―――とても寂しい場所だった。
なんの変哲もない田んぼ道だ。強いて変哲というものを挙げるなら、おそらく都会っ子たちが見たならば何も面白いものもなく、ただただ続くだけの道に驚くといったぐらいだろう。
何年も放置された木造の電柱は低く、風雨に晒されて渋みの出た表面は文明の香りを田舎道に調和させている。電線ではなく街路樹のようだ。勿論、この道には街路樹なんて洒落たものは生えていない。基本的に見晴らしはやたら良く、具体的には、つまるところ何もない。
冬には雪がつもり、夏には虫が騒ぎ出す。山々に挟まれた田んぼは今では機械で整備されるためか普段は人影も殆どない。もとより日も昇りきって、もう暫くすれば沈み始めてしまうだろうという頃。農家の皆さんのお仕事も、とうの昔に終わってしまっているのだ。
車が便利に使われるようになった現代だ。もっともっと便利な場所に家を移した人も多く、人通りも少ない。通り道としても殆ど使われなくなった田んぼ道を使うのは限られた人達だけだった。
その限られた人の中に入る、一人の少女の姿があった。
初夏とはいえ、山村は暑い。汗も噴き出る程に強い日差しの中を、流石に涼しげとまではいかないが、みっともない程ではない。普通の人なら、みっともないぐらいが当たり前だというのに。
少し古風ではあるがスタンダードな夏服、白いセーラー服が少し陰って来た太陽の光を反射して爽やかに光る。山々の隙間を通り過ぎて吹いてくる薫風が揺らすのは、光の加減で若草色に光る黒髪。年頃の女の子にしては珍しい、蛙と蛇を摸した髪飾りがやけに目を引く。
おそらく、十人いたら九人は類い希な美少女と呼ぶだろう、高校生ほどの少女だ。蛇足だが、弾かれた一人は確実にゲイである。
「‥‥まだ葉月にもなってないのに、今年は随分と暑いですね。早く帰ってエアコン付けてあげないと、御二柱が怒りそう」
鈴を転がすような声、というのだろうか。あまりにも人気のない道を登下校に使っているからか、彼女は独り言がクセになってしまっていた。誰に聞かせるわけでもないのに、だからこそ自然で愛らしくて、綺麗な声だった。
今時のスレた雰囲気が全く無い。純真無垢、というよりは天真爛漫。彼女が善良であるかどうは彼女を最も知る二人を以てしても頷けるかと問われれば微妙。しかし間違いなく善人ではあると太鼓判を押すことだろう。
人への親切の出し惜しみをせず、他人の苦境に敏感であり義侠心も十分以上。そも“人のためになること”が彼女がそう定めた、或いは定められた在り方ならば、少なくとも誰かから恨まれたり厭われたりすることは彼女自身の人柄も合わせて殆どないと言える。
だが若さ迸る、という意味ならば些かの間違いもありはしない。同年代の他人に比べても十分以上に情熱的なところのある彼女。一見すると物静かな高嶺の花だが、その実は一度突っ走り始めると転けるまで一切の原則が出来ない暴走超特急であり、学校でもそれなりのトラブルメーカーとして、遠巻きに生ぬるい目で見られていたりした。
無論それは彼女の耳に入ることはない。彼女に皆が気を遣っているから、という意味ではない。あまりにも自らに対する他人の視線というものに頓着しない彼女の性分が故である。本当は天真爛漫ではなくて、天然と言い換えた方がいいのかもしれない。
しかし周囲の悪い感情に左右されることなく、それでいて周りの人のためにと走り回る姿。その辺りも含めて彼女の奇特なキャラクターは友人達から愛されているのである。
「ごきげんよう、案山子さん。今日は特別、暑いですね」
普段の自由奔放な言動が目立つ彼女だから、返事なんてするはずのない道端の“彼”に話しかけたのも、いったいどんな理由があったからなのか。
“彼”は彼女が子どもの頃から、いや、きっとそのずっとずっと前から其処に立っていたのだろう。ものすごくボロボロで、ものすごく古くさくて。そして、ものすごく頼もしく立っていた。
基本的にはごくごく普通の案山子だった。ただ今時の案山子にありがちで、麦わら帽子に手ぬぐいと袢纏なんてありふれた格好ではなかった。
頭には古ぼけたシルクハットを被り、首に巻いているのも小洒落たハンケチーフ。そして誰の持ち物だったのか、纏っているのは時代遅れの派手なタキシード。もっとも其れらも雨風に晒されて酷く痛んでいる。
もちろん顔はのっぺらぼうだ。服や帽子はこの辺りの住民達が持ち寄ったものなのだが、流石に顔ばかりは修正が効かないこともあり、描くのは躊躇されたのだろう。その代わり顔を作っている布や中の藁は程々に取り替えてもらえていたらしく、そんなに痩せたようには見えない。
ごく普通の案山子と比べてみると明らかに洒落っ気があって、愛されていることがよく分かる。
オシャレさんなのに、案山子。どこかひょうきんな彼が早苗は決して嫌いではなかった。むしろ隙と言っても良い。
いや、そもそも案山子なんかをそんな感情を向ける先として論議している段階で、彼女が案山子のことをそれなり以上に気に入っていることは明らかなのである。
「あれ、ほつれが」
久々にじっくりと案山子を眺める早苗。
