ウィザード・ディテクティブ~魔術探偵ホタル (天木武)
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Episode 0 ブルースカイ・アクア
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Episode 0 ブルースカイ・アクア

 

 

 

 1人の青年が、都会の街中を歩いていた。ひ弱、とまではいかなくとも線が細く、大きな目と男性でありながらさらりとした黒の短髪が目に付く。手にした携帯と周囲を見比べながら歩いていた青年は、大通りからは外れた路地で目的であろう建物を見つけると足を止め、案内用の看板へと目を移した。

 

『人探しから物探し、浮気調査にその他厄介ごとまで! 御法に触れなきゃ報酬次第でなんでもござれ! 女性も安心のファイアフライ魔術探偵所は当ビル2階!』

 

 ネットで事前に調べた時にも見かけた独特な売り文句に、少し前に電話をかけた建物はここに間違いないと確信する。その案内にある通り、ビルの中へ入って2階へと昇っていく。

 目的のフロアの扉の脇には、確かに「ファイアフライ魔術探偵所」と看板があった。さらに「営業中・お気軽にお入りください」とのプレートもかけてある。青年はその指示に従って扉を開けた。

 扉にかかっていた来客を知らせるためであろう鈴が音を鳴らす。その音に気づいたか、事務所内の椅子に座っていた女性は視線を入り口へと移し、立ち上がって一礼した。

 

「いらっしゃいませ。小田(おだ)さん、ですね?」

「はい。先ほど電話をした小田です」

 

 出迎えた女性は、水色を基調としたワンピース風の服装だった。そこから黒のパンプスとストッキングに包まれた脚が覗き、上に目を移せば艶やかで流れるような長い黒の髪が目を引く。加えて、メタルフレームの眼鏡の奥にあるクールな眼差しの瞳が、「仕事の出来る女」という印象を醸し出していた。

 

「お待ちしておりました。今お飲み物をご用意しますので、そちらにかけてお待ちいただけますか?」

 

 一見すると少しきつそうとも取れる印象ではあったが、それでも女性は相手に緊張を与えない程度に笑顔を作り、手で椅子の方へと促した。小田と名乗った青年は礼を述べ、椅子へと腰掛ける。

 事務所の中はこざっぱりとしていた。応接用の机と椅子がワンセット、パソコンのある作業用と思われる机がひとつ。その他は資料やら参考文献が入った本棚がある程度で、彼女の趣味であろうか、その棚の上に置いてある数多くの砂時計がようやくインテリアとしての役割を担っていた。

 ややあって、女性はコーヒーを客の前へと差し出した。自分の席にも置き、前もって用意しておいたであろう名刺を手に取って手渡す。

 

「では、改めまして……。本日は、当事務所をご訪問いただきありがとうございます。私こういう者です」

 

 そこには「ファイアフライ魔術探偵所所長」という肩書きや連絡先などと共に、彼女の名前が記されていた。

 

穂樽夏菜(ほたるなつな)さん……」

 

 自分の名を呼ばれると、女所長はどこか恥ずかしそうな表情を浮かべた笑みを返す。

 

「所長、なんて肩書きですけど。他に働いてる人がいないんでそう名乗っているだけなんですよね」

 

 相手の緊張をほぐそうかとそうかけた言葉だったが、彼の表情は硬いまま。どうやら効果薄だったらしい。なら早く話を進めたほうがいいかと、穂樽は咳払いをひとつ挟むと表情を引き締めてメモ帳とペンを手にし、仕事の話題を切り出した。

 

「……では早速ですが、ご依頼のお話に移らせていただきます。お電話を頂いた時は人を探している、という話だったかと思いますが」

「そうです。ずっと会っていない、かつての……恋人を探しています」

「恋人……ですか。その方に最後に会ったのは、また、会えなくなった理由がありましたら、事情を説明してもらってもいいですか?」

「はい。最後に会ったのは……9年前です。俺が小学校6年生の時、彼女は同級生でした。ですが、俺はある事情で急な転校となったために、最後の挨拶も出来ずに別れてしまった。以降、連絡は取っていません。当時の彼女は携帯も持っておらず、その時の連絡先にもいないみたいです。その他の連絡先は知らなかったので」

「では今どの辺りに住んでいるのか大まかな情報もわからない、と」

「そうなります」

 

 メモを取りつつ穂樽は少し難しい表情を浮かべていた。場所を絞り込めないのは厳しい。小学6年の時から9年という歳月は長く、名前だけで探せるか少々不安ではあった。

 

「探していただきたい方の名前、あと可能なら写真か画像などありますか?」

「持って来てます。ただ、小学生の時の写真なんであまり手がかりにはならないかもしれませんが……」

「何か特徴があれば参考になりますので」

 

 特徴か、と独り言のように呟きつつ、彼は荷物の中へと手を入れて探し物を始めた様子だった。

 

「確かハーフだったはずです、両親が日本人とカナダ人だったかな。ああ、あと俺もあの子も、名前は特徴的でしたけど」

「小田さんのお名前、『アクア(・・・)』さんでしたっけ?」

「そうです、アクアです。『青空』と書いて『あくあ』と読むんですよ。珍しいでしょう?」

 

 取っていたメモのところに「小田青空」と名前を書きつつ、何故青空なのにアクアなのだろうか、と彼女はふと思う。だが失礼に当たるかもしれないと、その質問は飲み込むことにした。

 

「写真、これです。探してほしいのはこの子です」

 

 差し出された写真を覗き込む。そこで青空が指差した少女の姿を見て――思わず穂樽は言葉を失った。青空と共に写りこんだ、額に独特なピースサインを作るその少女。9年前という知っている姿からはかなり幼かったとはいえ、穂樽はその彼女を見間違えるはずがなかった。

 

「彼女の名はセシル(・・・)……。須藤聖知(すどうせしる)です」

 

 

 

 

 

「かつての恋人……か……」

 

 事務所の奥。依頼人との話を終えて帰した後、居住空間として分けてある部屋のソファに寝そべり、穂樽は預かった写真をしげしげと見つめていた。

 穂樽自身もある程度は知っている話ではあった。そのため、話を聞けば聞くほど、青空(あくあ)の言い分は彼女を納得させるのに十分なものだった。

 小田青空。彼が探してほしいと依頼してきた須藤セシルは穂樽同様の「ウド」と呼ばれる魔術使いであり、その魔術使いを弁護する弁護士ならぬ弁魔士である。同時に、穂樽にとっては以前の同期でもあった。

 そのセシルの母、娘同様ウドである須藤芽美(めぐみ)が、かつて娘と自身を守るために正当防衛で魔術を使って人を殺めてしまったという事件があった。その時命を落としたのが青空の父で当時警部だった小田京介(きょうすけ)。その結果、加害者の娘と被害者の息子という関係となった2人は、良好な関係であった仲を引き裂かれざるを得ない状況となった。そんな事情があっては、青空がセシルと会えなくなるのも納得だと考えられる。その時2人は互いをどう思っていたか、穂樽には想像でしか補うことは出来ない。

 だが、ここ最近、その芽美の正当防衛が認められ再審請求が通るかもしれないということにより状況が変わる可能性があるという情報を知り、またセシルに会いたいという気持ちが芽生えたらしい。加えて、父の死の真相を、何故そのような事態となってしまったのかを知りたいということだった。

 

 一応その件はセシルを通して穂樽も聞いている。逃亡した連続殺人犯を京介が追っている際、セシルと芽美が人質となってしまうが、魔術使い――ウドへの偏見のある京介は「魔術使いが死のうが関係ない」と犯人の警告を無視し発砲。結果犯人の無力化に成功するものの、銃撃戦の際にセシルを誤射してしまう。彼は自分のミスが表沙汰にならないよう、口封じのために親子2人とも殺そうとしたために、そこで芽美が魔術を行使して京介を殺めてしまった、という話を芽美から聞いたとセシルは話してくれた。

 だが世間一般の情報は錯綜している。ウドは、魔術を使えない人間から見れば異端の存在、その力は脅威であるとも見られる。故に魔術使用を狭く制限される「魔禁法」という法が存在するし、裁判も一審制だ。ウドが肩身の狭いを思いを強いられるこの状況のせいで芽美は控訴も何も出来ず死刑が確定してしまった、という背景はある。そんな彼女の判決が覆るかもしれないということは多少の話題にはなりつつも、同時に対象がウドということで偏向気味な報道もあり、一般人には明確にはわからないのが現状だ。

 

 寝転がり写真を変わらず見つめつつ、穂樽は机の上にある白地に緑のラインの入った箱を開ける。そして煙草を1本取り出して口に咥えた。

 

「ニャ。穂樽様、寝煙草は危ないニャン」

 

 その様子を見咎めたのか、穂樽の使い魔である猫のニャニャイーが横から口を挟んできた。

 

「わかってるわよ、そのぐらい。咥えるだけよ」

「というか、その前に煙草自体やめてほしいニャ。体に毒ニャ」

「余計なお世話。習慣なんだからしょうがないでしょ」

 

 1年前、穂樽は弁魔士と別なアプローチでウドの力になりたいと、かつての職場であったバタフライ法律事務所、通称バタ法の面々と相談し、バタ法を抜けてこの事務所を立ち上げた。弁魔士という職業は確かに世間で冷たい目で見られることが多いウドの助けになる。しかし、魔術関連事案を裁く法廷である魔法廷での案件が前提となるため、どうしても受け入れる間口は小さくなってしまう。もっと多くのウドを助けたい、そう思った穂樽はウドも訪れやすい「魔術」という文言を入れ、よりフットワークの軽快な探偵業に着目した。元々穂樽自身、個人で動きたがる傾向も意識しており、合っていると思ったのだった。

 3年前から2年間をともに過ごした仲間は皆納得して送り出してくれたし、今も関係は悪くない。「ファイアフライ魔術探偵所」という名前をはじめとして、ビル入り口の看板やネット上のサイトにある独特な売り文句は、当時の同僚が考えてくれたものだった。加えて提携もしており、裁判証拠の収集などに穂樽が動くこともあるし、自分の手に負えない案件のときは弁護を頼むということもある。どうしても以前の職場に頼りがちになってしまっていることは否めないが、基本的に今の環境に不満はない。

 

 とはいえ、いいことばかりでもない。まず、基本的にはストレスとの戦いだ。浮気調査や素行調査のようなものの場合、尾行を含む長時間の張り込みなどを強いられることもある。そこで気分転換に煙草を試したところ、意外なほど心が落ち着いた気がしたために、以降ニャニャイーに文句を言われても手放せないものとなっていた。

 また、弁魔士時代からもある程度はそうだったが、パソコンに向かい合う時間がより増えたために視力も落ちた。当初はコンタクトを使用していたが、つけるのが面倒と今では眼鏡に切り替えている。

 結果、仕事優先で若干ずぼらになってしまったことは否めない。かつては妻のいる大学教授に惚れ、危なく不倫まがいの恋愛をしかけたこともある。まだそれを引き摺っていることを自覚してはいるが、今思えば若気の至りだったと思うし、そんな自分を戒める意味も込めて男事情から距離を置いていた。

 

「まったく、私の自慢のご主人様である穂樽様はどうしてこうなってしまったのかニャ……。女子力が高いんじゃなかったのかニャ?」

「高いわよ。色々出来るけどやらないだけ」

「それもなんだか最近じゃ胡散臭いニャ。……あと煙草臭いニャ」

「うるさい。まだ吸ってない。考えごとしてるんだからちょっと黙ってなさい」

 

 眼鏡のレンズ越しに鋭い視線で使い魔を睨み付けつつ問答無用で黙らせ、穂樽はどうしたものかと考えていた。

 

 当然、探すまでもなく相手は見つかっているも同然だ。穂樽はセシルの携帯番号も知っているし、時折顔を合わせてもいる。今電話をかけて「今日の夜食事にでも行かない?」と誘えば、あっさり「見つかる」ことだろう。

 

 だが、穂樽はすぐにそうしようという気にはならなかった。結果、自分とセシルの接点を伏せ、普通に依頼を受けている。

 勿論理由はある。まず、写真を見て女の子がセシルとわかったところで、穂樽は以前セシルの実家を訪ねたときに見せてもらった、「初恋の人」と写った幼い彼女の写真を思い出していた。その時点で自分との接点を意図的に伏せた。

 あの時のセシルは複雑そうな表情をしていたはずと記憶していたために、何かがあったことは彼女の様子から想像するに難しくなかった。だからまず青空から事情を聞き、その「何か」をはっきりとさせた。それがわかった上で、やはりセシルのことを考えると自分との関係を伏せたまま、セシルの本心を聞いてから対処を考えたいと思ったのだ。

 

 確かに青空はセシルに会うことを望んでいる。しかし、セシルはどうだろうか。絶対に嫌、ということはないだろうが、心の整理をしたほうがいいかもしれない。5歳差という年齢でありながら同期として、時にはライバルとして穂樽と一緒にバタ法で働いた彼女は、かつての「恋人」と会うことをどう思っているのだろうか。

 

「……私もちょっと過保護、かな」

 

 バタ法の面々の癖がうつったかもしれない、と体を起こしつつ穂樽はぼやく。史上最年少弁魔士、バタ法に務め始めた当初のセシルは17歳という年齢と、加えて穂樽も含めた事務所の面々が巻き込まれた事件の関係もあり、皆何かと世話を焼いていた。そのせいかもしれないという感覚は否めない。

 ライターを手にし、咥えたままだった煙草に火を灯す。考えはまとまらない。煙を吐き出し、「さて、どうしたものかしらね」と独り言をこぼしていた。

 

「ニャにを迷ってるニャ? 依頼を受けたんだし、あとはセシルの日程調節するなり番号教えるなりすれば解決ニャ。楽して大もうけニャ」

「……言っておくけど今回の件を受けた理由、お金目的じゃないわよ」

「ニャ? じゃあニャンでニャ?」

「私が迷っているのは……セシルに小田青空の存在を伝えていいものか、あの子は彼に会うことを望むのかということよ。セシルは死刑判決を受けた母親の再審請求、ひいては無罪を勝ち取るためだけに青春の全てを投げ打って、17歳という若さで弁魔士になった。そしてついに事件の真相に触れ、再審請求にまでこぎつけた。

 でも小田の側から見たら? たとえ正当防衛が認められて無罪になったとしても、セシルの母が彼の父を殺してしまったという事実は変わらない。セシルだってそのことは当然わかっているはず」

「だったら断ればよかったのニャ。話がめんどくさいニャン。……あと煙草臭いニャ」

「うっさい」

 

 ニャニャイーの抗議を無視し、穂樽は再び煙草を燻らせる。

 どうすべきか。1人で考えていても埒は明かない。やはりセシルに話を通すところから始めなければならないだろう。少なくとも仕事として受けている以上、依頼主には最低限の筋の通った結果を残す義務があるのだから。

 それで話をして、本人が会うことを望めば日程を調整して双方の連絡役になればいい。望まない場合、他の依頼の時と同様に「元気ではあるが会うことを望んでいない」と伝えるのが妥当だろう。

 

 とにかくセシルに話して気持ちを確認するのが最優先だとまとめ、穂樽は煙草を灰皿に押し付けて火を揉み消した。それから携帯を手にして電話帳を呼び出し、だがそこで一瞬手が止まった。

 

「……きっと大丈夫。あの子は、もっと重いものを背負い、それでも前へと進んできたのだから」

 

 穂樽は自分自身にそう呟いて言い聞かせ、通話ボタンをタップした。数度の呼び出し音の後、聞き慣れた明るい声が携帯電話越しに聞こえてきた。

 

 

 

 

 

 多少以前よりガサツになった、と穂樽自身自覚してはいる。だがそれでも根は堅物の生真面目だ。待ち合わせをすれば約束の10分前、遅くとも5分前には待ち合わせ場所に着くよう常に心がけている。

 それに引き換え、と彼女は腕時計へと目を移した。既に約束の時間からは10分過ぎている。職業柄、いつ建物から出てくるかわからない相手を張り込むこともあるため、待つこと自体は苦ではない。とはいえ、約束時間から遅れるというのはやはり感心できたことではないとも思う。

 気を紛らわすために一服したいところではあった。が、分煙を越えて嫌煙ともいえる時代の波によって、街中の喫煙スペースはかなり限られている。ここで吸うことは勿論、視界の中に喫煙スペースは見当たらない。そのことが余計に心を苛立たせるようにも感じ、ごまかすためにほぼ無意識のうちに携帯を手にいじり始めていた。連絡してもいいが、まだ10分。さすがにもう少しは我慢するか、と適当にニュースサイトでも見ようとした、その時。

 

「ごめーん! 駐輪場が見つからなくて……。なっち、待った!?」

 

 数時間前にも聞いた、耳に馴染んだ底抜けな明るい声に、穂樽はため息をこぼし、携帯の操作をやめた。声の主を確認するまでもない。顔を上げると同時、返事代わりに彼女は口を開く。

 

「遅い。10分遅刻よ」

「うわ、めちゃ怒ってる……」

 

 以前から変わらない、どこかのアイドルかあるいはコスプレかと思うようなかわいらしい服装。本人曰く「戦闘服」に身を包み、須藤セシルは申し訳なさそうな表情を浮かべて穂樽へと駆け寄った。駐輪場、と言ったことからも愛用のミニバイクで近くまで来たのだろう、手にはヘルメットと、カバンからはカエルの使い魔であるナナジーニィが顔を出している。

 

「だから言ったじゃないの、私がバタ法まで行こうか、って。忙しいなら私の提案受けなさい」

「だって……。なっちが折角食事に誘ってくれたし、2人きりでなんてこと滅多にない気がしたから、気を使わせちゃ悪いかなとか思って……」

「誘ってるのはこっちなんだから、そういう時は余計な気は使わなくていいの。それに遅刻されるぐらいなら私が出向く方がマシだったわ」

「まったく穂樽は相変わらず不機嫌だボン。そんなに怒ってると頭の血管が切れるボーン」

「うるさいわね、エロガエル。……こいついるならニャニャイー連れてきて相手させるんだったわ」

「ボボーン! あの猫はどうしても苦手だボーン!」

「まあどの道、食事中は黙っててもらうからいいけど」

 

 相変わらずのナナジーニィの様子に、思わず穂樽は小さく笑顔をこぼした。それを見ていたセシルも小さく笑う。

 

「……よかった、なっちの機嫌が直った」

「直ってない。それとこれとは話が別よ。……でもまあいいわ。立ち話もなんだし、いつまでもここで話してると予約の時間に遅れるかもしれないから行きましょう」

 

 先導して穂樽は歩き出した。慌ててセシルがそこに続く。

 

「予約してくれてたの? ごめんね、それなのに遅れちゃって」

「大丈夫よ。そこまで見越して待ち合わせの20分後に予約してあるから」

「すごーい! セシルの行動を予測してるなんて、なっちはさすが探偵さんだね」

「……皮肉のつもりだったんだけど。あと探偵っていっても、イメージしてるものとは違うって前に説明しなかった?」

 

 どうにもペースが乱されている、と穂樽は感じていた。やはり底抜けに明るいセシルと自分の性格は本来合わないはずなのだろうと改めて実感する。

 出会って最初の頃は史上最年少弁魔士とはいえ、中身はただの子供と思い冷たく接していた。しかし彼女が背負っているものの重みや表に出さない悩みなどを知り、次第に心を通わせていくに連れて、年の差を越えた友情のようなものを感じるようになっていった。

 だがいくら心を許した仲、さらには今年成人式を迎える年齢とはいえ、まだまだセシルは子供っぽいところが多いのも事実だ。そういうところで振り回され、気づけば彼女のペースに引きこまれていたということも少なくない。今日はそれはまずい。食事はあくまで口実、本当の目的は別にある、と穂樽は自分に言い聞かせる。

 

 予約していたレストランは歩いてすぐだった。予約時間にはまだ少し早かったが、店側は2人を席へと案内してくれた。

 席に着き、メニュー表を開いて「うわあ」とセシルが声をこぼすのがわかった。穂樽自身それなりの値段の店を選んだつもりだったし、そういう反応が出るのはある意味予想の範囲内ではある。

 

「結構するね……」

「やっぱりこういうところあんまり入ったことないのね」

「高そうなところは避けてるから。……どうしよう、今日持ち合わせあんまりないかも」

「私の奢りでいわよ。呼び出したのはこっちなんだから」

「え? でも……本当にいいの?」

「いいのよ。そういう時は素直に年上にたかっておきなさい」

「ありがとう、なっち!」

「それに……本題は食事と違うところにあるから」

 

 最後はセシルに聞こえるかどうかという声量で穂樽は呟いていた。結局食事を口実に、食事代を持つということで呼び出してしまったことを帳消しにしようとしている自分に気づき、若干の罪悪感を覚える。どう言い繕おうと、公私を混同していると指摘されれば否定し切れないかもしれない。

 そんな苦い気持ちが表情に出ているという自覚はあった。それ故、穂樽は今表情を覗き込んで来たセシルに対して必要以上に動揺してしまった。心の中を見透かされたようで少し気まずさを覚える。

 

「な、何?」

「なっち、眼鏡もいいなあと思って」

「は?」

 

 予想と全く異なる答えに、思わず穂樽は間の抜けた声を上げる。確かに眼鏡をかけ始めたのはバタ法を抜けて今の事務所を立ち上げてからだ。セシルからすれば見慣れていないということはわかるが、あまりに突拍子がない。

 

「バタフライの何でも屋受付嬢の抜田(ばった)さんっぽいなあって。出来る女、みたいで似合ってるよ」

「何よそれ。……まあいいわ」

 

 ひとまず本題を話し始める前にオーダーを済ませ、その待ち時間を利用した方がいいと、穂樽は注文を決めるようにセシルへと促した。あれこれと迷いつつも、セシルは食事代を出してもらうということで多少は遠慮したのだろう。メニューの中ではさほど値の張らない料理を注文していた。

 

 メニューを下げてもらい、さて、と穂樽は心を落ちつける。ここからが本題。だが、その前にまずは世間話をしたがってしょうがないであろう目の前の相手を止めるのが先だ。事実、セシルは今すぐにでも話をしたいと目を輝かせている。ペースを握られないよう、先手を打って穂樽は彼女を制するように目の前に手をかざした。

 

「え? 何?」

「色々話したい気持ちはわかるわ。だけど……あなたを呼んだ本当の理由は、どうしても聞いてもらいたいことがあったからなの」

「セシルに聞いてもらいたいこと……?」

 

 首を傾げながらセシルは尋ねる。その問いに答える代わりに、穂樽はカバンの中から1枚の写真を取り出した。

 

「今日うちにある依頼人が来たの。彼は9年前に別れて以来、ずっと会っていないこの写真の女の子を探してほしいと頼んできた」

 

 穂樽は手にした写真を差し出す。その写真を見ると同時、セシルの目が大きく見開かれ、「Unbelievable……」と反射的に英語が口を衝いて出ていた。

 

「言わなくてもわかるわね。探してほしいと言われたこの少女の名は須藤セシル……他ならぬあなたよ。そして依頼人はあなたと一緒に写っているこの男の子……」

「小田……青空君……」

 

 写真に目を落とし言葉を失うセシルの反応を見て、穂樽は自分の予想が正しかったことを知る。彼女は普段の笑顔からかけ離れ、驚きや困惑と言ったよう表情が入り混じって浮かんでいるようだった。しばし続いた沈黙を嫌うように、穂樽は口を開く。

 

「彼……小田さんがあなたと別れてからのこと、少しならわかるわ。知りたい?」

 

 表情を変えず、やや間があってからセシルはゆっくり首を縦に振る。

 

「彼の父……小田京介の死後、離婚していた母に引き取られたところまではあなたも知っていると思う。それから彼が中学2年の時に母は再婚。相手は医者だったそうよ。結果、小田さんも医師の道を目指すことになる。その後、高校は進学校へ進み、1年の浪人期間を経て医学部に合格、現在20歳の大学1年生で都内で1人暮らし。親元を離れたことを機に、あなたのことを探したいと依頼してきた。……大まかにはこんなところ」

 

 穂樽の説明を聞き終えても、セシルは写真から目を離さず、見つめ続けたまま何かを考えているようだった。自分が一方的に話すのも気が引けたが、返事を促そうという気にもなれず、穂樽はさらに続ける。

 

「最初に言ったとおり、小田さんはあなたを探してもらいたいと私のところに来た。同じウドなら見つけやすいかもしれないと思ったからだそうよ。そしてあなたを見つけた後は、可能なら会って話をしたいと言っていた」

「何を……話したいの……?」

 

 ようやく、搾り出すようにセシルは呟いた。

 

「彼、しばらく前のあなたのお母さん……芽美さんの再審請求が通るかもしれないという件をニュースで知ったそうよ。でも、法曹界の間ではかなりの話題になっていることでも、世間一般から見れば少し珍しいニュース、としか取り上げられない。加えて、様々な情報が飛び交ってどれが正しいかもわからない。だから、あなたの口からわかることを聞きたい、と言っていたわ」

「でも……。どんな顔をして青空君に会えばいいの? 確かに正当防衛が認められてママの再審請求が通りそうなのは事実だし、ママの証言もセシルは信じてる。あの時ママが助けてくれなかったら、セシルもママも命を落としてしまったかもしれない。だけどいくらそう言っても……ママが青空君のお父さんの命を奪ってしまったという事実は変わらないよ……」

「セシル……」

「私が初めてバタフライで弁護をして無罪を勝ち取った時、ハチミツさんに言われたことがあった。『無罪かもしれないが、無実ではない』って。……こういうことなんだと、思う」

 

 やはりセシル自身そのことに気づいていたと、同時に返す言葉も見つからないと穂樽は黙り込んだ。加害者の娘と被害者の息子、その事実は揺らぐことはない。

 

「ねえ、なっち……。セシルは、どうしたらいいのかな……」

「それは私が口を出すことじゃないわ。あなたが決めることよ。……あなたは彼に会いたくないの? カナダにあったあなたの実家に行ったとき、部屋で見つけた写真に写っていた『初恋の人』って、彼のことだと記憶してるけど」

「よく覚えてるね。そう、青空君だよ。だから、会いたい気持ちがないわけじゃない。だけど……やっぱり怖いしわからないの。ママの証言を話しても、拒絶されたらどうしよう、とか。青空君のお父さんはセシルとママの命を奪おうとしてたかもしれないとか、そんなのは『知らないほうが幸せなこともある』って思うと、その方がいいんじゃないか、とか……」

 

 うな垂れるセシルに対し、穂樽は宙を仰いだ。普段は持ち前の明るさで突っ走るような彼女が目の前でしょげられていると、どうも調子が狂う。こんなセシルはセシルらしくない。そう思い、穂樽は口を開いた。

 

「……Post nubila Phoebus(ポスト・ヌービラ・ポエブス)

 

 突然告げられた馴染みの無い言語の言葉に、セシルは首を傾げる。

 

「スペイン語?」

「ラテン語よ。雲の後ろに太陽は輝く。転じて、太陽という存在を疑いようのない真実、雲はそれを覆う闇と考えれば、どんなに闇があろうとも真実はその奥で常に輝いている、という意味ともとれる。

 ……セシル、あなたはかつて弁魔士として己の正義を信じて、闇の奥に隠れる光り輝く真実を掴み取った。少し大仰かもしれないけど、小田さんもまた、自分の父のことについて真実を知ることを望んでいると言えるんじゃないかしら。確かに知らないほうが幸せなこともあるかもしれないし、真実とは時に残酷だとも思う。でも、彼はそれを受け入れ、乗り越えようとしている。そしてあなたにまた会うことを望んでいる。それだけは、きっと確かだと思うの」

「なっち……」

 

 セシルは目に涙を浮かべていた。どうにもその様子にばつの悪さを覚え、穂樽は目をそらして少し乱暴に付け加える。

 

「だ、だからさっさと決めなさいってこと! あなたの選択で私も先方にどう対処するかが変わってくるんだから、決めてくれないと困るのよ」

「うん……。やっぱり、少し怖いけど……。セシル、青空君に会うよ」

「……いいのね?」

 

 穂樽の問いに、セシルはゆっくり頷いた。涙を拭い、ぎこちないながらも笑顔を浮かべる。

 

「青空君がそれを望んでる……。何より、私も会いたいから。……ママのしたことを許してほしいとは言わない。でも、青空君が真相を知りたいと言うのなら、それを伝えるのも弁魔士としてのセシルのすべきことだと思うから」

「……そう。わかった。じゃあ彼の方には私から連絡しておくわ。この先2週間分ぐらいで都合のいい日時を後で、出来るだけ早くメールで送って頂戴」

「うん。……ありがとう、なっち」

「べ、別に……。私は仕事を済ませただけだから」

「そうかもしれないけど……ありがと」

 

 改めてそう言われるとどうしても照れくささを覚える。穂樽は誤魔化すように視線を逸らしつつ水を一口呷った。

 

 そこでタイミングよく料理が運ばれてきた。どうにか自分の用件はひとまず済んだ。あとは話したいことがたくさんあるであろうセシルの話題に合わせてあげようと、夕食を前に穂樽は思ったのだった。

 

 

 

 

 

 セシルとの食事から数日後。日が落ちつつあった時間に、穂樽はバタ法近くの公園にいた。

 あの後、穂樽は青空に連絡を取り、セシルも会うことを了承してくれたと伝えると同時に、最初から接点がありつつも伏せて依頼を受けたことを告白し、そのことに対して謝罪していた。だが青空はそれを特に責めようとはしなかった。

 

『彼女と連絡を取って、俺と会うという約束を取り付けてくれただけでも十分感謝してます。だから別に怒ってはいませんよ。ただ、さすがに元同僚ということまでは予想できませんでしたけど』

 

 そう言った電話口の青空の声からは怒りや懐疑といった色はなく、むしろ笑っているようだった。騙してしまったようでどこか申し訳なく思う穂樽だったが、当の青空はまったく気にしていない様子で、次第に彼女も深く考えなくていいかと思うようになっていた。

 

 穂樽は時計を見る。予定時刻の10分前。まずはセシルと合流し、少し離れたところで待ち合わせている青空のところへと連れて行くという流れだ。今日ぐらいは時間に遅れず来てほしいと思いつつ腕時計から目を戻したところで、セシルが自分の方へと歩いてくるのが見えた。その表情は硬い。緊張している様子が手に取るようにわかる。

 

「今日は遅刻せずに来たわね」

「うん……。あんまり仕事が手につかなくて。アゲハさんが大切な用事があるなら今日はもういいから、って」

 

 バタ法の「ボス弁」であるアゲハの名前を聞いて、やはりあそこの面々はセシルに甘いなと、穂樽は改めて思う。とはいえ、自分もなんだかんだで相談には乗ってもらい、今の状況になっているのは事実だ。誰かに甘いというわけではなく、人がいいだけなのだろうと思いなおすことにした。

 

「時間までまだ少し早いけど、ゆっくり歩けば丁度いいぐらいかもね。行ってみる?」

 

 セシルは頷く。先導しつつも彼女のペースに合わせ、穂樽はゆっくりと歩き始めた。

 

「彼のところまで行ったら、私はそこの喫煙スペースに戻ってきてるから」

「え……。一緒にいてくれるんじゃないの?」

「お邪魔虫でしょ。かつての恋人同士、そんなあなた達が惚気てるところ見せられても嬉しくもないわよ。一応待ってはいるけど、彼といい感じになったら、私置いて彼と帰っていいから」

 

 穂樽としては冗談を含めて、セシルの緊張を少しでもほぐそうとおどけて言ったつもりだった。だが今の彼女には冗談も通じないらしい。セシルの表情は硬いまま、下をうつむき気味に無言を返す。

 

「……ちょっと、真に受けないでよ。もし気に障ったなら謝るけど」

「そんなことないけど……。あの事件の後は初めてで、しかも9年ぶりに会うわけだし。それに本当に恋人、って言っていいのかどうかわからなくて。本当はセシルのことどう思っていたのかもよくわからないからなんだか不安で……」

「なにウジウジしてるのよ、あんたらしくもない。普段堂々と弁護するみたいな態度でいればいいのよ。それに彼はあなたを『かつての恋人』って私に言ったのよ? ……なにはともあれ、少なくともあなたも彼も、互いに会いたいという思いはある。それだけは間違いないんでしょうから」

「うん……。ありがとう。ちょっと、吹っ切れてきたかも。……なんだかなっち、お姉さんっぽいね」

「同期ではあるけど5つも年上なんだから十分お姉さんなのよ。本当はもっと敬ってほしいぐらいだわ」

 

 ようやく、少しセシルの表情が緩んだ気がした。気を緩めさせようと話したが多少は効果があったか、と穂樽も思わずため息をこぼす。

 

 そんなやり取りをしながら歩いているうちに、青空との待ち合わせ場所に着いた。予定時刻より少し早かったが、そこには1人の青年が待っていた。セシルにとって9年ぶりに再会する、初恋の人。

 

「青空君……」

 

 小学6年の時以来、悲劇的な事件によって引き裂かれ、9年という歳月を経て会った2人は、互いの目にどう映ったのであろうか。それは自分にとっては想像でしか考えることが出来ないだろうと、極力事務的に穂樽は青空へと声をかける。

 

「小田さん、彼女が須藤セシルです。お探しになっていた女性に間違いありませんか?」

「……はい。ありがとうございます、穂樽さん」

「では、邪魔をするのもなんですので、私はこれで失礼します。事務的な話はまた後日ということで。……セシル、しっかりね」

 

 ポンと穂樽はセシルの肩に手を軽く乗せ、振り返ることなく足早にその場を後にした。

 

 

 

 

 

 この公園に来た時にはまだ残っていた夕日は完全に落ち、今は夜の闇を街灯が辺りを照らしていた。その中の喫煙スペースにいた穂樽は何をするでもなく、煙草を燻らせていた。

 今吸っていた1本がもう無くなる、とわかると火を消して灰皿に放り込み、次の1本を取り出す。もう吸い始めて4本目になる。それもチェーンスモークでほぼ吸いっ放しだ。ニャニャイーがいたら間違いなく口やかましく言われることだろう。

 が、こうでもしていないと落ち着かなかった。待つのは仕事柄慣れているはずが、どうもただ待っていることが出来ない。かといって、携帯を適当にいじる気にもならない。とりあえず火をつけて煙を吸い、ぼうっと夜空を見上げる。

 

 初恋の人のことなど、穂樽はもう覚えていない。多分小学生か、あるいは幼稚園の時だっただろうが、結局恋かどうかもわからず終わった、という記憶がある程度だ。普通の女の子が経験するであろうことを全て捨てて青春時代を過ごしたセシルと違い、穂樽は人並みな青春は送ったつもりだし、無論恋もした。今でこそ不倫まがいの恋を諦め切るために、仕事でごまかして男から遠ざかっているが、恋自体を敬遠しているわけではない。9年越しの再会、というセシルと青空の状況は、穂樽にとっても眩しく、また羨ましく映っていた。

 

 煙を吐き、灰を灰皿に落とそうとしたところで、穂樽はふと夜の闇の中に手にした煙草の火が輝いていることに気づいた。それを目にして、意図せず小さく笑う。

 闇の中に浮かぶ光は、まさに自分の苗字と同じく「ホタル」のようにも見えるんじゃないかと思うのだった。暗闇の中でもうっすらとそこを照らし出す、儚くも美しい光。

 

 ああ、そうだったと、不意に彼女は思い出した。「ファイアフライ魔術探偵所」、そんな苗字をもじっただけのベタベタなネーミングを同僚に薦められ、当初は反対したが結局は受け入れた理由。弁魔士と違うアプローチで、より身近な存在としてウドをはじめとする人々の力になりたい。ファイアフライ――「ホタル」のように、(かす)かでも、小さくても、救いを求める人の光となりたい。そんな思いからだった。

 だとするなら、9年越しの再会の2人を羨ましくは思うが、もう少し仕事に生きるのもいいかもしれない。もっとも、そういうことを色情魔まがいで年中男祭りのかつての同僚に言えば「そんなこと言ってると男が寄り付かなくなって、気づくとおしまいになってるのよ」などと言われかねないとも思う。未だ本当は諦めきれない恋から目を背けるために仕事に逃げているだけかもしれないが、独り身は気楽だし、今は楽しい。少なくとも今日はセシルと青空、2人を幸せに出来たのではないかとも思える。

 

 どうにも取りとめのないことばかりを考えてしまう、と煙草を味わいながら穂樽は苦笑を浮かべた。手元を見ればこの紙巻も残り僅か。さすがに次を吸ったらしばらく控えた方がいいかもしれないと考えつつ灰皿へと煙草を押し付けたところで、「なっちー!」と自分の愛称を呼ぶ声が聞こえてくる。視線を上げるとセシルがさっきまでの表情が嘘のように明るく、普段のようにこちらへと駆け寄ってくるところだった。

 

「お待たせ、なっち」

「別に私のことなんて放っておいてもよかったのに。……でもその表情、彼とはうまく話せたみたいね」

 

 やはり先ほどまでと異なり、今度は即答だった。「うん!」と嬉しそうに頭を縦に振る。

 

「ママと青空君のお父さんのことは、やっぱり簡単にはいかない問題だったけど……。でも9年間という期間と、ママが守ってくれなかったらセシルが死んでたかもしれないってことで、ある程度は心の整理がついたって。あとは再審の結果、どういう状況になっても受け入れるつもりでいてくれるって。過去はどうあれ、セシルのことは恋人だったと思ってくれてたし、今もその思いは変わってないから、セシルさえよければまた会いたいって言ってもらえたの。連絡先も交換したし、今度食事に行こうって誘われちゃった。……改めて、ありがとう、なっち。青空君も感謝してたよ」

 

 笑顔で感謝を述べるセシルと対照的。穂樽は信じられないというような表情を浮かべていた。

 

「今度、って……。あんたそこまでいいムードなら今日行きなさいよ! 何で戻ってきてるのよ!」

「え、ええ!? だって、なっち待っててくれると思って……」

「私のことなんて二の次でいいじゃないのよ! 今日9年振りの再会でしょ? 彼、あなたを恋人だと思ってるって言ったんでしょ? しかもその思いは変わってないとか言ったんでしょ? そこは押さないとダメじゃないのよ! 何してんのよ!」

「あ……う……。な、なんか……ごめんなさい」

 

 縮こまるセシルの様子を見るに、おそらく当人としては悪いことは何もしておらず、穂樽のためを思って取った行動なのに怒られている理由がわからないのだろう。そんな無垢な相手に怒鳴ってしまったという罪の意識が襲ってくる。「あーもう!」と頭をガシガシと掻いて、穂樽は有無を言わせない口調で告げた。

 

「……よしわかった。私の奢りでいいわ、飲みに行きましょう。せっかくセシルが9年振りの恋人との再会を蹴ってるんですから、全部私が持つわ」

「それは嬉しいんだけど……。ご飯じゃなくて飲みなの? セシル、お酒飲んだことなくて……」

「もう20歳でしょ? だったら一度経験しておきなさい。次彼に会った時にお酒薦められて、酔っていい気分のうちにお持ち帰りされちゃいました、は洒落にならないんだから」

「そ、そんなこと青空君はしないもん! ……なんかなっちがそり姉みたいになってる」

「あんな男狂いのエロ人間と一緒にしないで頂戴。私はあんたのためを思って言ってるの!」

 

 強引にそう決めながらも、穂樽はこの流れはそもそもセシルが戻ってきたせいで起こったということに気づいた。つまり、やはり彼女にペースを作られてしまっていた、ということになる。

 まあもう細かいことはいいかと、穂樽は考えることを放棄して自嘲的な笑みをこぼした。振り回されっぱなしでも、自分のほうが年上だ。さっき言われたような「お姉さん」とでも思っておけばいい。お姉さんなんだからしょうがない。そしてそう思うのは案外悪くないと、改めて穂樽は感じつつ、2人は夜の街へと繰り出していった。

 

 

 

 

 

ブルースカイ・アクア (終)




原作でなっちの出番が少なすぎる、悪堕ちとかまであるかもしれないと思ってたのにこれじゃただの同期噛ませツンデレじゃないか! よし、なっちをメインにして書こう!!
そんなコンセプトでプロットを練ってこうなりました。

初期投稿時は最終話はまだ放送されていなかったのですが、予定の範囲内に収まったので軽い手直しで済みました。ぶっちゃけ、本編ラストとかでもし青空出てきたらどうしようかとはちょっと思ってました。
読んでいただければわかるとおり、内容としては小説版と本編の8話の写真と9話冒頭に登場したセシルの「初恋の男の子」である小田青空とセシルの再会を、穂樽が陰から支えるという話になってます。

設定を変えてる点ですが、弁魔士設定を蹴ったのは、単純に探偵の方が動かしやすいと思ったからです。自分の中で探偵というとコナンとかよりも探偵物語(放送時には生まれてすらいないので見たこと自体はないんですが……)みたいな感じがありまして、推理するより足で調査するなんでも屋、な印象がありました。実際調べてみると探偵さんのお仕事は人探しや浮気調査などがメインのようです。また、そういう探偵となるとやはり煙草は欠かせないだろうと。まあ眼鏡と合わせてこの2点は個人的趣味で追加してます。

なお、当初はこの短編のみで終わりにする予定でしたが、中編が書けましたので向こうが本編で、こっちはサイドという扱いでエピソード0ということにしました。


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Episode 1 バニッシュメント・ラバー
Episode 1-1


Episode 1 バニッシュメント・ラバー

 

 

 

 これほど心が不安に満ち溢れるのは、生まれて初めてだと彼女は思った。元々引っ込み事案で人前で話すことも得意ではなかったし、緊張にも強くなく学校の試験などの度に落ち着かなくなることもザラだった。だが、そんなものとは比較にならない、言葉に出来ないほどの不安。場合によっては自己の存在そのものさえ疑問に思えてしまうほどの思考に押しつぶされるような錯覚を覚えつつ、力なく足を進める。

 これからどうしたらいいかわからない。誰に相談したらいいかもわからない。そんな苦悩を抱きつつ、大通りを外れてとぼとぼと歩いていたところで、彼女は妙な看板を見つけた。

 

『人探しから物探し、浮気調査にその他厄介ごとまで! 御法に触れなきゃ報酬次第でなんでもござれ! 女性も安心のファイアフライ魔術探偵所は当ビル2階!』

 

 魔術。その言葉に心が跳ね上がる。そうだ、その人智を超えたような力なら、もしかしたらなんとかしてくれるかもしれない。今のこの自分の苦悩を解決してくれるかもしれない。

 何かにすがるような心のまま、彼女は吸い込まれるようにビルの中へと入っていった。

 

 

 

 

 

 

 淀みないリズムでキーボードを叩いていた穂樽夏菜(ほたるなつな)は、キリのいいところで手を止め、眼鏡をずらして目を押さえた後で大きく伸びをした。次いで立ち上がり、机の上に座る猫の使い魔のニャニャイーに声をかける。

 

「奥で一服してくるわ」

「ニャ、吸いすぎは体に毒ニャ」

「1本だけよ。気晴らしなんだからあまり口やかましく言わないで頂戴」

 

 使い魔の忠告を完全に聞き流し、穂樽は事務所の奥にある居住スペースへと移動した。

 ファイアフライ魔術探偵所として機能しているのは入り口を入ってから、このフロアの4割程度の範囲である。残りは穂樽の居住場所としての役割を果たしており、喫煙は極力事務所ではなくこちらでするようにしている。無論、依頼人が喫煙を望むなら灰皿を用意する準備は出来ている。だが、常に事務所が煙草臭いというのは、それだけでマイナスな印象を持つ人がいることも事実だった。

 ソファに腰掛け、天を仰いで大きくため息をこぼす。そして机の上の灰皿の脇にある、白地に緑のラインの入った煙草の箱を空けた。が、1本を取り出し咥えようとしたところで、不意に事務所の扉につけてあった鈴が鳴る。来客を知らせる合図。そのことを証明するかのようにニャニャイーの声も聞こえてきた。

 

「穂樽様、煙草はお預け、お客様ニャ。いらっしゃいませニャ。今所長が戻ってくると思うので少し待っててニャン。……ニャ?」

 

 せっかくの一服を直前で止められたことに少々落胆しつつも客を待たせるわけにはいかないと穂樽は立ち上がる。だが事務所に戻る扉を開けようとしたところで、ニャニャイーの一言に一瞬その手が止まった。

 

「どうやら私が見えてないみたいニャ。ウドじゃニャいニャ」

 

 使い魔は「ウド」と呼ばれる魔術使いにしか見えない。つまり入ってきてニャニャイーに反応しなければウドでないとわかる。そういった訪問者は決して少ないわけではない。しかし全員とはいわないが、その中には魔術を使えるウドだからと過大評価をして依頼してくる人がいたり、もっと悪い例だとウドだからと最初から難癖をつけるつもりでくる者、冷やかしで来る者といった、心無い人達がいることも事実だ。確かに穂樽はウドが気兼ねなく来ることが出来るようわざわざ「魔術探偵所」というネーミングにしたわけだが、もしかしたら今回もそんな輩を相手にしなくてはいけないかもしれないと、少し重い気分で扉を開けた。

 しかしそこで待っていたのは本当に何かを依頼したくて来たような表情の女性だった。肩口までのショートカットにまだ幼さも残る顔立ち。可愛らしさを秘めてはいるが、今は困惑の表情によってそれが曇ってしまっている。

 

「席を外していてすみません。いらっしゃいませ。お仕事のご依頼でしょうか?」

 

 女性は戸惑ったような表情だったが、現れたのが同じ女性ということと、営業スマイルとはいえ穂樽の笑顔に少し心を落ち着けることができたらしい。たどたどしい口調ではあるものの話し始めた。

 

「あの……。人を探してるんです。それで、『魔術探偵所』っていう表の看板が目に入って……」

「人探しですね? 承っていますよ。立ち話もなんですから、お掛けになってください。今お飲み物をお持ちしますので、詳しい話はその後にでも」

「だけど私大学生で、今お金あまり持ってなくて……」

「お話を伺うだけでしたらお代は構いません。コーヒー代もいただきませんし。依頼を受ける、となってもお支払いは依頼を成功した後になりますので、大丈夫ですよ」

 

 椅子へと客を促し、コーヒーメーカーからカップへと液体を移しつつ、さっきの予想でいうと1番最初の例かな、と彼女は思っていた。ウドでなく、しかし「魔術探偵所」という売り文句に引かれた、となればウドの魔術に期待してのことである可能性が高い。

 とはいえ、万が一過剰期待や冷やかしであろうとまずは話を聞かないことには始まらない。コーヒーを依頼人の前に差し出し自分の席にも置いた後で、穂樽は名刺を1枚手渡した。

 

「改めまして。穂樽夏菜と申します」

「あ、ありがとうございます。……女性の探偵さんだから、女性も安心って売り文句だったんですね」

「外の看板ですか? ええ、そうです。同性だと女性の方も安心できると思ったので」

「所長さん、なんですか」

「他に働いてる人も雇う余裕もないから、そう名乗っているだけなんですけどね」

 

 苦笑を浮かべた穂樽につられ、相手も愛想笑いを返してくる。多少は緊張をほぐすことに成功したらしい。その流れのまま、穂樽は質問を始めた。

 

「ではまずお客様のお名前を窺ってもよろしいですか?」

「はい。私、八橋貴那子(やつはしきなこ)と言います」

「八橋さんですね。探している方はどういった方になりますか?」

「その……恋人、です」

「なるほど。恋人探しの依頼、実は意外と多いんですよ。……それで、最後に会ったのはいつ頃か、またそうなってしまった理由があったら教えていただけますか?」

「それが……」

 

 八橋の言葉はそこで止まった。何か聞いてはまずいことだったかもしれない。しかし原因がわからなくては折角再会できてもまたいなくなってしまう、という状況にもなりかねないと考えられる。穂樽はその先を促す。

 

「どうしました?」

「……わからないんです」

「は?」

 

 一瞬、ふざけているのかと思った。が、目の前の八橋はそういった表情からはかけ離れ、真剣そのもののようだった。

 

「わからない、って……」

「思い出せないんです。それどころか、数日前まで『彼』という存在は確かにいたはずだとうっすらとは覚えているのに、名前も顔も思い出せないんです」

 

 思わず穂樽は大きくため息をこぼしていた。なるほど、最初はウドを過大評価してかと思ったが、どうやら冷やかしの線も含まれているらしいと考える。

 

「……申し訳ありません、八橋さん。確かに人探しは承ります。ですが、将来の恋人を探すというのは、うちでは手に負いかねます」

「え……?」

 

 人探し、広い目で見れば恋人探しとも取れる。さらに魔術という文言も相俟って、「魔術で自分に合う恋人を探してほしい」と頼んできた人間は実際存在しており、過去に例がなかったわけではない。だがそれは探偵の仕事の範疇を越えている。

 言っては悪いが、所謂脳内で妄想した彼氏の類、と穂樽は判断した。名前も顔もわからないがいたはず、という言い分では、本当にいたかどうかも怪しい。

 

「未だ見ぬ恋人を探しているのであれば、うちよりも結婚相談所辺りに行った方が……」

「ち、違います! そうじゃないんです!」

 

 それまでのおどおどした様子から一転、八橋は机から身を乗り出すつつ語気を強めた。しかしすぐに興奮していたことに気づいたらしい、「あ……ごめんなさい」と謝罪の言葉を述べながら椅子に身を戻した。

 

「……実は私、記憶がないんです」

「記憶が……? 記憶喪失ということですか?」

 

 穂樽の問いに八橋は首を横に振る。

 

「それともまた少し違うんです。自分の名前とかこれまでのこととか、そういうのははっきりと思い出せる……。でも、恋人が……『彼』という存在がいたはずだとうっすらとは覚えているのに、その事を思い出そうとすると、急に何も思い出せなくなってしまうんです。それでも記憶喪失かと思って数日前に病院で検査を受けて今日結果を聞いてきたんですが、『彼』のこと以外は全て覚えているし、検査結果も特に変わった様子はないから病気ではないだろうって。一応警察にも行ったんですが、ほとんど相手にしてもらえなくて……」

「こう言っては失礼かもしれませんが……。『彼』という存在は、本当に存在していたのですか? あなたの思い込みという可能性も……」

 

 さっき考えたことを口にする穂樽。だがそれに対しても八橋ははっきりと首を横に振った。

 

「それは病院でも、警察でも言われました。本当にその人物はいたのか、想像上の人物ではないのか、と。言われれば言われるほどそうかもしれないと思ってしまうのは事実なんです。でも……!」

「確かに『彼』は存在していたはずだ、と」

 

 彼女が重々しく頷くのは、それがおそらく初めてだった。

 

「お願いします、穂樽さん。私の恋人を、『彼』を探してください。そうすれば、失っている私の記憶も戻るんじゃないかと思うんです」

 

 至極真面目な表情で訴えかけてくる八橋に対し、穂樽は困った表情を浮かべて視線を逸らした。名前も顔もわからない。それどころかいたかどうかもわからない人物を探せといわれても、どこから手をつければいいかわからない。

 

「八橋さんのお気持ちはお察します。ですが何も情報がなくては……」

「そんな……! 魔術で何とかならないんですか?」

「確かに私は魔術使い、ウドです。でもウドは万能ではありません。私の魔術は自然魔術、砂を操る、あるいは魔力で一時的に砂を作り出す力なんで、本来あまり探偵業の助けになるようなものではないんですよ」

「砂……。だからこの部屋、棚の上に砂時計が多く置いてあるんですか?」

 

 部屋を見渡しつつ八橋はそう述べる。にこの部屋にあるのはパソコンデスク、今2人が挟んでいる応接用の机、その他は資料やら本やらが入っている棚があるだけの殺風景な部屋だ。その中で唯一、インテリアとして彩っているのが棚の上に置いてある数多くの砂時計である。

 

「ええ、まあ。オーダーメイドで作っていただいたものもあって。私の趣味なんです。……あそこの棚の上にある1番右の砂時計、見ててください」

 

 言うなり、穂樽は人差し指でその砂時計を指差す。するとそれまで下に溜まっていた砂が、砂時計をひっくり返したでもなく上へと逆流し始めた。

 

「す、すごい……」

 

 すっかり全ての砂が上へと上がりきったところで、穂樽は指を戻す。それに合わせて上がっていた砂が重力に応じて細い管を伝って下へと落ち、本来の砂時計の役割を果たし始めた。

 

「今のは宴会芸みたいなものですけどね。この能力、護身用としては便利ではありますが、危険でもあるんですよ。そして何より、下手に使えば魔禁法違反で即罰金です」

「魔禁法……。魔術の使用を制限する法、でしたっけ?」

 

 どうやら依頼人はウドに対する偏見がない代わりに知識もあまりないらしい。かいつまんで穂樽は説明することにする。

 

「早い話がそうです。基本的に魔術の使用を禁じる、ウドの公職への雇用を禁じる、など、私達が肩身の狭い思いをしているのはそのせいといってしまってもいいでしょう。その中の十条、『社会正義の場合は使用を認める』という範囲内でのみ、私達は魔術が使用できます。確かによろしくないことですが、ばれないようにこっそり使う人も中にはいるでしょう。しかし私の場合、そのリスクを負ったとして、能力がそもそも探偵向きでない、という面もある。つまりはっきり言って、ここの名前を『魔術探偵所』なんてしてるのは魔術の便利さを謳っているのではなく、同胞が訪ねて気安いようにという意味合いが強いんですよ」

 

 そう言って肩をすくめる穂樽。彼女はこれで自分は魔術使いではあるが万能でもなんでもない、魔禁法もある以上ウドだろうが普通の人間とさほど変わらないと証明できただろう、と考えていた。

 しかしその彼女の思惑は大きく外れることになる。目の前の依頼人は逆に目を輝かせて穂樽を見つめていたのだ。何か嫌な予感を覚えつつ問いかける。

 

「……どうされました?」

「間近で魔術を見るのって、多分初めてで。だから感動しちゃったんです」

「多分? ……ああ、記憶がない間のことはわからないから、ということですか」

「あ、はい……。もしかしたら『彼』が魔術使いだった可能性はあるかもしれませんが、何せ私の記憶には残っていないので……」

 

 そこで、僅かに穂樽の眉が動いた。「相手がウド、ならなくもないか……」と呟き、難しい表情を浮かべて顎に手を当てている。

 

「あの……どうしました、穂樽さん?」

「八橋さん、『彼』がいたという物的証拠はありますか? プレゼントとか携帯の写真とかメールとか」

「それが……。全然ないんです。家の中を探しても、携帯を調べても、何も」

 

 ますます穂樽の眉が訝しげに動く。いたはずという「彼」、しかし全く残っていない証拠。

 しかし目の前の彼女が嘘を言っているようには、どうしても穂樽には見えなかった。何か少しでもそのことに関わる手がかりがあるなら、八橋の言っていることは疑いようのない事実として捉えられるだろう。

 

「携帯電話をお借りしてもいいですか? 少々操作しても?」

 

 首を傾げつつ、八橋は了承の意思を示して穂樽へと携帯を差し出す。険しい表情で携帯を操作する穂樽を訝しげに見つめていた八橋だったが、「ああ、やっぱり……」という女探偵の声に、その身を乗り出した。

 

「どうしたんですか?」

「見てください。このカメラで撮った画像番号。降順にソートしてあります。これをひとつ戻すと……」

 

 思わず八橋は「あっ!」と声を上げていた。画像番号が20も戻っている。

 

「他にもいくつか不自然に番号が抜けている部分が見受けられます。多分消去したんでしょう。ご自分で画像を消した記憶は?」

「ありません。少なくとも、覚えてる範囲では……」

「誰かに携帯を貸したことは?」

 

 先ほど同様首を横に振りつつ、「それも覚えてる範囲では……」と八橋は答えた。

 

「……では無くなった物はありませんか? 具体的には所持金、口座の残高、高級品など」

「ないはずです。身近で異変と感じるのは、『彼』という存在がいた気がする、その点だけなんです」

「だとすると……」

 

 そこまで言ったところで穂樽は黙り込んだ。「だとすると?」と八橋は先を促そうとするが、穂樽は答えない。代わりに神妙な表情で依頼人を見つめた。

 

「……八橋さん。物事には『知らない方が幸せなこと』もあると思います。それに、真実とは時に残酷なこともある……。あなたの失われている記憶が、そうである可能性は否定できません。それでも失った記憶を、『彼』との思い出を取り戻したいと思いますか?」

 

 不意に切り出された質問に八橋は意図せず戸惑う。そんなことは確認されるまでもない、と言いたかったが、「彼」がどんな相手かもわからない。記憶を取り戻した結果、彼女が言ったとおり「知らない方が幸せなこと」だったと気づいても後の祭りだ。確認されたことで、それまでの不安と別の未知の不安感が八橋の心をよぎる。

 しかし、と彼女はその心を否定した。不安なら既に抱いている。確かに存在したはずの、だがうっすらとしかその影を追うことが出来ない「彼」。自分が恋したはずのその人は一体どんな人物だったのか。加えて、記憶が欠けているという不安。この思いを消し去り、真実へと辿り着きたい。

 再び穂樽を見つめた八橋の目に、迷いはなかった。

 

「大丈夫です。記憶がなくて本当に『彼』がいたのか不安な今より、つらくても真実を知りたいと思っています」

 

 決意した様子の彼女に穂樽は小さく息を吐いた。そして硬かった表情を崩して語りかける。

 

「……そうね。記憶がない、ということは不安、そうに違いないわね。申し訳ありません、そこまで気が回りませんでした。……わかりました。このご依頼、お受けします」

「え、本当ですか!? でも手がかりがないんじゃ……」

「この携帯のデータ、先ほどの画像をはじめとして消されている部分があるようです。そこを復元すれば、もしかしたら『彼』の情報が何かわかるかもしれません」

「出来るんですか、そんなこと!?」

「絶対、とは言い切れませんが。……ちなみに魔術は関係なく出来ますよ。文明の利器ってものです」

 

 少し得意げな、どこか悪戯っぽさもある微笑と共に穂樽は答える。

 

「ただ、復旧と解析に時間がかかるかもしれませんので、今日1日携帯を預からせていただけると助かるのですが……」

「構わないです。ほとんど使っていませんし。明日取りに来ればいいですか?」

「ええ。いつ頃ならいらっしゃれます?」

「明日は授業の後バイトがあるんで……。夜の8時ぐらいになってしまうんですが、大丈夫ですか?」

「問題ないですよ。では、その時までにデータの復旧と解析、それから可能な限り情報を集めておきます。明日、携帯を返すときにその事を報告させていただきますので」

「あ……ありがとうございます!」

 

 思わず八橋は立ち上がって頭を下げていた。「まあ、そんな改まらなくても……」と苦笑を浮かべつつ言ってから、穂樽も立ち上がる。そして部屋のパソコンデスクの引き出しから何かを取り出し、依頼主の前へと差し出した。

 

「では順番がちょっと前後してしまった気もしますが……。正式に依頼、と言うことでこちらの書類にご記入をお願いできますか?」

 

 用意されたのは簡単な受付書だった。名前、住所、連絡先など、ある程度の個人情報や今回の依頼に関する情報その他を記入する欄がある。八橋はその項目を埋めていきつつ、少し心が落ち着いたのを感じていた。

 言葉に出来ない違和感――いたはずの「彼」の存在。なのに思い出そうとすると決して辿り着けないような迷宮に迷い込んでしまうような感覚。記憶喪失という言葉は知っていたが、どこか一部が抜け落ちるだけでもこれだけ不安になるとは八橋は思ってもいなかった。それ故、ようやく見つかった僅かな希望にすがりつきたかった。

 穂樽の言うとおり、もしかしたら記憶が戻った方がつらいことがあるだけかもしれない。戻らない方が幸せなのかもしれない。それでも、この言いようのない不安感を覚え続けるよりはきっといいに違いない。そして何より、自分が恋したはずの男性はどんな人なのか、もう1度会いたい。

 

 そんなことを考えつつペンを走らせていると、いつの間にか記入項目は全て書き終えていた。チラリと目で穂樽の方を確認すると「ありがとうございます」と、記入に不足がないことを認めてくれていた。

 

「それでは明日の夜8時、ここでお待ちしています。『彼』に対してと、記憶の手助けとなる情報を出来るだけ集められるよう、努力します」

「ありがとうございます……! どうか、よろしくお願いします!」

 

 八橋は深々と頭を下げた。闇に閉ざされた自分の記憶の中に僅かに灯ったほのかな光。どうかその光は消えることなく、残りの闇も照らし出してほしいと思いつつ、八橋はファイアフライ魔術探偵所を後にした。




自分は煙草吸わないのでよくわからないのですが、穂樽の吸ってる煙草はピアニッシモ・アリア・メンソールという設定にしてあります。
元々女性に人気のある銘柄で、また箱のデザインもお洒落な気がしますし、1ミリと軽くてメンソールということだったので。


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Episode 1-2

 

 

 八橋がファイアフライ魔術事務所を訪れた翌日。遅い起床の後、午前9時半という時間に朝食を済ませた穂樽は食後の一服をしつつ、仕事用の携帯をいじっていた。

 

「ニャ、穂樽様、女子力高いなら洗い物手伝ってニャ」

「一服中。それにそれはあなたの仕事」

「理不尽ニャ! ニャンで私が小間使いみたいニャことしニャくちゃいけニャいのニャ!」

「使い魔だからでしょ。あとニャーニャー聞き取りにくい」

「ニャー! ひどいニャ! そして煙草臭いニャ!」

 

 喚き散らす使い魔のニャニャイーを無視して、穂樽は眼鏡のレンズ越しに携帯の画像をぼんやりと眺める。そして煙を吐き出しながらポツリと呟いた。

 

「これが噂の『彼』、か……」

 

 預かった携帯のデータの復元には成功した。依頼人のプライバシーを侵害するようで少し気は引けたが、重要資料であることは事実なためにPCにバックアップを取ってある。さらに、外出時も情報を得やすいように、ある程度のデータは仕事用の携帯とタブレットPCにも移しておいた。

 その携帯の画像の中で、見るからに仲良く笑い合って写る一組の男女がいた。片方は昨日尋ねてきた依頼人、八橋貴那子。そしてもう片方が、彼女の記憶からすっぽりと抜け落ちてしまった「彼」――復元したデータから推測した名は、今川有部志(いまがわゆべし)

 彼には失礼だが特にかっこいい、というわけでもない顔立ちの男性だなと穂樽は思っていた。男好きの元同僚に見せれば「全然イケメンじゃないけど、まあギリギリオッケーって感じ?」とかよくわからない評価が下るだろう、などとふと考える。

 

 穂樽は画像の他に電話帳やメールの復元もしていた。その消された電話帳のデータやメールの内容から「彼」の名前がおそらく今川であろうことを突き止めたのだ。他にも主にメールでのやり取りから色々得られた情報はある。八橋と同じ大学の2年生、しかし学年は一緒だが年は1つ上ということ。バイオリンを演奏する趣味があること。八橋との仲は悪くなく、むしろ良好すぎるぐらいだったこと。

 はっきり言って、ここまでの情報があればあとはそれほど大変ではないだろう。復元したメールや画像を見ることで八橋の記憶が蘇る可能性がある。

 しかし、どうしても穂樽にはひっかかる部分があった。確かに名前、顔、さらに依頼人の八橋と同じ大学というところまで絞り込めれば見つけ出すこと自体は簡単ということもありうる。だがそれだけで解決しない問題があるのではないかと考えていた。

 

 既に穂樽はある仮説を立てている。そしてそれを証明するように、復元できた番号に間違い電話を装ってかけてみたところ繋がらなかった。聞こえてきたアナウンスの内容から既に解約済み、と考えられた。携帯を解約までしているということは、何か裏があるとも考えられる。

 

 ゆっくりと煙を吸って吐き出しつつ、「だとすると……」と、昨日八橋の前でこぼした独り言と同じ言葉を穂樽は口にした。

 

「ニャ? 穂樽様、昨日依頼人の前でもそれ言ってたニャ。ニャにがだとするとニャ?」

 

 主の独り言を聞きとがめたニャニャイーが横から口を挟んできた。顔を動かさず、穂樽はニャニャイーの方へピースサインのように指を2本立てて見せる。

 

「この一件、確実に消えているものが2つあるわ。1つは今川に関する物的な存在証拠。もう1つはその今川を記憶しているであろう八橋さんの記憶。1つ目はある程度誰でも消すことが出来る。彼女の携帯さえ手にできれば消せるわけだから。それでもプレゼントその他があるとすると、そこまで消すのは難しくなる。でも彼女との仲が良ければ良いほど、その難易度は下がる」

 

 指を1本折り、人差し指だけを残した状態で穂樽は続ける。

 

「2つ目、こっちが問題よ。八橋さんの記憶。裏は取れていないけど、病院での診断を信じるなら彼女は記憶喪失とはいえない。それに私の見立てでは彼女は嘘をついてもいない。そもそも、今川に関する部分だけが綺麗に抜け落ちているという点が解せない。……でも復旧したメールから、あることがわかった。それで私はひとつの仮説を立てた」

「仮説ニャ?」

 

 手を元に戻し、煙を一度肺へと通してから穂樽は先を述べた。

 

「まず、このデータの消え方は自然に消えたものではない。明らかに人為的なもの……付け加えるなら今川に関する部分だけが消されているのだから作為的なものよ。そしてさっきも言ったとおり、彼女との仲が親密であればあるほど、携帯に触れられる機会は増える。

 次に記憶。彼女の記憶の抜け落ち方は通常では考えられない。そこで出てくる可能性が……魔術よ。幻影魔術使いであるなら、記憶の改ざん、あるいは部分的な消去は不可能ではないはず。無論、使い手の能力差にもよるし、被対象の抵抗度合いにもよるとは思うけどね。そして……今川はウドだと復元したメールから判明してる」

「ニャ!?」

「1つ目の条件と2つ目の条件を同時に満たしうる恋人の存在……。仮説。彼女から今川有部志という存在を消し去りたい人物は、他ならぬ今川本人ではなかったのか」

「ニャンでそんニャことする必要があるニャ?」

 

 肩をすくめ、そこまではわからないと穂樽はジェスチャーを見せた。しかし変わらず難しい顔のままその先を続ける。

 

「見当はつかないわ。まあケンカ、という線はないわね。写真とメールの内容からして仲はかなり良好。彼は彼女にバイオリンの演奏が本当に楽しみだとか言われるほどの仲だからね。消されていた最後のメールの付近も、不穏な内容は無いわ。そもそもケンカならわざわざここまで手の込んだことをする必要が無い」

 

 あるいは、と一度挟んで煙を吸って吐き出しつつ、穂樽は表情を硬くしてその先を続ける。

 

「……それも全て演技、彼女に下心あって近づいて、何かを奪い去って記憶と自分に関する情報を消した、とも考えられる。でも彼女に確認した限りでは所持金、口座の残高、記憶にある限りの貴重品は失ってない。大学の重要な研究データ、ということもあるけど、彼女は教育学部で理系ですらないからその線は考えにくい。……まあ何を奪ったのかすらも記憶から消している、という可能性も否定出来ないからこれは断言出来ないわね」

 

 もっとも、その可能性は低いと思うけど、と彼女は心の中で1人呟きながら煙草の火を揉み消した。復元したデータの中の2人はまごうことなく恋人同士、と捉えられた。これが演技だとするなら、今川という男は相当の詐欺師であろう。最後の煙をため息と一緒に吐き出す。

 

「でも今川だと断定出来るのかニャ? 他の人が消したということもあるんじゃニャいかニャ?」

「勿論それも考えてる。そもそも今川がウドだとはわかったけど、どんな能力を使えるのかまではわかってないし。それにここからは全く姿の見えない第三者なら、もう完全にお手上げよ。ただ、携帯が解約されている、となるとやはり彼は何かしら関わっているんじゃないか、と見るのが妥当とも考えられるけど。あとは……。いえ、やっぱりなんでもない」

 

 穂樽は八橋本人だけの問題、ということも考えた。だが、まず彼女の自作自演で冷やかし、というのは昨日話したときに嘘をついていないだろうと推察できたために早々と可能性から消去していた。

 次に、あまりに嫌な記憶だったためにデータなどを全て消去後に自己防衛的に記憶に蓋をするように消してしまった、ということも考えていた。穂樽は医学関係に明るくないが、そういう現象が起こる場合はある、と聞いた覚えがあったからだ。だがそれにしても思い出そうとしたときにもっと拒絶反応が出るだろうし、そもそもここに来ようとまではならないはずだと選択肢から除外していた。

 

「つまりわかったのは八橋が探してる相手の名前が今川だってことぐらいかニャ?」

「ほとんどそうよ。でもそれだけでも十分過ぎるほどの情報だと思うけどね。依頼はあくまでその相手を探すこと。彼女の記憶云々の話は二の次……。複雑な事情があるかもしれないけど、身も蓋もなく言ってしまえば私の勝手なお節介よ」

 

 もう1本煙草を吸おうかと箱に手を伸ばしたが、穂樽はそれをやめた。代わりに車のキーとライターと共に煙草を箱ごと手に取って立ち上がり、外出用のカバンの中へと放り込む。

 

「お出かけかニャ?」

「ええ。ここで考えてても結局は推測の域を出ない。あいにく私は安楽椅子探偵(アームチェア・ディテクティブ)じゃないから、基本は足で稼がないとね。今川の情報をもう少し集めておきたいから、2人の通う大学まで聞き込みに行ってくるわ」

 

 手早く荷物をまとめ、身だしなみを一応チェックしてから穂樽は居住区入り口の扉へと手をかける。

 

「ニャニャイー、留守番お願いね。八橋さんが来る夜8時前には帰ってくるから」

 

 了承の言葉か、あるいは何か文句を付け加えられたか。背後から聞こえた使い魔の言葉を適当に聞き流し、穂樽は居住スペースを後にし、事務所の外への扉を開いた。

 

 

 

 

 

 八橋が通う大学は都心部からは外れるものの都内であり、駅からのアクセスもよく、電車による移動も便利そうだった。学生にとっては助かる環境だろうと思う。

 キャンパスの中は学生特有の明るい雰囲気で溢れていた。思えば自分もそんな風に大学に通い、そして妻のいる教授に届かぬ思いを抱いた、などということを穂樽はふと思い出していた。が、思い出すと同時に顔に苦いものが浮かぶのを自覚している。

 今になって思えば若気の至りだった、で笑い話にしてしまったっていい。しかしどうにもまだ完全に吹っ切ることが出来ずにいるのも事実だ。結果、仕事で身を忙殺させることで自然と恋自体から距離を置いている。今はそれでいいと思いつつも、人はいつか変わらなくてはならないときが来るともわかっている。だとすると、いつまでもこうしてはいられないかもしれないとも思うのだった。

 まずい、と彼女は直感する。どうにもネガティブな方向に物事を考えてしまう。気持ちを紛らわせるために反射的に右手はカバンの中で煙草を探していた。だがここはキャンパスの中。喫煙スペースは限られるか、下手をすれば無い可能性もある。それに自分は八橋の依頼のために情報収集に来たのだと言い聞かせ、キャンパス内の見取り図へと目を移した。

 

 今川有部志という名前はわかったが、学部まではわからない。総務に尋ねたところで関係者でなければ教えてくれないだろう、ということは過去の経験から容易に想像がつく。

 なら別口から当たればいい。メールの情報から、今川はバイオリン演奏という趣味があることはわかっていた。

 この大学には音楽専攻の学科はない。それに、今川のメールにはあくまで趣味ということが強調されており、その関係の学部学科ではなく、弾く機会があるにしても部活かサークル単位であろうと考えられた。まずは部室の集まっている部室棟に行き、バイオリンを使うであろう規模の大きな部活、具体的には管弦楽部辺りにあたるのがいいと穂樽は判断する。

 

 サークル棟はキャンパスの外れにあった。開け放たれた窓からは楽しそうな談笑の声が聞こえ、ベランダで練習しているのだろうかトランペットの音も耳に入ってくる。

 入り口を入ったところで、思わず穂樽は僅かに眉をしかめた。彼女が大学在学中から思っていたことだが、やはりこのサークル棟というものはある種の無法地帯となっていることを知っている。ロビーのソファがあるスペースにはどこのサークルか、男子数名がゲラゲラと笑い声を上げつつ話をしているのが目に映った。飲んでいるのが酒でなくジュースなのはせめてもの救いだろう。授業はどうしたと突っ込みたい穂樽だったが、コマの空き時間ということもありうる。無視して中に入っていこうとしたところで、だが思いとどまったようにその足を止めた。

 

「あ、君達、ちょっといいかしら?」

 

 不意にかけられた声に、男子学生と思われる連中は会話を止め、声をかけてきた穂樽の方を振り返った。

 

「なんすか?」

「管弦楽部かオーケストラ部か、そんなサークルの部室ってどこにあるかわかる?」

「オケ部の部室? 2階だっけ?」

「ばーか、3階だよ。確か3階の階段出て左手側だったと思いますけど」

「そう、ありがとう。助かったわ」

 

 どうにも心の中でよろしく思っていないせいか、少々ぎこちない笑顔だとは自覚しつつも、穂樽は営業スマイルを返して感謝の意を表し、階段の方へと歩き始めた。男子学生連中はまた談笑に戻ったようだが、声のボリュームというものを考えていないのか、穂樽にも聞こえるぐらいの声量で話を再開する。

 

「今のうちの学生? 院生かな? ちょっと年いってる気もするけど、結構美人じゃね?」

「そうかあ? なんか格好も眼鏡も野暮ったくね? あ、お前そういうちょっとダメな感じの女の方が好きだっけか」

「そうそう。美人は3日で飽きるって言うじゃねえか。ちょっと微妙かな、ってぐらいが1番いいんだよ」

「わっかんねえなあ、お前の感覚」

 

 そんな話が笑い声と共に穂樽の耳に届く。「ダメな感じ」や「微妙」という単語に思わず反応してしまって眉間にシワが寄り、右手もいつの間にかグーを握り締めていた。「聞こえてるわよ!」と怒鳴り返して砂塵魔術で生き埋めにでもしてやりたいところだったが、魔禁法違反になるのは御免被りたい。どうにか自制し、階段を昇っていく。

 言われたとおり3階の左手側の部室の表札を調べていくと「管弦楽部」という文字を見つけた。中からも声が聞こえてくることから、人がいるのがわかる。

 穂樽がドアをノックすると「はい?」という声と共にドアが開いた。応対したのは20歳前後のポニーテールがよく似合う活発そうな女子。さらに部屋の中には眼鏡をかけた痩せ気味の男子と少し太めの男子2名が椅子に腰掛け、何やら音量を絞ってクラシックを聞きつつ譜面を手にしているようだった。

 

「ここ、管弦楽部さんの部室で合ってます?」

「ええ、合ってますよ。何か御用ですか?」

「ちょっと人を探していて……。バイオリンを弾いていると聞いたので、もしかしたらこちらの部員さんかと思って」

「はあ……。あ、廊下、人の邪魔になるとあれなんで、入っちゃっていいですよ」

 

 女子部員はそう言うと穂樽を招き入れて音楽を止める。合わせて男子部員2人も彼女の方へと視線を移してきて、なんだか邪魔をしてしまったようで申し訳ない気持ちと注視されることから少々気まずさを覚える。部屋の中は決して広くはなかったが、それなりに片付いていて無法地帯、というイメージを持っていた彼女にとっては少々意外だった。

 

「椅子、どうぞ」

「ありがとう」

「で、なんでしたっけ? バイオリンを弾いてる人を探してるとか?」

「ええ。この人なんだけど……」

 

 穂樽は前もって八橋の携帯から移しておいた、今川が1人だけ映っている画像を仕事用の携帯に表示させて部員に見せる。が、3人とも首を傾げて反応は薄い。

 

「今川有部志さんって言う2年生なんだけど、知りません?」

「今川……そもそもその苗字うちの部にいたっけ?」

「うちのパートに今川いるけど、ホルンだし女子だな」

「その人、兄弟は?」

「さあ……。でも確かいないって言ってたと思いますよ。姉だか妹はいるって言ってた気もしますけど」

 

 男子部員の片方と話している間に、女子部員は棚の中を何やら探し始めていた。もっとも頼れそうな1人が会話に参加してくれていないのが不安ではあったが、穂樽は先を続ける。

 

「ともかく、この画像の人に見覚えありません? バイオリンが趣味って話だから、ここなら何かわかると思って」

「って言ってもなあ。俺達金管だし。下柚木(しもゆぎ)、お前顔広いんだからわかんだろ?」

 

 眼鏡の男子部員は女子部員の方を向きつつそう尋ねる。下柚木と呼ばれた女子は「あたしだって弦のことまでは自信ないわよ」と返し、探し物を続けていた。

 

「今彼女が言った通り……弦の人のことは、正直把握しきれてません」

 

 小太りの方の男子部員がここで初めて口を開いた。その内容を訝しむように穂樽は問いかける。

 

「把握しきれてない、って……同じ部活じゃないの?」

「同じ部活ですよ。ただ、この部、幽霊部員除いても80人以上いますから」

 

 思わず「80人!?」と穂樽は驚きの声をこぼしていた。そこで「まあこれでいっか」という声と共に女子部員が何かを手に戻ってくる。

 

「さすがに名簿だと色々プライバシーあるから外部の方に見せられないですが、これなら大丈夫だと思います」

 

 そう言いつつ、女子部員が手渡してくれたのは何やらパンフレットのようなものだった。

 

「パンフレット?」

「はい。前回の演奏会のです。ここに部員の名前載ってるんで、確認していただければ今川さんという人がいないのはわかるかと」

 

 言われて穂樽はバイオリンのところにある苗字欄を追い始める。が、彼女の言うとおり確かに今川はいない。

 

「確かにいないわ。……でも、バイオリンだけで随分いるんですね」

「部員多いことがうちの強みですから。ファースト8プル、セカンド7プルはこの辺りじゃトップクラスの人数ですよ」

「管にしたって三管編成なら部員だけで余裕だし、OBOGに頼めば倍管もいけるもんな! ブルックナーもマーラーもどんと来いってんだ!」

「……どっちも曲によるだろ」

 

 眼鏡の男子部員がなにやら得意げにそう言ったところに小太りの方が突っ込みを入れた。が、なんのことやらさっぱりな穂樽は「はぁ……」と適当に返すしかない。

 

「……とにかく、この部には私が探している今川さんはいないみたいです。それで、ここの他にバイオリンを演奏するような部活やサークルってあります?」

「さあ……。どうだろ?」

「うちら金管畑だしなあ。弦の連中に聞けばわかるかもしれないけど、同好会クラスの小さいサークルになっちゃうともうわかんないだろうし」

 

 話を聞く限り、ここにいる3人は楽器が全然違うためによくわからないということらしい。だとするとこれ以上話を聞いたところで有力な情報は期待出来ない。そもそもパンフレットを見る限り探している人物の名がないのだからこれ以上の長居も迷惑になるだろう。

 

「わかりました。貴重な時間を割いていただき、ありがとうございました。もし他の部員の方で何かわかる方がいらっしゃるようでしたら、こちらに連絡いただけますか?」

 

 穂樽はこの中でもっとも話が通じそうな女子へと名刺を差し出す。受け取った女子は「え!? 探偵だって!」と驚きの声を上げた。

 

「すっげえ! 魔術探偵所って、じゃあウドの探偵さんってことですか!?」

「え、ええ。まあ……」

「あたし小学校の時にちょっと魔術使いの人に会っただけだから、なんか憧れちゃうんですよ! 魔術で殺人事件から難事件までなんでも解決、とかやってるんですか!?」

「そんな便利なものじゃないですよ。それにそういう事件はまず警察行きで、探偵って言っても今やってる人探しとか浮気調査とか、そういう地味なものばかりですから……」

 

 そう説明するが、それでも大学生にはあまり馴染みがないからか魅力的な職業に感じられるらしい。3人とも目がさっきまでと違うように感じる。

 

「と、とにかく……。何かありましたらそちらの連絡先にお願いします。……あとお仕事の依頼のある方、特にウドの方で困っていることがある方などいらっしゃいましたら、うちを紹介していただければ同じウド同士話しやすいこともあると思いますので」

「お、ちゃっかり宣伝。お姉さんしっかりしてる」

 

 茶化されたことに若干顔は引きつったが、どうにか堪えて穂樽は立ち上がろうとした。そこで手にまだパンフレットを持ったままだったと気づく。

 

「あ、パンフレット……」

「持って行って大丈夫ですよ。余りはまだありますし、もしかしたらお仕事の手助けになるかもしれないでしょうから」

 

 気を利かせてくれた女子部員に再度礼を述べ、今度こそ穂樽は管弦楽部の部室を後にする。廊下に出たところでなんだか少し疲れたようにも感じていた。ウドだからと邪険に扱われることはなかったが、やはり名刺を出す瞬間は若干の不安がある。かつては名刺を出しただけで「ウドに話すことはない」と冷たくあしらわれたこともあった。自身がそう言われるのもつらいが、聞き込みが出来なくなることもつらい。それ故名刺を出すタイミングを計り、ある程度の情報を聞き出して帰り際に差し出すという我ながら小賢しいことをしたと穂樽は思っていた。

 おそらく疲れの原因はそこだろう。とはいえ、ウドの力になりたいと思っている以上「魔術探偵所」の名を変える気もない。ジレンマだな、と常々思っていることが心に浮かぶ。

 少し気を晴らしたいと思うと同時、無意識に右手がカバンの中を漁ろうとしていることに気づいた。煙草はここでは吸えない。どうせサークルの方から攻める線が消えた以上、ここに長居するのも無用だろう。時間も昼時に差し掛かりつつある、一服と昼食にするのがいいかと思う。

 しかしそれで帰ってもまだ八橋が来る時間には随分と余裕がある。それまで無為に過ごすよりも、多少なりとも集められそうなら情報を集めておいた方がいいだろう。

 

「……何でも屋受付嬢に話を振ってみるか」

 

 独り言を呟き、階段を降り終えてサークル棟のロビーへ。そのまま足を進めて入り口に近づいたところで、ふと穂樽は思い出したようにロビーの方を振り返る。既に先ほどまでいた男子学生4人の姿は見当たらなくなっていた。

 

 




管弦楽部員のモブとして登場させた下柚木は厳密にはオリキャラではなかったり。
小説版に登場したセシルの小学校6年生の時の同級生、下柚木果穂という裏設定で書いています。
「小学校の時にちょっと魔術使いの人に会っただけ~」というのは一応セシルを指してることになっています。
まあ本編に関わらない裏のお遊び的な要素です。


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Episode 1-3

 

 

 滑るような動きでパソコンのキーボードがタッチされていく。かなりの速度だが打ち間違いもなく、それがさも当然とばかりに赤縁眼鏡の女性は作業を続けていた。

 ディスプレイを見つめつつも、しかし彼女は来客には誰よりも早く反応している。入り口の扉に誰かが近づいてきたことに気づき、バタフライ法律事務所の事務員、抜田美都利(ばったみとり)はその手を止め、ドアの方へと目を移していた。対応しようと準備していた彼女だが、訪れた客に少々意表を突かれた。扉が開いて現れた顔は出かけていったアソシエイトが戻ってきたものではなく、かといっておそらく客でもなかった。

 

「こんにちは。失礼します。アポなしですみません」

「あ、穂樽さん。こんにちは。今日はどうしました、外注ですか?」

「外注、というところまで大仰でもないんですけど……。抜田さんの都合がよければ、ちょっとお力を貸していただきたいと思って」

「私の? ええ、構いませんよ」

「ありがとう。助かります」

 

 感謝の言葉を述べながら、穂樽は受付のデスクを迂回して抜田の側へと回る。そうしつつ、かつての職場であった室内を眺めていた。

 ウドを弁護する弁護士ならぬ弁魔士としてここにいたのは2年間、出て行ってからまだ1年と少ししか経っていない。なのに、妙に懐かしさを感じる。アソシエイトやパラリーガルの面々は昼食に出ているか、はたまた外部に出ているのか。各人のデスクについている人は少なかった。時折ここを訪れて顔を合わせることはあったが、やはりどうしても少し前のことを思い出してしまうのだった。

 

「あら。声が聞こえたと思ったらやっぱり穂樽ちゃんだったか」

「え? うそうそ、ほたりん来てんの?」

 

 と、その時階上の会議用スペースから聞き慣れた声が降ってきた。この事務所の総責任者で「ボス弁」である蝶野(ちょうの)アゲハと、アソシエイトの中では年長のリーダー格である左反衣(さそりころも)。2人とも穂樽にとってはかつての仲間であり、自分が独立したいという意思を示した時に力になってくれたよき理解者であった。

 

「アゲハさん、左反さん、お邪魔してます」

「仕事の話かしら? こっちからの委託はなかったと思うけど……。そちらから依頼?」

「そこまでではないんですけど、何でも屋受付嬢に相談というか尋ねようかと思うことがありまして」

「とかなんとか言って、万能事務員のばーみんをうまいこと使おうって魂胆? ほたりんってば随分としたたかになったこと」

「……痛いところ突いてきますね、左反さん。これは弁護してくれる人を探したいところです」

「じゃあその弁護は蝶野が引き受けるわ。かつての仲間なんだからそんな細かいことは気にしなくてオッケー、ってことで一件落着。……まあ左反ちゃんも本気で言ってるわけじゃないでしょうし」

 

 事務所のボスからの鶴の一声に、左反も「そりゃ勿論そうですけどね」と茶化して言っていたことを認め、話は収まる。別にこのぐらいはなんということはない。むしろ、左反の場合は同姓なのにセクハラまがいのエロネタを連発することの方が問題だ。

 

「それで、穂樽さんが私に尋ねたいことって?」

「えっと、昨日うちに人探しの依頼で来た女性がいたんですが……」

 

 穂樽は状況をかいつまんで説明する。クライアントの情報を外部に話すのは本来感心できないかもしれない。だが探している今川がウドである以上、ここのデータベースに情報があるかもしれないと思ったのと、何よりバタ法の皆を信頼しているという理由から、彼女は話したのだった。やり手のボス弁であるアゲハの意見に参考になる部分があるかもしれないと思った部分もある。

 

「……というわけなんです」

「なるほど。それで2人が通う大学の管弦楽部に行ったけどはずれだった、と」

「はい。前回の演奏会のパンフレットもらって部員確認できたので、多分間違いないです」

 

 言いながら穂樽はバッグからさっき貰った演奏会パンフレットを取り出し、抜田へと手渡す。メンバーの名前に目を走らせつつ「確かにいないですね……」とこぼした後で、「あっ」と彼女は口走った。

 

「何かありました?」

「いえ、全然関係ないんですが。……学生オケでブルックナーなんて珍しいなって思って」

 

 思わず苦い顔になっているのを穂樽は感じていた。さすが知識豊富な何でも屋受付嬢と感心すると同時、興味がないためにその辺りのことは全然わからない。

 

「抜田ちゃん、それ珍しいことなの?」

 

 興味も知識もないのはアゲハも同様らしい。横から口を挟んできた。

 

「はい。このプログラムだと4番の『ロマンティック』なんで比較的演奏しやすい曲ではありますが、学生オケの場合シンフォニーはもっと一般的な……例えばチャイコフスキーやドヴォルザークとかが人気です」

 

 それはさすがの穂樽も聞いたことがある作曲者の名前だった。くるみ割人形と新世界か、と具体的に思い浮かべられる。

 

「理由は色々ありますが……。関連性の大きいのは曲のとっつきやすさも含めての好まれる傾向と楽器編成の2点ですね。前者は演奏団体の嗜好によるのである程度なんとかなりますが、後者は団体の規模によっては如何ともしがたい問題です。その点、この大学のオーケストラは部員が非常に多いので、大編成の曲の演奏も可能なんだと思われます。……まあこの『ロマンティック』はそこまできつい編成ではないはずですけど」

「それは部員の子も言ってました。この部は人が多いのが強みだって」

「確かにすごい数いるわ。100人近くいるし、これだけいればきっと年下のいい男も……!」

 

 この人の頭の中は男のことしかないのか、と呆れた表情で穂樽は左反を一瞥する。が、当人は気づいていないのか、気づいていても気に留めないのか。まったく顔の様子に変化はない。

 

「穂樽さんが復元したメールのやり取りでは具体的に今川さんのバイオリンの音を耳にしてよかった、と言ってるわけですよね? なら、演奏会を聴きに行っての感想というのは考えにくいです。これだけプルト数の多いバイオリンの中で1人の音を聞き分けるのは……かなりの絶対音感があるならまだしも、普通は不可能です。さらにこう言ってはオケのバイオリン奏者の方に失礼かもしれませんが、ソリストでもない限り管打楽器と違って個人が特別目立つパートでもない。そもそも、演奏会の日とやり取りの日がずれすぎています」

「確かに……。そうね」

「なので大学の管弦楽部から、という線は完全に消えると思います。次は他の弦楽器で演奏するサークル、ということになりますが……」

 

 抜田は慣れた手つきで検索を始め、八橋と今川の大学の学生課のページを呼び出す。その中のサークル一覧のリンクへととんだ。

 

「正式に大学側が届出を受理しているサークルはこれだけですね。パッと見、弦楽器での演奏が考えられるサークルは……見当たりません」

「仮にあったとして、ホームページへのリンクすらないサークルも多いから、それじゃ連絡の取りようもないか……。サークルの線はお手上げね」

「大学オケでなく他大学、あるいは一般という外部のオケという可能性はありますが、それにしても絞り込みは厳しいかもしれません。別口を当たる方がいいと思います」

 

 一度穂樽はため息をこぼす。当たりをつけたかったが見当が外れてしまった。このまま八橋に報告してもいいが、折角ここにいる以上もう少し得られる情報があるなら得たい。

 今川が幻影魔術使いと推測している以上、同系統の魔術使いから話を聞きたかったが、生憎バタ法の幻影魔術使いであった鎌霧飛郎(かまきりとびろう)は穂樽がバタ法を抜けた少し後に高齢を理由に退職している。だが相変わらず元気でアイドルを追いかけているらしく、アゲハがどうしてもと頼み込むときは助力してくれるとは耳にしていた。しかし今はいないために、協力は仰げない。

 

「抜田さん、バイオリンのメーカーとかはわかります? 彼が楽器を構えてる画像はあるんですが……」

「さすがにそこまではちょっと自信ないですね。それにメーカーがわかっても現在の今川さんの居場所に直結する情報は得られにくいと思います」

「そうか……。そうよね……」

「ってかほたりん、その彼の画像あるなら見せなさいよ。いい男ならあたしが無償で協力してあげるからさ。なんならプレコグニション(予知魔術)もやってあげようか?」

 

 うんざりした様子で「あまりクライアントの情報漏らすのはよろしくないんでプレコグは遠慮します」と言いつつも、穂樽は左反に画像を見せた。しげしげと見つめて唸った後で、男好きのアソシエイトは感想を述べる。

 

「……パッとしないわね。そもそもあたしのタイプじゃないし。とはいえ、全然イケメンじゃないけど、まあギリギリオッケーって感じ?」

 

 いつか思った台詞そのままを言ってくれたと、穂樽は意図せず吹き出していた。その様子に左反が怪訝な表情を浮かべる。

 

「……何よ?」

「きっと左反さんならそういうこと言うんだろうなとか思ってたら、まんま予想したことを言ってくれたので、つい……」

「なっ!? ちょっとほたりん、あんたあたしのことどう思ってるのよ!」

「年中男祭り、男大好きセクハラ弁魔士さんですかね」

「あんたねえ!」

 

 事実を述べただけ、と穂樽は無視を決め込んだ。代わりにアゲハにも画像を見せて尋ねる。

 

「アゲハさん、この顔に覚えないですか? ここに来たことがあるか、とか」

「どうかしら。ピンと来ないけど……。ねえ、抜田ちゃん」

「はい。もう調べてます。今川有部志さん……。ここに来たことはないみたいですね」

「そうですか……。現状じゃここまで、かな。今日のところはあとは八橋さんに報告して反応待ちね。……すみません、お邪魔してしまって。助かりました。抜田さん、今度ご飯でも食べに行きましょう」

「あ、いいですね。その時はバタ法の皆も誘いますよ」

 

 僅かに穂樽の表情が緩む。営業スマイルとまではいかなくても、どこかぎこちないような、はにかんだ笑みだった。

 

「じゃあ私はこれで失礼します」

「ほたりん、もうちょいしてったら? 昼に出てる皆帰って来ると思うけど」

「いえ、忙しいのに邪魔しちゃ悪いですし。ノキ弁なわけでもないし、この後クライアントに報告する内容をまとめないといけないので、お(いとま)させていただきますよ」

 

 荷物をまとめ、穂樽は受付カウンターを迂回して入り口へと歩き出す。その背に、左反が声を投げかけた。

 

「仕事もいいけど、男っ気ないんじゃない? ちょっとは女磨いて男作る努力でもしてみたら? 今度合コンありそうなとき誘ってあげようか?」

「左反さんと一緒にしないでください。それに私の男性のタイプは左反さんと合いませんよ」

「ああ、そっか。年上趣味だっけ?」

「そういうことをはっきり言います? まあ時間がありそうなら、検討はしますよ」

 

 改めて頭を下げ、穂樽はバタ法を後にした。どこか寂しさの広がったような沈黙を破るようにアゲハが口を開く。

 

「……穂樽ちゃん、ちょっと無理してるのかもね」

「あ……。アゲハさんもそう思いました? なんか仕事命、みたいな感じだし、煙草も吸い始めたとか言ってたし……。それが悪いって言う気はないですけど、以前のあの子はもっと身だしなみとか気を使っていたと思うんですよね。まあばーみんとのダブル眼鏡……って、アゲハさんもいるからトリプル眼鏡か。そこは出来る女っぽくていいと思ったけど、昔のイメージから離れちゃって、コンタクトの方がいいのになとか思っちゃいました」

「そうね……。ああやって、あえて恋愛事情から距離を置こうとしてるのかもしれないけど」

 

 そうは言っても、穂樽に最終的に独立と今の職のアドバイスをしたのはアゲハ自身だ。元々プライドが高いのも、独りを好む傾向があることもわかっている。それを踏まえ、よりウドを受け入れる間口を広げたいという本人の望みと合わせて考えれば妥当な判断だったと今でも思っている。それでもかつて同じ職場で働き、今も仲間としての繋がりがあると考えている相手が以前より変わったのを見ると、どうしても心配になってしまっていた。

 

「でも当人は苦に思うどころか、やりがい感じてるみたいですよ。私は事務員ですから外注の連絡受けたりしますけど、声の様子とか思いつめてるようではないですし。さっきも悩んでる風には見えませんでした」

「万能受付嬢のばーみんがそう言うならまあ大丈夫なんだろうけど……。あんま仕事命ってのも、ねえ……。男無しでなんてあたしは無理だわ」

「それは左反ちゃんだからでしょ。……でも確かに彼女が決めた道なら、外野がどうこう口を出すようなことじゃないのかもしれないわね」

 

 最終的にはそこに落ち着いてしまうな、と改めてアゲハは思った。悩みがあるなら時々乗ってあげればいい。幸いバタ法に顔を出すことを本人はそこまで気にしていない様子だし、アソシエイトの面々と食事に行ったりすることもある。だとするならあまり干渉し過ぎない方がいいだろう。無論協力は惜しまないが、見守る立場として今のままの彼女を見ていこうと、バタフライ法律事務所の女ボスは思っていた。

 

 

 

 

 

 夜8時。普段ならとうに事務所を閉めている時間だったが、穂樽は事務所の応接用テーブルでまとめた資料に過不足はないか目を通しつつ、八橋が訪れるのを待っていた。結局今川に関する情報はある程度得られたものの、「探してほしい」という依頼自体の進展はあまりなかった、と言ってしまってもいい。

 こうなるとあとは復元できた画像等から八橋の記憶が戻ることを期待するしかない。それもダメなら、探偵の本分に則って足で稼ぎ地道な聞き込みとなるだろう。楽に済ませたい、と言うつもりはないが、早く依頼を完了出来るに越したことはない。

 

 そんなことを考えているうちに、階段を昇る足音が聞こえてきた。他の階に用がある人物の可能性もあったが、案の定、この階まで昇ったところでその足音は止まる。穂樽は小さく息を吐いて眼鏡の位置を僅かに直し、扉が開くのを待った。急ぎ足でここまで昇ってきたのとは対照的、丁寧にノックを挟み、穂樽の返事の後に開けられた扉はどこか控えめだった。

 

「失礼します。……本来なら時間外にすみません」

「いえ、気になさらないでください。どうぞおかけに」

 

 言葉通り本来の営業時間外の応対に、事務所に入ってきた八橋はどこか申し訳なさそうな表情を浮かべていた。穂樽はそんな彼女に笑顔を投げかけ、椅子へと促す。そのまま外の看板をクローズに変え、コーヒーメーカーから注いだカップを2つ机へと持ってきた。

 

「では早速ですけど、この一両日の報告をさせていただきます」

 

 一刻も早く話を聞きたいことだろう。八橋の心を汲み取った穂樽は前置きも短く、預かっていた携帯電話を彼女の前へと差し出した。

 

「結論から言いますと、携帯のデータの復元には成功しました」

「本当ですか!?」

 

 言うが早いか、八橋が昨日今日と手放していた携帯を手に操作を始める。カメラ画像の中に昨日までは見られなかったものがあったのだろう、その手が止まった。

 

「この、私と一緒に写ってる男の人が……」

「そうです。八橋さんが探している『彼』です。メール等から推測するに、名前は今川有部志さんというようです」

「今川……さん……」

 

 苗字でそう言ったきり、再び八橋は黙り込んでしまう。どうにか記憶を呼び起こそうとしているのかもしれない。穂樽はメールからまとめた情報を続けて報告した。

 

「大学、学年とも八橋さんと一緒のようです。ただ、年齢は1つ上、それから学部も特定できませんでした。それでも文面から推測するに、八橋さんとは違う学部と思われます。趣味はバイオリン、その線でも当たってみましたが、学内の管弦楽部には所属していませんでした。部外者に対しては大学の総務側も簡単には情報を開示してくれないので、申し訳ありませんが昨日今日だけで得られた情報はこのぐらいになってしまいます」

「それだけの情報を昨日携帯を預けてから今までに集めてくださったんですか?」

 

 携帯の画面から目を離し、八橋は穂樽を見つめながら問いかけた。表情に驚きと感心の色が混じっているようにも見られる。

 

「ほとんどは携帯の復元したデータ……プライバシーを覗き見たようで申し訳ありませんがほぼメールからです。部活の線でそちらの大学に今日聞き込みには向かいましたが、有力な情報はありませんでしたので」

「うちの大学まで聞き込みに……。なんだかすみません」

「いえ、こちらもそれが商売ですので。それにこの仕事の基本は足ですし」

 

 相手の心を慮って穂樽は優しい表情でそう返した。しかし一方で八橋は申し訳なさ気に目を伏せる。

 

「ありがとうございます、穂樽さん。でも、ここまでしていただいたんですが……」

「やはり今川さんのことは思い出せない、と」

 

 重々しく頷く依頼人。これで思い出してくれたのなら話は早いのだが、やはりそうは問屋が卸してくれないらしい。

 

「わかりました。お気になさらないでください。むしろつらいのは八橋さんの方でしょうから」

「……なんだかすみません」

「一応番号も復元できたのでかけてみたのですが、繋がりませんでした。もしかすると解約されているかもしれません」

「解約……?」

 

 今度深刻そうに頷いたのは穂樽の方だった。少しためらいつつも口を開く。

 

「これはあくまで私の想像に過ぎないのですが……。八橋さんの携帯のデータを消去したのは、今川さんではないかと考えています」

「えっ……?」

「彼に関するものは八橋さんの部屋からは何も出てこなかった……。もし恋人同士であれば、部屋に入るのは難しくない、自分が送ったものなどを回収することも出来るでしょうし、携帯をいじることも出来る……」

「ま、待ってください! じゃあ私の記憶はどう説明するんですか!?」

「今川さんは魔術使いでした。それは、復元したメールにそのことが書いてあったので、確かなはずです」

「でも、魔術使いは万能じゃないんですよね?」

 

 頷き、穂樽はウドについて大まかに説明を付け加える。確かに万能ではないが人によって使える能力が異なること。自分は自然魔術で砂を扱うが、他に風や水を操れる人もいること。その他にも金属を分解、収集して再形成する魔術や幻影魔術などがあること。そしてその幻影魔術なら記憶の操作も可能ではないか、ということ。

 

「じゃあ……。私の記憶はその彼が消した可能性もある、と……」

「幻影魔術に長けていれば、不可能なことではないはずです。ましてや、恋人同士という関係で相手に対する懐疑心が薄れているなら、なおさら抵抗感が薄れてかかりやすくなる……。催眠術にかかりやすい、というようなものだと考えてください」

 

 そこまで聞いたところで呆然と八橋は視線を宙に彷徨わせていた。「そんな……どうして……」という言葉が口を次いで出る。

 

「理由はわかりません。それに、最初に言ったとおりあくまで私の想像ですので、それが合っているかどうかもわかりません。そもそも今川さんはウドのようですが、使える魔術がどうかまでは判明していませんし。ただ、可能性としてありえるという話をさせてもらったということです。……混乱させてしまってすみません」

「あ、いえ、私の方こそ早とちりしてしまってごめんなさい……」

 

 互いに謝罪しあう形になってしまい、なんだか空気が少し重くなる。だがそれでも穂樽は十分にありえるこの予想をいずれは伝えなければならないと思い、あえて口にしていたのだった。

 

「とにかく、同じ大学で同じ学年、そして名前までわかればあとは学部がわかればほぼ絞り込めるのですが……」

「でも、うちの大学は全学部が同じキャンパスになりますから、かなりの人数がいますよ。それに学部が一緒でも学科が違えば人付き合いも希薄だったりしますし、そこからさらに専攻で別れるとかもあるので。彼……今川さんの交友関係がどれほどかわかりませんけど、実際私友達とかほとんどいませんし……」

「そこは……探偵の本業である足で稼ぎますよ。あまり目立つ動きをすると大学側からマークされてしまうかもしれませんが、明日も八橋さんの大学に足を運んで聞き込みをしようと思います。楽観視するのはよくないかもしれませんが、情報がかなり得られている以上、そこまで見つけ出すのに時間はかからないのではないかと思います」

「私も手伝います。教育学部なので、授業が被ってる別な専攻の人にもなんとか聞いてみようと思います」

 

 本来は自分の仕事なのだが、八橋も動かずにはいられないのだろう。穂樽は彼女の好意を受け入れることにした。

 

「では今日はもう遅くなってしまいましたし、このぐらいで。もし明日、学部の方に尋ねてみて何か進展がありましたらいつでも私の携帯を鳴らしてください」

「わかりました。……どうかよろしくお願いします」

 

 例を述べつつ帰る八橋を見て穂樽はため息をひとつこぼす。明日からはしばらく看板をクローズにして朝早くから行動を始めないといけない。事務所の電気を落としつつ、寝酒に一杯引っ掛けて今日は早めベッドに入るかと居住スペースに戻って思うのだった。

 

 

 

 

 

 ある街の一角。赤色灯が辺りを照らし、遠巻きに野次馬がそれを見つめる中、1人の男がいた。

 

「何の騒ぎだ?」

「強盗だってよ。しかも店員が目の前で宝石盗まれたのに全然気づかなかったとか」

「マジ? この時代に怪盗現る、ってか?」

「どうせ魔術使いの仕業だろ? 便利だよな、連中」

 

 野次馬達の話を耳にしつつ、男は露骨に顔をしかめ、その場を離れた。明日にはこの事件は世間を賑わす犯罪として取り上げられることだろう。押し寄せる後悔の念に、男は拳を血が出るほどに握り締めた。

 

「……キナ、俺は……」

 

 ポツリとそう呟いた男は、日が完全に落ちた夜の街へと姿を消していった。

 

 




やりたかったことの1つ、眼鏡穂樽と眼鏡抜田の絡み。さらにアゲハさんも入れてのトリプル眼鏡。
バタ法面々の正式登場は後ほどになります。

なお、きり爺こと鎌霧ですが、原作時点で既に86歳でこれはその数年後、普通に考えて高齢過ぎるだろうということで引退扱いにしてあります。

左反の穂樽に対する呼び方がアニメ4話において「ほたりん」だったのを確認したので、そっちに統一して修正しました。


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Episode 1-4

 

 

 翌日は穂樽の動き始めも早かった。シラバスはネットからダウンロード出来るためにどの授業にどの学部の人間が集まるのかある程度は予測出来た。そのために前日のうちに聞き込み用の時間割をタブレットPCにまとめてある。朝一の授業より早く学校に向かい、授業を受ける前の生徒から聞き込みを行う、という予定でいた。

 昨夜はどうにか寝酒が効いてくれたらしく、不規則な中での早い時間の就寝だったが眠りにつくことができ、今日も起床に成功している。とはいえ、朝食は低血圧気味で喉を通りそうにない。寝起きの一服だけを蒸かしてメンソールの爽快感で頭を無理矢理覚醒させることにする。移動中の車内か聞き込みを行えない授業中の時間に適当に朝を食べようと決め、身支度を整えて事務所を後にした。

 

 ビルの階段を下り、外に出たところでふと彼女は足を止めた。ファイアフライ魔術探偵所のあるビルの1階には喫茶店が入っている。そこの窓を丁寧に磨く中年の男性を見かけたからだった。相手も穂樽に気づいたらしく、作業の手を止め笑顔で挨拶をかけてくる。

 

「おはよう、穂樽ちゃん。今日は昨日以上に早いんだね」

「おはようございます。そういう浅賀(あさか)さんこそ、お早いですね」

「まあ、この店を続けるのが楽しみみたいなもんだからね。しょうがないんだよ」

 

 そう言って、一見強面気味にも見える若干黒っぽいレンズの眼鏡をかけた中年マスターは小さく笑う。1階の喫茶店の名は「シュガーローズ」、穂樽も時折コーヒーや軽食をごちそうになることもある店だ。

 そもそもこのビルの名は「浅賀ビル」であり、オーナーは今穂樽が話している浅賀和則(かずのり)その人である。浅賀もウドであり、かつてバタ法でアゲハに助けられたことがあった。その縁あって、丁度テナントが空いていた2階に穂樽は事務所兼住居を構えることが出来たという経緯がある。

 浅賀は真面目でまめな男性だ。加えて、見た目こそ少し怖そうではあるものの、一度話せば物腰柔らかいことがわかるし、ダンディとも言えるいい声は聞く心を落ち着かせてくれる。煎れるコーヒーは苦味がかなり強いものの味わい深く、サンドイッチをはじめとする軽食も絶品だった。このビルで世話になるようになって2年近くになるが、今の自分がこうしていられるのは浅賀のおかげの部分もあると穂樽は感じている。

 

「悪いね、まだ店は空けられないからコーヒーは出せそうにないんだ」

「いえ、時間外にお邪魔するのもなんですし、私も今日はあまり余裕があるわけではないですので。またの機会に、クライアントの都合がつきそうなら一緒に伺いますよ」

「そうかい。……なんだか催促しちゃったかな」

「そんなことありませんよ。浅賀さんのコーヒーもサンドイッチもすごくおいしいですから。……では開店準備頑張ってください」

「ありがとう。穂樽ちゃんも気をつけて。昨夜も宝石強奪事件があったとか物騒になってきたし。探偵さんって危険なこともあるだろうからね」

 

 感謝の意味を込めて笑顔を返し、穂樽は車が置いてある最寄の月極駐車場へと歩いていく。その表情は先ほどまでとは一転、硬いものに変わっていた。

 探し出す対象である今川については、既に入手できている情報は少なくない。うまくいけば今日中に八橋と再会させられる可能性すらあるだろう。

 しかし彼女の心に未だ引っかかっているものはあった。消されていた八橋の記憶と、今川の存在を証明する証拠。自身の仮説が正しければ消したのは他ならぬ今川だ。その結果、よろしくない事情が裏にあるのかもしれない。

 だが考えても埒は明かない。だったら、当の本人を見つけ出して問い質せばいい。とめどなく続きそうな思考をそう考えることで一時的に停止させ、穂樽は車のエンジンをかけた。

 

 

 

 

 

 八橋の通う大学の構内。その中にある数少ない喫煙スペースで、穂樽は今、煙草に火をつけて一服していた。

 穂樽はまず工学部の2年生の授業に狙いを絞った。経験則、というか彼女のイメージでは理系学部は必修科目が多い。つまり、同じ学部の人間のことを覚えていやすい、と踏んでの判断だった。だが朝一の授業前の聞き込みの収穫結果はゼロ。その後も工学部棟の中で幾度か聞き込みを行ったがやはり収穫はなし。さすがにあまりうろついていると怪しまれかねないと、一旦休憩を挟むことにしていた。

 そこで喫煙スペースを見つけたことが、強いて言えば最大の収穫だっただろう。我ながらしょうもない収穫だと自虐しつつも、煙草を吸う手は止まらない。誰かがここに来れば聞き込もうかとも思ったが朝早いからか誰も来ないまま、彼女の紙巻は葉の部分を燃やし切った。

 そろそろ1コマ目の授業が終わる。穂樽は喫煙所から離れて構内の適当なベンチに座り、荷物の中からタブレットPCを取り出して昨夜まとめた学部別の時間割一覧を呼び出す。

 もう1度工学部を当たるのは少々気が引ける。部外者がいることで怪しまれているかもしれないと考慮すればもう少し間隔を空けた方がいいだろう。となれば、次はどの学部に絞るべきか。穂樽がそんな風に考えていた、その時だった。

 

「あれ? 昨日の探偵さん、ですよね?」

 

 名前で呼ばれたわけではなかったが、まず間違いなく自分のことだろうと、穂樽はその声の方へと視線を向けた。そこに立っていたのはポニーテールが良く似合う女性。一瞬記憶を探り、昨日管弦楽部を尋ねた際に応対してくれた女子であることに思い当たった。

 

「ああ、昨日の管弦楽部の……」

「あ、覚えていてくれてどうもです。今日も聞き込みですか?」

 

 彼女の表情は明るい。珍しいことに首を突っ込もうとしているという好奇心が働いているのだろう。

 

「ええ、まあ」

「丁度よかった。昼休みか部活の前に電話しようかと思ってたんですよ」

「どうしました? 何かご依頼、ですか?」

 

