幻想郷で生き残れるか? ~不運にも迷いこんだ者たち~ (ごぼう大臣)
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プロローグ

――

 

 ◯◯月××日、△△県□□市立▼▼中学校の修学旅行生150名あまりを乗せた4台のバスが、■■山温泉、及び■■山ホテルへの移動中に、行方不明となった。

 バスは前日の宿泊場所を出発するまで、何も変わった様子はなかったという。また、移動するバス四台は全て予定通りの道路やサービスエリアにて何度も目撃されている。

 

 しかし、複数のドライバーの証言によれば、一瞬バスが白い霧に包まれたかと思うと、4台全てがこつぜんと姿を消してしまったのだという。

 その証言にあった場所は全て一致したが、気象庁のデータによれば、そこは一日を通して霧など無かったことが分かっている。

 いまだ、バスと乗客たちの所在は分かっていない。警察は事故の可能性が高いとみて捜査している。

 

 

――

 

「これって……」

 

 畳に敷かれた布団の上で、一人の少年が新聞の内容を読みながらつぶやいた。制服の紺色のズボンと、白のワイシャツ姿。脇にはネクタイと紺色のブレザーが無造作に置かれている。

 ブレザーの胸元には、新聞に書かれていた▼▼中学校の校章がついていた。

 

「あんた、『一体何があったの?』って聞いたでしょ。その新聞が答えよ」

 

「やっぱり大事になっているみたいね」

 

 少年の向かいの二人の少女が、事も無げに言う。

 一人は紅白の妙な巫女服を着た、黒髪の少女。もう一人は空中で、紫色の裂け目のようなものから身を乗り出している奇妙な少女。導師服に金髪、そしてドアノブカバーのような白い帽子をかぶっている。

 

 少年は布団に下半身を入れたまま、初対面の二人の少女をいぶかしげに見つめた。そして、陽の降り注ぐ横手の縁側と、その向こうへ視線を移す。

 彼がいる場所は、小さな神社だった。和室と縁側を抜ければ小ぢんまりとした境内(けいだい)があり、ちゃんと社と賽銭箱と、鳥居も備えつけられている。ただ、博麗神社(はくれいじんしゃ)と書かれたその鳥居をくぐる人影は、一人も見当たらない。

 

「そういえばあんた、名前は?」

 

 巫女服の少女がだしぬけに聞いた。隣の金髪の少女が、あきれたように口を挟む。

 

霊夢(れいむ)、あなたね……それくらい前もって聞いてなかったの?」

 

「うっさいわね。ついさっき起きたんだから聞きようがないでしょ。(ゆかり)だって知らないじゃない」

 

 霊夢、紫と呼ばれた二人は少年を置いてきぼりにして言い争いをはじめる。少年は戸惑いながらも、ワックスで整えた黒髪をなで、言った。

 

「イガミ ケンジ……です。あの、この新聞に書かれている事、本当なんですか?」

 

 少年もといケンジの言葉に、霊夢と紫がそろって振り向く。そして、霊夢が面倒そうに言った。

 

「ケンジね。ええ、本当よ」

 

「でも……確かに、俺だってバスに乗った覚えはありますが、それならなぜ神社になんているんですか?」

 

 短く答えた霊夢に、ケンジは早口に質問をあびせる。かけ布団のすそを心細そうに握り、困惑しながら言う。

 

「他の同級生のみんなもいなくて、俺だけ目覚めたら一人きりなんて……信じられなくて」

 

 ケンジはしゃべる内にうつむき、言葉につまる。そんな彼を見て紫がため息をついた。

 

「心配しなくても説明するわ。長くなるけど」

 

「ほ、本当ですか?」

 

「ええ、この"幻想郷"についてね」

 

 …………それからの話は、ケンジにとって……いや、大抵の現代人にとって、不可解に聞こえただろう。

 彼の今いる場所は幻想郷という世界で、彼の暮らす現代社会とは結界で隔絶されているというのだ。

 しかも、その内部では名前の通りの幻想……妖精、妖怪、魔法遣い、鬼など、現代人にはフィクションでしかない存在が跋扈しており、時おり流れてくるケンジたちのような人間――外来人と呼んでいるらしい――を食らうこともあるという。

 

 聞いていたケンジは不審そうだったが、霊夢と紫はいたって真剣であった。

 聞き終えたケンジは布団をはぎ、手をついて霊夢たちに這い寄った。

 

「じゃあ何ですか、俺の同級生はみんな、そんな危なっかしい場所に散らばってるってんですか?」

 

「まあね。なんせ人数が多いから、時間や場所はバラつくでしょうけど……」

 

「んな悠長なこと言ってる場合ですか! 早く探しに行かないと……」

 

「ダメよ」

 

 縁側から飛び出そうとするケンジを、紫が低い声で呼び止める。じれったそうに振り返るケンジに、紫は続けた。

 

「あなたはすぐに帰ってもらう」

 

「どうして!?」

 

「幻想郷での面倒は誰が見るのよ。それに、ただの一般人がいても仕方ないわ」

 

 紫が淡々と話すと、ケンジは言葉をつまらせる。霊夢もいさめるように口を開いた。

 

「正直言って、普通の人に幻想郷はいるだけで危険だわ。あんたが死んで友達が助かったら、友達は喜ぶの?」

 

「それは……じゃあ僕はどうすれば……」

 

 もどかしそうに歯がみするケンジに、今度は紫が言った。

 

「まあ、あなたは運が良いわ。霊夢か私の力があれば、すぐに元の世界に戻れる」

 

「……戻ることは出来るんですね? 他のみんなも?」

 

「そういうことよ。だから早いとこ帰りなさい。私たちはこっちで地道に頑張るから」

 

 その後、霊夢と紫はケンジを境内に連れ出した。紫が何もない空中をつぅっと指でなぞると、紫が先ほどまで半身を入れていたような紫色の裂け目が、新たにもう一つ大きく開いた。

 裂け目は紫と黒が混じったまがまがしい見た目だった。奥からギョロギョロとのぞく無数の目玉にケンジが尻込みしていると、後ろから霊夢が声をかける。

 

「言っとくけど、幻想郷の話は秘密にしといてよ。大騒ぎになるから」

 

「……分かりました」

 

「じゃ、ここでお別れね」

 

 ヒラヒラとおざなりに手を振る霊夢。ケンジは彼女に振り返ると、絞り出すような声で言った。

 

「みんなのこと……よろしくお願いします」

 

「分かってるって」

 

「嫌なやつもいますけど……どうか、大目に見てあげてください」

 

「なるべくね」

 

 彼は最後に深く頭を下げ、裂け目の奥へ消えていった。紫はそれを見届けると裂け目を閉じ、霊夢に振り向く。

 

「不憫なものね」

 

 その哀れみの混じった口ぶりに、霊夢も参ったように頭をかく。そしてぼやくように言った。

 

「でも、ああ言った以上、何人かは助けないと。あんたも地道に頑張るって言ったでしょ」

 

「あんなの、気休めに決まってるじゃない」

 

 紫は突き放すように言った。そして呆れた目をする霊夢を無視してつぶやく。

 

「本来なら助ける義理もないわ。幻想郷に迷い込んだ人間は成りゆきに任せるもの……今までだってそうだったでしょ」

 

 紫はそこまで言って、ちらりと霊夢に視線を送る。霊夢はため息をつき、すねたように空をあおいだ。

 

「……分かってるわよ」

 

 

――

 

 

 ……その頃。

 

「……あれ?」

 

 広い道路の真ん中で、ケンジはふと我にかえった。学校の制服姿のままで、一人だけポツンとアスファルトの上に座り込んでいる。

 辺りを見回すと、周りに建物はなく、うっそうと茂る樹木と、それを道路と別に仕切るガードレールが目に入る。交通量は少なく、彼の傍らには『■■山温泉、この先……㎞』と書かれた標識があった。

 

 それは、ケンジには見覚えがあった。修学旅行の途中で、バスに乗って通りがかった場所だ。

 結局あれからバスがどこに向かって行ったのか、記憶にない。なぜ自分だけが道路にいるのか。

 あの神社からもどって来たのか? バスは消えたのか? ……それとも、まさか夢だったのか?

 

「おい、誰かいるぞ!」

 

 混乱する頭で考えていると、遠くからあわてた男性の声が聞こえた。振り向くと、制服を着た捜索隊らしき人々が何人も駆けてきた。

 

「君、ケガはないか? 名前は?」

 

「あ……その……」

 

「▼▼中学の生徒だよね? 私が分かるか?」

 

 あたかも行方不明者に呼びかけるかのような制服姿の大人たち。ケンジは幻想郷の話が本当だったのではと感づき、青ざめた。

 そんな彼に、大人たちは追い討ちをかけるかのように、顔を見合わせて言った。

 

「しかしどういう事だ? 生徒一人だけが急に見つかるなんて……」

 

「バスだってどこ行ったか分からないんだよな……」

 

「あれから何日も経つのに……」

 

「…………!」

 

 その言葉を聞いた彼は、思わず捜索隊の一人にしがみつき、必死に懇願しだした。

 

「お、お願いです! これから先も探してください!」

 

「わ、な、なんだ!?」

 

「みんな、今は別な場所に行ってるだけなんです! いつか、いつか必ず帰ってきますから! どうか……」

 

 急に取り乱したケンジに、捜索隊は戸惑った表情を浮かべた。その内にうつむき、すすり泣く様子を見ながら、彼らは苦笑いを浮かべる。

 

「……何かよほどショックを受けたんだろうな」

 

「まずは病院だ。君、立てるか?」

 

「おーい、一名救助だ! 早く!」

 

 救助隊に肩を貸してもらい、ケンジはヨロヨロと歩き出す。途中で一度だけ振り返り、彼は心の中で祈った。

 

(戻ってくるよね……? きっと。きっと……!)

 

 ……だが、彼の希望とは裏腹に、ケンジはこの先何年間も、"数少ない生還者"として世間を騒がせることになるのであった……。

 

イガミ ケンジ――生存

 



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目を惑わせる夜雀

「……ったくもう、一体ここどこなんだよ。最悪……」

 

 日が沈み、あたりを漆黒の闇がつつむ頃。虫と(こずえ)のざわめく森の中を、一人の少年がさまよっていた。

 着くずしたブレザーの制服に身をつつみ、大きなカバンを肩にかけ、片手に持った携帯を弱った様子で見つめている。

 制服の胸には▼▼中学の校章があった。

 

「あーっクソが! 電波が入らねえ!」

 

 少年は立ち止まると、怒鳴りながら携帯を地面に叩きつけた。かしゃん、と音がして画面が明滅する。

 イライラした様子でそのそばに歩み寄り、彼はどっかと腰をおろす。肩にかけていた鞄には、"カツタ リョウマ"と名前が書かれていた。

 

「はぁ……参ったなぁ……」

 

 少年ことリョウマは頭をかかえ、今までの事を思い出していた。

 修学旅行に参加し、一日目を楽しくすごして、二日目の宿泊場所へ移動していた。

 バスに乗ったのは覚えている。友達と談笑していて、寝た記憶はない。ないはずなのだが……。

 

 それがどういう訳か、気がつくと夜の見知らぬ森の中にいたのだ。いまだ人影は見えず、空をあおぐと月が白々しく見下ろしてくる。

 

 リョウマは途方にくれ、かたわらの着替えなどが入ったカバンをさぐった。お茶のボトルに初日に買ったおみやげ、アカすり……。それらのすき間から、iP◯dとイヤホンが引きずり出される。

 音楽でも聞こうかとふと考えるが、そんな場合ではないと思い直した。ただでさえ明かり一つない森の中なのだ。常時目隠しをしているようなこの状況で、物音まで拾えなくなるのはまずい。

 

「はぁ……」

 

 彼はイヤホンとiP◯dをポケットにねじこみ、またため息をついた。その時、不意にかすかな匂いが彼の鼻をくすぐる。

 甘く香ばしい、食欲をそそる匂い……。リョウマは何度か鼻を鳴らし、信じられないといった表情でつぶやいた。

 

「ウナギの……タレ?」

 

 それはまぎれもなく、彼も口にしたこともある蒲焼きの香りだった。少々いぶかしんだが、リョウマはカバンをかついで歩き出す。

 もしかしたら、山奥の秘境の料亭のようなものがあるのかもしれない。あるいは、案外人里に近いのかもしれない。そんな都合のいい考えを抱いていた。

 それに、森の中を歩き続け、空腹が限界だったのだ。

 

 暗闇の中を慎重に匂いをたどり、彼は木々を分ける線のような細長い道に出た。道の先にぽつりと、オレンジ色の灯りが見える。

 その灯りはとても小さかったが、彼にとってはやっと見つけた光だった。目をこらして少しずつ歩くと、灯りに照らされた小さな屋台が浮かび上がった。

 

(匂いは……あそこから……?)

 

 近づくにつれ、タレの香りが濃くなり、かすかな焦げ臭さが混じる。やがて、煙が立ち上る屋台の内装と、カウンター越しに立つ店主の姿が見えてきた。

 その店主は、そばに寄ると分かるがずいぶんと背が低く、細身に見えた。しかも奇妙なことに、背に鳥のような大きな羽根がついている。

 

「……なんだぁ……?」

 

 リョウマはいぶかしげな顔をしながら近寄っていく。すると、ずっとうつむいて料理をしていた店主が、急にぐるんと振り向いた。

 

「いらっしゃいませ、ミスティアのお店へようこそ!」

 

「あ、はあ……どうも……」

 

 高いあいさつの声に、リョウマはまごついた。ニッコリと笑ったその店主は、明らかにまだ未成年の――下手をすれば中三のリョウマ以下かもしれない――少女だったのだ。

 白茶色の帽子と着物に身をつつみ、手元に設置された網からの熱気で、額に汗を浮かべている。小さな羽のような耳と、背中の翼は、間近で見ると作りものではない生物感があった。

 

「お若いお客さんですねー、お好きな席へどうぞー」

 

「は、はい」

 

 幼く奇妙な格好に戸惑うリョウマを、ミスティアと名乗るその少女はにこやかに席へ誘う。彼はゆっくりと椅子に座り、となりにカバンを置いた。

 キョロキョロと落ち着かないリョウマに、ミスティアはこう尋ねる。

 

「お客さん、ご注文は?」

 

「いえ……その……」

 

一見(いちげん)様だから、普通に八目鰻(やつめうなぎ)の蒲焼きにしましょうか?」

 

「八目……鰻?」

 

 リョウマは怪訝な顔で聞き返した。普通の鰻ではなく、八目鰻。鰻自体もあまり食べたことはないが、八目鰻は食用があるのを知らないレベルになじみがなかった。

 

「じゃ、それで……」

 

「はいはーい、では少々お待ちを~」

 

 ミスティアはうれしそうに答え、八目鰻らしき切り身を焼き始める。肉が熱せられる音が小気味よく響く。

 

「焼き以外に、お刺身もお出ししたいんですけどね~。なんせ鮮度を保つのが難しくって」

 

「へぇ……」

 

 生返事をするリョウマの前に、湯飲みに入ったお冷やが置かれる。ガラスのコップじゃないのか、と首をかしげ、彼は水に口をつける。

 「ここはどこなんですか」と言いかけたが、ミスティアがやけに楽しげに鼻歌を歌っていたので、言いそびれてしまった。携帯を再度見てみるが、相変わらず電波はない。

 

 リョウマはいまだ心細かったが、その場を離れる気にはなれなかった。こんな場所で営業する屋台も少女も怪しさは満点だったが、やっと灯りと話が通じる相手が見つかったのだ。いくらなんでも、周りの暗闇よりは安全に思えた。

 それにしても、この場で何かできることはないだろうか……。彼はそう考え、ふとミスティアへ尋ねた。

 

「あの、スマセン!」

 

「はい?」

 

「ちょい写真、撮らせてもらっていいですか?」

 

「あ、いいですよー」

 

 いつの間にか曲調が変わっていた鼻歌を止め、ミスティアは笑顔でピースサインをつくる。リョウマは苦笑いをして言った。

 

「いや、あなたじゃなくお店の写真です」

 

「なーんだ……どうぞ」

 

 ミスティアは肩を落として了承する。リョウマはすぐさま立ち上がると、屋台の暖簾(のれん)や内装、椅子などを撮った。

 

(電波が戻ったら、すぐアップしよう……。屋台を知る人に見つけてもらえれば、場所が分かるかもしれない……!)

 

 彼はいまだ続くミスティアの鼻歌をよそに、何枚も写真を撮り続けた。そして電池残量が少ないのに気づき、最後の一枚にしようと思ったその時……。

 画面を見つめるリョウマの視界が、不意にぼんやりと白くかすみだした。

 

「あれ……?」

 

 リョウマは目をこすり、また画面を見る。しかし、いくら目をこらしても、視界はまるでモヤがかかったかのようにボヤけて戻らない。

 

「へぇー、外の世界ではこんなので写真が撮れるんだ。」

 

「へぁっ!?」

 

 急に耳元でささやかれ、リョウマは情けない悲鳴をあげて飛びのいた。いつの間に屋台の外に回ったのか、ミスティアが座席の真横にたたずんでいる。

 

「あ、あの……」

 

 リョウマは口を利こうとするが、言葉にならなかった。ミスティアは相変わらず笑みを浮かべていたが、その表情は先ほどまでとは違う。口は口角を上げて笑っていながら、目が獲物を狙うネコのように見開かれ、ぎらついている。なぜか視界が効かないリョウマにも、その鋭い眼光は見えていた。

 そして……手に握られた銀色の包丁の光も。

 

「ねぇ君、やっぱり外来人だよね? 格好とかで分かるもん」

 

「は? がい……?」

 

「なじみのお客さんに食べさせるのに便利なんだよねー。外から来た人間は身元が分からないから」

 

 何やら訳の分からないことを言いながら、ミスティアはゆっくりと歩み寄ってくる。まずい。リョウマは本能的にそう感じた。片手に携帯を握りしめながら、もう片方の手をすがるようにあちこちへ伸ばす。

 すると、となりの席に置いたカバンが手に触れた。リョウマはとっさにそれをつかむと、ヨロヨロと立ち上がる。

 

 そして、ついに包丁を振り上げてきたミスティアに向け、全力でカバンを投げつけた。

 

「ふぎゃっ!」

 

 三、四日分の着替えその他が詰まったカバンの直撃を受け、ミスティアはあっけなく倒れる。そのすきに彼は目がろくに見えないのもかまわず、背を向けて脱兎のごとく逃げ出した。

 

「は、はっ、はっ、はっ!」

 

 荒い息を吐きながらリョウマは全力で足を動かす。じきにガサガサと茂みを分ける音が足元から響き、森の中に入ってしまったのだと察したが、止まれなかった。

 振り向いたらあの少女が目の前にいるかもしれない。そんな言い知れない恐怖に取りつかれ、枝が目をかすめようが、岩にヒザをぶつけようが、彼は一心不乱に走り続けた。

 

 もう五百メートルかは離れただろうか。しかしいまだ森は抜けられない。リョウマが息を切らして立ち止まると、彼の耳に妙な音が流れ込んできた。

 人の声とは違う、不思議な音色。耳元で鳥が延々とさえずっているような、耳障りな音だ。

 その瞬間、彼の視界のモヤがますます濃くなり、白黒に明滅しはじめる。もしかしたら、この歌が目をおかしくしているのか。リョウマは焦りながらもそう察した。

 あわてて手で両耳をふさいだが、いっこうに効果がない。歌は手をすりぬけるように響いてくる。彼はとっさに制服のポケットに手を突っ込むと、先ほどのイヤホンとiP◯dを取り出した。そして震える手で音楽を再生する。

 

 曲は何でもよかった。とにかく今、どこからか聞こえる奇妙な歌を防ぎたかった。

 間もなくして両耳からお気に入りの曲が流れだし、リョウマはホッとして再び走り出す。しかし。

 

「なっ……!?」

 

 確かにイヤホンからは別の歌が流れているのに、目をおかしくする奇妙な歌は、まるで鼓膜にこびりつくかのように他の音を押しのけ、頭の中に流れ出す。まるで、脳に直接響くかのように。

 リョウマは前も見ずに、むきになってiP◯dの音量を上げていった。それで確かにイヤホンからの音は大きくなったが、それでも耳障りな、奇妙な音は止まない。

 どうなっているんだ。脳内でそう毒づきながら、彼は必死に指と足を動かした。もはや全く噛み合わない二つの歌以外は、意識の外にあった。

 iP◯dの音量はとうに最大になり、リョウマの頭には、爆音と鳥の鳴き声が延々と鳴り響いていた。やがてそれに最大限稼働する心臓の音が加わり、彼の意識を騒音のカルテットが支配する。

 

 すると、急に耳をつんざくような激痛がして、リョウマは地面にしゃがみこんだ。落とした携帯が地面にぶつかったが、音がしない。彼は反射的に耳を押さえ、次に抜けたイヤホンを入れ直し、目をこらして音量を確認した。

 そして瞬時に青ざめる。音は全く聞こえなかった。鼓膜が破れたのだ。

 

(……くそったれ!)

 

 リョウマは何もかも放り出し、やけくそになって走り出した。いまだ目はかすんで、鼓膜も破れている。五感のうち二つを失った彼は、鼻を鳴らして両手を伸ばし、まるで走るゾンビのように森を駆け回る。

 伸ばした手が木にぶつかる。踏みしめる地面が不安定になる。それでも彼は走るのをやめなかった。止まれば死ぬ。その恐怖が、どこまでも彼を動かしていた。

 

 ある時、明確に足を踏み外す感触がした。それと同時に、投げ出されるような感覚とともに、彼の体が宙に浮く。

 何が起きたのか、盲目の彼には理解できなかった。ただ次の瞬間に全身に衝撃と激痛が走る。頭には格別な痛みが染み渡り、片腕の感覚がなくなった。

 ああ、どこかから落ちたのか。リョウマはボヤけていく意識の中で、そう思った。

 

(……うぅ……痛ってぇ……)

 

 体はいくら力んでも動かせない。彼はしばらく痛みをこらえてうめいていたが、やがて、このまま死んでしまおうかと考えた。

 今までの景色からして、人が来るとは思えない。それに、このまま痛みに耐え、ミスティアにおびえるより、眠るようにして死ぬ方がマシではないか。そう思ったのだ。

 もちろん学校の連中や家族に未練はある……が、先に気力が尽きてしまいそうだった。

 彼は最後に心の中で詫び、そしてゆっくりと目を閉じた。

 

――

 

 ……それから、数分後。

 

「あ、いたいた~!」

 

 すでに空が白みだした頃、後を追ってきたミスティアは、倒れているリョウマを見て顔をほころばせた。

 彼がいたのは森を抜けてすぐの、ちょっとした崖の下だった。木は刈られていくらか整備された道があり、見晴らしのいい崖の上からはポツポツと建物の影が見える。

 

「見つかってよかった~。ここ朝になると人が来ちゃうのよね。早くしないと」

 

 ミスティアは空の明るさから顔をかばいつつ、リョウマへと駆け寄る。そして彼の胸に手を当て、顔色を観察し、「うん、まだ生きてる!」とほほえんだ。

 そしてリョウマに手を伸ばすと、少女とは思えない力で抱え上げ、ミスティアは羽ばたいて空へ飛び上がった。

 森を上空でショートカットしながら、ミスティアはウキウキした表情でこうつぶやく。

 

「帰ったらまずはこの人の止血ね……。鮮度は大事だから、ギリギリまで生きててもらわないと。人間のお刺身って久しぶりだなぁ。腕がなるわ!」

 

 血を流しながら眠る少年を抱えたまま、ミスティアは事もなげにそう言った。彼女の顔はほがらかな少女そのもので、例の鳥のさえずりのような鼻歌を、楽しげにいつまでも歌い続けていた。

 

カツタ リョウマ――死亡

 



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無邪気な三妖精

「……あれ? ここさっきも通ったかな……」

 

 日が昇っていくらか時間が経った頃、うっすらと霧が立ちこめる森の中を、一人の少女が歩いていた。

 明らかに自然の中では場違いなワイシャツ、ベスト、ブレザー、スカート、そしてローファー靴という制服に身を包み、リュックを背負ってキョロキョロとさまよっている。不安げな表情で、長い黒髪を時おり、気をまぎらわすようにかきあげていた。

 彼女、ニシダ サオリは代わり映えしない景色に戸惑いながら、昨日のことを思い出していた。

 

 ▼▼中学の修学旅行で、何事もなく初日を終え、二日目の宿泊場所に行くバスへ乗り込んだ……。そこまでは覚えている。

 しかし、どういう経緯か、彼女はふと気がつくと朝方の見知らぬ森の中に眠っていたのである。

 最初はサオリも夢を見ているのかと思った。クラスの全員が乗ったバスから一人だけ森にこぼれ出るなどというのは、普通に考えてあり得ない。

 

 携帯の電波が通じないので、まずは森を出ようとしたのだが、よほどの奥深くにいたのか一時間ほど迷い、同じような景色を見続けていた。そこまでくると、さすがに夢ではないと理解する。

 

「……この森ちょっとおかしいんじゃないの? 変なキノコ生えてるし……」

 

 一人ごちながら、彼女はすぐそばの地面に目を落とした。密集するように生えた、無数のキノコたち。大きさも色もさまざまで、成人が寝れそうなほどのカサを持つもの、紫と白のマーブル柄のものなどが、辺り一面に生えている。

 脱出に集中して気にしないようにしていたが、それらはやはり奇怪だった。

 

 うんざりしたような目でサオリはキノコをながめていた。すると、不意に誰かに背中を押される感触がした。

 

「うわっ、たった……!」

 

 つんのめって倒れそうになりながら、サオリはあわてて背後を振り返る。が、誰もいない。

 人影も、足音も、気配もなく、かすかにそよ風が吹き抜ける。

 サオリは首をかしげ、また歩き出す。しかし今度は後ろからスカートをめくられた。

 

「きゃっ!?」

 

 スカートの下にはいた短パンがあらわになる。彼女はあわてて舞い上がった布を押さえ、さっきより勢いを増して振り返り、ついでに左右を二、三度確認した。

 すると、腰まである髪を引っ張られる。振り返るが、今度も誰もいない。

 彼女は最初こそ戸惑ったが、ほどなくしてイライラしはじめた。何者か知らないが、子供じみたイタズラだ。

 どこかに地元の悪ガキでも隠れているんだろうか。神や妖怪など信じていない彼女はそう思い、一つ長い息を吐く。

 

「…………」

 

 続けて、ポケットからいつも持ち歩いている手鏡を取り出すと、おもむろに髪を整えはじめた。

 何者かのイタズラで乱れた髪型を、気にしているのだろうか。否、手先はしきりに髪の毛をすいているが、彼女の視線は、鏡に映る自分の顔と――その背後をくまなく見つめていた。

 しばらくして、鏡越しに見つめる背後の原っぱに、彼女は小さな違和感を見つけた。

 原っぱの雑草の一部が、ひとりでにかき分けられるように動いている。いや、見えない何かが雑草をかき分け、踏んでいるのだ。その何かはちょうど横幅一メートルほどの生き物に見えた。

 

 サオリは反射的に眉をひそめる。ゲームならまだしも、現実で透明な生き物など見たことがない。が、その見えない生き物はどんどん彼女に向けて近づいてくる。

 ものは試しという気持ちで、サオリは持っていた手鏡を見えない生き物に向かって投げつけた。

 

「えいっ!」

 

「あいたぁっ!?」

 

 手鏡が空中で何かにはね返る。同時に、気の抜けるような女の子の悲鳴が聞こえた。サオリが虚をつかれたように前方を凝視すると、何も見えない空間に、透けて出てくるようにして三人の小さな女の子が現れた。

 

「……なんでバレたのよー。たしかに見えなくなってたのにー……」

 

「音だってちゃんと消してたわよ……多分」

 

「気配も分からないハズなんだけどなぁ」

 

「…………」

 

 突如あらわれた、サオリの腰ほどの背丈もなさそうな、四、五歳ほどの見た目の幼女たち。

 一人目は二つ結びのオレンジ色の髪に赤いリボン付きカチューシャを着けた子。

 二人目は木蘭(もくらん)色の髪をツインドリルにして白い帽子をかぶった子。

 三人目は額で切り揃えた長い黒髪に青のカチューシャを着けた子。

 全員が凝った可愛らしい子供服のようなものを着て、背中に薄い羽を生やしている。

 三人はしばらく不思議そうな顔をして愚痴っていたが、ポカンとしながら見下ろすサオリの姿に気づくとハッとなり、そろって背を向けた。

 

「ってやばっ! 逃げないと!」

 

「ルナ、早く!」

 

「あっちょっ、置いてかないでよぉ!」

 

 驚いているサオリをよそに、幼女たちはありふれた子供のようにパタパタと走り出す。

 その最後尾で、ツインドリルに白の帽子をかぶった幼女が、つまずいた拍子にドテッと転んだ。

 そのすきに、サオリは転んだ幼女を後ろから両脇を抱え、捕まえる。

 

「わっ、は、離してー!」

 

「ちょっと待ちなさい! イタズラしたのアンタたちでしょう!?」

 

 ジタバタともがく幼女を、サオリはしっかりと抱きかかえた。他の二人――オレンジ髪の子と、黒髪に青カチューシャの子――は離れた場所で顔を見合わせ、友達を助けるか否かで迷っているようであった。

 サオリはそんな二人を含め、全員に向けて言う。

 

「あの、悪いんだけどー! 謝ってほしいのと、聞きたいことが色々あるの! 少し待ってもらえない?」

 

 二人はそろって嫌な顔をする。おそらく手元の子もそうだろう。そう思いながらも、彼女は大声で頼み込む。

 

「お願い! あの、私ちょっと今何が何だかって状況で困ってんのよ! ちょっとでいいから……」

 

 ところが、そう叫んでいる途中で、サオリは急に激しく咳き込みはじめた。

 

「……ゲホ、ゲホッ!! このへん、の……ゴホッ……教え……っ!」

 

「……?」

 

 捕まっていた幼女が驚いて振り向く。サオリはなぜか喉がやにわに痛み、胸がしびれるような感覚に襲われていた。

 立ち止まっていた二人が、あわてた顔でパタパタと駆け寄ってくる。そして、言った。

 

「あちゃ~、もしかしてキノコの胞子にやられたんじゃ……」

 

「かもしれないわ。この人見るからに外来人っぽいし」

 

「……がい……らい……?」

 

「川で洗ったらマシになるかも。ね、降ろしてよ」

 

 いぶかしむサオリとは対照的に、三人は苦しむ姿に同情したのか、彼女の腕を引っ張る。そして、なんと全員でサオリを支えてフワリと浮かび上がると、どこかを目指して飛んでいった。

 

――

 

「幻想郷?」

 

「そ。で、ここは魔法の森」

 

 いぶかしげに眉を上げるサオリに、オレンジ髪の幼女がうなずいた。

 森の中を少し動いた場所にある小川のほとりで、サオリは三人から顔を洗うように言われた。森で見かけた奇妙なキノコは胞子に毒があり、洗い流さなければ危ないのだという。

 そんな危険なものがはびこるこの場所は何なのかと尋ねると、"幻想郷"なのだと言い出した。

 

「……何それ。何県にあるの? それとも外国?」

 

 洗って濡れた顔を振り、まだ胞子の毒で気だるい体を気にしながら、サオリは言った。対して三人はそんなのどうでもいいとばかりに、一歩進み出てこう話す。

 

「幻想郷は幻想郷よ。私は光を操る妖精、サニーミルク!」

 

 オレンジ髪の子が元気いっぱいに答える。

 

「私は音を操る妖精、ルナチャイルド……」

 

 ツインドリルの子が、警戒心をのぞかせつつ名乗った。

 

「私は気配を操る妖精、スターサファイア」

 

 最後に黒髪の子が、静かにおじぎをして言った。

 サオリはといえば……そんな三人を、困ったような目で見つめている。それに気づいたサニーが、不満げに口を開いた。

 

「ちょっと、何よその張り合いのないリアクションは!」

 

「いやだって、急に幻想郷とか妖精とか言われても……」

 

 サオリはとても信じられないという顔で頬をかく。サニーはむきになって人差し指を突きつけた。

 

「私たちが姿を消してたのを見たでしょ!? つかその後飛んでたし!」

 

「あれは……何かタネがあるんでしょ、手品みたいに。中三にもなって騙されないわよ私は」

 

「ああもう、これだから外来人は……」

 

「知らない人に、そんな大がかりな手品をやるワケないのにねー」

 

 納得しないサオリを、ルナとスターは呆れた目で見つめている。それに気づいたサオリはムッとなり、鼻を鳴らして言った。

 

「ふーん。そこまで言うなら……実際に見せてよ。光やら音やら操るところ。そしたら信じてあげる」

 

 半ば意地になったような口調。しかし、それを聞いたサニーは我先にとサオリに詰め寄った。

 

「本当ね? ちゃんと見てなさいよ」

 

「はいはい、頑張ってね」

 

「光を調節して、消えてみせるわ! それっ!」

 

 サニーが堂々とそう言い放った瞬間、彼女の姿が本当にスゥッと消え失せる。あからさまに疑いの目をしていたサオリは、とたんにその目を見開いて大口を開けた。

 

「……え、は?」

 

「どうよっ! これが私の能力!」

 

「わっ!?」

 

 驚くサオリの目の前に、サニーが元通り現れる。それに再度驚いたサオリは、胞子で重たくなった体で川瀬に尻もちをついた。

 それを愉快そうに見つめるサニー。サオリは夢か現実かと言いたげな顔を、ボンヤリとルナに向けた。

 視線に気づいたルナが、小さくため息をつく。

 

「……次は私? いいわよ、これから音を操ってみせる」

 

「う、うん」

 

「それっ! ……………………」

 

「……………………??」

 

 ルナが張り切ってかけ声をあげた瞬間、あたり一帯が無音になる。しかし、続けて得意気に口を開いたルナまで、なぜか口パクであった。『何してんの?』と聞いたサオリの声も、全く声にならない。

 しばらくして、ようやくハッとなったルナがあわてた様子で喋りだした。

 

「あ、そうだった。音が消えるとこういう事もあるんだった……」

 

「周りの音が消えるって、時々不便よね」

 

(……案外まぬけね。この子)

 

 恥ずかしがるルナと、それをからかうサニーをながめながら、サオリは内心で失礼なことを考えていた。

 しかしふと、あることに気づく。

 

「あれ、スターちゃんは?」

 

 そう言って、辺りを見回すサオリ。サニーとルナはなぜかニヤニヤとその様子をながめている。

 次の瞬間、サオリの背後で突然ぼそりと声がした。

 

「私スター。今あなたの後ろにいるの」

 

「ひゃあぁっ!?」

 

 いきなりの不気味な声に仰天したサオリは、振り向いた拍子に回転イスから転げ落ちるがごとく、背後の川にぶっ倒れた。彼女の後ろ半身が水につかり、三人の妖精が大笑いしだす。

 

「あはははは! 引っかかった引っかかった!」

 

「これが私の気配を操る力。ビックリしたでしょう?」

 

「見事なひっくり返りっぷりだったわね」

 

「…………」

 

 霧が晴れてのぞいてきた青空の下、三人の妖精に見下ろさるサオリ。彼女はしばらく呆けた顔をしていたが、やがて飛沫をあげてはね起き、三人に向けてわめいた。

 

「分かった、分かったわよ! 信じるからもう家に帰してよ!! こんなイタズラに付き合ってる暇ないってのっ!!」

 

 切実な悲鳴に、さすがの三人ものけぞって弱った顔をした。サニーが一人、不満げに抗弁する。

 

「な、なによ。アンタが見せてって言ったんじゃない。それにイタズラは私たちのあいでんてぃ、あいでんてってっ……ええと」

 

「……アイデンティティー?」

 

「そう、それよ! アイデンッ、ティ、ティー……なの! 失礼しちゃうわね」

 

 スターの補足を受けながらサニーが言い放ち、むくれる。サオリは少々落ち着きを取り戻したが、なおも不機嫌そうだった。

 脇で黙っていたルナが、ぽつりと口を出す。

 

「家に帰りたいなら、一応アテはあるけどさぁ……」

 

「本当!?」

 

「うん。私たちも今はその近くに住んでるし。けど……」

 

 目を輝かせるサオリに向けてルナはうなずいたが、途中で歯切れ悪く言いよどむ。サオリが眉をひそめると、スターが察したように言いついだ。

 

「たしかに、ただで帰してあげるって少し面白くないわね」

 

「は、はぁ?」

 

「本来、おせっかい焼く義理もないわけだし……いっちょう勝負ごとでもしてみるのはどうかしら」

 

「おお良いわね。さんせー!」

 

 余計な提案をしたスターに、サニーがはしゃきだす。落胆するサオリに、ルナが言った。

 

「まあ、森の中にも頼れる人はいるし」

 

「そうそう。負けたらその人の所に行けばいいのよ。少し手間が増えるだけ」

 

「今は勝負に勝つことを考えればいいの」

 

 サオリの意見も聞かずに勝手に話を進める三人。あげくには小さな声でナイショ話をはじめる。

 サオリががばりと立ち上がると、三人はそろって向こう岸めざして逃げ出した。

 

「それじゃ、勝負はかくれんぼ! 私たちを見つけたらあなたの勝ちね!」

 

「あ、能力も使うから。ちゃんと見つけてねー」

 

「なっ、待ちなさいよ! ちょっと……」

 

 笑顔で一方的に言われ、サオリはあわてて妖精たちを追いかける。しかし、川を渡る途中で、片足が予想以上の深みにはまる。

 

「きゃっ!?」

 

 サオリは悲鳴をあげ、あわてて近くに顔を出している岩に手をついた。しかし着地する場所をまちがえ、片手を岩につけて前傾した姿勢のまま両足をつっぱるという、無理な格好になってしまった。

 サニーが光を操り川の見た目をごまかしたのだが、彼女には分からなかった。

 そのサニーが、手でメガホンをつくってさも楽しそうに叫ぶ。

 

「ダメよ、ちゃんと三十かぞえないとー! じゃあ私たち隠れるからねー!」

 

 そうして、三人は向こう岸の森の中へと消えていった。それを眺めながら、サオリは苦い顔をする。

 いまだ胞子の影響で体は重かった。

 

「うぎぎぎ……っ!」

 

 片手に力を込めながら、彼女は同時に川をなめていたのを重い知った。

 膝上の深さの水流となれば、人は一気に流されやすくなる。しかも、悪いことに彼女の近くには岩が二つ、川をまたぐように並んでおり、狭い岩のすき間からの強い流れが体をさらおうとしてくるのだ。

 はたから見るとまぬけだが、サオリは身一つ。本人にとっては緊急事態だった。彼女は恥をしのんで、妖精たちが去っていった方角に向けて叫んだ。

 

「ごめーん! ちょっと、一旦こっち来てー! 川にハマっちゃってーーっ!」

 

 あらんかぎりの声が森に反響する。しかし、いくら待っても妖精たちは顔を出さない。冗談だと思われているのかとくり返し叫んだが、結果は同じだった。

 しばらくして、サオリはふと、ルナが能力を見せた時に、周りの音がいっさい消えたのを思い出した。

 

『周りの音が消えるって、時々不便よね』

 

 思えば、あの時は本当に"何も"聞こえなかった。例えば、遠くで響く鳥の声なども。

 もし、三人が一緒に隠れていたら。そして、ルナが隠れる時のクセか何かで、三人の周りの音を消していたら。

 

(……まさか、私の声も聞こえてない?)

 

 サオリがそう思い当たり、顔面蒼白となった直後。

 ふんばっていた手がすべり、彼女の体が一気に流れにさらわれる。彼女の視界には、スローモーションで向こう岸が離れていくのが見えた。

 

「ぶわっ!?」

 

 あえなく全身が沈み、彼女はパニックになって手足をばたつかせる。しかし、目鼻や耳が利かない中では上下もすぐに分からなくなり、彼女は水中を転げ回るようにして流されていく。

 胞子の毒が残る体が、水も加わって何倍も重くなる。体が鉛になったような感覚を味わいながら、徐々に鈍っていく頭の中で。

 溺死というのは、案外浅い場所でも起こるのだという戒めを、彼女はうっすら思い出していた。

 

――

 

 それから三十分ほどして、いっこうに姿を見せないサオリを怪しんだ妖精たちが、下流に流れ着いていた彼女を発見した。

 三人でぐったりした体をやっとのことで引き上げたが、すでに意識はなく、心臓がかろうじて動いているだけという状態であった。

 

 川瀬に横たわるサオリを、サニー、ルナ、スターの三人は緊迫した面持ちで見つめていた。

 誰も口を開こうとはしない。目の前で起きている状況に対して、何かを発言するほどの勇気は、彼女らにはいまいち無かった。

 

「……どうしよう」

 

 しばらくして、サニーがかろうじてつぶやき、視線を二人にめぐらせる。ルナとスターは観念したように顔を上げ、おそるおそる言った。

 

「どうするったって……」

 

「まずは病院よね……」

 

 しごく当たり前のことを言う二人。しかし、そう口にしながらも、彼女らはしきりに目を泳がせるだけだった。

 その理由は、ルナの漏らしたセリフで明らかになる。

 

「でも……この人が助かったら、何があったかバレるよね? どんなに叱られるか……」

 

 妖精の精神は、ほぼ全員が子供である。周りの者に叱られるというのは、いつまでも絶対の恐怖であった。

 黙りこんだルナに代わって、スターが突然こんな事を言い出した。

 

「そ、そうだ……埋めちゃいましょう。今からじゃお医者さんにも間に合わないわよ、多分」

 

 その言葉で、サニーとルナの表情に緊張が走る。しかし、少しの間考え込むと、ひきつった顔で笑みを浮かべた。

 

「そ、そうよね。死にそうな体をいじくり回されたら、かえって気の毒だし」

 

「きれいな森に埋葬してあげましょ。そうしましょう」

 

 そうして互いにうなずき、三人はしゃがんでサオリに土をかぶせだす。まだ生きている人間の青白い肌が、どんどん埋もれていく。

 しばらくすると、そこには簡素な土饅頭ができあがる。妖精たちはそこに数本花をむしって供え、テキトーに手を合わせた。

 そして、三人は見なかったことにするかのように、我先にとその場から飛び立った。

 

 果たして彼女らのイタズラの結果は、誰にも知られることなく、本人たちの胸にしまわれる。それも一ヶ月ほどで忘れ去られるだろう。

 妖精は反省しない。学習もしない。失敗し、痛い目をみて、なおもそれをくり返す。永遠の子供時代をすごすのである。

 今日の事件も、その一部にすぎないのだ。

 

ニシダ サオリ――死亡

 



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妖怪の山 ~迷いこんだ三人~

「雨、やまないね……」

 

「山の天気は変わりやすいからな」

 

「おまけに寒いときやがった。ったく最悪だよ……」

 

 時刻は夕方、ある人気(ひとけ)のない山中の洞窟で、三人の少年が身を寄せあっていた。

 彼らはそろってブレザーの制服の上にビニールの雨ガッパを着て、ずぶ濡れの体でうずくまっている。制服には▼▼中学と書かれた校章がついていた。

 傍らには、三人のものらしき旅行カバンが置かれている。

 

 少年らの一人がぶるぶる震えながら顔を上げる。視線の先の、狭苦しい洞窟の外では、バシャバシャと滝のような雨が降り注いでいた。

 それを眺めながら、つり目がちの一人の少年が、遠い目をしてつぶやいた。

 

「どうしてこんな事に……」

 

 その言葉に、他の二人の目線がぴくりと動く。すると短髪の少年が、つり目をいさめるような口調で言った。

 

「……ショウゴ、そう悲観的になるなよ。雨があがったらすぐに逃げ出そう」

 

 そう言って短髪はほほえんだが、ショウゴと呼ばれた少年はつり目をさらにつり上げ、こう怒鳴る。

 

「シュンスケは呑気すぎんだよ! よくそんな落ち着いていられんな!」

 

「落ち着かなきゃしょうがないだろ。マコトを見習って大人しくしてろ」

 

「それでどうにかなるなら苦労しねーよ! 今まで何があったか、覚えてないのか!?」

 

「…………」

 

 シュンスケの言葉にかまわずショウゴが怒鳴り、声が狭い洞窟内に反響する。マコトと呼ばれた三人目の少年は、メガネの水滴もふかずに黙ってうつむいていた。

 雨足がますます強くなる。ショウゴはその雨音にいらだってか、立ち上がって肩をいからせながら、シュンスケとマコトに向けて叫んだ。

 

「お前らだって見ただろ! あの得体のしれない、狼やカラスのバケモノみたいな連中を……!!」

 

「それは……」

 

 バケモノ、その言葉を聞いた二人の表情が、ふと緊迫感を増す。穏やかだったシュンスケの顔も一瞬でくもってしまった。ショウゴはすでに、顔面蒼白となっている。

 おびえるように顔を見合わせる三人。洞窟の外では、いつしか山を覆うような雷鳴が響いていた。

 

――

 

 ……彼らは目覚めた時、いつの間にか見知らぬ山の中腹に転がっていた。そばには荷物があるだけで、人の姿は見当たらない。

 三人はまたたくまにパニックになりかけたが、なんとか一番冷静なシュンスケがなだめ、とりあえず下山をめざした。まだ日も高く、誰も深刻に考えようとはしなかった。

 

 しかし、彼らはほどなくしてその認識を後悔することになる。

 

 下りはじめてすぐに、彼らの一人が奇妙な集団を見かけた。白い着物に赤の袴を着て、背に大刀を携えた山伏のような者たち。しかも、彼らは人間のような姿をしていながら、まるで犬……もとい狼のような白い耳と尻尾が生えていたのだ。

 最初は作り物かと疑ったが、彼らが生やしているそれは本物らしかった。

 

 その異形の者たちに見つかってからが大変だった。三人を見つけるなり「侵入者だ」と騒ぎ立て、剣を抜いて向かってきたのだ。

 少年らは混乱しながらも逃げ、茂みなどに身をかくしたりなどしたが、異形の者たちは蜂の巣をつついたがごとく、どんどん慌ただしく動き出した。

 続いて、息を殺して逃げまどう少年らの頭上では、背中に黒い翼を生やした者たちが、ひっきりなしに飛び回りはじめたのだった。

 一時間たち、二時間たち、三人は次第に恐怖しはじめた。その異形の者たちは今まで彼らが見たことのない――まるで"妖怪"のように見えたからだ。

 

「ありゃ幻覚じゃない……。だとしたら一体何なんだ? 未開の部族ってレベルじゃねえぞ。つーかここは日本なのか?」

 

 ショウゴはパニックが解けないのか、息をあらげて目をむき、歯をガチガチいわせている。マコトは対照的に沈黙したまま、石のように体を縮めていた。

 どちらも良くない兆候だ。そう思ったシュンスケは、とっさに自分の荷物をあけると二人に言った。

 

「いや待て、二人とも落ち着け。とにかく濡れてるから着替えよう。ただでさえ寒いんだ」

 

 シュンスケは荷物から着替えの服をみつくろい、マコトの肩をたたく。マコトの青白い顔は少し表情がとぼしくなっていたが、かろうじて「……うん」とだけ返事をした。

 

「マコト、俺の着てもいいからさ、早く濡れたやつは脱げ。ほら、お前って体弱いだろ」

 

「……ありがとう」

 

「あとは……土産に買ったチョコとかあるから、これも食っとけよ」

 

 心なしか判断力が欠けているように見えるマコトに、シュンスケはあれこれと世話を焼く。そんな二人を、ショウゴはいまいましげに見つめていた。

 そんなショウゴの方へ振り返ると、シュンスケはまた着替えの服とタオルを手に取り、差し出した。

 

「ほらショウゴも。山では体を冷やすなっていうだろ」

 

「……いらん、自分のがある」

 

 ショウゴはぶっきらぼうに言って、自分のバッグに手をかける。手つきはおぼつかなかったがどうにかチャックを開け、中身を取り出す。するとシュンスケはその背中に向けてなおも話しかけた。

 

「靴下もちゃんと替えとけよ。あと首にタオル巻いて。俺のじいちゃんも山登りはいっつも……」

 

「ああもう、うるせえな!!」

 

 ショウゴはわずらわしげに振り返り、また怒鳴った。そして結局、服はそのままにして携帯を取り出し、いじくり始めた。

 それを見て、マコトが眉をひそめる。

 

「何してるの?」

 

「助けを呼ぶにきまってんだろ。今度は繋がるかもしれねぇ……!」

 

「でも、電波はゼロだって言ってたじゃない……」

 

「それでもかけるんだよ! 黙ってジッとしていられるか!!」

 

 ショウゴの声量に、マコトはおびえたようにのけ反った。シュンスケはまいったという風に眉間をよせていたが、一言だけ、ショウゴに低い声で言った。

 

「……ショウゴ、せめてもうちょっと出口の方に寄れ」

 

「は?」

 

「マコトの近くで携帯はNGだ。忘れたのか?」

 

「…………」

 

 シュンスケがなにやら厳しい顔で念をおすと、ショウゴはしぶしぶといった様子で遠ざかり、携帯を耳に当てる。

 しかし、黙っていたのもつかの間、ショウゴは「くそっ!」と叫んで携帯を叩きつけた。

 

「……ショウゴ?」

 

「畜生、やっぱり通じねえ! 一体どうしたら……」

 

「だから、雨が止むまで待てって。今ムダに体力を消耗したら……」

 

「ああクソ、黙れよっ!!!」

 

 どうにかいさめようとしたシュンスケに、ショウゴは金切り声をあげる。その目はますますつり上がり、口はいっぱいに開かれ、まるで正気を失ったような表情をしていた。

 うるさい雨音すらさえぎるようなその声に、シュンスケとマコトはそろって耳をふさいだ。そんな二人を見下ろしながら、ショウゴはふぅふぅと熱された鍋のような吐息をはいている。

 

 しばし洞窟内に無言の時間がすぎる。すでに外の日は沈み、明かりもない洞窟内は暗くなりはじめていた。どこかで水が染み出ているのか、規則正しく聞こえるしずくの音が、背後で不思議とはっきり聞こえる。

 そんな時、ショウゴが突如八つ当たりのようにまくし立てた。

 

「もういい、俺一人でも山を下りる! こんな所にいられるか!!」

 

「なっ!?」

 

 シュンスケは仰天して思わず立ち上がる。これから夜になるというのに天気は荒れに荒れ、そのうえ場所も分からず、連絡もつかない状況で山内を歩き回るなど、自殺行為だ。

 シュンスケはとっさにショウゴの肩をつかみ、わめくような声で説得した。

 

「バカお前、何考えてんだ! 真っ暗な山道を一人で抜けられると思ってんのか? 何が出てくるか分かんねーんだぞ!?」

 

 つかんだ肩をゆさぶり、彼は切迫した表情で訴えた。しかし、対するショウゴはそれを意に介さず、手を払いのけて怒鳴る。

 

「どけっ!」

 

 その声が最後だった。ショウゴは他の二人が呆然とするのもかまわず、着のみ着のままで背を向け、雷雨の絶えない外の夜闇へと消えていった。

 二人が声をかける間もなく水たまりを蹴る足音が遠ざかっていき、雷がまたたいて暗闇が照らされた時には、ショウゴの姿は見えなくなっていた。

 

「……シュンスケ」

 

 マコトがか細い声をあげてシュンスケを見る。先ほどからうずくまってばかりで、差し出された服や菓子もそのままにしている。

 シュンスケはそれを見て、何も言えずに苦い顔をしていた。ショウゴにしろマコトにしろ、行動が単純で判断力をにぶらせている。

 登山などで体を冷やすと、脳や心肺機能に影響がおよび、最悪の場合は死に至る……というケースをシュンスケは聞いたことがあったが、まさにそれが全員に起こりかけている予感が、彼にはあった。思えば暖房どころか火の気一つないこの状況で、決してあり得ない話ではない。

 

 シュンスケは自分のバッグからシャツやタオル、靴下からパンツまで見さかいなく衣類を引っ張り出すと、うずくまっているマコトへ一緒くたに投げつけた。

 布の山から顔を出したマコトが驚いて目をぱちくりさせると、シュンスケは濡れた制服を着替えつつ語りかける。

 

「悪い、俺ショウゴを探しに行ってくる。やっぱり放っておけないからな……。マコトはここで待っててくれ」

 

「えぇ!? ま、待ってよ! 置いてかないで……」

 

「多分だけど……あのバケモノたち、嵐で危ないから今はあまりうろついてないと思う。ショウゴもそんなに遠くへは行ってないだろ。すぐ戻るよ」

 

 シュンスケは穏やかな声でもってマコトに言い聞かせる。しかし、おびえて引き留める相手からは、思わず目をそらしていた。

 シュンスケは立ちあがり、半ば背中を向けて続ける。

 

「その服の山、くるんでも着替えてもいいから、好きに使え。それと何でもいいから食って、なるべく眠るな。とにかく朝になるまで外に出るなよ」

 

「ちょっと……シュンスケ?」

 

「じゃな!」

 

 不安げにすがりつこうとするマコトを無視して、シュンスケは首にタオルを巻き、ジャージやらセーターやらを考えなしに着込むと、雨ガッパをつかんで飛び出した。

 洞窟の方からマコトの叫ぶ声が聞こえたが、シュンスケは無視した。ショウゴを助けるのが先決だ、という考えも無論あっただろう。

 しかし、内心……彼の意識していない部分で、『いつ相手が衰弱するかも分からない状況で、二人きりになどなりたくない』という思いもあったかもしれない。

 

 残されたマコトはまとわりつく衣類をどかしもせず、その場に呆然として洞窟の外を見つめていた。もう日はすっかり沈み、せいぜい手元くらいしか見えない。たまたまつかんだタオルで顔をぬぐうと、それが格別に温かく感じた。

 

 かくして、三人は夜の見知らぬ山であっけなく散り散りになってしまった。しかし、それはこれから起こる惨劇のはじまりにすぎなかった。



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獣の本能と、とんだ落とし物("ショウゴ"ルート)

 

――

 

「はっ……はっ……!」

 

 ショウゴは洞窟を出てから、暗闇の中を無我夢中に駆けていた。濡れた制服だけの姿で、スニーカーを泥だらけにしながら、明かりも持たずに山内を走る。

 暗くなった空は暗雲におおわれ、叩きつけるような豪雨と雷がいそがしく五感をふるわせる。

 彼はまたたく間に濡れネズミに逆戻りし、まとわりつくような冷気に襲われた。強風が木々をゆらす度に、体の芯が冷えていく。

 だが、ショウゴはそれでも止まらなかった。視界もろくに利かないのに、茂みをかき分けて道なき道を走り続ける。まるで恐れるものなど無いかのように。

 

 否、恐れるものならあるのだ。彼は数時間前に、山中で狼やカラスをおもわせる異形の怪物たちに出会っているのだから。その恐怖のために仲間が止めるのも聞かず、闇に沈んだ見知らぬ山を下りている、はずだった。

 

 しかし今は、そんなものは意識の外に追いやられていた。仲間をおいて、空腹や寒気をものともせずに走る彼にあるのは、ただ見知った環境への渇望のみ。灯りも建物も、人通りもまるでない山中で高まった不安は、ショウゴから冷静さを根こそぎ奪い去り、"現代"への執着にとって変わった。

 

(俺は帰る。帰るんだ。母ちゃんと父ちゃんが待ってる家に――)

 

 無我夢中で走る彼の頭に、ぼんやりと幼い頃の風景が浮かび上がる。家からの道のりがとても長く思えた小学校、放課後によく野球をした猫の額のような公園、近所の大型スーパーの、今は亡きゲームコーナー。

 シュンスケやマコトとよく遊んだものだった。

 

(そういえばあの二人、今どうしているんだっけ……)

 

 みずから置き去りにしたにも関わらず、ショウゴはぼんやりとそんな事を考えた。どういう訳か、数十分前のことを上手く思い出せない。

 いや、思い出すのを脳が拒絶している。このまま走れば帰りつける。そうしたら家族が出迎えてくれて、また三人で元の中学校に通える。――そんな根拠のない妄想が、まるで膨らむワタアメのように彼の頭に満ちてゆく。

 彼は前もろくに見ず、さらに道なき道を走り続ける。道順など知る訳がなかった。山とはつまり巨大な坂だ。坂を下れば帰れるのは当たり前じゃないか。そんな単純な理論にしたがい、足に伝わる感触のみを頼りにひたすら駆け降りた。

 彼はもう、すでに極限状態だったのかもしれない。表情にはかすかに笑みさえあった。

 

「……うっ」

 

 すると、ショウゴは小さくうめき、忙しなかった足をふと止める。前に転がりそうになって、あわてて手探りで近くの木をつかむ。

 ショウゴは腹のあたりをまさぐり、その感覚に顔をしかめた。腹の中で、かすかな痛みと重たい感覚。嵐で体が冷えたのだろうか。それは強烈な便意だった。

 

 いかに思考がおぼろげになっていようと、生理的な欲求には素直になる。

 彼は近くの茂みを探り当て、そこにすごすごと隠れた。用をすませ、持っていたティッシュでふくと、一つ息をつく。

 

「ふぅー……」

 

 理由はどうあれ立ち止まったからだろうか。少しだけ頭が()え、周りを見る余裕ができる。

 とりあえず、先ほどまで考えなしに走っていた斜面を迂回し、どうにかゆるい下り坂を見つける。とはいっても道とはとうてい言えないものだったが、浮き足だっていた歩みが、少し確かなものになった。

 

(そうだ。まずは下りることだけ考えよう。そうしたらシュンスケとマコトに助けを呼べる)

 

 慎重に足を進めながら、ショウゴはそう結論づけた。さすがに化け物の正体まで考える余裕はなかったが、生き残るための目先の判断くらいはできた。

 さいわい、彼は一人で飛び出して以来、あの狼人間のような者たちに出くわさなかった。嵐の危険を避けるためだろうか。

 もちろんショウゴも危険だったが、追っ手がいないだけで十二分にありがたかった。焦らずにふもとを目指せば、きっと帰れる。

 そんな風に、彼が希望を抱きはじめた頃。

 

「アオオオオォォーーーン…………」

 

「っ!?」

 

 不意に、ショウゴの背後で、長く大きな、広く響く声が聞こえた。それはまるで、狼の遠吠え……。

 彼の脳裏に、あの化け物たちの姿がよみがえる。さっきまで忘れかけていた恐怖が、またぶり返してきた。

 

(やばい、見つかったのか!?)

 

 ショウゴは凍りついていた体をはじかれたように動かし、山道を一目散に駆け出した。何度もつまずき、転びそうになるが、かまってはいられない。直感で、あの遠吠えの発生場所がすぐ近くのような気がしたのだ。振り返れば、すぐそこに追っ手がいる。そんな嫌な想像が消えなかった。

 手足をちぎれるかと思うほど動かす。踏みしめたつま先がずきりと痛む。夜もふけ、絶えず息を吐く。雨に打たれた体とは裏腹に、喉の奥がからからに渇いた。

 

 そうして走ってしばらくして、彼は視界の隅に妙なものを見た。小さく並んだ、二つの光の点。はじめは気のせいかと思ったが、横にぴったりとつき、次第にその数が増えていく。彼が左右へ首を動かすと、いつしか、取り囲むかのように光点がひしめいていた。

 

(何なんだこいつら、まさか……)

 

 足を止められないまま、ショウゴは嫌な予感に冷や汗をかいた。テレビなどで見た覚えがある。暗闇の中に二つそろった光の点。その正体は……。

 

 その時、まばゆい雷光が、ぱぁっと天と地を照らし、ショウゴの周囲が白く染まる。

 ほぼ同時に、まるでカメラのフラッシュのように、取り囲んでいた光点の正体をさらけ出した。

 

「ひぃっ!」

 

 それを見て、ショウゴは雷にうたれたかのように肩をはね上げた。そこにいたのは、あの狼人間の群れだった。夜行性の瞳をギラギラ光らせ、太い刀を持って一様に彼をにらんでいる。

 

「うわああああああぁーーっ!!!」

 

 とどろいた雷鳴に張り合えるほどの悲鳴が、ショウゴの口から飛び出した。そしてきびすを返そうとした彼は足をもつれさせ、あっという間に斜面を転がり落ちていく。

 何十メートルも体を打ちつけ、一本の木にぶつかって、彼は止まった。その周りに、すばやく狼人間が集まる。

 

「くっ……!」

 

「こんな天気でも、人員は割いておくものですね」

 

 狼人間の一人が、冷徹な口調で言った。ショウゴは上半身を起こして木に寄りかかり、震えながら怒鳴った。

 

「な、なんなんだよテメェら! 俺をどうする気だ!?」

 

 十数人ぶんの狼の瞳をにらみ返す。狼人間の中から一人の女が進み出て、厳粛な口調で言った。

 

「誠に申し訳ありませんが、あなたには死んでもらいます」

 

「……は、はぁ?」

 

「詳しくは省きますが……この"妖怪の山"が気安く出入りできる場所だと思われれば、我々の威厳と存在意義にかかわるのです。あいにくあなたは例外にはなりえません」

 

 その女の言葉を、ショウゴはうつろな顔で聞いていた。理解が追いつかず、かすれた声で抗弁する。

 

「そ……そんな」

 

「まあ、テリトリーを抜ければ深追いはできないのですけど、あなたは痕跡を残していましたので」

 

「こん、せき?」

 

 ショウゴは聞き返す。頭が混乱し、思い当たるものがすぐに出てこない。そんな彼に、女はおもむろに腰にさげた巾着袋を差し出した。

 

「雨で臭いがたどれず苦労しましたが……これのおかげで目星をつけられました」

 

 女が巾着袋を開けてみせる。ショウゴはおそるおそるそれを覗き込むと、あっと声をあげた。

 そこに入っていたのは、太い芋虫のような茶色い物体。彼は、つい先ほど用便を済ませた後に、それを放置してしまったのだ。犬や狼が排泄物を埋めるのは、外敵に居場所を知られないようにする為だという説を、彼はなんとなく思い出していた。

 

「さて、最期に言いたいことは?」

 

「あ……あぁ……」

 

「……そんな顔しないでください。妖怪は怖がられるのが存在意義なんですから」

 

 わずかに悲しげな顔をして、女は刀を振り上げる。また雷が鳴り、刃が光を反射した。

 

「あああぁぁーーーっ!!」

 

 ショウゴは背中を向け、泣きながら逃げようとした。その直後、女の刀が横凪ぎに振られ、木の幹と一緒にショウゴの首を飛ばした。

 泣き顔で固まった生首は、数メートル上へはね上がり、ゴロゴロと斜面を転がっていった。残された胴体は首の断面から血しぶきをあげ、膝をつき、がくんと地面に突っ伏した。流れ出る血が雨にまざり、土に無情に染み込んでいく。

 

 狼人間たちはその様子をしばしながめていたが、やがて何でもないことのように刀をしまうと、背を向けて歩き出した。例の女が、声を張って指示を飛ばす。

 

「さあさあ、まだ終わりではありませんよ。見たところ侵入者はあと二人いたんですから」

 

「うっす、(もみじ)隊長!」

 

「早く終わらせて風呂はいりてぇわ~」

 

 人を殺したことなど嘘のように、彼らは軽口をたたいて散っていく。雨の中で、死体は弔われることもなく、山の風景の一部となってしまった。

 

カトウ ショウゴ――死亡

 



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ふとしたきっかけ("マコト"ルート)

「うわああああああぁーーっ!!!」

 

「っ!!」

 

 どこかで見知った者の悲鳴が聞こえ、マコトはハッと遠くを見た。ほぼ同時に空の向こうで雷がとどろく。確かに、ショウゴの声だった。

 雷鳴がおさまると、すぐにまた止めどない雨の音がこだまする。マコトはセーターやタイツなどを着こんだ自らを頼りなげに見つめ、外套の襟をなおして駆け出した。

 

 ショウゴに続いてシュンスケまでが洞窟から飛び出してしまった後、一人残されたマコトは彼らの荷物から衣服を取り出して着こむと、結局あとを追って出ていってしまっていた。見知らぬ場所での孤独に耐えられるほど、マコトの心は強くなかった。

 メガネにつく雨粒を気にしながら、ぬかるむ山道を駆け降りる。何度も足を取られそうになりながら、先ほどの声の主を探す。

 何分そうしていたか分からない。木々の隙間をぬい、道らしい場所を行き当たりばったりに抜ける。息が切れてふと足を止めた彼は、ぜいぜい息を吐きながら辺りを見た。

 

 そこには――当たり前だが――見知らぬ風景が広がっていた。うっそうとした木々が雨風にゆれ、巨大な影となって彼を見下ろしている。周りには人っ子一人いない。

 

「……やっぱり簡単には見つからないか」

 

 道順など最初から分からない。洞窟の地点からも離れてしまった今、行くも戻るも運しだいとなってしまった。

 

「くっ……どうしようか」

 

 うかつさを後悔しつつ、マコトは額を親指でぐっと押さえる。

 そんな彼の耳に、ふと、かすかに水音が届いた。とっさに振り向き、耳をすますと、ドドドと大量の水が流れる音がする。

 

(川だ!)

 

 マコトは思い当たると同時に、泥を蹴って走り出した。川をたどれば山で迷わない、というのは有名な知恵である。

 一度の悲鳴とはちがい、継続的に流れる川の音。彼はそれを頼りにどんどん川が流れている箇所まで近づいていく。

 しだいに、ごうごうと荒波のような音が立っているのに気づいた。夕暮れからの雨で、川の水量が増しているのだ。マコトは足を止め、しばし考え込んだ。

 

 入ったことのない山での、貴重な手がかり。しかし近づきすぎれば何かの拍子に流されてしまうだろう。何度か地面に目を落とし、マコトが選んだのは中途半端な策だった。

 せっかく遠くからでも聞こえるほど激しい流れなのだからと、水音をたよりに遠巻きに川を沿って下りはじめたのだ。

 やみくもに仲間を探しても見つからない。ならばせめて早く山を出て、助けを呼ぶのを優先しようというわけである。

 

 苔むして滑りやすくなっている道を、何度も川の方角を振り向きながら、彼は駆けていく。脇では流れるプールに似た音がひっきりなしに聞こえてくる。

 木々の間を抜け、あの狼人間の影におびえながら、彼は走り続けた。

 周囲の木に一つ一つ掴まり、すがるようにして斜面をすべっていく。地面を踏みしめる度に足首が痛む。

 

 そうして何メートル進んだだろうか。緊張のせいかボンヤリしはじめた彼の耳に、ふと話し声が聞こえてきた。

 

"にしても見つからないかなぁ。もう逃げたんじゃないか?"

 

"この天気でそう遠くまで行けるかよ。いいから探せ"

 

"ちぇ、雨で臭いが流れて苦労してるのによ"

 

 それを聞いた瞬間、マコトの背筋に寒気が這い上る。誰かを探しているようなセリフ。彼はそれが、以前に侵入者だと追いかけてきた、狼人間たちのものだと直感した。

 すぐさまその声に背を向け、彼はバタバタと走り出す。方角など気にしていられない。追っ手らしきものから逃げるのが最優先だった。

 ゆえに、足元への注意を欠いていた。

 

「ぎゃっ!」

 

 不意に、踏み出した足が宙へ浮く。そしてまたたく間に彼は体勢をくずし、体をあちこちにぶつけて腰を打った。

 

"おい、今なにか聞こえなかったか?"

 

"あっちからか!? 行くぞ!"

 

 続けて、なぜか頭上の方からあの追っ手たちの声が聞こえてくる。マコトはあわてて身をかがめ、真っ暗な視界に目を凝らした。

 見ると、彼のすぐそばには2メートルほどの岩壁があるようだった。足元も石がごつごつと並んでいる。どうやら沢の一角の岩陰に落ちたようだ。視線を移せば、今までよりも一層川の音が近く聞こえる。

 しばらく周辺を追っ手が歩き回る音がしていたが、誰もいないと思ったのか、結局遠のいていった。マコトは口をふさいで息をひそめつつ、岩壁づたいに下へと下りはじめた。

 

 追っ手がいるのが分かってしまった以上、うかつに元の道へもどる気にはなれなかった。水に入らなければ大丈夫。下りさえすれば大丈夫……そう自分に言い聞かせながら、彼は雨で冷えきった岩場の中をそろそろと歩いていった。

 ところが、歩き進めるうちに1メートル以上の落差があったり、周囲をふさぐようなガレキが増えてきたりなど、行けば戻れないような場所が一つ二つと目につきはじめた。

 マコトはそれを不安を覚えながらも滑り降り、歩ける場所を見つけて進んでいった。もし後から行き止まりにぶつかっても、もう遅いのだ。

 そして、きゅうくつな岩の隙間を抜け、とうとう水が足元まで迫ってきた頃。

 

 彼の眼下に、巨大な滝が広がった。切り立った何十メートルもの崖を、龍のような水の塊がしぶきをあげて流れ落ちていく。それは幻想郷で"九天の滝"と呼ばれる名所であったのだが……マコトにとってはどうでもよかった。

 雨で水かさが増し、今まさに山肌を裂いているかのように暴れ狂う川。彼はその目と鼻の先、しぶきで濡れた崖のてっぺんで、岩につかまって腰をぬかしていた。

 いつだったか小さい頃、友人とテトラポットの上に登って遊び、大目玉をくらったことがあった。あの時叱る側がどんな気持ちだったか、今の彼には身にしみて分かる。深く考えずに山や海に深入りするのが、どれだけ危険か。

 

「ひっ」

 

 情けない悲鳴をあげ、彼は足を滑らせた。しかし運よく――いや、運悪くだろうか――四、五メートルほど崖に引っかかりつつ落ち、途中の半畳ほどの出っぱりに腰をぶつけた。下半身がしびれるような感覚に目をつむり、マコトはふっと下に目を向けた。

 そこで、言葉を失う。

 下に広がっていたのは、気を抜けば吸い込まれそうな崖を上から眺む姿。水が流れ落ちる滝壺は、夜闇に沈んで谷底のような口を黒々と開けている。

 濁流が水面にあげる白波が、まるで幽霊のように浮かび上がった。

 

(あ、あ)

 

 マコトはぱくぱくと口をわななかせ、背後の岩壁へと後ずさる。股のあたりにふと、なま暖かい液体が広がる。

 

(……はは、やっちゃった……)

 

 恐怖で体が弛緩し、乾いた笑みがうかぶ。もはや恥ずかしさを感じる余裕もなく、彼はなぜか懐かしいような感覚にとらわれていた。

 小学校の時に、一度だけ今のように漏らしてしまったことがあった。当然まわりのクラスメイトはこぞってバカにしたが、幼馴染みのシュンスケとショウゴだけは庇ってくれた。もう何年も前の記憶だが、気の弱い自分と違ってずいぶんしっかりしていると思ったものだ。

 

 崖の中途で上を向き、濡れるにまかせてそんな思い出にひたっていると、彼は腰のあたりに妙な冷ややかさを感じた。もとより寒気などほとんど感じられなくなっていたのだが、右ポケットの中がなぜかひりつくほどに冷たい。

 首をかしげてポケットをさぐると、水気のしみた財布と、ヒモで結びつけた家のカギが出てきた。冷たいのはこのカギの金属部分だったのだ。

 

 マコトはそのカギを見て、ある日のことを思い出す。

 彼の母親は心配性で、家カギをなくしていないかとしょっちゅう聞いていた。そしてもっぱら、学校生活のことも一緒にたずねてくるのだった。

 

『マコト、学校のみんなと上手くやれてる? あんた体が弱いから、私心配で……』

 

『大丈夫だって。シュンスケとショウゴがいるもん。……ショウゴはちょっと怒りっぽいけどさ』

 

 毎回そんな話をして、親子でよく似た気弱そうな笑みを向け合うのだった。

 

 昔の記憶がよみがえり、マコトはだんだんと家族や友人が気になりはじめた。母親は、父親は、兄弟はどうしているだろう。シュンスケや、ショウゴは?

 

 山で別れた二人のことが、なかでも猛烈に気になりはじめた。今どこでどうしているだろうか。自分が生きているくらいなら、彼らもそうなのではないか? もしかしたら、今ごろ山を脱出できているかもしれない。

 頼りになる二人を思い出すうちに、マコトの体にふつふつと力がよみがえってくる。

 

 彼はおもむろに財布からヒモをほどくと、右手の手首にヒモをからませ、カギをしっかりと握った。

 そして慎重に立ち上がって体を回転し、崖の岩壁に腹をつける。そして、右手のカギを、頭上の岩の隙間に、カツンと突き立てた。

 

「ふんっ!」

 

 続けて空いた片手と片足を手さぐりで岩に引っかける。

 なんと、マコトは垂直に近いその崖を登ろうとしているのだ。夜で視界もきかない中、触感で足がかりを探し、小さなカギを岩肌に突き立てて。壁をよじ登る虫のように上へ上へと進んでいく。

 相変わらず降り続ける豪雨に、滝からはねた水が加わり、彼の肌をひっきりなしに叩く。先ほどからまとわりついていた水分が風に吹かれ、芯から体を凍りつかせる。岩肌はまるで溶けはじめの氷のように冷水におおわれ、触れたそばから指先がかじかんでいく。

 

 ロッククライマーどころか素人でも一目で止めにかかるほどの荒行に、マコトは必死で挑み続けた。なにかに憑かれたような形相で一メートル、二メートルと奇跡をものにしていく。

 

(僕は今まで周りに甘えっぱなしだった……。死にそうな時くらい頑張れないと、みんなに顔向けできないや……!)

 

 頭の中で家族や友人を思い、必死で自分を鼓舞していく。そうしてついに、もといた滝の頂点まで、あと少しのところまできた。

 しかし、所詮は命綱もなにもない、無謀な挑戦である。ほんのわずかなアクシデントで、その均衡はあっけなく崩れ去る。

 

 ここまで、意識せずとも体の隅々まで染み渡っていた冷気が、それを引き起こした。

 

「へっ……くしゅん!!」

 

 たった一度のくしゃみ。つられて体がバネのように跳ね、あっけなく彼の手が岩から離れる。体がふわりと宙に浮き、視界にあった滝の頂点が、あっという間に遠くなる。

 すがるように手をのばしたが、すでに遅かった。

 

「わあああぁぁぁーーーーっ!!」

 

 耳をつんざくような悲鳴をあげながら、マコトは下が見えない滝壺へとまっ逆さまに落ちていった。悲鳴は一瞬で小さくなり、バシャッと一度だけ水音をたてて、彼は暗闇の底に沈んだ。

 その時、水に落ちたマコトのそばで、何人かの小さな影が、ふっと振り返った。

 

――

 

(う……)

 

 頭が痛む。意識を回復したマコトは、最初にそう思った。

 もうろうとする意識をささえて目を開けると、茶色い木造の天井が見えた。どうやら寝かされているらしい、と考えて、今まで何があったか思い出そうとしていると、不意に隣から声がした。

 

「あー起きた起きた! 大丈夫かい?」

 

 それは小さな女の子の声だった。そろそろと顔を傾けると、水色の服を着た五、六歳ていどの見た目の少女たちがそろって彼を見つめていた。背にはなぜかそろって緑色のリュックをしょっている。

 少女たちの先頭にいた、ツインテールの子が前に進み出て、言った。

 

「アンタ、私らが見える? 分かったら反応してほしいんだけど」

 

 目の前でひらひらと手をふる。マコトは全身の重たさをこらえつつ、ぽつぽつと言葉をつむぐ。

 

「ここ……どこ、ですか?」

 

「お、やっとしゃべった。ここは妖怪の山の内側だよ。私ら河童(かっぱ)の住みかさ」

 

「かっ……ぱ?」

 

「そうそう。川に落ちてたアンタを、浸水の点検してた連中が見つけたんだ。あのままじゃ確実に死んでたよ?」

 

「…………」

 

 ははは、と笑いながら話す河童の一人。マコトは虚ろな表情でそれを聞いていたが、しだいに川に落ちたいきさつなどを思い出し、がばりと体を起こす。

 

「あ、あのっ……いてて!?」

 

「あー動かない方がいいよ。全身バッキバキだったんだから」

 

 見ると、マコトはミイラのごとく包帯だらけで、布団に寝かされていた。それもかまわず、彼は畳に座っている河童たちに質問をあびせた。

 

「ここは何なんですか? 僕が落ちてから、どのくらい経ったんですか? ……僕の他に、誰か見つかったりしませんでしたか!?」

 

「…………」

 

 今までの非現実的な光景から、口調が自然と矢継ぎ早になる。自身の一方的な聞き方に気づき、マコトはあわてて口をつぐんだ。

 しかし、河童たちの方はと言うと、驚くでも戸惑うでもなく、むしろ予想通りだという風にうなずき、顔を見合わせている。

 ポカンとするマコトに、ツインテールの子が言った。

 

「……やっぱしね。アンタ外来人かぁ」

 

「……へ? がいらい、じん?」

 

「まぁそうあわてなさんな。どうせ動けないんだし、イチから話してやるさ」

 

 ……それから、ツインテールの河童の少女――河城にとり、という名らしい――がその世界のことをマコトに語った。そこは現代日本と結界で隔絶され、神や妖怪がたくさん住んでいる。当然人間に害をなす者もおり、マコトたちのように迷いこんだ人間はかっこうのエサなのだという。

 しかも、なかでもマコトの今いる"妖怪の山"の天狗という種族はよそ者に厳しく、見つかればおそらく慈悲はないだろう……とのことだった。

 

「そんな……なんで僕らそんな場所に。どうしたらいいんですか。シュンスケやショウゴやみんな、まだ中学生なんですよ!?」

 

 涙目になってマコトはうろたえる。にとりはそれを手で制した。

 

「だから落ち着きなって。そもそも、なんで天狗とちがって、私ら(河童)がアンタに肩入れしたと思う?」

 

「なんでって……それは、分かりませんが」

 

 眉根をよせるマコトをよそに、にとりはポケットからあるものを取り出す。それを見て、マコトは目を見張った。

 

「僕のスマホ!?」

 

「へえ、そんな名前なのかい。壊れてるのが惜しいね。珍しい機械だ」

 

 にとりが掲げたのは、画面やあちこちにキズがはいったスマートフォン。まだかろうじて作動するそれを、彼女は我が物顔でいじっている。

 そしてマコトへ向き直ると、肩をすくめて言った。

 

「実をいうと、われわれ河童は機械いじりが得意でね。外の技術も欲してるんだ。もしアンタの仲間もこの機械を持ってるなら……」

 

「助けてくれるんですか!?」

 

「ああ。壊れてないのが手に入るなら、逃がしてやってもいい。ただしコッソリね」

 

「ぜひぜひ! 二人は僕が説得するんで、どうかお願いします!!」

 

 マコトは目をかがやかせ、何度も頭を下げた……というより寝たまま首をひょこひょこと動かした。

 にとりはそれに満足げにうなずくと、周りにいた河童たちに話しかける。

 

「ね、何人か手を貸してくれないかい? 私一人で探し出すのはさすがにキツいからさ」

 

「それはいいけど……人間つれてここまで戻ってくるんですか?」

 

「あんまり自信ないっすねー……」

 

「濡れるのはまだ平気だけど、天狗ともめるハメにはなりたくないなぁ」

 

 にとり以外はいまいち乗り気ではないようだった。にとりは「うーん、ほんじゃ……」などとつぶやいて、自身のリュックを下ろし、ごそごそと漁りはじめる。

 そして、金属製の首輪……もといチョーカーのようなものを取り出した。

 見慣れない器具に、マコトは眉をひそめる。

 

「何ですか、それ」

 

「ふっふーん。これはね、白狼天狗よけの特殊装置なんだ。いくつか造ったはいいけど、なにぶん使う機会がなくてね」

 

 うきうきした様子で、にとりは装置を首につける。上機嫌で友人を助けようとしてくれている彼女を見ながら、マコトは天に感謝した。

 思えば遭難はしたものの、偶然とはいえ落下死、失血死、溺死、凍死の全てをまぬがれたのだ。しかも、残った友人たちも、特殊な技術をもった協力者のおかげで助かる可能性が出てきた。

 よかった、諦めずにいてよかった。マコトが感極まって静かに涙ぐんでいると。

 

 ふと、にとりがこんな事を話しはじめた。

 

「白狼天狗のするどい感覚を逆手にとって、やつらの嫌がる特殊な電波を微弱に流す……。そうすれば、上手い具合に

見つからずにいけるってこった」

 

「……電波?」

 

 研究者のサガなのか、聞かれてもいない機能を流暢に話すにとり。そのなかで、"電波"という言葉にマコトは息をのんだ。

 そして何故か血相を変え、痛む体もかまわず飛び起き、にとりに向かって叫ぶ。

 

「ま、待ってください! 電波って……!」

 

「あー? 心配ないよ。人体には無害なはずだから」

 

「いや違うんです! 僕にはちょっと事情が……!!」

 

 マコトは顔面蒼白だった。実は、彼の体には一つ、変わった点があるのだ。にとりたちには話していない、特殊な事情が……。

 試運転のつもりか、にとりはかまわずに装置のスイッチを入れた。横のランプが点灯し、人間や河童には認識できない電波が部屋中に放たれる。

 次の瞬間、マコトが急に身をよじって苦しみだした。

 

「がっ……あっ、はぁっ!」

 

「!? おいどうした!?」

 

 河童たちが動揺する中、にとりがあわてて駆け寄った。マコトは目をきつく閉じ、歯のすき間からハッ、ハッ、と苦しげな息を吐いている。突然の異変に河童たちは戸惑い、原因も分からず立ち尽くしていた。

 その間、スイッチを切り忘れた装置が、にとりの首でずっと作動し続けていた。

 

――

 

「ペースメーカー?」

 

 明くる日、幻想郷の病院のような施設である『永遠亭』の一室で、にとりはそこの住人である永琳(えいりん)と向かい合って話していた。

 二人の間ではマコトの()()がストレッチャーに寝かせてある。

 

 その遺体を一瞥して、永琳は口を開く。

 

「ペースメーカーってのはね、上手く動かない心臓の補助をする機械よ。外の世界では手術で人に埋め込んだりするの」

 

「それが体内にあるからって……なんで、白狼天狗よけの機械で」

 

「もともと、電波のせいで誤作動するケースはあったのよ。最近はたいていのものは平気みたいだけど……あなたの機械とは相性が悪かったんでしょうね」

 

 戸惑うにとりに対して、永琳はたんたんと説明する。にとりは押し黙り、弱ったように頭をかいた。

 

「あっちゃ~……じゃ、私のせい? あの時うかつにスイッチを入れなきゃ……」

 

「まあ、悔やんでも仕方ないわよ。生き返るわけでもなし」

 

 永琳はため息まじりにそう言ったが、にとりはうつむいてジッとマコトを見つめていた。

 そして、おもむろに顔を上げたにとりは、あろうことかこう言った。

 

「ねぇ、永琳」

 

「ん?」

 

「そのペースメーカーって機械……私にくれない?」

 

「は?」

 

 けげんな顔をする永琳に、にとりははしゃぐようにして話しだした。

 

「その技術に興味あるんだよ! どうせ死んでるんだし、バラバラにする訳でもないしさ、いいだろ?」

 

「……いや、あなた……」

 

 永琳は呆れるような目をして見返したが、にとりは目をらんらんと光らせて物欲しそうに遺体を見ている。

 それはもう、死者をいたむ者の表情ではなかった。人間に愛情よりも利用価値を見いだし、時には尊厳まで遠慮なく踏みにじる、妖怪の表情だった。

 永琳はやれやれと額をおさえ、ストレッチャーに手をかける。

 

「分かったわ。取り出すまで少し待ってちょうだい」

 

「やったー! 早くしてねー!」

 

 もの言わぬ死体を見送るにとりの声は、まるでプレゼントを頼んだ子供のように生き生きとしていた。

 

カサデラ マコト――死亡



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Win―Winな、カラスの取り引き("シュンスケ"ルート)

「くっそ、ショウゴのやつどこ行ったんだよ!?」

 

 雷雨が絶えず降りかかる山中で、シュンスケは天をあおいで叫んだ。

 洞窟を飛び出したショウゴを追いかけ、マコトを置き去りにした彼は、いまだ見知らぬ山道をあてもなく走り回っていた。

 また、視界に光が明滅し、一瞬おくれて雷鳴がとどろく。シュンスケは思わず耳をふさいだが、続けて雷が鳴りやむと、どしゃ降りの中でジッと耳をすませた。

 

 雑多な嵐の音に包まれていると、つい感覚が鈍くなってしまう。彼はそこで、精いっぱい周りの音を聞き逃さないようにつとめた。

 聴覚に届くのはほとんど雨音か、風にざわめく木の葉の音だったが、それでもたまに、不穏な音が拾えるのだ。たとえば、一人でない大勢の足音、話し声、枝を乱暴に叩き伏せる音……。

 それらに感づくたびに、シュンスケはすばやく音から遠ざかった。なにしろ彼と、先ほどまで一緒にいた友人らは追われているのだ。正体の分からない、狼やカラスを思わせる異形の者たちから。

 

 ついさっきなど、狼の遠吠えのようなものが聞こえたばかりだ。山ではうかつに危険に近づくな、と山好きな祖父から何度も言われていた。

 したがって、何度も慎重に逃げ回ってシュンスケは今に至るのだ。おかげで出口は見えないが、ケガ一つせず日が沈んだ山をやりすごしていた。

 

「……しっかし、ライトでも持ってくるべきだったかな」

 

 制服の袖で額をぬぐって、シュンスケはつぶやく。なにしろ明かり一つない野山の真ん中だ。急に電気を消された子供のように、そばの木をつかみ、足元を確認しながら、彼はそろそろと歩みを進める。

 

(焦っちゃダメだ。最悪でも朝まで生きてれば逃げる望みも出てくる。滑落したら一巻の終わりだ)

 

 腹の底からせり上がってくる緊張をおさえ、彼は慎重に歩き続けた。そんな時。

 

パシャ

 

 一度、聞きなれない音がした。

 雨音に埋もれてしまいそうな、水たまりよりも軽い音。

 シュンスケはそれに振り返り、音のした暗闇をにらんだ。聞き間違いではない。この山に来てからずいぶん新鮮に聞こえる、機械的な音。

 

 カメラの音だ。

 

 シュンスケは音の方角から目を離さず、落ちていた木の枝を拾ってかまえる。いざという時はそれを武器にするつもりだった。撮影されるというのは、少なくとも注目されているということだ。

 すると、またパシャ、とカメラの音がし、誰かがゆっくりと彼に近づいてくる。

 

「あやや、そんなに警戒しないでくださいよ。とって食いやしませんて」

 

 そう言って現れたのは、白ブラウスに黒いミニスカート、黒いショートカットという見た目の、シュンスケと同じくらいの年頃にみえる少女だった。

 雨除けか黒のマントをはおり、古めかしい番傘をさしている。もう片方の手には、シュンスケが子供の頃に何度か見た、黒地のデジタルカメラがにぎられていた。

 

「な、なんですかあなた」

 

「ふふ、だから警戒しないでくださいってば。といっても外来人なら仕方ないかもしれませんが」

 

 眉をしかめて木の枝を突きつけるシュンスケに、少女は無遠慮に近づいていく。風にはためいたマントの下から、背中に生えた黒い翼がのぞいた。

 面食らうシュンスケに、少女はくすくすと笑って口を開く。

 

「はじめまして、私の名前は射命丸(しゃめいまる) (あや)。この山に住んでる烏天狗です」

 

「は……カラス、てんぐ?」

 

「はい。ちょうどあなた方の世界で言う、妖怪というものに当たりますね」

 

 文と名乗る少女はうさんくさい笑みを浮かべてそう言った。妖怪、その言葉に混乱するシュンスケに向けて、文は笑ったまま問いかける。

 

「驚いた顔ですねぇ。でもよく思い出してみてください? 今まで見たこともないような動物を目撃したり、しませんでしたか?」

 

「…………」

 

 シュンスケははたと固まり、この山で会った異形の者たちを思い出した。

 白い狼のような耳と尻尾を生やし、大剣を持って追ってきた者たち。

 また、上空から監視しているように飛び回っていた、背中に黒い翼を生やした者たち。思えば、今目の前にいる文にそっくりだった。

 

「まさか……天狗、妖怪なんて本当に……」

 

「それがいるんですよ。この"幻想郷"にはね」

 

 そう切り出して、文は得意げに説明をはじめた。日本から結界で隔絶された世界のこと、妖怪や神、妖精がひしめいていること。

 そして、シュンスケらのような外から迷いこんだ者は、かっこうのエサであること。

 

 シュンスケはそれを聞き終えると木の枝を取り落とし、ぶるぶると震えだした。

 

「じゃ、じゃあ何だ……? ショウゴやマコトは……同級生の連中は、みんな食われちゃうってのか!?」

 

「え、そんな沢山いるんですか? うーん、例外をのぞけばそうでしょうねぇ。いわんやあなたも、このままじゃ危ないですよ?」

 

 信じられない、という表情で声をあらげるシュンスケ。対して文は人差し指をつきつけ、事もなげに忠告する。その後に無言の時間ができると、文はついでのようにシュンスケの顔を撮影した。

 

「ま、そこで私から一つお話があるんですが」

 

「話?」

 

「そうです。頼み……というか取り引きと言いましょうか」

 

 文は一つ咳払いをし、カメラを顔の前にかざして言った。

 

「ちょっと、取材をさせていただけませんか?」

 

「……は?」

 

 取材、その言葉が予想外だったのか、シュンスケはぱちくりとまぶたを動かす。それを見て、文はまたペラペラとしゃべりだした。

 

「いや実は、私個人で新聞を発行しておりまして、たまには外来人のネタもいいかなーと思ったんですよ。たとえば、『外の世界で事件か!?』とでも銘打って、あなたの言う同級生の方々が幻想郷(ここ)に来たいきさつを特集するのも面白いかと」

 

「…………」

 

「ああ、あなたにもメリットはありますよ。まずは天狗のテリトリー外まで運んであげます。そうすれば手出しできませんから。くわえて、大々的に記事をうてば、あなたのお友達の手がかりが出てくるやもしれません」

 

 文が媚びの入った笑顔でしゃべり続けるのを、シュンスケは黙って聞いていた。しかし、彼の胸の内では、言い知れない怒りの感情がうずまいていた。

 

 幻想郷? 俺たちは何の理由もなくそんな場所に放り込まれたのか? ほとんど中学生だったんだぞ。危ない目にあう謂れがどこにある? 親は、兄弟は、周りの人々がどんな思いをするか。

 それにこの文という少女、言うにことかいて新聞だと? 俺たちはそんな個人の都合ついでで助けられるのか? ショウゴが、マコトが、パニックにおちいってるのを現に見て、もう一度言えるか?

 

「どうですか? ここは騙されたと思って……」

 

「そんな訳に行くかっ!!」

 

 気づけば彼は怒鳴り声をあげていた。驚いた文が言葉をつまらせるが、滑り出た怒りの言葉はもう止まらない。

 

「そんなメチャクチャな話があるかよ! よく分からないまま迷いこんで、しかもエサにされる? それ平気で言ってんのかよ!?」

 

「そうは言いましても……じっさい、事実ですし」

 

「冗談じゃない! お前らの勝手で助けてもらうなんざできるかっ! 俺は一人で仲間を探す!!」

 

 理不尽さに反発するがままにわめき散らし、シュンスケはくるりと背を向ける。そして振り返りもせずに走り出した。

 

「あ、ちょっとー!」

 

 背後から文が呼び止める声がしたが、彼は無視した。ムキになって泥を蹴る彼の頭の中に、いつかの祖父の言葉がよみがえった。

 

『シュンスケ、遊び半分で山に入ってはいかんぞ。山にはどこかに、自然を侮らぬように見張っているモノが必ずおる。神か、もしくは妖怪か……。だからな、必ず畏れ敬う気持ちを忘れてはいかん』

 

(くだらない……! 天狗なんて実際みれば、勝手な思いつきで人をふりまわしてヘラヘラしてるじゃないか。あんな奴らのために死んでたまるか!)

 

 ずんずんと駆け下りていくうちに、シュンスケはどんどん憤然やるかたない様子になっていく。

 そんな彼の目前に、突如、文が目にも止まらぬスピードで回り込んできた。

 

「……っ!?」

 

「何を意固地になってるんですか。死んだら何にもなりませんよ? これでも好意で言っていますのに」

 

 文は不思議そうにシュンスケの顔を覗き込んでくる。彼は一瞬うろたえたが、すぐに怒りの顔にもどる。

 

「どいてくれ!」

 

 そう言って文を押しのけ、彼はまた走り出す。背筋に、じわりと嫌な汗がにじんだ。

 先ほどのスピード、確かに人間らしからぬ素早さだった。妖怪というのは本当に恐ろしいのかもしれない。

 しかし、シュンスケはどうしても納得したくなかった。あの、"取り引き"、"好意"と口にした時の顔がちらつくと、自然と胸の内がざわついてくる。

 

(ふざけやがって。他人を助けるってのは、そんな利害でやるようなもんじゃねえだろ! こっちの仲間は今にも死にそうなんだぞ!?)

 

 全身を濡らす雨も気にならないほど、体を熱い感情が駆けめぐる。

 しかし、次の瞬間、ある疑問とともにすぅっと熱が引いてくる。

 

(……待てよ。じゃあ俺は何故、マコトを置き去りにした?)

 

 彼は自問し、はたとその場に立ち止まった。

 最後に見たマコトの姿を思い出す。暗い洞窟の中でふるえ、不安げに目を泳がせていた姿。そんな友人を、彼は置いて飛び出した。

 もう一人の友人、ショウゴを探してくると口では言った。しかし、本当はもっともらしい理由をつけて、その場を離れたかっただけではないか?

 

 シュンスケは立ち尽くしたまま、体中にすきま風が吹くような自責の念にとらわれていた。彼にはそれをはね除けることが出来なかった。

 心当たりがあるのだから。気づきたくなかっただけなのだ。

 今、二人はどうしているだろう。山中で倒れてのたれ死んでいるかもしれない。洞窟で誰かを待ったまま、一人きりで凍死しているかもしれない。

 彼らが死体となり、ほの暗い瞳を向けてくるさまが浮かぶ。青白い肌はまるで作り物のようで、腐りもしないのではないかと錯覚する。

 ふと、二人の動くはずのない口が動いた。ぼそぼそと、唇のすき間から、低い声が不思議なほど大きく聞こえてくる。

 

"ギゼンシャ"

 

「…………っ!」

 

 その言葉が脳内に響いた瞬間、シュンスケは息がつまったように胸を押さえ、ジッと目をつむる。そのしぐさは、外界など意識になく、自身の葛藤に苦しんでいるようだった。

 

「あのぅ、もしもし……?」

 

 遠巻きに見ていた文が、固まっている背中に声をかける。彼女には、シュンスケが意味もなく突っ立っているようにしか見えなかったのだ。

 しかし、そんな文の視線が、ふと上に向く。

 人間より何倍も優れた動体視力を持つ天狗の目が、上空にある兆候をとらえる。その瞬間、彼女は反射的にカメラをかまえていた。

 

 刹那、遥か上の暗雲から、一閃の雷が降り注ぐ。その白い光は空を裂くように、地上にいたシュンスケを直撃した。

 またたく閃光。ほとばしる地面。声をあげる暇もなくシュンスケはのたうつようにして手足を震わせ、煙をあげて倒れ伏した。直後に龍がうなるような重い音が空にこだまする。

 

「あらら……山って雷が近いんですよねぇ……」

 

 すかさずシャッターを切っていたカメラを下ろし、文はそうつぶやいた。

 

――

 

 ……数日後、文は自宅の暗室で、写真の現像をしていた。シュンスケが雷にうたれて()()()、あの瞬間を撮った写真だ。

 

 ところが、現像した写真をながめて、文はふと目をしばたかせる。そこには、見覚えのないモノが二つ映っていたのだ。

 光に包まれ、黒い人形のようになって棒立ちしているシュンスケ。その両脇に、まるで彼を助けようとするかのように手を引っ張る、不自然に薄暗い二つの人影があったのだ。

 

 おそらく彼の友人だろう、と文は察した。あの夜、他に同じような格好の人間が二人死んだらしい。死んだ時刻はバラバラで、幽霊か生き霊か知らないが……どちらにしろ、シュンスケの死に際にそれらが現れたのだ。

 

「よっぽど慕われていたんですねぇ」

 

 その心霊写真を見ながら、文は感慨深げにうんうんとうなずいた。死の直前、仲間を探すと意地になっていた彼の気持ちが、分かるような気がした。

 

 ……しかし、あの時急に立ち止まった理由だけは、彼女には見当がつかなかった。

 

 

ウエムラ シュンスケ――死亡



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暗闇に焼きついた記憶

「このオジサン、お姉さんたちの知り合い? ずいぶん脂身が多いねー」

 

「ひっ…………」

 

「せ、先生……?」

 

 ある昼下がり、木々がうっそうと茂る森の中。

 十歳ていどの少女と、それより四、五歳ほど歳上の少女二人が、獣道をはさんで向かい合っていた。

 幼い方の少女は、金髪のショートカットに赤いリボン。白ブラウスに黒のベストに、スカートという格好で、頬をゆるませてニコニコと笑っている。

 対して、歳上の二人はそろって▼▼中学と書かれた女子の制服を着て、互いに手をにぎって座り込んでいた。金髪の少女を見て、両目に涙が浮かんでいる。

 

「あはは、そんなに怖い? 森の動物とやってること変わらないじゃん」

 

 金髪の少女は八重歯をのぞかせてニンマリと笑い、両手の指先をペロペロとなめた。その手はべっとりと、赤黒い液体にまみれている。赤い両目が愉快そうに細められた。

 向かいにいる二人は、その様子を見ていっそう身を固くする。

 

 何故なら――彼女らの担任教師であった男性が、目の前で、金髪に()()()()()()のだ。男性の紺のスーツはずたずたに引き裂かれ、でっぷりと太った腹をえぐられている。金髪はその中から血まみれの臓物をつかみ取り、まるで肉まんかなにかのように食らっている。

 血抜きもしていないらしい肉からは容赦なく血液がしたたり、手や口元にまとわりついて衣服に染みこんだ。辺りにはむせ返るような生臭さが立ちこめている。

 

「ダメだ、やっぱコイツまずいわ」

 

 金髪は唐突にそうつぶやき、持っていた腸らしき物体を放り投げる。そして白と赤のまだら模様になった袖で口をぬぐうと、座り込んでいる二人組に向かって歩いていく。

 

「ね、私はルーミア。あなたたちの名前は?」

 

 金髪の、ルーミアと名乗る少女は、両手を後ろに回して子供そのものな表情ではにかんだ。体のあちこちにある血の跡が、ひどく似合わない。

 二人組の中で少し間をおいて、ポニーテールの少女が答える。

 

「……私は、エリカ。マエザワ エリカ」

 

 エリカと名乗った方は、目がぱっちりとした気の強そうな娘だった。うっすら茶色に染めた髪も、そんな雰囲気に拍車をかける。

 続けて、隣にいたうつむきがちな少女が、涙声で口を開く。

 

「わ、わたし……私、は……」

 

「この子はシホ。ミソノ シホよ」

 

 言葉につまる少女の代わりに、エリカが答える。シホと名乗った方はそれきり口をつぐみ、目をそむけてしまった。

 シホはエリカとは対照的に、ぼんやりとした目をした暗そうな娘だった。見た目も地味で、ろくに弄ってない黒髪を目が隠れるほどに伸ばしている。

 ルーミアはそんな二人をしげしげと眺め、ずいっと顔を近づけた。二人は息をのみ、のけぞって後ずさる。

 

「やっぱり、お姉さんたち外来人ね。匂いで分かる」

 

「に、匂い……?」

 

 不気味さに顔をひきつらせるシホ。そんな様子を見て、エリカがきつい目で前を見返し、トゲのある口調で言う。

 

「ワケ分かんないこと言ってるけどさ、アンタ一体何なの? ……チビッ子にしてはけっこうな食通ね」

 

 言いながら、シホをかばうように前に出る。ルーミアは少し鼻白んだ表情をした後、後ろの男性の死体を一瞥し、思い出したように言う。

 

「あー、やっぱり妖怪のことなんて見当つかないか。そだよねー」

 

「……ヨウカイ? 何の話……」

 

「直球で言うとね、まあ、お化けみたいなものかな」

 

 聞き返したエリカの言葉をさえぎり、ルーミアは事もなげに言った。ワニのようにぎらつく両目を見て、二人がそろって絶句する。

 膝を震わせて立ち上がる二人に向けて、ルーミアは平然と言い放つ。

 

「話すと長くなるんだけどね。私たち妖怪は、なるべく人間に怯えてもらわなくちゃいけないの。とくにお姉さんみたいなよそ者は、見逃したらダメって決まってるんだ」

 

「つ、つまり……?」

 

「んもー、飲みこみ悪いなー。要は絶対に食べちゃいますよ、ってこと。まぁ今度は女の子を食べたいって理由もあるんだけどね」

 

「……あ、あぁ……っ!」

 

 か細い声を出してシホはエリカにしがみつく。その姿が面白いのか、ルーミアは上目遣いに品定めするような視線を送る。

 冗談だと二人は思いたかったが、内臓をほじくられた担任の死体が、その希望を打ち消してしまう。隣であからさまに血の気が失せたシホを見て、エリカが急に前へ進み出た。

 

「……待って! そんなに言うなら私だけ食べて!!」

 

「へ?」

 

「エ、エリカちゃん!?」

 

 若干声をかすれさせながらも言いきったエリカに、シホが目をむいて動揺しだす。ルーミアは意外そうに首をかしげていた。

 

「えー本気? だって食べられたら死ぬんだよ? そこのオジサンみたいに」

 

「いやそりゃ、怖いけど……」

 

 エリカは額に汗をかきながらつぶやく。

 思えば、修学旅行のバスからどうやってこんな場所まで来たのかすら分からない。周りの全てが夢だと言われたら、そのまま信じただろう。

 しかし、目の前に恐ろしい存在がいるということだけは、残念ながら現実らしい。何もしなければ食い殺されてしまうということも。

 ごくりと唾を呑みこみ、エリカは再度口を開く。

 

「でも本気よ。どっちかで済むなら、私が死ぬ方がいい」

 

「……ふーん」

 

 先ほどよりもハッキリとした声。シホはもうどうすれば良いのか分からず、おろおろと目線を泳がせている。

 すでに袖をまくって腕をつき出してくるエリカに、ルーミアはぽつりと問いかけた。

 

「ね、そこまでする理由って何? お姉さんたちってどういう関係なの?」

 

 その質問に、エリカはぴくりと眉を動かす。しかしすぐによどみない口調で答えた。

 

「……どうって、友達よ。ただそれだけ」

 

「本当にー? それだけで死んじゃえるもんなの? 人間って」

 

「ええ、少なくとも私はそうよ! 去年たまたま話すようになった間柄だけど、友達なんてそれで十分!!」

 

 エリカはムキになって言い返した。それを聞いてルーミアはけたけたと笑いだし、シホは隣で目に涙をにじませた。

 

 ――二人が会ったのは一年前。中学二年に進級し、クラスの席が隣になったのがきっかけだった。

 隣どうしになれば、おのずと話す機会もできる。自然と目に入る髪型や文房具の話題、教科書やノートの貸し借りなど。

 シホはなかなか自分から話しかけはしなかったが、エリカはそんな些細な機会からもコミュニケーションをとっていける子だった。シホの校則通りの黒髪や字の上手さを発見しては誉め、自然と距離をつめていった。

 結果的に二人の性格は上手く噛み合い、親密になっていったのである。

 よくある、ありきたりな関係。それでも二人はそれを大事にしていた。

 

 そんな過去があって覚悟を決めているなど知るよしもなく、ルーミアはつき出されたエリカの腕をすんすんと嗅いでいる。

 そして、「そんなら、いただきまーす」などと言ってかぶりつこうとした。

 その時。

 

「待って!!」

 

 不意に、シホが今日一番の大声を張り上げた。エリカとルーミアが驚いて振り向くと、紙のように白い顔をしながらシホが前におどり出た。

 

「エリカちゃんは駄目! やるなら私を食べて!!」

 

「はぁ!?」

 

 飛び出した発言に、エリカの眉がはね上がる。たちまち、ルーミアをよそに二人が向かい合っての言い争いがはじまった。

 

「アンタ何言ってんのよ!? かまわずに逃げなさいって!」

 

「だって……そんな、私……」

 

「とにかくやめて! 少なくとも死ぬのだけはやめて。冗談じゃないのよ、分かるでしょう?」

 

「でも……でもぉ……」

 

 強い口調で反対するエリカに、シホはいやいやするように首を横にふった。うつむき、両手で胸をおさえながら、かすかに嗚咽をもらす。

 そしてついに顔を上げ、しぼり出すような声で言った。

 

「だって、こんな事になったの、きっと私のせいだし……」

 

「……? どういう意味よ」

 

 思いもよらない言葉に、エリカは眉をひそめる。ルーミアも見つめて首をかしげた。

 シホは苦しげに短い呼吸をくり返し、ゆっくりと言葉をつむいでいく。

 

「今朝のバス……私が無理言って、エリカちゃんの隣に移ったから」

 

「……バス? まさか……」

 

 エリカは、この見知らぬ場所に来る前の記憶をたどった。修学旅行で乗っていたバスでのこと。

 クラス内で友達の少なかったシホは、バスの席順をエリカの隣に変えたがっていたのだ。周りもシホの交遊関係を知ってかすんなり了承し、彼女らは記憶が途切れる寸前まで、バス内で隣どうしとなっていた。

 そんなの今に何の関係が、と戸惑うエリカに、シホはこう続けた。

 

「きっと……私なんかが隣にいたから、エリカちゃんまでこんな変な場所に来ちゃったんだよ。私いつもツイてないから、きっとそれに巻き込まれて……」

 

「……ツイてないって、いやアンタね……」

 

 自分が近寄ったせいで不運がついてきた。根拠もなくそんな話をするシホに、エリカは半ばあきれた表情だった。

 思えば、シホは以前からそうだったのだ。ある意味見た目に違わず、暗くて後ろ向きなところがある。反面、クラスで腫れ物のように扱われても、他者を気づかう優しさがある。

 

 だが今この時、こんな優しさはまっぴらだった。エリカはシホの肩を強くつかみ、言い聞かせるように言う。

 

「そんなこと関係ないわよ。私だってまだ現実味わかないけど、アンタのせいなんてあり得ないって」

 

「でも……エリカちゃんがこんな目にあう理由なんて」

 

「ワケ分かんないのはお互いさまでしょ。とにかく今は、逃げなきゃいけないんだから」

 

 エリカは脇で退屈そうにしているルーミアを一瞥し、ずいっと顔を近づける。

 

「あの子、その気になれば本当に人を殺すわ。万が一にも、シホを襲わせたくないの」

 

「…………」

 

「……そういえば昨日、自主研修で一緒に撮った写真あったじゃん? あれ、大事にしてね」

 

 最後に柔らかい口調になり、寂しそうにほほえむと、エリカはシホの頭を一つなで、くるりと背を向けた。そしてルーミアの方へと歩いていく。

 ところが、ようやく話がまとまったところで、ルーミアが突如こうつぶやいた。

 

「はぁ、めんどくさい」

 

 その剣呑な声に、二人が振り向く。見るとルーミアがあきれた様子で頭をかいている。

 

「これから食事って時に、つまんないもの見たくないんだけど」

 

「……別れのあいさつくらいさせてよ。お望み通り食べられてあげるんじゃない」

 

「お腹へってる時に、ブタさんがなぐさめ合ってるの見て、興味ある?」

 

 怒りのまじった声をあげるエリカに、ルーミアが言い返す。ほとんどの妖怪にとって人食いは特別ではなく、よくある日常なのだ。目の前で食べ物が泣き出し、大げさに感情を吐露するなど、さほど感傷的でもないルーミアには興ざめだった。

 エリカは肩をすくめ、うんざりした様子で詰め寄った。

 

 

「じゃあどうすればいいのよ。今からでもジーっと黙ってればいいワケ? まな板の魚みたいに」

 

「うーん……それもなんだかなぁ……。あ、そうだ!」

 

 ルーミアはひとしきり考え、ポンと手を打つ。そして名案でも思いついたかのようにはつらつとした表情で言う。

 

「良いこと思いついた! こうすればいいんだ」

 

 ルーミアが笑顔でそう言うなり、二人の目の前で驚くべきことが起こった。彼女の周りに、とつじょ黒い霧のようなものが巻きはじめたかと思うと、またたく間に膨れ上がって広がり、彼女らをまとめて包みこんだ。

 

「ちょ、何なのよこれ!?」

 

「な、なに……?? やだ、怖いよ……」

 

 エリカとシホがうろたえ出す。不思議なことにその霧は日光をまるで通さず、大きな幕のように二人を外界から遮断した。一瞬で二人の視界からいっさいの景色が消え、明かりのない密閉空間ができあがる。

 

「エリカちゃん! エリカちゃんどこ!?」

 

「大丈夫、ちゃんとここにいるから! 落ち着いて!」

 

 不安げに金切り声をあげるシホ。互いに相手の姿がまるで見えない中、エリカが必死に声だけでなだめた。

 

(……まるで理解が追いつかないわ。これも妖怪の力だっていうの?)

