懐玉―慧眼の呪 (hrd)
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壱 君しか知らない

 

夏油傑(げとうすぐる)

前略

 『呪術は非術師を守るためにある』て傑が言ったこと、前は理解できなかったけど今は少しだけ分かるよ。

 

 

 呪術師は古くから存在している職業である。

 奈良時代、日本仏教の広がりと共に呪術は広まり呪術師が誕生した。

 人間の恐怖や怒り、憎しみといった負の感情は呪いへと転じて物の怪つまり呪霊(じゅれい)へと変わる。それらは人を襲い、呪力を得て更に力をつける。呪いは呪いでしか祓えない。その呪いを呪術という。そしてそれを操る者を呪術師という。

 

 三条河原(さんじょうがわら)(さとり)も呪術師の一人である。

 男にしては長めのくすんだピンク色の髪に、真ん中に分けた前髪は紫色の大きな丸い目にかかっている。前髪から覗く瞳からは甘さだけでなく刀のような鋭さもあり、マネキンの様に細身な体型を黒い詰襟とストレートパンツで隠している。

 覚の朝は椅子に座ることから始まる。

 テレビを点けてニュース番組を見るように、起床してから24時間先までの未来を2時間かけて視る。その間、覚は人形の様にただ宙を眺めて座っている。

 昔は布団の上で寝ながら視ていたのだが、非常識にも早朝から遊びに来る幼馴染、五条悟(ごじょうさとる)に布団で簀巻きにされ、数えきれない程遅刻したため椅子に座るようにしている。

 

 ドサリ、と椅子からずり落ちて覚は目が醒めた。顔を顰めて眉間を揉みほぐし、椅子にしがみつき這い上がる。

 映写機の様に開きっぱなしだった瞳に目薬を差すが、目がしょぼくれて瞼が開けられない。覚はおしぼりを温めながら眼球も入れ歯のように取り外せて浸漬できればいいのにと溜め息を吐いた。

 情報を詰め込んだ重たい頭に冷却シートを貼り、温めたおしぼりで目を覆う。じんわりと溶け出す眼球を味わいながら、今日の未来をまとめていく。

 

 今日は五穀豊穣祈願の舞を収めた後に追加任務が入る。五条、夏油、家入(いえいり)と合流し、任務中に連絡が途絶えた呪術師2名の救出に向かう。その際に、五条が(とばり)を降ろし忘れた状態で派手に建物を破壊するが、その他特別な事態は起こらない。

 爆発的な館の破壊は後日間違いなくニュースに取り上げられるだろうが、修正しなければならないほど深刻な問題ではない。

 呪術師をサポートする補助監督が仕事をするだろうと問題を彼らに投げる。他人の仕事を増やすことになるが、未来を視たからといって聖人君子の様に問題点を全て修正しなければならないとは思わない。

 

 時計を見て、覚は学校の時間が迫っていることに気づいた。額に手を当て、重たい頭と格闘しながらのろのろと椅子から体を離す。

 瞬間、闇に襲われた。世界から隔絶された闇の中に、覚は居た。

 突如、バンッと目が眩むほどの強烈な光と共に、五条が黒髪の男に背後から刺される映像が脳を焼く。すぐさま暗転し、またバンッとフラッシュを浴びる。今度は三つ編みの少女が覚と夏油の目の前で頭を撃ち抜かれる。

 また暗転しフラッシュする。五条を刺した男が夏油を一閃し、暗転する。

 フラッシュする。男は覚の目玉を抉り取り、暗転する。

 フラッシュする。ぼろぼろになった五条が死んだ少女を抱きかかえ、異常なほど笑顔を浮かべた大人達に拍手されている。

 フラッシュする。顔色の悪いやつれた夏油が髪の長い女と話している。

 フラッシュする。目を包帯で巻いた覚と五条、担任の夜蛾(やが)が廊下で取り乱している。そして暗転し、闇の中、夜蛾の声が響く。

 

 ──傑が集落の人間を皆殺しにし、行方をくらませた。

 

 体が床へ崩れ落ち、頭が割れる程の頭痛に襲われる。目の奥はちかちかと点滅し、ひどく吐き気を催す。

 どくどくどくどくどくと、気づけば嫌に自分の心臓の音が響いている。痛いくらいの速さで鼓動を刻み、今が現実だと教えてくる。

 何だ、これは。何なんだこれはと自問していると「前にもあったやん」と背後から落ち着いた自分の声がした。

 そこで気づく。これは、そう遠くない未来に起こることだと。

 とめどなく零れる涙に、覚は暫くの間床を濡らした。

 

 

 

 

 

 三条河原覚は父方が呪術師の家系であるが、父親は呪術師ではない。父親は、三条河原家の術式と呪力を受け継がずに生まれた。

 呪術師に非ずんば人に非ず。呪術師の家系において、呪力を持たずに生まれた人間への扱いは想像を絶する。父親は家の処遇に耐えきれず縁を切り、一般女性と結婚して幸せな暮らしを享受した。

 だが不運なことに二人の子供は、呪力と三条河原家の術式、そして未来の情報を視覚的に捉える眼、慧眼(えげん)を持って生まれた。

 成長するにつれて見えないものが視える、未来が視えると言う息子に、父親は家族以外の前では言ってはならないと泣きながら抱きしめた。

 父親は妻に最悪の未来を説明し、妻方の親戚付き合いも希薄となった。息子の情報が三条河原家、呪術界の耳に入った場合、息子を確実に取り上げられるからだ。

 

 呪術界は常に保身、世襲、見栄、権力の沼に漬かっている。家同士の権力争いに於いても優秀な術師を輩出する家ほど地位を築き利権を得る。故に、羨望の目で上を見上げては嘲笑の目で下を見下す。そんな世界では、覚は喉から手が出るほど欲しい駒であった。

 父親はそれが我慢ならなかった。息子を取り上げられたくなかった。非術師の幸せな温かい家庭を築いて暮らしたかった。ただそれだけだった。

 

 それが崩れたのは覚が7歳になった年だった。その日は父も母も母方の祖母も都合が悪く、覚の面倒を見ることができなかった。近所の人に数時間、覚の面倒を見てもらったのが運の尽きだった。

 その人と覚は買い物をした後、宝くじ売り場に入った。そこで7つの数字を塗りつぶすくじを購入し、覚に数字を選ばせた。

 その人に悪意はなかった。覚が慧眼を持っていることも知らなかった。ただ、会話の一つとして当たったらいいねという軽い気持ちでくじを購入したに過ぎなかった。

 そしてタイミングが悪いことに覚の能力が暴走した。いつもは最大数分先の未来しか視えなかった力が、強烈に点滅する光と共に数日後に発表される今しがた購入したくじの当選番号とその人の悲惨な末路を視せた。

 

「覚君? 覚君は何番が良いと思う?」

「……なあ、やめよう。……死ぬよ」

「? 数字塗るくらいじゃ人は死なないよ? それにもう買っちゃたし。どうせ当たんないよ」

「……や、でも……あかん」

「大丈夫だって、お姉ちゃんしぶとく生きる自信ある!」

「……う、ん。うん、そう……やんな。数字塗るくらいじゃ死なんよな」

 

 数日後、その人はくじが当選し億単位の金が入った。翌日、その人は数日間行方不明となり、悲惨な遺体となって発見された。翌々日、覚は両親から引き離され、三条河原家の次期当主として迎え入れられた。

 両親との最後の記憶は、取られまいと覚を抱きしめる母親と、二人を引き離そうとする三条河原家の人間とそれに抵抗する父親の姿だった。

 覚が決意を口にした時、二人は首を横に振り縋りついたが、最後は泣きながら「幸せに生きて」と覚に呪いをかけた。

 

 

 

 

 

 東京都立呪術高等専門学校──日本に二校しかない呪術教育機関の一校。表向きは私立の宗教系学校とされているが、内実は呪いを祓うために呪いを学ぶ呪術師養成学校である。多くの呪術師が卒業後もここを起点にして活動しており、教育のみならず任務の斡旋、サポートも行っている。

 その教室の一室で2年の五条悟、夏油傑、家入硝子、三条河原覚は、一級呪術師、呪術高専教師および4人の担任である夜蛾(やが)正道(まさみち)の前で並んで正座していた。

 4人の前にあるテレビの画面にはニュース番組が流れている。

 

「続いて昨日、静岡県浜松市で起きた爆発事故についてです。原因はガス管の経年劣化とみられ──」

 

 夜蛾がテレビの電源を消す。

 昨日の任務の際に4人は非術師に結界内の出来事を認識させない結界術の一種、(とばり)を降ろし忘れていた。それにより、突如発生した爆発的な建物の破壊は世間の注目を集めた。

 

「この中に『“帳”は自分で降ろすから』と補助監督を置き去りにした奴がいるな。そして帳を降ろし忘れた。誰だ名乗り出ろ」

 

 夜蛾が低い声で4人を睨む。強面で体格の良い夜蛾の静かな怒りは、常人の精神ならばトラウマを植え付ける程の迫力であるが、常軌を逸した精神を持つ4人はその怒りを浴びても何処吹く風と涼しい顔をしている。

 

「先生!! 犯人捜しはやめませんか⁉」

「悟だな」

 

 夜蛾が拳を握りしめて五条に近づく。夜蛾の鉄拳を一人で受けることを悟った五条は、自分は関係ないと一人傍聴席に座って事の顛末を見ている覚に苛立った。

 いくら傍若無人の五条とて、自分の不手際で高専関係者に迷惑をかけたことは理解している。ほんの少しでも悪いと思ってるからこそ、術式で防げる夜蛾の鉄拳を甘んじて受けるつもりである。甘んじて受けるつもりではあるが、今この説教が自分には全く関係ないとしている覚を見てしまっては、一人で素直に怒られるわけにはいかなかった。未来を視て知っていたにも関わらず修正しなかった覚も同罪だと五条は心の中で舌を出す。

 

「ってか覚、お前絶対(ぜってぇー)こうなるとこ視てたろ!! 変えろよ!!」

「はあ?! 勝手にワンマンプレーしたんは悟やろ。帳を降ろし忘れた悟が悪いんやし責任転嫁やめろや」

「んだとこの野郎!!」

「絡むなド阿呆」

「二人共悪い」

 

 ゴツンと、夜蛾から愛のある鉄拳(指導)を受けた二人は痛みにもだえ苦しんだ。

 

 

 

 

 

 教室に戻った4人は、五条の席に集まっていた。

 覚は殴られた頭をさすりながら持ち主の机を遠慮なく蹴る。

 

「一人で殴られたないからって人巻き込むなや。ホンマ最低やな」

「うっせえよ。自分は関係ありませーんって顔してる覚が(わり)い。つーか、あんぐらい変えてくれたっていーじゃねーか」

「なんでお前のために動かなあかんねん」

「俺だけじゃねえよっ! ニュース沙汰になってんじゃねえかよ!」

「二人共やめろ」

 

 ヒートアップし始めた二人を止めたのは夏油だった。五条はむすっと不貞腐れ、覚はわざとらしくうへーっと顔を顰める。家入はそんな三人を面白おかしく観察しながら五条のサングラスで遊び始める。

 

「そもそもさあ、帳ってそこまで必要? 別に一般人(パンピー)に見られたってよくねぇ? 呪霊も呪術も見えねぇんだし」

「見えへんから不安になるし不安になるから怖いんやろ。不安になられてパニックとか最悪やん。呪霊発生したらお前一人で祓えよ」

「お前がそれを言う?!」

 

 五条は顔を歪めて覚を睨みつける。柄悪く、ガンを飛ばす五条の目の前に手刀が下され、対象が覚から掌に変わる。

 夏油は燃料を投下する覚を目で諫め、手刀を外して五条を説く。

 

「覚の言う通り駄目に決まってるだろ。呪霊の発生を抑制するのは何より人々の心の平穏だ。そのためにも目に見えない脅威は極力秘匿しなければならない」

「分かった分かった。弱い奴らに気を遣うのは疲れるよホント」

「悟に振り回される方が疲れるけどな」

「テメエ」

 

 夏油に宥められながらも拳を握る五条に、覚は冷たく息を吐いた。

 いくら強大な力を持っていても、いつの時代も異端を弾き出すのが人間の社会であり、歴史がそれを証明している。五条がどんなに実力があり大人ぶっていても『自分が合わせてあげている』と認識している時点ではまだ子供だ。そして理想を本気で唱えている夏油には青さしかない。

 

「『弱者生存』それがあるべき社会の姿さ。弱きを助け、強気を挫く。いいかい、二人とも。呪術は非術師を守るためにある」

「それ正論? 俺、正論嫌いなんだよね」

「ホンマ、自分それ本気で思うてるん?」

「……何?」

 

 二人の馬鹿にした言い方に緊張が走る。

 肌を刺激する空気を察知した家入は、遊んでいた五条のサングラスを机の上に置いて席を立った。

 家入にとって話の終着点に興味はなく、三人の喧嘩に巻き込まれるのは御免である。事態が大きくなる前に離脱する方が賢明だと損得勘定が働く。

 五条は机の上に置かれた丸いサングラスをかけて嗤った。

 

呪術(ちから)に理由とか責任を乗っけんのはさ、それこそ弱者がやることだろ。ポジショントークで気持ちよくなってんじゃねーよ。オ゛ッエー」

「ホンマそれ。自分の行動指針に他人入れんなや。何のために命を張んのか、そこの理由に自分のエゴ以外入れたらあかんやろ。顔も知らん他人のために自分が犠牲になって平穏な生活(その利益)を当たり前のように享受されるとか最悪やん。吐くわ」

 

 おえっと、覚もえずく真似をして夏油を煽る。

 

「悟、覚、外で話そうか」

 

 理想を否定された夏油は、怒りを凝縮した声で二人を威圧する。夏油の背後には、彼が従える呪霊が顔を出して殴り合う準備をしている。

 

「寂しんぼか? 一人で行けよ」

「図星ちゃう? 自分ないんか。偽善しかないから理想入れたがるんやろ」

 

 いつ爆発してもおかしくない一触即発の空気が教室に充満する。

 六眼(りくがん)を持つ無下限呪術の使い手である五条悟。

 呪霊を使役し操る呪霊操術の夏油傑。

 慧眼を持つ草木(そうき)呪術の三条河原覚。

 三人とも規格外の能力を持つ存在である。特級呪術師三人の喧嘩は校舎を吹き飛ばすなど容易い。

 

 最初に動いたのは覚だった。夏油に向かって「サトリます」と両手の親指と人差し指を合わせて顔の前で長方形をつくる。慧眼を発動させるための掌印であり、未来を視たことを相手に知らせる縛りである。

 未来を視られた夏油がとった行動は『何もしない』であった。過去の経験から、攻撃をしても躱され対策を練られて反撃を食らうまでのセットが待ち受けることを知っている。

 夏油は慧眼の力について覚から詳しく聞いたことはない。だが、観察し続けてその能力と反動を把握している。

 覚の慧眼は、掌印を結び、印を唱えた瞬間から10秒先までの未来を一瞬にして視ることができる。だが、それに伴う疲労は脳に蓄積され、消費される呪力量は多い。更に、慧眼を発動している間または現実が未来視に追いつくまでは他の術式を併用することはできない。故に視られたと分かった時点で10秒間あえて攻撃しなければ覚の呪力、体力、精神力を削ることができ、10秒後に発動する攻撃を仕込んでいれば勝算は上がる。覚の戦術は無駄となる。

 だが覚は夏油を裏切った。

 慧眼を発動した直後、覚は祈るように両手を組み全ての指を内にしまう草木呪術の印を結んだ。

 夏油が慧眼の発動はブラフだと気づいた時には、床から生えた木が脚に絡みつき身動きが取れない状態になっていた。

 

「すっかり騙されたよ」

「嘘くさ」

 

「そうでもないさ」その言葉と共に覚の背後から呪霊が現れ勢いよく殴り掛かる。

 覚は間一髪で拳を躱し、呪霊は床に穴をあけた。

 覚は呪霊が粉砕した床板を掴み術式を発動する。手中の木片に生長を促しバットへ変え、ボールの芯を捉えるように呪霊の芯を捉えてフルスイングした。

 呪霊はバットが折れる程の鋭い打球となり、夏油の元へ飛ぶ。だがそこに彼の姿はなかった。在るのは夏油を拘束していた植物だけだった。

 呪霊は時間稼ぎの駒だと気づいた時には遅く、夏油は次の手を打っていた。

 死角から覚の頭を蹴り上げ、間髪入れずに重い拳を放つ。

 夏油は呪霊操術のみならず、体術や頭の回転の速さも特級品だ。

 覚は夏油の拳を受け流し続けるが、フェイントに引っかかり拳が鳩尾に入る。体重が乗った拳は重く、覚の体は教室の壁を突き破り廊下まで吹っ飛んだ。

 覚は粉砕した木片とガラスを全身に浴び、ふらつく体を正して激高した目を夏油に向ける。

 

「ぶん殴ってやるよっ!!」

 

 覚は壁を蹴った。反動をつけて拳を夏油の頭に定める。

 だが、それは最小の動きで躱された。夏油は首を傾け、覚の伸びた腕を掴みひねり上げる。

 

「未来が視えなくても動きを予測し相手を誘うことはできるんだよ、覚」

 

 ほほ笑む夏油とは反対に、覚の鋭い眼光が夏油を刺す。

 

「未来は常に更新され続けるんやで。あぁ、視えへんから知らんよな」

 

 口の減らない覚に夏油は鼻で笑う。

 覚は不敵に睨んだ後、視線を夏油の結い上げている髪へ移した。

 覚の視線につられて夏油もまた自身の後ろ髪を気にする。耳の後ろからメキメキメキメキィと奇怪な音がし始めた後、槍の様に鋭利な蔓が夏油の頸動脈に狙いを定めた。

 

「種を蒔くことが目的だったわけか。騙されたよ、ホントホント」

「ちょいちょい上から目線やな」

「そりゃ私の方が身長高いし」

「おい煽リスト、言うとくけど僕は平均身長ギリあるで」

「シークレットブーツ何センチ?」

「ああ゛?!」

 

 夏油と覚は睨み合い、双方動けず舌戦に入る。そんな二人の言い合いに痺れを切らしたのは五条だった。

 

「二人共ちんたらやってんじゃねえよ、もっと本気出せよ」

 

 映画を見るようにコーラを飲みながら五条はつまらなそうに二人を囃し立てる。

 覚はギロリと五条を睨み、夏油を見た。夏油もまた静かに五条を見据え、覚を見た。二人は目を合わせて頷き合い、五条に向かって構えた。

 

 ──テメエに本気出してやるよ。

 

 この瞬間だけ、二人の思考は完全に一致した。

 

 

 

 

 

 五条、夏油、覚の三人はとある高級ホテルへ向かっていた。

 覚は二人の後を歩きながら今日これから起こることと、一昨日視た未来について時系列を整理する。

 未来を視た限り、自分達はこの任務を完遂することはできない。三人とも黒髪の男に襲撃されて負けるし、これから護衛する少女、天内理子(あまないりこ)もそいつに殺される。男は慧眼も抉り取り、未来を視ることは不可能となる。そして推測となるが、夏油はこの任務を機に精神の均衡が崩れる。一般家系の出だからこそ、夏油はどこか呪術に関して夢見がちなところがある。呪術で人を救うと信念を貫いているからこそ、想い描いている理想と現実が離れるにつれて精神へのダメージは大きくなる。

 悟が言っていたように、夏油は心の底で非術者に対して優越感を抱いているだけかもしれない。

 理想を抱くのか、優越感を抱くのか、どちらにしろ夏油が抱いている非術者はどこまでもか弱く潔白でなければ成り立たない。

 覚は腕を組み、緩く握った拳を唇に当てた。

 この任務の未来は絶対に修正しなければならない。強迫観念にも似た想いを抱きながら覚は思考の海に落ちていった。

 

 話しは数時間前に遡る。

 喧嘩をしていた三人は、夜蛾から天元(てんげん)からの指名任務を言い渡された。

 

 ──任務は二つ。星漿体(せいしょうたい)、天元様の適合者その少女の護衛と抹消。

 

 天元は、結界と不死の術式を持つ結界術の要の存在である。呪術界の拠点となる結界および補助監督の結界術の強度を底上げする死ぬことのない強力な結界維持装置のような人物だ。

 だが、不死ではあるが不老ではない。死ぬことはないが老いていく。ただ老いる分には問題はないが、一定以上の老化を終えると術式が肉体を創り変えようと進化し自我が消える。その場合、天元を暴走させて人類を蹂躙することも可能となる。自我がないために敵味方の区別がつかず兵器と化し人類の存続を左右する。

 だからこそ、天元は500年に一度、人間と同化し肉体の情報を書き換えなければならない。その選ばれた人間を星漿体という。そして二日後に天元はその星漿体と適合する。

 

 そんな重要な時期に星漿体の所在が外部に漏洩した。星漿体は現在、二つの組織から命を狙われている。

 一つは、天元の暴走による現呪術界の転覆を目論む呪詛師集団『Q』

 もう一つは、天元を崇拝し、天元が不純物(星漿体)と交わることを嫌う宗教団体、盤星教(ばんせいきょう)『時の器の会』

 つまり任務の内容は『星漿体の適合者、天内理子を適合までの二日間護衛し、天元の元へ連れてこい』ということになる。

 覚は息を吐き出し、教室の外を見た。空は青く、若葉は茂り、虫や鳥は生を謳歌している。生命は漲っている。それなのに──

 

 ──クソみてぇな人生だな。

 

 顔も知らない少女に覚は嫌悪した。自分の知らない間に勝手に星漿体と決められ、自由のない檻のような人生に入れられ、生きるのはここまでと勝手に線を引かれる。そしてそれを当たり前の事と受け入れるように教育(洗脳)されている。

 

