俺たちは、丸一年かけて雪ノ下の抱える問題を解決した。
頃は年の瀬。雪ノ下家の豪奢な応接室。雪ノ下の母親と和解と言っても差し支えない決着を迎えたとき、雪ノ下は声も出さずにただ呆然と涙を流し続けた。由比ヶ浜はそんな雪ノ下をそっと抱きしめて、嬉しそうに、幸せそうにしゃくり上げていた。
雪ノ下の母親は寄り添って泣く二人をじっと見つめて、一瞬だけ眩しそうに目を細めると踵を返して部屋を後にした。永久凍土と言ってもいいほど積み重なって凝り固まった根雪の雪解け。そのときにこの人が何を考えていたのか、俺には想像することさえできそうになかった。
あいつの家に初めて行ったときに、弱々しい声で『きっといつか、あなたを頼るわ』と由比ヶ浜に踏み込んだのを、その隣で聞いていた。
眩い夜景を眼下に置き、白亜の城を背景にして、『いつか、私を助けてね』と泣き出しそうな微笑みで願われた。
願いはかなえられたんだ……。
俺は精根尽き果てて椅子に沈み込み、それでも間違いなく満たされていたと思う。
二人の幽かな涙声混じりの息遣いをBGMに、ずっとずっと手が届かないと思っていた葡萄の味を、俺は深く静かに噛み締めていた。
× × ×
その帰り、もう遅いからと雪ノ下の母親が車の手配を申し出てきた。最初は断って由比ヶ浜と余韻を味わいながら二人で歩こうかと思っていた。だが雪ノ下が控えめに見送りたい旨を伝えてくれたので、それならばと好意に甘えることにした。今は少しでも長く三人でいたかった。自惚れかもしれないが、二人もそう思ってくれているように感じられた。
車中、運転手を除けば後部座席にいる俺たち三人きり。口数少なく微笑みただ寄り添い合う二人を、俺は背もたれに身体を預けながら眺めていた。雪ノ下の幸福を寿ぐ由比ヶ浜とそれを受けて感謝を述べる雪ノ下が、今度こそ俺は間違わなかったのだと優しく教えてくれた。
車窓から差し込んでくる人工の光に照らされる由比ヶ浜が、一つ手を叩いて燥いだように言った。雪ノ下の誕生日を祝おう、と。和解に至れた家族も、奉仕部によって結ばれた縁も、彼女を繋ぐもの全てを呼んで、盛大に、と。由比ヶ浜が見ているその光景を想像することで、俺も愉快な気分に浸ることができた。
俺も由比ヶ浜も、何の疑いもなく雪ノ下も賛同してくれると思っていた。照れ混じりに皮肉の一つを交えても、喜んでくれると思っていたのだが。
雪ノ下は表情を固めて、口を開いた。
「お願いが、あるの」
その真剣な眼差しが、残った二人の口を閉ざす。
「一月三日、この日一日の時間を私にくれないかしら」
そうして雪ノ下は。
「その日、私たちの関係に、決着を付けましょう」
戻れない一歩を、踏み出した。
雪ノ下の発言の後、由比ヶ浜は驚愕や恐怖、羨望や決意、様々なものがないまぜになったような無表情で息を呑んだ。それと一緒にどんな感情を飲み下したのかは分からない。ただ、一呼吸おいた由比ヶ浜は悲しげにも見える曖昧な笑みを浮かべていた。
俺は、動揺した、のだと思う。由比ヶ浜と雪ノ下から目が離せず、ひぅ、と歪な己の呼吸音が自らの耳朶に響き、反射的に伸ばしかけた手を逆の手で無理矢理に押さえ込む。
「どうして……」
辛うじて絞り出せたのは質問としての最低限を下回った、曖昧模糊としたそれだけだった。どうして、そんなことを。どうして、今なのか。
――――どうして、お前が。それを、言うのか。
雪ノ下がその問いに、苦い微笑と解答を返してくる。
「……もう、終わりが近いからよ」
俺も、由比ヶ浜も。
その言葉に対抗できるだけの手札なんて、一枚たりとて持ち合わせてはいなかった。
雪ノ下の問題を解決するのに必死になって、或いはそれにかかりきりになることに理由を仮託して、確実に近付いてくる終わりから目を背け続けていた。
卒業なんて、誰もが平等に経験することなのに。今までだって砂を噛むようなそれを経てきているのに。今の俺には、想像するだけで泣きたくなるほどに耐え難いのだ。
「……この日にしたのはね、欲しいものがあったから」
雪ノ下は、静かに言葉を紡いでいく。
「……もし望んでいいのなら、あなたたちの、嘘偽りない答えを」
森閑とした車内に、綺麗で儚い雪ノ下の声が降り積もる。
「……私に、ください」
車は止まらない。目的地まで静かに俺たちを運び続ける。
暗い道の先に取り返しのつかない悲しみがないことを、俺は切実に願った。
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2話
「明日明後日で、雪ノ下の家の煩わしいことは全部終わらせておくから」
沈黙に支配される車中、雪ノ下は時折言葉を落として静寂に抗う。
「私たちの決着は、神様にだって邪魔はさせない」
そうするうちに、由比ヶ浜のマンションに辿り着いた。由比ヶ浜は寂しそうな笑みを浮かべて、一言。
「良いお年を」
とだけ言って、扉の向こうに消えた。逆光のせいかその体躯は、普段よりも小さく見えた。雪ノ下は俯けた微笑で同じ言葉をはっきりと返していたが、俺の返事は喉の奥に詰まったような明瞭としないもので、ちゃんと届いていたのかも分からなかった。
そして再び車は滑り出し、会話もなくもう一つの目的地まで運ばれる。
ふらふらと車を降りて先ほどの焼き直しを雪ノ下に送るが、これもまた届いていたかは分からない。ただ、雪ノ下からも同じ言葉が投げかけられた。
頼りない足取りで玄関まで歩き扉を開ける。無意識の習慣で鍵を締めて靴を脱いでいると、轟音を立てて扉を開いた小町がリビングから飛び出してきた。
「お兄ちゃん! 雪乃さんは……」
捲し立てる途中で、小町の勢いが窄んでいく。目には涙が浮かび、声に震えが交じる。
「…………ダメだったの?」
「いや……解決、出来たよ」
「え……えっ?」
「大丈夫だ。雪ノ下は、もう」
靴を脱ぎ、三和土から上がる。小町は虚を突かれたように口をぽかんと開けていた。
「な、ちょっ……紛らわしいよお兄ちゃん! なんなのさその顔は!」
どんな顔をしていたのだろうか俺は。自分ではよく分からない。
「…………ほんとにどしたの? ねえ、何があったの?」
本当にどんな顔をしていたんだろう。そんなに簡単にわかるものなのやら。
「分かるよ。小町が何年お兄ちゃんの妹やってると思ってんの」
溜め息一つ。お手上げだ。
「雪ノ下にな……決着を着けようって言われたよ」
「それって……」
小町の表情が一気に真剣味を増した。たった一文に詰められた、果てしなく重い意味が伝わったことが分かる。
「お兄ちゃんは……どうするの?」
「どう……しようかねえ」
本当に。
本当に、どうしようもない。
身動きが取れない苦しさというのは、本当にしんどい。
「お兄ちゃん」
「どうした?」
「お願いが、あるの」
小町が居住まいを正して、俺に向き直る。その目は、今までにないほど本気の光を湛えていた。
「……なんだ?」
小町は浅く息を吸って、吐く。そしてもう一度はっきり俺の目を見て、口を開く。
「家事とかは全部小町がやる。初詣とかも、めんどくさいなら……ううん、神様に頼むことじゃないし、そんなことしてる場合じゃないだろうから行かなくてもいい。お父さんとお母さんにも小町から言っておく。お守りも買ってくるよ。受験勉強は……多分手につかないだろうし、頭にも入らないだろうし、きっとそれどころじゃないってお兄ちゃんも分かってると思う。だから」
滔々と喋り続けた小町は、そこで深く息を吸い。
「考えて」
そう言った。
「小町のことも、他のことも、全部忘れていい。三人のことだけを考えて。理由も、あげない。お兄ちゃんが、お兄ちゃんだけの理由で、お兄ちゃんだけの答えを出して。頭がおかしくなるくらい考えて、考えて、考えて。……きっと、今がお兄ちゃんの人生で一番大切な時だから」
熱のこもった吐息と共に紡がれる言葉が、そっと俺の背中を押す。
「だから」
だから。
「考えて。お兄ちゃんのために。三人のために」
身動きが取れなくても。ドツボにはまっても。袋小路に迷い込んでも。
「……分かった」
考えることだけは、やめないようにしよう。
「……お兄ちゃんだからな。妹の願いは聞かないとな」
そう言うと、小町はにへっと相好を崩して、俺の腕を引っ張る。
「だーから、理由はあげないんだってば。そんなのポイント超低いよー?」
引かれるままに、リビングまで歩いて行く。そういや玄関だったなここ。
「……おかえり。雪乃さんのこと、頑張ったね」
ふと、顔を伏せて、静かにそんなことを言われたので。
「……ただいま。ありがとな、色々」
つい、俺もそんな言葉を返してしまっていた。
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3話
そうして、二日が経った。小町は宣言通り、余所事になり得る全てを俺の元まで届かせることなく片付けてくれた。この二日間、俺は一歩も外に出ることなく、寝食以外の全てを考えることにだけ費やしていた。
元旦に一度だけ、雪ノ下からのメールがあった。
――――――――――――――――――――――――――
FROM 雪ノ下
TITLE 私たちのこと
1月3日の午前0時前に私の家に来てちょうだい。
大層な準備はいらないわ。
持ってきてほしいのは何があっても後悔しない覚悟だけ。
――――――――――――――――――――――――――
雪ノ下らしい、実直なメールだった。
だが、望むものを持っていくことはとても出来そうになかった。
二人のことを考えていると、去年の冬に恩師に送られた言葉が記憶の底から何度も浮かび上がってくるのだ。
必要なのは自覚。大切に思うからこそ、傷つけてしまったと感じる。
誰かを大切に思うということは、その人を傷つける覚悟をすることだと。
でも平塚先生。取り返しのつかない致命傷を、何を置いても傷つけたくない人たちに与えてしまうとき、俺はどうしたらいいんですか。
進んでも、退いても、選んでも、選ばなくても、俺はきっとどちらかを深く深く傷つけてしまうのだろう。生木を裂くに等しいその傷は膿んで毒となり、きっと他の二人にも回ってしまう。そう思えるほどに、俺たちは近付きすぎた。
だというのに、立ち止まり続けることを、雪ノ下は否定した。卒業という終わりを前に、自分たちの手で決着を着けることを求めた。進めてしまった時計の針は、もう戻すことは叶わない。
あの時平塚先生は、お互いがお互いのことを想えばこそ、手に入らないものもあると言った。
けれど、それは悲しむべきことじゃない。たぶん誇るべきことなんだろうと。俺はその時、それを美しいものだと思った。美しいだけで、辛いものだろうと思った。でも今は、醜くても、辛くても、悲しくても、誇らしくなくてもいいから。二人を傷つけない道がほしいと、それだけを願うのだ。
そんな都合のいいものなんて存在しないと、分かっているのに。
× × ×
深夜。玄関で靴を履いてると、背後で静かに扉の開く音がした。そしてゆっくりと忍び寄る気配。
「……答えは、見つかった?」
「…………ああ」
「……そっか」
背中越しの声が、弱々しく沈んだのが分かる。何年お兄ちゃんの妹を、と言われたことを思い出した。
どれだけ考え尽くしても堂々巡りするばかりで、望むような答えは見つからなかった。
だからせめて、出来るだけ小さい傷であってくれと。不誠実な、そんな答えを捻り出した。
「……いってらっしゃい」
「いってきます」
そんなやり取りを最後にかわして、家を出た。
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4話
道中も頭を回し続けていたが、何一つ報いは得られぬまま雪ノ下のマンションまで辿り着く。
エントランス。初めてここに来た、いつかの日を思い出した。……そうか、雪ノ下が由比ヶ浜に踏み込んだのも、この日だったっけか。
答えを探すために考え続けた二日間、三人で歩いた軌跡をなぞり続けていたからか、意識が簡単に過去へ飛ぶ。軽く頭を振って振り払い、雪ノ下の部屋に呼び出しをかける。あの時とは違い、ベルを鳴らすとすぐにスピーカーからノイズが聞こえてきた。
『……はい』
「雪ノ下、俺だ」
『いらっしゃい。……あなたも、早かったのね』
「まずかったか? 正確な時間指定がなかったから……も?」
『由比ヶ浜さんも今しがた。……開けるわね』
雪ノ下が宣言して、自動ドアが開く。エレベーターに乗り込み、十五階を押して、表札のない一室まで歩く。
インターホンを押すと、解錠すらないままに扉が開いて雪ノ下と由比ヶ浜が迎えてくれた。
「あけましてやっはろー」
「……おう、おめでとさん」
一年前にも聞いた謎挨拶に、軽い笑みがこみ上げてくる。と、雪ノ下が口を小さく開けて少し意外そうに俺たちを見ているのが気になった。
「雪ノ下?」
「あ、その……あけましておめでとう」
「ああ、おめでとさん。……どうした?」
問うと、雪ノ下は少し身を捩って答えた。
「いえ……あなたたち、一緒に初詣に行ったものかと思っていたから……」
「はは、小町公認で初詣もサボったわ」
「あたしは、行くんなら三人がいい、かな」
「……まあ、な」
「そう……」
ふいと雪ノ下は踵を返して、家の中に戻っていく。
だが、振り向く間際にその頬が赤くなっているのは隠しきれていなかった。なんとなく由比ヶ浜と顔を見合わせると、ふにゃっと微笑まれる。お返しに俺も唇の端を吊り上げ、二人並んで雪ノ下についていく。リビングダイニングに繋がるドアからは、穏やかな灯りが漏れていた。
「早めに来てくれたのはいいけれど、まだ準備は完全には終わっていないのよね」
リビングまで来て軽く咳払いした雪ノ下が、振り向いてそう切り出す。時計をちらりと確認すると、現在午後十一時。さすがに早すぎたか?
「あ、ならあたし手伝うよ!」
「だな。むしろお前の誕生日なのにお前だけが働いてる方がおかしい」
「でも……その、料理よ?」
「由比ヶ浜、ここは俺に任せて休んでろ」
「失礼だ!? あたし料理できるようになったじゃん!」
「冗談よ。一緒に作りましょうか」
「うん!」
由比ヶ浜は『ただのお礼』のクッキーを皮切りに、雪ノ下に矯正されながらこの一年で少しずつ料理ができるようになっていった。それでも時々こうやってからかわれたりはするのだが。性格悪いね、俺も雪ノ下も。きっと木炭のことは一生言われ続けるのだろう。
……今日が終わっても、離れないでいられれば。
ふと沸いてきたそれを意識の底に沈めて、雪ノ下に話しかける。『答え』もこれからの一生を左右する程に大切だが、それは三人だけの雪ノ下の誕生日を蔑ろにしていいと言うことでは決してない。
「二人で料理作るなら俺はどうしてればいい?」
そこまで広くないキッチンで三人で料理となれば、さすがに弊害のほうが多かろう。雪ノ下を外すのは一人だけ腕が際立ちすぎていて完成品のクオリティに問題が残るし。
「そうね……飲み物の準備は後でいいし、飾り付けなんかもしないつもりだし、特にやることも……ここで料理する私たちのエプロン姿を舐めるように見ているか、私の目が届かない私室で一人で待っているか、どちらがいい?」
「ゆきのん!?」
この人真顔でなんか凄いこと言い出したんだけどどうすればいい。
「……………………クラッカーでも買ってきます」
「一応、由比ヶ浜さんの誕生日会を参考に買ってあるわ」
「…………その」
なんか由比ヶ浜まで顔赤くしながらこっち見てんだけど。ねえ。
「……リビングで、待機させていただいてもよろしかでしょうか」
「ご自由に。今日は……今日明日は何処を見ていても不問とするわ」
そう言って、雪ノ下は取り出したエプロンを着ける。由比ヶ浜もそれに続いて着用。由比ヶ浜の私物が雪ノ下の家にあることが当たり前と思える状況を、短くない時間を掛けて二人は構築していったのだろう。そんな何気ない一幕が喜ばしく感じられた。それはともかく、この状況下でテレビとかつけても全く頭に入る気がしないんですが……。
結局、つけたテレビに顔だけ向けながら、二人の後ろ姿をちらりちらりと盗み見るようにしてしまっていた。ごめん見栄張った。実際は盗み見どころか舐めるように見てたと思う。テレビとかどんな番組やってたかも覚えてねえや。料理番組?
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5話
料理が完成間近となって、飲み物の準備を頼まれる。一人暮らしには不相応に大きな冷蔵庫を開けると、空間の八割を埋めるほどに食材が詰め込まれていた。
「雪ノ下、これ……」
「……少々、買いすぎてしまったのよ。明日一日は外に出なくてもいいように、と思ったのだけれど……」
「そうか……」
顔を赤くして料理に向き直る雪ノ下の向こうで、ニマニマとそれを見る由比ヶ浜。その視線がこっちを捉えて、また微笑まれる。口パクなのに『かわいいね』って言ってるのがはっきり伝わってくる。今雪ノ下が料理してなかったら抱きついてるんだろうなあ……。
やたらと高級そうな大サイズの瓶ジュースを三本取り出し、冷蔵庫を閉める。俺や由比ヶ浜ならまず間違いなくペットボトルだったな。こういうところでも経済力の格差を感じてしまう庶民派です。
「紙コップは?」
テーブルに瓶を置き、辺りを見回して雪ノ下に問う。それっぽいものが見当たらん。
「ないわよ」
「えっ」
「三色一揃いのいいティーカップを見つけたの。紙コップでは不経済でしょう?」
薄く笑いながら、いつかの理由を持ち出してくる。でも経済性を理由に紙コップ代わりにするのはティーカップだとちょっと無茶が過ぎると思いません?
雪ノ下は食器棚から赤・青・黄の各色を基調としたセットを取り出した。
「あなたたちと使おうと思っていたから」
そんな理由をぽつりと付け足して、俺の手にカップを押し付ける雪ノ下。背後にそろりと迫る由比ヶ浜には気付いていない様子。
「ゆきのん!」
「あっ、ちょっと……」
「えへへ、好きー」
「もう……」
まっこと仲の良いことで。あ、オーブンが鳴った。
「できたわね。由比ヶ浜さん、ちょっと離れて」
「うん。じゃあ、お皿並べるね」
「それくらい俺にやらせてくれ。俺今日ほんと何もしてねえんだから」
「別に気にしなくてもいいのだけど……じゃあ、お願いするわ」
「おう」
そうして、残り少ない今日を使って準備を終わらせる。料理を並べて飲み物を注いで蝋燭に火を付けて灯りを落としてクラッカーを構えて。全てを終え、雪ノ下を挟んで席に着いたのは本日が残り二分少々となってのことだった。……もしかしてここまで厳密に時間をコントロールしてたんだろうか雪ノ下は。人間業じゃねえぞ。
時間確認用にケーキの側に置いた腕時計が、蝋燭に照らされて残り一分を指し示す。由比ヶ浜は鼻歌でも歌いそうに上機嫌だ。雪ノ下は少し緊張しているように見えた。近付いてくる明日の時間に合わせて、紐を握った右手に力が篭もっていく。
五、四、三、二、一――
寸分の狂いなく揃った破裂音が広いリビングに鳴り響く。
「雪ノ下」
「ゆきのん」
『誕生日、おめでとう』
事前に示し合わせたわけでもないのに、由比ヶ浜と綺麗に声が重なった。つい目が合うとくすぐったそうに微笑まれて、雪ノ下の方に視線が逃げる。
雪ノ下は、目を閉じて両手を胸の前で重ね、噛みしめるように柔らかな微笑みを湛えていた。
「……ありがとう」
目を開けて手を解き、囁くように。
「あなたたちに祝ってもらえて、本当に、本当に、嬉しいわ」
雪ノ下は感謝を綴った。
「ゆきのん……!」
由比ヶ浜が当然のように抱きつく。そうだよね我慢できるわけないよね。でも俺の右腕も巻き込んじゃってるの柔らかいの気付いて。
「ヒッキーも!」
え、何。なんか促されてるけど何。気付いてるの?
「ん!」
由比ヶ浜は抱きしめた雪ノ下の身体をぽんぽんと優しく叩く。俺の腕ごと。だから何よ?
「ぎゅってするの!」
…………………………………………。
あっ、今頭真っ白になってたわ俺。何言ってんのこの子?
「おい、由比ヶ浜。俺は男なんだぞ」
「知ってるよ。当たり前じゃん」
「そうかもしかしたら忘れられてるのかと思ったよ。で、お前らは女だ」
「だから知ってるよ」
「じゃあお前、その、軽々しく、男に抱きつけとか」
「軽くないよ」
「……へ?」
思わぬところで反論がかかり、間抜けな声が口から漏れる。
「だから、軽くないよ。あたしとヒッキーとゆきのんじゃないと、絶対こんなこと言わないし、言えないよ」
「…………」
「それとも、ヒッキーはあたしがそういうこと簡単に言っちゃうって思う?」
「いや……」
違う。俺はそうでないことを知っている。二年も側で見てきたのだ。
「思わない。悪かった、知ってたのにな」
「いいよ。だからほら、ぎゅって!」
「いや、だからそれは……雪ノ下だって」
まで口に出したところで、雪ノ下がだんまりを決め込んでいたことに気づく。やめなさい、の一言くらいあっておかしくないはずなんだが。
雪ノ下は少し俯いて、耳まで赤くしながら横目で俺と由比ヶ浜のやり取りを窺っていた。話の矛先が自分に向いたからか、口を開く。
「あ……その……」
二人分の視線が集中して、雪ノ下が更に縮こまる。それを見た由比ヶ浜が抱きつく力が強まったことが右腕から伝わる。
「わた、私は、いい……わ」
字面だけ取ってみれば肯定否定も不明瞭なのに、その態度と声音が強烈に伝えてくれる。え、マジで? なんか雪ノ下の向こうで由比ヶ浜が得意顔してるのがちょっと悔しい。
「え……と……じゃあ……」
右腕を拘束から外し、左腕を持ち上げ、座った状態からおずおずと上半身を傾けて二人に近づく俺マジ不審者。あれ、抱きしめるってどうやればいいの? つーかくっついてるから雪ノ下だけ抱きしめようとしたらガハマさんとゆきのんの間に手を通さなきゃいけないし、そしたらその、ガハマさんの前面の部分に手がその、無理。え、でも由比ヶ浜も一緒に抱きしめるってそれいいの? ぎゅってするのってあれ雪ノ下のことだよね? なんか勝手に拡大解釈して抱きつくって気持ち悪くない? ……いや、違う。由比ヶ浜はそんなことを思わない。いみじくもさっき俺が言ったではないか。そう、知っているのだ。だからこれは俺の不実。由比ヶ浜に理由を仮託して逃げているだけの、欺瞞だ。
「ヒッキー」
そんなことをぐるぐる考えて不審者ポーズのまま硬直していた俺の手を、由比ヶ浜が引いてくれる。
「怖がらなくても、大丈夫だよ」
雪ノ下越しに由比ヶ浜の背中まで俺の両腕を導き、由比ヶ浜は再び雪ノ下に抱きついた。雪ノ下を挟んで由比ヶ浜ごと二人を俺が抱きしめる格好だ。
「ね。ぎゅってして」
全く。
「…………おう」
敵わない。
壊れ物を扱うように、腕にそっと力を込める。柔らかさが触れたところから触れた分だけ返ってくる。それにこの二人、ほんといい匂いするの。俺と同じ人類だと思えないレベル。
「ひ、比企谷くん」
呼ばれて、腕がびくんと硬直する。あっれ、なんかマズった!? 細心の注意を払って抱き……やった、つもりなんだけど。赤面した雪ノ下は、辿々しく言葉を繋ぐ。
「その……もっと強くしても……いいから」
「……………………お、う」
「ヒッキー」
雪ノ下を挟んで向かい合う由比ヶ浜の目が、溢れるほどの慈しみを湛えている。それがあどけない顔立ちの由比ヶ浜を驚くほどに大人びて見せて、胸を酷く高鳴らせた。
由比ヶ浜はするりと上半身を滑らせて、雪ノ下と向かい合うように正面に回り込む。雪ノ下はそれに合わせて由比ヶ浜側に足を崩し、二人揃って俺の胸にしなだれかかってきた。雪ノ下を正面から抱きしめる由比ヶ浜ごと、俺が横から抱いている格好だ。
「……これで、ぎゅー、ってしやすくなったかな?」
どう答えりゃいいんだこんなもん。
「ね、ヒッキー」
泳いだ俺の目を二人の流し目が縫い止める。
「あたしとゆきのんがくっついて溶けちゃうくらいに」
雪ノ下は小さく開いた口から熱い息を吐き。由比ヶ浜は優しく微笑み言葉を継ぎ。
「思いっきり、抱きしめてよ」
俺の躊躇というタガを、そっと外した。
両の腕に少しずつ力が篭もる。
「あ」
「あぁ……」
由比ヶ浜の嬉しそうに弾む声が、雪ノ下の沁みるように漏れる息づかいが、二人を抱きしめる力に転化する。
「もっと……」
「ん……」
いつの間にか、雪ノ下の両腕も由比ヶ浜に巻き付いていた。不器用に強張った力の込め方は酷く雪ノ下らしく、そうして抱き合う二人がとても愛おしく思えた。
「は……ぁ……」
「ふ……ぅ……」
そうだ。愛おしいのだ。分不相応にも、こんなにも素敵な二人をどうしても手放したくなく感じてしまう。俺、ごときが。
苦しそうに、されど目を閉じて嬉しそうな微笑を浮かべて吐く二人の甘い吐息が脳を灼く。至近にある横顔が僅かな変化を浮かべるたび、その一つ一つを淀んだ瞳に焼き付けていく。
「雪ノ下……由比ヶ浜……」
「ひっ……きぃ……ゆき……のん……」
「ひきがや……くんっ……ゆいが、はま……さん……」
三人で、固く、固く、抱き合う。二人への愛おしさが際限なく膨れ上がる。
本当に、溶けて混ざり合って一つになってしまえれば。
もしかしたらこの悩みも消えてなくなってくれるのだろうか。
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6話
「はぁ……」
「…………」
もうまともに腕に力が入らなくなるまで二人を抱きしめ続けて、ようやく長い長い抱擁は終わった。力尽きるようにソファーの座面に背を預けて、荒れた息を整える。多幸感で脳味噌がヤバイ。酸欠でか興奮でか、視界が少しチラついている。
二人は穏やかな顔で艶のある溜め息を吐きながら、俺が抱きしめた場所を愛おしそうに撫でさすっている。雪ノ下が右腕、由比ヶ浜が左腕。込み上げる気恥ずかしさに目を逸らすと時計が目に入り、時計を見て、再三時計を確認した。零時半余裕で過ぎてるとか嘘だろおい。そんなに抱き合ってたの俺ら? マジで?
