のヒーローアカデミア
吉良吉影が普通科で平穏に暮らそうとする話です。かわいい葉隠ちゃん。

個性永久借奪措置
エター。塚内とMt.レディを通して警察とヒーローの話を書きたかったけど全然ハネなかった。残念。

もしも吉良吉影がヒロアカ世界に生まれたら
エター。比較実験のやつ。四話で塚内が追い詰めるシーンとオチが気に入ってるのでいつか完結させたい。

他にもいろいろ書いてるのでよかったら見てね
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第十話 ルテンベルキリス 後編

 結局、リューキュウ事務所の職場体験はほとんど病院生活だった。

 幸いにも二人とも最終日までには治癒するらしいが、物足りなくもある。指名手配級のヴィランを相手取って命があっただけでもよしとするしかない。

 

 ベッドで聞いた話によれば、どうやら本当にDLsaitoの顧客情報も抜かれていたらしい。間一髪でミルコが間に合い、事なきを得たそうだ。

 お見舞いに来た両親に対しては心配をかけてしまって申し訳なく思うが、母親がやたら熱を込めて活躍を褒めてくるのがなんかちょっとイヤだった。あとなんかお小遣いが増えた。

 

 だが警察関係者から、リューキュウとミッドナイト、両親を交えて話を聞くに、事態はまだ複雑さを残しているようだった。

 捜査中という事で詳細は開示されなかったが、SNSで集めた人間の犯行にしては出来過ぎているのが気がかりだ。計画性、違法アイテムの出所、指名手配級の雇用。マスキュリズムの主張にしては大規模かつどこかズレた論点。

 裏で糸を引く存在は、確かに見え隠れしている。

 

 また、コピーキャットを防ぐため、ヴィランの手口や目的の公表は先延ばしにされた。かなり難しいが、アダルトコンテンツのみならず、顧客情報を扱う同業者が対抗策を講じる時間を設ける必要があった。

 表に出るのはミルコの活躍と、彼と波動がファンザ本社にてヴィランを撃退した事だ。

 

 学生の身にしては過分な功績であると同時に、個性を人に向けて使用したという事実は世論に波紋を呼ぶ可能性はある。

 だが波動は仮免を取得済みでリューキュウから監督権を委任されており、その行使について問題は無かった。オフィスビルに対する損害も個性保険会社と警察の審査をクリアしており、重大かつ明白な瑕疵は認められなかった。

 

 取ってつけたように加えるとサーバーはスゴイ頑丈に作られているので無事だったよ。

 

 彼に関してはそもそも個性で危害を加えておらず、アイテムの使用規定も満たしていた。事態が急迫しており、ヒーローの使用するアイテムにより周囲の人間に危害が及ばない場合などなど。

 もしもカランビットによる創傷があればひと悶着あったかもしれない。

 

 金的については眉をひそめる者もいたが、彼が遥かに格下であった事を加味するとある程度は目を瞑るべきだった。厳重注意処分はいきすぎかもしれないが、ヒーロー側にこの戦術が横行しだすと男性ヴィランへの過剰攻撃に発展しかねない。

 なにせ便利なのだ。その痛みを知らない者からすれば、狙わない方がどうかしていると思うほどに。

 一時は人権問題にまで発展した過去もある。彼も今後は控えるよう心に誓った。

 

 もちろん歴戦の手練れであるマスキュラーに一瞬の空白を作った視線誘導はご両親に伏せられている。だがそれを聞いたミッドナイトは深い同情を覚えた。

 

 他人の前で勃起するという男性として大事な尊厳と引き換えに得た勝利は、さながら「恋彦†国士」で全ての次元の征服を画策する最強最悪、人の理を超え無限の力と生命力を得た闇の皇帝に対し、主人公の少女が桃園の誓いを結んだシーンを想起させる。

 

 もちろん人の理を超え無限の力と生命力を得た闇の皇帝であっても、誓いを結んだ人間が死ねば残りは自動的に苦しんで死ぬという契約の履行からは逃れられない。

 世界をおまえに蹂躙されるくらいなら、今すぐ死んだって構わない! と余命いくばくもなかった少年が勝手に叫んだ時は全員で止めた。けどこんなクレイジーな魔法の契約のある世界は滅んだ方がいい、と内心でこぼした主人公の心情は、涙なしには語れない。

 

 とにかくそのようなわけで、大規模なヴィランの犯行という事もあり、雄英からリューキュウ事務所にやってきた二人のヒーローの卵は紙面を飾った。

 病院のベッドでスマホ片手にニュース記事を見ると、お手柄だとか期待の新人だとかの言葉が並んでおり、少し気恥ずかしい。

 しかし体育祭の時の写真の切り抜きとは言え、波動と並んで掲載されているのはなんだか嬉しかった。

 

 記事を読んだクラスメートから連絡が来たが、そのどれもが『なんかよくわかんないけどスゴイじゃん』といった内容だった。みんなエッチなヤツだと思われたくないので、ファンザという単語がなんとなく使いにくくフワフワした感じになったからである。

 

 彼の母親は当然プリントアウトして額に飾った。全国の家庭に微っ妙~な空気が流れるのを未然に防いだ、文句なく自慢の息子である。

 公表されていないヴィランの目的を知っている数少ない人間の内の一人なだけに、もしそうなったらと考えるだけで冷や汗が出る。

 

 

 

 ラップトップに表示されている次の速報では、保須市でステインというヴィランが逮捕されたものの、その後護送車ごと消えてしまい運転手や警護含めて行方不明となっているらしい事を伝えていた。

 

 

 

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 退院した最終日にはパトロールに向かった。休んでもいいと言われたが、なんとなく身体を動かしたかった。それに彼はまだ基本中の基本であるパトロールを一度も完遂していない。活動報告書を提出するまでがパトロールなのだ。

 特別な事は何もない。病み上がりという事で夕方前には切り上げるようリューキュウに言われているくらい。

 

 病院ではまったく顔を合わせなかったので波動との再会は久しぶりだったが、特にこれといってギクシャクせず、不自然なほど事件前と変わらない態度だった。

 

 どちらもあの夜の事は口にせず、病院でした暇の潰し方や好きなポテトチップスの味とか、そんな事をときどき話しながら街に目を光らせる。

 初日と変わった事といえば、二人は以前よりも声を掛けられるようになった、主に女性から応援や熱心な感謝の言葉を。

 サインを求められたときはそんなもの考えていないので大変戸惑った。

 

 けどやっぱり嬉しいな、と彼はしみじみ思う。

 マスキュラーと対峙した時の恐怖は今でも思い出して震えるほど色濃く影を落としたが、ああやって喜んでくれる人の為なら苦ではない。

 個性に自信は無いが、これからもヒーローに向かってゆっくりと歩いてゆく意思を確かなものにした。

 

 ただ、いま気がかりなのはあの夜話した男の事である。

 最初は危険な思想に染まった発言をしていたが、最後は踏みとどまろうとしていたばかりか、こちらが子供である事を案じるような口ぶりだった。

 あの豹変とも言える変わり身は意図的なものだったのだろうか? そうではなく、何者かの魔性の示唆によって魅せられた悪夢が覚めたのだとしたら……

 

 その真相を探るのは警察の役目だ。状況が確定次第、当事者という事で教えてくれるはずなのでそれを待つしかなかった。

 

「あっあの、あく、握手してもらっていいですか?」

 

 気付けば猫を救出した場所で、あの日の少女たちと出くわした。というより、わざわざ待ってくれていたようだ。

 上気した顔のファンと握手を交わす彼を見つめる波動の喉が、なまめかしく生唾を嚥下した。

 

 

 

 その後パトロール終了間際にヴィランと対個性戦が発生したが、取るに足らないほどのものだった。

 ただ、小規模と言えど戦闘ともなればやはり気は張り詰める。相手がチンピラの素人でも、個性によっては一時の油断で命取りにもなりうるからだ。全力ではないが手は抜かずに戦う。

 

 ヒトは闘争を経験するとアドレナリン等の神経物質が生成されるし、動悸も速まる。生存本能が刺激されるからもしれない。そんな状態でリューキュウ事務所のあるビルのエレベーターに二人は乗り込んだ。他には誰もいない。

 ゆるやかな浮遊感に身を包む。機械の静かな駆動音だけが静かに鳴っている。沈黙が訪れた。戦闘後の身体はまだ火照っている。

 

 波動が扉を見つめながら、まるで数年前の事を思い出したかのように言った。

「ねえねえ、あの夜言った事って。ほんと?」

 

 彼が大きく固唾を飲む。視線を合わせることなく答えた。

 

「ほんとです」

「なにがほんと?」

「全部です」

「ふうん」

 

 ふわりと二人の身体が宙に浮く。

 足が付かずわたわたする彼の顔のすぐ後ろの壁を、波動が上から両手でついた。彼の目の前では重力から解放された大きな胸が揺れ、乙女の色香がたゆたい、柔らかそうなお腹はゆっくりと呼吸で胎動している。

 いつもの無邪気だった瞳は、個性の起動など気にしてはいない。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「ちょちょっと先輩、漏れてる、漏れてますよ個性が」

 

 本人すら無意識に出力した穏やかな浮力に満ちる狭い箱の中で、波動は何も言わなかった。何も言わずに彼を見つめている。

 それで彼は遅れて察した。言い切ったからには、ほんとかどうかを確認させなければならない。

 

 彼は静かに目を閉じた。動悸がうるさい。ほんの少しの恐怖がある。これほど他人と近い距離で自ら視覚を断つという事は、無抵抗の意思表示だと体験して初めて知りえた。

 

 何をされても対応できない状況に、相手を信頼し進んで身を置く。いきなり攻撃されるかもしれないし、目を開けたらそこに姿は無く逃げられているかもしれない。そんなリスクを抱えてまで進展させたい人間関係というものがあるから目を閉じるのだ。

 

 遠慮がちに熱気に満ちた気配が顔に近づいてくるのが肌で分かった。女性の方が男性より体温が高いと聞いた事があるが、あれは本当なのだろうか。

 

「職場体験お疲れさーぁ。ああ」

 

 エレベーターの扉が開き。同時に破裂音が響いた。

 

 リューキュウや事務員たちの、彼の初の現場が終わった事をねぎらう気持ちがシャボン玉のように音を立てずに割れた。

『波動』の個性が消え、二人はどすりと尻もちをつく。顔を赤くして、とりあえず立ち上がり礼の言葉を捻り出す。

 

 うわっ気まず。事務員たちはクラッカーを後ろ手に隠して床を眺めた。てか誰だよ、一人だけ鳴らしたやつ。

 リューキュウが申し訳なさそうに視線を逸らす。

「なんか、ごめんね。ま、シャワー浴びて、報告書だけ出してくれれば今日はもういいから。あとほんとごめん」

 

 ああいえこちらこそ。二人はそそくさとその場を後にした。

 エレベーターホールに取り残された事務員たちは、リューキュウを見やる。どーすんの、ケーキとか買ってあるけど。あと彼の後学の為に質問会を開こうと、別室ではサイドキックが集まってるし。と視線で訴える。

 

 リューキュウは目頭を強く揉む。招集したサイドキックたちには悪いが、これから起こるかもしれない出来事に比べれば大したことではないだろう。

「今月誕生日の人いる? あ、二人いる? じゃあわたしたちだけで誕生日パーティーしよっか……ひとまず解散かいさーん」

 

 まーあの感じならしょうがないかー、サイドキックも納得してくれるっしょ。

 と、事務員たちはによによしながらその場を後にした。

 

 

 

 そう言えば事務所から二人で退社するのは初めてだ。別に待ってる約束をしているわけでも待ち合わせ場所も決めてなかったが、先に制服に着替えた波動はなんとなくエレベーターホールで壁に背を預けていた。

 

 しばらくすると彼がきて、待ちました? 待ってないよ、といった当たり障りのない会話で一階に向かった。その途中で、どちらかが小さく吹き出した。つられてもう一人も小さく笑った。

 なんだ、あのリューキュウさんたちの間の抜けた顔は。思い出すだけでなんだか可笑しい。

 

 ビルの外に出ると、人肌のようなぬるい風がまとわりついた。陽はちょうど落ちており、連なる街灯が夜を曖昧にしている。せわしなく走る車の赤いテールランプが道に色を付ける。

 二人の足は、自然と宿泊しているビジネスホテルへと向かう。病院生活だったので、利用するのはこれが最初で最後だ。

 

 あすの朝、事務所に挨拶をして電車に乗れば今回の職場体験は終わる。大変な目にあったし怪我もした、死ぬかもしれなかった。それにしては夏休みが終わるような、修学旅行の帰路のような物悲しさがあった。

 

 そうと理解しつつも二人は黙って歩いた。

 駅が近づくにつれ会社帰りの給与人や大学生が増えだす。飲み屋も増え、喧騒が聞こえる。遠くでクラクションが鳴った。

 

 無数の他人という雑踏に飲まれる。

 

 その直前で波動は深く息を吸い、静かに吐き出し、横に並ぶ彼の顔を見て、いつものように天真爛漫な振る舞いで言った。

 

 

 

「ねえねえ、この後ご飯たべに行かない?」

 

 

 

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 甲矢 有弓は波動 ねじれの親友である。

 職場体験も終わったある日、甲矢は波動にある相談を持ち掛けられた。

 最初は断ろうとした。さすがにそれはと気が引ける。が、思い悩んだ末に苦渋の決断を下す。まだ少し怖くもある。

 トイレの鏡で、ちょいちょいとベリーショートの前髪を整えた。

 

 昼休憩の時間が訪れ、甲矢と波動はテイクアウトしたお弁当を片手に雄英敷地内の公園に向かう。ベンチには話に聞く彼が先に座って待っていた。

 おお、この子が。と甲矢は少なくない感動のようなものを覚える。波動が落とした、落とされたんだったか? どっちでもいいが既にそういう関係の男性。しかも年下。

 

 渡したエチケットが役に立ったのは誇らしくもあり、羨ましくもあり……正直なところ波動の話を信じられない訳ではないが、思い違いだった場合を考えると帰りたくなる。

 まだいろいろと混乱してるのも確かだ。

 

 軽い自己紹介を済ませると、「じゃあ行こっか」と波動が歩き出す。

 彼は波動から、今日は親友の紹介がてら別の場所で食べてみようという提案を受けているので、何の疑念も抱かずについて行く。

 

 一人先を行く波動に、甲矢は彼と並んで歩いていた。

 

「へえー甲矢先輩 結田付中学なんですか、たしかおれのクラスの芦戸さんもそこだって聞いた覚えがあります」

「あーあのピンクの──知ってる知ってる。学校の個性練習場でよく会ったわ」

 

 甲矢は適当な会話を続けながら、それとなく彼の雰囲気を探る。身体つきはともかくとして、この結田付中学のエロソムリエを自称するわたしを超えるモンスターの相手をしているようには見えない。

 ねじれからの話が本当であれば、よほど体力に自信がなければついて行けないはずだが……

 

「あのさ!」 と甲矢が会話を遮った後、ちらちらと彼に視線を向け もじもじと小さく言う。

「え? はい」

「あの、一応イヤだったらもうストレートに言ってくれていい。から」

 

 きょどりながら言う彼女に、何のことか釈然としない彼は曖昧に返す。

「はあ」

 

「あ、一応シャワーは浴びてきてるから」

「あの、何のことですか?」

「え? マジ? ちょっとねじれ、なんにも言ってないの!?」

 

「そうだよー」

 と波動は振り向かずに歩みを進める。それがほんの少しだけ不気味だった。

「大丈夫だって、心配しなくても。本当にイヤだったらちゃんと言ってくれるって信じてるし、まあ、ダメならダメでも構わないから」

 

 わたしはおかしい。と波動は理解している。理解して生きてきた。納得とは違うが。

 

 無意識に過去を振り返る。

 ずっと、じぶんでも不思議だった。みんなとは違う事に不安だった、違う事が嫌だった。コンプレックスだった。やがて生まれ持ったどうしようもないサガだと諦めもした。

 

 仮に彼が好意を寄せてくれていたとしても、どうせすぐにダメになると理解していた。今まで何人かにアタックして玉砕したこともあるが、もし付き合ったとしても自分の内を晒す事は出来ない。

 きっと引かれてしまうから。

 

 でも、あの夜彼が言った事が全部ほんとなら。そう言った彼の事を信じるのであれば。

 

 三人は妙な緊張感を伴った沈黙のまま、雄英七不思議の一つ「なぜか都合よく人の来ない体育倉庫」に到着した。

 彼と甲矢は促されるままに先に入ると、波動が後ろ手に扉を閉めた。薄暗い部屋に採光窓から夏至の日差しが差し込み、細かな埃が反射してきらめいた。

 

 薄々彼も察しだす。確かにおれはあの夜言った。いろんな女の子とたくさんエッチな事がしたいと、波動先輩がどんな性癖でも関係ないと。

 そして男が下劣だと言い捨てた波動の業の正体。

 

 甲矢とぎこちない視線が合う。次いで二人は波動を見やった。本気なのか。

 喉が渇く、鼓動が速まった。汗ばんできたのは気温のせいだけではない。用具の乾燥した独特の匂いに、別の香りが混ざり合う。

 

 

 

 じぶんはおかしくない、けどおかしい人間はいる。と、言い切る人間はいる。

 おかしいやつは気持ち悪い。と、言う人間もいる。

 ほんとはみんなちょっとずつどこかおかしい、おかしくない人間なんていない。と、言ってしまう人間もいる。

 おかしいことは、おかしくない。性におかしな悩みを抱くことは、だからおかしくない。と、言える人間もいる。

 

 おれはおかしい。

 世の男性とは清楚で奥ゆかしく、操を守ることが美徳であり好色を嫌うはず。

 そのはずがどうにも異性に興味を持ってしまう。

 

 この正常極まりない貞操観念の世界でただ一人、バックやハリットとも違う隔絶されたおかしさを持つ彼は、あの日少しおかしな彼女と出会った。

 そうして互いのおかしな所が、エロ同人の都合良い展開のようにちょうどすっぽりと収まってゆく。

 

 

 

 この日アダルトコンテンツを扱うサイトは、「寝取られ」という狭いジャンルを嗜む優良顧客を一人、失った。

 

 

 

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 男女比率がおかしい貞操観念逆転アカデミアだけど強く生きよう

 

 第一部 サキュレンタム編 完

 

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 雄英にある教職員棟のベランダで、ミッドナイトは柵に肘を置いて外を眺め、ミルコは背を預けてだらりと昼休憩時間を過ごしていた。晴天の下の雄大な自然が良く映える。

 ぽつりとミッドナイトがこぼす。

 

「指名手配級と交戦したって聞いたときは寿命が縮んだわよ、ホント」

「まー、殺されてても不思議じゃねー相手だしな」

「……やっぱあの子にヒーローは厳しいのかなあ。葉隠みたいな尖った個性でもないし」

「そう? 案外やれそうなもんだと思ったけど」

 

「こないだ難しいって言ってたじゃない」

「戦闘の詳細を聞いたら、少し気が変わった」

「……あんな禁じ手、プロになったら許されないでしょ」

 

 そうじゃねーよ、とミルコは手に持っていた小さな魔法瓶からニンジンスティックを一本取り出し、口にくわえてポリポリやる。言い慣れてない言葉のせいか、どこか気恥ずかしそうに続けた。

 

「あいつは、まあ、なんだ、他人の気持ちに寄り添える」

「それって小森の件や、今回のアダルトコンテンツの事とか? 優しさだけじゃ食ってけないわよ」

「いや、それだけじゃなくて。わたしもよくマスキュラー相手にあれだけの怪我で済んだなって疑問だった。訳を聞いたら、どうも敵の気持ちになって考えてみたらしい」

「ヴィランの? どういう事」

 

「マスキュラーはやたら殴り殺す事に執着していた。過去の犯罪もそうだ。拳を筋肉で覆わないのはグラップルの選択肢を潰すデメリットもあるからなんだろうが、あいつはこう考えた。きっと殴った時の感触を楽しみたいからだって。実際、やたら殴殺にこだわってる口調だったらしいし」

 一拍置いて、ミルコは二本目に手を付ける。

「だから蹴りは無いとヤマを張れた。殴打だけに意識を集中したから凌ぎきれた。なんかの気まぐれで蹴られたら死んでるけど、足にまで注意を払ってたらどっちみちキャパオーバーで死ぬんだからベターな戦略だった。そーいうところが、あいつは強い。弱いけど」

 

「結局どっちよ」

 

 ミッドナイトがひょいとニンジンスティックを一本抜き取り、ぱくりとやった。コンソメで茹でた後にバターで焼かれており、これが結構好きだった。ミルコの大雑把な印象からは、彼女の手作りとは思えない。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()で、実戦ではあんまり役に立たないのは事実だ。けどそれが可能とする常軌を逸脱した狂気的な実訓練時間、それによる体術の練度と身体作りはほぼ完成形と言っていい。悪く言や頭打ちだがな……それに先天的か知らんが格闘センスもズバ抜けてる。見たろ? エレベーター内の戦闘」

「あー、あれはまあ確かに凄かったけど」

 

 エレベーターの監視カメラは、『縮小』のヴィランが個性を解除し、彼の背後から不意打ちでアイテムを使ったシーンを記録していた。

 衣擦れの音に対応して振り向きざまの肘で顎を抜いて処理しきったのは、素人相手とは言え見事ととしか評しようがない一撃だった。

 

「もし今この世から全ての個性が消えたら、素手であいつに勝てるヤツは百人もいねーんじゃねーの」

「んーでもなー。個性と体術のシナジーが基本だし。ザコ専って感じ? 言っちゃ悪いけど」

「それを理解してるから対多数想定のシラットなんだろーけどな、弱虫は群れるし。ま、中級程度の発動・変形型相手までなら勝機はあるんじゃね? 人間のタフネスを超えがちな異形型は基本無理」

「倒せるスケールが普通の人間までってのは現場じゃキツイわねぇ」

 

「けど例えば、相手に直接触れる事で起動するようなトリガーのある個性やアイテム頼りのヴィランは、絶対にあいつに勝てない。条件を満たして起動するまでの間は無個性の人間と変わらないからな。総評としては『体力』を活かした見回りや張り込み、または特定の個性持ちへのカウンターとして局所的に運用するサイドキックって感じ?」

 

「それ、体育祭の時の評価と変わらないじゃん。個性が省エネなのは保険料の関係で結構需要あるけど」

「中の上くらいには上方修正してる。だいたいよー、物理・自然法則を貫徹する訳わからねえ強個性とか指名手配級とバッティングしたら死ぬかもしれねーのは誰にでも言える事だろ」

「まーねー、そうだけどー……てかあんたがそんなに真面目に生徒のこと話してるの初めて見たわー。案外向いてんじゃない? 教師」

「ハッ、冗談だろ。面白そーだからたまに顔出してるだけ、今だけな。ガキの面倒なんて性に合わねーよ。飽きたら……すぐ、辞め……やめ」

 

 鼻で笑ったあと言いさして、ミルコの大きな耳がぴくぴくと動き、顔を赤らめた。軽く地団駄を踏む。

 きょとんとしてミッドナイト。

 

「どしたの? 抜かないでよ、床」

「あ、あのバカ。弱ぇクセにこういう度胸だけはいっちょ前に……」

「うん?」

「あーまー、これはさすがにちょっと注意してくるわ」

 とミルコは柵に足を掛け、ひとっ跳びしていった。

 

 なんだ急に? 

 残されたミッドナイトは小首をかしげて、小さくなってゆく背を眺めながらニンジンスティックを平らげる。

 その後、何を注意してきたのか教えてくれないのでむくれた。




次回 明日

あとは第七話あとがきに書いたような感じになる、かもです。

アンケートに答えてもらえると凄く! 参考になるので!
気分を害される方がいるかもしれませんが、気になるのでよろしくお願いします。




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第十一話 サキュレンタム

 期末試験も見えてきたある日の休日、1-Aの担任であるミッドナイトこと香山は彼を乗せた車を走らせていた。週末の都内という事もあって人通りは多い。

 香山の服装は白いブラウスにパンツスーツで、シンプルな黒縁メガネをしていた。彼はと言うと、いつもの雄英の制服だ。すでに衣替えしており、半そでシャツのものになっている。

 

 車内はどこかヒリついた空気が漂っている。

 教師と生徒の禁断のヤツ。なハズもなく、あの夜、ファンザ襲撃犯として逮捕された内の一人、あの男が彼に面会を求めていたのだ。

 すでに香山から事件の進展を聞かされていた彼は静穏に、しかし怒りを薪に心を溶銑のごとく滾らせている。

 

 やがて車は拘置所に着いた。巨大な集合住宅地のような施設にも見える。手続きを済ませて面会室に入ると、ガラス越しに一人の男が申し訳なさそうに俯いていた。

 あらためて明るい場所で見ると、まだ若い。実際彼とそう離れていない年齢だ。

 彼が対面に座り、その少し後ろで付き添いの香山が壁に寄りかかり腕を組む。

 

 ほんの少し前まで敵同士だった人間とこうして会うのは、なんだか奇妙な感覚だった。長くもなく短くもない沈黙の後、最初に口を開いたのは男だった。目を伏せたまま、ぽつりと言う。

 

「すまなかった」

 その声は震えていた。

「ひどい事に手を貸してしまった。あの少女にも、謝らなければならない。ぼくは──」

 

「大丈夫です」

 と彼は遮って力強く答える。

「事情は聞きました。あなたは、あなたたちに罪はありません。おれも、きっと波動先輩も怒ってませんし、憎んでません」

 

 警察の調べでは、男を含め全員がなんらかの個性によって重度の精神疾患かつ洗脳状態にあった事が判明した。実態としてはカルト的な妄信に近い。

 そして実行犯の大半は人間ではなかった。

 

 ファンザとDLsaito襲撃が失敗に終わった直後、駅を占拠していた多くのヴィランは操り人形の糸が切れたように倒れた。調べてみると材質不明の『人形』である事が明らかとなる。もちろん、ファンザにいた小奇麗な中年男性、主犯格と思われた花火田もその例に漏れない。

 

 オフ会の時点からすでに保身の為、身代わりとして『人形』を使っていたと思われる。とうぜん戸籍も人相もこの世には存在しない。

 だが花火田の人形だけ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()りと、洗脳状態にするには声が媒介として必要な個性との推察がされている。

 

 マスキュリストたちが集まっていた花火田の自宅マンションは、もちろんもぬけの殻。

 違法アイテムは自壊しており、手掛かりとするには難しい。

 SNSのアカウントも外国を経由して巧妙に偽装されていた。

 

 わかっている事は、少なくとも『人形』と『洗脳』に近い個性を使う二人のヴィラン。それと違法アイテムを調達出来るルートを持っており、実戦的な計画立案能力と資金力もある組織が背後にいた事だけ。

 

 彼は話を変える。

「その花火田ってどんなヤツでした?」

 

 どうって、と男は口をまごつかせる。数えきれないほど繰り返した取り調べを嫌でも思い出して影が差す。

 

「知的で、ミステリアスで、人望のある感じ……だった。他人の長所を褒めるのが上手いっていうのかな……けどなんでこんな事をきみが」

「……おれ、あの後ちょっと考えてみたんです。特定の性癖を持つ人間を社会から排斥する事について」

「……」

 

「痴女が電車とかでお尻触るとか酔わせて薬盛って強漢とか、現実でそういうニュース見るとやるせないし、ムカつきます。そういった犯罪者が、強漢もののAVを見た影響で事に及んだかもしれないし、アダルトコンテンツが存在しなければそういった性的な嫌がらせや、性犯罪は発生しなかった()()しれません。あくまで可能性の話ですけど」

 

 男は責められている気がして、何も言えなかった。

 だが彼は糾弾するつもりはないし、AVが存在しなかった時代にも性犯罪はあったとかで擁護する訳でもない。

 また、男がファンザで主張した時はすでに洗脳状態にあったので、本心ではない。ただ、心のどこかでほんの少しはそう考えてみた事がないわけでもない。

 

「だから性犯罪を未然に防げるのなら、アダルトコンテンツは無くなってもしょうがないって考える人が一定数いるのも、理解は出来ます。あなたもイヤな思いをした事があるんでしょうし。けどアダルトコンテンツの是非についてはすみません、因果関係を含めておれには判断できない……けど、信じてほしいんです──」

 

 ぱたり、と雫が落ちる音がした。

 それで男は初めて顔を上げる。柔らかい口調で語る彼を直視し、自然と涙が溢れてくるのを止められなかった。

 ついこの間、殺してしまってもおかしくない子供と会うのは恐ろしかった。きっと罵声を浴びせられ、説教されるものだと思っていた。それでも謝らなければと勇気を奮い、その罰を受け入れる覚悟でいた。

 

 それが──と、男は鼻をすすり涙を袖で拭う。彼がじぶんの為に怒り、悲しみを顔に刻んでいる事がとてもではないが信じられなかった。恨まれ、非難されるとばかり。

 

 彼は滲む視界をハンカチで拭い、続けて言った。

 

「──信じてほしい。おかしい性癖してようとも、どれだけエッチでも、どんなアダルトコンテンツを見てようが、誰かを助けたいって気持ちや普通の生活を送る事とは関係ない。そういう人間も確かにいるって事を。だから、教えてください、些細な事でもいい、花火田、そいつらに繋がる何かを」

 

 彼も本当のマスキュリストも男も、心にある本質は同じで、現実の犯罪が無くなればいいと願っている。それは正しく、確かなものだ。

 

 花火田は──花火田を抱える組織はその善なる気持ちを悪用した。

 性的な事件が無くなればいいという純粋な男心を弄び、その願いをコントロールし、憎しみに増長させ、一般人を巻き添えにして、現代ヒーロー社会の土台に亀裂を走らせようと画策し、平気で切り捨て、じぶんたちだけは手を汚さずのうのうと逃げ延びた邪悪で忌むべき卑怯者ども。

 

 すなわち、ヴィラン。

 

「きみはまさか……本気か、まだ学生なんだぞ」

「おれに出来る事なんて何もないかもしれないけど、まだ仮免も持ってないし、何年かかるかわからないけど、そいつらを捕まえたいって気持ちは、あなたたちを助けたいって気持ちは、あいつらの悪意に負けたりしません!」

 

 男は堪えきれずに嗚咽を漏らした。

 差し伸べられた手が嬉しくもあり、無力なじぶんが悲しくもあった。

 あの妙な高揚感が脳髄まで浸み込み、花火田の思想の全てが高尚ですばらしく知的で、行いの全てが世を是正するための正義に他ならないという淀んだ思考。

 幾度思い返せどそこにじぶんが存在しないのだ。

 

「……もう一度、何度でも思い返した方がいいわよ。洗脳状態にあったから記憶が曖昧なのはしょうがないけど」

 それまで黙っていた香山が重たく言った。

 

「弁護士から聞いてると思うけど、重度の精神疾患と洗脳されてたってのは、警察が抱える記憶や心に関する個性使いによって明かされた主観的な情報でしかないから、現行法ではまだ一昔前の指紋程度の扱いで、法的信用度は低い。刑事は免れて勾留も終わるでしょうけど、駅やファンザ等の民事では長い裁判になる可能性がある。シャレにならないわよ、電車止めたのは」

 

 そしてそれを救うには花火田を捕らえ、洗脳に近い謎の個性を吐かせるしかない。

 彼はやってのけようと言ったのだ。男の為に、信じてもらう為に。利用され砕かれた繊細な男心の為に、踏みにじられた本来のマスキュリストの本質の為に、その大言壮語を。

 

「あり、がとう。ありがとう」

 

 彼は落ち着かせるように少し笑って言う。

「礼を言うのは、あいつらを捕まえてからでいいですよ」

 

 それでも男は泣きながら、感謝の言葉を彼に伝えた。

 

 

 

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 帰路につく途中、他の車に混ざって赤信号で停めると、香山がらしくない棘のある口調で言った。目の前では、三車線の長い横断歩道を給与人や主婦、学生といったさまざまな人間が安全に往来している。

 

「一応聞いとくけど、あの男たちを操ってた組織はその辺のチンピラとはレベルが違うってのは理解してるわよね」

「はい」

「で、そいつらを捕まえるとは大きく出たわね。きみ、運良く指名手配級を倒したからって調子に乗ってない? じぶんが弱いって自覚ある? はっきり言って過去の雄英生を含めてかなり下の方だけど」

「おれが弱いのはおれが一番よく知ってます」

 

 まだ目を赤くしたまま即答する彼の意志に、香山は内心で溜息をつく。

 沈黙の後に信号が青に切り替わる。アクセルを踏んだ。車は加速し、車窓から梅雨明けの温かい南風が入り込む。

 

「なら、まあ、良し」

 気持ちを入れ替え、香山はいつものようなカラッとした調子で言った。

「もうすぐお昼だし、だいぶ遅れたけど退院祝いにご馳走するからなにか食べる? この辺で美味しいハンバーガーがテイクアウトできるお店あるんだけど」

 

「え、いいんですか」

 なんとなく教師が特定の生徒に良くしているようで気が引ける。

 

「いーのいーの。入院のお見舞いに果物持っていくようなもんだから」

「じゃあお言葉に甘えて」

 

 はにかんだように小さく笑う彼を見て、香山はふと危ぶんだ。が、すぐに胸を撫でおろす。これほど女気溢れる彼が弱くて、ある意味良かったかもしれない。

 もし彼がビルボード級の強さを持っていれば、「じぶんより強くて女気のあるヤツ」というワープ系の個性使いよりもレアなストライクゾーンを持つ勝ち気なバニーがどうするか。考えただけでキモが冷える。

 いや、もう個性に引っ張られるほど未熟なわけではないだろうが。

 

「あの、ちょっと図書館に寄ってもらってもいいですか?」

「うん? ああ、あの男が言っていた()()()、か」

 

 

 

 面会の終わり際、頭を抱え、脂汗を垂らしながら記憶を探っていた男が呻くように絞り出した。

 

()()()、のようなものを覚えた。花火田の自宅で……気がする』

 

 彼は、必死で脳の空白を埋めようとする男の言葉を静かに待った。

 

『あいつの書斎で何度か話した事があった。本棚には、すごく、洋書や専門書や学術書が並んでいて、その時はあいつがインテリに見えた。ぼくが読んでいるような小説や漫画なんかは一冊も無くって、全部が頭のよさそうな本で……なのに、()()()()()()()()()() って』

 

 乾いた喉に生唾を飲み込み、懸命に続けた。

 

『大学の憲法の授業で少し出てきた本だった、ああ、それは覚えている、精神論と感情論で綴られた自己陶酔の羅列、利己的で排他的な理想を掲げてて、すぐ読むのをやめた。くだらなすぎて覚えている。あとなんか字がデカかった。なぜあんなくだらない物があいつのデスクの上にあったのか、高尚そうな本の中で一冊だけ浮いているそれが不思議だった。気分を害されたら困るのでその時は何も言わなかったけど、それが()()()だった』

 

 

 

 男が苦しそうに口にした情報は、まだ警察にも出ていないものだった。

 彼は図書館の受付で、地下の隅にある本棚から抜き出された一冊の本を手にする。

 

 赤と黒を基調とした装丁で、表紙には黒く滴ったアイマスクのような染みが描かれている。その上にはタイトルが記載されていた。

 

 

 

『異能解放戦線』

 

 

 

 そう記載されているタイトルの下には、黒く滴ったアイマスクのような染みが描かれている。赤と黒を基調とした装丁の一冊。

 

 それが光沢のある漆塗りの黒檀で出来たテーブルの上にそっと置かれた。

 

 黒髪をオールバックにし、薄っすらと色の入った小粋な眼鏡をかけた感じの良い中年男性は、数え切れぬほどの読了をまた一つ積んだ。心地よく高ぶる読後感に心身を任せる。

 

 高層マンションの最上階、黒で統一されたその一室で席を囲んでいるのは四人いた。

 中年男性に妙齢の女性が水を差す。緩やかなウェーブを描く藤色の髪を、指でもてあそぶ。出版業界では名の通った集瑛社に努める専務、気月 置歳がアンニュイに言った。

 

「けど意外ね。あそこまで計画を詰めたのに失敗するなんて」

 

 中年男性が口を開く前に、全身黒ずくめの長髪の男性がラップトップを叩きながら訂正を加える。

 

「わたしは失敗していない。わたしは花火田の要請どおり異能で『人形』を操作していた。失敗の原因があるとすれば花火田の計画そのものにある」

「そう何度も嫌味ったらしく()()()などともう存在しない名で呼ばないでほしいな。まあ、成功しなかったのは認めるがね」

「心求党の党首としての()()に慣れ過ぎたんじゃないのか」

「それはないよ、スケプティック。それはない。表の顔がわれわれの目指す未来を邪魔する事など。それに、こういった計画は一つだけじゃない。くじけないさ」

 

 最後の一人、寒冷地仕様のロングダウンジャケットを羽織り、フードで頭を覆った人間は、席で黙ってテーブルを眺めている。

 

 花火田は、いや花畑は含み笑いで続けて言った。

「まあ、政治家としては人助けをした事になるのかな。ツイッターデモで何かを為した気になっているヤツらの背中を、『扇動』の異能で少し押してやったんだ。今頃は拘置所で感謝してるだろうさ」

 

 鼻で笑うと、新たに男が入室してきた。上質なストライプのスーツを着こなし、髪を後ろになでつけ、広い額の目立つ男だった。

「はじめよう」

 と良く通る声で言った。上座に座り、さっそく現在の進捗を訪ね、計画を進める。

 

 個性を異能と呼ぶ彼らの目指す未来。異能の無制限自由行使と、異能の強さが社会的地位に直結する異能第一主義を実現するための計画を。

 

 その為にはまず、現代ヒーロー社会の土台に亀裂を走らせる事が肝要だった。

 ファンザとDLsaito襲撃はその内の一つでしかない。

 SNSではいまでも情報部隊が社会に対する不安の種を騒ぎ立てている。陰謀論、フェイクニュース、切り抜き記事、似非科学、民間療法、対立煽り。

 もちろん同士の勧誘やプロヒーローへのアンチ行為やバッシングも怠らない。

 

 取るに足らないとバカにするのは簡単だが、今回の作戦も情報部隊が運用する花火田のアカウントが一定以上の影響力を持ったから開始されたのだ。

 花畑の声を媒介とし、心許す者を対象とした『扇動』でマインドコントロールし、スケプティックの『人形』で数を揃えて実行させる。

 

 彼らにとってマスキュリズムなどどうでもよい。ただ、じぶんたちの目的の為、社会に混乱をきたすテロの為に使い捨てたのだ。純真な男心を。

 そうやって、例え影響がどれほど小さく蟻の穴程度だったとしても、強固な堤防に穿ち続ける。その瑕がいつの日か行われる決起に、必ず効力を発揮する事を知っているからだ。

 

 会議が一段落付くと、軽いティーブレイクに入った。

 ヴィラン連合などという不穏分子の発生は予想外で、その監視と対策にリソースを割かなければならないのが面倒なところだった。

 とはいえ、ヒーロー社会の破壊とも言える大仕事を成し遂げるための力は、既に蓄えられている。

 上座に座っていた男が、そう言えば、と花畑に世間話を振った。

 

「今回の件は残念だったな、いや責めているわけではないが」

「ええ、わたしとしても予想外でした。いくら指名手配級とはいえ所詮はチンピラ。われわれのように、異能を抑圧され苦しむ人間を解放するという、誰かの為の闘いを理解しない狂犬ですから」

「まあ、作戦はいくらでもある。ただ少し気に食わないな、これは」

 

 テーブルの中央にタブレットを押しやられる。

 ネットニュースの記事が表示されていた。曰く、お手柄だとか期待の新人だとかの言葉が並んでいる。

 

「この少年の異能は、体育祭を見る限りでは大したことが無い。異能第一主義を掲げるわれわれとしては、こんな異能弱者がもてはやされる事は甚だ不愉快だ。まあ計画の脇の路傍の石だが」

 

 上座に座っていた男はおもむろに立ち上がり、窓の外を眺めて言った。

 

「そうは思わないかね」

 

 四人は答える。サポート企業『デトネラット社』代表取締役社長にして、じぶんたちを、異能解放軍を束ねる首領に。

 

「はい。リ・デストロ」

 

 

 

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 男女比率がおかしい貞操観念逆転アカデミアだけど強く生きよう 第二部に続く

 

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ここで絞めというか、一区切りという事でよろしくお願いします。
貞操観念逆転ものならではのオチがついたんじゃないかなと、思います。

ここすき、どーいったところがウケてるのかたいへん参考になり、助かりました。
過去一の量でびっくりしました。

ではまた。


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第二部 供儀聖典編
第十二話 リジェクト品


【注意書き】
いまさらですが、原作の登場人物のイメージを損なうような印象を受けるかもしれません。

何事も無く元気なら毎日更新です、対戦よろしくお願いします。


 わたしはおかしい。と、少女は理解している。理解して生きてきた。納得とは違うが。だから。

 

 だから、飛んでやろうと思った。

 

 

 

 パステルカラーの青い空の中で、一人の少女が色の無い瞳で眼下を見下ろす。肩までかかる稲穂色の髪を、春風が柔らかく流した。

 心地よい陽ざしと刹那的な誘惑に、自販機で買った紙パックのジュースを落としそうになる。

 

 遠い視線の先ではグラウンドに桜の花が舞い落ちている。豆粒のような同級生が異性とキャラキャラと話しているようだ。他にもスーツを着た両親と話す学生もいれば、さっさと帰っている者もいる。

 

 皆一様に筒を持っていた。義務教育の終わりを告げる、共通規格である証のようなそれを。じぶんも手にしてこそいるが、それを保証するものでは無いのだと知っている。

 おそらく見知った一人が目に留まった。友達のカテゴリーにいる、共通の話題に共通規格のイイネを共有する、JISマークのような産業的笑みを貼り付けないといけない相手。

 

 共通を苦にしない事を羨ましいとは思わない。ただ、彼女らを見ているとじぶんの存在が許されないようで陰鬱になる。

 

 だから、飛んでやろうと思った、学校で最も高い場所にいるこの少女は。

 

 いま、クラスの男子学生と楽しそうにお喋りして、親し気に肩を叩いている友達の、友達たちの目の前に落ちたらどんな顔をするだろうか。

 

 重力に叩きつけられ、飛び出た眼球、てらてらと赤く光る血肉から覗き出た骨、一個の生命が終わる音。それらが友達たちの今後の人生に色濃く影を落とし、苦しみ、苛まれれば……少しは普通とは違う人生を送るかもしれない。そうすればわたしの苦しみも理解させてやれるかも。

 

 そう考えると、もうほんの少し重心を前に傾けてやろうという気にもなる。

 少女を包む空と、散った桜の色の蠱惑に満ちた旨趣であった。甘く酸い毒の果実を頬張るような。

 

 あっ、と心が急く。トモダチたちが男子学生に別れ際の手を振っていた。飛ぶなら──いま。

 

「と、渡我さん?」

 

 ハッとして振り返ると、フェンス越しに同じクラスの男子学生、斎藤がいた。いつものほがらかな表情を硬くして少女を見やっている。

 

「え、なに、してるの」

「ああ、いや別に、何でもないです」

 

 渡我と呼ばれた少女はひょいとフェンスを乗り越える。後ろ髪を引かれる思いが、まだ少しあった。欲しかったものに手が届きそうなところで、急にはしごを外されたような気分になる。

 

 そういえば呼びだしたのはじぶんだったと思い出す。普通らしく、卒業式の日に告白というものをやってみようと考えていたのだが、忘れてしまうほどに甘美に感じたのだ。飛んでやろうという思索は。

 

 ただ、どちらも未遂に終わりそうだ。

 SNSではヤリたいだけの人間が「どしたん、話聞こか?」とメンヘラ男に近づくが、その逆の需要がどこにある。希死念慮に囚われた重そうな女に好意を告白されたところで、どうやったらストーカーに発展させずに断れるか悩むだけだ。

 

 斎藤が心配そうな顔で渡我に言った。

「その、大丈夫?」

「あー平気ですよ。ただちょっと天気が良かったんで、フェンス越しじゃない景色を見たかっただけです」

「そう、ならいいけど」

「じゃあもう行きましょうか」

 

「あの……用事って……」

「んー、まあちょっと天気が良かったので、斎藤くんもどうかなーと。屋上、入った事ないでしょう?」

「そりゃ普段は鍵かかっているから。卒業式だから開いてたのかな、そんなわけないか」

「かもですね」

 

 すっかり告白する気も失せた渡我は、さっさと塔屋のドアを開けて適当に話を切り上げて階段を降りる。くすねた屋上の鍵は、適当に職員室の前にでも置いておけばいいだろう。

 校舎にはひとけが無く、二人は陽の射す廊下を歩く。おもむろに斎藤が言った。

 

「そういえば、みんなでカラオケ行こうって話なんだけど」

「あー、いいですね。行きます」

 

 ウザったい。

 喉元まで出かかった気持ちを飲み下し、渡我は共通規格を口にした。こうしていつまでも普通でいなければならないのだろう。高校生になっても、社会人になっても。

 

 そもそもなんで斎藤に好きだと伝えたかったんだっけ。と、過去を振り返る。

 たしか、たまたま学校で喧嘩しているのを遠くから見かけたのが切っ掛けだった、と思う。

 誰とどういった理由でかは知らないし興味も無かったが、数人相手にボコボコにされても立ち向かおうとした所に胸を打たれた気がする。

 

 肉体が傷ついてゆく過程は、幾層にも覆われた膜を暴き、生を剝き出しにするような淫靡さがあった。

 滅びの美学とは少し違うが、死に向かう姿は美しく思えた。

 あとはまあ、優しいらしいので付き合えばじぶんのおかしなところを受け入れてくれそうだったから、か。

 

 渡我はなんとなしに卒業証書の入った筒を弄ぶ。三年間よく普通でいれましたね、と社会から貼られたラベル。食品偽装もいいとこだ。

 

「斎藤くんって、二年の時に喧嘩してましたよね? あれ、なんでですか」

「え? ああ、あれはなんというか……」

 

 気恥ずかしそうに首を撫でながら言った。

 

「『花』の個性の子の汗が蜜蜂を集めちゃってて、まあ周りの人とちょっと揉めてたから。そんな事で? って感じだけど、エスカレートしていって」

「その子はお友達ですか?」

「いや、全然知らない。ぼくはしょうがないと思うんだけどね、蜜蜂が集まっちゃうことは。汗を止めるなんて無理だし、制汗剤にも限界があるから」

「文句を言う人も心が狭いですね」

「うーん、刺されちゃうんじゃないかって不安だったんだと思う。蜜蜂はよほど刺激しないと攻撃しないって納得してもらえなかったのは残念だけど」

 

 ふうん、と渡我は改めて興味がわいた。

『花』の個性持ちを責めた人間まで擁護するとは思わなかった。

 それに蜜蜂が集まってしまうという普通ではない短所を認め、それは仕方の無い事と言い切ってしまう寛容さも持ち合わせている。

 

 もしかしたら。そんな希望が胸に満ちていくのを覚えた。

 この人なら、おかしいじぶんを理解し受け入れてくれるかもしれない。ひた隠しにしてきた、親にすらおぞましいと言われた願望。

 それを唯一認めてくれる人間が、いま隣にいるのだとしたら。

 渡我は不意に立ち止まって言った。

 

「斎藤くん、好きです」

「へ」

 

 脈絡も無く伝えられた行為に、間の抜けた声が出した。振り返って、一歩後ろの渡我を見やる。

 

「ほんとは屋上で告白する予定だったのですが、なんかタイミングが合わなくてゴメンナサイ」

「それは、いいけど。あっ! いいっていうのは、その渡我さんに好きって言われて嬉しいっていうか、その、オッケー的な意味だけど」

 

 あたふたする斎藤になんだか可愛らしさを覚えながら、渡我は続けて言った。

 

「ただ、わたしはおかしなところがあってですね」

「えっ、と。何? ちょっと待ってね、落ち着くから、告られたの初めてで、ちょっと……よし、いいよ」

 

 斎藤は優しい男である。それは間違いない。渡我のおかしなところを聞いても嫌悪感を覚えたりはしないし、付き合うのを辞めるような男ではない。

 これから行われる問答に対し、斎藤に一切の悪意は無く、それは正しさと優しさの一つと言える事は間違いない。

 

「わたし、素敵だなって思った人の血を、どうしても飲んでみたくなるんです」

「うん。わかった、じゃあ……」

 

 斎藤が柔らかい表情で口を開く。渡我の胸が期待と高揚感で一杯になる。顔が上気しているのがじぶんでもわかった。

 

「治そう。ぼくに何が出来る事ならなんでもするし、色々調べて考えてみる。一緒に頑張ろう!」

 

 心臓の血がフッと蒸発してしまったような喪失感。運命に裏切られ、どうでもよくなるほど底の底まで落とされた気がして、ぼんやりと窓の外を見やる。

 吐き気がしそうな晴天だった。

 

 明らかに落胆の表情を作る渡我に、斎藤は焦った。

 

「えっなに、ごめん渡我さんぼくなんか変な」

「あーーーーーーーーーーーーーーーーーはいはいはい、はいわかりましたー」

「えっと、ごめんね」

「って感じです、今」

「なにか変な事言っちゃったみたいで」

 

「謝らなくていいですよ、それはむしろこっちのセリフですから」

「それ、どういう」

「ごめんね斎藤くん。普通じゃなくて」

 

 抑圧されてきた怒りよりも、どうでもよさに溺れていく感覚がした。深く暗い虚脱感。

 気味が悪い、汚い、異常だ、病院に連れていく、絶対にそれを人様に言うな。幼い頃から親に責められ続けた封がほつれゆく。

 受け入れられたら使うつもりだった、ポケットの中の大型カッターの刃を出す。結局同じことになった。

 

 治すってなんですか? 

 だったら断ってくれた方がマシです。それでわたしが普通になるって事は、ついさっき告白したおかしいわたしを殺す事と同じなんですよ。おかしいわたしがいなくなるんだから。

 

 リノリウムの床に鮮血が滴る。わけもわからず倒れ込み、もがき苦しむ斎藤に寄り添い、渡我は紙パックのジュースから抜いたストローを傷口に当てた。

 白いストローにサッと赤銅色が走る。

 

「なんっ、で、渡我さ……」

 

 息を乱し、涙を浮かべて問う斎藤に、満ち足りた笑みを浮かべて答える。

 

「好きな人の血を吸えば、満足して治ると思ったからですよ。言いましたよね斎藤くん、何でもするって。まあ、わたしはおかしいままみたいですけど」

 

 廊下の端から悲鳴が聞こえた。

 同級生が怯えながら落としたスマホを手に取り、震える指で警察に通報している。

 

 こうなる事は、渡我自身うすうす感じていた。いつか抑えきれない衝動による致命的なほつれで身を亡ぼす。それが今日だっただけの話。遅いか速いか、事に及ぶか自殺するかの違いしかない。

 それならもう、これでいい。自ら命を絶って未然に防ぐくらいなら、欲を満たしてからいつか死ねばいい。

 どうせ誰も……

 

 着の身着のままで、渡我は街に消えた。裏路地を行き、適当に雨風を凌げる場所で夜を明かす。

 スマホを見ると、かなりのニュースになっているようだった。少女が少年に暴行を加えたとなれば当然の話。SNSでは凄まじいバッシングが溢れかえってる。

 

 出頭する気などさらさらなかった。行けるところまで行って、ダメになればいい。

 そうして少女はさまよった。

 

 もし渡我が男であれば、ある程度の金策の目途は立つ。適当にオバサンを誘って、あとはホテルで財布と共に逃げればいい。

 そうもいかないので、チンピラ相手にヴィジランテまがいの事をして稼いだ。

 本来であれば相手を傷つける行為には本能的なブレーキが入るが、人間、いちど合切に諦めがつくとタガが外れる。

 悪事に手を染めきれない格好ばかりの小悪党相手に、だから少女は意外にも立ち回れた。

 

 そうして無頼となって、ヒーローや警察から身をかわし続けた。

()()()()()()()()向かっていくうちに、とうとう渡我は下手を打つ。本物のヴィラン相手に返り討ちにあい、傷つき、追い込まれた。

 もつれた足でゴミ箱をひっくり返し、生ごみにまみれて倒れるがもう身体を動かす事すらままならない。

 人の気配がした。が、それは追ってきたヴィランではなかった。

 

 視線だけを上に向ける。雑居ビルに挟まれた晴天の光を背にした人物が、慈愛の神に思えた。

 

「……かわいそうに、大丈夫? さっきのヴィランは始末させておいたから安心していい」

 

 そうして差し伸べられた安寧の言葉と手は、渡我の心に色濃く影を落としていった。

 

 

 

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 朝の1-Aの教室では取蔭、芦戸、耳郎のいつものメンバーが机の上で雑誌を捲っていた。その周りを他のクラスメートが取り囲んでいる。

 

「おースゴイ、ほんとに載ってる」

 と、取蔭が感心する。

「なあ、どうやってマスキュラー倒したんだ? やっぱ二人で協力してって感じ?」

 

「……最後は波動先輩に尻拭いっていうか、とどめを刺してもらったっていうか」

 

 おぉ~という感嘆の声がクラスに響く。

 広げられた紙面では、ぎこちない笑みの彼がインタビューを受けていた。当の本人はというと、恥ずかしさで机に突っ伏している。やはり受けるべきではなかっただろうかと後悔する。

 

 

 

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 雄英の窓口とミッドナイト経由で集瑛社からこの話が来た時は乗り気ではなかったが、先方の誘い文句に心が動かされたのだ。

『士傑襲撃、保須でのステインや脳無の騒動に揺れる秩序。いまヒーローの卵を取り上げ、後進の育成を世にアピールする事は、近頃の不穏な社会情勢に動揺している市民に対する安堵を与える事にもなる』

 

 そういった一助となるならば、と受諾した。

 ただし雄英の条件として担任の香山の同伴と、ヴィランに対する牽制や挑発的な答えを引き出す質問、その類の記事にはしない事を取り決めとした。

 

 未成年を取材する集瑛側の配慮として、彼と学校とも連絡先を交換し、最終原稿のチェックも入る。

 おしゃれなレンタルスペースで男性記者と受け答えしているうちに、ある質問に行きつく。それはヒーロー科に属する者であれば避けようも無いものだった。

 

『体育祭ではベスト4という好成績でしたね。ところでわれわれ一般市民には、あなたの個性は隠密性に優れている、という事しかわからなかったのですが、詳しく教えていただくことは可能でしょうか?』

 

 記者が下手に出るのにはセンシティブな理由があった。

 個性に関する法整備は、依然として遅れている。個性を役所に届ける事は義務ではあるが、個性を他人に教える、あるいはそれを強要するというのはプライバシーの権利に反するのではないか? という学説があった。

 

 ヴィラン向けだったりエッチな事に使えそうだと妙なレッテルを貼られるという事例も、いまもどこかで発生している。

 最近になってからとはいえ、個性を秘密にする権利も周知されてきた。

 

 地味というのを隠密性に優れていると言い換えるとは、さすがに文字を扱うだけあるなあ、と彼は感心したがそれとこれとは話が別だ。

 

『体力』を卑下しているわけではないがコンプレックスに感じなくもない。派手な『ヘルフレイム』や空を舞う『剛翼』に憧れるのは正直な気持ちだ。

 とはいえ、いつかはバレるだろうから良い機会なのかな? と考える反面、がっかりさせてしまわないかな、という憂いもある。

 

 少し考えこんでいると、隣に座っていた香山が強く言った。

 

『彼に限らず、個性についてのお答えは出来ません』

『ですが雄英のヒーロー科であればなにかと注目されますから、遅かれ早かれの問題でしょうし……』

『雄英であれ士傑であれ、会社内や近所づきあいにしろ、他人の個性をみだりに尋ねる事は好ましくありません』

『彼には既にファンもいますし、これもファンサービスの一環と考えていただければ、と』

 

 記者は彼に懇願するような顔を作るが、香山の剣呑な雰囲気に比べれば一考の余地も無い。

『申し訳ないんですけど……』

 と断ってインタビューは終わった。

 

 スタジオを出てエレベーターに乗り、彼が車の助手席に座るまで、香山は一言も喋らずに苛立ちをあらわにしていた。

 それが記者ではなくじぶんに向けられたものだと、彼は道すがらに遅れて理解する。

 

『あんなの考えるまでも無いでしょ』

 ハンドルを握ったまま、香山は冷たく言った。

『プロは個性がバレてもある程度問題無い。その辺のヴィランに講じられた対策を覆すポテンシャルや搦め手、必殺技、サイドキックや他事務所のフォローがあるから。で、『体力』にそれがあるわけ?』

 

『……いえ』

『秘密は武器になる。『体力』が秘密の個性の内はその恩恵が必ずある。だからそれを暴こうとする理解からは距離を置かなければならない。『体力』が暴かれれば誰も持久戦に付き合わない。ヴィランに逃走か戦闘か思考する隙が発生せず、きっとノータイムできみを殺す方を選ぶ』

 

『すみません、気を付けます』

『訓練でチームを組んだら個性を言わなきゃいけないし、いずれ世間にバレるにしても、きみが取る長期的な戦略はそのいずれを可能な限り伸ばす事でしょ。少なくとも他のヒーローのフォローを求められる環境を構築するまで』

 

 しょんぼりしている彼を自宅に送り届けた後、香山はすぐさまスマホを取りだし、予断を許さぬ真剣な口調で言った。

 

「ミルコ、いま電話しても大丈夫? 今晩空いてる? 話があるんだけど……いつものとこで、うん」

 

 

 

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「言い過ぎたかも~」

 

 個室居酒屋の掘りごたつテーブルに、空になったビールジョッキがゴツリと景気よく置かれた。飲み干した香山は赤い顔に両手をぺたりと当てて嘆く。

 オレンジジュースをくぴりとやったラビットヒーロー、ミルコこと兎山が半目して答える。

 

「いきなり何の事かよくわかんねぇけど、それで挫けるくらいならその方がそいつの為なんじゃねーの?」

「いやでもヒーロー科来て半年経ってない去年まで中学生にキツく当たっちゃったのツラ、罪悪感ヤバ、気分ワル」

「じゃ言わなきゃ良かったのか?」

「だってなんか死にそうだなーって思ったらさー、わかるっしょー? あの感覚。言葉なんか選んでらんなくてさー」

 

 ふむ、とミルコは箸を置き、髪をかき上げて一考した。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「あー、まーな」

 

 ()()()()()はおそらく正しい。というのがプロの所感だ。

 オールマイトの活躍により秩序は安定してきたとはいえ、ある程度プロを続けていればヴィランとの生死を賭けた戦いや、間一髪で救った命の経験は数多くある。

 

 その時に冷たいヤモリが脳裏を這いずるような感覚、一瞬で覚める白昼夢であったり、デジャヴのような既視感、走馬灯、閃光のようにほとばしる直感。人それぞれあるが、その感性に従ったからこそ、こうして生きているという言葉では説明できない実感がある。

 

 もしもあの時、そっと引き出しの一番奥に隠しておくべき彼の個性を白日の下にしていれば、それが()()()()()()()()()()()という香山の嗅覚を、だから兎山は肯定した。

 

 プロの直感はバカにできない。

 適当にサラダを突っつきながら、なんとなく誰の事か合点をいかせる。

 

「けどそうそうないだろ。指名手配級とかち合ったり、ヤバい個性犯罪に巻き込まれるなんて。たぶん前回のがアイツの危機のピークだよ、人生レベルで」

「んー、まあそうかもだけどさー」

 

 そういえば兎山はまだ、彼が花火田にケリを付ける覚悟を胸に秘めている事を知らないのだった。

 香山は言うべきか悩む。ああいった決意を他人が勝手に口にしてよいものかどうか。

 

 それに兎山が知ればきっと今より苛烈な訓練になるだろう。というか、現役が聞けば割と真面目にキレるかもしれない。いや、彼女なら面白がるか? 