ふと、その首もとから糸が覗いているのが見えた。どうやら風に吹かれて煽られ、振られる首は相当に負担がかかる部分のようだ。全体的に痛みが激しいが、特に東からの風が吹くこの谷では、
このままでは遠からず首がもげてしまう。別段関係もない案山子だけれど、早苗は少しだけ気になった。
「‥‥黒い糸しかないんですけど、構いませんよね?」
びゅう、と吹いた風に揺られた頭が、こくんと頷いた気がした。
鞄から嗜みとしてしっかりと持っていたソーイングセットを取り出す。普段の言動からはかけ離れていると評されるほどに少女趣味な可愛らしいデザインのそれの中には、何故か黒い糸しか入っていなかった。
主に繕う対象がブラウスかブリーツスカートだから、ちょうど白が切れていたというなら別に不思議でもないわけわけで。しかし、もちろん白い糸はそんな目的のために使われたわけではない。あまり、ここで話すことに意味はないのだが。
しかしソーイングセットを取り出して少し困る。この案山子、かなり背が高い。具体的には早苗から頭三つ分ぐらいは高い。ほつれている首元も、とてもじゃないけれど背伸びしたぐらいでは届かない。気になって繕おうと考えたはいいが、これでは無理そうだ。
踏み台になりそうなものでも近くにあればいいのだが、中々見つからない。道沿いに立てられた案山子だ、軽トラックの荷台からでも普段は整備しているのだろう。その整備がどれぐらいの頻度なのかは知らないが、おそらく昔からこの辺りでお米を作っているおじいちゃんおばあちゃん達の仕事に違いない。
「‥‥むぅん、誰も見てませんよね?」
届かないならどうしようもない。けれど、一度やろうと決めたことを途中で投げ出すのは癪だった。多分、すごくどうでもいいことだろうけれど。出来ない、じゃあいいや、なんていうのはすごく後ろ向きな行動であるような気がした。
我ながら子どもっぽいとも思うけれど、こればかりは性分なのだから仕方がない。
ちらり、ちらりと辺りを伺う。
人通りは無いに等しい。この道の先はこの辺りでも大きな山で、ここで暮らしている若者は彼女だけだった。この道を少し戻れば民家も程々にあるのだが、少なくともこの先に、この時間に用事のある者など殆どいない。
おそらく暫くは大丈夫だろう。誰かに見られる心配はなさそうだ。
よし、と彼女は決心すると目を閉じた。
「東風谷早苗の神力に不可能はありません‥‥ッ!」
ふわり、と風が吹く。東からの優しい風が。
ゆっくりと彼女の、東風谷早苗の体が浮き始めた。最初は確かめるように。次第に大胆に。最後は同道と、まるで当たり前のように。
ソーイングセットから針と糸を取り出し、のんびりと案山子の首を繕い始める。飛ぶことには慣れているのか、ゆらゆらと頼りない感じはしない。宙に立っているようだ。安定している。
一度人目を気にするをやめてしまえば、もう気兼ねなく作業が出来る。空を飛ぶという非常識を行っていながら何ら構うこともなく、鼻歌すら歌いながら慣れた手つきで繕い仕事だ。
現在、天涯孤独に近い状態の彼女である。そう豊かな経済状況でもないので、基本的に色んなことを一人でやらなければいけない。裁縫仕事は特にお手の物だった。
「‥‥うん、このぐらいでいいかしら」
しかし案山子の首を繕う、というのは自分の巫女服を繕うのとは訳が違う。まず曲面だし、あんまり雑に繕っては直ぐにまた解れてしまうことだろう。
少し不格好になってはしまったが、これぐらいしっかりと縫えば再び裂けてしまうことはないとは思う。白い布の首の部分だけ黒い糸がやたらと目立つが仕方がない。むしろアクセントになったと思ってくれればいいのだが。
自らの成果に満足した早苗はゆっくりと地面に降りたって汗を拭った。風の加護で少々の涼を得ている早苗でも少し集中して作業をしたからか、ほんのりと頬は赤い。
仕事自体はそんなに時間はかからなかった。しかし夕暮れ時、太陽の光が陰るのは早い。特に山の間にある田んぼは山の陰が大きくなった分だけ暗く見える。
「そろそろ帰らないと御二柱に叱られちゃいます。案山子さん、首の様子がおかしかったら言って下さいね。解れぐらいなら、また繕いに来ますから」
風で乱れてしまったブリーツスカートの裾を直しながら、早苗は案山子に向かって語りかけた。
傍目には不思議少女にしか見えないが、本人いたって真面目である。真面目というか、天然である。つまるところ本物の不思議少女である。
「―――わざわざありがとう、お嬢さん。君はとても優しいね」
「‥‥はい?」
案山子相手にお喋りなんて恥ずかしい、と思った瞬間。
何処からか聞こえた、くぐもった声。はっきりと聞こえなくて、しっかり届く。一瞬、自分に話しかけられているのか分からなくなる曖昧な声がした。
キョロキョロと辺りを見回し、しかし誰の姿もない。聞こえるのは風の音だけ。
「ここですよ、お嬢さん。ワタシが分からないんです?」
「―――ッ?!」
びくり、と震えた肩の上。すらりと伸びた首に乗った頭がゆっくりと上を向く。
風にそよいで、服の裾がひらひらと。不思議と縫いつけられたわけでもないのに、転がり落ちることもない小洒落たシルクハットがゆらゆらと。
何も描かれていない、のっぺらぼう。さっきよりも、少しだけ俯いてこちらを見ているような‥‥?