「……ふふ」
と、時計を睨み付けていると雪ノ下の薄い笑い声が小さく漏れ聞こえてきた。
「……なに、どした」
少し俯いて頬を赤く染める雪ノ下に問うてみる。少しぼんやりとした目をゆっくり俺に向けると、雪ノ下は形の良い口を開く。
「……私、今、笑ってた?」
「あ、ああ……」
笑った、と思うんだが。由比ヶ浜の方に確認するように視線をやると、由比ヶ浜もきょとんとした感じで頷く。
「そう……なんでかしらね……自分でもよくわからないわ」
「んー……あたし……わかる、かな」
「由比ヶ浜?」
由比ヶ浜が撫でさする自分の右手に目を向けて、柔らかく微笑む。
「ヒッキー、気持ちよかった?」
……なんかすっげえ直接的なこと聞かれた。でも答えは決まってるだろこんなの。
「ああ」
最高に。
「気持ちよかったよ」
その言葉に、由比ヶ浜はにっこりと微笑む。
「うん……ヒッキー、がむしゃらにぎゅってしてくれた」
皮膚に残った感触を反芻するように、目を閉じる。
「じんじんするよ」
……本当に加減なく全力で抱きしめたからな。文化系とはいえ男の力で。
「…………ごめんなさい」
「? なにが?」
「その……本気で思いっきりやっちまったから……腕とか脇腹とか、下手したら痣になってんじゃねえの?」
「んー……多分なってるかな」
「ええ……そうね」
そう言って、俺の与え続けた圧迫の感覚に沿うように、二人が脇腹に指をなぞらせる。
「……すまん」
「あ、んーん。違うよ。嬉しいの」
「……嬉しい?」
「ヒッキー、ほんとに必死になってあたしたちを抱きしめてくれたよね。それって、あたしがそうしてって言ったから?」
「それ、は……」
きっかけはそうだろう。あの言葉がタガを外したのは、多分間違いない。だが、その後は二人の感触や喘ぎ声、吐息、匂い、それら全てをひっくるめて愛おしさが爆発してしまった。俺がひたすらに二人を求めてしまっていただけだ。
「それも、ある」
「うん……多分、あたしと出会ったときのヒッキーがそんなこと言われても、ヒッキー同じことしてくれなかったと思うんだ」
そうかもしれない。酷いことを言って、逃げて、何もなかったとしたかもしれない。
何もなかったことになんて、できっこないのに。
「ヒッキーがあたしたちを気にする余裕がないくらい、あたしたちをそうしたいって思ってくれたってことだから……だからきっと嬉しいの」
そう結んで、由比ヶ浜は雪ノ下を見る。
「ああ……そうなのね。これは……嬉しい、だったのね」
雪ノ下は上気した頬を僅かに歪め、熱の篭った吐息を漏らす。
「比企谷くんが強く求めてくれたから……この痕がその証だから……そう感じたのね……」
俯いて、濡れ羽の前髪にその表情が隠される。
「なにかしら……比企谷くんに、と思うと昏い悦びがふつふつと沸いてくるの……」
その手は優しく腕を撫でている。
「癖になりそう……」
「ゆ、雪ノ下さん? ちょっと?」
俺の呼びかけに雪ノ下はパッと顔を上げる。
「冗談よ」
艶やかに笑いながら言われても、どこからどこまでが冗談の範囲なんだか分からなくてタチが悪いってレベルじゃない。
「……似合いすぎるからやめてくれ」
「あー……あはは」
「あら、そんなに似合うのなら包丁でも持ってこようかしら?」
「やめてくれ」
そのまま刺されてもいいか、とか思っちまったらどうするんだ。
「ふふ……」
雪ノ下は一つ笑んで、御馳走の乗ったテーブルに目を向ける。
「……冷めちゃったわね」
「……だな」
「その……ごめんね」
由比ヶ浜が申し訳なさそうに謝ってくる。二人で作った料理の末路がきっと寂しいのだろう。
「あたしがぎゅってしてって言ったから……」
「いいのよ」
それを雪ノ下が一歩早く遮って止める。ああ、雪ノ下が止めてなきゃ俺が止めてた。これを由比ヶ浜一人の責任になんて誰がさせるか。
「同罪だよ。全員な」
「そうね……それに、後悔はしていないのでしょう?」
「……うん」
そう答えて、はにかむ。それにつられて、俺と雪ノ下も顔を見合わせて相好を崩した。
……まあなんだ。二人で作ったものなんだ。冷めてもきっと旨いだろうしな。
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7話
そうしてそれぞれが元通り席に着く。彩り鮮やかなサラダ、温め直したコーンスープ、切り分けたフランスパン、香ばしく揚がった唐揚げに天麩羅、ふんだんに海鮮を散りばめたマリネ、絶妙な火加減のローストビーフ、たっぷり甘くしたショートケーキ。飲み物はぶどうとみかんとりんごのジュース。ティーカップは雪ノ下が桃色がかった柔らかな赤、由比ヶ浜が抜けるような空の青、俺が黄金の小麦畑を思わせる黄色を配られたのだが、その時に雪ノ下が見せつけるようにシュシュを俺に向けていたずらっぽく微笑んできた。由比ヶ浜もそれを見て嬉しそうにするから、俺は何も言えなくなってしまうのだ。
ティーカップで小さく乾杯して、一時間遅れの誕生日会を再開する。二人の作った料理はやはりどれもこれもとても美味しく、また肴にする話も尽きぬほどにあったためか、三人で食べるには多すぎるかと思えたメニューは綺麗に全部腹の中に納まった。誕生日会は非常に和やかな空気の中で行われた。俺たちは奉仕部での二年間に花を咲かせて、くすぐったくも心地良い時間を過ごすことができた。
「あふ……」
「由比ヶ浜さん、眠いの?」
「ああ……もう三時過ぎてるのか。今日は本当に時計の進みが速いな」
「ん……でもまだ大丈夫だよ。今日一日はずっと付き合うつもりだし」
「無理をさせたいわけじゃないのよ。もう寝ましょう。私もそろそろ眠くなってきたわ」
「あれだけ食ったしな。眠くなるのも仕方ねえだろ」
と言いつつ、俺もかなり眠い。俺が一番食ったしな。気を抜くと眠気が鎌首をもたげてくる。
それより何より、ここ最近ずっと張り詰めてたのが、二人と抱き合って完全に緩められてしまったから。この部屋の空気は、嫌悪に慣れた身には些か以上に暖かすぎて。
「由比ヶ浜は泊まりか?」
「ええ、そうよ」
「あ、ゆきのんが答えるんだ」
「今日一日は放すつもりはないもの。……比企谷くんもよ」
「…………おう」
「あら、驚かないのね」
「まあな」
午前零時という集合時間然り、外に出るつもりはないという発言然り、そもそもの話として雪ノ下は初めから一日の時間をくれと言ってきていた。さすがにここまでくれば推測するには十分過ぎる。
「ただ何も持ってこなくていいって言ってたから、今日は本当に手ぶらだぞ」
「大丈夫よ。その……着替えも、用意しているから。サイズは分からなかったから幾つか買ってあるわ。あなたが選んでちょうだい」
「お、おう……」
どんだけ本気なんだよ。雪ノ下が男物の寝間着を複数サイズまとめて買ったのか……うわあ……。
「軽くシャワーで汗だけ流して、今日はもう寝ましょうか」
「ん……まあ、そうするか」
「由比ヶ浜さん、行きましょう」
「あ、うん。ヒッキー、お先に」
「おう」
そう言って二人で連れ立ってリビングルームから出ていく。その極めて自然な流れに、いつもそうしてるんだろうか、とか頭をよぎるそんな妄想を無理くり鎮めて、一人になったこの時間にあてのない別解探しを再開する。ロスタイムは二人のあとに俺が風呂を上がるまで。決して長くはないし、正直見つかる気もしない。それでもこれを止めることだけはしてはならないと、そう決めた。
昨日から今日にかけての四時間余りで、俺たちの距離が思っていた以上に近付きすぎていることをまざまざと見せつけられた。由比ヶ浜も雪ノ下も、明に暗に俺たちの関係を特別なものだと主張している。深夜に一人暮らしの女の子の家に集まったり、男女で固く抱き合ったり、保護者なしで一つ屋根の下に泊まったり、それは普通の関係などでは、きっとない。俺もそうだ。二人の叫ぶ特別性が替え難く嬉しいものだと思っているし、それ故に発露する行動も全て受け入れたいと思ってしまっている。だが、それでも答えを出さなければならないのだ。
問題の根が考えていたよりずっと深くなっていたことを骨の髄まで理解させられただけで、何一つ解決に寄与するものではなかった。平塚先生の言っていた、お互いのことを想えばこそ、手に入らないもの。それに当て嵌めることすらも、きっと今の俺たちは手遅れなのだろう。
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8話
湯上がりで艶のある濡れた髪にシュシュだけ巻きつけて、血色のいい肌をお揃いのシンプルなパジャマで覆った二人が上がってきた。これも雪ノ下がピンクで由比ヶ浜が青の単色だ。由比ヶ浜は少し恥ずかしそうに雪ノ下の陰に隠れて、普段お団子を作ってる辺りの髪を手櫛で梳いている。
「比企谷くん、着替えは脱衣かごに入れているから。バスタオルとタオルも出してあるし、見れば分かると思うの。シャンプーやボディーソープは好きに使ってちょうだい。今着ているものは洗濯機に入れておいてくれればいいわ」
「分かった。まあ、すぐに上がるつもりだ」
「急ぐ必要はないわよ。今日は誰の邪魔も入れさせやしないから」
「…………おう」
なんてことはないやり取りのはずなのに、どう考えてもシャワーのことのはずなのに、ギリギリまで答えの模索に藻掻き続けることを許されたのかと一瞬だけ錯誤してしまった。雪ノ下の浮かべた優しい笑みと、二人が上がるまで続けていた別解探しのせいだろうか。
――本当に、度し難い。
「ああ、そういえばバスルームの場所知らないわよね。こっちよ」
そう言ってふいと背を向け、先導する。思索に気を取られて反応の遅れた俺に、由比ヶ浜は照れながらも微笑みかけて促してくれた。この内心が漏れぬよう注意して、雪ノ下に付いていく。
由比ヶ浜も雛鳥のごとくとてとてと俺の後ろに付いてきた。すぐそこなんだから要らねえだろと思いつつも、離れないでいようとしてくれることが嬉しくもあった。
二人の美少女に見守られながらバスルームに入る目の腐った男という中々にシュールな図式が今ここに。手早く服を脱いで洗濯機に放り込もうと蓋を開けると、中にさっきまで二人が着てた服らしき色彩の上に半透明な洗濯ネットのようなものとそれに包まれた何かが視界に入って脊髄反射で閉じよゴマ。音を立てて閉じた蓋が洗濯機内部の空気を圧搾して、そこに篭った二人の匂いがこぼれてくる。さっき見えたものと甘やかな匂いが頭のなかで繋がって、顔が茹で上がるのを止められない。
待って。え? 雪ノ下洗濯機に入れとけって言ってたよね? 聞き違いじゃないよね? どういうことなの。さっき力尽きるまで抱き合ったからかなり汗掻いてるよ俺。どうしようこれ。
全裸で脱いだ服を片手に固まること暫し、着替えが詰まった脱衣かごを洗濯機前まで引っ張ってきて、着替えの代わりに入れることにした。……選んでとは言われたがまさか下着からパジャマまでSMLXL各種取りそろえているとは思わなかった。いやSサイズはないだろさすがに。しかしここまで用意してくれたのに、脱いだ服をグシャグシャにぶん投げておくのも気が引けた。せめて畳んで入れておこう。
そうやって洗濯機に気を取られていたのがまずかったのだろう。脱衣所から風呂場に続く曇りガラス張りの折戸を開き無思慮に踏み込むと、熱気と湿気で強まった二人の残り香に包まれた。
先刻に倍するむせ返るような甘い香りが脳髄を直撃し、ここにいない彼女たちを強く意識させてくる。むしろ目の前にいないからこそ、嗅覚だけが歪に強く二人を感じている。
そうして今更になってここが風呂場であり、少し前まで彼女たちがここで一糸まとわぬ姿でいたという当たり前の事実を認識した。それを掻き消すためにシャワーを全開にして頭から打たれ、多湿の空気を深く吐く。考えるべきじゃない。考えちゃいけない。こうやって三人で過ごせるのは今日が最後かもしれないんだから。そこに邪な感情は持ち込むべきじゃない。何よりあれだけ真剣に決着を付けたいと告白した雪ノ下の決意を汚すことは許されないし許さない。
激しい音を立てる湯を浴び続けながら、勢いのまま流れていくそれをじっと見つめる。淀んだ感情はきっと、こうもさらりと流れてはくれないのだろう。
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9話
風呂上がり、落ち着くためにも時間を掛けてきっちりと水気を拭う。大した効果も出ないまま、雪ノ下が用意してくれた服を着てリビングまで戻る。結論から言うと、風呂場でまともな考え事はできなかった。そりゃそうだ。
扉を開けると、二人の視線が俺に向く。リビングでは雪ノ下と由比ヶ浜が穏やかに談笑していた。母親の膝に寝そべりながら話をせがむ幼い娘のような構図に、自然と頬が緩む。俺ら全員同い年なのになあ。
「悪いな。待たせた」
「急がなくていいと言ったはずよ。何か飲む?」
テーブルを一瞥して、尽きていないジュースの瓶に目星をつける。一応どれも僅かながら残ってはいるようだ。
「そうだな、みかんジュース貰えるか」
酒は駄目なんで。……これ、平塚先生と材木座しか分かんなかったっけなあ。
「あたしつぐよ」
横座りした雪ノ下の腰にもたれかかった由比ヶ浜が、雪ノ下の身体を伝って起き上がり瓶を手に取る。そのまま黄色のティーカップに注ぎ、瓶が空になる。
「ありゃ、なくなっちゃった。ゆきのんは何飲む?」
「そうね……林檎にするわ」
「じゃああたしぶどうジュースにしよっかな」
由比ヶ浜がりんごジュースの瓶を手に取ると、雪ノ下もぶどうジュースの瓶に手を伸ばす。二人がお互いのティーカップにお互いの液体を流し込んでいる間に俺も元の位置に座った。
綺麗に全部の瓶が空になり、各自がティーカップを手にする。
「あたしが青、ゆきのんがピンク、ヒッキーが黄色。ジュースもだ!」
「……いや、りんごジュースは黄色だろ。みかんジュースも黄色というより橙だし」
オレンジ色っていうくらいだろ。まあ食いすぎると手は黄色くなるけど。
「いいの! りんごって赤いじゃん。それに、みかんだって赤よりは黄色いよね?」
「いいのかよそれで……」
「理屈も何もあったものじゃないわね」
「あたし、ヒッキーにこれ貰ってから青色が好きになった気がするんだ。それにゆきのんがピンクなものを付けてるとなんか嬉しくなるの」
「むぐ……」
言葉に詰まる。この子はまたなんつー事を嬉しそうに……。
「そうね……」
と、雪ノ下も由比ヶ浜の発言に反応してぽつりと零す。
「去年のクリスマスから、ピンク色に少し目が行くようにはなったかもしれないわ。それと、由比ヶ浜さんの青色にも」
俺に流し目を送りながら、雪ノ下はシュシュを巻いた髪を一房、軽く指で擦り上げる。
「……そか」
視線の重圧に耐えられなくなって、ティーカップを呷る。酸味のある甘い液体が喉を滑り落ちていく。二人に見せつけるように一つ大げさに息を吐いて、話の区切りだと言外に主張する。
由比ヶ浜と雪ノ下は目を見合わせて苦笑し、一息に飲み干した。
ただ、俺も今日から少しだけ黄色が好きになれそうな、そんな気はした。
「歯磨きして寝ましょうか」
「おう」
「うん」
雪ノ下は立ち上がってキッチンに向かい、程なく三人分の歯ブラシを持ってくる。洗面所を交代で使い、就寝の準備が終わる頃には四時を回っていた。
いざ寝る段になって、はたと気付く。
「雪ノ下、俺はどこで寝ればいいんだ?」
何の気なしに聞くと、雪ノ下は目つきを鋭くして真正面から俺を見る。想定外の反応に面食らっていると、雪ノ下は浅く息を吸って吐き、また吸って。
「私のベッドよ」
そう、答えた。
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10話
幾許かの沈黙と時間が流れ、雪ノ下の言動をようやっと理解する。雪ノ下は俺から視線を外さないままでいる。由比ヶ浜はまだ再起動中だった。
「……雪ノ下は、どこで寝るんだ?」
「私のベッドよ」
「由比ヶ浜は?」
「私のベッドよ」
「…………お前、ベッドを複数持ってたりするのか?」
「私、一人暮らしなのよ。一つあれば十分でしょう」
言葉が足りないだけなのかと見落としの可能性をあらん限りに探ってみたが、どれにも否定が返ってくる。そうして雪ノ下は一歩、こちらに踏み込んでくる。
「三人で一緒に、寝ましょう」
「お前、それは……」
「……ああ、ごめんなさい。言葉が足りなかったわ」
雪ノ下は足を止め、手を組み、真剣な目つきを和らげてはにかむ。
「子どものように手を繋いで、寄り添ってただ眠るだけ」
「ゆきのん……」
「きっと、とても気持ちいいから」
雪ノ下は目を閉じて、陶酔したように柔らかく笑む。その仕草が彼女を酷く幼く見せていた。
「……その、これでも非常識なことを言ってるのは分かっているつもり。どうしても無理なら、比企谷くん用の布団も用意してあるから……」
組んだ手を解いて、雪ノ下は俺たちを窺ってくる。どう考えたってこれは男の俺より由比ヶ浜の意志の方が万倍重要だ。雪ノ下がこれを是としても、俺がそれを肯んじても、由比ヶ浜が否と言えば成立しないし、させてはいけない。俺も由比ヶ浜を探るように見てしまう。
由比ヶ浜は雪ノ下を見て、俺を見て、一つ深呼吸をする。そして。
「あたしは……いいよ」
「由比ヶ浜さん……」
「あたしもゆきのんとヒッキーと一緒に寝たい。今日は、二人と離れたくない……かな」
由比ヶ浜はそう言って、自身の左腕を掴み、抱き寄せる。その脳裏に浮かぶのは先程の強烈な抱擁だろうか。照れと艷と緊張と恥じらいと、雑多な感情が混じった表情で佇む彼女が、心奪われるほどに大人びて見えた。
……雪ノ下は今日は放すつもりはないと言った。由比ヶ浜は今日は離れたくないと言った。どこか生き急いでいるような二人の言動。自覚的にせよ無意識にせよ、今日のいつかに訪れる決着を恐れ、抗うものでもあるのだろう。最悪の結末を迎えても、失くしてしまった宝物を思い出に慈しみ、先を生きる糧とするために。少なくとも、今日の俺にそういった側面は間違いなくある。今の俺は二人と分かたれて平然と生きていられるほど、強くはなくなった。弱くなれた。二人のおかげで。
ああなんだ。つまり。
「俺も……離れたく……ない」
「比企谷くん……」
「ヒッキー」
たったそれだけのことだった。
今日で決着を付けるとしても。それまでに抱えきれないほどの思い出を詰め込んで。
間近にある終わりが逃れられなくても。せめて一人でも生きていけるようにと。
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11話
雪ノ下の寝室。部屋中がパンさんで埋まっているかと思いきや、そんなこともなく。シンプルな調度品で設えられた部屋は、実に雪ノ下らしいものだった。
一人用には少し大きめのベッド。身長を超える本棚と備え付けのクローゼット。本棚よりも大きな窓は雨戸と遮光カーテンで外界と隔てられ、白んできたであろう朝の光を通さないでいる。飾り気のない机に参考書が並び、その端に一つだけパンさんのぬいぐるみが置かれていた。……つーかこれ、いつかにゲーセンで店員さんに取ってもらったぬいぐるみなんじゃ……。
恐らく雪ノ下が一人で最も長い時間を過ごしている空間。この部屋に足を踏み入れた瞬間から彼女の香りが強まって、嗅覚から興奮が蓄積されていく。
その雪ノ下本人は、努めて無表情で一足先にベッドに入る。ただ、耳まで赤くなっているせいでその努力が実っているとは言いがたかった。スプリングの軋む軽い音が、これからの非日常な行為をいやが上にも意識させてくる。
「比企谷くん」
「…………おう」
布団を肩に掛け横座りする雪ノ下に呼ばれるままに、緊張で強張った身体を動かし彼女に近付いていく。縁に手をかけ膝からゆっくり載せていくと、雪ノ下のときより数段重い音を立ててベッドが沈む。
「……俺が真ん中なんだな」
「そうでないと、あなたに潰されてしまうもの。……それも悪くはないかもしれないけれど」
「……は?」
「……由比ヶ浜さん」
「うん」
ベッドを軋ませながら片膝で座り直して由比ヶ浜を見ると、のぼせ上がったような表情で近付いてくる。少し息が荒れているのは、彼女もまたこの先を意識してしまっているからだろうと思う。
両膝をベッドの下端に伸ばして由比ヶ浜の座るスペースを開けると、彼女もベッドに手をついて俺の隣に鎮座した。右側には由比ヶ浜、左側には雪ノ下、二人に挟まれてベッドの上。思ってたよりずっとヤバイなこれ。多分俺むっちゃ顔赤くなってる。
「……じゃあ」
「……おう」
「……うん」
曖昧な雪ノ下の促しに漠然と答えて、ぎこちなく身体を仰臥させる。右手の由比ヶ浜もゆっくりと横たわり、おずおずと俺の手指に自分のそれを絡めてくる。
「由比ヶ浜さん」
一人まだ座っていた雪ノ下は、肩に掛けていた布団の片端を由比ヶ浜に手渡す。布団が俺を横断し、ふわりと掛かる。そして雪ノ下もそっと横に添い……添……え……?
「んっ……」
「ゆ……きの……した?」
「ゆきのん……?」
雪ノ下が、仰向けた俺の左半身に己の身体を擦り付けながら、俯せにのしかかってくる。薄いパジャマの生地越しに、雪ノ下のしなやかな柔らかさがダイレクトに伝わる。
「な……にを……して……」
もぞもぞと動きながらある程度安定する位置を見つけたのか、硬直する俺の左肩に頬を載せて雪ノ下は呟く。
「……こうしないと……由比ヶ浜さんと……寄り添えないもの」
「は……?」
「え……」
由比ヶ浜は思わず、といった勢いで布団を跳ね上げ身体を起こし、声を漏らす。そして半分ずれて俺と重なる雪ノ下を凝視して、ボンッと顔を赤くする。
「ゆきのん、それって……」
「……三人で、寄り添って、手を繋いで、眠るの。本当に、それだけなの……」
「それだけって、お前……」
雪ノ下の熱と重みが、彼女の存在が確かにあることを、固まった俺の身体に伝えてくる。普段雪ノ下が寝ている布団にはただでさえ彼女の匂いが染み付いているのに、至近距離から窺ってくる雪ノ下の吐息が殊更意識をそちらに誘導してくる。なんで雪ノ下ってこんないい匂いするんだよ。
「寄り添って……」
由比ヶ浜は熱に浮かされたような表情でかすれるように呟き、俺の胸板に右手をつく。そのまま手を滑らせるようにしなだれかかってきて、俺の右半身に倒れ込む。接触の際に、ふにゅん、とそのたわわな果実が柔らかに潰れ、破滅的なまでの快感を与えてくる。さっき雪ノ下が言った俺に潰されてしまうってのはこういう意味か、と二人に半分ずつのしかかられながら理解した。
この布団に包まれながら唯一雪ノ下の匂いとは別の香りを発する由比ヶ浜だが、それが興奮を醒まさせるかというと全くそんなことはなく、むしろ相乗で昂ぶらせてくる一方だ。
雪ノ下と由比ヶ浜が俺の目の前で指を絡めて、手を繋ぐ。完成した恋人繋ぎを確認して二人は目で笑い、流れのままに俺を見る。……子供のように手を繋いで、か。
二人が枕代わりにしている両肩をなるべく動かさないように、彼女たちの手を探って腕を這わせる。と、右手に当たる柔らかく暖かな感触。俺からの接触が想定外だったのか、由比ヶ浜は触れた瞬間にピクンと跳ね、すぐに包むようにぎゅっと握ってきた。彼女は頬を赤くして笑顔を見せてくれたのだが、俺はやんわりとそれを振りほどく。笑顔が一瞬驚愕に変わるが、更に別の何かに変わる前に、由比ヶ浜が雪ノ下とやっていたように手指を絡めていく。彼女の表情が悲しみに彩られるより先に、前以上の笑顔に変えられたことに満足する。
それを確認したのか、雪ノ下はサイドチェストから何らかのリモコンを取り出し、操作する。部屋の灯りが消え、鼻を摘まれても分からないほどの暗闇に包まれた。視覚が閉ざされることで他の五感が鋭敏になる。全身に感じる重みと温もりも、二人から漂う香りも幽かな息遣いも、たった十秒前と比べても段違いに生々しく感じられた。
雪ノ下を求めて這い回っていた左手が彼女の腕にパジャマ越しに触れ、雪ノ下はその感触を頼りに俺の手を取る。二人の指が絡み合い、一つの塊が出来上がる。もう雪ノ下の顔も見ることは出来ないけれど、由比ヶ浜のように笑ってくれていたらいいと願う。
「……心地いいわ」
「うん……なんか……すっごく安心する……」
二人の熱い吐息を両の肩に感じながら、その言葉に心の中で同意する。見えずとも三人の手が輪となり繋がっているということが、不思議な安堵を与えてくれる。
ただその、僅かに身動ぎするだけでも乗っかった二人の身体が擦れ合って心地いいというか気持ちいいというか、どうしてもそういうものも頭をもたげてきてしまう。落ち着こうとして深く息を吸うと、それ自体が胸部腹部を膨らませてつまりそういうことになる。
安堵も心地よさも気持ちよさも全部真実だからこそ、ないまぜになって制御できなくなるというか。まあ、ぶっちゃけると。
「正直、寝られる気がしないんだが……」
「あー……あはは」
由比ヶ浜のはぐらかすような笑いが耳と密着した胸からダイレクトに伝わってくる。こんな状況で何も感じずスヤァ出来るほど達観もしてなければ枯れてもないわ……!