 とにかくまあ、今のところ生徒と兎山の関係は良好なので、嫌われ役は一人の方がいいかという結論に至った。

 

「でもやだなー、必要以上に厳しくするの。嫌われたくなーい」

「だからアイツはそーいう性格じゃねーし、そもそもヒーロー科の連中はそういう覚悟だろうよ。……つーかあれで図太い神経してるよ、ほんと」

「だといいけど……あれあんたアルコール飲んだ? ちょっと顔赤くない?」

「おまえが酔っ払ってそう見えるだけなんじゃねぇの?」

 

 不愉快そうに小粋に鼻で笑うと、残ったオレンジジュースを一気に干した。

 

「つーか、どうして飲み屋はオレンジジュースなんだろうな。キャロットジュースくらい置いとけよ」

「なんかドロッとして濃いから油ものと合わないからじゃない?」

 言って香山は店の端末でビールを追加注文した。

 

「いいのかよそんな飲んで。そろそろ雄英で生徒と教師を含めた()()()()あるっつってなかったか?」

「だいじょぶだいじょぶ。てか他人事みたいに言ってるけどあんたも受けんのよ、出勤日じゃないけどちゃんと来てね」

「えーめんどくせぇ」

「事務所持たずにやっていけてるのは凄いけど、やっぱ福利厚生が無いってのは致命的よねー」

 

 その後はくだらない話で夜が更けた。

 香山は味の濃い唐揚げを頬張る。兎山に相談して薄くなっていた彼に対する罪悪感を、ふと再認識した。

 ま、嫌われるのも仕事の内かとまとめてビールで飲み下す。

 

 

 

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「そういえば拳藤さんはご覧になりました?」

 

 授業の合間の休憩時間に、八百万が興奮気味に話しかける。

 この後の話の展開に薄々勘づいて、拳藤は胸がきゅっと締め付けられる思いになる。わかっていながらも無駄な抵抗を試みた。

 

「んー、何を?」

「芦戸さんが持ってきた雑誌ですわ。同級生がこうもはやくに注目を集めるのは、なんだか嬉しいものですね」

 

 たしかに、凄い。それも指名手配級を下したのだ。本人の話を聞くに、ほとんど彼の実力で。

 八百万の高揚は告ろうとした彼の活躍だというのもあるだろうが、拳藤としてもマスキュラーのような凶悪犯が捕まった事実は良い事だと思う。

 

「いや……見てないよ。まあ、なんとなく話には聞いてる」

「あら、よろしいのですか?」

 

 無垢な八百万の顔を直視できず、拳藤は目を伏せて机に視線を泳がせる。それから窓の外を陰鬱げに眺めた。

 

「そうだな、気が向いたら借りるかも」

 

 そんな曖昧な返事で、受け止めたくない事実を遠ざけた。

 




次回 明日


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 期末試験
第十三話 自罰の徒 前編


 夕焼けに染まった森の中で、護送車が白煙を上げている。車輪の跡も無く、まるでそこに降って湧いて出てきたように。

 既に運転手は逃げ、数人の護衛は意識を失っているか怪我による戦意喪失状態だ。

 

 残っているのは掌のマスクをした白髪の青年、死柄木 弔。両手と頭部が黒いモヤで覆われた黒霧。

 死柄木が護送車の扉を開ける。中には人間大の円柱状の物体が横たわっていた。移動式牢と呼ばれる重個性犯罪者用の拘束具である。

 

 それに五指で触れると『崩壊』の個性が起動し、本来であれば正規の開錠か長時間の破壊行為によってしか壊れないはずの移動式牢が、枯れ葉のように崩れ落ちて塵となった。

 

「こいつは、貸しだ。ヒーロー殺し」

 

 中に囚われていたヴィラン、ステインは何も言わずに体の自由を確認する。

 

「無視すんな。士傑のヤツら、案外強かったろ。おれもまあ正直、学校を襲った時には予想外でムカついた」

「なぜおれを助けた」

「貸しだっつったろ。とっととこの場から離れるぞ、すぐにGPS頼りにヒーローどもが駆け付けてくる」

 

 黒霧が『ワープゲート』を起動すると、森にそぐわないドス黒い気体がぞわりと広がる。

 死柄木は多くを語らずに『ワープゲート』に入った。恩着せがましくもなく、説得するでもなく。簡素な貸し借りだけを口にした。

 それがステインに一考の価値を与え、三人はヴィラン連合のアジトであるバーにワープした。

 

「アイツになんか飲み物出せ、黒霧」

 

 どかりとバーカウンターに座った死柄木の注文に答えながら、黒霧は部屋の隅で壁にもたれかかるステインを盗み見る。

 まさか助けるとは思っていなかった。

 

 どうやら、オールマイト殺害を目的とした士傑襲撃の失敗は、いい意味で死柄木に影響を与えていたようだ。

 目標が不在という不運にみまわれたものの、すぐに計画を変更し、生徒を殺しておびき寄せるところまでは良かった。

 

 士傑生は敵意を持って人を個性で傷つける事に慣れておらず、初の実戦的な対個性戦に動揺していた。が、身体能力強化と思われる個性の少年の一打によりその流れは変わる。

 

 広範囲の物質を『柔化』させる個性や『旋風』、類稀なる戦闘センスを持った『爆破』、特に『氷炎』使いの生徒は学生の域を超えており、切り札の脳無も駆け付けたオールマイトに倒された。

 

『ワープゲート』で撤退した死柄木はしばらく「なんだこのクソゲーは!」と荒れていた。が、ひとしきり暴れて気が済むと頭を掻きむしり、机に突っ伏して一つの結論を出す。

 すなわち、敗因である。

 

 黒霧にはこれが意外だった。おそらく、もう少しでという失敗なら反省という行為には至らなかっただろう。プライドを失うほどこっぴどくやられたからこその原因追及。

 

「仲間がザコかった。あんなモブを集めてもしょうがない、やっぱネームドキャラがいる」

 

 その後、ヒーロー殺しと名高いステインを勧誘したが、あまり良い反応ではなかった。

 保栖市で地道な啓もう活動に勤しむステインの嫌がらせに三体の脳無を放つが、納得のいく成果は得られなかった。

 

「……こんなもんか、ステインにしろ、脳無にしろ」

 

 ビルの貯水タンクの上から、ところどころで煙を上げる街を見下ろしてぽつりと死柄木が言った。それは妥当の意味ではなく不足に対する幻滅だ。

 複数の個性を持ち、人間を上回る肉体スペックをもってしてもヒーローに対応されてしまう。何人ものヒーローを殺害してきたヴィランが、士傑の一年生に捕らえられてしまう。

 目の前に立ちはだかる壁は、思いのほか強固で高い。

 

 んー、と頬を掻き、出した答えがステインの救出だった。護送車ごと『ワープゲート』で適当な場所に飛ばし、あとは混乱に乗じて強襲して護衛を片付けるだけだ。

 黒霧が感心したのはその際の命令だった。

 

「一般人は殺すな」

 

 おそらく士傑襲撃前の死柄木なら皆殺しにしていた。が、今は崩そうしている現代ヒーロー社会の堅牢さを知っている。ゴリ押しではクリアできないゲーム。だから仲間と策略が必要な事も。

 

 無償の行為によるヒーロー像を取り戻す目的のステインと、ヒーロー社会の破壊を漠然と目指すヴィラン連合では行動理念が根本的に異なる。なのでステインを引き入れるなら、ヒーローとは無関係の人間を殺すのはマズいという事を理解しているのだ。

 

 また、ヴィジランテの側面も持つステインは当然、ヴィラン連合なる不届きな存在も粛清対象でしかない。だがその厳格さに付け込む貸し借りという首輪は有効だった。

 

 カウンターの上に琥珀色の液体が注がれた一杯のグラスが置かれた。

 

「それで死柄木 弔、次はどうしますか」

「とりあえずはまあ、まだ仲間集め継続だな。『凝血』を使った案も考えてぇし」

「と、いう事です、が。協力していただけるのでしょうか?」

 

 黒霧の視線を受けて、ステインは少し目を瞑り、ドアへと向かいながら言った。

 

「いいだろう。だが借りを返すまでだ」

「飲まねえのかよ、せっかく黒霧が用意したのに」

「慣れ合うつもりはない」

「しばらくヒーロー狩りは控えろよ、貸しっぱなしのまま、またガキに捕まったら目も当てられねえ」

 

 皮肉を背に受けたまま、ステインは夜に消えた。

 

『上出来だよ、弔。素晴らしい』

 

 部屋の隅にあったモニターが起動し、スピーカーから男性の声が流れた。力強く、矛盾するようだが安心できる畏怖を含む声色だった。

 

『指名手配級のヒーロー殺しを駒にするとは思ってみもなかった』

「ガキに負かされるようなヤツだけどな、おれが言うのもなんだが」

『それでいい、それでいいんだ弔。この世で最も強力な力とは理解だ。現状のじぶんの弱さを理解する事は、それを見てみぬふりをするよりも遥かに強い行動だ』

「そりゃどーもなんだけどさぁ、ドクターに二つ頼みたい事がある。まあ出来るかどうか知らねえけど、その名前通りならいけると思うんだが」

 

『言ってごらん。可能な限りは手を貸そう、わたしも、ドクターも、黒霧も、きみの為に。きみの味方だから』

 

 弟子の成長に喜びを隠しきれぬ様子で、先生ことオールフォーワンは言った。

 

 

 

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 入学から三ヶ月ほど経つと、さすがにクラスも打ち解け、変化が現れだした。

 例えば特に食事事情である。

 

 基本的に、いくら仲が良くても1-Aの全員が一堂に会して昼食を取るなどという事はもちろん無い。それはどこの学校のクラスでも同じことだろう。

 

 彼はだいたい、体育祭のオイルマッサージ事件を切っ掛けに芦戸、耳郎、取蔭と、思春期特有の男性に対する距離感の戸惑いが少ない八百万の五人で食べる事が多い。たまに小森が入る。

 ランチラッシュの食堂ではなく、テイクアウトで適当な公園のテーブルで食べている事が多い。

 

 ただし、週に一度は違う。

 彼は三年生の波動ねじれと昼食を取る。

 それは全員知っている。以前誘った時に、そう断られたからだ。

 ただ職場体験明けからは一日ズレて、なぜかミルコの戦闘訓練の無い日になっていた。たぶん特に意味は無いと思われる。

 

 そして変化といえば、どこがどうと具体的に説明できないし恥ずかしいので誰も言い出さないが、職場体験明けから彼がちょっとカッコよくなった気がする。仕草の端々に大人が香ると表現すればいいのか、大人の階段を登った印象を受けると言えばいいのか。

 

 男の子は恋するとカッコよくなる、とはよく聞くセリフである。男性ホルモンがどーのこーのの因果関係があるかは知らない。

 

 なのでその週に一度のその日はクラスに、全員が全員思っているわけではないが、波動先輩となんかあったのかなぁ~という湿気を帯びたぬるい空気が満ちる。

 いやでもほとんど接点ないし、職場体験で一緒に活動したのは最初と最後の日だけらしいし、まあ吊り橋効果があったとしてもそこまで発展しないだろう。

 

 波動先輩は雄英のBIG3だし、憧れるのも頷けるというか。けど一緒に過ごす時間はクラスメートであるこっちの方が長いというアドバンテージがあるから、まあ。

 

 その考えに至ると、まあいいかとなった。

 彼女たちが彼の事をどう思っているのかというと、一緒に楽しく過ごせればそれでいいというレベルだ。だというのに、なぜいちいち波動との仲を勘ぐり、アドバンテージがどうのという話になるのだろうか。

 めんどくさい事この上ない。

 

 しかしそれはしょうがない事だ。

 思春期で無駄に性欲があり余る多感なお年頃の子のほとんどは、本気で付き合いたいから努力してアプローチする訳でもなく、なんとなくクラスのあの子とイイ感じに発展しないかな~無理かな~出来たらいいな~向こうから来てくれないかな~、くらいのぼんやりした実の無い欲望を無限に抱いてしまうものなのだ! 

 

 ここに異論を唱える者はそういない。はずである。

 つまり青臭い青春とはそもそもめんどくさいのだ。

 

 そんなわけで各々がグループを作ってのほほんと食事を楽しんでいる時、彼は汗をたっぷりかいてぐでーっとした甲矢と、それオカズにご飯を食べていた波動に、昨年の期末試験の事を教えてもらっていた。

 

 

 

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「八百万さん、お願いがあるんだけど。職場体験前に創ってもらった服がダメになっちゃって。またお願いしていい?」

 

 この後のヒーロー基礎学はコスチュームに着替える必要があるのだが、ファンザ襲撃事件の際に短パンが溶かされてしまっていた。このままではぴったりとしたインナースパッツで出席しなければならない。

 

 その辺のスポーツ用品店で調達してもよかったが、八百万が創ったものは高機能な高級素材が使用されている。似たような物を買うとなるとかなり値が張るのだ。

 

 八百万になんでもかんでも『創造』してもらうのは気が引けるし、彼女としても節操無しに頼まれては困るだろうが、今回は企業のライセンス停止という事情があり先生からも話が通っている。

 

「構いませんわ!」

 

 パッと顔を輝かせてぷりぷりと得意顔になる八百万を、クラスメートたちは微笑ましく眺めていた。まるで小学生が気になる子に頼られて張り切るようだ。

 

「少々お待ちください」

 

 言って八百万は少し足を開きスカートの中に手を突っ込む。

 

「ちょっと待て!」

 

 その場の全員が思った事を口に出してくれたのは拳藤だった。

 

「はい?」

「どっから出そうとしてんだ」

「どこって、太ももですが……」

 

 言って八百万は不安にそうに視線を巡らす。

 

 またワタクシ何かやっちゃいました? 

 

「いやもっとあるだろ、よりにもよって……」

「小さな物なら掌から『創造』できますが、ある程度表面積の大きい物は比例してわたくしの露出面積が大きい部位からでないと」

 

 言われてみれば長袖のブラウスと膝下までの靴下では、自然と『創造』できる箇所は限られる。脚の側面からだとスカートがめくれて下着が見えるかもしれないが、内ももから出されればさすがに彼もイヤな顔をするだろう。

 

 と思って拳藤はそっと視線で彼の態度を探るが、全然気にしていないふうだったので諦めた。優しすぎるというか、鈍感なのか。

 というか、八百万がいつまでもスカートに手を突っ込んだままなのがなんかアレだ。

 

 こうして彼の手には出来立てホカホカ(比喩ではなく)の短パンが手渡された。

 さすがに顔をうずめるのはマズいよなあ、と欲求に抗いながら、更衣室に向かう。

 

 

 

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 ヒーロー基礎学の救助訓練は密集した工業地帯で、救助者の元へと駆け付けるレースの形態をとっていた。十四人クラスなので五人組が二つと残り四人の計三グループが組まれた。

 

 第一グループは拳藤、蛙吹、角取、塩崎に彼が加わる。全員が正方形の訓練場の外側に等間隔でスタンバイしに行く。

 別れ際に、拳藤はちらと彼に視線をやった。静かに深呼吸し、気を張る。

 やがて開始の号砲が鳴った。各々が個性を起動する。

 

 様子をモニタしていたクラスメートの下馬評としては、角取、蛙吹、塩崎、拳藤、彼の順が妥当なところだった。

 このグループ分けには、機動力の有る者とそうでない者が意図的に混成されているのは誰の目にも明らかだ。

 蛙吹の跳躍力は言わずもがな、自身の角を自在に飛ばせる『角砲』を持つ角取は、その上に乗り空中を移動している。

 

 塩崎の頭髪を構成する『ツル』も触手のように伸び縮みするので、高所に引っ掛けて縮ませれば高低差を無視して移動できるし、蜘蛛のような節足動物を模せば走破能力も高い。

 こういった込み入った場所では、どうしても上を行ける者が有利だ。

 

 拳藤の『大拳』も、地面を強く引っ搔くように扱えば短距離の高速移動が出来る。とはいえ大小さまざまな工場や複雑に絡まるパイプ、巨大なタンクが建ち並ぶここでは活かしにくい。

 彼の個性も障害物を乗り越えたり高速移動能力に関与するものではない。というか普通に頑張って走っているだけにしか見えない。

 

「おー。体力測定の時も思ったけど、やっぱ脚速いね。飛べたりする個性持ちを除けば50メートル走は一位だっけ?」

 両手を頭の後ろで組んだ芦戸がのんびりと言った。取蔭が。そーいえばそーだったな、と後を続ける。

「でも大丈夫かよ、しょっぱなからあんなトップスピード出して」

 

 それは杞憂だった。多少遠回りになっても無理にフェンスや建物を乗り越えようとせず、全速力で走り続けた結果、番狂わせとまでは言わないが三位に収まる。

 

 拳藤が肩で息を切らし、目的地に到着する。じぶん以外の全員がいた。相当な距離を走ったはずの彼が、涼しい顔で角取と話している。

 

「やっぱり飛べるのってこういう時にも活躍するよね。ヒーローって感じがするし、いいなー」

「じゃあちょっと乗ってみマスか?」

「えっいいの!」

「もちろんオッケーです。あっ土足で大丈夫デス」

 

 和気あいあいとした雰囲気の端で、拳藤は最下位という順位に、いや、彼に負けた事に対して拳を握りしめた。

 

 

 

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 いよいよ学期末の演習試験を前にして、クラスは緊張に包まれていた。

 彼が先輩から入手した例年の情報によれば、入試のロボを相手とした実戦らしい。多くの生徒からしてみればそれほど脅威には感じないが、ロボにオプションが付いていたりと、なにかしらの調整が加わっているかもしれない。

 

 実際、ロボはたびたび訓練で使われるが、一年が相手する機体と三年が相手する機体は別物と言っていいほどスペックが違う。免許取得前に使われる機は俗に卒検ロボと呼ばれており、思考デバイスにはミリタリークラスの戦術戦場構築理論がインストール済み。ハードウェアもその運用に耐えうるものになっている。

 

 が、いざ準備してみれば試験内容は教師との戦闘に変わっていた。

 彼と葉隠がイエーイとハイタッチする。攻撃力が低い二人からしてみれば、ロボよりマシ。

 

 変更理由としては、なんでも士傑が昨今のヴィラン活性化を鑑みて、より実戦性を意識する方針を取ったそうだ。

 士傑襲撃事件以降、各校では情報共有が密に行われている。主犯格の『崩壊』や『ワープゲート』使いの個性の内容や人相は、()()()()()()()()()()()

 

 いまのところヴィラン連合の狙いはオールマイトにあるようだが、士傑と足並みを揃えて後進の育成に力を入れ、次世代ヒーローの実力を全体的に底上げするのは組織として取り組むべき課題だった。

 

 合格となるルールは、ヴィランを演じる教師に手錠をかけるか、誰か一人が訓練施設に一つだけある脱出ゲートから逃げる事。

 会議では生徒は二人組が妥当とされたが、よりプロとの実力差を体験した方が良いというミッドナイトの一言で、三人組が四つと二人組が一つのグループ分けになった。

 

 彼は拳藤、柳と同じグループになり、ヴィラン役はミッドナイトが演じる。

 ミルコが他の生徒と無人運転バスに乗り込む際に、ふとミッドナイトが視界に入った。腰の横にマウントしている鞭の柄の形状に眉をひそめる。長さは四十センチ以上あり、極端に細かった。

 

()()は大人げなくねぇか? と思いはしたものの、まあ授業で生徒をボコボコにしている身なのですぐに忘れた。

 

 

 

 彼らが到着した訓練施設はビジネス街を模していた。強化ガラスが青い空を反射している。

 高さのあるビル群で縦の視界は悪いが車線の多い道路はガランとしており、人影があればすぐに気付けそうだ。

 

 ミッドナイトの『眠り香』は、身体から発せられる香りを吸うと眠りにつく、というものである。影響範囲がどれほどのものかわからないが、おそらく脱出ゲートの前で陣取るのが定石だろう。

 

 演習試験開始の号砲が鳴った。

 拳藤が『大拳』で適当なビルの外壁を砕くといくつものコンクリの破片が出来た。それを柳が、身近にある物を動かす『ボルタ―ガイスト』で操る。

 

 作戦としては風向きに気を付けながら接近し、柳の操る破片で死角から飽和攻撃をしつつ、『大拳』で旋風を起こして『眠り香』を霧散させ、近接戦闘に長けた二人で一気に片を付けるのが妥当と考えられた。

 

 小森のスエヒロダケと同じくある程度は息を止めなければならないが、教師陣は重りのハンデが付けられていた。数の利もあるし、それに今回はカランビットと三段警棒を持ち込んでいる。

 少しでも無理そうなら後衛の柳が二人を『ポルターガイスト』で回収し、制限時間の三十分まで再トライ。

 

「わたしのアイテムも持ち込めれば良かったんだけどな」

 と柳が不満げにこぼした。

「退却戦のシチュエーションだからそんな大荷物はダメだって。せっかくサポート科に造ってもらったのに」

 

「柳さんのアイテムってどんなの?」

 と彼が興味ありげに尋ねる。

 

「んー、何て言うか……運用設計としては陣地防」

 

「……あのさ」

 と拳藤が低い声で遮った。

「一応チーム組んでるわけだし、聞いていいよね? 個性」

 

 そういえばそうだと柳が彼に視線をやる。あまり役に立たないと自称しているのは何となく聞き及んでいたので、考慮に入れず作戦を立ててしまった。

 彼は首筋を撫でながら、気まずそうに答える。

 

「人より、その……『体力』がある……だけ」

 

「ああ、それでこないだの救助訓練でトップスピードをキープできてたんだ」

 柳が合点をいかせて、ふと反応の無い拳藤を盗み見る。こわばった顔をしていた。

 

「一佳? どしたの」

「いや、別に。なんでも」

 

 なんでも、無い。ようには見えなかった、柳には。顔を背けられるが、どうも様子がおかしい。中学からの馴染みの仲なので、それくらいはわかる。

 問い詰めるべきか悩んだその瞬間、眼前十メートルほどの距離にミッドナイトが前触れも無く降り立った。

 

 接敵するにしても早すぎる。いったいどのような移動手段を使ったのか。

 その戸惑いを待たずに、ミッドナイトが自身のヒーローコスチュームを引き裂いた。露出した腕部から『眠り香』が漂い出す。計画通り、拳藤が突風を発生させてかき消した。

 

 彼が大きく息を吸い距離を詰める。同時にコンクリの破片がミッドナイトを半球状に包むように配列され、一斉に襲い掛かる。が、風切り音と共にすべてが砕け散った。

 それがミッドナイトの鞭によるものだと知ると戦慄するが、発生した僅かな隙の間に彼は十分に接近している。

 

 鞭は特性上、先端に向かうほど速度が増し、攻撃に適している。裏を返せば近距離では取り回しに難がある。

 無理に使おうとするなら、シラットの強力なディスアーム*1で対応する。

 

 彼はそう思考して、ミッドナイトの右手が握る鞭にちらと視線をやる。そこで初めて不可解な事に気づく。一本鞭にしては柄が奇妙だ。持ち方も、指揮棒のように端を包む手つき。

 危うさが滲む。しかし連携はこの上なく成功しており、絶好の機会だ。三段警棒を展開し、流れに乗って強打を放つ。

 

 ミッドナイトが不敵に微笑を浮かべる。視線の高さで手首を軽く振るうと、一本の鞭はいくつもの∞の記号が下に向かって連なる壁に早変わりして攻撃を弾いた。同時に滑らかな側転で後ろに距離を取る。

 

 

 

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「なにあのミッドナイト先生のアイテム! 変形するの!?」

 と、別室でモニタしていた でっかいたんこぶ付きの芦戸が驚愕した。

 そんな疑問に答えが返ってくる。

 

「ありゃあリボンの蛇形(だけい)って技だよ、新体操の」

「知っているんですかミルコ先生!!」

 

 速攻で芦戸たちをボコって演習試験を終わらせたミルコが腕を組む。

 

「ま、あの鞭がアイテムなのは違いないけどな。握力を参照して伸縮するし、先端は吸着するし。プロやってた時にたまに持ち出してたな」

 

 にしても、一年相手にガチになりすぎじゃね? と自分の事を棚に上げてミルコは小首をかしげた。

 

 

 

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 詰められない。

 あと半歩さえあれば決められるはず。その、はずを抱えたまま無為に時間を稼がれる。

 実経過時間はまだ十数秒程度だが、永遠に辿り着けない気さえしてきた。

 

 牽制の蹴り上げからのI字バランス、そこから崩れ落ちるように倒れ込んだかと思えばするりと距離を取って立ち上がる。その淀みない一連の動作の間に、鞭による攻防は絶える事は無い。柳の援護射撃も凌ぎ切っていた。

 既存の鞭術とは全く違う動きに翻弄される。

 

 彼らに侮りは無かった。ただ、ビルボード級のミルコよりは、元プロのミッドナイトの方が勝算はあると踏んでいた。

 それは誤りである。ミッドナイトに限らず、他の教師陣も遥かに格上。プロとの実力差を体験してもらおうという方向性の元、ハンデ込みでも遺憾なく実力を発揮している。

 

 そうして彼は、詰められないかつ、詰められた事に気付いた。

 こちらは有効打を与えられないが、相手は鞭によるダメージを確実に当ててきている。かといって引くことも出来ない。『ポルターガイスト』で後退してもおそらく鞭で絡めとられる。

 

 鞭が彼の首に巻き付いた。絞められ、呼吸が苦しい所に絶妙なタイミングで拘束が緩まり、たまらず咳き込んだ。

 人体の反射行動に理性は警鐘を鳴らしていたが、既にミッドナイトは彼に抱きついていた。風で吹き飛ばしようのない、ゼロ距離での甘い色香を吸引させられる。

 

 拳藤の加勢も間に合わない程の間の、一分にも満たない攻防だった。

 

 ミッドナイトはふらりと虚脱した彼の身体を抱く腕に力を入れた。大きく柔らかな双丘が潰れ、お互いの鼓動の音が聞こえるほどに強く。そしてそっと、艶やかな唇を耳に寄せる。

 湿り気を帯びた吐息の熱が感じられるほどの距離で、冷酷を囁く。

 

「わたしが花火田の組織の人間なら、きみは死んでる」

 

 自由の利かない身体でかろうじて下唇を噛み切るも、痛みでどうこうできる睡魔ではなかった。

 

「拘置所で会った男は後悔するでしょうね、きみに期待した事を」

 

 懸命に意識を保とうするが、そもそもいま瞼を開けているのか閉じているのかすら把握できていない。

 ただ、ミットナイト先生の言葉が、自らの実力不足がたまらなく悔しい。それだけが虚ろな思考に鈍く残留している。

 

「おやすみ。ごめんね」

 

 その懺悔の言葉が夢か現か判断も付かぬ内に、深い眠りに落ちた。

 

 ミッドナイトは左手で彼の腰にマウントしてあったカランビットを武装解除した。無骨な刃物が甲高い音を立てて地に落ちる。そのままトレーナーの下に腕を差し入れ、背中の素肌にいやらしく手を這わせた。

 

 その卑猥な行為に目を白黒させる残った二人を挑戦的に見据えながら、彼の肩から首筋にかけて頬擦りするとともに、大袈裟に身体と汗の香りを肺に入れる。

 

 なぜそんな真似をするのか。思考を取り戻した柳が叫ぶ。その辺のカフェの看板の上に乗って浮遊した。

「逃げよう一佳!」

 彼が落ちた時点で、拳藤一人では太刀打ちできない。策を練りなおす必要がある。

 

 が、拳藤は身体を固くしたまま動かなかった。

 

 ミッドナイトの頬には、彼の唇から流れ出た血が付いていた。それを舌なめずりする、拳藤と視線を結んだまま。股の間に肉置きのよい太ももを入れた。

 拳藤は個性を起動してミッドナイトに躍り掛かる。

 その理由は二つある。一つは頭に血が上った事。もう一つは、自覚する自らの醜さ故だった。

 

 

 

 柳はビルの合間を飛びながら脱出ゲートを目指していた。おそらく拳藤はやられただろう。ミッドナイト先生の露骨な凌辱行為にカッとなるのもわかるが、耐えるべきだった。

 八百万のストッパーになっていただけはある正義感が裏目に出てしまった。いや、明確にそこを突かれた。

 

 だが一人でも脱出できれば試験は合格。ここは二人を見捨てて逃げるのが最善手。

 気がかりなのは早過ぎる接敵からして、ミッドナイト先生の移動手段によっては……

 

 ふと背後を振り返ると、その答えがわかった。

 

「嘘で、しょ……うらめしいどころじゃ……」

 

 ミッドナイトは伸ばした鞭の先端を街灯やビルの側面に吸着させ、縮ませる事を繰り返すスイング移動を行っていたのだ。

 高度を上げようとするが、一手早く脚に鞭が巻き付いた。

 

 

 

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「エッチすぎません? 雄英の訓練って、映像映るやつは基本的に。偶然?」

 モニタを見ていた でっかいたんこぶ付きの取蔭がミルコに尋ねた。

 

「ヴィランを演じてるんだから、ちょっといい男がいればあーいう事するもんじゃねーの?」

 

 マジすかー、という感想しか出てこなかった。まー……そっか、するよなー。という謎の納得が部屋に満ちた。

 なんか今回もいかがわしい撮影会になった気がする。

 

 

 

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 保健室で拳藤が目覚めた時、激しい後悔と己の弱さに胸が苦しくなった。

 

 「負けたのか、わたしのせいで……」

 

*1
武装解除術




轟くんの原作だと半冷半燃だけど、下記の理由から両親の仲良さそうだし、より混ざり合った氷炎にしとこうかなーって感じです。

第五話より
>「エンデヴァーは?」
>「理想の夫婦ランキングの常連と不倫しろってか。アメリカならいざしらず、ここじゃあ二度とプロを名乗れなくなる」



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第十四話 自罰の徒 後編

「へー、カエンタケって皮膚からでも毒素が吸収されるんだ、知らなかった。呼吸とか関係ないのは強いね」

 彼が感心した様子で言うと、小森は頬を掻いて照れくさそうにする。

「ん、まあ、わたしの作った毒性の弱いcv株(栽培品種)だから、原種より遥かに軽症で済むんだけどね。切り札も別にあるし」

 

 それでも十分怖い。なんだか八百万に続きヤバい個性になってきた。小森を担当した教師は、二度と戦いたくないとこぼしていたという。

 二人の会話は別として、教室には重い空気が漂っていた。

 勝利条件を満たしたのは八百万と小森の二グループのみで、他は惨敗だった。試験結果は筆記と同じく後日返される。

 

「うち、手も足も出んかった……赤点なんかなあ」

 麗日が頭を抱えて落ち込んでいる。

 

「そもそも試練にしては過酷すぎます。ロボだとしても同じ難易度だったのでしょうか」

「えーでも塩崎ちゃんのグループは合格したんでしょ?」

 と羨ましそうに葉隠。

 

「ですが、ほとんど八百万さん一人でなんとかなったと言いますか。ああ、怠惰の罪に甘んじてしまってよいのでしょうか」

「ん」

 

 なるほど! 確かに小大の言う通りだ。ぐうの音も出ない圧倒的正論にみな押し黙る。

 

「え、なに? 小大さんなんて?」

 一人だけきょろきょろと周囲を見やっていた彼に、沈痛な面持ちの拳藤が話しかけた。

 

「あのさ、放課後ちょっといい。レイ子も」

 

 どうもただ事ではない雰囲気に、彼と柳は顔を見合わせた。

 

 

 

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 鮮やかな夕焼けが照らす雄英敷地内の公園で、二人は俯いたままの拳藤の言葉を黙って待った。

 遠くから普通科の吹奏楽部が練習する、オーボエのたおやかな音色が風に乗って流れてくる。

 もう、じっとりと汗ばむ季節だった。

 

「ごめん、わたしのせいだ。あそこで判断を誤ったから不合格になった。レイ子の言う通り逃げてれば、まだ……」

「それは過ぎた話というか、ミスするのが悪い事じゃ無い。おれだって、近距離戦に持ち込めば勝てるって考えてたけど、結果論としては甘かったわけだし」

 

 じぶんが落ちた後に拳藤がミッドナイトに挑んだ事は聞き及んでいたので、彼はやんわりと謝罪を否定する。

 柳としても同意見だった。ある意味で真面目な拳藤らしいが、それにしては大袈裟すぎる。なにか後ろめたいと思っている事があるような気がした。

 

「違うんだ、わたしは」

 と苦しみを色濃くして言った。

「合格しようとして戦ったんじゃない。きみを負かしたミッドナイト先生に勝てば、わたしの劣等感が癒されると思ったから判断を誤った」

 

 堰を切ったように、水面下に隠してきた苦悩を拳藤が語った。羨望と妬みの吐露にも似た、自縛の呪詛のようでもあった。本当にそうなのかもしれない。

 

「体術には自信があった、そういう個性だし。クラスメートみたいな特殊性は無いけど、近接戦なら負けないって思ってた。わたしがやってくにはそれしかないって……でも、八百万に簡単にあしらわれて……正直、ニュース見て嫉妬した。わたしは体育祭できみに一対一で勝った、けど……けどわたしじゃいくら考えてもマスキュラーに勝てるところが想像できなくって、それも『体力』より戦闘向きの個性なクセに。だから遅れて、劣っているような気がして」

 

 みずからの醜さを晒す彼女の顔は、苦しさで青白くなっていた。こんな仄暗い感情を抱く者がヒーローを目指す資格があるのかと、自問すればするほど不安になる。

 こんな姿を見せたくは無かった。けれどこのままでは前に進めず、同じ過ちを繰り返しそうで恐ろしくて仕方がなかったのだ。

 

 今までまったくそんな素振りを見せず、竹を割ったような気持ちの良い性格の彼女が告白する言葉は、自傷を免れない抜き身の刃のようだった。

 

 告げられた罪の意識の繊細さに、柳はそっと物を置くように言った。

 

「でも一佳がマスキュラーに勝てなくったって、ヒーローは戦闘能力が全てじゃないし、対個性戦は相性だって先生も」

 

「そんなの関係ない!」

 強い語気で遮ってから自嘲気味に続けた。

「ごめん……これはただ、格闘戦なら負けないっていうわたしの自信が生んだエゴっていうか、やましい感情を覚えたわたし自身を許せないっていうか」

 

 ごめん、と消え入りそうな震える声の謝罪を最後に、それ以上は続かなかった。

 

「じゃあ許さない」

 

 彼の言葉に、柳が反射的に敵意を向ける。拳藤がへたり込んで、色の無い絶望の瞳で見上げた。

 

「拳藤さんが格闘戦なら負けないっていう自信を取り戻して、じぶん自身を許せるようになるまで、許さない」

 彼は普段と変わらない口調で、しかし確信に満ちた真剣さでそう言った。

 

「なに、言って」

「いまから戦闘訓練施設に行こう。おれでよければ何時間でも、一晩中だって付き合うよ。明日休みだし。たぶんミッドナイト先生に言ったら寝泊まりも許してくれると思う、こういうの好きそうだし。親もたぶん──」

「だから、そうじゃないんだってば。わたしが謝りたいのはそういう事じゃ」

 

「そりゃ誰だって得意分野を抜かされたと思ったら焦る。拳藤さんだけのエゴや苦しみじゃない、全然おかしくないよ。ただ、心に抱えたそれが原因で演習試験でミスったり、嫉妬をみたいな負の感情を自覚しながらヒーローを目指すのがツライんだよね? だから同じ轍を踏まないようにしよう。そしたら許す」

 

 拳藤の苦悩の吐露に対し「いいよ、気にしてないから」と口で言うのは簡単だった。ただ、それで本当に心が癒されるかはまた別の話。

 安易な慰めにも似たそれは、抱えた重たく冷たい情感の膨張を抑えるだけで解消には至らない。

 

「え、いやでも」

 

 予想外の答えに、拳藤はどう反応していいかわからず柳を見やった。

 

「やろう、一佳。わたしも手伝う。力になりたいから」

 

 ね? と親友が手を差し伸べた。

 小さく震える手で、拳藤は恐る恐る触れるように重ねる。

 すると力強く握り返され、身体を引き起こされた。

 たたらを踏みそうになりながら、弱々しくも、それでも少女は確かに立ち上がっていた。

 

 

 

 柳が売店で飲食料を買い込んで戻ってきたときには、既に二人は体操着に着替えて戦っていた。

 

 日はとっくに暮れており、部活動を終えた雄英生も校内には残っていない。

 ミッドナイトは今回の事をもちろん快諾し、校長や守衛にも話が通してある。拳藤と柳も家族に連絡済みだ。

 

 ただ彼が学校に泊まるかもと両親に伝えた時は、遠回しに誰とかを聞かれた。女性二人という事で、まだあると信じて疑わない息子の貞操がとってもとっても心配だが、まあヒーロー科なので間違いはないだろうと許可が下りる。

 

『大拳』の掌底がガード越しに入り、彼が吹っ飛ばされる。壁に激突しそうなところを柳が『ポルターガイスト』で受け止めた。

 全力であればその一撃で再起不能に陥るが、もちろん拳藤は加減していた。ヒーローを目指す以上、殺さず捕らえる技術は必要不可欠である。

 

 素人目には拳藤の方が有効打を与えていた。だが、ある程度雄英で訓練を積んだ柳からして見れば、彼の技量は明らかに卓越しているのがわかる。もちろん、それは誰よりも拳藤が痛感していた。

 

 しばらくして休憩に入った。二人は栄養食を貪るように平らげてスポーツドリンクを干す。

 士傑の養護教諭に貰ってきた、個性『やくそう』により生まれた葉を噛むと、不思議なことにゆっくりとだが打撲創が回復し、疲れが抜けていく。

 

 二時間を超える格闘戦の中で、拳藤は何度も勝った。誰かがその度に勝敗を宣言したわけではない。どちらが言うでもなく理解し、仕切り直しで再戦を繰り返していた。

 それでも彼女が癒されることは無い。自信が取り戻せる訳でもない。

 

 そもそも得意の格闘戦で八百万に負けて、でも体育祭では彼に勝って、だけどじぶんでは絶対に敵わないマスキュラーに彼は勝って、救助レースで負けて、演習試験で判断を誤って。

 

 そんな因果関係もあやふやな挫折と劣等感でぐちゃぐちゃの感情と、それを抱く事自体の罪悪感が喉元まで込み上がって息が出来ない。

 だからこんなことを一晩中繰り返したって、解決できるものではない。

 

 それでも向き合えば、いかにして相手を倒すかが精神を占める。

 会話も無く、ただただ打ち合った。

 

 日を跨ぐ頃には持久戦に有利な彼が勝ちだす。拳藤が消費する体力に『やくそう』がもたらすリジェネ効果が追い付かなくなってきたのだ。これはそもそも即効性のあるものではなく、用法としては安静にして回復させる事を目的としている。

 

 その内、床を濡らす汗に足を滑らせて拳藤が尻もちをつく。

 

「……もう、無理。こうなったら、勝てないし、意味ないよ」

「休憩する?」

 

 余裕の表情でそう言った彼に、拳藤は歯噛みする。

 心臓の下で仄暗い蛇がとぐろを巻いた。

 

「……じゃあちょっと休む」

 

 そう言ってふらりと立ち上がり、鳩尾を狙った蹴りを放つ。が、楽に躱された。これだ。いかにこっちが疲弊しているとはいえ、個性無しの攻撃なら不意打ちでも対処できる天賦の才。彼にはそれがある。

 

「ちょっ! 一佳!?」

 

 柳が叫んだ時には『大拳』が彼の身体を掴んでいた。瞬間的に手を巨大化させるからこそ可能な、回避困難なグラップルである。打撃と違い、対象のタフネスが握力より劣っていればその一手で終わる。

 力を込めると、彼が苦悶の表情を浮かべた。

 

「一佳ってば!」

 

 肩を揺らされ、拳藤は我に返る。解放された彼が苦しそうに息をする。

 

「悪い、つい、なんかダメだ」

 ばつが悪そうに口をまごつかせた。

「ごめん、最低だ、わたし。こんな卑怯な真似までして……」

 

 いたたまれない空気の中で、息を整えた彼が気にしてないといった感じで口を開いた。

 

「おれがマスキュラーに勝てたのは運もあった、百回やったら百回殺されてるくらいの……それにホント言うとね、ヒーローとして最低な手も使った。みんなにはあまり知られたくないくらいの。たぶん、軽蔑される」

 

 その言葉に拳藤は静かに反応する。

 

「でも、そんな真似をしてでもなんとかしなきゃって思ったし、後悔してない。だからおれはさっきの不意打ちを最低だと思わない。演習試験の判断も、拳藤さんが自信を取り戻したくてなんとかしきゃって思って戦ったなら、同じことだよ」

「それは……だってヴィランと命懸けの戦いとは訳が違うでしょ。事の重大さがまるで」

「そう、なのかな? 拳藤さんが苦しんでるのと、同じくらい重大で大切な事だと思ってるけど。おれも、柳さんも」

 

 拳藤は恐る恐る柳に視線を向けた。

 

「わたしも、負の感情を覚える事くらいある。ヒーローに似つかわしくない事だってたまに考えたりする。こんなわたしは、誰かに許されないとヒーロー科にいちゃダメ?」

「そんなこと、ない」

「よかった、安心した。だったら一佳もそうだよ。相談してくれてありがとね」

 

 それを聞くと、緊張から解放されたせいか全身の力が抜けた。疲労も合わさり、もう一ミリも動けない気がする。ごろりと床の上で仰向けになった。

 その隣で、彼は肘枕をして拳藤の顔を眺めながら言った。

 

「正直言うと、おれも体術には自信があったから体育祭で拳藤さんに負けた時は悔しかった」

 

 彼がわざと第一種目が終わった状況を真似ている事に気づき、拳藤は少し笑う。彼の前髪の切っ先に、汗の露が小さな果実のように生っていた。

 

「そっか、そうなんだ。嫉妬した?」

「した。わーおれ弱いんだーって思った」

 

「悪くないね、そう言われるのも。たまには」

 一拍置いて続けて言った。

「演習試験の時のミスなんだけどさ、ミッドナイト先生がきみにちょっとエッチな事してて、それで頭に血が上ったってのもある」

 

「え? ああ、ほとんど意識なかったからわかんなかったけど」

「先生もわたしのそういう所が弱点だって見抜いてたからしたんだって。訓練なのにさ。そんな事で赤点なんて恥ずかしいよ。バカだよね」

「まだ赤点って決まったわけじゃないし、おれはそれ聞いて嬉しいけど」

「え」

 

「だってそれって、もしおれがヴィランに捕まってエッチな事されそうになったら、拳藤さんは本気で助けに来てくれるって事でしょ。ヒーローみたいに」

 

 言われて拳藤はきょとんとした目を穏やかに閉じ、ゆっくりと呼吸して言った。

 

「うん、助けに行く。絶対」

 

 

 

 うわあ、なんかうらめしい事になってる。

 

 声をかけて良いのか戸惑う状況に柳はフリーズした。が、安堵のため息をつきテクテクと近づいて拳藤の横に寝転ぶ。

 イイ雰囲気だったが、親友の陰鬱な表情が晴れたのだ。それを一緒に喜ぶくらいしても、バチは当たらないだろう。

 

「元気出た?」

「ん、まあね。自信も戻った、というより、新しく付いたって感じかな。すっきりしたっていうか。これで許してくれる?」

「許すも何も、元から一佳が謝るような事は無いって思ってたから」

「そっか、ありがと。なんか、ヒーロー科だから嫉妬とか劣等感とかエゴとか欲とか、そーいうの抱いちゃダメって思ってたから苦しくてさ。自罰的になりすぎたのかな」

 

 あー疲れたー。と言って、拳藤はすやすやと眠りにつく。

 

 残された二人は互いを見やって小さく笑みを浮かべた。柳が『ポルターガイスト』でそっと拳藤と荷物を持ち上げる。

 来賓来客用の宿泊スペースに向かう途中で、寝ている拳藤を起こさないよう柳が囁くように言った。

 

「ありがとね。一佳、いままでこんなふうに溜め込んでパンクするような事は無かったんだけど。短期間のうちにいろいろあったからかな」

「いや、おれもちょっと安心したっていうか。いつもしっかりしてる真面目な拳藤さんでも、やっぱり悩みとかあるんだって……優しいんだね柳さん」

「まあ、親友だしね」

 

 ほんの少し気恥ずかしそうに答えて、二人は別々の部屋に分かれた。

 

 

 

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 翌朝、拳藤が目覚めると隣のベッドでは柳が静かに寝ていた。

 ここどこ。と寝ぼけまなこで部屋を見渡す。そういえば雄英の宿泊施設で寝る予定だったので、そこかもしれない。

 大きく伸びをした後で、ふと右の掌を見やる。

 

 手とは最も繊細に感覚を伝える器官である。まだ拳藤の手には、彼の体温と汗で湿った身体の生々しい感触が残っていた。胸板から伝わる鼓動や胎動する腹部、弾力のあった臀部。

 得した気分、と思えるくらいには心に余裕が出来ていた。

 

 シャワーを浴びて柳を起こし、帰り支度を始める。ちょっとした合宿が終わったような、少し寂しい気もする。

 八時には守衛に帰る旨を伝えるようミッドナイトに言われているので、慌ただしくなった。

 宿泊棟のホールで彼と待ち合わせ、帰路につく。

 

 しかし三人の会話や雰囲気はどこかぎこちない。

 別に急に男女の仲を意識しだしたわけではない。

 単に三人とも履いてないのだ。

 

 汗をかいたのは体操着なので、制服に着替えればまあ少し気になるが許容できる。問題は下着だった。急遽決まったお泊りだったので当然替えなど持っていない。

 さすがに一日履いてたのを使い回す気になれず、ノーパンはやむ無しだった。

 

 彼はなんだか擦れるというか当たりがいつもより強い感じがするし、女性二人はスースーするしで気が気でない。

 駅に近づくにつれ、休日の早朝でも通行人は増えだした。

 一陣の夏風に対し、過剰にスカートを抑える。もし周囲にバレれば変態の烙印を押されかねず、動悸が速まり冷や汗だか油汗が出る。

 嗚呼、変態たちが街を練り歩いている。朝っぱらから。

 

 そう言えば、と刺激にもじもじしながら彼が今さらながらに切り出す。

 

「拳藤さんが髪降ろしてるの初めて見たよ」

 

「えっ? ああ、バタバタしてて纏める時間無かったから」

 履いてない羞恥心から顔を赤くしながら答えた。

「違和感ある? 変?」

 

「似合ってるよ。なんか新鮮だなーって思っただけ」

 

 ふうん、とそっけなく答えて、たなびく後ろ髪をなんとなしに押さえつけ、幾条かを指で弄んだ。

 頬が上気しているのは、きっと履いていないせいだ。

 

 

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 その夜、拳藤は演習試験を顧みた。劣等感の件については片が付いたので、残ったもう一つの課題を対処しなければならない。

 たしかにミッドナイト先生の指摘された通り、そういうエッチな事に耐性が無いというか処女っぽい正義感に振り回された。そんな時こそ冷静にならなければ救えないのに。

 

 要は、慣れだ。

 タブレットでファンザにログインし、趣味でなかったジャンルを再生する。

 へたり込んだ男優が女優に囲まれ、代わる代わる奉仕を強要されていた。エッチなのだろうが、いまいちピンとこない。

 

 かわいそうなのは入れられない。性欲より可哀想感が上回り萎えるタイプだった。

 それでもお芝居と割り切ると、さすがにもぞもぞする。が、なんとなく乗れない。

 作品を変えてみようとし、ふと『あっ! これ凌辱ヒーローもののAVで観た事あるやつだ!』と評判(?)の1-Aが全員持っている動画ファイルがあったのを思い出した。

 

 一段落付くと、なんともいえない倦怠感の中で、先日ニュースで取り上げられたステインの主張について、ヒーローとは、平和とはなんなのかをぼーっと考えた。

 

 

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 休み明けの昼休憩の時に、拳藤は少し勇気を出してみた。

 遠ざけていた受け止めたくない事実と向き合う為に。

 

「あのさ芦戸。あの雑誌、今度貸してくれない? 日にち経ってて、売ってなくてさ」

「ん? ああ、いいよ。明日持ってくる」

 

「ありがとね」と礼を言うと、拳藤は晴れやかな気持ちで窓際から外を見上げた。雲一つない、青い青い夏の空が広がっている。

 

 そして、でもやっぱりオバサンの汚いお尻がどアップで映るのは萎えるよなあ、と思春期で無駄に性欲があり余る多感なお年頃にはよくある思索にふけた。

 ふと下に視線をやると、彼が一人で歩いている。そういえば今日は波動先輩とご飯を食べる日だった。

 

 湿気を帯びたぬるい気持ちになるが、右の掌を開き、柔らかく握りこむ。

 聞くところによれば、心理的距離を詰めるボディタッチの量で言えばこっちが圧倒的だろうから、まあ。

 その考えに至ると、まあいいかとなった。

 

 なんだか新たな性癖の扉が開いたのか捻じ曲がったのかわからないが、とにかくヨシ! な雄英ヒーロー科 前期の終わりだった。

 





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 林間合宿
第十五話 買い物に行こう


「じゃあお前から」

 

 カウンターチェアで脚を組んだ死柄木が、ボックス席に座る内の一人を顎で指す。

 

「わたしは引石健磁、マグネで通ってるわ」

 濁った茶髪を肩まで伸ばした大柄な男が答えた。百均にも売ってないであろうサングラスの座りをなおして続ける。

「個性は自身から数メートルの人間に『磁力』を付与し、引き寄せたり反発させたりできる。腕はそれなりに覚えがあるほうよ」

 

 仲介人によれば複数件の殺人や多くの強盗行為を働いており、ある程度の戦闘能力はありそうだった。

 

「なんでウチに入ろうと思った」

「そうねえ……生きづらい世の中がウザいから、かな。ま、好みの男にイタズラしたいからってのもあるけどねぇ」

「あ、そ」

 

 まあ、士傑の時に雇ったチンピラよりはマシか。と死柄木は頭を掻き「次」とだけ言った。

 

「はいはーい!」

 お団子ヘアーの一目でわかる女子高生が手を挙げる。セーラー服に季節外れのカーディガンを羽織り、耳には()()()()()()()()()()をしていた。

「渡我 被身子、ステさまのファンだから来ました。ヒーローとぼろぼろになるまで戦ったのがステキです。頑張りますのでステさまの血をちうちう吸わせてください! っていうかステさまどこですか?」

 

 きょろきょろとバーを見渡すが、その姿は無い。

 

「ステって、ステインか。あいつはほとんど顔出さねえ。てかおまえに聞いてねえ。座ってる順番的に次っつったら学ラン着たガキだろ。空気読めねえヤツは帰れ」

 

「わー待ってください!」

 渡我が慌てて取り繕う。

「便利ですよ、わたし。相手の血を飲むと『変身』出来ますし……あと車も運転できます!」

 

「おまえいくつ」

「十七です」

「じゃあ免許持ってねーだろ。どこで運転覚えたんだよ」

「警察やヒーローから逃げる為に独学で身に着けました。ていうか免許持ってないのは、ここにいる人たちも同じじゃないですか?」

 

 言ってボックス席に座る輩たちを見渡す。誰もが脛に傷を持つ悪党や十八歳未満なので、その手の公共のサービスは受けにくい。誰が好き好んで、警察官がいる免許センターで身分を明かすというのだ。

 

「そもそも運転できる人の方が少ないのでは? この面子だと」

 

『ヤモリ』人間のスピナーがうつむく。学ランの少年が気まずそうに首筋を撫でる。紙袋を被った男が支離滅裂を叫ぶ。

 全身を黒の拘束着で縛られた男、ムーンフィッシュが身体を小刻みに揺れながら涎を垂らしていた。た、たしかに。

 

「おれは運転できるし免許も持ってる、ずいぶん更新してないが」

 

 そう名乗り出たのは仮面をつけたマジシャンの風体の男。

 しかし渡我は一蹴する。

 

「わたしはマニュアルもいけますよ」

「それは……そっか、すごいな」

 

 ちょっとしゅんとして身を引いた。

 オートマが主流だし料金も安いからオートマ限定を受講するのは一つの選択肢だが、ヴィランをやるならそうも言ってられない。逃走時に奪った車がマニュアルで、クラッチを繋げられずに逮捕などと目も当てられないからだ。

 

「運転できる人間がいると買い出しとかにも便利ですよ」

 

 んー、と死柄木は頬を掻く。

 

「じゃ採用」

 

 こうして、イロモノだらけのヴィラン連合に一人の少女が加わることになった。

 一通りの面接が済み、黒霧が静かに尋ねる。

 

「あなたの望み通り、人手は揃いました。次はどうしますか?」

「キャラが集まったら次は装備だろ、そりゃ」

「では裏で流れているアイテムを」

「それもだけど、おれが言ってる装備ってのは脳無の事だ。結局、オールマイトに負けたザコだったろ……ドクター、()()()()()()っつーか、試したいことがあるんだが──」

 

 部屋の隅にあるパソコンのスピーカーから、興味を引かれた老人の声が響く。

 渡我はその内容に耳を澄ませる。

 

「──いままで脳無に使った素体は、そのへんのチンピラや浮浪者とかの素人だったんだよな?」

 

 

 

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 甲矢 有弓は波動 ねじれの親友である。

 

 特に最近は親友で本当に良かったと思っている。何がとは言わないが、昼食がこれほど待ち遠しくなるとは思ってもみなかった。

 誤解の無いように付け加えるなら、もちろん昼食なのだから食べるという行為の事だ。曲解の無いよう更に付け加えなければならなくなったが、食べるとはもちろん飲食物の事を指す。健全。

 

 ふと、この都合よすぎる展開は現実なのかと疑わしくなって、甲矢はスマホをスクロールさせた。そこに書いてある事こそが普遍性を持つこの世の理である。

 

 年頃の子ならば、『エッチ やり方』でググる事はそう珍しくない。検索した後で、何やってんだろ、という気持ちになり恥ずかしさを覚えるが、あるかもしれないもしもの時に恥ずかしい思いをするくらいならマシな気がする。

 

 異性とする場合はとにもかくにも、授業中にふとエッチな事を考えて濡れるほど便利でない男性のそれを、まずは勃たせなければならない。

 

 一般的にその役目は男性にはない。ネットでは、緊張も相まって愛撫や前戯がうまくいかず、少し甘酸っぱい初体験になった書き込みがいくつも転がっている。それはそれで二人にとっていい思い出話になるだろう。

 

 そしてその第一関門を突破しても、相手を満足させなければならないという謎の使命感が女性を苦しめる。

 しかも満足は明確な物証として出てくるモノで、反証を許さない。言うなれば大将首、あるいは勲章だった。戦いなのか? じぶんとの戦いかもしれない。

 

 こっちが勝手に満足して、相手がまだだとなんかゴメンってなる。ってネットにいっぱい書いてあった。

 

 他にも作法は電子の海に山ほどある。

 顔にぶっかけるのはAVだけだから実際にやったらキレられるとか、マンガと違って男は何回も出せないとか、舐めるだけで勃つのはエロマンガだけとか、感じてるのは演技とか、胸は触ってくれるけど柔らかいから触るビーズクッションくらいにしか思われてないとか、そんな感じで処女が漠然と妄想していた幻想を容赦なく打ち砕いてくる。

 

 そっか、まあAVのあれは演技だよな。薄々ちょっと過剰だなとは思ってたけど。

 なんとなく抱いていた疑念を自ら認めた夜は、サンタクロースがいないと知った時に似て少し寂しかった。みんなそうやってエロガキから、少し大人のエロガキになるのだ。

 

 また、なんにでも言える事だが、そもそも初めての体験を満足に終えるのは難易度が高い。

 

 例えば初めてバスケットボールを触った人間が、いきなりスリーポイントシュートを決められるだろうか? 車をぶつけずに縦列駐車できるだろうか? 素晴らしい絵を描けるだろうか? 