「ありがとう、と申し上げたんですよお嬢さん。危うく首がもげてしまうところでした」
布で遮られたように、くぐもった声が発せられている。目の前の真っ白な顔から。こちらに話しかけているように。
俯いている。間違いなくさっきよりも俯いている。というか、こッちを見ている。
動いたとしか思えないのだ。いや、確実に動いているのだ。そんなことより喋ったのだ、確実に。
ただの案山子にしか見えないものが。
「―――か」
「‥‥か?」
「案山子が喋ったぁぁぁぁあああッ?!!!!!」
即刻反転、一目散にひとっ飛び。
非日常に慣れ親しんだ彼女も、普段から触れあう幻想以外は須く常識の範疇たる世界。彼女の日常を侵犯するものへの耐性は驚く程に低く。
人目も気にせず飛び去った風祝。
誰もいない田んぼに残ったのは飛翔によって舞い起こった東風と、谷から吹き下ろす南風。
そして呆然とたたずむ顔なしの案山子。
ただそれだけの、静かな夕暮れだけだった。
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第2話
町から少しだけ離れた郊外の山。
郊外といえば近辺は須く郊外であるが、軽く山いくつかの範囲に他人が住んでいないぐらいの山の中に一つの神社が建っている。
古い神社だ。町から外れた、とあるが秘境というわけではない。元々このあたりは村落だったのが、人口の増加によって更に広い平地へと移動したため少し離れてしまっただけだ。
人口増加によって移動した主街区からも参拝ができるように、比較的広い石畳と会談が山の麓から続いている。
人気のない山の中に広い道が伸びているのは少し違和感があるが、丁寧に掃き清められているのか落ち葉やごみも殆ど見られない。
実際には掃いてあるわけではなくて、通学途中に風祝が適当に吹き飛ばしているだけなのだが。
「かかかかかかか神奈子様ぁッ! 諏訪子様ぁッ!!」
せっかく自分で綺麗にした参道を、葉っぱや土や枝を巻き上げながら飛ぶ風祝。
木漏れ日を反射して緑がかった黒髪を翻して一直線。
参拝客がいないのは幸か不幸か、とりあえず本業としては不幸の部類だろう。
最近まで元気にお参りをしていた爺様婆様が、息子夫婦や娘夫婦を頼って都会へと行ってしまった。
早苗がクラスメイトや商店街のおじさんおばさんに熱心に宣伝しているが効果は微妙。
ごくごく稀に参拝にくることもあるけれど、概ね早苗が強引に引っ張ってくる場合に限る。
そんな静かな参道と長い石段を通り抜け、失礼、飛びぬけると山の中腹に広がる本殿へと出る。
グラウンドかと見まごう程に広い空間だった。四隅に太く長い木‥‥いや、柱が立っている。
本殿は大人が三人ほどで抱えなければならないぐらいに太い注連縄が架かっていた。
観光地ではないのに、観光地も顔負けの美しい光景が広がっている。
或いは観光地ではないからこその、神秘的な光景か。
その本殿の扉は大きく開け放たれており、本来ならばご神体が飾ってあるだろう場所には何もない。
まるで、祀るものなどありはしないとでも言いたげに。
「神奈子様ッ! 諏訪子様ッ!!」
緑色の風を吹き散らして一直線に飛び込むセーラー服。
人の気配というものが感じられない神聖な空気に満たされた本殿に、ゆらりと蜃気楼のように二つの影が現れた。
「‥‥どうしたんだい、早苗。そんなに慌てて」
「まるで幽霊でも見たような顔だねぇ。幽霊なんて、珍しいものでもあるまいに」
かなり豪快に注連縄を背負った背の高い女性。
そして平安貴族の女性が被っていたような傘が特徴的な少女。
早苗当人にしてもそうだが、そろいも揃ってトンデモない美少女。
そして見るからに、人ならざる雰囲気を持った二人であった。
強者の持つ余裕を滲ませ、豊かな胸を張って堂々と立つのが八坂神奈子。
如何にも退屈そうにあぐらをかいているのが洩矢諏訪子。
早苗にとっては家族という言葉を超えた、言わば運命共同体とでも言うべき絆を交わした仲だ。
「私は幽霊なんて会ったことありません! ていうか諏訪子様、その手に持ってるのは」
「あぁこれ? なーんか甘いもの食べたくなっちゃってさ。置いてあったお饅頭、痛んじゃう前に貰ってあげたんだよ」
「置いてあったって、それは棚の奥に隠してあったというんです! それと参拝しに来た人がいたら大変なんですから、そういうことしながら不用意に出てこないでください!」
「誰だって来やしないさ」
「“御二柱”がそんな後ろ向きでは、集まる信仰も集まりません。しっかりしてください!」
“御二柱”と呼ばれた女性と少女は、顔を見合わせて諦め気味に苦笑した。
御二人、ではなく御二柱。
如何にも妙な呼び方が指し示す通り、彼女達は所謂人間と同じような数え方をされる存在ではなかった。
人、と数えられるのが人間ならば、柱と数えられるのは神。
乃ち何の気もなしに目の前で佇んでいるこの御二柱とは、八百万の神々においても軍神と名高き八坂の神と、土着神であり祟り神であるミジャグジ達を統括する諏訪の守矢神。
日本でも最古の歴史を持つ神々が彼女達だと言って、いったい何人が信じることだろうか。
だが事実だ。
「しかしなぁ早苗よ。実際ここ一年、参拝する者はめっきり減ってしまった。たまに訪れる者達こそいても、物見遊山では信仰は集まらん。私達の神としての威厳も、もはや此処年に至っては誰に顕すこともない」
憤慨する早苗に対して、深い溜息が神奈子から漏れる。
彼女達、神という存在は人間とは異なり自己の存在の維持には人間からの“信仰”を要する。
自分を信じてくれる者達がいなくなれば、不要となった神々は存在を維持することが出来ない。
実際に消えてしまった神々は少ないが、その大半はいつ目覚めるとも知れぬ永い眠りに着いた。
再び神々が必要とされる時代まで。
この信仰というのは、実際に信心を表明した信者による祈りや供物などに限らない。
例えば祟り神ならば、天災を起こすことで人々の心に畏れを呼び起こして糧としたものである。
人間同士の感情とは異なり、神にとっては恐怖や嫌悪も信仰の一種だ。
しかし科学が発達した現代では、所謂オカルティックな出来事は加速度的に認知されなくなってきている。
不可思議な出来事とされてきたことの多くが科学的に説明され、不思議でも何でもなくなり、同じように神々なんてものも信じられなくなっていく。
多くの偉大な神々がいなくなった現代で、彼女達ほどの神格を持つ神々が生き残っていることの方がよほど珍しいとすら言えた。
「弱気なことを仰らないでください! この早苗に任せてくだされば、時間はかかっても昔のように御二柱を―ー―」
「早苗、お前には感謝している。最高の、おそらく最後の風の祝。しかし時代は変わった。もう妖の息吹の欠片も感じないのだ。あんなに溢れかえっていた、魑魅魍魎達の騒がしい声も」
「‥‥神奈子様」
「諦めたわけではない。しかし、それが時代の倣いならば、そうなるのも必然やもしれぬ。お前の気持ちは嬉しいが、神格を持ちながらも人間たるお前が、そう無理をするものではないよ早苗」
むきになって叫ぶ早苗と、哀しそうな二柱。
この世代になって、久しく絶えていた神秘の力をその身に宿した風祝が生まれ、こうして自分たちと直接言葉まで交わす程に育った。
そして存在の危機に瀕した自分達の事情を察し、必死に、というかアグレッシヴに活動してくれている。
しかし実際に自分達のことなれば、細くなっていく信仰の消失がひしひしと肌で感じられるのだ。
多くの人々が自分達の姿を目で見て、その神威を思い知るような在り得ない出来事が起こるぐらいでなければ、かつてのような力を取り戻すことは不可能であり、存在を確実させることは出来ないだろう。
それがどれ程に難しいことか! 否、不可能と断じてもいい!