「別に、無理に眠る必要もないわ。したいことをしましょう。眠くなるまでおはなしして、眠くなったら眠ればいいの」
すぐ左から聞こえるその声自体が熱っぽく揺れている。
無理をするなという当人が無理をしているのがばればれで。右側からは押し殺した苦笑の気配が感じられた。
やわやわと、雪ノ下の手を握ってみる。俺の抱える安堵が伝わればいいと、そう思って。一瞬驚いたような硬直があったが、すぐに力を抜いておずおずと握り返してくれる。
由比ヶ浜にも、同じようにふにふにと握ってみる。この安らぎが輪になって巡ってほしいと、そう願って。
はぁ、と熱の塊のような吐息を右肩に感じ、きゅっ、きゅっ、と握り返してくれる。
しかしこいつらの手、本っ当にすべすべなんだよな。俺なんかが触れていいのかと思う反面、俺以外の誰にも触れてほしくないと剥き身の独占欲に塗れる度し難さ。
彼女たちはきっと、ずっと共にいた俺だからこそここまで触れることを許してくれている。だが俺に本当にそんな価値があるのかということを考えると、無思慮に肯んずることなんてとても出来ない。
ぎゅっ、と。両の手が握られる感触に、落ち込んでいた思考を引っ張り上げられる。
二人から、言葉はなかった。でも、握られた手はそれよりも雄弁で。
俺は手をそろそろと握り返す。二人もまた、ゆるゆると握り返してくれる。
お互いの体温を分け合い、安堵を巡らせ、愛おしさを育み。
そして……。
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12話
「……………………」
目を閉じたまま目を覚ます。すうっと意識だけが浮上して、夢も見ないほどに深く寝ていたことを自然に悟る。
寝てた。めっちゃ寝てた。
痺れる頭の奥がアホほど寝てたんだってことをガンガンに主張してる。
胸と肩にかかる嫋やかな体重が、繋がれた手の滑らかさが、脳髄を多幸感で満たす香りが、今もなお二人と繋がっていることを教えてくれていた。
天井を向いたまま、ゆっくりと音もなく瞼を開く。
「……あ。おはよ、ヒッキー」
「……起きたのね。おはよう、比企谷くん」
……薄暗がりの中、一切の気配を消して目を開けたのに何で即座に気付くんだよ。
「……ん、おはよう、由比ヶ浜、雪ノ下。……寝顔、見てたのか?」
「え? あ-、えっと……ごめんね?」
「……仕方ないじゃない。あなたが寝ているんだもの。雑談であまり声を立てるわけにもいかないし……」
「あ、あー……気遣ってくれたのか。いや、起こしてくれてもよかったし、先に起きててもよかったんだが……。見てて面白いもんじゃないだろ?」
「んーん。面白かった……とは違うかな。えっと……なんか、格好良かったっていうか……。見てて、全然飽きなかったよ」
「急かすつもりはないと言ったでしょう。まして、先に起き出すなんて論外よ。今日一日はずっと三人でいるもの。……それに、あなたの寝顔、二人で堪能させてもらったのだし」
真正面から寝顔を肯んぜられて面食らう。頬の火照りを自覚しながら二人の顔を見ると、喜悦の視線とぶつかった。
満足げな二人のそれに耐えかねて、俺の方が先に逸らしてしまう。
「……な、今何時だ?」
視線ついでに話も逸らして、起き抜けに思ったことを問うてみる。
「大体、八時くらいね」
「え、マジで?」
床に着いたのが確か四時くらいだろ? ろくに休息も取らなかったこの三日あまりのこともあって無茶苦茶に寝たような気がしたんだが、
「午後の」
「マジで!?」
全くもってその通りだった。十六時間ってお前……。こんな寝たのって人生初じゃないのか俺。寝られる気がしないとは何だったのか……。
「え、お前らその間ずっと俺の寝顔見てたの……?」
「ええ、そうね……。とは言っても、私も十四時間くらいは眠っていたのよね。一人起きて、二人の寝顔を眺めていたら由比ヶ浜さんが起きて……」
「あたしも十五時間くらい寝てたみたい。だって、すっごい安心するし、気持ちいいんだもん……。でね、ヒッキー起こさないようにちょっとだけゆきのんとお話しして、ヒッキーの寝顔見て、それでまたぽつりぽつりとお話しして……。そんな感じで幸せだったよ」
にへら、と無防備な笑顔を見せてくれる。寝起きなのも相俟って、その可愛さや愛おしさが普段よりも深いところに突き刺さる。
「でも、今日って日を殆ど寝て過ごしちまったのは……」
「何度でも言うわよ。私は、今日という日をあなたたちと過ごしたいの。片時も離れず共にいる今に、不満なんて欠片もないわ。過ぎた時間を悔やむより、残る時間を惜しむより、今はただ……」
「うん……あたしも、それがいいな……」
「そう、か。そうだな……」
気が抜けたように笑ってしまう。繋いだ右手が誘うように握られ、ワンテンポ遅れて左手も委ねるように握られる。宝物を愛でるように、俺も両の手を握り返す。あーもーこれ気持ちよすぎる。癖になったらどうするんだ。特に二人が嬉しそうに相好崩してるとこなんかほんと目の毒。
……いかん、起き抜けだからかちょっと思考が緩みすぎてる。ただでさえ、なのにもう全く思考の抑制が利いてねえ。
「……にしても、こんな寝たの比喩でも何でもなく人生初だわ。寝られる気がしない、だとかのたまった口で何言ってんだって話だが」
「……まあ、そう、かしらね。私もあんなことは言ったけれど、私自身お話すらする間もなく寝入ってしまうなんて、思ってもみなかったわ」
「ん……でも、わかる、かな。この二日間あんまり寝てなかったのもあるけど……だって、こんなにあったかい眠りって、あたし、初めてだもん。……もっとちっちゃいころ、ママと一緒に寝たときも、もしかしたらこんなだったのかなー……」
遠くを懐かしむようなふわふわとした由比ヶ浜のその言葉が、すとん、と腑に落ちた。思わず両手をぎゅっと握ってしまう。
……そうか。安らいで、いたからか。
衝動的に二人を抱きしめたくなってしまう。膨れ上がる愛おしさを掌にまで抑え込んで、深い吐息と繋ぎ合う両手で発散する。
「……なるほどね。確かに、あれほど安心できた寝床なんて、生まれてこの方なかったもの。……納得したわ」
雪ノ下がクスッと笑って、一度強く手を握る。
「……さ、それじゃそろそろ朝ご飯にしましょう」
そしてそれを最後にそっとそれをふりほどく。ずっと握っていた手が離れる瞬間には、不覚にも一抹の寂しさを覚えてしまった。寝乱れた様子もない布団の中で、俺と由比ヶ浜をするりと乗り越えベッドを降りる。
「……午後八時に、朝飯か」
「いいのよ。今日は、私たち三人の世界だもの。私たちが起きた時間が朝なのよ」
「はは、らしくねえな。なんだその無茶苦茶な理屈。そういうのは俺の領分だろ」
「でも、ゆきのんらしいよ」
ああ、それはそうだ。そんな無茶でも髪を掻き上げ不敵な笑顔で堂々と言ってみる様は、確かに間違いなく雪ノ下だ。喉奥で笑いながらそんなことを思う。
「ゆきのん、あたしにも手伝わせて」
その言葉を最後に、由比ヶ浜と繋がっていた手もほどかれる。布団に一人残されて、手前勝手な寂しさが同じ分だけ降り積もる。
「一緒に、三人の朝ご飯、作ろう」
「あー……俺は」
「いいわよ。どこにいても、どこを見ていても。どうする? 一人で私の部屋で待っている? それともリビングでまた後ろ姿を眺めている? 今度はパジャマのエプロンが見られるけれど」
そう言って雪ノ下は艶然と微笑む。それやめてくれって。俺に効き過ぎるから。っつーかやっぱ見てたのばればれだったのか……。ままままあばれてりゅのなんて分かってたから? ダメージなんかないしちょうよゆうだし? 雪ノ下のからかうような微笑みも由比ヶ浜の仕方ないなって感じの甘い苦笑も完全にノーダメージだからね? ただの致命傷って奴だ。
「えっと……その……」
だから何で二人ともちょっと期待したような表情浮かべてるのかとね。どんな答え望んでるんだよもしかしたら俺の願望と一致してるんじゃないかって思っちゃうだろうが。
「……リビングで、待機させていただいてもよろしかでしょうか」
その盗み見宣言を聞いた途端、二人の笑みが花開く。もうほんと、俺をこれ以上惚れさせてどうすんだよ。どうしようもねえぞ。
あ、駄目だ。今絶対顔真っ赤だって鏡見なくても分かる。掛け布団に顔を埋めて緊急避難。……息を吸ったら雪ノ下を強く感じて、ちょっとこれ更に二人に顔見せらんなくなったんだけど。ねえ。
「ご自由に。今日も、何処を見ていても不問とするわ」
「……今少し先に行っていただくことは出来ませんでしょうか」
「ふ……ふふ……分かったわ。由比ヶ浜さん、行きましょう」
「うん、行こっか。じゃあヒッキー、また後でね」
顔を埋めた布団の隙間からちらりと見れば、二人連れだって和気藹々と部屋を出て行く。それを見届けて顔を上げ、詰めていた息を解き放ち、深く吸う。先刻ほどに濃密ではないといえ、それでも雪ノ下が香るこの部屋はやはり胸の動悸を強くする。一晩寝てもなお慣れず麻痺せず脳に訴えかけてくるってどういうことなの。
だが、それが分かっていても、二人と一緒に出るわけにはいかない理由があったのだ。
「……ばれなくて、ほんと、よかった……」
布団を捲り上げる。そこにはパジャマを突き抜けんばかりにガン勃ちした男の象徴があった。二人の柔らかさと匂いに包まれて一晩眠り、朝の生理現象に加えて起き抜けにパジャマエプロンとか想像させられてなおこうなるな、ってのはもう自然現象に喧嘩売るようなものだろ。勝ち目ねえよ。
この部屋にいてるともう息吸って吐いてるだけでも興奮していく一方なので、音を立てないようにゆっくり扉を開けて廊下に出る。同じように静かに閉めた扉に背中を預け、ずるずる崩れ落ちながらそこでようやく深呼吸する。
完全に平常時に戻るまでってのはもう実質的に不可能だとしても、せめて見た目誤魔化せるくらいまでは落ち着けていくことにしよう……。
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13話
バスルームの洗面所でサパッと顔を洗ってから二人の待つキッチンに行く。万一彼女らが脱衣所にでもいたら洒落にならないので無論ノックは厳重にしましたとも。あれのそれはギリギリってところだけど、時間かけすぎて二人のパジャマエプロン見逃すという危機感には勝てなかったよ。
軽い音を立てて扉を開くと、朝食のいい香りが鼻腔を擽る。音に反応した二組の視線が俺を撫で、パジャマエプロンを見せつけるようにありがとうございます。ああ前屈みだよ悪いか。
夕べと同じソファーに腰掛け、しかし今度はテレビを点けることもせず全力で二人の姿を盗み見た。時折こちらを窺ってくる視線とかち合ってはそっと逸らし、でもまたすぐに目線を戻して後ろ姿を堪能する。いいじゃん二人も俺の寝顔見てたらしいし……。しかし何つーか、破壊力が絶大すぎてやばい。パジャマ姿だけでも普通なら男子禁制もいいところなのに、更にエプロンを着けた姿が見られる状況に至れる関係性とか、そんな油断してる感じを見せてくれる程に心を許してくれてることへの歓喜とか、そういう視覚以外のブーストがアホほどかかってて見れば見るほど魂が惹かれていく始末。やばい。
雪ノ下の濡れ羽色の御髪の隙間からくれる一瞥が、分かってやってるんじゃないかってくらい様になってる。見返り美人図が人気の題材になるっていうのも今の雪ノ下を見れば納得の一語だ。佇まいそのものがもう完成した芸術品と言って全く過言じゃない。その柳腰を後ろから思い切り抱きしめて、隙間もないほどに密着できればどれだけ心が満たされることだろう。
由比ヶ浜も由比ヶ浜で、嬉しそうに折々こちらを窺ってくるその仕草が圧倒的なまでの新妻感を醸し出していて心臓に大変よろしくない。雪ノ下のように器用に覗き見てくるわけじゃないから上半身ごとこっちを向くのだが、一瞬由比ヶ浜と目が合った後にそっと逸らす方向がエプロンを押し上げる大きな膨らみであるという俺の残念さ。だというのにその度恥ずかしそうに微笑むだけで、咎めもせず料理に戻る由比ヶ浜が俺に甘すぎる。恥じらう彼女を真正面からかき抱いて、お互いの身体を擦り付け合えたらどれほど心が安らぐだろうか。
そんな二人が睦まやかに三人で食べる朝ご飯を作ってくれているという至福。微笑みを交わし合うあの二人の瑞々しい紅に口付けられたら、それだけで絶頂してしまいかねない。
「出来たわ」
見惚れて見蕩れて惚けていたら、いつの間にか料理の完成が告知されていた。ちょっと今日は時間が経つのが早すぎるな。
雪ノ下が平皿に高級レストランで見かけるような銀のカバーを被せてテーブルに持ってくる。料理を隠す銀色の金属を取り除くと、ふわりと空腹を促す香りが広がった。
「お……パエリアか」
「ええ。海鮮のね」
そう言った雪ノ下の含みある笑顔を見て、共有する記憶が蘇ってきた。……となると、その後ろで緊張気味に同じものを携えた由比ヶ浜の皿の中身は。
「和風ハンバーグ……か?」
「あ、うん。よく分かったねヒッキー」
由比ヶ浜が驚いて、答え合わせに銀色の覆い……思い出した、あの後調べたらクロッシュって名前だったっけ……を取り払う。そこにはいつかのような火山のごとき木炭の残骸はなく、ただただ美味しそうなハンバーグが鎮座していた。
「ん……まあ、な」
じんわりと嬉しそうな由比ヶ浜から目を逸らして、模糊とした返事をする。
「嫁度対決の時のだろ? そりゃ、あのときの被害者俺だしな。忘れねーよ」
「あ、ひっどーい!」
軽く混ぜっ返すと、由比ヶ浜もぷんすかと乗ってくる。アレは食べてはならない味がしたからな……。
しかし嫁度対決か。懐かしい。つーか由比ヶ浜から料理のマイナススキル取っ払ったらもう最強過ぎるだろ。優しいわ可愛いわ気が利くわ優しいわ、もう絶対泣かせたくないし苦労させたくないから死ぬ気で働かざるを得ない。専業主夫とかいう戯言もう冗談でも言えねえよ。
雪ノ下も無敵過ぎるけど、雪ノ下の場合普通に俺より稼ぎそうなんだよな。絶対に泣かせたくないのは同じだが、どうするかは雪ノ下の希望と摺り合わせるのがいいだろうか。そして当たり前のように二人の旦那役に自分を配置して考えてたことに気付いて受ける衝撃。いやそりゃ俺以外の誰かを宛がって考えるとか想像の中だけでもその相手を縊り殺したくなるけど……だからって……なあ?
「でも」
「ん?」
ふと、由比ヶ浜が真顔に戻ってハンバーグの皿を俺に差し出す。
「今度は、ちゃんと美味しいよ」
「…………おう」
受け取って、パエリアの隣に並べる。朝から実に豪勢なことだ。午後八時過ぎてるけど。雪ノ下と由比ヶ浜もそれぞれ自分たちの分を持ってきてテーブルに並べる。俺のに比べて分量は控えめ。むしろ俺のが増量と言うべきかもしれん。
「じゃあ」
「うん」
「ええ」
そうして席に着き、いただきますをして湯気を立てるパエリアとハンバーグを食べた。雪ノ下のパエリアはあのときと変わらず最高に旨かったし、由比ヶ浜のハンバーグはあのときとは違って最高に旨かった。
そわそわした由比ヶ浜にそれを伝えるのには、少しばかり時間と気力が必要だったけど。破顔一笑した由比ヶ浜を見てしまっては、それ以上捻くれた言葉を募らせることも出来なかった。
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14話
歓談しながらゆっくりたっぷりご飯を食べて、気付いてみればもう十時を回っていた。
「なあ雪ノ下、お前んちの時間の進み方ちょっとおかしくない? ここ竜宮城なの?」
もう何するにしても恐ろしいほど時間経つのが早いんだけど。
「『可愛い女の子と一時間一緒にいると、一分しか経っていないように思える。熱いストーブの上に一分座らせられたら、どんな一時間よりも長いはずだ。相対性とはそれである。』……アインシュタインに倣うなら、比企谷くんにとって私たちは可愛い女の子なのかしら?」
「……こんなに短い二十四時間は生まれて初めてだ」
自分から振った以上、躱すことも難しかろう。軽い溜息を吐き、諦めて白状する。半日以上寝っぱなしだったことを差っ引いてなお矢の如き光陰だ。
「まさしく時よ止まれ、だ。これだと魂持ってかれちまうか?」
……うわあ。雪ノ下の諧謔に合わせてつい口が滑ったけど、もうこれ後悔しかねえわ。俺が言っていい台詞じゃねえよなんだこの気障。今間違いなく引きつった笑み浮かべてる。
「私たちは美しい? ふふっ……嬉しいわ」
人生で最も素晴らしい瞬間に時間が止まってくれれば、という惰弱な本音は汲み取られなかったのか、ファウストの方にだけ雪ノ下は反応してくれた。……いや、こっちはこっちで恥ずいけど。由比ヶ浜の方はよく分かってないのか、なんか上の空な様子。小さい声で、口遊んでるのか? これは?
「助けたサブレに連れられて-、竜宮城に来てみればー。じゃあヒッキーが浦島太郎だ。ね、ヒッキー。どっちが乙姫様?」
かと思ったら、なんか歌い出した。もしかしてその歌思い出そうとしてたの? そして何かを期待したような眼差しで問うてくる。もうこれ俺がどう答えるかとか完全に分かってるじゃん。やめようよそういうの。
「……言うまでもなくね?」
「ヒッキーがどう思ってるか聞きたいなー」
「そうね。私も聞きたいわね。比企谷くんの口から」
由比ヶ浜と同じような笑みを浮かべて、雪ノ下まで乗っかってくる。逃げ場がねえ。
「…………どっちもだよ。乙姫様二人の歓待だ。そりゃ浦島太郎も骨抜きにされる」
由比ヶ浜は満足げに息を漏らし、雪ノ下は嬉しそうに目を細める。ほんと、絵にも描けない美しさ、だ。
ふと、由比ヶ浜が何かを考えるように俯いた。
「……浦島太郎が帰るなんて言わなかったらさ、竜宮城でずっと楽しく暮らせたのかな」
「……それじゃ、御伽噺になんねーだろ」
「うん……そうだね」
上げた顔は少しだけ寂しそうに笑っていて。
「……年老いた母親が帰りを待っていたから。いつまでも居続けることは出来なかったんだろ」
どうしてもどんな顔をさせたくないと思ってしまうのは、俺の甘さなのだろうか。
「ああ……浦島太郎ってそんな話なんだ。いじめられてる亀とか、竜宮城とか、玉手箱とか、そんなのしか知らなかったな」
「……外に出たら数百年が経っていて。待っているはずの母親は唐突な息子の失踪から孤独死。当人も誰も知る人の居ない世界で絶望し、開けてはいけないと言われて持たされた玉手箱で年老いてしまう。そうして鶴になって天に昇る。……亀を助けて行き着く先がこれだもの。救われない話よね」
そう言って、一つ溜息を吐く。ああ、霊界探偵の出てくる漫画でもそんなこと言ってる奴居たな。開けちゃいけない玉手箱を何故よこした、亀を助けた結果がこの仕打ちかとな。御伽噺ってそういうとこあるよな。
「外に出たら数百年、か……。ね、もしもあたしたちの今日が終わって、明日になったら外では数百年、とか経ってたらどうしよっか」
……それは。
「家に帰っても、学校に行っても、みんな知らない人。あたしたちの知ってる人も、あたしたちを知ってる人も、誰も居ないの。残ってるのは、あたしたち三人だけで」
それは。由比ヶ浜の言う『もしも』は。明日が変わらぬ明日であっても。俺たちが、俺たち三人を知る人が居ないどこかに逃げてしまえば、きっと成立することで。
「そしたら、あたしたちはさ、三人で一緒に暮らしてくの。知らない間に変わっちゃった世界で、知らない人たちの中で、三人で力を合わせて生きてくの」
由比ヶ浜の頬と話が徐々に熱を帯びていく。ああ、目に浮かぶようだ。本当にそんなことになったのなら、俺は絶対にこの二人を手放そうとはしないだろう。何があっても、何に替えても、この二人を傷つける何もかもから守り通そうとするはずだ。
浦島太郎も、もし乙姫様と共に帰れたならば玉手箱を開けることはなかったのかもしれない。
けれど。
「由比ヶ浜」
その勇み足は、止めねばならない。
「あ……」
冷や水を浴びせられ、由比ヶ浜は言葉を詰まらせる。
俺たちは雪ノ下の誕生日を祝う以外にもう一つ、劣らず重要な目的を持ってここに居る。
決着を、付けなければならない。俺たちの、この関係に。
「……ごめんね。ゆきのん」
「…………それは、とっても素敵ね」
雪ノ下は閉じていた目をゆっくり開くと、ぞっとするほど美しい、儚くも完璧な微笑を湛えてそう言った。
「どうして謝るの? 素敵なお話だったのに」
「……それは、だって」
由比ヶ浜が言葉に詰まる。決着を意識すればこそ、この御伽噺には余計に心惹かれてしまう。けれど、それは麻薬だ。三人で居ることが出来なくなったそのとき、禁断症状はきっと手酷く俺たちを苦しめる。
「ねえ……そのお話は、めでたしめでたし、で終われるのかしら?」
「…………うん。きっと、そうだよ」
ビスクドールじみた笑みを浮かべる雪ノ下の問いかけに、幾許かの静寂を挟んで由比ヶ浜が返す。そのしじまの中で、透明な笑顔を湛えた由比ヶ浜は何を思ったのだろうか。
その応答を最後に、俺たちの間に沈黙の帳が降りた。誰も何も喋らない。
雪ノ下は瞼を閉じて、満足そうな、穏やかな笑みを浮かべている。閉ざした瞼の裏に、彼女は何を映しているのだろうか。由比ヶ浜は俯き加減に俺と雪ノ下の狭間に視線をやってはいるものの、何を見ているのかそれとも何も見てはいないのか、透明な笑顔を湛え続けたままに遠い目をしている。そんな二人を窺いながらも、俺自身虚ろな目をしているだろう自覚はあった。三人で抱き合うように生きていく未来。雪のように儚い御伽噺。泡沫の夢幻。あり得たかもしれない俺たちの行く末を脳裏に描いて。
誰も何も喋らない。誰も何も喋らない。
それでも、今ここで俺たち三人が思い描いている形は大きくずれてはいないのではないかと、そうであればいいのにと、そんなことを思った。
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15話
ふと、雪ノ下が閉じていた目を音もなく開く。呼応して、俺も由比ヶ浜も雪ノ下に顔を向ける。……由比ヶ浜、ちゃんと見えてたのな。
雪ノ下はゆるりと俺たちを見渡して、口を開いた。
「もうすぐ、終わるわね……」
その言葉に、自然と視線が時計に向く。せっかちな時計は、足早に最後の一時間を踏み越えようとしていた。
今日が、終わる。雪ノ下の誕生日が。
「……ねえ、比企谷くん。最後の前に、少し時間を貰えないかしら」
「ん……。そりゃ勿論構わねーけど、どうした?」
「その……出来れば、汗を流しておきたいの。きっと、由比ヶ浜さんも……」
雪ノ下の視線と言葉が由比ヶ浜を向く。それにつられて俺のも向けると、由比ヶ浜は自分の身を片腕で抱き、少しだけ頬を赤くして頷いた。
「私たちも女の子だもの。人生で一番大切なときには、身綺麗にしていたいと思うわ」
「……ああ、そうか。さすがにパジャマのままじゃあな」
よく似合ってはいるけれど。まあそもそも何着たって似合うような奴らだしな。つーか俺もお揃いのパジャマを着て、共にした寝所で一緒に汗をかいてるんだけど……自分で考えといてアレだが、この言い回し他人に聞かれたら十割誤解しか産まねえな……。
「……そうね。察しても口に出さないでいてくれれば及第点だったのだけれど」
なんか雪ノ下も少しだけ頬を染めている。ついでに軽くにらみつけられた。え、パジャマって恥ずかしいの? 休みの日とか日がな一日パジャマのままでいたりすることあるよね? ああ、だからそういう日の小町の目が厳しかったのか。
「そういう気遣い俺に期待してくれるな。分かってんだろ」
「ええ、十分に分かってるわ。私も由比ヶ浜さんも」
「あはは……。まあ、ヒッキーだしね」
理解の深いお二人に涙が出そうですよ。デリカシーって何? 食えんの?
「……うん、でも、ヒッキーだから。女心分かんなくても、いいところいっぱいあるってこともあたしたちは知ってるよ」
「そうね。赤点だからどうしろ、というつもりもないのだし。……まあ、数学のように頭から捨てられてしまうとさすがに困るけれど」
……その理解と許容に、頬が染まった自覚はある。些か買い被りではないかとは思うが、他ならぬ彼女たちの評価がそうであることに、抑えきれない喜びが熱と共に込み上がってくる。
「……過大評価じゃ」
「ないよ」
照れ隠し半分の茶々を入れ終える前に、語末をきっぱりと打ち落とされた。
気恥ずかしさに逸らしていた目線を思わず戻すと、微笑みながらも真剣な目をした由比ヶ浜と目が合った。その視線の強さに、我とは無しに気圧される。
「むしろあなた自身の過小評価を自覚しなさい」
二人の断言に二の句が継げない。彼女たちの凜とした態度や真摯な視線が、短い言葉を万言よりも雄弁にしている。
二人が俺の言葉を待っている。だが、上手い言葉が見つからず、結局。
「…………そう、か」
そんな風に、曖昧な返事で有耶無耶にするように答えてしまう。
「うん、そうだ」
「ええ、そうよ」
それでも嬉しそうに肯定を重ねてくる彼女たちに、また一つ募らせるものが増える結果となったのだった。
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16話
「それで、比企谷くんはどうするの?」
「どうって……ああ、風呂か」
そうだな。二人がこのままで良ければ俺もそれで良かったけど、さすがに一人だけパジャマというのはよろしくない。
男の子だって、人生で一番大切なときくらいは身綺麗にしたいものだ。
「俺も入りたい……が、ちょっとわがまま聞いちゃくれんか?」
「どういうこと?」
「いや……先に入らせて貰えないでしょうか、という」
昨夜というか今朝というか、寝る前のシャワータイムでの経験則が彼女たちの後に入るとやばいよ! って警鐘を鳴らしてる。そりゃもうガンガンに。
「それは構わないけれど……どうして?」
だよね聞くよね意味分かんないもんね。……言いたくねえなあ。
「あー……その、だな……。お前らの後、に風呂入るの……その、落ち着かねえ……んだわ」
絞り出した言葉を聞いて、二人の頬が朱に染まる。
「そ……そう。分かったわ。それなら、お先にどうぞ」
由比ヶ浜もこくこくと同意の頷きを送っている。……だから言いたくなかったんだよ畜生。こいつらで昂ぶってたの完全にばれちまったじゃねえか。
「お、おう……。悪いな」
彼女たちの顔を見ないようにして、のっそりと立ち上がる。何故って見たら俺の顔がもっと赤くなるからだよ。ほら二人が顔赤くしてること考えただけでまた頭が熱くなった。熱暴走でも起こしそうだ。
二人からの眼差しを背中に受けながら、俺はリビングのドアを潜っていった。
脱衣所の扉を潜り、雪ノ下の選んだパジャマを脱いで、洗濯機の蓋に手をかけたところで硬直し、思い直して脱衣かごに放り込む。放り込んだはいいけどやっぱり気になって取り出して畳んで入れ直し、幾分緊張気味に曇りガラスの折り戸を開く。
果たして中の空気は乾いており、前回のように暴力的なまでの甘い香りに包まれて沈静に全てを費やすような真似はしなくて済みそうだった。
しかし考えてみれば雪ノ下のバスルームでシャワーを浴びるという状況だけをとっても十分に本能を刺激するものなのに、感覚の方も今日一日で随分狂ったものだと思う。そんでそういうこと考えなくて済むように先に風呂譲って貰ったのに何で俺は自爆してるんでしょうね? 馬鹿なの? 馬鹿だね。
全く、この場所は考え事をするのに向かなくて困る。前回の焼き直しのようにシャワーを全開にして頭から打たれ、長大息一つ。一度浮かんだ思考に引っ張られて、誰より魅力的な彼女たちを自然に辿ってしまう思考を堰き止める。
決着が、近いのだ。
余事、などとは口が裂けても言えないどころかむしろ彼女たちこそ事の核だが、その色香に惑ってる場合ではない。……それが分かればスパッと切り分けられるってんならミニマム滝行もどきなんぞする必要はないんだがな。理性の化け物なんぞとっくに彼女たちに討ち滅ぼされて屍を晒しとるわ。
二人が笑顔で俺を呼ぶだけで内心浮つく今の俺に。
「ヒッキー?」
「っ!?」
空想と現実が一瞬地続きになり、現実への対応がその分遅れる。何で由比ヶ浜が!?