 耳障りのいい人柱じゃねえか。そう思わずにはいられなかった。

 ──「星漿体の子が同化を拒んだらどうする?」

 ──「そん時は同化はなし!! 覚もそうだろ? 覚?」

 

「おい覚!! 飛んでんじゃねえよっ!」

 

 ガシリと、覚は頭を掴まれて思考の海から浮上した。

 目の前には眉間に皺を寄せた五条のご尊顔がある。五条のこの表情(かお)は一見苛ついているように見えるが、実は心配を内包していることを覚は知っている。プライドが高いだけに素直に人を心配することができない不憫な性格だ。

 

「で、お前はどうなんだよ」

「……本人が選んだ選択なら否定せえへん」

「だよな」

「天元様と戦うことになるかもしれないよ?」

「ビビってんの?」

「なんとかなるやろ。五条家と分家の次期当主が揃ってんやし」

「それに、俺達最強だし。だから天元様も俺達を指名……何?」

「いや……悟、前から言おうと思っていたんだが一人称『俺』はやめた方がいい」

「あ゛?」

「特に目上の人の前ではね。天元様に会うかもしれないわけだし。『私』最低でも『僕』にしな。年下にも怖がられにくい」

「はっ、()なこった」

「覚からも言ってやってくれ」

「こいつは痛い目みいひんと変わらん」

「うるせえよ」

 

 五条の舌打ちと共にボンッと、目の前のホテルの一室が爆発した。爆発があった部屋からは黒煙が昇っている。

 

「これでガキンチョ死んでたら俺らのせい?」

「セウトちゃう?」

「どっちだよ」

 

 今朝視た通り、星漿体が宿泊しているホテルの一室が爆破された。彼女が死ぬ未来を視ていれば、任務遂行のために二人から離れて一人暗躍しなければならないが、未来を視た限り彼女はまだ生きていることを覚は知っている。

「おっ」と覚は声をあげた。三つ編みをした少女が煙を吹く部屋からペッと吐き出され落下している。

 夏油はすかさず呪霊を呼び出し少女の救助に向かったが、覚は動くことなく降ってくる少女に向かって呟いた。

 

「シータかよ」

 

 その呟きに五条は吹き出した。

 



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弐 護衛任務一日目

 主従というほど敬意はなく、相棒というほど信頼はない。友といえるほど友情もなく、互いを縛る呪い(モノ)は何もない。

 

 

 

 夏油傑は優しい。その心は柔らかく、スプーンを突っ込めば簡単に抉れる。

 五条悟、三条河原覚、家入硝子という面倒くさい人間の面倒を見ている夏油は、通常の人間よりも面倒見が良く相手を思いやる人間だ。

 周りをよく観察し、相手が欲するものを察する。

 小まめに周りを見て手助けすることを夏油は自然と身につけていた。夏油本来の性格もあるが非術師の家庭で生まれ育ったことも多大に影響している。

 呪霊を視認することができない人間を呪霊からそっと遠ざける。その積み重ねが夏油の観察眼を成長させ、庇護欲を面倒見のよさへと助長させた。

 高専に入り、優秀ながらもどこか幼く浮世離れしたクラスメイト達は夏油の庇護欲を刺激し続けた。

 

 ──悟達の方にもいるだろうな。

 

 夏油は、靴を履いたままソファーに足をあげて携帯電話を触る。

 

「ごめんて! マジごめん!! この件から手を引く!! 呪詛師もやめる!! もちろん『Q』もだ!!」

 

 携帯電話がメールを受信し、指がメールボタンを押す。

 

 ──チューしよ。チューしよーよ、ねぇチュー。

 

 キノコの胞子を模した呪霊に拘束されてキスを迫られているQ構成員の絶叫を環境音に、夏油は画面に向かって微笑んだ。

 

「そうだ!! 田舎に帰って米を作ろう!! おい! 聞こえてるだろ?!」

 

 指先はメールを返すためにボタンを押し続けている。

 

「聞こえてるだろ!!」

 

 聞こえねぇなと言うように、夏油は片眉を上げて耳に手を当てた。呪詛師風情が自然を相手になめてんじゃねえぞと中指を立てながら五条にメールを送信する。

 

「呪詛師に農家が務まるかよ」

「聞こえてんじゃん!! 学生風情がナメやがって……!! だがな!! ここにはアルトさんとバイエルさんが来ている!! 『Q』の最強戦力にして最狂コンビだ!! オマエもそいつらも──」

 

「ねぇ」鋭利な声が男の声を断つ。その表情は軽いが放つ空気は重い。

 

「そのソーセージみたいなコンビってコレ?」

 

 獣が絶命する獲物をじっと見届けるように、夏油は切れ長の瞳をより細くして自身の携帯電話を向けた。

 ぐいっと出された画面に、男は目の焦点を合わせる。

 画面には、呪術界ではその名を知らない者はいないとされる五条悟と三条河原覚のピースした写真が映し出されていた。

 

「違う違う、その奥」

「え?」

 

 少年達の奥に男と同じデザインの服を着た二人組が逆さに吊るされている。

 ドッドッドッドと心臓の音が耳元で聞こえる。

 男は目を見開き、画面に顔を近づけた。画像を何度も見直し、Q史上最強コンビの無惨な姿に言葉を失う。

 このコンビはQ最強戦力で、本当に強い人達で……。

 心が読めなくとも男の表情から思考が手に取るように分かる。

 

「ねぇ、どうなの」

 

 追い打ちをかけるように、夏油は柔らかく声を立てた。その瞳は厭らしく細められている。

 

「……この人達ですね」

 

 停止した男の脳は質問に答えるという陳腐な答えしか用意できなかった。認めた途端、言葉が音となって停止した脳をギイギイと動かし始める。次第に恐怖がどっと押し寄せ、男の瞳は揺れた。全身から脂汗が噴き出て喉が渇く。

 あの最強コンビがやられたら俺は……俺はどうなる? 

 

「ねぇ、どうする?」

 

 切れ長の瞳を細めて嗤う姿に、ぞわりと全身が震えた。

 誰か、助けに来てくれ。

 一抹の望みを抱きドアを見るが窮地を救うヒーローは現れない。

 夏油は優しい。だがそれは自分が認めた保護下にのみ適応される。

 それからの夏油は容赦がなかった。

 

 

 

 京都の三条河原と六条河原の川べりは、平安時代から江戸時代末期にかけて処刑場であった。

 多くの人がそこで処刑され、首を晒された。故にそこは血に塗れ怨念が籠る場所だ。

 そんな不吉な地名を家名に掲げる三条河原家は処刑人の一族である。現在は家のごく一部の者がそれを継承し、宗家のために血に塗れて怨念を背負っている。従って、次期当主である覚にとって五条悟は守護の対象である。

 

 呪いを視認できる高専関係者、窓が呪詛師を回収するまでの間、覚は呪詛師の見張りを五条に押し付けてホテルに入った。

 柔らかな絨毯敷の廊下を静寂に歩いていく。靴の音を吸収する程厚い絨毯であるが、この嫌に静かな空間は覚の技巧によるものであった。

 一歩、また一歩とよくないモノが音もなく部屋に近づく。

 ガチャリという音に、呪詛師はドアに目を向けたが、その瞳は希望から絶望へと瞬時に落ちた。

 

「悟は?」

「ゴミ出し押しつけたわ。窓がすぐ回収しに来るから直に上がってくるやろ。代わりにこっちのゴミもらってくわ」

 

 ドアが閉まると同時に闇よりも暗い目が男を見つめる。スキャンして情報を読み取るように、覚は外見から男を分析していった。

 盤星教、黒髪の男の情報を入手し未来を変える。そのためには変革の一手を打たなければならない。縛りによって未来の情報を共有することができない覚には、未来視から逸脱した今の行動を五条と夏油に見られたくはなかった。

 処刑人が罪人を引きずり歩く様に、覚は男を引きずりながら廊下を進む。その姿は正に三条河原の看板に相応しい。

 数時間後、Qは最高戦力の離脱(リタイヤ)および拠点を襲撃され組織は壊滅した。

 

 

 

 

 

 平日朝の競艇場は意外にも人がいる。純粋に賭けを楽しむ者、目当ての選手を見る者、ボートが好きな者、カメラの腕を上げる者など目的は多種多様だ。

 その中の一人として、伏黒甚爾(ふじぐろとうじ)は賭けに勤しんでいた。前列のベンチに脚を置き、賭けたボートに視線を送る。ダボついた黒いスウェットの上下は彼のだらしなさを助長しているが身体は細く筋骨隆々でだらしなさからは程遠い。黒髪に猫目の幼気な顔には口元に古傷があるが誰もが頷く麗人だ。

 レース序盤、伏黒が賭けたボートは二位に位置していた。コース取りは良く、首位ボートに水や風の抵抗を任せて鳴りを潜めている。

 

「急にいなくなったと思ったら何してんだよ」

「金を増やしてんのさ」

「オマエが勝ってんのみたことねーよ」

 

 仕立ての良い黒いスーツを着た男が伏黒に向かって歩いてくる。

 黒の短髪に口髭、細く鋭利な目つきは体格の良さを合わせてとても堅気には見えないが、男が纏う雰囲気はどこか気安さがある。

 レース中盤、伏黒が賭けたボートは首位と競っていた。コーナーを回る度に水飛沫や波を立てるといった削る作戦が効いている。

 (コウ)時雨(シウ)は伏黒の隣に座り、仲介人らしく進捗を尋ねた。

 

「仕事はどうした?」

「うっぜぇなぁ人を無職みたいに言いやがって」

「無職だろ。仲介役として盤星教(クライアント)に仕事ぶりは報告しなきゃならんのよ」

「相手は五条と三条の(ぼう)だぞ。ノコノコ出ていった所でなんもできねーさ。まずはパシリと馬鹿共を使って削る。テメェこそ仕事しろよ」

「したわボケ。何考えてんだ手付金3000万全額手離すなんて。お前に依頼せずとも始めから賞金をということになるだろ」

「あっちには五条悟と三条河原覚がいるんだぞ。うん百年ぶりの六眼と無下限呪術の抱き合わせ、それに加えてうん百年ぶりの慧眼に草木呪術の抱き合わせが史上初同じ時代に五条家直下(三条とこ)に誕生。アイツらが近くにいる限り星漿体はまず殺せない。だから“削り”だよ。心配しなくても全額帰ってくるさ。このレースみてぇにな」

 

 レースは終盤に差し掛かっている。伏黒が賭けたボートは先頭を抜かし首位に躍り出た。

 行け! そのまま行け! 

 周りの人間は声を上げ、握る券に力が籠る。

 一位と二位のボートは競っている。横一列に並び最後の直線距離を激走する。

 結果を見逃すまいと伏黒も思わず首を伸ばす。

 ゴール直前、伏黒が賭けたボートは波に躓き船体が僅かに跳ね上がる。跳ねた分、船体が宙に浮かび水の上を走らず減速する。

 ゴールを先に切ったのは賭けていない方のボートだった。

 期待を抱いた分落胆が激しい。賭けに勝った奴らの歓声がうるさい。伏黒は恨めしい気持ちを込めてグシャリと券を握りつぶした。

 

「……。とりあえず馬鹿共とパシリには賞金のかかっている残り47時間、アイツらの周りの術師と本人たちの神経を削ってもらう。もちろん星漿体は殺せねぇからタダ働きだ」

「オメェは楽して稼ぐの向いてねぇよ。だが、時間を設けたのはよかったな。呪詛師の集まりがスムーズだ」

「よろしく頼むぜ”術師殺し”」──ちゃんと仕事しろよ。

 

 含みをもたせて孔は立ち上がり、伏黒を見下ろした。賭けに負け、口うるさく忠告された伏黒は幼い子供の様に口を尖らせて反抗している。そんな幼い態度に孔は彼の息子を思い出した。最後に様子を聞いたのは随分前だ。

 

「ああ、そうだ。恵は元気か?」

「……誰だっけ」

 

 子供の存在を本気で忘れている伏黒に孔は変わったなと認識を改める。

 両者ビジネスライクで相手の事情に深く関わることはしない。伏黒がどんなに変わろうとも実力は申し分なく、そこに信頼関係は存在する。

 依頼さえ完遂すれば孔は何も言わない。

 

 

 

 

 

「後処理、頼んます」

 

 三条河原家出身の窓に手を振りながら、覚は連行される呪詛師を見送った。星漿体と五条悟に手を出した以上、行きつく先は決まっている。楽に死ねれば最高で、呪霊に喰われるのはマシな方。呪術師の実験体となれば悲惨で、それよりも酷な死に様は多数ある。

 死刑となる呪詛師の末路など興味はない。

 突出した呪術の才能もなく、自身の生きる世界を選択できる人間が呪術師(地獄)を選んだ時点で望む死に様は得られない。地獄の深淵を見続け、蜘蛛の糸を掴まない限り落ち続ける。それに耐える者、耐えられない者と篩をかけられ、耐えて進み続けた者にのみ地獄の先を見ることができる。希望か、更なる地獄か。それは歩みを止めなかった者にしかわからない。

 

 覚が呪詛師から得られた盤星教の情報は一つだけだった。

『盤星教は凄腕の術師殺しを雇うらしい』だからこそQは急いで星漿体を襲撃しに来た。

 凄腕の術師殺しについて何度も問いかけたが、素性を明かす情報は得られなかった。それは『術師殺し』という名前が透明人間の様に独り歩きしているのか、相当な手練れ故の目撃情報がないのか、『術師殺し』を管理する仲介人が敏腕であり情報管理を徹底しているのか。推測される事柄は多いが絞り込む要素はあまりにも少ない。

 

 ──情報通の奴か検索能力が高い奴が身近に欲しいな。

 

 そう思いながら覚は家入に電話をかけた。

 

 

 

 夏油の居る部屋に戻ると、五条が年端も行かない少女、星漿体の天内理子を抱き上げていた。

 

「……おまわりさーん! こっこでーす! こっここっこー!!」

「ちげぇわ!! やめろ!!」

「で、自分ら何しとん?」

「彼女がなかなか起きないからね。ベッドに運ぼうと思って」

「それか覚、仙豆ちょーだい」

「しゃーないな、一粒だけやで」

「マジあんの?!」

「んなわけあるか。鼻にミントでも詰めとけ」

「いや、さすがにそれは……」

「病院つれてく?」

「硝子がいればね……。覚、仙豆とミント以外で何か良いのないか?」

「……お茶でも淹れてくるわ」

「あいつ逃げやがったな」

 

「いらんのなら悟のは淹れへん」挑発的に、やや小馬鹿にして覚は電子ケトルに水を注ぐ。「いるに決まってんだろ!!」五条の大声に覚は笑みをこぼし、ティーカップを5つ取り出した。

 

 覚の未来視では、この後天内は目を覚まして学校へ行く。その間に闇サイトにて3000万円の懸賞金がかけられ呪詛師に襲撃される。天内の要望により校内での護衛は禁止とされることから初動が遅れ呪詛師との戦闘は免れない。覚と夏油は天内の保護に向かう途中に呪詛師と戦闘し、五条は天内を保護した後別の呪詛師と交戦する。夏油、覚はその後五条の元へ駆けつけるがそれにより天内の使用人、黒井が盤星教に拉致され取引交換場所に沖縄が指定される。

 

 覚は呪式でカモミールを生み出し、打ち首の如く花を落とした。ポットに花を入れてお湯を注ぎ、抽出の間に隠し味として天内のティーカップに睡眠薬を入れる。

 例え天内が目を覚ましたとしても、再び眠りにつけば学校に行くことはない。高専で保護すれば襲撃されることも黒井が拉致されることも沖縄へ行くこともない。

 あの胸糞悪い未来は訪れない。

 お盆の上にティーカップを置き、覚は抽出し終えたカモミールティーを注ぐ。

 バチンと肌を叩く音が部屋に響き、天内の目覚めを知らせた。

 

「下衆め! (わらわ)を殺したくばまずは貴様から死んでみせよ!!」

 

 殺す前に死んどるやないか。

 心の中でツッコミながらお盆の上にカップを置いていく。

「ぃいやー!! 不敬ぞー!!」うるさい天内の声が部屋に響き、覚の機嫌も悪くなる。

 不敬も何も人形みたいにただ利用されるためだけに生きてきた人間が偉そうに喚いてんなや。

 

 ──呪骸の方がまだましだな。

 

 幼い頃に言われた言葉が頭に響く。

 利用されるのは嫌だ。誰かのために害されるのは最悪だ。人のために死ぬなんて死んでも嫌だ。自分が良ければそれでいい。幸せであればそれでいい。

 慧眼、五条家直下、三条河原というだけで寄ってくる者もいれば攻撃してく者もいる。権力があれば腐敗が生じる。プライドばかり肥大した上層部は覚や五条を利用しようと画策している。

 だからこそ覚は呪術界(この世界)で闘うと決めた。持てるもの全てを使って上に上り詰め、自由と引き換えに権力を握る。

 自分を守り、五条を守る。上の席に座る者を引きずり降ろしてその座に就き、更に上を目指す。

 第二の天内理子になるなんて以ての外だ。

 

「天元様は妾で妾は天元様なのだ!! 貴様らのように“同化”と“死”を混同している輩がおるがそれは大きな間違いじゃ。同化により妾は天元様になるが天元様もまた妾となる!! 妾の意志!! 心!! 魂は同化後も生き続ける!!」

「元気やな。さすが洗脳済み(星漿体の鏡)やな」

 

 ──ホンマ、反吐が出る。

 

 覚は三人の元へカップを運んだ。

 体も意志も心も魂も同化後に生き続けられるわけが無い。分かりやすい例は食事だ。食べた物は血肉となり同化するがその意志や心、魂は混ざり合い生き続けることはない。ただ栄養として取り込まれるだけだ。

 だからこそ夜蛾は抹消と言った。世界のために人を一人消すからだ。

 皮肉を込めて大演説に拍手をし、覚は天内にティーカップを差し出した。

 

「打ち解けたようでなによりやわ。一先ずカモミールティーでも飲んで落ち着かへん?」

「妾が得体の知れない奴が淹れたものを飲むわけがなかろう!! 大体お前は言ってることと思ってることが違ってそうじゃ! 胡散臭いんじゃ!!」

 

 時が止まり、頭の中でぴしりと音が鳴る。笑いを耐える五条と夏油の視線が覚をより一層不愉快にさせた。

 この(アマ)ァ、と開ききった瞳孔を携えて生意気な少女の頬を抓り上げる。

 

「痛いんじゃ―! こやつら不敬じゃー!」

「おっおやめ下さい!!」

「黒井!!」

「お嬢様、その方達は味方です」

「黒井さんもそう言うてはるやろ?」

 

 近づく目は未だ瞳孔が開いており、天内は生まれたばかりの小型草食動物となる。

 友好を示すにはどうすればいいか。

 生存本能が視線をさ迷わせ活路を探す。天内は輝くティーカップが目に留まった。これを飲むことが恭順の証とばかりに手を伸ばす。

 

「お前が俺より先に飲むなんて10年早ぇわ」

 

 天内がカップを掴むよりも速く五条はカップを持ち上げた。五条はそれに口を着け、覚を咎めるように見た。

 

「うっわ、クッソまずっ!! なにこれ甘くねぇじゃねぇかゲロまず!! オッエー」

「失礼なやっちゃなぁ!」

 

「吐いてくる」そう言った時には五条の姿は無く、部屋の奥から水が流れる音が聞こえ始める。

 星漿体に薬を盛ることは大罪だ。それが例え星漿体の身を護る事であったとしても証明できなければ刑に処される。

 五条と覚は幼い頃から誘拐や暗殺について経験が豊富だ。故に覚の計画を五条は悟った。天内からカップを奪い、確認として口に含む。覚が毒を入れていないと分かっていながらも五条は天内の薬物摂取を事前に防いだ。

「あ、あの……」眉を下げた天内が覚を見る。

 

「妾はたとえまずくとも出されたものは食すよう努力するぞ」

「君もクッソ失礼やなぁ!」

 

 覚は天内の頬を引っ張りながら代わりのティーカップを差し出した。

 

 

 

 

 

 ──「学校内での護衛は不要じゃ!! 皆の前に顔を見せるでない!!」

 あまりにも身勝手な主張に五条と覚は青筋を立てた。

 

 

 天内理子が通う廉直女学院(れんちょくじょがくいん)中等部は植物に溢れた学校だ。都会のど真ん中に位置するにもかかわらず木が多く植樹され季節の花々が学園を彩っている。

 植物は全て覚の配下だ。草木呪術は植物を使役し加護を与える。それ故植物がそこにあるだけで自身の式神が無条件に存在しているのと同じ状態だ。

 覚は学園一の大木に手を当てた。樹皮は厚く、生きている年月の長さに想いを馳せる木だ。大木に呪力を流し込み学園中の植物に拡張術式を施す。

 未来視通り、天内は登校を主張し、天元は覚達に彼女の要望を全て叶えるよう命令した。それは彼女の存在が二日後には消滅するが故の贖罪かもしれない。残り時間くらい好きにさせてやれ。そう言われているようにも感じたが、覚には何か見えない思惑が働いているように感じた。それが何かとはっきり掴めずに心の中をぐるぐると彷徨う。

 

付与した呪力(三条河原覚の残穢)以外の呪力を攻撃しろ』

 

 覚は植物に命令した。

 呪詛師は天内が登校した後、時間を空けずに襲撃に来る。それは学園(ここ)に来る前に飲んだカモミールティーが体外に排出されるまでに起きる予定だ。それを知っているのは覚だけであり、頭の中を開けて覗かない限り覚が情報を漏らすことはない。

 ザワリと風もないのに木が鳴いた。それと同時に遠くで術式の発動を感じた。

 覚は術式が発動した場所を目指して駆け出し、話が通じる人物に電話を掛けた。

 

 

 

 

 

 ──「傑、黒井さん頼んだ。彼女、利用価値あんで」

 

 

「はぁ?!」

 