 それが共同作業ならば言わずもがなだ。

 

 舐めた事があると言えばアイスくらいの甲矢にとって、波動の提案は願いを叶える悪魔にも似ていた。美味しい話ではある。

 が、絶対に無理、第一関門すら危うい。使命を全うする自信など微塵も無い。きっと情けない思いをするだけだ。てかシチュエーションが意味不明すぎる。

 

 しかし謎の自信を持って大丈夫と言い張る親友の言葉を無下にするわけにはいかない。

 第一関門を突破できずとも、現実にはモザイクが無い。最悪もう見るだけでいい。

 

 

 

 一段落した甲矢が得た結論としては、ネットに書いてあった事は全部嘘だった、ぜーんぶウソじゃん。いろいろ試したけど全然怒らなかったし、むしろ悦んでた。え? てかひょっとしてわたしが上手い? たはー。

 

 エチケット袋に入った勲章だってたくさん手に入れた。エッチ将軍だ。

 それに相手を満足させる事がこれほど楽しく嬉しいとは思わなかった。肉体的に得る快楽とは別種の多幸感がある。

 

 甲矢や波動がこれほど都合よい経験を得られたのは、実は彼の心のパチモンアベンジャーズのおかげでもある。

 彼はアッセンブルの為に女性向けAVをよく観ていたので、行為の際にどういった反応を求められているか、何をすれば喜ばれるか知っていた。

 声を出すのは恥ずかしかったが、女性が悦んでくれると彼も心身ともに嬉しいのでノリノリになるし、NG行為も無い。

 

 つまり、世間一般には「あれはAVとかマンガのフィクションだから」で斬って捨てられた幻想が顕現していたのだ。

 都合がよすぎる。信じるべきは友だった。

 

 ただ、そろそろ夏休みの季節。一般的には長期休暇だが雄英のヒーロー科の一・二年生にそれは無い。十日ほどの林間合宿が行われる。

 

 ということは、その間ねじれは彼と会えない事になる。わたしはともかくとしてそれは少し可哀想だ。

 そう考えた甲矢は妙案を思いつく。たしか中学の後輩がヒーロー科の一年にいたはずだ。

 さっそく事情を説明するが、少し前の自分と同じような反応だ。むしろ彼に対する侮辱ともとれる言動に、怒気を孕んでいるようにも見える。

 

 だがここは折れるわけにはいかない。幸いにも説得材料となる動画はある。

 そうして甲矢は一仕事終えて額の汗を拭った。

 信じて送り出した彼氏が林間合宿の間で以下略だったら、『イエ~イ、波動先輩見てる~』とか送られてきたら、たぶん親友は喜ぶだろうから。

 

 しかし健全なのでこの前振りが回収されることはないし、全て匂わせで終わる事は記しておかねばならないだろう。

 

 

 

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「はいじゃあテスト結果を返すから呼ばれた人から取りに来てね」

 

 ミッドナイトが次々に筆記試験の用紙を手渡す。

 解けたかどうかの手ごたえはすぐにわかるので、全員不安は無かった。問題は演習試験である。

 

「林間合宿のしおり配るから後ろの人に回して」

 

「え、あの~演習試験の結果は……」

 おそるおそる葉隠が尋ねた。

 

「ん? 合否はその場でわかったじゃない。講評もしたし」

「いや赤点とかは、どうなんですか?」

「ああ、そういうのは今回は無しになったの。ハンデありのプロとの実力差を体感してもらうっていうコンセプトだから、不合格で当然。ダメだった点がわかったでしょ?」

 

 コテンパンにされた嫌な思い出が脳をよぎる。

「まあ、はい」

「それは合宿で補えばいいし、良かった所は伸ばす。それだけの話よ」

 

 それを聞くとクラスは安堵感に包まれた。彼と拳藤と柳の視線が自然に合い、小さな笑みがこぼれる。

 

「八月の頭には出発だから、来週中にはご両親からの宿泊許可書を提出する事。あとしおりの必要品項目と各自の判断でいるものは用意しといてね」

 

 ぱらぱらとめくると、下着類やパジャマなどの想定する数、常備薬などが記載されていた。

 スケジュールとしては十日の間に二日休みで組まれている。身体を休めるのも訓練の内だ。

 簡易的な地図を見るに合宿先は山中にあるが、休日には街に下って息抜きをしたり、嗜好品や日用品を買い足せるだろう。

 

「ああそれと、しおりには書いてないけど」

 ミッドナイトがさらりと、しかし聞き捨てならない一言を告げる。

「水着あった方がいいわよ、海に行くなら」

 

 水着!? 

 そう、地名を聞いただけではわかるはずもないが、実は海へのアクセスも容易なのだ。

 夏、太陽、海、水着。なにやら胸がときめく言葉が連なる。

 

 小休憩の時間に、クラスメートはあれが要るこれが要ると口々に相談し合っていた。

 そんな中、彼が深呼吸で緊張をやわらげて言った。

 

「明日の休みに、みんなで買い出しに行かない? 合宿用のあれこれ。木椰にあるショッピングモールで」

 

 難色を示されたらどうしようと、今さらながら冷や汗が出た。

 確かに芦戸たちや拳藤たちとは親しくなったが、他のクラスメート同様に友達というよりはまだ学友に近い。だからこそあと一歩踏み込んで、仲良くなる切っ掛けとしたい所だった。

 

 彼の提案は、教室を流れる時間に一瞬の停滞を生んだ。

 もしも1-Aの男女比率がもっと偏っていなかったら、特に何も考えずに賛同していただろう。

 ただどうしても唯一の男性というところに気を使ってしまうというか、遠慮のようなものを覚えてしまう。嫌われたくないというか。

 とはいえ断る理由は無い。

 

 いやあ歯磨きとかのお泊りセット持ってなかったんだよね~、とか。旅行カバン的なの持ってないからな~とか。せっかくだからお昼も食べちゃおうよ、期末の打ち上げ的な。といった意見が飛び出し、あれよあれよという間に日時が決まった。

 

 こうして、昼休みに一緒にご飯を食べるようになったのだからもう少し勇気を出して、学友から友達にステップアップしたいという彼のささやかな願いが始まった。

 

 

 

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 夏の日差しが降り注ぐ週末のショッピングモールは賑わっていた。家族連れや恋人、友達と遊びに来ている学生、ふらりと一人でのんびりショッピングを楽しんでいる人。

 老若男女が思い思いの一日を過ごしている。

 

 現地集合場所の噴水前には、すでに1-Aの面々が集まっていた。

 彼はクラスメートの私服を見るのが初めてなので、感動を覚えるとともに新鮮に感じる。

 なんだかみんな気合が入っているような気がした。

 

 まあこういう都会と言うか、活気にあふれた場所に来るなら着飾るのは当然かと納得する。逆にどこにでもいるような服装のじぶんがちょっと恥ずかしい。

 

 全員揃っているが約束の時刻まであと五分ほど猶予があり、なんとなくお喋りで時間を潰した。そのとき角取が意外に思ったのは、彼が結構マンガやアニメ、ゲームに詳しかったことだった。

 

「角取さん、マンガ好きなんだ。どんなの読んでるの?」

「基本的に雑食ですが、そーですね……最近だと恋彦†国士とか、かなり古いけどハンターハンターとかジョジョとか好きです。知ってます?」

「あー知ってる知ってる。対個性戦を学んでるとより楽しいよね。オリジナルの発とかスタンド考えてたなー」

「おお! わかってマスねー。わたしもアメリカにいた時はいろんなジャパニーズコミック読んで空想してました」

 

 うんうん、と角取は腕を組んで納得の表情。

 

「そういえばママが言ってたのですが、ハンターハンターを完結まで全巻一気に読めるのは幸せだって言ってましたけど、どういう意味だったのでしょうか?」

「あ、それおれも言われた。なんでだろうね」

 

 二人して小首をかしげていると、定刻になったので拳藤が軽く音頭を取る。

 

「時間になったけど、どうする? みんなでグルっと回る……のは時間かかるからざっくりと自由行動にしよっか」

「そうですね。各自必要な物は違うでしょうし」

 と塩崎が同意した。『ツル』をケアする為の活力液肥を買うのは彼女だけだろう。

 

「じゃあ今から二時間後の昼過ぎにここにまた集合って事で」

 

 それでなんとなく買う物が被っている者どうしのグループが出来上がった。

 ふと柳が、彼は何を買いに来たのだろうと声をかける。ついこのまえ一佳と健全な朝帰りした事もあり、距離感は割と気にせず接せられた。

 

「わたしは日用品とかだけだから、付き合うよ。何見るの?」

「水着」

「えっ」

 

 思わず声が出てしまった。

 えっ。

 なに? また? わたし呪われてる? 「こういう水着どう?」って意見求められたやつがエッチだったらなんて返せばいい? 判断を誤ると終わりなラッキースケベは求めてないんだけど。前世でなんかした? これも映画でありがちなナチスのせい? カルトに出てくるネオさま呼んできて。

 

 慌てて周囲を確認するが、皆そそくさとその場を後にしていた。玉突き事故に巻き込まれたくはない。水着を選びに行くと聞いてから「実はわたしも新調したかったんだよねー」などとワザとらしい事は言えない。頼みの綱の八百万は既に耳郎とカバンを見に行っていた。

 

 しかしこのままでは二人きり。それはまだちょっと緊張する。拳藤と目が合った。彼女は強く目を閉じ、覚悟を決めた。

 

「じ、実はわたしも新調したかったんだよね~」

 

 変に意識したせいでよりワザとらしくなってしまった。しかし彼がある程度エッチな事に寛容なのはわかっている。それに親友を見捨てるわけにはいかない。

 三人で目的の店まで歩きながら、たびたび寄り道してくだらない話で笑っていると、不意に彼がしみじみと言った。

 

「けどほんと広いねここ」

「初めてなんだっけ?」

「うん、一度来てみたかったんだよね」

 

 スポーツ用品店に入ると、季節ガラか水着コーナーは充実していた。自然に男女で別れ、見て回る。

 

 基本的にレディース物は、トップはキャミソールやタンクトップ型。ボトムはボックスタイプのショートパンツか、三角ビキニの部分を見せないようパレオ、フリル、スカートが一体となっている。

 

 腹部は見えるものの、南国の暑い地域なら普段着として通用する程度の露出に収まっていた。三角ビキニだけだとビーチがざわめく、とまではいかないが多少目立つ。

 

 対してメンズ物は、トップはTシャツタイプやポロシャツ、パーカー、タンクトップ型のラッシュガードが主流だ。年齢層が高くなると襟のあるドレスシャツタイプも選択肢に入ってくる。

 

 もともと海軍の制服だったセーラー服タイプも根強い人気があった。最近の女子学生のものよりも直線的なディティールで無骨な感じを残しており、ポピュラーな一品だ。

 

スカーフリボンではなくネクタイを結ぶアレンジもあり、組み合わせて雰囲気を変えるおしゃれが楽しめるので、メンズの水着セーラー専門店まで存在する。

 アイボリー地に深いエメラルドグリーンの襟は一種のアイコンとなっていた。

 

 サイズとしてはもちろん普通からビッグシルエットまであるが、丈は短めが多く、おへそがちらちらしたりしなかったりする。

 ボトムはショートパンツや短パン、サーフパンツ、スパッツ型が無難だ。クラシカルなセンタープレスの入ったものも流行っている。ブーメランパンツだとかなり目立つというか、ヤバいヤツと思われるかもしれない。

 

 一通り見て回り、どうしよっかなと腕を組んで頭を悩ませる。

 買う事は決まっている。

 

 さすがに学校指定の水着はいかにも学生感が出て恥ずかしい。時期的にはビーチも賑わっているだろうし、地味過ぎて逆に浮いてしまうかもしれない。

 それに()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()し。

 

 しかしどの水着を買うべきか。

 おしゃれしたいお年頃としては、ちょっと大胆なものを着て海を過ごしてみたい。

 たった三回しかない青春の夏、いや──と、マスキュラーやミッドナイト先生と戦った時の事が脳裏をよぎった。

 

 ──ミルコ先生が絶対に戦うなと言っていた、体術の通用しない典型例。死亡要因となる天敵。つまり……だからどうなる? 負ける? 死? ──

 ──わたしが花火田の組織の人間なら、きみは死んでる──

 

 夏は、最後になるかもしれない。予期せぬヴィランとの接敵は士傑の件もあるし、雄英もその危機感は絶やさず胸に灯しておくべきだ。花火田を追うなら尚の事。

 生に刹那主義を覚えているわけではない、死に追われているわけでもない。死と対峙する理解があるから、刹那の生をやわらかく握っていたい。

 

 よし、と決心して、ある程度身体に自信がないと着こなせないタンクトップとショートパンツを選んだ。短いボトム丈とアダルトな色合いの黒だが、せっかくクラスメートと行く海なのだから冒険してみてかった。

 

 会計を済ませて合流すると、出し抜けに柳が言った。

 

「ど、どんなの買ったの?」

 

 拳藤が反射的に柳を二度見する。大丈夫か? その質問は。いや、もうだいぶ仲良いし、友達……だよなもう。だったら普通か。フツーフツー。

 

「んー、まあ、秘密」

「え。でも今日買ったやつ、合宿で海に行ったら着るんでしょ?」

「そうだけど、それとこれとは話が別っていうか。なんか急に恥ずかしくなってきた、やっぱもっと普通のにすればよかったかも」

 

 どうせどんな水着か知る所となるのだから、多少時間が前後するだけの話ではある。

 しかし買った物を知りたいという目的の為にその場で見せるのと、海で泳ぐという目的の為に着た結果見せるのでは、プロセスに明確な違いがある。

 

 その繊細で複雑な男心を理解するのはなかなか難しい。

 

 返品して別のにしよっかな、という雰囲気になりそうだったので慌てて前言撤回し、その後は日用品を買いそろえた。

 そろそろ集合時間という所で、拳藤と柳がお手洗いに向かう。

 

 彼は荷物番となって、適当な休憩スペースのベンチに座りぼんやりとあたりを眺める。ふと、ある店に目が留まった。

 

 普段はあまり気に留めなかったが、異形型の個性使いの為の衣類やコップが数多く並んでいるようだ。魚眼や爬虫類の人用のコンタクトレンズや、蹄用の靴、毛並みを保つためのブラシや換毛用のコロコロ。

 ミルコ先生もああいうの使ってるのかな、と想像してみる。かわいい。

 

 店舗の上部には、社名であるデトネラットを示すDRというロゴの看板が掲げられていた。

 たしか、それなりに昔からある企業だった。個性に合わせた日用品や衣類などを生産する業界の中堅どころ、といった印象。

 

 そういえば一度、電気系の個性の為のバッテリーを自主回収する騒ぎになったニュースを見た事がある。

 過充電かなにかで爆発の恐れがあるとかで、ネットでは兵器だとか手榴弾とか小型爆弾とか揶揄されていた。

 

「あのー失礼ですけど、もし違ったらごめんなさい。ひょっとしてこのあいだの雑誌に出てた雄英の方ですか?」

 

 声を掛けられた方に顔をやると、一人の青年がいた。歳は二十歳ほど。ポロシャツにジーンズというありふれた格好で、期待に満ちた瞳で覗き込んでいる。

 疑問形で尋ねた割には、やけに自信に満ちた口調だった。




前のあとがきで書いたように、五話でエンデヴァー家は円満っぽいので荼毘くんは元気にお兄ちゃんやってると思います。


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第十六話 コウモリの止まり木

小説とは関係ないのですが、ありがとうございます。
大事に使いますね。


「え、あーはい。そうです」

 突然の事に、彼は気恥ずかしくなって目を泳がせる。

 

「あーやっぱり! 体育祭で見た時からファンなんだ!」

 そう言って、パッと表情を輝かせた。

 

 応援してもらえるのは嬉しいのだが正直言って、まだヒーローを目指す身としては過分な反応に遠慮してしまう。

 

「すごいなあ、本物だ。あの、なにかご馳走させてもらえない?」

「いやそれはちょっと……連れを待ってるんで」

 

 青年がちらと荷物に目をやって言った。

 

「ひょっとして林間合宿? もうそんな季節かあ、懐かしいな」

「なんでそれを、あっ、ひょっとして……」

「うん。ぼくも雄英生、って言っても授業についていけなくてヒーローは断念したんだけどね。今はフツーの社会人やってる。情けないでしょ」

 

 落とした影を払うように、青年は苦笑する。

 そんな先輩になんと声を掛けたらいいかわからずに、彼は口をまごつかせた。

 

「それは、でも、一つの選択というか。あっ、隣どうぞ」

 

 彼がいそいそと荷物を移動させると、「ありがとね」と青年が座った。

 

「体育祭で見た時から、ずっときみと話したかったんだ」

「なにを、ですか?」

「ぼくが挫折した理由。ま、すぐ済む負け犬の話だから」

 

 青年は、まるで遥か昔の故人を懐かしむように語った。

 

「当時、憧れの雄英になんとか入学したはいいけど周りは凄い個性使いばっかりでさ。けどぼくはいわゆる弱個性で、こんなので免許取ってヒーローになっても足を引っ張るだけだ、誰も助けられないって思ったら、頑張れなくなった」

 

 一拍置き、重々しく続ける。

 

「だから体育祭で、個性らしい個性を使わなかったきみを見て心配だった。ひょっとしたらこの子もぼくと同じく弱個性で、挫折しちゃうんじゃないかって……杞憂だったけどね、マスキュラーを倒しちゃうんだもん。すごいよ、ほんと」

「あれは……運が良かっただけです」

「それでもすごい。ぼくも諦めなかったら、きみみたいになれたのかなって後悔するくらいには」

 

 沈痛な面持ちで、青年は拳を握りしめて尋ねた。

 

「どうやって倒したの? やっぱり機転を利かせたとか。それとも、隠してるだけでほんとは強個性だったりする? 三年生がほとんどやったとか? できれば教えてほしい、この歳で夢なんて見ずに済むから」

 

 その切実な問いは、喉まで出かかった答えを飲み込むのを戸惑わせた。理性が定型文を吐き出す。

 

「すみません、事件の詳細は差し控えるように警察に言われているので」

「そっか、わかった。付き合ってくれてありがとう。変なこと聞いてゴメンね。これからも陰ながら応援しているよ」

 

 それだけ言うと、青年は席を立った。去り際に、ふと思い出したように振り返る。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 それはまだ、彼にもわからない質問だった。個性の壁に阻まれ、いつか取りこぼしてしまう命があるかもしれない。

 

「そう、思います」

 

 確信ではなく、何かあればすぐ崩れてしまいそうな願望を口にした。

 

「そう。じゃあ頑張ってね。勝手な話だけど、ぼくの分まで」

 

 それだけ言うと、青年は去った。ちょうど入れ替わりになるように二人が戻ってくる。

 拳藤が人混みに紛れた青年の背に視線をやった。

 

「どしたのあの人。あ、ひょっとしてファンってやつ?」

「って言ってた。雄英のOBなんだって」

「へえーそうなんだ。てかもうファンとかいるのか~。わたしらも声かけられはするけど、テレビで映った人程度だからなー」

「嬉しいけど学生の身だし、分不相応な感じがするんだよね」

 

 謙遜でその話は終わったが、青年の投げかけた最後の質問は彼の心をささくれだたせたままだった。

 

 弱個性でも、誰かを助けられると思う? 

 

 もしかしたら、じぶんが弱いせいで誰かを傷つけてしまうのではなか、という不安が色濃く影を落とした。

 そうしてあの青年と同じように頑張れなくなって、諦めてしまうのだろうか。

 

 どしたの? と柳が顔を覗き込んで心配そうにする。

 

「さっきの人になんか言われた?」

「いや、なんでもない」

 

 と、彼は湿った疑念を振り払う。楽しみにしていた打ち上げの日に考えても栓の無い話だ。

 

 

 

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 打ち上げはショッピングモールから少し離れたレンタルスペースで行われた。

 十数人が楽に入れるほど広々としており大型のテレビや台所などもあるが、一時間あたり三千円もいかないので割り勘すれば格安だった。

 

 食べ物はスーパーで適当に買ってきたスナック菓子やカットした果物、冷食をチンして紙皿に盛っただけだが、学生にはこれが結構嬉しい。

 

「蛙吹さん手際いいね」

「いつも弟妹の世話してるから」

 

 へーと感心しながら手伝っていると、あっという間に準備が整う。

 

 アテはもちろん演習試験の映像だった。

 戦闘訓練と同じく復習目的で配布されたものだが、真剣勝負の対個性戦はヘタなアクション映画より迫力があって面白い。体育祭が一大イベントになるのも頷ける。しかも本人のコメント付きで見られるのだから盛り上がらないはずがない。

 

「マジでミルコ先生容赦なくってさー、もーでっかいたんこぶ出来てびっくりしたよ。『酸』は全然当たらないし」

「芦戸がやられたから個性で身体バラバラにして逃げようと思ったら、一瞬で全部に蹴り入れてくるんだもん。三十分割した身体のパーツ全部にだよ? まいるよホント。でっかいたんこぶ出来るしさー」

「角を飛ばす暇も無くでっかいたんこぶ出来ましたー」

 

 ぼこぼこにされたのも今となっては笑い話だ。

 拳藤のグループで一瞬むらっと変な空気になったが、それも無理やり笑い飛ばす。

 

「この時は必死に起きてようとしたんだけど、それが夢の中なのかどうかもわかんなかったよ」

「あのうらめしい鞭、現役の時のアイテムらしいよ。ヤバい時にしか使わなかったみたいだから知られてないみたいだけど」

「初見殺しだよね。近づけばなんとかなると思ったけど、無茶苦茶っつーか。結局どうすればよかったんだろ」

 

 あーだこーだと炭酸ジュース片手に議論は弾み、『ポルターガイスト』を付与した状態の彼を『大拳』で脱出ゲートまでぶん投げ、着地は柳がコントロールするというのが回答だろうという事に落ち着いた。

 

 一通り見終わり、ショッピングモールで何を買ったか軽く見せ合った後、夕方前には帰る準備に取り掛かる。

 その最中に、ぽつりと彼がこぼすように言った。

 

「今日さ、実はかなり楽しみにしてたんだよね」

 

 そうなんだ、と拳藤がなんとなしに答える。

「そういえば今日行ったショッピングモール、来た事ないって言ってたね」

「まあそれもあるんだけど」

 

 彼は雄英に来てからまだ一度も、休日に友達と遊んだことがなかった。

 芦戸、取蔭、耳郎が学校帰りに寄り道したり、週末に映画やショッピングを楽しんでいるのはなんとなく耳にしている。その他にも、クラスメートどうしでちょくちょく出かけているらしい。

 それを羨ましいと思うのも仕方がない。

 

 だから今日を切っ掛けに、もう一歩仲良くなれたらな、と勇気を出した。

 恥じらいを誤魔化すように、背を向けて食べ終えた紙皿を片付けながら言った。

 

「ほら、あんまりその……1-Aの、と、友達と出かける事って無かったから」

 

 それを聞いて、女性陣は顔を見合わせる。

 クラスのみんなは、決して彼を仲間はずれにしているわけではない。普通に仲良くしたい。

 

 ただ純粋に、異性と休日に遊ぶ約束をするのはハードルが高すぎないか? そんなのもうほとんどデートの誘いに近い気がする。無理だ、出来るわけない。結局、同性でツルんでた方が気楽でいいと斜に構えて誤魔化すしかない。まあ、向こうから誘ってくれれば予定を空けるが? 

 

 そう、基本的に思春期の無駄に性欲があり余る多感なお年頃は草食系の受け身なのだ。こればっかりはもうホントにしょうがない。

 だがそれを理由に距離を置いていたのも事実だ。寂しい思いをさせてしまったかもしれない。

 

 なんとなく、男女の友情の捉え方は難しい。

 

 もしもあと一人でも1-Aに男性がいれば話は別だっただろうが、彼の友達になれるのは現状ではじぶんたちしかいないのだと改めて気づく。

 そしてせっかく向こうから歩み寄ってくれたのだから、こちらも勇気を出すべきだった。

 

「わたくしはその……あまり殿方と休日を過ごしたことが無かったので、エスコートできるか不安で誘えなかったのですが、改めるべきですわね」

 と八百万が申し訳なさそうに頬に手を当て、塩崎と視線を合わせる。小さく頷かれたので勇気を出して続けた。

「こんど塩崎さんと日本風景画の特別展に行く予定なのですが、いかがです? 興味が無ければあまり面白くないかもしれませんが」

「え、行く行く。行ってみたい!」

 

「え、映画とか観に行くほう? 気になってたホラーがあるんだけど」

 と、柳が探るように言った。

「ウェルズの透明人間の再々リブート版なんだけど。いや他に観たいのあったら」

 

「行きたい行きたい!」

「あーそれわたしも観ようと思ってた。『透明』の個性使いとしては見逃せないっていうかさ」

 

 もちろん雄英ヒーロー科において余暇は限られているので、毎週遊ぶのは難しい。予習復習、身体づくり、個性の訓練に時間を取られるが、残った僅かな日常の青春を楽しむ権利はある。

 

 こうしてまた一つ、クラスの団結は固まった。

 

「せっかくだから、みんなで写真撮る?」

 小森の提案に、芦戸が「お、いいね~」と、スマホを取り出す。

「またなんかイベント事が終わったらさ、こーやって集まろうよ」

 

 主催者ということで、彼を中心に適当に並ぶ。

『ポルターガイスト』でいい感じに浮いたスマホがセルフタイマーでシャッターを切るまでの短い間に、みんなちょいちょいと前髪や服装を直す。

 

 彼の隣に並んでいた拳藤が、思い悩んだ末に決断を下した。

 友達なんだから肩に手を置くくらい普通、だよね? フツーフツー。

 

 パシャリと鳴り、ちょっと上からいい感じに撮った夏の思い出が記録された。

 

 後日、合宿前に波動と会った時、打ち上げの写真を見せるとなんか燃えていた。

 

 

 

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 雄英のOBを自称する青年が、どこにでもあるようなマンションの一室に入った。部屋には最低限の家電や家具のみで、生活感はまるで無い。

 ベッドに座って胸元からペンダントのトップを取り出した。冷たい金属のフレームに囲われた小指の先ほどのカプセルの中に、生々しく赤い液体が最先端の技術によりいつまでもその鮮度を保っている。

 

 それをカーテンの隙間から射す夕陽に照らすと、宝石のように美しく煌めいた。

 うっとりした顔でその護符を愛でながら、無骨な携帯端末で連絡を取る。

 

「定時連絡です。目標組織に潜入成功、人相や異能も割れました。映像記録は後ほど然るべき手順で送ります。副目標と接触しましたが異能は判明しませんでした」

 

 妙齢の女性の声がスピーカーから返ってくる。その声色に、青年は酔心した面持ちになる。

 

『素晴らしいわね。副目標の異能はうちの記者相手にも喋らなかったし、異能弱者である事は確かだろうから構わないわ……引き続き目標組織の確証監視および妨害工作、余力があれば自己の判断で副目標への誅罰を許可します。わたしの血は足りてる?』

「はい。大切に飲んでるので」

 

 妙齢の女性は柔らかな声色で青年を称賛し、戦士としての名、解放コードを呼んだ。

 

()()、あなたは本当によくやっているわ。これからも使命に報いなさい、われわれの目指す未来の為に』

 

 通信はそれで終わった。

 聖典と呼ばれた青年の服と体表がどろりと溶け落ちる。中から出てきたのは一糸まとわぬ一人の少女だ。

 リュックの中から透明な袋に入った、()()()()()()()()()()を取り出す。デトネラットが裏で作っている製品の一つで、ほぼ全方位の録画録音を可能にする代物だ。

 

 携帯端末にインストールされているアプリで無線通信するとデータが移行される。提出前に最終確認するが、問題なく映っていた。

 

 少女が一息ついて冷蔵庫の扉を開くと、中には小さな香水瓶のようなものが数本あった。その内の一つの封を開け、ちう、と口をすぼめて吸うように飲み干す。

 小さな舌に酩酊の味が広がる。

 

 他人の血を飲む、という条件が満たされ『変身』が起動する。聖典の姿は、緩やかなウェーブを描く藤色の髪と青白い肌をした妙齢の女性になっていた。首元が大きく開いている、ボディラインのはっきりする黒のワンピースドレスを身に纏っていた。

 

 聖典は姿鏡に映る姿に頬を上気させた。唯一の心の止まり木であり、血を吸わせてくれ、異能を抑圧され苦しむ人間を助ける為に活躍する、わたしの本物のヒーロー。

 それは電話口の相手であり、集瑛社に籍を置く専務、気月 置歳であり、そして──

 

 少女がまだ警察やヒーローから逃げ回っていた頃、()()()()()()()()向かえば自然に愛知へと近づく。

 異能解放軍の本拠地の有る泥花市は、全国で最もヒーロー事務所の少ない地域だからだ。

 

 行政と司法にも息が掛かっており動きは鈍い、というより解放軍の指示が優先されている。

 ゆえに身寄りも後ろ盾もない孤独な渡我は出会う。

 

 ──そしてあの日、路地裏で生ごみにまみれた渡我に手を差し伸べ、他とは違うおかしさを受け入れた救済者。

 

 固唾を飲み、ベッドに倒れ込んで細く柔らかな髪の香りを吸った。甘く、そそる匂いがする。

 キュリオスさま、と甘えるようにその名を囁く。

 そのまましなやかな指先で下腹部を撫でまわし、なぞる。やがて荒い息遣いと粘質な音が、暗く蒸し暑い部屋に溶けだした。

 

 

 

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【挿絵表示】

 

 

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第十七話 バスケと温泉

「お~すごいキレイな所じゃん。合宿所ってかホテルみたい」

 

 バスから降りた取蔭が感嘆して言った。

 三階建ての建物は変に気取った造りになっておらず、質素ながらも手入れが行き届いており清潔感と伝統が感じられた。玄関前のちょっとした造園もわびさびの趣がある。

 山の中という事もあって涼しくて過ごしやすそうだ。

 

 荷物を置くために部屋に向かうと、小さく簡素ながらもシングルルームが割り当てられていた。

 さすが雄英が例年使っているだけはある。

 

 バス移動を伴う初日という事で、軽いジョギングの後に入学時にやった体力測定で現状と成長を把握し、レクリエーションが始まる。

 集まったのはバスケットコートが二つ入るほどの広さの体育館で、空調も効いており、全国大会で使われていると言われてもおかしくなかった。

 よく磨かれた床が、高い天井の照明をまばゆく反射している。

 

「んじゃあバスケで七対七の対抗戦でもやりましょっか」

 

 ブラウスにパンツスーツのミッドナイトがボール片手に言った。

 お~、と生徒たちの控えめの歓声が聞こえる。

 

「ただし、普通のバスケじゃつまんないだろうから、個性を自由に使っていいわよ!」

 

 お? おお~! と生徒たちは強い盛り上がりを見せる。

 今まで個性を使う時と言えば訓練ばかりで、スポーツの試合で使ったらどうなるかは未知だった。それも、相手は雄英の訓練を受けた者どうしである。

 

 チーム分けは厳正なクジの結果、以下の通りになった。

 

 Aチーム

 蛙吹、芦戸、取蔭、耳郎、小森、塩崎、小大

 Bチーム

 拳藤、柳、角取、葉隠、麗日、八百万、それに彼が加わる。

 

 ミッドナイトを審判に、ジャンプボールが始まる。

 ジャンパーは拳藤と蛙吹が選ばれた。

 

 ボールが投げ上げられる。

 蛙吹は舌でボールを弾こうとするが、『大拳』のパワーに押し負けた。バレーのスパイクのように飛んでいったボールは、ゴール下で待機していた彼までダイレクトに届き、あっという間に二点入った。

 

「まー拳藤がジャンパーなら勝てるヤツはいないか」

 スローインの為にエンドラインに立った芦戸がぼやく。トスが最高点に到達する前に触れる事はバイオレーションになるので、諦めるしかない。

「ま、切り替えて行こっか。梅雨ちゃんパス」

 

 ボールを受け取った蛙吹は『カエル』の脚力を活かして高く跳んだ。

 全員がその放物線を描く彼女を視線で追い、ポカンと見上げた後に豪快なスラムダンクで呆然とした。

 三点入る。

 

「いやいや、エンドラインからダンクて」

 麗日が呆気にとられたままツッコミを入れる。

「こんなん事実上、どこからでもスリーポイントって事じゃん」

 

 全員がなんとなく、この競技のヤバさに勘づき始める。

 

 今度は彼が「こっちこっち」と声のする方にスローインする。するとボールは空中に浮かびスィーと進んだ。端には体操服が畳まれて置いてある。

 

「あっ! ちょっと葉隠、それトラベリングしてるだろ絶対!」

 取蔭が指摘するも、しれっと答える。

「え~そんな事ないよ」

「そんな事あるだろ! 審判!」

「んー、確認できないからセーフ」

「せめてコートから出るなよ!」

 

 そのままゴールまで一直線かと思いきや、耳郎の正確無比な『イヤホンジャック』が瞬く間にボールを絡めとる。

 

「梅雨ちゃん!」

「ケロッ!」

 

 再びダンクが決まるかと思いきや、ゴールの真下で待機していた柳の『ポルターガイスト』の射程範囲内に入ったボールは蛙吹の手を離れて反対側のゴールに向かうも、取蔭が『トカゲのしっぽ切り』で手を飛ばしてキャッチした、ところで『角砲』により妨害されるという謎の空中戦が始まる。

 

 これがバスケか? 

 その訳の分からなさに可笑しさが込み上げてきて、一時はなんだか笑いが止まらなくなった。

 仕切り直して、『無重力』が付与されたボールの等速直線運動パスが、レーザービームのようにコートの端から端まで貫く。

 

「ナイス麗日!」

 

 ノーマークだった拳藤が追加点を狙う絶好のチャンス。『大拳』の指を使って地面を跳ね、確実にダンクを狙う。

 が、あるはずのリングはそこに無く、替わりにミニチュアのような小さいゴールにボールを叩きつけてぶっ壊した。

 

 拳藤は汗を拭い、呼吸を荒くしたまま、そばに居た小大を見つめた。てん、てん、とボールが小さく跳ねながら転がる。

 

「ん」

「いやさすがにこれは……」

「問題ありませんわ拳藤さん! 『サイズ』対策なら既に取り掛かっていましたので」

 

 八百万が新たにゴールを『創造』していた。今度は触れられないように、ボードより下の部分には電流が流れる有刺鉄線が巻き付けられている。

 

「ナイス八百万!」

「大きいので少々時間が掛かってしまいましたが、今からわたくしも参戦いたします」

 

 その後もルール無用の超次元バスケは展開していく。

 

「クソッ! コート一面がキノコだらけでドリブルできない! やっぱバスケは空中戦だ、頼んだぞ角取、レイ子!」

「ダメ、先にリングに蓋する塩崎の『ツル』をなんとかしないと!」

「わたしが剪定しマース!」

「『角砲』はわたしがなんとか溶かすから、ボール持って走り回る葉隠なんとかして!」

 

「だからーそんなトラベリングみたいなことしてないってば」

「いまキノコを生やさせない為の滅菌液を用意しています、必要量が出来るまでもう少し粘ってください!」

「やっぱ上空から俯瞰して指示してる取蔭さんがいると動きにくいな」

「ケロ。疲れ知らずが相手チームに一人いるだけで、後半になるにつれてだいぶ苦しいわね」

 

 ふむん、とミッドナイトは顎に手をやって試合を見つめる。

 もちろんこれは単なるレクリエーションではない。絶えず動き回りながら個性を使用するスタミナ、限定空間で敵味方に分かれた複数人からノーマークや隙を探す観察眼、ボールや相手を傷つけないようにする個性制御。個性のシナジーやコンボといった連携とその対策を練る機転。

 

 この試合はプロヒーローにとって総合的に必要とされる上記の要素を確認する為でもあるのだ。

 ま、悪くないわね。と評価を下して腕を組む。少なくとも、入学時よりは格段に成長している。

 

 例えば蛙吹のエンドラインからのダンクシュート。言葉にすれば単純だが、天井近くまで跳んで二十八メートル離れた場所にピンポイントで着地するのは相応の技量が求められる。

 

 麗日のレーザーパスのコントロール力や耳郎の精密操作性など、挙げればきりがないが職場体験は有効に働いたようだ。

 

 やがてBチームが僅差で勝利して幕が下りる。

 最終的に八百万がボールを増産しまくるのでとんでもない点数になった。

 

 いつの間にやら夕暮れで、夕食も近いのでひとまず個室のシャワーを浴びてから広間に集合することにした。

 温泉も楽しみだったが、それより食欲が勝る。

 わいわいと語りながら体育館を後にした。

 

「いやー楽しかったー。個性使ってシュートとかしたことはあったけど、こういう試合はした事なかったから新鮮だったね」

「またやろうよ。今度は野球とか……サッカーとかも面白くなりそう」

「お、いいねー。魔球ぬめぬめボールとか投げてみたい。絶対にバットで芯を取られないような」

「ん」

「ゴールポストをデカくするのは勘弁してくれ」

「小大さんとバッテリー組むキャッチャー大変そう」

 

 その道中で、彼はふと子供の姿を目にした。視線が合うも、ぷいとそっぽ向かれてどこかに走り去った。

 ここの管理人のお子さんなのかもしれない。

 特に気にも留めず、自室に戻って汗を流した。

 

 

 

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 浴衣でぞろぞろと広間に集まると、いかにも旅館といった御膳が並んでいる。

 

「あ、先生だ」

 葉隠が声を向けた方を見やると、同じく浴衣姿の兎山と香山がいた。

 

「おう」

「こいつご飯と温泉に浸かる時に顔出してんのよ」

 香山が呆れ顔でぶつくさ言う。

 

「指導は明日からなんだし、別にいいだろ」

「合宿中はミッドナイト先生とミルコ先生が見てくれるんですか?」

「わたしは付きっきりじゃないけどな。ま、外部講師だし。ヒーローとしての活動しなきゃならねえから。しばらくこの辺でヴィランを探して回ってる」

「足りるんですか? 人手。他の先生も呼んだ方がよかったんじゃ……」

「あと二人応援に呼んでるから大丈夫よ。外部からの視点と刺激を入れる意味でもね。明日から本格的な訓練が始まるから、その時に紹介するわ」

 

 誰だろ、やっぱプロなのかな? という疑問よりも、まずは目の前のご馳走だ。

 海が近い事もあり、新鮮な刺身に固唾を飲む。

 

 鯛の旨味と醤油のしょっぱさに舌鼓を打った。お決まりの固形燃料で加熱する鍋もいける。飲みてー、と香山は心中でこぼすが、さすがに未成年の前で飲酒は躊躇われた。

 

 

 

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 翌朝、開けた森にある訓練スペースに集合すると二人のプロヒーローが待っていた。

 ワイルド・ワイルド・プッシーキャッツ(WWP)に所属するマンダレイとピクシーボブだ。事務所の名の通り、猫をモチーフにしたコスチュームに身を包んでいる。マンダレイはおっぱいが大きい。どうでもいい事ではない。

 

 彼女らは四人一組のチームだが、十四人の面倒を見るなら二人の助っ人で事足りる。WWPに所属する残りのラグドールと虎は、今頃はプロとしての活動に従事しているだろう。

 

 ピクシーボブが朝日に輝く金髪をかき上げて言った。

 

「それじゃあ早速だけど、今日からきみたち子猫ちゃんの個性を伸ばす訓練に入るから、いろいろと覚悟してね!」

 

 マンダレイが人差し指を立て、後を続ける。

 

「ま、そんなに難しい事は考えなくても大丈夫。基本は負荷をかけて個性を起動する反復練習みたいなものだから。ねえミッドナイト、この子らはまだ個性制御って習ってないんだっけ?」

 

 個性制御、という概念がある。

 発動、変形、異形の3つの型に大別される個性に共通した要素で、それは生まれ持った才能でもあり、努力して伸ばせる技術だ。

 

 例えば手から『爆発』を起こす個性使いが自らの掌に火傷を負わないのは、発動型の個性制御がうまく働いていると言える。個性制御が上達すればするほど発動するまでの時間は減るし、その威力も増大する。

 

 もちろん基礎的な底上げだけに止まらない。水を放出する個性も、その水を極小の粒として放出すれば霧になる。『飛行』もじぶん以外を対象に取れれば、物質を高速で射出できる個性となる。

 個性制御は鍛えれば個性の性質に色を付ける。実戦の基礎にして奥義でもあるのだ。

 

「授業ではやったけど、本格的に取り組むのは初めてね」

 ミッドナイトが発破をかけるように手を叩いた。

「さあ! 時間も惜しいからちゃっちゃっと始めるわよ! マジメにやんないと休日返上で補習だからね!」

 

 冗談じゃない、と1-Aに俄然ヤル気が満ちた。夏休みの海というイベントを取り上げられるのだけは回避せねばならない。

 

「わたしの『土流』で土を操作してそれぞれに合った環境を整えるから、思いっきり個性をぶっ放してオッケーだよ。ちゃんとマンダレイの『テレパス』のアドバイスを聞いて、考えて訓練する事。無心でやっても、ただのストレイキャットだからね」

 

 ミッドナイトが一人一人にメニューを言い渡し、それぞれがWWPの待つ訓練場所に向かう。何が行われているのか、さっそく破壊音が鳴り響いている。

 最後に残った彼が、心なしか目を輝かせて尋ねた。

 

「で、おれはどうやって個性を伸ばせばいいんですか?」

 

 ミルコとミッドナイトは顔を見あせた後ににべもなく言い放つ。

 

「いや、ほぼ頭打ちだから」

「え?」

 

 ぽかんとした顔に、ミルコが告げる。

 

「たしかに個性制御の概念は拡張性を含むが、ものによる。一応『体力』には身体的要素の他に、免疫系、ストレス耐性等の精神的要素も広義に含まれるみたいだが……」

「じゃあもしかして将来的には『病気』の個性を無効化したり、身体の再生能力が上がって瞬時に傷が塞がったりっていうのは……」

「無い。あっても微々たるもんだろうな」

「それは、そこまで断言する理由は……」

「わたしらの()、プロとしての」

 

 ミッドナイトを見やるが、小さく頷かれるだけだった。

 そうまで言い切られると、受け入れるしかない。

 

「えっ? えぇーマジかー……ていうか、えじゃあおれは合宿期間中に何をすれば」

「他のヤツらのメニューには、最低でも一日一回はおまえとの対個性戦が組んである」

「つまりおれは、ローテでクラスのみんなと戦い続けるのが訓練って事ですか?」

「それと、わたしらプロの四人。他のヤツなら過労でぶっ倒れるだろうが、おまえの個性ならこなせるだろ?」

 

 なんか思ってたのと違う。

 が、現実に文句を言っても始まらない。コンクリを砕くパワーや、ビルを跳び越し空を飛ぶ力への羨望はとうの昔に消し去った。

 いまここだけにある、じぶんの個性と向き合う他に術は無い。

 

 軽くウォームアップして適当に時間を潰してから、出席番号順に回ることになった。

 勝率は、体育祭と違いアイテムがあったので初見殺しが成立し、案外悪くは無かった。ただ、翌日からは対策されるだろうし時間と共にみんなの個性制御の練度も上昇する。あまり考えたくはない。

 

 それに加えて、最後のプロとの四連戦で見せつけられた圧倒的実力差に少しだけ弱気になる。マンダレイには勝てたが、彼女の個性は後方支援によって輝く。

 ミルコに吹っ飛ばされ、地面に転がされた。疲労とは別の軽減できない痛みに、起き上がるのが億劫になる。土臭い空気を吸った。

 

「なんだ、嫌になったか?」

 

 ミルコがふくらはぎと太ももの裏をくっつけて座り込み、見下ろす。ちょっとキツめにしすぎたか? と思わないでもない。

 

 だが、基礎的な体術を彼に教えられる人間はいないだろう。これはプロが膝を突き合わせてミーティングで出した一つの結論だ。逆に言えば成長がほぼ頭打ちである理由。

 

 問題なのは個性とのシナジーを持った体術でわからん殺しやゴリ押しされる点にある。だからひたすら全員とローテーションで戦い続けて場数を踏むしかない

 クラスメートにとっても、彼と戦う事で得られる格闘戦の経験値は大きい。

 一石二鳥の訓練だ。これ以外には無い。

 

 こいつにとっては地獄だろうが、とミルコは冷ややかに推し量る。

 それほどまでに勝敗という結果はメンタルに直結する。おのれの弱さを否が応でも物理的にも突きつけられ続ければ、いずれは折れかねない。

 

 ミッドナイトはなにか焦っていたようだが、このままでは無理だろう。

 らしくなく、少しばかり感傷的になって言った。

 

「……明日からちょっと軽くするようミッドナイトに言っといてやるよ」

「いや、大丈夫です」

「そうやって意地張って潰れちまったヤツは山ほど見てきた。この合宿中、いや、雄英に在籍する限り、おまえは数えるのもイヤになるくらい負けて負けて負け続ける。それも格上じゃなく、同級生にな」

 

 不意に、ショッピングモールで会った青年の言葉が脳裏をよぎった。

 

『弱個性でも、誰かを助けられると思う?』

 

 わからない。わからないが、それでもやるしかない。

 今のうちに様々な個性攻撃を体験しておけば、たとえミルコの言う微々たるものであったとしても強くなれる。

 そういった積み重ねがいつの日にか助けになる事を、彼は身をもって知っていた。

 

 夢精パッドの世話にならないほど毎日していたから、いつの間にかあっちの『体力』もついていた。これも個性制御の恩恵だろう。

 

 関係あるかどうかわからないが、波動のモンスターっぷりを思い出す。やはり最低でも一日一善を続けてきてよかった。どんなことでも、継続は大事だった。

 

 だから無数の負けも、決して無駄にはならない。

 彼はゆっくりと上体を起こす。落ち込んだ気を入れ替える為に両頬を叩き、ミルコに笑って言った。

 

「クラスメートや先生たちになら、何百回でも何千回でも負けたって構いません。それが、一回でもヴィランに負けない為の糧になるなら」

 

 その言葉と表情に、ミルコは面食らう。

 同級生に負けないよう頑張るとか、せいぜいその辺の理想を吐く程度だろうと思っていたが、まさか負けを受け入れるとは。それも諦観の念ではなく、未来を見据えている。

 

 一拍置いて小気味よく鼻で笑い、立ち上がって彼の頭をわしゃわしゃと撫でてやる。獰猛な笑みを浮かべた。

 

「弱いくせに生意気だな! 悪くない!」

 

 滅多に褒めないミルコに言われたのが嬉しくて、テンションが上がってつい口走った。

 

「もう一本お願いします!」

「いいぞ!」

 

 彼が立ち上がるのを待たず、ミルコはすぐさま蹴っ飛ばした。

 

 

 

 xxxxxxxxx

 

 

 

 その日の訓練が終わると、今度は自炊らしい。なんだか中学の野外活動みたいで少し懐かしい。

 炊事場に向かう前に、彼は一人の子供に声を掛けられた。バスケの帰りに見た子だ。来年から小学校、といった年頃。

 

 背丈や格好は年相応だが、敵意とも憎悪ともとれる釣り上がった目だけが浮いているように思えた。

 

「おまえは……」

 彼に向かって暗く口を開く。

 

「うん?」

 と返すが、ちょうど角取が呼んだので「ちょっと待ってー」と振り返って声を出す。

 子供に向き直るが、既に背を向けて走り去っていた。

 

 なんだったんだろ? と小首をかしげるがお腹が空いたので考えるのは後にしてみんなと合流する。いくら体力に自信があるといっても、空腹を軽減できるわけではないのだ。

 

 

 

「にしても料理かー、あんまりやらないから上手く作れるか不安だな」

 耳郎のぼやきに取蔭が後を続ける。

「味はいいよ、なんでも。ていうかお腹空いたから早く作ろ。正直もうじゃがいも焼いたのでもいい」

 

「カレーだからそんなに変な事にはならないよ」

「ケロ。基本的に順番通りに煮るだけだしね」

 

 おお、もしや料理の腕に覚え有りなのか! と視線を集めたのは、上京して一人暮らしをしている麗日と、妹弟が多いため家事の手伝いがてら料理をしている蛙吹だった。

 じゃあこの二人を中心にして作ろうとなった時、おもむろに彼が口を開く。

 

「小森さんの個性で作ったキノコとか入れたら美味しいんじゃない?」

「えっ?」

 

 突然の提案に虚を突かれた小森に、次々と期待の視線が向けられる。

 

「おおー! いいかも。マッシュルームとか好きだよ」

「そーいえばトリュフとか出せるんでしょ? 食べてみたーい」

「そういった香り高いものは薄めのルーでリゾットに合わせた方がよろしいかと。ボルチーニ茸も定番ですわね」

「あー、リゾットも割と簡単だね。出来るよ」

 

 さすがお嬢さまな指摘に急遽カレーチーズリゾットもメニューに加わり、かくして出来上がった小森のキノコカレーとリゾットは大変好評だった。

 

「うわー、これマイタケ? しめじ? かわかんないけどこんな美味しいんだ!」

「ああ、このままでは暴食の罪に身を委ねてしまうとわかっていながらも、手が止まりません」

「カレーとリゾットの二品って多いかなーと思ってたけど、足りんわこれ」

 

 小森ありがとー、といい笑顔で鍋の底まで綺麗に食べつくし、米の一粒も残らなかった。

 

 その様子を見て、小森は密やかに目じりを拭った。

 中学までは使うのを躊躇っていた個性を喜んでくれる人がいるのは、嬉しい。雄英に来て本当に良かった。

 

 後片付けは、全然疲れてないからと彼が申し出た。割とみんなへとへとだったので、今回は厚意に甘える事にする。

 炊事場で食器を洗っていると、小森がこっそり手伝いに来た。

 

 鍋をゆすいでいる途中で、小さく彼に言った。

 

「ありがと」

 

「うん?」

 思い当たる節が無いので彼は合点がいかず、少し困ったような顔をする。むしろ小森には助けてもらった。訓練の後で疲れているのに、個性を使ってもらったのだから。

「礼を言うのはこっちの方だと思うけど、何の事?」

 

「いや、別に」

 

 小森はそれ以上語りたくなさそうだった。長い前髪で隠れた表情は窺えないが、嬉しい事があったようなので深くは追及しないでおいた。

 

 

 

 満腹の幸せ気分でいざ温泉、といったところで彼に『テレパス』が走る。

 

(ちょっと話があるんだけど、少しいい?)