 昨日宣伝したわけだが、今は八橋の依頼で手が一杯だ。受けたとしてまともに動けそうにはない。

 

「いえいえ。昨日探してた人。今川さん、でしたっけ? その人なんですけど……」

「見つかったの!?」

 

 思わず場所も考えず、反射的に穂樽は声量を上げていた。学生数名がこちらを振り返ったことに気づき、思わずばつが悪そうに俯く。それを見て苦笑しながら隣に腰を下ろしつつ、ポニーテールの彼女は続けた。

 

「期待させちゃってごめんなさい、そこまではいってないんです。でも、その人の学部はわかりました」

「本当?」

 

 間を持たせるために「えーっと、ちょっと待ってくださいね……」と断りつつ、彼女は手帳をめくる。

 

「あった。今川有部志さん、ですよね? 文学部2年、専攻はヨーロッパ文化専攻だそうです。さすがに80人もいる部なんで、昨日合奏後のミーティングで聞いたら一発で知ってる人出て来てくれました。……ああ、ついでに探偵さんの事務所も宣伝しておきましたよ」

 

 前半は喜ばしい情報だったが、最後のは穂樽としては少々困り顔を浮かべるしかなかった。確かに宣伝しつつ名刺を渡したのは自分だが、なんだか少々恥ずかしい気持ちが浮かんでくる。とにかくそれはひとまず置いておくこととして、穂樽は手にしていたタブレットPCを操作し、文学部の時間割一覧を呼び出した。

 

「うわっ! これもしかしてうちの大学のパソコンにハッキングして入手したんですか!?」

 

 タブレットを覗き込んだ彼女が驚いた声を上げた。思わず穂樽の表情が困り顔に変わる。

 

「人聞きの悪いこと言わないでください。シラバスは誰でもダウンロードできるじゃないですか。そこから2年生が関係しそうな時間割をまとめただけですよ。……文学部ヨーロッパ文化専攻の学生が受けてそうな授業は……あった。このコマの授業に彼が出てれば話は早いんだけど……」

「あ、それなんですけど……。私が聞いた部員が言うに、先週ぐらいから全然授業に出てきてないらしいです」

「先週ぐらいから?」

「はい。学部棟の中でも見かけない気がするって。まあ取ってる授業いくつか被ってるだけで話したことないから、詳しくはわからないそうですが」

 

 先週、と聞いて穂樽は八橋の消されていたデータを思い出す。最後に消されていたデータは確か1週間ほど前だった。さらに一昨日事務所を訪れた八橋が違和感を感じ始めたのも、医者に行ったのも数日前と言っていたのはず。つまりこれもその1週間ほど前、に合致する。

 出来過ぎている。やはり今川が八橋の記憶と自身の証拠を消したという推測が強くなる。だが学校に来ていないとなれば、彼はもう何かに巻き込まれた後、という悪い状況もありうる。

 しかし学部、さらには専攻が絞れただけでかなり有力な情報だった。あとは交友関係があることを祈るばかり。うまくいけば住居も割り出せるかもしれない。そうなれば張り込みで捕まえられることもあるかもしれないし、無理でも何かしらの情報を得られる可能性は高い。

 

「ありがとう、十分過ぎる情報よ。何かお礼したいところだけど……」

「あ、じゃあ今巷で話題の、昨日起きた宝石強奪事件解決してくださいよ!」

 

 急に瞳を輝かせたポニーテールの彼女に、思わず穂樽は呆れた表情を浮かべていた。その事件は出てくる前に浅賀も触れていたし移動中にラジオで報道されたのでそれとなく知っている。閉店直後の宝石店に不審者達が侵入。しかし店員は怪我もなく、負傷したのは警備員のみ。しかもその警備員以外宝石が強奪されたことすら気づかなかった、という妙な事件と報じられていた。確かにゴシップな話題として面白がられそうな事件だと思うが、生憎穂樽はそういう事件を解決する探偵ではない。

 

「昨日も言いませんでした? 探偵って言っても地味な依頼ばかりだって。そういうのは警察が解決してくれますよ」

「うーん、そうですか……。残念。じゃあ適当に貸し、ってことで。もし私がお世話になることがあったら、その時はサービスでもしてください」

 

 果たして強奪事件を解決しろという話はどこまで本気だったのか。ポニーテールを振るわせつつ、管弦楽部の彼女は満面の笑みを浮かべて立ち上がっていた。深く考えても仕方ないかと、改めて感謝の言葉を述べて穂樽も立ち上がり、文学部棟へと向かった。

 

 

 

 

 

 思わぬところで入手できた情報はかなりの助けとなった。1コマ目終了後に狙いをつけた授業の学生に聞き込みをしたところ、今川のアパートを訪ねたことがあるという人物を見つけることに成功した。いくつが授業が被っているが、さっき聞いた情報の通りここ1週間ほど姿を見ていないことが確認できた。穂樽は自分が探偵であることを明かし、恋人が探していることと携帯にも繋がらないことを話すとアパートの部屋番号まで教えてくれた。「そこまで仲がいいわけじゃないけど何かあったとしたら気にはなる」ということだった。

 

 今、穂樽はその今川が暮らしていると言われたアパートの近くにいた。彼の部屋は大学から少し離れたアパートの3階にあるらしく、そこが見えるような場所から張り込みをしているところである。主要道路付近にあったため、すぐ近くに大きな駐車場を構えた牛丼チェーン店があり、張り込むには絶好の環境であった。少々店には悪いと思いつつも、場所代、というわけでもないがそこで昼食を購入し、車内で食べながら穂樽はアパートの方を窺っていた。

 

「……これだと男の胃袋は掴めないわね」

 

 男を掴むなら胃袋を掴めとは、かつて自分も言ったっけな、と彼女は思い出す。とはいえ今の一言は特に食べられないとかまずいという意味合いからこぼしたわけなどでは全く無い。チェーンということで無難にまとまった味ではあるが、やはり押しに欠ける、と思ったからだった。そこは作り手の真心とか愛情とかが最高の調味料になるのかな、などと随分と乙女なことをふと考えてしまって苦笑を浮かべ、牛丼を買ったついでに自販で購入したお茶を流し込んだ。

 穂樽が座っている場所は車の後部座席である。使用している車には多少手が加えられており、この後部座席の窓はスモークガラスになっている。これで横から覗かれにくくなり、さらに後部にいることで前方からも中の様子を窺われにくくなる。張り込み時の常套手段だ。長期戦に向いている点も合わせ、やはり車を持って来て正解だったと彼女は思っていた。

 

 それから今川が暮らしているはずの部屋に対してももうアプローチ済みだった。5階建てのアパートだったが、オートロックの建物でなく、外に階段があったことは非常に助かった。セキュリティ的には弱いことに他ならないのだが、おかげで戸口の前まで行きやすく、また階段の様子を外から窺えることで観察もしやすい。

 まず手始めに、小細工を一切抜きにして部屋のインターホンを鳴らした。が、反応はなかった。部屋の電気メーターの回り方を見るに、居留守ではなく本当にいないと考えるのが妥当とも思えた。

 それでも居留守だった場合を考慮し、ドアの隙間に書置き代わりのメモを挟んでおいた。部屋の中に人がいれば、これが気になって回収する可能性があり、そうなれば居留守であることがわかる。さらに少々禁じ手ではあったが、特別に魔力反応を高めて調合した砂を少々、郵便受けから中に忍ばせておいた。この砂はセンサーの役割を果たし、踏めばそのことが穂樽に伝わる、という仕組みである。部屋の玄関の砂を踏む、ということはやはり部屋の中に誰かがいることとなる。

 しかしたまたま外出していただけ、という可能性はありうる。そのために今張り込んでいるわけだが、どうにも長丁場になりそうだった。穂樽の見立てでは、もう今川はここで生活していないという予感がしている。それでも現状で他のどこに行ったのかという有力な情報がなく、かつ僅かな可能性でもある以上は張り込まなければならないだろう。

 

 牛丼を平らげ、お茶で喉を潤す。ああ、こんなことをしているからニャニャイーや左反にガサツだの女を磨けだの言われるんだろうなと、彼女は自嘲的に笑みを浮かべた。しかしわかっていてもまだあまり直すつもりはない。その証拠に、既に左手には煙草の箱が握られている。残りは10本。長丁場を戦い抜くには少々心許ない本数だが致し方ない。まずは食後の一服と、彼女は1本目を口に咥えて火を灯した。

 

 

 

 

 

 それから数時間が経過した。アパートの今川の部屋への訪問者はなく、様子に変化もない。煙草もついに在庫が切れた。来た当初は昼食前の時間だったが、既に時刻は夕方。センサーの砂に変化は全くなし。もはや居留守の線は消していいだろう。となると、戻る可能性の低いアパートに張り込むよりも別な情報を探した方がいいかもしれない。加えて――。

 

「見られてる、かな……」

 

 車越しに、ここしばらく穂樽はそんな気配を感じてもいた。確かに張り込みをしていると不審がって見てくる人は少なくない。それをあまりにも感じる場合にはその場での張り込みを諦め、場所を変えるなり日を改めるなりすることはある。

 が、今感じているものはそういう類ではなかった。牛丼屋の店員が迷惑がるようなものではなく、もっと敵意すら感じる、何か危険な視線。それが明らかに自分の方へと向けられている。

 最初に今川の部屋のインターホンを押して戻ってきてからしばらくはそんな視線はなかったはずだった。感じ始めたのはこの小一時間ほど前から。先ほど穂樽が使った砂のセンサーのようなものを今川の部屋付近に張っており、それに気づいて誰かが来たか。あるいは左反が得意とするような予知魔術で自分の訪問を予知したか。それとも居留守はほぼありえないはずだが今川か、あるいは他の誰かが中にいて助けを呼んだのか。

 いずれにせよ、虎穴に入らずんば、と彼女は腹を括った。かなり危険な予感はするが、当人のアパートに張り込んでこうなっている以上、間違いなく今川絡みの一件であろう。なら敢えてその誘いに乗り、新しい情報を狙うことにする。バッグの中を入念に確認し、穂樽はドアを開けてロックしてから車を離れてアパートへと向かった。

 

 やはり視線は感じる。正確にはわからないが、おそらく3名程度。不意打ちにだけ気をつけつつ、あくまで気づかないフリをして彼女はアパートの階段を3階まで昇っていく。

 今川の部屋の前に着くと、穂樽はまずインターホンを押した。反応は9割9分ありえない、故に期待はしていない。その間に自分が挟んだ紙がまだ健在であること、中の砂のセンサーはやはり変化がないこと、電気メーターを見上げて回りが遅いことを確認する。

 そうしつつも、殺気、とまで言ってもいい気配が階段付近まで近づいてきていることを彼女は感じていた。だがあえてもう1度インターホンを鳴らし、ドアをノックする。

 

「今川さん? いらっしゃいませんか? 大切なお話があるのですが」

 

 あえて大きめの声を出す。これで自分が「今川という存在を探している」ということは階段付近に待機する相手にも気づいてもらえたはず。

 穂樽は一度大きく深呼吸した。おそらくここから危険な橋を渡ることになる。弁魔士時代に何度か鉄火場を経験した彼女のカンが、そう告げていた。

 

 案の定、その予想は的中した。3階から2階へと降りかけたところで、サングラスにマスクで顔を隠した男3人が穂樽の行き先を阻むように立ち塞がっていた。

 

「あの……通していただけますか?」

 

 わざとらし過ぎない程度に穂樽は男達に告げる。が、当然相手はそうするつもりはないとばかりに動かない。

 

「姉ちゃん、今川の奴を探してんのか?」

 

 ビンゴ、と内心彼女はほくそ笑んだ。やはりこの連中は今川絡みの人間らしい。しかしそれを表情に出さないように心がけて質問を返す。

 

「今川さんのことを知っているんですか?」

「ああ、知ってる知ってる。……知ってるけどさあ」

 

 瞬間――先頭にいた男が手をかざした。同時に突風が吹き荒れる。

 魔風使いのウド。そう頭で判断するより早く、穂樽の体は宙に浮き、階段の先の壁に体を叩きつけられていた。

 

「がはっ……!」

 

 背中をしたたかに打ちつけ、穂樽の顔が苦痛に歪む。肺の中の空気が吐き出され、痛みで呼吸が正しく保てない。

 

「今見つけられちゃうとちょーっと困っちゃうんだよねえ」

 

 男達はゆっくりと階段を上がってくる。飛び降りる以外、ここの他に下への道はない。退路を塞いだ男達は顔を隠しているせいで表情を窺い知ることは出来ない。だがほぼ間違いなく、獲物を追い詰めた者の目をしているだろうことは容易に想像がついた。

 

「ま、姉ちゃんそこそこ美人だし、大人しく俺達についてきてくれるってんなら、こっちもそんなに乱暴はしないで可愛がってあげるけど?」

 

 挑発的な物言いにクールな穂樽の頭にカッと血が上った。右手上着のポケットに入れ、何かを投げつけつつ怒鳴り返す。

 

「馬鹿にしないで!」

 

 投げられたのは、砂の詰まった小型容器だった。それに向かって彼女が右手をかざすと、中に入っていた砂が暴れるように飛び出す。穂樽の使用する砂塵魔術の能力だ。不意を突かれた先頭の風使いはその砂の攻撃を浴び、サングラスを吹き飛ばされ悲鳴を上げつつ踊り場へ転げ落ちていく。

 

「この女、ウドか!」

「なめやがって!」

 

 残された片方の男の手に火球が生まれる。魔炎魔術。自然魔術の中でも破壊力に富む危険な魔術だ。まずい、と直感的に悟り、穂樽は痛む体を立ち上がらせその場を飛び退く。一瞬遅れて紅蓮の炎が壁に命中して小さく爆発を起こし、その熱気が穂樽の肌に触れた。

 そのまま穂樽は階段を上へと駆け上がる。だが男達の行動も早かった。

 

「逃がすかよ!」

 

 続けて火球が飛んでくる。咄嗟に穂樽はもうひとつ容器を放り投げて目の前に砂の壁を作って防御するが――。

 

「キャアッ!!」

 

 火球が砂の壁にぶつかると同時、それは爆ぜ、穂樽を吹き飛ばした。かけていた眼鏡は宙に舞い、華奢なその体は踊り場の手すりを越え、3階の高さから重力に引かれて自由落下。ややあってドスンという重い音が、辺りに響き渡った。

 

「バカ野郎! おめえは加減ってものを知らねえから!」

「う、うるせえ! 派手にやりすぎた、とにかく逃げるぞ!」

 

 男達は3階から吹き飛ばした穂樽のことを確認せずに、脱兎のごとく駆け出す。魔炎魔術の爆発の衝撃に加えて3階からの落下だ。下手をすれば助からない。助かったとして、しばらくは病院生活だろう。故に階段の逆側に落ちたということも相俟って、確認の必要はないという判断だった。

 

「下手に嗅ぎ回ったあんたが悪いんだぜ、姉ちゃんよ」

 

 全く悪びれた様子もなく、魔炎魔術を放った男は聞こえないとわかっていながらも穂樽の方に向かってそう吐き捨て、その現場から離れて行った。

 

 

 




他の自然魔術はいいんですが、砂塵魔術だけは解釈に悩みました。炎はまあ空気中発火でいいだろうし、水も大気の成分を云々で使えそうだし、風は文句なく扱いやすい。でも砂は媒介が空気中にはないのではないかと。
なのであくまで「砂の入った小型容器を持ち歩き、それを媒介に魔術発動」という形で今回は使用しています。
実際穂樽が魔術を使ったシーンはほぼ地面がある場所で下から上へと魔術が展開してたと記憶してますし、7話では塩が入っているらしい小瓶を投げつけてその塩が砂塵だから操れる、ということで媒介に発動している様子が窺えました。
でもラストで魔法廷内で使ったときや4話の覚醒したセシルを見る限り、屋内で瓦礫や床辺りを砂塵状にして使用してるので、砂に限定しなくても使えるのではないかとも考察しています。
まあ「魔力で一時的に作り出せる」とか考えると、この辺り細かく考えずにすむことではあるんですが。


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Episode 1-5

 

 

「いっつ……。手荒に来るのは想定してたとはいえ遠慮なしか、まったく……」

 

 魔炎魔術の爆発と3階からの落下。それを経てなお、愚痴をこぼす余裕を見せつつ、地面に横たわっていた穂樽はゆっくりとその身を起こした。体は痛むが動けないほどではない。せいぜい打撲だろう、という見当をつけ、荒い呼吸のまま背を壁に押し付けつつ立ち上がった。

 

「……下手したら死んでたわよ。これ……」

 

 改めて自分が落ちた高さを確認して、一瞬背筋が冷たくなる思いだった。魔炎魔術の爆発を受けて3階と4階の間の踊り場から放り出されたのだ。何もしなければ今意識があったか、ひょっとすると今後戻るかも怪しい状況だっただろう。

 だが落下と同時に既に穂樽は対策を講じていた。落下しつつも砂塵魔術によって空中に複数の壊れやすい砂の層を形成させて落下の勢いを殺し、さらに地面にも砂場よろしく砂のベッドを展開させた。これらをクッション代わりに使用したことにより可能な限り落下の衝撃を吸収させ、ダメージを最小限に抑え切っていたのだ。

 

 一度深呼吸する。最初に打ちつけ、今も再度衝撃に晒された背中をはじめ、衝撃を吸収させたとはいえ体のあちこちがまだ痛む。だが我慢できないほどではない。穂樽は自分と共に砂のクッション付近に落下したバッグを拾い上げる。

 

「多分荷物は大丈夫だと思うけど……。ああ、飛ばされた眼鏡どこかしら」

 

 通常時より少々ぼやける視界で地面を探す。その視線の先に目的のものを見つけ、穂樽はそれを拾い上げた。が、すぐにその表情に苦いものが混じる。

 眼鏡は砂のクッションの範囲外のアスファルト部分に落下してしまったらしい。レンズは真ん中にパックリとヒビが入り、フレームも酷く歪んでしまっていた。もはや修理は不可能だろう。少し気に入っていた眼鏡だったのに、と落胆しながらも彼女はバッグの中から別の眼鏡ケースを取り出した。尾行時などに変装用とまではいかないまでも少し印象を変えるために用意している予備眼鏡。今壊れたのが赤のメタルフレームだったのに対して、今度は黒色のセルフレームの眼鏡をかける。ぼやけていた視界が元に戻ったが、そのせいで愛用していた眼鏡の破損状況をよりはっきりと目にしてしまって思わずため息をこぼした。同時にコンタクトで飛ばされていたらここを這って探していた可能性もあったと考えると、やはり眼鏡は気楽でいいとも思うのだった。

 

 とにかく、今の騒ぎでもしかすると野次馬が寄ってくるかもしれない。荷物の中の機器の確認を早くしたかったがまずはここを離れるのが優先と、穂樽は何事もなかった顔をしてその場を離れた。改めてもう視線はないことを感じ、そのまま車へと戻り、今度は運転席に乗り込む。

 荷物を取り出し、まずタブレットPCの液晶が無事かを調べる。ケースを用意していたのは正解だった。荷物の中で高価な存在のこの電子機器に異常はないらしい。起動も確認できる。

 次にバッグの最も底、今回の肝である機材を取り出し、その状況を確かめた。

 

「……よし、これなら」

 

 その機材――ピンホールレンズを取り付けられてカスタマイズされたビデオカメラの録画状況を目にして、穂樽は口の端を僅かに上げた。彼女の仕事用のバッグには人目につかない程度に僅かな穴が空けられており、そこから今回の状況を一部始終録画していたのだ。少々不鮮明ではあるものの、穂樽がサングラスを吹き飛ばした相手の顔は映りこんでいる。今川が絡んでいる人間の顔が割れたのは大きいだろうし、これを証拠とすれば相手を魔禁法違反で訴え、そこから余罪追求で聞き出すことも可能になるかもしれない。もっとも、彼女はその程度ではなくもっと有意義にこの情報を利用しようと思っているのだが。

 

 ビデオをバッグに戻し、一服しながら帰るかと思ったところで、煙草はさっき全て吸い切ったことを思い出した。とりあえずコンビニに寄ろうとエンジンをかけようとして、今度は右腕に軽く痛みが走る。他にも痛みがある部分は多い。医者に行くほどではないだろうが、帰ったらニャニャイーに湿布を張らせるなり対処した方がいいかもしれない。寄るところに薬局も追加、そして眼鏡も壊されたと思い出し、眼鏡屋で新しいのを見繕わないといけないことにも気づく。とんだ1日になってしまった。

 今日で今川を見つけ出せるかもしれないという当初の目算はどこへやら。いつの間にかこの件には危険で不穏な空気が渦巻き始めていた。やはり今川は何かに巻き込まれている。そのために意図的に八橋から距離を置いたのではないだろうか。

 少なくとも今川の周囲を嗅ぎ回っていた自分に対して、相手は何の躊躇もなく魔術を行使してきた、危険な存在といえる。そういう相手なら詳しく知っている組織の人物に心当たりがあるし、情報を得られるだけの対価もある。明日はそっちの線を当たろうと、穂樽は車のエンジンをかけ、数時間ぶりに駐車させ続けていた場所から車を動かした。

 

 

 

 

 

「……以上が、今回の事件における現状の報告となります」

 

 空気の重い会議室。その空気同様のどうにも拭いがたい心のまま、江来利(えらり)クイン警部は発言を終えると椅子に腰を下ろした。向かい合う形で前に座る上層部は浮かない表情でその資料に目を通している。

 

「つまりはどうしても後手に回ってしまう、ということか。犯行グループは魔術使いにほぼ間違いはないな。しかし如何せん連中の正体が全く掴めん。盗難品も捌かれていないために足もついていない。資料にあるこの男が決定的に怪しいとはいえ連中と繋がっているという明確な証拠もない。まず居場所を早急に突き止めた上でもう少し泳がせ、それから一網打尽にするしかなかろう」

 

 それこそが後手以外の何物でもないだろう、とクインは喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。警部という自分の立場よりも上の人間の発言にここで噛み付いてもおそらくは相手にされない。彼女としては泳がせる前に捕まえて尋問すれば済むだろうという意見だった。泳がせた結果失敗、などとなれば被害が拡大し、さらには犯人グループの取り逃がしにも繋がりかねない。

 だが泳がせる相手が魔術使い、それもそこから辿り着きたい面々もおそらく魔術使い。加えて情報が少ない。さっき言われたとおり、この重要参考人の男が犯人グループと繋がっているという証拠もない。結局は後手に回るしかないのだとクインは自分に言い聞かせることにした。

 

「では対策会議をこれで終了する。各人気を抜かず情報収集に当たるように」

 

 空気が一気に軽くなり、クインは天を仰いだ。そのまま自分の書類関係を隣の席の人間の方に流し、足早に入り口へと向かう。背後から「あ、警部待ってくださいよ!」という声が聞こえてきたが、彼女は無視を決め込んだ。

 そのまま部屋を出て、「宝石店強盗事件対策会議」という文字を目にして小さく舌打ちをこぼす。事件自体は一昨日の夜、昨日丸1日情報収集に当たったのに有力情報はまともに集まらず対策らしい対策も出来ていない。この状況で犯人を泳がせるなど、やはり後手でしかない。次にどの店が狙われそうか見当もつかない以上仕方ないとはいえ、それで何が対策だと、彼女はささくれ立った心を落ち着けようと愛しの喫煙スペースへと足を進めようとする。

 

「クイン警部! 待ってくださいって!」

 

 だがそんな彼女を呼び止めたのは彼女の部下でもある警部補だった。神経質そうな顔の彼は困った表情を浮かべつつクインの元へと駆け寄る。

 

「なんだよ? 会議終わったろ。あたしの書類、机の上に置いといて」

「いやそれは構いませんけど……。どこ行くんですか?」

「んなもん一服に決まってんだろうが。どんだけあたしのパートナーやってんだよ?」

「……まだ1ヶ月ですけど」

 

 呆けた風に視線を宙に泳がせ「……ああ、そういやそうだったな」と残し、だが彼女はその場を立ち去っていく。

 

「ちょっと警部!」

「一服終わって戻ったら話聞くよ。それともお前も喫煙所来るか?」

「僕は嫌煙家なんですよ」

 

 だったら知らんとばかりにクインは目も合わせずに立ち去りつつ、背後へと手で追い払うジェスチャーを見せた。

 

 チェーンスモーカーでもあるクインは腕は立つものの少々過激、部下の扱いも荒いと評判のキャリア組女警部だ。ついでに必要以上にゲンを担ぎたがるのも面倒な特徴である。実際彼女のパートナーにつく相手は基本的に長続きしなかった。今の相手は先ほどの言葉通り1ヶ月の付き合いだが、この数年間、1番長くて半年、最短では1週間で音を上げた相手もいた。

 そうやって考えると、かつての相棒であった静夢(しずむ)は文句を言うことも多かったが、付き合い自体は長く続いたなとふと彼女は思うのだった。

 最終的には不幸な運命に振り回され命を落とした静夢のことを考えると、殺されかけたとはいえクインはどうにも彼を憎み切れなかった。愚痴をこぼしつつも自分についてきてくれたし、真実を知ったこともあって恨む気持ちは不思議と沸かずにいる。魔術使いを嫌悪していたはずの自分だが、その悪態を聞いていた相手が実は魔術使いだった。ウドは公職に着けないという前提が破られているわけではあるが、一方的な偏見とわかった上で文句を言っていた相手がその対象では、彼は腹に据えかねたものがあったのかもしれない。

 そのことを謝り、向こうの言い分も聞いた上でちゃんと和解したくとも、彼はもういない。それが少し、寂しく感じることもあった。

 

 よくないな、とクインは頭を掻いた。かつてのパートナーのことを思い出し、どうにも過去に引き摺られている感じを覚える。先ほどの対策しきれてない対策会議から考えが後ろ向きになっているせいだろう。もうすぐ彼女にとっての安息の場である喫煙所(シャングリラ)に着く。一服すればそんな気も晴れるだろうと考えていた。

 だがその思いは見事に裏切られた。よりにもよってこのタイミングで喫煙所は清掃されている。利用など出来そうにない。

 

「……もしかして、吸えない?」

「申し訳ありません。外の喫煙所なら多分大丈夫だと思います」

「外遠いのわかるでしょ? 1本だけでいいんだけど」

「勘弁してくださいよ」

 

 続けて文句をつけてもいいが疲れるだけだ。再び頭をガリガリと掻きむしり、そういえば今日の運勢は12星座中最下位だったとクインは思い当たった。まったく嫌な日だと思い、言われたとおり外の喫煙所を目指すことにする。

 

 幸い外の喫煙所は誰もおらず、問題なく一服できそうだった。大きくため息をこぼしてクインは懐から煙草を1本取り出して咥えた。続けてマッチを取り出そうとケースの蓋を開けたところで、再び今日の運勢のことを思い出すこととなってしまった。

 マッチが1本も無い。バッグに予備こそあるものの、今この場では火が無い。魔術使いならここで火でも起こせたか、などとあまり好ましく思っていない存在のことをふと考えてしまう。

 つくづく今日はついてない。再びため息をこぼし、諦めて彼女が煙草をしまおうとしたところで、不意に目の前にライターが差し出された。本来はマッチの香りを楽しみつつ最初の煙を味わうのが彼女のスタイルなのだが、この際背に腹は変えられない。素直に好意を受け、ライターの火をもらって煙を肺に流し込んだ。

 

「どうも。助かっ……」

 

 煙を味わって吐き出してから、改めて火を貸してくれた相手に礼を述べようとしてクインは固まった。火を差し出した相手はそんなクインの様子を気にも留めず自分の煙草にもそのライターで火を灯す。そうしてから煙を吐いて営業スマイルと共に、黒色のセルフレーム眼鏡のレンズの奥にある視線を合わせて軽く頭を下げた。

 

「こんにちは、クイン警部。奇遇ですね」

 

 白々しくそう言われた台詞に、名を呼ばれた警部は顔をしかめるしかなかった。

 

「やっぱ今日は運が悪いらしいわ。……また何か情報がほしいの、元バタ法の探偵さん?」

「穂樽です。名前、覚えてくださいよ。それともいつもと眼鏡違うんでわかりませんでした?」

「はいはい。んで、何の用?」

「いえ、たまたまこの辺りを散歩していたら、たまたまクインさんが火が無くてお困りのようだったので」

「よく言うよ、ったく。どうせあたしを探して中に入ろうとしたら丁度ここに来て火がなかったのを見かけた、ってとこでしょ?」

 

 肯定も否定もせず、穂樽は煙を吐き出した。その様子にクインが舌打ちをこぼす。

 

「で、用事は何よ。あたしも暇じゃないのよ」

「一服する暇はあるのに、ですか? ……まあおちょくっても話進まないし本題に入ります」

 

 穂樽は携帯を取り出し、画像を映してクインへと見せた。

 

「この人、知りません?」

「あのなあ、警察が誰でも知ってると思ったら……」

 

 咥え煙草のまま言いかけた言葉をそこで切り、彼女は穂樽の携帯の画面に見入っていた。あまり特徴らしい特徴もない、見た目パッとしないどこにでもいそうな青年の画像。だがそれを凝視しているクインから明らかな動揺を感じ取り、すかさず穂樽は畳み掛ける。

 

「知ってるんですね?」

「……あんた、こいつのことどこまで知ってる?」

 

 質問を質問で返される形になったが、気にせずに穂樽はその問いに答える。

 

「今川有部志、21歳のウド。都内のある大学の2年生。ただし少し前から授業に顔を出さなくなり、同時にアパートにも不在の模様。現在行方不明。私の依頼の対象です」

「依頼の対象? こいつ探してるのか?」

「ええ。少々まずいことに巻き込まれてそうなんで。実際私も彼を訪ねたら結構危ない目に遭いましたし。クインさんなら何か知ってるんじゃないかと思ったんですが、ビンゴだったみたいですね」

 

 クインは深く煙を吐いた。次いで難しい表情のまま呟く。

 

「……まずいどころの話じゃないわよ」

「やっぱり……。何があったんですか?」

「こいつ、うちで最重要人物としてマークされそうになってる。今足取り追ってるとこ」

「最重要……!?」

 

 ゆっくりとクインは頷いた。

 

「一昨日の夜、都内の宝石店で強盗事件あったのわかる?」

「ニュースで騒がれてますよね。確か、閉店直後の宝石店に不審者数名が侵入。店内の宝石がほとんど強奪された事件だとか。……一方で店内にいた店員に被害は無く、警備員1人が軽傷を負っただけで、店員は事件があったことすら曖昧という不可解な点もある」

「そう。ご丁寧に犯人連中は全員顔を隠し、さらに監視カメラを破壊していった。その上今あんたが言ったとおり、襲われた警備員以外からは『盗まれたことすら気づかなかった』とまともな証言もなくて、証拠もほとんど挙がっていない。さらに盗難品も捌かれていないために足もついておらず、あたしらもお手上げ状態。……でもひとつ有力な情報が挙がっている。閉店間際、1人の男が店に入り、店内をやけにうろついている不審な行動が記録に残されていた。それが……」

「今川だった……。それなら線が繋がる……。なるほど、そういうことか……」

 

 唸るように呟いてから、穂樽は煙を吸い、吐いた。

 

「何が線が繋がってそういうことなのよ? 思い当たる節でも?」

「ええ。今川を探してほしいと言って来た依頼人、今川の彼女ということになってる人物なんです」

「恋人が下手すりゃ容疑者か。そりゃ災難……ん? 『ということになってる』?」

「記憶がないらしいんですよ。彼氏のことだけ、すっぽりと。だから『いたはずの恋人を探してほしい』という曖昧な依頼をしてきました」

 

 遠まわしな物言いだったが、クインはそれで何かを察したらしい。灰を灰皿に落とし、口を開く。

 

「あんたよくそれで依頼受けたな。んで、その女もグル?」

「それはありえません。彼女が嘘をついているようには見えませし、状況的にも非常に考えにくいです。ちなみにウドでもありません。私は今川が幻影魔術使いで、彼女の記憶を消したと思っています」

「……そこまで推理出来てるか。なら特別に教えてやるよ。……お前の言うとおり、魔術の届出登録を調べたら今川の使用魔術は幻影魔術だ。それはこっちで調べがついてる」

「やっぱり……。だとすると、彼女の記憶の欠落も、その強奪事件の説明も可能かと」

「そう、その通り。彼女の記憶の件は置いておくにしても、あんたの言いたいことはわかる。こう言いたいんでしょ?」

 

 煙草を口元まで持って行き、吸う直前でクインは話をまとめた。

 

「閉店間際に店に入った今川は店員に幻影魔術をかけ、その後の出来事を認識出来ないようにした……。まあ白昼夢か集団催眠状態、ってとこね。そして強盗集団が入ってきて監視カメラを破壊後、店員の目の前で堂々と宝石を強奪、しかし幻影魔術影響下になかった警備員に目撃されたために魔術を行使して怪我を負わせた。それが事件の顛末だ、と。……もっとも、今川と犯行グループを繋ぐ決定的な証拠はまだないんだけどね」

 

 そうまとめ終えると最後の分の葉を燃やして煙を吐き出し、クインは火を揉み消した。もう1本吸うかという意味を込めて穂樽がライターを構えるが、それを手で制する。

 

「やっぱマッチの火の方がうまいわ。ま、助かったよ」

「どういたしまして。……それよりもし犯行に加担したというその線でいったとなると、今川もまずい状況ですよね?」

「犯人連中との関わりあい次第。最悪実行犯で1人怪我させた以上強盗傷害、事情があってやむなく協力だとしてもよくて窃盗幇助(ほうじょ)でどのみち魔禁法にも引っかかる。状況は悪いだろうね」

 

 一瞬黙り込み、穂樽は煙草を燻らせる。そうしてから、ゆっくり口を開いた。

 

「……もしも私が横から彼を確保しようとしたら?」

「警察にケンカ売ることになるかもよ? 場合によっちゃあんたも公務執行妨害でしょっぴかれかねない。確かにバタ法ってかアゲハさんとは長い付き合い。さらに静夢の一件以来、セシルにも母親の再審に関する情報提供の協力してる手前、元同じ事務所で今は煙草仲間のあんたも贔屓にしてるけどさ。そうなったらこっちも擁護できないかもしれないってことだけは頭に置いておきな。……今上層部は今川の足取りを掴み、泳がせて犯行グループを一網打尽にしようとしてる。まあ、んなことするより今川とっ捕まえて証言得た方が手っ取り早いとあたしは思うけどさ」

「あら。じゃあ私と利害は一致してるじゃないですか」

 

 穂樽も煙草を揉み消しつつ、平然と言い放った。クインは露骨に眉をしかめる。

 

「……あたしは手伝わないよ。本当ならこうやって、煙草吸いながら独り言をぼやいてるのもまずいんだろうから」

「はいはい。独り言ですよね。わかってます。感謝してますよ。……でも今川は私が確保して説得します。私には彼が自主的に犯行に参加してるとは思えない。……思いたくない、と言い替えた方が正確かもしれませんけど。とにかく、主犯格の連中に脅迫辺りされてのことではないかと考えています。その状況に加えて自首となれば、幇助と魔禁法違反ぐらいなら無罪まで視野に入るかなりの軽い刑で済むんじゃないかと考えていますから。……一審で決まる魔法廷じゃなきゃ、そこまでの無茶するつもりはないんですけどね」

「その物言い……。さっき、依頼人の恋人の記憶消されてるとか言ったっけ? あんたは今川が、自分が危険に巻き込まれそうだと察したから自分との関係を切って恋人の安全を確保するために記憶を消した、とか考えてるわけだ」

「よくわかりましたね。そうです。でもやっぱりこれもそう思いたい、かもしれませんが。……だから、依頼人とその対象のためにも、私は自分でベストだと思う行動を取らせてもらいますよ」

「勝手にしな。ヘマしてもあたしは知らないからね」

 

 そう言うと、今度こそクインは穂樽に背を向けようとする。だがその背を穂樽は呼び止めた。

 

「何よ? まだ何かあんの?」

「頼みがあるんですけど。これ、映ってる人物解析して警察のデータベースに照合データがないか調べてもらえません?」

 

 穂樽が摘んでいたのはUSBメモリ。それを見て反射的にクインは抗議の声を上げた。

 

「ハァ!? なんであたしがわざわざそんな頼み受けなくちゃいけないんだよ!?」

「もし映ってる人物がさっきの強奪事件の主犯格の1人、だとしてもその台詞言えます?」

 

 瞬時にクインの表情が変わる。穂樽の傍へと近づき声のトーンを落として問いかけた。

 

「……その話、本当か!?」

「絶対、とは言い切れませんが。ただ、さっき昨日今川のアパートを訪ねたときに危険な目に遭った、って言いましたよね? ……今川の周囲を私が嗅ぎ回ってる、とわかったら問答無用で魔術で襲われたんですよ。そんな人間が今川と無関係、とは言い切れないと思っています。まあおかげでお気に入りの眼鏡壊されましたが。私も魔炎魔術の爆風で3階から叩き落されて重傷か、場合によっては死んでた可能性もありましたよ」

「ああ、それで眼鏡いつもと違ったのか。……ん? じゃああんたも魔術使ったのかよ? 魔禁法違反だろ」

「正当防衛です、十条扱いで見逃してください。あと形式的にでも私の心配もしてくださいよ。

 ……それより、襲ってきた男は3人。風使いと炎使い、もう1人は不明です。全員顔を隠していましたが、風使いの男だけは反撃したときに顔を晒してくれました。あまり映像状況よくはありませんが、隠し撮りしてたカメラにバッチリ収まってます。その時の映像データのコピーと、男の顔が見えやすいように切り取った画像がここに入っています。そいつと今川との接点があればさっきの警部の話通り、十中八九こいつらは宝石店襲撃の犯人と見て間違いないでしょう。……これ、そういうものなんですけど、いります?」

 

 完全に鬼の首を取った様子で、穂樽はUSBメモリを掴んで見せびらかせていた。対照的にクインは完全にやりこめられたと恨めしそうにその記録媒体を睨み付けている。

 

「……そいつを受け取る条件は?」

「この男の情報がわかったら、私に情報添付してメール送信してください。ついでに出先の可能性が高いんで携帯も鳴らしてもらうと助かります」

「……わかった。集められる限りで集めてやる」

「ありがとうございます。こっちは今川の身柄を確保したいだけですから、捜査の邪魔は極力しないようにいます。……もっとも、保障はしかねますけどね」

 

 フン、ともぎ取るようにクインはUSBメモリを受け取った。数歩足を進めたところで振り返らずに続ける。

 

「……このメモリに入ってる奴については、裏取ってから動くように、ギリギリまで報告を遅らせてやる。だが遅くても明日になったらこっちも全力で動き出すから、本気で今川を確保したいなら早いうちになんとかしな。あたしは宝石店の主犯格連中さえ捕まえられればそれでいいからね」

 

 言葉にはしなかったが、心の中で穂樽は感謝する。離れていくその背中を見送った後で、彼女もその場を離れて歩き始めた。

 

 事は一刻を争う状況になった。もし犯行グループが次の行動を起こしてからでは、状況が今川に不利に働く。クインに言ったとおり、その前に彼を見つけ出し説得するのが、もっとも今川に、そして依頼してきている八橋に有利となるだろう。さらに明日には警察も本気で動き出すとも付け加えられた。

 

「どうせ説得するとしても、自首するとなったら最終的に弁護は必要になる……。人手も必要だろうし魔術使用案件が関わってくる以上、もうこの際形振り構ってられないか……!」

 

 小さく溢し、穂樽は奥歯を噛み締めた。もしウドの今川が被告となってしまった場合、魔法廷での案件となり、弁護は今の自分の範疇の外、あとは弁魔士の仕事となる。提携しているバタ法に頼むのが妥当だろう。

 また昔の仲間に頼り切りになるのを少し後ろめたく感じつつも、きっとアゲハならいつものように「困ったときはお互い様」と言ってくれるだろうという甘い考えも頭をよぎる。だが他人に頼りっぱなしで自分は何も成長していないのではないかと、穂樽は眉をしかめて小さく息を吐いた。

 兎にも角にも協力を仰がなくてはならない。そう自分に言い聞かせ、穂樽はバタ法の番号を呼び出した。

 

 

 

 




やりかったことの1つ、穂樽とクインの煙草を吸いながらのやりとり。
実は2人の声を担当する真堂圭さんと井上麻里奈さんは近年の梅津作品の常連キャストだったり。
ガリレイドンナでも共演してますが、その前のカイトリベレイターでは2人はそれぞれ従姉妹で一緒に暮らす親友、という役を演じています。なのでそこにあやかっての組み合わせでもあります。


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Episode 1-6

 

 

「来た! なっちー!」

 

 バタフライ法律事務所の入り口を緊張した面持ちでくぐった穂樽を待っていたのは、その表情を一瞬で崩させるだけの明るい声だった。受付嬢の抜田より先に飛んできたその声に思わず眉をしかめる。空気読め、と言い聞かせてやりたいとも思えてくる。

 

「一昨日も来た、って聞いたのにすぐ帰っちゃったって言うから。なっち来るの楽しみに待ってたんだよ!」

「……お邪魔します。アゲハさん、このお気楽娘に状況説明してないんですか?」

 

 抱きついてきた5歳年下でありながらかつての同期の須藤(すどう)セシルを無視し、穂樽は階段の上の女所長にそう問いかけた。事前に連絡していたためか、アゲハは穂樽が来るのを待っていたらしい。

 

「勿論説明したわよ。だからアソシエイトをほぼ全員集めておいたし」

「ちょっとなっち、お気楽娘って何!?」

「ややこしいからあんたは黙ってて。それで……」

「コラなっち! 私のセシルんに何て事を言うのよ!」

 

 さらに追い打ちをかけるように絡んできたパラリーガルの天刀(てんとう)もよの言葉に、穂樽は一旦話を進めるのを諦めようと大きくため息をこぼした。こちら側を処理しないとせっかくのシリアスなムードがぶち壊しだ。

 

「……もよさんのそういうセシルに対する態度のせいで、この子もやけにあなたに似てきたと思うんですけど」

「えぇー? そんなことないよぉー。ね、セシルん?」

「うん、もよよん!」

 

 ダメだこいつら、と穂樽は頭を抱えた。入所したての頃からもよは随分とセシルがお気に入りだったらしく、ずっと甘やかしてベタベタとくっついている。出張で一時的に別れる時に泣き出したもよに対して「あんたは親か」と思わず穂樽が突っ込みを入れたこともあるほどだ。さらには自分とセシルが仲良くしてた時は嫉妬心向き出しの視線を向けてくることすらあった。

 

「まあ私に似て来たっていうか、セシルんは私そのものって言っちゃっても過言じゃないぐらいだしぃ」

「……過言でしょ。セシルにそっちの趣味はないと思いますよ。……大体あんた、小田さんとはまだ続いてるんでしょ?」

「ちょ、ちょっとなっち! その話は……!」

 

 急に慌てだしたセシルを横目に、もよは明らかに機嫌を損ねた様子へと変わった。

 

「そう、それ。なっち、あんたセシルんになんで男紹介してるわけ? 変な虫ついたらどう責任取ってくれんのよ?」

「紹介じゃありません。依頼をこなしただけです」

「あ、青空(あくあ)君とは時々会ったりするぐらいだから、もよよんがそんな怒るようなことでも……」

「おーこーるー! セシルんがそり姉みたいになったらどうすんのよー!」

「あたしみたいってどういうことよ、ざっけんなー! あと男紹介できるならあたしにも紹介しろ!」

 

 ついには自分のデスクに座っていた左反まで割り込んできて、もう収拾がつかないと穂樽は天を仰いだ。早いところ話を進めたいのにどうしたらいいものか。そう穂樽が困り果てていると、とうとう見かねたか、アゲハが手を叩いて場を収めてくれた。

 

「はいはい。皆久しぶりに穂樽ちゃんに会えて嬉しいのはわかるけどそのぐらいで。穂樽ちゃん困っちゃってるじゃない。……それでなんだっけ。一昨日の人探しの件、左反ちゃんにプレコグしてほしいんだっけ?」

「はい。何かしら情報があればと思いまして……」

「あたしはいいけど、代わりに男紹介してよ」

 

 予知魔術の一種であるプレコグニションの準備のためにタロットを手にしつつ、左反はそう言ってきた。ため息混じりに穂樽は返す。

 

「……無茶言わないでくださいよ。そもそも一昨日女を磨けとか言ってきたのはそっちですよ? そんな人が紹介する余裕なんてあるわけないじゃないですか。飲みで勘弁してください。喫煙席でいいなら朝まで付き合ってあげますから」

「ほたりん、やっぱりその辺り変わったとね」

 

 長崎弁交じりの言葉でそう言ってきたのはアソシエイトの甲原角美(かぶとはらつのみ)だった。一見上品なお嬢様育ちっぽく見えるが、コスプレが趣味という意外な一面を持っている。穂樽も「乙女激戦隊アグレッジャー」という戦隊ヒロイン物のコスプレをさせられそうになったことが何度もあり、それだけは困った点でもあった。

 

「ガサツになりました?」

「そこまでは言わんけど……。あんまりさそりん見習わん方がよかと?」

「なによつのみんまでそんなこと! ……っと、そういやほたりん、あんた眼鏡変えたの?」

 

 立ち上がって会議スペースへ向かおうとしながら反論したところで、左反は穂樽の眼鏡が変わっていることに気づいたらしい。

 

「変えたというか、こっちは本来尾行時とかに印象を変える予備用なんですけど。普段使ってたお気に入りのは昨日壊されまして」

「壊された……?」

 

 バタフライ法律事務所で数少ない男のアソシエイトである蜂谷(はちや)ミツヒサが耳ざとくそこに気づいたらしい。「法廷のターミネーター」の異名を持ち、長身であることに加えて一見無口で無愛想なために怖そうな印象を受ける男性である。が、数年間共に仕事をした穂樽は、何かと気を回してくれる性格であることをわかっていた。それ故気づいたのであろう。

 

「依頼されて探していた人物のアパートを尋ねたら怪しいウドの連中に襲われたんですよ。そのまま3階から叩き落されて。私はどうにか魔術で対応したので大したことなかったんですけど、さすがにそこから放り出されてアルファルトに直撃した眼鏡は修理が出来ない状態になっちゃいました」

「え……? なっち3階から落ちたの!?」

 

 驚きの声を上げたのはセシルだった。あんたはそれより遥かに高い上空から落ちたこともあっただろうと突っ込みたかったが、その言葉は飲み込むことにする。

 

「まあね。砂使いでよかったわ。砂の特質のおかげで可能な限り落下の衝撃を吸収させられたから、ほんと大したことはないし。ただ頭を最優先に守ったから、その分体ちょっとまだ痛くてあちこち湿布張ってあるけど」

 

 セシルはなおも心配そうな表情だったが、穂樽は問題ないと手をひらひらと振って健康だとアピールして見せた。それより、と会議スペースを取り巻くように集まった人間の真ん中にいる左反へと声をかける。

 

「左反さん、準備は?」

「いいわよ。で、何を占えばいい?」

「私の探している人間の居場所、と言いたいところですが……。さすがにそれをピンポイントで見つけ出すのは難しいですよね」

「うーん、多分プレコグじゃ厳しいわね。私がもっと情報に明るければ正確度は増しそうだけど、かなり曖昧な形で出ることになっちゃうと思う。占い程度の低い信用度レベルでいいなら出来るかも」

「じゃあそれは次善策ということで。プレコグの方は……今夜都内で異変がありそうなお店。もっと絞るなら、襲撃されそうな宝石店、でお願いします」

 

 取り巻いていた面々がざわついた。一瞬左反も意外そうな顔を見せたが、穂樽の表情が真剣そのものであることで冗談でもなんでもないと気づいたのだろう。一度深呼吸し、プレコグニションを開始した。

 

「ほ、穂樽君。それは最近騒がれている事件だろう? 勿論知っているが……。それを解決するのは探偵の君じゃなくて警察の仕事じゃないのか?」

 

 左反の邪魔にならぬよう、小声でそう指摘したのはアゲハの弟で事務所の実質的ナンバー2である蝶野セセリだった。強面な印象と裏腹、金銭面やマナー等にはやかましいものの基本は紳士的な人物である。暴走することも多い事務所内のアソシエイトのブレーキ役として、これまでも弁魔士が首を突っ込む範疇を越える出来事の場合は苦言を呈してきたことが多かった。

 

「犯人の逮捕自体は警察にやってもらいます。……まあ壊された眼鏡の借りは返したいところですが」

「ちょ、ちょっと待って! なっちが襲われたのって、今話題の宝石店強奪グループなの?」

「おそらくそうね。私が探している今川は何らかの形でその事件に関わっている。警察に足取りを追われているという情報をクイン警部から手に入れたからほぼ間違いないわ。そしてその今川のアパートを訪ねて襲われたとなれば、その相手も事件に関係していると考えるのが妥当よ。

 そっち関連は私が襲撃されたとき、録画に成功した相手の顔画像情報と引き換えにクイン警部にもう洗ってもらってる。そのうち連絡があると思う」

 

 感心した声を上げる一同。そんな中、満足そうに頷くアゲハの顔があった。

 

「……さすがね、穂樽ちゃん。手際がいいし、なによりクイン警部の扱い方をよく心得てる」

「アゲハさんのご指導の賜物ですよ。まあ同じ喫煙者同士、タバコミュニケーションで向こうも気を許してくれてるところもあるとは思いますけど」

 

 どちらかというと個人プレーが得意な穂樽から相談を受けた時に、アゲハはこのまま弁魔士を続ける他に探偵という今の彼女の職業も含めて紹介した。実のところ、いずれは自分のポジションを譲ることまで考えていたアゲハからすれば、穂樽の独立ということは少々残念ではあった。しかし餞別という意味合いも込め、その時に黒に近い方法まで含めての交渉術や駆け引き、その他自分が持ち得る知識を授けていたのだった。

 

「それで、穂樽ちゃんが探している今川って男の人は、犯行グループにあくまで利用されているだけ、と考えているわけだ」

「ええ……」

 

 左反のプレコグの結果が出るまでの時間、穂樽は大まかに状況を説明した。最終的には弁護まで依頼しようと思っていることだ、今更隠し立てをする必要もないだろう。

 説明を終えると、難しい顔のまま、アゲハが口を開く。

 

「……穂樽ちゃんの推測はおそらく当たってると思うし、そうであってほしいとも思うわ。でももし、今川さんが自ら進んで犯行グループに参加していたとしたら……。たとえば、依頼人の八橋さんから何かを盗んだために魔術を行使して記憶を消した、とも考えられない?」

「アゲハさん! それはあんまりです!」

 

 非難の声を上げたのはセシルだった。史上最年少で弁魔士となった彼女はまだ若い。故に穂樽の気持ちを裏切ってもらいたくない、今川を信じたい、という純粋な気持ちがあるのだろう。

 

「それじゃなっちの依頼人さんがかわいそうすぎます! それに彼を信じたと言ったなっちも……」

「いいのよ、セシル。私だってそのことは考えてる。依頼人の八橋さんにもその可能性は示唆したわ。知らない方がいいこともあるかもしれないって。それでも彼女は確かに恋人であった人に会いたい。可能なら失った彼との記憶を取り戻したい。どういう結果が待っていても、それを知りたいと言ったわ。……そして私はどんな結末になろうともあくまで第三者として、その事実を客観的に受け入れるだけよ」

「そこがほたりんの強うところとね」

 

 セシルはまだ割り切れない様子だったが、穂樽に感心の言葉を述べた角美に肩に手を置かれたことで多少は納得したらしい。穂樽もセシルの才能はよくわかっている。しかしまっすぐ過ぎる彼女の心は、長所でありながらも時に危ういと思うこともあった。

 

 と、その時、穂樽の仕事用の携帯が鳴った。クインからの着信とわかると一旦穂樽はその場を離れて通話に出る。

 

「はい?」

『あーもしもし、お手柄だよ。詳しくはメールに添付して情報送っておいたが、お前が撮った犯人の身元割れたぞ。こっちのデータベースに情報があった。顔の照合に加えて風使いという点まで一致してる、ほぼ間違いない。怪我をした警備員も吹き飛ばされて壁に背中を打ちつけたと証言してたしな。今川との接点だが、中学の同級生で柏って奴だ』

「なるほど……。そいつの居場所とかは?」

『さすがにわからなかった。だがどうせあんた今バタ法にいるんだろ? 男大好き姉ちゃんになんとかしてもらえ。それから状況によっちゃ踏み込むことになるかもしれないだろうが、一応事前にあたしに連絡よこしとけ。現場につけたら事後でも可能な限りで擁護はしてやる』

「すみません、何から何までありがとうございます」

『なに、今日は12星座中最悪の運勢なはずだったのに、予想以上のお宝だったからな。これで犯人連中捕まえたらあたしの手柄になるし特別サービスだよ。それじゃあな』

 

 通話を終え、穂樽はバッグからタブレットPCを取り出した。メールに添付されていたデータに目を通し、確かにあの時自分を壁に叩きつけた相手であることを確認する。

 

「間違いない……。あの風使いだ」

「そっちも何か来たみたいね。こっちも終わったよ」

 

 聞こえてきた声に振り向くと、左反が得意げな表情を浮かべている。

 

「向こうにも予知魔術使いがいたみたいね。ほたりんが張り込んでた時に気づかれたってのはそのせいだと思う。生意気にもプレコグの妨害魔術張り巡らされてたから間違いないし、さらにはそれが今日また犯行に及ぶという裏付けに他ならないわね」

「妨害って……。じゃあそり姉のプレコグは……」

「セシルっち、あたしを舐めないでもらえる? そこら辺の予知魔術使いなら気づかず引っかかるところだろうけど、あたしならそんな妨害抜けるのは楽勝よ。逆に妨害し返してやったわ。これで連中がプレコグで自分達に起こることを予知するのは難しくなる。ほたりんが今日行動を起こして連中に影響が出そうでも、それを予知出来ないと思うわ」

「……要するに建物に侵入したらトラップがあったから、それを回避して逆にトラップしかけなおしてやった、って解釈であってます?」

 

 まあそんなところ、と穂樽の例え話を適当に肯定しつつ左反は立ち上がった。そのまま他のアソシエイトの面々を差し置いて階段を降り始める。

 

「ばーみん、調べてほしいところがあるの。宝石店なんだけど、場所は……」

 

 左反は抜田のところへと歩いていき、セシルと角美もそれに続いた。が、肝心の穂樽はそこではなく、アゲハの元へと近づく。

 

「アゲハさん、段々と話が核心に迫ってきたと私は考えています。ですが、おそらく今川は犯行グループと多少なりとも繋がりがある……。どう転んでも、最終的に魔法廷での案件となって弁護が必要になると考えています。ですので……」

「わかってるわ。皆まで言わないで。困った時はお互い様だもの。乗りかけた船よ、最後まで付き合うわ。……ハチミツ君」

「はい。穂樽、今川の弁護が必要になるなら俺が引き受けよう」

「蜂谷さんがですか? ……てっきりセシルが名乗り出るものだと思ってました」

「あいつに言えば、間違いなく願い出るだろうな。だが今現在、須藤は母親の再審の件で断続的に忙しい状態だ。他のアソシエイトについても、甲原は案件を抱えているし、左反は魔術が荒事向きではない。ならこれは犯行グループと一戦交えた場合のことまで考えて俺が担当すべきだろう」

 

 もっともな申し出と、加えて強力な助っ人に穂樽は反射的に頭を下げていた。蜂谷の弁護能力も、加えて魔術の力もよく知っている。無愛想で口数が少ないことを除けば、これほど心強い存在はない。

 

「ありがとうございます。よろしくお願いします、蜂谷さん……!」

「礼は後だな。今川を確保して満足いく判決を勝ち取ったら、その時に改めて聞こう」

 

 やはりどこか冷たいような物言いではあったが、それが彼なりの態度だということはよくわかっていた。改めて、とは言われたが心の中では既に感謝している穂樽のところに、階下の左反から声がかけられた。

 

「ほたりん、来て。多分狙われるのはこの店だよ」

 

 穂樽も抜田の元へと駆け寄り、その宝石店を確認する。ここからそう遠くはない、小一時間で到着すること自体は可能な距離だった。

 

「どうしますか穂樽さん? クイン警部に連絡しておきます?」

 

 抜田の提案に首を横に振って否定の意思を示す穂樽。

 

「それだと犯人グループに警戒させてしまう。それに今川の状況も不利になります。私としては彼には第2の事件が起こる前、さらには警察に逮捕される前に彼に自首してもらいたいと考えていますので」

「……直接の実行犯ではなく、あくまで幇助。魔禁法違反があるとしても自らの意思からではなくそれ相応の事情があり、さらに自首も重なればかなり減刑が見込める。場合によっては無罪も勝ち取れる、か。……やっぱ穂樽ちゃん手放したのはちょっと惜しかったかな」

 

 冗談交じりとわかっていたが、自分を賞賛したアゲハに穂樽は苦笑を返すしかなかった。だが次にはその表情を引き締め直す。

 

「前回の犯行は閉店直後、今川が監視カメラに映ったのは閉店間際。つまり仮に今川が現れるとしてもまだ早い……。でも、今からこの店に張り込むだけの価値はあると思う」

「根拠は?」

 

 張り込む、となれば自然とそれに付き合うこととなる蜂谷が尋ねた。

 

「カン、ですかね……。私の見立てでは今川という人物はかなり慎重な性格だと思っています。彼女の記憶と携帯の解約まで含めて自分の関連証拠を消し、学校にも表れずアパートにも戻らない。さらに閉店間際に滑り込んで事を成功させている。となれば、下調べとして店の外見や店員の配置の確認に当日も下見をしていた可能性は十分にあります」

「一理、あるな。ここで話しているよりは効果的だ。行こう」

 

 言うなり蜂谷は自分のデスクに戻って上着を羽織り、荷物を手にした。穂樽も抜田のPCにある店舗をメモし、荷物をまとめて受付のカウンターを迂回する。

 

「ちょっと待ってなっち!」

 

 それを呼び止めたのはセシルだった。

 

「今川さんの弁護、セシルに任せてもらえない?」

「ダメよ。もうアゲハさんに蜂谷さんに任せるよう頼んである」

「どうして……!」

「あなた、お母さんの再審の資料集めだなんだで暇じゃないんでしょ? 今日、事がうまく運んだとしても彼の弁護を引き受けるとなったら今後もしばらくそれに付き合うことになる。……申し出はありがたいけど、気持ちだけ受け取っておくわ。あなたは自分のすべきことをやりなさい」

「だけど……。なっちにはこの間の青空君の件もあるし、セシルも何か力になりたいの!」

 

 穂樽はため息をこぼす。セシルの気持ちはわかるしありがたいが、今回の一件は蜂谷の協力を得られるというだけで十分と言ってもいい。

 

「アゲハさん、なんとか言ってあげてください」

 

 事務所のボスからの鶴の一声があればさすがのセシルも諦めるだろう。そう踏んで穂樽はアゲハに発言を求めた。が、返って来たのは予想外の一言だった。

 

「いいんじゃないの? セシルちゃんが手伝いたいなら」

「アゲハさん!?」

「ありがとうございます!」

「ただ、あくまでメインはハチミツ君で、セシルちゃんはサポートに回るというのが条件ね。……穂樽ちゃん、今日に限れば人手が多いほうがいいわ。最悪荒事までありえるわけだから」

「それは……そうですが……」

「人手が必要になったら連絡を入れること。その時はセシルちゃんを援軍として送るわ。蝶野としてはこれが最大の譲歩。どう、穂樽ちゃん、セシルちゃん?」

 

 2人とも苦い顔だった。穂樽としては今回は関わらせたくなかったし、セシルとしてはもっと手伝いたいという思いが交錯してのことだろう。だが落としどころとしては無難かもしれない。共に渋々納得した。

 

「あ、アゲハっぴ! それでまた須藤君がディアボロイドを造って魔禁法違反の罰金なんてことになったら……!」

「その時はうちは無関係を決め込めさせてもらうわ。セシルちゃん本人と、あと今回依頼協力を仰いで来てるファイアフライ魔術探偵所さんに払ってもらうということで」

 

 セセリの抗議をあっさりと却下したこの一言に、穂樽は苦笑を浮かべるより他なかった。いかにもアゲハらしい物言いだ。罰金は御免被りたい。セシルを呼ぶことになっても、ディアボロイドだけは生成させないようにしようとも思うのだった。

 

「では蜂谷さんをお借りします。アゲハさん、ご協力ありがとうございます」

 

 罰金の件以外では惜しまず協力してくれたかつての上司に頭を一度下げ、穂樽は蜂谷と共にバタフライ法律事務所を後にした。

 

 

 




バタ法メンバー勢揃い。原作の数年後なんで本来は新人とかいるべきなんでしょうけど、そこまで考慮には入れてないです。
長崎弁がわからないので角美にほとんど喋らせられません……。


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Episode 1-7

 

 

 左反がプレコグニションで予知した宝石店は通りに面していた。近辺には他の店が多く、駐車場のスペースは1本裏に入らないと確保されていないか、あるいは各店舗数台分程度しかなく、車内からの張り込みには不向きだった。

 代わりに道路を挟んで喫茶店があり、穂樽はそこで宝石店を張り込み、今川が下見に来るのを待つことにした。蜂谷にもつき合わせてしまうことを少々悪いとは思ったが、彼は特に気にしていないと事前にことわってくれていた。とはいえ、その上でさらに喫煙席に座る気にもなれず、また窓際は禁煙席しかなかったため、しばらくは煙草の変わりにコーヒーで気を紛らわせるか、と穂樽は思っていた。

 

 元々蜂谷は無口である。ここまで小一時間程度の車の移動中も必要以上の会話はなかったし、今も特に世間話をしてるでもない。彼がそういう性格だということも、特に怒っているとかいうわけでもないとわかってはいるが、どうにも手持ち無沙汰感に近いものを感じてしまう。だが自分から何か話を切り出そうと言う気にもなれず、穂樽は向かいの宝石店へと目を光らせていた。

 

「こういうことは、多いのか?」

 

 と、不意に蜂谷がそう尋ねてきた。まさか世間話を振ってくるとは予想しておらず、一瞬穂樽は驚いたように彼を見つめたが、すぐに視線を戻して視界の隅と意識の中に宝石店を入れる。

 

「そうですね。探偵、という職業柄しばしばです。昨日も車内からでしたけど、今川のアパートに張り込んでましたし」

「車の中からか。大変そうだな」

「そうでもないです。最近はこの手の喫茶店とかから張り込もうとすると、どうしても窓際は禁煙席になってしまうんで。吸いたい時に一服できる車内は、そういう意味では気楽です」

「……そうか。さっき移動中に吸っていたな。今かけてる眼鏡も含めて、以前の穂樽からは少々イメージできないが」

 

 再び意外そうに穂樽は視線を蜂谷の方へと移す。だが彼は特に気にした様子もなく、時間を潰す用に注文したコーヒーに口をつけていた。

 

「そんなに今の私はかつてのイメージと違いますか?」

「ああ。俺の中では……完璧主義者で非の打ち所のない姿を理想としているのかと思っていた。だがどうも今のお前は……」

「ガサツになった、と?」

「さっき甲原にもそう言ったな。俺もそこまで思ってはいない。だが、てっきり須藤と一緒にバタフライを引っ張っていく存在になると思っていたが、独立して探偵事務所を構えると聞いたときは寝耳に水だった」

 

 弁魔士時代から人と顔を合わせることは多かったし、探偵業に鞍替えしてもそれは同様だと穂樽は思っている。故に、相手の顔から腹の内をある程度探ることは、知らず知らずの内に出来るようになっていたつもりだった。だが、蜂谷の無表情からは、どこまでが本気なのかが窺い知れない。あくまで宝石店からは意識を逸らし切らないようにしつつ、彼女は少しこの話に興味が沸いていた。

 

「私とセシルがバタ法を引っ張るっていう冗談、なかなか面白いですね」

「俺は本気で言ったがな。確かに須藤は最年少で弁魔士となり、まだ20歳だが既に経験もそこそこ積んでいる。だが、あいつは物事をまっすぐに、一面的に見つめ過ぎる」

「それは私も思います。蜂谷さんも昔言ってましたね。『おめでたい奴だ』って」

「ああ。今もその意見は……ある意味で変わっていない。あいつは母親を助けたいのだろう。『弁魔士が人を救う』と本気で信じている。確かにそういう面もあるが、当然それだけではすまない部分も存在する。

 その点、お前は須藤より遥かに客観的に物事を見ることが出来る。弁魔士という存在の光も闇も見極められるだろう。いずれは突っ走る須藤とそれを止める穂樽、というコンビが生まれ、バタフライを引っ張ると思っていた」

 

 気恥ずかしさを感じ、コーヒーを流し込みながら穂樽は視線を逸らした。しかしその視線の先、宝石店を下見するような男性はおらず、店内に女性が数名いるだけである。

 

「だがお前自身が選んだ道だ、今のは俺の個人的な考えであって、今更どうこう口を挟むつもりはない。……が、無理はしすぎるな」

「無理?」

「煙草を吸うようになったというのは、どうにもお前らしくない。何かを溜め込んでいるか、あるいは何かから逃げようとしているようにも見える。無論やめろとは言わない。お前の習慣に口を出す資格など、俺にはないからな。

 ……同時に、俺ではお前の相談に乗ってやることもおそらく出来ない。だが、相談に乗れないと言っておきながらなんだが、苦しいときは昔の仲間に話し相手になってもらうことは悪くないと思う。バタフライの連中はなんだかんだ面倒見がいいのが多い。それにお前も顔を出すことに嫌そうな雰囲気は見せていなかったはずだからな」

 

 呆けたように、穂樽は蜂谷を見つめていた。過去に弁護の時以外、これほど彼が喋ったことがあっただろうか。厳しくはありつつも、本当は面倒見がいい人だということはわかっていた。しかし、これほど長く、そしてはっきりと自分へと心配する言葉をかけてくるとは、穂樽は夢にも思わなかった。

 蜂谷は照れ隠しか、それとも穂樽が完全に宝石店から目を離してるため代わりに見張る目的か、目を逸らした。笑ったところは見たことがないと言われる「法廷のターミネーター」、やはり表情は無表情を貼り付け、その心中を読み解くことは出来ない。そんな彼の代わりとばかりに、穂樽が小さく笑いを溢した。

 

「……俺は変なことを言ったか?」

「ええ。蜂谷さんがそこまで何かを言うことなんてないと思ってましたから。でも私は大丈夫です。……気を使っていただいてありがとうございます」

 

 穂樽の感謝の言葉に、蜂谷は何も返さなかった。しかしそれを不快となど全く思わない。むしろこの方が、さっきまでの彼よりもらしく思えるほどだった。

 一口コーヒーを流し込み、穂樽はひとつ息を吐いた。そして再び視界の端に宝石店を捕らえて観察を続け、それから少し経った時だった。

 

「穂樽」

 

 蜂谷に名を呼ばれるより前に、もう彼女の目つきは変わっていた。小さく頷き、宝石店の前で足を止めた男を注視する。まだ後姿しか見えない。だがおそらく間違いないと彼女のカンは告げていた。そしてそれを裏付けるかのように、横を向いたその男の顔は彼女が画像でずっと見続けてきた依頼対象の人間、今川有部志の横顔に間違いなかった。

 

「行きましょう」

 

 伝票を手に2人は立ち上がる。既に打ち合わせは終えている。少々危険かもしれないが、今川が1人でいるために直接接触する計画だ。基本的には本業である穂樽が対応し、蜂谷は少し後ろで待機していると決めていた。

 手早く会計を済ませて店を出て、道路を横切る。しばらく宝石店の中の様子を外から窺っていた今川は、やがてその場を離れて歩き始めた。足早に今川を追いかけ、やがて穂樽は追いつく。そして追い抜き様に事故のフリをして右肩から提げていたバッグを彼へとぶつけた。

 

「あっ、ごめんなさい! ……あれ? もしかして斎藤君じゃない? ほら、中学の時同級生だった……」

 

 謝りつつ、でっちあげられたありもしない話を穂樽は口にする。が、これも彼女の作戦の内だ。あえて勘違いを装うことでまず相手の関心を別な方向へと向けさせ、結果的に警戒心を緩めさせる。いきなり本名を呼べば逃げられる可能性もある。まず話を聞かせる、という狙いだ。実際、今川はいきなり逃げ出すようなことはせず、訝しげに穂樽を眺めただけだった。

 

「……人違いです。俺はそんな人じゃないしあなたのことも知りません」

「え、そんなことないって。ねえ、待ってよ」

 

 足早に離れようとする今川にそう言いつつ追いつき、穂樽は声のトーンを落として反論しようとする今川を無視して今度こそ本題を切り出した。

 

「だから俺は……」

「……大きな声を出さないで。私はあなたの味方よ、今川有部志さん。安心して、警察じゃないわ。八橋貴那子さんから探してほしいという依頼を受けてあなたを探していたの」

 

 瞬時に今川の顔色が変わった。次の行動を起こさせまいと、穂樽は口調を早めて畳み掛ける。

 

「今のあなたはかなり危険な状況にある。そろそろ警察からもマークされるわ。まず私の話を聞いてちょうだい」

「う、嘘だ! だってキナは……!」

 

 シッ、と穂樽は口元に人差し指を当てた。人目につくのはまずい。声量は抑えるに越したことはない。

 

「あなたが記憶を消したはず、かしら? ……ええ、そう。だから彼女はあなたのことを覚えていない。『いたはずの恋人を探してほしい』という曖昧な依頼をしてきたわ。証拠は全て消したつもりでしょうけど、携帯のデータを復旧してあなたに行き着いたの。……そんな細かい話は後よ。単刀直入に言うわ。もし柏って人に脅迫されて手を貸しているだけなら、今日もまた過ちを犯す前に自首しなさい」

「なっ……! なんで柏のことを……!? いや、その前にあんた警察じゃないんだろ!?」

「ええ、探偵よ。でも八橋さんの依頼を可能な限り良好な形で完了する義務があるし、そうしたいと私自身も思っている。脅迫されていたとなれば、その事実に加えて自首で酌量の余地ありと判断される可能性が高い。そうなれば、窃盗幇助と魔禁法違反ぐらいは帳消しに出来るかもしれない。今私の背後に知り合いの弁魔士もいる、あなたを弁護してくれるわ。警察に捕まって強盗傷害容疑もかけられるよりは遥かにマシだと思うけど」

「う、うるせえ! あんたにゃ関係ねえ! 俺に近づくんじゃねえ!」

 

 声を荒げ、今川は穂樽を押し飛ばして駆け出した。バランスを崩した穂樽を見て、慌てて蜂谷が駆け寄って支える。

 

「大丈夫か、穂樽?」

「なんでよ! やっぱりあの女の方がいいんじゃないのよ、馬鹿ぁー!」

 

 が、心配した蜂谷には答えず、気でも触れたかのように先ほどまでの真面目な声色と一転して素っ頓狂な声を上げ、口元を抑えながら穂樽は細い路地のほうへと駆け出した。一瞬呆気に取られた蜂谷だが、慌ててその背中を追いかける。

 

「お、おい穂樽!」

 

 背後からの声に、少ししてから彼女は走るペースを緩めた。そして「……丁度よかった」と首の角度を上げつつ独り言を溢す。見れば、「たばこ」という看板がかかる店があり、軒下に灰皿が置いてあった。

 バッグの中から煙草を1本取り出し、穂樽は火を灯した。煙を吐き出し、呆然とした様子で立つ蜂谷の方を振り返る。

 

「1本だけすみません。今川のせいでべったべたの芝居打たされたし、このぐらいしないとちょっとやってられないんで」

 

 苦笑を浮かべつつそう言った声は、先ほど上げた間の抜けたようなものではなかった。蜂谷も一応予想はしていたがあれは演技だったらしい。とはいえ、あまりに普段の穂樽からかけ離れていたために、彼も驚かずにはいられなかったわけだが。

 

「あ、ああ……。それはいいが……。さっきのあれは意味があるのか?」

「『男が女を突き飛ばして逃げた』という状況に『痴話喧嘩が聞こえた』という話が加われば、原因は明らかだと考えられる。ギャラリーに下手に勘ぐられるよりは、そちらの方がマシかと思ったんですけど、愚作でしたかね?」

「いや、言われてみれば確かにお前の言うことは一理あるな。しかし……。以前を知っていると探偵とはいえ到底信じられない姿ではあったが」

 

 それに対しては、ばつの悪そうな表情を見せるしかなかった。知っている人間に見られたのはやはり恥ずかしい。

 

「皆には言わないでくださいね。やる意味あったのかと言われると怪しいところもありますし。それに何より、説得には失敗してしまいましたから」

「最初のはいいとして、後のはどうする? 説得できれば俺が同伴して自首する予定だったが……」

「まあ仕方ありません。脅されていたなら、ありえた行動ですから。

 今度は強行策に出ます。おそらく今川はこの後主犯格と一度合流するはず。そこで可能ならこちらに有利な発言を連中から入手した後、無理でも彼が宝石店に行く前に力ずくででも今川の身柄を確保します。それから蜂谷さんに同伴してもらって彼には自首してもらいます。呼びたくなかったけど、セシルも応援に呼んだほうがいいでしょうね」

「それはわかったが、奴の行き先はわかるのか?」

 

 至極もっともな蜂谷の問いに、穂樽は煙草を燻らせてから得意げな笑みを浮かべた。

 

「さっき最初にぶつかった時に彼の服の裾に発信機を取り付けておきました。さらにそれに気づかれてもある程度対応できるように、魔禁法スレスレではありますが魔力こめて独自に調合した砂も少々ポケットに忍ばせてあります。発信機ほど正確な位置は探れませんが、ある程度近ければ私の魔術に反応して大体の位置を教えてくれます」

 

 これには蜂谷も驚いたらしい。感心した様子でため息をひとつこぼした。

 

「……前言を撤回する。穂樽、お前は見事に探偵をしているようだな。さすがとしか言いようのない手際のよさだ」

「ありがとうございます。探偵冥利に尽きる褒め言葉ですよ。……さて、いつまでものんびり一服してるわけにもいきませんね」

 

 穂樽は吸っていた煙草を揉み消す。それから歩き出すが、路地を迂回して先ほどの通りに戻るらしく、来た道は戻らなかった。

 

「ひとまず別ルートで車まで戻りましょう。さっきのを目撃した人いるとこっちとしても困りますし。今川の移動先と、あとセシルと合流の手はずを整えなくちゃいけません。最後の大捕り物、失敗だけはするわけにはいきませんからね」

 

 

 

 

 

 日が落ちかけた頃を見計らったように、今川は行動を開始した様子だった。それまでこちらの尾行を警戒してか、目的地のはっきりしない移動を繰り返していたが、GPS信号の動きが早くなったことからどうやら電車に乗ったらしい。さすがに車では電車の速度に叶わなかったが、それでもどうにかGPSの移動が止まりしばらく経ってからその付近に到着することに成功していた。

 

「それで、どうするのなっち?」

 

 今川と接触した後に連絡し、合流して今は後部座席に乗っているセシルが穂樽に尋ねてくる。彼女は愛用のミニバイクに乗って移動してきたのだが、今川を追うにあたっては一緒に行動した方がいいという穂樽の提案によって本格的な移動を始める前に駐輪してもらっていた。

 

「今川につけた発信機の信号が止まったのはあの廃工場跡に間違いないわね。おそらく連中のアジトとか、犯行前の集合場所とかでしょう。一応小型の集音マイク持ってきたから、こっちに有利な証言が出るまでは音拾えるように粘るわ。もしその前に連中が移動を開始しようとしたら実力行使になると思うけど……」

 

 そこまで言ったところで、穂樽は後部座席から覗き込んでいる顔がやけに生き生きしていることに気づいた。元々明るい表情なことが多いセシルだが、それにしてはどうにも明る過ぎる。

 

「……どうかした?」

「ううん! なんか、なっちほんとに探偵さんなんだなって! 証拠を押さえて現場に突入とかかっこいいなあって思って!」

 

 思わず穂樽はため息をこぼす。確かにセシルからすれば新鮮な体験かもしれない。だが変な期待感を持たれ、浮ついた心で手伝われるのは困る。

 

「あのね、遊びじゃないのよ? それに私は警察でもないから、可能なら踏み込みたくもないの。さっき今川が私の話を聞いてくれればもっと事は簡単だったのに、拒否されたからしょうがなくやるだけなんだから」

「須藤、相手は問答無用で穂樽に魔術を使ったほど血の気の多い連中だ。下手をすれば怪我をする。今言われたとおり、遊び半分な気持ちでいるなら、少し気を引き締めた方がいい」

 

 2人にそう言われ、セシルは気まずそうに顔を伏せた。だがすぐに真面目な表情と共に上げなおし、敬礼のポーズと共に「Roger(ラジャー)」と、英語で「かしこまりました」という意図を伝える。

 

「とにかく私が先行して物理的、あるいは魔術的なセンサーのトラップの有無だけ調べるわ。左反さんのプレコグ妨害を信じるなら、私達の踏み込みは予知出来ないはず。基本的に2人は周囲警戒を。もし誰かが後から来たらわかるように一応私もセンサー代わりの砂を多少は撒いてはおくけど」

「踏み込んだらどうすればいい?」

「今川を無理矢理にでも説得させます。その上で彼の身の安全を最優先に。連れ出せたら蜂谷さんは録音機材等の入った私のバッグを回収後、彼を警察に連れて行って自首させてください。キー、預けておきます。出来れば修理とかしないで済むように返してくださいね」

「努力はしよう」

 

 彼としては至極真面目な返答なのだろう。だがどうしても冗談交じりに聞こえてしまい、笑わない彼の代わりに穂樽が苦笑を浮かべつつキーを手渡した。

 

「セシルは私と一緒に蜂谷さんと今川を守りつつ時間稼ぎを。同時に出来る限り犯人を逃がさないようにすること。事前にクイン警部に連絡はしておくけど、自首後に犯人グループ逮捕、という事実を作りたいから、どうしても連絡を少し遅くせざるを得ない。そこで相手を抑える必要がある。わかった?」

「わかった。任せて!」

「……あとディアボロイドは禁止ね」

「ええー!? どうして!?」

「さっきアゲハさんに言われたでしょ、もしそれで罰金発生したらあんたと私で払え、バタ法は一切関知しないって。私だって余計な出費はしたくないし時間稼ぐだけなんだから、今回は封印しなさい」

「……努力します」

「蜂谷さんの真似して誤魔化さないで」

 

 セシルはまだ不満そうだが、穂樽はそんな彼女を無視してドアを開けた。蜂谷もそれに続き、渋々セシルも車を降りる。そして3人は廃工場までの道を人目につかないように歩き始めた。

 

 

 

 

 

 ここの空気は最悪だ、と改めて彼は思った。他のメンバーから距離を置き、片膝を立てるように廃材の上に腰掛け、そこに置いた肘の部分の衣服で鼻を覆う。埃っぽさとカビ臭さが鼻をつくこんな空間で、よくも連中は平然と酒を飲んでくだらない話を出来るものだと辟易としていた。

 

「おい今川、お前も1人でそんなとこいねえで酒でも飲めよ」

「……ほっといてくれ。それより、約束はちゃんと守ってくれるんだろうな?」

「ああ? 今日の一件がうまくいったらお前にゃもう近づかない、って話か?」

「なんだよ、つれねえなあ今川ちゃん。俺達は共犯じゃねえか。堕ちる時は一緒に地獄に堕ちようぜ?」

 

 鼻から下を服で隠したまま、視線だけを鋭く相手へと向ける。それに機嫌を損ねたか、それとも幻影魔術を使われると思ったのか。十余名のうち何人かが威嚇するような声を出しつつ立ち上がった。が、「まあお前ら落ち着け」というボスらしき男の一言でそれをやめる。

 

「それなんだがな、もうちょっと考えねえか? 今言われたとおりもうお前は共犯だ。となりゃお前の彼女に手を出さない代わりに、なんて条件ももう必要ねえだろ。どうせなら俺達と一緒に……」

「ふざけんな! お前らが俺をボコった後、彼女にこれ以上の仕打ちをしてもいいのかとか脅してきたんだろうが! じゃなきゃ俺は絶対手なんか貸さなかったんだ!」

「まあ確かにきっかけはそうだったかもな。でももうお前は一線を越えてんだよ。なら俺らと一蓮托生といこうや? ……もっとも、それを断る、ってんなら……」

 

 目で送られた合図に、魔炎と魔風使いの2人が掌の上で魔術をチラつかせる。そこで脅迫の対象が他人ではなく自分に対してになっていたと、遅まきながら身の危険を感じていた。

 

「言わなくてもわかんだろ? 拒否すりゃどうなるか。まあそりゃお前の勝手だ。良心の呵責に耐えられないなんて戯言ほざくなら、余計なことを話されるのも面倒だし今すぐ引導をわたしてやるぜ。証拠を残さない手の込んだ方法を取るに越したことはねえが、お前がいないところで店員を襲っての強盗に切り替えるだけだからよ」

「同級生の(よしみ)だ。そうなったら中学の時やられた分10倍ぐらいにして、俺の魔風で吹き飛ばし切り刻んで返してやるよ」

「柏……てめえ……!」

 

 ギリッと歯を鳴らしつつ、今川は目の前の連中を睨み付ける。提案を受け入れれば晴れて立派な犯罪人に、断れば口封じのために死人に。従った振りをして逃げ出すことも出来なくないかもしれない。だが連中の中に予知魔術使いがいる以上、到底利口な方法とはいえない。

 どの道「店員を襲っても構わない」と明言してきた以上、自分がこの後逃げ出したとしても犯行は実行され、被害者は増え、その上で自分を追いかけてきて彼女にまで被害が及ぶことは容易に想像できる。

 道の先が全て闇でしかなく、今川は絶望を覚えた。もはやどうしようもないのか。もしあの時、探偵と言った女に従って自首していたら、という後悔の念が襲ってくる。だがもう遅い。

 完全に手詰まりとなった今川が神にもすがりたいと思った、その時。

 

「……これでわかったでしょう?」

 

 響いたのは、彼にとって女神に等しい、救いの声だった。

 

 




穂樽とハチミツの絡みが原作で少なかったな、と思ったので意図的にコンビを組ませています。
ハチミツさんはかっこいいです。


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Episode 1-8

 

 

「……これでわかったでしょう?」

 

 不意に、凛とした声が薄暗い工場に響いた。その場にいた男達全員がその声の方へと目を向ける。

 

「今川さん、結局あなたは利用されていただけ。そして自分達の思い通りに動かないならば、あなたのことなどなんとも思わないような連中なのよ、こいつらは」

「誰だてめえ!」

「安心しなさい、警察じゃないわ。今川さんを探す依頼を受けた、ウドの探偵よ。少なくとも彼と、それから風使いの柏って人には会ってるはずなんだけど」

 

 男達の視線が風使いのところへと集まった。ややあってその男が「ああっ!」と声を上げる。

 

「昨日今川のアパートを嗅ぎ回ってた砂使いのウドの女!」

「やっと思い出してくれたみたいね。……まあいいわ。あんた達への用は後よ。

 今川さん、選択しなさい。ここでこいつらに命を奪われるのか、こいつらと一緒に外道へと堕ちるのか、それともさっき私が言ったことを信じて自首するか。3つ目を選ぶなら、私がなんとかしてあげなくもないわ。もっとも、それ以前にあなたを待っている彼女のことを本当に思うのなら、迷う余地もない質問だと思うけど」

「おいこのアマ、何をごちゃごちゃと……」

「黙れッ! あんた達には話してない!」

 

 空気を切り裂くような鋭い一言は、相手を威圧するのに十分過ぎた。一瞬相手もそれに気圧され、口を噤む。

 

「どうするの、今川さん!」

「ち、ちくしょう!」

 

 穂樽に詰め寄られ、半ばパニック状態の今川は逃げるように駆け出した。だが当然のように相手方もそれをみすみす見逃すはずがない。彼目掛けて魔術を行使してそれを食い止めようと準備する姿が窺える。

 

「蜂谷さん! セシル!」

 

 叫びながら、穂樽も砂塵魔法を展開させた。今川を守るように魔力によって砂を集積させ、即席の防壁を作り上げる。相手の魔炎魔術がその壁に命中して爆ぜ、続けて魔風魔術がその壁を打ち砕く。だが今川の元にまでそれが届くことはなかった。

 

「ハチミツスマッシュ!」

 

 その間に穂樽側も反撃に出ていた。蜂谷が両掌に作り出した魔水を叩きつけ、相手側に広範囲の攻撃を加える。犯人グループにいた蜂谷同様の水使いが辺りに防御の魔術を展開し、それを凌ぐ。が、蜂谷の魔術の威力が上回ったか、相手の何人かが吹き飛ばされた。さらに直後。

 

「はああーっ!」

 

 目の前に浮かび上がった魔法陣目掛けてセシルが回し蹴りを放ち、そこから魔炎魔術が放出される。蜂谷ほどの範囲はないがその分威力は見るからに強大。狙われた相手は攻撃系の魔術使いでなかったのか、それとも魔術の防御は不可能と判断したか。慌ててその場を飛び退いたが、地面に着弾した魔術の衝撃で宙を舞い、壁へと激突した。

 その間に今川は穂樽の傍へと駆け寄っていた。庇うように相手との間に蜂谷が割って入る。

 

「俺はどうすれば……!」

「彼と一緒に行って! 弁魔士よ、彼女のことまで含めて全て任せて大丈夫だから! 蜂谷さん、手はずどおりにお願いします!」

「わかった、気をつけろよ!」

 

 廃工場を後にしようとする蜂谷と今川目掛け、相手側は追撃の魔術を放とうとする。させまいと、今度は穂樽が広範囲に砂塵を展開させて相手を威嚇するように攻撃した。相手側は防御するか物陰に身を隠すかしてそれをやりすごす。

 

「ちくしょうが! 今川に自首させるとかふざけたことぬかしやがってこのアマァ!」

「アマじゃありません! バタフライ法律事務所の弁魔士、須藤セシルです! あなた達も無駄な抵抗はやめて、出頭してください! 弁護します!」

「弁魔士だぁ!? お呼びじゃねえんだよ! 探偵と弁魔士風情がでしゃばった真似しやがって……。たかがウドの女2人、やっちまえ!」

 

 その一声で魔術対決の火蓋は切って落とされた。

 圧倒的数の優位、加えて相手が女という慢心。それが犯人グループに根拠のない自信を与えていた。二手に分かれた穂樽とセシルの元へ、散発的に炎や風、雷といった魔術がとんでくる。2人はそれを物陰でやり過ごし、あるいは防御に魔術を発動し、どうにか直撃を免れる。個人の質こそはっきり言って大したことはないが、如何せん数が多いと穂樽は内心歯噛みしていた。

 

「へへっ! どうした探偵の姉ちゃんよ! さっきまで勢いよかったのに防戦一方じゃねえか! 昨日仕留め損ねた分、今日はたっぷり遊んでやるぜ!」

 

 そんな穂樽の心を煽るような挑発の後、火球が飛んできた。瞬間、穂樽の顔が露骨に引きつる。

 

「……あんた、私をあの時3階から吹き飛ばした奴?」

「そういうこった! おら顔出しな! 俺様直々の魔炎魔術でまた吹っ飛ばしてやるからよ!」

 

 よく穂樽はクールだと言われる。確かにセシルのような天真爛漫な性格からは程遠いことは自覚している。しかしそれは手際がいいとか仕事をそつなくこなすとか、そういう意味で言われていると思っている。

 そしてどちらかといえば、クールというその言葉と裏腹、彼女は意外と頭に血を上らせやすかった。故に、ここまであからさまな挑発を受けてそれを受け流すことなど出来なかった。

 

「上等よ! やれるもんならやってみなさい!」

 

 叫んだ瞬間、物陰から人影が現れる。声の方向からその辺りと事前に狙いをつけていた魔炎使いはためらわずに火球を放った。狙いは違わず、それに命中して吹き飛ばす。

 

「馬鹿が! ざまあみやがれ!」

 

 確かに穂樽は血を上らせやすい。だがそのことも無論自覚している。すなわち、そんな彼女が無策で姿を晒すなど、あろうはずがなかった。

 

「馬鹿はどっちか、その目で確かめるがいいわ!」

 

 魔炎使いの男にとっては、今川がいないはずなのに幻影魔術をかけられた気分だったであろう。吹き飛ばしたはずの相手が、先ほどと違う物陰から再び姿を現したのだから。しかも今度は魔術を行使し、砂を操り自分目掛けて叩きつけてきた。何が起こってるかを理解する間もなく魔炎使いは吹き飛ばされ、壁へと激突、卒倒した。

 

「これで昨日の眼鏡の借りは返させてもらったわよ」

 

 種を明かせば何ということはない。穂樽の魔術は砂塵魔術。暗がりで姿が確認しにくいことを利用し、砂の塊を人型状に作り出し、(デコイ)として利用した。相手はそれに見事引っかかった、というわけだ。

 

 そうしている間に、セシルも離れたところで相手を数名蹴散らしていた。通常ウドは一種類の魔術しか使用出来ないが、規格外の能力を持つ「100年に1人の逸材」とまで謳われるセシルはそんな常識を打ち破り、複数の魔術の使用を可能としている。そしてその魔力も桁違いだ。穂樽でさえ質は大したことがないと思うような相手に、セシルが遅れを取るはずがない。

 

「な、なんだこいつら! つええ!」

「ボス! どうします!?」

「うろたえるんじゃねえ!」

 

 穂樽も既に次の相手に取り掛かり、ノックアウトさせている。味方の数が着々と減っていき、相手も焦り始めたようだった。だが、ボスと呼ばれた男は何か策があるのか、落ち着いた様子で部下達へ指示を飛ばしている。

 

「……おう姉ちゃん達、甘く見てたことは撤回しよう。あんたらなかなかの使い手だ」

「それはどうも。だったらさっきこの子が言ったとおり出頭してくれないかしら? そうすれば多少は酌量の余地が出るし、何よりこれ以上無駄な魔術戦争をせずにすむわ」

「残念ながらそれはできねえな。……そして姉ちゃん達もそのまま帰すわけにはいかねえ!」

 

 物陰からボス、と呼ばれた男の様子を窺う。どうやら魔力を込めた両拳同士を叩き付けたようだった。その男を中心に地面に魔法陣が描かれ、光が増していく。

 

「な、なっち! もしかしてあれ……!」

 

 セシルが叫んだ。同時に穂樽も直感する。まずいかもしれない、と。

 

「行くぜ! メタモロイド、ゴー!」

 

 ここは廃工場。金属を分解、収拾してロボットを作り上げる金属機動具(ディアボロイド)生成魔術使いにとって、発動条件は十二分に揃った環境だ。工場内にあった金属が軒並み分解され、再形成されてボスの男の周りへと集まっていく。

 魔術発動者の男を取り込み、造り上げられたのは全長10メートルはあろうかという、巨大な恐竜のようなディアボロイド――形状から厳密に言えばメタモロイドだった。後ろ足2本で立ち、それより小ぶりな前足が胴から2本。特徴的な長い尻尾と、牙こそないものの獰猛な古代の獣を思わせる風貌は、魔術を知らない人間から見たら畏怖そのものであろう。廃工場の天井を突き破り崩落させつつ悠然と立ち、足元の獲物へと狙いを定める。

 

「出た! ボス自慢のメタモロイド!」

『ハッハッハ! 覚悟しな、姉ちゃん達!』

 

 喝采を上げ、得意げに余裕を見せ始めた相手に対し、だがセシルは全く動じた様子はなかった。

 

「相手がこの程度の大きさなら……十分勝てる!」

 

 自身の生成できるディアボロイドはこの相手の倍以上、優に20メートル前後のサイズまで造り出すことが可能。故にサイズ差で勝てると自信に満ち溢れた表情でセシルは上着のポケットからリップスティックを取り出した。ところが――。

 

「待ちなさい! ディアボロイドは禁止って言ったでしょ!」

 

 叫びつつ、穂樽は相手のメタモロイドへ魔術で砂の塊を叩き付けた。だが効果は全くといいほどなかったらしい。

 

『んー? 何かしたか、探偵の姉ちゃんよお!』

 

 メタモロイドが巨大な足を上げ、穂樽を踏み潰さんと下ろした。どうにか穂樽はその場から離れて攻撃を回避する。

 

「なっち、そんなこと言ってる場合じゃないよ! セシル達の自然魔術じゃどうしようもないって!」

 

 反論しつつも、目の前の魔法陣に回し蹴りを打ち込んでセシルも魔炎魔術を機械の恐竜へと放つ。しかしやはりダメージは期待できない。

 

『さーて、出頭しろとか言ってたおふたりさん、そっちこそ抵抗やめてくれるんなら命までは取らねえでお前らを可愛がるだけで済ませてやってもいいぜ? そこそこの美人とかわいいお嬢ちゃんの2人だ、楽しめそうだしな。まあ断ったとしても、痛い思いをしてもらった上で可愛がってやるだけなんだけどよ!』

「……最低ッ!」

「不潔です! 汚らわしいです!」

 

 穂樽とセシルの抗議の声を無視し、勝利を確信する敵のボスは下卑た笑い声を上げた。

 しかし実際問題としてこのままでは圧倒的に不利だということは穂樽は重々承知している。罰金は嫌だがこんな連中に捕まっていいようにされるよりは遥かにマシだろう。クインには踏み込む前に連絡していたが、まだ到着する気配はない。こうなったら背に腹は変えられない。

 

「セシル、さっきの禁止令は撤回するわ!」

「やった! それじゃあ……」

「ただし! 金属収集はあんたの目に付く範囲限定!」

「そ、そんなのまともに生成できないよ! 相手にこの辺りのはもう使われちゃってるんだから!」

 

 確かにセシルが本気を出せばキロ単位で離れた場所からも金属を集めることが可能であろう。事実、過去にカナダの実家を破壊されて怒りに身を任せた彼女が、周囲に金属が皆無な状況からディアボロイドを生成する様子を穂樽は目の当たりにしたことがある。

 だがそれをやって都市部から金属を収集、結果インフラに打撃を与えたなどとなったら。バタ法のバックアップがないと明言されている以上、どれだけの罰金を請求されるか考えたくも無い。

 

「じゃああんたの全力の6……いや、5割! それでこいつと同じサイズのは作れるでしょ!?」

「サイズとしては作れるかもしれないけど……。多分金属が足りなくて質量不足だよ! パワー負けするハリボテになっちゃうと思う!」

「質量不足のハリボテ……。上等、それでいいわ! 対抗できるサイズなら今すぐ作りなさい!」

「でもきっと勝てないよ!」

「勝てなくていい、要は負けなきゃいいのよ! 私を信じなさい!」

 

 セシルはまだ不満そうであったが、穂樽に「信じろ」とまで言われたらもうそれに従うしかない。ディアボロイド魔術発動の時間を稼ごうと、穂樽は躍起になって砂塵魔法を放って相手の気を引いている。覚悟を決めたセシルは「Whatever will be, will be(なるようになる)!」と自分に言い聞かせるように叫びつつ、掌にリップスティックで魔法陣を描いた。

 

「セシル、ディアボロイド、ゴー!」

 

 左手を天に向けて突き上げ、高らかに叫ぶ。複数の魔術を操る彼女が最初に発現させてもっとも得意とする、金属の巨人を作り出す魔術。廃工場内ならず、その周囲からも集められた金属はまずは彼女の周りを覆っていく。次いでそれは根幹である頭部、胴体を作り上げ、そして四肢を構成しようと形作っていった。しかし――。

 

『やっぱりこれじゃダメ! なっち、金属が足りないよ!』

 

 既にコックピットというべきか、ディアボロイドの操縦スペースに埋まったセシルが外部へと悲壮感溢れる声を上げた。四肢がまだ骨組みの段階で、肉付けが全く出来ていない。だが金属の収集ペースは落ちつつあり、彼女の5割の力ではこの近くからはもう集め切れないことを表していた。

 しかし穂樽はそれを聞いても動揺はしなかった。むしろ逆、口の端を僅かに上げる。

 

「いいえ、それでいいのよ。足りない分は……!」

 

 魔力を込め、穂樽は額の前に両手を構える。そして、セシルが作り上げているディアボロイド目掛け、その腕を振り下ろした。

 

「ホタル、ディアボロイド、ゴー! ……なんてね!」

 

 地面を突き破り出現した大量の砂の塊は、穂樽の指示に応じて骨組み状態であるディアボロイドの四肢に張り付いていく。それまで心許なかった両腕と両足が見る見るうちに穂樽の砂塵魔術によって補強されていった。

 

『なっち! これなら……!』

 

 かつての同期の意図を察し、セシルはその砂の四肢の外部を自分のディアボロイド魔術で覆い補強、さらに行動に支障がないようにその上から補助を施していく。

 かくして、セシルと穂樽の共同作業によるディアボロイドは完成した。即席の連携、しかも本来セシルが造るサイズの半分以下。それでもこれだけで、メタモロイドを造り出したことで勝利を確信していた相手の動揺を誘うには、十分過ぎる効果があった。

 

『な……! ディアボロイドだと!? 俺がこの辺りの金属はほとんど使ったってのに!』

「行け! セシル!」

 

 穂樽の呼びかけに呼応するように、セシルを乗せた全長10メートル弱の金属の巨人は地を踏みしめて駆け出した。自身の重量に加速を上乗せして、狼狽したせいか対策を打てずにいたメタモロイド目掛けて肩口から激突する。

 質量不足、という事前のセシルの評価と裏腹、威力は十分だった。重さの乗ったショルダータックルは相手のメタモロイドを薙ぎ倒し、しかし勢い余ってセシルのディアボロイドもバランスを崩す。だが、傍目からみていた穂樽はこれならやりあえる、と思っていた。

 

「よし! パワーは負けてない! いける……!」

 

 彼女が独り言を溢した直後、メタモロイドが尻尾を振るう。バランスを崩していた金属の巨人はそれに足を払われ、完全に転倒してしまう。

 続けて獲物を貪ろうかという勢いで金属の獣が飛びかかった。間一髪、セシルのディアボロイドは上体をよじらせて踏み付けをかわし、反撃に肘を打ち込む。数歩たたらを踏んで相手が離れ、その隙にセシルは自分の愛機をどうにか立ち上がらせる。が、見るからに普段より動きが悪い。

 

「セシル!? どうしたの!?」

『多分普段と違って無茶な造り方をしたせいだと思うけど……。あんまり言うことを聞いてくれない……! パワーは負けてないけど、細かい動きが……!』

 

 軋むような音を上げつつ、ディアボロイドはなんとか立ち上がった。だがその間に先ほど数歩分体勢を崩したはずの相手が完全に立ち直っている。

 

『へっ! ヒヤリとしたが所詮は付け焼刃だったようだな!』

『そんなことない! セシルとなっちの2人の力を合わせて作り上げたディアボロイドだもの! 負けるもんか!』

 

 ディアボロイドの腕とメタモロイドの前足が組み合う。純粋な力比べ。一見華奢に見える相手のメタモロイドの前足だが、セシルのディアボロイドと互角のパワーらしい。全力で生成さえさせてあげられるならあの程度あっさりと捻り潰せるのに、と穂樽は歯噛みした。しかし、下手をすれば災害級となる魔術行使の代償と引き換えに作り出させるには余りにリスク、というか発生する罰金が大き過ぎる。だがなんとか無難な落としどころで済ませた。あとはこれでクイン達警察が到着するまで時間を稼げれば、と穂樽は願う。

 

「ああっ!?」

 

 ところが、その願いを打ち砕くような目の前の衝撃的な光景に、彼女は悲痛な声を上げた。力比べに負けたのか、ディアボロイドの左腕が肘から先を捻じ切られていたのだ。人間なら流れるはずである血液の代わりに、自分が補強した砂が流れ出ている。

 追撃とばかりにメタモロイドがその巨体を預けるように背中口からディアボロイドへと激突した。巨体が一瞬中に浮いて穂樽の横を吹き飛んでいき、地揺れと轟音と共に地面に倒れこむ。

 

「セシル!」

『だ、大丈夫! まだ大丈夫!』

 

 ディアボロイドの上体を起こしつつ、セシルは外へと声を投げかけた。しかし当人の主張と裏腹、もはや不利な状況に陥ったことは穂樽もわかっていた。

 

『とどめだ! 行くぜ!』

 

 相手側もそのことは重々承知しているらしい。開いた距離を詰めつつ、その加速の勢いを乗せて体当たりを仕掛けてくるつもりだ。メタモロイドが駆け出す。どうにかしないと、と考える穂樽の横を、受けて立つとばかりにセシルは強引にディアボロイドを立ち上がらせ、走り出した。

 

「待ちなさい! 無策じゃ……!」

『大丈夫、絶対勝てる! 私となっちのディアボロイドが……負けるわけ無い!』

 

 彼女特有の、まっすぐな言葉だった。無茶を言った自分を信じてくれたという気持ちはありがたいほど伝わる。だがそんな感情論か根性論でどうにかなるほど、もはや楽観的な状況ではない。正面からぶつかれば十中八九当たり負けるであろうことは、穂樽には容易に想像がついた。

 ならイチかバチか。自分にやれる限りで、やれることをやるしかない。そう思い立った時には、穂樽は駆け出していた。鉄の巨人と併走しつつ、魔力を高める。既に魔術を多用し、体も疲労の色が濃い。体力づくりのためにジムに通っていた時期もあり体力に自信が無いわけではないが、それを越える運動量に息が上がり足がもつれそうになる。それでも穂樽は懸命に走りつつ、魔力をこめた両手を額の前にかざした。

 

「はあーっ!」

 

 気合の声と共に両腕を振り下ろす。呼応するように彼女の足元から砂の塊が飛び出し、相手のメタモロイドの地面につこうとする足を直撃した。しかしそれでも相手の勢いは止まらない。が、穂樽の狙いはそこではない。

 

「これで……どう!?」

 

 右手を大きく振る。地面に散らばった砂とその下の地面が蟻地獄よろしく渦を巻き始める。そこに踏み込んだ鉄の恐竜は、今度こそ渦巻いた砂と細かい砂の粒によって、僅かに足をとられてよろめいた。それでも、まだ加速の勢いを止めきれない。

 それなら、と数歩先の踏み出す足を狙おうとする穂樽。だがそれを邪魔するように――。

 

『ちょこまかと! 目障りなんだよ!』

 

 相手のメタモロイドが地面へと尻尾を叩きつける。穂樽からは随分と距離があったが、それでも飛来する礫が顔と体にぶつかる。腕で庇ったものの、頬を掠めたせいで一筋血が流れ落ちた。

 

「くうっ……!」

『なっち! このォー!』

 

 仲間を傷つけられたセシルの怒りが乗り移ったかのように、ディアボロイドの目が一度光った。右肩を突き出し、ショルダータックルの体勢。対するメタモロイドも背を見せ、先ほど同様の体当たりを狙っているとわかる。両者が激突するまで互いにもう一踏み込みの間合い。

 今さっき受けた体の痛みを耐え、両者が激突するより早く穂樽は腕を振るって魔術を行使した。踏み出されるメタモロイドの足元に砂が集まり、バランスを崩しにかかる。連続の足元へ向けての攻撃に今度こそメタモロイドの加速が落ちた。

 

「あと少し……!」

 

 転倒させられればベスト、それが無理でももう少しバランスを崩させれば激突の際の勢いを殺せる。ありったけの魔力を注ぎ込んで巨大な足をよろめかせようと穂樽が砂を操る。しかし、その気配がもうない。ダメか、と穂樽が諦めかけたその瞬間――。

 

 不意に、不自然に、メタモロイドの足首が折れ曲がった。彼女の魔術ではこれまで本体へのダメージはおろか、接地の邪魔をするのがせいぜいだったのに、である。

 だが穂樽は原因を考えるのを後に回した。相手は加速の勢いを殺されたどころか、既によろめき倒れかけている。

 

「セシル!」

『てやああああーッ!』

 

 おそらく穂樽が考えていたであろう事を、セシルも察した。これまでのタックルから、足元に崩れた相手へ重量を乗せて肘を落とす形に切り替える。

 エルボードロップ。肘にディアボロイドの全重量を集中させたその一撃は、地面と挟まれる形となった相手の胴体を見事に抉った。鋼の恐竜が断末魔の悲鳴よろしく、金属同士が激しく打ち鳴らされる音を響き渡らせる。とうとう限界を迎えたか、相手のメタモロイドは霧散し、その使い手は呻きながら転げるように放り出されていた。

 一方セシルのディアボロイドも攻撃対象が消え去ったことにより、肘から地面へと激突。攻撃の勢いで肩口が裂け、補強していた砂がこぼれ始める。同時に相手を撃破したと判断した彼女は自分の意思でディアボロイドを解除し、激戦を終えた地面の上に倒れこむように両膝をついた。

 

「大丈夫、セシル!?」

 

 まだ先ほどの痛みの残る体を引き摺るように、穂樽はセシルの元へと駆け寄る。

 

「だ、大丈夫……。ありがとうなっち。相手のバランス崩してくれたおかげで、なんとか勝てたよ……」

「いえ、でもあれは……」

「そこまでだ、てめえら!」

 

 満身創痍の2人にその言葉が降り注いだ。相手グループはボスをはじめとしてほぼ無力化されていたが、まだ戦闘向き魔術が使える人間が数名残っていたらしい。その残党が全て攻撃の矛先を2人へと向けている。

 

「散々好き勝手暴れやがって……。ボスまでやっちまうとは恐れ入ったぜ。だがもう限界のようだな。覚悟しやがれ!」

 

 戦闘の意思を見せているのは3名、数こそ多くないが今の手負いの穂樽とセシルでは分が悪い。せっかくディアボロイド戦を制することが出来たと言うのに万事休すか、と穂樽が奥歯を噛み締めた、その時。

 

「覚悟するのはお前らの方だ!」

 

 よく通る女性の声だった。直後、薄暗かった工場内が強い照明によって一気に照らし出される。その照明の前、盾を構えた大人数の部隊と、真ん中に拳銃を片手に煙草を咥えて蒸かしながら立つ女警部がいた。その姿を見て、2人の表情が明るくなる。

 

「クイン警部!」

「無駄な抵抗はやめな、宝石店の強盗犯さん達。もう証拠はあがってる。少なくともあんた達が派手にディアボロイドでやりあってるのは遠くからでも見えたからな。魔禁法一条、並びにディアボロイド製造の九条違反の現行犯だ。それから……」

「この……!」

 

 説明を続けるクインを無視し、犯人グループの1人が魔術を行使しようとしたその瞬間、だった。

 それまで下を向いていたはずのクインの拳銃の銃口が相手に向くと同時、発砲音が響き渡る。放たれた弾丸は相手が魔術を使用するより早く片足を撃ち抜いていた。男は悲鳴を上げて撃たれた箇所を押さえながらその場でのた打ち回る。まるで西部劇の早撃ち(クイックドロー)を見たかのような錯覚に、穂樽もセシルも思わず両手を上げて無抵抗の意思を示しつつ、呆然とその光景を眺めていた。

 

「公務執行妨害も追加だ。加えてさっき言ったとおりお前らには先日の宝石店の強盗傷害容疑もかかってる。今の奴みたいに足に風穴空けられたくなかったら大人しく従いな! 今日のあたしの運勢は12星座中最悪だからね、間違って手元狂って急所撃っちまっても責任持てないよ!」

 

 有無を言わせないクインの口調に、とうとう犯人達も抵抗を諦めた。彼女が連れてきた隊員達が次々と犯人の身柄を確保していく。

 そんな中、クインは悠然と穂樽とセシルの元へと歩み寄った。既に銃はホルスターに収められ、彼女は咥えていた煙草の煙を吐いてから話を切り出す。

 

「まあ、ご苦労さんってところかな。連絡ありがとよ」

「いえ、こちらも丁度危なかったので助かりました。……それで、蜂谷さんと今川は?」

「最寄の署に自首してきた、ってのは聞いた。ここへの踏み込みより時間は早いからな。表向きはその今川から情報を得てここを突き止めた、ってことになってる。……しっかしディアボロイドはまずかったな。ありゃあたしでも庇いきれない。形式上、そこまでにはならないと思うけど、九条違反の罰金だけは払って聴取は受けてくれよ」

「よかった。セシルにかなりセーブさせましたからね。この子が本気でやったら都市部が大変なことになりかねないですよ」

「同意。ちっとは使いどころ考えな」

「今日のは使わないとどうしようもなかったですよ! それに先に出してきたのは向こうです!」

「それでも九条は違反だな。ま、諦めてくれ。そんじゃ優遇車両にご案内してやるよ」

 

 優遇車両ってパトカーだろ、とか、一服もさせてもらえないだろうに何が優遇車両か、と穂樽は突っ込みたかったが、さすがに疲れていたためにそんな元気もなかった。

 ひとまず犯人グループはまとめて逮捕、加えて自分が依頼を受けた今川は考えられる限りもっとも理想的な形で救い出すことが出来た。ディアボロイドの戦いという予想外の展開はあったものの、どうにかうまくいったことに、穂樽は胸を撫で下ろさずに入られなかった。

 

 同時に、ふと彼女は思い出す。あのディアボロイドの戦いの最後、自分の砂塵魔術では相手の足を破壊することなど到底出来なかったはずだ。なのに、相手は確実にバランスを崩した。あれは、一体なんだったのだろうか。

 考えようと思ったが、うまく頭が働かない。とにかく疲れた。結果的にうまくいっているのだから、細かいことはいいかと、穂樽はその考えを思考の中から排除し、クイン曰く「優遇車両」に乗り込んだ。

 

 

 

 

 

 大捕り物が終わった廃工場から離れた屋根の上。影に紛れるように立っていたその女性は、今回の主役であった女性2人の安全が確保されたのを確認すると、僅かに口の端を上げた。

 

「今回も少し手伝っちゃったか。ま、セシルんのためだからいいけど。……それにしてもなっち、随分と信頼されてるんだなあ。ちょっと嫉妬しちゃうかも」

 