 時を移して五条、夏油、黒井はプールサイドで待機していた。

 五条は電話相手に声を荒げ、天内の登校について抗議している。その声は次第に苛立ち、最終的には宙に向かって舌打した。

 

「ゆとり極まれりだな」

「そう言うな悟。ああは言っていたが同化後、彼女は天元様として高専最下層で結界の基となる。友人、家族、大切な人達とはもう会えなくなるんんだ。好きにさせよう。それが私たちの任務だ」

「理子様にご家族はおりません。幼い頃事故で……それ以来私がお世話してまいりました。ですからせめてご友人とは少しでも──」

「それじゃあアナタが家族だ」

 

 その言葉に黒井は泣きたくなった。心の底でずっと言われたかった言葉だった。

 黒井家は代々星漿体に使える家だが、黒井は一度それから逃げた。天元と同化して消える運命にある星漿体の世話など辛くてできなかった。

 正気の沙汰とは思えなかった。殺すために世話をしろと言われているのと同じだった。狂っているとしか思えなかった。

 そう思っていたのに、交通事故に合い憔悴している天内を見た時、黒井は星漿体や家のことなどどうでもよくなった。この子を支え、寂しい思いをさせたくないと心の底から強く思った。

 だからこそ夏油の言葉に救われた。世話役でなく家族になりたかった。

 

 ──私は理子様の家族だ。

 

 その思いに黒井の瞳がじわりと熱くなる。

 夏油と黒井のやり取りに、五条の荒んだ心も熱くる。

『家族』という言葉は不思議だ。その言葉を聞くだけで体の力が抜ける。それは五条が五条家(家族)から大事に育てられたこともある。

 五条にとって家族と友人は大切だ。だからこそ五条は、天内が友達に会いたがる気持ちを理解してしまった。口に出して言うことはないが五条にとって友達は特別だった。

 

「傑、ところで覚は?」

「さっき悟が電話してる時にトイレ行くって消えたよ」

「止めろよ」

「人の生理現象は止められないよ」

「ちっげぇわ!!」

「おっ落ちついてください」

「監視に出してる呪霊はまだ生きてるか? 多分もうすぐ襲撃されんぞ」

「? 何を……悟、急いで理子ちゃんのところへ。一体祓われた」

「さっそくかよ」

 

 三人は血相を変えて校舎に向かって走り出した。

 夏油は走りながら襲撃のタイミングがなぜ分かったのか五条に問いかける。

 

(アイツ)が自分の意志で俺らから離れた時、アイツは未来を変えようと必至こいてんだよ。で、アイツは今そこら中にトラップ仕掛けて殺り合ってるはずだ。天内の最新の居場所は覚がわかってる」

「訊きたいことは色々あるが、今は一つだけにしておく。覚の慧眼は約10秒先の未来をみる力じゃなかったか? そんな先の未来なんて──」

 

 ふーん、という関心の無い五条の相槌に夏油は自身の分析が間違ってたことに気づく。

 

「それ、アイツが自分の口で言った?」

「いや、私の推察だ」

「へぇ、傑まんまと騙されてんじゃん」

「どういうことだ?」

「覚はさ、自分の強さを偽んのが上手いんだよ。良く言えば自分の価値を理解してる」

「……まさかとは思うが、何時間も先の未来を視ることができるということか」

 

 ご明察、というように五条はパチンと指を鳴らした。

 

 

 

 

 

 パシリは泣いていた。学園に入った瞬間、生け垣が殺す勢いで襲ってきたからだ。

 

「何で自分を虐めんだよ!! 自分を虐めるなよ!!」

 

 パシリは戦闘が好きではない。自分は弱いと知ってるからだ。だからいつも強者に従い利用されて生きてきた。

 豪速で刺突してくる枝にパシリは火をつけたライターを投げつける。火は瞬く間に木々を蝕むように燃え上がるが、木々は命を燃やす勢いで攻撃し続ける。

 

「何で木のくせに強いんだよ。星漿体を殺る前に自分が殺られんじゃないかよ! バカヤロー!!」

 

 走った勢いのまま跳躍し、刺突してくる枝を呪具の刀で一閃する。着地と同時に拳銃を構え、木々に向かって発砲した。

 弾は木々に当たり、一帯の呪力を吸収する。

 呪力を根こそぎ奪われた木々は、動く原動力を失い、枝を伸ばすことなくぴたりと止まった。

 パシリは根元に落ちた弾を拾い、ホルダーの中へ仕舞う。新しく植物を使役できる弾が手に入りうっとりと顔が緩んむ。

 

「オイコラ自分どこいくねん。関係者以外立ち入り禁止なん知らんのか?」

「自分のこと? 関係あるある、大有りだよ。星漿体を殺さなきゃいけないから大有りなんだよ」

 

 瞬間、話しかけてきた少年は姿を消した。気がついた時には目の前に現れ、顔面を殴られ回し蹴りを食らう。

 体捌きが速く、細い体躯のわりに一撃が重い。

 怯んだ隙に背負い投げが入り、地面に叩きつけられる。間髪入れずに鳩尾を踏まれ、息が止まる。胴を踏まれ、浮いた頭を更に踏まれて体が地面に沈み込む。

 瞼を開けると、鋭利な枝が心臓を狙っていた。周りを見ると、少年と大樹が視界に入り、こいつの術式だと理解する。

 

「あのさぁ、弱い者イジメってよくないと思う。あと呪術師って普通呪術を使って攻撃してくるもんじゃないの?」

「あ゛あ? 普通に考えて殴った方が速いやろ。それに自分、他人の呪力を吸収するみたいやしな」

「あ、それ違う。誤解だよ。自分ができることは増幅であって吸収じゃない。術師の骨を核に作った弾をぶっ放すとその一撃だけそいつの術式が使えるんだ。で、さっきのは呪力を吸い取る野郎の骨を使った弾。術式を理解する程使いこなせるんだよね。自分の所有者は術師を殺す野郎なんだけど、みんな死ぬ前は必至だからさぁ術式を開示してくれるんだよ。攻撃力が上がるけど、それはクソが殺してくれるからその後の骨をもらって作ってるんだよね。だから自分は、骨にこびりついた呪力と術式を増幅させて使ってるだけなんだよ」

「で、術式を開示してそれをぶっ放すってか?」

「うん、だけど君にじゃない。君は強いからね。自分よりも弱いものにしか勝負しない主義なんだ。負けるのは嫌だからね」

 

 パシリは拳銃に手を伸ばした。引き金を引き、自身よりも呪力量が少ない木を一撃する。

しかし、それは叶わなかった。

 伸ばした腕は折られ、拳銃は木の根元まで飛ばされていた。

 あれ、なんでだ? 

 そう思って少年の顔を改めて見てパシリは理解した。

 

「ああ、君、慧眼の君か」

「お前には聞きたいことがあんねん。ちょっとツラ貸しや」

 

 良いとこの坊っちゃんのくせに、自分よりも口の悪い覚にパシリは顔を歪めた。

 そんな口の聞き方をしても殴られることなく生きてこられたのか。

 胸の奥からドロリとした黒い感情が湧き出て世の中の不平等について嘆く。そう思うのはこれまでの人生が家畜以下だったからだ。

 生まれた時から手足を縛られ海に沈められたような劣悪な環境で育った。そんな人間に対し、生まれと育ちが良い人間は『可哀想』と同情心を吐く。だがそれは現実だと心の底では思っていない。体感することがないからだ。恵まれている環境が彼らにとって当たり前だから簡単に薄っぺらい『可哀想』を吐く。単なる哀れみだ。

 世の中のバランスに納得がいかない。自分はそっち側の人間になりたかった。せめて術師の家庭に生まれたかった。そうすればこんな人生にはならなかったかもしれないのに。

 パシリは覚を見た。その目は鋭利で非人道的な光を帯びている。

 

「未来ってさ、見えていても対処できる事とできない事ってあるよね。例えば自然災害。地震とかさ、家具が倒れたり火事にならないようにとかそういう事前の対処はできるけれど地震の発生自体は阻止できない」

 

 パシリは動く片腕で弾をばら撒いた。

 

「身に余る事は阻止できない!」

 

 散乱する弾に呪力を込め、パシリは術式を発動する。一瞬にして派手な爆音、閃光、呪霊や熱風が発生しその場は混沌と化した。

 それでも数秒先を視た覚は最も効率の良い方法でパシリを捕縛しようと手を伸ばす。

 パシリはその手を間一髪で躱し、混乱に乗じて脱兎の如く逃げだした。

 

 

 

 

 

 天内は五条悟の強さに驚いていた。

 分身の術式を持つ襲撃犯に対し、五条は天内を庇いながら難なく呪詛師を昏倒させた。

 軽薄で粗暴な人間だが信頼できるかもしれない。五条達三人を信用してもいいのかもしれないと天内は思い始めていた。

 ほっと安堵の息を吐いたと同時に、スカートのポケットが震える。天内は携帯電話を取り出し画面を見た。メールの差出人は黒井であり、件名に『慧眼の君へ』と書かれている。

 メールを開いた瞬間、天内は一時固まった。氷の手で心臓を握られたように、天内の鼓動が止まった。

 

 

 覚はその知らせを受けて舌打ちした。

 拉致された黒井の写真を見て覚は現実だと認識する。

 わかっていたにもかかわらず、人に任せてこの有り様だ。判断ミスとしか言いようがない。

 自身の不甲斐なさに拳を強く握りしめ、覚は奥歯を噛み締めた。

 黒井は五条と天内の元へ向かう際、逸る思いから自分よりも足の速い夏油を先に向かわせた。そしてその最中にパシリに出会い拉致された。

 

「すまない、私のミスだ。覚に忠告されていたのに、敵側にとって黒井さんの価値を見誤っていた」

「そうか? ミスって程のミスでもねーだろ」

「それを言うならその呪詛師取り逃がした僕のミスや」

「ホントそれな」

「わかっとるわドアホ」

「うっせぇーよ。相手は次、人質交換的な出方でくるだろ。天内と黒井さんのトレードとか天内を殺さないと黒井さんを殺すとか。でも交渉の主導権は天内と覚がいるコッチにある。取引の場さえ設けられれば後は俺達でどうにでもなる。天内はこのまま高専に連れて行く。硝子あたりに影武者やあらせりゃいいだろ」

「ま、待て!! 取引には妾も行くぞ!! まだオマエらは信用できん!!」

「あぁ?」

 

 覚の威圧的な声、五条の睨みに天内はびくりと体が跳ねる。

 

「このガキこの期に及んでまだ──」

「助けられたとしても!! 同化までに黒井が帰ってこなかったら?」

 

 どうしようもない思いに天内はスカートを握りしめ、瞳にゆるゆると涙を溜める。

 

「まだお別れもいってないのに……!?」

 

 堪えていた涙が零れ落ちた。

 もう一生合うことができないからこそ、最後はちゃんとお別れを言いたい。そんな想いが滲み出る必死な声だった。

 

「それの何があかんの?」

「おい、覚」

「お前ら甘いねん。何考えようとしとん」

 

 冷たく一閃する声に夏油と五条は目を見開く。

 覚は幼い顔立ちからは想像もできないほど鋭利な瞳で天内を見据えた。

 

「僕らの任務は天内理子()の護衛であってその他の犠牲はどうでもええねん。極端なことを言うと、僕ら三人が死んだとしても君さえ生き残って天元サマの元へ行ったら任務完遂や。僕らの勝ちや。何なら黒井さんは君を守って死んだら本望なんとちゃう?」

 

 バチンッと拙い音と共に頬に熱が走る。目の前には大粒の涙を零しながら睨みつける少女がいる。

 

「何でそんな酷いことが言えるんじゃっ!」

「……ホンマクソ元気やなぁ。蚊ぁで留まってたか?」

「覚、その辺にしとけ」

 

 夏油が二人を引き離すが両者の睨み合いは終わらない。

 

「……あー、その内拉致犯から連絡が来る。もしアッチの頭が予想より回って天内を連れて行くことで黒井さんの生存率が下がるようならやっぱりオマエは置いていく」

「おい、悟」

「分かった。それでいい」

 

 天内の返事に覚は盛大に舌打ちをした。

 

「逆に言えば途中でビビって帰りたくなってもシカトするからな。覚悟しとけ」

「悟っ!」

 

 腹の底から低い声を出すが五条は聞く耳をもたない。

 速く高専へ連れて行け。今回の任務は裏がある。良くない未来も見えている。論理的に説明できないことに苛立ちが募り覚の目が険しくなる。

 

「大丈夫だ。こっちには俺がいて、オマエがいて、傑もいる」

 

 ニヒルに笑うその顔に、覚は拳を握りしめた。

 



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参 護衛任務二日目

 ──迷いながらぶつかりながら揺れながら過ごした日々をいとしく思う。

 

 

 三条河原家に入った覚を待っていたのは、礼儀作法の再教育だった。畳の歩き方から食事の仕方へと徹底的に容儀を正され新たに自分を創り変えられていく。

 四六時中緊張を強いられる環境下は、覚をロボットへと変えていった。言われたことをインプットして実行する。プログラミング通り寸分違わず実行すれば叱責を受けることはないのだと幼い覚は学習した。

 礼儀作法の教育が終われば呪力操作と術式の苛烈(スパルタ)教育が始まり、並行して道のつく習い事を詰め込まれていった。

 そこでもまた覚は言われたことを寸分違わず実行していった。そうして自分を殺す方法を見つけ、そういうものだと納得した。従うことに慣れ始め、相手の理不尽に呑み込まれていた。

 学校へは通えなくなった。家庭教師を呼び、家から出させてもらえなくなっていた。

 そうして心のよりどころをなくして追い込まれていき、覚は三条河原が望む装置となり始めていた。

 

 転機が訪れたのは、三条河原家に入って初めて年を越した日だった。

 次期当主のお披露目と新年の挨拶を兼ねて覚は初めて呪術界の御三家、宗家である五条家を訪問することとなった。

 

 車の後部座席の窓から過ぎる街並みを横目に、覚は五条家に向かう。

 

「あと15分で着きます」──気ぃ引き締めなはれ。

 

 運転手の口調は柔らかいが言葉の裏が聞こえてくる。

 流れ過ぎる街並みは過ぎる時間と重なる。覚は眼に呪力を込めて2時間先までの未来に意識を飛ばした。

 

 映像は旅館と思う程の立派な日本家屋を映している。広い和室に通され、並んで座る五条家に三条河原家の当主が挨拶する。その後順に挨拶の口上を述べていき、覚も叩きこまれた台本を読み上げた。

 次期当主の紹介及び新年の挨拶は厳かに進み会食へと移る。ここまで粗相は何一つない。食事のマナーもプログラミング通り実行されている。

 会食も終わり、各々歓談に花を咲かせている時にそいつは動きだした。

 いつの間にか覚の目の前に五条家次期当主、五条悟が立っていた。その瞳は冷たく、別の世界からこちらの世界を見ているようだ。

 

「さっきから見てたけどクソつまんねえ奴だな。ロボかよ。まあ、呪術の才能はある方かもしれねぇけど、呪力操作はまだまだだしこれなら呪骸といる方がましだな」

 

 賑わっていたはずの部屋がしんと静まり返る。

 近くにいた三条河原家の者が何とかしろと目で訴えるが、こんな時の対処方法を覚はインストールしていない。

 

「ガチでロボかよ」

 

 悪魔は興味が失せたように部屋から出ていった。残された覚は、両家から発せられる落胆の溜め息に押しつぶされていた。

 

 ──「本家の方々、特に御当主と(ぼう)には失礼のないように」

 

 びくりと体が跳ね、意識が現実に引き戻される。

 清水のような声をもつ使用人に「承知している」と口角を上げたが、その瞳は呪うように流れる景色を見つめていた。

 

 

 

 

 

 黒井奪還劇は五条、夏油、覚の三人の特性を生かした華麗な連係プレーで幕を下ろした。

 22:00-22:00(24時間分)の未来を視た覚が指揮を執り、五条、夏油を筆頭に窓や家入に指示を飛ばして障害を摘み取る。次に五条が六眼を使い、飛行機の乗客乗員および機内外を事前にチェックして安全を確保する。最後に、夏油が飛行中に呪霊を飛ばして常時外からの攻撃を防ぎ4人は無事に沖縄の地を踏んだ。その後も一行は覚の指示に従い難無く黒井を奪還した。それはできすぎたストーリーの様に、何の障害もなく見どころのない劇だった。

 

 そして5人は現在、帰りの飛行機の時間まで沖縄のビーチを満喫している。

 五条、天内、覚は浅瀬でナマコやヒトデを投げ合い幼子の様に走り回っている。同化を控えた天内には最後の海、家に囲われていた五条と覚にとっては約10年ぶりの海である。それぞれの感情が込み上がり三人の周りは変なテンションと化していた。

 そんな三人を夏油と黒井は保護者の様に温かく見守っている。

 

「悟!! そろそろ時間だよ」

「あ、もうそんな時間か」

「あー、楽しかった。じゃ、帰んで」

 

 天内、と覚は振り向きその表情を見て失敗したと思った。

海を踏む天内はあまりにも寂しそうにしている。

まずいと思った時には遅かった。

 

「傑、戻るのは明日の朝にしよう」

 

 最悪、と五条の提案に覚は目を覆う。

 冷酷で非道にもなれるくせに、人間の根幹が優しい五条は最後の願い(こういうの)に弱い。

 

「……だが」

「天気も安定してんだろ。それに東京より沖縄の方が呪詛人(じゅそんちゅ)の数は少ない」

「『僕はキメ顔でそういった』とか言うなよ」

「もう少し真面目に話して」

 

 手刀を入れて窘める夏油に五条は最もらしい建前を吐く。

 

「飛行中に天内の賞金期限が切れた方がいいっしょ」

 

 ──明日消滅する天内に、最後の沖縄を満喫させたい。

 

 それは 「お願い」というように聞こえた。五条を理解している夏油と覚はその聞こえない声が聞こえてしまう。そして夏油は五条よりも優しい。優しいからこそ、天内と親友の数少ない言葉にできない思いを叶えようとする。

 覚はそんな夏油の優しさを理解しているからこそ、その想いを冷たく断ち切った。

 

「あかんで。絶対に帰んで」

 

 有無を言わさない雰囲気に二人は眉を寄せる。

 

「……覚、何か起きるのか?」

「別に、何も。けど、あかんもんはあかん」

「はっ、お前らしくねぇ言い分だな」

「わかっとるわ。そやから正面から言うとんやろ。帰るで、絶対や」

 

 刀を突きつけるようお願いする覚に、五条と夏油は見えない不安を抱く。未来を唯一視ることができる覚がここまで言うならば、それに従う方が得策だと理性が肩を叩く。

 

 そんな二人の陰る瞳をよそに、紫の瞳は対処できる未来を視ていた。

 那覇空港や飛行中は安全であるが東京に着陸した途端大規模な襲撃を受ける。その後も高専までの道のりはラストスパートかの様に呪詛師に襲撃され続けるが、高専には無事到着し、天内は手厚い保護を受ける。

 未来をより都合よく変えるために覚は、呪術師、窓、三条河原の人間を派遣して先手を打った。その任務完遂の報告も既に受けており、五条や夏油が想像するような危険は訪れない。在るのは掴むことができない覚の中を漂い続ける不安だけだ。

 

 二日前に慧眼が見せた瞬間的な映像がフラッシュバックして不安が拭えない。

 しかし、それは今日の22時までの未来には含まれていない。その未来が現実の『いつ』を切り取ったのかわからないことが覚の心を更に重くした。

 楽観的な考えがその未来はもう変わっていると耳元で囁いてくる。一瞬だけ見た映像が記憶からどんどん薄れていき些細な手掛かりが消えていく。

 未来視に録画機能がついていれば何回も再生して解析し、より確実に未来を変えることができるのにと、できないことばかり考える。

 

 覚は帰り支度をする4人の背中を見た。その背は寂しいと言うように手を伸ばして縋りついてくる。覚はその手を一度だけ見たことがある。三条河原の家に行く時に両親が伸ばしていた心の手だ。

 

 ──『幸せに生きて』

 

 顔も忘れた両親の声がこんな時に聞こえてくる。

 

 ──幸せとはなんだ? 

 

 幼い頃から考え続けていた呪いの言葉が首に巻きつく。

 

 ──このまま高専に帰って同化を迎えた場合、天内は最後に幸せだったと言えるのか? 