 

 マンダレイに呼び出されて合宿所の裏手に行くと、彼女は訓練の時とは違いどこか迷いを持った表情をしていた。

 

「ミッドナイトから聞いたんだけど、きみがマスキュラーを倒したんだって? 世間一般にはネジレチャンがやったって認識だけど」

「え? あ、はい」

「小さな子供、ちらほら見かけたでしょ。出水 洸汰っていうんだけど」

「はあ」

 

 それにしては弱すぎると怒られそうで身構えていたが、どうも違うらしい。

 彼女の口から出た言葉は想像とはまったく別のものだった。

 

「ウォーターホースってプロヒーロー、知ってる? 二年前、マスキュラーに殺害された」

 

 

 

 xxxxxxxxx

 

 

 

「露天風呂だー!」

「しかも海が見える!」

 

 葉隠と芦戸がはしゃぐのも無理ない。

 小高い山の上に建てられた合宿所から一望できる水平線に沈む夕日は、過酷な一日の終わりを告げると同時に労われているような風情があった。朱を反射し、炎のようにゆらぐ海がまた心を和らげる。

 広い岩風呂の湯舟にはかけ流しの温泉がなみなみと張っており、山の樹木の緑を映し出していた。柔らかい鏡面のようにも見える。

 

 はやる気持ちを抑えて洗体し、少ししびれる熱さの湯に浸かる。訓練で酷使して凝り固まった筋肉繊維の一本一本が解きほぐされていくような心地に、ふにゃふにゃのため息が出た。

 

 効能は疲労回復や切り傷打ち身等々。雄英が長年指定する合宿所なだけはある。

 しばらくすると何人かが小休止のため、縁の大きな岩に背を預けるように腰掛けた。ごつごつしているが、それも気持ちいい。

 

 何も言えない。

 美味しいカレーとリゾットによる満腹感と風呂の心地よさで本当に何も言えなくなった。ぼうっとして夕暮れを眺める。逆光で影絵のようになった船が、ゆっくりと動いている。

 極楽とはこういう事を言うのかもしれない。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 からから、と引き戸を開ける音がした。男湯から。

 だからどうという事は無いが、みんな黙った。もともと声も出ないほど癒されていたので他意は無い。

 

「わー、初日にシャワーで済ませたの勿体なかったな」

 と彼の声が響く。

 

「なんで、おまえみたいなのと一緒に風呂に入んなきゃならないんだ」

 

 ぶつくさ言う声は子供のようだ。そういえば時折見かけた気がする。

 

「なんか聞きたい事があったんじゃないのかなーって、だからさっき話しかけてきたんでしょ?」

 

 返って来たのは小さな舌打ちだった。

 彼は気にせず身体の汚れを落とし、ざばりと湯を被って流した。ゆっくりと湯船に浸かると、ふにゃふにゃのため息が出た。

 やがて観念したのか子供も入って来る。

 

「おれは、おまえらみたいなやつらが嫌いだ」

 ぼそりと吐き捨てるように、特定の誰かというより社会に対して呟く。

「個性訓練だか知らねえけど はしゃいじまって、おとなしくしとけばいいのに調子に乗ってヴィランと戦って、勝手に死ぬ。残されたヤツの事なんか微塵も考えてない自己中の集まりだろ。個性なんてこの世から無ければいいんだ、そうすりゃ使うやつもいないんだから」

 

「あー、おれも個性なんて無きゃいいって思う事はあるなー」

「え?」

 

 予想だにしない返答に子供は戸惑う。

 

 彼にも劣等感や妬みといった感情くらいはあった。

 炎を操ったり、飛んだり、蛇になったり。特に幼少の頃は、そんな個性に比べると『体力』は貧相に思えてへそを曲げもした。

 それに、理由はもう一つある。

 

「突発的な個性犯罪とか起こったりして、それで怪我したり亡くなる人がいると、個性なんて無い世界の方が平和なんじゃないかって考える事もあるし」

 

 子供は初めてじぶんと同じ意見を聞き、言いようのない高揚を感じた。同時に、矛盾を感じて苛立ちを覚える。

 

「じゃなんでおまえは個性を鍛えてんだよ、それが超人社会を成り立たせてるって事くらいわかるだろ」

 

「わかる。けどおれが生まれるよりもずっと前、まだ個性がこの世に無かった頃はどうだったんだろうって調べた事がある。想像よりも全然平和じゃなかった。やっぱり突発的な犯罪が起きて、それで怪我したり亡くなる人はいた」

「なにが、言いたいんだよ……」

 

「個性が悪いんじゃない。悪い事する人が悪いんだと思う。中には環境とか、込み入った事情がある犯罪者もいるかもだから一概には言えないけどね」

 ぱしゃりとじぶんの顔に湯を浴びせ、続けて言った。

「個性を鍛えてるのは、もし目の前で個性犯罪が起きた時、後悔したくないからかな。あとちょっとでも強くなってれば助けられたのにって思いたくないし」

 

「そうやって他人を助けようと首突っ込んで返り討ちにされても、おまえや他人は名誉ある死とかキモい事言って満足かもしれねーよ。けど、それで残された家族の気持ちはどうなるんだ? おまえが死んだら。おまえの家族がどう思うか考えねえのかよ」

「それは……家族に悲しい思いさせるのは嫌だ。から、死なないように頑張る。としか言えない」

 

「辞めりゃあ済むいい話だろ、ヒーローなんて……わけわかんねえよ、おまえら、頭おかしいだろ」

 子供は立ち上がり、涙を拭って叫んだ。

「おれは! 見ず知らずの人間を助ける為にパパとママが死ぬくらいなら、赤の他人なんて見殺しにして逃げてほしかった!」

 

「おれがきみの立場なら、同じこと考える。他人の命と家族の命なら後者を選んじゃうだろうな」

「じゃあどうしてヒーロー目指すんだよ! 残された家族の気持ちがわかるのに、殺されるかもしれねえのになんでヴィランと戦おうとすんだよ!」

「そのヴィランが、いつかおれの家族や大切な人を殺すかもしれないから」

 

 ふと、ファンザ本社で波動の為に立ち向かった事を思い出した。今でも震える恐ろしさがある。

 おそらくこの出来事が無ければ、なぜヴィランと戦うのか、という問いには答えられなかっただろう。波動ねじれを殺されたくないから、戦った。

 

 彼がヒーロー目指す根本原理を得たのは意外と最近のようだ。

 だから花火田を追うと決めた。もちろん赤の他人であってもそうだが、家族や大切な人が、拘置所で面会した男のように利用されるのを防ぎたいのだ。

 

 子供は、力なく湯船に座り込んだ。

 結局のところ、いずれの問いも彼の出した答えに帰結する袋小路なのかもしれない。ヒーローの代わりに警察が矢面に立っていた大昔も、今も。

 

 保身の為にヴィランから逃げても、巡り巡ってそいつが大切な人を害すると感じればそこで止めるしかない。

 マスキュラーから市民を庇って殉職したウォーターホースもプロだ。ヴィランを前にして、()()が走った。

 こいつを放っておけば、いずれ息子に危害を加える時が来るかもしれない、と。だから立ち向かった。

 

 どうあがこうが悪は存在し、それを止める為に貴い犠牲が払われる事がある。

 その犠牲を少なくするために、超人社会を生きるヒーロー志望は個性を鍛えているのかもしれない。一人でも悲しむ人を少なくする為に。

 

「きみの言う事は全部正しい。個性は無い方がいいだろって思う事も、他人を助ける為に身内が死ぬくらいなら見捨てて逃げてほしいって事も、家族が殺されて名誉ある死とか他人に言われても困るって事も、残された家族の事を想いやるのは一段と正しいし、それを理解していてもヒーローになってヴィランと戦おうとするおれはおかしい」

 

 子供は口を開いて何かを言いさしたが、やめた。全ての主張を肯定されたのでは、返す言葉が無い。諦めとは少し違う、これが納得なのか。

 やがて木々の間から鳥が飛び立った。翼を羽ばたかせ、薄暗い空をゆく。夜明けの為に。

 

「出水 洸汰」

「うん?」

「おれの、名前。マスキュラーの最後は……どんなだった。パパとママを殺したヴィランは、どうやって倒された」

 

 そうだなあ、と思い悩む。まず、今さら「ご冥福をお祈りいたします」などと言っても煙たがられるだろうから心の中で済ませる。

 そしてマスキュラーの凶行の犠牲となったウォーターホースの息子の洸汰になら、個性に絡まない範囲でなら話してもいい気がした。

 

「んー、白目向いて泡吹いてぶっ倒れてたよ。相当苦しんだと思う」

「それ、おまえの個性でやったのか」

 

 彼は歯切れ悪く答えた。というか、子供相手にソレをどう呼称するのが正解なのかわからない。

 

「えっと、おちんちんを思い切り蹴り上げた」

「えッ!? ちんちんを! おまえそれは……」

 

 まだ五歳児と言えど、そこが急所とはいえ褒められた行為でない事は理解しているらしい。

 二人のシリアスな話の途中から声を出すのもはばかられ、なんだかしんみりしていた女湯の雰囲気が一変する。

 

「いやわかってるけど、他に方法が無くて仕方なく……もちろんちんこ*1を攻めたから勝ったなんて単純な話じゃないんだけど」

「だよな、ちんちんっていうかキンタマを攻撃しただけで勝てるなら、とっくに捕まってるよな」

「あ、そうそう。ちんこじゃなくてキンタマの方が正しいか」

 

 女性がちんこって言っても何とも思わないけど、男性がおちんちんとかちんことか言うのってなんかエッチだな。

 女湯の中で、もぞりと太ももをすり合わせる。

 

 壁の向こうでは、洸汰がじぶんの身体と彼の身体を見比べ、もじもじして言った。

 

「あのさ、その、そういうふうに筋肉付くのってどれくらい鍛えればいいんだ」

「え? どうだろ。覚えてないなあ」

 と彼は首をかしげる。『体力』にモノを言わせてトレーニングしているので、参考にはならないだろう。

「でも洸汰くん……って呼んでいい? くらいの歳から身体に合わせて筋トレしてたら、おれと同じくらいにはなると思うよ。マンダレイに見て貰えばどうかな?」

 

 ほら、と言って力こぶを作って見せると、洸汰が羨望の眼差しを送る。

 

「さ、触ってみてもいいか?」

「いいよ」

「おお、思ったより硬いんだな」

 

 人はなぜ他人の筋肉に触れたがるのか。格闘選手がバラエティー番組とかに出ると、だいたいその流れになるお決まりのようなものがあるのかもしれない。

 

「すげえ、胸筋? もある。へんな揉み心地」

「ちょっとくすぐったいって洸汰くん」

「別にいいだろ、男なんだし」

 

 おいおい、こんなの深夜アニメでしか聞いた事ねーよ! 

 まさか温泉で男どうし触りあってキャッキャしてる状況がホントにあるとは思わなかった。

 流れで息をひそめていたが、なんだか悪い事をしているような気がする。

 

「成長期はこれからなんだし、すぐ身体も大きくなると思うよ」

「ふうん」

 一通り彼の体を触って満足した洸汰が、今度は下を見比べて言った。

「なあ、ちんちんも自然にデカくなるもんなの? おまえみたいに」

 

 デッ──と女湯の空気が固まる──大きいのか。

 

 しかし三歳の頃に親を亡くし、マンダレイに引き取られた洸汰にとっては純然たる疑問だった。

 それを理解している彼は、逃げずに答える。マンダレイが独り身であれば、こういった性教育を受ける機会も少ないかもしれない。

 これは真面目な話だ。エッチな話ではない。

 

「うーん、他の人のちんこと比べた事無いからわからないけど、こんなもんじゃないかな」

「邪魔じゃないのか? ……まさかそれ以上大きくならないよな」

 

 湯の中のソレを見下ろす洸汰は不安だった。彼の歳でそんなに大きくなるのなら、そのうちズボンの裾からはみ出て踏んずけてしまいそうな気がする。

 

 彼は安心させるように言った。

 

「基本的にはこれくらいで止まると思うけど、身体の成長だから心配しなくても大丈夫だよ……でもまあ、これくらい大きくなる時もあるかな」

「……えっなにそれこわい」

 

 彼が手で表した大きさに戸惑った。時々大きくなる意味が分からない。

 

「え、なんで? どういう時に大きくなるんだ?」

「んー、それはね」

 

 湯に浸かっていなかった取蔭が手を飛ばし、脱衣所に繋がる扉を開けて露骨に口走った。

「うわー! すごい! 広い!」

 

 彼の説明は気になる。知見を広める意味で非常に興味深い。だがさすがに黙って聞くのは罪悪感と言うか、悪い気がする。

 まあ、さすがにマズいか。と拳藤もそれに乗った。

 

「お湯も、なんかこう、とろっとしててスゴイ! みんなも早く入りなよ!」

 

 なんだこの不自然なセリフ回しは。

 とにかく全員が今来たと言わんばかりに演技する。誰かが深夜の通信販売の売り文句のように湯を褒めだした。あるいはマンションのCMのように夜景をアピールする。

 男湯は静かになり、しばらくすると「そろそろ上がろっか」と彼の声が聞こえた。

 

 残った1-Aはすっかりのぼせ上った小大を介抱したり、星が輝きだした夜空を見上げて感傷に浸る。

 まあ子供のソレと比べるとそりゃそうかもだけど、そっかあ。そうなんだ、なるほどなー。

 そうして月の浮かぶ空に、黒線とモザイク越しにしか見た事のないソレに思いを馳せて星座を描く。

 そんなことしたらたぶん満天の星空も怒ると思う。

 

*1
もろちんちんこに見えた





【挿絵表示】

キャパオーバーで間に合わなかったボツ。
南無南無です。


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第十八話 海

 林間合宿も半分折り返し、待ちに待った厳しい訓練の合間の休日。かねてより楽しみにしていた海に向かうため、彼は荷物をまとめていた。財布、日焼け止め、スマホにタオル。それと──

 

「あれ?」

 

 眉をひそめてバッグを漁るが、何度確認しても無い。肝心の水着のトップが無い。

 焦燥感に駆られながら、合宿前の記憶をたどる。

 

 直接肌に触れる物なので、誰かが試着した場合を考えて一度洗濯した。そのあと試しに一度着て姿鏡で確認した。サイズや思ってたのと違うといった違和感も無く、満足のいく物だったのは覚えている。

 で、一回着たのでまた洗濯機に入れた。それから荷造りして確かに準備したはず。

 

 うーんと腕を組み、荷物が散乱した部屋を見渡し、なんとなく見当がついた。Tシャツタイプだが、よく似た黒のインナーシャツを手に取る。おそらくこれと水着のトップと間違えてしまったのだろう。

 

「コスチュームといい水着といい、黒い服って相性が悪いのかなあ」

 

 愚痴ったところで無い物は無い。

 上半身裸は猥褻物陳列罪、とまではいかないが軽犯罪法に引っ掛かるので論外。

 訓練用に持ってきたTシャツもあるが、専用のラッシュガードに比べて速乾性に劣る。海の家で小休止する場合もあるし、そんな時に濡れたままは不快だろう。

 

 八百万に『創造』してもらうのも手だが、コスチュームの時と違い完全に自分の落ち度だ。尻拭いを他人に任せるのは気が引ける。それに八方ふさがりの非常時でもない。

 結局、また新しく買うのが妥当な解決策だろう。無駄な出費になってしまったが、前回の事件でお小遣いが増えたので許容範囲内だ。

 

 クラスメートと一緒にバスで街まで下りるが、そこでいったん分かれて調達する事にした。水着を忘れたと伝えるのが少し恥ずかしかったので、海の家で買うと高いから飲み物だけみんなのぶんをスーパーで買ってくると適当に理由を付けた。何人かが同行を申し出るも、やんわりと断る。

 ただ、ショッピングモールで懸念していた問題が不安だった。

 

 

 

 一足に先にビーチに着いた1-Aの面々はさっそく水着に着替えて、白い砂浜に足跡を付ける。

 

「海だー!」

 芦戸が見たまま感じたままを言う。人はなぜか海に来ると必ずそう言ってしまうのだ。

 

 眼前に広がる澄んだ空と、アクアマリンの宝石が溶けだしたような海辺。響く波の音が非日常感を演出していた。独特な潮の香りに、テンションが上がる。

 

 夏休みシーズンという事もあり、家族連れもちらほらいるようだ。サーフィンエリアではサーファーたちが軽やかに波に乗っている。こぢんまりとした年季の入った海の家が、いい味を出していた。

 ちょっとした穴場なのかそれほど混んでおらず、ちょうどいい賑やか具合。

 

 さっそくビニールシートを敷き、サンパラソルを立て、クーラーボックスに氷を『創造』する。これらは雄英で代々受け継がれている物らしい。毎年利用してくれるお得意様という事で、合宿所が管理してくれているそうだ。

 

 あとで甲矢に聞くところによれば、ボロになったら卒業生が寄贈する習わしがあるとのこと。

 伝統と聞くとなにやら古臭くて堅苦しい印象があったが、こういう事なら受け継いでいくのに嫌な気はしない。高校生にはレンタル代もバカにならない出費だ。

 

「けどまあ、どんなのだろうね」

 一通り設置が終わると、ぽつりと誰かが言った。

 どんな、とはもちろん誰かさんの水着の事を指す。別にいやらしい意味ではない。気になるお年頃なだけだ。

 

「普通な感じっしょ。そんなきわどいのを着るような性格じゃなくない?」

「まー、Tシャツのラッシュガードにサーフパンツって感じかー。セーラーも普通っちゃ普通の範疇だけど」

「……でもレイ子がどんなの買ったの? って聞いたら秘密とか言ってたし、もっと普通のにすればよかったみたいなことも……てことは逆に──なんじゃないか」

 

 そんなに細かく覚えてたんだ……と誰かが意外そうに見やる。

 

「どーでもいいでしょ」

「えー、気になるじゃーん」

「あの、みなさん、あまり色欲に惑わされるのはいかがなものかと……」

「うん? ファッションとしての話だけど? そーゆーふうに考えてたのか~」

「ち、違います!」

 

 わいのわいのと静かに盛り上がるが、実はそれほど過度な期待はしていなかった。なぜならどんな水着だろうと一般販売されている限りは、彼の初期コスチュームのエッチさには敵わないからだ。

 

 アレを超えるとなると、たぶん年齢区分が変わる。例えるならイメージビデオとAVの壁を乗り越えるようなものだ。

 ただ水着は水着でそれを着る限定的シチュエーションも加わるので、一概に劣るとは言えないので楽しみには違いなかった。

 

 海に入るのは彼が来るのを待ってから、という事で軽く準備体操でもして時間を潰していると、緊張で少し上ずった声が聞こえた。

 

「ごめんごめん、ちょっと遅くなった」

 

 かくして現れた彼の姿にみな言葉を失った。

 

 ぱっと見、上に大き目のセーラー水着一枚しか着ていないのだ。

 下はどーした。

 

 履いてない!? いや違う、彼がそんな卑猥な格好をするわけがない。

 おそらくオーバーサイズのトップ丈で短いボトムを隠すことにより、まるで履いていないかのように錯覚させるエッチな着こなしだ。

 

 もちろんこれは仕方ない事だった。この()()()()()()()()()()()()()()()()わからないから、ショッピングモールで買っておいたのに、忘れた彼が悪い。

 

「いやあんたそれは……」

 

 目を泳がせた小森が注意しようとするが、どこか歯切れが悪い。

 彼はその反応を見て、やっぱりバレたかと観念する。

 

「実はトップだけ忘れちゃったからさっき買ってきた。もうサイズが無かったから大き目になっちゃったけど。やっぱ変? だよね、上下がバラバラだし」

 

 お決まりのように柳に振られる。

 

「え!? うーん、どうだろ、ゆったり系ビッグシルエットって今年の流行りだし……いいんじゃない? わたしはいいと思うけど、うん、いい」

「そう、かな。だったら小大さんに小さくしてもらわなくてもいっか」

 

 買ってきた飲み物類をクーラーボックスに入れる為に屈むと、丈の短い黒のショートパンツ水着が見え隠れした。

 もしトップがセットアップされたタンクトップ型なら、お~けっこう攻めたの選んだな~、くらいだが、この場合はちぐはぐである事が逆にエッチだった。

 

 セーラーで隠れている分、ただの水着であるはずのショートパンツがあろうことかトランクス型の下着感を演出している。つまり一人二役、一石二鳥、一粒で二度おいしい一挙両得の二刀流だった。

 エッチだ……初期コスチュームがパワーのエッチなら、今回の水着はテクニカルにエッチだ。

 

「ん」

 と小大が空を仰ぎ見て答える。慌てて柳がバッグからポケットティッシュを取り出して、サンパラソルで日陰になっているビニールシートまで手を引いた。

 

 まさか初期コスチュームに勝るとも劣らない水着で来るとは。予想外なぶん、得した気分。

 しかしせっかくの海を前に、そんな感慨にいつまでも浸っているだけではもったいない。

 さっそくビーチボールを膨らませ、七対七に分かれてビーチバレーを楽しむことにした。

 ポールなどは無いし『創造』しても後始末に困るのでネットは雰囲気、コートの大きさも適当に砂浜に書いて遊ぶ。

 

 オリエンテーションの時のように個性を使うわけにはいかないが、それでも慣れない砂浜に脚を取られたりするのが面白く、盛り上がった。

 

 ただ、彼がフロントのポジションにいると同じチームのバックポジションの動きが鈍くなる。

 彼がレシーブの際に前傾姿勢になると黒いショートパンツがちらちらするのだ。下着に見えるのでなお不健全だった。

 

 女性にとって、男性のどんな下着が好みかはけっこう分かれる。

 その議論に結論を出すと宗教戦争に発展するのでここではぼかすが、Tバックなどの過激派を除くと二大宗派としてボクサーパンツとトランクスが挙げられる。

 

 男性のソレをくっきりと浮彫にするボクサーパンツが人気なのは理解できるが、だったらトランクスではなくブリーフが台頭すべきなのでは? という疑念を抱くのは当然だろう。

 

 しかしトランクスには、座った時に裾からソレがチラっと見えたり見えなかったりするという、他の下着には無い唯一無二性を持っていたのだ。

 そういう奥ゆかしくも胸のときめくエッチさがむっつりと幅広く支持されている。

 

 他にも密着性が低いので脱がさずズラして至れるといった利点もあり、AVで下着やコスを脱がすとやたら怒るうるさがたにも好評だ。

 そんなわけで、水着のショートパンツがセーラー服のアンバランスさでトランクスに見える彼の下半身は大変危険だった。

 

 しかしそれにもまして、相手チームの動きが固い。

 彼の着ているセーラーはオーバーサイズなので、当然首回りは鎖骨があらわになるくらい開いておりダルんとしている。つまり屈んだところを前から見ると、胸元からおへそまでエッチなトンネルが開通していた。

 野暮ったい色の裏地が妙に生々しくて、そこに当たってるのかと思うと自然に固唾を飲む。

 

 だからレシーブするたびに胸の大事な部分が見、見え……無い。健全だから見えない。

 そしてサーブの後に着地するまでの間はセーラー水着が空気を受けて捲り上がるので一瞬見、見え……健全だ。危ない危ない。

 もし見えているのであれば指摘してしかるべきだが、今のところ彼女らに非は無い事だけは確かだ。そういう事にしておいてもいいと思う。

 

 よかった、合宿所に個室が割り当てられていて。

 けど前にいても後ろにても避けられないクソデカ当たり判定技を出す彼はなんなんだ。前門の虎後門の狼を一人でやるな。そういう意味でも無いし。

 

 しかしながら、なぜ男性の胸はこれほど蠱惑に満ちて魅力的なのだろうか。

 まず、女性の胸部は生物としても重要だ。今では人工的なミルクで育児が可能だが、子育てで母乳を使うので存在している。それはわかる。哺乳類はだいたいそうだ。

 

 だがヒトの男性の乳首には何の役割があるのだろうか。染色体がどーのこーのという話は聞いた事があるが、結局のところ男性の乳首にはメリットもデメリットも無いらしい。

 

 意味の無いものに魅力や性的な興奮を覚えるのは生物学的におかしいだろうか? いや、それこそがヒトを人たらしめんとする欲深い業だ。

 脚に、手に、うなじに、腹に、腋や衣類にまで性的な情感を発生させるのは人間だけだろう。だからこそここまで繁殖できたのかもしれない。

 

 もちろん、普段は隠されているから暴きたいという欲求も否定できない。

 とにかく赤子でもないのに男性の胸にある二つの突起に触れ、弄びたいとう欲望がむらむらとどこからか染み出るし、母乳が出ないとわかっていても舐め上げ、吸い付きたいし甘噛んでもみたい。

 哺乳類として生産性が無い行為と理解していても、興奮するものは興奮するのだ。

 

 ただ、見えそうで見えないこの状況が眼福一辺倒いうわけではない。

 じっとりとマズい事態に陥っている。気付かれると困る。

 ハッと取蔭が思いついて、冷静に提案した。

 

「タイム! ちょっと休憩、暑いからいったん海入ってクールダウンしよ。熱中症とか怖いし!」

 

 そうしていったん身体を海水でびしょびしょにしてから、試合は再開された。上記の理由以外に他意は無い。じっとりは比喩表現だ。ググると【《副[と]・ス自》(したたりそうなほど)しめりけをたっぷりと帯びたさま】が最初に出てくるが、これはまったく関係ない。

 

 熱中症の進行段階は症状を自覚しにくい。

 夏の太陽光と気温、激しい運動により、体内の水分や塩分のバランスがゆっくりと滲むように崩れていくのを危惧する様を、文学的に表現したかっただけだ。妙な言いがかりはやめていただきたい。

 

 なぜか彼のチームの圧勝で終わったが、ビーチバレーだけが海の楽しみではない。

 泳いだり、海でボールをトスし合ったり、ビーチフラッグや意味も無く砂山を作ってトンネルを掘ってみたりするのがなぜか楽しい。

 

 洸汰くんも来ればよかったのにな、と彼は内心でつぶやく。誘ってみたが、一緒に温泉に入ってから思うところあったらしく、マンダレイと特訓するからと断られた。

 まあ、見ず知らずの女性ばかりのところに飛び込むのもなかなか勇気がいるだろう。

 

 それはそれとして、パチモンAVアベンジャーズがいなければ危なかったと肝を冷やす。

 なんせ揺れる。たまに当たる。

 やっぱりおれっておかしいよな。と改めて自覚した。

 

 男性からすると女性の胸部にさして興味は持たない。大小にしても髪が長いか短いかくらいの印象だ。というより、固執したり、ましてや吸い付きたいと思うのは赤ん坊のようで恥ずかしいと考えるのが普通だ。

 

 けれどそういった部分に性的な興奮を覚えるのだから、やはりバックやハリットとは隔絶したおかしを持っているように思えた。単なる性癖の一つかもしれないが。

 

 それに時折パレオやスカートから覗く太ももや三角ビキニの部分が煽情的だ。

 何気ない素振りで水着の食い込みを直している所を見た時は、危うくアベンジャーズが半壊しそうになった。そろそろ新たなメンバーを加入させなければならないかもしれない。

 

 敗北シリーズ第50弾 連続100人ぶっかけで地獄の炎も完全鎮火(チン化)! をダウンロード購入する日も近い。いや、今その事を考えるのはやめておこう。まだカートに入れたまま封印しておくべきだ。

 

 

 

 

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 その後もお手洗いに行った彼が帰り際に、アッシュグラデ系ウェーブ髪の色黒チャラ女とセンターで分けたショートヘアーの意識高い系女に話しかけられた。すごい、絵にかいたようなNTRものの壺役だ。

 けど彼もそんな格好してたら目を付けられて当然かもしれない。

 

「ねえねえ、きみ、ヒーロー科の子でしょ? 見たよ体育祭」

「向こうで一緒にサーフィンやらない? 教えるよー」

「え、いやー連れと来てるんで」

 

「あー……でも急にサーフボード乗れるようになったら友達もびっくりするよ。ちょっと離れたとこで練習すればバレないし」

「ヒーロー目指すくらいなんだから、すぐ上手になっちゃうって。それにわたしら、教えるの上手いってよく言われるんだよ」

 

 いやでも突然いなくなったら心配するだろうし、みんなと遊びたいしでなんと断ろうか迷ってると、遅いので様子を見に来た小森たちにめちゃくちゃ怒られた。

 

 

 

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 あとで様子を見に来た兎山と香山は彼の姿を見て呆れたが、単体で見れば普通の水着なので注意する訳にもいかず、海の家から飲み物片手に見守った。

 まあ健全に遊んでいるのだから、大人が水を差すのも躊躇う話なのでそっとしておいてあげるべきだろう。

 

「あいつやっぱアホだろ」

「どっちかって言うと天然なんじゃない? あ、こっち気付いた」

「なんかぞろぞろやって来るぞ」

「うーん、奢らされる気配」

 

「ま、いいけど。わたしが持つよ。この辺のヴィラン、何人かシメたし」

「やるわねー。にしてもいざ海に来ると、やっぱ泳ぎたくならない?」

 

 すっとぼけて言う香山に、兎山は半目を向ける。

 

「やっぱってなんだよ、泳ぐ気満々だろ、そのカッコ」

「バレた? てかあんたもどう? せっかくだしさ、生徒との交流もかねて。非常勤であんま顔出さないじゃん?」

「えぇー、まー海も久々だしなー」

 

 難色を示すが、ふと、地元のビーチを思い出した。大昔はすぐ横に遊園地があったらしい。今では潰れて公園かなにかになって長いと聞く。

 感傷に浸っていると、お腹を空かせた芦戸たちがニコーとしながら挨拶する。

 

「なんか適当に頼んでいいぞ」

 

 わーいやったー! 割高な海の家で食費を抑えられるのは、学生にとってかなり嬉しい。

 プロの奢りという事なので、遠慮せず好き勝手に注文する。

 

 汗をかいた分、濃いめの焼きそばやしょっぱいフライドポテトが染みるほどうまい。普段は麦茶<ジュースだがこの時ばかりは逆転する。

 食欲が満たされ落ち着いてくると、店内にはプロになった雄英卒業生の寄せ書きサインがいくつも飾ってあるのに気づく。どうやらこれも伝統らしい。

 

 彼がふと思いつき、かき氷のスプーンを置いた。

 

「1-A全員欠けることなく卒業して、またここに集まって寄せ書きのサインをしよう」

 

 この中で一番弱いじぶんが言うのは気が引けるが、そうしたいと本心から願ったら口にせずにはいられなかった。

 急にカッコいいこと言い出したので一瞬の戸惑いが生まれるも、小大が頷く。

 

「ん」

 

 拳藤が希望を胸にして口を開く。

「そうだな。そのためには、もっと頑張らないと」

 

「まー、この面子ならイケるって。頼りになる先生もいるし」

 芦戸がご馳走のお礼によいしょする。もちろん頼りにしているのは本心だ。

 

「合宿はまだ途中だけど、結構手ごたえあるしな。わたし、身体が40分割くらいには出来るようになったし」

「わたしもそう思います。罪深い傲慢ではなく、邁進の気概として」

「おお! 恋彦†国士の桃園の誓いみたいな感じデスね」

「それは死んじゃうヤツ、ウチはごめんこーむる」

 

 ちょっとだけ照れくさくて、各々がふざけ半分に理想や目標を語りだす。

 いま壁に飾ってある寄せ書きをした雄英生も、きっと同じように意気込んだことだろう。

 そうしていつの日にか、林間合宿に来た雄英生もまた伝統に思いを馳せる。今度は彼らの寄せ書きを見て。

 

「その前にあんたはヒーロー名を決めるとこからでしょ、本名を書く気?」

 

 小森のツッコミでオチが付き、気持ちの良い笑い声が溢れた。

 香山が内心でほっこりしながら、うふふと目を細めて濃密な青春を眺めていると、彼が声を投げかけた。

 

「あのーせっかくなんで先生たちも一緒に遊びませんか? ビーチフラッグとかバレーの二回戦目やるんですけど」

 

 その言葉にきょとんとする。

 演習試験で嫌な思いをさせたり、今まで結構キツ目にあたってきたので苦手意識を持たれてもおかしくなかったが、良い意味で肩透かしを食らった。

 まるで気にしていない。

 

 まいったなといった感じで頭を掻いた後、小さく呟いた。兎山の耳がぴくりと動く。

 

「え? なんですか?」

「ん、いや……けどいいの? 過激なコスチュームの正当性を主張する為に一時は海辺で活動してたから、ホームっちゃあホームよ。ゲームバランス壊しちゃうかも」

「ああ、全力でも大丈夫ですよ。ミッドナイト先生とミルコ先生、どっちが入ったチームが強いのかなーって思って」

 

「そりゃあわたしが入った方が強い」

 

 そう言った二人は一拍置いて強く視線を結ぶ。

 

「おいおい、現役のプロに勝てるわけねぇだろ。バレー? ビーチフラッグ? 兎が走ってるとこ見た事ねーのか」

「そのデカいお耳は飾りってわけ? めっちゃウケる。さっきホームだったって言わなかった?」

 

 1-Aは黙って棒アイスを咥えながら海の家を出る。

 その後、大人げないとはどういう事かを教師から学んだ。

 





【挿絵表示】
 無し
手が難しいんです。足先も目も。


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第十九話 弱個性でも、誰かを助けられると思う?

 そんなこんなで楽しくも厳しい林間合宿は何事も無く最終日を迎えた。

 流しそうめんや花火といった夏のイベントが盛りだくさんの、濃密な時間はあっという間に過ぎ去ってしまった。

 

 

「ちょっと話あるから、後でツラ貸せ」

 

 風呂上りにミルコに言われ、なんだろうと浴衣姿で指定の時間と場所に向かう。

 個性訓練を行った場所で、ところどころにクラスメートの特訓の跡が残っていた。

 すっかりと夜は更け、月は分厚い雲に隠れている。火照った身体に夜風は少し冷たく、さざめく木々が少しだけ不気味だ。

 

 同じく浴衣を身に纏ったミルコの姿が見えたので小走りで駆け寄る。スマホで時間を確認するが、遅刻という訳は無かった。

 

「待ちました?」

「いや別に。で、相談事ってなんだよ?」

「え? あの、先生が話があるって言ったから来たんですけど」

「はあ? 寝ぼけてんのか?」

 

 ミルコの耳が過敏に動く。

 暗い森にひと際ドス黒い霧の塊が四つ、二人を包囲するように現れた。中から人影が駆け出してくる。

 

 「わたしに掴まれ!」

 

 言われるがままに、彼はミルコの胴に抱きつく。その時ビルボード級のヒーローが取った選択は戦闘ではなく離脱。空高く跳躍した。無論、多勢に無勢でも勝つ自信はある。

 

 だが少なくとも『誰かに化ける』個性使いが新たに関与する、ヴィラン連合の計画的な犯行。個性如何によっては彼を守り切れるかは未知数。市民の生命を優先させるべき。

 瞬時の判断はさすがだったが、すでにヴィラン連合に属するマグネの『磁力』の射程距離内に彼が入っていた。

 

 地面から一メートルほど離れた段階で彼が強力に引き寄せられ、ずるりとミルコを抱きしめる腕がほどけた。

 こうなると、一息で合宿所まで行ける跳躍力が裏目に出る。着地までの十数秒が無限に感じられた。冷静にミッドナイトに緊急コールを送る。

 

 残された彼はマグネの振り回す布に包まれた棒を上半身を後ろに逸らすだけで躱し、鼻っ柱にジャブを入れた。背後から迫るマジシャンの風体の男に素早く向き直り、掴みかかる掌を見てそれが個性の起動部位だと勘付く。そういった動きは麗日との格闘戦でよく見てきた。

 

 とはいえ、近距離で何かを放出する個性の可能性があるので、打ち合う事はせずサイドにステップを踏み距離を取る。ちょうど二人を正面に捉えた立ち位置。

 

「やだ、この子やんちゃねえ。手ぇ抜いたら殴られちゃった。それにけっこう好みかも」

 

 マグネが好色そうに舌なめずりして、鼻血を喉奥に啜って痰のように吐き出した。

 

「おまえらヴィラン連合か」

 

『ワープゲート』を利用している事からして、十中八九そうだろう。質問自体に意味は無い。ミルコが駆け付けてくれるまでの時間稼ぎだ。

 しかし、なぜ雄英を狙うのかという疑問は残る。

 

「承認欲求を満たす為に活動する贋物」

 

 上空からの声に一歩ほど身を引く、いくつもの刀剣類を寄せ集めた巨大な武器が地面にたたきつけられた。ご丁寧に攻撃を知らせてくれたゲテモノ得物の主、『トカゲ』の異形型個性使いの顎に、右ストレートを入れる。本来であれば一撃で昏倒するクリーンヒットだが、やはり異形型の耐久性もあり一筋縄ではいかなかった。

 多少いいのが入った程度で、得物を持ち上げた。

 

「承認……なんの事だ?」

 

 四対一か、と内心で試算しながら飛んできたナイフを避ける。一見すれば偶然よろめいただけにしか見えない。密やかに笑う女子高生にも注意を払い、構えた。

 対多数は想定している。あとは個性のポテンシャルでゴリ押されない事を祈るだけ。

 

「とぼけるな。集瑛の雑誌に掲載され、いい気になるようなヤツは粛清されるべきだ。ステインの意志によって」

「あれは後進の育成が取り上げられれば世間は安心できると思って」

「見苦しい。それがいずれ私利私欲に繋がるというのだ。アイドル気取りや拝金主義のヒーローに成り果てる前に、ここで死ね」

「メディア露出が増えるのは抑止になるからだよ、ヴィランの。それにヒーローだって警察や営業、製造と同じ第三次産業だ。貴賤は無い」

「御託を並べるのが得意らしいな」

 

 苛立つ『トカゲ』の個性使いが突拍子もなく蹴り飛ばされる。

 

「スピナー!」

 とマジシャンの風体の男が『トカゲ』の名を叫んだ。

「くそ、もう戻って来やがった……なんてな、待ってたよ。ビルボード級」

 

「あ?」

 

 マグネがにじり寄り、ミルコを対象に『磁石』で自身が装備するアイテム──強力な磁石棒──に引き寄せるが、当然のごとく腹に一撃を食らい、昼食と胃液をまき散らして気絶した。

 それと同時か半手前、彼の上空に『ワープゲート』が開き、幾条もの刃が降り注ぎ地面に突き刺さる。

 

「少しでも動けばあの少年をバラバラにする」

 

 視覚外から放たれた常識外の個性攻撃を躱す事は出来ず、彼の身体は一瞬のうちに刃で拘束されていた。少しでも身をよじれば裂傷するほどがんじがらめに。

 首の頸動脈、腋の鎖骨下動脈に生暖かい刃物の感触が伝わる。腹の下行大動、脚の脈大腿動脈は切っ先があてがわれており、薄っすらと浴衣に血が滲んでいる。

 

 全てが人体の急所だ。どこか一つでも損傷すれば十数秒以内に大量出血で意識不明に陥る。複数個所ならまず助からない。

 その凶刃は全身を拘束着に包んだ男の口元に繋がっていた。『歯刃』の個性使い、脱獄死刑囚ムーンフィッシュが空中で身をくねらせる。

 

「みみみ見たい断面この子の肉のみみ」

 

「と、いう訳でラビットヒーロー。悪いが一緒に来てもらう。ああそうだ、おれはコンプレスで通ってる。申し遅れたかな?」

「……おまえらがあいつの命を保証するとは思えねえ」

「必ず生かすよ。ヴィラン連合がビルボード級のヒーローを攫ったという証人が必要だから。そうした方がヒーローに対する不安を世間に煽れるだろ? われわれのヴィランとしての利益を担保に信用してくれ。もっとも、無傷かどうかはきみ次第だが。あと五秒で決めろ」

 

 狙いはミルコだった。彼はその人質に過ぎない。

 

 もしもこの場に非人格性を持った無機質な天秤があったとしよう。

 ビルボード常連の強個性を持ったヒーローと、雄英に入学したての弱個性のヒーロー志望。

 どちらに傾くかは自明の理である。

 

 しかしヒーローにその理は通じない。きっとミルコは秤から身を投げるだろう。

 そうなれば社会にとって大きな損失だ。それを理解できない彼ではない。

 だから一つだけ、たった一つだけ自らの意思で無理やり天秤を傾ける方法も、彼は知っている。十数秒、あるいはそれ以下で済む話。

 洸汰くんに偉そうにしといて、この始末かと自嘲し覚悟を決める。ほんの数センチ、首を動かせば──

 

「おい!」

 

 ミルコの怒声にハッとする。

 

「このわたしに恥かかせるつもりかよ」

 

 コンプレスが一安心といった感じで胸をなでおろす。

「じゃ決まりって事だな」

 

 

 しょーがねぇー、といった感じで頭を掻きながらミルコはコンプレスに言った。

 

「最後にあいつに一言いいか?」

「手短にな、くれぐれも妙な」

「うっせーな、わーかってるよ。こっちはプロだ」

 

 情けなく身体を固まらせたままの彼に近づき、ミルコは背伸びして顔を近づけ耳打ちした。

 

「もし今この世から全ての個性が消えたら、素手でおまえに勝てるヤツはたぶん十人もいねえ」

「なに、言って、ちょっと待っ」

「だから相手に直接触れる事で起動するようなトリガーのある個性やアイテム頼りのヴィランは、絶対におまえに勝てない。おまえは特定の個性使いへのカウンターとして特定の状況下で、誰よりも局所的に機能する……それとおまえは他人の──まあこれはいいか」

 

 何を伝えたいのかわからず呆然とする彼から、ミルコは一歩離れて続ける。

 

「ま、自信持てってこった」

 

 いつもの挑発的な笑みに、少しだけ悲哀が入り混じっていた。

 それを見て彼は思わず口を開く。喉元までせり上がった()()()()()()()()()()()()はしかし、戸惑いと無力感の中に立ち消える。

 身動きも取れず、足手まといになっている現状では何を語ろうが虚しいだけだ。

 

 言いさしたままの間抜け面を晒していると、ミルコの姿がまばたきの間に消えた。背後にいたコンプレスに肩を触れられ、『圧縮』が起動する事によりビー玉ほどの球体に格納されたのだ。

 同じように戦闘不能になったスピナーとマグネを回収し、携帯端末で連絡を取って「んじゃお先に」と『ワープゲート』に消える。

 

 自失する彼に女子高生、渡我が近づいて冷ややかに言った。

 

「弱個性のくせに誰かを助けようとしなければ、弱いくせにヒーローになんてなろうとしなければ、足を引っ張る事もなかったのに。身の程ってやつです。向いてませんよ、ヒーローに」

 

 彼は虚ろな視線だけを向けた。どこかで覚えた()()()()()()()だったが、思考は泥のように沈黙している。

 

「あのヒーローはこれから、死ぬよりひどい目に合います。あなたのせいで」

 

 それだけ言うと、渡我もムーンフィッシュも『ワープゲート』に消える。

 

 ひとり深い夜の森に残された彼は膝から崩れ落ちた。

 みずからを犠牲にしたミルコに()()()()()()()()()()()()だけが、重い心に残響する。

 

 きっと、それを聞けばミルコ先生は薄く笑って。

 

「弱いくせに生意気だ、悪くない」

 

 と返してくれる。

 だが原因を作っておいて、そんな薄氷にすぎる理想を吐けるわけがない。

 おれが弱くなければ、もっと強ければ伝えられたのに。

 

 急襲からミッドナイトやピクシーボブが駆け付けるまで、わずか二分程度の間にすべては終わり、奪われていた。

 

 

 

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 ヴィラン連合のアジトであるバーに、コンプレスと渡我、ムーンフィッシュが帰還する。

 

「スピナーとマグネはどうしました?」

 心配、というより事務処理的に黒霧が尋ねる。

 

「ミルコにやられた。かなり手ひどく。すぐに戦線復帰は無理だ。たった一撃で。ありゃバケモンだよ」

 コンプレスが『圧縮』した玉を指に挟んで見せる。手を振ると、玉がもう一つ増えた。

「その甲斐あってビルボード級は確保できた。ひとまず作戦成功だ。けどミルコの血を確保できてるなら、最初からステインの『凝血』で済む話じゃないのか? 血を舐めた相手を麻痺させられるんだろ?」

 

 カウンター席に座り、黒霧にストレートをダブルで頼む。それを一息で干した。喉を焼き、鼻を抜ける甘い香りの好みのスコッチだ。

 

「あれは切り札だ、まだ見せるわけにはいかねえ」

 それに、借りは返させないままステインに首輪をつけた方が便利だ、と死柄木が内心で呟いて答える。

 

 士傑と雄英に属する人間の血は、()()()()で採血したものをドクターの息のかかっている病院から回してもらった。同じように、ヒーロー事務所が行う健康診断を利用してプロの血も揃えてある。

 

 ただ、いくら表では医学界で名の通ったドクターと言えどすべての検査機関に口が利けるわけではないので、ビルボード級全ての血を集める事は出来なかったのが残念だ。それでも十分すぎるが。

 

 もちろん、血は長期保存できる状態だ。これがある限り渡我は士傑、雄英生、主要なプロヒーローにいつでも『変身』できるし、地球の裏側にいようが『凝血』によって任意のタイミングで数分間も行動不能にさせられる。

 そしてそれを防ぐ術は無い。

 

 世俗から隔離され容易に応援を呼べない状況、かつビルボード級と人質がいる雄英の林間合宿はおあつらえ向きだった。今回の作戦目標であるビルボード級の確保を内々で実行できるほどに。

 わざわざステインという強力な手を晒す必要は無い。秘密である事が重要なのだ。

 

「できればムーンフィッシュも見せたくなかったがな、一番弱そうなガキを選んだのに」

 

 責めるように睨まれ、コンプレスは肩をすくめる。

 一応彼は職場体験の功績があるものの、合宿所の従業員に『変身』した渡我からの報告や映像を見るに大したことは無い。個性らしい個性の起動も無く、訓練では負け続けている。

 およそマスキュラーに勝てる器には見えない。世間一般に言われてるように、その場にいた雄英の三年生がやったのだろう。

 

 おそらく非戦闘向きの個性で、ファンザ本社ではサポートに徹した形を取ったのでは、と考えるのが自然だ。メディアが勝手に話を盛ったというのは良くある話。

 渡我の進言で、人質の選定は候補の中から彼になった。プロなら間違いなく生徒を連れて逃走を選ぶので、サポートも無視できる。そしてそれは良い方に転んだ。

 

「まあ、腐っても雄英生って事だ。もう少し時間があればおれ一人でもなんとかなる程度だっただろうけど、なかなかどうして勘がよかったのかねえ」

 

 言ってじぶんの掌を見つめる。触れさえすれば終わりだったが警戒心が強いのか偶然なのか、いなされてしまった。

 

「もういいだろ」

 

 と、もう一人のコンプレスが背後から『圧縮』を起動し、飲んでいたじぶんの上半身を格納した。トゥワイスの『二倍』で作られたコンプレスの身代わりである下半身が、どろりと黒く溶けだす。

 

「じぶんを殺すのもあんまいい気分じゃねえな、身代わりとはいえ自我を持ってると」

 机に転がった玉を回収して言った。

「スピナーとマグネはドクターの手配した闇医が来るまではこのままでいいよな? ボス」

 

「ああ。ていうか渡我はどこ行った?」

「戻ってすぐ買い出しに。成功を祝して軽く打ち上げといこう……にしてもあの子、ほんとに女子高生かよ。今回の作戦は渡我ちゃんの脚色ありきなんだろ?」

「男子中学生に暴行して警察とヒーローから逃げ切ったのは伊達じゃないんだろ。それにまだ半分だ、終わってない」

 

 死柄木はミルコが格納された玉を手に取り、指先で弾いて弄ぶ。

 

「今まではチンピラのザコを素体にした脳無だったからヒーローに負けた」

 

 脳無の素体には、天涯孤独や犯罪者崩れがあてがわれてきた。弱個性だろうが関係無い。個性はあとから付け加えられるのだから。いなくなっても誰も気にしない連中は便利だが、結局はただの素人。

 だから、負けた。

 

 

 

「今度はビルボード級のヒーローを素体にした脳無を造る」

 

 

 

 適当な誰かに『変身』した聖典は、スーパーの屋上駐車場の隅で夜景を眺めながら携帯端末にそう言った。

 

『なるほど。死柄木の言う装備集めってのはそういう事ね』

 

 ふむん、とキュリオスは顎に手をやって想像の翼を広げてみる。

 それはそれは傑作な事になりそうだった。

 民衆を守るはずのヒーローが民衆を害する脳無となり、ヒーローと殺し合いをする。悪くない手だ。後から脳無がヒーローだったと公開すれば、世論に対する影響もさぞ大きいだろう。

 

「それと、副目標への誅罰を開始しました。異能第一主義において異能弱者が図に乗るとどうなるかを、ほどなく理解するはずです」

『素晴らしいわ、聖典。十一万人以上いる解放戦士の中でも、やはりあなたは別格ね……けれどヴィラン連合の戦力増強は好ましくないわ』

「ええ、わかっています。()()()()()()()()()()()ようなので、製造場所くらいは探れそうです」

 

 聖典はさらなる忠誠を示すべく、工作員としての案を提言した。

 

『わかった。あなたの裁量で動かせる人員はこちらで確保しておく。それと可能であれば場所だけでなく脳無の製造法についても追ってちょうだい。もちろん、あなたの身を危ぶまない限りにおいてね。あなたには聖典としての役割があるのだから』

 

 その言葉が聖典にとってなによりも嬉しかった。キュリオスさまが、わたしの身を案じてくれているという事実が。聖典としての生を望んでいる事が。なんて優しくて素晴らしい方なのだろう。

 興奮する。

 会いたい。

 

 会って対面から乗りかかり、逃げられないように腰に脚を回して頭を抱き、鋭い犬歯を首筋に突き立てたい。つぷりと艶のある柔らかな皮膚を割き、何とも言えない酸い鉄の味を舌の上で転がしたい。香りで鼻腔から脳を犯されたい。一滴も逃さぬように舌で舐め回しながら音を立てて啜り、倒錯感でどうにかなりたい。口を離した時、唾液と血が入り交ざった体液が糸を引くところを見たい。じぶんが作った割れ目からとろりした事後の赤い液体が溢れ出て、垂れる瞬間を永遠に眺めていたい。

 

 恍惚と破綻した笑顔のまま赤い血で満たされたペンダントのトップを胸元から抜き出し、救済者(ヒーロー)に思いを馳せた。

 

 

 

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 彼にはあの夜、言わなければならない言葉があった。それを惨めさと無力さの泥に深く沈めた。

 目の前で悲哀に暮れている人がいたら、悲しそうに笑っている人がいたら、助けが必要であればどれほど滑稽だと思われようと、それで少しでも安心させられるのであれば、言わなければならない言葉があった。

 

 どうせ言ったところで虚しいだけだ。

 だから惨めさと無力さの泥に沈めておけばいい。

 彼はそう思っている。

 

 

 

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 林間合宿襲撃事件から一日経った昼過ぎ、彼は病室のベッドから外を眺めていた。

 あの夜、駆け付けたミッドナイトとピクシーボブに保護され、合宿所近くの病院に運ばれて精密検査と警察の聴取を受けた。

 幸いにも怪我は大した事なく、ある程度はヴィラン連合の新規メンバーの個性も割れた。あとは個性届や聞き込みからどこまで素性を辿れるか、といったところ。

 

 それと合宿所の従業員が一人、倉庫に拘束されていたらしい。命に別状はなかったが複数の注射痕が発見されている。血液検査等の結果薬物の類いは検出されなかったので、採血が目的と推定された。あるいは単に捜査をかく乱するためのノイズか。

 

 ヴィラン連合の目的はビルボード級 ラビットヒーロー ミルコの拉致。

 何の為にか、という明確な答えは推測の域を出ないが、ロクでもない事をたくらんでいるのは確かだろう。

 

 病室のドアがノックされる。どうぞ、と答えるとスーツ姿の香山やクラスメートがお見舞いに来た。みな心配そうな顔をしている。

 香山が合宿の荷物を適当な場所に置き、泣き腫らして赤い目をした彼に言う。

 

「ご両親もしばらくしたら来ると思うから。ごめんね、守ってあげられなくて」

「いえ、いいんです。おれが弱かったのが悪いんですから」

 

 口を開いた香山を遮って続けた。

 

「おれのスマホ、預かってたりしてませんか? 検査の時に病院の人に渡したまま返ってきてなくて」

「知らないけど」

「でも看護師さんに聞いたら学校側の許可が」

 

「やめた方がいいわよ」

 今度は香山が短く刺すように遮った。

「ただの興味本位なら」

 

「どうせ遅いか早いかの違いですし」

 

 諦めたように小さく嘆息してジャケットの内ポケットからスマホ取り出し、ほんの少しの葛藤の末に手渡した。いつかは知るところとなる。

 

 ネットブラウザを開くと、案の定ニュースになっていた。

 いくらヒーローと警察で情報を止めていてもヴィラン連合がリークすれば無意味だし、事実だ。

 ヒーロー協会は事実確認中と時間稼ぎしていたが、あまり長引けば拘束されたミルコの写真がネット上に出回る事だろう。

 それをもってして真実が明かされるよりは、公的機関から認める方が幾分かマシだ。

 

 その際、被害者の彼の名前は当然伏せるとして、問題は経緯まで公開するべきかどうかの判断だ。

 雄英生を人質にされた為にミルコは戦えず、囚われたという事実。

 ただ結果だけを述べても世論は納得しないだろう。為すすべなくミルコが負けたと誤解されれば、ビルボード級という看板に対する不安感も増大する。

 最大限の配慮として、人質が取られた件は明かす事となった。それが誰かはわからない。従業員かもしれないし、通りすがりかもしれない。

 

 しかしヴィラン連合は実に狡猾だった。

 ほどなくして人質は雄英生だったという噂がネット上に流れだす。事件発生場所が合宿所なだけに信憑性は高い。

 これを止めるすべは、いかなるヒーローや組織にも不可能だ。情報戦の敗北を認め、個人情報保護を盾に口をつぐむ他にない。

 もしもヴィラン連合が彼を殺していれば、残虐非道な犯罪集団として一段と強く世に認知されただろう。

 だが生きていれば、全ての人間はそう思わない。傍観者のヘイトは時として被害者にも向けられる。

 

 彼は次いでツイッターを開き、一通り目を通す。

 

『いやしくもヒーロー科に属しているのであれば、簡単に人質に取られるような事があってはならない』

『ビルボード級の命とヒーロー志望の命は等価じゃないんだよなあ』

『有能ミルコを失った対価がチンピラ集団に人質にされる無能。話にならんのだが?』

『その雄英生はビルボード級を失った穴を埋められるんか? 雄英辞めろ』

『ミルコなら消えてくれてもいいわ、別に』

『人質に取られた段階で無理やり暴れるとかして死んでくれれば、ミルコを失う事は無かった』

『わたしだったら死ぬが?』

『いっそ死んでヒーローになってくれた方が社会の為だった。自己犠牲を理解できないヤツがヒーロー科とか勘弁してくれ』

 

 まあ、そうなっているだろうと予想していたので、これ以上泣くような事は無かった。黙ってスリープモードにする。

 ただただ悔恨の念ばかりが胸に溢れて、心が窒息しそうだ。

 

 SNS上ではすでに【ミルコ無駄死に】のハッシュタグが作られていた。

 無論、全ての人間がこの考えに賛同しているわけではないが、『こんなタグで暴論晒してるヤツ頭おかしい。てか死んだって証拠無いし #ミルコ無駄死に』といった反論ツイートもカウントされているので、トレンド一位になるまでそう時間はかからなかった。

 

 ヴィラン連合にとって都合の良いこの展開には、実は裏で異能解放軍が一枚嚙んでいる。

 渡我が手を回し、解放軍幹部の一人であるスケプティックに協力を仰いでいた。

 

 大手IT企業『Feel Good Inc』取締役であるスケプティックが設立した情報部隊の規模は、想像をはるかに超える。国内だけで五桁を超える全てのアカウントのツイートはAIにより日夜自動生成され、老若男女、あらゆる立場の人間の人格を模したバリエーションがある。

 

 そこに特定の指向性を与えれば、たとえば今回の事件に対して不平不満を抱くように入力するとバリエーションに合致するアカウントが自動でその旨をツイートするし、そうでない攻撃的なアカウントがリプ欄でレスバする。

 それも、血の通った人間にしか見えない書き込み精度で。

 悪趣味なハッシュタグも、情報部隊が自動生成したものだ。断定的で的外れな突っ込みどころのある短い文章ほど、着火剤として優れている。

 

 彼に対する誅罰と、社会に不安と混乱をきたす一石二鳥の作戦だった。

 

 重い沈黙の中、彼がベッドのシーツを眺めてぽつりと言った。

 

「一晩中ずっと考えてたんですけど、やっぱりおれ、ヒーローになるの、無理……なんじゃないかなって」

「それで?」

 と香山が不感無覚に続きを促す。

 

「おれなんかが免許取ってヒーローになっても今回みたいに足を引っ張るだけだし、誰も助けられないって思ったら、もう、頑張りたくないです」

「花火田は? 面会した男を助けるって言ったのはどうするの?」

 

 ──弱個性でも、誰かを助けられると思う? ──

 

「弱個性じゃ、誰も助けられないです」

 

 それは現実の残酷な一側面である事を、その場の誰もが理解していた。

 ヒーローは、誰にでもなれるというわけではない。

 

「ふざけたこと言わないでよ」

 静かな怒気を孕んだ声で告げたのは小森だった。

「弱個性だからなに? 強個性だったら誰でも助けられるってわけじゃないでしょ」

 

 彼は濁った心で蔑む。

 それは正論、というより論理の話だ。机上の文章問題をこねくり回しても、出来上がるのは明日にも忘れる名言程度。

 

「小森さんは強個性だからそんなふうに考えられるんだよ」

「わたしを無視すんなッて言ってんの!」

 

 耳郎が「ちょっと落ち着け、ここ病院だぞ」と肩に手をやるが、彼女が気にする様子はない。

 

「あんたの言うこの強個性だって、USJであんたが言ってくれたことを信じてるから体育祭で使えたし、自炊でみんなに食べてもらえたし、美味しいって言ってもらえて泣くほど嬉しかった!」

 

 震えそうになる声を必死に抑える。

 

「将来ヒーローになれるかどうかなんて、わたしにはわかんないよ。けどあの時あんたは間違いなくわたしのヒーローだった!」

 

 ベッドに詰め寄り、彼の胸倉を掴み上げて声を張り上げた。

 

「それなのに弱個性だから誰も助けられないとか言って、過去に助けたヤツのことまで無かった事にして……わたしからヒーローを奪わないでよ! どんな強個性持ちだったらあの時のわたしを救えるのよ!! どこの事務所のプロヒーローだったら駆け付けてくれるっていうの!? 言え! 言ってみろ!!」

 

 さすがに後ろから羽交い締めにされ引き離された小森の目から、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちた。

 言葉の出ない彼に、拳藤が小さく笑ってみせる。

 

「わたしも、あの時は救われたよ。どうしようもなく自己嫌悪で沈んでて、消えてしまいたかった。けど真剣にわたしの気持ちに寄り添って考えてくれたから、たぶんこうしていられる」

 柳が小さく目じりを拭う。

「たぶんわたしだけじゃ一佳を元気付けられなかった。大事な親友を助けてくれたんだから、わたしたちにとってもヒーローだったよ」

 

「それにさ!」

 と、取蔭が深呼吸を挟んで覚悟を決めた。

「ファンザを救ってくれたんだろ? 何があったのかは非公開だからわからないけど、ほら、わたしも女だから色々と、その、な? ファンザが無くなったら困るっていうか、そーいうのに寛容だから理解してくれると思うけど……とにかくホントはめちゃくちゃ感謝してるよ! エッチなやつだって思われたくなかったから言えなかったけど!!」

 

 こ、こいつマジかよ……すげえ……

 その場の女性全員が、心の中の額の汗を拭う。

 それってつまりエッチなの見てオナニーしてますと面と向かって告白するようなもんだぞ。いや、彼を元気付けるためなら自傷をいとわないその自己犠牲の精神には、敬意を表するべきだろう。

 

「な? みんな!」

 いやこいつ全員を道連れにする気か!? 

