散る花の如く (紫 李鳥)
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 日本橋のデパートでマネキンをしていた柊子(しゅうこ)は、二年間交際していた妻子ある男を踏ん切るために退職して東京を離れると、姉の秀子(ひでこ)が嫁いだ金沢に移り住んだ。

 

 秀子の嫁ぎ先は呉服店で、加賀友禅(かがゆうぜん)牛首紬(うしくびつむぎ)などを取り扱っていた。片町(かたまち)から少し離れた通りに面した店は、〈きもの すゞ華(すずか)〉と看板を掲げ、藍色の暖簾(のれん)を出していた。柊子は呉服に関しての知識は大してなかったが、秀子からの要望もあり、販売経験を活かして店を手伝っていた。

 

 

 

 それは、沈丁花(じんちょうげ)が芳香を放つ頃だった。戸の開く音に顔を上げると、スーツ姿の男が目を合わせた。

 

「……いらっしゃいませ」

 

 柊子が珍しいものでも見るかのような顔をしていると、

 

「あ、すいません。おふくろに誕生日のプレゼントをしたいのだが……」

 

 男は、場違いの理由を簡潔に伝えると、困ったような顔を向けた。

 

「あ、はい。どうぞ、お掛けください」

 

 小上がり畳に手を示した。

 

(あわせ)でよろしいですか?」

 

 正座すると、男を見た。

 

「その、あわせというのがどんなものか……」

 

「お母様、お誕生日は何月ですか?」

 

「来月です」

 

「それでしたら、まだ袷ですね」

 

 男の年格好から母親の年齢を推測した柊子は腰を上げると、訪問着や小紋など五反ほどを手にした。

 

「加賀友禅や牛首紬などがございます」

 

 それらを少し広げながら、男を()た。

 

「うむ……、どれもいいですけど、着物のことはよく分からなくて。すいませんが、あなたが選んでくれませんか」

 

 柊子に助け船を求めた。

 

「えっ?私が選んでいいんですか」

 

 予期せぬ事態に困惑した。

 

「ぜひ、お願いします」

 

 少年のように照れる目を向けた。

 

「では……。お母様は普段からお着物は召されますか」

 

「ええ。ほとんど着物です」

 

「それじゃ、お目が肥えていらっしゃると思うので、これなんかいかがですか」

 

 薄紫地に草花文様の反物を広げた。

 

「うむ……、いいなぁ」

 

 男はその色柄に見とれていた。

 

「お仕立てはいかがいたしましょう」

 

「あ、お願いします」

 

「お誕生日は何日ですか」

 

「来月の十日(とおか)です」

 

「十分に間に合います。おサイズですが、お母様の体型を教えていただけますか」

 

 メモ用紙とボールペンを手にした。

 

「あなたより少しふっくらしてるかな」

 

 男は柊子の帯辺りに目をやった。

 

「身長は?」

 

「このくらいかな」

 

 男は自分の肩ほどに手を上げた。

 

「ぷっ」

 

 その仕草が可笑(おか)しくて、柊子が噴いた。男の身長も分からないのに、腰を下ろした状態でこのぐらいと言われても見当が付くはずもない。

 

「あ、ちょっと降りてきてくれますか」

 

 そう言って、男は腰を上げた。柊子は、奥でお得意様の社長夫人の接客をしている秀子と目を合わせると、小さく笑った。

 

 三和土(たたき)の隅に置いたサンダルを履いて男と並ぶと、壁にある姿見に映した。柊子は男の肩辺りだった。

 

「あ、同じぐらいですね、おふくろと」

 

 男は、わざわざご足労を願うこともなかった、そんなニュアンスの言い回しだった。仕立て上がったら電話をくれるようにと、名刺を置いていった。

 

〈株式会社 小山内不動産

 代表取締役

 小山内卓也

 Takuya Osanai

 〒920-0981

 石川県金沢市―

 TEL

 076―〉

 

 柊子は、先刻の接客の時に無意識に卓也をチェックしていた。整髪料を付けていない手櫛の髪に、少し深爪気味の指先。そして、ネイビーの背広に、薄紅色のストライプのネクタイ……。柊子の好みのタイプだった。

 

 

 ――仕立て上がると、早速、卓也に電話をした。事務員らしき若い女に用件を伝えると、卓也に代わった。

 

「はい、小山内です」

 

 卓也の低い声が耳に心地好かった。

 

「お忙しいところ、申し訳ございません」

 

「あ、いいえ」

 

「〈すゞ華〉呉服店です」

 

「あ、どうも」

 

「お着物、仕立て上がりました」

 

「そうですか。それじゃ、どうしようかな……。直接受け取りたいので、申し訳ありませんが、今日、会っていただけませんか」

 