 

 普段の覚であれば想像もしないことを今の覚は想像している。夏油や天内、両親の声に影響されて築いた足元に靄がかかる。他人を慮る考えが覚の肩を掴み、それでいいのか?! と力いっぱい体を揺さぶる。

 

『顔も知らん他人のために自分が犠牲になって何もない生活(その利益)を当たり前のように享受されるとか最悪やん』

 

 二日前に言った言葉が胸を刺し、ゆっくりと首を絞め上げる。

 未来は万全だ。最悪な未来は訪れない。何も訪れないからこそ、考えに余地を生んでしまう。

 

 ──天内を犠牲にして、当たり前にその利益を得ていいのか。アイツの生きる意味は同化だけでいいのか。

 

 覚は、天内に抱く嫌悪感の正体に薄々気づいていた。この少女を見ていると、三条河原家の装置になろうとしていた過去の自分と重なるのだ。

 体を這うように不快な暗い手が覚の心臓をぎゅっと掴み、痛みを与える。

 

「覚? 何やってんだよ。飛行機遅れんぞ」

「……わかっとるわ」

 

 ──わかっている、自分は愚かだと。

 

 覚は瞳を閉じて嗤った。

 4人を追い抜き、今からしようとする未来を視る。

 それは、宝石の様にきらきらとした、良い思い出となる良い一日だった。

 覚はゆっくりと瞳を開けて振り返った。挑発的だが、温かく慈愛に満ちた眼差しだ。

 

「悟、傑、黒井さん、今から天内さんと美ら海水族館行ってくるわ」

「「はぁ!?」」

「「え゛?!」」

 

 嫌そうな声をだした天内に、何か文句でもあるんか? と覚は絞め上げる視線を送る。天内は脱兎のごとく黒井の後ろで震え上がり、覚から目を逸らした。

 

 

 

 

 

「沖縄言うたら美ら海水族館やろ。ジンベイザメやろ。なんや知らんのか? 人生損しとんな」

「そ、そんなことないもん!! というか、何で?! さっきまで──」

「つーわけで、ちょっくら二人で行ってくるわ」

 

 覚は夏油に視線を向けて決定事項を告げる。夏油の了承さえ得られれば煩い五条も少しは黙る。

 

「二人で? それはいくらなんでも駄目だよ。危険だ」

「大丈夫。襲撃されへんし、ちゃんと戻ってくるわ。帰ってきたらみんなで観光しようや」

「だがなぁ……」

「それにな傑、黒井さんを休ませなあかやろ。いくら何でも昨日から緊張しっぱなしやん。誘拐されとんやからストレス溜まっとるやろ。最低でも2時間くらい寝かしたりや。そしたら護衛が一人おらんとあかんやろ? 悟を黒井さんの傍に置いたらコイツ黒井さん襲いそうやからな、傑がコイツ見張ってくれへん?」

「はあ?! お前ふっざけんなよ!! 大体俺の理想はなあ──」

「悟、言わなくていいから」

「傑、頼んだ。お前だけが頼りやねん」

 

 ──少しでいいから悟を休ませてくれ。

 

 覚もまた建前を吐いて夏油に目配せする。

 五条は護衛任務に就いてから一度も術式を解いておらず、睡眠もとっていない。術式の発動から既に24時間は経過しており、消費した呪力量、睡眠不足、緊張による体力と精神の乱れを夏油と覚は察知していた。本人は普段通りに振舞っているが、それは高すぎる自尊心によって保たれている部分が大いにある。本人が自覚している以上に五条は削られている。

 覚にとってはそれもまた建前であるが、その思いを汲み取ることができる人物は、疲労により覚の本心に気づくことはない。

 

「そうだな。万が一ということがあるから私が悟を見張っておこう」

「襲わねえよ!! なら傑と覚が黒井さんを護衛しろよ! 俺が水族館に行く!」

「お前が行っても役に立たんわ。呪詛師が来てみ? 悟が術式ぶっ放したら水槽割れて天内さん水死や。傑の呪霊も似たようなもんやからな、常に未来を視ることができてスマートに殺れる僕が適任やな」

「アイツむかつくな!!」

「奇遇だな悟、私もだ」

「そういうわけで天内さん行くで!」

「おい、ちょっ、ちょっと待つんじゃっ!!」

 

 引きずるようにして天内を連れて行く覚に、夏油は素直じゃないなと笑みを零した。

 

 

 

 

 

 青に輝く世界を薄暗い世界から覗く。水は光に反射してきらきらと輝き、差し込む陽光は尊く天使の梯子を下ろしている。それは生物の生態を教えるだけでなく、心の奥底にトポンと落ちたと錯覚する。

 

「自由と不自由の共存やな」

 

 覚は嫌味のように零した。水槽を覗き込む紫の瞳は、青を反射し濃い紫に変わっている。此処にいるのに此処を見ていない。鏡の瞳は水槽内の光景を魚に見せるように見返していた。

 天内は覚のその瞳が苦手だった。その目で見つめられると、心の奥底に追いやった何かが這い上がってくる気がするからだ。

 

「ど、どういう意味なんじゃ?」

 

 緊張から声が硬くなる。

 三条河原覚は三人の護衛の中で最も厳しく、天内が本気で睨み、全力で平手打ちをした相手だ。そんな人間と二人っきりで水族館を観て周るのはひどく気分が重く、石を呑み込んだように胃が痛い。

 これが五条であれば喧嘩しながらも観て周れ、夏油であれば馬鹿にされながらも楽しむことができただろう。彼らは天内で遊びながらも接し方は友好的だ。

 対して覚は、二人と比べて交流が少ないことも挙げられるが、それ以上に彼から発せられる棘というものを天内は感じていた。

 好かれていないことは分かっている。それでも天内は覚と仲良くなりたかった。黒井に大切に育てられ、翌日に同化を控える天内にとって、人との関わりを自ら放棄する選択はない。繋がりを大切にしたかった。話しかけないという選択肢はなかった。

 

 ──何か話題となるものはないか。

 

 小さな世界に目を向けて頭を回転させる。海、魚、食べ物と取り上げては取り下げてを繰り返し、やがて覚と海に共通する美しい青に天内は辿り着いた。

 

「そ、そういえばお主が白髪と話す時はなんだか前髪と話す時とは違った雰囲気じゃが付き合いは長いのか?」

「言い方……。そんな気ぃ使わんでええけど、そうやなぁ、(アイツ)とは7歳からの付き合いやな」

「幼馴染というやつじゃな!!」

「なんで目ぇ輝いてん」

「あ奴は昔からあんなけしからん奴じゃったのか?」

「そやな、初めて会った時からあんな感じやったわ。悪魔かと思ったわ」

 

 覚は嫌なことを思い出したと顔を顰めるが、その声はどこまでも柔らかい。

 天内はほっと息を吐き、少しだけ緊張が解ける。

 

 ──もう一歩、踏み出せるだろうか。

 

 水槽に薄く映る覚を盗み見ながら天内は綱を渡る。綱から落ちればこの先の時間は地獄と化すが、渡ることができれば距離は縮まる。

 覚との会話はまだ緊張し、目を合わせて話すにはハードルが高い。天内はここが水族館でよかったと思った。魚を見ていれば沈黙が続いても不自然ではなく、水槽に反射する姿を窺うこともできる。水族館は天内に味方していた。

 

「ど、どんな出会いじゃったんじゃ?」

 

 おずおずと会話を広げる天内に覚は苦笑した。

 

「そやなぁ、コイツ絶対泣かしたるって思ったわ」

「え゛っ?!」

 

 水族館は海の中の生態を見せる。そして海の中は人の心の中に似ている。浅く、深く、冷たく、温かく、殺伐としているところがあればそうでないところもある。きれいで、汚いところもある。

 覚は小さな世界に目を向けて、海深く自分と対話するように話し始めた。

 

 

 

 

 

 次期当主のお披露目および新年の挨拶は滞りなく進み、会食へと移る。酒が入り場の空気は次第に砕けていくが礼儀作法が崩れることはない。

 覚は笑顔の仮面を被り続け、会う人全てに会話の花を咲かせた。次第に本来の顔を忘れ、顔が仮面に乗っ取られていくが、周囲にそれを悟らせはしない。気を緩めて理想の姿から外れた場合、躾が再開されるのは目に見えている。大人は忙しいふりをして暇を持て余し、ストレスを発散する捌け口を常に探している。覚は自身を物として見ていたが、それを甘んじて受け入れるほど己の価値を見誤っていない。

 

 パチン、パチンと感情のスイッチを切っていく。その分求められる行動に全力を注ぎ聞き分けの良い装置になる。

 そんな覚を五条は観察していた。

 パライバトルマリンの瞳からはもともと無い興味が更に消え、軽蔑、嫌悪、失望が一匙ずつ投げ込まれ胸の中で混ざり合う。

 

 ──人形遊びなんて趣味じゃねーんだよ。どいつもこいつもクソつまんねぇただの言いなりじゃねーか。

 

 瞳に侮蔑を込めて五条は顔を歪めた。

 会食が終わり、大人の気が緩んだ隙を見計らい五条は獲物をしとめる肉食獣の様に覚に近づいた。その瞳を覗き込み、嫌悪を交えて挑発する。

 

 ──つまんねーままなら用は無え。

 

「お前、クソつまんねえ奴だな。ロボかよ。まあ、呪術の才能はある方かもしれねぇけど呪力操作はまだまだだし、これなら呪骸といる方がましだな」

 

 覚は一瞬、目の前が真っ白になった。衝撃が走り、ガツンと殴られた気がした。

 五条は実際に覚を殴ったのだが、その衝撃は感覚器官が感知した振動のみならず、電撃の様に覚の奥深まで感電した。

 

 ──何やコイツ。何で俺殴られてん。

 

 呪術界に入って多くの理不尽を体験した。そして今日、五条悟から二度にわたって理不尽な扱いを受けた。コップの水が溢れ出すように、ストレスが溢れ出し覚の中に広がる。

 

 ──コイツに何かしたか? してへんな。

 

『本家の方々、特に御当主と(ぼう)に失礼のないように』

 

 ──知らんわド阿呆。そう言うて甘やかすからこんなクソが出来上がんねん。

 

「ガチでロボかよ」

 

 溢れ出すストレスは五条に向き、覚は怒りの弓を引く。

 

 ──コイツ、絶対泣かしたる。

 

 瞳に暗い怒りを宿し、覚は五条を睨みつけた。

 未来の映像から言われるよりも実際に本人から言われた言葉は、覚の心に遥かに重くのしかかり装置としての機能を狂わせた。

 

「……可哀想に、坊は人形遊びしか知らんのやな。自分のフィールドしか知らんとかホンマ可哀想やわ」

「あ? 何だって?」

 

 考えるよりも先にぺらぺらと言葉が溢れてくる。

 

「呪術でマウントとるんやったら次はこっちや。攻守は入れ変わらなフェアやない。ええか! ポケモンを一匹でも多く言えた方が勝ちや!」

「はぁ?! お前何言ってんだ? そんなガキくせぇことするわけねぇだろ」

「絶対に勝てるって自信がないからやらへんの? あ、ポケモン知らんのやったら堪忍な。前の学校の友達はみんな知ってたから”坊”も知ってると思うててん。すんませんなぁ」

 

 わざとらしく『坊』という言葉を強調して覚は眉を下げた。

 五条はポケモンを知らない。当時から習い事や修業で忙しく、娯楽を楽しむ時間など無かった。子供たちの間でも五条は大人ぶっており、その手の話題に加わることはない。だからこそ、少なからず周りが知っている中で自分だけが知らないという状態はコンプレックスであった。

 覚は知らないうちにそれを暴き、大人達の前にぶちまけた。大人はそれをしげしげと眺めて通り過ぎ、五条悟の情報としてインプットする。五条にはそれが耐えられなかった。

 五条の中に羞恥、屈辱、怒りの感情がどっさりと投入され、火をかけてぐつぐつと煮えたぎる。

 

 ──コイツ絶対(ぜってぇー)泣かす! 

 

「いいぜ!! 5分後に勝負だっ!!」

「今からやないんかい! まあ、せいぜい気張りや」

 

 結果は覚が圧勝した。五条も5分間で驚くほど多くの名前を覚えたが、覚はポケモンの名前を歌にのせて歌い続け五条を唖然とさせた。

 それは五条悟にとって初めての敗北であり、同時に三条河原覚という人間に興味を抱いた瞬間であった。

 

 二人の勝負は続き、いつの間にか交互に内容を決めて競い合うようになっていた。最終決戦は呪術での殴り合いとなり、両家見守る中、五条家の庭で二人は呪術合戦を始めた。

 覚は五条よりも弱い。術式、式神、結界術といった呪術の扱いや体術は五条よりも圧倒的に修業期間が短く戦いも慣れていない。そんな不利な状況でも覚は五条悟を相手に劣勢ではあるが闘いを成立させていた。

 慧眼を使って攻撃を躱し、呪力を込めた打撃を打ち込む。対して五条は、格の違いを見せつけるために無下限呪術を多用した。

 五条家相伝の無下限呪術は、難易度が高く六眼を併せて初めて使いこなすことができる。五条はその二つを持ち併せているが、使いこなす域には達していなかった。そこに僅かなタイムラグが生じる。

 覚はそれを見逃さなかった。勝機はそこしかなかった。

 絶対に勝ちたい。その思いが覚を鋭利に研ぎ澄ませた。

 

 相手は格上。何もかも敵わない。ただ一つだけ敵うとするならば、未来を視て自分の望む方向へ現実を変えていくことだけだ。それは覚しかできない強力な武器であり、一人を除いて誰にも気づかれることのない透明な武器であった。それでも五条と闘うには力が足りなかった。故に覚は慧眼に縛りを作った。

 一つ、慧眼を発動している間は草木呪術を使用しないこと。

 一つ、未来の情報を他人と共有しないこと。

 一つ、通常時よりも二倍の呪力を消費すること。

 これらの条件により、覚は毎秒先の未来を観測する力を得た。

 

 覚を的に砂利が弾丸となって襲う。

 数秒先を視ていた覚は、砂利が弾丸と化す直前に走り出し五条に正拳突きを撃つ。すぐさま地を這うようにして姿勢を低くし、五条の顎を蹴り上げ追撃する。

 脚で頭を挟み五条を地面に叩きつけようとしたが、五条に脚を掴まれて地面に叩きつけらる未来を視た。

 覚は瞬時に離れ、その未来を回避する。

 慧眼を使いながらの闘いは、覚が想像するよりも遥かに呪力と体力を消耗した。呪力は次第に底が見え、未来は倒れる覚が占めていく。

 

 ──負けたくない。でも勝てる気がしない。

 

 ただ負けるのは嫌だった。負けても勝ちたかった。五条に一泡吹かせたいという思いが覚の中で膨れ上がる。

 覚は勝負に勝つことを諦める代わりに、五条に勝つ悪戯を思いついた。

 突如、覚は慧眼を解除した。コマ送りのフィルムの様に時間が引き延ばされゆっくりと見える。

 負ける3秒前。覚は地面を撃ち、土石を舞い上げて距離を取った。

 負ける2秒前。呪力を全て使い、地面を花畑に変えた。五条は煙幕を薙ぎ払い術式順転『蒼』を放つ構えをする。

 1秒前。「あけましておめでとう」一輪の赤い椿を差し出し、覚は意識が途絶えた。

 五条の術式に吸い寄せられる直前、覚は青い瞳が驚きに開いたのを見た気がしたが定かではない。

 それから一週間、覚は眠り続けた。

 

 

 

 

 

「そ、それがあ奴との出会いなのか?! 子供の戯れにしては度が過ぎるぞ!?」

「ホンマやな」

 

 カラカラと笑う覚に、天内は歴史的瞬間を目にしたように目を見開く。嘘くさいほほ笑みや厳しい表情ばかり見てきた天内にとって、今の覚の笑顔は本物のように感じた。

 

「何アホ面してん」

「ア、アホ面じゃないもん!!」

「『もん』て……今時の中学生は大人っぽいて思うてたんやけどな。ちゃう奴もおるんやな」

「喧嘩なら買うぞコラァ!!」

「負け戦は借金増えるだけやで」

 

 覚は水槽内の魚に目を向けながら、機嫌よく歩き出した。

 

 

 

 

 

 そこはそれまで見てきた世界よりも広く、壮大で深い青の世界だった。

 水族館が目玉とする巨大水槽を目にし、覚と天内は足が止まる。

『人は美しすぎるものを目にすると涙が出る』という言葉を覚は唐突に思い出した。そこは胸が締めつけられるほど美しく、心の底から込み上げてくるものがあった。

 

「ホンマ、なんや知らんけど泣けてくるわ」

「そうじゃな……」

 

 三匹のジンベイザメは水槽内を漂うようにゆっくりと優雅に泳いでいる。群を成して突き進む小魚、飛翔するマンタ、それらが陽に向かって泳ぐ姿は神々しく胸を切なくさせた。

 覚は懺悔するように呟いた。

 

「悪かった」

「え?」

「黒井さんの事。間違うたことは言うてへんと思う。けど、天内さんを傷つけることは言うた」

「……妾も悪かったとは思っておる。散々助けられて、守られて、それなのにあんな言い方して。じゃがあの時、黒井が本当にいなくなってしまうのが怖くて、どうしてもいられなくて、素直に言えなくて。……引っ叩いてすまなかった」

「そんなら今日、君を利用したんでチャラにしたるわ」

「なんじゃと?」

「まぁ、怒んなや。黒井さんもやけど、ホンマは悟を休ませたかってん。アイツ僕がおったら休もうとせんし素直に言うことも聞かんしな。親友()の言うことならブツブツ文句言いながらも少しは聞くやろ」

 

 「ホンマ手がかかる」そう言いながらも穏やかにほほ笑む覚に天内は嬉しさが込み上がる。未だ綱の上でバランスを取り続けているが、一歩一歩距離が近づいているように感じた。

 「大変じゃの」思わず笑いながら覚を見た。

 

「何笑うてん。ホンマ大変なんやで」

「じゃが、それでも妾は今日ここに来られてよかったと思っておるぞ。こんな心揺さぶられるものを最後に見ることができてよかった」

 

 「素晴らしいものを見させてくれてありがとう」その表情は晴れやかで、思い残すことは何もないというような死を迎える者の笑みだった。

 覚は水槽に目を向け、かねてから思っていたことを紡ぐ。

 

「水族館や動物園の生き物って野生よりも快適に暮らしとるやん。自然を駆けまわる自由を対価に手厚い保護を受けてな。そこで生まれた奴は外を知らんしな」

「等価交換みたいなやつじゃな」

「等価とはちゃうけど、まあ、そういう何かを得る代わりに何かを失うって世の中に溢れとうと思うねん。人は何かを得る一方、逆側の何かを常に落とし続けとる。呪術師は呪いが見える代わりに逆側の見えへんもん、人の心を落とし続けてん。善い人間(やつ)は必要以上に善い人間(やつ)であろうとして心を壊していくし、優しい(まともな)奴から死んでいってクソが濃縮されていく」

 

 海の中を見せる水族館(この場所)が覚の心の中を天内に見せる。

 

生き物(こいつら)は生きたいと思って生きとるわけやない。本能に従って生きとるにすぎん。外敵からの脅威がない場所で、飯食って、ただ生きる。お客さんに感動をとか思うてへんし、何かのために生きるとかの理由もないやろ。そんな理由をつけたがるんは多分人間だけなんやろうしな」

 

 覚は水槽の中を呪うように見つめている。

 

「それと同じように、僕は人を救おうと思って呪術師をやっとるわけやない。呪いを祓った結果、そいつはたまたま生き延びた。それだけや。生き延びたことに関して見返りも称賛も求めてへんし犠牲が出ても罵詈雑言は受け取らん。呪う奴がおったら呪われる奴もおるし、それを祓う奴もおる。呪われた奴は運悪くその確率に当たって災難やなって思うだけや。何度も言う。僕は人を救うことを目的に呪術師をやっとるわけやない。自分の目的のために呪術界(ここ)で生きとう。それだけや」

 

 その言葉は傍若無人の塊だったが、生まれた時から我慢を強いられてきた天内には、自分の目的のためだけに生きる覚が羨ましく見えた。

 天内は目線を水槽から覚に移した。

 鏡となった紫の瞳は、情けない顔をした天内を映している。

 

「天内さんは、何のために生きてはる?」

 

 その瞳は天内の根幹に問いかけた。

 ぽとりと落とされた一石は、天内の奥深くまで沈み込み、誰も到達したことのない弱く柔らかい部分を抉った。

 心の奥底に追いやり開かないように縛りつけていた紐が緩み始める。それは黒井にも話したことのない、自分も忘れていた恥ずべき想いだった。

 

「……私は、生まれた時から星漿体(とくべつ)で、みんなとは違うって言われ続けてきた。……私にとっては星漿体(とくべつ)が普通で、危ないことはなるべく避けて生きてきた」

「……うん」

「お母さんとお父さんがいなくなった時のことは覚えてないの。もう悲しくも寂しくもない」

「うん」

「だから同化で、みんなと離れ離れになっても大丈夫って思ってた。どんなに辛くたって、いつか悲しくも寂しくもなくなるって。……でも、やっぱり、もっとみんなと一緒にいたい」

「うん」

「もっとみんなといろんなところに行って、色んな物を見て……もっと!!」

 

 ──生きたい。

 

 絞り出た声は、生を渇望する必死な声だった。

 鼻の奥がツンとし、目の前が滲みだす。泣いてたまるかと思うと余計に涙が溜まり、それはあっけなく零れ落ちた。雫はとめどなくぼろぼろと落ち続け、天内はしゃがみ込み静かに泣き続けた。

 ここが水族館でよかった。誰も泣いている天内を気にすることなく水槽の中の神秘に夢中だ。

 

「寂しい……。本当は、まだ生きたい……」

 

 覚もまた隣にしゃがみ込み、天内の頭にぽんと手を置いた。

 

「そうか。よう言うた」

 

 その言葉に天内は涙が止まらなくなった。

 覚の優しさを見た気がした。例え『優しいね』と声をかけたとしても『そんなことはない』と目を伏せて首を振る姿が目に浮かぶ。今はただ、黙って隣に居てくれるその優しさがありがたかった。

 

 

 

 

 

 呪術合戦に覚は負けた。

 しかし、五条悟、五条家、三条河原家との戦いには勝った。五条悟に花を持たせ、健闘した覚は三条河原に泥を塗ることなく優雅に負けた。

 二人の闘いは両家だけでなく呪術界にも広まり、翌年から二人の呪術合戦はお正月の両家恒例行事となった。

 

 

 目覚めると青があった。

 きれいだなと、起きたばかりのぼやけた頭でも覚は思った。

 

「あ、起きた。お前起きるのおっせーよ、マジ寝すぎ」

 

 心の底からこのザコがという顔をする少年に、覚は「なんで居んねん」と本音をぶつける。目の前の少年はすぐさまむっとしたように口を尖らせたが、その目は反対にきらきらと輝いている。

 

