妹と仲直りしたい (Shinsemia)
しおりを挟む

高校編
プロローグ


 
 書きたくなったので書きました。


 

 

 僕には双子の妹がいる。

 

 僕の名前が彼方(かなた)で、妹の名前は(はるか)

 

 今は亡き母がつけてくれた名前で、父さんから聞いた話によると僕たちが双子であると判明したときに名前を決めたらしい。

 

 二卵性双生児の僕たち。顔立ちはよく似ていて、好きな食べ物も嫌いな食べ物も同じ。身長は僕がちょっとだけ高いけどほぼ同じ。

 大きく違うところがあるとすれば髪の長さくらいのものだろうか。妹の方は女の子らしく、髪を長く伸ばしている。ストレートの濡羽色の髪は艶やかで美しく、通りすがる人の目を引きつけてやまない。

 

 端正な顔とすらりとした体型。怜悧と凛然を兼ね備える僕の妹は、クラスメイトの間では氷のようだと言われていた。鋭い目つきとそれが似合う美貌。真冬の厳寒のように毅然とした存在。加えて妹の美点はそれだけにとどまらず、成績優秀で品行方正。文学部に所属していて活躍しているらしい。何かのコンテストで入賞したこともあるのだとか。

 

 それに引き換え僕は決して優秀な人間とは言えない。成績は真ん中くらいで運動はてんでダメ。本当に妹と同じ血が流れているのかと疑ってしまうほどに、そういった部分は似なかった。部活にも所属せず、趣味は読書くらい。一緒に外で遊ぶような友達もいないため休日は家で過ごすことが多い。

 

 ……まあ、僕のことはどうでもいい。何はともあれ、僕は優秀な妹のことを誇らしく思っている。だけど、一つだけ悩みがあった。

 

 ──ガチャっと玄関のドアが開く音。

 

 リビングのソファに腰掛けていた僕の耳に、確かに届いた。

 

 

「ただいま」

 

 

 そして響く凛とした声。涼やかな空気が家に流れ込んだ気がした。

 リビングを出て玄関に向かう。そこには制服に身を包んだ女の子。靴を脱ぐために背を向けていて顔は見えないが、ロングの綺麗な黒髪はいつも通り。

 

 部活から帰ってきたばかりの僕の妹が、そこにはいた。

 

 

「おかえり、遥」

「……」

 

 

 声に反応して、妹がちらっと僕の顔を確認する。その表情は冷淡で、感情を読み取ることができない。鋭い目つきに物怖じしかけるがなんとか堪える。

 

 けれど、妹からの言葉はない。

 

 

「何か飲み物でも飲む? ちょうどさっき、買い物に行ってきて──」

「いらない」

 

 

 簡潔に一言。

 小さく形の良い唇から放たれる端的な言葉。

 

 靴を脱ぎ終わって妹が家に上がる。そしてリビングのドアの前に立つ僕の横を通り過ぎて、階段を上っていった。

 トントン、と階段を上る足音は徐々に遠ざかっていき、やがてキィとドアが開く音と共に一切の音が消えた。

 

 

「……」

 

 

 ……やっぱりだめか。

 

 中学生くらいの頃からか、妹は僕を避けるようになった。僕と妹は、小さい頃は何をするも一緒だった。一つのおもちゃを二人で変わりばんこに遊んだり、公園のブランコで背中を押してあげたり。喧嘩することもあったけど、最後にはちゃんとお互いに謝って仲直りできた。

 

 でも、今はそうじゃない。

 これは喧嘩じゃない。喧嘩にすらなってない。

 

 

「……遥」

 

 

 僕の双子の妹。

 

 これが最近の、僕と妹のいつものやり取りだった。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 夕飯の時間。テーブルには二人分の食器。父さんはあちこちを飛び回る人で、僕と妹が高校生となった今では家を空けることが多くなった。

 配膳を進めていると、階段を下りる音が聴こえ始める。毎日決まった時間に食事をするため、わざわざ呼びに行く必要はなかった。

 

 リビングのドアが開くと、制服からラフな私服に着替えた妹が入ってきた。

 

 

「ちょっと待ってて。飲み物淹れて──」

「自分でやるからいい」

 

 

 僕がコップを持ってこようとすると妹はぴしゃりとそう言って、すたすたとキッチンに向かった。そして冷蔵庫の中からお茶の入ったペットボトルを取り出して、()()のコップに中身を注いだ。

 

 そしてテーブルに戻ってきて、自分の席と僕の席にコトッと置いた。

 

 

「あ、ありがとう」

「……別に」

 

 

 ぼそっとそう言って、席に着いた。ぶっきらぼうで口数が少ない妹だけど、こういう何気ないところでは優しかった。

 

 

「じゃあ、食べよっか」

 

 

 僕も席について、いただきます、と小さく唱えた。料理はいつも僕が作っている。母さんのいない僕たちだが父さんは料理ができず、出来合いの弁当を買ってくることが多かった。でもそればかりだとやっぱり飽きるもので、当時小学生だった僕は料理の本を読んで勉強を始めた。そのおかげか、高校生となった今は、人並みに料理ができるようになった。

 

 

「……」

「……」

 

 

 カチャカチャと、食器の動かす音だけが薄暗いリビングで響く。父さんのいない食卓にもすっかり慣れた。僕も妹も喋るのが好きというわけでもない。だから静かに食事をする。

 今日の夕飯はオムライスとサラダ、それにオニオンスープ。オムライスは僕の幼い頃からの好物で、妹もまた同様だ。

 

 テーブルを挟んだ向かいには、もくもくとご飯を食べる妹。あまり会話がない僕と妹だけど、こうして一緒にご飯を食べてくれるだけで嬉しかった。

 

 

「……部活の方は、どう?」

 

 

 タイミングを見計らって話かける。全く会話がないというのも物寂しいものだった。

 

 

「……どうって、何が?」

「いや……上手くいってるかなって」

「別に。普通」

 

 

 雑談らしい雑談とも言えない妹との会話。無視されることもあるけれど、たまにはこうして一言でも返事をしてくれる。

 

 

「そっか」

 

 

 それっきり会話もなく、お互いに食事に集中する。でも、会話のない食事なんてあっという間に終わってしまうもので。僕も妹も、ほぼ同じタイミングで食べ終わった。

 遥が手を合わせて、「ごちそうさまでした」と小さく呟く。夕飯時にはこうして妹の声を聞くことができる。ちっぽけなことかもしれないけれど、僕のささやかな楽しみだった。

 

 遥は食器をキッチンに持っていって軽く水ですすぐと、自室に戻って行った。妹はご飯を食べたらいつもすぐにお風呂に入る。今はたぶん、自室に着替えを取りに行ったのだろう。

 

 

「……ふぅ」

 

 

 一息つく。

 

 別に妹と一緒にいることで気疲れをしたわけじゃない。ただ、いらないことを言って不機嫌にさせてしまわないかが心配だった。

 今までも、どうやったら妹と昔みたいに話せるかをあれこれ考えてきた。でも、遥がどういった趣味を持っていて、何に興味を持つのか。血のつながった兄妹だというのに、結局分からずじまいだった。妹の方はそういったことをあまり話したくないようで、質問するたびに不機嫌になってしまう。だからもう穿鑿(せんさく)するのはやめた。

 

 自分の分の食器を抱えてキッチンに向かう。スポンジを軽く水で濡らし、洗剤で泡立たせた。基本的に家事は僕が担当している。朝食も、昼の弁当も。特に面倒と思ったことはない。昔がどうだったかは覚えてないけど、今の僕はそれなりに家事が好きだと感じている。

 

 

「……あ」

 

 

 ふと、シンクの一角を見れば空になった妹の弁当箱があった。さっきキッチンに行ったタイミングで置いていったらしい。妹と仲良く話すこともないし兄妹仲はお世辞にも良いとは言えないけれど、文句の一つも言わずに僕の作ったご飯を食べてくれるのはなんだかんだでありがたかった。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 妹がお風呂から上がったあと、僕もお風呂に入り終わって一日のやるべきことが終わった。先ほどまで勉強机で明日提出の課題をやっていたがそれも終わったし、明日の授業で使う教科書類もしまった。あとは寝るだけ。

 ピっと、リモコンのスイッチを押して消灯する。徐々に失われる光。部屋はすぐに真っ暗になった。何も見えない視界の中、ある方向に顔を向ける。その向こう側には妹の部屋。

 

 僕は()()()()()から妹の部屋には一切入ったことがない。そのため、部屋の中が今どんな風になっているのかは分からなかった。

 実は妹が使ってるあの部屋は、昔は僕と妹が二人で使っていた。と言っても、小学校低学年くらいまでだろうか。しかし、その頃になると流石に物心というものがつき始めて。当時、父さんが物置代わりにしていたこの部屋を僕の部屋として使うことになった。

 

 ……妹は今、何をしているだろう。

 

 明日に備えて既に眠っているだろうか。それとも、真面目に勉強でもしているだろうか。

 

 僕と遥は双子の兄妹なのに。

 十数年も、ずっと一緒だったのに。

 

 僕は、妹のことをほとんど知らない。

 

 

「……」

 

 

 一つ屋根の下でこんなにも近くにいるのに、いつからか妹がとても遠いところにいるような気がした。

 

 だけど、一つだけ言えることがあった。妹の気持ちが分からない僕にでも分かる簡単な事実。

 

 そう──

 

 

 僕はきっと、妹に嫌われている。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第一話

 
 見切り発車で始めた小説ですが、お気に入り登録に加え、なんと感想までいただきました。心より感謝申し上げます。


 

 小鳥のさえずりが一日の始まりを告げる。時計を見れば時刻は朝の六時。目覚まし時計にセットしてあるのはその三十分後だけど、もうこの時間に起きるのが習慣になっていた。

 

 布団の温もりを名残惜しく思いながらベッドから降りて伸びをする。空は清々しい青に満ちていて、雲一つない快晴だった。白い太陽の光が窓越しに眩しくて、思わず手で遮った。

 

 部屋から出て一階のリビングに向かう。まずは今日の弁当を作らなきゃいけない。秋も近づいてきたこの時期、冷たい水を恨めしく思いながらお米を研ぐ。ある程度研ぎ終わったら炊飯器にセットしてスイッチを入れる。あとは昨日の晩御飯の残りのスープとサラダ。そして目玉焼きを作って、食パンを焼けば今日の朝ごはんは完成。

 ちょうど出来上がったところで、二階から足音が聞こえる。どうやら妹も起きたらしい。制服をしっかりと着こなす妹が、少しだけ眠そうに目をこすりながら降りてきた。

 

 

「おはよう」

「……おはよう」

 

 

 声こそ若干眠そうだが、身だしなみは綺麗に整っている。ブラシでもしたのか、髪はいつも通りさらさらで艶やかな輝きを放っていた。

 

 準備も終わり、二人で席に着く。妹はトーストにマーガリンを塗り始めた。僕も妹も、トーストにはマーガリンを塗って食べる。こういったところは、本当に妹と嗜好が似ている。妹が塗り終わって、僕に無言でマーガリンの入ったパックを差し出す。

 

 

「……ありがとう」

 

 

 塗って一口かじると、ふわっとした香りと共にサクッと音がする。食パンを焼いただけだが、充分なおいしさだ。

 

 昨日に引き続き静かな食事の時間。僕にとって数少ない、妹と共に過ごす時間だった。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 朝食を摂った後は、二人分のお弁当を作る。時短のために冷凍食品を使うこともあるが、基本的には自分で作った。たとえば小さなハンバーグや、ポテトサラダ。そしてほうれん草のおひたしなんかがそうだ。

 二つの弁当箱に均等に盛り付けて、蓋を閉じれば準備完了。青い布とピンクの布を取り出し、ひとつずつ包んだ。

 

 

「はい、遥」

「……ん」

 

 

 小さく頷いて受け取る。高校に入ってからはずっと僕がお弁当を作っているが、妹はいつも綺麗に全部食べてくれる。普段の会話は乏しいけれど、そういうところは作ってる側としては嬉しかった。

 

 

「……今日も、帰りが遅くなるから」

「うん、分かった」

 

 

 部活で忙しいらしい。賞を取ることもあるくらいだから、毎日熱心に取り組んでいるのだろう。妹はカバンの中に弁当箱を入れるとリビングを出て、そのまま先に家を出た。

 

 僕は妹とは一緒に登校しない。妹が嫌がるからだ。中学生の頃に一度はっきりと、一緒に行きたくないと言われたことがある。学校でも話しかけてこないでと言われ、そのときは流石にショックを受けて呆然としてしまった。

 だけど僕は、妹に殊更問い詰めるようなことはしなかった。双子の兄妹とは言え、男女の違いも目立ち始める多感な時期。僕と一緒にいることで居心地が悪くなることもあるだろうと、そう割り切った。

 

 ……でも、内心ではやっぱり悲しくて。僕は妹にどう接すればいいのか分からなくなってしまった。昔みたいな接し方がだめなのであれば、自分なりに変えていくしかない。その手掛かりを、僕は今でも探し続けている。

 

 

「……」

 

 

 きゅっと水道の蛇口をひねる。朝食に使った食器を洗い終えた。そろそろ僕も出なきゃいけない時間だ。ソファに立てかけてあるカバンの中身を一度確認し、お弁当箱を入れる。そして電気、火元の確認をしてから玄関に向かう。

 

 そしてカバンを肩にかけ、誰もいない家を眺めた。

 

 

「……行ってきます」

 

 

 小さく放った言葉は、静まり返る家の中に消えていった。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 学校の教室に着いた。

 

 だいたいクラスの半分くらいだろうか。まばらに人がいる教室はかすかな喧騒に包まれていた。

 教室に入ってきた僕のことをみんながちらっと見るけれど、すぐに関心を失くしたように視線を外す。僕は友達が少なく、クラスの中でも話せる人はほとんどいない。だけど、そんな僕にも一応知り合いはいる。自分の席に着くと、僕はカバンを机の横に引っかけた。隣の席には、ぐでーっと腕を伸ばしながら机に突っ伏す女の子。寝てるのだろうか。

 

 それに構わず、僕は早速隣の席の女の子に挨拶した。

 

 

「おはよう、(あかね)

「……んー」

 

 

 声に反応してぴくっと身体を揺らす。そして、眠たそうに目をこすりながら徐に顔を上げた。

 

 彼女の名前は茜。セミロングで明るめの茶髪が特徴で、さばさばした性格をしている。

 

 そのためか、男女問わず友達が多い方。顔立ちは綺麗、というよりも可愛いと言うのが適切だろうか。彼女は男勝りなところがあるけれど、クラスに何人かいるいわゆる”可愛い”女の子の一人で、よく告白されることもあるらしい。本人は興味ないのか全部断ったらしいけど。

 

 

「寝不足?」

「うん。昨日やってたドラマがすごい面白くてさー」

「練習で疲れてたんじゃなくて?」

「それもー」

 

 

 茜は陸上部に所属している。僕は彼女が毎日夜遅くまで居残り練習していることを知っていた。彼女は身体を起こすと、ふわっとあくびをもらしながら手を口元に添えた。窓から差し込む陽光に照らされる彼女の茶髪がまぶしかった。

 

 

「……よし!」

 

 

 すると、さっきとは打って変わって力強く気合を入れる。こうしたメリハリのつけ方が茜の特徴だった。溌溂とした表情をする彼女がそばにいるだけで、こちらも活力が湧いてくるような気がした。

 

 

「ところでさ、カナ」

 

 

 ”カナ”というのは僕のことだ。

 

 ”彼方”だと読みにくいのだと言われ、それ以来この呼び方で定着している。初めは違和感があったけど、今はそんなこともなくなった。

 

 ちなみに妹は僕のことを普通に”彼方”と呼ぶ。それも最近では、名前すら呼ばれなくってしまったけれど……。

 

 

 

「妹ちゃんとはどんな感じなの?」

「……え?」

「ほら。最近」

 

 

 

 グサッと刺さる言葉。

 

 まるで僕の胸中を察しているようだった。ちょうど妹のことを考えているときに言われてしまった。

 茜には妹のことをある程度話したことがある。特筆すべきことではないし、もしかしたら兄妹仲が悪いなんて世の中にありふれたことなのかもしれないけれど。

 

 

「……微妙、かな」

「……うそ。全然うまくいってないでしょ」

 

 

 スッと目を細めて、僕の目を覗き込む。

 

 茜はクラスのムードメーカのような立ち位置で、だからこそ人の心の機微に敏感だ。ちょっとやそっとの嘘は、茜には通じない。彼女はときどき、こうして妹のことを訊いてくる。それが決して興味半分ではなく、僕のことを心配しているからだということは彼女の目を見れば分かった。

 

 黙り込んでしまう僕に、茜は呆れたように小さく嘆息しながら、ふっと、柔らかい笑みを浮かべる。そして唐突に、ほっぺたをつんつんとつついてきた。

 

 

「それにしても、本当にそっくりだよね。カナと妹ちゃん」

「そりゃあ、双子だし……」

 

 

 顔だけなら、一見しただけじゃ分からないだろう。

 

 そんなことを考える僕の顔を、茜は不満げに見つめた。

 

 

「しょげた顔してたらさ、どんどん気分が落ち込んで行っちゃうよ?」

「……そんな顔してる?」

「してるよ。ここ最近ずーっと」

 

 

 頬杖をつきながら、茜はその細い指でやっぱりつついてくる。

 

 

「原因、まだ分からないの? カナが何かしたんじゃなくて?」

「……」

 

 

 僕が遥に避けられるようになった原因。時期だけで言えば、中学校に入りたてくらいのときだ。入学して間もなくして、妹との仲はギクシャクしてしまった。

 ある日突然、いつものように一緒に登校しようと家を出たとき。

 

 

『もう学校では話しかけないで』

 

 

 そう言われ、僕はただ混乱した。その日はたまたま機嫌が悪かっただけなのだと思っていた。けれど、実際はその日だけじゃなくて。あの日以来、僕は妹との距離感が全く分からなくなってしまった。

 その原因は未だにはっきりとしていない。でも、なんとなくこうなんじゃないかなと思うことがある。

 

 

「……たぶん、逆じゃないかな」

「……逆?」

 

 

 茜はやっと、つつく指を止めた。

 

 

 

「僕が何もできない人間だから、愛想を尽かしたんじゃないかな」

 

 

 

 片や優秀な妹。片や無能な兄。

 

 姿かたちがよく似ていても、能力の部分で大きな差がある。別にそういったことを直接言われたことはない。だけど、周りの目が雄弁に語っている。目は口ほどにものを言うとされるが、まさにその通りだと思う。誰も彼もがそうとは言わないけど、何度か経験のあることだった。

 

 茜は呆気にとられたのか、口をぽかんと開けていた。

 けれどすぐにまた、呆れたようにため息をついた。

 

 

「……もう、しょうがないなあ」

「……?」

 

 

 茜はやれやれとでも言いたげに首をすくめてみせる。僕の考えは的外れなのだろうか。 

 

 

「ね、今日の放課後は空いてる?」

「……え?」

「放課後だよ、放課後」

 

 

 茜のセミロングの茶髪が、白い陽光を受けてきらきらと輝く。

 換気のために開けた窓から吹き込む風。かすかに甘い香りがした。

 

 

「空いてるけど……」

「じゃあさ──」

 

 

 彼女はにっこりと笑った。

 

 

 

「──放課後、どこか遊びに行こ!」

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 秋も近い季節。

 涼しい風が、金木犀の甘い匂いをのせながら吹く。

 

 放課後になった今、僕は茜とファーストフード店に訪れていた。店内は僕達と同じように学校帰りの学生や、主婦らしきおばちゃんたちが駄弁っていた。適当に飲み物を注文して席に着く。

 

 

「ん、これおいしい!」

 

 

 茜は新発売のシェイクを一口飲み、感心したように言った。流石は有名なファーストフード店、と言ったところだろうか。

 僕は炭酸飲料を頼んだ。ストローを差して、硬いプラスチックをかじる。パチパチと口内で炭酸が弾けた。

 

 

「カナも飲む?」

「……いや、いいよ」

 

 

 シェイクの入った容器をひらひらと振る茜は、ちぇー、つまんないのー、と言って不貞腐れたようにまた飲み始める。茜は僕にとって数少ない友達だ。それも、決して無理に合わせる必要がない居心地のいい関係だった。

 

 

「カナとこうして放課後にどこか寄るのって、何気に初めて?」

「……そうだね」

 

 

 茜はそもそも陸上部だし、彼女の放課後は練習でつぶれる。僕は何もやってないし、放課後は真っすぐに家に帰る。家では掃除したり読書したりして過ごしていた。

 

 

「……」

 

 

 対面の茜は楽しそうに頬を綻ばせる。基本的に自分からは喋らない僕なのに、どうしてそんなに楽しそうなのかはよく分からなかった。

 

 

「あのさ、茜」

「んー?」

 

 

 ストローからちゅーちゅーとシェイクを啜りながら小首を傾げる。

 

 

「どうして……」

 

 

 そもそもどうして、茜は僕を誘ったのだろう。こんなこと今までに一度もなかったはずだけど……。

 

 

「……ね」

 

 

 僕の言葉の意味を悟ったのか、ストローから口を離すと茜はどこか優しい眼差しを僕に向けた。透きとおった鳶色の瞳が僕の目を射抜く。

 

 

 

「あたしが怪我しちゃって大会に出られなかったときのこと、覚えてる?」

 

 

 

 ──それは、僕が茜と話すようになったきっかけだった。

 

 

 春の終わり頃。

 僕は、隣の席の彼女とそこまで話をしない方だった。

 

 ただの隣の席の人。お互いそういう認識だった。にこやかで明るい性格の女の子。僕とは違って友達が多く、社交的な茜。

 

 けれど、ある日……。

 

 

『うぅ……、っ……ひっ……くぅ……』

『……え?』

 

 

 誰もいない教室。

 夕方の光も薄れ始める時間。

 

 僕はその日、学校に置き忘れてしまった教科書を取りに戻った。誰もいないと思っていた教室のドアを開くと、そこには僕の隣の席の女子がいて。

 

 彼女は、自分の席に座って嗚咽をもらして泣いていた。ボロボロと大粒の涙を流しながら、手のひらで目元を拭う茜の姿。いつも笑顔が絶えない彼女が悲しそうに、そして悔しそうに、顔を歪ませていた。

 

 僕が教室に入ってきたことにも気づかない彼女に、僕は呆然と立ち尽くした。

 

 

「あれ、今思うとすごい恥ずかしかったなー」

 

 

 あははー……と、茜は照れくさそうに頬をかく。彼女にとってはあまりいい記憶じゃないかもしれない。でも、僕はそうは思わない。 

 だってそれは、彼女が一生懸命に頑張った証だから。大会に出られなかった絶望がどれほどのものかなんて僕には分からないけれど、あんなに綺麗な涙を流せるくらいに打ち込めるものがある。僕にはそれが、なんだか羨ましかった。

 

 ……確か、あのあと……。

 

 

「あのときのカナ、結構キザだったよね」

「えっ」

 

 

 悪戯っぽく笑みを浮かべながら、僕の顔を覗きこんだ。セミロングの茶髪がさらりと揺れる。

 

 

「だってさ、無言でハンカチ差し出してくるんだもん。すごいびっくりしちゃった」

「いや……なんて言葉をかけていいか、分からなかったから……」

「女の子が泣いてるのに、声もかけないの?」

「……ごめん」

「……ぷ」

 

 

 あはは、と小さく吹き出して茜が笑う。

 

 からかい混じりなのかもしれないが耳が痛かった。異性と接する機会もあまりなかったし初めてのことだったから、そのときはただただ戸惑った記憶がある。

 

 ドアを開けた音にも気づかずに泣きじゃくる茜に僕はゆっくりと近づいて、今彼女が言ったようにハンカチを差し出した。

 

 茜は笑い過ぎたのか、目尻から涙を流した。そしてそれを軽く指先で拭った。

 

 

「……でもね。あたし、それがなんだか嬉しかった」

「……え?」

 

 

 茜は頬杖をついて窓の外を眺める。行き交う人々は千差万別で、誰一人として同じ人はいない。

 

 

「あたし、結構人に合わせちゃうタイプだから。あそこでもし慰めの言葉とかかけられたら、きっと心の底から泣けなかったと思う」

「……」

 

 

 言葉というものは難しい。言葉とは思いを伝える手段だ。言葉にしなければ考えを共有できず、理解してもらえない。でも、言葉はときに人の思いを縛り得る。言葉と思いは紙一重。

 

 善意があるにせよ、悪意があるにせよ、それが人の心にどう影響を及ぼすのかはその人次第。

 

 

「カナに見つかっちゃったのは本当に偶然だったけど……。見つかったのがカナで良かったなって、あたしは思うんだ。何も言わずにそばにいてくれて、なんかほっとしちゃった」

 

 

 だからね、と茜はつぶやく。

 そして真っ直ぐに僕を見つめた。

 

 

「──カナは、何もできない人間なんかじゃないよ」

 

 

 ……そっか。

 やっと分かった。

 

 彼女がどうして、放課後に僕を連れ出したのか。これは茜なりの慰めなのだろう。ふっと、肩の力が抜けた気がした。

 

 僕は今まで自分が無能であると卑下していた。いや、実際にその事実は変わらないのだろう。僕は妹に劣等感のようなものを抱いていたのかもしれない。妹に避けられるようになって、自分の胸がぽっかり空いてしまったような気がしたあの時期。学校でも家でも、僕はずっと笑えていなかったと思う。

 でも茜は、僕という人間を認めてくれている。その気持ちを言葉にして伝えてくれた。

 

 それが心強くて、嬉しくて。

 茜の言葉に心がくすぐったくなった。

 

 ……。

 

 

「……ありがとう、茜」

 

 

 自然と笑みが浮かぶ。

 

 こうして笑うのはいつぶりだろう。高校生になって……いや、妹から避けられるようになってから初めてかもしれない。

 

 ……茜には本当に感謝しなくちゃいけない。

 

 

「……」

「……?」

 

 

 伏せていた顔を上げると、茜が呆気に取られていることに気づいた。まるで、珍しいものを見たみたいに口をぽかんと開けていた。

 

 

「……茜?」

「え、あ……。な、なに?」

 

 

 僕が声をかけると、はっと我にかえった。

 

 そして何故か、動揺したように指で頬をかき始めた。心なしか、頬がうっすらと朱いようにも見える。

 

 

「大丈夫? 顔が赤いけど……」

「だ、大丈夫! 大丈夫、だから……」

 

 

 ぶんぶんと手を振ると、制服のスカートの裾をぎゅっと握った。

 

 もじもじと膝の上に置いた手をすり合わせながら、あの……その……、と、いつになくはっきりしない言葉をぼやく。

 

 そして痺れを切らしたかのように、頭をがーっとかき始めた。

 

 

「ちょ、ちょっと用事思い出したから、先に帰るね!」

「え? あ……」

 

 

 そう言うや否や。

 

 茜は突然席を立って、トレイを持って駆けだしてしまった。慣れないことをして恥ずかしくなったのだろうか。

 

 でもきっと、明日には元に戻っているだろう。根拠はないけど、なんとなくそう思った。

 

 

「……僕も帰ろうかな」

 

 

 席を立って、後片付けをする。妹は今朝、今日は遅くなると言っていた。買い物して帰って、課題を少しやったら夕飯の準備でもしよう。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 買い物を済ませて店を出る。部活帰りの高校生がたまに通りかかるのを横目に歩みを進める。ちょうど部活の終わる時間帯。空は夕方のオレンジ色の光で包まれていて、陽がだんだんと落ちていくのが分かった。

 

 思えば、小学生の頃はこれくらいの時間になると妹の手を引いて帰ったものだ。僕と妹にとって、主な遊び場は近所の公園だった。父さんは土日でも仕事で忙しかったから、僕は妹をよく外に連れ出していた。

 

 砂場やブランコ、滑り台。砂の城を二人で作って僕が誤って壊してしまったときは大泣きされたこともあるし、家ではおもちゃを取り合って喧嘩したこともあった。

 

 ……全部、懐かしい記憶だ。

 夕焼けの色に、過去を回想してしまう。

 

 

 そんな景色に見惚れていたからだろうか。

 僕は()()に気づかなかった。

 

 

「……あ」

 

 

 ──向こう側に、二人の女の子の姿が見えた。

 

 一人はショートカットの黒髪の女の子で、僕の知らない子だった。

 

 だけどもう一人は。

 

 艶やかな濡羽色のロングの髪。すらりとした体型に冷涼な雰囲気。怜悧な顔立ちは端正で、まるでモデルみたいだった。

 僕は彼女をよく知っている。だって、血のつながった家族なのだから。

 

 彼女は隣の子と何か話しながら歩いていたが、やがて僕の姿に気づいて、ぴたっと歩みを止めた。冷静沈着な彼女だけど流石にびっくりしたようで、かすかに目を見開いた。

 

 僕は、気まずい気持ちになりながらもゆっくりと口を開いた。

 

 

 

「……遥」

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話

 

 

「……遥」

 

 

 部活も終わる時間帯。だからこうしてばったり会うのは、ある意味必然だった。

 

 妹の隣にはショートカットの黒髪の女の子。たぶん友達だろう。

 しかし、これはまずいかもしれない。僕は妹に学校では話しかけてこないでと言われている。それは、自分の知り合いと僕を会わせたくないという意味だろう。だから友達がいる今の状況は、妹にとってきっと不都合だ。

 

 僕がどうすればいいか考えていると、どこか優し気な声が耳元をくすぐった。

 

 

「もしかして、遥のお兄さん?」

「……え?」

 

 

 ぴょこんと現れたのは、ショートカットの黒髪にぱっちりとした大きな目。

 視線を下げると、いつの間にか僕の傍にその女の子がいた。

 

 

「……そう、だけど……」

 

 

 ちらっと遥を見る。でも、妹は僕と視線を合わせようとしなかった。

 

 僕の顔を覗き込む例の彼女は、じろじろと顔のパーツ一つ一つを確認するように上から下に視線を動かす。

 僕と妹は顔がそっくりだ。もちろん、微妙な違いはあるけれど。妹の方はちょっとつり目で、僕はつり目でもたれ目でもない。

 

 彼女は感心したように、ほんとに似てるね……と呟いた。まあ、双子だから当然だった。

 

 そして彼女はやっと満足したのか、顔を離すと改めて僕に向き直ってにっこりと笑った。

 

 

「わたし、美玖(みく)っていうの。遥とは同じ部活なんだ。よろしくねっ。……きみのことは、彼方くんって呼んでいい?」

「え、あ……うん」

「じゃあ、彼方くんはわたしのことを美玖って呼んでね?」

「……」

 

 

 ……なんて言うんだろう。

 とにかくフレンドリーな子だな、と思った。

 

 いきなり下の名前で呼ぶのも呼ばれるのも、彼女は全然気にしないらしい。茜と似たようなタイプにも見えるが、彼女よりももっと積極的だろうか。

 自己紹介がてら話を聞くと、僕と遥が双子の兄妹であるということは周知の事実らしかった。まあ、確かに学校内という狭い空間で見たら目立つのだろう。

 

 

「……って、なんで僕の名前を知ってるの?」

「え? だって遥からいつも──」

「ちょ、ちょっと!」

 

 

 すると、さっきまで無視を決め込んでいた妹が間に入ってきた。そして、美玖を後ろの方に連れだすと、ひそひそと何事かを話し始める。妹らしくない、妙に焦った行動だった。

 

 二人が話をしてる間、僕はぼうっとその光景を眺めていた。空を見れば夕方のオレンジ色。でも、瞬く間に暗くなっていくだろう。晩御飯の準備をしなくちゃいけない。

 

 

「ね、彼方くん」

 

 

 どうやら話が終わったらしい。美玖の後ろにいる妹は、微妙な表情をしてた。困ったような、嫌がっているような。

 

 

「よかったら一緒に帰らない?」

「……え」

「遥もいいよね?」

 

 

 そう言って美玖は隣に目をやる。妹は何か言いたそうに口を開きかけたが、結局口を噤んで小さく頷いた。渋々と、仕方がないとでも言いたげだった。

 

 

「うん。オッケーだね」

 

 

 美玖は自信満々に頷いた。

 

 ……これはオッケーなのだろうか。僕には嫌々承諾したようにしか見えない。ふいっとそっぽを向く妹は、心なしか唇を軽く尖らせているように見えた。

 

 

「じゃあ、行こっか!」

 

 

 美玖は楽しそうに言って、妹の隣に並んで再び歩き始めた。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 

 妹との久しぶりの下校は、奇遇にもその友達を含めた三人のものとなった。

 

 僕と妹の間に美玖が入って、帰路につく。美玖から聞いた話によると、家の場所は僕たちと割合同じ方向にあった。美玖と妹は同じ部活に入っている。だからよく一緒に下校しているらしい。

 

 

「彼方くんって、部活には入ってるの?」

「いや。入ってないよ」

 

 

 美玖を挟んで隣にいる妹をちらっと見ても、特に反応はなかった。

 美玖の朗らかな雰囲気とは対照的な妹の冷涼さ。性格だけ見れば正直、妹と反りが合わないように思える。でも、不思議と似合う二人な気がした。

 

 

「へえ。家ではいつも何してるの?」

「読書とか家事とか……かな」

 

 

 そう答えると、まるで主夫みたい、と軽く笑われてしまった。でも、嫌味な感じは全くしなかった。人と話すのが得意じゃない僕だけど、美玖は他の人よりも話しやすいかなと思った。

 

 

「じゃあ、さっきは買い物してたんだ?」

 

 

 僕の持つスーパーの買い物袋を見ながら首を傾げた。今日は鍋にしようかと思って、野菜や魚を買ってきた。中々に重い。

 肌寒い季節に差し掛かってきたこの頃。栄養バランスをしっかり考えてなおかつ僕も妹も好きな料理となるとこれが手っ取り早かった。

 

 

「あー……でも、その前に友達とちょっとお茶してた」

 

 

 お茶というか、炭酸飲料とシェイクだったけど。ただそれは、遊んでたというわけではなく茜なりの気遣いだった。

 

 

「ふーん……。その友達って、女の子?」

「うん」

 

 

 僕がそう答えた瞬間。

 何故か、妹がピタッと立ち止まった。

 

 足を止めて振り返ると、どこか呆然としたように僕を見ていた。信じられないものを見たような驚きが、その目には籠っていた。口をパクパクとさせ、声にならない声を出す。

 

 ……僕に友達がいるのが、そんなに珍しかったのだろうか。

 

 

「……遥?」

「……な、なんでもないっ」

 

 

 声をかけると、やっと我にかえったように首を小さく振りながら歩き出した。珍しく動揺していた。

 

 

「……ふふ」

 

 

 僕の隣の美玖は、何故かニヤニヤしながら口元を抑える。その仕草といい、笑い方といい、なんだか猫みたいだ。

 

 そして立て続けに、僕に再び質問してきた。

 

 

「ね、その子って可愛い?」

「え……」

 

 

 ……どうしてそんなことを訊いてくるのだろう。

 興味本位なのか、何か意味があるのか。

 

 様子が気になり美玖の隣の妹を覗き込むと、ぱったりと視線が合った。

 

 

「……っ」

 

 

 そしてまたそっぽを向く。だけど話が気になるようで、頻りにこちらを気にしていた。

 

 僕は妹の交友関係を知らない。それは、逆に妹の側からしてもそうだった。普段の会話で人付き合いの話題なんて出ないし、そもそも会話自体ほぼない。でも、心の中では気にかかっていた。妹が僕にだけ冷たいのか……いや、避けているのか。クラスが別々だし、妹に言われた通り校内では極力顔を合わせないようにしているから、誰かと一緒にいるところをほとんど見ない。

 

 ……それはともかく、茜が可愛いかどうか、か。

 

 

「うん、可愛いと思うよ」

 

 

 クラスでも三本の指に入るくらいの容姿だと言われている。と言っても、クラスの男子が話しているのを聞きかじったものだけど。でも、僕個人としても特に異論はない。

 

 

「ふーん、そうなんだぁ。だってさ」

「……」

 

 

 まただ。美玖は妹の方にこれ見よがしに首を向ける。

 

 対する妹は、どことなく不機嫌なオーラを放っていた。涼やかな美貌に、感情がかすかににじみ出ていた。

 

 

「っと。わたし、家あっちだから」

 

 

 突然美玖が立ち止まる。彼女はリュックを背負いなおし、僕と妹の家とは別の方角を指さした。どうやらここでお別れらしい。

 

 

「じゃあ、またね! 遥、彼方くん!」

「あ……うん」

 

 

 彼女は手をぶんぶんと振ると、駆けだして行った。僕も遅れながら小さく手を振った。

 まるで嵐みたいな子だった。どんどん遠ざかっていく彼女の背に、なんとも不思議な気持ちになった。

 隣を見れば、やっぱり不機嫌そうな妹。どうしてこんなに機嫌が悪くなったのか、僕には分からなかった。

 

 ……いや、本当は分かっているさ。

 

 僕のせいだろう。

 

 

「……」

 

 

 手に持った買い物袋がやけに重く感じる。

 妹と二人きり。

 僕は地面に目を落とした。夕方に見られる長い影が二人分、並んでいた。

 

 

「……あ」

 

 

 そして、一つの影が動き始める。妹は無言で前に進む。すたすたと、僕のことなど置いていくように。

 

 

「ま、待って!」

「……なに?」

 

 

 振り返った妹は仏頂面だった。風が吹いて、ロングの髪がさらさらと揺れる。金木犀の甘い香りが鼻をかすめた。

 

 僕をひどく拒絶するようなその態度は、今まで見てきた中で一番強いものかもしれない。

 

 ……でも、僕は。

 

 

 

『──カナは、何もできない人間なんかじゃないよ』

 

 

 

 そう言ってくれた人がいるから。

 勇気をもらったから。

 

 一歩、踏み出そうと思ったんだ。

 

 

 

「……話があるんだ。ちょっと付き合ってくれないかな」

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 通い慣れた帰り道。

 

 小学校、中学校、高校と、僕と妹はずっと同じ道を歩いてきた。

 

 

「……ここに来るのも久しぶりだね」

 

 

 ブランコに砂場、そして滑り台。

 

 この時間帯になると子どもたちも家に帰ったようで、誰もいなかった。夕方もそろそろ終わりを迎える時間。僕は昔、妹の手を引いてここから家に帰っていた。

 

 ここは公園。それも、僕と妹が幼い頃の大半の時間を過ごしてきた場所だった。水飲み場は故障しているのか、色褪せた紙に歪な文字で張り紙がしてあって、人気だったジャングルジムは撤廃されているのか、跡形もなく消え去っていた。

 

 あの頃から十年近く経って、景色は寂しいものに移り変わっていた。

 

 

「何か飲む?」

「……いらない」

 

 

 自販機を横目に問いかける。返ってきたのは、やっぱりそっけない一言。

 踏みしめる地面の音が静かに木霊(こだま)する。

 

 

「それで、なんの用なの」

 

 

 ここまで黙ってついてきた妹。いつもは落ち着き払っているはずなのに、今は少しそわそわしていた。濡羽色のストレートの髪に度々触れ、居心地が悪そうにしていた。

 

 ……本当なら、改まって訊くことじゃないのかもしれない。今更かもしれない。

 

 だけど、僕はこのままじゃ嫌だ。

 妹に嫌われたままなんて嫌だ。

 

 だからずっと抱え込んでいた疑問を、初めて吐露する。

 

 

 

「……どうして僕を避けるの?」

「……」

 

 

 

 制服の袖をぎゅっと掴んで、妹は顔を伏せた。その理由は、自分の口からは言いたくないことなのだろう。

 

 僕には上手いやり方なんて思いつかない。だけど話をするくらいはできる。僕はまだ妹自身の口から本心を聞いてない。

 勝手な憶測で、避けられるようになった理由をこじつけているだけだった。それじゃあ、何も解決しない。

 

 

「……別に避けてなんかない」

 

 

 口ごもったように言う。カバンを握る手に、ぎゅっと力が入るのが見て分かった。

 

 遥は僕の妹で、血のつながった家族。それなのに僕は、たった一人の妹のことさえ何も知らない。緩やかに流れる時間の中で、その隔絶はだんだんと大きくなっていった。

 

 

「……僕には分からないんだ。どうして遥が、そんなに僕を嫌うのか……」

「……」

 

 

 冷たい風が落ち葉を連れて吹きすさぶ。風が強くなってきた。

 

 僕は不安だった。このまま遥と話せない状況が続いてしまえばきっともう、昔みたいには戻れない気がした。僕のことが嫌いだというのであれば、それをちゃんと言って欲しかった。僕に嫌なところがあるなら、直せるように努力したかった。

 

 

「僕、遥に何かしちゃったかな……?」

「っ……。だから、違うってばっ」

 

 

 珍しく苛立ちを覚えたように、口調が強まる。

 僕は人付き合いが苦手な方だ。だから無意識に妹を傷つけたり、不快な気持ちにさせたことがあったかもしれない。

 

 それでもやっぱり、僕は妹と仲良くしたい。この歳にもなって、みっともないことなのかもしれないけれど。

 僕たちは家族だ。今までずっと一緒に生きてきた。一つ屋根の下で、僕たちは暮らしている。同じご飯を食べて、同じ学校に行って、同じように育ってきた。

 

 

 

「僕に悪いところがあるなら……できる限り直すからさ、何でも言ってよ」

 

 

 

 昔みたいに我がままを言ってほしい。どんなに些細なことでも、どんなに取るに足らないことでも。

 そういうのを気にしないで言い合えるのが家族だと思うから。

 

 ましてや、僕たちは。

 

 

 

 

 

「僕たちは兄妹──「……ってない」

 

 

 

 

 

 言葉を続けようとした瞬間。

 遮るように小さな声。

 

 僕は妹の様子がおかしいことに気づいた。

 

 

 

「……遥?」 

 

 

 

 妹の異質な雰囲気にやっと気づいた。

 

 肩をわなわなと震わせ、手は白むくらいに強く握りしめられていた。声音から読み取れる感情はよく分からない。だけど、決していいものではないことは確かだった。

 ゆっくりと顔を上げる。僕を射抜く双眸(そうぼう)に宿るのは、鬱積した激情。桜色の唇を小さく噛んで、やるせない気持ちを溜め込んで。

 

 そしてとうとう、耐え切れなくなったように口を開いた。

 

 

 

 

 

「──彼方は、何も分かってない!」

 

 

 

 

 

 いつもそっけなかったはずの妹の声。

 

 久しぶりに僕の名前を口にする妹は、ひどく苦しそうだった。長い髪を揺らしながら、言葉を強めた。

 

 

 

「どうして彼方は私に構うの! なんで!? どうして!」

「あ、えっと……」

 

 

 

 僕はただ困惑した。

 

 僕の何が妹をそこまで怒らせてしまうのか。僕の何がいけないというのか。

 僕に不満をぶつけたいというのであれば、別にそれでも構わなかった。ただ一つ知りたいのは、その理由だけだった。

 

 

 

「私が冷たく当たってるのに! なんで……!」

 

 

 

 僕をキッと睨みつける。握りしめた拳が青白く、ふるふると震えていた。

 突っぱねるような険のある声。強い拒絶の色を含む妹の姿に、ズキリと心が痛む。だけどそれが本心を表しているようにも思えた。

 

 

 日が暮れていく。

 

 向こう側に見える夕方の光がだんだんと失われる。遠い空の、あたたかいオレンジ色の光が、徐々に宵闇に溶け込んでいく。

 

 カラスの鳴く声が、夕方の終わりを告げていた。

 

 そして──

 

 

 

「──!」

「あ……」

 

 

 

 遥は話を拒絶するように、僕の前から駆けだした。思わず手を伸ばすが、瞬く間にその背中は小さくなっていく。

 

 今すぐ追いかけなくちゃ。このまま家に帰ってきてくれるとも限らない。

 

 ……でも、追いかけたその後に何があるのだろう。遥は僕に比べて運動神経がいい。走り去る妹を追いかけても引き離されてしまうだろう。

 

 それに、遥は僕に何も分かっていないと言った。このまま追いかけて、よしんば追いついても、同じことの繰り返しになってしまうに違いない。

 

 

 

「……」

 

 

 

 空を見ればいつの間にか曇り。秋の天気は移ろいやすく、これから先の空模様は不明だった。

 

 ここは公園。僕と妹の懐かしい遊び場。

 暗くなると、手をつないで家に帰っていた。

 

 でも今は、僕しかいない。

 

 

 

「……遥」

 

 

 

 手にぷらんとぶら下がる買い物袋が、やっぱり重かった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話

 

 

 晩御飯の時間。リビングのテーブルの上で一人頬杖をつく。

 

 公園で遥が立ち去った後、僕はしばらく動くことができなかった。まともに話ができないかもしれない、なんてことはとっくに分かっているつもりだった。覚悟してるつもりだった。……それなのに僕は、何もできなかった。

 

 

 

『──彼方は、何も分かってない!』

 

 

 

 遥に言われた言葉が、ずっと頭の中をぐるぐる回っている。ずっと聞きたかった妹の本心は、結局分からないままだった。一つだけ確かなのは、それを話す気がないということくらい。

 

 

「……冷たく当たっている、か……」

 

 

 妹はそう言っていた。わざとなのか無意識なのか。とにかく、僕を遠ざけたがっているのは確実だろう。……僕は、どうすればいいのだろう。

 

 

「……」

 

 

 椅子に背を預けてぼんやりと天井を眺める。

 

 幸いにも妹は、家に帰ってきてはいた。それが分かったのは、玄関に妹の革靴があったから。しかし、そのことにほっとしたのも束の間。妹の部屋のドアをノックしても全く返事がなかった。何回か呼びかけても答えてくれず、僕は一度下に降りて晩御飯の準備に取り掛かった。時間が経てば頭も冷えて、冷静に話ができると思ったから。そう考えてずっと準備をしていた。でも、それが終わったのも数十分ほど前の話だ。

 

 壁に掛かった時計をちらりと見れば、針は晩御飯の時間を過ぎている。いつもの時間になっても、妹は降りてこない。

 

 リビングを出て、再び妹の部屋の前まで向かう。トントンと階段を上る足音が小さく響く。

 上がった先は薄暗い廊下。妹の部屋からは物音ひとつしない。だけど、ドアの隙間からわずかにもれる光が、無人ではないことを証明していた。

 

 コンコン。

 

 小さいノックの音なのに、やけに響いた。

 

 

「遥、ご飯だよ」

 

 

 ……返事はない。呼びかけた声は、あっという間に静寂に飲み込まれた。間違いなく部屋にはいるはずなのだが、僕とは話もしたくないらしい。

 無視されることに慣れていたつもりだけど、あらためてこうされるとやっぱり胸が苦しくなる。赤の他人や知人程度なら、きっとこうはならない。

 

 コンコン。

 

 もう一度ノックする。さっきと同じく返事はない。

 

 

「……」

 

 

 どうしたらいいんだろう。

 何がいけないんだろう。

 

 何度考えても、それは出口のない迷路のように同じところをぐるぐる回るだけだった。初めから正解の道など存在していないのだと、弱い自分が耳元でささやいてくる。

 

 じゃあ、このままでいいとでも? 

 

 

「……」

 

 

 ポケットの中のスマホを取り出す。電源を入れて連絡先を表示させる。探したのは妹の名前。登録してる連絡先は少なく、すぐに見つかった。

 

 ……ダメもとでメールを打ってみよう。

 

 

『せめてご飯くらいは食べてくれ』

 

 

 どんな内容を書けばいいのか、今の僕には思いつかなかった。ただ単に謝ればいいのかというと、それは違う気がした。

 

 

「……」

 

 

 薄明りのついた廊下に座り込む。ドアのすぐ隣の壁に背をあずけた。固い壁はごつごつとして背中が痛い。フローリングの床は冷たく、体から熱を奪ってくる。でも、ここを離れるのはなんとなく嫌だった。

 

 どれくらいそうしていただろうか。何もしない時間というものはひどく長く感じるもので、実際には短かったのかもしれないし、長かったかもしれない。

 

 いずれにせよ、この静寂は一つの電子音によって破られた。

 

 

「あ……」

 

 

 僕のスマホの着信音という形で。

 

 点滅する画面に指を滑らせて内容を確認すれば、差出人は妹。ドア一枚隔てた向こう側にいる遥だった。

 

 

『いらない。こっち来ないで』

 

 

 冷たくそっけない文章が受信ボックスに入っていた。でも、何も話ができないよりかはマシだ。無視されなかったことに、一先ずほっとした。

 会話ができる限り長く続くように、あれこれ考えながらメールを打つ。

 

 

『今日は鍋だよ?』

 

 

『いらないって言ってるでしょ』

 

 

『お腹空いてるでしょ?』

 

 

『空いてない』

 

 

 押し問答が続く。長らく空っぽだったメールの送信履歴と受信履歴は、あっという間に妹のもので埋め尽くされる。ドア一枚隔てた向こう側にいる妹。この部屋に踏み入れることは許されていない。

 でも、なんだか不思議な気分だ。こんなに近くにいるのに、こんなに遠回りしたやり方で言葉を伝え合うなんて。

 

 

「……はは」

 

 

 おかしくなって、思わず笑いがもれてしまう。

 ()()()()()()()の妹は本当に強情だ。

 

 

「……」

 

 

 ……こうなったとき? 

 

 自分で考えたことなのにふとした違和感があって、思わずスマホに滑らせる指を止めた。

 これは違和感というよりも既視感だ。

 

 前にも、こんなことがあったような……。

 

 

 

 ──もう、かなたなんて知らない! 

 

 

 

「……あ……」

 

 

 

 小さな妹の姿が、脳裏をよぎった。

 

 

 壁の無機質な感触を背中に感じながら記憶を掘り返す。昔、僕がこの部屋で妹と一緒に過ごした日々を。

 

 ……そうだ。あのときと同じなんだ。

 

 幼い頃、僕たちはよく喧嘩してた。妹の方が拗ねたり怒ったりして部屋の中に閉じこもって、僕はいつも部屋の外に追い出されていた。兄の威厳も何もあったもんじゃないけれど、僕たちは双子だ。どちらが年上でどちらが年下、なんていう考えがそもそも存在してなかった。

 

 途方に暮れる僕は、壁越しに妹に謝ったりなだめたりしていた。けれど、部屋の中の妹はそんな僕に反発して言いたい放題言葉を浴びせてきた。

 

 

 

 ──うわーん! かなたが壊したー! 

 

 

 

 二人で遊んでたおもちゃを壊してしまったとき。

 

 大泣きした妹に、僕はおろおろと困惑した。外れてしまった部品を直すために接着剤を使って頑張ったのを覚えてる。

 

 

 

 ──かなたのバカー! 

 

 

 

 公園の砂場で作った城を壊したとき。

 

 思いっきりふくれっ面をした妹は、ぽかぽかと僕のことを叩いてきた。父さんが買ってくれたおやつを譲ることで許してもらったのはいい思い出だ。

 

 

 

 ──もう、かなたなんてキライ! 

 

 

 

 小さい頃は衝突することが何回もあった。 

 何回も喧嘩した。

 

 原因は色々あったし、僕が悪い場合もあれば妹が悪い場合もあった。けれど、いずれにしても顔を真っ赤にしてボロボロと泣きながら僕を責める妹の姿に心を痛めた。

 

 

「……ん?」

 

 

 端末の画面が光って、小さな着信音が聞こえた。

 手に取って見ると、またも妹からのメール。

 

 

『なに笑ってるの?』

 

 

 ……ちゃんと聞こえてるんじゃないか。

 

 苦笑しながら簡潔なメールの文面を眺める。端的な文章は、昔と似ても似つかない。

 妹は変わった。昔みたいに明るい感じでもなければ、感情を表に出すことも少なくなった。無邪気な笑顔を最後に見たのは、本当に遠い昔のこと。

 

 スマホを床に置く。コトッと小さな音を立てた。

 深く息を吐いて口を開く。

 

 

「……懐かしいなって思ったんだ」

 

 

 今度はメールではなく、自分の言葉で。

 

 

「覚えてる? 昔は喧嘩したとき、こうやって部屋に入れてくれなかったよね」

 

 

 妹の部屋は僕もかつて使っていた部屋。おぼろげな記憶だけど、遥の隣に布団を敷いて一緒に寝ていたような気がする。

 

 

「拗ねた顔してドアを閉めてさ、わざと聞こえるように物を強く叩いたりして……」

 

 

 泣いたり、怒ったり、そして笑ったり。僕は全部覚えてる。僕にとって妹は自分の分身みたいなものだった。妹が嬉しければ僕も嬉しいし、悲しい気持ちになるのなら僕も悲しい。

 

 

「結構困ったんだよ? 寒い日でもお構いなしで……」

 

 

 部屋の中からの返事はない。今も昔もそうだった。

 

 どうやって落ち着かせるか、どうやって話を聞いてもらうか。自分なりに必死で考えて、色々試してみて。だけど、やっぱり上手くいかなくて頭を抱えた幼少期。

 

 

「……でも」

 

 

 

 ──ごめんなさい……。

 

 

 

 そう、最後には。遥はいつだって。

 

 

 ガチャっと、ドアの開く音。

 

 

 薄暗かった廊下に、開かれたドアの隙間から一筋の光が差し込む。懐かしい匂いがした。住み慣れた家で、僕がずっとそこにいた証。

 

 顔を上げればそこには──

 

 

 

「……遥」

「……」

 

 

 

 やっと、顔を見せてくれた。

 着替えていないのか、制服はそのままで胸元のリボンを外しただけだった。

 

 

「……彼方は変」

 

 

 妹は腕をさすりながら目を伏せる。怜悧な相貌はそのままに、かすかな戸惑いが含まれていた。

 

 

「……こんなに冷たくしてるのに、なんで彼方は私を嫌わないの?」

 

 

 ……なんで嫌わないの、か。

 

 冷たくされたって、無視されたって、そんなものは関係ない。だって遥は、僕のたった一人の妹。

 

 そして何よりも大切な──

 

 

 

「家族だから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『……ずっと……兄妹で仲良く……ね……』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは決して忘れられない記憶。

 

 

 白いシーツと白いベッド。

 

 危篤状態の母さん。

 弱々しく頼りない声。

 

 ほっそりとした腕を持ち上げた母さんが、青白く冷たい手で僕と妹の頬を撫でた。声を出すのさえ苦しいはずなのに、精一杯の力で母さんは気持ちを伝えてくれた。そのときの母さんの慈愛の笑みが、僕という人間の根幹をなしている。

 

 母さんが亡くなって、僕たちは人の死に触れた。物心がついたばかりだった当時の僕と妹はひどく泣いて、立ち直れないくらいの絶望に襲われた。僕と妹、父さんと母さん。四人で積み上げてきた幸せは、その日に崩れ落ちてしまった。四人で埋められていた空間から一人が欠け落ち、ぽっかりと穴が開いてしまったような感覚に襲われた。

 

 でも、そんな虚無感に襲われている暇はなかった。だって僕には妹がいたから。たった一人の妹が。僕だけが悲しみに暮れている暇はなかった。僕がそんな風に挫けてちゃいけない。

 

 だから母さんが亡くなってから、僕は必死に頑張った。できる限り家のことを手伝うようになった。慣れない手つきで包丁を使って料理を始めたり、部屋の掃除から始めたり。小さなことかもしれないけれど、僕にできることを探し始めた。

 

 今までそこにあった幸せや人、そして温もりが消える瞬間を僕は知っている。離別の時は人それぞれだ。それがたまたま、僕たちにとっては幼い頃のことだったというだけの話。僕は、精神状態の未熟な子どもだった。

 

 ……それでも。

 

 僕はそれでも、あの日に誓ったんだ。

 

 せめて、妹のそばを離れないようにしようと。妹のためにできることをしようと。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

「一緒にご飯食べたいし、学校にも行きたい。それって、そんなに変なことかな……?」

 

 

 家族は、共にいてこそ意味があるものだと思うから。それが僕なりの、家族という存在の答えだった。

 

 

「……」

 

 

 遥は一瞬、目を見開いた。でもすぐに、ばつが悪そうに顔を背ける。

 僕の言葉に思うところは色々あるのだろう。妹だって、母さんの言葉を忘れたわけじゃない。それでも、ここまで頑なに口を閉ざしている。

 

 

「……やっぱり、理由は言えない?」

「……」

 

 

 コクリと、小さく頷く。

 

 僕が公園で問いただしたこと。その答えを言う気はやっぱりないようだった。遥が何故、僕を避けるのか。冷たく当たるのか。間違いなく理由はあるはずだけれど、これだけ訊いても答えてはくれない。

 

 

「……そっか」

 

 

 ……だめか。

 

 自分の不甲斐なさに、思わず拳を握りしめた。どうしてこうも、上手くいかないんだろう。僕はただ、昔みたいに普通に話せるようになりたいだけだった。なのに、そんな簡単なことさえ僕にはできない。

 

 ……はは。

 僕は本当に無能だ。

 

 数少ない友達から折角気を遣ってもらったのに、それに応えることができない。

 

 

「……一つだけ言っておくけど」

 

 

 ボソッとした声に、体が震えるのを感じた。

 

 今度は何を言われるだろう。いずれにしても、僕は怖い。このまま兄妹という関係すら消えてしまう気がして、僕は怖かった。

 

 そして遥は、いつもの凛とした口調で言った。

 

 

 

「別に、彼方のことを嫌ってるわけじゃないから」

「……え?」

 

 

 

 ……今、なんて……。

 

 予想外の言葉が出てきて、僕はわずかに顔を上げた。たった一言だけど、僕にとってはあまりにも大事なことだったから。

 僕はずっと、妹に嫌われているのだと思っていた。僕が妹のためにしてきたことは全部空回りしていて、鬱陶しがられているのだと思っていた。でももし、それが僕の勘違いなのだとしたら。

 

 遥は気まずそうに、視線をずらしながら横目で僕を見る。

 

 

「……彼方が悪いわけじゃない。これは、私の問題だから……」

「それって、どういう──」

 

 

 思わず立ち上がって、深く訊こうとした。

 けれど僕は、すぐに言葉を止めた。

 

 

「……」

 

 

 遥は震えていた。

 

 腕をさする手は強張っていて、何かに怯えるように竦んでいる。ちらりと向けられる目は、いつもの射抜くような力強さが薄れていて。何も訊かないでほしいと、懇願されているようにも思えた。

 

 その澄んだ瞳に、僕はそれ以上を訊くことを躊躇った。

 

 

「……ごめん。やっぱり、言わなくていいよ」

 

 

 ……そう、だったのか。

 僕は、嫌われているわけじゃなかったのか。

 

 それが分かり、一気に脱力した。よろけながら壁に寄りかかる。

 だったら今は、それだけでいい。本当は理由を知りたいけれど、そのせいで妹を徒に傷つけてしまうのであればやめよう。

 

 ……そっか。

 

 

 ──きゅるるぅー……。

 

 

「あっ」

 

 

 その音は僕のものではなかった。

 

 ばっと反射的に手でお腹を抑えてしまったので、自白したも同然だった。だんだん、妹の顔が赤く染まっていく。鋭利な表情には羞恥の色が浮かび、唇をぎゅっと一文字に結んで黙ってしまった。

 

 

「……はは」

 

 

 そんな妹らしくないところを見たからか、さっきまでの緊張感はふっと和らいだ。重苦しい雰囲気は一気に霧散し、涼しい空気に清々しさすら感じた。

 

 軽く笑う僕に、妹は恨みがましい目を向けてくる。

 

 

「……ご飯にしよっか」

 

 

 スマホを見れば晩御飯の時間から結構経ってしまっていた。これじゃあ、お風呂の時間もずらさなきゃいけない。でも、たまにはそれもいいかなって思った。

 

 下のリビングにはご飯の準備が整っている。今日は鍋だ。僕も妹も好んで食べる。父さんはいないけれど、決して寂しくはない。そんなことを考えて階段を降り始める。

 

 そして、手すりに手をかける寸前。

 

 

「……彼方」

「ん……?」

「その……ごめん」

 

 

 気まずそうに俯きながら腕をさする。口を開いては閉じて、言葉に迷っていたようだがやがて小さく呟いた。

 

 今日は久しぶりに妹とこんなに話した。数日分……いや、数か月分はあるだろうか。

 何が遥の琴線に触れたのかは分からないし、根本的には何も解決してないのかもしれない。でも、妹は本心を少しでも話してくれた。それだけで、今は満足だった。

 

 

「下に行こっか」

 

 

 手すりに滑らせた手のひらは、何故か温かい気がした。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話

 
 読んで下さる皆様に深い感謝を。


 

 

 窓から差し込む光が静かに朝を彩り始める。

 

 朝の決まった時間に起きているからか、季節の変化というものをひしひしと実感する。ついこの間まではうだるような暑さが続く夏だったような気がするが、今はもう秋一色だ。

 秋と言えば読書の秋という言葉がある。僕自身、読書は好きだし、ぎりぎり趣味と言えるものだった。

 

 ……そういえば、遥は文芸部に所属していたな。

 

 お弁当の準備をしながらぼんやりと考える。活動内容は小説の執筆だったり評論だったり、様々だと聞く。学校での茜との何気ない話の中で聞きかじった知識だ。それに、妹はコンテストで賞を取るくらいには実力がある。もし機会があれば、一つの話題として訊いてみるのもありかもしれない。

 

 ……妹の機嫌次第だけど。

 

 

「はい、遥。お弁当」

「……ん」

 

 

 いつものように巾着袋にお弁当を入れて渡す。

 

 昨日から一夜明けた今日は金曜日。時間通りに起きて、ご飯の準備をして。妹もご飯が出来上がる頃にはリビングに降りてきて、朝食を食べた。昨日のことがあったとはいえ、さっきまでは普段通りの朝の時間を過ごした。

 

 

「行ってらっしゃい」

 

 

 手早く食器を片付けにかかる。蛇口をひねれば冷たい水が出てきた。秋に入りたてとはいえ、朝はすっかり冷え込んでいる。水で濡れた手が冷たくて痛いけれど、少しの我慢だ。さっさと終わらせて僕も学校に向かおう。

 

 洗剤で泡立たせたスポンジで、カチャカチャと食器を洗う。

 

 

「……?」

 

 

 すると、未だに動かない妹の姿が目についた。

 僕をじーっと見ながら何か言いたそうだった。

 

 

「どうしたの?」

 

 

 遥はお弁当箱を手に持ったまま動かない。だけど僕と目を合わせると、冷たくそっけなく、でもどこかやわらかい口調で口を開いた。

 

 

「……なに言ってるの?」

「え?」

 

 

 カバンの中に弁当箱を入れ、制服のスカートをひらりとなびかせながら背を向けた。

 長い濡羽色の髪が美しく、さらさらと揺れる。窓から差し込む逆光に照らされて、きらきらと輝いているように見えた。

 

 遥がちらりと後ろを向く。

 そして、僕を横目に見て言った。

 

 

 

 

「学校、一緒に行くんでしょ」

「……あ」

 

 

 

 

 水道から流れる水の音が、一瞬消えた気がした。

 思い出すのは、つい昨日の出来事。

 

 

 

『一緒にご飯食べたいし、学校にも行きたい。それって、そんなに変なことかな……?』

 

 

 

 僕は昨日、確かにそう言った。紛れもない僕の本心だ。だけどまさか、妹の方からそう言ってくれるとは思ってなかった。僕の方から歩み寄るこそすれ、妹からはあり得ないだろうと思っていた。

 

 でもそれは、どうやら僕の思い違いだったみたいで。

 

 

「……」

 

 

 遥は居心地が悪そうにそわそわしていた。慣れないことを言っている自覚はあるのだろう。今までの態度を考えれば、ある意味自然なことだ。軽く腕をさする仕草は、昨日も見たものだ。

 

 

「……うん、ちょっと待ってて。すぐに片付けるから」

「……別に、ゆっくりでいい」

 

 

 いつもの朝。

 でも、ちょっとだけ違う展開。

 

 その変化は、僕には望ましいものだった。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 妹と二人並んで通学路を歩く。

 数年ぶりのことだ。

 

 通りすがる人々が、たまに僕たちに注目するのを感じる。双子の兄妹というものは珍しい。小学校の頃も一時期は騒がれたものだ。でも、それも所詮は一過性のものだった。

 

 

「……」

 

 

 妹は凛とした佇まいで、姿勢よく真っすぐに前を見て歩く。冷涼な美貌に怜悧とした相貌。鋭い目つきに刺々しさすら感じることもあるが、妹は学校では人気があった。モデルのような端正な顔立ちやすらりとした体型は憧れの的らしい。

 その一方で、近寄りがたい雰囲気をまとっているのも確かだ。クラスメイトがときどきそうやって噂してるのは僕も知っていた。

 

 でも、昨日の美玖を見る限り友達がいないわけではない。詳しい交友関係は知らないけど、孤立していないことに内心ほっとした。もっとも、妹の側からすれば余計なお世話かもしれないけれど。

 

 

「……なに? さっきからじろじろ見て」

 

 

 遥を見ていると視線に気づかれた。

 不審そうに眉をひそめる妹。僕はそれが妙に嬉しかった。

 

 

「だって、まさか許してくれると思ってなかったから」

「……許すって?」

「一緒に登校すること」

 

 

 妹に一緒に行きたくないと言われてからずっと独りだった。家を出るのも、家に帰るのも。

 原因は教えてくれなかったけど、今はこうして隣並んで歩いている。ちぐはぐな感じがして、どうにも不思議な気分だった。

 

 

「……」

「あ……責めてるわけじゃないんだ」

 

 

 黙りこくる妹に、慌てて訂正する。

 気を悪くしただろうか。

 

 

「ただ、僕は嬉しくて……」

「……そう」

 

 

 その声色に負の感情がないことが分かり、安堵する。言葉には気をつけなきゃいけない。こんなことで折角の仲直りのきっかけが台無しになるのは嫌だ。

 

 

「……遥って、文芸部だよね? 普段はどういう小説書くの?」

「……いきなりなに?」

「なんとなく知りたくなったんだ。こういう話をすること、今までになかったから」

 

 

 妹は雑談を好まない方だ。自分の趣味嗜好を人に話すことは滅多にない。だから少しずつ、本当に些細なことから、妹との仲を取り戻していきたい。

 でも、流石に話してくれないか。そう思って別の話題を考えていたとき、遥がゆっくりと口を開いた。

 

 

 

「……恋愛」

「……え?」

「だから、恋愛小説」

 

 

 

 僕は思わず立ち止まってしまった。それくらい、妹の口から出てきた単語が意外だった。

 

 ……恋愛? 

 

 

「なに、文句あるの?」

「あ、いや……」

 

 

 鋭く睨まれる。

 

 恋愛小説、か。恋愛を題材に小説を書いているのであれば、ひょっとすると妹は恋愛経験があるのだろうか。普段の様子からは色恋沙汰の気配なんて微塵も感じなかった。

 僕は恋愛なんてしてる暇はないから無縁の話だ。興味がないわけではないけれど……。

 

 

「そっか。やっぱり書くのって難しい?」

 

 

 妹は一瞬、質問に面食らったように目をしばたかせたが、やがて憂いを帯びた顔をした。

 

 

「……そうね、難しいわ」

 

 

 妹の視線の先には群青の空。昨日の夕方は曇っていたはずだが、いつの間にか広々とした紺碧が広がっていた。

 

 

「もしよかったらなんだけど、今度見せてもらってもいいかな?」

「え……」

 

 

 今度は遥が立ち止まった。体を硬直させ、呼吸すら止まったように微動だにしない。そして次第に、あり得ないとでも言うように、首を横に振った。

 

 

「だ、だめっ」

「……そっか、それは残念」

 

 

 いきなりこんなこと言われても、それは困るに決まってるか。だけど、いつかは読んでみたいと思う。

 

 妹がどういうことを考えて、どういう世界を創るのか。少しでも知りたい。そしていつか、昔みたいに……。

 

 空を見上げれば、雲一つない快晴。

 何故かいつもよりも、明るく見えた。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 朝の教室は静かだ。

 

 僕の登校時間が割合早いこともあり、クラスメイトが集まる前にここに着くからだ。それは僕の隣の席の茜も同じだったようで、既に着席していた。

 

 

「おはよう」

「あ……お、おはよ~」

 

 

 頬杖をついてぼーっと窓の外を眺めていた茜は、僕が声をかけるまで来たことに気づいていなかった。昨日のことを引きずっているのだろうか。茜の性格からして、そんなことはないと思ったんだけど。

 

 

「茜、ありがとう」

「……え、なにが?」

「昨日のこと」

 

 

 茜なりの気遣いは、彼女にとっては大したことじゃなかったかもしれない。僕という、大勢の友達の内の一人の悩みを気まぐれで聞いただけかもしれない。でも、僕はどうしても彼女に感謝の言葉を伝えたかった。

 

 

「実は、あれから妹とちょっと話したんだ」

「……そうなんだ、どうだった?」

 

 

 茜はふっと笑みを浮かべた。

 セミロングの茶髪が窓から吹く風に揺れる。優しく、甘い香りが鼻をくすぐった。

 

 

「うーん。よく分からなかったかな」

「え?」

 

 

 曖昧な言葉に首を傾げる茜。

 自分でも不明瞭なことを言っている自覚はあるけれど、はっきりとしたことは言えない。腹を割って話をした、とまでは言えないから。氷山の一角が顔を覗かせただけで、再び水面の下へと隠れてしまった。

 

 

「……でも、話ができるってだけでも充分なんだ」

 

 

 だって、一時期はほとんど無視みたいな感じだったから。会話のない食卓も、廊下ですれ違うときに見向きもされなかったことも、全部慣れきってしまっていた。

 でも、それじゃあダメだって、茜が思い出させてくれたんだ。

 

 

「そうできたのは、茜のおかげなんだ。だから、ありがとう」

「う……べ、別にそういうのいいからっ」

 

 

 昨日に引き続いて茜は照れたのか、わざとらしくぶっきらぼうに唇を尖らせる。その姿に、昨日、茜が途中で帰ってしまったことを思い出す。茜はもぞもぞと所在なげにしていて、彼女の特徴であるさばけた感じは今はなかった。

 

 

「それでなんだけどさ、何かお礼させてほしいんだ」

「え……。い、いや。いいよ別にっ」

 

 

 茜は気恥ずかしそうに腕をぶんぶん振って、断ろうとする。

 

 

「でもそれじゃあ、僕の気が収まらないよ」

「……カナって、変なところで強情だよね……」

 

 

 ぽつりと小さく言った。

 

 僕が強情だったことって今までにあっただろうか。少なくとも、学校でそういうところは見せた記憶はないんだけど……。案外、傍から見ると違ってみえるのかもしれない。

 

 

「うーん……あ」

 

 

 ふと、茜が何か思いついたように伏せていた顔を上げた。

 

 

「その……明日、空いてる?」

「空いてるけど……」

 

 

 明日は土曜日だ。特に予定は入っていない。

 

 

「じゃあ……その。買い物に付き合ってほしい……」

「……? そんなのでいいの?」

「……うん」

 

 

 しおらしく頷く茜の姿は、今まで見たことがなくて新鮮だった。

 

 しかし、出かけるだけか。それはお礼になっているのだろうか。何かプレゼントでもした方がいい気がする。やはりこういうのは形が大切で、感謝の気持ちがあればそれでいいかというと首をひねるところではある。

 

 ……とにかく、何か考えておくとしよう。

 

 

「分かった。明日出かけよっか」

「……うん!」

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 

 晩御飯も食べ終え、学校の課題もやり終わった。

 

 明日は土曜日だ。僕は専ら、休日は読書と家事で時間を潰しているが明日は違う。

 

 クローゼットの中からいくつか服を取り出して、ベッドの上に並べながら頭を悩ませ始めたのは結構前。明日着ていく服の選定だ。一緒に出掛ける人がいるのだから、恥ずかしい格好はできない。

 

 コンコン。

 

 ノックの音が響く。この家にいるのは僕を除いて一人しかいない。僕が「どうぞ」と言うと、ガチャっとドアが開く。

 

 

「彼方、お風呂」

 

 

 パジャマ姿の遥が姿を現した。

 お風呂から上がったばかりだからか、濡羽色の長い髪はかすかに湿り気を帯びてしっとりとしていて、頬はうっすらと朱い。

 

 時計を見れば、すっかりと針が進んでいる。どうやら長い時間考えこんでいたみたいだ。

 

 

「うん、分かった」

 

 

 ハンガーに掛かった服を整理しながら返事をする。持ってる服の種類は少ないが、組み合わせを考えればそれなりにパターンが多い。

 妹は僕の部屋の中が気になるのか、わずかに顔を覗かせた。僕が妹の部屋に入ることは許してもらってないけれど、僕の方は別に問題ない。見られて困るものもないから。

 

 

「……なにしてるの?」

「ん……ああ。明日着ていく服を選んでたんだ」

「どこか出かけるの?」

「ちょっと友達とね」

 

 

 茜は僕の友達だ。それも異性の。となると茜に恥をかかせたくないし、それなりの格好をして臨みたい。でも僕はファッションセンスなんてないだろうから、ネットで拾ったコーデを真似ようと思っていた。

 

 そうだ、丁度いいし妹の意見も訊いてみようかな。

 

 

「……それって、昨日言ってた女の子の友達?」

「うん、そうだよ」

 

 

 ……? 