「‥‥私は、諦めません。いつか必ず、みんなに御二柱の存在を知らしめてみせます」
「早苗」
「そこまでにしておきなよ神奈子。いいじゃないか、早苗は頑張ってくれてるよ。私たちも期待して待とうじゃないか」
「諏訪子、しかし」
「もう私らも外野なんだよ。がたがた騒いだって仕方がないじゃあないか」
「‥‥」
神奈子と同じく哀しさは隠しきれず、それでも笑顔をつくった諏訪子が言った。
もしかすると諏訪子の方が、神奈子よりも諦めが濃いのかもしれない。もう、自分達には何も出来ることなどありはせず、酷い言い方をするならば、早苗が勝手に一人で突っ走っているだけなのだと。
自分達はゆっくりと滅びを待つしかない生きた死体なのだと。
元々彼女は大昔の神代の時代に、八坂の神たる神奈子に負けてしまっている名存実亡の神である
より諦観の念が強いのは、そういう理由があるからかもしれない。
「ところで早苗。すっかり話が逸れてしまったけれど、さっきあんなに驚いて飛び込んできたのは一体どういうわけだい?」
「あ、そういえば忘れてました! さっきすごく妙な人‥‥、人? に会ったんです!!」
「妙な人?」
「そもそも本当に人なのか疑わしい言い方だけどねぇ」
さわさわと、今度は早苗とは無関係に吹く南風に木の葉が揺れる。
四季それぞれに姿を変える境内は、逆に言えば自然以外の何物も訪れない寂しい場所なのかもしれない。
「ほら、学校と神社との道の途中の、田んぼ」
「あぁ田辺の爺様のところの」
「その御爺様って何代前の」
「十代くらいまえに、ウチに注連縄を奉納したことのある田辺の爺様」
「何百年も前じゃないですか」
田辺の爺様は草鞋職人をしていたが、農民をしていた弟と同居していたので大体一緒に数えられるという余談。
ちなみに同居していたのは生涯独身だったからである。
そういうのは当時の社会ではおよそ噂話の種であったが、ものすごい速度で草鞋を作れる彼の力量は噂話を払拭して余りある価値を村々に提供していたんだけれども今の話とはあまり関係がない。
「諏訪子の言うことは分からないが、その田辺の爺様の田んぼがどうしたって? 私も知ってはいるけど、別にたいしたことない、普通の田んぼじゃないかい」
「いや、あすこ案山子が立ってるじゃないですか。あの、タキシード着てるやつ」
「あの面白い案山子? 前は普通に和服の案山子だったんだけど、いつだったっけねぇ洋服になったのって」
「確かほら、五代前の洋風かぶれの」
「あー。留学に行ってた。んでその最中に戦争が始まっちゃった」
「三代くらい前までは熱心にお参りきてたからねー」
「時代の流れよねー」
「‥‥御二柱とも、もう少し悲しそうにですね」
「今更よ。で、あすこの案山子がどうしたって? 田んぼの話じゃないでしょうし」
どうでもよさそうに茶化す諏訪子と、かんらかんら笑う神奈子。そして大体ムキになって二柱にからかわれる早苗。
資質を持たず神職を継がなかった早苗の両親が、転勤によって諏訪の山を去ってから数年。
早熟の早苗もあまり姿は変わらず、止まってしまったかのような三人の時間。
しかし神社に集まるべき信仰は絶えて久しく、二柱の神力は衰えていくばかり。
かつては誰の目にも顕れた神威を起こすだけの力は既にとうの昔に消え失せて、今では諏訪湖の直系であり、現代でも片手の指で数える程にしか残らない現人神に数えられる早苗以外には声すら聞こえない。
緩やかに死を待つ平穏が流れている神社は、寝たきりの老人のようだった。
「‥‥あぁ、そう、そうなんです。あの、つかぬことを伺うのですが」
「ん?」
「―――案山子って、喋るものでしたっけ?」
「‥‥はぁ?」
ひゅう、と早苗と関係なく風が吹いた。
いつでも自分達のペースを崩さない二柱が、ぽかんと口を開いて呆けている。
当たり前だ。案山子は喋らない。
「Is this a pen?」「No, he is Tom.」なんて英語の教科書の会話がどう考えてもおかしいように、案山子が喋ることはない。
よしんば喋るとしても、動物を脅すためにカセットテープか何かで喋らせているに違いないし、流石に早苗だってそんな仕掛けだったら気づくことだろう。
「‥‥早苗、今まで本当にありがとうね。私たちのために、こんなになってまで」
「へ、諏訪子様?」
「明日は学校を休んだらどうだ? 天気もよさそうだし、ピクニックにでも行こうか。久しぶりにお弁当持って、のんびり風に当たりに行こう早苗」
「神奈子様まで、どうしたんですか?!」
「いや、お前が信仰を得るために頑張っていることはよく知っている。嬉しくも思うよ」
「さっきは神奈子にあんなこと言ったけれど、自分の体を壊してまで信仰集めに必死にならなくてもいいんだよ早苗」
諏訪子が正面から早苗に抱きつき、神奈子が後ろから抱きしめ頭を撫でた。
子どもの頃はよく三人で遊んだものだが、最近は早苗も学生をやっているから三人でのお出かけなんてトンとご無沙汰だった。
早苗も疲れているんだ、幻聴が聞こえてしまうぐらいにと二柱は娘にも等しい大事な風祝を慈しむように言葉をかけたが、はたと二柱の豹変に気が付いた早苗が吼える。
「し、失礼なっ! 幻聴なんかじゃありません! ていうか疲れてるわけでもありません! 御二柱とも、夜ご飯おかず抜きにしますよ?!」
「それだけは勘弁してくれ早苗!」
「ご飯だけが楽しみだよ~!」
神である二柱は基本的に食事をとる必要がないはずである。
しかし一人の食卓を嫌う早苗に誘われてからは早苗自身料理が上手であることもあって、すっかり食事という娯楽の虜であった。
ちなみに今晩のおかずは鶏肉の山賊焼きである。ぴりりと効いた香辛料が食欲を誘う。