 クスリ、と彼女は小さく笑った。髑髏のマークの上に「GO TO HELL」と書かれたジャンパーを羽織った彼女は、落ちたら大怪我をしかねない屋根の上という異様な場所にいながらも、そのジャンパーのポケットに両手を突っ込み、平然としていた。

 

「なっちもお気に入りだけど、やっぱセシルんには全然叶わないなあ。……ま、セシルんのことは、私が守ってあげるからね」

 

 悪魔のようにも見える笑みを残し、突如として彼女の姿が消えた。後には静寂と、初めから何もいなかったかのような夜の闇が広がるばかりだった。

 




「ホタル、ディアボロイド、ゴー!」と「ハチミツスマッシュ!」と「出頭してください、弁護します!」が書きたかった。反省はしていない。

ディアボロイド戦についてはセシルが本気を出せば勝てるレベルの相手なので、あくまで実力セーブで金属収集を抑えつつ、かつ穂樽の援護を受けて互角より若干不利に戦う、というコンセプトで書いています。
セシルが本気で発動するごとに建造物がどんどん犠牲になる魔術ですし。


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Episode 1-9

 

 

 結局、聴取を終えて穂樽が事務所兼自宅に到着したのは翌日の昼前だった。クインの計らいで犯人グループに関する聴取自体は本来の時間から考えれば短い部類で済み、魔禁法違反もあくまでディアボロイド製造に関わる九条違反のみ。そのため、懐的には確かに痛いが、さほどでもない罰金で済むことができた。

 が、その罰金の支払い割合でセシルと揉めに揉めた。穂樽は実質セシルが違反したとはいえ自分が巻き込んだ以上、3割程度は持つつもりでいた。ところが当のセシル本人は半々だろうと算段していたらしい。そこからは元弁魔士と現弁魔士による、互いの主張をぶつけ合って相手の不備を突っつく議論の応酬となり、担当していた警官も頭を抱えるほどのやり取りあがった。結果、互いに譲歩して穂樽4割、セシル6割を持つことで和解となっている。

 その後、先に帰った蜂谷が回収した機材入りの荷物と預けておいた車のキーを受け取り、セシルを乗ってきたミニバイク付近まで送ってからようやく帰路につけたのだった。犯行グループと一戦交えたせいで体中が痛く、また魔禁法違反の罰金のせいで頭の痛い出来事だったと彼女は思う。蜂谷が約束どおり車を傷ひとつなく返してくれたことだけがせめてもの救いだと思うことにした。

 

「ただいま……」

 

 疲れ切った様子でファイアフライ魔術探偵所の入り口をくぐる穂樽。その様子に、ブラインドの隙間から入る日光で日向ぼっこしつつ寝そべっていたニャニャイーが気づき、のっそりと体を起こした。

 

「ニャ。穂樽様お帰りニャ。夜通しとは随分お疲れのご様子……ニャ!? 顔怪我してるのかニャ!?」

「この絆創膏? かすり傷よ。そっちよりも疲れたなんてもんじゃないほうが問題……。割に合わない仕事しちゃったわ……」

 

 事務所の入り口に鍵をかけ、そのまま奥へと向かう。ニャニャイーもその後についてきた。

 機材入りのバッグをソファに置き、ベッドへとダイブ。それだけで抗いがたいほどの睡魔が襲ってきた。

 

「穂樽様、寝る時は眼鏡外すニャ。壊れるニャ」

「わかってるわよ……。ああ、ニャニャイー、バッグから携帯とって頂戴。寝る前に八橋さんに一応顛末のメール送らないと……」

「だから私は小間使いじゃニャいニャン!」

 

 文句を言いつつ、ニャニャイーは言われたとおりにバッグから仕事用の携帯を取り出し、穂樽へと手渡した。眠気で半分意識が飛びつつも懸命にそれを繋ぎとめ、今川を見つけたこと、事件に巻き込まれていて彼が警察へと自首したこと、彼に関わっていた犯行グループは全て捕まったためもう心配ないことを要点だけ手早くまとめ、送信ボタンを押した。

 

「終わった……。おやすみ、ニャニャイー……」

「ニャ! 眼鏡かけたままニャ!」

 

 使い魔の注意ももはや聞こえていないらしい。携帯を片手に、穂樽は早くも寝息を立てていた。

 が、直後。その手に持った携帯が鳴り始めた。しばらくしても止まる気配がない。どうやらメールではなく着信らしい。まだ朦朧とする意識のまま、穂樽はどうにか携帯を操作して通話に応じた。

 

「はい……。ファイアフライ魔術探偵……」

『穂樽さん! さっきのメール、どういうことですか!?』

 

 聞こえてきたのは耳を(つんざ)くような声だった。思わず携帯から耳を離しつつわずかに眠気を飛ばされ、穂樽は意識を覚醒させる。

 

「えーっと……。八橋さん?」

『そうです、八橋です! そんなのよりさっきのメールのことです! 今川さんを見つけたけど自首して今は警察にいるって、どういうことですか!?』

 

 これまでのおどおどした様子の声からは想像出来ないような詰め寄る声に、言葉を濁して相槌を打ちつつ、飛びかけた意識の中で打ったメールの内容を思い出す。そういえば要点だけをまとめることを重視する余り、今川が置かれていた状況やら何やらを全てすっ飛ばして結論だけを書いてしまっていたかもしれない。

 

「どこから話せばいいか……。話すと長くなりますし……」

『じゃあ今からそちらに向かいます! 小一時間で着くと思うんでまとめておいてください!』

 

 一方的に通話は切られた。「ちょ、ちょっと! 八橋さん!?」という穂樽の声だけがむなしく響き渡る。返って来るのは通話を終えたことを意味する電子音だけだ。だが穂樽はそれに対して文句を言うでもなく、その電話を手にしたまま枕に頭を沈め、目を閉じた。

 

「穂樽様、眼鏡ニャ!」

「いいわよどうせもう少ししたら八橋さん来るから……。それまでちょっとでいいから寝させて……」

 

 使い魔の三度の忠告を無視し、言い終えるかどうかといううちに穂樽は寝息を立て、僅かな時間の仮眠を取り始めた。

 

 

 

 

 

 穂樽にとって至福の睡眠時間は、予想通り長くは続かなかった。それもかなり荒っぽい形でその時間を終えることとなる。前もって電話で言われたとおり1時間少し手前、事務所のチャイムが鳴らされ、ドアをノックされ、挙句手に持ったままの携帯まで鳴り出した。

 

「穂樽さん!? いますよね!? 八橋です、どういうことか説明してください!」

 

 新手の嫌がらせか何かかと錯覚するような三段攻撃に、まだ気だるい体を引き摺るように起こしながら穂樽は事務所の方へと向かった。入り口の鍵を開けると同時、自分がドアを開けるより先にそれが開けられる。

 

「説明してください! 彼が見つかったのに自首して警察に捕まってるってどういうことなんですか!?」

「……ちょっと声のボリューム落としてもらえます? 鉄火場を終えた後の徹夜明けでまだしんどいんですよ……」

「穂樽さん!」

「落ち着いてって言ってるでしょ!」

 

 荒げられた穂樽の声に、思わず八橋は肩を震わせた。しかし言ってから、穂樽にも若干の罪悪感が押し寄せる。見れば、八橋の肩は僅かに震えていた。いたはずだった恋人、消えた記憶。その真相に辿り着けるというその時に突然「見つけたが捕まった」という連絡を受ければ、普段おとなしい彼女であろうと取り乱すのも無理はないと思えていた。

 

「……ごめんなさい。私、昨日一昨日と授業が一緒の人達に頑張って聞いてみたんですけど、全然情報がなくて……。そんな時に穂樽さんからさっきのメールを受信したから、つい気が動転してしまって……」

「こちらこそ怒鳴ってしまったことと説明不足なのは謝罪します。ただ、話が長くなるのでどこから話せばいいか。頭も体も疲れてるせいで順序立ててうまく説明出来ないかもしれません。煙草のメンソールでも覚醒出来るか怪しいから、強い気つけ薬でも欲しいところだけど……」

 

 そこまで言ったところで、穂樽は時計へと目を移した。時刻は11時少し前。ならば、いい案がある。

 

「八橋さん、当然お昼はまだですよね?」

「え? え、ええ……」

「じゃあ下に行きましょう。『シュガーローズ』、1階にある喫茶店です。そこで話します」

「私は別にここでも……」

「私が行きたいの。奢りますよ。……勿論その分料金上乗せとかしませんからご安心を」

 

 ジョークを飛ばしつつ、穂樽は手ぐしで軽く髪を整えただけで身支度を済ませた。奥にいるニャニャイーに「下行って来る、留守番お願い」とだけ声をかけ、事務所の鍵を締めてクローズになっているのを確認すると階段を降り始めた。

 

 穂樽が案内した1階の喫茶店「シュガーローズ」はクラシックな内装だった。いわゆる「昭和レトロ」というものであろうか。カウンター8席、テーブル2席の小ささも相俟っていかにも、という印象を受ける。もっとも、その頃を知らない穂樽や八橋からすればあくまでイメージでしかないわけではあるが。

 

「いらっしゃ……。おや、穂樽ちゃんか」

「お邪魔します、浅賀さん」

 

 軽く頭を下げ、穂樽はためらいなくカウンター席のもっとも奥へと足を進める。店内に他の客はおらず、てっきりテーブル席に座るものだと思っていた八橋は少々意表を突かれた。

 

「あの……テーブル席じゃないんですか?」

「穂樽ちゃんのクライアントさんかな? どうも、マスターの浅賀です。穂樽ちゃんにとっては、カウンターの一番奥のここが指定席なんだ。うちに来るといつもここなんだよ」

 

 説明するマスター、浅賀の言うとおり、穂樽は何事もないかのように1番奥の席へと腰を下ろした。一見強面な眼鏡のマスターに少し怯みつつ、八橋もその隣へと座る。

 

「浅賀さん、ちょっと早いですけど日替わりランチできます?」

「いいよ。穂樽ちゃんの頼みだ、特別ね。2人分でいいかい?」

「あ、私は……」

「いいから食べなさいって。浅賀さんのサンドイッチは絶品だから。ね?」

 

 ここまで言われて断れば失礼に当たるだろう。八橋は穂樽の提案を受け入れることにした。

 出された水を穂樽が一口呷る。気だるそうに机に肘をついて右手で頭を抑えつつ口を開いた。

 

「さて……。コーヒー出てくるまで頭働きそうにないんだけど、どこから説明したものかしらね……」

 

 重い頭を無理矢理働かせ、穂樽は説明を始めた。今川自体は昨日の昼に見つけたこと。しかし事件に巻き込まれており、どうやら八橋を脅迫の材料として利用されていたこと。最終的に自首を決意し、犯人グループは全て逮捕されたこと。

 八橋の表情はずっと驚いたままだった。まさか「いたはずの恋人を探してほしい」という依頼が、巷で話題の宝石店襲撃事件まで関連してここまで大きくなるとは思っていなかったのだろう。

 

「それにしても今朝のニュースで騒がれてた宝石店襲撃犯の逮捕に穂樽さんが貢献していたなんて……。顔、それで怪我されたんですね」

「かすり傷だから大したことないわ。……それより問題はディアボロイドよ。あれは冗談じゃなかったわよ。……ああ、料金の上乗せはいいですよ。私も半ば興味本位で首を突っ込んだことですから」

「とか何とか言っちゃう穂樽ちゃんのその素直じゃないところは、僕個人としてはかわいいと思うところなんだけどね」

 

 コーヒーの準備をしつつからかってきた浅賀を穂樽が面白くなさそうにチラッと見つめた。

 

「じゃあ今川さんが私の記憶を消したのは……」

「おそらくあなたを巻き込まないためでしょうね。……随分と不器用な選択だと、私は思うけど」

「そうかな? 僕にはわかる気がするよ。むしろ、本当に思いやれる相手だからこそ、その決断を出来たんじゃないかと思う」

 

 浅賀の言葉と共に、コーヒーの香りが店内に広がる。あとはカップへと移すだけのようだ。

 

「優しい人ほど、何かを自分だけで抱えようとする。他人を巻き込みたくないと思ってね。僕は今川さんという人のことはよくわからないけど、きっと彼は優しい人なんだと思うよ。だからあなたを巻き込まないようにしたんじゃないかな」

「優しい人……」

「頼りなさそうではありましたけど」

 

 穂樽の付け足しに思わず八橋がジロリと視線を移してきた。記憶は戻っていないはずだが、恋人だったはずの人間のことを悪く言われるのはあまりいい気がしないのだろう。

 と、そこで2人の前に液体の入ったコーヒーカップが差し出された。

 

「はい。ブレンド、お待たせ。砂糖はそこのシュガーポットから好きなだけどうぞ」

「多分多めになると思うわよ。まあ最初だけは物は試しにブラックでいってみるのもいいと思うけど」

 

 そう言うと、穂樽は何も入れずにそのまま液体を喉へと流し込んだ。次いで眉を寄せ、カップを置く。

 

「お、穂樽ちゃんブラックでいったのかい? じゃあ昨日は徹夜?」

「そうです。さっき言ったとおり犯人連中と派手にやりあったので。……やっぱ徹夜明けはこれに限りますね」

 

 穂樽がそう言っているのを見て、八橋も興味が沸いたらしい。コーヒーを少し吹いて冷まし、一口含む。が、直後にむせてコーヒーをこぼしかけた。

 

「なっ……。苦っ……!」

「でしょう? それがうちの売りなんだ。穂樽ちゃんと一緒で僕もウドなんだけどね。ウドのコーヒーは苦いんだよ」

「そう……なんですか?」

「浅賀さんのジョークよ。真に受けないで。私もウドだけど、うちの事務所で出したコーヒーはそんなことなかったでしょ? ……まあ安物のインスタントだけど」

 

 続けて穂樽はブラックのまま飲み始めた。とても無理だと、八橋はシュガーポットを手元に寄せる。そこでそのビンに美しい薔薇の模様が描かれていることに気づいた。その時、ふとこの店名のことが彼女の頭に浮かぶ。

 

「あの、マスターさん。もしかして薔薇がお好きなんですか?」

「んー……。どうして?」

「いえ、シュガーポットに薔薇の模様があったんで。他の席にあるものにも皆似たように薔薇があったから、お好きなのかなと……」

「よく気づいたね。でも好きだったのは僕の妻だよ。……5年前に遠くへ行ってしまったけどね」

「あ……。ごめんなさい……」

 

 反射的に八橋は謝罪の言葉を口にしていた。だが浅賀は気にした様子もなく続ける。

 

「気にしなくていいよ。……彼女がよく言っていたんだ、僕の入れるコーヒーは苦いから、砂糖が手放せないって。このお店を開店する時に絶対皆が砂糖を使うことになるんだから、綺麗なシュガーポットを特注しようって提案されてね。彼女は薔薇が好きだったから、その模様が入ってるシュガーポットを用意しようってことになったんだ」

「そこからこのお店の名前が『シュガーローズ』になった。……いつ聞いても素敵な話だと思いますよ」

 

 補足する穂樽の説明に感心したような声を上げる八橋。一方浅賀はどこか照れくさそうな表情だ。

 

「穂樽ちゃん、からかってない?」

「そんなことありませんよ。ガサツにはなりましたけど、私も仮にも女子ですから。そういう話は好きですよ」

 

 2人の話を耳にしつつ、八橋はそんな思い入れのあるシュガーポットを開けた。

 

「標準でティースプーン山盛り2杯。苦めが好みなら1杯半、逆に甘めが好みなら2杯半ってところよ。3杯入れても甘ったるくはならないわ」

 

 そう言っている当の本人がブラックで飲み続けているのはどうなのだろうと彼女はふと思う。とりあえず勧められたとおり2杯入れてよく溶かし、再び口へと運んだ。

 

「あ……」

 

 今度はむせるような苦味はなかった。代わりにマイルドになった口当たりの中に深みを感じ、先ほどまでの味とは別物のようだった。

 

「よかった。気に入ってもらえたみたいだね。……僕の煎れるコーヒーは苦い。でも、それも少し条件が変わるだけで全く違う味になる。同様に、物事はアプローチを変えるだけで見える面が変わることもある。だけど、本質はコーヒーということから変わってはいない。……要するに、色々な面から物事を見ると面白いんじゃないかな、っていうのが僕の持論なんだ」

「……ってなんかいいこと言ってるみたいだけど、苦いコーヒーをどう言ったら相手に納得してもらえるかを考えた浅賀さんの苦悩の末の持論なのよ」

「きっついなあ、穂樽ちゃん。オチを先に言わないでよ」

「それは失礼しました。でも私はその考えを支持しますよ。今の私自身がそういうところはありますからね」

 

 フォローされているのかいないのか。判断に困った浅賀は苦笑を浮かべつつ、完成した日替わりランチを2人の前に並べた。ホットサンドとミニサラダの乗ったプレートが差し出される。

 

「……はい、日替わりランチのサンドイッチお待たせ。今日はハムチーズとタマゴサンドだよ。それからミニサラダね」

「やった、タマゴの日だった。いただきます」

 

 待ちわびていたように穂樽はタマゴサンドを口へと運ぶ。少しきつめな印象を与える彼女のその表情が自然と笑顔になったのを見て、思わず八橋もタマゴサンドへとかぶりついた。その瞬間、穂樽が「絶品」と褒めちぎった理由がわかった。

 トーストしたことによる香ばしい香りとサクッとした歯ごたえ、挟まれた食感豊かなタマゴ、そしてしつこくなくあっさりとしつつもしっかりとついているその味。全てが綺麗に、そして上品にまとまっている。

 

「おいしい……!」

「ありがとう。そう言ってもらえると、作り甲斐があるよ」

 

 反射的に感想が八橋の口をついて出ていた。それを見て穂樽も得意げな表情を浮かべる。

 

「ここのタマゴサンドの秘密はマヨネーズにあるのよ。油を使わず自家製なの。あとは特製のトースターでホットサンドにしてるのも、美味しい理由ね」

「穂樽ちゃん、あまりうちの秘密をばらさないでくれるかな? 味を盗まれちゃったらこっちは商売上がっちゃうよ」

「大丈夫ですよ。この自家製マヨは真似できませんから」

 

 穂樽と浅賀の話を聞いているうちに、気づけば八橋は最初のタマゴサンドを食べ終えていた。続いてハムチーズサンドを口に運ぶ。こちらもいい具合に溶けたチーズと、先ほどから言われている自家製マヨネーズがハムに合わさり、なんとも言えない味を作り出していた。

 

 結局色々話をもっと聞きたかったはずなのに、無言でひたすらランチを食べていた、と食べ終えてから八橋はようやく気づいた。同時にコーヒーカップも底が見えそうになっている。

 

「もう1杯いかがかな?」

 

 浅賀の提案に一旦八橋は迷った。が、隣で穂樽が「お願いします」と差し出したのを見て、彼女も頼む。戻ってきたカップに、穂樽は今度はブラックをやめて砂糖を入れたようだった。

 

「さて……。お腹一杯になって私もコーヒーのおかげでやっとエンジンかかってきたところだし、話に戻りましょうか」

 

 表情を引き締め、穂樽は八橋の方を見つめなおした。これまでより少し真面目な雰囲気になり、「お仕事モード」という印象を受ける。

 

「彼……今川さんは、これからどうなるんですか?」

「楽観視は出来ないけど、あくまで容疑は窃盗幇助と魔禁法違反。でも脅迫されていた、という事実と、自首したということで酌量の余地は十分にあると判断されると思います。あとは彼に有利な証言と証拠がどれだけ出るか。それから、弁魔士の腕次第です。うまくすれば、無罪を勝ち取れるかもしれません」

「そう……ですか……。実際に会って話を聞けば私の記憶が戻るかもしれないと思ったんですけど……。ずっと先になっちゃいそうですね……」

「会いますか? 彼の力になれるかもしれませんし」

「……え?」

 

 思ってもいなかった穂樽の言葉に、八橋は完全に虚を突かれた。ぽかんと口を開けたまま、穂樽を見つめる。

 

「会えるんですか!?」

「弁護人も立ち会いますし可能ですよ。弁護はかつての職場の人間に頼んだので、八橋さんが望むなら立ち会ってくれると思います。行きますか?」

「お願いします! できるなら、今すぐにでも!」

 

 興奮気味の八橋だが、穂樽はそれをなだめるか、あるいは少し呆れの意味も含めた視線を送る。

 

「……今すぐって、授業はいいの?」

「う……。じ、自主休講です! 非常時ですから!」

「単位落としても私は責任持ちませんからね」

「普段ちゃんと出てるから1回ぐらい大丈夫です! ……多分」

 

 やれやれとため息をこぼしつつ穂樽は携帯を取り出し、席を立とうとした。だが「他にお客さん来てないし、いいよ」と浅賀が電話を許可してくれたため、席に腰掛けたまま通話を始める。

 

「……あ、忙しいところすみません、抜田さん。穂樽です。……ええそうです。お願いします。……あ、蜂谷さん、昨日はありがとうございました。……ええ、大丈夫です。聴取かかって徹夜になったのとセシルにゴネられて予定より多めに持たされたこと以外問題ないです。それでお願いがあるんですが、今私の依頼人である八橋さんがいらしてて。……そうです、今川の恋人です。可能なら接見をしたいと思っているのですが。……あ、丁度よかった。じゃあ今から向かっても大丈夫ですか? ……はい、ありがとうございます。では後ほど」

 

 通話を終え、穂樽は八橋の方を向き直る。

 

「オッケーだそうです。丁度弁護人も接見に行こうとしてたところだったそうなので」

「じゃあ行きましょう!」

 

 そのまま店を飛び出していきそうな八橋を落ち着かせるように、だが苦笑を浮かべて穂樽は口を開く。

 

「気持ちはわかりますけど、そんなに焦らなくても大丈夫ですよ。このコーヒーを飲み終えてからにしません?」

 

 穂樽の提案に早くコーヒーを飲み干したい八橋だったが、やはりここのコーヒーは美味しい。味わうことなく飲んでしまっては勿体無い。言われたとおり焦ることはないかと、はやる心を抑えてコーヒーを口へと運んだ。

 




ウドのコーヒーは苦いと言いたかっただけです、ごめんなさい。
体質上、自分はコーヒーがダメなので喫茶店に縁がないんですが、そのせいか逆に憧れを感じたりします。


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Episode 1-10

 

 

 今川との接見のために電車で移動した穂樽と八橋を待っていたのは蜂谷1人だけだった。相変わらずの仏頂面と高長身に、背後で八橋が思わず怯んだ様子を穂樽は感じ取る。

 

「蜂谷さん、昨日は本当にありがとうございました」

「俺は1番楽な役回りだったから大したことはしていない。むしろディアボロイドを相手にしたというお前と須藤の方が大変だっただろう。顔にも絆創膏があるようだが」

「これはかすり傷です。そっちよりもまだ疲れ抜けてないっていうかほとんど寝てない方がしんどいんですけどね。……で、そのセシルなんですけど、サポートについてるんじゃなかったんですか?」

「……事務所のデスクに突っ伏してる。ボス命令で起こすな、という注文つきで。おかげで連れてこられなかった。だが聴取もあって徹夜だったんだろう? 仕方ない」

「とはいえ、アゲハさんはやっぱあの子に甘い気がするけどな……」

 

 苦笑を浮かべつつ、穂樽は昨日の大捕り物で1番の功労者といってもいい、史上最年少で弁魔士となった彼女が机に突っ伏して寝ている様子を思い浮かべる。きっと起こすのも躊躇われる程熟睡していたのだろうということは容易に推測できた。

 

「それで、彼女が今川の恋人……お前にとっての依頼人か?」

「あ、そうです。八橋貴那子さんです。八橋さん、こちらは今回今川さんの弁護を引き受けてくださったバタフライ法律事務所の弁魔士、蜂谷ミツヒサさんです」

「よ、よろしくお願いします……」

「こちらこそよろしく頼む」

 

 明らかに狼狽を通り越して怯えた様子の八橋と変わらず無表情の蜂谷。全然噛み合いそうにない2人を見て穂樽は思わずフォローを入れようという気になった。

 

「八橋さん、蜂谷さんは確かに無愛想ですけど怖い方ではないんで大丈夫ですよ。弁護の方も、『法廷のターミネーター』の異名を持つほど優秀な方です」

「……穂樽、それは俺を褒めているのかそれとも茶化しているのか、判断しにくいんだが」

「……とまあこんな風に軽口も叩ける方ですから」

「は、はあ……」

 

 八橋は困り顔をしていたが、当初よりは蜂谷への警戒心は薄れたらしい。一方の蜂谷は特に気にした様子もなく、早く接見を行おうと2人を目で促していた。

 

 接見室に入ると、それまで以上に八橋は落ち着かない様子だった。当然とは思いつつ、「深呼吸したら?」と穂樽は一応アドバイスする。助言に従って八橋が一度大きく息を吸って吐いたところで、窓の向こうの扉が開いた。入ってきた男性は八橋の姿を見て、思わず目を見開く。

 

「キナ……!」

 

 愛称で呼ばれても、八橋は自分のことだと気づかなかったらしい。それを見た窓越しの今川の表情が僅かに曇り、椅子に腰を下ろした。

 

「昨日移動中に話したが、改めて自己紹介しよう。バタフライ法律事務所の弁魔士、蜂谷ミツヒサだ。君の弁護を担当させてもらう」

「はい……。よろしくお願いします、蜂谷さん」

 

 挨拶を返しつつも、今川の視線は蜂谷の後ろ、八橋の方へと向いていた。彼もそのことを感じ取ったのだろう。椅子をわずかにずらし、後ろの2人が見えやすいように位置を調整する。

 

「2人は弁魔士ではないが、今回協力してくれる。君も知っている2人だと思う」

「ちゃんとした自己紹介は初めてですね。ファイアフライ魔術探偵所の穂樽夏菜と言います。昨日述べたとおり、こちらの彼女、八橋貴那子さんの依頼であなたを探していました」

「……昨日はすみませんでした」

「謝罪なら、私にではなく彼女に。……あなたも彼女も、共に話したいことはたくさんあるでしょうから」

 

 そう言うと、穂樽は八橋に発言を譲ろうとした。だが彼女は何から話したらいいか整理がついていない様子である。

 

「えっと……。あの……今川……さん」

「……自分でやったこととはいえ、きついな。聞きたいことがあるなら何でも答えるよ。キナ、そっちから聞いてくれ」

「その、『キナ』っていうのは、私のことですよね……?」

「ああ……。『貴那子』だから『キナ』。そう呼んでほしいって言ったのは、キナの方なんだけどな」

「……ごめんなさい、思い出せなくて」

「謝るのは俺の方だ。お前の記憶を消してしまった俺が、全部悪いんだから」

「やっぱり……。今川さんが私の記憶を……」

 

 それきり、八橋は何を聞くべきか迷うように口を閉ざしてしまった。今川もつらそうに天を仰ぐ。

 

「……穂樽さん。すみませんが、私の代わりに彼と話を進めてください。私は何から聞いたらいいか、わからなくて……」

「あなたがそう言うのなら。……今川さん、あなたと彼女の出会いとか、付き合っていたときの様子とか、そういうことを話してあげたらどうかしら? 彼女もそれで何かを思い出すかもしれない」

 

 八橋の要請を受けて穂樽が助け舟を出す。だが、今川はそれに対して困ったような表情を見せていた。

 

「……なんか公開処刑だな、それ。惚気話をするみたいで小っ恥ずかしいんですけど」

「自業自得でしょ。彼女を巻き込みたくなかったとはいえ、やったのはあなたなんだから、責任持って彼女をちゃんと『彼女』にしてあげなさい」

「……そうですね。うまいこと言いますね、探偵さん。……じゃあ、どっから話したもんかな」

 

 少し悩んだ後、そもそも今川は受けたくて今の大学を受けたわけではない、というところから話し始めた。父親は大企業の社員、母親はウドで元プロバイオリニスト。そんな環境に生まれた彼は、幼少期からバイオリンを習い、将来はかつての母と同じようにプロバイオリニストを目指していた。そのため、音楽大学を志望、実技では華麗にバイオリンを演奏してみせ、当初は見事合格という発表をされていた。

 ところがそこで彼にとって悲劇が起こった。合格通知の代わりに彼の元に届いたのは、合格取り消しの通告であった。ウドで幻影魔術使いということで、魔術を行使して実技試験で高得点を取ったのではないかというあらぬ疑いをかけられたという噂が流されたと知ったのは、それからしばらく経ってからのことだった。

 それを期に今川は音楽の道を諦めた。どんなに美しい音色を奏でて人の心を動かそうが、幻影魔術使いというだけで魔術を使ったのではないかと言われる。だったらもう2度と楽器は手に取らない。そう心に決め、翌年に今の大学の文学部に入学、音楽の繋がりからヨーロッパ文化に多少は興味があったためにヨーロッパ文化専攻を選択したのだった。

 

「……でも夢も目標もなく入った大学なんて、面白くもなんともなかった。好きだったバイオリンに触ることをやめ、ただなんとなく授業に出てレポートを提出して試験を受けて単位を取る。友達と呼べるほどの存在もほとんどいない。

 そんな生活を1年続け、2年になったある日のことでした。……偶然、キナと出会ったんです」

 

 初めての出会いは混んでいた学食の中だった。長机の端に座って昼食を取っていた八橋の向かいに、席が空いていないという理由でたまたま今川が腰を下ろした。その時の彼は彼女のことなど気にも留めていなかった。だが、食後に八橋が教育学部の次の授業で使うピアノの譜面を見始めたことで、思わず興味を惹かれた。その時、意図せずじっとその譜面を眺めていた彼に、彼女が気づいたのだ。

 

『あの……。この楽譜が何か?』

『……あ、いや。なんでもない』

 

 楽器弾きの(さが)か、声をかけられて初めて、今川は自分が懐かしい音符の並びを見つめていたと知った。2人の初めての会話はそれだけ、しかも、一方的にそこで今川が席を立って終わりというものだった。

 しかし数日後、今川が1人で学食で食べていると、向かいに八橋が座ってきたのだった。八橋は今川が印象的だったらしい。ピアノ譜を見つめていたのはもしかしたらピアノが弾けるからじゃないか、違うとしても何か楽器をやっているんじゃないのか、と興味深そうに尋ねてきた。

 適当にあしらおうとしたが、昼食を進める様子なく問い詰めてくる八橋に根負けした。昔バイオリンをやっていた、と告げると、今度は感心しきった声を上げるばかりだった。

 

「はっきり言って変わってると思いましたよ。バイオリン弾きなんてあの大学のでかいオケに行けばいくらでもいるでしょうから。

 ……でも後になって、キナが俺に声をかけてきた理由はそれだけじゃないって言ったんです。キナは言ってました。大学に入学して1年経ったけど友達らしい友達も出来ない。母は既に亡くなっていて、父に負担をかけさせたくない。だからバイトしていてサークルに入る暇もないって。

 キナは、俺から自分と似た、孤独な雰囲気をなんとなく感じ取って、気になっていたらしいんです。それでその時1人でいた俺を見かけて、勇気を出して声をかけてきたって言ってました」

 

 似た境遇にあった2人は次第に打ち解け、意気投合していった。連絡先を交換し、休日には一緒に出かけるほどの仲になった。そして互いに悩みや夢などを打ち明けていく。

 今川は自分がウドであること、音大に入学を取り消され今の大学にいること、かつてバイオリンを弾いていたがその一件を境に弾くのをやめたことを。

 八橋は母が教師だったこと、それを誇りに思っていたこと、だが中学校の時に他界してしまったこと、そんな母のような教師になりたくて教育学部へと入ったことを。

 

 チラリ、と穂樽が八橋の方へと視線を移した。彼女はずっと難しい表情を浮かべて俯いていた。が、穂樽の視線に気づいたのだろう。頷き、「……私の話については、間違っていません」と今の話を肯定した。

 

「キナは小学校の先生になりたいって言ってました。でも、実技のピアノの授業が苦手だった。……だからある提案をしたんです。俺が弾くバイオリンと一緒にセッションすれば、苦手なピアノを克服できるんじゃないかって。キナはずっと俺のバイオリンを聞きたいと言ってました。だから大喜びでその提案を受け入れてくれました」

「そのセッションは……行われたんですか……?」

 

 尋ねたのは八橋だった。どこか距離を置くような態度でここまで質問できずにいた彼女が、今川をまっすぐ見つめている。蜂谷と穂樽に聞かせるという意味合いが強い様子で話していた今川が、今度は八橋に向けて話し出した。

 

「ああ。俺がお前の記憶を消して姿を消す、数日前のことだった。俺も楽しみにしてたよ。とはいえ、さすがに久しぶりに楽器に触ったときは手が震えたけどな。2度と弾かないとまで決意して断ち切った楽器だから。

 けど、キナと一緒にセッション出来るなら、その時はきっと魔術だなんだ関係無しに音を重ねられる。純粋に音を楽しむ……『音楽』が出来るだろうと、そう思ったんだ。

 覚えてないだろうけど、キナは『つたない伴奏でごめんね』と前置きしながらも、事前に一生懸命練習してくれていて、ちゃんと弾いてくれた。その時俺達が一緒に弾いた曲が……」

「G線上の……アリア……」

 

 曲名紡いだその言葉は、今川のものではなかった。僅かに瞳に涙を浮かべた、彼女のものだった。

 

「バイオリンのG線だけで演奏できることから、そういう名前がついた……。そう説明してくれたよね、ユウ君(・・・)

「キナ!? お前、記憶が……」

 

 彼女の目から涙がこぼれる。それでも、浮かべていた表情は笑顔だった。

 

「思い出した……。全部、思い出したよ……。私のことをニックネームで呼んでほしいって言ったら『キナ』って呼んでくれたこと。だから私も『有部志』って名前から『ユウ君』って呼ぶようにしたこと。そんなユウ君はいつも優しく私を支えてくれてたこと。私が知らないことをたくさん知ってたこと。そして、本当はバイオリンを弾くのがとても好きだったこと……。

 あの時、私は初めてユウ君のバイオリンを聞いた。すごく上手で、綺麗で、私の心に響く音だった。つたない伴奏だってわかってたけど、一緒に演奏できて本当に嬉しかった。それをきっかけに私は少しピアノに対する苦手意識が薄れた気がしたし、何よりまたユウ君がバイオリンを演奏するようになるんじゃないかって思ってた。……だけど」

 

 そこで八橋は涙を拭い、表情を曇らせた。

 

「……その数日後、電話があった後、怪我をしたユウ君が私の部屋に来た。どうしたのって聞く私に、ユウ君は何も言ってくれなくて。ただ、私のことを本当に大切に思ってるから、私のためだから自分を信じてこの目を見てくれって言われて。

 ……そして気づいたら、ユウ君はもういなかった。私の記憶と、携帯のデータや共に演奏した時の録音などの思い出の品と一緒に……」

「……すまなかった、キナ。俺はどうしてもお前を巻き込みたくなかった。だから、いなくなった俺を追いかけないで済むように魔術を使ったんだ。本当はお前の部屋から回収したものを全部処分しようと思った。でも、俺の携帯の解約までは出来ても、それ以上は出来なかった……。俺の部屋に、お前の部屋から回収したものは保管してある。勿論、録音したデータもパソコンにあるよ」

「よかった……。あの録音は、どうしても消してほしくなかったから。……でも、説明してほしいの。どうして、そんなことになっちゃったのか」

「ああ、わかってる。……蜂谷さん、穂樽さん、今キナにも頼まれた通り、なぜそうなったのかについて詳しくお話します。俺がキナの記憶を消したその日、中学の時の同級生だった柏って奴に会ったのが全ての発端です」

 

 今川自身は10歳の時に幻影魔術に目覚め、しかし世間の目もあるため、可能な限り使わないようにしていた。だが中学校に進学し、人付き合いがうまくなく、またあまり気の強い方でなかった彼は柏をはじめとするいわゆる不良グループから嫌がらせまがいの接し方をされるようになる。この頃、柏はまだ魔術使いとしては覚醒していないということだった。しかし魔術を使わないと決めていた今川は特に反抗することもなく、多少我慢しつつもその関係を続けていた。

 当初は耐えられる程度であったが、ある日決定的な事件が起きる。今川が幼少期からバイオリンを習っていることを知っていた音楽教師が、授業で実際に何か弾いてほしいと頼んだことがあった。彼はそれを了承し、音楽教師も舌を巻くほどの見事な演奏をしてみせる。それはクラスメイトも絶賛したが、柏達は面白く思わなかったらしい。授業の後にそのことで難癖をつけ、あろうことか机の上に置いてあった彼のバイオリンの入ったケースを蹴り飛ばしたのだ。

 

「……最低な連中」

「おそらく数百万クラスの楽器のはずだ。お前が怒るのも無理はない」

「金額の問題じゃありません。あのバイオリンは母から譲り受けた大切なもの、俺にとって片腕、体の一部と言ってもいい楽器です。それを足蹴にされたということは許せなかった。

 頭に血が上った俺は、反射的に魔術を行使してました。かなりの怒りをこめて使用した幻影魔術です、あいつは相当恐ろしい幻覚を目の当たりにしたんでしょう。悲鳴を上げて倒れこみ、その後1週間は登校して来ませんでした」

「自業自得ね」

「担任もそう見てくれたようです。両親を呼び出されて口頭で厳重注意を受けましたが、それだけで済みました。父にも厳しく叱られましたが、状況が状況だからと一定の理解は示したもらえました。母からも今後は魔術を使わないように言われ、でも自分が譲った楽器を大切に思ってくれてありがとうと言われました。

 ……だけど、良くも悪くもその日から俺に対する学校での印象は変わりました。嫌がらせまがいに絡んできた連中は接触をぱったりとやめ、他のクラスメイトも俺と一定の距離を置くようになった……そんな雰囲気を感じました」

 

 思わず、穂樽の表情が僅かに曇る。ウドなら経験することがあるであろう、魔術が使えるということで受ける他人からの羨望と畏怖の眼差し。彼女自身の魔術の発現は今川よりもっと早く、まだ砂場で遊ぶような年齢の時のことだった。不意に砂場の砂を自在に操れると気づき、一瞬のうちに触れることなく砂の山を作り上げてみせた。そんな様子に他の子供達は歓声をあげて喜んでいたが、その背後、保護者達が何かヒトならざるモノを見るような冷たい目をしていたことを、穂樽は今も忘れていない。後から両親に魔術のことの説明受けるより早く、幼い彼女は本能的にそれは使ってはいけないものだと悟り、ウドであることを極力隠して生活してきた。

 

「柏とはその件以来、まともに話しませんでした。高校も別でしたし。あいつのことなんて忘れていたんですが、つい1週間ぐらい前に、突然街で出会って絡まれたんです。『あの時は随分と痛い目を見させてもらった、今は俺もウドなんだ』って。高校の時に覚醒して、それで力を見せびらかすように何度か使ったらしいです。それが原因で揉め事を起こして中退したって言ってました」

「珍しいケースね。……ああ、中退の件じゃなくて、魔術の覚醒の件ね。大半の場合魔術の発現は11歳までに起こる。……まあ例外はいくらでもあるけど。ここにもレアケースがいるわけだし」

「俺も数年前に覚醒した。当時は検事だったが、魔禁法六条、魔術使いは公職へ就けないということから今は弁魔士をやっている」

「そうなんですか。……ともかく、柏は俺に魔術を使われた一件を恨んでいたそうです。そしてたまたま、前に俺とキナが一緒に街中を歩いているところを目撃した、と言ってきました」

 

 高校を中退した柏は中学の時同様、だがそれよりたちの悪い不良グループとつるむようになっていたらしい。今川が絡まれた日も何名かとつるんでおり、人目のつかない裏路地に今川は連れ込まれ、「手を貸せ」と要求されたのだ。元々彼らはでかいことをやろうとしていた矢先だったという話だった。そこで幻影魔術、というその特性を生かせば犯罪を有利に運べる存在の使い手を見つけた。仲間内には攻撃系の自然魔術使いが多く、予知魔術使いまではいたが幻影魔術使いはいなかったという話だった。

 当然今川はそれを断った。結果、魔術も交えて暴行を受けた。反撃しようにも相手が複数では自分の魔術では対抗しきれない。当人を痛めつけても効果がないとわかった相手は、別な方法で揺さぶりをかけてきたのだ。

 

「……もし断るなら、お前と一緒に歩いていた女を見つけ出して、今日やったこと以上の仕打ちをしてやると脅してきました。キナのことをどこまで知っているのかはわからなかった。でも、相手に予知魔術使いがいる……。そう思うと、キナを巻き込んでしまうんじゃないかと思って、怖くなったんです」

「だから、あの時ユウ君は怪我をしたまま私の部屋に来たんだ……」

 

 今川は頷き、八橋の言葉を肯定した、

 

「そうだ。お前を巻き込まないために、一刻も早く手を打つ必要があった。……そして俺は、奴らに手を貸してしまった。

 蜂谷さん、3日前の宝石店強奪事件、俺は閉店間際に店に入り、前もって目の前で宝石を強奪されても気づかれないように従業員に魔術を行使したのは事実です。ですが、その後は翌日まで連中と会っていないので盗み自体には加わっていません。……俺の言葉を信じてもらえるなら、ですが」

「わかった。それについて裏を取る。そう難しいことではないだろう。……とにかく、お前がしたことはその宝石店の店員に幻影魔術を行使したことと、彼女の記憶を消したこと。それだけだな?」

「自分ではそう自覚しています。……とにかく消してしまったキナの記憶も戻ってくれた。心残りはありません。これでもう、どんな重い罰も受ける覚悟は出来ました」

「……ふざけないで」

 

 不意に話に割って入ったのは穂樽だった。場の面々が意外そうに彼女を見つめる。

 

「穂樽さん……?」

「もし刑務所に放り込まれたとして、その間あなたのことを待っている八橋さんの気持ちを本当に考えてるの? 彼女の記憶が戻ってよかった? 心残りはない? どんな罰も受ける? ……よく言うわ。強がるのもいい加減にしなさい。あなただって本当は、今すぐにでも以前のように彼女と共にいたいんでしょう?」

 

 まくし立てるように、穂樽はさらに続ける。

 

「ほ、穂樽さん! いくらなんでも……!」

「黙ってて。……何より、私が八橋さんから受けた依頼は『いなくなったはずの彼を探すこと』。見つけたけど堀の中です、ではまだ完了したとは言えない。あなたが晴れて自由の身となり彼女と共に元の生活を取り戻したその時、初めて私は依頼を完了出来るのよ。だからそんな最初から諦めたような物言いは、私は気に入らないわ」

 

 鋭い穂樽の指摘に、思わず今川は彼女を睨み付けた。それは彼女に図星を突かれたという反応に他ならなかった。

 

「んなこと言ったって……俺はあいつらに手を貸しちまった! 共犯じゃねえか!」

「厳密にはそれは違う。話を聞く限り、お前は脅迫されて宝石店襲撃、もっと加えるなら窃盗という点のみの手伝いをした、と取れる。しかも直接の実行犯ではない。ならば窃盗幇助と魔禁法一条違反、ただし脅迫されていたという酌量の余地がつく。そこに自首も合わされば、無罪まで勝ち取れる可能性がある。彼女に魔術を行使した点は確かに魔禁法一条違反だが、彼女を事件に巻き込みたくないという守衛的な面を考えれば十条が適用されると考えられる。さらに彼女自身の記憶も戻り既に納得してのことだ、そこまでの問題とも考えなくていいだろう」

 

 すらすらと述べられる蜂谷の言葉に、今川は呆然と聞き入っていた。話を終えたと気づき、ようやく頭を回すことが出来るようになってきたらしい。何か希望を持ったような目で「じゃ、じゃあつまり……」と切り出した。

 

「そうだ。つまり、無罪を勝ち取れる可能性は十分にある」

「私も最初自首を勧めた時に言ったはずよ、かなり有利ではあるって。……今川さん、蜂谷さんを信じて。さっきは厳しいことを言ってしまったけど、1日も早く八橋さんの元へ帰れるよう、私も協力は惜しまないわ」

 

 今川の目に僅かに涙が浮かぶ。先ほど指摘したとおり、懸命に強がっていたのだと穂樽にはわかった。次いで彼は深々と頭を下げた。

 

「……ありがとうございます。どうかよろしくお願いします。……キナ、待っててくれ。必ず、俺は戻るから」

「うん……。私もきっとユウ君がすぐ戻ってきてくれるって信じてる。それまで待ってるから……!」

 

 彼氏を懸命に元気付けようと、記憶を戻した「彼女」の八橋は、笑顔をと共にその言葉を贈った。

 

 

 

 

 

 接見後、外に出てまず喫煙所を見つけた穂樽は、蜂谷と八橋にことわって1本だけ吸う時間を貰っていた。時間を置いて吸ったおかげか、メンソールの香りが喉に響き、煙がいつにも増しておいしく感じる。

 

「……しかし意外だな」

 

 その煙の範囲の外に立ちつつ、蜂谷が穂樽へと声をかける。

 

「何がです? 私の喫煙する画ですか?」

「いや、確かにそれもあるが、お前があそこまで感情を露わにするとは思ってもいなかった」

「しました? そんなつもりないですけど」

 

 穂樽自身、それは嘘だと自覚している。今川に対してかなり感情的に言ってしまったとはわかっていた。

 

「その気になればあとはこちらに投げてお前自身の依頼は完了と言い切ってもいい話じゃないか?」

「それは私も気になりました。穂樽さんはユウ君を見つけてくれた。それに、私の記憶も取り戻してくれました。私の依頼は十分成し遂げてくれたといってもいいはずです」

「記憶は私の功績じゃないわ。あなた自身が掴んだものよ」

「だとしても……。依頼にかこつけてはいたが、お前にしては珍しく随分と直接的に物事を言ったと感じてな。どうこういうつもりはないが、それが意外とは思った」

 

 誤魔化すように煙草を蒸かし、穂樽は多く煙を吐いた。蜂谷には全てを見抜かれているように思えてくる。同時に、言いたくなければいいというようなその言い回しにも、彼なりの配慮を感じていた。

 

「……仮にも私も女子ですからね。恋人のために、捨てたはずの楽器をもう1度手にしてセッションした、そしてその話をきっかけに記憶を取り戻した、なんて話聞いたら……ロマンチックだとは思いますよ」

「それで、最後まで協力を……?」

「ま、乗りかけた船です。最後まで付き合うってことですよ。無論追加料金は取りません。ご安心してください。弁護関連の料金は、全て彼からバタ法側へ払ってもらいますから」

 

 眼鏡の位置を調整しつつ、悠然と穂樽はそう八橋へと返した。が、それには照れ隠しも含まれている。どうも八橋もそれを感じた様子で、表情を僅かに崩しているのがわかった。

 

「はい。ありがとうございます」

「それはそうと八橋、君も今川のために証人として立つ可能性がある。勿論俺が出来る限りサポートするつもりでいるが、心構えはしておいたほうがいいかもしれない」

「確かに。ありえますね。そこで今川さんに有利な証言をすることが出来るかもしれない」

「証人……。もし私が協力することでユウ君の助けとなるのなら、私頑張ります!」

 

 まっすぐな言葉に、僅かに穂樽は笑みをこぼして煙草を揉み消した。ずっとおどおどしていた印象を受けていた彼女だが、なかなかどうして、頼りになりそうな表情になったと思う。それだけ堂々と出来るのなら、将来教師としても恥ずかしくないんじゃないだろうか、などと少し意地悪く思ったりもするのだった。

 




法律の知識全然無いんで、色々おかしい点あるかもしれません。
指摘がありましたら、直せる範囲でなら直したいと思います。


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Episode 1-11

 

 

 そして、今川の公判の日は訪れた。八橋は弁護側の証人として立つことが決まっていた。そのため、穂樽が裁判所まで引率してきていた。

 

「別にスーツじゃなくてもよかったのに……」

 

 入学式の時に購入した、という八橋のスーツ姿を見て、普段通りの格好の穂樽は思わずそうこぼす。

 

「でも……。私こういうの初めてですし、蜂谷さんに事前に確認したら『ちゃんとした格好なら基本的に何でも構わない』って言うから……。だけどそういう場合って、スーツっていう暗黙の了解があるんじゃないんですか?」

「まあ間違えてはいないだろうし確実ではあるけど。やっぱり蜂谷さんとの打ち合わせ、私も同席すべきだったかもね……」

 

 八橋が証人として立つと決まったため、今の言葉通り彼女は蜂谷と事前に打ち合わせを行って当日の流れや質問されるであろう内容などを確認していた。穂樽も立ち会ってもよかったのだが、短時間で済むし資料も用意する、それにわからないことがあれば連絡するように言っておくから無理はしなくていいという蜂谷の意見に従っていた。その後特に連絡があったわけでもなく、問題はないだろうと今日引率のために待ち合わせたところ、入学式の時に買ったスーツを引っ張り出して着てきたという話だった。

 

「蜂谷さんはちゃんとまとめた資料をくださいましたよ。……口数少なかったので、ほとんど話した記憶はありませんけど」

「そういう人だから。本人に悪気があるわけじゃないでしょうけど、仕方ないのよ」

 

 そんな世間話を、穂樽は八橋の緊張をほぐす意味もこめて話しながら歩みを進める。やや歩いて裁判所に近づくと、今話をしていた蜂谷が2人を待ってくれていた。その傍らにはスーツ、とは到底呼べない、どちらかといえばコスプレと言ってしまってもいいような白のジャケットにスカートに身を包んだ女性がおり、笑顔でこちらへと手を振っている。

 

「なっちー!」

 

 相変わらず緊張感も何もあったものではない、と穂樽は思わずため息をこぼしていた。隣に憮然と立つ蜂谷とのコントラストがこれまた激しい。

 

「お知り合い……ですか?」

「ああ、まだ会ってなかったのね。そういやあの子何かと忙しいって言ってたっけ。……彼女も弁魔士よ。ああ見えて」

「ええっ……!?」

 

 まあ普通はそういう反応になるだろうな、と苦い表情を浮かべるのを、穂樽は隠し切れなかった。声が届く距離まで歩み寄ったところで、ぞの女性は一度鼻を触った後、右手の人差し指と中指を構えて敬礼のようにポーズをとった。

 

「なっち、今日はよろしく! あ、眼鏡また変えたんだ」

「壊されたのに近いのを見繕ったのよ。私セルよりメタルの方が好きだし。……それにしても相変わらずその格好なのね」

「なんで? 裁判長も戦闘服って認めてくれてるよ?」

「あれはもう完全に諦めてるのよ。……まあいいわ。八橋さんと初対面でしょうから自己紹介して」

「あ、そっか……」

 

 ひとつ咳払いを挟み、懐から名刺を取り出すつつ彼女は口を開く。

 

「はじめまして。今日蜂谷さんのサポートをさせていただきます、バタフライ法律事務所の弁魔士、須藤セシルです! 今川さんの無罪を勝ち取れるよう頑張りますので、よろしくお願いします!」

「こ、こちらこそユウ君をよろしくお願いします。……でも本当に弁魔士さんなんですね。まだ若いみたいですけど」

「八橋さんと同い年よ」

 

 横から挟まれた穂樽の補足に、再び八橋は驚きの声を上げた。

 

「じゃ、じゃあ20歳なんですか!?」

「はい、そうです」

「さらに付け加えるなら私と同期入所。17歳で史上最年少弁魔士になった5つ下のが同期とか、何かと比較されてこっちはいい迷惑だったわ」

「ちょ、ちょっとなっち!」

 

 冗談だ、という代わりに穂樽は肩をすくめた。それを証明するように今度は一応フォローを入れる。

 

「だから見た目は若いけど優秀なのは事実です。なので、そこは心配しなくていいですよ。……まあそうは言ってもまだ若いからドジ踏むことは少なくないけど」

「なっち!」

「は、はあ……」

 

 もはや漫才になりつつある2人のやりとりをどこか不安そうに見つめる八橋。が、まだ不満そうなセシルをよそに、穂樽は表情を引き締め今度こそ真面目に切り出した。

 

「それはともかく、蜂谷さん、セシル、公判前整理手続きの手応えは?」

 

 元々無表情の蜂谷が頷く。これだけで十分に空気を変える力を持っていた。次いで彼は口を開き、穂樽の問いに答え始める。

 

「悪くない。むしろかなりこっちに有利と思えた。検察側は当初他のメンバー同様に強盗致傷での起訴を目論んでいたようだが、早々に諦めて魔禁法違反による強盗致傷幇助に切り替えた。今川の自首、そこで得た情報からアジトの判明とグループ一斉逮捕にこぎつけられた、ということになっているために酌量の余地ありと判断でき、また一味ではあっても中心メンバーではないと考えられるからだろう。さらに今川の犯行自体も脅迫されてのものだったということが、犯行グループの数名の口からと、あとお前が踏み込む前に録音した証拠等からかなり濃厚なものとなっている」

「八橋さんの証言も合わされば、それと別件である八橋さんに対しての魔禁法違反は不問になると思われます。そうなれば、無罪も狙えます」

 

 先ほどまでと一転、真面目な様子でセシルも補足する。さらに蜂谷が続けた。

 

「検察側は先に述べたとおり、魔禁法違反による強盗致傷幇助として懲役刑を求刑。一方こちらは窃盗幇助、ただし当人と彼女への脅迫や自首したことを踏まえ、緊急避難による無罪を取りに行く」

「……蜂谷さん、本当に無罪一本でいくんですね」

 

 一通りの説明を聞き終え、いまひとつよくわかっていない様子の八橋をさて置き、穂樽はそう切り出した。頷く蜂谷の横でセシルが首を傾げているのがわかる。

 

「ねえなっち。今のどういう意味?」

「いえ、蜂谷さんにしては随分大きく、というか、勝負に出たなと思って。確かに彼自身と恋人の身の危険を脅迫されたやむを得ない状況と考えられるから、私も緊急避難を盾にすれば無罪を勝ち取る可能性がゼロではないと思ってた。でも、検察からの突っつかれ方次第では決して楽ではないはず。無難に執行猶予付き判決辺り狙って、あわよくば無罪を取りにいく形なのかと思ったから……」

「勝つ見込みがあれば、無罪を勝ち取るに越したことはない。それにこの裁判は無罪を勝ち取らなければ意味がない。苦しみながらも奴らの言いなりにならざるを得なかった今川と、その彼の無罪を信じて証言台に立つ彼女の八橋。そして、八橋からの依頼で今川を探し出し、有利な状況を作って証拠を揃えるために全力を尽くした、かつての仲間であるお前の努力に報いるためにも、な」

「蜂谷さん……」

 

 思ってもいなかった、「法廷のターミネーター」からの熱い言葉に思わず穂樽は言葉を詰まらせた。相変わらず表情は無愛想そのものだが、やはり以前から彼女が思っていた通り、厳しい中にも仲間思いの優しさを秘めた男性なのだとわかった。

 

「さっきも言ったとおり、勝機がなければ無罪主張はしない。……もっとも、『勝ち目のない依頼は受けない』がうちの事務所のモットーだがな」

「心配しないで、なっち、八橋さん。私とハチミツさんでしっかり無罪勝ち取るから!」

「……あんたが言うとどうも不安になるのよね」

 

 やはりどこか漫才のようになってしまった同期の2人であったが、それをよそに蜂谷は八橋へと声をかけた。

 

「緊張するな、という方が無理だろうが、嘘偽りなく話してくれるだけでいい。その先に真実がある。苦難を乗り越え栄光を、君達2人の幸せを掴み取れるよう、最大限の努力をしよう」

「……ありがとうございます。頑張ります。ですから、ユウ君をどうかよろしくお願いします」

 

 やはり、「法廷のターミネーター」は笑わなかった。しかしその様子からは信頼に足るだけの自信が窺える。頭を下げた八橋も、まだセシルに食って掛かられてる穂樽も、彼を信じようと思うのだった。

 

 

 

 

 

「これより、魔法廷、開廷」

 

 小田切裁判長の重々しい声と共に、魔法廷における今川の裁判が始まった。法廷の中心にある被告人席の前に今川が立つ。それに合わせ、もしもの場合に備えて魔法廷の防衛システムが起動される。これは重罪判決後に海上拘置所へ強制転送する装置であり、あるいは被告が抵抗するなどの不測の事態の場合に備えてのものである。また、これが起動することで魔法廷というウドを裁く場が開かれる、という儀式的な意味合いもあった。

 

 証人席に座った八橋と別れる形になった穂樽は傍聴席にいた。彼女の右手側には以前自分も座ったことのある弁護側の席があり、今そこに蜂谷とセシルが座っている。反対側の検察側には細身の男が3人、うち1人は眼鏡の人物が座っていた。

 傍聴席にはかつての同僚であるバタ法の面々も来ていた。また、今回犯人グループ逮捕に貢献したクイン、それからバタ法のライバル事務所であるシャークナイト法律事務所からも数名来ているようだった。

 

 まず、検察側から起訴状が読み上げられる。

 

「被告人、今川有部志は先日発生した宝石店強奪事件において幻影魔術を行使。その後店内に侵入した仲間が窃盗を働きやすいよう、手助けをした疑いがあります。被告人がグループの一味であることは明白であり……」

 

 やはり先ほど蜂谷から聞いたとおり、検察側は強盗致傷幇助として押し進めるつもりらしい。今川は犯行グループの一味、よって直接犯行に及んでいないにしても犯行グループの大半にかかっている容疑である強盗致傷の幇助、という見解を示すようだ。

 

 対する弁護側は、それに真っ向から反論した。

 

「まず弁護側は、強盗致傷幇助ではないことを主張します。被告人は犯行グループから暴行、ならびに脅迫を受けていました。よって本人の意思と関係なく魔術を利用されるためだけにグループに加担させられていました。

 また、負傷した警備員に関しても犯行メンバーの1人が魔術を行使した影響によるもので、被告人に直接の因果関係は認められません。並びに、先に述べた脅迫の件から被告人には選択の余地がなく、犯行グループの指示通りに魔術を行使しなければ、自身及び知人の命の保障が無いという状況にあり、緊急避難に相当することを主張します。加えて……」

 

 淀みなく読み上げられる蜂谷の言葉を耳にしつつ、穂樽は証人席に座る八橋へと視線を移した。見るからに緊張しているのがわかる。元々人前で話すのは得意ではない、と言っていた。それでも教師だった母に憧れ、その道を目指そうとしている。ならばこれを乗り越えればきっとその苦手も克服できるのではないだろうか。今川とセッションしたことでピアノに対する苦手意識を払拭したように、また一歩彼女は前進できるのではないかと思っている。

 何より、自分の証言が今川の力になるとすれば、緊張などと言っていられないだろう。事実、今現在緊張している面持ちではあるが、別れ際の彼女の目は強い意思を宿していた。きっと、しっかりとした証言が出来るはずだと穂樽は期待する。

 

 裁判は進み、そしてついに、八橋が証言をする時が訪れた。

 先に弁護側からの質問が始まる。蜂谷が立ち上がり、抑揚のない声で話し始めた。

 

「証人は、被告人に幻影魔術を行使され、記憶を一部消去された。それは間違いありませんね?」

「は、はい。事実です」

「なぜか、理由を知っていますか?」

「最初は、彼も何も言ってくれませんでした。でも、後になって自分のせいで私を危険な事件に巻き込んでしまうことになるかもしれないから、それを避けるためだったと教えてくれました」

「そのことを恨んでいますか?」

「……恨んでいない、といえば嘘になります。だけどそれは私になんの説明もなく、一方的に、彼が1人で抱え込んでしまったことに対してです。一言でもいいから相談してほしかったと思う反面、私を巻き込みたくない一心からの行動だったと思っています。ですので、記憶を消されてしまったこと自体は恨んでいません。事実、おかげで私は危険な目に遭うことは全く無く済みました」

「お聞きの通り、つまり被告人は証人を守るために魔術を行使し、現に証人はまったく巻き込まれることはなかった、というのが弁護側の主張です。また、彼女の記憶についても完全に戻っているものということは、事前資料で証明されている通りです」

 

 そこで蜂谷は質問を終えた。八橋は一つ大きく息を吐き、対照的に今川は俯き縮こまっていた。

 今度は検察側から質問が始まる。眼鏡の男が立ち上がり、やや威圧的な声で八橋へと問いかけた。

 

「あなたは、被告人が犯行グループに暴行を受けたと主張する日に彼と会っていますね?」

「はい。彼が怪我をして私の家を訪ねてきました」

「その時に何か言われてはいませんか?」

「何も……言われていません。彼に事情を聞いても話してくれませんでした」

「……本当に何も言われていないのですか? 怪我をしていたのに、恋人のあなたが聞いても教えてくれなかったと?」

「そうです、間違いありません」

「それはおかしくありませんか? 実は言われたのに、思い出せていない部分があるのではありませんか? そのため、彼の都合のいいように証言しているだけという可能性も……」

「異議あり! 裁判長、事前の資料により証人の記憶に欠如はないと弁護側が証明したはずです。加えて今の検察側の一連の質問は、証人の記憶の確証を揺るがせ、検察側に有利な証言を誘導的に引き出そうとしている疑いがあります!」

 

 穂樽もこの検察の誘導的な聞き方はまずいかもしれない、と思った矢先。八橋を救ったのはセシルだった。小田切裁判長はしばらく沈黙を挟んだ後でゆっくりと口を開く。

 

「弁護側の異議を認めます。事前資料により、証人の記憶は確かなものと考えられます。検察側は質問を変えるように」

 

 検察側から小さく舌打ちが、弁護側の席のセシルから僅かに笑顔がこぼれる。内心では穂樽も喜びつつ、さすがは史上最年少弁魔士だと称賛の気持ちを贈るのだった。

 

 結局、検察側は有利な証言を引き出すことは出来ずじまいだった。裁判は終始弁護側のペースで進み、有力な証言、証拠が提示され、「今川は自分と恋人をネタに脅迫され、命の危険すらありえる状況でやむなく犯行グループに手を貸してしまったが、本人の意思に反してのことであり、最終的には自首したことで犯人グループの逮捕に貢献した」という理想的な状況を作り出していた。これならうまくすれば無罪を勝ち取ることも出来るかもしれないと穂樽は期待する。

 

 いよいよ判決の時。傍聴席の穂樽も、証人席の八橋も、そして被告人席の今川も、固唾を飲んでその時を待つ。

 

「これより、判決を言い渡します」

 

 小田切裁判長の低くよく通る声が響き、それまででも十分固かった場の空気がより一層固くなったように感じた。

 

「主文。被告人は、無罪。宝石店襲撃事件において幇助として魔術を行使した事実はあるものの、脅迫を受けていたことは明白であり、行使は余儀なくされたものである。また、証人に対しても魔術を行使したものの、証人の身の安全を確立するためと判断でき、両件に対して魔禁法十条を適用とする」

 

 小さく、穂樽は無意識のうちにガッツポーズをしていた。弁護側の席では蜂谷こそ普段通りであるが、セシルは両手を上げて喜び、証人席の八橋も被告人席の今川も、安堵した様子であることは手に取るようにわかった。

 

「これにて、魔法廷、閉廷」

 

 やっと依頼が完了できた。穂樽の心が満足感であふれる。閉廷を意味する魔法廷でだけ使用される乾いた木槌の音が、心地よく法廷内に響き渡った。

 

 

 

 

 

「本当に……本当にありがとうございました」

 

 遮蔽物を隔てることなく再会した八橋と今川は、互いに抱き合って喜びを分かち合った後、穂樽達の方を向いて深々と頭を下げた。

 

「八橋さん、確かに依頼は完了しました。お支払いなどの事務的な件はまた後日連絡させていただきます。……今度は大切な彼氏を逃がさないよう、しっかり捕まえておくのよ。困ったことがあったら、またいつでも相談に乗るわ」

「はい……! ありがとうございます……!」

 

 涙を浮かべつつ、だが満面の笑みで八橋は受け応えた。

 

「穂樽さん、俺からも改めてお礼を言わせてください」

「それは蜂谷さんとセシルに。私は依頼人の依頼を遂行しただけですから」

 

 穂樽に振られ、蜂谷は一歩前に出た。そして静かな、だが重みのある言葉で語り始める。

 

「今川。確かにお前は無罪という判決をされた。だが忘れるな。無罪ではあっても無実ではない。……俺の持論だ」

 

 憮然と言い放つ蜂谷の裾を、やめてくださいと言いたげにセシルが引っ張っている。それでも彼の表情は変わらず、諭された今川は「……はい」と俯いて答えていた。「しかし」と、蜂谷はその先を続ける。

 

「お前は自分の行いを心から悔い、反省した。だから俺はそれで十分だと思っているし、無論責めようなどとも考えてもいない。……彼女を2度とつらい目に遭わせたくないと思うのなら、そのことを忘れるな。俺が言いたいのは、それだけだ」

「……はい! 肝に銘じておきます」

「おふたりとも末永く幸せになってくださいね!」

「……セシル、結婚するわけじゃないんだから」

 

 冷静な穂樽の突っ込みに、突っ込まれたセシルは思わず恥ずかしそうに俯き、蜂谷以外の3人は笑っていた。

 

「でも今セシルさんに言われたとおり、キナを幸せに出来るように頑張りたいと思います。……大変かもしれないけど、またバイオリンを手に取ろうと思ってるんです」

「それはいいことだ。……だが茨の道だぞ」

 

 あくまで現実的な蜂谷の指摘に対し、それでも迷わず今川は頷いていた。

 

「自分でもそう思っています。だけど、キナは俺のバイオリンの音が好きだって言ってくれてるし、俺自身まだどこか諦め切れてない部分はあるんです」

「きっと大丈夫だと思いますよ! ……なんて言ったら、無責任かもしれませんけど。でも演奏会をやるってなったら、是非連絡ください。絶対聴きに行きますから」

 

 それはうまくいったとして果たしてどのぐらい先か。そしてそう言った張本人のセシルは音楽に造詣があるのか怪しい。聴いている最中に寝てしまうような彼女を想像し、思わず穂樽は内心で1人笑っていた。

 

「穂樽さん、都合のいいとき、またシュガーローズで一緒にお昼食べましょう。私、あそこ気に入っちゃいました」

「あら、それはいいわね。きっと浅賀さんも喜ぶわ。よければ、彼氏も一緒に。……私がお邪魔になるかもしれないけどね」

 

 それに対して照れたように俯く八橋。「惚気か」と突っ込みたい穂樽だったが、今日のところは抑えておこうと、グッと喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 

「……では俺達はこれで。本当に、ありがとうございました」

 

 改めて深々と頭を下げ、今川と八橋は外への扉を出て行った。その2人の両手は、今度は互いに離すまいと硬く握られていた。

 

 依頼人を見送り、蜂谷とセシルはバタ法の同僚の元へと向かう。今回仰いだ協力に対する礼を言うために穂樽も後に続きつつ、蜂谷に声をかけていた。

 

「蜂谷さん、改めてありがとうございました。……それで、前に私に意外だとか言った気がするんですけど、私から言わせてもらえば、蜂谷さんの方が意外ですよ」

「何がだ?」

「さっきの今川に対する無罪と無実の話です。もっとドライな考え方なのかと思ってましたが……。あれですかね、蜂谷さんって『ツンデレ』ってやつですか?」

「それはなっちのことじゃないの?」

「誰がよ!」

 

 横から挟まれたセシルの言葉に反射的に穂樽は突っ込んでいた。セシルは愉快そうに笑うが、案の定蜂谷は表情ひとつ変えない。そんな3人を、待っていたとばかりにバタ法のクライアント達が迎え入れてくれた。

 

「お疲れ様。ハチミツ君、セシルちゃん」

「無罪を勝ち取るとは、お見事だな」

 

 蝶野姉弟の称賛を受け、それでも蜂谷は特に変わった様子なく答える。

 

「穂樽がかなり有利な状況を作り出してくれましたから。そこに乗っかっただけに過ぎません」

「いえ、蜂谷さんのおかげですよ。……ついでにセシルも」

「セシルは付け足し!?」

 

 非難の声を上げたセシルだが、穂樽はそれを聞き流すことにした。改めてアゲハに対して頭を下げる。

 

「アゲハさん、今回はご協力いただきありがとうございました。お金が絡む細かい話は、後ほど抜田さんを通してでも」

「ええ、わかったわ。……それはさておき、穂樽ちゃんも来るでしょ、この後の打ち上げ。折角無罪勝ち取ったんだから、パーッといかないとね!」

「ええ、それは、まあ……」

「何、ほたりん乗り気じゃないの? ……あれか、悲劇的に引き裂かれたふたりが、記憶を取り戻し無罪を勝ち取ってこの後どうなるか気になる、とか? そんなの決まってるじゃないの、この後2人は共に同じベッドで熱い夜を……!」

「左反さん、最低です」

 

 変わらず飛び出す左反の下ネタに、穂樽は半分目を閉じた状態でジロリと侮蔑的な意味をこめて視線を送った。が、慣れっこの当の本人は全く答えた様子はない。

 

「とにかく、ほたりんも来んと? 一緒に盛り上がるがよかね」

「それは勿論ありがたく参加させていただきます。……まあ積もる話はその時に。すみませんが、ちょっと先に外に出てます」

「え……? なっち、なんで……」

「これよ、これ」

 

 穂樽は口の前に人差し指と中指を2本揃え、前後に動かすジェスチャーを見せる。それだけで察してくれたらしい。「ああ」とセシルは了解した声を上げ、咎めようとはしなかった。

 

「もし先客がいたら、私もよろしく言っていたと伝えておいて。間接的にうちを助けてくれたことは確かでしょうから」

「わかりました。では、後ほど」

 

 アゲハが言いたいことを推測し、穂樽は外に出た。まず日光が目に入る。隠す雲もなく、太陽が眩しく輝いていた。

 屋外に出てすぐの喫煙所には、案の定先客がいた。やっぱりと思うと同時、まだ帰っていなくてよかったと思いつつ、彼女はそこへと近づく。

 

「遅い。あと1本吸って来なかったら帰ろうと思ってた」

「それは失礼しました。……まあ待っててくれと頼んでもいないんですけど」

 

 穂樽のその付け足しに、先客のクインは舌打ちをこぼした。が、穂樽が煙草を取り出し1本咥えたところで、ライターを使うより早く目の前にマッチを差し出してくれた。ライターをしまい、ありがたくその行為を受け入れる。マッチの先端が燃焼して赤く美しい炎を上げ、そこに煙草の先端を当てて火を灯して穂樽は煙を肺へと流し込んだ。

 

「まずは今川君の無罪判決おめでとう」

 

 マッチを振って火を消してから灰皿へと投げ込みつつ、わざとらしくクインはそう切り出した。

 

「お世辞でも、ありがとうございます。クイン警部のおかげもあります。アゲハさんもよろしく言ってました」

「はいはい。……ったく、あたしは使いっぱしりじゃねえんだぞ?」

「ちゃんとこっちも情報払ったじゃないですか。ギブアンドテイクですよ」

 

 穂樽の反論に対し、つまらなそうにクインは煙を吐き出した。

 

「それで、今川以外の連中はどうなってます?」

「魔禁法違反の強盗致傷。それからディアボロイド関連の九条違反もいるし、今川への脅迫とその他叩けばいくらでも埃が出る。ありゃしばらくシャバの空気は吸えそうにないな。……ああ、あんたも傷害もらったんだっけか?」

「いいですよ。やられた分は、踏み込んだ時に返しましたから」

「ま、ともかくこれで巷を騒がせた宝石店襲撃事件は一件落着。あんたも依頼人の依頼を完了して彼氏は無罪と万々歳ってわけか」

「そうですね」

 

 肯定しつつ、穂樽は灰を落とす。かなり苦労はしたが、無事ほぼ望みどおりの結果を迎えることが出来た。それ自体は喜ばしいことだ。

 

「……あんたさ、いつまで探偵とかやってる気?」

 

 と、そこで不意にクインにそう尋ねられ、思わず穂樽は呆けたような表情を浮かべた。赤いメタルフレームの眼鏡も僅かにズレ落ちてしまい、それを直しつつ返答する。

 

「どういう意味ですか?」

「アゲハさんからチラッとは聞いたけどさ。アプローチを変えて魔術使いの力になるために探偵へと鞍替えした。まあわかる話ではあるよ。でも割に合わないだろ。今回のもそうじゃないの? 昔のまま弁魔士やってた方がまだ楽だろうし収入もよかっただろうにさ」

 

 痛いところを見事についてくるな、と煙を吸い込みつつ穂樽は思っていた。確かに結果は先ほどクインが言ったとおり万々歳。今川も八橋も、満足した笑顔を浮かべていた。

 だが、自分はどうか。危うく大怪我か、下手をすれば命を落としかけた場面もあった。それは今回だけに限ったことではない。そんな自分の命を担保にしてまで、得られる成功報酬の金額は決して多いとは言いがたい。その上生活スタイルも不規則、張り込みや尾行はストレスとの戦い。まさに、「割に合わない」と言えるのかもしれない。しかし――。

 

「生憎、損得でこの仕事やってるわけじゃないんで」

 

 即答だった。迷う間もなくそう返し、穂樽は煙草を蒸かす。その様子に、質問したクインの方が不満げにガリガリと頭を掻いた。

 

「……ったく、アゲハさんと同じこと言うのな」

「弟子みたいなものですから。アゲハさんにはほんと感謝してますし。……そういうクイン警部こそ、割に合わないんじゃないんですか?」

「それに対してはさっきのお前の言葉、そのまま返すよ。……ま、あんま凶悪犯が減刑減刑ってなるとこの商売やってらんねえけどさ」

 

 そこまでいうと、クインは最後の煙を吐き出して一足先に煙草を揉み消した。

 

「まあ、せいぜい頑張りな。ウドの探偵さん。ギブアンドテイクなら、たまには情報譲ってもいい」

「頼りにしてますよ、警部。今後もよろしくお願いします」

 

 はいはい、と適当に相槌を打ってクインはその場を離れ始める。が、数歩進んだところで何かを思い出したように振り返った。

 

「……マッチで点けた方が、煙草、うまいだろ?」

 

 突然の質問に一瞬穂樽は考え込む。言われるまですっかり忘れていた。と、いうことは、つまりそういうことなのだ。

 

「私には違いがわかりませんね。自前のライターで点けた時と、なんら変わりません」

「わかってねえな。あの火を点けた時の独特な香りと一緒に最初の煙を吸うのがいいのによ。やっぱまだまだだな」

「まだまだって、何がですか?」

「愛煙家としてだよ。……まあいいや。たまにはまた一服付き合いな。喫煙者少なくて肩身狭いんだ」

「その気持ちはわかりますよ。また今度、ご一緒しましょう」

「おう。じゃあな。体には気をつけろよ、穂樽」

 

 離れていく背中を見送りつつ、穂樽も最後の煙を吐き出し、煙草を揉み消した。丁度いいタイミングでバタ法の面々が外に出てきた様子が窺える。

 

「なっちー! 行こうー!」

 

 明るいセシルの声が聞こえてくる。さて、行くとしようと穂樽も思う。今回も無事依頼は完了した。

 例え時に割に合わないと思うときがあっても、誰かの力に慣れたというこの何事にも変えがたい充足感は、それだけでこの仕事を続けるに十分だ。困難の先に、依頼人の喜びの顔があれば、きっと続けられる。弁魔士と異なるアプローチを考えたからこそ、今回も1組の男女を助けられたのかもしれない。

 (おご)り過ぎかな、と思わず自嘲的に笑顔がこぼれた。こうやって弁魔士を辞めた自分を正当化したいだけかもしれないということは自覚してはいる。

 

「あ、なっちが笑ってる。そんなに楽しみなの?」

「違うわよ。あんたと一緒にしないで」

 

 まあ細かいことは、ひとまずいいかと穂樽は思うことにした。セシルにからかわれるのは癪だし、どちらかといえばからかった方が面白い。今日は久しぶりにとことんかつての同期に絡んでみるかと、そんな悪戯心と共に穂樽は元の職場の人間と合流した。

 

 

 

 

 

バニッシュメント・ラバー (終)

 




法廷傍聴したことも、逆裁みたいな法廷ゲームもやったことないので、ほぼ知識ゼロで書いてしまっています。なので、前話同様おかしいところがあるかもしれません。特にあれで無罪になるわけないだろ、とか。


ともかく、これで「バニッシュメント・ラバー」の話は完結です。
内容としてはありがちかもしれませんが、探偵的な要素を入れてウィザバリを考えるとどうなるか、興味があって書いてみました。
終わってみると10万字程度と長い話になってしまいましたが、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。楽しんでいただけたら幸いです。


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Episode 2 シュガーローズ・コーヒー
Episode 2-1


Episode 2 シュガーローズ・コーヒー

 

 

 

「だから探し物をちょこっとやってもらうだけなんだ。あんた魔術使いだろ? なら簡単にぱぱっと出来んだろうが!」

「ですから、ウドと一口に言いましてもその人によって使用できる能力が異なるんです。私の魔術は砂を操る自然魔術ですので探し物を簡単に出来るわけではありませんし、仮に使えたとしても魔術に頼りすぎると魔禁法に抵触する可能性も……」

「そんなの俺が知ったことじゃねえっての! だったら『魔術探偵所』なんて紛らわしい名前つけてんじゃねえ! 魔術使い如きが客引きのためにご大層な名前にしやがって!」

「お言葉ですが、私がわざわざこの名前にしてるのは客引きのためだけではありません。ウドに対する偏見のために困っている同胞が少しでも気軽に訪問出来れば、という私の願いが強くあるんです。ウドのことをどうこういう前に、少しは私達に対して、それが無理でも魔術と魔禁法について理解していただければと思わずにはいられませんね」

 

 ファイアフライ魔術探偵所の事務所内。1組の男女が激しく言い争っていた。片方はサングラスをかけて金髪の、見るからにガラの悪そうな男。もう片方は赤縁のメタルフレームから冷たい視線を怯むことなく男へと向けている事務所の女所長、穂樽夏菜(ほたるなつな)。男の威圧に一向に動じる様子なく、むしろ冷静かつ論理的に穂樽は反論を重ねていく。

 

「何が魔術使いに対する理解だ! 異端の化け物共が!」

「それは少々聞き捨てなりません。その物言いではそちらはウドを……私を信頼に足る人物だとは認識して下さらないようですね?」

「当然だろうが!」

「でしたらお引き取りください。もはや私が依頼を受ける道理も義理もありません。もっとも、化け物と蔑んだ相手に金を払ってまで力を借りるほどのちっぽけな自尊心しかないのであれば、私も同情して手伝ってあげないこともありませんが」

「この……!」

「……失礼、言葉が過ぎました。ちっぽけな自尊心ではなく、受け入れてくださるのですから寛大な心ですね。代わりに、化け物と言ったことを既に忘れるほどの貧弱なおつむが追加されることになりますけど」

 

 元弁魔士ということもあり、舌戦はお手の物だ。いいように言われ続けた男は怒りの表情も露わに、ビルの壁へと拳を叩き付けた。

 

「怒るお気持ちはわからないでもないです。が、破壊したら器物損壊で提携先の法律事務所に相談することになりますので、お控え願えますか?」

「うるせえ! 2度来るかこんなところ!」

「そうしてください。その方が私もそちらもよろしいでしょうから」

「くたばりやがれ、クソアマ! 魔術使い風情の分際で!」

 

 捨て台詞を残し、乱暴にドアを閉めて男は出て行った。ため息を大きくこぼしてパソコンデスクに腰を寄りかからせ、「ニャニャイー! 煙草とライター!」と途中から奥の居住スペースに避難していた使い魔へと声を投げかける。ドアノブ式のドアを、台座を使うことで高さを補ってであろうか器用に開け、穂樽の指示通り煙草の箱とライターを担いで猫の使い魔は姿を現した。

 

「……やっと帰ったニャ?」

「ええそうよ。まったくてめえがくたばりやがれってのよ。うちはなんでも出来るわけじゃないっての。裏で暗殺稼業をしてる女子高生とか、宇宙人をぶちのめす何でも屋辺りと勘違いしてんじゃないの?」

 

 使い魔から白地に緑のラインの入った煙草の箱とライターを取り上げる。そのまま本来なら吸うのを控える事務所であるにも関わらず、彼女は1本咥えて火を灯した。

 

「穂樽様、事務所じゃ控えるんじゃニャいのかニャ?」

「ニャニャイー、塩をまく、って知ってる?」

「はいはい、その代わりというわけかニャ」

「そうよ。煙でこの部屋を清めておくの」

 

 過去にも何度かあったもっともな理由をつけ、穂樽は深く煙を吐き出した。が、それでも気が収まらず思わず空いていた方の拳をパソコンデスクへと叩き付けた。思わずニャニャイーがビクッと体を震わせる。

 

「……人が下手(したて)に出れば付け上がりやがって、あの金髪グラサン……! 魔術で吹き飛ばしてやらなかったことを魔禁法に感謝して幸運に思えってのよ!」

「ほ、穂樽様、言葉遣いが悪いニャ」

「私が意外と頭に血上らせやすいの知ってるでしょ? それでも出来るだけ理性的に言いくるめようと努力したんだから、ちょっとは言いたいように言わせなさいよ。……あの手の輩はいつになっても腹立つわ、ほんと」

 

 憎々しげに吐き捨て、次いで煙も吐き出す。

 

「……でも穂樽様の言い様も火に油注いでた気がするニャ」

「何か言った?」

 

 鋭い視線を受け、このままだと自分にも矛先が向きかねない、とニャニャイーは知らん振りを決め込む。それに対して穂樽も言及せず、一気に煙草を燃やして深く深く煙を吐き出すだけだった。

 

 そもそも、事の発端は先ほど帰っていったサングラスの男が「探し物をしてほしい」と訪ねてきたことから始まる。あまり態度がよろしくないのは見た瞬間に察せた。さらに穂樽を見て「とっとと所長呼んでくれ、受付の姉ちゃん」と言った時点で、彼女は既に僅かに眉を引きつらせていた。

 自分がここで働く唯一の調査員で所長であることを告げると、彼は訝しむ視線を穂樽へと投げかけていた。いや、厳密にはサングラスに阻まれて視線は見えていないために穂樽の想像でしかないのだが。

 彼女が席に案内しようとしても時間がかかるものじゃないだろうからとそれに応じず、「探し物を魔術でちょっと見つけてほしいだけ」「魔術は万能ではない」という双方のやりとりが始まった。そこからエスカレートして、最終的にさっきのような口論となってしまっていたのだった。

 

「……ウドの力になりたいからってこの名前にしてるとはいえ、ああいう奴が来るとしんどいわね、ほんと」

「お気持ちは察するニャ……。でも煙草臭いニャ」

「ウドへの偏見が強すぎるのは事実よね。確かに私達は魔術という普通の人にはない力がある。それは使えない人から見れば脅威でしかないかもしれないし、羨望の対象なのかもしれない。それを魔禁法によって制限する。それもわかるわ。

 だけど、その締め付けがかなり強いわけで、私達は罰則を受けたくないなら基本的に魔術は使わないようにしている……。そんなウドがほとんどのはずなのにね」

 

 ニャニャイーの抗議は当然の如く無視された。穂樽は普段はほとんど使わない、来客用に用意してある事務所の綺麗な灰皿に灰を落としつつ、ニャニャイーに聞かせるでもなく独り言を続ける。

 

「例えば車でいうなら、道路交通法という法律があるわけで、スピード違反や信号無視をしてそれを破れば捕まるわけじゃない? 魔術も一緒。社会正義に反する形で使えば基本的に同じような具合で罰金か、あるいはそれ以上の罰則がある。でも車は乗っていても文句は言われない。

 一方私達ウドは魔術を使わなければ普通の人間と変わらないはずなのに、それと知れると存在するだけで冷ややかな目で見られることすらある。こっちは望まずこの力を持っている人すらいるっていうのに、よ。……まあ便利過ぎる文明の利器と比べるのもちょっと間違ってたかもしれないけど」

 

 でもこうでも文句垂れないとやってられないわよ、と付け加え、一気に残りの葉の部分を燃やした。煙草を揉み消して穂樽は最後の煙を吐き切った。

 ようやく少し落ち着きを取り戻した、と感じたところで時計を見る。時刻は11時を少し回ったところ。丁度いい時間帯だ。

 

「下でお昼食べてくる。気が収まらないから浅賀(あさか)さんに愚痴ってくるわ。ついでに煙草も少ないから買って来ないといけないし」

「わかったニャン。私はあのやかましいのが帰ったこの静寂を楽しみつつのんびりお昼寝してるのニャ」

 

 携帯と財布、あと一応煙草とライターを確認し、上着を羽織って穂樽は事務所を出る。鍵をかけ、看板をクローズに切り替えてから階段を降りていった。

 

 1階の喫茶店、シュガーローズはまだ昼時に少し早いこともあって客はいなかった。これ幸いと穂樽は扉を開け、店内へと足を進める。

 

「おや、穂樽ちゃん。いらっしゃい」

「こんにちは。お昼食べに来ました」

「はい、ありがとね。日替わりでいい?」

 

 シュガーローズのマスターである浅賀は一見強面なその表情に笑顔を浮かべ、穂樽に尋ねる。耳に優しく響く声の問いに頷いて了承の意図を示しつつ、彼女は指定席である1番奥の席へと足を進め、腰を下ろした。

 

「……さっきのガラの悪そうなサングラスの人、穂樽ちゃんのとこに行った人?」

 

 水を差し出しつつ、浅賀は尋ねてきた。さすがはビルのオーナー、その辺り抜け目ないのはさすがと感心する。

 

「そうなんですよ。まいっちゃいました。『魔術使いなら探し物ぐらい簡単に出来るだろう』とかって。こっちの話を聞く耳全く持ってくれなくて」

「とか何とか言って、穂樽ちゃんも穂樽ちゃんでヒートアップして煽っちゃったんでしょ?」

 

 それは、まあと、穂樽は苦笑を浮かべつつ曖昧に返事を返す。

 

「でも最初に『受付の姉ちゃん』って言われてさっき言った話になったら、第一印象からして最悪ですよ」

「気持ちはわかるけどね。まあしょうがないんじゃないかな。結局僕達ウドのことは、普通の人にはなかなか理解してもらえないし、どうしても偏見の目は強いからね」

 

 それは無論わかっている。が、どうしてもやりきれないのは事実だ。穂樽は比較的客観的に物事を見ることが出来る、とよく言われる。それでもやはり亀の甲より年の功。より人生経験の豊富な浅賀ほど達観的にはなれないと思っていた。

 そんな感じであったために机の頬杖をつき、無意識の内にムスッとした表情を浮かべていた。が、不意にそれを見ていた浅賀が吹き出したように笑いをこぼす。

 

「……どうしたんですか? そんなに私の顔変でした?」

「いや、そうじゃないんだけど。……あ、ごめん。それもあるな」

「どっちなんですか」

 

 追求されて「ごめんごめん」と浅賀は重ねて謝罪の言葉を述べてから続けた。

 

「確かに随分と不機嫌そうで、失礼ながら顔が面白いとも思ったけどね。でも今笑ったのは、穂樽ちゃんがこの上に越してきて間もない頃。確かうちに初めて来たときも、似たような感じだったなって思い出したからなんだ」

 

 言われて、ずっと不貞腐れた様子だった穂樽は、意図せず素の表情に戻っていた。記憶を呼び起こそうとするが、どうにもうまく思い出せない。

 

「……そうでしたっけ?」

「そうだよ。まだ今みたいに眼鏡もかけてなくて、煙草も吸ってなかった頃。初めて来たと思った依頼人が、難癖をつけてくるだけの人だから追い返した後、とかだったと思うけど」

 

 そこまで言われてようやく穂樽も思い出した。確かに今浅賀に言われたとおり、ここに越して来て間もない頃。今のような眼鏡の代わりにコンタクトをつけ、煙草にも縁の無い時期の話だった。当人ですら忘れていたのによく他人の浅賀が覚えていた、と穂樽は感心する。

 

「思い出しました。……でもよく覚えてましたね」

「そりゃあね。このビルのオーナーだし、ある意味穂樽ちゃんはお隣さん、なわけだから」

 

 言われてつくづくこの人には敵わないなと穂樽は苦笑を浮かべた。そしてさらに記憶を探り、より大切なことを思い出した。

 

「……ああ、そうか」

「ん? 何が?」

 

 コーヒーを煎れる手を止めることなく浅賀は尋ねる。

 

「いえ、私と浅賀さんが今みたいに親密な仲になれたのって、その時のあの一件(・・・・)がきっかけだったと思ったんで」

「言われてみれば。そうかもしれないね。それがなくても仲良くはなれただろうけど、穂樽ちゃんって思ってたより話しやすい子なんだな、って感じたのは事実かな」

「なんですかそれ。私そんなに他人に壁作ってます?」

 

 言いつつも、きつめな性格なのは自覚している。それにビジネスとして接客する以上、可能な限りは一定の距離を保つようにしている。その方が、第三者として客観的に判断できる、という彼女のなりの考えがあるからだ。

 だが一方で、そう思うようにしているにもかかわらず、気づくとやけに肩入れしていることが多いのもまた事実な気がしていた。世話好きな性分では無いはずなのに、クライアントの面倒を見すぎるというか。結果、「割に合わない」と思うこともしばしば、という事態を引き起こしているのも頭のどこかで理解はしていた。

 

 それはさておき、浅賀とこうして気軽に話せるようになったのは、さっき彼が言った「あの一件」がきっかけだろう。喫茶店に広がるコーヒーの香りで鼻腔を喜ばせつつ、穂樽はふと過去の出来事へと記憶を遡っていた。

 

 

 

 

 

 「あの一件」が起こったのは、穂樽がかつての職場であるバタフライ法律事務所を抜けた直後。元の住居からの引越しが終わり、いざ探偵として事務所を立ち上げ、心機一転変化した環境で頑張ろうと意気込んでいた時期の事だった。「急ぎじゃないけど、しばらく暇しないように」と事務所立ち上げ祝い代わりに適当に回してもらったバタ法からの外部委託の仕事をそれなりに済ませつつ、未だ訪問者が無いことを寂しく思っていた矢先であった。

 扉が開いて現れたのは中年の女性だった。ファイアフライ魔術探偵所を立ち上げて初の訪問客。沸き立つ心を抑え切れず応対した穂樽だったが、傍らにいたニャニャイーに全く反応を示さなかったことは若干不安にも思っていた。使い魔はウドにしか見えない。その使い魔に反応を示さないということは、ウドではない可能性が高い。

 彼女のその不安は的中した。女性の相談内容は旦那の浮気調査。だが「魔術で今すぐに解決しろ」と無茶な要求をしてきたのだ。魔術は万能ではないこと、下手に使用すれば魔禁法違反となる可能性があること、そもそも今回の依頼では魔術使用の必要性はなく通常の調査で済むことを穂樽は丁寧に説明した。すると「だったらわざわざ魔術使い風情に頼まない」と、その女性は一方的に出て行ってしまったのだった。

 

 ウドに対するこの手の冷たい反応は慣れているつもりであったが、あまりにも直接的、かつ環境を変えてすぐのことだったために、穂樽は酷くショックを受けた。どうしようかと悩んだところで、ふと1階の喫茶店、そのマスターがこのビルのオーナーであり、同時にウドであることを思い出した。

 彼と面識のあったため仲介役を買って出た、前の職場のボスであるアゲハと一緒に挨拶は済ませてある。そのときは見た目が強面だったために一瞬怯んだが、話してみて悪い人ではないと感じていた。だったら、相談に乗ってもらうのもいいかもしれない。それが無理でも、同じウド同士で話せれば少し気も晴れるかもしれない。そんな思いで、初めて穂樽はシュガーローズへと足を踏み入れたのだった。

 

「いらっしゃいませ。……えっと確か、上に越してきた探偵さん、だったかな」

「あ、はい。先日アゲハさんと一緒にご挨拶に伺わせていただきました、穂樽夏菜と申します。これからよろしくお願いします」

「浅賀です。こちらこそよろしくね。それで、今日はどういったご用件?」

「いえ、普通にコーヒーをいただこうかと思いまして」

「ああ、お客さんだったのか。これは失礼しました。……では改めて、いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

 

 マスターにそう言われ、穂樽は店内を見渡す。カウンター8席、テーブル2席の小さな喫茶店。オープン直後の10時過ぎということでまだ客はいない。どこに座ろうか少し迷ったが、後から誰かが来てもいいよう、彼女は1番奥の席へと腰を下ろした。

 

「ご注文はどうします?」

「じゃあ……。オススメのブレンドをお願いします」

「かしこまりました。……探偵さん、うちのコーヒー飲むの初めてですよね?」

 

 そう問われ、穂樽は僅かに首を傾げながら頷いた。

 

「僕のブレンドは苦いから覚悟しておいてね。砂糖を入れれば飲みやすくなるから、遠慮なく入れてくれていいよ」

「砂糖入れるの前提で、敢えて苦いの煎れてるんですか?」

「そうなんだよ。僕なりのこだわりでね」

 

 変わった人だな、とその時の彼女は思った。しかしこだわりは人それぞれにあることだし、特に口は出さなくてもいいかとも思うのだった。

 ここはコーヒーを本格的に煎れるお店らしい。故に少々時間がかかりそうだった。他に客もいないし、と穂樽はマスターにさっきの話でもして時間を潰そうと口を開いた。

 

「あの、マスターさんもウドなんですよね?」

「そうだよ。探偵さんみたいに全面に押し出してるわけじゃないから、気づかない人も多いみたいだし。実のところ僕自身あまりウドであることを喜ばしいと思ってもいないけど」

「あはは……」

 

 わざわざ「魔術探偵所」という名前にしているのは、自分がウドですと告白してるようなものだ。そこは痛いところを突かれたな、と表情に苦いものが浮かぶ。

 

「なんでわざわざそんな名前に? それに以前はアゲハさんのところの弁魔士さんだったって聞いたけど。探偵になった理由も、よかったら聞かせてもらえないかな?」

 

 コーヒーの準備をしつつ尋ねられ、穂樽は少し考えてから答える。

 

「ウドはどうしても肩身の狭い思いをすることが多いと思います。今まではその力になろうと弁魔士をしていた、という部分もあったのですが……。案件が魔法廷関連に限られてしまう。となると、受け入れる間口としては狭いと思うんです。でも探偵ならもっと広く事態に関われるのではないかと思ったから、あえて私がウドであることを明かして同胞が来やすいように『魔術』という文言を入れた、というのが理由です。

 後半については……今さっき言ったことに加えて、私自身が個人プレー向きな性格なのと、今までと変わった切り口から、ウドに対する見方をしてみたいと思ったから、ですかね」

 

 穂樽の説明を相槌を打ちつつ聞いていたマスターだが、聞き終えてからしばらくすると「……若いね」とだけ呟いた。思わず穂樽はそれに対してムッとした表情を浮かべる。

 

「甘ちゃんな考え方だ、と?」

「申し訳ないけど、少しはそう思うかな。弁魔士という比較的安定しているウド特有の職業を蹴って探偵というのは、かなりの冒険だと思う。

 でも同時に、その決断は若いから出来るんだろうなってところもあるかな。それに、『今までと変わった切り口』というのは、僕好みでもある。だから、基本的にその考え方は応援するよ」

 

 褒められてるはずがどうにもそう思えず、穂樽は頬杖をついた。だが言われてみれば、確かに自分の見通しが甘いのかもしれない。さっきのような客が来るだろうことは予想できたはずなのに、こうして腹を立てているのはその証拠とも言えるだろう。

 

「……やっぱ甘かったのかな」

「あれ、そんなに気にしちゃった? ごめんよ、悪気はなかったんだけど。それとも、何か嫌なことでもあったかい? よければ話を聞くよ」

 

 まるで心を見透かされたかのようだった。だが心安らぐ彼の声色もあってか、今度は不思議と話を聞いてもらいたいという思いの方が先に来ていた。変わらず頬杖をついて少し不機嫌そうな表情のまま、さっきあったことをコーヒーの準備をする浅賀へと、彼女は話し始める。

 

「……なるほど、そんなことがあったわけだ」

「私も頭ではわかってはいたつもりでいました。過去に何度もそういう経験はありましたし、前の職場……バタ法で見かけたこともあったので。でも新天地でいざ、という矢先にあれは……。さすがにちょっときついものを感じてしまったんです」

「まあ……。気持ちは察するよ」

 

 返ってきた言葉はそれだけだった。優しい言葉など期待していたつもりはなかったと思っていたが、今現在少し落胆している自分に気づき、心のどこかではやはり同情を求めていたのかもしれないと気づく。それに対して、先ほど「若い」と言われたことを思い出し、その通り自分は甘いんだろうなと彼女は思っていた。

 

「はい、お待たせしました。ブレンドです」

 

 考えがネガティブになり表情が沈んでいたところで、不意に目の前にコーヒーが差し出された。芳醇な香りが鼻腔をくすぐり、少しマイナス思考だった考えが払拭される。

 

「よかったらまず一口、そのまま飲んでもらえるかな? それから好きなだけ砂糖で調節してもらっていいから」

 

 妙なことを言うな、と穂樽はマスターを訝しげに見つめた。さっきは「遠慮なく入れていい」と言ったはずなのに。しかし苦いと自信を持って言うほどのコーヒーがどの程度か気になったのも事実だった。カップをそのまま口に運んで一口液体を流し込む。

 

「……ッ!」

 

 吹き出しまではしなかったが、慌ててカップを置く。机の上の紙ナプキンを取って口元を抑え、穂樽はむせて咳き込んだ。

 苦い。誇張も何もなく苦い。伊達にマスター自身がそういうだけのことはあると実感していた。

 

「どう? 苦いでしょ?」

「……苦いです」

「ははっ。ごめんね。じゃあ騙されたと思ってティースプーン山盛り2杯ぐらい砂糖入れて飲み直してもらえる? 今度は飲めると思うから」

 

 半信半疑で穂樽は言われたとおりに薔薇の模様の描かれたシュガーポットから砂糖を入れ、再び喉へ流し込む。が、今度は先ほどの苦味は襲ってこなかった。代わりにマイルドになった味わいの中に、深みすら感じる。反射的に「おいしい……」という言葉が口をついて出ていた。

 

「それはよかった。ありがとう」

 

 自慢のコーヒーを褒められて嬉しく思ったのだろう。彼はそう礼を述べる。だが穂樽は手にあるカップの中の液体をしげしげと見つめていた。

 

「不思議です。さっきはむせるほどの苦さだったのに……」

「同じコーヒーなのに、少し手が加わるだけで全く別なものになったように思える。……今の探偵さんは、砂糖を入れる前のコーヒーなんじゃないかな、って僕は思うんだ」

「砂糖を入れる前……?」

 

 見た目はやはり少々怖そうではあったが、浅賀はそれを和らげるように僅かに笑顔を浮かべて続ける。

 

「僕の入れるコーヒーは苦い。最初は飲めたものじゃない、っていう人もいると思う。でも砂糖を入れるだけでそれは変わる。……人も同じじゃないかな。何か少しのきっかけ、あるいは経験で変わっていく。時につらいこともあるかもしれないけど、経験だと思って受け入れることで、少しずつ人は成長していくんじゃないかと思うんだ」

 

 穂樽は静かにその話を聞いていた。視線を今の例え話に用いられた茶褐色の液体へと一度落とし、再び口へと運ぶ。やはりおいしい。砂糖を山盛り2杯、わずかそれだけでこのコーヒーはここまで変わった。

 自分もこのコーヒーのように、今日の苦い出来事を糧に成長しろ、と諭されているように感じていた。人によっては厳しいと感じるかもしれないが、今の彼女にはそれだけで心が少し落ち着いた気がしたのも事実だった。

 

「……なんて、うまいこと言ったつもりでいるけど、実際のところはどうやって僕の苦いコーヒーを正当化するかを考えただけの話だから。あまり間に受けないでね」

 

 お礼を言おうと思った矢先、そう付け加えられては穂樽も苦笑いを浮かべるしかない。それでも彼なりの照れ隠しではないかと、かつて弁魔士として色々な人を見てきて、多少は腹の内が読める彼女は思うのだった。

 ありがたいアドバイスだと思う。でも当人はそのつもりはないと言った。なら、お礼を言う代わりにこの美味なコーヒーを煎れてくれたことにに賛辞を贈るべきだろうと、彼女はじっくり味わいつつ、コーヒーを飲み干した。

 

「ご馳走様でした。おいしかったです。少し、気分もすっきりしました」

「そう。よかった。お代わりは?」

 

 いえ、と遠慮しつつ穂樽は立ち上がる。いい気分転換になったと思う。

 

「じゃあ、是非またいらしてね」

「お言葉に甘えて、そうさせてもらいますね。コーヒーもですけど、マスターさんもなかなか良い方ですし」

「ははっ! お世辞でも嬉しいよ。ありがとう」

 

 彼女としては世辞のつもりはなかったのだが、念押しのように言うのも野暮だろうと、黙っておくことにした。そしてコーヒー代を払って店を出ようとしたその時――。

 

 突然、建物が揺れるほどの爆音が響き渡った。喫茶店の窓ガラスが割れこそしなかったものの振動するほどの衝撃で、陶器類が音を立てて揺れたのがわかった。

 

「何……?」

「地震……じゃないよね。事故か何かかな……。すごい音だったけど」

 

 穂樽が入り口のドアを開け、外の音を耳へと入れる。ここは大通りから少し離れてはいるが、それでもあの轟音と衝撃だ、事故だとしたらかなりの大ごとだろう。案の定、というべきか、「おい事故だってよ!」という人々の叫び声が聞こえてくる。

 

「何があったんですか?」

 

 大通り側からビルの前の道路へと歩いてきた男性に穂樽は尋ねる。

 

「私も背後で起こったのでよくわかりませんが……。大型トラックが横転して歩道橋に突っ込んだとかなんとか……」

「怪我人は?」

 

 聞いたのは穂樽ではなく、カウンターから身を乗り出すようにしていたマスターの方だった。

 

「さあ……。でも凄い音しましたからね。トラックがぶつかったんだとすると、誰かを巻き込んでるか、あるいは運転手が危ない可能性がありますけど……」

 

 見に行こうかと思ったが、野次馬になるかもしれないとその場で一瞬迷う。しかし、背後から聞こえた声によって、自然と彼女の選択は決まっていた。

 

「ごめんね、探偵さん。一旦お店を閉めるから。申し訳ないけど出てもらっていいかな」

 

 言うなり、外に出た穂樽に続いて彼も店を出て、鍵を締めて看板をクローズへと変える。

 

「え、あのマスターさん、どこへ?」

「事故現場。救急車が来るにしても時間がかかる。もし大怪我をしている人がいるなら、事前対策で助かる命もあるかもしれない」

 

 迷いなくそう言い切って走り出した彼に、穂樽は不思議と興味が沸いた。事務所に戻るという選択肢を捨て、後に続く。

 やはり自分の見立て通り、一見怖そうではある者の優しい人に違いない。改めてそんなことを思いつつ、彼女は彼の背中を追った。



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Episode 2-2

 

 

 穂樽が大通りの交差点付近に着いたときには、もう遠巻きに野次馬が集まりつつあった。その人々の視線の先、少し前に耳にした通りトラックが横転して歩道へと乗り上げ、歩道橋の階段入り口部分を完全に潰している。

 すぐ傍にはそのトラックに激突したか、あるいはされたのか。乗用車が破損した状態で止まっていた。ドライバーは国産車に乗っていたことを幸運に思うべきであろう。助手席は左半分ほど潰れていたものの、幸い運転席は大した被害がない様子だった。事実、乗用車の運転手らしき人物は事故を起こした愛車から外に出て運転席ドア付近にもたれかかっていた。頭から流血していたがさほどでもないらしく、ハンカチで頭を抑えている。

 問題はそれよりもトラック側だ、と見た瞬間に穂樽は直感した。パッと見、怪我をしていると見えるのはその乗用車のドライバーのみ。歩行者が巻き込まれていないらしいのは幸いだろう。だが、より大きな事故になっているトラックの運転手が無傷とは考えにくく、さらにこの場に見当たらない。だとするとまだ車内に取り残されたままの可能性が高いと考えられる。

 

 他に怪我人はいないらしいが、なにぶん野次馬が集まりつつあり状況把握はしにくくあった。どうしようかと頭を働かせつつ、穂樽は先に行ったはずの喫茶店のマスターの姿を探す。

 彼はトラックの後続車と思われる、ハザードランプを点灯させて停車したままの運転手となにやら話し込んでいた。

 

「マスターさん」

 

 かけられた穂樽の声に一瞬だけ彼女を見つめ、再び彼は視線を元へと戻す。「一応ハザードと発炎筒で後続に注意促しておいて」と車内の青年に指示したあとで、今度はちゃんと向き直って事故現場へと足を進めつつ話し始めた。

 

「彼は後ろを走行していたから一部始終を目撃してたらしい。幸い歩行者は巻き込まれてないみたいだし、交通量が少なかったからあの2台以外被害もない。ただトラックのドライバーがまだ中にいるらしいって」

「乗用車の方は見かけました。車の外に出て、頭から多少出血してましたが……」

「僕もチラッと見たけど、多分大したことはないよ。救急車が来ればいくらでも対処してくれる。それより自力じゃ動けないトラックの人の方が心配だ」

 

 どうするんですか、と穂樽は尋ねる。それに対して返って来たのは即答だった。

 

「勿論助ける。この時間の応急処置が命を左右することがある。僕の場合は、それがより大きな意味でね」

 

 意味深げなその発言に、もしかしたらかつては医者だったのだろうかと穂樽はふと思った。だとするなら彼の言うとおり、応急処置の重みが変わってくるだろう。

 そう思いつつ、「どいてください!」と野次馬をかきわける浅賀に穂樽も続く。既に運転手の救助を行おうとしているのだろうか数名の男性が横転したトラックの周りに集まっている様子が窺えた。運転手の状況を確認するためにトラックへと近づく。

 

「運転手さんは!?」

「まずいな、こりゃ。さっきから呼びかけてるのに返事がない。引っ張り出そうにも見ての通り運転席側が下になっちまって助手席側もこの有様だ。強引に引っ張り出すのも無理だろう」

 

 たまたま付近で工事でもしていた人だろうか。作業着姿の男性が横転したトラックのひしゃげた助手席側のドア付近から中を覗き込んでそう答えた。浅賀も助手席側へよじ登って中を覗き、「うわ……」と思わず声を上げる。

 

「これは命に関わる可能性が高い。早く助け出して容態を確認しないと……」

「無茶だぜ! 重機でも持ってこないと車体が起こせねえよ。大型ジャッキ辺りありゃあ運転席側の割れた窓とかから引きずり出せるかもしれねえけど、うちの現場じゃ今そこまでのものは使ってねえし……」

「フロントガラスを割ってというのは?」

 

 浅賀が再び尋ねる。だが、彼は首を横に振った。

 

「ダメだ、見てみろよ。どのみち歩道橋部分が邪魔してる」

「ジャッキ……運転席側から……」

 

 そんな2人のやりとりを聞きつつ、独り言のようにそう呟き、穂樽はトラックの前方を横切る。そこで歩道橋で見づらいながらもひび割れたフロントガラスの中に血まみれの男性を確認して僅かに眉をしかめてから、運転席側のドアの様子を確認した。

 

「無理だよ姉ちゃん、今の状態じゃ隙間がねえ。そっちからは諦めるしかない」

 

 確かにその男の言うとおりだ。だが逆に言えば――。

 

「隙間があれば、引きずり出せるって事ですよね?」

「そりゃさっき言ったとおりそうだけど、現状じゃ……」

「皆さん降りてこちら側に来てください。ジャッキではないですが、私がどうにかして車体を押し上げます。その間に運転手さんを割れた窓辺りから引きずり出してください」

「どうにかして、って……」

 

 作業着の男がそう言ったところで浅賀が何かに思い当たったように「……そういうことか」とこぼしたのがわかった。

 

「探偵さん、使える魔術は?」

「砂塵魔術です。本当は接触魔術か、このトラックごと素材に変えて重量減少と同時に生成できる金属機動具(ディアボロイド)生成魔術の方がいいんでしょうけど、私のでも可能なはず。今から一部地面を隆起させ、運転席側に隙間を作ります」

「え……。姉ちゃん魔術使いか!?」

 

 その言葉には、驚きの中に僅かに未知の力に対する怖れのようなものも含まれていた、と穂樽は感じていた。だが特に何を返すでもなく、無言で頷くだけで答えとする。

 精神を集中して魔力を込め、穂樽は両掌を額の前にかざす。気合の声と共にそれを振り下ろすと同時、アスファルトに覆われた下の層の大地が表層を突き破って隆起し、僅かにトラックを押し上げた。

 

「くっ……!」

 

 予想以上の荷重に、思わず穂樽の顔が歪む。しかし負けじとさらに魔力を動員、押し上げる砂塵の量を増やしていく。それにつられ、少しずつ車体が押し上げられていく。

 

「すげえ! よし、今のうちに!」

「出来れば早くお願いします……! 思ったより……きつい……!」

 

 浅賀を含め、手伝ってくれている数名の男達が割れていた窓から運転手の上半身を引きずり出していく。しかし中々下半身が抜けない。足が挟まっているらしい。

 

「姉ちゃんもうちょい踏ん張ってくれ! 足の位置調節する! そしたら多少強引でも引き抜くぞ! ……よし引っ張ってくれ!」

 

 男達がぐったりとする運転手を抱えて懸命に引っ張る。少しずつ体が外に出てきるが、まだ完全ではない。

 

「まだ……ですか……!?」

 

 食いしばった歯に力がかかり、冷や汗が流れ落ちる。穂樽自身、段々と限界に近づいていることは自覚していた。しかしここでやめてしまっては、まだ引っ張り出せていない運転手はおろか、手伝ってくれている人達まで危険にさらすことになってしまう。

 

「あと少し……! せーの!」

 

 そこでついに、運転手の体が車外へと完全に出た。男達は数歩たたらを踏みつつも、どうにか運転手の体を抱えたままトラックから離れる。

 一瞬間を空けて、全員が離れたことを確認すると同時に穂樽が脱力した。瞬間、隙間を作っていた砂塵が力を失い、トラックの荷重によって崩落する。

 

「すげえな姉ちゃん!」

「いえ……。それより運転手さんは……?」

 