「はい。どちらで」

 

「仕事は何時までですか」

 

「六時ですが」

 

「それじゃ、六時半に犀川大橋(さいがわおおはし)の近くにある〈ドリーム〉って喫茶店ご存じですか」

 

「はい」

 

「そこで待ってますので」

 

「はい、承知しました。それでは失礼します」

 

 柊子の顔は知らず知らずに(ほころ)んでいた。

 

「……何、にやけてんの?」

 

 奥から出てきた秀子が、受話器を置いた柊子を茶化した。

 

「別に……」

 

 柊子の頬は緩んでいた。

 

「……気持ち悪い子ね」

 

「じゃ、行ってきまーす」

 

 秀子から借りているラベンダー色の絞りを着ていた柊子は、薄紅色のショールを片手に掛けると、店の紙袋を提げた。

 

「行くって、どこへ」

 

「お客様にお届け物」

 

「……ははーん。この間のお客様ね」

 

「じゃあね。少し早いけど、このまま帰っていいでしょ?」

 

「いいけど、ちゃんと相手を見極めなさいよ。あんたは猪突猛進(ちょとつもうしん)型なんだから」

 

「大きなお世話よ、子供じゃあるまいし。じゃあね」

 

 口を(とが)らせると草履(ぞうり)を履いた。

 

「あんたのことを思って――」

 

 柊子は聞く耳持たずで出ていった。

 

「ったく、もう。人の言うことを聞かないんだから……」

 

 秀子は反物を巻き取りながら呆れ顔(あきれがお)をした。



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 片町まで出ると、時間潰しにウインドーショッピングをした。恋をすると、女はどうしてファッションに興味を持つのだろう……。欲しいものがあるとワクワクする。柊子は恋する乙女の気分だった。

 

 

 少し遅れて行くと、柊子に気付いた窓際の卓也が慌てて煙草を消していた。

 

「お呼び立てして申し訳ありません」

 

 卓也が立って会釈をした。

 

「私のほうこそ、遅れて申し訳ありません」

 

 頭を下げた。

 

「あ、いいえ。今日も素敵なお召し物で」

 

 腰を下ろしながら卓也が見とれた。

 

「ありがとうございます。あ、コーヒーを」

 

 コップを置いたウエイトレスに注文した。

 

「――それはいわゆる絞りというものですか」

 

 卓也が素朴な質問をした。

 

「ええ。絞りの一種で、“総鹿の子(そうかのこ)”と言います」

 

「いやぁ、素敵だ。お似合いです」

 

「ありがとうございます」

 

 柊子は恥ずかしそうに俯いた。

 

「おまちどおさまです」

 

 ウエイトレスが置いたコーヒーカップに目をやりながら、卓也の熱い視線を感じていた。

 

「お食事でもいかがですか」

 

 それは予期せぬ誘いだった。

 

「……よろしいんですか」

 

「ぜひ、お願いします。ご足労いただいたほんのお礼です」

 

「では、お言葉に甘えて」

 

「よろしいですか」

 

 煙草を持った卓也が喫煙の許可を求めた。

 

「ええ、どうぞ」

 

「話は変わりますが、ゴルフはしますか」

 

「……ええ。以前、少し」

 

 東京にいた頃、付き合っていた男に連れられて、何度かプレーしたことがあった。

 

「じゃ、ぜひ今度行きませんか」

 

「ええ。教えてください」

 

 カップに口を当てた。

 

「どのぐらいで回られるんですか」

 

「恥ずかしいわ。60ぐらいです」

 

「えっ!ラウンドで?」

 

 わざとらしく驚いた顔をした。

 

「もう、意地悪ね。ハーフですわ」

 

 ()ねてみせた。

 

「でも、女性はそのぐらいでいいですよ。あまり(うま)いとやりづらい」

 

「小山内さんは?」

 

「僕も偉そうなことは言えなくて、44~5ぐらい。まぁ、アベレージゴルファーかな」

 

「わぁ、スゴい」

 

「いやいや。どうせならシングルを狙わなきゃ」

 

「期待してますわ」

 

「はい、頑張ります」

 

 二人は目を合わせて笑った。

 

「あ、じゃ、そろそろ行きましょうか」

 

 思い出したように言うと、煙草を消した。

 

 

 店を出て路地に入ると、運転手が乗った濃紺のベンツが()まっていた。運転手を待たせていたなんて考えもしなかった柊子は、運転手に申し訳ないと思った。

 

 初老の運転手は急いで車から降りると、後部座席のドアを開けた。卓也は柊子を奥に乗せると、自動車電話のボタンを押した。

 

「あ、小山内ですけど、女将いる?――はいはい。――あ、小山内です。――ハハハ……。すいませんね、息子のほうで。二名で今から行きますので、――はい、よろしく」

 

