ダンシング☆サムライ~秘剣・左逆手居合~ (PlusⅨ)
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第一幕・仇討ち
春の小川に桜が舞い、まだ冷たい渓流のせせらぎを淡く染めた。
あたりは静寂である。澄み切った水音だけががそこに満ちていた。
河原の一画には竹矢来で囲まれた広い空間があった。そして、多くの人々がその周りに詰めかけ、皆一様に期待と恐れが入り混じったような強張った面持ちで、その内側の様子を見守っていた。
人々が物音一つ立てることなく息を呑んで見守る竹矢来の内側、その片隅には白葱紋の陣幕が張られ、その前に裃姿の侍が床机に腰掛けていた。
裃姿の侍の名は、氷山図書ノ介清輝。九里府藩初音家二十万石の家老である。
彼もまた女中のおミクと共に、目の前の光景を固唾を呑んで見守っていた。
そこでは、二人の侍が真剣を構えて対峙していた。
共に襷掛けに鉢金を締めている。一騎打ちである。
それは、仇討ちの場であった。
討ち手の名は、楽歩。浪人である。だが彼は本来の討ち手の助っ人である。
対する仇人の名は、海斗。九里府藩士であり、郡奉行所の代官を務める男だった。
楽歩の構えが正眼と呼ばれる切っ先を身体の正面に向けた構えに対し、海斗は剣を頭上に高々と掲げていた。
切っ先が天を衝かんばかりのその構えは、一撃必殺を信条とする剣法・示現流の構えである。
楽歩は、その示現流の雄々しい構えを前にして、迂闊に踏み込むことができなかった。その間合いに一歩でも入ったなら、たちまち稲妻の如き一撃が襲ってくるのが明白だったからだ。防御をかなぐり捨てた相打ち上等の剣技は、それ程までに速い。
しかも示現流の打ち下ろしは、速さだけではなく、威力ももの凄まじい。下手に防ごうものなら、刀ごとへし折られてしまう。
故に、楽歩は動かぬ。
動かぬまま、正眼の切っ先を海斗の眉間に向けてピタリと構える。
その微動だにしない切っ先を前に、海斗もまた、動けなかった。
海斗は、楽歩の構えのあまりの静けさに瞠目していた。
この正眼の、なんと美しき構えであることか!
楽歩の構えには、真剣勝負に対する気負いも、恐怖心も、殺気さえも感じ取れなかった。澄んだ水面の様に静かな構えである。
剣禅一如という極意とは、まさにこれではなかろうか。海斗は楽歩の業前に感動さえ覚えていた。
((恐るべき相手だ・・・))
楽歩と海斗は、共に同じことを思った。
そして同時に、こう思った。
((この男に斬られるならば、本望である))
剣士として、男として、何より侍として。
得難い好敵手と出会えた喜びが、二人の心内を満たしていた。
竹矢来のすぐ脇にそびえ立つ桜の樹の枝から、一羽の鶯が飛び立ち、軽い羽音を立てて二人の頭上を過ぎ去った。
その影が楽歩の剣を行き過ぎ、白刃の輝きに一瞬、影が差す。
この切っ先が動くとき、楽歩か海斗、このどちらかが命を落とす。
しかし、その時が訪れる前に、この二人の侍が如何なる経緯で出会い、そして斬り結ぶ運命へと至ったか、それを語るとしよう―――
時は菩軽八年、あの仇討ちから遡ること三年前の事である。
九里府藩の国境近い街道沿いに、一件の廃寺があった。
雨が降っている。
頭上には灰色の雲が厚く覆いつくし、大量の雫がぼたぼたと強く降っていた。そんな雨を避けようと、廃寺の堂内では、一組の浪人夫婦が雨宿りをしていた。
浪人の名は、始音海斗。妻の名は、めいこ。彼女は八ヶ月の身重であった。
折りしも梅雨明け目前の長雨である。
「大事無いか?」
そう気遣う海斗の目には、身重の妻を流浪に付き合わせてしまった悔恨と重責の労苦が浮かんでいた。
そんな夫へ、めいこは安心させるように微笑んでみせた。
めいこは恋女房として海斗に嫁いだ身であった。夫が浪人となった際、妻の身を案じる海斗から離縁を申し渡されたが、それをきかずに無理矢理付いてきた女だった。
その妻の目がふと曇り、脇へ流れた。海斗もつられて、めいこの視線を追う。
堂内の隅に、壁に背をもたれて胡座をかく、もう一人の浪人が居た。
その浪人は、鞘に収めた刀を抱え込む様にして腕を組み、目を閉じている。瞑想しているのか、それとも眠っているのか。
彼は始音夫妻よりも先にここで雨宿りをしていた先客だった。
最初、海斗が挨拶をしたが、浪人は薄眼を開けて二人を一瞥したきり、すぐに興味無さそうに再び目を閉じて、以来一言も口をきいてない。
さぁぁぁ……
押し込める様に、雨が降る。
沈黙の中、堂内には気まずい雰囲気が漂っていた。
海斗は妻の身体を気遣いながら、時折、落ち着かない素振りで開け放たれた堂の入口から、雨がそぼ降る外の景色に目を向けている。
めいこは、そんな夫の姿に少し不安になった。あの無言の浪人の存在に気圧されていると思ったのだ。
確かに夫には長旅の心労があろう。しかしそれでも、こうもあからさまに不安を表に出されると、夫が頼りなく見えて、幻滅してしまう。
めいこがそんな不安を抱いていると、その夫が不意にめいこに振り向き、言った。
「ちと表へ出てくる」
「この雨の中に、ですか?」
「うむ」
夫は深刻な表情でひとつ肯くと、しかしすぐに笑みを浮かべて、
「なあに、すぐに戻る故、大人しく待っておれ」
それ以上の理由も告げずに、傘も被らずに雨の外へ出て行ってしまった。
海斗の突然の行動に、めいこは呆気にとられた。
だが不意に、別方向から視線を感じ、ぎょっとなった。
隅の浪人が薄眼を開けて、めいこを見ていたのだ。
冷たい目だ。めいこは女の直感でそう思った。そんな冷たい目の男と、堂内に二人きりで取り残された。めいこの心中に一瞬、最悪の想像が過ぎったが、めいこはそれを表情に出す事なく胸の底に押し込めた。
浪人であっても侍の妻である。そして腹に命を宿す母である。何があっても腹の子だけは守ってみせるという覚悟は定まっていた。
と、その浪人が動いた。
するり、と立ち上がり様に抱えた刀を左腰に差し直し、すたすたと歩み寄って来る。
めいこはとっさに胸の懐剣に手を伸ばしかけたが、すぐに思いとどまった。浪人は彼女のそばではなく、堂の入口に背を向ける格好で再び座り直したからである。
浪人は刀を腰に差したまま、正坐で、再び目を閉じた。
一体なぜ急に、そんなところに座り直したのか? めいこの訝し気な視線を、しかし浪人は一向に気にする様子もなさそうだった。ただ、その背筋がすっと伸びた正坐の姿は、不思議な緊張感を漂わせているように、めいこには思えた。
さぁぁぁ……
変わらず雨音が降り込める沈黙の中、
突如、
「チェストオオオオ!!!」
堂の外でもの凄まじい気合いが響き渡った。これは夫の声だとめいこは悟った。海斗が剣術を遣う時に発する激である!
しかし、何故?
めいこが不審に思う間もなく、いきなり二人の男が堂内へと飛び込んできた。
二人とも長脇差を手に、殺気に満ちた表情である。
野盗だった。
二人の野盗は、堂の入口を塞ぐ様に座る浪人めがけ、容赦なく襲いかかった。
浪人はしかし、この背後からの急襲に動こうともしない。
二つの刃が、浪人の頭上から振り下ろされる。
その時、浪人の頭上を二筋の光が横切ったかと思うと、彼は刀を――“納めていた”。
浪人の頭上から振り下ろされた脇差は、握っていた野盗の腕ごと、堂の奥へと飛んでいた。
二人の野盗は、手首から先が消えた自分の腕を呆然と眺めていたが、すぐに白目を剥き、仰向けに倒れて果てた。
野盗たちは腕だけでは無く、その下腹をも横一文字に裂かれ、致命的な量の中身を零していた。
めいこには、浪人がいつ刀を抜いたのかさえ見えなかった。
座したまま振り返りもせずに二人の野盗を斬った浪人は、すっくと立ち上がり、そして表に目を向けた。
外は既に静かになっている。
そこに、海斗が血塗れの刀を引っさげて立ち尽くしていた。そして、彼の周りには四人の野盗が屍となって転がっていた。
野盗たちは全員、脳天を一太刀で叩き割られている。
海斗が発した気合いが一度だった事を考えてみれば、ほぼ四人同時に襲ってきた野盗を、彼が一瞬で返り討ちにした事が分かる。
「示現流か」
外の様子を目にして、浪人が初めて口を開いた。
その言葉に、海斗がハッとなって堂へと振り向く。
海斗は堂の入り口に転がる二つの屍を見て、すぐに事情を察した。
海斗は、浪人に向かって頭を下げた。
「ご助力、かたじけない」
「異な事を。彼奴らが俺を襲ってきた故に、斬り捨てたまでのこと」
「おかげで妻が助かり申した。私は、愛洲浪人、始音海斗と申します。流派は御察しのとおり示現流。そこもとの名をお聞かせ願いたい」
「那須浪人、神威楽歩。我流」
浪人、楽歩はそう名乗ると、堂の外へ足を進めた。
海斗は、刀を納めていない。何故なら、楽歩の左手が刀の鍔にかかり、鯉口を切っていたからだ。
楽歩の右手はまだ柄にかかっていなかったが、明らかに居合い抜刀の構えであった。
「海斗と言ったな。お主も武芸試合参加のくちか?」
「……いかにも」
「左様か。その業前ならば、勝ち残るのは俺かお主のどちらかであろうよ」
楽歩はそう言ってフッと笑い、冷たい目でこう続けた。
「いっそ、先にここで斬り合うか?」
「!?」
楽歩の言葉に、海斗は反射的に刀を頭上に振り上げ、大上段に構えていた。
だが、楽歩は、
「くっくっく……あっはっは」
高笑いを上げ、左手を刀から離した。
「お主、腕は立つが御し易いのう」
そのまま、上段に構えて固まる海斗の脇を通り過ぎた。
「試合に出たければ出るが良い。しかし九里府藩への仕官は、俺がいただく」
すれ違いざまにそう言い捨て、楽歩は雨の煙る景色の奥へと消えていったのだった。
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第二幕・因縁武芸試合
都から遠い地である九里府に藩を置く初音家は、将軍家に古くから仕える譜代の大名である。
将軍家に忠誠を誓う譜代大名たちは、全国各地の諸侯たちの間に楔のように配置されている。
特に九里府藩は将軍家お膝元よりはるか遠方に位置し、しかも四方全てをかつては敵であった外様大名に囲まれていると云う地である。
もしも外様大名が反乱を起こせば周り全てが敵となり、逃げ場が無い。
他の譜代大名の救援もアテにはできず、時間稼ぎの為に全滅するまで戦い続けることを宿命づけられた、言わば捨て藩である。
天下統一からわずか十余年、戦国の気風未だ覚めやまぬ時代であった。いつでも起き得る反乱に備え、九里府藩は腕に覚えのある藩士の募集を図っていたのである。
菩軽八年の夏に行われた新藩士選定の為の武芸試合。
そこには、あの始音海斗と、神威楽歩の姿があった。
仕官の道を求めて集まった浪人たちは実に二百名を超えた。
勝ち抜き戦の第一試合だけでも百組に及び、それは早朝から開始され、日が暮れて夜になっても篝火を焚いて行われた。
試合が行われた場所は、九里府藩家老・氷山清輝の屋敷である。
白砂敷きの広い中庭に、藩主・初音未来ノ守兄正から拝領した白葱紋を押した陣幕が張られ、そこで木刀を構えた浪人たちが次々と立ち合っていた。
「次」
清輝の穏やかだが威厳を感じさせる声に、試合場の東西に分かれて座している浪人たちが、順番に立ち上がり、中央へと進んでいく。
彼らは先ず清輝に一礼し、次に審判役の藩士に一礼してから、相手に対峙した。
「始め!」
すかさず審判役が告げると同時に、陣太鼓が打ち鳴らされる。
浪人たちはすぐさま気合いを発して木刀をぶつけ合った。
この試合には時間制限がある。わずか三分。陣太鼓を打つ者のすぐそばにある舶来品の砂時計の砂が落ち切るまでに決着がつかなければ、両者失格である。
勝たなければ名乗りさえ上げられぬ、過酷な勝負であった。
「次」
鍔ぜりあったまま砂時計の砂が落ち切って両者失格となった無念の退場者たちに続き、新たな浪人が進み出た。
それは海斗であった。
彼は東側から進み出て、清輝と審判役に礼を終えると、さらに既に構えている相手にも一礼した
時刻は既に夜、篝火の燃えたつ煙が上がる夜空に、月が浮いている。
海斗は相手への礼を終えざまに素早く大上段に構えた。木刀が天の月を真っ直ぐに突く。
陣太鼓が鳴った。
「チェストオオオオ!!!」
海斗の気合いと木刀がへし折れる音が響き渡った。
開始わずか一秒。
海斗の放った上段からの一撃は、それを防ごうとした相手の木刀をへし折り、額をかち割る寸前でピタリと止められていた。
「勝負あり!」
審判役が東側の旗を上げ、海斗に名乗るよう促した。
「愛洲浪人、始音海斗と申します」
「見事である。次」
海斗は下がり、続いて次の組が進み出る。これが第一試合最後の組み合わせであった。
西方から現れたのは、楽歩であった。
入場する楽歩と、退場する海斗の視線が一瞬、絡み合う。
楽歩はニヤリと笑い、海斗はそれに目礼を返して、試合場の隅にある控え場所に座った。
立ち合いが始まった。
海斗の時とは逆に、楽歩も、相手も正眼に構えたまま仕掛けようとしない。
しかし相手が楽歩の隙をうかがいながら小刻みに足を動かしているのに対し、楽歩は足どころか剣先さえ動かそうとしなかった。
(ああ、神威殿が勝つな)
隅で眺めながら、海斗はそう確信した。
その確信は、相手が楽歩の左側に回り込み始めても変わらなかった。
横へ横へと動く相手に対し、楽歩は剣先を向けるどころか、目さえ向けようともしない。
そんな楽歩の様子に相手は一瞬、訝しんだが、すぐに好機と見てかかっていった。
勝負はそれで終わりだった。
楽歩はその場から動くことなく、しかし相手だけが白目を剥いて倒れ伏していた。
海斗戦の時にも起こらなかったどよめきが、周囲から湧き上がった。声をあげなかったのは清輝と審判役、そして海斗だけであった。
「那須浪人、神威楽歩」
「見事なり」
楽歩の名乗りを受けて、清輝は立ち上がり屋敷の奥へと消えた。
これにて第一試合は終わり、翌日の第二試合以降へと続く事になる。
二百名を超えていた参加者は、三十名弱までその数を減じていた。
明くる日の第二試合でも、海斗と楽歩の技量は抜きん出ていた。
開始と同時に一撃で相手を倒す海斗と、わざと隙を見せ相手を誘い込み、神速の斬撃で返り討ちにする楽歩。
対照的な剣技を見せる両者であったが、その性格もまた対照的だった。
海斗は豪剣を振るいつつも、常に紙一重の寸止めで相手を傷つける事なく試合を決めるのに対し、楽歩は相手を容赦なく打ち据えていた。
それも一撃のみならず、二撃、三撃と恐ろしい速さで打ち込み、相手は必ず白目をむいて昏倒するのが常だった。
二試合目、三試合目が終わり、海斗と楽歩が四試合目まで勝ち進むに連れ、二人の気性の違いを、清輝もまた気づき始めていた。
(神威楽歩の剣。あれは邪剣であるな……)
準決勝である第五試合。相手の小手から、さらに肩、額と連続で打ち据えた楽歩を見て、清輝は心中でそう思いながら、スッと視線を脇に向けた。
わずかに離れた場所に、女中のおミクが控えていた。
おミクは清輝の視線に気づくと、茶を載せた盆を持って側へと歩み寄った。
清輝に茶を差し出しながら、おミクが呟いた。
「あの男の剣、怖いな。我流だったか?」
「およそ、他人に教えられる類の剣ではありますまい」
清輝は、おミクに目を向けぬまま、密やかに答えた。
しかし、と清輝は続ける。
「神威には居合の心得があるようです。居合は不意打ちに強い。殿の警護役に最適かと思料いたします」
「それはちょっと嫌だなあ。だってあの男、心底他人を小馬鹿にしたような目をしてるもん。自分の業前に自惚れているんだ。私は――」
おミクは清輝から離れ際に、ポツリと言った。
「――私は、海斗の方が好きだな」
(やれやれ)
清輝は去って行くおミクの後ろ姿を横目で追いながら、茶をすすった。
畏れ多くも御自ら淹れてくれた茶であるが、清輝にはその味を堪能する余裕など無かった。
(好みはともかく、勝負は勝負。こればかりはどうにもならん。海斗の勝利を祈る他あるまいて)
清輝の前ではその海斗の試合が始まろうとしていた。
海斗の相手は、彼と似た豪剣遣いだった。しかしこの男、海斗と違い寸止めにするような事をせず、楽歩のように容赦なく相手を叩きのめしながら勝ち上がってきていた。
清輝はこの組み合わせに不安を覚えた。
海斗の豪剣も、楽歩の神速剣も、どちらも修行で研ぎ澄まされてきた賜物である。
海斗の寸止めはその最たるものであるし、楽歩も止めようと思えば止められるのは想像に難くない。現に楽歩は昏倒させても、死人どころか大怪我させた人間さえ出していない。力加減が恐ろしく絶妙なのだ。
しかし、この相手は生まれもった膂力を頼みに力任せに勝ち上がってきた男だ。そのような男を相手に、どんな決着がつくか……
「始め!」
陣太鼓が鳴る。
「チェストオオオオ!!!」
「イヤァァァ!」
両者、間をおかずに飛び込み、木刀が肉を打つ鈍い音が響いた。
「……うぐぁっ」
脇腹を抑えてうずくまったのは海斗だった。
しかし、審判の旗は海斗に対して掲げられていた。
「勝負あり。勝者、始音海斗」
「馬鹿なっ、異議あり!」
この判定に、相手の男が叫んだ。
「俺の剣は奴の腹を抉った。どう見ても俺の勝ちだ!」
「始音海斗がお主の額に木刀を止める方が明らかに早かった。脳天を割られて尚、深々と胴を斬るなど不可能」
審判が冷静に説くが、相手は止まらなかった。
「寸止めなど笑止千万。侍同士の立ち合いだぞ、木刀なれど真剣勝負の覚悟で挑んで当然では無いか! 木刀で止めるような臆病者は、真剣でも止めてしまうであろうよ!!」
「負けを認めず、あまつさえ勝った方を臆病者と罵るか。ならば例えお主が勝ったとて、そんな無作法者は当家にいらぬ。さっさと出て行かれよ」
「おお、そうか。四方を外様に囲まれた捨て藩の覚悟、どれほどのものか身に来ればこの程度か! 戦場の気概も忘れ、寸止め稽古を有り難がる腑抜けどもよのう!!」
「当家までをも侮辱するか!」
放言もはなはだしい。もはや捨て置けなかった。
審判役の藩士が刀に手をかけようとしたが、相手は素早く後退し木刀を構えた。
その構えを前にして、審判役は動けなくなった。
相手は二百人から勝ち抜いてきた精鋭である。その腕前が並外れているのは確かであるし、その上、明らかに捨て鉢な覚悟をしていた。
合戦で死んでこその侍とされた戦国の気風が、まだ色濃く残る時代である。
天下統一後の戦の無い世の中で浪人となった侍たちの中には、やり場の無い鬱憤や社会への不満を晴らすため、捨て鉢に暴れに暴れて死んでやろうと考える者たちが少なく無かった。
要は自分の命を度外視した喧嘩好きである。死に華を咲かせる事が目的であるから、相手は大きい方がいい。
しかしそのような者に狙われた方はたまったものでは無かった。清輝の家来が複数人で押し囲んでしまえば討ち取れるだろうが、それでも少なく無い数の者が手負いにされてしまうだろう。
たった一人の浪人に家中の藩士が大勢傷物にされたとあっては、それは氷山家の恥となるだけではなく、九里府藩そのものの体面を傷つけかねない。
そうなれば清輝は切腹、氷山家はお取り潰しだ。だからこそ不用意に動け無いのである。
このように、天下統一後の侍の意識には、浪人と主君持ちとの間で、ここまで差が生まれていたのであった。
「どうした腑抜け侍ども! 木刀一本の俺に、腰の刀も抜けんのか。それとも腰の刀は飾りか? 揃いも揃って竹光侍ときたか!!」
男はそう言って豪快に笑った。
もはや捨て置けぬ。清輝が切腹覚悟で切り捨てを命じようとしたとき、
「ならば、俺が相手しよう」
そう言って進み出た者があった。
楽歩である。
「ほう、面白い。つまり決勝を戦おうという事だな」
「異な事を」
男の言葉に、楽歩は薄笑いを浮かべて答えた。
「寸止めもできぬ未熟者に、真剣勝負がいかなるものか教えてやろうというのだ」
「なんだと!?」
激昂する相手をよそに、楽歩は清輝に一礼した。
「この騒ぎは、先の判定への異議が原因。ならば拙者が此奴の脳天を割り、それでも尚、この男が胴を斬れるか確かめてみれば良いこと。僭越ながら真剣勝負をお許し願いたい」
「うむ、許そう」
「刀を二振り、お貸し願いたい」
清輝の許可を得て、家中の侍が二人、それぞれの刀を楽歩と男に手渡した。
男は刀を受け取ると、すぐさま鞘を払って楽歩に襲いかかった。
「イヤァァァ!!」
完全な不意打ちである。楽歩はまだ刀を受け取った直後だった。
卑怯、と誰かが叫ぶ間さえなく、男が横殴りに胴払いを放ち、血しぶきが舞った。
血しぶきを上げたのは、男だった。
男はその脳天から顎先まで深々と斬り込まれ、刀身を喰いこませたまま、胴払いを振り抜くこと無く立ち尽くしていた。
楽歩は相手の胸を押して、刀を引き抜いた。男はそのまま仰向けに倒れて息絶えた。
「見事である」
刀を納め、平然と礼をする楽歩を、清輝は労った。
そして、どうしたものかと思案する。
事を収めたのは見事であるし、もう一人の候補である海斗も倒れてしまった。
(この男を召し抱えるしかあるまい)
清輝がそう思った矢先であった。
「お待ち願いたい」
そう言ったのは、海斗だった。彼は苦しげな息で、血混じりの唾を吐きながら言った。
「先の試合は私の勝ちであったはず……ならばこれより、神威殿との立ち合いをお許し願いたい…っ!」
「その身体でか?」
「いかにも!」
海斗は立ち上がり、清輝を真っ直ぐに見た。
その顔は青ざめており、呼吸も浅い。恐らく肋骨の二~三本は折れているに違いない。
しかし……
清輝は一瞬だけ視線を横に流し、おミクを見た。
おミクもまた、清輝を見ていた。
おミクの目が発する声なき期待を受けて、清輝は頷いた。
「よかろう、立ち合いを許す。これより神威楽歩と始音海斗の決勝を行う」
「……これは、異な事だ」
楽歩は怪訝そうに呟いたが、すぐにその口元に薄笑いが戻った。余裕の笑みであった。
男の屍が片付けられ、楽歩に再び木刀が渡された。
作法どおり礼が終わり、二人が対峙する。
「始め!」
陣太鼓が鳴った。
しかし、今まですかさず斬りかかっていた海斗も、今度ばかりは動かなかった。楽歩の神速の剣捌きと、そして自身の負傷を自覚しているためだ。
「く……う……」
痛みで眩む海斗の視界に、楽歩の構えはまるで隙だらけのように映っていた。しかし、そこに飛び込んでいけば間違いなく敗北するのは明らかだった。
だが痛みで朦朧とする意識では、この魔力にも似た楽歩の誘いに抗うだけで精一杯だった。
そして海斗のその様子を、楽歩は当然のように見抜いていた。もはや放っておいても海斗は勝手に倒れるだろう。
もっとも、楽歩はそんな消極的な勝ち方をするつもりは無かった。
正眼に構えたまま、楽歩の足がスッと前に出された。これまでの試合の中で、初めて楽歩から仕掛けた瞬間だった。
これに海斗は慌てて後ろに退いた。楽歩に気圧されたのだ。
楽歩はさらに無造作に足を進めた。
海斗は見えない壁に押されているかのように退がり続ける。
刹那、楽歩が鋭い突きを放った。
「うわっ!?」
海斗はその突きを辛うじてかわしたものの、足をもつれさせ転倒してしまう。
楽歩がすぐさま追い討ちの一撃を振り下ろす。
海斗は仰向けに倒れたまま木刀を横に払って、楽歩の木刀を弾いた。
海斗はそのまま木刀を払った勢いで自ら転がり、楽歩から距離を取る。
海斗が間合いを離して立ち上がるまで、楽歩は攻撃しようとしなかった。そんな事をするまでも無く、次で決められると確信していた。
海斗が荒い息を吐きながら再び木刀を上段に構えたのを見て、楽歩も正眼に構え直す。
その切っ先がすぐに正面から外され、明らかな隙を作った。楽歩はそのまま無造作に前へと歩き出す。
海斗は後ろへと逃げる。
楽歩の足が早まり、その木刀が海斗めがけ振るわれた。
海斗は身をよじって避ける。
楽歩が間をおかず放った二撃目を、海斗はまろび転げつつ避けた。
もはや誰の目から見ても勝敗は明らかであり、そして、海斗の立ち合いは無様としか言いようが無かった。
それでも海斗は倒れそうになるところを、木刀を杖にして必死に持ちこたえ、そして、再び上段に構えた。
「……往生際が悪いな、お主」
楽歩のせせら笑うような声を、海斗は遠くに聞いていた。
既に意識が朦朧としかけている。
目の前の楽歩の姿が霞み、白濁した。
海斗は白濁した意識の中で、めいこの幻を見た。それを最後に、彼の意識が闇に落ちる。
海斗は木刀を構えたまま、意識を遂に失ったのだ。
その時、楽歩はほとんど無意識に木刀を振るっていた。
それは楽歩自身の意志では無かった。海斗の意識が落ちた瞬間、まるで吸い込まれるように打ち込んでしまっていたのだ。
楽歩は戦慄した。わざと隙を作り相手を誘い込ませて返り討ちにするという、まさに自分が得意とする剣法に、自らかかってしまったのだ。
しかし、海斗の意識は落ちている。ならば何を恐れる必要があろうか?
否、楽歩の剣士としての本能が恐怖にも似た警告を発している!
楽歩はとっさに木刀を引き、身体をひねった。間髪入れずに、頭上から稲妻の如き一閃が襲いかかり、楽歩のすぐ脇を掠めた。
楽歩は全身に怖気が走るような恐怖に襲われた。その鋭い一撃もさることながら、もっと恐るべき事は、海斗が未だ意識を失ったままであったことだ。彼は剣士の本能だけで木刀を振るったのだ!
だが楽歩もまた剣士の本能でそれをかわした。海斗必殺の示現流の一撃をである。
示現流に二の太刀は無い。ならばこの勝負、もはや決した――
楽歩がそう確信した次の瞬間、振り下ろされた海斗の木刀が燕返しに跳ね上がり、楽歩の顎先をしたたかに打ち上げた。
「かはっ!?」
衝撃が楽歩の脳を激しく揺らし、三半規管が機能を喪失した。足元から力が抜け、楽歩はその場に崩れ落ちた。
「ば、馬鹿なっ!?」
楽歩は激しく回る視界の中、必死に立ち上がろうともがいた。
(こんな馬鹿な、あり得ない、あれほどの渾身の力を込めて振り切った一撃から、二撃目が続くなど!?)
楽歩が立ち上がろうと顔を上げた時、彼はそこに、
鬼を見た。
「うぉっ!?」
木刀を高々と掲げ仁王立ちする鬼。
その今にも振り下ろされんとする構えを前にして、楽歩の心が折れた。立ち上がりかけていた足が折れて、再び膝をつく。
それを見て、審判が高らかに宣言した。
「勝負あり。勝者、始音海斗!」
それを聞いてなお、海斗は鬼の形相と構えで、意識を失ったままだった――
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第三幕・腹切り侍、猫村一座と出会う
(負けた……)
あの試合から翌日の事である。楽歩は失意の底に喘ぎながら国境の街道を歩いていた。
(この俺が負けた……俺の剣がっ!?)
彼が失意に落ちた理由は三つあった。
一つは仕官の道を断たれた事である。しかし、これを説明する前に、先ずは楽歩の生い立ちを語ろう。
楽歩は元々、那須地方にある伊田根藩の中級武士の生まれであった。
幼少より剣才と学才に優れ、神威家の家督を継いだあかつきには父よりも上の役職に着くだろうと周囲から噂されていた逸材だった。
だが、楽歩が家督を継ぐ直前、伊田根藩は将軍家から謀反の疑いをかけられ取り潰されてしまったのである。
謀反といっても大した事はない。伊田根藩が城の石垣を修理した際、当初の修理予定になかった箇所を追加で修理しただけの事である。
しかしこれが将軍家に事前に許可を得ていなかったということが問題になった。すなわち、無断で城を改造した、謀反を企んでいるのでは無いか? ということになったのである。
論理の飛躍と言いがかりもはなはだしいが、天下統一直後の当時、将軍家は反乱を恐れ、ほんの些細な理由を見つけては各大名を次々と取り潰していたのである。結果、巷には主君を失った浪人たちが溢れかえることになった。
伊田根藩は必死に弁明したが、取り潰しを免れることはできなかった。結局、藩主は責任を取って切腹させられてしまい、忠義心が厚かった楽歩の父も、切腹した藩主の後を追って同じく腹を切った。
この時、母も連れだって殉死している。
父の切腹に、何も母まで付き合う事はあるまい。と、楽歩は両親の死の前日に、本人たちを前にして言ったのだが、
「だって、お父上とは“死ぬ時は絶対に一緒ですからね”って、嫁ぐ時に約束させたもの」
と、母自身から惚気ともつかない覚悟を聞かされてしまった。
夫婦連れだって仲良くあの世へ逝ってしまった後、残された楽歩は両親を手厚く葬り、神威家の家督を継いだ。だが既に仕えるべき藩主はおらず、収入も無い。つまるところ単なる浪人になったわけである。
しかし、藩の取り潰しにより先祖代々からの土地と屋敷は失ったものの、蓄えとしての金銀は十分にあったし、家財道具や蔵の中に眠っていた茶道具やら掛け軸やらを売り捌いたところ結構な値がついたこともあって、生活に困る事はなかった。
何より楽歩はまだ独身であった。身を縛るしがらみなど何も無い。彼は国許を出て都に行き、数年を気ままに過ごした。
生活に困る事もなく、もとより自分の落ち度で浪人となったわけでも無いので、彼の性格にはやがて不遜さが付きまとうようになった。
都での生活のうちに剣法勝負の面白さに目覚めたのも、その不遜さに拍車をかけた。
都には全国各地から剣士が多く集まり、そこかしこに剣法道場が開かれていた。
戦国の世が終わり、剣法が戦の手段だけではなく、精神修業や単なる趣味として侍以外の庶民にも拡がりつつあった時代である。食い扶持を失った剣法自慢の浪人たちもこぞって道場を開いていた。
そこに戦国名残の荒っぽい気風が加わり、都のあちらこちらでは決闘じみた剣法勝負が盛んに行われていた。
楽歩もまた、そこに喜んで飛び込んだ。
腕試しだけでは無く、金のかかった賭博めいた決闘も多く、楽歩はそこで荒稼ぎした。しかし、勝ち過ぎては要らぬ敵を増やすだけなので、偶にはワザと負けてやった。無論、相手や決闘主催者との談合をした上での事であるから、金は入った。
とにかく羽振りは良かった。浪人になる前よりも金があったくらいだ。
だが気楽すぎる生活は飽きを招く。ましてや浪人の独身であるから守るべきものも無い。有り余るヒマと金、そして若い血気を持て余し気味に過ごしていたそんな時、楽歩は九里府藩の武芸試合の噂を聞いた。
楽歩の心中に、若さと剣才と不遜さが合わさって野心が生まれた。
(俺の剣は無敵だ。ならばこれで出世するのも夢では無い)
藩主に忠誠を誓って殉死までした父のようになる気はさらさら無かったが、己の武芸で立身出世を図るのは、当時の剣士ならば誰もが夢見た事であった。
楽歩はこの野心のために武芸試合に参加したのだった。己の誇りと驕りを賭けていたのである。
そして、負けた。
それも、手負いの男に負けたのだ。
仕官という野心を断たれた上に、剣で負けたというこの二つの理由が、楽歩の自信を粉々に砕いていた。
だが一番こたえたのが、最後に立ち上がろうとした時に見上げた、あの海斗の鬼の形相と仁王のような構えである。
あれを見た瞬間、勝てぬと悟ったのだ。己の野心とは違った、海斗の鬼気迫る覚悟を感じ取ったのだ。
それは言うまでも無く、身重の妻という守るべき存在の事であろう。楽歩にとって単に枷でしか無いと思っていた存在が、海斗に恐るべき剣を振るわせるだけの力を与えたのだ。
だから、勝てぬ。自分は決して海斗には勝てぬ。
これが三つ目の理由だった。
(……腹を切ろう)
楽歩はそう思った。
彼は、挫折を知らなかった。浪人となったことは彼にとっての挫折では無く、自由への手形だった。
結局、今まで思うがままに生きてきたから、挫折からの立ち直り方を知らなかった。残されたのは侍としての意地というか、もはや習性とも言うべき切腹という選択肢だけだった。
思えば父もそうだったのでは無いか? と楽歩はふと思った。
藩の取り潰しが決まったとき、父は浪人として生きていくなど考えもしなかったに違い無い。藩主への忠義心もあろうが、やはり根底には、藩の庇護を失った状態で家族を養っていくことへの不安と恐れがあったのでは無いだろうか。
楽歩は父の気持ちを、少しだけ理解したような気になった。
そんなことを考えながら街道を歩いている内に、ある場所へ出た。それは先日、始音夫妻と共に雨宿りをした廃寺だった。
因縁深い場所である。
だがそれだけに腹を切るにはちょうど良い場所に思えて、楽歩は堂内へと足を向けた。
境内には、あの日に斬り捨てた野盗たちの屍は既に無く、代わりに隅の方に土饅頭型の墓が六つできていた。
恐らく近隣の村人か誰かが供養したのだろう。
なら、自分が死んでも長く放置されることは無いだろう。と、他人からすれば迷惑きわまりないタカをくくって、楽歩は堂内へと入って腰を下ろした。
刀と脇差を帯から抜き、着物の前を寛げる。
そして脇差を鞘から引き抜いて、逆手にとって、いざ、と腹に突き立てようとしたが……
……その時になって踏ん切りがつかなくなった。
切腹とはなかなかに難儀なものである。なにせ単に刃を腹に突き刺すだけでは無く、引き裂いてかき回さなければならない。でなければ致命傷とならないからである。
しかしそれでもすぐに死ねるわけでは無いので、今度は自ら腹の刃を抜いて喉を突くか頚動脈を掻き切ってようやく終わる。ここまで自力でやらなければならないのが本来の切腹の作法である。
およそ自殺の類で、ここまで自分を苦しめるものもあるまい。しかし、何故ここまでするのかといえば、切腹がもとは合戦場での作法だからである。
戦に負けても、敵の手にかかってなるものか。敗軍の将として処刑の屈辱を受けるくらいなら自分の手で華々しく散ってやる。だが楽に死のうとは思わぬ。侍の意地をとくと見るがいい! ということである。
それがいつのまにやら伝統化して、侍の死に方すなわち切腹以外に無し。という固定観念になってしまった。
当然、こんなことは合戦場特有の興奮状態に無ければ、到底ひとりでやり遂げられるものでは無い。なので普通はとどめを刺すために首をはねる介錯人と呼ばれる者がつく。
腹を切った際に前屈みになったところを、その首を斬るのだが、苦しみを和らげるため、切っ先が腹に当たった時に斬っても良いとされている。要は自分で腹を切ったように周りから見えていれば良いわけで、前屈みになってしまえばその手元のことはよくわからんのである。
これが後の時代になるとさらに簡略化され、自分の前に置いた刃に手を伸ばして前屈みになったところを介錯するようになり、そしてついには刃では無く扇子で代用するようになってしまうのだから、切腹と一口に言っても時代によって色々と変わるものである。
ちなみに楽歩の父が切腹したときは楽歩が、介錯人を務めた。介錯人は切腹人の苦しみを和らげる情けの処置であるから、当然、身内や親しい者が務めるのが筋である。
と言っても首を一撃で落とすのは相応の技量がいるので、腕の良い人間に依頼することも良くあった。楽歩はその両方に当てはまったので父の介錯をするにはまさに適任者だった。
父は切腹の際、扇では無く短刀を使って、きちんと腹に突き立てた。
掻き回したかどうかは前屈みになっていて楽歩からは見えなかったが、父が苦悶の声を漏らしたので直ぐに刀を振り下ろした。
後で確認したところ、途中までだったが作法どおり掻き回していたので、楽歩は感心したおぼえがある。
母は切腹直前に、父の手によって心臓を突かれて死んだ。苦しんだ様子の無い安らかな顔をしていたから、父はよほど上手く突いたのだろう。
夫婦揃って死に際を汚さなかったあたり、父は確かに尊敬すべき侍だった。しかし、ひるがえって自分はどうだろうか?