「‥‥しかし早苗よ。その、案山子が喋ったっていうのはどういうことなんだい? いや、質問に答えるならね、普通は案山子が喋るなんてトンデモないよ」
「私らが言えた義理じゃないかもしれないけどねー」
「いえ、普通は喋らないなんて私もよく分かってますけれど。でも本当に喋ったんですよ! どこから、と言われると、顔から、としか言えないんですが。口、ないですけれど」
「‥‥ふぅむ。近所のガキンチョがする悪戯にしちゃあ手が込んでるね。意志の疎通ができるぐらいまで、会話が成立したのかい?」
「はい」
「こりゃ諏訪子」
「そうだねぇ。このご時世にツクモガミとは珍しい」
したり顔で頷く二柱に、怪訝な顔の早苗。
二柱にとってみれば、珍しいには違いないが妙な出来事というわけではないようである。
「ツクモガミって、あの、大事にされて永い時間使われていた道具が成るっていう」
「大事にされてたものだけじゃなくて、まだ使える道具が捨てられたりしたときにも成ることがあるよ。どんなものも荒ぶることもあれば和ぎることもあるものさ」
「諏訪子、そう驚かすんじゃないよ。まぁ件の案山子は大事にされた、和ぎる神だとは思うがね。しかし本当に珍しい。こんな時代に、付喪神が生まれるなんてね」
九十九、という言葉が転じて付喪。九十九とは日本においては古来より百に一足りない数値として、特別に扱われてきた。
数え切れないぐらい数多なる、多種多様である、という意味も持つ。時間に照らしあわせて考えると、白髪のことを九十九髪と呼ぶこともあり、非常に長い年月という意味もまた然り。
道具というのは数多あるものであり、それらが百年の月日を経ることによって神となる、という考え方から、妖怪と同一視されて九十九年使った道具を壊して捨てるという風習も生まれた。
日本では、とかく古いものは“神さびる”ものである。年月を経た巨木や古岩は依代になると考えられ、いつしか道具も同じように扱われるようになった。
職人が使うような道具に至っては、弔うための塚なんてものもある。付喪神という考え方自体は、古くから日本人の中では当たり前のように信じられていた概念というわけだ。
特に江戸時代には妖怪のように付喪神を扱った絵巻が流行り、道具を大事に使うという教訓のための話を多く出回った。逆に言うと、神秘性は薄れ、おそろしげな側面が強調されることによって神格が落ちたとも考えられる。
たとえば、唐傘お化け、提灯お化けなどは親しみ深い妖怪だろう。
「私らの知ってる付喪神は、みんないなくなっちまったからねぇ」
「しかし田辺の家は今の息子夫婦が都会に行ってしまったんだっけね?」
「あぁ、だからあの田んぼも数年でおしまいさ。新しい農家が入ればそれでいいけれど、このご時勢そうもいかないだろうねぇ」
「‥‥そうしたら」
「ん?」
「そうしたら、あの案山子さんはどうなってしまうんですか?」
‥‥静かな沈黙が、本殿の中に流れた。
幻想によって生まれたものは、幻想の中でしか生きられない。
幻想とは、たとえば信仰であり、畏れであり、恐怖でもある。
正体がわからないものに対しての恐れが、正体のわからないものを成立させる。
闇夜の中、谷間に響く唸り声がただの風の音だと知れたなら、誰もそれを恐れることはない。夜に行灯の明かりの影に揺らめく恐ろしげなナニカが、ただの草の影だと知れたなら、誰もそれを恐れることはない。
神に祈っても何も得られないと人が思うなら、誰も神に祈らなくなるだろう。
そうやってどんどん、人は幻想を捨てて物質に生きるようになる。そして幻想は、消えていく。
太古の昔から存在する、諏訪子と神奈子すら力の衰えを隠せない。
木っ端妖怪、吹けば飛ぶような付喪神。
彼に生まれた意味はあるのだろうか。
生きながらえる術はあるのだろうか。
「そんな、そんなことって」
「早苗?」
風はやんだ。ゆっくりと陽は沈み、山々は薄暗く夜の闇に染まっていく。
人里離れ、参拝客も耐えた神社は、もう暫くすれば半径一キロ四方に渡ってまともに点る街灯すらない真っ暗闇になる。
本当は夜遊びが好きな若者だって、車を持っていない学生では家でおとなしくしているしかない。暮らし方、ということに関してならば昔ながらな山村。
「―――私、ちょっと行ってきます!」
「あ、こら早苗!」
「早苗~、ご飯は~?!」
「すぐ戻ります! 下の棚におせんべいありますから!!」
帰ってきた時とまるで逆回しの勢いで飛び出していく、緑と白の影。
夕日もいっそう斜めに差し込む参道を、一直線に飛んでいく。夜も遅いと止める二柱の声も構わず、早苗はわけもわからない胸の中のざわめきの侭に速度を上げた。
それは消えていくことが既に決まりきった未来である、紳士的な、あのみょうちくりんな案山子に絆されていたからなのか。
それとも、その未来が、等しく幻想の世界に生きる、両親代わりの二柱。
彼女たちにも、等しく降りかかるのではないかという、はっきりとしない恐れからくる焦燥だったのだろうか。
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第3話
多重案山子屈折現象によって生じる三体の案山子による不可避の“三案山子同時攻撃”。
おそろしい‥‥でもそれ以上にかなしい技。日常が案山子だったはず‥‥今こうして笑顔でいられるのが奇跡的なぐらい。
「たまさか鼬を斬ろうと思ってな。しかし奴らは素早い。こちらの動きを読んで前後左右に身を躱す。線に過ぎぬ我が案山子では捉えられぬも道理よ。
しかし他にやることもなかったのでな。一念、閻魔に通ず。この通りよ」
東風谷早苗は不機嫌であった。
正確に言えば、特別不機嫌であった。
これは珍しいことだった。別段、彼女は怒ったことがないわけではない。というか、割合すぐに沸騰するタイプだろう。ただ、水と違って沸騰した後はすぐに冷めるのが東風谷早苗であった。