 電話を切ると、

 

「〈若槻(わかつき)〉に行ってくれ」

 

 と、運転手に指示した。

 

「はい、かしこまりました」

 

「和食ですが、いいですか」

 

 車窓を見ていた柊子に訊いた。

 

「ええ。お任せします」

 

 卓也に顔を戻した。

 

「あなたをがっかりさせることはしませんから」

 

 柊子に向けた卓也の目は自信に溢れていた。

 

 

 五分ぐらいで、老舗料亭の〈若槻〉に着いた。格子戸を抜けると小さな庭があって、そこから入り口まで敷石が続いていた。廊下の隅には九谷焼(くたにやき)の花器が置いてあり、紫色の牡丹(ぼたん)が活けてあった。

 

 仲居に案内されたのは、中庭が見える離れの座敷だった。座布団に挟まれた座卓には、所狭しと(たべもの)が並んでいた。仲居が運んできた銚子で二人が差しつ差されつ呑んでいると、女将が挨拶にやって来た。

 

「失礼する。こりゃまぁ、お坊っちゃま。ようおいでくださった」

 

 深々と三つ指をついた。五十半ばだろうか、鴬色の付け下げに金色の帯をした身形(みなり)には、いかにも女将の貫禄(かんろく)(うかが)えた。

 

「その、お坊っちゃまは、いい加減やめてくれないかな。三十過ぎた男にお坊っちゃまはないだろ?」

 

「ぷっ」

 

 柊子が失笑した。

 

「ほら、笑われたじゃないか」

 

「あらま、こちらのお美しい方は?」

 

「あ、紹介するよ。んと……」

 

 卓也は、肝心な名前を訊くのを忘れていた。

 

加藤柊子(かとうしゅうこ)と申します」

 

 お辞儀をした。

 

「これはこれは。ようまぁ、おいでくださった。まぁ、素敵なお召し物で」

 

「ありがとうございます」

 

「お坊っちゃまには、ご贔屓(ひいき)にしていただいとりまして。お父様の代からですさかい、もう、かれこれ――」

 

「女将、二人きりにしてくれないか」

 

 針魚(さより)の昆布酒漬けを口に運びながら、女将を邪魔者扱いした。

 

「まぁ、これはこれは気が利きませんで。失礼いたしました。どうぞ、ごゆっくりと」

 

 そう言って頭を下げると、雪見障子を閉めた。

 

「すいませんね、煩くて」

 

「ううん、そんなこと……」

 

「どうですか、味のほうは」

 

「ええ、とても美味しいです。この(たけのこ)の煮物も、とても美味しいです」

 

「良かった」

 

「あっ、そうそう。お着物、渡すの忘れてました」

 

「後でいいですよ」

 

「でも、忘れちゃうといけないので」

 

 膝を立てると、紙袋を卓也の傍に置いた。

 

「あ、どうも、ありがとう。おふくろ喜ぶな」

 

「親孝行なんですね」

 

「いや、プレゼントなんて滅多にしませんよ。還暦(かんれき)も兼ねてるから、いい機会だと思って」

 

 手酌をした。

 

「そんな大切なお品を、うちのような小さな店で選んでいただいて、ありがとうございます」

 

「……どうして、あなたの店にしたと思いますか」

 

「……さあ」

 

 首を傾げた。



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「……いつも、あなたを見ていた」

 

「えっ?」

 

 予想だにしなかった答えだった。

 

「あなたの店は通勤途中にある。丁度、店の前の信号が赤になる。信号が青になるまでの間、店内のあなたや、店先の掃除をしているあなたを見ていた」

 

 卓也が酔った目を向けていた。

 

「……」

 

 柊子は目を逸らして俯いた。

 

「……つまり、着物を買うことで、あなたを誘うきっかけにしたって訳です。……迷惑ですか」

 

「……いいえ」

 

「あー、良かった。迷惑ですなんて言われたらどうしようかと、ハラハラしていた」

 

 卓也の大袈裟なその物言いに、柊子は柔らかな笑みを向けた。

 

「俺と付き合ってくれませんか」

 

 真顔だった。

 

「……」

 

「酔って言ってる訳じゃないですよ。真剣に告白してます。俺」

 

 卓也の、その倒置法(とうちほう)の話し方が可笑しくて、柊子は俯いて小さく笑った。

 

「……少し、お時間を下さい」

 

「ええ。……待ってます」

 

 そう言って猪口(ちょこ)を傾けた卓也の格好を()て、グレーの背広に臙脂色(えんじいろ)のネクタイがマッチしていると、柊子は思った。

 

 

 ――マンションの近くで降ろしてもらうと、

 

「ごちそうさまでした」

 