楽歩は介錯人無しで上手く腹を切れるか不安になった。
侍たる者、常日頃から己の切腹の様を思い描くべし、とは言われているが、実際にやっている侍などそうそう居ない。
楽歩も、真剣で命のやり取りをする事には慣れていたが、自分の死に様を想像した事もなかった。勝つ想像しかしてこなかったからだ。
かくして楽歩は腹の切り方で大いに悩む事になった。
ひとりで頑張って腹を切るか、それとも今から介錯人を探しに行くべきか……。どちらも行動に移すには相当な気力がいるが、自殺しようと思い詰める後ろ向きな人間にそんなモノが残っているはずもなく、結局、ただ座ったまま時間だけが過ぎていった。
そうこうしている内に、夕刻になった。あたりには蜩の寂しげな鳴き声が響き、楽歩の無力感を嫌が応にも掻き立てた。
西を向いた堂内に夕陽が斜めに差し込み、楽歩の横顔を照らし上げる。
と、そこへフッと影がさした。
楽歩が入口を見ると、誰かが堂の外から顔を覗かせて楽歩を見ていた。
逆光で影になっているが、女のようだ。女は楽歩と目が合うと、
「ひゃっ!?」
と驚いて顔を引っ込めた。そしてすぐに外から、その女の声が聞こえてきた。
「あ、あ、姐さん。大変、大変!?」
「なにさ、ルカ。また仏さんでも見つけたかい?」
「仏さんじゃ無いけど、もうすぐ仏さんになろうとしてるんですよぅ!」
「あん?」
「お侍さんが、お腹を切ろうとしてるんですよぅ!」
「なんだ、侍かい。良いじゃないか、侍なんてのは腹を切る生き物さね。放っときな」
「そんなぁ」
女二人のやり取りの後に、またさっきの女が入口に姿を見せた。光の加減が変わって、今度は顔がはっきりと見えた。
歳の頃は十代後半か二十歳ごろの、目鼻立ちのはっきりとした美女だ。彼女は抜き身の脇差を握った楽歩を前にして、おろおろとした様子で青ざめながら言った。
「お、お侍さん、早まっちゃダメ、ダメですからね。そんな刃物でブスッてやったら、きっとすんごく痛いですからねっ!」
泡をくったその様子が、せっかくの美女ぶりを台無しにしていた。その台無し美女の襟首を、脇から伸びてきた細い手が掴んだ。
「ルカ、お節介は止しな」
「あ、姐さぁん」
ルカと呼ばれた台無し美女の襟首を掴んだまま、もう一人の女が姿を現した。
いや、女というより、それは少女だった。十二、三歳くらいの少女だ。背もルカより低く、彼女の襟首を背伸びするようにして掴んでいる。
それでも、その振る舞い、その口調、目や言葉の端々に成熟した雰囲気を纏っていた。
「侍が腹切ろうっていうんだ。アタイらがどうこう言う筋合いは無いさね。勝手にさせてやんな」
「で、でも、あんな刃物でグサッてやったら痛そうですよぅ」
「アタイらの腹じゃ無い、他人の腹さ」
「でもでも、血がドバーッてなりますよ?」
「ああ、そりゃ掃除が大変そうだ。困ったねぇ」
その口ぶりに、楽歩は怒りが込み上げてきた。
「無礼な女どもめ。侍の切腹をなんだと思っている!」
「見栄張った自殺だろう? アンタの腹なんだから、アンタの好きに掻っ捌きゃ良いさね、邪魔はしないよ。その代わりあんまり撒き散らさないでおくれよ。これからアタイたちがここを寝床に使わせてもらうんだからね」
少女は臆することなくそう言って、やれやれと首を振った。
「こないだ六体もの仏さんを供養したっていうのに、もう次の仏さんかい。面倒なもんさね。――そうだ、ねぇ、お侍さん。アンタのことはきっちり供養したげるから、お銭は残しといておくれよ」
「此奴、愚弄しおって!」
ヒュン、と楽歩の脇差が空を斬った。少女の目の前すれすれに白刃が煌めく。
脅しだ。斬るつもりはない。
「きゃっ!?」
悲鳴をあげたのは、ルカだった。ルカは飛び上がって離れたが、当の少女は瞬きひとつせず、平然として立っていた。
「ふふ、お侍さん、斬る相手が違うよ。それとも独りで三途の川を渡るのは寂しいかい?」
「おのれ!」
楽歩は再び脇差を振るった。今度も斬るつもりは無かった。狙ったのは、少女の着物の帯だった。
この澄まし顔の少女を裸に剥いて恥ずかしめてやる。
しかし、その切っ先はまたしても届かなかった。
(外した!?)
いや、違う。
(間合いを外されたのか!?)
少女が半歩、後ろに下がったのを楽歩は見逃さなかった。それにしても、なんと絶妙な間合いの外し方か!
楽歩は戦慄し、そして無意識の内に、返す刀で三撃目を放っていた。
今度は深く踏み込んだ必殺の胴払いだった。無意識ゆえに、容赦ない斬撃が少女を襲った ――
――いや、襲わない! 切っ先はまたしても届かなかった!
少女は、風に泳ぐ凧のように、ふわりと後ろへ飛び、外へ音もなく着地していた。
「……面妖な奴め。お主、妖怪か何かか?」
呆然として思わず呟いた楽歩に、少女は、
「にゃおん」
と鳴き真似して笑って見せた。まるで自分が化け猫か何かだと言わんばかりだった。
外は既に陽も沈みきり、薄闇に覆われている。
日暮れどきに鳴いていた蜩もいつの間にか鳴き止んでおり、かわりに夜の夏虫たちが鈴のような鳴き声をあげ始めた。
り、り、り、という夏虫の音色に合わせ、少女のまわりに影がひとつ、
ふたつ、
みっつ、
影はたちまち十数人まで増え、少女のまわりに集まっていた。
それは老若男女の集団だった。
服装からして侍では無い。百姓でも無い。派手な柄の着物や、奇抜な髷を結った者が多い。
(こやつら、河原者か)
芸を生業とする集団のことである。士農工商の身分社会の枠外に生きる者たちだ。彼らは少女を中心に集まりながら、抜き身の脇差を引っさげた楽歩を警戒の目で見ていた。
「姐さん」
と、強面の男が指示を請うように少女に囁いた。少女は一瞬だけ強面の男に目を向け、言った。
「下手に仕掛けるんじゃ無いよ。あの侍、いい腕してるからね」
「へい」
少女が楽歩に目を戻して、言った。
「お侍さん、紹介するよ。これがアタイの家族さね」
「まさか、お主が頭領なのか?」
「猫村座筆頭、いろは。以後、お見知りおきを」
少女、いろはが芝居がかった挨拶をしたとき、
「イヨォー!」
誰かが声を上げ、太鼓が打ち鳴らされた。
紙吹雪が舞い上がり、四・五人の男女が一斉に踊り出す。
大振りの太刀を背負った若者が、ひときわ通る声で唄い出した。
―――
古今東西、古今東西
寄ってらっしゃい、見てらっしゃい
歌に踊りに大芝居 浮いた浮世に夢芝居
苦労も悩みも笑って晴らせ
猫村一座のお出ましだぁ!
―――
太刀の若者が口上とともに大見得を切った。途端に太鼓も踊りもピタリと止んだ。一座の挑むような真剣な視線が、楽歩に集まる。
彼らは名乗りを上げた。楽歩への宣戦布告である。侍とは違うやり方だが、死をも辞さぬ覚悟を示したのだ。
楽歩の脇差を握る手に、じわりと汗が滲んだ。境内に沈黙が降り、空気が緊迫感で張り詰めていく。
と、そこで楽歩の袖がツンツンと引っ張られた。
「?」
楽歩がそちらを見ると、ルカがそばに座り込んで、楽歩の袖を引いていた。
「あ、あの……私たち芸座だから、お侍さんのこと、楽しませてあげられると思うんです」
「……何を?」
「死にたくなるくらい嫌な事とか、忘れるくらい楽しませれると思うんです。だって私たち、苦労も悩みも笑って晴らせの猫村一座ですからっ!」
「……」
これから命懸けの喧嘩が始まろうかという時に、独りだけ状況を理解せずに勢い込んで訴えるルカに、楽歩は何やら脱力させられた。
周りを見れば、一座の連中も毒気を抜かれたような表情になっている。その中心で、いろはがクスクスと笑いだした。
「ルカ、あんたって子は、本当にねぇ、あはは」
(まったく、なんだ、こやつらは……)
楽歩は急に、全てがバカバカしくなった。死のうとしていた事も、いろはに腹を立てた事も、どうでも良くなった。
彼もまた、くっくっくと笑った。
「お侍さん……良かったぁ」
ルカがホッと安堵の表情を見せた。
楽歩は脇差を鞘に納め、代わりに懐を探って金の入った包みを取り出した。それをそのまま、一座に向かって放り投げる。
「うわ、とと」
包みは、先ほどの口上をあげた太刀の若者の手に収まった。だがその意外な重さに、若者は包みを取り落としてしまう。
ガシャリと音を立てて、地面に中身の小判が散らばった。それを見て、若者が目を見張った。
「す、凄え、十両近くもあるぜ!?」
「そいつで酒と肴を買ってこい」
と楽歩は告げた。彼は薄く笑いながら続けた。
「全員、好きなだけ飲み食いするが良い。飲んで騒いで、せいぜい俺を楽しませてみせろ」
「あいさ、喜んで」
いろはが手を叩き、再び太鼓が鳴り、紙吹雪が舞った。今度は殺気のない、正真正銘、芸としての宴が始まった。
金を受け取った若者は数人の仲間とともに町の方へ駆け出していき、すぐに大八車に肴と酒樽を満載にして帰ってきた。
夜が更けるにつれ、宴は一層の盛り上がりを見せていた。
楽歩は堂の縁側にあぐらをかき、ルカの酌で酒を飲んでいた。そこに、いろはもやって来る。
「ねえお侍。あんな大金、どこで手に入れたんだい?」
「親の遺産に、賭け決闘、それに道場破りだ。浪人だが金に困った事は無い」
「それなのに腹を切ろうとしてたのかい?」
「侍の誇りと意地がそうさせたのだ。誇りがなければ侍は生きていけん」
「おかしな生き物だね、侍ってのは」
「ああ、まったくだ」
楽歩はグイッと酒を煽った。そして空の杯をいろはに突き出す。いろはに酒を注がれながら、楽歩は聞いた。
「お主、歳はいくつだ?」
「女に年齢を訊くなんて、野暮の極みさね」
「女という歳ではあるまい。いいとこ十二・三の童女にしか見えぬ」
「そう思いたきゃそれで良いさ。どう見えようがアタイが気にすることじゃ無いね」
「ふむん」
妙な女だ。と楽歩はそう思いながら、少女にしか見えぬ彼女を決して子供扱いでき無いことは認めた。
と、袖がまたツンツンと引かれた。
引いたのは、やはりルカだった。
「あ、あの、私は何歳に見えますか?」
「……」
期待に目を輝かせるルカを、楽歩はしばし見つめて、
「……二十歳」
「う……当たりですぅ」
ルカは何故か気落ちした表情になって、楽歩に酒を注いだ。
子供のような女だな、と楽歩は思う。
可愛い女だな、とも思った。
それで思わずルカの頭を撫でたら、彼女は少し驚いた顔をして、しかしすぐに頬を赤らめながら、しまりの無い笑顔で目を細めた。
その様子を、いろはが呆れたような顔で見ていた。
「ん? どうした。お主も撫でて欲しいのか?」
「おバカ」
「はっはっはっ」
楽歩は酔っていた。
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第四幕・剣の拍子、舞の拍子
結局、そのまま境内で寝落ちした。
目覚めたのは夜明けからしばらく経ってからの事だった。すでに朝もやも無く、蝉がじいじいと鳴き始めている。
境内ではまだ、一座の面々がそこかしこで高イビキをかいて眠っていた。その中で、楽歩以外に一人だけ起きている者が居た。
女だ。いろはでも、ルカでもない、別の女。
ただ、ムシロの上で正座したその膝の上には、あの太刀の若者が膝枕されて寝こけている。彼女は若者を膝枕したまま、楽歩に声をかけてきた。
「おはようございます、お侍さま。ご機嫌はいかがですか?」
「……二日酔いだ」
そう答えると、女は、ふふ、と上品な笑みを浮かべた。
確か名は、ミズキと言ったかな? と、楽歩は痛む頭で思い出す。膝枕されてる若者は、ミズキの弟で優馬と名乗っていた。粋がった若者だが、酔い潰れて姉に介抱されてる辺りまだまだ子供だ。
「いろはとルカの姿が見えんな」
「姐さんとルカちゃんでしたら、近くの川で髪を洗っておりますよ。気持ちの良い水が流れておりますので、お侍さまもお顔を洗いになったらいかがでしょう?」
「そうか。なら俺も、ちと行ってこよう」
「右手の小径を降りた先ですよ」
そう言ったミズキ自身の身なりは小ざっぱりしていた。おそらく、誰よりも早く起きて身を整えたのだろう。
穏やかに弟の髪を撫で続けるミズキを残して、楽歩は川へと降りた。
右手の小径に入って緩やかな坂道を下ると、青々とした梢の向こうに清流の水面が、夏の日差しを浴びて煌めいているのが見えた。
小気味良いせせらぎの音も聞こえてくる。
河原に降りたところで、すぐ近くの太い木の枝に、女物の着物が二人分、かけられているのを見つけた。その着物の柄に見覚えがあった。いろはとルカの物だ。
視線を巡らすと、二人が流れの中で、身を清めているのを見つけた。
「ふむん」
河原の岩に腰掛け、水浴びする二人の様子を眺める。
すぐに、いろはが楽歩の視線に気づいた。いろはが半身を水に浸かったまま、楽歩に振り向く。
「あら、早いねアンタ」
「え、お侍さん? ……え、え、え? きゃあ!?」
ルカが悲鳴を上げ、とっさに首もとまで水に浸かった。
「おおおおおおお侍さん! なんでここにっ!?」
「顔を洗うのに丁度良い川があると聞いてな、顔を洗いに来た」
「誰から聞いたんですか!?」
「ミズキだ。お主らは髪を洗っていると言っておった」
「なるほど、犯人はミズキかい」
いろはが苦笑しながら河原へと上がってきた。
「異な事よのう。どうやら俺は、たばかられたらしい」
「そのようだねえ」
「ひどいっ、ミズキさんひどいですっ!」
「それにしても」
と、楽歩は、いろはをまじまじと眺めた。
「お主、本当に童女では無いか。まだ生えそろってさえおらぬ」
「色気が無いってかい? 昨日、裸にひん剥こうとしたクセによく言うよ」
「む」
「アタイはさっさと着替えるから、代わりにルカでも眺めてな」
「ふむん、そうさせてもらおうか」
「姐さんもお侍さんもひどい! みんなひどい?!」
「はっはっは」
笑う楽歩。
「ねえ、アンタ」
と、いろはが楽歩を呼んだ。
「ん?」
振り返り見れば、着物を纏いかけたいろはが、
「そうやって笑うと男前だね」
微笑みと、未だ乱れた着物からのぞく白い肌が艶めいていて、楽歩は思わず見惚れそうになって慌ててかぶりを振った。
(全く、異な事だ……)
溜め息をつきながら川の流れに目を戻すと、水に肩まで浸かったままの涙目のルカと目が合って、どこかホッとした気持ちになった。
「お侍さ~ん、早くどっか行ってくださぁい……」
猫村一座は旅芸人集団だが、しばらくはこの廃寺を根城に九里府藩各地で活動するつもりらしかった。
楽歩はそんな集団と朝飯を食べ、昼飯も食って、それから後もまだ一緒に居た。何故ならまだ夕飯が残っていたからだ。
昨日の宴会で買ってきた酒と肴はまだ充分残っていたし、楽歩が彼らに渡した金子もたっぷり余っていた。
楽歩は守銭奴でも吝嗇家でも無い。渡した金が余ろうとも、それを返せと言う気は無かった。しかし一座の者たちが酒も肴も金も残っている内は楽歩も残るべきだと主張したので、それに付き合う事にしたのである。
猫村一座は、楽歩をすっかり受け入れていた。
で、昼下がりである。
昼飯後、とりわけやる事も無い楽歩は堂の縁側に腰掛けて、一座の者の芸の稽古風景を眺めていた。
今、楽歩の視線の先にいるのは、あの太刀の若者・優馬であった。
彼は楽歩が暇そうに縁側に居るのを見つけると、ニヤニヤと薄笑いを浮かべながら近くに寄ってきて、自分の芸の準備を始めていた。
彼は足元にムシロを拡げ、そこに様々な物を並べていた。大根に人参、銚子に竹筒、ついでにサイコロもある。
楽歩は声をかけた。
「大根と人参以外は売れそうに無い物ばかりだな」
「売りもんじゃねえ、斬るんだよ」
優馬はそう言い返して、大根を拾い上げた。それを手近な木の枝にヒモで縛って吊り下げる。
そして数歩下がって、太刀を腰に差し直した。
「へへっ、よぉく見てろよ。優馬様必殺の居合斬りだあ!」
優馬はグッと腰を落とし、上半身を左に捻って溜めを作った姿勢で、居合抜きの構えを取った。
楽歩は欠伸を噛み殺した。
「行くぞ、行くぞ、行くぞ………うおりゃっ!!」
気合いと共に長い太刀が引き抜かれ、ぶら下がった大根に振り下ろされた。
大根はバシッという鈍い音を立てて二つに折れた。
優馬はいっぱしの剣豪のようにもったいぶりながら太刀を鞘に納め、それから得意げな表情になって楽歩に向き直った。
「どおだ、お侍! 俺の居合スゲーだろ!」
「今日の夕飯はお主が作るのか?」
「あん?」
「大根の煮物でも作るつもりなら包丁を使え。もう少し小さく切らねば鍋にも入らんぞ」
楽歩の返しに優馬はムッとした。
「バカにすんな。ぶら下がった物を切るのがどれだけ難しいか知ってんのか」
「斬れておらん。お主のは叩き折ったと言うのだ」
楽歩は縁側から降り立ち、優馬のそばに落ちた大根を拾い上げた。その断面はザラついていた。
「刃筋が通っておらぬ。居合よりも先に素振りをしろ」
「素振りだあ? なにカビの生えた道場のジジイみたいなこと言ってんだよ。いいか、俺にとっちゃ大根なんて序の口なんだよ。俺にはもっとスゲー技があるんだ。見てろよ」
優馬はそう言って、今度は銚子を拾い上げた。
だいぶ年季の入った銚子だな、と楽歩は見て取った。汚れているだけで無く、口も欠けている上に、縦一直線にヒビらしき線まである。
まるで半分に割れた銚子をニカワか何かでくっつけたような銚子だった。
優馬はそれを、
「行くぞ、行くぞ。……ほいっ!」
高々と頭上に投げた。
「とりゃあ!」
気合いと共に太刀が引き抜かれ、空中の銚子めがけて振るわれる。
楽歩の見た所、明らかにその刃先は銚子には届いていない。しかし、銚子は地面に落ちると、その場で綺麗にパカリと割れた。
「どおだ、秘剣・真空斬り! スゲーだろ!」
得意満面の優馬に、楽歩はただ苦笑した。
「フフン、俺の腕を認める気になったか?」
「ああ、可愛い芸だ」
「ああん!?」
すごむ優馬を無視して、楽歩は先ほどまで自分が座っていた縁側に戻り、そこに置きっ放しになっていた新しい銚子を手に取った。
当然、その銚子には縦にヒビなど入っていない。
「持ってろ」
「な、なんだよ。これでやってみろっていうのか!?」
「やるのは、俺だ。銚子の首あたりを二本の指で挟むようにもつんだ。……そのまま動かすんじゃないぞ」
楽歩はそう言って銚子を優馬に手渡すと、足元にしゃがみ込んだ。ムシロの上にあるサイコロを拾って、指で弾いて打ち上げる。
サイコロは放物線を描いて、優馬が手に持つ銚子の口に、チリンと音を立てて入った。
「あん?」
優馬の注意が手元の銚子に移った時、光の筋が銚子を縦に貫いた。
「……へ?」
優馬が呆気にとられたその前で、楽歩が刀を鞘に納める。
優馬の手の中で、銚子が綺麗な断面を晒して縦に二つに割れた。断面からサイコロもころりと落ち、それも二つに割れた。
「うぉ……ま、マジか!?」
一瞬の早業に固まっていた優馬だったが、すぐに興奮状態になった。
「マジかよ、これ、うわ、スゲー!!」
優馬が落ちた銚子の片割れを拾い上げ、残る片割れと断面を合わせた。
「スゲー、ピッタリくっついた、スゲー!」
「ニカワで貼り付けておけ。大道芸で使う小道具が一つ増えるぞ」
「ははっ、そりゃ良いや!」
優馬が目を輝かせて楽歩を見た。
「な、なあ、お侍、アンタのこと師匠って呼ばせてくれよ!」
「師匠だ?」
「そうだよ、師匠、先生、兄貴、とにかく俺、アンタに惚れちまったんだ。なあ、弟子にしてくれよ!」
「やれやれ、異な事を言うやつだ」
楽歩は苦笑して、優馬に背を向けた。
「あ、ちょっと待ってくれよ、師匠」
「うるさいやつだ。用を足しに行くだけだ」
「いいね、いいね、男同士ツレションと行こうぜ、師匠」
「師匠なんて呼ぶな。ケツがむず痒くなる」
「先生?」
「それじゃ用心棒だ」
「んじゃ、兄貴だ」
「好きにしろ」
楽歩と優馬は連れ立って堂の裏に回った。そこの藪の奥に杉の大木がそびえている。二人はその根本に並んで立った。
じょろじょろと音を立てながら、優馬が問う。
「なあ、あれ、どうやって斬ったんだ? 全然見えなかったよ」
「拍子だ」
「拍子?」
「そうだ。物事には全て拍子がある。剣法にもな。抜く拍子、斬る拍子、これが相手の拍子と上手く合えば、神速の剣となる」
「へえ……でもさ、俺は別に拍子取ってなかったぜ。ただ銚子持ってただけ」
「サイコロでお主の気を引いただろう。あれもひとつの拍子だ」
「はあ~、なるほどねぇ。俺にも出来るかな?」
「先ずは基本からだ。素振りしろ」
「どんだけ?」
「正面斬り三十本、右袈裟斬り三十本、左袈裟斬り三十本、右袈裟から逆袈裟斬り三十本、左袈裟から逆袈裟斬り三十本、右横胴から左横胴斬り三十本、早抜き十本、しめて百九十本を朝昼晩繰り返せ」
「けっこう具体的なんだな。でも、意外と少ねえな。千本くらい振れって言うかと思った」
「適当に振ってる内は千本振ろうが万本振ろうが上達せん。一本一本、集中して本気で振れ」
「あいよ」
スッキリしたところで二人は藪から出た。
手でも洗おうかと二人して河原へ降りたとき、
「ん?」
渓流のせせらぎの他に、笛の音が聞こえてきた。
たおやかな調だ。思わず立ち止まって、目を閉じて聞き入りたくなるような、心に沁みる音色だった。
「こりゃ姐御の笛だな」
「いろはの?」
「いい笛吹くだろう。河原で吹いてんだな。行こうぜ、兄貴。手を洗うついでにいいものが見れるぜ」
「また、いろはが水浴びでもしているのか」
「何言ってんの、兄貴? ……ん? ……また?」
「別に面白い物でもなかった」
「いや、そりゃそうかもだけど、そうじゃ無くて、見たの!?」
「ああ、居た居た」
河原の先で、いろはが岩に腰掛け笛を吹いていた。
その笛の音に合わせ、ルカが扇を手にして舞っている。
「ふむん」
楽歩と優馬は少し離れたところで手を洗い終えると、そのまま手近な岩に腰を下ろした。
ルカは流れるように舞い続けていた。
ゆったりとしていて、上品で、それでいて、ときおり官能的な仕草が差し込まれ、見ている者を楽しませてくれる。
しかし、それにしても、
(まるで別人だな)
ルカの事である。今まで子供っぽい、そしてどこか間の抜けた様子しか見てこなかったせいもあり、たおやかに踊る彼女の姿に驚かされた。
元から美人ではあるが、今のルカはそれに輪をかけて美しい。
と、流れるような調べが、不意に変化した。
拍子が変わったのだ。曲調は細かく跳ねるような拍子に変わり、ルカの舞も躍動感ある動きに変わった。
だがその瞬間、楽歩は全身が震えるほどの怖気を覚えていた。
最初はその理由が分からなかったが、顎先がチリチリと痛み出したとき、その理由を悟った。
この拍子は、あのときのものと同じ拍子だ。
そう、武芸試合の決勝において、海斗が放った最後の一撃。まさにその拍子の変化と同じものだった。
楽歩が顎先を撫でながら憮然としている内に、笛の音が止み、ルカが舞い終えた。
いろはの目が、楽歩に向く。
「おや、アンタ。見てくれてたのかい」
「お、お侍さん……っ!?」
ルカが、楽歩を目にした瞬間、持っていた扇で顔を隠した。
楽歩が腰を上げて二人に近づくと、ルカは扇の影から僅かだけ顔をのぞかせて、
「う~……」
と、上目遣いで睨んできた。
一緒に側にやって来た優馬が、そんなルカを見て首をひねる。
「ルカ姉、何やってんの?」
「……今朝ね、お侍さんにイジワルされたの」
「へえ。イジワルしたんだ、兄貴?」
「うむ」と、楽歩。
「どんな?」と、優馬。
「言えないよぉ」と、ルカ。
彼女は顔を真っ赤にして、また扇の影に顔を伏せた。
「え? なに、なに? マジで何されたの?」
好奇心のままに問い詰めようとする優馬を、いろはが横からペシリと頭を叩いた。
「止めな、優馬。しつこい男は嫌われるよ。ルカもルカだよ、なに裸見られたぐらいでウジウジしてんのさ」
「あ、姐さん!?」
「え、兄貴、見たの? ルカ姉の裸のぞいたの? 羨ましいな、おい!」
「異な事を言うな。のぞいてなどおらん」
「違うのか?」
「堂々と見た」
「マジで!? やっぱスゲーな、兄貴!」
「お侍さんの馬鹿ぁぁ!!」
「あー、やかましいねぇ。ルカも優馬もいい加減にしな。お侍、アンタもだよ。稽古の邪魔をしないでおくれ」
いろはの言葉に楽歩は苦笑した。
「うむ。しかし変拍子の多い曲だな」
「なかなか良い曲だろう? 次の廿日市の興行でお披露目するつもりさね。まぁ、まだ上手く行ってないところも多いけどさ」
「拍子の変わり目か。ところどころ、ルカが追いついていないように見えた」
「おや、ご慧眼」
いろはの目がルカに戻る。
ルカは、また違った意味で扇子の影から涙目を覗かせた。
「だって、いつ拍子が変わるかスゴく分かりにくいんですもん」
「合わせよう合わせようと身構えてるから拍子に乗り遅れるのさ。余計なことを考えずに舞えば良いさね。そうしたら自然と身体が拍子に乗るよ」
「はーい」
楽歩は、いろはの言葉に心中なるほどと頷いた。
楽歩自身が先ほど優馬に語って見せた通り、剣法にも拍子がある。相手の拍子を上手く捉えることができれば、わずかな動作で相手より速く斬り込むことが可能だ。
と、すれば……
楽歩は昨晩のことを思った。いろはに斬り込んだ時、それを難なくかわされたのも、楽歩の拍子を、いろはに読まれたからだろう。
考え込む楽歩の前で、いろはとルカが再び稽古を開始した。
いろはの旋律に、楽歩は目を閉じ、耳を傾けた。緩やかな笛の調べに、あの武芸試合で脳裏に焼き付いた海斗の姿が映り込む。
満身創痍で体力も尽きかけた中で見せた大上段の構え。そこから、無駄な力も、意識さえも削ぎ落とされていく。
海斗の身体から体力も意識も何もかもが消え去った、あの静寂の一瞬、楽歩はそこに吸い込まれるようにして打ち掛かって行った。
(ここだ!)
そう思った時からわずかにズレて、拍子が変わる。
「仕損じた」
楽歩は思わずポツリと呟いた。顎先がまた痺れている。
「う……バレたぁ」
顎先を撫でながら目を開くと、ルカが落ち込んだ表情でうなだれていた。どうやら楽歩の呟きを自分へのものと思ったらしい。
いろはが笛を吹き止め、楽歩に目を向けた。
「アンタ」
「すまぬ、邪魔をしたな」
「いや、いいさね。それよりアンタ、いまアタイを捉えようとでもしたかい?」
そう言って、いろはは薄く笑った。
心を読まれた。楽歩は苦い顔になる。
「……お主、やはり妖怪の類か?」
「おバカ。妖術でもなんでもない、ただの人間業だよ。これも拍子の一つさね」
拍子が合えば心が読める。そんな馬鹿な、と楽歩は言いかけたが、ふと有り得なくもないと思い当たった。
例えば精神研ぎ澄まされた真剣勝負の場で、不意に相手の動きから精神状態まで読めたことがあった。
相手がいつ、どんな剣で斬り掛かってくるか全て読めたのだ。
だがそれは命懸けの真剣勝負だったからこそ至った境地と言える。笛や舞の稽古程度でその境地に至るだろうか?