 賞賛の声をありがたく受け取りつつも半分聞き流し、穂樽は道路に仰向けに寝かされた運転手へと近づく。その姿を直視して、思わず目をそらしかけた。

 頭部は血まみれで、右腕の曲がり方は明らかに折れており、さらにフロントガラスの影響だろうか、あちこちに裂傷が見られ、何より呼びかけに応じない。

 浅賀は運転手の脈を確認をしていた。その表情が難しいものになっているのを見て、穂樽は状況的にはよくないと悟る。

 

「どうなんですか?」

「脈は微弱ながらもある。心肺も停止状態ではない。出血量も少なくはないけど許容範囲内だろう。……でも頭部を強打しての意識喪失、これが問題だ。衝撃から推測するにかなり揺さぶられたはず……。なら脳挫傷か脳内出血か。その辺りなら命の影響、さらに後遺症にも関わる。治療までの時間がかかるほど事態が悪化する、危険な状態だろう」

「おっさん……医者か?」

 

 救出を手伝った男が問う。穂樽もそうかもしれないと思っていたのだが、彼は首を横に振ってそれを否定した。

 

「残念ながら、答えはノーだよ。……同時に僕は、医者から見ればもっとも忌むべき存在だから」

 

 言うなり、浅賀は右手をかざし、横たわる運転手の頭へと近づける。

 

「な、何をする気だ?」

「応急処置さ」

 

 その答えに「はぁ!?」と言う声が上がる。

 

「あんたさっき脳がやばいって言ったんだろ? 心臓マッサージやら止血ならまだしも、頭の中じゃ揺らさないようにする、ぐらいでどうしようもねえだろ?」

「確かに。……普通ならね」

「……そうか。マスターさんの使用魔術は……!」

 

 コクリ、と浅賀は頷いた。かざした右手が輝く。

 

「治療魔術……。医者泣かせの魔術さ」

「そ、そんな魔術があるのかよ!? じゃあ医者いらねえじゃねえか!」

「そうでもない。あくまでこの魔術の効果は、対象の自然治癒力を高める程度。それも、使い手の使用魔力の割に合わないほど、すこぶる効率は悪い。……でも、応急処置になら充分使える。特に、脳へのダメージは心肺停止同様一刻を争う。後に障害を残さないためには、効果的といえる」

 

 説明しつつ、魔術を行使する浅賀の表情は少しつらそうだった。代わりに、心なしか運転手の表情は安らいでいったようにも見える。

 

「……ここまでだな。年を食うと魔術を使うのがしんどくてしょうがない」

 

 しばらく続いた魔術の行使をやめ、僅かに彼の肩が落ちた。慌てて穂樽が駆け寄ったが、目で心配はないと伝える。

 

「これで……大丈夫なのか?」

「1番深刻な頭へのダメージはね。あとは気道だけを確保して楽な姿勢にさせておいて、救急隊員の人達に任せちゃっても大丈夫だと思うよ。骨折も素人が下手に手を出さない方がよさそうな折れ方のようだし、外部への出血もさほどではない」

「マスターさん、詳しい様子ですけど……。あくまで元医者、ではないんですよね?」

 

 確認するように穂樽は問う。それに対し、彼は笑顔で答えた。

 

「そうだよ。ただ使用魔術柄、どの程度の場合に使用すべきか。それを考えて色々調べているうちに詳しくなったってだけさ」

 

 そう言って浅賀は肩をすくめる。疲労があるのだろう、ようやく立ち上がろうとするが、その速度はゆっくりだった。

 

「おいおっさん!」

 

 と、そこで横から声が聞こえてきた。見れば、乗用車のドライバーが血が止まりつつあるらしい頭をハンカチで抑えつつ、2人の傍へと歩いてきていた。

 

「見てたぞ、あんた怪我治せる魔術使えるんだろ? だったら、俺の頭の怪我も治してくれよ!」

「……申し訳ないけど、断るよ」

 

 きっぱりと、彼はそう言い切った。

 

「なんだと!? そのトラックの運ちゃんに使って俺に使わないってどういう了見だ!」

「僕が魔術を使うのは、基本的に非常時のみと決めている。医療関係者から商売を奪う気はないからね。確かにあなたは頭を怪我している。でも、見ればもう出血は止まりかけてるし、ここまで歩いて来て僕に怒鳴るほど元気がある。だったら、大したことはないでしょう」

「この野郎……!」

 

 それに、と口を挟んで浅賀は続く気配のあった男の先の言葉を止めた。

 

「聞いた話じゃあなたが強引に右折してきて、直進するトラックがそれを避けようと急ハンドルと急ブレーキ。結果、路肩に乗り上げバランスを崩して横転、歩道橋に激突した。そこに遅れて避けそこなったあなたの車がぶつかったらしいとか。どうもそれを聞く限り、原因はあなたじゃないかなって思えてね」

「なっ……! 俺が原因だから、俺には使わないってのか!?」

「そういうわけじゃないよ」

 

 浅賀は一旦そう前置きした。だが一見強面ながらほぼ常に優しい彼の視線が、この時だけは鋭くなった。

 

「……でもね、自分が原因かもしれない事故で相手が大怪我をしてしまった。その人に対する配慮を全く見せず、そればかりか僕に『あいつばかり』と言ってくるような厚顔な人は、どうしても好きになれそうにない。それに魔術を行使しようという気にもなれないな、っていうだけだよ。僕自身、望んで手に入れたわけでもないこの力を利用されるだけ、ってのは嫌だから、余計にね」

「てめえ……! 魔術使いが偉そうにペラペラと……!」

「横から失礼しますが」

 

 不意にそこで割って入ったのは穂樽だった。

 

「あなたはこの方の治療魔術を利用しようとしているだけ、ひいては、私達ウドを軽視しているとしか見えません。でしたら、なおさら頼み込むべきではないんじゃないですか? 見下すほどの相手に頭を下げるなんて、無様にしか思えませんけど?」

 

 理路整然と、しかしはっきりと言い切った彼女を浅賀は意外そうに見つめた。一方男は完全に反論出来ないと2人を睨み付け「……魔術使い風情が!」と台詞を残し、去って行った。

 

「あの手の人ってもっと捻りきかせられないのかしらね? さっきうちに来た人と同じこと言って。三流以下の捨て台詞だわ」

「……探偵さん、言うね。援護ありがとう。あそこまでバシッと言ってくれると、こっちとしてもちょっと気分よかったよ」

 

 思わずクスッと穂樽は笑みを浮かべる。そういえば、ずっと「探偵さん」と呼ばれ、まだ名前で呼ばれてなかったとようやく思い出した。

 

「穂樽です、名前。なんか探偵さんって言われるのこそばゆいんで。よかったらそう呼んでください、マスターさん」

「ああ、そういえばずっと探偵さんって呼んでたっけ。じゃあ僕もマスターさんじゃなくて浅賀で。よろしく」

 

 改めて自己紹介を終えたところで、ようやくサイレンの音が近づいてきた。救急車と、事故の見聞のためのパトカーらしい。

 救急隊員はまず寝かされたトラックの運転手の元へと担架を持って駆け寄った。そこで容態を確認し、少し意外そうに顔を上げる。

 

「思ったより脈拍等が安定している。どなたか、何か処置をなされましたか?」

 

 救助を手伝った男達が浅賀の方へと視線を送る。それを受け、やれやれと右手を上げて自分がやった、とアピールしつつ浅賀は歩み寄った。

 

「私です。治療魔術使いのウドです。脈拍、心肺はやや弱くなっていましたが大丈夫そうでしたし、外部への出血もさほどではないと判断しました。が、頭部内部の出血を含めた脳へのダメージが心配でしたので、そこにだけ魔術を行使しました」

 

 瞬間、露骨に隊員の目に嫌悪の色が宿った。だがその視線を再び患者に戻し、そのまま続ける。

 

「……素人が勝手に、しかも魔術を行使したという事態は許容しがたいな。だが……我々の到着まで放っておけばより状況は悪化、死亡や後遺症の可能性もあっただろう。今述べた判断も妥当と思える。今回は結果的によかったが、感心できないことだということは忘れないように」

 

 最後まで感謝の言葉がないどころか強い口調でそう言い残し、隊員はトラックの男性を救急車へと乗せた。一応乗用車の運転手も一緒に搬送されるらしいが、傷口を見た隊員と一言二言会話を交わしただけらしく、浅賀の見積もりはやはり適切だったのであろう。

 

「……わかってても、この対応はこたえますね」

「そっか。穂樽ちゃんうちに来る前もだっけ。1日に2回……さっきのも入れると3回か。……残念ながらもう1回も約束されてるけどね」

 

 苦笑を浮かべた浅賀に対し、穂樽も同じ表情だった。その「もう1回」である、事故の見聞のために警察がやって来た。

 

「トラックの運転手を救出されたそうですが、魔術を使用したと伺いました。使用した方は?」

「私です。治療魔術です。あと、こちらの女性が救助でトラックを押し上げる際に砂塵魔術を」

「なるほど。……まあ大まかに話を聞く限り十条適用で不問になると思いますが、こちらも仕事ですので。一応魔術使用の事実が存在するということで、詳しい話をパトカーの中でお聞かせいただいてもよろしいですかね?」

 

 2人は顔を見合わせる。予想していたとはいえ、やはりこたえると互いに肩をすくめあった。

 

「そちらの方々はトラック運転手の救出を手伝ってくださった方々ですね? 勇気ある行動に感謝と敬意を表したいと思います」

「ちょ、ちょっと待てよ!」

 

 敬礼ポーズを取った警官に、作業着の男が食って掛かった。

 

「感謝とか、それを言うのは大したことしてない俺達よりそこの2人だろ! なのにそれどころか、事情聴取ってなんだよ!」

「それは私達がウドで、魔術を使ったという事実があるからよ」

「お兄さん、その気持ちだけで僕は嬉しいよ。でもね、魔術使い……ウドというのは、残念ながらこういうものなんだ。この力は時に脅威にもなる。だからこそ、それを制限する魔禁法という法が必要であり、僕達は基本的に魔術を使用してはいけないのさ。……とにかくその気持ちと、あと手伝ってくれてありがとうね」

 

 浅賀はそう言って笑みを向け、穂樽と共にパトカーへと案内されていった。

 

 質問は実に事務的だった。さっきの救急隊員のような嫌悪感丸出しの態度や、高圧的な態度を取られるよりは遥かに楽だ、と穂樽は思いつつ受け答える。向こうも仕事だ。その不満をこっちにぶつけられるよりは、淡々とやってくれた方が効率も精神衛生上もいいだろう。

 

「……お待たせしました。目撃者の証言から穂樽さんはトラックの車体を持ち上げるため、浅賀さんは重体の運転手の応急処置のためにのみ魔術を使用したと証明されました。社会正義のための魔術使用と判断できますので、今回は魔禁法十条で不問ということになります。最後、こちらの書類だけ書いていただければ、あとはお帰りになっていただいて結構ですので」

 

 とはいえ、やはり最後まで感謝の言葉は無しか、と思いつつ、穂樽は手渡された書類に個人情報を記入。最後に用意されたウドか否かの項目の「魔術使い」の部分へはっきりと丸を記した。

 

 2人が解放された頃には、もうほぼ現場は収拾されつつあった。協力者の人々も見当たらず、事故車もレッカーが来て移動を始めている。思ったより時間を取られたと思いつつ、どうせ待っていても事務所に客は来ないだろうしいいかと、穂樽は前向きか後ろ向きかよくわからない思考でそれを誤魔化すことにした。

 

「穂樽ちゃん、いろいろあって気が滅入ってるでしょ? よかったら一杯コーヒー飲んでいかない? お昼も逃しただろうから、ランチも出すよ」

 

 そんな折にかけられたその言葉は、彼女にとって嬉しかった。二つ返事しそうな勢いで了解する。

 

「じゃあごちそうになります、マスタ……浅賀さん」

「そうそう。浅賀ね。その呼び方でよろしく。同じビルの、お隣さんみたいなものだから、僕ら」

 

 そう言って互いに笑い合う。そして2人はシュガーローズの中へと入っていった。

 

 

 

 

 

「はい、ブレンドお待たせ」

 

 不意に目の前に出されたコーヒーに、かつての出来事を思い出していた穂樽は現実へと引き戻された。眼鏡のレンズを通して見えるその茶褐色の液体は見るからに以前と変わらない。

 そういえばあの事故に協力した後、戻ってきてからも席は1番奥だった。それからずっと、気づけばここが彼女の指定席になっていた。

 ひとつ、小さく笑いをこぼしてから、穂樽はブラックでそのコーヒーを一口呷った。あの時、初めて飲んだ時からずっと変わらない、予想以上の苦味が口に広がる。

 

「あれ、ブラック? 穂樽ちゃん徹夜明けだったの?」

 

 穂樽がこの苦過ぎるコーヒーをブラックで飲むのは基本的に徹夜明けのきつけ薬代わり、ということが多い。それ故思わず浅賀はそう尋ねていた。

 

「いえ。昔の私はどんなものだったのか、改めて確認しようと思いまして」

「うん?」

 

 過去を思い出していた穂樽はいいとして、浅賀は何のことかわからなかったらしい。「昔は私をこのコーヒーに例えたんですよ」と補足してもよかったが、実質半分ぐらいは自分のコーヒーの苦さを正当化するために例えているというのもあるということを彼女はもうよく知っている。だからいちいち言わずにいいかと、普段通りの味わいにするためにシュガーポットを手元に寄せた。

 美しい薔薇の模様が描かれた、砂糖の入った陶器。この店名、「シュガーローズ」の由来ともなったそれを見つめつつ、そういえばあの後の2度目のコーヒータイムのときに由来を聞いたんだっけと彼女は思いだした。そしてティースプーンで砂糖を山盛り2杯。味の変わったコーヒーを口に含み、これが今の自分か、とふと思った。

 

「浅賀さん」

「何?」

「私がここに初めて来た時……。一緒に事故現場に駆けつけて協力した時から、私は変わりましたかね?」

「ああ、その時のこと思い出してたんだ。だからずっと上の空だったのか」

 

 しばらく唸ってから、マスターは女探偵を真正面から見据え、至極真面目な顔で告げた。

 

「眼鏡になった。似合ってるよ」

「あの……浅賀さん」

「煙草も吸うようになったね。ここでも時々」

「……浅賀さん」

 

 半目気味にジロリと睨み付けられ、困った表情を浮かべつつ浅賀は笑って誤魔化す。

 

「冗談だって。……でも、変わったかどうかを判断するのは、僕じゃないんじゃないかな。穂樽ちゃん自身が自分で変わったと思うんなら、それは間違いなく変わったんだと思うよ」

 

 穂樽にとって望んでいた答えからは遠かった。無論自分では多少なりとも成長しているつもりではいる。あの時と比べれば依頼も増えてきたし、着実に成功もさせている。代償として、さっき浅賀に言われた通り視力が落ちて眼鏡になり、気分転換代わりか煙草も追加され、結果ガサツになってしまったことは否めない。が、それもまた変わった、とも言えるだろう。

 

「でもね、変わらない人なんていないよ。そして人は自分の意思と関係なく変わらなくちゃいけない時も来る。……もっとも、これは穂樽ちゃんの持論だったとも思うけど」

 

 言われてみればそんなことを言っていたなと穂樽は思い出した。つまるところ、さっきの質問自体がナンセンスだったのかもしれない。コーヒーを一口流し込み、彼女は僅かに笑みをこぼした。

 

「……でも浅賀さんのコーヒーは変わりませんね」

「あ、ほんと? それ意外と嬉しいなあ、実はそこそこ苦労してるんだよ。変わらない味を維持するのって大変だからね。……はい、ランチお待たせ。今日はツナサンドとポテトサラダサンドだよ」

 

 差し出されたプレートに、意図せず視線を奪われる。いつ見ても美味しそうなホットサンドだ。

 

「ポテサラってことは、ミニサラダとサラダがダブるダブサラの日ですね」

「……そのネーミングで呼ぶの、穂樽ちゃんだけだよ?」

 

 呆れ気味の浅賀をさて置き、穂樽はホットサンドを口へと運ぶ。コーヒー同様、これも変わらず美味しい味だ。「お隣さん」と呼んでくれるオーナーでありこの喫茶店のマスターでもある浅賀と仲良くなれてよかったと、穂樽はつくづく思う。

 

 と、昼時ということもあってか、女子2人が来店したようだった。誰も来なかったらここで一服してもう少し浅賀と話してから帰ろうかとも思っていたが、長居して邪魔しては悪いだろう。さっき少し話せたことと昔を思い出したこと、そして何よりここのコーヒーとランチで嫌だった気分をかなり紛らわせることが出来た。

 この美味しい昼食を食べ終えたら、減りつつある煙草を買い足して事務所に戻り、食後の一服は部屋でするとしよう。そんなことを思いながら、二切れ目のホットサンドを彼女は口へと運んでいた。

 

 

 

 

 

シュガーローズ・コーヒー (終)

 

 




治療魔術については、公式サイトのキャラ紹介によるとシャークナイト内に使える人物がいるようです。
万能過ぎると医者がウドに取って代わられてしまうので、本編の通り「自己治癒能力を高めて回復を促す程度」「効率が悪く、なんでもすぐ直せるわけではない」という設定を取りました。
でもこれを売りにしてる闇医者みたいなのは、あの世界だといそうだなとか思ったりします。

前話と違って探偵っぽいこともしておらず短編クラスの短さとなってますが、マスターの浅賀との話を描いた「シュガーローズ・コーヒー」はこれで完結です。


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Episode 3 インプロパー・リレーション
Episode 3-1


Episode 3 インプロパー・リレーション

 

 

 

「……つまり、奥様が不倫をしているんじゃないか、と」

 

 一見して甘いマスク、併せて少し気の弱そうな印象。だが同時にそこが母性本能をくすぐったりするのかな、とレンズ越しの目の前の依頼人の男性に尋ねつつ穂樽夏菜(ほたるなつな)はそう思った。それに対し、イケメンながらも気の弱そう、という印象を裏付けるかのように控えめに目の前の男性は頷く。

 今回ファイアフライ魔術探偵所を尋ねてきた目の前の男性の依頼は「妻の浮気調査をしてほしい」というものだった。依頼人の名は平山清(ひらやまきよし)、20代後半のウドである。大手会社に勤めており、収入が安定して高い一方、出張が頻繁にあり、家を空けることも多いらしい。そんなある時、妻が自分が贈ったものではない装飾品を身に着けているのを目にしたのだ。一応どうしたのか尋ねたが、「もらった小遣いで買った」と答えただけだったと言う。

 

「ですが、アクセサリーだけで浮気……ひいては不倫ではないか、と判断するのは……。こう言っては失礼ですが、少々考え過ぎではないかと」

「……私が不倫を疑っているのは、それだけが理由ではありません。どちらかといえば、アクセサリーの件は決め手になったというか、薄々そんな気配があったところでより疑念が深まったというか」

「と、言いますと?」

 

 先を促そうとする穂樽だが、平山は躊躇うように一瞬黙った後、ゆっくりと続けた。

 

「妻とは結婚して2年程になります。ですがその……結婚後に性交渉に応じてくれたのは、多くありません。特にここ半年では、1度も」

 

 ははあ、と穂樽は内心で唸っていた。確かにこの手の話は同性の方が話しやすいだろう。普通は女性でも気軽に話せるというメリットの方が強く出るのだが、今回に限っては相手の気が弱そうなのも相俟って穂樽の性別が裏目に出てしまったらしい。

 しかし幸か不幸か、もっと下劣と言ってもいい下ネタは前の職場で嫌と言うほど聞いている。免疫は十分。故に気にする必要はない、という意味をこめて彼女は何の抵抗もなく次の台詞を続けた。

 

「独身で年下の私が言うのもなんですが、今時セックスレスの夫婦はさほど珍しくないのでは?」

 

 この歯に衣着せぬ物言いには、平山も苦笑を浮かべざるを得なかった。

 

「……女性なのに抵抗なくズバッとそういう単語言うんですね。割と言葉選んだのに」

「前の職場で下ネタばかり言う女子の先輩がいましたからね。慣れてるんです」

 

 肩をすくめる穂樽。その様子に遠慮は無用と判断したのだろう、今度は相手方も余り気を使わずに切り出したのがわかった。

 

「まあとにかく仰るとおり、セックレスの状態です。でも、私は子供を望んでいるんです。ところが彼女が『まだ早いから』とかなんとか、いつもなあなあで誤魔化されてしまって」

「そこにアクセサリーの件も合わさったと。確かにそうなると出張の多い平山さんが不在の間、奥様が性欲を満たすために不倫をして、別な男性と肉体関係を持っているのではないか、と疑いになられるのも頷けます」

 

 平山は先ほど同様、苦い表情だった。おそらく「無遠慮に言う人だ」とか思われていることだろう。しかしこちらも仕事だし、第一浮気調査でこの手の話は慣れている。回りくどい言い方で時間をかけるよりは効率的に進めた方がいいと、穂樽は完全に割り切っていた。

 

「……わかりました、全部話しましょう。私と妻が初めて会ったのは、いわゆる合コンです。当時妻はまだ大学生だったんですが、うちの会社の女好きな奴がどうやってかその大学の女子相手にセッティングして。それで私も誘われたんです」

 

 コンパはいい感じに進んだらしい。酒が入って酔っていたということもあり、依頼人の平山も普段より気が大きく、また気分がよくなっていた。そこに現在妻になっている人物に言い寄られ、早い話が誘惑され、理性が抑え切れなかった。結果、出会ったその日のうちに一夜を共にしてしまったのだという。

 まあこれだけのイケメン、さらに大手会社で高収入とくれば女は食いつくだろうなと穂樽は思った。同時に、タイプではないから自分ではそうはならないだろうとも思うのだが。

 

「酒が入っていた当日はよかったです。でも、翌日にはまだ学生である彼女をたぶらかしてしまったような罪悪感が襲ってきました」

「……どちらかと言うとたぶらかされたと思いますけど」

 

 反射的に口走ってからしまったと思ったが後の祭り。依頼人はジロリと穂樽へと一瞥をくれてきた。頭を軽く下げ、謝罪する。

 

「すみません。続けてください」

「……探偵さんなかなかきついですね。まあともかく、彼女とそこで寝てしまったのは事実なわけです。その後、連絡を取ることもあり、何度か会ったりもしました。そして交際するようになって、彼女は大学を卒業したら結婚しようと切り出してきました。出会った日の責任を感じていたのはありましたが、それ以上に私も彼女を愛していた。だからそれを了承しました。ただ、私がウドだということを伝えると彼女は大層驚きましたが……それでも構わないと、その時は言ってくれました」

「ちなみに奥様はウドですか?」

「いえ、違います。互いにそのことは結婚の話が出るまで話題にしたことも無かったです」

 

 一度休憩を挟むように平山はコーヒーを飲む。メモを取っていた穂樽は、おそらくこの流れだとウド絡みでセックスレスになった、という流れかと考えていた。

 親が両方ウドの場合は子もウドになる確率は100%、一方親の片方がウドの場合でも70%。非ウドの人間からすれば、我が子が偏見の目にさらされるのを怖れるために子供を作りたがらない、ということは十分にありうる。実際に妻の方は子作りに乗り気でない、という話を既に聞いていれば、なおさらそう思えた。

 

「結婚してしばらくは、何度か夜を共にしたこともありました。でも元々出張が多く、家を空けることが多い仕事です。さらに幸か不幸か、社内で功績を認められ、より重要な仕事を任せられるようになった。結果、結婚後の方が出張が増えてしまったんです」

「それに対して奥様が不満を?」

「いえ。むしろ出世を喜んでくれました。ただ、先に述べたとおり性交渉の機会は元々少なかったのに拍車をかけるように減りました。私の方から誘っても気分ではない、とか、あまり体調良くないから、とか。そんな折に見かけた買った覚えのないアクセサリーに……もしかしたら彼女は不倫をしているんじゃないか、と思うようになったんです。出張で家を空けることが多い以上、妻が何をしているのかはわかりません。彼女を信用したいと思いつつも、自分の相手をしてくれないのはもしかしたら、とずっと感じていたのは事実です」

 

 唸りつつ穂樽はペンを持った右手を顎に当てて考えていた。確かに臭う(・・)。イケメンで高収入の相手と、大卒と同時に結婚。十分満足できるような相手だったが、惜しいことにウドだった。だが、子供を諦めたとしてもその他の社会的優位性は十分、とも言えるだろう。どうにもそういう気配が強い。

 もっと言ってしまえば離婚して慰謝料をふんだくる、という算段まであるかもしれない。それだけ悪質だと「悪女」という言葉が相応しいとさえ思える。そうなると、先を見越して次の相手を見つけるための不倫、ということまで視野に入ってくる。とりあえず身辺を洗ってみる価値はありそうだ。

 

「……わかりました。お受けします」

「本当ですか!? ありがとうございます。……正直、普通の探偵所に頼むとウドという理由で相手にされないのではないかと不安だったんです」

「そのお気持ちはお察しします。それに、そう思って当事務所を訪問していただいたとあれば、私も『魔術探偵所』という名を出している甲斐があるというものですよ。……では依頼の書類を用意します。あと、可能な限りで結構ですので奥様の情報をいただければと思います」

 

 穂樽はパソコンデスクから書類を取り出し、平山へと差し出した。彼がペンを走らせる様子を見つめつつ、コーヒーを流し込む。シュガーローズの足元にも及ばない味だが、少し渇いた喉を潤すには十分だった。

 反対側から書類を見つめていて、彼が妻の名前と出会ったきっかけとなった合コンの大学名を書いたとき、穂樽にとって予期せぬ文字を見かけた。意図せず「あ」と声をこぼしてしまう。

 

「どうしました?」

「いえ。……奥様、私と同じ大学のようでしたので」

「そうなんですか? 妙な偶然もあったものですね」

 

 さらにその妻の年齢を覗き込んで小さく唸った。

 

「3つ下か……。ってかあそこ、会社相手に合コンとかやってるとこあるんだ……」

「合コン企画したうちの社員がおかしいんだと思いますよ。なんか色んなネットワーク持ってて、それで大学生相手にも出来たみたいですから」

 

 サークル辺りならOBが顔を利かせれば開催できなくはないか、と穂樽は思うことにした。性が乱れているサークルというものは風の噂で耳にしたことがある。いずれにせよ自分が在学中には縁のない話だったし、卒業した今となっても関係はない。

 もっとも、そういうサークルに所属していたのだとしたら、やはり目の前の依頼人には申し訳ないが妻は悪女か、尻軽女の類ではないかと邪推してしまう。そしてそんな女性が結婚した相手との性交渉を拒むのは、相手に魅力を感じないか肝心の相手が機能不全辺りか。だが平山はイケメンの類だし、当人はやる気(・・・)があるのだから後者の線もない。となると、子供を作りたがる夫とは寝れないために不倫、という理由に行き着くような気がしてならなかった。

 

「これでいいですか?」

 

 そんなことを考えているうちに、依頼人は必要事項を記入し終えたらしい。不足がないことを確認すると、「妻の写真です」と、わざわざプリントアウトしてきてくれた写真を渡してくれた。

 

「明日から5日間、私は出張で家を空けます。妻はその時に何か行動を起こすのではないかと考えています」

「わかりました。ではその期間、奥様を張らせていただきます。……それで、少々心苦しいお願いではあるんですが」

 

 言いつつ、穂樽は砂の入った小瓶を取り出した。相手はそれをしげしげと眺める。

 

「この中の砂を少量でいいですので、奥様が移動時に持ち歩くバッグ等に仕込んでもらえますか?」

「構いませんが……。探偵さん、使用魔術は?」

「砂塵魔術です」

 

 それで相手は察したらしい。「ははあ」と納得した声を上げる。

 

「なるほど、これで追跡するのか。……でもこれ、魔禁法大丈夫ですか?」

「スレスレですね。場合によっては黒かもしれません。十条で言い逃れるには苦しいかもしれませんし……。本来でしたら常時お宅の見える範囲で張りこむのがもっとも正しいやり方なんですが。奥様や周辺住人に怪しまれるリスクや、尾行の際見失わないような安全性を考えると、より確実な方法としてはこれかと。無論依頼人の方に頼むのは先ほど述べたとおり心苦しいですので、無理強いはしません」

「手伝って黒なら私も共犯かな。……ま、やってみます。少しの砂ぐらいなら、知らん顔出来るでしょうし」

 

 ありがとうございます、と穂樽は頭を下げて感謝を示した。これがあるのとないのとでは全然苦労の度合いが変わってくる。理解あるウドでよかったと思っていた。

 

「……それから、ですが」

 

 次いで、少し難しい顔を浮かべつつ、穂樽は受け取った書類のある部分を見て切り出す。

 

「もし不倫が発覚した場合、こちらにそれ以上のことを望まない、と書かれましたが、よろしいんですか?」

 

 平山が頷く。先ほどの表情のまま穂樽は続けた。

 

「僭越ながら意見を述べさせていただきますと、当事務所はバタフライ法律事務所という弁魔士もいる事務所と提携しております。慰謝料関係であまりに不利な条件を突きつけられた場合、民事裁判に対応してくれる弁魔士をご紹介できますが……」

「もし彼女が不倫をしていたとして、その事実を突きつけて反省してくれるというならそれで構いません。……そうでない場合、彼女が私より不倫相手と一緒になる方が幸せだというのであれば、私は彼女の意思を尊重したいと思います」

 

 思わず言葉を失った。つまり彼の言い分だと、「不倫相手の方をより愛しているなら、離婚してもいい」と言っていることに他ならない。

 

「では法廷で争う気もない、と」

「穏便に済ませたいと思います。その方が双方のため、特に、彼女のためによりいいでしょうから」

 

 これ以上何かを助言しようと言う気にはなれなかった。この男性は優しい、を通り越して人が好すぎる。いや、それさえ通り越しているとさえ思える。

 おそらくこの件はいい結果とはならないだろう。そんな予感を、穂樽は密かに抱いていた。

 

 

 

 

 

「今回の依頼人、お人好しを通り越してただの馬鹿だニャ」

「ニャニャイー、あまり悪く言うのはやめなさい。……私だって思ってても言わなかったんだから」

 

 翌日、平山の家付近の駐車場。そこに張り込み用に車を止めてマニュアル通り後部座席に座りつつ、穂樽は煙草を蒸かし、連れてきた使い魔のニャニャイーと他愛もない話をしていた。

 実のところ、ここから家の様子は窺えない。が、平山は渡した魔力をこめた砂を妻の何かしらには仕掛けてくれたらしく、動いたらその反応を追えばいいために直接見張る必要はないと判断していた。

 家を直接見張り続けなくていいというのは比較的気楽だ。さらに、適当に車を移動させて待機していれば平山に述べたとおり怪しまれるリスクも、尾行に移った際に見失う可能性も減る。

 

「それより反応動いてないんでしょうね? 一応私も気づけるようにはしてるけど」

「ぬかりはニャいニャ。私は主人に似て優秀だから心配無用ニャ」

「全くその通りだわ。反論の余地無しね」

「……でも最近その煙草のせいで本当に優秀か疑わしいニャ」

 

 使い魔の抗議を無視し、穂樽は煙草をなおも蒸かす。使い魔である以上、ニャニャイーもある程度は穂樽と魔力を共有している。そのため追跡センサー代わりの砂が移動すれば両者とも感知できる。よって、長期戦になったら交代で休憩できるよう、彼女は使い魔同伴で張りこみに望んでいた。通常は数名でシフトを組むこともある長時間の張り込みを、個人単位の事務所でやろうとするが故の苦肉の策でもある。無論、暇つぶしの話相手がほしいという側面もあるわけだが。

 

「それにしても、さっきのあなたじゃないけどお人好しが過ぎるわよね、今回の依頼人」

 

 煙草を咥えたまま、タブレットPCを操作してまとめた調査対象のデータを呼び出す。

 平山清の妻、名は平山朝子(あさこ)、旧姓は北條(ほうじょう)。穂樽と同じ大学で学年は3つ下。より調べてみると、さらに意外なことにゼミまで被っていたらしい。直接の面識はないが、仮にいたとしても、思えばあのゼミは当時から人気で人数の多かったからわからなかっただろうと思い出す。そのため、いろんな人がいてもなんらおかしくはない。

 

 そこで意図せず、穂樽は舌打ちをこぼしていた。大学時代のゼミ。思い出したのは言うまでもなく、彼女が片思いをして、不倫紛いの恋になっていたかもしれない教授のことだった。未だ諦めきれず引き摺りつつある思いを忘れるよう、忙殺するように仕事に身を置いているはずが、その教授という共通点があるなんとも皮肉な巡り合わせ。そんな気持ちを打ち消すように、穂樽は深く煙草の煙を吸って吐き出した。

 

「ゲホッゲホッ……! 穂樽様、煙いニャ、煙草臭いニャ!」

 

 咳き込み、使い魔が抗議の声を上げる。さすがにこれはよくなかったと彼女も思った。

 

「……ちょっと今のは蒸かし過ぎた。ごめん」

 

 思わず感情的になってしまったと反省する。素直に謝罪の言葉を述べてから最後の葉を燃やし、煙草を揉み消す。次いで煙と一緒にため息をこぼし、背もたれに深く寄りかかった。

 

「どう考えたってこの女、イケメンで高収入だから擦り寄った口でしょ。きっかけが合コンだし、いきなり寝てるわけだし。ところがいざ結婚しようとしたらウドだった。旦那の顔も収入もよくて社会的優位性は十分、でも子供を産みたくともウドの確率は7割と高い。それで自分まで冷ややかな視線を受けるのはゴメンだから旦那とは寝ない。代わりに不倫して別な男と寝る。不倫がばれて詰め寄られたら慰謝料請求してはいさようなら、って手口じゃないのこれ」

「異論ニャし、ニャ」

「だとしたらどうしようもない悪女よ。『少しでも勝ち目があれば依頼を受ける』と豪語してるバタ法だって弁護を諦めるほどにね」

 

 もっとも、依頼人の平山は全くそんな風に思っていないようである。あくまで彼は彼女を愛していて、彼女からも愛されていると思っている。そしてお人好しを通り越すほどの考えでもって、自分より不倫相手といる方が幸せなら離婚をもいとわない。

 勿体無い男だと思う。もう少し年がいっていたら自分のタイプに当てはまるだろうに、とも思える。あるいはいっそバタ法の男好きアソシエイトに紹介してやった方が、よっぽど幸せじゃないかとさえ考えてしまう。

 願わくば、不倫をしているかもしれないというのは依頼人の思い過ごしであり、さっきの話も全部考え過ぎで、このまま何もなくニャニャイーと5日間車で話してるだけなら、と思わずにいられない。何もなければそれでいいのだ。

 

「ニャ。穂樽様」

「……ええ」

 

 しかしそんな彼女の淡い希望はもろくも打ち砕かれそうだった。ニャニャイーも感知した以上、間違いない。調査対象、朝子が動き出したのだ。長期戦になるかもしれないという考えと裏腹。張り込み始めてまださほどでもない。よってまだ夕食には随分と早い。どこかで少し遊んで夕食を食べてから、本当の夜遊びと洒落込むのだろうか。

 運転席へと移動しつつ、穂樽はさらに異常を感じていた。センサーの移動速度が予想以上に速い。明らかに人の足のペースを越えている。

 

「穂樽様、この移動速度は……」

「タクシーか! これだからセレブ気取りの女は……! 都内で比較的駅近の超優良物件なんだからちょっとは歩いて公共交通機関使いなさいよ!」

 

 文句を漏らしつつも急いでエンジンをかけて車を発進させる。同時にナビを起動させ、大まかに自分の位置と相手の位置の照合作業も行う。

 

「ニャニャイー、運転に気を使うから細かい追跡とナビゲートお願い」

「了解ニャ」

 

 やはり使い魔を連れてきて正解だったと思いながら、彼女は車を走らせる。ナビは使い魔に任せればいい。運転に専念し、穂樽はタクシーに乗ったであろう対象を追い始めた。

 

 

 

 

 

 反応を追った結果、首都高へと乗ることとなった。そこで穂樽はうまく距離を詰め、目視でもタクシーを確認。あまり近づき過ぎないようにしつつ、後をつける。

 それからやや走った後で対象を乗せたタクシーは繁華街の付近で首都高を降りた。しばらく後ろを走ってからその行き先を悟り、穂樽は思わずため息と愚痴をこぼす。

 

「……これ行き先完全に駅じゃないのよ。ほんと、どうせ駅行くなら公共交通機関使えっての。首都高使ってるしタクシー代結構なはずよ?」

 

 駅に向かっているということはそこで不倫相手と合流し、その後繁華街を歩き回る可能性が高いと彼女は踏んだ。なら走りにくい都内でこれ以上車を使うよりも降りた方が自由が効く。仮にその読みが外れたとして、タクシーを捕まえればいい。適当なコインパーキングに車を停め、あとは車なしで追うことにした。

 

「ニャニャイー。車停めるけど、このまま車に残るのと窮屈だけどバッグに入ってるの、どっちがいい?」

「どっちも嫌ニャン! サポートするからバッグ以外にしてほしいニャ!」

「じゃあバッグね」

 

 有無を言わせず非難の声を上げる使い魔をバッグの空きスペースに入れ、穂樽は車を降りた。センサーが動いていない。どうやらタクシーが駅付近の渋滞に巻き込まれたらしい。ある程度予想はしていたが、これで距離を離されることもない。同時に、もうそこからなら降りて駅まで歩けとも彼女は思いつつ、足早に駅へと向かう。

 

「……あんまりニャン。こんな扱い、酷いニャン……」

 

 歩く彼女のバッグの中から悲痛な声が聞こえてきた。少々かわいそうと思い、それなりに機嫌を取っておくことにする。

 

「はいはい。後で一緒にお風呂でも入ってあげるから、機嫌直しなさい」

「ニャ!? それなら今回は特別に大目に見るニャン」

「変なところだけ女子なんだから、ほんと……。誰に似たのやら」

 

 そのぐらいでこの不当な扱いを許してもらえるなら安いものだろう。どうにも最近ニャニャイーを困らせていることはわかっている。たまにはサービスも必要だし、労ってやらなければいけないとも思う。

 

 そんなことを考えながら駅に着くとほぼ同時、追っていたタクシーもようやく駅に着いたようだった。そこから対象の女、朝子が姿を現す。ここまでセンサーとタクシーを目視で追って来たため、朝子の格好を見るのは初めてだった。その風貌に思わず穂樽は眉をひそめる。

 お世辞にも上品とはいいがたい。はっきり言ってしまえばけばけばしい。どこかの社交会やパーティにでも行くのかと言うような格好だった。ファーがあしらわれた上着に、下は膝上のタイトなスカート。赤い派手なハイヒールに生足といかにもな風体である。依頼人は妻がこういう格好をしているのを知ってるのだろうか、それともこういうのを好んでいるのだろうかと思わず考えてしまう。

 

 朝子の相手はまだ来ていないらしい。少し距離を離し、穂樽はそれとなく観察しつつ、バッグの中のニャニャイーに指示を出してデジカメを準備させた。相手が現れたらまずその顔写真を抑える。その後尾行、あとは決定的瞬間、要するにいわゆるラブホテルに入る瞬間を撮影できれば証拠として十分だろう。

 視界の隅に相手を入れながら、無関係を装って待つ。煙草を吸いたかったが喫煙所は近くにない。それに相手がいつ来るともわからない以上、目を離すわけにもいかなかった。

 

 ややあって、朝子に近づく男が現れた。彼女もそれに応じようと返事をしているらしい。使い魔の名を小声で呼び、デジカメを受け取る。ばれないように相手の男の顔を液晶の画像に映し出してシャッターを切ると同時――。

 

「……えっ」

 

 決定的なタイミングであるにもかかわらず、穂樽は次以降のシャッターボタンを押せなかった。デジカメの液晶から目を外し、彼女自身の目でその男性を見つめる。その顔は液晶に映ったものと全く違わなかった。少し白髪の混じった髪、若干皺が見えつつもこざっぱりとして凛々しい顔。その男性は朝子と軽く抱き合い、ほぼ間違いなく不倫相手であると推測できる。

 しかし穂樽は固まったまま動かなかった。いや、動けなかった。

 

「そんな……。嘘……どうして……」

 

 うわ言のようにそう呟き、呆然と朝子の「不倫相手」である男を見つめる。しかしその光景は、穂樽が望むような嘘でもなんでもなく、現実だった。見間違えるはずのない相手のその顔に、驚愕と絶望の入り混じった声が零れ落ちる。

 

「……先生(・・)

 

 調査対象の朝子と抱き合った中年の男性。それは紛れもなく穂樽が今述べた「先生」、すなわち、兼ねてから彼女が片思いを続けていた、家庭があるはずの大学教授に他ならなかった。

 




この話のテーマがテーマですので、R-15タグをつけさせていただきます。
タイトルは「インプロパー・リレーション」、直訳すれば「不適切な関係」。浮気・不倫を連想する言葉としては有名かと思います。
本文中、基本的に不倫という単語を用いてますが、「結婚している場合不倫、交際レベルの場合浮気」という感覚で使っています。が、「浮気調査」に関しては「不倫調査」よりも一般的らしいのでそっちを用いています。

ちなみに穂樽が妻のいる大学時代の教授に片思いをしているというのは公式設定で、原作7話で語られています。
また、「子がウドになる確率は、両親がウドなら100%、片親なら70%」というのは、BD1巻ブックレットに書いてあった公式設定になります。


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Episode 3-2

 

 

――穂樽、君は本当に優秀な学生だね。

 

――あ、ありがとうございます!

 

――夢は弁魔士だったかな? 君なら、きっとその夢を叶えられると思うよ。

 

――はい! 頑張ります!

 

 

 

 

 

「……クソッ」

 

 脳裏によぎった甘い過去を振り払うように短くそうこぼし、喫茶店のテラス席で穂樽は吸っていた煙草の煙を吐き出した。今頃調査対象の朝子と「先生」は食事をしている頃だろう。今彼女がいる店のすぐ近く、いかにも高級そうな店に入っていったところまで尾行し、彼女はここで出てくるのを待つことにしていた。

 

 水元朋幸(みなもとともゆき)。今回の依頼対象である平山の妻、朝子の「不倫相手」と目される人物の名は、調べるまでもなくそうだとわかっていた。穂樽にとって忘れられるはずもない。いけないと思い懸命に己の心を押し殺しつつも片思いを抱いてしまった、家庭を持つ大学教授。あのダンディで、優しく素敵なオジサマとして、当人はウドでなくとも穂樽に分け隔てなく接してくれた恩師は理想の男性像のはずだった。だがその彼が調査依頼対象のけばけばしい女と仲睦まじくしている様子は実に不愉快で、理不尽で、彼女にとっては苦痛そのものだった。

 とはいえ、穂樽もプロだ。請けた仕事はこなす義務がある。どうにか心を落ち着け、2人の尾行をしていた。まだ不倫と決め付けるのは早い。

 そもそも、よく考えてみれば穂樽と朝子は学年こそ違えど大学が一緒、そして直接顔を合わせたことはないがゼミも一緒なのだ。奇妙な偶然ではあるが水元は共通点といえた。そして互いに教授と教え子、久しぶりに再会してちょっと街を歩いて食事、という可能性もありうる。いや、そうであってくれという祈るような気持ちで穂樽は後をつけ、2人の姿をデジカメに収めていた。

 だが繁華街の高級店を歩き回り、楽しそうに話し、あまつさえ腕まで組む様子はまさに不倫している愛人同士のようにしか見えなかった。休日にウィンドウショッピングを楽しむ恋人そのものだという錯覚すら覚える。故に、時間を追うたびに穂樽のフラストレーションは溜まる一方だった。

 

 そんな折、2人は食事店に入っていき、ようやく一息がつけると穂樽は付近の喫茶店の喫煙席に陣取り煙草に逃げた。だが普段は気分を晴らしてくれるメンソールの効果が一向に感じられない。鬱屈した気分のまま、ただ彼女は煙を燻らせていた。

 

「穂樽様……」

 

 バッグの中の使い魔は心配そうに主に声をかける。だが、余裕のない彼女は冷たい返事を返していた。

 

「黙ってて。……今話す気分じゃない」

 

 ニャニャイーが心配する気持ちはわかる。だが、こうでもしないと、いや、こうしていても彼女の気持ちは治まらなかった。どうにか場所をわきまえて理性で抑えてはいるが、それも危うい。この後尾行を続け、もし決定的瞬間を目撃することになったとしたら。

 その時自分がどうなるのか、そもそもそういう事態すら考えたくないと穂樽は思考をやめることにした。同時に今吸っている煙草がもう無くなるとわかると火を揉み消し、すっかり冷めたコーヒーを流し込む。普段ならここでシュガーローズの味と比較するぐらいの余裕はあるだろうが、今はそんな気持ちすら起きなかった。なおも次の1本を吸おうと白地に緑のラインの入った煙草の箱を開けたその時。

 斜向かいのレストランから2人が出てくるのが目に入った。砂のセンサーからも移動しているのがわかる。

 

 だが穂樽の心にはこのまま追ってもいいのだろか、という思いも浮かんでいた。教授と教え子が久しぶりの再会、そして少し街を歩いて食事をした。今ならまだそう思い込むことも可能だ。

 しかしこの後も尾行を続け、それで言い訳の効かない決定的瞬間を目撃してしまったら。

 そんな風にも思ったが、そうか否かを確認するのが今回の依頼だ。尾行しないという選択肢はありえないと、眼鏡を今の赤いメタルから予備の黒セルフレームへと切り替え、髪を後ろで1つにまとめた。これだけで顔を知られていても印象は大きく変わるだろう。軽い変装を終えると穂樽は喫茶店を後にし、距離を詰め過ぎないようにしつつ、2人の尾行を再開した。

 

 時刻は既にいい頃合、顔合わせを経た男女が情事へと発展するには適した具合に夜も更け始めようとしている。意気揚々と歩く2人をつけつつ、穂樽はただただ、自分の考えてしまった最悪な展開にならないよう祈るばかりだった。

 

 しかし、現実は非情で残酷だった。2人が歩いていった先は完全にホテル街。まだベテランとは言いがたいとはいえ、そこそこの経験を詰んだつもりの探偵としてのカンは、間もなくこのまま2人はホテルに消え、決定的瞬間が訪れると告げている。だが彼女の思考、いや、願望はそれを必死に否定しようとしていた。

 相反する2つの思いを抱いたまま、それでも物陰からデジカメを構えた。それは探偵としての、無意識の行動だったのかもしれない。

 

 そして、僅かな穂樽の希望を無惨に打ち砕くように、腕を組んだ2人はホテル街の中の建物の1つへと姿を消した。

 

 数度シャッターを切りつつ、レンズの映像を映す液晶が歪んでいる、と穂樽は働かない頭でそう思った。が、直後、それは自分の目が涙で溢れていたせいだと気づく。撮った画像を確認することなくデジカメの電源を落とし、バッグへと放り込み涙を拭った。踵を返し、俯いたまま重い足取りで歩みを進める。

 本来なら2人が出てくるところまでカメラに収めたほうがいい。しかし、今の穂樽にはこれ以上ここに留まることなど到底出来そうになかった。

 

「……先生」

 

 恩師の敬称を口にし、再び涙が流れる。心を失った、虚ろな人形のように、穂樽はおぼつかない足取りで車へと戻っていった。

 

 

 

 

 

 帰りの車内、穂樽は終始無言だった。代わりにチェーンスモークで火を消した傍から次の煙草に火を灯し、間を空けることなく延々煙草を蒸かし続けていた。煙が充満し続ける車内で本当なら口を挟みたいニャニャイーだったが、どこを見ているかもわからない、余りにも空虚な瞳を見てしまっては、何も言葉をかけられなかった。過去これほどまでに自分の主人がショックを受けた姿を見たことがあっただろうか。どうしていいかわからず、ただただバッグの中にうずくまることしか出来なかった。

 

 もっと酷かったのは事務所兼自宅に戻ってきてからだった。相当に落ち込んでいるのは目にも明らかだったため、ニャニャイーはこのまま穂樽がベッドに突っ伏して寝て忘れようとするものだと思っていた。

 しかし、それは全く違った。

 部屋に入ってソファにバッグを放り投げ、穂樽も腰を下ろした後。車の中とは真逆、抑えていたらしい彼女の感情が爆発した。一瞬時間が空いて彼女の拳が机へと叩きつけられたのをきっかけに、それは始まった。

 

「なんでよ! なんで……! なんで先生があんな……! ふざけんじゃないわよ!」

 

 ここまで抑えてきた分の反動か、再度拳を叩きつける。ついさっきまでとまったく違う態度に、ニャニャイーはただ狼狽えることしか出来なかった。

 

「私は懸命に我慢してたのに……! 先生と不倫紛いの恋なんていけないことだと思って、ずっとずっと堪えてきたのに! なのにあんな女と……! クソッ!」

 

 三度机を殴りつけ、不意に穂樽が立ち上がる。向かった先は台所の収納棚だった。扉を開け、中にあったウイスキーを手に取る。瞬間、何をするのかを悟った使い魔は毛を逆立たせて主人へと駆け寄った。

 

「穂樽様! ダメニャ!」

 

 足元に飛びついた使い魔の制止を無視し、蓋を開けたビンに直接口をつけて液体を一気に流し込む。高度数のアルコールが喉と食道を焼くが強引に飲み続け、しばらくして耐え切れずにむせて咳き込んだ。

 

「そんニャ強いの一気に飲んだら体壊すニャ! 死んじゃうニャ! やめてニャ!」

「うるさい! 私なんてどうなったっていいわよ! 好きだった人のあんな姿見せられて……どうしろって言うのよ!」

 

 止めようとするニャニャイーを手で払い飛ばし、ヒステリックな声を上げてなおもウイスキーを呷る。だが少し飲んだところでやはり咳き込み、嗚咽と共に彼女は力なく膝から崩れ落ちた。それは、普段のクールな様子からは全く想像出来ない姿だった。

 

「私は……私は本当に先生のことが好きだった……! 尊敬してたし、憧れてた……! 妻がいる相手に恋するなんていけないことだとわかっていても、それでも思いを止められなかった……。懸命にこの胸だけに押しとどめて、いつかこんなことやめようやめようと思って仕事に身を置いて忘れようとして……。なのになんで! なんでよ……!」

 

 顔を床に突っ伏す。そのまま穂樽は床に拳を叩きつけつつ、声を上げて泣いた。

 

「先生は……先生は私にとって理想の男性だった……。格好良くて、いつも優しくて、堂々としていて……。なのに不倫してあんな女と……! あんまりだわ! こんなの、あんまりよ……!」

 

 子供のように泣きじゃくり始めた穂樽の手元から、そっとニャニャイーがウイスキーを取り上げる。精神状態も不安だが、それ以上に急性アルコール中毒なんてことになられたらもっと困る。声をかけたいが、今は気の済むまで泣かせた方がいいかもしれない。いや、むしろどう慰めの声をかけたらいいかもわからない。使い魔は特に何をするでもなく、ただ心配そうに穂樽を見つめることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

「ん……」

 

 穂樽が意識を戻した時は、もう夜は明けていた。普段と違う背中の感触からソファで横になっていたと感じる。同時に耐え難い頭痛にみまわれ、思わず眉をしかめつつ体を起こした。

 

「……っつ。そうか、私確か……」

 

 帰ってきた後、喚き散らしてウイスキーを自棄気味に呷り、床に突っ伏して泣いていたところまでははっきり覚えている。しばらくそうしつつニャニャイーに無理矢理水を飲まされていたが、ようやく少し落ち着いた頃。今度は入れ替わるように急激な吐き気が襲ってきてトイレに駆け込んで篭っていた気がする。

 戻ってきた時には机にコップに入った水と胃薬が用意されており、それを飲んで横になったところまでは、目の前にある空のコップと胃薬の錠剤の入ったビンからかろうじて思い出せた。それと合わせ、その時は何も被らずに横になったはずなのに、今は薄手の毛布がかけられている。水と薬と合わせて、ニャニャイーが気を利かせてくれたのだろうと予想するのは容易だった。

 その使い魔は机の上で丸まって寝息を立てていた。礼を言いたかったが起こすのも悪い。時計を見ればまだ朝早い。とりあえず頭痛をなんとかしようと、熱いシャワーでリフレッシュすることにした。

 

 不思議と、昨日ほどの激情は沸いてこなかった。シャワーを浴びながら泣くという絵の方が、涙をシャワーが誤魔化してくれるようで女子としては似合うのかもしれなかったなどとふと思う。しかしそんなことを考えるだけの心の余裕が出来たからか、出てくるのは乾いた自嘲的な笑いだけだった。

 

 あれが現実なのだ。真実なのだ。その目で確かめた以上、疑う余地はない。嘘だと思っても、証拠のための画像としてデジカメははっきりと捉えている。ならば、もう受け入れるしかない。自然と、そういう思いに至っていた。

 だが一方でその失意とはまた別。わきあがる感情を感じてもいた。頭痛に眉をしかめながらもシャワーの流れる足元を見つめつつ、ゆっくりとその感情を受け入れていく。熱いシャワーと裏腹、その心は生まれ出た思いと共に段々と冷えていくのを感じていた。

 

 しばらく浴びたシャワーを終えて体を拭いた後、下は下着を履いただけ、上はそれを隠すように丈が長めのシャツを着ただけで浴室を出る。どうやらシャワーの音で目が覚めたらしく、さっきまで寝ていたニャニャイーが机の上に座って主人の帰りを待っていた。

 

「穂樽様、おはようニャ」

「おはようニャニャイー。……昨日はごめん。そして、ありがとうね」

 

 心からの謝罪と感謝の気持ちをこめて穂樽は礼を述べる。それに対し、使い魔は謙遜した様子だった。

 

「使い魔として当然のことをしたまでニャ。……でもその格好はちょっとどうかと思うニャ」

「あら? 女子として男を誘惑するいい格好だと思わない?」

「……ただだらしニャいだけにしか見えニャいニャン」

 

 使い魔が軽口を叩いてくれるということは、傍から見て多少は昨日のダメージも収まったように見えるということだろう、と穂樽は考えた。しかし当然心の中の傷が完全に癒えたわけではない。それでも、昨日よりはかなりマシになったようには思えていた。

 それよりも、と僅かに眉を引きつらせて左手で頭を抑える。シャワーのおかげか二日酔いと思われる頭痛は大分引いたが、まだ痛みは残っている。吐き気がないだけまだマシと自分に言い聞かせ、机の上のグラスを右手に冷蔵庫へと向かう。

 

「ニャ? 頭痛いのニャ?」

「ええ。多分二日酔いね。昨日酒に逃げて無茶な飲み方したから。……しかも吐いちゃったし。まあシャワーで相当楽になったけど」

「頭痛薬用意するかニャ?」

「胃がボロボロの現状で、何も入れずに胃に来る頭痛薬飲むのは自殺行為よ。水飲んでしばらくしてれば収まると思うわ」

 

 冷蔵庫の中にあったミネラルウォーターをグラスに注ぎ一気に飲み干す。さらにもう1杯分注いでから、グラスを手にソファへと穂樽は戻った。煙草の箱に手をかけ、しかし中身を出すことをやめて水を一口呷る。

 

「やめたのかニャ? 珍しいニャ」

「二日酔いで煙草吸うと悪化するのよね……。昨日散々吸い過ぎたし、今日はちょっと我慢するわ。実のところまだメンソールで喉が麻痺気味だし」

「これからもずっとそうするといいニャ」

「それは出来ない相談ね」

 

 さらに水を呷ってグラスの半分ぐらいまで飲み、穂樽は大きくため息を吐き出した。それを見て、ニャニャイーは今度は少し不安そうな表情を浮かべて尋ねてきた。

 

「……心の方は落ち着いたかニャ?」

 

 本当はずっとそれを聞きたかったのだろう。また余計な気を使わせてしまったと思い、極力暗い雰囲気にならないように、しかしどこか自虐的に穂樽は答える。

 

「さすがに完全に、は無理ね。でも昨日よりかなりいいわ。……認めたくないけどあれが現実、真実なんだから。とにかく仕事はこなさないと。私は昨日のことをまとめて、依頼人に報告する義務がある。ま、それはほぼ証拠が揃ったといってもいいから、あとはまとめるだけで済むことでもありそうだけどね」

 

 強がっている、とニャニャイーにはわかった。思わず「穂樽様……」と心配そうに声をかけたが、彼女は軽く笑って心配ない、という意思を伝える。だが直後、その顔が引き締め直された。

 

「でもね、それ以上に……」

 

 残っていた水を全て飲み干し、グラスを机に置く。その目は鋭く、何かを秘めていたように見えた。

 

「私自身が、この件に、自分の心にケリをつけなくちゃいけない。人は自分の意思と関係なく変わらなくちゃいけないときが来るのだとしたら……。私にとって、きっとそれは今なのよ」

 

 穂樽はバッグから携帯を取り出す。だがそれは使用機会の多い仕事用の携帯ではなく、プライベート用の方だった。

 一度深呼吸し、操作を始める。そして呼び出し音が終わると、努めて明るい声で彼女は切り出した。

 

「もしもし? 朝早くにすみません、今お時間大丈夫ですか? ……あ、ありがとうございます。……はい、穂樽です。どうもお久しぶりです、先生(・・)

 

 




穂樽が妻のいる大学教授に片思いをしていることが公式設定、ということは前話の後書きで述べましたが、公式に存在する設定はそこまでのはずです。
ですので、その人物が不倫しているということは勝手にくっつけた設定です。なお、名前や性格も明らかになってないのでオリジナルです。

ちなみに監督のブログに書かれていることですが、当初の梅津監督の構想では、穂樽は妻のいる大学教授と泥沼の不倫の恋にはまっている、という設定だったらしいです。が、スタッフ一同の猛反対を受けて、片思いという設定に直したんだとか。


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Episode 3-3

 

 

 翌日、穂樽は2日前にも訪れた駅にいた。だが目的はその時のような張り込みではない。

 今の彼女の格好は持ち得る服の中で見た目を重視して選んで着飾り、バッグも普段使っているものから比べればかなり小さいハンドバッグ。彼女としてはファッション性をかなり考慮した格好だった。ただ眼鏡だけは以前使っていたコンタクトを破棄していたせいで代用が効かず、ぼやけた視界でいるのもストレスになるためそのままだった。

 

「ごめんよ穂樽。もしかして待たせた?」

 

 と、その時聞こえてきた声に、一瞬体を強張らせる。かつてよく聞いた、だが耳に残る優しげで心安らぐようないい声に、穂樽は笑顔と共に顔を向け、明るい声を返した。

 

「いえ。私も今来たところです、先生」

 

 その笑顔の先。ダンディといえる顔立ちに、相手の心を落ち着かせるような微笑を浮かべて立つ1人の男性がいた。穂樽にとってかつての恩師。同時に彼女が片思いを抱きつつも、先日平山朝子との密会の場を目撃した、水元朋幸その人だった。

 

「びっくりしたよ、急に食事に行かないか、なんて電話かけてくるんだから。……なんだ、眼鏡かけるようになったのか?」

「ちょっと視力落ちちゃいまして……。ああ、立ち話もなんですから、お店に行きながら、あと食べながら話しませんか?」

 

 穂樽の提案に水元は肩をすくめて答える。

 

「そういう無駄を省くところ、変わってないな。……まあいい。君の意見を採用しよう。お店はすぐ近くだ、早速行こう」

 

 水元が顔を逸らして進行方向へと向けたところで、一瞬穂樽の表情から色が消えた。だが軽く頭を振るとすぐにそれまで通りの明るい表情に戻り、先を進む恩師の隣へと足を進める。

 

「それでその眼鏡だ。視力が落ちたって?」

「はい。本当はコンタクトにしようと思ったんですけどやめたんです。目に直接入れるのが怖いのか、なかなかうまくいかなくて……」

「ほほう。なんでもそつなくこなす君らしくもないな」

 

 穂樽ははにかんだような笑顔を浮かべ、眼鏡の角度を直しつつ尋ねる。

 

「似合いませんかね……?」

「そんなことはないぞ。知的な女性、という君の雰囲気にバッチリだ」

「相変わらず口がお上手ですね、先生」

「ははっ! 俺は世辞のつもりはなかったがな」

 

 笑う水元につられるように笑顔をこぼす。どう見てもあくまでかつての教授と教え子との他愛も無い会話。先日見せた穂樽の荒れ様は、まるで嘘のような雰囲気だった。

 

 予約したという店は駅からさほど離れていなかった。同時に比較的リーズナブルな店のようであった。とはいえ、店内にはやはりそれなりの雰囲気が漂っている。こういう場に慣れていないかつての同期を連れてきたらおそらく固まることだろう。だが何度か経験のある穂樽はそうはならず、慣れた様子で案内されたテーブルへと腰掛けた。

 料理は前もってコースで予約時に決めていたらしい。ワインが注がれたグラスを手に、水元が穂樽へと微笑みかける。

 

「じゃあ、久しぶりの再会を祝して。乾杯」

 

 軽くグラスを合わせ、ワインを一口。煙草を吸うようになって味覚は少々鈍くなったが、それでも味が全くわからないわけではない。とはいえ、生憎ワインの良し悪しを細かくわかるほど上品な舌は持ち合わせていない。まあおいしいか、という月並みな感想しか出てこなかった。

 

「ふむ……。意外といけるな、このワイン」

「そうなんですか? 私にはよくわかりません」

 

 ワイングラスの中身を改めて見つめる。今の言葉通りわからない、という風に彼女はグラスを回した後で、もう一口ワインを口へと運んだ。

 

「まあ色々嗜むといい。ワインだけでなく、な。なかなか面白いぞ」

 

 そう言って水元もワインを呷り、グラスを空ける。ウェイターに目で合図をし、追加のワインを注がせた。

 

「さて、それはそうと。俺を急に食事に誘うなんてどうしたんだ?」

「いえ。一昨日の夜、たまたまこの辺りに用があったんですが、偶然先生を見かけまして」

 

 その言葉に、水元は目に見えて動揺した。新たに注いでもらったワインに口をつけようとしたがその手が一瞬止まり、表情も強張っているようだった。

 

「……一昨日の夜?」

「はい。教え子と思われる方と歩いているところを見かけたんですよ。それで先生はよく講義が終わった後に、学生と食事会とか行っていたなと思い出したんです。そうしたら急に懐かしさを感じてしまって。以前は卒業後も先生のところに伺うことがあったのに、最近それもできなくなっていたし、折角なら昔を思い出しつつお食事でも出来たらなと思ったんです」

 

 フッと水元の緊張が解けたように見えた。次いで一口ワインを呷り、苦い表情で答える。

 

「……なんだ、見られちゃったのか。そう、彼女も君同様俺の教え子でね。今の君とのようにちょっと食事をしたんだよ」

「ああ、やっぱりそうでしたか。……でも大丈夫ですか? 奥様や知人の方に見つかったら、勘違いされるんじゃ?」

「今、君ともしていることじゃないか。教え子と食事するぐらい、別に問題でもないだろ? まあ確かに嫁さんに見つかったら、何か言われそうだけどさ」

 

 困り顔と共に水元がそう言ったところで、1品目の前菜が運ばれてきた。色鮮やかな料理を目で楽しんだ後で舌でも味わい、美味と感じつつ穂樽は話題を切り替える。

 

「そう言えば、先日公開されたあの映画見ました? 先生、映画お好きでしたよね?」

「お、やっぱり穂樽も見たのか。君も意外と映画好きだったものな。なかなか面白かったが、俺に言わせれば……」

 

 2人の話は他愛もない雑談へと移っていく。在学中、ゼミが終わった後に学食や近所のレストランで、他の生徒達と共に気兼ねなく話した頃のように。

 懐かしさを感じる。当時を思い出す。ずっと尊敬し、憧れ、慕ってきた存在。バタ法に務め始めてからも、しばらくは5時ピタで定時上がりをして講義に顔を出しに行っていた時期もある。そんな恩師との、久しぶりの食事だった。

 

 料理はなかなかに美味だった。たまには少々値の張る料理店に来ることはあるが、不規則な生活に加えてガサツになりつつあるために適当に食事を済ませることも多い。加えて煙草を吸うようになったために味覚が鈍くなったのもわかっているが、そこを差し引いても美味しい料理だった。

 水元は博識な人物だ。料理についての薀蓄(うんちく)も持ち合わせているし、その料理の名前の由来、材料についてなども詳しい。そういった話が随所に混じっているのを聞くと、やはり感心してしまうのだった。

 

 大学時代を彷彿とさせるような会話と共に進んだ食事は、気づけばコースの料理がほぼ出尽くすほどになっていた。メインの料理もほぼ食べ終え、あとはデザートが控えているばかりである。

 だがそのメインをまだ少し残した状態。そこで穂樽は食事の手を止め、不意に表情を強張らせて口を開いた。

 

「先生」

 

 これまで同様の話だろうと、大して怪しむ様子もなく「うん?」と水元は返す。

 

「実は……。私はひとつ、先生に重大な隠し事をしていたんです」

「どうした急に?」

「その隠し事をいつか告白したくて、でも出来ずにいて。それで先日先生を見かけた時に……言わなくちゃいけない、そう決心がついたんです」

「ははあ、それを言いたくて俺を食事に誘ったのか。なるほど、君にしては突然だと思っていたが、合点がいった。で、それはなんだ? 言ってみなさい」

 

 まだ教授の様子は普通だった。グラスのワインを一口呷る。それを机に戻したタイミングを見計らって、穂樽は切り出した。

 

「……私は、ずっと先生のことを慕っていました。いえ、そんな言葉では私の気持ちを言い表しきれません。……私は、先生に恋をしてしまっていたんです」

 

 完全に予想外だったのだろう。普段どこか余裕にあふれた雰囲気を漂わせている彼が、この時ばかりは目に見えて固まった。

 

「ですが、先生は家庭がおありの身です。そんな方に恋するなど、許されるはずがない。そうわかっていてもなお……私は自分の気持ちが止められませんでした」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。……穂樽、君にしては珍しいな。随分と面白いジョークだ」

「私の目が、嘘や冗談を言っているように見えますか……?」

 

 赤いメタルフレームの眼鏡のレンズ越しに2人の視線が交錯する。穂樽の瞳はどこか憂いを帯びており、冗談の類ではないということは水元は容易に察せた。

 しばらく見つめあった後で彼はその視線を逸らす。どう答えたらいいか、迷っているようだった。

 

「……こんなオジサンを好き、か」

「変ですか?」

 

 やや間を空け、「いや」と彼はそれをまず否定する。

 

「その気持ちは嬉しいよ。男は、年を取っても結局は男だからな。……だがさっき君が言ったとおり、俺には家庭がある。それに、教え子とのラブロマンスというのもなかなか興味深いものではあるが……。実際に、となると話は別だ」

「許される行為ではない、と?」

「余り感心出来た物ではないな。それでも君の気持ちはわかる気はする。……しかし、さっき君自身が言った『慕っていた』という感情じゃないか、とも思える。君はまだ若い。それ故一時の感情が……」

「先生」

 

 話を遮り、穂樽は僅かに身を乗り出した。憂いを帯びた表情がより色っぽく、照明によって艶やかに映し出される。

 

「私は……先生になら抱かれても構いません」

「ほ、穂樽! そういうことを口にするんじゃ……」

「これでも、私の気持ちは伝わりませんか……? これだけ言葉を重ねてもまだ足りないなら、あとは肌と唇を重ねるしかない……。私はそんな風に思うんです。……先生は、そうは思いませんか?」

 

 一度視線を逸らし、水元は無言を貫いた。しばらく彼を見つめていたが、答えがないとわかるとそれをノーというサインと感じ取り、穂樽も乗り出していた身を椅子へと沈め直す。

 

「……そうですか。きっと私がウドだから、ですね」

「いや、待ってくれ。それは違う。ウドだなんだは、今は関係ない」

「じゃあ教授と教え子との恋がいけないと」

「それもあるが、俺に家庭があることの方が大きい。それは君だってわかってくれるだろう?」

 

 頷く代わりに、穂樽はワイングラスの中身を口へと運ぶ。味などどうでもいい。間がほしかった。

 

「……もしも、先生が未婚だったなら、私と付き合ってくれましたか?」

「そうだな……。もしもの話で申し訳ないが、それはやぶさかではない」

「その時は……私は先生の子を産むことも許してもらえますか?」

「どういう意味だ? 愛する者同士なら……」

 

 そこで水元は言葉を一旦切った。まるで、何かに思い当たったかのように。

 

「仮に、私が先生との子を産めば、7割の確率でウドの子が誕生します。世間のウドに対する目は冷たい。場合によっては親にもそれは及ぶでしょう。……先生はそれを許可してくれるのか、と尋ねたいのです」

 

 目に見えてわかる、水元の狼狽。だが僅かに視線を宙に彷徨わせた後で、彼は落ち着きを取り戻したように切り出した。

 

「……もし俺と君が結婚していたら、の話だが、当然肯定だ。愛する者同士が互いに望んでの子なら、是非もないだろう」

「……そうですか」

 

 そう言うと、穂樽は天を仰いで大きく息を吐き出した。それで話が終わったと水元もわかったのだろう。少し緊張が解けたように話し出す。

 

「今さっきの君は、随分とらしくなかったな。自惚れかもしれんが、俺は慕われてぐらいはいるのかもしれないと思っていた。だが、そんな目で見られていたとは予想もしていなかったぞ」

「懸命に隠してました。家庭のある先生にこの気持ちを伝えれば、きっと困らせることになるだろうと思っていましたから」

「それを急に告白したのか? 以前の君ならそのまま胸に留めておいたと思ったのだが……。変わったな」

 

 水元はワインを一口呷る。穂樽はそれをどこか冷ややかに見つめ、相手に聞こえるかという声量で搾り出すように呟いた。

 

「変わるんですよ、人は。……時には、自分の意思と関係なく、強いられる形で」

 

 テーブルに目を落とせば、メインの料理がまだ少し残っていた。だがもう食べようと言う気にはならない。食事の時間は終わり、同時に、「穂樽夏菜」でいる時間も終える。

 

 これ以上、嘘で塗り固めた自分を演じ続ける必要はない。それまでの「穂樽夏菜」から本来の、偽りのない彼女へと凍りつかせていた心が戻っていく。

 次に視線を上げたとき、彼女の顔に先ほどまでの色を秘めた憂いの表情は全くなかった。代わりに獲物を狙う狩人のように、鋭い視線で向かいに座った相手を見つめる。

 

「先生。もう1つよろしいですか?」

「どうした? まだ何かあるか?」

「はい。先ほどのことに加えて、まだ隠していたことがあるんです」

 

 ため息をこぼし、ワイングラスを持ったまま水元は返す。

 

「なんだ、まだあったのか? この際だ、全部ぶちまけてみろ。その方が気が楽だろう?」

「では遠慮なく。……先日確かに私は先生と教え子と思われる女性をこの辺りで目撃しました。そして申し訳ありませんが、後をつけさせていただきました」

 

 ワインを飲もうとした、水元の手が完全に止まった。壊れた人形が音を立てて動いたかのように、ぎこちなく首が穂樽の方へと向く。

 

「お、おい……。ちょっと待て……」

「先生は教え子と言った女性と随分と仲良さそうに腕を組んだままラブホテルが立ち並ぶホテル街へと入って行き、そのままその中の1件へと消えていくのを、確かにこの目で目撃しました」

「ま、待て! 穂樽、頼むから待ってくれ!」

「いえ、待ちません。まさかその手の建物に入って何もなかった、ということはありえませんよね? 教え子との恋を感心せず、家庭がある身だと私に言ったにしては、随分と矛盾する行動に思えてなりません。理由をお聞かせ願えますか?」

 

 慌ててワイングラスを机に戻した目の前の男の顔は完全に青ざめていた。数年間憧れ続けて来たにしては、その顔は随分と頼りなく穂樽の目に映った。

 

「……穂樽、君も俺とのその関係を望むのか?」

「質問を繰り返しましょうか? 私は理由が聞きたいだけです。何故その教え子と関係を持ったのかという理由を」

 

 机に目を落とし、しばらく水元は考え込んだ様子だった。ややあって口を開く。

 

「……彼女も既婚者だ。そしてその夫は魔術使い。だが先ほど君が言ったとおり、片親が魔術使いなら子もそうなる確率は7割。彼女は我が子が魔術使いとして生まれてくることを怖れ、望まなかった。故に旦那と寝ることはほとんどなかったそうだ」

「そこで先生に相談した、と?」

「……そうだよ。彼女は君同様熱心に俺の講義を聞いていたし、在学中にも合コンで出会った優良会社の彼氏と将来結婚するかもしれないと言っていた。そんな過去があった上で受けた相談の時に彼女に迫られ……俺もつい、一度限りの過ちを犯してしまったんだ……」

「そうですか」

 

 穂樽は比較的相手の腹の内を読めると思っている。常に笑わないような、感情を押し殺し続ける相手の場合はそれは難しいが、そうでなければ出来ないことはない。そして平静さを保つことが困難な状況なら、なおさらそれは容易だった。

 よって、もうここから先の質問は必要ないと彼女は判断した。これ以上、かつて恋した男性の愚か過ぎる言葉を聞いていたくなかった。

 

「すみません」

 

 うな垂れる水元をよそに、穂樽がウェイターを呼ぶ。反射的に彼は顔を上げていた。

 

「なにかご用でしょうか?」

「灰皿って、いただけます?」

 

 ウェイターが眉をひそめ、それから丁寧に頭を下げる。

 

「申し訳ございません、お客様。当店は全席禁煙となっておりまして……」

「あら、そう。残念」

 

 言葉と裏腹、さほどそうでもなさそうに述べた後で、穂樽は手元のワイングラスの中身を全て空けた。その様子にウェイターが次の一杯を勧めようとする。が、彼女はそれを手で制した。

 

「穂樽……。煙草を吸うようになったのか?」

「はい。人は変わるものですから。それになにぶん、ストレスの多い仕事ですし」

「そうか……。弁魔士だったか。大変だな」

「いえ、弁魔士バッジはもう返しました。今は、少し違う切り口からウドの力になりたいと、こういう仕事をしています」

 

 ハンドバッグから財布を取り出し、そこから名刺を1枚、相手の手へとではなく、机へと差し出した。それを受け取り「探偵」という文字を目にした瞬間、水元の瞳が大きく見開かれた。

 同時に、彼は全てを悟った。先日自分を見かけたというのは偶然などではなく、意図的な必然だった。そして彼は、自分自身の口で探偵を相手に不倫の事実とその理由を自白してしまったのだと。

 さらに財布から1万円札を取り出し机に置くと、穂樽は無言で立ち上がった。まだデザートは残っている。が、そんな甘いものなどもう口に入れたい気分ではなかった。

 

「ま、待ってくれ穂樽!」

「申し訳ありません、これで失礼させていただきます。……これ以上、嘘を重ねる滑稽な先生を見ていたくありませんので」

「嘘だと?」

 

 冷ややかに穂樽は彼を見下ろした。「はい」と抑揚のない声で答える。

 

「一度の過ちのはずありませんよね? 朝子さんの旦那さんは、薄々不倫を勘付いていた、と言っていました。それにさっきの先生の言い分だと……彼女の在学中から肉体関係があったのでは、とも勘繰ってしまいます」

「ち、違う! それだけは断じて……!」

 

 その続きを水元は口に出来なかった。「人は変わる」、先ほど穂樽はそう言った。その言葉を裏付けるような、初めて見る彼女の微笑を彼は目撃したからだった。それは不気味に妖艶であり、嘲笑的であり、同時に強い侮蔑の色を含んでいた。

 

「今のは完全に墓穴ですよ、先生。さっき渡した名刺に書いてありましたよね? 私の肩書き、『探偵』って。……あいにく、弁魔士を経て探偵とかやっていると、人と接する機会が多いせいか、意外と腹の内……嘘を見抜けるものなんですよ。特に、平常心を失っている状態の人ならなおさら、です。……今のその先生の慌てようから、嘘だということは容易にわかります。もっとも、私の本業に則って裏を取れば、数日もあればはっきりするかと思いますけど」

 

 死の宣告とも取れるその言葉に、相手は愕然とした表情を浮かべるしかなかった。しかし、ややあってそこに怒りの色が滲んで来る。

 

「お前は……。お前は俺を陥れるために、今日誘ったのか? さっきのも、全部演技か!?」

「ええ、そうです。ただ、演技か、という問いに対しては9割はそうだ、と答えましょう。さらに付け加えるなら私自身の心にけじめをつけたかった、それが全てです」

 

 はっきりと、穂樽は言い切った。ギリッと歯を鳴らし、水元は怨嗟を込めた視線を向ける。

 

「この……悪女が……!」

「悪女? それはあなたの不倫相手におっしゃってください。私に向けるのでしたら『魔女』とでも言うべきでしょう」

 

 今述べた、ファンタジー上の存在よろしく、クックックと含むような笑いをこぼす。その口は、次に「何と言っても、魔術使いの女ですからね」と自嘲的に付け加えた。

 

「その『魔女』である私よりも、大学時代からマークし続けた男と結婚、その裏であなたと寝ていた女の方が、私なんかよりよほど性悪で悪女に思えてなりません。そして、そのことを知っていて、さらには自身の家庭があるにも関わらず関係を続けていた、あなたもあなただと、私は酷く幻滅しました」

 

 その穂樽の反論に、もう水元は何も返せなかった。(こうべ)を垂れ肩を落としたその姿は、彼女がかつて恋した男性からは遠く離れていた。

 

「……先生、今日はありがとうございました。確かに謀っての誘いだったのは事実です。けれど、久しぶりに話せて楽しかった、これは本心です。そして、さっき9割と言った残りの1割の部分……。あなたに恋をしてしまったと言った、私の言葉も嘘ではありません。言われたような一時の感情だったというつもりもありません。いけないとわかりつつも、数年間もずっとこの胸の中に押し留め、思い続けていましたから。

 でも同時に……私の抱いていたあなたに対する恋は、幻想だったと知りました。私はあなたを通して自分の中で理想の姿に近づけようと勝手に美化をさせ、それに恋をしていただけだったのかもしれません。けれども、それに気づくことが出来ました」

 

 水元は顔を上げない。その彼を見つめる冷ややかな視線は変わらないながらも、穂樽は僅かに頭を下げた。

 

「……さようなら、水元先生。もう、2度会うことはないでしょう」

 

 その言葉を最後に、席を離れる。それを止める声はもう背後からかからず、彼女は悠然と店を後にした。

 

 

 

 

 

 数日後、依頼主である平山が訪れた。穂樽はまとめた報告書を彼へと手渡し、さらに不倫相手本人の口から出た決定的証拠として、レコーダーを用意していた。これは彼女が水元と食事した際、ハンドバッグに忍ばせ一部始終を録音していたものだった。

 平山は不倫の事実に落胆すると同時に、不倫相手が穂樽と接点があったことに大いに驚いた。「不倫相手の方が彼女を幸せにしてくれるなら離婚しても構わない」と言っていた平山だが、相手が家庭持ちと知ると悩んだ様子だった。

 それでも、「彼女と相談して、それから決める。場合によっては子供を諦める」と、あくまで当初と似たような、相手重視の主張を繰り返すだけだった。穂樽は「それは優しさではなく、相手を甘やかしているだけではないか」と諭し、もう少し肩を入れようとした。しかし、頑なそうな姿勢は変わりそうにない。結局諦め気味に「何かあったらバタフライ法律事務所の弁魔士を紹介できるから、困ったら連絡を入れてほしい」と伝えるのが精一杯だった。それでも、平山は丁寧に礼を述べ、そして去っていった。

 

 平山が帰った後、穂樽は部屋で煙草を蒸かしていた。しかしどうにも気持ちがまとまらない。依頼人は遅出とはいえ出社前に来たために朝早めだったのだが、時計を見てシュガーローズのオープン時間は過ぎていることを確認する。この依頼を受けてからしばらくの間、どうも行こうという気分になれず1階に顔を出していない。マスターである浅賀(あさか)に全てを見抜かれ、心が乱れそうで怖かったのだ。

 だがその依頼もようやく終えた。もう弱みがこぼれてもかまわない。コーヒーでも飲んで、場合によっては彼に話を聞いてもらって、これまでの気持ちを晴らそうと1階へと降りて行った。

 

 案の定、オープン直後で客は誰もいなかった。マスターの浅賀と挨拶を交わしてブレンドを注文し、指定席の1番奥の椅子へと座る。

 

「浮かないね?」

 

 席について水が出てくると同時、付き合いの長い浅賀は、一目で穂樽の様子に気づいたらしい。「ええ、まあ」と適当に相槌を返した彼女の前に灰皿が出される。

 

「吸っていいよ。お客さんいないし」

「……すみません。ありがとうございます」

「代わり、と言っちゃなんだけど……。もしよかったら何があったか聞かせてもらってもいいかな? ……穂樽ちゃんがそこまで沈んでるの、おそらく初めて見ると思うからさ」

 

 煙草の箱とライターを机に置きつつ、意図せず穂樽はため息をこぼしていた。

 

「そんなに沈んで見えます? これでもクライアントの依頼完了して顔合わせ終わった後なんですけど」

「僕はなんだかんだ穂樽ちゃんとの付き合い結構長いからね。上辺は懸命に強がってるみたいだけど、その下の心を必死に隠そうとしてるように見えるよ。……ここ数日、うちに来るのも避けてたみたいに思えたし」

 

 図星だ、と彼女は苦笑を浮かべた。やはり浅賀には全てを見抜かれていた。しばらく意図的に避けていて正解だったとさえ思える。今日で平山の一件は一応の終わりを迎えたわけだが、依頼を完了するまでの間は心を出来るだけ凍りつかせていたかった。

 

「やっぱり浅賀さんには敵いませんね。全部お見通しですか。……ええ、おっしゃるとおりです」

 

 煙草に火を灯し、一旦煙を吸って吐き出す。それから穂樽はかつての自分の恋と、今回の依頼である浮気調査の対象の不倫相手がその人物だったこと、そして最終的に決別したことを全て告白した。

 不思議と恥ずかしさはなかった。元々いつか浅賀には話す日が来るかもしれない。そんな予感もあった。年上趣味なせいもあるのかもしれないが、穂樽は彼に対して親近感を抱いていたし、信頼もしていた。そして、ある種水元に対して抱いていた感情と同じく、慕っている思いもあった。

 

「……結局私の抱いていた恋は幻想でした。彼は私が思っていたような男性からはかけ離れていた。……でもそう思うと同時、もしあの女じゃなくてあそこにいたのが私だったら、と思ってしまう心もあるんです。浅ましい女だと自分でも思います。そこまでわかっていてもなお、彼に抱いてもらえたとしたら、そのひと時だけは心からの幸せを得られたんじゃないかっても思ってしまうんです。

 私の思いは片思いで叶うことはなかった。『見てるだけでよかった』なんて表面上で言い繕いつつも、その実ただの一度もこの心が満たされたことはなかった。……せめて一度だけでも、夢を見たかったという心を、どうしても消し切れないんです」

 

 もしかしたら浅賀に軽蔑されるかもしれない。煙を燻らせながらそうも思った。しかし自分の心の内を吐き出したかった。誰にも言えずに溜め込んでいた本当の気持ちをぶちまけ、少しでも楽になりたかったのは事実だった。

 

「……僕は、随分と穂樽ちゃんに信頼されてるんだね。その話を聞いての感想としては不適切だろうけど、少し嬉しいよ。そこまでを打ち明けられる存在だと思われてるんだな、って」

 

 コーヒーを煎れる手を止めず、浅賀はそう告げた。対して意外そうに穂樽は尋ねる。

 

「浅賀さんは、こんな私を軽蔑しないんですか?」

「するわけないじゃない。恋をする、体を求める。それは本来、子孫繁栄という動物の本能から派生して生まれたことだとも考えられる。そして、恋愛感情を抱けるのは人間だけの特権なんじゃないかな。だとするなら、穂樽ちゃんのその思いもまた、実に人間らしい反応だと、僕は思うよ」

 

 ああ、優しいというのは本来こういうことを言うのだろうと穂樽は思った。今現在自分が傷心にあり、そんな心の隙間を埋めたいという思いもあるだろうと、頭の冷静な部分は分析する。だがそう分析してなお、浅賀の言葉は甘美に響いた。

 年上趣味、といわれる自分の嗜好。そしてそんな年上の男性からかけられた優しい言葉。「浅ましい女」と自分を自嘲しつつも、湧き上がる思いを抑え切れなかった。こんな「悲劇のヒロイン」ぶってる自分に冷たい一言でも浴びせてもらえれば、頭が冷えて、普段の自分に戻れるかもしれない。そう思うと、煙草を揉み消しつつ、次の言葉を止められなかった。

 

「……浅賀さん。傷心の私のことをそこまで肯定してくれるのなら……。もし、私が慰めてほしいと願ったら、私を抱いてくれますか……?」

 

 今度は浅賀はコーヒーを煎れる手を止め、穂樽をまっすぐ見つめた。その視線は蔑みの色を含んでいるわけでもなければ、憐れみの色を含んでいるわけでもない。腹の内を読むのが得意なはずの穂樽でさえ、何を思っているのか全く読み解けなかった。

 その目を見て後悔が押し寄せる。「面白い冗談だね」と茶化されるか、「それはよくないよ」と叱責されるか。その辺りだろうという事前の予想に反し、どちらでもなかった。そして万が一にも、先ほど述べたことを了承するような目でもなかった。

 

「……ごめんよ。そうやって慰めることは出来ない。もう2度と会うことはできないけど、僕は今でも彼女を愛している。だから、その思いを裏切るようなことはしたくないんだ」

 

 それは、予想していたどんな言葉よりも穂樽の心に鋭く深く突き刺さった。同時に、「悲劇のヒロイン」を気取って、仮に探偵でありながらもそんな初歩的なことにすら気づけなかった自分を呪った。実に愚かな質問だった。「浅ましい女」、そう、まさしくその通りではないかという自己嫌悪に陥る。

 

「恋の傷にもっともよく効く特効薬は、苦いコーヒーである」

 

 そんな心を見透かしたかのように不意に聞こえた浅賀の声は、先ほどまでのような感情を読み取れない色からは遠かった。普段通りの、心落ち着く優しい声だった。

 

「……初耳です、それ。誰が言った言葉ですか?」

「僕さ。……はい、ブレンドお待たせ」

 

 平然と、しかし堂々と告げられたその言葉に思わず穂樽は吹き出し、声を上げて笑った。同時に、何かが吹っ切れた気がした。

 

「……あれ? そんな変なこと言った?」

「あ、浅賀さん……それいいですね! 今まで聞いてきた苦さを正当化する理由の中で、1番うまいですよ!」

 

 笑い続ける穂樽に対し、拍子抜けした表情の浅賀。少し困った様子でその先を続けた。

 

「そ、そうかな? ……でも、ちょっとは穂樽ちゃんも元気になってくれたみたいで安心したよ。あとは僕のコーヒーを飲んでもっと元気になってれると嬉しいな。治療魔術使いなのに、こうやって傷を癒してあげることしか出来なくて申し訳ないけどね」

 

 今回は事情が事情だっただけに、思った以上にセンチメンタルになっていたのかもしれない。笑いを抑え、さっきの自分は、あまりにらしくなかったなと、特効薬のコーヒーを口に含む。良薬は口に苦し。とはいえ、さすがにもう少し飲みやすくしようと、薔薇の模様の描かれたシュガーポットから砂糖を1杯だけ入れた。

 今日は少し苦めのコーヒー、だがそれでいい。これが今の自分にとっての特効薬。「浅ましい女」、あるいは「悲劇のヒロイン」を気取っている自分を、ウド探偵の穂樽夏菜へと戻してくれる薬なのだから。

 心の中で普段の自分を取り戻させてくれた浅賀に感謝しつつ、穂樽はまだ苦味の強いコーヒーを口へと運んだ。

 

 

 

 

 

インプロパー・リレーション (終)

 

 

 

 




インプロパー・リレーションはこれで完結です。
原作7話の「妻のいる大学教授に片思いをしている」という設定と、「人は自分の意思と関係なく変わらなくちゃいけないときが来る」という穂樽の台詞。ここから妄想を膨らませた結果、懸命に心を押し殺していた恋の相手がそもそも不倫をしてしまっていた、というありきたりな気もするアイデアに行き着きました。
さらに彼女が探偵となったためにそれを自身の目で目撃してしまい、最終的には相手と決別するという、ある意味で原作の設定の延長線上にあるような今回の話は、早い段階から構想を練っていました。

とはいえ、ちょっと穂樽が可哀想すぎるような描き方をしてしまったかもしれません……。


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Episode 4 スリーピング・ビューティ
Episode 4


Episode 4 スリーピング・ビューティ

 

 

 

 その日、穂樽夏菜(ほたるなつな)はかつての職場であるバタフライ法律事務所の同僚と街を歩いていた。時刻は夕暮れ時、普段滅多にない定時上がりをしてくれた隣の彼女は、どこか嬉しそうに穂樽と歩調を合わせていた。

 

「すみません。なんか無理言って定時に上がってもらったみたいで……」

「いえいえ。前々から食事行きましょうって話でしたし、私も楽しみですから。礼でしたら、配慮してくれたアゲハさんに」

 

 そう言って穂樽の隣を歩く抜田美都利(ばったみとり)は赤いセルフレームの眼鏡の角度を変えつつ僅かに微笑む。それを受け、同様に赤の、しかしメタルフレームの穂樽もまた笑顔を返していた。

 

 この2人の女子会とも言える食事の話が決まったのはついさっきのことであった。丁度依頼がなく、手が空いていた穂樽の元へバタ法からの外注が入ったのが数日前。どちらかというと弁魔士よりも自分の畑向きな証拠収集の内容であったため、穂樽はその依頼を受けて資料をまとめ、バタ法へと提出していた。それがほんの小一時間ほど前のこと。

 そのまま帰ろうとした穂樽だが、入り口付近で一度足を止め、受付嬢の抜田と軽く会話を交わしていた。基本的にここの電話はまず彼女が受け取るし、穂樽の現在の勤務事務所兼住居であるファイアフライ魔術探偵所への連絡も主に抜田経由となる。そのため不思議なことに、バタ法にいた頃よりも抜けた今の方が彼女と話す機会が増え、むしろ仲が良くなったという現象が起きていた。

 毎度話の締めは大抵「そのうち食事にでも行きましょう」で終えることが多い。他のバタ法の面々と共に何度か食事に行ったことはあるが、数はさほど多くない。さらに2人きりということは実はまだ実現していなかった。そこで2人の会話を耳にしたバタ法のボスであるアゲハが、抜田に今日は早く仕事を終えて穂樽と2人で食事に行ったらどうかと提案してきたのだった。その後定時で上がってくれた抜田と合流、今こうして2人で歩いているわけである。

 

 抜田はウドではない。しかし知識や情報処理能力は事務所内随一であり、「何でも屋受付嬢」「万能事務員」とも呼ばれていて信頼は厚い。加えて、まあ弁魔士と共に働くとなれば当然かもしれないが、彼女にはウドに対する偏見もなく、理解ある人物である。そのため、穂樽は今回のように外部委託分の書類をバタ法側に提出した後に知識豊富な抜田に意見を仰ぐこともあったし、相談に乗ってもらったこともあった。可能なら引き抜いて自分の事務所で受付と事務処理を頼みたいと思ってしまうことさえしばしばあるほどだった。

 

「それで、今日はどこに案内してくれるんです? 基本的に穂樽さんにお任せしますよ。私は明日休みなんで、多少は無理できますし」

「そうだなあ……。抜田さん、お酒は好きですか?」

「まあ嗜む程度なら。……と言いたいところなんですが、そんな語れるほど詳しくないし、実は強くもないんです」

 

 思わず、あら珍しい、と穂樽は心に浮かんだことをそのまま口にしていた。

 

「何でも屋受付嬢さんなら、文字通り何でも知ってると思ってました」

「わからないことなんて沢山ありますよ。自分でもそこそこ雑学を仕入れてる方だとも思いますけど、それでも限られた範囲内ですから」

「お酒は詳しそうだと思ったんだけどな……」

「安い市販のカクテルというかリキュールというかチューハイというか、まあその辺をたまに飲むぐらいです。そしてお酒に関しては今言った3つ、区別がつかないという程度です。ベースのお酒の種類とかも全然ですし」

 

 そうは言われても、穂樽も厳密にその3つを区別するのは出来ないかもしれないとも思うのだった。それ以前の問題として、市販のあれらのアルコール度数程度ではジュースと変わらないだろうとか思ってしまうのだが。

 

「じゃあその手のバーといいますか、そういう雰囲気のあるお店とかどうです? 値段はちょっと張っちゃいますけど」

「あ、いいですね。行ったことないし、1人じゃ入りにくいと思ってたんでエスコートしてくださいよ」

「エスコート……っていうのは違うんじゃ……。それじゃそういうことで……」

 

 そこまで穂樽が言った、その時。

 

「そこのおふたりさん、なんなら俺達がエスコートしてあげようか?」

 

 話を遮るように、不意に背後から聞こえた声に2人は振り返る。見れば、声をかけてきたのはお世辞にも雰囲気が良さそうとはいえない、酒を飲める年齢かどうかも怪しい男が3人。

 反射的に抜田が怯えたように一歩間を空ける。それに気づいた穂樽は庇うようにその前に立ち、口を開いた。

 

「私みたいな地味なおばさん口説いても何もならないでしょ? もっと若い子にでも声をかけたら?」

「またまた。大人のお姉さんは俺は好きだぜ? しかも知的な雰囲気もいい感じだし。どうだい、一緒に酒でも……」

「ふうん、嬉しいこと言ってくれるわね。……でもごめんなさい、今夜は彼女と2人で、って決めてるの」

 

 冷ややかにノーのサインを出す穂樽だが、相手はなおも食い下がる。

 

「そんなつれないこと言うなって。女同士2人でなんて寂しいだろ?」

「言ったはずよ、今夜は彼女と2人でって決めてるって。しつこい男は嫌われるわよ」

「いいねえ、気の強い女も好みだよ。ますますご一緒したくなっちまった」

「あら、そう。でも生憎あなた達と飲む酒はないって言ってるの。……そんなに女と飲みたいなら、家に帰ってママのミルクでも飲んでれば?」

 

 露骨な挑発にそれまでニヤニヤと笑顔を浮かべていた男の表情が固まった。

 

「なんだとこのアマ! 言わせておけば……」

 

 だがその言葉が最後まで男の口をついて出るより早く――。

 

「キャー! 不審者よー! 助けてー!」

 

 先ほどまでの固い声色と一転。金切り声を上げて穂樽は叫んだ。周囲の視線が集中し、それに目の前の男達が怯んだ瞬間を見て抜田の手を引っ張り駆け出す。

 

「あ、穂樽さん……!」

「とりあえず抜田さん、走って!」

 

 背後から罵声が飛んできたようにも感じたが、無視して2人は街中を走った。しばらく走っていくつか角を曲がったところで、相手がついてきていないことを確認して立ち止まって息を整える。

 

「ごめんなさい、急に走らせちゃって。……大丈夫でした?」

「え、ええ。でもどっちかっていうと……びっくりしました」

「ああ。あいつらね。まったくたちの悪い……」

「いえ、そうじゃなくて」

 

 肩で呼吸する抜田を穂樽が見つめる。

 

「相手を挑発してたと思ったら、穂樽さん急に叫び声上げて走り出すから。てっきり魔術で倒しちゃうんだと思ってました」

 

 抜田にしては、意外と過激な発言に思えてならない。反射的に穂樽から笑いがこぼれる。

 

「あれじゃ十条適用には弱いですから。あんなの相手に罰金なんて馬鹿らしいし、昔から逃げるが勝ち、って言いますんで」

「じゃあ煽らなくても、すぐ逃げちゃえばよかったじゃないですか?」

「それは……そうかもしれないけど。……あの手の輩は腹が立つから、つい」

 

 今度は抜田が笑う番だった。

 

「……笑わないでくださいよ」

「ごめんなさい。でも……さっきのまったく怯むことのなかった穂樽さん、かっこよかったですよ」

「そ、そう?」

「はい。……でもその後の『キャー』で台無しでしたけど」

 

 そして互いに顔を見合わせ、同時に2人とも吹き出して笑い合った。

 

「たまにやる手なんですけど、他の人には言わないでくださいね? あんな間抜けな声出したとか、今になって恥ずかしくなってきましたから」

「わかりました。今日のエスコートと引き換えに黙っておきます。……さて、じゃあそのエスコートということで、案内お願いします」

 

 さっきの話を黙っててもらうなら安いものだろう。そう穂樽は考え、微笑を浮かべて了解の意図を返した。彼女を先頭に今度こそ目的の店へと、2人は夕暮れの街を歩き出した。

 

 

 

 

 

「へえ、じゃあ来年度はとうとう新人が入るんですか」

「そうなんですよ。しかもアゲハさん曰く、結構すごい人らしくて。須藤(すどう)さんには敵わないけど、飛び級だったかで20歳で弁魔士になる方だとか」

「……あの子がおかしいだけで十分すごいですよ、それ。またアゲハさんはどこからかそういう逸材拾ってくるんだな……」

 

 穂樽曰く「雰囲気のあるバー」に到着した2人は、そこで夕食をとりつつアルコールを嗜み、他愛もない話を楽しんでいた。所謂「ダイニングバー」に位置づけされるこの店は、値段はそこそこ張るものの食事のメニューも充実しており、味も中々だった。現在食事としてメインにパスタ、それに合わせるように低アルコールで飲み口も軽いスパークリングワインが2人の座るカウンターに並んでいる。

 

「ということは、やっとセシルにも後輩が出来るわけですね。私が抜けてからもずっと新人入らなかったみたいだし」

「そうですね。……そのことについておそらく、ですけど。新人をとらなかったのは、須藤さんの年齢が関係してる気もしますよ。新たに入ってくる方が年上だったりすると、何かとやりにくそうな気もしますし」

「……確かに私やりにくかったわ」

 

 あまり口には出さないようにしてたが、穂樽は内心ではそのことは常々思っていた。決して落第の道を歩んでいたつもりはない。むしろ司法試験を一発でパスした以上、エリートに分類されてもおかしくないと、本来プライドの高い彼女は自負していた。

 だがいざ事務所に入所してみれば同期が5つ年下の最年少弁魔士。入所当初から鼻につく行動が多いにもかかわらず重要案件を任されるセシルに対し、自分は地味な案件ばかりだったと納得がいかなかった時期もあった。

 しかし次第にセシルの背負っているものの重み、華奢な体では耐え兼ねないほどの運命を知り、穂樽も態度を軟化させていった。年の差を越えて友情のような感覚も生まれた。同期とはいえ自分は年上なのだからと、お姉さん風を吹かせていたこともある。

 

 それでも、そんな同期は「100年に1人の逸材」と呼ばれるほどの魔術の才能の持ち主。史上最年少弁魔士という肩書きと合わせていくら規格外の存在であるとはいえ、何かと比較されるのは本来プライドの高い穂樽にとって苦痛な時もあったのは事実だった。「弁魔士と異なるアプローチでウドの力になりたい」、その動機は嘘ではない。「個人プレーが得意なために単独で動きやすい探偵と言う職業を選んだ」、それも本当のことだ。

 ではそれが全てか、と問われれば、否、と答えざるを得ない。意識の中からは懸命に消し去ったつもりでも、心のどこかで、彼女はセシルに対して嫉妬心を抱いていたことは否定できなかった。セシルは1日も早く弁魔士となって母親を助けるために青春を捨て多大な犠牲を払って、それこそ血の滲むような努力をしてきたことはわかっている。それでもなお、一度抱いてしまった感情を完全に拭い去ることは出来なかった。

 そして穂樽はその心を持ってしまった状態で、同じ職場で彼女に接することを怖れた。嫉妬の目で同期を見るようなことをしたくなかった。故にアゲハに相談し、単独で動きやすく、ウドに対して受け入れ間口が広く、そして嫉妬心を抱く原因になったともいえる、己の余計な自尊心の高さをへし折ってくれるような、探偵という泥臭い職業へと鞍替えしたという面もあったのだった。

 

「穂樽さんも、やりにくいと感じたことあったんですか?」

 

 だがそんな事情は全く知らないであろう抜田が意外そうに尋ねてくる。スパークリングワインを呷って、ジュースの延長線上だな、と感じつつ穂樽は答えた。

 

「今だから言えることですし、彼女には言わないでほしいことですけどね。……仮にも弁魔士といえばエリート。私もそれなりの自負はありました。それが17歳なんて若さでなった人間が同期にいて比較される、もっと言うと向こうが優遇されてると感じてしまうとなると……。時には苦痛を覚えてしまったことがあったのは事実ですよ。……しかもその相手が初日から遅刻かましてくれたりするようなのが第一印象だと、なおさらです」

「ああ……。じゃあひょっとするとアゲハさんは須藤さんが人間的にも成長するまで待った、と」

「それもあるかもしれませんね。……まああの子、それでもまだまだ子供っぽいし、ちょっと甘やかされ過ぎな雰囲気はあると思いますけど」

 

 食事用として注文していたパスタを食べ終え、スパークリングワインを空ける。食後の一服をしたかったが、隣の相手のことを考えると少し気が引けた。

 

「あ、穂樽さん。煙草吸われますよね? 私に構わずいいですよ」

 

 が、万能事務員はまるでそんな穂樽の心を見過ごしたかのように気を使ってくれた。さすがと感心しつつも、どこか申し訳なさを覚える。

 

「いえ、そこまで禁断症状出るわけでもないですし……」

「食後の一服は格別だって聞きましたよ。それに穂樽さんが喫煙してるところちゃんと見たことないから、見てみたいなという思いもありますし」

 

 変わってるなと思わず穂樽は苦笑を浮かべざるを得なかった。しかし折角の好意だ、ありがたく受け取ろうとバーテンダーに灰皿と、2杯目の酒としてウイスキーをロックで、それからつまみとしてナッツを注文する。

 

「ウイスキー……飲むんですか?」

 

 穂樽の注文に意外そうに抜田は尋ねた。

 

「うちにもとりあえず酔えればいいかってことで安物があるんですよ。とはいえ、生憎良し悪しが丁寧にわかるほど上品な舌は持ち合わせてないんですけどね。……このお店、アゲハさんに紹介してもらったんですが、その時にバーの飲み方というか、雰囲気の楽しみ方も少し教えてもらって。最初は弱いのから入って、2杯目以降は強めの酒だと悪酔いしにくいし雰囲気も楽しめるとかなんとか」

「そうなんですか? でも、アゲハさんはまたどうしてそんな細かいことまで?」

 

 そこでバーテンダーが食べ終えた料理の皿とグラスを下げ、灰皿を持って来てくれた。煙草を1本取り出して机にトントンと当てながら、穂樽は苦笑と共に答える。

 

「……探偵っていったら、バーと酒と煙草。昔からそう相場が決まってるから、バーでの飲む雰囲気だけは決まるようにしておけって言われましたよ」

 

 思わず抜田は小さく笑った。確かに探偵といえば殺人事件を解決するような、安楽椅子探偵(アームチェア・ディテクディブ)を含めた所謂「名探偵」を真っ先に思い浮かべる。だがそうでない場合、どこかのバーで1人酒を飲みながら煙草を蒸かしている、というイメージは確かにあるな、と思えたからだった。

 

「でも理由それだけですか?」

 

 煙草に火を灯し、抜田の方に煙がいかないよう心がけて吐き出してから、穂樽は返す。

 

「……まあ色んな店知っておけ、っては言われました。あと交渉の方法とか、コネとかもかな。アゲハさんは酸いも甘いも噛み分けてる方ですから。ほんと今まで知らなかったことをたくさん教えてもらいましたよ。それでこの稼業は、細かい様々な部分にまで精通しないといけないとも言われました。だからその分大変だろうけど、でも楽しさは感じられるんじゃないかって」

「へえ……」

 

 数年前まで型にはまったような、真面目を絵に描いたような存在と言ってもよかった穂樽からは想像出来なかったと抜田はそう声を漏らした。事実、目の前で煙草を吸う彼女は、その目で確認するまで昔の自分は信じなかっただろう。

 

「……あんまり見られると恥ずかしいんですが」

「いいじゃないですか。決まっててかっこいいですよ」

 

 素直に褒め言葉として受け取っておこうと、苦い表情を浮かべながらも穂樽は次の煙を吐いた。そこに注文していたウイスキーが差し出される。煙草を灰皿に置き、グラスに口をつける。液体を一口だけ呷って喉を焼く感覚と共に深みを感じた後、グラスを手にしたまま彼女は隣を向いた。

 

「……これ、決まってます?」

 

 小さく吹き出し、抜田は返す。

 

「決まってます。さっきよりも。やっぱりかっこいいですよ。でも雰囲気はばっちりですが、ウイスキーってかなり強いんじゃないですか? おいしいですか?」

「確かにうちにあるのなんかよりダンチにおいしいですけど、アルコールはかなり強いですね。これ、傍からの見た目はいいのかもしれないけど、ペース考えないと大変なことになりそう」

 

 実際自棄酒でその効果は身をもって知っているし、と心の中で付け加える。本来はこうやってゆっくり楽しむもの、特にロックなら「氷が溶けてきて風味が変わるのもまた楽しみのひとつだ」とか教えられたと思い出す。本当にかつてのボスはなんでも知ってるなと改めて思いつつもう一口を喉に通した後で、カラン、と氷がグラスに当たる音と共に机に置き、灰皿の煙草を再び蒸かした。

 

「ごちそうさまでした。……穂樽さん、よかったら2杯目、選んでくれません?」

 

 遅れて食事と最初のスパークリングワインを飲食し終えた抜田がそう頼んできた。数度目を瞬かせ少し困り顔を浮かべつつメニュー表を手に取る。

 

「そんな詳しくはないんだけどな……。どんなのがいいですか?」

「じゃあカクテルがいいです。お洒落なのお願いします」

 

 これまた無茶な要求を、と思いつつ煙草の煙を吐き出して灰皿に置き、穂樽はカクテル一覧を眺めた。市販されているようなメジャーどころの名前はわかるが、そうでないものは画像つきで名前を見ても味すら想像出来ないものが多い。お洒落なもの、というリクエストだが、とりあえず無難なところに落ち着こうかと思ったその時。

 

「……あれ?」

 

 ふと、穂樽はそのカクテル一覧の中のひとつに目を止めた。そして飲む当人に確認するでもなく「すみません」とバーテンダーを呼び、注文する。

 

「グラスホッパーを、彼女に」

 

 かしこまりました、と頭を下げバーテンダーはカクテルを作る準備を始める。その注文からの一連の穂樽の慣れた様子に思わず抜田は感心した声を上げて、傍らの元同僚をまじまじと見つめていた。

 

「さすが穂樽さん! 今の注文までの流れ、かっこよかったです!」

「そう?」

「それで、注文したカクテルはどういうものなんですか?」

 

 目を輝かせる事務員の前で、探偵は一度煙草を蒸かした後、両手を広げて肩をすくめて見せた。

 

「さあ?」

 

 予期していなかった答えに唖然と口を開ける抜田。心なしか、トレードマークの眼鏡もずり落ちているようにも思えた。

 

「さあ、って……。じゃあなんでそれを注文したんですか?」

「抜田さんだから」

「私だからってどういう……。あっ!」

 

 どうやらそれで察したらしい。穂樽は最後の煙を吐き出して煙草の火を消しつつ、その推察はおそらく当たっていると口を開いた。

 

「『グラスホッパー』は和訳すれば『バッタ』。だから、抜田さんに丁度いいんじゃないかって」

「確かにそうですね。……って、穂樽さん、名前だけで選んだんですか? もしなんかすごいのが出てきたらどうするんですか?」

「大丈夫でしょ。一覧に乗ってる画像だと、色綺麗なカクテルですし」

「それ説得力ないですよ……?」

 

 慌てる抜田をよそに、穂樽は少し氷の溶けたウイスキーを呷る。次いで、グラスを置きながら慣れた様子でバーテンダーに尋ねた。

 

「すみません、さっき頼んだグラスホッパーってカクテル、どういうものなんです?」

 

 おそらく2人の会話がずっと聞こえていたのだろう。カクテルを作ろうとしていたまだ若いバーテンダーは苦笑交じりに説明してくれた。

 

「ペパーミント・リキュールとホワイト・カカオ・リキュールと生クリームを全て同量でシェークするカクテルです。度数は少し高いですが、色鮮やかな見た目に加えて甘口で飲みやすく、女性にも人気がありますよ」

「……だ、そうです。ほら、大丈夫そうじゃないですか」

「ほら、じゃないですよ! ……さっき褒めたのが台無しになりそうです」

 

 思わずため息をこぼした抜田だったが、直後に聞こえてきたシェーカーの音にその目が奪われた様子だった。テレビなどでは見たことがあったのかもしれないが、生で見るのは初めてなのだろう。若い男性バーテンダーがシャカシャカと音を立てながらシェーカーを振ってカクテルを作る様子をじっと眺めていた。

 やがて彼女の前にコースターとその上に空のカクテルグラスが差し出された。そこに緑の美しいカクテルが注がれていく。

 

「お待たせしました。グラスホッパーになります」

 

 しばらく目の前のカクテルを見つめた後、なぜか抜田は飲んでいいのか許可を求めるように穂樽の方へと視線を移してきた。困り顔で穂樽が頷くと、恐る恐るそのカクテルグラスへと口をつけて一口だけ味わう。

 

「どうです?」

 

 まずいわけはないだろうとある程度高を括ってはいたが、穂樽も飲んだことのないカクテルだ。名前だけで進めてしまった責任はある。そのためどんな感想かは気になっていた。

 

「……歯磨き粉みたいな味、ですかね」

 

 が、その第一声に対し、穂樽も、そのカクテルを作ったバーテンダーも思わず渋い表情にならざるを得なかった。

 

「あ! ご、ごめんなさい! 折角作ってもらったのに。……えっと、チョコミントアイスのミントみたいな味、に訂正します」

「……それ訂正になってなくないですか?」

 

 チラリと穂樽はバーテンダーの方を仰ぐ。彼は変わらず苦笑を浮かべていたが、嫌悪感を表してはいないようだった。

 