 と、窓を開けた卓也に礼を言った。

 

「いいえ。今度、電話します」

 

 卓也はそう言い残すと、

 

「行ってくれ」

 

 と、運転手に指示した。

 

 

 

 帰宅した柊子は、卓也との甘い余韻に浸りながら、花瓶に挿したピンクのガーベラを見詰めた。

 

 

 卓也から電話があったのは、三日後だった。

 

「――先日はごちそうになった上に送っていただきましてありがとうございました」

 

「こちらこそ、ご足労いただいた上に食事を付き合っていただき、ありがとうございました」

 

「あ、いいえ」

 

「今日も付き合っていただけませんか」

 

「……」

 

「……〈ドリーム〉で待ってていいですか」

 

「……ええ」

 

「それじゃ、六時半に」

 

「……ええ」

 

 (おもむろ)に受話器を置くと、また口元が緩んだ。

 

「何、だらしない顔してるの?……ははぁ、また例の彼ね」

 

 反物を抱えて通り掛かった秀子がお節介を焼いた。

 

「もう。いいムードの時に限って現れるんだから」

 

 口を尖らせた。

 

「あら、悪かったわね。フンだ」

 

 秀子がそっぽを向いた。

 

「少し早いけど、帰っていいでしょ?」

 

 ショールとバッグを手にした。

 

「いいけど、何、デート?」

 

「ヒ・ミ・ツ」

 

 草履を履いた。

 

「慎重にしなさいよ。分かった?」

 

「じゃあね」

 

 いそいそと出ていった。

 

「ったく、人の言うことを聞かないんだから」

 

 (あき)れた顔で反物を棚に入れた。

 

 

 

 卓也はその日、運転手のいない車に柊子を乗せた。

 

「少しドライブに付き合ってください」

 

 そう言って、卯辰山(うたつやま)公園のほうに向かった。――展望台の近くに行くと車を停めた。そこから眺める夜景は、宝石箱をひっくり返したかのように美しかった。

 

「わぁ、綺麗」

 

「……時々ここに来るんだ。俺の秘密の場所」

 

 卓也は夜景を堪能していた。

 

 ……ロマンチックな人なんだ。そんなふうに思いながら柊子が夜景を眺めていると、不意に唇を奪われた。

 

「う……」

 

 卓也のソフトな接吻(くちづけ)は、柊子を少女の気分にさせてくれた。

 

「……あなたが好きです」

 

 耳元で囁く卓也の甘い声は、柊子の脳を麻痺させるだけの、男の色気があった。――

 

 

 卓也と交際を始めてからは、部屋に招いて手料理をご馳走(ちそう)したり、映画やドライブにも行っていた。たまに泊まることもあったので、パジャマも買っておいた。――そんなある休日。前日から泊まっていた卓也がドライブに誘った。

 

「できれば着物を着てほしいな」

 

「えっ!ドライブするのに着物着るの?」

 

 TPOにそぐわない注文に、柊子は難色を示した。

 

「ちょっと寄るとこあるから、頼む」

 

 手を()わせた。

 

「はいはい。どれにしようかな……」

 

 桐箪笥(きりだんす)抽斗(ひきだし)を開けた。

 

「……あの絞りがいい」

 

「ラベンダーの?」

 

「ああ」

 

「分かった。じゃ、それにするわ」

 

 ……よほど気に入っているようだ。柊子はそんなふうに思いながら、秀子から借りっぱなしの鹿の子絞りを出した。

 

 

 閑静な住宅街を暫く走ると、武家屋敷の(おもむき)がある邸宅の前で停まった。どなたの家だろうかと思っていると、初老の男と、前掛けをした女が出迎えた。

 

「お帰りなさいませ」

 

 と、二人がお辞儀をした。

 

 ……お帰りなさい?卓也の家なの?表札を確認すると、確かに〈小山内〉とあった。そして、ドアを開けた初老の男の顔を視て、アッと思った。〈若槻〉に行く時に卓也の車の運転をした男だった。卓也を見ると、(だま)したことを()びるでもなく、(とぼ)けたふうに涼しい顔をしていた。

 

「ああ、ただいま」

 

 運転手が開けたドアから降りた。助手席のドアは女が開けた。

 

「いらっしゃいませ」

 

 降りた柊子に、女が一礼した。

 

「あ、どうも。こんにちは」

 

 対応に迷っていると、傍に来た卓也が背中に手を添えた。

 

「ご自宅に行くならそう言ってくださらないと。ご挨拶の菓子折りも用意してないのよ」

 

「そんな気遣いは要らないさ。おふくろにも、突然連れてくるからと言ってある」

 

「もう。……だから、着物でって言ったのね」

 

「ああ」

 

 

 