 

 エリカは歯を食いしばりながら、シホがいるであろう場所まで、そろそろと歩を進める。視界が利かなくなっただけで、体は簡単にすくむものだ。まるで目をつぶっている時のように、手探りで緩慢に動いていく。

 しかし、そんなエリカのそばで、不意にルーミアの楽しげな声が聞こえた。

 

「よしよし、二人ともまだそこにいるよねー? じゃあ今からちょっとしたゲームをしまーす」

 

 エリカは反射的に飛びのき、辺りを見回した。「ひっ」と声をもらしてシホが震えあがったのが、見えなくとも分かる。

 

「ルールは簡単。これから私が二人のどっちを食べるか選びまーす。残った方はそこでサヨナラです」

 

 ルーミアはこともなげにそう宣言する。そして二人の言葉を待たずに、こう付けくわえた。

 

「しかーし……どちらか一人が逃げたりしたら、その時点で残った方を食べちゃいま~す。これはゼッタイ!」

 

「…………!」

 

「なんですって!?」

 

 一方的な宣言に二人は驚き、エリカは反発の声をあげる。どこかにいるルーミアは当たり前のようにこう返した。

 

「だって、そうしないと美味しくないんだもん」

 

 二人は知るよしもなかったことだが、妖怪という種族には特殊な習性がいくつもある。その一つが、人間の血肉だけではなく、感情にも嗜好があるという点だ。

 妖怪の性格や好みにもよるが、大多数は人間の持つマイナスの感情……恨み、妬み、怒り、絶望などにことのほか惹かれる。ルーミアにとっても、それは同じだった。

 なので、納得ずくで犠牲を出そうとする二人の心を、どうにかくじいてやろうと企んだのである。彼女は相変わらず姿が見えない中で、二人をからかうように声をかけ続ける。

 

「じゃあ動かないでねー? 少しでも歩いたら、逃げたって判断するから」

 

「……シホ、逃げて! 元々私が死ぬって決めたでしょ!?」

 

「いや! いやよそんなの! 出して、今すぐ出してよ!!」

 

 自ら犠牲になろうと叫ぶも、シホは泣きわめいて拒絶した。

 エリカは暗闇の中で唇をかむ。何も見えないのに命をにぎられている状況が、くやしくて仕方がない。

 彼女は息をひそめ、その場に立ち尽くす。しかし諦めきれずに、両手を少しだけ、空気をなでるように周りに広げる。

 今でも、シホは自分以上に怖がっているだろう。わずかでも触れて、ここにいると安心させてやりたい。たとえ触れた瞬間にどちらかが死ぬとしても、手を伸ばさずにはいられなかった。

 

 そんな思いが通じたのか、エリカの指先がふと柔らかいものに触れる。おっかなびっくりに突っついてみると、温かく、細長いものがいくつか生えている。人の手だ。

 それが分かった刹那、エリカの頭にある考えが浮かんだ。

 

(シホ!)

 

 シホがすぐそこにいる。にも関わらず、自分か親友の死をむざむざ待つのか?

 否、そんなことはできない。せっかく高校も一緒に志望して、これから何十年も互いの人生があるというのに、こんな理不尽で失っていいなど、口がさけても言えるものか。

 ……ルーミアは「どちらかを選ぶ。逃げたらもう片方を食べる」と言った。ならば、そろって逃げてしまえばいいではないか。

 

 思考はジェットコースターのような勢いで駆けめぐり、エリカの体をとっさに動かした。彼女は触れていた手をがっしとつかみ、そのまま引っ張って走り出す。

 

(逃げなきゃ、ほんの少しでもアイツから遠くへ!!)

 

 脇目も振らず、暗闇をまっすぐに突き進む。どこまでもこんな空間が続くはずがない。そう確信して、エリカは繋いだシホの手を強くにぎった。

 と、ふと。エリカはある違和感に気づく。にぎっているシホの手が、妙に小さい。手のひらにすっぽりと収まる、まるで子供の手のような……。

 その思考がある可能性に行きついた時、エリカははたと足を止めた。直後に、小さな手が強引に彼女の手を振り払う。

 

「きゃっ!?」

 

 短く叫び、呆然としていたエリカはあっけなく地面に投げ出された。そのとたんに周りから霧が晴れ、元の森の風景が広がる。

 エリカはひざの痛みにうめきながら、立ち上がりもせずに背後を振り返った。そこには、地に足をつけずに浮かんだ状態で、口を三日月形にぱっくりと開けて見下ろすルーミアの姿があった。

 

「あーあ、お姉さん。あれだけ言ったのに逃げ出しちゃったね」

 

「あっ……な……」

 

 エリカはくやしそうに顔をゆがめ、ルーミアをにらんだ。ルーミアの楽しげな笑みを見て、彼女はようやく理解する。

 エリカが暗闇でつかんだのは、シホではなくルーミアの手だったのだ。ルーミアはそれに気づくと手を離し、さもエリカが一人で逃げ出したような格好になった時点で、暗闇を解いた。

 失敗したのだ。軽率さに乗じて、はめられた。

 

「残念だったねーシホお姉さん。あなた見捨てられちゃったよ。あんなにカッコいいこと言ったのにね」

 

「なっ……待ちなさい! それは……」

 

 背を向けてふよふよと飛んでいくルーミアの背中に、エリカは必死で否定する。息を切らしてなおも呼び止めようとした時、もう一人の人物が目に入った。

 

「エリカ……ちゃん……?」

 

 呆然と立ち尽くし、泣きはらした目で見つめているシホの姿。体は今にも崩れ落ちそうに細かく震えている。

 血の気が引いて冷や汗をかいたその顔には、見捨てられた絶望と、信じられない気持ちと、これから殺される恐怖がごちゃ混ぜになってにじみ出ていた。

 それを目の当たりにして、エリカの体に言葉にできないような焦燥感が走る。

 

(違うの。見捨てるつもりだったんじゃない。勘違いしただけなのよ。二人で生き延びたかった。本当に――)

 

 弁解はうるさく頭の中を駆けめぐり、言葉にならず口から空気がもれていくばかり。そんなエリカを放置し、ルーミアはシホへとにじり寄っていく。

 

「う……うっ……ひぐっ」

 

 シホはその場にへたりこみ、声をあげて泣きじゃくりはじめた。抵抗もせず、力尽きたようにうなだれる。

 エリカは何故か立ち上がることができず、ルーミアがシホに触れるのを、ジッと見ていた。目の前の現実を信じたくなかったのかもしれない。

 そんな二人の様子をよそに、ルーミアはまるでごちそうを前にした子供のように大口をあけ、シホの首筋にキバを突き立てた。

 

「あっ――ぐぅ……」

 

 シホは目を見開き、一瞬だけ低い悲鳴をもらした。噛みついたルーミアの口から血を吸う音がちゅうちゅうと鳴り、しだいにシホの顔から生気が抜けていく。

 目から涙が止めどなく流れ、それと引きかえのように瞳の光がなくなっていく。ほの暗くなった両目が、動くことなくエリカを見つめてくる。

 

「あー、美味しいっ……!」

 

 数十秒ほど経ってルーミアはようやく口を離し、たまらないといった表情を浮かべた。シホの首筋から襟にかけて、毒々しい赤色が広がっている。

 続けてルーミアは肉を食べようとしたのか、おもむろにだらりと垂れたシホの腕をつかんだ。そこまできて、エリカの体がようやく弾かれたように動く。

 

「やめて……やめてよ! やめなさいよ!!」

 

 鬼気迫る表情で叫びながら、エリカは背後からルーミアに飛びかかろうとする。すると、急に何者かが彼女を羽交い締めにした。

 

「バカ! 妖怪相手に何やってるの!?」

 

 その強い口調に振り向くと、そこには赤と白の巫女装束を着た、エリカと同じ年頃の少女がいた。エリカは一瞬だけ困惑したが、すぐに絶叫して暴れだす。

 

「離して! 離してよっ!! あの子が、シホが……!」

 

「…………」

 

 巫女らしき少女は表情をけわしくすると、ルーミアへと視線を移した。腕をもぎ取ってしゃぶっていたルーミアが食事の手を止めると、巫女は確認するように言う。

 

「ルーミア、その子は……」

 

「ああ霊夢。大体分かるでしょ? 外来人よ外来人」

 

「こっちの子は?」

 

「連れて帰っていいよ。もう興味ないし」

 

 ルーミアはつれなく言い放つと、また食事にもどる。霊夢と呼ばれたは一つため息をつくと、事態の呑み込めないエリカをかかえ、空へと飛び上がった。

 

「どこ行くのよ!? 離して! シホ、シホーーっ!!」

 

「大人しくしなさい! 落っこちるわよ?」

 

 無情にも霊夢はそう言って、エリカをどこかへ連れ去っていく。シホにかぶりつくルーミアの姿がみるみる遠ざかり、森の中に埋もれていった。

 

――

 

「エリカ……もういいかげん電気消すぞ? 大丈夫だよな?」

 

「……小玉だけは、つけといて」

 

「分かってる。おやすみ」

 

 あの修学旅行のバスが消えた事件から一週間ほど後、エリカはただ一人、バスが行方不明になった道路で発見された。当初は何があったのかしきりに涙を流し、まともに話ができる状態ではなかったという。

 そののち、表面上は落ち着いたが、奇妙な点がいくつも見つかった。暗闇を以前とは別人のように恐れるようになり、夜に停電などあれば半狂乱になるらしいのだ。

 また、まぶたを閉じて眠るのも耐えられないようで、彼女の目の下にはいつも濃いくまができている。いつも友達に明るく接していた姿からは想像できないと、家族も、学校の後輩たちなども口をそろえた。めっきり無口になり、人と話すことも激減したという。

 

 ……ただ、家族の証言だと、ボンヤリしていても時たま感情を出すらしい。その時はきまって、行方不明になったクラスの親友の写真をながめ、涙をにじませているのだという……。

 

――

 

『……実は眠ると、いつも同じ夢を見るんです。親友が真っ暗な場所に立ってて"どうして見捨てたの?"って、何度も何度も聞いてきます。

 ……私にはどうにもできません。口も利けないし体も動かない。そうしているうちに、親友は近づいてきて、無表情な目を向けてきます。……いえ、あれは死体の目です。その子が目の前までくると、急に口から血を垂らして……。

 そしたらバリ、と音がして、お腹が裂けるんです。中からは……子供が出てきます。いえ、赤ちゃんじゃありませんよ。そいつは親友のお腹を食い破っているんですから。

 それが何かは……お話しするのは無理です。だって口止めされていますから。言っても信じてもらえないでしょう。向こうも私のことなんて忘れていると思いますよ。

 

 ただ当たり前に食べるゴハンやオヤツを、気にかけるわけは無いんですから』

 

 ――とある日、心療内科にてエリカの発言の抜粋――

 

 

ミソノ シホ――死亡

マキタ コウジロウ(教師)――死亡

 

マエザワ エリカ――生存



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殺しを知らない人間と、殺せない化け物

 その日は濃い灰色の雲が空をおおい、むんとした湿気がそこら中にただよっていた。どこを歩いても日が差さず、それでいて生暖かい空気がゆったりと流れている。

 今にも雨が降りだしそうな天気の下では、人通りは少なく、あっても足早に帰路につくような者がほとんどである。

 

 しかし、ある場所に、雨具もなく立つ一人の少年がいた。

 そこは曇天のもとでいっそう暗くなる、鬱蒼としげる竹やぶの一角。周りは人影どころか整備された道すらなく、ただただ背の高い草やタケノコがあちこちで顔を出し、それを見下ろすような細長く高い竹がえんえんと列をなしている。

 

 そんな場所で、少年はかたわらに自分の荷物らしき旅行かばんを置き、▼▼中学と書かれた制服を着て、息をきらしている。

 160センチほどの背丈で、眉と耳が隠れるほど髪を伸ばした彼は、見るからに非力そうなやせっぽちだった。そんな彼の手には、何故かさびついたボロボロの斧がにぎられている。

 

 そして、彼の目の前では、黒い体毛を生やした四つ足の獣が荒い息を吐いていた。大型犬のような体躯で、熊の顔に豚鼻がついたような容貌。額からはヤギのような角を生やし、鷹のように鋭い目をつりあげ、肉食獣そのものの牙をむいてヨダレをたらしている。

 

(なんだコイツ……? こんな動物見たことない……)

 

 少年は斧を持つ手が汗ばむのにも気づかず、その獣をいぶかしげに見つめていた。

 気がつくといつの間にか見覚えのない竹林にいた。それだけならまだ理解が追いつくが、この熊や犬が合わさったような獣は、彼のパニックを引き起こすには十分だった。

 ワケの分からぬ少年の前で、獣が太い前足を踏みしめる。カギ爪で土がくずれる音がし、少年がそれに肩を震わせた瞬間、獣が猛然と彼に飛びかかった。

 

「うわっ!?」

 

 少年は悲鳴をあげ、ほとんど本能的に横へ飛びのいた。獣の爪が服の表面をかすめ、ブレザーが音をたてて張り裂ける。

 獣はそのままの勢いで二メートルほど先に着地した。一瞬おくれて、通りすがりにあった竹が何本もまとめてへし折れ、バラバラとなぎ倒される。

 

「ひ、ひいぃっ!」

 

 少年は甲高い悲鳴をあげ、ズタズタになったブレザーを投げ捨てた。そして頼みの、竹林に偶然落ちていた斧を持ち直そうとする。

 しかし、彼が体勢を立て直すより早く、獣は再び襲いかかってきた。

 

「ぐぅっ!」

 

 少年はなすすべもなく押し倒される。人間の何倍あるかと思わされる重みが、押さえられた体にのしかかってくる。

 目の前で、得体のしれない獣が顔を近づけてくる。敵意に満ちた目、腐臭のもれる口。今まで見たこともない恐怖に迫られた少年は、必死で斧を持った手を振り上げた。

 

「この……このっ! があぁ!!」

 

 半狂乱になりながら、押し倒された姿勢から斧を獣の胴体に振り下ろす。ガツンと音がし、しびれと反動が腕に伝わる。

 しかし、獣の表情はいっこうに動じなかった。まるで蚊でも止まったかのように、少年の抵抗を気にもかけない。

 獣がいっぱいに大口をあけ、吠えた。生暖かい息が少年の顔に浴びせられ、同時に赤黒い口内があらわになる。喉奥が震えて低く激しい咆哮が耳に突き刺さった。

 目の前の光景に耐えられず、少年が思わず目をつむった時。

 

「おい、頭さげろ!!」

 

 ふいに、彼の頭ごしに声がした。若干低いが、若い女の声。少年が反射的に後頭部を地面につけると、刹那にのしかかっていた獣の背中一面に、視界が一瞬で染まるほどの火の手があがった。

 

「うおっ!?」

 

 顔面を熱風がなで、少年は苦しげに目をつむる。まつ毛が焦げるかと思うほどの近距離で、炎にまかれた物体がこの世のものとは思えない悲鳴をあげる。

 そして、獣が身をよじって少年の上から飛びのいた時、彼はとっさに体を起こし、だめ押しのつもりなのか獣に向けて斧を振るった。

 

「ギャンッ!!」

 

 火傷を負っていたせいか、斧が肉に浅く食い込む感触がした。獣は甲高い声をあげて一目散に竹林の奥へと走っていった。

 

「……っ待て!!」

 

 煙をあげながら逃げる獣を、少年は斧を片手にとっさに追いかけようとした。しかし、獣は脱兎のごとく竹林の中に消え、すっかり見えなくなってしまった。

 

「……はぁ、はぁっ……」

 

 少年はその方角をにらみ、斧を持ったまま呆然と立ち尽くしていた。先ほどまでの緊張のためか、息が乱れて足が震える。命の危機が去ったという実感がわかず、思考がまとまらない。

 ただ、感情の方はブレーキがきかず、妙な高揚感が身体中にみなぎっている気がした。

 

「おい」

 

「!」

 

 そんな時、ぼうっとしていた少年の背後から、あの女の声が聞こえてきた。少年があわてて振り返ると、気だるげな顔をした少女が、じろりと少年を見つめる。

 その少女は雰囲気からして高校生ていどだろうか。すらりとした体に白いワイシャツ、サスペンダーつきの赤い()()()。足元まで届きそうな白髪(はくはつ)を伸ばし、赤い瞳がするどく細められている。

 少年はその瞳の威圧感に少しまごついたが、気を取り直してあわてて頭を下げた。

 

「あ、ありがとうございます。助けてくれて……」

 

「運がよかったな。私が来るのが一秒おそけりゃ、お前は今ごろあの妖怪の飯だぞ」

 

 少女はそう言いながら遠慮なく近寄ってくる。少年は彼女の見慣れない格好などをチラチラとながめていたが、ある言葉が気に留まり、眉をひそめた。

 

(ん……妖怪?)

 

 聞き間違いかとついつい少女を見返すと、彼女はなおも話しかけてくる。

 

「お前、名前は?」

 

「あ……ハヤト。ミヤベ ハヤトです」

 

「ハヤトか。私は妹紅(もこう)藤原妹紅(ふじわらのもこう)だ」

 

 妹紅と名乗る少女はおもむろに右手を差し出してくる。ハヤトがその手を取るとあっさりした握手を交わし、彼女は背を向けて歩き出す。ハヤトはあわてて後を追った。

 

「お前さ、外の世界から来たろ?」

 

「外の……世界?」

 

「ああ、つまり……ここがどこだか、お前分からないだろ? 気がついたら知らない場所にいて、途方にくれてた。違うか?」

 

「あ、まあ……その通りです」

 

 状況をぴたりと言い当てられ、ハヤトは困惑する。妹紅は振り向きもせずに話し続ける。

 

「ここは幻想郷っつってな……。お前みたいのがたまに迷い込む別世界なんだ。大抵はさっきみたいな妖怪に食われちまうんだよ」

 

「また妖怪……それに別世界ですか……」

 

 ハヤトは困惑しつつも相づちを打つ。初対面の妹紅が語る非現実的な内容になかなかついていけない。

 しかし思い返してみれば、あの奇怪な姿をした獣はまさに"妖怪"と言われて納得できるものだった。

 くわえて、獣を突如つつんだあの炎。口ぶりから察するに少女がしかけたであろうそれも、どこから発生させたのか見当がつかない。少女は燃料のたぐいなど一切持たず、火の気といえば口にくわえているタバコぐらいだった。

 

「妹紅さんは何者……っていうか、幻想郷ってどんな場所なんです?」

 

「名前だけ知れば十分だろ。幻想郷ってのは、一言で言やあ危ない場所。だから安全なところまで案内してやろうっての」

 

「はあ……どうも」

 

「ここは迷いの竹林っていってな……景色がややこしい上に普段だれも来ないんだ。はぐれるなよ」

 

 妹紅はちらりと振り返って念を押し、また元のように歩き出す。ハヤトはまだ聞きたいことが山ほどあったが、妹紅のぶっきらぼうな口ぶりにとりあえずは黙ってついて行くことにした。

 竹林は暗く、静まり返っている。妹紅といるせいか先ほどのように妖怪が襲いかかってくることもなく、たまに鳥のさえずる音が聞こえてくる。

 そんな中を、二人は並んで黙々と歩き続けた。足音だけが平坦なリズムをきざむ。ハヤトはどうにも退屈になり、妹紅の背中にたずねた。

 

「あの、妹紅さん」

 

「んー?」

 

「安全な場所まで案内してくれるのは有難いんですが……そのあと俺はどうしたら?」

 

 右も左も分からぬ場所で置き去りにされたら、と危惧しての質問だった。妹紅は「ああ」と思い出したようにつぶやき、事もなげに答える。

 

「心配すんなよ。向こうに私の知り合いがいるから、そいつにパスすりゃあとは問題ない」

 

「ぱ、パス? 本当に大丈夫なんですか?」

 

「大丈夫だって。私よりよっぽどしっかりしてる」

 

 妹紅はまた前に振り返り、新しいタバコを取り出して吸い始めた。一体どうやって火をつけているんだろう、とハヤトは気になったが、それ以前に妹紅を信用していいのか、少し不安になった。

 歩きながらそんなことを考えていると、ついつい不安をまぎらわそうと口を開いてしまう。

 

「そういえば、幻想郷ってこの竹林以外にはどんな場所があるんですか?」

 

「色々だよ。里があったり、でかい花畑があったり……あとは、あの世につながる道なんかが」

 

「へぇ……なんだか面白そうですね」

 

「バカいえ」

 

 ハヤトが軽い気持ちでこぼすと、妹紅はぐるりと振り返って声をあげた。くわえていたタバコをつまみ、真面目な顔をして言う。

 

「さっきも言ったろ、危ない場所だらけだって。ゲームじゃねえんだから、滅多なこと言うな」

 

「あ……すいません」

 

 低い声で詰め寄られ、ハヤトはぺこりと謝った。しかし内心で(そんな怒らなくても……)などと反発してもいた。

 それを見透かしてか、妹紅はため息をついて語りかける。

 

「まだ実感わかないかもしれないけどな、今のお前は本当に死と隣り合わせなんだぞ?」

 

「…………」

 

「外の世界のこたぁよく知らないけど、少なくとも毎日死ぬ心配しなくて済むんだろ? 幻想郷なんて興味もつな。忘れちまえ」

 

 強い口調で言われ、ハヤトは押し黙ってしまう。妹紅はそれを了解と受け取ってか、また前を向いてタバコをふかしはじめた。竹林に再び二人の足音が鳴りはじめる。

 ハヤトはしゅんと俯き、大人しくなったように見えた。しかしそうではない。頭の中で、ふつふつといら立ちが沸き上がっていたのである。

 

 ――ハヤトは元々、小さな頃からクラスの主流ではなかった。背は高くなくやせっぽちで、健康上の問題はないものの、スポーツなどが不得意だった。しかし勉強ができるかといえばそうでもない。

 そんな彼がたどり着いたのが、マンガやゲーム、小説、映画などの世界である。フィクションの世界は彼にとって、現実とは違った刺激にあふれた、面白い世界だった。

 周りからはなんとなく陰気に見られ、つるめる友人も限られてくる。それでも彼は友人らと共に趣味を楽しんでいた。

 

 ただ、それでも真に満たされることはなかった。ゲームでモンスターを狩っても、人を轢き殺し、撃ち殺しても……どこかで物足りなさが襲ってくる。

 はっきり言って"退屈"だった。ゲームにいくら熱中しようと、画面を見れば目の前には真っ暗な画面があるばかりで、親が勉強だなんだとお小言を口にする。

 うんざりだ、この日常から外れた、とびっきり面白いものが欲しい。中学生という年頃もあって、彼はそんな思いを日に日に募らせていった。

 

(けど、どうやって?)

 

 ハヤトは、手に持っている斧に目をやった。妹紅と会ってから、なんとなく捨てずに持ち歩いていた斧。

 わずかに付いた血と、ずっしりと手にかかる重みを意識すると、妖怪に振り下ろした時の感触がよみがえってくる。肉に食い込み、全体に伝わる反動。獲物の叫び声と、逃れようとする体の動き。

 

 銃のたぐいはもちろん、日本刀、サーベル、レイピア、ランス、マチェット、ファルクス、ファルシオン、エストック、鉈、ダガー、ククリ、サバイバルナイフにいたるまで……ゲームであらゆる武器を手にしながら、実際に持ったことのない彼にとって、斧を見舞った感触は得がたく、新鮮なものに思えた。

 

(もしかしたら、退屈が晴れるかもしれない)

 

「妹紅さん」

 

 ハヤトはおもむろに口を開いた。妹紅が面倒くさそうに振り向く。

 

「あー? 今度はなんだよ」

 

「俺が生まれる前の話なんですけどね……日本中に大ブームを起こしたとんでもない小説が一つ、あったんですよ」

 

「……へぇ?」

 

 脈絡のない話をはじめたハヤトに、妹紅は眉をひそめる。ハヤトは気にもせずしゃべり続ける。

 

「中学生……つまり、俺らと同じ年頃の何十人かが、バスに乗ったまま拉致されるところから話がはじまります」

 

「…………」

 

「そのメンバーらはある無人の孤島に連れてこられ、訳も分からず軍人と教師におどされ、あることを命じられます。……何を命じられたか、分かりますか? 妹紅さん」

 

 妹紅は、ハヤトが話すうちに饒舌になるのを見て、顔をしかめた。そして戸惑いながらも答える。

 

「いや、知らん」

 

「彼らが命じられたのはですねぇ……"殺し合い"ですよ。それぞれ武器を渡され、島の中で最後の一人になるまで戦うんです」

 

 ハヤトが顔をゆがめ、ニヤリと笑った。それを不気味がりながら、妹紅は小さく毒づいた。

 

「悪趣味だな、オイ」

 

「ふふ、確かに当時も物議をかもしたらしいですよ。でも俺、そんなことより思ったことがあるんです」

 

 言いながら、ハヤトが斧を両手に持ち替える。それを見て身構える妹紅に向けて、彼は一歩ずつ近づいてゆく。

 その目つきが、これから侵そうとしている"最大のタブー"に興奮しているなど、妹紅には考えつかなかった。

 

(妹紅(コイツ)はさっき、なんと言った? 『普段は誰も来ない』と言ったじゃないか。しかも別世界だと)

 

「実際に、同じような状況に放り込まれたらぁ……」

 

 ハヤトがゆっくりと斧をかかげる。

 

「案外、楽しいんじゃないか……って!!」

 

「のわっ!?」

 

 反射的に飛びのいた妹紅の髪を、ハヤトの斧がかすめる。白い髪の切れ端が宙を舞い、斧の刃が重い音をたてて地面に食い込む。

 

「お前、急に何すんだ!?」

 

「見りゃ分かるでしょう、見りゃあ!!」

 

 ハヤトは悪びれもせずに怒鳴り返し、再び斧を振り回す。面食らいながら避ける妹紅のそばで、竹が幾度もへし折られて地面に転がった。

 

「やめろ! 気でも違ったのか!?」

 

「とんでもない、俺は正気ですよ。だから分かるんです……日本じゃこんな事できませんよ!!」

 

 戸惑いつつ止める妹紅に向けて、ハヤトは笑いながら尚も斧を振り続ける。彼の中には憎悪も思想もない。ただ、暴力への渇望だけがあった。

 

「……っ野郎!」

 

 逃げる足を止めた妹紅が、ハヤトに向けて腕で払うようなしぐさをする。

 その瞬間、ハヤトのすぐ隣で、彼の身長ほどの火柱があがった。妹紅がやったのだろうか。ハヤトは頭のすみでそう考えたが、意に介さなかった。

 生き物を攻撃し、傷つけるあの感覚。彼が現代で久しく味わえなかったそれを、人目を気にせず、罪にも問われずに得ることができる。それで思考はいっぱいだった。

 

「ぐあっ!」

 

 ハヤトはついに妹紅の片手を切り落とす。肉と骨があらわになり、妹紅とハヤトがそれぞれ苦悶と歓喜の表情をうかべた。

 しかし直後、驚くべきことが起きた。あらわになった腕の断面から火が吹き出し、その火の中からは元通りに手が伸びたのだ。

 

「……あ?」

 

 その光景に、ハヤトが動きを止める。その隙に妹紅が組みつくと、彼の体と斧をがっしりと押さえつける。

 

「いい加減にしろ、このガキ!!」

 

「!? は、離せ化け物!!」

 

 ハヤトは我にかえってもがき、顔を突き合わせて怒鳴りあう。その時、妹紅と目が合った彼は、ハッと息をのんだ。

 妹紅の、さっき斬った人間の目が間近にある。

 ただそれだけの事であったが、彼の動きが一瞬、ピタリと止まる。

 

 見つめてくる目は、叫んでくる口は、つかんでいる手は、間近にある肌は、間違いなく生身のものだった。体温があり、血の通った生き物が、自分に怒りを向けてくる。押さえつけられ、彼はそれを今さらのように実感した。

 自らの手で他人を傷つければ、何事もなしではいられない。他人事にはならない。なまじ『人を人とも思わない』ことが出来なかったハヤトは、とたんに全身から冷や汗が噴き出し、狂ったように暴れだした。

 

「離せ! 離れろよ!! 近寄るんじゃねえ!!」

 

「暴れんな! とにかく斧を離せ!!」

 

「うるっせえぇーーっ!! く、やだ! いやだぁ……っ!」

 

 ハヤトはかたくなに斧をつかみ、子供のようにわめき散らした。武器を手放せばどうなるか分からない。自分のしでかしたことがどのように返ってくるか。それが怖くてしょうがなかった。

 

「とにかく落ち着けって、私は……」

 

「があああああぁーーっ!!!」

 

 静止しようとする妹紅の言葉も聞かず、ハヤトは強引に体を引き剥がそうとした。その時、反動で持っていた斧が大きく彼の手前側へと振られた。

 

「がっ……ぐ!?」

 

「あっ……」

 

 突如、ハヤトの口からくぐもった悲鳴が漏れる。彼の首もとには、内側に向いた斧の刃が半分ほど、大きく食い込んでいた。言葉を失う妹紅の目の前で、噴水のような血がほとばしる。

 彼はそのまま白目で宙を向いたままフラフラと後ずさり、妹紅のつくった火柱の中へと倒れこんだ。

 妹紅はあわてて駆け寄ったが、彼の体はまたたく間に炎にむしばまれていった。すでに意識が無くなっているのか、悲鳴一つあげない。

 

 人影のない静かな竹林で、ハヤトはまるで火葬のように火に包まれ、ゆっくりと焼かれていった。やがて黒い煙のあがる先から、ポツポツと雨粒が降りだした。徐々に空気が冷えていくのを感じながら、妹紅はぼそりとつぶやいた。

 

「バカか、お前は……」

 

 ハヤトの内心を知らない彼女には、それしか言葉が出なかった。

 ただなんとなく、妹紅――不死の体を持ち、気も遠くなるような年月をすごしてきた彼女は、殺しに浮かれ、慣れていなさそうな彼のことを、ある意味うらやましく思っていた。

 

「いっそ、最初に不死の化け物だって伝えとくべきだったかな……。"人殺し"がしたかったならさ」

 

 彼が最後に見せた、怯えるような目つきを思いだし、タバコをくゆらせながら妹紅はその場を後にした。

 

ミヤベ ハヤト――死亡



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肉体と魂を操りし邪仙

「げほっ……げほっ……」

 

 底冷えするような風が吹く夜。藍色の空に浮かぶ満月に照らされながら、一人の少女が体を引きずっていた。

 少女の背丈は中学生ほど。その周りには、顔まで届くほどの雑草が、見渡す限りぼうぼうに生えている。まとわりついてくるようなそれらをかき分けながら、少女は今にも倒れそうな(のろ)さで歩を進めていく。

 

 目の前の茂みを左右に分けると、少女の容姿が見えてくる。ずんぐりした体型に制服を着込んでおり、長いスカートの下から太めの足が伸びている。ブレザーのポケットには▼▼中学と書かれた校章がある。後ろで二つに結んだ黒髪と丸っこい顔は、普段なら人懐こさを感じさせただろうと思われる。

 ただ、今の彼女の表情は苦悶にゆがみ、髪はばさばさに乱れていた。何があったのか口からはどす黒い血が漏れだし、胴体のブレザー、ベスト、ワイシャツもことごとく引き裂かれ、あるいは傷が入っている。

 

 その服の損傷が一番はげしい位置には、むき出しになった肌に引っかき傷が三筋、猫の何倍もの大きさで刻まれていた。虎かライオンかと思うようなその傷からは、まるでぬいぐるみの中から飛び出したワタのように、血液にまみれた内臓が一部、顔を出していた。傷口を押さえる手のすき間から、なおも血が容赦なくこぼれ落ち、固着した血に上塗りされていく。

 

(うぅ……なんで……? どうしてこんな事に……!)

 

 止めどなくこみ上げてくる血反吐をこらえながら、少女はうつむき、大きな体を揺らす。もうろうとしてくる意識の中、彼女――スズキ ミチカは、ふらつく足取りで走りながら、つい先ほど目が覚めるまでの出来事を思い出していた。

 

 ミチカは、自分の中学の修学旅行で、バスに乗って移動している最中だった。おぼろげな記憶だが、窓の外が不意に白い霧に包まれたーーような気がしたのは覚えている。

 気がしたというのは、その後の記憶が、何故かぷっつりと途切れているからだ。そして次に意識を取り戻した時には、辺りは見知らぬ草原で、いつの間にか夜になっていた。

 しかも、姿はよく分からなかったが、続けて野生動物のようなものに襲われた。叫び声をあげるよりも早く爪を立てられ、どうにか逃げ出したものの、今では臓物の一部がはみ出し、ふくよかな腹から絞り出すかのような血が流れている。

 

「いだっ……ぁ、痛いよぉ……」

 

 傷口に鋭い痛みが走り、ミチカはついに茂みのただ中にへたり込む。がくんと上半身が突っ伏しそうになり、あわてて片腕をつく。

 しばし、不気味な静けさが辺りを包む。そよ風が思い出したように草をサラサラと揺らすと、ミチカは反射的に背後を振り向いた。

 風の音にまぎれ、ガサガサという音が近づいてくる。茂みを突き進むようなその音はだんだんと大きくなり、ミチカのすぐそばまで迫ってきた。

 彼女はだるい体を起こし、逃げ出そうとする。しかし激痛と倦怠感に負け、あっけなく地面に倒れてしまう。

 次の瞬間、背後に釘付けになっていた彼女の視界に、異形の姿をした獣が躍り出た。

 鹿のような体躯でありながら、馬のごとく長いたてがみを生やし、肉食獣のような牙をむいたそれは、口をいっぱいに開けて眼下のミチカに向かってくる。

 

「いやああぁーーーっ!!」

 

 ミチカは痛む喉奥から悲鳴をあげ、頭を抱えてうずくまった。その背中には、獣がぴったりと狙いをつけている。一秒もすればあっけなく餌食になると、誰もが予想するだろう。

 しかし、そうはならなかった。跳躍していた獣に、突如横から矢のような一閃の光が飛び出し、突き刺さった。

 

「グァッ!!」

 

 光が獣にぶつかり弾け、相手は低くうなって真横へと吹っ飛んだ。驚いて振り向いたミチカの視界の隅から隅を、獣が横切っていく。

 そして、二十メートルほど離れた場所にドスンと転がり、ヨロヨロと起き上がると、ポカンとしているミチカを尻目に獣は泣くような声をあげて走り去っていった。

 

「……え、なに?」

 

 しばし腹の痛みも忘れ、ミチカは呆然と獣の去った方角を見つめていた。その時、彼女の背後で不意に高らかな拍手の音が響いた。

 

「命中~♪ いやはや、間に合いましたわ」

 

「っ!?」

 

 場違いな、呑気な声。ミチカが振り向くと、そこには見知らぬ女が、()()()()()笑っていた。

 白い頬に、かんざしで横八文字にまとめた青い髪。切れ長の目は細められ、薄く頬笑む口がどこか不気味だった。

 水色の軽いワンピースに、クリーム色のベスト。細い体のシルエットに、薄く伸ばした白い布が肩にかかっている。その布は不思議と風になびくように広がり、まるで昔話に出てくる羽衣のようだった。

 

「だ……だれ……?」

 

「はじめまして、私は青娥(せいが)(かく) 青娥(せいが)といいます。……と、そんな事より」

 

 青娥と名乗った女は笑みを絶やさずペラペラと自己紹介をすますと、ふわりと地面に降りたつ。

 ホクロひとつ無い肢体が月光に照らされ、間近で見ると陶器のようだった。

 すると、彼女はミチカにずいと詰め寄ると、血まみれの体を一瞬も躊躇せず抱えあげた。

 

「い、痛っ……!」

 

「我慢してくださいな。ここで寝ていてもケガは治りませんよ? ……ってなかなか重いわね、あなた」

 

 青娥はたしなめるような口調で言うと、まるで荷物のようにミチカを脇に抱え、また地上から浮かび上がった。ミチカの眼下で、みるみる地上が遠くなっていく。

 しだいに、血を流しすぎたのかミチカの意識がもうろうとしだした。混乱しながら彼女が青娥の飛んでいく方角を見ると、空中に景色を切り抜いたような丸い穴があり、その中に別の景色が広がっているのが見えた。

 漫画の異次元トンネルのようなその穴を青娥がくぐり抜ける瞬間、ミチカは意識を失った。

 

――

 

「う……ん……」

 

「あ、気がつきましたか?」

 

 ミチカが次に目を開けた時、最初に木造の天井が飛び込んできた。続けて上機嫌な青娥が上から覗きこんでくる。

 

「ここは……うぐっ……!」

 

「あ、動かない方がいいですわ。応急措置をしただけなんですから」

 

 起き上がろうとした瞬間、頭と体に激痛が走る。青娥に止められて目を泳がせると、ミチカは全身に包帯を巻かれていることと、畳の大部屋に寝かされていることに気づいた。枕元に座っている青娥が、行灯の火に照らされながら口を開く。

 

「さて、気がついたところで少し聞きたいのですけれど……あなた、お名前は?」

 

「あ……ミチカです。スズキ ミチカ」

 

「ミチカちゃんね。いきなりで悪いのだけれど、あなたには色々と聞いていただきたい事があります」

 

 青娥はふと改まった表情になると、いぶかしげな顔をするミチカに、こう語った。

 ミチカの目覚めた場所は幻想郷といい、普段は現代と隔絶された世界なのだという。そこにはさまざまな幻想……神や妖怪がおり、ミチカを襲ったのも妖怪の一種だということだった。

 もし現代で一緒にいた者がいるなら、彼らも迷いこんでいるかもしれない。なんにしろ幻想郷は一般人にはとても危険であり、限られた方法で帰らなければ死ぬしかない、と青娥は悲しげな顔で言った。

 

「じゃあ……みんなは……」

 

 聞き終えたミチカの顔が蒼白になる。そんな彼女に、青娥は気を取り直すように言った。

 

「……さて、ここまで話しておいてなんですが、ミチカちゃんは先に心配する事があるでしょう」

 

「なっ……どういう事です?」

 

「あなたの体よ。応急措置しただけだと言ったでしょう?」

 

 青娥に念押しされると、ミチカの傷がまたもや痛む。いつまた傷口が開いてもおかしくないと、素人でも分かった。

 それでもなお、同級生たちが気にかかるのか、ミチカはかたわらの縁側から見える外を見つめ、体をよじる。そんな彼女を見下ろしつつ、青娥はため息をついて言った。

 

「ケガを負ってから治療するまで、おそらく時間がかかりすぎたのですわ。意識は回復しましたが、このままではジワジワと死んでいってしまうでしょう」

 

「そ、そんな……じゃあ、私はどうすれば……ひぐっ!!」

 

 焦りと苦悶に顔をゆがめるミチカ。同級生のもとへ駆けつけたい気持ちで、自身の肥えた体がもどかしく思えさえした。

 そんなミチカの気持ちを察してか、青娥はためらいがちに目を伏せてから、こう問いかけた。

 

「……もし、ミチカちゃんさえよければ、一つ賭けてみますか?」

 

 青娥の言葉に、ミチカがキョトンとした顔になる。青娥は姿勢をただし、改まった調子で言った。

 

「あなたの魂を、妖怪の体に一時うつしかえるのです。そうすればこのまま死ぬのは免れるでしょう」

 

「妖怪の体に……!? そんなの本当にできるんですか?」

 

「ええ、私も幻想郷の住人のはしくれですから。命だけは助けられますわ」

 

「でも……」

 

 現実離れした青娥の提案に、ミチカは押し黙ってしまう。妖怪の姿はすでに目にしている。人間とかけ離れた、化け物じみた姿。いくら死なないとはいえ、あんな姿になるだなんて……。

 考え込んでいたミチカの耳に、不意に初めて聞く声が降ってきた。

 

「せーがー? お客さんかー?」

 

「わぁっ!?」

 

 驚いてミチカが振り向くと、そこには中国の人民服にスカートという格好の少女が立っていた。半袖やスカート下からのぞく手足が何故か病的なほど青白く、腕は幽霊のごとく前へ突きだし、足は棒のように伸びて突っ張っている。

 紫色の帽子をかぶったショートヘアで、額に張られた得体の知れない御札が顔の真ん中あたりを縦に覆いかくしている。

 

「あぁ芳香(よしか)。起きたのね」

 

 少女、芳香に親しげにほほえみかける青娥。芳香の肌の色や御札をしげしげと見つめるミチカに気づき、青娥が口を開く。

 

「この子はね、宮古(みやこ) 芳香(よしか)。私の飼ってるキョンシーよ」

 

「か、飼ってる? キョンシー??」

 

「うーん、今の子には伝わらないかしら……。あ、そんな事より。ほら」

 

 青娥は戸惑うミチカに困った顔をしてから、はたと何か気づいたように芳香の体を指差した。

 

「ほら、よく見て。この子、体のあちこちに縫い目があるでしょう?」

 

 言われて、ミチカは寝たままジッと目をこらす。よく見てみると確かに、生気のない肌のあちこちに手術痕のようなものがある。青娥は何やらしみじみと語りだした。

 

「見れば分かるかもしれないけど、この子の体は屍なの。魂を入れ込んではいるけど、血が通っているわけじゃないのよ」

 

「…………」

 

「だから、たびたび腕がもげたり、目が取れたり……その度に()()しなきゃいけない。でもね、魂が一緒なら、決して他人にはならないわ。どう変わっても、あなたの体はあなたのものですわ」

 

 青娥の台詞を、ミチカは静かに聞いていた。妖怪の体に入れ替えられようという自分を落ち着けようとしているのは、すぐに分かった。

 話が終わると、ミチカはおそるおそる尋ねた。

 

「信じて……いいんですか?」

 

「ええ。肉体は妖怪でも、あなたのものに違いありませんわ。それに、もとの肉体が無事なら、また落ち着いた時に戻せばよいのですから」

 

 青娥は断言した。ミチカは、これが最後のつもりでグルグルと考える。

 このままでは死ぬしかないらしい。いや、死ななくとも他の同級生を探すなりできるのは、相当後になるだろう。ミチカは自身にふりかかった妖怪の恐怖と共に、同級生たちのことを思い出した。

 太っているのもバカにせず気さくに話しかけてきたエリカ。手鏡を片手におしゃれのことを色々と話してくれたサオリ。

 やはり放っておくなんて出来ない。賭けてみよう。彼女はそう腹を決めた。

 

「……お願い、します」

 

「分かりました。では、仰向けになって……」

 

 青娥の声にしたがうと、どのような方法か不意に眠気が襲ってきた。手術の要領だろう。

 大丈夫、もとの体に戻る方法はあるのだから……。ミチカはそう自分に言い聞かせて、そのまま眠りについた。

 

――

 

 ……それから、どのくらいの時間が経っただろう。ミチカはふと、自分が心地よい満腹感に包まれていることに気づいた。

 

(あれ……体が軽い。もう入れ替わりは終わったのかな?)

 

 まるで眠りから覚めたような感覚だったが、意識がハッキリしてくると、自分が座っているのに気づいた。そして口がベタつき、両手に温かいものを持っているのが分かる。

 

(え……? これって……)

 

 ミチカが覚醒していくと、視覚も徐々に回復していく。そして周囲を視認しだした彼女は。

 

 眼下に、自分の首がゴロリと転がっているのを見た。

 

「っ!!」

 

 その瞬間、まるで身体中の血液が一気に流れ出すかのように、目に映るものを一斉に知覚しだす。

 先ほどの自身の首の周りには、理科室で見た標本のような背骨や肋骨に、赤黒い血や肉が散乱している。両手にも生臭さを放つ肉片を握り、しかも握っているその手は太いケヅメが生え、トカゲのような鱗に覆われていた。

 

「ナ、ナニヨ、コレ!!?」

 

 思わず飛び出た声も、聞きなれた自分のものではなかった。醜くしわがれ、動物の鳴き声のようだ。混乱して辺りを見渡すと、青娥と芳香の姿が目に入った。

 

「はぁい、ご機嫌いかが?」

 

 青娥がにっこりと目を細めて言った。白衣の代わりなのか白いエプロンとマスク、それに手袋を着けていて、それらにはベッタリと血がついていた。

 青娥の膝元には、入れ替えに用いたのか手術用のメスやハサミが並べられ、水の入った桶も置かれている。

 

「セイガサン! ワタシにナニをシタノ!?」

 

 手にしていた肉片を放り投げ、ミチカは青娥へ詰め寄った。対して青娥は眉一つ動かさずに答える。

 

「何って、約束通りあなたの魂を妖怪の体に移しただけですわ。ただ、体力の低下を防ぐためか、目の前の()()にかぶりついてしまいましたが」

 

「エ……エサ?」

 

 ミチカは呆然としてつぶやく。その拍子に、口から何かがポトリと音をたてて桶へと落ちた。ミチカが目を落とすと、口から血のしずくが落ち、桶の水を赤く染めている。

 水に反射して、ミチカの今の顔が映る。トカゲのような鼻面、黄色くにごった目。鋭くとがった牙や口の周りには血がこびりつき、血がタラタラと垂れている。

 体を見返して見れば、全身が緑色の鱗に覆われ、蛇のような長い尻尾まで生えている。最後に先ほどの生首を見て、ミチカは全てをさとった。

 

 自分の古い体を、食べてしまったのだ。もとの肉体が無事なら戻れると言ったが、それももう叶わない。

 

 こみあげる焦燥に吐き気をおぼえる。ミチカはそれを抑えながら、弱々しく青娥に向けて問う。

 

「ド、ドウシテ……ナゼ、コンナ……」

 

「何故って、あなたも了承したでしょう? 賭けてみるって」

 

「ソウジャナクテ! ジブンをタベチャウナンテキイテナイワヨ! 『アナタノカラダはアナタのモノデス』ってイッタジャナイ!!」

 

「ああ、それねぇ……」

 

 ミチカの抗議に気のない返事を返し、青娥はバカにするように笑った。

 

「例えあなたのものでも、あなたの思い通りになるなんて限らないじゃない」

 

「ナッ……」

 

 事もなげな回答に、ミチカは絶句する。そこで気づいた。

 全部、この人に仕組まれたのだ。青娥は初めからミチカのためを考えてなどいなかった。

 今では愉悦と見下しが、青娥の表情にありありと見て取れる。

 固まっているミチカに、青娥と芳香が一緒になってすり寄り、ささやいてきた。

 

「がっかりしないでくださいな。ちゃあんと死なずに済むのですから。それに、ここにいれば安全に暮らせますわ」

 

「そーそー、ずーっとここにいればいいぞー」

 

 ミチカの内心など考えもせず、二人は呑気な言葉をかける。ミチカはまるで夢の中にいるように無表情でいたが、突然に二人を振り払うと、縁側から外へと飛び出した。

 

「きゃっ!」

 

「ウグアアアアァァァッ!!!」

 

 もはや人とは思えない叫び声をあげながら、ミチカは一目散に外の森の中へと消えていった。

 あわてて後を追い、その背中を追っていた青娥は、姿が見えなくなると、残念そうに息を吐いた。

 

「あーあ、行っちゃった。妖怪への意識の移植なんて、めったに出来ないのに。経過観察したかったわ」

 

「……せーが、アイツいったいどーなるんだ?」

 

「うーん、あの様子だと心もすぐに妖怪になるんじゃないかしら。まぁ、『この空間』からは出られないでしょうけど」

 

 実は、青娥たちのいるのは厳密には幻想郷ではない。青娥が独自につくった空間の、『仙界』である。

 青娥の空間ゆえに、余計な驚異は存在しない。居るのは青娥本人と芳香と、限られた者たちのみで、幻想郷を脱出する術を持つ者も存在しないのだ。ほとんど生物のいない、閉ざされた世界である。

 

 そんな場所で、自我を見失ったミチカがどうなるか。正直、助かる見込みは薄い。万一誰かに見つけられたとして、彼女が元は人間だと分かる者が、どれだけいるだろう。

 青娥も彼女の末路は想像できたが、特に助ける気もなかった。実験台としての興味が失せたら終わり。霍 青娥とは、そういう人間……いや、"邪仙"なのだった。

 

「さあ芳香、もう向こうへ行きなさい。仕事があるでしょう?」

 

「はーい」

 

 青娥は振り向き、なに食わぬ顔で芳香の背を押した。

 

 

スズキ ミチカ――生存、および妖怪化(行方不明)



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無縁の幸福

「ここって……一体……」

 

 真っ赤な夕暮れの空をあおぎながら、一人の少年、ヤグチ ヒカルはつぶやいた。

 自身の姿をあらためて確認する。ワイシャツ、ブレザー、スニーカー。修学旅行のバスにいた時の、▼▼中学の制服のままだ。かたわらには自分の荷物もある。

 

 続けて彼は記憶をたどってみた。たしか、午前中に移動用のバスに乗っていたのだ。

 ……隣の席のクラスメイトは自分には目もくれず、通路をはさんだ友人としゃべっていた。ヒカルの記憶にあるのは、窓からながめていた面白味もない外の風景。寝てしまおうかとも思ったが、バス内の話し声がうるさくてそれも叶わなかった。

 窓辺に頬づえをつき、無言で座っていたのは一時間ていどだったか。彼には退屈で何倍も長く思えたが、ともかく、その辺の記憶がどうにもハッキリしない……。

 

「……チッ」

 

 舌打ちとともに不愉快な光景をシャットアウトし、ヒカルは思考を切り換える。なぜ乗っていたバスから降りてるのか、バスはどこに行ったのか……という疑問はさておき、体に異常はなさそうだと彼は一つうなずく。

 

 しかし、辺りの風景に再度視線をめぐらせると、ヒカルはだんだんと表情をくもらせていった。

 何の前触れもなく、彼が一人で寝そべっていたその場所。そこには山のように粗大ゴミが積み重なっていた。

 壊れた洗濯機、換気扇、電気こたつ。解体もされていない車や電車の車両、電話のない電話ボックス。さらには一体いつの物なのか、ブラウン管テレビやファミ○ンまである。

 そして、そのゴミ山を取り囲むように、花盛りの桜の木が輪になっている。季節外れだろうとヒカルは思ったが、その桜の花が不気味な紫色をしているのを見て、ぞぉっと背筋に寒気が走った。

 

 ここは、自分の見知った場所ではない。それどころか、自分の常識が通じる場所ですらないかもしれない。周囲の異様な景色を見て、ヒカルは直感した。くすんだまだら模様のゴミ山に、紫色の桜。それに夕暮れの赤が上から降り注ぐように視界にまじり、彼はしだいに混乱しだす。

 

「……うっ……」

 

 不安が増してくると、ヒカルの腹から生暖かいものが込み上げてくる。バス酔いだ。クラスの者たちが誰一人気にかけなかったため、彼はせめて吐かないようにとこらえていたのだった。

 

「おえぇっ!」

 

 しかし、ついに我慢も決壊し、ヒカルはゴミ山のそばに嘔吐した。口の中に酸味と苦味が広がり、喉がひりつくように痛む。

 手足から力が抜け、彼はぐったりと這いつくばる。腹部だけがせわしなくケイレンし、目からじわりと涙がにじんだ。

 しばらくしてようやくケイレンがおさまり、彼が咳き込みながら顔をあげると、ゴミ山の中にあった、割れた姿見(すがたみ)の鏡が目に入った。

 ひょろ長い胴体に、短い足。寝癖の直りきらない髪に、ニキビの尽きない額や頬。さえない自分を見つけたその顔は、一瞬でひどく間抜けになった。

 

「…………」

 

 ヒカルは無言で立ち上がり、長い長いため息をつく。自分の顔は昔から嫌いだった。教室でなんとなく視線を感じては胃が縮みあがるように痛み、時にズル休みをした小学校時代の記憶がよみがえる。

 そんな風に、彼が状況確認そっちのけで立ち尽くし、フラッシュバックと戦っていると、不意に頭上から声が降ってきた。

 

「大丈夫かい?」

 

 その関心がなさそうな口調に、ヒカルは顔をあげる。すると、彼の目の前のゴミ山の頂上に、一人の少女が立っていた。

 小柄で、身長は見たところ12歳前後といったところ。白ブラウスに黒いスカート、そして黒と灰色のベストを着ている。足には靴下とローファーを履いている。

 灰色のショートヘアの上部には、ネズミのような大きく丸い耳がついていた。

 その奇妙な格好の少女を、ヒカルはしばしいぶかしげに見つめていた。すると、少女はそこから下りず、見下ろした姿勢のままで言う。

 

「君、外から来た人間だろ? こんな場所にずっといると危ないよ」

 

「……外から?」

 

 聞きなれないフレーズに眉をひそめるヒカル。外からというのは、よそ者という意味だろうか? しかし、彼としてはまず、目に映る奇妙な少女と場所の方が気になった。

 ヒカルは忠告めいたことを言ってくるその少女に、おそるおそる尋ねてみる。

 

「あの……あなたは、誰なんですか?」

 

「人に名前を聞くときは、自分から名乗るものじゃないのかい? あともう少し大きな声でしゃべってくれ」

 

「……ヤグチ、です」

 

「なんだって?」

 

「ヤグチ! ヒカルです!!」

 

 ボソボソとしゃべっていたヒカルが、いら立ちながら声を張り上げる。少女はようやくうなずくと、ヒカルに向けてこう名乗った。

 

「私はナズーリンだ。はじめまして」

 

(なずー……りん?)

 

 名前も変だな、とヒカルは首をかしげた。まるで外国人のような響きだが、しゃべっている言語は間違いなく日本語だ。

 戸惑いを深くしているヒカル。少女もといナズーリンはそれを気にも留めない様子で、何やら話し出した。

 

「ここは幻想郷といってね。君らの理解できない存在がわんさかいる場所なんだ。悪いことは言わないから帰った方がいい」

 

「理解できない……? いや、待ってくださいよ。意味分かんないし……大体、名乗ったんだから名前呼んでくださいよ」

 

「ああ、ヒカルだったね。ともかく、一つ言えるのは君が災難にあったということだ」

 

 いまいち要領を得ない返事をナズーリンは続ける。ゴミ山から下りてくる気配がないので、ヒカルは仕方なく彼女に自分から近づいていく。

 

「あの……さっきから言ってることがよく分からないんですが」

 

「それはすまない。なんせ説明するとなると面倒だからね……。それより、さっさと元の世界に返す方が早い」

 

 ナズーリンは肩をすくめ、そっけなく言った。そのセリフの言葉尻に、ヒカルはふと片眉をあげる。

 

「元の……世界?」

 

「そうとも、君がいた世界だよ。ご家族や友人のところに帰りたくないのかい?」

 

 ナズーリンはさも当然のように答えた。帰りたがるのが当たり前だろう、という口ぶりだ。

 しかし、その口調にヒカルはぐっと唇をかむ。というのも、彼は元の世界の学校に、あまりいい思い出がなかったのだ。普段から話し相手もなく、クラス内でグループを作れば漏れなく浮き、かといって一人で平気でいられる訳でもない。

 昨日からの修学旅行でもそうだった。班づくりの際には余り物あつかいされ、やっと入れた班にもつま弾きにされた。ナズーリンの丸耳を見ているだけでも、某テーマパークで置き去りにされた時のことを思い出す。

 

「どうかしたのかい?」

 

「……あ、いや」

 

 うつむいていたヒカルの顔を、ナズーリンが怪訝な顔で覗きこんでくる。彼が浮かない顔で生返事をすると、ナズーリンは平坦な口調で続けた。

 

「君だって、少なくとも親はいるだろう。戻れるツテなら私が持ってるから。いいね?」

 

「…………」

 

 親、ポロリとこぼれたその言葉に、ヒカルはまた黙り込む。無論、彼にも親はいた。だが、血の繋がりがある人物でさえ、彼は信用できなかった。

 小学校から中学校に上がり今まで、日に日に覇気をなくしていくヒカルを、親はほとんど気にかけなかった。私生活のことなど興味を示さず、かけてくる言葉といえばたまのズル休みと、成績が落ちたことに対する小言のみ。

 

 修学旅行の直前に一度だけ、母親に思い切って「行きたくない」と漏らしたことがあった。息さえ苦しくなるような、彼にとってはSOSと言ってもいいほどの弱音だった。

 ところが、返ってきたのは「もうお金払ってるんだからバカ言わないでよ」という言葉だった。

 

 息子の悩みより、十万そこらの金の方を惜しむのだ。こんな見知らぬ場所にあっても、恋しくなど思えなかった。

 

「いやだ……」

 

「は?」

 

「……僕、帰るなんて嫌です! せめて、もう少しこっちに居られませんか!?」

 

 ヒカルはだしぬけに悲痛な声で叫んだ。それを聞いたナズーリンは顔をしかめ、理解できない生き物でも見るかのような表情になる。

 

「……おいおい、バカを言うんじゃない。君は知らないだろうがな、幻想郷ではハッキリ言って明日の命も知れないんだぞ」

 

 ナズーリンはヒカルの内心などつゆ知らず、戸惑いながら彼をなだめた。しかし、ヒカルはとうてい納得できない。昔からどれだけひどい目にあってきたか、学校や家庭が彼にとってどれだけ冷たい場所か……。

 それを洗いざらいぶちまければ、あるいは同情を買えたかもしれない。しかし悲しいかな、涙ながらに訴える姿を想像するとそれはあまりにもこっけいで、プライドに邪魔された彼は言葉を詰まらせただけだった。

 

「うっ……うっ……」

 

「……いや、なんだか知らないがね。私は好意で言ってるんだよ。死んでも誰も見向きもしないような場所に居たいかい?」

 

(元の……元の世界でも、見向きもされねえよ……!)

 

 ナズーリンは説得を続けていたが、表情やしぐさには嫌悪感がにじみ出ていた。眉間にかすかなシワができ、後ずさってさりげなく距離を取る。

 会ったばかりのヒカルが急に泣きそうな顔になったのを考えれば無理からぬことなのだが、ヒカルにしてみれば、そのしぐさだけでショックを受けるには十分だった。彼は心の中でナズーリンに毒を吐いた。

 

 思えば、そんな一幕にも、ヒカルの性格は如実にあらわれていた。

 彼はいつからか、他人に弱みを見せるのをひどく嫌がるようになっていたのだ。それでいて明るいわけでもなく、孤立していき、傷つきやすい心に逆恨みの感情がつのっていく。その繰り返し。

 クラスの隅っこでいつも机に突っ伏して寝たふりをしつつ、同級生たちの会話に耳をかたむける。

 そしてうれしそうに話すグループがいれば、「僕は死にたい気分だというのに、何がそんなに楽しいんだ」と内心でいら立つ。

 悲しい話題でなぐさめ合うグループがいれば、「他人に泣きつけるなんて気楽な身分だな」と内心であざ笑う。

 時に自分に陰口を話すグループがいれば、「他人の悪口を話すなんて低級な連中だ」と見下す。

 しかし心の奥底には絶えず寂しさが横たわり、かつそれを吐露できるような相手も、彼にはいなかった。

 

 ヒカルはそうして行き場のなくなった怨恨を瞳にたたえ、ナズーリンをにらんだ。それに、たまたま目に入った毛虫を見るような彼女の視線がかち合う。その視線は、以前にヒカルと目が合ったクラスの女子のそれとそっくりだった。

 お前もか、お前も僕をそんな目で見るのか。手前勝手にふくらませた怒りはヒートアップし、ヒカルは気づけば目の前のナズーリンの肩をつかみ、押し倒していた。

 

「うわっ!?」

 

 とっぴな行動に驚いてか、ナズーリンはあっけなく倒れて後頭部を粗大ゴミにぶつけた。ガツンと硬い音がしたのも気にせず、ヒカルは下卑た笑みを浮かべて言い放つ。

 

「もうどうでもいいや……! よく分かんないけど、ここで……!」

 

「……何をする気だ?」

 

「言わなくても分かるだろ! こんなチャンスはもう巡ってこねえんだよ!!」

 

 発した怒鳴り声は、ヒカル自身が驚くほどに粗野で、浮かれた声だった。口をついて出た彼の本性なのだろうか。

 ヒカル自身はそんな事まるで考えず、むしろ自らの本性をさらけ出すかのように、ズボンのベルトを引き抜げて、下着もろともズボンを一気に膝までずり下げた。

 

「う」

 

 ナズーリンが声にならない声をもらす。おびえた少女を無理やり押さえつけているという意識が、ヒカルの脳に麻薬のように染み込んできた。今まで何度も――異性には特に――いない者のように扱われてきた彼は、ナズーリンが自分を必死に払いのけようともがくたびに、手の中に震えるほどの優越感をおぼえた。

 その興奮は股ぐらのモノを通じて、嫌というほどナズーリンの視界にも入ってくる。

 

 

「……よせ、自分のやってる事が分からないのか? どんな顔して外の世界に帰るつもりだ?」

 

「はぁ? 帰るぅ?」

 

 この期におよんでナズーリンが口にした言葉に、ヒカルは思わず失笑する。先ほどの吐瀉物(としゃぶつ)の残り香が、ぶはぁと音がしそうなほど漏れた。

 

「んなモンどうでもいいっつったろ!! 帰ったってこんな体験には無縁なんだよ、何も知らねえくせによぉ!」

 

 まるで学校にいた不良連中さながらに、ヒカルは言い放った。

 そうだ、彼にとって親だの、学校だの、もはやどうでもいい。

 

 息子の悩みに無頓着な両親。

 はなから自分を眼中に入れない女子たち。

 そして何より、面白がってオモチャ扱いしてくるバカな男子たち。

 

 昨日の修学旅行にしてもそうだ。班でテーマパークに行けば置き去りし、合流できたと思えばカツアゲをし、旅館に着けばお前の寝床は押し入れだと言い出し、大浴場では手ぬぐいを取った上に冷水のシャワーをあびせて追い立て、着替えのパンツを女湯の脱衣場に放り込み、それでもようやく部屋の隅に寝かせてもらえたかと思えば、鼻の穴にチョ○ボールを詰め込んでくる。

 あんな奴らの、どこをどう気にかけろというのだ?

 

 胸くそ悪い思いに突き動かされるように、ヒカルはナズーリンのスカートをめくり上げようとする。しかし、そこでふと、彼の顔色が急に変わった。

 

「イギャゥッ!!」

 

 短い悲鳴をあげ、ヒカルは突如まぶたを貝のように閉じてひっくり返る。天を向いた彼の三本目の足に、妙な小動物がぶら下がっている。彼は、股間に走る激痛に目を見張った。

 ぶら下がっているのは、一匹のネズミだった。血液が集中してふくらんだ部分につがみつき、容赦なく歯を突き立てている。

 

「あがぁ……あっ、はぁっ……!」

 

 言葉にならないうめき声をあげながら、ヒカルは死にかけの虫のようにもがいた。そんな姿を、いつの間にか立ち上がったナズーリンが見下ろしている。

 

「君は実にバカだな」

 

 浴びせられた言葉は冷たいものだった。スカートのすそを直すとナズーリンはくるりと背を向け、ヒカルから離れていく。

 助けを求めるようにその姿を見つめるヒカルに、彼女は独り言のように言った。

 

「……悪いがお別れだ。どうやら時間切れなんでね」

 

「じかん、ぎれ……?」

 

「周りを見てみるといい」

 

 ようやくネズミが離れたヒカルは、ひっくり返った姿勢のまま頭をかたむける。すると、その目に信じられないものを見た。

 牛の角を生やした熊、ヘビのような鱗を持つ狼、ダチョウほどの大きさを持つハゲタカ……およそ現実には考えもつかない怪物が、ゆっくりとヒカルをにらんで近づいてくる。

 ヒカルの全身から血の気が引き、三本目の足も即座に萎びる。青ざめている彼へ振り向き、ナズーリンは思い出したように言った。

 

「そういや話してなかったね。そいつらはこの辺に住む妖怪どもさ」

 

「よ、妖怪……?」

 

「そ。どす黒い心を持つ人間の肉が大好物でね、君が良からぬことを考えたせいで寄ってきたんだろうさ」

 

「なっ、まま待って……!」

 

 ヒカルはジタバタと体を起こし、ナズーリンの後を追いかけようとする。しかし膝まで下げたズボンのせいで上手く歩けず、おまけにゴミ山のすき間にだんだんと足が埋まっていく。

 

「悪いが、私にそいつらと戦うほどの力はないよ。おあいにく様だね」

 

「い、いやだ! たっ助けて! 助けてください! 謝りますから!!」

 

「……もう、どうにもできない」

 

 死物狂いで騒ぐヒカルに、ナズーリンは後ろ手にヒラヒラと手を振った。その直後、妖怪のどれかが足音を立ててエモノに飛びかかった。

 

「うぎゃあああぁーーーーっ!!!」

 

 黄昏(たそがれ)も終わりかけていた空に、ヒカルの悲鳴が響き渡った。続けて、何体もの妖怪の足音が、群がるように続く。かすかな、しかし途切れない咀嚼音。

 ヒカルの死を告げるかのように、稜線に残り火のように光っていた太陽が、その時ちょうど沈んでいった。

 

ヤグチ ヒカル――死亡

 




ちなみに、投げ込まれたパンツはマエザワさん(第8話参照)が返してくれた、なんてエピソードを考えたけれど描写するタイミングがなかった


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日の当たらない場所 前編

 古めかしく、小ぢんまりとした木造の屋敷が、ほの暗い空間の中にいくつも連なっている。今どき珍しい行灯や提灯の光が、電気の明かりとは違ったくすんだ色を発して連なっている。

 その風景は、現代人が一見するとまるで京都あたりの観光地のように見えるだろう。

 

 しかし、少しでも中に踏み入って街道を眺めてみれば、ここがそんな優雅な場所ではないと分かる。歩いている人影は皆が和服、それもハレの日に着るでもない地味な着物姿の者ばかりで、それだけならまだしも、道端にはうずくまり、あるいは倒れている浮浪者らしき姿が、五十メートルもない感覚でゴロゴロ並んでいる。

 それを現代の人間が目にすれば、別な世界に来たかのように思うだろう。

 

 ……今ここに、まさにそうして戸惑っている人間がいた。ブレザーに▼▼中学と刻まれた制服を着た、男女の二人組。背が高く精悍な顔をした短髪の少年と、背の低いショートヘアの少女。少年の方は自分の荷物らしき大きなバッグを持ち、丸く大きな瞳で神経質そうに辺りを見回している。対して、女子は不審げに眉根を寄せながらも、リュックサックを背にずかずかと前を歩いていく。

 

 すると、少女は不意に足を止め、少年へとしかめっ面で振り返った。

 

「タツヤ、もっと早く歩いてよ! そんなにいつまでも怪しんでても仕方ないしゃない」

 

 前髪を二つに分けているために、額からアゴまで不機嫌そうな少女の表情がはっきりと見て取れる。タツヤと呼ばれた少年はやや不満そうに言い返した。

 

「ハルカこそ、よくそんなにどんどん先に行けるよな。危ないと思わないのか?」

 

「危ないっつーか、変よ。変。だから何か見つからないかなって、早く先に行くの」

 

「……分かったよ。でも頼むから気をつけてくれな」

 

 押しきられるようにタツヤはうなずく。申し訳ていどに念を押したが、それが聞こえているのかいないのか、ハルカは前へ向き直るとまた元のように先を歩き出した。

 彼らの名は、少年がモトキ タツヤ。少女がフジワラ ハルカ。ともに中学の同じクラスで、昨日からの修学旅行でも同じバスに乗っていた。

 しかし、バスが突如白い霧に包まれたかと思うと、いつの間にか車体とクラスメイト、担任や運転手まで消失。この見知らぬ街に、二人きりで倒れていたのである。

 

 たがいに何が起こったが分からずうろたえたが、同じ状況にいる者どうし協力しようと二人は一緒に街を探検していたのである。

 だが、二人が行動を共にする理由は、実はそれだけではない。

 

「行けば行くほどよく分からない街ね……。なんかこう、ガラが悪いというか……」

 

「エセ日本って感じだよな。まさか韓国とかでもないだろうし、他の奴らは大丈夫なのか……」

 

「はぁ?」

 

 周りを眺めながら何気なく発したタツヤの言葉に、ハルカが勢い込んで振り返った。戸惑うタツヤに向けて、詰め寄って背伸びをしながら彼女は言い放つ。

 

「ちょっと! こういう時は目の前のカノジョをまず心配するもんでしょ!? 信じらんないっ!!」

 

「そ、そんなに怒るなよ……。誰だろうと、行方が分からなかったら心配だろ。他人ならどうでもいいって訳じゃなし」

 

「……ふん」

 

 当たり障りのない返答をするタツヤに、ハルカはすねたように鼻を鳴らした。

 

「まったく。はたから見たら模範生でも、いざ付き合ってみるとピンとこないわね、アンタ」

 

「悪かったよ。なんせ特別あつかいとか慣れてないからさ……。昔っからの性分だし」

 

「それでも! 意識してでも恋人らしく接してよ。どこでもそんなお堅い態度とってないでさ」

 

「人の性格がそんなホイホイ変わるかよ」

 

「……はぁ。男には分かんない感覚なのかなぁ」

 

 少しだけムッとするタツヤをよそに、ハルカは悩ましげにため息をついた。

 そう、二人は付き合っているのである。顔も体つきも良いタツヤに、ハルカの方から迫ったのだ。結果はこの通りで付き合っているのだが、誰にでも平等に気を配るタツヤの性格が、ハルカにはどうも不満だった。

 今のように二人きりでいる時など、「他人の話題を出さないでほしい」と何度もきつく言ってしまうのだが、タツヤも何かしら信条でもあるのか、性分だと言ってゆずらない。

 そうして互いにモヤモヤを抱えながらも、二人は話を切り上げてまた歩き出そうとする。

 その時、二人の耳にかすかな声が聞こえた。

 

「妬ましい……」

 

「っ!?」

 

 まるで金属がきしむ時のような、不気味な声色。二人は先ほどまでの険しい表情も消え失せ、思わず顔を見合わせる。

 

「聞こえたか? 今の」

 

「聞こえたわ。女の人っぽかったわね」

 

 タツヤもハルカも顔をしかめ、辺りにおそるおそる視線を巡らせる。すると、離れた街道沿いの長屋の陰に一人の女性が立っているのを、ハルカが見つけた。

 茶褐色の異国風の着物に白ブラウス、黒いスカート、ルーズソックスという格好で、黄色いショートヘアーを後ろで束ねている。肌は遠目に見てもかなりの色白で、首に巻いた白いスカーフが溶け込むほど。逆に緑色の双眸が浮き出すように鋭く光っている。その視線は、何故かタツヤたちの方をギロリとにらんでいた。

 

「……なにか、見られているな」

 

「……何あれ、感じ悪っ。文句言ってやろうかしら」

 

「あ、おい!」

 

 ハルカは遠目に女性をにらみ返すと、躊躇なく走って近づいていく。その背中をタツヤがあわてて追いかけた。

 

「こら、人をまたぐんじゃない!」

 

 うずくまっている浮浪者をひょいと乗り越え、制止も聞かずにハルカは女性の目の前までくる。そして眉間のシワを深め、強気な声で詰め寄った。

 

「あの、何か用? さっきからジッと見てさ」

 

「…………」

 

 女性は答えず、ハルカの背後にいるタツヤを一瞥すると、ぼそりと険のある声で言った。

 

「長続きしなさそうね。独占欲の強い女に口うるさい男。見るからに相性が悪いわ」

 

「……はぁ?」

 

「そんなんでもお付き合い自体はできるのねぇ……。ああ妬ましい妬ましい」

 

 ぶしつけ極まりない物言いにハルカは眉をはね上げるが、女性は構いもせずにそっぽを向き、陰気な調子で独り言をぶつぶつ言っている。

 ハルカは不気味がりながらも、肩をいからせて怒りをにじませている。その雰囲気に耐えられなくなったタツヤが、彼女の肩をつかんだ。

 

「おい、よせって! もう行こう!」

 

 しかしハルカはその手を払いのけると、女性の目前まで詰め寄ると、スカーフをわしづかみにしてとげとげしい声で問い詰める。

 

「っざけないでよ! 私らをおちょくってんの? アンタ誰よ名前を言いなさいよ名前っ!!」

 

「ハルカ、やめろ!」

 

 タツヤが再度ハルカの肩をゆすったが、彼女は意にも介さず女性をにらみつける。女性も陰湿そうな緑の瞳でにらみ返し、少しの間ピリピリした空気が辺りにただよう。

 タツヤは二人の間に割って入ると、ハルカを引き離して頭を下げた。

 

「すいません、コイツちょっと気性が荒くて! 俺らもう行きますから!」

 

 タツヤはそう言ったが、ハルカは押さえられながらも尚女性をにらみ続ける。女性は、それを無視するかのようにタツヤに視線を移すと、ポツリとこう言った。

 

「……水橋(みずはし) パルスィ」

 

「へ?」

 

「名前よ。さっき聞いてきたでしょ。私は水橋 パルスィ」

 

 唐突な自己紹介に、タツヤはポカンとした表情をする。しかしパルスィはそんな彼に向けて、おざなりに言い放つ。

 

「アンタの方が話が分かりそうね。言っとくけど、ここにあまり長居しない方がいいわよ。死んだって知らないから」

 

「……し、死ぬ?」

 

 不穏な言葉に、タツヤは動揺をかくせない。確かに周りを見ればいかにも荒廃した街の風景なのだが、まさか平然とそんな言葉を言われるとは思わなかったのだ。しかも、パルスィの表情にはうっすらと笑みさえ浮かび、真実味を感じさせるすごみがあった。

 続けて、パルスィは愉快そうに目を細めてこんな事を言った。

 

「アンタらは知らないでしょうけど、ここは地獄跡地の旧都って場所でね。人外の荒くれ者どもがたっくさん住み着いてるの。さっさと帰った方が身のためよ」

 

「……!?」

 

 突拍子もないその忠告に、タツヤとハルカはそろって身構える。人外? 外国人の間違いじゃないのか? そう思ってパルスィを見返すが、彼女はまるで冗談だという気配はなく、相変わらず目を細めて二人を見つめている。

 いや、違う。よく見れば、パルスィの視線は二人の片方、タツヤにのみ向けられていた。目の前にハルカもいるにも関わらず、いっさい無視するかのごとくタツヤばかり視線を注ぐ。

 その、彼からまっすぐ動かずにいる緑色の瞳を見て、ハルカの胸に突如、かぁっと熱い感情がのぼってきた。

 

「……狂ってんじゃないの、アンタ。地獄だの人外だの、ある訳ないじゃない。アホなこと言ってないで、ここが日本のどこだか教えなさいよ。知ってるんでしょ?」

 

 タツヤとパルスィの間に割り込み、ハルカは早口にまくし立てる。口調はとげとげしく、怒りに震えていたが、同時にどこか恐れているようにも聞こえた。

 パルスィはそこで思い出したようにハルカの方を見ると、面倒くさそうに口を開いた。

 

「……まあ、すぐには信じられないでしょうね」

 

「当たり前でしょ! いいから早く本当の事を……」

 

「じゃ、手っ取り早く証拠を見せましょう。私が人外の……"妖怪"だという証拠を」

 

 ハルカの言葉をさえぎり、パルスィは不敵な声色で言う。そして一瞬まぶたを閉じたかと思うと、ハルカに向けてカッと目を見開いた。

 緑色の瞳の中心で、黒い穴のような瞳孔がハルカを射ぬく。ハルカはビクリと体を硬直させ、パルスィと見つめ合った姿勢のまま、口をポカンと開ける。両腕が指先まで一気に張りつめ、固まった。

 

「ハルカ……? おい、何をした!?」

 

 彼女の妙な様子に気づき、タツヤはパルスィを突き放した。しかし、パルスィは何も言わず、傍観するように二人へ交互に視線を送る。

 焦りを感じたタツヤが、今度はハルカの方を見る。相変わらず固まって立ち尽くしているハルカの肩を、強くゆさぶった。

 

「ハルカ、ハルカ! しっかりしろ!!」

 

 何度も目前で呼びかけると、ようやく彼女は焦点の合っていなかった目をタツヤに向ける。

 しかし、いざ視線のぶつかったその目を見て、タツヤは息を呑む。

 ハルカの目が、いつの間にかパルスィとそっくりな緑色に変わっていたのだ。いつも見ている色が変わると、心なしか表情まで変わって見える。

 タツヤが何も言えずに戸惑っていると、不意にハルカのその緑色の目が鋭くなったかと思うと、直後に刺すような声が飛び出した。

 

「ちょっとタツヤ!!」

 

「な、なんだ?」

 

「さっき、このパルスィって奴を美人とか思わなかったでしょうね?」

 

 タツヤは、なぜ彼女が急にこんな事を言い出したか、訳が分からなかった。しかし眼前の表情を見れば一瞬たりとも視線を外さず、噛みつきそうなほどに真剣である。それに驚きながらも、タツヤは真面目な口調で答えた。

 

「いや……全然」

 

「本当に?」

 

「本当だ! お前に嘘をついたりするか!」

 

「……っ」

 

 堂々と言い切る姿にハルカは一瞬口をつぐみかけたが、すぐに元のように質問をぶつける。

 

「じゃあ……じゃあ今まではどうなの!? クラスのサオリとか、エリカとかに目移りした事がないって言える!?」

 

「ねぇよ! お前急にどうしたんだ?」

 

「気になったのよ!」

 

 いぶかしむタツヤに向かって、ハルカはひときわ大きな金切り声をあげる。その拍子に短い髪がばさりと揺れ、その様相は怒りというよりもパニックの感情が表れていた。

 タツヤはかける言葉に迷っているのか、険しい表情で唇をかむ。パルスィは後ろで楽しげに口角を上げている。そんな二人にはさまれたハルカは、地面に目を落としてうつむいたかと思うと、打って変わって沈んだ口調で喋りだした。

 

「私……あの子たちみたいに髪がきれいでも、明るくもないし……。もし、アンタに目移りされたらって、心配で……」

 

 しまいには両手で顔をおおい、かすかにすすり泣きを始めた。タツヤはあわてて駆け寄り、出来るだけおだやかに呼びかけた。

 

「……落ち着けって。よく分かんねぇけど、そんな酷いマネする訳ないだろ」

 

「……く、ぅ……頭いたい……!」

 

 タツヤがなだめると、ハルカは頭を抱え、苦しげにうめき出す。そんな彼女を安心させるためか、タツヤは強い口調で言った。

 

「彼女がいたら、そいつと付き合うのが常識だろ?」

 

「……!」

 

 彼にとっては非のないセリフのつもりだった。しかしハルカはうっと言葉をつまらせると、下を向いたまま絞り出すような声で言った。

 

「常識なんて……そんなの聞きたいんじゃない……! ただ、気持ちを聞きたかったのに……!」

 

「へ……?」

 

 嗚咽が混じったその声に、タツヤは眉をひそめる。その瞬間に、ハルカは背負っていたリュックを地面に叩きつけたかと思うと、いきなり街道を走り出していってしまった。

 

「ハルカ!? どこ行くんだ!?」

 

 タツヤが背中に向けて叫んだが、彼女は脇目もふらずに一直線に道を走り去り、遠くへ消えてしまった。

 事態について行けないタツヤはしばしその場に呆然としていたが、やがて意を決してハルカのリュックをつかみ、後を追おうとする。

 すると、今度はパルスィが横でやれやれと肩をすくめ、言った。

 

「あーあ、行っちゃった。カップルを見るとつい地が出ちゃうのよねぇ」

 

 その、先ほどの邪険な態度とは打って変わった、悪く言えば他人事のような口ぶりに、タツヤはつい振り向く。すると、心なしか浮き立つような顔をしたパルスィと目が合った。

 パルスィは、背後に両手を回してタツヤに軽やかに歩み寄ると、こんな事を言い出した。

 

「ねぇ、タツヤ……とか言ったかしら? あなただけここから脱出する気って、ない?」

 

「……なに?」

 

「あの女の厄介さは分かったでしょう? "妖怪"の私の能力で、嫉妬の感情を吐き出させたの。あれは間違いなく本音よ」

 

 タツヤは目をしばたかせる。ハルカの態度の変わりようは確かにおかしかったが、パルスィの言うように人外の力が働いたというのは、にわかに信じられなかった。

 しかし、彼にも確かな事がある。目の前の女性……パルスィが、自分に肩入れするようなそぶりを見せている。いや、もっと言えば"色目"を使っているのだ。理由は分からないが、口元に笑みを浮かべ、先ほどとは違って愛でるような形に目を細めている。

 警戒するタツヤに、パルスィは続ける。

 

「さっきも言ったけど、あなたはあの女よりもマトモそうだし……それに顔も正直好みなのよね。ねぇ、私なら助けられるけど、どうする?」

 

 パルスィはとうとうタツヤに密着しそうなほどに近づき、目で誘いをかけてくる。間近で見るとよりよく分かる、色白の肌と整った顔立ち。

 しかし、タツヤはたじろぎこそしたものの、パルスィの肩をぐいと押しのけた。

 

「……悪いけど、どいてくれ」

 

 それだけ言って、タツヤはハルカの走っていった後を追いかけていった。一人残されたパルスィは、ほぅと小さくため息をつく。

 

「……ダメ、か。それにしてもあの二人、上手くいくのかしらね。それ以前に生きて出会えるか……」

 

 そんな事をつぶやいている間に、タツヤもどこかへ消えてしまった。

 

――

 

 一方その頃、先に街の中へ飛び込んでいったハルカは、どこを目指すでもなく一心不乱に走り続けていた。

 もしかしたら、物事を考えられない状態だったのかもしれない。彼女の目は、パルスィが能力を使った影響か緑色に光り、走っているにも関わらず()わっている。しだいにその緑が薄れ、ハルカは街のただ中で、はたと止まる。すると一転して彼女は目を丸くして辺りを見回し、動揺をあらわにした。

 

「え、え? どこよここ。タツヤ?」

 

 かろうじて言葉をつむぐが、肝心のタツヤの姿はない。何人かの通行人が珍しげに彼女を見たが、気にもせず通りすぎていく。

 

「……タツヤ、タツヤ……」

 

 辺りに視線をめぐらせて何度も彼氏の名を呼んだが、いつまでも姿が見える事はなかった。憔悴した彼女の頭の中に、どこにいるか分からない同級生や知り合いらの顔が次々と浮かぶ。

 その時、ふっと両親の顔が浮かび、ハルカは即座に首を横に振ると、するどく舌打ちした。

 

 ――ハルカは、両親との……特に父との思い出がほとんど無かった。幼い頃、家族で過ごしていたかすかな記憶が、最大の思い出だ。

 その数年後、両親は離婚した。原因は母の浮気だった。父は大人しく、誰にでも親切だったが、母はそれが不満だったらしい。

 母は対照的に自分本位な性格で、そのせいかハルカや当時まだ小さかった妹を、図々しくもまとめて引き取ると言い出した。最終的に、娘たちの希望を聞きもせずに、それは承諾された。

 その後に母が再婚してからは、ハルカにとってますますストレスが溜まる日々だった。新しい夫にしょっちゅう、帰りが遅いだの、仕事先の女と話すなだのと、拘束する母の姿を見せられるのだ。

 新しい夫がどうなろうと、それ自体には興味がなかった。どうせ血もつながっていない他人だ。妹も、心は痛むが関わりたくなかった。大きくなれば母のような女になるかもしれないと思うと、どうしても気が引けた。

 

 ハルカの願いはただ一つ、早いところ家を離れる事だった。周りに気を配りっぱなしだった実父とも違う、自分を一番に愛してくれる男を見つけて。

 

 ハルカはきっと前を見据えると、あてもなくがむしゃらに走り続けた。息を切らし、ローファーで何度も石を蹴る。

 ただ、それでも無意識に安心感のある場所を目指していたのだろうか。

 ハルカの走る先には、周囲のさびれた和風の景色にまるで似つかわしくない、大きな洋館が建っていた。



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日の当たらない場所 中編

「ごめんくださーい……」

 

 ほの暗い、見知らぬ街を駆け抜け、偶然見えてきた洋館の扉を、ハルカはおそるおそる開いた。

 両開きの大きな扉の、二十センチほどのすき間から、ハルカはキョロキョロと視線をめぐらせる。

 その屋敷は入ってすぐに広いエントランスホールが広がり、左右の壁には別室あるいは廊下へつながるであろうドアがいくつかある。部屋の中央から奥の壁に向けてはT字型に階段が伸び、最上段から左右には二階につながるであろう渡り廊下が伸びている。

 赤と黒のタイルが敷かれた風変わりな床をのぞけば、その構造は(中学生であるハルカになじみのある表現で言えば)ゲームの『バ◯オハザード』に出てくる洋館にそっくりだった。

 いまにゾンビでも飛び出してきたらどうしよう……。ハルカは生唾を呑み、静まり返った周囲を何度も見回しながら館内に入った。

 彼女の恐れは、ここにおいては決して大げさなものではなかった。額をはじめ汗ばんだ全身に上がりきった息、そして今にも崩れそうにふらつく両足が、これまでの恐慌を物語っている。

 

 ハルカは閉めかけていた扉の外を、最後にもう一度見た。何故か日の差さないわびしい雰囲気の、日本風家屋が連なる街。せせこましい家々は電気もなく、古びている。その家々を縫うような街道では、あちこちに浮浪者らしき薄汚い格好の者がうずくまり、あるいはガラの悪そうな者たちがたむろして下品な笑い声をあげている。

 街の住人らしき彼らは一様に和服姿で、しかも人の姿をしていなかった。ある者は額に角を生やし、ある者は獣のような耳や毛を生やしている。

 

 ハルカは急いで扉を閉め、もたれかかって必死に息を整えた。脳裏に、ここに来る前に聞いたある忠告を思い出す。街の住人らしき水橋 パルスィという名の女性が、おざなりにくれた忠告。

 

 なんでもここは"地獄跡地"であり、人間とは違う存在が多数住んでいるのだという。パルスィも自らのことを"妖怪"だと言っていた。

 にわかには信じがたい事だったが、現にハルカはパルスィに何かをされた直後から、記憶があいまいになっていた。一緒にいた彼氏に色々とわめいた気がするが、思い出せない。彼氏に確認したいところだったが、いつの間にかはぐれてしまっていた。

 

「誰かいませんかー!?」

 

 ハルカは弱った目で叫び、改めて辺りを見渡す。誰でもいいから助けてほしかった。歩き出すと靴音が高く反響し、それだけで体の芯まで心細くなる。

 別の部屋を探してみようかとも思ったが踏ん切りがつかず、玄関の戸口付近をグルグルとうろついていると、ふと、柱の陰の暗がりに何かがいるのが見えた。

 

「あ、すいませ……」

 

 なんだ、人がいるじゃないか。そう思ってハルカは笑顔をつくって声をかけたが、その表情は瞬時に凍りついた。

 それは人ではなく、大きな犬。引き締まった体を黒い毛に包んだドーベルマン犬が、まっすぐにハルカを見つめている。

 

「あ……えと……」

 

 リードも首輪もつけていないその犬がのっそりと近づいてくるのを見て、ハルカは思わず後ずさる。しかし、逃げ場を探そうと泳がせた目が、絶望的な光景をとらえる。

 今まで見えていなかった別の柱の陰や階段の裏から、何匹もの犬が顔を出してハルカを見つめている。

 一様にとがった耳をピンと立て、キバを見せて低くうなっている。専門知識のない彼女にも雰囲気で分かった。警戒されているのだ。

 

「え、あの、ちょ……」

 

 ハルカは言葉につまりながら、必死で両手を前に出して遠ざけるしぐさをする。こういう時はどうすればいいんだっけ。確か背中を見せないようにして後ろに下がって……などと彼女が考えているうちに、犬の一匹が駆け寄ってきた。

 

「いやあっ!」

 

 ハルカは短い悲鳴をあげると、あっけなく逃走しだした。背後の扉を開けるのももどかしく、エントランスホールをデタラメに走り回る。

 

「ワン、ワンッ!」

 

 背中に犬の吠え声が何重にもぶつけられる。動転したハルカはすぐ近くのドアに飛びつくと、開けるやいなや目前に広がった廊下を駆け出した。

 閉める余裕のなかったドアを、犬が次々とくぐり抜けて追ってくる。ハルカは振り返りもせずに全力で廊下を駆けていく。

 ハルカの後ろで、ハッ、ハッという短い息づかいと、軽やかな素早い足音がひっきりなしに聞こえてくる。一瞬でも立ち止まると即座に追いつかれるだろう。彼女の首筋を冷たい汗がつたう。

 

 一体どのくらい逃げ回っただろう。ハルカは視界に入った何枚目かのドアのノブをつかみ、一気に押し開けた。そしてもはや慣れた動作で体を滑り込ませようとしたが、その時彼女の目が、あるものをとらえた。

 ドアを出てすぐ先の廊下に、小柄の少女が一人ポツンと立っている。逃げる事しか考えていなかった頭が、一瞬だけ真っ白になる。

 

「…………」

 

「あら、お客さんですか?」

 

「はえ?」

 

 微笑みかけるその人物に、ハルカはふぬけた声を返す。彼女は小学校高学年ていどの小柄な少女で、水色の長袖の上着にピンクのスカートという格好である。額を出した紫色の短い髪はモジャモジャと癖が残り、足には白い靴下にピンクのスリッパ。そして胴体にはピンク色の大きな目玉が、細いヒモのようなものを伸ばしてからみついている。

 今度は普通の人間か? と内心で期待をかけたハルカであったが、それでも服装と、生きているかのようなピンク色の目玉が、どことなく奇妙な雰囲気をただよわせている。

 すると、ハルカの顔をしげしげと眺めていたその少女が、ふとクスクスと笑った。

 

「せっかくのところ申し訳ありませんが……私は妖怪ですよ。ここの主人をしております」

 

「へ?」

 

 唐突に言われ、ハルカは思わず自身の口を押さえた。そして自分が果たして少女に話しかけたのかと記憶を思い返す。しかしいくら考えても、少女に人間か妖怪かなどと問うた記憶はない。

 彼女が戸惑っていると、背後にいた犬たちがパタパタと脇をすり抜けた。

 

「あ……」

 

「やっぱりあなた達でしたか。声が聞こえたのでもしやと思ったら」

 

 少女はおだやかな笑みを浮かべ、すり寄る犬たちを順番になでる。犬たちもさっきまで群れで猛追していたのが嘘のように、少女に腹を見せてじゃれ合っている。

 和やかな雰囲気についていけず、ハルカがその光景をぼんやり眺めていると、犬の一匹のアゴをなでながら少女が言った。

 

「……そう。悪い人かと思ったのね。でも、知らない人でもむやみに怖がらせちゃダメよ」

 

「クゥン…………」

 

「分かればよし」

 

 目の前のやりとりに、ハルカは驚愕した。少女はまるで犬と会話するかのような言葉を口にし、また犬をたしなめると犬の方もそれを理解したかのように頭を垂れる。

 仮にそれなりの意思疏通ができたとしても、犬がハルカを追いかけた理由などは、いきさつを見もせずに判断できるものではないだろう。

 この少女は動物と話せる能力があるのだろうか……。ハルカが内心でかんぐっていると、少女は思い出したようにハルカへ振り向き、不敵に笑う。

 

「ああ、自己紹介がまだでしたね。私は心を読む妖怪『(さとり)』の一種……古明地(こめいじ) さとりです。ここ"地霊殿(ちれいでん)"の主をしています」

 

「心を……読む……。あ、その、私は」

 

「はじめまして。フジワラ ハルカさん」

 

 教えていないはずのハルカの名を口にし、少女さとりは小さく頭を下げた。

 

――

 

「……あれ、この道じゃなかったかな?」

 

「えぇ? また忘れたんですか?」

 

 一方こちら、旧都のただ中では、ハルカを追ってタツヤが街をさまよっていた。彼の前にはある一人の女性の姿がある。

 

「お(くう)さん、できればなるべく急いでくれませんか……」

 

「あはは、ごめんごめん。覚えたつもりでいたんだけど、どうしても細かい道順は忘れちゃって」

 

 困り顔で()かすタツヤに、女性は悪びれない様子で笑う。どうやらお空と呼ばれた彼女は道案内をしているらしい。

 

「でも本当なんですか? ハルカがあなた方の家……地霊殿? にいるだろうって話……」

 

「うん。っていうかどのみち頼って損はないと思うよ。カツヤ一人じゃ旧都は広すぎるだろうし」

 

「ありがとうございます……。でも俺、タツヤです」

 

「あ、そうだったそうだった。マツヤね」

 

「タツヤです」

 

 腰まで伸ばしたクセのある黒髪をごまかすように弄る目の前の女性……お空、本名『霊烏路(れいうじ) (うつほ)』を見ながら、タツヤは苦笑いを浮かべた。

 買い物に出かけていたという彼女は、タツヤが街をさまよっている途中で偶然会い、人間の姿が珍しかったせいか親切にも事情を聞いて案内を引き受けてくれたのだった。聞けば、街の中心にある彼女らの家に行けば、何か分かるかもという事だった。

 

 お空は、男のタツヤと同じくらいの長身で、半袖の白ブラウスに膝下ていどの緑色のスカートを履いている。彼女も妖怪らしく、胸につけた赤い目玉のようなブローチ、右腕につけたオレンジ色の六角柱型の筒のようなもの、右足に足鎧を思わせる灰色の無骨な靴、そしてひときわ目立つ、背中から生えたカラスのような巨大な黒い羽根と、それにくっついたように後ろ半身を覆うマントなど、変わった装飾品をいくつも身につけている。しかも、腕力も強いのか、タツヤが持っていたハルカのリュックを片手で軽々と持ち歩いている。

 

「お空さん、重くないですか? 荷物」

 

「平気平気。妖怪は人間と違って力持ちだし。なんならタツヤの分も持とうか?」

 

「いや、初対面でそこまでしてもらっては……」

 

「いいっていいって。ほら、遠慮しないでさ」

 

「……けどお空さん、片腕になんか筒かぶさっていますし、どっちみち……」

 

「ん? ああ本当だ。これじゃ持てないやアハハハハ」

 

 お空は自身の片腕を見て、屈託なく笑う。そのおおらかそうな表情を見て、タツヤは自然と笑みをこぼした。

 ハルカとはまるで違うタイプだな、と思わず感じる。彼女ならば余分な手助けもなかなかしないだろうし、自身の失敗を笑い飛ばしたりもしないだろうと、タツヤには予想できた。病的なレベルではないにしろ、どちらかといえばハルカは利他的なふるまいが少なく、尽くされる方が好きだ。過去をあまり話したがらないので誰に似たかなどは知るよしもないが、タツヤはそんな印象を抱きながら付き合っていた。

 

「あれー? この道も違ってたかなー」

 

 探している少女について彼思いをはせていると、先を歩いていたお空がまた首をかしげた。どうやらまだ道に迷っているらしい。

 ただし、それでも少しずつ位置が動いていたのか、景色の向こうの小高い丘に、大きな洋館がうっすら見える。お空はその館を遠目に見て、くやしがっていた。

 あれがお空の家か、とタツヤは一緒に並んで館を眺めていた。すると、お空が突然「あっ」と声をあげ、タツヤへ振り向き、言った。

 

「そうだ! こんなウロウロ歩いてないで、飛んで行けばいいんだ!」

 

「は、飛ぶ?」

 

「そうそう。ホラ、つかまって!」

 

 お空はわずかに前かがみになり、なにやら背につかまるように促す。いぶかしみ、同時に少し恥ずかしがりつつ、タツヤはお空におぶさった。

 

「じゃ、行くよー。離さないでね?」

 

「あのお空さん、飛ぶってどういう……おわっ!?」

 

 タツヤが背中ごしに問いかけようとした瞬間、彼の体が不意に宙へ浮く。思わず目をつむり、また周りを見ると、宙ぶらりんになった足の下で、さっきまで歩いていた地面と、周りの建物が遠くなっていく。一拍おいて、お空が自分を乗せて空を飛んでいるのだと、ようやく気づいた。

 

「わ、わっ!? なんだコレ!?」

 

「ちょっと、暴れないで! 落ちたら死んじゃうよ?」

 

 驚くタツヤを、お空は事もなげにたしなめる。どうやら彼女にとっては珍しくもない事らしい。

 体に風がぶつかるのを感じながら、タツヤはつとめて動揺を抑え込んだ。いちいち驚いてなどいられない。自分はハルカを助け出さなければいけないのだ、と自らに言い聞かせて。

 

 助けを求めるつもりの地霊殿は、すでに目の前に迫っていた。

 

――

 

「どうぞ。ここなら動物もいませんから」

 

「あ……ありがとう、ございます」

 

 その頃、ハルカはさとりに連れられ小さな応接間にいた。絨毯がしかれ、テーブルをはさんだ二つのソファーと、部屋の隅の小物棚しか見当たらないその簡素な部屋には、確かに動物は見当たらず、鳴き声もしなかった。

 もともと日が差すことは無いのかカーテンは閉めきられ、絨毯とソファーのワインレッドが、テーブルに置かれたろうそくの火に照らされている。

 ハルカは緊張しているのか、ソファーの上でソワソワと部屋を見回している。そんな彼女の前に、さとりが盆に紅茶のカップを乗せて現れ、うち一つを差し出した。甘い茶葉の香りがふわりと部屋に広がる。

 

「そんなに堅くならないで下さい。さて」

 

「は、はいっ」

 

「修学旅行の途中でいつの間にか旧都に迷い込み、パルスィさんと揉めた末、彼氏さんとはぐれてここにたどり着いた……といういきさつで間違いありませんね?」

 

「……はい、その通りです」

 

 さとりが確認すると、ハルカはただ肯定していっそう体をすくめた。実は、さとりがペラペラと口にした事情はハルカが伝えたものではない。さとりが自身の"心を読む"力で勝手につかんだ事だった。

 堅くなるなというのも酷な話だ。今こうして向かい合っている瞬間も、ハルカの内心はさとりに筒抜けかもしれないのだ。

 にも関わらず、さとりは口数少ないハルカにさらに問う。

 

「それで、旧都に一人でいると心配なので、一刻も早く彼氏さんに会いたい……と」

 

「まあ、そうです」

 

「しかし、あなたの心配はどうもそれだけではないように見えますが?」

 

「……それは……」

 

 見透かすような目を向けられ、ハルカは居心地悪そうに顔を伏せる。そうなのだ。彼女は心のどこかで、別の心配をしていた。

 タツヤの心が、離れていかないだろうか。目を離した隙に、ふっと自分を見放しはしないだろうかという恐れが、確かに自分の中にあるのだ。電波のない携帯を意味もなく確認するたび、脳裏に置き去りにされる自分の姿が浮かんでいた。

 

「……詮索はしませんが、過去に色々とあったようですね」

 

 また、さとりが遠慮のない言葉をかける。ハルカは苦い顔をして黙っていた。家庭を振り回した母親と、振り回されて自分と妹を捨てていった父親。携帯を持った我が身をかえりみて、母親が勝手に父親の携帯を盗み見ていた光景を思い出し、それが自分の姿と重なって、ハルカは自己嫌悪に胸をつぶされる思いだった。

 

「まぁ待つより他はありませんよ。今街に使いの者をよこしました。旧都に人間は珍しいですし、すぐ見つかりますって」

 

 ふさぎこむハルカをよそに、さとりはのんきに紅茶に口をつける。ハルカが何か言いたげに顔を上げると、さとりは先んじて口を開いた。

 

「言っときますが、くれぐれも思い余って飛び出したりしないでくださいね。考えは見えていますから」

 

「う……」

 

「私だって、心を読む事はできても、心を操ったりはできないのです。今は、私たちと彼氏さんを信じていただくしかありません」

 

 さとりは目の奥に多少の威圧感をたたえ、突き放すように言った。面倒を起こすなよ、という警告が言外に含まれている。

 ハルカはとうとうしおらしくなり、椅子にしょげて紅茶に手を伸ばす。両手で持ったカップがかすかに震えていた。

 

「…………」

 

 さとりはその様子をこっそりと盗み見て、頭の中でふと考えた。言うまでもなくハルカは今、心細さにかられているだろう。内心でしきりに彼氏を求めるのも、いくらかはそんな状況が手伝っての事に違いない。

 異常事態に直面して、普段から見え隠れする一面や、あるいは普段とは違う一面があらわになる……という筋書きはフィクションにままあるが、ハルカと彼氏はまさにそんな状態なのだろう。ハルカは恐怖のために彼氏を支えにしているが、当の彼氏はどうなのだろうか。意外な本性を発揮し、一人だけ逃げ出しているという線も、ハルカたちには(人となりを知らないさとりには特に)残念ながら考えられた。

 さとりはカップで口をかくし、見られないようにほくそ笑んだ。もしかしたら現代の日常から離れた人間の、本心がむき出しになるさまが見られるかもしれないのだ。普段から建前も理性もへったくれもない旧都に住んでいるさとりにとって、それは降ってわいたエンターテイメントのように思えた。

 

(不謹慎ではあるけど……正直楽しみね)

 

 落ち着かない様子で何度も紅茶を口に運ぶハルカを一瞥し、さとりは一気に紅茶を飲み干した。



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日の当たらない場所 後編

「あ、いたいた。タツヤー!」

 

 さとりとハルカが応接間にいた頃、お空は地霊殿の館で座り込んでいるタツヤを見つけた。

 

「あ……お空さん」

 

「もう、どうしたのさ。急に逃げ出して」

 

「や、だって……犬はともかく、ライオンが放し飼いになってたんですが」

 

「私と居れば大丈夫だよ。ホラ立って」

 

 青い顔をしてつぶやくタツヤを助け起こし、お空は廊下をずんずん歩いていく。途中でチンパンジーやタヌキと遭遇したが、彼女はかけらも動じなかった。

 彼らがハルカを探す手助けを得ようと館に来たのは、ほんの数分前の事だった。お空の案内を受け、気合いを入れて乗り込んだタツヤであったが、番犬がわりのドーベルマンの群れを見て緊張しはじめ、それをやり過ごしたかと思えばなんとライオンと出くわし、彼はつい逃げ出してしまったのだった。

 

「ここは元から動物だらけなんだから、気にしてたらキリないよ」

 

「慣れてるんですね……」

 

「そりゃもう、住んでる家だし」

 

 周りのヘビや狼にいちいち体をこわばらせるタツヤを、お空は振り返っては笑う。そうやって歩き続け、次第にタツヤも落ち着いてきた頃。

 不意に、お空がピタリと歩みを止めた。

 

「……お空さん?」

 

 タツヤが眉をひそめ、背中に声をかける。するとお空が振り向き、今までの無邪気な顔とは正反対の困り顔になって、言った。

 

「……やばい」

 

「え」

 

「道、分かんない……」

 

「えぇ!?」

 

 お空の短い告白に、タツヤはすっとんきょうな声をあげる。そして焦った様子で言いつのった。

 

「ど、どうしたんですか、住んでるんでしょう!?」

 

「だ、だって! この家迷路みたいに広いし! タツヤが逃げちゃうからいつもと違うルート来ちゃったんだもん!」

 

「にしたって……なんか、目印とかないんですか?」

 

「うにゅ~、いつもなら働いてる人たちがその辺にいるんだけど……」

 

 お空は眉を八の字にして目を泳がせる。タツヤは元より館の構造など知るはずがない。実は、お空たちはあずかり知らぬ事だが、その時ちょうどさとりが使用人の何割かを、タツヤの捜索にあたらせていたのだ。

 行き違いになった二人が廊下に突っ立ち、向かい合ってうんうんと悩んでいると。

 

「……ん」

 

 腕組みをしていたお空が、ふと何かに気づいたように周りを見回す。タツヤはハッとなり、希望を込めて問いかけた。

 

「何かあるんですか?」

 

「待って、こっちに行ったら知ってる場所に出るかも……」

 

「本当に!?」

 

 壁に手(というか右手の筒)をつき、額に指を当て、お空は記憶をたどるようにして駆け出した。タツヤもそれを当てにして、足早に後を追う。走って体が揺れると、彼のバッグの重みが肩に食い込んだ。

 動物たちが点在する廊下を何度か曲がり、彼らはやがて柱を並べてアーチ型の屋根で囲ったアーケードに出た。壁のない片側の、並び立つ柱の間から光が差し込んでくる。

 タツヤがその光の方角を見ると、石畳が整然としかれ、屋根のない開けた空間があった。石畳がない部分には土があり、観葉植物があちこちに生い茂っている。

 

「あ~やっぱりあった! 中庭だ!」

 

「中庭?」

 

「うん! 私がいつも働いてる場所だよ~」

 

「なるほど……え、働いてる!?」

 

 忘れっぽい印象からか「働いてる」という発言に驚くタツヤをよそに、お空はさっさとアーケードを飛び出し、中庭へと駆けていく。タツヤもあわてて追いかけた。

 中庭に入ってみると、その広々とした空間がよく見渡せた。太陽は見えないながらも植物の緑色が視界をいろどり、それが何十メートル四方も広がっている。あのどんよりとした旧都の住宅地に比べると、そこだけでも何倍も解放感があった。

 

「良かったー、ここからなら道順も思い出せるよ」

 

「はぁ……良かったですね」

 

 お空は見るからに胸をなでおろし、かたわらの木をペタペタさわってはしゃいでいる。その姿を見て気がゆるんだのか、タツヤはぽろっとこんな質問をした。

 

「お空さん……仕事って、庭いじりとかですか?」

 

 するとお空はきょとんとして振り向き、首を横に振る。

 

「いや、違うよ? 私の仕事は灼熱(しゃくねつ)地獄の管理」

 

「しゃくねつ……?」

 

 漫画のような言葉に眉をしかめるタツヤ。それを見たお空は「こっちこっち」と手まねきして彼を中庭の中央へと連れ出す。

 そこの足元には、人間には重そうな六畳ほどの大きさの鉄蓋があった。その蓋は黒く無機質な雰囲気で、いかにも何かを隠しているようだった。

 その不気味さに少々たじろぎつつ、タツヤは蓋を指さして聞いた。

 

「この下に……地獄が?」

 

「うん。正確には"元"灼熱地獄なんだけどね。この下にすっっ……ごく熱いマグマみたいのが広がってるの」

 

「そんな場所を管理してるんですか?」

 

「まぁね。私は熱いの平気だし、『核融合』も操れるんだから」

 

 お空は自慢げに胸を張り、ふんすと鼻息を吹く。タツヤは思わず『核融合』と復唱した。

 パルスィも嫉妬を操ると言っていたし、あり得ない話ではないだろう。それに会ったばかりではあるが、お空は嘘をつくような女性には見えない。タツヤはそう思った。

 しかし、なぜか彼はふっと顔をくもらせる。

 

「どうかした?」

 

「あ、いや、なんでも……」

 

 首をかしげるお空に生返事をし、タツヤは「早く行きましょう」と彼女をうながした。戸惑いつつも案内してくれるお空についていきながら、タツヤは内心である過去を思い出し、ひそかに悶々としていた。

 

 ――タツヤは核融合、もとい"核"という言葉にあまり良い印象を持っていなかった。その原因は、教科書に記載されたあの破壊兵器ももちろんだが、彼にとって生々しく記憶に残る、ある大事故があった。

 それは十年ほど前。彼が間もなく小学校にあがるという時期だった。日本の核を扱う施設の一つが、大爆発を起こしたのだ。それは報道を通じて日本中に衝撃と不安を振りまいた。タツヤは幸い生活を大きく変えずにすんだが、それでも被災地の人々が避難し、不自由な生活を強いられる様子をニュースなどで目にし、幼いながらも心を痛めたものだった。

 ところがそれから後に、彼はもっと直接的な事件でその事故を思い返すようになる。

 

 事故から数年後。タツヤの家に、親戚の中で評判の悪い叔父(おじ)がふらりと訪ねてきた事があった。彼はタツヤになれなれしく話しかけると、唐突に数万円もの大金を渡してきた。とっておけと大声で笑っていたが、その振る舞いと叔父の服装や品性とが不釣り合いなのが、子供ながらに不思議だった。

 それから後、タツヤは親戚のウワサ話などを通じて真相を知る事になる。叔父は一時期、被災地から人がいなくなって放置された空き家を解体する仕事についていたらしいのだが、叔父をふくめた業者の一部は、空き家の中から住人が持ち出せなかった家具や財産を勝手に質屋に入れ、大金をせしめていたというのだ。そんな空き巣まがいの行為でかせいだ金の一部をもらっていた事を、タツヤは人知れず後悔した。

 

 また叔父が訪ねてきたら、同じだけの金額を返そう。彼はそう思いながら何年も月日をすごしたが、結局今まで叔父とは再会できていない。それとなく両親に行方をたずねてみると、「大阪にいる」と言ったのを最後に連絡が途絶えたらしい。

 「今ごろ死んでるんじゃないか」と両親は陰口をたたいた。そんな両親をも、タツヤは軽蔑した。

 

 思えば、昔から今まで人間の汚い部分ばかりを見せられてきたような気がする。金がらみ、食料がらみ、住居がらみ、なにより人間関係がらみ。特に家族は身近なぶん、ささいな事でいやしさを感じてやりきれなかった。知らない場所で知り合いが死ぬのを笑える神経は、今ならいっそう腹立たしい。

 他にも中学生ともなれば、親の身勝手やエゴに苦しむ者など周りに山ほどいた。それに比べればハルカの不平不満などかわいいものだ。

 

 ……そう、かわいいのだ。奇妙な事ではあるが、今タツヤは、探しているハルカをとても愛しく思っていた。これまで、両親や叔父のようなイヤな人間にはなるまい、周りに気を配れる人間であろうという意識が彼にはあったのだが、この時はなにより、ハルカだけは取り戻したいという気持ちにかられていた。

 その心境の変化の理由は、彼には分からなかった。ただ、それを気にしている場合ではなかった。

 

(ハルカ……今お前何してんだ……!)