いや、と楽歩は思い直す。
芸を生業とする者たちにとって、その稽古に真剣に挑むのは当然のことだ。達人と呼ばれる域に達するにはそれこそ命までかけよう。
ならばそこに剣法との差など、どこにも無い。
いろはとルカが再び稽古を始めた。
楽歩もまた耳を澄ます。
いろはの拍子、ルカの舞に、剣の拍子を心内で重ね合わせる。
しかし、外す。上手く捉えられない。
歯痒い思いでいると、不意にルカと目があった。
ルカもシュンとした顔でうなだれている。彼女もまた外したらしい。
「「上手くいかんな(いかないなぁ)」」
思わずもらした呟きが二人重なって、互いにクスリと笑った。
「はいはい、仲がよろしいことで」
いろはがため息をついて、
「こんなんじゃ埒があかないね。ルカ、アンタちょっと休んでな。……で、お侍」
「ん?」
「代わりに踊ってみないかい?」
いろはの突飛な提案に、楽歩だけでなく、ルカと優馬も目を丸くした。
「そんな姐さん、いくらなんでも無茶ですよぉ」
「そうだぜ、兄貴は剣ならともかく、踊りは――」
「ふむん、やってみるか」
「えっ!? お侍さん、良いんですか!?」
「てか、兄貴、踊れんの!?」
「ルカの踊りを見ていた。見よう見まねだが、なんとかなるだろう」
楽歩はルカから扇子を借りると、いろはの前へ進み出た。
いろはが笛を吹き始めた。穏やかな拍子だ。これなら合わせられる。楽歩はルカの舞を思い出しながら、円を描くように足を配り始めた。
剣法と舞踊には重心の置き方、足の配り方に共通点が多い。身体を動かす理屈が分かっていれば、初めて見る舞でも覚えるのは容易だった。
それでも最初はぎこちなさがあったが、それもすぐに慣れてきた。
滑らかに舞う楽歩の姿を、ルカと優馬は声もなく見入っている。
いろはの笛の音が、ひときわ緩やかになった。聴く者の心根を溶かすような、優しい調べだ。
だがこの曲は、ここから一気に激しい拍子へと転調する。
変拍子。
楽歩はサッと身を翻して地を蹴った。
そのまま跳ねるように二、三度舞ったところで、笛の音が止んだ。
「ひぇー、兄貴マジかよ」
「お侍さん、すごい……」
ルカと優馬は思わず拍手しようとしたが、舞い終えた楽歩と、笛を吹き終えたいろはが、共に真顔なのを見て、手を止めた。
「……硬いねえ」
と、いろはが呟く。
「お侍、アンタも身構えちゃってるよ。それでもルカより反応が良いから上手く行ったように見えてるけどね」
「ああ」
楽歩も頷きながら、己の顎先を指で軽く撫でた。今回も避けられなかった感覚だった。
「俺も修行が足りん」
「修行なら付き合ったげても良いさね」
「そうか?」
楽歩の声が思わず弾んだ。
「ただし、タダという訳にはいかないよ。お代替わりに、今度の興行でアンタも踊ってみないかい?」
「それは御免こうむる」
「そうかい、だったらこの話は終わりさね。……稽古の邪魔だよ。とっとと引っ込んでおくれ」
「む」
ほれほれ、と、いろはに追い払われ、楽歩はやむなく引き下がった。
(変拍子、か……)
再び吹かれ始めた笛の音を背中で聴きながら、楽歩は優馬と共に河原を後にしたのだった………
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第五幕・用心棒の押し売り方
街道沿いには、月に三~四度、市が建つ。
近隣の村々や旅の行商人が集まって店を開くのだ。市が建つ日をとって、四日市や八日市、十日市や廿日市などと呼ばれている。
猫村一座はこうした市に合わせて興行を行っていた。
楽歩が猫村一座の興行を初めて目にしたのは、その月の二十日に開かれた廿日市でのことである。
あれからしばらく日が経っていたが、その頃になっても楽歩が渡した金はまだ少し残っていた。
だが、楽歩が一座と付き合い続けている理由は別にあったし、一座も楽歩の存在を自然に受け入れていた。
一座の興行の主たるものは芝居だった。
白幕を背景に張った舞台で、優馬が派手な衣装で、数人の敵役を相手に大立ち回りを繰り広げていた。
話の内容は仇討ち物らしかった。
父の仇を追う優馬と、その姉役のルカが旅をする話であり、その途中に歌や踊りが入るという、賑やかな舞台だった。
いま楽歩の前では舞台の大詰めが演じられているらしく、仇を追い詰めた優馬が、相手の子分を薙ぎ倒し、遂に仇と直接対決をする場面を迎えていた。
「ここであったがぁ、百年目。父の仇、かくごぉ、かくごぉ」
「むぁっはっはっは、あの日見逃してやった小倅か。威勢だけは一人前に育ちよる。来いや、来いや、返り討ちにしてくれよう」
「ええい、憎らしや。いざ、いざぁ」
敵役を務めるのは大柄で強面の男・礼夫だ。
一座の中でも年長の男だが、それが優馬と一緒に子供のような泥臭い芝居をやっているのはひどく滑稽だった。だが、それでも見物客からの評判は良いようで、優馬が見得を切るたびに、
「よっ、大根役者!」
「いいぞ、三枚目!」
「セリフとちんなよ!」
「優馬ちゃん可愛い?」
などと声援が飛んでいる。
優馬が再び、大きく見得を切る。
「憎っくき仇を討つために、死に物狂いで会得した、必殺奥義・真空斬り。その威力、とっくと見るが良い!」
優馬がそう言って、懐から例の銚子を取り出した。どうやらあの真空斬りはここでお披露目だったらしい。
しかし敵の前で何故わざわざ銚子を斬ってみせる必要があるのか謎であるが、芝居的にはここが一番の見せ場らしく、
「イヨッ、待ってました真空斬り!」
などと、常連客のものらしき声援が飛んでいた。
「行くぞ、行くぞ……ほいっ!」
優馬が銚子を頭上に投げ上げ、すかさず太刀を抜く。
「うおりゃっ!」
振るわれた太刀の先端が銚子に当たった。
銚子は切れることなく、太刀に弾かれ別方向の客席へ向かって飛んで行く。
銚子は、その最前列に座っていた男の額に当たり、そこでパカリと二つに割れた。
「いってえ!? 何してくれてんだ、テメエ!!」
客が額にタンコブを作りながら立ち上がった。悪いことに、客はどうやらヤクザものらしかった。
ヤクザは着物の影から見事な彫り物をのぞかせながら、ズカズカと舞台に踏み込んできた。
「げっ!? す、すんません、すんませんでした!」
優馬を始め役者たちは皆、平伏したが、ヤクザは収まらなかった。
「客を怪我させて謝って済むと思ってんのか、ああ? どう落とし前つけてくれる気だ、コラァ!」
「すんません、詫び入れますんで、ホントすんません」
「詫びぃ? どう詫び入れるってんだ、ああ? 具体的に言ってみろやコラァ!」
「えっと、それは……」
「考えてもねえのに、言ってんじゃねえよコラァ!」
「うわっ!?」
ヤクザが足元に平伏していた優馬を蹴り飛ばした。
後ろに転がる優馬を、ヤクザはさらに蹴飛ばし、その上、優馬の頭を何度も踏みつけた。
「ぶっ殺すぞコラァ!!」
「ひ、ひぃぃぃぃ!?」
さすがに頃合いだな、と楽歩は思い、舞台へと進み出た。
途中、舞台で平伏したままの礼夫の傍を通り過ぎ様に、声をかけた。
「俺に任せておけ」
「……へい」
礼夫が、密かに抜きかけていた刃物を収め直したのを確認し、楽歩はヤクザの背後に立った。
「もう気が済んだだろう。その辺にしておけ」
「あん!?」
ヤクザが振り返った瞬間、楽歩は相手の襟首を掴んで投げ飛ばした。
大の男が軽々と宙を舞い、舞台から放り出される。
「ぐぇ!? ……な、何しやがんだテメエ!?」
「タンコブひとつ分の借りは返しただろう。許してやれ」
「口出しすんじゃねえ! 何もんだコラァ!」
「芝居を見に来た客の一人だ。続きが気になるのに、ぶち壊されちゃたまらん。退け」
「ふざけんなコラァ! 男が顔を傷物にされておめおめ引き下がれっか、オラァ!」
「傷を気にするほど大したツラでもあるまい」
「ぬかしやがったなテメエ!!?」
ヤクザが懐からドスを抜いた。そのまま腰だめに構えて、楽歩に向かって突っ込んでくる。
しかし楽歩は避けるどころか、むしろ相手に向かって踏み込んで行った。
楽歩は右手で相手の肩を、そして左手でドスを構えた手首を押さえつけた。楽歩の左手に力が込められ、ヤクザの手首に激痛が走った。
「ぎえっ!?」
悲鳴をあげてドスを取り落としたヤクザの身体を、楽歩はクルリと回して後ろへ向けた。
独楽のようにまわって背中を向けたヤクザの膝裏を、楽歩は蹴りつけ、そして同時に両肩を上から押さえつける。
ヤクザは正座するような格好で、楽歩に押さえ込まれる形になった。
「ちくしょう、離せっ!?」
ヤクザはわめいたが、楽歩の力のほうが強く、立ち上がるどころか上半身を動かすことも、両腕を振り回すことさえ出来ない。
「ろ、浪人風情がっ、こんな事しやがってタダじゃ済まねえからな! 俺の後ろにゃあ山羽組が付いてっからな!」
「そうか、ならばその山羽組に伝えておけ。俺は神威楽歩だ」
楽歩は名乗ってから、ヤクザの背中を突き飛ばした。
「ふぎゃ!?」
「俺は明日もここにいる。喧嘩したければ人数を好きなだけ集めて、かかってこい」
「く、くそ、覚えてろよ」
「それはこっちのセリフだ。忘れたふりをして逃げるんじゃないぞ」
「ちきしょー!!!」
走って逃げて行くヤクザを、楽歩はニヤニヤと笑いながら見送った。
しかし余裕の楽歩とは対照的に、周りの一座の者や、見物客は皆一様に不安な表情を浮かべていた。
何しろヤクザに喧嘩を売ったのだ。個人同士、一対一の話では済まない。間違いなく組を挙げて報復に来る。
しかも楽歩はそれを避けるどころか、煽りさえしたのだ。正気とは思えなかった。
しかし楽歩は正気であった。全て承知で喧嘩を売ったのである。
その目的は優馬を救おうという義侠心でもなんでも無い。別の目的のために、この騒動にコレ幸いと乗っかったのである。
「おい、優馬、礼夫、暗い顔していないで芝居の続きをしたらどうだ?」
「で、でもよ、兄貴……」
「気にするな、俺に任せておけ。上手くやる」
翌日、ヤクザは五人の仲間を引き連れてやって来た。無論、その全員がドスで武装している。
楽歩はそれを興行が行われている市の端で待ち受け、返り討ちにした。
ちなみに楽歩の武器は市で買った、竹箒である。楽歩はその竿の部分を斬って適度な長さにすると、それでもって五人のヤクザを散々に叩きのめしたのだった。
その日の夜、街道沿いにある宿場町にある山羽組の屋敷での事である。
「浪人一人に五人がかりで歯が立たなかったてか!? この大バカ野郎ども!」
「お、親分、でもあの侍、めちゃくちゃ強くて」
「だからって舐められたまんまじゃヤクザはお終めえなんだよ。五人で足りねえなら十人でも二十人でも連れて押し込めてしまえ。そんで一寸刻みの肉片にして街道にバラまいちまえ!」
「へ、へい」
ヤクザが勢い込んで立ち上がったところで、外から別のヤクザが慌てて駆け込んできた。
「親分、ていへんだ! 例の神威って侍が賭場に乗り込んで来やがりやした!」
「んだとぉ!?」
山羽組が仕切る賭場は、宿場外れにある寺院の宿坊の一つを借りて行われていた。
当時はどの藩でも賭博は違法であったが、それを取り締まる町奉行は管轄の違いから寺社仏閣へ立ち入る事はできなかった。
そちらは寺社奉行の管轄であったが、しかし寺社奉行は違法賭博などの捜査権を持たなかったのである。そして今も昔も、縦割り行政で他人の管轄に足を突っ込む事は禁忌であることが多い。
そのため違法賭場の多くはこのように寺院の一画を隠れ蓑にしていたのである。
ならそれを取り締まれるように法律を改正すればいいのだが、それは、それ、これは、これである。賭場は確かに違法だが、必要悪でもある。悪である以上、認める訳にはいかないが、見ないふりはすることができる。これがお上の考え方なのである。
そんなどこにでもある、ありふれた賭場では今夜も丁半博打が行われており、仕切り屋のヤクザと客たちで盛り上がっている中へ、山羽組の親分は多くの子分たちを引き連れて駆けつけた。
果たしてそこに、楽歩はいた。
賭場のヤクザたちに囲まれながらも、入り口の上がり框に悠々と腰掛けていた。
すぐに親分が肩をいからせながら詰め寄った。
「おう、浪人。昨日、今日とウチの若いもんが世話になったそうだな」
楽歩は腰掛けたまま、澄まし顔で答えた。
「なあに、暇だったから遊んでやったまでよ。しかし骨の無い三下どもだな。物足りないんで、ここまで出向いてやったぞ」
「人の組の軒下くぐるのに、そんな啖呵の切り方あるかい! 浪人風情が舐めた真似してんじゃねえぞ!!」
親分の怒鳴り声とともに、楽歩の背後にいたヤクザがドスを抜いた。
親分が目配せすると、そのヤクザはすぐにドスを振りかざし、楽歩の背中めがけ切りつけた。
しかし楽歩は、上がり框からヒョイと立ち上がってその刃をかわした。
空振ったヤクザが勢い余って上がり框に刃を突き立てる。
楽歩がほとんど同時に刀を抜き、振り向きざまに横薙ぎに払った。
横一文字の刀閃が、上がり框に突き立ったドスの刃を圧し折った。
「え?」
ドスを折られたヤクザが支えを失って上がり框から転げ落ちた瞬間、楽歩は周囲を取り囲むヤクザたちに向かって、刀を縦横無尽に振るっていた。
その太刀筋のあまりの早さに呆然となるヤクザたちの前で、楽歩が刀を納める。
パチリ、と鍔が鳴ると同時に、ヤクザたちの帯がぷっつりと切れ、着物が次々とはだけられて行った。
親分にしても袴が落ち、薄汚れた褌と、でっぷりとした下腹を晒してしまっていた。
その親分へ、楽歩が詰め寄る。
「さて、親分」
「へ、へい……」
後退りしようとしたが、その時さらに褌の帯も切れ、親分は慌てて布地を両手で押さえた。
その肩へ、楽歩がポンと手を置く。
親分はビクリと震え上がった。
「おい」
「ななな、なんでございやしょう!?」
「俺を用心棒に雇わんか?」
「よ、用心棒?」
「そうだ。腕は充分見せただろう。月、二十両でどうだ?」
「二十両!?」
親分の声がひっくり返った。二十両といえば、楽歩が猫村一座にぶん投げた金額の二倍である。
貨幣価値は時代によって差があるが、この時代の用心棒の相場からいっても二倍以上の金額であった。
親分はこの要求を跳ね除けようと思ったが、ここでふと、打算的な意識を取り戻した。
楽歩の腕が立つのは確かだ。ならこいつを野放しにするよりか、手元に飼ったほうが色々と都合が良いだろうし、なんなら後で寝込みでも襲えばいい。
しかし二十両という大金を言い値で呑んでしまってはこちらの面子がたたない。なので、
「じゅ、十両で、どうだ?」
駄目元で値切ってみた。
楽歩は薄笑いを浮かべたまま、刀に添えた左手の指で鍔を押し出し鯉口を切った。
親分は慌てて、
「じゅ、十三両!」
「……十八両」
楽歩が交渉に乗った。この事実に親分は内心ホッとしつつ、
「十四両五分でどうだ?」
「ふむん」
楽歩は悩む振りをしながら、親分の肩においた右手に力を込めた。
「痛だだだ!? わ、わかった、十五両……十六両!」
「十七両だ」
「十七両! わかった、それで決まりだ!」
「前金で半額もらうぞ」
「どうぞ、どうぞ!」
楽歩は手を離し、親分はようやく解放された。
「酒はあるか?」
「お、奥の間に用意させます」
「前金と一緒にもってこい。では、世話になるぞ」
楽歩はそう言い捨てると、そのまま奥の間へと上がり込んだ。
彼は、ヤクザたちの殺気と恐怖の入り混じった視線を浴びながらも、運ばれてきた酒をチビチビとやりつつ、ノンビリと夜を過ごしたのだった。
この日の夜は寝込みを襲われることも無かったが、しかしこのまま二、三日も過ごせば無鉄砲なヤクザの一人や二人は襲いかかってくるのは確実であった。
そうさせないためには、楽歩が居座り強盗では無く、用心棒であり、かつ有能であると信頼されなくてはならない。
そして幸いにも、その機会はすぐに訪れた。
楽歩が居座ってから三日目の晩のこと。一人のヤクザが、賭場を仕切る若頭の元へとやってきて、密かに耳打ちした。
「若頭、妙な客が来てやがりますぜ」
「どんな野郎だ?」
「初めて見る顔ですが、こいつが怪しいくらい勝ってやがって」
「どれくらいだ」
「もうかれこれ二十連勝はしていやがります」
「ちっ、まさかイカサマか?」
若頭とヤクザの遣り取りを隣の間で聞いていた楽歩は、ずかずかと隣の間に入り込んで、言った。
「おい、だったら俺が見てこよう」
「浪人……いや、先生。お頼みしやしょう」
若頭とヤクザから警戒の視線を受けながら、楽歩は賭場へと移動した。その賭場は丁半博打の真っ最中である。
三十人ほどの客が畳の上に敷かれた白布の左右に集まっている。
件の客は、ツボ振りと呼ばれるサイコロを振る役目のヤクザの直ぐ近くに座っていた。
強面の大柄な男だった。その目の前には掛け金代わりの、コマと呼ばれる木札が異常に高く積み重なっていた。
ツボ振りが右手にツボと呼ばれる器を持ち、左手にサイコロを二つ持ち、
「ツボをかぶります」
と宣言した。
ツボ振りはツボにサイコロを入れて、右手でこれを盆ゴザの上に伏せると直ぐに左手の指の股を大きく開いて手の平を客に見せた。
さらに、ツボは伏せたまま手前と向こう側に押し引きを三回繰り返す。
「ドッチモ、ドッチモ」
賭けの募集が始まり、客たちが次々とコマを丁方、半方に動かしていく。
「半!」
「丁!」
「半!」
「半!」
「半!」
ちなみに、白布には中央線が引かれており、ツボ振り手前に置けば丁方に、向こう側に置けば半方に賭けたことになる。
「丁方ナイカ、ナイカ。ナイカ丁方」
半方に賭けるものが多い中、件の男は丁に賭けた。
「コマがそろいました」
ツボ振りが宣言し、右手をツボにおいたまま左手の指の股を大きく開いて手の平は客が見やすいツボの横に伏せる。
「勝負」
ツボ振りがツボを開く。客たちの視線も、その手元にグッと集まった。
現れたサイコロの目は、四と六。
「シロクの丁!」
喜ぶ者、悔しがる者、
その中にあって件の男はニンマリと笑って自分の前に差し出された新たなコマに手を伸ばした。
そこに、一閃の光とともにドスが飛来して、コマに突き刺さった。
ドスを投げたのは、楽歩だった。
楽歩の隣にいたヤクザが、いつの間にか自分のドスが奪われたことに気づいて呆然としている。
楽歩は男に向かって言った。
「お主、イカサマをしておるな」
「……何の話でございやしょう? 言い掛かりは止めておくんなせえ」
男は目の前に刃物を突き立てられたにも関わらず、据えた目付きと声音で、楽歩に答えた。
その静かな威圧に、周りの客や、ヤクザたちですら息を呑む。
楽歩はその威圧を真っ向から受け止めていたが、
「ふん」
と鼻を一つ鳴らし、そのまま男の真正面に座った。
「お主、サイコロをすり替えたな?」
「妙なことを仰しゃる。すり替えて、どうしようってんですかい? 丁しか出ないサイ、半しか出ないサイってんなら分かりやすが、違いやすでしょう?」
そう、ここまでサイコロの目に偏りは無い。しかし、この男の勝率は十割と、明らかに異常だった。
「音だ」
と、楽歩は言った。
「音、ですと?」
「そうだ。丁半で音が変わるサイコロだ」
楽歩はツボ振りの前からツボとサイコロを手に取ると、鮮やかな手つきでツボを振った。
カラン、とツボの中でサイコロが鳴る。
「半だ」
言いながら開けたツボの下には、確かに二と三の目を出したサイコロ、すなわちニサンの半があった。
「ツボ振りの近くでなければ聞こえない微かな音色だが、慣れれば聴き分けられる。そういう仕掛けのサイコロだ」
ざわつく賭場の中、楽歩が再びツボを振った。
カララン、と音がなる。
「丁!」
開いたツボの下にはシゾロの丁(四と四)。
「どうだ?」
「ちっ」
舌打ちとともに、男が動いた。
その手が目の前のドスを引き抜き、楽歩に向けられた。
しかし、楽歩も既に動いていた。
楽歩の左手が、相手のドスを握った右手の手首を掴み、捻り上げる。
「グワッ!?」
動きを封じられた男の袖口に、楽歩は素早く右手を入れ、何かを掴み出し、床に投げ捨てた。
音を立てて転がった物、それはサイコロだった。
周りのヤクザたちが、わっとどよめいた。
「サイコロだ。やっぱりこの野郎がすり替えていやがったんだ!」
ヤクザたちが殺気立つ中、楽歩は男の手首を極めたまま無理やり立ち上がらせると、その腹や顔面に、容赦なく拳を振るい出した。
「ぐわぁっ!?」
「いかさま師め、自分の所業を悔いるが良い」
「ぐわぁっ!?」
さらに容赦無く拳を振るう。
男は賭場の雨戸を突き破って、外へと吹っ飛んで行った。
楽歩も、男の姿を追って外へ出る。
外は夜、月も出ておらず暗闇が広がっており、唯一、賭場近くだけが屋内からの明かりで照らされていた。
近くを流れる川の音がサアサアと聞こえてくる。
「く、くそ、クソッタレが!」
男はフラフラと立ち上がりながら、懐からドスを引き抜いた。隠し持っていたのだ。それを、近づいてきた楽歩に向かって振り回す。
楽歩は自身に向かって振るわれる危険な刃を、全て紙一重でかわして見せた。
それはまさに、舞うが如き華麗な体捌きであった。
「て、テメエエ!?」
激昂した男の大振りの一撃。
それをかわした楽歩の腰から白刃が閃き、男の首筋を斬りつけた。
「ぐわぁぁぁぁぁ!?」
男は仰け反りながら首筋を手で押さえたが、その手の隙間からは凄まじい量の血飛沫が吹き上がっていた。
男はそのまま背後へヨロヨロと後ずさって行き、そしてそのまま、近くの川の中へと転がり落ちて行ってしまった。
「……血を派手に出し過ぎだろ」
楽歩は小声でつぶやきながら、ゆっくりと刀を納め、そして賭場へと向き直った。
賭場では、若頭を始めとして、ヤクザや客たちが固唾を飲んで楽歩を見守っていた。
「せ、先生」
と、若頭が進み出てきた。
「あいつは、どうなりやした?」
「斬り捨てた。遺骸は川に落ちていったから、もう流されてしまっただろう」
楽歩の答えに、若頭はゴクリと唾を飲み込んだ。
楽歩はワザとらしく溜息をつき、
「下手に手向かわなければ、せいぜい袋叩きで済んだものを……バカな奴め」
「いいえ、あっしらヤクザにも通すべき筋目ってモンがございやす。奴はそれを踏みにじった。死んでケジメつけるのは当然でありやしょう……それよりも、今の先生の立ち振る舞い、感服いたしやした!」
「んむ?」
「イカサマを見抜いた眼力、真っ向からねじ伏せた胆力、そして剣の業前、どれを取っても見事としか言いようがございやせん。先生、どうぞ、今後とも宜しくお願いいたしやす!」
「はっはっは、そうかそうか」
「おい野郎ども、先生に新しい酒と肴を早く用意しろい。女もだ。町行って芸者連れて来い!」
若頭の命令に、ヤクザたちがすぐに飛び出していった。
「さ、先生、どうぞ」
「んむ、んむ、苦しゅうない」
若頭に促され、楽歩は奥の間へと戻った。
楽歩はこの日、ヤクザたちから下にも置かぬ盛大なもてなしを受けたのだった。
で、翌日である。
賭場が明け、楽歩は再び猫村一座の元へと戻っていた。
「それで、上手いこと用心棒の座に納まったってわけかい」
いろはの言葉に楽歩は頷きながら、懐から金を取り出した。
「月に十七両。前金で八両五分を頂いてきた。これもお主らの協力のおかげだ」
楽歩は二両を取り分け、それを、いろはの横に座っていた男に差し出した。
「良い演技だったぞ、礼夫」
「そう言って頂けると、役者冥利に尽きます」
礼夫は差し出された二両を恭しく受けとった。
そう、昨晩のイカサマ師の正体は、この礼夫であった。彼は楽歩と示し合わせて、賭場で一芝居打ったのである。
当然、実際には殴っていないし、斬ってもいない。あの血飛沫は紙袋に入れた血糊を、礼夫が自分で握りつぶして吹き出させたものだった。
ちなみに脚本を書いたのはミズキだった。実は彼女、一座の芝居の脚本も担当している。
あの泥臭い仇討ち物とは脚本も役者も質が違うな、と楽歩は思いながら、礼夫の隣にいたミズキにも金を渡した。
「あらあら、こんな大金を頂けるなんて、悪い気がいたします」
そう言いつつ、ミズキはすぐに金を懐にしまい込んだ。
その様子を見ながら、いろはが不思議そうに言った。
「お侍、アンタが上手くヤクザの懐に入り込んでくれたおかげでアタイらも商売がやりやすくなるよ。でも、本当にここまでやってくれて良かったのかい? 結構、危ない橋だったろうに」
「ん? なんだ、俺のことを心配してくれてたのか?」
「おバカ。アンタがアタイたちにそこまで肩入れしてくれる理由が知りたいって言ってんのさ。こんな芝居を打たなくとも、アンタくらいの剣の腕があれば用心棒の口くらい簡単に見つかるんじゃないのかい?」
「そうでもない。用心棒には信頼と実績が必要だ。だが、礼夫のような腕の立つイカサマ師がそうそう現れてくれるはずも無いしな。しかし……」
楽歩は礼夫に目を戻しながら、
「……しかし見事なイカサマであったな。如何に細工があるとはいえ、音色だけで本当に丁半が分かるものなのか?」
「ああ、あれですか」
と、礼夫は澄まし顔で、
「嘘です」
「嘘?」
「ええ、丁半で音色の変わるサイコロなんてございませんし、よしんばあっとしても、自分でツボ振りでもやらなければ、すり替えるなんて出来ませんよ。それこそ、お侍の旦那のようにね」
「む」
楽歩は唸った。
あの時、楽歩も丁半を当てて見せたが、それとて音を聞いての事では無い。自らツボを振った際、丁しか出ないサイコロ、半しか出ないサイコロにその都度すり替えていただけである。
「ではお主、どうやって当てていたのだ? まさか勘だけで二十連勝していたと?」
「確かにタネも仕掛けもある話ではありますがね。しかしこれは私にとって秘中の秘でありますから、明かすわけにはまいりません」
礼夫はニンマリと笑った。その笑みには、あの賭場で見せた凄みが漂っていた。
あの時の礼夫の姿は、あながち芝居というわけでも無さそうだな、と楽歩は思う。幾つもの修羅場をくぐった男の凄みだった。
「しかしタネも仕掛けもあるとは言え、それでも人間業には思えんな」
「私らにとっては、旦那の剣の腕も人間業には思えませぬ」
「さほどの事でもない。上には、上がいる」
楽歩は答えつつ、顎先を撫でた。あの海斗の剣は、今も時々、夢に見る。それだけ凄まじい剣だったし、未だに勝てる気がしなかった。
それにもう一人、勝てる……いや、斬れる気がしない者がいる。
楽歩は、いろはに目を向けた。
「なにさ、お侍。妖しい目つきで見ないでおくれ」
「いや、妖怪は斬れぬと思ってな」
「誰が妖怪さね!?」
「確かに姐さんには勝てませんなぁ」
「礼夫、アンタもアタイを妖怪扱いすんのかい!」
「いえいえ、滅相も無い。私はただ姐さんには昔から頭が上がらないと言いたかっただけです」
「昔から? いったいお主らはいつからの付き合いなのだ?」
と、楽歩が尋ねると、礼夫も指折り数え出して、
「そうですねぇ、かれこれもう七、八年うぎゃ」
礼夫の頭にゲンコツが落ちた。落としたのはもちろん、いろはだ。
「礼夫、それ以上言うと、その舌引っこ抜くよ!」
「へ、へい」
「お侍、アンタもだよ。余計な詮索は止めな」
「う、うむ」
いろはのクワッと牙向いた形相に、思わず化け猫と叫びそうになったのを必死に堪えて楽歩は頷いた。
「あらあら、姐さんも殿方の前で年齢を気にされるようになったんですねぇ」
「ミズキ、アンタもいい加減にしておくれよぅ」
「はい、わかってますよ。……ところでお侍さま? 姐さんにまだ仰っていない事があるのでは無いですか?」
「む」
なんだ、こいつも妖怪の類か。と、楽歩は一瞬、空恐ろしくなったが、すぐに気を取り直して、懐から新たな金を取り出した。
それを、いろはの前に置く。
「なんの金だい?」
「笛の音の代だ」
「なんだい、それ?」
「これから毎日、お主の笛の音を聞かせてもらいたい。これはその代だ」
「はあ、アタイの笛の音ねえ。……まあ、アンタの事だから、別にアタイに惚れたとかそんな話じゃ無いんだろうね。大方、剣法の拍子にでも活かそうって腹積もりだろう?」
「その通りだ。タダじゃ聞かせられ無いと言われたからな。これなら文句はあるまい」
「はいはい。自分で言った事だし、ちゃんと守ってあげるさね。で、どうする? 早速聞くかい?」
「ああ、頼む」
「はいよ」
朝の廃寺に、たおやかな笛の調べが流れ始めた。
楽歩は目を閉じて、その音色に聞き入ったのだった。
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第六幕・郡方役人、始音 海斗
猫村一座はそれから二ヶ月の間、廃寺を根城に各市をまわって興行を行った。楽歩も、夜は賭場の用心棒をしながら、猫村一座と生活を共にしていた。
そして、時が過ぎ、秋も深まった頃の事である……
始音 海斗は初音家に召し抱えられた後、郡奉行所に配置されていた。
郡奉行とは農村を管轄する役所であり、年貢の取立てや、村々の生活・治安を管理している。当然、役目上ここの役人は常に村々の様子を見て周り、農民たちと付き合っていく必要がある。
だが、年貢を取り立てるという役目柄、農民からは良い目で見られにくい役職でもあり、不作の年ともなれば、その仲はさらに険悪になった。もし一揆でも起きようものなら、農民たちの監督責任を問われ切腹せねばならないという、中々に難儀な役目であった。
海斗がその役目に配属されたのは、彼がかつて愛洲藩に仕えていた頃、同じように郡奉行所の役人だったという経歴を買われたのと、そして、もう一つはその剣の腕前であった。
九里府藩ではここ数年、不作が続き、年貢の引き下げを求める農民側と、郡奉行所との間で対立が強まっており、役人が夜道で襲われて重傷を負うという事件まで起きていたのである。
そして海斗は、その襲撃事件が起きた現場の近くの村、本音村を担当する事になったのだった。
ある日の夜であった。
海斗は本音村の庄屋を訪ね終えて、共もつけず一人で、提灯一つを下げて帰路についていた。
今夜の月の入りは早く、空には雲もあり、辺りは暗い。
村を離れてしばらく歩いた先での事である。
海斗の背後から、三つの人影が、闇に紛れて密かに後を尾けて来ていた。
三人とも濃い藍色の野良着に野良袴、顔には覆面をし、海斗に気づかれぬよう足音を忍ばせていた。
彼らは海斗との距離がある程度まで詰まった所で、互いに目配せをして、声を出す事なく一斉に襲いかかった。
三人の襲撃者たちが持っているのは、太い巻藁である。それが、海斗めがけ振るわれる。
次の瞬間、海斗は持っていた提灯を高々と宙へ舞いあげた。頭上の提灯の微かな灯りの下、白刃が闇夜に煌めき流星の様に光の筋を描いた。
海斗が振り向きざまに抜刀し、三人の手首、肩、脇腹を次々と打ち据えたのである。
峰打ちである。しかしその太刀筋は、投げ上げた提灯が地に落ちるよりも早かった。
海斗のそばに提灯が落ちて破れて燃え出す中、その明かりに照らされ、うずくまった三人の襲撃者の姿が浮かび上がった。
覆面から覗くその目は、恐怖に怯えていた。
「本音村の者か?」
海斗の問いに、襲撃者たちは答えず黙って目をそらした。海斗は刀を納めると、彼らのそばにしゃがみ込んだ。
「突然のことゆえ、致し方なく刀を抜いて対処した。骨までは折ってはおらぬと思うが、大事無いか?」
海斗の気遣いに、三人は驚いて顔を上げた。
提灯が燃える火の向こうで、海斗は優しく微笑むと、そのままその場に腰を下ろし、左腰から刀を鞘ごと抜いて右側に置いた。
刀は右手で抜くものであるから、それを右側に置いてしまうと、とっさに抜刀できなくなる。
「お前たちと話しがしたい。構わんか?」
「は、話しですか!?」
襲撃者の一人が思わず問い返し、ハッとなって口元を押さえた。声を出せば素性がバレるかも知れぬのに、それでも驚きの方が勝ったのだろう。
海斗は頷いた。
「左様、お主らが郡方の役人を襲うまで追い詰められている理由を知りたい。もし話してくれるなら、お主らの正体の詮索はせぬ」
海斗の言葉に、三人は互いに顔を見合わせた。しばし迷っていたようだが、やがて一人の男が海斗と目を合わせ、口を開いた。
「あなた様のお言葉、信じさせて頂きます」
そう言って、その男は覆面を外した。白髪が目立つが、顔つきはまだ海斗とほぼ同年代くらいの男だった。
「私は出流(でる)と申します。後の二人のご詮索はご容赦願います」
「わかった。私は――とっくに知っていると思うが――新たに郡方の役人に任じられた始音 海斗だ」
「存じております。始音様、突然の無礼、許させるものでは無いと分かっておりますが、せめて謝らせて頂き等ございます」
出流を始め、襲撃者たちは海斗に平伏した。
「顔を上げてくれ。許すも許さないも無い、これは交換条件だ。お前たちの知っている事、思っている事を全て話してもらいたい」
「では……」
出流が顔を上げた。その目は死を覚悟した者のそれだった。海斗の言葉が真実であろうと無かろうと、ここで全てを訴え、そしていざとなれば自分一人が罪を被って死ぬ覚悟だと、海斗は見て取った。
出流は村の現状を語り出し、海斗はそれを熱心に聞いた。
その話しは延々と続き、明け方近くになるまで終わる事はなかった。
出流から話を聞いて、それからさらに数日後の事。
海斗は奉行所へ出仕すると、上役の前へ大量の資料を携えて出頭した。
「始音、お主は役に任じられてから一ヶ月余りの間、奉行所にあまり寄り付かず、村々を歩き回っておったそうだな」
上役の訝しげな視線を受けながら、海斗は答えた。
「前任者からの申し継ぎや、残された記録の全てに目を通しましたが、やはりそれだけでは不明瞭な所が多く、己の目で確かめて参った次第にございます」
「それは殊勝な心掛けだが、聞いた話では、共もつけず、夜道さえ一人でいるそうではないか。前任者のように襲わ……事故に遭ったら如何する?」
「幸いにして、そのような事もなく」
と、海斗はさらりと流した。
上役が「襲われる」とはっきり口にしなかったのは、仮にも侍が不意打ちとはいえ敗れたことが公になれば面子を失うからである。
従って襲われてしまった前任者は、表向きは病気によって隠居した事になっていた。
「始音、お主の腕を見込んでこの役につけたのは確かであるが、それを過信してもらっては困る。己の命を的にして不埒者を誘き出そうと考えているのなら、止めることだ」
「……畏まりました」
諭すような口調の上役に、海斗は大人しく頭を下げた。しかし既にその目論見は達成している。
恐らく上役も、その事実にはとっくに気づいていると海斗は思った。その上で今まで海斗を好きに泳がしていたのだろう。
その証拠に、上役はすぐにこう訊いてきた。
「それで、一人で歩き回った結果、お主は何を得た? 申してみよ」
「はっ」
この上役は切れ者だな、と内心感じ入りながら、海斗は資料を前に差し出した。
「こちらは各村々の今年の稲の生育状況です。昨年程ではありませんが、今年もやや不作気味と見積もられます。しかし我が藩の年貢は定量で定められておりますので、農民からは年貢を下げて欲しいとの訴えが出ております」
「そんなことは言われる迄もなく、村の庄屋たちを通じて聞いておる話だ。それに農民たちには刈り入れ後の田を使っての葱栽培を認めておる。こちらには年貢をかけておらぬ故、その売却収入で不足分は補える筈だ」
上役は試すように言った。
事実、試している。この程度の事情は郡方役人ならば当然知っていなければならないからだ。
なお、葱栽培に関しては確かに年貢は無いが、葱の売却先は藩御用達の商人に卸すよう決められており、藩はその御用商人が他国へ葱を売った際に得た収入に税をかけていた。
いわば葱栽培は九里府藩の特産品だったのである。
そのため、田を使って葱以外に二毛作を行えば年貢が発生した。(田以外に畑を持っていればそこの作物に年貢はかからないが、それが可能な土地を持っているのは庄屋などの大百姓だけである。)
ちなみに、この政策を推し進めたのは先代藩主であった。
「されば、問題はその葱栽培にございます」
「ふむ」
「こちらをご覧下さい」
海斗は新たな資料を出した。
それは過去数年間の葱の収穫量だった。しかもそこには、九里府藩のものだけでなく、他藩の収穫量まで載っていた。
「これは……むう、よく他家のものまで調べ上げたものだ」
「御用商人以外にも藩をまたいで葱を買い取っている商人がおります。その者を通じて、他家との取引状況から見積もった資料を手に入れました」
「如何にして?」
「愛洲藩にいた頃、役目上、このような商人と付き合いがありまして、その伝手にございます。それより、この資料によりますと、同じ葱を特産としている地方に比べて、収穫量に三倍近い差が出ております」
「ふうむ、葱栽培が思ったよりも捗っていないとは聞いていたが、他家とここまで差が出ておったとは」
「これも既にご存知でありましたか」
「葱栽培は先代様のご意向で推し進められたものだ。ご隠居なされたとはいえ、先代様がまだご健在の今、成果が上がらないからといって取りやめる訳にもいかぬ」
「ですが、当地において、この種の葱は必ずしも栽培に適しているとは言えませぬ。先ず生育時期が刈り入れの直後であり、水田から畑への置換の余裕が少なすぎます。さらに葱がある程度育つ頃、この地方には特有の大風が吹き、それに堪えきれず倒れてしまうのです。このため思った以上の収穫が上がらず、却って農民たちの負担になっております。彼らは葱ではなく、もっと別の作物を植えたいと訴え――」
「そのへんにしておけ」
海斗の言葉を、上役は手を振って止めた。
「始音、お主の言うことはいちいち最もだが、それは何度も言うとおり既に承知のことだ。しかし殿でさえ先代様にはまだご遠慮がある。我々がこの件で下手に声を上げれば政治的な問題に発展しかねんのだ」
「なるほど、やはりそうでしたか」
海斗はさほど落胆するまでも無く、静かに頷いた。上役は、海斗のその様子に目を細めた。
「始音、何か考えがあるな? 申せ」
「葱栽培を止める事が出来ませぬなら、収穫を上げる他ありませぬ。……種を変えましょう」
「出来るならとっくにやっておるわ。しかし当地に適した葱の種が無い」
「ありまする」
「何?」
「私が流浪していた折、同じような条件で葱を栽培していた地を通った事がございます。そこの葱は生育時期が秋遅くから冬でも問題無く、また丈夫で風にも強い。味はまあ、悪く無いそうです」
「それは……まことか?」
「都合が良すぎるとお考えでしょうが、事実です。と、言いますのも、実は私よりも先にこの葱に目をつけていた人物がおりまして」
海斗はそう言って、また別の資料を差し出した。
「本音村の出流という男が、既にこの葱を試し、成果を得ております」
「そんな報告はこれまで受けてはおらぬぞ」
「どうやら前任者が握り潰していたようで」
「何故だ?」
「さあ、私もそこまでは分かりかねます」
海斗はトボけたが、実際は出流から聞いて知っている。前任者は葱の御用商人から賄賂を貰っており、その商人から葱の種を農民へ斡旋していたのだ。
そこへ新種の種が入ってしまうと、これまでの斡旋が成り立た無くなってしまう。そのため前任者は出流に対し執拗に嫌がらせを続けていたのだった。
そして遂に我慢の限界に達した出流によって襲われ、前任者は隠居せざる得なくなったのである。
ちなみに海斗まで襲われたのは、彼もまた御用商人の息がかかった者と思われ、前任者程では無くとも少なくとも脅すくらいのつもりで襲ったのだと出流は白状した。
上役は海斗の話を聞き、しばし沈黙した。海斗も同じく口を閉ざし、上役の答えを待つ。
やがて、
「始音、その新種は今、どれだけ用意できる?」
「多くはありませぬ。恐らく本音村ひとつ賄うのも難しいでしょう。しかし、この種の葱を扱っている商人に覚えがございます。話をつけることができれば今月中には買い付けが可能でしょう」
「今月か。刈り入れの時期も迫っている事を考えれば、さほど余裕はなかろう。話をつけるアテはあるのだな?」
「出流の申すところによれば、猫村一座という旅芸人が、その商人の荷受も行っているとのこと。その一座が今、近隣に来ております」
「よかろう」
上役は膝を叩いて言った。
「この一件、お主に任せる。先ずは一村分買い付け、本音村に栽培させよ。金子はこちらで用意する」
「まことにございますか!?」
上役の決断の早さに、海斗もさすがに驚いた。
「ぐずぐずしておれば機を逸する。これは藩と農民たちの未来がかかっておるのだ。お主も、私も、共に命を賭ける覚悟で挑まねばならぬ。良いな?」
「承知いたしました!」
海斗は平伏した。
その声は、喜びと気概に満ちていた――
海斗が出流の案内によって猫村一座のもとを訪れたのは、その翌日のことであった。
猫村一座はちょうど市での興行を終え、例の廃寺で次の興行に向けた稽古の最中であった。海斗と出流が訪れた時、それなりに広い境内で多くの者がそれぞれの芸を磨いていた。
二人を出迎えたのは、ミズキだった。
「座長に会いたい」
と言う海斗に、
「姐さんなら今、河原で稽古中ですよ」
と、ミズキは答えて、案内してくれた。
堂の脇から小径を下って河原へと向かう途中、せせらぎに混じり笛の音が聞こえてくる。
「姐さんの笛です」
「そうですか。良いものですね」
海斗が素直に感想を述べると、ミズキはにっこりと微笑んだ。
河原に着くと、そこには笛を吹く少女と、そしてその音に合わせて舞い踊る一人の男の姿があった。
(はて?)
笛を吹いていたのは座長と言ってなかったかな? と、海斗は座長らしき人物が見当たらない事に首をひねったが、それよりも、
(ん? ……あの男は!?)
海斗は舞っているのが何者であるか気付いて、思わず声を上げそうになった。
(まさか、楽歩殿!)