 板張りの廊下を連れて行かれたのは、庭の桃色の石楠花(しゃくなげ)が見える雪見障子の前だった。



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「おふくろ、入るよ」

 

「お入り」

 

 その、威厳に満ちた低い声は、この家の(あるじ)であることを示唆(しさ)していた。

 

 卓也が開けた障子の向こうには、柊子が選んだ、あの着物を着た母親が正座をしていた。母親は、驚いた表情の柊子に笑顔を向けると、

 

「さあさあ、入ってたいま」

 

 と、二枚並んだ座布団の片方に手を示した。

 

「紹介する。加藤柊子さんだ」

 

 卓也の紹介に、柊子は、

 

「初めまして。加藤柊子と申します。どうぞよろしくお願いします」

 

 と、座礼をした。

 

「よう、いらしてくれた。息子からあんたのことは聞いとるよ。……本当に着物がお似合いだ」

 

「ありがとうございます」

 

 柊子は座布団に座ると、卓也と並んだ。

 

「……とてもお似合いですね」

 

 柊子が着物のことを言った。

 

「あんたが選んでくださったんやろ?うちの好みをようご存じで。ふふふ……。この柄を選んだ人なら間違いねえて思うたげん」

 

「ありがとうございます。卓也さんのお母様なら、お目が肥えていらっしゃると思いまして……」

 

「ついでに体のほうも肥えてきたけど。ふふふ……」

 

「そんなこと……」

 

「今日は夕飯をご一緒にしょまいか」

 

「はい。ご馳走になります」

 

 笑顔で母親を見た。

 

 

 

 夕食までの間、母親の綾子(あやこ)が家族の話をしてくれた。卓也の祖父の代から続く不動産屋を()っていた卓也の父親が四年前に他界して、卓也が跡を継いだ。そして、東京に住んでいるという次男の英征(ひでゆき)は、大学を卒業してフリーターをしているとのことだった。

 

 

 ――卓也と結婚したのは、庭の紫陽花(あじさい)が色を鮮やかにする頃だった。式は兼六園(けんろくえん)に隣接した神社で(おごそ)かに執り行われた。

 

 結婚の話が決まった時、秀子は泣いていた。歳の離れた秀子にとって、柊子は自分の子供のような存在だった。柊子もまた同じ気持ちで、我が儘(わがまま)を言って困らせても笑って許してくれる秀子は、十九歳の時に亡くした母親のような存在だった。

 

 結婚祝いに何かプレゼントをしたいと言う秀子に、卓也が気に入っているラベンダー色の鹿の子絞りを要求した。すると、「あれは、あげたも同然なのに。他に欲しいものはないの?」と言ってくれた。柊子はそんな優しい秀子が好きだった。本音を言えば店をずっと手伝って、秀子の役に立ちたかった。だが、綾子の結婚の条件が仕事を辞め、家庭に入ることだったので、柊子は働きたいことを口にしなかった。

 

「小山内家の嫁としての自覚を持ってたいまよ 」

 

 格式を重んじる綾子のその言葉を重荷に感じたが、“郷に入っては郷に従え”という(ことわざ)が頭を(よぎ)った。

 

 

 小山内家に自分の家財道具を運び終え、どうにか落ち着くと、家事の手伝いを申し出た。だが、住み込みの手伝い、影山暁雄(かげやまあきお)扶美(ふみ)の夫婦がいる小山内家では、柊子は何もやることがなかった。綾子にお願いして、どうにか自分達の部屋だけは掃除させてもらえることになった。

 

 畳替えをしてくれた部屋は、母屋(おもや)から渡り廊下で結んだ離れで、ユニットバスも(もう)けていた。持ってきた洗濯機は、廊下の突き当たりにある洗面所の傍に置いた。使い慣れた洗濯機で自分達の物を洗えるのが嬉しかった。裏庭にある物干し竿にシーツを掛けながら、梅雨(つゆ)の合間の青空に感謝した。

 

 だが、そんな柊子も毎日のように忙しかった。というのも、交友関係の広い綾子が友人からの誘いの電話がある度に柊子を伴うからだ。その都度(つど)、柊子は若い頃の綾子の着物を着せられ、「長男の嫁や」と紹介される。

 

 

 ――それは、一家団欒(いっかだんらん)(くつろ)いでいた正月三が日だった。

 

「奥様!英征お坊っちゃまが!」

 

 扶美が慌てて、居間にやって来た。

 

「えっ!英征が?」

 

 綾子が目を丸くしていると、

 

「……ただいま」

 

 と、黒いリュックを肩に掛けた英征が顔を出した。

 

「英征、元気やったの?」

 

 綾子は英征の腕を掴むと、横に座らせた。冬だというのに、英征の顔は小麦色をしていた。

 