 

 質問に答えると、何故か妹は不機嫌そうに眉をひそめた。そういえば、美玖に同じ話題を出されたときも同じような反応をされた。

 

 

「……そ、頑張ってね」

「え、あ……」

 

 

 一言告げて、遥はドアを閉めた。

 ベッドの上には色々な服が散らばっている。

 

 ……行っちゃったな。相変わらず不機嫌になるタイミングや理由ははっきりしない。けれど、一時に比べればマシだと思った。

 

 それにしても、明日はどうしようか。僕の方からプランを考えるのは当たり前だとして、茜は何に興味を持つのだろう。さばさばした性格からして、ゲームセンターあたりが妥当だろうか。あるいは、女の子らしくウインドウショッピングとかに行くのはどうだろう。

 

 いずれにしても、これはお礼だ。

 ちゃんと考えて、茜に楽しい時間を過ごしてもらおう。

 

 

「……あれ?」

 

 

 ふと、さっき妹に言われた言葉を思い返す。部屋から立ち去る直前に言われたこと。

 

 

「……頑張ってねって……なんだ?」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話

 

 

「お待たせー!」

 

 

 アウトレットモールの中にある時計台付近のベンチに座っていると、聞き覚えのある溌溂とした声が耳に入った。声の方を向くと、セミロングの茶髪とショルダーバッグを揺らしながら走ってくる女の子。

 

 クリーム色の肩出しセーターはふわりとやわらかそうで、明るい雰囲気を感じる。

 あまり派手ではないフリルのついたグレーのスカートは等身大の女の子らしさが表れていて、裾から健康的な細い脚を覗かせていた。

 

 タタッと駆け寄ってきた彼女は、はぁはぁと息を荒げながら膝に手をつく。そして、髪を軽く耳にかけながら、上目遣いで僕を見上げた。

 

 

「ごめんね……っ、はぁ……ちょっと、準備に手間取っちゃって……」

「いや、大丈夫だよ」

 

 

 待ち合わせた時間から少し過ぎているが、別に気にならなかった。

 

 今日は茜の買い物に付き合う日。

 

 待ち合わせ場所をどこにするかメールで訊いたら、ここを指定された。しかし、買いものに付き合うだけというのもお礼にならない気がしたので、一応ここら周辺の店をリサーチして、良さそうな喫茶店をピックアップして連れて行こうかなと思ってる。彼女の買い物が終わったら、休憩がてら寄るとしよう。

 

 

「……あの、さ」

 

 

 今日のプランを思い起こしていると、茜は脚をすり合わせるようにもじもじとしながら、訊いてきた。

 

 

「その……この格好、どうかな……?」

「良く似合ってるよ。可愛いと思う」

 

 

 やっぱり、こういうのは気になるものなのだろう。休日にこうして会うのは初めてだから、僕の方も変な格好をしていないか少し緊張してる。

 しかし、あらためて茜を見ると、おしゃれに気をつかってるのがよく分かる。学校の茜とは雰囲気が違って新鮮だ。

 

 

「そ、そうなんだ。……よかった」

 

 

 ほっと胸を撫でおろす茜。茜なら割とどんな服でも似合いそうな気がした。

 

 

「ここに集合ってことは、やっぱり服?」

「うん。他にもちょっと、色々見たいのがあるから」

 

 

 荷物持ちといったところだろうか。力にはあまり自信ないけど、精一杯務めさせてもらおう。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

「カーディガンとかコートとか、冬物を見ようかなって」

 

 

 茜の言に従って、店を転々と回る。しっくりくるものがないのか、ときどき試着したり、自分の体に合わせては元に戻すということを繰り返していた。

 

 

「カナは何か欲しいものとないの?」

「服にはあまりこだわらないかな」

 

 

 ブランドものとかもよく分からない。出かけること自体少ないし、安物をまとめて買うくらいだ。

 父さんから僕と妹それぞれにお小遣いが支給されるが、めったに使うこともなく、ほとんど手つかずだ。そんなことよりも、家計のやりくりの方に頭を使っている。仕事で家に全然いない父さんに代わって普段の生活費に関しては僕が管理していて、それなりに大変だった。

 

 でも今日くらいは、何かに使うのも悪くないかもしれない。

 

 

「えー、もったいないなあ。素材はいいのに」

「素材はいいのにって……」

 

 

 つっけんどんな物言いに思わず言葉を失ってしまう。けれど、それが何故か面白くて苦笑してしまった。

 

 

「別に僕はいいよ」

「……そう?」

 

 

 不安そうな茜。ひょっとすると、僕がいやいや付き合っているとでも思っているのかもしれない。そもそもこれは、茜に対するお礼なのだから僕のことは全く気にすることないんだけど。

 

 

「僕は僕で楽しんでるから」

 

 

 茜は気の置けない友人だ。彼女の雰囲気がそうさせるのか、一緒にいて嫌だなと思うところは全くない。

 

 普通は誰にだって、ここは良いけどここは嫌だなと思うところはあるものだ。だけど、茜にはそういうところがない。それが彼女の特徴……いや、魅力と言えると思う。

 

 道行く人々とすれ違いながら次の店へと向かう。土曜日ということもあって、ショッピングに来てる人は中々に多い。家族連れやカップル。様々な人間関係がそこにはある。

 

 

「……あ」

 

 

 ふと、茜がとある店の前で立ち止まった。僕も彼女の後ろから店の中を覗き込む。そこはアクセサリーショップだった。

 

 

「茜って、こういうのに興味あるんだ」

「え……あ、あはは。やっぱり、似合わないかな……?」

 

 

 あたしって、女の子っぽくないし……と、自嘲気味に笑う茜。男勝りな性格があるところは否定しないけれど、かといって女の子らしくないなんてことはない。

 

 ……そっか。

 それで今日会ったときも不安そうな顔だったのか。

 

 今の彼女はいかにも女の子らしい格好をしてる。それが普段の自分のイメージとかけ離れてると思っているのだろう。

 

 

「……ちょっと、中に入ってみようよ」

「え……でも」

「いいから」

 

 

 半ば強引に茜を連れて店の中に入る。

 

 小綺麗な店内の装いを見渡すと、ネックレスやブレスレット、他にも髪飾りなど、それなりの種類の女性用のアクセサリーが並んでいた。価格を見ると、そこそこ高いものもあった。ガラスケースの中に入ってるものなんかもある。

 

 

「色々あるんだね」

「う、うん……そうだね」

 

 

 茜は居心地が悪そうにそわそわとしていた。茜が気にしていることはなんとなく察しているが、この場合、場違いなのはむしろ僕だ。

 

 

「茜はどういうのが興味あるの?」

 

 

 問うと、恥ずかしそうにとある方向をちょこんと指さした。そこには細いチェーンのネックレス。先端には小さなハートが施されている。

 

 試しに着けてみるように言うと、少し戸惑いながらもおずおずと手を伸ばした。首に回し、セミロングの髪を少しかき上げる。

 

 さらっと髪をなびかせると、茜は上目遣いで僕を見た。

 

 

「似合うと思うよ」

「ほ、ほんと……?」

 

 

 僕が頷くと、彼女はほっとしたようにはにかんだ。

 

 

「ちょっと、色々見ていってもいい?」

 

 

 やっぱり興味があったみたいで、目移りさせながら商品を物色し始める。

 それにしても、こういうところに来たのは初めてだから今更ながら緊張してしまう。店内にいるのもほとんど女性だし、浮いているのは間違いない。

 

 やはりこういった装飾品というのは女性にとっておしゃれの一つなのだろう。周りの人もそれぞれ友達と楽しそうに話をしている。華やかな雰囲気が店内に溢れていた。

 

 夢中になっている茜をそっとしておいて、辺りを散策する。それにしても、アクセサリーか。

 

 そういえば小さい頃から、妹はこういうものには興味は持たなかった。装飾品の類を身に着けて出かけるところもあまり見たことがない。

 

 

 

「あ……」

 

 

 

 ──ガラスケースの中に、ひっそりと輝く小さな髪飾り。

 

 それは花の形を模した小さなヘアピンだった。名札の説明欄には、アネモネの花を模したものであると書かれている。

 白く彩られた精巧なあしらいは、決して目立つものではないけど、注視すれば美しいデザインであることが分かった。

 

 ……ヘアピン、か。

 

 

「すいません、これください」

 

 

 我ながら現金なことをしてる自覚はある。別にこれで妹が心を開いてくれるだとか、機嫌を直してくれるだとか思っているわけではない。ただ、話のきっかけの一つにでもなればと思った。

 

 店員にプレゼント用の包装をしますかと問われたので、お願いしますと答えた。ヘアピンは小箱に入れられ、その周りを覆うように包装される。

 

 ……思い返してみれば、僕は妹にプレゼントを贈ったことなんて一度もなかったな。それは逆もまた然りなのだけど。

 本当ならアルバイトでもして自分で稼いだお金で買いたいのだが、学校から禁止されている。僕と妹の通う高校は、曲がりなりにも進学校だから。

 

 紙袋を受け取り、茜の元に戻る。

 彼女は相変わらず頭を悩ませていた。

 

 

「何か良いの見つかった?」

「うーん……」

 

 

 茜は二つのアクセサリーを持って見比べていた。

 迷っちゃうなぁ……と、首をひねっている。

 

 

「どっちにするか迷ってるの?」

「うん……カナはどっちがいいと思う?」

 

 

 ……僕に訊くのか。

 

 茜が持つネックレスは、ハート形とフェザー形の二種類。先端の形状が違う程度の差だった。僕は別にどちらでもいいと思うけれど……。

 

 僕はフェザー形のネックレスを示した。

 

 

「こっちかな」

「こっち? じゃあ、そうしようかな」

 

 

 茜はあっけらかんと言って、即決した。

 ……って。

 

 

「いいの? それで」

「うん、カナに選んでほしかったから」

「……どうしてまた?」

 

 

 問いかけると、茜は宙を見上げながら人差し指を唇に当てる。そして、軽くからかうような笑みを浮かべて言った。

 

 

「なーいしょ」

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 アクセサリーショップに寄った後は彼女の用も終わったので、僕の方から喫茶店に連れて行った。雰囲気もいい店で、彼女の方も喜んでくれた。ゆったりと話をしながら、店のおすすめであるコーヒーやケーキやらを楽しんだ。

 

 そうしているとすっかり日も暮れてしまったので、茜を家の近くまで送った。彼女は遠慮したけれど、流石に一人で帰すのは躊躇われたから。最寄りの駅から数駅先まで乗って行って、そこで解散してから帰路に就いた。

 

 時間を確認すれば、晩御飯の時間をとうに過ぎている。暗い住宅街に差し掛かり、数分ほど歩いていたがやっと家まで帰ってきた。

 

 ……今日はどうだったかな。

 茜に対するお礼にちゃんとなってただろうか。

 

 

 玄関のドアを開ける。

 

 

「ただいま」

 

 

 靴を脱いでいると、リビングの明かりが目に入った。遥だろうか。

 

 上がってリビングの中を確認すると、ソファに座りながら本を読む妹の姿があった。

 

 

「遥?」

「……おかえり」

 

 

 遥は既にお風呂から上がった後のようで、パジャマに身を包んでいた。テーブルの上にはマグカップ。テレビもついておらず、静かな空間だった。

 

 

「晩御飯はちゃんと食べた?」

「食べた。そんな子ども扱いしないで」

 

 

 本をパタンと閉じると、非難の眼差しを向ける。今朝の内にカレーを作り置きしておいたのだが、どうやらちゃんと食べてくれたらしい。

 

 んーと背伸びをして、肩をほぐす。久しぶりに遠出したからか、くたくただった。

 

 

「私、もう寝るから」

「あ……待って」

 

 

 部屋へ戻ろうとする遥をとどめる。今の内に渡しておかないと機会がなさそうだ。

 紙袋をごそごそと漁る。妹はそんな僕を訝しむように見ていたが、一先ずそれを無視した。

 

 紙袋の中から例の小箱を取り出して、差し出す。

 

 

「……?」

「ちょっと開けてみて」

 

 

 遥に開けるよう促す。相変わらず不可解な面持ちのままだったけれど、僕の言う通り包装を丁寧に開いて、シンプルな意匠の小箱を膝の上に乗せた。

 

 そして蓋を、パカっと開いた。

 

 

「あ……」

 

 

 遥は中に入っていたものを見ると、小さく声を上げた。そこにあるのは花形のヘアピン。

 

 そして、困惑した目を僕に向けた。

 

 

「これ……どうして、いきなり」

「アクセサリーショップに立ち寄ったんだけどさ。遥に似合うかなって」

「だから、そういうことじゃなくてっ」

 

 

 珍しく言葉につかえる遥。

 

 その姿にサプライズが成功したみたいな気持ちになって、軽く笑みを浮かべた。

 

 

「今まで兄らしいことを何一つしてなかったから。何かプレゼントでもと思ったんだ」

「……だって、私たちは双子じゃない。どっちが上とか、あんまり関係ない……」

「まあ、そこはあまり気にしないで」

 

 

 これは自分なりのけじめみたいなものだ。床に臥せっていた、あのときの母さんの言葉を忘れないための。

 ……というのは、半分本音で半分建前。僕がただ純粋に、妹がこの髪飾りをつけている姿を見たいだけだった。

 

 

「……デートしてたんじゃないの?」

「え? ……いや、デートじゃないよ。相談に乗ってくれたお礼に、買い物に付き合ってただけだよ」

「……相談?」

「うん、ちょっとね」

 

 

 流石に本人には言えないけど。

 

 

「……」

 

 

 遥は髪飾りをぼうっと夢心地のように眺める。やっぱりこうして見ると、このヘアピンは妹の長い濡羽色の髪に良く映えると思う。

 

 でも、無理強いはできない。

 

 

 

「もし趣味に合わなかったら、捨てるなりなんなりしていいから」

「……え……」

 

 

 

 頬をかきながら冗談めかして言う。

 

 物置程度の存在にはなってくれると嬉しいけれど、どうだろうか。僕は男だし、妹がどういったものを好むかは分からない。妹は普段からヘアピンとかはつけていないし、邪魔になる可能性だってある。

 

 ……ああ。

 考えれば考えるほど、良くない気がしてきた。

 

 マイナスな思考がどんどん湧いてくる。僕はいつも失敗してばかりだ。妹からしたら、僕がこれで機嫌を取ろうという浅ましい思考をしていると思われてもおかしくはない。

 

 そんな負の渦に飲み込まれそうになる寸前。

 ふっと風を切る音が聴こえて。

 

 

 

 

「──捨てるわけない!」

 

 

 

 

 ──いつの間にか、僕の間近に妹がいた。

 

 透きとおった瞳がはめ込まれた双眸が、立ったままの僕の顔を下から覗き込む。

 

 きゅっと真一文字に結ばれた桜色の唇。

 長いまつ毛に縁どられた大きな瞳。

 

 ふわっと香るのはシャンプーとコンディショナーの甘い匂い。熱を帯びた瞳は水面に揺れるようにわずかに揺らめいていて、頬はかすかに赤かった。

 しん……と、突然訪れた静寂。小さな息遣いだけが聴こえる。身を乗り出す妹の長い黒髪が、さらさらと揺れた。

 

 

 

 

「……捨てるわけ。ない、から……」

 

 

 

 

 小さく呟くと、再びソファにぽすんと座る。そして、髪飾りの入った小箱を大切そうにぎゅっと胸に抱いた。

 

 まるで、宝物を扱うようにそっと優しく。

 でも、力強く。

 

 その反応が妹らしくなくて、僕は一瞬、言葉を失った。

 

 

「あ……えっと……」

 

 

 妙な沈黙が場を支配する。さっきまで近寄りがたかった雰囲気は一気に霧散し、どこか背中がむず痒くなるようなくすぐったさが残った。

 

 

「……そっか。そうしてくれると嬉しい」

「……」

 

 

 黙ったまま、小さく頷く。

 

 素直な反応に戸惑ってしまう。気の強いところのある妹だけど、今はそんな気配は全くなかった。

 

 

「わ、私。もう行くからっ」

「あ……」

 

 

 荷物を手早くまとめると、遥はそそくさとリビングを出て行ってしまった。ポツンと一人取り残され、静寂がこの場を支配する。

 

 正直、思ってた反応と違った。もっと興味なさげに一瞥するだけか、受け取ってくれるにしても、そっけない感じだと思ってた。

 

 ……僕からのプレゼント、ちょっとは大切に思ってくれてるのかな。もしそうだったら嬉しい。

 

 

「……ふぅ」

 

 

 ソファに深くもたれかかる。今日は久しぶりにたくさん歩いて疲れた。

 上を見上げればリビングの白い照明。僕以外は誰もいないリビング。話し相手もいないし、時計の針の進む音しか聞こえない。

 

 

 でも何故か、もう少しここにいたいと思った。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話

 

 

 テスト期間も近づいてきた今日この頃。あまり勉強をしていなかったり、課題をサボったりしてた人たちが地獄を見る期間。でも、僕も人のことは言えない。頭がいいとは言えないし、成績も微妙な方。それなりに努力しても、所詮はその程度のもの。

 

 本日最後の授業も終わった。荷物をまとめて教室を出る。

 

 

「……あれ、彼方くん?」

 

 

 これから先のことを憂いていると後ろから声がした。

 

 振り返れば、ショートカットの黒髪とロングの黒髪。

 美玖と遥がいた。

 

 二人並ぶと、姉妹のように見えなくもない。彼女は「奇遇だね!」と言ってこちらに寄ってきた。……いや。奇遇も何も、同じ学校なのだからごく自然なことではないだろうか。僕がなんとも言えない顔をしていると、美玖はこてんと首を傾げた。あざといポーズに見えるけど、不思議と彼女に似合う。

 

 

「一緒に帰ろ!」

 

 

 以前も似たようなことがあった。そのときは買い物帰りに偶然、美玖と遥にばったり会って、成り行きで一緒に帰った。

 

 妹の方を見る。もし嫌そうな顔をしていたら、僕は一人で帰るつもりだった。けれど、意外にもそんな顔はしていなくて。

 

 

「……いいわ」

 

 

 そっけない口調はそのままだったけど、声音はどこかやわらかくて。長い黒髪をさらりと撫でながら言った。

 

 その髪には、白く輝く花形のヘアピン。

 

 僕がプレゼントしたのが数週間前。その翌日から早速つけてくれた。最初に見たときはまさかつけてくれると思ってなかったから、二階から降りてきて妹の髪を見て、しばらく呆然としてしまった。

 

 

「……」

 

 

 僕がヘアピンをぼうっと見ていると、妹がそのことに気づいて気まずそうに髪を触った。濡羽色の艶めかしい輝きの中で、ひっそりと咲く一輪の花。決して派手ではなく、凛然とそこに存在する様は、妹にぴったりだと思った。

 

 

「……じゃあ、一緒に帰ろっか」

「うん!」

 

 

 美玖は元気に頷いた。相変わらずフレンドリーというか元気な子だ。

 校門を出て帰路に就く。この期間中は部活動もないため、いつも自分が下校するときに比べるとだいぶ人が多い。隣接する街路樹を横目に、涼しい風が吹く道を歩く。秋は不思議な季節だ。春のように暖かくはないけれど、どこか優しい冷たさがある。

 

 歩く最中、テストの話題が上がる。お互いに成績は中間あたりをうろうろしているようで、特筆すべきことなどなかった。一方、妹については言わずもがな。成績優秀、品行方正とは正に妹のことを表していた。

 

 

「彼方くんと遥って、一緒に勉強とかしないの?」

「……そういえば、したことないかな」

 

 

 中学生になってから僕は、妹に避けられていたから。

 

 

「じゃあ、遥に教えてもらえば? 彼方くんは知ってると思うけど、遥ってすごく成績いいし」

 

 

 当然知っていることだ。僕よりもあらゆる面で秀でた才能を持つ妹に対して劣等感を抱いたこともある。

 

 ……まあ、僕の心情はどうでもいいとして、一緒に勉強か。流石に妹は嫌がると思う。だって僕は物分かりが悪い方だし。そもそも僕を部屋に入れないのだって、一人が好きだからだろう。

 

 妹の方を見れば、やっぱり──

 

 

 

 

「……別に、いいけど」

「……え」

 

 

 

 

 ぼそっと。

 でも、確かに聞こえた。

 

 遥は鞄を肩に掛け直し、腕をさする。白く綺麗な肌をした頬は、うっすらと朱に染まっているのが分かる。僕と視線を合わせようとはせず、わずかに目を逸らした状態のままだった。美玖は、「ほら、遥もこう言ってるんだし!」と強く勧めてくる。

 そもそも、それを言うなら美玖自身が勉強を見てもらうという発想にはならないのだろうか。

 

 ……。

 

 

「えっと……じゃあ。後でお願いしてもいいかな」

「……分かった」

 

 

 美玖を間に挟んだ向かい側に遥はいる。その表情は良く見えなかった。美玖はというと、僕の視線に気づくとにっこりと笑った。

 

 なんだか狐につままれた気分だ。彼女を通して妹と話をする。美玖はクッションみたいな存在だなと思った。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 美玖と別れ、妹と二人きりになる。今日はたまたまテスト期間のため帰りが一緒になったが、普段の下校は別々だ。妹は部活があるから。

 

 秋の風が吹いてきて、わずかに目を細ませる。枯れ葉がひらりと落ちゆく。そろそろ本格的に冷え込む時期だ。一年が経つのはあっという間で、僕も妹も今や高校生。同じ時に生まれ、同じ時間を過ごしてきた。

 

 吹いてくる風に、そっと髪を抑える妹。さらさらときめ細やかな黒髪が揺れた。肌寒いのかかすかに身を震わせているようにも見える。かく言う僕も同じで、もう少し下に着こんで来れば良かったと後悔した。

 

 こうなるとやっぱり温かいものでも食べて、体の芯から温まりたい。

 

 

「……っと、思い出した」

「……?」

「遥、先に帰ってて。僕は買い物してから帰るから」

 

 

 夕飯の材料がなくなっていることを思い出した。このままだと夕飯が作れない。

 

 

「……私も行く」

「え? いや、僕一人で大丈夫だよ」

「いいから」

 

 

 方向転換して商店街に向かおうとする僕の横に着いてくる遥。別に、僕一人でも荷物は持てるんだけど。

 もしかしたら、料理のリクエストでもあるのだろうか。まあ、僕と妹の好物はほとんど一致してるから、リクエストされなくてもお望み通りのものは出せると思う。

 

 家のある方とはズレた道に差し掛かる。

 

 隣の妹は、普段通りの冷然とした佇まい。怜悧な相貌を崩さず、真っすぐに前を見て歩く。しかし、まさか買い物に着いて来てくれると思わなかった。

 

 

 今日はシチューを作るつもりだ。妹にそのことを伝えると、首を小さく動かし同意。

 

 最近の妹との関係は、前みたいにとは言い難いけれど少しは元に戻れてるのかなと思った。まだ妹から避けていた理由を明言されたわけじゃないから、根本的な解決には至ってない。それでも、ゆっくりとわだかまりが解けていくことを祈った。

 

 しばらく歩くと商店街に着いた。野菜や果物を売る八百屋、質の良い肉を売る精肉店。この辺りには顔なじみが割と多く、たまにおまけしてもらうこともある。高校生でこうも頻繁に食材を買いに来る人はやっぱり珍しいのだと言っていた。僕たちの場合は、事情が事情だから仕方ない。

 

 

「あ……どうも」

 

 

 考えたそばから、八百屋のおじさんに声を掛けられる。すると、隣の妹の存在に気づいたようで、ニカっと笑った。

 大きくなったなあと、感慨深そうなおじさん。妹は記憶がないのか、戸惑っていた。

 

 この商店街は僕たちが幼い頃からある。その頃は、母さんに連れられて何度もここら辺に来たことがあるからおじさんは僕たちのことを覚えてる。シチューに必要な野菜をいくつか選ぶ。おじさんは気を良くしたようで、いつもよりサービスを多めにしてくれた。ありがたいことだ。他にも肉やシチューのルウが必要だ。それと、明日と明後日の分の食材を買っておこう。

 

 店を次々と回る。ときどき顔見知りの店主やおばさんに挨拶をしながら回っていると、いつの間にか両手にはいっぱいのレジ袋だ。

 

 

「……彼方、私も持つ」

「ん……。じゃあ、こっちお願い」

 

 

 流石に見るに見かねてか、妹は僕が片手に持っていたレジ袋を取る。それにしても、不思議な光景だ。妹と食材の買い出しに出かけることなんて今まではなかった。

 

 

「……いつも、こんなに重いもの持ってるの?」

「え? ……そんなに重いかな」

 

 

 確かに今日は普段よりも多めに買い物をした。だけど、そこまで気になるものじゃない。妹は華奢な方だし、負担が大きいのかもしれない。

 

 

「重いならやっぱり僕が──」

「い、いいっ。私が持つ」

 

 

 僕の手から逃れるように身を退く。

 

 ……本当に、なんだろう。

 気が強いと言うか強情というか。

 

 今だって重そうに顔をしかめているし、内心では我慢しているのだろう。でも自分から持つと言い出した手前、今更投げ出すわけにはいかない。真面目な妹らしい責任感だった。

 

 

「……じゃあ、こうしよっか」

「あ……」

 

 

 ぐいっと。

 

 遥に近づいてレジ袋を一緒に持った。こうすれば妹も持てるし、僕も手伝える。

 

 気まずそうに顔を背ける妹。別に気にすることじゃないし、むしろ手伝ってくれてるからありがたい。

 

 

「手伝ってくれてありがとう、遥」

「……別に」

 

 

 ふいっと、顔を逸らす妹。気まぐれで手伝ってくれただけかもしれないけれど、僕はそれが嬉しかった。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 夕飯を食べ終わって、テスト勉強をしていた。遥は自分の分の勉強を終わらせてから僕の分を見てくれると言っていた。なので、それが終わるまでは僕も一人で勉強だ。

 

 授業の合間に茜とも話をしたが、僕は勉強が得意ではない。茜も同様で、赤点を取らないように頑張らないと、と言って張り切っていた。部活に入っている人が赤点を取ると、当然補習に時間を取られて部活に参加できなくなる。陸上部みたいに大会に出るような部活はそこの辺りがやっぱり厳しい。

 

 

 勉強してから二時間ほど経った。教科書に載っている例題や、章末問題を一通りやったが、いまいち理解できない部分というのがやっぱり出てくる。

 

 

「……ふぅ」

 

 

 さて、そろそろ遥のところに行ってもいいだろうか。妹に勉強を教わるというのも中々に情けない話だ。自分に思わず苦笑してしまう。

 

 

 自室を出て妹の部屋の前に向かう。廊下は涼しく薄暗い。しかし、妹の部屋のドアからはかすかに光がもれていた。

 

 部屋の前に着き、コンコンとノックする。

 

 

「……あれ?」

 

 

 もう一度ノックする。でも、やっぱり返事がない。妹にはこのくらいの時間に来てほしいと言われていたのだが。

 一度、下のリビングに降りる。けれど誰もない。そこには静謐な空間が広がるだけだった。お風呂に入ったという可能性も考えにくい。いつも、夕飯を食べ終わってすぐに入るから。

 

 階段を上り、妹の部屋の前まで戻ってきた。三度目のノックをしても、返答はなかった。

 妹はこういった約束ごとに関しては義理堅い。だから、忘れているということは考えにくいし、そもそも返事がないのもおかしい。

 

 

 ……申し訳ないけど、開けさせてもらおう。

 

 

 入らないでと言われてはいるけれど、これくらいは許してほしい。僕自身、妹の部屋が今どうなっているのか知りたくもあったから。

 

 

 キィ、とドアが開く音がする。

 どこか懐かしさを孕んだ香り。

 

 

 久しぶりに見る妹の部屋は、女の子の部屋にしては殺風景だった。本棚、テーブル、勉強机、化粧台。アンティーク調のものが多く、可愛らしいというよりはシックな感じだ。女の子らしい、かすかに甘い香りを伴う部屋の中は、記憶の中のものと随分違っていた。

 

 そして、妹は。

 

 

「……」

 

 

 すぅ、すぅと。

 小さな寝息。

 

 ノートや教科書類を開きながら突っ伏すのは僕の妹。

 

 パジャマ姿で、女の子座りの格好をしたまま寝ている。普段の冷然とした佇まいなど、ともすれば幻だったのではと思うほどに。

 相当に珍しい光景だ。妹は基本的に部屋にこもっているから、こうして眠る姿を見るのはかなり久しぶりのことだった。

 

 部屋にそっと足を踏み入れる。このままでは風邪をひいてしまうかもしれない。下から毛布でも持ってきて、かけてあげた方がいいだろうか。でも、そうしたら僕が部屋に入ったことがバレてしまうし……。

 

 そんなジレンマの最中の僕のことなんて露知らず、妹は穏やかな顔で寝息を立てる。白い肌を滑る艶やかな黒髪。そして、花形の白いヘアピン。こうしてつけてくれているのを見ると、どこかくすぐったくなるような温かさが心に灯る。

 

 ……プレゼントしてよかったな。

 

 

「……ん……」

 

 

 小さく身じろぎする妹。一瞬、目を覚ましたのではないかと思いドキッとしたが、どうやら杞憂だったらしい。長い黒髪の隙間から見える横顔は穏やかだった。

 

 妹が動いた拍子に、テーブルの上のシャーペンがころころと転がる。

 

 そして、何かにぶつかって止まった。

 

 その先には見慣れない一冊の本。教科書やノート類に混じっていて気づかなかった。青を基調とした涼しげなカバーが綺麗な一冊の本がそこにはあって。

 

 手に取って表紙に書かれた英単語を確認する。

 そこには、”DIARY”と書かれていた。

 

 ……日記? なんとも珍しいものだ。日記なんて。小学校の頃に宿題で書かされていた記憶しかない。しかし、遥はこういうものを書くのか。文芸部に所属しているし、そもそも文章を書くことが好きなのかもしれない。

 

 

「……?」

 

 

 よく見ると、表紙と一ページ目の間に何かが挟まっている。僕はそれを、ゆっくりと抜き出した。

 

 

「……あ……」

 

 

 ──挟まっていたのは、一枚の写真。

 

 色褪せないようにフィルムでカバーされた向こう側にあるのは、幼い頃の僕と妹。おそらく昔、親が撮ったものだろう。

 夕方の公園にいる僕は、妹と手をつないでにこやかに笑っていた。覚えていないくらい昔の、小さな思い出。

 

 ……妹は、ずっとこの写真を持っていたのか……。

 

 

「……」

 

 

 そっと写真を戻した。

 

 遥が僕を嫌っていないという言葉。別に信用してなかったわけじゃないし、嘘をついてるとも思ってはいなかった。

 

 だけど今一度。

 こうしてその証を偶然にも発見して、心の底から安堵した。

 

 

「……」

 

 

 時間を見れば夜の十時。

 今起こすのも可哀そうだし、このまま寝かせておこう。

 

 

 ……おやすみ、遥。

 

 

 僕は心の中でつぶやき、部屋を後にした。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話

 

 

 

『こわいよぉ……! かなたぁ……!』

 

 

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 汗ばんだ体が嫌に苦しくて目が覚めた。秋の真夜中なのに、じとっとよどんだ空気。耳を澄ませば、しとしとと水の滴る音。

 

 緩慢に体を起こす。額にかいた汗で髪が貼り付いて鬱陶しい。

 カーテンを開けば、真っ暗な視界の中を無数の線のようなものが(よぎ)った。今日という日の天気はどうやら悪そうだ。近頃はそんなに悪い天気じゃなかった。雨が降ることも少なかったし、清々しい青空ばかり見ていた気がする。

 

 けれど、今日は違うようだ。

 

 

「……ふぅ」

 

 

 何か夢を見ていた気がする。遠い昔の、郷愁に満ちた記憶。

 しかし、それは目を覚ますと同時にひどく曖昧なものへと変化し、微睡の向こう側へと溶けていった。

 

 ……それにしても雨か。嫌だな。

 

 濡れてしまうから洗濯物も干せないし、傘をささなきゃいけないから買い物に行くのも一苦労する。思考はいつだって、生活のことで埋め尽くされる。父さんが仕事で家にいないのだから、当然のことではあるのだけれど。

 

 ベッドから降りる。

 無性に喉が渇いたので、水を飲むために部屋を出てリビングに向かう。トントンと廊下を踏む足音が響いた。

 

 リビングの電気を点けると、パチッとスイッチを押す音と共に、眩しい光が目を襲った。

 目を細めると、ぼやけた不明瞭な視界が徐々にその輪郭を取り戻す。真っ黒なテレビ、規則正しく時を刻む時計の針。それらを視界に収めながら、コップを手に水道の蛇口をひねった。

 

 あおるように口に含み一気に飲み干す。乾いた砂漠に一滴の水を垂らすように、あっという間に吸収された。

 

 

「……はぁ」

 

 

 コップをシンクに置く。こうして水分補給をしたが、頭の中がもやがかったような気持ち悪さは抜けないままだ。

 なんとなく部屋に戻る気分にもならず、気まぐれにテレビをつけた。リモコンのボタンを押す感触は久しぶりだ。最初に目に入ったのは深夜のテレビニュース。どうやら天気は予想以上に悪いみたいで、明日の午後から雷が落ちると話していた。

 

 チャンネルを変えて他の番組を確認すれば、深夜アニメやよく分からない特番がやっていた。しかし、いずれも心惹かれるものではなくただのノイズのようにしか聞こえない。

 

 ……妙に寝つけない日だ。

 

 というよりも、何故目を覚ましてしまったのか。普段は一度眠りについたら朝まで起きることはないはずなのに。

 

 テスト期間も終わって、気が緩んでしまったのだろうか。しばらく集中して勉強してたから。

 

 妹の教えの甲斐あってか、成績もそこそこ伸びた。自分で勉強して分からないところを一通り洗い出して、遥にまとめて質問する。そういう形式で見てもらっていたのだが、意外とすんなり理解出来るもので、妹の教え方が上手いのが分かった。

 

 もっとも、やっぱり部屋には入れてくれなかったから、遥の部屋を訪ねて僕の部屋に来てもらうということの繰り返しだったけれど。

 

 いずれにせよ、妹との交流が増えたのは僕にとってささやかな幸せだ。

 

 

「……」

 

 

 ピッ、とテレビを消す。

 ここにいても意味はない。部屋に戻って寝直そう。

 

 一つ欠伸をもらしながら、リビングの電気を消した。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 その連絡が来たのは早朝のことだった。学校からの連絡があって、今日は休みになることが伝えられた。天気予報によると、午後の天気が著しく悪くなるらしい。午前中はそこまでではなかったけれど、大事をとって休校にするのだと言っていた。

 

 今朝、起きてきた妹にそのことを教えると、一つ嘆息して部屋に戻って行った。まあ、気持ちは分かる。折角早起きしたのに肩透かしを食らった気分だ。

 

 結局今日は、家にずっと引きこもったままだった。

 

 

「……それにしても、一日中休みになるとはね」

 

 

 リビングのキッチンから外を眺めながらぼやく。外の雨風は強く、窓をガタガタと揺らしている。

 

 今は既にすっかり日も暮れて夜だ。時間が経つのはあっという間で、冬に近づくにつれて日もどんどん短くなっている。

 晩御飯の準備を進める手を止めず、今日を振り返る。といっても、大したことはしていない。今日は一日中、本を読んで過ごしただけだから。

 

 思えば、僕の趣味が読書になったのは妹の影響が大きかった。妹が中学の頃から文芸部に所属していたのは知っていたが、その頃にはもう、僕は避けられていた。だから、何か妹と接点を持つために本を読むことを始めた。

 

 妹がどういうジャンルを好むのかは分からなかったら、とにかく活字であれば何でも読んだ。だけど、結局その引き出しを使うこともなく、ただの趣味になった。

 

 ……そういえばこの間。妹にどういう小説を書いてるのか訊いたら、恋愛小説だと言っていた。

 

 おたまで味噌汁を混ぜながら思い出す。

 固まっていた味噌はお湯に溶けていき、やがて境界がなくなった。

 

 

「……」

 

 

 妹にはそういう、いわゆる恋愛する相手がいるのだろうか。その手の噂は特に聞いた覚えもないし、正直イメージも湧かない。

 

 ……でも、もし。

 妹が本気で好きになるような人が現れたら。

 

 僕はきっと、心の底から祝福できるだろう。

 

 

 ──妹が幸せになること。

 

 

 母さんが亡くなってから、僕はそれだけをずっと考えてきたのだから。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 夕飯も食べ終わり、お風呂から上がった。

 湯だった体を冷ますように、パタパタと手で扇ぎながらリビングに向かう。

 

 ソファには妹が座っていて、姿勢よく本を読んでいた。

 

 これも最近の変化の一つ。僕がお風呂から上がると、妹はこのリビングで就寝の挨拶をしてから寝るようになっていた。

 日常生活の中のちょっとした変化。他人から見ればきっと些細なことで、取り立てて話すことじゃないかもしれない。

 

 だから僕は、この状態を自然なものとして受け入れる。これが”異常”ではなく”正常”なことであると信じて。

 

 

「また強くなってきたね……」

 

 

 カーテンを開く。雲はそこにあったはずの夜空を全て覆い尽くしていた。そして、相変わらずの激しい雨。びゅうと吹く風は遠くにある木々をなぎ倒す勢いで、窓はガタガタと揺れ動いていた。

 

 

「彼方。私もう寝るね」

「あ……うん。おやす──」

 

 

 ──その瞬間。

 

 ピカッと、鋭い稲光が奔った。

 

 

「うわっ」

「きゃっ!」

 

 

 数舜遅れて、轟くような音。

 びしゃんと地面を激しく打つ音の後に、ゴロゴロした残響音のようなものが、地響きのように家を揺らす。

 

 激しい雷が、リビングにいる僕たちを襲った。

 

 荒れ狂う空は癇癪をおこした子どものように無差別に雷を落とす。あるいは、神の怒りに触れた咎人を罰するように。触れてはならない禁忌に足を踏み入れた者を叱責するように。

 

 そしてまた、一際大きな輝きが見えて。

 うねりを上げるような大きな音が窓を震わせた。

 

 

「──あ」

 

 

 ふっと、辺りが真っ暗になった。気づけばリビングに点いていたはずの明かりが消えていて、いきなり暗闇の中に放り出された状態になっていた。どうやらブレーカーが落ちてしまったらしい。

 

 ……とりあえず懐中電灯を持ってこないと。

 

 

「か、かなたっ。いる?」

「ん……?」

 

 

 妹の慌てた声が聞こえる。暗闇に視界が慣れていないため、声のした方を見ても妹の姿は見えない。停電なんてそうそうあるものじゃないし、不安な気持ちになるのは分からなくもなかった。

 

 不明瞭な視界の中、記憶を頼りに壁伝いに歩こうとする。

 

 

「いるよ。ちょっと懐中電灯持ってくるから、座っ──」

「ま、待って!」

 

 

 けれどその瞬間。

 鋭い声が聞こえてきて、足を止めた。

 

 ぎゅっと腕を掴まれる感覚。小さく柔らかい手の感触が、パジャマ越しの僕の肌に伝わった。本当に偶然だが、妹の手は僕の腕を掴んだらしい。

 

 

「……遥?」

「……一人に、しないで……」

 

 

 ふるふると。腕に伝わる妹の震え。

 顔は全く見えないが、遥は雷にひどく怯えているようだった。

 

 ……なんだろう。前にも似たようなことが──

 

 

 

『こわいよぉ……! かなたぁ……!』

 

 

 

 ──一つの光景がフラッシュバックする。

 

 僕の肩に顔を埋めるのは妹。目をぎゅっと瞑って、びくびくと震えながらしがみついていた。幼い頃の記憶の一欠けらが、失われたピースを埋めるようにカチッとはまる。そしてそれは、鮮明な記憶となって呼び起こされた。

 

 ……そうだ。

 遥と一緒の部屋だった頃、同じようなことがあったんだ。

 

 どうして僕は忘れていたんだろう。

 妹は、雷が苦手なんだ。

 

 

「……足元に気をつけて」

 

 

 ぐっと。妹の手を握った。

 温かくたおやかな人肌の感触に包まれる。

 

 突然手を握った僕に対して、妹は何も言わなかった。切れ味の鋭いナイフのような気の強さはなりを潜め、ただ雷に怯える子どものようだった。

 

 

 玄関の靴箱に隣接する棚に懐中電灯は入っている。幸いにもすぐに見つかって、ちゃんと機能することを確認した。真っ暗な世界を、一筋の光が照らす。

 

 しかし、妹はそれでも怯えているようで、ゴロゴロと響く外の轟音に身を震わせていた。停電自体は大したことじゃないが、雷はやっぱりダメみたいだ。

 

 僕たちの住むこの家には、脱衣所にブレーカーがある。いざというときのために脚立も置いてあるので、あとはブレーカーのスイッチを入れるだけだ。

 リビングを通り、脱衣所まで来ると、先ほどお風呂に入っていたことの名残か、かすかにむわっとした空気が僕たちを迎え入れる。

 

 妹の手を離す。

 

 

「あ……」

 

 

 名残惜しそうな、寂しそうな声が聞こえる。でも、暗闇に目が慣れてきたのか。またしがみついてくるようなことはなかった。

 

 脚立を設置し、懐中電灯で照らしながらブレーカーを確認。パチンと、スイッチを入れる。

 

 白い光が部屋を灯した。

 

 

「これで大丈夫だね」

 

 

 激しい雨音と、強く吹く風。

 更に、雷のゴロゴロとした音。

 

 外は悲惨な状況だろう。自然災害に対しては人は無力で、抗うことができない。偶発的に発生したそれらに対処する術なんて無いに等しい。

 

 ……こういうときは、さっさと寝てしまうのが一番かもしれない。

 

 

「じゃあ、寝よっか」

「え……」

 

 

 外はうるさいし、唯一の趣味ともいえる読書に集中できる状態じゃない。もっとも、眠るうえでもそれは同様なのだけれど。

 

 上に向かうためにリビングを出る。

 

 ──くいっ。

 

 

「……?」

 

 

 そんな僕のパジャマの袖を妹が掴んだ。ちょこんと、控えめに。

 妹は唇をきゅっと結んだまま何も言わない。ただ無言で、何かを訴えかけるように袖を引っ張っていた。

 

 けれど次第に、口を開いては閉じてを繰り返し始めて。

 やがて、小さく蚊の鳴くような声で言った。

 

 

 

 

「今日、だけ……。一緒に寝ても、いい……?」

「え……」

 

 

 

 

 

 恥ずかしいのか、顔は俯かせたままだった。ただ、震えたままの手の振動だけが妹の状態を表していた。まるで、迷子になった子どもが、やっと見つけた親の手を掴むように。

 

 

「一緒に寝るって……」

「……」

 

 

 遥は何も言わない。僕もまた、まともに答えられない。あれだけ僕を拒絶していた妹の甘えるような姿が、あまりにも衝撃的で、でもやっぱり懐かしくて。

 

 無神経かもしれないけど、今日の天気が雷であることにちょっとだけ感謝した。

 

 

「……遥はいいの?」

「……」

 

 

 パジャマを握る手が、一層強くなった。

 

 ……そっか。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 パチッと部屋の電気を消す。

 

 ベッドに身を潜り込ませた。僕がいつも寝てるベッドだけど、スペースが狭く感じる。それは当たり前のことだ。だって、今はこのベッドに二人も寝ているのだから。

 

 妹は僕がベッドに入ると、かすかに身をすくませた。正直、妹がベッドで僕が布団でも敷けばそれでいいんじゃないかと思ったけど、パジャマを握る手を離してくれなかった。

 

 

「やっぱり、ちょっと狭いね」

「……うん……」

 

 

 激しい雨が窓に叩きつけられる音が騒々しい。そのせいか、妹もやっぱり眠れないみたいだ。

 

 

「その……。ごめん、彼方」

「なんで謝るの?」

「……だって、嫌でしょ? こんなにくっついて……」

 

 

 薄暗くて妹の顔はよく見えない。でも、震えた声音から察せる感情は分かりやすいものだった。不安や恐怖。妹は、やっぱり僕の妹だった。

 

 

「全然嫌じゃないよ。むしろ、こうして頼ってくれて嬉しい」

「……そう、なんだ」

 

 

 妹の温もりを傍で感じる。

 

 

「……そっち向いてもいい?」

「……いいよ」

 

 

 天井を向いたまま答える。

 隣で身じろぎするように動く妹。

 

 そして、僕の肩にそっと触れた。

 

 母さんが亡くなってから、妹は甘えるべき相手がいなくなってしまった。父さんは当時も仕事で忙しかったし、親戚だって近所には住んでいない。

 

 強いて言うなら、兄である僕がその対象になるべきだった。でも、僕たちは双子だ。この間も遥が言っていたが、どちらが年上だとか、年下だとかはあまり関係ない。僕と妹は、鏡合わせのように同じ存在だ。だから、僕もどう振舞うべきか初めは分からなかった。

 

 だけど、自分なりに色々考えた。家事だって妹の遊び相手だって、何だってした。僕は兄だから、我儘なんて決して言わない。学校で嫌なことがあっても、父さんが家にいなくて不安なときも、弱音なんて言わない。僕が兄であるために必要なことはやってきたつもりだった。

 

 その結果、僕は妹に避けられるようになった。

 

 どこで何を間違えたのか、今でも分からないままだ。

 

 

「……」

 

 

 本当はすぐにでも訊きたかった。僕を嫌っていないのであれば、どうして僕を避けていたのかって。

 ……でも、今訊くのは卑怯な気がした。それは、怯えて弱っているところにつけ込むようなものだから。

 

 だから、これは答えてくれなくていい。

 

 

「……僕さ、やっぱり分からないや。どうして遥が僕を避けるようになったのか」

 

 

 独り言のように呟く。

 

 中学生に入った頃。それは、妹が僕を部屋に入れてくれなくなった時期でもある。父さんが出張で家を空けることが多くなったのもその頃で、僕は家族がバラバラになってしまったような錯覚に陥った。自分に足りないもの分からないまま、ずるずると時間ばかりが過ぎてしまった。

 

 

「でも、いつか……。教えてくれると嬉しいな」

「……」

 

 

 返事はなかった。

 もう、眠ってしまったのだろうか。

 

 ふあ、と一つあくびをする。

 心地よい微睡が僕を誘う。意識が埋没していく。

 

 

「おやすみ……」

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

『かなたー!』

 

 

 

 幼い妹が駆け寄ってきて僕の手を握る。ぽかぽかした体温が熱いけれど、それが妹の確かな温もりだった。

 

 

 母さんが亡くなってから数ヶ月。

 妹もやっと立ち直ってきた。

 

 父さんと僕の二人で妹を慰めようにも、中々上手くいかなかったけど、それでも時間をかけてゆっくりと傷を癒してきた。

 

 父さんは仕事で忙しく家を空けることが多い。だから僕は、休日の真昼間から妹を連れ出して、外に散策に出かけていた。双子の僕たちを周りの大人が微笑ましそうに見守る。そんな風に他人の視線に敏感になってしまったのは、母さんの死が影響しているのかもしれなかった。

 

 

『わぁ……! みてみて、かなた!』

『ん……?』

 

 

 街を歩き回っていた僕たち。すると妹が足を止めて、何かはしゃぎたてながら僕の名前を呼んだ。

 妹が僕の手を引っ張った先には、ガラス張りの壁。そしてその向こうには、豪華絢爛なドレス。美しいシルクがふんだんにあしらわれた、精巧なつくりの衣装。

 

 

『これはウエディングドレスだね』

『……ウエディングドレス?』

『うん、結婚式でお嫁さんが着るやつだね』

『……およめさん……』

 

 

 妹は、ぼうっとそのドレスに見惚れる。まだまだ小さい僕たちは、そのドレスを下から眺めるだけだ。

 思い出すのは母さんのウエディングドレス姿。それはアルバムの写真で見たものでしかなかったけれど、はっとするほど綺麗だったのを覚えている。

 

 結婚とは、好き合う男女が添い遂げること。

 共に生きることを誓い合うことだ。

 

 

『……ねえ』

『ん……?』

『けっこんすれば、ずっといっしょにいられるの?』

『……』

 

 

 僕はそこで何も言えなかった。だって、母さんは亡くなってしまったから。僕がそこで肯定してしまえば嘘を言ったことになる。

 黙ってしまった僕に対し、妹は不思議そうに首を傾げる。そしてニコッと笑いながら『もしそうなら!』と、言葉を続けて。

 

 

 

 

『わたし! かなたとけっこんしたい!』

『……え……』

 

 

 

 

 妹は無邪気に笑いながら言った。

 

 僕と結婚したいという言葉。妹はその意味というものをよく理解していなかったのだろう。一緒に暮らす男女という程度のニュアンスしか、その言葉には含まれていなかった。それは間違ってないかもしれないけれど、正しくはない。

 

 だけどそもそも、兄妹で結婚はできない。

 

 

『……それはできないよ』

『えー、なんで!』

 

 

 苦笑を浮かべながら話す僕に、不満そうに頬を膨らませる妹。あどけない顔で、むすっとする姿は可愛いものだった。

 僕は妹を守らなければならない。母さんが死んで、父さんも仕事で忙しい現在。妹の傍にいられるのは、兄である僕だけだ。

 

 だから。

 

 

『でもね』

 

 

 妹の手を強く握る。

 決して離れないように。

 

 僕たちは双子の兄妹。それはこの世界でも珍しい関係。

 赤の他人同士である夫婦なんかよりも、ずっと強く、尊いつながり。

 

 決して消えることのない、たった一つの絆。

 

 

 

『僕はずっと傍にいるよ』

『……ほんと? かなたは……ずっと、そばにいてくれる?』

『うん、だって僕たちは──』

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 また、夢を見ていた。

 断片的な記憶が気まぐれで見せた夢。偶然か必然かは分からない。

 

 秋だというのに暑苦しい感覚。僕は寝苦しさを感じて、朧げに意識を戻す。ぬるま湯にたゆたう心地よさと苦しさがない交ぜになって、言いようのない感覚に囚われる。

 暗い天井をぼんやりと眺める。でも、何か違和感がある。いつもよりもやけに暑いような気がする。

 

 

「……た。……かなたぁ……っ……」

 

 

 違和感の原因を探ろうとする僕の耳に、かすかに声が届いた。

 胸元あたりに温もりを感じ、そっと顔を傾ける。

 

 するとそこには──

 

 

「ん……はぁ……っ、かなたぁ……」

 

 

 僕の着るパジャマに顔を埋めるのは遥。肩の部分をちょこんとつまみ、甘えるような小さな声が唇からもれる。どうやら、僕が起きていることには気づいていないようだった。

 

 ……思い出した。

 僕は妹と一緒に寝ていたんだった。

 

 シャンプーとコンディショナー、そして女の子特有の甘い匂いがぶわっと香る。妹は身を震わせながら、頻りに荒く呼吸していた。加えて、脚のあたりにもぞもぞとした刺激を感じる。

 ひょっとして、まだ怯えているのだろうか。小さく肩を震わせながら、僕に絡みつくようにぴったりと抱きついていた。

 

 外は土砂降りの雨。

 雨音がひどくうるさい。

 

 やっぱり、雷はまだ怖いらしい。今日になるまで長らく忘れていたことだった。過去をぼんやりと思い出していると、声が途切れ途切れに聞こえてくる。

 

 

 

 

 

「……き。……す……ぃ……」

 

 

 

 

 

 ……何を、言ってるんだろう……。

 

 

 ただのうわ言なのかぼやきなのかは分からないけれど、確かに声が聴こえる。ぎゅっと目を瞑りながら長いまつ毛をふるふると震わせる遥。

 いつもの涼やかな美貌とは違い、悩ましげに眉をひそめて熱を帯びた声をもらす。声を聞き取るために意識を取り戻そうとする。

 

 

「っ……」

 

 

 けれど、睡魔に抗えない。強い風音も窓に叩きつけられる雨音も気にならない。

 濁流にゆっくりと飲み込まれるように、意識が混濁していく。表層に浮かびかけていた意識は、再び闇の中へと落ちていく。

 

 

 大丈夫……僕がいるから……。

 

 

 激しく打つ雨音の中。

 

 僕は再び、眠りについた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話

 

 

「最近、何かあった?」

 

 

 昼休みの時間。

 

 騒がしい教室の中でお弁当箱を開く僕に、隣の茜が突然そう訊いてきた。彼女は不思議そうな表情のまま首を傾げている。僕はその言葉に当たらずとも遠からずな感覚を抱いた。もやもやとした霧がかった中。求めていた何かに一瞬だけ触れて、でもすぐに離れてしまったかのような一抹の不安に似たものだった。

 

 

「……別にないけど」

「そう? それにしてはなんかぼーっとしてない?」

 

 

 ……実のところ、茜の言うことは的を射ていた。僕は確かに考え事をしていた。それは、最近の妹の様子についてだ。

 

 

「……」

 

 

 天気がひどくて学校が休みになった先週。僕は雷に怯えていた遥にお願いされて一緒に寝た。トラウマというほどのものではないが、妹が極端に苦手なものの一つだ。寝てる間も妹は僕にくっついて離れようとしなかった。

 

 

「……妹がよく分からないんだ」

「え? また喧嘩しちゃったの?」

「そうじゃないけど……」

 

 

 むしろ逆だった。今まで冷たくされていた自覚はあったのだけれど、あの日以来それが薄れているように感じた。僕がただ過敏に反応してるだけかもしれないけど。

 妹との距離感と言えばいいのだろうか。今までは一方的な拒絶によって明確に線引きされていた関係だったけれど、今は消しゴムで消した後の線のようにぼやけている。別にそれが悪いということはない。その線は僕が消したくても消せなかったものだから。

 

 僕がどう言えばいいか悩んでいると、後ろから人の気配を感じた。

 振り向くとクラスメイトの女の子が数人。

 

 話を聞くと、彼女たちはどうやら茜と同じ陸上部員のようで、彼女に連絡事項があるので伝えたいとのことだった。そして茜に内容を伝えて少しの間談笑すると、またね、と言って離れていった。

 別になんてことはない会話。ただ一つ気になったのが彼女たちが話をしている間、話をしていない僕を妙に気にしていたことだ。あれは何だったのだろう。

 

 茜は彼女たちを見送ると、ふぅと一息つく。その表情は心なしか疲れているようにも見えた。普段の茜は華やかな女の子グループの中でもムードメーカーみたいな存在だ。でもそれが茜の陰の努力によって保たれているものだと知っている人はあまりいないように思う。会話を嫌っているわけじゃないと思うけど、人に合わせるのはそれなりに苦労するのだろう。

 

 

「ごめんね、カナ。話の途中だったのに」

「いや、いいよ」

 

 

 僕と茜は隣の席同士だしいくらでも話はできる。問題なのは僕だ。クラスメイトとはほとんど交流がない。あっちの方も茜に話しかけながらも僕のことをチラチラと気にしていた。気まずいのかもしれない。

 

 そんなことを考えていると、茜が何故かムッとした顔で僕を見ていることに気づいた。

 

 

「カナ。また自分が悪いと思ってるでしょ」

「……え、なんで」

「だってカナ、いつもそういう顔するもん。……カナはさ。自己評価が低すぎると思うんだよね」

 

 

 そういう顔って言われてもピンとこない。それと自己評価が低いとはどういうことだろう。首を傾げていると茜はどこか微妙な表情をしながらため息をついた。

 

 

 

「カナってね、女の子の間だと人気あるんだよ?」

「……そうなの?」

 

 

 

 なんというか、すごい意外だ。僕が普段から話をする女の子といったら茜くらいで、性別関係なく他のクラスメイトとは全然話さない。そういう自分を自覚してるからこそ、茜の言うことに疑問を持った。

 ……まあ、それは置いておくとして、そもそも僕なんかのどこに惹かれる要素があるというのか。特筆すべき能力もないし、目立つようなタイプじゃない。今の席は窓際の後ろの方だが、まさにそれがお似合いの人間だ。

 

 冷静に自分を分析していると茜が「それに」と付け足した。

 

 

 

「カナ。笑うようになったから」

「……え」

 

 

 

 ……笑う? 

 茜がじっと僕の瞳を覗き込んだ。鳶色の瞳に映るのは僕の鏡像。

 

 長く綺麗なまつ毛に縁どられた瞳。整った顔立ちがすぐ近くにあって、薄くリップの塗られた小さな唇からはかすかな呼吸の音が聴こえる。

 

 

「カナは自分じゃ気づいてないみたいだけど、前はずっと暗い顔してたんだよ」

「……」

「だけど、今はちょっと明るくなったかな? なんていうか、すっきりした顔してる。今のカナって、結構話しかけやすい雰囲気だと思うよ」

 

 

 ……僕は無意識の内にそんな顔をしていたのか。自分のことは自分が一番分かっているつもりだったけど、そんなことはなかったみたいだ。僕はずっと、自分でも気づかないうちに感情を制御できていなかった。

 

 それはたぶん、母さんを喪ったあの日から。

 

 僕は自分が強くありたいと願っていた。じゃないと妹を守れないから。その気持ちが空回っている自分はひどく滑稽で情けなくて、何よりも惨めだった。

 だけど今はそのわだかまりもほぐれてきている。それがこうも表層に表れてしまうあたり、僕もまだまだだなと思った。それともただ、茜が鋭いだけか。

 

 

「さっきの子たちだって、本当はカナと話がしたいから遠回しにあたしに話しかけて来たんじゃない?」

「いや、流石にそれはないでしょ……僕に好意がある人なんていないだろうし」

 

 

 ピクっと。

 茜は引っ掛かったように形の良い眉をひそめた。そして、ジトっとした目つきで甘く僕を睨んだ。

 

 

「そんなことありますー。カナは女心が分かってないよ」

「まあ……そう言われたら何も言えないけど」

 

 

 むすっと頬を膨らませる茜。まるでリスみたいな、小動物特有の可愛らしさに似たものがあった。

 僕が何か気に障ることでも言ってしまったのか、茜はどこか不満げだった。

 

 

「……茜、もしかして怒ってる?」

「怒ってませんー」

 

 

 何故かぷいっとそっぽを向く茜。怒るというか拗ねてると言う方が適切だろうか。その態度が妹に似ているようで、僕は思わず苦笑した。

 

 机の上には弁当箱。学校の昼休みは穏やかに過ぎていく。周りを見れば各々が友達同士でおしゃべりしながら箸を進めていた。小さなコミュニティがそれぞれの場所で形成されているけれど、僕の席はどうだろう。茜と過ごすこの時間もその一部なのだろうか。

 

 ……あれ。

 そこで僕は、疑問を覚えた。

 

 

「そういえば茜。最近、他の友達と食べてないよね? どうして?」

「……」

 

 

 茜は普段から仲の良い友達グループの中でご飯を食べていたはずだ。それが最近は自分の席で食べるようになっていた。時期的には茜と二人きりで出かけたあのときくらいから。

 あの日以来。雰囲気と言えばいいのか、そういったものがわずかだが変わった気がした。見た目の変化こそ少ないけれど、よく見ればいつもよりも髪が艶やかでよく手入れされているのが分かるし、前にも増して女の子らしくなったと思う。

 

 茜に問うと、何故か先ほどのツンとした表情のまま頬をうっすらと朱くした。制服のシャツから覗く白く綺麗な首筋まで朱が差している。

 

 そして肩をふるふると震わせて。

 

 

「き、気分だよっ、たまたまカナと一緒に食べたくなっただけっ。それ以上の意味はないから! 本当に!」

「わ、分かったから」

 

 

 セミロングの茶髪をさらさらと揺らしながら詰め寄ってきた。何を焦っているのか、まくしたてるように喋りだす。

 僕は判然としないながらもその勢いに逆らえず頷いた。触れられたくない話題なのだろうか。茜は一頻り話すと、あ……、と小さく呟いて俯いてしまった。

 微妙な空気が流れる。弁当箱を見ればまだ全然箸が進んでいない。昼休みももう半分を切っていた。どうやら長い間話し込んでいたらしい。

 

 茜は恥ずかしそうにしながらも自分の席に戻り、再びご飯をもそもそと食べ始めた。

 

 ……いったいどうしたんだろう? 