「……泣いてんの?」

「はあ?! 泣いてねぇよ。目おかしんじゃねえの? 眼科行けよ」

「青やから、そう見えた」

「意味わかんねぇし。どーでもいいけど俺は泣いてねぇ。わかったか!」

「はい」

「あーもう、そういうとこ!! 別に敬語とか使わなくていいし! あん時みたいにお前らしくフツーにしろよ。お前ってさ、本当はクソガキなんじゃねえの? 家の奴らの言うこといちいち聞かなくていいし、必要以上に良い子になろうとして都合のいい奴になってんじゃねぇよバアアアカ! 俺はそのままのお前と、と……連みてえのっ! いちいち言わせんなこの馬鹿が!」

「バカでもお前でもなくて”覚”な」

「うるせぇよ! 俺はお前がお前らしくねぇとつまんねーし、覚は覚らしく、そのまんまのお前でいればいいんだよ。お前は呪骸じゃねえだろ?!」

 

 「いつまで寝てんだ。オラ起きろっ」差し伸ばされた手は荒々しく横暴であったが、覚にとってその手は救いの手に見えた。

 いつのまにか目に熱が集まり、雫がはらはらと落ちる。

 自分を肯定されたことが嬉しく、能力や家のしがらみを取っ払って自分を見てくれたことが覚を更に泣かせた。

 

「ほら起きろよ」

「……う゛ん」

 

 ぶっきらぼうに差し出された小さな手を覚は掴んだ。

 

 




入れたかったけど入れられなかったセリフ集

・「(コイツ)、雪代縁意識してっから」

・「年中花粉症になる呪いかけたろか?」

・「自分を除いて(自分ら三人)治安悪ぃなあ」(五条、夏油、家入を見ながら)

・7年後:「クソを下水で煮込んだ性格って悟のことじゃね? 絶対(ぜってぇー)この子よりお前の方がクソやん」(ヒロアカを見ながら)


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肆 護衛任務三日目 ①

 五条悟、天内理子、黒井美里、三条河原覚は死亡した。天内は銃で頭を撃ち抜かれ、覚は首を刎ねられて死んだ。生存者は夏油傑のみだ。

 

 

 護衛任務三日目、同化当日、15時。天内理子の懸賞金が取り下げられてから4時間が経過。

 5人は都立呪術高専、筵山麓(むしろやまふもと)に辿り着いた。千本鳥居をくぐり抜け、最後の石段に足をかける。見慣れた寺社景色が広がり、一同は結界の地に足を踏み入れた。

 

「皆お疲れ様。高専の結界内だ」

 

 ──これでもう大丈夫。

 

 一同共通の認識だった。

 ほっ、と誰もが息を吐き、五条も術式を解いた。直後──五条の腹を刀が貫いた。血に濡れた刀身が妖艶に輝いている。それは一瞬の出来事だった。

 五条は何者かに背後から刺されていた。

 

 覚は3日前に視た未来視(映像)が脳を駆け巡る。

 あれはこれだったのかと、己の犯した失態に息が止まる。目を見開き、呆然としかける自分に冷静な別の自分が激を飛ばし次の行動を指示する。

 

 術式を奔らせて木の寸鉄を飛ばし、男を五条から遠ざける。男が着地する地点に追撃の葉刃を降らせ、地中からも捕縛の木根を伸ばすが男は電光石火の如く全て躱し、後方へ飛んだ。

 夏油はその瞬間を見逃さなかった。

 エイリアン様のミミズ型呪霊を呼び出して男を頭から喰らう。呪霊は咀嚼しながら地面に着地し、沈黙した。

 夏油は五条の元へ走り出し、覚は天内と黒井を背に庇う。術式を奔らせて棍を生成し、男を呑み込んだ呪霊に構える。

 

 奴は生きている。この程度で死ぬことはない。

 口元に傷がある未来視通りの男だった。覚は男を術師殺しと認め、頭をフル回転して勝ち筋を立てていく。近距離戦では三人がかりでも敵わないと思える程、この短時間で覚は男のフィジカルの高さを理解した。

 男の奇襲は完璧だった。誰にも悟らせることなく五条を刺した。初撃が天内であれば終わっていた。ではなぜ男は天内ではなく五条を刺したのか。それは、五条悟さえ消えれば天内理子を殺せると確信しているからだ。

 

 ──なめくさりやがって。

 

 覚の険しい眼が呪霊を睨みつける。視界の端に映る五条を気にかけるが覚は天内の傍から離れることはない。

 

「問題ない。術式は間に合わなかったけど内臓は避けたしその後呪力で強化して刃をどこにも引かせなかった。ニットのセーターに安全ピン通したみたいなもんだよ。マジで問題ない」

 

 五条は手で夏油を制すが、やせ我慢であることは見てとれる。

 覚は再びじっと呪霊を見た。ぴくりとも動かない静けさが、嵐の前のように感じられた。

 こうして五条を心配している間にも男は呪霊の腹から出る準備をしているはずだ。今のうちに天内を天元の元へ連れて行き、男をこの場に留めておくことが最善である。

 覚は五条へ豆を弾いた。頭の中で五条と共に男を殺す算段を立てる。

 

「仙豆やる。ここで止めんで」

「やっぱあんじゃねーかよ。あー……覚は傑と一緒に行ってくれ。天内優先。アイツの相手は俺がする。先に天元様の所へ行ってくれ」

 

 覚は目を細めた。その瞳は拒絶の色を示している。

 

「頼むよ、覚」

 

 男を呑み込んだ呪霊がぴくりと動く。一秒が惜しい状況に覚は反論の言葉を飲み込むしかなかった。

 

「……わかった」

 

 ──悟は刺されたが死んでいない。仙豆も渡したから万全の状態で殺り合える。なら、五条悟が負けるはずはない──そうだろ? 

 

 そう思うのに、一抹の不安が肩をたたく。次第にそいつは覚に覆い被さり、胸に手を入れて心臓を掴む。全身の肌が粟立った。鼓動の動きを嫌に感じ不快感が胸を渦巻く。

 

 覚はそれを無理矢理振り払い天内に視線を向けた。

 次の未来は天内の射殺。

 正論が嫌いなくせに『天内優先』と正論を吐く五条に苦虫を嚙み潰す。従いたくないと思うのに、こんな時に限って従者としての顔が表に出る。

 

「先行くで」覚は天内の細腕を掴み駆けだした。「油断するなよ」「誰に向かっていってんだ」夏油と五条の軽口を耳に天元の待つ高専最下層、国内主要結界の基底である薧星宮(こうせいぐう)へと先を急いだ。

 

 

 

 

 

 昇降機を下り、薧星宮に繋がる参道に辿り着くと黒井は天内に別れを告げた。

「大好きだよ。ずっと……!! これからもずっと!!」「私も……!! 大好きです……」泣きながら抱き合う二人に、覚は両親との別れ際が重なる。

 両親の思いについて覚は想像することしかできないが、目の前の二人のように、様々な思いを凝縮させて一つの言葉にまとめたのが『幸せに生きろ』だったのかもしれない。それが覚を縛る呪いになるとは、彼らは思いもしなかっただろうが。

 

 天内、夏油、覚は本殿へ繋がる通路へ潜り始める。正しい通路を歩き、天元の元へ一歩ずつ近づくにつれて沈黙が重くなる。

 光が差し込み闇を抜ける。目の前には一本の大樹を中心とした生命観のない地下空間(ジオフロント)が三人を迎えた。

 神に向かって頭を下げるように、御神木に向かってあばら家が密集している。それらは生きているはずなのに、聳え立つ御神木に生気を吸われているようだ。

 生きながらに死んでいる。そう思わずにはいられなかった。

 

 天元の元へ行くには目の前の階段を降りるしかない。そこから先は、高専を囲う結界とは異なる天元自身が招いた者しか入ることが許されない特別な結界が張られている。

 招かれざる夏油と覚は、ここから先へ進むことはできない。ここが天内との別れとなる。

 覚は天内と夏油から距離をとった。天内の最期の選択を夏油に任せ、覚は見届ける。

 

「階段を降りたら門をくぐってあの大樹の根元まで行くんだ。そこは高専を囲う結界とは別の特別な結界の内側になる。招かれた者しか入ることはできない。同化まで天元様が守ってくれる」

 

 夏油の穏やかな声に天内の表情は固くなる。

 

「それか引き返して黒井さんと一緒に家に帰ろう」

「……──え?」

 

 突然の申し出に、天内の目が見開く。何を言っておるのじゃ、そう言っているような驚きに満ちた目だった。

 人が求めていることを最高のタイミングで言う夏油に覚は流石だなと目を伏せる。周りをよく見ている夏油だからこそ、人の本心を見抜き救う。救われた方は夏油が神々しく見えるのだろう。

 神がかった人たらしに覚は称賛を贈った。これが夏油の掲げる本当の意味の “弱きを守る”であった。

 覚にはできない在り方だった。

 

「君と会う前に話し合いは済んでる。ね、覚」

「ああ」

「私達は最強なんだ。理子ちゃんがどんな選択をしようと君の未来は私達が保証する」

「……でも、それでも……」

「天内、自分はどうしたいんや」

 

 夏油とは対極の厳しい声に、天内は水族館で言われたことを思い出す。

 青に輝く水槽の前で天内は泣きながら『生きたい』と言葉にした。そんな天内に覚は何でもないようにぽつりと言った。

 

「今から旅するか?」

「……え?」

「このまま日本出て、死ぬまで旅してん。時間かかると思うけど黒井さんもちゃんと呼んでな」

「何を、言っておるんじゃ……」

「頭使(つこ)うてる? 旅は出会いと別れの中に学びがあるらしいで」

「結界は……、天元様は……?」

「そんなん知らんし。困んのは日本におる自分らなんやから、自分らでどうにかせえっちゅう話やん。まずはアジア人がぎょーさんおる国がええやろうな。日本の名前と国籍は消えてまうけど、そーゆう生き方もあんねん」

 

「世界、見にいかへん?」覚は手を差し出し、天内が掴むのを待った。

 その顔はひどく穏やかで、妙にスッキリしている。

 天内には覚が冗談を言っている様には見えなかった。その手をじっと見つめて、ゆらゆらと瞳を揺らした。

 

 ──生きたい。この手を掴みたい。

 

 涙をぬぐっていた手がぴくりと動く。

 

 ──でも、怖い。そう、生きるのが怖いのだ。

 

 心の奥底では連れ出してほしいと願っていたくせに、いざ手を伸ばされると怖くてそれを掴むことができない。ここじゃないどこかで、自分の知らない外の世界を知ることに天内は突如恐怖を抱いた。

 我慢を対価に守られ続けていたことを天内は知った。窮屈な場所に居たからこそ、外の世界に興味を持ったのだと今になって理解する。

 今は、未知への好奇心よりも恐怖が勝っている。

 新しいことに飛び込むことが怖くてたまらない。自分を変えるには勇気がいる。変わることの恐怖に、足がすくむ。

 小刻みに揺れる天内の瞳に覚は目を伏せた。

 

「このまま同化して消えんのは楽や。けどそれは、自分で考えて決断したことなんか? 神の御言のままに、人が判断したことに従うんは楽や。大義背負って死んだら英雄になれるしな。生きるのは楽とはちゃう。生き地獄を経験するかも知れへん。そやけどお前はそれを知るべきやと思う。行くなら、今や」

「私は、…………………………生きたい……けど!!」

 

 ──この手を掴む勇気がない。

 

「私は、星漿体の、……役目を、全うする。そうして今まで生きてきたんじゃ……それをいまさら、変えて生きることはできぬ……。できない……、怖いの。だから、私は、明日、天元様と、……同化する」

「さよか。もう一回『生きたい』言うたら無理矢理でも連れてくわ」

「……う゛ん」

 

 昨日の約束が蘇り、目に熱が集まる。気づけばはらはらと雫が頬を濡らしている。

 

「っありがとぅ……」

 

 呼吸は浅く、喉が熱い。喉の奥で声にならない唸り声が染み出てくる。

 心の底から感謝の気持ちでいっぱいなのに、上手く伝えられないことがもどかしい。

 もう一度チャンスを与えてくれたことが嬉しくて。言わせてくれたことが嬉しくて。天内はありがとうと泣きながら胸に手を当てた。

 

「……私は、もっと皆と……一緒にいたい。もっと皆と、一緒に色んな所に行って、色んなものを見て……生きたい!!」

 

 天内は笑った。誰にも左右されない、生きると選択した晴れやかな笑顔だった。

 

「……もっと早よ言えや」

「帰ろう、理子ちゃん」

「……うん!!」

 

 天内が夏油に手を伸ばした時──大樹がざわめいた。

 

 タンタンッ──。

 

 何かを認識するよりも早く覚は動いた。肩が吹っ飛び熱をもつ。気づけば天内を抱きしめて地面に転がっていた。

 すかさず弾道へ木の寸鉄を飛ばすが──それは一瞬の銀閃により粉砕される。

 

「理子ちゃん?」

 

 呆然とする夏油の声が降り注ぐ。

 覚は腕の中を見た。組み敷いた天内は、米神に穴をあけて、停止していた。

 絶望が「あれー? おやおやおや? おいおいおい?」と嗤いながら肩を組んでくる。

 

 ……──はあ? 

 

 ゆっくりと時間が進む。混乱している自分とは別の自分が冷静に現実を観察している。混乱した自分は、脳漿を撒き散らした天内を見続けて、ようやく理解した。

 

 ──死んだ。

 

 一目でわかる。

 思考が止まる。未だ動揺しているにもかかわらず、覚は無意識に術式を奔らせて棍を作り出していた。

 参道と繋がる入口の影から犯人が姿を現す。

 それを見た瞬間、覚の中で時が止まった。そいつは五条を刺した男だった。

 

「ハイ、お疲れ。解散解散」

 

 ──……さとるは? 

 

 最悪な事態を想像しながらも、いや、まさかなと現実を受け入れられない自分がいた。それ以上何も考えられなれなくなり、脳が停止する。

 底なし沼に呑み込まれるような混乱が覚を襲う。それでも視界は嫌に冴え渡り、意識に関係なく体は動く。心と体が乖離していく。覚は男の一挙一動を見逃すまいと静かに読み取り続けた。

 

「なんで、オマエがいる」

 

 呆然と立ち尽くしながらも夏油は乾いた声で言った。

 男は意味が分からないというように眉をひそめ、拳銃を持つ手で頭を掻く。

 

「なんでって……あぁ、そういう意味ね。五条悟は俺が殺した」

 

 ──『五条悟は俺が殺した』

 

 プツンと電源が落ちたように脳が死ぬ。突如、アハハハハハハハハハハハハハハハハと脳天を突くような笑いが頭を支配した。それはいつのまにか声となって発していた。

 怒りのあまり覚は壊れ、夏油は湧き出る殺意に溺れた。

 二人は声を重ねて男を見た。

 

「「そうか、死ね」」

 

 覚は地を踏み鳴らし──消える。

 夏油は呪霊を呼び出し──放つ。

 龍の型をした呪霊、虹龍(こうりゅう)が鋭刃な牙をむき出して男に突進する。

 

「焦んなよ」

 

 男は銃で夏油を撃つが、夏油は掌から仮想怨霊(かそうおんりょう)を呼び出し盾にする。

 手札の呪霊を破壊していくよりも本丸である術師を叩く方が効率良い。

 男は軽薄な態度に反して冷静に状況を分析し、冷酷に実行する戦闘スタイルを確立していた。それに加え、豊富な実戦経験と常識にとらわれない柔軟な思考もまた男の強力な武器であった。

 牙を振り下ろす虹龍に、男は跳躍し塀に着地する。

 瞬間、先読みしていた覚は棍で男を一閃する。

 

 シン・陰流(かげりゅう)──簡易領域(かんいりょういき) 抜刀

 

 手で棍を弾くことにより初速の増した斬撃が男の胴を打つ。良質な筋肉を纏っている男の体でも骨が粉砕される程の威力だ。

 だが──男は常人ならぬ動体視力で棍を掴み、覚を瓦に叩きつけた。

 転瞬、木の根が男の足を縫い付けると共に矢群が襲う。

 覚は即座に槍を形成し、至近距離から男の頭を射抜こうとするが、それよりも速く轟然とした蹴りが覚を直撃する。

 藁くずのように覚が散った直後、虹龍が再び突進し男を宙に舞い上げた。

 血の花弁が咲き乱れる。

 だがそれは男の血ではなかった。

 男は落下しながら長刀で虹龍の硬い外皮を切り裂き、同時に枝や蔦を使って鞭の様に乱舞する樹木を断つ。

 夏油は戦いながら男の実力を上方修正した。今まで戦ったことのないタイプであり接近戦に勝機は無いと判断する。

 覚は抜刀を構えた。男が地に着く瞬間を狙い、突進する──寸前、覚の首が飛んだ。

 ゴンッと首が地面に落ち、鈍い音がする。

 

「あー……やっべ、首チョンパしちまった。まあどうにかすんだろ」

「……さとり?」

 

 簡易領域内に侵入した者を全自動(フルオート)反射で迎撃するシン・陰流最速の技、抜刀よりも速く男は覚を斬った。

 覚は純粋に、速さで負けた。

 夏油の足元には開眼した覚の首が転がっている。

 

「同じ手を二度も使うなって習わねぇのかよ、バラエティーねえな。馬鹿なテメェらのために、つっても一人死んだか。まあいい、わかりやすく教えてやる」

 

 男は奇襲、結界の素通り、呪具の取り出しについて種を明かしていく。呪力が無い故に呪力をセンサーとするセキュリティには透明人間になること、物を格納できる呪霊を飼っていること、その呪霊に体を格納させて小さくし、己の腹の中に携帯していること。

 口を開けて指を突っ込み、男はお゛ぇ゛っ、と嘔吐きながら丸い呪霊を吐き出した。

 

「これで俺はあらゆる呪具を携帯したまま結界を素通りできる。はじめに呪具を使用しなかったのはそういうことだ。六眼相手の奇襲は透明なままじゃねぇと意味ないからな。星漿体を先に殺ってもよかったんだが六眼の視界に入るのはリスクがでかい。じゃあ慧眼はって話だろ。慧眼は六眼を殺すよりも簡単に殺れる。たとえ未来が視えたとしても手に負えねえもんは対処できねえ──」

「もういい」

 

 夏油は怒りのあまり全ての感情が抜け落ちた。

 

「天与呪縛だろ? 術師(わたしたち)同様に情報の開示が能力の底上げになることは知っている。私が聞きたいのはそこじゃない。何故、薧星宮へ続く扉が分かった。私達は毛程も残穢を残さなかった」

「人間が残す痕跡は残穢だけじゃねぇ。臭跡、足跡、五感も呪縛で底上げされてんだよ」

 

 極僅かに、男は寂し気に呟いたが夏油はそれに気づくことはない。

 

 

 それを最後に、覚は視覚を残して死んだ。

 首を刎ねられる直前、覚は己の呪力を全て眼に宿し、呪力尽きるまで死後の状況を眼に記録し続けた。それは未来を視ている自分へのメッセージだった。

 その後は視界に入った映像だけが映し出される。

 

 夏油の呪霊は男が振るう短刀の呪具によって打ち消され、夏油は反撃できぬまま胸を斬られて敗北した。

 覚と天内の死体は、呪具を格納する男の呪霊に呑み込まれ持ち去れた。

 薧星宮の地面とは違うどこか別の建物の床へと覚達は吐き出された。

 覚と天内はそれぞれ別の場所に運ばれ、覚は角刈りの男に首と体を梱包されて蓋を閉められる。

 黒く染まる視界から明かりが漏れ、蓋が開く。角刈りの男と共に額を一周するような縫合痕の男が視界に入る。縫合の男は覚の眼をじっと見つめた後、嘲笑した。掌で覚の目を覆い、男は覚に何かする。

 それ以降、電源が落ちたように映像は切れた。

 

 

 

 

 

 精神を深く犯す心象(ユメ)に覚は跳び起きた。吐き気がするほど不条理で暴力的で残酷な未来(ユメ)だった。

 どっどっどっどと痛いほど心臓が鼓動を打つ。呼吸が荒れ、瞳孔が開き、首筋の脈を嫌に意識する。

 覚は頚に手を当てた。手をずらし、顔を触り感触を確かめる。

 首は繋がっていた。

 おもわずほっと息が漏れる。

 

 未だ乱れる鼓動のまま、覚は慧眼の進化に嘲笑した。

 平行世界の未来を視るのではなく、まさに実際に体感した生々しさが肌や筋肉に残っている。全身から汗が噴き出るが、覚の現実はここだった。

 最悪だ。

 未来、精神、体調の全てに当てはまる。

 心臓がざわりと音を立てる。濃縮された負の感情が声にならない叫びとなって胸の中を暴れ狂う。嵐の様な叫びは次第に怒りへと変わり、覚自身へ牙を向けた。

 

 ──昨日高専に帰還しなかった浅はかな判断がこの未来を招いた──

 

 拳を握り、後悔と怒りの刃を心臓(こころ)に突き立てる。

 昨日帰っていれば悟と天内は殺されなかった。こんな未来なら、天内は天元と同化して死なずに生きていく未来を歩むべきだった。

 希望を捨てた人間に、散々希望を見せておいてそれを掴む直前に取り上げる行為は残酷だ。

 死を呼び寄せるモノから遠ざけていたはずなのに、いつの間にか自身が死を招いていた。

 

 ──「幸せに生きて」

 

 呪いが頭に纏わりつく。

 幸せの意味なんて覚には分からなかった。

 それでも、慧眼が見せた五条と天内の死は、覚の精神を狂わせる程大きな衝撃を与えた。

 怒りがあった。死なせたくないと初めて思った。生きててほしいと初めて願った。その存在の傍に、一緒にいたいのだと自覚した。

 瞳を閉じて息を吸い、ゆっくりと吐き出して繰り返す。乱れた精神が次第に収まっていくのを自分でも感じた。心の葛藤を取り除けば、自分のやるべきことは明白である。

 

 自分のために、二人の死(未来)を変える。

 