何故ここに? という疑問が浮かんだが、それよりもすぐに、楽歩の舞の流麗さに目を奪われた。
(……お美事)
海斗自身、さほど舞踊に詳しいわけでは無い。だが剣士としての腕は一流である。その目で見たとき、海斗は楽歩の舞の中に剣士としての業前の程を見出したのだった。
笛が止み、楽歩が舞終えたとき、海斗は思わず拍手を送っていた。
「これは良きものを見せて頂いた」
「んむ?」
楽歩といろはが振り向いた。
「お、お主、始音 海斗!?」
「お久しゅうござる、神威殿」
海斗が一礼した。いろはが楽歩に問うた。
「お侍、アンタの知り合いかい?」
「うむ」
「お友達?」
「ふむん」
楽歩はどう答えたものかと迷った。木刀を持って叩きのめしあった仲だ。などと正直に説明しても理解はしてくれないだろう。
そんな風に楽歩が迷っている間に、海斗が口を挟んだ。
「神威殿には以前、私が旅の途中で野盗に襲われたところを助けて頂いた事がござった」
「へえ、お侍、アンタもやるもんだねぇ」
「ん」
楽歩は短く唸った。海斗の説明は確かに嘘ではないが、実際に野盗を相手にしていた数は海斗の方が多かったのも事実だった。
「そうそう、ちょうどこの寺のお堂で雨宿りをしていた時のことでした。ここでまた神威殿と再会するとは、奇妙な縁でございますなぁ」
海斗はどこか懐かしげに語った。
しかし楽歩はどういう態度を取るべきか考えあぐねていた。顎先がさっきからチリチリと痛む。
「で、始音さんとやら。ウチのお侍に用があって来たのかい?」
「あぁ、いや、そうではありません」
海斗は慌てて頭を振った。
楽歩は顎先を撫でながら、一拍遅れて、いろはが自分の事を「ウチのお侍」と呼んだ事に気づいた。
「いろは、ウチのとはどういう――」
「実はここの座長に用があって参ったのですが、今、どちらにおられますかな?」
「――意味だ?」
「どちらも何も、ここに居るさね」
「はて?」
海斗は辺りを見渡し、首をひねった。
「どこに?」
「アンタの目の前だよ。アタイだよ、アタイ」
「なんと!?」
「猫村座筆頭、いろは。どうぞお見知りおきを」
「……」
海斗はもう一度周りを見渡し、楽歩やミズキや出流の表情を確認した。皆、誰も笑っていなかった。笑いを堪えている者も居なかった。
「ま、まことなのか?」
いろはを含め全員が頷いた。
海斗は少しの間、妙な表情をしたが、すぐに気持ちを切り替えた。
「失礼いたした。私は郡方役人の始音海斗と申します」
いろはに対し、真顔で頭を下げる。
「これはこれはご丁寧にどうも。けど、お役人様がアタイらにどういう御用件でありましょう?」
「実はここにいる本音村の出流から、この猫村座が商人の荷受も引き受けていると聞き、是非とも注文したい品があってここに参った次第」
「あら、そっちのお客様でしたかい。そんなわざわざお出で下さらなくても、一声お掛け下さればこちらから伺いましたものを」
「急ぎの品でしたので」
「それでしたら喜んで。あらやだ、こんなところで商談なんて失礼でしたね。むさ苦しいところですけど、どうぞお堂へお上りくださいませ。ミズキ、ルカも呼んでお茶の準備だよ。……あ、お酒の方がよろしかったでしょうか?」
「いや、私は今、役目中ゆえ」
「でしたらやっぱりお菓子ですね。さ、さ、どうぞどうぞ」
いろはは海斗の手を取ってお堂へと歩き始めた。
楽歩もその後に続きながら、商売ともなるとああも愛想良くなるものか、と、いろはを眺めた。そういえば初めて会った際、金を渡した時もあんな感じだったと思い出す。
現金な女だな、と思いつつ、楽歩は二人の後を追った。
いろはと海斗が堂内で商談している間、楽歩は縁側で手持ち無沙汰にぼんやりと顎を撫でていた。だが、話はすぐにまとまったようで、いろはが大福帳片手に上機嫌な様子でピョンと飛び出してきた。
「嬉しそうだな?」
「そりゃねえ、これだけのでかい注文だもの。手数料もたんまりもらえるしありがたい話さね」
「というか、荷受なんてやっていたのか?」
「旅暮らししているとあちこち顔が広くなってね、色んなこと頼まれるようになるのさ。といっても荷受に関しちゃアタイらは注文をまとめて届けるだけだけどね」
「で、あの男。何をそんなに大量に買い込むつもりだ?」
「葱の種だよ。この辺りでも丈夫に育つ新種の葱さね」
「葱だ?」
「稲刈り後の田んぼを使って葱を育てて、それをこの藩の特産品として売り出そうと数年前から頑張ってたみたいなんだけどね――」
いろはは現状を簡単に説明してくれた。
「――またこの前任の役人が本当に嫌な奴でねぇ!!」
「なるほど、つまりその悪しき現状が覆るかも知れぬということか」
「そういうことだよ。それにしてもあの始音様は前任者と違って立派なお方だねえ。アタイ、惚れちゃいそうだよ」
「……惚れる?」
「あら、どうしたんだいアンタ。やきもちかい?」
「異な事を……バカな」
「あっはっはっ」
いろはは大笑いして、
「さて、こんなことしてる場合じゃ無いね。ちょいと誰か、この手紙を早飛脚に頼んでおくれ。ああもう、あたいが自分で行った方が早いさね」
いろははそう言って、縁側から猫のようにピョンと飛び降りると、そのまま境内から走り去ってしまった。
楽歩はそれを見送ってしばらく、まだ自分の顎を撫でていたが、
「ふむん」
やおら立ち上がって、堂内へと足を踏み入れた。
堂内では海斗が、お茶菓子を美味しそうに食べているところだった。
「おぉ、はむいほの」
海斗が口の中のお茶菓子を慌てて飲み込もうとして、思わずむせかえってしまう。
「げほけほ」
「あわわ、お役人さま、大丈夫ですか」
お茶汲みとして傍にいたルカが、お茶を差し出しながらその背中をさすった。
「うぐ……はぁ、ありがとうございます、ルカさん」
「いいえ、気にしないでくださいな」
にこにこと笑顔を振りまくルカに、楽歩は何故だか面白くない気分で、仏頂面になった。
「あ、お侍さんもどうぞ。今、お茶淹れますね」
「んむ」
楽歩は海斗の斜向かいに座った。
「神威殿、この猫村座の者たちは、中々面白い者たちが揃っておりますね」
「んむ……まあ、芸人たちだからな」
「それもそうですね。しかし何より、いろは殿には驚かされましたな。まだ幼い少女でありながら大人顔負けで座長を務めている」
「あれは子供でもなんでも無いぞ。妖怪だ」
楽歩のつぶやきに、お茶淹れていたルカがくすりと笑った。
「お侍さんたら、姐さんが聞いたらまた怒りますよぅ」
「知ったことか。あいつは化け猫みたいなものだろう」
「ははは」
楽歩の容赦無い言葉に、海斗も思わず笑っていた。海斗はすぐに口元を押さえ、
「おとと、これは失敬。……しかし意外ですね。神威殿とこのように話せるとは」
「意外?」
「ええ、初めてお会いしたときは、もっと、こう、なんというか」
「近寄り難かった?」
「……ええ」
海斗は苦笑した。
その笑顔を見て、楽歩は自身が感じていたためらいが泡のように消えていったのを自覚した。いったい俺は何を拘っていたのだろう? 武芸試合で負けたことなど、今さら些細な事ではないか。そう思うと、心の中で踏ん切りがついた。
楽歩は居住まいを正し、言った。
「あの折は不遜な態度を取り、申し訳なかった」
「い、いや、滅相も無い!?」
「俺はな、ヤクザ者との付き合いが長過ぎて、ついついあの様な態度を取ってしまうのだ。だがお主に鼻を折られて、少しは反省できたように思う」
「鼻を折ったなどと、そんな」
「そうだな、鼻を折られたのではなく、顎を打たれたのだった」
楽歩はそう言って笑いながら自分の顎を撫でた。痺れる様な感覚は残っていたが、不思議と嫌な気はしなかった。
「始音殿、今は郡方の役人らしいな」
「以前仕えていた藩で同じく郡方をしておりまして、昔とった杵柄を買われたんですよ。……それより神威殿は、どういう経緯でこちらに?」
海斗の質問に、楽歩は眉間にしわを寄せた。
海斗はそれに気づき、
「あ、いや、話し辛いことであれば失礼した!」
「いやいや、さほど大した話でも無い。まあ、その、な。……武芸試合でお主に負けた後、実は腹を切ろうと思っていたのだ」
「な、なんと、腹を!?」
「んむ。この剣一本、腕一つで名を馳せられると自惚れていたからな。それが見事に打ち砕かれて、もう駄目だと思った。……だがなぁ、存外腹は切れんものでな。切ろうかどうしようか迷っているうちに、こいつらが来てしまった」
楽歩はそう言って、ルカを見た。
「そうそう、私がこのお堂を覗いたとき、ちょうどお侍さんがお腹を切ろうとしてて、すごいビックリしちゃいました」
「さ、左様ですか……」
「こいつら、この通りおかしな連中でな。付き合っているうちに切腹するのもバカバカしくなった。で、今はまたヤクザの用心棒なんてやりつつ、のんびり生きているというわけだ」
「のんびり、ですか」
海斗は少し安堵したように微笑んだ。
楽歩も微笑みながら、
「そう言えば始音殿、お内儀はどうされた?」
「おかげさまで、あれからしばらくして無事に子を産みました。男児です」
「おお、後継が産まれたのか。それはめでたい」
「ありがとうございます」
「せっかくだ。祝いにこの猫村座を招かんか? なあに、費用はご祝儀として俺が出す」
「そ、それは嬉しい申し出ですが、そこまでしていただくのは心苦しい」
「そう言うな。浪人とはいえ俺も侍の端くれだ。言い出したことを無碍にしないでくれ」
「そこまで仰って下さいますか。ならば、有り難くお受け致しましょう」
「良かった」
楽歩は破顔した。
海斗も嬉しそうに笑いながら、しかしふと、顔を曇らせた。
「ただ私も重要な役目の途中でありますので、今すぐというのも難しい。まことに申し訳ないが、今の仕事がひと段落ついてからでよろしいでしょうか?」
「新種の葱の件か」
「左様です。上手く行けば来年の春には結果が出るでしょう」
「春か……参ったな」
「どうかされましたか?」
「んむ、こやつらは来月にはもうここを出て行くのだ。次に戻って来るのは来年の夏頃になろうと言っておった」
「では差し支えなければその時でよろしいでしょうか。それならば我が子も産まれてちょうど一年と区切りも良いですし」
「そうか。それは助かる」
「助かるなどと、礼を言うは私の方です」
お互いに頭を下げ、その様子に二人また笑った。
楽歩と海斗はその後も少し世間話をして、そして席を立った。
「長々とお邪魔を致した」
「見送ろう」
二人して堂の外へ出る。
境内を渡る最中、海斗が片隅にある土饅頭の墓に目を向けた。
「あれは?」
「あの時、お主と俺で斬った野盗の墓だ」
「花が供えられてますね」
「埋葬したのは一座の者たちだ。ここを根城とする際に片付けたらしい。花は、ルカだ。信心深い娘でな、毎朝あそこで拝んでいる」
「私も少しよろしいかな?」
「ん?」
海斗は楽歩に断ると、土饅頭の前へ行き、手を合わせた。
その殊勝な態度に、楽歩は首を捻った。
「始音殿、野盗を斬ったことを悔いているのか?」
「いや……」
海斗は手を合わせたまま答えた。
「……妻と我が身を守るため、致し方ないことでした。しかし、彼らも元は領民。生活苦に止む無く野盗に堕ちた者たちです。このような者たちをこれ以上増やしてはならぬと思いましてね」
「立派な心掛けであることだ」
「立派なんかじゃありませんよ。それが郡方に任じられた、私の今の役目であるだけです。そうでなければ、彼らのことなど忘れていたでしょう。私は、その程度の人間ですよ」
海斗は手を離し、楽歩に向かって一礼した。
「では神威殿、またお会いできる日を」
「ああ、楽しみにしておる」
涼やかな秋風がさあっと吹き抜け、それと共に海斗は去って行った。
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第七幕・友
秋が深まった頃、猫村一座は村の秋祭りでの興行を最後として九里府藩を離れた。
楽歩もまた一座と行動を共にしていた。
葱の種は注文通り海斗の元へ届き、本音村での栽培が開始された。
冬になり年が明けてしばらくたった頃、城下にある氷川清輝の家老屋敷を、郡奉行所の上役が訪れた。
その目的は本音村で行われている新種の葱の栽培状況の報告である。この報告は奉行所を通じて正式な文書として上がってきてはいたが、それとは別に上役からの個人的な報告も、こうして定期的に上げられていた。
これは、この上役が清輝の従兄弟に当たる人物であるという事と、本音村が氷川家の知行地であるという事に起因していた。
知行地とは、通常の藩士のように金銭で払われる扶持と違い、その土地から上がる年貢を自分のモノにできるという、一種の私有地であった。無論、藩に収めるべき年貢は割り引かれるし、管理自体は郡奉行所の管轄下にあるが、それでも本音村が氷川一族の領地である事に違いは無い。
つまり今回の件で新種の葱の栽培がまず本音村で行われたのも、この村なら氷川一族の融通がかなり効くからであった。
今朝方に降った粉雪に白く染まった家老屋敷の庭園を眺めながら、上役は本音村での葱の生育が順調に進んでいる事を告げた。
そしてその話は、自然と海斗に関する話題へと移っていった。
「役目に付いてからしばらく経ち、彼の者、今では本音村から家族のように慕われております。新参者にして、半年も経たずにここまで領民から信頼を得た者はそう居ますまい」
「同輩とはどうなのだ?」
「如才なくやっております。元来が人当たりの良い男ですが、侍として一本筋の通った考えの持ち主ですので、頼りにする者も多くなっております」
「そうか」
清輝は静かに頷いて茶を一口飲んだ。
その部屋の隅には、いつものように女中のおミクの姿もある。
上役は最初の内はこの女中がいつまでも居座っている事を訝しく思っていたが、さほど重要な話では無いのと、そして、この女中は清輝の個人的なお気に入りなのだろうと推察して、気に留め無い事にして話を続けた。
「しかし始音にも妙な点がございます」
「ほう?」
「文武両道、人品骨柄申し分ない男でありながら、愛洲藩が取り潰された訳でもないのに浪人となった。一体どんな理由があったのか。……ご家老、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「うむ……」
清輝は腕組みし、横目でかすかにおミクを見た。
さては人払いが必要なほど差し障りある話であったか、と上役は思ったが、だがおミクは別に退出する訳でもなく、清輝も気にする事なく話し始めた。
「……人を斬ったそうだ」
「私闘で?」
「うむ、些細な口論が切っ掛けで刀抜き合うのっぴきならない羽目に陥り、同輩を心ならずも殺めてしまったらしい。召し抱える際に、本人から聞いた話だ」
「私闘ならば喧嘩両成敗が鉄則。では、始音は成敗を恐れて愛洲藩から逐電したのですか」
「腹を切って自裁しようとしたが、妻に止められ、共に逃げたそうだ。すでに子を身籠っていたらしい」
「卑怯者と罵しられても言い訳できませんな」
上役の言葉に、おミクがかすかに肩を震わせたが、気付いたのは清輝だけだった。
清輝は言った。
「本人もそれは覚悟の上で、自ら打ち明けたのだろう」
「左様でしょうなぁ。始音は、自らに不利と分かっていても己を偽らぬ男ですから」
そう言った上役の目尻は、下がっていた。
しかし、と上役は続けた。
「この話が真ならば――恐らく真でしょうが――愛洲藩は始音を捨てて置かぬはず。殺された者の一族から仇討ちの追っ手が出ているでしょう」
「かも知れぬが、愛洲藩には確認しておらぬ。わざわざ此方から始音の所在を知らせてやる義理は無い。問い合わせあらば別だがな」
「それで、よろしいのですか?」
「この件については殿がお決めなさったことだ。ならば始音はどのような過去があろうと初音家中の侍である」
「失礼いたしました、仰る通りにございます。始音が信じるに足る男である事は、私もよく存じておりますよ」
上役のその言葉に清輝は黙って頷いただけだったが、その部屋の隅で、おミクはひっそりと嬉しそうに笑みを浮かべていた。
九里府藩に春が来た。
葱の栽培は順調に進み、本音村の収穫量は先年の二倍にも達していた。葱の品質もこれまでのものとほぼ変わらず、この結果を受け、新種の導入は成功とみなされたのであった。
そして、春が過ぎて、梅雨が終わり、また夏が来た頃、この九里府藩に、猫村一座とともに楽歩が帰ってきた。
海斗は、彼らが以前と同じ廃寺に根城を構えたと聞き、すぐにそこを訪れることを決めた。
目的は新種の葱の種を追加注文することと、そして、楽歩に会うためでもあった。
だが、訪れた先に楽歩は居なかった。
応対に出たルカが、
「お役人さん、ごめんなさいね。ウチの人、いま去年お世話になったヤクザさんの所に挨拶に行っちゃってて」
帰ってくるのは翌日になるという。
いろはもちょうど外していたが、こちらはすぐに帰って来るというので、それまでルカと世間話をして過ごした。
この世間話の中で、ルカが楽歩のことをしきりに「ウチの人」と呼ぶのが気になった。
やがて、いろはも帰ってきて追加発注の件も滞りなく終わり、海斗は廃寺を後にした。
境内には、もう土饅頭は無かった。あれは去年、この寺から一座が去った後、海斗が遺骨を引き取って別の寺で供養し直していた。
その翌日のことである。役目を終えて帰宅した海斗の元へ、一人の客人が訪れた。
それは楽歩だった。一座の者も連れず、酒を入れた大徳利ひとつをぶら下げていた。
「昨日はせっかく訪ねてくれたのに不在で済まなかったな。俺もここに来てすぐにお主に会おうと思ったが、役目中らしくなかなか行き合わんでな」
「いや、私こそ急に訪ねて申し訳ありませんでした。実を言うと神威殿を驚かせてやろうと思っていたものですから」
「それは俺も同じだ」
二人は互いに笑った。
「できれば一座を連れて来たかったのだが、やんごとなき事情らしく控えることにした。息子殿を盛大に祝えなくてすまんな」
「いや、お気遣いなく」
九里府藩では先月、先代藩主が病で亡くなっていた。このため、喪が明けるまでの間は過度な催しは避けるよう、触れが出されていたのである。
「村の昔ながらの祭りなどは例年通り催されるものの、やはり家中の者が己の都合で宴を開くのは憚れまして」
「城勤めの辛いところよな。だがサシで飲むぶんには文句はあるまい?」
楽歩は笑って、大徳利を示した。
「旅の途中で手に入れた酒だ。今はせめてこれで祝わせてもらおう。祝いは、また喪が明けてからだな」
「ありがとうございます。ささ、上がられよ」
この日は月が綺麗な夜であった。
二人は庭に面した座敷の縁側で酒を酌み交わした。こじんまりとしていながら、剪定された庭木が上品に配された庭園に、月がよく映えた。
「良い屋敷だな。豪勢ではないが、よく整っている」
「通いの中間の他にも、近隣の村の者たちがよく世話をしてくれるおかげです」
「慕われているのだな。他の村々でもお主の名をよく聞くようになったぞ。良い噂ばかりだ」
「よしてください。私は大した事はしていません。領民たちの頑張りに私たちが支えられているのです」
「謙遜だな。しかし、あるいはそうかも知れぬ。俺も一座の連中と旅をしていて、その考えも分かる気がしてきた。……侍とは、領民に支えられて初めて生きていける存在であるとな」
「そうですね。私たち侍は何を生み出すわけでもない」
「浪人なら尚更だな」
楽歩が冗談めかして言った。
海斗は笑おうとして、すぐにそれを堪えた。なんなれば、楽歩が浪人であるのは海斗のせいでもある。
楽歩も、海斗の様子に気がついた。
「や、これは変な気を遣わせてしまったな。すまん」
「あ、いえ、そういうわけでは」
「良いのだ。お主が気に止むことはない」
「……神威殿」
「ん?」
「実はその件ですが」
海斗が何かを言いかけた時、座敷の襖が開き、めいこが肴を持って現れた。
「どうぞ、先日採れた茄子を糠で漬けたものです」
「おう、これは良い。俺は茄子漬けに目が無くてな」
楽歩が上機嫌に顔をほころばせた。
「本音村の出流さんから頂いたものです。いつもお裾分けしてもらって助かってます」
めいこも微笑みながら説明した。
楽歩とめいこが顔を合わせたのは、あの雨宿り以来二度目である。あの日、楽歩に対して身構えていためいこだったが、今日はそんな素振りは少しも見当たらなかった。
襖の奥から子供がぐずる声が聞こえてきた。
「あら、赤人だわ。すみません、私はここで失礼いたします」
めいこは一礼して去っていった。
「お子か?」
楽歩の質問に、海斗が答えた。
「ええ、大人しく寝ていましたが、どうやら夜泣きしたようです」
「騒がしかったかな?」
「あの年頃は何も無くとも夜泣きいたしますから、気になさらずに」
「そうか。赤人というのか、良い名だな。喪が明けた後が楽しみだ。そうさな、来年の春頃で良いか?」
「そうですね」
「待たせてすまんが、その頃には赤人殿も走り回っている事であろう」
「今でもあちこち元気に這いずり回っていますよ。妻が、目が離せないとぼやいております」
「そうか、そうか。…おぉ、そうだ。これを渡そうと思っていたのに、忘れていた」
楽歩はそう言って、懐からでんでん太鼓を取り出した。
「赤人殿にと思って、買ってきた」
「そこまで気を遣っていただけるとは」
「いや、昔の俺なら気にも掛けなかったが、近頃は、なぁ」
苦笑する楽歩。
海斗はその姿に、ふと、ルカと世間話をした時を思い出した。あのとき、ルカは楽歩の事をしきりに「ウチの人」と呼んでいた。
「さては神威殿、嫁御でも貰いましたかな?」
「む」
海斗の言葉に、楽歩は一瞬、酒を飲む手を止めたが、すぐに、
「まあな」
そう言って、照れくさそうに笑った。
「もしや、ルカ殿ですかな?」
「あいつめ、自分からしゃべったか」
「いえ、言ってませんよ。ただ、ルカ殿が神威殿について話すときの雰囲気に、深い情愛が感じられたものですから」
「お主、凄いな」
「ルカ殿を大事にされてるのですね。昨日の彼女は、とても幸せそうでした」
「ん…む……まあな」
「ふふ」
楽歩の様子に、海斗も笑みを浮かべながら酒を飲んだ。
美味い酒だった。
海斗は、先ほど言いかけた言葉を、再び口にする事にした。
「神威殿、もしもまだその気があるのなら、当家に仕えてみませんか?」
「む? 仕官?」
「はい。今、新たに藩士を召し抱えようという話があるのです」
「また武芸試合を開くのか?」
「いえ、あのような事はもう無いでしょう。これからは剣以外のことも多く求められます。私はその中で、貴方を推したい」
「剣以外が求められるなら、俺は駄目だな」
「駄目などと。剣に秀でた者は、他方面にもその才を発揮できる者です。私はいつぞや神威殿の舞を見せて頂いたが、あれは美事なものでござった」
「だからといって、踊って城勤めは出来まいよ」
苦笑する楽歩に、海斗は、
「では、何故あの日、武芸試合に出られた?」
「剣士だからだ。剣で名を馳せ、出世したいと思っていた。だが城勤めとはそういうものでは無いのだな。外からお主の働きぶりを見て思った。……必要なのは剣では無い。大切なモノのために命をかける覚悟なのだとな」
「神威殿……」
「お主のように領民たちまで守れるほど、俺の懐は大きくない。嫁ひとり守るので精一杯よ。……それにな、なんだかんだ言って、一座の連中の生き方が気に入ってな」
そう言って、楽歩は一座と共にした旅暮らしの様子を楽しそうに語り始めた。
「………」
その楽しげな様子に、海斗はふと、楽歩は侍をやめる気ではないかと思った。
この時代、侍に上がる以外は、身分を変える事はそんなに難しい事ではない。生き方ひとつ、変えれば良いだけだった。
だが、楽歩の真意を確かめる事は、海斗には憚られた。
「ん? 始音殿、どうした。酔ったか?」
「え? …あぁ、そのようです。しかし、興味深い話です」
「そうであろう」
楽歩は屈託無く笑った。
海斗は、楽歩が侍をやめてしまう事に寂しさを感じたが、しかし彼が選んだ道ならば、それも良いと思った。
楽歩が徳利を差し出して、海斗の盃に酒を注いでくれだ。海斗はそれを飲み干し、夜空を見上げた。
月が、ちょうど中天にさしかかっていた。
冴え冴えと輝く月光下で、二人は酒を酌み交わしあった。
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第八幕・侍の責務
喪が明けぬ内は商売にならぬ。と、猫村一座は秋が深まる前に、例年より早く九里府藩を去っていった。
それからしばらく経ち刈り入れの時期が近づいてきた頃、海斗の元に本音村の出流が訪れてきた。
「では、間も無く大風が来ると?」
「はい。このところ昼は妙に生暖かい日が続いており、時折、山に分厚い雲がかかるようになりました。村の年寄りが言うには、これは大風が吹く先触れだと言う事です」
「その大風、刈り入れ前に来ると拙いな」
「ええ。ですのでウチの村は庄屋に掛け合って、刈り入れを早めるつもりです。きっと、他の村も同じでしょう」
「そうすると収穫量が減ってしまい、年貢を納めた後が厳しくなるが、大丈夫か?」
「幸い、今年は去年よりも稲がよく育っておりますから、何とかなりましょう。それに大風で台無しになるよりマシですから」
「そうか」
後日、各村の庄屋を通じて、郡奉行所に刈り入れを早める旨の申し入れが正式に行われた。
だが、ここで思わぬ事が起きた。
郡奉行が、それに待ったをかけたのだ。
ある日、海斗は郡奉行から直接、呼び出された。
この郡奉行は、かつてのあの上役である。夏に先代藩主が亡くなった後、現藩主である未来ノ守は各部署の人事を刷新し、先代の色濃い旧体制から新体制へと移行していた。
かつての上役もまた、新体制側の人間である。そのため上役の出世に伴い、海斗もまた重用されるようになっていた。
「始音、お主を呼んだのは他でもない。各村をまわって刈り入れの前倒しを止めるように説得してもらいたいのだ」
「承知致しましたが、しかし、理由をお聞かせ願えませんでしょうか?」
「うむ。お主も、印種川の各地に堤防があることは知っておろう」
「はい」
印種川は、この九里府随一の大河である。そしてこの川は、度々氾濫しては農地に大きな被害を与える暴れ川としても有名だった。
そのため、治水のため川の要所要所に堤防が築かれていたのだが、
「その堤防の整備がここ数年、滞ったままなのだ。原因は藩の財政難だ。幸い近年はさほど天候が荒れなんだから持ち堪えたものの、堤防は各地でほころびが目立つようになってきた。これ以上、捨て置く訳にはいかぬ」
「では、すぐにでも修理工事を行うと?」
「うむ。本来なら領民の負担が少ない農閑期に行いたかったのだが、今年は近年にない大風が来るという。古くなった堤防が決壊すれば田畑のみならず村そのものが流されるかも知れぬのだ。危険な堤防は多く、工事は大規模なものとなる」
「それでも……」
刈り入れを早めてからではいけないのか。という言葉を、海斗は飲み込んだ。
刈り入れには膨大な時間と人手が必要であり、堤防工事に人手を割いた状態で同時進行させる訳には行かないのだ。
もし刈り入れを優先させれば、確実に大風が堤防工事の最中に来るだろう。
しかし、堤防工事の後に刈り入れを行うとなれば、大風で稲が倒れる。結果として被害は出るのだ。
だが奉行があえて口にしなかった事があるのも、海斗は気づいていた。
複数ある堤防全てを一気に修理しようというのだ。その費用もまた莫大である。そのため、刈り入れを早めて、自ら収穫を減らしてしまう政策を取り辛いのは想像に難くなかった。
奉行はおそらく、刈り入れを早めないという条件で、藩の重臣たちを納得させたのでは無いか。海斗はそう思った。
「各村、必ずや説得してご覧に入れましょう」
「おお、やってくれるか」
奉行は安堵したように顔をほころばせたが、すぐに表情を引き締めた。
「此度の事、領民に多大な迷惑と苦労をかける。だが堤防工事は目先の事に非ず、今後十年の領民の生活がかかっているという事を納得してもらいたいのだ。良いな?」
「はっ」
海斗は早速、村々をまわり始めた。
既に触れを聞いていた村々では大人しく刈り入れを控えるところが大半であったが、それでも海斗は、全ての村で直接、今回の工事の意義を説いて回った。
これはただの上からの命令で行うのでは無く、領民の生活を子々孫々の代まで守るために行うのだと、そう説き、心からの協力を願ったのだった。
その甲斐あり、堤防工事は全ての村々から人夫が集まり、高い士気の元、滞り無く始められたのだった。
天候が急変したのは、堤防工事も終盤にさしかかった頃だった。
朝から異様に生ぬるい風が吹いていたが、それが昼過ぎになって急激に強くなった。
山の木々が軋むほどの強風はすぐに黒雲を伴い、滝のような雨を叩きつけた。
奉行は、朝方からの生ぬるい風が大風の前兆だと気付いており、昼前には最も工事の遅れていた現場へと駆けつけていた。
奉行は午後の天候の急変に、すぐに工事の中止と人員の退避を命じた。
雷鳴轟く土砂降りの中、工事に当たっていた村人たちが避難した直後、ゴォ、という地鳴りのような音とともに、真っ黒な濁流が上流から、凄まじい勢いで堤防へと流れ込んできた。
それは、これまで誰も経験したことの無い激しいものだった。
この濁流に、それでも堤防はしばらく耐え続けていた。
しかし濁流の勢いは収まるどころか更に増し、ついには堤防の縁を超えて溢れ出してしまった。
雨と風は夜更けまで続き、堤防から溢れ出した水は、下流域の田畑をことごとく浸し、水がようやく引いた頃には、九里府藩の主要な田の二割近くが被害を受けていたのだった……
農村への水害があまりにも甚大であった事から、九里府藩はこの年の年貢を大幅に下げざるを得なかった。
しかも堤防の修復は引き続き行う必要があったため、藩の財政は非常に苦しいものとなった。
そして、この責任を取る形で、郡奉行の切腹が決まったのである。
切腹の下知があった後も、奉行はいつもと同じ様に淡々と職務をこなしていた。
何しろ被害からの復興処理に、堤防工事の延長、そこに被害を免れた稲の刈り入れなど、とにかくこなさなければならぬ業務は大量にあった。
奉行は己の命日が定まった事を一言も口にする事なく、ひたすらその職務をこなしていた。
だが一方で、着実に後任への引き継ぎ準備も進めていた。そして、それに気付いていたのは、海斗だけだった。
下知があってから数日後、仕事を終えた海斗は、奉行から呼び出された。
「始音、お主に介錯を頼みたい」
やってくれるな、と奉行は穏やかに言った。いつもと変わらない、そこの文書を取ってくれと言う時と同じ、平穏な口調だった。
しかし、それが却って奉行の覚悟が定まっている事を示していて、海斗は込み上げてくるものを抑えきれなくなって、床に手をついて頭を下げた。
「介錯の儀、承りまして…ござい……ます」
「うむ」
奉行は、用件は終わりだ、帰って良い。そう言って、海斗に背を向けて文机に向かった。
しかし、海斗は平伏したまま、動こうとしなかった。
奉行がその気配に気づき、再び振り返った。
「如何した?」
「おそれながら申し上げます」
海斗は顔を上げた。
その目は潤み、口元がわなないていた。
海斗は言った。
「お奉行がなされた事、私には間違っていたとは思えませぬ。大風による被害は大きかったものの、お奉行がそれを見越して工事を早めていなければ、堤防は間違いなく破れ、被害はさらに甚大となって取り返しのつかないものとなっていたでしょう。それなのに…それなのに……っ!」
海斗は歯を食いしばって、胸の奥から湧き上がる激情と涙を堪えた。
悔しかった。
領民のためを思って行った事が評価されず、ましてや罪に問われる。
その不条理が悔しかった。
だが、その罪を奉行ただ一人に背負わせてしまった己の不甲斐なさが、一番悔しかった。
「始音……」
奉行が、平穏な声でその名を呼んだ。
「……始音よ、お主は思い違いをしておる。私が腹を切るのは、罪に問われた事のみでは無い」
「し、しかし」
「始音よ。我ら侍が、何故、人の上に立っているのか、分かるか?」
「それは」
侍だからだ。と答えようとして、海斗は言葉に窮した。
生まれながらに侍に備わった権利か?
違う。
そんな子供じみた幻想は、浪人時代の旅暮らしで、当に打ち砕かれていた。
米も作らず、物も建てず、商いができるわけでもない。
侍ができる事は何か?
侍がすべき事は何か?