 

 

 結局昼休みの間。

 

 それっきり話をすることもなく時間が過ぎた。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 図書室に向かう。

 

 本来なら真っすぐに帰宅する時間。けれど今日は委員会の仕事があった。僕は図書委員に所属しているのだが、何でも、図書室の先生が書庫の本を整理したいのだとか。僕以外の委員はみんな部活に所属していて、僕に白羽の矢が立った。どうせ暇だから別に構わないのだけど、話を聞いたところ小一時間はかかりそうだった。

 静かな廊下を上履きの音が木霊する。騒がしい昼休みの時間とは打って変わって静謐で物寂しい廊下。窓から見下ろせる校庭には運動部で精を出す人たち。それぞれが自分なりの目標をもって活動している。

 僕はどうだろう。自分のために何かを頑張ってきたことなんてあっただろうか。

 

 

「……あれ、彼方くん?」

 

 

 図書室の扉に手をかけたそのとき。

 耳をくすぐる女の子の声が響いた。

 

 横から現れたのは黒髪のショートカットの女の子。ぱっちりと大きな瞳をきょとんとさせながら、制服のスカートをなびかせタタっと駆け寄ってくる。

 

 

「美玖はどうしてここに?」

「わたしは本を探しに来たの。部活に必要だから。彼方くんは?」

「僕は図書委員の仕事」

 

 

 美玖の話を聞くと、普段はこうして図書室に足を運ぶことはあまりないのだとか。部室内で事足りるらしい。ただ、正確な情報を知るためにネットではなく書籍を資料として使いたいときに図書室を利用するらしい。

 二人して図書室に足を踏み入れる。図書室特有の落ち着いた雰囲気と匂い。薄暮の光がゆるく差し込む図書室には僕たち以外誰もいない。

 

 

「本、探すの手伝おうか?」

「え? でも委員会のお仕事中でしょ?」

「まあ……ちょっとくらいならいいんじゃないかな」

 

 

 美玖はぽかんと口を開けた。けれどすぐに表情を崩してクスクスと笑った。

 

 

「じゃあ、お願いしてもいいかな?」

「うん」

 

 

 対面の美玖は目許を緩めながら小首を傾げて可愛らしいポーズをする。ショートの黒髪がさらさらと揺れた。

 美玖の探している本をパソコンのデータベースから探し出して場所を調べる。書庫の奥の方だ。丁度いい。

 

 道すがら美玖と話をする。話によると、妹と美玖は同じクラスなのだと言う。それは今ここで初めて聞いた事実だった。同じ文芸部に所属しているという点しか、僕は知らなかった。

 

 

 人気のない書庫まで着いた。埃をかぶっている本や、廃棄予定らしき本が隅の方にぎっしりと積み上がっている。先生に言われたのはこの中から指定された本のみを抜き出して紐でまとめることだ。しかし、冷静に考えると結構な重労働だ。

 

 僕はそれを横目に棚の本に指を滑らせた。

 

 

「えっと……これかな」

「あ、そうそう、これ! ありがとう、彼方くん!」

 

 

 棚に収まっていた書籍を取り出して美玖に手渡す。これで彼女の用事も終わりだ。

 

 

「じゃあ、僕は仕事があるから」

「あ、うん……。あれ、そういえば他の委員は?」

「いないよ」

「……え?」

 

 

 きょろきょろと見回す美玖に言うと、びっくりしたように目を見開いた。確かにこういう反応が普通かもしれない。だけど引き受けてしまった以上、弱音は吐かない。

 

 先生から事前に渡されたプリントを取り出し、一つ一つ書籍のタイトルをチェックする。埃の被った本のページは色褪せていて、年季を感じさせた。本の場合、そういう長い歴史をふとした瞬間に触れることができる。電子書籍にはない実物ならではの魅力だ。

 そして次の書籍を探そうと屈んでいた体を起こしたとき。横からすっと白い手が伸びてきた。

 

 

「……美玖?」

「わたしも手伝うよ。本を探してくれたお礼だと思って。ね?」

 

 

 美玖は更に、「二人でやった方が早いし!」と言って僕が持っていたプリントを見ながら本の整理を始めた。大変そうな僕を見かねたのだろうか。

 

 

「部活はいいの?」

「うーん。ちょっとくらいならいいんじゃないかな、なーんて」

 

 

 美玖はちろっと舌を出しながら茶目っ気たっぷりに言った。さっきの僕の言葉のなぞりか。

 だけど人手があるのはありがたい。僕は美玖にお礼を言いながら作業を再開した。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 静かな空間に息遣いと物音が響く。

 

 作業を開始してから十数分。美玖に付き合わせてしまうのを心苦しく思っていたが、彼女の方は「気にしないで」と言って手伝ってくれている。僕は美玖とは付き合いが短いけど、これまでのことから察するにお人よしなんだろうなと思った。

 そうでなければ、妹の友達にもなってないだろうし。……なんて考えるのは、流石に妹に失礼だろうか。

 

 ……遥、か。

 

 

「……っと」

 

 

 手が滑ってしまい、積み上げられた本の山を誤って崩してしまった。関係ない本まで床に転がり落ちてしまっている。一つため息をついて、回収しようと身をかがめる。古めかしい本を一冊一冊丁寧に積み重ねる単純作業だ。

 

 そして、最後の本に手を伸ばそうとしたとき。

 簡潔に記されたそのタイトルに、思わず手を止めた。

 

 

 

『近親婚の歴史』

 

 

 

 馴染みのない言葉だった。それは古代の国々で行われていた重厚な歴史の一部。古代では近親婚が容認されていたり、僕の住むこの国でも皇族間で行われていたことがあるらしい。

 表紙を開いて目次を見れば、各国の近親婚にまつわる歴史が地域別に分けられて並べられている。そして最後の目次には現在のことがこう記されている。

 

 

『この国においては近親婚は認められない』

 

 

 ……近親婚、か。

 幼い頃に無邪気な妹に結婚したいと言われたことがあるが、それを思い出してしまった。

 

 しかし、全く考えられないことだ。兄妹で結婚なんて、遥か昔の遠い彼方の出来事。あまつさえ、僕と妹は仲が良いとは言えない。一切の想像もつかなかった。兄妹で恋愛感情を抱くことなんて、果たしてあるのだろうか。

 

 それはきっと、閉鎖的な世界での禁じられた行い。人類の歴史の積み重ねの中で生まれたタブー。おとぎ話にも似た、ただの幻想のように思えた。

 

 

 

「──彼方くん? 大丈夫?」

「ん……大丈夫だよ」

 

 

 

 先ほどの本を元に戻していると、物音に心配してくれた美玖が近くに寄ってきていた。彼女の方も作業が一段落したようだ。彼女が手伝ってくれて本当に助かった。

 

 ……そういえば、今は美玖と二人きり。一つ訊きたいことがあった。

 

 

「……美玖は僕と遥の仲が上手くいってないのは知ってるんだよね?」

「え?」

 

 

 僕の突然の問いに、美玖は目をしばたかせた。妹と仲がいいのであれば、そういう事情は良く知ってることだろう。今はだいぶ緩和されてはいるけれど、僕は妹に一方的に避けられていた時期がある。この間は雷に怯える妹と一緒に寝たけど、あれは例外だ。

 

 美玖は宙を見上げて考える。そしてやがて、指で小さく丸を作りながら、ちょっとだけね、と言った。

 

 僕が知りたいのはクラスでの妹の様子だ。普段の会話の中じゃ全然聞くこともないし、そもそも妹のクラスに知り合いなんていなかった。ただ、今日初めて美玖が妹と同じクラスだと知って、丁度いい機会だと思った。

 

 それを美玖に伝えると、苦笑混じりで語り始めた。

 

 

「そうだねー……遥は結構孤立してるところがあるかも。刺々しい雰囲気してるし、近寄りがたいっていうか」

「……やっぱりそうなんだ」

 

 

 僕が身に染みて分かっていることだ。冷涼な空気を纏って怜悧な相貌をした妹は、さながら刺々しい薔薇のようだと言える。容姿端麗で成績優秀な妹が家でも同じ態度だと知るのは僕だけだ。

 

 

「そう考えると、彼方くんって正反対かもね」

 

 

 徐に、美玖が僕に近寄った。

 ふわっと、甘い香りが鼻をかすめる。

 

 

「彼方くんはなんか、あったかい感じがする」

 

 

 胸元近くから僕の顔を見上げる美玖。褒められてると受け取っていいのだろうか。

 そして美玖は、僕から離れると柔和な笑みを浮かべた。

 

 

「遥なら大丈夫だよ。話す友達がいないわけじゃないし、いじめとかもないから」

「……そっか」

 

 

 ほっと安堵した。妹のいない場所で、こうして回りくどく誰かに頼る自分に情けなさを感じながら。

 目を伏せながら呟くと一拍間が空いて、小さく声が響いた。

 

 

「……逆に質問してもいい?」

「……?」

「彼方くんは遥のこと、どう思ってる?」

 

 

 美玖は近くの椅子を引っ張ってきて座りながら僕に問う。美玖と遥は気心の知れた仲。おそらくそのあたりの話は妹自身から聞いたことがあると思うけれど……。

 僕も椅子を引っ張ってきて座る。木製の椅子がぎしっと軋みを上げた。美玖には少し、話しておいた方がいいかもしれない。

 

 

「……大切な妹だと思ってるよ。できれば、昔みたいに仲良くしたい」

 

 

 美玖が僕と遥の仲を気に掛けてくれるのはなんとも不思議な気分だった。自分の家族間の話を知り合いとはいえ、他人に心配されるのは初めてのことだから。ましてや美玖は同学年の高校生。こういうのを相談できるのが友達なのかもしれない。

 

 妹に避けられ始めたのは中学生くらいの頃。小学生から中学生に上がれば、当然だが環境が大きく変わる。人間関係もリセットされるし、慣れないことが続いて疲れもストレスも溜まるだろう。

 中学生はよく多感な時期だと言われる。いわゆる思春期だ。僕と妹は双子だけど性別が違う。偏見かもしれないけれど、女の子の方がそういうところは繊細なのだろう。

 

 一つだけ予想外だったのは、それが一過性のものじゃないということだった。いつの間にか妹との会話もなくなっていって、その状態をずるずると引きずってしまって今に至る。

 

 

 緩いため息をもらす。美玖に一通りのことを話した。こんなこと言われても、他人である美玖にはどうしようもないことだと分かっている。だけど、こうして胸中を誰かに打ち明けることで、もやもやした気分が薄れていくのもまた事実だった。

 

 美玖は黙って僕の話を聞いていた。

 そして、そっか……と呟くと、顔を上げた。

 

 僕を真っすぐ射抜く眼差しがそこにあった。

 

 

 

「……彼方くんはどうしても知りたいの?」

「え?」

「遥に避けられた理由、どうしても知りたい?」

「……もしかして、美玖は知ってるの?」

「……うん」

 

 

 

 言葉を失った。まさか美玖が知ってるとは露ほども思ってなかった。

 

 でも考えてみれば当たり前のことだ。家族だからこそ、ましてや当事者相手だからこそ話せないことは誰にでもある。そうなると、悩みを相談できる人物なんて自然と限られてくるものだ。それが遥にとっては美玖だった。

 

 ……もし僕がここで知りたいと言えば。美玖はそれを素直に教えてくれるのだろうか。

 

 知りたくない、と言えば嘘になる。もし美玖が妹の真意を知っているのであれば教えてほしいというのが本音。

 だけど、脳裏をよぎるのはあの日の妹の顔。あのときの妹は、何かにひどく怯えて怖がっていた。遥は自分の問題だと言っていたが、その意味も未だに分からない。ただ一つ言えるのは、問いただすことで妹が苦しむであろうという事実。

 

 だから。

 

 

 

「……いや、今はいいかな」

「……え?」

 

 

 

 誰にだって言いたくないことの一つや二つは存在するものだ。双子とはいえ、それを暴く権利なんて僕にあるのだろうか。

 それに僕にとって一番大切なのは避けられていた理由じゃない。妹との関係を改善していくことだ。理由が分からなくても、一歩ずつ前に進めているのならそれでいい。

 

 だからいつか、妹の方から話してくれるのを待つ。

 

 美玖を見ながらはっきりと告げる。瞳から緊張の色が解けていき、やがて彼女はいつもみたいに優しい表情を見せた。

 

 

「……そっか」

 

 

 強張っているように見えた美玖の肩から力が抜けたのが分かった。美玖としても、妹のいない場所で秘密の話をするのに居心地の悪さを感じていたのだろう。

 椅子から立ち上がる。暗くならないうちに早く帰らなきゃ。今日の晩御飯はどうしようかな。

 

 そんなことを考えながら、改めて美玖に言った。

 

 

 

「これからも妹のことをよろしくね」

「……うん、大丈夫だよ。だって──」

 

 

 

 美玖は一瞬目を伏せた。

 そして小さく頷きながら、優しく微笑みを浮かべた。

 

 

 

「わたしは、どんなときでも遥の味方だから」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話

 たくさんのお気に入り登録、評価をいただきましてありがとうごさいます。率直に申し上げて、すごく嬉しいです。誤字報告をしてくださった皆様にも、大変助けられています。
 また、いただいた感想は全てが皆様の温かさに満ちていて、感謝の言葉しかありません。筆者として、これ以上ない喜びです。

 この物語はゆっくり進んでいきます。どうか、最後までお付き合いいただけたら幸いです。

 


 

 

 熱い湯に体を沈めると、一日の疲労がじんわりと溶けて広がっていく。秋真っただ中の今。気温も徐々に下がり始めてきて、昼と夜の寒暖差が大きくなっている。夜はすこぶる寒く、体の芯から温めないと風邪をひいてしまいそうだ。

 

 ちゃぽんと、雫の落ちる音を聴きながらふと思い出す。

 

 ……そういえば、そろそろ文化祭か。

 

 僕と妹の通う高校の文化祭はテスト終わりから少しの間を空けて行われる。クラスの出し物はそれぞれの話し合いで決められるが、僕のクラスは確か喫茶店に決まっていた。

 みんな日々の勉強やら部活やらで忙しい毎日だが、文化祭の準備期間に入れば一致団結して準備に取り組む。クラスのみんなは割と乗り気で、話し合いの中で積極的に意見を出していた。

 

 

「……」

 

 

 入浴剤を溶かした湯を手で(すく)い取る。薄緑色のそれはほとんどが瞬く間に零れ落ちていき、ごくわずかのみが残った。

 

 仲間外れの存在。

 一人ぼっちの存在。

 

 正直に言うと、僕はあまり乗り気じゃない。もちろん、クラスで指示された仕事にはちゃんと取り組むつもりだし手を抜くつもりもない。

 

 ……だけど、いつからだろう。こういうイベントを楽しめなくなったのは。

 

 母さんが亡くなったのが小学校低学年の頃。僕はその頃、世界の何もかもに甘えていた。家族みんなで過ごす日常が当たり前。学校に行って、家に帰れば母さんの優しい笑顔があって、夕方になれば家族みんなでご飯を食べて。そんな毎日がずっと続いていくのだと信じていた。

 

 でもそれは、無邪気に作り上げた砂の城。

 ふとした瞬間にさらさらと崩れ去っていった。

 

 今思えばその頃から、僕には心を許せる相手というのがいなかったかもしれない。

 母さんが亡くなったと知ったときの先生の哀れみの顔。クラスメイトの奇異の視線。通夜のときに親戚が投げかけてきた同情。

 

 全部が怖かった。

 

 当たり前の毎日から脱線したのは僕で、彼らは安全に舗装された道から見下ろす。それだけならまだよかったかもしれない。僕が嫌だったのは、妹までもがそういう目で見られることだった。

 

 だから僕は妹の傍にいることを決めた。僕にとって妹のために時間を費やすのは当然のことで、周りとの人付き合いは二の次になった。

 そのせいか、小学校では友達がほとんどできなかった。たまに話をする知り合いは何人かいたけれど、所詮はその程度。中学校ではその妹にも避けられてしまい、完全に孤立していた。

 

 そういう経緯を辿っているからか、学校生活には大した記憶がない。

 

 

 湯気立つ浴室は白く霧がかっていて、思考を(もや)の中に埋めていく。入浴しているにもかかわらず、温かな温度は次第に感じられなくなる。

 

 

「……」

 

 

 ……やめよう。これは僕の悪い癖だ。

 

 マイナス思考を繰り返すことに意味なんてないのは分かってる。それでも反芻(はんすう)してしまうのは、抉られた傷跡を時折思い出してしまうから。 

 

 

 湯船から上がる。まとわりついていた熱は一気に薄れていき、代わりに肌寒い空気が肌を撫でた。

 

 早く体を拭いて着替えよう。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 髪を乾かして脱衣所を出る。リビングにつながる廊下は薄暗い。でもそれだけじゃなく、いつもよりも肌寒さを感じていた。

 もちろん、季節は秋に差し掛かっているから気温がある程度低いのは当たり前だけど、これはそういったものとは少し違う。軽く湯冷めしてしまっただろうか。

 

 リビングに着けば、ソファに座りながら読書する妹の姿。傍らにはホットミルクの入ったマグカップ。

 

 キッチンに向かい、冷蔵庫から牛乳を取り出して同じようにホットミルクを作る。肌寒い季節にはやっぱり温かい飲み物が飲みたくなるもので、それは妹も同じようだった。

 作り終わり、ソファに座りながら一口含む。斜向かいにはパジャマ姿の妹がいて、静かに呼吸しながら読書を進める。落ち着いた時間だった。

 

 

「……」

 

 

 ぼんやりとこの間のことを思い出す。

 

 大雨で雷も落ちてきたあの日のことは妹の方もかなり恥ずかしかったようで、翌日の朝に「お願いだから忘れて」と言って、顔を真っ赤にしていた。

 別に家族なんだからそんなに恥ずかしがることでもないと思ったけれど、普段の態度が態度だけに、そういうわけにもいかないのだろう。

 最初は僕と顔を合わせると気まずそうな顔をしていたけれど、それも次第に元に戻ってきた。

 

 

 

「……なに、彼方」

「……え」

 

 

 

 涼やかな声に、はっと意識を戻した。

 

 本に落としていたはずの視線が、いつの間にか僕に向けられていた。どうやら見つめすぎてしまったらしい。

 お風呂から上がった後の妹の髪は本当に綺麗だ。真っすぐで長い濡羽色の髪は艶やかに潤っている。

 

 そして、僕がプレゼントしたヘアピン。妹にプレゼントしたあの日から、ずっと毎日着けてくれているようだ。その白い花は、澄み切った夜のような美しさの中で静かに輝いていた。

 

 

「あ、いや……。この前勉強を見てもらったお礼、まだしてなかったなって思って」

 

 

 咄嗟に思いついたことを話す。流石に思っていたことをそのまま話すのは恥ずかしかった。ただ、嘘は言ってない。

 

 妹は僕の言葉を聞いてかすかに目をしばたたかせると、はぁ、と小さく嘆息した。

 

 

「別にいらない」

「でも、遥のおかげでこの間のテストも出来が良かったし……。何かお礼させてほしいな」

「……もう、もらってるからいい」

 

 

 そう言って遥は、髪を一撫でした。そこは丁度ヘアピンが着いている辺り。さらりと揺れる髪が、妹の白い肌の上を滑る。

 別にそこまで高価なものじゃないし、あくまでこれはプレゼントだ。お礼とはまた違う。でも、あまりしつこくされても嫌だろうか。

 

 

「……」

 

 

 会話が途切れる。静かで落ち着いた時間が再び訪れる。

 だけど、もうちょっと何か話をしたい。そんな気分だった。

 

 ……そういえば、この間美玖に図書委員の仕事を手伝ってもらったとき、彼女はこう言っていた。遥はクラスの中では孤立している方だと。

 美玖が言うには、それでも問題はないのだと言っていた。妹は美玖と友達ではあるが、そこまで周りと積極的に交流を深めるつもりもないだろう。

 

 ……。

 

 

「……遥。この前話した僕の友達のこと、覚えてる?」

「……覚えてるけど、突然なに?」

 

 

 前触れもない急な話に、遥は訝し気に眉をひそめた。

 

 これは僕の我儘だ。僕は遥に無理やり友達を作ってほしいわけじゃないし、どの口が言えたことかと思われるだろう。

 ただ僕は、妹と共通の友達をつくりたかった。そんな半ば打算的な思いが含まれていた。

 けれど、妹に信頼できる友達をつくってほしいのも本音だ。それに、茜には間接的とはいえ妹のことで世話になったし、僕と妹の関係もある程度把握してる。

 

 

「よかったらさ、紹介させてくれないかな。きっといい友達になれると思うんだ」

 

 

 茜のことを思い出す。

 彼女は人に合わせてしまうタイプだと自分で言っていた。それならばむしろ、逆に妹とは相性がいいのではないだろうか。遥は人に合わせることはきっとしないし、下手に明るく振舞うタイプじゃない。

 

 

「……友達……」

「うん……。別に無理に会話しなくてもいいから。だから──」

 

 

 僕の数少ない友人を遥にも知ってほしい。それに、優しい子だから大丈夫。そんな思いを込めて、言葉を続けようとしたとき。

 

 ぱたん、と。本を閉じる音が挟まった。

 

 

「……」

 

 

 遥は、ソファからすくっと立ち上がった。

 

 

「あ……遥」

「……別に、いい」

 

 

 リビングを出ていく遥に思わず手を伸ばす。妹の表情は見えないけれど、あまり良い機嫌じゃなさそうなのは確かだった。

 階段を上る足音が聴こえる。そしてそれは徐々に遠ざかっていき、やがて消えた。

 

 ……余計なおせっかいだったろうか。

 

 静寂が支配するリビングは先ほどドアを開けたからか、暖房がついてるにもかかわらず冷たい空気が流れ込んでくる。さっき作ったホットミルクも、既に湯気をたてていない。

 

 妹はやっぱり、友達をつくるのは嫌なのだろうか。茜のことを話題に出すと機嫌が悪くなるのは分かっていたことだ。だけど、ここまで嫌がるとは思ってなかった。

 

 

「……」

 

 

 途端、ぶるっと寒気がして身をすくませた。やっぱり湯冷めだろうか。

 

 ソファから立ち上がり、使い終わったマグカップをシンクの流しに置いて水で軽く洗い流す。冷たい水にピリピリと肌を刺すような痛みを感じた。

 きゅっと、蛇口をひねる。そしてキッチンスペースから出ると、ぽたぽたと落ちる水滴の音を耳に、リビングのドアの横にある電気のスイッチをパチッと消した。

 

 階段を上って自室へと戻る。部屋の中は暖房も効いてないからか、嫌に寒かった。

 電気を消してベッドにもぐりこむ。部屋の中も当然静かで、身じろぎする音しか聞こえない。

 

 

 ……遥には、明日謝ろう。

 

 

「……おやすみ」

 

 

 僕は、ゆっくりと目を閉じた。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 黒い服を着た大人たちが忙しなく動き回る。

 まだ小学生の僕と妹は、それを見上げることしかできない。

 

 僕と妹は訳も分からないままその式に参加していた。いや、分かってはいる。信じたくない事実を無情にもまざまざと見せつけられることに、心が耐え切れなくなりそうで現実逃避していただけだ。

 

 黒い服を着た多くの大人たちが何事かを話している。父さんはその集まった人たちに挨拶して回っていた。僕と妹も父さんに着いてきていたが、見たことない人たちがほとんどだった。僕には全く面識のない人たち。それなのに父さんは、丁寧に挨拶して話をしている。

 僕が気になったのは、挨拶に行く人たち一人一人が僕と妹を悲しそうに見てきたことだった。物心がつき始めてきた僕は、その意味をなんとなく理解していた。

 

 同情、哀れみだ。

 

 

『……』

 

 

 僕の手を強く握る、小さくて柔らかい妹の手。

 

 この場所に来てから、僕はずっと妹の手を握っていた。参列する大人の人波に呑まれないように、ずっと。

 妹は俯いたままだった。伏せた顔は陰っていて全く元気がない。だけど、いつもよりも手を握る力が強かった。

 

 

『──』

 

 

 父さんと大人たちが話してる内容は、僕にはあまり理解できなかった。難しい単語がいっぱい出てくるし、何よりもその内容を僕には細かく説明してくれないから。

 

 僕と妹のいるこの空間だけが、ぽっかりと穴が開いてしまったようだった。

 

 

『……父さん』

 

 

 僕は父さんに外の空気を吸いたいと言った。このままここにいては、妹はきっと苦しむから。父さんは小考の後に、あまり遠くには行かないことを条件に許可を出してくれた。

 父さんは決して僕たちを蔑ろにしているわけじゃない。これは大人としてやらなきゃいけないことだって、幼い僕でも分かっていたことだった。

 

 妹の手を引いて会場の外に出る。

 

 むわっとした暑い空気が肌を撫でた。初夏の瑞々しい緑の匂いが風に乗ってやってくる。

 この暑い気温の中、大人たちはみんな長袖の礼服に身を包んでいた。だってそれが、社会によって定められたルールだから。ルールには逆らえない。

 

 

『暑いね』

『……』

 

 

 妹は何も言わない。ただ、こんなに暑いというのにより身を寄せてきた。

 会場の外には全然人がいない。駐車場には参列する人たちの車が整然と並ぶだけだし、わざわざ葬式の会場付近に足を運ぶ人もいない。 

 

 ミンミンと。セミの鳴き声が聴こえる。

 

 その小さな体で自分の存在を証明するように、力の限り鳴く。夏特有の鬱陶しいぐらい騒がしい音が、広く、遠く響いていく。

 照りつける日差しが暑くて、僕と妹は建物の陰に隠れながら踊り場付近の階段に腰掛けた。

 

 

『何か飲む?』

『……』

 

 

 ポケットに入っていた百円玉の存在を思い出し、遥に問う。けれど妹は何も言わず、ふるふると首を振る。

 母さんが亡くなってから、妹はずっとこんな感じだ。食欲も全然ないし、学校にも行きたがらない。溌溂な笑顔は一切なくなって、家の中を流れる空気はどんよりしていた。家の中の明るかった日常はぷっつりと途切れ、先の見えない不安だけが募る。

 

 どうすればいいか分からず、足元に目を落とす。

 

 

『……あ』

 

 

 視界の端に、一匹のセミの死骸が映る。

 

 物言わぬ骸となった死骸に生命は宿っておらず、何も反応しない。たとえ姿かたちを保っていても、命なきそれはモノでしかない。

 

 ……どうして、命はなくなるんだろう。

 

 僕は分からなかった。もうあの温もりは二度と戻ってこないって分かっていても、僕には受け入れることができなかった。こんなにつらいことが、世の中ではありふれたことだなんて信じたくなかった。

 

 ……それとも。そう信じてしまえば、母さんの死に納得できるのだろうか。

 

 幸せだったあの日々が。

 宝物のように輝いていたあの日々が。

 

 泡沫(うたかた)の夢のように消えてしまったことが、仕方ないことなのだと。

 

 僕は、納得できるのだろうか。

 

 

 

『……?』

 

 

 

 袖を引っ張られる感触に、僕は顔を上げた。そこにはいつの間にか、黙り込んだ僕を心配そうに見る妹。瞳は不安に揺れていて、今にも泣き出してしまいそうだった。

 

 ……そうだ。

 僕がこんな顔をしてちゃいけない。早く立ち直らなきゃいけない。

 

 

 

『……』

 

 

 

 でも、僕の手は情けなく震えていて。

 うだるような暑い気温なのに、何故か寒くて。

 

 苦しい。どうしようもなく、苦しい。

 

 

 僕は──

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 カーテンの隙間から差し込む光に目を覚ます。いつも通りの目覚めのはずだった。

 

 けれど僕は、強烈な違和感を抱いた。

 混濁した意識と異常な悪寒。強い不快感と気だるさが纏わりついているのが分かった。そして、喉の奥からせり上がってくる衝動。ゴホゴホと、激しく咳がもれる。

 

 掛布団の隙間から入り込む空気が嫌に冷たい。肌をひと撫でされただけで鳥肌が立ちそうだった。

 

 ……どうやら風邪をひいてしまったようだ。

 

 でも、いつまでもベッドにもぐりこんでいる場合じゃない。朝ごはんを作って、お弁当も作って。それに、洗濯物も干しておかないと。家事は毎日行わなければならないものだ。

 

 ベッドから降りる。

 

 

「……っ」

 

 

 上手く立てずにそのままずるっと床に座り込んだ。呼吸も荒く、頭がくらくらと揺れるような気持ち悪さに、頭に手をやる。

 

 

 ──コンコン。

 

 

 ノックの音が聴こえる。頭に響くその音に一瞬顔をしかめた。

 

 

「……ぁ」

 

 

 しかし、僕は答えることができない。声を出そうとすると、それを阻むように喉が痛む。そんな僕を不審に感じたのだろう。ドアの向こうから声が聴こえてくる。

 

 

『……彼方? 起きてる?』

 

 

 凛とした涼やかな声には、かすかな戸惑いが含まれていた。いつもなら下で朝食を取る時間なのに、まだ全く準備していない。こんなことは初めてだ。

 だけど僕は、動くことすらままならない。呼吸に伴う吐息がやけに響いて、頭を殴りつけるような痛みが支配していた。

 

 

『……? 入るよ?』

 

 

 ゆっくりとドアが開く。

 

 部屋に入ってきた遥は制服に身を包んでいた。学校に行く準備を既に済ませているのはいつも通り。しっかりとブラシを通した濡羽色の髪は腰のあたりまで伸びていて、艶やかな輝きを放つ。

 

 ただ……。

 

 

「……え……」

 

 

 いつもと違うのはその表情。僕のぐったりした姿に目を見開いて呆然としていた。それはそうだろう。逆の立場だったら僕も同じような顔をする。

 

 ……ああ、ほんとしくじったな。

 気が緩んでしまっていたのだろうか。

 

 遥ははっと意識を戻すと、慌てたように駆け寄ってきた。

 

 

 

「──彼方!」

 

 

 

 床に座り込んでベッドにもたれかかっていた僕を労るように、そっと起こす。

 そういえば、こんな風に誰かから触れられるのって久しぶりだ。

 

 遥は僕の前髪をかき上げると、ぴたっと手のひらを当てた。小さくて、冷たい手が吸いつくように肌に触れる。

 そして同じように自身の前髪をかき上げると、ゆっくりとおでこ同士をくっつけた。

 

 長いまつ毛と純度の高い瞳が真正面にあって。

 さらさらと揺れる髪から、ほんのりと甘い芳香が香った。

 

 

「……すごい熱」

 

 

 嫌な予感というものは当たりやすい。昨晩の悪寒はこの前触れだったのだろう。

 

 

「っ……。大丈夫……だから……」

 

 

 軋む関節を無視して立ち上がろうとする。遥をどけて、床に手をつきながら体を起こした。

 

 早く、ご飯を作らないと。

 

 ふらふらと覚束ない歩みで廊下へ出ようと向かう。だけど、体はやっぱり言うことを聞いてくれない。夢遊病者のような足取りはすぐに平衡状態を崩す。部屋のドアに手をかける前に倒れそうになった。

 

 そのとき。

 ふと、体を抱き止める柔らかい感触。

 

 

 

「大丈夫じゃ……ない!」

 

 

 

 硬い床に倒れ込むはずだった僕の体は気づけば、妹の温もりに包まれていた。

 

 首元辺りに力なくもたれかかる。制服の柔軟剤の香りと、遥自身の甘い香りに鼻腔が満たされた。

 耳元から切羽つまった声が聞こえる。混乱しているのか、声は震えているように思えた。

 

 大袈裟だなあ。ただの風邪なのに。

 

 

 

「──!」

 

 

 

 耳鳴りがひどい。何も聞こえなくなってきた。

 薄れてゆく視界と共に、意識が徐々に暗転する。

 

 

 僕はそのまま、深い闇に落ちていった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話

 

 

 葬式が終わった。

 

 父さんは事務処理で忙しそうにしていて、その表情には隠しきれない疲れが出ていた。けれど僕たちを気遣ってか、決して悲しい表情を見せない。

 母さんを喪って悲しいのは父さんだって同じはず。それなのに、まだ幼い僕たちを守るために奔走している。

 

 

『……遥なら、僕が見てるから大丈夫だよ』

 

 

 幼心にも僕は、まだやらなければならない公的手続きがたくさんあることを理解していた。

 家に帰ってきてから、妹はずっと部屋に引きこもったままだ。本当なら行きたくなかったはずなのに、必死に我慢していた。それが、母さんとの本当の決別になってしまうと分かっていたから。今はその反動でひどく疲れ切ってしまっていた。

 だから僕は、少しでも父さんの役に立ちたくてそう言った。

 

 父さんは僕の言葉に目を見開きながらも、すぐに表情を崩して僕の頭を撫でた。

 ひどく優しくて、心苦しそうな表情だった。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 部屋のドアをゆっくりと開く。二つの勉強机が隣同士並んでいて、その横にはそれぞれ黒と赤のランドセルが掛けられている。他にも本棚やテーブルがあるこの部屋は、僕たち双子の部屋だった。

 

 ベッドの上には、体育座りして俯く女の子。

 僕の双子の妹だ。

 

 座り込んで膝の間に顔を埋めているため、顔はよく見えない。視界を閉ざすように、周りの全てを遮断するように塞ぎ込んでいた。

 僕は妹の隣に座った。広い空間に二人きりでいると、ここでの日々を思い出す。仲良く遊ぶこともあれば、思いっきり喧嘩することもあった毎日。

 それなのに、騒がしく賑やかだったこの部屋には、いつの間にか暗くどんよりした空気が流れるようになっていた。

 

 

『……』

 

 

 カチカチと、時計の針が進む音だけが響く。時間は決して止まることなく、次第に日は暮れ始めていた。部屋に差し込む光がオレンジ色に変わっていく。

 

 

『……かなた』

『……ん……?』

 

 

 小さな声が耳に届いた。

 

 天井を眺めていた僕は、隣の妹が少しだけ顔を覗かせてくれたことに気づいた。妹は母さんが亡くなってから、まるで人形のように何も話さなくなってしまった。でも今、妹は確かに声を聞かせてくれた。そんな些細なことが、僕には嬉しかった。

 

 だけど。

 

 

『おかあさんは、どこにいっちゃったの……?』

『……』

 

 

 僕は何も答えることができない。何をどう言ったところで、僕はきっと嘘をつくことになる。

 だって、どこに行ったのかなんて、僕にも分からないのだから。一つだけ分かっているのは、ここではないどこかということだけだった。

 

 

『どうして……おかあさんがいないの……?』

 

 

 夕方の光が妹を照らす。もうそろそろ夕飯の時間。

 

 下のリビングからは包丁がまな板を叩く音が聴こえてきて、廊下に出れば母さんの作る料理の良い匂いがするはずで。母さんが、ご飯だよ、ってこの部屋まで呼びに来てくれるはずで。

 

 なのに、今は何も聴こえない。

 妹だって本当は分かっている。

 

 

『……おかあ、さん……』

『っ……』

 

 

 いつの間にか、僕の手は震えだしていた。妹の寂しそうな声に胸が苦しくなり、今すぐにでも泣いてしまいたくなる。

 いつもこうだ。肝心なときに限って僕は、泣いてる妹のために何をしてやることもできない。

 震えは次第に大きくなり、僕の心を壊そうとしてくる。道標を失った旅人のように、どこへ向かえばいいかも分からない。

 

 僕は思わず顔を逸らして──

 

 

 

 

 

『……あ』

 

 

 

 

 

 ──壁に掛けられたコルクボード。

 

 そこには一枚の写真が飾られている。写真の中には無邪気ににっこりと笑う僕と妹がいて、後ろには穏やかに微笑みながら佇む父さんがいて。

 

 そして、僕と妹の隣にいるのは母さんだった。

 

 僕たちを愛おしそうにかき抱く母さんは、きっと世界の誰よりも綺麗だった。学校で嫌なことがあったときも、怪我をして痛みで泣き出してしまった日も、母さんは僕たちを抱きしめてくれた。その温もりは、この世で一番安心できる場所だった。

 

 僕はまだ子どもだ。父さんみたいに仕事でお金を稼いだり、母さんみたいにおいしい料理を作ったりすることもできない。自分にできることなんてたかが知れていて、何をどうすれば元に戻るのかも分からない。いや、もう元に戻ることなんてできないのだろう。

 

 ……でも。

 

 

『……』

 

 

 震える手を無理やり抑えつける。

 挫けそうな心に喝を入れ、深呼吸する。

 

 そして──

 

 

 

『……ぇ……』

 

 

 

 妹を抱きしめた。

 

 僕がやらなきゃいけないのは泣くことなんかじゃない。妹を守ることだ。

 母さんがそうしてくれたように、今度は僕が。

 

 

『……かな、たぁ……』

 

 

 おずおずと、背中に手が回される。気の利いた言葉なんてかけることができなかった。だから僕は、黙って妹を強く抱きしめ、涙を受け止める。今の僕にできることはそれくらいのものだった。

 

 

『かなたっ……かなたぁ……』

 

 

 胸にしがみつく妹はぼろぼろと涙を零した。服の濡れた部分からゆっくりと熱が広がり、僕に溶けていく。

 

 遥は僕の双子の妹。生まれを同じくした元は一つの存在。

 

 僕が泣かなくても遥が泣いてくれる。だから、僕はもう泣かない。

 その代わりに僕は、妹の傍にいよう。僕の分も泣いてくれる妹のために、傍にい続けよう。

 

 

 大丈夫。

 僕はどこにも行かないから。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

「……」

 

 

 目が覚めた。

 

 視界に広がる白い天井は見慣れた景色の一部。掛布団にすっぽりと包まれた体をゆっくりと起こす。すると、頭にかすかに痛みが走った。痛む頭に顔をしかめながら、おぼろげに記憶を掘り返す。

 

 ……僕は、いったい……。

 

 

「……?」

 

 

 額に違和感を覚え、手を当てる。ぴちゃっと、濡れた何かが触れた。手繰り寄せて確認すると、それは濡れたタオルだった。

 そうだ、思い出した。僕は今朝、体調が悪くてそのまま……。

 

 ……そのまま? 

 

 

「……彼方……?」

「……え?」

 

 

 隣から聞こえた声にドキッとする。この部屋には、僕しかいないと思っていたから。

 

 声のした方に視線を向ける。

 

 そこには床にペタッと座り込んで僕を見上げる妹の姿があった。

 

 

 

 ……

 

 

 ……

 

 

 

「……私、全然気づかなかった」

「いや……僕の体調管理が悪かったんだ」

 

 

 遥が濡れタオルを交換しながら話す。

 

 話を聞くと、どうやら僕が倒れてからずっと看病してくれたようだった。僕は一日中眠っていたみたいで、いつの間にか夕方になっていた。こんなに眠ったのは久しぶりだ。

 学校はどうしたのか訊くと、僕と遥の二人とも欠席すると連絡をしてくれたらしい。

 

 近頃は風邪なんてひいたことがなかったから本当に油断した。別に寝不足だったわけでもないし、毎日のご飯も栄養バランスを考えて作っている。単純に、僕の気が緩んでいただけだろう。

 

 

「ごめんね。迷惑かけちゃって」

「……もう、大丈夫なの?」

「うん、だいぶ良くなったかも。遥のおかげかな」

 

 

 床のカーペットに女の子座りしたままの遥。その瞳は不安そうに揺れていた。

 

 頭痛もある程度収まってきたし、この分だと熱も下がっているだろう。ときどき咳が出たり喉が痛かったりするが、そのうち治ると思う。

 テーブルの上を見れば、スポーツドリンクやのど飴が入ったレジ袋。薬局にでも行ったのか、市販の風邪薬も買ってきてくれたようだ。

 

 

「……あれ?」

 

 

 ふと、テーブルの上におぼんが置かれていることに気づいた。小さな鍋の蓋の隙間からは、白いおかゆが見える。

 

 

「これ、遥が作ってくれたの?」

「えっ……あ」

 

 

 指摘すると、何故か恥ずかしそうにしながらテーブルと僕の間に体を挟んで隠してしまう。

 

 

「なんで隠すの?」

「……あんまり、自信ない」

 

 

 ごにょごにょと尻すぼみになる遥の言葉。そして落ち込んだように顔を伏せてしまう。どうやら遥が作ってくれたらしい。

 おかゆって別に難しい料理じゃないし、そもそも味付けする要素がほぼないから逆にまずくなることはないと思う。

 まあ、妹の気持ちも分からないでもない。自分で作った料理を食べてもらうときは結構緊張するものだ。僕はもう、慣れてしまったけれど。

 

 ……。

 

 

「あ」

 

 

 おぼんに置かれていたスプーンで掬って一口食べた。当然ながら味は特にないし、水の量を間違えたのか少し硬めのおかゆだった。

 でも、冷めきったおかゆはひんやりとしていて、熱に浮いた頭に心地よかった。

 

 

「……おいしくないでしょ」

 

 

 僕が食べたのを見て観念したのか、心なしかうなだれたように肩を落とす。そしてぼそっと、気まずそうに言った。

 

 

「そんなことないよ?」

「……嘘。だって、味見したけどおいしくなかったし……」

 

 

 味がなくてもおいしいと思っているのは本当だ。でも妹の方は納得してくれてないようだ。残ったおかゆを器によそって、しばらく妹の作ってくれたおかゆを食べ進める。とりあえず明日からは、お腹に優しいものを食べて回復に専念しよう。

 

 

「……」

 

 

 チラチラと。

 様子が気になるのか、視線がときどき僕の手元に移る。

 

 

「……あの、そんなに見られると食べにくいんだけど……」

「……見てない」

 

 

 ふいっと顔を背けられる。僕はちゃんと全部食べるつもりだ。妹の折角の手料理なのだから。

 

 カチャカチャと、スプーンと食器がぶつかる音が静かに響く。遥はその間中、やっぱり気まずそうに何度も僕の様子を確認していた。

 不思議な感覚だ。この部屋に妹がいるという状況は、ほぼあり得ないことだったから。まるで夢でも見ているかのようだった。

 

 

 一日中何も食べていなかったからか、割と食欲はあって、僕はあっという間におかゆを食べ終えた。

 まあ、元々の量が少なめだったというのもあるけれど、今の僕のお腹具合には丁度良かった。

 

 

「……ごちそうさまでした」

 

 

 綺麗に食べ終わったのを見て、遥はほっとしたように胸を撫で下ろす。風邪をひいたのなんて小学生以来だろうか。ほとんど記憶がない。高校に入ってから初めての欠席だ。

 遥は「片付けてくる」と言って、食器を持って下のリビングまで降りた。それにしても、遥には申し訳ないことをしてしまった。僕のせいで学校を休む羽目になってしまったし、授業の内容も遅れてしまうだろう。

 ……いや、心配するべきなのは僕の方かもしれないけれど。

 

 明日の時間割を確認するため、枕元のスマホに手を伸ばす。

 

 

「……あれ……」 

 

 

 そこには、見慣れないものが表示されていた。表示された画面には、メールの着信通知。

 

 差出人は茜。

 

 開いて内容を確認すると、『風邪って聞いたけど、大丈夫? 早く元気になってね!』と書いてあった。

 体が弱るときは心も弱ると言う。それに、こんな風に気遣ってくれる人なんて今まで周りにいなかった。言葉にしてみれば短い文章。だけど、そんな些細な言葉が僕には嬉しかった。

 

 茜に『ありがとう。明日には学校行けそう』と返信をし、スマホの電源を落とす。それと同時に、階段を上る足音が聴こえてくる。

 

 遥が体温計と水の入ったコップを持って戻ってきた。

 

 

「……これ。薬」

「うん、ありがとう」

 

 

 レジ袋からパッケージを取り出して僕に差し出す。市販の風邪薬だ。箱を開封して、白い錠剤を水と共に喉に流し込む。冷たい水が喉を潤す感触が心地よくて、ふぅと息を吐いた。

 続いて体温計を脇に差し込む。服の隙間から入り込む空気は冷たく、思わず体を震わせた。一分も経たず、ピピっと体温計の音が鳴り響く。取り出して数字を確認すれば微熱。朝の感じからすればもうちょっと高いかと思っていたけど、意外にも大したことはなかった。

 

 

「……どうだった?」

「ん……たぶん大丈夫。この分だと、明日には学校に行けそうかな」

 

 

 一日くらいなら問題ないけど、これ以上休んでしまうと授業の内容に追いつけなくなりそうだ。ただでさえ授業に着いていくのに手一杯だし、明日から取り戻さないと。

 そんなことを考えながら体温計をケースに戻し、遥に手渡す。

 

 

「……」

「……?」

 

 

 すると、妹が何故か唖然としていることに気づいた。まるで、僕が信じられないことを言ったとでも言うような表情だった。

 

 互いの間に数舜の沈黙が流れる。ケースを一向に受け取らない遥は、次第に険を含ませながら目を細めた。その目許には、怒りに似た何かが籠っていた気がした。

 

 

「……なに言ってるの?」

「え?」

「明日は病院に行かなきゃだめ。付き添うから」

「……別に、行かなくて大丈夫だと思うけど」

 

 

 だいぶ楽になったし、大した問題はなさそうだ。一応、明日の様子を見て判断しようとは思ってるけど、今のところは病院に行かなきゃいけないほどつらい感じはしない。

 でも遥は、楽観的な僕の態度が気に食わないのか、ますます目を細めて僕を睨みつけた。

 

 

「だめ。絶対に行くの」

 

 

 強い口調で言葉をかぶせる妹。静かで凛とした物言いの中には、有無を言わさないような頑固な気持ちが垣間見えた。

 ……そういえば、遥は制服のままだ。ひょっとして、文字通り付きっきりで着替えもせずに看てくれたのだろうか。妹は思ったよりも心配性らしい。

 

 病院に行かなくても寝ていれば治ると思うんだけどな……。

 

 

「……大袈裟だなあ」

 

 

 らしくない妹の姿に、懐かしさにも似た何かを感じた。こうして心配してくれるのは嬉しいけれど、正直、妹がここまで僕の面倒を見てくれるとは思ってなかった。普段から受ける印象のせいか、どうにもちぐはぐな感じが否めない。

 だから僕はそうやっておどけてみせた。半ば、からかう気持ちも含まれていたかもしれない。こんなことを言うと、いつもみたいにそっけない態度で返されてしまうだろうか。

 

 反応を見ようと、再び遥の顔を窺う。

 

 

「……い」

「……?」

 

 

 ぽつりと呟かれる言葉。

 僕の思いとは裏腹に、妹は顔を伏せてしまった。

 

 制服姿のままの妹は、スカートの裾をしわくちゃに握りしめながら声を震わせる。部屋に差し込むオレンジ色の光が、少しだけ輝きを増した。

 今は夕方の時間。そろそろ下のリビングで、夕飯の準備に取り掛かる時間だった。

 

 

「大袈裟なんかじゃっ……ない、……っ」

 

 

 二人きりの部屋の中で、妹の声が響く。小さくてか細い声は、いつもの芯の通った声音とは全然異なっていた。

 涼やかで日本刀のように澄んだ空気を纏っていた妹はその面影もなく、ひどく弱々しい声で言葉を吐きだす。今にもくずおれてしまいそうな妹の姿に、僕は固まってしまった。

 

 

「心配っ……したん、だからっ……」

 

 

 強く握りしめた白い手は、何かを我慢するように震えている。アネモネの花を模したヘアピンが、オレンジ色の陽光に照らされて輝いていた。

 

 伏せていた顔が上がった。

 

 

 

 

 

 

「彼方までっ……いなくなったら、私……っ……」

「……あ……」

 

 

 

 

 

 

 唇を噛みながら。

 

 流れ落ちそうなくらい、雫をいっぱいに溜め込んで。

 切れ長の目も、頼りなく落ち込んでいて。

 

 

 ──在りし日の記憶が蘇る。

 

 

 

『──かあさん!』

 

 

 

 僕と妹がその言葉を口にすれば、いつだって母さんは穏やかな顔で頭を撫でてくれた。母さんらしい、たおやかで優しい手つきを今でも覚えている。

 だけど、それはもう遠い昔の思い出。今ではすっかり言うこともなくなってしまった言葉だった。

 

 死んだ人は決して蘇らない。

 僕と妹を大切に育ててくれた母さんはもういない。

 

 人の死というものが、いかに簡単に訪れるかを僕たちは知っていた。知らざるを得なかった。天命や運命に逆らうこともできず、その瞬間を怯えながら待つことしかできない。でもそれは、あまりにも残酷だ。

 

 窓の外から夕暮れの光が差し込んできて、あふれ出しそうな雫に反射して煌めく。

 

 

「……遥」

 

 

 どけた掛布団の隙間から、涼やかな空気が流れ込んでくる。体の節々が痛かったけれど、無理やり妹の方に身を寄せた。

 

 

 

「……っ、えっ……」

 

 

 

 そっと、頭を撫でた。

 

 触れた瞬間、ピクっと体を強張らせたのが分かった。握りしめた手は未だに膝の上のままで、じっと動かないままだった。

 ゆっくりと妹の頭を撫でる。ずっと昔を思い出すように、あの頃に戻れるように。  

 久しぶりに触れた妹の髪は思った通り、とても触り心地がよかった。

 

 

 

 

「なに……するのよ……」

「……ごめん、遥。心配かけて……」

「あやまら……ないでよっ……」

 

 

 

 

 遥は抵抗せず、おとなしくしていた。手のひらに伝わる体温は温かく、髪に指を滑らせるたびにほのかな甘い香りがして、やわらかく鼻をくすぐる。

 

 ……そうだよね。僕は約束したんだ。絶対に傍を離れないって。

 

 思い返せば、なんて自信過剰な言葉だったんだろう。幼子が抱く将来の夢みたいに、何の邪気もない言葉だった。成算もなければ、守れるかどうかも分からない無鉄砲な言葉。

 

 

 

「かなたの……ばかっ……」

「はは……きついなぁ」

 

 

 

 甘く睨みつけながら紡いだ言葉は、その意味に反するようにひどく弱っていた。だからその罵倒は、甘んじて受け入れよう。そんな掠れたような声で言われても、まるで迫力がない。

 

 ……もしかしたら、僕は妹のことを誤解していたのかもしれない。

 

 小学生から中学生、中学生から高校生になって。僕たちは成長し、それなりに人生を歩んできて経験を積んできた。僕と妹は双子の兄妹だけど、それぞれ別の存在だ。人生の中で培ってきた価値観も違えば、考え方も違う。

 

 それでもきっと、変わっていないこともある。

 僕はやっと、分かった気がした。

 

 

「……」

 

 

 夕暮れの光が差し込む。陽の光はまだ衰えず、カラスの鳴く声も聴こえない。

 窓越しに外を見れば、空に棚引くうろこ雲が少しずつ解けていくのが判った。

 

 明日は晴れだろうか。できれば、いい天気になってほしいな。

 

 

 静かで穏やかな夕焼けの時間。

 しばらくの間、昔のように妹をあやし続けた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話

 

 

「……こう?」

「そう、そんな感じ」

 

 

 トン、トンと。包丁がまな板を叩く音が不規則に響く。肌寒い秋の朝。いつもと同じ朝食を作る時間だけど、今日は僕一人じゃなかった。

 

 

「ちょっと意外だなあ」

「……なにが?」

「だって、料理教えてほしいなんてさ。今までそんな感じもなかったから」

 

 

 そう言うと、遥が包丁を叩く手を止めてジトっとした目を向けてくる。切れ長の目が鋭い視線を飛ばしていた。

 

 

「私の勝手でしょ」

「まあ……そうなんだけどさ」

 

 

 ヘアゴムでくくられた濡羽色のポニーテール。制服の上からシンプルなデザインの藍色のエプロンを着けている。髪を真っすぐに下ろした普段の格好とは全く違っていて、新鮮な感じがした。だけど、鋭い眼でツンと冷たく言われるのはもう慣れたものだった。それにしても、今朝リビングに降りてきたときは驚きすぎて言葉も出なかった。いつもならまだ遥は寝ている時間のはずなのに、何故か起きていて、僕を見るや否や『料理を教えて』と言ってきたのだから。こうして妹と隣並んで朝食を作るなんて、少し前までは考えられもしなかった。

 

 ……それも、僕が倒れたことが原因だろうか。そう考えると、申し訳なく思う気持ちが出てくると同時に、妹の不器用な優しさが嬉しくもあった。本人に言っても否定されるだろうけど。

 

 

 真剣な眼差しで野菜を切っていく遥を後ろから見守る。ときどき手が震えるのを見て不安だったけど、包丁捌き自体は丁寧だから一先ずは口出ししなかった。

 僕も自分の作業をしなきゃいけない。遥の隣で、同じように包丁を使ってトントンとキャベツを切り刻む。あとはベーコンエッグと味噌汁でも作れば朝食の完成だ。あまり凝ったものは作らない。

 

 隣の遥の様子を窺う。

 

 

「あっ」

 

 

 すると、不意に聴こえた声。丁寧に野菜を切っていた遥だったけど、手元が狂ったのか、歪な形に切り落とされてしまった。料理は見栄えも重要だ。でも最初からそこまで気にしてもしょうがない。最初はこんなもんだ。僕のときもそうだった。

 

 器用な妹のことだし、すぐに慣れてくれるだろう。

 

 

「そこはもうちょっと指を丸めた方がやりやすいかも。こんな風に……」

「え……」

 

 

 遥の左手に触れて、直接やり方を教える。久しぶりに触れた手は思ったよりも小さかった。僕の手が大きいのか、それとも遥の手が小さいだけなのか。いずれにせよ、幼い頃の記憶とはだいぶずれていた。白魚のような指はほっそりとしていて肌白く、触れた瞬間に不意に柔らかい感触が伝わってきた。包丁を持つ右手にも手を添えて、一連の動作を再現する。ゆっくりと、丁寧に。

 

 

「こんな感じかな?」

 

 

 均一な厚さで刻まれた野菜がまな板の上に並ぶ。お手本通りのやり方さえちゃんと押さえれば、あとは自分のやり方にアレンジできる。なにせ、僕がそうだったから。

 

 遥の方を見る。すると、ぱっちりと目が合った。距離は思ったよりも近い。長いまつ毛とかすかに見開かれた瞳が眼前にあった。

 

 

「さ、触らなくていいから」

「あ……ごめん」

 

 

 するっと。遥の手を握っていた僕の手が宙を切った。言葉で教えるのって結構難しいから、つい触れてしまった。そうだ、昔とは違う。触れられるのが嫌なのはごく当たり前のことだ。最近の出来事の中で、そんな簡単なことすら忘れていた。

 ……ちょっと調子に乗ってしまったかもしれない。遥がぎこちない様子で、再び料理に取り組み始める。一応、さっきのアドバイスはちゃんと聞いてくれていたようだ。

 

 さっきのことは忘れて、僕もまた、朝食とお弁当の準備に取り掛かった。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 途中でアドバイスを挟みながら、朝食が完成した。遥には味噌汁を作ってもらった。具材は先ほど切ってもらった野菜。初心者が作る料理としてはやりやすいだろう。

 

 

「……どう?」

「うん、おいしいよ」

 

 

 よそわれた味噌汁を一口啜ってそう答えた、調味料の類は、分量さえ間違えなければひどい味にはならない。具材は少し歪なところがあるけれど、初めてにしては上出来じゃないだろうか。そんな感想を伝えると、強張っていた表情が和らいだ気がした。

 

 しかし、妹の手料理を口にする日が来るとは。家事は全て僕が担当するのが当たり前だったし、別にそのことを負担に思ったことはない。ただ、こうして興味を示してくれるのは嬉しかった。

 

 

「……もっと簡単にできると思ってた」

「ん……今は慣れてないから手間取ってるだけだよ。すぐにできるようになるよ」

 

 

 実際、工程自体は単純だから覚えるのは難しくない。僕よりも頭の良い妹ならあっという間だろう。それに、料理に取り組む姿勢は真剣そのものだったし、中途半端なところでは投げ出さないと思う。

 

 

「……今日の夜もいい?」

「……? いいけど……」

 

 

 遠慮がちに訊いてくる遥。不思議な気分だった。それほどまでに料理に興味があるのか、それとも……。

 

 

「部活もないから」

「ああ。そうなんだ」

 

 

 じゃあ、早めに帰って来るってことか。それなら手伝ってもらおう。

 

 箸を進めていく。穏やかな朝の時間は、学校で忙しい毎日の中では緩やかな時間だ。二人きりの食卓だけど寂しくはない。そういえば、こんな風に話しながらご飯食べるのって、いつ以来だろう。静かに食べるのも悪くないけど、裏を返せばそれは寂しいとも言える。ちらっと妹の様子を確認する。姿勢良く、綺麗に食べ進める遥。普段と特に変わらない。

 

 だけど、その表情が少しだけ和らいで見えるのは、きっと気のせいじゃないと思いたかった。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

「風邪の間って結構暇だよね。念のために休んでるだけで、ずっと寝てるっていってもやっぱり途中で起きちゃうもんね」

 

 

 移動教室だった授業の帰り。騒がしい廊下を茜と二人で歩いているとそんな話題が上がった。

 僕は学校を二日間休んでこうして復帰した。遥は宣言通りに病院まで僕に付き添ってきたけど、流石に丸一日休むのはどうなのかなと思った。病院に行った昨日も、その時点で既に回復しつつあったし、医者からもただの風邪だと言われた。でも、特に問題ないことを伝えると安心したようだったから、それはそれでよかったのかもしれない。

 

 

「カナは何してた?」

「ん……本を読んでたかな」

「へえ。本とか読むんだ」

 

 

 一日中暇だった。だから、二日分の授業の範囲を勉強して、その後はずっと本を読んでいた。本棚には様々なジャンルの本がぎっしり詰まっている。暇つぶしにはもってこいだった。

 茜に話すと、関心を示したように言葉をもらす。自分の趣味のようなものだけど、そういえば茜にはこういう話をしたことがなかった。

 

 

「妹が小説を書いてるからっていうのが大きいかな」

「小説?」

 

 

 茜はピンとこないようだった。そういえば、彼女は遥が文芸部に所属していることを知らない。僕が一通りそのことを説明すると、納得いったように頷いた。

 

 

「どんな小説を書いてるの?」

「確か……恋愛小説って言ってたかな」

「……なんか意外かも?」

 

 

 茜は遥と面識こそないが、どういう性格なのかはある程度知っている。クラスの中で話題になることあるし、そのイメージとギャップがあるのだろう。僕も、遥が恋愛小説を書いてると初めて知ったときは似たような反応をした。

 

 

「……恋愛、かぁ」

 

 

 茜はぼうっと宙を向きながらぼやいた。いつの間にか、行き交う生徒の話し声が響く廊下を抜けていて、リノリウムの床を上履きが踏みしめる音だけが響いていた。廊下の窓は換気のために空いていて、ときどき冷たい風が流れ込んでくる。校内に植えられた木々の葉がゆらゆらと揺れる様が視界に映った。

 

 歩いていく内に階段に差し掛かる。

 

 

「一つ、訊いてもいい?」

 

 

 気づけば、茜は立ち止まっていた。階段の踊り場には僕と茜の二人以外に誰もおらず、喧騒も遠くに聴こえる。立ち止まった茜は何を躊躇っているのか、「あの……その……」と意味のない言葉を放つ。セミロングの茶髪と鳶色の瞳は同期するように揺れていて、太腿をモジモジとすり合わせていた。

 目を伏せて、きゅっと唇を結んだ。茜の胸に抱きかかえられたノートと教科書が、少しだけひしゃげたように見えた。

 

 そして。

 

 

 

 

「……カナって、好きな人とかいるの?」

 

 

 

 

 窺うような上目遣いで僕を覗く。期待と不安のようなものが交差する瞳からは、感情が読み取れない。

 ……好きな人、か。全く考えたことがなかった。恋愛経験なんてゼロだし、そういう関係に発展するような友達すらいなかった。たまにクラスの人たちが、誰に告白したとか誰に告白されたとかいうのを話しているのは知ってるけど、自分には縁のない話だと聞き流していた。

 

 

「いないかな」

 

 

 女の子の知り合いといったら、遥、茜、美玖の三人くらいのものだ。もっとも、遥は妹だし除外していいだろう。美玖とは知り合って日が浅いし、普段の交流もあまりないからいまいち性格が掴み切れていない。

 

 

「そう、なんだ……」

 

 

 頭の中で整理していると、緊張を含んだ茜の表情が弛緩した。女の子は色恋沙汰に興味があると言う。茜もまた、その内の一人に含まれているのだろう。

 

 

「そういう茜は好きな人、いないの?」

「え!?」

 

 

 逆に茜に訊いてみる。するとびっくりしたように声を上げて、頬をうっすらと赤らめた。この反応を見る限りだと心当たりがありそうだ。ひょっとしたら、心に決めた人がいるのかもしれない。可能性があるとすれば、同じ部活の陸上部員あたりだろうか。そもそも茜はクラスの中でも人気がある方だし、何回か告白されたこともあると聞く。クラスの誰かでもおかしくない。

 

 

「……い、いないよ」

「あれ……? そうなんだ」

 

 

 候補をあれこれ考えていると、顔を背けながら否定された。どうやら考えが外れてしまったらしい。あるいは、ただの照れ隠しかのどちらか。でも、あまり深く訊くのも嫌がりそうだしこれ以上はやめておこう。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 教室に戻ると、帰りのホームルームが始まった。委員会や担任からの連絡事項。クラスで共有しておくべき情報。聞き流してもさして問題ないものもあるけれど、今はそうも言えない状況だった。

 

 もうすぐ文化祭だ。

 

 着々と準備が進む中、クラスのみんなが文化祭を待ちわびていた。教室の後ろにある棚には、当日に使う装飾品の材料がぎっしりと詰め込まれていて、文化祭に向けての気合の入りようが見えた。

 複数のクラスメイトが教壇に立ってチョークでカツカツと黒板を叩く。分担した作業の進捗報告だ。喫茶店を模すからには教室内の装飾をそれなりにしっかりしたものにしたいという意見があって、一部の道具は自作することになった。具体的には、テーブルクロスやカーテン。そしてどうやら僕は、風邪で休んでる間にテーブルクロス担当になっているようだった。ちなみに茜も同じ担当だ。

 

 

「う~ん……」

 

 

 委員の人から渡されたプリントを見て作業の内容に目を通していると、隣で茜が頭を抱えていることに気づいた。何か悩んでいるようだ。

 

 

「どうしたの?」

「……ちょっとね」

 

 

 話を聞くと、どうやら部活の方でも出し物をするらしい。茜は陸上部にも所属している。部活とクラスの出し物の両方を両立するのは中々に大変だ。そして案の定、多忙な身らしくてクラスの方の準備があまり進んでいないようだ。

 

 

「あたしって、お裁縫とか苦手でさー……」

 

 

 僕は裁縫がある程度できるから問題ない。制服のボタンの付け替えや、ほつれたところを縫うくらいはできる。テーブルクロスは流石に作ったことはないけど、指示された内容を見る限りではそこまで難しくなかった。一介の高校生が行う文化祭だし、見栄えさえそこそこに整っていれば問題ない。

 

 

「よかったら手伝おうか?」

「え? でも……」

「僕は部活やってないし、どうせ暇だから」

 

 

 遠慮する茜に気を遣わせないように付け足す。実際暇なのは事実だし、これくらいの手伝いなら問題ないだろう。

 茜は一瞬、悩むように眉をひそめたけど、僕の言葉に考えを改めてくれたのか、やがて表情を崩した。

 

 

「……じゃあ、お願いしてもいい?」

 

 

 僕が一つ頷くと茜は「本当はちょっと焦ってたんだ」と苦笑した。茜には部活動だってあるし、平日は授業の課題もある。疲れもあるだろうし結構大変だろう。

 

 

「今日は空いてる?」

「うん……大丈夫。部活もないから」

「それなら今日やっちゃおうか。……ただ、場所が問題かな」

 

 

 学校でやるにしても落ち着かないし、何より道具が足りない。他のクラスや学年でも同じ道具を使う人がいるから。僕は少人数で作業する方が好きだけど、茜はどうだろう。ここでみんなとわいわい話をしながらやった方が好きだろうか。

 

 

「……それなら」

「……ん? どこかいい場所思いついた?」

「いや……その……」

 

 

 すりすりと頻りに手をすり合わせる。羞恥に染まる頬はかすかに赤らんでいて、指先同士をちょこんとくっつけたり離したりしていた。あどけない子どものような仕草だな、と思った。

 

 

 

「……カナのお家とか……だめ?」

「……え?」

 

 

 

 ……僕の家。

 

 予想外の案に驚いてしまった。思い返せば、今まで友達が家に来たことなんて小学生以来なかった。だから茜の言葉の意味を飲み込むのに時間がかかった。

 茜を家に招く。それを想像すると、不思議と心地よい感覚がする。僕はたぶん、嬉しいのだろう。人との関り合いが薄かった今までのことが間違っているとは思わないけれど、だからと言って正しいとも思っていなかった。

 

 ただ……。

 

 

「……だめ?」

「いや、だめというか……」

 

 

 問題なのは僕の家の状況だ。母さんはいないし父さんは海外にいる。このままだと茜と二人きりになってしまう。だけど、別に変な気を起こすわけじゃないし、わざわざ二人きりになることを言ったところで余計な緊張をさせてしまうだけだ。

 どうしようか迷いながら茜を見ると、不安そうに上目遣いをしながら僕の表情を窺っていた。ただ、その瞳には期待の色が表れている。茜を見るに、そういったことは気にしないのかもしれない。そう考えて、僕は口を開いた。

 

 

「……分かった。僕の家でやろっか」

「ほんと? やった!」

 

 

 僕がOKを出すと、茜は先ほどとは一転して嬉しそうにはしゃいだ。別に家に来ても面白いものはないけれど、その姿を見てちょっとだけ心がくすぐったくなった。

 ホームルームも終わり、クラスメイト達が各々動き出す。教室内の様子を見るに、半数くらいは教室に残って文化祭に向けての作業をするみたいだった。

 

 席を立ってカバンを肩に掛けた。

 

 

「じゃあ、行こっか」

「うん!」

 

 

 




 












 いつも読んでいただきありがとうございます。あたたかい感想や評価だけでなく、誤字脱字報告もしてくださり、とても助かっています。

 練習中の身ですが、これからもお付き合いいただければ幸いです。










目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話

 

 

 校門から出ると開けた道が真っすぐ続いている。ときどき横を抜き去る車や自転車を横目に、帰り道を歩いていた。家と学校までの道はそれなりに見慣れたもので、自分が日常に埋没しているのだということを自然と実感する。

 

 

「そういえばカナ。文化祭の日、どこを回るの?」

「ん……僕は図書室に籠ってようかなって」

「えー。もったいないよー」

 

 

 クラスの出し物の喫茶店。もちろんシフトはあるけれど、一時間交代で回していくから、それ以外の時間はフリーだ。のんびりと本を読んで過ごそうと考えていた。

 せっかくの学校行事。やらなければいけないことなのだから、楽しまなきゃ損する。確かにそう言われれば、そうだとは思う。

 

 

「カナは文化祭。嫌なの?」

「いや……そういうわけじゃないけど。でも、一緒に回るような友達もいないから」

 

 

 嫌というよりも、何も感じないと言った方がいいだろう。僕の中ではそういうイベントは通過儀礼のようなもので、ただの義務としか考えていなかった。だから心に強く残るような思い出はないし、記憶も希薄なものだ。

 

 帰り道はいつの間にか緩やかな坂になっていた。なだらかに続く道の上からは、少しだけ街並みを見渡せる。僕が生まれ育った街はだんだんと移ろい行く。何もなかった土地には新しく家屋が建てられ、この街の隙間をそっと埋めるように補完されていく。

 

 そういえば、こんな家あったかな。なんてことを、ふとした瞬間に気づかされる。

 

 

「……じゃあ、さ」

 

 

 ぼんやりと景色を眺めていると、隣を歩く茜が立ち止まった。

 

 

「もしよかったらなんだけど……文化祭。あたしと一緒に、回ってみない?」

「……? 他の友達はいいの?」

「うん……。カナと一緒に文化祭回ったら、きっと楽しいのかなって」

 

 

 可愛くて明るくて人気者な茜。人望も厚いし友達も多いし、僕とは根本的に違う。僕にとって茜は数少ない友人だけど、茜にとっての僕は数多くいる友人のたった一人にすぎない。なんとも対照的な関係だった。もしかして、気を遣ってくれてるのだろうか。

 僕は浮いた存在だ。それは多少なりとも僕の人付き合いの悪さや性格が関係しているのだと思うし、別に不満はない。ただ、高校に入って茜という友人ができて、内心ではほっとしていた。家のことだけを考えてきたけど、それによって閉鎖的な思考や性格に遷移してきた自覚はあるから。だから茜と出会ったことで、そこに新しい風が吹き込んできたような気がしたんだ。

 

 茜のセミロングの茶髪がさらさらと揺れる。また、金木犀の甘い香りがした。季節の香りを纏う秋風は、優しく木々を揺らす。

 ふと、上から一枚の葉が落ちてきたことに気づいた。紅葉だった。明るい黄色や、真っ赤に染まる深い朱色のグラデーションは、この季節の代名詞とも呼べるものだ。

 

 ……僕は、変わったのだろうか。茜は僕が笑うようになったと言っていた。紅葉の色が変化するようにまた、僕も。

 

 文化祭に対してあまり思い入れがないのは今でも変わらない。だけど、彼女がこうして誘ってくれたことを、僕は嬉しく思っている。

 

 それだけは、間違いない。

 

 

「……それなら、お願いしてもいいかな」

「あ……うん!」

 

 

 ほっとしたようにはにかむ茜。

 

 ちょっとだけ、文化祭が楽しみに思えた。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 家までたどり着いた。この家に家族以外の人が上がるのは本当に久しぶりだ。

 

 道中では茜はきょろきょろと周りの景色を珍しそうに、僕の住み慣れた街並みを眺めていた。僕は徒歩で高校に通ってるけど、茜は電車通学だ。ここら辺に顔を出す用事はない。茜は「綺麗な街だね」と評したけど、僕はこっち側の人間だからか、しっくりこなかった。

 

 茜は「お邪魔します」と礼儀正しく言って玄関に上がった。しゃがんで靴を丁寧に揃え、立ち上がった。玄関から少し歩けばリビングがあって、そのすぐ近くには二階へ続く階段がある。一度、茜を自室まで案内して、僕は裁縫道具と飲み物を取りに下まで降りた。電気のついてないリビングは外から差し込む光でぼんやりと明るい。

 紅茶でも作ろうかな、と思い至って、やかんに水を入れて湯を沸かす。外も肌寒かったし、温かい飲み物の方がいいだろう。

 

 ものの数分で準備が終わり、僕はおぼんを持って二階に戻った。

 

 

「お待たせ」

 

 

 部屋に戻ると、茜が緊張したように部屋の中をきょろきょろと見渡していた。ベッド、勉強机、簡易テーブル、本棚。大して面白いものはない。

 

 

「そんなに変かな?」

「あ、ううん! ……ただ、男の子の部屋って、もっと散らかってると思ってたから」

 

 

 どうなんだろう。友達の家に遊びに行ったことなんてないから分からない。

 

 そんな話をしながら、学校で文化祭の委員から渡された紙袋から材料を取り出す。テーブルクロスに使う布地だ。

 紙に書かれた指示通りの手順で作業を開始する。針の穴に糸を通して、布地に模様を作っていく。茜の方は自分で言った通り、手際がいいとは言えなかった。不慣れな手つきのせいで、針を刺すところが大きくずれてしまっている。茜自身もそれを分かっているらしく、僕の手元を見ながら、「はぁ……」とため息をついた。

 茜の方は中々に手こずりそうだし、自分の分を早めに終わらせて茜の分も手伝おう。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 カチカチと時計の針が進む。茜の方は集中力が切れたのか、一度手を休めて紅茶を一口含んだ。

 

 

「……あれ?」

「……?」

 

 

 すると、茜が小さく声を上げた。

 

 

「あの写真って。カナのちっちゃいとき?」

 

 

 茜がとある一点を見ながら首を傾げる。その視線の先には、一つの写真立てが棚の上に飾られていた。簡素な写真立ての中の家族写真。

 

 そこに映るのは広大な海。白く輝く砂浜。

 

 

 

「わぁ……! この人、カナのお母さん? すっごい美人だねっ」

 

 

 

 茜は立ち上がると、写真立てに近づいて手に取った。

 驚きながら見つめる先には、穏やかに笑む母さん。ふわりと柔らかい雰囲気はまるで、春の温かな風の中で静かに眠るような心地よさがあった。

 

 ……海、か。

 

 思い出すのは、夏も間近のある日のこと。僕たちは、母さんの提案で海に出かけた。春というには暖かすぎるし、夏というには涼しすぎる。そんな日だった。その日は、仕事で忙しかった父さんも久しぶりに休める日で、僕たちは家族四人で海に向かった。

 当時の僕は海というものを実際に見たことはなくて、何故早起きしてまで行かなきゃいけないのか分からず文句を言っていた。だけど母さんも父さんも、行けば分かるとでも言うように僕の言葉を流した。テレビでなら見たことあるし、実際に見ても何も変わらない。僕はそう、高をくくっていた。

 

 でも、実際に海を見た瞬間。

 僕はその美しさに、一瞬で心を奪われた。

 

 涼やかに響く潮騒(しおさい)。海の匂いを纏う(ぬる)い風。静かな青色は遠くに行くほど深い色に染まっていき、その水平線は、透きとおるような碧空との境界を紡ぐ。

 

 ──決して相容れることのない海と空。

 

 その二つが、ずっと遠くで確かに交わっていた。

 

 景色に見惚れる僕に母さんが、ここはとっておきの場所なのだと、ドッキリが成功したみたいな茶目っ気を含んだ表情で教えてくれたのを覚えてる。妹も同じく目を輝かせながらその景色にのめり込んでいたのは、今となっては懐かしい思い出。

 

 ただ、そこに行ったのはたった一回だけ。

 だって……。

 

 

「会ってみたいなぁ。……そういえばカナのお母さん。さっき下にいなかったけど、今は出かけてるの?」

 

 

 何の悪意も邪気もない瞳。僕は自然と顔を伏せた。

 

 ……母さん。

 

 

 

 

 

「……実は、もういないんだ。結構前から」

「……え?」

「病気で亡くなったんだ」

 

 

 

 

 

 空気が凍りついた。さっきまで楽しそうに写真を見ていた茜の顔が、サーっと青ざめていく。

 

 

「ご、ごめん! 嫌なこと訊いちゃって……」

「……」

 

 

 こんなとき、『もう昔のことだから大丈夫』だとか、そんな気遣いができるような大人だったらどんなに良かっただろう。人は過去を忘れる生き物だと言う。そうすることで、未来のもっと楽しいことや嬉しい記憶を新しく刻み込む。人生を歩む上で、きっと必要なことだ。でも、僕にはできなかった。

 

 だってこれは、忘れられない、忘れてはならない、忘れたくない記憶だから。

 

 

「……」

 

 

 茜は気まずそうに沈んでしまっている。

 

 さっきまでの和やかな空間は、ひんやりとしたものに変わっていた。暗い話をしたいわけじゃないし、茜にそんな顔をさせたいわけでもない。

 

 ……なのに。

 

 

「……ちょっと、聞いてもらってもいいかな」

 

 

 ぽつぽつと。僕は何故か、昔のことを話し始めた。

 大好きだった母さんが亡くなって、優しい光が灯っていたはずのこの家が、いつの間にか薄暗い夕闇に染まっていたこと。母さんの言葉通り、遥の兄としてできる限りのことをしてきたこと。でも、その妹に避けられてしまって落ち込んでいたこと。母さんとの約束も守れず、妹の気持ちも分からなかった。

 

 だけど僕は、ゆっくりでもいいから一歩ずつ、前に進んでみようと自分を奮い立たせることができた。それができたのは茜のお陰だった。

 

 ……こんなこと、いきなり言われても茜は困るだけだというのに。

 

 茜には知っていてほしい。僕は不思議とそう考えていた。

 

 

「……そう、だったんだ。あたし知らなかった……」

「それはまあ、取り立てて話すようなことでもないし。……って、ごめんね。いきなりこんなこと話し始めて……」

 

 

 茜がゆっくりと首を振った。

 

 

「だからカナは、あんなに優しい顔してたんだね」

「……え?」

「ほら、カナと話すようになってから、妹のことをちょっと話してくれたことあったでしょ? あのときのカナ、いつもと違う感じだったから……」

 

 

 

 ……確か、そんなこともあった気がする。

 

 当時、茜が怪我で大会に出られなくて泣いてるところを見てしまってから、僕は彼女と話をするようになっていた。といっても、茜の方から話しかけてくることがほとんどだったけれど。その中の話題の一つで、妹の話が出たのだ。

 話した内容は僕と遥が双子の兄妹であることと、仲が良くないということ。その程度のことだけを話した。

 本当に些細な話だったと思う。けれど、茜は覚えていたみたいだ。

 

 茜は得心したように「そっか……」と呟いた。

 

 

「……ちょっと、羨ましいかも」

「……?」

「あ……な、なんでもないっ」

 

 

 上手く言葉が聞き取れなかった。けれど僕が問いただす前に、茜は先ほどの話を誤魔化すように裁縫を始めた。

 

 時計の針を見れば、いつの間にか結構な時間が経っていた。

 

 

「……っと。ちょっと下に忘れ物したから、取って来るね」

「あ……うん」

 

 

 僕は先ほどのもやっとした空気を換気するように、自室のドアを開いて階段を降りた。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 リビングにある戸棚の奥から裁縫箱を取り出す。結構奥まったところにあって、探すのに手間取ってしまった。中から必要な材料を取り出す。

 

 

「……」

 

 

 裁縫箱を手に持ったまま、さっきの自分の行いを振り返る。僕は、吐き出すことができずにいた思いを吐露したかっただけなのだろうか。誰にも言えずにいた気持ちを茜に伝えることで、僕は……。

 

 少しだけ、自嘲するように笑った。心の内を誰かと共有することで楽しようとする。僕がやっていることはまさにそれだ。

 そんな風に誰かに甘えていたら、僕はきっと成長しないままだ。ましてや、ただの身の上話。茜にとっては面白くもなんともないだろう。

 

 廊下に出て、壁に背を預けながら深く息を吐いた。

 

 

 ──ガチャっと、玄関のドアが開く。

 

 

 外の冷たい空気が、ひゅうと吹き込んできた。そこには濡羽色の長髪を風になびかせる妹。

 

 ……どうしたんだろう? 