 くるりと背後に向き直って言った取蔭の瞳には、絶対に一人では死なないという鋼の意思が爛々と青白く燃えている。

 

 言わなければならないのか。

 だがまあ、なんだかんだ毎回下ネタでいい感じになるのは1-Aらしいといえば1-Aらしい。そんな気もする。

 

「まあ、その、取蔭の言う通り、かも」

 柳が顔を赤くして床に視線を泳がせる。

「ファンザに何かあって潰れたりしたら、わたしも、お、オカズとかに困ってただろうし。ニュース見た時は正直ホッとした。あ、もちろん安否もだけど」

 

「そーそー。ていうか全国のファンザユーザーにとっては間違いなくヒーローだよ!」

 

 なぜか普通に言ってのける芦戸に次々と続いた。

 

「ジャパニーズHENTAIカートゥーンはオンリーワンなので世界的にも需要がありますし、きっと海外の方も感謝してると思いマス」

「男にはあんまり共感しづらいと思うけどさ、ウチら的には間違いなくヒーローだよ」

「小森さんの言う通り、未来の事はわかりません。しかしわたくしたちを助けたという事実は確かにあるはずです」

「それに、ヒーローかどうかをじぶんで決めるなんてちょっと傲慢だと思うな―。その名称はたぶん、本来は助けられた人が呼ぶんだからさ」

「プロになって再び海の家に集まろうと言いだした本人なのですから、責任を持っていただかないと」

 

 彼はクラスメートの顔を見やった。全員が直接的にファンザを利用している事を告白したわけではないが、恥ずかしさで赤い顔をしている。

 それを見て、なんかエッチだな、と思うくらいには気が楽になっていた。

 患者衣の袖で涙を拭い、あらためてみんなに向き直る。

 

「ごめん、おれが間違ってた。ちょっと色々言われて弱気になってた。小森さん、許してくれる?」

 

 目を伏せた彼女から「うん」と短く返ってくる。

 

「事実を言うけど」

 香山が腕を組んで口を開く。

「だれが何と言おうと、ミルコの判断は正しい。いくら雄英ヒーロー科に属していようと、きみは仮免すら持っていない一市民でしかない。市民を守るのがヒーローの役割の一つなのだから、もしきみがあの時死んだ方が良かったとか考えてたり、そう言ったりするヤツは全員ミルコに蹴り飛ばされるわよ」

 

 その言葉を噛み締め、彼は頷く。

 

()()()()()()()()()()()。必ず無事に戻ってくるから。それまでにあなたたちがやるべき事は、日常を送る、つまりヒーロー科として精一杯訓練に励む事よ。彼女がそれを望んでいる事くらい、わかってるわよね?」

 

 たしかにあの勝気なバニーがうじうじと悩んでいる彼を見たら、それこそ苛立ちを脚に乗せるだろう。

 明るく、普段通り前向きになる事こそが、彼女に生かされた事に対する責任の果たし方だ。

 

「はい!」

 全員が答えると、彼のお腹が鳴った。

「元気が出たら、急にお腹が空いてきた」

「お、いいですねー。お見舞いにリンゴを持ってきたから食べてください。立ち直りが早いのはいい事デス。わたし、マーベルみたいなの好きですよ。割と明るいので」

 

 フルーツナイフを『創造』した八百万にカットしてもらったリンゴを頬張って、先ほどの先生の言葉を振り返った。仮免か。

 たしか、緊急時に個性を使える許可証。おれの個性には無意味なものだけど、ミルコ先生が戻ってきたときに少しでも胸を張れるものがあれば……

 

 わいわいと盛り上がる病室の外で、波動はゆっくりとドアから離れて踵を返した。

 

「いいの? 入んなくて」

 と甲矢が後を追って尋ねる。

 

「んー、まあいい雰囲気だし、もうちょっと時間置いてからでもいいかなーって」

「なんかさ、ちょっと嬉しいよね。最初はクラスに馴染めるか不安そうにしてたんでしょ? 男女比率があれじゃしょうがないけど、めっちゃ仲良くなってるじゃん」

「うん。すっごく嬉しい。もっともーっと仲良くなってくれたらいいなーって思う」

 

 もちろんそれは学生生活を送るにあたって、親睦を深める事は好ましいという意味だ。決して彼女の個人的な展望ではない。

 二人はしばらく病院内にある喫茶スペースで小休止する事にした。雄英生が合宿所でヴィラン連合の襲撃に遭ったとニュースで知り、彼と連絡が取れなかったので慌てて来たが命に別状はなさそうなので一安心、といったところ。

 

 波動がお見舞いに来るのはそういう関係なのでわかるが、彼と甲矢の友好関係は一見すると薄い気もする。高校生の財布には、交通費も結構な出費だ。

 だが内情を知れば、あれだけ何度も昼休憩に食べている仲なのだから心配の情も湧くというもの。ご飯の話だ。

 二人が一年の時に林間合宿に来た思い出話に花を咲かせていると、どこにでもいるような一人の中年女性が声をかけてきた。

 

「ひょっとして、波動さん?」

 

 視線をやると、その隣には香山がいた。学校関係者だろうかと軽く会釈して返答する。

 

「ああやっぱりそう。こうして会うのは初めてね。職場体験ではうちの息子を助けてくれてありがとう。家でよく話を聞いてます。優しくて、頼りになって、強くて、尊敬できる素敵な方で、いつもお世話になっているって」

「ああいえこちらこそお世話になって──」 変な意味にとられないよね? と逡巡し。 「──ます。はい」

 

 わたわたしながらかろうじて言葉を紡ぐと、香山がテーブルを覗き込んだ。

 

「なんであんたら三年がいるの?」

「いやちょっとニュース見て心配になって、いても立ってもいられなくなって。って感じです」

「ふうん?」

 

 甲矢が若干しどろもどろになりながら答える。実際どうなんだ? 一年生と三年生が連絡先を交換してる状況って、母親からしてみればやっぱ不安なのだろうか。

 彼と波動の関係は、隠しているわけではないが大っぴらにしたいわけでもない。

 というか、彼に不幸があったこのタイミングでお付き合いしていますというのもおかしな話だから、ボカす方が正しいかもしれない。

 

「やっぱり優しい子なんですね」

 と言って彼の母親は二人を眺めた。

「三年生という事は、やっぱり現場で戦ったりする経験も多いの?」

「まあ、はい。それなり……いや、ねじれなんかはもう実戦で通用するくらいですよ。なんてったって雄英のBIG3ですから」

 

 ここはねじれを立てるべきだろう。彼の母親に対してなら尚の事。親友思いの甲矢はチラと隣を盗み見る。珍しくも照れた様子で、頬を赤く染めてもじもじしていた。かわゆいやつ。

 

「……そう。だったら二人の意見も参考にさせてもらえると助かるのだけれど」

「あ、はい。わたしたちでよければ、力になります」

 

 緊張した顔で答える波動に、香山は何か言いたそうだったが母親がそう決めたのなら止めはしない。

 隅のテーブルに移動し、母親は沈痛な面持ちで言った。

 

「正直に言うと、心配なんです。あの子がヒーローとしてやっていけるのか、そもそも目指すこと自体が難しいんじゃないかって。あまり役に立つ個性ではありませんし」

 深いため息で後を続ける。

「職場体験での活躍は、素直に親として誇らしかったし嬉しかった。けど今回は教師の方が身を挺して守ってくれたおかげであの子が無事だったようなものですし……もし誘拐されて拘束されたり集団で襲われたときに……その、ちゃんとじぶんの身を守れるのかどうか……」

 

 なんとなく、母親の心配している事が伝わってくる。

 それは人体の構造上、男性にその気が無ければ成立しないが薬でいかようにもなる。飲み会で睡眠薬とED治療薬を盛り、精力剤と合わせる事で無理やり勃たせて事に及ぶという犯行は後を絶たない。

 ドラッグストアで精力剤を取り扱う是非については、いまだに揉めている段階だ。

 

「もし、もしもわたしの知らない所で慰み者にされたらと思うと……」

 

 ヴッ! 

 波動と甲矢は内心で出したことの無い呻き声を上げ、露骨に目を伏せた。

 

「あ、わたしは席を外した方が……」

 頬を掻きながら腰を浮かした甲矢の足の甲が踏まれる。俯いて長い髪に隠れた波動の表情は伺えないが、今までにない謎の圧力に屈して着席する。

 たしかに甘い汁を吸っておいて、親友を見捨てるわけにはいかない。いや、甘くはなかったな。慣用句の話だ。

 

「あの子の貞操が見ず知らずの人間に奪われ、踏みにじられたらと考えただけで胸が苦しくて……」

 

 ッヴァー! 

 さすがの波動も「ねえねえ知ってる? すでに無い物を失くす心配をしてもしょうがないんだよ?」とは口が裂けても言えない。

 その理由を説明すれば、おそらくお母さんは泣く。

 冷や汗だか油汗だかがたらりと頬を流れる。

 すみませんすみませんと内心で頭を下げながら、でも合意なんですと付け加える。実際に犯罪ではない。

 

 苦虫を嚙み潰したような表情で香山が言った。

「彼のように格闘戦が選択肢に入るタイプのヒーローは、最低限自衛できるだけの戦闘能力を身に着けています。でないと卒業は出来ません。プロ後でしたら他のヒーローのフォローもありますし、基本的に単独行動はしません。今回のように訓練途中の話だとわれわれの落ち度です。それに、そういった事態になる可能性は絶対に無いとは言い切れません」

 

 運良くマスキュラ―に勝ったという実績はあるが、『麻痺』を照射する電磁波などの不可視かつ非実体個性攻撃などは防ぎようがない。

 

「そうですよね。本当は職場体験の時にも考えてたのですが、やはりあの子にヒーローは諦めるよう勧めた方がいいのでしょうか。ヴィランに負けて捕まりでもしたら……」

 

 それはしかし、難しい問題だ。

 ヒーローになる道から外れたからといって犯罪に巻き込まれないわけではない。個性を用いない事件も当然存在する。詐欺、突発的な殺人事件や空き巣、電車での痴女行為、前述の飲み会で薬を盛るなど数えればきりがない。

 

 残念ながら、悪事の無い社会文明など存在しない。仮にオールマイトを超えるヒーローがいたとしても実現は不可能だ。

 可能であるとすれば、それはもう神の御業による現実と人間性の編纂でしかない。

 

「ねえ、波動さんはどう思う? もしうちの子が危ない目に合ったら助けてくれる?」

 

 すがるような目で尋ねる母親に、波動は言いさした口を閉ざし、再び開いた。

 

「助けます。けど、ずっと彼についているわけにはいきません」

「……そうよね。波動さんにもプライベートやヒーローとして活動する時間が必要なわけだし」

「でも大丈夫です。病室で彼のクラスメートたちと会いました?」

「え? ええ、あんなに心配してくれるお友達がいて嬉しかったわ」

 

「わたしが無理なときは彼女たちの誰かが助けるはずです。もちろん逆に彼が助けることだってあります。その枠組みはクラスや学校だけじゃないはずです。ヒーローは、一人じゃありませんから」

 

 満面の笑みで言った波動の言葉に、母親は少し考えてこわばった顔をほころばせた。

 

「そうね、そうよね。そうやって助け合っていくものよね」

「わたしだってあの時、彼が助けに来てくれてなければどうなっていたかわからないですし」

「あらそうなの? あの子、波動先輩がいなかったら危なかったって言ってたけど」

 

 あははいえいえそんなそんな。

 謙遜しながら話しているのを眺めながら、しかしねじれが敬語使ってるの珍しいなー、と思いながら甲矢はジュースを干した。

 

 やがて彼の父親が合流し、夫婦は適当な宿に向かった。翌日彼と一緒に帰るそうだ。

 波動のスマホが鳴った。今になって通知に気付いたらしい。

 クラスメートも帰ったようで、ようやく二人はお見舞いに行けた。思ったより元気そうなので胸をなでおろす。

 

「甲矢先輩まで来てくれるなんて、嬉しいです」

 

「ん、まあ、そりゃね。いろいろ大変な思いしただろうけど、とにかく無事で良かったよ、ホント」

 照れ隠しに頬を掻き、親友の雰囲気を感じ取って挨拶もそこそこに病室を後にする事にした。

「来てすぐで申し訳ないけど、わたしは席外すわ。じゃ、ごゆっくり」

 

 そそくさと部屋を出て、また喫茶スペースで時間を潰す。適当にスマホをいじっていたが、別の事に気がいって机に突っ伏す。

 二十分ほどすると波動が戻ってきた。

 

「ごめんね、気を使ってもらって~」

「いいってことよ。さ、急ごう。さすがに一泊する訳にもいかないし、さっさと帰ろ」

 

 それにしてもと甲矢は内心で独りごちる。

 夏休みと言えば学生にとって一日一日が貴重なはずだ。ヒーロー科に属しているなら尚の事。

 しかしまさかじぶんの人生で、早く夏休みが終わらないかな、と思うようになるとは予想だにしなかった。

 

 

 

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 仮免許試験
第二十話 言わなければならない言葉


怒られそーなんで、前回みたいなのは無理だけど、試しに融通できる展開はアンケートにするのもいいかなーって感じです。そういうのやった事無いし、ちょっとやってみたいかなーって。
よろしくです。



 マンションの一室に黒いモヤが渦巻き、中から二人の人間が現れた。

 一人は掌のマスクを顔に張り付けている死柄木、もう一人は頭と両手が黒いモヤの黒霧。

 六畳と三畳からなる1DKの部屋の中は冷蔵庫が置いてあるくらいで、生活感は無い。

 カーテンの隙間から正午の日差しが差し込んでいる。

 

 何の変哲もない、いや、三畳のルームには場所に不釣り合いなバスタブがある。

 粘質な黒い液体で満たされており、それに浄水器や灯油タンクから引かれた管が何本も入れられていた。こぽこぽと泡が立っている。

 そこに一人の女性が肩まで沈められていた。生気のない顔で、かろうじて生命活動を保っている。大きな兎の耳が、力なく垂れ下がっていた。

 

 死柄木が隅に置いてある箱から計測器を取り出して泥に漬けた。スマホでドクターに連絡を取る。

 

「pH4.5になった」

『なら問題無い。今日中には終わるじゃろう』

「やっとかよ」

 

 と死柄木は面倒を吐き捨てるように言った。

 

 ビルボード級を素体とした脳無の製造は、ドクターの興味を引くもので協力を得る事ができた。

 誤算と言えば、ドクターが一手に製造を引き受けなかった事だ。

 

 秘密裏に稼働している工場も教えてくれず、会う事も拒否されたのでミルコを引き渡す事も出来なかった。

 理由を尋ねると「信用していない」の一言で切って捨てられた。先生ことオールフォーワンには忠誠を誓っているが、その弟子まで無条件に従うつもりはないらしい。

「そもそもおまえが保須で失った脳無の補填でロットは埋まっとる」と嫌味まじりで言われれば仕方ない話だ。

 

 製造方法は教えるとの事なので、コンプレスあたりにでも押し付けようとしたがそれも蹴られた。

 

「どこの馬の骨ともわからんヤツに脳無の秘密を教えるわけなかろう。最低限、おまえにならこちらから指示を出してやる」

「いいのかよ、製造方法こそ秘密にすべきなんじゃねえのか」

「機密なのは培養液の管理・製造方法で、脳無を造る過程はそれほど重要ではない。設備もホームセンターや通販でほとんど揃う。それにまあワシに万が一という事もありうるからの」

 

 製造に関わるのは死柄木と黒霧のみ。他のヴィラン連合のメンバーには場所すら秘す。

 培養液である『黒い泥』だけは用意してやる。用心深く疑り深いドクターの出した条件がそれだった。

 

 脳無製造の元をたどれば、『カビ』の個性使いによって生み出された真菌を用いた再生医療に関する物らしい。ドクターはそれを長い時間をかけて変異させた。

 菌は宿主である人間の記憶や幻肢痛を設計図にして欠けた肉体を象って増殖し、しかも修復された部位は異常発達して筋力や耐久力が増大する。

 にわかには信じがたいが、神経と菌糸は複雑に結合して脳からの電気信号はそこで変換され、菌糸を移動する菌が神経に代わり身体を動かすそうだ。

 

 ただし菌は設計図を得る際に宿主の脳まで移動し、思考判断を司る前頭葉野の働きを鈍らせる。つまり所かまわず暴れまわるので、これでは兵器としては成り立たない。

 もちろんドクターはこの問題を回避する手段を考案していた。

 死亡直後であれば菌は脳内へ侵入しないので、ギリギリのタイミングで被験者を殺害し、電気信号で作られた人工的な幻肢痛を与えて戦闘用の肉体を象らせる。

 

 これで脳無の出来上がりだ。

 戦闘用の肉体に対する強烈な違和感や菌への適合適正によっては、脳無を超える脳無、ハイエンド種が期待できる。

 いや、とドクターは興奮に胸を躍らせた。ビルボード級であれば、それよりも上に行くかもしれん。と。

 

 だが一貫して秘密裏に行われてきた計画も、一枚のレシートによって綻んでいた。

 アジトのバーのゴミ袋は聖典の指示で異能解放戦士によって検められている。ほどなくしてこの付近のコンビニではない、海の近い都市部の店が記載されているレシートが発見された。

 

 ヴィラン連合と全国に十一万人以上いる異能解放軍とでは、マンパワーが桁違いだ。解放戦士たちが人海戦術で張り込めば、怪しい人物を見つける事など造作も無い。

 ホームセンターやスーパーも張り、居場所を絞り出し、聖典に報告されるのにさして時間はかからなかった。

 

「んで、いつ殺せばいいんだ?」

『黒い泥の温度が自然に上がるまで待て……一時間くらいかのお、40度前後になったらじゃ。電気信号を流すとほぼ同時に頸椎を破壊しろ。くれぐれもそれまで素体を傷つけるなよ? 菌が半端に象るからの。それと多少ならともかく、バスタブに衝撃を与えてもならん。培養環境が乱れる』

 

 わかった、と死柄木は通話を切って黒霧に向き直る。

 

「ステインは待機させてんだよな?」

「ええ、ですが取り越し苦労でしたね。用心するに越したことはありませんが、ヒーローに嗅ぎ付けられることも無かった」

「いいや、あいつらは成果がようやく実りそうになった時に現れては、ぐしゃぐしゃにしていく。いつもそうだ、先生もそう言っていた……だから呼べ、今すぐ、ここにッ、早くしろ!」

 

 ドクターとの約束を反故にする形になるが構わない。

 面倒が起こる。確信ほどではない。それは言ってしまえば()だった。

 

 何の根拠も無いが、それでも必ずやって来るはずだ。合切にケリを付けるヒーローが。

 固唾を飲む。鼓動が速まる。手に汗が滲んだ。刃の上に、立っている。

 

 焦燥に駆られた死柄木が玄関のドアを忌まわし気に睨みつける。

 

 カタン、と錠が外れた。

 

 

 

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 晩夏の透明な朝に、雄英ヒーロー科 1-Aの面々はバスに揺られていた。目的地は仮免取得会場である。

 

 ヒーロー仮免許取得試験は第二学年からというのが通例となっているが、ミッドナイトからすれば一年生が受けたいと言っているのを別段止める必要は無い。上昇志向なのはいい事だ。

 それに林間合宿の事を引きずってうじうじしていては、ミルコに蹴り飛ばされてしまう。

 無理にでも日常を過ごせとは言わないが、心配は心の中でしておくべきだ。

 

 合格でも不合格でも、良い経験になるはずだ。なんでも挑戦してみればいい。

 士傑も同じ考えのようで、今年は向こうの一年生も受験するらしい。また、両校のヴィラン連合に襲撃や保栖市事件を鑑みて、試験は前倒しで行われる運びとなった。

 

 会場に到着すると、屋外にも関わらず既にヒリついた空気が充満していた。

 不合格者が出る以上、全員が敵と言ってもいい。

 

 中学生のあどけなさが消え、子どもと大人の境界にある顔立ちは三年生だろうか。なんとしても今年こそは、といった気概を感じる。

 高等高校在学中でなければ受験資格が無いわけなく、卒業後も機会はあるが、やはり区切りとして取得しておきたいのだろう。

 全体から見れば人数こそ少ないが、訓練量や場数は無視できない。

 

 多いのはやはり二年生だ。一年間の訓練の成果を見せる舞台を前に、緊張と好機に満ちた表情を浮かべている。

 仮免取得を想定してカリキュラムをこなしているので、実力、知識量共に油断ならない。

 

 だがやはり注目を集めていたのは士傑の一年生だった。

 あのオールマイトが教師として就任しており、救助訓練襲撃事件から何かと注目を集めている。体育祭の盛り上がりは雄英を凌ぐ勢いで、特に一年生の部は才気あふれる個性の応酬が繰り広げられた。

 

「へーあれが士傑のヒーロー科か、ウチらとは男女比率が真逆だな」

 ざわめきの渦中を遠くから眺めながら耳郎が言った。

 取蔭が相槌を打つ。

「男子校の御令息って雰囲気かと思ったけど、けっこー普通にバチバチじゃん」

 

 周囲からは士傑に対する噂話や印象を語る声が密やかに聞こえてくる。

 こうも士傑が他校の視線を集め、マークされている理由はやはり一次試験開幕の『士傑潰し』が恒例となっているからだろう。

 

 オールマイトやエンデヴァーをはじめ、多数の有名プロヒーローを輩出する倍率300倍を誇るヒーロー科。そんなエリートを後に残せば合格枠を独占されるとおそれと、体育祭で個性が割れており予め対策を立てやすい点から標的にされるのだ。

 

 エンデヴァーの子息、『氷炎』使いの轟をはじめ、『爆破』という強個性と圧倒的戦闘センスを兼ね備えた爆豪、広範囲をカバーできる『旋風』や『柔化』、ワイルドカードとなりえる『コピー』の物間。

 そしてヒーローやヴィランおよび個性に対する知識量と、その人柄からクラスの中心人物である『身体強化』系の緑谷。

 

 個性の無断使用がネックとなり公表されていないが、職場体験では士傑生の数人で指名手配級のステインを捕らえている。

 

 今年の士傑体育祭一年の部は魔境と呼ばれたのは、まだ記憶に新しい。

 

 とはいえ西の士傑 東の雄英と評されるほどなので、八百万や小森らもマークされている。口にこそ出さないが、ミルコを失う切っ掛けとなった生徒を無意識する視線もあった。

 そして評価が分かれるのは彼だった。

 

「あいつだろ? 指名手配級を倒したのって」

「ほとんどBIG3がやったって噂だぞ」

「体育祭でも個性を使ってるようには見えなかったし、職場体験までの短期間でそんな成長するんか?」

 

 わからん。

 とにかく未知数である以上は不確定要素でしかない。実際の実力はどうあれ、早急に潰した方がいいだろう。

 彼はいつの間にやら危険視されている事に気づかないまま、控室に向かった。

 

 なにかとスケールの大きいヒーロー関連の例にもれず、学校ごとにロッカー付きの大部屋が用意されていた。

 一番乗りらしく、誰もいない。緊張を解きほぐそうと音楽を聴くことにした。じぶんのロッカーからスマホとワイヤレスイヤホンを取り出し、ぼーっと流れる音に耳を傾ける。

 

 しばらくすると、ドアの前でばったり会った八百万と拳藤たちがぞろぞろと入ってきた。

 

「あら拳藤さん、ヘアゴムを失くされたのですか? その程度でしたら『創造』しますが」

「ん、いや。気合い入れる時は纏めない事にした」

「普通逆なんじゃないの?」

 と取蔭が突っ込む。

 

 長机に座っていた彼の対面に「はやいね」と拳藤が座る。あとは何も言わず、適当な空間を眺めて長くしなやかな髪を指でくるくると弄ぶ。

 イヤホンを外し、机の上に適当に置いて彼が答えた。

 

「おれのコスチュームはほとんど普通の服みたいな感じだからね、スポーツウェアっていうか。髪、降ろす事にしたんだ」

「え? ああこれ? まあね。変かな?」

「えー、まえも同じこときいたじゃん」

「そう? ごめん、その時何て言ったっけ?」

 

「おいおい、前っていつだよ」

 取蔭も椅子を引いて加わる。拳藤が髪を降ろしたところなんて見た事無い。そんなのシャワーとかお風呂に入った後って事なんじゃ……若干の怪しさを嗅ぎ取った。

 

「それは、あれだよ、彼の病室で言ったけど──」

「わたしと三人で朝帰りした時の事だよね」

「はい?」

 と目を丸くした取蔭。

「詳しく教えていただきたいですわ!?」

 と目を輝かせた八百万。

「ちょっ! レイ子!?」

 

 にやにやしながら誤解を招く暴露を口にした親友に焦りながら彼を見ると、普通に笑いを堪えていた。

 

「いや取蔭さん、あれは夜中まで訓練してたから学校に泊まっただけ、先生も知ってるし……そんなびっくりした顔しなくても」

 

 言われて見やると、いつも余裕のある飄々とした彼女とは思えず、釣られて笑いが込み上げてくる。

 かつて彼から数々のエッチな話題を理不尽に振られ続け、なんとか切り返してきた柳は不思議な達成感と幸福感に包まれた。

 

 あー楽しい。異性に不快感を与えずちょっとした下ネタで笑い合う関係ホント楽しい。ただでさえじぶんのネタで笑わせるのは嬉しいけど、なんでこんな嬉しいんだろ。

 それもまた多感な思春期にありがちな感情だった。別に恋愛感情とか関係なく、異性を笑わせて面白いヤツと思われる事が堪らなく心地よいのだ。

 

「お、なになに、何の話? うちにも教えてー」

「拳藤、更衣室にヘアゴム忘れたの?」

 

 遅れてやってきた麗日や小森たちが会話に加わる。

 

「いや一佳がさー」

「わー、もういいレイ子、もういいから!」

「そーやって焦ると誤解されるぞー」

「少々残念です、感想を聞こうと思っていましたのに」

 

 こうしていい感じに緊張もほぐれ、いったん落ち着くとそれぞれがウォームアップの為に個性訓練スペースに向かったり、精神統一、雄英狙いの対策などを話し出した。

 彼はというと、ちょっともぞもぞしだす。

 

 久々にみんなのコスチュームを見たが、やっぱりエッチだ。ボディラインがはっきり出ているデザインが多く、ひざ丈も短い。そしてもう誰も突っ込まなくなったが、八百万さんは本当にそれで行くつもりなのだろうか? 黒のマイクロビキニにホットパンツで準備体操されると、椅子から立てなくなってしまう。

 

 これはマズい気がした。

 そこそこ見慣れた1-Aでこれでは、一次試験で他校の女生徒のコスチュームを見た時に動揺しかねない。

 ここは新たなアベンジャーズをアッセンブルするしかない。

 

「ちょっと軽くジョギングしてくる」

 彼は机の上のイヤホンを手に取り、そそくさと控室を後にした。

 

「はいよー」と誰かが返事して、しばらくすると他の誰かが「あれ?」と首を傾げた。

 

「これわたしのイヤホンじゃ無い。誰か間違えて持って行っちゃったのかな?」

 

 

 

 xxxxxxxxx

 

 

 

 彼はそそくさと男子トイレに入った。わざわざ遠い場所まで足を運んだだけあって誰もおらずガランとしている。個室に籠った。

 とりあえず便座に座り、ワイヤレスイヤホンを装着してスマホでファンザにログインする。カートに封印しておいたブツを開放した。

 ライブラリーに飛ぶとパチモンAVヒーローがずらりと並んでいる。微妙に似ていないので違和感が凄い。

 

 再生をタップすると同時に、新たに二人組がトイレに入ってきた。

 

「トイレまでついて来てんじゃねーよ半分ヤロー!」

「そう言うと思ってわざわざ遠いトイレまで来たんだが……」

「なんだてめぇコラ、おれの考えなんざお見通しだとでも言いてえのか!」

「そうじゃねーよ……いや怒るだろーなとは思ってたけどよ。トイレくらい静かにしてくれ」

「体育祭で勝ったからって余裕こきやがって……今度はおれが勝つ」

 

 仮免試験においては順位など意味をなさない。合格か不合格かだけだが、そういう気の強い所は嫌いではない。

 小便器の前に立ち、「ああ、おれも全力で……」と言いさした時、背後の個室から異音……なのだろうか、妙な声が漏れ聞こえる。

 

 具合でも悪いのかな? と逡巡するが、すぐにソレと気づく。

 え? 男子トイレで何観てんだ? 

 

 いや、いい。二人は別にそういうAVとかを毛嫌いしているわけではない。だが内容から察するに、おそらく個室に入っているのは女性の可能性が高い。ここが男子トイレという事を考えれば明らかに変質者だ。

 しかし男性だった場合、これはセーフとなるのか。

 スピーカーモードにしているのは単なるイヤホンの接触不良? 注意したくても出来ない。

 

 出るものもひっこんでしまい、二人は固まったまま動けずにいた。

 まさか葉隠のワイヤレスイヤホンを間違えて手に取ってしまい、ペアリング出来てないとは露ほども思っていない彼は、めくるめく世界に圧倒されていた。肉体美が凄いことは確かだ。役作りのためとはいえ、よくここまで鍛え上げたものだと感心する。

 

 まだ夏の暑さも残る季節という事もあり、ほどなくしてじっとりと汗が噴き出てきた。カラカラとトイレットペーパーを巻き取り、額のそれを拭う。

 

 しかし実情を知らない二人は動揺した。

 トイレットペーパーの音!? ということはやはり……一段落付いたのか? 

 だがまだ垂れ流される音声は止まっていない。

 

 しばらくすると彼は再びトイレットペーパーに手を伸ばし、今度は首筋を拭きだした。トレーナーなので少し蒸れるのだ。

 

 いつまにか二回戦目が終わっていた……だと。

 ど、どうなっているんだ。あの扉一枚挟んだ向こう側には、いったいどんなモンスターが……

 

 水の流れる音がして、きい、と扉が開かれる。

 彼が個室から出ると、体育祭や会場の外で見覚えのある後ろ姿が小便器の前に立っていた。轟と爆豪だ。

 用を足している最中に話しかけるのも変なので、そのまま洗面台で手を洗う。鏡には少しやつれた顔が映っていた。それと、不可解そうにこちらを見やる轟と爆豪。

 

「あ、大丈夫大丈夫、ちょっと疲れただけだから」

 

 そりゃ二回も出したんなら疲れるだろーよ。というか、そうか、男か。他人の趣味にあれこれと口を出すつもりはないが、時と場所は選んでほしい気もする。あと音漏れも。

 二人はそれ以外なにも思い浮かばず、ただただ呆然とするしかない。頭の中が漠然としたからっぽの水槽のよう。

 

 心配してくれてるのかな? と彼は軽く手を振ってその場を後にする。爆豪って人は怖い印象があったが、それは身内に限った話で思いのほか優しいのかもしれない。

 

 諸説あるが、男性が一段落するのに100キロカロリーが必要とか、100~200メートルの全力ダッシュ相当の体力消費と言われている。

 これから大切な仮免試験があるというのに、あいつは何をやっているんだ? 自制できないだけなのか、はたまた余裕の表れなのか。

 

 ていうかなんだよ『地獄の炎もわたしたちの大潮に溺れて鎮火したようね』って……

 

「まあその、なんだ……今は一次試験の事だけ考えてりゃいい」

 

 混乱して思考停止する轟に、さすがの爆豪も不憫に思って声を投げかける。

 誰に対しても喧嘩腰の爆豪はこの日を境に、轟に対してはちょっと丸くなった。

 

 

 

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 トイレからいったん控室に戻ると誰もいなかった。そろそろ時間なので、みんな一足先に説明会場に向かったのだろう。

 足早に廊下を進み、扉を開く。広い会場は千五百人あまりが一堂に会しているのでどこもかしこも人だらけだった。

 

 これは皆と合流するのは無理だな、と思いながら、それでも人混みを掻き分ける。すると、つい先ほど見た後頭部を目にした。彼が控室を経由している間に先に着いたのだろう。白と赤に分かれた特徴的な頭髪。

 

「あ、轟くん、だよね? と爆豪くん」

 

 士傑でもトップクラスの要注意人物なせいか近寄りがたい剣呑な雰囲気もあり、二人の周りには空間が出来てきた。彼にとってはほどよいスペース。

 なんのことはない話の切り出しだったが、轟は動揺した。

 

 こ、こいつ。人の親父のパロAVで二回も一段落しておいて、よくその息子に話しかけられるな。どんなメンタルしてんだ!? 

 

 人気のアニメやゲームのパロAVが出るように、人気ヒーローもまたその性欲の宿業からは逃れられない。裏を返せば人気のバロメーターでもある。

 ただ、ルール無用の無法地帯というわけではない。

 該当の作品は、いわゆるモザイクを審査する組織からヒーロー協会に連絡がいき、そこから事務所に伝わり可否の判断が下される。

 

 当のプロヒーローからしてみれば、バカなことやってんなーくらいの認識だ。

 一応、売り上げの一部は募金に回されたりと目配せはされてある。

 

「士傑体育祭、見てたよ。やっぱすごいね。エンデヴァーも応援してただけなのに凄い迫力でびっくりした」

「あ、ああ、そうか」

 

 彼の口からエンデヴァーの名が出ると、なんだかちょっとヒヤリとする。

 

「一回会ってみたいなー。それで握手とか」

「させねえよ!?」

 

 突然の焦燥に駆られた声色に、周囲がざわつく。

 もちろん轟は薔薇が性癖の人間を避けているわけではない。エンデヴァーは、父親は既婚者だからこその反応なのだ。

 

「あ、そっかそっか。エンデヴァーはそういうファンサービスしないんだったね。硬派路線というか」

 

 そういうとか付けると別のファンサはするみたいに聞こえるだろ! 

 喉まで出かかった言葉は、爆豪に落ち着けと肩を掴まれた事で何とか飲み込んだ。

 目を閉じ、大きく息を吸って落ち着きを取り戻す。彼に(たぶん)悪気が無いのも理解している。

 

「……いや、忘れてくれ。ちょっと気が立ってた」

「ごめんね、集中している時に話しかけて」

 

 それきり沈黙が降り、轟と爆豪は気まずくなってその場を離れた。その二人とあっては自然に道が開く。

 たが、周囲は静かにざわついていた。

 

 誰かが眼鏡をくいっとやる。

「あの冷静沈着な轟が狼狽し、狂犬のように誰かれ構わず噛みつく爆豪がおとなしくフォローに回っている……だと。ばかな、データ上はありえない」

「なに話してたんか知らんが、一言二言で士傑一年のトップ3を動転させるってマジかよ……」

「そんなに雄英のアイツはヤバいの? あの八百万や小森よりも?」

「指名手配級を仕留めたって眉唾じゃないのかよ」

「いやこんな近くに居たらソッコー狩られるわ、離れとこ」

 

 強さ的には下から数えた方が早い彼だったが、なぜか真逆の印象を持たれることになった。人口密度の高い室内なのも相まって、噂はあっという間に広がっていく。

 不確定要素だから潰しておこうという作戦から、なるべく近寄るな、に方向転換されだした。

 ほどなくして一次試験の概要が説明される。

 

 各自が三つのターゲットを身体に吸着させ、配られた六つのボールで相手のそれに当てるというものだ。ターゲット全てに当てられた時点で脱落し、三つ目に当てた受験生のみ通過となる。

 先着五百人が合格という狭き門だった。例年で言えば五割が合格者だが、昨今のヴィランの隆盛を鑑みて基準が引き上げられた。

 

 オールマイトがいるとはいえ、たった一人に支えられた社会の脆弱性を少しでも改善すべく、後進の全体的な底上げが狙いとなっている。

 

 説明会場の外壁が外側に倒れ、ここが巨大なスタジアムの中だと気づく。市街地や廃工場、切り立った山岳や流れ落ちる滝壺エリアなどに囲まれていた。

 号砲が鳴り、結局彼は1-Aと合流できないまま市街地を目指した。室内などの閉鎖空間であれば、『体力』という弱個性でも多少は誤魔化しが利くだろうという考えだ。

 恒例の士傑潰しもあってか、ほとんどの受験生は主に荒野地帯に集中しており人の気配は比較的少ない。

 

 ばったりと曲がり角で一人の受験生と出会う。受験生は当然焦る。なんせ相手はつい今しがた噂で聞いた件の人物なのだ。指名手配級を降し、轟と爆豪に一目置かれる? ほどの超危険人物。

 軽い恐慌に陥っている受験生の前面には二つのターゲットが付いていた。彼はボールを握ったまま手早くタッチし、足払いで転がして背中にある最後の一つに当てる。

 

「え? は? なにが?」

 

 あっという間の出来事に目をぱちくりする受験生に、アナウンスが現状を説明する。

 

『えー、通過者が一名出ました』

 

「あー、よかった。なんとかなって」

 

 ホッとした後 倒れた受験生を起こしてやり、みんなの無事を祈りながら控室に戻った。

 

 

 

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「いやー案外なんとかなるもんだね。よかったよかった」

 と、葉隠が一安心といった感じで紅茶を一口やる。

「全員通過したんだし、ミッドナイト先生も鼻が高いだろーな」

 

「そりゃ二次試験の合否によるんじゃない?」

 取蔭がサンドイッチをパクついて言った。

「士傑も全員通ったって事は、より熾烈になるんだし」

 

 二次試験の前に昼休憩が挟まれ、今は控室で空腹を満たしながら対策を練っている最中だ。士傑ほどではないが、雄英もそれなりに狙われる。

 

「おかわりはいかがですか?」

 八百万がほくほく顔でティーワゴンを押しながら練り歩いている。やけに大荷物だと思ったら、どうしてもみんなに紅茶を振舞いたかったらしい。

 気合が入っているだけあって、パック紅茶とはモノが違う。

 

「やっぱり取蔭さんが上空から俯瞰して情報を集めるのがいいんじゃないかな、口元を地上に置いてもらえば情報伝達も容易だし」

 彼が提案すると、塩崎が頷いた。

「そうですね、インカムもありませんし。あとは八百万さんを中心に据えて、バスケットの時のように空中と地上で分担するというのはどうでしょう」

 

 あーいいねえ、といった具合に意見が纏まりつつあった。

 そんな折に、控室のドアがノックされた。係の人が顔を出して、彼を呼ぶ。なんでも父親から会場に連絡がきているらしい。

 なんだろうと事務所まで向かい、受話器を手に取る。

 

『向いてないって言いませんでした? ヒーローに』

 

 反射的に周囲を見渡す。パソコンに向かって事務作業をしている人間が何人かいるだけだ。

 その男性の声には聞き覚えがなかったが、文脈から判断するに合宿所で襲ってきたヴィラン連合の一人だ。ナイフを投げてきた女子高生だろう。

 

『仮免を取ったって何も変わりません。たまたまもてはやされただけの弱個性持ちという事をもう忘れたんですか? いいかげん立場をわきまえてほしいです』

 

「先生は、ミルコ先生は無事なのか?」

『生きてはいますよ』

「なにが目的なんだ」

『あなたには理解してほしいんですよ、弱個性持ちに社会的価値は無いって事を、ヒーローなんて目指すのもおこがましいって事を。なんでわからないんですか? 出来の悪い子どもにモノを教えるってこんな感じなのかなあ』

 

 つくづく嫌気がさしたように深いため息が聞こえる。

 

「おれは、そうは思わない。将来においておれが救える誰かの人数なんて一人か二人かもしれないけど、その人の為の努力を辞めるつもりはない」

『あーはいはいはい、それが目の前でプロヒーローに犠牲を強いた弱者の言う事ですか? 泣きそうになってたのは誰でしたっけ? じぶんじゃ誰も助けられないって自覚したからじゃないんですか?』

 

「確かに強個性でしか助けられない人もいる。けど、おれにしか助けられない人もいた。それを無かった事にして、おれをヒーローだと呼んでくれる人を無視するわけにはいかない。だからおまえに何と言われようと諦めない」

『それ、笑えません。ただの学生風情がヒーローと呼ばれていい気になってるだけです』

「期待に応えたいだけだ……おまえの瞳、思い出したよ。高揚に満ちてるはずなのに虚ろなそれ、見た事がある」

 

『はあ? ……意味わかんないです』

 電話口の相手は何の事か意味が分からず戸惑いをみせるも、すぐに調子を戻した。

『まあどーせ身内で傷の舐め合いしてるだけでしょうし、いいですけどね、別に。もう一度、強個性でしか助けられない人をプレゼントするだけなんで』

「まさか、また誰かを」

 

 彼が固唾を飲んだ。あの夜の事が心に波紋を広げる。しかし受話器から聞こえたのはまったく別の内容だった。

 

『今から言う場所にミルコはいます。助けに来たかったらどうぞ。ただし、この事を外部に漏らしたら即座にミルコは殺します。急いだ方がいいですよ。間に合うかどうか知りませんが、このままだと死ぬより酷い目に遭っちゃいますから』

 

 彼の言葉を無視して住所を告げ、通話は一方的に切られた。

 電話相手が外部に漏らすとミルコを殺すと言った要件に縛られている以上、助けは呼べない。

 どうやって把捉しているのかわからないが、なんでもありが個性だ。筆談にしろジェスチャーにしろ、常に監視されている前提で動かなければ人が死ぬ。

 

 たった一人で罠かもしれない火中に飛び込み、そしてミルコ先生を助け……られるのか? いや、おれは──

 固く拳を握りしめた。不感無覚に事務室を後にする。

 

「あ、いたいた。そろそろ二次試験が始まるけど」

「てか電話なんだったの? 大丈夫?」

 

 ちょうど1-Aが集まってきた。

 一次試験では説明後すぐに開始の号砲が鳴ると思わず彼を孤立させてしまったので、二次ではあらかじめ固まっておこうという算段だ。

 

「……二次試験は受けない。先生にはうまく言っといてくれない?」

 

 一瞬の停滞の後、次々に疑問が飛び出す。

 

「なんだよ、ビビるような性格じゃないだろ」

「受けないって、いやいやもったいないじゃん、せっかく通過したのに」

「なに? 体調悪いの?」

 

「いや。でも行かないと」

 

「どこに? 試験よりも大切な用事?」

「ご両親になんかあった?」

 

「それは……とにかく試験は辞退する」

 

 なぜ急に彼がそんな事を言いだしたのか、その場の誰もわからない。

 せっかくのチャンスを何故みずから手放すのか。

 けれども普段と変わらない口調で、しかし確信に満ちた真剣さでそう言う彼を知っている者がいた。

 

「そこ、遠いの?」

 拳藤が事の重大さを察知してか慎重に尋ねるが、彼は返答を躊躇った。

 遠いか近いかの距離感であれば問題ない気もするが、危ない橋は渡れない。

 

「……言いたくないのではなく、言えないのかしら」

 

 蛙吹の一言で、全員がなんとなく不穏な空気を感じ取る。

 ヴィランの魔の手はこちらの都合を無視して、まるで通り雨のように大切な人の頬を濡らしていく。林間合宿の時の記憶が嫌でも蘇った。

 

 ヒーローを目指す者にとって必要不可欠な仮免取得まであと一歩。そのあと一歩から引き返さねばならないほどの事態が、彼の身に降りかかっているのだ。

 

「とりあえず送るよ、急ぐんでしょ? 場所は言わなくていい、方向だけで」

「送るってどうやって」

「ん? 期末でやった演習試験の解法の応用で」

 

 足早に個性訓練スペースに向かう。バスケットコート五枚分ほどに区切られており、ターゲットなどが配置されていた。明るい陽ざしが降り注いでいる。

 二次試験の開始が近いせいか、ガランとしている。

 

 送り出す方法として単純なもので、まず麗日と柳が彼に『無重力』と『ポルターガイスト』を付与する。後は拳藤が『大拳』で大まかな方向に彼を投げ飛ばすだけだ。着地はスマホで指示すれば済む。

 

「でも、その間は麗日さんと柳さんの個性が」

 

 柳の個性は複数を対象に取れるが、彼に気を配っていては精彩を欠くだろう。麗日に至っては指示があるまで解除できない。

 二次試験の内容いかんによっては完全に機能停止するおそれがある。

 

「いいんだ。ダメならダメで」

 柳がワイヤレスイヤホンを装着して、明るく言った。

「こんどはわたしが助ける番。要件が終わったら、わたしらのことヒーローだって言ってくれればそれでいいから」

「不合格になっても次また一緒に受ければいいし。うちにしてみれば仮免なんかより、クラスメートが困ってるのを助ける方が大事だから」

 麗日がそう言って彼の肩に触れ、『無重力』を起動させた。

 

 八百万が胸に手をやり、真剣な表情で宣誓する。

「何があったのか理由はお尋ねしません。クラス委員長として柳さんと麗日さんは可能な限りサポートいたします。ですから安心して行ってきてください」

「お、そういえばそうだったね。じゃ、わたしは副委員として。二次試験がじゃんけんだったら無敵だから」

「ん」

「まさか勝ち抜きトーナメントって事もないだろーし、まーウチらの事は心配すんなよ」

「ケロ、一次は実質的には個人戦だったし、おそらくチームワークが試されるんじゃないかしら」

「だったら問題ありまセン。林間合宿のバスケやビーチボールで鍛えられましたから」

「忘れないでよ。誰一人欠けることなく、また海の家に集まろうって言ったのあんただって事」

「願わくば天地の祝福があらんことを」

「仮免試験終わったら一緒にまた打ち上げするからな」

「何があったか、その時に話してくれればいいからさ。出来ればでいいけど」

 

 最後に取蔭と芦戸が絞め、柳が拳藤に頷くと照れくさそうに頭を掻く。

 

「誰かを助けに行くんだろ? ……そーいうカッコいい顔してる」

 言ったセリフに恥ずかしくなって、いきなり『大拳』で彼を握って振りかぶった。

「ま、こっちは大丈夫だから、安心してヒーローに──なってこい!」

 

 凄まじい加速度で、彼は会場から大空へと飛び出した。あっという間に青く高い秋空が眼前に広がる。地球の丸さもわかりそうだ。

 風切り音が耳にうるさく、目を開けるのもやっとなほどだ。重力から解放された奇妙な浮遊感に身を任せる。

 空には、何もない。美しく染み一つない清廉な景色とは裏腹に、一人で立ち向かわなければならない事を強調されるようで心細い。

 

 しばらくすると県を跨ぎ、海の近い都市部にある目的地に近づく。指定されたのはどこにでもあるようなマンションの一室だった。

 スマホで連絡を取り、『無重力』が解除される。あとは位置調整を指示しながら『ポルターガイスト』で団地の道路に軟着陸した。昼間という事もあって、幸いにも車や人通りは少ない。

 

 まずは近くにある公衆電話に向かう。台の裏にはマンションのカードキーが張り付けてあった。特に柄もなく、いかにも違法の品といった感じ。

 

 電話をしてきたヴィラン曰く、ミルコが拘束されている部屋の鍵らしい。

 かなり回りくどいやり方だ。ヴィラン連合がただの学生の心を折る為に、わざわざ誘拐した人間の場所を教えるだろうか? 