 

 胸中で祈りながら、タツヤはお空の後ろを黙々と歩いていた。そしてある時、彼を呼ぶ見知った声が聞こえた。

 

「タツヤ!」

 

「あっ……」

 

 タツヤが振り向くと、そこには小柄な少女とともに、交際しているクラスメイト、ハルカの姿があった。

 

「ハルカ!!」

 

「タツヤー!」

 

 タツヤは持っていた荷物を放り出し、ハルカをがばりと抱き締めた。ハルカも同じようにして体をくっつけ、ホッとした様子で胸の中に崩れ落ちる。しばし無言で抱き合った後、タツヤが気遣わしげにたずねる。

 

「……ケガとかしてないか? 大丈夫か?」

 

「うん、平気。……タツヤは?」

 

「俺も大丈夫だよ。お前が他人の心配するなんて……」

 

 珍しいな、と言いかけたところでタツヤはふと言葉を途切れさせた。ハルカが目に涙を浮かべ、上目遣いに見つめてきていたからだ。普段は見たこともなかったその感極まった表情が、タツヤにはとても魅力的に見えた。

 

「どうかしたの?」

 

「ああいや、なんでも……」

 

 あわててハルカから体を離し、タツヤは赤らめた顔をそむけた。そのしぐさを気にせず、ハルカは涙をぬぐって口を開く。

 

「でも良かった。もしかしたら来てくれないかと思った……」

 

「んな訳ないだろ。お前を放っておけるかよ」

 

「……うん、うん。ありがと……」

 

「?」

 

 タツヤのきっぱりした返事を、ハルカは噛みしめるように何度もうなずいて聞いた。そして、眉をひそめるタツヤから顔をそらし、ひとり言のようにつぶやく。

 

「ママやパパだったらここまでしてくれるかな……はは、変なの」

 

「…………」

 

 そのつぶやきは、彼女の離婚をはじめ不穏な家庭内への感傷がこもっていた。事情をくわしく知らないタツヤも、それをおぼろげにではあるが、察した。

 二人のそばでは、何も知らないお空とあらかじめ心を読んでいるさとりとが、それぞれ異なる表情でかやの外になっていた。

 やがて、切なそうに黙っているタツヤへ、ハルカがこう漏らした。

 

「……ねぇ、私たち帰らなきゃいけないのかな? 嫌なヤツも、嫌な事もいっぱいで……なんか思い出したら、辛くなってきた」

 

 いざ探していた相手が見つかり、現代の事を考えたのだろう。家庭からして安心できる場所ではないハルカにとっては、向こうの世界は全てがわずらわしいものに見えていた。望み通り駆けつけてくれたタツヤをのぞいて。

 

 一方で、彼女の言葉を聞いたタツヤは、やはり戸惑っていた。安全な元の世界に帰りたい気持ち自体は、当然ある。ハルカもそれを見越した上で言ったに違いない。

 ある意味では、これはハルカが突きつけた究極の選択だ。『元の生活』と『彼女のワガママ』のどちらを優先するか。

 しかし、タツヤもそう長くは悩まなかった。金のために罪を犯す叔父や、それを陰でさげすんでいた両親を思うと、そんな連中がのさばる現代より目の前のハルカの方が大事に思えた。

 

 タツヤはもう一度ハルカを抱き寄せると、さとりの方を強く見すえ、こう言った。

 

「……あの、この館のご主人とかですか」

 

「ええ、いかにも」

 

 さとりはあっさりとした調子で答える。何を言われるかは能力で読んではいたが、ドラマチックな状況見たさにあえて言わなかった。

 タツヤは、続けてこう言い放った。

 

「この地霊殿に……しばらく置かせてもらえませんか?」

 

――

 

「タツヤ、今日の庭の手入れ忘れてない?」

 

「あれ、庭って今日、俺が当番だっけ?」

 

「そうよ。私がトイレ掃除なんだから」

 

「悪い、今すぐやる!」

 

 ……あれから一年間、結局二人は現代には戻らず、労働を条件に地霊殿にとどまっていた。今では使用人やお空はじめ住人たちとも打ち解け、平穏な日々を送っている。

 

(……あんがい丸く収まったものね)

 

 駆けずり回るタツヤとハルカの姿を眺めていたさとりが、クスクスと笑った。そして、二人が迷いこんできたあの日の事を思い出す。

 

 ……『つり橋効果』という概念がある。例えば、つり橋の揺れなどで緊張している時に美人と遭遇すると、緊張を美人への恋心と誤認する効果。もっと言えば、先にある感情(例えでは揺れに対するもの)を人間が解釈した時に、感情を別のもの(恋心など)に誤認する……という認識のプロセスを提唱したものだ。

 

 ハルカとタツヤが離ればなれになった際、二人はたいそう焦った事だろう。見知らぬ世界、見知らぬ人々。そんな中で頼れるのは当然、見知ったお互いだけだ。

 結果、二人は互いに相手を強く意識し、会いたがった。消える事のない不安、そしてその末の感動の再会。二人はその心の動きを恋愛感情と取り違えたのだ。心の読めるさとりには、はたから見てそれがハッキリと分かった。

 だが、それをわざわざ伝える必要がどこにあろう。二人は結果的に仲を深め、周りとも上手くやっているのだ。それが真実の愛でないというなら、さとりはこう言い返すに違いない。

 

『ふとしたはずみで恋愛に発展するなど、ありふれた話でしょう。だいたい動物なんて、オスとメスで同じ檻に入れれば、勝手に夫婦になるんですよ』

 

 さとりには、仲むつまじく過ごしている二人が、周囲をとりまく理不尽や悪俗などからようやく解放されたように見えてならないのだ。

 ある日、地霊殿にいる人間を珍しがって、烏天狗が取材に来た事があった。その烏天狗に、タツヤはこんな話をしていた。

 

『……俺たち二人を見て、バカだと言う人もいるかもしれません。もっともだと思います。けど、俺たちから見れば、現代こそ病んでいます。金がらみ、食料がらみ、住居がらみ。本当に心中穏やかに暮らせる人などいるのか、疑問です。……普段見えている世界から少し外れて、日の当たらない場所をのぞいてみてください。きっとすぐに、逃げ出したくなるような光景が見えてくると思いますよ』

 

 

モトキ タツヤ、フジワラ ハルカ――ともに生存、および地霊殿に残留。



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居場所を守りし神

「なによコレ、神社……?」

 

 目を覚ました少女、ヌマタ カズミの第一声はそれだった。

 

 ほっそりしたスタイルを包む制服には、▼▼中学校の校章がきざまれている。前髪を上向きに結ったヘアスタイルが乱れているのに気づき、さらけ出た額に小さくシワができる。

 カズミが寝そべっていた地面から立ちあがり、スカートをはたいて周りを見ると、先ほどの驚いた声にふさわしく、彼女にとって見覚えのない光景があった。

 

 左右に目をやれば、彼女が両手を回しても足りないほど太い、赤い柱が立っている。上を見れば、それが巨大な鳥居なのだと分かった。門のように開け閉めなどできないにもかかわらず、そこをくぐる者を呑み込むような迫力がある。

 鳥居の先には石畳が整然としかれた、広々とした境内がある。ちょっとした公園ていどの広さがあり、小学生男子ならば神聖な場所なのもかまわず遊びだすだろう。

 そして、いよいよその奥には神社の本殿がある。堂々とした門構えに豪奢な流造(ながれづくり)の屋根。カズミの家を二軒つなげても足りないほどの大きな建物の入り口には太いしめ縄が横向きに張られ、その下に賽銭箱が置かれている。

 

「…………」

 

 あれだけ大きな神社なら、人が常駐しているかもしれない。カズミは真っ先にそう思ったが、歩きだして、ふと思いとどまった。

 足元を見れば、唯一見覚えがあるカズミのカバンだけが、ぽつんと置かれている。修学旅行で持ち歩いていたものだ。

 彼女が記憶をたどれば、修学旅行のバスに乗っていた時から、ぷっつりと途切れていた。いくら思い出そうとしても、級友がどうしていたか、自分は一人でなぜこんな場所にいるのか……など、サッパリ分からなかった。

 

(……怪しい……!)

 

 カズミは目の前の神社に視線をもどし、ふとそう思った。いつの間にか眠っていて、気づいたら周囲に広がっている見知らぬ場所……。背後を見れば、長く続く石段を覆うように樹木がうっそうとしげり、明るい神社とは正反対に日光をさえぎっている。

 どうやら、ここは山の頂上にあるらしい。そこまで思い当たって、カズミはあわてて携帯を取り出した。

 果たしてここは、連絡がとれる場所だろうか。その問題に今さら気づいたのだ。電話しようとすると案の定、電波が入らないのを伝えるメッセージが。

 

「え、ちょっマジなの? やばい、どうしよう……」

 

 携帯に頼れなくなったカズミは、とたんに狼狽しだした。神社は行く勇気が出ないし、かといって日も差さない山を下りていくのも怖い。頂上だけに、周りを見ても神社以外の建物が入るスペースはなかった。

 

「うぅ~っ……!」

 

 焦ったカズミはむきになり、LI○Eはどうか、メッセージ機能ならどうかと次々とツールを試しまくる。メールを起動すると、おそらくスマートフォンを使う以前からのリストであろうか、L○NEより何割も多い連絡先が出てきた。

 古い名前もあるのだろう。彼女がほとんどの連絡先を無視して画面をスクロールしていると、ふと、ある登録名が目に入った。

 

『姉ちゃん』

 

「…………」

 

 その短い登録名を見た瞬間、カズミの表情が曇りだす。そして携帯の画面を切るとポケットにしまい込み、浮かない顔でため息をついた。

 しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてあきらめたのか、顔を上げて再び神社の方角を見る。

 すると、今度は人の姿が見えた。

 

「…………」

 

「…………あ」

 

 目が合ったカズミは、その人……少女を思わず凝視した。なんといっても、腰まで伸びる緑色の髪の毛。背丈はカズミより少し高いくらいで、白地に青の袖柄がはいり、脇の部分が胴衣と袖で分かれ、下は青いスカートという、巫女服に似た奇妙な格好をしている。

 その少女はといえば、何を思ってか驚いたように口に手を当て、境内のすみに突っ立っている。掃除でもしようとしたのかホウキを持ったまま、どことなく間抜けな格好だった。

 

(……何よあの人……神社(ここ)の人? それともコスプレ?)

 

 場所にくわえて風体も変わっているゆえ、カズミはなかなか話しかけられなかった。すると、少女が突如ホウキを放り出したかと思うと、カズミの方へパタパタと駆けてきた。

 

「あ、あの! もしかして外来人の方ですか?」

 

「は? が、がいらいじん……?」

 

「ともかく、中へ入ってください! そのまま一人でいると危険です!」

 

「え!?」

 

 少女は突拍子もなく大声を張り上げたかと思うと、カズミの腕をつかみ、有無を言わさず神社の方へと引っ張りはじめた。

 当然、カズミは抵抗する。

 

「ちょっと待ちなさいよ! アンタ一体だれ!?」

 

「ああ、私は東風谷(こちや) 早苗(さなえ)。ここの風祝(かざはふり)をしております」

 

「かざはふり……?」

 

「巫女のようなものです。とにかく中へ、さあ!」

 

「やっ、もう! そこ、荷物、荷物!!」

 

 結局、その早苗と名乗る人物は訳が分からないカズミを荷物ごと引きずり、神社の中へと連れ込んでしまった。

 

――

 

「さ、お茶をどうぞ。楽にしてください」

 

「ど、どうも……」

 

 ここは、神社の客間らしき十畳あまりの畳部屋。カズミはテーブルの前に正座して、差し出された湯呑みを一瞥する。濃緑のその液体は、見た目何の変哲もないお茶だった。

 次に隣に座っている早苗を横目に見る。先ほどのあわてぶりは何処へやら、今ではにっこりとよく整った、営業スマイルのような笑みを向けていた。ただ、正座がつらいのか、足を見るとこっそりと女の子座りに切り替えていた。

 

(うーん……お茶ぐらい飲んどいた方がいいのかな……)

 

 カズミはおそるおそる湯呑みに手をのばし、お茶を少しだけすする。そしてしばし目をおよがせ、上目遣いにテーブルの向かい側を見る。

 そこには、早苗の知り合いらしき人物が二人座っていた。片や長身で体格のいい、紫のセミロングの女性。片や小柄で子供のような、金髪でショートボブの女の子。

 長身の女性は、名を八坂(やさか) 神奈子(かなこ)と名乗った。紫色の髪に形のはっきりした顔のライン。そしてまつ毛が長く、鋭い目。

 白地の長袖服の上に、大きな赤い半袖パフスリーブ。そして胸元には大きな丸い鏡がついている。下は茶色の長スカート、そして背中には何故か、丸く結んだ太いしめ縄を背負っている。

 一方、女の子の方は洩矢(もりや) 諏訪子(すわこ)。こちらは対照的に丸っこく可愛らしい顔立ちで、大きい目をくりくりとカズミに向けて笑っている。

 服装は、紫色の上着にミニスカート、ハイネックの振り袖つきの白い服。そして足には白のハイソックス。一見神奈子よりはおとなしい格好に見えるが、上着とスカートにはまるで鳥獣戯画のような大きなカエルが刺繍され、頭につけたつばの広い帽子には動物のような目玉が二つついていた。

 

「…………」

 

 カズミはテーブルに目を落とし、湯呑みを気まずそうに置く。早苗もふくめ、彼女らの格好はどうも変わっていた。

 しかも、神奈子と諏訪子の二人に関しては、それだけではない。心なしか、見る者をたじろがせるような、人間離れした気配がするのだ。瞳の奥に、笑顔の裏に、そして全身から。神社には彼女らしかいないようで、物音のしない屋内がその威圧感を際立たせる。

 

「カズミだっけ? そう堅くならないでよ」

 

 押し黙っていたカズミへ、諏訪子が不意にそう言った。カズミが息を呑んで視線を移すと、テーブルにくたっと両腕を乗せて顔を近づけてくる。

 

「いきなり神社に入れてビックリさせちゃっただろうけど、ここがどんな場所か分かってもらえれば、それも落ち着くと思うんだ」

 

「ここが……って、神社のことですか?」

 

「うんにゃ、この世界……"幻想郷"のことだよ」

 

「世界? げんそーきょー?」

 

 カズミは表情と声色に怪訝さをあらわにする。すると神奈子が一つ吹き出し、笑いながら言う。

 

「あからさまに意味不明って顔をするなぁ。まあいいや、とりあえず話しておこう」

 

 実はな、と切り出して神奈子が語りだした事は、カズミにとって到底すんなりとは信じられない話だった。

 いわく、彼女らのいる世界は幻想郷といい、現代であり得ないとされているモノ、妖精、妖怪、神などが多数住んでいるというのだ。しかも習性や性格によっては人間をエサにする者もおり、早苗が血相変えてここ、"守矢神社"にカズミを入れたのも、そんな事情からだったらしい。

 

「……という訳なんだ。飲み込めたか?」

 

「……じゃあ、神社に住んでるあなた達は……」

 

「そ、神様だよ。驚いただろ?」

 

 呆然としているカズミに、神奈子はおどけてみせる。しかし、カズミは「はぁ……」と生返事をして、疑り深そうに眉間にシワをよせる。

 

「ありゃ? まさか信じてない?」

 

「そりゃ、いきなり話して『そうなんだ』なんてならないだろうしねぇ」

 

「そうですよ。私だって初めて聞いた時は半信半疑だったんですから」

 

「ううむ……」

 

 口をへの字に結ぶ神奈子を、からかうように笑う諏訪子と早苗。カズミはその和やかな雰囲気を見て、いっそう神というイメージから彼女らが遠ざかるのを感じた。

 一方、神奈子は小さくうなると、大げさにパチンと指を鳴らして立ち上がった。

 

「そうだ! なら、神という証拠を見せてやる!」

 

「え?」

 

「カズミ、そのお茶の水面をよーく見ていてくれ。きっと驚くぞ」

 

「……?」

 

 神奈子は張り切った様子でそう言った。カズミは首をかしげ、とりあえず目の前のお茶の残りに目を落とす。いくらか冷めた、緑色の澄んだ水面。なんの変哲もないそれをしばらくボンヤリ眺めていると。

 

「きゃっ!?」

 

 不意に、何も混ぜていないお茶の中から何かが飛び出した。それは水しぶきを立ててぱたりとテーブルに降り立つと、小さな赤い目をキョロキョロさせた。

 その生き物は、手のひらに乗る大きさの小さな蛇だった。全身が白く、かま首を不思議そうに縮めて神奈子の方へと這っていく。

 神奈子はその蛇を一撫でし、得意そうに言った。

 

「どうだ、これで分かっただろう。本領でなくとも、この程度は朝めし前さ」

 

「…………」

 

 そう言って歯を見せる神奈子。しかしカズミはなおも納得いかなそうに言う。

 

「……手品かなんかじゃないの? 私、そのお茶いれるところ見てないし」

 

「へ?」

 

 鋭い声に、虚をつかれた表情になる神奈子。そんな彼女を無視して、カズミは隣でテーブルを拭いている早苗に目を移した。

 目が合った早苗は、持っていた布巾(ふきん)を隅にもどし、困ったような表情を浮かべた。カズミは騙されまいとする強い光を目にやどし、彼女に言った。

 

「……早苗さん。失礼だけど、細工とかしなかった?」

 

「いえいえまさか、お客様に出すのにそんなマネしませんよ」

 

「……どうだか、飲み物に薬を混ぜて神秘体験を見せる……なんて手口を聞いたおぼえがあるわ」

 

 カズミはお茶をにらみつつ、低い声で言った。その口調や顔色には単なる疑念とは違う、敵意のようなものが混じっていた。

 しまいには、「幻想郷の結界というのは嘘で、"幻想教"なるカルト宗教が山に拠点を置いているのではないか」と言い出す始末だ。

 真面目な顔で問い詰めるカズミに、早苗や神奈子が徐々に困惑しはじめた頃。

 

「カズミはさぁ、なんでそんなに私らを信じてくれないの?」

 

 今まで黙って成りゆきを見守っていた諏訪子が、不意に口を開く。振り向いた他の三人の中で、カズミをじっと見ながら言う。

 

「知らない土地でこんな事言われて、困惑するのは分かるよ。でも、そんなあからさまに警戒しなくていいんじゃない?」

 

「……それは……」

 

「じゃあ先に約束するよ。アンタは必ず元の世界に送り届ける。()()を知ってるんだ。だから、機嫌なおしてよ」

 

 明るい口調で、可愛らしくほほえむ諏訪子。早苗を見ると、カズミへ同じように笑みを向けた。

 しかし、カズミは気まずそうに唇をかみ、目をそらす。

 

「……それとも、何かよほどの理由があるの?」

 

「……っ」

 

 諏訪子に再び問われ、カズミは小さく肩をふるわせる。そしてしばらく目を伏せたかと思うと、ぽつりと、あいまいに答える。

 

「……昔、ちょっと色々……」

 

「色々ってなんだよ?」

 

 神奈子がさらに追及する。テーブルにほおづえをつき、若干ふてくされているように見える。早苗があわてだすのが目に入り、表情が気まずそうなそれに変わる。

 一方、聞かれたカズミはといえば、苦い顔をして口ごもっていたが、こう聞き返した。

 

「その前に、アンタらがまだまだ怪しいんだけど」

 

「怪しい、かい?」

 

「ええそうよ。さっき人間を食べるヤツがいるなんて言ってたけど、あなた達もそうなの?」

 

 問われた神奈子たちは、一瞬きょとんとした表情になる。ややあって神奈子が「ああ」とつぶやいて、肩をすくめた。

 

「いやスマン。そういえば詳しく話していなかったな」

 

 いら立つカズミに、神奈子は脱力しながら気を取り直すように言った。

 

「それは違う。たしかに私たちも妖怪も、現代に居場所がなくなった身だが……私たちは人を食べてはいないよ」

 

「……本当に?」

 

「そう。私たちが現代にいられなくなった理由は……"信仰"だからな」

 

 信仰。そう口にした直後、神奈子の顔が(うれ)いを帯びる。同時に諏訪子と早苗も、かすかに切なそうな表情を浮かべた。

 眉をひそめるカズミに、神奈子は続ける。

 

「カズミの住む世界では、縁遠い言葉だろう。それはそうだ。科学の権威が高まった現代では、神の存在など信じる者は少なくなってしまった」

 

「だから……幻想郷(ここ)に来たの?」

 

「ああ、神は信じてくれる者がいなければ存在を保てない。ただ……」

 

 神奈子が何かを言いかけたが、それをさえぎってカズミが立ちあがり、声をあげた。

 

「じゃあ! 信仰してる人間が食べられて、あなた達は平気なの?」

 

 仁王立ちになって肩を張り、カズミは神奈子の目をじっと見る。早苗が横から「それは……」と口を開きかけたが、諏訪子が静かに、しかしはっきりした口調で言った。

 

「平気だよ」

 

「え……」

 

「もちろん、ちゃんと理由はある」

 

 諏訪子は、その幼い見た目からは想像できないほど落ち着き払っていた。心なしか早苗が気まずそうな顔をしているのを一瞥して、続ける。

 

「幻想郷の内部の人間は、私たちを信仰してくれている。当然それがいなくなれば困る訳だが……妖怪たちが食うのは、内部の人間ばかりじゃないのさ」

 

「……じゃ、どこの人間を食べるのよ。まさか……」

 

「そ、一つはカズミみたいな外から幻想郷に迷いこんだタイプ。あとは……」

 

 察したような顔になるカズミに平然と答え、諏訪子はさらにこう言った。

 

「悪人や自殺者なんかの、『価値のない人間』が時おり流れてくる。それをエサにして、人間の数のバランスを取ってるのさ」

 

 『価値のない人間』、その言葉を聞いた瞬間、カズミの表情がますます険しくなる。部屋に緊張した空気が流れ、諏訪子とカズミの視線がぶつかった。

 先にカズミが、重苦しい口を開く。

 

「……本当なの? それ……」

 

「ああ。こんなの冗談で言わない。そうやって幻想郷(ここ)は存続してきた」

 

 諏訪子はお茶をすすり、一つうなずく。カズミはショックを受けたのかフラリと頭からよろけかける。

 それを見て、早苗が座るようにとうながした。しかし、カズミはうつむき、ふとゆがんだ笑みを浮かべ、低い声でつぶやいた。

 

「そう……それが"神様"かぁ……」

 

 その声は、細かく震えていた。思わず早苗、神奈子、諏訪子が視線を向けると、カズミが不意に、恨みのこもったような鋭い目を諏訪子と神奈子に向けた。

 

「そう、たしかに納得だわ……! 生きている間どころか、死んでまでも差別するって訳ね……!!」

 

 カズミは体をわなわなと震わせ、あざけるような声で言った。表情は笑ってはいたが、口角がつり上がり、ひきつっている。

 その態度の急変に戸惑った神奈子が、なだめるような声色を含めつつ、たずねる。

 

「どういう意味だ? 死んでまでも……って」

 

「それは……」

 

 カズミは言いかけ、唇を強くかむ。そして次第に目に涙をにじませ、しぼり出すような口調で言った。

 

「……私の……私の姉ちゃんは自殺したのよ……。昔……まだ小学生の時に……!」

 

 カズミ以外の顔色が変わる。早苗が言葉を発せずにいる中、カズミはさらに言いつのった。

 

「イジメにあって……誰にも、私にも相談できずに死んだ! 神様なんているもんかと思ったわ。そりゃそうよ、とっくに現代からいなくなってたんだから!!」

 

「おい、少し落ち着け……」

 

「うるさいっ!! 何の役にも立たなかったクセに!!」

 

 なだめようとする神奈子を、カズミは激しく怒鳴りつけた。そこには幻想郷から出られるかどうかなどの心配はなかった。ただ、自分の中の感情を目の前の"神様"にぶつけようという衝動のみがあった。

 

「それで……何? さんざん酷い目にあって自殺したかと思えば、悪い人たちと一緒にエサにされる訳? ふっざけんじゃないっての……!」

 

 ひっく、ひっくとしゃくりあげながら、カズミは悔しそうに吐き捨てた。その様子を見かねた諏訪子が、こう弁解する。

 

「……幻想郷をそういう風に創ったのは、私たちじゃないよ。それに、これでもできるだけ外の世界の人を巻き込まないように計算したんだ。そのおかげで私たちも生きていられる」

 

 だがそれを聞いて、カズミの怒りは収まるどころかますます燃えあがった。

 

「生きていられる……? 生きて何するのよ!? 今みたいに茶ぁしばいてるだけ!?」

 

「カズミちゃん……」

 

「とっとと消えればいいじゃない! 信じてくれる人がいないからって、別の世界に逃げて、今度は人の心だけじゃなく人間そのものまで食い物にする訳!? 姉ちゃんや私が何したって言うのよ、意地汚く延命して……」

 

「カズミちゃん、もうやめてっ!!」

 

 止む気配のないカズミの罵倒を、早苗がとっさに横からしがみついて食い止めた。カズミは大人しくならず、その場でドタバタと揉み合いがはじまる。

 

「離せっ! 離しなさいよ!!」

 

「やめて、やめて下さい。お願いですから……」

 

 二人はしばらく振り回す側と振り回される側とで争っていたが、腕にしがみついている早苗がふと、目を涙ではらしているのを見て、カズミは動きを止めた。

 

「……アンタ……」

 

 早苗の泣き顔を見つめ、我にかえったようにカズミはその場に立ち尽くした。そこで、神奈子が静かに口をはさむ。

 

「……実は、早苗だけは私たちと事情が違うんだ」

 

「は?」

 

「幻想郷にいるにはいるが……早苗は人間なんだよ」

 

 それを聞いたカズミが、驚いた表情で早苗を見る。早苗は鼻をすすり、真面目な顔でうなずいた。神奈子が続ける。

 

「正確には諏訪子の子孫なんだが……そのまま現代に留まっても問題なかった。それをコイツは、あえて来てくれたんだ」

 

 しんみりした口調で話す神奈子。カズミのとなりで、早苗がほんのりと笑って言う。

 

「神奈子さまと諏訪子さまが消えそうだっておっしゃった時に、心底いやだ……って思ったんです。家族のような間柄でしたから、離ればなれになりたくなくて……」

 

「…………」

 

 家族、その言葉が出た瞬間、カズミの体から強ばりが抜けていく。もし自分が、姉と二度と会えなくなると宣告されたら、どうするだろうか……。そう思うと、神奈子と諏訪子に軽々しく「消えろ」などと言ったのを後悔した。

 カズミが腰を下ろすと、早苗が体を支える。意気消沈している彼女に、神奈子は懺悔するかのように話した。

 

「お前たちから見れば、この世界は恐ろしい、理不尽なものに見えるかもしれない。たが、幻想郷のおかげで幸せな暮らしを手に入れられた者たちもいるんだ」

 

「…………」

 

「もちろん、巻き込まれた人々や、罪もないのに食われてしまう人々は納得できないだろうが……今はどうにかして、外との折り合いをつけている最中なんだ。結界があっても、現代と幻想郷は地続きだからな」

 

 神奈子の述懐を、カズミは黙って聞いていた。聞いている最中、カズミはにこりともしなかったが、精いっぱいに訴えかける神奈子の目に、光を見ていた。

 

「私たちを信じろ、嫌うなとは言わない……。だが、幻想郷に助けられている奴らの事を分かってやってくれ。不満なら、私が代表して謝ろう」

 

 神奈子はそう言って、席をはずして畳に手をつき、深々と頭を下げた。その謙虚な振るまいに、カズミはようやく折れたかのようにつぶやいた。

 

「……分かったわよ。ごめんなさい」

 

――

 

「じゃあ早苗。霊夢のところまで、よろしく頼むぞ」

 

「はい、ご心配なく!」

 

 神社の境内から見送る神奈子と諏訪子に、早苗は振り返って元気よく言った。

 現代に戻してくれる人物の家まで、カズミの案内は早苗がする事になった。となりを歩くカズミの手を、早苗が自然とつないでくる。

 少し恥ずかしそうにしながら、カズミもおそるおそる手を取った。きゅっ、と手のひらを強くにぎりながら、早苗がほほえみかけてくる。

 その屈託のない笑みを見て、カズミは内心で思った。

 

(姉ちゃんが生きてたら、このくらいの背丈だったかな……)

 

 そうして鳥居をくぐり石段を降りていると、今度は諏訪子が「カズミー」と呼びかけてきた。そろそろ頭の高さに境内がくるという格好で、カズミと早苗は振り向く。

 諏訪子は、手で口の前にメガホンをつくって言った。

 

「向こうに帰ったら、きっとビックリするよー! まあ、私たちなりのお詫びだと思ってー!」

 

「…………?」

 

 諏訪子はニコニコしながら手を振っている。カズミと早苗は顔を見合わせ、首をかしげてから、あらためて石段を降りていった。

 

 

 …………そして、カズミが現代に帰りついてから、数ヶ月後の事。

 

「赤ちゃんができたぁ!!?」

 

 神妙な顔をして正座する両親の前で、カズミはすっとんきょうな声をあげた。四十近くの父親は頭をかき、ごまかすような口ぶりで言った。

 

「いや……まぁ、お前が無事に帰ってきてくれて、つい浮かれたところもあったというか、なぁ」

 

「……そんなバツ悪そうにしなくていいけどさ。私も子供じゃあるまいし」

 

 あきれた調子のカズミへ、今度は母親が言う。

 

「お医者さんの話だと、順調に育ってるって。受験や高校生活で大変だろうけど、よろしく頼むわよ」

 

「あー……うん。うん。分かったわ」

 

 うれしそうにしている両親へ、カズミは気のない返事をした。そのそっけなさの理由は、なんだって十代半ばの娘がいる時にそんな行為にはげむのかという気恥ずかしさもあったのだが、そんなタイミングゆえに、別に引っかかるところもあったのだ。

 思い出すのは、幻想郷での諏訪子との別れ際のセリフ。

 

『向こうに帰ったら、きっとビックリするよー! まあ、私たちなりのお詫びだと思ってー!』

 

 その時は何の事か分からなかったが、今なんとなく、母の妊娠と関係あるような気がしたのだ。

 とはいえ、確証もなく、また何をするでもなく彼女は普通の日常をすごした。

 

 かくして、またそれから数ヶ月後、彼女らのもとに無事に女の子が生まれた。

 健康上の問題は一つもなかったが、奇妙な事に、その幼い妹の背中には蛇のうろこを思わせるようなアザがあったという。

 

ヌマタ カズミ――生存



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彼女が時を止める時

「あなたの恋人は、もう死んでいます」

 

「……な、なんだって?」

 

 ある日の昼下がり、洋風な外観を持つ大きな赤い屋敷、"紅魔館(こうまかん)"の廊下で、中学生のクロサワ リュウジは呆然としていた。

 ▼▼中学の制服をボタンも留めずに着崩し、ズボンも腰のあたりまで下ろしている。大柄な体に似合ういかつい顔で、茶色く染めたパンチパーマが威圧感を放つ。

 しかし、今の彼は見るからにうろたえ、真っ赤な絨毯がしかれた床に今にも崩れ落ちそうであった。

 彼の前にいる、メイド服に銀髪という見た目の若い女性は、細くすずしげな目でそれを見下ろしている。

 

 ……事の起こりはつい数時間前。リュウジをふくめて修学旅行中の三年生を乗せたバスが、突然の霧に呑まれて消えてしまったのだ。

 リュウジはその時の事をあまりよく覚えていない。ただ、女子側の席にいた恋人、アカネが悲鳴をあげたのだけは記憶に残っている。少しぽっちゃりした愛嬌のある彼女は、その丸顔をパニックにゆがめていた。

 

 次に彼が目を覚ました時、そこには誰もいなかった。静まり返り、バスで最後に見た霧よりも何倍も大きく濃いそれが辺りを包んでいる。

 冷え冷えとして湿った空気。霧で数メートル先も見えず、明らかに危険であったが、リュウジは考えるより先に歩き出していた。

 その場に荷物も置き去りにし、かろうじて見える足元の草むらを早足に駆けた。

 やがて横手に大きな湖が見えてくると同時に、視界の向こうにうっすらと、霧からにじむように今の赤い館が見えてきたのだ。

 

「し、死んだってどういう事だよ、おい!」

 

美鈴(めいりん)は言葉をにごしたようね」

 

 うろたえるリュウジに対し、メイド服の女性は他人事のようにつぶやき、すぐそばの窓を開けた。その窓から下には噴水つきのしゃれた敷地と、格子戸でしきられた門が見える。その門を守るように立っている中華服の女性が、メイドと目が合うと弱ったように苦笑していた。

 

「うちの門番は気が優しいから……ハッキリと死んでるとは言えなかったんでしょう」

 

「…………」

 

 窓を閉めてため息をつくメイドを、ボンヤリとリュウジはながめていた。その瞳は理解を拒否するかのように頼りなく揺れている。

 彼は恋人を見つけたい一心でこの館にたどり着くや、同じような制服の女が来なかったかと門番に詰め寄った。そしてしどろもどろに対応する門番を押しのけて館を探し回っていたところで、メイドにつかまったのだ。

 しかし、だしぬけに「死んだ」と聞かされては、見知らぬ場所に一人取り残されたリュウジは動揺をかくせない。

 

 ガックリとうなだれ、パンチパーマの頭をわなわなと抱えるリュウジを見て、銀髪のメイド――もとい、メイド長を名乗る人物、十六夜(いざよい) 咲夜(さくや)――はふと、「あ」と思い出したように手を合わせた。

 

「恋人なら遺品をあげなきゃ。少し待ってて」

 

 咲夜はそう言ってくるりと背を向けると、何故か次の瞬間またリュウジと向かい合って立っていた。手にはいつの間にかモジャモジャとした髪の毛のようなものが乗っている。

 

「……それは……」

 

「遺髪よ。この手帳に写真が入ってたから、確かめてみれば?」

 

 咲夜が差し出した髪の毛と、その下にまぎれた生徒手帳とを、リュウジは乱暴に引ったくる。"カシワギ アカネ"と書かれた手帳の写真には、たしかに手元にあるのと違わぬ赤く染めた髪を生やしたアカネがほほえんでいた。

 

「あ、ああ……」

 

 生々しい質感を持ち、生きていたおもかげを感じさせる髪の毛。リュウジはそれに顔を埋め、くしゃりとつぶれた表情になって泣き出した。いかつい体は萎れるように崩れ落ち、すすり泣く声と嗚咽が廊下にくすぶるように広がっていく。

 咲夜はそれを、また黙って見つめていた。まるで悲嘆にくれているリュウジに関心がわかないかのように。

 その態度がカンにさわったのか、リュウジは不意に顔を上げると、咲夜に猛然とつかみかかった。

 

「おい、ここは何なんだよ!? ワケ分かんねーよ!! 気がついたら誰もいねーし、アカネは……死んでるって……クソッ、説明しろよ!!」

 

 言葉すらまとまらない様子でリュウジはまくし立てる。咲夜は面倒そうに彼の手を押しのけると、口を開く。

 

「……話せば長くなるわ。ここ、幻想郷についてね」

 

「は……げん……?」

 

 もどかしげに顔をしかめるリュウジに、咲夜は平坦な口調で話しはじめた。

 ……いわく、この館をふくむ一帯は幻想郷という実質的な異世界であり、そこには神や妖怪、妖精など、人間には危険な存在が数えきれないほどいるという。

 そして、リュウジたちのように外から人間が迷いこんで来る事もある。そういう場合は、たいていが妖怪のエサにされてしまうらしい。

 それを聞き終えたリュウジは、しばらく言葉を失っていた。

 

「……じゃあ……アカネは……」

 

「ええ、お気の毒だけど。先ほど伝えた通りよ」

 

「まさか……そんな、アイツは」

 

「昨日ここで見かけたんだけどね。ひどく錯乱しちゃってたから説得も無理で。とりあえずルール通りにしたの」

 

 うめくように話すリュウジに、咲夜は肩をすくめて答える。そのしぐさは彼女の言うところの"ルール"の遂行が珍しくない事を示していた。

 リュウジはもはやうっすらと笑いすらも浮かべ、しばらく視線をさまよわせていた。もはや正気かも怪しい彼に、咲夜が「あなたはどうする? 帰りたい?」と義理のような口ぶりでたずねる。

 しかし、リュウジはそれには答えず、代わりに締め上げんばかりに咲夜の胸ぐらをつかんだ。

 

「ぐっ……!」

 

「ふざけんじゃねえ!! そんな話信じねえぞ。アカネはどこだ。どこかに隠してるんだろ? 言えよ!!」

 

「落ち着きなさい……!」

 

「落ち着いてなんかいられるか! いいからアイツの居場所を教えろ! 俺はさっさと一緒に帰る!! 早くしやがれ!!」

 

 リュウジは唾を飛ばして割れるような怒鳴り声を発した。つかんでいる咲夜の襟からミシミシと音がするのにも気づかず、悪鬼のごとき形相で彼女をにらみつける。

 咲夜はそんなリュウジに嫌気がさしたような表情になると、呆れたように目を閉じ、一つ小さく息を吐いた。

 

 すると、次の瞬間。気づけばリュウジの両手は咲夜から離れていた。彼が「え?」と我にかえって周囲を見回すと、そこは先ほどの廊下とは別の場所になっていた。

 床、壁、天井、全てが灰色の石造りで、窓の一つもない無機質な部屋。中央に下がったランプがなければ何も見えないであろう、二十平方メートルほどの空間だった。

 そして、何よりリュウジの目を引いたのは、部屋の天井を横切るように吊るされた、赤い肉のかたまりだった。スーパーに売っているような小ぶりなそれではない。まるで精肉工場で見るような、生前の名残がある、丸ごとの肉。四つほどレールに吊り下げられたそれは、どことなく人のような形をしていた。

 

「うぷっ……」

 

 思わず吐きそうになり、リュウジは口をおさえる。その時、彼の背後で重たい金属音がした。

 

「っ!?」

 

 振り返ると、咲夜が部屋の扉を閉めたところだった。肉を冷やすためか壁際には大小さまざまな氷が積み重なって置かれ、密閉した影響で一気に部屋の冷気が増す。中ほどに設置された大きなテーブルは、ちょうど肉を切るのにピッタリだった。

 

「変にごまかすのは嫌いだから、もう全部話すわね。ここがこの館の、お肉の貯蔵庫。あなたの恋人もここにいるわ」

 

「……ここに……?」

 

「ええそう。うーんと、どれだったかしら」

 

 咲夜は冷えきった部屋を平然と進み、並んでいる肉を物色しはじめた。うずくまりそうなリュウジを放っておき、一人で「最近は外来人が妙に増えたからね」などとつぶやいている。

 やがて、やや小さめな肉を探し当てると、思い出したように言う。

 

「ああ、これだわ。少し脂身の多い娘だったわね」

 

 そうして、咲夜はリュウジを見て確認するように目でうながしたが、リュウジはその場から肉を見つめるのが精いっぱいだった。

 赤と白が入り交じったそれを見て、知り合いを想像する者はまずいないだろう。リュウジにも、その肉はアカネとかけ離れた物体にしか見えなかった。

 

「……………………」

 

「納得してくれた? あなただけでも帰った方がいいわよ。ちょうどこっちも貯蔵がいっぱいだから……」

 

 咲夜は一応害意を示さず、ひょうひょうと帰る事をすすめる。しかし、リュウジはそんな彼女に無言で、手が届く距離までゆらりと近づく。

 そして、拳をきつく握りしめると、咲夜に向けて躊躇なく突きだした。

 

「っ!?」

 

 咲夜は反射的に避け、驚いた様子でリュウジを見る。彼は全身をふるわせて目をきつくきつく吊り上げ、怒りをにじませた顔で咲夜をにらんでいる。ふぅふぅと漏れる荒い息に、言葉にならない悪罵が込められているかのようだ。

 咲夜は軽く身構え、しかし相変わらず冷静な顔つきで問いかけた。

 

「……何のつもり?」

 

 その怪訝(けげん)な口ぶりは、まるで悪びれていないのがすぐに分かるものだった。リュウジは短くうめき、か細く、しかし低い声で言う。

 

「……許さねえ……てめぇは、絶対にぶん殴る!」

 

 そう言うが早いか、彼はまっすぐに咲夜へと突っ込み、また拳をくり出す。素人の彼のパンチは軽々とよけられるが、わき目もふらずに二度、三度と拳を振り回す。その攻撃はまるで洗練されていなかったが、たしかに相手にお見舞いしてやるという殺意がこもっていた。

 十回ほど拳を避けたところで、咲夜は素っ気ない口調で言う。

 

「やめなさいよ。そんな事したって何にもならないわ」

 

「うるせえーーっ!!」

 

 怒鳴りながらリュウジが放った蹴りが、眼前の氷を弾き飛ばした。床に撒き散らされたカケラを見て、咲夜がふと渋い顔をする。

 

「……床が濡れるじゃない……」

 

「あ?」

 

 初めて聞く怒りの混じった声に、リュウジは思わず動きを止める。その直後、彼は信じられないものを見た。

 咲夜の姿が刹那に消え失せたかと思うと、入れ替わるように視界いっぱいに、何十本ものナイフがリュウジの方を向いて浮かんでいたのだ。

 

「うおっ!?」

 

 彼は反射的に肉の陰へと飛びのいた。鈍い音とともにナイフが深く肉に突き刺さり、避けきれなかった分が脚や脇腹をかすめる。

 

「……くそったれ」

 

 痛みと血がにじむ傷口をおさえ、リュウジはよろけつつ立ち上がる。その時、背後でカツンと軽い靴音がした。

 驚いて振り返ると、そこにはいつの間に移動したのか、ナイフを持った咲夜が立っていた。壁に向かって飛んでいったはずのナイフが、何故か一つ残らず消えている。

 混乱しているリュウジに、咲夜は初めて感心したように言った。

 

「大した身のこなしね。ケンカでもしてたの?」

 

「うるせェよ!」

 

 リュウジは邪険に言い返し、再び咲夜に殴りかかる。咲夜はそれを難なく避け続ける。全く勝ち目の見えない戦いだったが、リュウジは止める気配がカケラもない。一度殴ると決めた相手は、意地でも殴る。彼はそういう男なのだ。

 

 ――中学校に上がった頃、リュウジはすでにいっぱしの不良の風格をそなえていた。親や教師への反発は当たり前、幼稚園生の時は小学生へ、小学生の時は中学生へそれぞれケンカを売り、全くこりる事はなく、相手にケガを負わせる事さえあった。

 入学試験もなく、雑多な人間の集まりやすい公立中学校という場においても、彼の悪童ぶりは頭ひとつ抜けていた。授業をサボってばかりで試験はつねに最下位を争い、服装は毎日注意を受け、髪型は幾度となく強制的に坊主にされた。ケンカ癖も治まる事はなく、このままでは進学そのものが危ういと噂する教師もいた。

 

 そんな彼がある時、一人の女子生徒と会った。それが恋人のアカネである。出会いは別にロマンチックでもなんでもなく、たまたまリュウジが出た授業で、たまたま忘れていた教科書を見せてくれた相手が、アカネだった。

 それだけのきっかけだったが、二人とも学業についていけておらず、それぞれ同性の仲間も少なかったために、彼らはしだいによく話すようになった。互いにとりたてて美形でもなく、恋にあこがれてもいなかったが、それだけに異性との交流が新鮮だったのだろう。二人はみるみる仲を深め、明るくなっていった。――

 

「らあっ!!」

 

 リュウジが目の前の、アカネとは別人の肉を咲夜めがけて蹴り飛ばす。振り子のように迫るそれを咲夜は軽くよけると、また姿を消して大量のナイフととって代わる。

 リュウジはとっさに飛びのき、肉のすき間や足元に迫るナイフをかわす。彼が石の床にどうと倒れ込むと、脇にはまた何事もなかったかのように咲夜が立っている。

 見下ろしてくるその目を見て、リュウジは怒りに顔をゆがめた。同情が一片も見えない、刺すような瞳。

 

(この女の目……解体前の豚でも見るような、冷たい目だ。残酷な目だ……。そんな目をしながら、アカネもばらしたのか……!)

 

 リュウジが悔しそうにしているのに果たして気づいているのか、咲夜が見下ろした姿勢のまま、嘆かわしげにため息をつく。

 

「……もういい加減にあきらめたら? 言っておくけど、あなたじゃ私に指一本ふれられないわよ」

 

「黙れよ……まだ俺の気が済んじゃいねえんだ!」

 

 痛むホコリだらけの体を起こし、リュウジはまた咲夜に向かっていく。

 気が済んでいない。彼が拳を振り続ける理由は、まさにそれだけだった。元来幼稚園や学校の規則を破り続け、アカネとの交際でもさまざまなルールを無視してきた彼のこと、恋人を理不尽に葬られた今、止まれるはずがない。

 幻想郷のルール? そんなもの知った事ではない。妖怪だろうが悪魔だろうが、殴ると決めたら殴る。殺すと決めたら……その時は、殺す。リュウジがしたがう相手は今や、己のみだ。

 

(しかし……コイツは一体、超能力でも持ってるのか?)

 

 いつまでも挑みかかるうちに、リュウジはさすがに疑問を持った。何度も目の前で消え、とうてい両手に持ちきれないであろう数のナイフを投げつけてくる。とても普通の人間にできる芸当ではない。

 しかし、だからといってすぐにタネが思い当たるほどリュウジは賢くない。ナイフをよけながらいつまでもヤケクソに殴りかかり、彼はついに疲労してよろける。

 

「ぐぅっ……」

 

 足をもつれさせ、壁際につんだ氷に突っ込むリュウジ。氷と石壁がぶつかり、小さな氷が滑り落ちるのを視界の隅にとらえた。

 直後に、彼が前に向き直るとまたナイフの雨が飛来する。とっさにかわすと、体が反対側の壁にぶつかった。

 

 リュウジは全身に痛みを感じつつも、あわてて部屋中を見回して咲夜を探す。相変わらず投げられたはずのナイフは影も形もなく、咲夜はさっきとは別の場所に平然と立っている。

 しかしその時は、一つだけ今までと違う事が起こった。

 

 ガシャン、と固いものが割れる音が部屋に響いた。見ると、リュウジがついさっきいた場所のそばに、くだけた氷が転がっている。リュウジがぶつかった拍子に、滑り落ちたものだ。

 それを見た瞬間、リュウジの脳内が高速回転しはじめる。今まで咲夜は一瞬で大量のナイフを投げ、また恐らく回収し、部屋を移動した。何かの錯覚かとも思わせる、異常にすばやい動き。しかし、氷が落ちるという別の現象を合わせて考えれば、その正体もしぼれてくる。

 彼女はたしかに、氷が落ちるまでの一瞬で一連の行動をすませたのだ。まるで氷が……いや、時間が止まってでもいなければあり得ないような所業。

 

 まさか、彼が何かに気づくと同時に、また目の前にナイフが現れる。彼は追い詰められたように部屋の隅に背中をつけると、とっさに頭をガードした。

 直後、かばっていない胴体や脚などに次々とナイフが突き刺さる。ぐおぉっ、とリュウジがうめき声をあげた時には、刺さっていたナイフは全て消え、無数の傷口が血を流していた。うぅ……ともう一つ小さくうめいて、血だらけのリュウジはそこにうずくまる。

 動かなくなった彼に、咲夜が靴音をたててゆっくりと歩み寄る。手にはリュウジのものらしき血がべっとりついたナイフが、何本も握られている。

 

「やっと大人しくなったわね……」

 

 咲夜はやれやれとつぶやいて、うずくまっているリュウジに向けてしゃがみこむ。暴れていたのが嘘のように目を閉じ、動かなくなったリュウジを、咲夜はケガの確認のためかまじまじと見つめた。

 しかし。

 

「え?」

 

 突然、リュウジが目を見開いたかと思うと、咲夜の襟首をつかんだ。咲夜はナイフを出して抵抗しようとしたが、彼が体を反転させて逆に隅に押しつけられ、ナイフを取り落としてしまう。

 咲夜の逃げ場をふさぐように詰め寄り、リュウジは彼女の首を締め上げ、ニヤリと笑った。

 

「やっと……捕まえた……!」

 

「っ!? あなた……まさかわざと……」

 

「そうとも。隅っこ(ここ)でくたばりゃ、必ず目の前に来るだろうと思ってな!」

 

 驚く咲夜に、リュウジは勝ち誇ったように言う。そして、おさえる腕に力を込めつつこう続けた。

 

「お前……信じられねえけど、時間を止めるんだろ?」

 

「よく……見抜いたわね……」

 

「どうりで……けど、近くで見るとやっぱ人間だな。だから遠くからナイフばっかし投げてたのか」

 

 片手でナイフを拾い上げ、リュウジは一人で納得するようにつぶやく。そして、咲夜に向かってナイフを突き立てようとし……。

 彼は、一瞬ためらった。

 

 ――彼は、生前のアカネと一つの約束をしていた。危なっかしい行動をするリュウジを見かねたアカネが、少しは控えようと言った事があったのだ。

 しかししょせんは不良との約束。急に品行方正にしろと言って聞くはずがない。そこでリュウジは、面倒くさがりながらも一つだけ、ある事を誓った。

 

 絶対に、人殺しだけはしない。それを犯せばもはや、人間ではない、と。

 

 どうせ約束するなら、生涯守れそうなものがいい、それに中途半端に決まりをつくるより、最低限の掟をドンと置きたい、というのがリュウジの言い分だった。

 『アンタらしいわ』と、アカネは声をあげて大笑いしていた。――

 

 ……その時のアカネの声が、リュウジの脳裏によみがえる。ナイフを握る手がふるえ、脂汗がにじむ。

 これから咲夜にしようとしている事。それはまさに約束を破る行為だった。自分から言った約束を反故(ほご)にする恥ずかしさに、リュウジは強く歯をくいしばる。

 だが、勝ったのは怒りの方だった。彼はナイフを振り上げ、恋人の仇をキッと見据える。そして、思い切りのためか、叫んだ。

 

「俺は人間をやめるぞ、アカネェーーーっ!!!」

 

 

――

 

 

「……それで、結局殺しちゃったんですか?」

 

「ええ。そうするしかないでしょう」

 

 それから数時間後、咲夜は館の門前で、門番である(ほん) 美鈴(めいりん)としゃべっていた。咲夜は例のごとく物静かな冷たい表情をしていたが、夕方のせいか、少し影がさしているように見える。

 対照的にのほほんとした顔つきの美鈴は、やはり後味の悪そうな顔で、こう言った。

 

「……その男の子もお気の毒に。意地にならなければ今ごろ……」

 

「今さら言っても仕方ないわよ。恋人の事で頭がいっぱいだったみたいだし、説得する義理はないわ」

 

 咲夜はいかにもつれない口調で言って、美鈴に背を向ける。そして館に向かって歩きながら、振り返らずにポツリと言った。

 

「……それに、今さら特別あつかいなんて出来ないわよ。もう何人も切り刻んでいるんだから」

 

 それきり、咲夜は時間を止めたのか、パッと姿を消してしまった。一人残された美鈴は、咲夜のいた場所をずっと見つめていた。

 表情は見えなかったが、その声色には悲しみがにじんではいなかっただろうか。

 美鈴がそう思いをはせている背後で、空はゆっくり茜色に染まりはじめていた。

 

クロサワ リュウジ、カシワギ アカネ――ともに死亡



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骸の残り火は、青白く 前編

「……本当に……死んでる……」

 

 ある人気(ひとけ)のない森の中。空が夕暮れの薄紫色に染まり、あたりの影も闇に溶けはじめる頃。

 森の一角に一つ、"人だったもの"が転がっていた。十代半ばの見た目の少年が地べたに大の字になり、頭と腹から血を流している。

 短めの髪に絡みつき、額にまでべったりと広がった血は地面にまでしたたり落ち、地面に黒々とシミをつくっている。

 細身の腹は、ブレザーとワイシャツを引き裂かれ、内臓がえぐり出されたかと思うような穴が空いている。獣にでも食われたのか傷口はほじくったと言った方が的確で、赤黒く、トマトの腐り落ちた部分にそっくりだった。

 天を向いた両目はとうに白目をむき、生気がないのが見てとれた。

 

 その血の臭いが遠慮なく漏れる死体を、茂みごしにかがんでジッと見つめている少女かいた。

 死体とは違ってジャージ姿で、なぜか靴はローファー。つんとした細い目つきに小さな鼻、薄い唇。美人の部類だが化粧っけはなく、ミディアムショートの黒髪が質素ながら清潔感をただよわせる。

 スレンダーな体型を包むジャージの胸元には、イズミ シオンという名が刺繍されていた。

 

 その少女、シオンはなにやら注意深く辺りをうかがうと、かたわらにあるバッグを見つめる。二、三日分の着替えくらいは入りそうな、大きなものだ。

 手には革製の財布がしっかりと握られている。お札、小銭、カードを彼女は震える手で確かめると、お守りでも持つかのようにポケットに大事にしまいこんだ。

 

 彼女はそれから死体をまた一瞥すると、ふぅーと長く息を吐く。なぜか彼女の額は汗ばんでいた。

 一拍おいて、彼女は震える手でバッグをつかむと、すばやく立ちあがり、走りだそうとする。

 

 しかし、そんな彼女の背後で、不意に声がした。

 

「おねーさん」

 

「ひやあぁっ!?」

 

 よほど驚いたのか、シオンは裏返った悲鳴をあげてひっくり返る。あわててバタバタと声の方向へ振り向くと、暗くなった森の中で、少女……らしきものが見下ろしていた。

 

「にゃはは、驚かしちゃったかな。すまないね」

 

「だ……誰よアンタ……」

 

 シオンはおぼつかない声でその何者かを見上げる。というのも、目の前の少女らしき者のシルエットが、どうにも人間ばなれしていたからだ。

 背の高い、くびれのハッキリした女性らしい体格。シオンより二、三歳は年上かもしれない。かすかに赤く光る髪を、前は眉の高さで切り揃え、後ろは細い三つ編みを四つに分けて垂らしている。

 着ているワンピースは首にリボンが結ばれ、両肩にパフがあり、すそ、袖、襟には細かいフリルがついている。スカートの下からのぞく足の片方には、これまた長いリボンが結ばれていた。

 見た目はいわゆるゴスロリ系統のもので、それだけでも少し風変わりなのだが、シオンが警戒しているのは他の特徴からだった。

 

 彼女の周りには、こぶし大の青白い炎が、いくつもユラユラと飛び交っていた。炎の中核には白いガイコツがおぼろげに見え、まるで昔話やホラーで見る"鬼火"にそっくりだった。

 しかも、人間の耳の位置から少しのぼると、黒くとがった猫耳が生えていた。そして尻の上からは黒く長く、先端が白い猫の尻尾が二本。それらは作り物ではないようで、本物の猫のそれのように時々ぴくりと動いている。

 そしてかたわらには、なぜか手押しの猫車が置いてあった。

 

 シオンの険しい表情に気づいてか、少女は肩をすくめ、手を差し出した。

 

「そんな警戒しないでおくれよ。ほら」

 

「…………」

 

 目の前の手を、シオンはおそるおそる掴んだ。その手の感触が人間と変わらないのに気づき、少々面食らう。

 ようやく立ち上がったシオンに、少女はこう名乗った。

 

「あたいは燐。火焔猫(かえんびょう) (りん)さ。おねーさん、名前は?」

 

「……シオン。イズミ シオンよ」

 

「シオン、ね。おしゃれな名前だねぇ」

 

 燐はニコニコ笑い、人懐こい口調で言った。急ななれなれしい態度にシオンが戸惑っていると、燐はふとこうたずねる。

 

「ところで、こんな場所で何してたんだい? もう夜だよ」

 

 呆れをふくんだ口ぶりに、シオンはやや口ごもり、ぼそりと答えた。

 

「……何って……どうもこうもないわよ。こちとら急に知らない場所に来て、クラスの皆にも会えてないんだから」

 

 その言葉に、燐はさほど驚きもせずにシオンを見つめ直す。シオンはもどかしげに燐に言いつのった。

 

「ねぇ、私から聞くけど、ここは一体どこなの? 私たち、クラスで修学旅行のバスに乗ってたはずなのよ。なんでこんな事に……」

 

 不安からか、シオンは次第に早口になる。心細さに目をおよがせ、先ほどの死体を一瞥する。

 その視線に気づいて、燐も茂みの裏に転がっている死体を覗きこんだ。そして「ははぁーん」と心得顔でうなずくと、一切おどろく様子もなく、シオンに言った。

 

「あの死んでる男の子、シオンちゃんのお仲間かい?」

 

「え、ええ……同じクラスだけど」

 

 鬼火のようなものに照らされた燐の顔が心なしか楽しそうに見え、シオンは一瞬、言葉につまる。燐はそれから、なぜか興味深い様子でなおも死体の方角を見ていた。

 片や憔悴し、片や上機嫌で無言の時間が続き、沈黙に耐えられなくなったのか、シオンが口を開いた。

 

「……シバタ君。シバタ ユウスケっていうのよ。彼」

 

「うん?」

 

 唐突にシオンが話し出したのに、燐は耳をかたむける。するとシオンは、緊張のせいか上ずった声で続けた。

 

「同じクラスの子でさ。わりとよく話してたんだけど……こんな姿に……」

 

「もう見つけた時には、オシャカだったのかい?」

 

「……え、ああうん。そう。偶然私が見つけた時には、もう……」

 

「あ~ごめんね。あたいったら無遠慮に聞いちゃって」

 

「いや、いいの。気にしてない」

 

 あわてて口を手のひらで隠す燐に向け、首を横に振るシオン。そして気を紛らわせるためか、なおも絞り出すような声で話し続けた。

 

「彼の家、地元で有名な建設会社でさ。すごいお金持ちで成績もよくて……いなくなったら、大騒ぎだろうなぁ」

 

「…………」

 

「……でも、私は悪くないわよね。こんな、お腹やぶられてメチャクチャになるだなんて、私にどうしようもないし……」

 

 話すうちに落ち着きがなくなり、息が荒くなる。いつしかすっかり日が落ち、周りは闇につつまれていた。

 その時、近くでバサバサと鳥の羽ばたきが聞こえ、シオンは肩をはねさせて振り向く。葉をいくつか落として飛び去った鳥は、ギィーーッと聞き慣れない鳴き声を残していった。

 それに呼応するかのように、周りでザワザワと、闇の中で何かがうごめくような音があちこちでし始める。シオンは喉をカラカラにし、すがるように燐へ寄りかかった。

 燐はそれを見て、気を取り直すように彼女の肩をたたく。

 

「とりあえず場所を移そう。そろそろ妖怪が起きてくる」

 

「妖……怪?」

 

「ほら、早く」

 

 眉をひそめたシオンだったが、燐が少しだけ強引に手を引くのを感じ、戸惑いながらもうなずいた。

 

――

 

「ちょ、ちょっと! 揺らさないでよ!?」

 

「しっかり掴まっておきなよ~。落ちたらまっ逆さまだからね~」

 

 ……数分後、二人は前後に並んで()()()()()()()。正確には燐が空を飛び、シオンは燐の押す猫車の中で荷物と共にうずくまっている。

 眼下に広がる豆粒大の景色をチラリと見て、シオンはあわてて目をそらした。地表の何倍も冷たい夜風が吹きすさぶ中を、燐は鼻歌まじりに進んでいく。

 猫車の下には、人一人を包めそうな大きさのムシロがあった。ジャージ姿で震えていたシオンは、落っこちないようにジタバタしつつ器用にムシロへくるまり、燐へと振り返って言う。

 

「ねぇ、どうやって飛んでるの? 燐って何者?」

 

 風に負けぬように声を張り上げるシオンに、燐は涼しい顔で答える。

 

「んー、説明しようったって難しいな~。あたいも妖怪だから、としか……」

 

「…………」

 

 妖怪、事もなげにまた言ったその言葉に、シオンはますます眉間のシワを深くする。確かに姿は人間離れし、道具もなしに飛んではいるが、そんな軽々しく口にされると信じようにも信じられない。

 

「妖怪って本気で言ってるの? 私はじめて見るんだけど」

 

 疑いの視線を向けるシオン。燐はそれに気づくと、弱ったように頭をかいた。

 

「うーん、やっぱり疑問に思っちゃうかなぁ。訳を話すと長いんだよね……」

 

「もったいぶらないで教えてよ」

 

 シオンがせがむように言うと、観念したように燐は言った。

 

「分かったよ。道すがら話してあげる。この"幻想郷"について……」

 

 それからの話は、シオンにとってはまるで現実ばなれしたものだった。

 幻想郷という場所は、現代では信じる者のいなくなった"幻想"が流れ込む場所だという。例えば妖精、例えば妖怪、例えば神。

 なかでも妖怪は特に危険で、シオンのように外から迷い込んできた人間はよほど運がなければ食べられてしまうのだという。

 話を聞き終えたシオンは、ムシロの中で身を固くして言った。

 

「あの……シバタ君も、妖怪に?」

 

「ま、十中八九そうだろうね。あんな場所にずっといたら、たまらず餌食になるだろうさ」

 

「そう……よね。そう……」

 

 いまだに信じられないのか、目をそらして生返事するシオン。そんな彼女に気を遣ってか、あっけらかんとして燐は言った。

 

「その点おねーさんはラッキーだよ。あたいが見つけなかったら、今ごろ昇天さね」

 

「……もう空にいるじゃん」

 

「あら、一本とられた。いやぁ、夜の地上なんか妖怪だらけだからねえ」

 

 明るい表情でけらけらと笑う燐。シオンはその顔をジッと見つめ、「ずいぶん親切なのね」とつぶやいた。それを聞いた燐が目をパチパチとしばたかせる。

 

「ん、不思議かい? あたいが人助けしたら」

 

「そりゃまあ……妖怪だって自分で言ってたし……」

 

「なるほどね。すんなり信用はできないかぁ」

 

 燐は自分の二本ある尻尾をちらりと見る。そして周りを飛び交う鬼火を手のひらに乗せ、見せつけるようにしながら言う。

 

「実はあたいね、生きてる人間にそんなに興味ないんだ。興味があるのは……"死体"の方」

 

「し、死体!?」

 

「そ、あたいは死体を探し出すのが趣味なんだ。もう何百年になるかねぇ」

 

 驚くシオンを尻目に、燐は上機嫌で空にステップをはずませる。揺れだす猫車にしがみついて、シオンは顔をしかめた。

 

「それ、楽しいの?」

 

「そりゃそうだよ。あたいに染み着いた妖怪としてのサガだもん。いわゆる生き甲斐!」

 

「……もしかして、シバタ君も」

 

「もっちろん! おねーさんを送ったら、即、回収するよ~」

 

「……はは」

 

 仮にも目の前の人間のクラスメイトを、まるで景品のように語って燐は鼻歌など歌いだした。

 それに苦笑いしつつ、あまり深入りするのはやめようとシオンが前へ向き直った時。猫車が揺れたせいか、シオンのポケットから財布がぽろりと飛び出そうになっていた。

 

「わっ!?」

 

 それが目に入った瞬間、シオンは血相を変えて財布を両手で押さえ込み、強引にポケットにねじ込んだ。

 はねのけたムシロが風にはためくのも尻目に、乾いた息をもらしているシオンを見て、燐はくすくすと笑った。

 

「なんだい大げさだねぇ。落っこちたら取りに行ってやるからさ、おねーさんは大人しくしといておくれよ」

 

「そうはいかないわよ……。お金が手から離れると思うと、体が動いちゃって……」

 

「ふーん、まぁあたいも、狙っていた死体が横取りされたらガッカリするけどさ」

 

 シオンの言葉を軽い調子で流す燐。しかしそれが気に入らなかったのか、シオンはムッとした表情になり、言った。

 

「……死体と一緒にしないでよ」

 

「ん?」

 

 燐が首をかしげると、シオンは彼女を流し目でにらみつつ、若干ひくい声で言った。

 

お金(コレ)は、そんな好きこのんでコレクションするようなものとは訳が違うわ。皆が欲しがって集めたがるからこそ、大事にするの」

 

「はぁ……」

 

現代(むこう)でお金がいらないなんて奴は、よほどのお金持ちか、バカか、さもなきゃ変態よ。別の生き物だわ」

 

「それは、例えばあたいみたいな?」

 

「あっ……」

 

 燐が口をはさむと、シオンは真剣だった表情を一転。ばつが悪そうに言葉につまり、やがてちょこんと頭を下げた。

 

「……ごめん、そんなつもりじゃ」

 

「いいって。気にしてないよ」

 

 燐はひらひらと手を振り、ほがらかに笑う。そしてふと不敵に目を細めると、なにやら含みのある声で言った。

 

「あたいの近所でも、お金の奪い合いはあるさ……。時には、殺しなんかもね」

 

「……何が言いたいの?」

 

「別に? こっちの話さ。あ、見えてきたよ」

 

 眉をひそめ、心なしか身構えるシオンを無視して、燐は地上のある一点に目を留める。それからゆるやかに下降を始めると、やがて彼女らの眼下に小高い丘が見えてきた。シオンが目をこらすと、暗くて見えづらいがその頂上に小さな神社と鳥居がある。

 燐はその真上を通りすぎ、神社へと通じる石段に面した丘のふもとへ降り立った。

 

「とうちゃ~く、っと」

 

「…………」

 

 燐が元気よく宣言すると、シオンはおそるおそる猫車を降りた。自然と先ほどの神社に視線を向けると、横から燐が話しだした。

 

「あの頂上にある神社に、おねーさんを帰せる人が住んでるよ。緊急事態だから、最低でも避難はさせてくれるハズ」

 

「直接行けばいいじゃない」

 

「いやぁ、一応妖怪の出ない安全な場所……って事になってるから、なるべく近づかない方がいいんだ」

 

 燐は早口でそう言うと、そわそわと今来た方角を目でうかがった。あの死体を一刻も早く取りに行きたいのだろうか。

 しかし、シオンはそんな彼女をいぶかしげに見つめ、頭上の神社を一瞥して言った。

 

「……でも、本当なの? 本当にあそこへ行けば帰れるんでしょうね」

 

「本当だよ! あたいは嘘はつかないし、大体、人間の恨みは買いたくないものさ」

 

 燐はわざとらしく頬をふくらませた。そして声をひそめてこう続ける。

 

「妖怪ってのはさ、恨みを持った魂に弱いんだ。いわゆる怨霊ってやつ。だから食うわけでもないのに死なせたりはしないの」

 

 頬笑む燐をしばらく不安げに見つめていたシオンだったが、やがてため息をつくとぺこんと礼をした。

 

「分かったわ。えっと……とりあえずありがとう」

 

「どういたしまして。じゃあね!」

 

 燐は軽く手を振って背を向けると、猫車を押して飛び立ち、元来た森を目指していった。その姿が小さくなるのを、シオンはしばらくジッと見上げていた。

 やがて燐の背中が砂粒のようになり、夜空に消え失せてしまう。シオンはそれを確認して、ふと荷物をおろして俯き……。

 地面を見つめてこぶしを握り、肩をふるふると震わせだす。そして急に顔に喜悦を浮かべると、消え入りそうな声でつぶやいた。

 

「やった……やったわ! バレずに済んだ! ()()を隠し通せたわ!」

 



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骸の残り火は、青白く 後編

「やった……やったわ! バレずに済んだ! ()()を隠し通せたわ!」

 

 シオンは次第に指先までわなわなと震えだす。その両手の指先はよく見ると、爪の間にところどころ赤黒いシミがついていた。

 次に彼女は血のついた財布をポケットから取り出し、中身をくわしく吟味しだす。紙幣がぎっしり、小銭も重いほどある。カード類を調べると、保険証やクレジットカードが目に入った。そこにはシオンの名ではなく、あの死んでいたシバタ ユウスケの名があった。

 続いて荷物に手をかけ、素早くチャックを開けると、中からは▼▼中学ときざまれたブレザー、スカート、ベスト、ワイシャツ、ソックスなどの制服一式――返り血がついたもの――がぐちゃぐちゃに丸まって飛び出した。

 

 ――実は、シバタを殺したのは妖怪ではない。他でもないシオンだったのだ。

 

  クラスでも金持ちだと評判だったシバタに、シオンは何度もすり寄り、取り入ろうとしていた。しかしその下心が見えすいていたのか、そこそこ美人だったにもかかわらず彼女のもくろみは叶わず、いつしか三年になっていた。

 ただ、転機は思いがけないところで現れる。修学旅行中に幻想郷へ迷い込んだシオンは、偶然にもシバタと二人きりになったのだ。

 見知らぬ場所、周りに誰もいない状況……今まで相手にされなかった鬱憤もあってか、シオンはシバタの頭を石で殴りつけて殺し、発作的に現金を奪った。

 そこから死体を茂みに隠し、奇怪な動物たちもとい妖怪の目をかいくぐって逃げ、返り血を浴びた制服からジャージに着替え、川で手や顔を洗った……までは良かったのだが。

 

 ふと、シバタがちゃんと死んでいるか気になった。万が一息があり、自分を探してなどいたら……。

 自分が犯した罪というのは、時に妖怪よりも恐ろしい。自分のした事がどんな影響をおよぼしたか……。犯罪者が往々にして犯行現場を再び訪れるのも、そんな心理からだろう。

 徐々に日没が近づく中、シオンはわざわざシバタを隠した場所へもどり、妖怪がむさぼった死体を確認した……。そこで、燐と出会ったのだ。

 

(あの燐を見た時には腰を抜かしたけど……結果的には助かったわ。帰る手助けまでしてくれて)

 

 殺人の証拠となる制服や、現金を抜き取った財布などを茂みに投げ捨て、シオンはほくそ笑んだ。とんだ珍事件ではあったが、大手を振って現代に帰れる。そう思うと自然に気持ちが軽くなった。

 そして荷物を持ち直し、神社への階段を登る。しかしその途中でふと、ある考えが浮かんだ。

 

(……けど、こんな場所に来て見返りが財布だけって、なんか割りに合わないわね)

 

 緊張が解けると、とたんに呑気な思考が涌きだす。せっかく幻想郷とやらに来たのだから、何かもっと得になるようなものはないか……。

 しばし頭をひねり、シオンは顔を上げると、表情を輝かせた。

 

「そうだ、これよ!」

 

 そう叫んで彼女は携帯を取り出し、辺りの動画を撮りはじめた。

 見知らぬ場所であるなら、そこの風景は二度と見れない、貴重なものとなるだろう。異世界まがいの場所にいた証拠にもなる。その映像を、行方不明(おそらく)になっていた自分たちが持ち帰り、公開すればどうなるか?

 当然、生徒たちが消えた事件と合わせてメディアを賑わすはずだ。新聞などの取材はもちろん、テレビ出演や書籍の執筆もできるかもしれない。

 世間の関心が続く限り、かなりの金額が動くだろう。他の生き残りがいれば、一緒に証言してもらえばいい。ヤラセを疑うような有象無象のヘイトを分散させる事もできる。誹謗中傷するような輩(ゴミども)の関心が他へ移ろうが、金は残るのだ。まさにこの世のものとは思えない、一獲千金のチャンスではないか。

 

 シオンの頭はもはや、幻想郷の風景を撮る事でいっぱいだった。自分が殺人犯という事実も忘れたかのように顔を上気させている。

 金しだいで法をまぬがれる者がいくらでもいるというのに、法の通じない場所でビッグチャンスをつかんで何が悪いのか。ある意味社会の常を敏感に感じ取っていた彼女は、無意識下でそう考えていた。

 

 そうして、あらかた目に見える周りを撮り終えた後。これといった映像もなく、止めるかどうかシオンが動画を切らずに悩んでいると。

 

「ばあっ!!」

 

「ぎゃっ!?」

 

 突然、画面の隅からピースサインをした燐が割り込んできた。驚いたシオンは腰を抜かし、携帯を高く放り出す。

 

「あはは、すっごいビビりようだね~」

 

「な、何よ! 何の用よアンタ!!」

 

 手を叩いてはしゃぐ燐を、シオンは面食らった表情で非難する。そんな彼女に燐は手を差し出し、こう切り出した。

 

「やぁゴメンゴメン。帰る前にさ、確かめたい事がいくつかあって」

 

「確かめたい事?」

 

「そ、ちょっくら時間をいただけないかな」

 

 けげんな顔をするシオンに、燐は気安い笑みを浮かべる。シオンはできれば早く帰りたかったが、送ってもらった恩の手前、頼みをむげに出来なかった。

 

「いいけど……内容は?」

 

 平静をよそおってうなずいたシオンだったが、その表情は次の瞬間、凍りついた。

 

「この子の事なんだけどさぁ」

 

「!!」

 

 燐はかたわらの猫車に乗せられた荷物の、被さっていたムシロに手をかけ、一気に取り払った。そこには、頭と腹から血を流した、あのシバタの死体があった。

 固まっていたシオンだったが、むっと漂う血の臭いで我にかえり、燐に言い募る。

 

「今さらどうしたのよ、そんなモン持ち出して!」

 

「悪い悪い、これなんだけどさ」

 

 燐は全く平気な風で笑っていたが、ふと見透かすような目をシオンに向け、こう問いかけた。

 

「おねーさん確か、この子(シバタ)の死体は()()見つけたって言ったよね?」

 

「ええ……見つけた時には、死んでたわよ」

 

 シオンは目つきを鋭くして答える。しかし、声はかすかに震えていた。

 燐は、「ふーん」とわざとらしくつぶやき、こう指摘する。

 

「けど変じゃない? この死体、茂みの裏に隠れてたよ? ()()見つかるもんかねぇ」

 

「っそれは……」

 

 シオンはやや言葉につまったが、すぐにこう言い繕う。

 

「ほら、危ない動物とか、何より妖怪がいるじゃない。色んな場所を用心深く見てたのよ」

 

「ふんふん、ただねぇ」

 

 燐はうなずいたが、再び問う。

 

「おねーさん、死体を見ながら言ってたよね。『私は悪くない。こんな()()()()()()()メチャクチャになるだなんてどうしようもない』って」

 

「……それが?」

 

「見ての通り、この子は頭にも傷がある。それに言及しないのは、不自然かなぁって」

 

 シオンは何事か言い返そうと口を開いたが、それより早く燐が言った。

 

「おねーさん、頭のキズの原因は知ってたんじゃないかい? だから無意識に、妖怪がやったであろう腹のキズだけ言及したんだ」

 

「違う! 何の証拠があってそんな事を!」

 

「証拠はないけど確証ならあるね。次に……」

 

 語気を強くするシオンを横目に、燐は続けた。

 

「あたい、おねーさんを送る途中で言ったよね。『あんな場所にずっといたら、たまらず餌食になる』って」

 

「知らないわよ!!」

 

「……なんで、シバタ君があの場所にずっといたなんて知ってるんだい?」

 

「うるさい、うるさいっ!! このメス猫!!」

 

「アンタが動けなくしたからさ。石で殴りつけて、あの場所に隠した。そして一部だけが妖怪の餌食になった」

 

 歯をむいて叫ぶシオンに、燐がゆっくりとにじり寄る。乗っていた石段から足を踏み外しそうになり、シオンはさらに高く、金切り声をあげた。

 

「だから、証拠を出しなさいよ! それとも見た人がいるっての? バカにしてんじゃないわ、名誉毀損よ!?」

 

「……はぁ」

 

 一向に態度を軟化させないシオンに、燐は呆れたように首を横に振る。そして周りを飛んでいた人魂の一つに目をやると、初めてシオン以外に口を開いた。

 

「見ての通りだよ、()()()()。こいつぁ駄目だ」

 

「えっ、シバタ……?」

 

 その言葉に、シオンが息を呑む。次の瞬間、話しかけられた人魂は空中で大きさと形を変え、人の姿になった。その外見は、青白くはあったが、目の前で死んでいるシバタの面影があった。

 

「ひぃっ!?」

 

 シオンの口から、金属が擦れるような声が飛び出す。そんな彼女を平然と見つめながら、燐は言った。

 

「おねーさんには言ってなかったけどね。あたいにはちょっとした特技があるんだ。"死体"や"怨霊"の話が聞けるんだよ」

 

「……死体……!」

 

 シオンがごくりと生唾を呑む。今度は人魂……もといシバタの怨霊がにじり寄った。

 

「そ、おねーさんと会った時から、頑張って伝えてくれてたんだよ。『その女は殺人犯だ~』『早くつかまえてくれ~』ってね」

 

「じゃ、じゃあなんで今頃!」

 

「最初はおとなしく帰してあげようと思ったんだよ。殺しが好きな訳じゃないし。でも……」

 

 燐は、隣の怨霊を指さした。

 

「この子が、おねーさんを生かして帰すならあたいを呪い殺すって聞かなくてさぁ。言ったろ? 妖怪って恨まれるのキライなんだよ」

 

「……っ!!」

 

 燐が言った瞬間、怨霊が覆い被さるようにしてシオンに襲いかかった。シオンは顔面蒼白になり、一目散に逃げ出した。

 

「いやあああぁっ!!」

 

 悲痛な叫び声が夜空に響く。石段を外れ、丘を駆け降り、視界がきかない中をデタラメに走り回る。

 

「いや、いや、嫌っ!!」

 

 どこまでも背後について回る妖怪から逃げ惑い、シオンはけっきょく燐のいた場所にもどってきた。彼女は飛ぶようにして燐にすがりつき、涙ながらに訴えた。

 

「ね、あなた説得できるんでしょう? 助けてよ、ねぇ何でもするから、早く!」

 

「だから無理だって。さっさと帰っちゃえば良かったのに」

 

「あああぁぁ!」

 

 シオンが燐の肩をゆさぶる間にも、怨霊は徐々に徐々にと迫り来る。シオンは必死の形相で燐の肩をいっそう強くつかんだが、その感覚が直後、ふっと消える。

 

「きゃあっ!?」

 

 シオンは支えを失い、前のめりに倒れた。見ると燐が煙のように消えている。石段に強打した膝の痛みに耐えつつ姿を探すと、ふと、視界の先に一匹の猫がいるのを見つけた。

 黒いしなやかな体躯をした成猫で、ところどころ赤毛が混じり、黄色い目が暗闇にギラギラと光っている。その尾は奇妙に二股に別れ、先端がロウソクのように燃えていた。

 

(あの猫……もしかして……)

 

 倒れていたシオンが疑問をいだく一瞬の間に、怨霊はすぐそばまで近づいていた。それが触れた瞬間、猫は目を細め、にゃあぁと鳴いた。

 

――

 

 それから数時間後、空が白みだす時分。

 燐は自分の住みかである洋館、"地霊殿"

の廊下を、猫車を押して歩いていた。まだ住人が眠っている館内で、()()()()の重さを運ぶ車輪の音が目立って響く。

 その猫車には、二つの死体が折り重なるようにして乗せられていた。一つは頭と腹にキズを負った少年。もう一つは、ジャージ姿で頭をあちこちかきむしった痕がある少女。

 

 誰もいない館内を、燐は携帯を見ながら歩いていた。画面がひび割れた携帯。シオンが幻想郷の動画を撮っていた途中で、落としたものだ。

 録画のスイッチが入りっぱなしだったのか、そこには別の映像が収められていた。狂ったように頭をかきむしり、ジタバタともがくシオンが、画面に出たり入ったりしている。

 燐はその映像から目を離し、猫車の中を見た。怨霊にとりつかれて狂い死にした少女と、怨霊の主の少年が、青白くなって共にいる。

 その二人を見下ろしながら、燐はため息まじりに言った。

 

「こうなりゃ金なんて意味ないさね。憐れなもんだ」

 

 何も言わない死体から目を離し、燐はまた楽しげにステップを踏んで、猫車を押していった。

 

イズミ シオン――死亡

シバタ ユウスケ――死亡して怨霊化ののち、成仏

 



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逆さの本能

「うーん……暇だ」

 

 ある人気(ひとけ)のない森の一角。穏やかに流れる川のせせらぎが、木々の葉音と心地よいハーモニーをかなでる。真昼の木洩(こも)れ日が川の水面に反射し、キラキラと星屑のように光る。

 そんな風景が広がる川のほとりに座り込み、一人の少女がごちていた。

 小柄で、丈の長いワンピース姿。スカートのすそには矢印が組合わさった奇妙な模様があり、上半身には赤色の、セーラー服のような襟をつけ、リボンで留めている。

 細い腰も長いリボンで結び、手首に腕輪、足に厚底の木製サンダルをはいている。

 そして特に変わっているのが、首から上の部分だった。黒毛と白毛の混じったような色の髪は肩までウェーブをえがいて伸び、額にかかる一部だけに赤色のメッシュがついたような髪が生えている。そして、その頭頂部の左右には、小さな鬼のような角が、一対生えているのだ。

 

「こんな平和な光景は、私みたいな天邪鬼(あまのじゃく)には地獄だよ。はぁーあ」

 

 赤い目を空に向け、不満げにそう口にすると、少女はゴロリと横になった。半端に開けた口元からは小さな牙がのぞき、退屈そうに地面をいじる指先には、長くとがった爪がある。

 彼女は天邪鬼、俗にいう妖怪の一種である。名を鬼人 正邪。全てをひっくり返す能力者を自称し、時たま"反逆"という名目で人々に嫌がらせや嘘をふっかけている。

 現代でいえば指名手配犯のような扱いを受けているのだが、周りに妖精などが飛び交うこの地、幻想郷では彼女も刑罰に処される事はなく、のんびりと暇をもて余している。

 やがて正邪はふあぁ、と大あくびをすると、そのまま地べたに寝入ってしまった。

 

 からりと晴れた陽気を、木々がいい具合に閉じ込めて空気を暖かくしている。川のせせらぎが子守唄のように意識を落ち着けてくれる。正邪のいた場所は、まさに昼寝に最適だった。すぐそばが水辺だという事をのぞけば。

 

「うぅーん……」

 

 気の抜けた寝息を立て、正邪は盛大に寝返りを打つ。すると転がった体が勢いづき、彼女はそばの川にあっけなく沈んでしまった。

 

「ぶわっ!?」

 

 夢の中にいた正邪は、突然おそいかかる水の冷たさに目を白黒させた。川は案外深く、底に足が着かない。実は妖怪たるもの宙に浮かぶのも可能なのだが、彼女はとっさに思い当たらなかった。そうでなくとも、妖怪の心というのは案外もろいのだ。動揺するうちに彼女の口に水が入りはじめる。

 

「た、助け――げほっ!」

 

 本当におぼれた時というのは、それほど音が立たない。ぱしゃぱしゃと力なく水をかく姿は、直接それを目撃でもしないと救助は難しいと思われた。しかしあいにく場所は人気のない森の中。

 万事休すか、と思われたその時。

 

「大丈夫か!?」

 

 対岸から男の声と、続いて水に勢いよく飛び込む音がした。そしてもがいている正邪のそばに一人の少年が泳ぎ着くと、少年は正邪を支えて少しずつ元の岸へと運んでいく。

 

「けほっ、かはっ……ふっうぅ……」

 

「ほら、遠慮せず吐き出せ。我慢すんな!」

 

 岸にあがって四つん這いになった正邪の背中を、少年は勢いよく叩いた。正邪の口から何度か水がもどり、地面に染み込む。

 

「……ふぅー……ふぅー……」

 

 やがて落ち着きを取り戻し、正邪は口をぬぐって隣にいる少年を見る。ワイシャツにスラックスという姿で、全身がずぶ濡れになっている。

 

「あーよかった。もう平気か?」

 

 額に張りつく髪を払い、少年がはにかんだ。茶色のベリーショートの髪と、あどけなさが残る顔立ちが可愛らしい。背に後光を受け、水滴がキラキラと輝いている。

 少年のその姿に、正邪はしばし見とれたようにボンヤリとしていた。やがて少年は首をかしげ、彼女の目の前で手を振ってみせる。

 

「おーい? 大丈夫か? 俺が分かるか?」

 

 少年の声にハッとなり、正邪はぷいっと目をそむけた。そのしぐさに安堵のため息をもらす少年。

 

「なんだ、意識があるならそう言ってくれよ。やべー事になったかと思った」

 

 はは、と屈託なく笑う少年を尻目に、正邪は礼の一言も言わなかった。天邪鬼は妖怪の中でも特に人間の善意を忌み嫌う。人助けをして笑っているようなタイプなど、もっとも気に入らないところだった。

 

「……誰だよ、お前は」

 

 正邪はゆっくりと立ち上がり、少年をにらみつける。いざ並んでみると少年の背は160センチほど、正邪の10センチ上くらいだった。

 少年は剣呑な目つきで見上げてくる正邪に一瞬とまどったが、すぐに笑顔にもどり、言った。

 

「ああ、はじめまして。俺はユタカ、ツカモト ユタカだ」

 

「…………」

 

 一切の警戒を向けない少年、ユタカの姿に正邪はますますイラ立った。しかし、その不機嫌な表情はふとした拍子に崩れる。

 

「はっくしゅん!!」

 

 高いくしゃみが辺りに響く。正邪は鼻水をちょろりと垂らし、ブルブル震えて自らを抱く。

 互いが濡れネズミだというのを思い出したユタカは、とっさに自分がいた方の対岸を振り向く。そこには彼のものらしい、大きな旅行カバンが落ちていた。

 

「ちょっと待っててくれ!」

 

 ユタカはそう言うと再び川へ飛び込み、対岸のカバンを引っつかむと、それを頭に乗せて苦労しながら正邪のもとへ渡ってきた。

 

「ほれ、取ってくれ。早くしないと落ちて濡れ……うおっと」

 

 カバンの重みにつられるようにして揺れながら、ユタカは正邪にうながす。正邪はしばらく腹立たしげにそれを見下ろしていたが、やがて舌打ちと共にカバンを引ったくり、地面に投げ捨てた。それを見てユタカが苦笑する。

 

「そんなに乱暴にしないでくれよ」

 

「知るかよ。で、これは何なんだ?」

 

「その中にタオルと着替えが入ってんだ。俺ので悪いけど使ってくれ」

 

「……これか?」

 

 正邪はチャックを珍しげに見つめた後、勢いよく開く。中には着替えをはじめ、お土産や携帯の充電器などが詰め込まれている。

 

「どれがどれだか分かんねーよ!」

 

「悪い悪い、ちょっと待ってな……っと」

 

 相変わらず不満顔で振り向いた正邪に、ユタカは隣に座ってカバンを探る。そしてバスタオルと着替え一式を取り出すと、正邪に手渡した。

 

「……着替えろっての?」

 

「ああ。だって濡れてたら風邪ひくぜ?」

 

「……………………」

 

「いや、俺は向こうで着替えるって」

 

 上目遣いにじーっとにらみつける正邪へ事もなげに返事をし、自分の服とタオルを持ってしげみの奥へ引っ込んでいった。

 取り残された正邪は、手元の衣類をジッと見つめる。見たこともない材質の、ユタカが使っているであろう服。

 正邪は何やら胸の奥からじわじわと嫌悪感が湧くのを感じ、周囲をうかがうと素早く体をふき、衣服に袖を通す。背丈も体格も違うのでブカブカになってしまい、正邪はイライラをぶつけるように濡れた服をかたわらの木に引っかけた。

 

 次に、彼女はユタカが入って行った茂みの方角を見る。そこには、植物の陰でゴソゴソしているユタカの姿が、ちらりと見えた。

 のぞいている背中や肩は意外と筋肉質で、それほど長身でもないのにガッシリして見える。背筋は左右対称の凹凸がくっきりと浮かび上がり、肩は首回りを覆うように盛り上がって、しかしなめらかな曲線を描いてしなやかな腕につながっている。

 美しい、そう言えるものを目にして、ますます正邪は気分が悪くなる。美醜の価値観が逆転している……というより、大多数の尊ぶものが、彼女はとにかく気に入らないのだ。

 正邪はユタカに向かってズカズカと近づくと、彼が振り向く間もなくその尻を蹴りつけた。

 

「どわっ!?」

 

 ユタカは短い悲鳴をあげ、短パンの半裸姿で勢いよく地面に倒れ込む。あわてて彼が振り返ると、さげすむように見下ろす正邪と目が合った。

 

「何するんだよ、もう……」

 

「いつまで着替えてやがる。モタモタしやがって」

 

 怒りもせず立ち上がるユタカに、正邪は横柄な言葉を投げつける。しかし、腕組みしてしかめっ面の正邪の姿を見て、ユタカは何故か吹き出して笑いはじめた。

 

「な、何がおかしい!?」

 

 戸惑って反発する正邪に、ユタカは軽く咳ばらいして答える。

 

「いや、悪い……。そのシャツ、後ろ前が逆だから」

 

「へ?」

 

 正邪がポカンとして自身を見返す。襟の部分に不格好に布がかぶさり、彼女の体に大きすぎるシャツと合わせて間抜けな姿をつくっている。

 現代の製品にうとい正邪ではあったが、笑われているのは察しがついたので、不機嫌なままくるりとシャツを一回転させる。そして負け惜しみか、顔を赤くして叫んだ。

 

「しょ、しょーがねーだろ! 私はこんな服見るの初めてなんだよ!」

 

「……え、マジで?」

 

 それを聞いたユタカは、半ば怪訝な顔になって聞き返した。そして今さら気づいたのか、正邪の頭の角をまじまじと見つめる。

 その視線にうんざりしたため息をつき、正邪はようやく名乗る。

 

「……私は鬼人 正邪。天邪鬼だよ」

 

――

 

 ……それから数十分ほど後。

 日が落ち始めた川のほとりで、正邪とユタカは二人で焚き火を囲んでいた。パチパチとはぜる火が、二人の顔にうっすらと陰影をつくる。相変わらず正邪は無愛想で、ユタカもやや神妙な表情をしていた。

 正邪はあれから、ユタカに幻想郷の事を伝えた。自分を含めた妖怪や、神や妖精など夢物語のような存在が暮らしている箱庭の存在を。また、ユタカのような迷い込んだ人間は、殺されようが食われようがお咎めはないとも話した。

 一通り聞き終えたユタカは、一つうなって足をくずし、正邪を見返す。そして口を開いた。

 

「……マジか、不思議とは思ったけど……」

 

「言っておくけど嘘じゃねえぞ。どうせ死ぬザコを騙しても面白くない」

 

「いや別に、疑ってはいねえよ」

 

 嫌みを言う正邪へ困ったように笑い、ユタカはかたわらの木にかかった服に目を移す。生乾きの服に、大きくなった焚き火の色がにじんでいる。それによって一層くっきりと浮かび上がる夕暮れの空を眺めながら、ユタカは無言で目を細めた。

 

「……じゃあどうするかね、これから」

 

「夜になれば妖怪はいよいよ活発になるよ。いい気味だ」

 

「うーん、なあ正邪。よかったら帰る方法知らないか?」

 

「知ってるよ」

 

「本当か!?」

 

「知ってるけど教えない」

 

 正邪のつれない返事に、ユタカはがっくりと肩を落とす。そして苦笑いしつつ、腕組み姿で首をひねる。

 それを伏し目がちに見て、正邪は少し忌々しくなった。幻想郷に迷い込んだ人間など、焦り、取り乱し、自分に恐れや嫌悪を向けてくるのが彼女にとっての理想なのだ。それを正体を明かした今でさえ、まるで女友達とでも話すかのように落ち着きはらっている。

 彼女は眉をしかめ、ユタカに食ってかかる。

 

「怖くねえのかよ、ボケっとしやがって。それとも信じてないのか?」

 

「いやだから、疑ってはねえって」

 

「後で泣きべそかいたって知らねえぞ。なんなら、今から自殺するか? 入水(じゅすい)か、そこの木で首吊りか」

 

 身を乗り出して言いつのる正邪。ユタカはそれでも笑みを絶やさず、頭をかいて言った。

 

「そんな事しねえよ、もう」

 

「じゃあ鈍いんだな。うらやましいよ、鈍感って」

 

「だから違うって。全く」

 

 火に小枝をくべて、ユタカはため息をつく。そして、言い添えた。

 

「……こうして誰かといるだけでさ、なんか、安心すんだよ。不思議と」

 

「いっ」

 

 それを聞いた正邪は、あからさまに顔に嫌悪を浮かべてのけぞった。ユタカはそれを見て、キョトンと目をしばたかせる。

 

「どうしたよ、何か変な事言ったか?」

 

「いや言っただろ。なんだよ安心って。気持ち悪ぃな」

 

 正邪は鳥肌を立てた腕をさすり、ユタカを横目ににらみつける。視線が刺さったユタカは額をおさえ、気まずそうに口を開く。

 

「……昔、似たような目にあったんだよ。ちょうど今くらいの時間に、森で迷ったんだ」

 

「何しに森なんて入ったんだ?」

 

「犬だよ。犬の散歩」

 

 そう言って、ユタカは思いにふけるように空を見た。

 

「……俺が十歳かそこらの頃、家で犬を飼ってたんだ。デカイ雑種でな、もう死んじゃったけど可愛かった。そいつの散歩が、俺の日課だったんだ」

 

「…………」

 

「けど、いつもの散歩コースばっかりじゃ飽きてきてな……。言いつけをやぶって、近所の森に行った事があった」

 

 それから懐かしそうに目を細める。

 

「案の定っていうか、道に迷っちゃってさ……。そのうち真っ暗になって泣いてたんだけど、その時、犬がまるで案内するみたいに家まで引っ張ってくれたんだ」

 

「偶然じゃねえの?」

 

「いーや、あれはきっと俺を心配してくれたんだよ。犬ってのはそういうもんだ」

 

 自信たっぷりな笑みをつくってユタカは言い返す。その目には子供のような純粋な光が宿っていた。

 

「親にはすげえ怒られたけど、みんな戻って来てくれて良かったって言ってくれてさ。あー、また犬飼おうかな……」

 

「…………」

 

 寂しそうに焚き火に目を移すユタカ。正邪は何も言わずにそんな彼を見つめていたが、ユタカは不意に顔を上げ、強い口調でこんな事を言い出した。

 

「一人じゃないってのは、やっぱり大きいよ。たまに誰とも関わりたくないって奴もいるけど、それだって文字通りの意味じゃない。みんな一人じゃ生きていけないからな」

 

「……たいそうな事を言いやがる。場合が場合ならサギ師の物言いだな」

 

「とんでもない。だって人間、こうやって誰かと火を囲むって行為を、石器時代から続けているんだぜ? 時には犬も交えてさ。人間も動物もつまるところ、愛ってのは本能なんだよ」

 

 ユタカは正邪をまっすぐに見つめ、迷いのない口ぶりで熱弁した。正邪はしばし面食らったような表情をした後、気味悪そうにたずねた。

 

「……お前さ、愛だなんて、よく恥ずかしげもなく言えるよな」

 

「ん、それは……」

 

 正邪に言われ、ユタカはしばし言葉につまり、照れくさそうに笑った。

 

「……中学生だから? なんて。もうすぐ卒業だけど」

 

「あっそ」

 

 正邪はつれない返事をし、そっぽを向いてしまった。ユタカも口を閉じ、困ったように焚き火をまた見つめる。

 地面に目を落とし、正邪はジッと物思いにふける。愛、それはもっぱら美徳とされている。それを本能と言い表したユタカを否定する気は、別になかった。彼女が『愛とは虚構である』という確固たる信念でも持っていれば躍起になって貶したかもしれないが、特に相反する価値観があるわけでも、理解し合いたいわけでもないのだ。

 ただ気に入らないのは、彼が一つだけ、ある点を理解していない事だ。そしてそれは、ただ口で伝えても仕方ない事だった。

 

「……小便」

 

 ふとそう言って、正邪は焚き火から離れた茂みの奥へ入っていった。彼女の背後からは「こうなったら野宿するかなー」などと呑気なユタカの声が聞こえてくる。

 正邪はそれを聞きつつ、彼に気づかれないように森の中を迂回すると、彼の後ろにこっそりと回り込んだ。

 そして忍び歩きで座っている彼の無防備な背中へと近づくと、首もとへゆっくりと両手を伸ばし……。

 後ろから、両手で強く首を絞めはじめた。

 

「ぐぅ……っ!?」

 

 突然の事態にユタカはくぐもった悲鳴をあげ、とっさに川の方角へ逃げ出そうとするが、正邪はそれも引きずり戻し、彼をあお向けに倒すと、馬乗りになって抑えた。ユタカの驚いた視線と、正邪のらんらんと光る視線が交錯する。

 ユタカは弱々しく目の前の少女の名を呼んだ。

 

「せい……じゃ?」

 

「よう、やっといい表情になったじゃねえか」

 

 正邪は軽い口調で答えると、また両手を伸ばし、ためらいなく首を再び締め上げる。ユタカの口から消え入りそうな声がした。

 

「かっ……は……」

 

「……ユタカ、私はな。別に信じている事とか、したい事とか、ある訳じゃねえんだ」

 

 腕に力を込めながら、正邪は何故かやけに静かな口調で言った。だが妖怪の腕力は人間より数段上で、聞いているユタカはろくに抵抗できない。後頭部が川の水面に着き、彼の脳裏にひやりとした感触が走る。

 正邪は彼の内心を知ってか知らずか、薄ら笑いをして続けた。

 

「……けど生まれつき、周りが穏やかでいるのだけは許せないんだ。これはもうどうしようもない、私だけの本能さ」

 

 本能、と聞いた瞬間にユタカの目がかすかに反応する。正邪はぐっと前のめりになり、急にユタカの目と鼻の先まで顔を近づけた。目だけが妙にぎらつき、嬉しいのかどうか判断がつかない。

 

「お前は勘違いしてる。妖怪ってのはな、人間でも動物でもない。理不尽な化け物だ。愛だのなんだの、私にとっちゃクソ以下なんだよ」

 

「…………」

 

「テメェはいわゆる良いヤツさ。だから死ね! 私のためにな!」

 

 正邪はますます顔を近づけ、手に力を込めた。口調はもはや喚くようで、口角だけが不自然に上がっている。

 その時ふと、ユタカは苦悶の表情をかすかに和らげると、すきま風のような声を発した。

 

「……わ、る……ぃ」

 

「あん?」

 

「……しらなか……た、わ。ごめ……ん」

 

 口からヨダレを垂らしながら、なおも精一杯明るく、ユタカは笑った。

 その刹那、正邪はかっと表情を変え、猛然と体を起こす。その反動で、ユタカの顔が、川の中に沈んだ。

 ごぼ、ごぼっ……と不規則な呼吸が泡になって浮かんでは消えたが、やがてそれも無くなり、ユタカはぐったりと動かなくなった。正邪が体を離すと、遺体はだらりと力なく地面に横たわる。

 

 正邪はそれを、喜ぶでもなくボンヤリと見つめていた。笑顔を向けられていた時のような胸のざわめきは無い。かわりに、しいぃんとした森の静寂が、耳鳴りするほどに蔓延している。

 正邪は無言で、後ろの焚き火へ目を移した。火をはさんでポッカリと開いた二人ぶんのスペースを、正邪はいつまでも、なんともいえない空しさをたたえて見つめていた。

 

ツカモト ユタカ――死亡



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無私の優しさ、虫の優しさ

「エリカちゃーん、シホちゃーん! ミチカちゃーん! ……ああ、皆どこ行っちゃったんだろう」

 

 夜が白み、冷えて湿った空気がただよう時間帯。朝露が残る一面の草原の中を、一人の少女がさまよっていた。

 名は、アサクラ ノゾミ。▼▼中学と書かれた制服姿で、長い黒髪をサイドアップにまとめている。丸く大きな目は純粋そうな印象を与えるが、今この時、その目は焦りにくもっている。

 

「うー……重たい……」

 

 ノゾミは持っていた大きな旅行カバンを地面に置き、小さくため息をついた。修学旅行の荷物であるカバンを、彼女はかれこれ一時間ほど、一人で抱えてさまよっていた。

 

 彼女を含めた▼▼中学の三年生は、修学旅行の移動のために4台に分かれたバスに乗っていた。ところがそのバスが不意に濃霧に包まれたかと思うと、気がつけばノゾミはこの誰もいない草原に、荷物と一緒に横たわっていた。

 目が覚めるまでの間に何があったのか、頭の中にはまるで記憶が無い。携帯で時間を確かめたが、バスにいた時から三十分も経っていなかった。

 一体何があったのだろう。昼間バスにいた頃からそう経っていないのなら、周りの風景が朝方なのは何故なのか? 知らぬ間に外国にでも来たというのか?