とっさに振り向こうとする意識に身体がついて行かず、バランス崩して椅子から転げ落ちそうになるも危ういところでタイルに手をついて転倒を免れる。
今の間抜けな姿由比ヶ浜に見られたら舌噛んで死ねるな。曇りガラス様々だ。
「ゆきのんがヒッキーの服、アイロンかけてくれたからここ置いとくね?」
「あ、ああ……」
めっちゃびびった……。今考えてたことが全部吹っ飛んだわ……。いや何一つ進展してなくて袋小路でぐるんぐるん迷走してただけだけど……。
しかし昨日、もとい今日、ずっと一緒に居たのに一体どのタイミングで洗濯とかしてたんだ? 雪ノ下の処理能力改めて半端ねえな……。こっそりブラウニーでも飼い慣らしてたりしないか?
「はぁ……」
一旦途切れた思考があらぬ方向に伸び始めたのを溜息で押し流す。
汗も流せたし、もう上がろうか。さっきかいた冷汗と脂汗だけ、改めて流してから。
× × ×
着る段になって、雪ノ下がアイロンかけてくれたって事実に言葉にし難い滾りを感じてしまう。一つ深呼吸を挟んでそれを祓い、リビングまで戻った。
二人は肩寄せ合って、極めて和やかに語らっていた。平穏を絵に描いたような彼女たちの視線を受けると、やはり頬が緩む。
「お待たせ」
「んーん。全然」
にこっと笑って返してくれる由比ヶ浜は立ち上がり、雪ノ下に手を差し出す。
その手を受けて雪ノ下も立ち上がり、そのまま俺に視線を送ってきた。そういやアイロンはもう片付けたみたいだな。
「比企谷くんは先に私の部屋に行っていて。最後は、そこで迎えたいから」
「おう……って、え?」
「行きましょう、由比ヶ浜さん」
「うん。ヒッキー、また後で」
予想を外れた言葉に硬直していると、彼女たちは連れだってリビングを出てしまう。
「雪ノ下の……部屋?」
俺一人で?
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17話
一度寝て起きたからとそれで雪ノ下の私室に慣れるはずもなく。あの時は雪ノ下も由比ヶ浜もいたからこそ興奮に比肩するだけの安らぎも感じられたし、一人になった後は朝落ち着くのにも部屋の外に出てたし。つまり何が言いたいかというと。
「……落ち着かん」
部屋に来たはいいものの、身の置き所がなくて困る。雪ノ下が普段使っているだろう勉強机の椅子に勝手に座っていいものか。さりとて床に直接座るのもどうかと思うし、ベッドなんぞ論外だ。いっそ部屋の外で待つかとも考えたが、先に部屋に行っててと言われた以上それもいかがなものかという話だ。あれだけ固く抱き合っといて何を今更と思うかい? 男子高校生の自意識舐めんな。
……ええい、もういい。椅子に座って待っていよう。きっとこれが本当に最後の執行猶予。やれることをやらずに後悔はしたくない。
そうして俺は思考に耽る。考えるのは雪ノ下と由比ヶ浜のこと。二人のこと。彼女たちのこと。そして、俺のこと。二人と一人。三人の関係性。これまでの。これからの。何より誰より大切な人たち。手に入れるのが恐ろしいとさえ思っていた、かけがえのないもの。手にしてしまえば、なくすことはもはや恐ろしいなんて言葉などでは到底言い表せない苦悩の嵐。
深く深く思考を没入させていく。頭の中を雪ノ下と由比ヶ浜で埋め尽くす。彼女たちの笑顔が、二人の泣き顔が、怒った顔が、嬉しそうな顔が。この二年間で見てきた雪ノ下が、由比ヶ浜が、止め処なく脳裏に浮かんでくる。知らず溜息が出て、口元を手で覆うと頬が濡れていることに気付く。どうしても、決着を付けなければ駄目だろうか。そんな言葉が頭の片隅から沸いてくる。分かっている、自覚している、理解している。弱音だ。
俺たちの三角関係は、外からの阻害妨害攻撃などには完璧なまでの盤石さを持っていると言ってもいい。少なくない時間をかけて、この奇跡のような関係を築き上げた。反面、その内側の挙動には酷く脆い。誰かが一歩踏み出せば、蟻の一穴。それを引き金として、何もかもが連鎖して瓦解しかねない危うさを含んでいる。
二年前の俺なら、そんなものは欺瞞だと容易く切り捨てていただろう。
一年前の俺なら、判断に迷い口を噤んでいたに違いない。
そして今の俺は、そんなものよりこの二人のほうが大切だと断言する。
俺は変わったのだろう。この二人に、変えられたのだろう。人は簡単には変わらない。その持論は今でも捨てていない。だが、彼女たちとの二年間は、決して平坦なものなどではなかった。
そして、それを今はこの上なく心地よいと思っている。
「…………ぃやだ……」
びくんと身体が跳ねる。今の声がどこから聞こえたのかと一瞬目を走らせるが、当たり前のように部屋には俺一人。つまり俺の口からこぼれた言葉ということか、そうでなければ幻聴だ。
身体に震えが走る。嫌だ。雪ノ下とも、由比ヶ浜とも、離れたくなんてない。嫌だ。視界が滲んだことで涙が出てきたと分かった。寒くもないのに我が身を抱いて、震えを押しとどめようとする。どうしても、決着を付けなければ駄目だろうか。その言の葉が口からこぼれ落ちそうになる。歯を食いしばって、腹の底に飲み下す。俯いた視界は歪み、ぼやけた椅子の天板に黒い染みが点々と増えていく。嫌だ。それでも決着は付けなければならない。雪ノ下が望んだのだから。決着を、望んだのだから。涙も震えも止まらない。今日一日で刻みつけられた幸いが、行く末で失う幸福と同量のものであると心身で理解させられてしまっている。無様に泣き喚きそうになる。嫌だ。嫌だ。絶対に嫌だと心が暴れ狂っている。泣き言が悲鳴となって今にも口をつかんばかりだ。
それでも、決着を、付けなければならない。
目を閉じて、甘える心を捕まえては磨り潰し、殺していく。そういう作業は得意だったはずだ。
嫌だ、としても。それをしなければならないのだから。
抵抗する意志を片っ端から粉微塵に変えていく。
壊していく。
根こそぎ。
全てを。
…………震えは止まった。きっともう、大丈夫だ。目を開けばクリアな視界。涙も止まった。
頬に残った涙を拭って、最後に一つ、深呼吸。さあ、雪ノ下と由比ヶ浜が上がってくるまで、別解探しを続けようか。
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18話
硬質な音が三度響き、没頭していた思考が現実に引き戻される。俺がいるからってあいつ自分の部屋に入るのにもノックするのか。律儀な奴だ。
「雪ノ下」
「入るわね」
許諾の代わりに彼女の名を呼ぶと、立て付けのいい木製の扉は殆ど音を立てることなく滑らかに開き、その向こうにいた二人の女の子の姿を露わにする。湯上がりで火照った肌に昨日着ていた服を纏い、何故か二人とも目を逸らしながら入ってくる。
「お待たせ」
「いいや。全然」
首を横に振って答えるが、由比ヶ浜は掠れる声でうんと言ってはシュシュでまとめたお団子を弄ってるし、雪ノ下もお待たせと言ったきり、手持ちぶさたに髪に巻き付けたシュシュを弄んでは所在なげに佇んでいる。
何だろう。どうにも二人の態度がぎこちない。
「どうかしたか?」
「いえ……どう、したというわけでもないのだけれど……」
「うん……なんか、ヒッキーの言ってたこと、分かっちゃった、っていうか……」
俺の言ったことって何だ? と一瞬惑うも、俺が先に風呂に入るに至った経緯が即座に思い起こされて頭が熱でショートする。
「え……あ……そ、そうか……」
「う、うん……」
え、何? この二人がこうなってるのって俺のせいなの? そのほっぺたとか赤くなってるのって風呂上がりだからじゃなかったの?
その後どうすんだこれって感じの沈黙が流れて二人の顔が直視できない。由比ヶ浜も似たり寄ったりな具合で、時折お互い窺う視線がかち合ってまた思いっきり逸らしてしまったりする。片や雪ノ下の方は、頬を染めたままずっと俯いてしまっている。
戸惑いと羞恥が支配する場を、雪ノ下の咳払いが禊ぐ。自然、俺も由比ヶ浜も雪ノ下に注目する。
「仕切り直しましょう」
そう言って、先刻の事実なんてなかったとでも主張するかのような凜とした表情でまっすぐに俺を見る。ほっぺたまだ赤いけど。
「お待たせ」
ああ、そこからやり直すのか。
「いいや。全然」
俺もまだ赤いと思うけど、乗っかっておく。由比ヶ浜も頬を赤らめたまま、にこっと笑いかけてくる。その行為がまた俺を昂ぶらせるって分かっててやってるんでしょうかこの子。
しかし、改めて思う。本当に、どうしようもなく、極めて歪な関係性だと。こんなささやかな事であっても……いや主観的には全く些細じゃないんだが。痕が残るほどに強く抱き合い、同じ布団で重なり合いながら眠りに就いた俺たちなのに、自分が異性として見られていると感じることが、こんなにも心を揺さぶってくる。ある意味で、これも俺たちの二年間のツケなのだろうか。
俺の返事を受けて、雪ノ下は音もなくこちらに歩いてくる。椅子から立ち上がって場所を空けると、雪ノ下は机の置き時計を手に取って、弄びながら口を開いた。
「あなたたち、時間の分かるものは持っている?」
「スマホくらいだが」
っていうか持ち込んだ私物がスマホと財布くらいしかねえ。
「あたしもそれくらいかな」
「そう……じゃあ、電源を切ってもらっていいかしら」
「そんなもん、ここに来たときから切ってるわ」
「うん……あたしも」
絶対に誰にも邪魔はさせないと。そう言った彼女の表情は今でも鮮烈に焼き付いている。
「ふふ……ありがとう。嬉しいわ」
柔らかな笑みが耳をくすぐる。
「私も、同じ。それに、比企谷くんがここに来て三人揃った時点で、インターフォンの電源も切ってある」
それは、断じて余人の干渉を排除する決意。
「誰にも、何にも、邪魔はさせない。そして……」
繊細な手つきで、音も立てずに雪ノ下が時計の電池を取り外す。
「今、この部屋の時間を止めたわ。これで、決着が着くまで、今日は終わらない」
その時計は、十一時五十分で針の動きを止めていた。
「良かったわね比企谷くん。祈りが通じて」
止めるタイミングが違いません? まあ確かファウストもこれ言ったタイミングって人生懸けた壮大な皮肉みたいな状況だったけどさあ。小さく溜息を吐いて返事とする。
確かファウストが祈った相手は悪魔だったと思ったが、さて今し方時を止めた雪ノ下はどんな配役になるのやら。
そういえば、今のレトリック由比ヶ浜には理解できたんだろうか。ふと気になって彼女を見るが、存外に真剣な目つきで針の止まった時計を注視していた。枝葉が分からずとも勘所は間違いなく掴んでいるのは、なるほど実に由比ヶ浜らしい。
そこで、ああ、そうか、と。由比ヶ浜のその目を見て改めて気付かされた。
雪ノ下を見る。微笑みながらも、俺たちを見返す目はとても真摯で。
最後の時が来たのだ。決着を付けるべき時が。
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19話
雪ノ下は俺たちから視線を外し、動かなくなった時計と取り出した電池を音も立てずに机に置く。静かに部屋を暖める暖房の音だけが響くこの部屋は、まるで物理的にも外界から隔離されてしまったかのようだ。
間接照明に照らされた雪ノ下の部屋の真ん中で、俺たちは正三角形を描くように向かい合う。
「忘れ物は、ない?」
雪ノ下が口火を切った。その問いかけが何を指しているかは明らかで。俺も由比ヶ浜も一瞬だけ視線を交わし合うと、苦笑する。
「悪いが、持ち合わせがなくてな」
大げさにならない程度に肩を竦めて答える。元日に一度だけ雪ノ下から送られたメール。唯一持ってくるように願われたもの。
「俺の中のどこ探しても見つかりゃしなかった。……お前らとのことで取り返しがつかなくなったら、後悔しないことはできねえよ」
「……あたしも、かな」
由比ヶ浜も胸に右手を当てて、控えめな同意を示す。
俺たちは近付きすぎた。さして長いとは言えないこれまでの人生の中で、これから先どれだけ生きても決して更新されることはないだろうと確信できるほどに、近付きすぎた。
後悔しない覚悟なんて、持てるはずが、ない。
それでも。どれだけその先が恐ろしくとも、決着を付けなければならないのだ。
「そう……」
雪ノ下は目を閉じて振り仰ぐ。その表情は透明で、何を思っているかは分からない。
ふと思う。雪ノ下自身は、その覚悟を固めることが出来たのだろうか。
……詮無いことか。首を振ってその思考を打ち切る。
この終わりは、雪ノ下自身が始めたことだ。なればこそ、今更疑うことはすまい。
「それなら、改めて。今日、この日に私たちの決着を付ける」
「……ああ」
「…………」
雪ノ下は真摯な微笑で言葉を綴る。由比ヶ浜は縋るような、泣き出しそうな、張り詰めた複雑な表情を浮かべている。
「……それで、いいかしら?」
肺がうまく膨らまない。それでも時間をかけて息を吸い、絞り出すように言葉を吐き出す。
「…………構わん」
たったこれだけの単語が、酷く酷く重かった。
「…………あたしはっ!」
由比ヶ浜の激発に、二人分の視線が彼女を向く。
ダメだ、由比ヶ浜。気持ちは痛いほど分かる。本音をそのまま言ってしまうなら、俺も恐ろしくてたまらない。それでも。
雪ノ下が、望んだのだ。嘘偽りのない決着を。全ての欺瞞を排して。
「三人で、ずっと……」
由比ヶ浜の言葉が尻すぼみに消えていく。見開いた眼の視線を追えば、雪ノ下。何もかもを忘れて見惚れてしまうほどに、儚くも美しい、完璧な笑顔を浮かべていた。
溶かされるように彼女の言葉と激情は和らぎ均され、後に残るのは戸惑い。そしてそれが残っていたのも、区切るように由比ヶ浜が目を閉じるまでの僅かな間。
少しばかりの時間をかけて目を開いた由比ヶ浜は、見蕩れるほどに凜としていた。
「……ごめん。迷ってた」
「由比ヶ浜さん?」
「もう、大丈夫。……あたしから、言うね」
そう言って、由比ヶ浜はちょっとだけ苦笑する。
「多分、一番バレバレだろうし」
……バレバレ、か。
それを勘違いではないと思うようになったのは、いつからだっただろうか。
そう気付くと共に、自分のそれまでの行動がどれほどに酷いものだったかも、自ずから察せてしまった。
なお罪深いことに、そう気付いてからも俺は彼女の強さに甘え続けた。三人でいるために。
……刺し殺されても文句言えねーやな。なんだこのクズ男。
「ヒッキー。……いいかな」
そう言って、由比ヶ浜は一歩前に出る。俺の目だけを真っ直ぐに見詰めて。その視線に篭もる想いの熱量に、身体の芯まで灼かれそうだ。
「……ああ。頼む。お前の心の裡を、聞かせてくれ」
そして、由比ヶ浜の告白が始まった。
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20話
「ふぅ……。あ、はは……まだ始めてもいないのに、プレッシャーすごいや……」
そう口にする由比ヶ浜の拳は小さく震えていた。
「いろいろ、あたしなりに考えてきたはずなんだけどね。なんか、飛んじゃったよ」
たははと笑って、お団子をくしくしと弄ぶ。固い笑みが少し青ざめて見えるのは、まちがっても湯冷めなんかじゃないだろう。
「由比ヶ浜さん」
「あ……」
雪ノ下がそっと由比ヶ浜に寄り添い、その手を握る。
思わぬ雪ノ下のその行為に、由比ヶ浜は少し目を見開いた。
「いつも私があなたに勇気を貰っているばかりなのだから……。こんな時くらい、返させて」
「……ありがと、ゆきのん」
由比ヶ浜がその手を握り返す。強ばった笑みが和らぎ、震えも止まったようだ。
「うん……そうだね、最初っから、話そっか」
「ええ……好きなように。それを止める人はいないわ」
全てが終わるまで、と小さく付け加え。それに苦笑を向ける由比ヶ浜は、一つ深く息を吐いて話し始める。
「最初……最初、かぁ……。あたしたちの本当の最初ってさ。あたしがヒッキーを一方的に知っただけだったんだよね。ゆきのんは車だったし、ヒッキーは……それどころじゃなかったし」
俺たちの本当の最初。入学式の日。雪ノ下を送るハイヤーに由比ヶ浜の飼い犬が轢かれかけ、代わりに俺がぶつかった時。
あんときゃただひたすらに痛かったからな。見知らぬ女子のことなんざ気にしている余裕は一切なかった。
「あの時ね……。あたし、ヒッキーがヒーローに見えたんだよ。知らない人の飼ってる犬を、身体を張って助ける男の子。あたしのせいで、とか。ごめんなさいって気持ちもあったんだけど、それといっしょにとってもかっこいい人だと思ったの」
「いや、俺はそんな」
「うん、全然そんなことなかった」
ちょっとガハマさん? 事実ではあるけどその上げて落とすのはえぐいんと違います?
「直接ごめんなさいとありがとうしようって思ってたんだけど、心の準備とか、今はまだとか、また今度とか、そういう事思ってると中々行けなくって……。一回だけえいやって行けたときはヒッキーいなくて、小町ちゃんにお菓子渡すだけになっちゃったんだよね」
あの野郎俺宛のお菓子勝手に食った上に俺に対する報告一切無しだったからな。幾ら妹でもさすがにあれはギルティ。
「それでますます行けなくなっちゃって、じゃあ学校に来たらその時こそって心に決めて、でもヒッキーってヒッキーじゃん? ずっと一人でいて、休み時間とか突っ伏して寝てる他のクラスの男の子って話しかけにくくって……。ああ、あたしのせいで学校始まってから友達作る時間なくなっちゃったんだ……って思うと余計にさ……」
「いやまあ俺だし、仮にあの事故なくても友達作れたとは思えねえけどな……」
確かに当時は新しい高校生活に希望を抱いてもいたのだろう。だから朝早く出かけたりしたんだし。しかし今振り返ってみれば、無事学校まで辿り着けたとてそれで何が出来たかっつー話だ。そこら辺にいる他人に話しかけて帰りがけ遊びに誘無理だわうん。
それに……。今、振り返ってみれば。この二人とここまで親しくなれた道程に、後悔なんて、あるわけ、ない。
「それあたしには分かんないことだったからさ。ヒッキーもずーっと話しかけるなーって空気出してるし、迷惑かもとか、今更じゃんとか、どんどん話しかけるのが大変になってさ。そうやってる内に一年が終わっちゃって……。それで、二年生になって、同じクラスなれたの。すごい偶然だよね。嬉しかった」
そう言って、由比ヶ浜はふにゃりと笑う。喜ばしいと噛み締めるその笑顔に、視線も心も引き込まれる。
「それで、今度こそはって。多分、同じクラスになって勢い付いた今じゃないと、またダメになっちゃうって思ったから。そうやって、あたしはあの扉を開いたの」
「そう……。ずっと、抱え込んでいたのね……」
「あたしに勇気がなかったから。だから、そんな自分を変えたくて……」
「……変わったさ。俺なんかで良けりゃ太鼓判押してやる」
「そうね。私も折り紙付けて肯定するわ。あなたのこと、誇りに思う」
本当に。本当に、こいつは素敵な女の子になった。
主観で評するなら、世界一の。
「ありがと……。二人にそう言って貰えると、なんだろ……。ほんとに嬉しいっていうか……そう、報われた、って感じする」
由比ヶ浜が一歩近づき、俺たちを両の腕で抱きしめる。拒絶の選択肢なんざ既に宇宙の彼方だ。
「それでヒッキーいてびっくりしてさ。でも、ヒッキー教室じゃ全然しゃべんなかったのにあそこだとすごく自然で……。思ってたようなヒーローとは全然違ったけど、それで、あたしも、そこにいたくなって……」
由比ヶ浜の声が震えていく。俺たちの二の腕に押しつけられた由比ヶ浜の目元から濡れた熱が伝わってくる。
驚きはあった。だがそれ以上に、由比ヶ浜に泣いてほしくなかった。
由比ヶ浜に抱きしめられながら、おっかなびっくり頭を撫でる。雪ノ下は由比ヶ浜を抱き寄せながら、赤子をあやすように背をぽん、ぽん、と叩いていた。
少しして、由比ヶ浜の気配が落ち着く。照れくさそうに一歩下がって舌を出す。くっそかわいいなおい。
「それで、奉仕部で三人で過ごす間にさ。……どんどん、二人のことが好きになってくんだ。憧れの女の子はぽんこつで見栄っ張りで意外と弱くて、かっこよくてかわいくて努力家な、やっぱり憧れの女の子だし。気になってた男の子はかっこわるくて無茶苦茶で斜め下のやり方で、優しくてどんな無理でも叶えちゃって自分の傷を気にしない、危なっかしい、あたしのヒーローなの」
「……ゆい、がはま、さん」
「……お前、さっきヒーローじゃなかったって」
「漫画みたいに完璧でかっこいいヒーローじゃないけどさ。……でも、やっぱりヒーローなんだ。あたしのことも。ゆきのんのことも。ちゃんと、助けてくれた」
落ち着いた由比ヶ浜の瞳が俺の反論を縛る。
「そうなの。どんどん、好きになっていって。ゆきのんもそうだってことが、すごくよく分かるから……。二年生の時ですら苦しいくらいだったのに、ゆきのんの家のことで、あたしたち答え出すの先送りに出来ちゃったよね。だから、そんな不自然なままで固まって、もっともっと近くで、想いだけが大きくなっていったの」
自覚はあった。二人から浴びせられる、言葉にされない好意。視線から、仕草から、表情から、声音から、行動から。勘違いかも知れない。そんな予防線はいつの間にか遠い彼方。
大体、この二人と一緒にずっといて、俺の方からだって日々募る想いがないわけないのだ。
「ね、ヒッキー。……ううん。比企谷、八幡くん」
由比ヶ浜は慈母のような笑顔を浮かべて、俺の目を真っ直ぐ見て、俺の名を呼ぶ。
その笑顔と視線に、心の臓まで射止められる。
「大好き……。世界で一番、大好きです。あたし、八幡くんのためならなんでもするし、できるよ。好き……好きなの……。頭がどうにかなっちゃいそうなくらい、大好きで……」
由比ヶ浜の中で感情が暴れているのか。己が身を抱いて、耐えるように熱の篭もった息を吐く。
つ、と。
一筋、堪えきれなかった感情が、涙となって彼女の眼窩よりこぼれ落ちる。
その雫は、どんな宝石よりも美しく見えた。
「比企谷、八幡くん。ずっと……ずっと、好きだったの。あたしと、付き合ってください。あたしの持ってるものは、全部あげます。だから……八幡くんの、愛をください」
求愛。
他に表現のしようがない。純度100%の愛の言葉。
男心は揺れたかって? 何もかもを忘れて、応えたくなる程度にはな。
「……! ひっ、きぃ」
「比企谷くん……」
「ぅあ……」
名前を呼ばれて初めて気付く。前者の声は腕の中から。後者を見れば滲む視界。
衝動が身体を動かす、なんてこと。フィクションだけのものだと思っていた。
愛しさ。
この大切な人を、悲しませたくないという感情の奔流。荒ぶるそれに言葉が続かない。
取り繕ってでっち上げた不実な解答が一瞬で木っ端微塵に砕かれる。だが、だが、俺はそれでも……。
「すまん……すまん……由比ヶ浜……すまん……」
「……そ、っか」
蓄音機のように謝罪を繰り返す俺に、腕の中の由比ヶ浜は一瞬身体を跳ねるように硬直させ、ぐったりと脱力する。耳に届く声音は諦観と失意の色に染まっているのに、彼女は俺の背中を撫でて気遣ってくる。どこまでも、どこまでも由比ヶ浜結衣は優しい。分かっていたのに。
完膚なきまでに砕かれた解答の破片を拾い集め、ズタボロになった張り子のそれを再び掲げる他、俺にはないのだ。
目の前の彼女の表情はぼやけて見えない。仕方ないなと、自分の中に痛みを押し込めて笑っているのだろうか。それとも失望の果てに悲しみを浮かべているのだろうか。
誰よりも傷つけたくない相手を自らの手で傷つけ、悲しんでほしくないのに悲しませて。彼女の強さに甘えておきながら、痛みを一人で耐えようとしてほしくない。なんて酷い自家撞着。
「ヒッキー……泣かないで」
頬に触れる柔らかな感触。
突然の驚愕に呼吸と思考と動作が止まる。さしずめ不意に自分の中の歯車を一つ外された絡繰り人形か。
硬直する俺の涙を、抱き合ったままその親指でそっと拭う。クリアになった視界の中で、彼女は悪戯っぽく微笑んでいた。
――その裏に、どれほどの喪失感を抱えているのか、見せようともせずに。
「ファーストキス。……これくらい、いいよね?」
そう続ける由比ヶ浜の瞳からも、一滴。
先程とは違う感情によって零れたのだろう涙。
しかし、それは先程と何も変わらず、何よりも美しかった。
俺は嗚咽をこぼしながら、腕の中の誰より大切な人を、力の限り抱きしめ続けた。
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21話
愁嘆場を一つ超えて、ようやくのことささやかな落ち着きが戻ってくる。
しばしの間壁に背を預けてぐったりとしていた俺は、二人の様子をのっそりと眺める。
雪ノ下は腕を組みながら薄く浮かべた微笑みで俺たちを眺めていて、由比ヶ浜は勉強机の椅子に腰掛けて足をぶらぶらさせている。その目元は少しばかり赤く、視線は足下に向いていた。心情を慮るに余りあるその様子に、先程からまるで制御の効かない涙腺が再度の氾濫を求めてくる。
飲まれる前に、勢いを付けて壁から跳ね起きて結論を話そうと試みる。そうしないと、全てを擲ってこの時間をなかったことにしてしまおうと、決着を取りやめて三人でいようだなんて二人に縋り付いてしまいそうだから。
「……じゃあ、次、俺な」
それでも身体は理性に反して重々しく動こうとせず、言葉は喉に張り付いたように引っかかるのだけど。
「ええ……。聞かせて」
「ん……」
雪ノ下は穏やかに言葉を紡ぎ、由比ヶ浜は笑顔と視線で促してくる。由比ヶ浜の痛みを肩代わりできたら、なんて。また一方的な我が儘を考えてしまう。
「最初……か……。あー、俺、の最初って、割と黒歴史っつーか……。大分アレだった、んだよな……」
つっかえつっかえ言葉を吐き出していく。一度止まったら二度と動かなくなりそうなぎこちなさを押して、石臼のように強引に回し続ける。
「それは……私も、他人事ではないわね……」
「出会い頭の罵詈雑言。世界を人ごと変える発言。まあ大概だよな……」
くすっ、と。掠れるような苦笑が聞こえた。
反射で顔がそちらを向く。由比ヶ浜が力の抜けた微笑を俺たちに向けていた。
「なにそれ、あたしも初めて聞くよ」
そんな些細なやりとりでも、するだけの気力が彼女に戻ったのかと思うと嬉しかった。
「ちょっ、ひ、比企谷くん!」
「あー……悪い。悪気があったわけじゃねえんだ」
焦った雪ノ下が頬を染めて食ってかかる。黒歴史って言われたからつい思い出したことが口を突いてしまっただけなんです許してください。
でも、あんな大言壮語真顔で言い放つお前、かっこいいって心のどっかでは思ってたんだぜ?