だからこうやって、朝から不機嫌をバラ撒いて黙り込んでいる彼女は非常に珍しいのである。
級友達も中々話しかけることが出来ない。そもそも彼女は奇天烈で破天荒な言動から普段は少し距離を置かれているのだが。
「‥‥早苗ちゃん? どうしたの、そんな眉間に皺寄せて。何かあった?」
恐い、というか触ったら何が出てくるか分からない。そんな爆弾に触りに行かされたのは案の定、普段から早苗の扱いに慣れている者であった。
諏訪大社は諏訪明神とも呼ばれ、古くは風と水の守護神であり、五穀豊穣を祈る神を祀る社である。また戦の神としての側面も持ち、一方で現在では生命の根源と生活の源を守る神とも呼ばれている。
しかし一般的に、観光客が盛んに訪れている諏訪大社に御柱はいない。アレは、ただの伽藍洞なのだ。
形骸ではないが、伽藍洞。彼処は主神である
まだ現代で生き延びている数少ない本物の神様、
比較的大きな社である諏訪大社の血族全てを見渡しても、二柱の姿が見えて、声も聞けて、話が出来るなんて逸材は早苗一人きりだから、である。どんなに厳しい修行を経た宮司でも二柱の存在を感じることは出来ず、それは瑞穂も同じだった。
手習いがてら儀式の手伝いぐらいは出来るが、彼女も決定的に“早苗とは違う”。
心優しい二人だから、それが大きな確執になるということはなかったが‥‥。
「‥‥瑞穂ちゃんには分からないんです。御二柱の御声も聞こえない信仰の浅い巫女さんには」
「また拗ねちゃってる。あー、こういう時の早苗ちゃんは私でも手に負えないよぅ‥‥」
相当に機嫌が悪いらしい。
わりと普段から早苗はこの手の話題で幼馴染みに厭味を言っていた。まぁ普段は「そんなことだから御二柱の御声も聞こえないんですよっ! なんでもっと熱くならないんですかっ!」といった調子なのが「御二柱の御声も聞こえないくせに」というトゲトゲしたものに変わっている。
このぐらいなら、まだ優しい。というか易しい。一度早苗を本気で怒らせたときのことを思い出すと、瑞穂は今でも目の前の自称
早苗の言うところの御二柱を目の前に、土下座しながら延々と説教を聞かされる始末。あのときだけは、御二柱の声が聞こえたような気がする。「早苗、そのぐらいでいいからホント許してやって、もういいから」ってな感じで。
(早苗ちゃんも真剣だし、私も“そういう家”の子だし、信じよう信じようとは思ってるんだけど‥‥)
早苗に言わせれば信仰とは魂から生じるもの。心でどれだけ真剣に信じても、魂から信じてないなら信仰が生まれないらしい。
瑞穂も冷めた少女ではない。本人の中では信仰はしっかりとある、つもりなのである。しかしそれは真に信じて、仰いでいるわけではなく。
つまるところ早苗流の言い方では“魂が伴っていない”わけで。その認識の違い、実際に早苗と違って御二柱が見えないという事実が瑞穂はもどかしいばかりであった。
「ていうことは、今度は御二柱絡み? もしかして、喧嘩でもしたの?」
「‥‥‥‥」
もし本当なら、それはとても久しぶりのことだと瑞穂は少し驚いた。
早苗は下手すれば実の両親よりも御二柱を慕っていて、それはもうべったりと言っても過言ではない。イマイチ御二柱の教育の成果というのが見えてこない破天荒な性格に育ってしまったが‥‥。随分と昔、一緒に遊んでいた時分は、実は瑞穂も御二柱と一緒にいたわけだ。
両親も両親で御二柱には相当にお世話になっている。なにせ早苗が言うことを聞かないときには「御二柱に嫌われちゃうよ」と諭していたのだから。もっとも彼女が後で御二柱自身に「きらいにならない‥‥?」などと聞いてしまうから効果の程は知れたものなのだが。
「別に、御二柱と喧嘩したわけじゃあないです。なんというか、思い通りにいかないことがあったもので」
「いつものことでしょ、早苗ちゃんの『守矢神社復興計画シリーズ』が頓挫するのは」
「あれは頓挫してるわけではなくて、もっと首尾よくいく計画を思いついたから凍結してるだけです! いいですか瑞穂ちゃん、また週末にはビラ撒きに行くんですからね! 今度は桜の木を無理やり咲かせて花吹雪をバックにチラシを配るんです!」
「また祝詞の途中でクシャミして台無しになる、にガジガジ君一本」
「じゃあ私は成功する方にドンと二本‥‥あ、ちょっと待って。チラシ刷っちゃったから今月のお小遣いが」
「情けないよぅ早苗ちゃん‥‥」
バイト禁止の校則のせいで、早苗の布教活動による懐へのダメージは重い。そもそもこんなドがつく田舎で高校生のバイト先なんかあるわけがなく、御二柱が見えない宮司達の執り行う神事が大嫌いな早苗。実家の手伝いなんてろくにしないから、お手伝いの駄賃も頼れなかった。
いくらネット通販が発達しているとはいえ田舎の娯楽はそんなに多くはない。そもそも早苗が実家の手伝いをしないのは前述のことも原因だが、御二柱達自身から神事の修行を受けているのもある。ちょっとばかりの“お人形集め”と“テレビ鑑賞”ぐらいが趣味で、ではどこに金を使っているかといえば、それは布教活動なのだ。
まとまった量のチラシを刷るだけでも女子高生には大きな出費だ。実のところ、繁華街に出てカラオケで遊ぶといったささやかなお小遣いすら吹き飛んでいる。
「早苗ちゃんの“奇跡”って成功した試しがないよねぇ」
「何故か必ず何かの邪魔が入って失敗するんですよね。これはゴル⚪︎ムの仕業ですよ絶対」
「空飛べるって言ってたじゃない。飛べば一発で信じてくれるのに、どうして飛ばないの?」
「‥‥人に見られてると飛べないんですよ。理由は、わからないけど」