 今日はやけに帰ってくるのが早い。

 

 

「おかえり、遥」

「……ええ。ただい……ま……」

 

 

 玄関で靴を脱ごうとする遥。しかし、ピタっと手が止まった。遥の視線の先には一組の靴。

 

 ……あ。

 

 

「……誰か来てるの?」

 

 

 ……そうだ、思い出した。遥は今日、部活がないと言っていた。早めに帰ってくることは今朝から知っていたことだった。なのに僕はそれをすっかり忘れていた。

 

 ジトっと嫌な汗が手のひらに浮かぶ。茜の話題を出すと不機嫌になるのは分かっていることだ。ましてや、本人が今、この家にいるとなれば……。

 どうしようか必死に頭の中を回転させていると、ふと階段を降りる音が聴こえた。

 

 その足音はだんだんと近づいてきて──

 

 

「カナ? ちょっと訊きたいところがあるんだけど──」

 

 

 階段を降りてきた茜。何か訊こうとしていたみたいだけど、途中で止まった。

 

 

「あ……」

 

 

 茜が目を見開いて、僕と遥を交互に見比べる。

 対する妹は、降りてきた茜をじっと見つめた。

 

 

「もしかして……妹ちゃん?」

 

 

 先に声をかけたのは茜の方だった。

 

 

「……そう、だけど」

「あぁ、やっぱり! ……初めまして。あたし、茜っていうの。よろしくねっ」

 

 

 気さくに話しかけてくる茜。茜には、先ほど妹の話をしたばかりだ。だからなのか、その声音はとても優しいものだった。

 しかし妹は、それには答えずちらっと僕に視線をよこす。スッと細まる切れ長の目。僕は体が強張ったように動けなかった。遥は茜に向き直ると、小さく息を吐いた。

 

 

「……私は遥」

 

 

 凛と鈴が鳴るように、透明な声。何色にも染まっていない声からは、妹が何を考えているのか想像することは不可能だった。その横顔は、少し前までの冷淡なものと同じだった。

 

 

「……で、用は挨拶だけ? それなら、私は部屋に戻るから」

「あ……待って。よかったら、お話でもしない?」

 

 

 茜が遥を呼び止めようとする。それに対して、遥は訝しげな表情をした。茜の意図がどうにも掴めないような様子で、僕も同じだった。

 

 ……どうしたんだろう。

 

 

「私。忙しいんだけど」

「ちょっとだけでもダメかな?」

「……初対面なのに、なんでそんな馴れ馴れしいの?」

「あー……。気に障っちゃったならごめん。でもあたし、遥ちゃんとは一度お話してみたかったんだ。カナからよく話を聞いてたから」

「……私の話?」

 

 

 ピクっと。遥の細く整った眉が反応した。そして、かすかに驚愕の色を含んだ顔をこちらに向ける。僕はそれに、なんとも言えない顔をしながら頬をかいた。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 茜の半ば強引な誘いに折れた遥は、結局僕の部屋に来ることになった。この部屋にいるのは僕、遥、茜の三人。新しくティーカップに淹れた紅茶の湯気が揺らめく室内だけど、妹のジトっとした目に背筋が寒くなった。

 

 妹の視線に耐え切れず、裁縫を続ける。

 

 

「それにしても、カナと遥ちゃんってやっぱり双子なんだねー。すごい似てる。同じ性別だったら分からないかも」

「……その”カナ”って、もしかして彼方のこと?」

「うん、そうだよ」

「……」

 

 

 ……気まずい。

 

 なんというか、妹の目が僕を咎めているような気がしてならない。僕が作業を続ける間、茜はずっと遥と話していた。同情なのか、憐れみなのか。そんな穿った見方をしてしまいそうだったけど、茜の様子を見れば全く不自然な感じはなかった。だからこれはたぶん、茜の純粋な優しさだった。

 

 

「それより貴方。文化祭の準備は──」

「”貴方”って……なんか他人行儀っぽいよ。茜って呼んで?」

「……」

 

 

 遥が困ったような目を向けてくる。僕はそれに気づかないふりをして作業を続けた。なんだかそわそわした空間だ。あるいは、賑やかというのが適切かもしれない。でも、学校や商店街で見られるような賑やかさとはちょっと違う。変な言い方だけど、静かな賑やかさだった。

 

 

「そういえば、カナから聞いたんだけど。恋愛小説書いてるんだよね?」

「なっ……」

 

 

 茜がそう言った瞬間、遥がぎょっとして言葉を失った。そして、どこか剣呑な目を僕に向けてくる。

 

 

「……彼方。何を話したの?」

「あ……いや。恋愛小説を書いてるってことだけ──」

「勝手に話さないで」

「……ごめん」

 

 

 どうやら言ってはいけないことだったらしい。遥の責め立てる視線に耐え切れず、僕は誤魔化すような曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。

 妹が文芸部に所属していることは既に茜も知っているし、別にこれくらい教えても問題ないと思っていたのだけど。でも、だとするとどうして僕には教えてくれたのだろうか。妹の気まぐれか、あるいは……。

 

 掴みどころのない散漫な思考をする。

 だからだろう。手元をよく見ていなかった。

 

 

「……っ、いたっ」

「あ……」

 

 

 チクっとした痛みが指先に走る。

 

 針の先端が指先に刺さってしまった。慌てて抜くと、ぷくっと赤い血が小さな玉みたいになって流れてくる。まさか、こんな初歩的なミスをするとは自分でも思ってなかった。僕の怪我に気づいた茜が、自分のカバンを持ってきて中を探る。

 

 

「大丈夫? あたし絆創膏──」

 

 

 すたっと。

 茜の言葉を遮るように、遥が立ち上がった。

 

 

「絆創膏なら下にあるから。私が持ってくる」

 

 

 一言だけ告げた遥。くるりと背を向けると、濡羽色の長髪がふわりと宙を舞った。そして部屋から出ると、リビングに降りて行ってしまった。

 先ほどの態度とは裏腹に、どうやら取ってきてくれるらしい。

 

 ……いったい、何を張り合っているのだろう。

 

 僕は終始、妹が何を考えているのか分からないままだった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十三話

 

 

 お風呂上がりの体にひんやりとした空気が心地よい。一日のやるべきことから解放され、あとは眠りにつくだけ。

 ガラッと窓を開けた。室内とは裏腹に冷たい空気が入り込んでくる。外の明かりはぽつぽつと消えていて、街は静まり返っていた。

 

 僕はぼうっと、絆創膏が貼られた指先を宙にかざした。静謐な夜の時間には、頭上の月が淡く輝いていて、その周りをぼやけた輪郭が縁取る。

 

 

「……?」

 

 

 スマホの着信音。手に取って表示された名前を確認する。やっぱり、と思った。

 

 

「……もしもし? どうしたの、茜」

『あ……うん。夜遅くにごめんね』

 

 

 数時間前も聞いた声。でも、電話越しだとどこか違う雰囲気を感じた。窓枠に肘をかけ、外を見ながら茜の話を聞く。

 

 

『その……遥ちゃんのことなんだけど。ごめんね? あたし、怒らせちゃったみたいだから……』

「……」

 

 

 案の定、茜は今日のことが気にかかっていたらしい。

 結局、あれから間もなくして今日のところは解散となった。秋も深まるこの時期、あまり遅くまで作業してると日が暮れてしまう。茜は電車通学だし、なるべく早く解散したほうがいいという話になった。

 

 茜を見送った後は約束通り、遥に夕飯の支度を手伝ってもらった。けれど、当然と言えば当然だが、機嫌はあまり良くなかった。近寄りがたい空気をこれでもかというくらい放っていて、僕はそれに怖気づきながらも料理を教えた。ただの料理なのに、結構疲れてしまった。

 

 

「あまり気にしないで。妹はちょっと気難しいところがあるから……。周りと交流を深めたがらないし」

『……そう、なんだ』

 

 

 妹の性格を口に出して思う。果たして、それは本当に合っているのかと。一時期、会話もほとんどなかった妹。僕が昔の思い出に重ね合わせて、そういう性格だと勝手に思い込んでるだけということも考えられる。

 

 

『……あたしさ。前から遥ちゃんには会ってみたいと思ってたんだ。いったいどんな子なんだろうって。お話してみたいなって』

「……」

『でも今日。カナから昔のことを聞いて、内心だと同情してたかも。……ちょっと、あたしらしくなかったでしょ? 遥ちゃんは、もしかしたらそれが分かってたのかな……』

 

 

 反省した声色に、僕は申し訳なさを感じた。

 

 

「……いや、僕が昔のことを勝手に話し始めたのがいけないんだ。こっちこそごめんね」

『ううん、謝らないで。……不謹慎かもしれないけど、嬉しかったから』

「……え?」

 

 

 ……どういう意味だろう。

 

 

『カナって、自分のことを全然話さないから。だから、カナが自分から話してくれて嬉しかったんだよ?』

「……」

 

 

 茜はどうして、そういう優しい言葉をかけてくれるのだろう。僕と茜はただの他人。よその家の話なんて対岸の火事。聞かされる側としてはそれを知ったところでなんとも思わないのが普通だ。

 そもそも僕はどうしたいのか。僕は最初、茜を遥に紹介しようとしていた。僕にとって茜は大切な友達だけど、言ってしまえばそれだけだ。その友達を妹に紹介したところで、何が変わるわけでもない。

 

 

「……」

 

 

 ……本当に? 

 本当に、変わらない? 

 

 僕は何故、茜に昔のことを話したいと思ったんだ? 

 

 

 

 ──あそこの家。お母さん、亡くなったらしいわよ。

 

 

 

 ──まだ小さいのに。可哀そうにねぇ……。

 

 

 

「……あ」

 

 

 ……そうだ。

 茜の気持ちは決して、同情なんかじゃない。

 

 だって、僕は知っている。本当に同情や憐れみを含んだ表情を、僕は知っている。もし同情なんてしていたら、こんな電話はかけてこない。

 僕が自分のことを話さないのは、そういう目を向けられるのが嫌だからだ。そんな僕が何故、茜に昔のことを話したのか。

 

 それは無意識の内に、茜なら僕たちを見る目を変えることはないと確信したからだ。

 

 

「……」

『カナ?』

「ん……?」

『またちょっと、元気ない?』

 

 

 黙り込んだ僕を気遣う優しい声。彼女は自分のことを周りに合わせてしまうと言っていた。どちらかと言えばネガティブな捉え方だ。でもそれは、裏を返せば誰よりも心の機微に敏いということだ。

 

 

「……」

 

 

 窓をゆっくりと閉めた。

 

 

「茜。お願いがあるんだ──」

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

「……それで。なんで私がまた呼び出されなきゃいけないわけ?」

 

 

 茜を初めて家に招いてから数日後。

 僕の目の前には、不満な様子を隠しもしない妹がいた。

 

 

「あはは……」

 

 

 頬をかきながら、妹の睨みに対して苦笑いした。遥がうんざりした顔をするのも仕方ないかな、とは思った。

 

 だって。

 

 

「遥ちゃんって、小説に詳しいんだよね? あたし、この本読んだんだけど──」

 

 

 こうしてまた、茜に家に来てもらったのだから。

 

 文化祭の準備という建前ではあった。いや、実際に準備もしているにはしているのだが、狙いは別のところにあった。その狙いは至って単純。茜と遥に仲良くなってほしいから。

 茜はカバンの中から数冊の本を取り出して遥の前に並べる。すると、遥も読んだことのあるものがあったらしく「あ……」と小さく声を上げた。

 

 

「……これなら、読んだことあるけど」

「ほんと? あたし、このシリーズ最近読み始めたんだけど結構好きなんだ」

 

 

 茜は遥との話題作りのために読書を始めたらしい。僕もそれなりに読書はしてきた身だから、茜には僕のおすすめの本をいくつか紹介した。

 本の内容をさらいながら遥に感想を話し始める茜。ちゃんと読んできているらしく、話している内容は付け焼刃の知識ではなかった。本一冊読むのも大変なはずなのに。

 

 

「貴方って、本は読む方なの?」

「……ううん、あんまり。だけど、遥ちゃんが読書好きだって知ったから。何か共通の話題にならないかなって」

「……それだけ?」

「うん」

 

 

 遥は茜の言葉に流石に驚いたらしく、目をしばたかせた。妹からしたら不思議なことこの上ないだろう。わざわざ自分の趣味に合わせるために読書を始めましたと言うようなものだから。

 ……それは、僕も人のことは言えないのだけど。

 茜がセミロングの茶髪を揺らしながら、柔和な笑みを浮かべる。妹の方はそれとは対照的に、訝し気な顔をしていた。

 

 

「よかったら感想会とかしてみたら?」

「……なんのつもり、彼方」

「せっかくの機会なんだしさ、ほら」

 

 

 やや強引に話を進める。不自然な感じは否めない。妹は小さく嘆息しながら、「分かったわ」と口にした。

 

 

「やった! それじゃあ──」

 

 

 茜が読んできた本の感想を話し始める。

 妹は最初、茜に戸惑っていたけど、だんだんと話をするようになった。妹は文芸部だ。なんだかんだ言って、本の話をするのは好きらしい。

 

 茜があのシーンの登場人物の気持ちはこうだったんじゃないかと話せば、妹の方はそれは違うのではと根拠を元に論理的に説明する。けれどいくつかは、茜の考えに同意していた部分もあり、何も頭ごなしに言ってるわけじゃないことは分かった。

 

 隣で聞きながら裁縫の作業を進める。一本一本、丁寧に糸を紡いでいく。

 そういえば、何かの本で、人生は長い一本の線に例えられると読んだことがある。そしてそれは、この糸のように複雑に絡み合って、人と人との触れ合いをもたらすのだとか。

 当たり前だけど、人生は一人に対して一つしかない。もし誰にも触れ合えないままだとすると、それは途方もない孤独なのだろう。僕がこれから先、どういう人生を歩んでいくかはわからない。もしかしたら、その“もしも”の人生を進んで、孤独になってしまうかもしれない。

 

 

 「……」

 

 

 埋没しかける思考。そのとき、茜が疲れたように床に後ろ手をついた。

 

 

「はー。やっぱり文芸部ってすごいんだね。そんな細かいところまでは気づかないよー」

 

 

 ぐでーっと、簡易テーブルの上に突っ伏す茜。評論会は順調に進んでいるみたいだった。途中からは全然話を聞いていなかったけれど、どうやら遥に軍配が上がったらしい。……いや、別に勝負じゃないからその言い方はおかしいけれど。

 

 遥はティーカップの紅茶を一口啜った。そして、茜を見ながらポツリと話し始めた。

 

 

「……別に、私の考えが正しいとは限らないわ。結局、登場人物が何を考えているのかなんて、作者にしか分からないもの」

 

 

 本のカバーに手を添えた。白く細い指先が表紙を滑る。妹は小説を書いてると聞く。それも恋愛の。その話をすると怒り出してしまうから訊くことは中々できないけれど、書き手としての気持ちもそこには含まれているのだろう。

 

 

 

「物語は、それを読んだ人が好きに解釈すればいいのよ」

「……」

 

 

 

 茜がきょとんしながら遥を見た。遥はそれに気づくと、小さく咳払いした。妹にしてはいつになく熱い口調で、僕も聞き入ってしまった。

 

 

 

「遥ちゃんって、結構ロマンチスト?」

「なっ……」

 

 

 

 茜が少し、からかい混じりの目をする。小首を傾げながらいたずらっ子のような笑みを浮かべる姿は、いかにも女の子らしくて可愛かった。

 遥は茜の言葉を受けて、白い頬を紅潮させた。慣れないことを言った自覚はあるらしい。ぷるぷると震える妹は、唇を引きつらせながら茜を軽く睨んだ。

 

 

「あ、貴方ねぇ……!」

「バカにしてるわけじゃないよ? そういうの、素敵だなって思っただけで……」

 

 

 遥はしばらく何か言いたそうにしていたけど、またも軽く咳払いして落ち着きを取り戻した。よっぽど恥ずかしかったのだろうか。妹の感情的になった様子を見るのは久しぶりだ。

 

 

「……そっか」

 

 

 茜のやわらかな笑み。少しだけ、部屋が明るく染まった気がした。

 

 

「……ねぇ、遥ちゃん」

 

 

 茜はカバンの中からスマホを取り出した。可愛らしいオレンジ色のカバーがついたスマホだ。

 

 

「よかったら連絡先、交換しない?」

 

 

 差し出されたスマホを見て、遥は固まった。数秒ほど沈黙が続く。

 

 

「……どうして、いきなり?」

「んー……。本のお話とか色々聞いてみたいなって」

 

 

 茜は更に、「それに」と付け加えた。

 

 

 

「遥ちゃんと仲良くなりたいから……って理由じゃ、だめかな?」

「……」

 

 

 

 茜の真っすぐな問いかけ。これには遥も流石に驚いたらしく、幾ばくか目を見開いた。そして、僕をちらっと確認する。まるで、僕が仕組んだことなんじゃないかと疑っているようだった。

 確かにその通りだ。だけど、茜の気持ちは純粋な本心だ。人との触れ合いが必ずしもいいこととは限らないし、遥にとってそれは不要なものだと切り捨ててしまえるようなものかもしれない。複雑に絡み合った糸が大きな歪となって、解けない傷として残ってしまうかもしれない。

 でも、やっぱり人の優しさに触れるとあたたかくて、嬉しくて。僕は遥にも、それを知ってほしい。

 

 僕は遥に小さく頷いた。

 

 

「……」

 

 

 茜の眼差しは、真っすぐ遥を見つめていた。妹は逡巡するように黙り込みながら腕をさする。白く小さな手が、小さく動く。

 数秒か、数十秒だったか。分からないけれど、悪くない沈黙だった。

 

 

「……はぁ」

 

 

 やがて観念したのか、一つ嘆息した。

 

 

「……分かったわよ」

 

 

 呆れたようでいて、でもどこかあたたかな吐息だった。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

「遥は文化祭、誰と回るの?」

「……回らない。だって楽しくないもの」

 

 

 最近になって、夕飯を二人で準備するのにも慣れてきた。遥は濡羽色の長い髪を結わえてポニーテールにしている。

 

 そっけなく呟く遥。表情には翳りが見えた。蛇口から水の流れる音がやけに響く。学校行事にそこまで思い入れがないのは遥もまた同じだった。

 

 

「美玖は?」

「……美玖は楽しむ気満々だったけど、私は部室で大人しくしてるつもり」

 

 

 そう言って遥は、再びおたまで鍋の中をかき混ぜる。ぐるぐると回る中心部には小さな渦ができていた。僕はその横で、トントンと包丁を使って野菜を切る。丁度、人ひとり分くらいの距離が僕と遥の間に空いていた。

 

 

「……彼方は、どうなの?」

「僕は茜と回ろうかなって。誘ってもらったから」

 

 

 茜に言われたことを思い出す。茜は僕と一緒に文化祭を回りたいと言ってくれた。彼女の人間関係を全て把握してるわけじゃないけど、僕じゃない他の誰かでもよかったはずだ。なのに僕を誘ってくれたのは、気遣ってくれたから。

 もし、僕がここで文化祭に対して否定的になってしまえば、茜の優しさを無下にすることになってしまう。正直、どういう風に楽しめばいいのかは今も分からない。だけど、茜と過ごす時間自体は決して嫌なものじゃない。だからきっと大丈夫だと思う。

 

 僕は内向的な性格だ。でも、茜のおかげでちょっとだけ前向きになろうと思えた。

 

 思い返していると、いつの間にか鍋をかき混ぜる音が消えていることに気づいた。横には、じーっと僕を見る遥の姿。おたまを回す手が止まっていた。

 

 

「……彼方。一つ訊きたいんだけど」

「……? なに?」

 

 

 ぐつぐつと。鍋が煮える音だけが聴こえる。白い湯気は上に上りその途中で霧散していた。

 

 

 

「……彼方は、あの子のことが好きなの?」

「……え?」

 

 

 

 僕は遥の質問の意味をすぐには理解できなかった。だけど、それが異性に対してのものだと気づいて、僕は言葉を返した。

 

 

「友達として好きだけど……。どうしたの? そんなこと訊いてくるなんて」

「……」

 

 

 遥の、濡羽色の長いポニーテールが揺れる。

 同時に瞳の波紋も揺らめいた。

 

 僕はその光景に既視感を覚えた。どこで見たものか思い返そうとすると、割合すぐに思い至った。

 そうだ。茜に好きな人がいるかと訊かれたときと同じだ。今日だけで二回も同じような内容の話をするとは思ってなかった。

 

 遥は僕から目をそらした。そして、腕を手でさすりながら「彼方は……」と小さく。

 

 

 

「……私に好きな人がいるって言ったら。どうする?」

「……え」

 

 

 

 トン、と。包丁を持つ手が止まった。

 一瞬、頭の中が空白で埋まる。

 

 それが、遥の口から語られたものだとすぐには認識できなかった。異世界での遠い出来事のように感じてしまうのは、僕に恋愛経験がないからなのか、もっと別の理由なのか。だけど、言葉の意味はすんなりと飲み込めた。

 

 ……妹に好きな人がいたらどうするか、か。以前も僕は同じことを考えた。刺々しく、冷たい性格の妹にもし、そんな相手ができたのなら。

 

 そんなの簡単だ。僕が兄としてできることは……。

 

 

「もちろん応援するよ?」

 

 

 妹の方を真っすぐ見ながら答える。今まで生きてきた時間の中で、僕は恋愛を経験したことがない。でも、応援くらいはできる。

 ……しかし、どうしたのだろう。こんなことを訊いてくるなんて、はっきり言って妹らしくない。

 

 

「まあ、遥が好きになった人なら、きっと間違いないんだろうね」

 

 

 特に何も意識せずそう言った。まさか遥に想いを寄せてもらえるような相手がいるとは思わなかった。いったいどんな人なんだろう。部活の先輩、後輩。それとも、クラスメイトの内の誰かだろうか。取り留めもない考えを巡らせる。

 

 

「……?」

 

 

 僕は、妹が落ち込むように顔を伏せてしまっていることに気づいた。濡羽色のポニーテールが、力なく垂れ下がっているようにも見える。頼りなく、元気なさそうな姿。

 

 

 

「……そんなわけない。きっと、間違ってる」

「……? それって、どういう……」

「……ごめん。やっぱり、今の話は忘れて」

 

 

 

 僕が問い返そうとすると、遥は拒否するように自分の作業に戻った。怜悧と凛然を備えていたはずの遥が、今はその欠片もなかった。

 そこに宿るのは、どうすることもできないやるせなさ。届かないものに対する悲しみの諦念だった。

 

 僕はその横顔に、それ以上声をかけることができなかった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十四話

 

 

 校内は朝からずっと騒がしくて、午後になった今もそれは変わらない。ひしめく人波の中で、僕は文化祭の委員の指示に従って荷物を運んでいた。

 

 やっとの思いで重たい荷物を教室に運び終え、一息つく。クラスのみんなも忙しなく動いていて、いよいよこのときが来たという実感に胸を膨らませていた。

 

 

「明日が文化祭って、ちょっと信じられないかも」

「……そうだね」

 

 

 同じように手の空いた茜が、グループの中から抜け出して僕の傍に寄る。

 彼女の言う通り明日が文化祭で、今日は一日中その準備に費やすため、授業もない。

 

 思えばあっという間だった。彼女の文化祭の準備を手伝うのも、ちょくちょく家に来て遥と一緒になって本の話をするのも。ここ最近で、茜と過ごす時間が一気に増えたような気がする。

 そんな茜の横顔には、明日のイベントに対する期待だけでなく、どこか寂寥感のようなものが漂っていた。

 

 和気あいあいとしたクラスメイト。真面目に取り組む人もいれば、少しだるそうにしている人もいた。やるべき仕事が終わって手持無沙汰になれば尚更だ。けれど、話声はいつもより明るく、この時間を楽しんでいるようだった。

 

 外の空気を吸いたくなり、僕は教室を出るためにドアに手をかけた。すると、茜が僕の隣に着いてきた。

 

 

「どこ行くの?」

「ん……ちょっと、屋上でも行ってみようかなって」

 

 

 この高校の屋上は基本的に立ち入り禁止だ。しかし、文化祭の準備期間に限って屋上に入ることを許される。午前中はその物珍しさもあって、何人か訪れていたようだった。

 

 

「あたしも着いていっていい?」

「いいけど……別に何もしないよ?」

「それでもいいから」

 

 

 何が楽しいのか、茜は嬉しそうに僕に寄り添った。

 

 廊下をしばらく歩き、茜と一緒に階段を上る。屋上へと続く階段からはだんだんと人気がなくなり、薄暗さが場を支配していき、やがて誰もいなくなった。屋上へ出る扉は錆びているのか、開け放つと共に、ぎぃと軋みを上げた。

 

 ──涼しい風が頬を撫でた。

 

 視界に広がるのは吹き抜けた屋上で、ここにもやはり誰もいなかった。おそらく、ここに来ていた人たちも午前中で飽きてしまったのだろう。

 茜と一緒にフェンス越しにグラウンドを見下ろす。そこにもやっぱり、文化祭に使用する機材を運んだり、運営用の仮設テントを立てたりする人がいる。

 

 

「屋上から見るとグラウンドって、こんな感じなんだね。普段走ってる場所だから、なんか不思議な気分」

 

 

 セミロングの茶髪を秋風で揺らしながら、茜がしみじみと呟く。さらさらとした髪を、細い指で耳にかけた。

 陸上部の練習には当然グラウンドを使用している。校外で練習することもあるらしいが、基本的には学校の敷地内で種目別に練習しているらしい。高跳びだったりハードル走だったりと様々だ。

 

 気になって茜に尋ねてみると、どうやらリレーをやっているらしい。リレーなんて、小学校の運動会でやったくらいしか記憶にない。

 

 

「リレーって、自分一人だけのものじゃないでしょ? だから怪我で出られなかったときは、本当につらかったなぁ。……あたしのせいで、みんなにも迷惑かけちゃったから」

 

 

 グラウンドに向けて目を伏せる茜。僕は黙って話を聞いた。

 茜の泣いてる姿を見たあの日のことは、今でも鮮明に思い出せる。彼女にとってあの日のことがどんな記憶になっているのかは分からない。でも、僕が茜と話をするようになったきっかけだ。

 

 茜の横顔を見れば、風に吹かれる明るめの茶髪がさらさらと白い肌を滑っていた。

 

 

「みんなは『気にしないで。茜のせいじゃないよ』って言ってくれたけど……」

 

 

 でも、と茜言葉を続けた。顔を上げた彼女は、ふっと力を抜いたように笑んだ。

 

 

 

「カナだけは、違ったんだよね」

 

 

 

 茜がどれほど陸上に情熱を注いでいるのかは僕には分からない。だって、茜とは高校に入ってから知り合ったのだから。

 たったそれだけの時間で、僕が彼女の悔しさや苦しみを分かったように言葉をかけるのは違う気がしたんだ。

 

 

「……」

 

 

 ふと、空を見上げた。秋の青空はゆっくりと流れていて、このまま時間さえも止まってしまいそうだった。

 空の色は変化するものだ。これから夕方になれば、空はオレンジ色に染まり、やがて真っ暗になる。季節によっては日が長いときもあるし、逆に日が短いときもある。

 

 僕はそんな空を見ながら、茜との出会いに思いを馳せた。

 

 人との出会いによって、何かが変わるなんてことないと思っていた。平板な日々の中で特に誰とも関わることもなく、そのまま家族である妹とさえ、話すらできないままだと思っていた。

 でも、僕は少しでも変われたかもしれない。それはとてつもなく小さな変化かもしれないけれど、僕はあの空のようにゆっくりと変わっている。

 

 

「ねえ、カナ」

 

 

 茜が僕の顔を覗き込んだ。教室で見るような形式ばった明るさとは違う自然な雰囲気。

 彼女はやわらかい笑みを浮かべながら、小さく口を開いた。

 

 

「文化祭。楽しもうね」

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 屋上で小休止を挟み、図書室までやってきた。

 

 文化祭という名前に則って、それなりに真面目な部分も出したいらしく、図書の展示用スペースを作ることになったらしい。らしいと言うのは、このことを知らされたのが昨日のことだったから。直前に知らせるのもどうかとは思ったけど、幸いにも大した仕事量じゃなかった。一時間もあれば終わるだろう。

 

 図書室特有の本の匂いは、やっぱり落ち着く。けれど、文化祭の準備をする今は、図書委員や文化祭の実行委員、そして先生の話声で溢れていた。

 

 ……と思っていたら、見慣れた顔を見かけた。女の子の中でも結構背が低い彼女は、展示スペースの一角でぴょこぴょこと動いていた。

 

 

「美玖?」

「ぅん……?」

 

 

 声をかけると、その子はぱっとこちらに振り向いた。ぱっちりした目をしばたたかせる彼女は、やっぱり美玖だった。

 

 お互いに何故ここにいるのか疑問だったけど、とりあえず僕が図書委員の仕事でここに来たことを伝えると、彼女は納得したように「ああ」と頷いた。

 

 

「わたしは文芸部の出展でここに来たんだ」

「……文芸部?」

「あれ、遥から聞いてない?」

 

 

 聞いた覚えがなかったので、美玖から詳しく話を聞く。どうやら文芸部は毎年、部員たちが書いた文集を展示しているようで、その展示場所が図書室らしい。美玖はその文芸部を代表して来たのだとか。他の部員はここには来てないらしい。

 

 それにしても、文集か。美玖がどんな話を書いたのか気になる。

 

 

「あれ……。ってことは、遥の書いたものも、その文集には載ってるの?」

「ううん。遥は載せたくないって言ってたから載ってないよ」

 

 

 そこは自由に決められるらしい。

 

 

「……そういえば彼方くん。遥のことなんだけど、最近はどんな感じ?」

「……? どういうこと?」

「ほら、家の中だとどうなのかなって」

「別に普通だと思うけど……」

 

 

 僕が家での遥の様子を思い出しながら言うと、美玖が再び口を開いた。

 

 

「遥。部活のときもぼーっとしてることが多いみたいだから」

「……遥が?」

「うん」

 

 

 遥が自室で何をしているのかは分からないけれど、リビングで顔を合わせるときは別にそういった様子はない。食事の準備も手伝ってくれるし、ちゃんとご飯も食べてる。

 

 ただ……。

 

 

 

 

『……そんなわけない。きっと、間違ってる』

 

 

 

 

 ……。

 

 

 

 

「……彼方くん?」

 

 

 美玖の声に我にかえった。両腕に本を抱えた美玖が、心配そうに僕の顔を下から覗き込んでいた。

 

 

「急に黙っちゃって。どうしたの?」

「ああ……いや。遥のことなら、いつも通りだよ」

 

 

 美玖にどう言えば良いのか迷って曖昧に言葉を濁す。心当たりがないかと言うと、実はそうではなかった。

 

 あの日、遥は自分に好きな人がいるとしたら、僕はどうするかと訊いてきた。僕がそのとき答えたことは、至って普通のことだったはず。

 だけど遥はあのとき、妙に落ち込んだように見えた。表面上はあまり変化が見られない遥だから、気のせいかもしれないけれど。もしかしたらそれが原因なのかもしれない。

 

 ……どうしてなのかは、分からないままだけど。

 

 

「そう? ならいいんだけど……」

 

 

 美玖は腑に落ちないのか、首を傾げていたけど深くは突っ込まなかった。僕自身、それ以上話せることがないため、図書委員の仕事を再開した。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 しばらくの間、美玖と話をしながら作業を進めた。展示スペースを確保して、各ブースを分ける作業。美玖はてきぱきと作業を進めてくれるから、図書委員としては全然手伝えることはなかった。他の委員も自分に割り振られた仕事が終わったらしく、ほとんどは自分のクラスに戻っているようで、図書室はいつのまにか普段の沈差を取り戻していた。

 

 

「そういえばさ、彼方くんは明日。誰かと回るの?」

「ん……?」

「ほら。文化祭」

 

 

 一段落したところで、美玖がテーブルに後ろ手をつきながら僕に問いかける。テーブルの上には文集やおすすめの図書が分かりやすく配置されている。明日は校外からたくさんの人が来るし、見栄えは重要なものだ。でも、この分なら問題ないだろう。

 

 

「友達と回る予定かな。前に美玖にも話したと思うけど、覚えてる? 茜っていう子なんだけど」

 

 

 そう言うと訝し気に眉をひそめられたけど、すぐに思い出したのか、ぽんと手を叩いた。

 

 

「彼方くんが可愛いって言ってた、女の子の友達?」

「……」

 

 

 確かにそうだけど、そこはそんなに強調することなのだろうか。

 美玖は「……そっか」と独り言ちながら、上履きの踵の部分を床に擦るように蹴った。

 

 

「わたしはてっきり、遥と回ると思ってた」

「……え?」

 

 

 木製の床から乾いた音がする。その音を皮切りに、開け放たれた図書室のドアから、涼しい空気が流れ込んだ気がした。テーブルに触れた手が冷たくて、僕は手を引っ込めた。

 

 

「……それはまた、どうして?」

「なんとなく、かな。あと、ちょっとだけわたしの願望も入ってるかも」

「……願望?」

 

 

 どうしてかは分からないけれど、美玖は僕が遥と一緒に文化祭を回ることを望んでいるらしい。僕と妹との仲を気にかけてるからなのだろうか。

 

 ……それにしても様子がおかしい気がするけれど。

 

 美玖はぴょこんとテーブルから降りて、制服のスカートをパタパタとはたく。そして、窓際まで歩き始めた。

 

 

「遥って、文化祭に対してあまり乗り気じゃないから。でも、彼方くんと一緒ならたぶん、回ってくれるんじゃないかなって」

「……そうかな?」

 

 

 正直、僕はそう思わない。遥自身、部室で大人しくしているつもりだと言っていたから。

 ……でも、僕よりも美玖の方がよっぽど妹のことを理解してる可能性もある。僕は表面の言葉だけで判断してしまったけど、それが間違っているかもしれない。

 

 

 

「……それなら遥も誘ってみようかな? 茜とも結構打ち解けてるみたいだし」

 

 

 

 美玖は何が引っ掛かったのか、ピクっと形の良い眉を動かした。

 

 

「……そうなの?」

「うん。本の話とか、メールでやり取りしてるみたいだよ」

 

 

 茜はそれなりに読書を好きになったらしく、普段の会話でも本の話をするようになった。読書は良いものだと思う。文章から想像できる豊かな情景や人の心理に、誰からも邪魔されずに没頭できる。分解してみればただの文字に過ぎないのに、思えば不思議なものだ。現実にはあり得ない話でも、その物語の中では一つの真実として根を張って生き続ける。

 

 

「そう、なんだ」

「……? そんなに変なことかな?」

「あ……ううん、ただ、ちょっと驚いちゃっただけ。気にしないで」 

 

 

 美玖はそれだけ言うと、展示スペースまで戻って、きちんと準備が整っていることを確認した。僕も一通り全体の様子を確認したけど、特に問題はなさそうだった。

 

 

「……じゃあ。またね、彼方くん」

 

 

 美玖は手を振りながら、そのまま図書室から出て行った。

 言葉にできない、微妙な感情を顔に滲ませながら。

 

 

「……」

 

 

 先生や他の委員も既に他の仕事に精を出していて、図書室には僕以外に誰もいない。

 僕は緩いため息をもらしながら、窓際の壁にもたれかかった。ひんやりと冷たく硬い壁が、無機質に僕を受け止める。校内の喧騒は遠く聴こえ、耳には静けさが澄み渡る。

 

 明日が文化祭、か。思い入れは特にないし、当日はクラスの出し物の仕事をしながら茜と文化祭を回るだけ。不安な要素は全くない。

 

 ……なのに。

 

 

「……」

 

 

 何故僕は、漠然とした不安を感じているのだろう。

 遥に言われたことも、美玖と話をしたときの反応も、どうしてか気になってしまう。僕は何か、間違ったことをしたのではないかと、とりとめのない不安に駆られる。

 

 天気は夕方も近くなってきて、図書室に差す光は薄暗い。窓を開けて空を見れば、屋上で見たときとは打って変わり、雲が太陽を覆い隠していた。この時間に差し込むはずのオレンジ色の光は遮られている。

 

 

 

「……戻ろう」

 

 

 

 外の曇り空が、どこか悲しかった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十五話

 
 今回はかなり長くなってしまいました。すみません……。


 

 

 喫茶店を模したクラスの出し物はそれなりに好評で、絶えず列ができていた。

 

 クラス全体で着るフード付きのTシャツが若干苦しくて、首元に手をかけて整える。着心地はあまり良いとは言えないけれど、クラス全員で同じ色の服を着ると一体感のようなものが出るから不思議だ。ちなみに僕のクラスの色はオレンジ色だった。

 

 

「結構大変だねー」

 

 

 同じシフトに入っていた茜がちょっとだけ疲れた顔を見せながら注文されたコーヒーを淹れる。湯気と共に漂う香ばしさに、心が落ち着くようだった。

 クラスの女子たちが主に接客して、男子たちは裏方で作業することが多かったけど、時間が経つにつれてそのあたりの境界も曖昧になっていた。文化祭の出し物なんてそこまで厳格にやるものではないし、みんなはそれぞれ一緒にいたい人と行動している。

 

 

「……?」

 

 

 裏側で在庫のチェックをしていると、クラスの女子二人組から声をかけられた。何の用だろうと思い話を聞くと、もうそろそろシフトを変わるよ、と話す。

 教壇の上の時計を確認すれば、確かにいい頃合いだった。

 

 

「はい、ごゆっくりどうぞ!」

 

 

 茜が客に向かって丁寧に頭を下げると、こちらに戻ってきた。これで茜のシフトの時間も終わりだ。

 

 ここからは──

 

 

「おまたせっ。それじゃあ、回ろっか!」

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 廊下を出ると、行き交う人波が目についた。老若男女問わず、それぞれが楽しそうに親しい人と話をしながら歩いている。

 

 

「それにしても、いいのかな」

「んー? なにが?」

「だって、僕のシフトなんて無いに等しかったからさ」

 

 

 最初にクラスの文化祭実行委員に当日のシフト表を渡されたとき、みんなに比べて明らかに仕事量が少なかったのでずっと疑問だった。

 

 

「それはたぶん、カナが準備をすごい頑張ってたからだよ?」

「……?」

「……やっぱり気づいてなかったんだ」

 

 

 茜は苦笑交じりに話し始める。

 

 

「カナの作ってくれたテーブルクロス。みんな褒めてたよ。女の子の間だと、自分も欲しいって言ってたくらいなんだから」

 

 

 流石にそれは言い過ぎな気がする。そもそも僕は、確かに進捗が良くなかった人の手伝いをしたけど、それだって大した量じゃない。

 

 

「まあ、とにかく! カナは今日くらい、ゆっくりする権利があるんだよ」

 

 

 僕としてはありがたい話だけど、クラスのみんなは納得しているのだろうか。でも、折角の好意だしありがたく時間を使わせてもらおう。

 

 

「……それで、最初はどこに行くの?」

 

 

 問うと、茜はパーカーのポケットから文化祭のパンフレットを取り出した。

 

 

「実はね、ちょっと決めてきてたんだ」

 

 

 そういえば、僕も昨日渡されていた。茜の横からパンフレットを覗き込むと、クラスの出し物の名前の上にマルやバツがつけられていた。入念に読んできたのか、紙の折れてる部分が散見された。

 

 

「カナは行きたいところある?」

「いや……茜に合わせるよ」

 

 

 茜がここまで調べてきてくれたのだから、彼女の行きたいところを優先したい。

 

 

「……」

 

 

 辺りを見渡せば、各部活動の人やクラスの人が出し物の宣伝をする様子が目に入る。活気あふれる彼らを眺めていると、少しだけ疎外感を覚えた。

 いつもより大きな話し声。浮かれたようにも見える溌溂さ。彼らに顔に浮かぶのは笑顔で、つまらなそうにしている人は見当たらない。

 

 彼らを見ると、何故か胸がざわついた。湧き上がってこの気持ちは、きっと羨ましさとは違っていた。馴染めないことが悲しいわけでもないし、寂しいわけでもない。

 

 僕はたぶん、怖いのだろう。

 当たり前のことに埋没できない自分が、怖いんだ。

 

 足元に目を移せば、廊下の床が目に映る。耳に届く喧騒が遠く聴こえて、僕は意識が徐々に乖離していくような錯覚を抱いた。

 何気ない毎日から脱線したあの日から、僕はそれまでの日常とはまた別の日常を送らざるを得なかった。そして僕はもう、それに慣れてしまっていて……。

 

 

 

「カナ」

 

 

 

 ふわりと。甘い香りが鼻をかすめる。

 

 いつの間にか、茜が僕の手を握っていることに気づいた。柔らかくて温かい感触が僕の手をそっと包み込んでいて、少しこそばゆかった。

 

 

「早く行こ!」

「あ……」

 

 

 にこっと笑った茜の顔が、眩しいくらいに輝いていて。

 

 僕にはそれが、強く印象に残った。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 茜は運動系の部活の出し物を見たいらしく、そこを中心に回っていた。例えばバスケ部でスリーポイントシュートを何本決められるか挑戦したり、サッカー部でリフティングをいつまで続けられるか競ったり。僕は運動があまり得意ではないけれど、茜の楽しそうな横顔を見て、来て良かったなと思った。

 そして一度、他のクラスの出し物のクレープ屋さんで休憩を挟んでまた回り始めたのが今だった。

 

 

「弓道部の出し物って、実際に打たせてくれるみたい」

 

 

 今は弓道部が出し物をする場所である弓道場へと足を運んでいた。和の雰囲気が漂うその場所は、木張りの床と壁が一面に広がっていて、厳格な佇まいだった。

 

 

「結構人気なんだ」

 

 

 先ほども出てくる人を何人か見かけたので、客の入りは良いらしい。

 中を覗けば、何人かが弓道部の人たちにアドバイスをもらいながら弓を引いていた。簡易的に弓道を体験できるように、前方数メートルくらいの場所にある的に向かって矢を射ることが、例年の弓道部の出し物らしい。

 

 

「カナも一緒にやろ?」

「……そうだね。こんな機会、中々ないし」

 

 

 丁度人が捌けたところで、弓道部の人から使い方の説明と共に道具を渡された。弓を引いてみると、思いのほか力が必要で僕は驚いた。

 

 

「……」

 

 

 しばらく弓の持ち方や力の入れ方の説明を受けて、いよいよ自分の番が回ってきた。

 

 一度深呼吸する。

 

 近いような遠いような、そんな微妙な距離にある的は、渦を巻いているように見えた。説明を受けた通り、正しい姿勢で正しく力を籠める。その正しさが体に染みつけば、それが自分にとっての自然な姿勢となって、矢は正しく的を射抜くらしい。

 

 ぐっと弓を引く。

 そして、つがえた矢を放った。

 

 

「……あ」

 

 

 すっと放たれた矢は、的の中心とは少しずれた場所へと吸い込まれた。

 

 真っすぐに飛んでいくはずの矢は僕の思いとは裏腹に、逸れた軌道を描いて渦の中へと飲み込まれる。正しい姿勢と正しい力。僕はそう信じて矢を放ったはずだったけど、どうやらそうでもなかったようだ。

 

 ……これはたぶん、弓道に限った話じゃないのだろう。バスケだってサッカーだって、正しいやり方があって、それを踏襲するところから始まる。間違ったやり方をしてしまえば、それは傍から見れば歪みのように見えるだろう。

 

 その結果として今、僕の矢は中心からずれた位置に突き刺さっている。

 

 

「わ……すごいね、カナ。真ん中に近いよ」

 

 

 先に体験を終えた茜の声にはっとした。弓道部の人からも、初めてにしては筋が良いと言われて、僕はとりあえず礼を言った。

 

 

「……カナって、どんなことも真面目に取り組んでるよね」

「……? そうかな?」

 

 

 弓道部の人に道具を消す最中に隣の茜にそう言われて、僕はぼんやりと考えるように宙に目を向けた。

 僕は色々と言えるほど何かに挑戦したことはない。部活だってやってないのだから。

 

 

「さっきだって、すごい真剣な顔してたよ」

「それはまあ……怪我したら大変だし。普通じゃない?」

「あはは……。そうかもね」

 

 

 けれど茜はそこで「でもね」と、言葉を続けた。

 

 

 

「それがカナの良いところだと思う」

 

 

 

 にこりと笑った茜は、少しだけ僕との間の距離を縮めた。セミロングの茶髪を揺らす彼女の鳶色の瞳が僕を真っすぐ見ていて、なんだか気恥ずかしくなった。

 

 

「……ありがとう、でいいのかな?」

「うん!」

 

 

 心がくすぐったくなるような温かさと、胸にじんわりと広がる茜の言葉。

 

 

 ……ああ、そっか。

 

 

 すとんと、僕は不思議と腑に落ちたような気がした。自分が何故こんなにも茜といる時間に心地よさを感じるのか。上手く言葉にできずに悩んでいたけれど、僕はやっと分かった。

 

 

 僕はずっと、褒められたかったんだ。

 

 

 誰かに頼ることが弱さであると自分を律していたあの頃から、僕はそれがずっと正しいものだと信じていた。だって、誰かに頼ってしまえば、誰かを助けることなんてできないと思っていたから。僕にとって妹が正にそうだった。

 母さんの最期の言葉を守るために、僕は自分なりに頑張ってきたつもりだった。けれど、所詮それは僕の中だけの話であって、他人には全く関係ないものだ。

 

 僕が、僕の中だけで完結させなければならない思いだった。

 

 ……でも。

 

 

「……?」

 

 

 黙り込む僕に、茜が小首を傾げる。

 

 自分に何も自信が持てなくなったことが原因で、世界はくすんだ灰色のように色褪せて見えた。

 だけど、それはきっと僕の思い込みで。閉鎖的な世界で見てきた光景は、外に出てみればまだ続きがあった。

 

 あの日家族で見た、遠くまで続く海と空のように。

 

 

「ごめん、ちょっとぼーっとしてた。次行こうか」

「あ……うん!」

 

 

 

☆─────☆

 

 

 日も暮れ始めて、文化祭は徐々に終わりを迎えつつある。あれほど騒がしかった校内も、幾ばくか落ち着きを取り戻していて、祭りの後のような寂しさがあった。階段の踊り場の窓から見える外には、ちらほらと帰る人が見受けられた。

 

 これからクラスの喫茶店の最後のシフトの時間。僕は無かったけれど、茜はシフトが入っていたのでここで解散することになった。

 

 

「うーん! 楽しかったね!」

 

 

 ぐっと腕を伸ばす茜を見て、僕は一先ずほっとした。歩き回ったせいで気怠い疲労感はあるけれど、不思議な心地よさがあった。

 

 

「……ありがとう、茜。誘ってくれて」

「お礼なんていいよ」

 

 

 そこで茜は、くるりと僕の方に振り向いた。

 

 

 

「……ねぇ、カナ」

 

 

 

 茜はポケットのパンフレットをもう一度取り出した。折り目がところどころについたそれは、茜と過ごした今日一日の思い出の数だけ存在する。

 僕と一緒にいてもそんなに楽しくないかもしれないと、そう思って隣の茜を見るたびに、彼女はにこりと微笑んでくれた。他愛もない話をしながら友達と過ごす時間というものを、僕は本当の意味で理解したかもしれない。

 

 

「その……後夜祭、なんだけど。カナも一緒に出てみない?」

「……後夜祭か」

 

 

 パンフレットの最後の方に書かれているのは今日の最後の予定。夜空を見ながらキャンプファイヤーの周りを囲む後夜祭だ。例年半数くらいの生徒は参加しているらしく、シフトの合間でもクラスの人たちがその話題を出していた。

 

 なんでも、好きな人と後夜祭を一緒に過ごせば恋愛成就するという迷信があるのだとか。でも、迷信だしそんなものを信じる人もあまりいないだろう。そもそも、後夜祭に参加する生徒だって半数しかいないのだし、ただの噂話だ。

 

 

「それでね、その……」

 

 

 パンフレットを持つ手を下げて、茜はもじもじと細い脚を揺らす。

 

 

 

「後夜祭のときに、話したいことがあるの」

「……話したいこと?」

 

 

 

 こくりと頷く茜の頬は、かすかに赤く染まっていた。パーカーの下のスカートの裾をぎゅっと握る手は、どうしてか緊張したようにぷるぷると震えていた。けれど、鳶色の瞳は穏やかな優しさを纏ったまま僕を真っすぐに見ていて、僕はその姿に数瞬の間、見入っていた。

 

 

「ここじゃ話しづらいこと?」

「……うん」

 

 

 ……何だろう? 

 

 でもまあ、家に帰ってもやることは特にないし、晩御飯は遥の勝手にしてもらえば問題なさそうだ。

 

 

「……分かった。後夜祭、僕も出るよ」

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 茜を教室まで送り届けて、普段はあまり使わない部室棟がある校舎を歩き回る。

 

 ポケットからパンフレットを取り出した。茜の持っていたものとは違う、僕のパンフレット。そこには何も書き込まれていない。けれど、ただの紙切れにすぎないパンフレットはどこか重さのようなものを感じた。

 今日は一日中、茜と色々な場所を回った。文化系の展示物やお化け屋敷、体験したことが色々ありすぎて回想するだけで時間があっという間に過ぎていきそうだ。

 

 人波も引いて、寂しげな雰囲気が漂う校内。周りには人の気配は無く、長い廊下を一人で歩き回っていた。

 

 

「……あ」

 

 

 僕はふと、頭上に書かれたその名前を発見した。

 教室のドア上部に掛けられた一枚のネームプレート。

 

 

 ──文芸部。

 

 

 僕は知らなかったけれど、どうやらここは文化系の部室が集まった場所のようだ。旧校舎と言う程ではないけれど、比較的古びた部室棟だった。

 耳を澄ましても特に声らしきものは聴こえない。そうだ。文化系の出し物はここにはなかったはずだ。文芸部だって図書室に展示しているのだから。

 

 

「……」

 

 

 ……そういえば、遥はこの部室にいるのだろうか。

 

 昨日、僕は妹に一緒に文化祭を回ってみないかと提案したけれど、返事は芳しくなかった。美玖は僕が遥を誘えばきっと一緒に回ってくれると言っていたけど、それは結局間違いだったようだ。もちろん僕と二人きりというのは嫌だろうから茜も一緒だと話をしたのだが、それでもだめだった。

 

 

「……」

 

 

 意を決して、ドアを開いた。

 ガラッと音を立てたドアの先にいたのは──

 

 

「……彼方?」

 

 

 手に文庫本を持ったまま椅子に座る遥。どうやら、突然開いたドアにびっくりしているようだった。目を丸くする妹の姿に、僕は珍しい顔を見たな、と思った。

 

 

「ここが文芸部の部室なんだ」

 

 

 決して広くはない部室。でもそれは、文集や書籍が大量に詰まった棚が所狭しと並んでいるからだった。比較的古い部室の中は畳を敷いてある場所もあって、和風な雰囲気が出ていた。

 

 

「……何しに来たの? それに、茜は?」

「ん……文芸部って、どんな部室なのかなって興味があったから。それと、茜なら今はシフト中だよ」

 

 

 と言っても、そこまで長い時間ではないけれど。

 

 

「……面白いものなんて何もないわよ」

 

 

 横に置かれたスクールバッグの中から、もう一冊本を取り出しながら遥は冷たく言う。娯楽の類もなさそうだし、隣の作業場らしきところには、文化祭に出展する文集の原稿が整理整頓されていた。文芸部はいつも真面目に部活しているらしい。部活によっては、ほとんど遊んでいるところもあるようなのだけれど。

 

 

「ここにいてもいいかな? 嫌なら出ていくけど……」

「……別にいい」

 

 

 ぱらりと。ページをめくる音と共に、妹はそう言った。

 

 明るく差し込む夕焼けの光を背に読書する妹は、それ以上は何も言わずにただ本に目を落とす。ときどき、夕焼けの光が白いヘアピンを反射して眩しかった。

 妹の席と斜向かいの椅子に腰かける。僕と妹以外に誰もいない部室は静寂に包まれていて、文化祭中の学校の中だというのに、この世界から切り取られた空間のように感じた。

 

 

「……文化祭はどうだったの?」

「結構楽しかったよ。遥はずっとここで?」

「……ええ」

 

 

 小さな声と共に、ページをめくる音がまた聴こえる。騒がしい文化祭からは隔離された空間には、静かな息遣いやかすかな布擦れの音が鮮明に耳に届く。だからこそ、互いの存在を強く意識する。

 

 

「……茜はどうだった?」

「……ん?」

「だから……茜はどうだったの?」

 

 

 ページをめくる音が止まった。

 目をそちらにやれば、遥の氷のように整った顔立ちが僕の方に向けられていた。

 

 

「茜も楽しそうだったよ。そもそも、文化祭を回ろうって言ってる人はみんなそうじゃない?」

「……それは、そうかもしれないけど」

 

 

 妹のいまいち要領を得ない質問。僕はかすかに違和感を覚えた。

 けれど、一先ずそれを無視して、いい機会だと思い話を続けた。

 

 

「遥は茜とはどう? あの後も、本の感想を話したり意見交換してるみたいだけど」

 

 

 妹は小さく体を揺らした。そこに含まれているのは動揺にも似た何か。

 でもそれは一瞬のことで、小さく息を吐いて本を閉じた。

 

 

「……茜は変。私と話なんかしても楽しくないはずなのに……」

 

 

 遥は言葉に悩むように顔をしかめた。

 

 ……そっか。

 

 

 

「……僕もさ、同じこと考えてたんだ」

「……え?」

「なんで僕なんかと、友達になってくれたんだろうって」

 

 

 

 ずっと考えていた。僕が人に対して誇れるものや、自分だけの長所は何か。でも、何度考えてもそんなものは見つからなくて、僕はいつしか何に対しても自信が持てなくなっていた。

 人を好きになるのに理由はいらない、なんて言葉は詭弁だ。理由や納得いく説明がなきゃ、不安で心が押しつぶされてしまいそうになる。ふわふわと宙を漂う感覚は、微睡の中を揺蕩うようで心地よいかもしれないけれど、それと同時に足場がないことによる不安がずっと付きまとう。

 

 だから僕は、茜に対しても同じような感じだったと思う。話をするようになったきっかけは確かにあったけれど、所詮はきっかけに過ぎない。そこから仲良くなれるなんて保証はどこにもない。

 

 でもそれは、あくまで僕だけの考えであって。

 茜はきっと、違ったんだ。

 

 僕が僕のことをどう思っているのかではなく、茜が僕をどう思っているのか。大切なのはそれだけだった。だから茜が僕と友達のように接してくれる限り、僕も友達でありたいと思う。

 

 

 遥にそんな風に、一通りの話をした。妹は黙って僕の話を聞いていて、とくに僕の言葉に相槌を打つようなことはなかった。

 

 

「……彼方はそう考えてるんだ」

「うん」

「……」

 

 

 それ以来、遥は黙りこんでしまった。

 僕はやっぱり、そんな妹の姿に違和感を拭えずにいた。

 

 文化祭という日常から切り取られたこの空間では、互いの存在を強く感じる。だからこそ、僕は妹が何を考えているのかを探ろうと思って話を続けようと思ったのだけど。言葉も交わさずにそんなことをするのは不可能であって……。

 

 結局、僕は何も言うことができなかった。

 

 

「……っと、僕はそろそろ行くよ」

「あ……」

 

 

 壁に掛けられた時計を見れば、もうそろそろ茜のシフトが終わる時間だ。僕もクラスに戻って合流しなきゃいけない。

 

 そこで僕は「ああ、それと」と、言葉を付け加えた。

 

 

 

「僕は後夜祭に出るから、帰りは遅くなるかも」

「……え?」

 

 

 

 後夜祭が終わるのは、いつもの夕飯を優に超える時間になる。だから今日は、妹に料理を教えることもできない。

 

 

「じゃあ、僕は──」

 

 

 椅子から立ち上がって、ドアに手をかけようとしたそのとき。

 

 

 

「──待って!」

 

 

 

 ぐっと。手が柔らかい何かに包まれた。

 痛いぐらいに強く握りしめられて、僕はびっくりして後ろを向いた。

 

 

「……遥?」

 

 

 さらさらと。窓から吹く風が妹の濡羽色の髪を揺らす。風に乗って、甘い香りがする。金木犀の香りか、それともシャンプーの香りか。あるいは、そのどちらもかもしれない。

 遥は咄嗟の行動に自分でも驚いているのか、目をかすかに見開いていた。長いまつ毛が縁取る純度の高い水晶は、僕の姿だけを映している。白いヘアピンは相変わらずオレンジ色の光を反射していて、僕は一瞬、妹が泣いているようにも見えた。

 

 

「あ……」

 

 

 遥から小さく漏れた声は、この部室に静かに溶けていった。置いてかれそうになった迷子のような声と、今にも泣き出してしまいそうな顔。

 

 いつになく感情を滲ませる妹に、僕は一瞬ドキリとした。

 

 僕はここ最近で妹の色々な姿を見てきた。久しぶりに本心をぶつけて、僕は改めて妹と向き合うことができた。問題ははっきりと解決したわけじゃないけれど、ちゃんと話もできるようになって、朝の登校も一緒にするようになって。料理も手伝ってくれるから自然と会話も増えた。それはきっと、昔のように懐かしくて、温かくて、嬉しくて。

 

 ……じゃあ、今の遥は? 

 

 僕の目の前にいる遥の姿から感じるのは、懐かしさだけじゃない。僕が幼い頃ずっと引いてきた妹の手のはずなのに、手のひらからは痛いくらいの熱を感じた。それは、ぽかぽかとした温かさではなく、焦がれるような熾烈な熱さ。

 

 いったいこれは……。

 

 

「……後夜祭。茜と二人で出るの?」

「……その予定だけど」

「……」

 

 

 ふわっと。

 

 僕の手はまるで、宙を切るように解放された。ぷらんと垂れ下がる遥の腕からは、さっきまでの力強さは夢のように消え失せていた。

 

 

 

「……どうしたの、遥? ちょっと変だよ」

「……変なんかじゃ、ない」 

 

 

 

 遥は自分の腕を握りしめながらそう言った。今の妹は傍から見れば、誰だって様子がおかしいように見える。

 

 

 

「そもそも、ここ最近ずっと元気がないよ。食欲だってあまりないみたいだし……」

「……彼方に何が分かるっていうのよ」

「分かるよ、だって──」

 

 

 

 その先の言葉は、僕にとって魔法の言葉。ずっと胸に秘めてきた勇気の言葉。

 僕はその言葉があったから、自分を強く奮い立たせることができた。苦しくて挫けそうなときや、悲しくて泣き出してしまいそうなときも、母さんの託してくれた言葉があるからこそ、僕は僕でいられた。

 

 けれど。

 

 

 

 

 

「……『兄妹だから』って。また言うつもり?」

 

 

 

 

 

 続けようとした言葉は、鋭い日本刀のようにバッサリと途切れた。俯いた妹の言葉は、すっと冷や水を打ったかのように響いて、僕は体が固まった。

 静かな部屋に差し込んでいたオレンジ色の光は、いつの間にか暗く陰っていて、息がつまるような暗闇が徐々に近づいていた。

 

 

 

「なんで彼方はそれしか言わないのよ」

「……そんな、ことは」

「そんなことあるわよっ」

「……でも、事実じゃないか。なんでそんなに突っかかるの?」

 

 

 

 語気が強まる。何が逆鱗に触れてしまったのか、僕は分からないままだった。

 遥はまだ俯いたままで僕に顔を見せない。

 

 

 

 

 

「……もう、いい加減にしてよ」

「え……」

 

 

 

 

 

 震える声が、握りしめられた手が。

 ひどく痛々しかった。

 

 

「彼方が私のことをっ……嫌ってくれればよかったのに……。そうしたら、きっと諦めだってついたはずなのに……」

「……いったい、何を言って……」

 

 

 妹の独白にも似た呟きに、僕は言葉が詰まった。とめどない言葉が、一つ一つ羅列される。けれど、僕はその言葉の意味をどうしても理解できなかった。

 

 

「……本当にどうしたの、遥? 今日は早く家に帰って休んだ方が──」

 

 

 戸惑いを隠せないけれど、僕はとりあえず妹を落ち着かせることを優先した。どうしてそんなに取り乱しているのかは未だに分からないけれど、とにかく。

 

 でも。

 

 

 

「──うるさい!」

 

 

 

 ぱしっと。差し伸べた僕の手は、力強く跳ねのけられた。

 僕は一瞬、何が起きたのか理解できなかった。けれど、手に奔るひりひりとした痛みが、僕を現実に引き戻した。

 

 

 

「早く茜のところに行けばいいじゃない! 私のことなんか放っておいてよ!」

「……なんで、茜が出てくるんだよ」

 

 

 

 それでも僕は言葉を続けた。いや、続けてしまった。このまま続けてしまえば、きっとお互いにとって良くないって分かってるのに。そもそも何故、茜に対してそんなに過剰に反応するのか僕には分からない。

 

 

 

「ちゃんと話してくれないかな。どうしてそんなに怒るのか、僕はやっぱり分からないよ……」

「分かってほしくないから話さないのよ! なんで彼方にはそれが分からないのよ……!」

「……分かるけど、でも。遥が何かに苦しんでるのは分かるよ。話すことで楽になることだってあるはずだし、少しくらい話してみてよ。()()なんだから──」

 

 

 

 茜に昔のことを話したとき。

 僕は確かに、心が軽くなった気がしたんだ。

 

 自分だけで何かを抱え込んでしまうのは、きっとつらいことだ。僕はそのことを、やっと知った。誰かに自分のことを知ってもらうことでこんなにも心強い気持ちになれることを、僕は茜から学んだんだ。

 

 遥が何に対してこんなに怒っているのかも、何故落ち込んでいたのかも分からない。だからそれを話してほしかった。もしそれが、あの日遥に問いかけた僕を避ける理由につながっているのだとしても。

 

 ……だけど。

 

 

 

「だから! もう、やめてって言ってるでしょ!」

「え……」

「兄妹だからって何よ! そんなことに何の意味があるって言うのよ!」

 

 

 

 ドクンと。心臓が強く打った。

 ……なんで、そんなことを言うんだよ。

 

 

 

「私のことを分かってるつもりなの!? だったらそれは彼方の勘違いよ!」

「ま……そんな、つもりは──」

 

 

 

 ドクンと。また心臓が強い鼓動を打つ。

 

 だめだよ。僕は母さんの言葉を守らなきゃいけない。それが、僕が僕である唯一の証なんだ。この絆だけは、絶対に揺るがないものでなくちゃいけないんだ。

 

 

 

「もううんざりよ……! こんなに苦しくなら私は──!」

 

 

 

 遥が俯いたまま、長い濡羽色の髪を振る。

 そして、吐き捨てるように言った。

 

 

 

 

 

「──彼方と兄妹になんて、生まれたくなかった!」

 

 

 

 

 

 ──頭が真っ白になった。

 

 ドクン、ドクンと。心臓が早鐘を打つ。

 足元がガラガラと崩れ落ちていくような錯覚が僕を襲った。今まで築き上げてきたはずの心の柱は、ただの砂の城であったかのようにさらさらと零れ落ちていく。

 

 

「……あ……」

 

 

 遥がはっと気づいたように小さく声を上げる。でも、それが果てしなく遠い残響音のように聞こえた。

 

 僕たちはずっと昔、仲良しの兄妹だった。そうでありたかったし、そうでなければならなかった。

 いつだって母さんの言葉が前に向く力を与えてくれた。妹という、守らなければならない存在がいるからこそ、僕は母さんが亡くなったときでもなんとか立ち直れたんだ。

 それはきっと、妹もまた同じものだと思っていた。どんなに冷たくされても、どんなに嫌われていても、根っこの部分は変わっていないんだって思いたかった。

 

 ……思いたかった? 

 

 

 

「……はは」

 

 

 

 沸き上がった言葉に眩暈がした。僕のそれは妄想と言うんだ。

 

 僕は馬鹿だった。僕はただ、母さんの言葉を拠り所にして妹に依存していただけだった。妹と違って何も才能がなくて、自分の存在意義を妹に依存した愚か者。だから妹に世話を焼く兄という体面を装って自分の生きる理由を作っているだけだ。

 

 果たして、それは本当に妹のことを思っていると言えるのか? 

 

 遥の言う通りじゃないか。僕は遥が妹であるというだけで何かを知った風を装っていたんだ。

 

 

「ち、ちが──」

 

 

 聴こえない。僕の耳には、妹の声がノイズに混じったように聴こえない。

 

 

 ……やっと。やっと昔みたいに、話せるようになれたかもしれないと、そう思っていたのに……。

 

 

 僕はどこで間違ったのだろう。何が正しかったのだろう。今の言葉がつい、口をついて出てしまったものだとしても、紛れもない妹の本心な気がした。

 

 僕なんかが兄であることを、認めたくないと思っているんだ。

 

 

 ……もう、僕は……。

 

 

 

 

 

「──遥ちゃん。それ、どういう意味?」

「……え?」

 

 

 

 

 

 そのとき、もう一人の声が聴こえた。僕と妹しかいないはずのこの部室から、もう一人誰かの声が。

 

 彼女の名前は──

 

 

 

「……あか……ね?」 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十六話

 

 

 開かれたドアの向こう側。そこに佇む茜のセミロングの髪は、窓から吹き込む風に揺れていて、静かで穏やかなように見える。けれど、彼女の鳶色の瞳はそうではなかった。

 細められた目は僕ではなく後ろの遥へと向けられていて、ピンと張りつめた糸のような緊張感があった。

 

 

「……遥ちゃん。それ、どういう意味?」

 

 

 かすかに震えた声が聴こえた。一緒に文化祭を回っていたときに楽しい感情を滲ませていた茜の姿はそこにはなくて、手をぎゅっと握りしめながら何かをこらえているようだった。

 後ろを振り向いて遥を確認すれば、突然部室に入ってきた茜に驚いていた。けれど、すぐにその表情は伏せられた顔と共に隠れてしまった。

 

 

「……」

 

 

 遥は制服の上から、左腕をそっと掴んだ。袖から覗く手はただでさえ肌白いのに、今は真っ白に思えるほど力が込められていた。茜の問いかけに遥は答えない。僕もまた、何も言うことができなかった。それは気まずいからではなく、ただ呆然としていたからだった。

 

 痛い沈黙が続く。頭の中では遥に言われた言葉が頭の中でがんがんと響いていて、万力で締め付けられるような痛みが支配していた。

 自分が今どこに立っているのか。母さんとの約束は一体何だったのか。僕は、どうしたらよかったのか。

 

 分からない。遥の考えてることも、これからどうすればいいのかも。何もかも分からない。だから僕は何も言うことができない。

 

 

「……どうして茜が」

 

 

 僕を余所に、遥が静かな声で茜に問う。すっと耳に通る透明度の高い声は、触れても通り抜けてしまうように掴みどころがないものだった。生まれてからずっと同じ屋根の下で生きてきた僕たちなのに、僕は触れることができない。

 

 茜は小さく嘆息して、慎重に言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。

 

 

「……カナが教室に戻ってこないから、もしかしたらって思って。文芸部には来たことなかったけど、パンフレットに地図が載ってたから来れたんだ」

 

 

 ……そう言われれば、確かに学内の地図が載っていた。そこには部室棟の中にある部活の名前も一覧で載っていたから、それで場所が分かったのだろう。

 

 

「それより遥ちゃん。さっきのどういう意味なの?」

「……茜には関係ない」

 

 

 そっぽを向くでもなく、唇を尖らせるでもなく。遥はただ顔を伏せたままだった。暗く沈み込んでいく空からは、夕日の光を見ることはもう叶わなくなっていた。在りし日の郷愁の証であるオレンジ色の光は、この部室にはもう差し込んでいない。

 

 

「……あたし、カナから何回も聞いたよ。遥ちゃんに避けられてるって。あたしずっと知ってたもん」

「っ……」

「何の話をしてたのかは知らないよ。カナが何か気に障ることを言っちゃったのかもしれない。……でも、そうだとしてもあんな言い方。ひどいよ」

「だからっ……貴方には関係ない。他人が割り込まないでよ」

 

 

 遥の突き放す口調は、誰も寄せ付けない強い拒絶の証だった。けれど、茜は真っすぐに遥を見つめる。

 

 

「関係ないなんて、そんなこと言わないでよ」

 

 

 震えていた声音は、徐々に熱を帯びて芯のある強いものへと変わっていた。

 

 

「……ねえ、遥ちゃん。あたしやっぱり分からないよ」

「……なにがよ」

「遥ちゃんが、なんでカナにそんなに冷たくするのか」

「……」

 

 

 それはちょっと違う。最近はそんなことはなかった。会話もそれなりに増えたし、ご飯だって一緒に作るようになった。それに、僕が遥にずっと避けられ続けていたのは、僕を嫌っているからじゃないと言っていた。遥にあんなことを言われたのは、ただ僕が言ったことが癇に障っただけ。

 

 ……なんて。そんなわけない。そんな簡単な理由なら、遥はあんな苦しそうな顔はしないはずだ。話せないけど苦しくて、苦しいけど話すこともできない。今の遥はそういうもどかしいもがきが見える。

 

 そして何よりも、そんな顔をさせている原因は……。

 

 

「あたし、どうしても不思議なの。遥ちゃんはカナのことすごく大切に思ってるのに、どうしてカナを避けてるのかなって」

「……知ったようなことを、言わないでちょうだい」

「だって、見てれば分かるよ。この前カナが針で指を刺しちゃったとき、すぐに下に絆創膏取りに行ってたし。なのにカナが話しかけても、ちょっとそっけないし」

「そんなことだけで──」

「そんなことだからこそ、だよ」

 

 

 茜は真っすぐに遥を見ながら言う。

 

 

「……自分で言うのもなんだけど、あたしは人を見る目はあるつもりだよ。だから遥ちゃんがカナに、意味もなくあんなことを言うわけがないって思う」

 

 

 僕もそうだと思いたい。思いたいけど、胸を取り巻くこの不安と不甲斐なさが、ひっそりと心の穴に忍び寄ってくる。

 最近は、少しずつでも何かが変わってきたと思っていた。けれどそれは、結局は同じところに行きつくだけの輪廻の輪だった。

 

 

「確かにあたしは、遥ちゃんと知り合ってから全然時間も経ってないけどね……」

「……」

 

 

 僕が遥と一緒に過ごしてきた時間に比べれば、それは微々たるものかもしれない。それなら、僕はどうなのだろう。その長い時間の中で、僕は本当に妹のことを知ることができていたのだろうか。

 茜の言葉が、他でもない僕自身に鋭利な針となって突き刺さる。傷口からツーと一筋の血が流れ出るように、それは少しずつ僕から僕である証を零していく。

 

 僕は今まで、遥とどうやって接してきたんだっけ……? 