 

「……っ!?」

 

 ノゾミが途方に暮れていると、突然足にむずがゆいような感覚が走った。驚いて足を見ると、膝ほどの高さの草むらから小さな虫の()()が飛び出し、次々とスカート下のふくらはぎの部分に群がってきている。

 

「いやっ!」

 

 ノゾミは顔色を変えて反射的にブユをつぶそうとしたが、直前に思いとどまる。そして首をふるふると横に振ると、その場から急いで駆け出した。虫が全身にでも回ったかのように歯を食い縛り、嫌悪感を存分に顔に出していたが、彼女はこらえた様子で走り続けていた。

 少しの間走っていると、やがて草むらの丈が低く、いくらか踏み(なら)された場所へ出た。足にまとわりついていた雑草からやっと解放され、ノゾミはほっと息をつく。

 

「ふぅー……」

 

 膝を折って息を整えてから、彼女は先ほどまでブユがたかっていた足を見る。案の定、何ヵ所も赤い噛み跡ができ、まだ何匹かがしつこく血を吸っている。

 あちこちがムズムズするのをこらえつつ、ノゾミは残っているブユを震える手でていねいにつまみ、近くの草むらに投げ捨てた。そして足をわずらわしげに撫でると、かたわらの荷物を探り出す。

 

「そういえば虫よけ使ってなかったな。まさか知らないうちに森にいるなんて……」

 

 一人で思い出したように言い、彼女はまず虫さされの薬を足に塗ると、次に虫よけスプレーを全身に噴射する。ケミカルな匂いが鼻をつき、少しだけ頭が冷静になる。かれこれ目覚めてから、森で縁遠く感じていた人工物の気配。

 しかし、その直後に彼女は苦笑いし、スプレーや薬をしまいながらつぶやいた。

 

「でも、ちゃんと効いてくれるかな……こんな薬で」

 

 そう言って、ノゾミはそっと辺りをうかがう。彼女の懸念はさほど間違ってはいなかった。視界に映った一匹の虫を見るだけでも、それが分かる。

 目の前の一本の木に、大きな羽を持つ蛾が止まっている。正確には"蛾らしきもの"と言うべきだろうか。広げている羽は手のひらの二倍ほどの大きさがあり、虹色のまだら模様。そして羽から中心に向かうとある顔や胴体はケバケバしいピンク色で、もっさりと毛が生えている。

 ノゾミはそれを遠巻きに見つめ、異様な姿に顔をしかめた。背筋に寒気が這いのぼり、息がつまるほど苦しくなる。その嫌がりようはブユの時よりも一層ひどかった。

 

 昆虫界広しといえど、こんな蛾は見た事がない。いや、熱帯地域ならいるかもしれないが、周りの景色はどうして、ノゾミにとって身近な気候のそれに近かったのだ。

 実際、こんな非現実的とまでいえる虫を、彼女は目覚めてから何度も見てきた。

 血のように真っ赤な、50センチほどある蜘蛛、オオスズメバチと見間違えるほど巨大な、黄金色のハエ。ノゾミはそれをおののきつつも避け、ここまで逃げてきた。

 

「とりあえず行こう」

 

 困惑しながらもノゾミはそう言い、荷物を持って歩き出す。カバンが周りの虫に触れないよう注意し、踏みそうになっても出来るだけ避ける。その気配りは虫を嫌悪しての行動でもあったが、彼女の場合、それだけではない。

 

「――あっ」

 

 ふと、ノゾミがかたわらの木に目を留める。ある枝にしげった葉の一枚から、毛虫が落っこちそうになっている。

 例によって、子供の上腕ほどの長さのある、巨大な虫。しかしその不気味な幼虫へノゾミは見るなり駆け寄ると、手を差しのべた。

 素手では刺されるかもしれないので袖の部分を使い、毛虫を葉の上へ押し上げてやる。のそのそと葉に乗った毛虫を見て、ノゾミはほっと息をつき、足早に立ち去った。

 

 親切、というべき地味ながら大きな長所が、彼女にはあった。迷子の子供がいれば親を探してやり、財布を拾えば漏れなく交番に届けて分け前も辞退し、重そうな荷物を持つ人がいれば一緒に持ってやる。今のような見知らぬ場所においても、嫌いな虫に対しても、その気概は健在であった。

 それからさらに十分ほど歩くと、ノゾミはようやく草原を抜け、土を均した道らしき場所に出た。左右を見渡しても人のいそうな場所は見当たらないが、これをたどれば誰かに会えるだろうと、彼女は一安心する。

 その時。

 

「あの、そこの人!」

 

「え?」

 

 背後で急に、小さな子供の声が呼び止める。ノゾミが振り向くと、十歳ほどの見た目の、少女が立っていた。

 

「あなた、さっき毛虫を助けた人だよね?」

 

「へ……あ、うん。そうだけど」

 

 だしぬけに聞かれ、ノゾミは戸惑いながらも返事をする。さっきまで誰もいなかったのに、と思いながら彼女はその妙な少女をまじまじと見る。

 緑色の短いショートヘアに、細めの体を包む白シャツ、紺色のキュロットパンツ。少年のようにも見える外見で、背中には燕尾状の二股に分かれたマントを羽織り、頭には虫のような触覚がついている。

 そんな彼女はノゾミの返事を聞いて顔を輝かせると、素早く駆け寄って上目遣いに言った。

 

「わぁ、良かった! 仲間から『親切な外来人がいる』って聞いて、探してたんだ!」

 

「……がいらい……??」

 

 話が見えずに、ノゾミは愛想笑いをして少女を見る。見慣れない格好で怪しさもあったが、この状況において貴重な会話のできる相手である。そして見たところ友好的でもあり、ここは邪険にしてはいけないだろう……。

 などと頭の隅で考えていたノゾミだったが、少女の次の言葉で、その目が点になった。

 

「はじめまして、私はリグル・ナイトバグ。幻想郷の虫の女王だよ」

 

「……はい?」

 

――

 

「……それなら、リグルちゃんは虫の妖怪って事……?」

 

「うん。こんな姿だけど、幻想郷では唯一の女王様だよ」

 

 数分後、ノゾミと並んで道を歩きながら、リグルは胸を張ってそう言った。

 幻想郷、ノゾミが聞いた事のないその地名が、今いる一帯の地域の名前らしい。リグルいわく、人間が幻想と認識している神や妖怪の楽園らしい。リグルはその中で、虫の妖怪のリーダー格であるという。

 正直、ノゾミはにわかに信じがたかった。幻想郷という世界じたいは、確かに今まで見てきた巨大な虫たちからして信じないでもないが、ならばなおさら、その女王たるリグルが小さな少女の姿をしているのが不自然に思えた。

 そんな事を思いながらリグルを見つめていると、ふとリグルが振り向き、困ったように笑った。

 

「あんまり怖くないでしょ、私」

 

「それは……まぁ」

 

 下手にうなずくと失礼に当たるのではと思い、ノゾミは言葉を濁す。そんな彼女の心情を見透かしてか、リグルはおどけるように肩をすくめた。

 

「無理もないけど、こっちにも事情があるんだよ。虫ってさ、やっぱり見た目とかでよく気味悪がられちゃうから、嫌われてつぶされる率が高かったんだ」

 

「…………」

 

「それで比較的に人気があったホタルの妖怪の、私が女王の座についたって訳。まあ数が多いのが救いだったね」

 

「そうだったんだ……」

 

 リグルの話に、ノゾミは形だけの返事をした。リグルや虫たちに同情する気持ちと、嫌うのに共感してしまう気持ちが、内心でせめぎ合っていた。

 そんな葛藤を知ってか知らずか、リグルはパッと表情を明るくして向き直り、感心して言った。

 

「ノゾミさん……だったっけ? その点、あなたはすごいと思うよ」

 

「え、何が?」

 

「だって、困ってる虫を真っ先に助けてくれたじゃない。あんな人、あまり多くないよ」

 

「大した事ないよ。体が勝手に動いたの」

 

 ノゾミは苦笑し、短く答えた。動く前に少しでも考えるヒマがあれば、虫に触る事など耐えられなかったに違いない……と、彼女は自分ながらに想像できた。

 それは口には出さなかったが、リグルがすごいと言ってくるのが、どうにも心地よくなかった。ノゾミは話を合わせて愛想笑いをしながら、うっすらと幼少期のある体験を思い出していた。

 

 ――彼女の父は働き者だった。毎日会社へ遅刻もせずに出かけ、定時に帰れる日などほとんど無いにも関わらず、暇があれば家事も喜んで手伝った。

 当時は小学生、遊びたい盛りであったノゾミの目には、それはとても大変に見えていた。ある日、ノゾミはふと、父にこう言った。

 

『お父さんはえらいね。仕事と家のお手伝いを両方してるなんて』

 

 それを聞いた父は、『ありがとう』と返してから、事もなげにこう言った。

 

『でも本当は、このくらい出来なきゃダメなんだ。私は当たり前の事をしてるだけさ』

 

『えー、でももっとエラそうにして良いんじゃない? クラスのクロサワくん家なんて、お父さんはろくに働いてないって』

 

 からかうように言ったノゾミだったが、父は苦笑いし、いましめるように話しだした。

 

『ノゾミ、あまり自分をえらい、すごいと思いすぎない方がいいんだよ。特に他人と比べてはダメだ。ムカデの寓話(ぐうわ)を知ってるかい?』

 

『む、ムカデ……? 知らない……』

 

『一匹のムカデがある時、アリに会ってこう言われた。「ムカデさんはすごいですね。そんなにたくさんの足を、絡ませもしないでスイスイ走れるんだから。僕にはとても出来ないや」と。

 それを聞いたムカデはふと、「はて、なぜ私は今までこんなすごい事が出来ていたのだろうか」と疑問に思った。その瞬間、今まで苦もなく動かしていたはずの足が、思うように動かせなくなった……というお話さ』

 

『……?? よく分かんない』

 

『人間にもね、見返りや理屈ぬきでやれている事がたくさんある。それを「自分はコレができる!」とあんまり意識したら、かえって出来なくなってしまう事があるんだ』

 

 そう言って、父はノゾミの肩に手を置き、しんみりと続けた。

 

『お前にはまだ難しかったかな。でも、考えすぎずにやった積み重ねが、だんだんと長所になる事もあるかもしれないよ』――

 

 その父の解釈が正しかったのかは分からない。ただ、ノゾミは父の言う通り、理屈より先に動くというのを実践していった。その結果に習慣となり、彼女の性格の一部となったのが、虫を含めて周りに向けた親切だった。

 

(懐かしいなぁ……)

 

 ノゾミがボンヤリと思いにふけっていると、隣から、大声で呼ぶ声が聞こえてくる。

 

「……ゾミさん、ノゾミさん!」

 

「……あ、え?」

 

「もー、私の話ちゃんと聞いてた?」

 

「ゴメンゴメン。何だったっけ」

 

 どうやら知らず知らずにリグルを無視してしまったらしい。リグルは眉根を寄せて「ムシだけに……」などとコッソリつぶやいた後、仕切り直して口を開いた。

 

「だから、仲間を助けてくれたお礼に、他の外来人を探してあげようかなって言ったの」

 

「本当に!?」

 

 リグルの言葉を改めて聞いたとたん、ノゾミは驚きと喜びが入り交じった表情でリグルを見た。リグルは近くなった相手の顔にまごつきつつも、やれやれといった調子で続ける。

 

「か、勘違いしないでよ。仲間が言うから仕方なく力を貸してあげるんだ。感謝するんだね」

 

「うん! ありがと~」

 

 照れくさそうなリグルに、ノゾミは屈託なく笑って礼を言う。その場では本当にありがたく、本心から感謝していた。

 しかし、次にリグルが口にした言葉で、ノゾミの顔色がさっと変わる。

 

「じゃあ紹介するよ。全部でざっと百億匹はいる」

 

「……え?」

 

 ノゾミは嫌な予感がし、言葉を失った。リグルはそれには気づかず、合図のように一つ、指を鳴らした。

 瞬間、ノゾミの目の前の光景が一変する。

 

 リグルの足元の土が、突如下から突き破られたように穴を空け、黒い波のようなものが吹き出してたちまち地面に広がりだす。よく見るとそれは数えきれないほどのアリの大群で、リグルの影を埋め尽くすかのように隙間なくうごめいている。

 それを見ただけでノゾミは絶句してその場に倒れてしまいそうになったが、恐怖はそれだけに留まらない。

 アリの大群に続き、今度は周りの茂みから無数のてんとう虫が這い出てきた。赤地に黒の斑点模様が密集し、赤黒いかたまりとなってアリと共に地面を彩る。

 続いて、そばにある木々の枝から、大小さまざまなクモが糸に垂れ下がって現れた。エメラルドグリーンの小グモから焦げ茶色の毛が生えたクモ、そしてあの腹部に虎のような模様が入った大グモまで、まるで昆虫図鑑の絵のように一匹のこらず全身をさらけ出している。

 

「あ……あぁ……」

 

 ノゾミは情けない声をあげてへたり込んだ。もはやリグルを頼ろうという気持ちは真っ白に塗りつぶされ、代わりに恐怖と焦燥があふれ出す。体が震えて言う事を聞かず、涙が勝手ににじみ出る。

 しかし、今度は背後から、耳を通じて新たな恐怖が遅いかかる。先ほどまで雲一つなかった上空から、何かの羽音が何重にも共鳴してこだまする。その騒音に嫌な予感がしたノゾミは、ネジの切れた人形のように振り向いた。

 そこには――彼女の想像通り――ガスのように空を覆う、黄色いハチの群れがあった。ブオォン、という野太い羽音を鳴らし、肉眼で見えやすい巨大なオオスズメバチと、小さく数の多い種類のミツバチ、ついでに黒いクマバチが混ざり合って頭上に渦をつくる。

 

「……………………」

 

 ノゾミはしばし、周囲の光景を呆けたように見つめていた。リグルが「ハチは社会性が高いから扱いやすいんだ」などと呑気に話していたが、耳に入らない。

 もしかすると幻想郷だけに、周りの虫たちも現代のそれに似ているだけで、細かい違いがあったり、意外と賢かったりするのかもしれない。しかし今では、ノゾミには恐ろしい異種の生物にしか見えなかった。

 

「夜行性の蛾やコガネムシを使えば、二十四時間みんなを探せるよ。これが虫の力……あれ?」

 

 ペラペラと自慢げに語っていたリグルは、茫然自失で固まっているノゾミに気づき、手を差しのべた。

 

「どうかしたの、座り込んで。具合悪い?」

 

 虫を怖がっているとは思いもよらないのか、リグルはためらいもなくノゾミを助け起こそうとする。

 しかし、彼女がノゾミの手をつかんだ瞬間、ノゾミはびくんと体を震わせ、低い声で言った。

 

「……離せ……」

 

「へ?」

 

「離せ、って言ってんだろがぁっ!!!」

 

 まるで別人のような怒鳴り声をあげてノゾミは手を払いのけると、戸惑っているリグルを思い切り蹴飛ばしてしまった。

 警戒していなかったリグルはあっけなく吹っ飛び、アリとてんとう虫の絨毯の上にどうと倒れる。ノゾミはそれに振り返りもせず、荷物も何も置いて、無我夢中に逃げ出した。

 走る背後で、虫の羽音がうるさく鳴る。それがいつまでも耳にこびりついているような気がして、ノゾミはいつまでも、ひたすらに逃げ続けた。

 

――

 

 それから、彼女は運よく"巫女"を名乗る人物に保護され、現代に帰る事ができた。

 コンクリートやアスファルトに囲まれた社会にいると、幻想郷での出来事を夢かと思う時がある。しかし、両親の驚きようや日々の態度、いまだ姿を消しているらしい同級生らの報道を見るに、あれは実際の出来事なのだと実感する。

 

 何の罪もないのに好意をむげにしてしまったリグルや、間接的に見捨ててしまった同級生たちを思うたびに、ノゾミは内心で胸を痛めた。

 しかし、その他に心に引っかかる事が、一つ……。

 ある日、失踪のショックを考慮して家で休まされていた時の事。彼女は自室の隅で、一匹の小グモが糸にからまり、机に引っかかってもがいているのを見た。

 以前のノゾミなら、気味悪がりながらもどこかへ逃がしてやっただろう。しかし、その時の彼女は違っていた。

 見るなりティッシュを一枚取り、まるでゴミのように小グモを取り上げると、ためらいなくつぶしてしまった。その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。

 

 ただ、子グモの死骸があるだろう部分を見つめながら、内心でかすかにある疑問を持つ。

 

 『自分は、何故今まで虫を助けるなんて真似ができていたのだろう?』

 

 あの寓話のムカデをちらと思い出し、ノゾミは事もなげに子グモをつつんだティッシュを投げ捨てた。

 

アサクラ ノゾミ――生存




コンチュウカイ=ヒロシって書くと、なんか人の名前みたいだと思った


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虚構の天秤 貧しき者の夜明け

『人間はね、真面目で正直が一番なの。そうすればきっと皆、幸せになれるんだから』

 

 青々とした終わりの見えない竹林を歩きながら、少年は薄ボンヤリと母親の言葉を思い出していた。

 少年の名は、カゲヤマ トモフミ。シンプルにスポーツ刈りにした髪に、細面で三白眼というややいかつい容貌で、袖がきつめなブレザーの制服に身を包んでいる。ブレザーの胸には▼▼中学という校章がついている。

 下を見ればズボンのすそも微かにすり切れ、靴の底もすり減っている。そんな冴えない姿の彼は、子供の頃から使っていそうな、年季の入ったスポーツバッグを持ち歩いていた。

 

 トモフミがこの辺りを歩き回って、もう数時間になる。そもそもの発端は、全く理不尽なもの。気づけば、竹林のただ中に倒れていた。それだけだ。

 彼自身、何が起こったのかは全く分からない。強いて原因らしきものを挙げるなら、修学旅行で皆と乗っていたバスが、突如として霧に呑み込まれた事くらいだ。

 夢かと疑ったが、今の今まで目は覚めない。残っていたのは自分の荷物だけ。他には誰もいない。

 

「はあーぁ……」

 

 やがてトモフミは投げやりにため息をつき、竹やぶに背を預けて座り込んだ。額に浮かぶ汗をぬぐって空をあおぐと、地上の遭難など縁のない鳥たちが、おおらかに空を飛び回っている。

 彼は一発舌打ちし、携帯を取り出して操作する。見るからに使い込んでいない、アプリ数が少ない画面には、電波が入らないのを示すメッセージが。

 

「やっぱりダメか。安物め」

 

 軽く毒づき、携帯をしまう。必需品だからと持ってはいたが、両親にその分無理をかけるのが心苦しかった。ぼったくりのようなプランを押しつけておいて、この肝心な時に役に立たないとは。

 修学旅行に出かける朝、「楽しんでらっしゃい」と見送ってくれた母親の顔が思い浮かぶ。十万円以上もかけて旅行させた息子がこんな目にあっているなど、誰が想像するだろう。捜索費用まで出すといくらになるのだろうか、とトモフミは暗い顔で考える。

 

「……ったく」

 

 腐っていても仕方ない、と彼が腰を上げた時だった。

 ふと不快な臭いが鼻をついた。竹やぶの奥から、汗とホコリがしみついたような臭いがただよってくる。

 トモフミはいぶかしげに自身の体をかいでみたが、どうも発生源は向こうのようだった。人がいるのか、と希望を抱くと同時に、彼はある疑問を感じて顔をしかめた。

 小さな頃、似たような臭いをかいだ事がある。少ない服を洗濯せず着回した時などがそうだった。

 しかし、発生源の相手がいるであろう場所から逆算すると、その臭いの強さは記憶の比ではない。周りの様子もあって、死体か何かではないかとさえ思えた。

 

「…………」

 

 彼はしばし悩んだが、結局気になったのか奥に向かって歩きだした。万が一道に迷った人間なら一大事だと思ったのだ。彼自身も迷っているのだが。

 視界の悪い竹林を、臭いを目印に近づいていく。すると、目の前の地面に大きな穴があいているのが見えた。

 直径一メートルはある、深い縦穴。落とし穴に見えるが、かなり本腰でつくられている。

 こんな辺鄙(へんぴ)そうな場所に落とし穴……? とトモフミがいぶかしんでいると、なんと中からすすり泣くような声が聞こえてくる。あわてて彼が落とし穴を覗き込むと、うずくまっている人影と目が合った。

 

「あ……」

 

 その人影は、トモフミを見上げてか細い声をあげた。一方のトモフミは、しばし言葉を失う。

 そこにいたのは、痩せ細った姿の女性だった。十代半ばていどの外見で、半袖の薄いパーカーと短いスカートという簡素な服装。藍色の髪の毛は背中を覆うように無造作に伸び、足は靴もはかずに土に汚れている。

 トモフミはしばらく、その女性を間の抜けた顔で見つめていた。というのも、例の臭いの発生源が、彼女だと確信できたからだ。穴の底からの湿った土の匂いを押しのけ、ホームレスか重度の引きこもりを連想させるような濃厚な新陳代謝の香りが立ちのぼる。

 

「あ、あの……」

 

「んあ?」

 

 女性におずおずと呼びかけられ、トモフミはようやく我にかえる。体臭に呆然としていたのを悟られやしないか、とばつが悪そうにしていると、女性は立ち上がって言った。

 

「ごめんなさい、急で悪いんですが、引き上げてもらえませんか? ここからじゃ手が届かなくって……」

 

「え、ああ……いいっすよ」

 

 生返事をし、トモフミは腹這いになって穴の中の女性へ手をのばす。それを下から取った彼女の腕は見た目の若さから想像できないほどに細く、また引き上げる体重も軽かった。

 

「んっ……しょ……!」

 

 トモフミが力を込めると、這い上がってきた女性がどさりと目の前に倒れ込む。日の下にさらされた女性は、パーカーの灰色にところどころ薄黒いシミがつき、スカートも色あせているのが分かった。その貧相な服装には、「督促状」やら「請求書」やら書かれたよく分からない紙がべたべた貼りつけてある。

 ただの遭難者とも違う妙な格好に、トモフミはけげんな顔をしていた。それに気づく様子もなく、女性は座り込んだまま、いかにも卑屈に頭を下げた。

 

「ありがとうございます……! 私ったらお腹が空きすぎて飛ぶ力もなくて……」

 

「飛ぶ……? や、別にいいですけど」

 

 変な事を口走りだすも、トモフミはひとまず流す。そして、何よりも気になる質問をぶつける。

 

「あの、ちょっと聞きたいんですが」

 

「? はい」

 

「ここ、何県のどこですか?」

 

 そう言うと、女性は何かに気づいたように目を丸くして、トモフミをしげしげと見る。トモフミが戸惑っていると、女性は「ああそっか、知らないんだ……」などとつぶやき、同情するような目つきで言った。

 

「ここ、幻想郷って場所なんです」

 

――

 

 ……それから十分ほど、トモフミと女性は竹林の中を並んで歩いていた。ただ、しおらしげな顔をしている女性を、トモフミは疑り深い目でジッと見ている。

 

「……分かってもらえましたか?」

 

 女性はちらちらと隣をうかがいながら口を開く。トモフミはがしがしと頭をかき、歯切れ悪く答える。

 

「つまり……ここには化け物がいっぱい居て、ただ歩いても帰れないって?」

 

「はい、そんな場所なんです幻想郷(ここ)は」

 

 女性は、からかう風でもなくうなずいた。そしてくもった顔で続ける。

 

「しかも、この辺りは『迷いの竹林』と言われていて、一度迷ったら出られないらしくて……うぅ、どうしよう~……」

 

「…………」

 

「はぐれたらおしまいだって分かってたのに、私ったらなんで離れちゃうのよ~……助けて天人さま~……!」

 

 いまだ信じられない表情のトモフミをよそに、女性は伏し目がちになって涙を浮かべはじめる。泣きそうになった女性にぎょっとして、トモフミはあわてて水を向ける。

 

「と、ところで……そうだ。お名前は?」

 

「……依神(よりがみ)紫苑(しおん)。……あの、敬語……なくていいです」

 

「あ……そう。じゃあお互いタメ口で。俺はカゲヤマ トモフミ」

 

 二人は自己紹介をすませたが、女性こと紫苑はそれきり口を閉じてベソをかきはじめてしまった。らちが開かないのでトモフミはさらに質問する。

 

「紫苑……だっけ。アンタは人間なの?」

 

「ううん……私は貧乏神」

 

「貧乏神?」

 

 紫苑は一つうなずき、ますますしょげかえって言った。

 

「生まれつき、私の周りには不幸が集まるの……。どんなに嫌だって思っても貧乏や事故がつきまとって、結局はみんな離れていっちゃう……」

 

「……思いすごしじゃないのか?」

 

「ううん、違う……本当。そのせいで竹林からも出られなくて……」

 

 眉をひそめるトモフミに、紫苑は弱々しく首を振る。そして隣へ向き直り、悲痛な声で言った。

 

「トモフミくんも、私と離れた方がいいかもしれない。きっと、今にも不幸がおそってくる……」

 

「え? いやいや、だったらなんで一緒に歩いてたんだよ。今さらほっとけねえって」

 

「……それは、私が他人に頼っちゃう性分だから、つい……とにかく行って! ね?」

 

 紫苑は苦笑いしながらトモフミを突き放そうとする。しかし言われた当人は納得いかない。ただでさえ竹林で出口もなくさまよっているのに、痩せ細った女性を置き去りにするのは良心が痛む。

 まだ紫苑のカミングアウトに半信半疑だったのもあり、「いや、今さら貧乏なんて別に……」などと言いながら彼が後ずさった、その時だった。

 

 彼の足元が、ふと沈み込む。そして周りの地面まで崩れ始めたかと思うと、あっという間に体が落ちていった。

 

「うわっ!?」

 

「! トモフミくん!!」

 

 また落とし穴だ、そう気づいた時には、トモフミの目線は下がりはじめていた。紫苑もとっさに手を取ろうとしたが届かず、それどころか勢いあまって穴へと一緒に飛び込んでいってしまう。

 結果的に、トモフミ、荷物、紫苑が一気に底へと落下してしまった。

 

「ぐあっ!!」

 

「きゃっ!!」

 

 穴の底に体を打ちつけ、悲鳴をあげる二人。最初に落ちたトモフミは容赦なく紫苑と荷物の下敷きになってしまう。女性と密着するという、普通は少し喜びそうなシチュエーションなのだが、あいにく例の体臭のせいで気分は萎えるばかり。

 トモフミは荷物を押しのけ、うめいている紫苑を助け起こす。

 

「おい、大丈夫か?」

 

「うーん、いたた……」

 

 紫苑は足腰を苦しそうに撫で、先ほど落ちた穴を見上げた。そのかなたに広がる青空をあおぎ、彼女はまたもや悲壮な表情になる。

 

「ああ……とうとう不幸に巻き込んじゃった……せっかく助けてもらえたのに……」

 

「いや、そんな落ち込むなよ……」

 

「だって……」

 

 ぺたりと座り込んだまま、紫苑はうなだれる。そして、穴の中にやっと聞こえるくらいの大きさで、ぶつぶつと悔いの言葉を垂れ流す。

 

「こんな事なら、もっと早く別れておくんだった……。そうしたら迷わずにすんだかも……。いや、そもそも放っておいてもらえばよかったなぁ……。私なんて、あの場所でずーっと……」

 

「…………」

 

 終わる気配のないその独り言の数々に、トモフミは少々イラつきはじめる。そのせいか、彼はため息まじりにこんな事を言った。

 

「ったく……名前は同じでも、俺のクラスのシオンとは大違いだな……」

 

「え?」

 

 涙目の紫苑が顔を上げる。トモフミはしゃがんで目線を合わせ、三白眼をジッと向けて話す。

 

「知り合いにもさ、シオンって女の子がいたんだ。顔は美人なくせに、金にがめつくてよ……中学生にしてあれこれ悪知恵を利かせていやがった」

 

「……その子、お友達?」

 

「バカいえ、大ッ嫌いだよ。あんな奴はロクな死にかたしねえんだ」

 

 トモフミは吐き捨てるように言って、紫苑の手を乱暴に取る。

 

「あきらめずに真面目にがんばる、じゃなきゃにっちもさっちも行かねえよ。ほら、立ちなって」

 

「…………」

 

 トモフミが手を引っ張ると、紫苑が沈んだ目線をちらとくれる。そして小さく口を開いた。

 

「そうかなぁ……天人さまに会えたのだって、ただの偶然だったし……」

 

 トモフミはそれを聞いて、ふと顔色を変えた。

 紫苑の表情は大げさなほど悲しみにくれていたが、それだけではない。目の奥にうっすらと、懐疑の色がにじんでいる。

 天人さまというのは誰だか分からない。だが、"ただの偶然"という言葉が妙に引っかかった。

 

 ――トモフミの家庭は貧しかった。世代をまたいで横ばいの資産、両親の学歴や年収の低さに、知識の不足……さまざまな要因が重なりあってできた、ドラマチックでもなんでもない貧困ぎみの家庭。彼が生まれた時には、すっかりそれが家族の当たり前になっていた。

 ただ、そんな中にあっても陰惨さはなかった。母親のかかげる信条が、皆を支えていた。

 いわく、『真面目で正直が一番』。それがトモフミの母の教えだった。実際に、彼もそれにおおむねしたがい生きてきたつもりだ。

 親に菓子もゲームもねだらず、六歳の頃からつとめて貯金をした。兄弟で狭い部屋に寝るのもガマンし、面倒なのをこらえて勉学にはげんだ。髪型はバリカンを使ったスポーツ刈りに撤し、散髪代すら節約し続けた。

 その甲斐あってか"苦学生"なるあだ名をつけられ、高校進学も認められた。ゆくゆくは苦労した分、あとは華やかな人生が待っている……。心の奥底で、そんな確信を抱いていた。

 

 しかし今はどうか。何の因果か得体の知れない場所に迷い込み、誰が掘ったかも分からない落とし穴に理不尽にはまっているではないか。

 因果応報、誰が言ったか。自分たちがあがいたとして、生き残れる保障がどこにあるというのだろう。

 苦労した分、報われる……信じていた必然は、果たして本当に必然か……。

 

「……っ!」

 

 トモフミは首をブンブンと横に振り、自分の中の煩悶を打ち消す。とにかく今は穴を脱出しなければならない。

 

「いいからとっとと出るぞ! 底辺なんざ誰も助けやしねえんだから、立てって!」

 

「て、底辺……?」

 

「悪いけど、ちょっと下から押し上げてくれ」

 

 ショックを受ける紫苑をよそに、トモフミは穴のふちに手をかけて催促する。察した紫苑は彼の尻を押し上げ、トモフミはどうにか地上へ這い出した。

 

「サンキュ、後は……」

 

 次に荷物をわたしてもらい、最後にトモフミがまた紫苑を引き上げる。引っ張ってもらいながら、紫苑は申し訳なさそうな顔をした。

 

「……ごめん、服よごしちゃって……」

 

「かまわねえよ。どうせ兄貴のお下がりだ」

 

 腹這いになりつつ、トモフミは事もなげに言った。ようやく紫苑が上半身を地上に出すと、二人は土まみれの姿で安堵した。

 

「はー……助かったぁ」

 

「よかった~……もう天人さまや女苑(じょおん)に会えないかと思った……」

 

「誰だよ。まあいいや、さっさと先を……」

 

 土をはらい、トモフミが立ち上がる。その時、背後で不穏な声がした。

 

「グルル……」

 

 その低いうなり声に、トモフミは身を凍らせる。紫苑もハッとなって声の方向を見、目を見開いた。

 そこにいたのは、黒い毛を生やした獅子のような獣。しかしトモフミの知る獅子より何倍も大きく、北海道のヒグマをもしのぐ体躯を持っている。

 「ああ、これが妖怪か」とトモフミは直感的に理解したが、思考は白紙に近かった。様子をうかがう妖怪と目が合い、彼は振り返った姿勢のまま言葉を発せずにいた。

 すると、紫苑が膝立ちになってよたよたとトモフミの足にしがみつく。その顔は先ほどの安堵の表情からまるっきり反転し、悲壮どころか絶望と言っていいほどこわばっている。

 

「もうダメ……もう死んじゃう……」

 

 何もしないうちから諦めた紫苑を見て、かえってしらけたトモフミの頭が逆に冴える。そして彼は妖怪へ向き直り、注意をはらいながら慎重に口を開いた。

 

「……大丈夫だ。手はある」

 

「ふえ?」

 

「……猛獣ってのは、目の前の物をじっくり調べるもんだ。おとりになる物があれば……」

 

「ま、まさか私を!?」

 

「ンなわけあるか。こういう時はだな……」

 

 割りと本気で落胆する紫苑に、トモフミは小声で突っ込みを入れる。そしてかたわらの自分の荷物を一瞥し、手に取った。

 

「絶対に背中むけるなよ……」

 

 そう注意し、獣の目の前へそっと荷物を投げ捨てる。ドサッと音が響いた瞬間、妖怪は一瞬だけ目つきを鋭くしたが、やがてトモフミたちではなく近くにある荷物に気を取られはじめた。

 そして荷物をひっくり返し、破りだした時になって、トモフミは隣の紫苑へ目配せする。自分で言った通り背を向けずに、一歩、二歩と後ずさる。そうして十分に距離が開き、茂みの中へと身を隠せた直後。

 

「走れ!」

 

「う、うん!」

 

 トモフミの声を合図に、二人は全力で走り出す。振り返らずに、ただ妖怪から離れる事だけを考えて道も選ばずに走り続けた。

 途中、突然トモフミがばったりと地面にたおれる。追い抜いた紫苑はあわてて振り向いた。

 

「トモフミくん!?」

 

「かまうな、先行け!」

 

 トモフミは叫ぶように言って立ち上がろうとするが、足でもくじいたのかよろけながら立ち上がる。さいわい妖怪は荷物に夢中なのか襲ってはこなかったが、紫苑はその場にとどまるのが恐ろしく、あわてふためきながらも立ち去ってしまった。トモフミは若干足を引きずりながら、その後を追った。

 二、三分そうしただろうか。どちらともなく足が止まり、二人で膝を折ってぜいぜいと息を吐く。紫苑が振り返ると、竹やぶの奥から生き物が出てくる気配はない。

 

「た、助かったぁ~……」

 

 紫苑が情けない声をあげてへたり込む。トモフミも笑いながらその場に座ろうとするが、その顔がふと、きつくゆがんだ。

 

「どうしたの?」

 

「いや、なんでもねぇ……」

 

 紫苑の問いに、トモフミは軽く答える。しかし言葉とは裏腹に、彼は膝をついて片足をさすり、顔をしかめている。

 先ほどくじいた足が痛むのだろう。紫苑はまた悲しげな表情になり、トモフミへと駆け寄る。

 

「ご、ごめん! 私ったら気づかないで……」

 

「いちいち謝らなくていいって……しかし痛ぇな……」

 

 しょげてしまう紫苑をなだめるトモフミだったが、声色はどこかうめくようだった。続いて、紫苑までが唐突に顔を痛ましげにしかめる。

 

「いたたっ……!」

 

「……?」

 

 手をついてよつん這いになってしまう紫苑。トモフミは一瞬いぶかしんだが、紫苑の足に小さな切り傷がはしっているのを見つけ、ハッとなって彼女の背後に回る。そして驚いた声をあげた。

 

「紫苑……お前、足が血だらけじゃねえか!」

 

 何も履いていない紫苑の足裏は、枯れ葉や石ころだらけの竹林を走ったせいでズタズタになっていた。いくつもの傷から血が垂れ、土がこびりついている。

 

「……あ、いいの。気にしないで……」

 

「そんな風にいくか! とにかくジッとしてろ!」

 

 向き直った紫苑に足をのばさせ、トモフミはポケットティッシュを取り出し、傷口に当てる。痛みに目をつぶった後、紫苑は申し訳なさげに口を開こうとする。

 

「……ティッシュはな、こうやってはがして使うんだ」

 

「……あはは」

 

 紫苑がしゃべろうとするのをさえぎり、トモフミは慣れない軽口をたたく。今、謝られても何にもならない。

 彼はできるだけ傷をきれいにすると、くるりと紫苑に背を見せる。

 

「……へ?」

 

「へ? じゃない。それじゃ歩けないだろ。さっさとおぶされ」

 

「……で、でも……」

 

 紫苑は遠慮がちにつぶやき、なかなか申し出をうけない。「いいから」とトモフミがぶっきらぼうに言うと、ようやく肩に手を回す。

 

「ホントにごめんね。何から何まで……」

 

「気にすんなって。女の子ひとり大した重さは……うお軽っ!?」

 

 紫苑の予想以上の軽さに驚愕すると、彼女の雰囲気がどんよりと暗くなる。それを背中にじかに感じ、トモフミは早足に竹林を歩きだした。

 日はすでに沈みはじめている。青々として見えた竹やぶがだんだんと色を変えはじめ、そよ風が徐々に冷気を帯びる。見るからに薄着の紫苑が身を固くするのを感じながら、トモフミはあてもなく歩き続けた。

 やぶを抜け、また別のやぶに入り、時々来た道を振り返る。枯れ草や枯れ葉の積み重なった地面は足跡も残らず、なんの手がかりもない。紫苑はすでに疲れきっているらしく、無言でぐったりとしている。

 

 自分以外の重みを感じながら、トモフミは立ち止まらずに歩き続けた。そうしているうちに日は沈み、三日月がぼんやりと光りだす。どこへ行っても見下ろしてくる月をトモフミがにらんでいると、紫苑がふと、か細い声で言った。

 

「……ごめん、私のせいで……」

 

「またその話かよ。もういいって」

 

「だって……だって私のせいで悪い事ばっかり起きて……竹林からも出られなくて……」

 

 紫苑は声をつまらせ、ぐずぐずと泣きはじめた。この場に置いておけば夜通しうずくまっていそうだ。

 そんな様子を不憫に思ってか、トモフミは前を向いたままポツリとつぶやく。

 

「……こんな言葉を知ってるか。『幸せと不幸は同じだけくる』って」

 

「……何それ?」

 

「うちのカーチャンがよく言ってたんだよ。どっちも長続きしないってな」

 

「…………」

 

 疲れながらも、なぐさめるような口調で話すトモフミ。紫苑は何も言わない。

 

「ま、そう考えると元気が出てくるだろ」

 

 気休めのようにトモフミは言い、紫苑に笑みを向ける。辺りは夜でよく見えなかったが、紫苑は自然と笑顔になった。

 

「……そうだね」

 

 小さく、紫苑がそう言った時だった。

 

「紫苑ー! いるー!?」

 

 不意に、竹やぶの奥から久々に他人の声がした。おそらく女性だ。それを聞いた瞬間、覇気のなかった紫苑がみるみる顔を輝かせはじめた。

 

「天人さまーーっ!!」

 

「ぐえっ!?」

 

 声をおどらせ、トモフミを跳び箱のごとく乗り越えて紫苑は声の方向へ走っていく。トモフミがあわてて後を追うと、しだいに提灯の灯りと、それを持つ人影が二人、見えてきた。

 

「天人さま~……ごめんなさい。心配かけて……」

 

「おおよしよし、よく頑張ったわ。もう不幸は打ち止めよ」

 

 天人さまと呼ばれた人物は、青い長髪に黒いつばの広い帽子をかぶった小柄な少女だった。抱きつく紫苑の頭を優しくなでている。

 なんだかなーという顔でその様子をトモフミが見つめていると、天人の隣にいたもう一人の人物が、音もなく彼に近づいてきた。

 

「はじめまして、私は八雲 紫」

 

「……ゆかり、さん?」

 

「ええ、少し話を聞いてもらえるかしら。外来人の坊や」

 

 けげんな顔をするトモフミへ、その人物は無表情に言った。

 紫と白を基調とした導師服にフリル付きの変わった帽子を身につけ、金髪をのばした長身の女性。夜だというのにピンク色の日傘を広げ、よく見るとわずかに浮いている。

 どことなく異質な雰囲気を感じ取り、トモフミは後ずさる。すると、紫音としゃべっていた天人が、ふと彼に向けて言った。

 

「おーい、大丈夫! その女に頼ればすぐ帰れるから! 安心しなって!」

 

「…………」

 

 明るく言われて紫に向き直ると、紫はうるさそうに天人を一瞥する。続けて紫苑がブンブンと手を振り、精いっぱいの大声をあげた。

 

「トモフミくん、色々ありがとー! 帰り気をつけてねー!!」

 

「お、おう……」

 

 テンションの上がりようにトモフミが戸惑っていると、紫苑と天人は手をつなぎ、あろう事かスゥーっと空を飛んでいってしまった。トモフミがあっけに取られる間に、二人は上空へ小さくなる。

 

「これからきっと、良いことあるよーーっ!! ばいばーーいっ!!」

 

 その声が最後だった。二人は夜空のかなたに消え、後にはトモフミと紫だけが残る。

 紫苑とちがって近寄りがたい雰囲気の紫に、トモフミはなかなか話しかけられずにいた。一方そんな気持ちはお構いなしに、紫はあからさまなため息をつく。

 

「……やれやれ、日に二つも面倒ごとが起きるとはねぇ」

 

「……あの、さっきすぐ帰れるって聞きましたが、本当ですか?」

 

 ため息という人間くさいしぐさに安心してか、トモフミはおそるおそる問いかける。紫は振り向き、一つうなずいた。

 

「ええいかにも。私なら一瞬で終わらせられるわ」

 

「マジすか!?」

 

「ただ……」

 

 色めき立つトモフミ。しかし紫は気まずそうに目をそらし、どこからか取り出した扇子で口元をかくす。

 

「え、ただ、何です?」

 

「言いにくいのだけれどね……」

 

 気がはやっているトモフミをめつけるように見下ろし、紫は間をおいて口を開く。

 

「あなた、あの貧乏神と一緒にいたでしょ」

 

「はい」

 

「そのせいで、不幸がごってりと引き寄せられてるのよ。目には見えないけど」

 

 言われて、トモフミは思わず自身をあちこち見返す。そんな彼を見ながら紫は続けた。

 

「そのまま帰るのはおすすめしないわ。明日にでもお祓いを受けた方がいい」

 

「明日……ですか」

 

 帰るのが長引き、トモフミはいささか落胆する。同時に、先ほどまで一緒にいた紫苑が腫れもののように言われるのは、やはり後味が悪かった。

 それを知ってか知らずか、紫は独り言のようにつぶやく。

 

「全く、悪気はないとはいえ、なんだって他人を巻き込むかしらね」

 

 その険のある口ぶりに、トモフミはふと顔色をけわしくする。そして紫にためらいがちに食ってかかった。

 

「……そんな言い方、ないじゃないですか。だいたい俺が勝手について来たんですよ」

 

「あら、そうなの? あなたもバカな事したものね」

 

「バカって、仕方ないでしょう。あんな状況で一人にしておけませんって!」

 

 トモフミは知らず知らずムキになっていた。いかにも厄介者を想像するような紫の目に、どうしても反感をいだいてしまうのだ。

 トモフミも貧乏ゆえ、幼少期はひどい扱いを受けたものだった。アイツに近づくと病気がうつる、家に行くと金を盗まれる、親はまともな職業についていない……などと、いわれもない噂を立てられ続けた。

 その経験のせいで、彼はどうしても紫苑に同情してしまうのだった。『いつまでも悪いことは続かない、きっとそのうち良いことがある』と、親から受け継いだ信条を伝えたくなるのだ。

 

 そんな心情で見つめてくるトモフミを、紫は面倒くさそうに眺めていた。そしてぼそりと注意をうながす。

 

「やかましいわね、そんな大声を出して。妖怪が寄って来ても知らな……」

 

 だが、その言葉が最後まで続く事はなかった。トモフミの背後に、あるものを見たからだ。

 

「……あ」

 

「……?」

 

 そのきょとんとした視線に気づき、トモフミは振り返る。そして言葉を失った。

 そこには、あの昼間に振り切ったはずの、黒い獅子のような妖怪がいた。臭いでもたどってきたのだろうか。大して食べ物の入っていない荷物をあさった妖怪は、血走った目で獲物を見つめている。

 そしてトモフミが口を開く間もなく、妖怪はその頭にかぶりついた。ボキッ、と鈍い音がし、彼の首と胴体が分離し、胴体が力なく地面に横たわる。

 

「あちゃー……」

 

 自分の不注意ゆえに死んでしまった少年(だったもの)を見ながら、紫は一応つぶやいた。妖怪がその声に振り向くと、彼女はキッと目を鋭くして妖怪をひとにらみする。

 

「くぅんっ」

 

 負け犬のような悲鳴をあげ、たちまち妖怪は背を向けて走り去った。あっけなく死んだトモフミの首なし死体を見つめながら、たたずんでいた紫は背を向け、ポツリと言った。

 

「……人生、分からないものね」

 

 他人事のような言葉を残し、紫は目の前の空間にすぅっと指をすべらせる。するとその辺りの景色が切り裂かれ、得体の知れない異空間があらわれた。

 その異空間に紫が入り込むと、裂け目が閉じ、辺りは元通りになる。貧乏神を最後まで気にかけていた少年は、悼む者すらいないままその生涯を閉じ、遺体は誰も来ない竹林に放置される事となった。

 

カゲヤマ トモフミ――死亡



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氷解し、消えていく

 ……夢でも見ているのだろうか。霧に包まれた湖のほとりで、少女は顔をしかめた。

 日光をさえぎるほどの濃霧は、景色を真っ白に染め上げている。目をこらしても手近な木々をのぞけば、何もかもおぼろげにしか見えない。 吹雪に呑まれたら似たような感じだろう。

 そう、今あたりをとりまいているのは、あくまで霧である。地面には雪のカケラもなく、丈のみじかい草原が水滴をつけている。

 

 しかし、どういう訳だろうか。周囲の木々を見上げると、枝が凍りつき、剣のような太い()()()が何本もぶら下がっているのだ。しかも、心なしか寒い。

 連なった場違いなつららを少女がいぶかしげに見つめていると、彼女の背後から子供の女の子の声がした。

 

「ミユキーっ! すごいでしょ!? これ全部あたいがやったんだよ!!」

 

 少女が振り返ると、10歳ほどの見た目の、水色のワンピースを着た少女が手を振っていた。ショートにした髪も水色で、白いルーズソックスに黒のストラップシューズという格好。

 高くかかげた手のひらを見ると、まるで空中の水分を固めるかのごとく、きらめく氷が出現する。一見すると手品のようだが、足元に目をやると、地面からそばでたゆたう湖に向けて、薄い氷が張っていた。ほんのりと感じていた寒気が、いっそう強くなる。

 

「……ええ。すごいわね、チルノちゃん」

 

 周囲に冷気をはりめぐらせている相手へ、少女――サクラバ ミユキはあきれたように答える。

 

「……くしゅんっ」

 

 ……そして、小さくくしゃみをした。

 

――

 

「あたいは何でもできるんだよ。ほら、こうやったら……」

 

「あ、すごい。氷の結晶だ」

 

 太陽が真上にのぼる少し前。見知らぬ湖のほとりで、ミユキは"最強の氷の妖精"を名乗るチルノとたわむれていた。

 チルノが自身の手のひらへ意識を集中すると、少しずつ透き通った結晶が形づくられる。それは図鑑で見た姿そのままで、チルノは得意満面であった。

 ところが、対するミユキは顔色も声色も、さほど興味はなさそうだ。うわべだけ誉めてはいるがその笑みは小さく、口調は何の感動もない。

 

 ミユキは、チルノと違い現代的な服装をしていた。▼▼中学と書かれたブレザーとワイシャツ、ベスト、スカートにローファー……早い話が中学校の女子の制服である。

 そんな格好で、この建物も見当たらない巨大な湖になぜいるのか。

 そう尋ねれば、ミユキの顔はますます不機嫌になってしまうだろう。チルノからふっと目をそらすと湖に視線がぶつかる。

 クセの残るくしゃくしゃのショートヘアで、うっすら頬にソバカスができたミユキの顔が、湖面上でこっそりため息をついた。

 

 ……意識の上では一時間ほど前まで、ミユキは修学旅行のバスに乗っていたはずだった。それが突如、謎の霧に包まれたかと思うと意識がとぎれ、次に気がついた時にはこの濃霧のただよう湖畔に倒れていたのだ。他のクラスメイトはおらず、そばには自分の荷物だけがあった。

 

「ちょっとミユキ、ちゃんと見てる?」

 

「……ん、ああゴメン。なんだっけ」

 

「もー、だから! "あばんぎゃるど"な方面の結晶にも挑戦したいって言ってるのよ」

 

「……へぇ」

 

 不可解だったのは、場所の件だけではない。まるで人間ではないかのような奇妙な存在が何人もいたのだ。

 目の前で氷を作り出し、思うような形にしている"妖精"、チルノなどはまさにその例である。冬でもないのに何本もつららを木々にまとわりつかせ、精巧な結晶を感覚ひとつで出現させ、しかも心なしか周りに冷気まで放っている。しかも本人はまるで子供が折り紙でもするかのように無邪気で、恐ろしいという気持ちさえないようだ。 

 偶然あったチルノから断片的に聞いたところによると、この見知らぬ場所は"幻想郷"といい、チルノのような妖精をはじめもっと強大な連中がうようよいるのだという。ミユキは表向きチルノに付き合いながら、内心ではあっけに取られるばかりだった。

 

「ね、ねぇ。チルノちゃん……」

 

「んー?」

 

 ミユキは作り笑いを浮かべ、おそるおそる口を開く。

 

「できれば私、そろそろ帰りたいなー……なんて」

 

「えー? もうちょっと遊ぼうよー。今日、人魚のお姉さんが出かけてヒマなのよ」

 

「人魚、ねぇ……」

 

 にべもなく断られ、ミユキは肩を落とす。チルノは相手が全くのよそ者であるというのもかまわず、ただ一緒に遊んでいたいらしい。

 別にワガママを聞いてやる義理もないのだが、その気になれば周りを凍りつかせかねない妖精の機嫌をそこねる勇気は、彼女にはなかった。

 それに少なくとも見た目は幼い子供ゆえ、冷たく当たるのもはばかられたのだ。

 ミユキはからまっている髪の毛をじれたように弄ると、気を取り直してまたチルノの手元を見た。

 

「よーし、今度こそ"かくしんてき"な形の氷をつくってやるわ!」

 

「難しい言葉を知ってるわねー」

 

 先ほどと変わらぬ姿で集中するチルノを眺めながら、ミユキは相づちを打つ。次第にチルノの手のひらに、今度はウニのように全体から針の伸びた丸い氷塊があらわれる。

 

「できた……いた、いたたっ!」

 

「おお、攻撃形態」

 

 つくってみたはいいものの、触ったそばから突き刺さるその作品にチルノは苦戦する。しばしギャーギャーわめいた後に氷塊を湖に投げ捨て、チルノはふんと鼻息を吐く。

 

「今のは失敗だわ。"どくそうてき"な形は触ってこそよ」

 

「こだわるわねー」

 

「さあ、再チャレンジよ!!」

 

 チルノは元気よく宣言し、再び氷塊をつくりはじめる。はたから見ればただの遊びだが、彼女は一生懸命になっていた。

 ミユキはそれを黙って眺めながら、どこか懐かしい気持ちになった。小さい頃はミユキも雪だるまを可愛らしくつくろうと熱中したり、凍った水たまりを見つけては割ったりなど、いっときの遊びを日々楽しんでいたものだ。

 

(……思えば、ああいうのも楽しかったわね)

 

 いつからだろう。小学校も一年、二年と過ごし、だんだんとそういう事もなくなっていった。親はしだいに学校での成績や、それにつながる将来を強く気にしはじめたのだ。それは同級生たちとて同じだった。授業、宿題、塾……そういったものに少しずつ取り囲まれ、ミユキも他の子供らも、沈んだ表情を見せる事が増えていった。

 どこにいても毎日のようにプレッシャーに苦しめられ、逃げ出したい気持ちが浮かんでは消える。友達とたまに遊んでも、たがいに根にある悩みは消えなかった。

 

「……うらやましい……」

 

 ミユキがつい、ポツリとそう口にした時だった。

 

「だあーっ! また失敗!!」

 

「わっ」

 

 不意にチルノが叫んだかと思うと、手に持っていた氷をまた湖に投げ捨てる。どうにも出来が気に入らないらしい。

 不機嫌そうに肩をいからせるチルノに、ミユキはあわてて言う。

 

「まあまあ、そんなに怒らなくても……」

 

「だって! 何度やってもピンとこないんだもん! イヤんなるわ!」

 

「……うーん」

 

 よほど悔しいのか、チルノはいっぺんに顔を真っ赤にする。それを見て、ミユキは小さくうなり、一つたずねる。

 

「ねぇ、一体どんな感覚で結晶をつくってるの?」

 

「うーん、よく分かんない。頭の中にモヤモヤしたイメージはあるんだけど……いざつくってみると思ったのと違ってて……」

 

「……そっか」

 

 ミユキは何やら心得顔でつぶやき、かたわらの自分の荷物へ駆け寄る。そして中を開いてあさり、両手に何かを持ってチルノの元へ戻った。

 その手には、筆記用具と一冊のノートがあった。来る高校受験へ少しでも足しになればと、彼女が持ち込んでいたのだ。

 それらを差し出し、ミユキは言う。

 

「一度、どんなのつくりたいか紙に書いてみなよ。そうしたらイメージしやすいでしょ?」

 

 チルノはそんな発想が意外だったのか、目を丸くした。ミユキも、何故わざわざこんな事をしているのか分からない。ただ、目の前で当人なりに悩んでいるのを見せられ、つい手を貸してしまったのだ。

 チルノは上目遣いに持ち主を見ながら道具を受けとる。そしてノートをぱらぱらとめくった。

 

「なぁにコレ……何書いてあるの?」

 

 チルノにはまだ難しかったのだろう。難解な漢字や公式、図解が書き込まれたノートを見て首をひねる。ミユキは苦笑いして「とりあえず白いページ使っていいよ」とうながしたのだが、チルノは顔を上げ、感心したように言った。

 

「へー……大人ってこういうの使うんだ……。あたい知らなかった」

 

 大人、そう言われてミユキはつい吹き出しそうになるが、チルノから見れば無理はないかと思い、こらえる。そしてしゃがんで目線を合わせ、照れたように言った。

 

「そんな大したものじゃないわよ。私くらいになれば皆使うし」

 

「えー本当? 想像つかない……」

 

「小さい頃は誰だってそうよ。大きくなるにつれて、ちょっとずつ物知りになっていくの」

 

 少しだけお姉さんぶった口ぶりで話すミユキ。それに興味をそそられたのか、チルノはミユキをジッと見つめてたずねる。

 

「ね、なんか他にないの? ミユキの知ってる大人の知識!」

 

「え、急に言われても……」

 

「大きくなったら胸にサラシ巻くって本当?」

 

「サラシ……? いや、ブラならするけど」

 

「ブラ……早苗がしてるやつね! 本当にあるんだ」

 

(早苗……?)

 

 胸の下着という存在が新鮮なのか、チルノは興味しんしんにミユキの胸元を見はじめる。Bそこそこのそれを凝視され、ミユキは思わず両腕で隠した。

 そして気を取り直すようにせきばらいをする。

 

「ブラはともかく……お化粧とかなら、わりと早めにやるかも。チルノちゃんも」

 

「お化粧って、口紅とか?」

 

「他にも色々あるわよ。化粧水に乳液、マスカラ……とか言っても分からないかな? 私は肌よわくて、あまり出来ないんだけどね」

 

 頬のソバカスをなでて、ミユキは苦笑する。チルノは相変わらず好奇心がつきないようで、目を輝かせてミユキを見つめている。そして背伸びをしてさらに質問しようとする、が。

 

「じゃあさ、じゃあさ……あれ?」

 

 はしゃいでいたはずのチルノがふと、電池が切れたかのようにふらついた。ノートを取り落とした彼女を、ミユキがあわてて支える。

 

「ちょっと、どうしたのよ……冷たっ!」

 

「えへへ、頑張って氷つくったせいかな。眠い……」

 

 ミユキにもたれかかって笑うチルノの体は、ドライアイスのように冷たかった。反面、顔色は知恵熱でも出したかのようにほてり、ボンヤリとしている。

 ひやりとする体温と、遊び疲れた子供の顔。人外ながら人間に似ている部分も目にして、ミユキは不思議な気持ちになる。もしかしたら、もう少し親身に付き合ってあげてもよかったかな、とふと思った。

 

「あー、そういえば今日、お昼寝もしてなかったわ……忘れてた」

 

「お昼寝……?」

 

「ごめん、あたいちょっと寝るわ……おやすみー」

 

「あれ、ちょっと。チルノちゃん?」

 

 ミユキが呼びかける声もかまわず、チルノはさっさと地面に横になってしまった。そして間もなく目を閉じすやすやと寝息を立てはじめる。

 ミユキはその顔をしばし見つめ、次に空を見上げた。霧が少し晴れ、午後のやわらかな日差しが降り注いでいる。昼寝日和といえばそうなのかもしれない。

 思えば、空がきれいだなどと感じたのは久しぶりだった。平日の昼間はおろか、休日も夜も、勉強やつかの間の付き合い、そして息抜きにまで追われていたのだから。

 チルノの隣に腰を下ろし、寝顔をほほえましげに見守る。すると、チルノはむにゃむにゃとつぶやき、寝たまま言った。

 

「大人に……なりたいな……」

 

 その寝言には、どこか憧憬のようなものが感じられた。自分もその憧れの対象なのだろうか。そう思うと、ミユキは照れくさいような、一種の恥じらいを覚えた。

 彼女はそんな得意分野もない、どこにでもいる女子中学生である。今までも、目の前の成績や評価に一喜一憂してきた。そんな日々に埋もれ、似たような人々に埋もれ、しだいに機械のように生きるのに慣れはじめる。

 自身の人生に疑問を持つ事すらあった。「自分は何のために生きているのか」という、思春期にありがちな悩みである。

 

 だが今は、そんな悩みがバカらしく思えた。損得も時間も考えず、自分の成し遂げたい事に熱中するチルノの姿を見ていると、一人でいじけていても仕方ないと思えてくるのだ。

 『人生は死ぬまでの暇つぶし』、どこかで聞いた言葉を思い出すと、ミユキは自分の内心が澄みわたっていくような感覚がした。もう少し、悩むよりも前向きに頑張ってみよう。それこそ死ぬまで……。

 彼女が、そう考えていた時だった。

 

 不意に、チルノの額にぽつり、と水滴が落ちた。

 

「んぅ……」

 

 チルノは小さくうなり、寝返りを打つ。雨かな、とミユキは空を見上げたが、相変わらず晴れている。

 次にチルノの真上を見て、彼女は水滴の原因を見つけた。

 つららだ。チルノが最初にはしゃいで木にまとわりつかせたつららが、午後の日差しで溶けだしている。

 溶けるつらら。その存在に、ミユキは危機感をおぼえた。幼い頃につららを折って遊び、怒られた記憶がある。

 手を伸ばし、チルノを起こそうとする。しかしそれより早く、太いつららが枝から離れ、チルノに向けてまっすぐ落ちた。

 

「危ないっ!!」

 

 ミユキが叫び、チルノをかばって覆い被さる。

 ごしゃ、という重たい音と衝撃が脳を揺らし、ミユキは意識を失ってしまった。

 

――

 

「……チルノちゃん。もう泣き止んで」

 

「だって……だって……」

 

 その日の夕方。チルノはミユキとは別の背の高い少女に肩を抱かれ、すすり泣いていた。

 チルノの隣にいるのは、下半身が魚の姿でフリルつきの着物を着た、青い髪の少女……もとい、人魚である。名はわかさぎ姫。

 彼女とチルノの足元には、何かを埋めたような跡と、石でつくった小さな墓標がある。そこには子供のような字で"さくらば みゆき"と書かれていた。

 

 湖、もといチルノの近所に住むわかさぎ姫は、用事から帰るととんでもないものを目にした。頭から血を流して倒れている少女のそばで、チルノが混乱して泣いていたのだ。

 辺りを見ると、木の枝につららが何本も生え、地面には氷のかけらが散らばっている。落下したつららがぶつかったのだろうと彼女は思った。急いで介抱しようとしたが、少女――ミユキはすでに事切れていた。

 

 パニックにおちいるチルノをなだめ、わかさぎ姫は一緒にお墓をつくってあげた。穴を掘るのは簡単ではなかったが、文句は言わなかった。チルノはそれ以前にある事を悔やみ、苦しんでいたのだから。

 

「あたいが……ちゃんと伝えてたら……」

 

「いいのよ。これは事故だもの。あなたは悪くない」

 

 嗚咽をもらすチルノを、わかさぎ姫も涙を浮かべてなぐさめる。その悲壮な雰囲気を察してか、周りには他の妖精たちが集まってきていた。

 その集団を、わかさぎ姫はちららと見る。どれも一様に子供の姿で、大人は一人もいない。そして中にはチリが集まるかのように少しずつ体をつくると、生き生きと動き出す者までいた。

 それを見れば、妖精という存在の性質が分かる。彼らは人間と違い、大人になるという事がない。そしてさらに、体を大きく損傷しても、すぐに元通りになるのだ。

 不老不死にきわめて近い、チルノをはじめとする妖精たち。ミユキがそれを知っていたら、チルノを助けはしなかったかもしれない。死ななかったかもしれない。そう思って、チルノは湧いてくる後悔を止められなかった。

 そんな彼女に、わかさぎ姫が背中をゆっくりとなでてやりながら話す。

 

「……そのミユキちゃんも、あなたを恨んでなんかいないわ。きっと、とっさに体が動いたんでしょう」

 

「ぐすっ……」

 

「あなたが泣いていたら、ミユキちゃんも悲しむわよ。だから、元気を出して」

 

 わかさぎ姫が言い聞かせると、ようやくチルノも涙を抑えはじめる。それを見て、墓標へ目を移し、わかさぎ姫が続ける。

 

「人間、いつかは皆死ぬわ。だからその時その時、必死で生きているのよ。後悔しないように、死ぬまで」

 

「…………」

 

 それを聞いて、チルノはぐっと目元をぬぐい、墓標を見る。その墓標の前には、チルノがつくった小さな氷の花が一つ、そなえられていた。

 

サクラバ ミユキ――死亡




子供の頃、庭で遊んでいたら長さ30センチくらいのつららが目の前に降ってきた事がありました。あれは怖かった……


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突き刺さったままの歴史

「いやぁ、お前が里のすぐそばに倒れていて良かったよ。見つからなければ今ごろお陀仏だ」

 

「はあ……」

 

 隣の女性が笑いながら話すのを横目に見て、少年――トクダ ノリユキは生返事をした。

 ノリユキは背の高い、ごく普通の15歳である。▼▼中学と書かれたブレザーの制服を着て、襟足ののびた髪を茶色に染めている。

 少しヤンチャそうではあるが、中学生として珍しい見た目ではなかった。しかし、彼は周囲に視線をめぐらせ、今ここでは自分こそが浮いた存在なのだと痛感する。

 

 まず、隣を歩いている女性からして浮世離れした格好である。背が高く見惚れるようなプロポーションを誇っているものの、腰までのばした髪は青みがかった白色。

 服装はパフつきの白ブラウスに、藍色の長いワンピース。スカートの裾はフリルつきで、紋様をかたどるように細かい穴が空いている。胸元にはセーラー服のような襟に赤いリボンを通し、頭のてっぺんには箱形のおかしな帽子をかぶっている。

 

 次に、歩いている街へと目をやる。左右に立ち並んでいる家々はどれも木造で、瓦屋根をそなえている。路地は土で出来ており、ノリユキが普段見ていたガラス、コンクリート、アスファルトなどは気配すらも感じられない。

 しかも、街を往来する人々を見れば、みな男女ともに着物姿で草履や下駄をはいている。教科書でしか見なかった小袖や、祭りにすら似合わない無地の浴衣などが、れっきとした生活感をもって受け入れられていた。

 小さな子供などは逆にノリユキの制服が珍しいのか、ちらちらと視線をくれ、時にクスクス笑ったりなどしている。

 

「こら、ジロジロ見るんじゃない」

 

 笑っていた子供を、隣の女性がしかりつける。子供がとてとて逃げていくのを見ながら、女性はため息をついた。

 

「すまないな。私の生徒なんだが、なんせ聞かない年頃で……」

 

「それはいいんすけど……あの、上白沢(かみしらさわ)さんでしたっけ?」

 

慧音(けいね)でいいと言ったろう。上白沢 慧音だ」

 

 隣の女性こと、慧音がほほえむ。ノリユキは照れくさくなりながらも、続けて聞いた。

 

「慧音……さん。ここは一体……」

 

 まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような街の風景に、ノリユキはうろたえっぱなしだった。対する慧音は落ち着いた風情で答える。

 

「ああ、話すと長くなるからな。あそこでゆっくり教えよう」

 

 慧音は前方にある、大きな屋敷を指さした。そばまで来てノリユキが入り口の門に目をやると、そこには"寺子屋"と書かれていた。

 

――

 

「今日は授業は休みだ。楽にしてくれ」

 

「あ……ども」

 

 寺子屋なる施設の奥へ通され、和室の長机をはさんで二人は向かい合う。出されたお茶に手をつけながら、ノリユキは落ち着かない様子だった。

 

「さて、トクダ ノリユキ……だったな」

 

「あっ、はい」

 

「さっそくだが、何があったか教えてくれないか? 君がまだ身近な場所にいた時の事を、できる限りでいいんだ」

 

 慧音は滞りのない、悪く言えば事務的な口調で言った。それはノリユキのような見慣れないであろう人間が現れるのが、初めてではない事を示していた。

 ジッと目を見て話す慧音に戸惑いながら、ノリユキは覚えている事を話しはじめた。

 いわく、ここに来るまでは修学旅行中で、同級生たちとバスに乗っていた事。そしてそのバスが突然の濃霧に包まれてからは、記憶があいまいな事。後に、気がついたら今いる街の周辺に倒れていた事。

 以上が、ノリユキの語ったあらましだった。それを聞き終え、慧音は一つうなずき、心得顔で言った。

 

「ふむ……やはりそれは、迷い込んだんだな」

 

 迷い込んだ、そう聞いてノリユキは焦った様子で口を開く。

 

「ま、待ってくださいよ! そもそもここはどこなんですか? 日本語しゃべってますけど、外国かなんかですか!?」

 

「そうあわてるな。今から教えるよ」

 

 身を乗り出して言いつのるノリユキをいさめ、慧音はさまざまな事を説明しだした。その内容は、ノリユキにとってまるで非現実的なものだった。

 いわく、ここは幻想郷といって、現代日本から結界で隔絶された異世界のようなものらしい。

 街並みが古めかしいのもその影響だが、問題はそこではない。

 幻想郷とは名前の通りの"幻想"がひしめく世界であり、人外の妖怪がうようよいるらしい。ノリユキが人里の近くにいなかったら、今ごろは間違いなく死んでいただろう。

 それを聞いて、ノリユキは生唾をのんで震えあがった。

 

「そ、そんな……俺らは、そんな場所に……」

 

「気の毒だが、君の仲間たちがどうしているかは分からない。しかも百人以上いるとなると把握は難しいだろう……」

 

 いまだ信じられない、といった顔色でつぶやくノリユキに、慧音は重々しく首を横に振った。ノリユキのケースは、本当に幸運だったのだ。

 少し間をおいて、慧音が顔を上げる。

 

「とにかく今は、自分の事を考えた方がいい。私が帰る()()を知っている」

 

「え……俺、帰れるんすか!?」

 

「ああ、諦めるな。生きている限りは私が責任を持つ」

 

「よ、よかったぁ~……」

 

 慧音の力強い言葉に、ノリユキは情けない声をあげてテーブルに突っ伏する。その姿をとがめるような目つきで慧音が見下ろしていると、ふと、ふすまの外の玄関の方角で扉が開く音がした。

 

「休みの日にごめんなさーい! 先生いるー!?」

 

 続いて、大声とともにバタバタと上がり込む音。声色の様子からして、若い娘らしい。気づいた慧音は背後を振り向き、ノリユキもハッと顔を上げる。

 

「あの、弟から授業料まだ納めてないって聞いてー、勝手に来て悪いけど、早めに払っておこうと思って……」

 

 その訪問者は何やら事情を口にしつつ、あちこちの部屋を開けて慧音を探しているようだった。寄り道しながら少しずつ二人のいる部屋へ近づいてくる。

 慧音は間の悪さに前髪を軽くはらい、ふすま越しに声をかける。

 

「レイか? 悪いけど今は取り込み中なんだ。遅れてもいいから、金は後で……ん?」

 

 しかし、途中まで言いかけて、慧音は背中に妙な気配を感じて振り返る。そこではノリユキが目を見開き、ふすまの向こうを凝視している。

 一体どうしたのだろう。訪ねてきたレイが、何か気になるのだろうか。そう思って慧音は彼に向かって口を開く。

 

 ……が、言葉を発するより早く、部屋のふすまがガラリと開けられた。

 ふすまから出てきたのは、小袖姿で背の高い娘だった。長い黒髪を一本締めにまとめている。

 娘は座っているノリユキの姿に気づくと、ばつの悪そうな表情で笑った。

 

「あ、なんだお客さんいたんですね。ごめんなさい邪魔して……」

 

 軽い調子で頭を下げる娘。態度は気安かったが、それでも初対面らしく敬語を使う。

 しかし、娘と顔を合わせる位置にいたノリユキは、その乱入に何を言うでもなく、なぜか半身をのけ反らせ、すくみ上がっていた。顔はもはや一目で分かるほどに青ざめ、こわばっている。

 娘は不審に思い、眉をひそめて声をかける。

 

「あのー……どうかしましたか?」

 

「……はっ、はっ」

 

 なおも言葉を発せずにいるノリユキ。視線は娘を見つめたまま、少しも動かない。

 

「おい、ノリユキ?」

 

 慧音がしびれを切らして呼びかける。すると、彼は消え入りそうな声でつぶやく。

 

「ヌマタんとこの……姉さん?」

 

「はい?」

 

 だしぬけに名字を出され、娘は首をかしげる。それは全く心当たりがないという風だ。

 しかし、慧音がかすかに、何かに気づいたように眉をピクリと動かす。

 

「……レイ。悪いけど、今込み入った話をしていてな。二人にしておいてくれないか」

 

「あ……うん。じゃあこれだけ」

 

 レイというらしい娘は慧音に改めて頼まれると、袖のたもとから例の授業料らしき薄い包みを手渡す。そしてノリユキを不思議そうに一瞥してから、部屋をそそくさと後にした。

 後には、またノリユキと慧音の二人が残される。しかし、慧音は背後のふすまを閉めると、少しだけ険しい表情になって振り向いた。

 

「ノリユキ」

 

「は、はいっ」

 

 今までより低く、真剣な声。ろくに話せずにいたノリユキも、我にかえったように姿勢を正す。

 慧音は長机に座り直し、まっすぐ目を話さずにこう言った。

 

「……お前、あの子を知っているのか?」

 

「…………っ」

 

 その問いかけに、ノリユキは息を呑む。そして慧音からフッと目をそらした。

 ただならぬ事があると、それだけで分かる。事実、先ほども彼はまるで幽霊でも見たかのような顔をしていたのだ。

 ノリユキはなかなか口を開かない。二人だけの部屋に、重い沈黙が流れる。

 しばらくして、慧音が確信のある口調で言った。

 

「……もう死んでいる。違うか?」

 

「…………!!」

 

 ノリユキは全身を縮みあがらせ、慧音を見た。彼女の視線は返答を待ったまま動かない。

 一拍おいて、ノリユキはうろたえながら言った。

 

「いや……だって。確かに声も顔も、名前まで同じだったけど……まさか……」

 

「幻想郷ではたまにあるんだよ。死んだ人間が流れ着くのがな。三、四年前だったか……」

 

 慧音は事もなげにそう告げる。流れ着いたらしい時期まで伝えると、ノリユキの顔がいっそう青ざめた。しだいに恐れるように、口調がつたなくなる。

 

「しかし……なんで、名字を言ったのにあんな無反応で」

 

「幻想郷に来た影響で、記憶に障害があったんだ。レイという名前しか覚えていなかった」

 

「そんな……」

 

 慧音の言葉に、ノリユキはガックリとうなだれる。それを慧音は気の毒そうに無言で見つめていた。

 少しして、ふと慧音が聞いた。

 

「知り合い……だったのか?」

 

 ノリユキは顔を上げ、弱々しくうなずいた。そしてボソボソと、苦しいような口ぶりで話しはじめた。

 

「……同じ町内で、彼女の妹が同級生だったんで……たまーに顔を合わせていました。仲良くはなかったスけど」

 

 ノリユキは話すうちに俯きがちになってゆく。そして、絞り出すようにこう話した。

 

「けど……俺らが小学生の時、彼女がイジメにあったとかで……」

 

「……死んだ、か」

 

「はい。自殺で……」

 

 こくりとうなずくノリユキ。彼はそれきり口をつぐんでしまった。慧音は悲しげに目を伏せ、言葉をかける。

 

「すまない。つらい話をさせて」

 

「…………」

 

 慧音はそう言ってほほえみかけたが、ノリユキは何も言わなかった。ただ、時計の音がコチコチと鳴り響く室内で、ジッと何かに耐えるような顔をして押し黙っている。

 するとふと、彼は意を決したように顔を上げ、慧音へ悲痛ともいえる声でたずねた。

 

「あ、あのっ……」

 

「ん?」

 

「彼女……レイさん、俺の事を何か言っていませんでしたか?」

 

 突拍子もない質問に、慧音はキョトンと目をしばたかせた。記憶はないと分かっているはずなのに、今さら慧音から聞き出したいような事があるのだろうか。

 慧音は静かに首を横に振り、答える。

 

「いや……特に何も言わなかった。現代の話はな。どうしてだ?」

 

 慧音が反問すると、ノリユキはまた言いにくそうに目を伏せる。そして慧音を目だけでチラチラとうかがうと、ようやく話しはじめた。

 

「俺も……レイさんの事、ちょっとからかっていたんです」

 

「なに?」

 

 慧音の顔がけわしくなる。目をおよがせ、彼は続けた。

 

「昔……小学校の時にちょっとした下ネタ用語を知って……それで友達と連呼した時があったんです。ヌマタって名字を、"スマタ"、"スマタ"って……」

 

「…………」

 

「その時は、元気ないなぁって思っただけでしたけど……まさかマジでイジメられてたなんて」

 

 ノリユキは今にも泣き出しそうに首を横に振った。慧音は何も言わず、その様子をジッと見ている。罪悪感からか黙り込んでしまっても、責めもなぐさめもせず、静かな視線を向けていた。

 それから、また無言の時間がすぎる。ノリユキがうちひしがれたようにうずくまっていると、慧音がようやく口を開いた。

 

「……そうだったのか」

 

 なんて事ない一言。それだけでも、ノリユキは音をたてて生唾を呑んだ。すると弱りきった目を向け、慧音に言った。

 

「あの……慧音さん」

 

「なんだ?」

 

「今からでも……謝れませんか。あの時バカにしたの……ずっと、後悔してたんだ」

 

 その問いかけは、尻すぼみになった。もう一回言うのはさすがに辛い、と言いたげに、ノリユキはくもりきった顔をしている。

 

「…………」

 

 慧音は長い間、アゴに手を置いて考えていた。しかし厳しい表情になると、静かに首を横に振る。

 

「……気持ちは分かるが、それは無理だ」

 

「ど、どうして!?」

 

 ショックに息をのむノリユキ。そんな彼に、慧音はゆっくりと語りかけた。

 

「彼女はもう現代では死んでいる。記憶をなくして別の人生を歩んでいる。幻想郷の家族にひきとられて、兄弟もいるんだ」

 

「けど……」

 

「そりゃお前は謝りたいだろう。けど今になってそれを伝えても、レイは怒る事も、許す事もできない。お前が楽になるだけだ」

 

「…………っ」

 

 はっきりと言い放たれ、唇をかむノリユキ。それから慧音はひじをついて身を乗りだし、いくらかおだやかな口調になる。

 

「……生きていれば誰だって、辛い事の一つや二つはある。取り返しがつかない事だってある。それでも生きていくんだよ。みんな」

 

「…………」

 

 ノリユキは全てを聞き終えても、なかなかうなずかなかった。指を落ち着きなく突き合わせながら、「でも……」などと未練がましくつぶやいている。

 その様子を見て、慧音は小さく息をはき、仕切り直すように明るい声を発した。

 

「よし、じゃあちょっと出かけてみるか」

 

「へ? 出かけるって……どこに?」

 

 突然の提案に、ノリユキは戸惑った表情を浮かべる。慧音は立ち上がって言った。

 

「あいつの……レイの流れ着いていた場所さ」

 

――

 

 ……それから一時間後。ノリユキは慧音に連れられ、人里から離れた奇妙な場所にいた。

 一面が赤い彼岸花で埋まり、木々がざわめく音が響くだけの、人気(ひとけ)のない広場。ノリユキはそのただ中に突っ立ち、キョロキョロと辺りを見回す。

 

「ここは……」

 

「"再思の道"と呼ばれる場所だ。レイはここに倒れていたらしい」

 

 しゃがんで彼岸花をさわり、慧音は続ける。

 

「ここは不思議な場所でな……。自殺した者などがたまに来るんだが、この彼岸花の毒にあてられると、また生きる気力がわいてくるらしいんだ」

 

「毒……」

 

 ノリユキは花を見下ろして不思議そうに言った。しかし、その直後に彼はなぜか乗り物酔いのような頭痛と吐き気を感じ、頭をおさえる。

 それに気づいた慧音は立ちあがり、振り返って話す。

 

「原理は分からん。だがレイの場合、もはや生き返ってもマトモに生きていけないほどに錯乱していたんだ」

 

「……でも、それでも現代に帰らせないのは……」

 

「確かに百パーセント正しいとは言えないだろう。だが幻想郷の結界は、いつでも安全に行き来できるとは限らない……。いわんや、一度死んだ人間は……」

 

「…………」

 

 釈然としない顔のノリユキに、慧音は苦い顔で答える。そして彼女はノリユキの両肩に手を置くと、真剣な表情で言った。

 

「少なくともお前は、このままなら何の事故もなく帰れる。だから現代で元通り生きてくれ。レイの分も」

 

「…………」

 

「辛い思い出をずっと背負うのは大変だろう。だけどそれが生きるって事なんだ。現代(むこう)で、胸を張ってそれをまっとうしろ」

 

 そう言って、慧音は最後にほほえんだ。ノリユキはしばらく締めつけられるような表情をしてうつむいていたが、やがてコックリとうなずいた。

 

「……分かりました」

 

「よし! じゃあ私について来い。早くしないと日が暮れてしまう」

 

 慧音は鼓舞するように言うと、先を足早に歩きはじめる。その時、ノリユキが慧音の背に呼びかけた。

 

「あ、あの!」

 

「ん、なんだ?」

 

「色々とすんません……。俺が来たせいで迷惑かけちゃって」

 

 帰る決心がつき、余裕ができたのだろう。ノリユキは自ら頭を下げた。慧音は軽く笑い、「かまわんよ。不可抗力だ」と言ってから、こう続けた。

 

「それに、私にも少々かわった能力があってな」

 

「能力?」

 

「ああ。おおざっぱに言えば人の歴史……記憶を操れるんだ。その気になれば、お前が元から来なかった事にもできる」

 

「ま、マジすか!?」

 

「使いどころは選ぶがな。ははは」

 

 慧音が笑うと、ノリユキもホッとした笑みをうかべる。そして二人は、夕暮れの再思の道を後にしていった。

 

 ……しかし。歩いている最中でふと、慧音が悲しげに目を細め、内心である事を思い返す。

 それは、レイと初めて会った日の事。

 

――

 

 四年前のある日。慧音の家に突然、幻想郷の管理者である八雲 紫があらわれた。彼女は慧音が驚くヒマもなく、一人の少女をどこからか連れ出した。

 その少女がレイだった。彼女は泥だらけで、畳に倒れて起き上がりもせず、苦しげにうめいていた。

 そして手には、抜かれてくしゃくしゃになった彼岸花が。

 戸惑う慧音へ向けて、紫は言った。

 

『流れ着いた自殺者みたいなんだけどね、記憶が混乱してるみたい。放っておいたら人格が壊れるわよ』

 

 紫は眉一つ動かずに言った。慧音が驚いてレイを見ると、彼女は夜叉のように顔をゆがめ、歯をむいて何事かうなっている。

 その声に耳をすますと、確かに聞こえたのだ。

 『殺してやる……殺してやる』と。

 

 彼岸花の呼び起こす生きる気力。恐らくそれにあてられ、レイはイジメられた恨みを肥大化させていたのだろう。

 彼女にとっては、その恨みこそが生をささえる原動力になりえたのだ。

 

 ……慧音は自身の能力を使い、レイの断片的に残った記憶を読み取り、消し去った。

 そのおかげで慧音は彼女に起こったイジメの事実を知り、レイは何もかも忘れたいち少女として、幻想郷になじめたのだった。

 

『幻想郷に来た影響で、記憶に障害があった』

 

『記憶をなくして別の人生を歩んでいる』

 

 ノリユキに嘘は言わなかったが、記憶を消した事だけは話せなかった。胸がつぶれるような感覚をおぼえながら、彼女は目を閉じる。

 今ではレイは、人間関係も良好で何不自由なく暮らしている。誰も慧音を責める者はいない。

 しかし、慧音は今でも考える。生きる望みと言ってもいい憎悪を、一方的に消し去ってよかったのか。ノリユキのような、謝罪したい人物と再会する機会をうばって、本当によかったのか。

 胸中で問いかけてみても、答えは出なかった。

 

(もし、記憶がもどれば……私が(とが)を受けねばな)

 

 そう思い、暗い面持ちで慧音は木々のすき間からのぞく空を見上げた。

 茜色の夕焼け空は、重苦しい彼女の胸の内などまるで知らぬという風に、あざやかに輝いていた。

 

トクダ ノリユキ――生存



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タヌキ女と、ドブネズミ小僧

 ……うっそうとした森の中。そこはよほど人里から離れているのか整備された道もなく、草に埋まった獣道がひとすじ、細々と続いている。

 その獣道をたどった先に、場違いな大きな屋敷が一軒、木々に囲まれて建っていた。

 母屋と離れ、中庭まで用意された和風家屋で、周りが森でさえなければ江戸時代の武家のようだった。

 

 その屋敷の内部にある、一つの大部屋。何畳もの広さの真ん中に、二人の少年が正座していた。

 二人ともブレザーの学生服で、▼▼中学という校章がきざまれている。少年らは片方は切迫して今にも逃げ出しそうな、もう片方は迷惑そうな顔で隣の少年を見つめていた。

 

 そんな彼らを、壁際に並んで囲むようにして見つめる一団があった。そろって若い女性で、ハッピと短いモンペという姿。そして頭には何やら一対の動物の耳のようなものが生え、尻のやや上あたりからはモサッとした太く茶色い尻尾らしきものが伸びている。

 その奇妙な女たちの中で、少年らの正面、ただ一人着物にスカートという姿の長身の女性が進み出た。茶色い縮れ毛に丸メガネをかけ、尻尾らしきものが他よりひときわ大きい。

 彼女はメガネの奥の鋭い目をキラリと光らせ、少年らに言った。

 

「さて……小僧ども。先ほど(わし)らタヌキの隠れ家から、何を盗もうとした?」

 

 "タヌキ"と称する女性はニヤリと口角をあげてたずねる。言われて見れば、女性たちの耳や尻尾らしきものは、ちょうどタヌキのそれにそっくりだった。

 一方、問われた少年らはそれぞれ異なる反応をする。

 

 片方は、黒髪をウナジまでむぞうさに伸ばした、浅黒い肌の少年。彼はポケットから、くしゃくしゃになった紙幣を十枚ほど出した。

 

「それだけではない。まだあるじゃろう」

 

 女性は低い声で指摘する。少年は一瞬だけ息を呑むと、別のポケットからまた紙幣を五枚ほど出した。

 一方で、隣にいるくせ毛で大柄の少年は、そんなセコいしぐさを横目に、迷惑そうな視線で見つめていた。

 

 女性は出された紙幣を奪い返し、メガネをくいと上げて言った。

 

「……さて、この二ッ岩 マミゾウ……小僧と言えど、盗人を見逃したとあっては、示しがつかぬな」

 

 マミゾウと称する女性の、ため息まじりの宣告。それを聞いた浅黒の少年は震え上がり、隣の少年を指さして叫んだ。

 

「ち、違うっ! コイツだ! ナオキがやれって言ったんだ!!」

 

 顔面をこっけいなほどに歪ませた、必死の告発。しかしナオキと呼ばれた少年は、上半身で振り向いて相手をどなりつける。

 

「あ? ふざけんなシゲル!! 俺はお前が盗んでいるところを、たまたま通りがかっただけだ! 俺は一文も持ってやしねえんだぞ!!」

 

 一方で濡れ衣を主張し、ナオキは隣の少年、シゲルをにらみつける。大勢の観衆をそっちのけにして、二人は噛みつくような勢いで攻撃的な視線をぶつけ合う。

 そんな少年らに、あきれたような声がかけられる。

 

「待て、まだ話は終わっとらんぞ」

 

 マミゾウだった。二人はぎくりと体を硬直させ、元のように正座する。マミゾウは一つ咳ばらいをし、シゲルの方を見て言う。

 

「で……ササキ シゲルといったな。初めて入る建物で盗みをはたらくとは、大したもんじゃのう」

 

「いや、違っ……盗むために入ったんじゃねえって。ただ、気がついたら森の中にいて、誰かいないかなって……」

 

「じゃが、結局は誰に言われなくとも盗ったじゃろう。一人で」

 

 じろりと視線をするどくするマミゾウ。それに気づくとシゲルは冷や汗まじりにうなだれた。

 続けて、マミゾウは隣の少年、ナオキに視線を移す。

 

「で、お主がクドウ ナオキじゃったな」

 

「……はい」

 

「お主の姿は他の子分が見ておる。潔白は証明ずみじゃ」

 

「……だったら、俺だけでも解放してもらえませんか」

 

 ナオキは不満げに、しかしおびえた様子で言った。しかし、マミゾウの口からは無情な言葉が吐かれる。

 

「残念じゃがそうはいかん……。この隠れ家はいちおう秘密になっていてな。めったにおらぬが、侵入者はただで帰せんのじゃ」

 

「……はっ、なるほど。普段は誰も来ないから、見える場所に金を置いてたわけだ」

 

「おい、シゲル!」

 

 盗みがバレた腹いせか、嫌みを言うシゲルを、ナオキは強い口調でとがめる。しかし、シゲルはしおらしくなるどころか、居直るようにして叫んだ。

 

「あんな棚の上にポンとおいとくのが悪いだろ! アンタの子分の自業自得だ!」

 

「こら、いい加減にしろ!」

 

「うるせえよ! なんだよあの金! いつの時代のヤツなんだか、使えやしねえ!!」

 

 またもや、部屋中に二人の怒鳴り声が響き合う。マミゾウはふところから、先ほど取り返した紙幣を取り出す。シゲルやナオキが見慣れているであろう物どころか、生まれる前よりも古いであろう、圜拾(じゅうえん)と左右が逆に書かれた紙切れ。

 マミゾウはそれを一瞥し、ため息をついて言った。

 

「お主ら……」

 

「えっ」

 

「ここがどんな場所か……もう一度説明が必要か?」

 

 その瞬間、部屋の中に異様な空気がうずまきだす。サウナの熱気に似ているが、刺すように冷たい、嫌悪感をもたらす空気。

 同時にマミゾウと、周りの女たちの姿が変わりだす。服がスッと透けるようにして消え、体中から尻尾と同じ色の毛が生えはじめる。そして四つ足になったかと思うと爪が獣のそれに変質し、突き出た鼻の下で白い牙がむかれる。

 気づいた時には、シゲルとナオキは部屋の真ん中で、大人ほどの大きさをしたタヌキの群れに囲まれていたのだった。

 

 二人が彼女らに見つかった時、説明された事だった。周りの森をふくめたこの一帯は幻想郷といい、近世が舞台の怪奇ものよろしく妖怪やら神やらがあふれているのだという。彼らは正直、半信半疑だったのだが、今この時それは本当だったと確信した。

 すっかり萎縮してしまった二人を前に、マミゾウたちはまた元の女性の姿へと戻る。

 「で……本題じゃが」と前置きし、二人を冷たく見下ろして言った。

 

「お主らには一つ、ゲームをしてもらおう。それをクリアすれば解放してやる」

 

「ゲーム……?」

 

 いぶかしむナオキ。その直後、突然女性たちの何人かが隣のシゲルを羽交い締めにして押さえ込んだ。

 

「う、うわっ、なんだお前ら!」

 

「シゲルとやら。実行犯のお主は部屋に残れ。ナオキはちょっと外に出てもらおう」

 

「…………」

 

 また他の二、三人の女性がナオキを外へ連れ出す。ナオキは特に抵抗するでもなく、あっさりと従った。彼らがふすまを開けて廊下に出ると、背後からシゲルのわめく声が聞こえる。

 

「くそっ、離せ! 殺す気か畜生!!」

 

「少しは大人しゅうしとれ。まだ死ぬと決まったわけではあるまい」

 

「俺が悪いんじゃない! この手が悪いんだ、この手が勝手に!!」

 

「やかましい。あまり手をわずらわせるな!」

 

 廊下にまで響く声を聞きなから、ナオキたちはその部屋を離れていく。無言でしかめっ面をしているナオキに、女性の一人が話しかけた。

 

「うるさい子だねー、君の友達」

 

 その気安い口調にナオキは少し驚いたが、すぐに元の表情にもどり、吐き捨てるように言った。

 

「友達なんかじゃありませんよ……。ただのくされ縁です」

 

「あれ?」

 

「小学校の時に転校してきて、興味本意で話しかけたら、めぐりめぐってこんな始末に……。くそっ、あんなヤツ死ねばよかったのに」

 

「……あ、あのーもしもーし」

 

 どんどん憎々しげな顔になっていくナオキを見て、周りの女性たちはしり込みしてしまう。その時、元きた和室からマミゾウの声がした。

 

「おーい、こっちは済んだ。入ってきていいぞ」

 

「あ、はーい!」

 

 女性たちはその合図がいい機会とばかりに、不機嫌なナオキを和室に引っ張っていった。ふすまを開き、ナオキが踏み込むと、彼はぎょっと息を呑む。

 

「……なんだ……?」

 

 そこには、部屋に残されていたシゲルが()()()()()()()()()()()。どれを見ても顔も背格好も同じで、並んでナオキを見つめている。

 

「なかなか壮観じゃろ?」

 

 そんな中、キセルをふかしたマミゾウが満足そうに言った。ナオキが振り向くと、彼女はシゲルの集団を一瞥して言う。

 

「コイツらは、儂らタヌキが変化(へんげ)の術で化けたものじゃ。本物は部屋に一人だけおる」

 

「……つまり本物を見つけろ、と?」

 

「察しがいいな。見つければ二人とも帰す。しかし見つけられないか、間違えるかした場合には……悪いが、落とし前をつけさせてもらう」

 

 マミゾウが意味ありげに目を細める。ナオキは舌打ちしてシゲルたちに近寄ろうとしたが、そんな彼にマミゾウは付け加えた。

 

「ああそうそう。こやつらには『最後の一人までしゃべるな』と命じてある。質問をしてもムダじゃからな」

 

「……わかった」

 

 ナオキはうなずき、目の前のシゲルたちを舐めるように頭から足先まで見つめまわす。そして手近の三人を指さした。

 

「……コイツと、コイツと、コイツは違う」

 

「ほう、なぜ分かる?」

 

「……アイツの肌はもっと汚い。とくに左の頬が黒ずんでる。あとワイシャツのボタンの上はいつも開けてるし、襟が汚い。そんで靴下は、たいてい片方に穴が開いてて汚い」

 

 すらすらと理由をのべるナオキ。その直後、指さされた三人がボンと煙にまかれたかと思うと、あのタヌキの尻尾を持つ女性へともどった。それを見たマミゾウは、感心したように息をつく。

 

(なるほど……なかなかの観察力じゃ。しかし、偽者を見つけるたびに変化(へんげ)の精度は上がってゆく……。果たしてどこまで見抜けるか……)

 

 楽しげにマミゾウが見つめるのをよそに、ナオキは次々とタヌキの術を見破っていった。

 「シゲルの口はもっと虫歯だらけ」「爪がキレイすぎる」「ベルトはもっとボロい」……そんな細かい違いを目ざとく見つけ、タヌキたちは一人、また一人と正体をあらわしていった。

 そしてついに、目の前にいるシゲルはただ一人となる。

 

「よくやったな。感服したぞよ」

 

 マミゾウはうんうんとうなずいてそう言った。シゲルは真っ先にナオキへかけより、笑みを見せる。

 

「……悪ぃ、ナオキ」

 

「はぁ……ったく」

 

 照れくさそうに謝るシゲルを見て、ナオキはやれやれとため息をつく。そして一つ、軽口をたたく。

 

「ほら、さっさと帰ろうぜ。お前の親父さん怖かったもんな」

 

「はは、そうなんだよ。よく怒るし、たまったもんじゃねえ」

 

 シゲルは苦笑し、部屋の外へむけて歩き出す。その時だった。

 

 ナオキが、横をすり抜けようとするシゲルの手を、がっしと掴む。そして言った。

 

「……お前、偽者だろ」

 

「……!? な、何言って……」

 

「俺、シゲルの親父さんが家にいるの、見た事ねえんだよ。一度もな」

 

 ナオキは一転、するどい目になってシゲルのような誰かを見すえる。相手はとたんに冷や汗をかき、ひきつった笑いをうかべる。

 そこで横からマミゾウが止めに入った。

 

「これはおかしな事を。『最後の一人までしゃべるな』と言い含めてあると、伝えたはずじゃがの」

 

「"タヌキの集団の"最後の一人まで、とも取れますよ。……大体、あのバカが黙ってろと言われて黙ってるわけがない」

 

 ナオキはそう言って、部屋の中を丹念に眺めまわす。そしてやがて一枚の畳に目をつけると、手をかけてがばりと持ち上げた。

 

「あった!」

 

 畳の下には、ちょうど一畳ぶんの広さと、座れるほどの高さを持つ隠し部屋があった。そしてそこには、シゲルが後ろ手にしばられ、猿ぐつわをかまされて寝ていた。

 

「シゲル!」

 

「……ふん、バレたか」

 

 少しだけくやしそうにマミゾウがつぶやく。それを尻目にナオキは隠し部屋に降り、シゲルの縄をほどいてやる。

 

「無事か。ほら、早く立て」

 

「……もがっ、ぷはぁ……」

 

 猿ぐつわを外すと、シゲルが苦しそうに息をつく。その時、彼らの上から声が降ってきた。

 

「儂らの負けじゃ。早く上がって来い。里への道を教えてやる」

 

 ナオキが顔をあげると、タヌキたちはそろってイタズラっぽい笑みをうかべている。まだ罠とかありはしないだろうかとナオキが警戒していると、ふと、背後でゴソゴソと音がするのに気づいた。

 

「……?」

 

 振り向くと、シゲルが壁際にうずくまって何かしている。よく見えないが、何かをポケットにしまっているようだ。

 

「シゲル? 早く出ろよ」

 

「え、ああ、おう。分かってる分かってる」

 

 シゲルは何故かうわずった返事をし、礼も言わずにさっさと隠し部屋から這い上がっていった。

 その姿を見て、ナオキはなんとなく嫌な予感がしていた。

 

――

 

 ……それから三十分ほど後、ナオキとシゲルの二人は人里とやらにむけて、細い獣道をひたすら歩いていた。

 

『ここから東にひたすら進めば、そのうち人間の居住地に出る。儂らはこれ以上手を貸さぬからな』

 

 そう言ってマミゾウは彼らを解放……もとい放り出した。二人は持っていた荷物を迷惑料という名目で没収され、しかも聞けば妖怪がうろついているらしい森の中を、護衛もなしに進むハメになる。

 

「へへっ、へへへ……」

 

「…………」

 

 ナオキは、先を歩くシゲルの背中を見つめる。これから先、どこに危険があっても分からないというのに、不気味な笑い声をもらし、軽い足取りで進んでいく。

 明らかに不自然だった。思えば隠し部屋で助けてからこっち、どこか態度がうわついている。

 

「シゲル」

 

「へっ!?」

 

「お前、何か隠してないか?」

 

 呼び止めると、シゲルは大げさに驚いて振り返る。その顔は目を見開いた、わざとらしい笑顔。

 ナオキが一歩つめよると、怖気づいたように後ずさる。シゲルは目をそらし、モゴモゴと答えた。

 

「いや……別に、何も」

 

「お前の嘘はあからさまなんだよ。さっきも盗みをなすりつけようとしやがって」

 