 そもそも生きたまま捉えたにはそれなりの理由があるはずなのに、殺すと脅すのは理に適っていない気がする。

 

 主犯格の死柄木はこの事を承知しているのか? あの女子高生ヴィランの独断だとしても意味不明だ。一枚岩ではないのかもしれない。

 

 カードキーをかざしてエントランスを抜け、エレベーターは前回の事もあるので階段で三階に向かう。

 目的の部屋の前に着く。間取りは空を飛んでいる間に賃貸サイトで確認した。他に出来る下準備と言えば心を落ち着かせ、覚悟を決める事くらい。

 

 だがさすがに身体が震えた。ヴィランの言っていたことが事実だとしても、扉の向こうにミルコ一人がいるわけではない。殺人もいとわないヤツらが待ち構えているはずだ。それも、『体力』なんかよりずっと強力な個性を持った。

 

 ──弱個性でも、誰かを助けられると思う? ──

 

 それは呪詛であり、彼の心に出血を強いるほど食い込んでおり、絡みついた牢固たる鎖と錠。

 それを懸命に開錠しようとした。

 おれにミルコ先生を助けられるかどうかはわからない。けど、現状はおれにしか助けられないのだからやるしかない。

 

 ふと、背後に広がる青空に振り返る。飛んできた時に目にした、孤独の空。

 ミルコ先生もあんな景色を見てたのかな、と不意に思う。あれは飛ぶというより跳躍だが、尊敬する教師と同じものを見ていたと考えるとなんだか嬉しい。

 それに『体力』では決して叶わない、幼い頃に憧れた空を飛ぶ個性でしか目にできなかったはずの蒼天の眺望。

 

 それを可能にしてくれたみんなの事を思うと、一人では無い気がする。

 なんだか不思議と勇気が出てきた。

 

 カードキーをかざす。

 開錠され、傷つきながらも解き放たれた心の命ずるままに。

 

 

 

 カタン、と錠が外れた。

 

 

 

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 玄関に靴は無いが、土足で上がり込んでいる足跡が残っていた。

 遮光カーテンから漏れる光のみで室内は薄暗いが、正面の六畳リビングに二人、奥にある三畳の寝室に一人の影とバスタブが置いてあるのがぼんやりと見える。

 浴室、トイレのドアを軽く開き、手早くクリアリングしながらリビングに踏み入ると、死柄木とステインが待ち構えていた。奥には黒霧が佇んでいる。

 彼は()()()()()()()()()()()ヴィラン連合の個性を脳裏に刻む。

 

 沈黙の中で、原付の走行音が近づいて遠のく。小鳥がどこかで鳴いていた。安物の時計が規則正しく秒針を刻む音が、なぜだか一際大きく聞こえる。

 

 彼は静かにバスタブに視線をやる。

 粘質な黒い液体で満たされていた。それに浄水器や灯油タンクから引かれた管が何本も入れられており、こぽこぽと泡が立っている。

 その悪意の塊に、ミルコは肩から上を出した状態で浸かっていた。なにかしらの個性か薬剤の影響かは不明だが、焦点の定まらない瞳で虚空を眺めている。

 

 目尻から痩せた頬に伝う涙痕を見て、焼尽の激情に駆られるそうになるのを必死に堪えた。それがこの場において、指名手配級を複数人相手取らねばならないこの状況において、どれほど致命的かを理解しているからだ。

 

 死柄木が怪訝そうに眉をひそめる。彼の行動が理解できないのだ。

 ここにヴィラン連合がいると知っているなら、まず通報するのが筋。プロが踏み込んでくるのならともかく、学生がたった一人でというのはまるで解せない。

 

 肩透かしもいいとこだ。

 ただわかっているのは、なぜこの場所を知っているのか、殺す前に拷問してでも聞きださなければならないという事。

 

「とりあえずまあ、おまえにはいろいろと聞かなきゃならない事がある。人んちに不法侵入しておいて、タダで帰れると思うな」

「おれもちょうど、そう(おも)っていた」

「はあ?」

「先生は必ず連れて帰る」

 

 ステインが見定めるように目を細めた。

 死柄木が腹立たしそうに頭を掻く。

 

「んー、なんなんだろーな、おまえといい、士傑の緑谷といい。この状況でなんとかなると思ってんならだいぶ自惚れてる。呆れを通り越してムカついてくるぜ。最近のガキはみんなそんなふうに自信過剰なのか?」

「おれは、おまえみたいなヴィランには絶対に負けない」

「じゃあその根拠を言ってみろよ。どーせくだらねえ精神論なんだろ?」

 

 彼は右半身を引き、構えた。

 

「ミルコ先生がそう言ってくれた。だから自信を持てって。おれにはそれで十分だ」

「……思ったよりマジで脳筋のヒーローバカだな。気持ち悪くて吐き気がする」

 

 知った声に名前を呼ばれたせいかミルコの意識がおぼろげに浮上する。身体の感覚はまったくなかったが、モヤのかかった視界で部屋を見渡した。

 

 死柄木がほんの少し腰を落として両手を楽にする。

 

 ステインが閉所にもかかわらず背負った柄の短い日本刀を順手で、脇腹にマウントしたサバイバルナイフを逆手で音もなく抜く。その()()を、彼はそれとわからぬよう盗み見た。

 

 黒霧が冷静に状況を試算する。

 もしも簡単にケリを付けるなら、黒霧の『ワープゲート』で彼の四肢を捻じ切れば済む。

 

 だがこれは本当に最後の手段だ。

 この個性攻撃を行った場合、自身の体内に対象の血肉が混入する。その不快感がどれほどのものか本人にしかわかりようがないが、消えることなく永遠に残り続ける違和感である事は確かだ。

 

 何よりも、対象の身体に取り付けた発信機の類いを取り込む可能性や、彼が『毒』や『サーチ』系などの個性使いだった場合、どういう起動プロセスであれその血肉の侵入を許す事は避けたい。

 

 オールマイトほどのものであれば喜んで受け入れるが、たかがヒーロー科の有象無象であれば、ヴィラン連合の生命線としてリスクは負えない。それほどまでに『ワープゲート』は希少かつ替えが利かない強個性だ。

 切り札として最後まで残しておくべき。

 

 さらにミルコに人質としての価値は薄い。わざわざ無傷で生け捕りにしたのに、殺すぞと脅したところで説得力は生まれないからだ。

 そしてこちらの個性はおそらく全員割れており、彼は不明だ。その点では不利だが問題無い。

 

 なぜなら彼がこの状況を打破するには、()()()()()()を解かなければならない。おそらくプロヒーロー、いやビルボード級でさえその解法は困難を極めるだろう。

 

 ステインを前衛として、大事になるとマズい死柄木がサポートに回るのが上策。

 

 敗北の可能性は無限小と言っていい。それよりも、彼がどうやってこの場所を知ったのかが最も重要な問題だ。

 単身で乗り込んできたのも不可解きわまるが、数の有利は絶対的だ。

 

 とにかくヴィラン連合に内通者がいるのか、警察の捜査なのか、個性によるものなのか、他のヒーローは来るのか。『ワープゲート』でどこかに飛ばして有耶無耶にしたり殺すよりも先に、尋問して吐かせなければならない。

 

 張り詰めた空気の中、死柄木とステインの向こうにいるミルコと彼の視線が結ばれた。

 彼はあの夜みずから埋葬した()()()()()()()()()()()()を、いま口にする。

 

「待っていてください。必ずおれが助けます」

 

 それを聞くとミルコは薄く笑う。

 

 彼に、ではない。

 ヴィランのアジトにたった一人で乗り込み、「必ず助ける」などと分不相応な言葉を口にするヒーロー未満の卵。

 けれどもその一言で、絶対に口にしたくはないし認めたくないが、不覚にも感じてしまったのだ、安堵の念を。

 そんな自分の能天気さに笑ったのだ。

 

 

 痛むほど乾いた喉でかすれるように言った。

 

「弱いくせに生意気だ、悪くない」

 

 

 

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 彼にはあの夜、言わなければならない言葉があった。それを惨めさと無力さの泥に深く沈めた。

 目の前で悲哀に暮れている人がいたら、悲しそうに笑っている人がいたら、助けが必要であればどれほど滑稽だと思われようと、それで少しでも安心させられるのであれば、言わなければならない言葉があった。

 

 今はもう無い。

 代わりに、やらなければならない事があった。

 それを惨めさと無力さの泥に沈めるわけにはいかなかった。

 



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第二十一話 脱兎

元気が無くなったので、毎日更新というか、明日の更新は微妙かもです。週末までにはなんとか。

誤字報告もちょっと開くのがアレというか、わざわざやってくれてるのにすみません。いろいろアレで十九話から感想欄も覗けてないんですが、元気出たら見るので書いてくれると嬉しいです。


 聖典の携帯端末に、マンションを監視している解放戦士から連絡があった。

 どうやら彼が死柄木たちと接敵したようだ。

 確実に始末されるだろう。

 

 そうなったら情報部隊を使い、それとなく実名をネットに流してやればいい。

 実力も無いヒロイズムに溺れた子供が、警察やヒーローに助けを求めず独断専行に走った結果が表ざたになれば、他の異能弱者も立場をわきまえるだろう。雄英のバッシングも免れない。

 

 仮に彼が尋問され、居場所を漏らした内通者がヴィラン連合に居ると吐かれても証拠は無い。

 それにほどなくして()()()()()()()()()()()()()()()()()が駆け付ける事になっており、事態を収拾する手筈だ。

 その後の状況を見て、ミルコを救助したヒーローたちが情報の出所を公開する。内通者を匂わせるなり、そういった個性使いのタレコミがあったとか、不和や猜疑を生み出す方便はいくらでも考えられる。

 

 市民にとってメディアを通したヒーローの言葉の信憑性は高いが、情報戦の可能性もある以上、ヴィランとしては全面的に信じられないだろう。そうやって疑念の種を撒くのも工作員としての役目だ。

 

 つまりどう転ぼうがヴィラン連合はビルボード級を素体とした脳無を手に入れられず、調子に乗った異能弱者は死ぬし、見せしめとして死後なおもネットで叩かれて火葬される運命にあるのだ。

 

 仮免なんて受けなければこんな目に遭わなかったのに。

 と、聖典はほんの少しだけ彼を哀れんだ。それは優しさや正義の心からではなく、異能解放軍幹部であるキュリオス直属の部下という立場から見下ろした、異能弱者に対する傲慢な憐憫だ。

 

 そもそもヒーローなどという、起きた事象に対してしか手を差し伸べられない偽者に夢を見るのが間違っている。

 

「……潜在的な弱者に対する真の救済者はわれわれなのです」

 

『誰もが自由に異能を使えるようになれば、今よりもっと気軽に助け合えるし社会も発展する。それを阻害するヒーロー免許などという制度は打ち壊さねばならない』

『そして学力や体力よりも、新時代にヒトに与えられた異能という新機軸に重きを置いて評価する社会を構築し、異能の拡張を促す事こそが、人類を生物学的に前進させる基本原則なのだ』

 

 幹部の花畑ことトランペットがよくそらんじていた、異能解放戦線に書いてある一文を心の中に思い描き、かつての母校である中学校を睨むように見上げた。

 そうして背を向けて歩き出す。ポケットの中の屋上の鍵が、小さな金属音を鳴らす。

 

 

 

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 ステインには、ドクターから回してもらったビルボード級や主要ヒーローの血液の入ったカプセルを装備させてある。両手首の赤い数珠がそれだ。

 裏のエンジニアに作らせたもので、血の入った珠は一つずつ取り外す事ができ、それぞれ、弐、参と、ビルボードに対応した漢数大字が振り分けられていた。一つずつ取り外しが可能で、そのまま噛み砕く事で『凝血』が起動する。

 

 この部屋を襲撃しにきたヒーローを返り討ちにするには十分な保険だった。

 ところが無名の輩が一人で来たのでは役に立たない。

 

 いや、完全に無名というわけではない。三年生と協力してマスキュラーを倒したらしいが、合宿を偵察した渡我の報告では下から数えた方が早い程度の実力。そしてこの秘密の脳無製造工場の場所をどうやってか知っており、無謀にも単身乗り込んできた愚か者。

 

 要するに不明だ。なにもかもがチグハグで明瞭な所など一切無く、秘密を探ろうと情報を掬い上げても砂塵のように零れ落ちてしまう。

 秘密とは武器だ。

 だから死柄木はミルコ強奪の際にステインを見せなかった。プロヒーローが『凝血』の射程距離内にいる事を隠したかった。

 

 この世でも最も強力な力とは理解である、と以前先生が言っていたことを死柄木は思い返す。今ならその意味がよくわかる。秘密に対するカウンターだからだ。

 彼に対する理解は無い。だから、ここに足を踏み入れた以上は万全を期すべきだ。死柄木は妥協無くそう判断した。

 

「借りを返せ、ステイン」

 

 目元をボロ布のアイマスクで覆った指名手配級ヴィラン、ヒーロー殺しは答えることなくゆっくりと彼に近づき、日本刀の射程内で斬りかかった。

 その合間合間に死柄木が安全を見極めながら手を出す。

 ステインの技量は疑いようのない物だった。同士討ちになる事も壁に刃を取られることも無い。

 

 死柄木のフェイントに合わせて、刀が彼の肩を浅く裂いた。本来であれば無視できるダメージだが、『凝血』相手には致命とも言える。

 だが彼に焦りはなかった。依然として問題無い事は事前に()()を見て確認している。

 

 得物を握る手はまず順手と逆手の二種類に分けられる。

 さらにそこから数種類に派生するが、大別すればハンマーグリップかセイバーグリップに絞られる。

 オーソドックスなのは前者で、親指をしっかりと回して握りこむ。保持力に優れており力を込めやすく、刺突や斬撃の威力が増す。

 

 後者は親指の腹を柄や鍔に当てる握り方で、保持力は低いが刃の可動域が格段に広がる。

 

 相手の血を舐めれば『凝血』が起動し、数分の間は対象を強制的に行動不能にさせる個性を持つステインからしてみれば、セイバーグリップを選ぶのは当然の帰結だ。

 腕や足を切断するほどの力は要らない。一寸斬り込み、刃に付着した血、あるいは流血を舐めればそれで終わる。

 

 だがいかに物理・自然法則を貫徹する問答無用の個性とて、起動までのトリガーが割れていれば、故に行動は読みやすい。

 斬ったのなら、刃を口元にもっていく。

 それがわかっているなら、対処方法を先置くことは彼にとって容易だ。

 

 彼の両手が予定調和のように、日本刀を持つステインの内手首と外肘に触れたかと思えば、流れるように外側に捻る。

 関節を責められ、上を向いた柄頭を外に押すと第二種てこの原理で刀はあっけなく零れ落ちた。

 ステインはそのディスアーム精度に驚きはしたものの、すぐさま左手に握ったサバイバルナイフで切り上げる。が、一手早く彼が上から手首を掴んでおり、強く引っ張り体勢を崩す終わり際にナイフの背に指をかけた。すると刀と同様に手から滑り落ちる。

 

 勝手に得物が持ち主から離れたかのような、一連一瞬の所作であった。

 

 ステインはたたらを踏みながら脇腹にマウントしてあるサバイバルナイフに手をやるが、あるはずの柄が無い。既に彼が指で挟みこんで引き抜き、手首のスナップで部屋の隅に放っていた。

 この行動に、ステインは違和感を覚える。奪った武器を何故手放すのか、扱えない技量とは思えない。それとも殺す可能性に怯えているのか。

 

 よろけたヒーロー殺しの横から、死柄木が迫る。

 訓練した動きではないものの、天性の俊敏さと捉えどころのないしなやかさがあった。五指で触れさえすればいかなる防御も無視する個性には、十分適した戦い方だ。

 掴まれれば終わりというプレッシャーと逃げ場の無い閉所ならば、優位である事は確かだ。

 

 しかし触れられない。いなされ、顔にジャブを貰うと掌のマスクが落ちた。激しい感情の揺らぎを覚えた刹那、鼻っ柱に軽くもう一発入る。

 

 相性が悪い。

 個性の、ではない。体術が致命的に噛み合わないのだ。

 

『凝血』を最大限に活用する目的から逆算すれば、握り方はセイバーグリップに辿り着くだろう。

 だがシラットの持つ強力なディスアームを前に、可動域を確保する利点と引き換えに失った保持力は明確な弱点として浮き彫りにされた。

 

 また、いくら死柄木が素早い身体の制動の素質を持っていたとしても、ボクシングを完全に修めた人間がアウトボクシングに徹した場合、訓練無しに拳を当てる事は不可能に近い。

 

 死柄木が苛立ちから眉間にしわを寄せて内心で毒づく。

 二対一だぞ、それをこいつは……格下なのは間違いない、なにがどうなっている、手玉かよ、バグってる、測り違えたのか、こちらが弱いのか? いやそれはない、ステインは一線級のヴィランだ、ガキが強いのか? そんなはずは……

 

 ステインも黒霧も、内心ではそんな煩わしさと不可解さが首をもたげる。なにかおかしい事態に足を踏み入れているはずなのだが、それがなんなのか掴めないだ。

 ムーンフィッシュを呼ぶべきか迷うが、内通者だった場合はリスキーすぎる。

 

 もちろん、死柄木たちの猛攻を抑え込んでいる理由は相性や格闘戦の才格、訓練量の差もあるが、それだけではない。職場体験での戦闘が彼の実力を底上げしているからでもある。

 ──実戦の殺し合いに比べたら学校の訓練なんてお遊戯──

 あのとき彼に言い放ったマスキュラーのこの主張は、認めたくないが一理あった。あの時死線を潜り抜けた経験が、確かに彼の強さに影響していた。

 

 ステインが最小限の動きで突きを放つが、手首で前腕を払われ、眉をひそめる。おかしい。この卓越したナイフディフェンスを体得するのに、いったい日にどれほどの時間を注いだというのか。そうだとしても身体の方が先に壊れるはず。

 

 凌ぎ切られているのは不愉快だが、ヴィラン連合側にそれほどの焦燥感は無い。()()()()()()が存在するからだ。

 死柄木かステインから倒すのは間違いだ。その瞬間、黒霧は奥の手で彼を再起不能にするだろう。あるいは、彼の視点からすれば増援を呼ばれかねないし、再びミルコごと逃げて振出しに戻るかもしれない。

 

 つまり最初に黒霧を倒さなければなければならない。

 が、それは卵の殻を割らずに中身を取り出すようなもの。

 なぜなら黒霧に辿り着くには死柄木とステインが邪魔だ。かといって前述の理由でこの二人を先に倒すわけにはいかない。

 

 ヴィラン連合側の余裕の源はここにある。

 プロヒーローでさえ、この限られた条件下で死柄木とステインを倒すことなく黒霧に到達するのは至難の業だ。仮に抜けられても、黒霧が反応して切り札を出せる距離もある。

 

 それに、もう一歩で状況を崩せそうではあるのだ。

 彼は防御に優れているが打撃は弱く、致命打は無いという印象。なにかのきっかけでいとも容易く崩れる均衡なはず。

 

 けど無理。

 ミルコは薬でぼんやりとしたぬるい思考の中で、そう確信している。決して届く事は無い。

 おまえらとは体術の天資が違う。『体力』が可能とした膨大な実訓練時間に費やした努力が違う。研鑽に次ぐ研鑽によって積まれた技量が違う。

 

 それは万能の強さではなく、一定水準以上の個性によって容易に蹂躙されうる哀れで儚い灯火。

 転じて特定の個性使いへのカウンターとして特定の状況下で、誰よりも局所的に機能する唯一無二の強さ。

 

 だから今はまだきっと機を窺っている段階。

 その証拠に、彼は弱打しか放っていない。強打で昏倒させられる瞬間はいくつもあったのに見逃している。

 

 だがその機がなんなのか、彼はどうすれば正しい順番でヴィランを倒せるのか、ミルコにはわからない。

 そもそも、右利きの彼がなぜ右半身を引いているのか……それになにより、なぜアイテムを使わない? 三段警棒ならば受け太刀も容易なはずなのになぜ『凝血』や『崩壊』のリスクを背負う? 一手誤れば取り返しのつかない事態に陥るのを理解していないはずがない──

 

 彼がステインの顔めがけたジャブに合わせ、足払いで転がす。打点の高低差を活かして意識を分散させる、お手本のような対角コンビネーションだった。

 本来であればグラウンドに移行して優位に立てる。しかしボクシングはその競技性ゆえにもちろんのこと、シラットにも寝技は無い。後者はゲリラ戦・対多数を想定している以上、一人の敵に対して寝転んでいる暇など無いからである。無論、この状況に対してもそうだ。

 だからといって、テイクダウンした相手への追撃技が無いわけではない。

 

 うつ伏せに倒れた人間が起き上がろうとする場合、つま先を接地して足の裏が垂直になり、アキレス腱が水平のコの字になる。この状態でアキレス腱に踏みつけが入ると、身体の支点となっている指の付け根の基節骨はもちろんの事、足の中核である楔状骨群が損傷する。

 

「ステイン!」

 

 黒霧が声を荒げた。それよりも早くステインは黒霧の方向に転がって距離を取る。踵から垂直に落ちた踏みつけが床を激しく打った。

 いくらブーツを着用しているとはいえ、アレをくらえばタダでは済まない。

 死柄木の攻撃に合わせてナイフを投擲するが躰捌きで避けられる。賃貸の壁に深々と突き刺さった。

 

 彼は死柄木が踏み込んだ右脚の膝を、接地する前に軽い前蹴りで打った。バランスが崩れ、上半身が前のめりになった胸倉を左手で掴む。

 

 ──グラップル!? 

 ミルコが抱いたその疑念が連鎖的に氷解した瞬間、耳と尻尾の毛が一斉に逆立つ。

 右半身を引き、奪ったナイフを捨て、アイテムを使わず弱打に徹した理由はそこにあった。

 

()()()()()()を解くことなく踏み倒す一手。

 それを現実のものとする理屈としては、『凝血』のトリガーから行動を逆算してディスアームを先置き出来たのと同じだ。

 

 死柄木の気持ちに寄り添って考えてみれば、転びそうになっているところに弱打しか使ってこない彼が胸倉を掴んできたのならば、その左腕を掴むのは最善手だ。五指が触れ『崩壊』が起動する。

 そうくるとわかっていれば、彼がトレーナーのサイドベンツを翻し、死柄木の死角となっている状態で右手をスリットに差し込み、カランビットを抜くのは必然。

 

 入る。とミルコは確証を得た。

 入ってしまう。

 おそらく彼が一度でも武器術を見せれば警戒されただろう。だからステインのナイフは捨て、腰裏にマウントしてあるアイテムも封じて耐え凌いでいた。ヴィランの保証を御破算にするその致命の一撃を、確実に入れられる機を引き寄せるまで。

 

 彼の斬り上げが死柄木の左手の軌道上に、完全なタイミングで因果した。

 同時に掴んでいた腕で突き飛ばす、返す刀に空中に取り残されたソレを掴む。

 背から壁に叩きつけられた死柄木がえずき、指に溢れた鮮烈な熱に気付く。

 

「黒霧! 殺せ!」

「殺せば指は戻ってこない」

 

 そう言った彼を見て、黒霧とステインは一瞬のうちに何が起きたかを認識した。

 既に彼の首は『ワープゲート』に捕らえられており、ゲートを閉じれば生首が出来上がる。

 問題は彼が指を咥えている点だ。死柄木の、親指を除いた四指の内の一本。仮に胴体を切断すれば、激痛による噛み締めで指の傷口は挫滅するだろう。

 

「残りの指は喉元に押し付けているから、ゲートを閉じればおれの手と首、死柄木の指が捻じ切れる。理解したら個性を解除しろ」

 

 怨嗟の声で死柄木が呻く。

「てめえ……」

「おれも死にたい訳じゃない。タダで帰るつもりが無いだけだ。話し合いで解決しよう。黒霧は後ろを向け、『凝血』を起動しようとする素振りを見せても指は噛み潰す」

 

 言われて死柄木に視線をやる。忌々し気に睨まれたので、彼の言葉に従った。

 

「ミルコ先生と四本の指は交換だ」

 

 切断面が綺麗であれば再接着は可能だ。取引として十分成立しうる。

 彼は片膝立ちになり、残りの三指を床に置き、カランビットの刃を当てがい峰に踵を乗せる。踵に体重をかければ指が潰れ、接合の可能性は下がる。

 

 死柄木が苛立ちを抑えて蔑む。

「……いいのかよ、ヒーロー志望がそんな汚い手やヴィランの利を考えるような交渉して」

「おれにあんたら三人を倒す実力が無い事は、おれが一番よく知っている。悔しいが、先生を助けるためなら泥だって被る」

 

 その言葉に舌打ちして逡巡する。

 彼を殺せば、ビルボード級を素体とした脳無は今日中に手に入る。ただし、これ以上ヒーローの邪魔が入らないという仮定を満足する場合に限る。彼がどうやってこの場所を知りえたのか。その情報源が特定できない以上、確実性は揺らぐ。

 さらに引き換えとして、『崩壊』の個性は右手のみでしか起動出来なくなる。

 

「その前に条件がある。どうやってこの場所を特定できた?」

「……交換するのは指だけだ。それ以外の秘密は渡さない」

「この女を泥から出すと生命の保証は出来ないが?」

「なぜわざわざ親切に教える。ヴィランがおれの利を考えるような交渉をするのか?」

 

 ばたばたと床に血が落ちた。アドレナリンがゆっくりと切れ、じくじくとした痛みが身体を蝕むように侵食してくる。

 勝てる勝負だったはず。彼への侮りと油断が引き起こした事態だった。

 反省だ。端的に舐めていた。激昂を無理やり鎮める。ここでガキのように癇癪を起しても意味が無い。大人になれと言い聞かせる。

 

「わかった、条件を飲む」

 

 下した決断は和解だった。

 それも当然の事。黒霧がいれば、ビルボード級は計画を練ればまた手に入る可能性がある。いまここでミルコに固執する必要は無い。この状態で万一右手も損傷すれば『崩壊』という強個性は完全に機能停止する。

 それよりは振出しに戻り、一から装備を整えればいい。

 意地よりも利を取った。

 

 彼の指示で、黒霧とステインが『ワープゲート』でこの場を去った。残った死柄木にミルコを引き渡させる。

 

「裸は可哀想だからカーテンを巻いてあげてくれ」

「あれこれと注文が多いな、女だし別にいいだろ」

「こっちは四本セットだぞ」

「……足元に気を付けろ、おれの指を踏むなよ」

 文句を言いながら、部屋の隅に転がった日本刀に目をやる。彼の血が付着していた。

 

 片膝立ちのままミルコを肩で担いだ時、その軽さに悲しくなった。もともと背は低かったのを差し引いても、ずいぶん痩せてしまったようだ。

 黒く粘質な炎が灯る。これくらいの意趣返しはしてやらないと気が済まない。

 彼は覚悟を決めた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。悟られぬように。

 

 そのまま後ろ歩きで玄関ドアに向かいながら、死柄木に一本ずつ指を放り投げた。ドアノブに手をかけ、廊下に身を出す。ただの空気が非日常的に感じるほど濃密な時間だった。

 ちらと廊下に目を走らせ、マンションであれば当然設置してある物を確認する。

 最後の一本を投げ渡して言った。

 

「切断面()()問題無いか?」

「……ああ、綺麗なもんだ。すぐくっつくだろうさ」

 

 死柄木は血だらけの四本の指の傷口を検めて、肺に大きく空気を入れた。彼が目を付けていた消火器に駆け寄り、レバーを引く。

 

「黒霧ィッ!!」

 

 その咆哮で、屋上に移動していた二人が『ワープゲート』で部屋に戻る。同時に消火器が投げ込まれ、彼の血痕が舐めとられるのを防いだ。

 

「くっそ、ガキ! 追え!」

 

 白煙を破って、ステインが猛然と追撃する。

 問題はここからだった。黒霧に捕捉されれば終わる。

 

 彼はすぐさま飛び降り、二階の廊下の手すりに掴まって落下エネルギーをいったんゼロにして地上に降りる。ワンテンポ遅れてステインが着地し、腿にマウントしていたナイフを投擲した。

 

 三段警棒を展開し、打ち払う。ミルコがいる以上は避けるより防がなければならない。彼女を担いでいる左半身を引き、一瞬で距離を詰めたステインのサバイバルナイフを受け太刀する。

 

 一拍の鍔迫り合いの中、瞳が鋭く差し合う。ステインが口を開いた。

 

「おまえは……」

「どいてくださいステイン!」

 

 ワープしてきた黒霧が叫ぶと、ステインが飛び退く。彼の周囲、半径十メートルに黒いモヤが渦巻いた。

 おそらくどこか人里離れた場所に飛ばし、ヒーローを呼ばれないようにして始末をつける算段だろう。そうしてミルコを無傷で奪い返す。

 さすがにこうも広範囲にモヤを撒かれては、避けきれない。

 

「──二度とわたしを手離すなよ」

 

 彼の姿が搔き消えた。一瞬遅れて黒いモヤが満ちる。

 

「バカな!?」

 黒霧は狼狽えながらも捕捉しようと二人が跳んだ空を見上げるが、正午を過ぎた晩夏の太陽に消えており直視できない。黒い小さな影が落ちてきたかと思えば、飛来したカランビットが肩に突き刺さる。

 小さく呻き、それを抜いて放り捨てて唸るように言った。

 

「ありえない……薬効が切れるには早すぎる、それにあの身体では……」

 

 

 

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「大丈夫ですか!? 先生!」

 油汗と冷や汗を滴らせるほど疲弊し、ガタガタと震えるミルコの身体を彼が案じる。

 

「でけえ声出すな、問題ないんだよ。黙って掴まってろ」

 と、ビルの屋上に着地し、胃液を吐き捨てた。赤いものが混じっている。ゆっくりと力を調整して再び空を跳び、弱々しい呼吸で言った。

「守んなきゃ……いけねえヤツの為の、最後の、力が取ってあんだよ……ヒーローにはな」

 

 そのまま彼を抱きかかえるようにして、海の近い都市部のビジネスビルが立ち並ぶ、一等地にあるヒーロー事務所に背から突っ込む。

 勢いを抑える力が残っておらず、ウェスタンドアを派手にぶっ壊した。

 

「なんだ!? 襲撃か? いや……ミルコ!? 無事だったか!」

 事務所のヒーローが救急に連絡しながら慌てて駆け寄る。

 

「ここなら、迂闊に手え出せないだろ」

 息も絶え絶えで、彼の頭に手をやった。

「こいつを、守ってやってくれ」

 

「何言ってるんですか! あいつらの狙いは先生なんですよ!」

 焦燥する彼に、事務所のヒーローが安心させるように力強く口を開く。

「心配するなボウズ。二人とも保護する、誰にも手出しはさせない。救急にはおれが随伴するし、病院内での警護もうちが請け負う。だからそれまで休んでろ」

 

 部屋の隅のソファに運ぼうとするが、ミルコは「肩貸せ」と言って、あくまでもじぶんの脚で動こうとして聞かなかった。

 ゆっくりと、たった数メートルを亀のような歩みで進む。

 

 ミルコが強気に不満をこぼす。いつもの自分を見せて、彼を安心させたかったのかもしれない。

「結局、やられっぱなしで終わっちまった。一発でも蹴り飛ばせればよかったんだがな」

「仕返しならしましたよ」

 

 彼がしたり顔で右手を開いて見せた。

 ミルコが愕然とした顔で彼を見上げる。

 

「何、考えて……おまえ……」

「まあ、林間合宿の時の恨みもありますけど」

 

 彼は雄英生に漏れず、学生として優秀だった。また、そうでなければ弱個性ではやっていけない。

 体育祭でミルコが麗日に言った、「個性の起動が四肢に依存してるタイプは欠損するとヒーローとして終わり」という言葉をよく覚えている。

 だから倒すべき順番を踏み倒せた。

 

「タダで帰すつもりは無いってのは最初に伝えておきましたし、嘘は言ってません。ちゃんと四本の指を渡したんですから」

 

「そういう話じゃ……ねえだろ」

 気落ちしたミルコの声が、しだいに怒気を孕んだものに変わっていく。

「てめえわかってんのか!」

 

「目の前でミルコ先生を奪われてこんな目に遭わされたら、これくらいは怒ります」

 

 そう言った彼の掌の上には、小指があった。

 代わりに、彼の小指が無かった。

 

 死柄木 弔は目の前で『崩壊』の半分を奪われていた。

 

 

 

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 ミルコ奪還の報は瞬く間にヒーロー業界を駆け巡った。

 ただ、誰が救出したかはまだ伏せられるべきだ。そもそも誰が彼に電話を掛けたのか、なぜリークしたのかを洗う必要があった。過度なメディアの干渉があった場合、見逃す可能性がある。

 

 被害者のミルコは緊急手当てを受けた後、内密に別の病院に移送され治療を受けている。かなり疲弊しており、復帰には長い時間が掛かるものの命に別状はないそうだ。

 翌朝、極秘でお見舞いに来た香山が、ベッドの上で憔悴し、点滴に繋がれた同僚に声をかける。

 

「無事でよかった」

「わたしのことはいい……仮免試験だったらしいな、昨日」

「全員受かったわ、二次をバックレた一人を除いて。前代未聞よ」

 

 それを聞くと、ミルコは顔をそむけた。長い月銀の髪で表情が隠れる。

 

「指は」

「第一関節から先は義指。パッと見はわかんないわよ。死柄木のは警察の鑑識行き」

「……金は無制限にわたしが持つから、まともなの用意してやってくれ」

「そう言うと思ってアイテム級のを準備済みっていうか、もう手術は終わってる。まあ、ホントにくっついてるだけで自在に動かす訓練と痛み止めは必要だけど」

 

 沈黙が降りた。

 香山が躊躇いがちに口を開く。

 

「……まあ、やりすぎ、かもしれない」

「なにもてめえの指を切断する必要はねえだろ」

「それについては、そうだけど」

 

 言いたい事もわかる。決して表立って推奨される行為でないのは確かだ。が、起動部位が限定される発動型の個性使いにとっては致命傷。それがヴィラン連合の主犯格、『崩壊』という強個性なら尚の事。

 これを是とするか非とするかは判断が難しい。

 

 ミルコが鼻をすすり、震える吐息を懸命に隠して言った。

 

「守ってやれなかった、ヒーローのくせして」

「あれは自らの意思でやった事。彼の気持ちを尊重するなら、勝手に背負うのはやめてあげて。誰もあんたのせいだなんて思ってない。あれは、目の前であんたを奪われた自分の後悔に対する区切りみたいなもん、って言ってた……あと嫌がらせだって」

 

 深い嘆息で、ミルコは尋ねる。

 

「あいつはどうしてる」

「その晩、術後に家に帰って、今は学校。親には今回の事は伏せてほしいって、心配するから」

 

 いくら本人の強い要望とは言えしかし、大人としては看過できない。今は警察の要請もあって口止めされているが、時期を見て話すべきだろう。

 

「やっぱアホだろ、あいつ」

「裏では三等親までの家族関係に、二十四時間体制の確証監視保護が付いてる。もちろんプロヒーロー付きで」

「どんなやつらだ」

 

 香山がスマホに資料を表示させ、ベッドに放る。

 監視保護に名乗りを上げたのは、ぽつぽつと聞いたことのある名のヒーローたちだった。

 戦闘能力一辺倒というわけではなく、遠・中距離から相手を拘束したり、対象を抱えて逃げるための移動能力も重視されている。

 

「こいつらで大丈夫かよ。スライディン・ゴーなんて聞いた事ねえぞ」

 

 不満げに後ろ手に投げ返す。

 香山が顔を伏せ陰鬱げに言った。

 

「……あんたが一晩寝てる間に、多くの一線級のヒーローたちが負傷したからね。それに、あの子がヴィラン連合に目を付けられる心配は、一応無くなった」

 

 要領を得ず、ミルコは黙って続きを促す。

 

「組織のバックについていた人物を抑えた。残党は取り逃したけど、資金源やコネは使えないはずだから組織的犯行は無理ね」

 

「誰なんだ、そいつ」

「オールフォーワン、わたしたちが生まれるずっと前より裏から社会を操ってた大悪党。けどそれと引き換えに……」

「なんだよ」

 

 一拍置き、香山は重々しく言った。

 

「わたしたちは平和の象徴を失ってしまった」

 



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 第一歌
第二十二話 供儀聖典 verse


 ミルコを奪還された死柄木たちは、事務的に部屋を放火した。脳無製造に繋がる証拠を隠滅する為だ。

 

 アジトに戻り、死柄木が闇医の治療を受けている間、ステインは懐からカランビットを取り出して検める。黒霧が放り捨てたものを回収していたのだ。

 

 黒一色、マット仕上げのシンプルな造りだ。切れ味が申し分ない事は死柄木の手を見ればわかる。

 ハンドルエンドのフィンガーリングに人差し指を入れ、素早く逆手から人差し指と親指で保持するエクステンデッドグリップへと切り替える。再び逆手に持ち直した。

 重量バランスも申し分なく、限りなくアイテムの域に近い。

 片刃かつ短い刀身は、ヴィラン相手に大怪我させたくない表れか。ヒーロー志望らしいと言えばらしい。

 

 そうして自問した。無論、おのれの背負った信念で彼をどう量るかだ。

 

 ステインのヒーロー価値基準に置いて、彼は判断に迷う。ミルコの救助を第一に考え、実行して見せたのは良い。

 だが──と、保須市の路地裏で相対した士傑生を脳裏に描く。アイツのように応援を呼ばなかったのは自惚れか虚栄心か、はたまた他の理由があるのか。

 前者であれば話にならない。

 

 だがあの絶望的な状況下で吐いた理想を現実のものとする資質においては申し分ない。あの戦闘で、一切手は抜かなかった。借りを返す為に全力を出したはずだ。敗北を喫してしまったので、死柄木は貸し借りを継続させるだろうが。

 しかしながらなぜ捌かれたのか、その実感が未だに無い。いや、心のどこかで舐めていたのかもしれない。試してやるという考えがあったのは確かだ。

 

 いずれわかる。

 

 そう結論付け、静かに目を閉じて瞑想した。彼がヒーロー足りえるなら、そうであろうとするならば必ずどこかで交差するはずだ。

 その時にもう一度、死柄木の犬ではなくヒーロー殺しとして相対せばいい。

 

 しばらくして闇医の応急処置が終わると、怒声が響いた。枯れ葉が砕けて霧散するように、バーカウンターの一部が『崩壊』する。

 うつむいたままの死柄木が、憤怒のあまり肩で息をする。左手に巻かれた包帯に血が滲んだ。

 

 やられた。

 切断面に気を取られていた。よく注意すれば、左手と右手の小指の違いに気づけたはず。いや、思い返すにそこを強調する会話運びだった事や、弱打に徹して危険度を下げ誘われた事からして完全に嵌められた。

 そもそも、自ら指を切断して入れ替えるなどという凶行は想定外だ。

 

 自嘲するように吐いて捨てる。

 

「サブクエにかまけてたらこのザマかよ」

『ずいぶんと手ひどい報復を受けたようだね、弔』

「……先生」

 

 スピーカーから流れる声に振り返る。ガキ相手に個性使いとして致命傷を負ってしまった引け目から、言葉が出ない。

 

『ドクターと話したよ。他人の指を接合してトリガーを満たしたとしても、おそらく『崩壊』は起動しないだろう。誰かがきみの五指を奪って移植したとしても、『崩壊』が使えないのと同じように。その辺りの事は人体実験で何度も試した』

「……あいつは何モンだ?」

 

『調べた限りではこれといって特徴の無い雄英生といった感じだ。ひょっとしたら近接戦闘に長けた個性なのかもしれない。ぼくとしても驚いてるんだ。きみは決して弱くない、生まれ持った俊敏性と強個性……相性もあるが。その辺のプロヒーローなら勝てる実力がある。それにステインもいたにもかかわらず仕留めきれないのは想定外だ』

 

 ステインが加減していたというのは考えにくい。厳格さを逆手に取り貸し借りで縛っている以上、命令には忠実なはずだ。背くのならそもそも死柄木の下にはつかない。

 

「申し訳ありません、わたしがついていながら」

 と、沈黙を守っていた黒霧が口を開いた。

 

『いや、仕方ない。全員があの場で取れる最善策を取った結果だ。彼がそれを上回るイレギュラーだっただけの話。まあ、最後にミルコが動けたのは誤算だったがね』

 

 先生の言った事は慰めでもなんでもない。正論だ。

『ワープゲート』は切り札として取っておくべきだし、ステインを前衛にして二対一で攻めるのは理に適っているし、内通者の可能性がある以上は増援を呼ぶのはリスキーだし、取引には応じるべきだったし、その後で約束を反故にしてミルコを追うのは合理的だ。

 全ての判断で正答を選び続け、その結果がこれだ。

 

 死柄木は目を瞑って天を仰ぎ、静かに深呼吸した。無い物は無い。指四本とミルコを交換するという条件は破られていなかった。油断したツケを払っただけ。深く引きずる必要は無い。

 

「まあ、いい……遠距離戦に長けたヤツを雇えば終わる話。ドクター、おれの指はどうなったと思う」

『おそらく鑑識に回され、おまえさんの素性を探るつもりじゃろう。保管状態によっては再接合も出来んことも無いが、期待はするな』

 

「主犯格の指を用が済んだらゴミ箱に捨てる事は無いだろうが、まあ望みは薄いって事か」

 言って、死柄木は喉を掻く。士傑の緑谷といい今回の事といい、心臓の下がぐつぐつと煮えるような怒りがあったが、それよりも先に処理しなければならない懸念事項がある。

 

「先生はどう思う? 内通者の存在は」

『なかなか難しいね。いたとすればどうしてただの学生にリークしたのか、彼はどうして通報しなかったのか。そのあたりを紐解く必要がある』

 

 顎に手をあて逡巡するが、納得のいく説明は思い浮かばない。

 クロと断定できないが、唯一刑務所という公的機関に身を置いていたムーンフィッシュあたりが臭い気もする。

 

 世間では脱獄死刑囚で通っているが、ヴィラン連合に潜入する代わりに恩赦が与えられる司法取引の可能性も考えられる。あの正体を見せない言動もカモフラージュなのかも。

 いや、だとしたらリークも公的機関にするはずだ。

 

 あるいはまだガキのマスタードがビビッて吐いたか。とはいえ証拠は無い。そもそも場所は秘していた。

 この段階ではいくら考えても栓無き事。

 

「前に先生が言っていた、秘密は武器だって意味がよくわかったよ。あいつは理解不能だ」

 

 そしていかに裏社会を支配してきた先生ことオールフォーワンと言えど、回答を得るにはまだ情報不足だ。

 異能解放軍による潜入工作活動ならともかく、その首領がたまたま目にした、異能第一主義的に目障りな彼への誅罰が副目標として同時進行しているとは読めない。

 

 個性による情報漏洩の可能性があるとはいえ、今は内通者がいるという前提で動いた方がいいのは確かだ。

 

『一つだけ言える事は、内通者がいたとしても完全にヒーロー寄りの人間ではないという事だ。もしそうならアジトは襲撃されているはずだからね……』

 ほんの少しの危機感を含ませて先生が尋ねた

『……いや、他のメンバーは今どこにいる?』

「どこって、それぞれのヤサなんじゃねえの。全員ここに寝泊まりしてるわけじゃねえから。今はおれと黒霧とステインだけだ、闇医は帰らせた」

 

『少しばかりマズいかもしれない……今回のリークが内通者によるものなら、その存在を自らきみに明かしたという事。つまり宣戦布告というわけだよ。なら次に打ってくる手は──』

 

 先生の声をかき消すように、アジトの壁が破壊された。そこに現れたのは絶対的な平和の象徴、その姿だった。

 

「黒霧ッ!」

 

 死柄木が叫ぶように命ずる、同時にシンリンカムイの『樹木』によるウルシ鎖牢が伸びるが、ステインがこれを切り落とす。アジトのドアからエッジショットが突入した。

 だが初動を凌いだのなら死柄木にとって問題無い。

 

「いや、違うな。やれ、ステイン」

 

 言われるよりも早く、ステインは数珠状になっている複数の血液カプセルを噛み砕いた。物理・自然法則を貫徹する個性が起動し、エッジショットやシンリンカムイも含めた対象の人間が同時に麻痺状態に陥る。おまけとばかりにナイフを投擲して深手を負わせた。

 

「そうだ、逃げる必要なんてない。ラスボスが向こうから来たんだ、こんなチャンスを見逃せるか。今ならザコキャラも楽に倒せる」

 

 ばたばたと倒れるヒーローに、オールマイトは瞠目した。

 所詮は贋物、とステインが呟く。

「だがやはりおまえは本物だ、オールマイト。おまえの血が手に入らなかったのも運命のなせる業」

「ステイン……ヴィラン連合に迎合していたか」

「いいや、こいつとは単に貸し借りのドライな関係だ。手ぇ貸せ、オールマイトを殺す」

 

 ステインは、一瞬迷った。ヒーロー原理主義においてオールマイトこそ手本にすべき偶像。それに歯向かうべきか。

 いや、と刀を構える。

 おれを殺せるのはオールマイトだけだ。なぜならオールマイトこそが本物のヒーローであるからだ。贋物におれは殺せない。

 

 それを確かめたい。おれが死ぬことによってその証明は成るはず。

 それにどのみちここは死柄木に協力しなければ捕まるだけ。

 

「まーとりあえず表のザコキャラからだな、ヒーロー殺し風に言えば贋物か」

 

 死柄木がそう言うと、オールマイトの一撃よりも辛うじて早く黒霧が『ワープゲート』を展開し、雑居ビルに面した道路の中心に出現する。案の定、警察やエンデヴァーを含む一線級のヒーローが待機していた。同士討ちをおそれて対応できない者や『凝血』で行動不能になっている者たちに襲い掛かる。

 ヴィラン連合を強襲するつもりが、一転して阿鼻叫喚の夜に早変わりした。

 

 すぐさまオールマイトが死柄木の凶行を止めようと殴りかかるが、空より高速で落下してきた闖入者に受け止められる。

 

「いやはやまいったね。この状況でリークされると、当の本人はこの危機的状況を躱しつつわれわれを窮地に立たせる上手い手だ。しかしずいぶんと弱々しくなったな」

「オールフォーワン!」

 

 現れたのはかつての宿敵だった。その顔はおよそ人間としての機能の大部分を失っており、物々しい呼吸器を装着している。それでいてもなお、オールマイトの攻撃を防ぐという底知れぬ余裕があった。

 

「……先生」

「しかしながら弔、きみの判断も悪くない。集まった一線級のヒーローを返り討ちにし、この人混みの多い繁華街ではオールマイトの力も発揮しにくいだろうからね。ヴィラン受け取り係という肉壁も、大勢いる事だし」

 

 

 

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 火の手が上がり、サイレンと人々の悲鳴が入り混じった夜の街並み。誰かが撮ったその動画をスマホで眺めながら、聖典はほくそ笑む。

 アジトのバーを警察にリークした目的は、主犯格である死柄木を抑えるためではない。それを餌に、ヴィラン連合のバックにいる先生と呼ばれる存在を表舞台に引きずり出すためだ。

 

 異能解放軍の情報網をもってしてもおそらく、という確証しか得られなかった謎の黒幕。弟子の死柄木だけはなんとしても逃がすだろうが、それでも構わない。あとで直々に解放軍が潰す。

 いま必要なのは混沌だ。勝手にヒーローと潰し合ってくれればいい。

 

 結果としては申し分ないものになった。

 一夜が明けると、万全を期すために集められた多くの一線級のヒーローが負傷し、残った力を使い切るまで戦った平和の象徴であるオールマイトが引退し、死柄木たちは逃げ切ったものの長年影から裏社会を牛耳ってきたオールフォーワンは投獄された。

 いくつか用意されたシナリオの中でも、上出来な幕引きだ。

 

 胸の中に熱い高揚を感じながら、セーフハウスであるマンションのベランダに出て、柵に体重を預けて夜景を眺めた。夜の地上に灯る人工的な明かりは弱々しく、すぐにでも絶えてしまいそうに思えた。

 

 これから、例の計画が開始されるだろう。その為にヴィラン連合に潜入したのだ。おそらく、その余波で大勢が死ぬ。だが仕方のない犠牲だ。そうして消えていった命は決して無駄にしないと、幹部の花畑……トランペットが言っていた。

 

 ふと、隣の部屋から夜風に乗って、今まで気にした事が無かった親子の笑い声が聞こえてくる。

 そういえば親はどうしているのだろうかと、事件から二年経ったいま初めて思い返す。

 指名手配中なのであたりまえだが捜索願は出てないし、きっといなかった事にされているのだろう。それで構わなかった。

 親が求めていたのはおかしくないトガヒミコであり、おかしいトガヒミコなら不要なのだ。

 

 親だから縁を切れないなどとは考えていない。世の中を生きていれば、どうしても分かり合えない人間の一人や二人いるだろう。それがたまたま母と父だっただけの話。

 それに今はキュリオスさまがいる。彼女さえ受け入れてくれるのならばそれでいい。立場上、ボロボロにしたり、そうなった姿を見る事が出来ないのが唯一の不服だが仕方ない。

 数え切れないほどの戦士たちもついている。死は、怖くは無い。孤独でも無い。

 

 けれど、隣の家族はどうなのかな。と考えもする。

 死を恐れ、ひょっとすると親が死に子は一人ぼっちになるかもしれない。そのささやかな無数の犠牲を踏み越えなければ、社会は是正されない事は理解している。理解しているが……

 

()()は深く目を閉じ、自己と外界を遮断する。迷ったら思い出せと言われた、首領と四人の幹部の激励を脳裏に強く描いた。

 優秀な潜伏解放戦士として、一度会食に呼ばれた時の事だ。リ・デストロ、スケプティック、外典、キュリオスさま……最後に、トランペットの力強い言葉。

 

『おかしいきみを受け入れてくれるのは、キュリオスとわれわれ異能解放軍しかいない』

 

 ゆっくりと目を開け、()()は視線を遠くにやる。建ち並ぶ高層マンションの一室が、夜の闇の中で明かりを揺らめかせていた。

 

 

 

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 高層マンションの最上階で行われる定例会議の席で、首領の到着までの間にトランペットはまた一つ異能解放戦線の読了を積んだ。人心地ついてキュリオスに話しかける。

 

「そういえば好調のようだね、改訂版の方も」

 と、つい今しがた読み終えたじぶんの所有するオリジナル版をとんとんと指で叩いた。

 

「ええ。重版もかかったし、すぐベストセラーに並ぶと思うわ……ツイッターでは自称評論家が揶揄しているけれど、それも宣伝になるし」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。が、その程度なら抑えられる。

 一呼吸おいて、この本の素晴らしさを理解できない人間を哀れんだ。

 

 やがて「すまない、遅れてしまった」とデストロが入室する。

 挨拶もそこそこに、さっそく議題があげられたのはヴィラン連合関連である。ほぼ壊滅状態ではあるが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だ。

 

「これなら実行に移しても構わないだろう」

 

 席を囲んでいる他の四人が頷き、いよいよかと期待に胸を膨らませる。長いあいだ耐え忍び、蓄えられた力の一端を開放する時が来たのだ。歴史に刻まれるべき革命の叙事詩、その第一歌を謳う時が。

 

 だが唯一、異能解放軍にとっての剰余であり不愉快きわまる事実がある。異能弱者である彼がミルコを救出したという、にわかには信じがたい報告が上がってきていた。

 幹部の内の一人、寒冷地仕様のロングダウンジャケットを羽織った風体の男、外典がぼそりと言った。

 

「彼の異能は……?」

「誅罰とともに聖典に任せてるけど不明」

 キュリオスが短く答える。

「だけど所詮は副目標に過ぎない。今はどうでもいいんじゃない?」

 

「癪に障るのはわかるがね、大事の前の小事だよ」

 と、トランペットが場を納めようとする。

 だが外典の気持ちは志を同じくする戦士としてわからないでもない。それに人一倍 異能第一主義に傾倒しているのだから、()()()()()()()()()のだろう。

 

「まずは異能の無制限自由行使、その足掛かりを優先すべきだ」

 スケプティックも同調し、外典は口をつぐんだ。

 

 およそ全てが順調に運びつつある今、もはや彼の事などどうでもいい。

 所詮は路傍の石だ。障害足りえず、始末しようと思えばどうにでもなるだろう。

 

「では始めよう、異能解放軍の目指す未来を祝福する偉大なる前夜祭──」

 デストロが四人の幹部を見渡し、厳かに続けた。

「──供儀聖典を」

 

 

 

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 オールマイトの引退から数日後、あまりにも唐突に支えを失った動揺からか、SNSではいつにもまして陰謀論が飛び交っていた。

 

 曰く、政府はヒーロー免許制により個性を使える人間を限定し、個性を訓練させ進化させる事で非免許保持者を支配しようとしているとか。

 人間に自然に備わっている個性を起動しない事は自然に反するので体に悪影響を及ぼすとか。

 ヴィラン連合のシンパや残党は数千人規模で存在するとか。

 防衛省が首相直属の個性を用いる攻性行政組織を設立しているとか。

 ヴィラン連合やオールフォーワンなどという黒幕は存在せず、すべてヒーローと警察、政治家の自作自演とか。

 

 彼は嫌になってスマホをポケットに押し込み、「いってきまーす」と家を出た。

 つい癖でドアノブを右手で握りそうになり、慌てて引っ込める。小指は大袈裟に見えない程度にギプスと包帯で固定されていた。周囲には突き指ということにしてある。

 1-Aのみんなにも嘘をついてしまった時の事を思い出し、少し罪悪感を覚えた。

 

 

 

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 事件の翌朝、普通に登校して教室のドアの前に立った時、入室をほんの少しためらった。

 何があったのか、何をしてきたのか、送り出してくれたみんなには伝える義務があるように思えたが、警察の要請もあるので言うに言えない。あとたぶん小森とかにめちゃくちゃ怒られそうで怖い。

 

「入んないの?」

 

 佇んでいると、ちょうど登校してきた拳藤が話しかけてきた。

 

「え、あーいや。入る」

 

 緊張の面持ちで入室する。誰かが「おはよ」と口にすると、次々に彼と拳藤に同じような挨拶が交わされた。

 何の変哲もない、ありふれた日常だった。なんだか拍子抜けして席に着く。

 

 すると小大がやって来て、ポケットからあるモノを取り出して彼に見せつけた。

 

「ん」

「えっ、これひょっとしてヒーロー仮免許書!? いいなー。へー、こんなふうなんだ」

 

 ずい、と押し付けられたので手に取ってみる。表はシンプルにHEROと刻印されているカード状のもので、裏面には運転免許所のような個人情報が記されていた。

 何とも言えない高級感のある質感がある。ところどころに精緻な潜像模様やホロが入っており、おそらく他にも偽造防止のための高度な情報処理が施されているのだろう。

 

 羨ましがっている彼の机の上に、形の良い尻が置かれた。見上げると肩越しに取蔭がにやにやしている。

 

「ちなみに、全員取ったから」

「ホント!? 凄いなー、おめでとう。っていうか柳さんと麗日さん大変じゃなかった?」

「いやーうちも序盤はヤバいかなーって思ったんだけど」

「やっぱり取蔭が俯瞰して情報収集する作戦が当たったから、うらめしい事にならずに済んだ」

 麗日と柳が会話に加わる。

 

「地上と空中組で役割分担出来たのもよかったですわね」

「ていうか、あんた指怪我したの?」

「突き指した。二次試験ってどんな内容だったの」

 

「いやーそれがさーやっぱ梅雨ちゃんの予測通りチームワーク重視だったんだけど……まさか塩崎があんな必殺技を持ってるとは」

「あれは……わたしも使いたくは無かったのですが……」

 

 腕を組んで当時の光景を思い浮かべる耳郎に、塩崎が恥ずかしそうに言葉を濁す。

 

「まーまーその辺は打ち上げの楽しみにとっとこ」

 悪戯っぽく笑った芦戸が無理やり会話を打ち切る。

「ってわけで今週の金曜の放課後さ、まー……オールマイトとかが引退しちゃったりして雰囲気的に盛大にって訳じゃないけど、打ち上げ、来るでしょ?」

 

 誰も、彼の身にどんな困難が降りかかったのか尋ねなかった。

 事前にそう取り決めていたのだ、彼が話すまではこちらから聞くのはよそうと。普段通り接するべきだと。

 その優しさに気づき、彼の目じりに涙が滲んだ。

 

「なに、泣くほど嬉しいわけ?」

 

 しんみりしそうな空気を有耶無耶にしようと、小森が茶化す。

 

「そうかも、いや。そう、嬉しい。みんなとまた打ち上げに行ける事が」

 

 彼が気丈に笑ってそう言った。

 

 暖かく柔らかな、友情と青春の一ページだ。

 やがて警察のかん口令が解除され、さらっと言った突き指が嘘だったと知った全員にメチャクチャ怒られ、小森にネチネチと陰湿に小言を言い続けられるとは思えない程ほがらかな朝だった。

 

 

 

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 そんな優しい友達たちの事をふと思い出しながら、彼はのんびりと登校する。約束した打ち上げの日なので、放課後が待ち遠しい。もちろん状況が状況なので暗くなる前に解散となるが、彼女たちがどんなふうに活躍したのかを聞くのが楽しみだ。

 

 ほんの少し秋らしくなった朝の空気は涼しく澄んでいた。鳥の鳴き声をかき消すように複数の選挙カーがスピーカーを鳴らす。

 決して市民の不安に付け込んだ政治活動でなどでは断じてなく、きっと少しでも勇気づけようとしているのだろう。

 

『平和の象徴たるオールマイトを失った今、わたしが地域のみなさまの為に出来る事はいったい何かと、どうすれば元気付けられるのかと──』

 

 彼が駅までの道を歩いていると、前方からそんな声が近づいてきた。どことなく声色にわざとらしい涙が混ざっている。

 

『──こうして選挙カーで地域を回る事が、みなさまの安全を守るパトロール! そう、パトロールの一助になればと、微力ではございますが馳せ参じたしだいです。つい先日、多くのヒーローが負傷した痛ましい事件がありましたが、悲しみに浸る間もなく混乱に乗じたヴィランがいるやもしれません。その際はどうかみなさまがご自身で身を守る必要の無いよう、この花畑 孔腔が心求党党首として──』

 

 選挙カーとすれ違う。彼はなんとなく足を止め、振り返る。

 善意とじぶんの利益を両立させる、賢い人なんだな、と思った。

 普段ならああいった選挙カーは声が大きくてちょっと……という印象だったが、こういった状況では逆にヴィランに対する牽制になるかもしれない。パトロールとはよく言ったものだ。

 

 再び歩みを進めると、一人のヒーローと出くわした。大きな顎と丸い目をした愛嬌のある顔をした、ガタイの良い男。

 

「やあ! わたしはスライディン・ゴー、突然すまないが少しだけ時間をもらってもっ、いいかなぁッ!」

「え? あ、はあ。どうもです。はい」

 

 いきなり元気に挨拶され、面食らった彼に耳打ちする。

 

「先日の事件の事なのだが、ヴィラン連合がミルコを攫って何をしようとしていたか、判明した」

「え?」

 と彼は顔を離してスライディンを見やる。

 

「なぜその事をって顔だな。これでもわたしは、公安と密に協力関係にあるんだよ。そのせいで表には出ない事件を扱ってて、知名度もちょっとアレなんだけどネ……ともかく、警察がその時の状況をもう一度確認したいそうなんだ」

 

 バチンと音が聞こえそうなウィンクとサムズアップで締め、彼の返事を待った。

 ミルコの名前を出されると二つ返事で了承しそうになったが、体育祭の時に小森に怒られた事を思い出した。スライディンは男だが、知らない人の範疇にある。ヒーローなので信じてもいいだろうが、一報を忘れては心配をかけてしまう。

 

「あーじゃあちょっと学校に連絡してからで」

「……うむ! そうだな! その前に、少し個人的な礼を言いたいんだが」

「何の事ですか?」

 

 とスマホを取りだした彼の身体に素早く視線を巡らせ、制するよう続ける。

 

「ミルコを助けてくれて、本当にありがとう。彼女には昔ちょっと世話になってね。心配だったんだ。しかもほぼ無傷で帰還するとは…………完璧じゃないか!!! 凄いぞ、学生とは思えない! ありがとう!! ありがとう。きみは未来のトップヒーローだ!!」

 

 後半はなんだか妙にセリフ臭い言葉を吐いて、彼に熱烈なハグをする。

 

「いやちょっとそんな──」

 

 ──ほぼ無傷で帰還? 