 

 

 

 

「私、は……っ……」

 

 

 

 

 戸惑い。迷い。葛藤。遥は逡巡するように、口をパクパクとさせた。

 

 

 

「──!」

「遥ちゃん!」

 

 

 

 ガタン、と椅子が倒れる音。遥はカバンを乱暴に掴むと、逃げるように僕と茜の間を走り抜けていった。

 風が頬をかすめる。冷たいはずなのに、何故か熱く感じた。

 

 

「……」

 

 

 遥が部室から出て行って、より一層空気が重く感じられた。しんと静まり返る室内には、僕も含めた二人分の呼吸しか聴こえない。

 

 

「遥ちゃん……」

 

 

 僕は何も言えない。こんな兄妹喧嘩を友達に見られて恥ずかしいだとか、これからどうすればいいだとか。思うことはいくつもあるけれど、僕は遥に言われたことが何よりもショックだった。道しるべを失った旅人のように彷徨う思考は、出口のない迷路に囚われているようでその先に進むことができない。いくつもの疑問が浮かんでは消え、結局は自分が何かをしてしまったのだという曖昧な結論にしか至らない。それではどうやっても根本的な解決にならないというのに。

 

 僕はぬか喜びしていたんだ。遥と話せるようになったからといって、その裏側にある気持ちの変化を知ろうとしなかった。その結果がこれだ。僕は自分のことしか考えていなかった。遥が抱えてるものの大きさが、僕はずっと見えていなかったんだ。

 ……あんなことを言われるだなんて、僕は……。

 

 

「……カナ」

「……ごめん、茜。ちょっと一人になりたい」

 

 

 茜の気遣うような目にも、そっと触れようとしてくる手にも気づいてる。けれど今は、その優しさに触れたくなかった。触れてしまえば、僕はそれこそ誰かに依存してしまう弱い人間になってしまうと思ったから。

 

 

「でも、すごいつらそうだよ……」

 

 

 僕は今、どんな顔をしているのだろう。茜が言う、つらそうな顔ってどんな顔なのか。僕は僕自身の表情が分からない。

 

 

「このままカナをほっとけないよ……」

「……大丈夫だよ。たかが兄妹喧嘩なんだから、そんな気にすることじゃないよ」

 

 

 いったいどの口がそんなことを言うのだろう。自分が一番気にしてるくせに。一番問題にしてるくせに。そのせいで茜に慰めてもらったこともあるのに。心の内を閉ざした言葉はひどく空虚なもので、砂漠に揺らめく蜃気楼そのものだった。

 うわべを取り繕うことだけは、僕はこの人生の中で学んできた。だって僕は、そうしないといけなかったから。本当は平気じゃないのに平気なふりをして、僕は理想の自分をつくってきた。

 

 兄として、正しく生きてきた。

 

 ……でも、それは自己満足だ。その本質は醜く歪んだ自己愛。誰かのためではなく、自分のための行い。一見正しく見えたそれは、いつからか間違った方向に進んでいたのかもしれない。

 

 

「なんかごめんね。変なところ見られちゃって」

 

 

 だから僕は、自分の姿を見せない。

 

 

「全然──」

 

 

 ──気にしないでいいから。

 

 そう言おうとしたはずだった。けれど、僕は続きの言葉を口にすることができなかった。

 

 

 

「え……」

 

 

 

 トン、と胸に感じた、柔らかくて温かい感触。

 それと同時に、ほのかに甘い香りが鼻をくすぐった。

 

 

「茜……?」

 

 

 僕の服をぎゅっと掴む彼女は、潤みを帯びた鳶色の双眸で僕を見上げている。苦しそうに、切なそうにする彼女は、小さな桜色の唇をきゅっと結びながら、僕に何かを訴えかけていた。

 

 ともすれば泣き出してしまいそうな顔に、僕はズキッと胸が痛んだ。

 

 

「……なんで茜がそんな顔するんだよ」

 

 

 胸をつく痛みの出所が、僕には分からなかった。ジクジクと傷口は徐々に広がっていき、やがて大きな傷跡として残り続ける。

 だけど僕はそれを見せたくない。茜に見せたくない。これ以上を見せてしまえば僕は……。

 

 

「……だって、あたし」

 

 

 静かな部屋。生ぬるい呼吸と、胸を掴む小さな手のたおやかな温度。茜はそっと、言葉を綴った。

 

 

 

 

 

「カナのことが、好きだから」

「……え……」

 

 

 

 

 

 ──時が止まった。

 

 茜の言葉の意味を、即座には理解できなかった。たった一言なのに、まるで現実味もなければ実感も湧かなかった。

 

 

「……好き……って……」

「……あたしは、カナのことが好き」

 

 

 もう一度。今度は泣き笑いのような顔で言う。

 ……好きって。茜が、僕のことを……? 

 

 

「だから……。カナが苦しんでるのにほっとくなんて、あたしにはできないよ……」

「あ……」

 

 

 ぐっと。胸を掴む手に、少しだけ力が籠められた。

 

 途端、心臓がバクバクと鼓動を立てる。制御のかない胸の高鳴りと共に、顔に熱が帯び始めた。体に触れる女の子らしい柔らかな身体に、僕は今更になって意識し始めた。

 

 

 

「……ごめんね。こんな卑怯なことしちゃって」

「……もしかして、話があるって言ってたのは……」

 

 

 

 コクリと。茜が頬を朱くしながら、小さく首肯した。

 

 

「いつ……から……」

 

 

 上手く言葉が出ない。僕は自分が誰かに好かれることなんてないと思っていたから。ずっと遥に避けられ続けて、何もできない自分が嫌いだった。

 

 

「……分かんない」

 

 

 首を振りながら、けれど茜は「でも」と言って再び僕を見上げた。

 

 

 

「いつの間にか。カナが笑ってるところを、もっと見たいなって思ったんだ」

 

 

 

 泣き笑いにも似た柔和な笑みと、彼女の髪から香るシャンプーの甘い香りに、僕は思わず目をそらす。そんな風に言われたことなんてなかった。誰かと深く付き合うことをしなかった僕は、茜の言葉の一つ一つに心をひどく乱された。

 

 ……僕はどうしたらいいんだろう。

 

 茜の気持ちは嬉しい。こんなに優しくて素敵な子に好かれているということは、きっと限りない幸福に近くて。茜の気持ちに答えられたら、それこそ彼女も喜んでくれて、幸せに満ち溢れるはずで。

 

 

「……」

 

 

 ……それなのに。

 

 

 

『──彼方と兄妹になんて、生まれたくなかった!』

 

 

 

 それなのに、どうしても遥のことが頭をよぎる。茜の真摯な気持ちを、僕は未だに受け止めきれずにいた。激情を含んだ慟哭を見せた妹のことが、今も頭の中を埋め尽くす。僕の目の前にいるのは茜なのに、彼女のことだけを考えることができない。

 

 

「茜……僕は──」

 

 

 ピタっと。僕の口を止めるように、彼女は人差し指を当ててきた。

 

 

 

「……何も言わなくていいよ」

「え……」

 

 

 

 唇に触れた茜の指先から体温が伝わる。少し冷たくて、けれどすっと馴染むような心地よい温度。

 

 

「返事はすぐにはしなくていいから。カナの弱みにつけこむみたいで、卑怯だと思うから」

 

 

 唇から指の感触が消えた。

 

 

「……遥ちゃんのことで、あたしにできることがあったら何でも言ってね。力になりたいから」

「あ……」

 

 

 茜が僕から離れ、すぐ傍で感じていた温もりは消える。自分の気持ちを真っすぐに伝えてくれた彼女は、どこまでも優しくて、僕と遥のことを気にかけていた。

 

 ……こんなに優しい子の気持ちに、僕はすぐに答えることができなかった。

 

 

「……ごめん、茜。今日は……」

 

 

 茜と交わした後夜祭の約束。僕は彼女と一緒に参加する予定だった。でも……。

 

 

 茜は僕の言わんとすることに気づいたのか、小さく息を吐いて静かに笑んだ。それは陽だまりのようにあたたかくて、舞い落ちる花弁のように儚くも優しい想い。また僕は、胸がズキッと痛んだ。

 

 

「……ううん、気にしないで。早く遥ちゃんと、話をしてあげて」

 

 

 茜は首をゆっくりと振って、開け放たれたままのドアに向かう。そしてドアに手をかけると、一度僕の方に振り向いて、「またね、カナ」と言い残して去っていった。

 

 廊下を歩く音が徐々に遠ざかっていき、やがて何も聴こえなくなった。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

「……」

 

 

 いったいどれくらいの時間が経っただろう。数分か数十分か。

 

 近くの椅子に深くもたれかかってから、時が経つのをただ待っていた。そうしたところで、何も変わるわけないというのに。

 

 頭がパンクしそうだった。

 

 遥と喧嘩して、茜に告白されて。僕は今、自分が何をすべきかを見失いそうになっていた。

 床に視線を落とせば、木製の床が複雑な模様を描いて渦巻いている。ともすれば、その渦の飲み込まれてしまいそうなほどに。まるで、戻ることのできない螺旋の中へと沈み込んでいくように。

 

 ……今はとにかく、家に帰ろう。帰って遥と話をしなくちゃ……。

 

 覚束ない思考を頭の中でぼやきながら、僕は立ち上がろうとした。

 

 

「あ……」

 

 

 伏せていた顔を上げる最中。

 床に落ちていた()()に気づいた。

 

 シンプルな青色のカバーはどこまでも深く澄み渡る海を彷彿とさせていて、僕はまるで吸い込まれるように歩き出した。

 本にも似たそれは、僕が以前見たことがあるものだった。あのときは中までは見なかったけれど、頭の片隅では気になっていた。

 

 僕は、ゆっくりと拾い上げた。

 

 

 

「……日記……」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十七話




 更新が遅れてしまい申し訳ありません。ここ最近忙しく、執筆の時間をまとめて取るのが難しくなっています。今後の更新速度は状況次第となりますので、その点をご理解いただけたらと思います。







 

 真っ暗な道を歩く。街灯の頼りない光だけが、足元を淡く照らしていた。空を見れば月の青白い光があって、小さく輝く星々がいくつも広がる。周りには誰もいないからひどく静かで、学校で茜と文化祭を回ったのはついさっきのことだったはずなのに、あれからずいぶんと長い時間が経ったような錯覚があった。

 住宅街をしばらく歩けば、住み慣れた一軒家が見えてきた。二階を見ても、明かりはついてない。ドアノブに手をかけて回すと、強い抵抗を感じた。

 

 ……やっぱり、帰ってないか。

 

 ポケットから鍵を取り出して、ドアノブに差し込む。ガチャッとした音と共にドアが開いて、真っ暗な家の中が僕を出迎えた。

 

 

「……ただいま」

 

 

 ぽつりと呟いた声が闇の中に消える。パチッと明かりをつければ、人工的な光がフローリングの廊下を照らす。靴を脱ぐときに、もう一足あるはずの革靴が無いことが分かって、ため息をついた。

 リビングに寄らずそのまま二階へと向かって自室に入り、照明をつけた。父さんが昔使っていた部屋は広々としていて、僕は途端に自分がちっぽけな存在だと感じた。

 

 ぼふん、と。

 ベッドに倒れ込む。

 

 倒れこむ体を柔らかく受け止めるクッション。羽毛の上でふわふわと浮くような夢心地。

 仰向けになって、天井の照明に向かって手を伸ばせば、指と指の隙間から木漏れ日のように光が差し込む。

 

 ……遥。

 

 僕の双子の妹で、ずっと一緒に暮らしてきた家族。僕にとってかけがえのない大切な存在。怜悧で凛然とした美貌と、濡羽色の美しい長髪。誰が見ても、美人だと評される僕の妹は学業も優秀で、ずっと自慢だった。

 昔は仲が良かったけれど、中学を境にそうでもなくなって。でも、今は少しずつ関係も改善されてきて。

 

 ……それなのに。

 

 

『──彼方と兄妹になんて、生まれたくなかった!』

 

 

 

 ……。

 

 ゆっくりと体を起こす。カバンの中から()()()()を取り出して、テーブルの上に置いた。

 

 

 ──青い日記。

 

 

 部室で拾ったこの日記は、以前に遥の部屋で見つけたものだった。どうやら部室で、遥がカバンから落としていってしまったらしい。あのときは遥も脇目も振らずに駆けだしてしまったため、気づかなかったのだろう。

 

 ……この日記には、何が書かれているのだろう。

 

 カバーに触れれば、ひんやりと冷たい感触が指に伝わる。それは真冬の冷たさで凍り切った鋼鉄の扉のように厳然としたものだった。

 もし、この日記を読んだら。遥の気持ちを知るためのヒントを得られるのだろうか。今まで避けられていた理由も、どうしてあんなことを言ったのかも、その全てが……。

 

 

「……」

 

 

 伸ばした手が止まった。

 

 遥に、僕を避けていた理由を尋ねたあの日の記憶が蘇る。つらくて苦しそうな表情の遥が、今でも鮮明に思い出せてしまう。

 家族とはいえ、僕が今やろうとしていることは決して褒められたことではない。誰にも見せたくないからこそ、誰にも知られたくないからこそ、こうやって日記を書く人もいるのだから。

 

 ……だけど、それでも僕は……。

 

 

 

「……ごめん、遥」

 

 

 

 躊躇いがちに伸ばした手に、力を籠める。

 僕は、そっと日記を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

───────────────────────

 

 〇〇月××日

 

 

 今日も彼方に冷たくしてしまった。家にいればいつでも会話できる環境だけど、私は意図して彼方を避けている。そのことに、きっと彼方も気づいてるはず。

 私は家に帰りたくない。だからずっと部室に入り浸っている。部活のある日も、そうでない日も。部活用の文集を書いたり本を読んだりして、家に帰るのを遅らせている。

 

 彼方は部活に入っていない。家の掃除や買い物、それに洗濯物の取り込みやご飯の準備が忙しいから。

 ……彼方だって本当は、部活に入りたいかもしれないのに。そう思うと、果てしない罪悪感が肩に重くのしかかる。

 私が部活という建前で彼方を避けている時間が、彼方にとっては自分のために使える貴重な時間かもしれないのに。

 

 ……それでも。

 

 家に帰ればいつも、彼方の優しい『おかえり』が待っていて。その何気ない一言が嬉しくて。

 それなのに私は、何も返事しない。返事することができない。

 

 こうして日記を書いてるときだけしか、私は私の気持ちを吐き出せない。

 

 

 

 

 〇〇月△△日

 

 

 彼方がとうとう、どうして自分のことを避けるのかと訊いてきた。昔、私が彼方とよく遊んでいた公園だった。おぼろげな記憶だけど、よく彼方に手を引かれていたのだけは覚えてる。

 

 彼方は真剣な表情と不安な表情を交互に浮かばせながら、私に穏やかに問いかけた。むしろ、今まで問い詰められなかったことが奇跡的だった。

 私が彼方を避けだしたときからずっと、曖昧な時間に苦しんでいたのはきっと彼方の方だ。

 彼方は私に嫌われていると思っていた。私のせいで、自己卑下を繰り返すようになってしまった。私の態度が、彼方をあんなにも苦しめていた。

 

 ……ごめんなさい。 

 

 本当はそう言いたかった。昔みたいにごめんなさいして、仲直りして、双子の兄妹として振舞って。その関係に我慢できない我儘な子ども。それが私だった。

 

───────────────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

「これは……」

 

 

 最初のページに書かれていたのは、本当につい最近のことだった。日記に書かれていたのは、他でもない遥の本心。

 あの日、僕は遥と向き合おうと決めた。避けられたままでいるのが嫌で、僕は茜の後押しもあって勇気を出した。夕方も終わりの近い、公園での出来事だった。

 

 ……遥は、そんなことを考えていたのか……? 

 

 全く予想だにしなかった日記の内容に、僕は混乱した。いつも冷たい妹の姿と、この日記の内容が全く一致しなかったから。遥は一体、どんな思いでこの日記を綴ったのだろう。ただの記録としてなのか、それとも……。

 

 判然としない日記の内容からは、だからこそ妹のありのままの気持ちを感じ取れる。まとまった気持ちではなく、揺れ動くさざめきにも似たそれは、寄せては返す波そのものだった。

 

 僕はそんな不思議な気持ちになりながらも、次のページをめくった。

 

 

 

 

 

 

 

 

───────────────────────

 

 ☆☆月◇◇日

 

 

 今日はすごく嬉しいことがあった。彼方がヘアピンをプレゼントしてくれた。

 

 最初は彼方が女の子と出かけると知って、私はデートに行くのだと思ってた。彼方は優しい。その優しさに惹かれた子がいるのだろう。

 だから彼方が帰ってきて、突然プレゼントを渡されたときは本当に驚いた。そんなそぶりもなかったし、何よりも今までに経験がなかったから。彼方は気に入らなかったら捨ててもいいと言っていたけど、そんなことするわけない。

 

 こうして日記を書いてる今も、ふとした拍子に立て鏡を見てしまう。彼方がプレゼントしてくれたヘアピンはとても綺麗で、私の趣味に合っていた。部屋の照明を受けて輝く白色に、自然と表情が緩んでしまう。

 

 もっと、ちゃんとお礼を言いたかったな。

 

───────────────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ……」

 

 

 遥にプレゼントしたヘアピン。綺麗な文字で綴られた文面から、妹の気持ちが伝わってくる。

 

 

 日記のページを一枚、また一枚とめくっていく。

 日常生活の何気ない一コマだったり、学校での美玖との会話だったり。そして家での僕の様子など、書いてあることは多岐にわたっていた。

 

 

「……遥」

 

 

 僕の知らない遥の一面が書かれた日記。遥が何を考えて、一日をどう過ごすのか。僕は今更になって、初めて知った。

 

 僕は続けて、次のページをめくった。

 

 

 

 

 

 

 

───────────────────────

 

 ##月※※日

 

 

 彼方が倒れた。今朝、彼方が珍しく寝坊してると思って部屋に行ったら、彼方は苦しそうに床に座り込んでいた。

 頭が真っ白になった。母さんが亡くなった日のことが頭の中を埋め尽くして、体が震えだした。

 

 一日中彼方を看病してたら目が覚めてくれて、一先ず安心したけど、もしかしたら何か重い病気にでも罹ってしまったのかと思ってやっぱり怖くなった。それなのに彼方は何でもないように笑って、また私に引け目を感じるように謝ってくる。彼方がそうやって卑屈になってしまったのは、きっと私のせいなのに。また彼方を傷つけた。

 

 それでも彼方は私のことを、妹として本当に大切に思ってくれてる。彼方の気持ちは嬉しい。毎日お弁当も作ってくれて、夕飯のときは一言二言、話しかけてくれて。

 私がわざと嫌われるように冷たくしても何も変わらないでくれた。

 変わってしまったのは私の方。ただの双子の兄妹でいられれば、きっと幸せだった。

 

 ……いえ。むしろ、()()()()()()()()……。

 

 母さんの言葉を忘れたことは一度だってない。

 

 

 ──ずっと兄妹で仲良く。

 

 

 彼方とは双子の兄妹だけど、なんだかんだ言って彼方は兄らしく振舞おうとする。幼い頃、私は我儘だったから。我儘を言っても受け止めてくれる彼方に甘えていた。それが彼方に兄としての自覚を芽生えさせたのかもしれない。

 

 それが、こんなにもつらいことになるなんて、思ってもなかった。

 

───────────────────────

 

 

 

 

 

 

 

「……え」

 

 

 

 ぞわっと。背筋に何かが迸る。

 得体のしれない何かが、背後から忍び寄ってくる。

 

 

 ……わざと嫌われる?

 それに、“兄妹じゃなければ”って……。

 

 どういう、意味だろう……。

 

 これ以上見てはいけない。本能も理性もどちらも警鐘を鳴らしてくる。これ以上は後戻りができなくなってしまうと訴えてくる。

 分からない。どうしてこんなに不安な気持ちになるのか分からない。

 

 

 なのに僕は、次のページをめくってしまった。

 

 

 

 

 

 

───────────────────────

 

 △△月□□日

 

 

 彼方が友達を連れてきていた。話に聞いていた通り可愛い女の子だった。正直、どう接すればいいか私には分からなかった。だけど話をしてると、彼方の言う通り性格の良さそうな子だった。

 彼方に連れられて何故か部屋で話をすることになったけれど、あの子に対してつれない態度を取ってしまった。私は、どうしても不安だったから。

 

 そして何よりも、分かってしまった。茜の彼方を見るその眼差しに込められた意味を。茜の彼方に対する気持ちを。それは、私がずっと心に秘めていた想いと同じだった。

 

 いつも優しく接してくれる彼方。毎日優しく話しかけてくれる彼方。

 

 私はずっと前から。

 そう、ずっと前から。私は──。

 

───────────────────────

 

 

 

 

 

 

「……あ……」

 

 

 

 次の一文を見て、時が止まった。

 

 

 

 

 

 

 

───────────────────────

 

 私は、彼方のことが好き。

 

───────────────────────

 

 

 

 

 

 ページに触れる手が震える。何故なら。

 

 

 

 

 

───────────────────────

 

 兄妹としてではなく異性として、私は彼方が好き。ずっとそばにいたい。

 

───────────────────────

 

 

 

 

 

 

 言葉に込められた、その本当の意味を理解してしまったから。

 

 

 

 

 

 

───────────────────────

 

 いつも優しく私を気遣ってくれる彼方が好き。私がたまに話しかけると、柔和に笑むところが好き。本当はもっと素直に話したい。私は彼方のことが大好きだって伝えたい。

 でも、もしこの気持ちを伝えたら、きっと彼方に気持ち悪いと思われてしまう。私は怖い。彼方に嫌われるのが怖い。それなのに、この気持ちを塞ぐためには、彼方に嫌われなきゃいけない。

 

 ……私は、どうしたらいいんだろう。

 

───────────────────────

 

 

 

 

 

 

 ……

 

 

 

 

 

 ……

 

 

 

 

 

 

「あ……あぁ……」

 

 

 

 ガタガタと、手が震える。日記に書いてあることが、理解できるけど理解できない。ただの文字の羅列なのに、僕はまるで眩暈がしたかのようによろけてしまう。

 

 遥が……。

 僕のことを……? 

 

 そんなの、おかしいはずだ。兄妹なのにそんな気持ちを抱くなんておかしい。それは現代社会で間違いなく異端なもので、忌避される思いだ。この世界の理から外れた異性愛で、決して許されることのない関係。

 僕と遥は兄妹だろ? 双子の兄妹としてずっと生きてきたじゃないか。幼い頃は仲良く遊んで、喧嘩なんかもして、そのたびに母さんに叱られて。家族らしい家族として生きてきたんだ。

 それなのにいつからか、何かが変わってしまった。言葉にできないその何かによって、僕たちは()()()()()から脱線してしまったんだ。

 

 僕は何も知らなかった。気づくこともできなかった。妹が僕に対して抱いていた気持ちも、その苦しみも。ずっと近くて、ずっと遠い僕たちの関係が、どうしようもない葛藤を生み出してしまっていることも。

 

 

「っ……」

 

 

 平衡感覚が失われたようによろけそうな僕の目に、窓の外の光景が映る。

 

 外に浮かぶ宵闇には、静かに輝く三日月の明かりが灯る。太陽の光に照らし出されるそれは、一部分しか輝いておらずその全貌を見せてはくれない。

 

 ……僕は、どうしたら……。

 

 

 ──そのときだった。玄関のドアが勢いよく開く音が聴こえた。

 

 

 

「あ……」

 

 

 

 ドタドタと、階段を真っすぐ駆けあがってくる音。その音は、僕のいるここへと近づいてきていた。この家に出入りする人なんて、僕以外には一人しかいない。

 

 まずい。今すぐ、この日記を隠さないと。

 

 それなのに、僕の体は石のように固まってしまって動けない。呼吸さえ止まってしまった数秒間はスローモーションのように長くも感じて、僕はその狭間に囚われていた。

 

 一歩、また一歩と。階段を駆け上がる足音が、部屋の前までやってきた。

 

 

 

「──!」

 

 

 

 バタンと、大きな音を立てて、ドアが開く。

 そこから見えたのは。

 

 

 

「はる、か……」

 

 

 

 鬼気迫った表情の遥。

 

 制服に身を包んだままで、肩にカバンをかける遥は、はぁ、はぁと息を切らしていた。必死に走ってきたのか、濡羽色の長髪は少し乱れていた。肌寒い外を走ってきた遥の頬は、薄い赤に色づいている。

 

 でも、それも数瞬の姿だった。

 

 遥の視線がゆっくりと、僕の顔から僕の手元まで移る。僕が手にしていた青い日記に気づくと、目を大きく見開いて口をパクパクとさせた。

 遥の顔から、血の気が失われていく。ただでさえ白い肌が、徐々に真っ青になっていった。

 僕はやっぱり動けなかった。遥の日記の内容を見たショックはそれほどまでに大きくて、思考も体も動かせなかった。

 

 部室での出来事の後、遥がどこに行っていたのかは知らない。けれど、何故こんなに焦って帰ってきたのかは分かる。

 遥は気づいたんだ。誰にも見られないように肌身離さず持っていたはずの日記が、いつの間にかカバンの中から消えていたことを。

 

 そして……。

 

 

「……彼方……」

 

 

 僕がこの日記を読んでしまったことを。

 

 日記を読んで固まっていた僕の耳に、遥の震える声が響く。

 

 

「……まさ、か……」

 

 

 掠れそうな声が、痛いくらいに耳に突き刺さる。

 

 

 

「まさか……見た……の……?」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十八話

 

 

 

「まさか……見た、の……?」

 

 

 

 力なく頼りない声。おそるおそると唇を震わせながら、縋り付くように手を伸ばす遥。その真実を、決して信じたくない現実を、嘘だと思うように。僕は何も言えず、黙ることしかできない。

 でも、ここでの沈黙は紛れもない肯定の証で。凍りついた空気の中で、遥がぽつりと言葉を零した。

 

 

「……そう……なのね……」

 

 

 伸ばされた手が、だらんと下がる。遥の呆然とした顔にはもう取り繕えるものは何もなかった。薄氷の上で成り立っていた僕たちの関係が、根本から崩れ落ちていく。

 遥は俯くと、乾いた笑いを上げ始めた。もう何もかもどうでもいいと、全てを諦めきった声。今まで必死に隠してきたものが暴かれてしまったことに、遥は何の感慨も抱いていないだろう。抱けるわけがない。

 僕も顔を伏せた。妹の秘密を知ってしまった今、どういう目で遥を見ればいいのか分からなかったから。気づけば、また手が震えていた。理由は分からなかった。喜怒哀楽の何にも属さない心の行き場はどこにもなく、真っ暗な深い闇へと姿を隠していく。

 

 

 部屋の中は静謐だ。僕と遥以外、誰もいない僕の部屋。小さなテーブルと勉強机とベッド、そして本棚しかない簡素な部屋。広々とした部屋にポツンと立ち尽くす僕は、日記を強く握りしめる。

 

 

 遥が、伏せていた顔をゆっくりと上げた。

 ポタっと。床のカーペットが濡れた。

 

 

 

「気持ち悪いって……思ったでしょ……? 私がっ……彼方を、異性として好きだなんて……っ……」

「あ……」

 

 

 

 遥は泣いていた。儚く、何かを諦めたように薄く笑みながら、頬を濡らしていた。

 今までの妹の姿で、僕が一度も見たことがない顔。冷然で凛然とした相貌はそこにはなくて、突っぱねるような強い拒絶もない。白磁のような頬を滑る雫は止まることがなく、静かに流れ落ちていく。寒さに凍える幼子のように体を小さく震わせて、遥は今まで閉じ込めてきた想いの全てをさらけ出していた。

 それなのに、僕は手を伸ばすことができない。もし触れてしまえば、雪のように儚く消えてしまうような気がしたから。

 

 

「……遥。この日記に書いてあることは、やっぱり……」

「……ええ、本当よ」

「どう、して……」

 

 

 混乱する頭の中でぼやいた言葉。それが今の遥をひどく刺激してしまうことに僕は配慮できなかった。

 

 

「”どうして”……だなんて」

 

 

 ぎゅっと目を瞑って、制服の胸元を掴むように手を握り込む。切れ長の目許から涙を落としながら、遥は首を振った。

 

 

 

「──そんなの、私にも分からないわよ!」

 

 

 

 怒りや悲しみ、嘆きと苦しみといった、あらゆる思いが叫びに籠る。でも、僕にはその想いの深さを、強さを知ることができない。僕はたった一人の妹のことを、何も知らなかったのだから。

 

 

「私にだってっ……分からないわよ……! なんで彼方を、そういう目で見るようになったかなんて……分からない……!」

 

 

 遥の握りしめた手は青白んでいた。部屋の中は秋の気温らしからぬ寒さに満ちている。この部屋はもはや、厳寒な冬さえも凌ぐ孤立した世界へと移り変わっていた。

 

 

「……彼方はいつもそばにいてくれた。母さんが亡くなる前も、亡くなった後も。……私は彼方がいたから、寂しくなんてなかった。彼方といると、誰よりも安心するの……」

「……」

「私はっ……彼方が好きなのっ……」

 

 

 全てを白状する遥の姿があまりにもつらそうで、苦しそうで。遥の痛々しい姿に僕もまた、胸が苦しくなった。

 本来なら僕は、その言葉を素直に喜べたのだろう。家族を愛し、家族に愛される。当たり前のようでいて、実は難しいことだ。

 それに僕は母さんと約束した。母さんが安心して眠れるように、僕は母さんとの約束のために頑張って生きてきた。ずっと兄妹で仲良くって、約束したんだ。

 

 ……なのに。

 

 

「……彼方は覚えてる? 中学校に入学した時期のこと……」

 

 

 僕はその言葉に、遥が何を言いたいのかが分かった。遥が僕を避けていた理由。僕がずっと、心の底で気にしていたことだった。

 

 

「もしかして、僕を避けていたのは……」

「……そうよ。中学生になってから、父さんが家を空けることが多くなったでしょ? 私は怖かった。彼方と二人きりになると、自分の気持ちを抑えられなくなりそうで怖かった……」

「……」

「だからっ……なるべく、彼方と一緒にいないようにしようって……っ……」

 

 

 ぼたぼたと、床のカーペットを濡らす涙に。

 僕は遥の態度の意味を、やっと理解した。

 

 

 ──もう、学校には一緒に行かない。

 

 ──話しかけてこないで。

 

 ──絶対に私の部屋には入らないで。

 

 

 ……そうだ。遥が僕を避け始めたのは、まさにその時期だった。

 

 遥はずっと、自分の気持ちが僕にバレてしまうことを恐れていた。だから遥は、わざと僕に嫌われるように振舞ってきた。僕に嫌われてしまえば、その気持ちはきっと隠し通せるから。

 今までの遥の冷たい言葉や態度。普段の生活での僕を避けるような行動。その全ての裏側に、途方もない苦しみがあった。

 

 

「それが彼方を傷つけてるって……私、分かってた。分かってたのにっ……」

 

 

 遥にかけるべき言葉が、何も思いつかない。僕が遥を強く拒絶すればいいのか、優しく諭してあげればいいのか。

 だけど、そもそも何を諭せばいいというんだ。その気持ちは絶対に間違ったものだから捨ててしまえと、そう言えばいいのだろうか。遥が僕を想う気持ちが、間違ったものだと。

 

 

「私のこと、嫌いになったでしょ……?」

「……」

「私なんかっ……大嫌いになった……っ……でしょ……?」

 

 

 濡羽色の美しく艶やかな髪は、力なく垂れ下がったまま。白く輝くアネモネのヘアピンが、照明に反射して強く輝いていた。

 

 

「早く……言ってよっ……」

「え……」

 

 

 掠れそうな声がひどく痛々しくて。それなのに、僕は何も言えなくて。遥は俯きながら、首を振って吐き捨てるように言った。

 

 

 

「──私のことなんか嫌いだって、早く言ってよ!」

 

 

 

 それはきっと、遥の本心じゃない。苦しくて悩んで、でも誰にも言えなくて。想いを自分の中に閉じ込めるためのただの自傷行為だ。社会の正しさや理に反した自分を制御するために、遥は必死に我慢していた。

 両手で顔を覆う遥。けれど、それでも涙が滴り落ちていく。しゃくりあげる遥の姿は、昔のようにあどけなかった。母さんが死んで、途方に暮れていたあのときみたいに。

 

 

「おかしいことくらい分かってるっ……。兄妹なのに、こんなのっ……」

 

 

 僕はどうしたらいいんだろう。兄妹で恋愛感情を持つことなんて許されるわけがない。現代の社会で忌避されるその想いは、決して明るみに出てはならないものだ。

 限りなく近い距離にいる僕たちの、限りなく遠い関係だ。

 

 

「もういやっ……いやぁ……。彼方といるとっ……気持ちが抑えられないっ……」

 

 

 叱りつけられた後の子どものように、遥は泣き止まない。手の甲で目元を拭う遥に、よく兄妹喧嘩していたあの頃の光景が重なる。拭っても拭っても、止まることのない涙。

 

 だけど。

 

 

「遥……」

 

 

 僕の手は、あの頃のように差し伸べることを躊躇っていた。ここで、何をするのが正しい選択なのか、間違った選択なのかが分からなかった。

 

 ……いや。そもそも正しい選択って何なんだろう。間違った選択って何なんだろう。世界のルールや常識に従うのが正しいのなら、僕はきっと遥を傷つけなければならない。それは本当に正しいことなのか。

 

 

「何か言ってよ……彼方……」

 

 

 遥は僕の方を見ずに、胸を抑えつけながら俯く。家族として言うべき言葉も、兄として言うべき言葉も、()()として言うべき言葉も、きっとそれぞれが違うものだ。

 

 ……どうして、遥がこんなに苦しまなければならないんだろう。

 

 僕はずっと、そうならないように努めてきたつもりだった。遥が毎日を穏やかに、健やかに過ごせるようにしてきたつもりだった。

 でも、所詮は”つもり”にすぎない。僕のやってることはただの自己満足であり、自己肯定なのだと。見て見ぬふりをしていただけで、ずっと分かっていたことだ。こうして真実を目の当たりにして、僕は理解した。

 

 今まで積み重ねてきた時間の全て。

 その正体は、遥を苦しめる悪夢だった。

 

 僕がいるから。

 僕の存在そのものが、遥を苦しめていた。

 

 

 

「……ごめん」

「っ……それは、何に謝ってるのよっ……」

 

 

 

 自分でも分からなかった。謝ることで、何が変わるわけでもないというのに。

 やっぱりそうだ。僕のやることなすこと、全てにおいて、結果的に何かを残せているわけじゃない。

 小学校、中学校、高校と。時間が進むにつれて、僕は何か変わっただろうか。妹を守れる存在になりたいと願った昔の自分に、僕は胸を張っていられるだろうか。

 

 

「僕は……」

 

 

 それでも、僕と遥は双子の兄妹。兄妹じゃなくちゃいけない。

 

 

「僕、は……」

 

 

 ──ずっと兄妹で仲良く。

 

 

「……」

 

 

 ……僕はいったい、いつまでその言葉に依存するつもりなんだ。

 

 頭が痛い。割れるように痛い。あの日の母さんの言葉は決して間違ったものではないと断言できるのに、遥が苦しんでいる現状がその記憶にノイズをかける。今こうして泣いてる妹の顔が、強く握られる手が、怯えるように震える肩が。僕に何度も、このままでいいのかと問い詰めてくる。

 

 

「私はっ……わた、しは……っ……」

「あ……遥!」

 

 

 突然、遥がくずおれた。ふらっと倒れそうな妹の体を、僕は慌てて受け止めた。荒く不規則な呼吸に、真っ青な顔。

 

 

「かな……た……」

「……」

 

 

 目を瞑りながら、眠りに落ちる遥。

 僕はただ、呆然と見ていることしかできなかった。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 すぅ、すぅと。ごく小さな寝息が聞こえる。

 

 シックな雰囲気の部屋は、年ごろの女の子の可愛らしさのようなものはない。派手さや煌びやかさもない部屋は、モノクロのように色褪せてさえ見えた。僕は一度、ぐるっと部屋の周りを見渡してから、再び視線を元に戻した。

 

 ベッドの上で眠る遥は、目を閉じて規則正しく胸を上下させていた。

 

 僕の部屋で倒れてから、僕は妹の部屋まで背負ってベッドまで運んだ。遥が倒れたのはおそらく過呼吸のせいだ。精神的に不安定になって、呼吸がまともにできなかったのだろう。遥は時折うなされていたけど、今はようやく落ち着いて眠り始めた。

 

 

「……」

 

 

 ……遥が、僕のことを好きだなんて……。

 

 時間が経ってある程度頭の中の整理がついたのか、僕は幾ばくか冷静になることができた。遥の秘めていた想いが、決して嘘などではないのだと、その現状を実感することができた。ただ、それと同時にのしかかるのは非情な現実。僕と遥の、双子の兄妹という関係そのものだった。それは、僕と遥をつなぐたった一つの絆。

 きっとこのまま、何もかもなかったことにして、知らないふりをすることが穏便に済む一番の方法なのだろう。前みたいにとはいかなくても、時間が経てばその内、元通りになると信じて。

 

 ……でも、それだと遥はどうなるんだ。ずっと苦しんでいた遥は、いったいどうなるんだよ。

 

 このまま、遥を苦しませていいとでも言うのか。

 

 

「……」

 

 

 そう言えば、僕が熱で倒れたときも、遥はこうやって僕のことを看病してくれたのだろうか。ずっと寝てたから、実際にどうだったかは分からないけれど。さっき僕がやったみたいに、こんなに細い体で僕のことを背負ってベッドまで運んでくれたのだろうか。

 

 

「……ん……」

 

 

 身じろぎした遥の髪が乱れて、頬にかかる。僕はそっと髪に触れて、横に滑らせた。長く綺麗な濡羽色の髪が、しゅるっと横に流れる。白色のヘアピンは部屋の照明に照らされて、光そのもののように玲瓏(れいろう)だ。閉じた瞼には長いまつ毛が縁取っていて、形の良く小さな唇から吐息が漏れる。

 

 

 僕は遥を起こさないようにゆっくりと立つと、部屋を出て、廊下にへたり込むように座った。

 

 パタン、とドアが閉まる。

 

 冷たい床。冷たい壁、冷たい空気。全部が冷たい。そのまま凍りついてしまえば、何も考えなくて済むのに。このままここで目を閉じて、次に目が覚めたときに、今日のことがなかったことになっていれば……。

 

 

「……あ」

 

 

 ポケットからスマホの振動音。取り出してタップして確認すると、茜から一通のメールが来ていた。開封して中を確認する。

 

 

『遥ちゃん、大丈夫だった? あたしでよければいつでも力になるから、なんでも相談してね』

 

 

 茜からのメールは、僕と遥の二人を思いやるものだった。その優しさは、羽のようにふわりと柔らかく、そっと胸に落ちる。なのに今は、その柔らかさが、しなやかさが痛かった。

 今日の文化祭でずっと一緒にいた茜。茜に励まされたあの日、僕は改めて妹と向き合えた。あの日からずっと、茜は僕と妹のことを気にかけてくれていた。

 

 でも。

 

 

「……」

 

 

 ……話せるわけないだろ。誰かに相談なんてできるわけない。ましてや、茜に対してそんなことを。僕を好きだと言ってくれた茜に、こんなこと……。

 

 

「うっ……」

 

 

 胸が苦しい。言いようのない不安と、強い孤独感が身を襲う。

 

 膝を抱えて、顔を腕で覆った。深い闇の中に逃げ込むように、周囲の景色も自分の姿さえも隠す。

 もし、このまま消えることができるのだとしたら。僕はこの現状から逃げることができる。茜の想いも、遥の想いも、全てを捨てる勇気と覚悟があるのなら。

 

 ……そんな勇気、ないくせに。

 

 誰も答えなんて教えてはくれない。僕が導くべき答えは、僕しか知り得ない。それは分かってる。分かってるんだよ。

 

 

「分かってるよっ……」

 

 

 自問自答を繰り返す。いや、それはたぶん、自答にはなっていなかった。自問だけを繰り返す自分に、僕は何も答えられない。正真正銘の卑怯者だった。

 

 

 壁に手をついて立ち上がる。ふらふらと、幽鬼のような足取りは、自分が今どこにいるのかさえさえ分からない。

 階段を降りて、リビングへと降りる。キッチンの蛇口をひねり、コップ一杯の水を飲み干した。いつまでも胸の中に巣食うもやもやを、綺麗に洗い流してしまいたかった。

 

 

「……っ」

 

 

 真っ暗なリビングには、僕以外に誰もいない。四人から三人、三人から二人へと、食卓を囲む人数は減っていった。そして今は……。

 

 

「うぅ……あぁ……」

 

 

 ずるずると、僕は再びへたり込んだ。体の力は抜けていき、理解の範疇を越えた現実に、脳がフリーズする。散漫な思考には誰の姿も映らない。白昼夢の中でただぽつんと立つように、現実と非現実の狭間に囚われる。ずっと探していた妹の想いの正体を、どうしても受け止めきることができない。

 

 

 僕はしばらくの間、そこから動くことができなかった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十九話

 

 

「あ……おはよう、カナ」

 

 

 教室に入って聞こえた第一声は、茜のものだった。家を早めに出た割には歩く速度は遅く、中途半端な時間に学校に着いてしまった。茜に声をかけられて少しだけ体が強張るのを感じながらも、僕はおはようと返した。

 

 

「あの……遥ちゃん。どうだった?」

「……」

 

 

 心配そうに僕の顔を覗き込む茜。彼女の瞳は綺麗な鳶色。真っ直ぐな眼差しに宿るのは彼女の心。茜はきっと、他にも訊きたいことがあるはずだ。

 

 昨日の告白。

 

 茜は僕にとって、久しぶりにできた友達だった。いや、久しぶりなどではなく、初めてできた本当の意味での友達だったかもしれない。話すようになったきっかけは本当に偶然だったけれど、それでも隣の席で話をしていく内に少しづつお互いのことを知っていった。

 そんな彼女は、僕のことが好きだと言ってくれた。僕はその気持ちに、きちんと返事をしないといけない。

 

 ……茜はその答えを待っているはずなのに。今すぐにでも、訊きたいはずなのに。

 

 

「昨日もメールしたけど……あたしに何かできることはある?」

「……いや、大丈夫だよ」

 

 

 それなのに、茜は僕と遥のことを気にかけてくれている。その優しさや健気さをこうして真正面から向けられると、胸がひどく痛んだ。

 僕は表情を作った。引きつりそうな頬を、硬くなりそうな声を抑えながら。カバンを机の横に引っ掛け、頬杖をついた。

 

 今日の朝。起きてきたときに遥の部屋を訪ねると、何も返事がなかった。登校する時間になっても遥は部屋から出てこなくて、何度ノックしても、何度メールしても全く返事がなかった。そして結局僕は、リビングにご飯を用意してそのまま家を出た。遥との間に生じた溝の埋め方も分からないまま。

 

 僕は教室の黒板をぼんやりと眺めた。何も書かれていないまっさらな黒板。何の色合いも感じられない無機質な黒板には、何度も文字が書き込まれては消されていく。

 

 記してきた今までの歴史など、無かったかのように。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

『……出て行って』

 

 

 昨日の深夜近くになって、ベッドで眠る遥が目を覚まして放った一言がそれだった。体を起こした遥は掛布団を握りしめながら、身を震わせていた。

 遥の打ちひしがれた横顔や、小さく掠れそうな声。ふさぎ込むように体育座りをしてしまった遥に、僕は何も言えなかった。

 

 憔悴しきった様子の遥に、僕はどう接するべきかを考えていた。遥が僕をどう思っていたのかを僕は知ってしまった。それは決して遥が望んでいないこと。

 

 ギクシャクしてしまった僕と遥の関係は、もっとシンプルなはずだった。双子の兄妹という、ただそれだけの関係。それが今は、白く霧がかった世界のように見えなくなっていた。

 

 

『……分かった。ご飯は作ってあるから、お腹すいたら食べて』

『……』

 

 

 話す言葉も見つからず、僕はそれだけを告げた。

 でも、遥からの反応は無くて。ズキっと胸が痛んだ。

 だってその顔は、僕が遥に一番してほしくない顔だから。いつ泣き出すともしれない苦悶に満ちたその表情を、僕は誰よりも知っていたから。

 

 

『……遥』

『……なに?』

 

 

 部屋を出る直前。僕はドアに手をかけながら、もう一度遥の方に振り向いた。遥はこちらを一瞥もせず、やっぱり顔は伏せたまま。

 

 

『……おやすみ』

『……』

 

 

 パタン、とドアが閉まる。それは一つの合図。

 僕と遥を隔てる一枚の壁。本当はもっと簡単に触れられるはずなのに、僕は触れるのが怖かった。

 目を閉じて、耳を澄ます。何も聴こえない、何も感じられない。氷のように固まった世界は氷解する兆しもなく、降り積もる雪に体は飲み込まれていく。息づく生命のない孤独な土地は、一寸先も見えない。一歩踏み間違えれば、奈落の底へと真っ逆さまに転落していくだろう。

 僕は間違っていたのだろうか。母さんが示してくれた正しさに従う僕は、間違っていたのだろうか。何もかもが色褪せて見えた世界の真っ暗な道の中で、一筋だけ見えた光がそれだった。苦しくても、泣きたくても、何度つまずいても。遥がいたから、僕は自分を見失わなかった。

 

 その結果が、これだった。

 

 ……ほら。

 やっぱり僕は、変わることができなかった。

 

 

 

 ……

 

 

 ……

 

 

 

「……カナ?」

 

 

 昨日のことを思い返していた僕は、茜の声にはっとした。気づけば教室には大体のクラスメイトがそろっていた。

 

 

「あ……ホームルームか。ちょっとぼーっとしてたよ」

「……」

 

 

 何か言わなきゃいけないと、咄嗟に思った僕から放たれた言葉。けれど、茜は何かを察したように目を伏せる。

 

 茜の落ち込んだ顔を見て、僕はより一層胸が苦しくなった。僕は昨日の茜からの告白に、何も返事ができていない。こんなに優しい子の気持ちに、すぐに答えることができなかった。

 茜がそわそわと髪の毛先をいじる。気まずい空気、とでも言えばいいのだろうか。でも、そもそも一方的に気まずくしてるのは僕自身だ。茜のせいじゃない。

 

 

「……心配しなくても大丈夫だよ。すぐに元通りになるから」

 

 

 言ってから気づく。

 

 ……元通りって、何だろう。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 放課後の図書室は、ひどく静かだ。変な表現かもしれないけど、うるさいくらいの静寂に満ちている。

 図書室特有の乾いた紙の匂いや、新品の本のインクの匂い。図書室は独特の空気に満ちている。誰もいない図書室の受付の席で僕は、本に目を落とす。一行、また一行と活字の列を目で追う。けれど、内容は全く頭に入ってこない。

 どうして僕はこんなところにいるんだろう。もっとやらなければならないことはあるのに。返事をしなければならない人がいるのに。そして、どうしても話をしなくちゃいけない人がいるのに。

 

 緩いため息がもれた。けれど、胸のもやもややつかえが消えることはない。吐いた息は、行く当てもなく霧散する。

 図書室の中は昨日の文化祭がまるで夢だったのでないかと思ってしまうほどに静かだ。一日中片付けに費やした体は、疲労がたまりきっていて気怠い。

 

 

「……」

 

 

 本のページを閉じて、椅子から立ち上がる。居心地が良いはずの図書室は、どうしてか僕を責め立てているように感じられた。物言わぬ書物の圧力のせいか、落ち着くことができない。

 

 ここは誰もいない、温かくも冷たくもない世界。見渡す限りに存在する全ての本には、それぞれ物語が内包されている。著者も登場人物も何もかもが異なるそれらには一つの始まりがあって、一つの結末がある。

 厳然と佇む現実も、笑ってしまうような夢物語も。悲惨な結末を辿る悲劇も、輝かしい未来へと進む幸せも。一つとして同じものはない。

 

 

 窓際まで歩き、外を見た。雲が散らばる空の隙間からは、オレンジ色のやわらかく温かい光が見える。手をかざしてみれば、ぶれることのない真っすぐな光が静かに肌を照らした。

 光の線を掴むように一度手を握る。けれど僕の手は宙を切ってしまい、何を掴むこともなかった。僕はただ、そこにあった過去を羨むことしかできない。息を切らして走り続けて、どんなに追いすがろうとしても届かない。だって、時間は絶え間なく流れるものだから。進みこそすれ、戻ることはない。

 

 

 ……僕は……。

 

 

 ──風が吹いた。

 

 

 巡る思考の中、それを妨げるように図書室のドアが開いた。入ってきたのは黒髪のショートカットの女の子。

 

 

「はぁ……はぁ……。……あ、彼方くん」

「……美玖?」

 

 

 入ってきたのは美玖だった。彼女は頬を紅潮させ、何故か息を切らしていた。どうやら小走りして図書室まで来たようで、彼女は鼓動を落ち着かせるように胸に手を置いて、呼吸を整えてからゆっくりと口を開いた。

 

 

「今いい? ちょっと、話したいことがあるんだけど……」

「……ごめん。そろそろ帰るつもりだったから」

 

 

 僕はわざとらしくカバンを持って席を立とうとした。今は誰とも話す気分じゃなかった。結論の出ない堂々巡りの思考を繰り返すしかない現状から、僕は脱却できない。こうしてる今も、誰かを傷つけたままだというのに。

 

 

「待って」

「っ……なに?」

 

 

 目の前に回り込んできた美玖に、僕は歩みを止めざるをえなかった。前のめりになっていた僕は、必然的につんのめった。

 僕の声は、きっと美玖からしたら気持ちいいものではなかったと思う。半ば八つ当たりのように荒らげそうになってしまった声に、僕は後悔した。人の顔を見ようともしない今の僕は、誰よりも不誠実だ。

 でも、美玖は全く意に介してない様子で。僕はそれが、どうにも引っ掛かった。

 

 嫌な予感が、背筋をすっと撫でた。

 

 

「……ねぇ、彼方くん。一つ訊きたいことがあるんだけど」

 

 

 そしてその予感は──

 

 

 

「ひょっとして、遥の日記。見た?」

 

 

 

 ──僕の喉をきゅっと締め上げた。

 

 “日記”という言葉に、僕は平静でいることができなかった。その言葉の意味を理解すると同時に襲い掛かるのは、胃が冷たく血の気が失せるような感覚。僕は呼吸さえ忘れてしまいそうになった。まるで、奈落の底に真っ逆さまに落ちていく浮遊感が襲ってくる。足場もなく、掴める場所もない僕は、その流れに身を委ねることしかできない。

 

 

 

「……その反応、やっぱりそうなんだね」

「あ……」

 

 

 

 美玖は小さく嘆息して、微苦笑にも似た表情を浮かべる。僕はその顔に違和感を覚えた。

 ……どうして美玖は日記のことを知っているのか。そして、もし日記の内容を知っているのならどうしてそんな平静でいられるのか。

 

 目まぐるしく疑問が飛び交う中、美玖はブレザーのポケットから何かを取り出した。

 

 

「……あ……」

 

 

 それは一枚の写真。幼い頃の僕と遥が写った、遠い昔の写真だった。

 僕が前に遥の部屋で見つけたときは、日記に挟まっていた。あのときは気づかなかったけど、おそらく部室のどこかに落ちていたのだろう。

 

 

「わたし、遥の秘密を知ってたんだ。日記に書いてある内容も、この写真を大切に持ってることも」

 

 

 その美玖の話を聞いて。僕はやっと思い出した。そうだ。美玖は以前、遥が僕を避けていた理由を知っていると言っていた。僕はそのことをすっかり忘れていた。

 

 

「一度ね。わたし、部室でたまたま読んじゃったことがあったんだ。部活がなくて本当は誰もいなはずなのに、部室が空いてて。それで部室に入ったら、机の上に日記が置かれてたの。……遥の日記が」

「……遥は、そのことを……」

「うん、遥も知ってるよ」

 

 

 ……そんなことがあったのか。思えば遥は、高校に入ってから毎日のように帰りが遅かった。それは遥も話していた通り、僕を避けるためだろう。おそらくそこでも、同じように日記を書いていたのかもしれない。

 

 

「……でも、どうしてその写真だけで僕が日記を見たって分かったの?」

「んー……。昨日が文化祭だったから、かな」

「……?」

 

 

 要領を得ない答えに、僕は首を傾げた。けれど、美玖は至って穏やかな顔で僕を見ていて。そこには気持ち悪がったり、不快なものを見るような負の感情は一切なかった。

 

 

 美玖は知っていることを全部話してくれた。それは初めて遥の秘密を知ってから今までのこと。そして、遥の気持ちを知ってもなお変わらなかった美玖と遥が友達になったこと。一つ一つ、(つぶさ)に教えてくれた。美玖は戸惑った様子もなく、微笑を浮かべながら話す。

 

 

「……そう、だったんだ」

 

 

 僕は呆然としていた。決して知られてはならない真実を、美玖は知っていたと言う。ぽっかりと空いた呆気なさだけが残っていた。

 

 

「……美玖は全部知ってたんだよね? なんで、それでも遥と……」

「……わたしさ、誰かを好きになったことはないけど……」

 

 

 美玖は手を後ろ手に組みながら、片足を床に擦らせた。

 

 

「好きの気持ちに間違いなんてないって、そう思うんだ。それがたとえ、どんな関係だったとしても」

「……それは綺麗ごとだよ」

「……そうかもしれないね」

 

 

 遥が僕を想う気持ちは、僕が遥に抱く気持ちとはきっと別物だ。同じ想いを共有していない僕らが、仮にその道に進んだとしてもどこかで破綻する。

 

 美玖の話はおとぎ話だ。現実にはあり得ない。あってはならない。

 

 

「でも、これだけは言わせて。彼方くんは遥の気持ち、嬉しくなかったの?」

「っ……」

 

 

 手を握り込む。指の爪が手のひらに食い込んで痛い。美玖が言うほど、そんな単純な話じゃない。

 

 

「……素直に喜べるわけないよ」

「どうして?」

「……どうしてって……」

 

 

 美玖が食い下がってくるのが、僕はどうしても理解できなかった。

 

 

「僕と遥は兄妹なんだから当たり前──」

「それって、本当に彼方くんの本心なの?」

「……え?」

 

 

 美玖の真っすぐな眼差しに、目をそらすことは許されない。

 ……本心に、決まってるだろ。美玖は当事者じゃないからそんなことが言えるんだ。

 

 

 

 

 

 ──ずっと兄妹で仲良く。

 

 

 

 

 

「っ……」

 

 

 まただ。母さんの声が、何度もリフレインする。

 もうやめてくれ。頭の中がぐちゃぐちゃにかき乱されてしまう。今まで僕が、僕でいられた証がなくなってしまう。

 

 

「彼方くんは自分の気持ちに嘘ついてるよ。……自分の気持ちが、分かってないよ」

「っ……なんで美玖にそんなことが言えるんだよ」

 

 

 口調が乱暴なものになってしまう。美玖が悪いことなんて何一つとしてないのに。ミシミシと心が悲鳴を上げるのを、僕は抑えることができない。

 自分の気持ちが分かってないって、そんなこと分かってる。何をするべきかも分かってないんだ。

 

 

「……ねぇ、彼方くん。もっとシンプルに考えて。彼方くんは遥のこと、どう思ってるの?」

「大切な妹だよ、でもそれは僕が兄だから──」

「違うよ」

 

 

 美玖の鈴を転がすような声。

 

 

「それはね、兄だからじゃなくて」

 

 

 しゃん、と。荒れ狂う水面を静めるように、一つの波紋が広がった。

 

 

 

「──()()()()()()()、なんだよ?」

 

 

 

 ──気配が消えた。

 

 図書室にいるはずの僕は、いつの間にか真っ白な世界に没入していた。美玖の声が、遠く聴こえた。

 

 

 

「よく考えて。遥の兄としてじゃなくて。他の誰でもない、彼方くん自身の気持ちを考えて」

 

 

 

 暑くもなければ寒くもない。不思議な空間へと誘われていく。

 

 

 

 

「本当の彼方くんは、どこにいるの?」

 

 

 

 

 ……本当の僕は、どこにいるんだろう。

 

 それは錯覚だった。真っ白な世界の中で、僕と相対する黒い影。表裏一体の影は何も言わないし、僕が動かなければ当然動くことはない。

 

 僕と遥は、ずっと一緒だった。幼い頃は、まるで鏡合わせのように似た姿で。自分の分身とも呼べる、僕にとって特別な存在。僕と遥は双子の兄妹だ。だけど、それはあくまで僕と遥の関係に過ぎない。

 何度も胸に刻んできた母さんの言葉。僕はそれが自分の役割だと認識していた。きっと、今までもこれからもそれは変わらないだろう。

 

 ……ああ、そっか。

 

 僕はたぶん、その瞬間から考えることをやめていたんだ。僕に足りていなかったのは、遥の気持ちを考えることよりも、自分の気持ちを考えることだった。

 

 黒い影は何も言わない。僕が動かない限り動くことはない。まだ姿も形もない僕自身がそこにはいた。

 

 僕は……。

 

 ……。

 

 

「……ごめん、僕は帰るよ」

「あ……」

 

 

 美玖の声を背に、僕は図書室を出た。

 

 今はただ、独りになりたかった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十話

 

 夕暮れも終わりを迎えそうな公園には誰もいない。ブランコの鎖がきしむ音が、カラスの鳴き声に重なって聴こえていた。ぶらつく足元には、僕の影がある。地面に乖離(かいり)する真っ黒なシルエットはもう一人の自分。

 

 

 

『本当の彼方くんは、どこにいるの?』

 

 

 

 美玖の問いかけが、心に深く突き刺さっていた。遥の兄としての僕と、他の誰でもない僕自身。それは同じようでいて実は違うものなのだと、美玖はそう言いたいのだろう。

 仮に僕が、遥の兄ではなかったとして。僕は遥のことをどう思うのだろう。あまりにも非現実的な思考になってしまうけれど……。

 

 僕は兄だから遥を大切に思っている。それは当然のことなのか? 

 家族だから大切に思っている。それは普遍のことなのか? 

 

 家族仲が悪い人だって世の中にはたくさんいるだろうし、血のつながりのない家族でも仲の良い人たちはいるだろう。だったら僕の前提は間違っている。僕が遥のことを大切に思うのは兄だからじゃない。それ以前にもっと根本的なものがあるはずだという結論に落ち着いてしまう。

 

 

「……」

 

 

 いったい、何を考えているのか。馬鹿正直にこんなことを考える人なんて、きっと僕以外にはいないだろう。この広い世界の中でたった一人。

 

 いや、一人じゃない。悩み苦しんでいるのは、僕だけじゃない。

 

 ゆらゆら揺れるブランコと共に、もう一度空を見上げた。黄昏時にゆっくりと流れるうろこ雲。その向こう側はここから見ることはできない。いつもと変わらないはずの空は、果たして本当にあるのだろうか。

 そう言えば。遥と久しぶりにちゃんと話したのは、この公園だった。決して穏やかなものではなかったけれど、偽りのない本心を久しぶりに吐露した。遥だって冷静じゃなかったけど、ちゃんと感情を顕わにして話してくれた。

 

 視界の端から、一匹の小鳥が飛んできた。茜色に染まり始める空に、一匹の小鳥が大きく飛び回る。自由に空を駆け走る小鳥は、翼を力強くはためかせる。飛んでいく先は僕には分からない。目的地があるのか、ただ彷徨うだけなのか。

 

 ……僕はどこに向かえばいいのだろう。

 

 ブランコを掴む手を離す。動くことを拒んでいた体は、こうして立ち上がるまでにひどく時間を要した。家に帰りづらいと思うのなんて初めてかもしれない。

 遥はどうだろう。僕に帰ってきてほしくないと思っているだろうか。

 

 いずれにせよ、このままではいけないのは分かってる。

 

 

 公園から出て数分歩くと、見慣れた帰り道に差し掛かる。眩しい陽の光も、もうそろそろ夜へと姿を隠す時間。遊んだ帰りなのか、はしゃぎながら駆け走る子どもたちもいれば、犬の散歩をしている人もいた。

 みんな家に帰る時間だ。それぞれ、あたたかな家庭が待っている自分の家へ。

 

 公園から家までの距離は割と近い。さほど時間もかからず、すぐに家まで着いてしまった。玄関のドアノブをぐっと握る。冷たい鋼鉄が手のひらを襲った。僕はゆっくりとドアを開いた。

 

 

「……ただいま」

 

 

 開いた玄関の床には、やっぱり僕のシルエットが映し出される。背中から差し込む陽光は、まるで僕をそっと押すようで、僕はゆっくりと歩を進めた。

 リビングには誰もいない。テーブルの上には、朝食が残されたまま。遥は手をつけてもいないようだった。

 

 二階に上がって、遥の部屋をノックする。木製のドアの乾いた音。返事はきっとないだろうと分かっていながらも、僕は数回ノックを繰り返す。

 

 返ってくるのは、空しい反響音だけ。

 

 ノックしながら思う。僕はまだ何も答えを出せていない。もし、今ここで話をうやむやにしてしまえば、おそらく表面上は元に戻れるかもしれない。けれど、それだと遥はずっと傷ついたままだ。傷を癒すこともなく、そのまま苦しみ続けてしまうだろう。僕はそんなことは望んでいない。

 

 僕はスマホを取り出して、以前と同じようにメールを送った。せめてご飯はちゃんと食べて欲しいと、内容は簡潔にした。

 

 

 とにかく今は、考える時間が必要だ。

 遥ではなく、僕が考える時間が。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 晩御飯も済ませ、お風呂も入り終わった。一日の生活リズムが崩れることはない。ソファに背を預けながら、コーヒーを一口啜った。無感動に熱い黒色の液体が、強烈な苦みを伴って喉を流れる。

 コーヒーカップを覗きこむ。液面には何も映らず、コールタールのようにどろどろとした黒沼だけが見えた。

 

 トン、と聴こえた小さな物音。僕は天井を見上げた。たまに聴こえる足音だけが、遥の存在を証明していた。時折リビングに降りてきてはいるらしく、冷蔵庫の中の飲み物だけは減っているのを確認した。遥は明らかに僕を避けている。

 

 ……遥は、何も悪くないのに。

 

 

 コーヒーカップを片付け、二階の自室に戻る。昔、父さんが使っていた古めかしい部屋。僕がこの部屋を譲ってもらっときとあまり変わらない。本棚もクローゼットも戸棚も。模様替えもせず、ずっとそのままだ。

 

 戸棚に近づく。僕はその上にある写真立てに触れた。僕と遥、父さんと母さんの四人が映った家族写真。父さんは物静かであまり話をしない人だけど、男手一つで僕たちを育ててくれた。

 

 もし、僕が遥の気持ちを受け入れたら。父さんは僕たちのことをどう思うだろう。勘当されても文句は言えないかもしれない。世間一般では、兄妹の恋愛なんてあってはならない。倫理に反することだ。誰が決めたことでもない自然の理だ。

 

 そして、母さんはどう思うだろう。もう、話すことはできないけれど、母さんは……。

 

 

 

『私はっ……彼方が好きなのっ……』

 

 

 

 ……ああ。頭が痛い。

 

 写真立てを元に戻し、僕はベッドに身を預けた。ぼふん、と柔らかいクッションが背中を受け止めた。

 考えようとすればするほど、頭が痛くなる。その先の思考に意味などないのだと、現在までの歴史のレールが厳かに告げてくる。

 

 正しさの象徴であるその道から外れてしまったあのときから、僕はそこを見上げることしかできなかった。幼かった僕と遥は、ただそこに立ち尽くしてしまった。母さんがいて当たり前。父さんがいて当たり前。そんな一般論に沿った言葉の中に、僕たちはいなかった。きっとあの瞬間から、何かがズレてしまった。

 

 僕は無力な子どもだ。母さんがくれた芯の強さも、父さんが施してくれた優しさも、僕はその全てを無駄にしようとしてる。僕はまるで操り人形だった。考えることを放棄した愚かな僕は、絶対的なルールの下でしか物事を判断できなかった。

 

 それが無意識にでも、誰かを傷つけていたことになんて気づかずに。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 真っ暗な闇の中。掛布団の隙間から滑り込んでくる寒さを遮るように潜り込む。でも、眠気は一向に訪れない。

 

 

「……」

 

 

 眠れない。コーヒーを飲んだせいか、他の要因があるのかは分からないけれど、とにかく眠れない。

 

 

 

 僕は掛布団をどけた。ふと隣を見れば、カーテン越しに月の光が差し込んでいる。しゃっとした音と共にカーテンを開いた。窓から見渡せる外の街並み。いくつもある家屋はそのほとんどが灯りがついてないようで、みんな寝静まっていることが分かった。

 

 リモコンのスイッチを押して部屋の電気をつける。真っ暗な部屋が徐々に光で満たされていく。眩しさに目を細めながら、僕はそっとベッドから降りた。

 

 部屋を出て、物音をたてないように階段を降りる。木製の手すりの感触は、冷たくさらさらとしていた。

 

 

「あ……」

 

 

 それは本当に偶然だった。階段を降りてきた僕は、リビングの電気がついてるのに気づいた。

 

 リビングのドアは少しだけ開いていて、中から淡い光が廊下に漏れ出ている。僕はそっと、隙間から覗き込んだ。テーブルの上にはマグカップが置いてある。

 

 そして。

 

 

「……遥?」

「え……」

 

 

 僕が思わず声をかけると、遥がビクッとしながら後ろを向いた。どうやら階段を降りてきた僕に気づかなかったみたいだった。僕に会わないようにするために、わざわざ深夜にこうして出てきたのだろう。遥の目の下にはくっきりとクマができていて、全然眠れていないことが分かった。

 遥は僕を見て、口をパクパクと開いては閉じて呆然としていたけれど、はっと気づいたように目をそらしてしまった。

 

 

「……なんの用?」

「あ……えっと。喉が渇いたから飲み物を取りに来たんだ」

「……そ」

 

 

 静かな遥の様子にほっとしながら、僕は脇を抜けてキッチンに向かった。

 蛇口を捻ってコップに水を注ぐ。とぽとぽとした音が不思議と心地良かった。注ぎ終わって、ここから去るべきかどうか悩んで、結局僕は遥の向かい側のソファに座った。

 

 一つ屋根の下で暮らしている以上、やっぱり顔を合わせることは避けられない。

 

 

「……体調は大丈夫?」

 

 

 訊いて、我ながらなんて残酷な問いかけなのかと思った。誰が遥をこんなにボロボロにしているのかなんて、分かり切っているのに。

 

 

「……大丈夫。明日から、学校もちゃんと行くから」

「……うん」

 

 

 不思議な気分だ。遥の想いを知ってしまったというのに、今の僕はひどく落ち着いていた。気まずい、という気持ちは確かにある。けれど、この場から逃げ出してしまいたいと思うほどではなかった。

 もしかすると、美玖と話をしたからだろうか。自分自身、いまいち理由が分からない。

 

 

 遥は手を温めるように、マグカップを両手で包み持った。秋も終わりが近づいて、今度は冬がやってくる。冷たい雪が気まぐれに降ってきては、人に触れてあっという間に消える。そんな冬が、もうそろそろやってくる。

 

 遥の方をちらと見る。すると、どうやら遥の方も僕の方を見ていたようで視線がぴたりと合った。瞬間、さっと目をそらされる。

 

 

「……お腹は空いてない? 何か作ろうか?」

「……いらない」

 

 

 ふるふると首を振られる。長いまつ毛に縁どられた瞳は伏せられ、僕を見ることはない。僕と遥を隔てるのは透明な壁だ。その壁はどんな形をしていて、どれだけ堅いものなのか。未だに分からない。

 

 キッチンの水道から水滴が落ちる音が聴こえる。それはまるで心臓の鼓動のようだった。トクン、トクンと。

 

 

「……彼方は……」

「……?」

「なんで彼方は、私を避けないの?」

 

 

 パジャマ姿の遥が、ソファの上で体育座りをする。膝の上に顎をのせて、ゆらゆらと揺れる。らしくない仕草だった。子どもがいじけたときみたいな、ちょっとしたあどけなさがそこにはあった。

 今まで僕のことを避けていた遥に対し、今度は僕が避ける。それは全くもって皮肉なものだな、と思った。

 

 カチ、カチと。リビングに掛けられた時計の針が進む。時が刻まれるのを止める術は無い。

 

 

「……遥は、僕の顔も見たくない?」

「っ……」

 

 

 パジャマの皺がくしゃっと、一際大きくなった。

 

 

「どうしてっ……そんな意地悪なこと言うのよっ……」

 

 

 見れば、遥はいつの間にか顔を伏せて隠していた。肩を震わせながらすすり泣く声が聴こえてきた。真夜中のリビングには僕と遥しかいない。遥を泣き止ませることができるのは僕だけだ。けれど、その方法も答えも、まだ見つけられてない。

 

 テーブルの上にコップを置く。

 僕は立ち上がって、遥の座るソファにそっと座り直した。

 

 真横に座る僕に対し、遥は何も言わなかった。ただ、腕を握る手がより一層白むだけだった。

 

 遥の傷つく姿を目の当たりにするこの時間が、僕にとってどういう意味を持つのか。誰が遥を傷つけているのか。僕にはそれを自覚する義務がある。

 誰にとっても誠実な対応をすることなんて、僕には不可能だ。誰もが幸せになる未来などあり得ないし、誰もが納得する理屈も存在しない。誰かの気持ちに応えようとすれば、誰かを傷つける。それを避けることはできない。

 

 僕の目の前には二つの道がある。一方を選べば、もう一方に進むことはない。そして、二つの道が交差することは決してない。

 

 

「うぅ……あぁ……」

 

 

 組んだ腕の隙間から見える透明な雫。遥の嗚咽を聴きながら、天井を眺めた。

 

 僕と遥はいつの間にかすれ違っていた。

 

 遥が下を向けば、僕は上を向いて。

 僕が遥に近づこうとすれば、遥は僕を避けようとした。

 

 お互いが大切にしているものに、気づいてなんていなかった。

 

 

「……ごめん、なさいっ……。ごめんなさい……彼方っ……」

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 

「……何やってるんだろう」

 

 

 自嘲気味に呟き、部屋の壁に寄りかかる。眠気はやっぱり訪れない。

 

 遥が自室に戻っていき、僕も自分の部屋に戻ってきた。最後に見た、遥の憔悴しきった表情は、触れるだけで消えてしまいそうなほど儚く、白磁の肌は青白く霞んでいた。

 ふらつくようにリビングを去る遥に、僕は声をかけることはしなかった。今はまだ、何も言うべきときじゃない。自分の心の整理がついてない状態でその場しのぎの言葉を口にしても不誠実になってしまうから。

 

 

 横になる気分にもなれず、僕は部屋の隅にある戸棚を開く。

 

 中に入っているのは古びた一冊のアルバム。

 母さんと父さんが残してくれた僕と遥の思い出。

 

 久しぶりに取り出した分厚いアルバムの重みに、僕は胸が締めつけられるようだった。最初のページを開く。最初にあったのは僕と遥の出生後の写真。僕たちを抱いて微笑むのは母さんだった。

 アルバムとは記録だ。その記録は一人のものだったり、複数人のものだったり。形は人それぞれ違う。このアルバムは、僕と遥のアルバムだった。

 春の桜の下で花見をしながらお弁当を食べる僕たち。夏の日差しの中で水遊びをする僕たち。秋の紅葉の絨毯を不思議そうに眺める僕たち。冬の降り積もった雪に倒れ込む僕たち。

 

 

 ……遥……。

 

 

 一つ一つの思い出が、優しく、甘く、切なく染み込んでくる。遥は僕の妹だ。純然たる家族として、双子の兄妹として。楽しいときも、つらいときも毎日を生きてきた。

 