「チョコミントアイス、と言われるお客様は多いですね。そのためにアルコール度数は高めですが、比較的飲み安いというお声はよく耳にします」

「確かに飲みやすいです。……でも調子に乗るとすぐ酔っちゃいそうですけど」

 

 そう言いつつも、抜田は自分の苗字と同じ名のカクテルを味わっているようだった。どうやら気に入ったらしい。

 

「なんか抜田さんがカクテル飲んでるのみたら、私も次はカクテル飲みたくなっちゃった」

「おいしいですよ。あ、じゃあ私のカクテル選んでくれたお礼に、今度は私が選びますよ」

「……それ、ただ選びたいだけじゃないんですか?」

 

 とはいえ、こういうバーに初めて来たことで抜田が嬉しそうなのは穂樽も感じていた。折角だし、どんなのを勧めてくれるのかも気になる。

 氷が溶けて薄まってはいたが、まだ度数が高く感じるウイスキーを穂樽は一気に呷る。グラスを空けたところで、抜田がどんなカクテルを選んでくれるのか、少し楽しみな気分になっていた。

 

 

 

 

 

 それからしばらく経った後。店から出てくる2人の影があった。が、片方は肩を借りた形になっており、相当に酔っていることが容易に想像できる。

 

「……ったく、弱いって自分で言ったのにあんなにぐびぐびとカクテル飲むから」

「ごめんらさい……。れも、おいしくれ、つい……」

「市販の低アルコールみたいなジュースじゃないんですよ? ペースとか自分の飲める量考えないと……」

「ふぁい……」

 

 まともに呂律も回らない抜田に肩を貸し、店から離れつつ穂樽は愚痴る。が、相手は怒られているはずなのになぜかだらしなく笑顔をこぼしている。そんな普段見かけないような表情に、完全に怒る気を削がれてしまっていた。

 そもそもこうなってしまった原因は今の会話にあったとおり、飲みやすいからと抜田がカクテルをジュース感覚で飲んでしまったことにある。しばらくバーでカクテルを飲みながら話に花を咲かせていた2人だったが、抜田は3杯目のカクテルを飲んでいる辺りから段々と雲行きが怪しくなっていた。結果、そこからさほど時間をおかず、3杯目を飲み終わった辺りで完全に酔い潰れてしまい、足取りもおぼつかないほどになってしまったのだった。

 早いところ通りまで出てタクシーを捕まえたい。相手がこの状態では公共交通機関を使うのも気が引けた。

 

「抜田さん、うちどこでしたっけ?」

 

 が、その問いに応答がない。見ればいつもしっかりしている万能事務員が、既に寝息を立てて完全に穂樽に体を預けていた。

 

「……仕方ない、このまま引き摺ってうちに連れて帰るか。明日休みって言ってたし。いいですよね?」

 

 返事がないのはわかっている。が、上辺だけでもと思って一応そうことわっておく。

 ここから穂樽の住居でもあるファイアフライ魔術探偵所まではさほどの距離ではない。タクシーに少し走ってもらえば着くことが出来る。夜だし交通量も少ないだろうと踏み、ひと気の多い通りを経て道路に面した道まで出てタクシーを捕まえるかと思った、その矢先。

 

「そこのお姉さん、困ってるみたいだね? ……あれ?」

 

 進行方向から聞こえた声に顔を上げた穂樽は、意図せず眉をしかめたことを自覚した。彼女の目の前に立っていたのはつい数時間前に絡まれて走って逃げた相手、つまり先ほどの男3人組だったのだ。

 

「あらら。1日に2回会うなんて奇遇だね、お姉さん。こりゃもう運命じゃない?」

 

 やけに「お姉さん」の部分に力が入っていたように感じた。先ほどは蔑称で呼んでおきながらこの態度、今度は連れが酔い潰れていて逃げられないと踏んで、再び下手(したて)から話に入って乗せてこようという寸法だろう。

 

「……これが運命なら、私は神を呪うわね」

「お、かっくいー。でも好意は受け取ったほうがいいんじゃない? 見たところお連れさん酔い潰れちゃってるみたいだけど、俺達が手伝ってあげようか? そうすればさっきの不審者発言も撤回してくれるし、考え直してくれるでしょ?」

 

 男達のニヤついた顔に、穂樽は僅かに焦りを覚えた。まず間違いなく下心がある連中だ。そんな相手に抜田を任せるなど論外。しかし走って逃げようにも今度は酔い潰れた女性1人を連れて、となればそれも困難だ。さらに人の多い通りから1本裏に入っているために大声を出しても果たして助けに来てくれる人がいるかどうか。酔っ払いの絡み合いと思われればそれまでだ。

 となれば、強行手段しかない。相手がウドがどうかはわからないが、自分と抜田を守るぐらいなら十分に可能であろう。しかし場合によっては魔禁法に抵触する可能性がある。こんなくだらないことで罰金は御免だと、穂樽は少しでもその可能性を低くするために、相手に気づかれないように抜田の腰に回していた左手を離して自分の背後へと回した。そのまま自分の体を壁にして見えないようにしつつ、肩から下げたバッグの中へと手を入れて漁り始める。

 

「ところであなた達、まさかずっと私達を待ってたわけじゃないでしょうね?」

「そこまで暇じゃなかったけどね。今日は遊んでくれる女の子が見つからなくてさ。で、ぶらぶらしてたらお姉さん達にまた会った、ってわけ」

「へえ、そう」

 

 どうでもいい話で時間を稼ぎつつ、穂樽はバッグの中にあった目的の物を左手で探し当てた。目で確認しなくても操作のわかるそれをいじり、再びバッグへと戻すと、今度はその左手を上着のポケット付近まで戻す。

 

「でも遠慮するわ。どうもあなた達、下心があるように思えてならないから」

「おいおい、そいつは酷いな。こっちは善意での申し出だぜ?」

「善意なんだったら、なおさら放っておいて頂戴。私は足取りもしっかりしてるから、彼女も連れて帰れる。あなた達の手は煩わせないわ。道を開けてもらえない?」

 

 しかしそう言っても男たちは動く気配はなかった。相変わらず笑みを顔に貼り付けたまま、穂樽を眺めている。

 

「そんなつっけんどんにしなくてもいいじゃねえか? なあ?」

 

 男達が一歩踏み出す。合わせて穂樽も一歩下がってから、視線に鋭さを増し、語調も強めて切り出した。

 

「それ以上近づかないで。警察呼ぶわよ?」

「どうやって? 大声でも上げる? でも酔っ払いの揉め事と思われれば誰も来ないと思うよ。電話するにしても、その前に俺達が電話取り上げちゃったら、どうする気?」

「……それ、場合によっておどしてるようにもとれるわよ? それに下心ありますって自白してるようなものだけど、いいの?」

 

 穂樽がもう一歩下がる。その様子にずっと話し相手をしていた真ん中の男が苛立ったように頭をガリガリと掻いた。隣の男が「めんどくせえ、ちょっと脅かして連れて行こうぜ」と呟いたのが聞こえる。

 

「……あーそうだな。もういいか。……なあ姉ちゃんよ。飲み足りないんだろ? そっちのお友達は俺達が担いでやるからもう1軒行こうぜ? ……俺達が手荒な真似する前によ?」

「今の、脅迫に当たるわよ?」

「ごちゃごちゃ言ってんじゃねえよ! 立場わかってんのか!?」

 

 痺れを切らせた脇の男が荒っぽい声を上げる。が、今の穂樽に焦りの色は無かった。むしろ逆。僅かに笑みさえ浮かべていた。

 

「……そう。これで魔禁法十条成立ね」

 

 勝ち誇ったように穂樽はポツリとそう呟き、右手で僅かに眼鏡を上げる。

 

「何を言って……」

 

 話しながら男達が近づこうとしたその時。穂樽の左手が何かを投げつけた。眼鏡に触れた右手の動きに気をとられていた相手は、反対側の左手が一瞬前に彼女の上着のポケットに入っていたことに気づかなかった。

 直後、穂樽が左手を前へとかざす。それに呼応するように投げつけた何か――砂の入ったプラスチックのフィルムケースから砂が飛び出し、視界を遮った。

 

「う、うわっ!? 何だ!?」

 

 辺りに立ち込めた砂埃が晴れた時。既に穂樽は右手の指の間に先ほど同様の砂入りの小型容器を2つ挟んでいた。そして有無を言わせない声が彼女の口をついて出る。

 

「今のは最終警告よ。それでも無視して乱暴しようというのなら、こちらも自衛させてもらうわ。私は放っておいてくれ、と言ったの。怪我したくないなら帰りなさい」

 

 一転、自分達では敵わないと男達は判断したらしい。一様に顔から血の気が引いている。

 

「この女、魔術使いかよ!」

「クソッ! ついてねえ!」

 

 脱兎の如く背を向けて逃げ出した男達の姿が見えなくなるまで戦闘態勢を取っていた穂樽だが、それが完全に消えると緊張感が解けたようにため息をこぼした。砂入り容器をしまいなおし、バッグの中で先ほど操作したもの――レコーダーの録音を止める。

 

 魔術の使用が許可されるのは魔禁法十条、すなわち「社会正義のため」と認められた場合のみだ。身を守るために使用した、と主張しても下手をすれば罰則を受ける可能性すらある。そのため、もし警察沙汰になったとしても「相手方の強硬な態度に対抗するため已む無く使用した」という事実を証明するため、普段から探偵として持ち歩いているレコーダーを利用して密かに録音していたのだ。とはいえ、自衛のための使用でもここまで手を回さないと自分が不利になりかねないというのは、やはりどうにも理不尽だとも感じずにはいられなかった。

 しかし相手もウドでなくて助かったと思っていたのは事実だった。ここで魔術大戦が行われてはあまりに派手すぎて、間違いなく騒ぎが拡大、警察が駆けつける自体になるだろう。そうなれば本気で魔術を使用しなければならないため、容器に入れた砂程度では話にならず、アスファルトをめくり上げて砂塵魔術を行使する必要も出る。だとすると録音した証拠があったとしてもどれほど自分に有利に運んでくれるかも怪しい。それでも自分と抜田の身を守りきる自信は十分にあったが、怪我をしてしまう可能性はやはり捨て切れなかった。

 

「……とかなんとか色々心配したってのに。まったく呑気に寝てくれてるものだわ、このお姫様は」

 

 そして今の一連の騒動の間中、全く気づかないとばかりに肩を貸した彼女は安らかに寝息を立てていた。となれば、思わず穂樽も小言をこぼしたくなるものだろう。果たして起きた時にこのことを説明したらどんなリアクションを見せてくれるのか。

 とはいえ、普段はしっかりした「何でも屋受付嬢」「万能事務員」などと呼ばれ、「出来る女」なイメージの強い抜田がこれだけ無防備な姿を晒しているのもまた珍しい。自分を信頼してくれているからかな、などと少し嬉しく思いつつ、眠り姫(スリーピング・ビューティ)を自分の城まで、今度こそ本当に「エスコート」するかと考えていた。

 

「でも私は王子様じゃなくて魔術使いだけど。……まあ眠り続けるなんて魔法はかけないから安心していいわよ、お姫様」

 

 聞こえるはずの無い相手に冗談交じりにそう告げ、穂樽は1人で小さく笑う。そして安らかに寝息を立て続ける彼女に肩を貸したまま、タクシーを求めて人の多い通りへと歩き出した。

 

 

 

 

スリーピング・ビューティ (終)

 




ずっと書きたいと思っていた抜田さん回。抜田さんにグラスホッパーを飲ませよう、というネタと「これで魔禁法十条成立ね(キリッ」をやりたいがために書いてしまった感は否めません……。結果中身ペラペラになってしまいました。
本当は魔術バトル書こうとも思ったんですが、本編中に書いたとおり火消しが大変すぎると思ったので威嚇止まりとなりました。次の話はもうプロットが決まってて戦闘しようがないので、その次の話辺りでは入れたいと思います。

なおタイトルの「スリーピング・ビューティ」ですが、そのまま眠り姫、あるいは眠れる森の美女から取りました。
一応補足すると、最後の穂樽のセリフはその辺を意識してのものになります。
とまあ、これだけ書いておいて、実は抜田さん物凄い酒豪でした、とか後からわかったらどうしよう……。


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Episode 5 クイーンズ・スキャンダル
Episode 5-1


Episode 5 クイーンズ・スキャンダル

 

 

 

 この事務所がこれほど煙たくなるのはここを開いてから初めてのことではないだろうか。自身も吐き出した煙を眼鏡のレンズ越しに眺めつつ、そんな風に所長である穂樽夏菜(ほたるなつな)はふと思った。応接用のテーブルについた状態で吸うなど珍しい。事務所の方ではせいぜい、冷やかしか嫌味を言って帰った客から清めるという名目で「塩を撒く」代わりに煙草を吸う程度であり、客が吸うことはあっても基本的に彼女が客を前に吸うことはない。それ以前に、通常は居住区に移動してからと決めていた。

 しかし今回は相手方からの勧めもあって蒸かしているわけである。が、その相手は相手で早くも1本目を吸い終わり、2本目に移ろうとしていた。そんな様子に思わず穂樽の顔に苦笑が浮ぶ。

 

「……なんだよ、何笑ってんだよ。そんなにあたしの顔がおかしいか?」

 

 チェーンスモークで2本目の煙草に自前のマッチで火を灯しつつ、穂樽の目の前にいる女性――江来利(えらり)クインは不機嫌そうにそう述べた。手に持ったマッチの火を振って消し、灰皿へと投げ込んでから2本目の煙草の煙を吐き出す。

 

「いえ、そういうわけじゃないんですが……」

「じゃあなんだよ? あんたも吸ってるんだ、ここで吸う事自体に文句はないだろ?」

「文句はありませんよ。ただ、そもそも私にも吸うように勧めてきたのはそっちです。それにもう奥に避難しましたが、うちの使い魔が大層文句を言ってから逃げていったので……」

 

 クインはウドでないが故に使い魔は見えない。それをいいことに、元々煙草に対して文句を言い続けていた穂樽の使い魔であるニャニャイーは、2人揃って煙草を吸うとわかると散々不満をぶちまけた後で居住区へと退避していた。それに対する同情もある。が、彼女が苦い表情なのはそれ以上の理由があった。

 

「……それで、話しやすいようにというそちらの勧めで私も今現在煙草を蒸かしてるわけですが。ぼちぼち本題に入ってもらってもいいですか?」

 

 穂樽にそう言われても、クインは視線を逸らしたまま煙を吐くだけで何も話そうとしなかった。

 

 クインがファイアフライ魔術探偵所を訪れたのはほんの少し前のことだった。珍しい来客だと思って何の用かという穂樽の問いに対し、「あたしが依頼に来ちゃ悪いのか?」と返され、初めて彼女は目の前の警部が依頼人だとわかったのだった。

 ところが、応接用のテーブル前にある椅子にどかっと座った後、絶対に吸うものだろうと灰皿を出した穂樽に「あんたも吸え、その方が話しやすい」と彼女は喫煙を勧めてきた。

 そう言うのなら、と穂樽は居住区から煙草とライターを持参し、入れ替わるように文句を垂れ流し続けるニャニャイーが居住区へと退避した。その後彼女も煙草を蒸かし始めたわけだが、クインは一向に話を始めようとしない。そうこうしている間に相手の煙草の1本目が終わったのだ、さすがに急かしたくなるというものである。

 

 いい加減話を進めたい。思わずため息をこぼし、そろそろ皮肉でもぶつけるかと穂樽は口を開いた。

 

「クイン警部、一応言っておきますけどうちは喫煙所じゃないんですよ?」

「わかってるよ」

「暇つぶしの談笑の場でもありません」

「それもわかってるっての!」

「味気ないコーヒーと煙草で雑談するぐらいなら下の喫茶店行った方が……」

「だから違うって言ってんだろ!」

 

 思わずクインは机を拳で叩く。が、直後に「……悪い」と、珍しく謝罪の言葉がついて出ていた。

 

「……ほんとどうしたんですか? 普段の警部らしくない」

「あ? あんたあたしを何だと思ってんだよ?」

「そりゃ思うところは色々ありますが……。とにかくうちに何か依頼したくていらしたんですよね?」

 

 少しでも話を進めようと直接尋ねる穂樽。が、返ってきたのは「……ああ、まあ」という曖昧な返事だけだった。もういいやと諦め、多少強引に話を進めることにする。

 

「では依頼ということで話を進めさせていただきますが、何を頼みたいんです?」

 

 やはりクインは返答を渋った。灰皿に灰を落とすも、何も返ってこない。再び穂樽からため息がこぼれる。

 

「警部、そりゃ私は『誰だかわからないけど恋人探してくれ』って無茶な依頼を運良く成功させたこともありますよ? でも魔術使いは漫画に出てくるような便利な何でも出来る超能力者じゃないんです。何考えるか当てるなんて出来ません。まあ元同僚のセクハラ女王なら予知魔術とかで当てられるかもしれませんけど。……とにかく、そろそろ依頼の中身をおっしゃってくれませんか?」

 

 穂樽の追求にとうとうクインは観念したように煙草を揉み消しつつ煙を吐き出した。次の煙草に移る前に、ボソッと呟くように述べる。

 

「……身辺調査だよ」

 

 その一言に思わず穂樽は固まった。危うく手元の煙草の灰を落としかけ、慌てて灰皿に手を伸ばす。

 

「……ちょっと待ってくださいよ。それって内部調査の特別な組織とか公安とかがやる仕事じゃないんですか? 私みたいな個人事務所の、しかもウドの探偵がやることじゃ……」

「違うっての! 何で警察内部の調査を魔術使いに頼むって話が出て来るんだよ!」

 

 身を乗り出しつつ興奮気味にそう言い終えると同時。クインの表情が僅かに曇り、身を椅子へと沈めなおす。

 

「……悪い。ウドを差別するつもりはなかった」

「ちょっと、ほんとにどうしたんですか? 警部のウド嫌いは知ってます。それに今のも謝るようなことでも……」

「かつてのパートナーが実はウドで、それを知らずにウドに対する一方的な偏見の文句を言い続けたとあったら、多少はあたしだって反省するさ……」

 

 聞いた瞬間に今はもう亡くなっている静夢(しずむ)のことだとわかった。だが彼の場合そもそも魔禁法六条の魔術使いの公職雇用禁止という事例に反している。それ以前に仕組まれた事態によってそうなっていたに過ぎない。

 ウドに偏見をもたれるのは悲しいが仕方のないことと穂樽は思っているし、それを直接不快な形でぶつけられなければ別にいいと思っている。よって、クインがウド嫌いであろうが、自分と普通に接してくれる分には全く気にしてはなかった。

 

「その、静夢さん関係の調査ですか?」

 

 話の流れから彼女はそう推測して尋ねる。が、クインは「ハァ!?」と間の抜けた声を上げるだけだった。

 

「なんでそうなるんだよ」

「だって今静夢さんの話をしてたから……」

「ぜんっぜん関係ない。あいつはいい奴でした。確かにあたしも死にかけたけど、あいつに悪いことしてたなと思ってるのも事実です。はいそれでその話はおしまい! 依頼の話とは無関係!」

 

 早口でまくし立てるようにそう言ってクインは3本目の煙草に火をつける。ようやく1本目を吸い終わった穂樽は困惑した様子で火を消しつつ、ずれた道をどうにか修正しようとしていた。

 

「……じゃあ静夢さん絡みじゃないと」

「そ。あと警察関係でもない。……あたしの個人的な頼み」

 

 そこでようやく何かが少し見えてきた。つまりクインが個人的に誰かの身辺調査を頼みたい、ということらしい。

 

「えーっと……。クイン『警部』じゃなくてクイン『さん』からの依頼と考えた方が自然ですか?」

「それでいいよ。重ねて言うけど警察云々は全く関係ない、あたし個人の頼みだ」

「もう最初からそう言ってくださいよ……。それで、どちらさんを、どうして調べてもらいたいんですか?」

 

 だがここで再び彼女の口が止まった。3本目の煙草を蒸かすだけで答えようとしない。ガリガリと頭を掻いて穂樽も2本目の煙草を咥えて火を灯した。

 

「……あんた、元バタ法だよな」

 

 煙を吐く頃になって短くクインはそう尋ねる。

 

「ええ、ご存知の通り。……どうしたんです、改めて?」

「同業のシャークナイトのことは、詳しいか?」

 

 シャークナイト法律事務所。かつて穂樽が所属していたバタフライ法律事務所の近くにあるライバル事務所だ。イケメン揃いで有名でもある。

 

「それは、当然多少なら……」

「……そこの細波(さざなみ)サンゴって奴、知ってる?」

 

 穂樽は記憶を探る。いくら同業のライバルで知ってるとはいえ、さっき言ったとおり「多少」だ。そのことを包み隠さず告白する。

 

「ボスの鮫岡生羽(さめおかきば)とアソシエイトの工白志吹(くじらしぶき)はなんとなく思い出せますが……。他の方はあまり……」

「なんだよ……そこに期待してたのに」

 

 煙と一緒に文句まで吐かれる。思わずムッとして穂樽は返した。

 

「それは失礼しましたね。で、その細波という人間の身辺調査をしてもらいたいと?」

「まあ……そういうこと」

 

 が、今度は一転してどこかばつが悪そうにクインはそう答える。

 

「でも身辺調査程度なら、クインさんの立場利用していくらでもできるんじゃないですか? 以前はあの事務所に踏み込みもしたでしょう?」

 

 まだ穂樽が新人弁魔士だった頃、彼女の同期であるセシルを巡る事件でクインはシャークナイト法律事務所に踏み込んだという経緯がある。実のところその令状の中身自体が嘘八百であり、彼女は踊らされていただけだと後になって知ったのだが、その気になれば調査どころかその時同様に踏み込みすら可能だろう。

 そう思って尋ねた穂樽に、どこか呆れたようにクインは返答する。

 

「職権濫用って知ってるか? あるいは警察権力の私的使用でもいいが」

「要するにその彼は悪いことをしたわけでもない、と」

 

 それに対しても曖昧に「ああ……まあ……」という答えを受け、だんだんと穂樽のフラストレーションが溜まりつつあった。こんな回りくどいやりとりなどとっととやめて、細波の身辺調査であるならさっさと何故という理由まで効率よく話を進めたい。

 クインは既に3本目の煙草も吸い終えてしまっていた。次にいこうと箱に手を伸ばしかけたところで、穂樽がそれを取り上げる。

 

「おい何すんだよ、返せ。4は日本じゃゲンが悪い数字だろ。とっとと吸い終わって5本目いくんだ、返せよ」

「クインさん、煙草もゲン担ぎもいいですけど早いところ話進めてください。私はあなたと話すのは嫌いではありませんが、仮にもクライアントとしていらしてるなら、それ相応のものとして話を進めたいんです。ちゃんと話してくれるならお返しします」

「ふざけんなよ、とっ捕まえるぞ」

「それこそ職権濫用か、警察権力の私的使用じゃないですか」

 

 それを言われてはクインは何も言い返せない。恨めしそうに取り上げられた煙草の箱を見つめた後で「……わかったよ!」と観念の言葉を口にする。そして鞄の中を探し、穂樽の方へ何かカードのようなものを机の上の滑らせて渡してきた。

 

「……名刺?」

 

 そこには先ほどクインの口から出た「シャークナイト法律事務所」という事務所の名前と、「弁魔士・細波サンゴ」という名前が記されている。

 

「おい、煙草返せ。こんな話……吸いながらでもないと話す気が起こらねえ」

 

 それを口実に取り返したいだけとも思えたが、素直に穂樽は煙草を返すことにした。奪い返した主はそこから1本を咥えて火をつけ、煙を吐いてから話し始める。

 

「……そもそもは、数日前のことだ。ちょっと面倒な事件抱えててな。どうにかそれは解決したんだ。……ところが上からやり方が強引過ぎるだの、解決したからいいようなものの本来なら庇え切れないだのなんだの文句言われてよ」

「確かに……。警部強引な方法取ったりしますもんね」

「茶々入れんな! あたしよりあんたの前の職場のアゲハさんの方が相当だっての。それを引き継いだお前もお前だしよ。……いいや、話反れちまった。んで、上から言われるだけじゃなく、パートナーの警部補の奴からも色々ごちゃごちゃ言われてよ。ったくあの軟弱野郎め」

 

 もしかしたらこれは愚痴大会になるんじゃないかという嫌な予感が穂樽の脳裏をよぎる。が、それは嬉しいことに外れてくれた。そこまで文句を述べた後、彼女は煙草を味わいながら無事続きを話し始めてくれた。

 

「それで腹立ったから飲み屋行ってウサ晴らしに1人でひたすら飲んだんだよ。だけどちょっとばっかり飲み過ぎちまってな。正直なところその辺りの記憶から曖昧なんだが……。とりあえずタクシー呼んで帰ろうと思ってたんだ。ところが千鳥足だったせいで道で転んじまった。その時に……その、転んだあたしに手を伸ばして立ち上がるのを手伝ってくれたんだよ。その後も……いいって言ったんだが、肩貸してくれて……さらにはタクシー呼んでくれてよ……」

 

 途中からは常時奥歯に物の挟まったような話し方に、思わず突っ込みたい穂樽だったがグッと堪えた。しかも助けてくれたのが誰か、という主語がことごとく欠けている。さっきの流れから察するに細波が、なのだろうが、クインらしくなく照れてるのか恥ずかしがっているのか、なかなか話が進まない。

 

 早い話が、街中で酔い潰れて転んでしまったクインを見かけた細波が、彼女を手助けしての代わりにタクシーを呼び、住んでいるアパートまで送って連れて行ってくれたのだという。さらに許可を得て部屋まで上がり、介抱してそのまま去ろうとしたらしい。礼をしようにも酔いすぎていてまともに対応出来ない彼女はせめて名刺だけは置いていけと主張し、どうにか相手の存在だけは確認できた、ということだった。

 

「……男の人を部屋に上げさせたんですか?」

 

 話を聞き終わってまず穂樽の口をついて出た感想はそれだった。

 

「なんだよ、悪いかよ?」

「いえ……随分と無用心というか、なんというか……」

「あたしはアパートまででいい、って言った……はずなんだけどよ。まあその程度の記憶しかないぐらいに酔ってたんだ。だからか、あまりに泥酔状態でそれすら不安だってんで部屋まで送ってくれたみたいなんだよ。ああ、前もって警察手帳見せて『変なことしたらとっ捕まえる』っては言っておいた気もする。んで部屋上がった後水とか飲ませてもらった……と思うんだよなあ、どうにも曖昧なんだが」

 

 当人の記憶が不明確すぎる。弁魔士の過去を思い出すと、これは法廷でなら証人の発言としては信憑性に欠ける、という判断が下りそうだとも思った。

 

「それで、細波はクインさんに何をしたでもなく、さらには言われるまで名刺も出そうとせずにただ帰った、と」

「何もしてなくはねえよ。介抱してくれた、多分」

「いや、まあそうですけど。そっちの意味じゃなくて。……ああまずい、私もあの下ネタ女王の癖がうつったかもしれない」

 

 勝手に自己嫌悪に陥った穂樽を煙草を蒸かしながら見つめた後で、ようやくクインは彼女が言わんとしていたことに気づいたらしい。思わず「お前なあ!」と声を上げた。

 

「あ、あたしは一緒に朝まではいなかったぞ! それだけは断じて!」

「別に強調しなくてもいいですけど……。プライベートに口出すつもりはありませんよ。まあクインさんに魅力がなかっただけかもしれませんし」

「誰が何だって!? 確かにもうピチピチじゃねえかもしれねえけどな! あたしだってまだまだ若いっての!」

 

 自分で振った話題だが墓穴だったと、思わず穂樽は失笑した。手で落ち着くように指示し、相手をなだめる。

 

「クインさん、私が悪かったです。その話はやめましょう」

 

 この手の話題でヒートアップするのはよろしくない。なぜなら――。

 

「……二十代半ばを過ぎた独身の女2人、煙草を蒸かしながらの話題としては不毛過ぎてむなしくなります」

「う……ぐ……。確かに……。お前、意外とドライだな……」

「手痛い一発もらえば、こうもなりますよ。おかげで割と達観できるんです」

 

 代わりにもらった一発のおかげでしばらくはかなりの重症でしたけど、と内心で追加する。が、思い出さないほうがいいだろうとその記憶を封印し、「まあそれはいいとして」と話を続けた。

 

「その細波って人、随分と紳士的ですね」

 

 何気なくそう言った穂樽の最後の一言に、予想以上にクインが食いついた。

 

「だろ!? お前もそう思うだろ!?」

「え、ええ……」

「このご時勢に転んだ女性に手を伸ばして助けてくれただけじゃなく、家までタクシーで送ってくれて、しかもあたしが弁魔士にとっちゃ天敵にもなりうる警察、もっと言えば以前あの事務所にありもしないでっちあげで踏み込んだことがあったからあたしの顔をわかっていて、もしかしたらいい思いをしていなかったかもしれないにも関わらず丁寧に介抱してやましいこともせず帰って行ったんだよ!」

 

 これまた随分とテンションが上がっているように穂樽は感じた。熱くなる相手と対照的、冷ややかに口を開く。

 

「最後のは警察手帳の威力とクインさんの魅力という怪しい部分があるんで置いておくにしても……」

「置くな!」

 

 煙草を蒸かしつつ目を半分閉じて穂樽はジロリとクインを睨みつける。いちいち突っ込みご苦労様、と思うほど律儀過ぎる。

 

「……ともかく、なかなか丁寧な人だという印象は受けますね」

「しかもあたしが言わなきゃ名乗らず帰っていこうとしたんだぞ? ……慎ましいじゃねえか。そんな『快男児』みたいな、今時古きよき『サムライ』を思わせる振る舞いをしてくれる男がいたなんて、あたしは思わなかったよ」

「……例え合ってるんですか、それ」

 

 今日果たしてこんな呆れた気持ちになるのは何度目だろうか。相手の突っ込みに律儀と思いつつも、自分も結局突っ込んでると気づき、ため息と共に穂樽は煙を吐きつつ、煙草を揉み消す。

 

「じゃあなんですか。早い話が……クインさんはその時助けてもらった細波に惚れた、と」

「ほ……!」

 

 クインの顔が目に見えて赤くなった。そんな彼女の顔を目撃するのは穂樽にとって初めてだったために、思わずまじまじと見入ってしまった。

 

「惚れてなんかいねえよ! そんな目で見んじゃねえよ馬鹿野郎! あ、あたしはただ、あの時手を差し伸べてくれた相手がどんな奴か、それが気になってるだけなんだよ!」

 

 それを惚れてるというんでしょう、と突っ込みたかったが、グッと堪えることに成功した。同時に、今日のクインの様子がおかしかったことに対してようやく納得がいった。

 口でああ言おうが、腹の内を読める穂樽にとって、こんなの見抜く以前の問題としてまず間違いなくクインは細波に興味がある、もっと砕いて言えば惚れかけてるとわかった。だから妙に落ち着かない様子だったし、相談しやすく、かつシャークナイトに関係のありそうな自分のところに来た。さらには相手が弁魔士であるのだから、ウド嫌いでありながらもそのことであまり偏見を持たないように努めていた、というところだろう。

 

 クインはなおも煙草に火を点けている。これで何本目だと言いたい。だがそれより先に依頼の話を終わらせようと思った。

 

「……大体の話と経緯は把握しました。要するにシャークナイトの細波サンゴの身辺調査。クインさんの依頼はそれでいいですね?」

「そういうことだよ」

「わかりました。……最初からそう言ってくれればものの数分で終わる話だったのに」

「あ!? 何か言ったか? それよりやってくれるのかくれないのか、どっちなんだ?」

 

 こちらから急かした時はことごとく無視してくれたのに、自分のこととなると急かしてくる。全くこの人は、と諦めの色を滲ませつつ、穂樽は答えた。

 

「受けることは可能です」

「そうか! さすが穂樽……」

「ただし」

 

 食い気味にそう重ね、喜ぼうとするクインの言葉を遮る。

 

「いくつか了解していただきたい点はありますが」

「何だ?」

「まず、私は元バタ法です。相手側に顔が割れている可能性が高い。そこで身辺調査、となりますと、向こうから見れば知った顔が嗅ぎ回っていると気づかれやすい。さらには知らん顔をして接触するのも出来ないために方法がかなり制限されてしまう。そこは了承してください」

「つまり、存在を気づかれやすい、さらにはうまく調査出来ないかもしれないってことか?」

 

 頷き、「お恥ずかしながら」と形式上で穂樽はそう謝罪する。

 

「それは……。まあ困るには困るが、顔見知りのお前以外にこんな話したくねえし……。しょうがねえな」

「ありがとうございます。次に。……ちゃんと依頼成功したらお金で報酬払ってください。適当に情報回すから、とか言って踏み倒しは無しで」

「や、やるわけねえだろ! 思ってもいなかったっての!」

 

 今の態度から、本気ではないにせよ一度はそれで吹っかけてくるつもりだったか、と穂樽はクインの心を読み解いた。もっとも、本当にそれだけで押し通してくるとは思っていなかったが。

 

「最後に、今情報云々の話した直後で済みませんが、今後も良好な関係は続けたいですので、ギブアンドテイクの情報交換の際はご贔屓によろしくお願いします」

「……なーんかお前、それ汚くね?」

「汚くないです。ちゃんとこっちも出すもの出すから教えてくれ、って言ってるだけですから。その3点、了解してくださるんでしたら、難しいとは思いますがやれる限りでやってみましょう」

 

 渋い表情を浮かべ、煙を吐いて精一杯の抗議の様子を見せつつ、「……わかったよ」とクインはその点を了承した。穂樽は立ち上がり、パソコンデスクの中から依頼の書類を持ってくる。

 

「では依頼ということでこの書類に記入お願いします。……正式書類なんで灰落とさないでくださいね」

「わーってるよ」

 

 咥え煙草のまま、クインはお世辞にも丁寧とは言えない字で書類へと記入を始めた。すっかり冷めたコーヒーで喉を潤しつつ、ようやく穂樽にも雑談する気が起きてくる。

 

「ところで、シャークナイトの情報を仕入れるとなるとバタ法に聞き込むのも手なんですが……」

「ば、馬鹿馬鹿! やめろ! あたしの弱みをアゲハさんに見せんじゃねえ!」

「クインさんの依頼だとは言いませんよ。セクハラ女王なら男関係の話だから、その辺り何か知ってそうだと思うんですよ。あと何でも屋受付嬢辺りも色々情報持ってそうですし」

「……絶対にあたしの名前出すなよ。それなら、まあいいけど」

 

 とりあえずもう1本吸おうと、穂樽は白地に緑のラインの入った煙草の箱を空けて口に咥える。火を灯して煙を吸って吐き、書類を書くクインになおも話を投げかけた。

 

「それにしても、ちょっと嬉しいです」

「何が?」

「『弱みを見せたくない』と言った割りに、私のところには来て全部告白してくれてますから。……私を信頼に足る人物だと認めてくれたみたいで、嬉しかったんですよ」

「……フン」

 

 不機嫌そうに煙を吐き出して灰を灰皿に落としただけで、クインは明確には答えなかった。だがそれでも彼女なりに自分を信頼してくれてるんだと、穂樽は言葉通り少し嬉しかった。

 

「……ほらよ。これでいいか?」

 

 乱雑にクインが書類を穂樽のほうへと流してくる。仮にも正式な書類なんだから丁寧に扱ってほしいと思いつつ、記入に過不足がないことを確認した。

 

「大丈夫です。では明日からしばらく、調査に当たってみます」

「おう。頼むよ」

「ベストを尽くします。ただ、ずっと思ってたんですが……」

「あん?」

 

 依頼の内容が判明し、クインの異変の理由がわかった時から冷やかしてやりたいとは思っていた。今ならもう依頼の書類を受け取った後だ、これでご破算という話にはならないだろう、と狡猾な打算と共に、穂樽は少し意地悪く茶化してやろうと思っていた。

 

「……クインさんって、心は意外とピュアな乙女なんですね」

「うるせえ! 意外とはなんだ! つーか余計なお世話だ!」

 

 




タイトル「クイーンズ・スキャンダル」の通り、クイン警部がメインの話です。重要な役どころのようでいまひとつ原作で出番が少なかったように感じたので、キーのキャラとなる話を書こうと思ってました。
細波については5話と10話だったかにチラッと出てます。あまりにチラッと過ぎる気もしますが。
なお細波のCVはヤスヒロさん。クイン役の井上さんとはカイトリベレイターのオーディオコメンタリーで一緒に喋ったりしてます。

ちなみに。クインを「基本的にガサツだが恋愛に関してはピュア」という設定で書いたのですが、BD2巻のブックレットで左反にこれが当てはまるというまさかの公式設定に衝撃を隠せませんでした。あれだけ下ネタ言っておいて……!
というわけで公式の左反の設定と被ってしまったんですが、クインも似た者だろうということで話を進めます。


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Episode 5-2

 

 

 クインの依頼を正式に受けることになった翌日、穂樽はまず外堀から埋め始めようと情報収集に取り掛かることにした。「名前を出さない」ということを条件にバタ法へと聞き込みは許可してもらっている。そこを使わない手はないと、かつての職場を訪れ、最初に何でも屋受付嬢の抜田美都利(ばったみとり)から話を聞いていた。

 

「細波サンゴさん……。シャークナイト法律事務所のアソシエイトですね。私はさほど直接の面識はありませんが、あまり悪い噂は耳にしません。こういう言い方は合っているかわかりませんが、曲者揃いのシャークナイトの中で比較的おとなしいというか、良識人と言いますか……」

 

 穂樽自身少しは情報を仕入れてから来ている。鮫岡がボスのシャークナイト法律事務所の弁魔士で、高校時代は運動部に所属。身体能力が高く、運動神経は抜群。大会でいい成績を収めたこともあった。しかしそれ以上の印象的な情報はない、というか、周囲に比べて目立つところがない、という感じだった。

 そんなイメージで尋ねたところで、どうも抜田から得た情報も似たようなものだったらしいと悟った。今さっき彼女が言ったとおり、シャークナイトは曲者揃い。そこで目立たない、となれば良識人という印象になるのだろう。

 

「抜田さんもそう思います? 私も軽く調べたんですが、ほんと特徴らしい特徴がないというか……。運動神経がいいらしい、ということはわかったんですが、それ以外ではあまりわからなくて」

「うーん……。これはデータで扱う私よりも、実際に顔を合わせたことのある左反(さそり)さん辺りに聞いたほうが、実際の顔が見えてくるかもしれませんね。残念ながら私は男性関係はからきしですから」

「そんな自虐的にならなくても、抜田さん十分魅力的だと思いますよ。……カクテル飲みすぎて酔い潰れなければ、ですけど」

「そ、それは言わない約束で……」

 

 思わず抜田は困った表情を浮かべる。彼女からすれば苦い思い出だろう。

 少し前に2人で飲みに行った時、初めて入ったバーで少しはしゃぎ気味だった抜田はジュース感覚でカクテルを飲んでしまい、結果酔い潰れて穂樽が自分の事務所まで連れて帰った、ということがあった。相手が自分だったから良かったようなものの、不心得者が一緒だったら大変なことになっていた、と後で穂樽に言われ、抜田は反省しきりだった。

 

「とにかく、私より左反さんの情報の方が頼りになるかと」

「ですよね……。やっぱあの人頼みになっちゃいますよね。自分で切り出したけど……気乗りしないなあ……」

 

 そう言って渋い顔を浮かべる穂樽の肩に、ガシッと腕が組まれた。しかもご丁寧に組んだ先の腕は胸を揉んでいる。

 

「気乗りしないとか口だけで、体は素直なんでしょ、ほたりん? 今日の昼食、そっちからの誘いでしかも代金まで持ってくれるんだし」

 

 穂樽はため息をこぼし、自分の胸を揉んでいる手を払った。

 

「……確かに昼食を誘ったのは私ですし、食事代も私持ちでいいです。でも胸を揉むのはやめてください。別料金取りますよ」

「おおう、最近の女探偵は体を使って情報を得ることもあると聞いていたけど、それは別途追加料金が発生か……」

「最悪だわ、この人。どこの風俗店ですか」

 

 完全に呆れきった声でそう言われても、左反(ころも)は全く堪えた様子はなかった。ニヤニヤとした笑みを浮かべ、再び同性へのセクハラを再開しようとする。穂樽は努めて冷静にその腕を妨害した。

 

「私なんかが色仕掛けしたところで、どの程度通じるのか逆に知りたいところです」

「え、じゃあ何? やる気はあるの?」

「……そこまで露骨じゃなくても、女であることを武器にしたことはありますよ。まあそれっぽいことを利用しようとした時もありましたし」

 

 へえ、と少々わざとらしく左反は驚いた様子を見せる。

 

「じゃああたしが探偵になったらこのナイスバディで男共を悩殺して情報聞き出し放題ね!」

 

 豊満な胸を自慢げに揺らす彼女を呆れた様子で見つめつつ、その前にあんたには予知魔術という非常に探偵向きな魔術があるだろうと突っ込みたかった。もっとも、迂闊に使いすぎて目をつけられれば魔禁法違反は免れないと思えるが。

 とにかく昼食という名目で、主に左反から細波の情報を聞き出そうと思う。しかしこの後もこのセクハラ紛いの内容が随所にちりばめられた会話をしないといけないと思うと、少々億劫ではあった。

 

 

 

 

 

 昼食には主に話を聞きたかった左反の他に、須藤(すどう)セシルと天刀(てんとう)もよの2人もついてきた。抜田は弁当を持ってきたし事務作業があるからと断り、大抵こういう時は一緒になることの多かった甲原角美(かぶとはらつのみ)も今日は雑務が多いからと遠慮していた。

 

「しっかし鮫王子ならまだしも、細波とはねえ……。まあ普通の女ならそうなるか」

 

 かつて行きつけだった和食を主に出す食堂で、箸を片手に左反はまずそう切り出した。既に移動中に「依頼人が細波のことを知りたがって依頼してきた」という経緯は話してある。当然その依頼主がクインであることは入念に隠していたが。

 

「どういう意味ですか?」

「そのまんま。あいつ、女にマメなのよ。それはいいんだけど、あたしから言わせればマメすぎてつまらない。だから逆にあたしはあんまりタイプじゃないのよね。それよか鮫王子の方が大分いいわ」

 

 鮫王子、とは細波が所属しているシャークナイト法律事務所のボス、鮫岡生羽のことだ。見た目が王子っぽいからそんな呼び方になってるだかなんだがで、左反が適当につけたらしい。そんな風にバタ法時代に聞いたことがあった。

 

「まあ男性経験豊富な左反さんがそう言うならマメっていうのは間違いないんでしょうけど……」

「え!? そ、そりゃ勿論そうよ! セシルっちもそう思うでしょ?」

 

 なぜか一瞬動揺した様子を見せた左反だったが、特に気にせず穂樽は質問を流されたセシルの方へと目を移した。その視線を受けて一度頷いて食べているものを飲み込んでから、セシルは話し始める。

 

「確かに、今そり姉が言ったとおりマメな人なのは事実だよ。なっち抜けた後だったけど、一緒に食事会あったときにセシルに色々細かく気を使ってくれたし」

「ちょっと待って。それって合コンって事?」

「お? ほたりん残念かな? 抜けた後で悪いね、あたし主催でどうにかこぎつけることに成功したんだよ!」

 

 得意げに笑う左反を冷ややかに一瞥。次いでその視線を穂樽はセシルのほうへも向けた。

 

「……で、あんたもその合コンに参加した、と」

「う、うん」

小田(おだ)さんという身がありながら?」

「あ、あれは青空(あくあ)君の件の前の話だもん! それにそり姉が無理矢理誘ってきて……」

 

 顔を赤くして必死に否定するセシルに対し、あくまで淡々と「ふーん」と相槌を打つ穂樽。

 

「セシルっちにも出会いが必要だろうと気を利かせたのよ。……今じゃもう男いるみたいだから溜まってもいないだろうけど」

「お、男じゃないし元々溜まってない!」

 

 相変わらずの酷い下ネタだと思ったところで、穂樽はふと気になることに思い当たった。

 

「というか、よくその時もよさん止めな……うわっ……」

 

 が、言いかけた言葉を途中で切って、露骨に顔をしかめる。もよがケチャラー&ホイラーで、常にケチャップとホイップクリームを持ち歩き何にでもかけることは知っていた。そのため味覚がおかしいということもまたバタ法時代から有名であった。が、目の前で刺身にそれらがかかっているのを見ると、日本人としてはちょっと待てと突っ込みたくなるのが信条だろう。久しく見ていなかったせいもあってダメージは倍増、いや、共に食事をすることの多いセシルや左反まで苦い顔をしているのだから、やはり慣れるものではないと改めて実感する。

 

「んー? どうしたのなっち? もしかしてお刺身1枚食べたい?」

 

 果たしてそれを刺身と呼んでいいものか。赤と白という本来ありえない物体が上にかかった刺身と呼ばれたものを彼女は箸で掴んで穂樽の方へと向けたが、激しく手を振ってそれを拒絶した。

 

「いや、そうじゃないんですけど。セシルがシャークナイトとの合コンに行くとかなって、よくもよさん止めなかったなと思って。一緒に行ったんですか?」

「んーん、行ってないよ」

 

 これは珍しいこともあったもんだと思う。大抵この手の話が出るともよは必死にそれを止めようとするし、実際青空の件の後もそれとなく文句も言われていた。だがこれに限ってはどうしてだろうかと思う。

 

「そり姉は合コンとか言ったけど、要は懇親会みたいなもんでしょ? ライバル事務所とは言っても険悪よりは友好的なほうがいいだろうし。まあ向こうもセシルんをそういう目で見てるわけじゃないだろうから、別にいいかなーって思って口出さなかっただけだよ」

「もよさんは何故行かなかったんです?」

「だってもよよんパラリーだしぃ」

 

 まあ言われてみればそうか、とも思った。やけにセシルにくっついてるし他のアソシエイトとも仲が良く、自分の相談役になってくれたこともあった。だが、本来もよはパラリーガルでアソシエイトとは違うんだったと穂樽は思い出した。

 

「でも、もよよんもお呼びかかってたじゃん」

 

 と、ここで横から口を挟んできたのは左反だった。これまた穂樽の予想とは大きく違った。さっきの彼女の言いようではてっきり声すらかかっていないものだと思っていたが、それを断ったということになる。しかも普段は男関係、そうじゃなくてもセシル関係となると自分のこと以上に神経質になる彼女が、である。

 

「本当ですか? それでも行かなかったんですか?」

 

 疑問をぶつける穂樽を気にかけた様子もなく、ケチャップとホイップクリームがたっぷり乗った刺身を食べ終えた後で、もよは答えを返す。

 

「そうだよ。さっきも言ったけど、もよよんパラリーだから。他のパラリーの皆が呼ばれてないのに自分だけ行ったら、なんか場違いじゃない?」

 

 そこで穂樽はようやく納得した。バタ法のパラリーガルは彼女だけではない。確かに他の面々に比べてもよは若いが、だからと1人だけパラリーガルが行っては浮いてしまう可能性もある。

 それよりも、と彼女は思考を切り替えた。そもそもこれは細波の話を聞くための昼食の誘いでもあるのだ。

 

「……で、その合コンどうだったんですか?」

「なんだ、やっぱり興味あるんじゃん」

「違います! 細波の話ですよ!」

「ああ、そっちか。だからさっき言ったとおりだって。あたしはその前から知ってるけどマメすぎてウマ合わないって印象。もっと好き勝手にさせてほしいっていうか、逆に疲れるっていうか。でもセシルっちみたいな普通の女子からすれば、色々気を利かせてくれる男、ってなると思うよ。それにイケメンなのは否めないし」

 

 クインは面食いではない、と穂樽は思っている。それならかつての部下もかなりのイケメンだったのだから、もう少し女らしい行動があってよかったはずだ。となると、やはりマメという点に惹かれた、ということになるだろうか。

 

「セシルは、今左反さんに言われたとおりの意見で異論無し?」

「無くはないけど……。やっぱりマメ、っていうのがまず出てくるよ。私が話に入りにくかったときに話をそれとなく振ってくれたりとか、飲み物が少ない時に次どうするか聞いてきてくれたりとか」

「……小田さんとどっちがタイプ?」

「ちょ、ちょっとなっち!」

 

 顔を真っ赤にしたセシルを見て思わず穂樽は笑いをこぼした。が、直後、殺気の篭った視線を感じる。見れば、もよがじっと穂樽を見つめていた。

 

「じょ、冗談ですよ、もよさん。ちょっとセシルからかっただけですって。だから真顔で見るのは……」

 

 その弁明に、もよは普段通りの笑顔へと戻った。思わず、肩の力が少し抜けたのを穂樽は感じていた。

 

「わかってるって。なっちがセシルんをからかうみたいに、私もなっちからかってみただけだよ。なっちがセシルんのこと大好きなのはわかってるから大丈夫。……勿論私には敵わないけど」

「い、いや待ってくださいよ。もよさんがセシル大好きなのはわかりますけど、なんで私も入ってるんです?」

「でもなっち、最初は厳しかったけど、その後ずっとセシルに優しくしてくれるじゃない。……素直じゃないよね」

「なんでそうなるのよ!」

 

 言ってしまってから、こうやってムキになるせいで言われるんだと、穂樽は自分で反省することにした。これ以上下手に話すと墓穴を掘りかねない。雑談はほどほどに、昼食を進めようと穂樽は箸を進めた。

 

 とりあえず、今さっきの話からなんとなく対象の像が見えてきた気がした。あとは実際に彼の行動を観察し、それから判断しようと考える。この後は実際に張り込んで対象の動きを観察するのがいいだろう。だが相手に顔が割れている可能性が高いとなると、果たしてどこまでうまくいくやらと、先行き不安な思いを抱えたまま、昼食の時間は過ぎていった。

 

 

 

 

 

 シャークナイト法律事務所は、バタフライ法律事務所からさほど離れていない距離にある。色々考えた結果、元バタ法という立場を利用し、バタ法の誰かを待っているフリをしてシャークナイトを張り込む、という方法を穂樽は用いることにしていた。かなり苦し紛れの手段ではあるが、いつ出てくるかわからない相手を見張る以上仕方がない。さらに、他人を装って近づいて荷物に追跡装置代わりの砂のセンサーを忍ばせるのも難しいと思える。となれば、基本に則った張り込みと尾行しかない。つまり、対象を見逃したらそこで終わり、ということである。

 もう間もなく17時、かつて自分が定時上がりをしていた時刻となる。そうなれば目的の細波が出てくるかもしれない。見落とすことは許されない。適当にカモフラージュする用の小説を広げ、対象が現れるのを待つことにした。

 

 穂樽自身、そうそううまくいくとは思っていない。場合によっては数時間ここで待ちぼうけ、ということもあるだろう。しかしそれもやむなしとも思う。本来なら煙草を吸いたいが、ここいら一帯は禁煙地区。我慢も仕事の内だと自分に言い聞かせる。そうして1時間ほど経った頃だっただろうか。

 突然、背後から肩を叩かれた。この付近の店の人に不審がられてしまったかもしれない、と思って振り返った彼女は、より状況が悪いことを悟った。

 

「よう、姉ちゃん。あんた、元バタ法のアソシエイトじゃろ? 誰か待っちゅうかえ?」

 

 独特の土佐弁と共に話しかけてきたのはシャークナイト法律事務所の弁魔士の工白志吹だった。シャークナイトの正面からは誰も出ていないはず。裏口から出てきたのだとしたら、明らかに自分に対して疑念を持っての接触だろうと思わず顔から血の気が引く。が、冷静を装って彼女は返事を返した。

 

「ああ、工白さん。どうもこんにちは。ちょっと、この後バタ法の人と約束があったんでここで待ってまして……」

「ほほう、なるほど、そうかそうか。俺はてっきり……うちの事務所でも見張っちゅうかと思ってたわ。ちょいとうちの側に寄った場所におるしなあ」

 

 ますます内心では焦りを覚えるが、表情だけはどうにか笑顔を貼り付け続けられた。怪しまれないよう、咄嗟に言い訳を考える。

 

「まあ……あまり事務所の目の前で、ってなると早くしろって圧力かけてるみたいになってしまいますし。それはちょっと申し訳なく思って……」

「確かに。……ただ、1時間もそうやって待ってるっちゅうのは、どうも効率悪そうじゃきんな。連絡ちゃんと取った方がええんじゃないかや?」

「え、ええ……。そうですね。でも、どうも仕事が押してるみたいです」

 

 笑顔は貼り付けているが、言い訳が苦しいかもしれない。そろそろ勘付かれかねない。大声でも上げて逃げるべきか。いや、それでは今後の活動に支障をきたす可能性もある。では、どうするべきであろうか。

 そんな考えを懸命にめぐらせる彼女をあざ笑うかのように。実際不敵に微笑を浮かべ、顔を近づけて声量を落とし、しかし追い詰めたといわんばかりに工白は切り出した。

 

「……姉ちゃん、声震えとらんか?」

「い、いえ。そんなことは……」

「俺の魔術知っとるか? ……言霊魔術やき、相手の言葉には敏感でな。動揺はようわかるんちゃ」

 

 まずい。直感的にそう判断した彼女から貼り付けていた笑顔が剥がれた。反射的に上着のポケットへ右手を入れる。手をかけたのは砂入りの容器。そこから砂を撒き散らし、目をくらませて逃げる。そう算段を立てたが――。

 ポケットに右手が入ると同時、その腕は相手に掴まれた。かくなる上は大声を出してどうにか手を払って逃げるしかないと、声を上げようとした、その時。

 

「穂樽君、だったかな。すまないが、揉め事は起こしたくない。こちらも手荒な真似はしないと約束する代わりに、少し話を聞かせてはもらえないだろうか」

 

 いつの間にか近づいてきていたのだろうか。前方から聞こえてきた声に、手詰まりだと穂樽はため息を大きくこぼした。立っていたのはシャークナイトのボス、鮫岡生羽。こうなってしまってはもうどうしようもない。観念して左手をホールドアップ。降参の意思を見せて口を開いた。

 

「……わかりました。答えられる範囲で、事情をお話します」

「懸命な判断だ。コーヒーぐらいは用意しよう」

「ついでに灰皿も用意していただけると嬉しいです」

 

 鮫岡は少し口の端を上げ、踵を返した。ついてこいという意味だろう。工白も手は離してくれたが、背後をしっかりと固めている。逃げ出せそうにない。

 まあこうなってしまったらクインに平謝りするしかない。元々無茶があったのだから仕方ないだろうと、穂樽は自分に言い聞かせ、かつての職場のライバル事務所へと足を進めた。

 




細波の設定である「女性にマメ」というのは公式設定で、人物紹介のところに書かれています。というか、それしか書かれていません。
ですのでこの話はそこから膨らませた話になります。

ちなみに文で書いただけでもケチャップとホイップの乗った刺身というのは破壊力がある気がします……。


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Episode 5-3

 

 

 シャークナイトの事務所内に通された穂樽は、来客用のスペースへと案内された。先ほどの約束どおり鮫岡は手荒な真似はせず、さらにソファに腰を下ろした彼女の前にコーヒーと要求どおりの灰皿を用意してくれた。

 バッグから白地に緑のラインが入った煙草の箱を取り出し、1本咥えて火を灯す。数時間ぶりの一服によるメンソールの刺激がなんとも心地よかった。

 

「さて……。穂樽君は確かバタ法を辞めた後、探偵になった、と聞いたんだが……」

 

 鮫岡のその発言は間違えてない、という意味を込めて、穂樽は灰皿の縁に煙草を置いて名刺を手渡した。鮫岡と工白の2人がそれをまじまじと見つめて「ほう……」と声を漏らす。

 

「おっしゃるとおりです。弁魔士と違うアプローチでウドの力になりたいと思いまして。……もし何かありましたら連絡をいただければ、承りますよ。一応売り文句は『御法に触れなきゃ報酬次第でなんでもござれ』ですから。……ああ、でもバタ法ともう提携してますので、それ以外でしたら、ですけど」

「商売熱心だな。まあ何かあるときは、考えよう。ウドの力になりたい、というその意志にはとても共感できるからな。……それはともかく、どうもうちを嗅ぎ回っていたようだが。誰の依頼で、何が目的かな?」

 

 受け取った名刺をしまい、鮫岡の視線が鋭くなる。が、穂樽はそれを受け流さんと、灰皿に一旦置いた煙草を手に取って煙を吐いた。

 

「……申し訳ありませんが、依頼主を言うわけにはいきません。そういうクライアントの強い要望ですので」

「姉ちゃん、置かれとる状況わかっちゅうか? あんま意地張っとると……」

「やめろ。手荒な真似はしないという約束だ。……では一点だけ。バタ法からの依頼か否か、だけ答えていただきたい」

 

 穂樽は一度煙を燻らせた。本来なら全て伏せたかったが、この状況ではやむを得まい。

 

「違います。そこ以外の、個人的な依頼です」

「なら、あまり気にしなくていいな。……ライバル事務所の妨害工作の類なら、さすがに少し考えるところだった」

「アゲハさんはそういうこと……する時もあるか。時に手段を選ばないというのは、身をもって教えてもらったことだったっけ……」

 

 フォローしようとして出来なかったと穂樽は苦笑を浮かべる。アゲハはやり手だ。だが、今言ったとおり時に手段を選ばない。クインでさえ「強引」というほどの方法を取ることさえある。そう思うと、元所属弁魔士を使っての妨害工作というのは、考えられなくはないとも思えた。

 

「とにかく、バタ法は関係なく、あくまで個人的な依頼です」

「とはいえ、こちらも誰かがマークされたとなると少々気になるのは事実だ。動きにくくなるのは御免被りたい。何を調査していたかはしらないが、可能ならあまり嗅ぎ回るような真似をするのは控えてもらえないだろうか?」

 

 難しい表情を浮かべ、穂樽は考え込む。相手に警戒された以上、秘密裏に事を進めるのはもうかなり困難となった。加えて、事前にクインに「失敗率は高い」とことわってある。ならば、せっかく虎穴に招き入れられたのだ、虎子を得に行こうと開き直ることにした。まだ葉が残っていたため少し勿体無いが、心を決める意味でも煙草を揉み消す。

 

「鮫岡さん、細波サンゴさんはいらっしゃいますか?」

「……ああ、いるが。彼に関することなのか?」

「はい。私が受けた依頼は彼に関することです。ですが、もう秘密裏にそれを進めるのも難しそうなので……。いっそ、本人から直接お話を伺えればと」

 

 この切り替えの早さは鮫岡も予想していなかったらしい。だがすぐに普段通りの様子に戻り、細波を呼んでくれた。ややあって、長身に前髪の長い顔立ちのいい男性と、丸刈り頭に耳のピアスが特徴的な男性の2人が穂樽達のところへと近づいてくる。前者が細波ということは知っていたが、丸刈りの方は誰かわからなかった。

 

「彼が細波サンゴだ。ちなみにもう1人は海神往(かじの)紗馳(しゃち)。これでうちのめぼしいアソシエイトはほぼ全員だ」

 

 一応の紹介を受け、細波が穂樽に軽く頭を下げる。一方の海神往は訝しんだ風に彼女を見つめるだけだった。

 

「鮫岡さん、俺に何か用ですか? 状況が見えないんですが……」

「ああ。こちらのお嬢さんが君と話したいらしい」

「俺と? ……えっと、確か、元バタ法の穂樽夏菜さん、でしたか?」

 

 自分の名前をフルネームで言い当てられ、思わず穂樽は驚いた。今さっき、鮫岡の口からは自分の名は出なかったはず。さらに顔を合わせたことはあっただろうかと彼女が思うほどだったというのに、である。

 

「ええ、穂樽です。……あまり顔を合わせた記憶は無いんですが、よくご存知で」

「サンゴ君は女の子にマメやきな。バタ法のメンツ、おそらくパラリーまで入れて把握してるんやかえ?」

 

 横から入ってきた工白に彼は苦笑を返した後で、穂樽を見つめなおす。

 

「さすがにそこまでは。ただ、マメなのは自覚してるというか、よく言われます」

「……確かにあのエロ人間もそう言ってたっけ」

「エロ人間……? ああ、左反さんのことですか。でも実のところ、あの方とはウマが合わないんですけどね」

 

 こればかりは穂樽も不思議でならない。男好きの左反と女性にマメな細波、両者から同じ意見が出たのだからほぼ間違いないだろう。しかしなぜ合わないのだろうか。

 それはともかく、せっかく鮫岡に気を利かせてもらって場をセッティングしてもらったのだ。生かさない手はないと、穂樽は細波に切り出した。

 

「細波さん、実は私は今バタ法を離れて所謂探偵をしています。それで、ある方からあなたの身辺調査をしてもらいたい、という依頼を受けているんです」

「なるほど、そういうことだったのか。それで事務所の前に張りこんでいたわけだ。で、俺が不審に思って連れてきた、ということになると」

 

 鮫岡に早速話の腰を折られた形になる。が、穂樽はこれを聞き流せなかった。

 

「ちょっと待ってください、私そんなに不審でした?」

「思いっきり不審じゃったわ。知っとる顔が1時間も窓の外におったら気づくわ」

 

 さらに工白から追撃が飛ぶ。悪くない案だと思っていたが、あまりに迂闊過ぎたと内心で反省する。やはり自分はまだまだだと軽くショックを受けてうな垂れた。

 

「あの……大丈夫ですか?」

 

 そんな様子に質問を保留された状態だった細波が声をかけてきた。手をひらひらと動かして大丈夫とアピールしつつ、穂樽は顔を上げる。

 

「……大丈夫です。私が思いっきりヘマやったってだけのことですので。話戻しましょう」

「はい。俺の身辺調査、という話かと思いますが……。何かまずいことをした記憶はないんですが」

「そういった類ではないです。なんと言いますか……。マイナスの意味でなく、プラスの意味で気になるから、調べてほしい、と」

 

 細波は考え込む様子を見せる。少し話が抽象的過ぎたかもしれない。

 

「心当たりは?」

 

 鮫岡が彼に尋ねる。が、わからないという風に肩をすくめた。

 

「あるにはありますが、ありすぎるというか」

「マメなのが裏目に出たんだなきっと。女の人を助けてそのまま去った、とかじゃないの? それで相手がサンゴ君のことを詳しく知りたいとかさ」

 

 それまで細波と共にソファの背後に立っていた海神往がそう補足した。これは助かったと、穂樽は頷いて意味合いとしてその通りだと伝える。

 

「そんなところです。本当に助かったので、あなたのことが詳しく知りたい、と」

 

 ふむ、と一言挟み、細波は考え込む様子を見せた。

 

「……2点、いいですか」

「なんでしょう?」

「再度確認しますが、『人探し』としてではなく、『身辺調査』として依頼を受けたんですよね?」

 

 直感的に、嫌な予感を感じていた。心に冷たいものが押し当てられたような錯覚を覚えつつ、僅かに顔の角度を変えてそれを肯定する。

 

「ということは、自分の存在を知っている人からの依頼、となるわけですよね。……まあ多分名刺を渡した相手でしょうから、知っていて当然なんでしょうが。しかし、そこで自分で直接コンタクトをとるわけでなく、あなたに調査を依頼した。……さっきの紗馳君の言い分なら自分で来た方が手っ取り早いと思ったんで、その辺りが少々腑に落ちなかったんです」

 

 鋭い、と内心穂樽は感心していた。言われるとおり、相手から名刺を受け取って弁魔士であることを知っていれば、ここに来てさっきの自分のように出てくるところを待つなりして、直接話せばいい。

 それが出来ない理由として真っ先に2つ思いついた。まずは細波、あるいはシャークナイト内の他の人間と顔見知りであり、顔を合わせるのがよくない相手なために依頼してきたということ。クインはここに当てはまる。

 だがもう1つ。先ほど同様にクインの場合こちらにも当てはまるのだが、穂樽はそっちでこの場を乗り切ろうと計った。

 

「あまり依頼主の情報は出せないのですが、どうやらかなり照れ屋と言いますか、異性への免疫があまりないようでして……。それで私を通して調べてほしい、ということのようです」

「なるほど、納得しました。なかなか奥ゆかしい女性のようだ。……ただ、もしその方が俺へ思うところがあるのだとしても、申し訳ありませんがこちらにそのつもりはない、とお伝えください。そうすれば俺の身辺調査をこれ以上続ける必要もなくなるでしょうから」

 

 きっぱりと言い切った細波に、少し疑念を持った声色で穂樽は尋ねる。

 

「……失礼ですが、どなたかお付き合いしている女性が?」

「いえ。ですが、どういう形でその方を助けたかはわかりませんが、こちらは見返りを求めて、ましてや気を惹こうなどというつもりは微塵もなくやっていることです。なので、そう依頼人の方にお伝えください。それでも諦めがつかないとなれば、まあ数度話すぐらいは構いませんので直接自分にコンタクトを取っていただければ。……あなたの仕事を潰してしまうようで少々心苦しくはありますがね」

 

 なるほど、自分に対してもここまで気を使ってくれるとは、本当にマメな男性なんだろうと穂樽は実感した。同時に、下心はないという頑なな信念を持っているというか。これでは取り付く島もない。クインには諦めてもらおうと思うことにした。

 

「わかりました。依頼人にはそう伝えておきます。……それで、2点目は?」

「穂樽さんは、元弁魔士でしたね。なら、黙秘の重要性はよく知っているはず。……場合によっては、次の質問には黙秘していただいても結構です。その場合は追求しませんので」

 

 妙な前置きだな、と思ったが、彼女は次の言葉を待つ。

 

「……今述べたとおり、あなたはお隣の元バタ法の弁魔士だ。当然、顔はこちらに割れている可能性が非常に高い。おそらくあなたもこの件を受けるとなった時にそのことを事前にことわったはず。にもかかわらず俺の『身辺調査』の依頼を受けた。……その理由に、少々興味がありまして」

 

 長い前髪から覗く相手の鋭い視線に、サッと穂樽の血の気が引いた。さっきの質問が軽いジャブに思えてくるほどの鋭い切り込み。ポーカーフェイスを保とうとして、それすら出来ないのではないかという不安が押し寄せる。

 嘘の返しようはいくらでもあった。依頼人がウドで他より頼みやすいと言われた、報酬がよかった、逆に自分とシャークナイト側が顔見知りである点を利用して聞き込みをしてもらいたいと言われた、など。だが、どれも本来の理由である「依頼人が自分と顔見知りで他に頼みたくなかった」ということに当てはまらない。中途半端な嘘は現役弁魔士のこの男の前では看破され、より状況が悪化する可能性がある。特に「自分と顔見知り」という点だけでも見抜かれるのは非常によろしくない。そう思うと、先ほど提示された「黙秘」という選択しか、もう逃げ道はなかった。

 

「そのぐらいにしておけ。俺も出来れば知りたいところだが、どうしても依頼主に関する情報は漏らしたくないようだ。あまり困らせない方がいいだろう」

 

 思わず黙り込んだ穂樽を見かねたか、そこで鮫岡のフォローが入った。「……そうですね」と細波も了解し、助かったと意図せず穂樽の体から力が抜ける。

 

「では穂樽君。すまないがあまりこちらを嗅ぎ回らないでほしいということで頼みたい。それからさっきあったように、どうしても連絡が取りたいなら当人から直接彼にコンタクトを取るよう、伝えてもらえるか?」

「わかりました、そうさせていただきます。……この稼業をやってるとヒヤリとする場面には幾度となく遭遇します。時には命が危なかった、なんてこともあります。でも……はっきり言って、今日のやりとりの方が随分と心臓に悪かったですよ」

 

 褒め言葉と捉えたのだろう。鮫岡は僅かに口の端を上げた。

 

「弁魔士としては賛辞だろうな。ありがたく受け取っておくよ。では、お帰りはそちらのドアから」

 

 本当に疲れたと、穂樽はソファから腰を上げた。だが事務所に戻ったところで、クインに連絡を入れてとにかく謝るということが約束されている。気が重いと感じて荷物を手にしたその時。

 

「ちょっと失礼するわね。以前うちにいた穂樽ちゃんが、こちらの事務所に拉致されたところをうちの事務員が見かけた、と言っているんだけど?」

 

 突如事務所の入り口のドアが開き、その言葉と共に入ってきたのはアゲハだった。さらにその後ろにはセシルの姿も見える。

 

「鮫岡さん、工白さん! 前にセシルを助けてくれたことは感謝してます。でも、だからってなっちの誘拐を許すことなんてできません!」

 

 思わず穂樽は頭を抱えた。さすが何でも屋受付嬢、今のアゲハの話を聞くに、さりげなくあそこから外の自分の様子を観察していたのだろう。そこで自分が鮫岡と工白に事務所内に連れ込まれた、となれば思わず不安になってアゲハに相談したと考えられる。そこにセシルも乗っかる形でついてきたのだろう。

 

「なんじゃそりゃ!? 俺らがそげなことするわけなかちゅうに!」

「……どうやら激しく勘違いされてるようだが。穂樽君、当人の口から誤解だと釈明してはくれないか?」

 

 帰る前にまた厄介ごとが増えてしまった。同時に、彼女にとって師とも仰ぐ人物と、かつてライバルであった5つ下の元同期にヘマをやらかしたことを告白しなくてはいけないと気づく。今日はとんだ災難の日、ゲンを担ぐクインに言わせれば間違いなく「厄日」だったのだろうと憂鬱な気分のまま、彼女は事情の説明を始めた。

 

 

 

 

 

「何やってんだよドジ! すまんで済むならあたしら警察いらねーよ! あークソ、そういや昨日仏滅だった!」

 

 早々に調査失敗と相成った翌日。連絡を受けてクインは今後の方針を再度決めなおすため、事務所へと出向いてきていた。既に前日の電話口でも色々と言われている。もし事務所で1対1だと延々怒られ続ける可能性が高い。そこで穂樽は「まあまあ、奢りますからおいしいコーヒーでも飲みながら話しましょうよ、マスターさんもいい人ですし」とうまいこと説得し、1階喫茶店の「シュガーローズ」マスターである浅賀(あさか)の援護を求めるために店に連れてきていた。

 が、それでも相手は遠慮無しだった。これだけ大っぴらに文句が言えるなら自分以外の人間にも依頼できたんじゃないかとも思えてくる。クインはコーヒーより先に灰皿を注文して煙草を蒸かし、完全に自分の空気を作り上げていた。仮にも自分のミスである以上、穂樽は何も言い返せない。甘んじて辛辣な言葉を受け入れていた。

 

「ま、まあまあ刑事さん。穂樽ちゃんだって人間なんだから、ミスすることもありますし……」

「うっせーおっさん、黙ってコーヒー煎れてろ」

「……はい」

 

 ああ、まさかの援護射撃不発か、と気迫に負けておとなしく引き下がった浅賀を見て穂樽は肩を落とす。元々浅賀は若干強面な顔に似合わず温厚な人物だ。故にその人柄で相手を(いさ)めることは得意なようだが、怒りでそれが通じない相手には効果が薄いらしい。そして激しい口論を嫌うような性格であるため、こうなるともう引き下がるしかなくなってしまうのだった。

 

「大体よ、事務所の前で張り込んでたって、お前顔割れてるんだから無茶に決まってんだろ! あたしだって変装するなり考えるぞ」

「その方が逆に怪しいですよ。それにこっちはあくまでバタ法側の人間を待ち合わせてるフリで乗り切ろうとしたんですから、変装なんてもってのほかです」

「んで結局怪しまれて事務所に連行で失敗か? もうちょいなんとかならなかったのかよ?」

 

 結果論ではあるが、確かにもっと違う方法を取ればなんとかなったかもしれない。とはいえ、相手方に顔が割れている可能性が高く、その上で尾行や調査となると難易度が急激に上がるというのも事実である。

 とにかく失敗は失敗。今回は平謝りで依頼料は無し、さらには食事に誘う、とかの方法で埋め合わせをしないといけないと穂樽は考えていた。

 

「……んで、失敗はわかったんだが。代替案はあるのか?」

 

 が、目の前の依頼人は終わりにする気はなかったらしい。まさかの言葉に思わず穂樽が凍りついた。

 

「ちょっとクインさん……まだやれって言うんですか?」

「なんとかなんねーのか? 結局あたしがわかったことといったら、頭切れることと運動神経いいこと、それから女性にマメってことぐらいだろ。んで向こうは付き合ってる相手もいないのにこっちに興味ないってことを言ってきた。これではいおしまいです、はねえだろ?」

「あるでしょう……。脈なしと思って諦めましょうよ」

「あるもないも、まだ脈確認してすらいねえじゃねえかよ!」

 

 だったら自分で行けよ、と言ってやりたかった。が、さすがに失敗した手前言えず、穂樽は別な言葉を考える。

 

「もう1回顔合わせて来いとか、寿命縮みますよ。向こうは相当のやり手です。危うくクインさんからの依頼だとバレるような鋭い切り口で聞いてきたんですよ?」

「知るかよ、見つかった方が悪いんだろ」

「刑事さん、ちょっとひとついいかな?」

 

 と、そこで浅賀が会話に割り込もうとしてきた。が、クインは「いいからコーヒー煎れてろ」と相手にする気はないらしい。しかし今回は彼も引かなかった。「まあまあ」と前置きをして、続きを切り出す。

 

「こうなったらいっそ、刑事さんが直接アプローチする、というのはどうかな?」

 

 煙草を吸っていた手が止まり、次に「ハァ!?」とクインは驚きの声を上げる。

 

「なんであたしが直接って話が出て来るんだよ!?」

「だって聞いてる限り、刑事さんはその弁魔士さんが気になるんでしょ? だったら、もう直接顔を合わせて話した方が早いだろうし、穂樽ちゃんもこれ以上動きにくい状態で動くこともなくなっていいと思うんだけど」

 

 思わずクインは反論に詰まった。まあつまるところそうだ、ということには穂樽も早々に気づいていた。何も名刺をもらって連絡先もわかっているのだから、直接自分で連絡を取ればいい。少なくとも相手に付き合ってる女性がいない、という情報は仕入れた。なら、あとはアタックあるのみだろう、とか他人事のように思っていた。

 

「……警察と弁魔士だぞ? 仲良くできるわけねえだろ」

「でも穂樽ちゃんとは仲良いじゃない?」

「こいつはもう弁魔士じゃねえだろ。それに言われるほど仲も良くねえ」

「え、そうなんですか。ショックです」

 

 どこかわざとらしく言った穂樽にクインはジロリと一瞥をくれてきた。

 

「まあその辺は、煎れ終わったんでコーヒーを飲みながらどうぞ。はい、ブレンド2つお待たせ」

 

 浅賀がコーヒーを差し出す。煙草を揉み消しそれを飲もうとクインがカップに手をかけた。

 

「あ、クインさん。ここのコーヒーすごく苦いんで砂糖入れたほうが……」

「いらねえよ。あたしはコーヒーはブラックって決めてるんだ」

 

 そう豪語してみせ、一口液体を口に含み――。

 ブーッと派手にクインはそれを吹き出した。

 

「ちょ、ちょっとクインさん!? 浅賀さん、台拭き!」

「な、なんだよこれ! 苦過ぎだろ!」

「だから言ったじゃないですか、すごく苦いって!」

 

 返答しつつ、穂樽は浅賀と共にカウンターを拭く。幸いさほどの量でなかったため、被害は軽微だった。

 

「おいおっさん、金返せって怒るぞ!?」

「お、落ち着いて……。砂糖2杯ぐらい入れて飲んでもらえる? それでかなり飲みやすくなるから」

「んなわけあるか! 元がどうしようもねえんだぞ、どうしたって変わらねえよ!」

「いいから騙されたと思って砂糖2杯入れて飲みなおしてくださいよ。それでダメならお金返し……って、元々私の奢りじゃないですか。さっきの発言の権利はクインさんにないですよ」

 

 やかましい、と文句を言いつつ、クインは薔薇の絵柄の描かれたシュガーポットから砂糖を2杯、乱暴にコーヒーへと放り込む。そして苦い顔のままそれを口元へと近づけて一口含み――意外そうな表情を浮かべなおしてそのカップを眺めた。

 

「どうです? おいしいでしょう?」

「……おいおっさん、あんたウドだったよな? 何か魔術使ってこの味変えたとかか?」

 

 あくまで信じられないと言わんばかりに穂樽の問いを無視し、クインは尋ねる。

 

「僕の使用魔術は治療魔術、人の味覚までは騙せないよ」

「これが浅賀さんのコーヒーなんですよ。不思議なんですけど」

「……わからねえ。絶対何かトリックあるだろ、これ」

 

 そう言いつつも、クインはどうやら気に入ったらしい。怪しむ様子はまだあるが、味わって飲んでいるようだった。

 

「さっき刑事さんは僕のコーヒーを『元がどうしようもない』って言ったけどね。砂糖だけでそれは変わった。だから、もしかしたら手を加えると化ける可能性があるかもしれないのに、それをやらずに諦めてしまう、ってこともあると思う。最初から無理だと諦めず、まずやってみることが大切なんじゃないかな、って思うんだ」

 

 真面目な表情でそれを聞くクインの隣で、穂樽は表情を緩めないように気を使っていた。自分のコーヒーを使ってうまいこと例えているが、付き合いの長い彼女にはこれが苦さを正当化するための理由付けだとわかっていたからだった。

 

「……ダメ元でもやってみろ、ってことか。なるほど。おっさん、年食ってるだけのことはあってその発言には説得力はあるな。……でもな、今のその例えでコーヒーを引き合いに出した以上、つまるところ自分のコーヒーの苦さを正当化したいだけだろ?」

 

 これには耐えかねて穂樽が吹き出した。さすが現役の警部、話の本質とその皮を被った裏まで見抜いてきた。浅賀も苦い顔を浮かべるしかない。

 

「……穂樽ちゃん、この刑事さん、君以上にきついね」

「それってつまり私もきついって思われてるってことですよね?」

 

 らしくなく墓穴を掘ったと思いつつも、穂樽も追撃の手を緩めなかった。2人の集中砲火を浴びて、さしものマスターも完全にお手上げであった。

 

「……こりゃ口は災いの元だね。今日はおとなしく黙ってるよ」

「あら、浅賀さん拗ねちゃった……。クインさんのせいですよ」

「知るか。……それよりこれからどうするかだよ。話が逸れに逸れちまったけど」

 

 考え込んだ様子を見せ、穂樽はコーヒーを口へと運ぶ。マイルドになった苦味の中に深みのある独特な美味を堪能しつつ、結局さっきの案に落ち着くしかないだろうという諦めの気持ちが強く浮かんできた。

 

「やっぱりこうなったら直談判しかないと思うんですけど。私が裏で動くのはもう限界ですし、諦めがつかないっていうならそれしか……」

「……どんな顔して会えってんだよ? あたし1回あの事務所にありもしなかった話でっちあげて踏み込んでんだぞ?」

「昔は昔でしょう。それにあの一件に関しては向こうも理解あるから大丈夫だと思いますよ。そこまでしてでも顔を合わせたいぐらいに惚れた相手じゃないんですか?」

「ほ……!」

 

 見る見るうちにクインの顔が赤くなる。ああ、また面倒なことになると穂樽は若干憂鬱になりつつその顔を見つめていた。

 

「ほ、惚れてねえよ馬鹿野郎! あたしはだな、あくまで自分がしてもらったことに対する礼をしたいだけだっつーの!」

「じゃあそれでいいですけど。ともかく礼をするにしても、もう直接会った方がいいんじゃないですか? 私が『依頼人は述べられませんが、ありがとうと言ってました』と言ったところでまったくありがたみがないと思うんですが。だからといってクインさんの名前出すぐらいなら、自分で会いに行ったほうがいいでしょうし」

 

 至極全うな言い分に思わずクインは反論に詰まった。不貞腐れたように穂樽から視線を逸らして頬杖をつき、コーヒーを呷る。

 

「それで、どうします?」

 

 直接顔を合わせるのか合わせないのか。それだけでもはっきりして自分が今後どう動いたらいいかだけでも決めたい。そう思って探偵は警部に先を促した。

 

「……穂樽、ひとつ、頼まれてくれるか?」

「なんですか?」

「あたしからの依頼だってことを明かしてくれていい。だから……向こうと顔を合わせられる機会を作ってもらいたい。今までの身辺調査の代わりとしてそれを頼みたいんだが、可能か?」

「大丈夫ですよ。お見合いみたいに2人が顔を合わせられる場をセッティングすればいいんですね?」

 

 クインはお見合いという単語に対して嫌悪感を見せた。嫌そうな表情を浮かべて視線を穂樽へと移す。

 

「なんだよそのお見合いって例え。もう少しなんとかならねえのか?」

「はいはい。じゃあ食事会、ってことでいいですね。で、希望はあります? お店の種類とか、値段とか」

「全部任せる。向こうが指定する店でもいい。勿論その分の金はあたしが持つ。……ああ、喫煙可の店、ってのだけ条件だ。あと、お前もついて来い」

 

 わかりました、と流そうとして最後の部分に穂樽が固まった。

 

「……ちょっと待ってください。今最後、なんて言いました?」

「お前もついて来いって言ったんだよ」

「なんでですか!? 私関係ないじゃないですか!」

「なくねえだろ! お前が失敗しなきゃこうならなかったんだ。それに1対1とか絶対無理だ、こっちが2人なら向こうだって2人以上で来るだろう。その方が話もしやすい」

 

 言っていることに理解は示せる。が、納得は出来ない。なんで自分まで巻き込まれて尻拭いを、とも思ったが、確かに言われたとおり一応そもそもは自分の失敗に起因している、と言えなくもない。それにこの様子のクインを細波と1対1にしたところでまともに話せそうにないだろう。なら向こうからも数名、鮫岡と工白辺りも出させた方が会話は進むかもしれない。半ば自棄ともいえる考えかもしれないが、そうも思えた。

 深くため息を吐き出す。それが、彼女に出来る精一杯の抗議のサインだった。

 

「……わかりましたよ。連絡取ります。じゃあこっちは私とクインさん、向こうは細波と数名、とかでいいですか?」

「ああ、それで頼む」

「あ。あとじゃあついでに、話盛り上がるように左反さん辺りに声かけときます?」

「余計なことすんじゃねえ!」

 




方言キャラは普通に話させるだけで難しいです。
それが理由でつのみんは冷や飯を食わされてるわけですが、今回はシャークナイトも絡む以上、どうしても工白が外せず、土佐弁変換サイトを利用したり調べたりしてどうにか書いています。もし高知出身などで土佐弁が明らかにおかしいところがあったらご指摘ください。


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Episode 5-4

 

 

 食事会は双方の都合を調整した結果、数日後に決まった。穂樽は依頼主がクインであったこと、直接細波に礼をするという名目で食事会を考えており、自分も参加するので複数名同士で行うのはどうかということを提案。加えて、金額はこちらで持つが喫煙さえ可能なら場所はこちらからの希望は特に無い、という旨を細波に伝えた。

 それを受け、相手側は行きつけでいい中華料理屋があるということでそこを薦めて来た。また、鮫岡と工白が同席することに加えて細波の性格から全額は持たせられないと6割を持つという要求だった。クインにそのことを問うと、金額を向こうに持たせることに不満を見せながらも渋々了解してくれた。結局、穂樽は双方の連絡役として橋渡し役を担当したということになった。

 

 そして食事会当日。特にお洒落をするでもなく普段通りの格好でクインは待ち合わせの店の最寄り駅へと現れた。

 

「……いいんですかクインさん?」

 

 いつもとなんら変わらない服装で、いかにも「どうにか早く仕事終わらせて来ました」というオーラを漂わせるクインに穂樽が尋ねる。

 

「何が?」

「これから男口説きに行くのにそんな普通の格好で……」

「だから口説くつもりねえっつーの! ……それにな、いくら上辺だけ慌てて繕ってもどうしようもねえんだ。自然体が一番なんだよ」

 

 それは一理あるかもしれない、と穂樽は思う。確かに自然体なら付け焼刃をするよりもボロを出す可能性は減る。もっとも、それ以前の問題としてクインの自然体では全く男が寄り付かないのではないか、とも思うのだが。

 

「……お前、今あたしのこと『まあどうせいい格好しようが元が元だからどうしようもない』とか思ってたろ?」

 

 しかし直後、不意に言われた一言に思わず穂樽の顔が固まった。それで相手は自分の推測が正しかったとわかったらしく、ガリガリと頭を掻いている。

 

「……すみません、思ってました」

「素直でよろしい。……いいんだよ、格好なんか別に。どうせ礼言ってちょっと飯食いに行くだけなんだから」

 

 言いつつクインは穂樽に先導させて案内させようとする。やれやれとため息をこぼし、穂樽は先に立ち、夕暮れの街を歩き始めた。

 

 結果的に相手側に店やら金額やらは譲歩というか、任せ切りになってしまった気はある。そのことに穂樽は若干の責任を感じてもいたが、聞く限りそこまで堅苦しい店ではないらしい。なら比較的気楽だろうし、穂樽のイメージの中では中華ならフランス料理辺りよりは気張らなくていいという印象を勝手に持っている。せっかくの中華だからおいしくいただこうとも思ったりしていた。

 

 指定された中華料理店はさほど駅からは遠くなかった。決して安そうな店ではないが、比較的入店を躊躇うような店でもなかった。実際、中に既にシャークナイト側が来ているかを確認しようとした穂樽より早く、特に気にかけた様子も無くクインは入って行ったのだった。もっとも、「店員に聞けば早い」という刑事特有の思考からそうしたと言えなくも無いのだが。

 シャークナイト側はもう既に店内に顔を並べていた。事前の連絡にあった通り鮫岡、工白、そして細波の3人。以前穂樽が事務所で話を聴取された時に見かけた海神往は来ていないようだった。

 

「おお、まっこと警部殿ちや。こりゃたまげた」

 

 立ち上がっての挨拶より早く、まず挑発的に独特の土佐弁でそう切り出したのは工白だった。にやついた表情と合わせて完全に茶化しているとわかる。そして気の短いクインは安易にその挑発に乗せられた。

 

「あぁ? うるせーな、あたしが来ちゃいけねえのかよ!」

 

 今にも口論となりそうな空気に、慌てて穂樽は彼女の服の裾を引っ張って落ち着くよう合図を送りつつ口を開いた。

 

「クインさん、折角の食事会なんですから。落ち着いて……」

「お前も自重しろ。……いきなり申し訳ない、警部さん。今日はそちらからの提案で食事会と言う話です。互いに過去の確執はあるかもしれませんが、今日のところは水に流して、ということでお願いしたい。……なんでも、うちの細波に助けられた礼がしたくてこの件を穂樽君に提案されたと聞きましたが」

 

 さらにそこに鮫岡もフォローに入ってくれた。そのおかげか、2人は言い争うことなく、ようやく話が本題に入るようであった。

 

「……まあな。酔っ払ってフラフラだったときに助けてもらった。本当はあたしが直接礼を言えば手っ取り早かったんだが、さっき言われたとおりかつてはでっちあげでそちらに踏み込んだこともある身だ。どんな顔をして会ったらいいかわからねえから……穂樽を使った」

「姉ちゃん、そいつはとんだとばっちりじゃったなあ」

 

 やはり挑発気味に言ってきた工白に対してクインが一瞥。「やめろ」と鮫岡が再び割って入ることになった。

 

「それでこちらとしても全ての合点がいきました。……ただ失礼ながら、普段の印象を考えるとこういうことに関して奥手というのは少々意外ではありますね」

「悪かったな」

 

 そこまで言ったところで鮫岡は傍らの細波に目で合図を送った。それを受け、クインが礼を言いたいと言った相手は一歩前へと出る。

 

「クイン警部、事情はよくわかりました。でも俺は見返りを求めてやったことではありませんし、過去のことも特に気にしていません。ですので、あまり気にしないでいただければ、と」

「そう言われても……。感謝はしてる。今日はせめて、それだけでも伝えたかった。……ありがと」

 

 少し恥ずかしそうで視線を外してそこまで述べてから、クインは右手を差し出した。一瞬それがわからないと見つめた細涙が、すぐに握手を求めていると気づいてその手を握り返した。

 一瞬、クインの目が見開かれた。その様子と、先ほどの話からこういうのが得意ではないのに握手で感謝の意を示そうとしていると細波は気づいたのだろう。穏やかな声で語りかけた。

 

「感謝の言葉とお気持ちは、ありがたく受け取っておきます」

 

 その言葉に対してか、クインは小さく笑みをこぼした。照れ隠しか、満足したという意味だろうか。穂樽にはそれを把握し切れなかったが、次に細波へと視線を移したクインの表情は妙に清々しかった。

 

「……ま、これで大体満足したわ。折角そっちお勧めの飯屋なんだ、食おうぜ。話は食いながらでも出来る」

「ウマ合わん思うてたが、それには賛成ちや。ここの料理は絶品じゃき」

 

 場の仕切り役である鮫岡が店員を呼び、料理を持ってくるように頼んだ。中華ということで量が多めの豪華な料理が机に並び、紹興酒が用意された。どちらかというと食事のときは洋風を選んでしまう穂樽としては中華は久しぶりであり、話に混ざることを忘れないようにしつつも、ついつい箸が伸びていた。

 

 食事会自体はクインと工白が時折舌戦気味になったり、クインの愚痴大会になりかけたり、弁魔士から探偵へと鞍替えした穂樽に主に鮫岡から質問が飛んできたりと色々あったが、大きな問題もなく進んだ。ただ、クインは恥ずかしがっているのか、あまり細波と話した数は多いとはいえなかった。折角セッティングしたのに勿体無い、と穂樽は思いつつも、相手が「見返りを求めてのことではない」と言っていた以上、脈があまり無いと判断したのかもしれないとも考えていた。

 それでも細波は基本的に噂どおりマメだった。グラスが空きそうになれば率先してお酒を注ぐなり、ソフトドリンクの方がいいか尋ねてくるなりしてくれたし、皿が空いていれば取り分けするか聞いてくるようなマメさだった。途中2度ほどトイレに立ったようだが、「少し飲みすぎたかもしれない」と冗談を交えつつ、丁寧に断って席を立っていた。

 

 そうして気づけば1時間余り。十分に料理を堪能した穂樽はどうしたものかとクインの様子を窺っていた。料理の合間合間に一応相手側に許可を取ってクインは適当に煙草を蒸かしていたが、今のがどうも食後の一服になりそうだ、と感じたからだ。その視線にクインも気づいたらしい。軽く頷き、しばらく煙草を味わって葉を燃やし切ると火を消し、煙を吐いてから話し始めた。

 

「さて……。料理も堪能させてもらったし礼も言えた。冗談抜きにうまい飯だったよ。あんたら、いい店知ってるんだな。……で、あたしは満足してるし、そろそろお(いとま)しようと考えてるんだが、もう少しゆっくりしていった方がいいのかな?」

「それは警部にお任せします。ただ、我々はこの後、事務所内の他の人間とここで飲むという話がありますので。申し訳ないが、出口までしか見送れません」

「まだ食うのかよ。……まああたしらには関係ないか。悪いな、結局割り勘みたいになっちまってよ。あと見送りはいらねえや」

 

 鮫岡の提案を拒否し、クインは立ち上がった。穂樽もそれに倣う。

 

「俺としては、こちらで全額もっても良かったのですが……」

 

 細波のその一言を軽く笑い飛ばし、却下の意思をクインは示した。

 

「それじゃあたしの礼ってことにならねえよ。……とはいえ、店までそっちに任せちまった時点でもうそんなの薄いのかもしれねえけど。……とにかく改めて、前助けてもらったことは感謝してる。もし街中でまたあたしが無様にすっ転んでるのを見かけちまったら、その時はよろしく頼むわ」

 

 そう言って、再びクインは右手を差し出した。どこか困ったように、細波が最初同様にそれを握り返す。

 

「そんな風にはならないようにまず気をつけてくださいよ」

「あいよ。……どうもな。今日は悪かったな。また顔合わせたときはよろしく」

「悪かったなんて、そんな風には思ってませんよ。警部さえよければ、また」

 

 クインは握手を交わしていた細波の手を離すと、そのまま踵を返して店を後にしようとした。すぐに追いかけたい穂樽だったが、さすがに最後の挨拶もなしに、というのはまずいと慌てて鮫岡に声をかける。

 

「鮫岡さん。今日はありがとうございました。クインさんも満足してくれたようですし、セッティングの協力、感謝します」

「何、君とは昔のよしみもあるからな。探偵稼業は大変だろうが、ウドと人との架け橋になるかもしれない。頑張ってくれ」

「ほいだらねー」

 

 改めて3人に頭を下げ、穂樽はクインを追いかけた。

 こうして、「細波に礼を言いたい」というきっかけから始まった食事会は終わったのであった。

 

 

 

 

 

 食事会が終わって店を出てから、クインの口数は少なかった。「ちょっと夜風にでも当たる」と言って先導するように夜の街をフラフラと歩き、已む無く穂樽はそれに続いていた。

 

「クインさん、どこまで行くんですか?」

 

 穂樽の問いにクインは答えない。まだ当人から食事会の感想も聞いていない。出来れば一言二言ぐらいはセッティングした自分に労いの言葉ぐらいあってもいいだろうと思ってもいたが、それ以上に今の彼女の様子が普段、つまりついさっきまで店内にいた時と少し様子が違うことが気がかりでもあった。

 

「あの、クインさん? 聞いてます?」

「聞こえてる。丁度いいとこ見つけた、あそこでいいか」

 

 半分振り返りながらクインが指差した先にあったのはコンビニ前にある灰皿、すなわち喫煙スペースだった。わざわざそこまで行かなくてもさっきの店内が喫煙可だっただろうに、とも言いたかったが、夜風に当たりながら吸いたかったのかもしれない。それにもしかしたら、シャークナイトの面々に聞かれたくないような話をしたいからという可能性も考え、穂樽もバッグから煙草とライターを取り出し、一足先に煙草を咥えたクインの隣に並んだ。

 慣れた手つきでクインはマッチを擦る。それで自分の煙草に火を灯した後、穂樽の方へとそれを向けた。慌てて咥えてからその火をありがたくいただく。マッチを振って火を消して灰皿へと放り込み、煙を吐いてからクインは切り出した。

 

「今日はありがとな」

 

 まさかまず開口一番に素直な礼が出てくるとは思わず、危なく咥えていた煙草を穂樽は落としかけた。

 

「悪かったな、お前まで巻き込んじまって」

「別に謝ることじゃないですよ、というか来いと言ったのはクインさんです。それに元はといえば私がヘマをしてのことですし、これはクインさんからの依頼ですから。……まあ元々身辺調査はかなり無理はありましたけど」

「いや……。ありゃ、謝らないと気が済まねえよ」

 

 クインは深く煙を吐いた。その目はどこか遠く、街の光でほとんど見えない夜空の星を追っているようにも見えた。

 

「飯はうまかったとはいえ、くだらねえ茶番につき合わせちまった」

「茶番、って……。そんな自虐的にならなくても」

「自虐的ねえ……。じゃあお前、本質的にはあの場に細波がいなかった(・・・・・)とわかっても、それ言えるのか?」

 

 思いもしない一言だった。口に運びかけた煙草の手が止まり、真意を問うように穂樽はクインを見つめる。

 

「何……言ってるんですか? 細波はあそこに確かに……」

「ああ、やっぱり気づいてなかったのか」

 

 2人の様子はまるで対照的だった。狼狽するその相手を意にも介さないように、女警部は悠々と、だがどこか寂しそうに煙草を燻らせた。

 

「ありゃ細波であって、細波じゃねえよ」

「ちょっと、何言ってるんですか!? 私は数日前に彼とシャークナイトの事務所で話してます。あれは細波サンゴに間違いありません。顔を見間違えるはずないじゃないですか!」

「だろうな。傍から見れば、完全に細波サンゴ、その人だろう。お前がそういうなら普通はそう思うはずだ」

「……クインさん、脈無しとかで自棄を起こしたんじゃないですか?」

 

 その問いに、クインの顔が穂樽の方へと向けられる。からかわれたというのに、短気なはずの彼女の目には怒りの色が微塵もなかった。いやそれどころか、達観したような、諦めの色さえ滲んでいた。

 

「まあ脈が無いのは事実だわな。実質的に当人が会ってすらくれないんだ」

「だからさっきから何度も言ってるじゃないですか。細波は確かにあそこに……」

「海神往紗馳。シャークナイトのアソシエイトだ。知ってるか?」

 

 藪から棒に質問が切り替わったと思いつつ、穂樽は煙草の煙を一度吐いてから答えを返す。

 

「……ええ、それは勿論。私が張り込んでるのがばれた時、細波と一緒に顔を合わせましたから。丸刈りでピアスの男性でした。今日はいなかったみたいですけど」

「いなかった? ……何言ってんだよ。ずっといたんだよ。鮫岡、工白と一緒に、向こうの3人目(・・・)として」

 

 指の間に挟んだ煙草から、灰が落ちたことに穂樽は気づかなかった。それほどまでに、今のクインの発言を信じられずに固まっていた。

 

「3人目って……。あれは細波じゃ……」

「ここまで言っても何も気づいてないのか。お前らしくない。……海神往の使用魔術、知ってるか?」

「いえ……」

「ちょいと職権濫用気味だが、前に細波のことを少し調べる時についでにあの事務所連中の使用魔術を調べたんだ。それによると、海神往の使用魔術は……入替魔術」

 

 瞬間、穂樽は目を見開いた。同時に、クインが言わんとしていることを完全に察した。

 

「なあ穂樽。人間の外側と内側、すなわち肉体と精神、それが入れ替わっていた場合……。言ってしまえば、細波の外見をしながら中身は海神往だった場合、それは果たして細波であるといえると思うか?」

 

 答えられなかった。しかし答えは、心の中で出ていた。だが当然相手も同じ答えにたどり着いたと推測でき、結果今のような態度に出ている。そう思うと、口に出せなかった。

 

「あたしは細波の外見に興味を持ったわけじゃない。分け隔てなく接してくれた、その内側、心の方に興味を持った。……この際だ、はっきり言ってやる。その心に惚れちまったんだ。だがな、応対した細波の中身が違うなら、それはあたしからすれば別人、ということになる」

 

 あの間、人の腹の内を見抜くことが得意なはずの穂樽はクインの心を見抜けなかった。いや、あの場にいた人間の心を、誰一人として見抜くことが出来なかった。そのことにショックを受けつつ、同時に気づかせなかったクインとシャークナイトの3人が見事とさえ思えた。だが同時に、彼女の言葉がまだ信じられなかった。

 

「証拠は……。そこまで言うからには何か証拠があるんですよね?」

「んなもんねえよ」

 

 あっさりとクインはそう言い切った。唖然とする穂樽をよそに、彼女は吸い終えた煙草を灰皿に入れ、2本目を取り出して火を灯す。

 

「じゃあなんでそう言い切れるんですか?」

「証拠にはならねえ。でも、あたしは確信できる。……最初に握手したあの時、転んだあたしに差し伸ばしてくれた手とは、同じものでありながら本質的には全く違うと直感した。あの時の手は、もっと優しいものだった。だが今日はそれが微塵も感じられない、表向きは丁寧に接しようとしていたが、その実中身は全く別物だった。その時海神往の魔術を思い出したんだ。だとするなら……こいつは細波じゃない。中身は違う。そう確信した」

「……理屈じゃない、ということですか?」

「そうだな。……でもお前のその顔、こう言いたいんだろ? 『その時あんたは泥酔してたはずだから、本当に覚えてるのか?』ってな」

 

 神妙な面持ちで穂樽は頷いた。そして手元に目を移し、いつの間にか煙草をほとんど灰にしていたと気づいて灰皿へ投げ込む。次のは取り出さず、その先の言葉を待つ。

 

「あたしは刑事だぜ? いくら酔っ払ってても、体感的な情報なら、そのあたりの記憶には自信がある。それに……」

 

 フッと小さく笑ってクインは煙草を蒸かして間を空けた。

 

「……本当に惚れちまった相手なら、触れ合った肌の感覚、繋いだ手の感触ってのは忘れないもんなんだよ。それが印象的ならなおさら、な。これでもあたしも一応女子なもんでね」

「じゃあ……」

 

 やけに声が乾いていると穂樽は自分で感じた。煙草のメンソールのせいではない。ある種の緊張感のせいだった。

 

「じゃあ、クインさんは握手した瞬間から……つまり最初から、細波の中身は海神往だと気づいていたんですか……?」

「まあな」

 

 余りにあっさりとしすぎた答えに、意図せず穂樽は右手を握り締めていた。

 

「わかっていて……なんで言わなかったんですか!?」

「それはお前にすまないと思ってる。茶番につき合わせちまった。さっき謝ったとおりだ」

「私のことなんてどうでもいいです! 最初からわかっていたなら、相手側に言えばよかったじゃないですか! それを何で……!」

「……希望ってものはさ、人間どうしても持っちまうものらしいな」

 

 揺れる穂樽に対し、クインは穏やかだった。まるで普段と逆、2人の中身が入れ替わったようだった。

 

「最初に握手して中身が細波じゃないってわかった時に、向こうの意図はわからなかったが会ってくれない以上、もう脈は無いんだろうなって思ったよ。……そう思ったのによ、認めたくなかったんだ。もしかしたら途中で、それがダメでも最後には本物が現れるんじゃないか、って希望を勝手に抱いちまってな。

 実際、あの短い間にあいつは2度もトイレに立った。ほぼ30分おきだ、魔術の効果期限でかけ直すために奥に行ったってのはなんとなくわかっていた。それで戻ってきたら本物になってた、そう思いたい気持ちもあった」

「でも……帰ってきても中身は入れ替わったままの細波だった……」

「ああ、そういうことだった。話しててもそうだったし、最後に改めて握手した時もやっぱり違った。……完全に脈無し、あたしは見事にフラれたってわけだよ」

 

 そう言うと、クインは一気に煙草の葉を燃やし、深く煙を吐いた。どう声をかけたらいいかわからない。穂樽は声を搾り出すように問いかける。

 

「……クインさんは……それでよかったんですか?」

「魔禁法違反を見逃したってか?」

「そんな野暮なことは言いません! ……気持ちがそれで納出来ているのか、と聞いてるんです」

「納得は正直いかないが……。まあするしかねえだろうな。しつこい男は嫌われる。しつこい女も嫌われる。……だから良いも悪いもないのさ。結局、あたしと細波のお話はここまでなんだよ。……そういや、今日の星座占いは割りと上位だったのに、外れるもんだな」

 

 そんな他人事のように言う彼女の目はどこか寂しそうだと、改めて穂樽は思った。自分にはそんな風に割り切ることも、他人事のように振舞うことも到底出来そうにない。だから数年もの間実るはずのない片思いを続け、その相手の正体を知って失望し、最後は直接決別を告げたのだから。

 直接相手の気持ちを告げられていない以上、本当に脈無しといえるかわからない。「希望を持ってしまう」というのなら、まだ諦めるのは早いといえるかもしれない。なのに、クインはもうそのことは諦めきっているようにも感じた。

 

「なんで……そんなに割り切れるんですか?」

「割り切れないと警察なんてやってらんねえよ。ドライ過ぎるぐらいで丁度いい」

 

 2本目の煙草の火を消して灰皿に放り込み、クインは最後の煙を吐く。

 

「それに、この間はお前の方がドライだったくせに……。あたしに言わせれば、お前は背負い込み過ぎだ」

「え……?」

「今回のことだって依頼はしたが、お前の問題じゃない。つまるところはあたしの問題だ。なのにそうやって思いつめたみたいな顔して自分のことのように考えやがって……。依頼人に肩を入れる人情探偵も結構だがな、背負い込みすぎは自分の身を潰すぞ。あたしも刑事なんてやってるからその辺のことはわかってるつもりだ。アゲハさんにそういうことを言われなかったのか?」

 

 思わず目を逸らし、地面へと落とす。ポツリと「言われました……」と呟くのが精一杯だった。

 

「……まあそれを悪いという気はないよ。ただ背負い込み過ぎるな、っては忠告しておく。お前は生真面目だからな。商売と割り切ってやるぐらいが丁度いいのかもしれねえな。……でもま、気にかけてもらってあたしは嬉しく思ってるよ」

「クインさん……」

 

 穂樽が視線を戻した先には、普段と変わらない女警部の顔があった。自分で「フラれた」と言っておきながら、全く気にもしていないような、そんな顔だった。

 だが穂樽にはわかる。普段はがさつで乱暴なクインだが、恋する心はピュアで乙女だった。だから傷ついていないはずなどない。懸命に強がっている。そのために普段と少し違う態度を自分にとっているのだと。そんな彼女にどう慰めの言葉をかければいいか、わからなかった。

 しかし、その必要はないとばかりにニヤリとクインは笑みをこぼし、穂樽の肩へと手を回した。それをきっかけに、普段通りの彼女に戻ったような、そんな雰囲気が出ていた。

 

「……よっしゃ! 穂樽、お前そんなにあたしのことを心配してくれるなら……。あたし持ちでいい、飲み直しに行くぞ!」

「……え!?」

「あんな辛気くせーところで飲んだ酒じゃ酔うに酔えねえよ。あたしのフラれ記念だ、パーッといこうぜ。勿論、とことん付き合ってくれるよな、人情探偵さん?」

 

 一瞬驚いたような、呆れたような。そんな表情が穂樽に浮かんだ。だが一度顔を背けて小さく笑った後で、笑顔と共にクインを見つめなおす。

 

「……ええ、無論ですよ。クインさんが音を上げるまで、付き合ってあげます」

「お? 言ったな? その言葉、絶対後悔させてやるからな!」

 

 互いに笑みを交わし、コンビニの前を離れていく。自分では、こういう方法でしかクインを慰めることが出来ないかもしれない。それでも、少しでも傷を癒すことが出来るのだとしたら、喜んで相手の気の済むまで付き合おう。そう穂樽は心に決めた。

 女探偵と女刑事、その2人が夜の街の中へと消えていく。夜はまだまだ、長く続きそうだった。

 

 

 

 

 

 穂樽、クインと食事会を終えたシャークナイトの3人はまだ店内に残っていた。この後「事務所内の他の人間」と合流して仕切りなおす、と先ほど述べたことを証明するように、3人は席を立とうとしなかった。

 

「終わりましたかね?」

 

 そこへ1人、近づく影があった。丸刈りにピアス、一見してシャークナイト法律事務所のアソシエイト、「海神往紗馳」とわかる。

 

「見ての通りっちゃ。無事帰ったがね」

 

 ようやく事が片付いたとばかりに工白は両手を広げてそう述べた。が、その表情とは対照的、鮫岡は険しい表情のまま、眼鏡の角度を直す。

 

「果たして無事、と言っていいものか。……推測でしかないが、おそらく警部は気づいていたようだ。穂樽君はわからないがな」

「でしたら想定の範囲内です。仮に気づかれたとして今回のように文句もなく帰ったのであればそれでよし。文句があった場合は……まあその時はその時ですね」

 

 そう「海神往」は肩をすくめながら述べた。そんな彼にため息をこぼしてから「細波」が声をかける。

 

「ともかく終わったんだから俺の体(・・・)を返してもらうよ、サンゴ(・・・)君。やっぱり自分の体の方が落ち着く」

「了解。俺も同感だ」

 

 頷いた「海神往」を見つめた後で、「細波」が指を鳴らす。次に細波は自分の両手を見てから動かし、不思議そうな表情を浮かべていた。

 

「……紗馳君の魔術を体感したことは何度かあるけど、やっぱり慣れないな」

 

 小さく鼻を鳴らして得意げに笑ってから、海神往は3人の向かい側、先ほどまでクインが座っていた場所へと腰掛けた。

 

「で、だ。俺の魔術を使って中身を入れ替えて、慣れない気配りなんぞしながら、どうにか俺がサンゴ君としてあの警部に接したわけだが……。さっき鮫岡さんに言われた通り気づかれてた可能性は高い。でもそれでよかったのかい?」

 

 肉体と精神、共に細波に戻った彼は僅かに頷く。

 

「ああ。俺の予想通りあの警部は見た目は乱暴だが中身は相当に乙女だった。脈が無いとわかればおとなしく身を引く、その読みも当たったわけだ」

「しっかしこがな面倒なことする必要あったが? 断れば済んだことと思うわ」

 

 工白は椅子の背もたれに体を預け、どこか不満そうに尋ねる。実際、彼は事前にこの話を聞いた時、常に否定的であった。

 

「それはもう説明したはずだ。女性にマメな彼なりの気遣い、というものだ。そうだろう?」

 

 鮫岡のフォローを受けて、細波が説明を始める。

 

「ええ。……俺に礼をしたいという彼女の気持ちはわかります。しかし俺は彼女と付き合う気は全くなかった。そもそも弁魔士と刑事、しかも相手は元々ウド嫌いの気のある方です。ウドを嫌っているとうことに対し残念だと思う気持ちはあれど、それをどうこう言うつもりはありません。が、かといってそんな関係にある2人がうまくいくとも思えません。なら、最初から断ればいい。確かにそうですが……。折角感謝の気持ちを述べたいという向こうからの申し出を無下にするのも気が引けました」

「そのあたりのサンゴ君のマメさには頭が下がるよ」

 

 向かいの席から飛んできた海神往の言葉に軽く笑みを返し、細波は続ける。

 

「ですがさっきも言ったとおり付き合う気はなかった。だから変に期待を持たれたくなかった。ではどうするかと考えた時に……」

「外見が同じでも中身が違えば、この場にいることにならない、という考えにたどり着いた。結果は、見ての通りだ。警部は礼を済ませ、表向きは文句無く帰っていった。思い描いたとおりか?」

「ええ、まあ」

 

 鮫岡の言葉を肯定しつつも、細波は浮かない表情だった。

 

「なんじゃ、よういったならもっとええ顔しちょきや」

「……確かに表向きはうまくいった。彼女は事情を察してくれただろうし、俺も形だけとはいえ礼を受け取った。だが……。ウドと人間の共存を望むはずの我々『ラボネ』が出した答えとしては、果たして正しかったのだろうか。俺は……それはわからない」

 

 場に沈黙が訪れた。「ラボネ」、それは「人間を憎まずに共存の道を探す」という方針のウドの派閥であり、鮫岡達がそうである。かつては、対立する「自分達を虐げてきた人間を憎み、ウドの支配下に置くべき」という過激な方針のウドの派閥、「マカル」と争いを起こしたこともあった。