奉行は言った。
「此度のこと、堤防を工事したのは民だ。被害を受けたのも民だ。豊作になれば喜ぶのは民であり、不作になれば苦しむのも民だ。だが……」
「……」
「……責任を負うのは、我ら侍だ」
「責任……」
「左様。我らは責任を負うために、上に立っているのだ。それが、役目なのだ。侍が命をかけて責任を負うからこそ、領民は困難に立ち向かってくれるのだ」
それをゆめゆめ忘れるなかれ。
奉行はそう言って、そして最後に、こう付け加えた。
「始音よ。それでもお主が納得できなければ、それはそれで良い。お主自身が答えを見つけ出せば良いのだ。……後を頼むぞ」
奉行は再び文机に向かい、そしてもう振り返ることはなかった。
海斗は、彼の背中を目に焼き付けようと思った。
その目から、堪えていた涙が一筋、流れ落ちた。
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第九幕・切腹
天高い秋晴れの日であった。
その日の朝、彼は正式に奉行職を免じられ、同時に、家督を子に譲った。
一人の私人となった彼は、沐浴で身を清め、浅葱色の裃に黒袴という出で立ちで屋敷を出た。
切腹は、城のすぐ隣にある観音寺の本堂で行われる事になっていた。
海斗は、介錯人として先に本堂で待っていたが、元奉行である彼が到着する前に、城からの使いの者に呼び出された。
「北庭園に控えよ、と?」
城内の北庭園は、藩主未来ノ守兄正が居住する間の近くにある。
未来ノ守は毎日の朝と夕、この北庭園が望める廊下を渡り、執政の間と居住の間を行き来していた。
海斗が城内に入り、北庭園へ向かうと、そこには既に、浅葱色の裃に黒袴姿の彼が控えていた。
彼は海斗の姿を認めると、ほんの微かに笑みを浮かべて、少しだけ頷いた。
海斗は彼の左に並んで、同じ様に控えた。
程なくして、廊下を渡ってくる二人分の足音が聞こえてきた。家老・氷山清輝に先導されて、未来ノ守が近づいてくる。海斗と彼は平伏した。
その二人のすぐ近くで、清輝と未来ノ守の足音が、止まった。
そのままやや時が過ぎて、そして清輝が言った。
「殿がお許しである。両名、おもてを上げよ」
彼が上体を起こしたのに合わせ、海斗も顔を上げた。
海斗が藩主と相対したのは、召し抱えられた際にお目通りして以来、これで二度目である。しかし一度目は終始平伏していたため、その姿をはっきりと目にしたのは、今回が初めてだった。
小柄で、華奢な体格。
その肌は雪の様に白く、慎まやかな鼻梁と、控えめな唇。
黒目がちな大きな瞳が、彼と、そして海斗を見つめていた。
女と見紛うばかりの美貌の、十六歳の若き藩主である。
これが我が主か。と、海斗は一瞬見惚れ、そして直ぐに、その胸中に複雑な感情が沸き起こった。
この藩主の名の下に、敬愛する上司は死を命じられたのだ。それが侍というものであると、理解していた。しかし、不条理である。
その時、未来ノ守が、ふと目を伏せた。
「苦労をかける。……ありがとう」
その透き通った、そして哀しみを孕んだ声に、海斗はハッとなった。
傍で彼が静かに平伏し、海斗も慌てて頭を下げた。
足音が再び響き、未来ノ守と清輝が去っていく。
遠ざかっていく二人の気配を感じながら、海斗は、胸に宿った感傷を心内で抱きしめていた。
これが侍である。
これが、侍である。
日が暮れた。
観音寺本堂の仏壇の前には床よりもわずかに高くなった座が設けられ、そこに新畳と赤い毛氈が敷かれていた。
毛氈が赤いのは、血の色を目立たなくさせるための配慮である。
堂内は暗く、高座を囲む様に立てられた燭台の上で、蝋燭の灯火がゆらゆらと揺れながら辺りを薄明るくしていた。
高座の正面には、検視役として家老・清輝を始めとして、藩の重臣たちが集まっていた。
そこへ切腹人である彼が、介錯人の海斗と、そして付添役の三人の役人を伴って、堂内へとやってきた。
彼は検視役たちの前で立ち止まり、丁寧にお辞儀をした。
検視役たちもまた、厳かな答礼で応える。
彼はゆっくりと威風辺りを払う態度で切腹の高座へと上り、正面の仏壇に祀られている千手観世音菩薩像に礼拝した。
礼拝が済み、彼は仏壇に背を向け、毛氈の上に正座する。
海斗は腰の刀を抜き、右手を背中に回して刀身を隠した状態で、彼の左側に片膝をついて控えた。
付添人の一人が、白紙で包んだ短刀を三宝に乗せて、進み出てくる。
彼は両手で恭しく三宝を受け取り、自分の前に置いた。
そして再度、丁重に一礼した後、次の様な口上を述べた。
「拙者、堤防工事の発案、指揮を執り申し候えど、先月の大風にて堤防はその役目を果たし得ず、領民たちに多大なる損害を与え苦しませたる故、拙者今、その責を負って切腹致す。各々方には検視のお役目、御苦労に存じ候」
最後に一礼の後、彼は浅葱色の裃を腰帯辺りまで脱ぎ下げ、上半身を露わにした。
裃の袖は、上体が万が一背後へと倒れないよう脇の下へと差し込む。
そして彼はおもむろに、しっかりとした手つきで、三宝の上の短刀を手に取った。
そのまま、しばし、時が止まったかの様に、全てが静止した。
誰も声ひとつなく、ただ、蝋燭の灯火だけが揺れていた。
その明かりの中で、彼の静かな表情が浮かび上がっていた。
その背後では、千手観世音菩薩像が同じ表情で佇んでいる。
と、彼は短刀の切っ先を己に向けると、素早く左の腹下へと深く突き刺した。傷口からは血流があふれ出し、彼の周囲を赤黒く染め上げていく。
彼は腹に突き立てた刃をそのまま、ゆっくりと右側へ引き、そこで刃の向きを変えて、やや上方へと切り上げていく。
この凄まじい苦痛に満ちた動作を行っている最中、彼は呻き声を上げるどころか、顔の筋一つも動かさなかった。
血の匂いが立ち込めた本堂に、ずぶ、ずぶ、と刃が肉を深く断ち切っていく微かな音が響き渡っていた。
己の腹を存分に掻っ捌いた後、彼は腹部から短刀を引き抜くと、そこで糸の切れた人形の様に前方へと上体を倒し、首を差し出した。
その瞬間、海斗は立ち上がり、素早く刀を最上段から振り下ろした。
一閃。
重々しく辺りの空気を引き裂くような音。
ゴトリ、と音を立てて、首が落ちた。
海斗は低く一礼し、付添人から渡された白紙で刀の血を拭った。
その脇で、残る二人の付添人の内、一人が黒布で遺体を覆い、
そしてもう一人が首を三宝に乗せて、検視役たちの元へと運んで行く。
海斗はその様子を横目で見ながら、刀を鞘に収め、本堂を後にした。
後日、海斗は郡方代官へと昇格し、同時に、堤防工事の責任者に任命された。
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第十幕・待ち侘びて……
春になり田植えの時期が来た。
農民たちは田畑の整備にかかりきりになり、堤防工事に割くことのできる人員は激減した。
だが、そのような状況にあっても海斗は工事を続行した。そうしなければ秋までに間に合わぬからだ。なんとしても今年の大風が来るまでに修理を終える必要があった。
しかしただ修理するだけでは足りない。去年の反省を踏まえ、あれ以上の大風でも耐えられる堤防に改良する必要があった。
少ない人員、限られた時間、決して豊富とは言えない予算。
新しい郡奉行が復興全体の多岐にわたる業務の指揮をとる中、堤防工事について一任された海斗の両肩には、これだけの難題がのし掛かっていた。
海斗は工事に必要な人足を集めるため、一村一村を訪ね歩き、工事の必要性を訴えた。
その一方で、奉行所や城内では、工事の進捗状況や追加予算に関する会議が連日続けられ、そして空いた時間があれば、実際に工事現場へ足を運び状況を自分の目で確認する――
――このように、海斗の毎日は多忙を極めていた。
そしてまた、夏が来た。今年は猛暑であった。
梅雨に数回、土砂降りの雨が降り、海斗をはじめとした堤防工事関係者の心胆を寒からしめたが、それ以外はカンカンと照りつける強い日差しと、猛烈な暑さの日々が続いた。
九里府の険しい山々に貯えられた雪解け水によって川の流れが枯れることはなかったが、それでもこの猛暑は作物の生育に少なくない影響を与え、領民たちの間では今年も豊作は見込めないだろうという悲観的な見通しが拡まっていた。
さらに、工事に参加している人足たちにとっては、自分たちの田畑の心配に加え、この猛暑下での重労働という悪条件が加わり、現場の士気は否応もなく下がっていった。
そんな、夏のある日の朝。
早い日の出とともに海斗は起床した。
日の出とともに目覚めるのは当時としては一般的なことであったが、海斗は最近、夜遅くまで書類業務を続けていたので、その睡眠時間は非常に短くなっていた。
実は夜間の業務というのは、この時代あまり一般的では無い。なぜなら照明が無いからである。ロウソクは大変な高級品であったし、安い行燈の油も、毎晩遅くまで消費していては費用も馬鹿にならない。
つまり夜間の業務とは経済的にかなり余裕のある人間にしかできなかったのである。しかし皮肉なことに、海斗は代官に昇格したことによって、行燈を毎晩遅くまで使える程の経済的余裕を得ていた。
出世に伴う昇給というのは、仕事の増加量やそれに伴う支出と実にうまく釣り合いが取れているものだ。と、海斗は昇格前とさほど変わらぬ始音家の苦しい台所事情を鑑みて納得した覚えがある。
その台所を預かる妻めいこが、今ちょうど女中の“はく“と一緒に朝食の準備をしてくれていた。
はくは本音村出身の、住み込みで働く女中だ。昔、別の侍の家でも奉公したことがあるので勝手を分かっており何かと重宝して助かっている。奉公が明けた後、別の村の農家に嫁いでいったが、嫁入り先の家族とうまくいかず離縁されてしまったらしい。
本音村に戻ったものの出戻りの気まずさに落ち込んでいたのを見かねた出流が、海斗に住み込みで働かせてやってくれないかと願い出たのがきっかけだった。
めいことは歳も近く気が合い、海斗の激務によって相対的に重くなっためいこへの負担をずいぶんと和らげてくれている。
そのことに感謝の念を抱きながら、海斗は刀を差し、書類荷物をまとめて表玄関へと向かった。
途中、台所へ顔を出す。
「あら、あなた。もうお出かけですか?」
「今朝は村の田畑を見回ってから工事現場へ向かう予定なんだ。弁当はできてるかい?」
「はい、こちらに」
と、はくが笹包を二つ差し出した。
「一つはお昼、一つはご朝食用です」
「はくさん、いつもありがとうね。途中でいただくよ。じゃあ行ってくる。赤人のことを頼んだよ」
玄関口で、めいこと、はくに見送られ、海斗は家を出た。
空は抜けるように青く、早朝のまだ低い気温もあって心地よい。しかしこうも雲一つなければ、昼にはまた倒れかねない猛暑になるだろう。
現に工事現場では熱による体調不良を訴える人足たちが後を絶たない。下手をすれば近いうちに死人まで出かねなかった。もしそうなれば工事の士気が下がるどころか、工事反対の一揆まで起きかねない事態になるだろう。
だが、工事の士気が下がっているのは、別に気候ばかりの問題でもなかった。そもそもここ一年間、藩内には明るい話題もなく、どこか沈鬱とした空気が漂っていた。
その原因は、去年の夏に先代藩主が亡くなったことで主だった祭りや宴が自粛もしくは規模が縮小されたこと、そして喪が明けたと思ったところに大風による水害が起きてしまい、結果、領民たちが憂さを晴らせるような祭りや宴を催す余裕が無くなってしまったことだった。
それは侍階級も同じことで、領地の被害復興を支援するための年貢の減少と復興費用の捻出のため、藩は緊縮財政を敷いていて、領民の慰安に避けるような予算は出そうにも出せない状況である。
これではいけない、と海斗は危機感を抱いていた。
何でもいいから明るい話題が必要だった。つらい毎日をひと時でも忘れられるような、何かが必要だった。
(こんなとき、楽歩殿が……猫村一座が居てくれたなら……)
せめて工事現場の者たちだけでも慰撫できるのだが。そんな思いを抱いたからか、海斗の足は自然と、例の廃寺へと向かっていた。
たどり着いた廃寺は、昨年、猫村一座が居た時よりもさらに寂びれているように思えた。
実際、昨年の大風によって本堂もかなり傷ついていた。しかしそれ以上に、あのにぎやかだった一座がいない寂しさが、廃寺の荒廃に輪をかけているように海斗には感じられた。
(頭の痛い問題だな……)
そう思いながら見上げた空が、不意に、傾いた。視界が回り、平衡感覚を失いかける。
幸い、一歩だけたたらを踏んだだけで目眩は収まった。
きっと連日の疲労と睡眠不足がたたったのだろう。海斗はいったん休憩することにして、本堂の縁側に腰掛けた。
ついでに朝食も摂ってしまおうと思い、笹包を取り出す。開くと、形の良い握り飯と大根の漬物が数切れ入っていた。
朝食を摂り終え、竹筒の水を飲んで一息ついたとき、また軽い目眩を感じた。
それを堪えようとまぶたを閉じたとき、彼の意識もまた、闇に落ちた。
海斗の疲労は、彼自身が考えている以上に、深刻にその身体を蝕んでいたのである。
――…は……殿」
暗闇に落ちた意識を、誰かの声が揺さぶった。
「始音殿」
「っ!?」
ハッとして顔を上げた先に、楽歩の姿があった。
「あ……?」
海斗の思考に一瞬、空白が生じた。待ち望んでいた相手がいきなり目の前に現れ、それがまるで白昼夢のように思えていた。
海斗は、己が意識を失っていたことを自覚していなかった。
「がく…神威殿? いつのまにここへ?」
「いつと言われても、つい今しがただ」
楽歩の後ろには、いろはやルカをはじめとして、猫村座の面々も揃っていた。
「まさか始音殿が居るとは夢にも思わなかったから、俺たちも驚いた。しかもお主、眠っておったぞ」
「眠っていた……私が……?」
海斗はようやく、その事実を自覚し、あっ、と叫んだ。
「神威殿、今は何刻ですか!?」
「そうだな」
楽歩は太陽を見上げ、
「そろそろ、明け五つ頃(夜明けから約一時間~二時間後)ではないか」
「そんなに…!?」
そこへ、遠くから風に乗って鐘の音が響いてきた。ゆっくり間をおいて、五つ。明け五つ刻を告げる鐘の音だった。
「これはいけない!」
「用事か?」
「ええ、このままでは遅刻です。…あぁ神威殿、話したいことがたくさんあるのに、急ぎ仕事に行かなければならないのがもどかしい!」
「ふむん…なら、俺もついて行って構わんか?」
「え? よろしいのですか?」
「どうせ暇を持て余した浪人風情だ。いろは、ルカ、少し始音殿に付き合ってくる。構わんな」
「はいはい、好きにおしよ」
「せっかくの再会ですもん。構いませんよぉ」
いろはとルカから微笑みと了承を得て、楽歩は海斗に向き直った。
「では、行こうか。急ぎなら少し早足のほうが良いか?」
「駆けても?」
「構わん」
「では」
たっ、と二人は並んで走り出した。
廃寺が見る見るうちに遠ざかっていく。周囲に田畑が広がる景色の中を、二人は風と共に駆けた。
野良仕事に向かう農民たちと行き会うたび、彼らは道を駆ける海斗の姿を目にして多少驚きつつも、嫌がるそぶりひとつ見せることなく道端へ控え、丁寧に頭を下げた。
楽歩は駆けながら話しかけた。
「道を譲る者たちに疑心や警戒心が感じられぬ。相変わらず慕われておるな」
「そうで…しょうか…。私も…役目がら…無理を、言って…」
「代官になったそうだな。大したものだ」
楽歩はまるで我がことのように嬉しそうに笑った。
しかしかなりの速度で駆けながらも息ひとつ乱さずに笑う楽歩に、海斗は内心で舌を巻いた。
やはりこの御仁は美事な男だ。と、海斗も我が事のように嬉しかった。
連日の疲労で息は上がっていたが、それでも楽歩と共に駆けることに誇らしさを感じながら、海斗は走り続けた。
走ったおかげで、工事現場へは遅れるどころか、却って少し早く到着することができた。
海斗は現場入りする前に近所の農家で井戸を借り、その水で喉を潤して呼吸を整え、顔を洗って身だしなみを整えた。
その間に、走っている間に言えなかった話題を、楽歩に話した。
「ふむ、一座に広く興行してほしいということか」
「ええ、昨年から暗い話題ばかりで民心は沈んでいます。こういう時こそ明るくならなければ……一時でも良い、苦しみや悩みを少しでも忘れることが、明日への活力を生み出すことに繋がると思うんです」
「実にもっともだ」
海斗の言葉に楽歩はうなずき、 そして笑った。
「まさにそれなら、うちの一座の得意とするところだ。なにしろ、うたい文句にしているくらいだからな」
楽歩はそう言って、猫村座の口上を口ずさんだ。
――――
古今東西、古今東西
寄ってらっしゃい、見てらっしゃい
歌に踊りに大芝居 浮いた浮世に夢芝居
苦労も悩みも笑って晴らせ
猫村一座のお出ましだ
――――
それはすこしおどけた調子の歌だったが、海斗は、楽歩のその声に聞き惚れた。
低く、深い、男の色気とも言いたくなる声だった。
「始音殿」
「は、はい」
呼びかけられて我に返った海斗の前に、再び楽歩の笑みがあった。
「案ずるな。九里府藩の事情は噂で聞いておった。こんなことだろうと思って、うちの一座はすでに興行の準備を始めておる」
「ま、まことですか!?」
「去年はろくに興行もできなんだし、その意趣返しの意味もある。もう各村にも話を通したし、明日からでも始められるぞ」
「おお!」
海斗は喜びのあまり、楽歩の手を両手で握りしめた。
「さすがは楽歩殿だ。あなたが居てくれて本当に良かった!」
「ん? んむ、いや、ちと大げさではないか?」
「そんなことは――あ?」
海斗は、自分の行為に気づき、慌てて手を放した。
「こ、これは失礼した。“神威”殿」
「いや、構わんよ。“海斗”殿」
「あ…う…」
楽歩からにこやかに名を呼ばれ、海斗は赤面した。親しき仲にも礼儀あり。それを踏み越えた海斗を、楽歩は快く受け入れてくれた。
「海斗殿、これからもよろしく頼む」
今度は楽歩が、スッと、手を差し出した。
「はい、こちらこそお頼みいたします。…楽歩殿」
海斗がその手を取ると、楽歩はそれにもう片手を重ね、先ほどの海斗と同じように両手で握った。
海斗も同じく、両手で応える。
それは熱く、硬い、剣客の手。
侍の手だ。と、二人は互いに感じあった。
その日も照りつける陽射しのきつい、暑い日だった。
堤防の工事現場では、午前の仕事を口数少なく終えた人足たちが、思い思いの場所で弁当を広げていた。
さぁっ、と涼やかな風が吹いた。
そして、それにのって流れてきた、のびやかな笛の調べ。
堤防の上の見晴らしの良いところで昼食をとっていた人足たちがそれに気づき、風上へと目を向けた。
広がる青田が風に揺れて波うち、それとともに派手な装いをした一団が色とりどりの幟を立てて、にぎやかな調べを奏でながら歩いているのが見えた。
「ありゃあ、猫村の一座じゃねえか?」
「おお、そうだ、そうだ」
その声で、他の場所にいた者たちも一座の存在に気付く。
「あいつら帰ってきたんか」
「待ちかねたなぁ、これで今年の祭りも少しは賑やかになるよ」
一座の姿を目にしただけで、人足たちの声に心なしか明るさが戻ったようだった。
だが一座の歩みが真っ直ぐにこの工事現場に向かって来るのが明らかになるにつれ、そこに驚きの声が混じるようになった。
「なんじゃあいつら、まさか?」
「皆の者、よく聞いてくれ!」
海斗が堤防のもっとも高いところに立って、告げた。
「本日の作業はここまでとする。後はそれぞれ、思い思いに過ごしてくれ!」
海斗の思いがけない言葉に人足たちはざわめいた。
しかし、近づいてくるお囃子の音に、彼らようやく海斗の意図に気づき、そして歓声が上がった。
――――
古今東西、古今東西
寄ってらっしゃい、見てらっしゃい
歌に踊りに大芝居 浮いた浮世に夢芝居
苦労も悩みも笑って晴らせ
猫村一座のお出ましだ
――――
猫村一座が大八車に酒樽を満載にして現場へと到着する。
その酒樽の上に一人の若者、優馬が駆けあがった。
「さあさあ、振る舞い酒だよ。こいつはお代官様からのお志だぁ!」
優馬が扇をふるいながら告げると、大八車の周りに、わっ、と人が集まった。
「あぁ、ありがたや、ありがたや、お代官さまさまだ!」
「かぁー、うめぇっ、昼間っから呑む酒は格別だなぁっ!」
「おい肴だ! 弁当だけじゃ足りねえ、近くの村から肴もってこい!」
「肴だけなんてケチ臭いこと言わねえで、村の者たちも呼んでこいや!」
「おう、おう、おう、宴じゃ、宴じゃ」
たちまちの内に近隣の村々からも人が集まってきた。
しかも手ぶらではない。みな肴どころか自前の酒まで持ち寄って、酒宴の席が整った。
あとは歌だ。踊りだ。いろはが笛を吹き、ルカを始めに一座が舞った。
人々は手を叩いて喜び合い、やがて共に踊りだした。
音楽は止むことなく、踊りは輪となって広がり、笑い声が弾けた。
やがて日が暮れて、暗くなっても宴は続いた。人々は憂いを忘れて、悩みを忘れて、歌い、踊り明かした。
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第十一幕・それぞれの覚悟
翌日から工事は再開された。
しかし人足たちに昨夜の宴の疲労は見られなかった。むしろ動きには機敏さが戻り、掛け声には張りが出て、目には光が宿っていた。
猫村座はそれからも他の工事現場や各村で興行を開いて回った。
海斗は一座に礼金を渡そうとしたが、いろはから断られた。それどころか呼ばれた村からの礼金さえわずかしかもらって無いという。
「アタイらの心意気さね」
いろははそう言ってニッコリと笑った。
海斗は大人しく引き下がり、代わりに他人の名義を借りて興行ごとに振る舞い酒を差し入れた。
それは始音家の家計的にも厳しい出費であったが、めいこはこう言った。
「あなたの好きになさいまし」
「良いのか?」
「昔、あの事件の後に腹を召されようとしたのを、私が無理に引き止め、共に逃げて下さりました。あなたの侍の面目をつぶす行為を、あなたは受け入れてくれた。私と、赤人のために……。あれが私の、一生で一度の最後の我侭でございます。だから、あなたは好きに生きてくださいまし」
そう言って、めいこは微笑んだ。
秋になり、稲の借り入れと、二期作である葱栽培の準備が始まった。それでも工事に参加している人足たちの数は減らなかった。
「お前たち、それで良いのか?」
海斗の問いかけに、人足たちを代表し、出流が答えた。
「多少の無理は承知の上です。大丈夫、刈り入れを遅らせるようなことはしませんし、工事を遅らせることもしません。……皆、昨年と同じ轍を踏みたくはないのです」
「そうか。すまぬ、ならばその心意気に甘えよう」
しかし、と海斗は続けた。
「無理がたたるようなら遠慮なく申し出てくれ。皆の働きにより、工事の日程に余裕が出てきた。遅らせることもできよう」
「それで万が一ことが起きてしまったら、お代官様が責任を取られるのでしょう?」
「それが仕事だ、気にするな」
「御免こうむりましょう。私らのために前のお奉行はご切腹された。この上あなたを死なせては、私らの矜持にかかわります。……お侍さまに面目があるように、百姓にも譲れぬものがありますのでね」
出流はそう言って、不敵な笑みを浮かべた。いや出流だけではない。人足たち皆が、やる気に満ちていた。
工事は遅れることなく、そのまま進められた。
そして、彼らの覚悟と努力とその結果が、試される時がやってきた。
天候が急変したのは、堤防工事も終盤にさしかかった頃だった。
朝から異様に生ぬるい風が吹いていたが、それが昼過ぎになって急激に強くなった。山の木々が軋むほどの強風はすぐに黒雲を伴い、滝のような雨を叩きつけた。
海斗を始め、誰もがついに来たと悟っていた。
海斗が最も工事の遅れていた現場へと駆けつけたときには、すでに工事が終わった現場から多くの人足たちも駆けつけ、土砂降りの中で作業にかかっていた。
「出流、皆に伝えよ。工事は中止だ。決壊の恐れがある。すぐに逃げよ!」
「できませぬ。あとわずかで完成なのです。そうすれば決壊はしません!」
「決壊するかせぬかは神仏にしかわからぬ! 雨風はすでに昨年以上だぞ!」
「ならば、いまここで投げ出せば間違いなく決壊いたしましょう。神仏にしかわからぬ? そんなことは百も承知です! だからこそ諦めてはならんのです! 百姓を舐めないでいただきたい!」
出流たち人足は頑として譲らなかった。
そうこうしているうちに、さらに激しさを増す豪雨のなか、近隣の村々からも次々と人が集まって来ていた。
誰一人として避難勧告に従わず、水かさを増した危険な堤防の水際で、土嚢を積み上げ、板と柱で押さえて補強工事を進めていく。
ならば是非もなし。海斗も腹をくくった。
「出流、いま最も危険な個所はどこだ? 案内せよ!」
「はい!」
海斗は出流と共に、濁流の圧力が最も大きい、川の彎曲部に移動した。この部分が最も危険であるだけに、堤防の幅も高さも他より一段以上高い。
その上に立った海斗の視界には、怪物のような吠え声をあげる濁流や、それに必死に抗う各工事現場の様子が一望できた。
「出流、皆に伝えるのだ。私はここを動かぬ。もしここから私の姿が消えるとすれば、それは水がここを超えた時だ!」
「お代官様!?」
「私が見えなくなったら、何をおいてでも逃げよ。良いな!」
「はっ!」
出流がうなずき、現場へと走っていく。
その先では、領民が総出で危険な工事を続けている。
百姓の矜持、百姓の覚悟。
――始音よ。我ら侍が、何故、人の上に立っているのか、分かるか?
不意に、かつての上役の言葉が蘇った。
――堤防を工事したのは民だ。被害を受けたのも民だ。豊作になれば喜ぶのは民であり、不作になれば苦しむのも民だ。だが……
「……責任を負うのは、我ら侍だ」
海斗は声に出して呟いていた。
「侍は責任を負うために、上に立っているのだ。それが、役目なのだ。侍が命をかけて責任を負うからこそ、領民は困難に立ち向かってくれるのだ」
海斗は、自分に言い聞かせるように呟いていた。
工事現場から少し目をずらせば、そこには既に足もとにまで迫ろうとしている真っ黒な濁流があった。
風もすさまじく、両足を踏ん張っても飛ばされそうだ。
海斗は必死に堪えた。
風に、雨に、そして足元へと迫りくる恐怖に堪え続けた。
時折、意識が飛ばされそうになる。
連日の疲労は、まったく癒されていない。休息などとっていない。
海斗の身体は限界に近づいていた。今立っていられるのは、死の瀬戸際にあるという極限の緊張感のためだ。
だがそれゆえ、終わりは不意に訪れる。
張りつめた糸が切れるように、海斗の視界が暗転した。
そこにひときわ強い突風が吹き、海斗の身体が大きくかしぐ。
落ちる。
濁流に呑まれる。
その寸前、海斗は誰かに抱きすくめられた。
「海斗殿……海斗っ!」
「が…く……?」
「起きたか。また気絶しておったな? 無理も大概にせよ」
楽歩が、雨に濡れながら呆れ顔で笑った。
「海斗、立てるか?」
「面目ない」
楽歩に支えられながら、海斗は立ち上がる。
しかし足元がおぼつかず、楽歩が肩を貸す。
「楽歩殿、なぜここに?」
「野次馬しにきたらお主を見つけてな。……ここは、なかなか見晴らしが良い」
「一番危険な場所です」
「知っておる。だから、それ以上は言うな」
「………」
海斗は押し黙った。楽歩が支えてくれる肩が、ただ有難かった。
楽歩が言った。
「ここから見る景色は壮絶だな。まるで戦だ」
「百姓の戦です。彼らはこうやって、神仏にも等しい大自然の脅威と闘い続けてきた。私たちにできるのは、ただ見守るだけです」
「彼らに命を預けておるのだな」
「不思議なことに、怖くはありませぬ。先ほどまでは怖かったのですが」
「それはまた、異なことだな」
「ええ、異なことです」
二人は顔を見合わせて笑った。
濁流はすでに間近に迫り、吹き上がる水飛沫が二人に襲いかかっていた。
風雨は夕刻になり、ようやく衰えを見せ、日暮れ近くには水かさは引き始めた。
堤防は、無事に完成した。
祭囃子が遠くに響く。
秋祭りの日の、日暮れ時である。
大風を無事にしのいだことと堤防の完成を祝って、盛大に開かれた今年の秋祭りには海斗も招かれていた。
しかし、時刻も時刻である。
平役人時代と違い、代官職にある者が夜遅くまで酒宴にふけっていては体裁があまり良くない。
海斗は日暮れとともに席を辞し、帰路についていた。
秋虫が鳴く涼やかな夜道を、海斗はひとり歩いていた。
時折、足元がおぼつかなくなる。
酒を飲みすぎた?
否、彼はそこまで飲んでいない。
では、相も変わらず疲労がたまっていたのか。
確かにそれはある。
だがそれだけではなかった。
海斗は急に激しく咳き込んだ。
背中を丸め、口元を手で押さえる。
誰もいない薄闇の道で、海斗の咳き込む声が遠くの祭囃子をかき消した。
ややあって、海斗はようやく落ち着きを取り戻し、上体を起こした。
その目が、口元から離された手のひらに落とされる。
その手は、赤く染まっていた。
海斗は血で汚れた手を握り締め、しばし、その場に立ち尽くしていた―――
一方、その頃。
国境の関所に、二人の旅人が訪れていた。
歳は十四、顔だちの良く似た少年と少女の二人連れである。
少年は自分たちを、愛洲藩に仕える鏡音家の者だと名乗った。
彼は関所の代官に、一通の書状を差し出した。
それは、仇討御免状。
仇討のために他藩への滞在を許すという、将軍家公認の通行手形である。
「この藩に、我が父の仇が居るという噂を聞いて推参致した次第」
少年は声変わり前ながら、落ち着いた声で問うた。
「元愛洲浪人、始音海斗殿にお引き合わせ願いたい」
それは、間もなく冬が訪れようとする、晩秋の頃……
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第十二幕・鏡音の双子
その日、楽歩は廃寺の裏手の川で釣りに興じていた。
周囲の木々は長い枝を渓流の上に伸ばし、鮮やかな紅葉がちらちらと降っては川面を彩っている。
そんな風流に浸りながら、楽歩は無念無想で釣り糸を垂らしていた。
剣を構えるが如く釣竿を構え、流れに潜む魚の気配に全身を研ぎ澄ます。
彼がこの境地に達してから既に一刻ばかりが過ぎていた。
そして、いまだに魚籠は空である。
楽歩の身体がわずかに前かがみになり、頷くようにガクリと頭が振れた。
「!?」
次の瞬間、楽歩はバッと上体を起こし、釣竿を振り上げた!
見事な紅葉を残したまま流れてきた枝が、楽歩の目の前にぷらぷらと揺れていた。
「ほう、風流ですなぁ、旦那」
と、傍らで礼夫が笑った。彼の魚籠も空である。
「良い枝ぶりだろう?」と、楽歩。
「腹は膨れねえけどな」と、優馬。彼の魚籠も空である。
無益な釣り糸を垂れる三人をあざ笑うかのように、渓流から魚が跳ねた。
「なぁ兄貴、釣りよりも爆竹投げたほうが早くねえか?」
「持ってるのか?」
「持ってねえけど」
「では、無意味だ」
「じゃ石投げようぜ。あそこで飛び跳ねてる魚めがけてさ!」
「当てれるのか?」
「やったことねえ」
「では、無意味だ」
「兄貴はできねえの?」
「むしろなぜ出来ると思った?」
「なんかそんな気がして」
「手裏剣の得意な忍者じゃあるまいし、飛び跳ねる魚に礫など当たるものか」
「お、礫を投げずに正解でしたぞ」
と、礼夫。彼の釣竿が大きくしなっていた。
「これは大物だぞ!」と、礼夫が興奮して叫ぶ。
「今度は盆栽でもかかったか?」と、楽歩。
「負け惜しみは見苦しいですな、旦那!」
「お、兄貴。姉貴たちが帰ってきたぜ」
と、優馬が後ろを振り返り言った。
楽歩も振り向くと、廃寺からの小径を三人の女たちが下りてくるのが見えた。
買い出しに出かけていた、いろは、ルカ、ミズキたちだ。
「どうだいアンタら、釣れたかい?」
「いま、礼夫が大物と格闘中だ。だが盆栽かもしれん」
「はぁ?」
そのとき、二人の背後で礼夫がついに川から獲物を引き上げた。
「おお、こいつは見事な―――」
流木だった。流水に長く浸され、表面に飴色の風合いが出ている。
「詫び寂だな」
「ええい、くそ!」
「よくわかんないけど、アンタたちの魚籠が空っぽだってのはわかったよ。そんなことより、アンタ、大変さね」
「ん?」
「始音のお代官様が倒れちまったそうさね」
「なんと!?」
「町で本音村の連中にあって聞いた話さ。彼らはお代官様と親しいから、間違いないよ」
いろはの話を聞き、楽歩はやれやれとため息をついた。
「海斗め、いつかこうなると思ったぞ。だからあれほど無理をするなと言ったのだ」
「お代官様はお忙しいのさね。ひがな一日釣り糸垂れて釣果なしの浪人と違ってね」
「日々これ修行なり。釣りは禅に通じるところあり、禅は剣に通ずる」
「だとしたら、剣の名人にはほど遠そうだね」
「未熟なり」
「そんなことより」
と、横からルカが口を挟んだ。
「お代官様が臥せってしまわれたんじゃ、今度やるはずだったお子様のお祝いも延期になっちゃいますよぉ」
「んむ。今年こそはと思っておったのだがなぁ。春には間に合わなんだし、夏と秋は興行三昧。一息ついてようやく約束が果たせると思うたが……」
「いちどお見舞いに行かれたほうが良いんじゃないですか?」
「そうだな。…ルカ、お前も行くか?」
「ん~…」
ルカは少し迷って、首を横に振った。
「遠慮しときますよぉ。あなたは始音様とゆっくり話したいでしょうし」
「そこまで気を遣う必要は無い」
そう言った楽歩に、
「おバカ」
と、いろはが呆れて言った。
「お侍の、それもお代官様の家に行くんだよ。あんたは始音様を相手にするから気にしないだろうけど、ルカは奥方様を相手にしなきゃならないんだからね。気を遣って当然さね」
「ん…む」
いろはの言葉に、めいこの品の良い姿が楽歩の脳裏に浮かんだ。
確かに、仮にも侍である楽歩と海斗と違い、かたや旅芸人として、かたや侍階級で育った女では、お互いやりづらかろう。
ルカが始音家の門をくぐるのは、彼女が本領を発揮できるとき、すなわち祝いの席で舞を披露してからのほうが良かろう、と楽歩は思った。
ルカの舞を見た後ならば、誰しもが彼女に一目置くことを、楽歩は確信していた。
「ではやむを得ぬ。今日のところは俺一人で行くとしよう」
「けど、手土産はどうするさね? 魚の一匹でも釣れてりゃ恰好ついたろうに」
「言うな。…仕方ない。なにか途中で、精のつくものでも買っていくか」
「あら、それには及びませんよ」
と、そう言ったのはミズキだった。
彼女はいつの間にか楽歩の釣竿を持って川べりにいた。
そしてその釣り竿の先には、見事な大物の川魚が釣れていたのであった。
出流がその少年少女と出会ったのは、見舞いのために始音家を訪れた直後のことだった。
彼が普段から出入りしている裏口から出て、屋敷の正面に回ったところで、
「もし」
と、少年から声をかけられたのである。
「こちらは始音海斗殿の御屋敷で相違ないでしょうか?」
折り目正しいその少年は小柄で、歳の頃はおよそ十四か十五ほどと見えた。その腰には刀と脇差の二本を差していることから、年若くも元服した侍だと分かる。
傍には顔立ちのよく似た少女がおり、どちらも見目麗しい、美少年と美少女だった。
「はい、こちらは確かに始音様のお屋敷でございます。しかし」
「しかし?」
「始音様は今、お身体の具合が芳しくなく、臥せっておられます。訪うのはご遠慮なされた方が宜しいかと」
そう言う出流自身、海斗には直接会わずに、はくに見舞いの品を渡しに来ただけである。
「左様ですか。ありがとうございます」
「では、失礼致します」
出流が立ち去った後、少年と少女はしばらくの間そこに留まっていた。
二人の目は、じっと屋敷に向けられている。
「蓮……」
と、少女が口を開く。
「蓮、今なら――」
「戻りましょう、姉上」
少年はそう言って、元来た道を帰り始めた。
「蓮、どうして!? あの男は病んでいるんだよ!」
「病人の寝込みを襲っても、父の名誉は取り戻せませぬ」
「…っ!」
少女は唇を噛み締めながら、遠ざかっていく弟の背中と、屋敷とを交互に見た。
「蓮っ!」
だが少年は構わず去っていく。少女もついに諦め、その背中を追った。
屋敷からやや離れたところで少女は少年に追いつく。ちょうどそのとき、二人の先からやって来る一人の男の姿があった。
楽歩だ。
彼は右肩に魚籠を下げながら、海斗の屋敷へ向かっている途中だった。
楽歩は向かいから来る二人に然程の関心を向けて居なかったが、ある程度まで近づいて来たところで、フッと皮膚が泡立つような感覚を覚えた。
(殺気?)
楽歩の剣士としての鋭敏な感覚が、正面から放たれる微かな殺気を捉えていた。
楽歩はわずかに歩幅を狭めて歩みを落とし、右肩に下げていた魚籠を下ろして右手で下げるだけにした。
左手は既に、自然と刀の鍔元を押さえている。
そうやってすぐに抜刀できる体勢を整えたところで、楽歩は違和感を抱いた。
殺気は確かに近づいてくるが、それは楽歩に向けられたものでは無いと気付いたからだ。
しかも、
(あの少年……では無いな)
前方から歩いてくる少年の気配は静かなものだ。目先や歩き方からも、楽歩に何の関心も持っていないことが分かる。
(だとすれば、もう一人の?)
少年のすぐ後ろを歩く少女だ。彼女の雰囲気には明らかに殺意があった。
しかし、誰に?
いや、誰に向けるまでもなく、やり場の無い殺意を抑えているのだ。楽歩はそれを、二人とすれ違った時に少女の表情を見て悟った。
思い詰めた、ともすれば自ら命を絶ちかねないように見えて、楽歩は立ち止まり、振り返った。
遠ざかろうとする二人の背中を見つめ、しばし迷い、そしてようやく声をかけてみる事にした。
「失礼――」
だが彼自身にまだ迷いがあったのか、声は二人には届かず、そのまま去って行ってしまった。
「……未熟なり」
楽歩はポツリと呟いて、魚籠を肩に担ぎ直して屋敷へ向かった。
はくに訪いを告げると、奥からすぐに、めいこも出てきた。海斗の様子を聞くと、さっきまで眠っていたが、今ちょうど起きたところだという。
楽歩の来訪を知り、是非上がって欲しいとの事だった。
案内された先で、海斗は寝具から上体を起こして楽歩を迎えた。
「楽歩殿、よく来てくれた」
「空元気か? まだ顔色が優れぬぞ。寝ておれ」
「……楽歩殿には敵いませんね」
海斗は力無く笑って、大人しく横になった。
「医師には診てもらったのか?」
「ええ…まあ大した事はありません、単に疲れが溜まった結果だと。奉行所からもしっかり休めと言われました」
「そうか、ならば良かった。もうじき冬が来る。これ以上身体を壊さぬようにな。元気になったら今年こそ赤人殿の祝いをやろう」
「その話、まだ覚えていらしたんですね。ありがとうございます。しかし、冬になればまた旅立たねばならぬのでは?」
「その心配はいらん。今年はここで冬を越す事にしたからな」
「そうでしたか」
「うむ。夏と秋の興行が評判良くてな。正月も是非頼むとあちらこちらから引っ張りだこだ。情けは人の為ならずとはよく言ったものだな。赤字が消えて却って儲けが出そうだ。いろはもやたら機嫌が良い」
「そうですか、なにやら想像できそうです。しかし、いろは殿といえばあの方、年を経ても全く変わりませぬなぁ」
「見慣れてしまったから今更だが、あやつ、本当に妖怪ではないかと疑う事がある。きっと十年たってもあのままだぞ」
「それは、さすがに……」
無いと否定しようとしたが、あり得なくもない気がして、海斗は苦笑した。
二人はその後も当たり障りの無い世間話をして過ごした。
しかし楽歩は海斗の体調を気遣って、今日のところは早めに切りあげる事にした。
「また来る。早く良くなれとは言わぬ。ゆるりと休め」
「かたじけない」
楽歩は立ち上がり、去り際にふと振り返った。
「そういえば、俺が来る前に誰か訪ねて来たか?」
「出流が来てくれたそうです。もっとも、彼は遠慮してすぐに帰りましたが」
「ふむん」
楽歩は顎を軽く撫でて、
「いや、なんでもない。お邪魔した」
そう言って帰って行った。
それから数日後、ある程度体調が回復した海斗は、久しぶりに屋敷を出た。
向かった先は奉行所ではなく、家老・氷山清輝の屋敷である。出歩けるようになったら先ず家老屋敷に来るようにと、以前から言われていたのだ。
屋敷に着いた海斗は、すぐに清輝の元へと案内された。
ちょうど粉雪がちらつき始めた寒い日である。
障子が閉め切られた薄暗い部屋で、火鉢で燻る炭だけが赤くぼうと光り、清輝の影を濃くしている。
いつも側に控えている女中のおミクは、今日は居なかった。
「体調はどうだ、始音」
「おかげさまで、すっかり回復してございます」
「嘘を言うな、医師から聞いておるぞ。この寒さでまた熱を出したそうではないか」
「………」
「回復しきってから来いと伝えたつもりであったが……まぁ良い。直ぐに済む話だ」
そう言って清輝は、少しの間黙って、周りの気配を伺うような素振りを見せた。
つられて海斗も周囲の気配を探る。
誰の気配も無かった。
(人払いされている?)
海斗がその事をいぶかしんだ時、清輝が口を開いた。
「お主、鏡音蓮也という名に覚えはあるか」
「それはっ!?」
海斗が答えようとした時、清輝は手を振ってそれを遮った。
「分かった、それ以上答える必要は無い。後は黙って聞け」
「………」
「先日、蓮也の遺児と申す者たちが藩内へ来た。双子の姉弟だ。十四の子供だが弟の方は既に元服を済ませておる」
清輝がいったん言葉を切ると、部屋に耳が痛くなるほどの静寂が降りた。
火鉢の炭が小さく、キンと鳴った。
「仇討御免状を持ち、始音海斗に会わせろと言ってきた。……調べて確認した後、該当者が居れば連絡すると伝えて、取り敢えずその場は追い返した。これが十日ばかり前の事だ。お主の元へ、それらしき者は来たか?」
「いえ……」
「いつ来るか分からぬ。用心せよ」
「…ご家老、それは」
「よい、なにも言うな。お主の過去については殿も了承された事だ。その事でとやかく言うつもりは無い。だが…」
「………」
「だが、父の仇を討つは侍として為さねばならぬ事である。その上、ご公儀公認の御免状まである以上、藩としてお主を庇い立てする事はできぬ。ゆえに、お主の回復を待って然るべき場を用意する。…そこで返り討ちにせよ」
「っ!?」
その言葉に、海斗の肩が震えた。伏せがちだった目が上げられ、清輝を見る。
清輝は言った。
「始音、お主は武芸を持って召し抱えられた身。下手な情けを出して、無様を晒すで無いぞ」
「……はっ」
「話は終わりだ。以後も体調の回復に努めよ。それと帰りは護衛をつける。念の為だ」
海斗は一礼し、部屋を後にした。
玄関へ向かう長い廊下を渡る途中、
「あ、始音様…?」
一人の女中が彼の姿を見つけ、寄ってきた。
それは、おミクだった。
「お、お呼び止めして申し訳ございません。まさか、いらっしゃるとは思わなくて。その、お身体の方はいかがですか?」
「…いえ、心配なさるほどではありませぬ」
「そうですか。でも、まだ顔色が優れないようですが。よろしければ空いた間で休まれてはいかがですか? 温かいものも直ぐにご用意いたしますよ」
「いや、結構です」
「そ、そんなこと仰らずに、どうぞ此方へ」
おミクが海斗の袖を引こうと手を伸ばしたとき、
「止せっ!」
海斗が声を荒げてその手を振り払い、おミクはビクリと震えて後ずさった。
「も、申し訳ございません」
怯えながら頭を下げたおミクの姿に、海斗もハッとなった。
「わ、私こそ済まなかった。お主に非は無い、非は無いのだ」
「始音…様…?」
「済まぬ……御免」
海斗は逃げるように去っていった。
おミクは目尻に涙を浮かべながらそれを見送ったが、やおらキッとまなじりを決して、足早に清輝の部屋へ向かった。
「図書ノ介、どういう事か!?」
襖を音を立てる程勢いよく開けて叫んだおミクに、しかし清輝は動じる事なく答えた。
「不調法が過ぎるぞ、おミク」
「念入りに人払いをしておいて、なにがおミクか!」
「失礼致しました」
ずかずかと部屋に入って来たおミクと入れ替わりに清輝は立ち上がり、開け放たれた襖を閉めた。
上座に着いたおミクに対し、清輝は下座に控える。
「私にも内緒で海斗を呼びつけて、いったい何を告げた?」
「彼を父の仇と狙う者たちが現れたので、返り討ちにせよと申し付けました」
「まことかっ!?」
「鏡音蓮也の遺児、蓮と凛という双子の姉弟にございます。まだ十四の子供ゆえ、討つは容易いかと」
「子供を……子供を斬れと言ったのか!?」
「子供といえど侍にございます。仇討を果たさねば故郷へ帰る事さえ許されず、生涯追い続けねばならぬ宿命。ならば双方にとって、ここで決着をつけさせてやるのが、侍の情けというもの」
「けど…けど……っ!」
「始音を召し抱える際、私は申し上げた筈です。いずれ、このような時が来ると」
「………」
おミクは言葉も無く、唇を噛み締め、うつむいた。
「……私は、どうすればいい?」
「これはあの男の問題。手出し無用にございます」
「………」
薄暗い部屋の中、静寂の果てに炭が小さくキンと鳴った。
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第十三幕・鏡音蓮也
あれは、いつの日の事だったか……
「示現流の秘伝とは、どのようなものだ?」
気の置けない友人と、いつものように飲みに出かけ、いつものように剣術談義に花を咲かせていた時に、不意にそう訊かれた。
「どのようなも何も、ただひたすら無念無想で相手に打ち込む。この他にありませんよ」
海斗がそう答えると、友人・鏡音蓮也は「ふうん」と頷いて、手酌で酒をちびりと飲んだ。
安い一杯飲み屋の、安い酒である。
蓮也とは役職も、通っている道場さえも違うが、同じ下級藩士、そして同じ剣士同士としてウマが合い、連れ立って飲みに行くこともしばしばだった。
彼は愛洲藩内でも有数の大道場・鉄車宝蔵流の免許皆伝者であり、特にその居合は精技絶妙を極め、並ぶもの無しと称賛されるほどだった。
一方で海斗の遣う示現流は、かつて城下に道場があったものの、その稽古のあまりの激しさから門弟が次々と去ってしまい、道場主が亡くなったのを機に閉鎖してしまっていた。
その道場主が亡くなる前、最後まで残っていた弟子である海斗に秘伝を授けた、という噂があった。
道場が閉まる前、その当時から海斗の強さは藩内でも有名になっていた。
そのきっかけとなったのは、正月に愛洲神社で行われる奉納試合でのことだった。
この奉納試合では毎年、剣士達が集まって技を競い合う。海斗はそこで瞬く間に十人抜きを果たし、名声を得たのであった。
この時、蓮也も同じく奉納試合に参加し十人抜きを果たしたが、この二人が立ち会うことは無かった。
立ち会いの組み合わせはクジ引きで決まったものであったし、この奉納試合はそれぞれ十人と立ち会ったところで勝ち負けに関わらず終わるのが習わしだったからだ。
だが、このために藩内では、蓮也と海斗、どちらが強いかなどという噂が飛び交うことにもなったのである。
そんな最強議論の根拠のひとつとして、海斗が示現流の秘伝を授けられているという噂があったのだ。
しかし当の本人達は、こうして二人並びながら、そんな噂を肴に安酒を楽しんでいる。
「そういや、示現流にも居合あるんだってな?」
「まあ、どこの流派にも有るでしょうけど」
居合は技術のひとつであり、それ自体に独自性は無い。
「示現流の居合は鉄車流ほど重視されておりませぬ」
「ウチとはまた違った工夫があると聞く。藩内じゃお主以外に遣う人間も居らんし、一度見てみたいものだが」
「別に構いませんが、私の知る限りそんなに大した違いは無かった気がします」
「ふうん。ま、俺より速い居合が居ないと判るのは、少し嬉しいな」
「ですね。勝てそうに無い」
そこは海斗も認めるところだったが、しかし、あるいは、とも思っていた。
あるいは、あの技なら?