 

「あ……」

 

 

 一枚の写真が目に留まった。

 

 僕の腕に抱き着く遥。今ではきっと考えられないその光景。そこに写る遥は、子どもらしく無邪気な笑顔を浮かべていた。

 

 

 

 ──『わたし! かなたとけっこんしたい!』

 

 

 

 その言葉にはたぶん、深い意味はなかった。その単語が意味することも、現実問題としてどうなのかということも、分かってなかったはずだ。

 

 でも、大切なのは()()じゃない。言葉という形でもなく、表面上の関係でもなく、もっとシンプルなことだ。あのときの遥の願いは、僕とずっと一緒にいること。

 

 

 ……。

 

 

「……母さん。僕は……」

 

 

 戸棚の上の写真立てに手を伸ばした。今はもうこの世にいない、写真の中の幻想に問いかける。ぽつりと呟いた声は、広い自室に静かに消えていく。陽だまりのような笑みを浮かべる母さんは、何も言わない。

 

 

「……いや、そうだよね。これはきっと、誰かに訊いちゃいけないことだよね」

 

 

 カチカチと、時計の音が聴こえる。時を刻む音が、絶え間なく聴こえる。

 

 僕はずっと迷路に囚われていた。いつからか、自身の心の在処を見失っていた。誰かの言葉に依存して、誰かの存在に依存して、僕は自分のことさえ分からなくなっていった。

 でも美玖の言う通り、僕が他でもない彼方だとして。僕は遥のことを、どう思っているのか。

 

 目を閉じる。

 

 冷たくて、そっけないようで、でも時折見せる不器用な優しさ。勉強に付き合ってくれたり、買い物を手伝ってくれたりした。変わってしまったようで、実は変わっていなかった臆病なところ。雷に怯える姿を見て、僕はどこか安心した気持ちだった。

 

 僕の一つ一つの記憶の中には、必ず遥がいる。遥と喧嘩したり、怒らせてしまったり、泣かせてしまったり。数えればキリがないくらい、多くのことがあった。その中で大切に育ててきたこの気持ちは、どうしようもないくらい深いところで根付いてしまっている。

 決して切り離せない、切り離したくない想いとして。

 

 

「……」

 

 

 ……もう、やめにしよう。

 

 

 僕は変わらなきゃいけない。僕はあの日からずっと、時が止まったままだった。十年近くの間、ずっと。僕は誰かがくれた言葉に依存するだけだった。今でも、何が正しいのかは分からない。いや、そもそも正しいのかどうかなんて、この際どうでもいい。

 

 大切なのは、僕が遥をどう思っているのかだ。たとえ()()が、世間では間違いだと言われるものだとしても、世界のルールから外れたものだとしても。

 

 僕は、僕自身がどうしたいかで決める。

 

 だから、もう……。

 

 

 

「……母さん」

 

 

 

 目を開く。僕はそっと、写真立てを横に倒した。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十一話

 

 図書室で課題を淡々とこなす。僕と同じように勉強する人も数人いて、静かな図書室にはペンをカリカリと走らせる音がいくつも響いていた。気が楽だった。少なくともこうしてる間は、何も考えずに済む。

 数式を淡々と変形していき答えを導く。こうして論理的に答えを導き出せるのが数学の良いところだ。正しい方法で、正しく問題を解く。その手法もある程度決まっていて、僕たち学生はそれをなぞればいい。ともすれば、自分の頭で考える必要のない操り人形のように。

 

 ある程度課題が進み、肩をほぐす。とりあえずの息抜きとして席を立った。図書室から出ると少しの喧騒。外で部活動をしている人たちの声だ。窓際まで近づき、廊下を歩きながら見下ろす。放課後のグラウンドには、サッカー部や陸上部など、体育系の部活が精を出して活動している。

 春夏秋冬。いずれの季節でも変わることのない光景。空の天気一つで活動が制限されることはあっても、基本的には何も変わらない。でもそれは、あくまで外部の人間から見たときに限っての話。彼ら彼女らは一人一人、ほんの少しだとしても、何かが変わった毎日を過ごしている。

 

 

 階段を降りきって昇降口を抜ける。外に出ると、思った以上に寒くて身震いした。木枯らしが吹き始める季節は、真っ白な雪が舞い落ちてくる冬を迎え入れようとしている。気まぐれで、冷たくて、触れるとすぐに消えてしまう雪の季節が、少しずつ近づく。

 

 体を温めようと思い、傍に設置されている自販機で缶コーヒーを買った。ガコっと落下する缶。下から取り出せば、温かい缶コーヒーが手のひらを温めた。

 隣接されている近くのベンチに腰掛けて、フタを開けて一口含む。熱くて、苦くて、真っ黒な液体。口元から離し、開いたフタの隙間を覗き込めば、そこには先の見えない不安の象徴が広がっていた。

 

 

 しばらく外の風に揺られる。

 びゅうと吹く風に、思考が凍てついていく。

 

 曖昧な距離感が隔てる現状の中、遥に話をするタイミングが掴めずにいた。話しかけても遥は相変わらず僕を避けるし、強引に話をするのも望むところではない。

 涼しい風が吹いてきた。清涼なる風が木々と髪を揺らす。秋ももう終わりだよ、と耳元でささやいてくる。秋特有の紅葉が消えていき、花も葉もつかない寂れた木の枝垂れだけが、そこには残る。

 

 

「──あれ、カナ?」

 

 

 ベンチに座る僕の耳元に、驚嘆の声。首を回して顔を向けると、そこにいたのは茜だった。ふわりと吹く風によって、茜のセミロングの茶髪がさらさらと揺れる。

 僕が軽く手を振ると、茜がはっと気づいたように髪をいじって整え直した。そして近くに寄ってきて、「どうしたの、カナ?」と尋ねてくる。

 

 そっと僕の隣に座る茜。爽やかな石鹸の香りがした。どうやら部活が終わってシャワーを浴びて来たらしい。よく見れば、髪がしっとりと水分を含んでいるように見えた。

 

 

「ん……ちょっと休憩してた」

「休憩?」

「課題やってたから」

 

 

 そう言うと茜は、ああ、と一つ声を漏らし納得の色を見せた。

 

 

「今週の課題。結構重いよねー。あたしも家に帰ったらやらなきゃ……」

「まあ……。茜は陸上部で忙しいだろうから仕方ないよ。大会も近いんだっけ?」

「うん、今度は頑張らないと」

 

 

 茜は脚をそっと触った。以前、茜は怪我をして大会に出られなかった。そのときのことを思い返しているのだろう。それは僕が茜と話すようになったきっかけでもあって。

 

 

「やっぱり走るのって、すごい気持ちいい。何かね、自由になった気がするの」

「……自由?」

 

 

 いまいちイメージが湧かず、僕は聞き返した。

 

 

「よくある表現かもしれないけど……。このまま走れば、どこまでも行ける! ……って。そんな感じかな?」

 

 

 茶目っ気を含ませる茜、彼女はふと、空を見上げた。群青色の空には、小鳥が鳴き声を上げながら飛んでいて、自由に駆け回っている。

 

 ……自由に、か。

 

 

「あたしね、昔はあまり走るの得意じゃなかったんだ」

「……そうなんだ?」

「うん……。でもね、やっぱり走るのが大好きだから。だから、ずっと続けてきたんだ」

 

 

 そう語る茜の横顔。なびく風に目を細める彼女には、はっとする美しさがあった。

 何か一つでも夢中になれるものがある。それはとても幸せなことのように思えた。茜と比べて、僕にはそういうものがない。

 

 

「そのおかげかもだけど、大会とかにも出られるようになってね。最近は練習もちょっと忙しくなってきちゃった。……って言っても。今回はレギュラーじゃなくて補欠なんだけどね」

「……え?」

「ほら。練習できなかった期間が長かったから。他の子よりも出遅れちゃってる状態なの」

「……」

「だから、ちょっと残念」

 

 

 苦笑する茜は、何故かそこまで悔しそうな表情はしていなかった。僕はかける言葉に悩み、少しだけ冷めた缶コーヒーを飲む。缶の飲み口は外の寒さにあてられて、ひどく冷たくなっていた。

 

 

「……ふふ」

「……?」

「やっぱりカナは、こういうとき何も言わないんだね」

 

 

 同じことを以前にも言われた。

 

 やにわに、茜は周囲をきょろきょろと見回す。すると彼女は、少しだけ恥ずかしそうに微笑んで。

 

 

 

「ちょっと、ごめんね」

 

 

 

 ぽふっと。

 茜がそっと、僕の肩に寄りかかってきた。

 

 熱い体温が、制服越しに肌に伝わってくる。しっとりとした声はどこか艶やかなようでいて、胸の奥をわずかにくすぐってきた。ゆったりと、甘えるように目を伏せる茜は、心地よさそうに目を細めていた。

 

 茜が「ねぇ」と耳元でささやく。

 

 

「……文化祭の夜。カナに抱き着いたの、覚えてる?」

「……」

 

 

 覚えてる、と言えなかった。肯定もせず。否定もせず。僕はただ、茜の綴る言葉を待った。

 

 

「あんな状況だったけど、あたしドキドキしちゃった。一見すると細い身体なのに、意外としっかりしてるところとか。カナの体温とか。誰かに抱きついたことなんてないけど、こんな感じなんだなぁって思った」

「……」

「それにね、ドキドキしたのもそうなんだけど、何より……」

 

 

 あたし、すごい安心したの、と。

 ひどく穏やかな顔をしながら、茜は言った。

 

 金木犀の香りが、また鼻をくすぐった。それと同時に制服の袖が、きゅっとつままれる。女の子らしいたおやかな肌の感触が伝わってくる。僕はその手を振り払うことができない。そこにひっそりと灯る蝋燭の火を消すことは、何よりもむごい外道のように思えた。

 

 

 

「好きな人とくっつくと、こんなに安心するんだなぁって。あたし、初めて知っちゃった」

 

 

 

 痛い。張り裂けそうなくらい、胸が痛い。

 

 一途なその気持ちがあまりにも嬉しくて、つらくて。絡みつく糸は真綿となって、僕の首をゆっくりと締めあげてくる。脳に行きつくはずの酸素は徐々に薄まり、甘い痺れとなって思考を妨げる。

 このまま流されてしまえば、僕がずっと欲しかった当たり前が手に入るのだと、心に巣食う誰かが訴えてくる。人の好意は優しく嬉しいものだという事実が、こんなにも憎く思えてしまうことがあるなんて、僕は知りたくなかった。

 

 

「……ねぇ。今度の休みなんだけど、空いてる?」

「……? 空いてるけど……」

「じゃあ、どこか遊びに行かない?」

 

 

 純粋で真っすぐな目が、僕の瞳と向き合う。茜の気持ちを知ってしまった今、僕がそれに応えることは一つの意味を持ってしまう。茜に何かを期待させてしまう。

 

 ……だけど、だからこそ。

 

 

「うん、いいよ」

 

 

 僕は、逃げちゃいけない。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 夢の中で揺蕩っていた。ふわふわと浮く体と、周りに薄く張る透明な膜。まるでシャボン玉の中にいるようだった。

 

 確か、僕は……。

 

 普段よりも早めにベッドに入って、瞼を閉じて。言葉にできない思いを堂々巡りさせていたら、そのまま眠りに落ちて。気づいたら、ここにいた。

 白い世界に広がるのは無限の空間。終わりなど見えやしない。ここがどこなのか、ここに来た意味はなんなのか。そんな意味のない疑問をかき消すように、一際強い光が輝いた。

 

 

『──』

 

 

 誰かが、僕の名前を呼んだ。

 聴き覚えのある声だった。

 

 まばゆい光の向こう側から、揺り篭の中で揺られるような心地よい声。眠い目を擦りながら起きた日の朝も、遅くまで妹と公園で遊んで帰ってきた夕方も、遊び疲れて眠ってしまう日の夜も。変わらずに聴かせてくれた声。

 

 

『──』

 

 

 姿が見えない。輪郭もない。ただ、間違いなくそこから聴こえていた。ずっと聴きたかった声。もう会えないと思っていた人。忘れるわけがない。

 手を伸ばす。けれど、僕の手がそれ以上伸びることはない。透明な膜に、柔らかく弾き出されてしまう。

 

 ……どうして。

 

 

「どうして、いなくなっちゃったんだよ……」

 

 

 あんなに元気だったのに、なんで。

 どうしてなんだよ。

 

 

 

 

 

「母さんっ……」

 

 

 

 

 

 どうして……。 

 

 

 

 母さん。僕、頑張ったんだよ。

 

 痛くても、苦しくても。どんなときだって泣かなかったんだ。僕が泣くと、きっと心配かけちゃうから。母さんとの約束を守るために、自分なりに頑張ったんだ。

 

 だから。

 

 

「もっと……声を聴かせてよっ……」

 

 

 声にならない叫びが、閉じ込めてきた思いが、どんどん零れ落ちていく。ずっとつらいのに平気なふりをして毎日を生きてきた。守らなくちゃいけない大切な人がいたから。それが強さの証だったから。でもそれは決して、正しくなんてなくて。僕はきっと、母さんが死んだという現実を受け入れられていなかった。

 

 泣かないために上を向いていたとしても、歩みは止まったままだった。

 

 顔を拭い続ける。止まることのない涙を、僕は初めて流した気がした。我慢の限界を迎えた子どものように、涙は止まらない。

 今は、今だけは。この瞬間だけは、誰も見てないから。誰にも心配をかけないから。

 

 次の瞬間には、必ず変わってみせるから。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 時間の概念がない停滞した夢の世界。いったいどれくらいそうしていただろう。

 

 僕は今までの全てを吐き出した。母さんがいなくなってから、家の中は灰色に染まり、家族みんなが会話する時間も共に過ごす時間もなくなって。母さんがどれだけ大切な存在だったのか、一つ一つ確かめるように思い返した。

 

 アルバムのページをめくる旅は、ころころと変わる万華鏡の美しい景色。

 喜んで、嬉しくて、笑って。寂しくて、悲しくて、泣いて。その繰り返しだった。

 シャボン玉に煌めく七色のように色とりどりの記憶の欠片を、少しずつ拾い集める。僕にとってのかけがえのない宝物。それぞれの写真を彩るエピソードの中に、僕たちは存在していた。

 

 それは長い旅だった。記憶の一欠片を拾い上げてはまた積み重ねて、一から自分を見つめ直す。正しいようでいて、いつの間にか歪に曲がっていた僕の道のり。始まりの地点から、僕はひたすらに歩く。過去から現在へと向かって。

 

 でも、アルバムのページは途中までしかない。

 その先はまだ、真っ白だ。

 

 

 

「……僕さ、決めたことがあるんだ」

 

 

 

 陽だまりの中の声は、既に止まっていた。

 

 

 

「ずっと傷ついていた人がいるんだ。誰よりも近くにいたはずなのに、僕はそのことに気づいてなんてなかった。その人は今まで、独りで苦しんでいたんだ」

 

 

 

 どんな時も一緒だったはずなのに、僕は上を向いてばかりだった。その人と正面から向き合ってなんていなかった。

 何かを誤魔化すような顔も、氷のように冷たい顔も、泣き出してしまいそうな顔も。僕は見ているようで、見ていなかった。

 

 だから僕、前を向くよ。

 

 もしかしたらいっぱい間違えるかもしれないし、情けない姿を晒すかもしれないけれど。

 折角できた大切な友達も、泣かせてしまうかもしれないけれど。

 母さんに決して許してもらえないようなことを、してしまうかもしれないけれど。

 

 

 

「だから──」

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 目が覚めた。水面から浮き上がる意識は、透明度の高い水晶のように鮮明だった。

 休日の朝。いつもより早起きした。今日は出かけなければならないから。真摯な気持ちに対して、誠実に答えを示さなくてはならないから。

 

 ぐっと背伸びする。窓から差し込む光が眩しい。掛布団をどければ、初冬の寒さが肌を撫でた。麗らかな春のような光は錯覚だったのだろうか。けれど、僕は確かに覚えてる。大好きだったあの優しい声を、温度を。間違いなく、覚えてる。

 

 

「……あ」

 

 

 目尻から違和感。そっと触れると、指先はぴちゃっと濡れた。僕はゆっくりと目を擦った。

 

 大丈夫。僕はもう、大丈夫だから。今までの分も、これからの分も、全部泣いたから。

 

 

 光を見上げた。真っすぐな光が照らす指先は、ちょっとだけ暖かかった。

 

 

 

「──行ってきます」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十二話

 

 

 朝と昼の分のご飯を作り終えて、出かける準備を手早く進めていた。もう冬も近い。家の中にいるとはいえ、外が冷え込んでいることは想像に難くなかった。

 クローゼットの奥からコートを引っ張り出す。一年の内にそう何度も着ることはないコートの手触りは、改めて冬の季節を実感させた。

 着替え終わると部屋から出て、洗面台の鏡の前で櫛を使って髪を整える。服装や髪形に変なところがないかチェックした。不慣れなことをしてる自覚はあったけれど、今日は外出するから人前に出ても恥ずかしくない格好をしなきゃいけない。

 

 

「……よし」

 

 

 出かける準備も終わり、廊下を抜けて玄関に向かう。靴を取り出して、履くためにしゃがみこんだ。すると同時に、後ろから階段を降りる音が聴こえてきた。

 

 パタ、パタ、と。スリッパが床を擦る音が、ゆっくりと近づいてくる。

 フローリングの床は乾いた音を立てながら小さな振動を伝えてくる。トクン、トクンと心臓が鼓動を打つような音が、リズムよく足に伝わった。

 

 そしてその音は、小さな声と共に止まった。

 

 

「あ……」

 

 

 振り向けばそこには、パジャマ姿の遥が階段の上で立ち尽くしていた。

 陰が差す表情には、戸惑いと怯え。そして、目の下にくっきりと浮かんだクマ。

 

 遥はどうやら、こんな早い時間に僕が玄関にいるとは思っていなかったようで。僕を見るその顔も体も、強張っているようだった。

 

 

「……出かけるの?」

 

 

 小さく、蚊の鳴くような声。

 遥は、壁についたままだった手を胸元まで運んで、ぎゅっと握った。

 

 不思議だった。僕が遥に話しかけようとすれば、僕との会話を拒絶していたのに。今度は遥の方が、そんな不安げな顔をしながら声をかけてくる。

 

 

「ちょっと、用事があるから」

「……そう」

 

 

 ふいっと背けられた顔。濡羽色の長い黒髪がふわっと揺れて、階段の照明がヘアピンに反射して光り輝く。けれど、その視線は僕と合わせようとしてくれない。

 一週間以上もの間、僕と遥はこんな感じだった。ギクシャクとしてしまった僕と遥の兄妹関係は、修復という名の前進をするわけでもなければ、崩壊という名の後退をすることもない。

 

 

「いつもみたいに、ご飯はリビングに用意してあるから」

「……ええ」

 

 

 当たり障りのない会話から入る。一つ屋根の下で暮らす中で、顔を合わせることはどうしても避けられない。だからこうして一言二言は言葉を交わすけれど、中身なんてあってないようなものだった。

 

 

「……遥」

 

 

 一度、家に上がり直した。

 

 

「え……な、なに」

 

 

 いきなり近づいてきた僕に対して、遥は怯えたように後ずさる。けれど、階段の途中で立ちすくむ遥に逃げ場はなく、僕が徐々に迫ってくるのを待つしかなかった。

 

 

「ちゃんと寝てる?」

「……寝てるわよ」

 

 

 透明度の高い、けれど掠れた声。

 

 もしかしたら遥は、こんな風に話しかけてくる僕を不思議に思っているのかもしれない。遥の気持ちを知ってしまった僕が、避けることもせずこうして声をかけてくることに、戸惑っているように見えた。

 気をつかわれているのか、同情しているのか。顔を背けた遥の横顔には、そんな不安が浮かんでいる。雪のように白い肌はまるで生気が薄れてしまったようで、小さく形の良い唇は血色も悪く見えた。

 

 ここ最近、遥はご飯にもあまり手をつけず、まともな会話もしようとしない。この家には僕たち二人がいるはずなのに、自分一人しかいないように感じた。

 時が経つにつれて寂しくなっていった、僕たちが暮らしてきたこの家。他の誰も介在しない揺り篭の中は、実は右も左も分からない真っ暗闇。僕はずっと、そんな先の見えない暗闇にポツンと一人立たされてきた。

 

 そして、僕がそうであるならば。 

 きっと遥の方も、そうであるはずで。

 

 

「私のことは放っておいてよ……」

 

 

 投げやりな言葉と共に、鋭い切れ長の目も伏せられる。

 仮に、このまま放っておいたとして。その先に待っているのは、誰も望んでない未来。平穏に、静かに、ゆっくりと朽ち果てていく。

 

 僕はそんなのは嫌だ。

 

 

「……じゃあ、そろそろ出かけるね」

「あ……」

 

 

 遥に背を向けて歩き出す。けれど。

 

 

「……?」

 

 

 ぎゅっと。

 かすかな抵抗が、僕の歩みを止めた。

 

 後ろを振り向くと、遥が僕のコートの裾を摘まんでいた。おそらく無意識にやったのだろう。遥自身、驚きに目を見開いていた。

 

 

「遥……?」

「……ごめん、彼方」

 

 

 遥の手が、すっと離される。全く同じ景色をあの日、僕は部室で見た。

 痛いくらいに握りしめられた手。あのときはその意味が分からなくて、感情を爆発させる遥と衝突してしまった。お互いに傷つけて傷ついて、その結果がこれだった。

 

 

 

「……行ってくるね」

 

 

 

 僕よりも少しだけ小さな遥の手。その手が震えていたのは、きっと気のせいじゃない。幼い頃にずっと握っていた大切な感触は、昔も今も変わらない。

 

 だから、早く行かなくちゃいけない。

 

 どんなに逃げたくても、苦しくても。誰かが示してくれた道しるべがなくても。丁寧に舗装された安全な道じゃなくても。

 

 再び靴を履き直す。玄関のドアに手をかけながら、一言だけ言った。

 

 

 

「夕方になる前には、帰ってくるから」

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 駅前までの道を歩きながら、腕時計を確認する。朝のそこそこ早い時間の空は、清々しく晴れていて雲一つない。

 休日の今日。行き交う人々の関係は様々だ。子どもを肩車する家族連れや、僕と同じくらいの年の高校生グループ。それに、腕を組みながら歩くカップル。交差して、離れて、それぞれが目的地へと向かう。

 

 アスファルトを踏みしめる足取りは、少しだけ軽い。理由は自分でもよく分からない。ただいつもよりもちょっとだけ早めにベッドに潜って、寝る間際まで考え事をしていて、少しだけ目覚めが良かっただけ。変わらないようでいて、実はほんの少しだけ違う一日の過ごし方。

 

 しばらく歩くと最寄りの駅が見えてきた。整然とした住宅街は、そびえたつビル群へといつの間にか姿を変えている。ガラスに反射する陽光はキラキラと輝いていて、中々に眩しい。

 人が増えてきて、耳に届く喧騒はより深まる。息苦しさから逃れるように上を向けば、ビルの一角に存在する大型ディスプレイに今日のニュースが流れていた。

 よく晴れた日の今日は、ニュースキャスターも笑顔を綻ばせるほどに澄み渡る空だ。道行く人々も自然と見上げてしまうほどに美しい。今日の夜は綺麗な夜空が見られると、キャスターや出演者が口々に語り合っていた。なんでも、運が良ければ流星群が観測できるらしい。普段の生活にはない珍しさに、彼らは興味津々だった。

 

 

「……」

 

 

 ディスプレイから視線を戻せば、いつの間にか結構な距離を歩いていたらしく、目的地はすぐそこにあった。

 

 駅の入り口まで向かう。

 

 

「あ……カナ!」

 

 

 耳に届いた明るい声。どうやら僕よりも早く来ていたらしい。

 声の方を向く。彼女は、寒空の下で白い息を吐きながらこちらまで駆け寄ってきた。

 

 

「遅れてごめん」

「ううん。あたしが早く来ただけだから気にしないで」

 

 

 セミロングの茶髪を耳にかけながら、呼吸を整える茜。冬も近づいてきた今日この頃。茜の服装は冬らしいものになっていた。

 真っ白なセーターに、シックな柄のミニスカート。レースがあしらわれた靴下と、流行りものらしいレディース靴。

 そして以前、僕と出かけた時に買ったフェザー型のネックレスを首から下げていた。

 

 

「カナとデートするの二回目だけど、なんかドキドキしちゃう」

 

 

 はにかむ茜。僕は曖昧に笑みを浮かべた。

 

 優しく、可愛らしく、あたたかな笑み。

 だからだろう。さっきから、胸が痛くて仕方がない。

 

 

「さ、早く行こ!」

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 高校生がどんな風に遊ぶのか、なんてことは当事者自身が考えることじゃない。普通に暮らして、普通に集団生活を送って、普通に価値観を養っていって。その過程で自然と考えられるものだ。けれど、僕は茜がどういうことが好きで、どこに遊びに行きたいと思うのか分からない。今更ながら、そんなことを思ってしまう。

 普通って、いったい何だろう。そんな抽象的なことばかり考えてしまったのが事実だった。

 

 

「最近、あそこに喫茶店ができたらしいよ? ケーキがおいしいんだって。ちょっと寄ってみない?」

 

 

 茜の手元には手書きのメモ。茜はある程度事前に調べてくれていたらしく、行きたい場所をいくつかピックアップしてくれていた。僕としては他に行きたいところも特に思いつかないため、彼女の意見に従うことにした。

 

 駅が近いということもあるけれど、休日の外はやっぱり活気があって賑わっている。平日は学校に通ったり仕事に行ったり。そんな忙しない毎日を過ごす人々が、心安らかに過ごせる休日だ。

 

 

「ケーキって、あんまり普段食べないよね」

「うん。あたしはクリスマスのときくらいかなあ。あと誕生日とか」

 

 

 そう言えば、最後にケーキを食べたのはいつだろう。もうずっと前のことのような気がする。

 クリスマスにツリーを飾ることも、誕生日を祝うことも。全て、もうなくなってしまった。世間が一般的に祝うようなことを、僕と遥はしてこなかった。

 淡々と毎日を。大切な何かが欠けてしまった日々を過ごしていた。僕自身、それに気づくこともなく。

 

 

「ケーキを食べる日って、特別な感じがするよね。さっきのクリスマスとかもそうだけど、ちょっといいことがあった日とか」

「……そうだね」

 

 

 特別な日なんていらなかった。平坦な日々が続けば、それだけで良かった。だけど、そうはならなかった。あの日から、今この時までも。

 

 人波に紛れるように、茜と隣並んで整備された街を歩く。果たして、僕たちは周りからどう見られているのだろう。同じくらいの年の男女。ひょっとしたら、付き合っているように見えるのだろうか。

 茜の横顔を覗く。さらさらと揺れるセミロングの茶髪。整った顔立ちはクラスでも人気が出るくらい可愛くて、誰にでも分け隔てなく接してくれる優しい女の子。

 

 

「……?」

 

 

 ぱったりと目が合った。ぱっちりとした鳶色の瞳に、吸い込まれそうになる。

 

 

「ごめん。なんでもないよ」

「……そう?」

 

 

 極力、その瞳を見ないようにしながら。

 僕は少しだけ、歩くペースを速めた。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 喫茶店に入って一息つく。外観通りの雰囲気が良い店内には、ゆったりとしたBGMが流れていて、僕と茜は席に座りながら店内を見回した。

 休日の割には人が少なくて、意外だな、と思った。ただ、よく考えてみれば朝でも昼でもない中途半端な時間。たぶん、これからどんどん客が来るのだろう。

 

 

「何頼もうかなー」

 

 

 対面の茜はメニューを楽しそうに眺めながら、ページをめくって行ったり来たりしてる。女の子は甘いものが好きだとよく言うけれど、茜も例に漏れずそうらしい。

 

 

「カナは何頼むの?」

「僕はコーヒーだけでいいよ」

「えー。折角だし、何かケーキ頼もうよー」

 

 

 ぷくっと頬を膨らませる茜。リスが威嚇するみたいな小動物的な仕草。一つ一つの何気ない行動が、爪でひっかくみたいにくすぐったい。

 

 

「じゃあ、イチゴのショートケーキでも頼もうかな」

「ショートケーキ、好きなの?」

「ん……というか、それしか食べたことないから」

 

 

 メニューには他にもチョコケーキやモンブランなんかもあるけれど、僕はそもそも食べたことがない。食べる機会自体がなかった。

 

 

「じゃあさ、あたしモンブラン頼むから、半分交換しない?」

「うん……いいよ」

 

 

 メニューが決まって、店員を呼んで注文を済ませる。やってきた店員は営業スマイルを浮かべ、洗練された所作で去っていった。その姿を横目に落ち着いた店内の意匠を観察すると、ささくれ立ちそうになっていた心が少しばかり落ち着いた気がした。

 店員が持ってきたコップの水で唇を湿らせる。気づけば、大して話してもいないのに喉はカラカラに乾いていた。砂漠に垂らした一滴の水のように、それはまるで意味を為さない。

 

 ……気持ちを固めてきたはずなのに。

 実際に茜に会うだけでこのありさまだ。

 

 平静を装うとする自分がいて、今すぐにでも逃げ出したいと思う自分もいて。そんな自分が、あまりにも情けない。

 茜に気づかれないように、小さく息を吐く。吐いた息は外とは違い、白くなることもなく透明なまま。言いたいことも、話したいことも、まだ表には出せない。

 本当は、()()に来るべきじゃなかったんじゃないか。ふとした瞬間に、そんな弱気な考えが浮かんでしまう。

 

 

「……カナ」

「っ……なに?」

 

 

 ぼーっとしていて、つい反応が遅れた。顔を上げると、茜が何か言いよどんでいる様子が目に入った。

 

 

「……ううん、やっぱりなんでもない。ところで──」

 

 

 けれど、その葛藤もすぐに消えたようで。そう言って首を振った茜は、すぐに別の話題に切り替えた。

 

 このデートの意味。

 

 僕も茜も、本当はお互いに気づいてる。けれど……。

 

 

「……」

 

 

 店内の静かな話声と、ゆったりとした音楽。

 今はどうか、それらが途切れないことを願った。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十三話

 

 

「ケーキ、おいしかったね!」

 

 

 外に出ると、暖房の効いていた店内とは異なり、涼しい気温が肌に触れる。

 

 僕と茜は小一時間ほどゆっくりとして、他愛もない話をした。僕は専ら聞く方に徹していて、話題を提供することはあまりなかった。

 学校の話や部活の話。他にも読書の話。僕が上手く話をできたのは、その読書についてくらいだった。読書は茜も最近始めた趣味。僕との話がきっかけだったそれは、今でも続いているらしい。

 ただ、一つだけ気になることがあった。

 

 

「……そうだね」

 

 

 それは、遥の話題が一切出なかったことだ。

 最近、遥と茜は本の感想をよく話し合っていたと聞く。だから、その流れで遥のことも話題に挙がると思っていたのだけれど。

 でも、よく考えてみればわざわざ話すことではないのかもしれない。茜にとっては僕の双子の妹でしかないのだから。

 それに、文化祭のあの日。喧嘩別れのような形になっていたし、茜からしても話に出しづらいのだろう。ただ、茜ならそんなことはあまり気にしないと思っていたから、そこが意外ではあった。

 

 

 喫茶店から出てしばらく歩いて、ショッピングモールに着いた。茜の行きたい場所に付き添って、近くの服屋でウインドウショッピングをする。そろそろ冬物が欲しいらしく、セーターやコートを中心に見て回った。僕は別に欲しい服もなかったからほとんど茜に着いていくばかりで、ときどき茜が試着した服の感想を言うくらいだった。

 

 

「そろそろ冬休みだよねー。何か予定とか入ってる?」

「いや……」

 

 

 冬休み。そう言えば、もうそろそろそんな時期だ。終業式が終われば今年も終わって、また新しい一年が始まる。大掃除をして、正月に備えて。ありきたりだけど、やることとしてはそれくらいだろう。

 

 

「茜はどうなの?」

「うーん……。あたしはちょっと悩み中かな」

 

 

 茜は少しだけ視線を下げながら、ぽつりと零す。

 

 

「毎年、家族みんなで過ごしてるの。ただ、それ自体に不満はないけど、そろそろそういうことも卒業しなきゃなって。ほら、大学生になったら独り暮らしとかするでしょ?」

 

 

 ……それは、卒業しなきゃいけないものなのだろうか。世間でよく言われる、思春期を迎えた中学生が親を遠ざけるように。いつか、家族は離れ離れになってしまうのだろうか。

 もちろん、茜が話しているのはそういうレベルの話じゃない。もっと軽い意味合いの話でしかない。それなのに、こんな揚げ足取りのような醜いことを考えてしまうのは、きっと僕が普通とは違うから。そんな風にしか考えられない自分が、確かにそこにいた。

 

 

「だから……」

 

 

 茜が地面に目を落としながら。

 少し、僕に近寄った。

 

 

「ちょっとだけ、背伸びしてみたいなって」

 

 

 近い距離。気まずさも甘さも、苦しみも喜びも、その全てを孕んだ距離感。僕と茜の関係は、僕自身でもよく分からない。たぶん茜もそのはずだ。それは僕が、きちんとした返事をしてないから。

 

 

「……?」

 

 

 そっと隣の茜の表情を見ると、その言葉とは反して、どこか儚げな笑みを浮かべていた。そこにあったのは期待でもなく、失望でもなく。僕には茜が今、何を考えてその言葉を口にしたのかは分からなかった。

 

 

 

「……なんてね!」

「あ……」

 

 

 

 ぱっと。先ほどまでの儚さを吹き飛ばすように、ぼやけた輪郭がくっきりと浮かび上がった。浮かぶ笑みには、もう陰りは感じられない。

 

 ……さっきから、どうしたのだろう。

 

 

「さ、早く行こ!」

 

 

 結局僕は、その違和感を拭えなかった。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 昼もだいぶ遅く、夕方に近い時間。僕たちは周辺にあった書店に立ち寄った。大通りから少し離れた通りには人がまばらに通り過ぎるだけで、そこまでの活気はない。

 

 書店に入れば、本の独特の匂いが鼻腔を満たす。森の中のような静謐さはやっぱり落ち着くもので、僕は自分でもリラックスしているのを感じた。

 

 

「最近はどんな小説を読んでるの?」

 

 

 小説が並ぶコーナーに向かう道すがら尋ねる。少しばかり、心に余裕ができたかもしれない。

 

 

「恋愛小説、かな」

 

 

 茜はぽつりと言った。そう言えば、恋愛小説と聞いて思い出した。

 茜が家に来たときに、僕は遥が恋愛小説を書いていることをうっかり話してしまったことがあった。僕が勝手に話したことに遥が怒っていたのは、記憶に新しい。

 

 

「色々な恋の仕方があるのかなって、読んでて色々考えちゃった。たまに、そんなのあり得ないでしょ、って思っちゃうのもあるけど」

 

 

 パンを咥えた女の子と男の子がぶつかっちゃうとかね、と。茜は苦笑しながら言った。

 アニメとか少女漫画でよくある展開と聞いたことはあるけれど、確かに現実には起こりづらいことだと思う。

 

 

「……そっか」

 

 

 恋の仕方。偶発的に発生するその気持ちは、未だに僕の中には発生していない。誰かに恋したことがないから、僕には分からない。だから想像したり、本で読んだことを思い返したりすることくらいしかできない。

 会話してみると意外に面白い人だったり、容姿が良い人に惹かれたり。人によって始まりはばらばらかもしれないけれど、最後には同じ感情に行きつくのだろう。

 

 ……茜はどうなんだろう。

 

 告白してくれたあの日。茜は、僕が笑ってるところを見たいと言ってくれた。

 

 その気持ちの出発点は、いったいどこだったのか。もしかして、茜と初めて話をしたあの日から、こうなることは必然だったのだろうか。

 

 気まぐれに発生するのに、必ず同じ場所に帰結する。それが僕には、ちょっとだけ残酷なことに思えた。

 

 

「舞台も高校だけじゃなくて、大学とか会社とかの場合もあって、その度に想像してみて。登場人物もいろんな人がいて、どんな風にこの人に恋したのかな、って。そうやって考えるのが楽しいかな?」

 

 

 僕は、そんな風に考えて本を読んだことはなかった。そこに書いてあることだけを淡々と受け入れて、『そっか、そういう結末なんだ』って。感想と呼ぶのおこがましい稚拙な気持ちしか湧いてこなかった。感受性がないのか、想像力に乏しいのか。僕はいつだって、うわべをなぞってばかりだった。

 

 

「ちょっとずつ関係が進んでるのを見ると、応援したくなっちゃう。大変なことがたくさん起こるけど、幸せになってほしいなあって」

「……そうだね」

 

 

 そんなのただの妄想だと笑われてしまようなハッピーエンドや、どこまでも非情な現実を突き詰めたバッドエンド。どちらも等しく一つの物語であって、優劣をつけられるようなものではない。

 でも、せめて。叶わないことだとしても、なるべく多くの人が幸せであってほしいと、確かに僕もそう思う。

 

 

 小説のコーナーに着くと、茜は本棚から一冊の小説を取り出した。

 空と海を彷彿とさせる青いデザインのカバー。彼女がじっと見つめるその先には、空と海以外、何も映っていない。空を自由に羽ばたく鳥さえも存在していなかった。

 

 

「ほんと、色々な関係があるよね」

 

 

 手元に取ったその小説の表紙を眺めながら、茜は目を細めた。

 

 

「疎遠になっちゃった幼なじみだったり、クラス替えで隣の席になった同級生だったり。他にも──」

 

 

 何気ない会話。

 けれど、だからこそそれは不意打ちで。

 

 

 

 

 

「──喧嘩しちゃった兄妹、とか」

 

 

 

 

 

 ──真実をかする言葉。

 

 

 僕は一瞬、呼吸ができなくなった。たった一言に、僕は全身に緊張が走るのを感じる。血の気が失せそうな感覚に、たまらない自己嫌悪に陥った。

 

 

「最後のは、実際に聞いたこともないけどね。きっと小説の中だけの話だと思うし」

 

 

 茜は小説の表紙を、そっと指でなぞった。

 

 

「あ……。そう、だね」

 

 

 動揺が表に出ないように、努めて平静を装って声を出した。落ち着くはずの本の匂いも、今となっては効果が切れてしまったようで全く機能しない。グラグラと揺れる平衡感覚の消失に、僕は今にも倒れてしまいそうな錯覚に陥った。

 

 けれど、それをぐっと堪える。これは僕自身の気持ちの問題だ。悩みがあって、迷いがある。だから僕は悩んでもいけないし。迷ってもいけない。

 

 そう言い聞かせ、なんとか踏みとどまった。

 

 

「……茜?」

 

 

 少しの間流れた沈黙。茜が小説を手に取ったまま微動だにしないことに、僕は今更気づいた。

 

 

「……ううん。なんでもない」

 

 

 首を振りながら、茜は小説を元の棚にそっと戻した。

 

 喫茶店のときから、どうにも茜の様子がおかしい気がする。茜と話をしているはずなのに、どこかしっくりこない。

 挙動不審という感じじゃなくて、ふとした瞬間に何か別のことを考えているような感じだった。上手く言葉に表すことはできないけれど、いつもの茜らしくないように感じられた。

 

 僕が言葉に迷っていると、茜はふっと表情を緩めながら言った。

 

 

「そろそろ帰ろっか」

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 電車に揺られて十数分。降り立った駅構内から外に出れば、見慣れない景色が眼前に広がる。

 しばらく歩くと、閑静な道に差し掛かった。決して狭くはないけれど、人の気配は全くなくて、人影一つ見えない。

 

 

「暗くなるの、早いね」

 

 

 茜の言葉に、僕は歩みを止めずに空を見上げた。電車に乗る前はまだ明るかった空は急速に暗がり始めて、今は刹那の夕方を迎えていた。

 棚引く雲。カラスの鳴き声。ほのかに色づくオレンジ。四季によって移り変わる景色の中で、最も短い時間。ゆっくり流れていたと思っていた時間は、気づけば駆け足で過ぎ去っていた。

 

 目の前には、二人分の影が伸びている。身長も違う僕たちの影は、当然その長さも違っている。地面に映るのっぺらぼうは、表情もないし話すこともない。

 

 

「送ってくれてありがとう。この辺で大丈夫だから」

 

 

 茜の家の近くまでやってきた。

 

 

「今日はすっごく楽しかった。付き合ってくれてありがと」

「……僕も楽しかったよ」

「ほんと? よかった」

 

 

 柔和に笑む茜はそう言うけれど、僕はやっぱり違和感があった。

 茜は僕の顔を真っすぐ見ていない。今も向かい合っているはずなのに、その視線はどこかずれたまま。

 

 

「また学校でね」

「……」

 

 

 そんな僕の思考を打ち切るように、茜はくるりと振り向いてしまった。徐々に広がる僕と茜の距離。

 

 また学校で。

 僕もそう返すのが普通なのだろう。

 

 休日にクラスメイトとデートして、少しずつ仲を深めていって。関係がどう発展するかは分からないけれど、それすらも青春の一ページとしてとらえる。絵に描いたような筋書きは、行先が丁寧に作られた一本の線路。

 僕はずっと、そこに乗ることを望んでいた。そうすれば、安全で、正しくて、大切な人を守れると思っていたから。

 

 でも。

 

 

「……待って、茜」

 

 

 ここでお別れして、また線引きを曖昧にして。ただ居心地のいいぬるま湯に浸かって。誰かが示した道にしか従わない。

 

 僕はもう、そんなのは嫌だ。そんな自分はもう嫌だ。だってそれが、本当に大切にしたかった人を、傷つけてしまっていたのだから。

 

 だから……。

 

 

「告白の返事。させてほしいんだ」

 

 

 ピタっと止まる足。

 

 深呼吸する。動悸が激しい。バクバクと暴走しかける心臓の鼓動は、だんだんと大きく聴こえる。不安がうっそうと茂る森の中は明かり一つ見えず、一寸先は切り立った崖とも知れない。

 だけど、僕は茜に勇気をもらったから。その分の勇気を、返さなきゃいけない。

 

 

 

 

「……ごめん、茜」

 

 

 

 

 ただ一言だけ、僕は呟いた。

 それは目の前の茜に伝えているようでいて、その実ただの独白でしかなかった。

 

 僕の背中をまさぐる泥。それは少しずつ僕の足取りを鈍らせてくる。竦んだ足元はやっぱりよく見えない。今、僕がどこに立っていて、どこに向かおうとしているのか。全く分からない。

 

 風が吹いた。僕と茜の間に吹き抜ける風は、かすかな砂ぼこりを伴ってさらさらと宙に消える。

 

 

「……理由って、聞いてもいい?」

 

 

 冷静な声。カバンの紐を握りしめる手には、ぎゅっと力が入っていた。

 見ていられなかった。見ていたくなかった。今、目の前の子を傷つけているのが自分自身であると、まざまざと思い知らされるから。

 けれど、僕は逃げちゃいけない。ここで逃げてしまえば、僕はずっと逃げ続けてしまう。その逃げ続けた果てに待っているものは、きっと誰も幸せにしない。

 

 深く息を吸う。ゆっくりと、自分の言葉を口にする。

 

 

 

「……どうしても、泣かせたくない人がいるんだ。茜と付き合うと、その人を泣かせちゃうから」

 

 

 

 それは最低な言葉だった。茜の気持ちを踏みにじるような、ひどく醜い言葉。

 

 現実も、事実も、いつだって僕たちを苦しめてきた。取り返しのつかないことが起きてしまったとき。僕たちはただ泣くことしかできなかった。

 時間は戻らない。手のひらから零れ落ちていく砂の粒は、二度と手のひらに戻ることはない。

 時の流れは不可逆だ。だから僕はせめて、あの日の約束を違えたくなかった。あの日僕が決めた、本当に大切にしたいものを決して見失いたくなかった。

 

 

 

「だから……ごめんなさい」

 

 

 

 僕は茜の気持ちを、受け止められない。

 

 

 後ろに見える茜色に染まっていた空は、その刹那の輝きを曇らせて、徐々に姿を隠していく。

 もうそろそろ夜の時間だ。みんな家に帰って、それぞれあたたかな家庭でゆっくりと休む時間。そこがきっと、みんなが帰るべき場所。

 

 ……ああ、そう言えば。

 遥との約束、破っちゃったな。

 

 夕方になる前には帰るって言ったのに。ひょっとしたら怒るだろうか。でも、あの遥のことだ。そこまで気にしてないということもあるかもしれない。

 僕と遥の間に生じた数年間に及ぶ隔絶。遥からの一方的な拒絶に対して、僕はただショックを受けることしかできなかった。自分に一番近い存在のことさえ、何も理解できていなかった。だから今、遥がどんな気持ちでいるのか分からない。

 

 

「……」

 

 

 沈黙が痛かった。グサグサと針で刺されるような痛み。

 思わず唇を噛んだ。これはケジメだ。僕はずっとこの痛みを覚えて、向き合いながら生きていく。そうしなきゃいけない。

 

 けれど。

 

 

 

「……なんとなく、分かってた」

「……え?」

 

 

 

 ぽつりと呟いた一言に。

 そんな痛みが一瞬だけ消え去った。

 

 

「……分かってたって……」

 

 

 茜は、ゆっくりと振り向いた。

 

 

 

「カナは、優しいから」

 

 

 

 そこにあるのは失望でもなく、絶望でもなく。優しく労わるような、気遣った微笑み。茜が何故そんな顔をするのか、僕には分からなかった。

 

 

「……カナって、やっぱり自分のことになると本当に鈍感だよね」

 

 

 僕の目の前まで、茜が歩いてくる。

 静かな歩みは、真っすぐこちらに向かって来ていて。

 

 

 

「カナ。今日の間ずっと、苦しそうな顔してたよ」

「……あ……」

 

 

 

 僕は、やっと分かった。

 

 どうして茜の様子がおかしかったのか。

 どうして僕を真っすぐ見ていなかったのか。

 

 頬に触れたのは茜の温かい手。頬の形をなぞる指が、こそばゆかった。

 僕は動けない。その手があまりにも柔らかくて、優しくて。そのまま、溺れてしまいそうで。何もかもを委ねてしまいそうな自分が、心の中に確かにいた。

 

 

「……あたしの方こそ、ごめん」

「な……」

 

 

 ……なんで。

 

 

「ずっと、言い出しづらかったんだよね。だから、あたしの方こそごめん」

 

 

 そんなのおかしいじゃないか。茜が謝ることなんて何一つないはずなのに。どう考えても謝るべきなのは僕のはずなのに。どうしてそうやって優しくするんだよ。

 

 茜の手がゆっくりと離れ、そこにあった熱は泡沫の夢のように消える。俯いた茜に浮かぶ表情は僕からは見えない。

 背筋を撫でる冷たい予感。ひりつきだす喉。冷たい空気が肌を通り、血管を通り、心臓の奥深くまで浸透する。

 

 胸がひどく苦しい。眩暈さえした。べったりと塗られる罪悪感に、僕は何も抵抗できない。抵抗する気もない。これは僕が独りで背負うべき咎だから。

 

 

 

「……一つだけ訊いていい?」

 

 

 

 それはまるで、最後の宣告のように。永遠に答えの出ない問題のように。

 

 俯いたまま、茜が僕に問う。

 

 

 

 

 

 

 

 ──その人って、誰なの? 

 

 

 

 

 

 

 

 分かっていた。急所をえぐるその一言が来ることを、僕は分かっていた。茜はその先の真実を求めてきた。僕が決して言いたくない言葉を、純粋に追い求めてくる。茜には当然、その権利があった。僕には答えを返さなくてはならない義務があった。

 

 分かって、いたのに。

 

 

「それは……」

 

 

 夕方の光が、影を長く伸ばす。地面に乖離するのはもう一人の自分。影の伸びた先に待つのは陽の光もない真っ暗な夜。

 僕の手は、やっぱり震えていた。ガタガタと、ガタガタと。震えが止まらない。何か大切なものが、壊れてしまいそうで。

 

 

「……」

 

 

 怖い。僕は怖い。()()を口にすると、茜にどんな目で見られてしまうのか、考えるだけで怖い。

 

 

「……っ」

 

 

 胸を抑えた。動悸が激しくて、息が苦しくなる。

 覚悟を決めたつもりだったのに、どうしてこうも躊躇してしまうのか。難しいことはない。ただ一言だけ、その名前を告げればいいだけ。それだけなのに。

 

 

 

「僕は……」

 

 

 

 喉が、体が、心が、動かない。

 

 何やってるんだよ。早く動けよ。

 黙ったままじゃあ、何も分からないじゃないか。

 早く言うんだ。決着をつけるんだ。

 

 

 手を強く握り込む。手のひらに爪を食い込ませて、迸る痛みに言葉にできない思いを塗り込む。自分の考えを貫くということは、誰かの考えを、思いを否定すること。その誰かを深く傷つけてしまうこと。そしてそれこそが、僕が選んだ道。

 

 深く息を吸う。今にも倒れそうな体を無理やり抑えつけた。

 

 

 

 

 

「僕は──」

「──待って!」

 

 

 

 

 

 ──それは、半ば叫ぶような声だった。

 

 

 

 僕の喉から出かかっていた言葉は、茜の突然の声にぴたりと止まった。

 吹き抜ける一陣の風。なびく風が木々や髪を揺らす。騒めていた鼓動も、今にも倒れてしまいそうなよろめきも、その全てが瞬時に消失した。

 

 

「やっぱり……待ってっ……」

「……茜?」

 

 

 顔を上げて、僕は気づいた。

 震えていたのは、僕だけじゃなかった。

 

 セーターの裾をぎゅっと掴む茜の手。彼女の手は、まるで寒さに震えているようで。ぽたぽたと流れ落ちていく雫。乾いた地面に落ちるそれは、少しの爪痕を残して地面に染みこんでいく。

 

 

「やっぱりっ……言わなくて、いいから。それ以上を聞いたら、もっと泣いちゃうからっ……」

 

 

 ……それは、僕にとってあまりにも優しくて、あまりにも許されないことだ。言わなくてもいい、だなんて。その優しさに甘えてしまえば、僕は逃げ続けてしまう。それは僕が幼い頃に抱いていた理想とは大きくかけ離れたものだ。

 

 

「……でも──」

 

 

 だから僕は食い下がろうとした。たとえ、それを伝えることで嫌われることになったとしても。僕にはもったいないくらい、優しいその気持ちを踏みにじることになったとしても。それがきっと、茜の真摯な気持ちに対して僕ができる唯一の誠実さだから。

 

 だけど……。

 

 

 

「いいから!」

「っ……」

「何も……。何も、言わなくてっ……いいから……」

 

 

 

 振り乱される髪と、降りしきる雨のような涙。

 

 

 

「あたしは……」

 

 

 

 掠れてしまいそうな声で、俯きながら何度も何度も目を拭って。

 

 

 

「あたしが好きなのはっ……」

 

 

 

 一歩、また一歩と、よろけるように歩き出して。

 

 温かくて柔らかい感触が、胸に触れた。

 

 

 

 

 

「笑顔のカナだからっ……」

「あ……」

 

 

 

 

 

 それはまるで、文化祭のあの日のように。

 胸に感じるのは、茜の体温。

 

 

「カナにっ……そんな苦しそうな顔……してほしくないからっ……」

 

 

 シャツに染み込む涙の跡だけが、その隙間からは見えた。僕はやっぱり、動くことができない。垂れ下がる腕が、その細い両肩を掴むこともない。鼻をくすぐるシャンプーの甘い香りが、どうにも悲しく思えて仕方なかった。

 

 

 

「カナはっ……その子のことが、大切なんでしょ……?」

「……」

「その子のことが……好きなんでしょ……?」

 

 

 

 そろそろ夕方が終わる。地面に映っていたもう一人の自分の姿は、既になくなっていた。形のない影はそこにあるはずだけれど、僕の目には映らない。

 

 ここにいるのは影じゃなくて僕自身。だから、僕の口からはっきりと言わなきゃいけない。思い浮かべるのは、この世界でたった一つしかない絆。

 

 

「……うん」

 

 

 泣きじゃくる茜が、果たして誰を想像しているのか。どうして、言わなくていい、だなんてことを言ったのか。本当に意味するところを、僕は知らない。

 

 けれど、だからこそ僕は、誰でもない僕自身としてちゃんと話さなきゃいけない。

 自分で考えて、自分の言葉で、自分の責任で。

 

 何度目かの深呼吸をする。体の力を抜いて、ごく自然に。

 

 ゆっくりと、口を開いた。

 

 

 

「僕は──」

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 すっかり日の暮れた夜の帰り道。

 隣には、誰もいない。

 

 街灯の頼りない光は等間隔に足元を照らしていて、僕は一つ一つそれを数えながら歩く。腕時計を見れば、だいぶ遅い時間になってしまっていた。

 朝早い時間から出かけて、教科書をなぞったようなデートをして。ふわふわとした夢心地で、楽しくも苦しい時間だった。ゆっくりと長く続いてた時間は、太陽の降下と共に終わりを迎えた。

 

 空を見上げる。見上げた夜空には星が輝いていた。きらきらと輝く星は、日々変わることなくそこに佇む。季節によってその見え方は変わるけれど、その存在自体は何も変わらない。

 

 

「……」

 

 

 胸元をそっと触る。

 少しだけ湿った感触が指に触れた。

 

 これからも学校で何度も顔を合わせることになる。だって、僕たちは隣の席同士だから。そのときにどんな顔をして会えばいいのかは分からない。

 

 ただ、去り際に一言だけ。

 

 

「……ありがとう、か……」

 

 

 たった一言だけど、あまりにも複雑な感情が内包されたその言葉が、夜風に冷えることなくいつまでも脳裏に焼きついている。

 泣き笑いを浮かべていた彼女。僕が伝えたその名前の意味が、正しく伝わっていたのかは、彼女自身に訊かないと分からないまま。

 

 でも、どうしてだろう。不思議と、彼女は悟っていたようにも思えた。表立って口にしてしまえば、場合によっては忌み嫌われてしまうようなその言葉を、真の意味で理解していたんじゃないかって。根拠も何もないけれど、そんな気がした。

 

 

 

「……」

 

 

 

 足を止めた。目の前に佇むのは住み慣れた家。

 

 寂しいときも、悲しいときも、苦しいときも、つらいときも。いつだって優しく包み込んで癒してくれた僕の居場所。

 あともう一人。僕には、話をしなきゃいけない人がいる。今度こそ、ちゃんと向き合わなきゃいけない。

 

 ポケットから鍵を取り出して、玄関のドアを開いた。

 

 

「……ただいま」

 

 

 静まり返った家。真っ暗な家の中。今では見慣れた景色が、何も言うことなく僕を出迎えた。僕はスイッチを押して玄関の明かりをつけた。

 

 

「……?」

 

 

 靴を脱ごうとして、あることに気づいた。

 今では二人暮らしも同然のこの家。玄関に並ぶ靴も当然、二人分しかないはず。だからすぐに分かった。

 

 

 

「……遥?」

 

 

 

 そこにあるはずの靴が、何故かなくなっていた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話

 

 後日、エピローグも投稿します。





 

 

 一日中の疲労がたまった体が悲鳴を上げる。息切れが激しく、肺に送られる冷たい空気が、体の中を凍てつかせるようだった。初冬の澄み切った空気は、氷の刃のように胸を切り刻む。

 

 痛む胸に顔をしかめ、はぁ、はぁと息を切らしながら立ち止まった。

 

 ……どこにいるんだ。

 

 ポケットの中からスマホを取り出しても画面は真っ暗。メッセージの通知は一切ない。何も言わない端末を、ポケットに押しこんだ。

 

 家に帰ってどこにも遥がいないことを確認してから、結構な時間が経つ。おそらくただの外出だと自分に言い聞かせてみても、ひたひたと迫る焦燥感は一向に消えない。

 近所の商店街。コンビニ。小さな書店。ちょっとした外出なら、きっとそのあたりだろうと考えて真っ先に探したけれど、一向に遥は見つからない。

 夜に染まる街は昼間とは打って変わって、ゴールの見えない迷路のよう。街灯の淡い光はその足元しか照らさず、先の道までは見せてくれない。

 

 

「……」

 

 

 どうして僕はいつもこうなんだろう。肝心な時に限って上手くいかない。どうしても話さなくちゃいけないことがあるのに。ずっと苦しんでた遥に、どうしても伝えなくちゃいけないことがあるのに。

 

 遥の日記を読んでしまったあの日。遥の気持ちを知って、ひどく動揺した。一つ屋根の下で、ずっと双子の兄妹として暮らしてきた僕たち。僕はただ、家族として遥が大切だった。大切にしなくちゃいけなかった。それが、母さんとの最後の約束だったから。残された僕たちが、たとえ母さんがいなかったとしても、ちゃんとやっていけるってことを証明しなきゃいけなかった。

 けれど、遥が僕に対して抱いていた気持ちは別物だった。決してあり得ないと思っていた感情だった。僕を避けだしたあの日から。いや、あるいはもっと前から。遥の根底にあったものは違っていた。僕はそのことを、きちんとした事実として受け止めなければならない。

 

 だから改めて、僕の考えを、思いを。

 今度こそちゃんと伝えたい。

 

 

「……」

 

 

 先の景色は深い闇。息苦しさを感じて、空を見上げた。

 

 何も遮るもののない広々とした星空は、地上の全てを遍く照らす。精一杯手を伸ばしても届かない星の一つ一つ。澄み切った夜空を彩る幻想は、人々の瞳全てを魅了する。

 

 冷え切って固まりそうな手を、そっと空にかざした。

 

 

 

 ──わぁ! 

 

 

 

「あ……」

 

 

 

 聴こえた声に、はっとした。

 

 その声は、どこか聴き覚えのあるあどけない声。既視感のような何かだった。周囲を見回しても、当然だけど子ども一人いない。

 でも、確かに聴こえた。脳裏をよぎったその光景を必死に思い出す。ずっと昔、同じようなことがあった気がした。

 

 いつ、どこで。

 

 

 

 ──みて、かなた! 

 

 

 

 幼い声が僕の名前を呼ぶ。聴き馴染みのあるその声を、僕は誰よりも知っている。

 

 

「……そうだ」

 

 

 声のする方へ、僕は走り出した。もしかしたら、それはただの幻聴なのかもしれないけれど。今はただ、その声を信じて走る。

 

 ずっと昔、僕は同じ空を見上げたことがある。十年ちょっとじゃ変わることのないこの空を、僕は間違いなく見たことがある。そのとき手に握っていた、小さく温かい手のひらを覚えてる。

 

 

「はぁ……はぁ……」

 

 

 先の見えない迷路を、迷わず駆けていく。誰かが示してくれなくても、教えてくれなくても、迷うことはない。僕の足は、自然と()()()()へと向かって行く。

 住み慣れた街並みが、たとえ暗がりに潜んで見えなくなっても。真っすぐに見えた道が、本当は歪んだものだったとしても。

 

 僕が行きつく場所は変わらない。

 

 

 運動不足の体を叱咤して走り続けると、呼吸に伴って喉が痛み出した。けれど、それを無視してとにかく走る。一歩ずつ前に、決して止まることなく。

 

 この先の角を曲がって、真っすぐに進んで。

 突き当りを左に曲がって、そのまま進む。

 

 体が覚えている道筋に、僕はただ従う。

 

 その先には、きっと。

 

 

 

「っ……はぁ」

 

 

 

 ざっと、地面を踏みしめた足音を最後に、僕は立ち止まった。荒い呼吸を整えながら、膝に手をつく。

 

 月の光に照らされる濡羽色の髪。そこに小さく輝く白いヘアピン。シャツの上からカーディガンを羽織って、下はロングスカートに身を包んでいる。こんなに寒いのに、必要最低限な服装だと思った。

 

 

 

「……遥」

 

 

 

 誰もいない公園。僕の声は、存外に響いた。

 空を見上げていた遥はピクっと肩を揺らして、僕の声にゆっくりと振り向いた。

 

 

「彼方……」

 

 

 かすかに見開いた目。けれど、それも次第に伏せられ、間もなく逸らされた。そして、白い吐息を漏らして小さく呟いた。

 

 

「……嘘つき。夕方前には帰るって、言ってたのに……」

 

 

 今はすっかり夜の時間。僕は確かに、夕方前に帰ると約束していた。

 

 

「ごめん、帰るのが遅くなって」

「別に。勝手にすればいいじゃない……」

 

 

 投げやりな態度。それが遥の本心じゃないってことくらいは、僕にも分かる。強がってみても、本当にどうでもいいことなんて実はなくて。

 

 

「どうして遥はここにいたの?」

 

 

 遥は僕をちらと見るとまた顔を背けて、気まずさを隠せないように腕をさすった。僕もそうだけど、遥も夜中に出歩くイメージはない。だから、何故ここにいるのか不思議だった。思い当たる節は……。

 

 

『夕方前には帰るって、言ってたのに……』

 

 

 ……。

 

 

「ひょっとして、心配して探してくれてたの?」

「っ……そんなんじゃないわよ。ただ散歩してただけ」

 

 

 図星だったのか、少し動揺が見えた。もしそうなら、メールでも送ってくれれば良かったのだけど。でも、メールするのも気まずいと思ったのかもしれない。

 遥は散歩してたと言い張るけれど、夜中に外出してるところなんて見たことないし、嘘だろう。たぶん、たまたまここで鉢合わせしたんだ。

 

 荒い呼吸も落ち着いてきた。寂れた公園には子どもはおろか、大人一人いない。散歩するにしても、景色のいい場所とは言えない。

 

 

 ……散歩、か。

 

 

「……ならさ。ちょっと付き合ってもらってもいい?」

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 涼やかな風が頬を撫でる。

 見晴らしのいい場所にまでやってきた。

 

 自然豊かな街というわけではないけれど、長く住んでいれば名スポットのようなものはいくつか知っていた。

 家からそこそこ遠い場所のここは小高い丘。近隣の幼稚園や小学校では、よくここにピクニックに来る。もちろん、僕も遥も幼い頃に来たことがある。

 

 ときどき、後ろに視線を向ける。遥がついて来ていることを確認するためだった。素直に着いて来てくれるかどうかだけが心配だったけど、とりあえず安心した。

 

 

「晩御飯は食べた?」

「……まだよ」

「そっか」

 

 

 その場凌ぎの会話。何の面白みもない事務的な会話は、当然中身を伴っていない。

 思えば、僕と遥はいつもそうだった。そもそも家の中でも会話なんてなかった。どこの家でもありふれているであろうそれは、僕たちの間では存在すること自体に意味があった。

 でも、それだけじゃ足りなかった。だから遥は僕への態度も中途半端にしかできず、自分の想いに押しつぶされそうになっていた。

 

 きっかけが必要だったんだ。

 

 

「……っと。この辺がいいかな」

 

 

 歩いた時間は二十分くらいだろうか。結構な距離を歩いた気がする。開けた場所に出て、一息ついた。首元に滑り込む冷涼な空気に、一瞬体をすくめた。もうちょっと厚着して来ればよかったかもしれない。

 

 

「なんなのよ。こんなところに連れてきて」

「本当は公園でも見えるとは思うんだけど、ここの方が良く見えるかなって」

「……なんの話?」

 

 

 訝しむ遥に対して、僕は何も言わずに空を見上げる。根拠はないけれど、僕には予感があった。

 雲一つない空。全てをさらけ出した空には満天の星。そこまではさっきと特に変わらない。

 

 けれど、きっとそろそろ。

 

 

 

「あ──」

 

 

 

 きらりと流れた一筋の光。

 闇夜を駆ける輝きが、遠い空で瞬いた。

 

 それは一つの流れ星。

 小さな光の弧は、意地悪くもすぐにその姿を隠してしまう。

 

 

「……きれい……」

 

 

 後ろから小さく声が上がる。どうやら後ろにいる遥も、ちゃんと見えたようだ。

 

 

「タイミングが良かったみたいだね」

「あれって……」

「流星群、だって」

 

 

 午前中、偶然見かけたニュースでやっていた特集。どうやらそこで言っていた通り、今日は流れ星がよく見えるようだ。初冬の澄み切った空と、広々とした丘の上。肌寒さなんて忘れてしまうくらい綺麗な星の輝きに、僕と遥はしばらくの間空を見上げる。

 星の知識なんて何もないし、気の利いた表現も思いつかないけれど、幻想的なその光景はただ美しかった。

 

 小学生のときも、中学生のときも、高校生となった現在も。

 

 

「これを見せるために、ここに来たの?」

「偶然だけどね」

 

 

 正確な時間も把握してなかったから、本当に偶然だ。だからこそ、僕はこの偶然に感謝した。気まぐれな流れ星が、僕たちの目の前を過ったことに。

 

 

「……ねえ。遥はこの前、僕にこう言ったよね。『私のこと嫌いになったでしょ』って」

 

 

 こうして、話すきっかけを作ってくれたことに。

 

 

「え……」

 

 

 いつの間にか隣まで来ていた遥と、空を見上げながら話す。

 

 

「あの日。遥の日記を読んでからずっと考えてたんだ。自分はどうするべきなのかって」

「……別に何かする必要なんてない。彼方は何も悪くない。悪いのは私」

 

 

 寂しい声が聴こえた。自責に駆られて自らの首を絞める遥の言葉を、僕は黙って聞く。

 

 

「どんな小説を読んだってそう。いつだって赤の他人に恋して、結ばれて。それが普通のことなんだって、物心がつき始めてから初めて知った」

 

 

 でも、と。声音が震えた。

 

 

「いつになってもっ……。私は、彼方に恋してる自分を消せなかったっ……。彼方を見ると胸が苦しくなって、ドキドキしてっ……」

 

 

 血の気の薄い唇を浅く噛みながら、今にも倒れそうなくらい体を震わせて。

 

 

「彼方にこの気持ちが知られたらって。それを考えると、怖かったっ……」

 

 

 それがどれほど苦しい葛藤なのか。針の筵の最中にいるようなその痛みを、僕は知らずにいた。

 

 

「だからお願い、彼方。あのことはもう、忘れてよっ……」

 

 

 僕たちはただの兄妹。それは分かり切った事実。だから、遥の気持ちは閉じ込めておかなきゃいけない。僕は兄として接さなければならない。社会の常識に則って、正しいと定められた道を辿らなければならない。

 

 

 

「……遥」

 

 

 

 ……だなんて。

 そんなこと、今は関係ない。

 

 

 

 

「──え?」

 

 

 

 

 不意をつくような形で、遥を抱きしめた。耳元に感じる吐息。胸元を灯す体温。

 

 孤独に戦ってきた妹の体は、見た目よりもずっと細く、折れてしまいそうなほど。

 ずっと背を向け合っていた。正面から向き合ってなんていなかった。だからもう、終わりにしたい。

 

 

「な……」

 

 

 すぐ近くで、遥の声が耳に届く。

 

 

「なにっ……するのよ」

 

 

 はっと気づいた遥が、僕を押しのけようとしてくる。けれど僕は、それに構わず抱きしめる力を強めた。

 

 

「色々なことを考えてた。どうするのが正しいのかとか、どうしたら元に戻れるのかとか。でも、そういうことを考えるのをやめたとき。僕は思ったんだ」

 

 

 兄妹であること。それが僕が、僕である証だった。あまりにも弱くて情けない自分は、その言葉に頼ることでやっと立ち直れた。けれどそれは同時に、自分自身がそこにはいない証でもあった。

 右と言われれば右に進んで、左と言われれば左に進む。それは言うことをちゃんと聞く()()()かもしれないけれど、絶対的に正しいことなんかじゃない。

 

 そう。難しく考える必要はなかった。ただ一つ、自分の気持ちだけを考えたときに、僕が思ったこと。何もかもを取り払ったときに、一つだけ残っていたもの。

 

 

「僕は嫌じゃなかったよ。遥が僕のことを好きだって知って。嫌いになんてならなかったよ」

 

 

 それに、僕が遥の想いを知ったときに考えたのは、どうしたら遥をその苦しみから解放できるのかということだ。あのときはあまりの衝撃に上手く言葉に表すことができなかったけれど、僕はやっと、確かな芯を持って言葉にすることができた。

 

 

「……嘘、よ……。そんなの……」

「嘘じゃないよ」

 

 

 僕は遥の気持ちを知っても、気持ち悪いだなんて思わなかった。遥の気持ちの形が家族愛か近親愛か。僕はただ、その気持ちの形ばかりを気にしていた。けれど、美玖と話をして僕は気づいたんだ。大切なのは形じゃない。誰が決めたことでもなく、僕自身が遥をどう思うかだって。

 

 

「同情しないでよっ……」

「違うよ。慰めの言葉をかけてるわけじゃない。ただ、自分の気持ちを正直に話してるだけだよ」

 

 

 嘘偽りのない、本当の気持ちを。

 他でもない遥のために。

 

 

「ねえ遥。覚えてる? 昔こうやって、二人で抱き合ったことがあったよね」

「っ……。それが……何よ……」

 

 

 嗚咽混じりの声。僕は目を閉じながら、昔を思い出す。

 母さんが亡くなったあの日。僕が自分を見失いそうになって、ただ倒れそうになったあの日。僕が前を向けたのは、妹がいたからだった。

 

 

「あのときも今も、こうしてるとすごい安心するんだ。遥はどうかな……?」

 

 

 頬に触れる遥の髪からはやっぱり甘い香りがして、波打つ鼓動のリズムがひどく心地よくて。

 

 

「そんなの……訊かないでよっ……」

 

 

 ぎゅっと。僕の背中を掴む手に力が入った。

 ……そう言えば、こんな風に気持ちを伝えたことってあったかな。僕が遥のことを大切に思うこの気持ちを。

 

 

「……正直言うと、僕のこの気持ちが恋愛感情かどうかは分からない。でもね──」

 

 

 気持ちを伝える勇気を、僕はもらったから。

 今度こそ、大丈夫だから。

 

 

 

「僕は遥のことが好きだよ。何があっても、それは変わらないよ」

「あ……」

 

  

 

 不安で怯える妹の体。僕は、安心させるために背中に回した手を、ちょっとだけ緩めた。

 大切なのは、遥の想いをもっと知りたいという気持ち。遥の想いを嬉しいと感じる、素直な自分の気持ちだった。それはもしかしたら、世界のルールから外れことなのかもしれない。周りの人からは引かれ、疎まれるものかもしれない。

 でも、僕が大切にしたいのは世界のルールじゃない。たった一人の妹の遥だ。

 

 

 

「だから遥──」

 

 

 

 抱きしめていた身体を離す。呆然としている遥の頬を、手で包んだ。母さんが亡くなったあの日から、ずっと願っていたこと。

 

 指先で()()()()を、そっと拭った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「もう、泣かないで」

 

 

 

 

 

 

 

 

 弱くて、強がりで、泣き虫で。苦しいのに、助けを求めることもせずに。自分が悪いからって、そんな風に決めつけて。自分の気持ちを押し殺すことで得られるような、嘘の安寧はいらない。