「随分、焼けてんな。ハワイにでも行ってたか」

 

 卓也が嫌味を言った。

 

「そんな金、あるかよ」

 

 斜め前の英征と目を合わせると、柊子は微笑んで会釈をした。英征のその視線は、卓也に似ていた。だが、若い分だけ、英征のほうがシャープだった。

 

「あ、卓也のお嫁さん。柊子さん」

 

 綾子が紹介した。

 

「初めまして。柊子です」

 

 腰を上げてお辞儀をした。

 

「あ、どうも」

 

 無愛想だった。お茶を運んできた扶美が、英征の前に湯呑みを置くとお辞儀をして出ていった。

 

「あ、どうもじゃないよ。連絡もしないで何やってたんだ」

 

 煙草を(くわ)えた卓也が煙そうに目を細めた。

 

「……色々。プールの監視員とか、工事現場でも働いた」

 

 チョコレート色の革ジャンから煙草を出すと、柊子を()た。

 

「何をやってもいいが、連絡ぐらいしろ。どこにいるか分からんから、結婚式にも呼べなかったじゃないか」

 

「……」

 

「もういいやろ?こうやって帰ってきてくれたんやさかい」

 

 綾子は卓也を(なだ)めると、嬉しそうにしみじみと英征の横顔を眺めていた。

 

(しばら)くいるやろ?」

 

 綾子がゆっくりするように促した。

 

「うむ……、どうしようかな」

 

 コーヒーを飲んでいる柊子を見た。柊子は英征の視線を感じて、耳を赤くしていた。

 

「久し振りなんだ。ゆっくりしていけ」

 

 そう言って、卓也は湯呑みに口を付けた。

 

「……ああ。そうだな」

 

 英征も湯呑みに口を付けた。

 

「あー、良かった」

 

 綾子が安堵(あんど)の表情を浮かべた。



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 その翌日だった。

 

「こっちでバイトしようかな。母さん、アパート借りていいでしょ?」

 

 雑煮を食べながら英征が綾子を見た。

 

「こっちで働くのかい?ほりゃあ嬉しいけど、アパートなんか借らんで、ここから通えばいいでねえか」

 

「……自活したいんだ」

 

「東京のアパートはどうするんだ」

 

 卓也は、おせちをつまみに酒を呑んでいた。

 

「こっちで仕事が決まったら、引っ越すよ」

 

「お前は浮き草みたいだな。バイトなんかしないで、うちの会社で働こうとは思わないのか」

 

 卓也が(さかずき)を傾けた。

 

「……自由に生きたいんだ」

 

「いいでねえの。英征の好きなようにさせてあげよまいか」

 

 ほたるいか生姜(しょうが)煮を食べながら、綾子が卓也を見た。

 

「おふくろがそう言うんなら、構わないが」

 

 英征を一瞥(いちべつ)すると、(ぶり)の照り焼きを口にした。

 

 柊子は、鱈子(たらこ)昆布巻きを食べながら、柔らかな笑みを英征に向けていた。

 

 

 それは、仕事始めの当日だった。卓也は会社に、綾子は暁雄が運転する車で年始回りに、扶美は買い物に出掛けていた。柊子が寝室に掃除機をかけている時だった。突然、後ろから口を塞がれた。

 

「うっ」

 

 振り向くこともできないほどの力で押さえられ、身動きできなかった。どうやって逃れようかと考えたが、掃除機の音が邪魔して、冷静な判断ができなかった。

 

「うう……」

 

 力の限りに(こば)んだが、男の力は緩まなかった。だが、その指がスカートの中に入った瞬間、柊子は火事場の馬鹿力を出すと、思い切り身を(よじ)って離れた。

 

 振り向いたそこには予想どおりの男がいた。柊子は悔しそうに唇を噛むと、横を向いている英征の頬を平手で打った。

 

「あなたが今したことは、卓也さんを冒涜(ぼうとく)したのよ。分かってるの?」

 

「……」

 

 英征は頬に手を置いたまま、目を合わせなかった。

 

「……ごめん」

 

 英征はぽつりとそう言うと、()げるように出ていった。柊子はため息と共に肩の力を抜くと、掃除機のスイッチを切った。――間もなくして、英征は家を出ていった。

 

 

 数日後、柊子に一本の電話があった。

 

「若奥様、お電話です」

 

 扶美の声で居間を出ると、廊下を行った。

 

「どなた?」

 

「佐々木とおっしゃる女の方です」

 

「……佐々木?」

 

 心当たりがなかったが扶美から受話器を受け取った。

 

「もしもし、お電話代わりました」

 

「しゅうこさんですか」

 

 若い女の声だった。

 

「はい、そうですが」

 

「代わりますので、ちょっと待ってください」

 