 そのラボネとして、本来共存の道を探すべき自分が結局はウドではない相手との関係を拒否してしまった。女性に対する己の信念であるとはいえ、複雑な思いを細波は抱いていた。

 

「男と女、弁魔士と刑事、そしてウドと人間……。ウドの中だけさえも我々ラボネと対立するマカルという構図もある。……まったく、ままならないものだな」

 

 ポツリと呟いた鮫岡の一言に、全員が口を噤んだ。異なるもの同士が相容れる。口で言うのは簡単であっても、実際はそうはいかない。そんな思いが込められた言葉のようだった。

 

「……よっしゃ! やめちゃ、やめ!」

 

 と、そんな空気を打ち払うように工白が努めて明るい声で、手を叩きつつそう切り出す。

 

「んなことすぐ答え出るようなことがやない。今更考えてもしょうがないことちや」

「……確かにな。その通りかもしれん」

「そうと決まりゃあ仕切りなおしちや! ほれ、飲み足りなくないんが?」

「やれやれ。……だがその意見には賛成だな。いつものメンバーで飲むほうが気楽で良い」

 

 鮫岡が店員を呼ぶ。とりあえず机の空いた皿類を下げてくれと頼んでいる間に、細波は2対2で向かい合えるよう海神往の横へと移動していた。

 

「鮫岡さん。それに皆も。今日は俺のためにわざわざありがとうございました」

 

 僅かに顎を引いて感謝の意思を示す細波。だが他の3人は特に気にしていない様子で笑顔を見せていた。

 

「水臭いこと言うちゃあない」

「そうそう。困った時はお互い様。そうですよね、鮫岡さん?」

「ああ。……そして打算的に言えば、これで警部のうちに対する印象もまた少し変わるだろうからな」

 

 最後の鮫岡の一言にはさすがの細波も苦笑を浮かべざるを得なかった。やがて机の上の片付けが済む。先ほどと同じ店内で、今度はシャークナイト内での仕切り直しが始まろうとしている。やはり、夜はまだまだ続きそうだった。

 

 

 

 

 

クイーンズ・スキャンダル(終)

 

 




海神往の使用魔術は公式設定です。原作で魔術使用シーンはありませんでしたので、効果も使い方もイメージでやってしまっています。
なお、舞台にした中華料理店は5話冒頭でシャークナイトの面々が食べていた店をイメージしています。確か中華っぽい店内の様子だったと思ったので。

クイーンズ・スキャンダルは以上で完結となります。元々は原作で尺の都合もあってあまり出番が多いとは言えなかったクインとシャークナイトにスポットを当てようという考えから生まれた話でした。


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Episode 6 ニューカマー・ガール
Episode 6-1


Episode 6 ニューカマー・ガール

 

 

 

「失礼します」

 

 穂樽夏菜(ほたるなつな)はそう短く断り、かつての職場であったバタフライ法律事務所の入り口を開けた。訪問目的は外注で受けた資料の提出。データで送ってもよかったが、時折顔を出したいという彼女の意向もあり、あえて手渡しで提出を行っていた。

 そんな理由で訪問した彼女に、案の定、と言うべきか、入り口にもっとも近い位置にいた「何でも屋受付嬢」とも言われる抜田美都利(ばったみとり)がまず反応した。

 

「あ、穂樽さん、こんにちは。外注分の件ですか?」

「ええ。アゲハさんに頼まれた分まとめてきましたので」

「いつもご苦労様です。……アゲハさーん!」

 

 プライベートでも比較的穂樽と仲の良い抜田は労いの言葉をかけると、事務所の女ボスである蝶野(ちょうの)アゲハを呼んだ。間を置かず、階段の上から返事が返ってくる。

 

「聞こえてたわ。穂樽ちゃんでしょ?」

 

 それだけでそこそこ長い付き合いの彼女は上がって来い、という意味だと分かった。抜田に軽く頭を下げて一歩を踏み出し、そういえば、とふと右手側に視線を移した。普段なら自分がここに来るとやけにテンションを上げる5つ下のかつての同期、須藤(すどう)セシルから声がかからないと思ったからだった。もしかしたら外に出ていて今は不在なのかもしれない。

 だがセシルはそこにいないわけではなかった。穂樽の方を向いて軽く手を振ってはいたが、いつものように「なっちー!」などと、彼女の愛称を呼びつつ駆け寄ってくることはなかった。これまたどうしたことだろうかとその近くに目を移すと、見たことのない女性がどこかそわそわした様子で穂樽の方を見つつ頭を軽く下げたのがわかった。年はおそらくセシルと同じ程度、自分よりは間違いなく年下だと彼女は判断する。

 鮮やかな栗毛の髪の前方が一部左右にそれぞれピョンと跳ね、後ろの方はツーサイドアップにまとめられている。加えて垂れ目がちに愛嬌のある明るそうな顔立ちではあるが、どこか不安そうな色が見てとれた。その彼女はセシルの袖を引っ張り何かを話しているようだ。

 

 そこでようやく穂樽はあることに思い当たった。以前抜田と一緒に飲んだ時に聞いた話、確か今年度は新人を取る、ということだったはずだ。今日は穂樽にとって年度が変わってから初めてのバタ法訪問である。

 となると、彼女がその新人ということになる可能性は高い。そんな新人の前で「先輩らしく振舞う」ためにセシルは普段取る行動を自重し、今日はおとなしかったのではないだろうか。そう思うと、どこか面白さを覚えて思わず笑いがこみ上げてきそうだった。どうにか堪えて階段を上がり、ボスのアゲハの元へと穂樽は足を進める。

 

「いらっしゃい。悪いわね、毎度助かるわ」

「いえ。私が定期的にここに顔を出したいという思いもありますし。頼まれてた分、こんな感じでいいですか?」

 

 穂樽はバッグの中からクリアファイルケースを取り出し、そこから書類をアゲハへと手渡した。軽く目を通し、「さすがね、ほんとありがたいわ」と賞賛の声を目の前の相手へとかける。

 

「あとデジタル用に、メモリです」

「ありがとね。振込みはいつも通りで。抜田ちゃんにお願いしておくわ」

「はい。こちらこそ毎度ありがとうございます。……ところであの子、新人ですか?」

 

 それで仕事の話は終わり、と穂樽は声のトーンを切り替えてアゲハに話しかけた。彼女もそのことを承知したのだろう。受け取った資料を机の端に寄せてから、「ええ、そうよ」と彼女の問いを肯定した。

 

「チラッと噂は聞きました。なんでも、飛び級で20歳で弁魔士になったとか……」

「情報源は抜田ちゃんかな? まあ隠しておくことでもないからいいけど、それはほぼ合ってるわ。ただ厳密には弁魔士になった段階では19歳、つい先日20歳になったばかりよ。年で言えば今はセシルちゃんの1つ下ということになるわね。名前は興梠花鈴(こおろぎかりん)ちゃん」

「私は『リンリン』って呼んでるけどね。ほたりんもそう呼べば?」

 

 そこで会話に割り込んできたのはアソシエイトの中で比較的年長の左反衣(さそりころも)だった。どこかのパンダじゃないんだから、とため息をこぼす。

 

「そうやって左反さんはすぐ人に変なあだ名つけて。そうじゃなくてもセクハラ女王なんですから、新人さんに嫌われても知りませんよ?」

「何よ、セクハラ女王って! 乳揉むぞコラ!」

 

 相変わらずの左反を無視して階下を覗き込み、穂樽はその新人の様子を窺う。今は机に向かってデスクワークをしているようだった。さっき一瞬だけ見せた落ち着きのなさそうな雰囲気はもう微塵も感じられない。

 

「……もしかして彼女、人見知りとかします?」

「あら、さすが穂樽ちゃん。一目でそれ見抜いたの?」

「さっき私が入ってきた時、なんかすごく警戒されてた雰囲気だったので」

「一度打ち解けてくれると明るく話してくれるんだけどね。初日の顔合わせの時とかガチガチで逆にかわいそうになっちゃったわよ」

 

 それは弁魔士としては少々厄介な癖を持ってしまっているな、と穂樽は思った。弁魔士は弁護する相手と顔を合わせるのが前提の職業だ。その時に相手を警戒してしまうようでは、信頼を損なうことになりかねない。

 

「初日に遅刻とかはなかったんですか?」

「いやいやほたりん、セシルっちじゃないんだから」

「あれは特別中の特別よね。さすがにそれはやらなかったわ。依頼を取って遅刻を誤魔化す、なんてこともやらなかったし」

「普通に考えたらその発想は出てこないんですけどね。……じゃあ興梠さんでしたっけ、その人見知りが激しいことだけが問題なんですね」

 

 が、アゲハはどこか憂鬱そうにデスクに肘を着き、左反も両手を広げていた。どうやら今の考えは的を外したらしい。

 

「それがそうでもないのよ。若いというか人生経験が浅いからだと思うけど、人と話すこと自体が得意とは言いがたいみたいでね」

「あとは証拠集めとかも。要するに、デスクワークは目を見張るものがあるし、セシルっち同様若くして弁魔士になった以上、確かに頭の方は優秀なんだけど、それ以外っていうところでちょっと難がありそうなのよ。一応セシルっちとあたしで教育係なんだけど、結構苦労しててさ」

「セシルちゃんにとって初めての後輩だからね。後輩の教育というのを経験させておいてあげようと思って左反ちゃんをサポートにつけたんだけど、2人ともなかなか手を焼いてるみたいで……」

 

 そこまで言ったところでアゲハは何かに思い当たったかのように口を止めた。どうしたのだろうかと表情を覗き込む穂樽だが、次に相手の表情があまりよろしくない笑みを浮かべたことに気づく。

 

「……アゲハさん、何かよくないこと考えてませんか?」

「いいえ、いいことを思いついたの」

 

 ああ、これは十中八九自分にとってはよくないことだと思わず俯いてため息をこぼす。ずれてしまった眼鏡の角度を直しつつ、あまり無茶な要求でないことを祈りつつ尋ねる。

 

「で、何を思いついてしまったんですか?」

 

 穂樽の問いに対し、アゲハは口の端を僅かに上げただけだった。代わりに「花鈴ちゃん、ちょっと来てもらえる?」と新人弁魔士を呼ぶ。

 アゲハに呼ばれて興梠が事務所ボスのデスクへと近づいてくる。が、穂樽の姿を見ると一瞬戸惑った様子を見せた。

 

「……呼びましたか?」

「ええ。花鈴ちゃん、こちらの彼女は元うちの弁魔士で今は探偵をやってる穂樽夏菜ちゃん。個人事務所だけどうちと提携関係にあって、不倫問題関係だとか刑事事件関係みたいな証拠集めが重要な場合は外注という形で協力を仰ぐこともあるの。ちなみにセシルちゃんの元同期。これから長い付き合いになると思うから、顔合わせしておいた方がいいんじゃないかと思ってね」

 

 おそらく真の狙いはそこではないだろう、と穂樽は踏んだ。が、警戒されたままというのも居心地が悪い。打ち解けておいた方がいいのは事実だろう。

 

「穂樽夏菜です。アゲハさんの紹介にあったとおり、ウドに対して弁魔士と別なアプローチというか、間口の広い対応が出来るようにというか……。まあそんなことを考えて、今は探偵をやってるの。よろしくね」

「よ、よろしくお願いします。興梠花鈴です」

「そんな緊張しなくていいよ、リンリン。ほたりんは見た目きつそうだけど、実は優しくていい子だから」

 

 反射的に左反を一瞥してしまったが、それではより相手に警戒心を植え付けてしまうだけかもしれないと気づいた。先ほど交わした会話ではまだ声に緊張感があったようだったので、ひとまず右手を差し出しておく。握手でもすれば緊張は多少ほぐれるだろう、という考えだ。が、恐る恐る握り返された手は汗ばんでいた。

 

「……探偵さん、ですか。間口の広い対応って言ってましたが、やっぱり色んな人が来るんですか?」

 

 しかし意外なことに、手を離した次に先に口を開いたのは穂樽ではなく興梠の方だった。

 

「そうね。基本的にウドのために、と思って立ち上げた事務所だけど、ウドじゃない人も来るわ。……中には冷やかしまがいに来る人もいるけど」

「じゃあ依頼があればウドも人間も分け隔てなく接する、ってことですか?」

「ええ。元々私はそのつもりでいるし。私同様ウドである人の力になると同時に、ウドでない人にはウドに対する正しい理解をしてもらえるんじゃないかって思って。……綺麗事だし所詮理想論でしかないけど、そんな風には日ごろから願ってはいるわ。まあ実際そううまくいくわけないなんてことは重々承知してるけど、願うだけならタダだからね」

「……ロマンチスト、なんですね」

 

 その評価は予想していなかったと穂樽は目を見開いた。傍らではアゲハと左反が笑いを噛み殺している。

 

「ご、ごめんなさい! ……私、変なこと言いました?」

「いえ、変なことと言うか……」

「穂樽ちゃんのことをリアリストとかドライとか言う人は結構いたし、蝶野もそう思ってたけど、まさかロマンチストと評する人がいるとは思ってなかったわ」

「ほたりんがロマンチスト……。ない、ないわぁ」

 

 左反は笑いのツボに入ったのか、まだ笑っている。呆れの気持ちで、もうこの人は放っておこうと咳払いをひとつ挟んで、穂樽は弁明する。

 

「アゲハさんが今言ったとおりなだけ。初めて言われたから、驚いただけよ」

 

 だがそんな彼女の意思と裏腹、気まずそうに興梠は俯いた。責めてるつもりはまったくないのだが、そう捉えられてしまったのかもしれない。

 

「それで花鈴ちゃん、穂樽ちゃんの探偵のお仕事とか、興味あったりしない?」

 

 と、不意にアゲハはそう切り出した。直感的に、穂樽は嫌な予感を覚える。

 

「ないわけではないですけど……」

「さっき言ったとおり、穂樽ちゃんの個人事務所とは提携関係なの。証拠集めみたいなものはこちらから依頼することがあるし、逆に浮気調査の結果法廷に持ち込むってなったら依頼が来ることもある。そして、共通してる部分もあるわ。今言った証拠集めみたいなものは、弁魔士でもやることよね」

「そうですね。私は得意とは言い難いんですが……」

「そこで、なんだけど」

 

 そう来るか、と穂樽は先を予測して頭を抱えた。嫌な予感的中、ほぼ間違いなく次の展開が予想できたからだ。

 

「花鈴ちゃん、穂樽ちゃんのところでしばらく手伝いながら研修してみない?」

「……え?」

 

 

 

 

 

 また厄介ごとを抱えてしまった、と穂樽は頭を悩ませた。アゲハの言い分はわかる。確かに荒治療ではあるが、聞き込みなどなら自然と人と接する機会が多いために、人見知りを慣らすことはできるかもしれない。また、足で稼ぐ探偵業なら、証拠収集の実践としてはもってこいだろう。

 しかしだからといって入所してさほど経っていない新人を、いくら提携先とはいえ畑の違う自分の仕事において手伝いという名目で研修させるというのはいかがなものであろうか。

 

 穂樽は無理だろうとわかっていながらもアゲハに異を唱えた。しかし相手は彼女にとって師と仰ぐ人物。舌戦が得意な穂樽ではあったが、さすがに勝ち目はなかった。今現在穂樽の手元に火急の依頼はないこと、当然研修費としてバタ法から報酬を出すこと、何より後身の育成のためになるから、と言われれば、もう反論の理由としては自分の都合だけとなってしまっていた。

 結局うまいこと言いくるめられ、丁度いい具合に明日バタ法に不倫を疑って離婚問題を抱えた依頼人が来るということで、その案件の証拠収集を興梠同伴で行ってほしいという話となった。そしてその証拠集めを含めて、2週間程度研修という形で興梠を預かることとなってしまったのだった。

 ちなみに、可哀想なことに興梠には上司命令ということで反論の余地すら与えられなかった。途中でセシルも援護にやってきたが、アゲハ側には左反もついていたため、意見はあっさりと却下された。彼女としては折角の後輩がしばらくいなくなってしまうことが寂しかったのかもしれない。最後には「なっち、どうかリンちゃんをよろしくね」と、言われた人物が言った人物になったものの、いつぞやの空港であったようなやりとりを経て、セシルはかわいい後輩を送り出していた。

 

「……パワハラでアゲハさん訴える?」

 

 とりあえず穂樽の事務所であるファイアフライ魔術探偵所に彼女を案内したはいいが、これからどうするかを考えないといけない。事務所の応対用の椅子に互いに腰掛け、まずは親睦でも深めようかと穂樽はそんな冗談から切り出した。が、相手はまだ打ち解けきれないらしい。ここに来るまで話しかけてもほぼ相槌程度だった彼女は、元々の人見知りに加えて急な状況変化についてこられないようでもあった。

 

「いえ……。アゲハさんは信頼できる方ですし、きっと私のことを思ってのことだとはわかってます。……でもいくらなんでも急すぎますけど」

 

 案の定というか、ジョーク交じりの質問に返って来たのは真面目過ぎる答えだった。ため息をこぼし、話を切らさないように続けようと努力する。

 

「そうよねえ……。嫌なら嫌って言った方が……って、相手が有無を言わせてくれなかったか……」

 

 一瞬前の努力もむなしく、そこで会話は途切れてしまった。とても続きそうにない。「打ち解ければ明るく話してくれる」とアゲハは言っていたが、そこに行くまで先行き不安過ぎると穂樽が頭を悩ませていた、その時。

 

「穂樽様帰ったのニャ? 依頼人かニャ?」

 

 奥の彼女の居住スペースからひょっこりと使い魔のニャニャイーが顔を出した。それを見て、興梠がずっと漂わせていた緊張感に満ちた雰囲気が少し薄れた気配を穂樽は感じていた。

 

「穂樽さんの……使い魔ですか?」

「ええ、そうよ。名前はニャニャイー。……この子は依頼人じゃないわ。アゲハさんが研修という名目で人材教育を私に押し付けてきた、まあアシスタントみたいなものよ」

 

 少し嫌味が混じっていたかもな、と言いつつ穂樽は自覚していた。だが興梠はそこに気づいた雰囲気は無く、いや、それ以前に言われたことを聞いてすらいるか怪しい様子だった。

 

「ニャニャイーっていうんだ。私の使い魔もネコなの。アビシニィって名前で」

「ニャ? それは会ってみたいニャ」

「でもあの子も私と一緒で人見知りするから……。基本的には留守番を任せてるの」

「じゃあバタ法の使い魔の集会にも出てないの?」

 

 バタ法には各アソシエイトの癖のある使い魔が集まるスペースが存在する。主人が勤務中はそこに集まって使い魔同士親睦を深めていたこともあった。

 

「はい。あの子もあまり望んでいないみたいだったので、まだ連れて行っていません」

「まあベースがネコだとね……。気まぐれだし」

「穂樽様、それニャンか私のことを馬鹿にしてるみたいでひどいニャ!」

 

 そんなつもりはあまりなかったのに、と穂樽はため息をこぼす。が、一方で興梠は小さく笑っていた。

 もしかしたらそれが2人きり、いや厳密はニャニャイーもいるので3人と言った方が正しいのかもしれないが、ともかく初めて見た笑顔だったと、ふと感じていた。

 ついさっきは先行き不安と思ったが、言われるほど人見知りが激しいわけではなさそうだ、と穂樽は思い直す。そもそも、自分は他人からきつめに見られることも多いとはわかっている。だから余計に警戒されていた可能性もありえた。それなら、やはり要は慣れの問題だろう。知らない人と接してうまく話せるという機会が増えれば、その分自信がつくか、あるいは苦手意識を克服していけるのではないかと考えた。

 

「興梠さん、お昼食べた?」

 

 となれば、まず話しやすさという点ではうってつけの人物がすぐ近くにいる。利用しない手はないと、穂樽は興梠にそう問いかけた。

 

「いえ、まだですけど……」

「じゃあ外行きましょう。ここの1階、ランチがなかなかおいしいのよ。ニャニャイーも来る?」

「あそこコーヒー臭いニャ、遠慮するニャ」

「コーヒー臭い、って当然でしょ、喫茶店なんだから」

 

 穂樽は立ち上がり、既に行く気は十分である。が、目の前の興梠は戸惑っているのが手に取るようにわかった。

 

「え、え? あの……」

「ご飯食べに行かない? マスターはいい人で話しやすいから、あなたの人見知り改善に一役買ってくれるかもしれない。それに、殺風景なここよりは私との会話も弾みそうだし」

 

 そこでようやく興梠は自分のために気を使ってくれていると気づいたようだった。慌てて財布だけを持って立ち上がる。

 

「あ、でも喫茶店ですよね? 私コーヒーとか苦いの苦手で……」

「大丈夫よ。無理強いはしないけど、下のはおいしいからきっと飲めると思うわ」

 

 苦笑を浮かべたものの興梠は反論しなかった。押しに弱いタイプかな、と穂樽は判断する。しかしそれなら自分ペースに持ち込みやすいだろうし、そうすれば段々打ち解けていってくれるんじゃないだろうか。

 そううまくいけばいいかなと楽観的に考え、穂樽は興梠をつれて事務所を後に、1階へと向かうことにした。

 

 




エピ4でチラッと話題を出したバタ法の新人、興梠花鈴の話です。オリキャラです。
苗字はバタ法の方式に則って昆虫のコオロギから取ってます。ちなみに調べてみたら興梠さんという苗字は結構いるみたいです。実際有名人でも見かけますし。バタ法の人達の苗字ってほぼ見かけないものばかりなので、それが理由で採用されなかったのかな、とも思います。なお他にも軽く調べたところ、1番多そうと思っていた蝶野より蜂谷の方が多かったです。
当初は何も考えずに髪型をバタ法にいない感じでいいか、という程度でサイドポニー辺りを考えてたんですが、デザインワークスによるとキャラの名前と髪型をかなり意識してあるみたいで。実際左反は前髪がハサミ、アホ毛が尻尾でサソリに見立ててあるとあって物凄く驚きました。
ですので、興梠の場合は前髪の跳ねた部分、所謂アホ毛が左右にある形か触角と呼ばれる部分をコオロギの触角に、ツーサイドアップの後ろ髪を後ろ足に見立てているつもりで描いています。

タイトルの「ニューカマー・ガール」ですが、そのまま新人の女子ということで興梠を指しています。なぜ敢えて「ニューカマー」を使ったのかは、後々後書きで書こうと思います。


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Episode 6-2

 

 

 興梠を先導するように先を歩く穂樽は、1階に降りると迷うことなく喫茶店「シュガーローズ」の扉を開けた。来客に気づいたマスターの浅賀(あさか)は、常連客が来たとわかると表情を僅かに緩める。

 

「やあ、穂樽ちゃん。こんにちは。ランチかい?」

「こんにちは。そうです」

「2人分かな。後ろの子は多分初めてだね。いらっしゃい」

 

 一見すると怖い外見の浅賀に、案の定興梠は一度は怯んだ様子だった。だが優しい声色で話しかけられ、跳ねた髪を揺らして頭を軽く下げながら穂樽の後に続く。普段通り「指定席」であるカウンターの一番奥に座った穂樽の隣に、興梠が腰を下ろした。

 

「穂樽ちゃんのところの依頼人さん?」

「いえ、まあアシスタントといいますか……」

「へえ、新人取ったんだ」

「違いますよ。……って私だけ話してちゃダメか」

 

 浅賀が水を置いたのを待って、穂樽は傍らの興梠のほうへと視線を移した。

 

「興梠さん、こちらはここの店のマスター兼このビルのオーナーである浅賀さん。見た目ちょっと怖いかもしれないけど、物凄くいい人だから心配ないわよ」

「……相変わらず穂樽ちゃんはフォローしてるんだかしてないんだかわからない紹介するね。まあとにかく、今紹介にあった通り浅賀です。よろしくね。それで、僕は状況がいまひとつ見えないんだけど、穂樽ちゃんのところのアシスタントさんなの?」

 

 少し困ったように興梠は考えた後で口を開いた。

 

「……研修で穂樽さんの手伝いをするように、って言われたんで、アシスタントといえばそうかもしれません」

「その前に自己紹介しないと」

 

 穂樽に促されてようやく興梠はまだ自己紹介すらしていないことに気づいたようだった。「す、すみません!」と慌てて頭を下げてから切り出す。

 

「えっと、私、興梠花鈴といいます」

「興梠ちゃんね。それとも花鈴ちゃんの方がいいかな。……それで、研修、って言ったけど、じゃあ穂樽ちゃんのところで雇われてるわけじゃないんだ」

「はい。バタフライ法律事務所というところに弁魔士として先日から務める事になったんですが、上司の方からの命令で。しばらく穂樽さんのところで研修ということで手伝ってくるように言われたんです。

 私、どうしても人見知りをしてしまうし、そのせいもあって調査関係も苦手なんです。そこで、元うちの事務所で今提携関係にある穂樽さんが探偵ということで、私の苦手なところを直すのにもってこいじゃないかという提案を受けて、研修という形でしばらく手伝わせていただくことになったんです」

 

 思わず感嘆のため息を穂樽はこぼしていた。なるほど、若くして弁魔士になったという実力は伊達ではないらしい。話すこと自体が得意でない、とアゲハは言っていた気もしたが段々慣れてきたからか、最初のおどおどしていた様子が嘘のような、なかなかに筋道の立った説明のように思えた。

 

「バタフライ……。じゃあ本当はアゲハさんのところで働いてるんだ」

「はい。アゲハさんをご存知なんですか?」

「浅賀さんは昔バタ法に弁護を依頼したことがあるそうなの。その縁あって、私もここの上に事務所兼住居を構えられたって経緯があってね」

 

 へえ、と興梠が相槌を打った。

 

「じゃあマスターさんもウドなんですか」

「そうだよ。穂樽ちゃんほど全面に押し出してはいないから気づかない人も多いけど」

「……確かに、最初に穂樽さんの事務所が『ファイアフライ魔術探偵所』だという名前と知ったときは驚きました。それ以上に売り文句も驚きですけど」

 

 いつぞやも同じようなことを言われたなと穂樽は苦笑する。

 

「同胞であるウドを受け入れやすくしたい、っていう私の意向でもあるのよ」

「同胞……ですか。ウドがすなわち同胞だという考え方は、あまりしたことが無かったです」

 

 少し、意外そうに穂樽は興梠を見つめた。彼女は弁魔士だ。それも若くしてそのバッジをつけることを許されている。となれば、当然何かしらの理由はあると穂樽は考えていた。実際、史上最年少弁魔士であったセシルには母親を助けたいという目的があった。そのため青春を捨てて弁魔士になるための勉学に打ち込んだ、という話は聞いている。

 同時に、ウドでありながら弁魔士になる人間は少なからず同胞のために、という思いがあるだろうとも彼女は考えていた。当然、ウドであることを生かせる職業だから、あるいは収入がいいからといったような理由で目指す人もいるだろうが、彼女自身少なからず自分がウドであるからという理由は持ち合わせていた。セシルの母親の件も突き詰めればそこに行き着く。

 

「ねえ、興梠さん。もしよかったら、どうして弁魔士になろうと思ったか教えてもらえない?」

 

 故に穂樽は彼女がなぜ急ぐように弁魔士になったのか、興味が沸いた。さっきの言い分では自分が持ったような動機は薄い、ということになる。では、そこまでして弁魔士になろうとした理由はなんだろうか。

 興梠はすぐには答えず、一度沈黙を選んだ。机に落とされて忙しく動く視線に、言いたくない訳が何かあるかもしれない、と穂樽は心を読み解く。

 

「いえ、無理に聞こうというつもりはないけど……」

「あ、そうじゃないんです。なんていうか……。私の場合、多分他の方と違って消去法的に選んでしまったから負い目があるというか……」

「消去法的?」

 

 意味がわからないと尋ねた穂樽に、興梠は重々しく頷いた。

 

「……実は私、当初は検事を目指していたんです」

 

 その答えに、穂樽が目を見開いた。

 

「でも検事は……」

「はい。魔禁法六条で魔術使いの公職への雇用は禁じられています。……私の魔術が覚醒したのは4年前……16歳のときでした。飛び級で丁度法科大学院(ロースクール)に通っていたときです」

 

 どこか言いにくそうに述べられた答えに、ああ、という声が無意識に穂樽からこぼれていた。消去法的、という意味がそれでわかった。

 

「魔術の覚醒はほとんどの場合11歳までに起こる。でも稀に例外はある。……あなたの場合、それがタイミングの悪いことにその時だった、ということね」

「そうなります。そこで検事への道は絶たれました。だから結果として、已む無く弁魔士への道を選んだ、という目で見られても仕方のないことだと思ってます。……それでどうしても、胸を張って『私は弁魔士だ』と言えないんです」

 

 言い分はわかる、と穂樽は思った。バタ法にも似たような境遇の蜂谷(はちや)ミツヒサがいる。彼の場合、検事になった後に覚醒したためにヤメ検として弁魔士になったわけであるが、彼自身変化に戸惑っているという話は聞いたことがあった。

 

「それは……大変だったわね」

「ええ……まあ」

 

 沈黙が訪れる。浅賀は聞き手に回っているのか、黙ってコーヒーを煎れていた。彼からの助け舟も出ないとわかると、穂樽はもうひとつ、先ほど抱いた疑問の残りをぶつけることにした。

 

「もうひとつ、聞いてもいい?」

「なんでしょう?」

「弁魔士になった理由はわかったわ。でもその前、飛び級までして検事になろうとしたのは、どうして?」

 

 瞬間、明らかに興梠が狼狽したと穂樽にはわかった。触れない方がいい話題だったかもしれないと後悔し、撤回のために口を開く。

 

「ごめんなさい。言いたくないなら……」

「いえ、大丈夫です。……まあなんというか、父の強い要望、ですかね」

「お父さんの?」

 

 はい、と興梠は頷いた。

 

「父のことは嫌いではありませんが……。野心……いえ、虚栄心が強かったんです。自分の娘が若くして公務員である検事となれれば親としては鼻が高く、将来も安定している……。そんな風に思っていたみたいです。だから私はその期待に応えるために、懸命に勉強をしたんです」

 

 親の期待。それに応えるために勉強して検事を目指し、だが魔術が発現したことによって弁魔士となった。

 果たしてこれだけの若さで弁魔士となった娘を、父はどう思ったのだろうか。虚栄心が強いという話であったが、誇りには思えなかったのだろうか。

 本音を言えば、もっと興梠のことを穂樽は知りたかった。だがこれ以上この件を尋ねるのは少し躊躇われた。「肉親のために」という、きっかけこそセシルと同じでありながらも、能動的と受動的というある意味で真逆な弁魔士になった理由。この華奢な肩に、どれだけの親の重圧を受けてきたのかと考えると、その話題に触れたいと思えなくなっていた。同時に、彼女から父に対してあまり良い感情を読み取れない気配を感じ、また過去形で話したことにもしかしたらもう既に他界しているのではないかという考えも生まれていた。

 

「お待たせ。ブレンドです。……興梠ちゃん、うちのは物凄く苦いから、よろしくね」

 

 そこで浅賀がコーヒーを差し出してきた。すっかり興梠との話に夢中になり考え事をしていた穂樽は、彼がコーヒーを煎れ終わったことに気づかなかった。

 

「あ、興梠さん。今浅賀さんが言ったとおりだから、甘めの方がいい場合は砂糖を3杯ぐらい入れるといいわ」

「……私苦いのは苦手だって言いましたよね」

「そこを差し引いてもここのはおいしい、とも言ったわよ。砂糖入れて飲んでみなさいって」

 

 疑い深い表情の興梠を無視し、穂樽はシュガーポットから砂糖を2杯、コーヒーへと入れた。それから口へと運び満足そうな表情を浮かべる。それを見て興梠も砂糖をこちらは3杯、それから同じように液体を飲み込み、意外そうに目を見開いた。

 

「ね? おいしいでしょ?」

 

 得意げに尋ねられた穂樽の問いに興梠は神妙に頷く。

 

「私、コーヒー苦手なはずなんですけど……。これは全く気にならずに飲めます。すごくおいしいです」

「ありがとう」

 

 浅賀は軽く微笑み、ランチを作る手を進める。少し忙しそうかな、と思った穂樽は彼の代わりとばかりに口を開いた。

 

「ここのコーヒーね、ブラックで飲むと物凄く苦いのよ。まあ浅賀さんのポリシーらしいけど。でも砂糖を入れるとここまで変わる。苦いものが飲めない人からすると砂糖を入れるというのは仕方なく、という選択かもしれない。だけど結果としてそっちの方が口に合うこともある。……だから、消去法的選択、なんて負い目は感じなくてもいいと思うわよ。あなた自身が弁魔士になってよかったと思えれば、それだけで弁魔士になった答えとしては十分でしょうから」

 

 興梠はじっと穂樽を見つめていた。その視線を少しむず痒く感じ、照れ隠しにコーヒーを一口呷った後、苦い顔の浅賀を見つめつつ追加する。

 

「……って、多分浅賀さんなら言ってくれると思うわよ」

「え……?」

「穂樽ちゃん、僕の役割を取らないでもらえるかなあ。今考えてたところだったのに、それがうますぎるからもう口を挟む余地がなくなっちゃったじゃない」

 

 さすがに顔を合わせるようになって3年目ともなると相手の癖はよくわかってくる。つまるところ――。

 

「浅賀さんは自分のコーヒーをだしにしてアドバイスをしたように見せて、自分のコーヒーの苦さを正当化しようとするのよ。だから今日は私が先にそれっぽいことを言ったという話よ。……もっとも、さっきの話は私の本音でもあるけど。今の私の仕事は時に割りに合わないと思うこともある。弁魔士を辞めてまでやることか、弁魔士の方が収入も環境も安定してたんじゃないか、なんてよく言われるわ。でもそこを差し引いても余りあるものを得られていると、私は思っているから」

 

 そうは言ったものの、自分のような若輩者と年配者の浅賀では、言ってる内容が同じでも重みが違うかもな、と言い終えてから穂樽は思っていた。それでも多少は前向きに考えられるなら、それに越したことはない。

 

「……今穂樽ちゃんが言った通り。僕のセリフ全部とられちゃったけど、あまり負い目なんてものは考えなくていいと思う。その若さで弁魔士さんっていうのは、すごいことなんだろうから。……はい、ランチお待たせ。今日はタマゴサンドにちょっと変り種、試作品のボロネーゼ風サンドだよ」

 

 2人の前にランチが差し出された。その「変り種」と言われた方のサンドを穂樽が手に取って眺める。

 

「ボロネーゼ風? また変わったものに挑戦したんですね。じゃあそっちからいただいてみます」

 

 隣で戸惑った様子の興梠のことなど気にもかけない様子で穂樽はサンドイッチを頬張る。次いで感嘆の声を漏らした。

 

「おいしい! パスタのトマトソースみたい。トマトとひき肉の相性がばっちりです、これいけますよ。正式に日替わりに入れてもらいたいです」

「本当? そこまで喜んでくれるならちょっと手間がかかるけど考えちゃおうかな」

「ほら、興梠さんもぼーっとしてないで食べなさい。バタ法は『先輩が箸をつけるまで食べるな』なんてめんどくさいこと言わないだろうから、こういうときは食べちゃっていいのよ」

「じゃ、じゃあいただきます……」

 

 彼女はベーシックなタマゴサンドから食べ始めたらしい。だが一口食べたところで表情が変わった。

 

「こんなおいしいタマゴサンド始めてかも……」

「ありがとう。いやあ嬉しいね、若い子2人にこんなに喜んでもらえると」

「私もうそんなに若くないですけどね」

 

 自虐気味に言った穂樽に対して「またまた」と浅賀は軽く受け流す。

 食べ始めるとついおいしさのあまり黙々と食べてしまう。それでもいいが、せっかくだし何か話そうかと穂樽は適当な話題を探す。そこでさっきのバタ法の話題に思い当たった。

 

「興梠さん、所属早々こっちに来てるのにこういう質問が適切かはわからないけど……。バタ法の空気にはもう慣れた? 多分こんな風に食事に誘われることもあると思うけど」

 

 咀嚼していたものを飲み込んでから「そうですね」と返事が返って来た。

 

「勤め始めてすぐに須藤先輩ともよよんさんに近くの食堂に連れて行ってもらいました。……そこでもよよんさんの食べ方にドン引きしましたけど」

 

 意図せず顔に苦笑が浮かんでいるのを穂樽は自覚した。バタ法のパラリーガル、天刀(てんとう)もよの味覚はどこかおかしいらしく、常にケチャップとホイップクリームを持ち歩いて何にでもかける。刺身にそれをやられた時はさすがに勘弁してくれという感情を抱いたと思い出す。

 

「もよさんのあれは慣れててもきついわよね。……ところで、なんでもよさんは『もよよんさん』なのにセシルは『須藤先輩』なの?」

「えっと……。私、最初皆のことどんな風に呼んだらいいかわからなくて、須藤先輩みたいに『先輩』づけで呼ぼうと思ってたんです。でもそれはやめろって言われて。ついでに勝手にあだ名つけるからこっちもそれで呼んでもらって構わないって」

「……あそこの連中、私のこと『ほたりん』だの『なっち』だの勝手に呼んでくれてるもんね。ほんと勝手にあだ名つけるのが好きなのよね」

 

 思わず文句をこぼしてタマゴサンドを一口。同時に、相手の話の腰を折ってしまったかもしれないと気づき、「ごめん、先続けて」と促す。

 

「だけど須藤先輩だけは……なんだか『セシルっちさん』とか『セシルんさん』っても呼ぶのも気が引けたというか、下の名前で呼ぶのに抵抗があったというか。当人も『先輩』と呼ばれたときに少し嬉しそうな顔をしていた気がしたので、こっちもその方が気楽でいいから須藤先輩でいいか、と許可を貰ったんです」

「そうか。あの子、先輩後輩って関係を経験したことあんまりなかったのか……」

 

 セシルの経歴は異質だ。故に普通なら経験してるであろう、学校生活における委員会やクラブ活動などの「先輩後輩」という関係に触れたことは少なかったかもしれない。そうなれば、「先輩」なんて呼ばれたのを喜んだとしてもおかしくはないだろう。

 

「それで、セシルとはうまくやれてる?」

「はい。かつて史上最年少で弁魔士となった経歴は本物だと日々痛感してます。私とほぼ1つしか年が変わらないはずなのに、すごくしっかりしてて」

「しっかり、ねえ……。まだまだ子供に見えるけどなあ」

 

 バタ法を抜けてからも何度かセシルと顔を合わせたことはあるし、共に仕事をしたこともある。それでもやはりかつての印象から変わらない、と穂樽は思っていた。

 

「アゲハさんをはじめとして周りが甘いっていうところに原因があると思うのよね」

「でも本当にすごい方ですよ。私も風の便りでは聞いたことあったんですが、連日感心しっぱなしでした」

「そんな矢先に私のところで研修して来いって命令が出た。……なんだか申し訳ないわね」

 

 茶化し気味に口先だけで謝りつつ、穂樽はコーヒーを流し込む。「あ、いえそんなことは」とそれを否定しつつ、興梠は続けた。

 

「あと、穂樽さんの言うとおり甘い……というより、皆に愛されてるというのは感じます。特にもよよんさんとか」

「もよさんはなあ……。セシル大好きだからしょうがないのよ。私と彼女が話してるだけでも、嫉妬気味な視線送ってくることもあるし」

「それは感じます。でも嫉妬気味、というのともまた違うようなもののようにも思えて……。もよよんさんは私と須藤先輩の担当パラリーガルなんです。すごくいい人だって思ってますが、時折……殺気のようなものを感じることがあるというか、怖いと思うときもあるというか……」

「だからそれが嫉妬なのよ。セシルの紆余曲折あった昔の恋人を探して引き合わせたときも、後から文句言われたし」

 

 タマゴサンドを食べ終えたところで話題が途切れたかな、と穂樽は思う。が、視線を興梠の方へ向けるとその目がやけに輝いていることに気づいた。

 

「な、何?」

「穂樽さん、須藤先輩って彼氏いるんですか!?」

「彼氏……なのかしらね? 私は2人を引き合わせただけでその後のことに干渉してないから今どうなってるのかは知らないけど」

「どんな人なんですか!?」

 

 やはり興梠も女子というわけだろうか。こういう話への食いつきは非常によかった。普段の人見知りやら控えめな態度が嘘のように思えてくる。

 

「……一応元依頼人だからあまり詳しいことは言えないけど。男性にしては線が細い、って印象だったわよ。もう返したけど幼いときのセシルと写ってる写真見せてもらったときはより中性的だったというか……」

 

 そこまで話して、ふと穂樽は言葉を止めた。そういえば、あの時なぜ気づかなかったのだろうか。自分の目の前にいた好青年は線が細いにしても男性としての顔立ちだったせいか。彼女の記憶の中で幼少期の写真の彼は、さっき話題に出たもよがもし幼かったらどこか似ていたのではないかと不意に思えてきた。

 

「それで、その元恋人さんの紆余曲折っていうのはどんなだったんですか?」

 

 だがそんな穂樽などお構いなし、興味優先らしい興梠は次の質問をぶつけてきていた。答えようかと迷ったことで前の考えは思考から排除され、返答を考える。

 

「……それは悪いけどセシルから直接聞いて。元依頼人の話を興味本位であまりぺらぺら喋るのは感心できないことだから」

「あ……。そうですよね。ごめんなさい……」

 

 一息をついて穂樽は目の前のサンドイッチを食べ終えた。さらにコーヒーを口元へと運ぶ。

 

「おかわり、いる?」

 

 浅賀の申し出にありがたく穂樽はそれを受けることにした。戻ってきたカップに砂糖を入れつつ、横目に興梠の様子を窺う。当初自分にあった時より大分緊張はほぐれたようだった。既にほぼ打ち解けたと思うが、もう少し話せばなおいいだろう、と判断する。

 

「セシルともよさん以外はどう? ……特に下ネタ女王とか」

 

 相手がサンドを食べ終えた頃を見計らって穂樽は尋ねた。苦笑交じりに興梠は返す。

 

「そり姉さんですか? ……下ネタとセクハラがひどいです。須藤先輩もよく顔真っ赤にしてますし。確かに色々教えてもらって助かってはいますけど」

角美(つのみ)さんや蜂谷さんは常識人だから、そこまで苦労しないでしょ?」

「そう……ですかね? つのみんさんには『コスプレ似合いそう』とかいきなり言われたんで、ちょっと困ってるというか……。ハチミツさんは……ちゃんと話したことないんでわからないです。なんだかいつも怒ってそうだし……」

 

 今度は穂樽が苦笑を浮かべる番だった。「つのみん」こと甲原(かぶとはら)角美は確かに普段の性格に特に問題はないものの、なにかとコスプレを薦めて来た。また、「ハチミツ」こと蜂谷ミツヒサも彼女の言ったとおり無口で傍から見ると怖い。だがそこは訂正しておこうかと穂樽は思うのだった。

 

「角美さんは趣味を押し付けてくることと、コスプレしてるときになり切りすぎることさえ除けばいい人よ。蜂谷さんも怖そうだけど、別に怒ってるわけじゃなくて普段からああなだけだし、本当は優しい人だから」

「それはわかってるつもりなんですけど……。この人見知りの性格とあわせてどうしても壁感じちゃって。そうなると、あそこで気軽に接することが出来るのって須藤先輩と、あとアゲハさんとセセリさんの姉弟ということになってしまうんです」

 

 確かにそれなら蝶野姉弟がもっとも普通、となってしまうのかとは思う。とはいえ、姉でボスのアゲハの方はそれは表向きで、実際はかなりのやり手、穂樽は師と仰ぎつつもそのやり方には時折呆れるようなこともあるほどだ。弟のセセリは色々と口やかましくはあるが、彼女にとって足りないとわかっている社会常識や経験不足を補ってくれるために教えてくれている、と捉えればよき上司という感想を持つであろう。

 

 なんとなくの興梠のバタ法の面々に対する印象はわかった。特にこれといって大きな問題があるわけでもなさそうだ。アゲハも厄介払いとか嫌がらせで研修を言い渡したわけでもないとわかる。結局彼女のためのことを思ってだろう、という結論にたどり着いた。

 あの個性的なメンバーを相手に多少馴染めているのなら、自分に打ち解けてくれるのはさほど難しいことでもないだろう。今も浅賀とそこそこ話せていた、と思うことにする。そんな風に前向きに考え、穂樽はコーヒーを口へと運んだ。

 

 

 

 

 

「……まあ基本的な話はこんなところね。あとは明日昼頃にバタ法に依頼人が来るらしいから、一緒に話を聞きに行きましょう」

 

 昼食を終え、その後事務所に戻ってきてから、穂樽は雑談も交えつつ証拠収集の基礎やら、弁魔士と探偵の異なる点やらを話していた。生憎今現在事務所にはパソコンが1台しかない。居住区に行けば若干型落ちではあるがプライベート用が一応あるものの、仕事用は仕事用で分けておきたいために、2人同時に事務作業とはいかないのが現状だ。タブレットPCもあるにはあるが、ほぼ携帯用と割り切っている。留守番を任せつつ事務作業をさせ、自分は外に出るのが効率としてはいいが、それではアゲハに頼まれたことを行っているとはいえない。よって非効率的ではあるが、2人で同じ作業をするのがいいだろうと判断していた。

 

「はい。よろしくお願いします」

「じゃあ……。今日は17時回ったし、帰っちゃっていいわよ。明日、何時に来られる?」

「え? えっと……そういうの、決まってないんですか?」

「そこが個人事務所の強みなのよ。私は職場まで徒歩0秒だからね。その気になれば始業も終業もその日次第、臨時休業もあり。……それに人を雇わない前提で私はここを立ち上げたから。まあ基本的に9時から10時の間ぐらいまでに来てくれればいいけど、大丈夫?」

 

 興梠の顔には困ったような表情が浮かんでいた。それでもその表情を見せてくれるということは、今日1日だけでここまで打ち解けたことに他ならないとも穂樽には思えた。

 

「バタフライより乗ってる電車の時間は短いんですけど、ここ駅からの距離はちょっとあるんで……」

「そうよね……。それだけネックなのよね。まあ最悪の場合うちに泊まってもいいけど、それも嫌でしょ?」

「嫌ではないですが……。非常時はそうさせてもらいます。じゃあ9時には着くようにしますね」

「……多少遅れてもいいわよ。期間2週間の急ぎの依頼なわけじゃないから。明日もここからならバタ法までそんな時間かからないし。そもそも9時着だと私も今日より早めに起きることになるのよね」

 

 その言葉に、目の前の彼女は笑いをこぼした。

 

「……意外です。穂樽さんしっかりしてると思ったのに」

「してるわよ。この稼業やってると生活リズムなんてものが無くなるから、不規則になってるだけ」

「じゃあそういうことにしておきます。それでは明日は9時……頃にまた来ますので。明日からもよろしくお願いします」

「こちらこそ。今日はお疲れ様」

 

 お疲れ様でした、という挨拶を残し、興梠は事務所を後にしていった。無意識の内にため息をこぼし、穂樽は居住区へと移動する。

 

「あの子の方が、穂樽様よりしっかりしてる気がしてきたニャ」

 

 そして部屋に入って早々、いきなり使い魔に文句をぶつけられたのだった。話が聞こえていたのだろう。

 

「気のせいよ。あの子、やっとお酒が飲める年になったばかりだから」

「それとこれとは話が別ニャ」

「だとしても、人見知りは結構なものだから、弁魔士にとってはマイナス要素に違いないわ。今日1日でようやくあそこまで話せるようになったんだし。最初とかぎこちなくてしょうがなかったもの」

 

 ソファに腰を下ろし、今日かなり我慢してきた煙草に火を灯す。さすがに研修という名目で興梠が来ている以上、あまり居住区に移っての煙草というのも気が引けたからだ。久しぶりのメンソールの刺激が喉に響く。

 

「……でも彼女、煙草は吸わニャいからきっといい子ニャ」

「それとこれとは話が別よ」

「とにかく、今日1日で大分心開いてくれたんじゃニャいかニャ?」

「ええ。……まあ、そうでしょうね」

 

 そう返しつつ、穂樽は表情に僅かに影を落としていた。どこか鬱屈した様子で煙を吐き出す主人に使い魔が気づき、訝しげに尋ねる。

 

「どうしたのニャ? 引っかかるところでもあるかニャ?」

「いえ、大したことじゃないんだけど。……なんで弁魔士になったか尋ねた時、彼女の様子がどうにも引っかかって」

「嘘でもついてたかニャ?」

「それは……多分なかったと思うわ。でも……何かを隠そうとしてたような……。表面上は彼女の言うとおりなのかもしれないけど、裏ではもっと何か抱えてるものがあるような……」

 

 そこまで言ったところで穂樽は煙草を蒸かして「……やっぱりなんでもない」と煙と共に吐き出した。

 

「ニャ?」

「……考え過ぎみたい。彼女は本当は検事になりたかったけど、魔術の覚醒によって消去法的に弁魔士になった。飛び級までして検事を志した理由は父の強い要望だと彼女は言ったわ。……己の虚栄心のために娘を検事にさせようとした父は、その道が閉ざされたと知ったときに、果たして娘と比べてどっちがショックを受けたのか、それともこの世にもういないのか、なんてことを考えてしまったのよ。でも本来そこは、私が踏み込む範囲の話じゃないわ」

 

 隠そうとしている何かは、家庭内のことだろう、と穂樽は推測した。彼女は父のことは嫌いではない、と言ったが、何か確執があったように思えてならない。それを隠そうとしている、そんな風に感じたのだ。

 

「……ま、うちが始まって以来のアシスタントだからね。加えてアゲハさんのところの将来を担う逸材だし。丁寧に扱わないと」

 

 葉を燃やし切り、煙草の火を消す。明日からは自分も経験したことのないような日々が始まるかもしれないと思うと少し億劫なような、しかしどこか楽しみに思うような気持ちも浮かんできたのだった。

 

 




前話のアゲハの説明を補足する形になりますが、興梠は誕生日が4月頭、という設定にしています。
15歳で飛び級で法科大学院に入学、未修科コースを3年で終了。18歳で司法試験をパス、1年間の研修を終えて19歳でバタ法入所、直後に誕生日で現在20歳という形を取っています。
現時点で年はセシルの1つ下ですが学年でいうと2つ下、となります。しかし本作中でセシルは既に4年もキャリアを積んでるということを考えると、この設定でもそこまでぶっ飛んではいないんじゃないかと思えてくる不思議。

なお興梠は2022年度入所にしているつもりです(セシル、穂樽は2018年度入所)。なので「新年度」としか書いておらず劇中で明記してませんが、この時点で2022年、以前のエピソードから年度が変わって、原作4年後ということにしています。


この辺り指折って足りない頭絞って確認したつもりですが、おかしいのに気づいた方いらっしゃいましたらご指摘してください。最悪の場合、興梠を4月1日の早生まれという設定で学年1つ上げるのも考えるので……。


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Episode 6-3

 

 

 翌日、興梠は9時20分頃にファイアフライ魔術探偵所を訪れた。昨日の「9時頃」という表現がいかにも適した時間に、その小一時間ほど前に起きていた穂樽は自分以上に生真面目なんじゃないかと思うのだった。

 今日は昼過ぎ頃にバタ法に依頼人が来るという話である。自分のところに来て僅か1日でまた顔を出しに戻るというのも、なんだか不思議な感じがするな、と穂樽は思っていた。

 

 その後、適当に今後の話などをしてから移動となった。ファイアフライ魔術探偵所とバタフライ法律事務所はさほど離れてはいない。ただ、穂樽の事務所は駅から遠いために、バタ法を尋ねる際は短距離ではあるものの車を使っていた。徒歩でも小一時間ほどで行けなくはないが、そこまで運動不足だというつもりもない。

 助手席に人を乗せての運転、というのはそういえば久しぶりだと穂樽は思っていた。車内での他愛もない会話に、昨日当初ほどの警戒心はもう無く、改めて興梠は自分に打ち解けてくれているように感じていた。

 

 短時間のドライブは、穂樽が以前海外をドライブしたことがあるという話で盛り上がりかけたところで終わることとなった。近くのパーキングに車を止め、連日のバタ法訪問。扉を開けて中に入ると、抜田の挨拶とほぼ同時、「リンちゃーん!」という声が飛び込んできた。

 

「あ、須藤先輩」

「リンちゃん、おかえり! 久しぶりだね!」

「全然久しぶりじゃないでしょ。昨日も会ってるんだから」

 

 やれやれとため息をこぼして突っ込みを入れつつ、飛びついてくる対象が自分から興梠に変わったな、と穂樽は思っていた。鬱陶しさがなくて助かると思った彼女だが、同時にこれまでと違うのはなんだか――。

 

「寂しいのかな、なっち?」

 

 まるで自分の心を先読みされたように聞こえてきたもよの声に、思わず穂樽の体が強張った。

 

「べ、別にそんなこと思ってません!」

「とか何とか言っちゃってぇ。自分のポジションがリンリンに取られたーって、心じゃ泣いてるんでしょ?」

「そんなわけないじゃないですか。……そういうもよさんこそ、セシル取られたって思ってるんじゃないんですか?」

「……ええそうよ。あの子、許せないわよね」

 

 突然真顔になってボソッと呟いたもよの一言には凄みがあった。興梠もそれを感じ取ったらしく、セシルと話していたがビクッと肩を震わせて、怯えたようにもよの方を見つめている。

 

「やめてあげてください。……興梠さん、時々もよさん怖いって言ってましたよ」

「え、ほんと!? 冗談だよ、リンリン。本気にしないでね! ……うーん、セシルん取られたのは悔しいけど、ちょっと我慢して控えるか」

「取られてないでしょう。それに私はまだいいですけど、彼女冗談通じないタイプみたいですから。ほどほどにしないと、本当に怖がられますよ?」

「なっちはやっぱり本当は優しいね。というか、リンリンともうそこまで仲良くなったんだ。さっすがー」

 

 なんだかもよにからかわれている気がして、少し恥ずかしそうに穂樽は視線を逸らした。そんな様子にますますもよはにやけ顔を増し、追撃をかけようとした。

 

 と、そこで事務所のドアが開いた。入ってきた人物は事務所の人間ではない。おそらく依頼人であろう。受付の抜田と一言二言会話を交わした後、「アゲハさーん、クライアントの方がいらっしゃいましたー!」と言ったことで、間違いないと穂樽は判断した。

 

「あ、クライアントさん来たんだ。じゃあなっち頑張ってね。今回はセシルんがメインで、リンリンがそれをサポートという形みたいだから」

「それで証拠収集の実践も兼ねて私のところで研修、というわけですか。確かにそれだと情報の収集が手分けできるし、断続的に忙しいといわれてるセシルでも案件をこなせる。……なるほど、さすがアゲハさん。色々考えてる」

 

 呟いた穂樽の背中をもよが励ますように2度叩いた。それに送り出される形となり、応対用のスペースへと一足先に入り、ソファの背後に立って手帳を準備する。

 

「あれ、なっち座らないの?」

 

 次に興梠と共に来たセシルは首を傾げながらそう尋ねた。

 

「今の私は外様だからね。あなたと興梠さん、それにアゲハさんが座って丁度でしょう」

「でも、席が足りないんでしたら、この中で1番若輩の私が立つべきじゃ……」

 

 そう申し出た興梠だったが、相手にしないとばかりに穂樽に手の合図であしらわれた。

 

「あなたは本来ここの人間なんだからいいのよ。それに仕事柄立ちっぱなしは慣れてるから」

 

 まだ相手は完全には納得してない様子だと思ったが、穂樽は取り合うつもりはなかった。それこそがこの場において明確な弁魔士と探偵の線引き、そう思ったからでもあった。

 ややあってアゲハがクライアントと共に現れた。おそらく30代後半の女性、どこか疲れた色が濃く出ているのが目でわかる。その依頼人は目の前にいたのが見るからに若い女性2人と、背後に立つ1人という異色の組み合わせに困惑した様子だった。

 

 依頼人の名は梨沢杏(なしざわあんず)。穂樽の見立てどおり30代後半のウドの女性であった。夫もウドであるが、現在仲がうまくいっていないらしい。小学6年生の息子がおり、来年度には中学校に進学を控えている。そこを契機と考え、夫との離婚を考えているのだが、相談しようとしても取り合ってくれず、もしかしたら夫は不倫か何かをしているのではないか、とバタ法に相談に訪れたという話であった。

 

「夫は結婚当初は優しい人でした。いえ、結婚して10年ほどになる、しばらく前までそうでした。それが数年前から、突然人が変わったように様子がおかしくなっていったんです。家族間での会話は目に見えて減り、休日には行き先を告げずに出かけることは当たり前のようになって、それまで仕事が終わってから夕食時には間に合うように帰って来ていたのが常に遅くなり、どこかで食べてくるようになりました。どうしてか理由を尋ねても答えてくれず、問い詰めようとすると時には暴力を振るわれることもあって……」

 

 若い2人には少々刺激が強い話かもな、メモを取りつつ穂樽は考えていた。事実セシルは顔にこそ出していないものの、興梠は僅かに眉をしかめて渋い表情だった。そこで家庭内で何かあったかもしれないという昨日の興梠に対する仮説、そこにこの件が類似しているからかもしれないとも思う。

 が、彼女は軽く頭を振ってその考えを排除した。それをわかったところでどうしようもない。今気にかけるべきところはそこではない、目の前にいるクライアントの話だ。情報を聞き漏らさないよう、再び意識を目の前の相手の話へと集中させる。

 

「旦那様の異変に、何か心当たりはありませんか?」

 

 アゲハの問いに、依頼人の女性は静かに首を横に振る。

 

「いえ、特に何も……。私も息子も、何かをしたと言うわけではないと思っています」

「それで、不倫関係のことを考えた、と」

「そういうことになります。私達に理由がないのだとするなら、夕食をどこかでとってるみたいだし、あの人が個人的に何かがあってそういう態度になっていったと考えるのが妥当かと思いまして……。ですがあくまで想像ですので、そこも含めて、相談したいと思って訪ねさせてもらったんです」

 

 ふむ、とアゲハは顎に手を当てて考え込んだ様子だった。隣の若い2人も特に何も話そうとはしない。

 

「あの……」

 

 と、そこで依頼人の梨沢がアゲハに問いかける。

 

「なんでしょう?」

「疑うようで申し訳ないのですが……。私の件を担当してくださるのは、こちらの2人の女性ですか? 失礼ですが、その……まだ随分と若いようで……」

 

 まあそれは言われるだろうな、とも穂樽は思う。21歳と20歳、彼女はまだその年の時には弁魔士になってすらいなかった年齢だ。

 

「心配はご無用です。こちらの須藤は確かにまだ21歳と若いですが、17歳で史上最年少弁魔士となり、今年で5年目となるキャリアの持ち主です。既に多数の刑事事件裁判を含む、いくつもの案件の弁護をした実績を持っています。サポートに着く興梠の方は今年度採用しましたニューカマーですが、19歳で弁魔士となった、こちらも優秀な人材です。現在特別研修と専門の教育係ということで、かつてうちで勤務した後、現在探偵として調査関係においてスペシャリストのそちらの穂樽がついておりますので、万全の体制です」

 

 おいおい、と思わず穂樽は心の中で突っ込んでいた。それは自分を高く買いすぎだ。本来なら事務所内のメンバーでまかなえなくもなかっただろうとも思えてしまう。

 しかしアゲハの言葉は目の前の依頼人の信用を勝ち取るのに十分過ぎたらしい。彼女は目を見開き軽く頭を下げていた。

 

「これは失礼しました。……優秀な方々なんですね」

「私はともかく、この若い2人は間違いありませんよ」

 

 反射的に穂樽はそう口走っていた。アゲハに横目を流されながら僅かに笑みを浮かべられるのが、どうにも居心地としては悪い。

 

「……それで、旦那様の件ですが、もし不倫だと思われるのでしたら、その証拠になるようなものはありませんか?」

 

 アゲハの問いに、梨沢は首を横に振る。

 

「いえ……。家で夕食をとらなくなった、ということからその可能性を考えただけです。あと携帯を見ようとしても、彼は常に手放さないのでわかりません。逆にそこが怪しいとは思うのですが……」

「確かにそれはあるかもしれません。……どう思う、探偵さん?」

 

 そこで不意にアゲハは穂樽へと話を振ってきた。どう、と言われても自分よりあなたの方がわかっているでしょうにと心で悪態をついて苦笑を浮かべた後、さっき少し思い当たったことを尋ねてみる。

 

「旦那様の異変は、具体的に何年前ぐらいからですか?」

「何年……。3……いえ、4年前ぐらいだったかと」

「あなたも旦那様もウドですよね? ということは息子さんもウドで、来年中学でしたら11歳を過ぎているためにもう魔術は覚醒しているはず。息子さんの魔術覚醒の時期は、いつ頃ですか?」

 

 若い2人は意外そうな表情を浮かべて穂樽を見上げていた。おそらく意図がわからないのだろう。

 

「えっと……。小学4年の時だから……。2年前かしら」

「ではその時にはもう旦那様の異変は始まっていた、ということでよろしいですね?」

「それは間違いありません。結局魔術登録の際、夫は同伴してくれずに私が一緒に行きましたから」

 

 ふむ、と穂樽は小さく頷いてメモを取る。そんな彼女に「ねえねえ、なっちなっち」と目の前から小さめの声が飛んできた。

 

「今の質問、どういう意味?」

「……あんたねえ、依頼人の前よ?」

「あ、でもよかったら説明してくれませんか? 私も少し気になったので」

 

 付け足してきたのはその依頼人だった。彼女にまでこう言われては仕方ないだろう。ため息混じりに穂樽は口を開いた。

 

「息子さんの魔術が、言葉は悪いですがご両親にとって忌むべき種類だったとか、望んでいないものだった、という可能性を考えたんです。魔術の種類という話は、意外にも夫婦間の関係を揺らがせるようなものとなりうる、という事例は自分でも確認していますので」

「息子の魔術に関しては夫は特に興味も何も示しませんでした。魔術も砂塵魔術……。おそらく魔力を見ても優れているわけでも劣っているわけでもいないと思っています」

「砂塵魔術……。なっちと一緒だね」

 

 依頼人を前にしても相変わらずのセシルを一瞥し、穂樽は先を続ける。

 

「となると息子さんの魔術関係でもない。……改めて確認ですが、先ほどお話いただいた異変と、夕食を家でとらなくなった、携帯等を見せてくれない、という以外にこれといって不倫ではないかと強く感じる出来事はないわけですね?」

「そうですね……。とにかく私にも息子にも冷たくなったというか、あまり詮索されると怒るようになったというか、そういう印象があります」

 

 ありがとうございます、とメモを取りつつ答え、穂樽はもう十分、とアゲハに目で合図を送った。

 

「セシルちゃん、花鈴ちゃん、何かある?」

 

 少し間があってから、セシルは首を横に振った。

 

「いえ、セシルは特に」

「私も……同じです」

 

 それを受けてアゲハは話を進めた。いくつか事務的な話を進め、しばらく調査してみて不倫の可能性があるかどうかを判断、もしそうなら慰謝料等を踏まえての裁判も視野に入れる。違ったとしても、法的手続きを踏んだ上での離婚へと踏み切れる。その前に原因がわかって和解するなら、それでよしということになるだろうと説明した。

 

 しばらく話を続けた後で、依頼人の杏は丁寧に頭を下げて帰って行った。が、依頼人を見送った後も、穂樽は難しい表情を浮かべていた。

 

「穂樽ちゃん、どう見る?」

 

 その様子にアゲハが声をかけてきた。出されていたお茶を片付けようとしていたセシルも気になった様子で視線を移してくる。

 

「……私のカンですけど、不倫ではないと思います」

「根拠は?」

「だからカンですって。……まあそれなりに根拠はありますけど。今回のような場合、旦那がウドでないなら不倫は十二分にありうる。夫婦間の意見の食い違いで、夫はウドになる確率の高い子供を作りたくなくてセックスレス、その性欲の捌け口として不倫、というのはよく聞く例ですから」

「なっちが……そり姉みたいな単語を平然と口にしてる……」

 

 なぜか悲しそうにセシルがそう呟いた。思わず深くため息をこぼし諭すように話しかける。

 

「あのね、こちとらそういう仕事も多いから言ってるだけであって、好きでそういうことを言う下ネタ女王と一緒にしてもらいたくないの。……まああの人のおかげで免疫ついたってのはあるけど」

 

 と、そこでどこからか「誰が下ネタ女王だー!」という声が飛んできた。お前以外にいるか、と言い返したい穂樽だが、相手もそれなりに忙しいからそれ以上絡みにこないのだろうと考え、それは飲み込むことにする。

 

「……とにかく、既に子供を設けてる、そしてそれが原因でない。となると、あとは旦那次第、としか言いようがないです。でもその旦那が、不倫しているにしては堂々としすぎている。後ろめたいことをしているのなら、気づかれないように振舞うのが普通でしょう。ですがそれが感じられない。……どこか開き直ってるというか、自暴自棄な思考があるのではないかと思えるんです」

 

 意見を述べつつ、チラリと穂樽は興梠を仰ぎ見た。特に顔色に変化はない。もしかしたら穂樽が予想している彼女の家庭の話と似たようなものではないかと思ったが、やはり自分の考え過ぎだったかとアゲハの方へと視線を戻した。彼女は頷き、かつての部下の意見を聞き入れているようだった。

 

「自暴自棄、というのは、例えば会社でうまくいってなくて何かに逃げてる、とかってこと?」

「はい。ただ金遣いがどうのと言う話は出ていないのでギャンブルみたいなものはないかと思いますが、もしかしたら内緒で借金をしているのかもしれませんし、詮索を嫌うのはそのせいの行動ともとれなくもありません。あるいは酒や……法に触れてしまうようなもっといけないものに逃げている、ということも。無論、さっき言った自暴自棄の行き着く先には別な女性との交際、つまり不倫ということも考えられなくはないので、やはり現段階ではなんとも言えませんね」

「つまり実際に調べてみないとわからない、ということね」

 

 はい、と穂樽は頷いて肯定した。こうなれば、あとは自分達が動くだけだ。

 

「じゃあそのことは穂樽ちゃんと花鈴ちゃん、お願いね」

「アゲハさん、セシルは……」

 

 自分も何かしたいという思いが強くあったのだろう。だがそう尋ねたセシルに対してのアゲハの答えは、おそらく彼女が望むものからは遠かった。

 

「セシルちゃんは裁判になるとわかってから、資料作りなり動き始めね。最初は穂樽ちゃんと花鈴ちゃんに任せなさい」

「そんな……。じゃあセシルも2人と一緒に……!」

「あんまり大人数で動き回るのも考え物なのよ。本来ならあなたと興梠さんで調査をすべきなんでしょうけど……。私が抜擢されちゃったからね」

 

 せめてものアゲハに対する抗議を見せ、穂樽は答えた。だが相手は全く堪える様子はなく、それを微笑で受け流している。

 

「そういうわけだから、セシルちゃんはしばらく待機で。……その分、お母さんの件に力を入れなさい」

 

 ここまで言われてしまってはもう返す言葉もないだろう。納得しきってはいない様子だったが「……わかりました」と了承の言葉を彼女は口にした。

 

「じゃあ早速……」

「……の前に!」

 

 が、直後。穂樽の声をかき消して何か開き直ったようにセシルがそう切り出した。

 

「何?」

「お昼! リンちゃんとなっちと一緒に食べに行こうって思ってたの。それはいいですよね、アゲハさん?」

 

 さすがにこれにはバタ法の女ボスも苦笑を浮かべるしかなかった。

 

「蝶野にそこまで指示する権限はないわよ。まあ丁度お昼だし、いってらっしゃい」

「やった! 行こう、リンちゃん、なっち!」

「はい!」

「……私の意見は無視なのね」

 

 諦め気味に呟きつつも、穂樽もお腹を満たしたいと思っていたのは事実だった。適当に乗っかるかと思ったところでもよも話を聞きつけたらしく近づいてきた。

 

「セシルん、もよよんも行っていい?」

「勿論!」

「ありがとー! セシルん大好きー!」

 

 いつまで経ってもこの2人は変わらないと穂樽は思う。が、直後、「……セシルんは渡さないからね」と真顔で興梠に告げたもよを見て、大人気(おとなげ)ないとも思うのだった。案の定、言われた相手は怖がっているように見える。

 

「もよさん、後輩いじめるのはよくないですよ? 本当にやめてあげてください。彼女怯えてるし、見てるこっちまでかわいそうになってきます」

「ふふーん、やっぱりなっちはいい子だねー」

「……あと確かにもよさんはここでは私の先輩でしたけど、年は私の方が上なんで子供扱いされるのもどうかと思うんですけど」

 

 抗議の声を上げても改善される様子はない。まあ今までもそうだったし仕方ないかと思うことにして、はしゃぐセシルと共に昼食に向かおうと彼女は思うのだった。

 

 

 

 

 

 昼食を食べ終えてからが調査の本番となった。まず穂樽は依頼人の梨沢杏の近所へと赴き、子供が彼女の息子と同級生の親から情報収集に当たった。何故そんなことをするのかと疑問そうな興梠に、「主観的情報では偏りが生じる可能性があるから、客観的情報を得たい」と説明してある。要するに無意識の内に自分に原因は無いと正当化している、あるいは気づいていないということもあるため、周りの意見を聞く、ということである。納得した興梠だが、訪問での聞き込みを始めてしばらくして、穂樽から役割をバトンタッチされるとかなり困った様子ではあった。

 

 その後再び移動し、今2人は依頼人の杏の夫、梨沢壮介(そうすけ)が勤める会社の入り口を臨めるベンチに腰掛けていた。この後対象が出てきたら尾行に移る。が、これからが本番だというのに隣の興梠はかなり疲れた様子でため息をこぼしているのがわかった。

 

「疲れた?」

 

 あくまで意識は会社の方へと向けたまま、穂樽が尋ねる。

 

「疲れました……。どうしても苦手なことなんで」

「でも交代して最初はぎこちなかったけど、最後の方はよかったじゃない? やっぱり慣れだと思うわよ」

「ですかね……。そうだといいんですけど」

 

 発破をかけようと褒めてはみたが、効果は薄かったらしい。もっとも今のは世辞でもなんでもなく、実際そう思っていたからではあったのだが。

 

「でもまあ、それだけの苦労をした甲斐は一応はあったと思うわよ。知人の人間の証言はほぼ総じて『小学校入学当初は明るかったが、それからしばらくして悩みを抱えたようだった』。ここに集約しているわ。依頼人の杏さんは保護者受けもいいみたいだし、彼女の主張は全面的に信じてもいいかもしれないわね。一方で夫の壮介についてほぼ情報が得られないというのは、彼が妻や息子と一緒にいる機会が少ないということの裏づけに他ならない。やはりこのまま彼を当たるしかない、ということがはっきりしたから」

「それはそうですけど……」

 

 しかし、どうにも興梠の表情は冴えない様子であった。特徴的な左右に跳ねた前髪が力なく垂れ下がっているようにも見える。

 

「どうしたの? 気分悪い?」

「あ、いえ。疲れはしましたけど、まだまだ大丈夫です。……私が思ったのは、梨沢さんの息子さんが魔術に覚醒してから、ちょっと不気味がって距離を置くようにしたという話を思い出して……。人って身勝手なんだなって」

「悲しいし残念だけど、そういうものよ。人とウドの誰もが分け隔てなく接するなんてのは、難しいことでしょうし」

 

 話しつつ穂樽は腕時計へと目を移した。時刻は17時。もし定時で上がるとするなら、この後目標の壮介が現れると予想できる。

 

「穂樽さんには申し訳ありませんが……。はっきり言って、私は人とウドがわかりあうことなんて夢物語だと思ってます。だから昨日夢がある方なんだな、って思って、ロマンチストって言ってしまったんです」

「その時にも言ったと思うけど、願うだけならタダって話よ。実際は確かに夢物語かもしれないと思ってる。ウド同士でだって、ぶつかり合うことはあるわけだし」

 

 隣で興梠が視線を落とすのがわかった。仮にも見張っている最中なんだから、と穂樽が注意しようとした矢先。彼女の口から「マカルとラボネ……」という単語が聞こえてくる。

 

「へえ、知ってるのね。私なんてつい数年前まで知らなかったのに」

 

 その一言に、興梠が一瞬身を震わせたのがわかった。

 

「……父が、少し詳しかったんです」

「そうなの」

 

 これ以上は踏み込まないでほしい。そういう雰囲気を隣から感じ取り、穂樽は続けて聞くのをやめた。やはり父親に対して、彼女はあまり良い感情を持っていないように思える。これからもあまり触れないほうがいいかもしれない。

 

 そんな風に考えていたときだった。意識を向け続けていた会社の入り口から現れた男の姿に、穂樽の視線が鋭くなる。

 

「あらあら。……この時間に帰れるのに夕食時に間に合わないというのはどうにも怪しすぎること」

 

 言われて、慌てて興梠も目を移した。見れば、対象の梨沢壮介が入り口付近から出たところで落ち着かない様子で辺りを見渡しながら携帯で何かを話しているところだった。興梠は慌てて立ち上がろうとする。が、穂樽が腕を掴んでそれを制した。

 

「ちょっと待って」

「何でですか? 目標が出てきたんだから……」

「私達の目的は尾行であって確保ではないわ。だから動き出すには少し早い。……それに対象、厄介そうね。かなりの警戒心を持ってる。あれだけ露骨に警戒しているというのは『常に自分は見張られている』みたいな被害妄想な面があるか、あるいは……本当にやましいことがあるかのどちらか。いずれにせよ、警戒心が相当強く見える以上、極力距離を置いて追うしかないわね」

 

 興梠は感心した声を上げたようだった。少し照れくささを感じつつ、相手が動き出したのを待って「行くわよ」と穂樽も立ち上がる。

 対象の壮介は常に早足だった。穂樽は慣れた足取りで追うが、不慣れな興梠はどうにか遅れないようにするのが精一杯で、時に小走りになったりもしていた。

 人ごみを掻き分けるように対象は早歩きを続け、やがて地下へと降りた。視界から見失う可能性を考慮して自然と2人も歩調を早め、どうにか逃がすことなく追跡していく。

 

「地下鉄……ですよね?」

「そう思うけど、家に帰るのにこの路線は使わないはず。……やっぱり何かあるわね」

 

 人が集中する改札を対象の壮介が抜けて、少し間を空けて穂樽が通過し、興梠も間に数人割り込まれながらようやく通り過ぎた時。

 

「興梠さん、急いで!」

 

 聞こえてきた発車のメロディと、同時に駆け出した壮介に穂樽は焦りを覚えた。追いかけたくともまだアシスタントが到着していない。人の波を掻き分け、ようやく合流出来たと同時に穂樽も駆け出した。

 

「どうしたんですか!?」

「丁度ホームに電車入ってきたのよ! 相手はこれに乗る気みたい!」

 

 慌てて階段を降りようとするが、既に電車から降りた客があふれて昇ってきており、どうにかホームに降りることができたときには、もう電車は行ってしまった後だった。一縷の望みを託してホームで壮介の姿を探すが、案の定もういないようであった。

 

「……ごめんなさい」

 

 自分のせいだと思ったのだろう。興梠がうな垂れる。

 

「いえ、今のは仮に私1人でも間に合うか怪しいタイミングだった。だから気にする必要はないわ。それに家と違う方向の地下鉄に乗った、というだけでも収穫よ。それから……相当手強いとわかったのも」

「手強い?」

 

 ええ、と相槌を打って穂樽は駆け下りた階段を昇りつつ答える。

 

「多分こちらの尾行は気づかれてはいない。でも、常時何かを警戒している。……異常なほどにね。そしてその気持ちは焦りにも似たものとなって行動に表れる。常時早足で歩いていたり、今の駆け込み乗車まがいの行動もそうと推察できるわ。ますますもって怪しいわね」

「怪しいって、依頼人の方が言っていた不倫じゃないということですか?」

「今日の一連の行動でその可能性はやっぱり低い気がしてきた。その場合愛人と落ち合う時間は余裕を持つはず。会社の入り口で電話をしていたのに、定時上がりの早足と駆け込み乗車というのは腑に落ちない。加えて……。愛人に会いに行くのにあんなに常時表情を強張らせておく必要ある? これから楽しいことが待ってるはずだというのに、よ」

 

 なるほどと興梠は唸った。しかし一方で穂樽はより難しい表情を浮かべていた。

 

「……これはちょっと本腰入れないときついかもね。興梠さん、明日から若干無茶するかもしれないけど、頑張ってついてきてね。きついと思ったら言ってもらえれば、まあ善処はするから」

 

 隣で相手が苦笑になったのがわかった。今日1日で既に大分堪えている様子であることはわかる。だがアゲハに預けられた以上、甘やかし過ぎるわけにはいかないと考え、明日からの調査に望もうと考えていた。

 

 

 

 




当初はこの話の後半部分を1話相当に引き伸ばしていたんですが、ちょっと冗長的かなということですっぱりカット。一気に縮めてここの後半に押し込みました。


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Episode 6-4

 

 

 翌日、2人は昼前から対象の会社付近へと来ていた。まず外堀を埋める、ということで穂樽は昼休みに休憩に出る会社の同僚を捕まえて話を聞こうという算段だった。

 穂樽の手際は見事だった。同性であり、かつ話が好きそうな女性社員を見つけ、長話にならないよう心がけて話を聞き出す。相手も昼時となれば長く話してはくれないが、一言二言の短時間なら取り合ってくれた。

 以上の自分の点を踏まえ、実際にやってみるよう、途中で穂樽は興梠と役割を交代した。最初は緊張した様子でうまく話せず、時折穂樽に助けてもらった興梠だったが、次第に慣れてきた様子であった。

 

「はぁ……」

 

 しばらく続いた聞き込みを終え、今2人は近くのファミレスにいる。時間のずれた昼食のための注文を終えたところで、気が抜けたようにため息をこぼしたのは興梠だった。

 

「今日も疲れた?」

「疲れました……。やっぱり苦手なことは厳しいです……」

「でも最後の方は私のサポート無しでもうまく話せてたじゃない。昨日も思ったけど、結局は慣れよ。必要以上に苦手意識を持っちゃうから、苦手だと思っちゃうだけじゃないかしらね」

 

 そう言われても疲れるものは疲れる、と言いたげに興梠は苦笑を浮かべていた。しかしそこに苦いだけの色以外のものも浮かんでいると穂樽は気づく。多少は自信がついたのかもしれない、と思うことにした。

 

「……で、対象の梨沢壮介だけど、会社で怪しい噂は無し。優秀で真面目過ぎて面白みすらない。ただし性格は厳しく、常に不機嫌そうであるため接したくない。しかもここ最近は家庭を優先するという理由で重要性の高い飲み会以外ほぼ顔を出していない。……得られた情報を総括するとこんなところね」

「でもウドのはずなのに、普通の人と一緒の職場で勤められるんですね」

「通常はそうよ。会社のお偉いさんがよほど偏見持って無い限りは。……まあ勤めてからの内部の話は、また別問題だろうけど。でも彼の場合、それもなさそうね。ここの職場、比較的ウド多いって話も耳にしたし」

 

 興梠は無言で水を一口飲む。そのままじっと向かいの穂樽を見つめていた。

 

「となると会社での問題という線も薄い。……彼が豹変した理由は家庭でも会社でもない。じゃあ一体どこにあるのか。どう思う、興梠さん?」

「え? えーっと……」

 

 不意に話を振られ、彼女は言葉に詰まった。少し考えてから改めて口を開く。

 

「やっぱり、会社を出てから家に帰るまでの間、そこで何かがあるんじゃないかと思います」

「全く同意見。ちなみに依頼人の杏さんに今朝方電話して聞いたみたけど、やっぱり昨日の帰りは遅かったそうよ。理由を言ってくれなかったところまで一緒。……つまり会社を出てから家に戻るまでの空白の時間、そこに何かが隠されてると考えるのが妥当ね」

 

 そこで注文した食事が届いた。それまで難しい顔をしていた穂樽の表情が明るくなる。

 

「ま、考えても定時の5時まではまだ十分に時間があるわ。腹ごしらえと長めの休憩で英気を養いましょう」

 

 これには同意せざるを得ない、と興梠はナイフとフォークを手にした。チェーン店のファミレスであるが空腹を満たすには十分だろう。いただきます、と一言呟いてから、興梠は目の前のハンバーグにナイフを入れた。

 

 

 

 

 

「……完全に頭に来たわ。本当はとっておきということでやりたくなかったけど、どうやらやるしかないみたいね……!」

 

 不気味な笑みを浮かべた穂樽を見て、隣に座っていた興梠はビクッと肩を震わせる。今は調査開始初日と同じベンチに腰掛け、夕暮れ時、対象である壮介が出てくるのを待っているところであった。

 穂樽がこれだけ苛立つのにはわけがある。実のところ、既に調査を開始してから4日目に突入していた。昼休みに聞き取りを行ったのは2日目。しかしその日対象は地下鉄から電車へと乗り換える際、待っていたと思われたホームの逆側の電車へ発車間際に乗るなどということをやったために、またしても見逃してしまったのだ。

 さらに翌日は前日にまかれたホームを攻略したものの、その後人混みの多いデパートを相手が経由したことによって見失うという失態を演じていた。

 

 さすがにここまでいいところがないと、クールといわれるはずの穂樽の頭にも血が上るというものだ。今日を逃すと明日は土曜日、帰宅前を狙えなくなる。それでも休日家から出て行くところをつける、という手はあるにはあったが、アシスタントがいる前でこれ以上の無様な姿は晒せないと考えていた。

 

「ほ、穂樽さん落ち着いてください。……相手に気づかれてるという可能性はありませんか?」

「それはないわ」

 

 キッパリと言い切った穂樽に、「どうしてそこまで言えるんですか?」と興梠から至極全うな質問が飛ぶ。

 

「張りこむ場所は毎日変えて、今日ここを使うのは久しぶりだもの」

「いえ、ここを使うとかの前に、相手に気づかれてるからあんな不審な動きを……」

「逆よ。彼の動きは一貫して不審なのよ。一昨日にまかれた、ホームの逆側で待ってるように見せて発車間際に乗り込む動作。1度見た後から私は習慣的なものと思っていた。実際に昨日は一昨日と同じ方向の電車に、同じような行動をして乗ってきたでしょ?」

 

 興梠は思い出すように考え込んだ後「……そういえば」と続ける。そのため昨日はその乗り継ぎの後までつけることに成功していたわけである。

 

「彼は普段からああいう行動を取っていると考えられる。尾行を避けるため、とも思えるけど、あまりに習慣的になりすぎて、もう知らず知らずの内に行動パターンに刷り込まれている可能性もあるわね。前に『被害妄想な面があるかもしれない』って言ったけど、場合によっては精神を病んですらいることも考えられる。性格が豹変した、という線も踏まえれば、その説もありうるわ」

「じゃあ退社後に移動している先で、壮介さんの精神を病むような出来事が行われている、と……?」

「それはここで議論しても埒が明かない想像ね。あくまで仮説のひとつ、ということ。……実際に彼を追いかけて何をしているのかの現場を確認しないことには、どうとも言えないわ」

 

 穂樽は両手を広げてみせた。それから時計を見てもうじき夕方5時ということを確認する。

 

「そろそろ、か。……興梠さん、一時的に別行動を取るわ。私は先行して地下鉄の駅付近で待つ。彼が出てきたら私の仕事用の携帯鳴らして。数回コール、最悪私の携帯に着信があったとわかるだけいいから。それで地下鉄の改札抜けたところで合流。いい?」

「え? どういう……」

「私の携帯鳴らしたら、適当に間隔空けてこれまで通り彼をつけてくれればいいわ。十中八九これまで通り地下鉄に来ると思うけど、もしかしたら出てこない、あるいは今日はまっすぐ帰るなんてことも考えられるから、一応」

 

 一方的にそう述べてから、穂樽は荷物の中からヘアバンドを取り出して髪をまとめ、眼鏡を今の赤いメタルフレームから黒のセルフレームへと切り替えた。さらに上着を脱いで手に持つ。

 

「えっと……。穂樽さん……? 何をする気ですか?」

「とっておきの手段よ。あんまりやりたくなかったけど、もう背に腹は変えられない。単独で待ち伏せたほうがやりやすいから、先回りするの」

「は、はぁ……」

「確認よ。彼が出てきてたら私の携帯鳴らして今までどおりきっちり後つけて来て。それから地下鉄の改札抜けたところで合流。……わかったわね? じゃ、また後で」

 

 不安そうな表情を興梠は見せていたが、意にも介さない様子で穂樽は先に地下鉄の方へと歩き始めた。これまで、対象の移動ルートは変わっていない。故に必ず地下鉄を使い、電車に乗り換えて昨日降りた駅までは行く。そしてその先に目的地がある。そう考えていた。

 

 穂樽はさっき興梠に言ったとおり、一足先に地下鉄の駅へと向かった。歩いている途中で携帯が数度震えた音がバッグから聞こえてくる。相手が早足で来てもこちらの方が速いと確信し、そのまま足を進める。

 駅に着き、改札付近で人を待つフリをして、穂樽は手早く準備を済ませた。左手で携帯をいじりつつ、右手の中に「とっておき」を握ったまま、その上に上着を乗せて目標の到着を待つ。ややあって、ここ数日間煮え湯を飲まされ続けている梨沢壮介が姿を現した。何事もないかのように自然な動きで穂樽はその場を離れる。

 事は、改札の列に壮介が並び、その横に穂樽が立った、その一瞬で済んだ。そのまま左手の携帯を改札にかざして通過、壮介がいつもと同じホームに行くのを確認して、人の流れから外れて相棒を待つ。

 

「穂樽さん!」

 

 言いつけどおり、興梠はきっちり後をつけてきたらしい。「ご苦労様」と労いの言葉はかけたものの、説明する時間は惜しいと目で促してホームへと降りる。

 

「あの、何してたんですか? 一瞬隣に並んだように見えたんですが……」

「ええ、並んだわよ。それで仕込みはおしまい。……彼の隣の車両に行きましょう」

 

 丁度電車が入ってきたところだった。穂樽が言ったとおり、2人は壮介のひとつ隣の車両に乗り込む。そこで穂樽は大きくため息をこぼし、上着を羽織ると髪をまとめていたヘアバンドを外した。

 

「ひとまず、これでいいわ。向こうも気づいてないみたいだし。もう人混みで逃がさない」

「そう……なんですか? 何したんです?」

 

 眼鏡を普段の方へと戻しつつ、角度を調整して微笑をこぼす。

 

「大きな声では言えない、グレーな方法よ」

「グレーって……。まさか魔術使ったんですか?」

「そういうこと。……私の魔術は砂塵魔術。さっき横に並んだとき、事前に魔力を込めておいた砂を彼の上着のポケットにそっと忍ばせておいたのよ。即席にして特製の追跡センサー、尾行における私のとっておき」

「そんな便利な使い方が……。でもなぜ最初からやらなかったんですか?」

 

 その問いに対しては、どこか気まずそうに穂樽は視線を逸らした。

 

「……仮にも法律を遵守(じゅんしゅ)すべき弁魔士さんの目の前で魔禁法スレスレ、下手すればアウトなんて方法を取りたくなかったのよ。そして何より……うちで初めてのアシスタントに、魔術を使わないと案件を解決出来ない調査能力ゼロの探偵、なんて思われたくなかったし」

 

 思わず、興梠は吹き出して小さく笑っていた。それを穂樽は少し口を尖らせて見つめる。

 

「笑わないでよ」

「ごめんなさい。でもなんだか、全部完璧にこなせそうな穂樽さんにしてはらしくないというか、意外な理由だなと思って」

「完璧、ねえ……。『当然よ』と返したいところだけど、今回ばかりは散々格好悪いところ見せてるからなあ」

 

 目の前の相手はまだ笑っているようだった。言い返してやりたいところだが、どうも今は分が悪い。何を言っても自分の墓穴になりかねないと、穂樽は恨み言を飲み込むことにした。

 それはともかく、と表情を引き締める。今も隣の車両にいるターゲットの位置はおおよそでわかる。例え人ごみに紛れようとその中を追跡が可能だ。今日は絶対に逃がさないと、揺れる地下鉄の中で穂樽は静かに自らを鼓舞させた。

 

 

 

 

 

 これまで通りの乗り換えルートを経て、やはり壮介は昨日同様にデパートの中へと入っていった。相変わらず人は多かったが、今回は位置を把握できる。少し離れた場所からその動向を探り、ここに来た理由を穂樽は察した。

 

「なるほど、弁当か……」

 

 いくら常時周囲を警戒するような動きをしてるとはいえ、ただ素通りするためにデパートの、それも地下まで行くことはないだろうとは思っていた。その予想的中、相手はここで弁当を調達しているらしい。と、いうことは。

 

「愛人と会うわけじゃなさそうね」

「え? なんでわかるんですか?」

「弁当持参で愛人に会いに行く? ……まあ稀な例であるかもしれないけど。普通は彼女の手料理か、どこかレストランが妥当でしょう。それにしても自宅の夕食より優先して弁当……。どういうことかしら」

 

 呟き、解決しない疑問を抱いてはいるが、2人は確実に壮介を追いかけていく。

 デパートの人混みを抜け、駅前から遠ざかり、そして次第にその姿はひと気のまばらなエリアへと進んで行った。距離を詰め過ぎて気づかれないよう、ほとんど穂樽の追跡センサー頼みで尾行を続ける。

 しばらく経ってから、その移動がほぼ止まった。物陰からその方向を探ると、周りからは少々不釣合いな6階建ての雑居ビルが目に入る。が、電灯は最上階である6階以外点いておらず、他はテナントすら入っていないような、実質ほぼ廃ビルのように見えた。

 

「終着地点はあそこの最上階みたいね。……さて、これからどうするか」

「どうする、って……。当然乗り込むんじゃないんですか?」

「1つ目の方法としてはそれね。ただ、どうにもきな臭い感じがする。危険が待ってるかもしれないし、荒事になる可能性もあるわ」

 

 危険と荒事、という単語を耳にして興梠が思わず生唾を飲み込むのがわかった。続けて穂樽は次の案を提示する。

 

「2つ目。ここで彼が出てくるのを待つ。そこでその姿を写真に収めて撤収。あとは家族に任せる。……こちらは消極的案ね」

「それで白を切られたら調査の意味が無くないですか? だったら相手が何をしていたか、そこまで抑えたほうがいいと思います」

「……控えめな印象持ってたけど、大胆な意見ね。でも私も同意するわ。虎穴に入らずんば虎子を得ず。……人目につかないような、廃ビル紛いの建物の最上階だけについた電灯。どうもよくないことをしていそうな雰囲気がある。何をしているのか、依頼人に詳しく報告するには行くしかないわね」

 

 興梠は重々しく頷いた。余計な言葉をかけなくても、事の重要性と危険性を把握している。そう穂樽は考え、先頭に立って慎重に足を進め始めた。

 

 半廃ビル、ともいえる建物は近づけば近づくほど不気味であった。辺りを確認するが、見張りの類はいないらしい。入り口のドアは半分が壊れているのかガラスが割れているかしているらしくベニヤ板で覆われて固定されており、動くのは残りの半分だけだった。特に鍵はかかっていないことを確認して中に入る。

 ビルの中は静かであったが、さすがに最上階にいるはずの人間の声は聞こえてこない。エレベーターすらないかなり老朽化の進んでいるであろう建物の階段を昇りかけたところで足を止め、穂樽はバッグの中から砂入りの小瓶を取り出し、階段の昇り口辺りにばら撒いた。

 

「……何してるんですか?」

 

 自然と小声になった興梠が穂樽に不思議そうに問いかける。

 

「センサーよ。今度は追跡用じゃなくて、感知用だけど。もし後から誰かが来たとしてもわかるようにしておくの。そうすれば、退路を失う前にそれなりの対処が出来るわ」

 

 興梠は感心しきった声を上げるだけだった。そんな彼女を目で促し、ゆっくりと階段を昇っていく。半廃ビルという表現は正しいかのように、途中のフロアにはテナントが入っているどころか、既に使われなくなった机や荷物が放置されて荒れ果てている。まさに廃墟といっても過言ではない状況だった。

 最上階が近づくにつれて男のものと思われる声は次第に大きくなっていった。人数はわからないが結構な数と推測できる。時折笑い声も聞こえてきた。

 5階と6階をつなぐ踊り場で穂樽は足を止めて振り返った。この場所からでも、不明瞭な部分は多いが「魔術が……」や「まあふっ飛ばせばいいんだけどよ……」といったあまりお世辞にもよろしくないような単語はなんとなく聞こえてきていた。そこを踏まえて、穂樽は顔を興梠の耳元に寄せ、囁くように話す。

 

「集音マイクとレコーダー持って来てるから、入り口前でそれを使って会話を録音するわ。依頼主に提出すれば、態度が変わったことの原因究明に繋がるかもしれない。そして……よからぬ内容なら警察沙汰になった時、良くも悪くも証拠になる。適当に録音したら、ばれる前に帰るわよ。いいわね?」

 

 言いたいことだけを言って興梠に確認を取るでもなく、穂樽はバッグの中からマイクとレコーダーを取り出した。6階入り口の扉付近に陣取り、マイクを手に彼女自身も耳を済ませる。

 

「……で、お前最近会社の調子はどうなんだよ?」

「そっちはボチボチ。家庭がめんどくせえな」

「ああ、わかるわかる。別れてもいいけど慰謝料とか取られるとたまったもんじゃねえ。よう、お前らも結婚するときはちゃんと相手選べよ?」

「なーに先輩面してんすか。……いやまあ実際人生の先輩っすけど」

 

 聞こえてくるのは世間話の延長線上のような内容だった。よからぬことがあるだろうという事前の穂樽の予想と裏腹、普通すぎる話題に肩透かしを食らった感じを覚える。しかし聞こえてくる声と内容から察するに、ほとんど、あるいは全員男ではあるが、年はかなり上下しているということがわかった。

 今の年上側と思われる男の発言は壮介であろうか。仮にそうだとすると、家庭に不満を持っているようにも感じられる。

 

「大体結婚とかめんどくさいだけでしょ?」

「これだよ、若いのは。だから少子高齢化が進むんだよ。それに家庭持つといいこともあるにはあるぞ?」

「家に帰れば嫁さんとヤりたい放題!」

「んなもん金払って風俗でいいじゃねえかよ。元が元な上に年と共に劣化してくんだぞ。あんなの相手じゃ俺の自慢の息子も拗ねちまうよ」

 

 次いで聞こえてきた下卑た笑い声に、穂樽は軽く頭を抱えた。これでは本当にただの飲み会の品の無い話ではないか。どうもアルコールが入っているような雰囲気もあり、なおさらそう思える。だがそうだとするなら、調査対象の壮介がここに来るのと豹変したこととは何の関係もない、ということだろうか。

 

「若いうちにいい女見つけとけ。それが、人生の先輩からのありがたいお言葉だ」

「そんな簡単に見つかったら苦労しませんって。それに見つかったらここ来なくなるかもしれませんよ?」

「おう、それは困る。ただでさえ人減ってきてるのが問題なんだ。んじゃあ理解ある女見つけて一緒に来ればいいだろ」

「ぜってー冷やかすでしょ? あとその前にいませんって、そんな女」

 

 これは自分の考え過ぎだったかもしれない。調査対象の壮介は会社でも家庭でもない別なところ、あるいはそこで知らず知らずのうちにストレスを溜めてしまっていたかで、ここで愚痴って憂さを晴らしている。穂樽はそんな気がし始めていた。男達の繋がりこそ疑問だが、もうしばらく粘ってこの調子なら今回は自分のカンが外れたということになるだろう。

 そんなことを思って、半分諦めの心が生まれてきた矢先。

 

「そもそもそれってウドの女が最低条件、しかもその上でうちらの思想じゃないとダメってことじゃないっすか?」

「いや、そこまでラボネ思想に染まってなけりゃ問題ない。洗脳しちまえばいいんだよ」

 

 聞こえてきたその言葉に一瞬にして穂樽の顔が強張った。同時にこの年齢に差のある集団の繋がりも見えた気がした。そう、彼らを繋ぐものは――。

 

「確かにおっしゃるとおりか。我らマカルに繁栄を、ってね」

「女の1人ぐらい大した問題でもないだろ。去年にはテロ紛いのことをやらかしたんだしな」

「しかし4年前のあの件以来、先導者不在状態だ。でかいことを起こすにはさっさと俺達が台頭して、まとまりきれていないこの現状をなんとかしないと、マカルの繁栄どころの話ではなくなってしまう」

 

 マカル。かつてセシルを巡る一連の事件の時に黒幕であった、麻楠史文(まくすしもん)を先導者としていたウドの派閥。その思想は過激で、「自分達を虐げてきた人間を憎み、ウドの支配下に置くべき」というものだ。しかし今部屋の中からも聞こえてきた4年前に、セシル絡みの事件が起こる。それによって先導者を失い、また多数の逮捕者を出したことで弱体化の一途をたどっていたと聞いていたが、どうやら彼らはその残党だったらしい。

 同時に、壮介の異常についても腑に落ちたように穂樽は感じていた。依頼人である彼女の話によると、確か夫の異常は4年前からという話だった。つまり、先導者の麻楠をはじめとして多くのマカル信者を失ったことにより、壮介は自分が信奉するマカルが消滅するかもしれないという焦りと、いつか自分にも捜査の手が伸びてくるかもしれないという不安を覚え、今のようにこれからのマカルをどうするか集会に頻繁に参加するようになった。あるいは、この集会を心の拠り所としていた。そのため、家庭を顧みないようになったのではないだろうか。

 

 調査対象の豹変の理由は、おそらくその辺りで間違いない。違ったとして、何かしら関係していると見るのが妥当だろう。少なくとも、妻は夫がマカルであるという事実を知らないはずだろうし、会社での勤務を終えた後に自宅に帰る前にここを経由しているというのは、今確認した揺るぎない真実だ。

 ならもう調査は十分過ぎる。ここいらが潮時だろう。幸い下の砂のセンサーに反応は無い。今から階段を降りれば、自分達の存在に気づかれること無くビルを脱出できるはずだ。

 そう考えをまとめてからの穂樽の決断は早かった。レコーダーを止めて集音マイクをしまい、背後の興梠に目で促して撤退を指示しようとした。が、彼女は俯いていて穂樽の視線に気づかないようだった。

 

「興梠さん、帰るわよ。情報は十分過ぎるほど集まった。これ以上ここにいると見つかるリスクも高まる。そうなる前に退きましょう」

 

 耳元で囁くように声をかけ、階段を降りようとする穂樽。だが、直後に聞こえた「ごめんなさい」という一言に、その足を止めた。

 

「……興梠さん?」

 

 振り返った穂樽は、これまで見たことが無いほどに興梠が深刻な表情をしていることに気づいた。

 

「彼らは、道を踏み外そうとしています。いえ、聞く限りもう踏み外してしまっているのかもしれない。……私は、そんな同胞を黙って見過ごすことは出来ません」

 

 何か決意のようなものと共にそう告げた彼女は、階段を降りるどころか、逆に一段昇った。嫌な予感が穂樽の脳裏をよぎる。それを証明するかのように、興梠はドアノブへと手を伸ばしていた。

 

「待っ……!」

 

 穂樽が制止しようとする声を投げかけるより早く。

 興梠は躊躇い無く狂信者が集う部屋の扉を開いた。

 




麻楠逮捕によってマカルが衰退したかはわかりませんし、4年も経てば再建できる気もしないでもないのですが、密かに最高裁長官にまで上り詰めた人間が失脚したとなれば一気に弱体化するのではないか、と考えて今作ではそういう設定を取っています。


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Episode 6-5

 

 

 突如として開け放たれたドアに、部屋の中にたむろしていた男達は固まった。室内は殺風景で、酒などの飲食物が置かれた机と、男達が座っている椅子以外目ぼしい物は無い。数は10人程度。年は20代、下手をすればまだ10代という若者から上は40代程度までと様々だった。その中にはここまで尾行してきた梨沢壮介の姿もある。

 

「……なんだあんた?」

 

 その中でも特に若い男が疑いの眼差しで部屋の入り口に立つ興梠に問いかけた。彼らからすれば招かれざる客、しかもまだ若い女だ。皆の敵意に満ちた視線が彼女へと突き刺さる。

 だが普段人見知りであるはずの興梠は、全く引かなかった。その視線を受けつつも、口を開きはっきりと告げる。

 

「私はバタフライ法律事務所というところの弁魔士です。ある調査に当たっていた途中でここを突き止め、申し訳ありませんが先ほどからしばらく話を聞かせていただきました。……自首してください。私は、これ以上同胞が道を踏み外そうとする姿を見過ごすことは出来ませんし、見たくもありません」

 

 虚を突かれたように、一様に男達は目を見開いた。最初に声をかけた若い男がどうすべきかと年長の人間達の方を仰ぎ見る。が、視線を向けられた男は意にも介さないように小さく笑っただけだった。

 

「弁魔士? その若さで、しかも女でか。そいつは大層すごいことだな。でも俺達に自首しろとか言ってくれたけど、何かしたって証拠でもあるのかい、お嬢さん?」

「さっきあなた方が自分の口で言いました。『去年にはテロ紛いのことをやらかした』と。私がこの耳で聞きました。詳しく調べてもらえば、それが何かもわかるでしょう」

「なるほどなるほど。お嬢さん自身が聞いたと。……じゃああんたからの証言が無くなれば、自然と俺達の疑惑は消えるわけだ」

 

 ゆらり、と男は立ち上がった。ピリピリと空気が張り詰め、殺気が向けられる。

 

「……私を殺すつもりですか?」

「そこまでしなくてもいいがな。だがあんたが証言すると俺達が困ることになるな。……闇から闇へ。それで通じないほど、鈍いわけじゃないだろ?」

「やめてください。……可能なら、私は同胞に手を上げたくありません」

 

 その答えに対し、笑い声が響く。今度は先ほどの男だけでなく、他数名も笑い声を上げていた。

 

「同胞に手を上げたくない? ……上げたところでどうなる? 敵うと思ってんのか、この数の差で?」

「それにな嬢ちゃん、俺らとあんたらは同胞でもなんでもねえよ。あんたもウドだろうけどな、俺達は特別だ。一緒にしてもらいたくねえんだよ」

「私は……!」

「ともかく、問答は終わりだ。……抵抗するなら手荒にいくぜ」

 

 それをきっかけに部屋中の男達が戦闘体勢に入る。対する興梠も迎え撃とうと、魔力を集積させてある弁魔士バッジに右手が触れようとしたところで――。

 不意に部屋の外から左腕を引っ張られ、体が階段へと踊り出た。

 

「ちょ、穂樽さん!?」

「何けしかけてんのよ! 多勢に無勢、逃げるわよ!」

 

 強引に興梠の腕を引っ張り、穂樽は階段を駆け下り始める。

 

「仲間がいやがったのか! 飛び降りても大丈夫な魔術の奴は先回りして外を抑えろ! 逃がすな!」

 

 部屋から聞こえてきた声に対して歯噛みし、左手に持っていた携帯を上着のポケットに入れた代わりに砂入りの容器を取り出すと、穂樽は扉の入り口付近へとそれを投げつけた。階段を駆け下りながら足止めのために適当なタイミングで魔力を注いで破裂。階上から男達の怯んだ声と、次いで罵声と共に「挟み込むぞ!」という声も耳に入ってきた。

 

「連中の数は?」

「数……。えっと……10人ぐらいです!」

「そんなの相手にするの無茶に決まってるでしょ! ったく後先考えなさいよ!」

 

 文句を述べつつ走る隣から「……ごめんなさい」という謝罪の言葉が聞こえてくる。謝るぐらいなら、と言いかけた穂樽だが、代わりにさっきポケットに入れた震えている携帯を取り出すと、左手1本でそれを操作して耳へと当てた。

 

「クイン警部!? 緊急です。さっきGPS送った位置に大至急応援、お願いします! 説明してる暇は……」

 

 そこで、上の階から放たれたであろう火球がひとつ上の踊り場で破裂した。爆音を轟かせ、熱風が肌を撫でる。

 

「聞こえました!? 今のが説明の代わりです! あとでいくらでも埋め合わせします。こっちは2、向こうは10程度。冗談抜きでまずいんで頼みますよ!」

 

 携帯をバッグへと放り込みながら、反射的に舌打ちがこぼれる。下のセンサーが異常を感知。さっき言われたとおり、挟み撃ちにする気だ。

 4階を通り過ぎる際に穂樽は壁に手をかざし、そこを破片状に削って入り口に集めて塞いだ。砂塵魔術の応用、魔力によって壁を削って媒介として発動させる強引な方法だ。その様子を見て興梠が不思議そうに尋ねる。

 

「穂樽さん、今の……」

「時間稼ぎのカモフラージュ。それより応戦するわ! 次の階に立てこもるわよ!」

「え、逃げるんじゃないんですか!?」

「下のセンサーに反応、このままだと下から来る奴に挟み撃ちにされる。階段で上下挟まれてやりあうぐらいなら、篭城した方がまだ分がある!」

 

 言ったとおり次の階、3階の部屋の中へと2人は駆け込んだ。そこで穂樽は先ほど同様壁目掛けて手をかざし、壁の一部を削って入り口へと集積。即席のバリケードを作り上げて部屋の奥へと進む。

 どうやらこのフロアは元々事務関係のテナントが入っていて、その後放置されたらしい。事務デスクや椅子が散乱しており、そのうちのデスクのひとつの裏に身を潜めるように穂樽は腰と荷物を下ろして、切れた息を整えようとした。

 

「穂樽さん、逃げないで篭城してどうするんですか? 3階ぐらいなら、魔術を使いながら飛び降りれば……」

「下には何人か先回りしてる連中がいる。窓から飛び降りようとすれば当然魔術で狙い撃ちにされる。うまくそれを切り抜けても、そこで足止めされれば相手に数で負けている以上、四方を囲まれておしまいよ」

「だからって篭城しても……」

「時間が稼げればいい。あなたが部屋に踏み込んでる間に、ここのGPS座標を添付して知り合いの警部にメール送って応援要請しておいたのよ。それでさっきの電話はその確認。こっちがまずいのは伝わったと思うから、しばらく粘れば来てくれると思う」

 

 いつの間に、と小さく興梠はこぼしていた。あの間穂樽はただ息を潜めて成り行きを見守っていただけではない。もしもの場合に備え、既に次の手を打っていた。なのに自分は、と後悔の念が今更になって興梠に押し寄せてきていた。

 

「……すみません。私が後先考えずに飛び込んでしまったせいで……」

「まったくよ。目の前のことだけ見るところとか、セシルそっくり。そこだけはあの子に似ないようにしなさい。……でも可能なら、やっぱりあなたは検事になるべきだったと思ったわ」

「え?」

 

 この状況で突然何を、と興梠は戸惑ったように穂樽を見つめた。それに対し、どこか得意げな笑みが返ってくる。

 

「正義感が強すぎるぐらいじゃない。本当に人見知りかと疑うぐらいしっかりしてた。あいつらにぶつけたセリフ、かっこよかったわよ」

「私は……そんな……」

 

 恥ずかしそうに、あるいは気まずそうに視線を逸らす興梠。再び小さく笑う穂樽だったが、上の階で激しい音がしたことで、表情を引き締め直した。

 

「……無駄話はこのぐらいにしましょうか。上の階のカモフラージュに引っかかってくれたみたい。でも大した時間稼ぎにはならないはず。すぐこの階に来るわ。私はバリケードを補強するけど、残念ながらおそらくあまり持たないと思う」

 

 言いつつも、穂樽は右手をバリケードへと向けて強度を保てるように魔力を注ぎ始めた。

 

「突破されたら、入り口で対処する。突入箇所が一箇所しかなければ、対処はしやすいはず。……あれだけの大見得を切った以上、当然魔術は荒事向きよね?」

「はい。魔炎魔術です。……魔術は父の方に似てよかったです」

「それは頼もしい。ここ、砂が無いから壁削って使うとか無理矢理な方法使わないと私はまともに魔術発動も出来ないのよ。任せるわね」

 

 真面目な表情で興梠は頷いた。その顔から自信が窺える。

 ならば、あとはこの若き弁魔士に任せようと穂樽は思うのだった。そもそも退こうとしたところでわざわざ姿を晒してけしかけたのは彼女だ。その分の責任は自前で取ってもらいたい。

 

 ややあって、この階のバリケードへも衝撃が加わり始めた。破られまいと穂樽が踏ん張る。その魔力追加もあってしばらく持ちこたえてバリケードだが、数度の衝撃の後に破られた。水が室内に飛び散った様子から、相手に魔水使いがおり、その水圧の衝撃で突破したものと推測できる。

 即座に穂樽は次の魔術を発動させた。「無理矢理な方法」と自称したし砂がない以上使用が限定されるのは事実だが、使えないわけではない。先ほど同様に魔力をこめて壁を削って砂塵の代わりとし、それを入り口付近にぶつけて相手の出鼻をくじく。

 

「興梠さん!」

「はい!」

 

 魔術を使いながら叫んだ穂樽に対し、先ほどの指示通りの行動をするべく、興梠は返事を返しながら既に準備をしていた。右手で左肩付近の弁魔士バッジに触れる。そのまま軽く握った手を目の前へと動かして開いたときには、掌から炎が浮かんでいた。次いでくるりと手首を捻って掌を相手の方へと向ける。その動きに呼応するように炎が鮮やかに尾を引いた後で、気合の声と共に彼女は右手を突き出した。

 放たれたのはさほど大きくもない火球だった。それは入り口からは離れた位置へと着弾、破裂する。狙いが外れているんじゃないかと思った穂樽だが、直後、興梠が意図的にその位置に放ったのだと悟った。

 

「なっ……!」

 

 その威力に穂樽は目を見開いた。室内に爆風が吹き荒れる。積もっていた埃が巻き上がり、爆心地から10メートル強は距離があったはずの穂樽の髪を激しくなびかせていた。

 

「あ……。久しぶりだからちょっと加減間違えたかな……。もうちょっと力絞らないと」

 