 先程見た未来と以前視た今日以降の未来から、覚は天内の他にも星漿体がいることを確信した。ではなぜ天内の情報だけが漏洩し、特級術師3人が護衛任務に就いているのか。

 特級術師を3人も就ければ安全だという考えは理解できるが共感はしかねる。“護る”ということに全振りした術式を持つ術師もいるはずである。

 考えるにつれて覚の中で大きく分けて3つの推測が上げられた。

 

 一つ目は天内の価値。

 天元との同化に” 適合率”がある場合、天内の適合率が星漿体の中で最も高く第一候補であるならば、界隈では注目を浴びる的であり、守らなければならない最重要人物である。この場合、天内の情報は外部から特定された可能性が高いが、天内の存在を疎み、情報を売る存在がいる可能性も考えられる。星漿体を一族から輩出することは、呪術界では大変名誉なことであり、それ故に情報の提供もしくは金を積む可能性もある。

 

 二つ目は囮。

 他の星漿体を確実に存命させるために意図的に天内の情報を流出させ、敵の動きをコントロールしたという解釈。その場合、天内の生存はどちらでも良い。重要なことは派手に動き回り敵を引き付けること。だからこそ、五条悟、夏油傑、三条河原覚という派手な人間を護衛につけた。副産物として、Qや呪詛師の数を減らすことも考えていたのかもしれない。

 

 三つ目は五条悟と三条河原覚の殺害。

 星漿体という絶対に守らなければならないハンデを抱える条件は殺害の好機である。どちらか一方の首でも遊んで暮らせる金が手に入り箔もつく。実際に未来視では、覚の死体は頭を一周する縫合痕のある男に流されていた。

 

 いずれの解釈にせよ、星漿体に関わりのある人物もしくは上層部が外部にリークした可能性はある。

 強大な力を持ち、飼いならせない五条と覚を疎む上層部(老害)がいることを覚は知っている。そいつらにとって自分達は目障りでしかない。

 姿を見せない首謀者が、盤の上に駒を幾つも用意して動かし、それを知らない駒が新たな盤に駒を用意して動かす様を想像した。覚はそいつによる筋書き通りの未来に殺意を抱く。

 

「三文小説も大概にせえよ、このカスどもが」

 

 見えない敵を睨みつけるように覚は唾を吐いた。

 例え、五条と天内の死を阻止したことで大勢が死に、それら全てが覚を恨んだとしても覚は断言する。そんなの知ったことか、と。そして裏で糸を引く奴を引きずり出して殺す。

 皮肉にも、権力、人脈、実力を含め覚はそれを実現できる力を持っていた。

 覚は携帯電話を取り出した。利害関係において最も信頼する人物に電話をかける。

 

「おはようございます、覚です。当主お願いします──」

 

 自分の立っている場所が急に崖の端のように思えた。その端を足の裏で感じながら、海の向こうから攻めてくる敵を睨みつける。

 

 ──絶対(ぜってぇ)撃ち落としてやる。

 

 本来が失われての未来がそこにあると信じて、覚は頭の中で一人図面を引き始めた。

 




思いついたけど入れられないセリフ&シーン集

・「町でアンケート? 職質の間違いやろ」

・渋谷で偽夏油の頭パカッを見た場合
 「マモー・ミモーよりカリオストロ派や」

・覚が入学する前の京都校学長室
 楽巌寺学長「(来年は慧眼が京都校(うち)に来る。向こう三年の交流会団体戦は固い)
 京都校教師「五条悟(五条家)我がまま(計らい)で三条河原は都立校に行くそうです」
       「「……」」

・夏油のミミズ型呪霊を見た時
 「ジェフかよ」


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伍 護衛任務三日目 ②

 

 襲撃者の名は伏黒(ふしぐろ)甚爾(とうじ)

 術師殺しを専門とする任務達成率100%の殺し屋。

 呪術界御三家の一つ、禪院(ぜんいん)家の出身であり、天与呪縛(てんよじゅばく)により生まれながら呪力が全く無い稀有な人物。故に禪院家では隠匿された存在。

 羽田空港にて家の者から渡された報告書を読むにつれて覚は目を細めた。

 三条河原家の当主に連絡した覚は、術師殺しの調査と呪具の貸与を依頼した。それに承諾した当主は、家を挙げて伏黒甚爾について調査した。

 

 天与呪縛とは、本来持って生まれるはずだったものを天に奪われる代わりに同等の対価を与えられる神の愛(呪い)である。

 伏黒甚爾は持ち得るはずだった呪力と術式を天に奪われる代わりに、類まれなる身体能力とセンスを与えられた。

 禪院家に非ずんば呪術師に非ず。呪術師に非ずんば人に非ず。

 呪力が無く、術師に成れず、家から人間扱いされなかった人物。そして覚の父親と同じ境遇の人間。

 家庭を持ち、一度は呪術界から逃れたにもかかわらず、呪術師に妻を殺されたのを機に再び呪術界に戻ってきた亡霊。

 血縁関係のある息子が一人。名は(めぐみ)。再婚し、女が連れた女児もいる。

 

 

 

 

 

 覚の携帯電話が鳴り響く。相手は家からであり、伏黒一家の所在を突き止めた旨の報告だった。包囲は既に完了しており、殺害もしくは拉致の最終判断を覚に仰ぐ。

 

「見つけてくれてホンマありがとう。それめっちゃ欲しかってん。でも一緒に買いに行きたいからそのまま見といてくれる? また後で電話するわ」

 

 筵山麓の鳥居を潜りながら覚は耳から携帯電話を離す。

 

「キッショ。つーか今日電話多くね?」

 

 苛立ちを隠しもせずに五条は覚を睨みつけた。数時間の休息を得たとしても、六眼の酷使による疲労は五条の精神を尖らせていた。

過剰なストレスと疲れは精神を不安定にさせる。覚はそれを理解しているからこそ、五条の苛立ちを発散させるように挑発的に笑った。

 

「新しい彼女できてん」

「そいつ趣味(わっる)。いくら貢がせんだよ」

「寂しんぼ乙。自分と彼女どっちが大事なんってか?」

「違ぇし。オッエ゛」

「照れんなや。どっちか一人しか助けられへんのやったらお前選んだるさかい」

「俺は女取る」

「ハイ、絶交。うっすい友情やったわ。お吸い物か」

「違うよ、覚。悟は覚なら自分で何とかするって信頼してるんだよ。ちなみに私も覚は見捨てる」

「見捨てる言うてるやんか。お前らほんまクズやな」

「抗う術を持たない方を助けるのが力ある者の使命だよ。その点、覚の答えの方がクソだ」

「ハイハイ正論乙。説法説くなら頭丸めてからにせえっつーの。高専卒業後はハリボテ仏閣の僧侶にでもならはるおつもりですかァー? 稼ぎ時の夏なんに忙しすぎて油売れますなぁ」

「ウッゼーよお前ら。つーか覚は空港でなに刀もらってんだよ。最近木の棒だったじゃねーか」

「木の棒ちゃうし、棍やし。小さい子がチャンバラごっこで振り回すのと一緒にすんなや」

「合ってんじゃねーかよ。小さい子ってオマエのことじゃねーか、傑もそう思うだろ」

「悟、爆弾処理は自分でしてくれ。それに覚はもう伸びいない身長を気にしてるんだからからかうのは気の毒だ」

「お前ら泣いて詫びんなら今やで」

 

 軽口を叩きながら一同最後の鳥居を潜る。全員の足が高専の結界内に入り、覚を除く全員がほっと息を吐いた。ゴールのテープを切ったように張りつめた空気が一気に緩む。

 もう大丈夫。もう安全だ。

 この先を知る覚以外は皆、顔にそう出ている。

 

「皆お疲れ様。高専の結界内だ」

 

 夏油が柔らかい声で天内、黒井、五条、覚へと視線を投げかける。一人一人を労わるその瞳は、この先の結末を見届けるには優しすぎる目だった。

 

「これで一安心じゃ」

「……ですね」

 

 黒井の相槌に覚は心の中でカウントを始める。

 

 ──5

 

「悟、本当にお疲れ」

 

 ──4

 

「二度とごめんだ。ガキのお守りは」

 

 ──3、2

 

「あ? んだとコラ」

 

 ──1

 

 フッと五条は術式を解いた──同時に覚は術式を奔らせ五条の背後に厚い木の盾を出現した。

 カッと刃が盾に刺さる。

 

「あ゛あ?」

「泣いて詫びても許さへんで、おっさん」

 

 射抜く視線に伏黒は嗤う。

 

「馬鹿が。詫びる気なんざさらさらねぇよ」

 

 転瞬、伏黒が動きだすよりも速く術式が奔る。木が伏黒の足を拘束し、夏油の呪霊が頭から呑み込む。

 辺り一帯に轟音が鳴り響き、土と木片が舞い上がる。

 伏黒を拘束していた木は呪霊により粉砕されたが、覚にとっては都合が良かった。

 

「ぼさっとしてんなや。どんくさいやっちゃな」

 

 視界が晴れると共に覚は五条を睨みつけた。喝を入れるようにバシンッと背を叩き、制服の襟に木片を仕込む。

 未来を見た後から覚は考えていた。呪力ゼロの伏黒がどんな手を使って五条悟を殺したのか。

 伏黒甚爾の強みは身体能力とステルス戦術である。ならば五条を伏黒の土俵に引きずり込むことができれば勝つ可能性は上がる。

 だが、五条はバリアの様に触れるものを阻む無限を現出することができる。それがある限り、五条悟に触れることはできない。

 そこで重要となるのが呪具である。

 伏黒が対夏油戦で使用した短刀の呪具に覚は目をつけた。伏黒は短刀で呪霊の呪いを消し、夏油を一閃すると共に呪霊自体を消した。

 短刀を最後まで使用しなかったことから、それは伏黒にとって切り札であると推察される。そしてその情報だけで三条河原家は呪具を特定した。

 

 特級呪具──天逆鉾(あまのさかほこ)──

 効果は発動中の術式の強制解除

 

 殺害方法は想像となるが、天逆鉾が五条悟殺害の要であることは確かである。そしてきな臭いことに、その入手ルートの特定には至らなかった。

 五条は強い相手が現れた時、一人で戦いたがることを覚は知っている。五条の心の奥底にある『全力で暴れたい』という雁字搦めに縛られた本能が、己を解放しようと動き出す。

 だからこそ未来視の五条は一人で残った。慧眼を使いこなす覚とならば、連携して戦うことができるにも関わらず、五条は一人で戦った。

 覚と殺し合う時とは違う、本気の命の取り合いを五条は望んだ。

任務(天内)優先」は耳触りの良い建前でしかない。

 故に覚は初めて賭けに出た。五条と伏黒の戦いを想定し、木片に呪力を付与して命じる。

 

『五条悟に触れる呪力を阻め』

 

 一度ならば成長した木片が五条の身代わりとなる。その一度を五条悟は無駄にしない。

 五条を信用しているからこそ、”死なない程度に殺さ れる”ことを期待して覚は運の要素が強い図面を引いた。

 幼い頃からその背中を追い、全力で競い合ってきたからこそ言い切れる絶対的な信頼があった。

 成功すれば覚は追われ、失敗すれば死ぬ。いつもの三人は「バカじゃねぇの」と呆れるそんな図面だったが、覚に後悔はなかった。

 

「お前、ここに残るつもりやろ」

「ああ、覚達は天内優先。アイツの相手は俺がする。先に天元様の所へ行ってくれ」

 

 「死んでんじゃねーぞ」覚は天内の腕を引っ張り駆け出した。「油断するなよ」「誰に向かって言ってんだ」未来視通りの夏油と五条の掛け合いに覚は目を伏せて、五条との今生の別れに笑った。未来(本来)を失っての現在が、今、構築されはじめていた。

 

 

 

 

 

 薧星宮に続く扉を開け、高専最下層、薧星宮参道に4人は辿り着いた。

 黒井と覚は足を止めて天内と夏油を見据える。

 

 「私はここまでです」高まる感情を見せまいと頭を下げて別れを告げる黒井を天内は強く抱きしめた。

 「大好きだよ」と泣きながら強く抱きしめ合う二人を横目に、覚は夏油に硬い声を上げる。

「単独犯やと思うけど他がおるかもしれへん。ここに残るわ」

「わかった」

「傑」

「ん?」

「後は頼んだ」

「分かってるよ」

 

 ──『まだお別れも言ってないのに……!?』

 もう一生合うことができないから、最後はちゃんとお別れを言いたい。

 

 嘗て天内が言った言葉を思い返す。二人の別れは、覚にとって神聖な儀式のように見えた。

 決して一方的な想いを相手に託すのではなく、各々の道を進むために、互いの気持ちに区切りをつけることが正しい別れの挨拶なのだと悟る。

 だが、それを悟ったところで今の覚にはそれを実践することはない。

 

 二人は一頻り抱き締め合った後、体を離して涙を拭った。黒井は未だ潤む瞳で精一杯の笑顔を向け、天内はその気持ちを汲むように穏やかにほほ笑む。

 「行ってきます」柔らかい声を上げて歩き出す天内の後ろ姿を黒井は嗚咽をかみ殺して見送り続けた。

 

 刻一刻と近づいてくる時間に覚の精神が凪ぐ。

 覚が今からする行動は、夏油のように称えられる無欲の善行ではなく、私利私欲を追及した行動である。

 

「黒井さん」

「はい」

「すんません、ちょこっと眠ってくれはりますか」

 

 何かを発する前に黒井は崩れ落ちた。覚は木箱の中に黒井を閉じ込めた。

 

 

 

 

 

 隙間なく密生した樹木は光を遮りほの暗く、生温いじっとりとした湿った空気が肌に纏わりつく。むき出しになった木の根や苔が地を覆い、水を含んで滑りやすい。陰陰滅滅とした樹海がそこに広がっていた。

 薧星宮に通じる昇降機が動き出し、扉が開く。

 樹海と化した参道に伏黒は瞠目した。

 

「あ? ああー……まぁ肩慣らしにはちょうどいいか」

 

 盛大な歓迎に伏黒は鼻で嗤う。頭の中ではこのダンジョンをどう攻略していくのか既に分析が始まっている。

 

 覚は疑似の領域展開(りょういきてんかい)を参道に展開していた。

 結界内に呪力を具現化して構築した環境を生得領域(しょうとくりょういき)といい、生得領域に術式を付与した術を領域展開という。大量の呪力を消費する代わりに己のステータスを向上させ、自由自在に必中攻撃を放つことができる。

 領域に引きずり込まれた場合、脱出することはほぼ不可能である。領域を作り出した術師本人が解呪もしくは死亡、またはより洗練された領域に引きずり込むことにより脱出することが可能となる。だが、それは理論上はという意味である。現代において、領域を展開する域に達した術師もそれを破った術師も存在しない。領域展開は呪術戦の極致であり、術師にとって奥義である。故に決戦を意味する。

 

 覚は参道中に術式を付与した植物を一つ一つ作り出した。結界も張られておらず、部屋の中に呪力を持った植物が混生しているだけである。それは与えられた呪力が尽きるまで自動(オート)で攻撃し続ける空間を作り出したに過ぎない。

 縛りにより、慧眼と草木呪術を同時に展開できないからこその策だった。

『不完全な領域展開』というにもおこがましい代物であったが、覚が今できる呪術戦の限界だった。

 予想していた人物が姿を現し、覚は刀を構える。

 

「いらっシャインマスカットってところやろか、禪院甚爾さん。あぁ、すんません、今は伏黒さんやったな。ここまで来はったってことは、悟は負けたんやな」

「ああ、五条悟は俺が殺した」

「へぇ、そうなんや」

 

 地を這う声と射殺す視線が伏黒に向く。

 負けたとしても死んではいない。五条悟はどこまでも負けず嫌いで、どこまでもしぶとく、最後は必ず勝利をもぎ取る人間である。

 覚はそれを確実にするために、充分なお膳立てもした。そうまでされた五条悟が死ぬはずがない。伏黒との戦いを経験に変えて、虎視眈々と反撃の準備に徹しているはずである。

 殺した余韻に浸ってろと肚の中で舌を出す。

 覚は慧眼を起動した。数秒、数十秒先の未来を視ながら自身にとって都合の良いストーリーへと誘導する。

 

「僕と取り引きしません?」

「あ? 何言ってんだオマエ」

「僕は投降します。なので天内理子を差し出します。そんで2つ依頼します。天内理子を生きたまま依頼主の元へ連れて行くことと、僕の暗殺から生涯手を引くこと。金額は言い値でええですよ。あの子が生きてた方が都合ええんとちゃいますか? 付加価値ついて色つけてもらえますし」

 

 今朝視た未来視の通りであれば、伏黒は天内理子の暗殺の他に覚の暗殺依頼も受けている。

 だが、伏黒は覚の話を聞く必要はない。一度受けた依頼を理由もなく下りた場合、業界での伏黒の評判は下がり同業者に仕事を喰われる。業界は常に信用第一である。故に覚は、その依頼を反古にする程のメリットを伏黒に提示しなければならない。できなければ覚と天内は死に、死体はその後何者かに利用される。

 

「ねえな。盤星教の依頼は暗殺だ。それに死体んが運びやすい。仮に生きたまま連れていったとして、オマエは俺とあっちの取引が終った瞬間に星漿体連れてここに戻ってくる気なんだろうが、そん時はもう同化には間に合わねえ。詰みだ」

 

 覚は堪えきれず鼻で嗤った。いやいやいや、ちょお待てと、腹を抱えて嗤い、濁った瞳で毒を吐く。

 

「同化のために、ここに残うてるてホンマに思うてはるんですか? おもろい冗談やな。俺がここに残ったんはそんなんちゃいますよ。呪術界を壊すチャンスを掴むためにここに居んねん。……この世界、ずっと壊したかった。五条悟も慧眼も三条河原も呪霊も呪術界も、飼い慣らそうとしてくる上層部()も! 全部消えてなくなってしまえばええってずっと思うてたわ。ええやんか天元が暴走しても! それで全部消えんなら!  最っ高やんか。……それが俺の本音です」

 

 伏黒甚爾はなぜ呪術界(この世界)にいるのか、覚はずっと考えていた。呪力に解放された伏黒が、術師殺しをしてまでなぜこの世界にしがみついているのか。表の世界で世界チャンピオンにでもなってろよと思わずにはいられなかった。

 表の世界。

 覚にとっては呪術界が裏の世界。

 嘗ていた世界を表の世界と認識する覚に対し、裏の世界である呪術界が伏黒にとっては表の世界。

 

 二人はどこまでも対照的だった。

 幼少時に与えられた親の愛。泣いて縋ると抱きしめてくれた温もり。期待による苛烈教育。眼を抉り、切り落とそうと見つめ続けていた自分の手。自分を変えた存在に出会い共に歩み続ける現在。

 伏黒甚爾の人生はその逆である。

 一般家庭から必要とされて迎え入れられた覚と、有力家系から不要とされた伏黒。

 

 ──自分を見つけないでほしかった。

 

 ──自分を見てほしかった。

 

 そんな存在に出会い、覚は皮肉にも嗤った。

 

 ──俺は、アンタが羨ましかったよ。

 

 瞳を閉じて、瞳を開ける。息を吸い、息を吐き出す。不自然にならないように、伏黒が興味を引く言葉を紡ぎ出す。

 

「アンタにもメリットありますよ? 天内理子の追加報酬と俺からの依頼料。ほんで、人類の敵になった天元に絶望する呪術界と術師達の姿です。因みに、俺を使うてギャンブルさせれば一生金に困ることはないですし、俺は必ずギャンブルで勝ち続けて生涯にわたって依頼料を払い続けることができます。才能ある術師を金で縛って一生扱き使うんは、おもろないですか?」

「ハッ、そりゃあ面白れえ。本当にできんならなッ!!」

 

 踏み込んだ伏黒の脚は地面を咆哮させ──消えた。

 転瞬、刀剣がぶつかり合い凄烈な火花が散る。

 コンマ2秒で距離を詰めた伏黒に覚は身構えるが、フィジカルの差により塵のように吹き飛ばされる。

 

 ──クソ速っ! 

 

 未来視により予め来ると分かっていてもその一撃は重く速い。強化された天性のフィジカルと経験を積んだ無駄のない身のこなしは達人の域を超えていた。

 分かっていても対処できない攻撃は覚にとって相性が悪い。そして質の悪いことに、伏黒はまだ本気を出していない。

 

 ──これで暖機運転かよっ! 