 

 まだ癒えぬ小指の痛みで嵌められたと理解したが、太い腕を完全に回されており身動きが取れない。声を出そうとしたが腰のあたりに鋭い痛みと熱を感じ、数秒後には意識を失った。

 

 彼の確証監視保護にあたっていたプロヒーローたちは戦闘能力一辺倒というわけではなく、遠・中距離から相手を拘束したり、対象を抱えて逃げるための移動能力も重視されている。

 ミルコやミッドナイトも承知の事で、格上の強襲も考慮すれば、それはまったく妥当な戦略だった。二十四時間体制のローテーションの中に、()()()()()()()()()()()()()()()()()がいたという点を除いて。

 

「おいおいどうした、立ち眩みかい? 病院に連れて行かねば」

 心配そうな声色で彼を担ぎ、遠くでほぼ透明になって空に浮いている『クラゲ』の解放戦士に頷いた。

「後はこの、スライディン・ゴーに任せてくれ!!」

 今までにそうやって何度言ってきたのかわからないセリフ臭い言葉で、その場を後にした。

 

 

 

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 1-Aの面々は、ミッドナイトが来るまでの間にどこで打ち上げをするかで和気藹々としていた。

 

 少しでも移動時間を減らす為、涼しいし学校内のどこか見晴らしいい所にしようということで、思い思いのスポットをあげている。放課後はランチラッシュが閉まっているので、飲食物は売店で済ませる。

 こういった計画を考えるのはなぜだかワクワクする。早く放課後にならないかな、と心を躍らせた。

 

 なんとなく、場所は体育祭の時に小森たちが昼食を取った、湖に面したオープンテラスにまとまりそうになった頃、彼が遅い事に気付く。普段ならもう来ているはずだし、遅刻をするところは見た事が無い。

 

 不穏な気配だけが膨張していき、段々と口数が少なくなる。とうとうミッドナイトが教室に現れ、彼女も非日常感に勘付く。無言で踵を返し、廊下に出て親に連絡を取るが家を出たのは確からしい。次いで確証監視保護を担っている組織に確認を取るも、担当しているヒーローからは異常なしの定時連絡がきているとの事。

 

 その間に取蔭が彼に連絡を取るが繋がらない。

 

 教室に、空気が軋むほどの重圧が生じる。もし()()であるならば──

 

 拳藤が勢いよく立ち上がり、椅子が倒れる。

 全員の注目が集まる中、仄暗い瞳で短く言った。

 

「探してくる」

 

 ヘアゴムを外し、長い髪を翻して廊下に向かう。

 

「ちょっと待って一佳! 探すって言ったって」

 

 慌てて柳が後を追おうとするが、麗日の戸惑いの声に振り返った。

 

「なに……あれ……」

 

 拳藤の肩を掴む柳の手の力が抜ける。なにが──と拳藤もまた窓の外を見やった。

 

 今日はきっと、楽しい日になるはずだった。ひょっとしたら彼が、なぜ仮免試験を辞退したのか話してくれるかもしれないし、彼に二次試験でのじぶんたちの活躍を誇れると思っていた。そして次の試験の為のアドバイスをしてあげたいと思っていた。

 オールマイトの引退と多くの一線級ヒーローの負傷は悲しいけれど、一瞬でもそれを忘れる事くらいは許されると思っていた。

 ヴィラン連合の黒幕が捕まり、残党はいるものの平穏は訪れると思っていた。

 そう思って疑わなかった。

 

 拳藤は空虚な愕然を口からこぼす。

 

「え?」

 

 

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 わたしはおかしい。と、聖典は理解している。理解して生きてきた。納得とは違うが。だから。

 

 

 

 だから、飛んでやろうと思った。かつてこの場所で。

 

 パステルカラーの青い空の中で、聖典が色の無い瞳で眼下を見下ろす。稲穂色の前髪を、秋風が柔らかく流した。

 心地よい陽ざしと刹那的な衝動に、自販機で買った紙パックのジュースを握り潰した。

 

 遠い視線の先ではグラウンドは体育の授業も無くガランとしており。かつてそこで話していた同級生は今頃どうしているだろうかと思いもする。

 きっと、普通を謳歌している事だろう。

 

「おまえ……は」

 

 ゆっくり振り返ると、フェンス越しに雄英ヒーロー科の彼がいた。後ろ手に電子錠が嵌められ、両足首も拘束されている。まだ身体に残った痺れに表情を硬くして聖典を睨んでいる。

 

「なに、が目的なんだ」

「ああ、そうそう。それを言いたかったんですよ」

 

 聖典はひょいとフェンスを乗り越え、紙パックをその辺に捨てた。手に付いたトマトジュースをぺろりと舐めとる。身を投げる事に後ろ髪を引かれる思いが、まだ少しあった。心地よい夢から、急に覚まされたような気分になる。

 

 そういえばスライディンたちを使って拉致したのはじぶんだったと思い出す。こっちの目論見を台無しにする彼に、組織の強大さと確固たる理念を見せてやろうと考えていたのだが、それ忘れてしまうほどに甘美に感じたのだ。飛んでやろうという思索は。

 

 そう思ったところで、内心で頭を振る。それでは任務を放棄するのと同義だ。崇高な使命から逃げたいなどと、思っていない。思ってはいけない。

 

 戦士として機械的に、オリーブドグリーンのダッフルバッグから黒い細身の籠手を取り出した。

 

「見てください、これ、すごいですよ?」

 聖典はそのアイテムを装備して塔屋にかざし、握力を加える。空気が抜ける音と共に弾体が射出され、コンクリの壁に直径数三十センチの十角形の頂点と中心点を描く弾痕が刻まれた。

「これからこの学校で、これを乱射します」

 

 言葉を失った彼に、バッグから新たなアイテムを取り出して試射する。

 

「これも使います。これも、これも」

 

 次々とアイテムを身に着け、背負っていく聖典に、彼は絞り出すように尋ねた。

 

「なん、で。そんな事を」

「なんでって、そりゃあそのうち誰かに、ヒーローでもその辺の人でもいいんですけど、わたしは殺されるからですよ」

 

 要領を得ない彼に、聖典は続けた。

 

「知ってるかもですけど、わたし、この学校で事件を起こしたんです。抑圧された異能のタガが外れて。そんな少女が復讐の為に母校でアイテム乱射事件を引き起こし、大量の学生を殺害し、やがて誰かに殺される……しかもヴィラン連合の構成員なんですよ? あなたもSNSでさんざん叩かれたからわかると思いますけど、無軌道で無責任なヘイトはどこに向かうと思います?」

 

「それは……」

 

「ブッブー。違います。民衆のヘイトはわれわれが向けたい方へ向けるのです。ヴィラン連合へはもちろんですが、もし学校の警備員が個性を使用出来ていたら? 学生の個々人が戦闘用のアイテムを携帯できていたら? わたしはもっと早い段階で殺されて、被害も少なかったはずです。ヒーロー免許などという特権が炎上します。そうさせます」

 

 適当に腕や足を伸ばし、まるでこれから軽いジョギングにでも行くような素振りで続ける。

 

「きっとわたしは激しい憎悪で焼かれるでしょう、SNSで口汚く罵られ、ぐしゃぐしゃになった死体がネットに流れ、もう死んでるのに司法制度を無視した極刑を望まれ、テレビではコメンテーターがお腹が痛そうな表情でツイッターに書いてあるような事を言うのです。そして一つの提案に帰結します」

 

 アイテムを携帯する権利と異能の限定的自由行使。

 

 ネットの世論はスケプティックの情報部隊が、リアルはキュリオスがヒーローと法整備に対する不信感、突発的な個性犯罪に対する自衛のアイテムおよび警備員等の職種に絞った限定的個性使用を誘導し、これから起こる事態を収拾する手筈の外典を祭り上げる。もちろん警察の個性使用には慎重論を唱えるのもセットだ。

 

 心求党の党首であるトランペットが立法府に働きかけ、法案を通せさえすればデトネラット社が民間用の戦闘アイテムを売り出す。裏ではライセンス刻印の無い違法品を流し、データを集積して得たノウハウがあるので市場の独占は容易だ。

 

 ヒーロー用にワンオフ製造している工房では量産品を造るのは難しいだろうし、民間人にそんなハイスペックは必要ない。ガキでも買えるほど安価で、ガキでも使えるほどシンプルで、ガキでもそれなりに発揮する性能があればいい。

 

 来るべくアイテム社会がデトネラットに生み出すであろう利益は想像もつかないが、いち早くアイテム協会を設立し、アイテムを携帯する権利を保護する名目で製造業や販売小売店を味方につける。

 社会情勢が不安定になればなるほど需要は高まるはずだ。必ずや政界に対する影響力も大きい物となる。

 やがて国内最大級のロビイストまで成長し、立法府に干渉し、最後の詰め、悲願である異能の無制限自由行使と異能第一主義を段階的に認めさせる。

 

 これは、その栄光の始まりなのだ。

 オールマイトが身を引き、裏社会の王であるオールフォーワンが投獄され、事態を収拾する多くのヒーローが負傷し絶対的に不足している現状に深く穿つ黒い楔。非可逆的にヒーロー社会を欠落させ歪ませる致命的溶解。

 

 成功が約束されたに等しい異能解放軍の輝かしい第一歌。

 その歌声こそが、いま、混乱の中にある悲鳴、火の手と白煙にむせる咳、切り裂くようなクラクションとサイレン、親とはぐれた子の泣き叫び、不安に息をひそめ祈る声、建築物という文明が破壊され、怒りと衝動の赴くままに挙げられる雄叫びなのだ。

 

「こうして、誰もが異能を自由に使える明るい社会を作るのです」

 

 大仰に手を広げ、高揚の笑顔に満ちた聖典の背後では住宅よりも大きくなった『怪物』の個性使いが暴れまわり、火災の黒煙が上がっていた。遠くから爆発音が聞こえだした。

 

 彼は空虚な愕然を口からこぼす。

 

「え?」

 

 周囲を見渡すと、青空の下では信じたくない光景が広がっている。いたるところで動乱が起きていた。

 

「ああ、言い忘れましたけど、決起はここだけじゃないんですよ。多くのヴィラン連合の残党たちが都内と三大都市を中心に、同時多発的にオールフォーワンの解放を求めて、病院や大学を狙ってテロってます。到底、今のヒーローじゃあ手が足りない規模です。段階的に高校、中学と目標の年齢は下がっていくので、親も気が気じゃないでしょうね。お子さんにはぜひ、アイテムを携帯させてあげてほしいです」

 

 もちろん、これは死柄木たちの手の者でも、AFOの指示でもない。潜伏解放戦士たちが勝手にその名を語っているだけだ。死柄木たちは逃げおおせたので、信憑性がある。

 だからテロは失敗してもいい。

 

 今は聖典の凄惨な事件に焦点を当てさせる為、公共機関等の占拠、包囲、破壊活動が主だが、経過を見て本格的なテロリズムが実行される。

 

 このマッチポンプにより殺される戦士たちも、犠牲となる一般人も、異能解放軍の目指す社会の為の供儀だ。

 世間はきっと悲しみと怒りと憎しみを、死柄木と死んだ名も無きヴィランに向けるだろう。

 しかし、ヴィラン連合に属している聖典が中学校で引き起こす事件は、過去の因果関係からして注目を集める。

 だからとりわけて怨嗟を一手に引き受ける増悪の象徴、聖典は永遠に語り継がれて嫌悪される。

 

 故に、供儀聖典。

 

 そしてこの連日のテロ行為を部分的にではあるが抑え込む存在が、規格外とも言える『操氷』の異能を持つ外典だ。

 聖典とは対照的に、オールマイトに替わり祭り上げられる新たな平和の象徴。

 

「じぶんまで殺して何が明るい社会だ。個性やアイテムを無制限に使えれば、ヴィランだって」

「個性やアイテムを使うヴィランを止めるには、善人が個性やアイテムを使えばいいんです。これこそ助け合いの社会ですよ」

 

 語る聖典の表情は慈愛に満ちていた。

 気味の悪い善意に不穏な気配。無秩序で、狂信的な行動理念。彼はそれを見た事がある。手錠が腕に食い込み、血が滲む。怒りを噛み殺して言った。

 

「おまえの組織に、声を媒介とした『洗脳』を行う個性使いがいるだろ。ファンザ襲撃の主犯格が」

「はい?」

「花火田はどこだ」

 

 彼は低い声で、射貫くように聖典を見上げる。

 聖典は冷ややかに、目を細めてそんな彼を見下ろす。

 

 基本的に、解放軍の地位が高い人間ほど異能は秘密にされている。警察の捜査に引っ掛かるおそれがあるので、幹部クラスとなれば尚の事だ。聖典が知っているのはキュリオスと、供儀聖典を収束させる計画である外典の『操氷』くらい。

 ただ、ファンザ襲撃の主犯格と言われると、思い当たる人物はいる。たしかマスキュラーを使った計画で、トランペットが中核にいたと聞く。

 

 だからなんだ。トランペットの異能が『洗脳』系だったとして、何の関係がある。

 それよりも、ようやく彼が剥き出しの情感を見せたので、聖典は無視して満足そうに笑う。

 

「それに、ヒーローは確かに多くの人間を助けるでしょう。ですがそれは既に起こった物理的事象に対してだけです。社会と他者に異能を抑圧され、内に抱えて苦しむ人間に気付くこともできない。供儀聖典をもってして、異能の無制限自由行使とそれにより実現する異能第一主義を掲げるわれわれこそが、異能を抑圧され苦しんでいる人間にとって真の救済者足りえるのです」

「異能第一主義なんてカッコつけてるけど、要は個性による支配だろ」

「その個性による弱肉強食こそ、人間を生物的に前進させる本来あるべき自然社会です」

「ただの無政府主義だ」

 

「……ではヒーローに、あるいはあなたに異能を抑圧され苦しむ人間を救えるとでも?」

「……電話で言ったはずだ、おれには助けられない人もいたけど、おれにしか助けられない人もいたって」

「見捨てるわけですね」

「誰かを助けるのはヒーロー免許を持ってる人だけの特権じゃない。困ってる人や悲しんでる人を助けるのは結局ただの人間だ。おれの手が届かない時は、他の人に任せる。だから今は、おまえを助けたいと思ってる。ファンザで花火田に切り捨てられた男と同じように」

 

 その返答に聖典は舌打ちした。異能弱者のくせに、まるでわれわれの行いが間違ってるとでも言いたげだ。だったらおまえが救って見せろという苛立ちが募る。偉そうに、わたしを救えるのはキュリオスさまだけだ。それを、穢すな。

 

「では救えますか? あなたに。供儀聖典の犠牲となる多くの人々を。救えますか? あなたに。おかしいわたしを。ほら、早くその手錠と足枷を引きぎって、空を飛んで駆け付けて、倒壊する建物を支えて、テロ集団をやっつけてきたらどうですか」

 

 黙りこくった彼を、アイテムで滅多打ちにして声を張り上げた。

 

「無理ですよねえ! そんな状態で、異能弱者のあなたに供儀聖典は止められません! マスキュラーを倒したからなんなんですか!? 誰にヒーローと呼ばれたのかなんて知りません! ミルコを救出したって関係無いです! わたしを理解し救えたのはキュリオスさまだけッ! リ・デストロもスケプティックも、トランペットはいつもそう言っていた!」

 

 一通りの暴力で気の済んだ聖典が乱れた息で、ぼろぼろになって横たわる彼を見下ろす。制服のシャツには埃と汗と血が浸み込み、腕には擦り傷や打撲創、瞼は腫れ、切れた唇から血が流れている。痛みに耐える細い呼吸が風に混ざった。

 

 聖典はその姿を見て、音が聞こえるほど大きく固唾を飲んだ。

 

「……わたし、おかしなところがあるんです。素敵だなって思った人の血を、どうしても飲んでみたくなるんです」

 聖典はしゃがみこんで、彼に囁く。

「あなたは殺したいほどムカつきますが、ボロボロの姿は素敵です。わたしを助けてくれるんですよね? 理解してくれるんですよね? だったら痛くしないので、血、ちうちうしてもいいですか?」

 

 それはマスターベーションのようなものだ。キュリオスに向けるような無条件の忠誠と愛情ではなく、パッと欲望を発散する行為。

 彼がぼろぼろの顔で柔らかい表情を浮かべ、口を開く。聖典の胸が期待と高揚感で一杯になる。顔が上気しているのがじぶんでもわかった。

 彼は瞳だけを動かし、聖典を見据える。

 

「嫌だ」

 

 聖典は顔に憎悪を刻み、立ち上がって彼の鳩尾を蹴り抜いた。

 苦悶の声と溶けかけの朝食が口から吐き出される。

 それを見て、怒りよりも呆れが勝った。

 

「バカなんですか、あなた。この状況で断ればこうなることはわかるでしょう。嘘でもいいから了承すれば、苦しい思いをせずに済んだのに」

 

「関係、ない」

 懸命に息を整えて、地べたから見上げる彼は続けた。

「もし、もっと早くにおまえと普通に出会ってて、例えばだけど仲が良くって、付き合っていたとしても断っていた」

 

「死ね」

 

 聖典は彼にアイテムを向けた。ここに放置して、為すすべなく供儀聖典が行われるさまを見せてやろうと思っていたが、今すぐ殺さなければ気が済まない。

 

「仮にその場で受け入れて、それで抑圧が解放されても、おれが事故や病気で死んだら、おまえはきっと、また苦しむから」

 

 アイテムのトリガーに掛かる指が固まった。

 

「おれだっておかしいところがある。素敵な人の血を吸いたいっていうおかしい所を否定しない。血くらいなら、もちろん限度はあるけど吸ってくれて構わない。体力には自信があるし」

「……アイテム向けられて一瞬で矛盾してるのは命乞いですか? カッコ悪いです」

 

「おれが弱いのはおれが一番よく知っている。潜在的に困ってる人のすべてを助けられないって事も。けどもし、おれに何かできる事があるとすれば、それはきみにとって都合の良い存在になる事じゃない」

 言って、彼は拘束された手足で不器用に立ち上がる。聖典を静かに見据えた。

「一緒に探す。きみのおかしさを理解してくれる人たちを。おれ一人がきみを受け入れても、それはきっと依存でしかない」

 

 拒絶でも承諾でもない予想外の提案に、思考は混乱した。

 どう答えればいいのかわからず、聖典は必死に言い訳を考える。嫌だ、わたしにはキュリオスさましかいない。そのはずだ。

 

「そんな人、いるわけないじゃないですか」

「案外みんな、ちょっとずつおかしい所がある。それが普通なんだと、おれは思う。普段は隠しているだけで。だから訳を話せば、わかってくれる人はいるはずだ。何人か、きみが満足のいく人数が集まったら、好きにおれの血を吸ってくれ……ホントはちょっと興味あるし」

 

 たぶん、先輩とかは興味津々になるだろうな、と不意に思う。

 クラスのみんなも、きっとそうだ。ミルコ先生を助けに行くときに、勇気づけてくれたおれにとってのヒーローたちなら。

 

「嘘だ!! 本当にわたしを理解して、わたしの事を本気で考えてくれて、救ってくれるのはキュリオスさまだけです!」

「おれも、おれなりにきみの気持ちに寄り添って考えた。血を対価に誰かに依存してほしくないし、命じられて誰かを殺し、あげくに殺されてほしくないし、それで誰かが救われるとは思わない。それよりも、きみがいっぱい素敵な人を見つけて、いっぱい血を吸えればいいなと想ってる……そっちの方が幸せだろうから」

 

 人差し指にほんの少し力を込めるだけで簡単に自分を殺せる聖典から視線を逸らさず、彼は本心からそう言った。

 彼女があの時の男と同じく、花火田に『洗脳』されているかどうかはわからない。似通った雰囲気があるというだけで、筋金入りの妄信者かもしれない。

 けど止められるのならば、止めなければならない。

 

「なん、なんですか、あなた……」

 少女が弱々しい声の後、迷いを断ち切るように叫ぶ。

「わたしが死なないとっ! 憎悪の象徴とならないとわたしみたいに苦しむ人を救えないんです! 供儀聖典は止められない! 今さらヒーロー面して出てくるな! わたしを助けようとするな!! 遅いんだよ!!」

 

 少女は、もう何を信じればいいのかわからなかった。呼吸は荒く、汗が流れ、気分が悪い。アイテムを握る腕がガタガタと震える。

 戦士たちを、キュリオスを裏切る事が恐ろしかった。死なずに済むならそれがいいに決まってる。彼の言うように、わたしのおかしいところを受け入れてくれる素敵な人をいっぱい見つけて、いっぱい血を吸えるならそっちの方がいいに決まってる。

 

「遅くなってごめん」

 

 渡我はアイテムの引き金を引いた。

 

 彼の電子錠が硬質な音を立てて地に落ちる。

 へたり込んで俯いたままの渡我に言った。

 

「一つ、助けてほしい事がある」

 

 なんですか、消え入りそうな声が返って来た。

 

「教えてほしい、花火田の事」

「知って、どうするんですか」

 

 彼はギプスを外し、まだ痛む義指の小指と中指を曲げてネクタイで固定して言った。

 

「追う。そう約束した人がいるから」

 

 街には焦げ臭いにおいと金切り声が、強風に乗って伝染している。

 

 異能解放軍にとって歴史に刻まれるべき革命の叙事詩、その第一歌が途切れる兆しなど、まるで感じさせない昼下がりであった。

 




次回 なるはや


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第二十三話 供儀聖典 hook

 AFOの解放を求める同時多発テロは、一瞬にして社会を混沌の底の底まで叩き落した。

 すみやかに強制力を伴った緊急事態宣言が発令され、市民には避難が呼びかけられる。ただし、すべてが唐突な混迷下では迅速な周知は難しかった。

 

 ネットには憶測とデマが雪崩のように広がり続ける。

 

『怪物化』の個性使いがスクランブル交差点に現れ、大勢が逃げまどった。首都高が破壊され、交通が麻痺した。飛行場に行軍する様子がネットに上がった。大学は占拠され、どうせやられるくらいならと一部の血の気の多い学生は機を窺っている。包囲された病院では、患者が一カ所に集められ震えていていた。

 

 異能解放軍ともヴィラン連合とも全く関係の無い小悪党が無人の民家に押し入り、窃盗を働く。コンビニのATMが破壊され、現金が奪われた。

 警察は機動隊まで投入し避難指示を急がせるが手が足りない。そもそも全貌が掴めていないのに、どこに逃げればいいというのだ。とにかく外に出ず、その辺の店に入ってじっとしてもらう他ない。

 

「くそっ……こんなのどうやって対処すりゃいいんだよ。妊婦だっているってのに」

 

 市民病院内で患者の避難と簡易的なバリケードを作る医療スタッフが、苛立ちを乗せて毒づく。

 窓の外では、院内へ突入しようとするヴィランたちと戦っている数人のヒーローがいた。わざわざ正門からやってくるのは患者の恐怖心を煽る為だろう。一カ所から攻めるのはヒーローにとって好都合だが、いかんせん相手が多すぎる。

 

 AFOの逮捕と引き換えに深手を負った数々のビルボード級が健在ならば、多勢に無勢をたった一人でひっくり返すほどの圧倒的な力を持っている。だが現状で動けるヒーローの多くは、パトロールや軽個性犯罪、災害救助、補助特化のサイドキックが多い。

 

 もちろん戦闘能力を持ったヒーローも残っているものの、相手は訓練され、本部と部隊に組織化され、思想統一された死をも恐れぬ潜伏解放戦士だ。その辺のチンピラとは訳が違う。

 

 必ずヒーローが助けに来てくれるはず。

 最初は誰もがそういう希望を持っていたが、次第に手が足りない現実に気付きだす。そうなると、誰でもいいから助けてくれといった藁にも縋る思いになる。

 この現状を収束してくれるなら、たとえヴィジランテでも、ヴィランであっても構わない。

 

 SNSではそんな叫びで溢れかえっていた。

 通常、テロの際は通信網を抑えるのが基本だが異能解放軍は放っておいた。スケプティックの情報部隊を機能させるためでもあるが、目的はAFOの解放ではなく、供儀聖典にあるからだ。

 その為にはヒーロー社会に対する不満や不安を限界まで煽る必要がある。次はどこが襲撃されるか、何人死んだかなど、好きに書き込ませてやればいい。

 

 花畑は慌てふためく民衆をスマホで確認して、咳払いし声を張り上げた。

 

『先ほど、後援会の方がわたしを、ヴィラン連合の残党から守ってくれました! 混乱に乗じた火事場泥棒を捕まえました! ヒーロー免許を持たない一般市民が個性を使う事は、現行法では残念ながら許されていませんがしかし……しかしわたしは彼らを責める事が出来なァい! したくもなあいッ!! もちろん訓練無しに個性を使えば過剰防衛に発展する恐れがありますが、せめて、せめてヒーローが使うようなアイテムがわれわれにも所持できていれば、この惨烈たる状況を食い止められたのでは!? そう思わずにはいられません!!』

 

 選挙カーはステージに花畑を乗せたまま、本来であれば車でごった返しているはずの四車線の大通りを進む。ところどころに乗り捨てられた車が、物悲しく残っていた。

 自称ヴィラン連合の残党は、一部では衝突が続いているものの一通りの目標に対して占拠等のテロ活動が済み、一時的な小康状態にある。今はSNSを通じてAFO解放運動を続けていた。

 

 大音量で流される花畑の勇ましい演説を、ビルや店の中で不安に身を震わせる人々が耳にする。過激な主張に聞こえるが、もっともらしく、そうであればいいという気さえする。

 

『ヒーローはどこにいるのでしょうか? 体制と免許の中でしょうか? 違う! ヒーローとは本来、誰の心の中にもいるはずです! わたしは政治家生命をかけて、この悪逆非道なテロを忘れる事の無い警句と戒めとし、みなさま自身の善性によるッ! 安全なアイテムによる安全な自己防衛を実現させる事を、必ず約束します!』

 

 この熱演は同乗する後援会のメンバーが撮影し、ネットで中継されていた。

 アイテム級の特殊なスピーカーによる音声出力でなければ『扇動』は機能しないが、花畑はもともと弁が立つ。よくよく考えれば、安全なアイテムによる安全な自己防衛などと理解に苦しむが、それを感じさせない勢いと人の心に入り込む声の強弱があった。

 

 メディアのヘリが飛びだした頃合いを見て、外典が行動を起こす。空中に車ほどの大きさの氷塊がいくつも漂い、一斉に都のランドマークとなっている殻毬(からまり)タワーへ向かった。そのまま展望室の強化ガラスを打ち破り、占拠するテロリストに取り付いて氷漬けにする。

 

 当然、報道ヘリの目に留まる。

 

『アレです! 見てください、殻毬タワーのあそこ! 氷の上に誰かいます! 青年? に見えます。一瞬にしてヴィラン連合を拘束してしまいました。いったいどこの事務所のプロヒーローなのでしょうか』

 

 カメラが寄ると、寒冷地仕様のロングダウンジャケットを羽織り、フードを目深にかぶった人間が氷に乗って上空に浮いていた。

 そのまま降下していき、駅を包囲するヴィランも拘束する。圧倒的な氷の物量と精緻な制御に、為すすべがない。

 

『……えっ? それほんと?』

 とアナウンサーがヘリの中のスタッフに確認を取って続けた。

『えー、ヒーロー協会に問い合わせてみたところ、明確な回答は得られませんでしたが、どうやら未登録の可能性が高いという事です。つまりあの青年は、その、ヒーロー免許を持たない一般人という事になるのですが……それにしても凄い個性です! あっという間の出来事でした!』

 

 その様子をモニタで確認した花畑が、ほくそ笑んで口を開く。

 外典はこの地獄のような状況に、遠い遠い天上よりもたらされた銀色の蜘蛛の糸。あとはそれにどれだけ多くの民衆をしがみ付かせるか、腕の見せ所だ。

 

『わたしは今、ニュースを見て胸が震えました。おそらくあの殻毬タワーを開放した青年は、違法を承知で個性を使っているのだと思います。それでも他者を守るという自己犠牲を、果たして責めるべきなのでしょうか? 否! あれほどの強個性を持っていながらにして沈黙を守る事の方が耐えがたいはず! あの青年こそが、オールマイトを失ったわれわれにとっての新たな……新たな()()()

 

 花畑の言葉を遮るように、選挙カーのステージへ歩道橋の上から何者かが乗り込んできた。

 

()()はおまえたちが勝手に使っていい称号じゃない」

 

 きみは……と花畑が目を細める。ふん、なんだ。異能弱者がいちいち煩わせる。

 

 彼が刺すように睨む。こいつが何人もの人間を破滅へと追いやったヴィラン。キザったらしく前髪を一条垂らしたオールバックで、仕立ての良い黒のスーツを着ていた。

 

「おやおやきみはたしか、えーと制服を見るに雄英生だろ? 急に飛び乗ってきたら危ないじゃないか。ぼろぼろだけど、どうしたんだい?」

「今すぐテロリストを引かせろ、トランペット。どれだけの人間を傷つけるつもりだ」

「きみは何を言っているんだ?」

 

 言って、口髭を人差し指でさすって逡巡する。

 なぜ解放コードを知っているのか謎だ。それに口ぶりからして、一定クラス以上の構成員でしか共有されていない供儀聖典の全容を知っている? 

 

 回転翼機の羽ばたきがうるさくなった空に目をやると、警察の高速輸送ヘリが何機も飛んでいた。遠すぎて確認できないが、ぽろぽろと何か、アタッシュケースのようなものを投下している。

 

 合わせて報道ヘリが一時的に後退していった。メディア露出が減るなら外典が戦う必要は無い。念のため、いったん合流するようインカムに指示を出す。

 彼を取り押さえようとする後援会のメンバーを手で制し、朗々と言った。

 

「なにか勘違いしていないか? わたしが何をしたというのだ。やった事はただの政治活動だ。危険を顧みず選挙カーで民衆、いや市民を勇気づける事の何が気に食わない?」

「異能解放軍の目指すくだらない未来を実現する事が、おまえの政治活動か? それとも、アイテムを保持する権利を利用して、デトネラットに巨額の利益を与える事か?」

 

 それを聞くと花畑の目の下が小さく震えた。さっと頭に血が上る。

 くだらない未来? 

 どうせ原書も読んだことも無い異能弱者に、積み上げてきた神聖なる読了と崇高な理念を汚されるたようで気に入らない。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。まだスマホでの撮影は続いている。

 それを再確認して内心で嘲笑った。論戦術はわたしの場だ。殴るだの蹴るだので精いっぱいの猿には、絶対に勝てない。

 

「その異能……なんだか知らないが、他人の政治信念に口を出すのは好ましくないな……たしかにきみの言う通り、緊急事態宣言が出ているにも関わらず街頭演説を続けていたのはいけない事だと思っているよ。ステージの上に立ったまま車を走らせる事もね。道交法違反の罰金は払うつもりだ」

「違う! おれが言いたいのはそんな事じゃ」

「しかしねえ! わたしとて政治家の端くれ。こんな未曽有の状況だからこそ、身を危険にさらしてでも国民の安心させたいのだよ。アイテムや個性にまつわるこれからの展望をあの場で、卑劣にも無関係な人々を襲うヴィラン連合の残党に言ってやらずにはいられなかった。わたしという人間の信念がそうさせた。これから先の未来は、おまえたちのような無法者がのさばる事は無いと! そう主張せずにはいられなかった!」

 

 正気なのか? 

 彼には花畑が理解できなかった。この惨劇を引き起こしておいて、よくそんな口を利ける。マスキュラーとも死柄木とも違う、まったく別種の底知れぬ粘ついた悪意の塊。自己の目的のみだけがある、完全なる他者の不在。

 言いようのない不穏な気配に飲まれそうになりながら、なんとか口を開く。

 

「その声を媒介とした『洗脳』を使ってか」

「嗚呼、もしわたしがそういう個性なら、きっとヴィラン連合の残党たちを『洗脳』して、すぐにでも、何の罪も無い人たちを傷つける愚劣な歴史的蛮行を止めてみせたのに……悔しさで身が震えるよ、ホント」

 

 きょう捕まったテロリストの中には、『洗脳』によって妄信的になってしまった人もいるだろう。

 その人たちが花畑の見せる悪夢から覚めた時、誰かを傷つけてしまった罪の意識にきっと苛まれる。覚えのない怪我に苦しむかもしれない。

 そうしてあの男や渡我のように、多くの人間が本来被るべきでない罪を背負うことになる。

 

 家庭のある人もいるだろう、財産を投げうってしまったかもしれない、未来を台無しにされたかもしれない。こんなクソ野郎の為に、異能解放軍の掲げる前世紀的な社会の為に。

 その人たちの気持ちに寄り添うと、悔しくて悲しくて仕方が無かった。

 そんな彼の表情を覗き込み、花畑が面白そうに言った。

 

「どうした、きみ。ひょっとして、泣きべそかいてるのか?」

「おれの涙の理由を、おまえなんかが理解する必要は無い」

 

 ああ、こっちから願い下げだね。と花畑は心の内で嘲り、柔らかく言った。

 

「まあ、まずは落ち着いて、な? 手当てが必要だろう?」

 

 ゆっくりと、にこやかな表情で後援会のメンバーが近づいてくる。その掌には一本の針が突き出ており、先端には汁がぷっくりと珠を作っていた。明らかに個性攻撃を仕掛けてくる気配に後ずさる。

 スマホの撮影は続いている。どうするべきか悩んでいると、急にそのメンバーが苦しそうに倒れた。花畑が焦った声で、伏した身体を揺する。

 

「おいっ大丈夫か! ……きみの個性か!? なんてことをするんだ!」

「違う!」

 

 咎めるように花畑は言うがしかし、カメラの死角になっている顔はいやらしくニヤついている。

 

「誰かーッ、誰か助けてくれ!」

 悲痛な叫び声をあげると、気配も無く飛んできた外典が腕から生やした巨大な氷の手で彼を掴み、選挙カーから引き離す。走行中のステージの上では、逃げ場が無かった。

 遠くなっていく二人をバックに、花畑は深刻そうな表情を浮かべる。

 

「彼もまたヴィラン連合の残党に感化された一人かもしれません、その意味では犠牲者ですが。みなさんを勇気づけようとする、わたしの演説を邪魔しに来たのも頷ける。しかしながらその事実は、非常に残念ですが雄英に内通者がいた可能性を裏付けます。林間合宿の襲撃の手引きにも彼が関わっていたかもしれないと考えると、人質になった生徒の苦しみにやりきれない思いが募るばかりです。そしてあの『操氷』の青年が助けてくれなければ、どうなっていたことか」

 

 涙ぐんだ声で言い終わると、スマホの視覚外でパタパタと手を振った。撮影が中断され、インカムで外典に伝える。

 

『殺せ』

 

 命じられた外典は、フードの下の凍てついた視線を苦悶の表情を浮かべる彼に向ける。

 ほんの少し力を加えれば即死するが、それを躊躇った。

 異能第一主義に人一倍傾倒する外典にとって、彼は特異な存在だった。暫定的に異能弱者という見解だが、そうであればどうやってミルコを救出できたのか。

 

 ひょっとすると、『操氷』すら凌駕する異能かもしれない。そうであれば、彼には生きる価値がある。

 だからまだ殺さずにいた。

 もしもあの時、気月の寄越した集瑛社の記者に個性を話していれば、いまここで、巡り巡って死んでいた。『体力』が割れていれば、問答無用で外典は彼を握り殺している。

 

「おまえの異能を、個性を言え、言わなければ殺す」

 

 身体中の骨が軋んでいる。あと数秒でへし折れて、内臓をずたずたにするのがわかる。泣きたくなるほど苦しくて、凍えそうなほど冷たくて、それから逃れる為なら安いものだと思った。なぜ秘密の個性にそこまで固執するのかなど、今はどうでもいい。

 

「おれの、個性は──」

 

 ──秘密は武器になる。『体力』が秘密の個性の内はその恩恵が必ずある。だからそれを暴こうとする理解からは距離を置かなければならない──

 

 言うな。と理性が反射する。

 面会室で泣き崩れた男が心に浮かんだ。まだ、やらなければならない事がある。武器を手放すという事は、それを放棄するという事だ。戦えなくなってしまう。

 

「──おれにしか助けられない人がいる」

「異能の話だ」

 

 要領を得ないといった表情の外典に言い放つ。

 

「その人を助けるのが、おれの個性だ! 文句、あるか!」

「……もういい」

 

 氷の手が軋み、彼の肉体を圧迫した。その痛みに視界が明滅し、苦痛に喘ぐ。幻聴までもが、降って来る。

 

「弱いくせに生意気だ、悪くない」

 

 一瞬にして彼を拘束する氷が甲高い音を立てて完全に破砕された。外典が飛び退く。咳き込みながら尻もちをついた彼がその背中を見上げた。幻聴などでは無かった。

 

 あまりに唐突な出来事に、時が止まったとさえ思える。空より唐突に降下してきたその人影は、砕け散った無数の氷の粒が太陽を反射して煌めく中で、悪意から彼を庇うように悠然と屹立していた。

 道路に落ちた影が明かすその特徴的な耳と、入院着の腰のスリットから覗く白くてふわふわの丸い尻尾には覚えがあった。

 乱れた呼吸で、彼がその名を呼ぶ。

 

「ミルコ、先生」

 

 おう、と不敵に笑って、病院のスリッパを履いたヒーローは長い月銀の髪をかき上げた。

 

「ラビットヒーロー。どうしてここが」

 

「どうしてって……なんで兎の耳がデカいか知らねーのかよ?」

 当たり前のことを聞くなといった感じの溜息で続ける。

「うちの生徒の苦しむ声を聴き逃さねぇ為に決まってんだろ……こいつはわたしがなんとかするから、行ってこい。行って、その大層なおまえだけの個性を使ってこい」

 

 彼は一瞬ミルコの身を案じて躊躇ったが、すぐに駆け出した。それを遮ろうとする氷が蹴り砕かれる。

 外典は高度を取り次々に氷塊を飛ばすが、それを足場に肉薄される。あと一歩で届く距離でミルコは横殴りにされた。辛うじて着地には成功する。

 

「……やはり弱っているな。まだ完全回復したわけじゃないようだ」

「うっせーよ」

「ぼくと戦うとネットで叩かれるぞ。なんせ最初にテロリストを制圧した英雄だ。無免許で個性を使う人間を取り締まるより先に、やる事があるだろって」

「問題ねえ」

「不利だとわからないのか? 対個性戦は相性だ。飛べるぼくと跳ね回るだけのおまえでは勝負にならない」

「知ったこっちゃないね。てめえはアイツを殺そうとした、だからわたしがボコる。わかったか?」

 

「あんな異能弱者に生きる価値は無い」

「……月まで蹴ッ飛ばしてやるよ」

 

 外典は殺気立つミルコを前にしてもまだ余裕があった。万全でない事と相性勝ちしているからだ。

 だからか、ふと先ほどの問答に疑問が生じた。問題ない、とはどういう事だ。

 いや、無理だ。とその可能性に内心で頭を振る。

 異能解放軍が展開した人海戦術に、ヒーローの対応能力は限界を超えている。

 

 

 

()()()()()()()()()()()()

 

 

 

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『怪物化』の個性使いが、スクランブル交差点を囲むビルをねめつけている。

 その体躯は筋骨隆隆な人間のようだが、頭部は獰猛なイヌ科にも見える。尻尾や尖った背びれもあり、本来は人間界に存在しないような姿は、それだけで威圧的だった。

 足元には踏み潰された車やガソリン漏れで炎上しているものもある。

 

 その様子を、ビルの中に一時避難した市民たちが窓ガラス越しに絶望的な瞳で眺めている。店内にはすすり泣きが響き、花畑に感化された人間が体制の不満を呟いている。

 オールマイトが引退してたった数日でこれか? じゃあ明日はどうなる、明後日は。

 底知れぬ心細さだけが募っていく。わたしたちを助けてくれるヒーローは、いないのか。

 

 いない。その目算があるから供儀聖典は実行された。

 

 

 

 だがまだ出来る事はあるはずと、心に希望を灯すヒーローが二人、その場に駆け付けていた。まだヴィランには負けていないと信じている。

 

「みんな準備オッケーみたいデスよ、そろそろ始めましょう」

 

 その内の一人が『怪物化』を見下ろすビルの屋上で、心を挫かんとする悪意に負けない明るさで言った。愛らしい大きな目をして、黄金色のウェーブがかった髪が風に吹かれている。頭部には特徴的な二本の角。

 

「ん」

 

 隣にいた黒髪の少女が答えて腰のポーチからガチャポンのケースを取り出し、放り投げた。

 そうして呟く。

 

「解除」

 

 一瞬にしてそれは現れた。

『怪物化』のヴィランは瞠目する。あまりにも予想外の物体が目の前に鎮座している。

 

 避難していた市民がざわつく。

「ねえ見てあれ」

「なん、だ」

「いやどっかで見た事があるぞ……」

「たしか昨年の雄英体育祭の第一種目で出てきたような」

 

 それはオリーブドグリーンの角ばった巨体で、頭部と思しき部分には赤いカメラアイが並んでいた。空の青さを反射するビルの窓に、その雄姿が浮かんでいる。

 雄英を受験した者なら知らぬはずの無い脅威。その名も──

 

「──ん」

 

 雄英名物、0P仮想敵。

 しかも免許取得前に使われる通称卒検ロボが、問答無用でパイルバンカーパンチを『怪物化』の腹に打ち込む。車ほどの大きさの空薬莢が排莢され、ごわんと音を立てて地に落ちる。白い排煙が巨人の息のように吐き出された。追撃に、『サイズ』で大型トラックほどの大きさになった四本の『角砲』が苛烈に襲い掛かる。

 その猛攻に、『怪物化』は音を立てて地に伏した。それを中心点として砂埃が広がる。

 

「マジ……かよ」

「ロボット? 角? なにかの個性?」

「いやそんなのどうだっていい。これってつまりあれだろ……なあ、そうだよなあ!」

「来て、くれたの? ヒーローが……」

 

 一拍置き、窓ガラスが振動するほどの歓声が一帯を包む。

 第一歌をかき消す(とき)の声は、そこから始まった。

 

 角取が高らかにインカムに言う。

「さあ始めまショウ! スケールの大きさと物量作戦は、雄英の十八番デス!」

 

 それと同時に、公的機関を占拠していたテロリストが次々と本部へ入電する。

 

「なんだ!? いきなり大量のロボットが襲ってきたぞ」

「こいつらどこから出てきたんだ!」

「本部! 指示をくれ!」

 

 小大の『サイズ』が解除され、各所では高速輸送ヘリからばら撒かれたアタッシュケースから、一斉に解放された様々な仮想敵ロボが雪崩のようにテロリストに牙をむいていた。

 が、やはり限界はある。虚を突いたとはいえ、訓練を積んだ戦士が立て直せば凌がれてしまうだろう。

 

「落ち着け! 落ち着いて対処すれば問題ない! 後退して陣地を再構築しろ!」

 

 テロリストが大声で指示して駆け出すも、派手に転んだ。いつのまにか、ローションのようなものが床に広がっている。

 そこに一人のヒーローが滑り込み、足払いで転がして装備していたアイテムを握る。『酸』で溶け落ちたそれを、テロリストは呆然として見下ろした。

 

「隊長!」

 

 駆け付けたテロリストの個性攻撃を、仮想敵ロボが身代わりとなって受けた。返す刀に粘度を最大まで調整した『酸』を浴びせて動きを封じ、ウィンドミルの足払いで転がす。

 隊長と呼ばれたテロリストに向き直り、同じように拘束して言った。

 

「あのさ、わたしと同じくらいの歳の男の子攫った?」

 

 

 

 別の場所では、テロリストたちの立てこもる大学の一室に、通風孔から『トカゲの尻尾切り』によってバラバラにされた肉体が侵入し、身体が再構築された。

 唐突に現れたヒーローに先手を取られて一人が殴り飛ばされる。同士討ちを恐れない個性攻撃を行うが、ヒーローは一手早くバラバラになって部屋中に渦巻く。その間に指がマウントしているアイテムを落とし、再び死角となる場所で肉体が再構築された。

 部屋の隅で目を浮かべ俯瞰視点を得ているからこそ可能な神出鬼没な攻撃に、閉所という事も合わさって手も足も出ない。

 

 最後に残った一人に、浮かんだ口が尋ねる。

 

「うちのクラスの男子知らない? ヴィラン連合なら誰の事を言ってるかわかると思うけど」

 

 

 

 市民病院ではついにヒーローの守りが突破され、正面ロータリーにまで迫ってきている。患者とスタッフは恐怖に怯え、カーテンの隙間からその様子を眺める事しかできない。

 だが二人のヒーローが空から降り立ち、その恐怖に立ち塞がる。

 巨大な六本の四角柱を浮かべる柳が胸をなでおろした。

 

「なんとか間に合った」

 

「なんだ、子どもか?」

 テロリストが鼻で笑って、四角柱に『礫』を放つとあっけなく壊れた。

「おまえ、雄英生だよな。そんなんでヴィラン連合を止められると思ってんのか?」

 

「まーね、本来の運用設計は陣地防衛だから……うらめしいよ?」

 

 柳が『ポルターガイスト』を起動すると、現れたのは四角柱に格納されていた無数の柄の無い電磁警棒と十数枚の捕縛布だった。

 電磁警棒のスイッチが入り、電撃が走る。数千匹の鳥の羽ばたきにも似た異音が響き渡った。それらが一斉にテロリストたちを包囲して襲う。

 

「期末の演習の時には使えなかったけど、やっぱサポート科に依頼しといてよかった」

 

 おおよそを行動不能にしたが、電撃のダメージをものともしない異形型の個性使いが雄たけびを上げ、柳に猛然と駆け寄った。

 が、拳藤が『大拳』の巨大猫だましでひるませ、瞬時のグラップルで拘束する。暗い声で尋ねた。

 

「ねえ、うちのヒーロー科の男子拉致った?」

「知るかッ、くそ卑怯な手ぇ使いやがって! それでもヒーロー科か!?」

「こんな真似をしてでも、助けなきゃいけないヤツがいる。後悔なんかしない」

 

 上空に放ると、すぐさま『ポルターガイスト』で操られた捕縛布が拘束する。

 

「サンキュー一佳」

「ん。じゃ次行こうか」

 

 

 

 空港の管制室で、カエンタケに消化器官系を侵され、嘔吐、下痢、めまいなどで悶絶しているテロリストを見下ろしながら小森がインカムに言った。

 

「こっちも知らないって……わかってる、絶対見つける」

 

 施設を出ると、待機していた耳郎が言った。

 

「人質、いなかったでしょ?」

「うん。にしてもそんなわかるもんなの?」

「まーね。心音とか、今回はアイテム装備してたからわかりやすかった」

 

 

 

 またある所では、ヒーローはいないはずなのに一人ずつ締め落とされるという怪現象が起き、『ツル』の怪物に制圧されていた。八百万があられもない姿で暴徒鎮圧用の催涙ガスを『創造』しながら練り歩く。遊撃する蛙吹が戦闘訓練で使った、キハンシヒキガエルの特性を模倣して声を拾う。

 

 そうして同じ質問が繰り返された。

 クラスの中で一番弱いけれども、一番助けてくれた友達の行方を捜し、助ける為に。

 

 

 

「たかがヒーロー未満の学生とロボットだろ! 怯むな! 大義の為に死ね!」

 

 ヴィランが通信機に叫び、別部隊に檄を飛ばすが意識が落ちる。床に顔をぶつけても平然と寝息を立てていた。

 

「ちょっと前は、たしかにヒーローの卵だった。けど今はもう孵ってる。言っとくけど、ひよこなんて可愛いもんじゃないわよ」

 

 初期コスチュームを引っ張り出したミッドナイトが悠然と歩く。遠距離から向けられた個性を鞭で捌き、ヴィランを打つ。

 そして一つの違和感に気付いた。

 

「やっぱちょっとキツいわね」

 ちょいちょいと胸と尻を辛うじて隠す紐の座りを調整する。

 

 

 

 ヒーロー科を有する各学校、ヒーロー協会と国家公安委員会、防衛省、首相官邸との迅速な協議が出した答えがこの作戦だった。

 目を付けたのは、雄英の誇る無尽蔵化と思えるほどの物量だ。『サイズ』で小さくした仮想敵ロボをアタッシュケースに詰め、警察の高速輸送ヘリで各所にバラ撒く。

 いくら仮免を持ったヒーロー科でも、たった数人で占拠された公的施設等の奪還は難しい。だが膨大な数の仮想敵ロボと同時投入できれば状況は五分、いやそれ以上だ。

 

 

 

 ヒーロー科の反撃は都内だけに止まらなかった。

 関西では士傑生が同じように、現場のヒーローと共同でテロリストと戦っている。

 

 大氷壁を生み出した轟が舌打ちして、吐き捨てるように言った。

『親父と燈にいを怪我させたヴィランはいねえのかよ』

 

 その通信を聞いて、クラスメートがぼやく。

 

『ありゃーだいぶ怒ってるな』

『ま、戦闘もなしに『凝血』で行動不能からの深手だからね。おれらもそろそろ動こうか』

 夜嵐と骨抜が個性を起動する。

 

『旋風』が台風に弄ばれる木の葉のようにヴィランを舞い上げて無力化し、あるいは『柔化』により沈み込んだ地面に捕らわれる。

 

『どっから湧いて出てきたかしらねえが、こんなもんかよ! 救助訓練の時のチンピラより多少マシってだけじゃねえか!!』

『……たしかにおかしい。かっちゃんの言う通りだ。それにヴィラン連合は新興組織なのに、この統率力と規模はいったい……まるで何年も前から訓練を積んだみたいだ。脳無の投入も無いしもしかしてこれって別の組織がブツブツブツ』

『同意してんじゃねえよクソデク! あとうっせーから黙ってろや!!』

『相変わらず仲がいいねえ』

 と物間がコピーした『抹消』で個性を消してサポートする。

 

『そ、そうかな』

『よくねえ!』

 

 

 

「士傑と雄英だけがヒーロー科じゃないって事、見せなきゃな。こーいう時の為に、仮免取ったんだし」

 その二校に決して劣らない傑物学園の生徒たちも、プロヒーローと連携して破壊活動を続けるヴィランの捕縛に臨んだ。

 

 その活躍が、次第にSNSに広がりメディアにも伝わった。

 報道ヘリの中、感極まった声でアナウンサーがカメラに叫ぶ。

 

『ご覧ください! いま、テロリストに占拠された施設が次々に奪還されています! 健在ですッ! ヒーローは健在! まだわたしたちの希望は残っています!!』

 

 その雄姿が、波紋のように全国に広がっていく。助けを待つ人の心を勇気づける。

 それならまだ終わっていない。

 

 

 

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次回 明日


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第二十四話 供儀聖典 outro

 ミルコの介入により、外典が彼を殺し損ねた報はテロリストに伝わっていた。

 花畑の命令を外典に替わって実行に移すべく、街に潜伏していた複数の部隊が彼の追撃を始める。

 いくら『体力』によりトップスピードが維持できるとは言え、移動能力に優れた個性相手に先回りされ挟撃に遭う。

 

 が、彼を包囲するテロリストの上空に、黒いモヤが渦巻いた。

 

 ぼたりと影が落ちたかと思うと、音も無く抜刀した日本刀でテロリストの背後から次々に斬って掛かる。そのすべてが必要最小限の卓越した技量だ。

 内一人が気付いて振り返り個性攻撃を放つも、前転で躱しながら腿に刃を走らせた。

 

「なんのつもりだ……ステイン」

 

 彼に肉薄したステインが刃を舐めると、『凝血』が起動する。存外に浅い傷と油断したテロリストが背後でばたばたと倒れた。

 

「おまえは……まだ死ぬべきではない」

 

 言って刃物を投げ渡す。受け取ると、それは黒一色のマット仕上げにされたカランビットだった。あの時黒霧に投げた物。

 

「行け。行っておれに見せてみろ。おまえが本物足りえるかを」

 

 刀で方向を指し示し、新たな追手のテロリストに向き合った。

 

 ヴィラン連合に借りを作るのは癪だったが、いまは追うべき最悪のヴィランがいる。

 

「殺すな、あの人たちも犠牲者かもしれない」

「……今回はおまえに敬意を表するとしよう」

 

 彼はプライドを捨てて駆け出した。

 

 その行動に、ステインは歪んだ笑みを浮かべる。やはり、良い。くだらぬ見栄に眼を曇らせることなく、おのれの確信に殉ずる意志。

 それに比べて、とニュースの映像を脳裏に浮かべて心底吐き気を覚える。報道ヘリが出ている時だけ現れ、呼応するように去った。助けた市民に目を合わせる事も無く。

 完全なる贋物。それをあの政治家は何と言いかけた? 平和の象徴? 