 さらに続けて呟かれたその一言は、穂樽の興梠に対する評価を改めさせるのに十分過ぎた。あれだけの一発を放っておいて、全力どころか力をセーブしてのものだという。魔炎魔術の威力だけならセシルにすら匹敵するのではないかと思える。もっとも、向こうはその他に数種魔術を使えるという規格外の存在であるために一概に比較できないとも言えるが。

 続けざま、入り口で対処するという考えの下に興梠はもう1発小型の火球を放った。今度は先ほどより二回り程度小さな火球で、その見た目に相応しく今度の爆発はより小規模だった。

 しかしそのために相手が怯まなかったのか。爆発直後、魔水使いと思われる男が体の周囲に水の障壁を展開させたまま飛び込んできた。その障壁に使っていた水を掌に集め、興梠へと撃ち出してくる。

 

「危ない!」

 

 だが穂樽の叫びに対して彼女は慌てた様子も無く、弁魔士バッジに右手を触れると、そのまま腕を横へと振るった。それだけで尾を引いた炎が灼熱のカーテンとなって目の前に現れ、相手の魔水による攻撃を蒸発させる。

 

「嘘だろ!?」

 

 悲痛な声を上げた男同様、机の陰から様子を窺っていた穂樽も同じ思いだった。炎にとって天敵であるはずの水を全く寄せ付けない。そして興梠が右腕を先ほどの逆に振ると、炎のカーテンは消え去っていた。手品か何かを見ているような錯覚に、穂樽も飛び込んできた男も一瞬目を奪われた。

 直後、興梠は入り口側へと両手をかざしてランダム、かつ拡散状に連続で魔炎魔術を行使する。放たれた小型の火の玉は、さながら弾幕の如く相手へと襲い掛かる。最初に部屋に入ってしまった不運な魔水使いは、攻撃などという選択は到底取れず、水の障壁を作り出すという防御一辺倒でやりすごす他なかった。さらに今の攻撃の直前に部屋に入り込んだ2人もまた、互いに魔術を防御に回すことでどうにかダメージを避けている。

 あれだけの人数相手に大見得を切ったのは伊達ではなかったと、穂樽は痛感していた。これほどの魔術の技量、恐ろしく優秀だと容易にわかる。少なくとも今目の前で、3名ものマカルの魔術使い相手に攻撃をさせないほど魔術で押し続け、足を竦ませているのだ。

 

「すごい……」

 

 セシル以外のウドの魔術を見て畏怖を覚えたのは久しぶりだと穂樽は思った。天性の素質を持つ彼女を髣髴とされるような若き魔術使いに意図せず見入りかけてしまう。自分があそこで手を引く必要などもしかしたらなかったのかもしれない。彼女は自分の正義感に従い、負けるわけはないと思っていたから踏み込んだのではないだろうか。

 穂樽が鉄火場に似合わずそんなことを考えていた、その時だった。階段側の壁が音を立て、ひびが入った。誰かが別ルートから突入しようとしているとわかる。

 

「穂樽さん!」

「わかってる、私がやるわ!」

 

 弾幕の展開をやめ、今度は相手側からの攻撃に対して防御の姿勢をとろうとしていた興梠に穂樽が呼応した。再び壁が音を立て、今度は人が通れる程度まで崩れる。おそらく魔震魔術。震動を発生させる魔術によって壁を破壊したのだろう。

 だがそうはさせない。壁を破壊されると同時、入り込んでこようとした男に対し、今破壊した壁の瓦礫を砂塵の代用として利用し、穂樽は自身の魔術をぶつけた。悲鳴と共に階段の途中から身を乗り出して入りかけた男が、壊した壁の下の階段へと落下する。

 しかしそれで安心は出来なかった。今度はその隙間から闇雲ではあるが魔氷魔術がとんできた。狙いを定めてない以上、命中率は極めて低いがそれでも当たらないとは限らない。砂塵魔術として利用できる分の瓦礫をかき集め、興梠を守るように壁を作る。自分は避ければいいと割り切って、近くに飛来した一発を飛び退いてかわした。

 それでもまだ難は去っていない。魔氷の攻撃が終わったところでまた壁の隙間から侵入しようとする気配を穂樽は感じた。その術者であろう。これ以上自分の魔術で壁を削って媒体として使用すれば破壊された部分がより広がって相手に有利になるかもしれない。そう判断した彼女は、目の前にあった放棄されていたキャスター付きの椅子を壁目掛けて思いっきり蹴り飛ばした。加速された椅子は見事に侵入しようと顔を覗かせた相手に命中、階下へと落下させることに成功したようだった。

 

「あ」

 

 その男が落下する直前、相手の顔を見た穂樽は思わずそう声をこぼしていた。「どうしたんですか!?」と入り口側の相手とやりあいつつ興梠が尋ねてくる。

 

「……今椅子蹴って落とした相手、梨沢壮介だった」

 

 場の緊張感に似合わずそう言った穂樽の一言に、興梠は小さく吹き出した後、こちらも場に似合わず声を上げて笑った。この状況下で笑えるという神経の太さに賞賛と呆れの気持ちを覚えつつ、入り口側の様子を仰ぎ見る。

 双方の応酬は相当あったはずだった。だが穂樽は自分のところに相手からの魔術の飛来はほとんどなかったことに気づいていた。そしてこちら側の興梠より、数で勝るはずの相手の方が圧倒的に押されている様子もまた見て取れた。

 

「まだやりますか? さっき言ったことをもう一度言います。自首してください。そうすれば罪も少しは軽くなるはずです」

 

 威圧感のある声でそう告げられ、相手側は見るからに狼狽した。既に実力差は明白、しかも興梠が手を抜いているであろう事は相手側もわかっているはずだった。

 

「そこで追加で『弁護します』って続けるの。それでセシルみたいになれるから」

「……穂樽さん、おちょくらないでください」

 

 小声で返した興梠は困り顔ではあったが、まだまだ余裕が見て取れた。さて仕切りなおして相手側がどう出るか。そう穂樽が考えていた時。

 

 どうやら篭城戦は終わりを迎えるようであった。遠くからパトカーのサイレンの音が近づいてくる。さすが仕事が早い、と半ば感心しつつ、穂樽は勝利を確信した。

 

「残念ながら手詰まりみたいね、マカルの皆さん。今近づいてきているサイレン、私が呼んだ警察よ。これ以上抵抗して公務執行妨害もつけられるぐらいなら、おとなしくお縄についた方がマシだと思うけど?」

「私達を人質に、なんてやぶれかぶれの玉砕覚悟で来るのはやめてください。そうするなら、今後はそちらの安全を保証しかねます」

 

 有無を言わせない口調に、もはや相手の戦意は喪失状態にあったようだった。さらに追い打ちをかけるように近づいていたサイレンの移動が止まり、「無駄な抵抗はやめろ、警察だ!」という叫び声と、威嚇であろうか発砲音も下から聞こえてくる。それを聞いてついに相手も観念したようであった。

 

「警察だ! ……って、誰も抵抗する気ねえのか? いい心がけだ、こっちの手間が省けて助かる。んじゃ魔禁法違反の疑いでさっさと確保」

 

 拳銃を片手に咥え煙草のまま部屋に踏み込んできた江来利(えらり)クイン警部はそう言うと拍子抜けしたように銃をしまった。後から続く警察の隊員が無抵抗の相手を連行していく。

 その様子をしばらく見つめて煙草の煙を吐き出してから、クインは穂樽の方へと歩み寄った。それまで相手を堂々とした態度で圧倒し続けていた興梠が身を震わせて小さく後ずさったのが穂樽にはわかった。

 

「大丈夫よ、知り合いだから」

 

 安心させるように声をかける。が、それでも効果は薄かったらしい。

 

「でも……警察の方ですよね……?」

「ああ、そうだよ。お前らも一応魔禁法違反の疑いあるんだが。……ってかこいつ誰だ? お前の依頼人?」

 

 相手を警戒し続ける興梠を無視してクインは穂樽に問いかけた。

 

「いえ、彼女はバタ法の新人です。ちょっと訳あって、研修ということで今預かってるんです」

「バタ法? ……まーたアゲハさん絡みか。まあいいや。で、あたしがここに踏み込んだ価値は魔禁法違反のチンピラ捕まえた以外にあるんだろうな?」

「連中が去年テロ紛いの何かやらかしたって事は私も彼女も聞いてますし、ここに録音したレコーダーもあります。それ以外にも、おそらく叩けば埃が出るでしょう。まあ来てくれたおかげで助かりました。というか、私を助けたというだけじゃ踏み込んだ価値になりませんかね?」

 

 ガリガリと頭を掻いて「あーはいはい」と適当にクインは返事を返す。それから2人に背を向け、顎でついてこいと合図した。

 

「とにかく詳しい話は下の車の中で聞く。……こっちも形式ってものがあるからな」

 

 やれやれとため息をこぼし、しかしどうにかこの場を乗り切れたと穂樽は足を進めようとする。その背に「あの……」と興梠の声が飛んできた。

 

「大丈夫……なんですか? 私達ももしかしたら魔禁法違反なんてことに……」

「多分問題ないわよ。ああ言ってるけど、クイン警部も私達が不利な状況で正当防衛に魔術使用したって事はもうわかってるでしょうし。魔禁法十条適用で見逃してくれると思うわ。……何よりあの人、ツンデレってやつだから」

「聞こえてんだよ! そりゃおめーだろ!」

 

 怒鳴られたのは穂樽だったはずなのに、なぜか代わりに身を竦ませたのは興梠だった。が、次にはもう苦笑が浮かんでいた。

 

「……なんだか今日1日物凄く長くて疲れた気がします」

「まったくよ。明日は土曜だし休みにするわ、もう」

 

 先ほどの苦笑を崩せないまま、興梠は穂樽に続いた。長いと感じた1日はようやく終わりそうであった。

 

 

 

 

 

「あー……。まいったわ、まったく……」

 

 大捕り物の翌日、居住区で携帯の通話を終えて机に置いてから、穂樽は身をソファに横たわらせた。昨日の一件で梨沢杏からの依頼は意図せずひとまず完了というような流れとなってしまった。夫である壮介が逮捕となれば、もう離婚相談云々という話ではないだろう。

 そういう考えでとりあえず今アゲハに報告の電話を入れたところ、向こうも状況を大まかに把握していたようだった。そのため壮介の調査自体は一旦中止になりそうだが、引き続き興梠は預かってほしいと言われた。詳しくは休み明けの月曜に再び依頼人が訪れるらしいのでその時に、ということで話を終えている。

 

 結局クインは魔禁法十条扱いで見逃してくれた。とはいえ、穂樽も興梠も鉄火場を乗り越えたために疲労は溜まっており、穂樽は2日間休みにするということを興梠に伝えてある。今日はゆっくりしよう。そう思いながら、横になったまま机の上の煙草の箱を開けて1本取り出して咥えた。

 

「穂樽様、寝煙草は……」

「やらないわよ。咥えるだけだって」

 

 普段通りの使い魔とのやりとりの後、何と無しに穂樽は天井をぼうっと見つめていた。疲労は抜け切っていない。どうにも冴えない頭を無理矢理覚醒するために煙草を取り出しはしたが、このまま目を閉じて眠りに落ちても別にいいかと思う。

 

「……なんで今回こんな割に合わないことばっかなのよ」

 

 元はといえばアゲハが興梠を押し付けてきたことから始まっているのではないかと思わず穂樽は愚痴をこぼした。興梠のことを嫌っては決してない。押し付けてきた、とは若干思うが、アゲハに対しても言うまでもないことだ。とはいえ、昨日は彼女があそこでドアを開けて踏み込んだせいで荒事になってしまったという感じは否めない。

 

「しかし正義感が強いとはいえ、明らかに相手の方が多いのに踏み込む、普通? 向こうに金属機動具(ディアボロイド)使いとか面倒な魔術使うのがいなかったのがせめてもの救いよ」

「ニャ? よくわからニャいけど、昨日は興梠が踏み込んだのかニャ?」

「そうよ。まずい気配があったから私はさっさと帰るつもりだったのに、あの子が『黙って見過ごせない』とか言って……」

 

 昨日の状況を説明している最中で、穂樽は何かに思い当たったように口を閉じた。その時興梠は何と言ったか。その事実に思い当たると同時、ふと、疑問が頭をよぎっていた。

 

「穂樽様、どうしたのニャ?」

「……いえ、あの子の言動にちょっと引っかかるところがあって。彼女、『同胞に手を上げたくない』って言ったなと思って」

「どこが変ニャのかニャ?」

「以前同胞という考え方をしたことはあまりない、って言ってたなと思っただけ」

 

 考えが変わったということだろう、と深く考えず、穂樽は身を起こして煙草に火を灯した。その時のライターの火に、昨日の興梠の八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍を思い出す。

 

「……にしても凄かったな。遅咲きで覚醒した魔術であれとか、どんだけよ」

「興梠も魔術使ったのニャ?」

「ええ、使ったわよ。魔炎魔術。父親譲りだって」

「じゃあきっと父親が凄かったのニャ。興梠はそれを受け継いだのニャン」

 

 煙を吐き出しつつ、穂樽は少し渋い表情を浮かべていた。

 

「魔術のセンスって遺伝するわけでもなかったと思うけど? セシルとかそうだし。親から遺伝するのは魔術の覚醒確率ぐらいで……」

 

 そこで、再び穂樽は言葉を切った。煙草の手を止めたまま、何かに気づいたように渋い表情は消え去り、視線を宙に彷徨わせている。

 

「今度はどうしたニャ?」

 

 ニャニャイーの問いかけにやや間が合ってから、穂樽は真剣な表情で声の主を見つめ返した。

 

「……ニャニャイー、あの子は魔炎魔術使いと言った後、『魔術は父の方に似てよかった』と言ったわ。……どう思う?」

「どうって、さっき穂樽様が言ったとおりニャ。父親も魔炎魔術使いだった、じゃニャいかニャ?」

「ええ、そうね。確かにそう。私もそう思った。……でも、それだけじゃなく捉えられるかもしれない」

「ニャ?」

 

 まだ葉が残っていた煙草を揉み消し、穂樽は立ち上がった。その目は先ほど同様、真剣そのものだった。

 

「出てくる」

「どこ行くニャ?」

「クイン警部のとこ。……どうしてもこの考えを無視できない。もし私の仮説が当たってるとするなら……彼女、セシル以上に異質で……場合によっては無視できない存在かもしれないわ」

 

 

 

 

 

 警視庁前、外の喫煙所で穂樽は煙草を手に人を待っていた。既に目的の人物にはメールを飛ばしてある。早く出てきてほしいが、無理を言ってるのはこっちだ、待つことになっても仕方ないとただ煙を燻らせていた。

 1本目を吸い終える頃、不機嫌そうに近づく顔があった。穂樽が呼び出したクイン警部、その人である。彼女の姿を一瞥して軽く頭を下げてから、穂樽は2本目の煙草を取り出して咥えた。

 

「なんだよ、こちとら暇じゃねえんだぞ。昨日の件は連中とっ捕まえた分でお咎め無しにしてやったろ?」

「ええ、その件は感謝してます。……今日はそれと別なお願いで。調べてほしい人物がいるんです」

「おいおい、またあたしを使いっぱしりにする気か? お前のことは嫌いじゃねえけどな、便利に使われるだけってのは……」

 

 煙草に火を灯し、愚痴をこぼし始めたクインの胸元に、穂樽は何かを押し付けた。訝しげにクインがそれに目を落とし、茶封筒だと確認する。

 

「……何の真似だ?」

「タダでとは勿論言いません。これでお願いします」

「現職の刑事買収する気か? 受け取れるか、こんなもん」

「クイン警部!」

 

 異議は受け付けない、とばかりに穂樽の茶封筒を持つ手は押し返された。それでも諦め切れないと視線を送るが、煙を吐かれて受け流されてしまった。

 

「……お前がそこまで頼むってことは訳ありか?」

 

 が、直後。視線を逸らしたままではあるが、クインはそう尋ねてきた。

 

「はい。引っかかることがあるんです。個人的な好奇心、あるいは気のせいといえばそれだけで済む話かもしれません。でも……私は可能なら、それで片付けたくない。真実を知りたいんです」

「話が見えねえ。……でもま、どうしてもっていうなら、貸し1回だ。またそのうち朝まで飲みのあたしの愚痴大会に付き合え。それで請け負ってやる」

 

 ぶっきらぼうな物言いだったが、それがクインなりの了解の合図だと、それなりに長い付き合いの穂樽にはわかった。感謝の気持ちをこめて僅かに頭を下げる。

 

「ありがとうございます。感謝します」

「んで、調べてほしいのはどこのどいつよ」

 

 穂樽は煙草を咥えながら携帯を操作し、画像を呼び出した。その画面を相手に見せると、目に見えて動揺したのがわかる。

 

「こいつ、昨日お前といた奴だろ? なんでそんな……」

「そうです。名前は興梠花鈴。調べてもらいたいのは彼女とその両親について。魔術届出と警察のデータベースに情報が無いかを確認してもらいたいんです。……嫌な予感というか、仮説を思い浮かべてしまった。私は、出来ればそんな疑いの眼差しを向けたままでいたくありません。彼女に本当は何があったのか、そんな彼女をなぜバタ法は採用したのか。その真実へとたどり着きたいんです」

 

 深く息を吸い込み、クインは煙草の葉を燃やし切った。灰皿に投げ入れ、煙を吐いてから答える。

 

「……やっぱお前はクソ真面目だよ。直接本人に聞いてもいいだろうに……。本人に聞いたら、傷つけることになるとでも思ったか?」

「かもしれません。あるいは彼女の秘密を目の前で暴くことで拒絶されたくなかった、それもあるかもしれません。……でもきっと、こそこそとこんな回りくどいことをしてまで調べようなんて思ったのは、私が探偵だからだと思うんです」

 

 そう言って少し遅れて煙草を燃やし切った穂樽を見て、クインは小さく肩を揺らして笑った。

 

「素直じゃねえな、お前は」

「警部にそれを言われたくありません」

「うるせえ。……調べたらメール飛ばしてやる。アゲハさんに採用した理由も聞くんだろ? なら誤魔化されないで言い負かせるよう、算段立てておけ」

 

 言い終えると同時に背を向け、クインは去っていく。「ありがとうございます」という自分の言葉は果たして相手に届いただろうか。だが特に確認する必要もないと、穂樽も踵を返し、事務所へと戻ることにした。

 

 

 

 

 

 事務所兼居住区に戻った穂樽は、ソファで煙草を吸いながらクインからの返信を待っていた。ニャニャイーが何か言いたそうにしているが、深刻そうな穂樽の顔に、それを我慢しているようだった。

 どれほど経ったか、携帯が震えた。届いていたメールはクインからだった。

 

『お前のカンは多分当たってる』

 

 題名は無いが、本文にそれだけ書いてあり、ファイルが添付されていた。タブレットPCを取り出してそちらで添付ファイルを開き、「ああ」と彼女は声をこぼす。

 

「どうしたのニャ?」

 

 タブレットの画面、そこに表示される情報を見つめたまま、穂樽はゆっくりと口を開いた。

 

「……思った通りよ。全てが繋がった。なぜ父の話題を嫌ったのか。なぜ検事を目指すことを強いられたのか。なぜ昨日踏み込んだのか。そして……興梠花鈴とは一体何者なのか。これで私の仮説は成り立つ。でもそれが正しいとするなら……その彼女を迎え入れた本当の理由は何か。私は、それを知りたいと思わずにはいられない」

 

 煙草を灰皿の縁に置き、穂樽は携帯を手にする。手早く履歴を呼び出し、その1番上をダイヤルした。

 

「……アゲハさんですか? 度々の連絡申し訳ありません。どうしても、お話したいことがあります。今夜、どこかで会えませんか?」

 

 




壁を削って使う、という穂樽の砂塵魔術の使い方ですが、原作4話で覚醒したセシルがそんな感じで使っていたはずなので、参考にしました。


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Episode 6-6

 

 

 穂樽はかつてアゲハに教えてもらったバーにいた。その当人と待ち合わせをしてあるのだが、本来の約束の時間は既に過ぎている。

 会う約束を取り付けたとき、前の予定が押す可能性はあると付け足した上で相手は了承した。それを反故にするような人物でないことは、彼女自身がよく知っている。だとするならその前の予定が押しているのか、あるいはそこにかこつけて少しこちらを焦らそうという腹積もりか。

 いずれにせよ、話したいことは頭の中でまとまっている。自分はただ待つだけだと、逸る心を落ち着けるように煙を吐いて煙草を灰皿に置いた後、目の前にある氷の塊が浮かんだウイスキーを一口呷った。

 

 彼女にとって目的の人物が来たのは、そのグラスを机へと戻したときだった。悠然と近づいてきた目的の相手は穂樽と対照的、特に神妙な表情を浮かべてもおらず、普段通りの様子である。

 

「ごめんね、穂樽ちゃん。前の予定が長引いちゃって」

「いえ、急にお呼び立てしたのはこちらですから」

 

 形式的、とも捉えられる謝罪を同様に形式的に返したところで、「マルガリータ」と度数が高めのカクテルを注文しながらアゲハは穂樽の左へと腰を下ろした。

 

「それにしても私の教えたこと、忠実に守ってくれてるのね。やっぱりその煙草とウイスキーってスタイル、すごくいい感じよ」

「ありがとうございます。褒め言葉と受け取っておきます」

 

 あくまで形式上の返事しか返さなかった穂樽の態度であったが、アゲハは僅かに口の端を緩めた。今のでただの与太話のために呼んだわけではない、ということは伝わったようだった。

 

「それで、どうしても話したいことっていうのは何かしら?」

「……アゲハさんのことです。大体気づいてるんじゃないですか?」

 

 赤いメタルフレームの眼鏡の奥から鋭い視線を投げかけても、彼女の師は全く堪えた様子はなかった。色こそ同じもののセルフレームである眼鏡の奥の瞳から余裕が漂ってくるように感じる。

 

「単刀直入に聞きます」

 

 続けて、本題を切り出そうとした穂樽の目の前に、人差し指を立てて突き立てられた。そしてそれが左右に動かされる。

 

「ダーメ。無粋な聞き方じゃ、答えたくないわ」

 

 反射的に穂樽の表情が引きつった。普段ならそういうやりとりをやろうという気も起こるだろう。だが今は一刻も早く彼女の真意を推し量りたい。そんな言葉遊びをしたい気分ではなかった。

 

「アゲハさん、私は真剣なんです」

「わかってるわよ。元々穂樽ちゃんは真面目だけど、それに輪をかけて思いつめたような、深刻そうな表情だもの」

「それをわかっているんでしたら……!」

「でもせっかくだもの、ゆっくり話そうじゃない。こっちの飲み物はまだ出てきてもいないし、夜は長いんだから。……そうだ、穂樽ちゃんが独立してどのぐらい成長したか、それのテストっていうのはどうかしら? それで蝶野が満足するやり取りをしてくれるなら、なんでも答えてあげる」

 

 しばらく視線を交錯させた後、呆れた様子で穂樽はため息をこぼした。

 

「……回りくどく説明してから答えにたどり着け、ということですか?」

「そう捉えてもらってもいいけど。とにかく、蝶野に話す気にさせたら穂樽ちゃんの勝ち、ってことでどう?」

 

 まったく、と小声でこぼしてから穂樽は灰皿に置いたまま煙草に手を伸ばして煙を肺に通して吐き出した。その間にアゲハの前に注文したカクテルが用意され、そのグラスを手に穂樽へと微笑みかける。

 

「それじゃ、久しぶりの2人きりの時間に乾杯、なんて」

「……女同士でそのセリフですか。ああ、しまった。これいきなり失言だ」

「本当よ。今ので早くも減点ね。さ、頑張って巻き返さないといけなくなっちゃったわよ、探偵さん?」

 

 苦笑を浮かべ、煙草の火を消して穂樽は軽くウイスキーのグラスを相手のグラスへと当てた。澄んだ音を耳にした後で、高度数のアルコールを一口流し込む。焼け付くような感触で気持ちを昂らせ、一旦深呼吸してから穂樽は切り出した。

 

「セシル、最近どうですか?」

 

 だがこの問いに、一口カクテルを飲んだアゲハは苦い表情を浮かべていた。

 

「……穂樽ちゃん、ちょっとそれは入りとしてはベタすぎない?」

「回りくどくやれといったのはそっちです。これでどうこう言われるとこちらも困ります」

「うーん、今の切り出しは及第点ね……。ま、いいわ。……ええ、相変わらずバリバリやってるわよ。ただ、本来請け負うはずだった今回の一件がどうも流れちゃいそうで、さっき連絡したとき少しがっかりしてたみたいだけど」

「ああ、今日報告したとおり、それは申し訳なかったです。……って、私が謝ってもどうしようもないんですが。でも原因であった旦那が捕まってしまった以上、仕方がないことだとも思いますけど」

 

 そうね、と相槌を打ちつつアゲハはカクテルをもう一口呷る。

 

「あと、私が彼女の大切な後輩である興梠さんを今奪ってしまっているのも、気落ちさせている原因ではないかと思いますね」

「それはあるかもね。……で、その後輩ちゃんはどう?」

「比較的、人見知りも調査への苦手意識も薄れたんじゃないか、とは思いたいですね。要は慣れの問題、と思いますしそう言い聞かせてあります。だけどそこを差し引いても、彼女が非常に優秀なのは間違いありません。魔術の実力も相当なものです。昨日も彼女がいたからどうにか抜け切れたというのはあるかと思います。……けしかけたのもあの子な気はしないでもないですが」

 

 特に返事はなかったが、頷いている様子から話を聞いているものと判断し、穂樽は先を進める。

 

「ただ、そこで気になる言動があったんです。今言ったとおり、昨日の鉄火場でけしかけたのは彼女です。私は本来、壮介を含む連中の話を録音だけして、それが夫の様子がおかしくなった原因だと報告して終わりにするつもりでした。ところが向こうに気づかれる前に立ち去ろうとした矢先、興梠さんが部屋に踏み込んだんです。『同胞がこれ以上道を踏み外そうとすることを見過ごすことは出来ない』って」

「あら、随分と無茶やったのね。穂樽ちゃんが気になったのは、その踏み込んだ理由かしら?」

 

 どうにもうまいこと遠回りさせられているような気がする。そう思いつつも、焦りを抑えるように続ける。

 

「確かに突き詰めればそこになります。が、その前段階。『同胞』という言葉が、私は引っかかりました」

「それのどこが引っかかるの? 穂樽ちゃんだって同胞のウドをより広く助けたいと思ったというところもあるから、今の職を選んだ、とかじゃなかった?」

「はい、私に関してはそうです。でも、私の言う同胞と、彼女の言う『同胞』は同じ言葉でありながら、おそらく全く違う意味であると思います」

「全く違う意味?」

 

 頷き、穂樽はウイスキーを口へと運ぶ。一息分呼吸を整えて、再び口を開いた。

 

「初日、私が興梠さんと話したときに、今アゲハさんがおっしゃったようなことを彼女に話しました。ところが、彼女は『同胞という考え方をしたことはあまりない』と返した。にもかかわらず、昨日は同胞という言葉を使いました」

「穂樽ちゃんのおかげで、そういう意識を持てたんじゃない?」

「一度はそう思いました。が、どうしても引っかかるんです。これまで抱いてきた考えを、ちょっと言われて数日間だけで変えることなんて、少し難しいのではないかと思います。彼女が苦手意識を克服出来ないことと同様に、です。

 ……もうひとつ。仮に今の話をアゲハさんがおっしゃったとおりだとしても、こちらはそれ以上に違和感が拭えません。逃げ切れないと判断した私は、応援に呼んだクイン警部が到着するまで篭城して応戦する決断をしました。そこで彼女に使用魔術を尋ねたときに、魔炎魔術であると言った後にこう付け足したんです。『魔術は父の方に似てよかった』と。この発言、アゲハさんはどう考えますか?」

 

 返事はすぐにはなかった。だが、アゲハはどこか楽しそうに、表情は僅かに緩んでいた。

 

「……顔立ちや性格はお母さん似だ、かしら? あるいは父も同じ魔炎魔術使いだ、とも考えられるわね」

「ええ、おっしゃるとおりです。でも『魔術は母の方に似なかった』とも捉えられると思います。だとするなら、彼女の母もまた、魔術使い……。すなわち、両親共にウドであると考えられます」

「言われてみるとそう考えられるかもね。……でもそれがそんなにおかしいことかしら?」

「普通なら何もおかしくはありません。が、彼女に関しては妙なことになるんです。先ほどの同胞関係の話の際、私はなぜ彼女が弁魔士になったのか疑問を抱きました。私の中では多少なりとも、ウドでありながら弁魔士になるなら同胞を救いたいという意思があると思っていたところがあるからです。ですが、彼女は先ほど述べたとおり同胞という考え方をしたことはあまりないと述べた上で、消去法的に弁魔士を選んだ、と言っていました。本当は父親の強い勧めで検事になりたかった、ところが16歳のときに魔術が発現し、諦めざるを得なかった、と。……おかしいと思いませんか?」

 

 さあ、と首を傾げつつアゲハは少し大目にカクテルを飲む。グラスが戻ったタイミングを見て、穂樽は続けた。

 

「両親がウドの場合、子は100%ウドとなります。仮に11歳までに覚醒しなかったとして、その後確実にウドになることが約束されています。現に彼女は16歳で覚醒したと言っています。この状況下で、覚醒すればやめなければならなくなる検事を目指す、これはおかしな話だと私は思うんです。なら、最初から弁魔士を目指させればいい。でも彼女の父親は検事こだわった。先ほどの話と合わせてこの2点が引っかかりました」

「……要するに、気になったのは花鈴ちゃんの『同胞』という言葉と、両親ともウドであるならなぜ確実に子もウドとなる状況で検事を目指させたのか、ということね。それで、穂樽ちゃんの考えは?」

 

 いよいよ話が核心に近づく。そう感じた穂樽は、心を決める意味でも残っていたウイスキーを全て呷った。「同じものを」とバーテンダーに注文して、ゆっくりと口を開く。

 

「同胞という言葉、私はウド同士という意味で使っています。でも彼女はそういう考え方をしたことがないと言った。にも関わらず、あの場でその言葉を使った。……あの場にいた調査対象の梨沢壮介を含む連中は、マカルでした。その相手に対して使った同胞という言葉は、ウド同士と言う意味ではなく、()()()()同士という意味だったのではないか。同胞を止めるために昨日踏み込んだのではないか、と考えたんです。……実際、父が少し詳しかったと、彼女はマカルとラボネという言葉を知っていました」

「確かに昨日逮捕された連中はその通りだと聞いたわ。……でもだからと言って、その場で『同胞』という言葉を使ったから、それにマカルとラボネという言葉を知っていたからという理由だけで花鈴ちゃんまでそうだ、というのは少々発想が突飛じゃない? 全部穂樽ちゃんの頭の中での仮説でしょう?」

「ここまででしたらそうです。本当はこの先まで考えたのですが……。仮説を根拠付けるために裏を取ったので、この先のことまで含めておそらく間違いないと思います」

 

 ここで初めて、アゲハの表情から余裕が消えた。これまでの雰囲気から一変し、真正面から穂樽を見据える。

 

「裏、ですって……?」

「クイン警部に彼女と両親について調べてもらいました。ひとつ貸しで今度朝までコースで私持ちの飲みが決まってます」

「……穂樽ちゃん、私より警部の扱い方うまいんじゃない?」

 

 苦笑を浮かべたアゲハを見て、初めて心に少し余裕が出てきた。バーテンダーに差し出された2杯目のウイスキーをほんの少し口に含んで喉に通してから続ける。

 

「確認してもらったのは先ほどの2点目の件です。警部の話では、確かに興梠さんの言ったとおり、魔術の届出自体は16歳の時だったそうです。ですが、やはり彼女の両親は共にウドだった。そして……彼女の父は、現在服役しています。4年前のある事件がきっかけで、懲役刑の実刑が下ったそうです。事実、直接は聞きませんでしたが、私が彼女に父親の話題を出すと、彼女はその話題に触れたくないという気配を見せていました」

 

 アゲハは無言でカクテルを飲み干した。バーテンダーに「彼女と同じものを」と注文しつつ、視線だけは穂樽のほうへと流して先を促す。

 

「その4年前の『ある事件』、彼女の父が逮捕された日。私にとっても未だに忘れられない日です。あの日、私も知っているある人が亡くなり、また法曹界で有名だったある大物も逮捕されています。亡くなった人は柄工双(えくそ)静夢(しずむ)警部補、そして逮捕された大物の名は、麻楠史文元最高裁長官。説明不要でしょう、ウドでありながら警察に潜り込んで裏で暗躍していた男と、その父親で身分を隠しながら法曹界の中枢へと上り詰めたマカルの重鎮。セシルを巡る一連の騒動です。その日同じく、興梠さんの父は失明状態で逮捕されたそうです。これなら、さっきの検事の件も、マカルとラボネについて詳しかったという話も繋がります」

 

 穂樽と同じ、ロックのウイスキーがアゲハの前に差し出された。しかし彼女はまだそれに手をつけようとしなかった。

 

「……続けて」

「麻楠の計画では、確か秘密裏に召喚魔術によって堕天使ルシフェルを召喚し、人々を次第に支配しようとした。さらに法曹界をはじめとして権力の中枢にも同族のマカルを送り込み、敵対勢力であるラボネを法廷の場で裁くことで抵抗できないようにしようとした。そんな話だったはずです。だとするなら、彼女の父は娘がウドであったとしても、その事実を隠蔽して計画のために検事の座に着かせることが出来たはずですし、父が検事になることを望んでいたという彼女の発言とも一致します。

 ところが、麻楠の計画は失敗した。ルシフェルは召喚できず、にも関わらずその魔術の代償として多数の信者が失明した状態で発見、逮捕されたと聞きました。彼女の父もその一員でしょう。そしてそこでマカルという背景を失った彼女もまた、ウドであることを隠蔽したまま検事になることは不可能となった。……これは私の予想ですが、おそらく、彼女は幼少期に魔術に覚醒しているはずです。しかし隠し続けることが困難となったため、父の逮捕後である16歳のときに魔術が覚醒したということで届け出て、消去法的に弁魔士の道を選んだ。そういう結論に至りました」

 

 アゲハが、大きく息を吐き出した。まるで降参したようにもとれたその行動の後、穂樽と同じ酒を呷り、僅かに眉をしかめる。

 

「……やっぱりウイスキーはあんまり好きじゃないかな。穂樽ちゃん、大人ね」

「そうですか? 風味があって私は好みですよ。ただ、生憎良し悪しを正確にわかる舌は持ち合わせていませんが。……さて、最後です。私が聞きたいのは、そんな存在である彼女をなぜアゲハさんは迎え入れたのか、ということです。あなたのことですから、それを知らなかった、などということはありえないはず。理由を、教えていただけませんか?」

「なんとなく……予想はついてるんでしょ? 言ってみて」

 

 確かにその通りだ、という意図をこめて彼女は僅かに頷いた。

 

「……おそらくは、監視だと思っています。マカル……麻楠は異様なまでにセシルに執着していた。いつまた同じことが起こるとも限らない。だから、あなたは自分の目が届くところに彼女を置いた。……まさかとは思いますが、ウドではないあなたまで麻楠の手先だった、などということは考えたくありませんし、マカルの再興を願う存在だとも思いたくありません。ですが、明確な理由を聞くまではそれを否定できません。少なくとも興梠花鈴という人間はマカルの一員ではないか、という疑惑の眼差しを向けざるを得ない状況です。それを拭い去りたくて、彼女の真実を知りたくて、私は今日あなたを呼んだんです。

 ……私が話すべきことは全て話しました。今度は、アゲハさんが答える番です。なぜ、興梠さんをバタ法で迎え入れようと思ったんですか?」

 

 穂樽に促されても、アゲハはすぐに答えようとはしなかった。一度失った余裕のある雰囲気を再び纏いなおし、ウイスキーの入ったグラスを何気無く見つめている。

 

「そうね……。80点、ってところかしら」

 

 不意にそう告げられ、一瞬穂樽はどういう意味かを図りかねた。ややあって、それが自分の今までの話に対する点数だと気づき、少し複雑な表情を浮かべる。

 

「どこを間違えてましたか?」

「いえ、基本的に間違えてはいないわよ。そこまで考えを組み立てということに驚くぐらいだわ。ただ少し、不足分があったというだけ。そこは想像でしか補えないということを考えると仕方の無い減点、とも言えるわね。あとはもう少し話で遊んでもらいたかったっていうのと、何より最初の失言で減点かな」

 

 遊び不足と失言は仕方ないと苦笑を返したが、どこが足りなかったか。考えつつ穂樽はウイスキーを飲む。長話を終えた喉に、アルコールがやけに染みた気がした。

 

「煙草、吸っていいわよ。今度は私が話す番だから」

「……では遠慮無く」

 

 1本を取り出し、慣れた手つきで火を点ける。その様子に、なぜかアゲハは少し嬉しそうな表情を浮かべていた。

 

「うーん、やっぱりいいわね。決まってる。いかにも探偵、って感じ」

「……抜田さんみたいなこと言わないでください。というか、アゲハさんが薦めてきたスタイルです」

「そういうイメージなのよね、やっぱり。……さて、じゃあ答え合わせといきましょうか。まず、興梠花鈴という人間が何者か、マカルの一員ではないか、という問いの答えから。……答えはノーよ。ただ、穂樽ちゃんの仮説は見事なまでに当たっている。彼女は、父親が捕まるまでは確かにマカル、そう言って差し支えなかったでしょうね」

 

 煙を燻らせる穂樽の隣で、アゲハはまずそう切り出した。彼女の父は、敬虔なマカルの信者であり、麻楠を崇拝していた。その妻はさほどではなかったそうだが、生まれてきた娘にはいずれマカルの1人として魔術使いが統べる世界を築くという麻楠の思想を体現させたい。そう強く思っていたという話だった。そしてそんな父にとって、予想外の事態が2つ起きる。

 

 1つ目は吉報だった。彼の娘、興梠花鈴は穂樽の予想通り幼少期に、それもわずか5歳という早さで魔術に目覚めたのだ。しかも彼女の潜在魔力は相当なものであり、それが麻楠の目に留まった。麻楠は「マカルの未来を担う存在になるかもしれない」と称賛したとのことだった。彼女の魔力の強さは穂樽も昨日目の当たりにしていて疑いようはない。確かに稀有な存在だと思えた。そのことで興梠の父は幹部に取り立てられ、ますますマカルと麻楠を狂信的に信仰していくようになる。

 だが2つ目は凶報だった。その娘が覚醒して1年と少し経った頃。セシルの魔術が覚醒し、興梠より遥かに勝る潜在魔力の存在が麻楠の知るところとなる。「100年に1人の逸材」とまでいわれるセシルへと麻楠の興味の対象は移っていき、興梠の父は酷く落胆した。それならば、と先ほど穂樽が述べたようにウドであることを隠して若くして検事にさせることで、裏から法の場を支配するための礎にしようとした、とアゲハは説明した。

 

「……歪んだ親のエゴですね。押し付けられる側の子としてはたまったものじゃない」

 

 仮説として考えていたことと事実として聞かされることはやはり重みが違う。嫌悪感を隠すことなくそう述べて煙を吐き出しながら、同時に穂樽は興梠のセシルに対する態度にようやく納得がいっていた。どうにも必要以上に敬っているようなあの態度、それは「自分以上の逸材」として言われ続けてきた存在に対しての、尊敬と畏怖の感情からだったのではないだろうか。

 また、彼女が検事になろうとした理由を述べたときのことも思い出していた。あの時、シュガーローズで興梠はその理由を「父の強い要望」「野心……いえ、虚栄心が強かったんです」と答えた。マカルのためにウドであることを隠して検事にさせて法曹界へと潜り込ませて裏から次第に支配していく。それはまさしく娘を利用して自分の地位を獲得しようという父の虚栄心であり、野心であっただろうと思えた。

 

「それでも、花鈴ちゃんは父の教えを忠実に受け入れ続けた。父からの期待とプレッシャーを一身に背負いながらも、応えようと懸命に努力したそうよ」

 

 結果、興梠は飛び級で法科大学院へと合格することに成功した。これはマカルが裏から手を回した、という類でなく、父が娘の力を証明するために、裏工作等無しで合格したもの。つまり、純粋な彼女の努力で勝ち取ったものだとアゲハは補足した。

 ところがそうして法科大学院へと合格したのも束の間。セシルを巡る事件が起こる。麻楠に加えて多数の幹部や信者の逮捕により、マカルは一気に衰退した。そしてその逮捕された信者の中には興梠の父もいた。

 その事実を知った興梠は激しく動揺し、落ち込んだ。これまで父に敷かれた歪なレールをがむしゃらに走り続けてきた彼女にとって、それは目標を失ったに等しかった。同時にマカルによる隠蔽工作も困難となり、検事への道も閉ざされる。そんな自失状態にあった興梠を支えたのは、夫の考えに賛同しきれず、しかし反対することも出来ずにいた彼女の母だった。

 

「花鈴ちゃんのお母さんは、夫の思想に染まり過ぎて娘が心を失わないよう、出来る限りで懸命に寄り添っていた。でも結局夫の言いなりになってしまっていたことに深い罪悪感と責任感を感じていたそうよ。夫の方針に反対したくても出来ずにここまで来てしまった。だけど今からでも遅くない。娘にマカルの思想なんて捨てて、人間らしい幸せな道を歩ませてあげたいと思って話し合った。法科大学院をやめて普通の学校へと入り直して人並みの生活を送ることも可能だろうし、ウドであることを隠し続けられないだろうから検事は無理でも、弁魔士という道が残されていると娘に説いた」

「結果、彼女は弁魔士の道を選んだ。……なるほど、『16歳のときに魔術が覚醒して検事の道を諦め、消去法的に弁魔士となった』。実によく作られた話です。嘘が混じっていると見抜けませんでした」

「ある意味、嘘ではないのかもしれないわね。父に縛られ続けた興梠花鈴という人間は、その時に届け出て魔術登録をしたことによって生まれ変わった。なぜなら以後は弁魔士となるべく、自身の足で歩き始めるのだから。……そして蝶野は、その選択はベターだった、と思うわね」

 

 なぜか、という意味を込めて煙草の火を消してから穂樽はアゲハを仰ぎ見る。それだけで通じたらしい。得意げな表情を浮かべた彼女はウイスキーを一口呷ってから続けた。

 

「だって、この目の届くところにいてくれたんだもの。……花鈴ちゃんの異色の経歴を見たとき、私はセシルちゃんをまず思い浮かべた。この子にはきっと何か裏がある。そう思って、彼女の母親に直接連絡を取った。結果はビンゴだったわ。これまでの説明は全て、花鈴ちゃんのお母さんから聞いたものよ」

 

 それを聞いて、アゲハの真の目的が少し穂樽には見えてきた気がした。ウドでない彼女がマカルのはずはないとわかっていたが、どうやらそれは興梠と、その母にも当てはまるように思えた。

 

「花鈴ちゃんもお母さんも、今はもうマカルを信奉してはいないと言った。それでも、幼い頃から父に聞かされ続けたマカルの思想が、もしかしたら花鈴ちゃんに根付いているかもしれない。マカルの呪縛がそう簡単に解けるとは思えない。……だから、彼女のお母さんと約束したわ」

 

 ああ、と意図せずこぼし、穂樽はウイスキーを呷った。減点分の最も大きいところ、先ほどの仮説に含まれなかった答え。

 

「もうわかった? 穂樽ちゃんのさっきの考察が80点であった理由」

「はい。確かに興梠さんの監視の目的は一応はあった。でもそれ以上に……アゲハさんは彼女に、マカルの思想が全てではないということを直に教えてあげたかった。ウド同士だけでなく、ウドと人間も手を取り合える可能性があるという世界を見せてあげたかったんですね」

 

 意味深げに、アゲハは小さく笑った。どうにも正解を褒めてという意味合いと少し違うように感じ、穂樽は首を傾げる。

 

「……なんで笑うんです?」

「いえ、花鈴ちゃんの穂樽ちゃんに対する評価、あながち間違えてもいなかったんじゃないか、って思えてきたのよ。確かに花鈴ちゃんに根付いてしまっているかもしれないマカルの思想を変える手伝いをしたい、という思いはあったわ。でも今穂樽ちゃんが言ったような壮大な考えまでは持ってなかったな、と思って」

 

 興梠の評価、というのは他ならぬ「ロマンチスト」という発言であろう。思わず不機嫌そうに口を尖らせ「悪かったですね」と穂樽はこぼす。

 

「別に悪いとは言ってないわよ。まあちょっとからかったのは事実だけど。……でも穂樽ちゃんに花鈴ちゃんを預けたのは、やっぱり正解だったわ。そういう考えが出来る人間の方が、より広い視野を持たせられる。ましてや、今の穂樽ちゃんは探偵だから、なおさらそうでしょう」

「褒められた、と受け取っておきます。じゃあ彼女が昨日、連中を『同胞』と呼んで踏み込んだ理由はやっぱり……」

「花鈴ちゃんはかつての父と、彼の考えを信じるだけだった自分が間違えていると知った。だから昨日の彼女は、これ以上過ちを犯してほしくないとかつての『同胞』にそれを願った、からじゃないかしらね。付け加えるなら、マカルに身をやつし、家庭を顧みなかった梨沢壮介に自分の父を投影していたのかもしれない。……あと補足だけど、昨日捕まった連中は、厳密には少し違うのよ」

 

 怪訝そうな表情を浮かべ、「違う?」と穂樽は尋ねた。アゲハはゆっくりと頷く。

 

「花鈴ちゃんのお母さんから、色々教えてもらったわ。マカル、と一口に言っても、実は一枚岩ではないって。4年前までは麻楠の派閥が強大で、他の派閥もあれど実質的に支配下にあってほぼ統一されていた。でも絶大的な支配力とカリスマ性を持っていた彼の逮捕後、麻楠派はほぼ一掃され、早い話が跡継ぎで揉めている状況なの。昨日捕まった連中……依頼人の夫である梨沢壮介は麻楠派とは別の、現在マカルで台頭を狙っている派閥の1つよ」

「そういうことだったんですか。……興梠さんの経歴、父の話題を出したときに見せた嫌そうな雰囲気、そして昨日見せた強い正義感とも思えた考えと彼女の行動。ようやく真実にたどり着いて、全てのピースが正しく当てはまりました。これで私は彼女と、彼女を迎え入れたあなたを、これまでと変わらず……いえ、これまで以上にまっすぐ見つめることが出来ます。同時に、彼女の過去を抉らずに済みそうです」

「そう面と向かって言われると照れるわね。……やっぱり穂樽ちゃん、ロマンチストなんじゃない?」

 

 からかわれたはずなのに、今度は不思議とそんな思いは浮かばなかった。素直に褒め言葉と受け取り、軽く顎を引いて返事とする。

 

「蝶野は、花鈴ちゃんを見守っていこうと思ってる。自分の意志で歩き出した彼女を、時に励まし、時に背を押していきたいってね。……というわけで全ての謎が解けたであろうところで、彼女の研修あと1週間、よろしくね」

 

 普段通りの明るい口調でそう言われ、思わず穂樽の顔に苦いものが浮かんだ。もう今回の件が流れかけてしまっている以上、預かる意味合いも薄いのではないかと思う。

 しかし同時に、まあアシスタントはいてもいいものだなとも思うのだった。ずっと独り身で、それが楽だし向いてるからとやってきたが、そろそろそんな考えを改めてもいいかもしれない。とはいえ、まだそんな金も余裕も無いか、と彼女はウイスキーを呷ろうとした。

 

「ちょっと待った、穂樽ちゃん」

 

 が、それはアゲハの声によって止められた。なんだろうと不思議そうに見つめる穂樽の前に、アゲハはウイスキーのグラスを掲げる。

 

「改めて今後もよろしく、ということと、ウド同士、そしてウドと人間が手を取り合える世界が来ることを願って、ね」

 

 やはりこの人には敵わないな、と改めて思うのだった。いつの間にか自分はロマンチストに仕立て上げられている。もうこの際、そんなことはいいかと、穂樽は僅かに笑顔を浮かべて思考を放棄した。

 

「……ええ、いつか来ることを願ってます」

「お、開き直った。……じゃあそんな未来を願って、乾杯ということで」

 

 2人のウイスキーの入ったグラスが澄んだ音を立てる。氷が溶けつつあったウイスキーは飲みやすい程度に薄まり、穂樽の喉と食道を心地よく焼いてくれた。

 

 

 

 

 

 2日後。「9時頃」である9時20分に興梠はファイアフライ魔術探偵所を訪れた。既に穂樽も事務所へと移動し、彼女を迎え入れる準備を完了させている。

 

「おはようございます、穂樽さん。先週末は色々あってまだあまり整理ついてないんですが……。アゲハさんにあと1週間変わらずここで研修、と昨日連絡がありましたので、残りの期間もよろしくお願いします」

 

 下げた頭に合わせ、左右に跳ねていた髪がかわいらしく動く。当初と比べると随分と警戒心を解いてくれたものだと、穂樽は微笑を浮かべながら返した。

 

「おはよう。残りの期間もよろしくね、アシスタントさん。……さて、早速だけど、今日バタ法に依頼人の梨沢杏さんがまた見えるそうよ」

「え!? でも離婚問題の原因である旦那さんは、先週末に捕まってしまったんじゃ……」

「ええ、そう。だから、今度はその旦那さんの弁護を依頼したい、とのことだそうよ」

 

 興梠は目を見開いた。予想していなかった展開だったのだろう。

 

「私達が耳にした事件、それが争点になるみたい。幸い死者を出したものではないけど、魔禁法違反であることに変わりはないと言う話だった。詳しくはこの後バタ法で聞くことになると思うけど」

「でも……私にそれを手伝う資格はあるんでしょうか? 私のせいで梨沢さんの旦那さんは捕まってしまった、とも言えると思うんです」

「そうかもしれないけど、彼は犯罪を犯し、あなたは正義を貫いた。それは事実よ。弁魔士はね、時に割り切ることも必要なの」

 

 フォローされても興梠の表情は変わらなかった。俯き加減のまま、ゆっくり口を開く。

 

「……わかっている、つもりです。でも私は、穂樽さんみたいにきっぱりと割り切ることはできません」

「でしょうね。……でもそれでもいいんじゃない?」

 

 意外そうに興梠は穂樽を仰ぎ見た。

 

「いずれわかっていくことよ。あなたの中で、折り合いをつけていくことでしょうから。……なんて、今弁魔士から鞍替えしてる私が言っても説得力ないか」

「穂樽さん……」

「それにね、そうやって考えるぐらいなら、時に動いたほうが楽になることもある。折角私のところに来てるんですから、この機会を利用して私と一緒に証拠を集めればいいと思うの。……まあ結果的にそれってさっき言ったことを割り切れ、と言っているようなものかもしれないけど。でもね、メインはセシルがやるとしても、サポートであなたが証拠を集めれば、担当するセシル、依頼人、そして被告人のためになるわ。そうは思わない、若き弁魔士さん?」

 

 しばらく考えた様子を見せた後、興梠は穂樽をまっすぐ見つめ、「はい」と力強く答えた。そのまっすぐな瞳は、強い力を秘めているように穂樽は感じていた。思わず小さく笑みがこぼれる。

 

「じゃあ早速行くわよ。まずはバタ法で依頼人の話を聞きましょう。うちでの研修期間中は、私主導で出来ることをやっていくつもりだから。……あと1週間、よろしくね。アシスタントさん」

「はい! こちらこそ改めてよろしくお願いします、穂樽さん!」

 

 

 

 

 

 

ニューカマー・ガール (終)

 

 




「ニューカマー・ガール」はこれで完結です。敢えて「ニューフェイス」でも「ニュービー」でもなくこのタイトルにこだわった理由。それは並び替えると「マカル」という言葉が浮き出る、ただそれだけだったりします。
セシルに後輩ができたらどうなるのかな、なんて思いから、バタ法というアクの強いメンツの中に一見普通の、しかし元マカルという過去を持ち、それを隠す新人ということでオリキャラを入れてみた今回の話です。
これまでの話よりオリキャラでありながらストーリーに絡む比重が大きいと思ってるのですが、うまく描けていればいいなと思います。


さて、ここまで色々な話を書きたいように書いてきましたが、次のエピソードで一旦完結にしようかと思っています。段々ネタ切れ感も出てきましたので。
早い段階から「最後書くならこの話!」ということで練っていた話になります。


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Episode 7 フォーリン・エンジェル
Episode 7-1


Episode 7 フォーリン・エンジェル

 

 

 

「では今回のご依頼である身辺調査の結果をまとめた資料がこちらになります。よろしいでしょうか?」

 

 ファイアフライ魔術探偵所。所長であり唯一の職員でもある穂樽夏菜(ほたるなつな)は、そう述べながらまとめられた紙の束を手渡した。先ほど一旦は確認したからか、彼女の目の前に座る痩せ型に眼鏡の中年男性は「ああ、ありがとう」と述べると特にその資料を見直すでもなく受け取って鞄へと入れ、引き換える形で茶封筒を差し出した。「拝見させていただきます」と中身を確認して要求どおりの依頼料が入っているとわかると、再び相手へと視線を移す。

 

「確かにお預かりしました」

 

 その声を待っていたように目の前の相手は立ち上がり、次いで穂樽も腰を上げた。「ご苦労様、助かったよ」と述べる相手に礼を返して頭を下げ、扉の鈴が鳴って部屋から出て行ったのを見届ける。確認を終えたところで大きくため息をこぼし、穂樽はパソコンデスクの椅子へと腰掛けた。そしてデスクの1番下の鍵を開けて引き出しから小型金庫を取り出し、その中へと受け取った料金を保管する。

 

 今帰った依頼人はとある企業の中間管理職の男だった。今度新たに他企業から引き抜く形で採用する部下を持つこととなったのだが、前の会社での状況がいまひとつわからないということだった。同時に相手がウドであるのに対して彼自身はウドでなく、接した経験もほとんどないため不安になり、魔術使い関連の案件を引き受けてくれそうな穂樽の元を尋ねてきたということであった。

 調べてみれば何と言うことはなかった。対象の人物は品行方正であり、いたって真面目で問題らしい問題は見受けられなかった。ただ、ウドということで社内では嫌がらせまがいの出来事もあったらしい。彼はたまたま依頼人の会社の人間と昔ながらの顔馴染みであり、そのことを相談した結果、引き抜きという形で採用が決まったという経緯があったと突き止めた。前の会社での状況がわからないというのは、特に問題になる点が見当たらないというだけの話だったのだ。その辺りは本来人事が把握すべきことではないだろうかと突っ込みたかった穂樽だが、コネでの引き抜きとなればどこからともなく圧力がかかって情報が流されなかったという可能性もありうる。いずれにせよ詮無い話だし、自分が関わるわけでもないかと深く考えずにいた。

 

 労力の割にはいい収入だったとは思う。が、やはりきっかけがきっかけであることに加えて、依頼人もウドに対して無知すぎると思わざるを得ず、意図せず心労は溜まったなと思うのだった。

 そんなことをぼんやりと考えながら金庫を戻して鍵を引き出しにかけ直した、その時。

 

「なっち」

 

 突然聞こえてきた声に、彼女は飛びあがりそうになった。慌てて顔を戻して入り口の方に目を移せば、そこにバタフライ法律事務所のパラリーガル、天刀(てんとう)もよが普段のような笑みを浮かべて立っていたのだ。

 

「もよさん? あれ、いついらしたんですか?」

「んー? 今だよ。気づかなかった?」

「……全然気づきませんでした。扉開けたら鈴が鳴って気づくはずなのに……」

 

 ちょっと考え事をしすぎていたかもしれないな、と穂樽は深く考えず、椅子から立ち上がった。が、もよは部屋の入り口から中に来る様子がない。

 

「それで突然どうしたんですか? うちを訪ねてくるなんて。食事か何かのお誘いですか?」

 

 入り口付近から動こうとしない相手に、穂樽はまずそう予想を立てた。そろそろ昼時だということはわかっていたが、腕時計に目を移すと11時になる5分前。もう間もなく下の喫茶店、シュガーローズでランチが始まる時間か、と思いつつ、だが彼女の特異すぎる食べ方を考えると連れて行くのも気が引けるな、などと考えていた。

 

「違うよ。なっちにお願いしたいことがあってきたの」

「お願い? ……依頼、ということで考えていいですか?」

「んー。まあそんな感じかなあ」

 

 予想していなかった展開に、これは珍しい来客だと思い、改めて穂樽は「じゃあこちらにどうぞ」と応対用のテーブルへと促す。が、もよは動こうとはしなかった。

 

「いいよ、すぐ済む話だから」

「そうは言っても、依頼を受けるとなったら正式な書類とか書いてもらわないといけなくなるわけで……」

「大丈夫だから」

 

 何が大丈夫なのかと穂樽は怪訝な表情をもよへと向ける。しかし彼女はやはり特に気にかけた様子もなく、そして普段と変わらない様子で口を開いた。

 

「依頼はね……。私とゲームをしてもらいたいの。私が何者か、その正体を当てられるかっていうゲーム。それで当てられたらなっちの勝ち。出来なければ私の勝ち。要するに私の身辺調査、ってことでいいよ。期間は次の満月、来週の日曜日まで……丁度1週間」

「は……? 何言ってるんですか?」

 

 疑問の声が意図せず穂樽の口をついて出た。もよの様子と相俟ってふざけているようにしか見えない。

 

「あの……もよさん。私を冷やかしてるんですか?」

 

 半ば非難の意味もこめてそう問いかけるが、相手は全く気にかけた様子は無く、平然と首を横に振った。

 

「んーん? 本気だよ?」

「本気って……」

「私が勝ったら……セシルんをもらうね。なっちが勝ったら、それはやめにしてあげる。もしなっちがこのゲームに参加しない、っていうんであれば、私の不戦勝になっちゃうから、よろしくね」

 

 穂樽は大きくため息をこぼした。冷やかしには慣れているつもりだが、まさか顔見知りの相手までそれをやりに来るとは。頭を抱え、精一杯の抗議の姿勢を見せてからもよへと話しかける。

 

「……もよさん、いくら顔見知りの相手とはいえ、いい加減にしてくれないと私も怒りますよ?」

「そっかぁ。やっぱりわかってくれないか。まあしょうがないよね。……じゃあ私が本気だっていうことと、さっきの問題のヒントを教えてあげる」

 

 もよの表情がそれまでと異なる、妖艶な笑みに変わった、瞬間だった。

 穂樽は両太股に違和感を感じた。急に足から力が抜ける。何かがおかしいと視線を落とした彼女は、自分の両脚に漆黒の何か、形容するなら、刀身だけの刃のようなものが突き刺さっている様を目にした。

 

「あ……!」

 

 一瞬遅れてやってきた激痛。部分的に破れたストッキングにじわりと染みが広がり、自然に膝が折れた。

 

「あああああッ! あがっ……ああッ!」

 

 耐えられずうずくまり、悲鳴にも似た声が上がる。焼けるような痛みの中で、眼鏡のレンズ越しに真っ赤な鮮血が視界に入った。自分の足から流れ出る血がフロアを染め、独特の血の臭いが鼻をつく。今自分の身に起こっていることは疑いようも無く本物であると、痛みが支配する精神の中で彼女は悟っていた。

 

「な……なんで……もよさんが……。これ……魔術じゃ……」

「ねえなっち、痛い? ……痛いよね、ごめんね。でも本気にしてくれないなっちが悪いんだよ?」

 

 床に崩れ落ち、苦痛に顔を歪める穂樽の顔を、いつの間に近づいて来たのか、さも何事もないかのようにもよが覗き込む。その顔は穂樽にとってよく知っている表情であり、それ故かえって不気味でもあった。

 

「も、もよさん……。一体……何を……」

「別に大したことはしてないよ? ちょっと痛い思いをしてもらっただけ」

「ちょっと……ですって……」

 

 痛みのあまり額に脂汗が浮かぶ。太股から流れ出る血は全く止まる気配は無い。このまま自分は失血死するのではないか。そんな怖れが穂樽の心に浮かぶ。耐えようと歯を鳴らし、しかしそれでも目だけはもよを睨み付けていた。

 

「んー。なっち、いい目するね。痛みに耐えてるのに。だけどこれで私が本気だって、わかってくれた?」

「何が……何が目的なんですか……?」

「さっき言ったとおりだよ? 私とゲームをしてほしいの。私が何者かを突き止められたら、なっちの勝ち。出来なかったら私の勝ち。私が勝ったら、セシルんはもらっちゃうから」

「残念……ですね……。これじゃ……そのゲーム……できそうにないです……」

 

 出血のせいか痛みのせいか。目の前が霞み意識が朦朧としつつも、穂樽は喘ぐように言葉を紡ぎ、軽口を叩いてみせた。

 こんなところで、何が起こったかわからないまま自分の命の火は消えようとしている。本来ありえるはずも無く、理不尽な力を持っているかもしれない目の前の相手の正体が何者かと疑問に思いつつも、もうその疑問は解決することは無いだろうと意識を手放そうとした。

 

「素直じゃないなあ、なっちは。……でも今の発言、参加の意思あり、と捉えたよ。その脚の件は大丈夫。後に残るのは、痛みの記憶だけだから」

 

 何を、と穂樽が問おうとするより早く。もよの右手が穂樽の太股の辺りを撫でた。

 

「……え!?」

 

 直後、それまで感じていたはずの激痛が突如として消えた。穂樽は太股を触って、先ほどまで突き刺さっていたはずのものも、ぬめる血の感触も、痛みすらもなくなっていることを確認してから上半身を起こす。目で見ても傷の後は全く無く、ストッキングの破れた後すら見当たらない。床を赤く染めていた血の跡も綺麗さっぱりなくなっていた。

 

「な、なんで……。一体、何が……」

「1週間後」

 

 唖然とする穂樽に、声が降り注いだ。さっきまで目の前にいたはずのもよは、今度はいつの間にか入り口付近にまで移動していた。人差し指を1本立て、普段のように微笑を浮かべている。

 

「もう1度確認するけど、次に満月が来るその時が期限。満月が空に昇るその日の夜、さっきの問いの答えを聞くね。私は明日からしばらく事務所を休むから、私に会いに来ても無駄だよ。それから禁止事項として、依頼人が私であることを言ってはいけない。なっちは探偵なんだから、その守秘義務は守ってね。あと、今ここで起こったことを私がやったと言ってもいけない。でもどっちも使い魔はセーフにしてあげる。……それ以外なら何をしてもいいよ。アゲハさんやクイン警部に私が何者であるかを尋ねてもいい。多分答えは返って来ないと思うけど」

 

 そう告げると、もよは扉を開けた。今度は確かに、来客を知らせる扉の鈴が鳴った。

 

「禁止事項は守ってね。破ったらペナルティだから。バレないと思ってても、私は全部お見通しだからね。……じゃあ頑張って、なっち。頑張らないと……セシルんはいただいちゃうから、ね」

 

 呆然とする穂樽の前でウインクを残し、もよが去っていく。扉が閉まるときの鈴の音で、穂樽は我へと返った。

 

「ま、待って!」

 

 慌てて扉を開けるが、もうそこにもよの姿は無かった。階段を駆け下り外へと出るが、やはり目的の人物の姿はどこにも見当たらない。

 

「……もしかしたら、浅賀(あさか)さんなら」

 

 呟き、穂樽は1階の喫茶店、シュガーローズの扉を開ける。

 

「浅賀さん!」

 

 日曜日ということもあってか、店内には数名の客がおり、穂樽の声に入り口の方へと目を移してきた。そんな訝しんだ様子の客に「ああ、常連の上の階の探偵さんだよ」とマスターの浅賀は警戒感を解くように声をかけてから、穂樽の方へとカウンターの中を近づいてくる。

 

「どうしたの穂樽ちゃん。らしくなく慌ててるみたいだけど……」

「今、うちの事務所から誰か出てきませんでした?」

「ああ、眼鏡の中年のおじさん?」

「そっちじゃないです。若い女性です」

 

 しばらく浅賀は考え込んだようだったが、「……見てないなあ」とだけ答えた。僅かに穂樽は肩を落とす。

 

「……そう、ですか」

「大丈夫? 顔色あんまりよくないみたいだけど」

「ええ……まあ……」

「ランチ食べてく? ()()()()()()けど、サービスで出すよ」

「いえ、今食欲は……」

 

 そこまで述べてから、穂樽は言葉を止めた。ハッとしたように腕時計に目を移す。その時間を見て彼女は思わず目を見開いた。時刻は11時になる5分前。もよが来た時間から、()()()()()()()()

 

「嘘……。なんで……」

 

 もよが事務所にいた時間は間違いなく数分間はあったはずだ。にもかかわらず、時計の短針と長針はそれぞれ11の手前とその少し脇にまとまっている。時計の故障でないことは、秒針が動いていることと今の浅賀の発言からも明らかだった。

 

「どうしたの、穂樽ちゃん。本当に大丈夫? あんまり体調良くないなら無理しないほうが……」

「あ、ありがとうございます、大丈夫です。……それより、うちの事務所から出てきたっていう眼鏡の中年の方、どのぐらい前に出てきたかわかりますか?」

 

 浅賀の心配を聞き流した穂樽だが、今の質問に彼の表情はますます険しくなった。おかしなことを言っている、と考えられているように思える。

 

「……ほんの今さっきだったよ」

「じゃあ……もうひとつ質問です。……治療魔術で、足を貫通するほどの重傷である傷を一瞬で治すことって、可能ですか?」

 

 いよいよもって浅賀の疑問の色が濃くなる。それでも穂樽の顔が真剣そのものであったために、言いかけた何かをやめ、返答してきた。

 

「……そんなの不可能だよ。どれだけ優れた治療魔術の使い手でも、そんな重傷を一瞬で治すなんて聞いたことが無い」

「そう……ですよね……。ありがとうございます。……すみません、変なこと聞いて」

 

 反射的に右手で頭を抱える。その様子に、なおも浅賀は配慮の声をかけた。

 

「何回も聞くみたいだけど……本当に大丈夫? 無理は禁物だよ?」

「大丈夫です。……すみません、お店の方はまた今度食べに来ます。お邪魔して申し訳ありませんでした」

 

 心配そうな視線を送る浅賀に頭を下げ、穂樽は事務所への階段を昇り始めた。だがその表情は青ざめ、一段一段昇る足が重い。

 自分の理解の範疇を超えている。あの時走った激痛は嘘でもなんでもないはずだ。しかし一瞬の内にその傷口は塞がった。まるで何事もなかったかのように。

 だがあれだけの重傷を瞬時に治すことなど不可能。治療魔術使いの浅賀がそう言った以上、通常では出来るはずが無い。

 では幻影魔術だったのではないだろか。だとしてもあれだけ強烈な幻影を見せ付けられるとしたら、やはり桁違いな能力でなくては出来ないことのはずだ。

 そして何より、もよが来て帰るまで動かなかった時計の針。加えて、突如として消えたその姿。よく思い出せば、彼女はいつの間にか部屋の中にいた。

 

 もよは魔術使いではなかったはずだ。なのに魔術ですら説明のつかないような、超常的な力を穂樽は目撃している。彼女はただの人間ではないのではないか。そんな予感が、心に強く浮かんでいた。

 

「もよさん……。あなたは、一体……」

 

 彼女の依頼、「自分が何者かを当ててみせろ」。それをゲームだと言った。

 このゲームを無視することは出来ない。彼女は「セシルをもらう」と宣言している。あれだけの力を見せ付けられた以上、それが嘘やおふざけとは思えない。厳重に警護をしようがセシルが本気で魔術を行使して抵抗しようが、きっと「もらう」ことなど容易いのだと、今の彼女には直感的にわかった。それが出来るほどの力を持っていて、仮に自分や他のウドが束になろうと反抗出来ないほどなのだろう。

 圧倒的な力を持つ強者が暇を持て余すために行う「ゲーム」、そういう類のものだと穂樽は想像する。彼女がその気になれば、今すぐにでもセシルを「もらう」ことは出来るのかもしれない。だがそれをしないのは、あくまでゲームを楽しみたいからではないだろうか。だとするなら、口約束だけで保証も何も無いが、もうこのゲームに参加するしかない。

 

 かつて経験したこともない出来事に、怖れはあった。信頼していたはずのもよが得体の知れない何者かだったという事実に、衝撃もあった。

 しかしそんな己の心を懸命に振り切り、穂樽は自身を奮い立たせた。事務所のドアノブに手をかけつつ、強い決意を持って小さく呟く。

 

「……いいわ、天刀もよ。探偵としてそのゲーム、受けて立つ。セシルは、絶対に渡さない……!」

 

 




タイトルは「フォーリン・エンジェル」、直訳で堕天使です。
言うまでも無く天刀もよに焦点を合わせた話です。
原作アニメを見ていれば、視聴者の観点からはもよの正体はわかっているようなもの。ですが劇中の登場人物はそのことをわからない。それを穂樽が調べていく、という話になります。
ちょっと違うかもしれないけど、視聴者は先に犯人がわかっているという点では刑事コロンボとか古畑任三郎ってこんな感じだったような、というイメージで書きました。


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Episode 7-2

 

 

 かつては相談相手になってもらったこともあった。一緒に食事をしたこともあった。そんな相手を調査する、それだけで穂樽が重い気分になっているのは事実だった。だがあの時事務所に訪れ、自分に対して未知の力を使った姿こそが、彼女の本性なのだ。認めたくは無かったが、それが現実だ。

 本当は思いたくなかったし何かの間違いであってほしいとも思ったが、天刀もよに対して穂樽はもうそんな風に思うことに決めていた。あの後彼女の携帯にかけてみたが全く繋がらない。いずれにせよ、期限まで顔を合わせる気はないという口調だった以上、当人を探そうとしても徒労に終わるだろう。

 

 そういう考えに至った穂樽は翌日の月曜日、まずは彼女の職場であるバタフライ法律事務所での聞き込みから始めることにした。あまり重い顔をして妙な質問をすると見抜かれる可能性がある。そこで「依頼人は明かせないが天刀もよの身辺調査を受けた」という線で乗り切ることにするつもりだった。依頼人を明かすことと、もよが超常的な力を持っているかもしれないと言うこと以外は何をしてもいいというルールだ。「奥手な依頼人が彼女のことを気にして調査を依頼してきたんですよ」とでも言って、身元を洗ったり情報を聞き出したりして彼女の正体に少しでも近づければいい。以上のように考えをまとめ、努めて明るい表情で穂樽はかつての職場の入り口を開けた。

 バタ法の中はあまり人が多くなかった。まずパッと見た感じでもよはいないとわかる。それから穂樽の同期であり、今回もよに「もらう」という対象にされている須藤(すどう)セシルもおらず、一時期アシスタントとして預かって研修していた新人の興梠花鈴(こおろぎかりん)も見当たらなかった。

 

「あら、穂樽さん。どうしたんですか? 外注は無かったと思うんですが……」

 

 やはりまず声をかけてきたのは、赤いセルフレーム眼鏡が特徴的な何でも屋受付嬢の抜田美都利(ばったみとり)であった。挨拶を返しつつ、予定通りに穂樽は切り出す。

 

「こんにちは。ノンアポですみません。……ちょっと訳ありの依頼抱えちゃって、相談と言いますか何といいますか。もよさんいます?」

 

 いるはずがないことはわかっている。しかしあえてまずはそこから入ることにした。

 

「天刀さんですか? それが今週1週間、どうしても休みがほしいという連絡を昨日突然受けたってアゲハさんの話で……」

「いらっしゃい、穂樽ちゃん。聞こえてたわ。実は今抜田ちゃんが言った通りなのよ。『どうしても1週間休みがほしい』って一方的に言ってきて。普通なら首飛ばすのも考えるところだけど、なんだかんだ彼女普段は真面目だし何か事情があるみたいだから、今回ぐらいは特別大目に見ようって思って」

 

 穂樽と抜田の話が聞こえていたのだろう、階段の上からボスである蝶野(ちょうの)アゲハがそう言いながら降りてきた。背後には弟の蝶野セセリが不機嫌そうに着いてきている。

 

「アゲ姉はそういうところが甘い。こんな前例を認めたら、真似をする者も出るかもしれないじゃないか」

「それで見せしめにクビなんてしたところで、こっちへの風当たりが強くなって不満が出ると思うけど? もよちゃんはアソシエイトからの信頼も厚いからね。とはいえ、これは減給か何かを課すことになりそうだけど」

 

 そう、自分も信頼していた、と穂樽は心の中で呟く。しかし今はもうそんな風に思うことは難しい。彼女は得体の知れない何かだとわかってしまったのだから。

 案の定、昨日言われた通りここにもよはいなかった。ひとまずそれを事実として受け入れ、穂樽は次の段階へ話を進める。

 

「連絡、つきませんか? 私もさっきかけたんですけど繋がらなかったんでここに来たんですが……」

「やっぱりそうよね。昨日連絡受けた後、なんか引っかかったからしばらくしてかけてみたんだけど、圏外にいるか何かみたいでダメみたいなのよ。彼女に用事だったの?」

「ええ、まあ。用事というか、彼女絡みの依頼で」

「お、なんだなんだ。もよよんが気になる男でも現れたか?」

 

 穂樽の予想に違わず、そんな質問を飛ばしてきたのは「セクハラ女王」とも呼ばれる年長アソシエイトの左反衣(さそりころも)だった。普段ならその質問にため息をこぼすところであるが、今回に限っては助かる援護射撃、と思わずにはいられない。

 

「いい加減にしてください。……と、言いたいところなんですが、実はそんな具合なんですよ」

「え!? 嘘、マジ!?」

「深く聞くのもあればってん、どんな依頼と?」

 

 独特の長崎弁交じりで甲原角美(かぶとはらつのみ)が問いかけてくる。穂樽は呆れた風を装いながら、両手を広げて見せた。

 

「よくある話ですよ。気になった人がいるけど自分じゃ奥手で声もかけられない。だから相手がどういう人が調べてほしい。たまたま私が彼女と昔同じ職場だったと知ったら是非お願いしたい、って。……直接話聞けば早いと思ったんですが、いないし連絡つかないんで、予想に反していきなりつまずいた感はありますけどね」

「別にわざわざ調べなくても、ほたりんの印象で色々教えてあげればいいじゃん」

 

 大した考えた様子も無くそう述べた左反に、今度は演技の要素を抜いてため息をこぼす。

 

「そんな主観的情報だけではちゃんとした調査とは到底いえません。お金が絡む以上、知り合い同士の噂話みたいなレベルで済ませるわけにいかないですから。まあ参考ぐらいにはなると思いますけど。それに出来るだけ詳しく、という条件付です。……アゲハさん、可能なら彼女の経歴や血縁関係などを教えていただきたいんですが、難しいですよね?」

 

 穂樽の問いにアゲハは眉を寄せ考え込んだ様子だった。

 

「うーん……。確かに穂樽ちゃんは信頼出来るってわかってるけど、さすがに本人の了承無しに、っていうのは気が引けるわね」

「ですよね……。仕方ないか」

「もし彼女から連絡あるか、こちらから連絡がついたときにそのことは聞いてみるわね。穂樽ちゃんがそういう依頼を抱えたみたいだから、って」

「ありがとうございます。そうしていただけると助かります」

 

 礼は述べたものの、それは叶わないだろうと予想を立てていた。昨日の段階でもよは完全に姿をくらます、ということを暗に述べている。

 左反や角美から情報を聞いてもいいが、建前である身辺調査としては意味のある行為でも、今の彼女の本来の目的からはかけ離れてしまう。だとするとこれ以上ここで聞きだせることはあまりないかと、切り口を変えてみることにした。

 

「ところでアゲハさん、もよさんはなんで急に休みたいって言ったんですか?」

 

 ストールを羽織った両手を広げ、わからない、というジェスチャー。

 

「それが聞こうとしたんだけど、あくまでどうしても1週間休みたい、ってしか言わなかったのよ。それで一方的に通話切られちゃって。やっぱり気になったからしばらくしてかけなおしたんだけど、もう繋がらなくて。まあ最初から何か訳ありみたいには感じたけど」

「なんか……。らしからんことやね」

 

 角美の意見に左反も頷いている。普通なら自分もそう思っていたはずだろう。しかし自分とのゲームのためだけに姿を消したとわかる穂樽には、それは大した問題にならなかった。

 

「異変とか、なかったんですか?」

「私が見てた限りでは、特に。左反ちゃん達、どう?」

「どう、って言われてもねえ……。つのみん」

「感じんとでした」

 

 角美の回答を受け、さらに左反はここまで会話に混ざろうとしない蜂谷(はちや)ミツヒサにも声をかける。

 

「ハチミツ、あんたも何か感じてない?」

「……いや」

 

 元々無口な蜂谷は首を小さく横に振り、無愛想気味にそう答えただけだった。やれやれ、と左反は肩をすくめている。

 

 ではこのゲームを突発的に思いついたのだろうか。それは捨て切れない。あの超常的な力を目撃しては、おそらくやろうと思えばいつでもやれるだろうと考えてしまう。同時に、ゲームをやらなくてもセシルを「もらう」ことも出来るだろうと思えるのだから。

 しかし穂樽はふともよが言ったことを思い出していた。期間は1週間と言ったときに、合わせてなんと言ったか。「次の満月まで」、そう付け加えたはずだ。なら、満月まで1週間の期間が用意できるこのときを敢えて狙った、と考えられる。つまり、計画的でありながら姿を消す気配を全く見せなかった。ということは、もよにとって、そのゲームが終われば後のことはもう考える必要もない、そういうことであろうか。

 

「ほたりん、どうしたと? 難しい顔して……」

「あ、いえ。……連絡もつかない以上、ちょっと心配で」

 

 本当なら心にも思っていないことだが、ここは相手に合わせたほうがいいだろう。加えて今の表情の意味を誤魔化す意味でも、穂樽はそう口にした。

 

「そうね……。一応事前連絡があったとはいえ、一方的だし今連絡つかないわけだし。なんだか気になるのは事実だわ」

「というかほたりん、もよよんのこと心配してるんだ。やっぱきつそうな見た目に反して実はいい子、典型的なツンデレってやつよね」

 

 反射的に左反を一瞥。その鋭い視線に「おおう、やっぱりツンデレ」などと相手は堪えた様子も無く平然と返してきた。

 

「気にはなるでしょう。私にとって元同僚、ここにいた時は一応世話になりましたから。逆に左反さんは気にならないんですか?」

「ならなくはないけど。たまにはそんな時もあるんじゃない? 生理不順でムカムカしてる時とかさ、全部忘れてどっかにふらっと行きたくなったりするものよ」

「だからといってほぼ無断欠勤まがいのことを認めるわけにはいかん! くれぐれもそういう真似はしないでくれよ」

 

 強い口調で言ってきたのはセセリだが、女子2人は軽く受け流しているようである。彼女らがこの調子なら自分が心配しすぎる様子を見せては逆効果かもしれない、と穂樽は考えていた。

 だがこれではバタ法で得られる情報は期待出来そうに無い。次の当てに移ったほうがいいかと思ったが、もよに「多分無駄」と前もって断られてはいる。それでもやらないよりはマシか、とバタ法を去ろうかと考えた時。

 

「戻りましたー」

 

 入り口から耳に馴染んだ明るい声が聞こえてきた。確認をしなくてもわかったが、抜田が「須藤さん、興梠さん、おかえりなさい。お疲れ様です」と声をかけたことで間違いないと確信した。おそらく調査に出ていたか何かであろう。

 

「セシルちゃん、花鈴ちゃん、おかえり。穂樽ちゃん来てるわよ」

 

 数人が集まる形になっていた階下のスペースから戻ってきた2人にアゲハが声をかける。それを聞くなり「あ、本当だ!」と荷物を置き、かつての同期は小走りに駆け寄ってきた。

 

「なっちー! 久しぶり」

「……そんな久しぶりでもないと思うけど」

 

 普段と変わらない、呑気な挨拶に意図せず穂樽はため息をこぼす。当人はもよに狙われているなどと夢にも思っていないのだろうし、言ったところで信じようともしないだろう。もっとも、彼女を余計に不安にさせても事態は好転するどころかむしろ悪化するのは目に見えるために、そもそも黙っておこうとも思うのだが。

 

「今日はどうしたの? アゲハさんのお手伝い?」

「もよよんを気にしてる人からの依頼で聞き込みだってさー」

 

 また食いつきそうな具合に左反が話を盛ってくれたと思わず気が重くなる。案の定、セシルは話題に乗ってきた。

 

「え!? もしかしてもよよんのことを好きになっちゃった人が調べてほしいって依頼に来た、みたいな?」

「……もうそれでいいわよ。近からずとも遠からずってところだし」

「穂樽さん……奇妙な依頼受けるんですね」

 

 興梠の全うともいえる反応を見て、先輩も少しは後輩を見習えと思ってしまう。それはさて置き、と期待はできないが2人にも一応話を聞いておくことにした。

 

「それでここに来たんだけどもよさん休みでいないみたいで。困ってたところだったのよ」

「あ、そうか……。もよよん急に休む、って言ってきたんだっけ……」

「なんだかもよよんさんらしくないです。ふざけてても締めるところは締める方だと思ってたんで……」

「……興梠さんのその評価はどうなのかしら。まあともかく、2人とももよさんが突然休む兆候とか異変とか、そういうの感じなかった?」

 

 2人は唸って考え込む。この様子ではやはり事前の予想通り期待はできそうになかった。

 

「……ほたりん、本題から離れとらんと? こんままそん原因まで調べる勢いけんね」

「そういうつもりはないんですが……。探偵だからですかね。引っかかる部分があると調べようとしてしまうんですよ」

 

 角美から入ったつっこみをうまいこと誤魔化して苦笑交じりにかわし、再び穂樽は2人に視線を戻す。

 

「うーん……。特に無かったと思うんだけど」

「私も須藤先輩と同意見です。……話してるときにやっぱり視線感じるときはありましたけど」

「それはいつものことじゃないの?」

「そう……ですね。ようやく最近慣れてきました」

 

 慣れてきた、という矢先に今回の一件というのはどうしたものだろうか。ともかく、2人からも有力な情報はないとわかると次の当てに移るしかなさそうだった。

 

「ありがとう。もし何かもよさんに関して気になることとか思い出したら、私に連絡して」

「ほたりん、もう完全にもよよん探す気じゃないのそれ?」

「本人から聞くのが早いですからね。連絡取れない以上、見つけられるなら話聞けるでしょうから。それに何かあったら……嫌ですし」

 

 ふむ、とアゲハは声をこぼす。少し考え込んでから申し訳なさそうに穂樽に頼み込んできた。

 

「……穂樽ちゃん。よければなんだけど、調査の一環とでも思ってもよちゃんのアパート、訪ねてもらっていい? もしいそうな気配があって顔を合わせられたら、依頼の件のついででいいから何があったかぐらいは聞いてもらいたいの。名簿渡してあったと思うから、そのぐらいは本人の許可無くてもいいでしょうから」

「ええ、構いませんよ。……その代わり今教えてもらってもいいですか? 帰り足に寄るんで」

「あ、そうね。ちょっと待ってて……」

 

 アゲハは自分のデスクまで戻ってしばらくしてからもよの住所がメモされた紙を穂樽へと手渡した。それを見てさほど遠くないな、と思いつつ「わかりました」と了承する。

 

「じゃあ申し訳ないけどお願いね。……本当はセシルちゃんが大事な時期にさしかかってるから、出来ることならもよちゃんにも手伝ってもらいたいところだし」

「大事な時期……?」

 

 疑問系で返してから、穂樽はセシルの方を見つめた。なぜか彼女はどこか恥ずかしそうに笑顔を返してきた。

 

「セシルちゃんのお母さんの件、再審が本格的に動き出しそうなのよ」

「本当ですか!?」

 

 セシルの母、須藤芽美(めぐみ)は娘を守るため、正当防衛で魔術を使って人を殺めてしまったという過去がある。そして魔法廷でその正当防衛が認められずに死刑判決を受け、現在服役している。だがその事件は仕組まれたものという説が濃厚であり、「自分達を虐げてきた人間を憎み、ウドの支配下に置くべき」という思想のマカル一派の指導者である麻楠史文(まくすしもん)が首謀者と目されていた。その事件が起こってから実に10年。魔法廷は一審制、しかも再審は過去に例が無い、ということで非常に困難であろうことは穂樽も知っていた。

 

「よく通りましたね。はっきり言ってかなり難しいと思ってたんですが……」

「カリスマ的存在である麻楠の逮捕からマカルは弱体化を始めた。ウドであることを隠し、様々な公職に潜り込んでいた彼の息のかかった人間達が摘発されるようになり、これまで闇の中にあった真実が少しずつ明らかになってきた。結果、この件を皮切りにこれまでにあったマカルが関わってそうな事件に対する不可解に思える判決に違法性があったのではないか、見直す価値はあるのではないか、という流れになったということかしらね」

 

 気づかれないよう、穂樽は横目に興梠の様子を窺う。本人には言っていないが、穂樽は既に興梠の素性をアゲハから確認している。彼女は敬虔なマカルの父を持った、元マカルの人間だ。しかしセシルを巡る4年前の一連の騒動で麻楠と共に父が逮捕されたことに伴い、その思想を捨て、今はアゲハの元でウド同士、あるいはウドと人が手を取り合えるように弁魔士として働いている。

 案の定、彼女は僅かに表情に影を落としていたようだった。彼女にとってかつての「同胞」が起こした事件。半ば強制的に父の教えに従わされていただけで彼女自身が何かをしたわけではなくとも、その責任を感じているように穂樽の目には映った。

 

「これまでの不可解な事件の真実が明らかになるというのなら、彼女も少しは浮かばれるだろう。何より……俺自身、せめてもの罪滅ぼしになるかもしれない」

 

 小声での呟くような独白は蜂谷だった。だが穂樽はそれをしっかりと耳にしていた。今彼が口にした彼女――早乙女真夕(さおとめまゆ)に関連する話だと想像がつく。セシルや興梠だけでなく、彼もまた過去を背負った存在だ。マカルという存在が残した傷跡は大きいのだと、改めて穂樽は実感していた。

 

「でももよよんもきっと来週には戻ってきてくれるし、リンちゃんがサポートについてくれてるから。今日もその件でさっきまで出てたわけだし。……ありがとね、リンちゃん」

「あ……いえ。私の力なんて微々たる物ですが、須藤先輩のためになるんでしたら頑張らせていただきます」

 

 今の興梠の一言を聞いて、皮肉な巡り会わせではないか、と穂樽は思う。しかしアゲハが何も言わない、あるいは敢えてサポートにつかせたとも考えられる。だとすると贖罪の意味合いもあるのだろうか、とチラリと女ボスの様子を窺う。穂樽の視線の移動に気づいていた様子のアゲハは、余裕のある雰囲気を纏わせたまま、その視線を交錯させた。やはり彼女なりの考えかららしいと悟った。

 

「まだまだようやく始まったばかりでこれからが大変だろうけど、やっとあなたの目標の入り口には立てたわけね。……私はもう隣に立てないけど、陰からなら支えられるし、応援もしてるわ。何か困ったことがあったらいつでもうちに連絡よこしなさい。何と言ってもうちの売り文句は『御法に触れなきゃ報酬次第でなんでもござれ』だからね」

 

 これにはセシルは苦笑を浮かべるしかなかった。しかし穂樽なりの激励と捉えたようだった。

 

「ありがとう、なっち。頼ることになるかはわからないけど、頑張るよ」

「その意気よ。……興梠さん、彼女をよろしくね」

「は、はい! 及ばずながらサポートしたいと思います」

 

 僅かに笑顔を浮かべ、「さて」と穂樽は切り出した。

 

「じゃあ私はそろそろ行きます。一応もよさんのアパート、覗いてみますね」

「お願いね。何かあったら連絡頂戴。こっちも連絡があったら、そっちにかけるから」

「頑張ってもよよんの彼氏さん候補見つけてね!」

「……すっごく語弊があるけどまあいいわ。そうするから、あんたも頑張りなさいよ」

 

 セシルに適当に返事を返して、穂樽は出口へと向かい始める。だがその表情は強張っていた。

 彼女にとって夢にまで見た母親の再審が、いよいよ始まろうとしている。そんな矢先にあったもよの宣言。「もらう」という意味が具体的にどういうことかはわからないが、やはりセシルを渡すわけにはいかない。そのことを改めて実感しつつ、バタ法を後にし、穂樽は住所にあるもよのアパートへと向かおうとしていた。

 

 



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Episode 7-3

 

 

 初日の調査を終え、穂樽は事務所兼住居へと戻ってきていた。結果的に現時点で収穫は無し、まだ一応情報待ちの状態ではあるが期待はできない。ほぼ無駄足だった、と言い切ってしまってもいいかもしれない。

 

 バタ法を出た後、アゲハが手渡してくれたもよの住所が記されたアパートを訪ねてはみた。が、案の定彼女はいなかった。いや、いないどころかそこに普段からいるのか怪しいのではないかと、探偵のカンで感じ取っていた。

 そのまま帰るのも面白くない。穂樽は当初から当てにするつもりでいた知り合いの刑事である江来利(えらり)クイン警部を呼び出し、もよの魔術届け出、及び警察データベースに情報がないかを調べてもらうように頼んだ。ここ最近いいように、しかも彼女の身内ばかりを調べてもらうような行動に不承不承ではあるが、クインは頼みを聞いてくれていた。

 今、帰宅後の一服をしながら穂樽はその連絡を待っているところである。しかしどうにも今日は空振る気がしていた。

 煙草を吸い終えた頃、携帯が震えた。クインからではあったが、メールではなく着信。それに先ほどの嫌な予感は的中したとなんとなく悟る。

 

「はい」

『ああ、あたしだ。なあ、聞きたいんだがわざわざ頼み込む必要あったか? 調べてみても魔術届出なんてあるはずがなかったし、データベースにもこれと言って何も無し。だからメールじゃなくて電話した。あたしはあんまり話したこと無いからわかんねーけど、なんか引っかかることでもあったのかよ?』

「いえ、さっきも言ったと思いますが、調査ですので一応です。すみません、お手を煩わせて」

『かまわねえよ。あたしの貸しが着々と増えていくってのは、まあ悪いことではないだろうからな』

 

 電話で話しつつ、顔に苦いものが浮かぶのを穂樽は感じていた。どういう形で返済を迫られるか。考えるのもあまりよろしくはない。

 

「……お手柔らかにお願いしますね。飲みでしたら喜んで承りますが」

『もうちょっと色つけてもらうかな。ま、思い出した頃に返してもらうよ』

「ともかく、ありがとうございました。またよろしくお願いします」

『一応断っておくが、あたしはお前の使いっぱしりじゃねえんだからな。その時はきっちり貸しが増えていくんだから覚えておけよ。それじゃあな』

 

 気軽そうな声と共に通話は切れた。通話が終了をしたことを確かめ、穂樽はポツリと呟く。

 

「……貸しを返せるまで私もあの子も無事でいられたら、喜んで返しますよ」

 

 ソファに深々と体を預け、天井を仰ぐ。結局今日の進展は何も無し。もよには異変があった様子も無く、先週までは今日から休むことを感じさせてもいなかった。

 

「穂樽様、やっぱり気のせいだったと思うニャ。居住区にいたから見てはいニャいけど、使い魔である私は昨日ニャにも感じニャかったニャ」

 

 と、そこで横から使い魔のニャニャイーが口を挟んできた。今の言葉通り、彼女は昨日もよが来たということすら気づかず、浅賀と同じようにひとつ前の客の存在しか認知していなかった。穂樽がもよと話し、それから苦悶の声を上げていたあの間はまるでなかったかのように発言している。ただし浅賀の発言と違う点として、ニャニャイーは前の客の男が帰った後、2度連続して扉の鈴の音を聞いているというところがあった。

 

「ねえ、もう1度確認するけど、私と女の人の会話も、私の悲鳴も聞こえなかったわけ?」

「だから聞こえニャかったニャ。扉の鈴を2回連続で、付け加えるとするとその2回目の前に穂樽様が待つように言った言葉を聞いただけニャ」

 

 穂樽は頭を抱える。もよと話していた時間が無かったかのようになっている。あの時間が、実は自分が見た白昼夢か何かで本当は存在していなかったのではないかとさえ思えてくる。

 しかしその時言ったようにもよは今日からバタ法に姿を見せていなかった。携帯も繋がらない。その点は確かに合致している。

 

「夢でも見てたんだと思うニャ。依頼人が帰って気を抜いて寝ちゃって、誰か来た時に目が覚めて追いかけた、とかじゃニャいかニャ?」

「……だったらどれだけ気が楽なことだか」

 

 太股に走った激痛とそこから血が抜けていく感覚、そして嗅覚を支配した血の臭いを思い出す。幻影魔術にしろ実際に傷つけた後に治療したにしろ、あんな真似は普通のウドには絶対に無理な芸当だ。

 

「幻影魔術もあるなら……鎌霧(かまきり)さんに話聞くのも手かな。あの人なら色々知ってそうだし」

 

 元バタ法の弁魔士、鎌霧飛朗(とびろう)は現在90歳という高齢のため、穂樽がバタ法を抜けた翌年に引退し、今は隠居生活をしている。それでもまだまだ元気で、頼めば相談に乗ってくれるとアゲハは言っていた。彼は幻影魔術使いであるため、そこを当たるのもありかもしれない。名簿を探し出して彼の住所を調べるか、と穂樽が思ったその時。

 突然プライベート用の携帯が鳴った。メールかと思って手に取ると、そこには「非通知設定」の文字が浮かんでいる。訝しげにそれを見つめてから、穂樽は通話状態にして耳へと当てた。

 

「……はい」

『あ、なっち? もよよんだよ』

 

 思いもしなかった相手の声に、穂樽は目を見開く。

 

「もよさん!? 今どこに……」

『あーストップストップ。悪いけど質問は無し。伝えようと思ったことがあってかけただけだから。言うことを聞いてくれないならこの通話はすぐに切っちゃうよ。……オッケー?』

 

 電話越しにも、昨日のあの威圧感のようなものが感じられた。何より、手詰まり気味で藁にもすがる思いでいたのは事実だ。穂樽は静かに「……わかりました」と了承の意図を相手へと伝えた。

 

『うんうん、いい心がけだね。……どこにいるかは教えられないし、これは公衆電話からかけてることになってるの。でもなっちが早くも困ってるみたいだから、少しサービスしてあげようと思って』

「サービス……?」

『明日の朝、バタ法に電話してあげる。私は突然旅に出たくなったから急遽アゲハさんに連絡して家を出た。でも旅先で携帯を壊しちゃったから連絡がつかなくなってるけど、心配はいらないし来週には戻ります、本当にごめんなさーい、って内容。で、多分その時に、アゲハさんから今日なっちが事務所に来たってことを言われると思うから、私の履歴書やら何やらを開示していいって伝えておくね』

「なっ……」

 

 自分の行動が筒抜けになっている。どこかで監視でもされていたのかと背筋に冷たいものが走った。

 

『アゲハさんとはあまり話す気はないから、あくまで私の経歴を教えちゃっていいですよってことぐらいを伝えておくね。……まあ言っちゃえば無駄なんだけど。結局クイン警部からは何も情報を得られなかったでしょ? それがアゲハさんに変わるだけのことだよ』

 

 穂樽は完全に言葉を失っていた。意図せず携帯を持つ手が震える。やはり昨日のあれは白昼夢でもなんでもない、実際に起こったことなのだとわかった。そして改めて、彼女がその気になればセシルを「もらう」ことなど容易いのだと直感した。

 

『でもなっちは自分で確かめないときっと納得しないでしょ? だから自分で調べるといいよ。ただし条件をひとつ追加、もし私の経歴が詐称だとわかっても他の人に漏らさないこと。それから忘れないでね。期限は次の満月、日曜日の夜。……あまり時間は無いよ』

 

 最後の一言は、穂樽が知っている天刀もよからはほど遠い凄みがあった。昨日一瞬だけ見せたあの笑み、それを思い浮かべて僅かに身震いしながら返す。

 

「……ご忠告感謝します。でも、セシルはあなたには渡さない……。天刀もよの正体、必ず暴いてみせます」

 

 電話口の向こうから、無邪気に笑うような声が聞こえてきた。ややあってそれが落ち着き、笑いを堪えるような様子と共に返事が返ってくる。

 

『やっぱりなっちにこのゲームを提案して正解だったよ。すっごくいい答え。セシルんには到底叶わないけど、なっちも私のお気に入りだよ。……じゃあ私が何者なのか、正解にたどり着けるよう頑張ってね。そうしないと、今のセシルんの折角の努力も無駄になっちゃうし。私は楽しみに待たせてもらうから、探偵さん』

 

 一方的にそう告げられ、通話は切れた。携帯を机の上に放り投げ、煙草を1本取り出して火を灯す。

 

「穂樽様……」

 

 電話中、ずっと不安そうに見つめていたニャニャイーが声をかけてくる。一瞥してから穂樽は煙を吐き出した。

 

「……やっぱり昨日のは気のせいでも白昼夢でもなんでもない。本当のことなのよ。彼女は私が今日何をしたか、全てわかっている。おそらく私のちゃちな想像なんて遥かに超えた何かなんでしょう。そんな相手を無視することはできない。……もう私はルビコン川を渡ってしまっている。正解にたどり着くしか、残された道は無いのよ」

 

 セシルの夢を潰すわけにはいかない。「もらう」などという、彼女の都合だけで弄ばれてはいけない。深く煙を吸い込みつつ、穂樽は静かに心を昂らせた。

 

 

 

 

 

 翌日、午前中の内に予想通りアゲハから連絡があった。内容は完全に昨日もよが言ったとおりだった。

 

『もよちゃんから連絡があってね。なんだか急に旅に出たくなったとかなんとか……。平謝りしてたし、どうしてもって言うから大目に見ちゃった。それで携帯が壊れちゃって、丁度世俗からしばらく離れたかったところだし帰るまでそのままでいるって、公衆電話からだったの。あまり長く話す時間はなかったけど、穂樽ちゃんの依頼の件、軽く話したら来週戻ってから詳しく聞くって。使いたいなら私が持ってる履歴書だののデータを送っても構わないって許可貰ったから、メールで添付して仕事宛のアドレスに送るわね』

 

 アゲハの話は大まかにそんな内容だった。本当に旅に出た、で押し切ったところに驚いたが、よりありえない力を目撃していては別にそのぐらいどうということはないのかもしれない。

 それより、とタブレットPCを起動して送られてきたデータを確認する。が、軽く見ただけで、彼女の眉がしかめられた。

 

「穂樽様? どうしたニャ?」

 

 煙草の箱を開けて1本取り出して咥えてから、ニャニャイーの問いに答える。

 

「……当たりようがないかもしれない。におうわ、これ」

「煙草臭いかニャ?」

「まだ吸ってない。あと空気読んだ発言しなさい」

 

 事前の使い魔の抗議を無視して穂樽は火を灯した。そのままディスプレイを見つめる。

 

「父も母も既に他界、兄弟無し。データにはそうある。つまり血縁関係から当たるのはほぼ不可能ね。バタ法の入所は私の少し前……これはおそらく本当でしょう。とはいえ、それが本当でもどうしようもないけど。そうなると残されたのは……出身校か」

 

 昨日のもよの口調では詐称、と言っているようにも聞こえた。だが確認するまでは鵜呑みにはできない。もしかしたらそこに彼女を知る手がかりがあり、それを隠すためにわざとそう言っている、という可能性もありうる。

 

「……99%ないとわかってはいるけど」

 

 煙と共に付け足すように愚痴を吐き、恨めしそうに穂樽は画面を眺める。他に当たれそうな項目は無い。9割9分嘘とわかっていても、自分でそれを確認するまで、そして現状で他に当てが無い以上やむを得ないだろう。

 煙草の葉を燃やし尽くし、穂樽は荷物をまとめる。貴重な時間を割くことになる。だが確認しなくてはならないことだと自分に言い聞かせ、調査の準備を始めることにした。

 

 

 

 

 

 調査はまたしても空振った。アゲハから受け取ったデータにあったもよの出身校と記述されている学校に赴き、人探しという名目で学校に保管してある卒業アルバムを当たった。しかし記述されていた学年、及びその周辺数年分を探しても「天刀もよ」という人物は見当たらなかった。

 

「血縁もダメ、出身校もダメ、手が無いわね……。本当に彼女の言ったとおりだと考えるのが妥当かもしれない」

 

 既に夕暮れ時。帰宅後、体は疲れていたが、穂樽は居住区のソファに座ってタブレットPCとにらめっこをしていた。

 アゲハ以外のバタ法の情報筋として抜田を使うという手もある。だが「経歴詐称とわかっても他人に漏らさないこと」という条件が追加されている。もし抜田が何かを得たとしても、出身校が違ったということがわかれば条件を破ることになる。その際のペナルティがどんなものかは想像したくない。ありえない力を用いた、最初に味わったような体験はもうしたくない。少なくとも、ウドですらない抜田を巻き込もうとは思いたくもなかった。

 

「手詰まりだわ……。昨日から進展ほぼ無し。どうすんのよ……」

 

 タブレットPCを机に置き、天井を見上げる。いっそ左反に頼んで予知魔術(プレコグニション)でも使ってもらえば多少は好転しそうな気もするが、そうなるとやはり左反を巻き込むことになりかねないし、条件を破ることにもなりかねない。

 

「とりあえず明日鎌霧さん当たるかな……。あの人なら巻き込まむことなく参考になる話を聞けそうな気はする。でもそれも空振ったら本格的にまずいわね。今後の展望を含めてどうにかしないと……」

「穂樽様、困ったときは切り口を変えてみるニャ。だから弁魔士をやめたんじゃニャいかニャ?」

「……まあそれは一理あると思うけど。でも切り口を変えろといってもどうしろっていうのよ」

 

 煙草の箱を手で弄びつつ、唸り声と共に考えをめぐらせる。

 

「切り口を変える……。彼女自身じゃないとこから当たるとするなら……こだわっているところ、対象のセシル絡み? でもあの子はトラブルメーカーでわけありすぎだから、思い当たる節なんて逆にありすぎるぐらい……」

 

 そこで穂樽は不意に口を止めた。そして「そうだ!」と何かに思い当たったように口走り、携帯を手に電話帳を探る。

 

「どうしたニャ?」

小田青空(おだあくあ)! この間興梠さんと話してる時、彼の持ってた幼少期の写真がもよさんにそっくりだったってことを思い出した!」

 

 小田青空はかつて人探しの依頼のためにファイアフライ魔術探偵所を訪れたクライアントでもある。その依頼の相手とは、他ならぬセシルだった。彼とセシルとの間には複雑な関係があったが、セシルは彼に会うことを決め、青空は最終的に再会を果たすことに成功していた。

 セシルの友人、ということで仕事の関係を越えて番号交換をしておいてよかったと穂樽はその番号をコールした。時間的にまだ迷惑かもしれないが、この際どうこう言ってられない。

 ややあってコールが止まり、しばらく前に聞いた声が携帯から聞こえてきた。

 

『……はい?』

「あ、小田さんですか? 急なお電話申し訳ありません。穂樽夏菜です、お久しぶりです」

『穂樽さん? ああ、お久しぶりです。セシルの件ではありがとうございました』

 

 向こうも穂樽のことを覚えていてくれたらしい。これなら話は早い。

 

『どうしたんですか、急に?』

「ちょっと聞きたいことがありまして……。つかぬ事を伺いますが、確か小田さんは一人っ子でしたよね?」

 

 一瞬間があった。穂樽の質問を訝しんでいるのか、考えているのか。

 

『……ええ、一人っ子です。母の再婚後も、兄弟は生まれていません』

「ありがとうございます。もうひとつ。天刀もよ、という女性を知りませんか?」

 

 単刀直入に穂樽は切り出した。彼の反応次第では、もしかしたら意外に簡単に答えにたどり着けるかもしれない。

 

『……すみません、覚えが無いです。誰ですか?』

 

 やはりダメか、と反射的にため息がこぼれた。同時に、その言い訳も考える。

 

「もよさんはセシルの担当パラリーガルで、彼女とすごく仲がいいんです。それで以前小田さんがお持ちいただいた幼少期の写真を見て、その彼女に少し似てる気がしまして……。今の小田さんは男性らしい雰囲気だったために気づかなかったのですが、先日ふと気になってしまってから引っかかっていたものですから。職業病だと思うのですが、妙な質問をすみません」

『ああ。探偵さんの(さが)ですかね。でもさっきも言ったとおり自分に兄弟姉妹はいませんし、その女性も知りません。……それにしても俺に似てる女性がセシルと仲が良いとは、なんだか奇妙な偶然ですね』

「当のセシルは気づいている様子も無いですけどね。……それで、近頃はセシルとどうです?」

 

 目的は果たしたが、このあたりの会話はあった方が自然かもしれない。そういう考えから、雑談を切り出した。

 

『まあ……。ぼちぼちです。ただ彼女、近々お母さんの再審があるからって、しばらくの間少し俺と距離を置くように提案してきました。なんだか気を使わせてるみたいで悪いんですが』

「あ、そうか……。すみません、考えが至らず」

『気にしないでください。時間の経過と共に少し心に整理がついて、そこでセシルから真実と思える発言を聞いて……自分の中では一応は納得してるつもりですから』

 

 口ではそう言っても、やはり複雑な感情があるように穂樽は感じていた。それでも青空は「変わらずセシルのことを好きでいる」と告げたはずだ。だとするならその彼の心のため、隠された真実のためにセシルを守らなくてはいけない、と改めて思う。

 

「私は陰ながらですけど、2人のこと応援してますよ。……急に電話して、なんだか茶化すみたいな内容になってしまってすみません」

『いえ、自分に似てる方がセシルと仲が良いと聞いて少し興味が沸きました。セシルが落ち着いたら、話を聞いてみようかと思います』

「それはいいかもしれないですね。……ありがとうございました。ではこれで失礼します」

 

 相手側の応答を聞いてから、穂樽は通話を終えた。事実だけを見れば外れである。が、穂樽の心には若干の安心感も生まれていた。

 

「小田さんは彼女と関係無い……。まあそれ自体は良かったわ。でも、だとするとなぜ彼女は彼に似ている点があるのか。答えはわからないけど……切り口を変えた手応えとしては、おそらく悪くない。心当たりありすぎるけど、セシルから当たっていった方がいいかもしれないわね」

 

 そうは言っても確証も何も無い。今の青空の話にしたって、世の中には似てる人間が3人はいると言われるために偶然ということは十分にある。だが一方で、本人の知らないところで彼が巻き込まれていたという可能性も考えられた。その後者を考慮し、穂樽は思考を働かせ始める。

 

「2人の接点……。ずっとセシルが追い続けている10年前のお母さんの一件、か。確か一旦命を落としたはずのセシルは召喚魔術で命を取り戻した、と言う話だったっけ。……ん? 召喚魔術……?」

 

 穂樽は頭の中でピースがはまるような感覚を覚えた。召喚魔術には代償が必要なはず、という記憶を呼び起こす。だから麻楠のルシフェル召喚の際には触媒となるセシルの他に、召喚魔術の代償として立ち会った信者が視力、すなわち光を失っていた。結局その魔術は失敗に終わったが、そのせいで興梠の父は失明状態で逮捕されたはずだった。

 ではセシルの魂を召喚魔術で呼び戻した際の代償は何か。それがなんだったのかは、対象であるセシルですら知らないことだろう。知っているとすれば、行使した当人以外ありえない。

 

「……麻楠史文。4年前の一件を企て、ずっと暗躍し続けていた男。当たってみるだけの価値はあるかもしれないわね」

 

 



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Episode 7-4

 

 

 調査開始から3日目、水曜日。この日穂樽はまず麻楠史文の面会を取り付けるために動き始めた。さすがに即日、ということは無理だったが、2日後の金曜日に面会を取り付けることにはどうにか成功した。しかし裏を返せば、ここで有力な発言を得られなければ、次に会うことは難しいということに他ならない。

 ならばそれまでに出来る限り彼に聞くことをまとめ、それ以外の情報を集め切るぐらいの考えでいなければならないだろう。現時点では10年前に起こったセシルを蘇らせた召喚の代償の件に焦点を定めている。そこを聞き出し、もよに関連する何かがあればいい。それ以外にも4年前の件に触れる可能性も出てくる。彼がもよを知っていて正体も知っている、などとなれば話は早いが、そんなことはないだろう。

 

 それまでに出来る調査を進めておこうと、穂樽はかつてバタ法にいた老年の元弁魔士、鎌霧飛朗を訪ねようとしていた。名簿を引っ張り出して彼の住所を調べ、既に事前連絡は取ってある。彼は快く穂樽の訪問を許可してくれた。が、その住所を地図で調べたところ、どうもいかにも都内の下町、呼ばれるような場所にあるようだった。

 住所にある家についてまず彼女は唖然とした。町並みからして歴史を感じる景色ではあるが、その中でも飛び抜けて古く見える、かなり年季の入った家屋だった。一体いつからこの街並みを見続けてきたのだろうかという風貌に気圧されつつも、彼女は入り口の呼び鈴を押す。相手は90歳の高齢の老人だ、すぐには出てこないだろう。下手をすれば分単位で待つことも考えていた。

 しかし彼女のその予想はあっさりと覆った。待つこと十数秒、2度目の呼び鈴を鳴らすことなく目的の相手は現れた。相変わらず見た目はヨボヨボで口調もゆっくりではあったが、元気そうな様子が見て取れた。

 

「いらっしゃい、穂樽君。久しぶりだねえ」

「お久しぶりです。急にお邪魔してすみません、鎌霧さん」

 

 頭を下げた穂樽に対し、鎌霧は「ふぇっふぇっ」とでも言うような、独特な笑いを返す。彼なりに再会を喜んでいる、と言ったところだろうか。玄関口で立ち話もなんだから、と上がるように穂樽に伝え、鎌霧は奥へと進む。穂樽もその後に続いた。

 歩行ペースは鎌霧に合わせることになったが、苦ではなかった。むしろ内装を見渡す時間が出来て気にすらならなかった、と言う方が正確かもしれない。外見から予想はついていたが、その内装もかなり歴史を感じる家だった。失礼とはわかりながらも穂樽はあたりを見渡してしまう。