 

 実力差に思わず舌打ちする。心臓に冷水を浴びせられたようなぞっとした恐怖を抱く。

 だが、不思議と勝てないとは思えなかった。

 覚は未来の事象を見ることから、必然的に他者よりも失敗した事象を多く見る。そこから学ぶことは多く、それ故成長速度が著しく速い。

 だがそれ以上に、未来視で戦った伏黒との経験は、現実の覚へと経験値として引き継がれていた。

 次第に伏黒の速さに目が慣れ、見えなかった姿が見え始める。

 

 覚は息を吐き、膜を纏うように全身から刀の先まで呪力を均一に循環させた。

 足を踏みしめ、突進する。

 0.5秒先には伏黒の回転蹴りが頭に入る映像が視える。

 姿勢を落とし、伏黒の強靭な右趾脚(みぎしきゃく)が覚の頭上を掠める。続く左踹脚(ひだりたんきゃく)を弾丸のように身体を旋回させて躱す。

 コマ送りのようにコンマ1秒先、毎秒先の伏黒と樹木の乱舞を視ながら銀閃を放つ。

 伏黒は脊髄反射で飛び退く──だがその退路には鋭利な木の槍が待ち構えていた。

 伏黒は体を捻り回転した。回転しながら天逆鉾で槍を切断し術式を解除する。遠心力を利用して、追撃を打ちこもうとする覚を一閃する──筈だった。

 天逆鉾で消したはずの槍が伏黒の肩を掠めた。

 

 ──術式が解除されてねえ?! 違ぇ、別個体か。

 

 覚は森を生み出したのでなく、数多の木々や植物を生み出し樹海を作り出した。粘土のように巨大な呪力の塊を抓んで植物を生やしたのではなく、大量の植物を一つずつ作りだすことによって森を形成した。

 全ての植物は繋がっておらず孤立している。従って、木を一本切ったならば木一本分の術式が解除されるだけであり、樹海を消失させるならば参道中の植物を天逆鉾で斬りつけなければならない。

 木の葉を隠すなら森の中というクリシュの言葉に則るならば、木の葉を消すために森を消さなければならない。

 

 刃を伏して躱し、地を踏みしめ、雷鳴と共に飛び上がる。黒雷を纏う刃が一閃する。

 

 シン・陰流(かげりゅう)──簡易領域 抜刀・黒閃

 

 飛び上がる勢いと共に神速の一撃が走る。

 だが、伏黒甚爾は神に愛されすぎていた。珍しい天与呪縛でも伏黒は天からの呪縛()を一際強く受けていた。それはもはや愛情という名の執念であった。

 覚の会心の一撃を伏黒は天性の反射神経で受け止めた。一瞬の鍔迫り合いの間に覚を蹴り飛ばし、手榴弾の如く轟然な蹴りが覚の脇腹に入る。

 覚は衝撃を受ける瞬間に呪力で脇腹を強化したが、それでも肋骨が数本折れた。だがその痛みを感じない程戦いに集中していた。伏黒との戦いを通じて覚の中で何かが開花しようとしていた。

 

 体は樹をへし折り、スピードと威力を殺しながらも飛ばされ続ける。壁に叩きつけられる直前、覚は体勢を立て直し壁に着地した。足に力を籠め、反射を効かせてピンボールの如く斬りかかる。

 

 シン・陰流──簡易領域 五連抜刀

 

 本来は展開した領域に侵入した者を迎撃する抜刀術であるが、覚は領域に触れた者を神速で連撃する技へと改変した。

 

 数秒先の未来視では、伏黒は連撃を刀で相殺し、その隙に植物から毒の鱗粉と種子の弾雨が降り注ぐ。伏黒の意識が術式に逸れると同時に覚は一撃入れるつもりであった。

 だが──類まれなる伏黒の第六感がこの斬撃を受けてはならないと導く。

 

 伏黒は簡易領域に触れる直前に飛び退き、地を駆けて植物の攻撃から逃れた。樹海に身を隠し、居場所を悟らせまいと円を描くように高速移動しながら銃を発砲する。

 狙撃手の如く寸分狂わぬ弾が全方位から覚を襲う。

 伏黒は呪具と呪霊を収めており呪力を追って探すことはできない。

 伏黒を攻撃する樹木から居場所を割り出そうとするが、伏黒の動きが速すぎて植物の攻撃が当たらない。次第に植物は犬が己の尾を追うように円を描きだす。

 数秒先の未来視では、伏黒を追跡していた樹木は覚を囲む要塞と化していた。姿の見えない壁の向こうからの狙撃により覚は全身を赤く染めている。

 地の利を生かして戦っていたはずが、地を利用される未来がそこにあった。

 

 覚はすかさず森に飛び込み伏黒を追走する。

 5秒先を視た後、覚は慧眼を解除して術式を奔らせた。前方にいる伏黒に向けて葉の斬雨を降らせ木に飛び移る。

 伏黒は呪霊を吐き出し天逆鉾を取り出した。

 落雷の如く地を踏みしめ、一気に加速する。降り注ぐ葉刃を完璧に振り切り、追撃する寸鉄を弾く。間髪入れずに地面から尖突する槍を飛び退いて躱し、ハンマーの如く殴打する大木を銀閃で消す。

 その瞬間を「待ってたよ」と言うように、覚は背後から毒を纏った刃で一閃した。

 

 シン・陰流──居合・夕月(ゆうづき)

 

 鋭刃な横薙ぎが伏黒の頚を斬る筈だった。純粋なる戦闘センスの差がそこにあった。

 伏黒は即座に左首筋に刀を立てて横薙ぎを防いだ。刀が纏う毒を解除し、続いて裏拳を鳩尾に入れる。刀を逆手に持ち換えて胴を一閃し、斬った胴を抉るように豪然たる脚で覚を蹴り飛ばした。

 肉を裂かれると共にミンチとなって飛び散る破壊力があった。吹き飛ばされた覚は壁に叩きつけられ呼吸が止まる。

 数秒間意識が飛び、それが何時間にも渡って途切れたように錯覚した。

 覚の集中力は途切れた。斬られた腹は焼けるように熱く、疲労も襲い掛かる。慧眼により脳が焼かれてもはや何も考えることができない。

 

 ──何でこんな必死なっとんやろ。

 

 霞む瞳が辛うじて近づいてくる奴を映す。

 伏黒はその間も樹木を着々と消していく。

 

「もう終わりか?」

 

 伏黒の口が動いたが、何を言われたのか覚には分からなかった。

 

 ──死ぬんかな。まあ、ええか。なんか疲れたし。

 

 疲労で投げやりになる覚に、誰かが必死の声で訴える。

 

 ──生きたい!! ──

 

 その瞬間、なぜだかじわりと瞳に涙の膜が張った。

 記憶にある天内が言ったのか、覚の深層心理が叫んだのかわからないが、ただ、戦っている理由を覚は思い出した。

 想いの強さだけでは人は強くならないが、執念は深くなり粘りが生まれる。

 五条と天内の死を阻止し、裏で糸を引く人物を見つけ出して殺す。

 自分にしか見えない敵は、自分にしか撃ち落とせない。自分本位の殴り合いを途中で放棄してはならない。

 それでも体は思う様に動くことはなく、吐き気がする程の頭痛は収まらない。ただ、そんなことは戦う前から計算済みであった。

 

 何のために伏黒の奇襲を阻んだのか。今までの覚ならば、五条を餌にして伏黒の殺害計画を立てていた。不確定要素の強い運や人に任せた図面など引きはしなかった。

 ただ、そうするとあの最悪な未来の中でも唯一変わってほしくない箇所が変わる気がした。

 覚は天内にもう一度『生きたい』と言わせたかった。それだけだった。

 

 覚はポケットから仙豆を取り出した。立ち上がりながら鼻血を拭くふりをして嚙み砕く。

 途端に斬られた腹の傷が癒え、身体の痛みも消える。疲労は去り、呪力も十分に漲る。今朝起きた時よりも身体の調子が良い。

 覚は前を見据えた。挑発するような瞳で伏黒を射抜き、薄気味悪く笑う。

 

「まだまだこれからやろ?」

 

 鏡のような瞳には、歪んだ自分の顔が映っていた。

 伏黒は反転術式かと一瞬疑うが、呪力も回復したことからその可能性を消す。瀕死まで削ったと思いきや突如回復した覚に舌打ちする。

 術師のこういうところが心底むかつくのだ。

 幼少期からの嫌な記憶が蘇り、悔しさと苛立ちが同時に押し寄せる。

 

 家は呪術界を牽引する御三家の一つ。呪力があって当然の世界で呪力が無いイレギュラーな自分が生まれた。禪院家相伝の術式を引き継ぐ者は人生をゼロからスタートできるが、それ以外の術式を刻む者は落伍者としてマイナスからスタートする。そんな環境の中で呪力が完全に無い伏黒は、呪術師としてのスタートラインに立つ以前に人間としてすら認められなかった。

 

 ──禪院家に非ずんば呪術師に非ず。呪術師に非ずんば人に非ず──

 

 誰の瞳にも映ることのない透明人間のような存在だった。都合の良い時だけ、落伍者(雑魚ども)の自尊心を高めるための道具にされた。

 だから家を出て術師殺しになった。自分よりも術式(才能)を持つ恵まれた存在が呪力も持たない下位()に殺される光景は眺めが良かった。

 

 そんな過去ばかり呪っていた伏黒に手を差し伸べた人物が一人だけいたが、その存在はもうこの世にはいない。酷いことに、伏黒に幸せを教えて死んだ。

 伏黒の絶望だった人生が、幸せを知り、再び絶望に落ちた。幸せを知る前は絶望を絶望とは知らなかったのに、絶望を知ってしまった。

 

 そうしていつのまにか鬱憤を晴らすようにこの世界に戻っていた。

 何重にも包んで捨てたはずの承認欲求が顔を出す。六眼を殺し、慧眼を追い詰めた今、そいつは今か今かと箱から出る機会を窺っている。

 

 伏黒は覚を睨みつけた。腹の中で渦巻く嫌悪感を蹴り飛ばし、覚の提案に向き合う。

 三条河原覚を暗殺する依頼よりも三条河原覚の依頼を受ける方が金という指標に於いて利益がある。芽生え始めた自尊心を踏みつけて見なかったことにすればいいだけの話しだ。

 

「ああ、クソだる。止めだ止めだ。割に合わねえ」

 

 ──一生使ってやる。

 

「お前の依頼の方が楽に稼げる」

 

 その一言に、覚と伏黒の契約は成立した。見えない糸に縛られた様な気持ち悪い感覚が胸に渦巻いた。

 

 

 

 

 

「帰ろう、理子ちゃん」

「……うん!!」

 

 「みんなの元に帰って、いろんなものを見に行こう」夏油は手を差し出し、天内に柔らかくほほ笑んだ。

 涙を拭う天内の手が夏油に触れる──筈だった。

 天内は消えた。

 夏油の目の前で、天内は拐われた。

 必死に伸ばす天内の手を夏油は指先すら掴めない。

 夏油の瞳に天内の顔が焼きつく。涙は弾け、恐怖に染まり、助けてと必死に縋る顔だ。

 夏油は瞬時に呪式を奔らせたが、男は拳銃を発砲し初手を阻む。

 銃弾が肉体を穿つ直前、夏油は呪霊を盾にした。

 天内の息が止まる。自分を助けるために傷つく夏油を見るのが怖かった。

 

 ──やめてっ!! 

 

 心は斬り裂かれ、血を流すように悲鳴が上がる。

 その甲高い叫びに男は面倒くさそうに顔を顰めた。男は天内の延髄を叩き、意識を落とす。がくりと人形の様に気を失った天内を抱え、参道へと通じる通路まで飛び退いた。

 こんなもんかと、夏油を評価するように男は気だるげに吐いた。

 

「ハイ、お疲れ。解散解散」

 

 夏油は目を見開いた。男は五条を刺した襲撃者だった。

 

「なんで、オマエがここにいる」

 

 冷静になろうと己を律するが、声には困惑と怒りが滲み出る。

 ここに辿り着くには五条と覚がいたはずである。男がここにいるということは、二人は男に下されたということになる。

 脳が焼かれる音を聞いた。焦げた残骸が頭の中を埋め尽くし、地に伏した友の姿を見せる。

 心臓が急激に収縮し、胸に痛みが走る。夏油はそれを顔に出すことなく、ゆっくりと息を吐いて狂気を胸に宿した。

 

「あ? なんでってそりゃ──」

「俺が通したからや」

 

 玲瓏な一声に、静寂が訪れる。

 場を制する声に、頭をひどく殴られる。

 声の主は、おもちゃのように夏油の精神を弄び、焼け焦げた脳みそを嗤いながらかき混ぜた。

 思考がぐちゃぐちゃになり、繰り返し同じ質問を投げかける。『嘘だろ』と『何故』が何度も何度もループする。

 想像する人物を必死に否定するが、残酷な現実は変わらない。

 そんなこと、あるわけ──ないだろ。そう思うのに、夏油の願いを嘲笑うように、参道と通じる通路からは見慣れた靴が、脚が、刀が、制服が、光に晒される。

 最後に顔が晒された時、夏油の心は血を流した。

 夏油は停止した。呼吸も、瞬きも忘れて止まった。それは残酷な瞬間だった。

 声の主は襲撃者の隣に立ち、向かう夏油をひたと見据える。それは何を考えているのかわからない視線だった。

 

「──ッ!! 覚ッ!! 何故だ!! 」

「すまん、これしか思いつかへんかったわ」

 

 申し訳なさそうに笑う覚に、夏油の中で困惑、苛立ち、怒りの波がどっと押し寄せる。

 

「いつからだ。いつから私達を裏切った!!」

「ついさっき。もう詰みやし。死んだら終わりやろ」

「あ゛?」

 

 覚は視線を夏油から伏黒に移し、話の続きを促す。

 

「ああ? ああ、ハイハイ、五条悟は俺が殺した」

「やって。悟殺されたならしゃーないやん。切り替えてこーや」

 

 言いようのない怒りの波に夏油は溺れた。伏黒の言葉に、覚の言葉に、脳が焼かれて殺意に染まる。

 禍々しい呪力が夏油の周りに流れ始める。

 怒りに溺れた夏油を見て、覚は未来視の自分と重ねた。

 

 ──ごり押しの正面突破じゃあかん時もあんねん。

 

 他が為を想う夏油の理想と、己が為を想う覚の理想はあまりにも違う。そしてそれを実現させる過程は真逆である。実力さえあれば正攻法で実現できると思っている夏油に対し、覚はどこまでも邪道だった。育ちの違い、未来視の有無、見てきた世界の深さが違った。たった一年、呪術界に身を置いただけの表層を見た術師とは見てきた地獄が違う。理想を実現させるために使えるものは全て使う、裏から手をまわす方法を身につけるしかなかった。

 故に覚は夏油を一つずつ追い詰めていった。

 

 夏油傑は術式だけでなく体術や頭の回転の速さも特級品である。だからこそ、一つずつその品位を落としていく必要がある。

 心を折り、立ち上がる脚も砕く。

 術式は天逆鉾で無価値に。体術は伏黒甚爾に絶望を。頭脳は怒りと動揺で妨害し。精神は五条と天内で亀裂を。そして最後に、覚と夏油に繋がる糸を断つ。

 目的達成の為ならば、覚は平気で嘘を吐く。その代償がなんであれ、究極の願いが叶うならば迷わず使う。

 覚は夏油を見た。怒りに染まる、傷ついた少年がそこにいた。

 覚はオ゛エッと嘔吐き鼻で嗤う。

 

「術師のくせに友情ごっこかよ、キッショ」

 

 夏油の中で何かが壊れる音がした。言葉は意味を無くし、心は血を流す。同時に感情が消えた。

 闇に呑み込まれた瞳が覚を見つめる。心臓を突き刺すような鈍痛はもはや常態化し、痛みとして感じない。

 

「覚、もう一度だけ聞く。何故そこにいる」

天内(コイツ)売った。以上」

「そうか、じゃあ死ね」

 

 初めて聞く、温度の無い声だった。

 伏黒は覚に天内を投げた。

 獰猛な牙を振り上げて突進してくる虹龍に、伏黒は迫り、覚は退く。

 そこから先の戦いを覚はじっと見つめていた。

 滑稽な夢を見ているように、事象が淡々と流れていく。

 

 伏黒が長刀で虹龍を切り裂き、夏油はすかさず仮想怨霊を放つ。

 天逆鉾により呪霊の攻撃は消え、伏黒はそのまま流れるように夏油の胸を二閃した。

 呪霊が消え、夏油は地に伏せる。

 夏油は朦朧とする意識の中で覚を見たが、その瞳はただ冷たく鏡のように見返しているだけだった。

 

「術師なら死なねぇ程度に斬った」

「へー、術師殺しが優しぃな」

 

 揶揄する声に伏黒は呆れた視線を向ける。

 

「オマエ分かって言ってんだろ。式神使いなら殺したが呪霊操術となるとコイツの取り込んでた呪霊がどうなるか分からん。ここで面倒ごとは避けたい」

「面倒な依頼受けといてよう言うわ」

「タダ働きなんてゴメンだ」

「金で解決すんなら楽やわ」

 

 夏油の頭を蹴る伏黒を置き去りにし、覚は天内を抱きかかえ歩き出した。

 

「親に恵まれたな。だが、その恵まれたオマエらが呪術も使えねぇ俺みたいな猿に負けたってこと長生きしたけりゃ忘れんな」

 

 ──どんだけ自分を役割()に縛ってん。

 

「あー! 恵ってそうだったそうだった。俺が名付けたんだった」

 

 喉に引っかかっていた小骨が取れたように、伏黒はスッキリとした声を上げた。そのまま軽快な足取りで覚の背後を歩き始める。

 覚は表情の見えない伏黒に毒を吐き捨てた。

 

「ホンマ恵まれ(呪われ)てんな」

「オマエにはわかんねぇよ」

 

 テメエに言われたかねぇよ。肚の声は、空を漂うことなく覚の奥深くに落ちて霧散した。

 




思いついたけど入れられないシーン集

「なーおやくんさよなーらー
「さよーならなーおやくん
「またあーうひーまーでー」
ズドーンッ!

・釘崎野薔薇に出会った場合
「五条悟人形に釘打たへん?」

・「テメエらゼーレと違って障子越しに居るってわかってんかんな」

・伏黒恵に出会った場合
「三大魔獣って知ってはる?脱兎の増殖と大蛇の丸呑みかけ合わせて大兎創らへん?」


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陸 草々 ①

 

 

 現在、呪術界は宗教法人と対立しており、過去に例をみない程関係が悪化している。人間同士の争いの種は昔から変わらず水や燃料、土地、宗教、金、権利であり、様々な問題が複雑に絡み合って戦争へと発展する。こと呪術界と宗教法人の争いの中心は宗教の一点であった。そして数多ある宗教法人の中で最も勢力のある団体、盤星教「時の器の会」との争点は『天元を神として信仰崇拝するか否か』であった。

 

 争いの発端は奈良時代まで遡る。そして約1300年にわたるこの争いを便宜上『宗教戦争』と呼ぶ。

 昔も今と変わらず、人間の恐怖や怒り、憎しみといった負の感情は呪いを生み、呪霊へと転じて人間を襲っていた。姿が見えないゆえに喰われた者、見えていても抵抗できずに喰われた者、武器を持ち立ち向かうが喰われた者、様々な状況で人々は呪いの犠牲となった。

 

 呪霊は呪いでしか祓えない。その呪いを呪術という。そしてそれを操る者を呪術師という。彼らが現れて世は一変した。

 

 呪術師が誕生した当初、呪いから人々を救い彼等は神の様に崇められた。

 しかし、術師は次第に力を持ち、一部の者は時の覇者と手を組み権力を得た。

 権力ある処には腐敗も生じる。術師は嫉妬や憎悪などを利用して政治へと介入し、世を掌握し始めた。呪霊のみならず、人とも対立し始めたのである。

 

 神亀(じんき)5年、世が戦慄した。

 聖武天皇の皇太子、基王(もといおう)が皇親の大官である長屋王(ながやおう)に呪殺されたのである。密告により首謀者は長屋王と判明し、国家転覆の密計まで朝廷に暴かれたが長屋王は認めることはなかった。それに怒りを成した朝廷は、その日のうちに兵を挙げて攻め入り戦を始めた。これを第一次呪術大戦という。

 

 長屋王軍の抵抗は虚しく、最期は自害し、屍体は山へと葬られた。この出来事は後に『長屋王の変』として歴史に刻まれるが、内実は各勢力に属する術師の抗争である。

 長屋王の死後、その怨念を世に知らしめるかのように疫病が蔓延し、人々は病に倒れ恐怖と混乱の世に陥った。

 この好機を手ぐすね引いて待っていたのは術師よりも呪霊だった。人間の世から魑魅魍魎の世へと主導権を得るために呪霊は疫病を更に拡散させ、人間から憂苦、憎悪、悲痛を引き出した。怨みが募れば呪霊が湧き、涙が濁れば力が湧く。それは負の円環だった。

 

 術師同士の覇権争いをしている場合ではなかったが、それでも術師は争いを辞めることはなかった。

 非術師は術師に呪霊の祓除を求めたが、その要求に応じた術師は極めて少なく、多くの術師は指図した非術師に腹を立てて呪殺した。それは全能感に溢れた強者の振る舞いであり、非術師はその行動に怒り狂い、決断した。

 

 ──術師を殺す。殺せば疫病も災いも争いも全て収まる、と。

 

 疫病と呪霊はいつしか術師が生み出していると広まり、尊敬の対象から憎悪の対象へと変わり迫害されていった。術師の存在はいつしか呪霊と大差ないところまで堕ちていた。

 

 非術師(持たざる者)にとって呪術とは、不規則の不意打ち、遠隔による不可視の刃で常に心臓を狙われているようなものである。やられる側は不安と緊張に怯え、恐怖を強いられ、耐えられずに自害する者もいる。

 

 ──今は共にあっても明日には殺されるかもしれない。ならば崇め称えて敬って、不意を突いて殺すしかない。

 

 幸いにも非術師は術師よりも数の多さで優っていた。そうして術師は非術師に、呪霊に、術師同士で殺し合い、途絶えていった。

 

 これが呪霊対術師、術師対術師、非術師対術師の第二次呪術大戦である。

 

 そんな混沌とした世を正し、光の指針を示したのが天元である。

 天元は、国を災厄から守るために国家鎮護として天皇に国分寺建立の(みことのり)を全国に発令するよう働きかけ、日本仏教を広めると共に術師に対する道徳基盤を説いた。この時の信者が後の盤星教である。そして天元は非術師に宣言した。術師は世のために未来永劫呪霊を祓除し、非術師に危害を加えないことを誓うと。その代わり、非術師は天元率いる術師を迫害しないと誓えと。その後、天元は己を柱とした結界術を展開し、俗世を守護するために薨星宮へと身を縛った。

 

 これにより呪術師は呪霊の祓除を専門とする存在として迫害を免れ、呪霊、術師、非術師による第二次呪術大戦は終結した。

 

 だが、歴史の解釈は年月とともに歪み、争いの火種は消えることなく焚き続けた。その火種は時を経るにつれて分離し、絶えることなく燃え続け、天元を唯一神とする盤星教「時の器の会」の中で最も過激な団体「星の子の家」の元で燃え盛る。

 