「由比ヶ浜が来る前だったんだな、そういえば。入ってすぐにお前も来たから、なんかいつの間にか最初っから三人だったような気がしてたわ」
「……実際、二日三日程度の誤差だったわね。私も長く一人でやっていたから、同時期の入部という認識だったわ」
「そっか……。それくらいしか経ってなかったんだ」
自然に見えたんだけどな、と。辛うじて聞こえるか否かの呟きが、由比ヶ浜の口の中で融けて消える。
足を軽く前に伸ばし背をのけぞらせ、天井を向いた彼女の視界には何が映っているのだろうか。
「……最初は平塚先生に否応なしに入れられた部活で、どうやって逃げるかばっか考えてたけどな。居続けると、その、なんだ? 悪くないって思えてくるとこもあるし、奉仕部本読んでても問題ねえし、どうせ俺ぼっちだったから時間もあったし……」
言葉と共に下がっていく自らの視界。言ってて思う。
俺はこの期に及んでまだ上辺を飾るのか、捻くれた予防線を張るのかと。
あの由比ヶ浜の、血を吐くような本心を聞かされた後で。
「――やめた」
「比企谷くん?」
「ヒッキー?」
途中で言葉を切った俺に、不思議そうな表情を向けてくる二人。
もう、やめた。見栄を張るのは。
「雪ノ下。最初お前見たとき、すっげえ美人だって思ったんだわ。口開いたら台無しだったけどさ。でも、世界ごと人を変えるって本気で言ってたお前のこと、かっけえなって思ったりもしたんだよ」
「えっ……え……?」
虚を突かれたように、雪ノ下は泡を食う。これまでの落ち着いたような態度は吹っ飛んでいた。
「そんな奴と近い場所に居られる部活だったし、内心結構前向きだったんだよな。実は」
「あなた……分かり辛すぎるわよ」
「由比ヶ浜も。最初来たときビッチだなんだって言い合ってたけどさ。クラスメイトで俺のことを認識してたってのがまず驚いたし、一日一緒に居ただけでもなんかすげー優しいのが分かるし、しかも滅茶苦茶かわいいし。料理は壊滅的だったけど、お礼っつってほぼその場にいただけの俺にもクッキーくれたし。苦かったけど、でもやっぱ嬉しくてさ。やべぇこれ意識しないと絶対好きになるわって全力で自戒してたんだよ」
「……なってくれてよかったんだけどなぁ」
「悪いな……っていうのもおかしい気はすっけど。中学時代、俺に優しい娘はみんなに優しいんだってトラウマ刻み込まれてたから。期待するな期待するな期待するなってひたすら自分に言い聞かせてたわ。……そんな優しい女の子が、好きなくせに」
ぼろぼろと、これまで二年間ずっと棚上げしてひた隠しにしていた本心を零していく。
せめて、せめてこれくらいはしなければ。由比ヶ浜の告白に、僅かでも報いなければ。
俺はきっと、後で死にたくなるだろう。
「だから、そんな浮かれそうな心持ちを押さえつけてるとこで、入学式の事故のあらましを不意打ちに小町から聞かされて。ああやっぱりって思って……それでまた、失敗した。……とどのつまり、耐えられなかったんだ。お前の優しさに」
「……あたし、優しくなんてないんだけどな」
「お前は優しいよ。優しくて素敵で……。だから、そんな女の子に自分の手が届くはずがないんだって、自分から切り離そうとして……。相手のことなんて、何も考えていなかった」
由比ヶ浜は何も言わず視線を落とす。
「また始めればいいなんて、雪ノ下の詭弁を拒むことも出来なかったくせにな」
あなたたちは共に被害者で、責められるべきは加害者だと、そう言った雪ノ下。
彼女が加害者の意識を持って、自分と俺たちを線引きしたあの日の夕暮れ。
「雪ノ下は嘘を吐かない……なんて、そんな幻想を押しつけて。勝手な失望で当たり散らしたり。全く、思い返すと顔から火が出るわ」
もうほんっとマジで羞恥の感情のポリグラフ、さっきっから振り切ってっからね。
それでも、もう決めたんだ。最後まで走りきると。
「……でも、そうやって離れていきそうな俺たちを由比ヶ浜が必死で繋ぎ止めてくれて。俺も雪ノ下もこんなだったから、何を思ってたとしても、諦めて投げ捨てちまうんだ。自分だけだとな」
「そうね……。由比ヶ浜さんがいなければ、間違いなく今のようにはなっていなかったでしょうね」
「あたしは……多分、自分のためだったよ」
「それでもだ」
あの場所が、好きだったから。小さく呟いて、困ったように笑う由比ヶ浜。そんな彼女に、俺たちは何度も助けられてきた。
「文化祭でなんとなく仲直りできて、修学旅行でまた俺がやらかして……。ぐらついたまま、生徒会選挙で破綻した」
「……分かるものだとばかり、思っていたのよ」
そう言って、雪ノ下は視線を逸らす。
「お前さっき俺のこと分かり辛すぎるとか言ったけど、お前も大概だからな? マジで」
「ゆきのん、普段は分かりやすいのにね」
「……それもそれでどうなのかしら」
腕組みして不満を表にする雪ノ下。いやお前それどうすりゃ満足なんだよ。
和らいだ雰囲気にくすっと失笑一つこぼし、しかしそれもすぐに引っ込む。
深呼吸を挟んで気構えを組めば、二人も次の言葉の重さを察するようで。めいめいに粛々と居住まいを正す。
思い出すのは夕暮れの部室。そして渡り廊下から見た夕映え。紅に染まり涙に濡れる、雪ノ下と由比ヶ浜。
「クリスマスイベントのとき。俺がまた一人でやらかしそうになったのに、二人は俺の話を聞いてくれて。俺の……願いを、聞いてくれて」
あんな願いにもなってないような、ただ衝動を吐き散らしただけの言葉を。
「あの時」
そう、大切そうに受け取ってくれたあの時。どうしようもなく、俺は。
「心の底からお前ら二人に惚れたんだ」
異性としては最初っからずっと惹かれ続けていたけれど。そういうのを飛び越えて、誰より大切にしたい人たちとなった。
「ヒッキー……」
「比企谷くん……」
由比ヶ浜は複雑そうな苦笑を浮かべ、雪ノ下は嬉しそうな微笑を湛える。不実と言われても反論の余地はないのだが、他人に抱く止め処ない情念は自分の意思でどうにかなるもんでもない。
「そこから……なんとか決着をつけようとして、不格好に足掻いて。そんな最中、雪ノ下の家のことが持ち上がって、異常に近い距離感のまま棚上げ出来ちまって……。その解決まで丸一年だ」
この一年、二人が傍らにいない時間の方が少なかったとすら思う。俺が。クソぼっちのこの俺が、だ。
「ぶっちゃけな、お前らみてーな女の子と一緒にいて、居続けて、好きにならねえわけねえだろ馬鹿か。ただでさえぼっちは惚れっぽいってのに、無茶苦茶かわいくて性格もよくて、何より俺なんかのことを真剣に見てくれるんだぞ?」
冗談めかして言いはするが、紛う事無き本音の固まり。いやもうほんと、好きにならねえわけねえだろこんなもん。なあ?
……そう。好き、なのだ。それでも。好きだと、しても。
「それでも。例えどれほど好きであっても。……決着、つけなきゃいけないんだよなぁ」
雪ノ下は真剣な瞳をこちらに寄せて、されど何も言わず。
その眼差しは隠しきれない期待の中に、仄かな不安を感じさせた。
由比ヶ浜は悲しげに目を伏せて、やはり何も言えない。
その視線は溺れるほどの絶望の中に、一縷の希望を孕んでいるように見えた。
「っ……ぁ……」
二律背反に眩暈がする。続く言葉を、彼女の名前を呼ぼうとして、音にならず失敗する。
それでも幾度か繰り返し、ようやく掠れた声が喉の奥から絞り出された。
「……ゆきの、した」
「はい……」
「…………」
その名を呼んだとき、雪ノ下の抱く憂いが晴れ、由比ヶ浜の表情が悲嘆に沈む。
「……この二年間、ずっと側にいて。お前の強さに憧れて。お前の弱さを補ってやりたくて。俺は……お前に、悲しんでほしくないんだ、きっと。だから、お前を一人には出来ない。……お前、不器用だからさ。多分、泣くこともうまく出来ないくらい」
雪ノ下が母親と和解したときの、彼女の涙を思い出す。無防備な、寄る辺ない幼い迷子のような弱々しさ。
……もし俺が由比ヶ浜を選んだら、この脆く儚い女の子はどうなってしまうのだろう。
「俺はお前を一人にすることに耐えられない。それがお前を選ぶ一番の理由なんだと思う。……これが俺の本音、なんだと思う」
なんて不純。どこまで不実。二人への情愛も親愛も、性愛ですら溢れるほどにそこにはあるのに。
結局最後は自分のこと。自分が耐え難い未来を回避するための、醜い底意。
「由比ヶ浜を愛していないなんて、口が裂けても言えない。……それでも、これが、俺の、選択……だ」
雪ノ下に決着を求められてから、何度も何度も考えた。
二人を傷つけない決着。そんなありもしない幻想を求めて。
どうしても見つけられなくて、せめてなるべく傷の浅い終着をと。幾度となく繰り返した妥協の先。
そうしてでっち上げた結論は、由比ヶ浜の強さにただ甘えるものだった。
雪ノ下には耐えられなくても、由比ヶ浜ならいつかは乗り越えられると。
……辛くないはずがないのに。痛まないはずがないのに。そうだと分かってて押しつける。
でももっと他の、三人の傷が浅くて済むような答えは見つけられなくて。
絞り出した結論はこのザマで。自分自身に虫酸が走る。反吐が出そうだ。
「……酷いよ」
由比ヶ浜の悲嘆の涙と呟きが、傷んだ心を更に貫く。まるで反論の余地はない。俺自身、本当に心の底から酷いと思う。
「あたしよりゆきのんのが好きだったから、ゆきのん選んだんじゃないの……? ヒッキーがゆきのんを選んだのって、そんな決め方だったの……? あた、あたしだって、強くなんかない、よ……」
ぽろぽろと零れる大粒の涙が、しゃくり上げながら紡ぐ言葉が、俺の肺腑を手痛く抉る。
「っく……あたしがゆきのんより弱かったら、ひ、ヒッキーに選んで、もらえたのかなぁ……?」
何よりも、由比ヶ浜にこんなことを言わせてしまったという事実が、俺自身を責め苛む。
この答えを捻り出した時点で、覚悟はしていたつもりだった。傷つけてしまうことも。傷ついた彼女を救えないことも。
だが、現実は決めた覚悟を容易く上回るものだった。今だって、由比ヶ浜を抱きしめて、悲しみに流れる涙を止めてやりたいと思ってしまっている。しかし、それをすれば、今度は雪ノ下が……。
ああ、分かっていたのに。三日前の車中、雪ノ下に決着を切り出された時点で。こうやって誰かが悲しむことは。分かっていたのに、分かっていなかった。すぐにでも舌を噛み切って死にたくなるほどの絶望的な罪悪感と決定的な後悔。それに抗いきれず、迷いながらも由比ヶ浜に一歩踏み出し……
「……どんな所以であれ、私を選んでくれたのは嬉しいわ。ありがとう」
かけたところで、雪ノ下の静かな声が俺と由比ヶ浜の動きを止め、穏やかな微笑がそのまま視線を奪っていった。
「ゆきのんは、こっ……これで、満足……なの?」
「そう、ね……今は、どう答えても、あなたを泣かせてしまいそうだから……」
雪ノ下は泣きじゃくる由比ヶ浜にゆっくりと近付き、ふわりと抱きしめる。
「急かすことはしないわ。……落ち着いたら、私の話も聞いてほしいの」
「んっ……ご、ごめん、ね……。つら、くて……も少し、待って……」
言葉もない。自責が身を焦がし、後悔に身も捩れんばかりだ。
由比ヶ浜の涙は、俺に別の道はなかったのかと再三問いかけてくる。
そんなものがあってくれたら。
どんなにも良かったか。
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22話
「……ん。お待たせ」
涙の跡も痛々しいが、それでも由比ヶ浜は空元気を見せて雪ノ下の身体をそっと押し戻す。
「ゆきのん……聞かせて」
「ええ……。聞いてちょうだい」
「ヒッキーも……いいよね?」
「……ああ」
この期に及んで、俺に否やなどあるはずもない。
「そうね……私もあなたたちに倣おうかしら。最初、最初……ね」
雪ノ下は顎に人差し指を当て、思い返すように遠い目をする。
「……やはり、私にとっての最初も比企谷くんが来たあの時……なのでしょうね」
ややあって、笑みと共に結論を出す。苦笑に近いそれは、ややもすれば自嘲にも見えて。
「平塚先生のお節介で、一年生の時から奉仕部自体は始めていたのだけど。……それまでと、それからでは。何もかもが、違うもの」
俺たちの恩師の依怙贔屓が過ぎるところは、昔から変わっていないようだ。ま、今更か。
「第一印象は最悪だったわ。変わらないでいることを己の怠惰を許容させるための弁明に使うクズにしか見えなかったから」
思ってた以上に容赦なかったな!? 由比ヶ浜の方を見ると目が合う。雪ノ下は雪ノ下なんだなあって目と目で通じ合う。
「由比ヶ浜さんも、自らの無能の原因を他人に求める付和雷同の輩に見えていたし。……こちらはすぐに違うのだと分かったけれどね」
お前の世界、本当に四方八方敵だらけだったんだな……。チェーンメールの件での三馬鹿の評価でも分かってはいたが、慈悲とか寛容とかが行方不明。
「最初は有象無象の一つだと思っていたのに、あなたは他の男子とは違っていた。川崎さんの依頼でも、チェーンメールの一件でも、結局最後に解決したのは比企谷くんだった。その姿は、他人に頼らず独力で解決するという、私の理想。……やり口こそ閉口するような代物だったけれどね」
「……俺にしてみれば、お前の在り方こそが俺の理想だったんだけどな」
「見る目がなかったわね。お互いに」
「ちげえねえ」
自嘲を含んで笑い合う。あれこそは理想なんだと嘯いて、妄想を押しつけて破綻した。
「千葉村での手口は輪をかけて最悪だったわね。鶴見さんが救えた以上、私に否やはないけれど」
「今更だけど、あれで問題になってたら詰め腹を切らされんの平塚先生だよなぁ……。ほんと、なんで黙認できるんだか」
依怙贔屓にも程があるっての。そんなんだから結婚できないんじゃないの? 男より男前すぎる。
「……そうね、この際だから私も白状しましょうか。私があのとき少し強引に動いたのは、鶴見さんが由比ヶ浜さんと重なって見えたから」
「え……? あたしが……?」
「ええ。……あなたにも、彼女のような経験があるんじゃないか、って。そう、思ったのよ」
「あはは……。そっか、考えてることは同じだったんだ。あたしにはゆきのんとダブって見えたよ」
「そう……。ふふっ、思わないところで繋がるものね」
二人はクスクスとささめくように笑い合う。
ただそれだけの光景が、終わりを間近にした今、狂おしいほど尊く見えた。
「そして、私の隠し事が姉さんにバラされて。……振り返ってみれば、相模さんの依頼を受けたのは逃避のため以外の何物でもなかったのでしょうね」
ひとりごちるように、懺悔するように、ため息とともに言葉を吐き出す。
それでも、その表情は穏やかで。雪ノ下が過去を昇華しているのだということが見て取れた。
「そんな愚かな私なのに、また二人は助けてくれた。……嬉しかったわ」
「俺は何もしてねえよ。助けたのは由比ヶ浜だ」
「そんなわけないじゃん、ヒッキー。今更あたしたちにそんなの効かないよー」
「ええ。私はあなたたちに助けられてここに居る。その事実、比企谷くんごときに否定させはしないわ」
「ごときって。ごときって言っちゃってるよ? ねえ」
「ふふっ。そう言われたくなければしっかり感謝を受け取りなさい」
「そういうところ、ヒッキーずるいもんね」
くそっ、完全にアウェイじゃねえか。全く、どんだけ俺に甘いアウェイだよ。
ひとしきり笑って、目を伏せる。語られる中で、過去の時間が進んでいく。
「そうして、修学旅行。……三人で巡っていた時間は、本当に楽しかったの。これからはずっと、こんな時間が続くものだと思っていた。けれど……」
けれど。現実はそうはならなかった。愚かな選択をした男がいたせいで。
「……由比ヶ浜さんに繋ぎ止めてもらって、生徒会役員選挙、クリスマスイベントと忙しなくイベントも続いて。どうにか体裁だけ整えた器の中で、私たちはまたぶつかり合って。そして……捻くれた比企谷くんの心からの本音を聞かせてもらった」
「……うん。あの夕暮れの部室。……忘れられないよね」
思い出す度に顔から火が出る思いだが、酔いしれるような二人の様子を見れば忘れてくれとも言えねえよ。
「そして……私の家の問題に二人を付き合わせてしまうことになって。それから、ずっと三人でいたわよね」
「ああ……」
「うん……」
「家のことだけじゃなくて、奉仕部でも、受験勉強でも。お互いに理由を見つけては集まって」
「雪ノ下……」
雪ノ下が、一歩、進む。
「……本物を、探して」
更に一歩。
「ゆきのん……?」
「ずっと……ずっと愛しく思っていたわ」
一歩。
「ずっと私を側で支えてくれて……私にできないことを、あなたはなんでもないようにこなしていた」
立ち止まって、浅い呼吸を一つ挟む。
「あなたの声が好き。あなたの笑顔が好き。私にその在り方は真似できないけれど、真実あなたを愛おしく思う。あなたのいない世界なんて、考えたくもない」
終着点。立ち止まった雪ノ下は、まごつく両手を取って包み込むように握り、他の誰も目に入らないとばかりに眼前の双眸を覗き込む。
「心の底から愛しているわ。私はきっと、あなたのためならどんな障害とでも闘える。あなたが笑顔で私の隣にいてくれれば……私はそれだけで、幸せになれるの」
そうして、焼け付くような心情を、吐露した。
「……………………あたし?」
由比ヶ浜に。
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23話
雪ノ下に両手をふわりと包まれたままおめめぱちくりする由比ヶ浜とこれは幻術なのかいや幻術なのかあるいは幻術なのかと目の前の光景を受け止めるための心の準備を全力でしている俺。……いや、受け止めるための心の準備とか考えてる時点で既に事実だと認識しちゃってますねこれ?
「私が由比ヶ浜さんを好きだとおかしいかしら?」
「えっ!? いやあたしもゆきのんは大好きだけど!?」
「あら、嬉しいわね。比企谷くん、これで私と由比ヶ浜さんは両思いよ?」
「いや待て待ってお願い待ってちょっと待って待とう落ち着け深呼吸だスー……ハー……そうその前にまず一ついいか」
「忙しないわね。何かしら?」
雪ノ下は由比ヶ浜から両手を離し、腕組みして俺の言葉を待つ。
俺は大きく息を吸い込んで。
「そっっっっっっっちかよ!!」
いい笑顔でこっちを見る雪ノ下と未だ状況についていけず疑問符を頭に浮かべる由比ヶ浜に、腹の底から突っ込んだ。
「私が由比ヶ浜さんを好きだとおかしいかしら?」
「そうだよ全くおかしくねえよ! お前らマジで仲良すぎだしな! なんで! 俺が! 選ぶ立場だと勘違いした!!」
羞恥と羞恥と羞恥でマジ死にそう。死ぬ。死んだ。
「なあ雪ノ下、ちょっとそこの窓開かね?」
「今日は開かないわ。飛び降りるなら明日にしなさい」
「だっ、ダメだよ飛び降りちゃ!? っていうか何言ってんのヒッキーもゆきのんも!」
「何言ってんだろうな俺……。っていうかなに? なんなのだこれは……どうすればいいのだ……」
「三角関係ね」
頭を抱えて唸ってる俺に、雪ノ下はこともなげに言い放つ。
「三角関係ってこーゆーのだっけ……?」
「少なくとも俺の知ってる三角関係とは違ぇな……」
さっきまで緊迫した雰囲気が全て吹き飛んで、代わりに、ある種弛緩した空気がこの場を揺蕩っていた。
「そうね、三角関係は、一般的には男性一人に女性二人、あるいは女性一人に男性二人が異性を取り合って鎬を削るものだけど。それって図形的には三角形と言うよりもくの字ではないかしら? むしろ私たちのように循環して求め合う方が三角形としては適切だと思わない?」
「悪い、お前が言ってることビタイチ分かんねえ」
「比企谷くんの数学の学力では難解だったかしら……。この一年で、大分引き上げたつもりだったのだけれど」
「これ数学の問題なのか……?」
「や、あたしも分かんない……」
得意気に一瀉千里する雪ノ下は、気の抜けた俺たちの呟きを聞いて、雰囲気を真摯な方向に切り替える。
「そうね。これは数学の問題じゃないわ。私たちの心の問題よ。……由比ヶ浜さん」
「うん……」
幾許か戻ってきた真剣な空気に、由比ヶ浜もまた居住まいを正す。
「私は……私たちは、あなたの笑顔にずっと助けられてきた。あなたの不断の努力がなければ、私たちの関係は容易く瓦解していたわ。私も比企谷くんも、そういう人間だから」
「……だろうな」
自分の歩いてきた道を裏切らないためだけの、つまらない意地を張って。そうやって物別れになっていた未来もあったのだろう。
由比ヶ浜に手を差し出して、雪ノ下は口にする。
「愛しているわ、由比ヶ浜さん。もし私の告白を受け入れてくれるなら……お願い、私の手を取って」
「え……でも、あたしは……」
由比ヶ浜はたじろぎ、惑うように伸ばされた手を見て、窺うように俺の顔を覗いてくる。
目と目が合って、お互いに考えていることは同じだろうと容易に察することができる。思い出すだけで全身が赤熱する、空恐ろしいまでの感情を贈られた愛の告白。由比ヶ浜が俺を選ぶのなら、自然、雪ノ下の手を取ることは――
「由比ヶ浜さん」
その俺たちの視線と心の揺らぎを、雪ノ下の凜とした声が縫い止める。
惹かれるままに彼女を見れば、俺たちの心の裡を見通すかのような眼差し。
「大丈夫。私を――」
瞑目。一呼吸。
目を開けた雪ノ下は、誰もが見惚れるとびきりの笑顔でその言葉を口にした。
「――信じて」
「――うん!」
雪ノ下の言葉を理解するのに要した一瞬。それだけの間を置いて、雪ノ下に飛び込むようにその手を取った。
由比ヶ浜を受け止めた雪ノ下は、そのまま彼女を抱きしめる。
「ありがとう……由比ヶ浜さん」
「ううん。あたしも、ゆきのんのこと大好きだから」
「それと……ごめんなさい。早速だけど……」
抱擁を解いて、正面から向き合う二人。雪ノ下らしからぬ茶目っ気のある微笑みで、その言葉を口にした。
「浮気するわね」
『ごめん、なんて?』
綺麗に俺と由比ヶ浜の声がハモったんだがそれどころじゃないちょっと待てお前。
「待ておい待て。どうしたのお前家のことが解決して頭が飛んじゃったの?」
「ごめんちょっとゆきのんが何言ってるかあたし分かんない」
俺たちの泡を食ったような言葉に、雪ノ下は超然として答える。
「失礼極まりない感想ね比企谷くん。……むしろ、このやり方はあなたの領分に近いと思うのだけれど。今日は随分勘が鈍いのね?」
由比ヶ浜の告白からこっち、決めた覚悟を上回られ、考えもしなかった展開に晒され、精神状態が乱高下し続けてる俺に、まともにモノを考える余裕があるとでもお思いですか?