 ナオキは辛らつな口調でさらに追いつめる。そうしているうちに二人の前に、小さな谷とつり橋があらわれた。シゲルは脇へも逃げられずにひたすら後ろへ下がるハメになる。

 

「おい」

 

「なんだよ……来るなって!」

 

「もう一度言うぞ。何か隠して……」

 

「わ、分かった! 分かったよ、コレだ!!」

 

 ナオキの剣幕に、シゲルはとうとう観念し、ポケットの中から何かを取り出す。それは黄金色にかがやく、数枚の小判だった。

 見た瞬間、ナオキの顔がけわしくなる。

 

「お前……それは……」

 

「へへーっ、あの隠し部屋にあったんだよ。ちょろっと持ち出してもバレないだろ」

 

「……! まさかあの時ゴソゴソしてたのは……」

 

「そういう事! あの紙の金はともかく、こいつは大金になるぜ~」

 

 シゲルは小判を抱きしめ、つり橋の上をくるくると踊る。その顔はずいぶんと嬉しそうだったが、他人の財産を盗んだとあっては、とてもいやしく思えた。

 

「何やってんだお前!!」

 

「へ?」

 

 ナオキは青ざめた顔になって叫んだ。そしてキョトンとするシゲルにつめより、がなりたてるような勢いで言った。

 

「お前、その小判の盗みがバレたら、ヤツら追ってくるかもしれねえだろ! そうしたら今度こそ何されるか分からねえ。最悪殺されるぞ!!」

 

「……あっ」

 

 うるさそうにしていたシゲルの表情がふと、真顔になる。そしてみるみる冷や汗をかきはじめた。その様子には、後先を考えていなかったのがありありと見てとれた。

 しかし、シゲルは小判を手放さず、後ずさる。

 

「こっ、これはもう俺のだ! 俺が使うんだよ。文句あっか!?」

 

 盗っ人たけだけしく、シゲルは歯をむいて怒鳴った。小判をにぎる手が圧迫され、白くなる。あきれてナオキがいさめようとする。

 

「いや、お前のじゃないだろ……。金なんて生きて帰ってから稼げば……」

 

「黙れよ! 一人だけいい子ぶってんじゃねえ! 聞こえてたんだぞ、俺の事をさんざん汚いって言いやがって!!」

 

 どうにか追求をさけたいのか、シゲルはあのタヌキたちとのゲームの事まで持ち出した。そして眉をひそめるナオキへ、彼は突如ニヤリと顔をゆがめ、言った。

 

「それに……お前、わざわざコイツ(小判)をタヌキどもに返すのか? そうすりゃそれこそ、確実に盗みはバレちまうぞ?」

 

「…………っ!」

 

 シゲルの居直りに、ナオキはハッと息を呑む。それを見たシゲルはがぜん語気を強めた。

 

「分かるか、なあ!? 俺とお前はもう、一蓮托生だって事だよ! 一緒にここまで持ち出した時点で、もう共犯なんだ! ははははは!!!」

 

 舞い上がるようにして言い放ち、高笑いするシゲル。ナオキはそんな姿を見て、巻き込まれた怒りと、いやしさへの呆れと、その他ごちゃごちゃした感情が胸にうずまくのを感じて、絶句していた。

 しかし、それが極点に達したのだろうか。スッと頭が冷える感覚がする。そしてナオキは一言、冷めた口調で言った。

 

「……シゲル、お前さ」

 

「ん?」

 

「生まれてこない方が良かったんじゃねえの?」

 

 突然の侮蔑がこもった物言いに、シゲルもさすがに驚きの表情をうかべる。しかしすぐに険悪な顔になり、低い声で応じた。

 

「……あ? なんだ急に」

 

「……小学校で、お前が転校してきた時さ……。あれ、前の学校を追い出されたから来たんだろ?」

 

「はぁ?」

 

 唐突な言葉に、シゲルは眉をひそめる。しかし目の奥に、うろたえるような光のゆらぎがあった。

 

「小5の頃にお前、俺んちの金を盗んで騒ぎになったろ。……そん時、お前の母ちゃんが言ってたんだよ。『このクセが治らなきゃ、また転校するハメになる』って」

 

「なっ……あのババァ!」

 

「治らなかったみてーだな」

 

 目に見えて動揺しだしたシゲルに、冷たい言葉をよこすナオキ。そしてナオキはゆらりと近づくと、小判を持ったシゲルの腕を、素早くつかむ。

 

「……せめてよ、俺に迷惑料くらいよこせ。じゃねえと割に合わねえ」

 

 虫でも見るような目つきでナオキが迫る。しかしそれがカンにさわったのか、シゲルも躍起になって金切り声をあげた。

 

「離せえっ!! 俺は色々と使う用事があるんだよ!! いいだろお前は、毎日母ちゃんがタダで飯つくってくれんだから!!」

 

 急に家庭の話を持ち出され、ナオキは意外な顔をする。そんな彼に、シゲルは泣き出しそうな声で言った。

 

「俺は毎日メシ買わなきゃいけねえんだよ! 借金だってあるし、欲しいものだってあんだよ!! さんざん人の見た目にケチつけやがって、殺すぞ!!」

 

 支離滅裂な言い分をとばすシゲルの口から、何本もの黒い虫歯が見えかくれする。その雰囲気からは、コンプレックスを突かれた怒りがにじんでいた。

 しかしこの時、その身勝手な甘えを受け止めてやる余裕が、ナオキにあるはずがない。二人はたちまち組み合うと、狭いつり橋の上で小判をめぐって揉み合いをはじめた。

 

「離れろよ! つーか消えろ! いつも俺を見下してやがったんだろどうせ!」

 

「そりゃお前の自業自得だろうか! この性格破綻者のドブネズミが!!」

 

 醜いばかりの悪罵をぶつけ合うたびに、つり橋が左右に激しく揺れる。そしてふと、小判の一枚が二人の手からするりと滑り落ちた。

 

「あっ」

 

 それを目で追いながら、二人はつい落ちてゆく小判に手をのばす。その先の小判は、あえなくつり橋の横をかすめ、谷底へと落ちていき……。

 続けて、つり橋ががくんと斜めに傾いた。

 

「うわああああああぁぁっ!!」

 

 揉み合った姿勢のまま、二人も谷底へとまっ逆さまに落ちていった。悲鳴は岩壁に反響して、だんだんと小さくなり……。

 やがて、最後の小判のかすかなきらめきとともに、聞こえなくなった。

 

――

 

「えー!? 木の葉を小判に変えて?」

 

「ああ、実はそうなんじゃ」

 

 ちょうど同じ頃。タヌキたちの隠れ家では、マミゾウをはじめとした女性たちが酒を飲んでいた。マミゾウは自慢話でもしているのか、赤ら顔で胸を張っている。

 

「でも気づかなかった。そんなイタズラ仕込んでるなんて」

 

「あんたらはナオキって子と外にいたもんねぇ」

 

 驚いている女性へ、別の仲間が酒をついでやる。マミゾウは自分の盃にも酒をねだりつつ、上機嫌に語りだす。

 

「こう、シゲルという小僧が暴れているすきにな、木の葉に妖術をかけて、隠し部屋に置いておいたんじゃ。さっき見たら案の定、なくなっておった」

 

「人が悪いですねぇ、親分も」

 

「しかも殺す気なんてないのに脅かされて、かわいそうに」

 

 子分らはけらけらと笑っている。マミゾウは大きく鼻を鳴らし、酒を勢いよくあおる。

 

「なぁに、儂らにちょっかいかけた代償としちゃ安いもんじゃ。ヤツらめ、小判の変化(へんげ)がもどったらおったまげるぞ」

 

 そう話すマミゾウの赤ら顔は妙にイタズラっぽく、楽しそうだった。

 

 ……明くる日、隠れ家から人里への途中にあるつり橋の下で、二人の少年が落ちて死んでいるのが発掘された。少年らはともに幻想郷では見ないブレザー姿で、手には何故か小さな木の葉がにぎられていたという。

 

ササキ シゲル、クドウ ナオキ――ともに死亡



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こいしと個の意思

「……雨、ふってきそうだなぁ」

 

 灰色の雲が空をただよい、湿った風がふく昼下がり。少年、カマダ タカシは空模様を気にしつつ言った。

 ▼▼中学と書かれたブレザーの制服姿で、大きいバッグを肩にかけている。ズボンのすそや靴は土がそこかしこに付き、長時間歩いていたのが分かる。

 

「ここまで来るのに建物が何もないって、やっぱりおかしいよ……」

 

 タカシは辺りを見回しながら、疲れきった顔でそうつぶやいた。横手にはなだらかな丘が広がり、その陰に隠れるようにして紫色の花畑が広がっている。何の花だか知らないが、この薄暗い曇天の下、人っ子ひとり見当たらない状況ではその花たちは寂しげで、不気味ですらあった。

 ぼさぼさの頭をかきあげ、彼はまた歩きだす。角メガネの奥にある小さな目はしょぼくれ、これからたどり着くあても見えてなさそうだった。低身長で胴長の彼がトボトボ歩いている姿は、なんというか捨てられたチワワから可愛いげを抜いたような、どうしようもなく冴えない雰囲気があった。

 

 タカシはボンヤリと前を見ながら、今までの事を思い出す。思い出すといっても、修学旅行のバスに乗り込んで、そこから先は分からない。

 彼は窓際でひじをつき、ずっと眠っていたのだから。起こす者もいない。クラスメイトが何を話していたかも、知るよしがない。本当に、気がつけばこの見知らぬ人里はなれたような場所に一人でいたのだった。

 最初は、知らないうちに観光地に置き去りにされたのかと疑った。観光の班分けからして余りもの扱いだったので、あながちあり得ると思ったのだ。

 しかしとっさにポケットの財布と、それから携帯を確認して、タカシはその予想が甘かったと気づく。

 携帯には、電波が入っていなかった。再起動などもしてみたが状態は変わらず、マップを調べる事もできない。

 さいわい、貴重品や荷物は無事だったわけだが、それなら一体、何が起きてこうなったのだろう? ただの片田舎のいち中学生を、物取りもせずに放置するような物好きが、どこにいるというのか。

 

 いくら考えても答えは出ないので、タカシは舗装もされていない道を歩き続ける。その歩き方はどこか妙で、重心が傾いていたり、足が地面に擦っていたりと不安定だった。靴をよく見ると靴底がななめに酷くすり減っており、その妙な歩き方が日常的であるのがうかがえた。

 そうこうしている内に、背後にあった紫の花畑が遠くなり、代わりに視界のすみに黄色い花畑が見えてきた頃。

 

 タカシのメガネにポッ、と大粒の水滴がつく。彼が顔をあげると、またたく間に空から音をたてて雨が降りだした。

 

「うわっ!?」

 

 タカシはあわてて道脇の木立の下へと走る。そして木陰に飛び込んだが、それでも防ぎきれない雨が彼の体に染み込んでくる。

 

「えーと、雨具、雨具……」

 

 小さくつふやきながら荷物を開ける。しかし中身は、着替えやらお土産やら飲み物やらが所せましと詰め込まれた、乱雑なものだった。

 

「あーもう!」

 

 タカシはいら立った声をあげて荷物を下からまぜっ返す。そしてようやく引きずり出した雨ガッパはよくたたんでいなかったのか、くしゃくしゃに丸まってシワがついていた。

 それをかぶって彼は木に背をあずける。まとわりつく雨粒が体を冷やすが、今はやり過ごすしかないと、彼はつとめて座ったままジッとしていた。

 

 しかし、である。雨ガッパを着た自身の姿を見たタカシの頭に、ふと考えがうかぶ。

 

(……そういえばこの雨ガッパの形……マンガとかで見るローブみたいだな)

 

 広い袖口や丈の長いすそ、そしてフードなどを見ればそっくりだ、などと彼はどうでもいい事を考える。そのうちに頭の中にはローブ姿の魔法使いの青年があらわれ、炎や水、風、雷を自由自在にあやつる姿が浮かびはじめた。

 その時のタカシの目はうつろで、先ほどまでの冷えも意識していないようだった。ふと視界のすみに、30センチほどの木の枝が落ちているのをとらえる。

 

 彼はその枝をつかむと立ちあがり、ほとんど発作的に振り回しはじめた。その動作は頭の中の魔法使いそのままである。

 

「ボワンッ! ずああぁーーっ、ひゅるるるるしゅおおぉぉ、ズバシャビビリビビィ、ジジッ……」

 

 ついには口からさまざまな擬音が飛び出していく。相変わらず彼の脳内にはさまざまな華々しい魔法が飛び交っているのだが、現実は少年が一人、自分のためだけの一人芝居をしているありさまである。

 実は、このような彼の行動は初めてではなかった。連想をはじめ、何かのきっかけで脳内に興奮する映像が流れ出すと、自分でも気づかないうちに体と口が動き出す。それはかれこれ、幼少から今まで十年以上も続いていた。

 厨二病などという言葉があるが、それとも違う。自分を特別だと思っていなくとも、ただ興奮に体がつられて動くのだ。

 

 とはいえ、誰にも見られていないならいいのだ。けげんな顔をされるわけでも、永遠に現実に帰らないわけでもない。

 しかし、その時は違っていた。

 

「氷雪魔法、フリーズベル・スノベンバー……!」

 

 テキトーに思いついた呪文をとなえながら、タカシは背後の木立へ振り返って木の枝を振りかざす。

 すると、いつの間にいたのか、一人の12歳ていどの少女と目が合った。

 

「あ」

 

「…………」

 

 タカシは小さく声をもらし、少女を見た姿勢で固まる。

 袖が広く黒いフリルつきの黄色い上着を着て、下は緑のスカートに黒いブーツ。つばの広いリボンつきの黒い帽子をかぶり、緑色のセミロング、そして巨大な閉じた目玉から奇妙なコードが伸びてからまっている。

 小柄な少女は、そんな変わった格好で傘もささず、緑色の大きな瞳をきょとんとタカシに向けている。

 

 その瞳に射られ、タカシの頭に「見られた」という意識がそぞろに湧きはじめる。彼はとっさに持っていた枝を放り出すと、顔をキョロキョロ動かしながら言った、

 

「ま、迷子? 君」

 

 声はうわずり、顔は真っ赤である。言葉の上では少女にたずねているのだか、その実タカシはうつむいて渋面をつくり、自己嫌悪にかられていた。

 

「…………」

 

 一方、少女の方は特に反応するでもなく、キョトンとタカシを見つめていた。やがてとことこと歩み寄ると、薄く笑って答える。

 

「ううん、散歩」

 

「そ、そう」

 

 タカシは生返事をし、地べたに素早く腰をおろす。少女もそれにならって、ちょこんと座り込んだ。

 

「…………」

 

「…………」

 

 並んで座った形になり、しばし無言の時間が過ぎる。タカシは横目に、隣の風変わりな少女をちらちらと見た。散歩と言っていたが、子供が一人でこんな遊び場もなさそうな場所を歩くものだろうか。それにこの少女、雨宿りに来たらしく全身ぬれていながら、楽しげに鼻歌など歌っている。

 いったい何者なのだろうか……とタカシが考えていると、ふとハッとなり、手元のバッグを開ける。そしてタオルを何枚か取り出すと、うち二枚ほどを少女に手渡した。

 

「これ、使いなよ」

 

「?」

 

「このままじゃ風邪ひいちゃうでしょ。これで拭きな」

 

 不思議そうな顔をしていた少女は、タオルを押しつけてやるとようやく受け取り、髪や顔を拭きはじめる。それを見届けると、タカシも同じようにした。

 

「ね、お兄さん。お名前は?」

 

 だしぬけに少女がたずねる。タカシが驚いて振り向くと、先ほどから一変、少女は興味深そうに上目遣いの視線をよこしてくる。しかし、それでも目の奥には、得体のしれないような光があった。

 

「あ、ああ……カマダ タカシだよ。君は?」

 

「こいし。古明地 こいし! よろしくね」

 

 歯を見せてニカッっと笑う少女。タカシは急に友好的になられたような気がして、少しまごついてしまう。それは素性の知れない警戒心のせいもあるが、笑顔で交流するのが久しぶりという理由もあった。

 

「あの……こいしちゃん」

 

「なに?」

 

「ここってさ……なんて場所なの?」

 

 タカシは遠慮がちにたずねる。相手の見た目は子供でどこの誰かもしれないが、この際しかたがない。

 一方で、こいしは二回ほどキョトンとまばたきをし、ポンと手を打つ。

 

「あ、お兄さんやっぱり外来人? 今気づいたわ」

 

「……? がいらいじん?」

 

「えーとね、外来人っていうのは……」

 

 眉をひそめるタカシをかまいもせず、こいしはペラペラと信じがたい事をしゃべりだす。

 いわく、ここは幻想郷という世界で、タカシの知っている現代とはまるで様変わりした場所だと言う。家は全て木造、携帯もテレビもなく、おまけに人智を越えた妖怪やら神様やらがひしめいているのだという。

 

「でね、私も妖怪なの」

 

 こいしはそう言って話を結んだ。対するタカシは絶句し、ポカンと口を開けている。

 少しして、タカシは苦笑いし、手のひらを振りながら言った。

 

「い、いやいや、ないわないわ。君どう見ても人間じゃん」

 

「むー、本当だもん! 私けっこう有名人なのよ?」

 

「妖怪っていったら僕の方がそれっぽいよ。妖怪ボッチ」

 

 タカシはてんで信じていない様子である。わざとらしく頬をふくらませるこいしに、彼は続けて言う。

 

「だいたい妖怪って言ったら、もっと恐ろしい格好で人を食べそうな……あれ?」

 

 笑いながら話していたタカシだったが、ふと目の前を見てまた言葉を失う。先ほどまで座って向き合っていたはずのこいしが、こつぜんと姿を消していたのだ。

 こいし自身も、着ていた物も、何もかもが痕跡すら見当たらない。音もなく、あの少女は霧のようにいなくなった。

 

「え、あれ? こいしちゃん!?」

 

 タカシはあわてて木陰を飛び出し、左右の道を見渡す。しかし雨の降りしきる向こうには人の姿は見当たらない。

 もしや、信用しないから怒ってしまったのだろうか……などと彼がソワソワしていると。

 つんつん、と背の低い誰かが背中をつつく感触がした。振り返るといつの間にいたのか、こいしがニヤニヤと笑っている。

 

「うおっ!?」

 

「へへ、驚いた?」

 

 子供らしくはしゃぐこいし。タカシは何が起きたのか分からず動くのも忘れ、雨を遠慮なく浴びている。

 そんな彼を木陰へ引っ張り、こいしはないしょ話をするように、口にひとさし指を当てて話す。

 

「私ね、人の無意識を操る力があるんだ。さっきみたいに、他人の意識の内外を行き来できるの」

 

「……だから気づかれないって事?」

 

「そうそう。だから一人で散歩してても安全なのよ。だーれも気づかないから」

 

 こいしは得意げに胸を張った。そのしぐさには自身の能力に戸惑いがない、確かに人間らしからぬ貫禄があった。

 本当に妖怪なんだ。そう思ったタカシは、とつじょ身を乗り出してこいしに言った。

 

「じゃ、じゃあさ!」

 

「わ、なに?」

 

「ここから帰る方法って知らない!? 僕、いつの間にか一人で来てて……クラスの皆はいないし、ああ携帯も通じないし! もう、本当に困ってるんだ!」

 

「うーん……」

 

 一転して切羽詰まりうったえるタカシ。焦りのためか、話しながら両手がせわしなく動く。こいしはしばし目をぱちくりさせていたが、やがてあっさりと首を横に振った。

 

「無理だよ。私は現代に行った事ないし」

 

「え……」

 

「行ける人もいるにはいるけど、とりあえず私は無理」

 

 こいしはそう言い、また雨へと視線を移してしまった。あまりタカシには同情していないらしい。

 タカシはなおも言い募ろうとしたが、こいしは見た目が子供なうえ、幻想郷で今のところただ一人の知り合い。へたに機嫌をそこねてはまずいと、タカシも口をつぐんだ。

 しばし、二人の間に無言の時間が流れる。いまだ降りやまない雨音が、しとしとと彼らの耳にこだまする。

 すると、その雨音にまじってふと、タンタンと小刻みな音が鳴り出した。こいしが振り向くと、タカシが無意識にかずっと貧乏ゆすりをしている。

 こいしは何も言わず、その貧乏ゆすりをうるさそうに眺めていたが、その時タカシがぼそりとつぶやいた。

 

「……でも、なんか良いなぁ。いても誰にも気づかれないって」

 

「え?」

 

「スケジュールとかクラスメイトとか、気にしないで行動できるじゃん。気楽でいいよ」

 

 タカシはそう言って、深くため息をついた。こいしは首をかしげ、意外そうに言う。

 

「そういうものなの? 人間は友達を欲しがるものだって、聞いた事あるけど」

 

「そんな人ばかりじゃないよ。いや……欲しいといえば欲しいけど、もう期待してないっていうか……」

 

 歯切れ悪く返事をし、うつむくタカシ。そんな彼が気になったのか、こいしはじーっと視線をそそぐ。

 遠慮のない視線に、タカシは落ち着きなく唇をかむ。そして観念したように、またため息をついて言った。

 

「……僕に関して言うとね。昔っから、友達づくりが苦手だったんだ」

 

 続けて自身の頭を指さし、自嘲した笑みをうかべて言う。

 

「……僕、生まれつき頭に障がいがあるらしくてさ……。なかなか上手く話したり、遊んだり出来なかったんだ」

 

「ふーん、たとえば?」

 

「たとえば……そうだなぁ」

 

 ためらいなく切り込むこいしに苦笑しつつ、彼は少し考え、口を開く。

 

「ドッジボール……って分かる? ボールを使ったスポーツ」

 

「ん、ちょっとだけ」

 

「あれね、保育園で初めてやったんだけど……まず2チームに分かれるでしょ? その時点でもう、『え?』って感じなのさ。何をするのか、まるで分かってないから」

 

「ルール説明とかしなかったの?」

 

「してた……と思うんだけどね。聞いてなかった。というか話してたのに気づいてない」

 

「えー」

 

 話しだしたタカシは、そこからやけに調子よく過去を打ち明けていった。

 

「まぁそのまま、ゲームが始まるわけですよ。ボーッとしてるから、だいたい僕が一番に当てられるの。そしたら外野に行けって言われるんだけど……」

 

「けど?」

 

「皆がやいのやいの言うのが意味不明で……。だって"ルールがある遊びをしてる"って分かってないから、いきなりボールぶつけられたって認識なのよ、こっちは」

 

 次第にこいしは冗談ではすまない話題だと思ったのか、口数が減っていった。それに反して、タカシはまだ話を続ける。

 

「で、あんまりグズグズしてたらみんな怒っちゃって。助けてほしくて先生の方を見たら……」

 

「…………」

 

「その先生に殴られた」

 

 彼はかわいた笑いをもらす。しかし目は笑っていなかった。

 

「むかーしはずっとそんな調子だったよ。演奏会もそう、学芸会もそう。何やってるか分からないで、気づいたら仲間はずれにされてて、その繰り返し」

 

「一人くらい、友達いなかったの?」

 

「保育園ではいないかな……。だってみんないつの間にか怒ってくるんだもん。関わりたくなかったわ」

 

 ほんの少しの強がりを混ぜて、すねたようにタカシは言った。そしていくぶんかトーンを落とし、それから数年後に話は飛ぶ。

 

「小学校以来はまぁ……さすがに他人にも話しかけるようにはなったけど……やっぱり上手くいかないねー」

 

「でもそれはマシになったんじゃない? よく分かんないけど」

 

「そう……かなぁ」

 

 タカシはあいまいな返事とともに目をそらした。口には出さなかったが、彼の頭の中には、今までのつらい思い出が次々と溢れ出てきていた。

 かくれんぼで置き去りにされ、椅子にガビョウを置かれ、好きな女子を言いふらされ、その女子を騙った偽のラブレターをしかけられ……。

 思えば、周囲をよく認識していなかった保育園時代の方がマシに思えた。社会をつくっている人間一人一人の中で、自分も生きていかなければいけないと分かった日から、他人という概念がわずらわしく、重苦しい。

 

「ねぇ、お兄さんみたいなの、現代にはいっぱいいるの?」

 

「いっぱい……はいないかな。わりと目につく程度」

 

「じゃあ同じような人で集まればいいんじゃない? そうすればWin―Winでしょ」

 

「うーん……」

 

 こいしはさも簡単そうに言った。実際、そのような取り組みも現代では行われている。しかし、タカシはぷいと顔をそらし、面白くなさそうに言った。

 

「やだよ、つまらんし。時間がもったいない」

 

「注文が多いね」

 

「そういうのやらせたがるの、だいたい親なんだよ。面倒くさいったらない」

 

 親に言及したとたん、タカシの口調がとげとげしくなる。そして彼はこいしに振り向き、いら立った様子で言った。

 

「親っていったらさー、昔からあれやこれやうるさくて、勝手に生んだくせに疲れた顔して、しかも遺伝か知らないけどしょっちゅう運転で事故りかけて……っ」

 

 早口でまくし立てるタカシだったが、ふとこいしと目が合い、その言葉が途切れる。こいしはいかにも飽きたような、つまらなそうな目をしていた。

 もう自分の話題には興味がないのかもしれない。そう思ったタカシは、せきばらいをして言った。

 

「……ごめん。悪いクセなんだ。一人でベラベラしゃべってた」

 

「ん、気にしてないよ」

 

 こいしはそう答え、再び雨の景色へと視線をうつす。いつしか雨は小降りになっていた。

 もしかしたら彼女は、こうしてボンヤリしているのが一番楽しいのかもしれない。それか、単に気まぐれなだけか……。

 タカシには判断がつかなかったが、それでも気まずくなったのか、彼は自分の荷物から土産のチョコレート菓子をいくつか取り出すと、こいしに手渡した。

 

「よかったら、食べる?」

 

「あ、ありがとう」

 

 こいしはコロリと笑顔を見せ、菓子を食べはじめる。その様子を可愛らしいと思いながら、タカシはふと、菓子など受け取ってもらえたのはいつぶりだろうと考えた。

 あげたい物をポンとあげる。それが出来るのは、自分か相手が子供の時だけだ。年を経るにつれ、人との距離感、場の雰囲気、金額など、さまざまな問題を考慮せねばならなくなる。

 タカシはそう考えると、また暗い思いにとらわれる。「入れてー」などと言って輪に入れてもらった経験もないまま、彼はそれが出来ない年齢になったのだ。

 

「いっそ、周りがみんなこいしちゃんだったらよかったのになぁ」

 

 菓子も食べずに、タカシはつぶやく。自分の名前を出されたせいか、こいしが振り向いた。

 

「周りの人がみんな気にならない……。存在しないのも同じな時間があるって、きっと楽しいよ」

 

「そんなの良いもんなの?」

 

「良いもんだよ。きっと」

 

 眉をひそめるこいしに、タカシは答える。しかしその顔色は、ちっとも楽しそうじゃなかった。

 

「……来世は石になりたい。生き物は、いやだ」

 

 地面に目を落とし、悲しげに言うタカシ。しかしこいしは何も言わず、彼は思わず顔をあげた。

 こいしは、木陰から向かいに横たわる道の先をジッと見つめていた。角度的に、タカシにはよく見えない。

 「どうかしたの?」とタカシがたずねようとした時。

 

「帰るね」

 

「え!?」

 

「雨、やんだから」

 

 タカシが見ると、確かに雨はあがっていた。それでも唐突な気がしてタカシが戸惑っていると、こいしが立ちあがり、振り向いて言った。

 

「お姉ちゃんが待ってるから、いいかげん帰らないと」

 

「あ、お姉ちゃんいるんだ」

 

「うん。3日も帰ってないから、きっと心配してる」

 

「そっか……。え、3日!?」

 

 さらりと言ってのけたこいしに、タカシはあんぐりと口を開ける。そんな彼を気にもせず、こいしは道へと駆け出した。

 

「じゃあね」

 

「あ……うん」

 

 振り返って、こいしは一度だけ手を振った。タカシはあっけにとられた風に、手を振り返した。

 知らない土地でまた一人きりになるのは、冷静に考えると大変だが、タカシはこいしの気まぐれさ加減についていけず、あえなく置き去りにされた。

 一人になると、また雰囲気が変わる。それほど親密でもなかったはずなのに、無言の時間の重みが、二倍になった気がする。

 

 今度こそしゃべらなくなり、タカシは思う。お姉ちゃんが待っているという言葉が、他人事には聞こえなかった。

 

 いざ現代での事を思い出してみると、彼なりにさまざまな人の顔がうかぶ。うざったい両親にはじまり、からかってくるクラスメイト、疎遠になった幼なじみに、三年かけてやっと名前をおぼえた同級生。

 誰も彼も、それほどありがたいと思っていなかったが、こいしと会ってから、心境が変わりつつあった。

 彼らはこいしのような妖怪ではない。普通の人間じゃないか、と。だいいち、こいしにだって何だかんだ言いつつ、話し相手になってくれる人間的な部分を求めていたではないか。

 

 こいしにとってのお姉ちゃんのように、自分にも待ってくれている存在が少しはいるだろう。そんな望みが、心の奥底にふつふつとわき出ていた。疎外感のあったクラスメイトたちにも、(少なくとも表面上は)明るく接してくれる人間が、いないわけではないのだ。

 どうにかして帰ろうか。その現実の問題に、彼が再び目を向けはじめた時。

 

 ふいに、一人の少女が木の陰から彼を覗きこんだ。こいしとは別の、紅白の巫女服めいたものを着た同い年くらいの少女。タカシと目が合うと、少女はぶっきらぼうに言った。

 

「……あんた、外来人ね」

 

「あ、はいっ! そうです!」

 

 外来人の意味するところを知っていたタカシは、きっぱりと肯定した。紅白の少女からは、どこか人間的な、安全な雰囲気が感じられたのだ。

 

「……ある程度事情は知ってそうね。まあいいわ。向こうの世界に帰すから、私についてきなさい」

 

「わ、分かりました。えっと……」

 

「博麗 霊夢よ。早く」

 

 霊夢と名乗る少女は、さっさと先を歩きだす。タカシは荷物をまとめ、急いで後を追った。

 雨上がりの道を進む最中、霊夢は一言もしゃべらなかった。タカシも、『こいしちゃんが助けを呼んでくれたのだろうか』などと思いつつ、黙々と歩いていた。

 と、その時。霊夢が急に立ち止まり、振り返る。つんのめるタカシに、彼女は言った。

 

「あのさ……アンタ」

 

「な、なんですか?」

 

「なんかずっと一人でブツブツしゃべってたけど、あれ何だったの?」

 

 霊夢は遠慮がちに、けげんな表情をして言った。タカシは一瞬意味を分かりかね、後に「あ」と合点する。

 先ほどまでずっと話していたこいしには、無意識を操る力があった。おそらくあの時も、霊夢にはこいしの姿が見えていなかったのだ。

 思えば、こいしが帰り際に遠くを見つめていたのは、様子をうかがかう霊夢を見ていたのだろう。

 

 タカシはそれを説明しようとしたが、つい言いよどんでしまう。霊夢は不気味がるような顔で彼を見つめている。

 その表情が、過去に疎外されたいくつもの思い出と重なる。唇をきつく結び、つい目をそらしてしまう。

 しかし、タカシは気を張って霊夢に向き直った。これから先、いつまでも孤独を選んではいられない。そう自身に言い聞かせながら、彼はつとめて明るい表情をつくって、言った。

 

「……気にしないでください。よくある事なんです」

 

 気弱くそう言ったタカシの顔を、晴れ間からさした日の光が照らしていた。

 

カマダ タカシ――生存



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吸血鬼の館 ~とらえられた三人~

「……最近は外来人が多いわねぇ」

 

「お嬢様、今のところこの三人で全部です」

 

 外壁も内壁も全面が真っ赤に塗られ、窓もなく薄暗い館。その中でも一切の日光が入らないその部屋は、ろうそくが点々と灯され、壁際には天蓋つきのベッド、そして最奥に玉座が置かれている。

 その玉座の上には、見た目8歳ていどの小柄な少女が座っていた。

 お嬢様と呼ばれたその少女。白く古めかしい、フリルつきのワンピースドレスに、赤いリボンがあちこちにあしらってある。細い足には赤いストラップシューズをはき、頭にはフリルつきの丸く柔らかい帽子をかぶっている。その下には水色のセミロングヘアーが、ゆるくウェーブがかって伸びていた。

 そして透き通るような白い肌、絶妙なあどけなさを残すフェイスライン、ぱっちりとした目に、毛先のばらつかないまつ毛。

 幼いながらも、将来の美を予感させる麗しい少女。とりわけ西洋人を見慣れていない者なら、つい振り向いてしまいそうな子供だ。

 

 しかし、少女の全身をよくよく見ると、彼女がただの美人ではない、異様な存在だと分かるだろう。

 瞳の色はワインを思わせる赤色で、相手を射ぬくような鋭さがある。口からは白い牙がのぞき、指先からは赤く長い爪がのびている。それはただの獣とも違う、いわゆる怪人のようだった。

 

 そして何より、背中から広がる一対の黒いものがひときわ目立っている。少女の体を包めるほどの大きさで、左右にばさりと広がっている。内側には黒い骨組みのような部分から、赤みがかった膜が張っている。

 巨大な、コウモリの翼だ。

 

 玉座にいる少女は、自らを人外の"吸血鬼"だと称した。名はレミリア・スカーレット。

 彼女は手すりに頬杖をつき、部屋の中央を見て目を細めた。

 そこには、レミリアよりも一回り年上の、中学生らしき少女が三人いた。そろって▼▼中学と書かれたブレザーの制服を身につけ、地べたに膝をつき、うつむいている。その表情は蒼白となり、がたがた震えていた。

 

「ご苦労さま、咲夜(さくや)。下がっていいわよ」

 

 三人をひとしきり眺めると、レミリアはその傍らに立っていたメイドに声をかける。銀髪のメイドはうやうやしく一礼すると、音もなくその場から消えてしまった。

 部屋には、レミリアと三人の中学生たちだけが残る。

 

「ねえ、一番右のあなた」

 

「!」

 

 レミリアが三人の中の一人に声をかける。三人の肩がいっせいに跳ね、呼ばれた少女はふるえながら顔をあげた。

 外にはねたショートヘアに、カチューシャで額を出した髪型の、切れ長の目をした少女。レミリアは目をジッと合わせながら、尊大な態度で話しかける。

 

「我らが紅魔館(こうまかん)へようこそ。あなた、名前は?」

 

「……別に、来たくて来たわけじゃないんだけど」

 

「質問に答えなさい。名は?」

 

「……サイトウ サクラ」

 

 少女ことサクラはおびえつつも、反抗的な目をして言った。一方、レミリアは意にも介さず、隣の少女に視線を移す。

 

「じゃ、真ん中のあなた。名前は?」

 

「ひぃっ!?」

 

 今度の少女は悲鳴をあげ、のけぞるようにして顔をあげる。センター分けにしたロングヘアーが、憔悴をあらわすかのように乱れている。彼女はかすれそうな声で答えた。

 

「コ、コモリ ユリです!」

 

「そう」

 

 レミリアはうなずき、笑みをつくる。それが満足しての笑みなのか、それともどうでもいいと思っての笑みなのか、おびえた少女たちには分かりかねた。

 

「あ、あの……」

 

「なに?」

 

「私ら、よく分からないまま連れてこられたんですけど……ちゃんと帰れるのかな~……なんて」

 

「その話は後よ。少し待ってて」

 

「は、はいっ! すいません」

 

 媚びるようにして尋ねたユリは、レミリアのそっけない対応にたちまち頭を下げた。その態度の変わりように呆れてかサクラが横目ににらむと、それにすらユリは縮こまった。

 最後にレミリアは左端の、ショートボブの大人しい雰囲気の少女に話しかける。

 

「残るはあなたね。名前は?」

 

「…………キシダ アヤメ、です」

 

 アヤメはか細い声で答え、唇をきつく結ぶ。一言発するだけでも精いっぱいという様子だ。レミリアはそれを愉快そうな目で眺めていたが、そんな彼女にふと、アヤメは口を開く。

 

「あの……」

 

「ん?」

 

「私たち……何か失礼をしちゃったんでしょうか……?」

 

 アヤメの問いに、レミリアはふと笑みを消す。サクラとユリも盗み見るようにしてアヤメに注目している。

 アヤメは横からの視線には気づかず、ただレミリアから目を離すのさえ怖いという風な顔色だったが、フラフラと立ちあがる。そしてまるで、裁判で証言台に立つかのような緊張した佇まいで話しはじめた。

 

「私たち、修学旅行のバスに乗ってたら、急に白い霧に襲われて……気がついたらあなた方の館のそばにいただけなんです」

 

 アヤメは、横にいる同級生らに一度振り向き、少しだけ口調をはっきりさせてレミリアに言う。

 

「サクラちゃんもユリちゃんも……私も、何も分からないまま捕まったんです。本当に……知らずに失礼をしてしまったのなら謝ります。だから、どうか解放してくれませんか?」

 

 そう聞いて、レミリアは驚いたように目を丸くした。大人しげな雰囲気からして意外な、はっきりした主張。サクラとユリも、あっけにとられたような顔をしている。

 レミリアはしばし目を天井に向け、黙りこむ。あたかも感心し、処遇を考え直すという具合に。

 しかし、和らぎはじめた空気の中、一人がとげとげしい声をあげる。

 

「待ちなさいよ! そんなに下手に出る事ないでしょう!!」

 

 部屋中に高い音が反響する。アヤメが驚いて振り向き、ユリもぎょっとした顔を向ける。

 声の主はサクラだった。キョトンとしているレミリアに向けて彼女は立ちあがり、人さし指を突きつけて叫んだ。

 

「さっきアンタが指図してたメイドに、私ら一方的に捕まったのよ!? 本当なら一言、謝るのが筋でしょ! それをエラソーにふんぞり返って!!」

 

「ちょ、ちょっとサクラ、せっかく話が……」

 

「うっさい! だいたい、こっちが失礼やっててもお互い様じゃない。とっとと帰すか、それが無理なのか。ハッキリさせないと」

 

 ユリがうろたえるのを一蹴し、サクラはアヤメの方を見る。私に言いたい事を言わせろ、と言わんばかりの目つきに、毅然としかけていたアヤメも気圧(けお)される。

 頭越しに緊迫した空気が流れるのを、ユリはソワソワと不安げに視線をおよがせる。すると彼女はついにアヤメを見据えたかと思うと、急に非難するような口ぶりで言った。

 

「そ、そうよ! アヤメあんた、いっつもそんな風にしてるからみんなにナメられてんじゃない! 私らを巻き込まないでくんない!?」

 

「え、えぇ……」

 

 先ほど、一応はサクラをいさめようとした態度はどこへやら。ユリはサクラと一緒になって、アヤメに糾弾の矛先を向ける。

 たちまち二対一の構図ができあがり、アヤメはうろたえる。そこで不意に、ぱんぱん、と手をたたく音が部屋に響き渡った。

 

「はいはい。言い争いは後にして、私の話を聞いてもらえる?」

 

 面倒そうに言ったのはレミリアだった。真っ先にユリが向き直り、その次にアヤメ。そして最後にしぶしぶと言った様子でサクラが顔を向ける。

 

「まずは……アヤメだっけ。あなたが言った、知らないうちに来た事について、わけを教えましょう」

 

「本当ですか!?」

 

「ええ、吸血鬼は嘘をつかない。順を追って話すと……」

 

 それからレミリアは、幼い容姿に似合わない理路整然とした口ぶりで三人にある異界の存在を伝えた。

 

 いわく、三人が迷いこんだ場所は幻想郷。レミリアをふくめ、人間ではない存在が住民の多数を占める不思議な場所である。そして、少数派の人間たちは事実上、限られた場所に保護されているという。

 

「人間も……生きてるんですか?」

 

「だからそう言ったじゃない。老若男女がそろってるわ」

 

「そう……ですか」

 

 人間がいないわけではない。そう分かってアヤメは少しだけホッとする。自分たちは異常な存在ではないのだ。そう思うだけで緊張がほぐれてくる。

 しかし、そこでまたもやサクラが怒声を発する。

 

「はぁ? 人間ではない存在? バッカじゃないの」

 

「サクラちゃん!」

 

 挑発的な物言いに、レミリアの眉がピクリと動く。アヤメが止めようとするのもかまわず、サクラはそのまま大声をぶつけた。

 

「いきなり捕まってそんな話されて、信じるわけないじゃない。アンタらどっかおかしいんじゃないの」

 

「……やれやれ、疑り深いわね」

 

「そりゃ私はマトモな頭してるもん。本当なら証拠の一つでも見せて――」

 

 鼻で笑って、サクラはクラスメイトの二人にも目で同意を求める。その一瞬、彼女が目を離したすきに、レミリアが呆れたように椅子から立ち上がった。

 そして、一陣の風とともにその場から消えたかと思うと、刹那に三人へ肉薄する。その体はまるで空気を泳ぐように浮かんでいた。

 

「きゃあああぁっ?!!」

 

「っうわあ!?」

 

「やあっ!!」

 

 突然目の前にあらわれたレミリアに、三人はそれぞれ高い悲鳴をあげる。中でもユリは、ひときわ長く叫んだかと思うと腰をぬかし、這って我先にと逃げ出そうとする。

 無様に尻を向けてへたり込んだユリを尻目に、レミリアは満足げに目を細めて言った。

 

「ね、これで分かったでしょう? 私が人間以上の存在だって」

 

 レミリアはにんまりと牙を見せ、サクラへ顔を近づける。先ほどまで強気でいたサクラもさすがに恐怖を感じたのか、頬に一筋の冷や汗をたらす。

 

「ついでに言うとね。幻想郷の人間って、私たちがその気になればどうにでも出来るのよ。契約があるから殺らないだけ」

 

「あ、あわわ……」

 

 レミリアは笑みをくずさずに、それでいて威圧するようにユリとアヤメを見下ろす。目が合ったとたん、ユリは口を開けたまま固まってしまった。

 一人だけ、アヤメが震える声でたずねる。

 

「じゃ、じゃあ私たちは……」

 

「多分、悪い予想が当たりね。あなたたちのように迷いこんだイレギュラーは、殺しても問題にならないの。もっぱら、食料にされるわ」

 

「……っ!!」

 

 食料、そう聞かされた瞬間に三人は瞳孔が縮まったかと思うほどに目を見開く。そして言葉を失っていたユリが一転、すがるようにしてレミリアに言いつのった。

 

「ま、待って! せっかく三人もいるんだし、私だけでも見逃してくれませんか!? ほら、働いたりできますから。どうせ向こうでは行方不明あつかいで、いつまででも……」

 

「黙れ」

 

 レミリアが一瞬だけ蔑むような視線を向けると、ユリはまた大人しくなる。そしてユリに驚いた目をしている二人に向き直り、レミリアはつけ加えた。

 

「……まあ、食べてばかりいるのも飽きてきたし、チャンスをあげてもいいかな」

 

「チャンス?」

 

「……ど、どんな?」

 

 サクラとアヤメの目に、かすかに光が宿る。レミリアは人さし指をピンと立てて言った。

 

「鬼ごっこ」

 

「鬼……ごっこ?」

 

「ええ。つまり逃げるあなたたちを、私たちが追いかけるって事。この屋敷を逃げ切れたら、その人は見逃してあげましょう。……もし、捕まったら……」

 

 レミリアは意味ありげに言葉を切る。三人の体に、無言ながら明らかな緊張が走った。その先は言われなくとも想像がつく。

 レミリアがゆっくり、高々と片手を上げる。気のせいだろうか、サクラ、ユリ、アヤメには不思議と長い時間に感じられた。

 ……やがて、レミリアがパチィッと勢いよく指を鳴らす。その音にはじかれるように、三人は部屋のドアへ猛然と走りだした。

 

 最初にサクラが体当たりで扉を開け、次にアヤメが扉の間をすり抜けようとする。するとアヤメは立ち上がれずにいるユリに気づくと、助け起こし、一緒に部屋を出ていった。

 開けっぱなしの扉から三人が遠ざかっていくのを、レミリアは腕組みして止めもせず、愉快そうに眺めていた。自分だけに聞こえる大きさの声で、ぽつりとつぶやく。

 

「……さぁて、わが館の配下からどこまで逃げられるかしら。私は手を出さないから、楽しませてちょうだいよ」

 

 その台詞を言い終わる頃には、三人の姿は見えなくなっていた。代わりに、周囲に控えていたらしい子供くらいの背丈のメイドたちが群れをなし、後を追うように音をたてて駆けだしていた。

 



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孤独と孤高("サクラ"ルート) 前編

(くそっ……くそっ!! なんでこんな事に!!)

 

 サイトウ サクラは心の中で毒づきながら、薄暗い館内を走っていた。背中にはあわてる少女たちの声がいくつも聞こえ、また視界には、サクラよりいくらか背の低いメイドたちが、彼女を見つけるなり驚いた顔をして向かってくる。

 それらをかわし、振り払いながら、サクラはただただ、あてもなく出口を探し続けた。

 

 ……彼女は、修学旅行のバスに乗っていた際、不意に白い霧に巻き込まれたかと思うと、見知らぬ館の前にいた。血のように赤い外観の、古めかしい洋館。

 そばにいたクラスメイトの二人とともに、彼女は館の住人にとらえられた。そしてこの"幻想郷"という世界での自分たちの立場を聞かされ、吸血鬼と称する館の主人から、あるゲームを課せられた。

 

 それが、鬼ごっこ。この日の差さない不気味な館から逃げ切れば、館の主人……レミリアは見逃すと言った。追っ手がいるのは間違いないらしく、館のメイドたちが寄ってたかってサクラを捕まえようとする。

 カチューシャで露出したサクラの額に、青筋が走る。捕まえようと手をのばしたメイドが、なびいているショートヘアに触れたが、サクラは目もくれずに押しのけた。メイドの悲鳴と倒れる音、その周囲で心配する他のメイドたちの声。

 しかし、サクラは一切を無視して走り続けた。自分以外がどうなろうが構わない。へたに情けをかけて、共倒れになってはかなわない。現に、一緒に迷いこんだクラスメイトの二人も、とうに置き去りにしてきたのだ。

 

 ――サイトウ サクラは、幼稚園時代から自己主張の強い性格だった。たとえば「お絵かきがしたい」と言い出すと、必ずと言っていいほど周りを巻き込む。そこで「他の遊びがしたい」という子がいれば、その子を徹底的に無視し、周りにもそれを強要するのだ。一度にらむような目を向ければ、園の女の子たちはおびえて従った。仲間はずれにされた子が泣き出しても、知らんぷりをした。

 そのような事を、小学校でも低学年、中学年と続けてきたが、さすがに高学年ともなれば通じない事も増えてきた。やんわりとたしなめる子もあらわれ、時には強い態度で反発してくる者もいた。

 イジメなどには発展しなかったが、サクラはクラスで距離をとられがちになり、それだけで彼女のプライドはいたく傷ついた。

 

 サクラはそのまま中学生となり、初対面の生徒たちともなかなか打ち解けなかった。彼女のそばにいたのは、小学生の頃からつるんでいた、二人の女子。それがユリとアヤメだった。

 ユリはあまり自己主張せず、すぐ他人の尻馬に乗る、サクラとは対照的なタイプ。そしてアヤメは大人しそうでいて、意外とハッキリ意見を言う子だった。それでもケンカは避けるタイプだったので、なんだかんだ付き合いは続いた。

 そうして長らく顔を合わせていた彼女らだが、サクラは別に友情を感じていなかった。自己中心的な振るまいが続けられる、都合のいい人間がユリとアヤメだったのだ。

 だが、その関係も今日でご破算。正直今でも悪夢かと思うが、付き合いが長いだけの他人など、命がけの状況でなんの価値があるというのだ。

 

 そう切って捨てて逃げ回っていたサクラだったが、そう簡単には脱出させてくれなかった。

 なにしろ、館がべらぼうに広い。どんな構造になっているのか、道を選ぶたびに複雑な迷路のように知らない場所に突き当たる。しかも窓が極端に少なく、景色から内部の場所を確かめる事もできない。赤い壁と床と天井と、決まった規格のドアが連なる、いつまでも代わり映えしない視界に、サクラはだんだんといら立ちをつのらせていく。

 

(ったく、どうなってるのよこの建物! 魔法でもかかってるの!?)

 

 がく然としているうちに、息があがり、足が重たくなる。終わりの見えない館の中を、つねに追っ手に囲まれて逃げるのは、ただ走るより何倍も体力を消費する。

 やがて体力が限界に達し、彼女はぜいぜい言いながら休める場所を探す。そして横手にトイレが見えると、すぐさま飛び込んだ。

 さいわい中には誰もおらず、サクラは個室に入って鍵をかける。そして久しぶりに腰をおろすと、必死に頭をひねった。

 

(考えるのよ……。このまま死ぬなんてゴメンだわ!)

 

 内心で気勢をあげて考えをめぐらせるが、これといった案は思い浮かばない。なにしろこの館に入るのは始めてで道順も分からない上、数えきれないほどのメイドが常にうろついているのだ。少なくともその二点を解決しなければ、脱出はほぼ不可能だろう。

 すると、不意に個室の向こうでパタパタと足音がした。誰かが入ってきたのだ。サクラがとっさに口を押さえると、その人物はサクラのいる個室のドアをガチャガチャと動かす。

 

「あれー? 誰か入ってるのかな……」

 

 年端もいかぬ少女の声。あのメイドたちの一人だろうと、サクラは直感した。その瞬間、彼女の脳裏に恐ろしい発想が浮かぶ。上手くいけば、道順も追っ手も、両方の問題を一気に解決できる妙案が。

 メイドが隣の個室へ入ると、サクラは息を殺して腰をあげ、仕切り板に耳をすませる。やがて出て来そうな気配をとらえると、サクラはそうっと個室を出て、隣の扉の前で待ち構える。

 直後、ドアを開けてメイドが出てきた。ほのかに気をゆるめた表情の彼女は、サクラを見て息を呑む。そして叫ぼうとしたところで口をふさがれ、元いた個室に押し込まれた。

 

「んーっ! んんーっ!!」

 

「騒ぐんじゃないわよ、大人しくしなさい!」

 

 サクラは顔をぐんと近づけて脅迫し、洋式便器にメイドを座らせる形で押しつけると、小さく、しかし低い声でたずねた。

 

「さて……命がおしければ答えなさい。この館の出口はどこにあるの?」

 

「出口……? し、知らないっ……!」

 

「ごまかすんじゃないわ。私は本気よ」

 

 サクラはそう言って、片手でメイドの首筋をつかむ。メイドは小さく声をもらしたが、それでも涙目で首を横に振った。

 

「言うわけないじゃない……。お嬢様に怒られる……」

 

「怒られる?」

 

 絞り出すようなメイドの声に、サクラはけげんな顔をする。再び目を見返すが、メイドは冗談など少しも言いそうにない、必死な表情で口をつぐんでいた。

 サクラは内心で動揺しつつもメイドに念を押す。

 

「……アンタ、ふざけてるの? 今この状況で、上司の機嫌なんか気にしてどうするのよ。いいから早く言いなさいって」

 

 しかし、メイドは目をかたくつむり、ガンとして口を割らない。それが三十秒ほど続き、サクラは舌打ちして言った。

 

「そう……その気なら、仕方ないわね」

 

 言うが早いか、サクラは両手でメイドの首を素早くつかみ、絞めはじめた。メイドがたちまち目を見開き、続けて口を開けてヒュウヒュウと、苦しげな息を漏らしだす。サクラが容赦なく締める力を強めると、メイドの顔は蒼白となり、目があらぬ方向を向いていった。

 

――

 

「……はっ……はっ……」

 

 ……三十分ほど後、サクラはトイレの流し台で必死に手を洗っていた。冷たい流水をいつまでも当て、皮膚がふやけてもまだ止めない。

 彼女はとぎれとぎれに息を吐きつつ、おそるおそる顔をあげる。目の前の鏡には青ざめたサクラの顔が映り、その背後には一人の人物が便座にもたれてぐったりとしている。

 三十数分ぶりに振り返るサクラ。その視線の先には、キャミソール姿になって動かないメイドの少女がいた。一見すると眠っているようだが、首には濃い赤紫色の絞め跡があった。

 そしてサクラはぶるぶると震える両手を眺め、次に自身を(かえり)みる。彼女は、絞め殺した少女から奪ったメイド服をまとっていた。

 

(これであのメイドたちに紛れられる……。追っ手の問題はクリアね。ただ……)

 

 あとは出ていくだけ。最後に、サクラは動かずにいるキャミソール姿の少女へ近づいていく。そして物言わぬ彼女を、いぶかしげに見つめた。

 

(……これ、装飾じゃないのよね。なんなのかしら……)

 

 サクラは少女の体の、特に背中の部分を見た。透明な、虫のような大きな羽が生えている。さわっても取れず、明らかに生物のそれだ。

 

(メイドの誰も彼もに生えていたから、気になってたけど……ワケ分からない)

 

 サクラは羽を一なでし、ため息をついた。

 思えば、館で追いかけてきたメイドは、一人残らず目の前のような羽を生やしていた。最初は館の制服なのかと深く考えていられなかったが、こうして間近に見ると首をかしげてしまう。

 この少女……いや、メイドたちは人間ではないのだろうか。あのレミリアも怪物のようだったが、こうなると一人残らず人外なのではないかという気がしてくる。

 

「……狂ってるわね」

 

 サクラはひきつった笑みを浮かべた。そして個室のドアを閉めようとする。

 が、そこで少女がかすかにまぶたを動かす。

 

「う……んん」

 

「!!」

 

 か細くうなり、うっすらと目を開ける。それを見た瞬間、サクラは眉をキッとつり上げた。

 

(コイツ、まだ生きて……!)

 

 疑惑を確かめるより先に、手が動いた。サクラは少女の髪をつかむと、トイレタンクの角に頭をガツンとぶつけた。二度、三度。遅れて少女の体がだらりとずり落ち、床に膝をつく。後頭部から首筋にかけて血がすぅっと垂れ、少女が再び動かなくなると、サクラは荒い息を吐きながら少女の体を投げ捨てた。

 びたん、という音が反響して少女の遺体は床に突っ伏す。サクラは自分の手が赤く染まっているのを呆然と見ていた。

 

 しかし、そんな彼女の表情も、その直後の光景を見て一変する。

 

 なんと、倒れていた少女の遺体が突如、色が薄くなったかと思うと、煙のように消えて無くなったのだ。

 サクラは言葉を失い、彼女のいた場所に手を伸ばすが、触れたのは空気だけだった。少女の遺体は跡形もなく、血痕ひとつない寒々しい床があるばかり。

 サクラはまた自身の姿を見る。あの少女が着ていたメイド服は、いぜんとして残っている。では、あの少女だけ、死んでどうなったというのだ?

 頭をかかえてパニックになりかけるが、サクラはすんでのところで首をぶんぶんと振り、正気を保つ。

 死体が消えたからと言ってなんだ。元より自分は殺人犯ではないか。むしろ、綺麗さっぱり消えてくれた方が、脱出にはちょうどいい。

 館から逃げ出すという目的を前に強引にそう考え、サクラは大急ぎでトイレを後にする。

 その背後、空になった個室の片隅で、チリのような光の粒が少しずつ集まり、何かを形づくっている事に、サクラは気づかなかった



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孤独と孤高("サクラ"ルート) 後編

――

 

 ……サクラがメイドを手にかけ、成り代わってから、さらに数十分後。

 

(ええっくそ出られねー! 方向オンチか、私!?)

 

 館をあちこち駆けずり回るメイドたちに紛れ、メイド服すがたのサクラは地団駄を踏んだ。そばを通ったメイドの一人が小さく飛びあがり、あわてて逃げていく。

 その後ろ姿を見ながら、ため息をつくサクラ。メイドたちは意外と鈍感で、サクラだけ羽を生やしていないのを、気に留めなかった。

 それは好都合だった……が、それだけにいっこうに出られないいら立ちが募る。

 

(ええい、もうどこをどう行ったか、同じ場所を何回通ったか知れない!! 怪しまれたらどうすんのよ!?)

 

 サクラは早足で廊下を駆けつつ、内心で早口に愚痴をこぼす。窓が少ないせいで今が昼か夕方かさえ見当がつかない。

 そうこうしているうちに、サクラの視界にトイレの標識が入った。雰囲気で、あのメイドの少女を殺したのと同じトイレだと察する。

 また同じ場所にもどってきてしまったのか、とサクラは落胆しかけたが、ほぼ同時にある変化に気づく。

 トイレの入り口に五、六人のメイドたちが人だかりができていた。険しい声色で、何事か話している。雑談ではなさそうだ。

 遠巻きに観察しつつ近づいていたサクラだったが、次の瞬間に彼女はとんでもないものを見た。

 

「あのデコ出した子、私の服を奪って逃げたの! メイドに紛れていると思うわ。油断しないで!」

 

 人だかりの中心で、一人の少女がさけんでいる。その姿はキャミソールを着て、背中には虫のような羽。なんと、サクラが殺して消え失せたはずの、あのメイドの少女であった。

 サクラは反射的に物陰にかくれ、その少女をひたすらに凝視する。血は流していないが、間違いない。あの首を絞めながら眼前に見たのと同じ顔をしていた。

 

 どういう事だ? 実は死んでいなかった? しかし体が現になくなっていたはずなのに、なぜ?

 サクラは混乱、憔悴しながら、それでも人だかりから逃れるように駆け出した。もうこのメイド服のごまかしも効かない。一刻も早く逃げなければ。その一心で、今度はただメイドたちの目に触れないようにとあちこち走り回った。

 

 目立たぬようにと廊下を抜け、階段を降りるうちに、サクラは少しずつ人気(ひとけ)のない場所へと迷い込んでいった。ループさながらの館の迷走から抜けられるかと喜ぶ反面、出口から遠ざかってやしないかという不安もふくらんだ。

 しかし今さら足を止める事もできず、辺りの様子はますます寂しく、薄暗くなっていった。何階につながるか分からない不気味な階段を降りながら、サクラもうすうす引き返そうかと思いはじめた。

 だが、その決心がつくよりも早く、彼女の視界に巨大な物体があらわれる。

 

「……!?」

 

 サクラは立ち止まり、そのそびえ立つ物体を見上げる。

 それは巨大な扉だった。今までより二回りほどもある、サクラが飛んでも届かない高さ。大きいだけではあるが、心なしかものものしい迫力がある。まるで扉の向こうに何かがひそんでいるような……。

 

 周りを見てみれば、その部屋は廊下の突き当たりにあり、左右への道も見当たらない。入ったところで行き止まりと変わらないのが一見して分かる。

 やっぱり戻ろうか……とサクラが背を向けた直後。

 

 キイィ……と木のきしむ音がした。サクラが息を呑んで振り向くと、扉が三十センチほど開き、中から一人の少女がのぞいている。

 背丈は小学校低学年、レミリアと同じくらい。白い帽子をかぶって金髪で、ボンヤリと赤い目を向けている。扉のすき間からでは分かりにくいが、どことなくレミリアと顔が似ていた。

 

「……だれ?」

 

 その金髪の少女がボソッとたずねる。サクラは声をあげそうになるのをとっさにこらえ、無造作におじぎして言った。

 

「あ、新しく入ったメイドです! はじめまして!」

 

「……ふーん、新人の子ね」

 

 自身のメイド姿を思い出してサクラは別人のように挨拶するが、少女の反応はうすかった。にこりともせず、少女は問う。

 

「……なんか、上うるさいけど、何かあったの?」

 

「あー……なんだか侵入者がいたみたいで、みんなで探しているんですよー」

 

「またぁ……? 最近多いなぁ……」

 

 少女はうんざりしたように言った。サクラはとりあえず変装がバレていないらしい事に胸を撫で下ろす。

 

「では、私も探してきますね! 失礼します!!」

 

 顔に笑みを張りつけ、サクラはくるりと背を向け去ろうとする。しかし、そんな彼女の腕を、少女がはっしとつかむ。

 

「……へ?」

 

「ちょっとこっち来てくれない? ヒマだから」

 

 少女は扉の間から手をのばし、表情を見せずに言った。腕をつかんでいる少女の手から、鋭くとがった爪が生えているのに気づき、サクラは思わず離れようとする。

 しかし、青白い細腕にもかかわらず、引っ張ってもビクともしない。

 

(何……? この力……!)

 

 サクラが戸惑う間もなく、彼女は部屋の中へと引っ張り込まれる。驚いて辺りを見回すと、そこには廊下よりさらに薄暗い空間が広がっていた。

 15畳ほどのスペースに、天蓋つきのベッド、タンス、クローゼット、テーブル、その上にロウソクがともった燭台などが置かれている。少女は扉を閉めると、部屋の隅へ静かに歩いていく。

 

「ちょ、ちょっと待って。アンタ誰!?」

 

「お姉様から聞いてないの? 私はフラン。フランドール・スカーレット。レミリアお姉様の妹よ」

 

「お姉……様」

 

 つい地の口調が出たサクラを気にもせず、少女もといフランは答える。その時、サクラの脳裏にあの恐ろしい吸血鬼の姿がよみがえった。

 

(アイツの妹……確かに似てるかも)

 

 サクラはフランの姿をしげしげと眺める。金髪のサイドテールに白いブラウス。赤いベストとスカート。そして背中には、木の枝に宝石がいくつもぶら下がったような、奇妙な形の羽が生えていた。そこだけが、レミリアと大きく違っていた。

 サクラが観察していると、フランが両手に何かを抱えて戻ってくる。黒いケースと、二つ折りの盤面。

 

「何ソレ……じゃない。何ですかソレ」

 

「チェス。相手がほしかったの」

 

 フランは無愛想に答え、床に盤面とコマを広げていく。サクラはあわてて止めに入った。

 

「ま、待ってください。私はルールがあまり……」

 

「説明書ならあるから。読んでおいて」

 

 説明書らしき四つ折りの小さな紙を投げ渡し、フランは準備を再開する。その間、フランは「お姉様ったら最近は人間の事ばっかり……あんな連中の何がいいのよ」などと一人でぶつくさ言っていた。

 つとめて気にしないようにしながら、サクラは説明書に目を通す。しかし十分に読み込む前に、フランが顔を上げ、口を開いた。

 

「じゃ、始めましょう」

 

 ……それからの戦局は、当然ではあるがフランが優勢だった。サクラはコマごとの動かし方すら分からず、「ビショップはそこに行けない」「ナイト動かしなよ」「ポーン減らしすぎ」などとフランからダメ出しされる始末である。

 だが、サクラの不慣ればかりが原因ではない。フランの手腕が、素人目に見ても異質なのだ。

 ほとんど考えるそぶりを見せず、まるで勘で動かしているようなコマ運びで盤面を支配していく。気づけば、サクラの軍勢は残りわずか、端の方まで追い詰められていた。

 肌で伝わる実力差と才能。負けたらペナルティでも課されやしないだろうか。サクラはもはやゲームの戦略などより、目の前の人外への恐れでいっぱいになっていた。

 しかし。

 

「ダメ。弱すぎる」

 

 何の前触れもなくフランが言ったかと思うと、右手を盤の上にかざし、きゅっと握った。すると突然、床に置かれていた盤がまるで破裂するかのように粉々になった。

 

「キャッ!?」

 

 サクラはのけぞって悲鳴をあげる。しかし、まばたきしながら何度見ても、さっきまであった盤は触れもしないのにバラバラになっている。戦っていた盤上の兵士たちもあわれ、陣形もへったくれもなく死屍累々。

 サクラがあっけにとられているのを尻目に、フランはさっさと立ちあがり、部屋の隅からまた何かを持ってきた。

 

「それは……?」

 

「トランプよ。これなら知ってるでしょ」

 

 紙束をシャッフルしながら、フランはつまらなそうに答えた。

 ……それから、二人はトランプでしばらく色々なゲームをしていた。神経衰弱、ページワン、ハイ&ロー……。しかしいずれもフランの記憶力、判断力、思考と手さばきの速さにサクラが圧倒され、一方的な試合が続いた。

 

「つまんない、弱すぎる」

 

 やがて、フランはそう言ってまた右手を握りこんだ。すると、52枚あったトランプが残らず破れ、紙吹雪のごとく舞い上がる。フランはまた立ちあがり、部屋の隅へ行く。

 

「ちょっとはまともにゲームできないの?」

 

「…………」

 

 粉々の紙片を頭にあびながら、サクラはひょうひょうとしたフランの台詞を聞いていた。

 

(……二人きりでトランプやって、面白いわけねえだろ)

 

 声には出さず、そう吐き捨てた。するとそれをきっかけに、サクラの胸中にふつふつと正体の分からない怒りがわいてくる。ゲームに勝てない屈辱などの、単純なものではない。もっと、独りよがりの根深いもの。

 そんな彼女の内心を知るよしもなく、フランは今度はオセロを持ってきた。サクラは無言でしたがった。本音がどうあれ、あの右手の破壊能力とでもいうべきものが、自分に向けられるのを恐れたのである。

 白と黒の石を置く間、サクラは正直、まるでオセロに集中できなかった。フランへの恐怖と、逃げられない不安。顔をあげてフランを一瞥すると、素知らぬ風で盤面を見つめている。

 サクラはふと、その光景が幼少の頃の思い出と重なった。周りの子供たちを意のままに付き合わせていながら、楽しそうにしている子はほとんどいない。大抵がつまらなそうに、それでも衝突するのを恐れて遊んでいたのだ。

 そう、ちょうど今のサクラと同じように。

 

 そう思った瞬間、サクラの頭にかあっと熱い衝動がのぼってくる。同時に、フランが呆れたように言った。

 

「何やってんの。また角のがしたじゃない」

 

 刹那、サクラは勢いよく立ち上がるや、足元の盤面を思いっきり蹴飛ばしていた。怪訝そうに顔をあげるフランへ、サクラは割れがねのように叫んだ。

 

「アンタねぇっ!! そうやって他人に好き勝手ばかり言って、許されると思ってるの!!?」

 

「……?」

 

「思いつきで遊びに巻き込んで、つまらなくなったら放り出して、こっちはいい迷惑よ! 少しは怖がってる周りの事を考えたらどうなの!!?」

 

「…………」

 

 メイドになりすましていたのも忘れ、サクラは夢中でフランを叱りつけて、否、怒鳴りつけていた。彼女はただ、自分の鬱憤ゆえに怒っていたにすぎない。

 ……かつて、好き勝手に他人を従わせ、あるいは排除するのは心地よかった。しかし、いやいや言いなりになる連中に囲まれるのは、行き着くところ、空虚だ。

 

 フランとサクラの関係も、似たようなもののはずだった。サクラは、自分が言いなりになる立場に転落したのを、たしかに感じていた。

 だから、彼女は心の奥底でフランに念じていたのだ。お前はきっと、友達なんか得られない。私と同じように空しい思いをして、いつか後悔するんだ。ざまぁみろ、と。先ほど怒鳴ったのも、フランと自分とを勝手に重ねて言ったにすぎなかった。

 

 しかし、現にフランの姿はどうだろう。怖がっているサクラを、まるで平気な顔をして見つめている。そこには、従わせる愉悦も、本音で触れ合えない寂しさも、みじんも存在しない。それどころか、威圧するような気色もない。まるっきり気まぐれで選んだ、遊び相手のように見ている。

 そのフランの目を見下ろしながら、サクラは歯がみした。この子が何の引け目もなく、ただ遊んでいるのだとしたら――勝手におびえて、昔のしっぺ返しのような立場に甘んじている自分は、何なのだろう。あまりにみじめじゃないか。

 

 サクラが怒鳴るのをやめ、はたと気がつくと、フランはうつむき、黙りこんでいた。反省しているのか、それとも怒っているのか、サクラが判断しかねてうろたえていると。

 不意に、フランは右手をかかげ、手のひらを開いてみせた。そしてスッと顔をあげ、飽きたと言いたげな口調でつぶやいた。

 

「もういいや。妖精ってたしか復活するんでしょ?」

 

「は?……妖精……復活?」

 

「じゃ、()()()で遊ぼ」

 

 そう言うなり、フランは右手をまた握りこもうとする。その瞬間、サクラの脳裏にある記憶がよみがえった。

 あのメイド服をうばった少女が、消えたと思うと後に生き返っていた事。もしかしたら、あのメイドたちが"妖精"で、殺しても復活するのかもしれない。

 

「ま、待って!! やめ……」

 

 サクラはあわてて止めようとした。「自分は人間だ」と叫ぼうとした。

 しかし、それより早く、フランは右手をきゅっと握った。

 

 その瞬間、サクラの体がほんの一瞬ちぢんだかと思うと、みるみる膨れあがった。続いて皮膚が薄皮のように破れ、中から赤黒く染まったさまざまなものが飛び出した。

 その間、およそ一秒にも満たない。サクラは脳が破裂するまでの間、不思議なほどに長い走馬灯を見ていた。友達をつくれないまま過ごした幼稚園時代、ユリやアヤメと出会った小学校時代……。

 ……どこかで考えを改めていれば、今の状況も違っていたのだろうか。そう思いをはせながら、彼女の意識はとぎれてしまった。

 

 ビシャ、と音がして、床に直径三メートルほどの血だまりができる。それをボンヤリ見つめながら、フランは首をかしげた。

 

「……妖精って、こんなに汚かったっけ」

 

 感慨も何もなくそう言って、彼女はちょこんとその場に座り込んだ。気晴らしは終わった。また一人の時間が続いて、そのくり返し。

 「退屈だ」とつぶやいたフランだったが、どうして。その顔は悲しげでも、悔いているようでもない。人間離れした、本当にただただ退屈そうな顔だった。

 

サイトウ サクラ――死亡



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コウモリ女("ユリ"ルート)

「そっち行ったわ、捕まえて!」

 

「待ちなさい、二人とも!!」

 

 広い館内に、何人もの少女の声が響く。叫んでいるのは皆西洋の使用人を思わせる制服を着た、メイドたち。

 彼女らは、二人連れで逃げ惑う少女を躍起になって追いかけていた。逃げる少女はどちらもブレザーの制服を着た中学生。名はユリ、アヤメである。

 

「ねえ、サクラちゃんとはぐれちゃったよ!」

 

「そんな事言ってる場合!? とにかく逃げないと!!」

 

 後ろを走るアヤメが息をあらげながら叫んだが、ユリは振り返りもせずに怒鳴った。真ん中分けのロングヘアがわずらわしくなびく陰でユリが視線をめぐらせると、どの廊下からも四、五人のメイドが飛び出し、追っ手に加わる。

 

「きゃっ!?」

 

「ユリちゃん!」

 

 廊下を曲がりきれず、ユリが足をもつれさせ、倒れる。すぐに立ち上がろうとするが、足でもくじいたのか苦しげにうめいている。

 そんな彼女を、アヤメはとっさに助け起こそうとするが、同時に後方から多数の足音を聞きつけた。

 追っ手だ。そう思ったアヤメの頭に、ある懸念がわき起こる。

 

 このまま、負傷したユリを連れて逃げきれるだろうか。一人きりならまだしも、出口も分からない状態で、一緒に……。

 

 アヤメはすばやく、横手のドアに手をかける。開けると、さいわいそこは空室となっていた。そしてユリを引っ張り、有無を言わさず部屋に押し込んだ。

 

「や、ちょっと!」

 

「ここに隠れてて! あの人たちはなんとかするから!」

 

 床を這う姿勢のまま、ユリは驚いた顔をする。対してアヤメは戸口のすき間から少しだけ顔を出して、小声で言った。

 

「鍵をかけて、足音がしなくなるまで待って。とにかく、さとられないように」

 

「そんな……それじゃ、アンタは」

 

「必ずもどってくるから!」

 

「ま、待って! 一人にしないでよ!」

 

 アヤメはメガネの奥の目を一瞬、悲しげに細めると、すばやく戸を閉める。そして「こっちよ! 捕まえてみなさい!!」などと叫ぶ声がしたかと思うと、数十人ぶんの足音が騒々しく響き、波のように引いていき、あとは、しぃんと静まり返った。

 

「…………」

 

 部屋の中に取り残されたユリは、部屋の鍵をかけるのも忘れ、扉を見つめて呆然としていた。

 不安に頭が真っ白になり、あたりの静けさが耳鳴りを起こす。そんな時、彼女は今まで何が起こったかを自然と思い返していた。

 

 ユリと先ほど別れたアヤメと、はぐれたサクラの、計三人の少女は、中学の修学旅行に参加していた折、移動用バスに乗っていた途中で突然白い霧に巻き込まれ、気づけば見知らぬ場所にいた。

 目の前には、コンクリートではなく石でつくられた、古めかしい、そして真っ赤な洋館。

 その館が何なのか分かる前に、彼女らは住人らしき者に捕まり、小さな少女の前に差し出された。館の主人であり"吸血鬼"と称する少女は、この世界を幻想郷なる異界だと語り、そこでのイレギュラーかつ被捕食者であるユリたちへ、あるゲームを課した。

 それが鬼ごっこ。何十人もいる館のメイドおよび住人たちから逃れ、館を脱出してみろというものだった。

 

 やがて、ユリはおそるおそる戸を開け、目の前の廊下をキョロキョロと見回す。先ほどアヤメがかなりの人数を引っ張っていったせいか、閑散としている。

 

「に、逃げなきゃ……とにかく……」

 

 ふるえる声でつぶやいて、ユリは廊下をそろそろ歩いていく。曲がり角でおっかなびっくり左右を確認し、すみかを追われたネズミのごとくチョロチョロとメイドたちの目を盗んでいく。

 彼女は動悸の止まらない胸をおさえ、へたり込みそうになるのを必死にこらえた。捕まったら殺されるという恐怖にくわえて、心細さが濃い悪寒となって体をこわばらせていく。

 恐怖に塗りつぶされていく頭のすみで、ユリは現実逃避のためか、いつしか思い出にふけっていた。

 

 「こんな風に一人きりになったのは、久しぶりだなぁ」と。

 

 ――コモリ ユリは小さな頃から、いつも誰かと一緒にいる子だった。とはいえ、単に友達が多かったという意味ではない。

 始まりは、保育園時代により大きな女の子グループに流れていった事だった。幼稚園より拘束時間の長い保育園では、なるべく多数の園児といなければ寂しくなりやすい……という理由からだ。

 少なくとも、最初は。

 

 保育園から小学校へ上がるまでに、彼女は"多数派に属する有利"をおぼえた。常に何人かでつるんでいれば男子のチョッカイなどもはねのけられる。グループ同士で対立が起こっても、非を認めずに済み、しかも矢面に立つ必要すらない。万が一ユリ本人が何かで責められたとしても、相手が先生や親たちでもない限り横からかばってくれる者ができるのだ。

 小学校以来、そんなグループのリーダー格だったのが、今ははぐれているサクラだった。もう一人、口出しはしても対立はしないアヤメと共に、腰ぎんちゃくのような立ち位置にユリはいた。

 

 だが、そんな立ち位置がいつまでも楽かというと、そんな事はない。学年が進めば仲間意識でのかばい合いも通用しなくなり、恋愛や勉強に打ち込む子も増え、強い態度で他人を動かしていたサクラは、逆にクラスで浮くようになっていった。

 そんな中で、ユリは今度は自主性のなさが災いし、サクラたちに見切りをつけられずズルズルと腰ぎんちゃくに甘んじた。そしていつの間にか、惰性でサクラに付き合うしかクラス内でやっていく方法はなくなっていた。

 サクラからは昔から変わらず家来か使い走りのように扱われ、今さら他のグループに近づこうにも連れ戻されるのが常だった。一緒にいるアヤメが時々いさめたり、静止したりするが、それも本気でサクラに食ってかかるほどの迫力ではなかった。

 

 せめて、アヤメがもう少し強く口ごたえしてくれたら、自分も絶交しやすくなったのに。苦い過去を思い出しながら、ユリはそんな他力本願な事を考える。三人でつるんでいたのが巡り巡ってまとめて捕まり、こうして逃げ回るはめになった。昔からの後悔の数々はそんな思考に結実し、彼女は内心で次々と悪罵を吐いた。

 

(あのデコッパチ! あいつにすり寄ったせいでとんだ災難よ! アヤメも、半端にいい子ぶるヒマがあるなら、サクラをハブっちゃえばよかったのに! そうしたら私もよそのグループ行ったのにさ!!)

 

 逃げ回る焦りはいら立ちに変わり、身勝手な悪口に拍車をかける。もはや動物的な勘だけでメイドをよけて立ち回っていたが、なんの幸運か、次第に館の光景の既視感がへり、迷わずに進んでいる実感がユリに出始めた。

 そして何十枚目かの扉をくぐった後、ついに……。

 

「……あ、あった!」

 

 二階につながる渡り廊下がついた階段、そこから下に広がるエントランスホールの壁際に、大きな扉と、それを守るように両脇に立つメイドの姿が。

 おそらくあれが出口だろう。そう思ったユリは見つかるのもかまわず駆け出した。いいかげん屋敷を歩き回るのに疲れていたのである。

 

「あ、ちょっとアンタ待ちなさい!」

 

「止まれーっ!!」

 

 扉のそばのメイドが驚いた顔で叫ぶ。ユリはそれを無視して扉に体当たりすると、開く勢いそのままに外へ飛び出す。

 

「逃げちゃうわ!」

 

「あなたは追いかけて! 私は咲夜(さくや)さんを呼んでくる!」

 

 ユリの背後で、メイドたちがあわてふためく声がする。ユリはその声も、眼前の日光のまぶしさも一切かまわずまっすぐに走る。その先には、鉄製の高い門扉があった。

 

(しめた! あそこまで行けば!!)

 

 ユリは勢いこんで門扉につかみかかると、渾身の力で前に押す。しかし返ってきたのは、重い手応えと金属音だけだった。

 

「あ、あれ?」

 

 門が開かず、ユリはガシャガシャと何度も押したり引いたりした。しかし相変わらず門は動かない。鍵がかかっているのだ。

 

「うそぉ」

 

 ユリが情けない声をあげる。その直後、背後から脇をかかえてつかまえる者がいた。

 

「きゃっ!?」

 

「逃がさないわよ、このっ!」

 

 捕まえたのは、先ほど追いかけてきた方のメイドだった。ユリがジタバタともがいて後ろを見ると、もう一人のメイドと、背の高い銀髪の、あのレミリアと話していたメイドが歩いてきた。

 

「咲夜さん!」

 

「まさかここまで逃げられるなんてね。よく頑張ったわ」

 

 咲夜はにこりともせずにそう言い、メイドに代わってユリの腕をつかむ。見下ろしてくるその鋭い目つきに、ユリは背筋が冷えるような感覚がし、とたんに半狂乱になって暴れだした。

 

「いや、やだ!! 離して離して離してっ!!!」

 

「暴れないでよ。捕まるまでの勝負だって、最初に言われたんでしょう?」

 

「知らないわよそんなの! 家に帰して! 私だけでもいいから、さっさと帰らせてよぉ!!」

 

 ユリは髪を振り乱し、泣きださんばかりに叫び続けたが、咲夜は眉ひとつ動かさずに腕をつかんでいた。ユリの空しい抵抗は1分ほど続き、かえってそばにいたメイドの方で心苦しそうに同情しだした頃。

 

「むにゃ……どうかしたんですか?」

 

 不意に、門の外、ちょうどユリたちから見て塀の陰になる場所から、一人の女性がぬっと顔を出した。緑色の中華服に白いズボン。紅い長髪の上に"龍"と描かれた星のついた帽子をかぶっている。

 表情はボンヤリとし、今までの騒動を知らないのかうっすらと笑みさえ浮かべている。

 その女性を一目みて、咲夜はあきれた顔で言った。

 

「……美鈴(めいりん)、あなた寝てたでしょ?」

 

「んあっ!? ちち違います! 休憩してたんですよ!!」

 

「ヨダレたれてるわよ」

 

「あ、はいっ! すいません!!」

 

 美鈴と呼ばれた女性は、咲夜に言われて恐縮した笑みを浮かべてペコペコと頭を下げる。そのしぐさは彼女の立場が高くないのを分かりやすく示していた。

 気の抜けるような、のんびりした光景。いま捕縛と抹殺の危機にあるユリはそれを見て、温度差についいら立ってしまう。

 その時、咲夜がユリの腕をぐいと引っ張った。

 

「とにかく行くわよ。諦めなさい」

 

「へっ!? いや、やめてよ! 私まだ15なのに!! こんな所で死にたくない!!」

 

 ずるずると体を引きずられ、我にかえったユリはまた必死の悲鳴をあげた。涙を流し、声を枯らし、体をやたらめったらによじり――それでも、咲夜は無言でユリを館に連れ戻そうとする。

 そんな中でただ一人、門の外から美鈴が遠慮がちに声をかけた。

 

「あのー……」

 

「ん?」

 

「その子はいったい……」

 

 美鈴がユリの方を見ながら尋ねる。咲夜はため息をつき、声を張りあげた。

 

「あなたね、一度見たでしょう? あの三人組の外来人の一人よ」

 

「三人組……あ、あー……なんとなく覚えてます」

 

「で、いま一人目を捕まえたの。あなたも逃げ出さないようにきちんと門番してなさい」

 

「は、はい……うーん」

 

 ぴしゃりと言われた門番、美鈴はしゅんと肩を落としつつ、ユリの方を見る。その視線はどこか同情するような、いたたまれないものだった。

 その視線を見た瞬間、ユリの口が勝手に動いた。

 

「お願いします! 助けてください!! 何でもしますから許して、生かして帰してえぇ!!」

 

 道理も見栄もなく、ただすがるような言葉が飛び出し、天にまで響く。咲夜はうるさそうな顔をしていたが、それには目もくれずにユリは美鈴に向かってわめき続けた。

 

「あなたからもお願いしてください! 私はただ、ぐうぜん迷い込んだだけなんです!! 死ぬような道理なんてない、分かってください!!!」

 

 さらに言いつのろうとして、かはっ、と苦しい息を吐き、ユリは咳き込んだ。助けて、許してという哀願が言葉にならず、喉につっかえて空気中に散っていく。

 さすがに見るに堪えなかったのか、咲夜が腕を振り払うとユリはそのまま地面にくずおれる。うつむいたまま涙ぐんで嗚咽をもらしていると、門の外から呑気な声がした。美鈴である。

 

「あの、咲夜さーん」

 

「……なに?」

 

「その子、チャンスくらいあげられませんかね?」

 

 美鈴は気弱な笑顔で言った。すると咲夜はジッと冷徹な視線を向け、鋭く返した。

 

「何言ってるのよ。この子は勝負に負けたの。この上どうして私たちがチャンスをあげなきゃならないの」

 

「それはそうですけど……やっぱりホラ、可哀想といいますか……」

 

「可哀想だから何よ。だったらあなたの食事を減らしましょうか」

 

「いやそんな、もうちょっと考えてくれても……」

 

 美鈴は怖じ気づき、後ずさった。あきらかに咲夜は提案を受け入れる気はない。しかし美鈴は笑みを消さずに、ぎこちない口調ながら食い下がった。

 

「しかし、人間はもう何人も貯蔵していましたし……そう躍起にならなくともいいのでは」

 

「決めるのは私じゃないわ。お嬢様よ。直接言ってきたらどう? 言えるなら」

 

「うぅ、そんな殺生な……」

 

 それでも美鈴は劣勢であった。もう一人いたメイドは気まずい雰囲気を察してか、すでにコッソリと館に逃げてしまっていた。

 咲夜の態度はかたくなである。しかし、ここを逃せば生き残るチャンスはない。そう思ったユリは泣きはらした顔をあげ、美鈴に言った。

 

「……お願いします。見逃してください。見逃してください……!」

 

「うーん……」

 

「美鈴」

 

「あ、えっと」

 

「ダメです!! 堪忍してください!! こんなの嫌っ!!」

 

「……咲夜さん、やっぱり」

 

「くどいっ!!」

 

「うっ」

 

 ユリの哀願と咲夜のプレッシャーに挟まれ、美鈴は頼りない笑顔のままうろたえだす。しまいには咲夜から低い声でしかられ、身を硬くした。

 黙り込んでしまう美鈴。少しだけ無言の時間が流れる。ここまでか、とユリが唇をかんだ時。

 

「あ~、そういえば……」

 

 美鈴が、さも今しがた思い出したかのように言った。そして、うんざりした様子の咲夜へ話しかける。

 

「ここ最近に来た人間って、みんな荷物を持っていたじゃないですか。何故かは分かりませんけど」

 

「……それが何?」

 

「私たちの知らない道具とか、紹介してもらったらどうでしょう。もしかしたらお嬢様も気に入ってくれるかも」

 

「…………」

 

 美鈴の提案に、咲夜はやれやれという風に頭をかく。意図は見え透いている。現代の道具を紹介させ、もし彼女らの主人、レミリアが喜べば、ひょっとすると気まぐれでユリを見逃すかもしれない、という事だ。ユリもうっすら察したのか、暗かった瞳がわずかに光る。

 咲夜は、深い息をつき、観念して言った。

 

「……分かったわ。そうしましょう」

 

「本当!?」

 

「立ちなさい」

 

 希望をもって顔をあげるユリを、咲夜は強引に腕をつかんで立たせる。そうして館に連れられていく姿を、美鈴は心配そうに見つめていた。

 

――

 

 ……さて、それから数十分後、ユリはあのレミリアと対面した部屋に通され、また床に座らされていた。最奥の椅子には以前のようにレミリアがおり、ユリの隣には見張るように立つ咲夜が。そしてユリの目の前には、彼女のものらしい大きめのバッグが置かれている。

 緊張して固くなっているユリへ、レミリアが退屈そうに問いかけた。

 

「あなたたち、そろいもそろって大きな荷物を持っているのね。修学旅行……だったっけ?」

 

「は、はい! 有名な観光地に行って、お土産も買うんです! きっと面白いものがありますよ!!」

 

「それは楽しみね。たとえばどんな物が?」

 

「えーと、ちょっと待ってくださいね」

 

 ユリはやけに媚びた声色でバッグを開ける。しかしその直後、中をのぞいてサーッと顔を青くした。

 

(しまった……お土産ってほとんど宅配たのんでたじゃん……)

 

 バッグの中には、千葉のあるテーマパークで買った小物などが、申し訳ていどに詰め込まれていた。大きなものは持ち運ぶのが大変なので、あらかじめ家に送ってもらうよう頼んだのだった。

 しかも、手元にあるお土産もどれだけ興味を引けるか分からない。というのも、宅配の手続きをする際、送料をケチったサクラが「私のとまとめて送らせて」と言ってきたのだ。おかげで料金も送るお土産の容量も分割、それにともない買う物もいくらか我慢をし、そうした末の残り物が今ある品の数々だったのだ。

 

「……どうしたのよ。早くしなさい」

 

「あ、はっ、はい!」

 

 レミリアに急かされ、ユリはとっさにバッグの中から適当なものを引っ張り出した。それは、キャラクターもののタオルであった。

 

「こ、これ! かわいらしいタオルです! 幻想郷(こっち)じゃまず手に入りませんよ!」

 

「……確かに可愛いけど……ただの布じゃない。目立った特徴とかないの?」

 

「……それは、その」

 

 レミリアのしらけた反応に、ユリはつい言葉をつまらせてしまう。なにも件のタオルが安い代物なわけではない。ユリ自身に、「これは良いものだ」と言いきれる熱意がなかったのである。

 修学旅行でクラスメイトと連れだって買い物をする時など、誰かが良いと言ったものを、皆がなんとなくつられて買う事がある。ユリなどは特にその傾向が強かった。

 それを裏付けるかのように、ユリの商品のすすめ方は上滑りそのものだった。キャラクターの帽子を取ればキャラの名前をド忘れし、キーホルダーを取れば飾るメリットを答えられず、雰囲気に流されて適当に買ったキャラクターグッズにいたっては、とうとうキャラの名前を言えなかった。

 不出来な紹介の数々に、レミリアは次第に不快さをつのらせていく。場のプレッシャーが高まる中で、ユリは「何故こんな物を買ったのだろう」と後悔しきりだった。

 

 それでも何かしら興味を引けなければ、ユリの命はない。彼女は藁をもすがる思いで、バッグをめちゃくちゃに混ぜっ返した。

 すると、小さな筒状のものがコロリと転げ出る。ユリが見ると、それは唇に塗るリップグロスだった。

 それを見た瞬間、ユリの脳裏に買い物をした時の記憶がよみがえる。サクラ、アヤメと一緒にいた際、サクラが「これキレイじゃない?」などとませた事を言ってリップグロスを手に取ったのだ。

 実は、三人の中で唯一の長髪だったユリは、ちょうどヘアゴムを欲しいと思っていた。しかしサクラの発言でそれもあきらめ、三人で同じものを買ったのだ。

 

 思い出したとたん、ユリの全身から逆恨みの感情がドロドロとあふれ出す。いつもそうだ。サクラが近くにいたために、私は損ばかりしてきた。いつもいつも、手下みたいにつれ回されて、15にもなってしまいには、殺される。冗談じゃない。冗談じゃない!!