 彼らの目的は一つ。唯一神である天元の純潔を守り、薨星宮に縛られた天元を解放すること。それ即ち、天元と星漿体の500年に一度の同化を阻止し、天元を暴走させる(救出する)ことである。

 

 

 

 

 

 星の子の家の地下空間は打ちっぱなしのコンクリートからなり、地下特有の澱んだ空気が蔓延している。肌にまとわりつく湿り気を帯びた空気に加え、閉鎖された空間は巨大な棺を彷彿とさせる。

 

 覚は未だ眠る天内を抱えたまま、伏黒、孔と共に盤星教代表役員、園田(そのだ)(しげる)および数名の教徒と向かい合っていた。

 

「ほらよ。生きた天内理子(星漿体)五体フルセットだ」

 

 伏黒はにやりと笑い園田から天内へと視線を移す。その声は力強く、先の戦いで得た自己肯定感に満ちていた。呪力を持たない己が特級術師3名を蹂躙し殺害不可能と言われた五条悟をも殺した。その功績は伏黒が捨てた自尊心を新たに芽吹かせた。

 

「……フム、確かに」

 

 園田は眠る天内をねっとりと見つめ口角を上げた。この娘を殺せば天元の穢れを阻むだけでなく解放することもできる。盤星教1300年の悲願が、遂に達成する。

 

 1300年、500年に一度。過酷で長い時間を教団は途切れさせることなくその使命を継承し続けた。天元の純潔を守り解放すること。それが盤星教の悲願であり、その偉業は今日を境に未来永劫語り継がれる。

 

 幻の偉業を求めて園田の手がふらふらと天内へと伸びる。呼吸は乱れ、頬は赤く、顔は喜色に弛んでいる。

 

 早く、栄光を我が手中に──。

 

 一歩、一歩と夢に向かって歩んできたように、園田は天内へ迫った。

 

(ちけぇ)よ。里が知れるわ。脳ミソと一緒で距離感バグってんのか?」──触るな、というように覚は天内を担ぎあげて掌印を結ぶ。

 

 瞬間、ぞわりと肌が粟立ち園田の足が止まった。冷たい手で心臓を鷲掴みされたような、あの何もかも一瞬停止する感覚に襲われる。

 

 蛇のような冷たい何かが園田の頚をずるずると這う。園田はソレに爪を立てるが、見えないゆえにソレを掴むことしかできない。わからないことが極端な恐怖を煽り、次第に園田の呼吸が浅くなる。

 

 何もできない焦りが園田を更に追いつめ、「ひっ」とひきつった声と共に、ソレは一気に頚を締め上げた。

 

「ッぁ……ぁッッ────!!!」

 

 首の骨を折る勢いでソレはミシミシと締め続ける。

 

「おいおい、金払うまで殺すんじゃねぇぞ」

「人間も叩いたら直るやろ。まぁ、叩きすぎて壊れたらすまんな?」

「機械じゃねーのよ。つーかお前絞めてんじゃん」

 

 覚は刀を抜いた。蔦で絞め上げる園田の首筋に切っ先を這わし、刃を当てる。お前の行動次第で首を刎ねるぞと無言の圧力で脅し続ける。

 

「こっちは天内連れてきたんやからお前等もやることちゃんとしーや? 言うてること、わかる?」

 

 園田は助けてくれと霞む目で手を伸ばすが、邪悪な輝きをした目は苦しむ園田を淡々と目に写すだけである。

 

「金貰う前に殺されたら困んのよ。お前らも早く払わねーとこいつに代表殺されちまうぞ」

 

 孔の一言に、氷像のように固まっていた教徒達は震える足をもつれさせながらアタッシュケースの元へ走りだす。

 

「アイツら何しに来てん。はじめてのお使い以下か」

 走り去る教徒達を横目に、覚はつまらなそうに言い放ちながら呪いを解いた。

「依頼が完遂されたってわかっとんやから着いた瞬間に金を見せんのが誠意やろ」

「誠意ないことしながら誠意とか言うんじゃねえよ」

 

 園田の喉を絞める蔦が消え、気道が一気に開く。大量の空気が一度に入り込むが、体は耐えきれず盛大に噎せた。頸には蛇に絞められたような生々しい痕が残っており、さする手がぬるりと滑る。

 

 園田は指を見た。指先は赤く、爪が剥がれている。白いローブには斑点のシミがつき、襟は血を吸って赤く染まっている。

 傷を見た途端、園田は激痛に襲われた。視覚とパニックにより脳が過剰に痛みを認識し、身体がセンサーのように過敏に伝達する。脂汗がどっと噴き出し、全身が心臓にのように強く鼓動を打つ。鼓動の爆音が、園田の焦燥をこれ以上なく煽る。

 

 ──こんのクソガキがっ!! 

 

 視界全てがカッと赤く染まった。教徒の目の前で恥をかかされ、傷つけられたプライドが怒りとなって激流のように込み上がる。

 園田が近づいて殴りかかれば覚など体格差から勝てるはずだが、握りしめた拳は覚を焦点に合わせた瞬間、なぜか、全身の血が抜かれたように一瞬にして熱が消えた。

 

 途端、全身ががたがたと震え、いつの間にか許しを請いながら地面に額を擦りつけている。

 絶対的な万能な力に命を握られていると、本能が警鐘を鳴らす。

 

 ずず、ずず……、と災厄が近づき、奈落のような深い瞳が園田を汚物のように見下ろす。

 

「勘違いすんなよ。非術師(アンタ)らは術師(オレ)らを飼えへん」

 

 伏黒からは感じられない呪術師という闇を園田は初めて見た。まともな理では測れない恐ろしさが、今も体の内側をぞわぞわと虫のように這いずり精神を喰らう。

 

 ──早く化物から離れろ。

 

 園田の中のもう一人の自分が懇願する。

 

 呪術師(こいつら)は人間の皮を被った化物だ。化物の理を持ち出される前に逃げろ。

 

 そいつはそう指摘する。

 

 園田は姿勢を正し、三人に向かって固い声を上げた。

 

「……わかった、金は色もつけてすぐに用意しよう。星漿体の、生体が……手に入ったことだしな……」

 

 湧き出る脂汗を拭こうともせず、教徒が持ってきた金を見せる園田に伏黒は懸命な判断だとせせら笑う。

 

「流石教祖様、太っ腹だね」

「教祖じゃねーし。つーかマジか? 必要経費とはいえかなり協力してもらったのにこんなにもらっちゃって。むしろゴネられるかと思ったぜ」

「……私達は、駄目元で術師殺し()に暗殺依頼をした。盤星教は奈良時代天元様が日本仏教の広がりと共に術師(マイノリティ)に対する道徳基盤を説いたのが始まりだ。呪術界と宗教法人との相性は最悪。その歪から生まれたのが現在の盤星教、星の子の家だ。だから我々は非術師の立場に徹している。様々な越権を許されている術師も原則、非術師には手を出せないからね──」

 

 続く天元の歴史、宗教法人と呪術界との戦争、星の子の会の成り立ちについて語る園田の話を聞き流しながら覚は瞳に呪力を集めた。慧眼を奔らせ、これから起こる未来を先に視る。

 

 

 

 

 

 ──「おい、逃げるぞ」伏黒が突如駆けだした。金を受け取った孔も理由を聞かずに走りだす。その直後だ。轟音と激しい揺れに襲われ、頭上から瓦礫が落下してきたのは。

 

 覚は天内を強く抱きしめ、伏黒、孔の後に続き駆け出した。背後からは悲鳴や人体の潰れる音がするが、振り返ることはない。

 

 地上に辿り着くと、予想していた通り一面は瓦礫と化していた。建物は半壊し、門道は抉れ、術式が通った跡がある。その長い跡の先には、幽鬼のような、五条悟が立っていた。

 

「……マジか」

 

 幽霊を見たような声を隣から拾う。五条が生きていることにか、強大な力に関してか、伏黒の顔は初めて動揺している。

 覚は五条に目を戻した。五条が纏う雰囲気は今までとは明らかに違っている。一皮むけたというよりも、無意識に押さえていた力を解放したというような変貌だ。

 

 逆境を経験せず、常に順風満帆で歩んできたからこそ五条は死闘に恵まれず、呪術師としての成長が高止まりしていた。そんな中での伏黒による初めての致命的な敗北は、五条を縛る枷を破壊した。

 

(アイツ)ラリってんやん。死に際で呪力の核心でも掴んだんか? つーか殺したんやなくて、殺したつもりやったんやんやな 」

「ア゛? ウッセ、脳天ぶっ刺し……」言いながら情報を整理する伏黒は天啓を得たように「反転術式!!」と苛ついた声を上げる。

 

 反転術式──。肉体の回復が可能なプレミア術式。

 

 死に際で修得した五条の才能に、伏黒は苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちをする。

 

「……化物め」

「オレん時みたいに首チョンパせんかったんが敗因やな」

「ア? 何言ってんだ、勝負はこれからだろ。終わったら飯行くぞ。孔、接待に使ってる店連れてけよ」

「嫌だよオマエ男に奢んねぇじゃん」

「財布なら(そこ)居んだろ」

「じゃあ行くか、って言いたいところだがオマエと関わるのは仕事か地獄だけって決めてんだよ」

「地獄でも関わんのかよ、仲良しか」

「全員そこの住人だろ」

 

 軽口を最後に、伏黒は五条の元へ歩きだし、覚は天内を抱え孔とは違う方向へ姿を消した。

 

 

 

 

 

 呪力の津波が覚と天内を呑み込み、一瞬にして領域へと押し流す。

 光の無い真っ暗な生得領域に引きずり込まれた覚は、天内を抱き寄せて花粉を飛散させた。

 気流に乗って領域内を滑空する花粉は煙のように探索しながら地面や壁に付着する。付着した花粉は呪力を吸い取り早送りのように芽吹いて成長し種子を飛ばす。世代を重ねて群生する草花は領域を侵食し、その情報を覚に伝えていった。

 

 ボッと蝋燭が灯り、壁一面に神仏像が現れる。古今東西の木彫りの像は天井まで無造作に積み上げられ、揺らめく像の影が二人を嘲笑している。

 

 覚は蝋燭を掴み地面を照らした。地面もまた河原の石ころのように神仏像が転がっている。自分以外の神はいらないというような、地に足をつける以上、絵踏みを強制する領域の主に覚は強い神コンプレックスの疑念を抱いた。

 

 

 植物の情報を基に、覚は天内を背負いながら神仏像の地面を歩き続け、領域の主である呪霊を見つけた。

 筋骨隆々な呪霊は神のように高台から平伏す星の子の家の教徒を見下ろし、彼等の捧げる祈りを一身に浴びている。何度も脱皮して変態を繰り返し、特級へと遂げた呪霊はその肉体美を存分に披露していた。

 

 突如、呪霊は瞬間移動のようにフッと消え、フッと両脇に教徒を抱えて現れた。足元に一人落として背中を踏み、もう一人の胸と腿を掴んで柔らかい腹にかぶりつく。鋭利な歯が脇腹をむしゃぶりつくし、滴り落ちる血が踏みつける人間と釈迦像を赤く染めていく。

 暫く教徒を貪っていた呪霊は飽きたというようにそれを投げ捨てた。地面に叩きつけられた教徒の周りには腹や脳みそがない残骸が散乱している。

 

 惨劇の創造主は無慈悲にも殺戮を繰り返し、人間を喰う度に照明のように、閃光のように、太陽のように神々しい光で暗闇の領域を照らしていった。

 突如襲われた暗闇。突如現れた神々しい光。

 教徒は自分達の力ではどうしようもない大きな力に支配される中、その強烈な光を天元とみて縋るように祈り続けた。

 

 

 教徒達が生得領域に取り込まれる数分前、礼拝の最中に地震が発生し数名の教徒が爆ぜた。それは五条の術式による地震と呪霊が教徒を喰った瞬間が重なった事案であるが、その後領域に呑み込まれ、世界が闇へと一変したことから教徒達は盤星教の経典に記される終末の始まりを悟った。

 

 盤星教の教典には、天元の暴走つまり世界が滅亡する最後の審判の時、天元は再び俗世に現れて全ての人間を復活させると記されている。天元は善良な真の盤星教教徒のみを天に導き、罪人と異教徒を地獄に落とし永遠の苦しみを与える──。

 

 心身ともに強く祈り続け、神のために生きていればいずれ神が認め、我々を天国に連れていく。その教えを本当に信じている教徒は、隣の教徒が呪霊に喰われ(非業の死を遂げ)ようとも、騒ぐことなく、妄信的に強く祈り続けた。

 

 ──天国へ行けますように、と。

 

 故に神のために全てを捧げる心身深い教徒程、天国へ行けるこの日を狂信し待ちわびていた。

 

 

 天国を求めて皆が祈る中、突如、化け物を見たかのような耳をつんざく悲鳴が響き渡る。

 腰のぬけた青年が体を震わせながら蒼白した顔で泣き喚いている。青年は幼子が足で砂を掻くように後退るが、その足を逃がさんと中年の男が握り潰す勢いで掴む。

 

「テメェどこに行く気だァっ!! 地獄に堕ちたいんか!!! 自分で決めたことを投げだすからお前は駄目なままなんだっ! 地獄に落ちたくなかったら祈れ!! まだ間に合う! 天元様のために最後まで気張れ!! 何のために生きてんだ!!」

 

 血走る男の目は鬼気迫り、青年を罪人のように睨みつける。荒げる声で青年を萎縮させ、その都度どろりと濃い澱が呪霊の元へ流れていく。

 多くの教徒が天国に想いを馳せて世界の滅亡を呪い(祈り)、一部の教徒は呪霊、暗闇、死、恐怖に怯えて澱を生んでいった。

 

「コイツらマジで気持ち悪ぃな」物陰から見ていた覚は呪われた呪霊()に祈りを捧げる教徒にオェッと舌を出した。

 

 死後の世界を夢見て呪い、呪霊を産み出し喰われて死ぬ。喰われた教徒を「真の教徒ではなかった」と詰り、澱を生みだして呪霊を強化する。

 神や仏の逸話を神道も仏教も学ばない人間が都合の良いところだけを聞き齧り曲解して縋りつく。その絵面が蜘蛛の糸を我先掴まんと地獄から這い出ようとする罪人の手のように見えた。

 

 覚は人一人が入れる程の小さな祠を形成し、眠る天内を押し込んだ。

 

 宗教という免罪符を盾に人間の理性が馬鹿になる弱点を上手く突く呪霊に、「呪霊は考えるうんこである」としみじみと思いながら掌印を結ぶ。

 瞬間、呪霊は塵のように高く舞い上がった。呪霊の真下から巨樹が突き上げ、刺突しながら領域の縁へと追いつめる。

 自らの王国を作り出した創造主を、覚は絶対的な力をもって破壊した。悲劇の全てを目撃する瞬間を、覚は民衆に強いた。

 

 

 

 

 

 ──あ゛? 

 天内が、逆さに、吊るされている。

 

 全潰した礼拝堂に戻った覚は目を見開いた。

 嘘だろ、と天内を入れていた祠を見るが、祠の扉は破壊され木片と化している。

 

 巨樹に逆さに吊るされた天内は微動だにしない。明らかな死を纏う天内に、覚は盛大な舌打ちをした。

 心は焦燥に駆られているのに、沼を歩くように足が重く体の芯が冷えていく。近づくにつれ、その無慈悲な死が痛烈に訴えてくる。

 

 逆十字磔刑のように吊るされた天内は、両手両足首に杭を見立てた鉄筋が打ち付けられていた。自重で地面に落ちないよう、太股や胴、心臓にも執拗に杭が打たれている。

 

 ミチミチミチと、目の前の天内から肉の裂ける音がする。

 脚は最も多く杭が打たれ、肌は紫色に変色している。脚を伝う赤い筋がいくつも流れ、顔は記憶には無い傷や痣がある。

 微動だにせず、覚は天内を一直線に見つめた。

 ポタッ──と雫が落ちる音を聞く。それが血なのか涙なのか、覚にはわからなかった。

 

「なぁ、なにがあったん──?」

 

 湿り気を帯びる直前の乾いた声が微かに動いた唇から漏れる。頭の中が何故とどうしてとループする。木に磔られた天内の両足を見上げる自分は、傑という漢字の成り立ちを体現していると、頭の一部が現実逃避する。

 覚は強く瞑目し、深呼吸した。

 

「傑を、呪いにすんなよ……」

 

 掌を握りしめ、歯を食い縛る。自分に言い聞かせ、無意識に夏油という優しい存在に縋る。

 ──傑なら、どうする? 

 心臓を抉り出してしまいたい程の悔しさが、胸の中を渦巻く。

 天内が死んだ。その事実を受け入れるのに覚はこれだけの時間を要した。

 

 覚はベルトを外し、天内の翻ったスカートの裾を縛った。

 心臓、手首、胴と杭を引き抜き、天内の上半身を抱える。

 鉄筋を引き抜く度に、聞こえないはずの天内の絶叫が頭に響く。それを何度も繰り返して、覚は足を固定する最後の杭を取り除いた。

 

 血だらけの天内を抱え、自身も血で濡れていく。

 数分前の自分とは生まれ変わったように、精神は凪いでいた。憎悪、慟哭、狂気、苦悩、嚇怒。全ての負の感情が混ざり合い、生まれた空虚の泉にゆっくりと入水する。

 

 パチパチパチ──拍手の方向、背後から教徒が血まみれの覚を取り囲み、喝采を送り始める。この結末が正しいと信じて疑わない笑みで、心の底からよかったと祝福し、歓喜の涙を流している。

 

 覚はじっと彼らを見つめた。ただ、その目に映る感情の色は乏しい。

 任務前に夏油が言っていた「呪術は非術師を守るためにある」という言葉が、なぜかこのタイミングでリフレインする。

 ふと、教徒達が着る白い服の袖に、覚の目は吸い寄せられた。拍手で揺れる袖には血のような赤褐色のシミがついている。

 

 覚だけ時が止まった──。

 ──夏油の声はもう聴こえない。

 変わりに誰かが囁いた。

 ──「生き物と植物は同等だ。種が芽吹き、成長して花が咲き、散る。なら、いつ摘み取ってもいい。どうせまたすぐ芽吹く」

 それは自分の声だった。

 

 瞬間、術式が奔った。

 取り囲む全ての教徒が弾け、飛び散った肉片から赤く美しい蓮の花がポンッと咲き始める。

 血の池に咲き乱れる蓮の群花の中、覚は天内を抱いていた。

 

 コツ──と、背後から池の前で止まる音がする。

「──さとり」聞き慣れた五条の声に、死に反応しない少年は口角を上げて振り返った。

 

「……帰ろか」

 

 柔らかい笑顔で迎えるが、なぜか五条の表情は険しい。それを最後に、覚は視るのを止めた。

 

 

 

 

 

「──だが時が来てしまった。経典に示された禁忌(タブー)!! 絶対的一神教として成り果てた盤星教!! その対象である天元様と星漿体(穢れ)との同化!!」

 

 はっと目が覚め、不快な声に目が据わる。

 眠る天内に視線を向け、なるほど、そうやってお前はまた死ぬのかと未来の結末に心臓をざらりと撫でられる。

 

「──教徒の手前、同化を見過ごせば会が立ち行かなくなる。かと言って行動が過ぎれば術師に潰される。もうヤケクソだったのだよ、我々は。それがどうだ? 失うはずだった全てが今や手中にある。財布の紐も緩むというもの!!」

「もし天元が暴走すれば立ち行かなくなるのは人間社会かもしれねぇぜ?」

「星と共に堕ちるのならば已む無し」

 

 伏黒の挑発にも園田は清々しく微笑むだけで、伏黒と孔は目を合わせてため息をついた。頭のそばで指をくるくると回し、こいつら狂ってんなと吐息が嗤う。

 

「──五条悟、生きてんで」

 

 どぽん、と石を落としたように、一瞬の静寂の後、混乱の波紋が瞬時に広がる。

 

「あ゛?」

 

 伏黒は覚の声を聞いていたが何を言われたのか一瞬理解できなかった。それと同時に、覚の纏う雰囲気が数秒前とは明らかに違うことに目が開く。

 

「マジか」

「ありえない、なんてことはありえない。もう来んぞ」

「……」

「殺し損ねたな」

 

 ありえないが、五条悟(あいつ)ならありえる。その指摘に伏黒は自分の顔が驚きから期待に笑うのを自覚した。血流が激しく巡り、心臓が高鳴り全身を打つ。黒々とした二つの目に閃光が走る瞬間を覚は見逃さなかった。

 

「何笑うてんねん、ツッコめや。元ネタ知らんのか」

「ア? 内輪ネタは内輪だけでやってろ、ガキが」

「処世術どうもありがとうございますぅ。さすが元禪院家、排他的な教育で」

「殺すぞ」

 過去に囚われた亡霊の瞳が覚の心臓に照準を合わせる。

「先約、ええんですか?」 来る五条の方角を、覚の視線は指していた。

 

 




思いついたけど入れられないネタ

・五条の生徒に会った時
五条(あいつ)無下限(術式)で髪上げてっから」

・野薔薇との共闘
 1000本ノック
 覚が空中に木の杭を千本放ち、野薔薇が金槌で打つ。野薔薇が打つ間、覚は暇になるため杭の雨(菫塗り済)を放つ。
 野薔薇のレベルが上がると①金槌で打った杭、②簪となった杭(滞空させた杭を任意のタイミングで落とす。時間差攻撃)、③覚が放つ杭 の3種類が対象に降り注ぐ。
 野薔薇のレベルアップが目的のため覚がメインになることはない。
 覚・野薔薇「守備者びびってるッ、ハイッハイッハイッ!」
 パンダ「あれはもうイジメだな」
 野薔薇が外した時(レベリング中)
 覚「おいおい、ノッカーへばってんのかァー?」

・初対面の第一声
「触覚一本なくしたんか? 探したろか?」(前髪見ながら)


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