 

「珍しいかい?」

 

 その様子に気づいたらしい鎌霧が、首を半分だけ向けて尋ねてきた。

 

「はい。……これだけ年季の入った建物はなかなかお目にかかれないので」

「僕が生まれたときからずっとあるから、最低でも90年。多分かれこれ100年以上ここに建ってるんじゃないかな」

「100……!」

 

 都内にこれだけ年季が入った家屋があるというだけでも驚きなのに、そこに住んでいたのが知り合いというのもまた驚きだった。歴史を感じる廊下を通り、鎌霧は来客を茶の間へと通した。足が痺れるかもしれないと危惧しつつも、穂樽は久しぶりに正座をして姿勢を正す。

 

「悪いねえ、お茶と適当なお茶請けしかないけど」

「あ、お構いなく。……私は話を伺いに来ただけですから」

 

 そう断っても、彼は独特な笑いを返し、お茶を入れる手を止めようとしなかった。

 

「そうはいかないよ。お客様だからね。それに急ぎすぎても何もいいことはない」

「それはわかっていますが……」

 

 思わず本音をこぼしかけてしまい、気まずそうに穂樽は視線を逸らす。だが鎌霧はそのことに言及しようとはしなかった。

 

「若い子はどうしても急ぎたがる。史上最年少なんて若さで弁魔士になったセシル君は、その極みだったね」

「でも、彼女の場合急ぐ理由がありました」

「そうだったね。まあ、悪いとは言わない。だけど時には立ち止まることも必要じゃないかな」

 

 差し出されたお茶に対して顎を引いて感謝の意図を示しつつ、だが穂樽は何も返さなかった。

 

「それでも急ぐ理由がある、か。……聞きたいことっては、なんだい?」

 

 その穂樽の様子を察して、鎌霧は先を促してくれた。感謝しつつ、口を開く。

 

「いくつか聞きたいことはあるのですが……。鎌霧さんは召喚魔術についてどのぐらいの知識がおありですか?」

 

 まだ熱いであろうお茶をすすりつつ、ゆっくりと返事が返って来た。

 

「それほど詳しくはないよ。そもそも本来は禁忌とされている魔術だからね。でも、穂樽君よりは詳しいかもしれないかな」

「ではお尋ねします。4年前のセシルを巡る事件、その際麻楠史文は堕天使ルシフェルを召喚しようとし、しかし失敗したはず。そして召喚の代償として立ち会った信者たちは視力を失った……」

「ルシフェルは光を好む者、とも言い伝えられていると聞いたかな。よって召喚の際の贄として、光を奪い取った、とも考えられるね」

 

 さすがは亀の甲より年の功、といったところか。穂樽は感心した声を上げていた。何故興梠の父をはじめとした信者が視力を失うことになったのかまではわからなかった。その理由がわかるということは、より詳しく何かを知っているかもしれない。

 

「その6年前、つまり今から10年前になるわけですが、セシルは1度命を落とし、召喚魔術によって蘇生したはずです。となれば、その際も代償が必要だったはず。ですが、それがあった形跡が無い。そのことについて、何か思い当たる節はありませんか?」

「……穂樽君、スイカを知ってるかい?」

 

 藪から棒の話に、穂樽は反射的に「は?」と声をこぼしていた。

 

「いや、まあスイカじゃなくて他の野菜でもいいけど」

「……何の話ですか?」

「スイカは大きいじゃない。持とうとすると重い。でも、種の段階、あるいはまだ実が成熟しきっていない時期なら軽い」

 

 それはそうだが、と思いつつ、話の本質が見えないと穂樽は首を捻る。鎌霧は小さく笑ってから先を続けた。

 

「例えるならルシフェルという強大な存在は実が熟したスイカ。一方まだ潜在魔力が覚醒していなかったセシル君は種、と考えられる」

「なるほど……。その考えでいけば、代償は4年前の時より遥かに少ないはず。麻楠の魔力だけで補い切ることもできたかもしれない」

「それからもうひとつ」

 

 茶をすするだけの間を置いて、鎌霧は続けた。

 

「セシル君の蘇生の際、彼女の魂の他に意図しないものまで召喚した、あるいは気づかぬうちに紛れ込んできたという可能性もある」

「……どういうことですか?」

「僕は資料で読んだだけだから詳しくわからないけど、麻楠が一度セシル君の魂を黄泉へと送ったのはその力を異界の者に知らせるため、という説もあるみたいだね。とすれば、その時に誰にも気づかれずに異界の者が紛れ込んで彼女の魂と共に召喚され、セシル君の蘇生を助けた、みたいなことも考えられなくは無いんじゃないかな、と思ってね」

 

 穂樽は目を見開いた。異界から紛れ込んできた者。まさに、超常的な人ならざる力を持つ存在。今彼女が捜し求めている答え、そのものではないかと思えた。

 

「その紛れ込んだ者というのは……」

「さすがにそこまでは見当もつかないね。それにあくまで僕の仮説だから、当たってるかもわからない。……年寄りの与太話とでも思ってくれるといいかな」

「そう……ですか」

 

 小さく息を吐き出したところで、穂樽はまだ用意してもらったお茶に手をつけていないことに気づいた。一口飲み込み、たまには緑茶もいいかなとふと思う。

 

「他に聞きたいことはあるかい? こんな年寄りの回答でよければ、いくらでも答えてあげるよ」

「……鎌霧さんは幻影魔術使いですよね? 幻影魔術で相手を術中に陥れられる限界って、どのぐらいですか?」

 

 鎌霧は固まったまま動かなかった。もしかしたら質問が漠然とし過ぎていたかもしれない、と穂樽は補足する。

 

「例えば、記憶を消す、ということはギリギリ可能だと自分の経験上わかっています。あるいは見せたくない幻覚を見せる、ということも。それがどの程度まで可能かを知りたいのです」

「まあ……一概には答えられないね。この魔術は自然魔術なんかと違って対象者の抵抗の度合いにも影響されるし、使い手の調子も関係してくる。その記憶を消す、という事例は対象が抵抗をせず、かつ使い手がそれなりに優れているなら可能だろうね。それを踏まえたうえで実現可能な範囲としては……相手に死の恐怖を見せ付けるぐらいは出来るかもしれないかな」

「では……本当のことと見分けがつかないほどの、痛みすら実際に感じさせるような幻覚を相手に見せることも可能でしょうか?」

 

 だが穂樽のその問いに鎌霧は首を静かに横に振った。

 

「それはまた別問題だね。通常では痛覚まで支配しようとしても対象の強い拒絶が予想されるから、出来ないと思えるよ。もし出来たとして、現実と見分けがつけられないほどとなると、不可能じゃないかな」

 

 思わず穂樽は生唾を飲み込んだ。幻影魔術かはわからないが、やはり自分があの時体験したものは、人ならざる力に他ならない。そして、さっきの鎌霧の話では、いや仮説と言ったために想像でしかないのだろうが、セシルの蘇生の際に紛れ込んだ来た存在、それがもよの正体ではないかと思えていた。

 しかし仮にそうだとして、その正体を突き止めなければ彼女とのゲームに勝ったことにならない。知識豊富な元バタ法の長老、とでもいうべき存在である鎌霧でも見当のつかないという話だ。それを突き止めるなど、到底無理ではないかと思える。

 

「そんな魔術でもかけられたのかい?」

 

 核心を突くような質問に穂樽はどきりとした。本音をぶちまけたかったが、もよがあの時穂樽にしたことを具体的に言うのは禁止、と言われている。下手なことを言ってペナルティをもらうのは避けたかった。

 

「いえ、あくまで例えばの話です。以前うちを訪ねたクライアントの調査対象が幻影魔術使いで、どの程度まで可能か少し気になりまして……」

「なるほどねえ……。でもその答えは、逃げとしては甘いかな。そんなことでわざわざ僕のところを訪ねてくるというのは、ちょっと分が合わない」

 

 咄嗟の出まかせをあっさり見抜かれたと、穂樽は血の気が引く感覚を覚えた。さすがベテランの元弁魔士、同じ「元」でも自分とはまるでレベルが違うと実感していた。

 そんな穂樽の心を見抜いたかのように、彼は独特の笑いをこぼした。次いで安心させるように声をかける。

 

「図星みたいだけど、これ以上は踏み込まないから安心していいよ。……てっきりセシル君絡みで話を聞きに来たのかと思ってたけど、穂樽君も色々あるみたいだねえ」

「ええ……まあ、そういうことです」

 

 それより他に返す言葉も無かった。気まずい空気が流れ、穂樽はお茶を飲んでその間を凌ぐ。

 

「他には、何かあるかな?」

「えっと……」

 

 聞くべきか迷う。この流れでもよの話を出すのは、話の流れからいって彼女のことを調べに来たとも思われてしまう可能性がある。それでも指定された3点以外なら何をしても言いと言う話だったはずだ、と意を決して切り出した。

 

「大したことではないんですが、今バタ法のパラリーガル、天刀もよさんの身辺調査の依頼を受けているんです。でも彼女、ここ1週間事務所を休んで連絡が取れないみたいで。それで外堀から埋めようかと思っているんですが、鎌霧さんから見て彼女ってどう映りました?」

「天刀君ねえ……。若い子達には慕われているようだったけど、僕からするとつかみどころがないって印象だったかな」

 

 意外に思い、穂樽は「そうですか?」と尋ねる。少なくとも先日の一件まで、疑いの眼差しを向けたことは無かった。

 

「人は誰しも自分を隠して生きている部分がある。彼女の場合……それが特に強く感じられたかな。ま、深く探ろうなんて気はなかったから、あくまで僕の感覚で、だけどね」

 

 もしかしたらこの老人は彼女の正体に薄々勘付いていたのかもしれない、と思えた。それでも明確にはわからない様子でもある。

 

「それにしても、随分とタイミングが悪かったんだねえ。穂樽君のところにそんな依頼が来ると同時に、休んじゃうなんてね」

「え、ええ……。そうですね」

 

 そしてこれでは自分もいつボロを出してもおかしくない。どうもこの相手には全てを見透かされているように感じる。しかしこれ以上突っ込んで聞いてくることがなかったのは救いであった。

 

 沈黙が訪れた。だが聞きたいことは粗方聞くことが出来た。そろそろお(いとま)しようかと口を開きかけた時。

 

「穂樽君の聞きたいことは、そろそろおしまい?」

 

 そう先に切り出された。「はい」と返事を返す。

 

「じゃあ代わりに僕のお願い聞いてもらえるかな?」

 

 無論穂樽は謝礼は払うつもりでいた。だがこの言い分、それよりも自分の頼みを聞くことでまかなってほしいとも聞こえる。

 

「えっと、謝礼を考えてはいたのですが、それより鎌霧さんのそのお願いを聞いたほうがいいですか?」

「そうしてもらえると助かるんだけど。いいかな?」

「その方がお望みで、私に出来ることでしたら」

 

 その言葉を待っていたかのように、彼はまた独特な笑いをこぼした。そして立ち上がって近くにあった棚へと歩み寄り、何かを取り出して手渡す。

 

「……え」

 

 渡された紙を見て穂樽は絶句した。そこにはアイドルグループであろうか、可愛らしい女の子達が映った画像と、その下に店のような名前がいくつか並び、その脇に「ポスター」「ブロマイド」などと書かれている。

 

「あの……これは?」

「そのアイドルグループが歌う、今度出るCDのジャケット写真と各店舗特典。大好きなグループだから僕が行きたいところなんだけど、この年だと何店も回るのが結構厳しくてねえ……」

「は……? 同じの複数買うんですか!? 特典目当てで!?」

「そういうものだよ。穂樽君もまだまだ若いねえ」

 

 ふぇっふぇっ、と再び笑いをこぼす鎌霧。唖然として穂樽は手渡された紙へと再び目を落とした。書かれていたのは6店舗、すなわち特典のためだけに同じものを6つ、彼は手にすることになる。

 

「それで穂樽君にお店回って買ってきてもらいたいんだよ。お金は渡すよ。発売日は来週の水曜日。特典が無くなると困るから、朝一で行ってほしいな」

 

 何も言えないと、開いた口が塞がらなかった。目の前の老人は90歳のはずだ。にもかかわらず、相変わらず元気にアイドルを追いかけている。この人こそ人間を越えた何者かではないかとさえ錯覚して、頭を抱えてしまっていた。

 

「ダメかな?」

 

 しかし当人が相変わらずだという呆れの心はあれど、彼の趣味と頼まれたこと自体に対しては特に何と言うことは無い。そもそも来週の話なら、その時に自分とセシルがどうなっているかもわからないというのが本音だ。この状況を切り抜けられて無事来週を迎えられるのなら、喜んでその頼みを受けようと思うのだった。

 

「……それが望みでしたら喜んでお受けします。そもそも私は『御法に触れなきゃ報酬次第でなんでもござれ』がモットーの探偵事務所をやってるわけですから。今日のお話のお礼として、鎌霧さんの代わりに店舗巡りさせていただきますよ」

「いやあ助かるよ。じゃあこれ、CD代だから。特典、楽しみにしてるよ」

 

 お金を渡すはずが、逆に渡されてしまった。そのことに戸惑いつつ、しかし穂樽はヒントとなるかもしれない情報をもたらしてくれたかつての老弁魔士に感謝の気持ちを持っていた。

 

 

 

 

 

 鎌霧の家への訪問を終えた穂樽は遅めの昼食をとろうと、帰り道の途中にある適当なレストランへと入っていた。彼の話は非常に参考になる部分が多かった。少なくとも収穫ほぼゼロのこれまでよりは、少し前に進んだように感じる。

 召喚魔術。おそらくはそれが今回のゲームの鍵ではないだろうか、と穂樽は考えていた。麻楠が使用した10年前と4年前。そしてどちらにも関わっているセシル。もよがセシルに対して異常ともいえるほどの執着心を見せるのは好意という感情の他に何かがあるのではないか、と予想を立てている。

 つまり今回の件の中心にもまたセシルがいる、と思えた。つくづくトラブルメーカーだと思いつつ水を呷る。注文した料理が来るまでもう少し時間がかかりそうだと判断した彼女は、暇潰しに携帯でもいじろうかとした、その時。

 

「……え?」

 

 突如として周囲の喧騒が水を打ったように静まった。同時に、今呟いたはずの自分の声も出ていなかったと気づく。そして携帯を操作しようとしていた指は動かず、いや、全身も動かないまま、意識だけははっきりとしていた。

 金縛り――まず真っ先にそれに思い当たる。しかし睡眠時にかかることは何度かあったが、こんな意識がはっきりしている状態でかかるなどありえない。加えて、周囲の時がまるで止まったようになっていることの説明もつかない。

 声を出すことも、動くことも出来ない。そんな混乱する彼女の耳に、静寂を破って無邪気ともいえる声が飛び込んできた。

 

「やっほー、なっち。頑張ってるみたいだねえ」

 

 もよさん、と言おうとしてもそれは叶わず、相手の顔も確認出来ない。しかし当の彼女は、どうやら穂樽の向かいに座ったらしかった。

 

「きりじぃに話は聞きに行くかなーって思ってたけど、まさか麻楠の面会まで取り付けるとは、なかなかいい着眼点、そして行動力だよ。さっすが探偵さん」

 

 茶化し気味にそう言ってから、携帯から目を離せずにいた穂樽の視界の隅を、何かが横切った。おそらくもよの手、目の前にあったコップを取ったようだった。

 

「あ、水全部飲んじゃった。ごめんね」

 

 特に悪いと思う様子も無くもよはそう言うと、どうやらコップを元の位置に戻したらしかった。

 何がしたいのか。尋ねたくても穂樽の声は出ない。だがもよはその様子を察したように声をかけてきた。

 

「何で私がここに来たのか、って思ってるのかな? ……特に理由は無いよ。なっちの頑張りを褒めてあげようと思ってね。着眼点としてはいいところをついてるよ。何より、今のなっちの態度が答えに近づいてる証明に他ならないから」

 

 どうすることも出来ないこの状況で態度も何もあったものでないだろう、と穂樽は思う。しかしやはり心を読んだように、目の前にいるはずの彼女は答えた。

 

「だってなっち、今現在自分が置かれているこの現状を受け入れてるじゃない。抵抗しようとする気配が無い。それはつまり……私がこの原因で、しかもそれに対してもはや疑惑を持っていないということ。それは答えに近づいてるよ」

 

 やはりこの相手は人ならざる者なのだ、と穂樽は改めて思っていた。答えに近づいている、だがそう言われても、まだ彼女の真の姿は霧の中で見えないようにも感じていた。

 

「ちょっと長居しすぎちゃったかな。ま、この調子だとなっちは答えにたどり着いてくれるんじゃないかな、って思ってるよ」

 

 目の前で立ち上がる気配を感じる。遠ざかろうとする背に、穂樽は懸命に声をかけようとした。が、案の定声は出ない。

 

「じゃあね。また気が向いたら声を聞かせてあげるかもしれないかな。頑張ってね、なっち」

 

 待って。お願いだから待って。

 届かぬ声を絞り出そうとする間に、気配は遠ざかっていく。

 

「待って!」

 

 ようやく穂樽がその言葉を発せられた時、先ほどまでの店内の喧騒が戻っていた。周囲の人々が何事かと視線を移してくる。

 

「あ……えっと……」

 

 気まずそうに視線を泳がせる。その様子を不審そうに見た店員だったが、机の上を見て表情を元に戻した。

 

「お水ですか? 今お持ちいたしますね」

 

 ハッとしたように机を見れば、確かに水はなくなっていた。さっきもよが飲んだと言ったのは嘘ではなかったという事実を突きつけられる。

 着眼点としてはいいところをついている、と彼女は言った。それがどこまでか範囲はわからないが、先ほど鎌霧から聞いて立てた自分の仮説は案外間違えてはいないのではないか、と思う。

 店員が水を注いでくれた。感謝の気持ちをこめて軽く頭を下げ、それを飲みつつ考えをまとめる。

 自分の仮説が正しいとすれば、セシルが鍵を握っている。10年前と4年前の事件の中心におり、今回もよが目的としている人物。彼女ともよの間に自分の知らない関係がある、もしくは何か気になることが無いかを直接尋ねるのもいいかもしれない。

 

 考えをまとめた彼女の前に、注文していた料理が届いた。お腹は減っていたはずだが、正直今の一件で食欲は失われている。とはいえ、腹が減っては戦は出来ない。これを食べ終えたらセシルにメールを飛ばして明日にでも話を聞こう。そう思いつつ、穂樽は目の前の料理へと目を移した。

 

 




鎌霧の家は想像で書いています。確か原作に出てきていなかったはず……。


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Episode 7-5

 

 

 翌日、木曜日。今日中に出来るだけ情報を集めたい穂樽の下に吉報が飛び込んできた。昨日の夕方頃、セシルに「もよについて気になったことは何か無いか。それからちょっと引っかかった点があるから10年前の事件についても聞きたい」というメールを送ったところ、夜になって「昼食のときに話したいことがある」と返って来ていたのだ。

 とはいえ、あまり期待し過ぎない方がいいのもわかっている。これで肩透かしではダメージが倍増だ。さらにセシルには悪いが、自分を昼食に誘うための名目として、あまり有力ではない情報だがあると言ってきた可能性もある。新情報があれば儲けもの、という感覚で行こうと考えていた。

 

 バタ法近くのパーキングに車を止め、あえて穂樽は中には入らず外で待つことにした。頻繁に顔を出してるのも迷惑かもしれない。それ以上に、カンの鋭いアゲハ辺りが何かに気づく可能性もある。メールで到着したから外で待ってるという内容をセシルに送ると、しばらくして彼女は興梠と共に現れた。2人きりでないのは少々まずいかもしれないとも思えたが、角美や左反はいなくて逆に助かったとも思えてしまう。

 

「お待たせ、なっち。じゃあお昼食べに行こう」

 

 ああ、やっぱり期待できないという事前の予想通りかと若干穂樽は気落ちした。この様子では昼食目的という思考が先行して自分が本来聞きたいことなど忘れているのではないだろうか。マカルと因縁浅からぬ興梠もいるということを考えると、麻楠が関連している内容を聞くのも(はばか)られると思っていた。

 

 が、穂樽のこの予想は良い意味で外れてくれた。バタ法時代からの行きつけの食堂に着いて注文を終えた後、セシルは至極真面目な顔で切り出してきたのだ。

 

「それでなっち、昨日のメールなんだけど……。10年前の事……ずっと私が真実を追っているママに関する事件について聞きたいって、どういうこと?」

 

 少々それは語弊がある。あくまで穂樽が聞きたいのはその時のセシルのことだ。

 

「正確にはその事件、というより、その時のあなたについてなんだけど」

「セシルの……? でも、あの時のことは本当に覚えてなくて……」

「確かあなたは一度命を落としてから……麻楠の召喚魔術によって蘇生した、という話だったはずよね」

 

 視界の端で斜め前に座った興梠の様子を窺う。「麻楠」という単語に、僅かに身を固くした様子がわかった。

 

「その時のこと、何か覚えてないかと思って。……まあ、覚えてないわよね」

「……ごめん、あの時のことはセシルにもよくわからないの。でもどうしたの、急に?」

「いえ、途方も無く考えを巡らせていたらなんか気になっただけよ。麻楠の話ではルシフェル召喚に代償が必要だったはずなのに、あなたの場合それがなかったような気がして」

 

 やはりはす向かいの彼女の表情は強張っていた。それを思うと、これ以上の話は気が引けた。

 

「何でそうなったって、小田さんが前見せてくれた幼少期の写真、もよさんが幼かったら似てたんじゃないかってことを急に思ったからなんだけど。今もよさんの調査の方が本人戻ってきてくれないから詰まってて、当たれるところから当たろうとしてたときに思っただけのこと。それで10年前の事件のことを思い出して、さっきの質問に至ったというわけ。ちなみに、彼に聞いてみたらもよさんのことは知らないって。他人の空似だったみたい」

「青空君と話したの? もよよんと似てるかな? あんまり感じなかった。……でも今、ママの件で動いてるから青空君とちょっと顔合わせにくくて、しばらく会わないようにしてるの」

「みたいね。彼、寂しがってたわよ」

 

 茶化した穂樽に「もー! なっち!」とセシルは顔を赤くしつつ非難の声を上げた。これにはしばらく緊張していた様子の興梠も笑顔を浮かべている。

 

「もよよんさんと似てる須藤先輩の恋人さん……。会ってみたいです」

「今は似てないわよ。線は細い印象だけど、男性っぽくなってるし。昔は一層中性的だったから、その頃のもよさんとだったら似てたんじゃないか、って話。今の小田さんの画像なら多分セシルの携帯に入ってるでしょ。興梠さんに見せてあげなさいよ」

「な、なんでそのこと……じゃなくて! リンちゃんに見せるって話が出るの!?」

「そりゃあ興梠さんだって見たいでしょうし」

 

 話を振られた彼女は当然とばかりに目を輝かせて頷いている。当初の目的から話が逸れてしまったが、まあ仕方が無いだろう。やはり当初の考えどおり有力な情報は期待できなかった。

 

 穂樽がそう思って、今日の収穫も無いか、と諦めかけた時だった。

 

「もう、なっちのせいで話逸れて思い出して言おうとしたの忘れるところだった。さっき聞かれたようなこと、以前もよよんにも聞かれた、って言おうとしてたのに」

 

 その一言に穂樽は凍りついた。それまでの和やかな表情から一転、顔を強張らせる。

 

「……さっき、って、どれのこと?」

「なんだったかな……。もよよんに私が1度死んで生き返ったらしい、って話をした時だと思う。確か『死んでる時って、どんな感じだった?』みたいな奇妙な質問だったような……」

 

 そこで注文した料理が運ばれてきた。間が悪い、と思わず舌打ちをこぼしそうになるのを穂樽はグッと堪える。

 

「それ、もっと詳しく聞かせてくれない?」

 

 既にいただきます、と言って料理に箸をつけようとしたセシルを止めるように穂樽は尋ねた。目の前の煮魚の身をほぐしてご飯と共に口に運んだセシルは、考える様子を見せてそれを飲み込んでから口を開く。

 

「詳しく、って言われても……。結局よくわからないって答えておしまいだったよ。ただ……」

「何かあるの?」

「その後……4年前のあの事件で、セシルが誘拐された時……。夢を見たの」

 

 目の前の食事には手をつけようとせず、穂樽は「夢?」とオウム返しに口にした。その言葉を受けてセシルは頷く。

 

「うっすらとで、あまり詳しくは覚えてないんだけど……。もよよんと話す夢だった気がする。それで、『ひとつになろう』とかその夢の中で言われような……。後から気になってもよよんにその話をして何者なのか、って尋ねてみたんだけど、『セシルんが大好きなだけのパラリーガルだよ、大好きだから夢に出たんだよー!』とかってはぐらかされちゃって。まあ気のせいだと思ってるんだよね」

 

 言葉通り、特に気にした様子も無くセシルはそう言うと箸を再び進め始めた。しかし一方、穂樽は固まったままだった。「セシルをもらう」、その意味は今さっき「もらう」と宣言された対象が口にした言葉、「ひとつになる」ということと同義ではないかと思ったからだ。

 セシルの魔力は強大だ。故に人ならざる者、と仮定しているもよが彼女の魔力に魅力を感じ、己の糧としようとしているのではないかとも思える。だから彼女は異常なほどにセシルに興味を抱き、ずっとくっついていたのではないだろうか。

 しかし確証はない。加えて、本題である「天刀もよの正体」という点ではやはり進展が無い。それでも多少は前進したか、とプラスに考え、穂樽も昼食をとることにする。

 

「ありがとう。まあ彼女の身辺調査、という今回の私の調査からはその夢云々ってのはオカルト染みててあまり考慮には入れられないけど、なかなか面白い話ではあったわ」

「あ、じゃあその身辺調査の足しになるかわからないけど、っていうか、こっちが本題。なっちのメールを見て思い出したんだけど、4年前の事件の時、工白(くじら)さんだったかな。『天刀もよに気をつけろ』って言ってきたことがあったよ。もしかしたらラボネである工白さん達にとって気になることでもあったのかな? でももよよんはウドですらないから、マカルのはずはないのにね」

 

 瞬間、穂樽の目は見開かれ、その斜め向かいに座っていた興梠は箸を止めていた。これだけあからさまに空気が変わると、さすがのセシルも気づいたらしい。

 

「……あれ? 2人ともどうしたの?」

 

 どうしたものか。もよの身辺調査、という名目がある自分はいいにしろ、興梠まで動揺したのは明らかに不自然だ。しかし下手なフォローは彼女の過去を抉る形になるし、同時にそのことを隠そうとする彼女に対して自分は全て知っている、と暴露することにもなりかねない。

 

「……須藤先輩、工白さんって、ライバル事務所のシャークナイトの方ですよね?」

「そうだよ。リンちゃんは会ったことなかった?」

「ラボネ……なんですか?」

 

 今のは墓穴だろうと穂樽は突っ込みたかった。普通はその単語すら知らない。ましてや知っていたとして、過激派のマカルを怖れるならまだしも、穏健派に位置するラボネに対して怖れたような態度を見せるのはおかしいとも言えてしまう。

 

「そうだよ。シャークナイトの人達は基本そうみたい。だから4年前、セシルを守ろうとしてくれたの。……でもリンちゃん、セシルは4年前までその言葉すら知らなかったのに、マカルとラボネのこと知ってるの?」

「そ、それは……」

 

 まずい。ここは助け舟を出さざるを得ない。記憶を探り、咄嗟に穂樽は口を開いた。

 

「確かお父さんが少し詳しかったんじゃなかった? うちに研修に来てたときにそんなこと言ってたはずだし。……まあ普通はウドでもその存在すら知らない派閥の話だからどっち派、なんて言われると身構えちゃうかもしれないけど、ラボネは人間と共存を望む思想らしいし。それって、普通に生活してる私達と似た考えだとも思えるから、ラボネだからって身構えることは無いと思うわよ」

「そ、そうですね」

 

 まだ動揺は続いているらしかったが、どうにか興梠は穂樽の誘いに乗ってきた。これで一先ずは乗り切れそうだ、と穂樽は続ける。

 

「現にシャークナイトの人達は悪い人達ではないわよ。……まあ癖はあるけど」

「マカルだったら、ちょっと身構えちゃうけどね。セシルを誘拐したもん」

 

 折角の人の助け舟を何故沈めるのか、と穂樽は心で愚痴った。現に興梠の表情は暗かった。自分の父がセシルに対してひどいことをした、という罪の意識を感じているのかもしれない。

 しかし一方でセシルは先ほどの疑惑を拭い去っていたようであった。それだけは救いだろうと思って穂樽は自分の昼食をとりつつ、さっきの発言の確認を取る。

 

「……で、工白さんが言ったって発言、本当なのね?」

「うん。でもそれ以後特に何も言ってこないし、工白さんの考え過ぎだったんじゃないかなって思うけど」

 

 彼らは何かを知っているかもしれない。今日1番の有力情報だ。意図せず、穂樽の口の端が僅かに上がった。

 

「ちょっと興味深いわ。本人不在で行き詰ってたところだし、話聞いてみようかしら」

「……なんかなっちのそのセリフ、ちょっと悪者っぽいかも」

 

 余計なお世話よ、と返して本格的に穂樽は昼食の時間に入ることにした。これでこの後シャークナイトを訪問することは決定事項となった。彼らが自分も知らない何かを知っていることを祈りつつ、遅れを取り戻すように穂樽は箸を進めた。

 

 

 

 

 

 昼食を終えた後、セシル達と別れた穂樽は手近な喫煙所を探して食後の一服を楽しんでいた。同時に、この後シャークナイト法律事務所に行くために心を落ち着ける。1本吸い終えたところで表情を引き締め、彼女はかつて勤めていたところからするとライバルとなる事務所の入り口を開けた。

 

「失礼します」

 

 突然の来訪者、しかも以前は強引に招き入れたこともある顔に事務所内の人間の視線が集まる。

 

「お? 姉ちゃん、久しぶりちや。何か用でもあるかえ?」

 

 印象深い特徴的な土佐弁と共にそう問いかけてきたのは工白志吹(しぶき)だった。はい、と穂樽は頷き、彼を見つめたまま続ける。

 

「ノンアポで申し訳ありません。ですが、どうしても工白さんにお尋ねしたことがありまして」

「俺に?」

 

 自分を指差したまま怪訝な表情を浮かべる工白。そんな2人のやりとりに気づいたのだろう、奥から所長である鮫岡生羽(さめおかきば)が姿を現した。

 

「穂樽君、今度はうちの工白の身辺調査かな?」

「勘弁してくれ! 何ちゃあしとらんわ」

「そういう類のものではありません。少々お尋ねしたいことがあるだけです。……可能なら、鮫岡さんも」

 

 一瞬間を置き、「わかった」と鮫岡はそれを了承した。渋い表情の工白を促し、応対スペースへと案内する。

 

「コーヒーと、あと灰皿でよかったかな?」

「いえ、お気持ちだけで。聞くことを聞いたら、私はさっさと消えますので」

 

 硬い表情のままそう続けた穂樽に鮫岡は小さく笑みをこぼしたようだった。一方やはり工白はあまり浮かない表情である。

 3人が腰を下ろし、穂樽が口を開くより早く。先に言葉を発したのは工白だった。

 

「で、俺に聞きたいことって?」

「4年前、まだ私が新人弁魔士だった頃に起こった、セシルを巡る一連の事件のこと。ラボネのお二方は当然覚えていますよね?」

 

 途端に2人の視線が鋭くなった。ラボネ、という単語に反応したように見えた。警戒した様子で鮫岡が尋ねてくる。

 

「……それが?」

「今私はバタ法の天刀もよの身辺調査の依頼を受けています。しかし彼女は今週頭から急に休みを取っていて、現在連絡がつかない状況です。そこで、集められる情報から集める方針を取っているのですが、さっきセシルから興味深い話を耳にしたんです。……4年前の事件の時、工白さんに『天刀もよに気をつけろ』と言われたと彼女は言っていました。その発言の意図を、知りたいと思いまして」

 

 反射的に工白は鮫岡へと視線を移していた。それに気づいている事務所のボスは、代わりとばかりに口を開く。

 

「……特に深い意味は無いだろう。さっき君が言ったとおり我々はラボネ、セシル君を守る立場にある。故に怪しいと思った相手に対して気をつけろというのは……」

「申し訳ありません、鮫岡さん。私は工白さんに尋ねているんです。可能なら彼の口から、建前でなく真意を話していただきたいんです」

 

 不躾とも思える物言いに、工白が舌打ちをこぼした。

 

「真意も何も無いちや! 今生羽君が言ったとおりが全て、それ以外なんちゃあない」

 

 語気を荒げてそう言われても、穂樽は硬い表情を崩さず、堪えた様子もなかった。代わりにバッグの中から茶封筒を取り出し、無言で机の上に差し出す。

 

「……何の真似かな?」

 

 その中身が何か。当然わかった上で鮫岡はそう問いかけた。

 

「もう1度言います。真意を、話していただきたいんです」

「なるほど。たとえ買収してでも聞きたい、という心構えと捉えよう。しかしそう言われても、無い袖は振れない、としか言いようが無い」

 

 突き放すようにそう言われたが、穂樽は無視して先を続ける。

 

「天刀もよの魔術届出はありません。クイン警部に調べてもらったので間違いありません。そんな彼女を気をつけろと言った。……本来ウドですらないにも関わらず脅威となりうる存在。そのように思ったから注意を促したのではないですか? そう、例えるなら……ありえないはずのない彼女の魔術を見てしまった、とか」

 

 2人の表情が強張る。工白は横目に鮫岡の様子を窺っていた。その様子から、今のカマかけは効果的だったと判断する。おそらくこの2人もどういう形でかはわからないが、穂樽が体験したような超常的な力を目の当たりにしたのだろう。

 

「……わかった。我々の負けのようだ」

「生羽君!? しっかしそれは……」

「彼女は本気だ。警部まで動かしている。そして何よりおそらくは、彼女も見てしまったのだろう。……俺達同様に」

 

 やはり、と穂樽は息を呑んだ。既におおよそわかっていたことだが、これでもよが魔術、いやそれで説明のつかないような力を持っていることは間違いないと確信した。

 

「金は受け取れない。買収された、という形になるのはどうもきまりが悪いからな」

「わかりました。……それで、何を見たんですか?」

「さっきおまんが言うた通り。あのパラリーの魔術ちや」

「4年前、君達がアメリカからカナダ……確か、セシル君の実家に行っている最中のことだ。覚えているか?」

 

 記憶を探り、「はい」と答える。当時は偶然2人がそこにいた、と思っていたが、今思うとラボネとしてセシルを守るために密かに動いていたのではないか、とも思える。

 

「あの時、俺達はたまたま天刀もよを目撃した。……彼女は湖の水の上に沈むことなく、まるで浮遊しているかのように立ち、そして消えた」

「ちょっと待ってください。……勿論アメリカかカナダか、そこでの話ですよね?」

「当然じゃ」

「でもあの時もよさんは日本に残ったはず。なのに海外で目撃された、ということですか……」

 

 突如現れ、そして消えていく。既に何度か、そのような事例は経験している。ゲームを持ちかけてきたときにいつの間にか部屋の中にいたことも、浅賀に目撃されること無く消えたのも、昨日似たようなことがあったのも全てそれだ。

 

「あれは魔術使いであったとしても、人間の持ち得る力ではない。正体がわからない」

「だからセシルちゃんに警告した。けんど、あの事件で何も行動を起こしていないように見えた」

「それでも何か尻尾を掴もうと、こちらはバタ法から食事会の話を持ちかけられたときに彼女を誘ってはみたのだが……。警戒しているのか、乗ってこなかった」

「左反さんが言っていた合コンの話か……。じゃあ、彼女が何者かという心当たりはありませんか?」

 

 鮫岡はゆっくりと首を横に振る。

 

「その時にそれとなく探りを入れたかったが、断られた以上出来なかった。かといって踏み込んで調べたくとも、あれだけの力を目の当たりにするとどうしても尻込みをしてしまう。触らぬ神になんとやら、だ。……我々の動きも既にばれているが、まだ脅威ではないと敢えて泳がせているのかもしれない。俺がこの話を渋った理由は、そこだ」

「気ぃつけな。うちを出た途端跡形も無く消えました、は勘弁願うが」

「……悪いことは言わない。これ以上首を突っ込んで彼女を調べないほうがいい。もし君も我々同様あり得るはずのない力を見てしまったのだとしたら……。優秀な君だ、最悪の場合自分がどうなるか、想像することは容易いだろう」

 

 バタ法のライバル事務所のやり手弁魔士2人でさえ、危険と判断して口外すら避けてきたという事実。それは穂樽に改めて相手の異質さと不気味さ、そして恐ろしさを感じさせていた。

 

「……ご忠告、感謝します。ですが私はもう足を踏み入れてしまっていますからね。それに、かつての同期の傍に危険な存在がいるという事実を、黙って見過ごすことも出来ません」

「危険な存在、というのなら彼女のより注視すべき人物がいる。あちらのボスは気づいているのかいないのか、それともわざとなのか、こちらとしてはあのパラリーガル以上にそっちが気にかかる。同期を心配するのなら、ここまで動きの無かった『触るべきでない者(アンタッチャブル)』よりその人物を洗うべきだ、と助言しておこう」

 

 やや考え、「ああ」と穂樽は声をこぼした。ラボネの鮫岡は相対すると思われる組織の存在の人物のことを把握している。そこまではその気になれば調べられなくもないだろう。が、彼女の本当の姿までは見抜けていない。同時に彼女の危険性を臭わせることでもよの調査から距離を置かせようとしている、と気づいた。

 

「興梠花鈴のことでしたら、彼女はマカルとはもはや無関係です。敬虔なマカル信者だった父が4年前のセシルの事件で逮捕後、母と共にマカルの思想を捨てています。アゲハさんはそんな2人の力になりたいと、彼女をバタ法に迎え入れたと言っていました」

 

 鮫岡と工白が目を見開いた。この2人を手玉に取ったように思え、思わずくだらない優越感が心に浮かぶ。

 

「おまん、なんで向こうの新人のことを!?」

「いや、それよりも調べたのか?」

「4月にアゲハさんがうちに研修という名目で彼女をよこしたんです。その時共に行動していて少々引っかかるところがありまして。調べてみたところ、どうもマカルなのではないかと思って先ほどの鮫岡さんと同じ疑問を抱き、アゲハさんに直接問い質したんです。私が受けた回答は、全て辻褄があっています」

「なるほど。それで君はかつてのボスの言葉は嘘ではない、と判断したわけか」

 

 はい、と返事を返しつつ穂樽は頷く。ため息をこぼしながら鮫岡は諦めたように口を開いた。

 

「……暗にもうやめておけと言いたかったのだが、そちらが一枚上手だったらしいな。わかった、もう何も言うまい」

「ええんか?」

「ああ。どうせ俺が止めようが彼女は忠告を聞き入れない、そうだろう?」

 

 再び、今度は無言で頷いた。その表情だけで決意の重さが伝わったようだった。

 

「何が君をそこまで突き動かそうとしてるのかはわからない。調査というのも名目だけで、その実もっと大きなものを背負い込んでいるようにも思う。だがすまないがそんな君に対して結局俺達は何もしてやれない。それでこんなことを言う資格があるかはわからないが……。くれぐれも無茶だけはするなよ」

 

 微笑と共に穂樽は立ち上がった。つられるように2人も立ち上がる。

 

「お心遣いありがとうございます。それから、興味深い話を聞けて助かりました。……もし私に何かあったら、まあその時は墓参りにでも来てください」

「縁起でもないことを言うがやない」

「君がいなくなればセシル君は悲しむだろう。……無論、俺も失うには惜しい優秀な人材だと思っている。ウドと人間との共存を望む、我々に通じる考えを持っているようだしな」

 

 僅かに顎を引いて感謝の意思を示し、穂樽は出口へと向かった。「失礼しました」と述べた彼女の姿が完全に見えなくなるまで見送ってから、渋い顔と共に工白は独り言をこぼした。

 

「……ありゃあまっこと()()()()ちや」

「はちきん? ……ああ、お前のところの言葉でいうと『いごっそう』みたいなものか。褒めてるのか?」

「当然じゃか。俺らが見て見ぬ振りを決め込んだというに、頑固なやっちゃ」

「真実をひたすらに追い続ける、か。……是非とも願うとおりの結末を迎えてもらいたいものだ」

 

 穂樽が去っていった扉を見つめつつ、鮫岡は呟く。だが次には軽く頭を振って思考を切り替えようとし、シャークナイト事務所内の応対スペースを後にした。

 

 



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Episode 7-6

 

 

 麻楠史文。元最高裁判所長官であると同時に、マカルの重鎮でカリスマ的先導者であった男。そんな相手と直接一対一で顔を合わせるということに、さすがの穂樽も緊張を覚えずにはいられなかった。

 今日は調査を始めて5日目、金曜日。今、穂樽は死刑囚が収監されている東京湾に浮かぶ海上拘置所に来ていた。魔法廷で死刑判決を受けた人間は法廷内にある魔術システムによってここへと転送される仕組みになっている。麻楠は逮捕後の弾劾裁判の際、法廷内で魔力を封じる封印錠を破壊し、魔術によって抵抗したためにこの場へと強制転送。その後判決を受けて現在はここに収監されているという経緯があった。

 麻楠との面会は今日が最初で最後のチャンスだろう。ここで可能な限りセシルに関する事件、ひいてはもよに関する情報を本人の口から聞き出さなければならない。限られた時間の中でどれだけ話せるかが重要だ。待機中に再び穂樽は考えをまとめなおす。

 

 天刀もよとは何者か。その答えを探し出すことが今回のゲームの目的だ。

 まず最初に彼女の経歴を洗った時点で、そのほとんどが詐称されているであろうことがわかった。血縁は当たりようがないが、出身校のアルバムに彼女の姿はなかった。同時にもよ自身が詐称と認めている節もある。また、魔術と思しき力を使ったにも関わらず届出はなかった。

 次にその力の異常さ。自身も体験した、魔術と果たして呼べるのか、正体すら皆目見当がつかない力。しかもそれは自分だけでなく、シャークナイトの鮫岡と工白も目撃したことがあるという。だとするなら、彼女が異常すぎる力の持ち主であることを疑う余地はない。

 それら2点から見えてくる像とは何か。早い段階で薄々感じつつあった、彼女は人ならざる者ではないか、ということ。そのことを裏付けるように鎌霧は「召喚魔術を使用された際に紛れ込んできた」という可能性を示唆した。あくまで仮説の段階でしかないが、その時に召喚魔術を行使した麻楠本人にそのことを尋ねるのがもっとも的確だろう。いずれにせよもよはセシルに執着しており、この件の中心にもセシルがいるように感じられる。だとするなら、4年前の彼女を巡る事件の首謀者である麻楠の話は重要となるはずだ。

 

 以上から焦点は彼が行使した召喚魔術について。そこになるだろうと穂樽は考えていた。仮に当てが外れたしても、もよに対する仮説を考えれば、今現在使い手が少ないといわれる召喚魔術の話を聞くだけでも何か手がかりは得られるかもしれない。

 昨日から幾度と無くまとめた考えを再度頭の中で整理する。ひとつ息を吐いたところで、不意に職員から声がかかり、穂樽は立ち上がった。

 

 通されたのは狭い部屋だった。窓越しに数年ぶりに窺うかつてのカリスマの顔は、当時あった威厳のようなものが剥がれ落ち、少しやつれているようにも見えた。

 

「……出版社かどこかの人間か? 最近では定期的に来る弁魔士連中以外、ゴシップ雑誌の記者も来なくなって退屈していたところだ。暇潰しにはなるといいがな」

 

 開口一番、挑発気味に麻楠はそう穂樽へと切り出した。威厳を失った、と思えてもなおこれだけの余裕のある口調に、やはりマカルの重鎮という身分を隠して法曹界の中枢まで上り詰めた男なのだと再確認せざるを得なかった。

 

「こんにちは、麻楠さん。穂樽夏菜と申します。期待を裏切るようで申し訳ありませんが記者の類ではありません。それに、あなたと直接顔を合わせたのも、これが初めてではありません」

「今でこそこの有様だが、かつては多くの人間と関わっていた身でね。すまないが記憶に無い」

「4年前のあなたの弾劾裁判の際、バタフライ法律事務所の須藤セシル、蜂谷ミツヒサと共にあなたを弁護させていただきました。記憶にありませんか?」

 

 穂樽の言葉に麻楠は一度考えたようだった。ややあって、「ああ」と思い当たったように言葉をこぼす。

 

「……そういえばいたような気もするな。それで、須藤の金魚のフンが私に何の用だ? こんな形でなく、弁魔士の特権を使えばもっと長時間の接見も可能だっただろう?」

 

 露骨な挑発に僅かに穂樽の眉が動く。しかし心を落ち着け、彼と顔を合わせた当時はかけていなかった眼鏡のレンズ越しに鋭い視線を投げかけた。

 

「あの後私は弁魔士バッジを返しました。ですからこういう形を取らざるを得ませんでした」

「そこまでして私と何を話したいんだ? 君も元弁魔士なら、かつての事務所に頼み込めば私の話などいくらでも聞けるだろう。もっとも、魔道書365が重要証拠として提出された以上、それに触れることすら不可能だからわからんでもないがな」

「かつての事務所を通さずに、あなたから直接話を窺いたいのです。……退屈しのぎとでも思って、あなたの稀有な魔術のお話でもしていただきと思いまして」

 

 ほう、と麻楠は興味深げな声をこぼした。

 

「稀有な魔術、とは何のことかな?」

「召喚魔術についてです」

 

 僅かに、彼の口の端が釣り上がる。

 

「……ああ、確かにあれは本来禁忌ともされる、使用者が少ない魔術だ。それに興味を持つか」

「10年前、あなたはセシルに召喚魔術を行使して一度死んだ彼女を蘇らせたはずです。それから、4年前にも使用したはず。それらの時のことを詳しく知りたいのです」

 

 だが穂樽のその言葉を聞くと、彼は興味が削がれたようだった。微笑ともいえた表情を元に戻して吐き捨てるように告げる。

 

「……くだらん。召喚魔術に興味があるというから禁忌を犯そうとしてるのかと思えば、結局は須藤か。それなら弁魔士を当たれ。今あいつの母親の再審が進もうとしているらしいじゃないか。須藤のために来たのなら……」

「セシルの母親の件は関係ありません。あれはあの子が背負い、解決すべき問題です。私はそこに興味はありません」

「随分と薄情じゃないか。かつての同僚だというのに」

 

 相手が冷やかしているのは容易にわかった。どんなに言い繕っても、結局はセシルのことを聞き出そうとしている、というように考えているのかもしれない。まず相手を話す気にさせるところから始めないといけないか、と穂樽は攻め方を変えることにした。

 

「……麻楠さん。私が知りたいのは確かにセシルの件に絡んではいますが、あくまで召喚魔術について、です。10年前のセシルの時は成功した。しかし4年前のルシフェル召喚の際には失敗した。……そこの差はなんです?」

「ほう、少しは詳しいようだな。……いや、元弁魔士、しかも仮にも私の弁護の手伝いをしていたのなら、それもわかることか」

「自分でも調べました。4年前には供物としてルシフェルと関連の深い光を奪い取らせる、という形で視力を失った信者も沢山いたと聞きます。それだけの犠牲を払ってなお失敗した。……つまり1度、贄まで用意しておきながら失敗している。ではこう言ってはなんですが、本当に10年前は成功したのか、疑問を抱きまして」

 

 僅かに麻楠の目元が引きつった。プライドが高いと推測できる相手だ、そこをつけば挑発に乗ってくる。穂樽はそう踏んでいた。

 

「君は召喚魔術自体については何もわかっていないようだな」

「ええ、おっしゃるとおりです。自分で調べても大していい情報にたどり着くことが出来ませんでした。なのでこうしてお話を伺いに来たんです」

「なるほど、そう来たか。切り返しとしては悪くない。……いいだろう、少し話してやろう。そもそもたかが人間1人、しかもまだ潜在魔力が覚醒していない状態の小娘1人の魂を呼び戻すことと、意識体の存在である堕天使ルシフェルを器となる触媒を用意して呼び出すこと。これだけでも話は全く違うとわからないか?」

 

 彼の発言は鎌霧の仮説を裏付ける、と言ってもよかった。スイカの種とスイカの実。その重さは全く異なるという例えが適切であったように思える。

 

「つまりそもそもの難易度が異なる、と」

「若干の語弊があるが、まあ簡単に言ってしまえばそういうことだ」

「だから難易度を少しでも下げるため、ルシフェルの触媒として『100年に1人の逸材』とまで呼ばれるセシルを選んだ。……手の込んだ事件を仕組んでまでも、ということですか」

 

 フン、と麻楠は鼻を鳴らす。それを気にかけないように、穂樽はさらに続けた。

 

「セシルの魔力はそれほどまでに優れていたのですか?」

「君自身、同僚なら目撃しているのではないか? 次々に魔力が覚醒し、強大化していく須藤の姿を」

「ええ。ですが、先ほど述べたリスクを犯してまで得る価値があったのか、と問いたいですね。身内にもっと扱いやすい存在がいたはず。なのに敢えてセシルに固執したために、あなたの計画は失敗したように思えましたので」

「待て。……身内とは何のことだ?」

「興梠花鈴。記憶にありませんか?」

 

 やや間を置き、麻楠は思い出したように声を漏らす。

 

「ああ、興梠の娘か。確かに優秀ではあった。だが須藤には遠く及ばなかった。……あの娘のことをよく知っているな」

「彼女は今バタフライ法律事務所でセシルの後輩として弁魔士になっています。あなたの逮捕後にマカルは弱体化。彼女はウドである身分を隠しながら検事として法曹界に潜り込むという父親の願いを叶えられなくなり、同時にあなたと共に彼女の父親も逮捕されたことで目標を見失った。それから考えを改め、今はマカルであることを捨てたと聞きました」

 

 窓の向こうの元先導者はその発言を一笑に付した。

 

「興梠の娘が須藤の後輩? ……笑える話だ。あれだけ私を盲目的に信仰していた興梠の、その娘がな。わかるか? ルシフェルの触媒に自分の娘が選ばれ、元の姿を保てなくなるかもしれないと知っても嬉々としていた、それが興梠という男だ。これはなんとも皮肉な話だとは思わないか?」

「それは思いますね。ですが、セシルが母親を助けようと自らの意思で弁魔士になったのと同様、彼女も父親の束縛から逃れて自身の足で歩き、人とウドの間の新たな可能性を見つけるために弁魔士になったのではないかと私は考えています」

「……青臭い。生ぬるい考えだな。結局魔術使いと人間が相容れることなどありえん。我々のような、選ばれたウドが人を支配すべきなのだ」

「あなたの青臭いという発言に対抗させていただくなら、それこそ愚か過ぎる考えと言わざるを得ませんね。……いつの時代も独裁者は敗れる。力で押さえつけようとすれば、必ず反発が起こる。それが人の歴史でしょう。……もっとも、あなたはその芽すら摘むために中枢に同胞を送り込み、さらにルシフェルを召喚しようとしていたのかもしれませんが」

 

 面白くなさそうに麻楠は表情を歪め、鋭い視線で穂樽をにらみつける。だが彼女はその視線を受けても全く怯むことは無かった。

 

「所詮はラボネの回し者か。貴様らのような愚かなウドには、我々の崇高な思考などわからんだろう」

「そうですね。確かにわかりませんし、わかりたくもありません。私は人とウドは分かり合える時が来る、そう信じています。でもあなたのように過激な、自分達が正しいと信じて聞く耳を持たないような方達とは、同じウドでありながらもしかしたら永遠にわかりあうことは出来ないのかもしれないとも思って嘆いてもいます。……ですが生憎、私はそのような思想の押し問答をしに来たのではないのです。善悪の彼岸を問いたければ、私以外の誰かとしてください。話を戻させていただきます。私が聞きたいのは、召喚魔術のことについてです」

 

 含むような低い笑い声が響いた。その後で、麻楠はゆっくり口を開く。

 

「どうしてもその話にいきたいか。……まあいいだろう。埒の明かぬ思想の話とわかっていても、久しぶりにしてみると、なかなかどうして面白いものだな。わかった、話を聞いてやろう。それで聞きたいことはなんだったかな?」

「10年前のセシルの蘇生に召喚魔術を使用した際のことを詳しく教えてほしい。そして、4年前のルシフェル召喚はなぜ失敗したのか。その2点です」

「……1点目の前に2点目から始めよう。その方が説明しやすいだろうからな。4年前の召喚が失敗した直接の理由は息子の静夢(しずむ)が須藤に対してくだらん情を持ち、割って入ったからだ。そういう意味でいえば、君が先ほど述べた身内である興梠の娘を使わなかったのは失敗といえるかもしれん。が、あれではルシフェルの器足りえない。いや、そもそも今言った話の以前の問題として……あの時はその妨害が無くても成功はしなかっただろう」

「どういう意味ですか?」

 

 怪訝そうな表情で尋ねる穂樽の前で、彼は自嘲的な笑みを浮かべながら続けた。

 

「意識体の存在でしかないルシフェルを呼び寄せることは成功した。その器として須藤の体を触媒に選び、一時的に召喚もできた。しかし……その時に奴は直接的に呼び出したこの私、麻楠史文よりも須藤セシルを選ぶと言い出したのだ! ウド同士の争いになど興味は無い、ただ須藤の潜在魔力に魅せられ、奴を見ていること自体が目的だとな!」

 

 初めの自嘲的な様子から次第に思い出したように怒りを表してくる麻楠を、穂樽はただ見つめて話に聞き入っていた。彼はなおも話を進める。

 

「そんなことなど出来るはずがない。召喚主である私に逆らう意志など持てるはずがない。そのためにあれだけの準備をし、犠牲も払ったのだ。なのになぜ私の召喚魔術で奴を制御できなかったのか。……そこで君がさっき言った1点目の話、10年前の須藤の蘇生の時の話へと戻る。

 あれは間違いなく成功だった。須藤の魂を一度黄泉へと送ることでその潜在魔力の強大さと存在をルシフェルへと教える。同時に奴の潜在魔力が覚醒しやすいよう、歯止めが効かないようにする。目的はその2つだ。実際に須藤は次々に魔力を覚醒させていき、全ては成功しているようにも思えた。……だがその触媒をもってしても、ルシフェルを呼び出して我が下に置くことは叶わなかった。なぜか?」

 

 自分に問いかけているのかもしれない、とも穂樽は思った。しかし鎌霧の話を受けて薄々予想を立てていたことはあれど、敢えて何も答えずに無言を貫くことで先を促す。麻楠も答えられるなどとは考えていないのか、小さく鼻で笑ったような仕草をはさんでから再び口を開いた。

 

「ルシフェルは私にこう言ったのだ。10年前に須藤の魂を呼び戻した際、私に気づかれずにこの世界に紛れ込んだとな! それなら4年前の失敗も納得がいくし辻褄も合う。本来なら、この私が失敗などするはずがないのだ!」

 

 穂樽は背筋に冷たいものが走るのを感じていた。鎌霧の仮説は当たっていた。「異界の者が紛れ込んだ可能性はある」、それが答えだったのだ。そして穂樽自身も、もよの正体とは人ならざる者ではないかという考えに至っている。さらにセシルがマカルに誘拐された時、すなわちルシフェルを呼び出そうとしたときに見たというもよの夢。これらの話に今の麻楠の話を総合すれば、おのずと答えは浮かび上がってきた。

 

「……10年前にルシフェルが既にこの世界に侵入していたというのは、確かなんですか?」

「それを確認する術などない。奴が言ったことを信じるならば、の話だ」

「では……今でもルシフェルはこの世界に存在している、と?」

「さあな。それは私の知ったことではない。仮に存在していたとして、人間の魔術程度ではどうしようもないだろう。潜在魔力を覚醒させてその力が強大になった須藤が相手であったとしても、だ。……もっとも、たとえどうなろうと私にはもう興味はない。どうせここで尽きる命運であろうからな。ただ、私をここから連れ出してくれるというのであれば、その対処法を考えてやらなくもないぞ」

 

 声をこぼしつつ、狂気をはらんだような笑みを麻楠はこぼしていた。確かに彼からはかつて放っていたであろうカリスマ性や威圧感を感じることはあった。が、この獄中生活で精神に異常をきたしはじめているようにも穂樽は感じていた。しかし同情の心は沸いてこない。セシルの母を陥れ、彼女の人生を狂わせ、そして実の息子である静夢を殺めた。さらにはその他のことまで含めれば彼の背負うべき罪、受けるべき罰は枚挙に暇がないだろう。そんな男には当然の報い、いや、これでもまだ生ぬるいとさえ思える。

 だがそれでも、召喚魔術について詳しく聞くことが出来たのは僥倖だった。おそらく答えにはたどり着けた。その点だけは、感謝しなければならないだろう。

 

「時間です」

 

 穂樽が礼を述べようとした丁度その時、無機質な声がそうかけられた。やれやれ、と言葉と同時にため息をこぼして麻楠は立ち上がる。穂樽も腰を上げた。

 

「話せて楽しかった。いい暇潰しになった」

「こちらこそありがとうございました。……最後にひとつ。ルシフェルがこの世界にまだ存在し続けるとして、なぜ行動を起こさないと思いますか?」

 

 職員に腕をひかれながらも、麻楠は足を止めて振り返って答えた。

 

「知らんな。さっき興味も無いと言っただろう。悪魔の気まぐれとでもいうものではないか?」

「なるほど、悪魔の気まぐれですか。面白い考え方ですね。……ですがその気まぐれにあなたは結局振り回された。身の丈を超えた力を欲するものは、その力によって滅する。つまるところ、あなた()人ならざる者の掌の上で遊ばれていた存在に過ぎなかった、ということですよ」

 

 言い捨てて、穂樽は入り口へと体を向けた。背後から不愉快そうな舌打ちが聞こえてきたがそれを無視し、部屋を後にする。

 

 部屋を出たところで、大きくため息をこぼした。腐っても元法曹界、そしてマカルのカリスマ。相手にして精神的に少し疲れてはいた。しかし有力過ぎる情報を得ることは出来た。

 人間にしては強大な力を持ちつつも、ルシフェルの力を制御できなかった麻楠。彼もやはり、()()によって遊ばれていた程度の存在でしかなかったのだろう、と穂樽は考えた。悪魔の気まぐれ。言い得て妙だとは思う。その気になればこんなゲームを持ちかけることなどしなくても、求めるものを手に入れることが出来るのだろうから。

 

 メンソールの刺激が恋しい。行き着いた結論を真正面から見据えるだけの心の落ち着きがほしい。期限の日まであと2日。それまでに心の整理をつけ、覚悟を決めないといけないと考えつつ、穂樽は海上拘置所を後にしようとしていた。

 

 




原作時点では麻楠は拘置所に強制転送されただけでしたが、おそらくそのままあそこを出ることはないだろうと想像したので、こういう形を取っています。


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Episode 7-7

 

 

 調査は終わったと言ってもいい。あとはそれを「依頼主」に報告するだけだ。だがその報告の時間は決められている。動こうと思えばまだ動くことは出来たが、敢えて穂樽はそうしようとしなかった。これ以上は当てが無いし、当たる必要も無い、と思っていたからだった。

 結果、報告までの時間を久しぶりの休養に丸々当てることにしていた。だが、どうにも落ち着かない。気まぐれで相手が動いていると考えられる以上、報告を終えて自分が無事でいられる保証はない。相手の強大すぎる力の前では、匙加減ひとつで砂のように吹き飛ぶ程度の身でしかないということは十分わかっている。場合によってはこれが最後の休養になるかもしれない。そう思うと休もうと思っても休めず、しかしどこかに行こうという気にもなれず、結局土曜日は丸1日部屋の中でだらだらと過ごしていた。

 翌日、日曜日。最終日であるこの日の昼過ぎに、もよからメールが届いた。

 

『なっち、ゲームの方はクリアできそうかな? 今日が最終日だよ! 私が出した問題の答えは今晩24時、バタ法近くの公園で聞くね。まあ広いけど、適当にひと気のなさそうなところで待っててもらえばこっちから見つけるから』

 

 あの公園は途方もなく広い。そこで具体的なエリアを指示せず待ち合わせというのは、通常ではありえないだろう。

 しかし穂樽は何の疑問も違和感も感じなかった。自分が待っている場所に間違いなく相手は来る。それもおそらくはセシルを連れて。それはほぼ間違いない、と思えた。

 その時間までどうするか。最後の晩餐など適当でいいし、今更やるべきことなどもうない。もしもの場合に備えて遺書でも書いておくか、などと不吉な冗談めいた考えを思い浮かべたところで、彼女はあることに思い当たった。

 

 財布だけを持って居住区を後にし、事務所を出て鍵をかける。その足で1階へと降りると、シュガーローズの扉を開けた。

 

「おや、いらっしゃい穂樽ちゃん。ちょっと久しぶりかな」

 

 普段と変わらない、少し強面な顔ながら心を落ち着かせてくれるいい声でマスターの浅賀は出迎えてくれた。それに対してここ数日張り詰めっぱなしだった心が僅かに安心感を覚え、自然と穂樽の顔に微笑が浮かぶ。

 

「こんにちは。そんな久しぶりですかね? ……ランチ、まだやってます?」

 

 時計に目を移せばランチの時間は少し過ぎていた。だが浅賀はどこか困ったような表情を浮かべつつも、彼女の頼みを快諾してくれた。

 

「……特別だよ、穂樽ちゃんだからね」

「ありがとうございます。感謝します」

 

 シュガーローズのサンドは最後の晩餐になるかもしれない食事にはもってこいだろう、と穂樽は思っていた。食べることが出来そうでよかったと表情を緩ませつつ、指定席であるカウンターの1番奥へと腰を下ろす。

 と、そこで浅賀が灰皿を出してくれた。自分は何も言っていないのに、と不思議そうに彼を見つめる。

 

「丁度ランチタイム終わった絡まりで他にお客さんいないから。もし吸いたいなら、どうぞ」

「私そんなに吸いたそうな顔してました? ……でもまあそのお心遣いはありがたくいただいておきます」

 

 上着の右ポケットから白地に緑のラインの入った煙草の箱とライターを取り出す。1本咥えて火を灯すと、メンソールの心地よい刺激が喉に響いてきた。

 煙を燻らせつつ、改めて穂樽は店内を見渡す。昭和レトロな雰囲気が漂う、お世辞にも広いとも豪華ともいえない店内。それでも新天地に身を移してからの彼女にとって、ここは帰るべき家のような安心感と、どこか懐かしさを感じさせてくれていた。

 

「どうかした? うち見渡したりして」

 

 と、その様子に浅賀が気づいたらしい。少しノスタルジックでセンチメンタルな気持ちになってしまっていたかもしれない。そんな心を打ち消すように、努めて明るい声で返す。

 

「いえ。相変わらず狭いお店だなあと思って」

「今更そりゃないよ、穂樽ちゃん」

「そういう意味じゃないですよ。浅賀さんほどおいしいサンドが作れて、コーヒー……は独特ですけど、まあこれだけ客を引きそうな武器があるなら、もっと人が入りやすいところで大きなお店構えてもよかったんじゃないか、ってちょっと思っちゃっただけです」

 

 ああ、とこぼしながらも、彼は作業の手は休めなかった。一度煙を吐き出し、穂樽は灰を灰皿へと落とす。

 

「お客さんとの距離感はこのぐらいが1番いいんじゃないかって思ってるからね。それに……彼女と一緒に始めたここを離れるという考えには、どうしてもなれなくてさ」

 

 今度は穂樽が納得したような声を上げる番だった。彼の奥さんのことを穂樽は知らない。だがこれだけのいい人に愛された女性は、きっと幸せだったのだろうと想像するのは容易だった。同時に、ここにはその彼女との幸せも詰まっているのだろうと感じた。

 

 1本目を吸い終え、特に会話もなく手持ち無沙汰にしていたところでコーヒーが出てきた。普段のように砂糖を2杯入れ、変わらぬ味に満足する。

 

「やっぱり浅賀さんのコーヒーは最高です」

「なんだい急に? でも褒められるのは悪くないね。嬉しいよ、ありがとう」

 

 作業の手を一旦止め、彼は微笑を返してくる。その笑顔に清々しい気分を覚えつつ、穂樽はもう一口コーヒーを口へと含んだ。

 

 ややあってランチのプレートが用意された。いつ見ても変わらない、おいしそうな焼き目のついたホットサンドが並ぶ。

 

「はい、お待たせ。この間穂樽ちゃんに好評だったボロネーゼ風とポテトサラダサンド。つまり……」

「ポテトサラダとミニサラダがダブる、ダブサラの日ですね。ボロネーゼ風もおいしかったので期待です。いただきます」

 

 どうぞ召し上がれ、という彼の声を聞きながら穂樽はサンドへとかぶりついた。おいしい。最後の晩餐になるかもしれない食事としてはもってこいの料理だったと、少し自嘲的な考えを浮かべつつ、料理を食べ進める。

 

 食事中、浅賀は特に何も話しかけてこようとしなかった。穂樽も同様で、無言で味わいながら料理を食べ進める。

 しばらくして食べ終え、コーヒーも飲み干したところで浅賀は尋ねてきた。

 

「おかわりのコーヒー、いる?」

「あ。お願いします」

 

 入れなおされたコーヒーを穂樽が受け取って机に置いた時だった。浅賀はゆっくりと口を開き、静かな声で問いかけてきた。

 

「……穂樽ちゃん、何か危ないこととかに巻き込まれてない?」

 

 薔薇の模様が描かれたシュガーポットへと伸ばしかけた手が止まる。

 

「どうしたんですか、急に?」

 

 内心を悟られまいと、明るく穂樽は返した。

 

「先週、物凄く青い顔をして僕と話してから、ずっとここに来てなかったなって思ってね。今日も……なんだか、思い詰めた、というのとはちょっと違うけど、変な感じだな、ってずっと感じてたから。……それこそ、これから死地に赴くみたいな、ひょっとしたらここに2度と戻って来られないかもしれないと考えてるような、そんな雰囲気だなとか思えちゃってさ」

 

 もしかしたら一瞬顔が強張ったかもしれない。それほどまでに彼は内心を見事に見抜いてきた。本当は治療魔術ではなく、存在するかはわからないが読心魔術とかそういう類の魔術が使えるんじゃないかとさえ思えてしまう。

 だが彼に余計な心配をかけるわけにはいかない。とりあえず笑って誤魔化す、という方法に穂樽は逃げた。

 

「何言ってるんですか? そんなわけないじゃないですか。先週の件は、ちょっと私が疲れてたってだけの話ですよ」

「……穂樽ちゃんは人の嘘を見抜くのはうまいのに、咄嗟に自分でつくのはあまり得意じゃないんだね」

 

 意図せず返す言葉に詰まってしまった。それが今の彼の発言を肯定しているということになりかねない、とわかっていてもなお、うまい返しが見つからなかった。

 

「そんなに危険な依頼なら、断ればよかったじゃない」

 

 どうすべきか。僅かな時間黙り込み、穂樽はため息をこぼした。どうせ隠そうとしたところで彼の前ではうまくいかない。なら、心配をかける形になってしまうかもしれないが、少し話すしかないと考えていた。

 

「……それは出来ません。今回の件、私にとっては避けて通れない道なんです。ですが、それを詳しく言うわけにはいきません。……すみません」

「守秘義務、っていうものかな。まあ無理をして聞きだそうなんてつもりはないよ。穂樽ちゃんが決めたと言うのであれば、僕がどうこう口を出すようなことじゃないってこともわかってる。……でも、命あっての物種だよ。それは忘れないで」

 

 すぐに返事は返せなかった。勿論穂樽とてそれはわかっている。だが今回に関しては安請け合いは出来なかった。

 

「当然そのつもりです。……でも私にもしものことがあったら、申し訳ないですが2階の整理、お願いします」

「そんな頼みは引き受けたくないよ。僕にとって大切な人がまたいなくなってしまうなんて、考えたくもない。だから、また僕のコーヒーを飲みに来てくれるって約束してほしい」

 

 やはり即答は出来なかった。代わりに無言でブラックのコーヒーを一口呷る。むせ返るような苦味を味わい、渋い表情で穂樽は口を開いた。

 

「……苦過ぎますよ、このコーヒー」

 

 ポツリと穂樽は呟き、シュガーポットから砂糖を2杯入れ、かき混ぜた。それからもう一口呷って、先を続ける。

 

「なのに砂糖を入れるとマイルドになっていい具合になる。やっぱり不思議です。そして……おいしいです」

 

 カップを一旦ソーサーへと置く。その後で改めて、コーヒーを入れた主へと視線を移した。

 

「この件が片付いたら、また必ず飲みに来ます。約束します」

 

 それで浅賀は納得したようだった。僅かに表情を緩め、小さく頷く。

 

「待ってるよ。その時は、いつもと変わらない僕のコーヒーをご馳走するから」

 

 少し温度の下がったコーヒーを穂樽は一気に飲み干した。そして笑顔と共に立ち上がり、財布を取り出す。

 

「ごちそうさまでした。また来ます」

「お金は、今日はいいよ。今度来た時に受け取るね」

 

 必ずまた来い、という約束のように思え、穂樽は苦笑を浮かべざるを得なかった。だが感謝の気持ちを持って軽く頭を下げる。

 

「……ではツケておいてください。次来た時に払いますね」

 

 ツケ払いなんてやるのは初めてだなと思いつつ、穂樽は扉を開けた。

 

「ありがとうございました。またお待ちしております」

 

 珍しく形式張った挨拶だった。わざとだろうなと思って浅賀の顔色を窺うと、案の定、視線を交わした時にいたずらっぽく僅かに表情を緩める。彼のこの笑顔と、コーヒーを飲むためにまた来る。そう固く心に誓い、穂樽はもう1度少し頭を下げてから、シュガーローズを後にした。

 

 

 

 

 

 日が沈み、満月が昇った夜。そういえば4年前のあの日もこんな満月だったと思い出しつつ、穂樽はもよに指定されたバタ法近くの公園へと来ていた。春には桜が咲き乱れ、花見の名所として多くの人が訪れる広大な公園である。その時期に何度か来たことがあるが、花見の時期は夜であろうと夜桜を楽しみたい人がいるために、ほぼ常時活気に溢れるという場所でもあった。

 だが今は桜も散り、夜も更けたということでひと気はほとんど感じられない。それでも照明が点いている場所もそれなりにあある。その照明に彩られた噴水が目に入ってきた。あの辺りの一角は特に明るい。人がいるようには見えなかったが、「ひと気のないところで待て」という指定から若干外れると判断してそこを避けるように歩き始めた。

 

 そこから少し歩き、公園内の大きな道から1本外れたルートを散策する。メインの通りではないために照明は少なく、ひと気は全くと言っていいほど感じられない。穂樽は足を止めて周囲を見渡し、ここでいいかと歩くことをやめた。

 そよ風によって木々が揺れる音が聞こえる。ところがしばらくの間続いていたそれは、不意に止んだ。本来なら明らかな違和感を感じるはずのこの状況で、しかし穂樽は平然としていた。心を落ち着かせたまま、ただ立ち尽くしている。

 

「ここでいいのかな、なっち?」

 

 そんな中、気配すら感じないままに背後から自分を呼ぶ声を穂樽は聞いた。それでも動じた様子はなく、ゆっくりと彼女は声のほうへと振り返る。が、その声の主が腕に1人の女性を抱いているとわかると、わかっていたこととはいえその顔は僅かにしかめられた。

 

「あれえ、リアクションそれだけ? 急に声をかけてあげてもほぼ無反応だし、つまんなーい。もっと大げさに驚いてくれるものだと思って期待して、わざわざセシルん連れてきてあげたのにぃ」

 

 勝手なことを言い続ける相手にはほぼ視線を移さず、穂樽は抱かれている女性――セシルだけを見つめていた。彼女は気を失っているのかそれとも意図的に眠らされているのか。目を閉じたまま反応はない。

 

「それは失礼しました。ですがもう驚くのにも疲れたというか、実際に体験した異常すぎる現象と……私がたどり着いた結論を考えれば、特に驚くようなことでもないと思いましたので」

 

 表情ひとつ変えることなく、眼鏡のレンズ越しに冷たい視線を今度は相手に向けて穂樽は答える。その回答に天刀もよは1週間前に穂樽に一瞬だけ見せた表情を覗かせた。彼女らしくない不気味な笑みに小さく身震いをしつつも、投げかけた視線を逸らすことなく口を開く。

 

「確認です。このゲームの目的は、1週間以内にあなたの正体を突き止めること。それが出来れば私の勝ち、出来なければあなたの勝ち。あなたが勝ったらセシルをもらう、私が勝ったらそれを諦める。間違いありませんね?」

 

 不気味に思えていたもよの表情はそこで消え、普段のような表情が戻ってきていた。口の端を僅かに上げてから問いに答える。

 

「うん、間違いないよ。なっちが勝ったら約束は守ってあげる」

「では……」

「でもその前に」

 

 答えを述べようとする穂樽をもよの言葉が遮った。

 

「……なんですか?」

「私もその約束を守るから、なっちも私の約束を守ってほしいなーって思って」

「あなたの約束……?」

 

 穂樽は眉をしかめた。今言った約束以外にそんなものがあっただろうかと記憶を探る。

 

「言ったよね? 依頼人が私であることを言ってはいけない。なっちの事務所で起こったことを私がやったと言ってもいけない。そして……私を調べて経歴が詐称だとわかっても他の人に漏らしてはいけない。使い魔まではセーフだけど、それ以外にはダメだよって」

 

 反射的に開きかけた口を閉じ、穂樽は記憶を探る。確かにそれは言われた。が、破った記憶はない。

 

「……ええ。言われました。ですが、私はそれを破ってはいません」

「本当に? ……木曜日、シャークナイトを訪ねたでしょ?」

 

 一瞬、心が動揺するのを感じていた。やはり行動は筒抜けだった、という思いもある。が、それ以上に自分以外に唯一もよの魔術を見たと明言したのはあの2人だけだった。もしかしたら巻き込んでしまったかもしれない。

 

「待ってください、鮫岡さんと工白さんは関係ありません。私はあの2人には……」

「うん、大丈夫だよ。確かになっちはあの2人に私がやったことを教えてない。2人が4年前に偶然私を目撃しただけだから。……勿論そのことも知ってたよ。でもまあ深く突っ込んでこないならいいかなーって思ってただけ。実際そり姉が合コンの話出した時には私にもお誘いかかったけど、断ったらそれ以上しつこくもなかったからさ。……私が言ってるのはそこじゃないよ」

「そこじゃない? 他には約束を破ったような記憶はありませんが」

「ふーん? そう?」

 

 そんなことを言われても知らないものは知らない。口にこそ出さなかったものの、その表情でもよは心中を察したらしい。

 

「本当に思い出せない? あの2人に私のことを聞き出そうとしたとき、何て切り出した?」

 

 記憶を探ってそのことに思い当たったところで――サッと穂樽の顔から血の気が引いた。

 

「あ、思い出したみたいだね。……そう、なっちこう言ったんだよ。『天刀もよの魔術届出はありません』ってね。だけど2人は私が魔術を使った姿を目撃しちゃってる。これってさ、私の約束の3つ目である『経歴が詐称だとわかっても他の人に漏らしてはいけない』に抵触しちゃってるよね?」

「で、でも! 届出が無いと言った時点ではあの2人がもよさんの魔術を目撃していたかどうかはまだわかっていなかった。だから……!」

「なっち、それは屁理屈だよ? 結果として2人に対して私の経歴が詐称されている、ということがばれた形になったわけじゃない。……ま、確かに元々知っていたという点と合わせれば大目に見てもいいんだけどさ。

 でもなっちは答えにたどり着いてるみたいだし、それじゃあまりに呆気なくてつまらない。ここはひとつペナルティということにかこつけて余興を楽しみたいという気持ちがあるんだよね。ほら、私って気まぐれだから」

「余興、ですって……?」

 

 再び、もよの笑顔が不気味で妖艶なものへと変わった。楽しみでしょうがないというような雰囲気を纏わせつつ、僅かに首を背後へと傾けて「出ておいでー」と声をかける。その声に導かれるように物陰から現れた影に、穂樽は目を見開いた。

 

「なっ……! 興梠さん!?」

「あ、やっといい反応してくれた。そうそう、そんな反応が見たかったの」

 

 嬉しそうに言うもよを無視し、興梠の様子を窺う。表情に色は全く無く、目は虚ろでどこを見ているのかわからない。もよがなんらかの力によって支配している状態にある、という予想は容易に立てられた。

 

「何で興梠さんを巻き込んだの!? 彼女は関係ない!」

「そうかな? ……彼女の父親はマカルで麻楠の強いシンパだった。そしてマカルはセシルんを誘拐しちゃったわけで。だとするとその娘は、何の関係もない、なんて言えると思う? ……もっとも、あの事件におけるマカルの動きなんてのは想定の範囲内で、私も利用するだけさせてもらおうとしてたわけではあるけど」

 

 ギリッと穂樽は歯を鳴らす。「全部知ってて……」という声が漏れた。

 

「当然知ってるよ。だからリンリンに向けてた目にはセシルんとくっついてるからっていう嫉妬の意味もあったけど……セシルんを酷い目に遭わせた連中の残党ってことで少しは悪意も篭っちゃってたかもね。でも私はリンリンも嫌いではないんだよ? ただ、これからの余興にはこの子が適役だと思ったから抜擢した、ってだけ」

「……余興余興とさっきから言ってますが、結局のところ私と興梠さんに何をさせたいんですか?」

 

 もはや相手は不気味過ぎる笑顔を隠そうともしなかった。妖しげな雰囲気を漂わせたまま、楽しげな口調で告げる。

 

「決まってるじゃない。なっちにはリンリンと戦ってもらうの。勿論私がなんとかするから人目には絶対につかない。だから心配しないで思いっきりやっちゃっていいよ。それでなっちが勝ったら約束を破った件についてはなかったことにしてあげる。でも負けたら私がセシルんをもらっちゃう。……どう? 面白そうでしょ!」

「面白そう、ですって……!?」

 

 拳を握り締め、穂樽はもよを睨み付けた。だが相手はそんな視線など意にも介さない様子であった。無邪気な子供のように一旦笑い声を上げてから、その笑顔を貼り付けつつ問いかけてくる。

 

「拒否するなら拒否でいいよ。それならなっちもリンリンも危険な思いはしない。その代わり無条件でセシルんは私のもの。……でもなっち言ったよね? セシルんを私には渡さないって。だったらその覚悟、是非とも行動で見せてもらいたいなぁ。……かつてはマカルの重鎮にすら一目置かれたという魔力を秘めた炎使い相手に、砂使いはどう挑むのか。さあ、せいぜい足掻いて私を楽しませてみせてよ、穂樽夏菜!」

 

 頭に血は上っていた。無関係といってもいい興梠まで巻き込まれた怒り、相手の自己中心的で勝手な言い分に対する憤り、そしてこれだけ言われてなお、言った張本人に牙を向けることすら敵わない自分の無力さへの嘆き。それらが入り混じり、感情を昂らせている。

 だがそこで穂樽は一度大きく深呼吸して心を落ち着けようとした。人ならざる者が相手なら勝ち目はない。しかしいくら優れているとはいえ、興梠はセシルほどの例外的存在ではない。自分と同じ、魔術を使えるという程度の人間だ。

 選択肢はない。意識さえ奪えれば、多少彼女を傷つけることになってしまったとしても、このゲームは終わるだろう。ここで反抗的な態度を取って相手にまた気まぐれを起こさせるより、敢えて踊った方が相手も自分の約束を守ってくれる可能性が高いと踏んだ。

 

「……上等よ。受けて立ってやる。その代わり私が勝ったら最終解答権をよこしなさいよ。それでこのゲームを終わりにしてやるわ!」

 

 荷物を放り投げ、穂樽は静かに吠えた。その様子に、もよは愉快そうに声を上げて笑う。

 

「アッハッハ! いいよそれ、なっち最高! ……それじゃ見せてもらおうかな。穂樽夏菜対興梠花鈴の、魔術対決一本勝負!」

 

 格闘技の審判よろしく、楽しげな声でもよは高らかに開始の合図を告げた。

 

「レディー……ゴー!」

 

 




「バタ法近くの公園」は具体的には上野公園をイメージしています。バタ法が存在する設定のアメ横からも近く、実際原作でも何度も登場しています。
実は今年の桜の時期に行ってきたのですが、桜が咲き乱れて物凄く綺麗でした。


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Episode 7-8

 

 

 深夜の公園の暗闇を、美しい真紅の炎が切り裂く。その尾を引く無数の火球が着弾する先に穂樽の姿がある。彼女は自分の足でもって数発を回避、残りは自身の魔術である砂塵魔術によって舗装されたアスファルト下の砂を呼び出してぶつけ、どうにか防御しようとした。だがそのうちの一発が防御を突き破ってくる。視認すると同時、体を捻って回避を試みたが、左腕をかすめ、熱で鋭い痛みが走った。

 

「くうっ……!」

 

 苦痛に顔を歪めつつも、視線は目の前の相手、自分の意志を失っている興梠へと向けられている。感情も何も無い表情の彼女は、次に弁魔士バッジに触れてから掌の上に大きめの炎の塊を作り出し、手刀でそれを払うという動作を取った。散弾を撃ち出すショットガンよろしく、炎の礫が拡散して穂樽の下へと飛来する。即座に回避は不可能と判断。両手を額にかざしてから振り下ろし、大地を隆起させて防御用の壁を作り出してその後ろへと身を隠す。だがかなり小粒であるにもかかわらず、数発が厚い壁を貫いてきた。

 

「嘘でしょ!?」

 

 悲痛な声を上げると同時に、すんでのところで穂樽は残された壁の後ろへとどうにか退避。やりすごしたところでこれ以上の連続攻撃を防ぐために、牽制にしかならないとわかりつつも砂の塊を相手目掛けて放った。が、予想よりも呆気なくあっさりと、興梠が腕を振って作り出した灼熱のカーテンの前に全てがかき消されてしまう。

 

「ほらほらなっち、どうしたのー? もっと頑張らないと負けちゃうよー?」

 

 少し離れた位置にあるベンチから飛んできた揶揄するような声に、穂樽は僅かに心を苛立たせた。傍らに意識のないセシルを寄りかからせつつ、機嫌良さそうに座って自分達を眺めるもよの様子を見てなおさら心がささくれ立ちそうだったが、どうにか堪えて目の前の相手に意識を集中しなおす。

 現在双方の手は止まり、少し間ができている。だが鮮やかな炎を両手から宙に浮かべる相手に、穂樽は思わず歯噛みしていた。

 

 興梠がかなり強力な魔力の持ち主であることはわかっているつもりだった。が、想像を遥かに上回る力に動揺せずにはいられなかった。確かに総合的に見ればセシルの方が優れているのかもしれない。しかし魔炎魔術に特化している彼女は、その一点においてなら穂樽の知るどんな魔術使いよりも優れた攻撃的な力の持ち主であった。それは初撃、平凡に見えた火球に自分の魔術で砂塵を集めてぶつけ、押し負けるどころか勝負にすらならず飲み込まれた時点で悟っていた。

 以後穂樽は防御より回避を優先した。自分の魔力を動員して防御に回したところで、相手の驚異的な攻撃力の前に粉砕される。ならば魔力の消耗を出来る限り抑え、致命傷だけを避けるようにだけすればいい。その上で隙を突いて攻撃する。そう割り切り、回避に比重を置いた結果、相手も対応すべく今さっきのように低威力で広範囲の攻撃を多めに使用するよう切り替えてきていた。

 しかし低威力、といえど防御を余裕で抜いてくる。しかも、ある程度コントロールされているのかもしれないが、興梠は全力の攻撃を仕掛けてきていないようにさえ思えた。あくまで余興、もよを楽しませるための演出。舐められている、とわかっても穂樽は怒りよりも安堵が先に出てくるほど、状況は一方的だった。

 

 どうすれば勝つことが出来るのか。それも相手に可能な限り怪我を負わせず勝つにはどうしたらいいか。隙を突くという方針ではあるが、その隙が見当たらない。かといって手を変え品を変えで攻撃を仕掛けてみても、灼熱のカーテンによる絶対的な防御の前に全てがシャットアウトされてしまう。断続的な波状攻撃、フェイントを織り交ぜた時間差攻撃、背後からの不意打ち等、色々試してもみたが全て防ぎ切られた。

 同時に穂樽の疲労も溜まりつつあった。直撃こそ無いが、掠めた部分はジンジンと痛み、それが原因で集中力が途切れれば魔術にも影響が出兼ねない。また、回避に専念しているせいで既に息が上がりつつもある。長期戦は不利だ。しかし打開策が見つからない。

 

 悩める穂樽をあざ笑うかのように、それまで両掌の上で炎を遊ばせるように揺らめかせていた興梠が動いた。炎と共に両手を前へと突き出し、呼応するように赤い揺らめきが膨れ上がる。

 瞬間、焦りが穂樽の心を占めた。あれは以前踏み込んだ廃ビルの中でマカルのウドに対して見せた、さらには今日も何度か行っている使用法だとわかったからだ。しかし込められている魔力がおそらくこれまでよりも多い。威力が跳ね上がっているに違いない。

 彼女の予想を裏付けるように、両手から弾幕さながら、広範囲に渡って無数の火球が放たれる。しかもそのサイズは過去のものより大きく、そして数も多くなっていた。

 下手に動けば逆に当たる。穂樽は魔力を動員して砂を集積させ、これまで以上に分厚く防御の壁を生成。その裏に身を隠し、攻撃が止むのを待つ選択を取った。そんな穂樽目掛け、容赦なく火の玉は襲い掛かる。壁に着弾すれば破壊せんと揺らし、側面や背後に炸裂すれば熱風と地面の礫を浴びせる。

 そのせいで集中が揺らいだか、あるいは底上げされた威力の影響か。防御用の壁が耐えかねて崩壊した。次を生成するために意識を集中しようとするが、数発の炎の弾丸が自分目掛けて飛来するのを、穂樽は目撃してしまった。

 避けられない。防御も間に合わない。そう思った時、絶望感と激痛が同時に彼女を襲った。

 

「あぐッ……! うああああああッ!」

 

 一発目は右足の(すね)を抉った。文字通り焼けつくような痛みに立っていることすら叶わず、体が右へとよろける。そこに二発目が左の上腕部へと直撃。肩口から先を吹き飛ばされたような感覚すら覚え、右によろめいた体が再び左に開く。そのまま苦悶の声と共に背中から崩れ落ちた。

 

「あーあ、当たっちゃった。なっち大丈夫ー?」

 

 大して心配していないような問いかけに反論する気さえ起きず、歯を噛み締めて痛みを必死に堪える。抑えた左腕は吹き飛ばされてはいなかった。が、火傷と爆傷が酷く、動かそうとすれば痛みが走る。むしろ、そこより傷自体は軽いものの右足の方が問題だと、顔を歪めたまま視線を動かす。立てなくは無いが、これでは走ることは出来ない。逃げを封じられた以上、絶体絶命の状況に陥ってしまった。

 

「その足じゃもう走れないかな? ……でも運がよかったね。もし一発目でよろけなかったら、二発目は体に当たってたよ。そうしたら……死んじゃってたかもね。私にとって傷を治すぐらい簡単だけど、さすがに死んじゃったら難しいんだよね」

 

 聞こえてくる言葉も半分ぐらいしか耳に入らない。万事休すかと穂樽の心に諦めの気持ちが浮かんでくる。

 

「諦めちゃうの、なっち? セシルんを私に渡さないんじゃなかったの?」

「う……。くっ……」

 

 強がりの言葉すら出せない。体に走る痛みと同じほど心も折られた穂樽は、ただ呻くことしか出来ずにいた。

 

「……その程度だった、か。ちょっと残念。じゃあこれでさよならかな。……リンリン、とどめさしちゃって」

 

 主の無慈悲な指示に応じようと、操られた興梠が弁魔士バッジに触れる。握っていた手を開いて炎を生み出す一連の動作を、少し汚れた眼鏡のレンズ越しに穂樽は眺めていた。あれを放たれれば自分は焼き尽くされるか、爆散するか。いずれにせよ、死が待っていることに変わりはない。だがそんな絶望的な状況に反して彼女の心はどこか達観していた。どうせ死ぬなら、最後に煙草でも吸って一服するのも悪くないかもしれない。自虐的にそう思って右手を無意識にポケットの中に入れた、その時だった。

 何かに思い当たったように目が見開かれ、虚ろだった穂樽の瞳に活力が取り戻された。そして呻き声を溢しつつ、ゆっくりと体を起き上がらせる。

 諦めたくない。セシルを勝手にさせるわけにはいかない。浅賀のコーヒーをまた飲むという約束を破りたくない。

 このまま寝転がっていても何も変わらない。だったら、ダメで元々。散る前にやれるだけのことをやってやると、開き直って立ち上がった。

 

「お、立った立った、なっちが立った! いいよいいよ、そうじゃないと面白くないもんね!」

 

 茶化すようなもよの声を聞き流しつつ、左足に重心を預けて立ち上がった穂樽は右手をかざした。攻撃の姿勢を見せようとしているのに相手は先手を取らない。余興として楽しむために、最後の抵抗を防いだ上で反撃へと転じる考えかもしれない。

 だがむしろ好都合だった。足の傷で動けない以上、後手に回るのは不利でしかない。次の攻撃に全てを賭けるべく、穂樽は意識を集中させた。

 周囲の砂塵がかき集められる。気合の声と共に塊となって撃ち出され、興梠へと迫る。対するは絶対的防御の灼熱のカーテン。炎を浮かべていた右手を横に振るい、これまで同様防御の幕を作り上げる。その前に穂樽の魔術が全て防ぎ切られかけた。しかし、そのタイミングを穂樽は待っていた。

 不意に穂樽は魔術の行使を中止し、右の上着のポケットから何かを取り出して投げつけた。残っていた砂塵によって相手はそれが確認できなかったのかもしれない。あるいは防御用の幕がまだ残っていたために対処を取るまでもないという判断だろうか。

 直後、砂塵の攻撃を防ぎ切った興梠の目の前で小さな爆発が起こった。残っていた炎へと穂樽が投げつけた何か――ライターが引火したのだ。操られているとはいえ相手は人間、予想外の爆発に反射的に目を閉じ、手で顔を覆う。

 

 それが、ここまでの中で興梠が見せた唯一の隙だった。既に穂樽は次手を打っている。視界の外、背後からの攻撃。気づいた相手が防御のカーテンを展開するより早く、砂礫が背中へと叩きつけられた。

 バランスが崩れたところに最後の一手。足元を這うように突き進んだ砂の塊が、急角度で打ち上げられる。アッパーカットのように顎を捉えた一撃は、華奢な興梠の体を僅かに浮かせ、そのまま背中から倒れこませた。

 

「やった……」

 

 攻撃は狙い通りに入った。ライターの爆発で隙を作り、背後からの攻撃でバランスを崩させながら防御を阻止し、顎を狙って脳震盪(のうしんとう)を起こさせて意識を奪う。気を失えば戦闘続行不可能になるだろうという判断からの連撃だった。

 果たして興梠は立ち上がらず、荒い息で肩を揺らしながら穂樽はその様子をただ眺めていた。そこで不意に、手を叩く音が聞こえてくる。

 

「お見事。この勝負、なっちの勝ちだね」

 

 ベンチにセシルを座らせたまま、もよは穂樽に拍手を送りながらゆっくりと近づいてきた。そして意識を失っている興梠へと手をかざし、再び穂樽の方へと顔を上げる。

 

「……何をしたんですか?」

「心配しなくていいよ。目を覚ますと面倒なことになるから、そのままちょっと眠ってもらっただけ。……それにしてもなっち、見事な土壇場の逆転劇だったねー。まさかライターで活路を開くとは思ってもいなかったよ」

「今日ばかりは喫煙習慣に感謝せずにいられませんね。こういう形で使うことになるとは思ってもいませんでしたが」

 

 右手で痛む左腕を押さえ、右足を引き摺りながら穂樽は倒れた興梠の傍に立つもよの元へと近づき始めた。その様子をどこか嬉しそうに見つめつつ、もよは話しかけてくる。

 

「これでペナルティ分はチャラだね。さ、あとはなっちの最終解答の時間だよ。私の正体は何者か。……もうわかってるんでしょ?」

 

 近づいた穂樽は足を止め、大きく深呼吸した。人ならざる者を正面から見据え、口を開く。

 

「……10年前にセシルが麻楠の召喚魔術によって蘇生された際、彼女の魂と共に人知れずこの世界に潜り込んで来た存在。それが、あなたの正体です。そうじゃありませんか、堕天使ルシフェル」

 

 もよの顔から笑みがこぼれる。だがその中に普段見る奔放さはなく、妖艶さを秘めたものだった。それから静かに肩を震わせ、笑い声をこぼす。その声もまた、普段のもよのものとは違う。いや、人のものですらないと穂樽は感じ、小さく体を震わせた。目の前の相手は、穂樽が知っている姿からかけ離れ、顔には悪魔的なシルエットを浮かび上がらせている。

 

『……愉快、実に愉快。そして見事だ、卑小(ひしょう)なる人間、穂樽夏菜よ』

 

 充血したかのような赤い眼と人間にあるはずのない鋭い歯。加えて本来の彼女の声からほど遠い声色に、正体がわかっていてなお穂樽は目の前の相手の豹変が信じられなかった。

 

『どうした、何を怖れる? 我の正体を見破った貴様の勝ちだ。手は加えん』

「それが……あなたの本当の姿、ルシフェルの姿ということですか?」

 

 らしくなく声が震えている、と自覚した。魔術が存在するなら悪魔が存在してもおかしくない、と思ったことはある。召喚魔術の話を聞いてもなんらおかしいとも感じなかった。それでも存在を認めた上で初めて目にする存在に、穂樽は緊張を隠せずにいた。

 

『いかにも、と言いたいところだが、我は本来意識体の存在。見た目が変われど、あくまでこれはこの世界で活動するために作り出した器に過ぎない。もっとも、この器は須藤セシルの潜在意識の中にあった人間の姿を参考にしてはいるがな』

「セシルの潜在意識の中……? そうか、幼い頃の小田さんがもよさんに似ていた気がしたのはそれが理由で……」

 

 ルシフェルは含んだような笑いを響かせ、穂樽の言葉を肯定した。

 

『貴様は我との戯れで、見事に我を満足させた。約束どおり須藤セシルは諦めるとしよう』

「……質問してもよろしいですか?」

『なんだ?』

「セシルをもらう、というのは具体的にはセシルの魔力を奪い去る、という意味でよかったのですか?」

 

 やはり目の前の人ならざる者は笑っていた。問答を楽しんでいるようでもあった。

 

『おおよそ間違えてはいない。しかし我は本来器を持たぬ身。故にその器として須藤セシルの肉体をもらい融合する、という言い方のほうが正しいな。結果として魔力も我のものになる、というわけだ』

「それって……4年前に麻楠がやろうとしていたことじゃ……」

『……あの男も愚かな人間だ。あの程度の力を借りずとも、須藤セシルの潜在魔力と我の力だけで事は成し得る事が出来た。もっとも、あと一歩というところで邪魔が入ったわけだが』

「つまり麻楠は初めから空のくじを引かされていた、ということですか」

 

 麻楠が拘置所で穂樽に話した内容は本当だった。ルシフェルは彼が召喚儀式を行う前から人間界に潜んでいた。

 しかしそうだとするとどうしても解せない、と穂樽は僅かに眉をしかめた。それに気づいたのであろう、ルシフェルがまたしても小さく笑う。

 

『まだ疑問があるようだな? 言ってみよ』

「では遠慮なく。あなたの言い分ではいつでもセシルを『もらう』ことが出来たはず。にもかかわらずあの時から既に4年が経っている。この間が空いているという、その理由はなんですか?」

『なるほど、いい問いだ。理由は2つある。1つ目は時を待った、ということだ。すなわち須藤セシルがより強大な魔力に覚醒する時、そして……当人も気づかぬうちに徐々に我が須藤セシルの精神や肉体を支配していき、融合しやすくなる時だ』

 

 思わず穂樽は目を見開く。セシルの気づかぬうちに精神や肉体を支配していた。その事実は十分驚愕に値するものだった。

 

『どうやら誤解しているようだが、須藤セシルの蘇生は麻楠の功績ではない。我の力によるものだ。それ故、気づかれること無く次第に支配することが出来たのだ。しかしあれ以降、魔力の覚醒に大きな変化はなかった。結果としてこれは無駄だった。だがそれはもっと早くにわかっていたことだ。加えて我の支配ももう十分、行動を起こそうと思えばいつでも可能だった。そこで2つ目の理由が出てくる。麻楠史文の言葉を借りるなら悪魔の気まぐれ、とでも言っておこうか。貴様達卑小な人間を見ていることが愉快になってきたのだ』

「……私にゲームを吹っかけてきたのも、それが理由ですか」

 

 いかにも、とこれを肯定する。さらに相手は続けた。

 

『卑小な人間が懸命に足掻く様は実に愉快だった。そしていつしか我も人間と同じような感覚を持っていたのかもしれん。……しかし鮮度というものは失われていくものでな。このままいずれは須藤セシルも肉体的、魔力的に衰え始める。それより先に、という思いがあった。加えて、奴の母親も戻るかもしれぬという話ではないか。そうなればより困難になると考え、この時期を選んだ』

 

 その言葉に、穂樽は反射的に小さく笑いをこぼした。それに対し、ここまで常時笑いを含ませていたルシフェルの雰囲気が変わる。

 

『……何がおかしい』

 

 一転して声色は固くなっていた。だが先ほどは緊張していたはずの穂樽は、今度は堪えない。

 

「申し訳ありません。……悪魔の気まぐれ、で片付けるにはどうにも人間らしすぎる、と思ってしまったものですから」

『人間らしすぎる、だと?』

「ええ。人間と同じような感覚を持っていたのかもしれない、とおっしゃりましたし、セシルの母親の件も考えるなど、どうにも人間臭さを感じます。そんなこと本来なら考慮にすら値しないことかと思ったんです。何より……わざわざ私にゲームを吹っかけてきたのは、本当は私に止めてもらいたかった、そのための口実が欲しかったんじゃないか、とも思えたんです。いかにも人間らしい発想だな、と」

 

 相手はしばらく何も返さなかった。だが先ほどまでと同様、笑い声を溢してから言葉を発した。

 

『なるほどなるほど。無礼な物言いではあるが、興味深い。許そう。確かに人間と接する期間が長かったがために、我も人間のようになってしまったかもしれぬな。そのことは否定すまい。人間に馴染み、足掻く姿を目にし、その中で人間として存在していることも悪くないと思ったのは、事実ではあるからな』

 

 穂樽は薄々気づいていた。「悪魔の気まぐれ」だけでは無いであろうと。隣の芝生は青いのだ。人智を超える力を持つものが、遥かに劣る人間に興味を持つことなど、なんらおかしくは無い。古より言い伝えられている、よくある話ではないかとも思える。

 

『しかし、それ故少々残念ではあるな。須藤セシルを諦めるのであれば、我はこれ以上ここにとどまる理由も無くなる。……ああ、安心するがいい。その前に傷は治してやる。それから我に関する記憶と記録も消させてもらおう』

「待ってください。それじゃ……天刀もよという存在はどうなるんですか?」

『あれは元々我がこの世界で行動するために作り出した仮の姿。故に我の帰還と共にその存在も消える。だが先に言ったように記憶は消していく。最初からそのような人間はいなかったということになるだろう』

「そんな……」

 

 穂樽は僅かに表情を曇らせる。それに対して訝しげなルシフェルの声が響いてきた。

 

『何を気にかける必要がある、卑小なる人間よ。言ったではないか、最初から天刀もよはいなかったことになる。その存在すら知覚できないのであれば、別れを悲しむなどという人間的な感情を味わわずに済むではないか』

 

 全うとも思える指摘に、穂樽は凛とした声で答える。

 

「確かに結果だけを見ればそうかもしれません。ですが人間は、結果だけのために生きているのではないとも思うのです。結果だけを見るなら、人間はいずれ死ぬ。あなたからすれば、我々の生など瞬きする間にも等しい、短いものかもしれません。だけど、その時を懸命に生きているのです。

 これからのことを考え、もよさんのいないバタ法を想像すると寂しさを感じます。私は彼女と過ごしたバタ法での日々を忘れたくありませんし、セシルや他の皆もきっとそうだと思います。……だけど、はっきり言って今回の件はかなり頭に来ました。それでも、全てをわかった今、もよさんに対して消えてほしいとまで強く憎むことはどうしても出来ませんでした。明確な敵意を抱いていた相手ではない、セシルを諦める、そうわかっただけで、どこかホッとした気持ちがあったことは否定できません。可能ならこれまでの関係をこれからも続けていきたい。今はそう思う気持ちが強く生まれています」

 

 黙って聞いていた堕天使は、穂樽の話が終わったとわかると小さく笑い声を響かせた。

 

『面白いことを言う。だが我は人ならざる者ぞ? なのに寂しいと言うか? 我にこの世界に残れと言うか?』

「その通りです。ですが、私は堕天使ルシフェルに言っているのではありません。バタフライ法律事務所のパラリーガル、天刀もよに言っているんです」

 

 声を上げて、目の前の相手は笑った。同時に禍々しかったその容姿が、穂樽のよく知る明るい表情へと戻っていく。

 

「もよさん……」

 

 名を呼ばれても天刀もよは腹を抱えるようにして笑っていた。ようやくそれが落ち着いてきた頃に穂樽を見ながら口を開く。

 

「……あー笑った笑った。なっち面白ーい。今回の件で散々酷いことしたのに私と過ごした日々のことを忘れたくない、これまでの関係をこれからも続けていきたい、だって。リンリンが言ったとおり、本当にロマンチストなんじゃない?」

「もうそれは否定しません。これまでも十分言われてることですから」

「そこは否定しないと。それじゃなっちツンデレじゃなくなっちゃうじゃん」

「誰が何ですか」

 

 再び声を上げてもよが笑う。いつものようなやりとりをどこか懐かしく感じ、釣られるように穂樽も微笑を浮かべていた。

 

「やっぱりなっち面白いよ。……でもごめんね。さっきのは出来ない相談なの」

 

 しかし笑顔と共にそう言われた一言に、穂樽の表情は凍りついた。

 

「そんな……! どうして!」

「だってもよよん悪魔だしぃ。怖いんだよ、危ないんだよ?」

「それは……!」

「だからね、相容れない存在なの。ウドと人間の問題より、遥かに無理な話。なっちはウドと人間がいつかは手を取り合えることを願ってるみたいだけど、まさか人ならざる者と取り合える手があるなんて思ってもいないでしょ?」

 

 穂樽は無言と共に視線を落とす。そんな彼女に「それにね」と声が降り注いだ。

 

「悪魔は気まぐれなの。だから気が変わらないうちにセシルんを返して、私は消えるね」

「もよさん……!」

「大丈夫、さっき言ったとおりなっちの傷は治してあげるから。その上で私がいたことなんて綺麗に忘れてるようにするからね」

 

 届かぬ主張とわかりながらも穂樽はなおも声をかけようとした。だがそれが出来ない。いや、体すら動かない。もよの力によるものだということはもう疑う余地もなかった。

 

「ごめんね、なっち。でもさっきの言葉、嬉しかったよ。私も一緒に過ごせて楽しかった」

 

 もよの右手が穂樽の前にかざされる。やめて、と心の中では叫んでいるのに、それが声になることはなかった。そして目の前にある右手から生み出された光の中で、穂樽はもよの笑顔を確かに見ていた。

 

「じゃあね。バイバイ、なっち」

 

 

 

 

 

 バタフライ法律事務所は普段と変わらない1日を迎えていた。その昼前、入り口の扉が開かれる。万能受付嬢の抜田が視線を移し、馴染みの相手とわかると僅かに表情を崩して声をかけてきた。

 

「こんにちは、穂樽さん。いつもお疲れ様です」

「いえ、こちらも依頼無いときは食い扶持(ぶち)稼ぎになってますから。助かってますよ」

 

 どこまで冗談かわからない返しに、思わず抜田の表情に苦いものが浮かぶ。が、直後、「なっちー!」というかつての同期の声が聞こえてくると、今度は穂樽の表情にそれが浮かんでいた。

 

「……あんたねえ、興梠さんの前だから先輩面するんじゃなかったの?」

「そんなことしなくてもリンちゃんは私のこと認めてくれてるから。ね?」

「は、はい!」

 

 すっかり若手迷コンビとなってしまったセシルと興梠のやりとりを見て、穂樽は大きくため息をこぼす。

 

「興梠さん、この子あんまり調子付かせないほうがいいわよ? 色々ルーズだし、すぐ魔禁法違反するし。多分あなたの方がしっかりしてるから、ちゃんと面倒見てあげて」

「ちょっとなっち、セシルのこと子供扱いし過ぎ!」

「十分まだ子供でしょ」

 

 セシルから飛んできた反論に短く返しつつ、穂樽は鼻で笑って交わした。同時に、次にセシルへの援護射撃が飛んでくるだろうとも予測する。

 

「コラなっち! セシルんのことをいじめるなー!」

 

 予想通り、と穂樽はその声の主へと視線を移す。

 

「わかってますって。()()()()はセシル大好きですもんね」

 

 口を尖らせたままの()()()()へそう返したところで、階の上から「穂樽ちゃーん」というアゲハの声が聞こえてくる。これ以上待たせるのは悪いと穂樽が返事を返し、「じゃ、後で」と3人に背を向けた――瞬間だった。

 

 全てが凍りついたように止まった。例えでもなんでもなく、その場にいる全員の動きが止まっている。いや、厳密には全員ではなかった。唯一その中を悠々と歩く、その力を使った張本人――天刀もよだけは、止まった時の中で穂樽の傍へと歩み寄ろうとしていた。

 

「聞こえてないと思うけど、私の完敗だよ、なっち。セシルんをもらうのは諦めるね。それから、先週1週間のことは綺麗に工面したから、私以外誰も何も覚えていない。苦労したんだから、感謝してよ? ……でもね、バイバイとか言っちゃったけど、もうちょっとだけセシルんと、そしてなっちや皆と一緒にいることにしたの。なんて言っても、悪魔は気まぐれだからね。……同時に、悪魔は嘘つきでもあるんだよ」

 

 クスッともよは奔放さだけを含む笑みをこぼす。それから穂樽の右の首元へ優しく唇を触れさせた。

 

「それじゃもうしばらくよろしくね、女探偵さん。たまにここに顔を出す時を楽しみにしてるから」

 

 独り言のように言いながら、もよは元の場所へと戻っていく。その瞬間を待っていたかのように、止まっていた時が動き出した。

 

「ひゃんっ!」

 

 同時に穂樽の間の抜けた声が響き渡る。彼女は右の首の辺りを押さえていた。

 

「ど、どうしたんですか、穂樽さん!?」

 

 驚いたような興梠の問いに、穂樽は首をさすりながら答えた。

 

「今、首の辺りにヒヤッとした感覚が……」

「なっちが……『ひゃんっ!』だって……! ねえ聞いたリンちゃん? 今のなっち……」

 

 笑いを堪えるようにセシルがそう煽ってくる。思わずキリキリと穂樽は眉を吊り上げた。

 

「うるさいわね! あんたでしょ、今何かやったの!」

「知らないよ! セシルじゃないもん!」

「2人とも落ち着いてください……」

 

 口論になりつつある穂樽とセシル、それを止めようとする興梠。その3人を見つめつつ、もよは僅かに笑顔を見せていた。

 

「……穂樽ちゃん? 楽しそうにしてるところ悪いんだけど、そろそろ来てくれないかしら?」

 

 そこで聞こえてきた、静かながらも有無を言わせぬ口調に、穂樽は「す、すみません!」と反射的に謝罪の言葉を返していた。次いで「あんたのせいよ」と小声で漏らして穂樽は足早にアゲハの元へと向かおうとする。

 

「なっち、後でお昼食べに行こ? そこでセシルんと仲直り。いいでしょ?」

 

 遠ざかろうとする背にもよの声がかかる。穂樽は足を止めて振り返り、ため息をこぼした。

 

「もよさんにそう言われちゃ断れませんね。つき合わせてもらいますよ」

「でももよよんがそういう提案してくるなんて珍しいね。どうしたの?」

 

 セシルのこの問いには穂樽も同意だったらしい。アゲハのところに行かなければいかないとわかりつつ、どうやらそれだけは聞こうと答えを待っているようだった。

 そんな2人の様子にもよは僅かに口の端を上げる。そしてウインクを見せながら、明るい声で告げた。

 

「だってもよよんは、セシルんもなっちも大好きだからね!」

 

 

 

 

 

フォーリン・エンジェル (終)

 




フォーリン・エンジェル、これにて完結です。同時にこの作品も完結にしたいと思います。

原作アニメが徹底してセシルを描くストーリーだったので、サブのキャラ、特にいいキャラをしていながらいまひとつ出番が無いように思えた穂樽に焦点を当てて書いてみたい、と思ったのがこれを書こうとしたきっかけになります。
当初はエピソード1に当たる話を中編で書いて終わろう、と思っていたのですが、それすら書けるかわからない。だったら考えた設定を流用してサイドストーリー的に短編を書こうとなったのが、現在のエピソード0になります。
しかし実際に書き終えてみると意外と書けるとなって本格的に着手。エピソード1を書いている最中に、エピソード3に当たる大学時代の教授への不倫紛いの恋の結末や、もよの正体に迫る今回の話などを思いつき、いくつか分けて書いてみようとなって、このような形になりました。

終わってみると30万字強となっていました。足りない頭を絞ればまだアイデアは出てきそうな気もしますが、ありきたりな話になってしまう可能性もありますし、大体アニメ終了から1クール程度経った頃なので、この辺りで締めようということでこの話を持ってきました。

最後に、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。好き勝手書いた話ですが、楽しんでいただけたのなら幸いです。


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