「……由比ヶ浜さん、あと少しだけ見ていてちょうだい。すぐに分かるから」
「あ……うん」
「あら、その必要もなかったかしらね?」
由比ヶ浜は雪ノ下の意図に気付いたようで、二人の間で交わされる視線には明らかに何らかの含みが見られた。
「比企谷くん」
「今度は何よ……」
雪ノ下は俺の正面に立ち、真っ直ぐに俺の目を見て、続く言葉を切り出した。
「あなたの告白を受け入れるわ。これで晴れて両思いね」
「んんんんんんっ?」
「バカね……。私があなたのことを嫌っているはずがないでしょうに」
雪ノ下はくすりと微笑むと、そのまま一歩進んで、つまりは俺のすぐ前に立って、抱きしめてきた。
「ずっと言いたかった。……ありがとう。どんなときでも私を、私たちを助けてくれて。……愛しているわ。由比ヶ浜さんにも負けないくらい」
その言葉と体温で、雪ノ下に告白されたのだということがすとんと腹の底に落ちてきた。頭の霧が晴れるように、混乱がさっと引いていく。
「雪ノ下……」
「……まだまだ言いたいことはあるけれど。先に状況を確定させてしまいましょう?」
心のままに抱きしめ返そうとする間際、そう言って雪ノ下は俺から離れ、一歩下がる。
「さて、比企谷くん。あなたの恋人である私は現在進行形で由比ヶ浜さんと浮気しているのよね。故に、原理原則から言えばあなたの浮気も一人までは認めなくてはならないわ。そうでしょう?」
「あー……。あーあーあー……。いつからそのつもりだったんだ、お前」
「さあ、いつからだったかしら。少なくとも今日は頭からずっとそのつもりだったけれど。……浮気を認めるとは言ったけど、相手は姉さんだとか小町さんだとか言い出したら、あなたを殺して由比ヶ浜さんと生きるわ」
「言うわけねえだろアホか!? くそっ、後でその辺聞かせてもらうからな……」
ろくでもない冗談にみっともない捨て台詞を吐き捨てて、そわそわしている由比ヶ浜に一歩踏み出す。お団子を忙しなく弄くり、期待に輝く視線は俺と雪ノ下の間を彷徨っている。
「由比ヶ浜」
「う、うん」
声をかけると帰ってくるのは、戸惑うような、それでいて喜びを隠しきれない返事。
「お前の……灼けるほどの思いを聞かされて、本当に、本当に心の底から嬉しかった。あの時どれだけこうやって応えてやりたかったか……」
二歩、三歩、近付いていく。由比ヶ浜との距離がゼロになるまで。
「あっ……ひ……っきぃ……」
強く、強く、抱きしめる。俺の心の裡も少しでも伝わればいいと、加減も考えずに。
「――愛している。俺も、お前のこと、お前らのこと。本当に――頭がどうにかなりそうなくらい愛してるんだ。好きだ。大好きだ。もう絶対に手放したくない。だから……」
由比ヶ浜の返答も、意思も聞かず。
「んっ……」
「っ!」
その唇を、自分勝手に奪った。
正しいキスの仕方なんて分からなくて、吐息の交換をするようにお互い求め合った。
「ファーストキス。……これくらい、なんて口が裂けても言えねえけど。でも、いいよな?」
「うん……うん……! いい……! あ、あたし……もう、ヒッキーと離れなきゃいけないって思うと、ほんとに、胸が潰れそうで……!」
「俺も……自分でお前のこと振っておきながら、本当に……決めてた覚悟なんかなんの意味もなくって……無理だった……! 後悔だけが残って、全部、全部、なかったことにしてくれって何度も口を突いて出そうになった……!」
「ヒッキー……! うぁ……あああぁ……」
由比ヶ浜の目から涙が零れる。勘違いのしようもない、安堵と喜びのそれ。
やはり、それは先程と何も変わらず、何よりも美しかった。……まあ、俺の目に映るその煌めきも、すぐにぼやけてしまったんだけどな。
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24話
くーーーーーーるだうん。
いや、ね? そりゃ、身の千切れるような喪失の悔悟が、想像もしなかった形で埋められて、あれだけ精神状態ジェットコースターだったわけですし。
由比ヶ浜と抱き合って泣き合った言葉に嘘も虚飾もなかった、けど。
「……へへ」
ちらりと由比ヶ浜を見れば、恥ずかしそうに、嬉しそうに微笑み返してきて何あの可愛さ。無敵か。
がんばってクールダウンしようとしても一瞬でまた頭が茹だる。いかんこれだと話がまるで進みゃしねえ。
「んんっ、あー、それで、だ。雪ノ下」
咳払いで間を埋めて、どうにか話を切り出す。
「何かしら。浮企谷くん」
「お前だって浮気ノ下だろが。……えっとだな。この状況、お前の狙い通り……でいいのか?」
「由比ヶ浜……浮気……あたしだけ名前とうまく繋がんない……」
由比ヶ浜がちょっと寂しそうにしてるけど浮気と苗字が繋がって喜ぶ必要はないと思うんですよ?
「当然でしょう? 今更あなたたちと離れるなんて、望むはずも出来るはずもないじゃない。……とはいえ、本当に綱渡りではあったのだけれどね」
「なんか完全に掌ころっころだった気しかしないんだが、そうなのか?」
この結末に至ったことは言うに及ばず、そうなるまでの今日一日、雪ノ下からピリついた気配を感じた覚えはなかったが……。計画通りの安堵とかいうわけじゃなかったんかね。
……いや、そうじゃねえな。俺も由比ヶ浜も同じだったか。翌日の別離の可能性を含んでもなお、あの幸せで甘やかな時間は俺たちを融かすに十分すぎた。
あれは、あの時間は、純粋に幸福を享受できていた。それだけのことだった。
「あなたたちがどんな結論を出すか、それだけは私が及ぶ範疇ではないもの」
「ああ……そういえば、そうなる、のか?」
由比ヶ浜が俺に、俺が雪ノ下に。だからこそ今の関係を構築できたと言えばその通りなのかもしれないが。
「そうね……例えば、どうまかり間違っても由比ヶ浜さんが私に、比企谷くんが由比ヶ浜さんに告白……なんてパターンはないと思っていたわ。万に一つあっても、私が比企谷くんに告白して同じ形にしたでしょうけれど」
「うん……っていうかゆきのん、あたしの答えはたぶん分かってたよね?」
「それがそうでもないのよね。……勿論、比企谷くんに求愛する可能性は高いと思っていたけど、実のところ私の意図する本命は別にあったわ。次善が今の形、つまり由比ヶ浜さんが比企谷くんに、比企谷くんが私に告白するケースね」
「じぜん……? えっと、期待通りじゃなかったって事?」
「次善は二番目に良いと言うことよ。十分に期待通りと言っていいわ」
本命ってなんやのん、とは思ったけど。先にしゃべらせること全部しゃべらせようと、心のメモ帳に書き留めておくことにした。はちまんはふかくこころにきざみこんだ。
「一番困る、かつ高い確率で有り得そうだったのが、比企谷くんと由比ヶ浜さんの相互告白だったのよね……。由比ヶ浜さんには悪いけれど、こればかりはそうならなくて本当に良かったと思っているわ」
さもありなん。実際、今回の俺の捻くれ曲がった思考を正確にトレースするなんて、俺のスワンプマンでもなきゃ無理だろう。事が事だけに流石に難易度高すぎて、小町であろうとまず無理だ。
「そうなったらどうするつもりだったんだ?」
納得を胃の腑に落としながら、ふと疑問に思ったことを聞いてみる。俺が由比ヶ浜を選ぶ可能性は十分に考えられたと思う。こいつ自身有り得そうって言ってるし。
「それが幾ら考えようとしても脳が拒絶するのか、何も思い浮かばなかったのよね……。本当、どうするつもりだったのかしら私」
「ノープランかよ……お前マジか……」
まさかの行き当たりばったりの出たとこ勝負。イノシシだって道を曲がることくらい知ってるぞ……。
「次点で困るのが、比企谷くんがどっちも選べないだなんて言って勝手に身を引くことだったわ。とはいえ、このパターンなら由比ヶ浜さんと二人で比企谷くんを徹底的に論破すればいいだけだから、手の施しようがない難題というわけではないのよね。困るのは比企谷くんから告白されると言う、せっかくの機会を逸することよ」
「うん、それは困るね、すっごく」
由比ヶ浜がこくこくと頷いて同意してるけど大丈夫? ゆきのん空間に引きずり込まれてない?
「事が私たち三人の在り方の問題だから。こればかりは誰かの強制で成立させるわけにはいかないもの。全員が心から望むのでなければ……それはきっと、本物じゃない」
「……まぁ、そう、だけどよ」
そうであるからこそ、雪ノ下が別離を見据えた決着を望んでいると思い違いをしていたからこそ、俺も由比ヶ浜も身を引き千切るような思いをしてまで覚悟決めてきたわけで。
視線だけで由比ヶ浜を確認してみれば、ばっちり目が合う。照れ笑いに苦笑で返し、大体同じ事考えてたんだろうなと手前勝手に想像した。
「つまり、それこそが私の本命。私たち全員がずっと三人で一緒にいたいと結論すること。……手応えは十分にあったと思ったのだけど、うまくいかないものね」
雪ノ下の思惑は分かった。……分かったはずだが。だからこそ腑に落ちんこともある。
「なあ雪ノ下」
「何かしら」
「さっきも言ってたけどよ、お前最初っからそのつもりだったんだよな?」
「ええ、そうね。あなたたちもそう思ってくれたらと願いながら今日一日を謳歌していたわ」
返答に納得と首肯で応えつつ、続きをどう口にしたものかと由比ヶ浜をちらと見る。苦笑気味に返されて、やっぱり概ね同じ事考えてるんだろうなって根拠もなく考えた。
「……いや、なんつーかそのな? 俺にはむしろお前の言動諸々がこういう関係……三人でずっと、なんてものを認めないって主張してるようにしか聞こえなかったんだが……」
「あはは……あたしも、ダメって言われてるってばっかり思ってた」
由比ヶ浜が俺の言葉に同調して、その苦笑を雪ノ下に向ける。根拠のない憶測も当たるもんだ。
あの車の中で今日の話を持ちかけられてからこっち、送られてきたメールの文面とか、生き急ぐような今日の過ごし方とか、血を吐くような別離の覚悟を拉ぎ折って、ずっと三人でいたい、って思ってしまったときを見計らったように、釘刺すかの如き穏やかな微笑を向けられたりとか。
今日一日が幸福に溢れていたせいで、その掣肘がなければいつ転んでいたことか。我がことながらさっぱり分からなかった。
雪ノ下は一瞬驚いたような表情をしたあと、とぼけるように飄々と、
「そう」
なんてのたまい、くすりと笑って、
「分かるものだとばかり、思っていたのね」
軽い調子で、いつかの台詞を転がした。
「これ選挙の時とおんなじやつじゃん!!」
「棚上げて言うけど学べ!! お前は!!」
思わず突っ込んじゃったよね。全身全霊で。
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25話
雪ノ下はこれ見よがしに腕組みしてそっぽを向き、不満ですよと言いたげに独りごちる。
「おかしいわね……。二人が三人の時間を愛おしく思ってくれたとき、私は肯んじていたと思うのだけど……」
「あたしそれが遠回しにダメだよって言ってるようにしか聞こえなかった……。そういうときのゆきのんの笑顔、なんか諦めたみたいに透明で綺麗すぎたし……」
「欠片も諦める気はないわよ? むしろその答えを期待していたのに。由比ヶ浜さんが三人でずっとって言いかけたと思ったら引っ込めちゃうし。迷ってた、なんて謝ってたけれど、迷わずそちらに向かってくれても良かったのよ?」
「お前全力で逆走してんじゃねえか……」
心の底から脱力して溜息を吐く。由比ヶ浜も苦笑して頬を掻いてるし、雪ノ下は腕組み不満アピールを継続中。
いやもうほんとマジで何やってたんだろうなあ俺ら。
「……なんて、今は笑い話に出来ているけれど。こんな極めて愚かしい勘違いとすれ違いの末、二人と物別れになったらなんて、考えるだに震えも走るわね」
「ああ……ほんとにな……ぞっとするわ」
「うわ……あたし今すっごい怖くなった」
雪ノ下は組んだ腕を何かから守るように強く握りしめ、由比ヶ浜は怖気に震える我が身を抱く。俺自身、背筋に氷柱でも突き込まれたような寒気を感じた。
振り払うように首を振った雪ノ下は軽やかな調子を取り戻し、話しかけてくる。
「実際に今日一日三人で一緒に過ごしてみれば、きっと二人ともそれがどれくらい幸せなことか実感してくれると思ったのよ。そうすればこんな荒唐無稽な結論でも、感情が強烈に望んでくれるでしょう? ついでに私も実感したかったし」
「お前頭いいくせになんでそういうとこ力業なの? 馬鹿なの? 脳筋なの?」
「失礼ね。私やあなたのような七面倒臭い人間には最も有効な手段でしょう? 身を以て知っているもの」
そう言って雪ノ下は由比ヶ浜に視線を投げる。由比ヶ浜はよく分かっていないようで、他意のない笑顔で返してはいるが。
なるほど。身を以て、ね。そりゃあ納得する他ないし返す言葉もない。実際、今回も呆れるほど有効だったしな。
「由比ヶ浜さんの告白、私も隣で聞いていて身体が熱くなったわ。……比企谷くん、よくもあれだけの熱量を込めた告白を断れたわね。あなたには人の心というものがないの?」
「必死だったんだよ! 出した答えを感情で裏切るまいと!」
「まあでも、そのおかげで次善の想定通りに事が進んでくれたから感謝しかないのだけれど」
「そりゃあ何よりだよ……」
「うぅ、忘れて……とは言えないけど、恥ずかしいよぅ……」
由比ヶ浜が顔を真っ赤にさせて縮こまる。奇遇ですね俺も穴掘って埋まりたい気分ですぅ。
雪ノ下はそんな俺たちを見てひとしきりクスクスと笑うと、区切りを置くように気息を整える。
笑顔が楽しげなそれから慈しむようなものに変わり、俺は言葉を失ってその美しさに引き込まれた。恐らく、由比ヶ浜も。
「比企谷くん。由比ヶ浜さん」
「うん……」
「ああ」
ただ名前を呼ぶだけの行為に、溢れるほどの愛おしさが詰められている。雪ノ下は一歩距離を詰め、俺と由比ヶ浜の手を握る。
その掌は、雪の名を冠する彼女に似つかわしくないほどに酷く熱かった。
「断言するわ。私はこの先死ぬまでずっと、あなたたち以上の理解者に出会うことなんて絶対にあり得ないと」
「……なんで、そんなに言い切れるんだよ?」
「その自称理解者は、あなたたちと出会う前の私を知らないから。あなたたちと出会ってから変わっていった私を知らないから。私があなたたちをどれほど思っているかなんて絶対に知らないし、私自身余人に伝える気が永遠にないからよ。私にとって私たちの過去は、私たちと平塚先生だけが触れられる不可侵の聖域。それなのに私の上辺だけを見て私の理解者を気取るなんて、むしろ私の逆鱗を踏み躙る行為だというのに」
「ゆきのん……」
「…………」
握った手に負けず眼差しも熱く、言葉に込められた熱量はそれにも増していて、俺たちを心地よく灼いていく。
「私はあなたたちに一人で生きていける強さを貰ったわ。そして、そうなった私を幾ら見たところで私の本質には届かない。私を変えたあなたたちを超えることなんて、絶対に、ない」
「……俺は、そんな大層なもんお前にやった覚えはねえよ。それは、お前が由比ヶ浜に助けられながら自分の力で手に入れたもんだろ」
こんな憎まれ口を叩いてしまうのは、甘美な焦熱が身の丈に合わないと感じてしまうからなのだろうか。
だが、頭のどこかでは間違いなく感じていることでもあった。雪ノ下の変化は、この二人の一方ならぬ努力の結晶だと。無論、今更俺が関わっていないとまでは思わない。それでも、俺如きがそれほどまで他人を変えるほどの何かを為し得たとは……。
「ヒッキー……」
由比ヶ浜が俺の言葉を聞いて悲しそうに眉をひそめる。あぁ、そんな顔をさせたかったわけじゃないのに。
だが、雪ノ下はそんな俺の言葉を受けてなお、一切怯まず真正面から言葉を返してきた。
「比企谷くんがなんと言おうとも、これは事実よ。……でも、そうね。あなたたちに貰ったという言い方が適切ではない、というのなら言葉を変えましょうか。あなたたちが私の心に深く刺さった棘を、長い時間をかけて私と一緒に抜いてくれた。私の心に二人で手を当て傷を癒やし、私が一人で生きていける強さを、私と一緒に作り上げてくれた」
「…………」
「ゆき、のん……」
大切な宝物をそっと取り出すように、穏やかな笑みと静謐な述懐で俺を説き伏せる雪ノ下。
返せる言葉なんて何もなかった。
「そんなあなたたちに並ぶような理解者なんて、この先どんな一生を過ごしたところで現れることなどあり得ない。まして私の心を預ける相手になんてなるはずもない。もう私はあなたたちの思い出だけでも十分に、この先を一人で生きていけるのだから」
余人の干渉を排するが如き物言い。だがそれは四面楚歌であったかつてのときとは違って、危うさのない安定を手にしているように思えた。
「私のために泣いてくれて。私のために怒ってくれて。私と一緒に笑ってくれて。ずっと私と共にいて、私の壁を壊してくれた由比ヶ浜さんと。私のために悩んでくれて。私のために傷ついてくれて。私と一緒に戦ってくれて。ずっと私を守ってくれて、私の手を引いてくれた比企谷くんと」
俺たちの手を握る雪ノ下の掌に痛いほどの力が篭もる。だが、俺も恐らく同じような痛みを彼女に与えてしまっているのだろう。身体の制御がまるで効いていない感覚。五感全てが雪ノ下に埋め尽くされる実感。それが心地よくてたまらない。
「あなたたちを心の中心に置いたまま他の人間に愛を囁くような真似、私に出来るはずがないでしょう? 私、虚言は吐かないもの」
雪ノ下は最後にくすりと笑って、掌に込めた力を抜く。それが緊張を解くきっかけになったのか、俺もまた虚脱したように力が抜けた。
詰まった息が咳き込むように抜けた瞬間、その『トドメ』が飛んできた。
「由比ヶ浜さん。比企谷くん。愛しているわ。この世の誰よりも」
「!」
「ゆきのん……!」
電流を流されたようにびくん、と跳ね上がる俺の身体。実際に流れていたのかもしれない。それほどの衝撃。
「私は、あなたたちと手を携えて、この世界を生きてゆきたい」
握った俺と由比ヶ浜の手をそっと引き寄せ、雪ノ下の胸元で触れ合わせる。三人の手が、また一つの固まりとなった。
雪ノ下に引き寄せられた分の距離だけ俺の足は彼女たちに近付き、同じように引き寄せられてきた由比ヶ浜の顔がすぐ近くにあった。その顔は紅差したように真っ赤であり、きっと鏡を見ても同じような色が見られるのだろうなと自覚する。
「それが叶うなら、私はきっと……幸せになれるから」
そう締めくくって、雪ノ下は極上の笑顔を浮かべた。どれくらいかって? こいつの美しさを散々思い知らされていた俺が、魂抜かれるほどだよ。見蕩れるとはこうしたものか。
「あたしも……あたしも、好き……! 好きなの! 二人のことが大好き! ずっと、ずっと一緒にいたい! ずっと!!」
由比ヶ浜が俺たち二人をまとめて抱きしめて、感情の発露するままその内心を叫ぶ。俺たちの胸元に押し当てるその顔は隠れて見えないけれど、その声音だけでも由比ヶ浜の切実な表情が容易に目に浮かぶのだ。
「俺だって……俺だって……! ああ、そりゃそうだろ。お前らと一緒にいたくないわけがない。言葉が追っつかねえくらい、お前らのことが大切なんだ……! でも……」
ただ、それでも。ぼっちとしての習性か、二人の先行きを思うが故か。俺の中の醒めた部分が、この竜宮城の外のこと。つまり、俺たち三人以外のことに対して警鐘を鳴らしてしまう。
「でもお前、ほんとにいいのか……? その……俺たちは、男と、女と、女なんだぞ」
一体誰が未成年の歪な恋愛事情を認めてくれるというのか。殊に、雪ノ下の家はこういうスキャンダラスな出来事は許しはしないだろうと言う固定された先入観もある。
ただそうであっても、問いかけた自らの言葉の意味を思うと吐き気がした。仮に雪ノ下がそうねやっぱりやめましょうなどと言えば、恐らくもう立ち直ることは出来ないだろう。俺も、由比ヶ浜も。
失いかけた希望を一度はその手に握りしめることが出来て、されど希望は掌の中で崩れ落ちる。それは何よりも手酷い喪失だ。
「どうでもいいわ。そんなこと」
だが、雪ノ下はそんな俺の心配を真正面から切って捨てる。
「二股。共依存。都合のいい女。質の悪い男に誑かされているだけの愚者。好きに言わせておけばいいわ」
そんなものは取るに足らないことだと。もっと大事なことがあるのだと。
「私は自由を手にした。そしてその自由で以てあなたたちと一緒にいたいと願うの。いい? 他の誰でもない、私自身がそう希っているのよ。比企谷くん、由比ヶ浜さん。あなたたちの願望にすら無関係にね」
例え俺や由比ヶ浜が三人の未来を望んでいなかったとしても、雪ノ下自身が願っていることだと彼女は言う。
「私は誰ぞの価値観に許されるためなんかに、あなたたちを失うことこそ耐え難い」
かつて世界を変えると言い放った少女は、今は世界に負けぬと壮語するまでになった。その眼差しに不確かさは一片も見当たらない。
「例えこれで雪ノ下に勘当されるとしても、私に後悔はないわ」
俺たちを抱きしめる由比ヶ浜の背中を叩いてあやしながら、はっきりと俺の目を見て雪ノ下はそう言い切った。
「お前……。せっかく和解できたのに……」
「だからこそ、よ。私はあの母親と決着を付けることが出来た。あなたたちのおかげでね」
瞼を閉じ、思い返すような優しい笑みが唇に乗る。
しばし後、目を開いた雪ノ下が、落ち着きを取り戻した由比ヶ浜と俺の目を順に見つめて口を開いた。
「あの瞬間……私は、認められたの」
「認め、られた……」
「それは……誰に?」
呆然として雪ノ下の言葉をオウム返すだけの俺と、雪ノ下の想いを取り出そうと問いかける由比ヶ浜。
「母と……私自身に」
「……うん。そっか」
恐らく、由比ヶ浜は理解できていたのだろう。慈しむような大人びた微笑みが、一言で雪ノ下の答えを飲み込む懐の深さが、俺にそう思わせる。
「だから、もう、怖くない」
そう言って、雪ノ下は俺たちを抱きしめる。
「怖がらずに、大切なものに手を伸ばせるの」
「……そう、か」
雪ノ下の答えは聞いた。由比ヶ浜の願いは受け取った。ならば、最後の一歩くらいは俺から踏み出すべき……いや、俺から踏み込みたい。
他の誰でもない、俺の望みで。
「……やる」
「比企谷くん?」
「ヒッキー?」
「俺の人生、二人にやる。……大したもんじゃねえけどさ。それでも、俺の持ってるもん全部やるよ」
由比ヶ浜に、雪ノ下に抱きしめられながら、俺の両腕も二人を抱きしめる。目を閉じて、二人を想い、先を思う。
「……多分、色々言われると思うんだよ。普通の形じゃねえから。でも、俺はもうお前らを諦めたくねえ。……悪いんだけどな」
きっと、楽しいことだけじゃないだろう。喜ばしいことだけじゃ済まないだろう。世の中には、わざわざ自分の足を止めてまで他人に石を投げるような奴は幾らでもいる。
「だから、色々不利益とかも被ると思うけど、贖いに足りるかは分かんねーけど、俺の人生は二人にやる。その代わり――」
逡巡を蹴り飛ばして、目を開く。時間を止めてから泣き続けてきた由比ヶ浜の少し赤くなった瞳、今日の結末を描いて走ってきた雪ノ下の透き通った瞳。そんな二人の驚いたような顔が、言葉の続きをするりと引き出してくれた。
「雪乃。結衣。お前らがもういいって、そう思うまでは。お前らの側で、お前らの人生を歪ませ続けさせてくれねえかな?」
『私/あたしで良ければ、喜んで』
誂えたように、その返事は寸分の狂いなく揃っていた。
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26話
「っっはあああぁぁー……」
事が済んで関係性が定まって、これで終わったんだと思ったらものっそい長大息が出た。
そのままふらふらと倒れ込みそうになり、勉強机に左手を突いて身体を支える。
とさっと小さな音が聞こえてそちらを見れば、絨毯の上に由比ヶ浜がへたり込んでいた。
「由比ヶ浜さん?」
「あ、はは。ヒッキーの溜息でなんか……力抜けちゃった」
「おう……大丈夫か?」
「うん。ヒッキーも?」
「気力が尽きただけだしな。……正直、雪ノ下の実家に乗り込んだときより緊張した気がするわ」
「あたしは……おんなじくらいかなぁ……」
「二人とも精根尽き果てているわね。……紅茶、淹れてくるわ。少し待ってて」
そう言って、一人元気な雪ノ下は部屋を後にする。一人だけ円満な終局図が見えていた仕掛け人だから、余裕もあったのだろう。
「ん、頼むわ」
「ありがとー。あたし今なんかすっごく飲みたい気分」
その言い方だと誤解生むぞ? アルコールじゃないよな? 雪ノ下の紅茶をだよな? なんて、聞かなくても分かる。俺も同じ気分なのだから。
「あー、でも良かったぁ。ヒッキーとゆきのんと、これからもずっと一緒だぁ」
言いながら、由比ヶ浜は絨毯に大の字に倒れ込む。雪ノ下のことだから掃除は欠かしてないだろうし綺麗なんだろうけど。
「由比ヶ浜、地べたに寝っ転がんのはやめとけ。雪ノ下が戻ってきたら怒られ……なんだよ?」
ゆるゆるの笑顔だった由比ヶ浜は、俺の注意の途中でむくりと上体起こしてから物言いたげな目で俺を見る。
「むー……」
「由比ヶ浜?」
「それ!」
「どれだよ」
俺の呼びかけにびしっと人差し指突き付けて指摘する。のはいいけど指示語のみのハイコンテクスト、俺に理解できるわきゃあないでしょう。
「さっきは呼んでくれたのに……」
お団子をくしくしと弄りながら、拗ねたように目を背ける由比ヶ浜。
思い返す。それ、呼んでくれた、さっき。流石にここまで揃えば察するものもあるけど、いや君も今ヒッキーゆきのんって言ってましたよね……?