 

「……もういいわ。見込みなしね」

 

「は、え?」

 

 ユリがハッとして顔をあげると、レミリアの飽き飽きした視線がぶつかった。いつの間にか無言でいた事に気づいたユリは、あわてて立ち上がって訴えた。

 

「ま、待ってください! まだ何かが……」

 

「咲夜、連れていきなさい」

 

「や、やだ!! 許して! 助けて! こんなの嘘、嘘よぉ!!」

 

 咲夜に引きずられながら、ユリは喉が張り裂けんばかりに悲鳴をあげた。嗚咽のまじった慟哭が部屋に反響し、あわれな泣き声で空気が震える。

 ユリはもはや、自分で何を言って命を惜しんでいるのか、分からなくなっていた。口では必死に助けを求めていて、実は心の奥底で、走馬灯のようにさまざまな事を思い出していた。

 たとえば、サクラとの思い出の記憶――否、今まで押し殺してきた、数えきれないほどの恨みの数々を。

 

 オレンジ色のランドセルをバカにされ、

 両親の共働きを小バカにされ、

 夏休みの宿題を借りパクされかけ、

 夏祭りで着物をじろじろ見られ、汚され、出店で何度も奢りをさせられ、

 秋の運動会では走るのが遅い、髪を切れと文句を言われまくり、

 冬にははなはだ値段の釣り合わないプレゼント交換をし、バレンタインには好きな男子を無理やり聞き出された。

 

 思い出すだけで腹がたつ。今までさんざんサクラたちの集団に属し、恩恵を享受しておきながら、彼女の胸のうちにあるのは空しい恨みと、そして後悔だった。

 

「ふざけないでよ! こんな人生、認めない! 私は死なないわ。帰ってみせる。私は――」

 

 ユリの言葉は、部屋のドアが閉まるとともに無情にも途切れた。誰もいなくなった部屋には、レミリアだけが残る。

 レミリアは、床に置き去りにされたバッグとお土産をちらと見て、ユリを初めて見た時の姿を思い出した。

 見るからに恐怖し、自らの保身のためにかしこまった口調で話し、地に足が着かず他人の顔色をうかがう、浅ましい姿……。

 

「……コウモリ女め」

 

 コッソリとそうつぶやいて、レミリアはくつくつと笑った。

 

――

 

「あちゃー、じゃあやっぱりあの子は死んじゃったんですか」

 

「ええ、けっきょく不興を買ってしまったわ。分かっていたけれど」

 

 日がとっぷりと沈み、美鈴も門番の役目を終えた頃。彼女は館の庭で咲夜と立ち話をしていた。

 

「うーん、もしかしたらと思ったんですけど」

 

 美鈴はやりきれない様子で、うん、と天をあおぐ。満点の星空が、街灯もろくにない幻想郷に光の粒をちらしている。

 咲夜は肩をすくめ、こう返した。

 

「本人がああじゃ、どうしようもないわよ。話して面白いタイプじゃないわ。芯がないもの」

 

「そうですかねぇ、そういう子も必要だと思いますよ。智に働けば角が立つ、意地を通せば窮屈だ、とね」

 

「……なんでそんなに肩入れするのよ」

 

 咲夜が、怪訝そうに尋ねる。美鈴は軽く頭をかき、笑いながら答えた。

 

「なんとなく分かるんですよ。その子の気持ちも」

 

「……ふぅん」

 

 咲夜がつまらなそうに頷くと、美鈴は苦笑し、館の方を見た。本館の隣にある倉庫の屋根の、てっぺんに立てられた風見鶏がかすかな夜風に吹かれ、心細く揺れていた。

 

コモリ ユリ――死亡



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さようなら("アヤメ"ルート)

「……二人とも、ちゃんと逃げてるかな……」

 

 薄暗い洋館の廊下を駆け回りながら、少女、キシダ アヤメはつぶやいた。

 

 彼女は、修学旅行の移動用バスに乗っている最中、同級生らともども白い霧に巻き込まれて意識を失った。

 そして目覚めた時、周りにあったのは見知った現代の景色ではなく、紅く塗られた古めかしい館。そう、今いる"紅魔館"だった。

 その紅魔館の住人によってアヤメは友人のサクラ、ユリとともに捕まり、あるゲームを課せられた。

 それは鬼ごっこ。しかも、彼女らが迷い込んだ異界、"幻想郷"のルールに乗っ取った、逃げるか食われるかという命がけのゲームであった。

 

 アヤメは逃げ回るさなかでサクラともユリともはぐれ、今げんざい館につとめるメイドたちの目をかいくぐり、出口を探しているのだった。

 

(どうしてこんな事になっちゃったんだろう……)

 

 さんざん走って乱れたショートボブの髪をすき、メガネのズレを直す。一呼吸おくと自然に、共にいた二人の事を思い出した。

 リーダー的な存在だったサイトウ サクラは、鬼ごっこの開始を告げられると真っ先に逃げ出した。ドアを体当たりで開け、後ろを振り返りもせず、残りの二人を置き去りにしていった。

 そしてサクラの腰ぎんちゃくのような存在だったコモリ ユリは、途中で置いてきてしまった。メイドたちに捕まりそうになった時、ユリを空き部屋に隠した上で、アヤメがメイドを一人で引き受けて引き離したのだ。彼女は最後に「一人にしないで」と叫んでいた。

 

 極限状態になると本性があらわれる、という事なのだろうか。ある者は我が身かわいさしか考えず、ある者は他人にすがり、頼ろうとする。考えにふけりながら、アヤメは苦々しい顔で首を横に振った。

 

(……いつか、()()()仲良くなりたかったけど……無理かな……)

 

 暗い面持ちのまま、アヤメはあてもなく目の前に続く廊下を走り続けた。

 

 ――キシダ アヤメは、幼少より"仲良く"を重んじる子だった。ケンカがあれば仲裁に入り、仲間外れの子がいれば遊びにさそってあげる。幼稚園時代はまさしく"いい子"で、よく親や周りからほめられていた。

 小学校に上がって、サクラとユリに出会った。サクラはその頃から自己中心的で、ユリは振り回されつつもくっついて離れない、そんな子だった。

 それから、アヤメの行動は少しずつ変わっていった。それまでのように分け隔てなく接するのではなく、常にサクラとユリについていき、控えめに忠言をするようになったのだ。対等とは言いがたい、陰ながらストレスを溜めていそうなサクラとユリの間で。

 何度も何度も口出しした。ほとんどはにべもなくはねのけられた。それでもアヤメは見限らなかった。だって友達なら見放してはいけないから。自分は"いい子"なのだから。

 ……そんな使命感じみたものを持ちながら、とうとう関係はほぼ改善しなかった。アヤメは今までを思い返し、不満げに口をとがらせた。

 

(だいたい、ユリちゃんがいけないんだ。いつもサクラちゃんに従って、文句の一つも言わないんだから)

 

 いつもサクラのそばにつき、作り笑いをして盲従しつつ、時にはアヤメの苦言を二人でこき下ろそうとしてくる。

 あの鬼ごっこが始まる直前、レミリアと話した時もそうだった。明らかに得体の知れない存在がいるにも関わらず、相変わらずサクラのご機嫌をそこねないように努める。あれだけでずいぶん空気が悪くなった。

 

(……私とサクラちゃんの二人だけなら、もっと上手くまとまったんじゃ……)

 

 ふと、そんな栓もない想像をする。中途半端に機嫌をとって、甘やかすからいけないのだ。いっそ自分がサクラとじっくり話し合えていれば、関係も違ったのではなかろうか。

 そんな風に考えていた時。

 

「……あれ?」

 

 館を逃げ回るうちに、無意識に誰もいない場所を目指していたのだろうか。ふと気づくとアヤメの目の前に、下へと伸びる階段があった。全面が灰色のわびしい外観で、手すりや装飾は見当たない。壁の向こう側をななめ下に掘り進んだようなそれは、地下を連想させた。

 アヤメは、暗闇に続いていくその階段を見て、一瞬ためらった。館内の薄暗さには慣れてきたが、それでも先の見えない場所に踏み込むには不安が大きすぎる。何者がいるか、分かったものではない。

 しかし、隠れ場所にはちょうどいいのでは……とも思えた。見た限り、あのメイドたちは数えきれないほどいる。この期を逃せば、逃げ込めるようなポイントはもう、ないかもしれない。

 

 アヤメが階段の前で悩んでいると、廊下の角から少女の話し声が聞こえてきた。サクラやユリの声ではない。メイドだ。

 このままでは見つかる。そう思ったアヤメは、けっきょく階段の方へ飛び込んだ。闇の中で息をひそめ、地上をメイドたちが通りすぎるのを音で確認し、安堵の息をつく。

 ……それから、彼女はまた奥へ行くか戻るかで悩んだが、三十秒ほどして、とうとう階段を降りていった。

 もしかしたら、外へ通じる秘密の通路などがあるかもしれない。実のところアヤメも、そんなとっぴな希望を持つ程度には、疲れきっていたのである。

 壁に手をつき、目をこらし、黒地に浮き上がるような階段を一歩一歩、慎重に下りていく。

 そのうち、上階から差していた光が遠くなる。アヤメの緊張が高まった。火の気がないせいか、一階ぶんも下りていないのにひどく寒い。スカートの下の素足が冷えるのをこらえつつさらに進むと、眼下にぽつんと、壁にかけられた灯りと、両開きのドアが見えた。

 

(……部屋が……)

 

 やはりどこかしらに繋がっていたのだ。アヤメははやる気持ちをおさえ、そっとドアに近づき、取っ手を引いた。その瞬間、今までとは打って変わったまばゆい光と、穏やかな暖気が、彼女の全身を包んだ。

 

「え……」

 

 アヤメは驚いて目をしばたかせる。目の前に広がるのは、広々とした一室。学校の体育館ほどはあるだろうかという広さに、高級そうな赤いじゅうたんが敷かれ、上にはいくつも照明がこうこうと光っている。

 そして、何より目を引くのは、部屋中に整然と置いてある――いや、そびえ立つという方が感覚としては適切だろうか。高さ10メートルほどもある本棚だった。どれもすき間なく分厚い本が詰められ、いっぱいになったものが10、20……それ以上にある。

 アヤメはしばらく呆気にとられてその部屋の威容を見つめていたが、我にかえって扉を閉める。そして音を立てないようにそろそろと部屋を進んだ。

 

(……誰か、いるのかな……)

 

 少しも物音がしない中で、そわそわと辺りを見渡す。本来ならば、広い部屋の隅にでも隠れていればいいのかもしれないが、他人の部屋に入るとつい部屋主を探してしまうのだ。

 その部屋は本の量からして、図書館かなにかだろうか。棚に入りきらなかったらしい本が、あちこちで1メートルほどの高さの山になっている。

 それを避けつつ奥へ歩いていると、かすかにアヤメの耳に音が届いた。

 

「けほっ……けほっ……」

 

 小さいが、確かにせきの音だ。やはり誰かいるのだ。そう思ったアヤメは音をたよりに歩を進める。

 すると、本棚と本にさえぎられていた視界が少し開け、小さなテーブルと、それを囲む二つの椅子が置かれているのが見えた。テーブルには白いティーポットとカップ。そして椅子の片方に、一人の女性が座っている。

 紫色を主とした、ネグリジェのようなドレスと帽子を身につけた小柄な女性。足は白いタイツにリボンつきのソックスブーツ。ウエストの見えにくい服の胴体を、腰までのびる濃い紫色の髪がおおっている。

 

「けほっ、げほっ!」

 

 女性が、顔の前で広げていた本を落としかけ、膝に置く。あらわれた顔は病弱そうな色白で、苦しげにゆがめられている。

 アヤメは本棚の陰を移動しつつ、10メートルほどの距離まで近づいた。が、女性のせきは止まらない。それどころかますます激しくなる。

 

(……大丈夫かな、あの人……)

 

 アヤメは見つかるのを恐れつつも、心配から制服のすそなどを無意識にまさぐったりなどしていた。

 すると、ポケットのあたりにふと、小石のような感触を感じる。彼女がとっさに中身を取り出すと、そこにはキャンディーが一粒入っていた。バス酔い対策に持ってきていたのだ。

 アヤメはそれを見たとたん、せきこんでいる女性に駆け寄り、声をかけた。

 

「あの、大丈夫ですか?」

 

「……ぜぇー、ぜぇー……ええ、平気……」

 

「これ、食べてください。少しはマシになるかも……」

 

 アヤメは包みをはがしたキャンディーを女性の口へとふくませ、背中をさすってやる。そのうちに、女性のせきは少しずつおさまっていった。

 

「落ち着きました?」

 

「……ふぅー、ありがとう……」

 

 女性はうなずいて礼をいい、椅子に背をあずけて深呼吸する。そしてアヤメへと振り向いて、今さら気づいたように目をしばたかせる。

 

「……ところで、あなた誰?」

 

「あ、私はキシダ アヤメと言いまして。なんというかその」

 

「見慣れない格好ね」

 

「こ、これには事情が……」

 

 案の定、懐疑の目を向けてくる女性。アヤメがしどろもどろになるのを、無遠慮に眺めまわしてくる。

 すると、図書館の扉が再び誰かによって開けられ、続けてパタパタという足音が聞こえた。

 

「パチュリー様~、命じられていたお茶のおかわり……あら?」

 

 片手にお盆と魔法瓶を乗せた少女が、笑顔で小気味よく歩いてくる。白ブラウスに黒のベストと、黒のロングスカート。赤いロングヘアーが歩くたびにサラサラとなびく。

 背中と、それから両耳の上あたりから、レミリアよりずっと小さいがコウモリの翼が生えており、見た目で人外である事が分かった。

 その少女は女性(どうやらパチュリーというらしい)より少し背が高いが、目つきや表情は子供ぽかった。そのくりくりと丸い瞳は、アヤメを見つけると不思議そうに一点に留まる。

 そして、こくんと首をかしげてパチュリーの方を見る。

 

「パチュリー様、お客様ですか?」

 

「いえ知らないわ。アヤメとか名乗ったけど……小悪魔は?」

 

「私も、さっぱり……」

 

 パチュリーと少女もとい小悪魔が、そろってアヤメの方を見る。雰囲気じたいはまるで学校で知らない転校生でも見ている風だったが、ここにいる理由を知られればアヤメはただでは済まない。彼女は危機感を取り戻し、言葉を失ってしまう。

 すると、お盆をテーブルに置いた拍子に、小悪魔が思い出したように言った。

 

「あ、そういえば上の方で、メイドさんたちが侵入者を追ってるって言ってたような……」

 

「という事は……」

 

 先ほどより疑念の濃くなった視線を向けられ、アヤメの背中に冷や汗がにじむ。パチュリーは膝に乗せていた本を顔の前でばさりと広げると、なにやらブツブツと言い出した。

 

「えーと、図書館に潜り込んだ外来人をつかまえる方法は……」

 

「やあぁっ! やめてくださいお願いですまだ死にたくないっ!!」

 

「冗談よ」

 

 取り乱すアヤメに、パチュリーはけろりと言った。小悪魔が「いいんですか?」とたずねると、事もなげにうなずく。

 

「一応、借りがあるからね。それに外来人狩りなんて興味ないし」

 

「…………」

 

 借りというのは、あの時のキャンディーの事だろうか。アヤメはこの時、臆せずに出ておいてよかったと、心底思った。

 そして、すかさずパチュリーの目をジッと見る。"興味ない"というのが本当なら、仲間の二人――サクラとユリの事も、助命してもらえないかと思ったのだ。

 

「パチュリー……さん」

 

「ん?」

 

「あの……レミリアさんとは、お知り合いなんですか?」

 

 慎重に、当たり障りのない部分から質問する。まずはあのボスらしき少女とどんな関係なのか。

 

「ええ、長い付き合いだけど。どうかした?」

 

 肩をすくめるパチュリー。アヤメはしめたと思い、一気に踏み込んだ。

 

「お願いです。レミリアさんの鬼ごっこ……人間狩りを、中止させられませんか?」

 

 言った瞬間、無意識に体がテーブルに乗り出した。小悪魔がひゃっと声をあげたが、アヤメは目もくれずに、パチュリーと顔を突き合わせる。

 もし、パチュリーが本心はどうであれ「やめましょう」と言ってさえくれたら、レミリアももしかしたらやめる気になるかもしれない。

 相手は人間ではなく吸血鬼のレミリア。たとえ道徳心や博愛精神など無くても、いいのだ。たとえ気まぐれにでも中止してくれれば、それで自分たちは助かる。

 うなずいて、どうか了承して。そう願いながら、アヤメはまばたきも忘れてパチュリーの瞳を凝視していた。

 しかし、パチュリーはすげなく首を横に振る。

 

「嫌よ。なんで私がわざわざそんな事」

 

「へ…………」

 

 無情な返事に、アヤメはしばし魂でも抜けたかのように固まった。それを尻目に、パチュリーは独り言のように言った。

 

「それに、言っちゃ悪いけど便利なのよねぇ。私も魔法の実験に使えるし」

 

 魔法という言葉はアヤメにとって現実離れしていたが、それ以上に、パチュリーの軽々とした口ぶりが引っかかった。アヤメはテーブルをばんと叩き、図書館に響く大声を張りあげた。

 

「ヘラヘラしてる場合ですかっ!! 友達なら、人殺しなんてやめさせてくださいよ!!」

 

「ちょっと、アヤメちゃん……」

 

 荒い息を吐くアヤメを、「まぁまぁ……」などと言ってなだめる小悪魔。一方パチュリーはうるさそうに眉をしかめ、こう返した。

 

「私やレミィは、人間とは価値観が違うのよ。それに私は魔法遣いとしてのメリットも受けてる」

 

「っ……そんなの! おかしいですよ。友達って危ない事はやめさせるものでしょう!? 注意とか、しないんですか?」

 

 アヤメは納得いかない表情で唇をかみ、口ごもりながらも言い返す。パチュリーはやれやれとため息をついたが、アヤメはそれを見てさらに言いつのる。

 

「そんな事してて……そんな子といて、楽しいんですか!?」

 

「楽しいわ」

 

 パチュリーは短く、しかしハッキリと言った。愕然とするアヤメに、彼女は問い返す。

 

「追われてるのって、あなたの友達? どんな子なのよ」

 

「それはっ……サクラちゃんと、ユリちゃんって言って……私の幼なじみで……その……」

 

 パチュリーからすれば、うるさい人間からの糾弾をそらしたかったのだろう。が、アヤメは「親友」と言おうとして、なぜか口ごもってしまった。「友達」と言い直そうとしても、言葉が出ない。

 

「……どうしたのよ」

 

 パチュリーが不思議そうに尋ねる。しかし、アヤメはその言葉は耳に入らず、なぜかサクラたちと出会ってからの事を思い出していた。

 

  ユリのオレンジ色のランドセルをバカにしたサクラを(とが)め、

 ユリの両親の共働きを小バカにしたサクラを咎め、

 二人の夏休みの宿題を借りパクするサクラを急かしては、手ぶらで帰り、

 夏祭りでユリの着物をいじり、奢りを要求するサクラを咎め、

 秋の運動会ではユリに走るのが遅い、髪を切れとヤジを飛ばすサクラを咎め、

 冬にははなはだ値段の釣り合わないプレゼント交換をし、バレンタインには好きな男子を無理やり聞き出そうとするサクラを咎め。

 

 ……横から、安全圏から控えめに咎め続けて結局、サクラの性格は変わらなかった。

 それを思い返して、冷めた感情がわくのが分かった。同時に、友達と言えなかった理由が分かった。

 本心からぶつかった経験が、一度もなかったのだ。先ほどのパチュリーに向けた、『本心はどうあれ人間狩りをやめさせてほしい』という願いのように、自分や相手の心を脇に置いて、悪事をとりあえずやめさせようとする。それでナアナアで関係を続ける。そんな付き合いばかりしてきた。

 

「……はは」

 

 ひとりでに、かわいた笑いが漏れた。なにが本当に友達になりたい、いい子だ。見限らなかった、見放さなかったなど思い上がりもはなはだしい。

 自分はクラスメイトに振り回され、それでもケンカをしない自分に酔っていただけだ。一緒にいて"楽しくない"という感情からすら、ずっと目をそむけていたというのに。

 

「――アヤメ?」

 

「はっ」

 

 パチュリーに名前を呼ばれ、アヤメははたと我にかえる。そして次の瞬間、立ちくらみのようにフラフラと床に崩れ落ちそうになる。

 

「あっ、大丈夫?」

 

「……かなり疲れているわね。小悪魔、悪いけどベッドに運んでおいてくれないかしら」

 

「分かりました……よいしょっと」

 

 小悪魔に抱えられ、アヤメはされるがままにトボトボと歩いた。思考にもやがかかり、ボンヤリとかすむ。サクラやユリの事を考える余力が、消えていく。

 図書館の隅の天蓋つきベッドに寝かされ、アヤメの全身に安堵が広がっていく。これでどうやら助かりそうだ。それでいいじゃないか、と。

 睡魔に支配されていく頭の中で、最後にサクラたちの顔が浮かんだが、『これはきっと、夢だ』と根拠もなく考え、アヤメは目を閉じた。

 そして、意識は闇に沈んでいった。

 

――

 

 ……それから、どれくらいの時間が経っただろう。アヤメは複数人の話し声で目を覚ました。

 寝返りをうつと、ベッドの横手で三人の人物が話している。パチュリーと小悪魔、そして背の低い……レミリアだ。

 

「全く、勝手に人間をかくまうなんて……」

 

「すみませんお嬢様……」

 

「別にいいじゃない。減るもんじゃなし」

 

 自分について言っているらしい声を聞きながら、アヤメは(ああ、夢じゃなかったんだな……)とうっすら考えた。すると、レミリアがアヤメの視線に気づき、振り向いて言う。

 

「あら、起きてるじゃない。ちょうど良かった」

 

「…………?」

 

「アヤメ、だっけ? あなたを解放してあげようって話していたのよ。さっき」

 

「…………えっ!?」

 

 寝ぼけまなこでいたアヤメは、レミリアの言葉に音をたてて跳ね起きた。そして恐怖も忘れてレミリアに詰め寄り、何度も確認する。

 

「ほ、本当!? 本当に!? 本当に帰っていいんですか!!?」

 

「だからそう言ってるじゃない。親友が言うから特別よ?」

 

 パチュリーをちらと見てレミリアが答えると、アヤメはホッと胸をなでおろす。帰れる。生きて帰れる。そう思うだけで涙がにじんだ。

 しかし、レミリアが続けて、こう言った。

 

「もう一人ぶんは捕まえてるし。そいつの解体だけ頼むとしましょう」

 

 それを聞いた瞬間、アヤメが笑みを凍らせる。数秒して言葉の意味を理解し、すがるようにパチュリーを見る。

 しかし、パチュリーは無言で首を横に振っただけだった。『考えるな』と、言外にそう言っていた。

 

 アヤメは身じろぎもせず、しばらく脳内で焦りにもがいていた。捕まったのはサクラか、ユリか。解体がまだだという事はまだ生きているのかもしれない。今ならまだ助けられるかもしれない。必死に頭を下げて、レミリアに命じてもらえれば。なんなら、自分が身代わりになれば――。

 

 そこまで考えて、アヤメの脳裏にある別の考えが浮かぶ。

 自分はこれから、何年も人生がある。高校、大学、そして社会……。さまざまな場所で人に出会い、また新しい人間関係ができるだろう。

 もしかしたら、今までより、サクラやユリといた頃より楽しい関係が、つくれるかもしれない。今まで知らなかった友達付き合いの楽しさが、分かるかもしれない。

 今、レミリアたちから不興を買えば、それらが全ておじゃんになる……。

 

「……どうしたのよ」

 

 黙っていると、レミリアがいぶかしげに問う。アヤメは、フッと顔をあげ、ニッコリと笑う。そして言った。

 

「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて」

 

 その平坦な声は、アヤメ自身も驚くほど、アッサリと出てきた。

 

キシダ アヤメ――生存



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「……みんな、一体どこ行ってしまったんだ……」

 

 日差しの強い昼下がり。終わりの見えない鬱蒼とした森の中で、中年らしき見た目の男性はため息をついた。

 男性の名はカワグチ マサシ。白いポロシャツに白茶色のチノパンという地味な格好と、やせこけた体格が老けた雰囲気を醸し出している。

 彼は午前中の時間帯には、▼▼中学の修学旅行の引率として、生徒らと一緒にバスに乗っていたはずであった。しかし、そのバスがとつじょ白い霧に巻き込まれてから、彼には記憶がない。目が覚めたら、一人きりで森の中にいたのだ。訳も分からず生徒らや他の教師の名を呼んだが、ついぞ答えてくれる者はいなかった。

 

「つっ……」

 

 森の中をあてもなく歩いていたカワグチはやがて、顔をしかめて膝を折った。中腰になって押さえた両足が震えている。

 彼は今年、37になる。体は少しずつ衰え、歩き続けるのもつらくなってきた。

 細面な顔のシワを深くしてため息をつき、汗をぬぐう。40手前にして生え際の後退してきた額が、かすかに光った。

 

「はぁ、まいったなぁ……」

 

 いまだ生徒の発見どころか、事態の把握さえできていない。しかしカワグチはあきらめず、重たい体を引きずった。

 自分は教師だ。教え子をあずかる教師だ。何度も自分に言い聞かせ、歩を進める。

 

 そうして、30分ほど経った頃。どこからか、川のせせらぎが聞こえてきた。音から察するに、おだやかな流れである。

 ありがたい。川の水が飲めるかは分からないが、少し涼んでいこう。そう思ってカワグチが音に近づいていくと、不意に目の前の立木が開け、幅の広い川があらわれた。

 その川はちょうど中流にあたるであろう見た目で、対岸までの距離は20メートルほどもあり、間には両手で持てるくらいの大きさの石がいくつか顔を出している。この川をたどってみようか、などと考えながらカワグチが砂利を踏みしめ川岸をうろついていると。

 

「ん!?」

 

 ふと、川のただ中に妙なものを見つける。少し下流へ向かった水流の真ん中にある、小さな中洲。それによりかかるようにして、誰かが沈んでいるのだ。

 その人物は胸から下まで水に浸かっていたが、見た限り女性のようで、それも10代なかばくらいの少女であった。赤いリボンのついたセーラー服を着て、ショートの黒髪や白のキャップまで濡れている。ずぶ濡れの彼女は動く気配がなく、何かの拍子に流されてしまいそうだ。

 

 危ない。そう思ったカワグチはとっさに川へ足を踏み入れた。水はあんがい深く、腰から下までがドポンと沈む。水の勢いにふらつきながら、カワグチは一本ずつ少女に近づき、その体を中洲へ引き上げる。

 横たえた少女の体は、黒く光る頭からキュロットをはいた足の先まで、一つの外傷もなかった。一体こんな場所で何を……とカワグチがいぶかしんでいると、中洲の隅に酒らしき一升瓶と盃が置いてある。

 一人で酒を飲んでいたのかと気になったカワグチだったが、今は少女の介抱が先だと気を取り直す。青白い少女の顔と、閉じたままのまぶたを見ながら、彼は動揺する頭で考える。

 

(こういう時は……そうだ。まずうつ伏せにして水を吐かせてから……)

 

 そうして、姿勢を変えようと少女の肩に手をかけた。その時……。

 

「……ん……?」

 

 ちょうど、少女が小さくうなって意識を取り戻す。うっすらと開いた目が、上から見つめるカワグチの目と合った。

 

「あ……」

 

 よかった、目を覚ました。カワグチが一瞬、ホッと安堵の息をもらした、その直後。

 

「きゃあっ!?」

 

 少女は何を思ったか胸をかばいながら飛び起きると、悲鳴と一緒に、カワグチの頬を平手で思いっきりひっぱたいた。ぱぁん、という高い音が青空にこだまする。

 頬を赤く腫らしたカワグチはしばしポカンとし、まばたきしながら頬をおさえ、少女へと向き直る。少女はそこで我にかえったように「あっ」とつぶやくと、座ったままちょっと離れて頭を下げた。

 

「ごめんなさい。ビックリして、つい……」

 

「いや、いいんだ。驚かせてしまって、すまない」

 

 ばつが悪そうにする少女へ、カワグチは気弱く微笑した。内心では理不尽だと思わなくもなかったが、特に気にはしない。

 カワグチは気を取り直し、真面目な顔をして尋ねた。

 

「……ところで、君は何をしていたんだい? まさか、入水(じゅすい)じゃあるまいね」

 

 言いながら、かたわらに置いてある一升瓶と盃をちらと見る。死ぬ前に無理にでも酔って、決心をつける手合いがたまにいるので、ひどく心配になった。

 しかし、当の少女は戸惑ったように目を丸くすると、あははと笑って首を横に振る。

 

「まさか、違いますよ。たまーにこうやって水に浸かってると、気分いいんです」

 

「気分いいって……しかし、そんなの危ないだろう」

 

「うーん、なんと言ったらいいかな……私、死なないんで」

 

「??」

 

 カワグチはまるっきり要領を得ないという顔をする。少女は困ったように帽子をぬぎ、こう言った。

 

「舟幽霊……って言ったら信じます? ホラこうやって……」

 

「!? うわあぁ!??」

 

「……やっぱ、無理か」

 

 腰を抜かしてへたり込むカワグチを、少女は()()()()()()()()()()言った。彼女はあぐらをかいた姿勢のまま、ふわふわと空中に浮いていた。

 

 ……それから、舟幽霊と称する少女――名を、村紗(むらさ) 水蜜(みなみつ)というらしい――は、カワグチが迷い込んだ不思議な場所について教えてくれた。

 今いる森を含め、カワグチは"幻想郷"なる異界にいるらしい。現代とは隔絶されており、村紗のような人外がそこらじゅうにいるのだという。

 おそらく、一緒にバスに乗っていた生徒たちや他の教員らも、幻想郷のどこかにいる可能性が高い、との事だった。

 初めは半信半疑といった表情で聞いていたカワグチだったが、しだいに本当ならば一大事だと思いはじめたのだろう。顔つきが険しくなっていく。

 やがて、カワグチはさっと立ち上がると、村紗に向かって言った。

 

「でしたら……すぐにでも皆を探しに行かないと!」

 

「ああいや、ちょっと待ってよ」

 

「何故!?」

 

 いつの間にかタメ口になり、村紗は後ろを振り返って一升瓶と盃を取ると、焦ってやきもきしているカワグチの足元に置いた。

 

「まずはこれ飲んでくれない? さぁ、ぐーっと」

 

「何を言ってるんだ、こんな時に!」

 

「いやこれには、ちゃんとしたワケがあって」

 

 村紗はあわてて笑い、こう打ち明けた。

 これから別の場所に行き、村紗の仲間たちを頼れば快く協力してくれるだろう。

 しかし、困った事にその仲間たちも村紗自身も、ある寺の関係者なのだという。寺という場所柄、今のように酒など飲んでいるのがバレたら、きつい罰が待っている。もちろん、一升瓶と盃をそのまま持ち帰れば間違いなく厳罰だ。

 

「だからさ、いっその事あなたに飲んじゃってもらいたいのよ。捨てるのもったいないし」

 

「……いや、なら君自身が飲めばいいだろう。そもそも私は酒が……」

 

「えへへ、飲んじゃいたいのはヤマヤマなんだけど……ホラ、よそ者のあなたはともかく、私があんまり酒気をおびて帰ったら……ねぇ」

 

 村紗は苦笑し、最後にふっと目をそらすと、横顔をさぁーっと青くした。よほど寺の罰とやらが怖いのだろうか。カワグチは内心でため息をつき、どっかと中洲に座りなおすと、一升瓶から盃へなみなみと酒をそそいだ。

 どのみち、村紗の見た目は10代なかばだ。ならばこれは未成年飲酒を防ぐため、と無理やりに割り切り、彼は盃の酒をぐっとあおる。教え子を少しでも早く救出したいという一心で、二杯、三杯。次々と飲んだ。

 

 ところが、そのハイペースがいけなかったのか、それともカワグチには強すぎる酒だったのか、彼は突然ふらりとその場に倒れそうになる。

 村紗があわててその体を支えると、カワグチは「や、ごめん」などと言って立ち直ったが、すでに呂律(ろれつ)は怪しくなり、頭がくらくらと揺れている。心配そうに村紗が見つめていると、カワグチは急にえへん! とせきばらいをして、ひとりでにこんな事を語った。

 

「……俺は、教え子たちを我が子のように思っている。聞かない年頃で、憎く思う時もあるけれども、見捨てるつもりはない。そうとも、俺の仕事さ」

 

「はぁ……」

 

 村紗はなんとなく正座をし、かしこまった様子で相づちを打った。そんな姿を見て、カワグチはにやりと笑って続ける。

 

「昔は俺にも、本当の家族があったんだが……離婚しちゃって、今は、一人」

 

「何か、あったの?」

 

 義理のような口ぶりで村紗がたずねる。カワグチはひっくとゲップをすると、いくぶんか沈んだ口調になって、言った。

 

「ヒサコが……いや妻が、言うにはさ。『愛情がなくなった』って……。小さい娘を連れて、ずっと前に出ていった」

 

「あらら……」

 

 ぐすっ、と鼻をすするカワグチ。やばい、泣き出したかと村紗があわてだすと同時に、彼は声を張りあげた。

 

「俺は何度も言ったんだ、『理由を教えてくれ』と。だけどもアイツは、とうとう答えてくれなかった。"家族と感じられない"、"一緒にいたいと思わなくなった"。そんな、ボンヤリした理由ばかりだ……」

 

「…………」

 

「なぁ、どう思うよ……。女ってのは、具体的な理由もなしに離婚できるもんなのか? 村紗ちゃん」

 

 カワグチがふっと顔をあげて村紗を見る。村紗は突如として愚痴を言いはじめた彼の瞳を見て、困惑しつつ、どこか腑に落ちるような気もした。

 具体的な理由。それを明示して別れるのは、なるほど理想的だろう。だが現実には、ハッキリした理由は出てこないけれど、とにかく別れたい。そんな事も、たまにはあるのではなかろうか。

 離婚協議中にしつこく「理由を教えてくれ」と言われ、妻はますます何も言いたくなくなり、愛想ばかりが尽きていく……。もしかしたらそんな一幕があったのかもしれないと、村紗は思った。

 しかし、それを口には出さなかった。目の前で「ヒサコぉ……サヤ……」などと名を呼んでしゃくりあげている人間に向けて憶測をぶつけるほど、彼女は無神経ではなかった。

 

「今は……どうしてるのさ。奥さんと娘さん」

 

 気まずいのが嫌で、村紗はそれだけ聞いた。カワグチは一つ鼻をすすり、すねたように答える。

 

「ああ……実家づたいに聞いたが、シングルマザーでちゃんとやっているらしい。俺には過ぎた女だったかな」

 

「なら……そんなに悲しむ事ないじゃない。カワグチさん、だっけ? あなたにも教え子たちがいるんでしょ? 元気だしなよ」

 

「…………」

 

 村紗は作り笑いをして励ましたが、カワグチはうつむき、「教え子は、大事だが……」などとブツブツつぶやいたかと思うと、顔をあげて低い声で言った。

 

「……ただ、女は分からん」

 

「へ?」

 

「だから、女は分からんっ!!」

 

 ぎょっとする村紗へ、語気を強くするカワグチ。そして座ったままぐいと顔を近づけ、早口にこう言った。

 

「中学校に勤めて何年もたつがな、女だけは分からん。なんであんな、人の悪口ばかりを言えるんだ」

 

 切なげだった彼の目が一転、ぎろりと鋭くなる。村紗は戸惑いながら、遠慮がちに聞いた。

 

「悪口って……たとえば?」

 

「悪口は悪口さ。いや、陰口か。俺の見えないところで集まって、こぞって笑ってたんだ。一度や二度じゃないぞ」

 

 カワグチは舌打ちし、村紗を尻目にある過去の事を思い出した。

 

 ――数年前、学校の休み時間での事だった。彼が廊下を通りがかると、数人の女子が物陰にたむろしていた。その会話が、耳に流れてくる。

 

『ねー、今日のカワグチの授業、分かった?』

 

 自分の名を聞いて、彼は思わず立ち止まった。気づいていない女子たちが本音を口にする。

 

『んー、いまいち。つーかあの先生いつも段取り悪いじゃん』

 

『"えーと、えーと"って何回も言うんだよね。早よ進めろって』

 

『私、塾で予習してるからさー、ノロくさいだけなんよね。ぶっちゃけ役立たず。今日ちょっと間違えてたし』

 

『違うだろーー!! このハゲーーーっ!!!』

 

『あははははは!』

 

 その一連の会話を聞いて、カワグチは気づかれないようにそそくさと職員室に向かった。知らず知らず涙がにじむのを、情けないと思った。

 生徒たちは表は明るく、または真剣な顔をして過ごしていながら、裏では愚痴や陰口をたえず話している。鈍感だったカワグチは自分への陰口に気づいて初めて、その後ろ暗い部分を意識した。しかも悪い事に、意識してからは一転、その面を内心で憎悪し、また恐怖するようになってしまったのだ。

 酒のせいもあるだろう。今のカワグチは目がすわり、一升瓶の首部を手が白くなるほどに握りしめ、溜め込んだ思いを漏らしている。

 

「……なんなんだ。俺は悪く言われる筋合いはない。話し方がたどたどしいのは罪か? 授業の段取りが悪いのは罪か? それともやっぱりハゲがいけないのか、畜生!」

 

 独り言はヒートアップし、一升瓶の低部を叩きつける音が響いた。それに顔をしかめながら、村紗は黙って、ボンヤリと自分の身の回りを思い出していた。

 

 ――村紗の住む寺は、尼の多い場所である。戒律はあるにしろ、金銭、食事、派閥などの問題はとりたてて無く、和気あいあいと過ごしている。男がちらりと覗き見すれば、花園のようだと見とれるに違いない。

 しかし、それが全てでは決してない。誰しも、心のうちに大なり小なり不満を抱えている。寺ではそれに囚われまいと修行しているのであるが、やはりままならぬものがある。

 席を外している者がいれば、そいつの悪口を誰かが言う。修行中の不真面目さ、食事や掃除の出来について、金銭の多少の貸し借りなど……。

 村紗に、いや寺の尼たちにとって、それは息をするような自然な事だった。習性といってもいいのかもしれない。もう何年、何十年……いや、舟幽霊としての経験上、千年近く前から変わっていない。

 ただ、決して憎みあっているのではない。貶めたいのではない。ただ、彼女らは我慢しているのだ。

 不真面目な者をほほえんでたしなめ合い、食事や掃除の仕事をつとめて誉めてやり、お金を貸してと寄ってくる仲間を、叱責の言葉をこらえて甘えさせてやる。そうやって険悪になりそうなのを我慢して我慢して、表だけでも、その場だけでも美しい、優しい雰囲気をつくるのに努力する。それは悪ではないと、村紗は思っていた。当たり前だと思っていた。

 ただ、カワグチはそんな彼女の思索はつゆ知らず、今度はこうわめく。

 

「……道徳も倫理もない、理屈になってやしない。小学生のイジメとやってる事は一緒じゃないか」

 

 理屈。男というのは、やる事なす事にいちいちそれを照らし合わせているのだろうか。村紗が仲間たちと話すのは、もっぱらささいな好き嫌いがきっかけだった。それが楽しいのだ。口をはさまれるような事か。

 面と向かって言えば傷つくだろう。角がたつだろう。だからせめて陰口で発散して、明朗快活な顔で接しているんじゃないか。

 

 カワグチの話を聞いているうちに、村紗までモヤモヤした思いが胸中に湧きはじめた。このうえ駄弁っていても仕方がない。そう思った村紗は立ちあがり、カワグチへ手を差し出す。

 

「……ま、とにかくもう行こうよ。日が暮れちゃう」

 

 そう言って、作り笑いを浮かべる。しかし、カワグチは手を取らず、もう一つ愚痴を言った。

 

「……この前なんざ」

 

「え?」

 

「この前なんて、女子の心配したらひどい目にあったよ。聞きたいか?」

 

 顔をあげて口角をあげるカワグチ。戸惑い手を下ろす村紗に、聞きたいと言わないうちから彼は語りだす。

 

「……廊下でな、すごく気分悪そうにしてる女子がいたから、『大丈夫?』って声をかけたんだよ。そうしたら……」

 

「…………」

 

「その子、すごい嫌そうな顔して去っていっちまってよ。後からウワサで聞いたら、生理だったみたいでな。その子と友達から、しばらく白い目で見られたよ」

 

 吐き捨てるように言って、カワグチはそれこそ"すごい嫌そうな顔"をした。村紗は気の毒だと思う反面、その表情に無神経さを感じとっていた。

 誰しも、触れられたくない問題というものがある。人助けはもちろん尊いけれど、タイミングも重要だ。とくに生理など、善意から知らずに声をかけられても、他人に打ち明けたくはないだろう。不用意に踏み込まれたら嫌悪感だって湧く。これは理屈や道徳という次元じゃないのだ。嫌なものはどうしても、嫌だ。

 

 出会った時、カワグチが村紗を介抱しようとした時もそうだ。目を覚ましてすぐの村紗は、他人に自らの体を触られまいとした。しかも相手は初対面の、見知らぬ40近くのハゲた男だったのだ。見た瞬間に思わずたたいてしまった。皮膚が、感覚が、するどく反射的に拒否したのだった。

 すぐに助けてくれたのだと理解し、謝罪したが、感謝の念はさほど湧かなかった。元から幽霊なのもあるが、触れられたくない気持ちに、目的はあまり関係なかったから。

 

 直後、立ち上がろうとしたのか、カワグチが前かがみになってふるふると手を伸ばす。村紗は思わず後ずさった。理由はない。ただ、この無神経に毒を吐く酔っぱらいに、触れたくないという気持ちがあった。

 すると、カワグチはぐらりとバランスをくずし、中洲に手をつこうとする。すると、置いてあった一升瓶に腕をぶつけ、瓶に手をついた。瓶がゴロゴロと転がりだし、それにつれて、カワグチが手を滑らせ、そのまま中洲に倒れ込んだ。

 

「のわっぷ!」

 

 酒で体が重かったのか、カワグチはそのまま転がり、川に落ちてしまった。ばしゃあ、と派手な水音に続いて、手足をバタバタと無様に振り回す。

 

「た、助けてくれ! 俺は泳げないんだ、引き上げてくれ!」

 

 カワグチはとたんにあわてふためき、村紗へ助けを求める。しかし村紗は驚きのためか、その場で固まってしまっていた。くわえて――カワグチの肌に触れたくないという気持ちも、無意識にあったかもしれない。

 村紗が見つめている間にも、カワグチは川の流れにおされて少しずつ中洲から遠のいていく。ただでさえ泳げないのに酔っぱらい、水中であわれに七転八倒しながら、彼は必死の形相でさけんだ。

 

「俺が一体、どんな悪い事を……したというんだぁ! あっぷ、こんなの嫌だ、何が、いけなかっ……ヒサコ、サヤ、教えっ……ヴぁ」

 

 声はみるみる弱々しくなり、最後はうわごとのようにつぶやいて泣きながら、カワグチは沈んで流されていった。村紗はそれを、ただ呆然として見送った。

 

 彼は果たして、閻魔様から何と言われるだろうか。彼女は頭のすみっこで、そんな事を思った。

 

カワグチ マサシ――死亡



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井の中の蛙

「……あー、もう歩くの疲れたよ……」

 

 太陽が西に傾きはじめた時分、人影のない開けっぴろげの草原を歩きながら、一人の少年がため息をついた。

 ▼▼中学と書かれたブレザーを着て、大きなバッグをかかえてトボトボと歩を進める。明るい快晴の空を見上げる顔色は正反対に暗く、無造作に切った髪の下で卑屈そうな目が細められる。

 背が低く、それでいてヒョロヒョロした体つきの彼は、何を探しているのか、建物一つない一帯をまるで背中に"当てがない"と書かれた紙でも貼ったような雰囲気で一人、歩いている。

 

 彼の名は、ハセガワ シュンタ。中学三年生の、ごく普通の男子である。

 その彼が、何故このような人気(ひとけ)のない場所をうろついているかというと、それにはある理由が――もとい、"不可解な理由らしきもの"がある。

 午前の時間に、シュンタは他の同級生らと共に、修学旅行のバスに乗っていた。しかし、そのバスがとつじょ正体不明の白い霧につつまれ、彼は意識を失った。そして気がつけば、この誰もいない、何もない場所にぽつんと倒れていたのである。

 それが、どういう訳だと聞かれてもこういう訳だとしか答えようがない、災難のあらましであった。

 

「……いてて」

 

 やがて体力が尽きたのか、シュンタはその場に崩れおちる。持っているカバンを見て、彼は小さく舌打ちした。

 

「くそっ、荷物なんて持ってくるんじゃなかった」

 

 そう言ってカバンを放り、彼は足をのばして座り込む。天をあおぐと、ギラギラ光る太陽が見下ろしてくる。

 

「どうすればいいかね、こりゃ」

 

 まぶしさに顔をしかめながら、彼は一人ごちる。いまだ、この辺りがどこなのか、手がかり一つ見つからず、人っ子ひとり見当たらない。携帯は真っ先に調べたが、電波が入っていなかった。

 しかもここに来るまで、電車や車などの乗り物もなく、そもそも道路すら通っていない。舗装もされていない細道や、かろうじてかき分けられた獣道がとぎれとぎれ、目についた程度だ。

 つまりは、自身が動けなければ完全に手詰まりなのだ。せめて天気が雨や強風ではなく、晴れでよかったと思うが、しかし、だからといって何か進展があるワケではない。

 

「…………」

 

 シュンタは疲れが取れるまで、無言で流れる雲をながめていた。そうしていると、はたして現状が危険なのかも分からなくなってくる。

 現代の日常と隔絶されている。それは分かるのだが、こうしてのどかな風景を見ていると、どうしても危機感が薄れてくる。いつも勉強や部活に追われていたのがウソのようで、さりとてこれからどうすれば良いか、見当もつかない。

 要するに、彼はヒマであった。

 手持ちぶさたになり、シュンタは自分のカバンを開け、ごそごそと漁りだす。そこでノートと筆記用具が目に入り、彼の頭にある考えが浮かんだ。

 

(そうだ……どうせなら何か書いておくか)

 

 遭難のドキュメンタリーなどで、せめて記録を残そうと手記を書く人がいる。シュンタはまさか自身がその立場になるとは思わなかったが、何もしないよりはマシと、彼は地面におみやげの箱を置き、それをテーブルがわりにノートを広げて寝そべって書く体勢になる。

 

(……さて、こういうのどうやって書くんだろうか)

 

 いざ始める段階になって、彼は眉を寄せる。さすがに徒然(つれづれ)なるままに、と言ってる場合ではないが、かといって切羽詰まったような実感もいまだ湧かない。

 考え込みながら使い古しのノートをペラペラめくっていると、授業でメモした記述にまぎれ、ページの隅にちらほらと変わったものがあらわれる。

 そこには、マンガのような落書きが小さく、いくつも描かれていた。あまり上手くはないが、少年マンガ風のキャラクターの顔や体の一部が、そこかしこにある。

 

(……思えば、学校で合間合間にやってたなぁ。もう10年以上か)

 

 いつの間にか落書きをながめ、懐かしそうに笑うシュンタ。見返してみると描かれているのは、ほとんど女の子。

 それを判別できるのは、第一にキャラクターの顔のため。そして第二に……。 

 

 おっぱい、である。

 

 そう、おっぱいなのだ。

 彼の落書きには、バストアップや胸部だけを描いたものがやたら多かった。年頃のせいかもしれないが、とにかく改めてながめるとAカップからKカップまで丸みを帯びたそれがいくつも取りつかれたように描き込まれている。

 

(よし、バストアップ描こう)

 

 彼の決断は早かった。いつしか手記そっちのけで、女子(二次元)の体を描くのに注力していった。

 アゴのライン、首の細さ、頬のふくらみ、髪の質感、目のきらめき、まつ毛の並び、肩の張り、腕の肉付き、鎖骨の浮き具合、何より全体の均衡。

 

 そして、おっぱい。

 

 彼はノートにひたすらシャープペンを走らせ、描いては消し、描いては消し、気に入らなくなればページごと破り、時間を忘れて理想の出力に没頭する。

 今のシュンタの頭の中には、学校の事、クラスメイトたちの事、家族の事、自身の安否まで、さまざまな懸念がさっぱり消え失せていた。あるのは、描く情熱、胸おどる(比喩)興奮、ただそれだけである。

 

 いわゆる芸術家肌の人間は、ぞっとするほど不謹慎になる瞬間がある。シュンタも、いつだったか身内の葬儀があった時、めったに見ない死装束や喪服の姿をひそかに観察したりなどしたものだ。

 ともかく、そうして脇目もふらずに好きなものを20、30苦心して描きあげ、そろそろ夕方になるかという時分に、彼はふと、久しぶりに他人の声を聞いた。

 

「おい、何してんだ?」

 

 それは、シュンタより少し年下らしい、女の声だった。それでいてがらっぱちな声色で、口調も無遠慮である。

 シュンタはとっさにノートを閉じ、驚きながら振り返る。足をつりそうなほどに体をひねるその慌てようは、彼が周囲をまるで眼中に入れていないが故だった。

 振り返った先にいたのは、思った通り13、14ていどの少女だった。あどけなさの残る可愛らしい顔つきで、ふんわりとした金髪をのばし、やや頭身が低い。

 そして奇妙なのは、白ブラウスの上に黒のベスト、その下に黒のスカート、そして頭には黒の三角帽子という外見である。金髪も手伝ってか、一見して外国の魔女を連想してしまう。しかも、片手には洋箒まで持っているのだ。

 

 誰だろう。コスプレでもしてるんだろうか。シュンタはいぶかしみながら、その少女をボーッとながめていた。

 すると、少女はずかずかとシュンタに近寄り、見下ろしながら、ぶっきらぼうに言った。

 

「見慣れない格好だな、お前」

 

「……あなたこそ」

 

 少女のぶしつけないい様に、シュンタはムッとする。それを見て少女はハハハと笑い、しゃがんで話しかけた。

 

「悪い悪い。お前、外来人だろ? じゃあ何も知らないのも無理ないや」

 

「……外来、人……とは?」

 

「んーとな、話すと長いんだが……とにかく、今は日が暮れちゃいそうだし、いったん」

 

 少女は何やらつぶやきながら、辺りをキョロキョロと見回す。シュンタはそれを不審げにうかがいつつ、そっと体を起こそうとする。

 すると、手元からノートがスッと離れ、続けてぶわっと風が吹き、ノートのページをばさばさとめくる。シュンタはそれを見てわっと声を発し、少女もつられて振り向いた。

 直後、少女の目に飛び込んだのは、先ほどまでシュンタが描いていた落書きの数々。ページが終盤になると勉強に使っていたスペースはなくなり、余白いっぱいに着物のはだけた女性やら、ビキニを着た女性やら、裸ワイシャツの女性やらが何人も所狭しと描かれている。

 

「おぉ、何だこりゃ」

 

「わっ、わ、わーーっ!!」

 

 少女は興味ありげにそれを拾いあげ、パラパラとめくる。シュンタは真っ赤になってそれを取り上げた。

 

「な、なに勝手に見てるんですか! せめて一言あっても……」

 

「なんだよケチくせぇな。さっきのはアレか? 春画ってやつか」

 

「しゅん……いやそんなものじゃなくて、とにかく何でもないんです! 忘れてください!!」

 

「そう怒るなよ、気になっただけだって」

 

 早口に怒鳴ってそっぽをむくシュンタへ、少女はけらけらと笑う。そして怒る相手などなんでもないという風に、彼女は箒を持ちなおし、シュンタへ言った。

 

「とにかくさ、暗くなったら危ないから、私の家に来いよ」

 

「…………」

 

「さっきの詫びもかねて、色々教えてやるからさ。機嫌なおせって」

 

 シュンタはしばらくすねたように荷物を詰め直していたが、やがて少女の気さくな口調にほだされ、バッグをかついでトボトボと歩み寄る。

 目が合った少女は、はにかみながらこう言った。

 

「私は、魔理沙(まりさ)。普通の魔法使い、霧雨 魔理沙だ。よろしくな」

 

――

 

「……という事は、僕はその幻想郷ってのに迷い込んだって事ですか?」

 

「そうさ。シュンタだっけ? お前だけじゃなくて、多分バスに乗ってた全員がそうだと思うぜ」

 

 ……それから10分ほど後、魔理沙と名乗った少女とシュンタは二人で()()()()()()()()()()()()()()()()。シュンタは時々したを向いてそわそわしていたが、魔理沙は慣れた様子で、それこそ魔法使いよろしく箒を乗りこなしている。

 その箒の上で、魔理沙は色々と事情を話してくれた。

 

 いわく、シュンタのいる場所は幻想郷といい、日本と隔絶され、そのうえ神や妖怪が跋扈する冗談みたいな異境だという。

 にわかには信じがたい話であったが、現に空を飛びながら話されてはウソとも言い切れない。

 シュンタが言葉も見つからず黙っていると、魔理沙はちょいと振り向き、頼もしげに笑った。

 

「ま、心配するなよ。私が知り合いに頼んで、ちゃんと帰らせてやるからさ」

 

「! 本当ですか!?」

 

「おうともよ。それはそれとして……」

 

 魔理沙は笑って答えた後、シュンタがつかまっている腰のあたりをチラリと見て。

 

「お前、もっとしっかり掴まれよ。落ちたら死ぬぞ」

 

「え? いやでも……」

 

「でもも何もない。死んだらお前の描いてた裸の女の絵を全部、幻想郷中にばらまくぞ」

 

「いっ!? そそそれは勘弁して!!」

 

 魔理沙がにやにや笑って脅迫すると、シュンタはあわてて腰にしがみつく。体を密着させると、とたんに肢体がぎくしゃくと固くなった。彼は自分の、異性への緊張しやすさ、しまりの無さ、間の悪さなどに辟易する。性の匂いただよう落書きをいくつもしておきながら、中身はいまだ未熟ないち少年である。

 そんな彼の煩悶を知ってか知らずか、魔理沙は前を向いたまま、こんな言葉をかける。

 

「しっかし、お前も大変だよなぁ」

 

「え?」

 

「え、じゃなくて。唐突に知らない世界に放り込まれて、驚いただろ?」

 

「ああ……そりゃまあ」

 

 ドギマギしていたせいか、シュンタは生返事をかえす。そうしてごまかしの為か、軽い調子で言った。

 

「帰る方法があるなら、結果オーライですよ。クラスの他の奴らなんて、もっと大変でしょう」

 

「変に殊勝なやっちゃなあ。あんまり甘い見通しされても困るんだが」

 

「そんなんじゃありませんよ。……自分が大変だなんて、めったに言えないんです」

 

 言いながら、シュンタはふっと顔をくもらせ、こっそり目を伏せた。そして、「両親がいつもうるさいんですよ。じーちゃんばーちゃんを介護してた時期なんて、そりゃあもう……」と半分ひとりごとのようにつぶやいて、途中でとぎれさせ、押し黙った。

 ため息を、一つ。

 

 ――シュンタの親は、よく「忙しい」と口にしていた。遊んでと頼んでも、一緒に出かけたいと頼んでも、返事はたいていそれだった。いや、少なくともそんな印象を抱く程度には、よく言っていたのだ。

 実際、世相もあって仕事はしんどかっただろう。だが、半分は性格だ。シュンタが大きくなってからも、謝罪も埋め合わせもなく、せせこましい日々を送っている。

 いつも疲れた、無愛想な顔をしている。そんな両親のもとで、シュンタは趣味にのめり込んでいった。上手くもないイラストを何枚も、両親から隠れるようにして何枚も描いた。それが毎日のなぐさめだったが、一方で自分だけが嫌な事から逃げているようで、小さい頃からずっと負い目があった。

 

「着いたぜ」

 

 

「!」

 

 一人で思い出にふけっていたシュンタは、魔理沙の声で我にかえった。思わず眼下を見ると、広く深い森の中に、切り煙突つきの家と庭が切り取られるようにしてポツンとあるのが目に入った。

 ほどなくして箒はスゥーッと下に降り、その庭先に着地した。魔理沙が振り返って言う。

 

「待たせたな。私の家だ。キレイじゃないが、ま、一晩」

 

「あ……ありがとう、ございます」

 

 たどたどしくお礼を言い、シュンタは魔理沙と共に箒から降りる。そして目の前に建つ、奇妙な一軒家をながめた。

 一階だての、部屋数の少なそうな小さな家。材質は木と石がおもで、所々に穴やヒビがあり、ツタやシダなどの植物が侵食している。家の一部が大木によりかかるようにして融合し、その古めかしさ、不気味さに拍車をかけていた。

 まさに魔法使いの家だな、などとシュンタが夕闇に浮かぶその家をぼんやり眺めていると、不意に、鼻先にビリビリとしびれるような感覚が襲った。

 

「うっ……!?」

 

 彼は驚いて鼻を押さえたが、何かついているワケではない。とすると、このしびれは臭いのせいとなるのだが、ワサビとも違う痛みをともなうその感覚は、並大抵のものではない。

 シュンタは焦って辺りを見回す。すると、森のあちこちにシイタケ、ブナシメジ、舞茸などが何倍にも巨大化したような不思議なキノコたちがしげっている。中には赤と白のマーブル柄の、いかにもな巨大毒キノコまである。

 幻想郷の森は、空気まで違うのか。知らず知らずに涙まで流しながら、シュンタは思った。

 

「おーい、何してんだ? 早く来いよ」

 

 気づくと、魔理沙が家の入り口に立って呼んでいる。シュンタは異常な空気から逃れるように、大急ぎで彼女のもとへと走った。

 

――

 

「うおぉ……すごい生活感」

 

「変に気をつかった言い方するなよ……。物が多すぎるのが悪いんだ」

 

 うめくように声をあげたシュンタに、魔理沙は苦笑いを浮かべる。原因は、家の中のそのありさまだ。あらかじめ「キレイじゃない」とは言っていたが、その10畳ほどの狭い空間の散らかりようは、想像以上だった。

 まず目につくのは、書物だ。魔法とやらやに関するものなのか、分厚い本が机の上、床、果てはベッドの上にまでうず高く積まれている。雰囲気からして古い洋書のようだが、こんな姿だと年季も貫禄もありはしない。

 次に乱雑さ。先ほどの本もそうだが、とにかく物の置き方が謎、もとい規則性がない。枕元によく分からない透明な牙があるかと思えば、炊飯器の上に靴下が置かれ、机の上にはさまざまなキノコらしきものが並んでいる。

 しかもそのキノコに関しては、ペトリ皿に破片が置かれたり、ビーカー内に半ヘドロ状になっていたり、また向かいの壁に貼りついてシミをつくっていたりと、ずさんながら研究している形跡がみられた。

 

「どしたんだよ、ボケっとして」

 

 立ったままキョロキョロしていたシュンタに、魔理沙が声をかける。シュンタはあわてて振り向き、こう言い繕った。

 

「ああいえ、研究家っぽい部屋だなぁ……なんて」

 

「よせやい。独り暮らしだから、他にやる事がねえんだよ」

 

 魔理沙はおざなりに言って帽子を脱ぐと、ベッド脇にぼすんと腰かけた。開いた脚から下着が見えるが気にせず、彼女は指をさす。

 

「私はベッドに寝るから、お前は床のそのスペースに寝てくれよ。掛け布団は貸してやる」

 

「普通、客人にベッドすすめませんか……?」

 

「文句いうなよ。寝泊まりできるだけでもラッキーなんだぜ?」

 

 魔理沙はそう言って掛け布団を投げてよこし、自分は本をよけながら部屋のすみへ歩いていく。見ると煙突つきのかまどがあり、そこに火を入れはじめた。夕飯の支度だろうか。

 

「手伝いましょうか?」

 

「いやー、別にいいー」

 

 魔理沙は火起こしと目の前の鍋にかかりきりで、シュンタには目もくれない。ほったらかしにされたシュンタは手持ちぶさたになり、またカバンからノートを取り出し、落書きをはじめた。

 やがて、鍋からグツグツと何かが煮られる音と、コンソメの香りが立ち上ぼりはじめる。それを感じたシュンタが手を止めると、ちょうど魔理沙が振り向き、言った。

 

「お前も熱心だな。絵ってのはそんなに良いもんか」

 

「ええ、まあ僕にとっては」

 

「誰かに見せたりはするのか? つっても、そのスケベな絵じゃ無理か」

 

「……あー、それは……」

 

 魔理沙はからかうように笑ったが、シュンタは苦笑いし、目を伏せてしまう。頭に浮かんだのは、現代での、インターネットの存在。

 シュンタの時代なら、その気になれば誰でもイラストを全世界に公開できる。それこそわざわざ探すまでもなく、性的な満足度も、そして実力も、シュンタには到底およばない者たちが無数にいるのだ。

 シュンタは描きかけのノートをちらと見て、苦笑したまま答えた。

 

「いやぁ、実は僕らの時代は今、エッチすぎる絵を大っぴらにしたらうるさく言われるんで、他人に見せるのはとんと……」

 

「本当かぁ? 何かウソくせーな」

 

「うっ」

 

 魔理沙がニヤニヤと疑いの目を向けてくる。ふざけた調子だが、目はまっすぐだった。おそらく本気になった経験があるからこその、確信。

 実際、シュンタの言う事はウソではない。しかし、絵を公開しない理由にはほぼ関係なかった。

 シュンタも常日頃、学校でクラスメイトに隠れながら(女子には特に)おっぱいやら太ももやらおっぱいやら描いている身だ。彼なりにマナーはわきまえている。

 ただ、他人に見せず内にこもるのは、単に彼が臆病だからに過ぎない。彼とて自分の絵は愛している。不出来ならばかえって消してしまうくらいに愛している。しかし、だからこそ怖いのだ。他人が示しうる無関心さと社交辞令、あるいは偏狭さと口汚さが、どんなものか。

 

 自分で言ったごまかしにシュンタはくもった表情でいたが、ふと顔をあげると、魔理沙は何て事ない顔をして鍋に向き直っていた。おたまでスープをかき混ぜながら、「おーうまそー」などと笑っている。

 それを見て、彼は不満げに口をとがらせた。他人に見せるのは二の足を踏むが、それはそれとして歓心を買えないと物足りない。面倒な芸術家肌のサガである。

 「いや、でも描くだけでも大変なんですよ」、シュンタは思わずそう言いそうになった。評価されたいという気持ちが先走ると、つい"苦労"を売り込もうとしてしまう。やれ機材が買えないだ、やれ時間がないだ、そう言い訳して自尊心をごまかそうとするのを、彼はすんでのところでこらえていた。子供ながらにあんまりみじめで、恥ずかしい。

 

「よし、出来たぜ」

 

 彼が煩悶していると、魔理沙が折り畳み式のテーブルを持ってきて、部屋の中央にドンと置いた。気づいたシュンタはとっさにノートを脇に置き、魔理沙は鍋からよそったスープを二皿もってくる。玉ねぎ、キャベツ、キノコなどが入ったそれを一つ差し出し、魔理沙は笑った。

 

「悪ぃな、温めなおしたヤツしかなくてよ」

 

「そんな、十分ありがたいですよ」

 

 「いただきます」と一言口にして、スプーンを取る。キノコのせいか独特な風味のあるスープを味わっていると、魔理沙が話しかける。

 

「うまいか?」

 

「ええ。なんか不思議な味ですが」

 

「よかったぁ、普段から自分の分しかつくらないからよ」

 

「そういえば、さっきも独り暮らしだっておっしゃっていましたね」

 

 先ほどの会話を思い出し、シュンタは何の気なしにそう言った。魔理沙はスプーンを止め、両手を床について伸びをする。

 

「ああ、ちょっと実家と色々あってな。こんな森の中で気ままに過ごしてるのさ」

 

「そう……だったんですか」

 

 魔理沙の笑顔がさびしそうなそれに変わる。悪い事を聞いたかとシュンタが気まずそうにしていと、そのせいか魔理沙は話題を変える。

 

「そのおかげで、とんでもない魔法も開発し放題だぜ。家じゃ危なっかしくて出来やしない」

 

「魔法の、開発?」

 

「そ。あすこにいじくったキノコがあるだろ? あれからたまーに花火みたいな反応が出るんだ」

 

 魔理沙は机上のペトリ皿やビーカーに入ったキノコを指さす。

 

(あらためて見ると……あんなのから魔法なんて出来るのかな?)

 

 その素人の菌糸の研究みたいな見た目に、シュンタはつい眉をひそめた。そして、軽く聞いて見る。

 

「そういえば、魔理沙さんの魔法ってどんなのなんです? さっきの、空を飛ぶ以外にもあるんですか?」

 

「ああもちろん。むしろ派手な攻撃魔法が本領だぜ。見せてやろうか」

 

 魔理沙はそう答えると、食事中にも関わらず立ちあがり、スカートの中から何かを取り出した。その手のひらに収まる、六角形の金色の物体をかかげ、彼女は自慢げに言った。

 

「こいつは"八卦炉"といってな、こいつが無いとはじまらねえ。まあ見てろ」

 

 そして席から離れて窓をあけ、外に向かってその八卦炉をつき出す。シュンタが遠慮がちに脇からのぞくと、直後に炉から、まばゆい光がはしった。

 

「うわっ!?」

 

 シュンタは思わず顔をかばう。炉から一瞬にして光の矢のようなものが放たれ、暗くなった森の中に消えていった。光がかすめた木がへし折れ、動物たちが一目散に逃げ出す。反動で部屋の中に風が巻き起こり、窓がガタガタと揺れる。窓から吹き込んだ風に乗って、星屑のような光がまたたいて軌跡をつくる。

 魔理沙は平然と窓を閉め、絶句しているシュンタに言った。

 

「へへ、どうだ? 今のが本気の100分の1って所だな」

 

「…………」

 

「周りからは雑だのなんだの言われるが……ちょいとしたもんだろ。あちち」

 

 煙を吹いている炉をスカートの中にしまい、魔理沙は食事の席にもどる。ところがシュンタはその場に立ち尽くし、呆然としている。その表情は、見惚れていたそれにも見えた。

 

「何してんだよ、スープ冷めるぞ?」

 

 魔理沙が話しかけると、シュンタはボソリとこんな事を言った。

 

「……魔理沙さん。さっきの魔法、何年くらいで覚えたんですか?」

 

「あん?」

 

 唐突な質問に魔理沙は首をかしげたが、数秒考えて答える。

 

「んー……3、4年かな……。どうしたんだよ」

 

「……そんな短期間で……あんな技術を」

 

 魔理沙の言葉に、シュンタは何やら悩ましげにつぶやく。魔理沙は顔色をいぶかしんでか、立ち上がって取り繕うように言った。

 

「いや、別に大したもんじゃないぜ。その気になれば大抵……」

 

「あんなのが大したもんじゃないワケ、ないじゃないですか!」

 

 魔理沙の言葉をさえぎり、シュンタはとつじょ大声を発した。驚く魔理沙であったが、彼の目はどうやら、真剣である。

 魔理沙の見せた魔法。光きらめく幻想的なそれが、シュンタには見た事のないほど美しいものに見えた。事実、現代においてはありえない、科学には及びつかぬもの。

 幻想郷においては別に抜きん出たものではない、普通の魔法だったのだが、シュンタは到底おいつけない域にあるものだと決めつけた。直感が判断したのである。

 

 彼は魔理沙をジッと見つめる。自分より背の低い、年下であろう少女。その少女がたった3、4年であれだけのものを扱う。そう思うと、シュンタの内心にふつふつと醜い感情が芽生えた。

 嫉妬、である。

 

「……そんな見た目で、まるで人外ですね。すげぇや、真似できない」

 

「はぁ?」

 

「僕なんかと、大違いだ……」

 

 戸惑っている魔理沙をよそに、シュンタは床に置いた自分のノートを見る。つい先ほどまで描いていた、ある意味げんざいの自己ベストが記されたノート。その消し跡や迷い線が残っているありさまを思い出し、彼は猛烈な恥ずかしさを覚えた。

 魔理沙の実力は、仮にイラストの世界にたとえるなら、ネットで世界を股にかけて活躍するレベルだろう(と、シュンタは思っていた)。目の前の少女と自分が、まるでワニとトカゲのような別次元の存在に思えて、シュンタはいっそ消え入りたい気分だった。何も知らず、絵を熱心に魔理沙の目の前で描いていたのを、憎々しいとすら思った。

 

「おーい、シュンタ? 大丈夫か?」

 

 心配そうに魔理沙が肩をゆする。シュンタはその手を振り払い、テーブルを迂回して、玄関の扉に飛びついた。

 

「……夜風に、あたってきます」

 

「は……? おい!」

 

 魔理沙は止めようとしたが、それより早くシュンタは外へ飛び出した。日が沈んで冷たくなった風が、ひゅうと吹き込む。

 

「おいコラ、どこに行く!?」

 

 魔理沙が後を追いかけて叫んだが、シュンタの姿はあっというまに森の中の闇に消えていった。魔理沙の家から遠のけば明かりはなく、モノクロ写真を墨で覆ったような景色が、どこまでも続く。

 

「くそっ……!」

 

 魔理沙は舌打ちまじりに、一目散にシュンタが去った方角へ走り出した。同時に、周囲の森が一般人にとってどれだけ危険か、教えていなかった事を後悔した。

 ……この森は『魔法の森』と呼ばれ、いたる所に生えた奇怪なキノコたちが特殊な胞子を放っており、吸えばたちどころに体を冒され、最悪、死んでしまうのだ。

 

――

 

 ……一方、シュンタは一寸先も見えない藪の中を、何も考えずがむしゃらに走り続けていた。

 

(……くそ、くそ、くそっ!!)

 

 内心でしきりに毒を吐いた。他の誰でもない、自分に対してだ。

 魔理沙が魔法を見せ、飾り気なく笑ってみせた時に覚えた、嫉妬の感情。それと同時に、彼の中では無数の言い訳が浮かび上がり、あふれ出ようとしていた。

 勉強で絵ばかり描いていられない。親がいい顔をしない。家族が毎日ストレスをかけてくる。現代社会のストレスが、君に分かるか……と。

 魔理沙は自慢など、ましてやシュンタをさげすんだりなど、しなかった。なのに聞かれてもいない言い訳をして、見栄を張る事ばかり考えて。

 自分の幼稚さ、卑小さに吐き気がした。やりきれなかった。

 

 シュンタはふと、両親以外の家族の顔を思い浮かべた。小学生の、たった一人の弟。

 

『時代はデジタルだよ、兄ちゃん!』

 

 そう言って無邪気に笑っていた顔が忘れられない。年下だけあって、ネットへの馴染みも早かった。

 思えばその時も、シュンタは「まあ、そのうちにな」と言ったきりだった。それからも弟は、シュンタがセーラー服を描いていようが、スポーツウェアを描いていようが、全裸を描いていようが、楽しそうに見守り、からかってきた。

 

 あの時に、広く公開してやろうと割り切ればよかったのかも知れない。弟のように観賞する者たちの、あるいは魔理沙のような傑物に出会う機会の、数が、規模が増えるだけの話だ。

 元をたどれば、これも臆病だからだ。勇気がないのだ。実力不足を再確認し、新たに感動するのを恐れなければ、いくらでも殻を破れただろうに。

 

 かくして、今の実態はどうだ。幼少から描いてきた絵を愛していると言いながら、胸の内に抱えるのは嫉妬だの、羨望だの、言い訳だの、おっぱいだの、色欲だの、羞恥だの、劣等感だの、恐怖だの、不信だの、逃避だの、甘えだの、自家撞着だの、怠惰だの、プライドだの、おっぱいだの、ああいけない。

 シュンタはひたすらに走りながら、自らの頭を粉々にしてやりたい衝動にかられた。不意に、激しく交換していた息がかすれた音とともに止まる。

 

「っ!?」

 

 勢いそのままに、どうと倒れ込む。胸が焼けつくような感覚をおぼえながら、シュンタは鈍く身をよじり、血を吐いてもだえた。背中一面の冷や汗で、シャツがはりつく。

 何が起こったのだ。そう焦りながら、彼は目をむいて眼球だけを動かして前を見た。もうろうとしていく意識の中で、彼は視界いっぱいに広がる紫色の蝶を見た。

 

「……あ、いやがった!」

 

 眠るように倒れていたシュンタを魔理沙が見つけたのは、それから10分ほど経ってからであった。

 

――

 

「……霊夢、努力ってのはつくづく、恐ろしいもんだな」

 

 ある別な日、魔理沙は親友の巫女、霊夢が暮らす神社の縁側で、二人ならんで茶を呑んでいた。

 霊夢が茶をすするのを止め、目線をよこす。魔理沙は目を合わせず、うつむいたまま一人で語りだした。

 

「努力ってのはな、回数をこなすだけじゃダメなんだよ。自分がどう未熟で、どう成熟したいか、それをしっかり分かってなきゃいけない。そこからは理想との戦いだ。上手くいかない事ばっかりで、上達しても誉められないかも分からん。貶されるかも分からん。聖人になっていくワケでもない。それでも、自分の意志で進んでいかなきゃいけない。逆に成果をあげても、止まれと言われても止まる事はできない。身を切るようなツラさだぜ、これは。お前はあまり、覚えがないだろうが」

 

 独り言のようなセリフを、霊夢は黙って聞いていた。ようやく口を閉じ、それから後味悪そうにため息をつく魔理沙へ、霊夢はたずねる。

 

「ひょっとして、まだ気に病んでるの? 彼の事」

 

「……まぁ、ちょっとは」

 

 魔理沙が仕方なしに笑うと、霊夢は遠くを見ながら言った。

 

「もう忘れなさいよ。勝手に飛び出したその子がバカなんだから」

 

「つってもなぁ。せめてもっと早く見つけてたら……」

 

「気にしてもしゃーないって」

 

 未練がましく唇をかむ魔理沙へ、霊夢は少しだけ強い口調で言い放った。そして、自らも後味悪そうに、またそれを振り切るように、乱暴に言った。

 

「……生きて帰れただけマシよ。それで話は終わり」

 

――

 

 ……それから数年間、現代のある病院にシュンタは入院していた。

 修学旅行の途中で行方不明になっていた間に、なんらかの幻覚作用のある物質を吸引したらしく、幻覚、妄想、記憶障がいなどの症状が出ているという。

 しかも医学的に調べてもハッキリした原因が分からず、何年も病院に収容され続けていた。

 

 朝から晩までボンヤリとし、会話もせず、言葉を発したかと思えば要領を得ない独り言や空笑ばかり。

 それでも、家族にくわえ、同じく行方不明になって生還した同級生たちが、何度も面会に来ていた。ただ、家族は何があったのかを何度もたずねたのに対し、同級生らはそれに不気味なほど触れなかったのが対照的だった。

 

 いずれにしろ、シュンタの症状は回復せず、具体的な経緯はつかめなかった。だがある日、一人の女子生徒が面会に来た時に、珍しくシュンタが、こうしゃべりかけた。

 

「……君も、大変だね」

 

「えっ」

 

 すでに高校の制服に身を包んでいた女子は、ハッと顔を上げた。シュンタは微笑しながら、平坦な声色で、しかし優しく言う。

 

「僕は今、とっても気楽だよ。辛くない。大変じゃない。何もない。分かるでしょ?」

 

「う……うん」

 

 もしや学校の事を言っているのだろうか。その女子にとっては、すでにシュンタが世捨て人のように見えていた。

 すると、シュンタの目線がふと、やや下に向く。女子が眉をひそめると、彼はつぶやいた。

 

「……でも、何か大切な事を忘れた気がする。とても大事な……」

 

「……えぇ、どこ見てんの?」

 

 シュンタの目は何故か、女子の胸元をずっと見つめていたという。

 

ハセガワ シュンタ――生存



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一輪の花

「あ、懐かしい」

 

 アンパンがモチーフのヒーローが描かれた絵本を見つけて、少女が声をあげた。

 今から一年前、まだ中学二年だったサタケ メグミは、古い教科書や玩具などがしまわれた狭い一室を掃除していた。部屋主であった兄が大学生となり一人暮らしをはじめて以来、その部屋は物置と化していた。

 

『兄さんも片付けてから引っ越せばよかったのに』

 

『悪かったよ』

 

 当時たまの里帰りをしていた兄。彼が絵本を一目みて、妙に得意げな顔をしだしたのを、メグミはよく覚えている。

 

『なぁ、こんな話しってるか? そのヒーローって、元はパンを配るただのオッサンだったんだ』

 

『ん?』

 

『小さな力で世の中を変えようと頑張る……。俺もこうなりたいもんだなぁ』

 

『…………』

 

 だんだんうっとりとしだす兄。それを見たメグミが表情をくもらせた矢先、兄は媚びるような笑顔になって言った。

 

『というワケでメグミ。この○○団体のパンフレット、一回読んでみないか?  よかったら父さんと母さんにも……』

 

『イヤ』

 

 兄が訪問販売のような手つきで取り出したパンフレットを、メグミは瞬時に払いのけた。一人暮らしをはじめて以来、兄がうさんくさい社会団体と付き合っているのを、彼女は知っていた。

 あはは、と冗談めかしながら、それでも悲しげな表情でパンフレットを拾う兄を見ながら、メグミはばつが悪そうにしつつ、内心でつぶやいた。

 

(……お花畑)

 

――

 

「……ここは……」

 

 お花畑、である。

 

 あれから一年。中学三年となったメグミは、修学旅行に参加したさい、移動のバスの中で奇怪な事故に巻き込まれた。

 バスが何の前触れもなく白い霧に包まれ、気づくと彼女はクラスメイトらと離れ、一人で見知らぬ場所にいたのだ。

 建物の影一つない景色、舗装もされていない道路、標識もない道のり、人っ子一人いない一帯。それらをメグミは何度も夢だと疑ったが、朝になるたびに現実を思い知った。

 

 かくして、3日ほどさまよい歩いた彼女は、この深夜の暗闇のもと、静まり返った鈴蘭畑に倒れた。白い鈴のような花がふわりと揺れ、小さな人魂のように視界を惑わせる。

 

(もう……疲れたなぁ……)

 

 ごろりとあお向けになり、星空へと目を向ける。街灯もない、星の光がそのまま降り注いでくるような満天の空。それは美しかったが、一人で黙って見つめていると、どこかに取り残されたようで心細くなってくる。

 きゅるる、と体が空腹をうったえる。持ち歩いていた修学旅行のバッグに目をやったが、めぼしい物はもう入っていない。お土産や自分用のお菓子、飲み水、ポケットティッシュなどは使いきり、今はいっているのは着古した下着や制服くらいだった。今着ているジャージもところどころ刷り切れ、土がついている。バッサリとショートにした髪が、これほどありがたく感じるとは思わなかった。

 野暮ったい格好のメグミは、わびしさに強く唇をかんだ。お腹がすいて力が出ないという状態を文字通りに体験したのは、初めてだった。

 その時。

 

 バサッ、と上空で鳥の羽ばたきのような音が響き渡る。メグミが驚いて身をひそめると、視界のすみを大きな影が飛来した。目で後を追うと、それは巨大な鳥の翼を持っていた。翼を広げると横幅は1メートルをゆうに超え、一見すると大鷲のように見える。

 しかし、実態はそれよりはるかに恐ろしげだった。なにせそれがケヅメで運んでいる獲物、手足を二本ずつ持つそれはまぎれもない、人間の死体だったのだ。

 

「…………!」

 

 メグミはジッと息をひそめる。実は、彼女はそのような奇妙な生物を、この3日間に何度も目にしていた。そして時には、人間を食べている現場に出くわした事もあるのだ。

 ただの獣とは違う、凶暴な目をしたそれら。食べていた人間の何人かは、メグミの見知ったブレザーの制服を着ていた。そう、あの修学旅行のバスに乗っていたはずの、同級生たちだ。

 メグミは鳥の気配が消えると、鈴蘭畑をはい回って逃げ出した。何が何だか分からないが、自分がいつ殺されてもおかしくないのが分かる。ここまで逃げ回ってきたのだ。せめて明日の朝を迎えたい。

 先ほどまでの感傷や空腹はどこへやら、やみくもに前へ、前へと進んでいく。すると、鈴蘭をかき分けた先に、彼女は変わったものを見つけた。

 

「……あれ?」

 

 鈴蘭畑を囲むようにそびえる小さな山々。そのふもとの一角に、小さな洞窟があった。わずかに月光を反射する茂みをくりぬいたように、ぽっかりと黒い穴が空いている。

 しかもさらに目をこらすと、その中にはいくつかの物品が置かれていた。椅子、机、布団……。遠くからだが、人が住んでいる雰囲気が察せられた。

 しかし、一体何が? 思いがけず見つけた人間の気配に、メグミはかえって警戒した。あんな洞窟で住む者なんて、よくてホームレスか、犯罪者か……もしかしたら、あれも人間を食う存在の住みかかもしれない。

 近づかないでおこうか。いったんはそう思うが、そこで忘れかけた空腹がよみがえる。腹が痛いほどに収縮し、骨までしみるようだ。

 

「うぅ……」

 

 ひとしきり顔をゆがめ、荷物を置き去りにして洞窟へと近づく。身軽な状態となり、食べ物でもあれば持ち出して、逃げてしまおう。盗みになってしまうが、こちらも命がけなのだと、彼女は自分に言い聞かせた。

 3メートル、2メートル、腹ばいのまま、慎重に距離をつめていく。そして鈴蘭に隠れられる限界まで来た時、彼女は洞窟へと一気に飛び出した。

 手のひらにつく感触が、柔らかい草からゴツゴツした岩のそれに変わる。冷たく湿って、寒々とした洞窟に潜り込むと、メグミは腰を落としたまま辺りをうかがった。

 外に輪をかけて暗かったが、それでも空気をかぐだけで分かる事はある。まず、意外とホコリっぽくはなかった。人が少なくとも最近まで出入りしていた証拠である。

 そして、かすかに見える家具をよけながら奥へ進むが、人影がなかった。今は誰もいないのだろうか? メグミは慎重に目と耳を研ぎ澄ませる。人でなくとも、野生動物など潜り込んでいれば一大事だ。

 

 と、その時。彼女はベッドの隅に、あるものを見つけた。布団をかぶってこちらに背を向けている。小さな小さな女の子、一瞬人だと疑ったが、よく見るとそれは人形だった。子供だと一抱えもありそうな、金髪の洋人形。

 こんな場所に人形? とメグミはいぶかしんだが、直後に彼女はもっと気になるものを見つけた。ベッドの脇に置かれた、小さな包み。そばに寄るとそれは大きな葉でくるまれ、糸で結ばれている。

 

 メグミはそれを見て、ごくりと喉を鳴らした。葉で包んだそれの中身を、食べ物だと直感したのだ。昔は、おにぎりを笹の葉に包んだりしたというではないか。

 本能に突き動かされ、彼女は糸をほどく。すると葉の中にあったものが姿を現した。それはおにぎりではなく、なにか黒々とした、奇妙なものだった。

 メグミはそれを見てつい手を止める。葉の上を転がった物体が、ニチャッ、とねばっこい音を立て、プルプルと震えた。暗い手元で、かすかに点々と光るものがある。それは物体からしたたった液体のようだった。

 肉感的な感触と、したたる液体。それを見てメグミはやっと理解した。これは焼いた肉の切り身。出てきた液体は、脂だ。

 

 反射的に三切れほどつかみ、かぶりつく。咀嚼すると柔らかい食感と、それからひりつくような苦味が口いっぱいに広がったが、かまわず呑み込んだ。3日間も引きずった空腹を前に、細かい心配などしていられない。

 が、直後。彼女はその判断を後悔する事になる。

 

「ぐうぅっ!!?」

 

 突如、メグミを激しい腹痛が襲った。食あたりなどという生やさしいものではない。胃をえぐるように重く鈍い、それでいて刺すような痛みが立て続けにうずく。

 姿勢を保っていられず、メグミは地べたに倒れ込んだ。それでも痛みは引かず、みるみるうちに胸、腰、手足と全身に回っていく。指先がしびれ、喉に不快な熱がせりあがってくる。

 

「うええぇぇっ!!」

 

 耐えきれずに、メグミは食べたばかりの肉をもどしてしまう。虚脱感が襲い、意識がもうろうとしてくる。

 

(だ、誰か……助けて……)

 

 視界がかすむ中で、彼女はか細い息をしながら手を伸ばす。すると目の前に、いつからいたのか小さな子供の影があった。

 それはおぼろげにしか見えないが金髪で、人形のような大きさだった。あの、ベッドに寝ていた人形に似ていた。

 

(…………)

 

 目の前のその存在が何なのか。メグミは途切れそうな意識の中で考えようとしたがあえなく限界となり、深い闇の中へと気を失ってしまった。

 

――

 

「う……ん」

 

 うめきながらメグミが目を開けると、周りは明るかった。何度かまばたきをすると、横から差し込む光でグラデーション状に暗くなっていく、岩の天井が目に入る。

 鈍い意識の中で、彼女は記憶をたどった。夜に家具の並べられた洞窟へ入り、そこで見つけたよく分からない肉を食べて、それで……。

 

「あ、起きた?」

 

 突然の声に、メグミは驚いてはね起きた。見ると、足元にちょこんと、小さな人形が立っている。金髪で、黒のブラウスと赤のロングスカートをはいた女の子の人形。それには見覚えがあった。ベッドに置いてあったものだ。

 いつの間にこんな風に立たされていたのだろう。さっきの声の主がやったのだろうか? メグミは誰かいないかと辺りをキョロキョロ見回した。

 すると、さっきの声が、やや不機嫌そうになってもう一度。

 

「ちょっと、無視しないでよ」

 

「……え?」

 

 メグミは、おそるおそる声の場所へと向き直る。そこにあるのは、まぎれもなく人形。それが腰に手を当て、頬をふくらませながらメグミを見上げているのだ。

 信じられず、無言でまばたきを繰り返す。それを見た人形は、あきれたようにため息をつき、メグミの手元へと歩み寄る。

 

「ボケッとしないでよね。人の家に勝手に上がり込んだと思ったら、寝ちゃって」

 

「あ、ああ……」

 

 口をポカンと開けて、生返事をする。人形が意思を持ってしゃべっている。それがにわかに信じられなかった。

 人形はそんなメグミを見つめ、ぶっきらぼうにたずねる。

 

「アンタ、名前は?」

 

「あ……メグミ。サタケ メグミ。……あなたは?」

 

「私はメディスン・メランコリー。人形よ」

 

「へ、へぇ……」

 

 人形、と確かにそう言った。メディスンと名乗る彼女をメグミはしばらくポカンとして見つめていたが、メディスンはあらためて言った。

 

「で、どういう了見なのよ。勝手に入って、しかも食べ物まで盗み食いするなんて」

 

 メディスンは地面に落ちた大きな葉を拾い上げた。メグミがほどいた、肉を入れていた葉だ。

 あの肉を食べ、全身を痛みにさいなまれた時の事を思い出すと、メグミの頭が激しくうずく。額を押さえながら、彼女はこう聞き返した。

 

「ねぇ……メディスンちゃん」

 

「ん?」

 

「私……どのくらい寝てた?」

 

 メディスンはやれやれといった調子で首をかしげ、答える。

 

「一晩だけ。で、これで最後よ。どうして勝手に入ったの?」

 

「ああ、それは……」

 

 あの食べた直後の激痛は何なのだろう。メグミはずっとそれが気にかかったが、とりあえず考えないようにしてメディスンに昨日のいきさつを話した。

 突然、見知らぬ場所に一人でいた事。3日間さまよっていた事、その間に同級生が食われるのを何度も見た事、そして飢え死にするかと思ってこの洞窟に忍び込み、肉を食べて倒れた事。

 それらを聞き終えると、メディスンは神妙な顔になり、「意外と苦労したのね」とつぶやいた。その言葉に、メグミが切羽詰まって言いつのる。

 

「ねぇ、この変な世界は何なの? 街はないし、人は食われるし、でも日本語は通じるしで、こんな場所はじめてよ」

 

「あー……それね」

 

 メディスンはばつが悪そうに目をおよがせ、信じられないような事を語りだした。

 いわく、この世界は幻想郷といい、現代にはいない神や妖怪がひしめいているのだという。普段は結界で囲まれているのだが、時々メグミたちのように迷い込む者たちがおり、そういう人間はたいてい妖怪のエサになるのだという。

 そう告げられたメグミは、しばらく絶句していた。恐ろしい話ではあるが、嘘とは言いきれない。なんせ彼女自身、今まで命からがらだったのだから。

 メディスンはメグミの表情を見て気の毒そうに、無理に笑顔をつくって言った。

 

「ま、まぁそういうワケだから。しばらくここにいなさいよ。大丈夫、うろつかなきゃ危険も少ないから」

 

「え……いいの?」

 

「人間は嫌いだけどさ、メグミはその……ほら、事情が事情だし」

 

 メディスンの笑みは何故かぎこちなかった。ただ、外は危ないというのはメグミにも分かっていたので、素直に礼を言ってうなずいた。

 そうこうしているうちに日が暮れ、メディスンは洞窟の中から古びた鍋や食材、マッチなどを取り出し、入り口そばの石をつんだ釜戸で簡単なスープをつくってごちそうした。メグミは最初はこわごわと口をつけたが、普通の味だった。あの肉を食べた時のような痛みが、ウソのようだった。

 夕飯の席で、メグミはふと、メディスンにたずねた。

 

「そういえばさ」

 

「……どしたの?」

 

「さっき『人間は嫌い』って言ってたけど……何かあったの?」

 

 メディスンはふと食事の手を止め、うつむいた。気まずい沈黙が流れ、メグミはまずい事を聞いたかと後悔する。

 その時、メディスンがぽつりと口を開いた。

 

「……捨てられたのよ、昔」

 

「捨てられた?」

 

「そ。人間って、人形を可愛がるように見えて、すぐ捨てるの。まだ妖怪になる前に、私も捨てられて……動けるようになった頃には、一人ぼっちだった」

 

 それだけ話して、メディスンはそそくさと食事を再開する。目はスープに向けられて表情は見えないが、雰囲気から落ち込んでるのがありありと見てとれた。

 

「ごめん……私、何も知らないで」

 

「いいのよ。どうせ、タダで済ます気はないわ」

 

 メディスンは勢いよくスープを飲み干すと、口をぐいっとぬぐって立ち上がり、高らかな声で言った。

 

「私はね、いつか必ず、人形たちを人間から独立させてみせるわ! ものいわぬ人形たちを、縛られた立場から解放するの!」

 

「……!」

 

「今はまだ、鈴蘭を売ってお金をかせぐくらいだけど……そのうち、人間たちの立場をひっくり返してみせる! それが本当の自由よ!!」

 

 話しているうちにメディスンは目がキラキラと輝き、セリフに熱が入りはじめる。メグミは多少めんくらいながら、愛想笑いしてたずねた。

 

「……ちなみに、今どのくらい貯まってるの?」

 

「それは……えーと……き、機密事項よ! でもすでに沢山あるわ。百万、いや二百万! とにかく巨額よ!!」

 

 わたわたと精いっぱい見栄を張るメディスンを見て、メグミはつい吹き出しそうになった。そして、その無邪気な、熱心な様子に、彼女は社会団体をすすめる時の兄の姿を思い出していた。

 

――

 

 それから、メグミとメディスンの共同生活が始まった。山でたき木を拾い、川で洗濯をし、電気もない中で山菜や川魚を細々と調理し、共に食卓を囲んだ。

 幻想郷の過酷な環境は身にしみていたので、メグミも不便とは思いつつ、出ていきたいとは思わなかった。メディスンも何日か経つにつれ、次第に態度がやわらかくなっていった。

 何より、メグミにとっても楽しかった。メディスンが鈴蘭の取引先から小銭を受け取ってうれしそうに見せびらかすのを、いつも微笑ましそうに見つめていた。

 その時はきまって、メディスンが理想の人形社会を口にする。人形たちがめいめい家族になり、友人をつくり、結婚する。ある者はおとぎ話のお城に住み、ある者は大自然の広がる農村に住み、ある者は海辺の浜で毎晩、夜空をながめる。そこはみんなが幸せで、貧富の差は存在しない。何故なら、そこには人間の手が介在しないのだから。

 そんな事を大真面目に、満面の笑みで話すのだ。今は誰も同志がいないが、いつか必ず大勢でその社会を実現してみする、とメディスンは息巻いていた。メグミはいつも、冗談半分にはげましていた。

 

 ただ、奇妙な事もあった。メディスンが片時もメグミを洞窟から出そうとしないのである。

 外が危険なのはすでに述べたが、それでもメディスンは徹底していた。普段、共にいる時はもちろん、メディスンが取引先に行く時や、山へのたき木拾い、川への洗濯に行く時まで、全て洞窟から出ないように言った。それも、文字通り"一歩も"出るなというのだ。

 最初のうちはメグミも安全のためと納得し、家具のホコリを取ったりなどしていたのだが、すぐに飽きてしまった。洞窟には鏡も置いておらず、オシャレなどもできない。ショートヘアをありがたく思ったのは、これが二度目だった。

 

 一月もたった頃。メグミはいつものように鈴蘭を売りにいったメディスンに言われて留守番をしていた。その頃になると、壁面にもたれて考え込む事が多くなった。

 

(何か目的があるのかしら……。例えば私を閉じ込めて、太らせて食べるとか……)

 

 あまりにも退屈すぎてそんな邪推までしてしまうが、彼女はすぐさま否定した。まさか、恩人でもあるのに、そんな風に疑っていいワケがない。

 しかし、いくらなんでも下着まで洗濯してもらっている状況はいかがなものか……。洞窟のすみに座りながら、ボンヤリと考えていたメグミは、何の気なしに晴れている外の景色へ目を移した。

 青空の下に鈴蘭がゆれる、見飽きた風景。しかし、その日はある事件があった。

 

「た、助けてぇーー!!」

 

 メグミは久しぶりに、メディスン以外の声を聞いた。若い少年の悲鳴。ただならぬものを感じた彼女は洞窟の出口に飛びつくと、声の方角をにらんだ。

 そこでは、妖怪らしき毛むくじゃらの獣に、一人の少年が追われていた。遠目でも分かるほどの焦った走りでバタバタと逃げまどっている。熊のように大きい妖怪はずんずんと獲物にせまり、今にもその爪をかけそうだ。

 

(あの服……!)

 

 メグミは、その少年の服装に見覚えがあった。その現代的なブレザーの制服は、まさにメグミが着ている制服と同じ母校のもの。

 逃げている少年も、同じ立場で幻想郷に迷い込んだのだろう。

 

「うわああぁ!!」

 

 とうとう少年が妖怪につかまり、押さえつけられる。それを見た瞬間に、メグミは飛び出していた。同郷の人間を食らおうとする怪物に向けて、鈴蘭畑を一足飛びに駆ける。とっさに動いたせいか体が軽く、小さかった妖怪にみるみるうちに近づく。

 

「?」

 

 気配に気づいた妖怪が振り向く。毛に隠れがちな黄金色の目に、黄ばんだ肉食獣のキバ。その異形の顔に、メグミはヤケクソ気味にパンチを打ち込んだ。

 

 ばちん。

 

 素人が殴った時そのままの音が響く。降り立って距離を取り、メグミは一瞬しまったと思った。感情にまかせて飛び出したはいいが、自分はしょせん人間。メディスンの言うところによると、妖怪は人間より何倍も体が頑丈らしい。ただでさえ熊のような体格をしているヤツに、素手で勝てるワケがない。

 それでも、妖怪はいきなりのパンチに面食らったのか、顔を押さえて固まった。今しかない、そう思ったメグミは、少年を急いで逃がそうとする。

 しかし、その刹那に予想外の事態が起こった。

 

「グオオオアァァッ!!」

 

 妖怪が突如、吠えるような悲鳴をあげたのだ。メグミが驚いて振り向くと、妖怪はちょうど殴られたあたり、目の部分を押さえて歯を食いしばっている。

 敵意をむき出しにして、メグミをにらみつける。押さえていた片目もさらけ出し、両目で刺すように眼光を向ける。

 そのさらけ出された目を見て、メグミは息をのんだ。

 

 眼球が真っ赤に血走り、まぶたが紫色に腫れ上がっている。目の周りの毛が心なしか縮れて変色し、しかもかすかに煙まであげている。

 とても殴っただけの傷には見えない。メグミがうろたえている間に、妖怪はきびすを返し、一目散に逃げていってしまった。

 

「…………」

 

 何が起きたのか分からず、メグミはしばらく呆然としていた。ふと自分の拳を見ると、生き物を深くえぐったように血がベットリついている。

 あの傷は、自分のせいなのだろうか。しばし言葉を忘れていた彼女だったが、先ほどの少年を思い出し、ハッと振り向いた。

 少年は顔面蒼白となり、鈴蘭畑にへたり込んでいた。よほど怖かったのだろう。メグミの顔を見ても表情はこわばったままだ。

 

「ねぇ、大丈夫……?」

 

 とりあえず落ち着かせよう。そう思ってメグミが手を差しのべた。すると。

 

「うぎゃあーーーっ! 化け物っ!!」

 

 少年はまたもや叫び声をあげると、メグミの手から逃れるように飛び上がって立ち上がり、一直線に逃げ出した。まるでさっきの妖怪と同じように、全力で振り返りもせずにメグミから離れていく。

 

「あ……」

 

 メグミは、手を出した格好のまま取り残された。あっという間に見えなくなってしまった少年の行き先を一瞥し、困惑の表情を浮かべる。

 いくらパニックになったからって、私からまで逃げなくてもいいじゃないか。そう口をとがらせながら、彼女は自分の差しのべた手を見る。もしかしたら、この手についた血がいけなかったのかもしれない。

 気持ち悪いから洗っちゃおう。そう思ったメグミは、水場を求めて歩き出す。メディスンが洗濯や飲み水に使っている小川が近くにあるのを、彼女は知っていた。

 100メートルほど歩くと、川のせせらぎが聞こえてくる。メグミが鈴蘭畑の切れ目に目をやると、山からのわき水が細い流れをつくっているのが見えた。

 川辺にしゃがみ、手を浸けようとする。しかしそうしてメグミの顔が川の水面に反射した時、彼女は悲鳴をあげた。

 

 そこに映っていたのは、顔半分が紫色にただれ、別人のようになっている姿だった。紫色の中にある片目は、白かった結膜が真っ黒に変色し、瞳が血で塗ったように赤くなっている。瞳の中心の瞳孔部分だけが、穴が空いたように黒い。

 

「何……これ」

 

 メグミはうわごとのようにつぶやいて自らの顔をさかんに触った。水面の顔も全て同じように手で触れ、そのたびに両者の表情が凍る。

 一体、どうなっているのだろう? いつからこんな風になっているのだろう。そもそも、この変化は見た目だけの問題で済んでくれているのだろうか? 妖怪に向かって飛び出した時、いやに体が軽かったような気がする。

 一人でぐるぐると混乱しながら、メグミは水面の顔といつまでもうつろに見つめ合っていた。するとその時、不意に近くから見知った声がする。

 

「……メグミ?」

 

 ボンヤリ振り向くと、そこにはメディスンが立っていた。顔色は悲しげで、どこか隠し事がばれてしまった子供のような、弱りきったものだった。

 

「メディ、ちゃん」

 

 1ヶ月間に何度も呼んだニックネームを、震える声で口に出す。その時のメグミの顔は、両目から一筋の涙を流していた。

 

――

 

「……妖怪のお肉を人間が食べるとね、妖力を得るの。つまり、妖怪になるのよ」

 

 洞窟にもどってから、メディスンは重たい口調でそう告げた。それを聞いて、メグミは初めてメディスンのところに来た際、包みにあった肉を食べてしまったのを思い出した。

 

「じゃあ……あの時から……」

 

「そう。私が狩った妖怪のお肉で……ずっと、顔は変わってた。体だって、同じなのは、見た目だけ……。もう……人間じゃ、なくなってる」

 

 話すうちに、メディスンの声は途切れがちになり、すすり泣きをはじめた。寝食を共にした友人に事実を打ち明けるのが、よほど辛いのだろう。

 メグミにもそれは痛いほど分かった。それでも、今さらになって、何故そんな事を知らされなきゃいけないのだというやるせなさが、否応なしに体を震わせた。

 メグミは、わなわなと肩をいからせ、苦しげな顔をしてメディスンに叫んだ。

 

「なんで……なんで最初に言ってくれなかったのよ! なんでこんなに経つまで秘密にしたの!?」

 

「言おうと思ったよ! 何度も、何度も……。でも、言えないじゃない。現に、こんな……」

 

 メディスンも涙ながらに言い返す。本当に伝えるか悩んだのだろう。しかし結局は話せなかった。今のようにショックを与えるのは分かりきってたから。

 だから極力バレないように努めてきた。洞窟から出さないようにしていたのも、その為。

 メグミは何も言えなくなり、うつむいた。元はといえば勝手に肉を食べた自分が悪いのだ。そう思うと、どうしていいか分からなくなった。

 暗い空気が二人の間に流れる。その中で、メディスンが唐突にこう言った。

 

「ま、まあ……妖怪だって、見かたによってはいいものよ! 体はじょうぶだし、寿命は長いし!」

 

 その声が打ってかわって明るかったので、メグミは顔を上げる。メディスンはやけに口角を上げていたが、目の奥に悲しみをたたえていた。あからさまな作り笑い。

 メグミがそう思っているのを知ってか知らずか、メディスンは彼女の手を取り、さかんに動かしてみせた。

 

「それにさ……ホラ。妖力に毒が混じってるのかな? こうやって、触れ合える」

 

 メディスンは弱々しく微笑んでみせた。メディスンの体は鈴蘭の毒をまとっているのだと、いつだったかメグミは聞いた事があった。

 そのメディスンが手にかけた妖怪を食べた事で、お互い似たような体になったのだろうか。それは同時に、他の生物に近づけなくなった事を示していた。

 

「これからだって、いい事あるよ。ね?」

 

「…………」

 

 子供ながらに、精いっぱい元気づけようとするメディスンの言葉に、メグミは浮かない顔でうなずいた。

 

 ……それから、メグミはフードやマントで顔をかくし、メディスンと一緒に行動するようになった。鈴蘭を売りに行く時も、たき木や食べ物を拾いに行く時も、メディスンは片時もそばを離れなかった。今まで行っていた場所だけではなく、近所のヒマワリ畑や、滝の名所や、人妖に人気のコンサートまで。それはまるで、少しでも一人で落ち込んでいると、メグミがどこかへ行くのではないかというような、そんな不安を抱いているようだった。

 メグミも、変わった。無理をして酒を飲んで笑ったり、また幻想郷の人間を妖怪の手から助けたりもした。嫌いな人間を助けても、メディスンは何も言わなかった。人の心を持つ妖怪。そんな立場にいる彼女の、数少ない生きがいなのだと思ったから。

 そんな生活をしているうちに、二人は"スキマ妖怪"を名乗る妖怪に出会い、『その子はもう、現代には帰れないわね』と告げられた。

 

――

 

 二人が出会ってからちょうど半年、薄雲が浮かび、星の見えない深夜。

 メグミは隣で眠っているメディスンから隠れ、鈴蘭畑のただ中に一人で立っていた。

 冷たい夜風が頬をなでる。すっかり長くなった髪がたなびいて、ふわりと背にかかる。『人形も人間も、髪は長い方が色々できるわ』と、いつかメディスンが言っていた。

 

「……ふぅー」

 

 彼女はおもむろに、片手を胸に置く。そして深呼吸ののち、妖力をありったけ体内に流し込んだ。

 口から血が噴き出し、体が痛みと虚脱感に包まれる。それでもメグミはやり続けた。毒に耐性がある分、妖力の効き目は薄いが、歯を食いしばって自らを傷つけた。

 自殺するために。

 

 メグミは妖怪化を知って以来、自分なりに明るく暮らそうとした。メディスンと他愛ない話で笑い、酒を飲んでうさを晴らし、人間を助けてヒーローを気取った。

 楽しい時もあった。感謝される事もあった。しかしメグミの心の奥底は晴れなかった。むしろ妖怪として寿命がのびた分、あまりにも長い先の人生が闇に包まれているような気がして、空しさばかりがつのっていった。

 メディスンがなぜ初対面の人間に、妖怪となった自分に親切にしたか、今なら分かる。互いに"帰る場所がなかったから"だ。捨てられたメディスンは元の家を失ったが、新たに自分の、そして人形たちの居場所をつくろうと野望を抱いている。

 しかし、メグミは違っていた。いまだに、元いた家への、家族への、世界への未練を引きずっている。

 

 他人と違っているというのは、辛いものだ。疎まれ、居場所がないというのは、苦しいものだ。人の群れに流されて暮らす事ができない。何の心配もなく甘ったれているという事ができない。常に心の中の生きがいを再確認し、、わずかな仲間となぐさめ合いながら日々を歩んでいかなければいけない。周囲の大多数が無関心で、ともすれば嫌悪してくるという現実に耐えられなくなる。

 メグミは、兄のいた社会団体の事をまた思い出した。知らない人が大勢いる、また知っているうちの過半数から嘲笑されている団体。それでも本気で周りのためを想っていれば尊敬できる面もあるが、果たして、彼らのうちの何割が真剣に惰性でなく活動しているのだろうか。

 ――いつか、自分のように空しさしか残らなくなったり、しないだろうか。

 

 そのような思いにふけっているうちに、メグミはがくりと膝をついた。とうとう全身から痛みさえも無くなり、意識がもうろうとしだす。メグミは血の味が広がる口をかすかに動かし、消え入りそうな声でつぶやいた。

 

「ごめん……ね。メディちゃん……」

 

 そして間もなく、メグミは鈴蘭畑の中に倒れ伏した。うっすらと笑って。

 彼女の胸中にあったのは、後悔ではなく、やっと楽になれるという解放感だった。

 

 ……それから次の日、朝早く。メディスンは冷たくなって倒れているメグミの姿を見つけた。

 

サタケ メグミ――死亡



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遠くにいる子

「はっ、はっ、はっ……っ!!」

 

 雨がざあざあと降りしきるほの暗い天気のもと、一人の少女が走っていた。周囲はうっそうと木々が茂った、寒々しい林。辺りは人影がまるで見当たらない。草木と土が濡れる景色がえんえんと続く。

 少女はその道なき道を、一人で走り続けていた。背丈はまだ中学生ていど。荷物もなく、ブレザーの制服を雨に存分にさらしている。ぬかるんだ土を蹴るたびに泥が飛び散り、靴にソックス、スカートまでを汚す。

 少女の息があがりはじめ、ついに立ち止まる。膝を折ってぜえぜえ息をしていると、びしょ濡れの髪が上気した頬にはりつき、長さめいっぱいに背中を這う。ややこしい三つ編みのハーフアップが重たく、髪型を後悔した。

 動かずにいると、まとわりついていた水分が一気に体を伝う。気持ち悪い湿気に顔をしかめて、少女――サエグサ ミズキは頭の隅で、今までの記憶をたどった。

 

 学校の修学旅行に参加して、二日目に移動用のバスに乗っていた。たどれる平常な記憶は、すでにここまでだ。

 いくらか走行して突然、バスは白い霧に包まれた。周りは驚く者、戸惑う者、またボーッとしていた者とさまざまであったが、それからミズキが意識をとりもどした時、その他の者たちは一人残らず、さっぱり消えていた。

 気づけば、彼女はただ一人、雨の降る林に寝そべっていたのだ。

 

「なんなのよ……もう……」

 

 怒りのまじった涙声をあげて、ミズキはまたトボトボと歩き出す。雨はやむ気配がなく、むしろどんどん勢いを増す。体から湧いてくる寒気をこらえながら、彼女は天をあおいだ。

 

(……帰りたい……)

 

 止まりはじめる思考の中で、ミズキはふと子供のようにそう願った。近頃は受験のために塾や自習室に居着いてばかりだったが、このように見知らぬ場所に一人でいると、否応なしに恋しくなるものだ。

 「行ってらっしゃい」と告げた母親の顔を思い出す。別にうれしくもない挨拶だったが、これほど懐かしく思い出されるとは思わなかった。

 それでも、単にさまよっている状況なら、まだ帰ろうと苦闘しただろう。しかし、ミズキには少し事情があった。

 

「……うっ!?」

 

 突然、ミズキはその場にしゃがみこむ。そして忌々しげに自分の右足を見る。

 そこには、大きく無惨なひっかき傷が一つあった。膝からふくらはぎを通って足首まで、三筋の裂け目からダラダラと血が垂れている。ソックスがめくれ、にじんで真っ赤になっていた。

 ミズキは苦しげに顔をゆがめ、その傷を負った時の事を思い出した。忘れもしない、雨の中で目が覚めてパニックになっていたところで、奇妙な生物にあったのだ。

 

 姿は猫のようだったが、体は何倍も大きく、足は六本あった。その怪物じみた姿にミズキが戸惑っているうちに、その怪物は彼女の足に爪をたてた。

 またたく間に焼けるような痛みが襲い、ミズキは状況も分からずに恐怖にかられ、持っていた荷物を投げつけて逃げ出した。さいわい逃げられたが、彼女はしばらく、右足にある大きな傷を現実のものだと信じられなかった。

 しばらく痛みを引きずって歩くにつれ、傷口はぱっくりと開き、雨がしみてきた。彼女は夢の中にいるかもしれないという望みをじょじょに失い、代わりに得体の知れない絶望感を覚えはじめた。あのような怪物がいつまた姿をあらわすか分からない。クラスのみんなとまた会えるか分からない。自分の家にはたしてまた帰れるか分からない――。

 混乱したまま林をさまよい、疲労は蓄積して、いつしか彼女は惰性で歩を進めるだけとなった。雨天では明るさで時間を判断する事もできず、雨に打たれて体力とともに思考力まで削れていく。

 

 ついに、ミズキはぬかるみの中にバッタリと倒れた。全身を泥に沈めて口づけまでし、ばしゃりと音をたてて足が水たまりに浸かる。

 傷口が泥水にひたり、妙な生暖かさが伝わる。うつぶせになった体を、足先から順に倦怠感が襲ってきた。

 

(…………)

 

 顔を土まみれにしながら、ミズキはボンヤリと地面を見つめ、うっすらと思いにふけっていた。

 

(母さん、また怒ってないかな……? 父さんも気が弱いから……せめてリサがワガママ言ってなきゃいいんだけど)

 

 頭に浮かんできたのは、また家族だった。母に、父に、幼い妹。思春期になった辺りから心なしか距離を置くようになっていたが、やはりこんな孤独の中にあると思い出してしまう。

 うるさ型の母、尻にしかれる父、そして生まれてから事あるごとに自分より大事にされてきた妹。

 

 最近は、めっきり話す回数が減ってきていた。ちょうど母も受験について口うるさくなっていたので、それでかまわないと思っていた。

 ただ、だからといって本気で家族を疎んだりはしない。いざとなると、かえって見守るような目線で心配するようになる。ミズキ自身も、今日はじめて自覚する事だった。

 

「…………」

 

 考えているうちに、頭がぼうっとしはじめた。雨に濡れすぎたのだろうか、頭が熱くなり、背筋がみるみる寒くなった。思考がまとまらなくなる中で、ミズキは胸中でだけため息をついた。

 よりによって、こんな不条理にあって親より先に死ぬとは。行方不明にでもなったら、ただ死ぬよりもよほど迷惑をかけるだろう……。

 などと、彼女が半分あきらめて寝そべっていると。

 

「……ねぇ、大丈夫?」

 

 不意に、頭上から声が降ってきた。ミズキが顔を上げると、見た目15ほど、ミズキと同じくらいの少女が心配そうにのぞき込んでいた。

 白いブラウスの上に青色のベスト、水色のスカートという格好。足には白い靴下と、ミズキには珍しい下駄をはいている。

 顔は水色のショートヘアに、赤と青のオッドアイ。幼い顔つきの真ん中で、二つの色の瞳がきょときょと動いている。

 そして、何より目立つのは少女が持っている傘だった。それは現代でよく見るビニール傘や折り畳み傘ではなく、古めかしい番傘だったのだ。竹の柄に大きく広がる骨組みと、そこに張られた紫色の和紙。そして異様なのは、和紙についた巨大な目玉と裂けたような口、そして飛び出る巨大な舌。

 それらは決してただの装飾ではなく、ぎょろぎょろとした目玉や奥行きのある口に厚みを感じる舌など、それぞれに不思議と生気があった。

 傘の異形に目を見開いているミズキへ、少女はしゃがみ、その傘を差し出していた。

 そうしてしばらく見つめあっていたが、少女はふと視線を移し、ミズキの足が血まみれなのに気づいて息を呑んだ。

 

「ちょっと、何その傷! ひどいケガじゃない!」

 

 先ほどとは打って変わって慌てだす少女。もうろうとしているミズキを起こし、泥だらけなのもかまわず肩を貸す。

 

「しっかりして! 今からお医者さんのところに連れていくから!! ね?」

 

 もたれかかるミズキを支え、傘を持ちにくそうにしながら、少女は必死に呼びかける。ミズキは頭痛や全身のだるさをこらえながら、やっとの事で口を開く。

 

「……あなた、は……?」

 

「……!」

 

 うつむきながら、か細い声を出す。その問いに少女ははたと立ち止まり、気を遣わせまいというように笑みを浮かべると、ミズキの目を見つめて、こう答えた。

 

「私は……小傘。多々良(たたら) 小傘(こがさ)だよ」

 

「こが……さ」

 

 その名前をうわごとのように反復して、ミズキの意識はふっつりと途切れてしまった。

 

――

 

「――はっ」

 

 その後しばらくして――意識の上では一瞬のち――、彼女は雨の中ではなく室内で目を覚ました。視線の先には木の天井があり、左右を見渡すとカーテン付きの窓がある壁と、周囲に規則ただしく並んだたくさんのパイプベッド。ミズキがふと重たい上半身を起こして我が身をかえり見ると、同じベッドに寝かされ、布団をかけられていた。

 意識が覚めていくと同時に、右足がズキリと鋭く痛む。あの引っかかれた方の足だ。ミズキがかけ布団をめくると、右足の傷には包帯が巻かれ、服までまっさらな入院服に変えられていた。

 いつの間に着替えさせられたのだろう。そもそも、ここはどこなのだ? 見た限りでは病院のような雰囲気だが……。などとミズキが困惑していると、頭がガンガンと鳴りそうなほどに痛みだす。額を押さえてうめいていると、不意に背後から驚いたような大声が聞こえた。

 

「あ、起きた!?」

 

 そのすっとんきょうな声には聞き覚えがあった。ミズキが振り返ると、あの水色の髪の少女が番傘を背負い、あわてふためいた様子で駆け寄る。

 

「よかったぁー……君、歩き始めたと思ったら急に気絶しちゃって。起きないかと思って心配したよー」

 

「…………」

 

「体は大丈夫? 熱とかない? 喉かわいてたら、お水もらって来ようか。体調くずした時はちょっとした無理が命とりだって先生も……あれ?」

 

 少女、もとい小傘はミズキの手を取りながら早口に気づかいの言葉をかけてくる。ミズキが戸惑ってばかりで無言なのに気づくと二、三度まばたきし、きょとんと小首をかしげる。

 

「……どうしたの? 本当に大丈夫?」

 

「……え、ああうん」

 

「私の名前、覚えてる?」

 

「……多々良 小傘、さん?」

 

「さん付けなんてしなくていいよ。小傘って呼んで!」

 

 名前を呼ばれた小傘は表情をやわらげ、ミズキの背中をバシバシと叩く。ミズキがだるい体を前のめりにして咳き込み、小傘があわてたりなどしていると、出入り口からもう一人、何者かが歩いてきた。

 

「あら、起きたのね」

 

 落ち着いた声でそう言ったのは、小傘より二回りほど背の高い、大人の女性だった。赤と青を左右に二色ずつ塗ったツートンカラーのワンピースと帽子を着て、髪は白色で長く、後ろで三つ編みにしており、小脇に書類がついたバインダーを持っている。一見すれば変な格好だが、場や佇まいの雰囲気から、ミズキはなんとなく医者ではないかと直感した。

 その医者のような女性はミズキを見下ろし、何の前触れもなくこう問う。

 

「……あなた、体調に変化はないかしら?」

 

「え?」

 

「たとえば、体がだるいとか、吐き気がするとか」

 

「あ……えーと、体は、正直だるいです。あとは、頭が痛くて、たぶん熱もあると思います。吐き気は今のところなくて……うぅ、寝て話してもいいですか?」

 

「そうね。楽にしていいわ」

 

「平気?」

 

 ミズキは答えるのもおっくうで、ベッドに背をつける。そばで小傘が心配そうに寄り添う。

 一方、女性はミズキの右足のあたり、包帯のある部分をジッと見つめ、続いてバインダーに何かを書き込み、険しい顔をする。

 

「……やっぱりね。こりゃただで帰すわけにいかないかぁ」

 

 女性はなにやら額を押さえ、深いため息をつく。そのしぐさにミズキが身構えていると、女性が気休めのように尋ねた。

 

「そうだ。あなた、お名前は?」

 

「……サエグサ ミズキ、です」

 

「ミズキちゃんっていうんだ」

 

 今さらながら名前を知り、小傘は小さく笑みを浮かべる。しかし女性はにこりともせず、浮かない顔のミズキへこう続けた。

 

「私は八意(やごころ) 永琳(えいりん)。ミズキ、早速だけどあなたには、聞いてもらわなければならない事があるわ」

 

「……何です? それ」

 

「大事な話よ。そちらからも聞きたい事は山ほどあるでしょうけど、まああなたの今後に欠かせない話だから」

 

「はぁ……」

 

 それから、ミズキが聞かされたのはなんとも現実離れした話だった。ミズキが迷いこんだ場所は幻想郷といい、現代とは違って妖怪、神、妖精などの存在がうようよしているという。しかも、ミズキのようにイレギュラーに侵入した存在は、たいていが妖怪のエサとなるのだという。

 

「え……それじゃあ、私だけそんな、ワケ分かんない目に……?」

 

「周りに人がいたなら、複数人が迷いこんだ可能性もあるけど……助かってる保障はどうにも……」

 

「な、なんとか帰る方法はないんですか!? それが分かれば他のみんなも……!」

 

 ミズキは布団をはねのけ、体を引きずるようにして永琳にすがりつく。しかし永琳は沈んだ顔で言った。

 

「……方法はあるわ。でも、あなたは別の、深刻な問題がある」

 

「問、題?」

 

「……それ」

 

 永琳はミズキの怪我を指さした。そして断定した口調で言う。

 

「そこ、妖怪にやられたでしょ?」

 

「え、いや……まあ妖怪、かな?」

 

「やはりね。傷口を見たら分かるわ」

 

 ミズキは、あの爪で引っかいてきた六本足の大きな猫を思い出す。すると永琳はいくらか浮かない表情になる。そばにいる小傘も眉尻を下げ、押し黙っていた。

 その悲しげな雰囲気にミズキが気づくと、永琳が低い声で切り出した。

 