 

 そんな寂しい独りぼっちは、終わりにしよう。

 

 

 

「かな、たっ……。かなたぁ……。うぁ……あぁ……」

 

 

 

 大人のような静かにすすり泣く声が、子どものように大きくしゃくりあげる声へと変わっていく。

 ずっと昔、しゃくりあげて泣いた妹をあやしたときみたいで、少しだけ懐かしい気持ちが胸に燻った。自分のやっていることが、これから先の幸福に繋がるかどうかは分からない。所詮、その場凌ぎの対症療法でしかないのかもしれない。

 

 でも、大丈夫。僕たちは一人じゃない。一人ではつらくて投げ出してしまいそうな現実も、遥と一緒なら。

 

 一人ではなく、二人の答えを見つけられると思うから。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 二人並ぶ帰り道。遥は僕の後ろではなく、隣にいる。その間の距離は近くはないけれど、遠くもなかった。

 

 

「すっかり暗くなっちゃったね」

「……彼方のせいでしょ」

「はは……それもそうだね、ごめん。でも、遥も遥だよ。夜に一人で出歩くなんて」

「それは……」

 

 

 口籠る遥。もうその反応で答えを言ってるようなものだけど、自分の口からは言いたくないらしい。意地っ張りで気の強い性格の表れだった。

 ついさっきまで泣いていたせいで赤くなった目元。それでいて軽く睨みつけてくるものだから、あまり迫力はなかった。

 

 

「そもそも、彼方もどこに出かけてたのよっ」

「僕はまあ……色々」

「色々ってなによ」

 

 

 ジトっとした視線が、容赦なく追撃をかけてくる。拗ねた顔だった。色とりどりの表情だけれど、いずれもどちらかと言えばマイナス方面。もっとも、遥が満面の笑みを浮かべたり喜んだりするところなんて、全く想像できないけれど。

 

 緩やかな坂道に差し掛かる。花も咲かせず、葉も咲かない木々の合間。その狭い道の間で、僕と遥は少しだけ身を寄合う。

 手の甲が、かすかに触れ合った。

 

 

「あ……」

 

 

 同じタイミングで、僕と遥は立ち止まった。見上げた夜空には、二つの流れ星。

 

 瞬く間に消えゆく光に、願いごとをする時間なんてなくて、ただ眺めるだけだった。けれど、その一瞬は、瞼の裏で思い起こせるくらいに焼きついた。

 

 

「……ねぇ、彼方。さっき、恋愛感情かどうか分からないって言ったわよね?」

 

 

 ふいに、遥が尋ねてきた。

 

 

「……? 確かに言ったけど……」

「……それなら」

 

 

 遥は、軽くつま先立ちになった。

 そして。

 

 

 

 

「ん……」

 

 

 

 

 突然、頬に触れた柔らかい感触。フローラルな香りが鼻をくすぐると共に、温かい体温を感じた。

 それは一秒にも満たない時間だったかもしれない。けれど、頬に残るかすかな熱が、その刹那が確かに存在したことを証明していた。

 

 遥がつま先立ちを止めて、こてんと僕の胸に頭を預けた。よく見れば、首筋から頬にかけて肌が赤らんでいた。

 

 

「……ぃ……の」

「……?」

「い、いまの……ドキドキ、しなかった?」

 

 

 もぞもぞと、シャツ越しにかかる声がこそばゆい。

 

 

「……よく分からなかったかな」

「ドキドキはしなかった……?」

「しなかったけど……」

 

 

 そう言うと頬を赤くしたまま、少しつまらなそうな顔をした。もしかしたら、ドッキリさせたいとでも思っていたのかもしれない。ドキドキではなく、どぎまぎはしたけれど。

 

 

「でも、嫌じゃなかったよ」

「……なんか複雑」

「そこは許してほしいかな」

 

 

 僕は恋愛感情というものを知らない。だから遥との間に、齟齬のようなものがあるのかもしれない。それは仕方ないことだ。だから僕は、少しずつ遥の気持ちを知っていきたい。自分の気持ちも、もう一度最初から。

 

 

 

 夜中の遅い時間。遠回りをした散歩。それも、そろそろ終わりだ。しばらく歩いて、やっと家が見えてきた。

 

 

「晩御飯はどうする? リクエストがなければ僕が適当に作るけど」

 

 

 ポケットから鍵を取り出しながら遥に問う。すると、シャツの裾をくいっと引っ張られた。

 

 

「……約束したじゃない。料理を教えてくれるって」

「……あぁ」

「『あぁ』ってなによ。もしかして忘れてたの?」

「そういうわけじゃないよ」

 

 

 ただ、律儀に覚えていたのが意外だっただけで。

 

 

「そうだね、一緒に作ろっか」

「……うん」

 

 

 料理を教える約束は、まだ続いてるんだ。いや、料理だけじゃない。

 これからも色々なことを経験して、その度に小さな約束を積み重ねていって、途切れていた今までの時間をひと縫いずつ丁寧に紡いでいく。僕と遥ならそれがきっとできるから。

 

 目の前にあるのは真っ暗な家。僕は鍵を開けて、電気を点けた。

 

 色づき始める家の中。

 僕と遥は、魔法の言葉を唱えた。

 

 

 

 

 

「──ただいま」

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エピローグ

 

 

 ガタゴトと、規則的に揺れる車内。車輪が回る音と、過ぎ行く窓の外。初めはぽつぽつと人がいたけど、今となっては他に誰もいない。もっともそれは、この電車が田舎の方に向かっているから当然ではあった。

 

 

『──』

 

 

 電車のアナウンスが鳴った。告げられた地名は僕らの目的地。間もなくして、車両は徐々に減速を始める。駆け足だった景色はその速度を緩めていき、外の景色を鮮明に映し出した。

 線路と車輪が摩擦する音がキィと鳴り響く。その音が終わると共に、慣性に従って体が揺れた。

 

 音を立てて開く自動ドア。僕は荷物を持って、静止した車内から無人のホームに降り立った。

 

 

「……暑いなあ」

 

 

 空から降り注ぐのは燦々と輝く太陽の光。見渡す限りに映るのは紺碧の海と、群青色の空。潮の香りを乗せた風は生ぬるく頬を撫でていき、瑞々しく生い茂った樹木の木の葉を揺らす。これだけ暑いと、涼しい電車から降りたことを少しだけ惜しく思えてきた。

 空に手をかざしながら、僕は後ろの連れ人に問いかけた。

 

 

「遥は大丈夫?」

 

 

 振り向いた先には、麦わら帽子を片手に持つ妹の姿。停車場の陰から出てきた遥は、空の眩しさに目を細めながらも頷いた。

 

 

「……平気」

 

 

 ひらりと、シルクのレースを施した純白のワンピースが揺れた。同時に、艶やかな濡羽色の長い髪が柔らかくなびく。

 肩から指先まで真っ白な肌を晒す遥。日に焼けてしまわないか心配だったけど、出かける前に日焼け止めを塗ってきたらしく、そんなに心配しなくてもいいと言ってきた。

 一息ついて、再び辺りを見渡す。広大な海の手前には白い砂浜。陽の光を受けてきらきらと輝いて眩しい。

 

 ポケットから一枚の写真を取り出した。

 ここに来たのは二度目だ。

 

 写真の景色と寸分違わない光景。天気だけが心配だったけれど、晴れて良かった。

 二人で海岸沿いをゆっくりと歩く。田舎特有の空気と言えばいいのか、とにかく長閑なところだ。気温も湿度もそこそこに高く、少し歩くだけで額に汗が滲んできた。でも、ときどき吹いてくる風が気持ちいい。

 

 

「……ここかな」

 

 

 写真と見比べて、その場所がこれを撮った場所と同じであることを確認する。

 ここに訪れたのは一度だけだった。そのたった一度が、今でも心の中に息づいている。

 

 カバンから一輪のカーネーションを取り出す。

 

 そして手向けるように、そっと地面に置いた。マナーが悪いとは分かっているけれど、これくらいは許してほしいと願って。

 

 目を閉じて、黙とうを捧げる。今はもういないけれど、それでも確かに見守ってくれているはずの人に向かって。

 耳に届く涼やかな潮騒。押し寄せては返していく波の音に身を埋没し、まるで一体化するような没入感に浸った。

 

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 

 母さん。僕たち、二十歳になったよ。

 信じられないかもしれないけど、もう大人になったんだ。

 

 今は都内の大学に通ってるよ。僕が法学部で、遥は文学部。目標とかはまだおぼろげだけど、法律について勉強したいと思ったんだ。覚えることがすごく多くて大変だけど、色々なことを学びたいと思ってる。遥は確か、文学作品の研究をしてみたいって言ってたかな。どういうことをやってるのか、僕は具体的には分からないけれど。

 

 そう言えば。僕たちなんだけど、実は大学の近くのアパートで二人暮らししてるんだ。父さんにも相談したんだけど、自由にやってみなさいって言ってくれて。大学の講義とバイトの両立は結構大変だけど、それなりに楽しく過ごせてる。

 

 バイトだけど、僕はカフェで働いてるんだ。接客とか中々慣れないけど、いい経験をさせてもらってる。それと、遥は本屋でバイトしてる。受付だけど手持無沙汰らしくて、控室で小説書いてるらしいんだ。僕が読ませてって言っても、頑なに読ませてくれないけど。高校の頃からそうだったけど、何を書いてるんだろうね。いつか、教えてくれるといいな。

 

 それと、今度実家に帰ったら、高校のときの友達と飲む約束をしてるんだ。男は僕一人で、女の子は三人。ちょっと肩身が狭いけど、みんなと会うのがすごい楽しみなんだ。

 

 ……僕さ、自分はずっと独りだと思ってたんだ。母さんがいなくなったあの日から、ずっと。遥の傍にいるって決めていたはずなのに、遥のことをちゃんと見ていなかった。

 

 でも、大切な友達が勇気をくれた。

 大切な友達が、否定しないでくれた。

 

 それは小さな世界かもしれないけど、僕にとってはとても暖かくて、優しい場所なんだ。

 

 大切な人たちに支えられて、今を生きています。

 だから母さん。どうか、安心してください。

 

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 

「……」

 

 

 指先に触れた細い指。隣の遥が僕の指をつまむようにして握っていた。遥は一輪のカーネーションの花を見ながら、僕の肩に頭を寄せる。

 

 その横顔は、優しくて、温かくて、穏やかで。

 僕はそっと、指先に力を籠めた。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 海に沿って、砂浜を歩く。きめ細やかな砂のクッションは靴の裏を少しだけ沈み込ませ、僕の体重をしっかりと受け止める。自然の整備がなされた景観は、都会では中々見られない景色だ。都会だと、コンクリートの建物やガラス張りのビル群。狭い道路にひしめく車と、蠢く人々。都内は日々の忙しなさに満ちていて、毎日が活発だ。

 でも、ここは違う。ありのままの雄大な自然には人の介在する余地はない。息を吸い込めば潮の香りが胸いっぱいに満ちて、忙しなく乾いた日常の隙間をゆっくりと満たす。

 

 

「そう言えば、父さんからメール来てたんだ。今度帰省したときに、飲まないかって」

 

 

 父さんは僕たちが大学に進学したことを機に実家に戻ってきた。それは、僕たちが家を空けてしまうことになるから。ときどきは海外に行くこともあるけど、なるべくはこの国にいられるようにしたらしい。

 

 

「……お酒は苦手」

「はは……そうだね」

 

 

 苦い顔をする遥に、この間のことを思い出す。

 僕たちがちょうど二十歳になった誕生日。ちょっとだけ背伸びしたいと思ったのか、遥がバイト帰りにお酒を買ってきた。アルコール度数の低い缶チューハイを数本。僕はそれを見たとき、そういえばもうそんな年齢になったのだと、改めて実感した。

 

 それで夕飯を食べながら、一缶だけ開けてみたのだけど。

 

 

「まさかあんなに弱いなんてね……」

「あまり言わないでよっ」

 

 

 むっとしながら、いじけたように顔を背ける。

 遥は思った以上にお酒に弱く、すぐに酔いつぶれてしまった。

 

 

「あの日は大変だったんだよ? ベッドに運んだら服を掴んで離してくれないし、それに──」

「だ、だから言わないでってば!」

 

 

 記憶を掘り返そうとする僕に、背けていた顔をうっすらと赤く染めながら抗議してくる。

 

 

「……もう、ほんと最悪」

「はは……」

 

 

 僕としては、遥の弱み、と言うほどのものではないけど、そういう一面が見られて嬉しくはあった。

 

 

「父さんの相手は僕に任せてよ。父さんがどれくらい飲むのかは分からないけど……」

 

 

 そこはまあ、長男としての仕事、とでも言えばいいのだろうか。二十歳になった一先ずの節目として、ここまで面倒を見てくれた感謝の証を飾らずに伝えて。これからも迷惑をかけていくと思うけど、よろしくと伝えて。そんな風にしながら、父さんと久しぶりに腹を割って話をしてみたい。

 

 それに、美玖や茜とも。

 

 同じ大学ではないから中々会う機会もなかったけれど、今度会ったら、あの頃を懐かしく思いながら、思い出を語り合いたい。

 

 

 

「……」

 

 

 

 さざめく波音。それは自然が生み出した天然のオルゴール。単調で面白みはないかもしれないけど、心臓の鼓動と同じような波長に心が安らぐ。

 遠くには二匹の海鳥が佇んでいて、ゆりゆらと揺り篭に揺られながら、静かに体を休ませていた。こうして海を見ると、改めて夏を実感する。

 

 一年の流れは、永遠に続く輪環の順。夏の日差しが翳りを迎えれば、秋の雅な紅葉が風と共にやってくる。真っ白な雪が降り積もる冬が終われば、大地に根付く樹木が力いっぱいに花を咲かせる春が訪れる。そうして、時は流れていく。

 

 

 ──バサバサッと、羽ばたく音。 

 

 

 二羽の海鳥が、水しぶきを上げながら水面を蹴る。見上げれば、大きく翼を広げて力強く羽ばたいていた。照り付ける太陽の日差しをものともせず、風を切りながら宙を走る姿は、海から空へ上る一つの線のようだった。

 

 海鳥が遠く、ひたすら遠くへと駆けて行く。

 果てのない旅路には、きっと幾多の困難が待ち構えていて、ときには力尽きて倒れてしまうこともあるだろう。それでも、海鳥は羽ばたいていく。

 

 打ち寄せる波の音に混じり、鳴き声が聴こえた。ここではないどこか遠くへと響き渡るような歌声。

 

 

 ゆったりと流れる、穏やかな群青色の空。

 静かに澄み渡る、情愛深い紺碧の海。

 

 

 海鳥が飛んだ先の水平線で、その二つは確かに交わっていた。

 

 

「……なにを見てるの?」

 

 

 凛と響く涼やかな声には、強かな優しさがある。耳朶を打つのは、僕にとって一番心地よい声。怜悧な相貌と凛然とした装いを兼ね備えながらも、遥は不思議そうに僕を見上げた。

 ここ最近で、僕は少しだけ身長が伸びた。そのことに、ちょっとだけ不満そうに唇を尖らせていたのを、僕は覚えている。

 いくら僕と遥が双子と言えど、男女の違いがあるのだから仕方ないことだと思った。

 

 

「海を見てたんだ」

 

 

 海鳥の鳴き声が、遠くへと静かに消えていく。太陽の光を受けてきらきらと輝く海が眩しくて、僕はわずかに目を細めた。僕に寄り添う遥も同じように、その目許をやわらかく緩めながら、海に視線を移した。

 遥の綺麗な黒髪に飾られた、小さな白いアネモネのヘアピンがひっそりと輝く。白と黒のコントラストがシンプルで、やっぱりとても良く似合っていた。

 

 暑い日差しが降り注ぐ中、僕は遥と隣並んで歩く。海岸の砂浜には誰もいない。この辺りは地元の人にもあまり知られていない場所なのだと、僕は幼い頃に教えてもらったことがある。

 

 記憶の片隅に残る、お茶目であたたかくて、安心する笑顔。

 

 

 

 ……母さん。

 

 

 

 

 ──どうか、幸せに。

 

 

 

 

「あ……」

 

 

 

 

 ──風が吹いた。

 

 木々の葉が揺れる音が一際強く響いて、押し寄せる波もより大きくなる。でも、その声は確かに聴こえた。それは風に乗せられた母なる調べ。

 胸がつまった。もしかしたら幻聴だったのかもしれない。けれど、心の中に息吹いたのは間違いなく、かつての温かな灯。

 

 思わず振り返った。

 

 なだらかに続く砂浜には、僕と遥の二人分の足跡だけが残っている。しばらく歩いていたからか、自分でも気づかないくらい長い距離に足跡が続いていた。

 始まりの場所に見える足跡は小さく、僕たちのいる場所に向かうにつれて、だんだんと大きくなっている。僕たちが歩んできた軌跡だった。

 

 

「……?」

 

 

 ぎゅっと。腕を強く握られた。

 

 目を戻せば、真っ白な片頬をぷくっと膨らませて僕を甘く睨んでいた。早く行こうよ、とでも言いたげだった。僕はその姿に、昔のことを想起する。

 二人で遊んでたおもちゃを壊してしまったときも、公園の砂場で作った城を壊したときも、同じような顔をされた。

 

 

「……ちょっと暑い。早く日陰に行きたい」

 

 

 そう言う割には、僕にくっついたままだ。それを指摘してしまうと遥はもっと拗ねてしまうから、あえて別の言葉を口にした。

 

 

「ごめん。でも、もう少し歩きたいなあ」

「……それなら、別にいい」

 

 

 意地っ張りだったり、素直だったり。色々な表情を見せてくれるのは、僕にとってかけがえのないひと時だ。一時期はその声を聞くことさえも、ままならなかったのだから。

 

 

「……このあとは、どうするの?」

「ん……まだ決まってないかな」

 

 

 海鳥の姿は、いつしか見えなくなっていた。目的地まで無事にたどり着けるのかは誰にも分からない。でも、何故か確信があった。きっと大丈夫だという確信が。根拠も何もないけれど、僕はそう思った。

 彼らの行く末には未来がある。その歩みは小さいかもしれないけれど、ゆっくりと一歩ずつ。でも確実に先へと進んでいく。

 

 

 二人分の、砂浜を踏みしめる音が子守唄のように心地が良い。隣から、ふわりとフローラルな香りがした。ずっと近くて、ずっと遠かった僕たちは今、こうして寄り添い合う。半袖のシャツを着ている僕は、遥のさらさらとした黒髪が腕に触れてくすぐったくなった。

 

 

「ねぇ、彼方」

 

 

 しっとりとした声。甘えるような縋るような、でも芯の通った声。

 

 

「これからも、傍にいてくれる?」

 

 

 その言葉とは裏腹に、あどけなさを孕んだ瞳は答えを知っているように思えた。

 高校生だったあのとき。僕は遥の気持ちを知った。そしてそのことに、遥がずっと苦しんでいたことも。だからこそ、あのとき決めたことを、僕は守り続ける。

 

 

「もちろんだよ」

 

 

 汗ばんだ手のひら。僕は少しだけ、力を籠めた。これからも僕たちは、何度だって喧嘩だってするだろうし、すれ違うこともあるだろう。

 だけど大丈夫。僕と遥は双子の兄妹。僕たちの軌跡は、これからも続いていく。 形のないぼやけた未来でも、少しずつ形取って、僕たちなりの在り方を見つけていく。これからもずっと。

 

 

 前を向く。

 

 

 まだ真っさらな砂浜には、誰の足跡もない。ここから先は、誰かが教えてくれた道じゃない。僕たちだけの一つの道。時には荒れ狂う波が、僕たちの足跡を消し去ってしまうかもしれないけれど、その度に僕たちは再び歩む。

 

 雨の日も、風の日も、雷の日も。

 どんな日が来ても、必ず空は晴れるのだから。

 

 

 ──見渡す限りの水平線。

 

 

 海と空の美しい境界。

 その遥か彼方へと、想いを馳せて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 新たな足跡を、また一つ刻み始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 













 後書き

 Shinsemiaです。この度は本作品を手に取っていただき、ありがとうございます。この作品が、読者の皆様の心に何かを残せたのなら、作者としてはこの上ない喜びです。

 ここからは私事になります。実はこの作品を投稿した当初は、皆様から強く否定されるのではないかと怯えていました。扱っているテーマがテーマですし、不快感を覚える方がいらしてもおかしくないと思っていました。それに、勉強不足な面が目立ち、誤字脱字やおかしな描写も多々見受けられたかと思います。
 ですが、皆様はとてもあたたかく見守ってくださいました。お気に入り登録、評価、感想をくださった全ての皆様のおかげで、ここまで書ききることができました。感謝申し上げます。
 本作品はこれで完結ですが、これからも不定期に作品を投稿していこうと考えています。もし何かの折に見かけたら、読んでいただけると幸いです。

 末筆ではございますが、皆様への深い感謝をもって、結びの言葉とさせていただきます。ありがとうございました。




 追記 2021/6/6

 先日、ツイッターのトレンドで近親相姦倫理学というものがあがっていて衝撃を受けたので、本編後の大学での話を書くことにしました。もしかしたら蛇足になってしまうかもしれませんが、興味のある方は読んでいただけると幸いです。投稿日は未定です。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大学編
第一話


 
 お久しぶりです。創作意欲が湧いたので書いていきます。


 

 差し込む光が眩しくて、僕は瞼を開いた。

 

 ふかふかなシーツに埋もれていた意識。夢心地に揉まれていた体は、気だるそうに覚醒を始めた。眠りの深海から浮上するこの感覚は、ひどく心地いいものだ。真っ暗な闇の中だったけれど、それでもまぎれもないあたたかさがあって。その優しい抱擁はいつだって、夜から朝への架け橋となって、僕たちを導く。

 

 

「……」

 

 

 朝がやってきた。窓の外をぼんやりと見ると、今日も暑い一日になりそうな空。

 ぐっと伸びをしてから体を慣らし、窓に手をかけた。温い風が頬を撫でる。緑の匂いと、太陽の匂い。ちゃんと太陽の光を浴びて、頭が回るようにしなくちゃいけない。

 

 僕は机の上に置いたノートパソコンに目を向けた。今日は、前期最後のゼミがある日だ。それに加え、今日の発表者は僕。昨日はそのための発表資料の準備をして、その確認作業を終わらせて、それから……。

 

 

「……あ」

 

 

 ふと、あることを思い出して、思わず声を漏らした。

 慌てて枕元の目覚まし時計を確認する。

 

 

「……」

 

 

 目覚まし時計の針が示す数字。それは、僕がいつも起きるはずの時間をとっくに超えていた。

 

 サーっと血の気の引く感覚。寝ぼけた頭が一気に冷めた。

 

 まずい。今日の朝食当番は僕だ。資料を作るので頭の中がいっぱいで、そのことをすっかり失念していた。毎日アラームが鳴るようにセットしていたはずなのだが、無意識に止めてしまったのだろうか。大学までは間に合うけれど、ご飯を作る時間はない。

 

 身支度を整えるため、ベッドから降りると急いでリビングに向かう。そして、勢いよくドアを開いた。

 

 

 

「……あれ」

 

 

 

 扉を開いて真っ先に気づいたのは、懐かしささえ覚える朝ご飯の匂い。そして明かりのついたリビング。見慣れた朝の景色が、そこにはあった。

 

 リビングの奥のキッチンに目を向ける。そこにいたのは……。

 

 

「──おはよう、彼方」

 

 

 エプロンに身を包んだ遥だった。

 

 濡羽色の長い髪を高く結わえた妹は、僕を一瞥すると、鍋をかき混ぜていたおたまで味噌汁をよそい始めた。その手つきは慣れたもので、もう僕が教えることはないものだ。

 

 ……いや、そうじゃなくて。

 

 

「今日の朝食当番。僕じゃなかったっけ?」

「ええ、そうよ」

 

 

 遥はなんてことなさそうに言って、おぼんに食器をカチャカチャとのせてテーブルの上に配膳を始めた。

 白米。味噌汁。昨日の残りのサラダと焼き魚。ほかほかと湯気を立てる朝食は、本来なら僕がやらなきゃいけないものだった。

 

 

「……ごめん、遥」

 

 

 申し訳ない気持ちが湧いてくる。いくらゼミの準備が忙しかったらって、自分の仕事を放棄してしまったのだから。

 遥と二人暮らしする際に決めたルールのうちの一つ。それは、朝食を毎日交代で作ること。本当は僕が毎日作っても良かったのだけど、遥が僕に猛反対して、結局互いに入れ違いで作ることになった。その影響からか、朝早く起きなくてもよくなって、気が緩んでしまったのかもしれない。

 背筋を伝う罪悪感を、手を握りしめることで我慢していると、遥がおぼんをキッチンに戻しながら言った。

 

 

 

「別にいいわよ。そもそも目覚まし時計を切ったの、私だし」

「……え?」

 

 

 

 しれっと告げられた言葉に、一瞬頭がフリーズした。目覚まし時計が鳴らなかったのは、どうやら遥の仕業だったみたいで。

 

 

「彼方。昨日は夜中までずっと忙しそうにしてたでしょ? 疲れてそうだから、寝かせてあげようかな、って思っただけ」

「……」

 

 

 そういうことだったのか。よく思い返せば、昨日はちゃんと目覚まし時計をチェックしていた。疲れがたまっていたのか、間もなく寝てしまったけれど。そのせいで寝る間際の記憶が曖昧になっていたようだ。

 

 

「……そっか。ありがとう、遥」

「……ん」

 

 

 遥は小さく頷いて、おぼんを戻しに背を向けた。

 

 こうして見ると、遥も随分変わったと思う。一期はほとんど話もできないような状況だったけど、今はそんなことはない。鋭い冷気と共に放たれる冷たい言葉や、僕を突っぱねるような態度。いずれも、今となっては懐かしい記憶だ。

 遥がエプロンを解いて結わえていた髪をほどく。その髪に飾られているのは、当時の僕が贈った初めてのプレゼント。白いアネモネを模したヘアピンは、今も色褪せずひっそりと輝いている。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 玄関で靴を履き終え、バッグに詰めた今日の荷物。少し重めのノートパソコンと、ゼミ用に用意したノート。別に大した荷物じゃないけれど、念のために確認する。 

 

 

「遥は今日は休み?」

「ええ。教授が体調不良らしくて、ゼミは中止になったわ」

 

 

 遥も毎週、僕と同じ金曜日にゼミがある。だからいつもは一緒に家を出るのだけど、今日は違うみたいだ。

 準備を終えて、ドアに手をかけると、遥は「あ」と呼び止めるように声をもらした。

 

 

「お昼はどうするの?」

「んー……。外で済ませるよ」

 

 

 ちょっと考えて、僕はそう答えた。今日は午前中でゼミが終わる予定だ。だから昼前には帰ってこられると思うのだが、僕の取っている講義の課題でちょっと調べたいことがある。それがどれくらいかかるか分からないし、学食で済ませた方が無難だろう。

 

 ドアを開く。

 

 

「じゃ、行ってきます」

「……ええ。行ってらっしゃい」

 

 

 短く交わされる挨拶の言葉。

 明るい外から吹く爽やかな風。

 

 今日もまた、良い一日になる気がした。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 教授の声が、念仏のようにセミナー室に響き渡る。ちらと横を見れば頭で舟をこぐ人もいて、教授はそれを見つけると小さく嘆息して注意した。ゼミ中に寝るのはもちろんいけないことだが、僕はちょっとだけ共感してしまった。

 

 窓の外を見やる。高校の卒業式も懐かしい思い出となりつつある今日もまた、空は晴れ渡っている。麗らかな気候に恵まれた外は、散歩日和と言えた。こんないい天気の日に静かなセミナー室と整った空調の中にいれば、寝てしまうのも仕方ないかもしれない。

 教授が腕時計を一瞥する。そして、今日のゼミの終わりを告げた。ふっと緩まる室内の空気。教授はセミナー室の鍵を閉めるように言うと、忙しそうに去っていった。

 

 僕は荷物をまとめると、セミナー室を出た。廊下には同じように講義やゼミが終わった人たちがひしめく。大学には色々な人がいる。派手な髪色に染めた人や、大きく騒ぐ陽気そうな人。僕は彼らをぼんやりと眺めながら階段を降りた。

 一階に着き、自動ドアから外に出る。籠っていた空気から解放されるこの瞬間は、待ちに待った休日への合図だった。

 

 今日は金曜日。明日から休みだ。

 

 

「ん……」

 

 

 体をほぐすように腕を伸ばす。別に大したことはしていないけど、ずっと座っているというのも中々につらい。ゼミ中は覚えなきゃいけないこともたくさん教えられるし、自宅でも勉強を疎かにできない。でも、それも一旦休憩。

 

 空を仰ぐ。本当にいい天気だ。

 

 どこか自然豊かな場所にでも行って、ゆっくりと散歩したい。そんな気分にさせてくれる空だった。

 大学三年生になってから、はや数ヶ月。夏の日差しがまだ続く空は、まるで衰えを知らない。天気が何であれ、こうして毎週行われるゼミには参加しなければならなかったけれど、それも今日でしばらくお休みだ。それでもまあ、あとちょっとだけ講義は残っているのだけれど。

 でも、せっかく興味のある分野に進めたのだから、憂鬱な気分にならずにもっと楽しまないと。大学に入ったら、積極的に色々なことをやってみるって決めたのだから。ゼミだって講義だって、その一環だ。

 

 そんな風に、少しはポジティブに考えるようになった自分の思考に感謝しながら、一歩踏み出した。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 大学の図書館はだだっ広い。高校の図書室とは規模が違い、あらゆる分野の書籍が収められている。

 他にも、映像視聴用のブースや、パソコンを貸し出すスペースもあって、初めて来たときは驚いたのを覚えてる。それもまあ、高い学費からまかなわれているものだということは想像に難くない。

 図書館の二階にたどり着くと、僕はまず表示板を探した。必修の講義で取らされている文化人類学の資料を探すためだ。大学の講義はやたら仰々しい名前の講義が多く見受けられるけど、これもその一種のように思える。こんなこと言ったら、担当の教授に怒られるだろうか。

 

 僕はカバンから、講義中に配られた課題の概要が書かれたレジュメを取り出した。その内容は、自分の興味の持った対象についてレポートをまとめろ、というものだった。この教授に限った話じゃないけど、こういう大雑把な指定が一番困る。僕は頭が良い方ではないし、発想力もない方だ。だからこそこうして出向いて片っ端から調べれば、何か見つかると思ってここに来たのだけど。

 

 フロアの端の方へと向かう。中央に並べられたテーブルには、椅子に座ってゆったりと読書する人や、調べものをしながらノートを取る学生もいた。ときどき紙の擦れる音や、ペンでメモ書きする音が静かな空間に響き渡る。室温も丁度良く、ここで快適に過ごす学生が多いのも納得がいった。今日みたいな暑い日ならなおさらだ。

 目的のスペースまでたどり着き、早速書籍を漁る。古めかしいものもあれば、比較的新しいものもあって、小まめに取り寄せていることがはっきりと分かった。もっとも、ここにあるのは氷山の一角で、おそらく一生かかってもこの世界の全ての文化を把握することはできないだろう。この分野を専攻している人は、そういうところに魅力を感じてるのかもしれない。

 

 外国の民族の風習を取り扱う研究。過去から現代までの慣習の変遷に着目した研究。いずれの書籍でも共通して言われていることは、人のありかたというものは時間や場所によって常に変わり続けるということだ。

 

 

「……」

 

 

 あり方は常に変わり続ける。

 もしそうならば、僕はどうなのだろう。

 

 外見の変化も、内面の変化も。高校時代のあの日から、どのように変わったのか。

 もちろん、大学という場で多くの人と交流する機会に溢れた場所にいるのだから、その影響は多少なりとも受けるはずだ。陽気な人が多いグループに混ざれば、性格も自然と明るくなっていくだろうし、その逆もまた然りだ。

 でも僕は結局、特定の誰かとつるむようなことは特にしてない。サークルには一応所属していて知り合いはいるけれど、あくまでサークル活動の中だけの関係。それでも、以前までの僕なら、きっとサークルに所属するなんてことすらしなかっただろう。それを考えれば、少しは進歩してるのだと思う。

 

 

 

「……彼方くん?」

「え?」

 

 

 

 聴こえた声に、僕は意識を無理やり引き戻された。びっくりして振り向くと、そこには一人の女性がいた。

 

 

「……(あずさ)さん?」

「うん、奇遇だね」

 

 

 にこやかに笑む彼女は梓さん。同じゼミに所属する、いわゆる同期だ。

 綺麗に染められたロングの金髪。まつ毛が綺麗に整ったアーモンドアイ。

 彼女はうちのゼミではちょっとした有名人だ。同年代よりも数段大人びて見える彼女は、その綺麗な顔立ちと愛嬌も相まって高嶺の花だと言われていた。綺麗に染まった金髪は一見派手に見えるけれど、梓さんの顔立ちには不思議と似合っている。

 白のブラウスとベージュのフレアスカート。耳朶には小さなボールピアス。大学生らしいおしゃれをしていて、それが彼女の雰囲気にぴったり合っていた。

 

 

「彼方くんも課題?」

 

 

 ほっそりとした白い手で髪を耳に掛けながら、上目遣いで僕に問いかけた。梓さんは僕と同じく、文化人類学の講義を取っている。まあ、学部単位で必修の講義になっているのだから、当然ではある。

 

 

「そろそろやらないとまずいかなって思って」

「ふふ。そうだね」

 

 

 レポートの提出期限自体は、まだ一週間ほどある。それに、最低限書かなきゃいけない文字数も大したことがないため、それくらいの期間があれば充分だった。

 梓さんは苦笑すると、僕の隣に立って同じように書籍を手に取り始めた。ふわりと鼻をかすめる爽やかな香水。女性の中にはやたら香りの強い香水を使う人もいるけれど、梓さんは全然違う。見た目こそギャルっぽく見える部分もあるけれど、実際に話をしてみるとそんな派手な印象もない。

 

 

「そう言えば彼方くん、今日のゼミ良かったよ。あの量の資料をまとめるの、大変だったんじゃない?」

 

 

 梓さんは思い出したように言うと、今日のゼミの話を持ち出した。今日の発表は僕だったけれど、教授からは特に叱られることもなく終わった。発表者の中には、内容が不十分だったり理解が足りていないところがあると、叱られることがあるのだけれど。

 

 

「んー……。確かに大変だった」

「はは、正直だね。他の人は結構見栄を張ったりするけど」

 

 

 そうなのだろうか。別に正直に話しただけだったのだけど、それが彼女にとっては意外に見えたようだ。

 

 借りる書籍を見繕うと、梓さんも丁度選び終わったようで、僕たちはなんとなく二人そろって受付まで向かった。

 曖昧な距離感。無視するほど希薄な関係でもないけれど、かと言って普段は雑談するような関係でもない。でも、そういうのは何となく悲しい気がする。こうして、顔見知りの人とすれ違うたびに、そんな思いに駆られる。そんな些細なことが気になってしまうようになったのは、大学に入ってからだろうか。

 

 

「彼方くんは夏休み、何をして過ごすの?」

 

 

 なんとも言えない気持ちを抱えていると、両腕で胸元に本を抱えた梓さんがこちらを覗き込む。肩までかかるセミロングの髪が揺れて、白い耳に鈍色に輝くピアスがちらっと見えた。

 

 

「あまり考えてないかな」

「へー? 友達と遊びに行ったり、どこか旅行に行ったりしないの?」

 

 

 ……友達か。

 

 

「遊びに行く、って感じではないけど。一度実家に帰って、地元の友達と会う約束はしてる」

 

 

 茜と美玖。僕の大切な友達だ。

 

 みんなそれぞれの大学でばらばらになってしまったけれど、今でも連絡を取り合っている。直接会うことは中々できないけれど、それでもこうして僕たちはつながっている。

 

 

「実家に帰る……ってことは、彼方くんって独り暮らしなの?」

 

 

 梓さんは可愛らしく小首を傾げながら、僕に問いかけた。

 ……そっか。確かに普通なら、そう捉えるだろう。

 

 

「いや、アパートで妹と二人暮らししてる」

「え!?」

 

 

 梓さんはびっくりしたように口元に手を当てながら、目を見開いた。

 

 

「妹って……大学生?」

「うん。双子の妹がいるんだ。学部は違うけど同じようにここに通ってるよ。もしかしたら、構内で見たことあるかもしれないけど」

「……」

 

 

 梓さんは口を開きながらぽかんとしている。僕はその理由がなんとなく察しがついて、苦笑してしまった。

 

 

「やっぱり、珍しいかな?」

「あ……ごめんね。ちょっとびっくりしちゃって。兄妹で二人暮らしなんて、全然聞いたことないから……」

 

 

 僕も全然聞いたことがない。妹と二人暮らしする際にネットで同じような人がいないか調べてみたけど、あまりヒットしなかった。同性ならまだしも、異性でとなるとなおさらだ。

 

 

「じゃあ、妹とは仲がいいんだ?」

「……どうだろう?」

「違うの?」

 

 

 首を傾げる梓さんだけど、僕は答え方に迷ってしまった。

 仲がいい、という表現はどうにもピンとこない。僕と遥の関係は双子の兄妹である、というだけの単純なものとも言えない。だからだろうか。仲がいいとか悪いとか、そういう言葉で表現できない。

 

 

「でも、あまり喧嘩とかはしないかな」

 

 

 一時期は、喧嘩することすらできなかったけど。

 

 そんな言葉が出てしまいそうになるけど、これについては深く話すようなことでもないから、胸の中にしまいこんだ。

 

 

「ふーん……そうなんだ。でも、実家から出て頑張ってるなんて偉いね。私もそうしたかったな」

「……梓さんは、独り暮らししたいの?」

「興味がある、って感じかな。自分だけの力で生活してみたいなあって」

 

 

 僕の場合は、自分だけの力で生活してるわけじゃない。学費だって父さんが払ってくれたものだし、生活費は遥と一緒に稼いでるものだから。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 

 受付で手続きを行い、涼しい図書館から外に出る。再び、もわっとした暑い空気が体を包んだ。

 

 

「それじゃあ、ばいばい。彼方くん」

 

 

 梓さんはにこやかに手を振りながらそう言って、僕たちはそこで別れた。

 

 

「……」

 

 

 遠ざかる彼女を見ながらふと思う。仮に今の会話を他の人たちが見たら、どう思うのだろう。親しい友人同士の会話に見えるのか、大して関りが深くない者同士の世間話に見えるのか。

 

 人と人との関係は、明文化されているものだ。

 

 他人。友達。恋人。親子。兄妹。他にもあるとおもうけれど、ざっと思いつくのはそんな感じだ。法律だって、それは同じだ。守るべきあらゆるルールは、必ず明文化されている。

 でも、人と人との関係って、本当に言葉に表せるものなのだろうか。感情なんて曖昧なものを、僕たちは『これはこういうもの』と決めつけて、それを一般的な尺度として量っている。あたかも、それが正しいものだと公表して。

 

 

「……」

 

 

 人付き合いは難しい。そんなことを、僕は今更になって痛感している。

 それは今でも、妹に対して同じで。

 

 

 空に流れるうろこ雲。柔軟に形を変えていくそれは、何者にも囚われない自由の証。

 

 僕はしばらく、ぼんやりと空を眺めた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話

 

 

 学食で適当に昼を済ませ、帰路に就く。大学前の通りには行き交う人々。近くには学生向けに格安メニューを提供している飲食店が多く参列している。だけど、僕も遥も基本的に外食はしない。格安とはいえ、積み重なればそれなりに高くつくし、遥もあまり外食したがらないから。唯一外食するところと言ったら、僕のバイトしている喫茶店くらいだろうか。まあ、それもケーキとコーヒーを頼むくらいのものだけど。

 

 金曜特有の解放感に満ちた空気の中、辺りを見回しながらゆっくりと歩く。この三年間で、だいぶ見慣れた景色がそこにはある。大学に入りたての頃は、大学内でさえ敷地が広くて右も左も分からなかったものだけど、今では不自由ない程度には地理を把握している。

 

 

 大学から少し離れたところまで来ると、ポケットからスマホのバイブレーションが伝わる。遥からだろうか。時間を見れば、昼をちょこっと過ぎたくらいだ。調べものが長引いてしまったから、心配してるのかもしれない。表示された名前を確認してみる。

 

 

「……茜?」

 

 

 遥からだと思っていたメッセージの着信。それは、大切な友人からのものだった。トークアプリを開くと、メッセージが表示された。

 

 

『カナ! 夏休みの予定なんだけど、いつ空いてる? それと、飲み屋さんはどこがいいかな?』

 

 

 可愛らしいぬいぐるみが映ったアイコンは、茜のアイコンだ。小まめに連絡は取っていたから、見慣れたものだった。

 そうだ。遥と茜、それに美玖も一緒に飲む約束をしてるんだった。みんなもう、お酒を飲める歳だから。

 

 

『八月の中旬辺りならいつでも空いてるよ。遥も同じみたい』

 

 

 バイトがあるから夏休み中、とまではいかないけれど。

 メッセージを返信する。すると、ぱっと既読がついて、すぐに返信がきた。

 

 

『よかった! じゃあ、あたしも日程合わせるね! 四人でお酒飲むの楽しみ!』

 

 

 茜のメッセージを見てすぐに思い至ったのは、遥のことだ。一度お酒を飲んだ時に、すぐに酔っぱらってしまったのは記憶に新しい。けれど、折角の機会だし、茜と飲んでみたいのが本音ではある。

 

 

『そう言えば、茜って美玖と結構連絡とってるの?』

 

 

 そもそも、茜と美玖がそんなに連絡をとり合う関係になるとは思っていなかった。高校のときに遥づたいに知り合ったのは覚えてるけど、そこまで仲がいいとは思っていなかった。

 

 

『うん。大学も割と近い方だし、たまに遊んでるよー』

 

 

 言われて思い出す。高校の卒業式のときも、大学が近いとか遠いとか、そんな話をしていた。大学は全国に存在しているから基本的には遠く離れ離れになってしまう。だから、長期休みを利用して会う約束をしていた。でも、茜と美玖は割とすぐに会えるくらいの距離だから、別に長期休みとかは関係なく遊んでいるのだろう。

 

 茜と数度メッセージを交わし、僕はスマホをポケットにしまった。

 夏休みが楽しみだ。

 

 

 数分歩けば、住宅街に差し掛かる。それなりに人はいるけれど、決してうるさくはない。

 僕は住宅街のそばにある公園に立ち寄ることにした。何度か立ち寄ったことのあるこの公園は、地元の公園とは違って割合綺麗に整備された公園だった。

 敷地に入ると、一際大きい一本の木が目に入る。その周りには円形にベンチが並んでいて、他にも端の方に等間隔にベンチが置かれている。

 僕は橋の方の、木陰に隠れたベンチに腰掛けた。中央の木の近くには、滑り台やブランコがある。どこの公園にでもありがちなその遊具には、数人の小学生がいて。散歩にでも来たのか、缶コーヒーを片手にゆったりと座るおじいさんもいて。幼稚園児を連れた母親グループが世間話に花を咲かせている。

 疲れがとれていくようだった。牧歌的な光景は、日々の忙しなさを和らげてくれる。いつも大学では活字とにらめっこして、ペンを走らせ、液晶画面に向き合ってタイピングする。ここはそんな場所とは正反対の場所に思えた。

 

 ……そう言えば、僕も遥も全然出かけない。お互いの趣味のメインは読書だから、わざわざ外に出る必要もないのだけど。買い物は二人で行くこともあるけど、どこかに遊びに行くということはあまりしたことない。

 

 今更ながらに思う。遥は僕をどう思っているのだろう。以前と決定的に違うのは、僕と遥は互いの気持ちを理解し合うようになったこと。それだけはきっと間違いないことだ。

 じゃあ、その先はどうなのだろう。踏み出した先にある僕たちのありかたはどういったものなのか。

 言葉だけで物事を考えるのは簡単だ。それでもまだ螺旋のようにぐるぐる考えているのは、具体的な行動を取っていないから。

 

 ……今度、どこか誘ってみようかな。

 

 

「……」

 

 

 いや。そんな風に考えること自体、僕が遥に対して一線を引いていることの証左に他ならないんじゃないか。

 僕と遥は家族だ。そして、今はもうわだかまりも無くなっている。だったら、僕はもっと自然であるべきなんじゃないか。家族でどこかに出かけたり遊びに行ったりするのに理由なんていらない。

 

 

「……」

 

 

 腕時計を見れば、昼をだいぶ過ぎてしまっている。僕は荷物をもって、木陰から出た。

 

 眩しい空は、朝から変わらずに澄み渡ったままだった。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

「ただいま」

 

 

 扉を開くと涼しい空気が流れてきた。そして聴こえてきたのは、パタパタと鳴るスリッパの音。

 リビングから遥が姿を見せた。

 

 

「おかえりなさい」

 

 

 涼し気な声。わざわざ玄関まで迎えてくれた。どうやらリビングでくつろいでいたようだ。

 

 

「結構遅かったけど、どうしたの?」

「ん……ちょっと寄り道してた」

 

 

 靴を脱いで玄関に上がると、僕たちはそろってリビングに向かう。

 僕たちの住むアパートは家族みたいに複数人が住むタイプのアパート。父さんの伝手で紹介してもらったこの物件は、充分な広さがあった。父さんには本当に頭があがらない。

 リビングに入ると、冷たい空気が頬を一撫でした。汗をかいた体がひんやりとして気持ちいい。

 

 

「麦茶出すから待ってて」

 

 

 遥はまた、パタパタとキッチンに戻り配膳を始めた。僕はその間に、洗面所で手洗いうがいを済ませることにした。蛇口を捻って水に手を浸し、顔面にバシャっとかける。

 

 

「……」

 

 

 軽くタオルで拭いて、目の前の鏡を見る。前髪の先からぽたぽたと流れる水滴。髪が伸びてきたかもしれない。

 髪と言えば、遥の髪はだいぶ長い。お風呂上りも手入れに相当時間を費やしているみたいだし、面倒じゃないのだろうか。でもまあ、遥が髪を短くしているところは全然想像できない。本人も好きで伸ばしてるのだろう。

 

 

「彼方? どうしたの?」

 

 

 いつまでも戻らない僕を不思議に思ったのか。遥がひょこっと、洗面所に顔を覗かせた。長い髪がふわっと揺れる。

 

 

「いや……髪が伸びてきたかなって」

 

 

 くりくりと自分の前髪を触る。そんな僕に対して、遥は訝し気に首を傾げた。

 

 

「……そう?」

 

 

 遥はそう思ってないらしく、僕の髪全体をしげしげと見回した。前に美容室に行ったのはいつだったか。そんなに時間が経っていないようにも思うけど、最近は忙しかったし、体感的に短く感じただけかもしれない。

 ……そうだ。この際だし訊いてみよう。

 

 

「遥は暑くないの? 夏でも全然髪を短くしないけど……」

 

 

 物心ついたときから、遥は長髪だ。腰のあたりまでまっすぐ伸ばされた髪をさらさらと揺らす姿を、僕はずっと見てきた。

 

 

「暑いに決まってるでしょ?」

「じゃあ、どうして切らないの?」

「……」

 

 

 疑問に思ってそう訊くと、何故か遥の目がジトっとしたものに変わってきた。

 

 

「……彼方は短い方が好きなの?」

「え?」

 

 

 軽く唇を尖らせて、不満そうに口にする。別にそんなつもりはなかったのだけれど、遥は自分が咎められているように感じてしまったのもしれない。

 

 

「あ、いや……。そんなことはないよ。ただ純粋に、どうして髪を伸ばしてるのかなって思っただけで。手入れとか大変でしょ?」

「それはまあ……そうね」

 

 

 僕の隣まで来た遥は、同じように鏡を見ながら自分の髪を触る。鏡の中には、似た顔が二つ。少し違うのは目の形と背の高さ。大きく違うのは髪の長さ。

 

 

「遥は長い髪が似合うと思うよ」

 

 

 不思議な気分だった。肩と肩が触れ合うくらい近くにいても、遥は僕を避けない。そうなれたのは、僕と遥がお互いの気持ちを知ったから。その上で、共にいたいと思えるから。あの日の僕たちが吐露した感情は、きっと今でも変わっていない。

 

 

「……なに? 急にそんな恥ずかしいこと言って」

 

 

 鏡越しに遥と目が合う。鏡の中の遥は居心地が悪そうにそわそわとしていた。うっすらと薄紅色に染まった頬。別にそんなおかしなことを言ったつもりはないのだけれど、遥はふいっと顔を背けた。

 

 そしてちらちらとこちらを見ながら、「ねぇ」と言って。

 

 

「……そんなに気になるなら……触ってみる?」

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

「……じゃあ、お願い」

 

 

 

 静まりかえった夜。僕は先にお風呂に入って、丁度さっき遥もお風呂から上がってきた。

 遥から櫛を受け取る。ソファに座ったままこちらに背を向ける遥。試しに軽く髪に触れると、ピクっと肩が震えた。

 

 

「っと、ごめん」

「……別に。大丈夫」

 

 

 少し強張った声だった。今思えば、こんなことするのは初めてかもしれない。

 僕は再び遥の髪を一束持ち上げて、ゆっくりと櫛で梳いた。きめ細やかでしっとりとした髪の間をひっかかることもなく、櫛は滑らかに通っていく。お風呂から上がりたてだからか、シャンプーとコンディショナーの甘い香りがした。

 

 

「痛くない?」

「……平気」

 

 

 こちらからは遥の表情は見えない。でも、さっきみたいな体の強張りはなくなったように見えた。

 エアコンの音と櫛が髪を擦る音。外の明かりも落ち着いてきて、眠りにつくことも考えられる時間帯。この街に住む人たちは、どんな夜を過ごしているのだろう。家族団欒で話に花を咲かせたり、自分の趣味に没頭したり。千差万別だ。彼らにとって、僕たちもまたそうなのだろう。

 

 櫛を通すたび、濡羽色の髪はリビングの照明を反射する。幼い頃からずっと見てきた遥の髪。改めてこう間近で見ると、よく丁寧に手入れしてるのがよく分かる。傷つけないように、慎重に髪を梳かす。

 

 ……そう言えば、母さんもこんな風に髪を伸ばしてたっけ。母さんの髪も、こんな感じの綺麗な髪だった。母さんの元へ向かうと、いつも軽く屈んで頭を撫でてくれた。そのときにふわりと揺れる柔らかい髪が、僕は好きだった。遥もきっとそうだ。

 

 

「……彼方」

「ん……?」

「今、何考えてるの?」

 

 

 声音からは、妹の感情は読み取れない。

 

 

「……母さんのこと。こんな風に髪を伸ばしてたなって」

「……そうね」

 

 

 柔らかい声音だった。詰まっていた思いが、言葉になって流れる。母さんと過ごしたあの時間が、たとえ遠い過去のものだったとしても、僕の中に残り続けている。

 ゆっくりと、ゆっくりと。櫛を遥の髪に通していく。ほつれもなく、枝毛一つ見当たらない遥の髪。幼き日に見た母さんの髪とよく似ていた。

 

 ……。

 

 

「もしかしてさ、遥が髪を伸ばしてるのって……」

「……ええ」

 

 

 ……そっか。

 

 僕はひょっとしたら、軽率なことを言ってしまったのかもしれない。遥が髪を伸ばしているのには、想像以上に深い意味があって。その理由も、僕たち兄妹には大きな意味を持つもので。僕は昼間の発言に対して、今更ながら後悔が湧き始めた。

 

 櫛を動かす手が鈍る。すると、遥が急にこちらに振り向いた。

 

 

「私も彼方の髪。梳いてあげる」

「え? いや、僕は……」

「いいから」

 

 

 言葉を遮って、遥は僕の手から櫛を奪い取る。遥は僕に、「そのままじっとしてて」と言うと、ソファに座ったまま僕の裏から髪を梳き始めた。遥の細い指が髪に触れてこそばゆい。

 

 

「僕の髪なんて触っても楽しくないでしょ?」

「それを決めるのは私よ」

 

 

 遥は僕がしたときと同じように、静かにゆっくりと髪を梳く。

 

 

「……」

 

 

 とりあえず、好きにさせてみよう。僕はじっとしたまま、遥に身を任せることにした。

 人に髪を梳いてもらうなんて、生まれてからあっただろうか。もしかしたら母さんにしてもらったことがあるかもしれないけど、記憶にはない。

 

 髪が軽く引っ張られる感覚に揺られながら、ベランダから外を見た。そこにはすっかり暮れた夜が佇んでいる。空には小さな星が一粒一粒、人工の光に負けないように輝いていた。

 チクタク、チクタク。壁に掛けた時計の針が進む。実家とは違う狭いリビング。けれど、僕と遥にとっては心地よい狭さだった。あの家は、僕と遥が二人で暮らすにはあまりにも広すぎたから。

 

 

「……彼方」

 

 

 ぽすっと。柔らかい何かが、僕の肩に触れた。櫛を動かす手を止めた遥が、僕の肩に額を当てるようにしてくっついてきた。

 

 

「……遥?」

「……」

 

 

 シャツを掴む手に、少しだけ力がこもった。そしてぽつりと話し始めた。

 

 

「……こうしてると安心するの」

 

 

 ソファは、二人分の体重を受けて沈み込んでいる。一人ではなく、二人の体重。

 

 

「変な話よね。あんなに彼方を拒絶していた私が、今更こんなことするなんて……」

 

 

 遥が僕を遠ざけていた空白の期間。僕たちはそれをなかったことにはできない。だから今は、こうして近くにいることが、僕たちにとっての()()になれればそれだけでいい。

 

 

「私怖いの。彼方がこうして拒絶しないでくれて、嬉しいって思ってるのに。やっぱり、怖いの……」

 

 

 僕はたぶん、意味のないことをしているのかもしれない。結論の引き延ばしになっていて、具体的な形に起こせるものではないのかもしれない。

 その宙ぶらりんな時間があまりにもふわふわとしているから、遥はどこか不安を抱えてしまっている。

 

 それでも。

 

 

「彼方……」

「ん……?」

「……ありがとう」

 

 

 それっきり遥は黙った。

 小さくあどけない息遣いが、トクントクン、と伝わる。

 

 ぽつりと漏らしたその言葉は、恐らく遥の本心なのだろう。真っ暗な闇の中で独りぼっちで苦しんでいた遥。でもそれは、僕もまた同じだった。遥が独りなら、僕もまた独り。だけど、僕たちはもう独りじゃない。

 

 遥との関係の答え。それは、これから長い時間をかけて見つけていくものだ。僕はひょっとしたら、焦っていたのかもしれない。このまま穏やかに時が経ってしまえば、あの日の決意も、母さんとの想いでも、何もかもがなくなってしまうような気がして……。

 

 でも、そんなことはあり得ない。僕は、僕たちは絶対に忘れない。だから焦らなくていい。ゆっくりでいい。

 

 

「ねえ遥」

「……」

「今度、どこか出かけよっか」

「……別にいいけど」

 

 

 もごもごとくぐもった。シャツ越しの吐息がくすぐったかった。

 

 

「……もう少し、このままでいい……?」

「いいよ」

 

 

 遥の抱えてる不安や恐怖が、こうすることで少しでも和らぐなら。先の見えない真っただ中にいる僕たちは、今もこれからも一緒だから。

 

 だから今は。

 今だけはまだ、この心地よさに浸っていたいと思った。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話

 

 

『彼方君。ちょっと相談があるんだけどいいかな? 課題のことなんだけど』

 

 

 そのメッセージが来たのは、クーラーの効いたアパートの一部屋で課題を進めているときだった。夏期休暇前の一仕事。これさえ終われば夏休みだけれど、実際に取り掛かってみると意外と難しいことに気がついて。思うように進捗がいかなく、自分の見通しの甘さを不甲斐なく思っていたそんな時だった。

 メッセージを送ってきたのは同じゼミの仲間の梓さんだった。

 

 

『どうしたの?』

『課題がちょっと詰まっちゃって。よかったらなんだけど、どこかに集まって一緒にやらない? ディスカッションしたいし』

 

 

 メッセージの内容に僕は内心驚いた。梓さんは普段から独りでそつなくこなすタイプだ。もちろんゼミの仲での勉強会には参加するけれど、こういう独りで行う課題では梓さんが誰かに相談するところを僕は見たことがない。ただ、それはごくプライベートなことだから僕が知らないだけかもしれない。

 

 

『僕も少し詰まってたところだから助かるよ』

『ほんと? よかった! じゃあ今度の土日とかどうかな?』

 

 

 カバンの中に突っ込んだままの手帳を開いてスケジュールを確認する。確かバイトは入ってなかったはず。指で辿ってみると、思った通り入ってなかった。

 

 

『予定は空いてるから大丈夫』

『やった! じゃあ、土日ね。場所は後で連絡するから!』

 

 

 可愛らしい顔文字と共に、梓さんは愛嬌よくメッセージを彩る。素っ気ないわけでもなく、かと言って派手過ぎるわけでもない。そんな感じのいいメッセージだった。

 勉強会自体はゼミの中でも度々行われるけれど、こうして個人的なやり取りで約束をするのは初めてのことだった。

 パソコンの画面に映る文化人類学の課題のレポート。まだ始まりの数行しか書かれていないそのレポートはほとんどが余白で、何を書けばいいのかも分からない状態だった。

 

 

「……」

 

 

 ……土日か。

 

 あることを思い出して、僕はポケットの中から折りたたまれた一枚のチラシを取り出した。色彩の派手なチラシの中でも大きく目を引くのは【夏祭り】の文字。

 このチラシは午前中のバイトのときに店長からもらったものだ。普段からなかなかバイトを休まない僕に対し、少しはリフレッシュしたらどうかとこのチラシを持ってきて提案してくれた。

 

 頬杖をつきながら、どうしたものかとチラシを眺める。確かに興味がないわけじゃない。僕自身経験がないものだし、たまには夏らしいことをしてみるのも良いかもしれない。

 他の人はどんな風に過ごしてるのだろう。海に行ったりバーベキューしたり、そういう夏らしいことをしてるのだろうか。そう言えば、ゼミの中でもそんなことが話題に上がっていた気がする。なんでも親睦を深めるためだとか。ただ、それは教授が先導しているわけではなく、あくまで僕たち学生が勝手にやっていることだから自由参加だ。

 ただ、お金の出費を気にして僕は基本的に参加してない。もちろん、断りすぎると付き合いの悪さが目立ってしまうから、簡単な打ち上げとかには参加する。

 

 ……遥はどうかな。誘えば付き合ってくれるだろうか。

 

 

 ぼんやりと考えを巡らせていると、コンコン、とドアをノックする音が響いた。

 

 

『彼方? そろそろ買い物に行くんでしょ?』

「ん……?」

 

 

 遥の声に僕は、壁に掛けられた時計の針が既に夕刻を指していたことに気づいた。どうやら思った以上に呆けていたらしい。そろそろ夕飯の買い出しに向かわなければならない。

 

 立ち上がってドアを開けば、既に外出の準備が整っている遥がいた。

 

 

「課題やってたの?」

「ん……ちょっとね」

 

 

 進捗は芳しいとは言えない。そんな僕の状況を悟ったのか、遥はあまり深く追及はしてこなかった。

 玄関で靴を履き外に出ると、夏らしい緑の匂いが一杯に広がる。スーパーまでの距離は近く、十分も歩けば人通りが多い開けた場所に出た。

 

 

「今日の晩御飯、どうしよっか?」

「別に何でもいいわよ」

 

 

 エコバッグを片手に、薄暮の道を歩く。降りゆく西日と棚引く雲。行き交う人々の波にもだいぶ慣れてきた。隣の妹は少しだけ眉をひそめながらも、割合涼しい顔をして歩を進める。妹が人混みを嫌っているのは分かっていることだけど、買い物にはちゃんとついて来てくれる。

 薄手のワンピースと麦わら帽子。夏はいつも、バイトに行くとき以外は似たような格好だった。妹が言うには、一番楽な格好らしい。

 地面に伸びる二人分の影。その大きさは、僕の方がちょっぴり大きかった。

 

 

「遥は次のバイトいつだっけ?」

「次は確か……来週の土曜日ね」

 

 

 宙を向いて思案しながら、遥は答えた。妹の場合、バイトの日程は不定期に入る。何故なら、バイト先の書店がこじんまりとした個人経営の店だから。僕も何度か足を運んだことがあるけれど、店主は腰の低いおばさんだった。足腰が弱いらしく、若い人の手が必要となることが多くなってきたと感じたと言っていたので、それをきっかけにバイトを募集したのだろう。

 

 

「何か用事でもあるの?」

「実はバイト先でこんなチラシをもらったんだ」

 

 

 ポケットに折りたたんで入れておいたチラシを取り出す。

 

 

「……バイト先ってことは、あの喫茶店のマスターから?」

「そうそう」

 

 

 ここから数駅離れたところに神社があって、そこを中心として夏祭りが行われる。なんでも、綺麗な花火が見られるとかで有名らしい。僕も噂程度には聞いていたけれど、実際に行こうとは考えていなかった。

 

 

「……夏祭りやるんだ」

「うん。でもそっか、バイト入ってたんだね」

 

 

 夏祭りは土曜日に行われる。しかも遥のバイトの時間帯は午後だ。だから思いっきり時間が被ってしまっていた。

 

 

「……彼方は行きたいの?」

「ん……?」

 

 

 遥は立ち止まって、窺うように僕を見上げた。

 

 

「そうだね……」

 

 

 思い起こすのは店長の言葉。もっと遊んで、肩の力を抜いたらどうかと言われた。僕自身はそれなりに肩の力を抜いているつもりだったけれど、店長からはそうは見えなかったみたいだった。僕は自然に日常生活を送れていて、不満なことなんて何一つない。

 店長は多くを語らない人だ。自分のことも全然話さない。ただ、店長の言葉には説得力のようなものを感じた。それはもしかしたら、僕の勘違いなのかもしれないけれど。

 

 

「僕たちさ、今までほとんど外に出かけてなかったでしょ? だからこの機会にどうかなって」

「まあ……そうね」

 

 

 苦笑気味に、妹は口元に手を当てる。この間の話を思い出してるのかもしれない。

 僕たちは二十歳を越えた。一般的には、大人に分類される年だ。でも僕は、大学生っていうのはまだ大人じゃないのだと思う。大人でもなければ子どもでない。そんな曖昧だけど、大切な時期にいるのだと思う。だからこそ、今の内に色々なことをしてみたいと、以前から思っていた。

 

 

「……あとで、おばさまに相談してみるわ。もしかしたら、シフトをずらしてもらえるかもしれないし」

「急に変えられるの?」

「分からない。でも、おばさまは私に甘いところがあるから……」

 

 

 確かにそうだったな、と僕は記憶に残るおばさんの朗らかな笑みを思い出す。おばさんの年齢から考えて、孫ができたように感じてるのかもしれない。ひょっとしたら、店長も同じことを思っているのだろうか。

 

 

「……夏祭り、ね」

「……?」

 

 

 ぽつりと呟いた遥。そっと顔を覗き込むと、懐かしむように目許を緩めていた。

 

 

「彼方は覚えてる? 一度だけ、私たちも夏祭りに行ったことあるわよね?」

「……あったっけ?」

「あったわよ」

 

 

 ……おかしいな、本当に覚えがない。夏祭りなんて行った記憶は……。

 

 何度記憶の引き出しを開いても何も出てこない僕に対し、遥はくすっと笑った。

 

 

「彼方が覚えてないのも無理ないかもしれないわね。あのとき、彼方は急に熱出して倒れちゃったから」

「え……そんなことあった?」

「幼稚園くらいの頃かしら。近所であったのよ」

 

 

 遥は冗談を言わない。ならば、きっとそうなのだろう。一方の僕は全く記憶に残っていない。

 幼稚園の頃。覚えてはいないけど、母さんや父さんと一緒に行ったに違いない。

 

 

「結局途中で帰ることになっちゃって、私はもっと遊びたいって駄々こねてた。……でも、今思い返すと、すごく楽しかったわ」

 

 

 珍しく心の底から嬉しそうに話す遥。見上げた先には棚引く雲と黄昏の光。遥の目には、そのときの記憶が映っているのだろう。

 それにしても、夏祭りに行ったことなんてないと思っていたのに。遥の話によれば、一度だけ行ったことがあるらしい。流石に幼稚園の頃の記憶まで遡るのは難しい。もしかして、実家に帰ればそのときの写真でも出てくるだろうか。

 

 遥は僕から受け取ったチラシに目を落としながら、ゆっくりと歩く。僕もその歩みに揃えて、歩調をわずかに緩めた。

 カラスの鳴き声。喧騒にも似た街の声。その中に埋没するように、僕たちは歩く。

 時折吹く温い風に髪をなびかせながら、遥は耳に髪をかけた。真っ白な肌。細めの身体。兄としてのひいき目もあるかもしれないけれど、遥は一段と綺麗になった。

 

 

「……? どうしたの、彼方?」

 

 

 振り返り声をかけてきた遥に、僕ははっとした。いつの間にか立ち止まっていた僕に、遥は不思議そうに首を傾げた。

 

 

「ああ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」

「なによそれ」

 

 

 おかしそうに、呆れたように微笑んだ遥。

 

 遥は気づいているだろうか。いつの間にか、遥は昔のように色々な表情を見せてくれるようになっていた。無口で、冷たくて、ただ僕を拒絶していた遥。その姿が、今はもう白夢だったようにさえ思えてしまう。

 でも、実際は夢なんかじゃない。あの頃の遥も今の遥も。どちらとも、紛れもなく遥の姿であり本心だった。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 近くのスーパーまで着いた。

 

 買い物かごを手にして生鮮食品の列を見て回る。二人で今日は何を作るか話し合いながら物色する時間。どこの家にでもあるであろう、当たり前の風景。ただ、それが兄妹だと言うのは普通ではないのかもしれない。

 妹は割と人目を引く。すれ違う家族連れの親子なんかが、チラチラと妹を気にしているのは割とよくあることだった。あるいは、僕たちが双子だから、というのもあると思う。

 

 

「果物何か買ってく?」

「ん……」

 

 

 妹は果物コーナーの中からひょいっとリンゴを取り出した。赤と薄緑色グラデーションに彩られたリンゴだった。

 

 

「そう言えば彼方。いつ帰省するの?」

「あー……。どうしよっか」

 

 

 リンゴの他にも梨やぶどうをカゴに入れながら、茜とのやり取りを思い返す。確か茜には、帰省する日程が決まったら連絡するとメッセージを返したはずだ。でも、結局あれから正確な日程を決めてない。帰省するときは僕も遥も同じタイミングにじゃなきゃいけないから。

 

 

「私の方はもう、バイト先に話をしておいたけれど」

 

 

 遥はもう話を通しておいたんだ。それなら、こっちも早く決めなくちゃいけない。

 僕と遥は二週間くらい帰省するつもりだ。二週間とは言うものの、それは大雑把に決めた期間であって、そこまでがっちりと決めているわけではない。ただ、いつ帰るかを決めあぐねていた。だから僕はまだ、店長に帰省することを伝えてない。今日のバイトのときに言っておくんだった。

 

 

「父さんも寂しがってるだろうね」

 

 

 僕と遥が二人暮らししてみたいと伝えたときの、父さんの様子を思い出す。以前よりも少しだけ老けて見えた父さんは、一瞬目を見開いて驚いていたけど、その後は寂しそうな、でも柔らかく目を細めながら鷹揚に頷いた。

 僕にとって実家を離れるという選択肢は、一つのケジメでもあった。きっと前までの僕なら、あの家に固執して過去の残滓に囚われ、かつての幻想に延々と手を伸ばし続けたのだと思う。不器用に、歪に重なったうわべだけの時間の中で、僕と遥は一生お互いに向き合うことができなかった。

 

 

「……」

 

 

 色とりどりの果物を眺めながら、高校の頃を思い出す。数年前のあのとき。つい最近のことだったようにも思えるし、どこか昔の出来事のようにも感じる。それくらい目まぐるしく、色々なことがあった。

 

 それは、本当に些細なきっかけだった。

 たまたま僕の席の隣だった茜と、ふとしたことで話すようになった。陽も落ちかけて、オレンジ色に染まり始めた教室の片隅で彼女は泣いていた。すすり泣く声と、光を反射しながら零れ落ちる涙。そんな姿の茜に、偶然教室に戻る用事があった僕は出会った。

 それからだった。少しずつ話すようになって、二人で遊びに出かけたこともあった。

 

 それに……。

 

 

『あたし、カナのことが好き』

 

 

 ……。

 

 

「……彼方? どうしたの?」

「ん……ごめん、ちょっと考え事してた」

「考え事?」

「うん、茜のこと」

 

 

 そう言うと、遥は表情を緩めながら「ああ」と頷いた。

 

 

「帰省したときに集まろうって話だったわね。結局あれから、具体的な日程は決まってないのよね?」

「はは……ごめんね」

 

 

 日々の大学生活で忙しかったのは事実だけれど、一応僕が主だってスケジュールを合わせることになっている。ただ、僕の管理不足が原因で未だに日程が決まらない。でも、忙しいのは僕だけじゃなくて茜や美玖も忙しいみたいだった。

 茜は部活もやってるし、日程調整は思ったよりも困難だ。と言っても、茜の方は無理やりにでも合わせると言ってはいるけれど。

 

 重くなってきた買い物かごの中を整理する。遥の話で思い出したけど、僕たちは帰省するから冷蔵庫の中のものもちゃんと調整しなくちゃいけない。あまり買い過ぎても、帰省のタイミングと重なった場合に困ってしまう。

 

 ……どうしたものかな。

 

 あれこれ考えながら歩く。すると、棚の死角から人が出てきて思わずぶつかりそうになった。

 

 

「あ……ごめんなさい」

「いえ、こちらこ──」

 

 

 そこにいたのは買い物かごを手にした一人の女性。長い金髪と小さなピアスをつけた耳。

 

 

「……あれ?」

 

 

 よく見ると、その人は僕と同じゼミの仲間で。

 

 

「……梓さん?」

「彼方君?」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話

 

 

「ここのスーパー、私よく使うんだ。彼方君も?」

「よく使ってるよ。結構近いからね」

「へえ……そうだったんだ」

「梓さんって実家暮らしだよね?」

「うん。ここから近いところにあるよ」

 

 

 カートを押しながら梓さんの隣を歩く。僕がぶつかりそうになった相手は、奇遇にも僕の知る人だった。

 

 

「ここら辺って大学からは少し遠いけど、静かなところだよね」

「そうだね……僕もそう思う」

 

 

 そこそこ長い期間ここのスーパーを使ってるけど、未だに知り合いと顔を合わせたことはなかった。でも、考えてみれば会わなかったことの方が珍しいことなのかもしれない。大学のキャンパス内でこそ、梓さんとはよく顔を合わせてはいるけれど、こうして外で会うのは新鮮な感覚だ。

 梓さんはいつもよりも落ち着いたメイクを施した自然な風体だった。まあ、普段も全然メイクは薄い方だけれど、今日はより自然体に近い。梓さんは元々整った顔立ちをしているから、正直メイクなんていらないとすら思えた。

 

 

「それで……」

 

 

 梓さんは僕の後ろをちらちらと気にし始めた。そこにいるのは、何故か僕の後ろに隠れる遥。

 

 

「ああ、そうだ。まだ紹介してなかったね」

 

 

 少しだけ体をずらす。遥が人見知りなのは今も変わらない。それでもまだ、前に比べればマシにはなってきたと思うけれど。

 

 

 

「僕の妹だよ」

「……遥よ」

 

 

 

 平坦な表情の遥は、抑揚の乏しい声で名前を言った。不愛想でぶっきらぼうな態度の遥かは、それっきり何も言わない。きゅっと真一文字に結ばれた桜色の唇が、何よりも雄弁に物語っていた。

 梓さんはそんな遥の様子に多少なりとも面食らったのか、きょとん、と目をしばたかせた。でも、すぐに平静な表情に戻り、遥をじっくりと観察し始めた。

 

 

「かなり似てるね。双子って言ってたもんね」

 

 

 澄んだ瞳が僕と遥を交互に見つめる。遥はそれに対し、ピクっと眉を動かした。

 妹がこういう風にじろじろ見られるのをひどく嫌っているのを僕は知っている。でも、これでも前ほどは態度に表さないようになってきた方だった。まあ、これも充分態度に出てる方だけれど。

 

 

「って、紹介遅れちゃってごめんね。私は梓。彼方君とは同じゼミの同期なの。よろしくね」

 

 

 にこやかに笑む梓さん。大人びた物腰の穏やかさと、かすかな幼さを残した自然な笑み。

 梓さんが人気な理由は、こういうところなんだろうな、とぼんやりと思う。不快感を一切抱かない、と言えばいいのだろうか。

 人は誰しも、どれだけ好きな相手に対しても何かしらの不満や嫌だと感じることがあるものだ。でも、彼女からはそういうものを一切感じられない。出会ったときからそうだった。人に対する距離感の取り方が上手なのだと思う。

 

 そんな梓さんに対し、妹は少しだけ目を細め、再び隠れるように僕に身を寄せた。

 

 

「……ええ」

 

 

 やや間があったものの。妹はようやく返事した。

 

 

「それにしても、ふーん……」

 

 

 梓さんはニヤニヤしながら、再び僕と遥を交互に見た。悪戯っぽさを孕んだからかい半分の仕草に、遥はたじろぐように半歩下がる。そして梓さんは妹の方を見ながら、薄くリップの塗られた唇を開いた。

 

 

「一緒に買い物するんだ?」

「……それが何か?」

「ううん。何でもないよー」

 

 

 棘のある言葉で、妹は眉をひそめながら問い返す。一方の梓さんは、ひらりと凪ぐ柳の葉のように受け流した。それが癪に障ったのか、妹の口許が引きつり気味に上がった。

 

 ……なんだろう。この妙な緊張感は。

 

 

「彼方君はよく料理するの?」

「そうだね……今は妹と交代し合いながら作ってるかな」

「今は……ってことは、前は?」

「あー……実は僕の家、親が家を空けること多くてさ、大体僕がご飯を作ってたんだ」

「へえ……。確かに、彼方君ってエプロンとか似合いそうだよね」

 

 

 梓さんはそう言いながら、僕の足元から顔にかけてゆっくりと眺めた。そんなことを言われたのは初めてだ。

 

 

「そっか。彼方君って料理するんだね」

「……変かな?」

「ううん、逆だよ逆っ。女の子的には、そう言う男の子ってポイント高いんだから」

 

 

 パチッと片目でウインク。茶目っ気の含まれた仕草は、大人っぽさと子どもっぽさの両方を兼ねているようでいて、彼女に良く似合っていた。ゼミに所属する多くの男性を惹きつける彼女は、やっぱり女性らしくて魅力的だと思った。

 

 

「はは……それはどうも」

 

 

 褒められて悪い気はしないけれど、実感は全然なかった。だって、料理するのはずっと前から僕にとって日常だったから。今はただ、その延長線上にいるだけだ。子どもから今までずっと続けてきた唯一の趣味と言えるだろう。

 でも、今は料理するのは一人じゃない。妹がいる。それだけは、以前は絶対考えられないことだった。今住んでるアパートの少し狭いキッチンで隣に並びながら、他愛もない話をしつつ料理を作る。そんな日々が、僕が望んで止まなかった日々だった。

 

 

「……」

「……? どうしたの?」

 

 

 ふと梓さんを見ると、何故か驚いたようにぽかんと口を開けていた。

 

 

「……へえ」

 

 

 すると突然、僕の顔を覗き込むようにそっと顔を近づけた。長いまつ毛とぱっちりとした綺麗な瞳。かすかに鼻をくすぐる女性らしい香水の香り。

 

 

「ふむ……」

「……え、なに?」

 

 

 じーっと見つめる眼差し。真っすぐな眼差しはただ純粋に僕の目を見つめていた。僕はその意図がよく分からず、思わず首を傾げる。

 すると梓さんは、何故か眉をかすかにひそめて不満そうに唇を尖らせた。

 

 

「……彼方君は意外と強敵だったか」

「?」

 

 

 ……強敵? 