「あ、はい」

 

「……英征」

 

「!……」

 

「ウエイトレスに電話してもらった。アパート決まったから住所言う。母さんと兄さんには内緒で」

 

「あら、ようこ?久し振り。元気だった?……分かったわ。どうぞ言って」

 

 居間にいる綾子に、相手が英征だと悟られまいとして、友人からの電話の振りをした。そして、電話台のメモ用紙に、筆圧を弱くして住所を書くと、跡が残らないように数枚を剥がした。

 

「じゃ、明日会おうか?何時頃がいい?」

 

「一日中いる」

 

「了解。じゃ、お昼でも食べましょう」

 

「うん」

 

「それじゃ、明日ね」

 

 柊子は受話器を置くと、考える顔をした。……会ってはいけない。だが、会わなければ何度も電話を寄越すだろう。やはり、一度会ってちゃんと話をするべきだ。

 

 電話の相手が英征だと悟られたのではないかと、戦々恐々(せんせんきょうきょう)としながら居間に戻ると、綾子は、

 

「お友達?」

 

 と、上目で一言訊いて、刺繍(ししゅう)の続きをした。

 

 

 翌日、綾子に友人に会うと嘘を()いて出掛けた。英征のアパートに向かう途中にあったスーパーで食料を買うと、鉄筋コンクリートの二階の〈小山内〉と表札のあるドアをノックした。ドアスコープで覗いたのか、鍵を開ける音がした。開いたドアの向こうには、少年のような英征の笑顔があった。

 

「食事作りに来ましたわ、若お坊ちゃま」

 

 皮肉まじりに言った。

 

「ありがとう」

 

 悪びれる様子もなく、当然のように答えた。

 

 フローリングのワンルームには、真新しい組み立て式のベッドと小さなテーブル、それと小型の冷蔵庫があった。流しの横には炊飯器とトースターがあって、コンロの上には片手鍋とフライパンが置いてあった。

 

「料理、作ってる?」

 

 冷蔵庫に肉や野菜を入れながら訊いた。

 

「うん。インスタントラーメンや目玉焼きぐらいだけど」

 

「何食べたい?」

 

「何でも。任せる」

 

 英征はテーブルに置いた煙草を一本抜くと、アイボリーの丸いクッションに胡座(あぐら)をかいた。色々訊きたかったが、食後に話すことにした。

 

 買ってきた白飯でチャーハンを作ると、英征は「うまい!」と言って、あっという間に平らげた。コーヒーが好きな柊子は、一緒に買ったドリッパーとフィルターでモカを淹れた。

 

「……東京に帰ったんじゃないの?」

 

 コーヒーを飲みながら訊いた。

 

「……あんなことして居づらいから出たまでさ」

 

 煙草を(くゆ)らせながら横を向いた。

 

「……私とどうしたいの?」

 

「……欲しい」

 

 目を見ないで呟いた。

 

「自分で何を言ってるか分かってるの?」

 

「分かってる。……覚悟もしてる」

 

「何を?」

 

「家族と縁を切る覚悟……」

 

「どうして?どうしてそこまで私に執着するの?卓也さんを裏切ってまで……」

 

「好きになるのに理由が要るかよ」

 

 子供のように向きになって、柊子を睨んだ。

 

「どうしてそんな偏屈な物の考え方をするの?私が訊いているのは、私は仮にもあなたの兄さんの妻よ。非常識だとは思わないの?」

 

「兄さんが好きになった人を俺が好きになって当然じゃないか。兄弟なんだから……」

 

「……え?」

 

 柊子は何が何だか訳が分からなくなっていた。自分の考える道徳というものが果たして本当の道徳なのか。理不尽(りふじん)に思える英征の言うことが正論なのか……。



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「……人を好きになると言うことを(とが)めている訳じゃないわ。私が言ってるのは、私を欲しいと言うあなたの考えよ。それは決して許されることじゃないでしょ?それは分かるわよね?」

 

「なぜ?分からないよ」

 

 真顔だった。

 

「なぜって、あなた達は兄弟だからよ。いえ、兄弟じゃなくても、私は既婚者なの。結婚している人とは付き合えないでしょ?それは分かるわよね?」

 

「姉さんが言ってることは分かるよ。けど、好きだという抑えられない気持ちも分かるだろ?」

 

「……ええ。でも、それを抑えるのが理性ある大人でしょ?」

 

「だったら、大人は皆、罪を犯さないと言うのか?理性だけで生きているなら、この世に犯罪者はいないはずだ」

 

(……!?)