 断じて、許されない。贋物を本物に仕立て上げるなど。

 

 ステインは瞳に信念を灯らせ、テロリストに立ち塞がる。

 

「来るがいい、贋物ども」

 

 

 

「よかったのですか? 死柄木 弔。好きにさせて」

 セーフハウスで、黒霧が意外そうに言った。深くソファに腰掛けた死柄木が不愉快そうに口を開く。

 

「まあ、部下のご機嫌取りもボスの役目だ。適度に発散させてやるさ。まだコンプレスたちと合流できてねえ上に先生もおれを庇って檻の中だ、やる事も無い。それにヒーローがどうなろうが関係ないが、ヴィラン連合を踏み台にされるのは気に入らねえ。何様だ、あいつら」

 

 

 

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 同時多発的にテロリストが制圧されていく報告が、花畑のインカムに入る。思わず舌打ちした。

 聖典の校内アイテム乱射事件を目立たせるため、占拠や破壊活動どまりで人質を取らなかったのも裏目に出た。そもそも本格的なテロでAFOが解放されても困るが。

 

 今日のところは引くしかないだろう。だが、後日また行えばいい。好きな時にテロを起こせるこちらと、いつどこで決起されるかわからない状態のヒーローならどちらが有利かは自明の理。

 

「まったく、思い通りにはいかないものだな」

 

 自嘲気味にそうこぼすが、思い返せば難航する作戦には共通点があった。どれもあの異能弱者が絡んでいる。

 まさかな、と考えを否定する。

 

 気の抜けたところに破裂音が響き渡る。彼が投擲したカランビットがタイヤの側面を裂いたのだ。バランスを失い、選挙カーは電信柱に激突した。

 花畑がよろよろと立ち上がる。

 

「なにが……起こったんだ」

「逃げるな。おれと戦え、花畑」

 

 声のした方向へ視線をやると、彼がいた。傷だらけではあるが、まだ生きている。部隊は何をやっているのだと悪態をつく。

 うんざりして嘆息した。あの鬼気迫る様相であれば、()()()()()()()()()()が発生するかもしれない。やはりあそこに向かうべきか。そこならば手出しできまい。

 

「しつこいな」

「逃げるな、おまえが犠牲にしてきた人たちから逃げるなッ! 花畑ぁ!」

「嫌だね」

 

 とは言ったものの、運転手を除くと後援会のメンバーは三人。多少心もとなくはあるが……と逡巡していると、唸るようなエンジン音が響いた。スポーツカーが彼と花畑の間にドリフトで割り込み、運転手が叫ぶ。

 

「乗って!」

「気月! 助かった」

 

 飛びつくように助手席に乗り込むと、後は後援会に任せてその場を去った。

 後援会の三人が彼ににじり寄り、個性攻撃を放つ。

 が、間一髪でその場を脱した。身体に巻き付く何とも言えない弾力と温かさには覚えがある。

 

「蛙吹さん!」

「ケロッ。やっと見つけたわ!」

 

 ビルの屋上に避難し、1-Aに通信を送ると洪水のような応答があった。面倒になったので、インカムの予備を彼に渡す。

 

「えっ、ああうん、大丈夫。その……捕まった時に財布とかスマホとか取り上げられてて、番号も覚えてなかったし……いや変な事はされてないっていうか、うん」

「みんなの心配は後に置いといて、とりあえず一旦引きましょう。怪我もしてるみたいだし」

「それは出来ない。これはただのAFOの解放を求めた騒動じゃない。今日を凌いでも、すぐにまたテロが起こる」

「どういうことかしら」

 

 供儀聖典の残酷な全容が彼の口から明かされた。ヴィラン連合になりすました偽旗、多くの罪の無い人間を踏みにじる卑劣なマッチポンプ、人為的な新たな平和の象徴。

 人を人と思わぬ悪行に、激しい怒りが心を燃やした。

 

 八百万が神妙に口を開く。

『許しがたいですが……それを止める手段は一つしかありません。しかもかなり難しいですわね』

 

 供儀聖典は、異能解放軍の最終的な目標を達成するための足掛かりだ。とりわけて、心求党を経由しアイテムを携帯する権利の法案を通す事は。

 逆に言えば、そこさえ封じれば全てが瓦解する。デトネラットは民間に戦闘用アイテムを卸せず、政治介入の為の強大な圧力団体は生まれない。

 

 その為には党首の花畑を抑えなければならないが、不可能に近い。

 供儀聖典に関わっているという物証が無い。

 渡我の証言で捜査が始まっても、証拠を掴む前に法案が通っては意味が無いのだ。

 

 揃えなければならない()()()()()ある。

 なにかしらの証拠と、逮捕令状が不要な緊急逮捕か現行犯逮足りえる要件だ。

 

 前者だけを警察に提出しても、令状が出る前に花畑は最後の手段として、党首の座と引き換えに雲隠れ出来る。司法と行政が解放軍の傀儡である泥花市に潜れば捜査の手は及ばない。

 そうしてまた、安全圏から誰かを操る。『人形』の個性越しにも可能だが、戸籍や顔を変えたって構わないだろう。

 

 これまでとは違い、単にヴィランを倒せば終わりという訳では無かった。

 花畑の個性は死柄木のような即死級の攻撃力を持つものではない。AFOのように裏社会に潜む悪党でもない。ただ、表から見れば極めて善良な政治家なだけだ。

 だからこそ強い。

 

 世論から見て花畑は多少熱が入り過ぎているきらいがあるとはいえ、市民の事を第一に考える政治家だ、今回の件でその印象はますます強まっただろう。この限りにおいて、花畑は無敵だ。

 その意味では、彼が相手してきた中でも最強のヴィランかもしれない。

 

「それでも、追えるのは今しかない。ここで諦めれば、取り返しのつかないことになる」

 

 今回の騒動で臨時国会が開かれるのは間違いなく、どさくさに紛れて法案を提出するだろう。

 供儀聖典はすべてを後手に回すほどの速攻性も兼ね備えている。もう後が無いのだ。

 

「だから蛙吹さん、ごめんけどすぐ下に降ろしてほしい。あいつは、あいつだけはいま追い詰めないと」

「……けろ」

 

 それを理解してもなお、蛙吹は迷った。無理にでも彼を引き留めるべきか。舌にはまだ、滲み出た血の味が残っている。まだテロリストの追撃は終わっていない。今度こそ彼は死んでしまうかもしれない。

 

 しかしそんな感傷も、ヴィランは待ってはくれなかった。こぽこぽと足元のコンクリートが泡立つ、いくつもの槍の切っ先がこちらを向いている、妙な耳鳴りも。

 反射的に彼を舌で絡めとりその場を離れて地上の道路に着地し、すぐさま追手の個性攻撃が飛んできたのを辛うじて避ける。

 

『カエル』の脚力でこのまま逃げ回るべきか? いや彼を抱えている舌が使えない状況では分が悪い。

 

「行って! ここはわたしが抑えるわ! 大丈夫、無理はしないから」

 

 託すことを蛙吹は選んだ。

 供儀聖典の停止は困難を極める。力ではどうにもならない。けれども彼は、そういった問題を解決してきた。小森や拳藤、温泉で親に対する少年の思いの丈を受け止めた事。

 だからきっと、可能性があるとすれば──

 

 

 

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 ヒーロー科の予想外の対応に、外典は一時撤退を命じられた。後日のテロに備える方針を取る事になり、ミルコの追撃を躱すため数百もの氷塊を漂わせる。

 

「おまえはこれの相手でもしてろ」

 

 一斉に目標へ殺到するはずのそれらが、凄まじい力の奔流と同時に粉砕された。雹よりも小さな氷の粒が、ぱらぱらと地に落ちる。

 冷たい冷気の中、現れた波動ねじれは言った。

 

「やっぱりこういう大きい技を使っていい場所は楽でいいなー。他は通形と天喰に任せて正解だったかも」

 

 BIG3とミルコの二人を相手取るのはさすがに厳しいかと、外典はすぐさま距離を取る。が、異様な速度で回り込まれて足場の氷に『波動』を打ち込みまれ、胸倉を掴まれた。

 

「速い!?」

「でしょ~最初はちょっと慣れなかったけど」

 

『無重力』が付与された波動は、瞬間的に最高速度を得られる状態にあった。その制動は一朝一夕で体得できるものではないが、もともと『波動』で飛行できるほど個性制御に長けていた彼女なら、自在に扱えるまでさして時間は必要なかった。

 

「ぼくは善意で人を助けただけだ。それをここまで執拗に罰しようとするのはやはり、ヒーロー免許という特権を侵されたくないからか? 意地汚いぞ、ヒーロー」

「供儀聖典だっけ? 知ってるよー。あなたを次のオールマイトに担ぎ上げるのもその内の目標の一つなんでしょ」

 

 外典が眉をひそめる。計画がどこからか漏れている事実に。

 

「そんな妄言、誰が信じるんだ? ヒーローとして生きたいのならぼくを逃がせ、大衆のバッシングは避けられないぞ」

「ねえねえ知ってる? どれだけSNSで責められても立ち直った子がいるのに、わたしがそんな事で怯えるわけにはいかないんだよ」

 

「それとは状況がまるで違う。公の場で行動を起こしたおまえとミルコはヒーローネームと実名が出る。攻撃はより熾烈なものになるだろう」

「ねえねえ、誰の事か言ってないのに、どうしてその子が実名未公開で叩かれたって前提なの? それってすっごく不思議~」

 

 波動は練り上げられた重い拳を、押し黙る外典の心臓の位置に添えた。

 にっこりと笑う。

「抵抗しないでね。コーハイくんに酷いことしたって聞いてるから、今はちょっと加減できないかもー」

 

 そのようすを、ミルコが面白くなさそうに見上げる。

 

「美味しいとこだけ持っていきやがって……」

 

 とはいえ、さすがに本調子ではない状態で外典の相手はしんどい。カッコつけたかったが、仕方ない。

 深くため息をついて、その場に座り込んでぼーっとした。

 

 

 

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「にしてもあのガキ、どうしてわたしの解放コードと異能を知っている」

 花畑が助手席で毒づく。

「しかし助かったよ、あのまま小僧に絡まれては面倒だった。中央警察署に向かってくれ」

 

「そのつもり。けど気を付けてよね。あなたの身になにかあったら困る。それよりも」

 ハンドルを握る気月がドライブレコーダーをオフにして、焦りを隠そうとせずに言った。

「あの異能弱者は、何かおかしい。あいつが関わる計画はことごとく失敗する。真っ先に始末すべきだったかもしれない」

 

 ファンザの件を蒸し返された気がして、花畑は少し不満げになる。

 

「供儀聖典はまだ始まったばかりだ、また別の所でテロを起こさせる」

「けど最初の決起の肝である、中学でのアイテム乱射事件はおそらく彼に潰された」

「なんだと!? 事が起こる前に聖典が拘束されたのか?」

 

 気月が裏切り者に対し、侮蔑的に言い捨てた。

 

「監視していた戦士によれば、聖典が裏切った可能性が高い」

「考えにくいな。わたしの『扇動』と、きみの血による精神心理学的な刷り込みで依存させていたはずだ」

「だとしても現実を見る必要がある、工作員として優秀だった彼女がなぜ計画を離脱したのかを知らなくてはならない。デストロも一連の顛末を聞いて彼の事を危惧している。だからわたしをあなたの元に寄越した。早急に彼の秘密の異能を暴く必要がある」

 

「目星はついているのか?」

「情報部隊とわたしの推測だけど、彼は『洗脳』や『凝血』のような非実在個性攻撃を無効化できるのかもしれない。マスキュラーは体術と禁じ手で倒したとして、それなら単身でミルコを救出できる。聖典を離反させたのも」

 

 花畑は顎に手をやって思考する。その推察はあり得ない話ではない。イレイザーヘッドの『抹消』がその例だ。下位互換、という事になるだろうが。

 

「……それなら納得できなくも無い」

「整理しましょう。ファンザ襲撃の際、あなたの『扇動』の影響下にあった男たちに変化は無かった?」

 

 言われて思い返す。

「無い。その時はたしかにマスキュリストたちは『扇動』にかかっており、わたしの意志の影響下にあった」

「つまり指向性があるという事ね。おそらくだけど対象を取れるのは一人だけ。全員を対象に取れるなら、あの場にいたすべてのマスキュリストたちは『扇動』を解除されていた」

「いや、あの状況ではわたしの異能は割れていなかったから、彼には『扇動』を解除するという思考は無かったはずだ。予想できる媒介は?」

「おそらく、あなたと同じ声ね。視線であるならば前線に出るはずがない」

 

 一息ついて気月が忌々し気に言った。

「けど聖典が生きたまま捕らえられたのならマズい。情報漏洩を防ぐために殺したいけど、この騒ぎじゃ難しい」

「渡したアイテムの遠隔暴発機能は試したのか? フル装備なら四肢欠損する、出血多量かショック死で片が付くだろ」

 

 万一、アイテム乱射事件で誰も聖典を止められなかった場合の保険にと、秘密裏に仕組まれた残酷な処置だった。

 

「ダメだった。報告によれば、一度は装備したものの放棄したみたい。生きて供儀聖典を降りるくらいなら死んでほしかった、本当に」

「抑圧された不良のガキなんていくらでもいる、また()()()()()ヴィランをけしかけてやればいいさ。あのあたりはわれわれのテリトリーだし、マッチポンプで恩を着せるのは十八番だ」

 

「聖典ほど優秀な工作員はいなかった。それだけにムカつくわ」

「それは否定しない。わたしほどではないが、論戦術と詐術に優れていた。ヴィラン連合に潜入させたのも、その技術があってこそだった」

「ええ、けれども詐術においてはあなたを超えている。『扇動』と依存を個性により解除されたのではなく、純粋にわれわれを裏切ったのならね」

 

 得意分野でないがしろにされたので、小粋に鼻で笑ってトランペットは皮肉る。

 

「きみが聖典をそこまで買っているとはね。まあコウモリ女に餌をやるのも頷ける」

 

 花畑の軽口に、気月がせせら笑う。

「あっちの陣営こっちの陣営と鞍替えする尻軽にはお似合いの言葉かも」

 

 

 

 ほどなくして車は都の中央警察署の前に停まった。

 こここそが花畑の目指していた場所だ。テロがあった際に、銃がある為もっとも守りが固められる場所の一つ。

 いつもより厳重な番立ちがその姿を認める。心求党の党首ともなれば知らぬはずがない。

 

「すまないが避難させてもらいたい、妙なヴィランに追われていてね」

 

 警官が口を開こうとし、花畑の後ろへと視線を移した。

 

「逃げるな」

 

 舌打ちして声のした方へ振り向く。

 そこには一刻前よりさらに凄惨な姿の彼がいた。傷だらけの身体を覆う衣類は赤黒く染まっており、元の色はほとんど残っていない。指先から血がしたたり落ちる。

 夕暮れの朱の中、幽鬼のごとく佇んでいた。

 

 ここまでくると病気だな、と花畑は呆れ返る。しくじった追撃部隊の未熟さにも。

 

「彼です。何の罪も犯していないわたしをヴィランと言い張り、執拗に狙ってくるのは」

 

 花畑の危惧していた最悪の事態とは、殺害だ。もちろんその死は大々的に尊い犠牲として、党の支持を集めるのに使えはするがそもそも死にたくない。

 それに、党首を失えば心求党として立法府の干渉が滞る。

 だから警察署に来たのだ。ここなら彼も迂闊に手は出せない。ヒーロー科ならば尚の事。

 

「人を利用するだけ利用して……切り捨てて、まだ逃げ続けるのか」

 

 警官は困惑した。もちろん彼の事は知っている。あんな姿になるまで花畑を追うのならば、それなりの事情があるのかもしれない。だからといって花畑が何をしたという証拠も無かった。

 

「ちょっときみ、とりあえず落ち着いて」

 と言って彼に近づく警官を、花畑は手で制す。

 

「少し彼と話してもいいですか? なに、向こう見ずで無軌道な若者を正すのも政治家の役割ですから」

 そうして、何とでも言うがいいさ、と侮蔑的な薄い笑みを浮かべる。警官も居る事なので、悠然と近寄った。

「なあ、もういい加減にしてくれないか? 今わたしに突っかかって何になる? 対策を講じるべきだろう。明日もテロが起きるかもしれないんだぞ、今度は高校とか……へたしたら幼稚園とか」

 

 まるで次の目標を予告するかのような、含みのある言い方だ。

 花畑は、彼が出会った中でも本当にどうしようもなく下劣な人間だった。

 他人を思いやる気持ちなど一つも無い。

 彼は短く吐き捨てた。

 

「クソ野郎」

 

「おいおい酷いな。言っとくが、きみ、印象悪いぞ」

 言ってスマホを取り出してSNSを確認する。情報部隊は上手く機能しているようだった。

 

「危険を顧みず市民の為に声を上げたわたしを、ヴィラン扱いして襲ってくるきみの動画が上がっている。あーあー、これは人間の悪辣性を集めたドブみたいなリプ欄だ、体育祭で調子に乗った時の画像と名前まで出てる。弁護士を雇った方がいいぞ。というか、きみ、雄英生のようだが、落ちたものだな、あの高校も。きっとヒーロー科もきみと同じで低レベルなんだろうな」

 

 オールバックの髪を撫でつけ、小気味よく笑って勝ち誇る。

 

「だいたい、わたしの個性が『洗脳』だと? 疑うようなら泥花市に提出した個性届のコピーをやるよ。そうでない証拠があるならぜひ見せてくれ」

 

 花畑が正面切って戦う事は無い。意地汚く逃げ続ける。逃げた先で再び誰かを操り、手を汚すことなく誰かを弄び、傷つける。邪悪で忌むべき卑怯者。

 星に死を願う以外に対抗策の無い最強のヴィラン。

 

 そう、わたしは無敵だ。

 ヒーローが相手であれば、絶対に負けない。

 

 花畑は自己を客観的にそう評価している。してはいるが、なぜ彼がこうまでしつこく追いすがるのか、疑問に思わないでもない。

 ひょっとしたら、なにか強力な手を抱え込んでいるのか? 供儀聖典を機能停止させ、合切にケリを付ける手段を。そもそもどうしてこの場所がわかったのだ?

 

 いや、考え過ぎか。追う以上の選択肢が無かったから追ってきただけ。なんとかなるという淡い希望を胸にし、その目算がいかに脆かったかを痛感しているだけだ。

 

 事実として彼は、花畑を直接捕らえる事の出来ない悔しさに震える拳を痛いほど握りしめるばかりだ。

 この、どうしようもなく最低のヴィランを目の前にして手を出せない……けれど。

 

 けれども彼は呪いの魔法を掛けるように、低く言った。

 

「……そういえば読んだよ、異能解放戦線。図書館で借りて──」

 

「あ?」

 俯いてぽつりとこぼした言葉に、花畑の唇がぴくりと反応した。

 

「──さぞ大層な事が書いてあるんだろうと思ったけど、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()タイトルだけはな」

 

 それを聞くと花畑の目の下が痙攣するように小さく震えた。さっと頭に血が上る。青筋が浮かんだ。

 彼がほんの少しだけ顔を上げ、上目遣いに嘲笑する。

 

()()()()()()()()()()()()()そういえば行間もやたら」

 

 唸り声を上げ、唇を尖らせた花畑が大振りの殴打で彼の頬を打った。よろめいた身体の胸倉を掴み、興奮を抑えて口早に耳打ちする。

 

()()()() ()()()()()()()()()()()()()()()どんなヒーローにもな。ましてやおまえみたいなゴミがどうあがこうと、あの男と同様に、利用されて捨てられるのがオチなんだよ」

 

 花畑と頭を交わしたまま、彼が冷ややかに耳打ちし返す。

 

()()()()()()()()()()()()()()どんなヒーローでも、ましてやおれにでもなく。おまえが踏みにじった、性的な事件が無くなればいいという純粋な男心に。恩着せがましく人の弱みに付け込んで、殺される事を望ませた孤独な女の子に」

 

「ちょっとあなたねえ! いくらなんでも」

 

 と警官が花畑の身体を引き離す。渋々に従い、スーツの襟を直した。

 ついカッとなってしまったが、たかが暴行罪だ。政治家としては汚点だが、この混乱の中ではすぐに忘れ去られる。それにネット世論では彼の方がヴィランまがいと認識されている。問題ない。

 

 なにが、おまえは負けただ。この程度で勝った気になっているなら、救いようの無いバカだ。

 暗く俯いたままの彼に踵を返して気月の姿を探すが、見当たらない。

 

「わたしと一緒に来た女性は?」

「これを渡してきた後……あれ、さっきまでそこにいたのに」

 

 警官の手には()()()()()()()()()()と携帯端末があった。

 その装備に、花畑は見覚えがある。デトネラットが裏で作っている製品の一つで、ほぼ全方位の録画録音を可能にする代物だ。女性潜入工作員の標準装備でもある。

 

「え?」

 

 わけがわからず、花畑は周囲を見渡す。なぜ? どうして……

 

「こちらに、あなたがファンザ襲撃と今回のテロに関わっていたと自白証言する動画ファイルが保存されているとの事ですが……」

 

 花畑の脳裏に、車内での会話が走馬灯のように駆け巡る。

 

「そんな、ことは」

「ですが念のため詳しくお聞きしてもよろしいでしょうか」

「おいおい、こんな状況でか? 気分が悪いな、こんなところで保護されたくはない。失礼するよ」

 

 彼がその背に声を投げかける。

「たったいま人を殴っといてどこに逃げるつもりだ」

 

 心臓が凍った手で絞られたように痛む。呼吸が短く荒くなった。汗が止まらない。

 

 そのただ事ではない様子に、警官たちは互いに視線を交わして帯革から手錠を抜いた。

 もし、本当にこの凄惨なテロに関わっている人物が目の前にいるのだとしたら。ほんの少しでもその可能性があるのだとしたら。いくら相手が大物政治家と言えど放ってはおけない。警官としての意地がある。その責務を全うするだけの話。

 

「暴行の現行犯です」

「まさかとは思うが、ファンザ襲撃にわたしが関わっていたというクソみたいな嘘を取り調べようってんじゃあないだろうね……別件逮捕だろうがあッ!!」

「何の事ですか?」

「……わたしは心求党の党首だぞ」

 

「わたしたちは警察官です」

「おい、上に確認取るくらいの事はした方がいいんじゃないのか? 下っ端のヴィラン受け取り係がこんな真似してタダで済むと思うのか?」

 

 アイテムを携帯する権利を立法府に認めさせるには、心求党を動かす必要がある。だが暴行罪ならともかく、ファンザ襲撃に党首が関わっている裏事情が露見すれば躓きかねない。マスコミは嬉々としてこの不祥事を骨の髄までしゃぶりつくすだろう。

 

 止まる? 

 このままでは異能解放軍の目指す未来を祝福する偉大なる前夜祭が……止まってしまう。わたしのせいで? 

 足元がおぼつかなくなり、じんわりと視界が滲む。

 

 そんな事、ありえるはずがない。

 供儀聖典は限りなく黒く濁っており、凶悪で、故に成功が約束されたに等しい。誰にも止められない。ヒーロー社会が対抗できるはずがない。その為に造られたのだから。

 

「どうした、花畑。ひょっとして、泣きべそかいてるのか」

 

 花畑は振り返った。路傍の、石。障害足りえず、始末しようと思えばどうにでもなる異能弱者。嵌められたのか、こんなやつに。躓くはずが──

 

 口の中の血を吐き出し、唇を拭った彼が薄く笑う。

 

「おまえなんかの涙の理由を、おれが理解する必要は無いけどな」

 

「うあ、だ」

 

 情けなく口を半開きにした花畑が、よろよろと彼に近づく。半狂乱に叫んで大振りのストレートを放った。

 およそ格闘技など齧った事も無いおもちゃのような打撃は、避けるまでも無く当たらなかった。返しに柔らかい鳩尾に浅く拳を打ち込む。

 

「さっきのは半分おれから当たりに行ってやったんだ、ちゃんと狙え、ヘタクソ」

 

 ぼそりと呟き、胃液を吐いてのたうつ花畑を見下ろした。

 ヒーローを目指す者として、加減の体得は必須事項だ。当然、一撃で失神させる事も可能だがこいつにはそれすら勿体ない。加減して、悶え苦しませるくらいは許されるだろう。

 これでも花畑が踏みにじった人たちの事を考えれば、軽いくらいだ。

 

 一息ついて、彼は空を見上げる。

 

 それは人々を照らす明るい陽が沈んでしまうほんの少し前。

 それは人々を飲み込んでしまう暗い夜が降りるほんの少し前。

 

 異能解放軍にとって歴史に刻まれるべき革命の叙事詩。

 その歌声が、混乱の中にある悲鳴、火の手と白煙にむせる咳、切り裂くようなクラクションとサイレン、親とはぐれた子の泣き叫び、不安に息をひそめ祈る声、建築物という文明が破壊され、怒りと衝動の赴くままに挙げられる雄叫びであるならば、それはもう途切れ、邪悪で忌むべき卑怯者の嗚咽でもってして幕は下りた。

 

 そして人々は謳いだす。

 

 その歌声が、大切な人の無事を確かめる喜びの声、命を繋ぐべく救急搬送に鳴るサイレンの音、親と再会した子の泣き叫び、不安から解放された安堵の吐息、救助や安全確保の為に解体される建築物や撤去される瓦礫、歓喜と興奮の赴くままに挙げられる雄叫びであるならば、安らぎと日常に回帰していく他愛のない会話をもってして幕は下りるだろう。

 

 ヒーローにとって歴史に刻まれるべき守護の叙事詩。

 またいつ闇が落ちるともしれない黄昏の中でしかし、たしかにその第一歌は謳われていた。

 

 謳われていたのだ。

 

 

 

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 男女比率がおかしい貞操観念逆転アカデミアだけど強く生きよう

 

 第二部 供儀聖典編 完

 

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 薄暗い路地裏で、個性が解除され裸の渡我は膝を抱いて座り込んでいた。

 ぼうっとして手の中のペンダントのトップを眺める。初めて彼と接触した後の事が心に浮かぶ。あの時は、これがどんな宝石よりも素晴らしい物に思えたのに。

 

 それは渡我にとっての護符だった。唯一の救済者を身近に感じる為の、いや、悪意ある者にもたらされた、少女を縛る為の呪具。

 冷たい金属のフレームの中には、いつもあるはずの小指の先ほどのカプセルが無かった。生々しく赤い液体が最先端の技術によりいつまでもその鮮度を保っているそれは、もう飲み干して無くなっている。

 そうして偽りの救済者に『変身』し、供儀聖典を後ろから刺した。

 

 車内での花畑との会話が嫌でも思い起こされた。未練が無いと言えば嘘になる。こころの中に、冷たい雪だけが降り積もっていくようだ。

 肌寒い秋風に身を縮こまらせる。赤くなった丸くて小さな足の指を、もじもじと擦り合わせる。

 

 彼の作戦では、渡我が気月に『変身』して花畑の言質を取り、捕らえた後は保護を受ける予定だったがなんとなく逃げてしまった。

 いや、その理由を本当は理解している。また利用され、捨てられたらと考えると震えるほど恐ろしかった。そんな思いをするくらいなら、こっちから関係を断った方が楽だ。

 

 不意に人の気配がして身体を硬くする。が、それは異能解放軍の追手でも警察でもなかった。

 

 視線だけを上に向ける。雑居ビルに挟まれた夕陽の光を背にした人物に、目を細めた。

 

「……やっと見つけた、大丈夫? 警察には話を通してあるから安心していい」

 

 そうして差し伸べられた安寧の言葉と手は、渡我の心に色濃く影を落としていった。

 動悸が速まり、緊張と興奮から舌足らずになって答えた。

 

「あ、う。でも今は裸んぼさんなのです」

「あーじゃあとりあえずおれのシャツ着る? 血と汗だらけで悪いけど、裸よりはマシかな?」

 

 そう言って下に着ていたTシャツ姿になった彼は後ろを向いた。

 渡されたシャツに袖を通す。まだ人肌が残っており暖かかった。大きくて、ぎりぎり下も見えない。滴り落ちそうなほど蠱惑的な幽香に包まれた。

 

「ありがとです。大切にします」

「……いや、返してね。学校に着ていくから」

 

 渡我は目に見えてしょんぼりした後、一つ尋ねた。

 

「どうして、わたしの場所がわかったのですか?」

「え? んーまあ、なんていうか──」

 

 それを何と呼ぶかは人それぞれだ。

 冷たいヤモリが脳裏を這いずるような感覚、一瞬で覚める白昼夢であったり、デジャヴのような既視感、走馬灯、閃光のようにほとばしる直感。

 あるいは香山で言うところの嗅覚。

 

「──()かな」

 

 それを聞き、ぽかんとした後で小さく吹き出した。

 

「なんですか、それ。そんなのでわたしの場所がわかったんですか」

「わかったというか、なんとなく覗いてみたというか。それより、なんで逃げたの? 攫われたかと思って心配した」

「それは、ごめんなさい」

 

 目を伏せた渡我に、彼はそれ以上追及しなかった。

 

 やがて通りが騒がしくなる。『サイズ』で大きくなった『角砲』に1-Aが乗り、彼を迎えに来たのだ。

 

「じゃあ行こっか」

「う」

 

 と、呻いては足を竦ませる。

 その気持ちはわかる。供儀聖典の礎である事を望んだのだ。事態を収拾したヒーロー科に顔を合わせるのは気まずい。

 

「大丈夫、わかってくれると思う。おれの友達はみんな優しくて、頼りになって、強くて、尊敬できる素敵な人だから。それに約束したでしょ、血を吸わせてくれる人を一緒に探すって。落ち着いたら、みんなに聞いてみよう」

 

 彼を待つ1-Aの面々はテロリストとの戦闘でぼろぼろだった。それでも満ち足りた顔をしている。もしこんな素敵な人たちと仲良くなれるのなら、わたしのおかしい所を受け入れてくれるのなら。

 それはとても幸せだ。

 

 

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 わたしはおかしい。と、渡我は理解している。理解して生きてきた。納得とは違うが。だから。

 

 だから、飛んでやろうと思った。勇気を出して。

 

 そうして渡我は薄暗い路地裏を後にした。

 ペンダントを捨て置いて、空高くへと飛び去っていった。

 もう、そこに戻る事は無い。




次回 一週間以内


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第二十五話 サキュレンタム Part 2

 テロから一夜が明けた。

 ヒーロー科は災害時の現地実習もかねてボランティア活動に勤しんでいる。職場体験よろしくプロの指揮下に入り、個性に合わせて瓦礫の撤去、インフラ調査、炊き出しの手伝いなどが割り当てられた。

 被害に遭った三大都市に隣接する都道府県の他校からも応援が来ており、復興は予定より早まりそうだ。

 

 一方で立法府、行政府は夜を徹した水面下の探り合いが行われていた。

 現代歴史を紐解く際にオールマイト以前以降で大別されるが、後者において最大規模の国家転覆にも等しい決起を起こした組織が、立法府に食い込んでいる可能性があるのだ。事が事である。

 

 渡我を保護した後、彼は塚内と名乗る警部と共に高速輸送ヘリに乗った。なんでも緊急の要件らしい。担任の香山が同行すると事なので、断る理由も無く同意した。道中で応急手当を受け、消毒液の匂いにまみれて目的地に着く。

 

 てっきり明日はみんなと炊き出しを行うとのんきに思っていた彼はだから、ガチガチに緊張していた。

 落ち着いた色合いの一室。白い卓布が掛けられた大きな長テーブルには、画面越しにしか見た事の無い人たちがいる。

 

 今回の作戦立案に関わった、三大都市のヒーロー科を擁する校長、ヒーロー協会と国家公安委員会、防衛省それぞれのトップ、総理、閣僚の面々が官邸の大会議室に集まっていた。

 そんな面子の視線を一身に集めながら供儀聖典の全容を説明する心労たるや。隣に同席してくれた香山がいなければ潰れていたかもしれない。

 

 一通りの質疑応答が済むと労いの言葉で解放された。

 後は近場のホテルまで案内され、そこで一泊する事となった。慰労の意を込めてかスイートルームがあてがわれたものの、おれだけなんだか悪いなあと思わなくもない。

 それに、高所から見下ろすと異能解放軍が刻んだ深い爪痕が明瞭に浮かび上がった。都心の地上に、ぽっかりと穴が開いたように明かりが灯っていない場所がいくつもあった。

 

 気落ちするが、少なくともテロは止まった。これ以上続けても、花畑のスキャンダルで支持は集められないだろうからだ。

 

 その後、政界でどのようなやり取りが行われていたのかは不明だが、他党からもアイテムを携帯する権利が唱えられることは無かった。ただ、行政府に関しては個性の使用を緩和してもよいのではないか、という動きはあったらしい。

 

 心求党からは花畑に対する干渉は無かった。おそらく党首を代行している人間も異能解放軍の一派なのだろうが、ここで花畑を庇って世論からの反感感を買うより、平に徹して知らぬ存ぜぬ、こちらも被害者、まことに遺憾で突き通すほうが利になると判断したのだろう。

 花畑というカリスマと『扇動』を失うのは惜しいが、テロに関与していた事実が表に出れば擁護は出来ない。どれだけ手を回しても実刑判決は免れないのなら早く見切りをつけるに越したことは無い。

 

 事実上、花畑は異能解放軍に切り捨てられる事となる。

 

 翌朝、彼が慣れないベッドの柔らかさに目を覚ましてテレビを点けると、党首代行が自宅前でマスコミの凄まじい取材に耐えている姿が映っていた。

 

 花畑の逮捕をマスメディアが知るには早すぎる気もするが、おそらく政治的な駆け引きの結果、意図的なリークが行われたのだろう。

 それと同時に、彼に対するSNS上のバッシングは「ホンマは信じとったで」「やっぱヒーロー科が悪事を働くわけないんだよなあ」「あれはヴィランの情報戦、乗っかったのはただの情弱」などの熱い掌返しで収まった。

 

 外典は無免許での個性使用の罪に問われたが、罰金で釈放された。

 異能解放軍との繋がりはあるものの、その確たる証拠がない。彼と渡我の証言だけで立件は難しく、それに世論から見れば善人だ。

 ミルコと波動は割を食う形になったが、後悔はしていない。外典を放っておけば彼は殺されていた。

 ただ、外典がテロに関する被疑者として取り調べを受けた事もリークされており、二人に対する風当たりは弱いものになっている。

 

 また、今回逮捕されたヴィラン連合を自称するテロリストの処遇については、警察が抱える記憶や心に関する個性使いによって、花畑の『扇動』と異能解放軍のカルト的な環境による重度の精神疾患かつ洗脳状態にあったと明かされた場合は、法にのっとり無罪となる。

 それでも他人を傷つけたという事実だけは残り、心を苦しめている。癒されるには長い時間がかかるだろう。

 

 彼の確証監視保護を請け負っていたスライディン・ゴーを含めた三人のプロヒーローについても同様の沙汰が下されているが、内偵ではクロの烙印が押されている。

 ヒーロー側にも異能解放軍の潜入工作員がいるという事実の上では、今は泳がせておく方針だ。他に何人のシンパが組織内に潜伏しているのか、通信網の把握などなど探らなければいけない事は多い。

 

 もちろん確信犯的にヒーロー社会を打ち破ろうとする者も大勢おり、きっと異能解放軍からの弁護費用等の支援があると信じている。

 声高に、ヒーローは異能に抑圧され迫害される潜在的弱者を救えない、だからヒーロー社会は一度破壊する必要があると叫んでいた。

 

 これはただの問題点のすり替えで、ヒーロー社会が消えたからといって個性に抑圧され迫害される社会的弱者が消えるわけではない。それは社会福祉や立法が抱える問題なのだ。

 腹が減ったのに床屋は何もしてくれなかったと文句を言っているようなもの。

 

 

 

 事件から数日経ち日常への回復の兆しを見せ始めた頃、彼との面会を求めて雄英に一人の男が訪れた。

 かつて拘置所でガラス越しに会った男である。応接室で彼に会うなり泣きじゃくりながら抱きついた。

 彼は黙って背に手を回してやり、落ち着くのを待った。

 

 ほどなくしてソファに腰かけて話を聞くに、渡我が隠し撮りした動画ファイルが証拠となり民事は取り下げられるそうだ。

 

「花畑の邪魔をしたとかでツイッターできみが叩かれてるのを見て、本当に苦しかった。そんなわけない、きみがヴィランな訳が無いって。あの時ぼくにかけてくれた言葉を、叩いてる一人一人に言ってやりたかった」

 まだ声色が定まらない男が、目じりを拭って続ける。

「けど逮捕のニュース見てびっくりしたよ。本当に、あの時約束したぼくの為に、被害に遭った他の人の為にあのヴィランを捕まえてくれたって知って」

 

 なんだかくすぐったくなって、そういえばと思い返す。

「……あれは、おれ一人で解決したわけじゃない。たぶんあなたがいなかったら花畑は捕まらなかった」

 

「それはどういう……」

 

 彼は少し笑って、花畑への煽り文句を口にする。あのとき拘置所で男が言った、著書 異能解放戦線に対する忌憚のない感想を。

 

「そっか……そうか。ぼくもあいつに、一撃食らわせてやれたのかあ」

 男は泣き笑いを浮かべて、今まで封じてきたはち切れんばかりの気持ちを伝えた。

「本当に、ありがとう。ぼくを、あの時被害に遭ったぼくたちを助けてくれて」

 

「いやそんな、おれだけの力じゃないですし」

「あの時言っただろう? 礼を言うのは、あいつを捕まえた時でいいって。だからいま言わせてほしい」

 

 謙遜したかったが、そう言われると返す言葉が無い。思い返せば、オールマイトは常に感謝の言葉を真正面から受け止めていた気がする。そういった度量もヒーローには必要なのだろう。

 

 はにかみながらも視線を逸らさない彼に、男は言った。

 

「ありがとう。ヒーロー」

 

 

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 雄英にある教職員棟のベランダで、スカジャンにホットパンツ姿のミルコが柵に肘を置いて外を眺め、ブラウスとパンツスーツのミッドナイトはコーヒー片手に背を預けてだらりと昼休憩時間を過ごしていた。晴天の下の紅葉した雄大な自然が良く映える。

 

「まさか、こんなに早く約束を果たすとはねー。疑ってたわけじゃないけど、あんな大物を追い詰めるとは」

 ぽつりとミッドナイトがこぼす。

「で、身体、もういいの?」

 

「さすがに元通りって訳じゃねえけど、ベッドで寝てるよりは外に出てた方が楽だ。あんまダラけてるとなまるしな」

「そう。にしても供儀聖典、か。裏ではとんでもない事が起こってたみたいね」

「まさかあんなしょーもない旗を掲げて社会に喧嘩売ってくるバカどもがいるとはな」

 

 まとめられた報告書を読むに、かなり大規模な作戦だった。海外のニュースでも扱われており、事実関係が確定されれば五十年後かそれくらいには教科書に載るレベルだろう。

 ミッドナイトがコーヒーを一口やって言った。

 

「そー言えばさ、前に居酒屋でわたしが言った事覚えてる? やっぱあの子、死にそうってか死んでてもおかしくないでしょ」

「……ああ。よく生きてるよ、ほんと」

「呪われてるわよ、あれ。こんどお祓いにでも連れてってあげようかな」

「二人でか?」

 

「バカ言わないでよ」

「あれで下から数えた方が早い実力ってんだからなー、なんなんだろーな、マジで」

 

 おそらく彼は異能解放軍にとって、捨て置かれた路傍の石から排除すべき標的となってしまった。

 ただ、今は花畑の喪失による求心力の低下と組織の再編成に注力している事が推測され、すぐに刺客が差し向けられはしないはずだ。

 渡我が内部情報を警察に伝えたので、公安の内偵により幹部の動きの抑制も期待できる。デトネラット、集瑛社、Feel Good Inc.がマークされたのは痛手だろう。

 ひとまずは安心といったところではある。

 

「なんとか強くしてあげたいけど、あれが限界なのよねー。特定状況下では文句ないんだけど、ピーキーすぎるって言うか」

「心配してもしょうがねえだろ。まあ、死にそうになったらまた助けるだろ、わたしか、おまえか、クラスの誰か、どっかのプロか知らねーけど、たぶんそーいうヤツだよ」

 

「けど今回拉致られた時みたいに、一度物理的に拘束されてからの中距離を食らうと終わりってのがねー」

「スライディンだっけ? あの個性相手ならヴィランだとわかってりゃハグなんてさせねえどころか、触れさせもしなかっただろうが。どのみち前衛のわりに勝てない相手が多すぎるってのは同意する。広範囲、異形型、人間を超えたフィジカル持ち、中遠距離。『体力』だと搦め手も必殺技も無い。そーいうところが、あいつは弱い。強いけど」

「そーよねえ。サイドキックの需要は間違いなくあるっていうか、一線級なん」

 

 ん、とミッドナイトは言いさして固まった。今なんて。

 

「……そういう評価は担任として嬉しいけど、詳しく聞いていい?」

「絶対にわたしが言ったってあいつに伝えるなよ」

「なによあらたまって」

「あいつは弱いけど、あれだよ、マスキュラーの時も言ったけど、まー……他人の気持ちに寄り添える。それが強い」

「……そうね」

 

 病院で小森が明かした胸の内は、まだ記憶に新しい。

 秋風が二人の髪を柔らかくたなびかせた。

 

「報告書を読んで、わたしだったらどうすれば花畑を抑えられるかずっと考えてた。ただ蹴っ飛ばせば済む話じゃねえ。結果から逆算する形になるが、まず渡我ってやつを離反させる必要がある。けどたぶんそれは、わたしには無理だ。あいつじゃないと」

「まあ、否定できない」

 

「令状不要の状況を作るにしても、花畑の気持ちに寄り添って一番ムカつく言葉を吐かなきゃならねぇ。選挙カーの上で、花畑が異能解放軍の理念をコケにされたとき手が出そうになってたから、そこから読み取ったんだと……まあ、渡我からの情報もあるんだろうが」

 物憂げな溜息で続ける。

「あいつより強いヒーローはごろごろいる。学校の訓練じゃあ同級生にも数え切れないほど負ける。けど、たとえビルボード級であっても、そいつらが今回の事態を根本から収拾できるかは怪しい。少なくともわたしには無理だ。認めるよ、ムカつくが、今回に限ってだが、弱いくせに生意気なあいつは誰よりも強かった」

 

 それはいい、それはいいが……とミッドナイトはちらとミルコを盗み見る。そっぽを向いており、表情は伺えない。

 おそるおそる、繊細なガラス細工に触れるように確認する。

 

「それってあんたよりも強い……って事?」

 

 返事は返ってこなかった。短く刺すように言う。

 

「教師ってこと忘れないでよ」

「辞めよっかなー、飽きたし」

「おい」

「冗談だよ。てかアレなに?」

 

 会話を無理やり打ち切るように指された先に視線をやると、自動工機がせわしくなく動いている。雄英の敷地内に大きな建物が出来るらしかった。

 

「ああ。あの子、拉致られちゃったでしょ? 士傑とも協議した結果なんだけど、防止策として全寮制になったのよ。その宿泊施設」

「寮っておまえ……まさか男女同じ棟なんてことは」

「同じだけど? まあ大丈夫でしょ」

 

 なんとなくミルコの危惧する事態を察するが、まっさかーないないといった感じでパタパタと手を振る。

 ミッドナイトとて教師。生徒は無駄に性欲の有り余る思春期のお年頃の子とはいえ、それ故に草食系というか、奥手というか、じぶんから行くことに臆病というか、仲良く出来たらいいなーくらいの雰囲気である事は掴んでいる。

 

 事実としてそうだ。

 よほどの切っ掛けが無い限りは健全な寮生活を送ることになる。もちろん、彼女らにとってそんな都合よくエッチなマンガにあるような事が起こるはずがない。大丈夫大丈夫。そうそう風紀が乱れる事などあってたまるか。

 

 少なくとも、彼のご両親はそう信じている。なんとなく最近になって息子が色気づいてきた気がするが、まあそういうお年頃なだけ。と、父親は楽観視している。

 母親は、黒地に淡い青の縫製のトランクスを見つけて少し不安。差し色がセクシーというか黒ってなんかエッチな気がするけど、え? 最近はそういうもの? わからん。

 

「……ふうん。そーかよ」

 

 言ってミルコは柵の上に立ち、んっ、と大きく伸びをした。

 

「あとこっちは自由意志だけど、教師の部屋も別棟にあるから住みたいなら手続きしてね……あんなこともあったしさ」

「わーかった。考えとく」

 

 少し触れにくい話題かと思ったが、口ぶりからは杞憂のようだ。

 しかし、あのミルコがそういった生徒の男女事に気を配るとは意外だった。なんだかんだで教師としての自覚が出てきたのかもしれない。

 そう考えると少しうれしい。

 

「けどありがとね。いろいろと参考になったわ、彼の評価。休日なのにわざわざ来て相談に乗ってくれるなんて」

「ん、まあな」

 

 なんとなく、ミルコの受け答えが鋭利というか妙な雰囲気に思えた。大きな耳がぴくぴくと動いている。これからトレーニングでもするつもりなのか、軽いストレッチまでしている。細い柵の上でやってのけるのはさすがのバランス感覚だ。

 

「どうかした?」

「いや、別に。じゃあわたしは野暮用あっから」

 

 それだけ言うと、ミルコはいそいそとひとっ跳びしていった。

 

 なんだ急に? 

 残されたミッドナイトは小首をかしげて、小さくなってゆく背を眺めながらコーヒーをすする。

 そういえば前もこんな事があったなと思い返す。

 注意してくるとかなんとか言っていたが、けっきょく詳しくは教えてくれなかった。

 

 ずずず、と半目して飲み干す。アヤシイ。

 

 そう思ったミッドナイトは、ミルコが跳んだ方向へと行ってみる事にした。

 

 

 

 全員怒られた。

 

 

 

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 すっかり秋の様相をみせた朝、雄英ヒーロー科の棟を歩く影が二人分あった。

 

「ほんとに一人でいいの?」

 とその内の一人、ミッドナイトが隣の少女に尋ねた。頷かれたので、多少不安であるが廊下で待っている事にした。まあ、彼がある程度の下準備を済ませているので心配は無いだろうと高を括る。

「じゃ、がんばってね」

 

「……はい」

 

 雄英の制服に身を包んだ少女は、意を決して1-Aの表が掲げられた教室に入る。十四人分の瞳がこちらを向いた。興味やわだかまりを滲ませている。

 教壇に立って固唾を飲み、静かな教室に少女は言った。

 

「ヒーロー協会から派遣された渡我 被身子です」

 

 その肩書きに教室はざわつく。

 

 供儀聖典の後始末として最も頭を悩ませたのは、渡我の処遇だった。

 彼女はヒーローや警察にとって替えの利かない貴重な情報源だ。なんせヴィラン連合と異能解放軍という二つの反社会的勢力の内情に詳しい唯一の人間。

 

 なにかしらのアクションが確認された場合、その対応策や傾向、推察に役立つ。それに保護しなければ、いずれは裏切り者として殺されるだろう。

 ヴィラン連合が彼女のスパイ活動に気付いているかは不明だが、解放軍は確実に供儀聖典に対する背信行為を認識しているはず。

 

 だから雄英が保護を買って出たのだ。ちょうど全寮制になったことだし、適したタイミング。

 問題はどの科に所属させるかという点だ。

 

 彼女の特異性と保護管理の観点から見れば少人数のヒーロー科が望ましい。学力や実技については、異能解放軍きっての優秀な潜入工作員として育てられただけあって文句の付け所は無い。

 だからといってそのままヒーロー科へ入学させるのは、入試で落ちた人間がいる手前好ましくない。

 そこで取った手段が、ヒーロー協会がいったん渡我を雇い入れ、そこから雄英への外部講師と長期研修を兼ねた編入だ。

 

 渡我には人の目を欺き気配を消す技術と相手の心に入り込む話術、詐術については今さら語る必要も無いが、突出した技能がある。それらを体系化して1-Aに教える事は今後の雄英にとっても得難い利益だ。

 

 なにも武力だけがヒーローに求められる資質ではない。現場ではヴィランを説得する機会もある。それで戦闘を避けられるなら越したことは無いし、騙す手段を知っていれば騙されるのを防げる。

 立場としてはミルコと同じだ。

 

 一方でヒーロー協会の社員として、後進育成の実情を知る為の社外研修という建前で、渡我にはヒーロー科のカリキュラムを受けさせる事となった。学費や生活費はヒーロー協会からの給金と奨学金で賄う事とし、体育祭などの目立つ行事は原則的に不参加となる。

 

「というわけで、よろしくお願いいたします」

 

 そう言われても1-Aの面々からすれば、彼を攫うよう指示した張本人である。心に小さくささくれだったものを覚えないでもなかった。

 ただ、すでに彼から事情を説明されているし本人が許しているなら外部があれこれと文句を言うのは筋違いだ。

 

 それに、ぺこりと下げられた頭には、でっかいたんこぶがついていた。ああ、ミルコ先生に怒られたんだな、と思うとまあいいかなーという気持ちにもなる。

 

「それでその、わたしはおかしなところがあってですね……」

 もじもじさせる指を眺めながら、渡我が言った。

「素敵だなって思った人の血を、どうしても飲んでみたくなるんです」

 

「その素敵な人ってどーゆーの?」

 と、誰かが手を上げて尋ねる。

 

「えっとあの、こう、ぼろぼろになっても構わない感じというか」

「ん」

「あ、いえリョナのように嗜虐的なものではなくてですね」

「サディスティック的な?」

「わたしが直接傷つけたいって訳でもなく、こう、ぼろぼろになるのは目に見える要素でしかないというか」

「そっちに感情移入する系?」

 

「でもなくて……傷ついて死に向かうって事は逆説的に生命の存在が暴かれるというか」

 いや、違う。と、渡我は内心で頭を振った。

 死に向かうのが美しいのではない。あの時の彼は脳裏に焼き付いている。四肢を拘束された状態でぼろぼろにされ、わたしに命を奪うアイテムを向けられた絶望的な状況でもなお、助けようとした姿。

「死に立ち向かう感じ、ですかね。ですね、そうです。それがとっても、素敵です。だからあの時のみなさんも、なんというか、素敵、でした」

 

 消え入りそうな声で言った後、へへへ、と自嘲ぎみに笑って頬を掻く。

「やっぱり、おかしいですよね」

 

「そりゃおかしいと思う」

 と誰かが一刀両断した。

 びくりと渡我の身体が震える。

「けど、まあ、大なり小なりそーいうおかしさは抱えてるもんでしょ、性癖っていうかさ」

 

「え」

 渡我は呟き、顔を上げる。

 

「そーそー、わたしはオイルマッサージ系と言うかローション物が好きだし」

 誰かは伏せるべきだが、一人が口調では平静を装いながら、しかし顔を赤くして宣言した。それ、体育祭のあれが切っ掛けなんじゃ……という視線を知らんぷりで乗り切っている。

 

「も、もちろん現実とは区別してるけど、最近は強漢ものをよく見てる。まあ、その辺は人それぞれって言うかさ」

 え、かわいそうなのでは入れられないって昔から言ってたじゃん、と親友が意外な顔をする。

 

「わたしはやっぱりHENTAIカートゥーンですねー」

「わたくしは王道のハーレム物ですわね」

 

 他にもじぶんの個性と絡めた感じのアレの告白大会になり、なんだか異様な雰囲気になった。

 お、おかしい。長年苦しんできた少女の苦しみの吐露だったはず。いや、1-Aはこれでいいのだ。探り合いも大事だが、腹を割ってエッチな話題で無理やり距離を縮めるのも時として有用なのだ。

 

「え、えっと、あの、じゃあ……」

「ま、いいよ。血くらいなら。けどあんま痛くしないでよ~」

「死に立ち向かう感じが素敵って言われたら、まあ否定できないかな」

 

 渡我の目は、涙でいっぱいになった。

 

「き、気持ち悪く、無いんですか」

「わたしはそう思いません。ただ、世間では気持ち悪いと言う人もいるのも事実。けれどそれは、先ほどわたしたちが言った性癖についても言える事ですので気にしなくてよろしいかと」

 

「あ、ありがとうございます。あの、わたし、血を吸った相手に『変身』出来るので、せめてなにか手伝えることがあったら何でも言ってください」

 

 大粒の涙を拭いながら聞き捨てならない情報を言い放った。

 その瞬間、八百万が抑揚のない声で彼に尋ねる。

 

「あの、あなたも渡我さんに血を吸われるという事は了承しているのですよね?」

「そうだよ」

 

 誰しも一度は、ハリポタのポリジュースとか、ポケモンのメタモンとか、ジョジョのサーフェスとかでエッチな活用法を妄想した事はある。わだかまりは一瞬で消えるだろう。渡我とは仲良くなれそうだった。

 

 そうですかとだけ返して、遅れて他の面々も、果たしてそれがどのラインまで許されるのだろうかを試算する。ちょっと肩を、いや胸を触るくらいならセーフか? 

 そんな悶々とした空気に気付かない彼が、渡我に言った。

 

「ね。おれの友達はみんな優しくて、頼りになって、強くて、尊敬できる素敵な人だって言ったとおりでしょ」

 

「ええ、信じて、勇気を出してよかったのです」

 大きく息を吸い、呼吸を整えて答える。胸の憂いが消え、今度は明るい表情を滲ませている。

「あと……それと、あなたもおかしいところがあると言ってましたよね」

 

 言われて彼は中学の屋上に拉致された時の事を思い出す。そうだったか。そうだった。

 

「それ、なんなんですか?」

「え? なにって……え」

 

 たじろぐ彼に、渡我はえっへんと胸を張る。

 

「わたしのおかしなところを受け入れてくれたのですから、わたしもあなたのおかしなところも全力で受けれます! ですので、さあ! お姉さんに何でも言ってみてください!!」

「お姉さん?」

「十七歳なので!」

 

 あ、そうなんだ。意外だね~。という話題で逃げられそうにはなかった。つい先ほどまで性癖暴露大会が開かれていたこともあって、教室はヤケクソの熱気が充満している。

 それに、知りたい。彼のおかしいところが性的嗜好とは限らないが、男性のそれは女性にとって神秘のベールに包まれた永遠の謎だ。

 

 諸説あるだろうが、男性が一段落した際に得られる快楽の度合いは女性のそれよりも低いらしい。そりゃあ汗かいて疲れるエッチな事をするハードルは高い、のかもしれない。

 だからこそ彼がどんな性癖なのか興味はある。

 

「そ、れは」

 

 と彼は口をまごつかせて、じぶんを見つめるクラスメートを見やった。当たり前だがまだ後を引く恥ずかしさで上気した顔をしている。

 ただ心のどこかしらで、まあ男性だし無理に言わなくてもいいよ、といった気遣いも混ざっていた。彼はその易き道を選びそうになって、戒める。

 みんなは渡我さんを受け入れる為に身を削ったのに、性差を理由に一人だけ逃げるわけにはいかない。それは友達として恥ずべき行為に違いなかった。

 

 彼は静かに息を整え、口を開いた。そうして告白する。

 ずっと、じぶんでも不思議だった。みんなとは違う事に不安だった、違う事が嫌だった。コンプレックスだった。やがて生まれ持ったどうしようもないサガだと諦めもした、おかしいところ。

 

 そして、思春期で無駄に性欲があり余る多感なお年頃の子の熱情に満ちた教室に響く。

 

 おれはおかしい、から始まる独白が。

 

 

 

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 男女比率がおかしい貞操観念逆転アカデミアだけど強く生きよう 完

 

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【挿絵表示】

 

 

 

 

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 全寮制になってしばらく経ち、そろそろインターンが始まる頃。

 彼が渡我に約束した、おかしいところを受け入れてくれる人たちを見つけるのを手伝い、満足のいく人数が集まったらじぶんの血を吸っていい、という要件は満たされた。

 1-Aの面々は健全に渡我に協力している。うち何人かはギブアンドテイクの関係にあるかもだが、彼の知るところではない。

 

 とにかくそのようなわけで、あの時中学校で交わした言葉が、彼の寮室で果たされようとしていた。

 音が聞こえるほど大きく、渡我は固唾を飲んだ。興奮で身体が熱くなるのがわかる。そもそも異性の部屋に入ったのは初めてだ。ついついきょろきょろと見回してしまう。きちんと整頓されており、清潔感があった。

 

「採血の道具とか無いみたいだけど、やっぱり直接吸うの?」

「あっ、う。はい。できれば……やっぱり嫌ですか」

「いや別に。注射はちょっと苦手だからそっちの方がいいかも」

「あ、それならよかったです」

 

 渡我はポケットの中の小さな両刃カミソリと絆創膏、携帯消毒液を取り出そうとした。カミソリは個別包装されているもので、クラスメートにはこれで指先等を切ってもらいしゃぶっている。

 

「じゃあちょっと待ってね」

 彼がおもむろにシャツのボタンを一つ二つ外し、首筋をあらわにする。身長差があるのでベッドに腰掛けた。くぼんだ鎖骨がなんともエッチだった。

「はい、いいよ」

 

 渡我は絆創膏をぽとりと落として固まった。

 え? 直でいいんですか? そんな事ある? これ現実? 

 信じられない状況に頭の中は混乱が渦巻いた。ひょっとしてわたしのこと好き? じゃなきゃ男の子が素肌を晒して直飲みなんてある訳ないですし。もう夫婦の営みのやつなのでは? 

 

 ひょっとしてこれは、あの時タイミング悪くミッドナイトが「もう済んだ~?」と教室に入ったせいで聞けなかった、彼のおかしなところと関係があるのだろうか。

 いや、そんなこと今はどうでもいい。

 

 誘蛾灯に吸い寄せられるように、ふらりふらりと脚を運ぶ。残った理性が、身体を極力くっつけずに首元へと口を持って行く。なんでこんな男の子っていい匂いがするんだろう。

 

 熱い吐息が彼の首にかかる。はぷりと噛みつき、入念に舌を皮膚に這わせた。何とも言えない妖艶な味が脳を侵した。

 

 そこからの記憶は無かったが、気づけば彼に対面から乗りかかり、逃げられないように腰に脚を回して頭を抱き、鋭い犬歯を首筋に突き立てていた。

 得も言われぬ酸い鉄の味が舌の上に広がっている。汗と血の香りが倒錯的だった。一滴も逃さぬように舌で舐め回しながら音を立てて啜り、傷口を見たくて口を離した。唾液と血が入り交ざった体液が糸を引く。

 

 すると「あ、終わったー?」と背後から声が聞こえた。

 覚えの無い女性の声に、思わず飛び退く。

 

「え!? 誰ですか!!」

 

 そこには彼の勉強机の椅子で脚を組み、興味深そうにこちらを見やっている一人の雄英ヒーロー科の三年生、波動ねじれがいた。

 

「ごめんねー、邪魔しちゃって。でもちょーっと長かったし、見てみたかったから無理言って入っちゃった」

 

 渡我は彼に視線をやり説明を求めるが、彼が口を開くより早くそれを無視して波動が言った。

 

「ねえねえ、聞いたよ。面白い個性使うんだってね~」

 

 え? え? と彼と波動を交互に見やる。

 

 彼の首筋にある渡我が作った割れ目から、とろりした事後の赤い液体が溢れ出る。

 なぜだか渡我にはそれが、このモンスターとの邂逅がもたらす淫靡なこの後を予感させるようでならなかった。

 

 

 




無し 
【挿絵表示】


後半は貞操観念逆転要素が少なくなり、ジャンル物としてのエンタメ性を裏切っているようで書くのが心苦しかったです。
たぶん、タイトルと違うじゃん、ってなった人も多いと思いますが、その点は申し訳ないないなあって感じです。ごめんね。

反応とか様子見て忘れた頃におまけ編か続きかわかんないヤツをぽつぽつとやるかもですけど、第一部ラストのフックにケリ付けてオチたって事でよろしくお願いします。
対戦ありがとうございました。
完結です。


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