「その傷ね」

 

「は、はい」

 

「ただ回復にまかせれば治る……ってワケじゃなさそうなの」

 

 歯切れの悪い言い方をして、永琳はまいったという風に空いているベッドへ腰を下ろす。そして、こう続けた。

 

「妖怪ってのはね、あなたたちにとってはもちろん未知だけれど……幻想郷においてもそうなのよ。要は、得体が知れないの」

 

「…………」

 

「どんな菌やウイルスを持っているか分からない。その傷口から一体何が入り込むか……私でも研究しないと分からないの」

 

 それを聞いて、ミズキもいくらか主旨を理解する。長期入院、そんな言葉が頭をよぎった。たまらず口を開こうとした時、小傘が代弁するように言う。

 

「しばらく帰れないって事ですか? まだ子供なのに……」

 

「なるべく善処するけどね、中途半端な状態で現代に帰してごらんなさい。下手すりゃ未知の病気をばらまいて死人が出るわ」

 

 永琳が厳しい顔をして言うと、ミズキも小傘も押し黙る。しばらくして、ミズキはうなずいて言った。

 

「……分かりました」

 

「そ、よかった。まあ今日のところは様子見するから、安静にしておいて。もう少ししたら食事を持ってくるわ」

 

 案外すんなり納得したミズキに、永琳は胸をなでおろす。そして病室の外へそそくさと歩いていった。

 後には、横になったミズキと、相変わらずそばにしゃがんでいる小傘が残る。同情するように見つめる小傘へ、ミズキは布団に入りなおして、思い出したように言った。

 

「そういえば、ごめんね」

 

「え、何が?」

 

「お礼を言ってなかった。助けてもらったのに」

 

「ああ、いいよいいよ。気にしないで」

 

 言われた小傘は困り顔で笑って、ミズキの布団のすそを直したりなどしている。心配だけど何もできない、そんな思いが表情に出ていた。

 会ったばかりの人(?)にそこまで想われ、かえって落ち着かなくなったミズキは、話を変えようとこう尋ねた。

 

「……ねぇ小傘、気になったんだけどさ。その背中の傘……何なの?」

 

「あ、これ?」

 

「うん、なんか……変わってるなって」

 

 紫色、質感のある目玉と舌のついた傘を見ながら、ミズキは遠慮がちに言った。小傘は笑みを明るくし、何でもない事のように答える。

 

「これはね、化け傘。付喪神の私の本体だよ」

 

「つくもがみ?」

 

 ミズキは眉をひそめた。確か、古くなった物に意志が宿った妖怪だっけ……などと考えてから、ハッと目を見張った。

 

「あなたも妖怪だったの?」

 

「ありゃ、言ってなかったっけ? まぁよく間違われるんだけどねー」

 

 小傘は無邪気に笑って、それから窓の向こうを見ながら懐かしそうに語った。

 

「……私、ずっと昔に捨てられちゃってさ。それが原因で妖怪化したんだ。でも、もう恨んでないよ。こうやって人助けもできるんだから」

 

 小さい吐息とともに、ミズキへ微笑みかける。幾度となく笑顔を向ける小傘の姿が、ミズキには心なしか大人びて見えた。

 

「……なんか、ラッキーだったんだなぁ。私」

 

「どうしたの、急に」

 

「いやぁ、見つけてもらえなかったらって思うと、ちょっとね……」

 

 ミズキは幻想郷に来てからの、逃げ惑った記憶を思い出す。

 目覚めた時に持っていた自分の修学旅行の手荷物を、妖怪に襲われた際に彼女はやむを得ず放り投げた。今はどこにあるのだか、思い出せない。

 荷物の中には、両親と、そして妹への、某テーマパークで買ったおみやげが入っていた。父母には少しばかりのアクセサリーや小物ですませていたのだが、小さな妹はその気になればあれもこれも欲しがりそうで、なるべく多めに買ってやると手荷物まで圧迫し、結局は逃げるためにどしゃ降りの下に置き去りにしてしまった。間抜けな話である。

 それを小傘に話すと、小傘はやや残念そうな顔をして、それでも励ますように言った。

 

「まあ気にしなくていいんじゃない? わざとじゃないんだし」

 

「そうかなぁ……でも、もったいない」

 

「その妹さんって、いくつ?」

 

「んー、七歳」

 

「わあ、じゃあ可愛いでしょー。年離れてて」

 

「……まぁね。ちょっとうるさいけど」

 

 ミズキは照れくさそうに笑った。内心で、妹ばかりが両親にかまわれていたのを思い出したが、何も言わなかった。妹の話を聞いたとたんに、子供好きなのかウキウキしだす小傘を、作り笑い半分、親しみ半分で見つめていた。

 

「あら、小傘まだいたの? もう夜よ」

 

 その時、いつの間にかお膳の乗った盆を持って戸口に立っていた永琳が言った。小傘は「あ」と声をあげて立ち上がり、ミズキへ手を振った。

 

「じゃあねミズキ! また来るから!」

 

「……うん、ありがとう」

 

 ぱたぱたと部屋を出ていく小傘を、ミズキはしみじみと笑って見送った。永琳はベッドに備えつけられたテーブルを出し、その上に盆を乗せて、ぽつりと言った。

 

「なんだかうれしそうね」

 

「そうですか?」

 

「ええ。幻想郷に来たら、不安そうにするやつが多いのだけれど」

 

 永琳の言葉にどことなく気恥ずかしさを感じながら、ミズキは料理に箸をつける。頭の中では、さっきまでそばにいた小傘を思い浮かべていた。

 それは、おぼろげではあるが、幼い頃に母親がよりそってくれた時の光景と重なった。

 

――

 

 それから、ミズキの体はやはりというか、さまざまな症状が悪化しはじめた。発熱、悪寒、発汗、怪我した足の痛み。しかも足はただの傷の痛みだけではなく、全体に鈍痛、疼痛(とうつう)、しびれ、麻痺に似たような感覚まであり、ミズキは初日の落ち着きが嘘のように朝からうめいていた。

 さまざまな薬を打たれ、汗をかいて頻繁に衣服を取り換える。立って歩くどころか着替えもままならず、ミズキはどうにでもしてくれと、一日だけで投げやりになりかけた。

 

 しかし、小傘が来るとその気分も少し前向きになった。小傘はいつもミズキのそばに寄ると、心配し、励まし、あるいは他愛ない話などして見舞ってくれるのである。秋の日も、冬の日も小傘は足しげく通い、ミズキも彼女の親切な、人懐こい性格をありがたく思った。

 そうして症状が改善したり、また悪化したりなどを繰り返して、そろそろ三、四ヶ月経とうという頃。なんとかミズキも落ち着いてきたかというある日。

 

「最近は楽になってきた?」

 

「まーね。というか、慣れた。元の感覚とか思い出せなさそう」

 

 季節がめぐり春の風が吹き込む病室で、小傘とミズキはいつものようにおしゃべりをしていた。今ではミズキも上体を起こした姿勢で話すようになり、足もぎこちなくではあるが動くようになってきた。

 

「しっかし、退屈だなぁ……。生きてるだけで儲けモノなんだろうけど」

 

「それは……しかたないよ。永琳先生もいつ治るか分からないって言ってたし」

 

「帰ったら、家族みんなに幽霊あつかいされたりして。あはは……」

 

「もう、やめてよそんな冗談」

 

 さびしい軽口をたたくミズキに、小傘が苦笑いする。すると戸口の方で、誰かがトコトコと歩いてくる音がした。

 

「あ、メディちゃん」

 

「メディスン、来てたんだ」

 

 二人が振り向くと、不自然に頭身の低い小さな少女がいた。金髪のショートに、黒いワンピースドレス。

 それは人形の妖怪、メディスン・メランコリー。永琳に毒草を売って食いぶちを稼いでおり、ミズキたちも何度か、顔を合わせていた。

 

「…………」

 

 メディスンは何も言わず、ただ二人を壁の陰からジッとにらんでいた。このような態度はいつもの事らしく、ミズキは特に気にせず笑顔を向けている。

 そんなミズキに、メディスンは不意に嫌みったらしい口調で言った。

 

「……ずいぶん呑気ね。またぶり返すかもしれないのに」

 

「え? 別にいいじゃない。暗くしてても治るワケじゃないし」

 

 ミズキは気にする様子もなく笑って答える。隣で、小傘がなぜか沈んだ顔をしていた。

 するとメディスンは舌打ちし、さらに憎悪まで含んだ声を張り上げた。

 

「ふん、アンタ以外に迷いこんだ人間なんか山ほどいるのに、いいご身分だわ」

 

「……?」

 

「永琳が言ってたわよ。あんまり幻想郷に長くいたら危ない雑菌が染みついたりして、けっきょく帰れなくなるかもって!!」

 

「メディちゃん!」

 

 小傘がメディスンの声をさえぎる。ミズキがはじめて見る、怒った顔をしていた。

 その顔を見たせいか、メディスンはしばし恨みがましく二人をにらみつけ、音を立てて廊下の向こうへ去った。

 病室に、気まずい空気が流れる。戸惑っているミズキへ、小傘が言いにくそうに口を開く。

 

「……ごめんね、嫌な思いさせて……」

 

「あ、ううん。……けど、どうしたんだろ? 急に」

 

「それが……」

 

 小傘はキョロキョロと周囲を見回すと、声をひそめて話す。

 

「……私も最近知ったんだけど、あの子、友達を亡くしてたらしいの。ミズキが来てすぐくらいの頃に」

 

「へっ……!?」

 

「多分ミズキと同じ学校の人だって。元から陰のあった子だから、私ぜんぜん気づけないで……」

 

 ミズキが言葉を失うそばで、小傘は話しながらどんどんしょげ返っていった。そしてうつむいて力なく首を横に振り、申し訳なさそうに続ける。

 

「……多分、ミズキは病気が治ったら帰れるから、それが悔しいんだと思う。なんであの子だけ……って」

 

「…………」

 

「ごめん、今度ちゃんと謝らせるから……」

 

「いや、いいわ」

 

 小傘の言葉を、ミズキはとっさにさえぎっていた。そして自分で意外そうな顔をした後に、半分あきらめたような表情になって、ミズキは言う。

 

「わざわざそんな事しなくていいよ……。メディスンも辛いでしょ」

 

「けど! あんまり酷いよ。ミズキはなんにも悪くないのに」

 

「いいって。向こうはまだ子供なんだから」

 

 ぷんすか怒る小傘を、ミズキは力なく笑ってなだめる。目が合い、互いにしばらく視線で主張しあうと、とうとう小傘の方が折れた。

 

「……分かったわ」

 

「よかった」

 

「優しいんだね、ミズキは」

 

 感心したような小傘のセリフにミズキは答えず、苦笑だけしてどっかと横になる。表情はろくに見せなかったが、やさぐれ顔。そこには優しさというより、いさかいを避けたい気持ちがにじんでいた。

 「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」と幾度も言われ続け、そのたびに気持ちを押し込めてきた彼女には、慣れっこの顔であった。

 

 やれやれ、という気分で天井を見ていると、不意に頭のてっぺんでこそばゆい感覚がする。

 ミズキが振り向くと、小傘がなぜか、頭をさわさわと撫でていた。

 

「え、ちょっと何?」

 

 気づかれてもなお、小傘は撫でるのをやめない。照れた様子で振り払われると、小さく笑ってこう言った。

 

「えらいなーって思ってさ。これは私からのご褒美」

 

「いらないよそんなん。子供じゃあるまいし」

 

 そう返してむくれながらも、ミズキの顔はどことなく名残りおしそうだった。それに気づいてかどうか、小傘はクスクス笑いながら話す。

 

「えー、そんなに怒らなくてもいいじゃない。減るもんじゃなし」

 

「別に怒ってないけど……」

 

「なんでも平気な顔してたらいいってもんでもないよー?」

 

 目をそらすミズキに、小傘は何気なく、こんなセリフを言った。

 

「まだ15歳でしょ? ぜんぜん甘えていい年齢(とし)じゃない」

 

「……!」

 

 甘えていい。そう言われたとたん、ミズキははたと固まった。そして体を小刻みに震わせ、目にうっすらと、涙を浮かべはじめる。

 

「ど、どうしたの!?」

 

 泣いているのに気づき、小傘は一転してうろたえだす。そんな彼女をなだめながら、ミズキはこぼれる涙をぬぐいつつ、内心でしみじみと考えた。

 

(……ああ。私、無理してたのかな……)

 

 その時、脳内に小さい頃からの思い出が次々とよぎる。と同時にミズキはなにやら、胸の内の重たいつかえが取れていくような気がした。

 

――

 

「ちょっとあなた! たまにはもう少し早く帰ってきてよ!!」

 

「ここしばらく休んでいただろ。そんな余裕ないよ……」

 

 こちらは現代、サエグサ家。ミズキの家庭である。リビングの時計が午後10時半をしめす下で、両親が言い争っている。

 母親の方は目を吊り上げ、ヒステリックな表情をして怒鳴っている。対してスーツ姿の父親の方はしきりにたじろぎ、抗弁も弱々しい。リビングは、床に古新聞が積まれ、ソファや椅子に上着がかけられてそのままになっているなど、だいぶ前から散らかっているのが分かる。

 母親は、その荒れた部屋に似合う叫び声を再びあげた。

 

「なんでよ……ミズキはまだ何処にいるか分からないのに……なんで平気なのよ!?」

 

「俺だって辛いよ。けど、だからって休んでばかりいられないだろ?」

 

「ウソ! あんた、もうどうでもよくなったんでしょう! ここ数年、ミズキとろくに話してなかったもんね!?」

 

「おい、言っていい事と悪い事があるぞ!」

 

 父親もつい語気を強めるが、母親はてんで聞かずに泣きくずれてしまった。床に座り込み、「帰ってきた子もいるのに、なんでミズキは……」などと嗚咽まじりにつぶやいている。

 父親はそんな姿を見下ろして唇をかみ、立ち去ろうとした。しかしその時、リビングのドアにたたずむ人影に気づく。

 

「お父さん……」

 

 そこにいたのは次女、ミズキの妹だった。寝起きらしく子供用のパジャマを着て、寝ぼけまなこに涙を浮かべている。

 

「ああリサ、どうしたんだ?」

 

 父親はとっさに笑みをつくり、次女の頭をなでてやる。しかし次女はその背後で母親が泣いているのを見つけ、眉尻を下げた。

 

「ねえ……お姉ちゃん、いつ帰ってくるの?」

 

 その悲しげな問いに、父親の顔がくもる。目の前の娘は泣きそうな気持ちを隠しもせず、父親をいじらしく見つめている。

 父親は答えに窮した。俺にはどうしようもない。そんな言葉が頭に浮かぶのを必死に打ち消し、また精いっぱいの笑顔をつくる。

 

「……もう少し。もう少しだよ。きっと帰ってくる」

 

「…………」

 

 次女は辛い面持ちのまま、こっくりとうなずいただけだった。

 納得はしていない。ただ、父親の言葉を信じようとしているだけだ。幼い頃のミズキのおもかげが残るその悲痛なしぐさを、父親は重たい気分で見つめていた。

 次女が悪いのではない。家族内で一番幼い彼女が頼ってくるのは当然だ。頭では分かっていても、父親にはその必死の期待が苦しく思えた。

 

 ふと彼は、ミズキの以前の姿を思い出した。次女の不満を受け止めていたのは、思えばいつもミズキだったような気がする。自分たちは小さな次女を可愛がっているようで、いつもミズキに我慢を強いていた。

 「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」、事あるごとにそう言って。

 今さらながら、彼はミズキのありがたさを思い知った。同時に、今の家族の状況にとって、彼女の失踪はただのきっかけに過ぎなかったのではないか、そんな気も、頭の隅でしていた。

 

 ……それから二週間ほど後、父親は夜遅く、あるバーで飲んでいた。隣にいるのは、同じ会社の若い女性社員。

 その社員はグラスのお酒を遠慮がちに飲んで、父親に言った。

 

「なんというか……意外ですね。部長がこうして飲みたがるなんて」

 

「……ああ、今日はそんな気分なんだ」

 

「やっぱり、娘さんの……?」

 

「どうだろうな」

 

 それだけ言って、父親はグラスを静かにあおる。一気に半分ほどが無くなった。

 彼は氷の浮かぶ液体をながめながら、ボンヤリ考えた。また、帰りが遅いと文句を言われるのだろうか。しかし、もうどうでもよかった。いつもいつも家で顔を突き合わせていると、どうしてもどこかで不満が生じる。その不満は積もりに積もって、どこかで噴出する。そうすると、家庭は悲惨だ。恋人のように別れもできず、仕事や収入や子供や世間体や、さまざまなしがらみがぶら下がってくる。

 自分も遠くへ行ってしまえば、家族を懐かしく思えるだろうか。彼はふとそう思った。子供よりも先がなくなった未来を、親としての責任を家庭で果たしながら老いていく。それがひどく苦しく、至難の業のように思えた。

 

 ――子供より親が大事、と思いたい。子供よりも、その親のほうが弱いのだ。――

 

 どこかで読んだ小説のフレーズを思い出し、彼はやけになってまた酒をあおった。グラスが空になり、すぐさま次を注文した。

 

 今夜は、さらに帰りが遅くなりそうである。

 

サエグサ ミズキ――生存(幻想郷にて治療中)



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あがいた先に

「なるほど、そうやって君はここへ流れ込んだと」

 

「……まぁ、そうだよ」

 

 時刻は3時のおやつ時。木の机を挟んで、見た目15歳ほどの少年と少女が椅子に座って話していた。

 少年の方は、ブレザーの制服に身をつつんだ、背の高い男。うなじともみあげを刈り上げたツーブロックに、大きくギラついた目が印象的で、少しいかつい雰囲気をかもし出す。

 一方、少女の方は木蘭色の髪がミミズクのように左右にとがった、変わった髪型。紫色の大きな耳当てをつけ、線の細い体をノースリーブのシャツとスカーフ、紫色のスカートという衣服でつつんでいる。

 

 彼らの周りには同じような机と椅子が規則正しく並び、恋人、友人、あるいは家族かと思われるような組み合わせの人々がそれぞれ座しておしゃべりしている。手元には羊羮(ようかん)、あんみつ、わらび餅などの菓子があり、木造の大部屋の戸口には、"甘味処"と書かれた暖簾(のれん)とのぼりがはためいている。

 店内がにぎわう中、耳当てをつけた少女は練りきりをつついていた手を止め、微笑を浮かべて話しかける。

 

「カムロ ソウガ君、でよかったですか?」

 

「呼び捨てでいい。なんだよ?」

 

「いえ、手が止まっているようでしたから」

 

 少女は少年ソウガの手前にある皿を指さす。皿に乗ったくずきりは、一口ぶん切り取られたきりになっていた。

 

「お口に合わなかったですかね?」

 

「違う。トヨサト……ええと、アンタの話が突飛(とっぴ)すぎて……」

 

神子(みこ)でいいと言ったじゃないですか。豊聡耳神子(とよさとみみのみこ)と名乗ったでしょう」

 

「……ふん」

 

 神子と名乗った少女がからかうように目を細めると、ソウガは面白くなさそうにくずきりをかっ食らった。

 2、3回立て続けに菓子を呑みこみ、平らげてから、彼はけげんな顔をあげる。

 

「……あのさ、俺は、修学旅行のバス乗ってる最中から記憶がないワケだけど」

 

「ええ、存じています」

 

 急に、穏やかでない話の切り口。にも関わらず神子は動じずに相手へ視線をそそいでいる。

 さらに、ソウガは突拍子もない事を口にする。

 

「そこから異世界に飛んできた……と?」

 

「厳密には異世界ではありませんが……そんなところです」

 

「……マジかよ」

 

「お店の外を見てごらんなさい。こんな街並みは珍しいのでは?」

 

 涼しい顔で言われ、ソウガは暖簾はためく戸口の外をにらむ。街路は舗装されておらず土がむき出しで、周りには同じような木造の家が立ち並び、その前を着物姿の人々が往来している。

 ソウガの知る江戸○代村に少し似ていたが、目の前の風景はつくりものには見えなかった。

 ソウガは椅子に背をガックリとあずけ、ため息をつく。そしてまだ疑り深そうに、神子に向き直ってたずねる。

 

「で、この迷い込んだ場所が何だって?」

 

「幻想郷」

 

「忘れ去られた妖怪やら神やらが実在するって……本気かよ」

 

「あなたは信じていないのですか? このお店の中にもいるじゃないですか」

 

 クスクス笑いながら、神子は周囲の座席をながめる。視線に気づいた何人かが、からかうように笑い、あるいは隠れるようにして顔をそらす。

 

「まあ、この街の中では安全ですよ。妖怪もああやって、人間のふりをしている」

 

「…………」

 

 ソウガは、神子が話している間も妖怪やら神やら――会ってから甘味処で聞かされた話――を信じきれなかった。

 しかしそれでも、目の前の神子にただならぬ不思議な力があるのは、彼もありありと肌で感じていた。物静かなたたずまいは警戒心を自然とほぐし、一方で琥珀のように光る瞳は嘘を見透かされるような緊張をあたえる。

 ハッキリ言って、表面上はそっけない態度を取りながらも、彼女の雰囲気にソウガは内心で堅くなりっぱなしだった。

 

「しかし、そんなのよく平気だな……。俺には耐えられない」

 

「それはあなたが外の世界に育ったからですよ。国や文化で、どうにでも価値観は変わります」

 

 一般論を述べて平然としている神子。その顔を見てソウガはなんとなくムッとした。立ち入るなと言われたような気がしたのである。

 それを察したのか、神子は店の外へ目を向けて苦笑いをする。

 

「まあ実際のところ、危ないバランスではあるんですけどね。お互いに制約があって、それでいて不平等もある。難しいものですよ」

 

 そう言って、肩をすくめる神子。ソウガは神子と目を合わせず、店外の往来ばかりをジッと見つめた。

 並んで歩く街娘、幸せそうな家族連れ、のんびりとした老夫婦、笑ってはしゃぎ回る子供たち。

 一見、幸せな風景に見える。しかしこの風景は、街を一歩出たら消えてしまうらしい。あとは人の手が入っていない厳しい自然が広がり、恐ろしい妖怪とやらがうようよしているという。

 

 彼らは、幻想郷の外に出たくないのだろうか。ソウガはふとそう思った。思えば、現代においても似たような部分を感じる。表面上は快適でありながら、メディアを通じて感じる貧富の差、給金の格差、蔓延する悪質な労働など、ソウガ含む少年少女らは常に将来の不安におびえている。教育現場とて聖域ではなく、いやむしろ直接に身を置いているぶん、ソウガらは幼少から今の年齢まで不安をすりこまれ、追いたてられ、ゆとりの無さにあえいでいるのだ。

 それでいて、普段はつとめて明るく、軽薄に、苦しみから目をそらし、笑っている。

 

 幻想郷の人間たちも、本音では逃げ出したいのではなかろうか。自分の境遇を重ね合わせてみると、ソウガはそう思えてならなかった。

 

「気になりますか?」

 

「えっ」

 

 不意に、神子が見透かしたような目つきで微笑みかける。ソウガはぎょっとして、それでもすねたような態度で咳ばらいして言った。

 

「……別に」

 

「隠さなくてもいいですよ。大体わかります」

 

「何の根拠があって」

 

「少し特別なんです。()()()()

 

 神子は得意気に、自身の耳を指し示し、耳当てをコツコツとつついた。けげんな顔をするソウガへ、彼女は目を細めて言う。

 

「私には、人の欲望を聞き分ける力がありましてね。思考も、多少は読めるというワケです」

 

「……お前も人間じゃないのか」

 

「ええ。ついでに言うと、元男です」

 

「嘘ぉっ!?」

 

 本気で驚いたのか、ソウガは身を乗り出して目を丸くする。そのさまを見て神子は押し殺した笑みを浮かべ、茶をすすった。

 そして、「それはさておき」とソウガをまっすぐ見つめて口を開く。

 

「気持ちは分からないでもないですがね。あなたは生きて帰る事だけを考えるべきです。幻想郷の事は幻想郷でなんとかします」

 

「けど……」

 

「それに、あなた一人に何ができます?」

 

 神子の言葉に、ソウガは眉間にシワを寄せてにらんだ。それを気にするそぶりも見せず、神子は続ける。

 

「あなたはたまたま迷い込んだだけの、一般人ではありませんか。不特定多数の人間を、それもほぼ異世界の住人を憂いても、仕方ありません」

 

「なんだよ、その言いぐさ……!」

 

「私見を述べたまでです。実際、解放者気取りの秘密組織もあるにはありますが、成果はなきに等しい。いわんや外部の他人が、です」

 

「くっ……」

 

 ソウガは歯がみし、大人らしくなりつつあるその顔をゆがませた。一方で、それを見つめる神子は神妙そうな表情をつくりながら、内心ではなんともいえない妙味をかみしめていた。

 ……十代なかば、ソウガくらいの年齢の子は、得てして子供から大人になろうと自意識が変化していく。恋愛や性に関する興味から、親への反発、世間への懐疑、果ては生死の問題に、政治の事まで。はたからは想像できないほど、さまざまなテーマに背伸びして目を向ける。

 ただ、その時期のエネルギーは、同時に危うさをはらむ。周囲への認識が変わる反動で、まるで現実のすべてが不条理に満ちていると錯覚したり、目新しい情報や神秘性に安易に飛びつき、盲信したりするのだ。

 またその危うさは、ともすれば自分は特別な、他人とは違った才覚や運命を背負っているなどといった自意識過剰にもつながりかねない。今、ソウガが過酷な環境にいる幻想郷の人間たちを思い、反発心を抱くのも、そうした自負心がまじってのものだろうと、神子は察していた。

 青臭い、おそらくは本人さえも無自覚な、偏狭な正義感による情熱。それを滑稽で、かつ可愛らしいと言ってやりたくなるのを必死にこらえて、神子はすました顔で立ち上がった。

 

「まあ、とりあえず移動しましょう。現代に帰してくれる人に会いに、ね」

 

「……どんな奴なんだ?」

 

「見てのお楽しみです」

 

 なぜか楽しげに言った神子を不思議そうに見つめながら、ソウガは後をついていった。

 

――

 

「……で、ソイツが迷い込んできたヤツってわけ?」

 

「ええ、ソウガ君といいます」

 

「呼び捨てでいいって」

 

 一時間ほど後、そろそろ太陽が西に傾きはじめるかという時間帯。ソウガと神子は街から東の方角の、小高い丘の上の神社にいた。

 長い石段をのぼると、丘のふもとからでも目立つ赤くものものしい社がある。それをくぐると小ぢんまりとした庭のような境内と、奉納殿、そして母屋がある。

 それらを背にして、ソウガらを一人の少女が面倒くさそうな顔で見つめていた。

 身長は150センチほどで、やせ形。紅白に色分けされて脇を露出した、奇抜なデザインの巫女服姿で、セミロングの黒髪をリボンで留め、草履を履いている。顔は不機嫌そうにしかめられ、細い眉や小さな鼻がその均衡をくずしている。

 しかし、笑顔でなくとも分かるほどに顔立ちは端正で、よどみのない目の光は、見る者を物怖じさせる鋭さがあった。

 博麗(はくれい) 霊夢(れいむ)。その巫女はそう名乗った。

 神子は相変わらず微笑しながら、ソウガの肩をたたいて言った。

 

「見かけは威厳ないですが、こう見えても幻想郷の秩序をあずかる存在です。心配はありませんよ。これでも由緒ただしき神社の……」

 

「よけいな事は言わなくていいわ」

 

 霊夢はぶっきらぼうに言い放つ。しかしソウガの方は、先ほどの神子の言葉に眉をかすかに動かした。

 秩序をあずかる存在。それはすなわち、幻想郷において一種の権威であるという事だ。普段ならば、同年代のこんな蓮葉(はすは)な雰囲気の少女など気に留めないのだが、彼はなんとなく、霊夢から独特な、謎めいた空気がただようのを感じていた。

 巫女など現代ならバイトでもできるが、昔は神聖な職業であったというではないか。

 知らず知らずのうち、ソウガは霊夢をジッと観察していた。そんな彼に霊夢は目をうつすと、軽い口調で言った。

 

「じゃ、さっそくだけど儀式の準備をしましょうか。現代に帰してあげるから」

 

「…………」

 

 まるで手続きでもするかのように言って、霊夢は背を向けて歩き出す。見るからに早く済ませたいようで、ソウガも長くとどまる理由はないはずだった。

 しかし、ソウガはふと目を伏せ、しばし考え込んだかと思うと、霊夢に向かってこう言った。

 

「…………待ってくれ」

 

「は?」

 

「ん?」

 

 霊夢は怪訝そうに眉をひそめる。神子も笑みをくずしてソウガを見た。

 ソウガはしばし歯切れ悪く目を泳がせると、霊夢にこんな事をたずねた。

 

「……あのさ、一晩だけここに留まれないか? 明日にはちゃんと出ていくからさ」

 

「なんですって?」

 

 考えが読めないという風に歩み寄る霊夢に、ソウガはこう続ける。

 

「なんつーか……幻想郷ってのがどんな場所か気になってさ。すぐ帰るのもったいないなって」

 

「何よそれ」

 

 霊夢はバカにしたようにそう漏らす。一方でソウガは思い詰めたような目をずっと向けていた。

 その様子を横からながめていた神子は、昼間の一件を思い出す。

 幻想郷に住んでいる人間は、幸せなのかどうか。外から来たソウガには、どうしても気にかかるのだろう。具体的に何をするかなど考えているかは知らないが、早々に出ていってしまうには決心がつかないに違いない。

 

「霊夢、一晩泊めてあげたらどうです?」

 

「ええ? 本気?」

 

「いいじゃないですか。外来人の一人くらい」

 

 神子はさりげなく助け船を出す。顔をしかめる霊夢とは反対に、実に楽しそうな笑顔で。

 神子の笑顔と、ソウガの期待するような顔を交互に見て、霊夢はしばらく迷っていたが、やがてはぁとため息をついた。

 

「……まあいいわ。何だか知らないけど、寝床くらいなら貸してあげる」

 

「すまん、助かる」

 

「……ふふ」

 

 おざなりに頭を下げるソウガを見て、神子はこっそり笑みをこぼした。

 彼が霊夢へ向ける目はけわしく、警戒心がにじんでいた。みずから幻想郷に留まりたいと言ったにも関わらず。

 あれはきっと、霊夢を人間であると同時に権威として見ているからだろう。人間を小さな街に閉じ込めて管理する、幻想郷の権威。概念と言ってもいいかもしれない。

 それはきっと、冷酷な、巨悪のように見えるだろう。ちょうど無知な者が、政治家を個人ではなく概念としてとらえ、一緒くたにして唾棄するように、ソウガは概念として霊夢を嫌っている。

 神子は思わず笑い声をあげそうになった。具体的な世の中の仕組みも、思想もおぼろげにしか知らず、方策もなしに、感覚的な正義感で"エラい人"と敵対せんとする。いかにも若者らしいではないか。

 よろしい。大いに悩め、葛藤せよ! 神子は心の中でそう激励した。未熟ながらあがいている姿を見るのが、面白くてたまらなかった。

 

「では、私はこれで」

 

 神子は表面だけでも澄まして、さっさと立ち去った。残りの二人はその背中をしばらくながめていたが、霊夢がソウガへ振り向くと、言った。

 

「とにかく中へ入りなさい。何もあげるものはないけど」

 

「ああ」

 

 ……そうして彼は、居間らしき畳部屋へ通され、霊夢の食事を分けてもらった。「明日の朝ごはんのつもりだったのに」と言われながら、麦飯と、味噌汁と、たくあんとメザシを食べる。

 その最中に、霊夢はバサリと新聞を広げ、流し読みしていた。文々。(ぶんぶんまる)新聞という、天狗が発行しているものなのだと、彼女は言った。

 すると、ソウガは顔を近づけ、こうたずねた。

 

「一体どんな事が書いてあるんだ?」

 

「どーでもいい事よ。河童が何かを発明しただの、吸血鬼が何かを手に入れただの。……見る?」

 

 ソウガも受け取って読んでみたが、なるほどつまらない記事ばかりだった。社会の動きや著名人の発言を記し、批評する……彼のイメージしたような箇所は、見つからなかった。まるで週刊紙の三文特集だ。

 

「……冷めるわよ? ごはん」

 

「ああ、悪い」

 

 新聞をていねいに畳んで置き、ソウガは食事にもどる。直前までの失望に満ちた彼の目は、新聞に隠されて霊夢には見えていなかった。

 

 その後に風呂をすませ、ソウガは寝室、もとい使っていないらしい部屋に案内された。障子からもれる月明かりをのぞけば光源のない、暗い部屋。

 ソウガが布団をしいていると、白い襦袢を着た霊夢が、一抱えもある見慣れない箱を持ってくる。木の枠の内側に、白い薄紙が張ってあるものだ。

 

「こいつは?」

 

「行灯よ。知らない? この中に火が入るの」

 

 霊夢はそう言って、行灯の内部へ手を入れた。ソウガが覗き込むと、巫女ならではの力だろうか。素手から内部のろうそくへ、何も無いのに火がともった。

 

「……へえぇ」

 

「消す時は自分でやってね。私ももう寝るから」

 

「おう……」

 

「あ、それと風が入ったら普通に消えるから。その辺はただの火だから、安心して」

 

 霊夢はそう言って、さっさと自分の部屋へ引っ込んでいった。その時、行灯に照らされたソウガの顔は、陰影のせいか不気味にゆがんでいた。

 そして、行灯の明かりをまじまじと見つめる。暗闇の中で目をぎらりと光らせるその姿は、なにやら恐ろしい考えでもあるようだった。

 

「…………」

 

 数秒して、彼はいそいそと布団にもぐった。しかし、相変わらず目をむいて、表情をはりつめさせている。眠るつもりがないようだった。

 

(風が入らないなら……よそ者が無理にでもやるしかないじゃないか)

 

――

 

 ……それから、数時間後。

 眠っていた霊夢はふと目を覚まし、瞬時に胸騒ぎを感じた。危険。天性の勘がそれを肌でとらえる。

 直後に、鼻をつく焦げくさい臭いと、視界に広がる燈色の光に気づく。それが夢ではなく現実だと分かった瞬間、霊夢は飛び起きた。

 部屋が、赤々と燃えている。畳からは膝丈ほどの高さの炎が、すでに布団を取り囲むようにして燃え広がり、ふすまや柱など、部屋のあちこちが火に舐められている。空気が熱に満ち、ガスの悪臭が焼けつくように全身を包む。

 

 霊夢は袖で口をおおい、炎をウサギのように飛び越えてソウガの部屋へ急いだ。すでに炎が高くなっている廊下を駆け抜け、半分が焼け落ちている部屋のふすまを力任せに蹴破る。

 

「ソウガ!! 起きなさい!! 火事……よ……」

 

 ゴオゴオと止まない炎のうねりに負けないようにして霊夢は怒鳴ったが、部屋の内情を見て、ポカンと言葉を失った。

 ソウガの布団には誰もおらず、それどころか燃え上がって一部が黒くなっている。よく見ればあの行灯から、畳、障子、柱に天井の一部まで……その部屋のありとあらゆる物が、いっとう酷く燃えている。

 先に逃げたのだろうか。そう焦りながら部屋を見回すと、霊夢は部屋の片隅にあるものを見つけた。

 薄く灰色の紙片が燃え、炭化している。炎の光のおかげで正体はすぐに分かった。新聞だ。

 

「……!」

 

 居間にあったはずの新聞が落ちている事から、霊夢は瞬時に何があったかを推察する。そもそも何故この部屋が一際はげしく燃えているのか。この部屋にわざわざ新聞を持ち込めるのは誰か。布団脇の、行灯の火をいじれるのは誰か。

 そして、霊夢に火事を知らせもせずに部屋からいなくなっているのは、誰か。

 霊夢は一足飛びに障子へ体当たりして突き破り、縁側から外へと脱出する。そして庭から神社の全容を見て、がく然とした。

 

 神社が、すでに半分ほどを炎に喰われ、燃えている。原型をとどめている骨組みからあふれ出すように、音をたてながら炎が空へと伸びている。残骸を支えている柱は炎に呑まれながら、あわれに細くなった影をギィギィと揺らしている。

 のどかな星空のもとで、燃え上がるそれが境内を真昼のように照らしていた。

 

「なんだ、起きちまったのか」

 

 立ちすくんでいた霊夢の頭上から、つまらなそうな声が降ってくる。声色で分かる。霊夢は顔をあげて叫んだ。

 

「……ソウガっ!! これはなんのマネよ!?」

 

 視線の先には、神社の屋根に立って見下ろすソウガの姿があった。シャツに短パン、はだしという部屋着すがただったが、炎に照らされているせいか、姿が黒く浮かび上がって見える。

 ソウガはにやりと笑い、肩をすくめて言った。

 

「いやぁ、神社が燃えたら、もしかしたら騒ぎになるんじゃないかと思えてね」

 

「はぁ!?」

 

 理解できないという顔で叫ぶ霊夢。その目を見ながら、ソウガは敵意のにじんだ表情で続けた。

 

「聞けば幻想郷(ここ)は、人間は妖怪とかに閉じ込められてるそうじゃねえか。そんなの聞いて黙ってられねえよ。ぶっ壊してやらなきゃと思ったんだ」

 

「それでなんで、私の家を燃やすのよ!?」

 

「分からないか? エライ巫女さんのおわす神社なんだろ? そんなの、みんな気にするだろうよ」

 

 話すうちに、ソウガの声色にも怒りが混じりだす。濃くなった敵意をぶつけられ、霊夢はおぼろげながら彼の考えを理解した。

 おそらく彼は、今の管理された幻想郷の姿を"悪"ととらえたのだろうと。特に人間たちは不満を溜め込んでおり、霊夢などの影響力のある人物が派手に死ねば、なんらかのアクションを起こすに違いないと思っているのだ。

 

 迷い込んで間もないうちからの、あさはかな思い込み。しかしソウガは目に一点の迷いもなく、使命感すら帯びた顔つきで霊夢をにらんでいる。

 その短絡さ、理不尽さに霊夢が思わず言い返そうとした時、彼女の肩を誰かがたたいた。

 

「何があったんです?」

 

「神子……!」

 

 振り向いた霊夢の視界には、あの昼間に会った神子がいた。彼女にはめずらしく、表情に焦りと困惑が浮かんでいる。

 

「それが……アイツが、神社に火を……!」

 

「火……?」

 

「いよう、神子。いやミコミコってややこしいな、ははは」

 

 指さす方向を見上げる神子に、ソウガが笑いかける。その笑みはおだやかではなく、達成感のあるそれに見えた。

 そこからただよう欲望を耳でとらえ、そして昼間の言動を思い出し、神子はつぶやく。

 

「……テロル、か」

 

「は? なんて……」

 

 隣で霊夢が口をはさもうとした時。

 不意に、人を押し流すかのような突風がどうと吹き荒れた。同時に上空で風の荒れ狂う音が響く。三人が空を見上げると、いつの間にか暗雲がたちこめ、その向こうで雷の轟きが聞こえた。

 そして何の前触れもなく、無数の雨粒が矢のように素早く地上に降り注ぎはじめる。それはまるで滝のように木々を、地上を、人を濡らし、気温までまたたくまに引き下げた。

 

「きゃっ!?」

 

「くっ……」

 

 悲鳴をあげる霊夢を、薄着の神子がとっさにかばう。身体中をあっという間にずぶ濡れにする二人の頭上で、天を割るような音と共に稲妻が光る。

 いきなりの天候の変化に、ソウガも戸惑ったように空を見上げていた。その瞬間、何かに気づいた霊夢が、雨風の中で声を張りあげた。

 

「ソウガ! さっさと下りなさい!」

 

「っ……なんだ急に!」

 

「この気配……龍神様がくる!!」

 

「……龍、神……!?」

 

 龍神様、そう口にした霊夢は、今までとは比較にならないほど血相を変えていた。隣の神子も、ハッと顔色を変える。

 

「龍神様ってのは……幻想郷を創った神様なの!! 何が起きるか分からないわ。早く来なさい!!」

 

 よほど恐ろしい存在なのか、霊夢は必死にソウガへ呼びかける。そうしている間にも風雨は勢いを増し、ソウガの足元で瓦が数枚はがれていった。

 しかし、ソウガは屋根にはいつくばりながらも、何やらヤケクソな笑みをたたえ、空を見ながら言った。

 

「神か……。面白い、こうなりゃ直接文句を言ってやる!」

 

「ソウガ!!」

 

 とんでもない事を言い出したソウガに、霊夢は金切り声をあげる。その直後、空から低く、巨大な、鼓膜をしびれさせるような轟音が鳴り響いた。

 それは今までの雷の轟きとは違っていた。上空にありながら地の底から響くような、重く長い、うなり声に似た音。

 三人が見上げた上空の、ほんのわずかな暗雲のすき間から、蛇の腹に似た、しかし日本の東西に横たわるかと思えるほどに大きく太い、まがまがしいモノの一部がのぞいた。星をかすめるように空を泳ぐ姿を、周囲の稲妻が照らし出す。

 その異形をキッとにらみつけ、ソウガは挑戦的に叫んだ。

 

「俺は今宵、神と対面する!!!」

 

 大真面目にそう言った。その瞬間、ぱっと稲妻が光り、空一面が真っ白に染まる。ソウガ、霊夢、神子がそろって思わず目をつぶると、一瞬おいて、光が消えた。

 

「……あれ?」

 

 薄目を開けながら、ソウガがふと間抜けな声をあげる。前は見えないが、肌で分かるほどに周囲がすっかり様変わりしていた。

 叩きつけるように降っていた豪雨がやんでいる。体にむかって弾けてきた水滴たちは打ち止めになり、ぽつぽつと徐々に垂れ落ちていく。

 津波のような勢いだった強風が消えている。ソウガを今にも屋根から振り落としそうだった風はすっかり消え失せ、おだやかなそよ風が吹いている。

 ソウガはいぶかしみながら、おそるおそる目を開けた。

 すると、東からの太陽で白んでいた空が目に入った。あの暗雲におおわれた天気も、またたいていた雷もウソのように、さわやかな水色の夜明けが広がっている。あの絶大な龍神も見当たらず、ただ一部とすげ替わるようにして空には薄い虹がかかっていた。

 ソウガは、ハッとなって下を見た。自分が火をつけ、燃やそうとした神社。しかし雨のせいで、すっかり火は消し止められていた。ところどころ炭化して崩れてはいるが、せいぜい半焼というところだ。

 

 朝になったのだ。いつものように。濡れネズミになりながらヨロヨロと立ちあがり、ソウガはそれを実感した。

 幻想郷の要所たる神社に火をつけ、巫女の抹殺はかなわなかったが龍神とやらが図らずも出現して。何かが変わるような気がしていた。自分が変えられるような気がしていた。具体的に何が変わるのかはよく分からないが、とにかく重大な事を成し遂げられるような気がしたのだ。

 しかし今のありさまは、シャツに短パン姿で雨に濡れ、焼け残りの神社の屋根に突っ立っている、あわれな少年。革命家でも、英雄でもない。それどころか放火殺人未遂の、考えなしのバカ者だ。

 朝方の冷風にさらされ、ソウガが呆然としていると、霊夢が下から怒鳴った。

 

「コラ! いいかげん下りて来なさいよ!」

 

 その声は憎しみをたたえていたが、どこか呆れたような響きがあった。俺を見下す気か、あわれむ気か。我にかえり、自分でもはかり知れない屈辱と後悔に体を震わせ、ソウガは怒鳴りかえした。

 

「うるせえっ!! これで終わりだと思うなよ。まだ……」

 

 ソウガは霊夢をにらみ、拳をにぎる。こうなれば体を張って勝負してやる。そんな意気込みが突如として、ムラムラと湧きだした。

 思えば、そんな事をして何の意味があるのだろうか。ソウガにも分からなかった。しかし、自分が何もできない、無力な人間なのかと思うと、意味がなくとも派手な所業をしでかしてやりたくなるのだ。

 

 フラフラと屋根を歩くソウガの、その危険な色をした瞳を見て、霊夢が身構える。神子も顔色をけわしくした。

 一歩ずつ、斜めの濡れた屋根を進んでいく。その時、ソウガは足をすべらせた。

 

「わーーーーっ!!」

 

 長い悲鳴をあげながら、彼はあっさりとバランスをくずし、変な格好で境内に落下した。ドスン、ゴキッ、と妙な音がして彼は地面に倒れ伏す。

 霊夢たちはしばらく、動けなかった。数秒ほどして我にかえり、バタバタとソウガのもとへ駆け寄る。

 しかし、神子が血のついたソウガの顔や首をすばやく探ると、静かに首を横に振った。

 

「……ダメですね。打ち所が悪かったようだ。首が折れている」

 

「……そんな」

 

 神子は冷静に言うと、霊夢はしばし戸惑い、八つ当たりのようにつぶやいた。

 

「……全く、私が一体何をしたってのよ。死ぬかと思ったわ」

 

 そう言って彼女は鼻を鳴らしたが、神子は何故だか深刻な顔をして、ソウガの死体を見やった。

 

「……いえ、霊夢は悪くありません。私も、この子のこじらせっぷりを甘く見ていました」

 

「はぁ?」

 

 眉をひそめる霊夢。神子はソウガをかがんで見つめ、苦笑して続ける。

 

「この年頃の子は、とにかく行動が突拍子もないですからね。もう少し慎重になるべきでした」

 

「……いい迷惑よ。大人しくしてくれれば何も起きなかったのに」

 

「そうはいきませんよ」

 

 神子は立ちあがり、笑ったまま霊夢を見た。まごつく霊夢に、彼女は静かに語りかける。

 

「とにかく、どこかへ埋めてしまいましょう。今回の事に、政治的な意図などなかった。単なる不審火です。そうでしょう?」

 

「……それは……」

 

「その方が()()()()()。ね?」

 

「…………」

 

 愚痴る霊夢をなだめすかし、神子はソウガの死体を二人で運び出す。生気のない重みを感じながら、神子は独り言のようにつぶやいた。

 

「しかし、"神と対面する"とは、なかなかの大言壮語ですよねぇ、あはは」

 

「……実際に会えたじゃない。このバカは不満だったみたいだけど、あんな事しといて何を期待したのかしら」

 

「そりゃあ、向き合って欲しかったんでしょう」

 

 神子があんまり当然のように言ったので、霊夢は思わず足を止めてしまう。神子は小さく笑って、こう語り出した。

 

「人間、親や周りの大人や、友人や、恋人や、みんなにリアクションを求めるものです。この年頃は、特に激しい」

 

「私の神社もそれで燃やされたっていうの?」

 

「ええ、社会へのアプローチの一種と言えるでしょう。結局は社会どころか龍神様に会ってさえ、満足は得られなかったようですが」

 

 神子は脇に視線を流して笑う。霊夢は深いため息をついた。

 

「ワケ分かんない……。大体、満足って何よ。どうすりゃいいのよ」

 

「そこなんですよねぇ。一概には言えませんが、この年頃の男の子って、大体……」

 

 神子はいったん言葉を切り、薄笑いをして言った。

 

「『俺はすごい事ができるぞ! どうだ!』ってなもんじゃないですか?」

 

「はぁ?」

 

 霊夢が声と方眉をはね上げる。神子は笑ってせきばらいをし、たしなめるように言った。

 

「いやいや、下らないなどと言ってはいけません。皆そうなんです。行為はともかく、気持ちは分かってやらねば」

 

「冗談じゃないわ。私は家が丸焼けで、そのうえ死にかけたのよ!?」

 

「うーん、冥福だけでも祈ってやってくれませんか」

 

「お断り。迷惑にもほどがあるわ。祈るならアンタ一人でやりなさいよ」

 

「分かりました。そうしましょう」

 

 そう言って、神子は静かに合掌した。霊夢に奇異な目で見られながら、彼女は"迷惑"という言葉を、もっともだと思いつつもなんとも悲しく、ソウガを悼んでいた。

 

カムロ ソウガ――死亡




――「俺だって生きてるんだ」と彼は腹だたしげに言う。

「おめえは死ね。おめえなんか、もう死んじまったっていいんだ。だが俺の方はそうはいかねえんだ。これからいくらでもやることがあるんだ」

「何をやるんだ」

「そんなことは子供にゃわからん。だが俺はすばらしいことをやるんだ」

彼は私より五、六歳の年長者だが、私より十歳もふけて見えた。そしていじめつけられて暮した、若者の陰気なニヒリズムが、荒々しい性慾と反抗心の澱みに影を落していた。――

武田 泰淳著 『異形の者』より


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死者への贈り物

「えぐっ、ひぐっ……」

 

 日も差さない深い森の中、一人の少女が、茂みの陰にうずくまって泣いていた。

 ブレザーの制服を着た小柄なその少女は、全身を泥だらけにして、服のあちこちに擦り傷をつくっている。

 内はね気味のマッシュルームヘアは無惨に乱れ、血色も青黒い。その姿は、今の汚れた格好が昨日今日に始まった事ではないのを示していた。

 少女は息すらもおぼつかない様子で、すぐそこにある4、5メートルほどの崖を見つめた。はたから見るとちょっとした高さの岩にしか見えないが、その岩肌はゴツゴツと尖り、苔むしている。上から滑り落ちればただではすまないだろう。

 

 その時、崖のむこうで低い吠え声が響いた。狂暴さをむき出しにした、狼とも熊ともつかぬ地の底から響くような声。今まで聞いた事のないようなそれを耳にした少女は、反射的に耳をふさいだ。視線を、ちらと自分の足元へ向ける。逃げるさいに折れた片足が、かすかに曲がっていた。

 

 なぜ、こんな事になってしまったのだろう。彼女は唇をかんだ。なにも、好きこのんでこんな人里はなれたような場所に来たわけではない。ただ、思い返すと、理屈に合わない理不尽が原因だとしか思えないのだ。

 彼女は両手のひらを合わせ、静かに目を閉じ、思わず祈った。

 

(神様、仏様。助けてください――!)

 

 ……少女、カタセ ナオミは、自分の中学の修学旅行に参加していたはずだった。一日目の予定を終え、二日目の移動バスに乗っていたところまでは、何事も変わったところはなかった。

 しかし、走行中に突如バスが真っ白な霧に包まれた。何の前触れもなく、ナオミなどは火事の煙かなにかかと疑ったくらいだ。

 だが、それはただの霧や煙よりずっとタチの悪いものだったと思われる。なにせ、ナオミはそこから意識がとぎれ、気づけば誰もいない野原に倒れていたのだから。

 携帯も通じない。道路もない。地平線を見渡しても建物の影すらなく、あてになるのは舗装もされていない頼りない細道だけ。彼女はしかたなくその道をたどっていった。

 結局、色々あって放浪は二、三日つづいた。その間に日が沈み、昇り、かわりばんこに暗闇と寒さにおびえて、一度は雨が降った。修学旅行の荷物に入っていた飲み物や菓子は食べつくし、ついには邪魔になって捨ててしまった。そしてついにはその身ひとつまで危なくなってきている。

 

 ナオミがうずくまって過去を思い返していると、崖のむこうでまたあの不気味な鳴き声がした。今度は短く八つ当たり気味で、その後は小さくうなりながら、少しずつ遠ざかっていった。

 1分ほどしてその気配が完全に消えると、ナオミは大きく安堵の息をついた。この見知らぬ世界に来てから、さっきのような狂暴な鳴き声を何度も聞いた。時には猿のようであったり、鳥のようであったり、とにかくどこにいても、どこからか狙う動物たちがたくさんいる。

 何度か姿を見た時もあったが、それは鳴き声よりもさらに衝撃だった。翼を生やしたシカ、一抱えもありそうなリス、角を生やしたイノシシなど、およそどこの国にもいないような奇怪な動物がいたのだ。

 ナオミは混乱しつつも、とにかく逃げ回った。茂みをかきわけ、息をひそめ、追いかけられる度にそれを繰り返した。そうしてまっすぐに進む事はかなわず、結果、彼女は今、森のただ中で動けずにいる。

 

 折れ曲がった足は、やはり無理やり動かすのは危険そうだった。肌の上まで赤黒いアザができ、無数の擦り傷と相まって痛々しい様相を呈している。なぜ女子は一律スカートなんだろう、などと口をへの字に曲げて、しかしすぐに悲壮な表情を浮かべ、またうつむいた。

 これからどうすれば良いのだろう。事態も分からず、危険な動物に囲まれ、食料は尽き、動く事すらままならない。

 こんな状況から助かるのは、それこそ奇跡でも起きないと無理だろう。そして真の奇跡とは、得てして人の手だけで成せない事柄を言うのだ。

 「せめて――」そうつぶやいてナオミはちらと崖の下を一瞥し、そうしてしゅんと肩を落とし、今度は両手を組んで祈ろうとした。

 

 その時。

 

「ナオ!」

 

「きゃあっ!?」

 

 急に自身のあだ名を呼ばれ、ナオミは大きくのけぞった。声のした方角、崖のほうを見ると、同じ学校の制服を着た男子生徒が一人、バタバタとあわてて駆けてくる。

 

「よかった……ちゃんと、生きてたか……」

 

 その男子は安堵した様子で膝を折り、下向きにぜえぜえと息をする。服はナオミと同じように薄汚れ、一部は大きく裂けてもいた。

 一方、ナオミはといえば目を丸くし、なにやら信じられないという表情で相手を見つめている。

 ナオミが無言なのに気づくと、男子は顔を上げ、笑いながら言った。

 

「おいどうしたんだよ。俺の名前忘れたんか?」

 

「ヒロ……ヤ? ヒグチ ヒロヤ……だよね?」

 

「今さらなに首かしげてんだよ。さっきまで一緒にいたじゃねえか」

 

 男子、もといヒロヤは苦笑して言った。その表情はかすかに困惑してもいた。ナオミは名前を答えた後も、あんぐり口をあけて絶句している。

 ヒロヤは頭をガリガリとかいて、しみじみとした様子でこう漏らす。

 

「いやぁ、さっきまで気絶してたからさぁ。目が覚めたらお前がどうしてるかと気が気じゃなくて」

 

「き、気絶? でも確かに……」

 

「あん時さぁ、変な動物から逃げて崖を下りたろ? たぶん落ちて頭かどっか打ったんだな。お前は後から来てたっけ」

 

「う、うん……そうだったと思う」

 

「ああ、よかった。ホント食われるかと思ったもんなぁ」

 

 ヒロヤはそう言って、また笑った。ナオミはそれを見ながら、相変わらず無言で彼を見つめている。助かったと気弱く笑っている表情とは対照的な、緊張した目つきだった。

 ふと、ヒロヤが真面目な顔になってナオミを見る。

 

「そこ……怪我したのか」

 

「え?」

 

「足だよ。折れてないかソレ?」

 

 ヒロヤは、変に曲がった片足に目を留め、屈んでまじまじと見つめる。ナオミも我に返ったように沈んだ表情になった。

 試しに動かそうとしてみるが、すぐに芯まで響く痛みに目をつむる。立ち上がる事さえ辛そうだった。

 ヒロヤはそれを見て神妙に考え込み、やがて膝をぱんと叩いて立ち上がった。

 

「仕方ない。ちょっと俺、イチかバチか助けを呼んでくるよ」

 

「え!? でも、だって……」

 

「背に腹は変えられねえよ。ちょいと一人にしちまうが、待っててくれ」

 

「大丈夫なの!?」

 

「分からん! もし夜までに戻らなかったら……悪いけど、とにかく移動してみてくれ!」

 

 驚くナオミをよそに、ヒロヤはまっすぐ――先ほど下りたらしい崖に背を向ける形で――飛び出した。その後ろすがたに、「待って!」と切迫した声がかかる。

 

「ん?」

 

 ヒロヤが振り返る。眉をひそめてじれったそうな、加えて間違いなく真剣な表情。それを見たナオミは、一瞬だけ息を呑み、心配そうにヒロヤを見つめて、やがてうなずいてこう告げた。

 

「……気をつけてね」

 

「おう、分かってる!」

 

 ヒロヤは頼もしげに笑うと、地面を高く蹴って一直線に森の奥へとつっこみ、そして見えなくなった。

 一人になったナオミは、またうつむいて無言になった。時刻が夕方に近づいたのか、森の陰と湿気が濃くなった気がする。

 よく見ると、黒アリの群れが列をなし、ミミズの死体にたかっている。ミミズは身じろぎ一つしない。すでに死んでいるのだろう。

 それをうつろな目でながめていたナオミは、ふとあの崖の方へと視線を移す。そして崖の下にある、地面に横たわるものへ目をこらした。

 

 一人の、()()()()()()

 

 ナオミは眉間にシワをつくり、いぶかしむような、しかし何かにすがるような悲観した表情で、天をあおいで両手を組んだ。

 

(神様……ヒロヤを、あの子を助けてください。お願い……!)

 

――

 

 一方、ヒロヤは森の道なき道をひたすらに進んだ。険しい段差や、相変わらず見慣れない小動物などにかまってはいられない。ただ、あの動けずにいるナオミを助けたい。その一心で動いていたせいか、体をむしばんでいたはずの空腹や疲労がさほど気にならなくなっていた。

 ナオミとヒロヤは、幼稚園の頃から一緒の同級生だった。恋愛感情はないが、なんだかんだ話す機会が多かった。生きるか死ぬかの(何が起きたかは依然として分からないが)この状況で、助けなければと思うくらいには、親密だったのだ。

 木々のすき間を抜け、日光が差して明るく見える方角を目指し、かれこれ数時間も足を動かす。その間、今まで目を光らせてきたはずの森の獣たちは、不思議とヒロヤに近寄ってこなかった。

 

 そうして、いつしか森を抜け、土がむき出しになった一筋の道を歩き続け、かれこれ5、6キロは歩いたかと思えた頃。

 彼はついに、地平線の先に建物が立ち並ぶ集落らしきものを見つけた。希望をもって駆け出し、息を切らし、その集落にぐんぐん近づいて門らしき場所までたどり着いたところで、ヒロヤはあぜんとした。

 そこにあったのは、まるで時代劇にでも出てきそうな、馴染みのない古めかしい街だった。建物はほぼ全てが木造で、屋根は瓦、窓にはガラスもなく、お店らしきものの玄関先にはのれんがかかり、のぼりがはためいている。

 京都を観光したらこんな感じだろうか。立ち尽くしていたヒロヤは、ふらふらと門をくぐる。視線をさまよわせ、かすむ意識の中でとにかく人に相談しようと頼れそうな人物を探す。

 

 人間自体は、すぐに何人も見つかった。着物を着てかんざしをつけた女の子や、袴に草履をはいた中年男性、そして着物、袴、白いフランネルのシャツにブーツといったチグハグな格好の者までいる。

 彼らはヒロヤを見て、一様に驚いた顔をすると、口々にこうささやいた。

 

「あの子、見慣れない格好ね」

「服ボロボロだぜ」

「いったい誰だろ? 何があったんだ?」

「話しかけていいもんかねぇ……?」

 

 まるでよそ者、不審者のような扱い。ヒロヤはますます訳が分からなくなった。この場では、自分が浮いた存在らしい。

 この世界は、この街はどうなっているのだろうか。助けを求めてここまで来たが、果たしてうかつに接触して良いのだろうか……?

 

 溜まった疲労とストレス、そして湧いてくる困惑によって、ヒロヤはその場に呆然としていた。周囲の奇異の目もかまってはいられない。考えるだけのエネルギーが足りなかった。

 と、その時。薄笑いを浮かべて頬をつねろうとしていたヒロヤへ、遠慮がちに話しかけてくる者がいた。

 

「あ、あの……大丈夫ですか?」

 

 その声にハッとなり、ヒロヤはあわてて目の焦点を合わせる。そこにいたのは、ヒロヤと同じくらいの背丈の、可愛らしい少女だった。

 銀色の髪をおかっぱにし、頭頂部に黒いリボンを巻いている。服装は半袖の白ブラウスに、胸元にリボン、その上に緑色のベストと、緑色のスカート。細身の足に白い靴下と、黒のストラップシューズを履いている。

 その娘は驚くべき事に、腰に長刀と脇差しをたずさえていた。顔があどけない印象なために、その物々しさがかなり浮いている。

 物騒な代物に目移りしていたヒロヤは、不審な顔をするのをこらえつつ、やっとの事でたずねた。

 

「あなた、は?」

 

 少女は、にこりともせず答える。

 

「私は、魂魄 妖夢。……半人半霊の剣士です」

 

 半人半霊……ヒロヤの姿を一通りながめた少女は、付け加えるように言った。そのフレーズに首をかしげているヒロヤの目の前に、ふわりと浮かぶ白い人魂のようなものが現れた。

 

――

 

「……しかし、あなたも災難ですね。とにかく急がないと」

 

「正直なところ、いまだに信じられねえよ。俺は」

 

 それから30分ほど後、ヒロヤは声をかけてくれた少女、妖夢と一緒に集落から森へと来た道をもどっていた。二人とも紐でしばった行李箱を背負っている。中には、妖夢が里で用意してくれた飲食物や包帯が入っているのだ。

 集落を出てからこっち、妖夢はこの世界の正体をヒロヤに話してくれた。

 いわく、ここは幻想郷といって、現代で居場所がなくなった存在が流れ着く場所なのだという。そこでは人間はむしろ少数派で、かわりに妖怪や神様や妖精が我が物顔をしているらしい。

 ヒロヤは最初は嘘だと思ったが、思い返してみると納得できる部分もあった。奇妙なほど人や人工物が見当たらないのもそうだし、なにより、幻想郷をさまよった時に視線を向け、時に襲ってきた奇妙な動物たちが妖怪だったのだと考えれば、つじつまが合う。

 

「とにかく、この先にその女の子がいるんですね?」

 

「ああ、足を怪我してるんだ。早く行かねえと死んじまう」

 

 ヒロヤは振り返らずに答えた。無言で記憶を頼りに先を歩き、足音がひっきりなしに続いて、行李を背負いなおす音が時おり鳴る。

 そうしてしばらく道なりに行き、日が半ば傾いてきた頃、さすがに疲れたのかヒロヤは立ち止まり、痛ましげに膝をさすった。

 

「大丈夫ですか?」

 

「ああ悪い……。今までぶっ通しに歩いてたからさ……」

 

「ちょっと休憩しましょう。いざという時に動けなかったら危険です」

 

 妖夢がそう促すと、ヒロヤはしぶしぶ行李を置き、腰を下ろす。妖夢も座り、ふぅとため息をついた。

  午後のそよ風が吹き、妖夢が気持ちよさそうに目を細める。しかし、その間にもヒロヤは落ち着かない様子で、顔を険しくしてそわそわと視線を動かしている。

 それを気にかけてか、妖夢がふとたずねた。

 

「……心配ですか? その女の子が」

 

「そりゃまあ、付き合い長いからな」

 

 ヒロヤはぶっきらぼうに言った。当たり前だが、一人で置き去りにしている以上、安心できないのだろう。それでも、気まずくなるのを防ぐためか、思い出したようにこう口にする。

 

「……さっさと助け出さないと、またお祈りしはじめるぜ。昔っからそうなんだ」

 

「お祈り?」

 

 妖夢が首をかしげると、笑って答えた。

 

「ああ。クセになってんのか、よく神様仏様~ってやってんだよ。中学生にもなって『いただきます』も欠かさないんだぜ」

 

「…………」

 

 呆れたように話すヒロヤを、妖夢はジッと見つめていた。その目は友人を茶化す不謹慎さをとがめるものではなく、まさか、と何かを疑っているように見えた。

 妖夢はヒロヤに駆け寄り、勢いこんでたずねる。

 

「あ、あのヒロヤ君!」

 

「ん? 何?」

 

「その子……たとえば、死んだ人とかには、どう接していました?」

 

「死んだ人ぉ? そりゃ、もれなく手を合わせて弔うに決まってんじゃん。まあ葬式とかじゃ当たり前だけど、アイツはーそうだなー」

 

 妖夢の切羽つまった顔とは対照的に、しめっぽい思い出話でもする風に彼は答える。

 

「小さい頃は、車にひかれたネコとか、虫の死体とかまで気にしてたし……ま、人が死んだらまず祈るだろうさ。どこでも」

 

「…………」

 

「性分ってのは抜けないもんだよなぁ。死んだらただの肉じゃん? 言ったら悪いけどさ」

 

 「それがどうかした?」とあっけらかんとしているヒロヤ。対する妖夢は顔をますますこわばらせ、蒼白になって冷や汗まで流しはじめた。

 

「まさか……気づいてない……?」

 

「へ?」

 

()()……だって事に……」

 

――

 

 ……その頃、森にいるナオミは、痛む足を四つん這いになって引きずりながら、ズルズル崖のふもとに近寄っていった。そしてあるもののそばまで来た時、彼女は眼下のそれを切なげに見つめる。

 そこには、"ヒロヤが倒れていた"。頭から血を流し、首が妙な方向に曲がって、目を閉じた表情に生気はなかった。

 死体、である。

 妖怪から逃げていた二人が崖から降りるさい、ヒロヤはあやまって足をすべらせ、その時に死んでいた。ナオミはそれをクッションにして骨折だけで済み、逃げ切れたのだ。

 

 なぜヒロヤが二人になって動きだし、自分を助けようとしているのか、彼女には分からなかった。緊張と疲労と空腹でまいった頭では、とうてい先の不可思議な現象を理解できなかった。

 ただ、死んだはずのヒロヤが、何かの間違いでしかるべき場所に行けていないのだけは理解できた。

 安息の場所に行けないのは、不幸な事だ。それを正すすべを、ナオミは知っていた。現代日本ではもっぱら形式的に行われていた作法。

 

 ナオミは、死体にむかって静かに手を合わせた。そして迷いにとらわれないようにと祈った。その姿は真摯な、現代にいた時から変わらない素朴なものだった。

 仏教式にしろ、キリスト教式にしろ、祈る時の彼女は、雑念や打算や欲心というものが胸中からすっぽり抜けていた。まるで心が洗われたようにひたむきな気持ちになる。世界各国のさまざまな宗教の人々が、古来より祈ってきた気持ちを、ナオミは幼い頃から分かるような気がしていた。いや、あえて俗な言い方をするなら、小さい時に仏壇などに手を合わせてから、クセになっていたのだ。

 

 だが、祈りというものがどのように作用するか、完全に把握できる者は一人もいない。祈る以外にない、あるいは祈るべきだと「あくまで思った」瞬間に、人は祈るのだ。

 ことにこの幻想郷において、祈る行為がどのような意味を持つか、ナオミは知るよしもなかった。

 

――

 

「は、早く行きましょう! 急がないとダメですよ!」

 

「は、え? なんだ急に」

 

 一方、一休みしていたヒロヤらであったが、やにわに妖夢が騒ぎだした。眉をくねらせるヒロヤの手を、彼女は強引に引っ張る。

 

「痛いって! ちょっと落ち着け!」

 

「緊急事態なんですよ! 早くその女の子を止めないと……」

 

 妖夢は焦った声でまくし立て、ヒロヤを急かした。ワケが分からずに戸惑っていたヒロヤは手を振り払い、おそるおそる言う。

 

「どうしたんだよ。てゆうか……」

 

「…………」

 

「さっきの"怨霊"って、何の話だよ」

 

 少し険のある言い方になるヒロヤ。怨霊とは、彼にとっておよそ真面目な話にはそぐわない言葉だった。

 だが、妖夢は相変わらず切羽つまった表情で何かを言いかけ、そして不意に口をつぐむ。

 

「それは……あなたが既にっ……いや」

 

「なんだよ、ハッキリ言えよ?」

 

「ダメ……言ったらダメなんです!!」

 

 じれったくなって詰め寄るヒロヤに、妖夢はぶんぶんと首を横に振った。取り乱している理由を言わずに、彼女は再度、腕を引っ張ろうとする。

 

「と、とにかく! その場所に行くのが先です! 女の子を助けたら、全部お話しますから!!」

 

「お、おう……」

 

 目をいっぱいに見開き、信じてくれと言わんばかりの剣幕で叫ぶ妖夢。その勢いに押されてか、ヒロヤも面食らいながらうなずいた。

 しかし、彼が妖夢の手を取ろうとした、その瞬間。

 

「あッ」

 

 ヒロヤの口から、しゃっくりに似た悲鳴が漏れた。同時に妖夢も息を呑む。

 なんという事か。ヒロヤの体からすうっと色が抜け、薄くなったかと思うと、指先からじょじょに煙のように消えはじめたのだ。

 ヒロヤも気づいてあわてだし、口をパクパクと動かしたが、言葉の一つも出てこない。そうこうしているうちに胴体も景色が透けるほどに薄くなり、ついには溶け込むようにして、髪の毛一本のこらず、彼は消えてしまった。

 

「…………」

 

 妖夢は手を差し出した格好のまま、ヒロヤが消滅したその真ん前に立ち尽くしていた。その表情はしばらくショックを受けて固まっていたが、やがてやりきれないような、しかし納得したそれに変わった。

 

 ――幻想郷において、死者の魂が彼岸を渡らずに現世に留まる例はたくさんある。その中で、"怨霊"と呼ばれるものは、人間と同じような体と意思を持つと言われている。

 それらが生まれるには、二つの場合がある。

 

 一つ目は、自分が死んだ事実に気づいていない者。自分が生きていると勘違いしている者は、死に気づくまで記憶もそのままに、生前と変わらず行動する。

 

 二つ目は、強い未練を持つ、あるいは何らかの手順を踏むなどして、意識的に怨霊になった者である。

 このパターンは死してもなお動くような邪悪な意思や目的を持っている場合が多いため、幻想郷では危険視されている。

 

 ヒロヤは死に気づいていない、つまり前者の怨霊であった。そのために妖夢も死を告げるのをためらったのである。

 しかし、どちらの種類の怨霊も必ず成仏させられる、便利な方法が一つある。

 

 『死体を供養する事』だ。

 

 森の中にいたナオミが、ヒロヤの死体に手を合わせた時、ヒロヤの魂は行くべき場所へと送られたのだった。本人も、供養した彼女も知らないうちに。

 妖夢は、ヒロヤが座っていたその場所に、ため息まじりに手を合わせた。

 

 ――

 

「……いた。あれね」

 

 ヒロヤがくわしい場所を口で伝えていなかった為に、妖夢が森で二人の死体を見つけたのは、それから二日も後だった。

 妖怪に食われずに衰弱死したのか、土に横たわったナオミの死体は傷一つなく、きれいな状態だった。隣には、先に死んで腐敗が進んだらしき男子生徒、ヒロヤの死体がある。

 ヒロヤの体には、遠目に見ても分かるほど色とりどりの花がそなえられていた。一人になったナオミは、助けを求める事よりも、ヒロヤのそばにいて死を悼む方を選んだのだ。

 折れた足を引きずり、一本一本花を供えて、死ぬまで。

 

「"死んだらただの肉"、かぁ……」

 

 ヒロヤが消える前に言っていたセリフを思い出し、妖夢はなんとも苦い顔をしていた。

 

カタセ ナオミ、ヒグチ ヒロヤ――ともに死亡



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あなたの隣に

 シュウジは激怒した。今さっき読んだライトノベルを、全く存在に値しないと確信した。シュウジには需要が分からぬ。

 

 ニイミ シュウジは、日本生まれの中学三年生である。暇さえあれば漫画と小説を読み、ゲームをやって育ってきた。

 ブレザーが包む体は痩せぎすで、肌は青白く、背が高いにも関わらずたくましい雰囲気がまるでなかった。ものぐさのせいで髪はのび放題になり、後ろ髪は結んで前髪は目を覆い隠さんばかりになっている。その隠された目は、見るからに不満がたまってギラついていた。

 彼は先ほどため息まじりに閉じたラノベを、もう一度パラパラとめくってみる。視界は暗くなっており、読むのに疲れて、また閉じた。

 

 つまらない。というか酷い。

 内容は、高校のあるクラスが中世ヨーロッパ"風"の世界へ転移し、そこである一人の孤立ぎみだった少年がはぐれて苦難にあい、並外れた能力を手に入れて大活躍、というものだった。

 しかし、文章は素人に毛の生えた程度で、それを置いても主人公は知り合いであるはずのクラスメイトにぞんざいな態度をとり続け、能力を振りかざして周囲を見下し、批判には終始耳を貸さず、そのうえ現地の女の子たちには不思議とモテモテ……という、なかなかに人を選ぶ(実際、一部の界隈では人気を博しているらしかった)特徴がそこかしこにあった。

 しかし、シュウジが何よりも許せなかったのが、本来は異世界のロマンとなるであろうドラゴンやさまざまな怪物たちを、銃器をつくって蹂躙している部分だった。高校生が機械技術を持ち込んで使いこなす世界観のミスマッチもさる事ながら、古来より、英雄への試練であったはずの幻獣との対決が、まるで主人公の活躍の踏み台にされているのが我慢ならなかった。

 

「はぁー……」

 

 シュウジは深いため息をついた。異世界へのロマン、幻獣へのロマン、未知へのロマン。そんなものが、いつの間にか忘れ去られたような気がする。今まで見てきた娯楽作品を思い出して、彼は憂鬱になった。たまに変わり種でもと手を出してみたら、このありさまだ。

 

「こんな事してる場合じゃないんだがなぁ……」

 

 シュウジはそう言って、あおむけに転がった。視界には、夕暮れの明るい夜空が、いっぱいに広がった。辺りには街灯も、建物も一つもない。青々とした草原が広がり、遠くに山の陰がうつる。

 彼はかれこれ一時間ほど、この自然のままの見知らぬ場所にいた。果ての見えない野山を前に、足はとっくに動くのをやめている。

 こんな場所に来た理由は、シュウジにも分からなかった。ただ、修学旅行で乗っていたバスが、急に白い霧に呑まれ、気づけば一人でここにいた。

 最初こそ戸惑ったが、人の気配があまりに無いので、彼は早々にあきらめてしまった。なので日の沈んでいく間じゅう、のんびりラノベなど読んでいたのである。

 

「うーん……。いや、これは夢だろ。いくらなんでもありえない。そうに決まってる」

 

 今では目の前の光景を夢だと決めつけて現実逃避する始末。彼は開き直ったように手足をうんと伸ばし、頭の後ろで手を組んでぼーっとしだした。

 

「……………………」

 

 いつしか空は藍色に染まり、ぽつぽつとした見えなかった星が数えきれないほどに輝いている。プラネタリウムなどとは比べ物にならない、天然の宝石箱である。

 涼しい夜風が、ざあっと草をゆらす。満天の星空の下、ただ一人で草原に寝そべるという構図が、まるで一枚のイラストのようだとシュウジは思った。しかし、今ではれっきとした現実の感覚として伝わる。

 あのつまらないラノベの作者は、こんな風景に感動した事がないのだろうか。ふとそう思った。異世界に行けばおのずと、知らないものを次々と目にするはずだ。たとえば手つかずの自然、たとえば魔法、たとえば初めて見る動物……感動と恐怖のるつぼにはまって当然ではなかろうか。

 いや、そんな描写はあえてカットしているのかもしれない。しかしシュウジは、ものを感じとる感性や想像力が鈍っているためではないかと、つい考えてしまうのだ。

 彼は思い出す。家ではネットやスマホにかじりついてばかりで、アニメやゲームに夢中になっている、ある家族の姿を。

 似たような人間は、社会にたくさんいるのではないだろうか。

 

「……この体験を生かせば、俺だってもっとマシな小説を書けるんじゃねーかな。はは」

 

 シュウジは鼻で笑って、両腕を空へと伸ばす。はるか遠くの星空が、手の中に落ちてくるかのような錯覚。未知との遭遇、宇宙との抱擁、そんな言葉が浮かんだ。

 いまだ自分の置かれた状況は分からない。もしかしたら明日に死ぬのかもしれない。それでもこの光景を見て死ぬのなら本望だと、シュウジは思いはじめた。長らく愛好してきた娯楽作品まで、みみっちく感じはじめたところである。感激にひたって死ぬのも、素敵ではないか。

 いやむしろ、自分では及びもつかない雄大な自然、その中で死ぬかもしれないという緊張……そういったものに囲まれてこそ、神秘というものが味わえるのではないか。

 

「そうだ……降りてこい。とびっきりの神秘よ、降ってこい」

 

 そのうち眠気におそわれ、まぶたを半分閉じながら、シュウジはうわごとのように言った。

 そして瞳に映る景色が、とうとう糸のように細くなった時。

 

「こんばんは」

 

 不意に、上から魅惑的な女性の声が降ってきた。思わず目を開けたシュウジの視界に、空から顔をのぞかせる金髪の女性が映る。

 

「うわっ!?」

 

 シュウジは寝ぼけた状態から覚醒して驚き、女性の姿を見てまた驚いた。金髪の上に白く平たい帽子をかぶり、紫と白の導師服を着て、片手に傘を持っている。夜の暗闇に浮き立つような白い肌と、ぞっとするほど整った顔立ち。

 その風変わりな女性は、"空間の裂け目"としか形容しようがない紫色の空間から半身を下向きに乗り出していた。裂け目の奥では、無数の目玉がギョロギョロと動いている。

 

「は……え、え? 誰?」

 

 シュウジは口をあんぐりと開け、上体を起こして後ずさる。対して女性は宙に浮かんだまま、薄い笑みを浮かべて言った。

 

「あなた、名前は?」

 

「な、なまえ?」

 

「ええ、あなたの名字と名前」

 

「あ……ニイミ シュウジです」

 

 おっかなびっくりに答えるシュウジ。女性はそれを聞いてうなずくと、どこからか扇子を取り出して広げ、口を隠しながら言う。

 

「私の名前は八雲(やくも) (ゆかり)。この"幻想郷"を管理している妖怪よ」

 

「幻想……妖怪?」

 

 女性もとい紫の言葉に、シュウジは首をかしげる。そんな彼の前へぬるりと全身を出して降り立ち、紫は続けた。

 

「いきなり言っても理解できないわよね。……君、ここに来るまでに妙な目にあわなかった?」

 

「あ……まぁ、はい」

 

「それよ。そこにはちょっと事情があってね……」

 

 生返事をするシュウジへ、紫は現実離れした事を次々と話しだした。

 いわく、この世界は幻想郷といい、現代で忘れ去られた幻想、神様や妖怪がたくさんいるのだという。人間は外界とは反対に、小さくまとまって生きているらしい。

 ただ、現代との境目を守る結界が不安定で、シュウジをふくめた同級生らはあやまって迷い込み、今頃ちりぢりになっているだろう……というのが、紫の話した内容だった。

 

 シュウジは正直、半信半疑になりながら紫を見つめていた。確かに自分では何が起こったのか見当もつかぬゆえ、紫の言も一応は説得力がある。しかし、「そうですか」と納得できるわけではない。

 少し考えてから、彼はこう探りを入れてみた。

 

「あの……みなさん、ていうか妖怪は、こっちだと元気にやっているんですよね?」

 

「ええ、なんとかね。それがどうかした?」

 

「そもそも、なんでわざわざ結界までつくってこもっているんです? 外にはいられないんですか?」

 

 それを聞いた紫は、「あー、話してなかったわね」と言ってから、女性教師かなにかのように話しはじめた。

 

「まず、あなた方のいる世界では、妖怪なんて信じられていないでしょう?」

 

「ええ……そうですが」

 

「存在を信じられていないと、私たちはどんどん弱っていくのよ。だから幻想郷をつくって、そこに避難したの」

 

幻想郷(こっち)なら、大丈夫なんですか?」

 

「そう。幻想郷の結界は仕掛けがあってね。あなた方がゲームとかアニメなんかで妖怪をマボロシ扱いするだけ、こちら側の妖怪が強くなるの。だから、私たちは安泰ってわけ」

 

「ふぅむ…………」

 

 紫はわざとらしくウインクしてみせる。シュウジはその顔を見てしばらく無言でいたが、やがて納得したのか、一つうなずく。

 そして何を思ったか、急に声を出して笑いはじめた。

 

「あはっ……あはははは! なるほど! なるほどねぇっ!!」

 

「……?」

 

 けげんな顔をする紫をよそに、シュウジは額を手のひらで押さえ、投げやりな調子で話しだした。

 

「言われてみれば、たしかに妖怪なんて夢マボロシだよなぁ……。いや、それより酷いですよ、向こうは」

 

「……酷い?」

 

「そうですとも! マボロシならまだいい! 現代の扱いはそれどころじゃない、消費物だ、陳腐化ですよ!!」

 

 シュウジは口角を異常に上げてわめき散らす。その勢いにのけぞる紫へ、さらに激しく声をあびせた。

 

「見た事あるか分かりませんけどね、日本じゃ妖怪なんて、もうこれっぽちも恐れられていませんもん! もう大体がマスコットか、モチーフの材料にされてますよ!」

 

「…………」

 

「畏怖も崇敬もあったもんじゃない! 一部のバカどもがイメージを歪めに歪めてネタにして、いくつも矮小な代物をこしらえてんです。モノによってはネタどころかズ○ネタにして喜んでんだから、あ~~~~っくさいクサイ臭いっっ!!!」

 

「…………」

 

 シュウジが突然に早口となり、妖怪の権威の失墜を熱弁するさまを、紫は冷めた表情で見つめていた。シュウジは一通りしゃべり終えると相手の白けた様子に気づかず、詰めよってまだ叫ぶ。

 

「どんなありさまか、見たらきっと仰天しますよ!? もう冒涜(ぼうとく)ですよ、同じ人間として恥ずかしいレベル!!」

 

「じゃあ見せてよ」

 

「へ?」

 

「どんな風になってるのか、興味があるわ」

 

「や……えーと」

 

 紫が平然と答えると、シュウジは意外そうに目を丸くして、携帯をポケットから取り出し、またしまった。

 

「いやぁ……やっぱりやめときます。その、決してウソをついてるわけじゃないんですが」

 

「……そ」

 

 急に顔を赤らめてしどろもどろになるシュウジを見て、紫はなんとなく察した。いざ見せるという段になって、照れて躊躇してしまうもの。おそらく彼の携帯には、先ほど言った○リネタのたぐいでも収められているのだろう。思春期男子というのは、はたから見て分かりやすいものだ。

 冒涜と言いつつ、自らも性的コンテンツを利用する。矛盾しているようだが、まあエロスを前にした男子などそんなものなのだろう。大体、実態を知っているという事は、彼自身もいくつか目にしたに違いないのだから。

 

「ずいぶん入れ込んでくれてるのねぇ」

 

「ぐっ……」

 

 紫が扇子であおぎながらからかうと、シュウジは歯がみして顔をそらす。

 そして勢いをつけてまた向き直ると、今度はこう切り出した。

 

「そ、そりゃもう悪い見本みたいなのがいますからね! ウチの兄貴みたいな!」

 

「お兄さん?」

 

「そうですよ! 高校生なんですがね、勉強も部活もやらないで、ゲームばっかりやってるんですよ!?」

 

「ふーん」

 

 興味なさげな紫に、シュウジは大げさな身振り手振りをまじえ、聞かれてもいない兄の事を話しだした。

 

「成績も悪い、友達もいない、家にこもりがち……それだけならまだしも!」

 

「え、けっこう重くない? それ」

 

「一番ゆるせないのはっ!!」

 

「……うん」

 

 わざわざタメをつくり、声をあらげるシュウジ。

 

「妖怪とか、神とかのロマンのかたまりをっ! 気安く萌えキャラクターとして弄ってるところですよ! (ぬえ)ウェアウルフ(人狼)に付喪神に、果ては歴史人物や戦艦まで、不遜(ふそん)きわまりない!!」

 

「お、おう」

 

「『作ってくれる人がいるから』なんて言い訳になりませんからね! 手ぇ出したのは自分なんですから!!」

 

「それ私に言われても……」

 

 ある種の信条までうかがえるシュウジの剣幕を、紫は面倒くさそうに眺めていた。彼は、さらに続ける。

 

「ネット上の連中も大概ですよ。少し探せば、件のキャラクターが変な衣装で踊ってる動画やら、あれやこれやされる本がわんさか見つかるんですから。実に軽薄っ!!」

 

「似た者同士ってワケね」

 

「兄貴だってどうせああいうので散々シコ――え、なに?」

 

「だから、お兄さんもあなたも似たような事してるのかなって」

 

「だっ、いや、か、その……」

 

 紫の言葉に、シュウジはあからさまに狼狽して後ずさった。図星だ。紫には一目で分かった。

 一方でシュウジは罪悪感に満ちた、苦悶とさえいえる表情となり、うつむいた。

 ……中学に入る少し前、彼は兄と共謀し、親を騙して携帯のサイトブロック機能を解除した。おかげでシュウジは色々と不健全なサイトのお世話になれたのだが、その記憶は彼の中で恥ずべきものとして残っていた。……が、サイトの利用は相変わらずであった。不遜、軽薄と唾棄したたぐいの人間たちにも、感謝の念を捨てきれなかった。

 

 彼は、その性的刺激と同調のるつぼにどっぷりと嵌まりながら、かえってその顔も見ぬ同好の士たちに侮蔑の念をいだき、彼らがさまざまなロマンを人形あつかいして辱しめているように見えて我慢ならず、自分だけが分かっている、自分だけが本当の姿を知っている、などと一人で決めつけて、それでも夜中にこっそり自らを慰めて発散し、後から嫌悪にかられ、またしかめっ面をして兄をはじめとした"軽薄"な輩どもに憎悪をつのらせる。彼の近頃はその繰り返しであった。

 

「で、でも! 兄貴よりはマシなんですよ俺は!!」

 

 シュウジは言い逃れをするように叫んだ。紫はかったるそうに耳をかたむける。

 

「俺はまだ、罪悪感ぐらいは持っていますけど、兄貴はそれすらも無いですもん。神話を完全にネタ扱いして」

 

「神話ってどんな?」

 

「兄貴のは例えば、イカとかタコのお化けが……いや、あれは神話"モドキ"だな。どっちにしろ兄貴はカスですわ」

 

「イカタコねぇ……」

 

 シュウジの中で格付けでもされているのか、歴史の浅いある架空の神話を、彼は毛嫌いしていた。苦い顔をしながら、なおも話は続く。

 

「あと、神をたたえる文句らしいんですが、いあいあナントカって事あるごとにはしゃいでるんですよ。やっすい呪文だ、ホント」

 

「呪文って何よそれ。気味悪いわねぇ」

 

「はっ、気味悪かったら幸いですよ。ひとり言なのか知りませんが、いつも楽しそうに鳴いてますからね。いあいあ鳴いてりゃ楽しいんだ、バカなんですよ」

 

 シュウジは吐き捨てるように言った。紫は相づちを打つだけだったが、彼は知っている。兄が「いあいあ」と神をたたえるのは、ちょうど昨今のオタクがこぞって「うま○ょい! う○ぴょい!」と叫ぶのと、本質的に変わらないのだ。そして同じような連中が日本中に、いや世界中に山ほどいると、彼は確信していた。

 むしずが走る。なんだってあんな連中が、神話などという概念を口にするのか。お前たちに神を語る資格はない。妖怪を語る資格はない。頼むからこれ以上、神聖なロマンを(おとし)めないでくれ。おかしな鳴き声とともに娯楽として消費する冒涜を、いったい何年続ければ気がすむんだ。

 怒りが腹の中でぐるぐると煮えくり返り、シュウジは吐き気さえもよおした。それをとっさにこらえると、今度は代わりに涙がにじむ。

 

「あんなのは神話じゃない……妖怪の姿なんかじゃない……!」

 

「ちょっと、大丈夫?」

 

「こんなに近くに本物がいるのに、畜生、畜生……!」

 

 嗚咽をもらす様子にぎょっとして、紫が近づく。不意に、シュウジは彼女の腕をつかんだ。

 

「……紫さん……」

 

「な、なに?」

 

「一度でいいから、現代(むこう)に出てきてくださいよ……! そんで、妖怪を舐め腐ってるバカどもに、力を見せてやってください! もう二、三人殺しちまってもいいですから!!」

 

「殺すって、アンタねぇ……」

 

「お願いしますっ!! 俺は恐ろしいはずの怪物たちが、美少女だのマスコットだのに変えられるのが、我慢ならないんですよ! 本物を知らしめてやりたいんですよ!!」

 

 シュウジは紫の胸にすがりつくようにして泣き出した。それを見下ろしながら、しばらく紫は困惑していたが、ふと、ピンとくるものがあった。

 そもそも妖怪は、人々に認識され、恐怖をさまざまに"解釈"して生まれた存在だ。幻想郷の妖怪が力を保てるのは、科学が発展しておらず「よく分からない、恐ろしい存在がいる」と解釈されているお陰でもあるのだ。

 

 なんの事はない。この子は、自分の信じる神や妖怪の姿、それらへの向き合い方、果ては創作物での表現のしかたまで、さまざまな理想に対する周りとのズレ――いわゆる"解釈違い"に苦しんでいるのだ。

 バカバカしいが、本人にとっては深刻なのだろう。現にシュウジは胸に顔を埋めたまま、子供のように泣きじゃくっている。本物の妖怪に会った感動もあるのだろうか。

 泣きやむ気配が見えないので、紫はぐいと彼を引き離した。

 

「とりあえず落ち着きなさいな。もう……」

 

「けど……」

 

「あのね……シュウジだっけ? よく聞きなさい」

 

 紫は深いため息をつき、教えさとすような口調で話した。

 

「最初に言ったわよね? 現代で私たちが幻想あつかいされるだけ、こっちでは強くなるって」

 

「…………」

 

「だからね、あなたのお兄さんみたいにしてくれた方が、正直助かるのよ。少なくとも、現代に姿をあらわす気はないわ」

 

 シュウジはすねたように目をそらしていたが、話がとぎれると勢い込んでこう問いかけた。

 

「じゃあ……俺にも兄貴みたいな生き方をしろってんですか!? 毎日パロディの成れの果てみたいなの見て……あんな人間になりたくないですよ!!」

 

「そうじゃないけれど……あークソめんどい……」

 

 頭をガシガシかいて、紫は声を厳しくする。

 

「とにかくね、あなたにはただ、幻想郷の事を大っぴらにして欲しくないのよ。本当の姿を知ってもらおうとか、思わない事」

 

「けど……でも……」

 

「でももだってもない。帰ってからも、私たちの話は口外しない事。くれぐれも覚えておきなさい」

 

 そう言って紫はシュウジを突き放すと、その触れた手の指先を、わずかに動かした。すると突然、シュウジの足元の地面がぐにゃりと歪んだかと思うと、がばりと彼を呑み込めるほどに大きい、裂け目が出現した。その裂け目の奥では、紫が出てきた時と同じように、いくつもの目玉がうごめいている。

 

「うわっ――」

 

 シュウジは虚空にむかって大きくバランスをくずし、とっさに紫へ手を伸ばす。その手はまるで届かず、シュウジと一緒にまっ逆さまに落ちていった。

 

「忘れない事ね。私はいつでも、どこからでもあなたを見ているわよ」

 

 それは、遠ざかっていくシュウジへの慰めだったのか、それとも警告だったのか。いずれにせよ真意など考えるヒマもなく、シュウジはみるみる裂け目の奥の奥、真っ暗闇のすき間まで落ち込んでいき――とうとう見えなくなってしまった。

 

――

 

 ……バスが消えてから三ヶ月ほどのち、シュウジは車の通らない山の中で見つかった。発見当時に彼は何も言わず、家族の質問に答える以外は、ほとんど無言だったという。

 しかし、彼は覚えていたのだ。幻想郷の存在も、紫の話も。

 

 家に帰りついてから、シュウジはしばらく休みをもらった。ある休みの日、共働きの両親がいない時に、彼は自室からリビングに下りた。

 そのまま隣接する台所へ行き、コップに水を注いで飲む。飲みかけのコップを持ったまま、彼はきびすを返す。足音すらろくに響かない、力ない足取り。

 シュウジの目は光がなく、焦点がろくに合っていなかった。周りのものが、ほとんど目に入っていなかった。

 彼は、頭の中でひたすら幻想郷の事を考えていたのだ。あの夢のような出来事は、果たして本当だったのか。目にした本来の"妖怪"は、実在したのだろうか。なまじ確認できないせいで、どうしても頭から離れない。

 

 リビングを横切る際、ふと家族のパソコンに目がいった。その席には、定位置だと言わんばかりにふんぞり返る、一人の少年がいた。

 兄だ。シュウジに背を向ける形で、ヘッドフォンをつけて画面に見入っている。

 帰ってきてから、シュウジは兄とろくに会話していなかった。ケンカするわけではないが、互いにどんな調子で話せばよいか、分からなかったのだ。特に兄はその傾向が強く、逃げるようにパソコンや携帯ばかり見るようになった。

 その兄がふと、気配でも感じたのか後ろを振り向いた。シュウジと目が合うと、兄は気まずそうな表情をした。

 

「おうシュウジ。その……大丈夫か?」

 

 不慣れなつくり笑いを浮かべる兄。シュウジはそれを見て、つくづく気づかいが下手なのだと思った。だから友達もできずに、架空の世界に逃避する。神や妖怪を矮小化した、卑小な人間むけの、歪んだ世界に。

 兄を見るシュウジの中に、また底知れぬ侮蔑の気持ちが再燃しはじめた。こんな人間が、自分より幻想郷の役に立っている? ありがたい? ……ふざけるな、あり得ない!

 

 シュウジは眉間にシワをつくり、いら立ちに顔をこわばらせていたが、兄は自分を取りつくろうので精いっぱいなのか、のんきに口を開く。

 

「あの……とりあえず、何かあったら言えよ? 大した役に立たないかもしれないけどさ、一応兄弟だし……おっと」

 

 その時、話していた兄が身じろぎした拍子に、彼のヘッドフォンがパソコンから抜けた。直後に、兄の見ていた動画の音声がリビングに流れる。

 

『いつもニコニコ! あなたの隣に這い寄る混沌~…………』

 

 それは、兄が子供の頃から定期的に見ていたアニメだった。シュウジの嫌いな架空の神話を題材にしたものだ。その声を聞いた瞬間、シュウジの頭にさまざまな怒りが去来する。

 

 またあのエセ神話に入れ込んでるのか。

 

 また軽薄なパロディを見てるのか。

 

 神秘を汚している自覚がないのか。

 

 俺は見てきたんだぞ、他ならぬ本当の妖怪を!!