普段から誰もいない山道や田舎道を車のような速度でカッ飛ばしている早苗だから、信仰を得たいなら単純に空を飛べばいいじゃないか。そんなことは百も承知だ。
しかし飛べない。人がいるところでは、飛べないのだ。いつも周りを気にして飛んでいるのは別に空を飛べることを知られたくないわけではない。単純に、見られたら落ちてしまうから。かなり昔、両親相手にやって大怪我したことがあるから神経質にもなる。
先ほど桜を咲かせると豪語したのは、あからさまにおかしいが、決定的に不思議ではない奇跡だからである。この程度ならイケるだろうという目論見だった。もちろん成功するかは分からない。基本的に、早苗が衆目を前に奇跡を起こそうとして成功したことはない。
「いいですよもう、どうせ私なんかダメダメ風祝なんです。御二柱の役にも立たず、そこらへんで勉強のできないフツーの女子高生として十把一絡げにされるしかないんです。きっと一山いくらのジャガイモみたいに何処かへ売られてしまうんです」
「あー、今度はダウナーになった。本当に参ってるんだ、早苗ちゃん‥‥。ねぇ、ホントに何があったの? お神輿破壊作戦のときも台風阻止作戦のときも町長立候補事件のときも、こんなに参ってなかったのに」
聞くからにヤバそうな作戦名はさておき、あまりにも心配になった瑞穂は早苗の前の席へ腰を下ろした。
ちなみに元々そこが瑞穂の席である。授業中でもお構いなしに突然立ち上がっては「閃いた!」なんて叫び出す早苗を止められる位置である。
「‥‥まだ話すまでもないことです。フラグがたったら、話しますよ」
「フラググレネード?」
「また昨晩遅くまでゲームしてましたね瑞穂ちゃん。なんでソレが分かってフラグが分からないの。機が熟したらってことです」
朝のHRの鐘が鳴って、担任が入ってくる。一学年一クラスしかないのに、担任はしっかりと一年ごとに変わるから、彼女としてはトンデモない生徒の担任になる日を胃が切れる思いで待っていたことだろう。
あるいは週の半分ぐらいは寝坊してやって来る担任だから、細かいことは気にしてないかもしれない。適当なHRを受けながら、多くの生徒は早苗と同じクラスで、担任が彼女であったことは案外天命だったんじゃないかと考えていた。
一方の当人、早苗。前の席に座った瑞穂がチラチラと心配そうにこちらを見てくるのを横目に、少し薄れた不機嫌の代わりにぼんやりとした様子で窓から外を眺めていた。
「今、飛び出して行っても仕方がないですからねぇ‥‥」
いつも誰かを振り回している自覚はあるんだけれど、振り回されているような事態は初めてだ。
しかしどうにも気になって仕方がない。
そんな調子で授業なんて受けるものだから、何回も何回も、指されては答えられずを繰り返す風祝であった。
◇
「――案山子さん、案山子さん!」
「‥‥‥‥あぁ、お嬢さん。こんにちは。朝はごめんなさいね、お話できなくて。お爺さんがいたから、どうにも口が回らなくって」
放課後。
誰よりも早く学校を飛び出した早苗は、人目につかなくなった瞬間に全速力で宙を駆けて昨日の田んぼへやって来た。
「あぁ、やっぱり。私の前でしか喋れないんですね‥‥」
「一人ぼっちで喋って何が楽しいんです? 本当のことを言うとね、お嬢さん。実は昨日貴女に話しかけるまで、ワタシは自分が喋れるってことを知らなかったんですよ。もしかしたら昨日、喋れるようになったのかもしれないけれど」
「いえ、そうじゃなくて。貴方も幻想の生き物だから。多分、幻想を否定する人とは一緒にいられないんです」
「幻想を、否定?」
「はい。私も、他に誰かいたら飛べませんし」
「ふぅむ、なるほど。いや、確かにそうかもしれません。心なしか、意識もおぼろげになるような気もします。歳をとってしまったから、それが原因かと思ったんですけれど」
「付喪神だったら逆じゃないんですか? いえ、わかりませんけど」
「私もわかりませんけど?」
「ダメじゃないですか」
昨日の夜、御二柱の制止をふりきって飛び出した早苗は結局、案山子とは話すことが出来なかった。理由は簡単、老成した雰囲気を持っていた案山子は本物の老人のように、非常に早寝早起きだったのである。
いくら話しかけてもウンともスンとも‥‥正確には、寝息なのか普通に風が通る音なのか分からない音がするだけで、つまり一向に起きる気配がなく。流石の早苗も諦めた。
朝も同じ道を通るのでその時に話ができる、と前向きに考えたのは順当だったろう。問題は二人の会話の通り、案山子が一般人の前では喋れなかったという初めて判明した事実である。
「付喪神は、ある日突然そうなるものなんですよ。ワタシも貴女に言われるまで、付喪神なんて言葉、忘れてしまっていました。いや、知らなかったと言うべきです?」
「定義づけが最初じゃなくて、後からされるって生物としてどうなんでしょうか‥‥」
「生物というより幻想ですから、ワタシ達は。他人の影響で簡単に存在を根本から作り替えられてしまう、か弱い存在なんです」
それは御二柱も、だろうか。早苗は口にこそしなかったが、心の中ではそう思っていた。
人間だって変化する生き物だ。けれどその変化はあくまでもゆっくりしたもので、人生を一変させるようなイベントがあれば別だけど、そう簡単に急激に変化したりはしないものだ。
けれど案山子の言った通り、幻想という存在は違う。人間は自分自身で生きるものだけれど、幻想は他人‥‥人間達、大衆の信心や畏れによって存在を維持する。自分以外によって、容易に在り方を変えられてしまう儚さを宿命づけられている。
ついこの前まで里の守り神だったものが、祟り神に変わる。妖怪が神に、神が妖怪に。人が妖怪に、人が神に。そしていつかは消えてしまう。
そんなことは当たり前だ。当たり前のようにわかっているけれど、どうしてこんなに悲しいんだろうか。