 

 

「ああ、気にしないで。私の癖みたいなものだから」 

 

 

 僕が訊こうとする前に、梓さんは手を振りながら軽く笑った。そして「へぇ……そっか、そっか」と呟きながらうんうんと頷いた。

 

 ……一体何だったのだろう? 

 

 別にただの雑談だったと思うけれど、梓さんの様子を見るにそれだけじゃないようだった。僕の話した内容に何か思うところでもあったのだろうか。

 いまいち梓さんの考えてることが分からないまま、カートを押し進める。

 

 

「それにしても、ほんとにここ最近は暑いねー。買い物がなかったら絶対に外に出ないなあ」

「……僕もかなあ」

 

 

 梓さんの言う通り、真夏日、とまではいかなくても、それに匹敵するくらいの暑苦しさはあった。テレビでも今年の夏は暑いと各番組のニュースで口々に言っていた。そのおかげか、プールやら海やらを利用する人が多いのだとか。

 

 

「彼方君はなるべく家で過ごしたい感じ?」

「うーん……たまには出かけたい、気もするかな」

 

 

 どっちつかずの曖昧な返しになってしまった。正直、季節は関係がなかった。僕本来の性格として、そう言う感じなのだと思う。

 

 

「その気持ち分かるかなあ。全然出かけないっていうのも、なんだか息が詰まっちゃうもんね」

「はは……そう──」

「……」

 

 

 ──くいっ。

 

 その小さな力に、僕は言葉を止めた。梓さんから隠れるように反対側にいた遥が、梓さんに見えないように袖を引っ張っていた。ちらりと目を向けると、遥は視線を逸らしてそっぽを向いた。

 ……少し無神経だったかもしれない。遥にも何か話題を投げかけて、放置しないように会話をつなげるべきだった。

 

 

「……?」

「ああいや。僕もそうかなって思って。ね、遥?」

「……」

 

 

 遥の顔を覗き込みながら言うと、より一層不機嫌なオーラが立ち上った。会話に混ざれなくて怒っていたと思ったから話を振ったのだけれど……。

 僕が頭を悩ませていると、今度は僕の後ろにいる梓さんから、小さなぼやきのようなものが聴こえた。

 

 

「……ふうん」

「ん……? 何か言った?」

「いや、何でもないよー。私はそろそろ自分の買い物に戻るね」

 

 

 スーパーの中の喧騒も相まって、その内容は聞き取れなかった。そして梓さんは僕たちよりも半歩前に進み出た。

 すると梓さんは「っと、そうだ」と言いながら振り向いて、手を後ろに組みながら上目づかいで口を開いた。

 

 

「彼方君。あとで今度の予定送っておくから、メッセージ確認してね」

「え?」

「じゃ、またね!」

 

 

 途端、梓さんは踵を返して別の方へ向かってしまった。こちらに軽くひらひらと手を振る梓さんは、腰まで伸びた金髪をなびかせて遠ざかって行った。梓さんも梓さんで買い物の続きをしなきゃいけいだろうし、あまりしゃべっていても仕方ないだろう。

 ……それにしても、梓さんもこのスーパーを利用しているとは奇遇だった。この近辺に住んでいることも、僕は今初めて知った。でも逆に言えば、今まで会わなかったことの方が不思議だ。そう考えると、それほど特別なことだとも感じなくなった。

 

 梓さんの姿が見えなくなった。僕もそろそろ買い物を再開しよう。

 

 

「……ちょっと待って」

 

 

 一歩踏み出そうとして。再びシャツの裾をくいっと引っ張られた。もちろん、それは遥によるもので。

 

 

「さっきの“予定”って何のこと?」

「ん……?」

 

 

 その言葉に、去り際に梓さんに言われたことを思い出す。

 

 

「ああ。夏期休暇前の課題だよ。思ったよりも詰まってるから、どこかに集まってディスカッションしたいって話になったんだ」

「……二人きりで?」

「……たぶん」

 

 

 スッと目を細めた遥が、僕ではなく梓さんが消えた方を睨みつけた。

 ……まだ会って間もないのにこの一方的な拒絶感はなんなのだろうか。反りが合わないと言えるほど、話をしたこともないのに。

 

 

「……何を心配してるのかは分からないけど、たぶん大丈夫だよ?」

「……はぁ。彼方はそういうところ、ほんと鈍感ね」

「そういうところって?」

「……知らない」

 

 

 吐き捨てるように呟いた言葉と共に、遥はスタスタと魚介コーナーの方に向かって行った。魚介コーナーの冷えた環境も相まって、妹のオーラが氷の女王のように冷え切って荒んでいるように感じられた。

 

 

「……」

 

 

 ……本当は。

 

 本当は、遥が機嫌を損ねてしまう理由を分かっていた。

 

 僕は、妹がそっと胸に温めてきた想いの向き先を既に知っている。対する僕の気持ちは、きっと昔から変わっていない。ちょっとだけ前に進んで、また立ち止まって。その繰り返しだ。

 

 僕と遥の関係はただの近親愛だとか兄弟愛だとか、そんな簡単な言葉で表せるものじゃない。母さんが亡くなったあの日から、僕たちは互いに失った心の欠片を、互いの存在を感じることで埋め合っている。

 嬉しいけど悲しいし、楽しいけど切ない。相反する感情を互いにぶつけて、循環させて、そうしてやっと僕たちは一つの輪の中にいることができる。互いに傷つけなきゃいけないし、互いに癒し合わななければならない。それはもう、決められた運命のようなものなのだろう。僕が母さんの墓前に誓ったあのときからの。

 

 ただ一言だけ好きと言えばいいとか、そばにいるとか。ありきたりなその言葉は確かに安心するかもしれないけれど、それは不安を抱かないこととイコールじゃない。安心と不安は同居し得るものだ。それが今の遥の心の中なのだと思う。

 

 

「……」

 

 

 遥は僕を鈍感だと言った。たぶん、その通りなのだろう。他人からの視線に敏感ではあると思うけれど、それがどのような感情に基づいているのかを判断できない。と言うよりも、悲観的に見る傾向があると言えばいいだろうか。

 人に好意を持たれても、嫌悪を抱かれても。僕は近づきもしないし遠ざかりもしない。そうやって一定の距離だけ維持して、仮初の世界で僕は“彼方”という自身を演じていた。

 

 ……その結果として、あの頃の僕は遥を泣かせてしまった。本当にすぐそばにあったものだったのに、僕は遥の苦しみに気づかなかった。

 距離なんてものは、思いっきりぶつかって、思いっきり離れて。その繰り返しの末に身につくものだということを、僕はやっと思い知ったんだ。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 会計を済ませ、二人そろってスーパーを出る。

 

 むわっとした暑い空気。湿度も気温も高めの環境に、遥は不快そうに顔を歪ませた。涼しい店内とは大違いの外には、そこそこの人で溢れてる。みんなも買い物に来たのだろう。

 人通りを避けながら通り人波が落ち着いた場所に出ると、後ろの遥は疲れたようにため息をついた。

 

 

「……暑い。さっさと帰りたい」

「そうだね。早く帰ろっか」

 

 

 今日は結構買い込んだ。中々に重い。買い物を再開してもなかなか機嫌が戻らなかった遥は、更に機嫌が悪くなり始めた。気温に八つ当たりしたところでどうしようもないけれど、それでもまあ言わずにはいられないだろう。確かにそれくらい暑苦しい。

 

 

「……僕が持つよ」

「あ」

 

 

 ひょいっと、遥からもう一つのエコバッグを奪い取った。日用品やら食材やらが詰まったエコバッグを二つ、僕は手に持った。

 

 

「……別に、大丈夫だったのに」

 

 

 バツが悪そうに顔を背ける遥。僕は一つ苦笑して、ゆっくりと家路を歩み始めた。

 伸び始める足元の影は、やっぱり二人分。昔と変わらない景色だ。いつも必ず空にある太陽と同じように、僕たちもまたここにいる。

 

 

「梓さんのことだけどさ、彼女は誰にでもああいう感じなんだ」

 

 

 遥を安心させる方法は、今の僕にはまだ分からない。だからただ、僕が考えてることや思うことを正直に話す。それが大切な家族に対しての、一番の誠意だと思うから。

 

 

「……そうなの?」

「うん。ゼミ内では誰にでも気さくに話しかけてるから。……社交的っていうのかな」

 

 

 フレンドリー、という言い方もできるけれど、少し意味合いが違うような気がした。どちらかと言えば、フレンドリーと言う言葉は梓さんじゃなくて美玖の方がしっくりくるだろう。

 

 高校のとき、たまたま美玖と出会った僕はすぐに友達になった。美玖がいなかったら、遥と話をするきっかけも作れなかったかもしれない。フレンドリーと言う言葉は、そういう風にどんどん人とのつながりを広げていくようなイメージがある。

 対して社交的と言うのは、人に対して一定の距離感を保ち続ける、という印象だ。その距離感をなるべく逸脱しないように、人それぞれに対して特定のスペースを作り上げる。梓さんはそれが抜群に上手いのだと思う。

 

 だからこそ、それよりも踏み込んだ関係になることはない。

 

 

「遥から見たら仲良く見えたかもしれないけど、実際は少し違うと思う」

「……それは彼方の言い分でしょ。彼女がそう思ってるかどうかは分からないじゃない」

「まあ……」

 

 

 そう言われてしまえばそうだけど。だからこれは、あくまで僕だけの言葉。信じるか信じないかは、遥次第だ。

 

 

「とにかく、梓さんは僕と特別親しい、ってわけじゃないから」

 

 

 ……これでフォローになっただろうか。僕自身、慎重に言葉を選んで話をしたつもりだった。僕は別に梓さんのことを嫌ってるわけじゃないし、むしろ好ましい方だと思ってる。だけどそれは、色恋沙汰には発展しないものだ。

 

 そう考えて話をしたのだけれど。

 

 

 

「……はぁ。私が言いたいのはそう言うことじゃない」

「……あれ。じゃあ、どういうこと?」

 

 

 

 ……何か違ったのだろうか。

 

 首を傾げていると、遥は戸惑うような、言葉に表しにくいような、そんな微妙な変化を表情に滲ませた。

 そして、一つため息をつくと。

 

 

 

「なんか……気に入らないのよね、あの人」

 

 

 

 ……気に入らない。

 

 そんな言葉を人に使うのを、僕は生まれてから初めて聞いたかもしれない。いくら反りが合わなそうだからって、そこまで言うことだろうか。本当にまだ、今日すれ違った程度の間柄のはずなのだけど。

 

 

「それは……流石に言い過ぎだと思うけど」

「……分かってるわよ。自分でも良くないこと言ってるのなんて、分かってる」

 

 

 そう呟き、顔を伏せた遥。自分でももやもやとした気持ちが渦巻いているのか、決まりが悪そうに髪を触る。

 遥があまり人と関わらないのは、ただ人が苦手だから。だから今回もその例に倣って、強張った様子を見せてるだけだと思っていた。

 

 ……でも、遥を見るにそれだけじゃないように思えた。僕には全く分からなかったけれど、遥は何か思うところがあるらしい。

 

 

「ただ……私はあまりお勧めしないわよ」

「いや、だから……」

 

 

 そういう意図はない。

 そう口にしかけたところで、遥はスタスタと先に歩き出してしまった。

 

 

 ……気に入らない、か。

 

 遥が言った言葉はあたりがきつすぎると思うけれど、考えなしに言ってるとも感じられない。それが人間関係ともなれば尚更だ。

 

 

「……ねえ、遥」

「……」

「僕は思うんだ。もっと色々な人を知っていきたいって」

 

 

 遥が意図して周りと壁を作っているのは知っている。初対面の梓さんに対しての反応は、その最たるものと言っていいだろう。それは遥が持つ様々な想いがもたらしたものだ。

 けれど、だからと言って孤立した世界で生きることが、あまりにも寂しく生きづらいものだということは、僕も遥も既に学んだことだった。

 そしてそれを教えてくれたのは、僕のことを好きだと言ってくれた茜だった。

 

 

「私だって分かってるわよ」

「それなら──」

「でも仕方ないじゃない」

 

 

 歩む足を止めながら。

 遥はそのまま、胸に手を当ててぽつりと呟いた。

 

 

 

「知らない人が彼方と親し気に話してるのを見ると、不安になるんだもの……」

 

 

 

 かすかに震える手。

 

 

 

「私の知らない彼方がいるって思うと、私は……」

 

 

 

 遥が正直に語ってくれた言葉。

 僕は少しだけ、遥の気持ちが分かるような気がした。

 

 僕たちは未だに周りの世界が怖く見える。でも、僕たちはそれぞれ一人の人間として人生を歩まなければならない。その中で互いのことを気にし過ぎてしまうのも、恐らく良くないことだ。だから僕たちは、そう言う意味でも確かな信頼関係を築かなくちゃいけない。

 

 

「遥の不安が少しでも和らぐなら……僕にできることはなんでもするから」

 

 

 その方法はまだ分からないけれど。

 僕はずっと遥のそばにいる。その約束は決して倒れない。

 僕はもう、見誤りたくない。遥の素直な気持ちを。

 

 

「……」

 

 

 少しだけ揺れる瞳。眉尻の下がった寂しげにも見える姿。

 僕の顔を窺う遥に、僕は真っすぐに見つめ返す。

 

 

 

「……じゃあ」

 

 

 

 そんな僕に、恥ずかしそうに目をそらして。

 ちらちらと、僕を気にしながら。

 

 

 

「……じゃあ、彼方」

 

 

 

 白く細い腕を、そわそわとさする遥。

 遥はうっすらと頬を染めながら、ゆったりとした口調で言った。

 

 

 

 

「……私とデートしてよ」

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話

 お久しぶりです。色々アイディアが湧いてきて全然まとまらなかったため投稿できていませんでした。大学編は思ったよりも長くなりそうです……。


 

 

「どうしたの、彼方くん? ぼーっとして」

 

 

 トントン、と本のページを叩くペンの音。

 緩慢に首を動かせば、そこにいるのは僕と同じゼミ所属する同期の梓さん。

 

 

「……ごめん、ちょっと考え事してた」

 

 

 一度、腕を伸ばして深くため息をついた。

 

 今日は梓さんと約束した課題のディスカッションをする日。今いるこの場所は大学の図書館の中にあるセミナー室。サークルとか研究室のゼミなんかでよく使われてる部屋だ。前に目をやればホワイトボードには先ほどまで出し合ったアイディアが所狭しと書かれていた。

 

 梓さんはやっぱり頭が良いというか、着眼点が違うな、と思った。ある程度の人はこうなんじゃないかと考えるところを、先入観を無くして真っさらな状態で見ることができる。梓さんが他の人とは違うところはそこだった。

 

 

「それでどう? 私の方はもう書き終わったけど」

 

 

 ディスカッションしてから一時間程度ここでノートパソコンと向き合っていたけれど、僕がぼんやりとしてる間に梓さんは課題を終えたらしい。でもまあ、僕の方もほぼ書き終えているし、あとは推敲するだけだ。

 

 

「僕もそろそろ終わりかな」 

 

 

 腕時計に目を通せば、午後の中だるい時間を迎えている。眠気も誘われるような緩んだ空気が、エアコンで涼しいセミナー室の中でゆっくりともたれかかっている。気を抜いてしまうと居眠りしてしまいそうだ。

 

 最後に保存ボタンを押してレポート用に開いていたソフトウェアを閉じる。後は家に帰ってからやろう。

 

 ノートパソコンをたたむと、梓さんもホワイトボードの文字を消して帰り支度を進めていた。僕は本を片付けるとしよう。

 机上に溜まった本をまとめて抱えてセミナー室を出る。夏休みの図書室は意外にもぽつぽつと人がいた。確か、外部の人もこの図書館を利用できるらしくて、よく見れば年寄りの人や小さな子どももいた。

 その光景を横目に、腕に抱えた本を一冊ごとに所定の場所に収納する。高校で図書委員だったから慣れた仕事だけれど、大学だとフロアの広さが段違いで意外と歩かされることに気づく。

 

 僕たちはステップアップしながら生きている。少しずつ、その階段を踏み外さないように慎重に、でも確実に。大学ではその歩幅が今までにないくらい大きくもなるし、小さくもなる。四年間という期間の中で、僕たちは何をするのも自由だ。

 

 それを言うなら、僕は確かに知識を身につけた。少しずつだけど、周りとも交流するようになった。でも、この間の買い物帰りのときに遥に言われた言葉。あれを思い返すと、その歩幅は僕と遥でやっぱり違うんじゃないかと感じた。

 僕の一歩が遥にとっては大きすぎる一歩で、遥の一歩が僕にとっては物足りないもので。お互いに合わせようとしてるせいでどこかギクシャクしてしまう。振り子が止まるのがいつになるのかは分からないままだ。

 

 

「──彼方くーん。こっちはもうセミナー室の鍵返しちゃったよー」

「あ……ありがとう」

 

 

 声のする方には自分のカバンと僕のカバンを一緒に抱えた梓さんがいた。戻るのが遅れてしまったらしい。ひらひらとこちらに手を振る梓さんはあどけなくも見えて、あざとくも見えた。

 梓さんからカバンを受け取ると、僕たちは隣並んで踊り場から階段を降り始めた。

 

 

「んー……久しぶりだなあ。こんなに真面目にディスカッションしたの」

「はは……そうだね」

 

 

 もう夏休みに入ってるのにこんなに学業に身を費やすのも変な話だけれど。

 梓さんは論拠を丁寧にかつ分かりやすくまとめていて、ディスカッション中も常にそれを意識していた。そのおかげで僕も色々と勉強になった部分もあったし、新しく知見を得ることができて、自分の考えをより深めることができた。

 

 

「それにしても彼方くんのレポート。面白いよね」

 

 

 梓さんは僕のカバンを一瞥すると、小首を傾げながら僕に問いかけた。

 

 

「地域ごとの様々な人間関係のヒエラルキーだっけ」

「うん……興味があってさ」

 

 

 梓さんが口にしたのは僕のレポートのテーマだ。ヒエラルキーは端的に言えばピラミッド型の階級構造を指す言葉だ。僕はそれを、特定の人間関係がどのような階級構造を為しているのかを調べることにした。

 他人、友人、恋人、兄妹。思いつく限りの人間関係を表す言葉が、それぞれ地域によってピラミッドのどこに分布しているのか。簡単に言うとそれをまとめたものが僕のレポートだ。

 

 

「私は考えたこともなかったなー」

「……まあ、取り立てて考えることではないのかな。普段の生活で誰を優先するのかなんて深く考えてないだろうし」

 

 

 それでも、僕たちは何かしら選択して人との交流を進めている。その中で、友達よりも恋人を優先することもあれば、恋人よりも友達を優先することだってあるだろう。それは様々な背後関係が複雑に混ざり合って形作られる。

 

 エントランスまで降り立つと、梓さんは「んー」と言いながら口を開いた。

 

 

「でも私だったらやっぱり、一番は恋人かなー」

 

 

 人差し指で薄くリップの塗られた唇に触れた彼女。光が反射したガラス越しに目が合った気がした。

 そこには正解も何もない。ただ、何を優先して考えるのかという自己を中心とした考えだ。

 

 

「彼方君だったら誰が一番上に来るの?」

「ん……」

 

 

 友達ならいる。それもたぶん、僕にとってかけがえのない無二の友人が。きっとこれから先、これ以上はないって思えるくらい大切な友達。少なくとも、この大学の三年間を経て僕が分かったことだ。

 恋人はいない。この大学三年間の中で、確かにそういう想いを告白されたことは何回かあった。サークル活動で知り合った人だったり、バイト関係で話すようになった人だったり。

 

 でも、僕はそのいずれの想いにも応えられない。

 だって、僕が一番大切にしているのは。

 

 

「……それは内緒かな」

「えー、ここに来てそりゃないよー。私も教えたんだしさ?」

 

 

 うりうり、と肘で軽く小突かれるのに揺られながら僕は苦笑した。

 

 ……それにしても。

 

 

「ん? どうしたの?」

「いや……」

 

 

 ふわりと香る爽やかな香水の香り。猫のようなアーモンアイが僕の視線と交わる。その距離感は僕の気のせいじゃなければ少し近い気がする。

 梓さんとの関係。遥にもこの前問われたけれど、それは別に特別なものじゃない。少なくとも、今までの梓さんのゼミでの様子を考えれば。

 

 こういう言い方をすると失礼かもしれないけれど、僕は梓さんが特定の誰かと親しくしていることころを見たことがない……ような気がする。と言うのも、彼女自身が会話の中心になって、円滑剤のような役割をしていることが多いからだ。だから誰か一人とだけ話してる、というところはあまり見ない。もちろん、だからと言って特別親しい人がいない理由にはならないけれど。

 だからこそ、僕のことも知人の一人程度としかとらえていないと思ったのだけれど……。

 

 

「……ねぇねぇ、彼方君。この後は暇?」

「……ん?」

 

 

 突然、梓さんからそんなことを訊かれる。

 今日は一日フリーだ。遥はバイトがあるらしいけれど、僕は今日のシフトはない。だから時間はあるけれど、何の用事だろうか。

 

 

「一応暇だけど……」

「じゃあさ──」

 

 

 シンプルな白シャツに黒のフレアスカート。

 夏らしい服装をたなびかせながらくるりとこちらに振り向くと、梓さんはにっこりしながら言った。

 

 

 

 

 

「私とデートしない?」

「……え?」

 

 

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 がやがやと人騒がしい駅に降り立つ。外の広告の流れるパネルや街頭テレビを遠目に改札を出ると、むわっとした暑い空気にパタパタと胸元を扇ぐ人や日傘をさしてる人もいた。

 

 

「結構人いるねー」

「……あの。梓さん」

「ん、なあに?」

「これ、どこに向かってるの?」

 

 

 梓さんに突然デートだと言われて呆然としたのも束の間。大学の図書館のエントランス内で梓さんは僕の腕を掴むと、そのまま腕を引っ張られてバス停まで連れてこられ、駅まで来て電車に乗って、三十分ほど車両に揺られてここまで来た。

 

 

「あ、そっか! まだ言ってなかったね」

 

 

 梓さんはカバンの中からごそごそと何かを取り出すと、でん、と僕の目の前に一枚の紙きれを見せつけた。

 よく見ると、それはカラフルなチラシだった。そして一面に大きく描かれたイラストとロゴ。それは……。

 

 

「……カップル限定パンケーキ?」

「そう!」

 

 

 にっ、と笑いながらはしゃぐ梓さんは、「これ食べてみたかったんだよねー」と言いながらうっとりした目でパンケーキを眺める。

 

 女の子は甘いものに目がないというのは世間でよく言われるありきたりな言葉だけど、こうして実際目の当たりにするとは思わなかった。

 

 

「これさー、カップルじゃないと頼めないんだ」

「……そうなんだ」

 

 

 察するに、どうやらそのために僕を連れてきたらしい。もちろん、僕たちはカップルじゃないけれど。

 

 

「……梓さんはいいの?」

「んー? なにが?」

 

 

 はやく、はやく、と言いたげに身体を揺すられる。

 

 

「僕が相手役でいいの?」

 

 

 僕と梓さんは恋人関係じゃない。話すようになったのもごく最近のことだ。だから僕は、まだ彼女と親しくなったわけじゃない。

 そんなことを思う僕を、梓さんは気にしないようににっこり笑う。

 

 

「大丈夫! 彼方くんならバッチリ! それよりも、早く行こ!」

「あ……」

 

 

 グッと手を引っ張られる。思ったよりも小さな手だった。細い指が手に絡まって少しくすぐったい。

 

 ……同年代の女の子と手を繋ぐのなんていつぶりだろう。梓さんの横顔を見れば、特に何も思っていないようだった。あるいはスイーツに夢中でそんなことを考えている暇はないのか。

 

 

「……」

 

 

 ……デート、か。

 

 梓さんは冗談で言ったのだろうけれど、僕には思うところがあった。つい最近でも、全く同じ話題が出たのだから。

 

 

 

『……デートしてよ』

 

 

 

 恥ずかしさに染まる朱い頬。

 自分の気持ちを正直に話す遥。

 

 おそらくだけど、遥にとってデートというものはとても大切なことなのだと思う。結構前の話だけど、僕が茜と出かけたときも遥は僕にデートかと尋ねてきた。もう四年近く前の話だけど、今でもまだ覚えてる。あの頃、妹が話す言葉一つ一つが僕にとって貴重なものだったから。僕との関係に怯えて、遠ざけて、それでもどうしても聞かずにはいられなかったことで。

 

 そんな遥が、勇気を振り絞って言ってくれたことだったから。

 

 

「……」

 

 

 それなら僕は、その勇気に答えたい。遥が思い描くデートがどんなものかは分からないけれど、できる限り望む形で叶えたい。

 正直に言うと、僕はデートというものが深い意味を持つとは思わない。それはただの言葉遊びに過ぎなくて、形に囚われるのと同義だと思っているからだ。

 

 ……そもそも、形にこだわっていた僕が言えた義理ではないかもしれないけれど。

 

 

「……」

 

 

 過ぎ行く街並み。僕の手を引っ張る金髪の女の子。

 

 もしこれがデートというものを知るきっかけになるのなら。僕が今まで知ろうとしなかったことが、少しでも分かるのなら。

 

 僕は少しだけ、握る手に力を籠めた。

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

「……結構並んでるね」

「あ、あははー……」

 

 

 引きつった笑みを浮かべながら、梓さんは乾いた声を上げる。

 早速お店まで来てみれば、長蛇とまではいかなくてもそこそこの長さの列。前の方も後ろの方も、カップルらしき男女だらけだった。

 

 

「……ごめんね、よく調べもせずに来ちゃったから」

「いや……」

 

 

 申し訳なさそうな梓さん。だけど、これは逆にいい機会かもしれない。

 

 

「梓さんって、甘いもの好きなんだ?」

「それはもちろん! 女の子なら、こういうものには食いついちゃうものなんですよ」

 

 

 人差し指を立てて自信ありげに語る彼女は、ゼミ内での彼女よりも幾分か砕けた口調だった。大人びた微笑ではなく、かすかな幼さが残る笑み。

 

 

「あ……彼方君はもしかして、甘いもの苦手だった?」

「いや、苦手じゃないから大丈夫」

「そう? なら良かった」

 

 

 ほっとして胸を撫でおろす彼女に、僕は真っ青な空を見上げた。

 

 僕は梓さんのことをよく知らない。でもそれは、そもそも僕自身の誰かを知ろうという気持ちが薄いからだ。でもそのままだと、僕はいつしか遥に対しても同じようになってしまうような気がする。知った風に気取るようなことだけは、決してしてはならない。僕が遥とのことで学んだことだ。

 

 だから。

 

 

「梓さんって普段は何して過ごしてるの?」

「……ん? 突然どうしたの?」

「こういう話、梓さんとしたことないなって思って」

「……」

 

 

 梓さんはきょとん、と面食らったように目をしばたかせてから、やにわに笑んだ。

 

 

「ちょっと意外かも」

「何が?」

「だって彼方君こそ、そういう話しないじゃん」

「僕の場合は友達がいないから──」

 

 

 そんな僕の言葉を遮るように。

 

 

 

「じゃあ、私は友達ってこと?」

 

 

 

 こてん、と首を傾げながら問われる。

 僕ははっとした。

 

 ……友達、なのだろうか。

 

 僕にとって、友達という言葉は安易に使ってはいけないものだった。僕は今まで何もかもから距離を置いてきた。そんな状況で本当に親しくなれた人はごく僅かしかいない。

 だから本当は、僕の方から友達だなんて言うのはあまりにも強欲で浅ましいことだった。でも、そんな怠惰な日々の中で最初に手を差し伸べてくれた人がいた。だから僕は今、遥と向き合うことができている。それはこの窮屈な世界の中で、天使の羽みたいにふわりと降りてきた優しさだった。

 僕はその勇気のお陰で、周りの世界を恐れずに済んでいる。

 

 ……もし許されるのなら。

 もっと、周りの世界に触れてみたいのなら。

 

 

「……梓さんもそう思ってくれたら嬉しいけど」

「……」

 

 

 梓さんに、じっと瞳を見つめられる。

 

 そこに映るのは透明な何か。けれど、無機質でも無感動でもない。玲瓏な宝石はただ真っ直ぐに僕を見ている。

 彼女はゆっくりと桜色の唇を開いた。

 

 

「……彼方君って、不思議だよね。普通はそんなことわざわざ訊かないよ?」

 

 

 確かにそうかもしれない。それでも訊いてしまうのは、言葉にしてくれないと分からないからだ。たぶんそれこそ、遥の言っていた鈍感の意味なのだろう。

 

 

「……そうかもね」

「……」

 

 

 僕には妹だけが全てで。

 でも、それだけじゃ足りないものもあると気づいて。

 

 前に進むためにはきちんと周りの世界に目を向けなきゃいけないって、やっと理解したあの頃を。僕は決して忘れてはならない。

 

 

「……やっぱり彼方君って面白いね」

「……どこが?」

「だって彼方君みたいな人、そうそういないよ?」

 

 

 ……僕みたいな人。

 それはいったい、どんな人なのだろう。

 

 僕は今までただの操り人形で、中身のない空っぽな人間だった。母さんの言葉にみっともなく縋りついて、自分が生きながらえるための糧としていた。そんな自分が、今更自分らしさを身に着けることなんてできるのだろうか。

 

 思わず思考に没入しかけたそのとき。

 

 

 

「……これはますます楽しみになってきちゃった」

「……楽しみ……?」

「ううん、こっちの話だから気にしないで!」

「それって──」

 

 

 問い返そうとすると同時に、がらんと店のドアが開く。すると中から店員が出てきて、僕たちの下までやってきた。

 ふと周りを見ると、僕たちの後ろは列が並んでいるけれど、前には誰もいなかった。僕たちは気づけば最前列まで来ていて、丁度中が空いたようだった。梓さんとの話に集中していたから、気づかなかったみたいだ。

 

 梓さんは店員に対して「はーい」と一つ返事をすると、僕の方にぱっと振り向いた。

 

 

「空いたって! ほら、早く中に入ろ!」

 

 

 店員の案内に従って中に入る彼女。

 

 ……僕からすれば梓さんの方が不思議な人間だ。今日のやり取りで、梓さんの性格が正直よく分からなくなってしまった。

 大人びた彼女と子供のような彼女。ゼミ内での彼女とプライベートの彼女。そのどちらが本当の彼女なのだろうか。

 

 そんなとりとめもないことを考えながら、僕は歩き出した。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話

 お久しぶりです。
 最近忙しくて執筆できていませんでした。ごめんなさい……。


 

 

 騒がしい店内。がやがやとした話し声とコミカルなBGM。周りを見渡せばどこもカップルらしき二人組ばかり。浮足立つような居心地の悪さをかすかに感じながらも、店員に案内された席に座った。

 梓さんは「へー、こんな風になってるんだ」と言いながらゆっくりと席に座って、早速テーブルに備え付けられたメニューを手に取った。

 

 

「彼方君は何か頼みたいものある?」

 

 

 梓さんは少しだけ前のめりになりながら、向かいに座る僕の元に身体を近づけた。都会の店ということもあってか、テーブルはそれなりに小さく、思ったよりもすぐ近くに梓さんの整った顔立ちがあった。

 

 

「アイスコーヒーがいいかな」

「コーヒー好きなんだ?」

「結構好きかな」

 

 

 僕がカフェでバイトを始めたのも、コーヒーが好きだったことが理由の一つとしてある。もちろん、主な理由は人との交流を増やすためでもあるのだけれど。その機会を与えてくれた店長には感謝してもしきれない。

 

 

「僕のバイト先がさ、コーヒーを売りにしてるカフェなんだ」

「へえ……そうなんだ。カフェのバイトって楽しい?」

「楽しいよ」

 

 

 楽しいという気持ちはある。けれどそれだけじゃなくて、落ち着いていられる場所、というのが僕にとっての認識だ。

 店主は寡黙だけれど、どこまでも穏やかで落ち着いた人だ。あの人が店主であるからか、店内もかなり落ち着いて静かな場所だ。そんな図書館にも似た雰囲気が僕は好きなのかもしれない。

 

 雑談をしながらお互いに頼むメニューが決まって、梓さんは店員を呼んだ。

 

 

「すみませーん。アイスコーヒーと、紅茶と──」

 

 

 一つずつ、梓さんは指していって、最後に。

 

 

 

「カップル限定パンケーキください」

 

 

 

 メニューの表面に堂々と大きく描かれたパンケーキを指した。

 店員は注文内容を繰り返し読み上げて内容を確認すると、さっさと厨房の方に向かって行った。この混雑状況だし、かなり忙しそうだ。

 ざっとあたりを見渡していると、ふと梓さんが口を開いた。

 

 

「ねえねえ、彼方君」

「ん……?」

「ちょっと訊いてもいい?」

 

 

 梓さんは白く細い指で、長い金髪を耳に掛けた。

 

 

「彼方君ってさ、あんまりゼミの人と遊んだりしないよね? 男子は合コンとかやってるみたいだけど」

 

 

 梓さんの言うとおり、僕と彼女の所属するゼミには、そういう催しを定期的に開催する人がいる。サークル活動でたまに見る他大学との交流というやつだ。ゼミの男子たちはみんなそういった交流活動が好きなようで、割と頻繁に開催してる。

 でも、僕は一度も参加したことがなかった。人との交流を深めること自体は良いと思うけれど、それがいわゆる()()()()のために行われてることが僕の中で引っ掛かっているから。

 

 

 僕が沈黙していると、梓さんは「もしかして──」、と一呼吸おいてから、ちらりと上目遣いにいった。

 

 

 

「彼女とか、いる?」

 

 

 

 黒曜石のように深く黒い瞳。耳朶に輝く銀色のピアス。

 

 窓ガラス越しの光に反射して眩しい。クーラーの効いた店内のせいか、はたまた別の何かか。何故か、背筋に冷たいものが走った気がした。

 僕にはそう呼べるような人はいない。でも、きっとそうなることを望んでいるであろう人はいる。

 それも、ずっと長い間。僕はそのことに気づかずに、幾度となく苦しめてきた。

 

 

「……いないよ」

 

 

 そう。僕と遥は恋人同士じゃない。

 僕たちの関係はまだ、透き通った透明のまま。でも、それでも少しずつ形を成していく。

 

 意図せず伏せがちになった顔を上げる。

 

 

 

「そっかあ……いないんだ」

 

 

 

 ほっとした表情から、ニコニコしながらどことなく不敵な笑みを浮かべる梓さんは、機嫌良さげにテーブル上のコップを手に取った。からんと氷がガラスを叩く音に、冷涼な風が頬を撫でた気がした。

 

 

「そう言う梓さんはどうなの?」

「ん、私? いないよー。っていうか、今までいたこともないし」

「……そうなんだ?」

 

 

 ……いや、よく考えればこういうことに誘ってくる時点で恋人がいないのは当然だ。もしいるなら僕を誘うわけがない。

 ただ、それを差し引いても今までもいたことがないというのは正直意外だ。彼女みたいな人なら、すぐにでも誰かと付き合うことだって可能だろう。店内にたくさんいるこのカップルたちのように。

 そんな僕の言葉に梓さんは何か思うところがあるのか、口元を手で隠した。

 

 

「ふーん……なるほどね」

 

 

 梓さんはつぶやくと、蛇のようにうっすらと目を細める。その目は猫というよりも、どちらかと言うと蛇のようで、思わず身がすくんだ。

 

 

「……」

 

 

 ……まただ。

 

 この前スーパーで梓さんと会った時から、どうにも違和感がある。梓さんの性格自体、僕はあまり知らないのだから、どこがおかしいのかははっきりと分からないし言葉にもできないけれど……。

 コップを手に取って唇を濡らす。思ったよりも喉が渇いていたようだ。喉をするりと流れる水は砂漠で乾ききった大地に染み込むようで心地いい。さっき背中を迸った緊張のような痺れは、幻のように消えた。

 

 大学の同期で、同じゼミに所属する理知的な女性。容姿は少し派手なところもあるけれど、言葉遣いや普段の会話での整った所作は育ちの良さが感じ取れる。僕は当初、彼女がいわゆる堅い性格だと思っていた。けれど、彼女が友達とやり取りしてる様子やこうした会話の中で、意外と砕けた性格だと言うことが何となく分かってきた。

 

 

「大学に入るとさ、色々な人と知り合いになるでしょ? でも、だからこそ一人一人との関係が深まらなくなる。そうは思わない?」

 

 

 梓さんの言葉は、僕が正に彼女に対して抱いていた人物像だった。一人との関係を深めていくのには何よりも時間が必要で、誰よりも深く知ろうとする気持ちが必要だ。それはまっさらな大地に植えた一本の木をゆっくりと育てていくことに等しい。その成長の仕方は個人差があるものだけれど、間違えたやり方では枯らしてしまうだけだ。それはたぶん、この世界で生きていくうえで一番難しいことで、一番大切なものだ。

 梓さんは頬杖をついた手で、軽く首を傾けながら妖艶に僕を見つめた。

 

 

「自慢じゃないけど、私って結構告白とかされるんだよね。まだ知り合って全然時間も経ってないのにさ? だから正直なところ、付き合うとかそういう話って苦手意識があったんだよね」

「……」

 

 

 そうだったのか。僕は全く気付かなかった。

 梓さんはふっと、息を吐いて「でも──」と続けて。

 

 

 

「最近はそうでもないのかなって。本当にちょっとだけ、そう思えてきたかも?」

 

 

 

 なーんてね、と言いながら、梓さんは窓の外を眺める。

 

 外には真夏の日差しが降り注ぐ。そして、地面には道行く人々の影。寄り添う恋人たちの影は、独りのものよりも当然大きな影を形作る。僕たちが歩いていたときも、あんな風に影が伸びていたのかもしれない。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 店員から運ばれてきたコーヒーと紅茶の香り。しばらくそれらを堪能しながら他愛もない雑談をしていると、件のパンケーキがやってきた。

 

 

「おー、来たね!」

「……」

 

 

 梓さんは目をきらきらさせながら待ってましたと言わんばかりに手を叩く。けれど、僕はそんな反応とは対照的に思わず顔を引き攣るのを感じた。

 

 軽く四人前分はありそうなパンケーキの枚数。タワーのように積み重なったその上には真っ白な雪を彷彿とさせるたっぷりの生クリーム。それに色とりどりのフルーツは一口サイズにカットされたものが装飾としてふんだんに飾られている。

 

 ……大きすぎないだろうか? 

 

 

「ほら、彼方くんも切り分けるの手伝って!」

「え、あ……」

 

 

 梓さんはテキパキと自分の分をよそってから、他のパンケーキも小分けに切り取る。手慣れた手つきだった。こういう役回りになることが多かったのかもしれない。

 差し出された皿を受け取ると、ずしっとした重み。食べきれるか不安になってきた。

 

 

「じゃ、いただきまーす」

「……いただきます」

 

 

 梓さんは早速一口食べると、「んー!」とほっぺたに手を当てた。味に関しては問題ないようだった。

 フォークを手に取って、小さく切り取った欠片を口に含む。ふんわりとしたやわらかい舌触りと口に広がる味と香り。確かにこれなら梓さんの反応も納得がいく。

 

 

「……」

 

 

 思えば、こんな風に知り合いと外食するのって、初めてだ。

 高校のときも、大学に入って二年ほど時間が経っても。色々な人と知り合ったけれど、こういう風に出かけるようなことはなかった。知り合いからそれ以上の関係に至らない。僕は梓さんをそう評したけれど、それは僕にとっても当てはまることだ。

 

 目の前にいるのはパクパクとデザートを頬張る同じゼミの女の子。人によってはデートと捉えるこのシチュエーションは、僕には経験がないもので──。

 

 

 

『──カナ』

 

 

 

 ……いや。

 

 厳密には、初めてじゃない。僕が始めてそういった、いわゆる恋愛に関することを意識したのは茜だった。

 高校のとき、とあることがきっかけで知り合った僕と茜。思えば、初めて茜と出かけたあの日は紛れもないデートだったのだろう。それからだんだんと、茜と過ごす時間が増えてきて……。

 

 

 そして最後に、僕は彼女を傷つけた。

 

 

 綺麗な涙を泣き笑いのような顔で流す茜はただ、何も言わないで、と言って僕の胸元で顔を埋めていた。甘い金木犀の香りも、肌を突き刺す外気の冷たさも、僕の罪をひたすらに責め続けていた。あのときの熱い体温も涙も。未だに胸に焼き付いて離れない。

 でも彼女は、最後には笑って僕を送り出してくれた。腫れた目許なんか気にならないくらい優しく綺麗な顔で。それまでにあった沼へと引きずり込まれそうなほどの葛藤も、べったりと塗られた息をするのも苦しいくらいの罪悪感だって、彼女はその全てを許してくれた。

 

 ……でも。

 

 

「……」

 

 

 また見つからない。

 

 僕と茜を関係づける言葉が、やっぱり見つからない。友達なのか、それ以外のもっと別の何かなのか。ただ一つだけ言えるのは、きっと何にも代えられない特別な存在ということだけ。

 

 

 窓ガラス越しに、日差しが照り付ける空を見上げる。透き通る青空の下には、一羽の鳥が羽ばたいている。空を悠々と駆ける姿は強かで、でもどこか切ない気持ちにさせる。

 鳥はいったい、どんな気持ちで空を飛んでいるのだろう。広大な空の下で、何を探しているのだろう。目的地に向かっているのか、羽を休める場所を探しているのか。

 

 

「……彼方君? おいしくない?」

「ん……?」

 

 

 首を傾げる梓さんに、僕は意識を戻した。ケーキは一口食べただけで、あとは手つかずの状態。

 

 

「いや、ちょっと考え事してただけ」

「考え事?」

 

 

 ……そう、考え事だ。

 

 何故か今になって、あのときの胸の苦しみを思い出したから。

 あのときの胸を裂くような痛みを思い出したから。

 ただ少しだけ、感傷に浸っていただけだ。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

「ここで大丈夫だよ」

 

 

 僕の住むところとは少し離れた住宅街を歩いていると、梓さんは振り返ってそう言った。

 

 辺りはすっかり薄暗くなっている。陽の伸びた夏ではあるけれど、流石に遅くなりすぎたかもしれない。

 梓さんとパンケーキを食べた後、近くの店にウインドウショッピングに行ったり街を散策したりしたからか、思ったよりも帰りが遅くなってしまった。だからこうして梓さんの家の近くまで送り届けたのだけれど……。

 

 それでも課題はしっかりと終えたし、今日の成果としては充分だ。

 

 

「今日はありがとう。楽しかったよ、彼方君」

 

 

 にっとはにかむ梓さんの金髪が、夜風に吹かれてなびく。かすかに汗ばんでいた首元が涼しくて心地いい。

 

 

「僕も課題が捗ったから。これで心置きなく夏季休暇に入れるよ」

「……夏休みかあ。彼方君って、確か帰省するって言ってたよね。いつから?」

「いや……それがちょっと決まってなくて」

 

 

 でも、課題も終わったから決めるには良いタイミングだろう。あとで茜たちや父さんにも連絡を入れなきゃ。

 

 

「そっか。ねぇ、それならさ、予定が決まったら私にも教えてくれない?」

「ん……? どうして?」

「どうしてって、そんなの決まってるでしょ?」

 

 

 闇夜に輝く梓さんの金髪は、どこか空に昇る月のように白く見えた。

 

 

「今日、彼方君と出かけて楽しかったから。またこうしてデートしたいなあって」

「……」

 

 

 鈍色に輝くピアス。街灯に照らされて輝くそれは、忘れもしない高校生の頃に見た()()の涙を彷彿とさせた。

 僕がどう答えるか迷っていると、梓さんはくすっと笑いながら口元に手を当てた。

 

 

「彼方君って、本当に珍しいよね」

「……珍しい?」

「うん。こればっかりは、女の子目線じゃないと分からないかなあ」

 

 

 梓さんは苦笑しながらそう言って、身に着けている腕時計を一瞥した。

 

 

「じゃ、私は行くね。あとで予定教えてね?」

 

 

 ひらっと手を振ると、彼女はスタスタとそのまま行ってしまった。

 ……どうしてなんだろう。梓さんとはプライベートではほとんど接点もないし、雑談だって今日までしたことはほぼ無かった。それなのに、いきなりどこかに遊びに行こうって誘うなんて。

 

 顔を上げると、もう既に梓さんの後ろ姿は見えなくなっていた。今日一日の梓あの様子からは、いまいちその真意を読み取ることができない。

 

 ……考えても分からないことだらけだ。僕もそろそろ帰ろう。

 

 

「……?」

 

 

 ずり落ちそうになっていたカバンをもう一度肩に掛けなおすと、中から着信音が聴こえてきた。

 

 

「あ……」

 

 

 入れっぱなしにしていた携帯端末の液晶画面。

 そこには妹の名前が表示されていた。

 

 ボタンを押し、端末に耳を当てた。

 

 

『……もしもし、彼方?』

 

 

 電話越しに聞こえる妹の声。遥には早く帰ると出かける前に伝えておいたから、それで心配になって電話をくれたのだろう。

 

 

「ごめんね、今帰ってるところ」

『……そう。それならいいけど』

 

 

 ほっと息を吐く音が聞こえる。昼間や夕方に鳴いていたセミの声もカラスの声も、今は特に聴こえない。

 

 

『晩御飯だけど、私の方で作っておいたわ』

「……そっか。任せちゃってごめんね……それと、ありがとう」

『別にいいわよ、それくらい……』

 

 

 ちゃぽん、と。水の滴るお風呂の音が聴こえる。

 

 ……あれ。

 

 

「遥、今お風呂に入ってるの?」

『ええ、そうよ』

 

 

 それは、なんとも珍しい。

 

 

『……お風呂に入りながら電話するのって新鮮ね。この間ゼミの人が話題にしてたのを思い出したから真似てみたの』

「へえ……」

 

 

 そう言えば、お風呂に防水用の袋に入れたスマホを持参する人が結構いるのだと聞いた覚えがある。それも確か、僕がゼミで聞いた話だった。ただ、遥がそう言ったことを実践するようなタイプだと思ってなかった。

 おぼろげに記憶を掘り返していると、ぬるいため息のような音が響いた。

 

 

『……ねぇ、彼方。この間私が言ったこと、覚えてる?』

「……この間?」

『買い物に行ったときのことよ』

 

 

 二人で買い物に行ったあの日。珍しく遥が素直な気持ちを吐露した帰り道を思い出す。

 確かあのとき、遥はデートがしたいと言っていた。でも僕はすぐに返事することができなくて、どこかギクシャクした状態になってしまった。

 

 湯船に水滴の落ちる音をBGMに、遥は切なそうに言葉を零す。

 

 

『私、ずっと甘えてた。私がどんなワガママでも、どんなに嫉妬深くても、彼方は笑って許してくれるって』

 

 

 胸をくすぐるような柔らかい響き。

 

 

『だから、その……。あのときはごめんなさい』

「あ……」

 

 

 ……そっか。電話してきたのはたぶん、それを言いたかったからか。僕は別に、そこまで気にしてはいなかったのだけど、遥はそうじゃなかったみたいだ。

 

 

 ……。

 

 

「ねえ、遥。今度の土曜のバイトの予定、どうなった?」

『あ……そう言えば話してなかったわね。休み取れたわよ』

「……そっか」

 

 

 僕の行動一つひとつが、遥の気持ちを揺さぶってしまうのなら。僕はもっと、行動で気持ちを示さなくちゃいけない。

 

 だから。

 

 

 

「それならさ──」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話


お久しぶりです。



 

 

 バスから降りると、人のざわめきが一際大きくなった。揺られること数十分。一人でバスに乗るには結構長い時間に感じた。手慰みに持ってきた文庫本も開く気になれず、ぼんやりと外の景色を眺めていただけだった。

 

 けれど、そんな退屈な時間もそろそろ終わり。

 

 バス停に降りてしばらく歩くと、賑やかな音が聞こえて来た。不思議と懐かしささえ覚えるざわめきが、心地よく思える。

 オレンジ色の西日が差し込む街路を歩く。昼間のギラギラとした太陽は、夜に向かうにつれて少しずつ穏やかになっていた。

 祭囃子の音と共に温い風が頬を撫でる。普段は煩わしくさえ感じるこの空気が、今は嫌じゃない。

 人の熱気や出店の外気に混じるのは、騒がしさに満ちた人の笑い声。道行く人々は色鮮やかな浴衣に身を包み、それぞれが目一杯のおしゃれをしていた。

 

 

「……」

 

 

 祭りの会場近くの噴水広場まで着いた。思ったよりもたくさんの人だかりだ。理由は想像がつく。単純に待ち合わせ場所として分かりやすいからだ。

 

 それは、僕も含めて。

 

 腕時計に目を落とせば、待ち合わせの時間まであと十分くらい。同じ家で暮らしてるのにわざわざ待ち合わせるなんて、なんとも不思議な気分だ。

 時折吹く凪の心地よさに、ゆっくりと目を瞑る。瑞々しい緑の匂いと、噴水の冷涼な水音。今年の夏は、どんな夏になるだろうか。去年や一昨年も、別に楽しくないわけじゃなかった。 

 ただ、今年はいつもと違う夏になる気がする。そんな予感がした。そしてそれは、きっと色々な意味で大切なもので、かけがえのないものになる。

 

 

「あ……」

 

 

 カタッと、下駄が地面を叩く音が軽やかに響いた。その音はだんだんと近くなり、僕はそこにある姿がどんなもの想像しながら振り向いた。

 

 

「──お待たせ」

 

 

 凛として、芯の通った声。

 高くまとめられた濡羽色の髪は、素朴な簪で留められていて、細い首と真っ白なうなじが辺りの提灯の灯りで妖しく光る。

 身を包む浴衣は海を彷彿とさせる深い青が基調となっていて、ところどころにあしらわれた模様が綺麗に引き立っていた。

 

 思わず見惚れていると、不意に眉をひそめられた。

 

 

「……なんで黙ってるの?」

「あ……ごめん、遥」

 

 

 ジトっとした目をしながら唇を尖らせるのは僕の双子の妹。周りの熱気に当てられたのか、かすかに上気した朱色の頬を、かすかに膨らませた。

 

 

「それで……その」

 

 

 チラチラと、自分の浴衣と僕との間に視線を行き来させながら、口をごにょごにょと動かす。

 こういうときに言うべき言葉くらい分かる。

 

 

「よく似合ってるよ、遥」

「……そ」

 

 

 落ち着かないのか、ソワソワしながら前髪を整える遥は、普段の鋭い空気とは対照的にたおやかな雰囲気があった。

 実際、妹の浴衣姿は良く似合っていた。大和撫子、という言葉当てはまるだろうか。漆黒の髪は遠目から見ても分かるくらい艶やかで綺麗だ。それに、浴衣に似合うようにセッティングされた髪型も、そんな和の雰囲気をより際立たせている。

 

 

 賑やかな街道に目を向ければ、提灯の灯りでぼんやりと包まれた独特な世界が広がっている。夜なのに、まるで明るい昼間のように賑やかなこの場所に、少し浮き足立つような気がした。

 

 

「じゃあ、行こうか」

 

 

 今日は()()()だ。

 

 ただ、それぞれ別のルートで会場に来て待ち合わせしたいという提案があったのは意外だった。一般的な男女と同じようにデートしてみたいというのが今回の意図らしく、タイミングをずらして家を出た。

 そしていま、こうして会場までついたわけだけど、遥はどこを見て回りたいだろうか。色々な出店に顔を出して回るか、どこかゆっくりできる場所でのんびりするか。色々選択肢はあるけれど、とりあえず一通り回ってみてから──。

 

 ──歩き出そうとした僕の手首に、ひんやりとした冷たい感触。僕の手首の半周分くらいを、柔らかい何かが微弱な力で包み込む。

 振り向いた先には、浴衣の袖から小さく手を伸ばす遥。唇をキュッと浅く噛んで、恥ずかしそうに俯いていた。

 

 

「手……つなぎたい」

 

 

 手首に密着するのは遥の手のひら。女の子らしい細い指が、柔らかい力で僕の手首を掴む。

 恥ずかしそうに掠れそうな声ながらも、はっきりと気持ちを口にした遥。

 昔を思い出した。あの頃の、まだ無邪気に笑っていた遥のことを。僕の手を握る遥の手は、やっぱり昔と同じく小さく感じられて、でも芯の強さも感じられる。

 

 あの頃と現在とでは、この手を繋ぐ意味は少しだけ違う。

 

 

「あ……」

 

 

 そっと力を込めて握り返す。

 そうだ、これはデートだ。だったら僕は、遥のしたいこと、望むことを率先して行わなければならない。

 僕はまだ、遥の想い描く未来像がうまく想像できない。どういう関係で、どういう経験を積んでいきたいのか。

 僕はそれを知りたい。

 

 

「これでいいかな?」

「……」

 

 

 下を向きながらも小さくコクリと頷く。

 手を引くと、遥はそれに従ってついてきた。

 

 遥の歩幅に合わせてゆっくりと歩き出す。僕は覚えてないけど、遥が言うには子どもの頃に夏祭りに行ったことがあるらしい。おそらくその時も、こんな風に手を繋いで歩いたのだろう。

 

 

 ……

 

 

 ……

 

 

「こうやって遊びに出かけるのは、結構久しぶりだよね?」

「ええ……そうね」

 

 

 遥の手を引きながら、人波に混ざって店を見て回る。射的屋さんには無邪気な子どもが集ってはしゃいでいて、向かいの屋台では金魚掬いに熱中する子どももいた。 

 祭りの雰囲気は不思議だ。ここにいる人たちはほとんど赤の他人なのに、どことなく知り合いのような雰囲気が流れる。こういう感覚は祭りならではなのだろう。

 

 

「遥はどこ行きたい?」

「どこでもいいわよ」

 

 

 ぎゅっと、手を握る力が強まる。

 

 どこでもいい、か。今日のプランは特に考えてこなかったから、助かるような困るような気持ちだ。でも、これだけの店の数だ。気になる店の一つや二つは出てくると思う。

 それにしても、本当に人が多い。色々な年層の人が見受けられるけど、どちらかというと大学生くらいの人が多いような気がする。

 僕たちの通う大学からは電車で二、三本ほど離れていて、それほど遠くない場所だ。だから多いのだろう。

 

 

「あっ」

 

 

 あてどもなく歩いていると、小さな声を上げて遥が立ち止まった。視線の先にあるのは、小さなわたあめ屋さん。

 そういえば、普段食べる機会はほとんどない。もしかしたらスーパーとかで売ってるのかもしれないけれど、屋台みたいに棒に巻き付けるタイプは無いような気がする。

 

 

「買ってくるよ」

 

 

 店の前に行き、店主に一つだけ頼む。愛想よく返事したおじさんは、豪快にくるくると棒をかき回しながら、ふわふわとした白い綿を綺麗に巻き付けていく。

 

 

「はい、遥」

「……別に、欲しいなんて言ってないのに」

 

 

 ぷくっと片頬を膨らませながらも、遥はわたあめを受けとった。なんとなくだけど、遥が恥ずかしがってる理由は分かる。子どもっぽく思ったからだろう。

 でも、正直意外だった。普段はお菓子をほとんど食べない遥だから、出店の食べ物に興味はないのだと思っていたから。

 近くの社へと立ち寄って、小休止を取ることにした。

 

 

「……じゃあ、いただきます」

 

 

 じっとわたあめを凝視したあと、意を決したような心持ちで小さくかじりついた。

 

 

「……」 

「どう?」

「……甘い」

 

 

 ほっと一息吐きながら、言葉少なにそう語る。食べ物の感想としてはあまりにもそっけないものだけど、表情はいつもよりも穏やかだ。

 

 

「僕も一口もらっていい?」

「ええ、いいわ……よ……」

 

 

 そういえば、僕は今までにわたあめを食べたことがない気がする。もしかしたらずっと前にあったのかもしれないけど、少なくとも物心ついてからはないはずだ。

 

 

「……遥?」

 

 

 黙り込んだ遥は、何か迷うように僕とわたあめを交互に見つめる。

 すると、意を決したような面持ちでわたあめを小さくちぎって。

 

 

「……口、開けて」

 

 

 僕の口元にそっと近づけてきた。

 

 

「……こういうの、やってみたいの」

 

 

 頬を赤くしながらも、僕を見る目は真っ直ぐ。浅く噛んだ唇はぷるぷると震えているけど、その言葉にブレはない。

 

 

「あ……」

 

 

 パクッと遥の指先のわたあめを口で取る。

 口に溶ける甘味の絹糸。口の中にじんわりと広がる甘味。

 

 

「おいしいね」

「え、ええ……」

 

 

 遥はどうやら面食らった様子だった。僕が素直に応じると思っていなかったらしい。テレビや本でたまに見るけど、世の中のカップルはこんな風に食べさせ合いすることがあるらしい。遥はそれをなぞったのだろう。

 

 

「ほら、遥も」

「え、あ……」

 

 

 わたあめを軽くちぎって、遥の口元に運ぶ。目をパチクリとさせると、その白い頬にゆっくりと朱が差してきた。

 

 

「わ、私は別に……」

「嫌だった?」

「……嫌、じゃないけど……」

 

 

 ごにょごにょと尻すぼみになる声。遥は人目を気にしてるのだろうけど、周りを見ても特に僕たちに注目する人はいない。これだけ人が流動する環境だから、こういうことをしてもそんなに気にされずに済むだろう。

 辺りをキョロキョロと見回す遥は、不安と僅かな期待が入り混じった瞳を僕に向けた。

 

 

「誰も見てないから大丈夫だよ」

「……じゃあ……」

 

 

 目を瞑って小さく口を開ける遥。僕はその口に、そっとわたあめを差し込んだ。

 

 ずっと前にもこんなことがあった気がする。あれは確か、母さんがまだ生きていた頃。僕は遥のおままごとに付き合っていて、その延長線で夕飯のときに食べさせ合いっこをした。僕たちを見る母さんや父さんの優しい眼差し。その記憶が少しずつ蘇ってくる。

 遥が昔思い描いていたのはどんな風景だったのだろう。何もかもが輝いて見えた昔にはもう戻れないけれど、今この瞬間が遥にとって良いものであると僕は信じたい。

 

 

「おいしい?」

「……ええ」

 

 

 頬を紅に染めながらも、和らいだ表情で言葉を紡ぐ。遥は肩にかけた小型のカバンから、紺色のハンカチを取り出して口元を拭いた。

 

 

「遥はお菓子好きなの?」

「ん……どうかしら」

 

 

 普段買い物に行くときはお菓子なんて滅多に買わない。買うとしたら一口サイズのチョコレートをたまに買うくらいか。遥が言うには小説の執筆に行き詰まったときに食べるらしい。

 

 人混みをある程度避けながら、外れの屋代付近に立ち寄る。足の階段に二人並んで腰掛けながら、ほっと一息ついた。人通りから離れたため、少し汗ばんだ肌に涼しい空気あたって気持ちいい。

 

 小休止していると、遥が不意にポツリと呟いた。

 

 

「……彼方は変わったわよね」

「ん……」

 

 

 遥が言っているのは大学に入学してからの話だろう。

 

 

「別に悪く言ってるつもりはないわ。ただ……」

「ただ?」

「……私は何か変わったのかなって。そう考えるようになってきたの」

 

 

 空を見上げた遥は、輝き始めた星を眺めながらぽつりと口にした。目を細めながら眩しそうに星を見上げる横顔は、高校時代の遥を想起させた。

 

 

「……私は何か成長したところがあるのかなって……彼方を見てて最近考えてた」

「それは……」

「どうしても考えちゃうの。彼方があの日、私のことを拒まないでくれたあの日からずっと……」

 

 

 ──記憶が蘇る。

 

 何度だって鮮明に思い出せる。だってあの出来事は、僕たちの人生を左右するものだったから。あのときの苦しい気持ちも、悲しい気持ちも、嬉しい気持ちも。プラスかマイナスか、なんて単純な気持ちでは言い表せないものがそこにはある。

 

 

「お互いに成長してるところはあると思うよ」

「具体的には?」

「今こうして2人並んで、こういう話をしてることとか」

「……それって答えになってないわよ」

「そうかな?」

 

 

 僕はそうは思わない。遥はただ、自分で気づいていないだけだと思う。それはたぶん、お互いさまだ。

 

 僕たちは大学に進んで、そしてこれから社会人になって働いていく。そんな未来を進む中で、僕たちはどんな関係を辿っていくのか。あるいは辿り着くのか。僕たちは期待と不安を抱きながら歩いている。

 

 でも、それこそ。

 

 

「そうやって自問自答して、悩み続けることが成長なんじゃないかな?」

「悩み続ける……」

 

 

 そう言うと、遥はわずかに目を見開いて、じっと僕を見つめた。

 

 悩み続けることと、停滞することは同じようでいて実は違う。悩み続けたからこそ、僕はあのとき、茜に勇気をもらって遥と話をすることができた。

 そう、きっかけを作ることができたんだ。

 具体的な成果なんて得られなくてもいい。うまくいかないことがあってもいい。それでも、僕は大切なものを見つけられた。

 

 遥はしばらく僕の顔を見つめたあと、ふっと微笑みながら口を開いた。

 

 

「……彼方って、たまにキザよね」

 

 

 いつか茜にも、似たようなことを言われた気がする。僕は真面目に話をしているつもりなのだけれど。

 

 

「彼方にそう言われて、少し気持ちが軽くなった気がするわ」

「……そっか。それなら良かった」

 

 

 いつの間にか食べ終わっていたわたあめ用の割り箸を手慰みに遊びながら、遥はゆっくりと立ち上がった。

 

 

「彼方」

「ん?」

「……ありがとう」

 

 

 遥は少しだけ照れくさそうに、そっぽを向きながら呟いた。

 何度悩んだっていい。不安に押し潰されそうなら話をしてくれてもいい。それが全部同じ内容だっていい。

 

 だってそれが僕の、現在(いま)の役目なのだから。

 

 

 ……

 

 

 ……

 

 

 

「……じゃあ、帰省の日程はこんな感じでいいかな?」

「ええ」

 

 

 出店を一通り見て回りながら、やっと帰省の日程の段取りをつけた僕は、早速茜に連絡を入れた。こればかりはタイミングをずらすわけにはいかないため、トークアプリでメッセージを書き込む。

 茜たちには帰省のタイミングはある程度聞いているため、そこまで問題はないだろう。それに大学の夏休みはだいたい2カ月ある。予定は詰まってるわけじゃないから大丈夫だ。バイトに関してもあらかじめ相談してあるから、ある程度融通をきかせてくれる。本当に頭が上がらない。

 

 

「茜と美玖に会うの、楽しみだね」

「ええ、そうね」

 

 

 食べかけのかき氷のカップを手にしながら遥は口元を綻ばせて、しっとりとした息を吐いた。昔を懐かしく思っているような、そんな実感がこもった一言だった。

 出店を回りながら、彼女たちの話題で話を咲かせる。一般的にどうなのかはわからないけれど、僕にとって2人は、きっと生涯忘れない友達だ。

 

 ……友達、か。

 

 ふと、梓さんのことが頭に浮かんだ。人のパーソナルスペースに対して丁度いい距離感を保ちながら社交的に接する彼女と、僕はここ最近でよく話すようになった。

 僕にとってもそれは不快ではなくて、もしかしたら僕は心の底では彼女も友達だと思い始めている証なのかもしれない。

 

 大人びた雰囲気の中にも、いたずらっぽさを孕んだあどけない笑みを浮かべる彼女。それは僕に対してだけでなく、ゼミの他のメンバーに対しても同じような感じだった。

 だけど、彼女とレポートを一緒にやったり、外に出かけたりして交流を深めるうちに、それらとはまた別の違和感を覚えるようになった。どこか外面を作っているような、そんな雰囲気が彼女にはあった。

 最も、人は誰だって作っている外面というものは持っているもので、取り立てて話題にするようなことでないのかもしれないし、そもそもこの違和感自体が的外れなものかもしれないけれど……。

 

 

「彼方?」

「……うん?」

「話聞いてた? 私、ごみを捨ててくるからちょっと待ってて」

「ああ、ごめん。わかった」

 

 

 沈みかけていた思考を引っ張り上げる遥の声に、僕はなんとも気の抜けた声を出してしまった。遥は僕の様子にわずかに首をかしげるような仕草をしながら、1人でごみ捨て場の方に向かった。おそらく、ごみ捨てのついでに手を洗いにでも行ったのだろう。

 

 喧噪の中で1人になった僕は人通りから再び外れ、祭りの様子を眺めた。キラキラと輝く明かりと、生ぬるく湿った空気。子供のころに見た夢の空間。子どもの頃から憧れていた景色が目の前にはある。

 僕はあの頃、みんなが見ているものや経験することと同じものを感じたかった。けれど、友達がいなかった僕にはそういったことを体験できなかった。

 別に後悔してるわけじゃない。遥とこうして夏祭りに来たからこそ味わえる祭りの雰囲気は、子どもでは得られない経験だからだ。

 それなら、逆はどうだろう? 子どものときでないと得られない経験だって、きっとあるはずだ。僕にはたぶん、その空白が少し残っていて、それを新しい欠片で埋め合わせしたがっている。でも、どんな欠片もそこには当てはまらない。だってそれは、もう二度と手に入らない過去にしか存在しないものだから。

 

 僕が友達というものに執着しているのは、そこに起因してるのかもしれない。

 

 考え事をしていると、不意に後ろからカタッと、下駄が地面を叩く音が軽やかに響いた。いけない、ぼーっとしてたらまた遥に怒られてしまう。

 

 振り向くとそこにはやっぱり、長い()()をなびかせる女の子がいて──。

 

 

「──こんばんは、彼方くん」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。