海斗は独自に工夫した秘剣を蓮也相手に思い描きながら、杯をちびりと舐めた。
「ま、俺もお主が大上段に構えたら逃げの一手だ」
そう言って、蓮也もまた杯を舐める。
だがきっと、彼も脳裏では海斗の一撃を破る工夫を考えてるのでは無いか。海斗はそう思った。
その想像は不快どころか、むしろどんな手を使ってくるのか興味をそそられ、
(いずれ本気で立ち合ってみたい)
そんな欲を掻き立てられてしまうのだった。
やがて話題は、他の剣士批評に移った。
どこの道場の誰それが最近頭角を表してるだの、ウチの道場にも見込みのある奴がいるだの。
「だが最近、困った奴がいてな」
「誰です?」
「ほら、次席家老の甥っ子だ」
「ああ」
と、海斗は頷いた。
鉄車宝蔵流は大道場だけに、上級藩士や高い役職の子弟も多く在籍していた。故に藩内の政治問題がそのまま道場内に持ち込まれることも珍しく無い。
蓮也はそれを憂いているのだった。
「いま、筆頭家老と次席家老が激しい派閥争いを繰り広げているのは知っているだろう。あ奴、道場での人脈を利用して、稽古そっちのけで派閥への勧誘を繰り広げておる。正直、迷惑極まりない」
やれやれ、と蓮也は嘆いた。だが、稽古への障り以上に、蓮也にはもうひとつ気がかりがあるのだろうと海斗は見当を付けていた。
「ご子息達への影響も心配ですしね」
「そこよ」
蓮也は頷いた。
彼には息子と娘がおり、どちらも道場に通いだしたばかりである。
「特に蓮が問題だ。あいつは剣よりも学問を好むからな。門弟どもの政治談義によく聞き耳をそばだてていて、あまり良い傾向とは言えん。逆に凛は女子の身でありながら滅法な剣法好きと来て、これはこれで頭が痛い」
男手ひとつで育てたのが拙かった。と、頭を抱える蓮也を、海斗は微笑ましく眺めながら、例の奉納試合で見かけた双子の姉弟の姿を思い出していた。
父の試合を、目を輝かせて見ていた少女と、冷静な面立ちで眺めていた少年。
「海斗、お前も子供が出来たら気をつけろよ」
「肝に銘じておきますよ」
飲み干した杯でちょうど酒が切れ、その日はそれで終いになった。
それからしばらくして、海斗はまた蓮也から飲みに誘われた。
だがその日は、不可解な事が幾つもあった。
彼が誘ったのはいつもの一杯飲み屋では無く、藩内でも有数の高級料亭だったのだ。
海斗も蓮也も下級藩士であり、俸禄も多くない。一杯飲み屋でさえ、銚子一本に小鉢を一つ二つで、それさえも月に一度の贅沢に考えていた。
なのに、突然の高級料亭である。
「何故、この店に?」
本当は支払いは大丈夫か? と明け透けに訊ねたいところをグッと堪えた。相手の懐具合を探るなど、親しい相手であっても侍の沽券に関わるところである。
しかし蓮也もその辺りは察したと見えて、
「店の主人とは懇意だから、お主は気にするな」
「……左様ですか」
海斗は頷いたものの、蓮也の口ぶりに妙な違和感を抱いた。
いつもざっくばらんな男であるのに、今日はどこか余所余所しい。
それに少し緊張しているようにも見えた。懇意にしている店ならもう少し気楽にしていても良いような気もするのだが……
そもそも、海斗が知る限り、蓮也の交際範囲に高級料亭の主人が居るとは想像もできなかった。
しかしその辺りの疑問も含めて追い追い説明してくれるだろうと思い、海斗は蓮也に続いて料亭の敷居をくぐった。
案内された座敷で、床の間の刀掛け台に刀を置いて、脇差のみ帯びた状態で差し向かいに座った。
膳はすでに用意されていて、
「先ずは一杯」
と蓮也が銚子を突き出す。
いつも手酌の間柄だけに、海斗は少し戸惑いつつも酌を受けた。
杯を飲み干して返杯すると、蓮也は少し舐めただけだった。
いつもとは違う豪華な食事に箸をつけながら、海斗は何気無く蓮也と料亭との関係を聞き出そうとしたが、
「まあまあ」
と蓮也にはぐらかされ、やがて話題はいつもの剣術談義となった。
しかしその話題の中で、蓮也はしきりに示現流の秘伝についてこだわった。
「やはり俺の考えるところ、示現流の秘伝は心法のみならず技法においても工夫があるのではないか?」
「またその話ですか。大した事はありませんよ。ただひたすら相手に打ち込む。それだけです」
「しかし言い換えれば、相手より速く打ち込む事に全霊を賭する訳だ。では、居合を相手にした場合はどうなのだ」
「居合を?」
「そうだ。居合よりも速く斬り込めるかと訊いている。例えば、今この場において俺に斬り込めるか」
「何をおっしゃる!?」
海斗は蓮也の言葉に驚愕したが、それでも反射的にその可能性を思い描いていた。
互いに脇差のみ、
向かい合って座した状態、
果たして居合の達人相手に斬り込めるか――
海斗の反応を探っていた蓮也の眉が、わずかに動いた。
「――できるのだな、海斗」
「い、いや!?」
海斗は慌てて否定したが、遅かった。蓮也に見抜かれた通り、海斗はそれが出来ると確信していた。
「なるほど、それが示現流の秘伝か」
「………」
海斗は答えに詰まった。
違うと言えば、彼独自の秘剣の存在を明らかにせねばならぬだろうし、ならば示現流の秘伝という事にすべきだろうか。
流派の秘奥義を明かす事は剣士の禁忌である。同じ剣士ならばこれ以上立ち入るのを控えてくれそうなものだが……
しかし、蓮也は、
「お主、今まで俺を斬れると思って内心見下しておったな」
すえた声音で思いもよらぬ言葉を浴びせられ、海斗は絶句した。
「海斗、どうなんだ。言ってみろ。お主の本音を」
「そ、そんなこと、私は蓮也殿を尊敬こそすれ、見下してなど!」
「あの奉納試合、もし俺とお主が立ち合わば必ず勝っていたと、そう高言していたという噂もある」
「事実無根、言いがかりだ!?」
たまらず海斗は叫び、腰を浮かせた。
その瞬間、蓮也が動いた。
海斗が片膝を立てた時には既に、蓮也の左手は鯉口にかかり、右手が柄に触れようとしていた。
(斬られる!?)
海斗は反射的に後方へ跳んだ。座敷の障子を押し倒し、縁側にまろび出る。
「蓮也殿、正気かッ!?」
「正気? 正気を疑うのはお主だ、海斗」
蓮也は脇差から手を離していた。その鯉口は“まだ”切られていない。
「俺は何もしていない。なのに突然、座敷から飛び出すとは、気は確かか!?」
蓮也は周囲に響く声でそう言った。それはまるで他の座敷にまで聴かせるかのようだった。
「何もしていないなどと、蓮也殿は抜刀しようと――」
「ほう、俺がお主を斬ろうとした!? それこそ言いがかり、俺は柄に手をかけてさえいない。しかしお主はどうだ!? 己の姿をよくかえり見よ!!」
海斗はハッとなった。彼は既に鯉口を切り、柄に手をかけてしまっていた。鍛え上げられた剣士の本能が、意図せずに蓮也の殺気に反応してしまったのだ。
「ち、違う、これは!?」
海斗は柄から手を離し、その場に平伏した。
「蓮也殿、私の態度に何か問題があったのなら謝る。この通りだ!」
何故だ、何故こうなった?
海斗は混乱しながらも頭を下げ続けた。
しかし、
「ならぬ」
その言葉に顔を上げた海斗は、蓮也が床の間の刀掛け台から彼自身の刀を取り上げたのを見た。
「先に抜いたのは、海斗、お主だぞ。……大人しく、黙って俺の剣を受けるが良い。お主が知りたいことは、その後でじっくりと教えてやろう」
ゾッとする程の冷たい声に、海斗は平伏したまま後ずさり、縁側から庭へと転げ落ちた。
ほとんど同時に蓮也が踏み込んできた。
低い位置に座り込んだ格好の海斗に対し、蓮也は鉄車流奥義のひとつである“天白”を遣った。
それは天を斬る勢いで刀を上に廻し、低い位置にある相手の首を打ち落とす技である。
稲妻のような刀閃が打ち下ろされた時、しかし、海斗の姿はそこには無かった。
海斗は蓮也の一撃が襲い掛かった刹那、縁側を飛び越え、座敷に着地していたのである。
海斗の左手には抜き放った脇差が下げられていた。
蓮也は刀を振り下ろした姿勢から、そのまま前のめりに庭へと倒れ落ちた。その右脇腹は斬り裂かれており、そこから激しく血が溢れ出した。
「しまった!?」
海斗は振り返り、庭へと飛び降りて蓮也の側に跪いた。
「蓮也殿、しっかり!」
「秘伝……秘剣か…?」
蓮也は呆然とした面持ちで、斬られた右脇腹を手で押さえた。
「まさか、本当に実在したとは……不覚……」
蓮也の目が一瞬、虚ろになったが、しかしすぐに見開かれ、近くにいた海斗の腕を掴んだ。
「逃げろ!」
「なっ!?」
「逃げろ、海斗。これは罠、俺は刺客だったんだ。派閥争いに巻き込まれ、選ばれてしまった……」
「蓮也殿!?」
「奴ら、お主の腕を警戒して……敵に回る前に殺せ、と……」
蓮也の目から光が消え、その手が腕から離れた。
「蓮也殿……蓮也殿…っ!?」
海斗は訳も分からず、その場に座り込んでいた。
誰かがこの斬り合いを目撃したのだろう、どこからか甲高い悲鳴が上がり、続いて料亭の中を慌ただしく走り回る音が辺り中に響き渡った。
(逃げろ、だって?)
何故だ? 何が何だか分からない。しかし、自分が蓮也を斬り殺してしまったのは確かだった。
その原因は、蓮也が斬りかかってきたから……
いや、
「これはッ!?」
海斗は蓮也の刀を見て、息を飲んだ。
この刀は……こんなことがあり得るのか……?
しかし何故、この刀を……?
まさか、蓮也は、まさか……!?
視界が回り、喉元を塞がれるような苦しさが海斗を襲った。
寝返りを打ち、暗闇の中、手探りで枕元の桶を引き寄せ、その中に盛大に血を吐いた。
「が……ゴホ……」
大量の喀血に朦朧としながらも、海斗は自分が夢を見ていたことを自覚した。
あの日、蓮也を斬ってしまった時の夢を。
「あなた!?」
隣で寝ていためいこが、夫の異変に気付いて背中をさすった。
喀血の多さから当初は感染症である労咳を疑い、幼い息子は当然として、めいこにも近づかないよう言いつけていたが、しかし医者から、どうも労咳では無いようだとの診断を受けてからは、こうして寝所を共にしている。
原因はどうやら、肺ではなく喉にあるらしい。
「めいこ……大丈夫だ。もう、落ち着いたよ」
「あなた……」
背中をさする手が止まり、代わりにそっと後ろから抱きしめられた。
「……あなた」
その声に、かすかに嗚咽が混じる。
妻の温もりを背中に感じながら、海斗は、闇を見つめていた。
その闇の中に、蓮也と、そして幼かった彼の二人の子供たちの影が、ちらり、ちらり、と行き過ぎていった……
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第十四幕・助太刀依頼
九里府藩には高い山々と広い平野がある。
冬の最も寒い時期、水分を多く含んだ空気は山の向こう側から来る。その空気は急峻な峰に遮られて大量の雪を山に降らせ、平野へは微かな粉雪が乾いた風に運ばれてくるのみである。
そんな冬の日の朝、楽歩は廃寺近くの竹藪で、独り、佇んでいた。
僅かにこうべを垂れ、左手は刀の鯉口を切った状態で鞘に添え、右手はだらりと下げている。
空には雲もなく澄み渡った空気の中、竹の葉に薄く積もった粉雪が、さらりと舞った。朝陽にきらめく粉雪の粒子を追うように、枯れた竹の葉がハラリと落ちる。
楽歩の左足が後ろにスッと引かれ、彼の目前で光が二度、キラリ、キラリと輝いた。楽歩が引いていた左足を戻すと同時に、その腰で刀を納める鍔鳴りの音が響く。
その足元に、四つに切られた竹の葉が落ちた。
抜刀し、浮遊する葉を二回斬り、それが地に落ちる前に納刀した。まさに神速の居合抜刀術だが、卓越しているのは、その静けさであろう。抜刀から納刀までの間、音を立てたのは最後の鍔鳴りだけである。
殺気が無い。真剣を振るう気負いも何も無い。
示現流達人の海斗の目を持ってして、ようやく楽歩の太刀筋を追えたにすぎなかった。剣の心得がない者には、それこそ楽歩が左足を引いて、戻しただけにしか見えなかっただろう。
(さらに腕を上げておられる……)
海斗は感心しながら足を踏み出した。地面に積もった枯れ草が踏まれて、カサリと音が立つ。
その足音に楽歩が反応して、身体ごと素早く振り向いた。
楽歩は足音の主が十歩も離れていなかった事にギョッとして、そしてその正体を知って緊張を解いた。
「海斗……驚かせるな」
「失礼、そんなつもりはなかったのですが」
苦笑する海斗に対し、楽歩は苦り切った表情で頭を掻いた。
先程の居合は、楽歩自身、内心で自賛するほど冴え渡っていたが、その状態にあって海斗の接近の気配に気付けなかったのは不覚である。
いや、海斗の気配の消し方がそれだけ上手かったこともあるのだが……
楽歩はハッとなって海斗に目を戻した。
「それよりお主、何故ここに。出歩いて大丈夫なのか?」
海斗の体調が回復するどころか悪化の方向に向かっている事は楽歩も知っていた。事実、今、面前に居る海斗の顔色は青白くやつれている。これで気配を消していたのだから、楽歩は当初、幽霊でも見たような気になってギョッとしたのだ。
「いや、まあ、その事で話がありましてね」
「……とりあえず本堂へ行こう。ここは寒い」
楽歩は海斗の肩に手を置いて促した。
本堂へ戻ると、ルカが朝食の準備をしているところだった。
「あ、二人とも、おかえりなさい。あのね、あなた、海斗さんからタコの干物なんていう珍味頂いちゃったの」
「ルカ」
「はいはい」
「海斗と話がある。奥の座敷の火鉢に炭を足しておいてくれ。それと白湯だ……いや、茶だ。一番いい茶葉を用意してくれ」
高級茶葉は、同時に薬としても用いられていた。
「はいはい」
と、ルカは大人しく従った。
楽歩が奥の座敷の襖を開けると、そこでは朝から酒を飲む一座の面々の姿があった。
「おー、帰ってきたねぇ」
「いろは、何をやっている」
「お代官様から良い酒もらっちゃってねぇ」
「だからといって朝っぱらから飲む奴があるか。とりあえず外へ行け、外へ」
「やだよぉ、寒いんだから」
「酒持って出ろ。海斗と大事な話がある」
「お代官様かい。 だったら待たせちゃいけないねぇ」
いろははフラリと立ち上がり、足元をもつれさせて楽歩に抱きとめられた。
「ええい、酔っ払いめ」
「えへへ、お侍は暖かいねぇ」
「俺を懐炉がわりにするな。おい、ミズキ、礼夫、優馬、こいつをなんとかしてくれ」
「はいさ」
ミズキを始め、たむろしていた連中がいろはを連れて座敷から出て行く。
「すまんな、騒がしくて」
「いえ、こちらこそご迷惑をおかけします」
二人は刀を腰から外すと、火鉢を挟んで向かい合って座った。
だがすぐに楽歩は立ち上がって座敷を出て、さほど間を置かずに炭を持って帰って来た。その炭を火鉢に足す。
「茶はもう少し待ってくれ」
「どうかお気遣いなく。そこまでされると心苦しい。…しかし」
海斗は座敷を眺め渡して、
「やはり人が居るとは、良いものですね。一座がいない時のこの寺は本当に廃墟同然の寂しさで――」
「海斗、用件を話せ」
「もしかして、怒ってますか?」
「当然だ!」
楽歩は思わず語尾を荒げていた。
「さっきお主に触れた時にわかった。ひどい痩せ方だ。出歩ける身体では無い!」
楽歩の声は微かに震えていた。
海斗は有るか無いかの様な薄い笑みを浮かべた。
「その身体ですが、まだこれでも病状が軽いほうでしてね。これからもっと酷くなります」
「どういう事だ?」
「喉に腫れ物がありまして、今はまだ小さいですが、やがて大きくなり声を出す事さえままならなくなります。まぁ、その前に食事が喉を通らなくなり飢え死にするでしょうけど」
「なぜ……そう言い切れる」
「父が同じ病でした。祖父もそうだった様なので、我が始音家の血筋なのかも知れません。……私の命も、持ってあと一年でしょう」
淡々とした海斗の物言いに、楽歩は言葉を失った。
楽歩も命の遣り取りは何度もしてきたし、両親を始めとして死には何度も向き合ってきた。己の手で葬った命も多数ある。そうでなくとも、当時の社会は現代以上に死は身近である。
海斗の体調が悪化しているという話を耳にした時から、死への予感はあった。
それでも、今、その事実を本人から告げられて、楽歩は絶句してしまった。
声すら発せられなかった。
それほど、海斗の存在は楽歩にとって大きなものになっていた。
「楽歩殿」
押し黙ってしまった楽歩に、海斗は言った。
「私は流浪の身から藩士に取り立てられ、そして領民のために働くことが出来た。息子も健やかに成長していますし、何より、良き友とも出会えた。……私は望もの全て得たと言っても良い」
「……」
「だからこそ、最期にひとつ、楽歩殿にお願いがあって参った」
「……赤人殿の祝宴の件か?」
楽歩はやっとの事で声を絞り出したが、その質問の内容のあまりの虚しさに哀しくなった。
しかし、海斗は首を横に振った。
「いいえ、私の願いは、楽歩殿ともう一度立ち合うことです」
「なんだと…?」
「私と立ち合って頂きたい。真剣で。私がまだ刀を握っていられる間に」
海斗の声に感情がこもっていた。
その切望を感じ、楽歩は思わず、
「理由を聞こう」
そう言ってしまった。
海斗は答えた。
「今、国境の旅籠に鏡音 蓮と凛と申す双子の姉弟が逗留しています。私がかつて斬った男の遺児です」
「……仇討ちか」
「左様、御家老の差配で近い内に立ち合いの場を設けて頂くことになりました。私はそこで、彼らを返り討ちにせねばなりません」
「つまり、そこで俺に助太刀せよと言うのだな? お主にでは無く……」
「はい。鏡音姉弟の助太刀をして頂きたい」
「断る」
「まだ十四の子供たちです」
「それがどうした。侍だ」
「できれば、斬られてやりたい」
「ふざけるなッ!!」
楽歩は叫び、立ち上がった。
「斬られてやりたいなどと、それが侍の言うことかッ!?」
「左様、侍である以上できぬ相談です。私は全力をもって彼らを斬る。だからこそ、楽歩殿に頼むのです」
「お主の介錯など願い下げだ」
「介錯に非ず――」
海斗もまた立ち上がった。
「――これは果たし合いにござる」
二人は険しい目で睨み合う。
刹那、海斗と楽歩は同時に抜刀していた。斬撃が互いの身体を斬り裂き、鮮血が吹き上がる。
そんな白昼夢めいた幻想を、二人は見ていた。
現実には、どちらも抜刀などしていない。刀は外されたまま、二人の足元にある。彼らは手さえ動かしていなかった。ただ、殺気だけが飛び交ったに過ぎなかった。
「どうか、お頼みいたす」
海斗は一礼し、足元の刀を拾うと、楽歩に背を向けた。
そのまま去り際に、ふと、海斗は立ち止まり、
「今の間合いならば、私はあなたを斬っていた。我が秘剣・無拍子によって」
そう言い捨て、襖を開け放って去って行ったのだった。
海斗が去って行った後、楽歩はその場に倒れるように座り込んだ。
その額には玉のような冷や汗が浮いている。海斗の殺気に当てられたせいだ。
斬られた。そう思った。海斗が斬れると言ったのは嘘でも虚勢でもない。事実だ。あの間合いで斬り合いになれば、間違いなく殺されていた。それを確信した。
そのまま、しばし、楽歩は押し黙ったまま座り込んでいたが、やおら立ち上がると、刀をひっつかみ座敷を出た。
襖を開けると、ルカを始め、ミズキ、礼夫、優馬たちが慌てて後ずさる姿があった。
聞き耳を立てていたのは明らかだった。
「あ、あなた、その……」
「出かけてくる」
「は、はい。行ってらっしゃいませ」
ルカたちは大人しく道を空けた。
本堂から出たところで、縁側で徳利を抱えて座り込むいろはに出くわした。
「どこ行くんだい?」
「お主には関係ない」
「そうかい。でもさ、アンタ、怖い顔してるよ。まるで人でも斬ろうって顔だ」
「……」
楽歩は黙ったまま、大股でいろはに歩み寄ると、彼女の腕の中から徳利を奪い取って一息に呷った。
「……行ってくる」
「…あいよ」
遠ざかって行く楽歩の姿を見送った後、いろはは彼が残した徳利を拾い上げた。
「ま、気持ちは分かるけどね…」
いろははそう呟いて、徳利の縁に唇をつけて、僅かに残る雫を舐めとった。
冷たい風が吹き寄せる。
いろはは膝を抱えて、そこに顔を埋めた。
宿場町へ向かう楽歩は怒っていた。
“人でも斬ろうって顔だ”
いろはの指摘は、まさにその通りだった。楽歩は鏡音姉弟を斬るつもりだった。
海斗を狙う者たちを先に斬る。
海斗を守るという意味、斬られてやりたいなどと言った海斗への当てつけの意味、そのどちらの意味もあり、そしてそれとて深い考えでは無い。
衝動的と言って良い。
だから、宿場町までの長い道のりを冷たい風に吹かれながら歩いているうちに、その怒りと衝動は徐々に覚まされつつあった。
双子を斬って、どうなるというのだろう。仇討ちを防いだところで、どの道、海斗は死ぬ。うめき声すら上げられず、血を吐き、痩せさらばえて、飢えて死ぬのだ。その姿を思った時、楽歩は胸の奥底まで冷風に吹かれた気持ちになった。
剣士として生きてきた男に、そんな最期を迎えさせて良いのか。
海斗自身が斬り死にを望んでいるのに、楽歩にそれを妨げることができようか。
長い道のりの末に宿場町が見えてきた頃、廃寺を出たときの怒りと衝動はすっかり覚めきり、楽歩の感情は深く沈み込んでいた。
楽歩が宿場町に足を踏み込むと、ちょうど近くを肩を怒らせながら歩いていた男が声をかけてきた。
「先生、神威先生じゃござんせんか」
「ん?」
それはかつて楽歩が用心棒として賭場にいた頃に知り合った博徒の一人だった。
「そうか、ここはお主の縄張りだったのか」
「ええ、先生がここまで来るのも珍しいですね。何か御用でしたら、あっしが受け賜わりやしょう」
「そうか…」
楽歩は少し考え込み、
「…ここの旅籠に鏡音という双子が逗留していると聞いた。知らぬか?」
その名を聞いて、博徒の目がスッと細められた。
「先生、その名は誰からお聞きになりやした?」
「海斗――郡方代官、始音海斗からだ」
「そうですか、お代官様から直接……」
博徒はため息をついた。
「……よござんす。ご案内いたしやしょう」
博徒は楽歩を促して歩き出した。
彼は歩きながら、
「双子の仇討ちについちゃ、この宿場の者は皆知っておりやす」
「相手が海斗である事もか?」
「ええ、なので皆戸惑っておりやす。何しろお代官様は領民のために力を尽くして下さる得難いお方です。だが、お侍である以上、あっしらには理解できないしがらみがあるんでしょう。仇討ちが来るのも仕方の無いことかも知れやせん。しかし」
「しかし?」
「戸惑っているのはそれだけじゃあ無えんです」
「どういう事だ?」
「見りゃあ分かりますよ」
博徒はそう言って立ち止まった。
「静かに」
そう言って耳を澄ます博徒。
楽歩も耳を澄ますと、どこからか、カーン、カーンという音が聞こえてきた。
「やっぱり今日もやってますね」
「何の音だ?」
「双子の片割れですよ。そこの林の奥で剣の稽古をやってるんです。行きやしょう」
博徒の足が林へ向いた。 彼の後に続いて林の奥へ踏み込むと、その音もはっきりと聞こえるようになった。
同時に、どこか弱々しい掛け声も。
博徒が立ち止まり、指差した先、そこで一人の少女が木刀を振るっていた。
少女の前には太い薪が縄で括られ木の枝から吊るされている。
「えい!」
息切れの激しい掛け声と共に木刀が振るわれ、薪を叩く。
カーンという音が響き、大きく揺れた薪が勢いを付けて振り戻る。
「ッ、えい!」
迎え撃った木刀は空振りに終わり、薪は容赦なく少女の肩に当たった。
「うっ!?」
少女は肩を押さえて苦悶の声を上げたが、直ぐに木刀を構え直した。
「ああやって毎日、木刀を振るっています。精魂尽き果て気絶した事も一度や二度じゃござんせん……見ちゃいられねぇんすよ」
「……弟の方は?」
「身体が弱いらしく、あまり表に出てきやせん。しかし、旅籠の女将によれば礼儀正しく、宿の者にもよく気を遣う温和な少年だそうです」
「母親は?」
「幼い頃に亡くなった、と。双子は両親の位牌を大切に持ち歩いているそうです」
「……」
「正直、双子に同情したくなるんですよ。思いを遂げさせて仇討ちの旅なんか終わらせてやりたい。しかし、その相手はお代官様だ。だから皆、戸惑っているんです」
二人の先で、再びか細い掛け声と、カーンという音が響いた。
息を切らしながらも必死に木刀を振る少女の横顔は、間違いなくあの日、海斗の家に向かう途中ですれ違ったあの少女だった。
「案内、礼を言う。すまんが少し外してくれるか?」
「わかりやした」
博徒は去り、楽歩は独り、少女・凛の姿を眺めた。
凛は楽歩の存在に気付いていない。ただ一心不乱に木刀を振るおうとしている。
しかし、その切っ先は常の正眼よりも低い位置に下がり、息も切れて肩が激しく上下しており、なにより足元の安定も欠いてしまっている。
剣法を知らぬ者の動きではないが、それでも体力的に限界なのは明らかだった。
しかし凛は、揺れる薪に向かって木刀をふるい続けた。
カーン、と高い音が響き渡る。大きく揺れた薪が、凛めがけ振れ戻る。凛は振り下ろした木刀を返して、薪を迎え撃とうとしたが、そうするにはもう体力が残っていなかった。
木刀を振り遅れ、無防備になった凛の顔面めがけ、勢いのついた薪が迫る。
ぶつかる寸前、凛は襟首を掴まれ、強引に背後へ身体を引かれた。 そのすぐ鼻先を薪がかすめる。
「あっ…?」
「女子が顔を傷つけてどうする」
襟首を離した楽歩に、凛が振り返った。
「…あ、あなたは?」
「通りすがりの素浪人だ。女だてらに剣を振るっているのが物珍しくて見物していた」
「そうでしたか。危ういところを助けていただいたことは感謝いたします。しかし、どうぞこれ以上の手出しは無用に願います」
「倒れそうになるほど稽古をして、よほど斬りたい相手がいるとみえる」
「……あなたさまには関係の無いこと」
「お主に人は斬れぬ」
その言葉に、凛は疲れ切った顔に敵意を露わにして楽歩を睨みつけた。
「これでも幼少より剣術を修めております。女だからとバカにしないで!」
「バカにしてなどおらぬ。剣の心得があることは見ていれば分かった。疲れていたとはいえ綺麗な太刀筋だった。一朝一夕で身につくものではない」
「え…?」
楽歩からの意外な評価に、凛は虚を突かれた。
だが、
「しかし、所詮は道場剣法。人斬りの剣ではない」
「そんなこと、刃が当たれば人は傷つきます!」
「確かに道理だ。しかしそれが難しい。こちらの刃が当たるというのは、相手の刃もまた届くということだ。人は薪では無い」
「刃を避けようとするから当てられぬのです。身を捨ててかかれば成せぬことなどありません!」
強い意志をその目と声に滲ませた凛を、楽歩は黙って見下ろした。
彼の心は、未だ不可解な波に揺られているようだった。
何故、自分はここに居るのだ?
何故、この少女と関わりを持ってしまったのだ?
迷いながらも、楽歩は、凛が木刀を振るっていた木のそばに立った。
「人を殺したければ、斬るよりも刺すほうが良い」
楽歩は刀を抜き、正眼に構えた。
右足を前に、左足を後ろに引いた構えから、スッと一歩、前に出る。同時に左片手で刀を突きだし、木の太い幹に深々と突き刺さした。
それがあまりにも軽々と行われたので、凛は最初なにが起きたのか分からず、一瞬遅れてその技量の凄まじさに目を見張った。
「……凄い」
楽歩は刀身が中ほどまで埋まった刀を、さほど力を入れた様子もなく引き抜くと、
「やってみろ」
そう言って、凛に刀を差し出した。
凛は大人しく刀を受け取り、木に向かって正眼に構えて、そのまま深呼吸ひとつ、
「…えいっ!」
気合と共に両手で突きを放つ。
その切っ先は、木の皮を浅くえぐって止まった。
「――くっ!?」
刀を伝って手に響く衝撃に、凛は呻き声を漏らす。
凛はすぐに刀を引き抜こうとした。しかし切っ先は木の幹に食い込んで、なかなか抜けない。
全体重をかけて引っ張って、ようやく抜けた。しかしその際、勢い余って背後に倒れそうになった。
「きゃ!?」
ぽすん、と凛の小柄な身体は楽歩に抱きとめられた。
「す、すいません」
「そのまま、じっとしておれ」
「え?」
楽歩は自分の懐からサラシを取り出すと、抱いたままの凛の右手をとった。その手は血豆だらけになっていた。
「ちょ、ちょっと」
「大人しくしていろ」
楽歩は、凛の血豆だらけの右手にサラシを巻きつけた。真っ白なその表面に、すぐに血の赤が滲んだ。
「左手も出せ」
「……はい」
凛の血だらけの手に、楽歩は新たなサラシを巻く。
「……ありがとうございます」
「上手く突こうと思うな。相手の中心めがけ、身体ごとぶつかるつもりで良い。刃が当たれば人は傷つく」
「はい」
凛は素直にうなずき、立ち上がった。
しかし、再び刀を構えようとした凛を、楽歩が止めた。
「充分だ。心構えさえ分かっていれば、それ以上の稽古はいらぬ。むやみやたらと手を傷つけることも無い」
「しかし、相手は剣の達人。油断できる相手ではないのです!」
そう言って、突き込もうとした凛の肩に、楽歩が手を置いた。
「ッ!?」
肩に手を置かれただけなのに、とたんに足が前に出なくなる。
呆然とする凛に、楽歩は言った。
「もう止せ。それ以上は俺の刀が曲がりかねん」
「あっ」
ふっと凛の身体が軽くなる。
凛は慌てて、楽歩に刀を返した。
「も、申し訳ありませんでした。侍の魂たる刀をお借りしておきながら、私はなんという失礼な真似を…ッ!?」
「いや、俺から貸したのだから気にするな。それより、稽古もほどほどにせよ。女子の手は男と違い、柔いのだ」
「承りました――」
と、凛はここであることに気付いた。
「――そういえば申し遅れておりました。私、鏡音 凛と申します。よろしければ、お名前をお聞かせください」
「……神威 楽歩」
「神威……では、あなた様が」
「俺が、なんだ?」
「宿場町の方々がよく噂しておりました。始音 海斗に並ぶ剣豪が居る、と。それがあなた様でしたのね」
「そんな噂は知らんな」
楽歩は何故だか急に居た堪れなくなり、踵を返した。
しかし、その場を立ち去ろうとした楽歩の背中に、
「お待ちください!」
凛の声に、足が止まる。止まってしまう。
「どうか、どうかお力をお貸しください!」
「俺に、何をしろというのだ」
「助太刀を……いえ、せめてお話だけでも聞いてくださいませ」
「……」
楽歩は振り返った。
それなのに、まだ、楽歩は迷っていた。あるいはその迷いが、彼に凛の話を聞く気にさせたのかもしれない。
「神威様」
「……」
楽歩の無言を同意と受け取り、凛は、事のあらましを語りだしたのだった。
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第十五幕・刺客御用
凛の父、蓮也は剣の達人でありながらも、身分はしがない下級藩士でしか無く、父と子供二人の三人、日々の暮らしは楽とは言い難かった。
そんな父が剣の稽古以外で唯一の楽しみとしていたのが、月に一度、同じ剣術仲間の始音 海斗と飲みに行くことだった。
父は、幼かった凛の目から見ても、世渡り下手の不器用な男だった。というより、出世に興味のない剣術馬鹿と言った方が良かった。戦国の世が終わり、侍の評価も武辺一辺倒で出世できるわけでもなくなったが、それでも剣一筋に生きようとした父は、古い男だった。
かと言って、身分の低さや貧しさを苦とする男でも無かった。
「蓮が元服したら、俺はさっさと隠居して道場を開く」
というのが父の口癖だった。
その話題が出る度、凛は、
「だったら、その道場は私が継ぐ!」
そう言って、父を苦笑させた。
そんな、世の動きなど何処吹く風だった父であったが、藩内の政治的しがらみは、本人の意思とは無関係に、鏡音家の運命を狂わせようとしていた。
あれは、凛と蓮が十一歳になった頃だった。
そのあたりから、鏡音家に妙に来客が増えた。
最初のうちは同じ道場の若者たちが多かったが、やがて道場と関係の無い知り合いを連れてくるようになり、その知り合いが知り合いを呼んで、これまで関わりの無い者たちまで訪れるようになった。
そして、彼らは父を相手に剣術談義をしに来た訳でも無かった。
彼らは皆、眉間に皺を寄せ、時には声を荒げながら、様々なことをまくしたてた。父はそれを、目を伏せ、腕を組み、黙って聞いていた。
襖越しに漏れ聞こえてくる声から、幼い凛にも、それが政治の話であることは理解していた。しかし、それが何故、父と関わりがあるのか、それが理解できなかった。
そんな凛に、耳聡い蓮は、こう説明した。
「今、藩内ではお世継ぎ問題に絡んで、筆頭家老様と次席家老様との対立が激しくなっているんです。近頃では派閥に属する者たちへの闇討ち、暗殺なども起きているとか」
「そんな恐ろしい事が起きてるの。それじゃあ父上を訪ねてきている人たちって…!?」
「父上の剣の腕を見込んで、自派に引き込もうとしているのでしょう。鉄車流道場には次席家老様の甥がおりますので、おそらくそちら側かと」
「父上が、人を斬るかもしれないってこと?」
凛は、自らが示した可能性の恐ろしさに息を呑んだ。
「父上にその気は無いと思いますがね」
そう言った蓮もまた、不安を声に滲ませていた。
そして、その悪い予感は当たることになる。
その日、鏡音家を訪れたのは、例の次席家老の甥だった。彼は次席家老からの使いであり、父は彼に連れられて次席家老の屋敷へと出かけて行った。
父が帰ってきたのは、夜も遅くのことだった。
蓮とともに出迎えた凛が目の当たりにしたのは、これまでに見たことが無いほど陰惨な気配を漂わせた父の姿だった。
「父上、いかがなされましたか?」
そう尋ねた蓮に、父は、
「大事無い。お前たちはもう休め」
そう言って、自分の座敷へと去っていった。
凛は、父のただならない様子が気になり、父の座敷の襖の隙間から、中を覗き見た。
そこで凛が見たのは、己の刀を前にして、じっと何かを考え込んでいる父の姿だった。
父はしばらく腕を組んで黙考を続けてた後、やおら立ち上がり、凛とは反対側の襖を開けて庭へと出て行った。
父の座敷のすぐ外には、庭の井戸がある。
父は手桶に水を入れて座敷に戻ってくると、座敷の隅の櫃から研ぎ石と目釘抜きを取り出し、そして己の刀を取り上げた。
行灯の揺らめく明かりの中に、すらりと抜き放たれた刀身が妖しく光り輝いた。
父は目釘抜きを使って刀から柄を外す。
露わになった刀身に布を当てて手で掴むと、研ぎ石を使って刀を研いでいく。
さり、さり、と一心不乱に刃を研ぎ澄ましていく父の姿に、凛は一抹の恐ろしさを覚え、薄ら寒くなった。
凛は襖から離れると、自分の座敷に小走りに戻って、布団の中に潜り込んだ。しかし薄ら寒さは一向に消えず、凛は震える身体を丸め込み、眠れぬ夜を過ごしたのだった。
翌日、いつものように勤めに出かけた父は、帰宅するなり、凛と蓮を前にしてこう言った。
「父はこれより、役目を果たしに出かけて参る。万が一、父が戻らぬ時は叔父上のところを頼るように」
叔父とは、今は亡き母の兄に当たる人物である。父方には親類縁者はもう居らず、父にもしもの事があった場合、双子が頼ることのできる唯一の縁者だった。
しかし、この父の言葉に二人は驚きを隠せなかった。万一とは言え、戻れないかも知れないお役目とは何なのか?