「結衣……ヶ浜。その、なんだ。そんな、一足飛びにしなくても良くね? って、俺は思ったりなんだりするわけなんですが……」
「今日はそういう日じゃないの?」
「む……」
そう言われてしまうと全くその通りだから返す言葉もないんだけど途中までがんばろうとした俺の努力とか……あらやだちゃんと気付いてるわこの子。
「いやまあそうなんだけど、お前だって」
「八幡くん」
言葉に詰まる。そうやって慈愛を込めてさらりと呼ばれてしまっては、立つ瀬も言い訳もないわけで。
「……結衣」
「なあに、ヒッキー?」
「おま、おい」
「あはは、ごめんね」
ぺろっと舌を出す由比ヶ浜。くっそ、あざといって言ってやりたいのに由比ヶ浜がやると可愛いだけだから困るんだよ。
「うん、ごめんね。でも、あたしにとってヒッキーとゆきのんって呼び方も大切なんだ。誰にもあげない、あたしだけのもの。ふふ、あたしずるいなぁ」
ずるいと自嘲する由比ヶ浜の表情に、自責の陰は見られない。
「……お前、意外と独占欲強いのな」
「そうだよ。知らなかった? だからもうヒッキーとゆきのんは絶対に離さないの」
そう言って、戯れに俺の方に右手を伸ばし、虚空をぐっと掴む。そんな子供っぽい仕草に、きっちり心が掴まれてしまうから俺ってばほんとちょろい。思わず心の臓に手を当ててしまい、鼓動を掌に受ける。
……離さない、か。
「……俺も知らなかったんだけどな、意外と俺も独占欲強いみてーなんだわ。だから、その……」
離さない、と言うなら、俺だってこの二人を手放す気など毛頭ない。
由比ヶ浜と雪ノ下が誰か俺の知らん奴と恋愛して結婚して家庭を作ってって考えようとしたら恋愛の時点で吐き気が襲ってきて挫折した。雪ノ下が言ってた脳が拒絶するってのはこういうことか。
「……災難だな。お前らのこれからの人生、俺如きに歪められ続けるんだ」
「それは、寄り添うって言うんだよ」
思わず目を見開いて、由比ヶ浜の笑顔をまじまじと見つめてしまう。何度目だろう。由比ヶ浜の優しい笑顔と言葉に、自分の欠けた部分を埋めてもらうのは。そしてその度に惚れ直すのは。
「……そか」
「うん。そうだ」
しばしの余韻。それを突き崩すのに、殊更皮肉気な笑みを浮かべてみた。
「……お前に日本語を指摘される日が来るなんてな。明日は雪か?」
「ふっふーん。あたしも受験勉強したからねー。大学は絶対受かってみせるんだから」
「そうね。あれだけ勉強したのだから、落ちたりしたら……」
声のする方を見れば、器用に片手でお盆を保持しながら逆の手で扉を開き戻ってきた雪ノ下。雪の下の残り香に包まれた部屋に、紅茶の香りが混ざっていく。
「あ、おかえりー」
「いや怖い、怖いから。落ちたりしたらなんなの。それと声かけてくれれば扉くらい開けるから。お盆落っことしたら危ないだろ」
学習机にお盆を置いて、未だにそこに佇む俺や絨毯に座り込んだ由比ヶ浜にティーカップを配る。受け取ったカップを傾ければ、舌に踊るは慣れる程に親しんだ味。
配り終えた雪ノ下はベッドに座って、自身も紅茶を傾ける。珍しいな、そういう行儀の悪いことをこいつがするなんて。
「勝手知ったる我が家よ? そんなミスはしないわ。由比ヶ浜さんも、つまらないミスさえしなければ合格出来るくらいには勉強させたもの。それで落ちるようなら……」
「お、落ちるようなら?」
「あなたが浪人生をしている間、私と比企谷くんの二人だけでキャンパスライフを描くことになるけれど?」
「絶対受かる!!」
「そうしなさい。私も三人で学生生活の続きを送りたいわ」
「ニート予備軍のモラトリアム期間延長みたいな話だな」
「そうね、ヒキニートくんからすれば大学進学はそうなるのかしら」
「おいやめろバカ、しっくり来すぎてやばいんだよその呼び方」
「しかも両手には誰もが羨む高嶺の花で、その二輪はあなたしか見えない程にべた惚れ。女の子二人を侍らせて心機一転大学生活、まさに我が世の春ね?」
「何も反論できないけど、それ自分で言うのか……」
「言うわよ。私たち可愛いから。それに、比企谷くんしか見えていないのだから」
「……俺の方も、高嶺の花二輪しか見えてないって事で勘弁してくれ」
「ふふ……。さて、どうしましょうか」
俺たちはそうやってまた、しばらくの間とりとめのない話を楽しんだ。紅茶の香りはいつだって俺たち三人の間を温めてくれていた。
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27話
紅茶を飲み干しケトルのお湯も尽きて、人心地。雪ノ下がベッドから立ち上がり、カップを回収してトレイに置く。ふぁ、と由比ヶ浜の可愛らしいあくびが聞こえてきた。
「ん……。そろそろ、時間動かすか?」
それに連鎖してか、俺自身脳の奥の痺れるような眠気を自覚して、雪ノ下に問う。
なんだかんだで死ぬほど疲れた。迎えられた誰の後悔のない結末と相俟って、帰ってからもきっと良く眠れることだろう。
そういや今外は何日の何時なんだろ? 起きてからそこまで時間経ったわけじゃないとは思うけど、と思った辺りで雪ノ下からの返事がないことに気付いた。
「雪ノ下?」
「……そうね。比企谷くん、この時計に電池を填め込めば、この部屋の時間も動き出すわね」
「ん、ああ」
「でも、比企谷くんも由比ヶ浜さんも大分疲れているように見えるわ。眠くないかしら?」
「あ、うん。へへ、ごめんゆきのん。あたしもう一日泊まってっていいかな……? なんか今帰ったら、ほんとは全部夢だったみたいな気分になっちゃうかもだし……」
「勿論よ。あなたを拒む門を私は持っていないし、いつまでだっていてくれて構わないわ。……それで、だけれど。比企谷くん、改めて、私たちの関係って……何かしら?」
「はっ!? えっ? えーっと、それは、まあ……こ、恋人?」
「そうね。全員双方向で完璧な三角関係の恋人同士ね。それで、ここはどこかしら?」
「なに、どしたのお前。自分の部屋忘れちゃった?」
「忘れるはずないでしょう。由比ヶ浜さんじゃないのだし」
「あたしだって自分の部屋忘れないよ!?」
「冗談よ。……そうね、ここは私の部屋よね。もう少し状況にそぐう言い回しをするなら、恋人の、寝室」
「え、おま……」
「……ゆきのん?」
雪ノ下の声に、艶が混じり始める。その表情は、三人で在ることを拒絶していると俺たちが錯覚していた、その実誰よりそれを求めていたときの完璧な微笑。
「今っていつかしら?」
……止めた時間なら、時計を見ればすぐに分かる。
「一月三日、午後十一時五十分、だな」
「……ゆきのんの誕生日の、夜」
ああ。これも由比ヶ浜の言い回しの方が正しいのだろうな。彼女はこういうときいつも答えをまちがわなかった。
雪ノ下に触発されてか、色付いていく由比ヶ浜の声に気を取られていると、手首に触れる柔らかな感触。
「比企谷くん」
「……なん、うぉっ、と!?」
雪ノ下に手首を掴まれたと思ったら、どこをどうやったのかくるりと投げられてベッドに軟着陸させられた。
「恋人の誕生日の夜に、のこのこと寝室までやってくるなんて。無防備もいいところね? 悪い狼に食べられてしまっても知らないわよ?」
「呼んだのお前だろ……」
軽口を叩きながらも、心臓の律動は喧しいことこの上ない。いつも一人で処理するときに幾度も幾度も擦り切れるまで脳内再生した二人の艶姿、勝手に浮かんでこようとするそれを無理矢理押し込める。
「性欲を持て余した若い男女が夜更けに寝室ですることなんて、古今東西一つきりでしょう?」
「ゆきのん……」
熱に浮かされたような表情で近付いてくる由比ヶ浜。それを横目に、覆い被さるように俺の左胸に手を突いて見下ろしてくる雪ノ下と向かい合う。
御簾のように降りる絹の如き黒髪が頬にかかり、雪ノ下に愛撫されているような心地になってしまう。心臓が跳ねる。
「三人で一緒に、寝ましょう」
その言い回しに、一気に肩の力が抜けた。由比ヶ浜からも苦笑のような気配が伝わり、ベッド脇まで来た彼女が、雪ノ下の肩越しに見えるようになった。
「うん、あたしも賛成。すごく気持ちよかったし」
「ああ、そうするか。きっとまた熟睡出来」
「……ああ、ごめんなさい。言葉が足りなかったわ」
俺の語末を切り落とす雪ノ下の表情は変わっていなかった。あの吸い込まれるような完璧な微笑。
「一緒に、寝ましょう」
息を呑む俺たちをそのままに、一拍置いて、続ける。
「今度は、大人のように」
言葉を失う。冗談でもなんでもなく、雪ノ下は俺たちを求めていた。
「私たちはもう、思いの通じ合った恋人同士なのだから」
「ゆき……のん……」
雪ノ下の言葉の意味を、衝撃を、願望を、俺が咀嚼して飲み下している間に、一足先に由比ヶ浜が再起動したようで、俺に覆い被さる雪ノ下をそっと押す。
「……つめて」
「ええ。勿論よ」
俺を乗り越えて、正中線を境に左半分を占有する雪ノ下と、軽くスプリングを軋ませて、ベッドに乗り込み右半分を新たに独占する由比ヶ浜。
「……ヒッキー」
「……なんだ」
腿に脚を絡めて、胸に腕を突き、雪ノ下と並んで見下ろしてくる由比ヶ浜。顔は真っ赤で、触れる掌も熱いけど。その声は揺れていなかった
「今日は、そういう日、だよね」
一足飛びに距離を縮めるための日。先程の雑談で指摘された言葉そのままに。
「あたしは……いいよ」
誘うように。迎えるように。由比ヶ浜の指先が、俺の胸にのの字を描く。
「……八幡くん、の。好きに、して?」
「っ!」
「あっ」
「きゃっ」
衝動的に二人を抱き寄せていた。二人の胸が、俺の胸板に当たって柔らかく歪む。
「……強引ね」
「あは……。あたしたち、どうされちゃうのかなぁ?」
「……雪乃。結衣」
『……はい』
最後の一歩は、俺から。
「しよう。三人で」
二人からの返事は、満面の笑顔と両頬への口付け。
天上の快楽がこの世に存在することを、俺は知った。
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28話
溜めて溜めて溜めて存分にイチャイチャさせることができました。
ヒッキーとゆきのんとガハマさんは一生イチャラブしてればいいと思います。そういう話もっと増えろ。
お気に召していただけたのなら、よければ他の作品もいかがですかと置いておきます。
https://syosetu.org/?mode=user_novel_list&uid=210579
「~♪」
「由比ヶ浜さん、楽しそうね」
「ふふー、羨ましい? ゆきのんもやる? どっちがいい?」
「どちらもやらせてもらうわ。後でね」
「あたしも後でやってもらうねー」
「お前ら、俺の意見は」
「聞く必要があるかしら?」
「ダメなの?」
「……ダメじゃないです」
「ならよし!」
現在の状況。文字通り精根尽き果てるまで色々、うん、まあ、死ぬほどがんばった俺は、由比ヶ浜に膝枕されて頭撫でられながら雪ノ下に腕枕しつつ頭撫でてる。つまりは天国だ。一方ならぬ体液を吸ったシーツだけは雪ノ下の手によって新品に換装されて、裸身の俺たちを包んでいる。
寝室の雪ノ下の匂いは俺たち三人の行為の匂いに上書きされた。雪ノ下、この部屋で明日から平静で寝られるのかしら……。
「あ、痛っ」
「由比ヶ浜!?」
「きゃっ」
穏やかに俺の頭を撫でていた由比ヶ浜が、震えるようにびくりと身体を強張らせた。
思わず半身を跳ね起こし、腕枕してた雪ノ下を転がしてしまう。
「あ、違う違うのだいじょぶへーき。ってかゆきのんこそだいじょぶ?」
「え、ええ。ちょっと驚いただけ……。由比ヶ浜さん、どうしたの?」
「あ、えっと……。ヒッキーに、その……あたし、初めてだったから……ね?」
「ああ……。凶悪だったものね。私も鈍痛は残っているわ」
じわっと頭皮の汗腺が開く感覚。話題が俺に針のむしろ過ぎる。その痛みを与えた当の本人がどの面下げて話に入れというのか。
「それにしても……まさか使い切るとは思わなかったわ。一ダース」
「あ、あたしもそれ思った。男の人ってそれが普通なのかな?」
「保健の授業で学んだ限りではそうでもないはずだけれど……。どうなの? 比企谷くん」
「……黙秘権は?」
「どうなの? 比企谷くん」
ないですよね知ってた。知ってたけど超言いづれえ……。
「……………………お前らが綺麗すぎて可愛すぎてエロすぎるのが全部悪い」
一日で二桁とか生まれてこの方やったことなかった、どころか俺に可能だとすら思ってなかったわ。
「わ……ヒッキーに素直に褒められるとなんかすごい照れる……」
「そ、そうね……。そう滅多にあることじゃないから……。エ……最後の評価は少し気になるところだけれど」
「でもゆきのん、肌超すべすべだし染み一つないし余分なお肉付いてないし、ほんとキレイって思うなぁ」
「余分な……と言うけれど、あなた全部胸に行っているじゃない。比企谷くんそこで三回も出したのよ? 三回も。私のでは一回しか出していないのに。三回も」
「そういうの数えるのやめてくれませんかねぇ!?」
「えへへ……おっきくても変に目立ったり嫌な目で見られるばっかでいいことなかったけど、ヒッキーが喜んでくれるんなら、あたしこれで良かったな」
「比企谷くん釘付けだったじゃないの。まあ彼がそこに視線を吸い寄せられるのは今日に限ったことじゃないけれど」
「もうやめたげて……俺のライフはとっくにゼロよ……」
「泣かない泣かなーい。よしよし」
「強制的にライフが回復されるぅ……」
「初めての童貞が付け損なうのに一回、私の中に二回、由比ヶ浜さんの中に二回、私たちに挟ませて一回ね。……ぜいたくもの」
「回復した端から削られてくぅ!」
「後はあたしの胸に三回、ゆきのんのに一回、口が一回ずつ、それと付ける前、最初二人で手で触ったときに一回出ちゃったね。と言っても、最後の方はびくびく震えるだけでほとんど何も出てなかったみたいだけどさ」
「やめ……やめてください……やめ……」
しょうがないなぁって感じの生暖かい目で見られながら指折り数え上げられてスリップダメージがゴリゴリ入る。てか由比ヶ浜もきっちり数えてたのね……。
「それにしても、まさかあんなに不味いものだったなんてね……。由比ヶ浜さん、よく飲み込めたわね?」
「うーん……。確かに美味しくなかったけど、ヒッキーのだったしさ」
「だそうよ? 献身的な彼女に何か言ってあげることはないの?」
「……えーっと、その、な?」
「う、うん……」
「…………」
「…………」
「……言ってあげることはないの? 黙ってないで」
「ぐ……そりゃ、すっげえ嬉しかったし、無茶苦茶興奮したけど……でも、無理はしないでくれ。お前が辛いのは、嫌だ」
「だ、大丈夫無理してないから! ヒッキーのだし!」
「愛されてるわね。本当に」
「……おう」
全く以て、俺如きには過ぎた彼女だ。
「あはは……あ、でもゆきのんがちゃんと用意してたのびっくりしたかも」
そう、0.01ミリ三個入り四箱一ダースを用意したのは雪ノ下だった。俺? 元々それどこじゃなかったし、大体由比ヶ浜を振ったその場で雪ノ下とそういうことするなんて考えられるわけねーだろ。
「三人で居続けるという結論を見据えていた以上、その場でまぐわいあう可能性も低くはないと思っていたもの」
すまし顔で言ってるけど、最初にモーションかけたのってどなたでしたっけ……? いや俺も由比ヶ浜も否やなんざあるわけねえんだけど。
「あー、もしかしてわざわざ紅茶淹れに行ってくれたのって、それ?」
由比ヶ浜は勉強机に並べられた三つのティーカップに視線を投げる。おっつけ雪ノ下もその視線を辿り、くすりと笑って答えた。
「二人が消耗していたから、純粋に労いのつもりだったわよ? ただ、その時についでに持ってきたのも事実ね。鋭いわ」
「ほら、部屋の時間を止めるってゆきのん言ったじゃん。なのに外行ったから、なんとなく引っかかってて」
「すげぇな由比ヶ浜……」
なんでそれでわかんの? ニュータイプなわけ? 君のような勘のいい彼女だと浮気とかしたら即バレしそう。殺されたってするわきゃねえけど。
「時間かぁ……。もうすぐ冬休みも終わって、そしたらすぐに大学入試で、学校も来なくて良くなって……卒業」
「そうね。そして、大学生になるの。……受験に受かればだけど」
「受かるよ! 絶対受かる!」
「ええ。今のあなたなら受かるわ。絶対に」
「まあ……お前、滅茶苦茶頑張ってたしな。その、なに? あれだ、総武高校ですら受かったんだから、大学なんざ余裕だろ。気楽に受けろ」
「あたし高校受験のときだってちゃんと勉強したかんね!? ……でも、ありがと」
「ふふっ……。もうちょっと素直に激励できないの?」
うるせえ。それが簡単にできたら苦労しねえよ。
完全に見透かされてるのが無性に気恥ずかしくて、でも膝枕に腕枕でそっぽ向くことも出来ず、燻った感情を溜息に乗せて逃がした。
「大学生になっても、こうやってまた三人で一緒にいられるよね……?」
「当たり前じゃない。そのための今日でしょう? むしろ私は同棲まで考えているのだけど」
「どっ!?」
「ええええっ!? ゆきのん、それ……!」
「驚くこともないでしょう。既に一線は越えているのだし、何より……」
そこで言葉を一旦切って、雪ノ下は腕枕されたまま眠るように目を閉じる。
「こんな幸せな臥所、一度知ってしまったらもう戻れないわ」
「うー……ゆきのん、交替! 交替!」
「後でね。ふふっ」
「まあ、幸福なのは分かる……。溶かされる……やべえ……でも抗う気が全く起きねえ……」
頭を乗せている由比ヶ浜の腿をそっと撫でる。
「……交替しましょうか、そろそろ」
「んー……やっぱり後でいいや。ふふ」
手櫛で梳かすように、由比ヶ浜が髪を優しく撫でてくる。あぁ……幸せ……。
「同棲と言っても、毎日身体を重ねようとかそういう話じゃないの。子供のようにでも、大人のようにでも、私たちの気の向くままに。日々共にある幸いを存分に謳歌したいだけよ」
それは、なんて。素敵で贅沢な、日常。
「……ああ。いいな」
「うん! 大賛成!!」
「受験が終わったら、一緒に住処を決めましょう。きっとそれも楽しいわ」
「やるやる! あたし、大学入ったらやりたいこといっぱいあるんだぁ。夏祭り行ったり、パーティーしたり、高校の同窓会開いたり、花火とか買い物とか他にもいろいろ!」
「由比ヶ浜さん、あなた仮にも学生を継続するのだから勉学にも少しは比重を置きなさい」
「つーかぼっちにゃきついイベントばっかじゃねえか。なあ雪ノ下……雪ノ下?」
この手の考え方に置いては同類であるところの雪ノ下に話を振るが、雪ノ下は腕枕されたまま俺の顔をじっと見つめて、何事かを考えていた。
やがてまとまったのか、雪ノ下が口を開く。
「……比企谷くん。一つの命令と、一つのお願いがあるわ」
「お、おう……? どうした急に」
「ゆきのん?」
「もう、自らをぼっちと騙るのはやめなさい」
「騙るって……」
「学校一の美少女が二人、あなたを慕っているのよ。あなたはひとりぼっちなんかじゃないわ。……私たちが、させないわ」
「……うん。そうだね。あたしもそれがいいと思う。それにあたしたちのこと抜きにしても、ヒッキーはもうちゃんと友達いるじゃん」
「そうね、あなたは既にぼっちと言うには人に関わりすぎているでしょうに」
「……関わるっつっても、それは仕事で」
「あら、それなら私や由比ヶ浜さんとの繋がりも仕事の上だとでもいうつもり?」
「……その言い方は意地が悪いだろ」
「ふふっ。あなたを矯正するためなら意地の一つや二つ、幾らでも悪くしてあげるわ。きっかけがなんであれ、共に過ごした時間に嘘はない。そうでしょう」
「つっても、俺なんかがなぁ」
「ヒッキー。あたしの大好きな人はなんかじゃないよ」
「……そうね。それならあえて繰り返しましょうか。むしろあなたの過小評価を自覚しなさい。その……上手く言えないのだけれど、あなたがあなたでなかったら、きっと私たちはこうなってはいなかったわ」
由比ヶ浜の真っ直ぐな否定と、雪ノ下の探るような言葉が耳と意識を打つ。繰り返すという言い回しに、決着を付ける前、もうちょっと正確に言うならお風呂に入る前にも全く同じことを言われたのを思い出した。
『こう』なってはいなかった。それは確かにその通りだろう。俺も、雪ノ下も、由比ヶ浜も。誰か一人でも違っていれば、決してこうはならなかった。
「だいたい、私や由比ヶ浜さんが何の価値もない男に望んで一生を捧げたがると、あなたは思うの?」
「っ!」
鮮やか極まりないチェックメイト。なるほど確かにその通り。俺はもう、この二人から思いを寄せられている人間なのだ。他の誰でもない、この俺が。
「あなたの私たちに対する評価がその程度であるならもう何も言えないけれど……。そうでないのなら、先程の答えも理解できるでしょう」
「うん……。あたしたちは、ヒッキーが大好き。嘘じゃないって、分かるよね?」
お手上げ白旗完全敗北。少なくとも、もう無用な自虐なんざ一生するわけにはいかねーわな。
俺はこれでいいと。雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣から、彼女たち自身に値する男だと。そう認められたのだから。
「間違いなく、あなたの過小評価。異論はないわね?」
「……ん。完膚なきまでに論破されちまったな」
「当然よ。……私たちが愛した男なのだから」
腕枕する雪ノ下と、真っ直ぐ視線を交わし合う。得意気な彼女の笑みが眩しい。
「うー、もうガマンできない!!」
「お?」
由比ヶ浜が俺の頭を両の手でそっと支えて、膝枕を静かに抜く。代わりに横に置いていた枕を宛がって、一旦ベッドから降りた由比ヶ浜は、腕枕で向かい合う俺と雪ノ下に覆い被さるように二人まとめて抱きしめてきた。
「はぁー……あたし、ほんと幸せだよぅ……」
「由比ヶ浜さん、甘えん坊ね」
「うん。あたし甘えんぼ。だって、ヒッキーに恋してるゆきのんと、ゆきのんを愛してるヒッキーを、あたし好きなだけ大好きでいていいんだよ? 最強の三角関係じゃん!」
「ええ。完璧な、ね」
「ああ。本物の、な」
雪ノ下に焦がれる由比ヶ浜と、由比ヶ浜を恋い慕う雪ノ下を、誰憚ることなく愛する権利。これを幸せと言わずして何と言おうか。
「あ、そういえばゆきのん。命令ともう一つ、お願いがあるって言ってたよね。そっちはなんなの?」
「ああ、そうだったわね。比企谷くん、マックスコーヒーは控えなさい。口寂しいなら紅茶なり珈琲なりいつでも淹れてあげるから。あんなもの飲み続けて糖尿にでもなられたら困るもの。私たちを残して先立つなんて、絶対に許さないわ。何より、もう不要でしょう? だって……」
雪ノ下はそこで言葉を切って、悪戯っぽい笑みで由比ヶ浜に視線をやり、何を暗黙に了解したのか、うなずき合って二人で俺を見つめてくる。
「もう、苦くはないでしょう? あなたの人生」
「そうだね!」
「違いない」
三人で笑い合う。俺たちの先行きを願って、いつまでも。
やはり俺の、俺たちの青春ラブコメは、完璧にまちがってしまっているようだ。
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完璧な三角関係アフターストーリー前編 極楽
あの後、俺たちはいつの間にか眠りに落ちていたらしい。
標準時刻的な意味での雪ノ下の誕生日当日、確かに俺たちはその約三分の二を夢も見ない深い深い眠りの中で過ごしていた。とは言え、元日……というか年の瀬から寝食すらも惜しんで彼女たちとの結末を考え続け、その前は雪ノ下の家族との和解のために揃って奔走し続けていた身だ。長い眠りから覚めた後も、別離の覚悟とそれを軽々上回る苦悶絶望後悔懊悩、そこからまさかの逆転劇というメンタルの乱高下。果ては……うん、まあ、彼女たちとの初体験。まちがいなく人生で一番出した。積もり積もった心身の酷使に、あの睡眠だけでは足りていなかったということだろう。ツケが溜まりすぎていたというわけだ。まあ今は時が止まっているからどれだけ寝たかは分からんのだが。
内心で冷静に現在に至るまでの状況を冷静に整理しつつ俯瞰した視線で冷静な評価を冷静にだな。つまり冷静に落ち着け俺。
いつの間にか眠りに落ちていたらしい、と先程俺は考えた。それはつまり、目が覚めたからこそ自分がそうあったのだろうと気付けたと言うことを意味するわけでだな。
さて、後はここに寝る前の状況を代入するだけでもう容易に分かるだろう、今の俺の状況が。数のおべんきょうがどんだけ嫌いでもきっと簡単に正解できるはずだ。
「すー……すー……」
「くー……くー……」
美少女は寝姿まで整っているものか。間接照明の薄暗がりの中、二人とも静かな寝息を立てて、穏やかに幸せそうに寝入っている。
俺の隣には至高の裸婦像にも容易に勝る美しさを持つ雪ノ下雪乃が。俺たちに覆い被さるのは最上の花魁すら足下に及ばない艶やかさを持つ由比ヶ浜結衣で。
眠る前の俺たちが自然とそうしていたのだろう。少なくとも誰かがそうしようと殊更口にした覚えはない。俺の両手は、二人の恋人繋ぎの相手方になっていた。
ああ、それはいいんだ。むしろ俺が自然とそうした、そうできたという事実が喜ばしいくらいだ。恥ずかしさが先に立ってとても二人には言えねえけど。
問題は……。
「すー……すー……」
「くー……くー……」
気持ちよさそうに眠り続ける二人が、今も裸身であるということ。そして自然に目覚めるまで眠り続けた俺の体調が快復して、つまりだな、一ダース撃ち尽くしたって勝手に残弾は補給されていくってことだ。
当たり前だが両手繋いで密着してるんだから身体の前面は全面密着してるし、二人のきめ細かい肌の暖かさと柔らかさと芳しさはそういう快感も十二分にもたらしてくれる。ビッキビキだ。ぶっちゃけ身じろぎするだけでヤバそう。ヤバい。わざと動き続けたら暴発するね。まちがいない。
「すー……すー……」
「くー……くー……」
「はぁ……」
とか言ったところで二人を起こすなんて選択肢はないし、何より二人の寝顔眺めてるだけでもなんか勝手に湧いてくるものもある。いや性欲とかそっちじゃなくてだな?
まぁ、なんだ。今ならあいつらが言っていたことも分かる。確かにこれは幸せだ。
そうだな。もうしばらくこのまま待つとしようか。飽きるか、起きるか、するまでは。
でもこれ前者は有り得ないなと自覚しつつ、俺は繋いだままの手にほんの僅か力を込めた。
あれからどれくらい眺め続けていただろうか。薄闇の中、由比ヶ浜の瞼が開いたことで彼女の目覚めを察知する。とはいえ、彼女自身は未だ夢現の中にいるようだが。
「……ひっきぃ?」
「おう。おはよう」
その瞳がぼんやりとこちらを捕らえ、いとけない声が唇から漏れる。その表情は年齢以上に幼く無防備に喜色で満たされ、目の前に迫って、え?