 

 何が何だか、柊子の頭はこんがらがっていた。

 

「あなたはまるで、犯罪者を擁護(ようご)するような言い方ね。人が罪を犯すのは当然だとでも?」

 

「……俺はただ、自分の考えを言ったまでだ……」

 

「……あの時、もし、私が抵抗せず、あなたに抱かれていたら、卓也さんに対するあなたの気持ちはどうだった?」

 

「どうって?」

 

「申し訳ない気持ちとか、罪悪感とか、生じない?」

 

 (ぬる)くなったコーヒーを飲んだ。

 

「……兄さんの愛する人を得られたんだ、幸せに思ったさ」

 

「……はぁ?」

 

 冗談とは思えない真顔の英征を視て、柊子は自分の常識とするものが根底から覆された思いだった。

 

 結局、決着がつかないその押し問答(おしもんどう)に、柊子は“一度だけ”という約束で終止符を打った。――

 

 

 

 懐妊(かいにん)に気付いたのは、庭の桃の花が花弁(はなびら)を散らす頃だった。そのことを知って、一番に喜んだのは綾子だった。初孫見たさからか、壊れ物に触れるかのように、柊子を大切に扱った。

 

 

 ――庭の水仙が咲く頃、卓也に手を添えられた柊子が、赤子を抱えて病院から帰ってきた。破顔一笑(はがんいっしょう)で出迎えた綾子は、産着(うぶぎ)の赤子を柊子から受け取ると、玩具(おもちゃ)で遊ぶ子供のように、夢中になってあやしていた。

 

 綾子は、卓也と英征から一字ずつ取って、“卓征(たくゆき)”と命名した。

 

 

 ――それは、桃の花が花弁を散らす頃だった。寝入り端(ねいりばな)にかかってきたその一本の電話は、不吉な音色をしていた。

 

「奥様っ!若お坊ちゃまがっ!」

 

 病院からのその電話に、扶美が慌てふためいた。

 

 

 

「卓征も連れて行きまっし」

 

 覚悟した綾子は一言そう言って、柊子を見た。

 

「はいっ」

 

 柊子ははっきりと返事をすると、眠っている卓征を抱えた。泰然自若(たいぜんじじゃく)とした綾子の後につくと、卓也が運転する車に乗った。

 

(……英征さん……死なないで)

 

 車窓を流れる街の灯が涙でぼやけた。その(しずく)が卓征の頬に落ちた。

 

 

 “急性白血病”それが、英征の病名だった。綾子に背中を押された柊子は、綾子と目を合わせると、卓征を抱いて病室に入った。ベッドで()せている英征は、会わなかったこの一年余りで、目は窪み、小麦色だった肌は磁器のように冷たく白かった。

 

「……英征さん。あなたの子、卓征ですよ」

 

 柊子は、細くなった英征の手に、ふっくらとした卓征の小さな手を触れさせた。英征の弱い視線が卓征に向いていた。

 

「……たくゆき……」

 

 英征は、卓征の手を力なく握った。すると、卓征が嬉しそうに笑った。

 

「……あなたと私だけの秘密ですよ」

 

「……姉さん。産んでくれて……ありがとう」

 

 英征が朧気(おぼろげ)眼差(まなざ)しを向けていた。柊子は、溢れる涙を拭いもせず、(むせ)んだ。英征の手を握った柊子は、甲にキスをした。

 

「……愛してるわ、あなたを」

 

「……姉……さん……俺も……愛して――」

 

 その瞬間、英征の手から力が抜けた。

 

「英征さん、英征さん!」

 

 柊子の慟哭(どうこく)と共にドアが開き、廊下にいた綾子と卓也が駆け付けた。柊子と卓征の泣き声が院内に轟いた。――

 

 

 

 綾子は知っていた。卓征が英征の子供だと言うことを……。柊子には言わなかったが、体調が優れないという電話を寄越した英征に、綾子はしばしば会いに行っていた。

 

 そして、そこで見たコーヒードリッパーで分かった。英征はコーヒーを飲まない。家族の中でコーヒーを飲むのは、綾子と柊子だけだった。卓征の命名も、そのことを知った上で、英征から一字取ったのだった。

 

 しかし、そのことは綾子にとって大した問題ではなかった。卓也も英征も(れっき)とした愛する我が子なのだから。その血の繋がった兄弟が、一人の人を好きになっても何ら不思議はない。

 

 卓也もまた、そのことに気付いていた。それは単なる勘ではあるが、兄弟ならではの血の繋がりが、そのことを教えてくれたのかもしれない。弟の子供は我が子も同然だ……。そんな(かんが)えだった。

 

 

 

 

 

 英征は二十五歳という若さで逝ってしまった。だが、英征の(のこ)したものは、“かけがえのない命”だった。その偉烈(いれつ)は家族の心の中に、深く、濃く、強く、そして、美しく刻まれていた。――

 

 

 

 

 

 

 了



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