それを訪ねても父は答えず、すぐに出て行ってしまった。
昨晩から父の様子に不審を抱いていた凛は、蓮が止めるのも聞かずに、家を飛び出して父の後を尾けた。
父が向かった先は、始音 海斗の家だった。
父は海斗を呼び出すと、連れ立って城下町の寺町の方向へと向かいだした。寺町とは文字通り寺社仏閣が集められた地区であり、参拝者を見込んで多くの店が賑わう繁華街でもある。
父は海斗と共に、寺町でも有数の高級料亭へと入って行った。父が普段通っている一杯飲み屋とは雲泥の差がある店である。
父の行動の謎と、そして店の中に入れない事もあって、周囲をウロウロしている内に、後を追ってきた蓮に捕まった。
「姉上、戻りましょう。このような所は子供だけで来るものではありません」
「父上があの店に入って行ったのよ。変だわ。探らないと」
「探るって、どうするつもりですか?」
「中が覗けるところを探すの」
分別くさい弟を無視して、凛は料亭の周りを歩き始めた。蓮も、止めても無駄と悟ったか、溜息を吐きつつ着いてくる。
そして、料亭の周りを二周ほどした頃だろうか。料亭を囲む塀の向こうから、
「事実無根、言いがかりだ!」
そんな叫び声が聞こえて、凛は、蓮と顔を見合わせた。声は二人の居る場所のすぐ近くからだった。さらに続けて、障子戸を破るような音と、
「蓮也殿、正気かッ!?」
この声で、二人は父が塀のすぐ向こう側にいる事を知った。
しかし塀は、二人の背丈よりもだいぶ高く、飛び上がっても上端に手が届きそうには無い。
凛は、すぐに走り出した。近くに、予め目星を付けていた高い木があるのだ。そこに登れば中が見えるはずだった。自宅の庭の木に登っては、おてんば娘と父からよく叱られた凛である。木登りは得意中の得意だった。
凛はすぐに木に飛びつくと、するすると高い位置の枝まで登り上がった。凛はそこで、縁側で平伏する海斗と、刀を手に躙り寄る父の姿を見た。
「先に抜いたのは、海斗、お主だぞ。……大人しく、黙って俺の剣を受けるが良い。お主が知りたいことは、その後でじっくりと教えてやろう」
ゾッとする程の冷たい父の声。海斗は平伏したまま後ずさり、縁側から庭へと転げ落ちた。
父が海斗に向かい、刀を抜き上げ様に振り下ろす。
だがその瞬間、海斗は庭で座り込んだ姿勢から、突如として跳ね上がり、父の真横を閃光と共に飛び抜けた。
庭先から座敷へと着地した海斗は、左手に抜き身の脇差を構えていた。
閃光と見えたのは、海斗の一瞬の居合抜刀術だったのだ。
凛には、海斗が左手でどのように抜刀し斬りつけたのか、まるで見えなかった。父よりも早い居合を見たことが無かった。
その父が、刀を振り下ろした姿勢のまま庭先へと倒れた。その周りに血だまりが広がって行くのを目にした時、凛はようやく何が起きたのかを理解した。
父が、斬られた。それもほとんど致命傷と思われる深手を負って。
どこかで甲高い悲鳴が上がった。その悲鳴は凛のすぐそばから聞こえていた。いや、悲鳴を上げていたのは凛自身だった。
肺から空気が無くなるまで叫んだ凛は、呼吸困難に陥り、苦しさのあまり目の前が真っ暗になった。平衡感覚が失われ、木から落ちそうになる。
その寸での所で、誰かに身体を支えられた。
「姉上、姉上ッ!」
ギリギリで追いついた蓮だった。
「姉上……凛ッ!!」
蓮に支えられながら、凛は気を失った。
その後、蓮はどうにかこうにか凛を抱えたまま木を降りたようだった。
凛が目覚めた時、そこは見慣れた我が家であり、既に朝になっていた。
昨日見た光景はまるで悪夢のようであったが、枕元で沈痛な表情で見守る蓮と目があった時、その悪夢が未だに終わっていないことを知った。
「先ほど叔父上の家から使いが来ました。姉上が目覚めたらすぐに来るようにとの事です」
凛はどこか現実感を失ったまま、蓮と共に叔父の家へと向かった。
辿り着いた双子を、叔父はすぐに奥の座敷へと招いた。
「蓮也殿が斬られたとの報せがあった。遺骸は今、お目付役の屋敷にあるが、まもなくこちらに運ばれてくるそうだ」
その言葉通り、間もなく父の遺骸が大八車に乗せられて運ばれて来た。凛は、気が遠くなるのを必死に堪えながら、父の亡骸を検めた。
明るい陽の下で見た父の姿は、冷たく、硬く、父によく似ていながら出来の悪い人形のようだった。
しかし、それが父なのだ。
その後、凛と蓮は、叔父が目付から聞いた事情を説明された。
「斬ったのは始音海斗だそうだ。この者が蓮也殿と懇意であったのは知っておろう。寺町の料亭で飲んでいたところ口論になり、喧嘩沙汰となった。と言うのが目付の見立てである」
「喧嘩、でありますか?」
と、蓮が疑問を呈した。
「叔父上、お言葉ですが、これはただの喧嘩沙汰では無いと思います。先ず現場となった料亭ですが、父も始音殿も、普段はあのような場所には行きません。そして、父は出かける前、お役目を果たしに行く、と言っておりました」
「なに、お役目だと?」
「はい。さらにその前日には、次席家老様のお屋敷に呼び出されております。それらを考えると、父上は」
「待て、それ以上は申してはならん」
蓮の言葉を遮った叔父は、顔を蒼白にしていた。
そう、蓮は父が次席家老から刺客を命じられたと言っているのだ。そうなればこれは喧嘩沙汰では無い。父の死の責任は次席家老にある。
しかしそれを口に出すことを叔父は禁じた。
今はその次席家老と筆頭家老との政治対立による抗争の真っ只中であり、他にも多くの流血沙汰を引き起こしている。その中でこの少年の言葉が公になれば、一体どんな災いとなって返ってくるか……
「良いか、蓮、凛、この事はしばらく胸に秘めておれ。下手をすれば、お前たちまで巻き込まれる恐れがある」
「しかし、このまま喧嘩沙汰となれば、どうなりましょう?」
「正当な理由の無い私闘は、喧嘩両成敗が鉄則。始音は切腹となり、それで話は終わる。お前たちには辛い話だろうが、少なくともお家断絶は免れよう。しかし……」
叔父は苦い顔になって天井を見上げた。
凛が、
「叔父上?」
と声をかけると、叔父は盛大に溜息をついた。
「蓮也殿も、どうせなら正当な理由を付けて、どこか人目の付かぬところで果し合いをしてくれれば良かったのだ。さすれば斬り死にしたとて病死として届け出ることもできたろうに」
「料亭を選んだのは父上の考えでは無いと思います」
と、蓮は続けて考えを述べた。
「場所は既に指定されていたのでは無いでしょうか」
「言われてみればそうかも知れぬ。しかし、ならばせめて刀ぐらいは抜くべきであった。居合の達人ともあろう者が、刀も抜かずに正面からむざむざ斬られるなど、面目が立たぬでは無いか」
「え?」
凛は、耳を疑った。父が刀を抜かなかった?
「そんな、そんな筈がありません!」
「信じたくなかろうが、事実である」
「だって、父上は確かに」
「姉上」
凛の言葉を、蓮が遮った。
蓮の方を見ると、彼は、何も言うな、と目で訴えていた。
「叔父上、私たちは大人しく沙汰を待ちたいと思います。申し訳ございませんが、父の通夜を営みたいので、ご助力をお願い致します」
「うむ」
叔父の了承を得て、父の通夜はそのまま叔父の家で行われた。
その通夜の最中、凛は蓮と二人きりになったのを見計らって声をかけた。
「蓮、父上は確かに刀を抜いた。そうよね?」
「誰が聞いているかも分かりませぬ。この話は止めましょう」
「私は気を失ったけど、蓮も見ていたはずでしょう。ねえ、どうなの!?」
忠告などに耳を貸さぬ凛に、蓮は溜息をつき、声を潜めて答えた。
「……父上の刀を鞘に納めたのは、始音海斗です」
「なんですって!?」
「静かに。始音海斗は父上の側に駆け寄った後、刀を検めて、そして鞘に納めました。その真相は……」
「真相は? 蓮?」
「……いえ、真相は分かりませぬが、いずれ始音海斗の始末がつくときに明らかになるでしょう」
蓮は、まるでどこか達観したようにそう言った。
しかし葬儀が終わり、七日が過ぎても、鏡音家には何の音沙汰もなかった。
その間、凛は父を失った悲しみと、不安と、そして悔しさに、ぼろぼろに泣いて過ごした。
そして、一月ほど経った頃、叔父から再び呼び出しがあった。
「拙い事になった。始音海斗を取り逃がしたそうだ」
その言葉に、凛は激昂した。
「あの男、逃げたのですか!?」
「拙いのはそれだけでは無い。先ごろ次席家老様が病に倒れられた。重篤だそうだ。これで政争は筆頭家老様の勝利に終わろう」
「では、父上のご沙汰は?」
「実は蓮也殿の刺客御用について責任を持って下さるよう、次席家老様の派閥に密かに働きかけておったのだが、事ここに至っては喧嘩沙汰で決着をつける他あるまい。しかし、そうなれば……」
「…仇討ち」
蓮が、ぽつりと呟いた。
そうだ、仇討ちだ。と、凛は心中を熱くした。
父を殺し、それだけに飽き足らず、父の剣士としての面目まで潰し、果ては卑劣にも逃亡した始音海斗を、この手で葬らねば!
しかし、その熱は叔父の次の言葉で、一挙に覚まされた。
「仇討ちは、お前たちだけで遣り遂げねばならん」
叔父にとって、蓮也は妹の夫、義理の弟にあたる。
当時は仇討ちも法律で厳格に定められており、目上の者(主君や、父、兄、夫)の仇討ちは正当と認められたが、目下(部下や妻、弟や姉妹、子供等)の仇討ちは認められなかった。
つまり仇討ちの資格があるのはこの幼い双子だけなのだ。もし叔父がそこに加わろうとするなら、それはあくまで第三者の助太刀という立場でとなる。
しかし、叔父はその仇討を双子だけで行えと告げたのだ。助太刀はしないという宣言だった。非情な言葉だが、そこにはやむを得ぬ事情があった。
そもそも仇討ちというのは、一種の公認化された私刑である。別の言い方をすれば、加害者を、被害者の家族が自己責任と自己負担で裁けという事である。仇の捜索も、始末も、藩の協力を当てにする事はできず、しかも仇討ちが果たされなければ藩内へ帰る事さえ出来ないのだ。
叔父にも守るべき家があり、しかも子供はまだ幼い。
そんな家族を残して仇討ちに、それも行方をくらませた剣の達人を探し出して殺さねばならぬという、およそ成功する見込みがほとんど無い旅に加わってもらうのは、酷と言えた。
凛も、そして蓮もそれを察していた。
蓮は言った。
「次第、相分かりました。仇討ちが許されたならば直ちに元服し、始音海斗めの首を取って参ります」
「おお、やってくれるか!」
叔父は身を乗り出して、蓮の手を取った。
「お前達には苦労をかけるが、これも侍の務めだ。わしも出来る限りの協力をしよう」
叔父は涙ぐみ、声を詰まらせたが、凛の感情は覚めていた。きっと、協力はほとんど当てに出来ないだろう。それは手を握られている蓮も同じだと、凛には分かった。
ただ、絶望感は無かった。軽い失望と、それによって掻き立てられた反発心と熱意があった。それはきっと、蓮も同じだろうと、凛は思っていた。
やがて叔父の言った通り、父の一件は喧嘩沙汰に決着し、鏡音姉弟に対し仇討ちを許す旨が伝えられた。
形の上では双子が願い出て藩が許した形だが、実際は命令に等しい。個人の命よりも、侍としての面子を守る事が最重要視される時代である。現在とは価値観そのものが違う。
鏡音姉弟は、死出の旅に等しい仇討に、二人きりで出発した。凛と、蓮、若干十二歳のことであった。
しかし、双子は幸運に恵まれていた。旅立ちから程なく、海斗の噂が聞こえて来たのである。
きっかけは、海斗が中心となって進めた葱の新種の買い付けである。買い付けに関わった商人が、海斗の人柄に惚れ込み、行く先々で彼の噂を広めていた。
そこに堤防工事の一件も加わり、海斗の名は一気に拡まった。
まさに双子にとっては天佑、そして海斗にとっては皮肉としか言いようが無いことである。
かくて海斗を仕留めるべく、九里府藩へとやってきたのだが……
「しかし、始音海斗の居所を突き止めたは良いものの、私たちには、そこから先の手立てがありませんでした……」
寒風が吹き込む雑木林の中、凛は沈んだ声で言葉をこぼした。
「始音海斗は、父をも斬った示現流の達人。そんな男に正面から掛かっては、例え二人がかりでも勝ち目はありません」
落ち込んだ様子の凛に、楽歩は以前、海斗の家の近くで彼らを見かけた時のことを思い出した。
あの時、殺気を滲ませるほど思い詰めていた凛と、それとは対照的に静けさを保っていた、蓮と思わしき少年。
楽歩は、
「海斗は……あの男は今、病で臥せている」
と、それだけを言った。
凛は頷いた。
「知っております」
「では、なぜ?」
寝込みを襲わなかった。という意味を込めて楽歩は訊いた。
仇討ちである以上、それは命の遣り取り、戦と同義である。戦であれば敵の不意を突くのは兵法の一つであり、卑怯には当たらないとされていた。
しかし、凛は首を横に振った。
「弟が、正面からの立ち合いを望んできかないのです。勝ち目など万に一つも無いというのに…だから!」
ハッと、凛は伏せていた顔を上げた。思い詰めた、切ない瞳が楽歩に向けられる。
「だから…どうか……」
「姉上」
静かだが、はっきりとした声が、凛の言葉を遮った。
声の主は、楽歩の背後からだ。振り向くと、楽歩から十数歩ほど離れた位置に、一人の少年が佇んでいた。
凛と良く似た顔立ちの少年、蓮だ。
しかし、
(気配に気付けなんだ…!?)
思った以上に近い位置に居たことに、楽歩は背中に冷たいものを感じた。
「姉上」
蓮があの日と同じく静けさを保ったまま、もう一度繰り返した。凛は何かを言おうとしたが、蓮の不思議な気配に威圧されて、押し黙った。
蓮の目が、楽歩に向く。
「鏡音 蓮と申します。…神威 楽歩殿ですね」
「いかにも」
「いつぞや始音殿の役宅近くでお見かけしたと記憶しています。あの時は挨拶もせず、ご無礼いたしました」
「…うむ」
妙な少年だ。と、楽歩は思った。この落ち着き様は、歳不相応であるだけでは無く、仇を前にした仇討人としても異様だ。
蓮は言った。
「姉が不躾なことを申したかも知れませぬが、あなたには関わりの無いこと。どうかお忘れ下さい」
「それはできぬ。俺は始音海斗と浅からぬ因縁がある」
「存じております。御懇意であられるとか」
蓮の言葉に、凛が息を呑んだのが、楽歩には気配で分かった。楽歩は少しだけ振り返って凛の青い顔を一瞥した後、蓮に向き直って言った。
「俺は、海斗との立ち合いを望んでいる」
「左様ですか。そちらのご事情に立ち入ることはいたしません。ですがせめて、私たちの立ち合いの後にして頂けると助かります」
蓮は平然とそう言ってのけると、凛に目を向け、
「行きますよ、姉上……それでは神威殿、これにて失礼いたします」
そう言って一礼し、踵を返して去って行った。
凛もそれを追って、しかし一度立ち止まり、楽歩に向かって頭を下げて、そして去って行った。
その時に見せた切なげな瞳が、楽歩の心に深く残っていた……
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第十六幕・婚姻
廃寺への帰路はすでに夕暮れで朱に染まっていた。 楽歩は目の前に伸びる己の長い影に目を落としながら、重い足取りで歩みを進めていた。
山へと帰るカラスの鳴き声をどこか遠くに聞きながら、楽歩は物思いに耽っていた。それは、海斗との立ち合いを望むと言ってしまった、己の心についてだった。
何故、助太刀をする気になったのか。
海斗から頼まれたから? 凛から身の上を聞き、同情したから? それとも、純粋に剣士として再戦を望むから?
いや、どれも違う。答えはもっと別の、もっと単純なものだった。
侍だからである。
蓮也が刺客御用を受けたのも、海斗がとっさにそれを返り討ちにしたのも、双子が仇討に臨むことも……
……そして、楽歩が助太刀するのも。
それらは全て、侍が為すべき責務から生じたものであり、個人の意思を超越したものである。
いや、責務や個人の意思などという概念自体が、当時には存在しない。侍として生まれ、侍として育った者たちにとって、侍の責務はそのまま己の生きる道であり、為すべきことだった。だからこそ、海斗も、双子も、仇討に臨むことを当然として受け入れている。
しかし……しかし……
楽歩は心のどこかで、未だ納得できぬ、割り切れぬ思いを抱いていた。その思いに言葉を与えられぬまま、いつしか日は沈み、あたりが薄暗くなりつつあるなか、
「……おかえりなさい、あなた」
迎えに出てきた、ルカが、楽歩を待っていた。
薄闇の中に妻の存在を感じた時、楽歩は、己の物思いの理由が分かった気がした。
(ああ、そうであったか……)
かつて侍として腹を切ろうとしたとき、それを止めてくれたのが、ルカだった。
面目だの、誇りだの、それで死ななければならぬと思い定めていた自分の馬鹿馬鹿しさを、彼女や、そして猫村一座の者たちが教えてくれた。
そのことに気付いたとき、楽歩は目の前のルカのことが改めて愛おしくなり、彼女の身体を引きよせ、ぎゅっと抱きしめた。
「へ? わ、わ、ちょ、あなた!?」
「暴れるでない。抱きづらいではないか」
「だ、だって、往来のど真ん中ですよぉ……」
「まわりに誰もおらぬ。誰も見てはおらぬ」
「…お天道様が見てますよぉ」
「日は沈んだ。月も出ておらぬ」
「で、でもぉ」
「俺にこうされるのは、嫌か?」
「う……」
ルカが、腕の中で小さく身動ぎしながら、上目づかいで楽歩を見上げた。
「あなたって人は、いつもイジワルなんですから」
ルカが目を閉じる。その唇に、楽歩は口づけをした。
その夜、廃寺に戻り、彼ら夫婦のために割り当てられている座敷で、楽歩はルカを抱いた。
行為の後、楽歩は、ルカにぽつりと、こんなことを呟いた。
「ルカ……子供ができたら、どうする?」
「へ?」
楽歩の胸に頬を寄せていたルカは、唐突な質問に間の抜けたような声を上げたが、すぐに、
「産みたいに決まってます」
と、少し口を尖らせて言った。
「いや、すまぬ。そういう当たり前の意味ではないのだ」
「じゃあ、なんですか?」
「子供を……侍として育てたいか?」
「え…?」
ルカは一瞬、楽歩を見上げたが、すぐに彼の胸に顔を埋めて、ふふ、と笑った。
「あなたの子ですもん、あなたそっくりに育つに決まってますよぉ」
「……そうか」
楽歩はルカの髪をなでながら、暗い天井を見上げた。
いつしかルカの寝息が聞こえてきたが、楽歩は寝付けないままだった。
その二日後のことである。
「可愛いお客さまがお見えですよ」
とミズキが案内してきたのは、凛だった。
「突然お邪魔して申し訳ございませんでした。神威様がこちらにいらっしゃると聞き及びまして……」
切なげな瞳でひたむきに見つめられ、楽歩は内心たじろいだ。
とりあえず人払いをして、奥の座敷へと案内する。
「して、要件は? ……やはり、助太刀の件か」
「はい。ですが、蓮は――弟はどうしても聞き入れてくれないのです。あの子は、とても頑なですから」
「そうか」
楽歩は静かに頷いた。しかし、それ以上のことは口にはしなかった。これは楽歩から進んで働きかける話ではないはずだった。
いらぬと拒む話を、無理に押し付けるのは道理にあわない。
しかし、
「あの……実は……」
「んむ?」
まだ何かを言いかける凛に、楽歩は首をかしげた。
凛は人目を気にするように周りに視線を動かしているが、今、この座敷には二人のほか誰もいない。
「その……あの……」
うつむき、何かを必死に言おうとする凛。
楽歩は黙って待った。
やがて凛は、きっ、と顔を上げて楽歩を見つめた。
その瞳が熱っぽく潤んでおり、楽歩は当惑した。
(なんだ、この異な様子は?)
「神威様……」
「う、うむ」
「どうか、どうかこの凛めを………娶って下さいまし!」
「うむ――へぁ!?」
何の聞き間違いか、いや、聞き間違いでなければ何と突飛な話か。思わず妙な声を上げた楽歩に続いて、座敷の襖を押し倒して、一座の面々が雪崩れ込んできた。
「あああ、あなたっ!?」
「兄貴、なんだよ、めかけ、めかけなのか!」
「こら優馬、妾なんてはしたないわ。ご側室でしょう?」
「いやぁ、旦那もいつのまにこんな美少女を」
「お主ら、待て、異なことを言うな、これは誤解だ!」
「神威様、凛は本気にございます!」
凛の言葉に、楽歩も、一座の面々も言葉を呑んだ。
凛が床に三つ指を付いて、楽歩に向かって必死に訴えた。
「身勝手なお願いであることは重々承知の上です。ですが、あなたさまのご慈悲におすがりするには、こうするより他ないのです。どうか、どうか……」
凛は額を床に着けてひれ伏した。その肩が、その背中が、目に見えるほど震えていた。
その姿を見て、楽歩はようやく冷静さを取り戻した。
「なるほど、そういうことか」
「あなた?」
ルカを始め、状況を理解できぬ一座の面々の視線が、楽歩に集まった。楽歩はため息をついて、言った。
「この娘は、海斗を仇と狙う双子の片割れだ」
「え?」
一座の視線が、今度は凛に集まる。
「こんな、少女が…?」
ざわめく一座に対し、楽歩は説明を続けた。
「俺がこの娘と夫婦になれば、養父の仇を討つという名分が立つ。弟の蓮が何と言おうとも助太刀できるということだ」
「はい」
凛が顔を上げて答えた。
「形だけの妻などと虫の良いことは申しません。この身、いかように扱っていただいても結構でございます。覚悟は、できております」
凛の言葉に、一座は更にざわめいた。
こんな少女が、仇討のために身売りにも等しい行為に出たのだ。もはや正気とは思えなかった。
「だ、だめですよぉ、夫婦の契りは女にとって大切なものなんですよ。それをこんなことで……」
ルカが、おずおずと凛のそばに寄り添った。彼女の様子は、夫を取られるという不安よりも、純粋に凛の身を案じているようだった。
しかし、凛は、
「………」
ただ頑なに、楽歩を見つめ続けていた。
「あ、あなた。あなたからも何とか言って下さいよぉ」
「………」
ルカが訴えるも、楽歩もまた、押し黙ったまま凛を見つめていた。
「あぅ……」
異様な緊迫感が座敷に満ち、ルカは言葉を失った。
そのまま、どれだけ時が過ぎたのか、いや、実はほとんど時は過ぎていないのかも知れぬ。そんな、時間の感覚も分からなくなる中、
「お侍!」
険を含んだ声が、座敷を貫いた。
いろはだった。
「アンタまさか、受ける気じゃないだろうね!?」
「………」
楽歩は数瞬、目を閉じ、黙考した後、答えた。
「……受ける。受けねば、この娘は自害しかねん」
その言葉に、凛が頷き、その予想が事実であることを示した。
いろはは、ぎゅっと目を閉じ、唇をかみしめた。いろはの小柄な身体がわなわなと震えた。内から湧き上がる激昂を必死に堪えているのだと、楽歩には分かった。
楽歩には、いろはの心の声がまざまざと聞こえていた。
――相手はお代官様だよ! アンタにとって大切な友人を斬るっていうのかい!
――そのためにこの娘との契りを利用しようってのかい!
――こんなことして、誰が救われるっていうんだい!
――侍ってのは、そこまでしなくちゃいけないものなのかい!
しかし、いろははそれらを全て、胸の内に押しとどめた。
そして、彼女は瞼を開き、微笑みを――ひどく物哀しげな微笑みを――浮かべて、言った。
「……わかったよ。だったら、祝言は派手にやらないといけないね。何せ、一生に一度の、女の晴れ舞台だ」
「姐さん……」
「ルカ、悪いけど、ここは呑んでやりな。これが、お侍たちの世界なのさね」
「……はい」
凛が、再び床にひれ伏した。
「ありがとうございます……ありがとうございます……っ!」
凛の声には嗚咽が混じり、彼女はひれ伏したまま、しばらく泣き続けていた――
あの後、凛は一座の者に送られて旅籠へと帰って行った。
翌日、楽歩はひとりで旅籠へと向かった。
しかし楽歩が旅籠につく前に、宿場町の入口で、彼を待つ人影があった。
蓮であった。
「神威殿、お待ちしておりました」
蓮はこれまでと全く変わらぬ、静かな態度のままだった。
楽歩は言った。
「大方のあらましは、凛殿から聞いておろう」
「ええ。我が姉ながら、その言動にはいつも驚かされます」
蓮は表情を変えぬまま、静かにため息をついた。
「お主は、どうする」
「姉の頑なさは身に染みております。もはや私が何を言っても聞き入れてくれないでしょう」
なるほど、双子である。と、楽歩は納得した。姉弟揃って頑なである。故に、蓮の次の言葉も、楽歩にとっては意外ではなかった。
「かくなるうえは、何としても私が先手を務めなければならぬと思います。あなたにそれを伝えるために、ここで待っておりました」
「凛はお主を守るために、俺に嫁ぐ真似までしたのだ。ならば俺が先手であろう。なにより、お主では海斗の相手にならぬ」
「それは心外なお言葉。勝算も無くこのようなことは申しませぬ」
「あるのか、策が」
「かつて父が考案せし示現流崩しの技。秘策なれば余人に見せたくはなかったのですが、やむをえませぬ。神威殿に検分していただくとしましょう」
蓮はそう言って、脇の雑木林へと足を踏み入れた。
楽歩もその後を追う。
やがて、雑木林の中でわずかに開けた場所に出た。そこは先日、凛が稽古をしていた、あの場所だった。
「ここなら人目に付きませぬ」
蓮は楽歩に向き直り、
「これより秘策をお見せいたします。神威殿は、いかようにでも仕掛けて下さって結構です」
「ふむん」
楽歩は改めて、蓮の立ち姿を観察した。
蓮はわずかに左足を引き、顔がわずかにうつむく程度に上体が前へ傾いている。その左手は腰の刀の鍔元を押さえ、右手は脱力した状態で下げられていた。まさしく居合抜刀の構えである。それも、かなり手慣れている。
凛の話しぶりからは、蓮は身体が弱く稽古にもさほど熱を入れてないように思えたものだが、目の前の蓮は全くの真逆、相応の技量の持ち主であると楽歩は見て取った。
楽歩は刀を抜き、正眼に構えた。
しかし、ふと思い直し、大上段にとった。示現流の構えである。
楽歩は大上段に構えたまま、じり、じり、と足を進めた。
そして、間合いに入った瞬間、恐ろしい勢いで斬りかかった。
全く同時に、蓮もまた踏み込んできた。
蓮の右手が鞭のようにしなり、腰の刀へと延びる。しかしその右手は柄ではなく、左手と同じく鍔元を掴むと、両手で刀を前方へと突き出した。
刀は鞘に納まったまま弾丸のように飛び出し、その柄頭が楽歩の刃とかち合った。
楽歩の刀は柄頭の金具に弾かれ、鍔に当たって止められた。
蓮は鞘を外に払って刀を逸らすと同時に、右手を鍔元から離して脇差を抜き放った。
ひたり、と楽歩の首筋に、蓮の脇差の刃が押し当てられ、寸止めされた。
「……なるほど、田宮流居合術の“行合い”か」
「どちらかと言えば伯耆一貫流の“〆”に近い、と父は言っておりました」
蓮は答えながら、刀と脇差を元に納めた。
田宮流、伯耆一貫流、どちらも居合術を中心とする流派である。
田宮流の“行合い”は相手が斬りつけてきたとき、咄嗟に左手を刀の鯉口に、右手を脇差にかけて、すっと相手の懐に飛び込み、左手で突き出した刀の柄で相手の手首を打つと同時に、右手で引き抜いた脇差で相手を刺す技である。
そして伯耆一貫流の“〆”も、同じく左手を使って、刀を鞘のままで突き出す技である。こちらは、相手の刀を額をかすらせる絶妙な位置で、鍔で受ける。この敵味方の刀の一瞬の構図が“〆”の字に似ていることが技名の由来であった。
今、蓮が遣って見せた技は、この両流の技から着想を得て、工夫した技だった。そして本来ならば左手のみで突き出す刀を両手としたのは、示現流の一撃の重さを鑑みてのことであろう。
確かに、よくできている。しかし、楽歩は言った。
「博打にすぎぬ」
「博打にすらならぬより良いでしょう。それに、勝負は所詮、一時の運」
「海斗は無拍子なる秘剣を遣うというぞ」
「秘剣・無拍子……恐らく、父を斬った時に遣った居合のことでしょう」
蓮はそう言って、左手を脇差にかけた。
「始音海斗はあの時、左手に脇差を下げておりました。つまり左手による抜刀術」
「逆手抜刀か」
「いえ」
蓮は首を横に振りながら、左手で脇差を抜いてみせた。その持ち方は逆手、つまり脇差を逆さまに持った状態になっている。
「左逆手ならば確かに早く抜刀できますが、己の腕より先に間合いが伸びませぬ。それに父は右脇腹を横薙ぎに斬られておりました。左逆手抜刀から右脇腹を斬るならば、一度、刀を返さねばなりませぬが、それでは父の居合より早いことへの合点がいきませぬ」
蓮はそう言いながら、左手の脇差を逆手のまま鞘に納めなおした。
蓮の説明から、秘剣・無拍子とは左手で抜きつつ間合いを伸ばし刀の返しを一瞬で可能にする技だと思われた。
実に、恐るべき技である。
「ですが、始音海斗が最初から秘剣を遣ってくるとは思えませぬ」
「なぜ、そう思う」
「示現流が、刀を鞘の内に納めたまま戦の場に立つとは思えませぬ」
全く持って道理である。
居合を得意とする楽歩とて、立ち合いの場にあって進んで居合を遣う気はない。居合はあくまで、咄嗟の事態に対応するために遣う技なのだ。
むしろ蓮のほうが異端である。まさしく、示現流崩しに特化した技と言っていい。恐らく蓮はその技のみをひたすら磨いてきたのだろう。
楽歩はそれを博打と評したが、少なくとも勝算の無い博打ではなかった。
「わかった。先手はお主に譲ろう。しかし、初太刀で仕留められなければお主の負けだ。その時にはすかさず俺が出る。良いな」
「ご随意に」
蓮は承諾した。
これで話は決まった。しかし、と楽歩は思う。この蓮の静けさは何なのか。示現流崩しの秘策に対する自信というには、そこに全く気負いも自負も感じられぬのが不思議だった。
海斗に対しても、そうだ。父を斬った相手のことを語るときも、妙に淡々としている。
解せぬ。
解せぬが、しかし、楽歩はそれ以上に踏み込むことはしなかった。
理解を拒んだわけではない。楽歩は、蓮の姿にある種の諦観と覚悟を見たからである。蓮も紛う事のない侍である。ならば、信じるより他になし。
楽歩は、雑木林から立ち去っていく蓮の背中を眺めながら、そう思った――
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第十七幕・祝言
婚礼の日、九里府の地にしては珍しく雪が積もった。
冬も終わろうとするこの時期に、ひときわ強い寒気が山を越えて雪を運び、一面の景色を白く染め上げている。
その寒気も昼には雪雲と共に過ぎ去り、空は抜けるように青く、その下を婚礼の行列が厳かに進んでいた。
先頭を歩くのは裃姿の蓮である。
その後には嫁入り道具を入れた長持を運ぶ人々が、そして、花嫁を乗せた籠が続く。
そのさらに後ろからは、婚礼を祝う人々が列をなしていた。
見た目だけならば、立派な花嫁行列である。しかし、長持の中身はわずかな着物を除いてほとんどが空であった。
後に続く者たちも、宿場町の者たちばかりで、鏡音家に連なる者は一人としていない。
そう、この行列は、仇討を果たすまでは故郷に帰ることもできない年若い双子の身の上を不憫に思った宿場町の人々の、せめてもの心尽くしだった。
昼過ぎに宿場町を発した行列が廃寺に着いたのは、すでに日も傾きだした時分であった。
朱に染まった茜空の下、灰寺の境内にて猫村一座が行列を出迎えた。
蓮が籠の前に下駄を並べ、籠の戸を引き開ける。差し伸ばした蓮の手を借りて、花嫁姿の凛が姿を現した。
辺りを染める雪景色よりもなお輝く白無垢に角隠し。そこに赤地に黄色牡丹も鮮やかな打掛を羽織っている。
この衣装もまた、宿場町の者たちの心尽くしである。凛の持ち物は、わずかに胸の懐剣ただひとつきりであり、これは幼き日に死別した母の形見でもあった。
凛は、白粉に朱を引いた可憐な顔立ちを俯かせながら、蓮に手を引かれつつ、本堂の敷居をまたいだ。
その瞬間を待っていたように、一座の者が笛と太鼓を響かせる。
優馬が唄う。
――
鏡音姫さまのお成りにござる
めでたきかな、嗚呼、めでたきかな
――
お囃子がかきたてられる中、一座から宿場町の者たちへ祝いの餅が配られ始めた。
その様子を背中にしながら、凛と蓮は本堂の奥座敷へと進む。
奥座敷では、裃姿の楽歩が上座に着いて待っていた。その斜向かいに、いろはとルカが座している。
凛は俯いたまましずしずと上座へ進み、楽歩の左側へと着座した。
蓮は、いろはとルカが対面になるように座り、彼女たちに向かって深々と頭を下げた。
「それがしは愛洲藩藩士、鏡音蓮也が嫡男、蓮と申し候。これなるは同じく蓮也が娘にして我が姉、凛と申し候。此度は神威家と縁を結びしこと、祝着至極に存じ候」
いろはもまた礼を返し、答えた。
「私は神威家に連なりし猫村一座が筆頭、いろはにございます。神威様の亡き父君に代わり私がご挨拶をさせていただきます。こちらは、かつて那須藩藩士であらせられました神威家ご当主、楽歩様にございます。鏡音家のご息女をお迎えできること、光栄でございます」
両家の挨拶が済み、五人は本堂の広間へと移動した。
そこには既に一座の者たちと、宿場町の者たちが左右に分かれて座している。
その上座となる場所には緋の毛氈が敷かれ、背後には金屏風が立てられ、楽歩と凛はそこに並んで座した。
その彼らの前に、礼夫が三つ組の盃を乗せた三宝を、ミズキが長柄の銚子を、それぞれ持って進み出た。
礼夫が二人の間に三宝の三つ組の盃を置き、ミズキが酒を注いだ。
三献の儀、または固めの盃である。楽歩が大中小に分かれた盃の小を取り、口にした後、凛へと手渡した。
その時、初めて二人は向かい合い、目を合わせた。
楽歩を上目遣いに見上げる凛の瞳は、熱に浮かされ潤んでいるように見えた。盃を渡す際に触れた凛の指先が、かすかに震えた。
凛は小の盃を飲み干した後、中の盃を取って一口飲み楽歩へと渡す。
楽歩はこれを飲み干し、最後の大の杯に口をつけて、凛へと渡し、彼女もこれを飲み干した。
そうやって盃を交わすたびに、凛の瞳は熱と潤いを増し、振れる指先に艶めかしさが漂いつつあるように楽歩には感じられた。
固めの盃が交わされたのを受けて、蓮と、いろは、そしてルカが座の中央へと進み出た。
「ここに神威家と鏡音家の縁が成されたこと、喜びに堪えませぬ。然らば古よりの吉例に従い、祝言の謡を贈り候」
蓮は正坐のまま背筋を伸ばし、居住まいを正した。そこには、若輩ながら一門の侍としての威厳があった。
そして、蓮が低い声で謳い出す。
――
所は高砂の 尾上の松も 年ふりて 老の波も より来るや 木の下かげに
落葉かくなるなるまでも 命永らえて なをいつまでもいきの松
それも久しき名所かな それも久しき名所かな
――
能楽“高砂”である。
黄昏が押し迫り、本堂の中が宵闇に満たされつつある中、いろはの笛が清らかに響き渡った。
ルカが扇を手に立ち上がり、行燈の灯りに揺らめきながら舞い始めた。
蓮の謡が響く。
――
四海波静かにて 国を治むる時津風 枝もならさぬ 御代なれや
あいに相生のまつこそ 目出度かりける げに仰ぎてもこともおろかや かかる世に
住める民とて豊かなる 君が恵みぞありがたき 君が恵みぞありがたき
――
楽歩は、笛吹くいろはを、舞うルカを、その姿を心に焼き付けるがごとく、硬い表情で見つめていた。
そんな楽歩の横顔を、凛は角隠しの下から横目で見つめていた。
この婚礼は仇討のためのものである。しかしそれを方便に過ぎぬというには、凛の想いはあまりにも一途だった。
この祝言は、まさしく凛のためのものであった。一生に一度の女の幸せを仇討のために捧げた少女への、一夜の夢、泡沫のような幸せである。
――
高砂や この浦舟に 帆をあげて 月もろともにいで汐の
波の淡路の島影や 遠くなるほど 沖すぎて
早や住之江にぞ 着きにけり 早や住之江にぞ 着きにけり
――
ここに晴れて、楽歩と凛は、夫婦となった。
その夜、いつもならルカと共に眠る座敷で、楽歩は凛と共に枕を並べた。
無論、楽歩は凛に手を出すつもりはなかった。ルカへの操建てでもあり、何よりそれをしてしまえば凛の泡沫の幸せを俗で汚すことになる。
だから、ひとつの寝具に枕を並べたものの、二人は互いに背中合わせで横になっていた。
だが夜の冷気が忍び入り、楽歩は、凛がかすかに身体を震わせる気配を感じ取った。
楽歩はそっと寝具から抜け出した。
「楽歩様?」
「俺が居れば窮屈であろう。遠慮せずに夜具の真ん中で眠るがよい」
楽歩はそう言いながら、重ね着していた寝間着を一枚脱いで、それを凛にかけた。
「これでは楽歩様がお風邪を召してしまいます」
「剣士たる者、寒に身を晒さねば却って鈍り風邪をひくのだ」
「左様でしたか……」
凛は掛けられた寝間着を首元まで引き寄せ、そっとその中に顔を埋めた。
「なんだか、懐かしい気がいたします。失礼ながら、父上に似ている気がして……」
「居合の達人であったそうだな。宝蔵院流の技は、俺も興味を惹かれるところである」
「そうやって、楽しそうに剣を語るところも、似ております」
寝具の中で、凛は笑みをこぼした。
「昔、私が風邪をひいたとき、震える私を父が添い寝して温めてくれました。いまでもその温もりを夢に見ます」
「うむ」
「楽歩様、お願いがございます」
「ん」