「んっ」
「ッ!?」
繋いだ手を引っ張られ、身を乗り出した由比ヶ浜に目覚めのキスをされた。……目覚めのキスって寝起き側からやるもんだっけ? 考える余所事は欠如した現実感の証。
啄むように二回、三回と重ねられる柔らかな唇に、急速に追いついてくる実感。加速度的に熱を持っていく顔が、恥ずかしさと裏腹に由比ヶ浜を求めていく。
由比ヶ浜と繋いだ左手をそっと解き、背中に腕を回して思いっきり抱き寄せる。繰り返される口付けにこちらからも積極的に応え、唇を食み、舌を絡ませ、唾液を交換する。
双方の息切れを以て、長引いた目覚めの儀式は終了した。間近に見る紅の顔は酸欠か恥じらいか欲情か。何かを考える前に互いの荒い吐息が再度引かれあい、
「朝から熱烈ね」
冷めた声音に相応しい温度の水を差される。
「あ、あはは……おはよ、ゆきのん」
「ええ、おはよう」
俺たちに覆い被さる由比ヶ浜の身じろぎに、雪ノ下も覚醒に至っていたようだ。そりゃそうだ。
「……比企谷くん。初めて共寝したもう一人の恋人に対して何か言うことはないのかしら。露骨な扱いの差は人間関係においてっんんっ!」
雪ノ下からの露骨な催促に、滔々と捲し立てる口を口で塞ぐ。よく回る舌を吸い、甘噛みすると雪ノ下の身体が跳ねる。それを押さえつけるように、両の腕で彼女の肢体を強く掻き抱く。由比ヶ浜は気を利かせて、既に俺たちの上から降りてくれている。
ベッドからも降りた彼女の顔をちらと見れば、嬉しそうににこにことこちらを見下ろしていた。顔を見た傍ら視界に入った発育の暴力は、片腕で両の先端が隠されていてなお凄まじい破壊力。万乳引力の法則は健在だ。凝視してると雪ノ下に押しつけているビッキビキが限界を超えそうだったので、すぐに目線を雪ノ下に戻す。
雪ノ下は縋り付くように強く抱き返してきて、離した唇から荒い吐息が零れる。互いに相手を縛り付けんとする強烈な抱擁。圧搾される肺から恍惚の吐息が漏れ、交換される。
そのまま暫し。蕩けた視線が交差して、お互いの肉体に抱擁の痕をうっすらと残してから、ようやく俺たちの抱き合いが終わる。
「おはよう、雪乃」
「……ずるいわ」
雪ノ下は真っ赤な顔でそっぽを向く。
俺は由比ヶ浜と顔を見合わせ、小さく笑った。
雪ノ下のおねだりに答え終わると、するりと由比ヶ浜がシーツに潜り込んできて俺たちの腕をとる。
「……ね、おはようしたけど。この後はどうしよっか?」
抱きつかれた左腕には由比ヶ浜の柔らかな双丘の片割れが押しつけられていて、すぐにでも逆の手で揉みしだきたくなるところだが流石にそういうわけにもいかない。本能に命じられるまま即座に第十三回戦に入りたくなるところをぐっと堪え、見上げる視線の可愛さに抵抗力を削られつつもどうにか答える。
「そうだな……。このまま十八禁なシーンに入るわけにはいかないし、ウェットシートとかで簡単に身綺麗にはしたとはいえ昨夜は結局あのまま寝ちゃったし、お風呂入る……のが、いいんじゃないかと、思いますが……」
俺が言葉を重ねるに従ってちょっと寂しそうにする二人に語末が力を失っていく。
「……エッチなこと、ダメ?」
小首を傾げて誘うように問うてくる由比ヶ浜に、簡単に理性がぐらついてしまう。
「……やめろよそんな可愛く言われるとうっかり負けちゃいそうになるだろ」
「私も……その、初めて出来た恋人なのだし、多少浮かれて羽目を外すくらいはしてもバチは当たらないと思うのだけれど……」
恥じらいからか視線を外して、それでも甘えるように右手の小指を遠慮がちに握ってくる雪ノ下。
「だからお前ら俺の理性がなんとか耐えてる内にやめるんだ。その誘惑は俺に効く」
受け入れ態勢ばっちりの二人に今すぐにでも獣となって襲いかかってしまいそうになるが、なけなしの理性を総動員して水際で踏みとどまる。促されるままに盛って思うさま二人を貪りたい欲求はあるが、あるというかむしろ脳内それ一色に染まりかけているが、それでも超えてはいけない一線がある。Rの付く十八度線だ。
「……負けちゃってもいいよ? やらかいよ?」
「……昨夜は十二回も求めてくれたのに」
見せつけるように自分の胸をふにふにと揉む由比ヶ浜と、縋るように上目遣いで軽く拗ねてくる雪ノ下。誘惑の暴力だろこんなの。
「いや俺だってそうしたいのは山々ですが! ……そのだな、ぶっちゃけもう、その、ゴム……ないだろ? あと回数は忘れてください……」
『あ』
そう、雪ノ下が準備していた0.01ミリ三個入り四箱一ダースは昨日で使い切った。俺や由比ヶ浜が主観では愁嘆場予定だった誕生日会にそんなもん用意してるはずもなく、つまりはそういうことなのだ。
……学生妊娠なんてやらかしたら、ただでさえ後ろ指指される俺たちの関係に、無駄に余計な差し出口を呼び込む可能性が極めて高い。無論のこと、何があっても離れない覚悟は人生賭して決めてはいるが、そこはそれ。こいつらに無用な重荷を背負わせる可能性は低い方がいいに決まっている。
「……盲点だったわね。次からは業務用でも常備しておこうかしら……」
業務用てお前……。どんだけ爛れた生活送るつもりなんだ。心惹かれるし抗える気がしないからやめてくれ。
「でもヒッキーがそういう気遣いしてくれるのってなんかすごいぐっとくるかも。あたしたちとの将来、ちゃんと考えてくれてるってことだもんね?」
……その、そういうこと嬉しそうに言うのもやめてくれ。心惹かれるし抗える気がしないから。
「……いつかは、とは思うけど。それは俺たちが自分の足で立てるようになってからが筋だろ。だから、その、な? お前らと、その、肌を……あー、お前らに、た、耽溺、してるときの俺の判断力なんて、とてもじゃないが信用できたもんじゃないし。ゴムなくても大丈夫、なんて土壇場で言われたら流れかねん」
オーラルな行為の最中にでも、切なそうに『中にちょうだい』みたいなこと言われたら陥落する自信あるぞ。あヤベ想像しただけでまた暴れん棒が将軍に……。
俺の言葉に脳内シミュレーションしてみたのか、由比ヶ浜は何とも言えない表情になる。ゆきのんさんの方は相変わらずの澄まし顔のようですが?
「……あたし、盛り上がったら言っちゃうかも」
「私はそんな無計画なことは口にしない分別なら持ち合わせているつもりだから問題ないけれど」
えー、ほんとにござるかぁ? みたいな疑惑の視線が雪ノ下に降り注ぐ。由比ヶ浜も半笑いで、やはり俺寄りの意見の様子。ゆきのん、強く抱きしめて耳元で、まぁ、なに? 色々と? 囁くと、すぐにふにゃのんになるからね……。俺の恋人がマジで可愛すぎて世界が再構築される。
「……んんっ。ともあれ、懸念事項は理解したわ。確かに未だ学生の身、自活能力もないまま無責任なことは出来ないわね。……その、名残惜しくはあるけれど、それならお風呂にしましょうか。由比ヶ浜さんもそれでいいかしら?」
「うん。えーっと……ヒッキーも一緒に入る?」
「なに言ってくれちゃってるのこの子」
なに言ってくれちゃってるのこの子。考えるより先に口に出してたわ。これが意より早く身体が動くというやつか……。
っていうか今言ったばかりでしょうが。うっかり歯止めが利かなくなっちゃったらどうするんだと。
「……ごめん、やっぱなし! 明るいとこで裸見られるの恥ずかしい……。ゆきのんみたいに全部すべっすべでどこもかしこも超綺麗ならいいんだけど……」
「由比ヶ浜さん、あなたそれは謙遜と卑下が過ぎるわよ。どう考えてもあなたの身体は魅力的じゃないの。暴力的なまでに。暴力的なまでに。同性の私でも容易に理解できるし、比企谷くんの目を見れば一目瞭然よね?」
「待ってそこで俺に流れ弾飛ばすのやめて? ……え、そんなに?」
「自覚ないの? あれは犯罪者の目よ。同意がなければすぐにでもお縄を頂戴させられたわね」
「そんなにか……。いや目を奪われてたとは思うけど、そんなになのか……」
げに恐ろしきは万乳引力か……。世界の物理法則からは何人も逃れられれない。
「……まあ、なんだ。あれだ、そういうことらしいからお前に魅力がないってのは有り得んが……だからこそ別でって言うべきか、そのだな……。俺も、付き合いたてで正直余裕ねーっつーか、がっついてる自覚もあるし、なんだ。……もう少し、余裕ある男になれたら、そんときゃ一緒に……ごめんやっぱ今のなしで」
慰めになるかどうか分かんない言葉を重ねて重ねてしていたら、由比ヶ浜の目が輝いてってその圧力に言葉の方が引っ込んだ。っていうか我に返ってみれば何言ってんだ俺。雪ノ下もなんで嬉しそうなんだよ。
「えー! いいじゃん最後まで聞きたいよー! ヒッキーのそういうのってすっごいレアだし!」
「そうね、是非最後までお願いしたいところだわ。あなたが自ら男を見せようとするなんてことそう滅多にあるとは思えないし」
「やかましいほら風呂入るんだろ早く行きなさい」
「……のぞく?」
「覗きません!」
「あははっ、先入ってくるね」
悪戯っぽく茶々を入れる由比ヶ浜は軽やかに部屋を出て。
「……覗きたくなったら来てもいいわよ? 目こぼしてあげる」
愉しげにからかう雪ノ下は艶やかな流し目を残して姿を消した。
「……はぁ」
どうにもこうにも、俺の彼女たちは一筋縄ではいかないようだ。……知ってたけど。
「ふぅ……」
あいつらの後に俺もいただいた、すっきりさっぱりのお風呂上がり。封切らずのパジャマがいつの間にか用意されていたので、あいつのそつのなさに戦慄しつつありがたく身に纏う。
雪ノ下の部屋に戻ると、ベッドの上で睦み合う二人と目が合う。……こいつら、やっぱりとんでもなく綺麗だな。あ、実は俺の恋人なんですよ。世の中バグってんな。
「おかえりー……で、いいのかな? おあがり?」
「上がったわね。私たちの残り湯はいかがだったかしら?」
由比ヶ浜の天然を華麗に無視して雪ノ下が妄言を吐く。
「最高でした美味しかったです、とでも言えばいいのか。……まあ、気持ちよかったけど」
というか湯船に浸かってる間そのこと考えないように必死だった。なんぼなんでも恋人のお風呂で自家発電とか自刃も辞さないレベルの黒歴史になるわ。
「ヒッキーもこっちおいでよ。髪、なおしたげる」
由比ヶ浜がちょいちょいと手招き、百合の間に俺を呼ぶ。なんとなく気恥ずかしくなって二の足を踏むも、それで由比ヶ浜の招きが止まるはずもなく。小首を傾げたり、俺の座るところをぽんぽんと叩いたり、そんなことされて抗えるほどの反発力はとうに失ってしまっている。変えられたなぁ、と自嘲しつつもスプリングを軋らせ指定の場所に腰を落とす。
嬉しそうな由比ヶ浜が髪を弄るままに任せていると、髪の毛に触れる感触が増える。横目に見れば、雪ノ下も参戦したようだと分かった。まあ俺の頭で二人が楽しく遊べるんならそれに越したこともないだろう。為すがままに任せる。
バスタオルで優しく水気を拭かれて、毛先をある程度の束により分けられる。時折頭に触れる指先がくすぐったく、俺の方も身じろぎしてしまうのか、髪を整える手も少しばかりまごつくのだ。
……なんというか、うん。あれだ。幸せ、かもしれない。あーもう、いつからこんなに素直になったんだ俺は。もっと斜に構えて斜めに見る捻くれスピリッツはどこに行った。墓の下か。
「あ、あー。そういや、パジャマ。昨日新品開けたばっかだったのにまた新しいのなんだな。ほんと手回しが……」
なんとか話題を捻り出して、むず痒い沈黙に一石を投じる。それだけのつもりだったのだが。頭を弄る指の半分が止まり、それに気が行ったせいで俺の口舌も連鎖した。止まった右半分は雪ノ下。
「雪ノ下?」
「え、あ、なにかしら」
ぴくり、と内心を反映させた指先が素直に動揺を伝えてくる。何があったってのはむしろこっちが聞きたいんだが。え、そんな話題選び変だった?
「ふふふー」
そんな折、聞こえてくるのは稚気に溢れる笑い声。
「由比ヶ浜?」
「待って、あの、なんでも、違うの。やめて」
いっそ分かりやすいほどに取り乱す雪ノ下。楽しげに弾む由比ヶ浜の手つきと対象に、せっかく整えたであろう髪が千々に乱されていく。
「え、なに。何があった」
「ちが、べ、別に何もないわ。あなたは黙って前を向いて貝のように口を閉じていればいいのよ。ほら、髪が乱れてるじゃない」
それ乱したのあなたなんですがそれは。なんて言ったら更に追い詰めることに……それも楽しそうだな。後で苛烈な報復措置来そうだけど。
「ゆきのんさ、すっごい家事得意じゃん? ほら、ゆうべあたしたちがお風呂に入ったときもさ、いつの間にか洗濯してアイロンまでかけてたし」
「やめて、由比ヶ浜さんお願いだからやめて」
「えー、いいじゃんゆきのんのいじらしくって可愛いとこだもん。ヒッキーも聞いたらもっと好きになると思うよ?」
「ちが、偶然で、そんなつもり……だから、あの……」
天然か意図的か、ガハマさんの猛攻が逃げ場を塞いで狩り立てていく。心なしか右半分に触れる指先の温度も上がっている気がする。
「あのね……」
「ダメ、やめて由比ヶ浜さん後生だから本当に」
「あたしたちが脱いだパジャマ、洗わずにとっといたんだって。あたしたちと別れることになっちゃったとき、少しでも寂しくないように、って」
「あああぁぁあぁぁぁ……」
雪ノ下が崩れ落ちた。むごいことを……。ガハマさんの方は満面の笑顔の気配がするわけだが、少々の悪戯心は混じっていても基本的に善意なのがタチの悪いところだ。……まあでも、うん。いじらしくて可愛い、というのも分かる。雪ノ下が俺たちのパジャマで……。想像が逞しくなるな。
「ね、可愛いでしょ?」
「あー、まあ、な」
「ふ……ふふふふ……」
地獄の底から響くような笑い声が寝室を満たす。発生源? そんなもん一つしかないんだよなあ。
「ええ……未練がましい女と笑えばいいわ……言わないでって言ったのに……」
「ゆ、ゆきのん……?」
「あ、あー、別に俺は気にしてないぞ? その、なんだ。気持ちは分かるし?」
気にしてないっていうかどうしたって気にはなるけど悪く思ってないっていうか。でもその辺の正確なニュアンス伝えるのは厳しいわけでしてね?
「そうそう、ヒッキーの匂いって安心するし! あ、そだ。あたしも今度ヒッキーの服とか借りていいかな? 着古したやつでいいからさ」
「は? え、いや別にいいけど……。別れたりしねえぞ?」
「当たり前じゃん絶対別れないし! じゃなくて、ヒッキーの匂いついた彼シャツパジャマにして寝たらよく寝れそうだなぁって……。たまにヒッキー分補充のために返すけど」
なにそれエロい。やべえ、雪ノ下といい由比ヶ浜といい俺を萌え殺す気か。つーかたまに返すってそれ俺に着ろってことだろ? 由比ヶ浜分がたっぷり付いた服を。滅茶苦茶捗りそう。
「よし決まりね! ふふっ、楽しきゃっ!?」
「あなたたち、この状況下で私を無視するなんていい度胸じゃない」
「別に無視なんて、あはっ、あははっ! ゆきのん、くす、くすぐったい!」
「このっ! このっ!」
「くふっ、ふぁっ、あははははっ!」
振り返ってみれば、雪ノ下が由比ヶ浜にのしかかってくすぐり倒していた。ガハマさん身を捩って上気しながら大笑いしてらっしゃる。二人絡まりながらパジャマの裾も大きくはだけて、由比ヶ浜の方は胸元のボタンも幾つか弾けて眼福過ぎる。ありがとうございま、うおっ!?
「なに自分は無関係ですって顔で鼻の下伸ばしているの? あなたもよ」
「ばっおまっひはっ!? くくっやめっ、ははははっ!」
そこから先はもう三人でくんずほぐれつ、絡まり合いながら二人の柔らかさ美しさ温かさ可愛さを堪能し、ある程度時間が経って正気に戻りつつあった雪ノ下を今度は由比ヶ浜が逆襲して、抱き合ったり口付けを交わしたり字面通りの意味で肌を重ねたりしてリトル八幡がビッグになったり二人の目がハートになったり色々とすったりもんだりしたけど、全員のギリギリの忍耐で一線を越えることはありませんでした。どっとはらい。
静かに目を開ける。昨日今日でよく知ることになった天井だ。左右から包まれるような温かさに、今目覚めたことと昨夜のじゃれ合い、そしてそのままくっつき合って眠りに就いたことを連鎖的に思い出す。なんかここ来てから大半の時間をベッドから降りずに過ごしているせいか、寝つ起きつに睦み合うだけで時間が無限に過ぎていくな。
と、俺を挟む温もりが動いて、両の頬を一際の潤った柔らかさが啄んでいく。贅沢極まりない目覚めのキス。衝動的に二人を抱き寄せ、俺の方からも口付けを返す。ろくに目測も付けない、ただ距離を詰めるだけの拙い返しは、彼女らに迎え入れられることでどうにか体裁が整った。
「おはよ、ヒッキー」
「おはよう。比企谷くん」
「おはよう、由比ヶ浜、雪ノ下。好きだ」
……あっ、やらかした。いやそのですね、寝起きは誰しも寝惚けているから心の防壁は下がってるしそこにこんな思いもよらない不意打ちがあったせいでついうっかり心の中身がまろびでてじゃなくてたまたまついうっかり思ってしまったことがついうっかりそのまま口からだな。
くだらない言い訳を頭の中でつらつら並べ続ける間も、二人の顔が驚愕から照れを多分に含んだ喜色、そして抱かれる腕に力が篭もるまでの移り変わりを密着したままに感受していた。
「あたしもっ!」
「そうね。……私もよ」
「……おう」
混乱はスッと引いて、じんわりとした幸せとある種の諦観が胸中を塗りつぶしていく。あーはいはいそーですよもう言い訳のしようがないほどこいつらのこと愛してますよ。投了だ投了。勝ち目なし。知ってたけど。
受けた愛を返すように、等量の力を腕に込めていくところで、
「あー」
「あら」
「ぐ……」
ぐぅぅ……と絞るような音が鳴る。出所は俺の腹。空気も読まずに腹の虫が空腹を訴えて暴れてくれやがったわけだが。勘弁してくれ俺。
「いや、その、な?」
「あはは、そういえばずっと何も食べてないままだったしね。しょうがないしょうがない」
「ふふっ、ムードも何もないわね。ご飯にしましょうか。下準備は出来ているわ」
「マジか……。お前ほんといつの間にそんな時間捻り出してんの? 有能ってレベルじゃねえぞ」
「そうね。内助の功は見せない方が美しいでしょうし、秘密にしておきましょうか。よければ由比ヶ浜さんも一緒に」
「作る!」
「わよね。比企谷くん、料理する私たちのエプロン姿を舐るように見るつもりなら行きましょう。美味しい朝ご飯を作ってあげるわ」
「……仰せのままに」
「よろしい」
なんだ。あれだ。うん。何度見ても見飽きないものってあるよね。恋人に手料理作ってもらうことに一度も憧れなかった者だけがこの者に石を投げよ。
「待っててね、ヒッキー! ぜったいおいしいの作るから!」
その結果は言うまでもないだろう。ただ、二人が言葉を違えることはなかった、とだけ記しておく。
「名残惜しいけれど、そろそろ時間を動かすとしましょうか」
由比ヶ浜の直裁的な要望でお互いにあーんとかやったりしつつ朝食を済ませ、雪ノ下の遠回しなおねだりに従いくっついたり抱き合ったり、ひとしきり睦み合った後。
各自がここに来たときの私服に着替えてから寝室に戻り、止まった時計を前にする俺たち。一呼吸おいて、雪ノ下が未練を滲ませながら今日の終わりを切り出した。
「まあ……そうだな。時間止めっぱなしでひたすら……その、なに? いちゃ……あー、お互いに、えー……ふ、触れ合ったりした、けど。時間を忘れて絡み合ったり何度も眠ったりしたし、外に繋がる窓は全部雨戸とかで閉じてるから太陽の光も入ってこないし。本気で今がいつか分からんしな」
ガチで竜宮城状態じゃねえか。まあこの場合乙姫様たちも俺と同じ立場なんだけど。
「えー……。も、もうちょっとだけ止めたままにしない?」
由比ヶ浜は今のこの時間が惜しくてたまらないのか、少しでも引き延ばそうと足掻く。……気持ちは分からんでもない。つーか多分三人とも同じだし。だが。
「由比ヶ浜さん。願えばいつでも一緒にいられるわ。これからはずっとね」
「だな」
諭すような物言いは、自分たちのすぐ傍にある未来を噛み締める如く。微笑みかける視線の先には、黄金色の将来を幻視しているようで。
「そうだね……」
訴えかけられた由比ヶ浜も、すぐに同種の笑みを浮かべて受け入れた。その笑顔があまりにも素敵で、無様なまでに見惚れてしまったのはこいつらには内緒だ。バレバレかもしれんが。
「ん。分かった。じゃあ……あたしが寂しくないようにしてくれたら、ガマンできる、かも……?」
切り替えたように悪戯っぽく笑う由比ヶ浜は、上目遣いで誕生日会締め括りの求愛をせがんできた。雪ノ下と顔を見合わせて、半端に苦笑。さて、この可愛らしいおねだりをどう処理するか。
「由比ヶ浜さん」
考えていると、雪ノ下が先に動いた。由比ヶ浜を手招き、のこのこ近寄ってきた彼女をすっぽりと両腕で捕獲。そっと抱きしめ、頭をよしよしと撫で始めた。
実のところ、由比ヶ浜は言動は幼くとも芯は俺たちより遙かに成熟していると思う。大人びた振る舞いをする雪ノ下が彼女に対してにこういう真似をするのは中々ないことだった。逆は間々見るのだが。
「どうかしら。我慢が利く程度には寂しさは紛らわせそう?」
「んー……きもちいー……」
由比ヶ浜は猫のように目を細めて、雪ノ下の手のひらに頭を擦り付ける。聞くまでもなくご満悦な様子。……頼んだら俺もやってくれんだろうか。
「きゃっ」
と、由比ヶ浜が雪ノ下の手のひらを取ってぺろっと舐めた。童心に返った由比ヶ浜の悪ふざけに、雪ノ下はむしろ嬉しそうに甘く咎める。
「ふふっ、ゆきのんのお手々、おいしいかも」
「もう……なにしてるのよ」
「あーあ、この時間ももう終わっちゃうんだよねー。さみしいなー」
などとわざとらしく言って、こちらに上機嫌な流し目を送ってくる。……期待されてるなぁ。雪ノ下もお手並み拝見とばかりに由比ヶ浜の隣で挑戦的な視線を投げてくるし。
不肖由比ヶ浜の恋人として、まあ、なんだ。とても他人には出来ないような真似でも、こいつならきっと喜んでくれるだろうと。そんな自惚れた行為の数々は幾らでも浮かんでくるわけだが。恋人だし。うん。
……折角だ。その中でも一等激しいやつで行ってやる。まあ、たまにはね?
内心の緊張をひっそりと細く吐き出しつつ、雪ノ下を真似てちょいちょいと手招く。笑顔を浮かべて無警戒にのこのこ寄ってくる由比ヶ浜を、射程圏内に収めた瞬間かっさらうように捕縛。
「わっ」
不意に抱き寄せられたことで軽い驚きを見せる由比ヶ浜。流石に俺がこんな真似に出るとは思っていなかったのだろう、狼狽に漏れた声は唇を薄く開けさせている。丸くする目を至近に見られるまで距離を詰めて口付けると共に、その隙間を縫って俺の舌を滑り込ませた。
「っ!?」
愛おしさの発露のままに抱きしめる腕の力を強め、艶めかしい舌をたっぷりと味わい、酸素の代わりに由比ヶ浜の吐息を吸い込む。動転も引いてきたのか、口腔内を舐る無遠慮な舌に由比ヶ浜が応じ始める。交差する舌は互いの感情を際限なく増幅させあい、天井知らずの快楽を運んでくる。くらりとくるのは色香か酸欠か、離れる頃にはすっかり蕩けた顔で足を震わせている由比ヶ浜がそこにいた。なお取り繕ってはいるものの、内心は俺も似たり寄ったりな有様だ。
「ひ、ひっきぃ……」
「んっ、んんっ。ど、どうだ。寂しくなくなったか」
「ば、バカ……。火が付いちゃうよ……」
言いながら、雪ノ下に支えられながらベッドにぺたんと座り込む由比ヶ浜。加減とか節度とか完全に置き去りにしてたわ。すまん。つーか正直俺の方も火が付いちゃってるし。
「比企谷くん……やり過ぎよ」
「……自覚はある」
雪ノ下に軽く窘められるが、間近で今の熱烈な接吻を見ていた彼女も十分に当てられてる感はある。赤くなってるし目も逸らされてるし。
「ええと……それなら、いいかしらね? 時間、動かし始めても」
「あ、ああ」
「ん……」
未だ動揺の引かない俺の追従と、消え入りそうな儚く甘い由比ヶ浜の同意の声で、時計に電池が填め込まれた。その意味するところは、三人で祝った誕生日の終幕。
「……感慨深さもあるけれど、仰々しさがないせいか呆気なくもあるわね」
「ま、いいんじゃねえの? さっきも言ったがこれで終わりじゃねえんだから。来年も、再来年も、この先機会はいくらでもあるんだ。直近では半年後だな」
「そうね。今回祝ってもらった以上を返すつもりよ」
「ほぇ?」
そう言って、雪ノ下は隣に座る由比ヶ浜の頭を撫でる。大学に入って、初めての由比ヶ浜の誕生日。きっとまた自重を捨て去って盛大に祝うのだろう。……大丈夫だよな? 入れるよな? 大学。まあきっと大丈夫だと信じよう。うん。
「見送るわ。竜宮城からのご帰還ね?」
「乙姫様の片割れもお帰りだな。由比ヶ浜、立てるか?」
「あ、うん……。ありがと」
手を差し伸べると、嬉しそうに掴まれる。まだ顔も赤いが、多少のもたつきがあるくらいで特にふらつくこともなく立ち上がれた。
柔らかな感触を我が手に受けつつ、帰ったらむっちゃくっちゃにオナニーすることを心に決めた。それはもう激しく。無防備に甘えたり甘えさせたりしてくるこの二人と一緒にいて、マイリトルサンがどれほど暴発の機を窺っていたか。実際今だって甘勃ちしてるからな。顔に出してないだけで。
位置取りが気になってポッケに手を突っ込むと、手に触れる固い感触。手癖のまま取り出したるは文明の利器スマートフォン。何の気なしに時刻を確認しようとボタンを押すも、反応がなかった。
「っと、そういや切ってたな。……実際、どれくらいいたんだろな俺ら」
「あー、あたしも切りっぱなしだったっけ。時間とか、ほんとに全然気にしてなかったもんね」
「それだけ満たされていたんでしょう。いいことよ」
ボタンを長押しして電源を付ける。スマホの電源とか滅多に切るもんじゃないから、起動の反応が新鮮だ。要求されたパターン入力を済ませると、初期画面に遷移した。
「うおっ、もう五日か。まさか丸一日吹き飛んでたとは……へっ?」
連打される間抜けな通知音。一瞬なんなのか分からなかったが、これラインか。自己主張激しい呼び出しに従ってアイコンをタップする、と。
「……げ」
そこにあったのは優に三桁の鬼通知。その大半は小町からのそれで、流し見るだけでも心配や不安、焦燥が伝わってくるものだった。
隣を見れば、由比ヶ浜も自らのスマホを見て固まっている。察するに、俺と同じような連絡で埋もれているのだろう。
「どうしたの?」
「……いや、小町から」
「あたしも……。パパからすっごい来てる」
「……そんな大事になっているとはね」
「……どうしよ」
「どうしよって……ほっとくわけにもいかねえだろ」
「そ、そりゃそうなんだけど!」
「……とりあえず、折り返し連絡した方がいいのではないかしら。今も心配し続けているのでしょう?」
「そ、そうだな……」
「う、うん……」
雪ノ下の言葉に多少の冷静さを取り戻したため、俺たちは観念して電話をかける。十三階段上がってる気分。
果たして電話はワンコールで取られて、電話向こうからは切羽詰まったような小町の声が飛び出してきた。宥めつつ、こちらの状況を説明する、と。
「……は?」
それは、今までの人生で聞いたこともないような冷たい一語だった。
……どうしよう。
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