 

 気づけば、持っていたコップを兄に投げつけていた。反射的に兄が避け、パソコンにガラスと水がはじける。

 

「うわっ!?」

 

「死ね……お前なんて死ねばいいんだっ!!」

 

 思わず顔をかばった兄の胸ぐらを、シュウジは猛然とつかみ上げた。椅子が大きな音を立てて倒れ、シュウジの足にガラスの破片が食い込む。しかしそれを気にも留めずに、シュウジは怒鳴る。

 

「この能無しの、美少女中毒が! 神も、妖怪も、異世界も、どこまで陳腐にしちまえば気がすむんだ!?」

 

「いだっ、お前、何言って……」

 

「お前みたいな奴らがいるから、ファンタジーはおかしくなったんだよ! くだらねぇモノばっか広めやがって。少しは本物を想像したらどうなんだ!?」

 

 わけも分からず苦しがる兄を、シュウジは憎しみのこもった目でにらんだ。今まで腹の内に留めていた"軽薄"な者たちへの憎悪が、兄をきっかけにどこまでも溢れ出していた。

 その怒りは留まるところを知らず、シュウジはさらに、今日一番の怒声をあげた。

 

「なんなら教えてやろうか!? 本物の事を!!」

 

「…………?」

 

「恐ろしい存在ってのは、本当にいるんだよ! こことは違う世界に……幻想郷に――」

 

 言いかけて、シュウジの台詞がとぎれた。

 

「わっ!?」

 

 途端、兄の体が床に落ちた。ドスンと音を立てて、彼の尻や足にガラスが刺さる。

 

「いたたっ、あっだ!」

 

 兄は大慌てでその場から逃れる。バタバタと這って一息つき、彼はふと、部屋がやけに静かな事に気づいた。

 勢いよく顔を上げ、部屋を見渡す。いつも見ているテーブル、テレビ、本棚。そして倒れた椅子、砕けたガラス。パソコンからは相変わらず、アニメの甲高い声が流れ続けている。

 部屋にいるのは、兄一人だった。

 

「……へ? シュウジ? おいシュウジ?」

 

 煙のように消えてしまった弟の名を、兄は何度も叫ぶ。答える者はいなかった。アニメの音がぷつりと途切れ、部屋がしぃんと静まりかえる。

 兄は焦燥感にかられ、なおも弟を呼ぼうとした。

 しかし、口を開きかけて、彼はふと、眉をしかめる。そして頭を押さえてうつむき、呆然と、こんな事を言った。

 

「……あれ、シュウジ……? シュウジって……誰だっけ?」

 

 その言葉は、冗談ではないようだった。顔色は険しく、心当たりが本当に見つからないという風だった。

 その時、玄関でがらがらと戸が開いた。兄が行くと、パート帰りの母がいた。

 

「ああシュウイチ。ただいま」

 

「あ……おかえり」

 

「洗濯物、取り込んでおいてくれた?」

 

「え、いや……やってない」

 

 母と話す間も、兄は違和感に戸惑っていた。そんな彼に、母は笑って言う。

 

「全く、家にはアンタしかいないんだから。少しはお父さんお母さんを手伝ってよ」

 

 やれやれと、兄の脇を通りすぎる。その背中へ振り返って、兄はためらいがちに問いかけた。

 

「あの……母さん」

 

「どったの?」

 

「俺ん家って……三人家族だっけ?」

 

 深刻そうに首をかしげる兄。母は吹き出しそうになりながら、こう答えた。

 

「何言ってるのよ、当たり前じゃない。アンタは昔から一人っ子よ?」

 

「……だよね、うん」

 

 母の答えを聞いて、兄はようやく納得したように微笑んだ。それからも、変わった事は起こらなかった。

 ただし、兄はこの日をさかいに、どこかから自分たちを見つめる、何者かの不思議な気配を感じるようになった。それこそアニメや漫画とは違う、恐るべき何かを。

 

ニイミ シュウジ――存在消滅(生死不明)



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どこかであなたを

『ミケはね、猫の王国に行ったんだよ。そこでちゃーんと生きてるよ』

 

 飼い猫がいなくなった時、姉はそう言ってなぐさめた。少年が五歳の頃である。

 まるっきり信じたわけではない。寿命が残り少なく、去っていったのだと、薄々わかっていた。後になって思えば、老猫の習性だったのだろう。

 猫の王国など、別の世界などあるはずがない。……そう分かっていても、しばらく信じようとしていた。どこにいても、生きていてほしいから。

 

 だが、それから十年もすると、少年も飼い猫の死を受け入れるようになっていった。別世界などない。それが現実だと。

 

「……しかし、こうして見ると、別世界も信じられてくるかもなぁ」

 

 はるか遠くに沈む夕日と、風にそよぐススキ畑をながめながら、少年、ワダ ハルキはつぶやいた。夕焼けに彩られた風景には、暁雲と、山影と、ススキと、後は雑草が生い茂る大地がひたすら広がっている。西暦2000年以降に生まれた彼にとっては見慣れない、自然のままの景色であった。

 

「こんな田舎に観光に来るなんて聞いてないぞ……。なんだ? 事故? それとも夢?」

 

 ブレザーの制服から取り出した携帯をいじくりながら、ハルキは焦った表情でつぶやいた。短く切り揃えた髪の下で、一粒の汗がつたう。

 携帯の画面には、"電波なし"の表示がハッキリとあった。

 

 ――ハルキは、つい先ほどまで中学の修学旅行で、バスに乗っていたはずだった。菓子を交換したり音楽を聞いたり、まあ普通の日常だった気がする。

 しかし、その平静は突如やぶられた。走行中のバスが不意に、正体不明の白い霧に包まれたのだ。それから何があったのか、彼は分からない。気づけば辺りには誰もおらず、一人で夕方のススキ畑に寝ていた。

 隣には自分の手荷物があったが、どんな役に立つんだか知れない。

 

「ああもう、なんかの間違いで電波が回復したりしねーかな……!」

 

 ハルキは往生際悪くまだ携帯をいじっていたが、やがてあきらめて肩を落とす。そして投げやりな調子であるものを開いた。

 それは、保存した写真の数々。手がかりもなく怪奇をさぐるより、とりあえず何かをながめて心を落ち着かせたかったのだ。

 写真フォルダの中には、家族の画像、友人の画像をはじめさまざまなものがあったが、その内に何枚か、人間でないものがあった。

 

 一つは、一匹の三毛猫。体も大きくなった成猫である。何度か転送した写真らしく、少し色あせていた。またいくつかには、小さな男の子が一緒に写っている。

 それが小さい頃にいなくなった猫、ミケだった。写真を見ていくと、また別の子猫の姿がある。それはミケの後に、新しく飼った猫だ。

 この世に別れはつきものだ。ペットとの別れをペットで癒したいのなら、新しいのを飼うしかない。

 じゃあ、もし弟との別れを癒すならば? その時は新しい弟か妹をホニャララしてもらうべきなのだろうか。姉ちゃん、俺が消えてほんの少しは寂しいと感じる可能性もなくはないかも知れないかとほんのちょっと思うけれど、父ちゃん母ちゃんも年だから、どうか我慢してくれよ。

 

 猫の写真を見つめながら、ハルキはバカな事を考えつつふらふらと歩く。一面のススキ畑をかき分け、沈みかけの夕日をたよりに努めてまっすぐに進んでいく。

 彼はいまだ、あまり切迫感を持ってはいなかった。帰る方法はまるで分からないけれども、死んだわけでないなら現世に戻れるのが道理だろう、そんな甘い考えがあったのだ。

 それに、死といえばかつての飼い猫が見守ってくれているような、そんな感覚もあったのだ。姉の言った猫の王国は信じなかったが、猫というのは霊感が強いなどと昔から言うではないか。

 なんの根拠もないが、いざとなればあのミケの霊があらわれて道案内をしてくれるのでは……と、ハルキはマンガのような幸運を想像した。

 

 そうしてボンヤリしながら、代わり映えしないススキ畑を何百メートルか歩き続けた頃。

 不意に、遠くから「にゃあ」と可愛らしい鳴き声がした。

 反射的に彼は振り向く。思わず飼い猫を想像した。しかし、いたのは別のものだった。

 

「にゃーお」

 

 鳴いていたのは、ただの一匹の黒猫だった。ハルキが我に返ってため息をつくと、ススキの根本をすり抜け、黒猫が駆け寄ってきた。

 

「……お? なんだ、人懐っこいなお前」

 

 足元にすり寄る猫を見ながら、ハルキは頬笑む。しゃがんで喉をなでてやると、猫も目を細めてゴロゴロと鳴いた。孤独の中にあって、つかの間の憩い。

 

「この子、飼い猫なのかな……。でも首輪してないし、いやしかし、こんな場所に人が住んでるのか……」

 

 猫がたやすく見せた腹をなでながら、ハルキは不思議そうに辺りを見渡す。野良猫にしても、山猫とはちがって民家のある場所に住み着くのが自然だ。

 どこかに住みかがあるのだろうか。そう思って周囲を穴の空くほど見つめていると、ススキが風に揺れた瞬間、うっすらと異質な影が見えた。

 彼はその影に目を見張る。少し遠いが、そこには確かに建物があった。それも現代でよく見るビルや一軒家ではなかった。

 木造に瓦屋根という古風なつくりで、四方を囲む塀は普通の家の五、六倍は大きい。まるで歴史博物館のミニチュアが実体化したような、ハルキにとっては馴染みのないものだった。

 

「……お前は、あそこに住んでるのか?」

 

「みゃう」

 

 問いかけても答えるはずがない。怪しい屋敷に行ってみるかと悩んでいると、急に、周囲でざわざわと何かが動く音がした。

 ハルキは驚き、音がしている場所――辺りのススキの陰を見る。するとそこかしこから、何匹もの猫たちが一斉に顔を出した。

 

「うおぉ!?」

 

 ハルキは驚愕と喜びが入り交じったような声をあげる。白、黒、茶、トラ……色とりどりの猫たちが、たちどころに彼を取り囲んだ。

 なんだ? 知らないうちに敵だと思われたのか? ハルキは円になって見つめる猫たちの視線を、苦笑しながら見回した。徐々にその顔に恐怖がにじんでいく。

 その時、彼の目線の少し上から、今度は猫以外の声がした。

 

「あの、どうかしましたか?」

 

「!」

 

 気のせいか。しばらくぶりに聞く人間の声。ハルキがとっさに顔を上げると、12才ていどの見た目の少女と目が合った。

 白ブラウスに、赤い中華風のノースリーブの服と、襟をしめるリボン。そしてフリルつきの赤いスカート。黒のショートヘアの上に緑色の帽子をかぶり、あどけない目で少し警戒ぎみに見つめている。

 ハルキは立ち上がり、その少女をしげしげと眺めた。彼女の頭には装飾品なのか、黒い猫の耳がついていた。さらに、腰の後ろには黒く先っぽの白い、猫のしっぽが二本はえている。

 しかも、一瞬つくりものかと思ったそれらは、よく見ると本物の猫のごとく時おりピクンと動いていた。

 

「もしもし?」

 

「あっ、ああ」

 

 無言でいた為か、それともぶしつけな視線に気づかれた為か、少女は警戒を声にまで含ませる。ハルキはあわてて生返事をした。

 少女はハルキに向けてしばし眉をひそめていたが、ふとそばにいる猫の一匹に気づき、しゃがんで顔を向き合わせた。

 

「……え? 言動も匂いも明らかによそ者? ふーん……」

 

 少女はなにやら猫と話すようにつぶやき、立ち上がってハルキへ向き直り、軽く頭を下げて言った。

 

「とりあえず自己紹介しておきます。私は化け猫の妖獣、(ちぇん)といいます」

 

「ちぇん?」

 

「はい、橙です」

 

 名前を聞き返すハルキに、橙は初めて愛想笑いをした。

 

――

 

「……とすると、ここはマジの別世界って事?」

 

「うーん、これ以上こまかく話すと骨が折れるんですが、まあそんなところです」

 

 ……あれから十分ほど、ハルキは橙と共にたむろする猫たちをなでながら、色々とこの見知らぬ一帯について話を聞いていた。

 橙いわく、迷いこんだ場所は幻想郷といい、現代から見ればまさにファンタジー世界、妖精や妖怪が結界に閉じ込められているのだという。

 橙の化け猫という自己紹介も、断じて本当なのだそうだ。

 

「じゃあ、このたくさんの猫たちは……」

 

「ああ、この子たちは普通の猫です。立派な妖獣になるため、修行中なのですよ」

 

 橙は猫たちをモフり倒しながらすこぶる上機嫌に頬をゆるませていたが、やがてハッとなって立ち上がり、ハルキに言った。

 

「そ、そんな事よりハルキさん! 早く元の世界へ帰らないと!」

 

「……え、戻れんの!? 俺」

 

「そうですよ、早くしないと! ほら立って!」

 

 先ほどまで一緒に猫と遊んでいたのを棚に上げ、橙はハルキを急かす。ハルキはあわてて立ち上がり、不安げに尋ねた。

 

「でも、戻るってどうやって?」

 

「それは、これからある人のところに行って……あーでももうすぐ夜だしなぁ……」

 

 橙は何か言いかけ、それから青紫色になってきた空を見上げて顔をくもらせた。そしてアゴに指を当て、考え込んでしまう。

 

「……(ゆかり)様と(らん)様は出かけてるし……うーん」

 

「……誰の話? いや頼むから、早く事実を教えてくれ」

 

 うんうんと唸る橙を、ハルキは遠慮がちながらも急かす。もしかすると深刻な問題が、と考えかけた時、急に橙が右手をズイと差し出した。

 

「……なに? この手」

 

「ハルキさん。私についてきて下さい」

 

「へ? そりゃいいけどさ……」

 

 大丈夫なの? とハルキが目で訴える。橙は一つせきばらいをし、真剣な面持ちで話しだした。

 

「いいですか。実はこの辺りはマヨヒガといって、幻想郷でも特にややこしい場所なんです」

 

「そ、そうなのか」

 

「だから、絶っっ対に私の後ろをついて来てください。見かけに惑わされないで」

 

「分かった」

 

 橙の口調は強く、ハルキは思わずうなずく。それから橙は顔を寄せ、こうつけ加えた。

 

「……それから」

 

「は、はいっ」

 

「くれぐれも、後ろを振り返らないで下さい」

 

「もし……振り返ったら?」

 

「どうなっても知りません。古くからのジンクスは恐ろしいですよ。結界を抜けるまで、前だけを見る事」

 

 言い聞かせるようにそう言って、橙はハルキの手を引き歩きだす。ハルキも緊張しながら後に続いた。

 しかし、内心では確かに安堵していた。どうやらこのままついていけば帰れそうだ。彼は前を歩く橙の背中を見つめる。

 手をつないで、自分を引っ張っていく姿。それを見て、ハルキの頭にある思い出がよみがえる。五歳のある日――飼い猫のミケがいなくなってすぐの頃、ちょうど今のような黄昏(たそがれ)時に、姉に連れられて帰った事があった。

 

 ――ミケがいなくなり、別世界に言ったのだと慰められてから、一週間後。幼かったハルキは、ミケと会うのをあきらめ切れずに、自分も別世界に行くのだと思い立って、あてもなく町外れをうろつき回ったのだ。

 夕暮れに誰もいない野原で姉につかまり、親のところまで連れ戻された。そうして二人で歩く間中、彼は悲しい声で言い聞かせられた。

 

『別世界に行っちゃったら、私らは二度と会えないよ。でも、きっとどこかから見てるから。泣かないの』

 

 その時のハルキはべそべそ泣いていたが、その言葉だけはよく覚えていた。どこかから、きっとミケが見ていると。

 ……だとしたら。こうして橙に助けてもらえたのは、もしかしたらミケのおかげなのではないだろうか。取りとめもない想像だが、姉の言った別世界と幻想郷とが、なんとなく無関係ではないような気がしていた。

 

(……きっと、ミケと神様の采配だ。きっとそうだ)

 

 ハルキはそう思い、一人ではにかんだ。その浮かれていた時に、ふと――おそらく猫のうちの一匹が発したであろう――「みゃーお」という鳴き声を聞いて。

 

「ん?」

 

 ハルキはつい、()()()()()()()()()

 

「――だ、あれ?」

 

 瞬間、我に返って彼は辺りを見回した。すぐ前を歩いていた橙がいない。見送るように見つめていた猫たちがいない。あの屋敷の影もない。太陽も、とうに姿を消している。

 

「……おい橙。ちぇーーーん!!」

 

 ハルキの声は一面に響き渡った。しかし答える者はいない。闇に溶け、冷気が下りてくる無人の場所に、彼は呆然と立ち尽くす。

 

「……おい、マジなのかよ。誰か来てくれよ!! 助けてくれよ!!」

 

 しばらくして、ハルキは取り乱してもがくように走りだし、空に向かって叫んだ。それでも、何も彼を気にかける事はなかった。

 白く冷たく光る月の下で、ハルキは泣きながら先の見えない暗闇を走り続けていた。

 

――

 

「……あ、間違えた」

 

 ……それから、数ヶ月ほど後。

 現代ではハルキの姉が、夜中に一人、自室で勉強にはげんでいた。机にむかって参考書や問題集とにらみ合い、ひたすらに書き込みと消すのをくり返す。

 するとふと、その手が止まった。そしてため息をつくと、彼女はシャープペンを机に放り出す。

 

「はぁーー……」

 

 長いため息をつきながら、姉は椅子にもたれてうんと伸びをした。そして天井をボンヤリ見つめて、沈んだ表情で言う。

 

「弟を放っておいて、受験勉強なんかできるかっつーの……」

 

 そう、ハルキは修学旅行に出かけたあの日以来、いまだ家に帰っていなかった。両親はしばらく心配していたが、最近では気力も失い、すっかり意気消沈していた。

 家庭は暗い。昼も夜も、悲しい、ふとした瞬間に泣いてしまいそうな空気が充満している。姉も高校生活に終わりが近づいていたが、前途に思いをはせるなど、出来るわけがなかった。

 姉は体を反転し、背もたれに腕を乗せて部屋のすみを見る。そこには丸まって我が物顔で寝る、白い成猫がいた。あのミケの後に、子猫から育てた子である。

 

「ハルキー……私が大学いったら、この子は誰が面倒みるのよ」

 

 すっかり大きくなった飼い猫を見ながら、姉はさびしげに笑う。何年も続く付き合いで、ハルキに一番なついていたのだ。猫の内心など分からないが、それでも心配ぐらいはしているんじゃなかろうか。

 そう思いながら姉が猫を見つめていると、眠っていたはずの猫が突然、がばりと身を起こした。そして一瞬で飛びつくようにしてドアに駆け寄ると、何度も戸板に爪を立てる。

 

「あ、ちょっとモチマル! 何やってんのよー」

 

「にゃーっ! んにゃお、みゃあぁーー」

 

 姉があわてて叱るのも聞かず、猫は鳴きながら盛んに扉を引っかき続ける。何かあるのだろうか。姉も不思議に思って、ゆっくりと戸口に近づく。

 すると、彼女の耳に、かすかな低い声が聞こえた。すきま風のような、しかしかろうじて聞こえる言葉でもって。

 

『……けて、助けて』

 

「…………?」

 

『助けて、姉ちゃん……!』

 

「……ハルキ!?」

 

 姉は息をのんだ。確かにそれはハルキの声だったのだ。彼女はとっさにドアを開け、周囲をするどく見回した。

 ……しかし、何も変わったものはなかった。電気をつけた廊下には、耳鳴りするくらいに静かで、人のいた気配すらなかった。すぐそばにあるハルキの自室は、ぴったりと閉じられている。

 すがるように姉は猫を見てみたが、猫も騒いでいたのが嘘のように、がっくりと肩を落としてしょげている。

 

 結局、気のせいだったのだろうか。彼女はしばらく往生際悪く廊下を左右ににらんでいたが、やがて身を引き、首をさびしく横に振った。

 

「……やめよう。あの子は現実のどこかにしかいない。別世界なんて、あるわけないんだから」

 

 自らに言い聞かせるような重い口調でそうつぶやいて、姉はゆっくりとドアを閉めた。

 彼女が弟の声を聞いたのは、これが最後となった。

 

ワダ ハルキ――行方不明



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魂の演奏

「誰かああぁーーっ! 助けてえええぇぇーーーっ!!」

 

 一人の少女が、暗闇の中で悲痛な顔をして叫ぶ。その声はしばらく余韻を残して虚空に消えた。しぃんと静まり返った森の中で冷たい夜風が吹きぬけ、木々が思い出したようにざわめく。

 誰の返事も返ってこない事に、少女トミザワ チサトは泣き出しそうになった。寒さに赤らんだ頬を涙がつたい、やけくそ気味にぬぐう。

 

 これまで、さっきのような大声をいくつあげただろう。くり返し叫んで喉が枯れても、誰ひとり助けに来てくれない。

 吹奏楽部で鍛えた肺活量などクソくらえだ。そう思って、チサトはかたわらに転がったバッグを蹴飛ばした。

 修学旅行の自分の荷物。これを見るだけでもこうしてさ迷うきっかけを思い出して、ムカムカする。

 

 チサトは数時間前まで、中学の修学旅行でバスに乗っていたはずだった。ルートも普通の国道で、このような森の奥深くへ踏み込むルートではなかった。

 それが、一体何が起こったのだろう。そのバスが唐突に、白い霧に包まれたのだ。天気にそぐわない、不思議な霧だった。

 何かの見間違いだったのかもしれないが、真相は分からない。気づいた時には周りにいたクラスメイトたちの姿はなく、一人で地べたに寝そべっていた。起きてみると辺りは真っ暗闇、そして明かりも人もない、深い森の中だった。

 夢でも見ているのだろうか。最初はそう疑ったが、荷物の重さも、歩き続ける疲労も、不安でわき出てくる汗も、まぎれもない現実のそれだった。現実味がないのはただ一つ、今この状況だけである。

 

「……ちくしょうが」

 

 ふと、チサトの口から罵声が飛び出す。小さく漏れた、低いひとり言。吹奏の練習で一人だけがミスし続けた時など、よくこうやって文句を言っていた。

 思えば多人数で、何日も練習し続ける意義とは何なのだろうか。中学時代はたった三年しかない。その中で足を引っ張られ、喧嘩をし、気まずい空気をこらえ、やっとそこそこの曲を仕上げる。そう考えるとろくでもない。自分も今まで、他にできる事があったんじゃないだろうか。

 そんな事を考えながら、チサトはトボトボと道を歩く。首の後ろに垂れる三つ編みが寂しく揺れる。一人になりたい時は今まで何度もあったが、今こうして一人で取り残されるのは心細いばかりだった。

 

 そんな時、チサトの耳にかすかに何かが聞こえた。虫の声や草木の音ではない、聞き覚えのある音。

 彼女はとっさにその方角をにらんだ。耳をこらすと確かに聞こえてくる、夜の森に不似合いな高らかな音。

 楽器の音だ。チサトは直感した。近づこうと夢中になって走ると、ほとんど黒一色だった視界の中に、急にぽつんと小さな灯りが見えた。

 さらに近づくと、その明かりは建物の窓から見える光だと分かった。突然、その場所に古めかしい小さな洋館が現れたのだ。

 壁はひび割れて塗装がはがれ、円錐形の屋根がいくつか途中でもげ、茂みが好き勝手に伸びて荒れ放題になっている。しかし、窓から漏れている明かりは本物だった。

 誰かいるのだろうか。一部が割れている窓をそばで見つめながら、チサトは考え込んだ。人がいるならば、助けてもらうチャンスかもしれない。しかし、こんな森の廃墟にいる何者かを信用してよいのだろうか。

 有り金をうばわれる……なら良い方で、最悪なら殺されるかもしれない。体中に悪寒がはしり、チサトは思わず身を震わせた。

 

「……ちょっとだけ。ちょっとだけ覗いてみよう」

 

 決めかねたチサトは、とりあえず窓から中を窺おうと顔を近づけた。危なそうなタイプだったら逃げればいい。そう思っていた。

 ところが、壁にはりつくようにして、いざ割れ目から中を見ようとした、その時。

 

「誰!?」

 

「ぶっ!?」

 

 不意に、誰かが声と共に中から窓を開け放った。ちょうど近くにいたチサトは見事にぶつかり、そのまま地面にひっくり返る。

 

「いっ……たたたた」

 

「……あれー?」

 

 倒れ伏してうめくチサトを、先ほど窓を開けた人物がきょとんと見下ろす。薄桃色の帽子と髪が印象的な、ミディアムショートの少女であった。背丈は小学生高学年くらいだろうか。

 

「だいじょぶ? おねーさん? ねえねえ、おーい」

 

「…………」

 

 顔をしかめて見つめるチサトへ、少女は矢継ぎ早に声をかける。心配しているのだろうが、その調子は少し鬱陶しかった。

 

「どうしたの? メルラン」

 

「虫でもいたー?」

 

 すると、薄桃髪の少女の後ろから、また同じような背丈の少女が二人、顔を出した。一人は黒い帽子に金髪のショートヘア、もう一人は赤い帽子に茶髪のショートヘアだった。心なしか、三人で並んで見えると雰囲気が似ている。

 チサトが、文句を言ってやろうと鼻を押さえていた手を離す。その時、彼女はハッと息を呑んだ。

 今、自分を見下ろしている三人の後ろで、トランペット、ヴァイオリン、キーボードの三つの楽器が、人魂のようなものと共に宙へ浮かんでいたのである。

 

――

 

「へぇー、気づいたら森に。そりゃ災難ね」

 

「…………」

 

 それから、チサトはその奇妙な少女たちに洋館へと招かれ、客間らしき場所へと通された。ホコリだらけのテーブルについて、「こんなモノしかないけど」と差し出されたサンドイッチに手をつけず、チサトは黙って座っていた。

 無愛想にしていたにも関わらず、少女たちの中で赤い帽子に茶髪の子は、気さくに話しかけていた。

 

「で、他に友達はいなかったの? ずっと一人?」

 

「……まぁ、ね」

 

「あちゃー、それは大変。運がよかったんだか、悪かったんだか」

 

 茶髪の少女はそう言いながら、自分たちで差し出したサンドイッチをもそもそと頬張った。彼女はリリカという名で、彼女ら三人――姉妹の三女という事だった。

 自分より年下に見える姉妹とやらが、こんな所で何をしているのだろう。チサトが不審がっていると、今度は隣にいた薄桃色の髪と格好をしたメルランと名乗る少女が、身を乗り出して割り込み、言った。

 

「ねぇねぇねぇ! チサトは、その学校でどんな風にすごしてたの?」

 

「どんな風って……別に」

 

「お友達は何人いるの? 楽しい? 授業料どのくらい?」

 

「えーと……」

 

「それ学校の制服なの? ねぇもっと近くで見せてよ! 私そういうのめったに見ないんだ!」

 

 メルランは目を輝かせ、戸惑っているのもかまわずチサトに詰め寄る。その一方的な聞き方は相手をろくに意識していないのが窺えた。

 

「お願い教えて! チサトちゃんの事もっと! もっと!」

 

「や、ちょっと……!」

 

 なおもグイグイ迫るメルランに、たまりかねたチサトが席から立とうとした時。

 

「はいはい、そこまで」

 

 黙っていた金髪の少女が、ぱんぱんと手を叩く。いわくルナサという名で、三人の中の長女らしい。彼女は二人の妹を見回して、ため息まじりに言った。

 

「ほどほどにしておきなさい。チサトさんが困ってるでしょう」

 

「はぁーい」

 

「ごめーん」

 

 リリカとメルランはしぶしぶといった様子でうなずいた。場が静かになると、ルナサはチサトの方を見て、おだやかな口調で言った。

 

「で、チサトさん。今さらだけど、聞きたい事が色々あるでしょう?」

 

「ま、まぁね……。つか、ここは何なの?」

 

「今から説明するよ。決して冗談ではないから、覚悟して聞いてね」

 

 仰々しい物言いと共に、ルナサは信じられないような話を語りだした。

 チサトの迷い込んだ場所は幻想郷というらしく、普段は現代から隔絶された異境であるという。その異境たるゆえんは、現代では信じられない、妖怪などの幻想的な存在がたくさんいるかららしい。

 今まで人家の灯りを全く見なかったのは、その妖怪などによって人間が少数に追いやられているせいだと言われた。

 そんな話を聞かされたチサトは、いかにも半信半疑という顔で眉をくねらせていた。その表情を見て、苦笑いしながらルナサが続ける。

 

「まぁビックリするのは仕方ないけど……信じてほしい。それにあなたは、とても幸運だよ」

 

「幸運?」

 

「うん。私たちは、他の妖怪たちと違って人を食べたりしないから。それに、現代に帰す手立てもちゃんとある」

 

 ルナサの言葉に、他の二人もうなずく。しかしチサトはしかめっ面のまま、ためらいがちに言った。

 

「でもだって……あなたたちも妖怪なんでしょ? 信じていいの?」

 

 その言葉にルナサはしばし困ったような顔をしていたが、すぐになにやら妹二人に目配せする。すると彼女らの背後に、一斉に楽器が浮き上がった。ルナサの後ろにヴァイオリンが、リリカの後ろにキーボードが、そしてメルランの後ろにトランペットが。チサトも思わず楽器を凝視したが、手品のたぐいではなさそうだった。

 目を細めてしかめっ面をしていると、リリカがキーボードを触れずに振り回しながら言った。

 

「私たちは騒霊っていってね。楽器の幽霊なの。珍しいでしょー」

 

「楽器の……?」

 

「そうそう。こんな風にね」

 

 リリカはぴょんと飛びはねたかと思うと、なんと楽器と同じようにふわりと宙に浮き、キーボードを手にとった。

 すると、実際に鍵盤を叩いてもいないのに、軽やかなシンセサイザーの音が流れはじめる。その音は音響効果もないその廃墟で、不思議なほど高らかに響いた。

 初めて聞く浮き立つような音に、チサトは気づけば聞き惚れていた。いつしかメルランも一緒になり、キーボードとトランペットの陽気な二重奏が部屋中に広がる。

 

「…………」

 

 中学で吹奏楽部にいた頃、練習も含めれば飽きるほどの演奏を耳に入れていたが、このような音楽は聞いた事がなかった。楽器は二種類だけにも関わらず、彼チサトが生涯で聞いたどの曲よりも心を揺さぶった。

 感動して言葉を失うチサトの頭に、ある過去の映像が浮かぶ。

 

 放課後、誰もいない音楽室で、数少ない男子の先輩と二人きりでいる……。窓からの茜色の夕日に照らされ、二人の頬は真っ赤で……。

 

「二人とも。ストップストップ」

 

 その時、ルナサが二度目の静止をする。演奏が鳴りやみ、我に返ったチサトを見ながら、ルナサは言った。

 

「気分いいのは分かるけど、そこまで。チサトさんが泣いてるじゃない」

 

 そう言われて、チサトは自分の目に手をやった。確かに指先に生暖かい水滴が触れる。ルナサがハンカチを差し出し、チサトの涙をぬぐった。

 

「ごめんなさい。私たち騒霊の音楽は、どうしても人間には刺激が強くて……」

 

「まぁ……不思議な音だとは思ったけど」

 

「魂のこもった音といえば聞こえはいいけどね。下手すると理性や記憶に影響が出ちゃうから」

 

 ルナサはばつが悪そうに言った。チサトはなんだか心をあけすけに見られたような気分で、恥ずかしかった。

 そんな二人の間に、やけに口角を上げたメルランが割り込んだかと思うと、楽器を片手に早口でまくし立てた。

 

「チサトちゃん! もっと聞きたいなら遠慮しないでよ! 良い音だったでしよ? もっともっと聞かせてあげるからー。ていうか、私もまだ演奏したい!」

 

「メルラン、あなたねぇ……」

 

 一人よがりにはしゃいでいるメルランを、ルナサは眉をひそめて見つめる。そんな二人から目をそらし、チサトはテーブルに向かってふさぎこみ、ある過去を思い出していた。

 まだ彼女が二年生だった頃の、吹奏楽部での思い出。

 

 ――その頃のチサトは、部内では少し失敗の目立つ生徒だった。下級生や同級生たちと比べればそれほどでもないが、上級生の一部から見ると、困ったタイプに見えたらしい。

 中でも一人、チサトの失敗にやけに突っかかる三年生がいた。その先輩女子は気が強く、部内でもリーダー格といっていい立ち位置だった。そのせいかその先輩女子に叱責される時のチサトは、もっぱら部内で孤立ぎみになっていた。

 そうなると、いくらミスをしたといっても気分はよくない。チサトは徐々に萎縮し、先輩女子との仲もピリピリしてきた。

 

 そんな頃のある日、放課後に楽器の片付けで残っていたチサトへ、吹奏楽部のある男子の先輩が声をかけてきた。

 彼は吹奏楽部で数少ない男子である上に、見た目も性格も人気のある生徒だった。彼はチサトに笑って近寄ると、こう切り出した。

 

『最近、演奏が上手くいってないみたいだね』

 

『…………!』

 

 相談に乗ってくれた先輩男子に、チサトは一発でよろめいた。それから二人は余った時間などに、少しずつ練習を共にするようになった。先輩女子と違って優しく手ほどきしてくれる先輩男子に、チサトはどんどん好意を持つようになる。気持ちが上向くせいか、楽器の腕前も加速度的に上がっていった。

 また、それに反比例するように、先輩女子への態度がおざなりになっていった。注意をされると表面上は大人しいが、内心で反発するようになった。

 

 アンタよりあの人の方が、ずっと教えるのが上手い。

 

 そんな風に怒ってばかりだと、きっと彼氏なんて出来ませんよ。

 

 先輩女子に怒られても、もう屁でもない。あの先輩男子が教えてくれるからいいのだ。もはやチサトの思考は、平静を通り越して慇懃無礼、見下しのそれになっていった。それでも、先輩男子のおかげで腕前は相変わらず上がっていった。

 そうしていくらか経ったある日、チサトは用事の折、三年生のいる三階へ行った。もしかしたら先輩男子に会えるかもしれない、と淡い期待もしていた。

 そして偶然、廊下に先輩男子の姿を発見した。チサトは一気に華やいだ表情で駆け寄った。日頃のお礼を言いたい、少しでも話したい。頭の中はそんな思いでいっぱいだった。

 

 しかし次の瞬間、チサトの顔は凍りついた。

 先輩男子の隣に、あのいつも怒る先輩女子がいたのだ。それも、二人ともいかにも楽しげな表情で。

 

『あ……』

 

 名前を呼びかけた口から、うめくような声が漏れる。廊下の真ん中に立ちすくんでいるチサトに、やがて二人が気づいた。

 

『あれ、チサト?』

 

『えっ……と』

 

『珍しいな、三階に来るなんて』

 

 二人は何て事ない風に話しかけてくるが、チサトはそんな姿になかなか返事ができなかった。一緒に歩いている、その光景の裏に知りたくないものが潜んでいる気がしたのだ。

 そんなチサトの心境などつゆ知らず、先輩男子は明るい調子で言った。

 

『最近、ずいぶん調子が上がってきたな! こいつも褒めてたぞ』

 

『……へ? 先輩、が?』

 

『"チサトがスランプ気味だから教えてやってよ"って、頼まれてたんだよ』

 

 先輩男子は、隣の先輩女子を指して言った。その途端、チサトの表情がいっそう青ざめた。そしてすぐに、先輩女子も口を開く。

 

『ごめんねー、私いつもカッとなっちゃうから……。練習じゃああ言っちゃったけど、本当にマシになってたのよ?』

 

『…………』

 

 他意なく笑う先輩女子。それを見て、チサトもついに真相が分かった気がした。それ以上その場におれず、チサトは一目散に走り去っていってしまった。

 後日、それとなく同級生に聞いてみて、あの二人の先輩が付き合っている事実を知ったのだった。

 

――

 

「…………ちゃん、チサトちゃーん?」

 

「…………はっ」

 

「もー、ボーッとしないでよ。私たちの演奏、本当に嫌なの?」

 

 気づくと、チサトの顔をメルランが不満げに覗き込んでいた。チサトはあいまいに目線を泳がせ、また過去の事を思い出した。

 チサトはやがて三年生になり、先輩たちは卒業した。今でも付き合っているのかは分からない。チサトはただ、あの二人がいなくなってから部活に情熱をなくし、退部してしまった。元から吹奏楽が好きではなかったのではないか。そんな気がした。

 

「……いいよ。音楽、あんまり好きじゃないの」

 

「えー、信じられない! 音楽キライ!?」

 

「つまんなーい」

 

「まあまあ、メルランもリリカも。その辺にしておきなさい」

 

 文句を言う妹たちをなだめるルナサ。そしてチサトへ視線を移すと、彼女は仕切り直すようにして言った。

 

「……チサトさん、音楽が好きではないのにこう言うのはなんだけど……。明日、私たちのライブに来ない?」

 

「ライブ?」

 

 チサトは顔を上げて聞き返す。対して三人は察したように顔を見合わせた。

 

「明日、人間の里の広場でね。私たちプリズムリバー三姉妹、改めプリズムリバー楽団のライブをやるんだ」

 

「……私は別に……」

 

「まぁ、気乗りしないかもしれないけど、ライブ会場はにぎわうし、運がよければ学校のお友達にも会えるかもしれないよ?」

 

 ルナサの言葉に、チサトはぴくりと眉を動かす。同じく迷い込んだ知り合いに会えるかもしれない。それは確かに重大だった。

 続けて、メルランとリリカもメリットを口にする。

 

「それに、現代に帰してもらうにも時間がかかるし。できればライブの後の方がいいなー」

 

「そうそう。じゃないと会場に行ってる間中、チサトだけ廃墟(ここ)で待っててもらうハメになるし」

 

 二人の言葉に、チサトは小さくうなる。時間や安全の面からも、ライブとやらについていった方がいいらしい。彼女は浮かない顔でしばらく考えていたが、やがてうなずいてこう言った。

 

「……分かったわ。お邪魔させてもらいます」

 

――

 

 次の日、チサトは三姉妹に連れられ、江戸時代を思わせる古めかしい集落の、その一角に来ていた。

 

「うわ、すごい人出ね……」

 

 三人と共に物陰に隠れながら、会場となる広場を眺めつつ、チサトは息を呑んだ。着物を着た老若男女にくわえ、獣耳を生やした異形の人種や、異国を思わせる派手な格好をした人々など、さまざまな観客がところ狭しと詰めかけ、無人の即席ステージを囲んでいる。後ろでリリカとメルランがくすくすと笑った。

 

「すごいでしょ~。我らが音楽団はいつも盛況なのだ~」

 

「あ、一緒にいるところ見つからないようにしてねー? ファンの皆さんがたちまち詰め寄ってくるから」

 

「う……うん」

 

 チサトは二人の言葉にうなずきつつ、観客たちに視線をめぐらせる。中に学校の知り合いはいないか、蟻も見逃さない気持ちで目をこらした。

 

「どう? お友達はいる?」

 

「……ううん、いないや」

 

 ルナサの問いかけに、肩を落として答える。そんなチサトの肩をたたいて、ルナサは微笑んだ。

 

「まぁ、ライブの後にもチャンスはあるから。今いるお客さんは、絶対に最後まで聞き惚れさせてあげる。心配しないで」

 

「……分かった」

 

「じゃ、私たちはそろそろ行くよ。せっかくだからしばらく楽しんで」

 

 そう言って、三人はチサトと別れてステージへ歩いていった。チサトはトボトボと反対側に歩き、観衆の中にまぎれる。

 人妖が入り交じった人混みの中で、チサトはそわそわと周りを見回した。親子連れ、同性の若いグループ、お年寄りと孫……見る限り色々な組み合わせの客がいたが、彼女が一番に目をひかれたのが、カップルだった。

 人間か妖怪かという違いはあれど、観客の半分以上いるであろう若い男女たち。彼ら彼女らはめいめいおしゃべりをし、腕を組み、楽しそうに笑っている。

 その直後、ステージ上の姉妹が景気のいい声をあげた。

 

「お待たせー! メルラン・プリズムリバーです! 今日もよろしくねー!」

 

「リリカ・プリズムリバーです。来てくれてありがとう!」

 

「ルナサ・プリズムリバーです。本日はお越しいただきありがとうございます。では早速ですが、始めたいと思います」

 

 三人の挨拶が終わると、ひとしきり大きな拍手が巻き起こる。それが止むと、ルナサたちの楽器が手元へ移動し、その周囲に音楽が流れ出した。

 耳をくすぐり、胸に染み入り、空気に溶ける不思議な音色。気分の高揚するトランペットとキーボードにくわえて、ルナサの奏でるヴァイオリンの低音が、ただ明るい曲調にならないようにバランスをとっている。

 その音に観客はそろって魅了され、顔をほころばせている。ただただ姉妹の演奏に夢中で聞き入り、中には感極まって涙を流す者さえいた。

 チサトも同じように、頭に流れてくる曲に聞き入っていた。昨晩と同じく、いやそれ以上に感慨深い、三人の心が合わさった深みのある音楽。

 しかし同時に、彼女の胸中にざわざわとうごめくものがあった。よみがえるのは、あの吹奏楽部での失恋の思い出。

 昨晩に姉妹の演奏を聞いた時より、人数が増えた分いっそう克明に思い出される。

 

 先輩女子のうんざりした顔。恋した男子と笑い合う光景、自分の知らないところで付き合っていた先輩たち、そして蚊帳の外にいた自分。

 音が感性を揺さぶる度に、その記憶の数々が容赦なく胸をしめつけてくる。

 チサトは歯を食い縛り、胸をかきむしりたい思いにかられた。その苦痛は尋常ではなかった。

 その要因は、チサトの記憶だけではない。ステージから流れてくるあの姉妹の合奏が、彼女の煩悶を増幅させていた。

 

 チサトは覚えていなかったが……プリズムリバー三姉妹、もとい楽器の幽霊の演奏は、人間にとって刺激が強かったのだ。チサトはその影響で、失恋と失意の恨みに再び(さいな)まれはじめていた。

 姉妹たちは知るよしもなかったが、チサトの心の傷は本人が思う以上に深かったのだ。

 

 チサトは顔を上げ、周りにいるカップルたちに視線をめぐらせる。誰も彼も音楽に聞き惚れ、時にうっとりして互いに見つめ合っている。

 幽霊の音のせいだ。幽霊の特別な音のせいだ。チサトはひがみっぽくバイアスがかかった頭でそう考えた。たかが音楽に人を引き合わせる力があるなら、なぜあの人と私は付き合えなかったのだ。

 

 演奏が進むにつれ、チサトの思考はどんどん偏狭になっていった。頭の中からはもはや現代の事も、同級生の事も抜け落ちている。ただただ、あの先輩男子が向けてくれた笑顔が繰り返し焼きついて離れない。

 やがてそれは、一つの狂気へと結実した。

 

("幽霊"って……すごい!!)

 

――

 

「……チサトさん! チサトさーん! ……おかしいな、どこに行ったんだろう」

 

 ……二時間ほど後、三姉妹はライブを終え、サインや握手を求めてくるファンをいなしつつチサトの姿を探していた。ステージを一心に見つめていた観客たちも、今ではめいめい連れ立ち、少しずつ帰途についている。

 しかし、その中には何故かチサトの姿がなかった。ルナサが焦ってあちこちを見回していると、人混みをかき分けてリリカとメルランがそれぞれ駆け寄ってきた。

 

「どうだった?」

 

「ダメ。見つかんないや」

 

「もー、ちゃんと待っててって言ったのにー」

 

 リリカもメルランも首を横に振り、不満げに口をとがらせた。ルナサも焦燥の色を深くする。ライブ中に事故にでもあったのだろうか。背筋に緊張がはしり、ルナサは二人に向けて言った。

 

「……まずいわね。私はこっちで引き続き探すから、あなたたちは巫女を呼んできて。早く!」

 

「う、うん!」

 

「分かったー!」

 

 ルナサの頭にはさまざまに嫌な想像が浮かんでいた。妖怪にかどわかされたか、悪い霊にでも憑かれたか……。とにかく即急に見つけなければ命に関わる。そう思って広場を駆け出した。

 しかし、彼女は知らなかった。探している当のチサトは、広場も、周りを囲む集落も離れ、ただ一人誰もいない場所を目指していた。()()()()()()()()

 

――

 

「……これなんだけどさ」

 

 それからしばらくして、現代のある場所で一人の青年が眉をひそめていた。手には一枚の写真。隣には同じ年頃の娘が似たような難しい顔をしている。

 青年の自室らしい散らかりぎみの部屋で、二人はその写真を見つめ、顔を見合わせた。娘の方が口を開く。

 

「……これ、こないだの演奏会の写真だよね?」

 

「そうそう、俺ら吹奏楽部の」

 

 写真には、娘と青年をふくめ吹奏楽の合奏をしている高校生らが写っていた。青年は眉間にシワをつくり、おそるおそるたずねる。

 

「チサト……って覚えてるか? 後輩の」

 

「……うん。あの事件以来、行方不明だよね……」

 

 二人は自然と声をひそめた。そう、彼らは他でもない、あのチサトの先輩たちであった。二人は高校生になっても付き合い続け、吹奏楽部に所属していたのだ。

 そのチサトの意中の人物だった青年は写真を凝視し、苦々しくつぶやいた。

 

「……これ、アイツの顔だよな……」

 

 写真の脇、青年が座っている席の真後ろの、誰もいないはずのそのスペースには。

 青白い肌をした、上半身だけの姿となったチサトが、死んだような目で青年に覆い被さろうとしているのが写っていた。

 

トミザワ チサト――死亡



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送り狼

 空が茜色に染まり、雲に濃い影ができる時間帯。太陽は最後の一仕事とばかりに、山の稜線から草原や集落をあかあかと照らしている。

 だが、車の一台も見当たらないそのド田舎さながらの風景の中に、上空の鮮やかな光も届かない一角があった。

 

 青々とした細い幹を高々とのばす、竹がえんえんと連なる場所、竹林である。

 踏み込んだ者を見下ろすように成長した竹が、頭を突き合わせて日光をさえぎり、一帯を薄暗くしている。むんむんと湿気がこもり、地面をつつむ枯れ草から生臭さがただよう。

 そのただ中に、一人の少年がポツンとうずくまっていた。小柄な体を太めの竹にあずけ、ブレザーの制服に身を包み、隣には小さなバッグが置かれている。

 その少年がうつむいていた顔を上げる。真ん中で分けた短髪はよく見ると少しクセが残っており、目は眠たげに細められている。

 

「なんだろ、ここ……」

 

 ぼやきながら、ふと履いているスニーカーに目をやる。そうとう歩き回ったのか、あちこちに枯れ草や泥がくっついている。

 その汚れをしばらく見つめて、彼はため息まじりに目を閉じた。目の下にはうっすらとクマができ、ともすればそのまま眠ってしまいそうに見えた。

 日が沈んでいくにつれ闇が濃くなってきた竹林を一瞥し、少年――オオヌキ マサヨシはつい数時間前の記憶を思い返した。

 

 ――中学校の修学旅行がはじまり、二日目の朝だった。マサヨシふくむ生徒たちは次の観光地へのバスに乗り込み、移動していた。

 しかしその途中で、四台並んでいたバスがあるものに呑み込まれた。なんの前触れもなく発生した、巨大な白い霧である。

 そこからの記憶はあいまいであった。気づけばマサヨシだけがこの竹林に倒れ、他の生徒どころか人っ子一人いなくなっていたのだ。

 

 奇妙な事に、その竹林はいくら歩いても出口が見えてこなかった。竹ばかりで景色は代わり映えせず、目印になりそうなものを見つけたかと思えば、何度もその場所に戻ってしまう嵌めになる。

 内心ウンザリしていたが、うずくまっていても仕方がない。マサヨシはよたよたと立ち上がろうとする。

 が、すぐによろめき、元通りに腰をつけてしまった。ドスンと音を立てて彼は顔をしかめ、それからうめくように言う。

 

「……吐きそう……っ」

 

 にわかに青ざめ、口元をおさえる。しばらく悪寒と戦い、やりすごしてから、フゥとため息をついた。

 頭が重い。彼はふと、朝のバスの車内風景を思い出した。めいめいお菓子を交換したりおしゃべりをしたりする中で、マサヨシは黙って椅子にもたれていた。寝起きゆえの疲労感が抜けず、何もする気力がわかなかったのだ。

 実は、午前の授業などでも、彼はいつも同じようなありさまだった。皆朝からあんな風にはしゃげるのが信じられない。彼は常々、内心でそう思っていた。

 

 物思いにふけっていると、急にぴゅう、と冷たい風が吹きつけた。冷気に震えてから、マサヨシはようやく時刻が夜に近づいてきている事をさとった。

 このままだと本格的にまずい。マサヨシは竹につかまって今度こそ立ち上がり、あてもなく歩き出す。気温が下がるにつれて、自分が思った以上に汗をかいていたのが分かった。

 くしゃみが出そうになり、彼はあわててこらえる。なにせ人がまるで見当たらない竹林だ。夜になればどんな野生動物がいても不思議ではない。神経をとがらせながら、マサヨシはそろそろと歩を進めていく。

 

 と、その時。不意に、背後でがさがさと茂みが鳴った。

 

「うわっ!?」

 

 マサヨシはとっさに飛びのき、バランスをくずして尻餅をついた。焦って向ける視線の先には久しぶりの人影が、暗闇にまぎれて一人ぶんあった。

 白黒を組み合わせたワンピースドレスを着た、黒のロングヘアで背の高い女性。

 

「…………?」

 

 ただ、その女性の赤い瞳と視線がぶつかってから目をこらし、マサヨシは怪訝な顔をした。

 その女性は、頭のてっぺんに二対の獣の耳を、そして腰の後ろに狼のようなしっぽを持っていたのだ。

 

――

 

「……なるほどね、そうやって夜までさ迷っていたと」

 

「ええ……助かりました」

 

 数十分後、マサヨシはその女性の後をついて竹林を歩いていた。視界はますます暗くなっていたが、その女性は迷いのない足取りでスイスイ先を進んでいく。

 その頭と腰には、やはり獣耳と尻尾がついていた。

 マサヨシは、背後からおそるおそる女性に話しかける。

 

「あの……大泉さん」

 

今泉(いまいずみ)よ。今泉(いまいずみ) 影狼(かげろう)

 

「あ……すいません今泉さん。……さっきの話……本当なんですか?」

 

 マサヨシはなにやら深刻な表情で女性、今泉に問う。対して相手は事もなげにうなずき、こう口にした。

 

「ええ、本当。私から離れちゃダメよ? この"幻想郷"を生きて出たいならね」

 

 幻想郷。その言葉をしゃべる時、今泉の声がやや低くなった。

 それは、今泉がマサヨシに語って聞かせた、この恐ろしい世界の名前であった。

 いわく、マサヨシが理不尽に迷い込んだこの一帯、幻想郷は科学がほとんど発展しておらず、しかも人間が自然の驚異にくわえて妖怪や妖精といった魔物におびやかされているのだという。

 しかも、マサヨシが迷い込んだ竹林は"迷いの竹林"と呼ばれる場所で、幻想郷の住人でも大半が出られなくなる危険スポットなのだとか。驚くマサヨシに、今泉はケラケラ笑って言った。

 

「感謝してよね。私が人間の匂いに気づかなかったら、今頃きっと天国行きよ」

 

 どうやら彼女の嗅覚は本当に人間離れしているようで、今も鼻をさかんに利かせながら夜道を大胆に歩いていく。彼女が言うには、獣耳に尻尾も実用性のある本物らしい。

 いよいよ人外だというのを実感しながら、マサヨシがさらに一言。

 

「すいません、今泉さん」

 

「影狼でいいわよ。何?」

 

「えーと……本当に、俺を食べたりする気は無いんですよね……?」

 

 おっかなビックリな言いざまに、影狼は一瞬だけ鼻白んだ表情を浮かべると、あっさりと答えた。

 

「ええ。そりゃ妖怪は人間が好物な子も多いけど……私はそんなに好きじゃないの」

 

「でも……狼って肉食だし」

 

「別に、鹿やウサギだって肉には違いないわよ。それだって見さかいなく襲うわけじゃないし」

 

 縮こまるマサヨシへ、影狼は穏やかにそう話す。「食べてばかりじゃ太っちゃうし」などとおどけてから、彼女は最後に、こう笑いかけた。

 

「それにさ」

 

「?」

 

「あなただって、死にたいわけじゃないんでしょ?」

 

 何気ない、当然のような確認。誰しも長生きがしたいし、助ければ感謝してくれる。そんな無意識の確信があった。

 しかし、マサヨシはその言葉に顔をかすかに曇らせると、無言で目をそらした。何か後ろめたいものでもあるように口をつぐんでいる。

 そのしぐさに、振り向いていた影狼が首をかしげた。その時。

 歩いていたマサヨシが、突然がくりと膝をついた。

 

「ちょっと、大丈夫!?」

 

 驚いた影狼があわてて駆け寄る。マサヨシは地面に手をついて倒れるのをこらえつつ、笑みをつくって答える。

 

「すみません……俺、ちょっと体弱くて」

 

 それは嘘ではないのだろう。間近で見た顔には脂汗がにじみ、声にも荒い吐息が混じっている。

 影狼はしばらく、その場にしゃがんでマサヨシの様子を見守っていた。さいわい大きな疲労ではなかったようで、休むうちに顔色も元に戻っていく。

 

「もう平気? 行ける?」

 

「ええ……すみません」

 

「悪いけどなるべく急がないと。夜中になったら何が出てくるか……」

 

 影狼はそわそわと周りを見回してつぶやく。どうやら彼女がついているからと言って絶対安全ではないらしい。察したマサヨシもふらつきながら腰を上げる。

 しかしそんな彼の耳に、かすれるような何かの鳴き声が聞こえた。

 

「きゅうぅーーん……」

 

「うわあああっ!?」

 

 直前に警告されていたマサヨシは、その鳴き声に仰天して悲鳴をあげた。ついでに飛びのいた拍子に影狼にぶつかり、1メートルほど吹っ飛ばしてしまった。

 

「きゃっ!!」

 

「あ、わっ、あわわわ」

 

 ひっくり返る影狼に、マサヨシは慌てふためきながらすがりつくようにして這い寄った。その姿を一瞥して、影狼が険のある声で言った。

 

「どうしたのよ急に……何かいたの?」

 

「あ、あれ……! います! 誰か見てますよ!」

 

 マサヨシは震える声で声の方角を指さした。そこには、地面に近い位置から見つめる、二つの黄金色の小さな瞳だった。影狼はその瞳をジッと凝視し、マサヨシを静止させてゆっくりと近づいた。

 その見つめる何者かは少しも動かなかった。触れられる位置まで接近して、影狼はマサヨシへ振り向き、平気な声で言った。

 

「大丈夫よ。ただの狼の子供だわ」

 

「こ、子供?」

 

「ええ、手で持てるわよ。ほら」

 

 影狼はその幼い動物を抱き抱えると、マサヨシに見せた。子犬が少し大きくなったようなそれは、ふわふわとした茶色の毛玉のように見えた。「可愛い」などとつぶやきながら影狼はその狼をなでていたが、マサヨシは不安げな表情でささやく。

 

「大丈夫ですかね……? 今に親が飛び出して、襲いかかってきたり……」

 

「ああ、それなら大丈夫よ。この子……」

 

 マサヨシの疑問にふと、影狼の表情が陰った。そしてまた体のあちこちをなで、神妙な口調で語る。

 

「……どうも体が弱いみたいなの。たぶん生まれつきでしょうね……。だから、家族にも捨てられたんでしょう」

 

「えぇ!?」

 

「こんな場所に子供を置き去りにして、気づかない訳がないもの。野生動物は育てられる数にも限界があるし」

 

 驚くマサヨシに対して、影狼は冷静だった。野に暮らす妖怪である分、人間よりも動物の事情には詳しいのだろうか。マサヨシはしばし押し黙り、影狼に抱かれている狼を見つめていた。

 

「……影狼さん」

 

「ん?」

 

「その子……ちょっと貸してくれませんか?」

 

「……?」

 

 その声色に、わずかに思い詰めたようなものがあったので、影狼は眉をひそめた。しかし深く考えずに言われた通り狼を手渡す。

 

「…………」

 

 腕の中に収まった狼の子供に、マサヨシは無言で目を落とす。弱っているのか鳴き声もろくに出さず、目を閉じて聞こえるのがやっとの息をしている。

 置き去りにしてしまえばたやすく死んでしまいそうな、儚い姿。人間に置き換えれば十歳にも満たないであろうその小さな狼を、彼は哀れむような目で見つめていた。

 唇をかみ、視線をわずかに泳がせる。そしてふと、持ち方を変えた。両手で頭を支えるような……いや、首にちょうど親指を食い込ませられるような形に。

 影狼が息を呑んだ瞬間、マサヨシは顔を苦しげに歪め、手に力を込めた。首を絞められた狼が、かすかな吐息を漏らす。

 

「何してるの!」

 

 一瞬遅れて、影狼がマサヨシの手をはたく。狼を手から落としかけ、マサヨシはあわてて抱きかかえた。

 

 彼は自分でも驚いたようにハッとなって、痛いほど見開いた目で影狼を見た。影狼も驚きと戸惑いに染まった目を丸くし、互いに呆然とした顔で見つめ合う。

 パニックがうかがえる荒い息が、二人の口から盛んに出入りしていた。体も細かく震え、マサヨシも無意識にか狼を自分の胸元へ胸元へと引き寄せている。

 

「……何のつもり?」

 

 十秒ほどして、やっと影狼が問いかけた。その声は当然、とげとげしくなっている。

 問われたマサヨシは、ばつが悪そうに目をそらすと、うつむいた。そして少しだけ口をモゴモゴ動かして、小さく答える。

 

「……だって……どうせ、死ぬから」

 

「何ですって?」

 

「放っておいても、どうせ死ぬんでしょう? だったら今殺してやる方が幸せじゃないですか!」

 

 マサヨシの語気がわずかに強くなる。その口調は、心なしかすねた子供のそれに似ていた。

 言葉に詰まる影狼へ、彼はさらに続けた。

 

「体が弱くて、親もいない、病院もない。そんなら、むしろ生かしたらダメですよ! よけい苦しむだけに決まってます!」

 

「…………」

 

 マサヨシは何やら、悲壮がってそう訴えた。そのさまを見ると、影狼もその態度の裏に何かしら理由があるのかと勘ぐって、いぶかしげな視線をよこす。どうしてそう思うの? という気持ちが目に表れていた。

 やがて、マサヨシもその視線に気づく。高ぶっていた気持ちが治まると、一転して重く口を開く。

 

「……俺、さっきも言ったけど、体が弱いんです。それも、生まれつき」

 

「…………」

 

「昔、お母さんが妊娠中にトラブルがあって……予定より早く生まなきゃならなかったって。それで……発達が遅れたまま、今まで生きてきたんです」

 

 訥々と語られる身の上を聞かされて、影狼はようやく合点がいった。弱くて置いていかれた、その小さな狼に、自分を重ねているのだ。

 おそらくマサヨシも、虚弱がゆえの受難があったのだろう。でなければ、いくら野生で生きるのが難しいとはいえ、唐突に殺そうとはしないはずだ。

 そんな影狼の予想を裏付けるように、マサヨシはボソボソ、自嘲ぎみに過去を話し続けた。

 

「小さい頃は、色んな病気にかかって……せきが止まらなかったり、すぐお腹をこわしたり……今だって、こんな風に体力ないし」

 

「ふぅん……」

 

「おかげで、地元の病院の小児科の先生と、いまだに顔なじみなんです。お世話になりっ放しだったみたいで」

 

「…………」

 

「それにホラ、俺、なんか顔デカくないですか?」

 

「え、いや知らないけど」

 

「いや生まれ方のせいか、デカいんですよ実際。みんなと並んでみたら分かります。ただでさえ周りとなじめないのに、このせいでバカにされてばっかりで」

 

 乾いた笑いを漏らすマサヨシを、影狼は気まずい表情で見つめていた。どうやらデカい顔の話は彼の精いっぱいのユーモアだったようで、薄笑いしながらおずおずと影狼の顔をうかがってくる。

 影狼はそんな彼に向けて一つせき払いをすると、厳しい顔になって言い聞かせるように言った。

 

「あのね。私は別に、その子を生かせとも殺せとも言う気はないの」

 

「……え?」

 

「元に戻しておきなさい。自然の動物なんて生きる時は生きるし、死ぬ時は死ぬのよ」

 

 影狼の冷徹な言葉が意外だったのか、はたまた、自分の人生に同情してもらえなかったせいか、マサヨシは虚を突かれたように固まった。彼女はかまわず、さらにマサヨシを促す。

 

「置いてきなさいよ、さあ」

 

「そんな……」

 

「動物も妖怪も、下手な情けはかえって害になるわよ。さっさとしなさい」

 

 影狼はなおも言ったが、マサヨシは煮え切らない様子で狼を抱いていた。そうしてグズグズした後に、彼は絞り出すような声でつぶやいた。

 

「……やだ」

 

「は?」

 

「せめて……死ぬまで、こうして見てます。連れていきます」

 

 先ほど殺そうとしたにも関わらず、彼は泣きそうな声で言った。影狼は髪を鬱陶しげにかき上げ、半ば呆れたように言う。

 

「……あっそ。好きになさい」

 

 そうして、影狼はさっさと背を向け、先を歩きだした。マサヨシも狼を抱き直し、トボトボと後をついていく。

 少しして、マサヨシが背中に向けて尋ねた。

 

「影狼さん」

 

「何?」

 

「影狼さんは、どうして俺の方は助けたりしたんです?」

 

 狼は置いていこうとしたクセに、と言外に含めていた。影狼はそれに気づいているのか、素っ気なく答える。

 

「んー……アンタは理不尽に巻き込まれたタイプだから、可哀想になって」

 

この子()の方が可哀想ですよ。こんなに幼くて、愛らしいのに、生まれが不運なばっかりに……」

 

「じゃあ何? アンタは死にたいわけ?」

 

 振り返って鋭い口調で問われ、マサヨシは口ごもってしまった。実は、死にたい気持ちも無くはなかった。体が弱ければ、苦しむだけ……。それは、彼自身の経験からくる言葉でもあったのだから。

 しかし、いざ聞かれてみると素直にハイとは言えなかった。人の気持ちは複雑で、思い切れないものである。

 そうして答えに窮しているうちに、影狼はまた先を歩き始めていた。マサヨシは我にかえって、小走りに後を追った。

 

 死にたいと思っている方を、死なせてはくれないだろうか。マサヨシは歩きながらそう思った。いや、わざわざ聞かずとも、死にたい気持ちくらい、察してくれないだろうか。続けてそんな身勝手な考えまで浮かんだ。

 影狼は別に、悪事をしているわけではない。自然の間引きは肯定し、被害者と言えなくもないマサヨシは助ける。そういう考えでいるだけだ。

 ただ、マサヨシはそれを素直に受け止められなかった。死にたい気分で、それでも踏み切れずにいるのに、わざわざ助けようとなんてしやがって。そんなひどい逆恨みの気持ちまで湧いてきたのだ。

 

 ただ、それをそのまま口にするのは流石にはばかられたので、代わりに彼は、ネガティブな気持ちを独り言として吐き出す事を選んだ。しかも、自分ではなかなか格好いい文句が出て来ないので、著名人の言葉を借りてした。

 

「"人間、生まれてくるとき泣くのはな、この阿呆どもの舞台に引き出されたのがかなしいからだ。"(ウィリアム・シェイクスピア『リア王』)」

 

「…………」

 

「"僕は自分がなぜ生きていなければならないのか、それが全然わからないのです。生きていたい人だけは、生きるがよい。人間には生きる権利があると同様に、死ぬる権利もある筈です。"(太宰治『斜陽』)」

 

「…………」

 

「"生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が噴き出す。"(太宰治『桜桃』)」

 

「……………………」

 

「"しかるに、赤ん坊が生まれた時に泣いているのは世に生まれ出た感動からではなく、母親から離れ、世界に初めて孤独を感じるから泣くのかもしれない。だから、誕生日とは孤独のスタート――"」

 

「だぁーっもう! うるっさいわねぇ、グチグチグチグチ!!」

 

「"――なのだ。"(渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。~ぼーなすとらっく! 「たとえばこんなバースデーソング」~』)」

 

 止む気配のない独り言に、とうとうたまりかねた影狼が叫ぶ。マサヨシはムッとした顔をして言い返した。

 

「嫌なら、聞かなきゃいいじゃありませんか」

 

「聞きたくなくても聞こえてくるの! 耳がいいから! つうか、だんだん声がでっかくなってったし!」

 

 影狼は詰め寄り、自身の耳を引っ張りながら言った。マサヨシはすねたように鼻を鳴らす。そりゃ、いくらかは当てつけの気持ちもあったかもしれないが、そこまで怒らなくてもいいじゃないか。そんな風に思っていた。

 

「はぁーっ……」

 

 マサヨシのふてぶてしい顔を見て、影狼は深いため息をついた。もう見捨ててしまおうか。そんな非道な気持ちまで、かすかに頭をもたげてきたのである。

 そのウンザリした顔に当てられてか、マサヨシはますます意固地になった。わざとらしく片手を(残った片手は狼を持っていた)ポケットに突っ込むと、影狼をにらんで、こんな事を言い放った。

 

「……影狼さん、俺のお母さんにそっくりですね」

 

「何の話よ。やぶから棒に」

 

「思い通りにいかないと、すーぐ嫌な顔をするんだ。それも、いかにもあなたの為って顔をしてさ」

 

 ほとんど八つ当たりのようなその愚痴に、影狼は困惑する。それをよそに、マサヨシは地面に目を落とし、幼少のある記憶を思い出していた。

 小学校に入る前、特に病弱だった頃。腹膜炎だったか、髄膜炎だったか、とにかく大きな病気で入院した時があった。

 点滴につながれ、退屈だと思いながら何日もベッドに小さな体を横たえていた。そんなある日、看病していた母親が話しかけてきた。

 

『マサヨシ、苦しくない?』

 

『んー……』

 

『頑張って。お母さんがついてるから』

 

 などと言って、母親はマサヨシの小さな手を強く握った。その先は寝てしまったのか、よく覚えていない。

 しかし、あのお母さんがついてるというセリフだけは、記憶から消えずにいる。思えばあれを始め、マサヨシは似たような言葉を何度も聞かされた。

 お母さんだけは味方だ。負けないで。辛くなったら言いなさい。

 死にたいと思うたびに、それらの言葉がよみがえり、彼を引き止めた。その身に、重くのしかかるのだ。生きろ、生きろと、事あるごとにグイグイ後押ししてくる。

 思えば、あの腹を痛めたと主張する所帯くさいオバチャン一人在るが為に、彼はどれだけ苦しんできたか知れないのだ。

 

「……口を開けば、頑張れ、大事だ……聞きあきたよ」

 

 悶々とした思いはいつしか口に出ていた。影狼はそれを自分ではなく、完全に母親への文句だと察していたが、それでもおせっかいに彼をなだめた。

 

「お母さんってそういうものでしょ。気にしても仕方ないわよ」

 

「……ふん、皆そう言うんですよね。あーやだやだ」

 

 あからさまに渋面をつくるマサヨシ。生まれたがゆえの苦しみ、生まれてしまったがゆえの悩み、そして恨み。それらに耳を傾けてくれる者が、世間にどれだけいるだろう。

 生まれてこの方、愛情やらエゴやらの荷物を周りからしつこいほどに背負わされ、いつしかその人々と離ればなれになり、一人で終わりの見えない道を、息も絶え絶えにひたすら歩く……。人生なんてのは、そんな代物ではないだろうか。いつしか荷物を取り出す事すらおっくうになり、捨てたくなっても捨てられず、中途で誰もが行きだおれ、くたばるのではなかろうか。

 それが、今のマサヨシが持つ人生観であった。とかく人生観というものは、単純に正誤で判断できず、自らが認識を変えなければどうにもならないものである。

 

「ねぇ、マサヨシ! いいかげん歩きなさいよ!!」

 

 いじけた態度に耐えかねた影狼が急かしたが、マサヨシはそのまま地べたにうずくまってしまった。狼を大事そうに抱えて、彼は消え入りそうな声で言った。

 

「……俺、もう死にます」

 

「はい!?」

 

「この子と一緒に死にます。もしかしたら、潮時かもしれないので」

 

 そして、彼はテコでも動かないという風に膝を丸めた。この見知らぬ世界は、思い切って死んでしまうのに最適かもしれない。そんな思いが頭いっぱいに膨らんできたのだ。

 しかし、どうして。その声色には、多分に思わせ振りな響きもあった。

 

「…………」

 

 甘ったれと言おうか、なんとも面倒くさいマサヨシの態度に、影狼も眉間にシワをつくった。夜風で乱れる髪もそのままに、焦れたように歯噛みする。

 しばらく、無言の時間が続いた。マサヨシはうずくまったままうつむき、影狼は険しい顔をしながら彼を見下ろしていた。

 

「…………!」

 

 しかしふと、影狼が何かに気づいたように鼻を動かした。マサヨシは顔を上げてそれを見つめていたが、彼女は不意に視線を合わせ、低い声で呼びかける。

 

「マサヨシ」

 

「は、はいっ」

 

「……もしもさ。私が人を喰う妖怪だったら、どうする?」

 

 その声は、今までと打って変わって凄みのあるものだった。戸惑うマサヨシの目の前で、影狼の爪が二倍ほどに伸び、鋭く尖る。

 マサヨシはしどろもどろに口を開く。

 

「え……や、だって。人を食べるの好きじゃないって、言ったじゃないですか」

 

「それがもし、油断させる為の罠だとしたら?」

 

 影狼の声色はいっこうに変わらない。彼女はマサヨシの頭上で、伸びた爪を軽く振るった。

 直後、ドザザッと音を立て、マサヨシの背後で何本もの竹が将棋倒しになる。マサヨシがおそるおそる振り返ると、ちょうど彼の頭上の高さで竹が一斉に切断されていた。

 まさか影狼がやったのか。そう思って向き直ると、自分に向けて彼女が再び爪を振りかぶる姿が目に映った。

 とたんに尻込みし、中途で切れている竹に背をつける。そんなマサヨシへ、影狼はさも楽しそうに言った。

 

「……さぁて、どこまで逃げられるかしら。少しは楽しませてくれるんでしょうね」

 

「わ、わあああぁっ!!」

 

 並々ならぬ殺意を感じ、マサヨシは狼を抱えたまま、一目散に逃げ出した。その後ろで、ザワザワと草をかき分けて追ってくる足音がする。彼は捕まりたくない一心で必死に逃げた。

 影狼の態度の急変や、自身の自殺願望の事など、今は考えていられなかった。いくら殺して欲しいと願っていても、怖い思いをするのは嫌だったのだ。

 夜もふけ、道も見えない竹林の中を必死に駆ける。辺りに生える無数の竹が、右も左もひっきりなしに切り倒される。その度に肝のつぶれるように怯えながら、マサヨシは泣いて逃げた。妖怪に、影狼に追い立てられるかのように。

 

 何分たっただろうか。冷や汗にまみれ、息を切らし、それでも殺されたくない一心で逃げ回っていた矢先。

 突然、マサヨシの視界が開け、彼は藪を突き抜けて芝生に転がった。パニックになりながら振り返ると、そこにはついさっき途切れた竹林の姿があった。

 いつの間にか、竹林を抜けられたのだ。彼は影狼がどこかにいるのではないかと忙しなく辺りを見回したが、不思議と人っ子一人出てくる気配はなかった。

 追うのをあきらめたのだろうか。釈然としない思いでマサヨシが突っ立っていると、横から別人の声が聞こえた。

 

「ちょっと」

 

「ぎゃっ!?」

 

「……アンタ、誰?」

 

 初めて聞く声。マサヨシが目をこらすと、そこには自分より少し年下ていどの、紅白の奇妙な巫女服を着た少女が立っていた。

 

「あ……オオヌキ マサヨシです」

 

 ふぬけた顔で答えるマサヨシを、その巫女は足の先から頭の先まで無遠慮に眺める。そして一つうなずくと、断定的な口調で言った。

 

「アンタも迷い込んだクチね」

 

「へ……?」

 

「私は博麗 霊夢。幻想郷の巫女よ」

 

 その言葉にマサヨシはハッとなった。影狼から聞いた、幻想郷を管理しているという人物の名が、他でもない霊夢だったのだ。

 そして、幻想郷と現代を行き来させられる数少ない人物でもあった。

 マサヨシは、反射的にすがりつくようにして言った。

 

「あ、あの! 俺、どうにかして元の世界に帰れませんか!? 今朝、いつの間にかここに来てて……」

 

「あー、そのつもりよ。元から気がかりで探してたんだし。ついて来て」

 

 マサヨシの言葉をさえぎりそう言って、霊夢は背を向けて歩き出す。あっさりしたものだった。

 マサヨシもついて行こうとすると、霊夢が振り返って口を開く。

 

「それにしても運が良かったわね。このド深夜に、たまたま私が勘づくだなんて」

 

「え?」

 

「しかも、あの迷いの竹林から出てきて、ドンピシャに出くわすんだもの。大したものだわ」

 

「…………」

 

 霊夢は肩をすくめて簡単に言っていたが、マサヨシはどうにも引っかかった。助かったのは事実だが、考えてみると確かに都合が良すぎる。霊夢と会えた他にも、彼は影狼から傷の一つももらっていないのだ。

 直後、彼の頭に襲われてからの出来事がチラチラと思い出された。

 

 影狼が何故か盛んに鼻を動かしていた事。

 自分を追う最中に、まるでどこかへ追い立てるかのように左右の竹が切断されていった事。

 

(まさか影狼さん……ここまで俺をわざと?)

 

 さっきまでいた竹林を振り返る。月に照らされた大きな竹の群れは無言で、景色の中で黒い塊のように鎮座していた。内部の様子はうかがい知れないが、マサヨシは何故か、影狼が自分を見守ってくれているような、そんな気がしていた。

 

「どうかしたの?」

 

「あっ……いえ」

 

 ボンヤリしていると、先を歩く霊夢が声をかけた。マサヨシはあわてて彼女のそばへと駆け寄る。

 すると、霊夢の視線がふと、マサヨシの手元に留まった。

 

「そういえば、その子は飼い犬かなんか?」

 

「え、犬?」

 

「ほら、それ」

 

 霊夢に指さされ、マサヨシはあの狼をずっと抱いていたのに気づいた。逃げる間中、無意識にずっと抱えていたのだった。

 連れて帰ろうか、マサヨシは内心で迷った。動物園などに贈れば、死なずに暮らせるかもしれない。しかし、それはこの子にとって幸せなのだろうか。

 

 悶々としていると、いつの間にか目を開けた狼と目が合った。驚く彼の腕の中で、モゾモゾと身をよじり出す。

 マサヨシは少し躊躇したが、そっと屈んで狼を地面に下ろす。狼はへたり込みそうになりながらも、短い手足で体を支え、ゆっくりと竹林へ歩いていった。

 マサヨシも、霊夢も、その姿をジッと見つめていた。しばらく歩いて、狼は一度だけ振り返った。本来の住みかへ戻る前に、最後に目が合う。

 

「……頑張れ」

 

 マサヨシは無意識にそう口にしていた。それしか言えなかった。生を受けて立ち向かっていこうとしている者へ送る言葉は、それ以外に思いつかなかった。

 やがて、狼は藪の中へと入って見えなくなった。マサヨシはそれを見届けて立ち上がり、霊夢に言った。

 

「行きましょう」

 

 彼はその時、幻想郷に来て一番の笑顔を見せた。心のどこかで、少しずつ夜明けが近づいてきた、そんな気分だった。

 

オオヌキ マサヨシ――生存



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のっぺらぼう

『ホノカ……その手、ケガしてない?』

 

『大丈夫? 保健室行ったら?』

 

『ううん……平気』

 

 いつからだろう。時々、知らないうちに傷ができている事があった。

 

『ホノカ! お前この頃、塾をサボっているそうじゃないか! この時期に何を考えてる!?』

 

『ごめんパパ……なんか、記憶があいまいで……』

 

『ふざけるんじゃない! これ以上なまけるような事があれば許さんからな!』

 

 いつからだろう。内心で拒んでいた物事が、知らないうちにみんな過ぎ去っていた事があった。

 普段通り過ごしていたはずなのに。キチンとやっていたはずなのに。誰かが、私の邪魔をする。

 

 頭が痛む。まただ。いい加減、頭の中に問いかける。

 

 誰?

 

   ねぇ、

 

  誰  な の?

 

――

 

「……ノカちゃん、ホノカちゃん?」

 

「……はっ」

 

 隣から少女に呼びかけられ、ナカノ ホノカは我に返った。ずきり、と頭が痛み、彼女はあわてて周囲を見回す。

 周囲には温かく湿った空気が充満し、30畳ほどあるその室内は全面が(ひのき)張りだった。一番奥にはお湯がなみなみと張られた大きな湯船が一槽あり、その手前に個別の洗面台が列をつくっている。

 その洗面台、銭湯などによくある設備の一角に、ホノカは木の椅子を置いて座っていた。正面の鏡には、中学三年の中ではスレンダーな、高身長の自分の姿が映っている。

 濡れた黒のロングヘアをかき分けると、寝起きのようなボンヤリした視線がぶつかった。

 

「大丈夫? のぼせた?」

 

「え、ああいえ、その……」

 

 少女に心配そうに声をかけられ、ホノカはまごついてしまう。水色の髪をショートに切り、赤と青のオッドアイを持つ彼女。小柄ながら発育のいい体をさらさらと洗う姿は、まるで知り合い同士のようにリラックスしていた。

 

(……誰だっけ、この人)

 

 ホノカは愛想笑いをしながら、湯のしずくと共に冷や汗をかいた。

 何故、自分がこんな浴場にいるのか。

 何故、この名前も知らぬ少女と入浴しているのか。

 彼女には、どうしても分からなかったのである。

 

 「大丈夫です」などと生返事をして、ホノカは手元にある桶からタオルを取り出し、体を洗いはじめる。俯いて肌をこすりながら、彼女は今までに何があったか、思い出せる記憶をたどった。

 まず、ハッキリと思い出せるのは今朝の事。修学旅行の二日目で、バスで移動している最中だった。

 しかし、途中である異変が起こった。走行中に突如、この浴場の湯気を思わせるような、白い霧がたちこめたのだ。

 そこで、記憶は途切れる。他の同級生らはどうなったのか、どこまで移動したのか、まるで思い出せない。

 

 実は少し前から、彼女には記憶がところどころ無くなっているという事態が頻繁に起こっていた。ある時には覚えのないケガをし、ある時には行きたくなかった塾をサボり、そして不思議に思いながらも心配や叱責を受けるのである。

 それと共に、記憶の欠けた原因なのか、頻繁に頭痛にさいなまれた。

 だから、不自然に記憶が途切れているのはそこまで気にならなかった。しかし

、今回のように見知らぬ少女と風呂に入るなど、どのような経緯なのか想像できなかった。この少女と関係する人たちに保護されたという事なのだろうか。それならば、なぜ自分一人だけ?

 

 あれこれと考えながら、何度も体にタオルを往復させる。そんな彼女を見かねてか、少女が苦笑いしつつまた声をかけた。

 

「ホノカちゃん……本当に大丈夫?」

 

「わっ! えっと……」

 

 思考にふけっていたホノカは驚き、声をあげてしまった。二人しかいない浴場内に音が広く反響する。

 まずい、この先とりつくろえない。どうにか不信感を持たれまいとホノカは必死で頭を回転させるが、元より困惑しっぱなしで上手いゴマカシなど出来るはずがない。

 たちこめる熱気で脳のヒートアップに拍車がかかる。少女の顔がいよいよ気がかりそうになってきた頃、ホノカの頭に、また鋭い痛みが走った。

 

『……ガサ、……コ…………サ』

 

(…………っ!?)

 

『……コガ……コガサ……』

 

 脳内に、ひどく聞き取りづらい、低い声が響く。ホノカは思わず頭を押さえながら、声に圧されるようにしてその言葉をつぶやいた。

 

「こが……さ?」

 

「え、今私の名前よんだ?」

 

 苦しげにつぶやいた瞬間、少女がはたとオッドアイをしばたかせる。そうか、この子はコガサというのか。そう察したホノカはとっさに笑顔をつくり、何て事ない風に言った。

 

「いえ、ごめんなさい。私、実は頭痛持ちで……」

 

「そっか、だから時々うわの空だったんだね」

 

 小傘(ホノカは思い当たる漢字をテキトーにつけた)は幸い、裏のない微笑みと共に納得してくれた。ホノカはほっとため息をつき、強調するように何度も頷いた。

 

「ごめんね、頭痛なんて知らないで横から色々と……」

 

「へ、ああいえいえ、気にしていませんよ」

 

 ホノカの口調はぎこちなく、他人行儀なものであったが、小傘はそれに気付かず申し訳なさそうに頭を下げた。ああ、この人は良い人なのだなぁとホノカは仕草から察した。

 

「……湯船、入りましょうか」

 

「うん、そうだね」

 

 二人は立ち上がると、並んで浴槽の方へと歩いていった。ご機嫌に鼻唄を歌う小傘を横目に見ながら、先ほど名前を教えてくれた声は何だったのだろう、とホノカは頭の隅で考えていた。

 

―ー

 

「んーっ、気持ちいい~」

 

「…………」

 

 横で思いっきり伸びをする小傘を、ホノカはちらちらと眺める。湯に浸かって頬笑む姿はいかにもリラックスしていて、はたから見てうらやましくなるほどだった。

 一方、ホノカの方はどうにも落ち着かず、たゆたう水面を俯いて見つめたりなどして黙っていた。

 名前が分かり、敵意もおそらく無いとはいえ、彼女にとって小傘は素性の分からない人物だ。このように裸の付き合いを、しかも二人きりでするとなると、どうにも堅くなってしまう。

 体をすぼめ、さりげなく小傘から遠ざかろうとした時、またホノカは声をかけられた。

 

「ホノカちゃん、なんだかゆっくりできてないね」

 

「な、何がデスカ?」

 

 内心を見透かされたような気がして、振り向いたホノカは思わず声がうわずる。それに加えて笑顔もぎこちなく、かえって小傘の指摘の通りになってしまった。

 

「もっと肩まで浸かりなよ。大丈夫、誰にも遠慮する事なんてないんだから」

 

「うぅ……」

 

 優しく言われ、ホノカは湯に肩どころか顔半分までをざぶりと沈めた。照れと気まずさで目を合わせにくい。そんな彼女に、小傘は気にしていない風で、クスクス笑いながら言った。

 

「お互いあんなに泥まみれになったんだから、ちゃんと温まらないとね」

 

「……泥まみれ?」

 

 覚えがなかったホノカは思わず聞き返してしまった。後から気づいて口を押さえた彼女を、小傘は不思議そうな顔で見つめて言う。

 

「うん、ホノカちゃんも私も、すごい汚れてたじゃない。外は大雨だったし」

 

「あ……そうでした、ね」

 

「もー、早く寺に入れば良かったのに、ヤダヤダって聞かないから、お墓でひっくり返って……」

 

 ホノカは相づちでごまかしながら、小傘のセリフに聞き入っていた。そして自分が今いる場所が墓地つきの寺なのだと分かった。続いて、自分がその寺に入るのを渋ったらしいと察しをつけ、わざとしおらしい顔で頭を下げる。

 

「すみません……私ったらとんだ失礼を」

 

「いや、いーのいーの。こんな目にあったらパニックになって当たり前だから」

 

 小傘はひらひらと手を振って笑う。そして、また気になるような事を言った。

 

「いきなり妖怪だらけの世界に迷い込んじゃった、なんて一人じゃ分かるワケないよ」

 

「妖怪……? おっと」

 

「"幻想郷"は怖いよ~? 取り乱しただけで済むなら、十分にラッキーだよ」

 

 妖怪というワードに反応しかけ、ホノカはあわてて口をつぐむ。そして新たに幻想郷というワードを頭の中で反芻する。

 どうやらここは幻想郷とやらで、妖怪とやらが跋扈する恐ろしい世界らしい。にわかに信じられなかったが、小傘が嘘を言うようには見えなかった。

 ……しかし、その幻想郷であっけらかんとしている小傘というのは、一体何者なのだろう。そう疑問に思ったホノカは、小傘の姿を改めて盗み見る。

 すると、小傘がちょうど前髪をかき上げたその時に、あるものが目についた。

 髪の下に隠れるように、赤いアザのようなものがある。それは直径1センチほどもあり、間近にいなくとも目立っていた。

 

「そのキズ……!」

 

 ホノカが反射的に小傘に飛びつき、額のアザへと手を伸ばす。小傘はそれに気づくと一瞬めんくらい、そして何かに気づいたように笑った。

 

「ああ、これ? 気にしなくていいってば。私も妖怪なんだから、すぐふさがったし」

 

「…………」

 

 気にしなくていい、そう言われただけで、自分が何かやったのではないかとホノカは疑った。本当に気にならない物事に対しては、わざわざそうは言わない。

 しかも、小傘は妖怪だから大丈夫だとも言った。てっきり人間だと思っていたホノカは驚いたが、それ以上に、人間なら大事になっていたかもしれないケガを負わせたのかと思うと、彼女は湯船の中で寒気に襲われた。

 その瞬間、またもやホノカの頭に痛みが走る。しかも欠けた記憶に対するストレスのせいか、先ほどより痛みが長く続いたような気がした。

 すぐさま小傘に目を移す。記憶が途切れ、中途半端に会話のつじつまを合わせている今、あまり気を引いてはまずいと思った。幸い、小傘は気づかずに鼻唄などを歌っている。

 

 今のうちにあがってしまおうか。ホノカはふとそう思い立つ。どうにか怪しまれないようにしつつ周りの情報を集め、そして信用できるとなったら記憶の件も打ち明け、改めて助けを求めよう。

 それが良い、と決めたホノカはおずおずと「あの、私そろそろ……」と切り出す。

 しかし、直後に浴場の扉ががらがらと開かれ、誰かが入ってきた。

 

「あ、小傘ー! お風呂の準備ありがとー!」

 

 小傘より若干高い、威勢のいい声が響く。その少女は黒い癖のあるショートヘアで、細身だが背は低く、小傘と同じくらいだった。背中には赤と青の奇妙な形をした大きな羽根が生えている。風呂に来て作り物はつけないだろうし、あの子も妖怪なのだろう……とホノカはとりあえず納得した。分かりやすい証拠を見て、彼女の中で疑いが薄れていく。

 

「あ、ぬえちゃん」

 

 気づいた小傘が、手を振りながら答える。やはり妖怪同士の知り合いらしい。妖怪と二対一……疑いが薄れた代わりに、ホノカの中で恐怖が増した。

 

「ありゃ? お客さん?」

 

 ぬえと呼ばれた少女がホノカを見つめながら歩み寄ってきた。全裸を隠しもせず、無遠慮に視線を向けてくる。

 

「あ、ナカノ ホノカちゃんだよ。外来人の子なんだけど、道に迷っちゃったみたいで」

 

「は、はじめまして」

 

「へぇー、そりゃ災難だったね」

 

 ぬえは驚きと同情が半分ずつの声をあげて、湯船に一番近い洗面台に座る。そして小傘の方を見ながら話しだした。

 

「いやーまいったよ。雨降ってきたかと思ったら、全然やまないんだもん」

 

「しかもみんな出払ってるしねー。大急ぎでお風呂わかしたけど、きっと今に一斉に入ってくるよ」

 

「いやいや、それでも助かったよ。私だったら、絶対にお風呂の準備なんかしないし」

 

「……そこは嘘でもやるって言おうよ。一応は部外者だよ、私」

 

 二人は浴場に響く声でおしゃべりを始める。そこでホノカは「先にあがります」と言えなくなった。恩人と仲がいいらしい初対面の人が来た、その直後に去るなど、なんだか失礼のように思えた。

 のぼせてしまいそうだなどと理由は色々言えたかもしれないが、ホノカはどうしても自分のワガママを通したり、場の空気を無視するなどという事ができないのだった。家では親のいいつけを守り、学校ではおとなしく控えめに過ごす。

 だからこそ、知らないうちにケガをしたりサボったりしたなどの事件があると、自分でも驚いたのだ。我が事と分かっていても、なんだか別人がやったような不気味さがある。

 

「よっと」

 

 一人で悶々と考えていると、体を洗い終えたぬえが隣に入ってきた。ホノカを真ん中にする形で、ぬえがくつろぎだす。

 これで雰囲気からして、脱出はますます難しくなった。さらに追い撃ちをかけるようにぬえが話しかける。

 

「ねぇ、ホノカだっけ」

 

「……あ、はい」

 

「ここに来るまで、どんな感じだった? 一人だけで来たの?」

 

 ぬえは小傘と話す時の笑顔を切り替え、神妙な顔で尋ねる。その目は同情の色が浮かび、彼女なりに労おうと思っているのが窺えた。

 しかし、今のホノカにとってその気づかいはありがた迷惑だった。なんせ、ホノカは現代で霧に呑まれた時から風呂で気がつくまで、記憶がまるで残っていないのだ。

 ヘタに失言などして機嫌を損ねてはまずい。またもやそんな警戒心にとらわれた彼女は、あいまいな笑みを向けて目を泳がせていた。

 すると、横から小傘が助け船を出す。

 

「……ぬえちゃん、あんまりそういうの聞かない方がいいよ」

 

「ん?」

 

「ただでさえ慌ててたんだから。話したくない事もあるでしょ」

 

「あー……うん。ごめん」

 

 たしなめるような口調で言われ、ぬえはややしょげた顔になる。その隣で密かに安堵して、ホノカはすかさず話題を変えた。

 

「で、でも。本当に会ったのがお二人で良かったです。なんていうか、人間とほとんど変わらない感じだから」

 

「へ?」

 

 半分お世辞のようなセリフに、ぬえが顔を上げてニンマリと笑う。ホノカはその豹変に身を固くしたが、ぬえはバシャバシャと詰め寄ると、いかにも楽しげに問いかけた。

 

「……ホノカ、私が人間っぽく見える?」

 

「え、まぁ……」

 

「ふふー。ま、この格好じゃしょうがないかなー?」

 

 ぬえは何故かわざとらしくニヤニヤしながらホノカを上目遣いに見る。上機嫌なのを示すように、背中の羽根がウネウネと滑らかに水をかいた。

 その動きはなるほど妖怪らしかったが、ぬえは得意げに歯を見せて笑うと、更にこう宣言した。

 

「じゃさ、妖怪だってところを見せてあげようか。こっち来て」

 

「え……」

 

 ぬえは浴槽の()()に座ると、どこからか一握りの細かい粒を取り出し、一つをつまんで掲げてみせた。

 

「……何ですかそれ?」

 

「これはね、私の使ってる"正体不明の種"。相手の正体をおぼろげにしちゃう、不思議な種だよ」

 

 正体をおぼろげにする、その意味が分からずホノカは眉をしかめた。ぬえはその反応をも楽しむように、ホノカを見下ろしながら説明する。

 

「ちょっとややこしいんだけどね。例えば今、『湯船に座ってるホノカ』から"ホノカ"って分かる情報をあやふやにして、『湯船に座ってる"誰か"、"何か"』にしちゃう力があるんだ」

 

「誰か……」

 

「あくまでそう見えるだけなんだけどね。深く知っている仲だと効果うすいし。けど、これでもけっこう面白いんだよねー」

 

「…………?」

 

 ぬえは種を手のひらでザラザラかき混ぜて楽しげにつぶやくが、ホノカはいまいち理解できずに首をかしげている。それを見たぬえはこっそり噴き出し、また口を開いた。

 

「よし、なら実際に化けてみせてやろう」

 

「なっ!?」

 

「ぬえちゃーん、あんまりからかわない方がいいよー?」

 

「まあまあ、一回だけだからさ」

 

 ホノカが驚き、小傘も苦笑するが、ぬえはお構い無しである。種をつまんだまま、ホノカへこう促す。

 

「よく見ててよ。今から種の力で姿が変わるから」

 

「み、見るんですか……?」

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 他人の裸体を見つめるのをホノカは少々ためらったが、ぬえはむしろ見やすいようにグンと背筋を伸ばす。あきらめて注目すると、ホノカの目に映るぬえの姿に、変化があらわれた。

 

(…………っ!)

 

 まず体の輪郭がじわじわと崩れ、次に肌の質感が変わっていく。物体としてあったものが、まるで絵画のように平面的になったかと思うと、水を落として絵の具を溶かすがごとく、ぬえの全体が形を失っていく。

 変形はまたたく間に顕著となり、ホノカがまるで水中にでも潜ったかと思うほどに、ぬえとその周りの空間まで歪み、隅々に色がにじんでいく。

 それはまるで、夢の中で見覚えのない人物を見ている時にそっくりだった。

 

「……え、な……誰?」

 

 ホノカがおびえた声をあげると、ぬえらしき何者かは低く底冷えするような声を発した。

 

ほらね、こんな風に正体が分からなくなる。しかも、ホノカとはまだ初対面だから……

 

 そう言った瞬間に、ドロドロとしたぬえの塊が、中心からぐるぐると黒ずみはじめる。まるでブラックホールのように黒いものが渦を巻き、ぬえの全身を漆黒に染め上げる。

 

「ひっ!?」

 

おっかない何かに見えてきたでしょ? 正体がつかめないと、偏見がたくさん入るんだ。妖怪だから、まだ怖いイメージがついちゃってんだねー

 

 ぬえは低く笑いながら言ったが、ホノカはまるで聞いていない様子だった。青ざめて震えながら、一歩、二歩とおぼつかない足取りで後ずさる。

 さすがに心配になった小傘が駆け寄ろうとした時、ぬえは上半身を勢いよく近づけ、ホノカに向けてささやいた。

 

あ、別に怒っちゃいないよ? ただ、私がちゃんと怖い妖怪だって、分かってほしくて

 

「…………」

 

 コールタールを頭からかぶったようなぬえの口があるだろう部分が、セリフに合わせてボコボコと波打った。目鼻の判別もとうにつかず、ただ異様な声をあげる何か。いくらそう見えているだけだといっても、ホノカの理性は限界に近くなっていた。

 

あれ、ねえ聞いてる?

 

 そう言って、ぬえが更に顔を近づけた。黒い塊が間近に迫る。その瞬間、ホノカの体が反射的に動いた。

 

「いやっ!!」

 

「うわあっ!?」

 

 ホノカは悲鳴をあげてぬえを突き飛ばす。するとぬえは突然の事に、背中から勢いよく倒れた。

 ぬえが持っていたらしい"正体不明の種"が、バラバラと周囲に飛び散った。種を全て手放したせいか、ぬえは元の姿でひっくり返っていた。

 

「ぬえちゃん!」

 

 小傘があわてて駆け寄り、ぬえを助け起こす。あちこちを触りながら、あわてて声をかける。

 

「大丈夫? どこも痛くない?」

 

「あー大丈夫だよ。倒れたくらいで大げさな」

 

 けっこうな音がしたにも関わらず、ぬえはそ知らぬ顔で笑う。小傘はホッとため息をつくと、背後で呆然としているホノカへ目を向け、またぬえに向き直った。

 

「じゃあ、ホノカちゃんに謝って。ぬえちゃんがやり過ぎたからこうなったんだよ?」

 

「へーい」

 

 小傘にきつく言われ、ぬえも少しだけ肩を落とす。しかし、当のホノカはといえば、突っ立っているのはぬえが驚かせたせいでも、また突き飛ばしてしまったせいでもなかった。

 ホノカは言葉を失ったまま、虚ろに自身の手を見た。ぬえを突き飛ばした時の手の感覚が、何かに似ているような気がしたのだ。

 

「…………っ!?」

 

 その刹那、彼女の頭に今までとは比べ物にならない痛みが走った。割れるような激痛に思わず目をつむると、まぶたの裏に不鮮明な映像が流れ出す。

 殴りつけるような大雨、ぬかるんだ地面、そしてそれらに構わずもみ合っている誰か……。

 視点はホノカ自身のもので、視界にはもみ合っている少女らしき人物が主に映り、視点がぶれると墓地らしき一角や、古めかしい家屋がチラチラと映った。

 今いる寺の映像だろうか。ホノカがそう考えた瞬間、映像の中の自分が少女を突き飛ばした。

 少女があっけなくよろめき、墓石にぶつかる。色はハッキリしなかったが、そのショートヘアには見覚えがある気がした。

 視点が、わずかに後ずさる。続いて、少女が顔を押さえながら振り向いた。

 手を当てた額から血が流れている。その表情は憔悴してはいたが、まぎれもなく小傘のそれだった。

 あの額の傷跡。あれは自分のせいだったのか。そう思った瞬間、映像はぶつりと途切れた。頭痛と入れ替わるように耳鳴りがし、またそれが薄れ、少しずつ意識が元に戻っていく。

 

「……大丈夫なの……?」

 

 気づくと、小傘とぬえがそろってホノカを見つめていた。怪訝ながらも心配する目。それを見て、ホノカはそぞろに罪悪感に襲われた。

 何故今まで忘れていたのだろう。そもそも何故あんな事をしてしまったのだろう。後悔すると同時に、実際にケガをさせた――記憶になかった自分の事を思い、脳内をさまざまな思考が駆けめぐった。

 

 あれは、誰? 私は、知らないうちにあんな事を? そんなの、頼んでもいないのに。

 私が、やったの?

 

 混乱を極めたホノカは、内心で半狂乱になりながら湯船を出ると、出口へ脇目もふらずに走った。

 

「ホノカちゃん!?」

 

 呼び止める声がしたが、無視した。ただ今の困惑から逃れたくて、必死に逃げ出せる場所を探した。

 扉を押し開け、脱衣場にたくさんある脱衣カゴの中から自分のを探し当て、シャツ、パンツ、ジャージだけを身につける。洗濯前か後かなども気にしていられない。信じられないほどのスピードで着替えを終えると、脱衣場から廊下へ飛び出した。

 

「ホノカちゃん、待って!!」

 

 背後で小傘たちの足音がし、逃れるように廊下を駆ける。さすがに裸では追いかけられないのだろう。すぐには近づいて来ない。ホノカはでたらめに寺の中を走り、縁側まで来ると、裸足で傘もなしに飛び出した。誰もいない場所で一人になれば、この見知らぬ世界も、制御できない内心の何者かも、夢から覚めるように消え失せる。彼女は根拠もなくそんな考えを抱いていた。

 

――

 

「あの、この辺で薄着の女の子見なかった? 長い黒髪の、ホノカって子なんだけど!」

 

 ……数十分後、小傘たちは戻ってきた寺の仲間たちや近くの一般人たちに、ホノカの行方を尋ねて回っていた。詳しい特徴だけではなく、見慣れない人間がいなかったか、それだけでも思い出してほしいとも言った。

 しかし、それにも関わらず誰もが「知らない」「分からない」と口をそろえた。

 

 ……その頃、当のホノカは誰もいない野道を一人で、びしょ濡れになりながら歩いていた。止む気配のない雨が容赦なく体に染み込み、ぬかるんだ地面に足が沈む。白い素足はとうに泥まみれになり、すそまで汚れていた。

 芯まで凍るような寒気をおぼえながら、ホノカは虚ろな目つきで前を見た。同時に視界が白く染まり、低い雷鳴がとどろく。

 その轟音に、彼女は反射的に耳をふさぐ。音が聴覚を刺激した直後に、連動するようにして脳の部分が鋭く痛んだ。

 

「ぐぅっ……う……」

 

 思わず膝をつきそうになり、ホノカは歯を食いしばってうめいた。痛みが引くと同時に、別のあるものが耳をたたく。

 

『ったく、ちょっと優しくされたら早速日和(ひよ)りやがって! テメェには警戒心ってものが無いのか!!』

 

 乱暴な、若い男の声。それは本来ならありえない、()()()から響いていた。

 ホノカの周囲は、何度見ても誰もいない。にも関わらず声はハッキリと聞こえてくる。

 ホノカはこめかみを押さえながら、同じく頭の中で、苦しげに問いかけた。

 

(あなたは……一体?)

 

 彼女自身、馬鹿げた質問だと思っていた。しかしそれでも、その声は返答をくれる。

 

『分からないか? 俺は"お前"さ。いつもいい子ちゃんぶってるお前の、分身みたいなもんだ』

 

(分身……?)

 

 ホノカは意味が分からず顔をしかめる。しかし、分身を名乗るその声はあざ笑うように言った。

 

『覚えてないだろ? ムカついて壁を殴った時も、塾に行かずに遊んでいたい時も、俺が代わりにやってあげたんだぞ』

 

(…………あ!)

 

 その言葉に、ホノカはハッと思い当たる。いつの間にか手をケガしていた事、塾をサボってしまっていた事。原因が分からないはずだ。犯人は己の中にいたのだから。

 

(じゃあ……小傘さんにケガをさせたのも)

 

『そうさ。あのまま逃げりゃ良かったのに、お前は中途半端にでしゃばりやがって』

 

 彼は憎々しげな口調になって言う。体を乗っ取って、もとい表に出てやってきた事に、みじんも罪悪感は無いようだった。

 ホノカは我慢ならず、内心で男に反発した。

 

(ふざけないで! 恩人なのに……なんて余計な真似を!)

 

『恩人? 妖怪だとかいう馬の骨が、なんで信用できるんだよ』

 

 それは、と反論しかけて、ホノカは言葉が思い浮かばなくなる。考えてみれば、自分だって終始小傘たちを疑っていたではないか。

 そこに漬け込むように、男は更に頭の中で言いつのった。

 

『どこまでお人好しなんだお前は? 暴力なんて使わない、親には逆らわない、好意は素直に信じる。そんな風にばかり考えてるから、俺が代わってたんじゃねえのか』

 

 うるさい、うるさい。ホノカはそう念じながら何度もかぶりを振った。これは気の迷いだ、精神の異常だ。必死にそう思おうとしたが、彼女はどうしても男の影を振り払えなかった。

 暴力性、逃避、不信。そういったものが他ならぬ自分から発生したものだと、薄々分かっていたからだ。何かを殴りたいと思った時はある。何かから逃げたいと思った時も、誰かを信じられないと思った時もある。ただそれを、彼女は知らず知らずに押し殺してきたのだ。今まで積み重なってきたものを、まざまざと"別人格"に突きつけられる。

 

「ぐ……っ……」

 

 酩酊したように歩を進めながら、ホノカはうっすらとある疑問を抱いた。

 "自分"とは、"私"とは何なのだろうか。誰とも波風を立てず、礼は尽くして、勉強は真面目にやり、親にも友人にも世話はかけない。そうやって物心ついてから今までを生きてきた。それが自分の偽りない姿だと信じていた。

 しかし実際、心の中には反発してくる者がいる。鏡写しのように、不満を代わりに解消してきた者が。

 自分の築き上げてきたはずの、模範的な"いい子"の人格は、きっかけさえあればたやすく揺らぎ、押しのけられる。

 

(やだ……別人になんか、なりたくない……!)

 

 意識を失いそうになるのをすんでの所でこらえて、ホノカはすがるように自らの体を探った。何でもいい。この場から救ってくれる物が欲しい。

 ……と思っていると、右手に何かを持っているのに気づいた。携帯だ。逃げ出す事しか考えていなかったが、習慣というのは恐ろしい。

 雨でずぶ濡れの携帯を見ながら、ホノカはある事を思いついた。出来るならば、自分というものを示す痕跡を、一つでも多く残しておきたい。自分は今まで自分の意思で生きてきた、他でもないナカノ ホノカなのだという証拠を――たとえ死んだとしても――人々に見てもらいたかった。

 

 どしゃ降りの中、夢中で携帯を操作し、動画撮影モードに切り換える。そして画面に自分の顔を映しながら、ホノカは必死に声を張り上げた。

 

「――もしもし、この動画を見ている方、どうか付近を探してみてください。そこに私が……生きているかは分かりませんが、いると思います。

 私はナカノ ホノカといいます。▼▼中学三年B組の生徒です。202×年度の修学旅行でっ……痛、よく分からない異世界に迷い込みました。嘘では……ありませんっ! 助けてください……! 私はホノカです! 誰でもない私です!! どうか探してください!!」

 

 遅いくる別人格の意識に耐えながら、ホノカはSOSを呼びかけた。自分はここにいる。ここに、十四年生きてきた私がいるのだ、助けてくれと、彼女は悲痛な顔で訴えた。画面の後ろで、映画のワンシーンのように稲妻が走る。

 ところが、そこで異変が起きた。

 

 ホノカは気づいていなかったが、彼女の頭に、種が一粒ぽつんと付いていた。

 彼女がぬえを突き飛ばした時にばらまかれた"正体不明"の種を、はからずも仕込まれた状態になってしまったのだ。

 結果、彼女は他人から見て"ナカノ ホノカという人間である"という情報を失ってしまっていた。ホノカがここまで逃げてきたのも、姿を知らない者には"見慣れない人物"としてではなく、"ただ走っている人間"にしか見えなかった為である。

 そんな種を仕込まれた彼女が、"自分とは何か"という疑問を抱いたまま、画面に映った顔を見た時。

 彼女の迷いがバイアスとなって、視認したその顔に変化があらわれる。

 

「ひいぃっ!?」

 

 ホノカは悲鳴をあげ、視線を画面に釘付けにした。映っていた顔がみるみるボヤけて白んでいったかと思うと、目鼻も、口も、表情も、ふっと消え失せてしまったのである。

 残ったのは凹凸すらない、全体を白く塗り固めたかのような、妖怪さながらののっぺらぼうだった。

 

「何……これ……」

 

 ホノカは青ざめながら、震える手で自らの顔を探る。いつもと変わらない感触。だが、正体不明の種に気づかない彼女は、別人格への戸惑いと怪現象の恐怖に、完全に思考を奪われてしまっていた。

 そんな時、どのような意図でもってか、脳内にまた別人格の声が聞こえた。

 

『……いいから、代われよ』

 

「……いや……嫌ああぁっ!!」

 

 その声に弾かれたように、ホノカは携帯を放り出し、自らの体を抱いて走り出した。行き先なんて考えていない。寺から逃げた時と同じく、ただその場から逃げる事を――そして、今度は自分自身からも――考えるので精一杯だった。

 辺りを取り巻く雷雨、地面のぬかるみ、裸足、そして精神的な混乱……今の彼女に、正常な注意力などあるはずがなかった。

 その報いは、わずか数秒後に訪れた。

 

「え?」

 

 足元に違和感を覚え、ホノカはふと下を見る。先ほどまで携帯ばかり見つめていたのも悪かったのだろう。

 ホノカの眼下には、雨で崩れた、高い崖が広がっていた。

 

「きゃああああぁぁーーーーっ!!!」

 

 つんざくような悲鳴は一瞬で下へ下へと吸い込まれ、やがて聞こえなくなった。ドサッ、とかすかに物が落ちた音がして、その後は絶え間ない雨の音が、無情にいつまでも響いていた。

 

――

 

 それから数時間ほどして、ぬえと小傘がホノカを見つけた。落下したダメージの為に、すでに息絶えていた。

 同時に動画を保存した携帯も発見されたが、ぬえたちは、画面の中のホノカが何故急に取り乱しはじめたのか、どうしても分からなかったという。

 

ナカノ ホノカ――死亡



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最終回

大変申し訳ありませんが、ネタ切れの気配が濃くなり、以前から構想していた最終話にて打ち切らせていただきます


「無事に高校生になれたようね。おめでとう」

 

 町の桜並木が、ちょうど目一杯に桃色の花を咲かせはじめた頃。高校の入学式を終えたイガミ ケンジの前に、一人の女性があらわれた。

 長い金髪をのばした若い女性。白と紫の導師服に、ドアノブカバーのような帽子という奇抜な格好をしている。

 ケンジはその女性を知っていた。目を飛び出しそうなほどに見開き、わなわな震える口を動かす。

 

「……紫、さん?」

 

「久しぶりね。修学旅行の事件以来かしら」

 

――

 

「驚きましたよ。まさかまた会えるだなんて……」

 

「会いたい訳じゃなかったんだけどね。一応、どうしてるかなと思って」

 

 人気のない路地裏に移動し、二人は小声で話す。ケンジの顔をちらちらと伺いながら、少し大人っぽくなったなはどと紫は思った。

 

「あれから、どう? 現代(こっち)では」

 

「……いまだに、帰ってきてない人の方が多くて、世間では神隠し扱いです。一応、生還したヤツは元気ですが」

 

「幻想郷の事は、誰にも話してない?」

 

「あ……ええ。約束ですから」

 

 紫の問いかけに、ケンジの表情が固くなる。行方不明の我が子を探す親たちへ、幻想郷の存在をばらそうと思った事はあった。しかし、そうすればどうなるか、せっかく帰れたというのに水泡に帰すのが恐ろしく、言えなかったのである。

 

「それを聞いて安心したわ」

 

 ケンジの内心など意に介さず、紫は無表情にため息をつく。ケンジは何か言いかけたが押し黙り、場に重い沈黙が流れた。

 しばらく、お互いに無言でいた。紫が無愛想に視線を向けると、ケンジはふと口をためらいがちに動かし、険しい顔を上げて言った。

 

「紫さん」

 

「何?」

 

「妖怪って……何なんですか?」

 

 突拍子のない質問に、紫は眉をしかめる。しかしケンジは思い詰めたように眉間にシワをつくり、大声を張り上げた。

 

「……今まで、言うまいと思っていました。帰らせてもらった身だから。でも……やっぱり理不尽ですよ! 僕らは何かしたんですか、家族と引き離されなきゃならないような、そんな理由があるんですか!?」

 

 一気にそうまくし立て、彼は荒い息を吐く。怒りのにじんだ顔はしだいに悲壮感が増していった。

 紫はそれを見て、さすがに気の毒そうに目線を落とす。そして、ポツリと言った。

 

「理由は、ないわ」

 

「へ?」

 

「単なる偶然なの。それだけ」

 

 紫の言葉に、呆然となるケンジ。慰めるそぶりも見せず、紫は平然と語りかける。

 

「最初に会ったあの日……何て言ったか覚えてる? 幻想郷は、忘れ去られた幻想が行き着く場所だと」

 

「それが何だって……!」

 

「幻想……たとえば神様、妖怪。色々あるけど、現代でいえば自然現象や災害がそれに当たるわね」

 

 紫の言葉の要領が分からず、ケンジはいら立った顔を向ける。そんな彼に、紫はこう問いかけた。

 

「ケンジ、仮にあなたが地震で誰かを失ったら……地震を恨む?」

 

「う、恨むって……」

 

「台風は? 洪水は?」

 

「それは……」

 

「違うでしょう? 死ぬ時は死ぬと、最後には諦めるはずよ」

 

 紫はハッキリとした口調で言った。そして、相手の目をじっと見ながら言う。

 

「落雷や津波や火山噴火がどんなに人命を奪っても、災害を恨む人はいない。災害もそれを気にかけたりしない」

 

「……………………」

 

「幻想との関係も同じよ。現代では、現象に置き換わっただけ」

 

 ケンジは、聞きながら悔しげに顔を歪めていた。理屈は分かる。しかしそんなもの、笑顔で受け入れられる訳がない。

 にらみつけてくる目を、紫はもの言わずに見返していた。憎悪さえ宿すそれを軽く流すように、紫は懐から何かを取り出した。

 

「はい、これ」

 

「……これは?」

 

 それは、ケンジには見慣れない巻物だった。ほどくと、読みにくいが墨で名前が羅列してある。

 その名前のいくつかには、見覚えがあった。

 

「これって……!」

 

「今のところ分かってる生死のリスト。少しは気が楽になるでしょう」

 

 それだけ言って、紫はあっさりと背を向ける。そして自身の目の前に、あの空間の裂け目を出現させた。

 裂け目をくぐろうとする彼女。そこへ、ケンジが絞り出すような声をかけた。

 

「……紫さん」

 

「?」

 

「その……どうも」

 

 顔だけ振り向いた紫へ、涙まじりに言う。紫はにこりともせず、ぽつりと言った。

 

「もう会う事はないでしょうね。その方がいい」

 

 それっきり、紫は無音で姿を消した。一人残されたケンジは、巻物の名前を一つ一つ、緊張した面持ちで確かめていった。

 そして最後まで読んだところで、ぽつり、ぽつりと涙を流し、嗚咽をもらして座り込んだのだった。

 

――

 

 

▼▼中学 生死判明リスト

 

 

生存(帰還)

 

・イガミ ケンジ

・マエザワ エリカ

・ヌマタ カズミ

・アサクラ ノゾミ

・トクダ ノリユキ

・カマダ タカシ

・キシダ アヤメ

・オオヌキ マサヨシ

 

 

生存(残留)

 

・モトキ タツヤ

・フジワラ ハルカ

・サエグサ ミズキ

・ヌマタ レイ(ヌマタ カズミの実姉)

 

 

行方不明

 

・スズキ ミチカ

・ワダ ハルキ

 

死亡

 

・カツタ リョウマ

・ニシダ サオリ

・カトウ ショウゴ

・カサデラ マコト

・ウエムラ シュンスケ

・ミソノ シホ

・ミヤベ ハヤト

・ヤグチ ヒカル

・クロサワ リュウジ

・カシワギ アカネ

・シバタ ユウスケ

・シミズ シオン

・ツカモト ユタカ

・カゲヤマ トモフミ

・サクラバ ミユキ

・ササキ シゲル

・クドウ ナオキ

・サイトウ サクラ

・コモリ ユリ

・カワグチ マサシ

・ハセガワ シュンタ

・サタケ メグミ

・カムロ ソウガ

・カタセ ナオミ

・ヒグチ ヒロヤ

・ニイミ シュウジ

・トミザワ チサト

・ナカノ ホノカ

 



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