「はしたないと思われるかもしれませんが……どうか、添い寝していただけませんでしょうか……」
「……」
「その……あの日の父のように、ただ温めてくれるだけでよいのです……それ以上は求めません」
ですから、どうか。
暗闇の中、凛が身を起こし、傍らに座る楽歩の膝へと手を伸ばした。楽歩はしばらく動かなかったが、やがて、凛の肩に手を伸ばした。
「あ……」
楽歩は凛を引き寄せると、己の膝の上に横たえた。
その身体に寝間着と寝具をしっかりと掛けてやり、そして、膝枕した凛の頭を優しく撫でる。
「楽歩…さま……」
凛は気持ちよさそうに瞳を閉じ、やがて、静かな寝息を立て始めた。
楽歩は、長い間、そうやって膝の上の凛を撫で続けた。
どれだけそうしていただろうか。
凛がすっかり深く寝入ってしまった頃、
「……いろは、来てくれぬか」
その声に、襖が音もなく開き、いろはが姿を現した。
いろはは、楽歩の膝枕で眠る凛を眺めて、優しい笑みを浮かべた。
「可愛い顔してるよ、この子。よほど安心したんだろうねぇ」
「父に似ていると言われた。俺も老けたものだな」
「まんざらでもないって顔してるよ。後でルカに言いつけてやろうかね」
「夜目が利くとはやはり猫だな。やましいことなぞ何もない」
「女は父の面影を追い続けるものさね。この子、アンタに惚れてるよ」
「……思いつめたが故の心の迷いだ。仇討が終われば、憑き物が落ちるように忘れるものだ」
楽歩は、凛を起こさないようにそっと、そして優しく、彼女を寝具へと戻した。
布団をかけなおす楽歩の背中に、いろはが小さく声をかける。
「本当に、お代官様を斬るのかい?」
「斬る。だが、斬られるかもしれん。あの男は強い」
「……楽歩」
「ん?」
いろはからまともに名前を呼ばれたのは、初めてだった。
振り返ろうとした楽歩の背中に、いろはが身を寄せていた。
「いろは…?」
「いつかさ、アンタが侍をやめてくれるんじゃないか、そう思ってたよ。でもさ、アンタはやっぱり侍なんだね……」
「………」
「それでもいいよ。それでもいい……でも、死んじゃ嫌だよ」
「……うむ」
背中にいろはの温もりを感じながら、楽歩は、頷いた。
そして、彼は言った。
「いろは、済まぬが少し付き合ってくれぬか?」
「どこへだい?」
「大切な友との、約束を果たしにな……」
ずっと果たせずにいた、あの、約束を―――
―――夜明け間近の暁闇の中、海斗はある気配に突き動かされたような気がして、目を覚ました。
元より、身を蝕む病で夜通し眠れたことなど無い日々である。この日も、すでに数回の喀血で枕元の手桶を血で汚している。
寝不足の疲労で朦朧としながらも、それでも海斗は寝具から立ち上がり、おぼつかぬ足取りで雨戸を押し開け、庭に面した縁側に座した。
その気配に、隣で眠っていためいこも目を覚ました。
「あなた?」
夫の奇妙な行動に戸惑いつつ、めいこは海斗の隣に座った。
「いかがなされたのですか?」
そう問うめいこに、海斗は月光に仄明るく輝く庭に目を向けたまま言った。
「門を……見てきて…くれない……か」
その声はかすれ、絶え絶えだった。
夫の言葉に従い、めいこは玄関から出て、閉ざされた門の横にある脇戸から表に出た。
表には誰もいなかった。
夫は何を思ってこんなことを言い出したのか。疑問に思いながら戻ろうとしためいこだったが、その時、遠くに揺れる提灯の灯りを目にした。
その提灯の灯りに照らされ、持ち主の姿が露わになったとき、めいこは夫が予感したものの正体を悟った。
それは、楽歩だった。その脇には年若い少女の姿もある。
楽歩は、表で待っていためいこの姿を目にして、驚きの表情を浮かべた。
「夜明けを待つつもりであったが、まさか、起きていたとは」
「夫はあなた様の来訪を予感しておりました。きっと、私にはわからぬ絆がおありなのですね」
めいこはそう言って、寂しそうに笑った。
「どうぞ、こちらへ」
「できれば、庭先へ案内していただきたい」
「わかりました」
めいこは頷いた。海斗はすでにその庭先で待っている。やはりこの二人には、妻ですら立ち入れぬ絆があるのだと、めいこは思った。
玄関から入らずにそのまま庭へ行くと、そこには海斗の他に、眠そうな顔をした息子の赤人の姿もあった。
幼い息子は、海斗の隣に正坐しながら、うつら、うつらと舟を漕いでいた。
庭先に立つ楽歩と、縁側に座する海斗は、互いに目を合わせた。
二人の間に、言葉は無かった。必要も無かった。
海斗は、楽歩を見据えたまま、
「赤人」
と傍らの息子の名を呼んだ。
かすれ声であったが、息子はすぐにぱっと居住まいを正し、顔を海斗へと振り向けた。
「はい、ててうえ」
「お前の成長の祝いである。しかと、見届けよ」
「はい、ててうえ」
幼子は素直に頷き、楽歩に純真な眼差しを向けた。
楽歩は、赤人に対し、深く一礼した。
「拙者、神威楽歩と申し候。始音家ご嫡男、赤人殿のご誕生と健やかなるご成長を祈念し、舞を奉じ仕る」
楽歩が扇を抜き、厳かに立ち上がる。
いろはの笛が、月光下に響き渡った。
その時、海斗には、楽歩の姿がおぼろに霞んだように見えた。
それは、病魔と疲労に目が眩んだためかと思われたが、そうではなかった。
庭の景色は月に照らされ冴え冴えとしている。ただ、その視界の中心にいるはずの楽歩の姿が霞むのだ。
焦点を合わせようにも合わせられぬ、不思議な気配。
楽歩は静かに舞っていた。いろはの緩やかな調べに合わせ、扇を回し、拍子を踏む。
静と動が同時に存在し、現と幻が混じりあう、幽玄の舞。
幼い赤人は、目立って動くとも見えない楽歩の舞を前にして、それでも何かに縛られたかのように見入っていた。
めいこもまた同じである。この場を支配していく不可思議な緊張感に息をのんでいた。
そして、海斗は、
(――斬れぬ)
心中で感嘆の溜息を漏らしていた。
塵ひとつほどの隙のない不動の構えに目を凝らそうとすれば、その拍子を読まれたかのように舞われて視点を外される。
不思議なのは、その拍子が、楽歩の舞と、いろはの笛、共に一糸乱れぬところである。
達人と、達人。海斗は、己の拍子がこの二人に見事なまでに映されてるのを悟り、言いようのない幸福に満たされた。
(もはや悔いはない)
(――左様か)
楽歩が一瞬だけ、笑った。
その瞬間、海斗の目が楽歩の隙を捉えた。
「―――ふ」
かすかに息を漏らし、剣気が飛ぶ。
だがそれよりわずかに早く、笛の音が拍子を変えた。
変拍子。
楽歩がサッと身を翻して地を蹴った。
そのまま跳ねるように二、三度舞い、そして笛の音が止んだ。
東の空が白み始める中、楽歩は扇を納め、一礼した。
どこか遠くで、若い鶯が鳴いた。
鶯は春告鳥である。
その日、街中には、海斗と鏡音姉弟の決闘を告げるお触書が出されていた―――
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第十八幕・鶯桜の決闘
――
御触書
来ル如月ノ廿日、印種川河原ニテ次ノ者決闘致ス
当家家中郡奉行所代官 始音海斗
愛洲藩藩士 鏡音蓮也子息 蓮、凛
以テ本音村二決闘場ノ普請ヲ申シ付ケル也
――
印種川の下流域には広い河原があり、そこには長年の水害にも耐え続けた桜の老樹がある。
この老桜は鶯が鳴くころに花をつけるところから、鶯桜、または春告鳥に習い春告桜とも呼ばれ、近隣の村々からも親しまれ、大切にされてきた。
例年ならば鶯の鳴きはじめと共に人々が花見に訪れるこの場所に、しかし今年は物々しい陣が敷かれていた。
広い範囲を囲む形に竹矢来が組まれ、その内側の地面は草木や小石が念入りに取り除かれた上に平坦に均され、さらに砂利までが敷かれていた。
その北側には白葱紋の陣幕が張られ、毛氈と床几が置かれていた。見届け人のための貴賓席である。
同じく、決闘場の東西それぞれにも陣幕が張られ、蓆が敷かれていた。
決闘当日の朝、その場所には出流をはじめとした本音村の者たちだけではなく、藩内各地から多くの人々が詰めかけていた。
娯楽の少ない時代、決闘という血なまぐさい事件は格好の見世物であった。
しかし、この日集まった人々は、誰もが一様に沈痛な面持ちをしていた。
海斗がこの地に来てから三年、誰もがその人柄を知っており、そして慕っていた。だから、彼を仇と狙うものが現れた時は誰もが驚き、困惑し、そして仇討人に対し憤慨する者さえ現れた。
しかし……その仇討人が弱冠十四歳の少年少女であり、そして彼らの人柄に触れてしまったとき、誰もが思ってしまった。
この子たちの悲願を成就させてやりたい、と。無間地獄のような仇討の旅から解き放ってやりたい、と。今日、ここに集まった人々は、皆、そんな矛盾した思いを抱えていた。
昼近くの頃、仇討人である鏡音姉弟が、楽歩と、そして猫村一座と共に現れた。
蓮、凛ともに白装束に身を包み、すでに襷掛けに鉢巻き姿である。
楽歩もまた濃い紫の着物に襷をかけ、後ろ曲りの鉄板を縫い込んだ鉢金を額に当て、袴を股立ちにとっていた。
人々は静かに、彼らを迎えた。
楽歩たち三人は猫村一座と別れ、東側の陣幕をくぐり、蓆に並んで座した。
向かいに見える西側の陣に、海斗たちの姿はまだ無い。
楽歩は、隣に座る蓮へ目を向けた。蓮は瞑想するかのように目を閉じ、かすかに俯いていた。
「蓮」
「…先手は譲りませんよ」
目を閉じ俯いたまま、蓮は答えた。
楽歩はそんな蓮と、そしてその奥で弟を心配そうに見つめる凛を見ながら、言った。
「それは構わぬ。だが、決闘に臨む前にひとつだけ聞かせて欲しいことがある」
「なんでしょう」
「お主は、海斗を憎いと思っているのか?」
その問いに、蓮は顔を上げ、楽歩を見据えた。
蓮は、驚きに目を見開いていた。しかし何故か、その口角には微かに笑みが浮いていた。
「なぜ、そう思われました」
「お主には殺気が見えぬ。会った時からずっと、そして今もだ。ずっと疑念に思っていたが、今なら断言できる。お主は海斗を憎いと思っていない」
「……ははっ」
楽歩の言葉に、蓮は小さく声を出して笑った。
それは、秘していた己の心を見破られたことへの、諦めや自嘲が含まれた、複雑な笑いだった。
「蓮、どういう事なの!?」
凛が、蓮に詰め寄った。
「姉上、落ち着いてくだされ。しかし神威殿の言うとおり、確かに憎いとは思うておりませぬ」
「そんな……どうして……っ!?」
「父の名誉に関わることゆえ今まで黙っておりましたが、この期に及んではお話すべきでしょうね」
蓮はため息を付き、そして、左手の刀の鯉口を切った。
「これは父の形見、あの日、刺客御用に用いたものです」
蓮は刀を立て、わずかに刀身を引き抜いた。
それを見たとき、楽歩は目を疑った。
鞘の内から現れたのは、鈍く光る鋼鉄の刃ではなく、薄く削られた木の板だった。
「竹光……」
「そうです、父は竹光を持って始音殿に挑んだのです。……父は、始音殿を斬る気など無かった」
「嘘……」
呆然とする凛。
蓮は続けた。
「あの日、料亭には他の刺客も待ち伏せていました。次席家老の甥をはじめとした派閥に与する道場の者たちです。父が斬られ、海斗が去った後に別の座敷から現れたのを、私は見ています。すぐに出てこなかったのは、海斗の技前に恐れをなしたからでしょう」
「では、蓮也殿はその者たちの目を欺くために竹光で斬りかかったのか」
「始音殿から刀を遠ざけた上で、得意の居合で素早く斬りつける。今にして思えば、黙って俺の剣を受けよ、という父の言葉も、斬られたふりをしろという意味が込められていたのでしょう。しかし、父には誤算があった」
「海斗の秘剣・無拍子、か」
「ええ。始音殿にしても咄嗟に身体が動いてしまったのでしょう。そして、父の刀を見て真意に気づき、刀を納めた……」
蓮はそう言いながら、竹光を鞘に戻した。
もしこの竹光が他の者に知られれば、刺客御用の命に背いた明確な証となる。それは命じた次席家老側への叛意とも取られ、残された双子たちにまで害が及ぶ恐れがあった。
だから、海斗は竹光を鞘に戻した。それがあの時、海斗にできる精一杯のことだったのだろう。
「始音殿は、父が自らの刀を竹光に代えてまで救おうとした方。そして父が斬られたは、剣の達人ゆえの不幸な事故。それを知ってしまった以上、憎もうにも、憎み切れませぬ」
「蓮、しかしお主はそれでもここに居る。それも、形見の竹光をそのまま持って……それでも海斗に挑むのか」
「……侍の宿命と心得ておりますれば。それに、私の脇差は竹光ではありませんよ」
そう言った蓮の顔は、再び静けさを取り戻していた。
そのとき、ざわり、と人垣がざわめき、向かいの陣幕がめくられて新たな人影が姿を現した。
それは、妻と幼い息子を連れた、海斗だった。
海斗もまた紺色の着物に襷をかけ、鉢金を巻き、股立ちを取った戦装束だ。
その相貌は、長い病のため、白く痩せこけていた。
それは、もはや死相であった。
しかし、楽歩はそこに不可思議な光を見た。どこか、春の陽射しにも似た、ほがらかで、穏やかな輝きだった。
楽歩はしばし、その輝きに見惚れた。
「踊らされたのです」
不意に、蓮がそう言った。
「私たちは皆、侍の宿命に踊らされたのです。けれど、私はそこから逃げようとは思いません。それは、父も、始音殿も、そして神威殿、貴方も……」
「……そうかも知れぬ」
それから、しばしの時が過ぎた。
群衆が再びざわめき、見届け人の席に、氷山清輝の姿が現れた。そのそばには、おミクの姿もあった。
清輝は東西を眺め渡し、そこに座る決闘者たちの姿を認めると、厳かな声で告げた。
「両名、前へ」
蓮は床几を立ち、竹光の刀を腰に差した。
「凛を頼みます、義兄上」
そう言い残し、蓮は決闘場へと進んでいった。
海斗もまた、中央へ進み出る。
二人は互いに十歩の間合いで足を止め、清輝へと向き直った。
清輝が懐から一通の書状を取り出し、掲げた。
「上意である」
その言葉に、海斗と、蓮、そして群衆も全員、頭を下げた。
清輝は書状を開き、その内容を読み上げた。
「九里府藩藩主、初音未来ノ守兄正公の名において、下す。ここに当家家中・始音海斗及び愛洲藩士・鏡音蓮也が一子、蓮の決闘を執り行うもの也。
此度のこと、始音海斗が鏡音蓮也を私闘にて殺めたる事に端を発し、将軍家が定めし法度における喧嘩両成敗の原則に則り、鏡家縁者による仇討と認めるところであれば次のように申し渡すもの也。
ひとつ、此度の決闘は始音海斗が愛洲藩士であった頃に起こした事件が元であれば、当家には一切の関わりも責任も無いこと。
ひとつ、将軍家の定めし法度に則り、両家はこの場において全ての始末をつけ、後に一切の禍根を残さぬこと。
ひとつ、決闘後の始末の如何にかかわらず、今後、この決闘に起因する全ての報復行為を固く禁ずること。
ひとつ、以上の事項を守る限りにおいて、この決闘は将軍家が認めし正当な行為であり、初音未来ノ守兄正公の名において保証するものであること」
清輝は書状を読み上げ終えた後、それを再び掲げ、そして懐に戻した。
「両名、面を上げよ」
海斗と蓮が顔を上げた。
清輝は言った。
「初音家家老、氷山図書ノ介清輝である。御殿より此度の見届け人を仕った。両名とも、侍として恥じぬ戦をせよ」
清輝は言い終えると、再び一礼した海斗と蓮を見据えながら床几に腰を下ろした。
「いざ、仕れ」
その言葉に、海斗と蓮が向かい合う。
互いの間合いは約十歩。
二人はその間合いのまま、同時に左手を鯉口にかけた。
「始音殿」
ふと、蓮が声をかけた。
「刀を鞘に戻し、父の名誉を守って下さったこと、礼を言います」
海斗の目がわずかに見開かれた。
だが、蓮の言葉の意味に気づき、彼は全てを承知したかのように頷いた。
「もうひとつ」
と、蓮は続けた。
「父がかつて工夫せし示現流崩しの技、これを貴方にお伝え致します」
その言葉に、海斗の目が、笑った。柔らかな眼差しだった。
腰を落とし居合抜刀の構えを取った蓮に対し、海斗は刀を抜き放ち大上段に構え上げた。
両者はそのまま、すり足でゆっくりと、間合いを詰めていった。
じり、じり、と間合いが狭まっていくごとに、決闘場を取り囲む群衆の間に緊張感が高まっていった。
不憫な少年が斬られるのか、それとも心優しき青年が斬られるのか、いや、両者どちらも斃れ果てるのか、いずれにしろ心痛む結末が、間もなく現実になろうとしていた。
海斗と、蓮は、虫が地を這うような足取りながら、それでも、六歩、五歩と、その間合いを徐々に縮めていた。
そして、残る間合いが三歩、すなわち一足一刀の剣の間合いに入ったときである。
海斗が、声も無く踏み込んだ。
あの示現流独特の気合を放つには、海斗の喉は病魔によって傷付きすぎていた。しかし、それでも尚、その刀閃は凄まじいものだった。それどころか、かつてよりもその鋭さを増してさえいる。
病に侵された男が、何故これほどまでの一閃を放てるのか。いや、病によって死の淵に立ったからこそ、その一閃にこの世ならざる凄味が宿ったのかもしれなかった。
これに対し、蓮はこの二年間ひたすら磨き続けてきた技を繰り出した。
恐れることなく前へ深く踏み込むと同時に、鞭のようにしなった右手が柄ではなく鞘の鍔元を掴み、弾丸のように刀を前に突き出す。
その柄頭は狙い過たず、海斗の一撃を捉えて見せた。
柄頭の金具と、刃がぶつかり合い、火花を散らす。
そして―――
―――柄頭の金具が、切り裂かれた。
示現流の一撃は弾かれることなく、そのまま柄を真っ二つに押し割ったのである。
蓮の両手に、凄まじい衝撃が圧し掛かった。
海斗の刃は柄の根元まで押し込まれ、鍔に当たって止まっていた。示現流の一撃を食い止めることには成功したのだ。
しかし、蓮はそこから身動きすることができなかった。刀を通じて手元へと押し込まれ続ける重さに、蓮は動きを封じられていた。
その事実に、蓮は相手の力量の恐ろしさを思い知り、総毛立った。
しかも、海斗が刀を振り下ろした姿勢のまま、さらに押し込んでくる。
増した重みに、蓮の腰が落ちる。
耐えきれずに姿勢を崩したのか。と、見えた瞬間、蓮は上体を大きく左へとひねり、刀を逸らした。
海斗の手元も刀ごと大きく逸らされ、そこに大きな隙が生まれた。
蓮はすかさず己の脇差に手をかけ、相手の脇腹から肩めがけ、逆袈裟に斬り上げようとした。
だが、それよりも早く、海斗が手元の刀をひねり、刀身を回転させた。刀身を挟んでいた柄が完全に粉砕され、自由になった刀が、蓮の逆袈裟斬りを追うように、同じ軌跡を描いて跳ね上がった。
ギン、と金属同士が擦れ合う音が響き、蓮の右手から脇差が宙を舞った。
武器を失った蓮に対し、海斗が刀を振り上げた姿勢から肩を使って当身を繰り出した。
蓮の小柄な身体が、当身によって容易く後方へと吹っ飛んだ。
「っぁ!?」
蓮は、背中から地面に叩き付けられたものの、すぐに立ち上がろうとした。しかし、そのときすでに目の前には、大上段に構えた海斗の姿があった。
蓮の背中に、ゾッと悪寒が走った。
(これまでか――)
蓮は心中、死を悟った。
仇討に臨むことは、侍の宿命と覚悟していた。博打同然の戦い方に、文字通り命を懸けた。
だが、その博打も真正面から打ち破られた。そして、命を代償に払わされようとしている。
格が違った。と、蓮は思い知らされた。
悔しさは無かった。
ただ純粋に、怖いと思った。
蓮は、刀を振り下ろさんとする海斗を、必死に見つめていた。
それは、死への恐怖に対する最後の抵抗であったか、それとも、限界を超えた恐怖ゆえの金縛りだったのか。
刀閃が、蓮の視界を縦に切り裂いた。
蓮の頭頂から背筋にかけて剣気が貫き、その身体が大きく震えた。
しかし――地面に座り込んだ蓮の目の前に、その切っ先はあった。目先わずか三寸。海斗の一撃は、蓮を捉えることなく空を切っていたのだ。
何故?
蓮がそう思ったとき、彼は、自分が誰かに襟首を掴まれていることに気が付いた。
蓮が振り返ると、そこに楽歩が居た。
楽歩が、咄嗟に蓮の襟首を引いて、海斗の一撃の間合いから外したのだ。
「充分だ、蓮。よくやった」
「……はい」
答えた声は、喉から絞り出したようなかすれ声だった。
それもそのはず、蓮は海斗の剣に飛び込んだ時からずっと息を止めていたのだ。そして極度の緊張は、自身が息を止めていたことさえ忘れさせていた。
肺の残り少ない息で声を出して、蓮はようやく大きく息をついた。瞬間、蓮は身体をがくがくと震わせ、その瞳に大粒の涙をあふれさせた。
涙はとどまることなく、蓮の頬を濡らしていく。
泣きながら、蓮は、己の心を塞いでいた何かが崩れ去ったような気がした。
それは父が死んで以来、彼の心をずっと塞いでいたものだった。
呆然とした面持ちで泣く蓮の頭に、そっと、大きな手が乗せられた。
「後は、俺に任せろ」
「はい……」
楽歩は蓮を優しく撫でると、海斗に向き直った。
「那須浪人、神威楽歩。鏡音家との縁により助太刀いたす」
その言葉に、海斗は一つ頷くと、素早く後ろに跳び退り、再び大上段に構えを取った。
楽歩もまた抜刀し、正眼に構える。
楽歩はその構えのまま、スッと横に動き出した。
海斗もそれに合わせて横へと動き出し、二人は対峙したまま、蓮の位置から遠ざかって行った。
やがて、蓮からある程度、距離が離れたところで二人の足が止まった。
そのまま時が止まったかのように、二人は動かなくなった。
対峙する二人だけではなく、それを見守る人々もまた、声ひとつあげることなく静止していた。
そこには静寂と、耐えがたいまでの緊張があった。
張りつめていくこの緊張の糸は、ほんの些細なきっかけで切れてしまうという予感が、誰の心にもあった。
そして、その糸が切れた時こそ、二人の切っ先が動き、楽歩か、海斗、どちらかが命を落とすことになるという予感も……
竹矢来のすぐわきにそびえ立つ桜の木の枝から、一羽の鶯が飛び立ち、軽い羽音を立てて二人の頭上を過ぎ去った。
その影が楽歩の剣を行き過ぎ、白刃の刃が瞬いた―――
――次の瞬間、二人は同時に斬り込んでいた。
きらり、と春の陽射しに二筋の光が流れ、きん、と冷たい音が鳴り響いたと思えば、楽歩と海斗の位置が既に入れ替わっていた。
遅れて、群衆が、ハッと息をのんだ。彼らには太刀筋どころか、二人が動いた瞬間さえ見えなかった。
この場においてそれが見えたのはただ一人、見届け人の清輝のみである。
彼の目には、大上段から逆落としに仕掛けた海斗の剣を、楽歩がそれを額の鉢金をかすらせる絶妙の間合いで外すと同時に面打ちに斬り込んだものの、海斗もまたさっと首をめぐらせてその切っ先を鉢金で弾いた様子が見えていた。
その証として、互いの位置を入れ変えた二人の額の鉢金には、確かに一筋の傷が残っていた。
楽歩は正眼に、海斗は大上段に構えたまま、また二人はゆるゆると横へと動き始めた。互いに右へ、右へと円を描く。
半周程して二人が元の位置に戻った瞬間、楽歩が正眼から突きを放った。左片手のみで放つ間合いの広い突きである。
だが海斗は素早く後退すると同時に、その伸びきった剣先に一撃を振り下ろした。
左片手のみの突きは容易く打ち落とされ、刀ごと楽歩の左手が大きく振れた。
その隙に、海斗の振り下ろされた切っ先が、跳ね返るように斬り上がった。逆袈裟の斬撃が楽歩を襲う。
しかし楽歩は、刀を打ち払われた姿勢から、そのまま流れるように上体を逸らして、剣を避けた。左手の刀が下から弧を描いて上に回ったかと思うと、その柄に右手が添えられ、サッと光の筋を描いて海斗に襲いかかる。
耳をつんざくような甲高い音と火花が跳ね散り、楽歩の身体が大きく仰け反った。
海斗が再び楽歩の刃を打ち払ったのだ。真っ向から振り下ろしてからの燕返しの逆袈裟に続く、神速の返し技である。
楽歩が上体を仰け反らせたまま、流れるように後退していく。海斗が大上段に構えながらそれを追う。
仰け反った楽歩が背中から倒れるとみえた瞬間、その身体が独楽のように横回転し、刀が螺旋を描きながら、迫る海斗の足元めがけ薙ぎ払われた。
楽歩の切っ先が海斗の向こう脛を切り裂こうとする寸前で、海斗が剣を足元向かって振り抜き、それを打ち払う。
剣を弾かれた楽歩はその反動を殺すことなく、今度は逆に回転しながら斬り上げた。
その斬撃を海斗は上体を仰け反らせてかわし、そして大きく後退した。
楽歩が再び左片手で切っ先を突き付けながら、海斗を追って間合いを詰める。
海斗の喉元めがけ、楽歩の切っ先がすぅーと延びてくる。海斗はこれに対し、足を止め、逆に前かがみに踏み込んだ。わずかにひねった首に、切っ先が擦れる。
突きをかわすどころか、首の皮一枚を切らせつつ飛び込んできた海斗を、楽歩はさっと身を翻して避けた。そのすれすれに海斗の横薙ぎの一閃がかすめ、楽歩の着物の前が横一文字に裂けた。
楽歩はそのまま海斗の脇を身体をまわしつつ擦れ違った。これにより既に振り返った楽歩に対し、海斗は背中を無防備にさらすことになった。
楽歩が、海斗の背中めがけ、容赦なく刀を振り下ろす。しかし、その切っ先が肉を斬ることはなかった。
海斗は振り返りもせずに、咄嗟に刀を背後に回してその一撃を受け止めたのだ。海斗はそのまま軸足に力を籠め、大きく振り返りながら楽歩の刀を払った。
楽歩はそれに抗うことなく、逆に海斗の力を利用してひらりと身体を回しながら深く沈み込んだ。
再び、楽歩の地を這うような横薙ぎの一閃。
海斗が宙へと舞い跳んで、それをかわした。咄嗟とは思えぬほどの高い跳躍だった。
尋常よりもはるかに高い位置から降下しながら、海斗が大上段の一撃を振り下ろした。
地上では、横薙ぎをかわされた楽歩が、そのまま螺旋を描きながら斬り上げた。
空中と大地の両者の間で、激しい火花と衝突音が上がり、二人は同時に後方へと跳ね飛んだ。
大きく間合いを取った二人の間に、金属の破片が二つ、きらりと輝きながら地面に突き立った。
それは折れた刀身だった。楽歩と海斗、互いの刀が鍔元から折れていた。
楽歩は素早く体勢を立て直すと同時に、咄嗟に刀を手放し、脇差に手をかけた。このまま海斗の懐に飛び込んで、居合抜きに斬り込むつもりだった。
しかし、
ぐっと楽歩の足が止まった。
彼の前には、同じく脇差に手をかけ居合の構えを取った海斗の姿があった。
(秘剣・無拍子――っ!?)
今踏み込めば、間違いなくその秘剣に返り討ちにされる。その予感が、楽歩を踏みとどまらせた。
そのまま、二人は動きを止めた。
剣戟が鳴り響いていた決闘場に、再び静寂が落ちた。
さらさらと流れる川音が、再び辺りに拡まった。
その中で、楽歩は静かに、深く、長く、息を吐いた。知らぬ内にこわばっていた肩や腕、手の内から力を抜いた。
そうやって楽歩は、改めて海斗の姿を眺めた。
海斗は、居合の構えを解いていた。
両手はぶらりと下げられ、ばかりか上体が緩やかに前へ傾きながら、徐々に腰を落としていく。
いつの間にか、その両の目さえ閉じられ、正坐となった。
しかし爪先の立った腰の高いその正坐は紛う事無き“居合腰”である。いよいよもってそれは、秘剣の構えに相違なかった。
だが傍目には、海斗のその姿はなんとも長閑に見えていた。目を閉じ伏せられたその横顔は、春の陽射しに微睡んでいるようにさえ見えた。
楽歩はそこに、あの不可思議な光を再び見た。
ほがらかで、穏やかな輝きである。
それを眺める楽歩の脳裏に、不意に、これまでの海斗との思い出が奔流となって過ぎっていった。
決闘前に眺めた死相の浮いた、しかし見惚れる程の穏やかな彼の顔。暁闇の中で、互いの呼吸を探るように拍子を踏んだ、あの約束の舞い。廃寺で向き合い、果し合いを挑まれたあの冬枯れた日の朝―――
―――あの時、至近距離で交わした殺気と、その後に海斗から告げられた「秘剣・無拍子」の存在。
(そうか、あの間合い、あの呼吸か)
そう、あの時の二人の立ち位置こそが、秘剣の間合い。あの暁闇の中での海斗の呼吸こそ、秘剣の拍子だったのだ。
楽歩がそれを悟った、その時、
ふと、鶯が鳴いた。
緩やかな笛の音のように、さえずりが響く。
楽歩はまたひとつ、静かに息を吐き、そして脇差にかけていた手を放した。
一声さえずった鶯が、続いて長々と谷渡りに鳴いた。
その鳴き声に乗るかのように、楽歩は海斗に向かってするすると歩み寄った。それは決闘中とは思えないほど無警戒で、無造作な足取りだった。
海斗は動かぬまま、楽歩は一足一刀の間合いを超えた。
鶯の谷渡り声が余韻を残して消えてゆく。
ふ、と楽歩の身体が半歩下がり、同時に海斗の身体が浮き上がって脇差が光と共に抜き放たれた。
海斗の左手首は返されて脇差の柄を順手に握っていた。その脇差を引き抜きざまに、刀の峰に右手を添えて、左手首の返しに合わせて刀身を内回りに前方へと高速回転させる。
これこそが、秘剣・無拍子であった。
その刃は、楽歩の脇差にかけようとしていた右腕を肘から切断した。
だがそれは楽歩が半歩、拍子を変えた結果である。でなければ間違いなく胴を斬られていた。
右腕を囮に捨てた楽歩は、すかさず海斗に密着しつつ左逆手で脇差を抜刀し、すり抜けざまにその左脇腹を斬り裂いた。
楽歩と海斗はそのまま数歩、駆け抜け、足を止めた。
一瞬おいて、二人の足元に鮮血が降り注いだ。
楽歩は素早く左手で脇差を納めると、刀の鞘を腰から抜いて、斬られた右腕の脇に挟み、そして余った裾をぐっと引き寄せて歯で銜え込んだ。
そうやって咄嗟の止血を行い、背後を振り返る。
そこに落とされた己の右腕と、そして脇腹から袴を血に染めて立ち尽くす海斗の背中を見た。
左脇腹の傷は深く、流れ続ける血は致死量に達していた。
海斗の左手から脇差が落ち、そして、足元に拡がる血だまりの中へ崩れるように膝をついた。
この決着に、人々は誰一人として声を上げなかった。誰もが声を失い、彼らを見つめていた。
その中で、海斗は膝を付きながら、ただ一点だけを見つめていた。
その視線の先に、めいこと赤人の姿があった。
幼い息子は、何が起きているのか意味も分からぬ様子で、ただ海斗をじっと見据えていた。
その小さな身体に、めいこが震える手をまわして、固く抱きしめた。
めいこの瞳に、じわ、と涙が浮かんだ。
声を殺して泣くめいこに、海斗は静かに頷いて、そしてゆっくりと身体を回しながら、見届け人である清輝に正対した。
そして、
「…介錯を」
かすれた声が、楽歩の耳に届いた。
楽歩は海斗のそばに歩み寄り、左手で脇差を抜いた。
脇差を順手に持ち替え、振りかぶったとき、
「その介錯しばし待て」
清輝が床几から立ち上がり、言った。
「双方、美事なり。そして、始音海斗に申し渡す。その方、敗れたとはいえ家中随一の遣い手の名に恥じぬ戦振りであった」
清輝は一度言葉を切り、横目でおミクを見た。
彼女は膝に置いた両の手をぎゅっと握りしめ、唇をかすかに震わせながら、小さく頷いた。
清輝が海斗に目を戻し、言った。
「此度の事、殿にお伝え致す。さすれば殿は、必ずや始音の家名存続、役目据え置きとし、嫡子元服の折にはそれを継がせることを約束されるであろう」
その言葉に、海斗は安堵のため息を漏らした。
海斗が倒れるように両手を着き平伏する。
そして、最期の力を振り絞って上体を少しだけ起こし、楽歩を見上げた。
「楽歩殿――」
その顔は、微笑んでいた。
「――ありがとう」
そう言って眼を閉じ、俯いた海斗に、楽歩は脇差を振り下ろした。
赤い血しぶきがさっと上がった。
楽歩はそれを見届けると、彼もまた、意識を失い、その場に崩れ落ちたのだった……
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第十九幕・舞侍
梅雨が来た。
ぱらぱらと降る五月雨の中、九里府の村々では今年も田植えが行われていた。
印種川の堤防は梅雨の長雨にもよく流れを制し、村々の田畑に豊かな水を分け与えていた。
田植え前に収穫した葱も十分な量であり、たとえ今年も多少の不作であろうとも、それを乗り越えるだけの蓄えが、どの村にもできていた。
本音村の出流は、村の田植えが一段落したころを見計らって、印種川の堤防へと足を向けた。
堤防のある一角に、新しい地蔵菩薩像があった。
その場所は、かつて堤防工事の折に、海斗が大雨と風の中で立っていた場所であり、あのとき工事に参加していた者たちは皆、この地蔵菩薩像に海斗の面影を重ねていた。
出流が地蔵菩薩像の前にやってきたとき、そこには既に先客がいた。
はくが、雨の中に静かに手を合わせ拝んでいた。
彼女は出流の気配に気づくと、顔を上げにこりと微笑んでから、少しだけ横にずれて場所を開けた。
出流は何も言わず、はくの横に並んで、同じように地蔵菩薩像に手を合わせ拝んだ。
五月雨が、二人の肩を静かに濡らした。
始音家でも同じように、めいこと赤人が仏壇に線香をあげて拝んでいた。
決闘の日に清輝が言った通り、始音家の家名存続と役目の据え置きは、未来ノ守の許しを得て正式に保証されることとなった。
「すみません」
と玄関で女の声がした。
はくは遣いに出してしまっていたので、めいこは自ら仏壇から立って玄関へと出迎えた。
訪れたのは、おミクだった。
番傘を差していたものの、その髪や頬がしっとりと濡れていた。
「御家老様からの見舞いの品を届けに参りました。どうぞ、始音様の御霊前にお供えください」
おミクはそう言って、雨に塗れぬようしっかりと抱いていた包を差し出した。
受け取ったそれは、桐箱に入った蝋燭と線香であった。言うまでもなく高級品である。
丁重に礼を述べるめいこに、おミクは言った。
「ぶしつけかもしれませぬが、私も始音様の御霊前を参りとうございます。お許し願い下さいませ」
めいこは快く承諾した。あの日以来、海斗を慕って霊前に参る者たちは多くあった。
おミクは仏壇の間に案内され、そこで静かに手を合わせた。
まだ濡れたままの頬から、滴がぽたりと零れ落ちた。
決闘の後、蓮は愛洲藩へと戻り、正式に鏡音家の家督を継ぐことを認められた。
蓮也がかつて次席家老派の刺客御用を勤めたなどという話は、すでに忘れ去られた過去になっていた。
むしろ困難な仇討を成し遂げたと評判となり、彼は愛洲藩主から士道天晴であると褒美まで頂戴した。
しかし蓮は、仇討ちの苦労よりも海斗と楽歩の決闘の様子のみを淡々と語り、決して己をひけらかそうとはしなかった。
蓮はそうやって終始控えめに過ごし、出世の話をもらってもそれを固辞し、父の代以来の下級藩士の座に留まった。
やがて彼は妻をめとり、そして小さな道場を開いて、平穏無事な生涯を送った。
梅雨が終わり、夏の兆しが見えてきたころ、楽歩はようやく歩けるほどまで回復した。
猫村一座は楽歩の回復具合から、九里府の地からの旅立ちを決めた。
足かけ一年近くも居座り続けた廃寺を立ち去る日、一座は皆、古巣との別離に切なさを抱いた。
「なんだか我が家を離れるみたいで辛いねぇ」
いろはの感傷的な呟きに、楽歩は頷いた。
「俺にとってここは特別な場所だ。海斗と出会い、そしてお前たちと出会った……」
濃い紫の着流しに、空っぽの右袖が揺らめいた。
「いろいろなことがありましたよねぇ」
ルカが懐かしげに目を細め、本堂から楽歩に目を向けた。
「本当に、いろいろなことが……本当に……」
ルカの目が楽歩の隣に注がれ、その口端がひくひくと震えた。
「……ねえ、あなた」
「う、うむ……」
楽歩の額に脂汗が浮かんだ。
その右隣には、凛がすまし顔で立っていた。
「……凛」
「はい?」
と、凛が小首を傾げて楽歩を見上げた。
「お主、なぜまだここに居るのだ」
「あなたの妻ですから」
心外だ、と言わんばかりに睨まれた。
別の方向からは、ルカからも睨まれている。
「いや、しかし仇討は終わり、蓮も帰ってしまったというのに…」
「その仇討で楽歩様は大切な右腕を失われました。ならば私は一生をかけて、貴方の腕となって生きていく所存です」
凛がなびく袖をきゅっと掴んで、身を寄せてきた。
「それに……私の身も心も、既に楽歩様に捧げております」
見上げるその瞳が、熱を帯びて潤んだ。
「ああああ、あなた!? 凛ちゃんに手を出しちゃったんですか!?」
「異な事を言うな! 誤解だ、ルカ! まだ出しておらぬ!」
「まだ!? まだってことは手を付けちゃうんですね!?」
「違う、それは言葉のあやで」
「立派なお世継ぎを産んで見せます!」
凛が気負いこんで拳を握り、楽歩は残る左手で頭を抱えた。
異な事だ。実に異な事である。
周りの一座の者たちは、皆、にやにや笑って眺めていた。どうせ今晩の酒の肴にするつもりであろう。
「いろは、何とかしてくれ」
たまりかねて彼女の名を呼んだが、不思議なことにあの小柄な姿がどこにも見えない。
楽歩が不審に思ったとき、不意に背中に温もりが寄り添った。
振り返ると、いろはが楽歩の背中にぴったりと身を寄せていた。
「楽歩……アタイとの夜も忘れないで欲しいさね……」
その言葉に、ルカと凛が凍りついた。
「あ、あなた……ついに姐さんまで……」
「楽歩様……私よりも歳の離れた子供相手に……」
「おい」
いい加減にしろ、と楽歩の叫びに、いろはは妖しく、「にゃおん」と笑った。
――了――
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