「あ、そういえば自己紹介をしていませんでしたね。どうも、私、案山子です」
「そ、それは見ればわかります‥‥」
「ふむ、その通りですね。どちらかというと、お嬢さんのお名前が聞きたかったんですけれど」
少しは自由に動けるらしく、上半身?を曲げて早苗を見下ろす案山子。
よくよく見れば手も若干ながら風とは関係なく揺れ動いて感情をアピールしている。顔はのっぺらぼうのくせに、意外に器用だ。
「‥‥思い返してみれば、それもそうですね、失礼しました。私は東風谷早苗といいます。三つ向こうの山にある守矢神社の風祝です」
「ほう、風祝! まさか本物の風祝がこの時代にいるなんて‥‥。現人神とは、しかもこんなに若い。あぁ、お気の毒に」
お気の毒に、と言われた早苗は一瞬気色ばみ、そして直ぐに諦めと哀しみの色を浮かべて微笑んだ。
案山子の言葉は認めたくないのに、ただの事実だと悟っているから何も言えなかった。幻想と現実の狭間にいる苦しみは、普段の溌剌な言動に隠されて他人には見えなくとも否応無く存在する。
現代では幻想ではいられない。幻想は消え去るのみ。現実だけが残る。早苗は幻想と現実にそれぞれ片足を置いて生きているが、いずれ幻想の側の崖は崩れ落ちてしまうから、現実へ両足を戻すしかなかった。
それが早苗には堪らなく哀しかった。いわば今はモラトリアムのようなもの。幻想と現実、どちらにも生きていられる甘えを指摘された気分だった。
「守矢神社の御二柱のご様子はどうです? ご健勝であらせられますか?」
「‥‥今朝もご飯をお代わりされましたよ」
「ご飯? あぁ、流石は神格の高い方々だ。食事ができるとは。この時代にそれほどの力持つ御柱がおられるのは素晴らしいことですね。神々の息吹が感じられなくなっても、その報せは嬉しいものです」
不信心な、なんて言葉すら出てこない。やっぱりそうなんだ、幻想の存在にすら御二柱は恵みを与えることが出来ないほどに衰えている! 信者に恵みを与えられない神なんて信仰が集まるわけがない!
次々に突きつけられる事実が早苗を刃のように傷つける。もうやめてほしい、これ以上いじめないでほしい、そう思っても耐えるしかない。
「風祝のお嬢さん‥‥いえ、早苗さん。そんな泣きそうな顔をしないで。仕方がないことなんですよ、この時代には。むしろ、よくもまぁこの時代まで意識を繋いでいられたものです。私も、御二柱も」
「そんな、こと、貴方に言われなくても」
「私は貴女と話せてよかった。付喪神として意識を得てから、途切れ途切れだけれど長い時間を過ごしました。その間、誰とだって話したことなんてなかったんですよ? 消えていくまでに、最後に貴女と話が出来たのを本当に嬉しく思うんです。ほら、涙を拭って。もっとお話をしましょう?」
気がつけば、本当に泣いてしまっていたらしい。
ぐい、と制服の裾で涙を拭って――臍がガッツリと見えてしまったが――早苗は案山子の隣に腰掛けた。
日差しは丁度よく翳り、心地よい風が頬を撫でる、絶好の日向ぼっこ日和である。早苗は案山子と、たくさん話をした。
最初に案山子が自我を持った時の話。
喋ることなんて思いつきもしなくて、周りに付喪神の仲間なんていなくて。ただ在りの侭を感じて、誰にも教わっていないのに色んなことを知っていたこと。
案山子にいつも話しかけてくれていた冴えない三男坊が戦争に行った時の話。
結局彼は帰ってこなくて、何とか無事に戻ってきた長男が自分の前で泣いてばかりいたこと。
いつの間にか、泣き虫の長男が父親になって、祖父になった話。
今では彼と、その連れ合いだけが自分の世話をしてくれていること。その子も孫も、もうこの小さな山中の田んぼには来てくれないこと。
ずっと独りぼっちで花を愛で、鳥と歌い、風を観じ、月を眺めていた話。
まるで閉じこめられている箱が段々と小さくなっていって、もうすぐに押しつぶされて消えてしまうだろうという諦めと覚悟の中にいたこと。
「そんな哀しいこと、話しながら、どうして平然としていられるんですか‥‥」
だんだんと夕日が辺りを染め始めた頃。
ひとしきり話し終えて満足した様子の案山子に、早苗は寂しく問いかけた。
祖父母も健在な彼女には、漠然とした不安はあっても明確な別れを体験したことがない。だから自分が失くなってしまうことを覚悟した案山子の様子が、どうにも理解できない。
そして理解できないけど現実に、それが回避しえないことなのだということまでは分かっていて。
どちらかといえば寂しいというより、悔しかった。
「‥‥いずれ分かることだとは思いますよ、早苗さん。こういうのはね、歳をとらないと悟れないものなんです」
「それは卑怯です」
「かもしれませんね。‥‥あぁ、でも、もうじき否応無く分かってしまうことです?」
「‥‥どういう、ことですか」
ぎぃ、ぎぃ、ぎぎぎぎ、と音を立てて案山子がこちらへ向き直った。
わずかながら腰も曲がり、見下ろすように。夕日が、綺麗な球面になっていない案山子の顔の凹凸で不気味な影を作っている。
まるで嘲笑うかのように。
早苗は思い出した。
付喪神は、神様と名前が付いているけれど。本質的には妖怪に近いということを。
そして妖怪に限らず神様でさえも、決して人間に好いものとは限らないということを。
人が人ならざるものと接するときには、欠片も油断してはならないということを。勘違いしてはならないということを。
「――程度の差はあれ、そろそろでしょう。御二柱が、身罷られるのも」
嘲笑うように体を揺らしながら、くぐもった声でそう告げる案山子を見上げながら。
早苗は思い出した。
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