10年越しの再始動〈リビギンズ〉 (ヘイドラ)
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プロローグ

ごつごつとした岩肌の隙間にいくばくかの雑草が茂る小高い丘の上で、コナンはポケットに両手を入れたまま立ちつくしていた。丘の下の、少し前まで頑強な建物があった場所から、身を焦がすような熱気がここまで届いている。見下ろす限りの一面が赤く燃えている。炎は夜の闇を照らし、無数の火の粉が風に舞う。時折小さな爆発音と、男たちの怒声が遠く響く。冬の夜だというのに、全身から汗がしたたり落ちていた。

 

コナンはしばらくじっと眼下の炎を見つめていたが、ふとかたわらで座り込んでいる少女に振り向き、悲しみとも慈しみともつかない視線を向けた。

 

「大丈夫か、灰原」

 

「ええ、出血はほとんど止まったわ」

 

哀はうつむいていた顔をコナンに向け目を細めた。膝に巻かれた包帯には血がにじんでおり、手や足首も軽く負傷している。顔に外傷はなかったが、すすや土の汚れはそのまま残っていた。ただ、表情が冴えないのは怪我のためというよりも疲労が原因だろう。この日は長い、長い一日だった。

 

「もうすぐこっちに救援が来る。病院に行けばすぐに治るさ」

 

コナンは哀を優しく見つめ、微笑んだ。彼自身も額や腕に怪我を負ってはいたが、出血はさほどでもない。

 

「何もかもありがとう工藤君……。でも、これで良かったの?」

 

「どういう意味だ?」

 

炎を照らし揺らめく哀の瞳は、コナンに何かを訴えかけていた。そしてそれが何であるかは推理するまでもなかった。

 

「あの薬の……APTX4869のデータは失われてしまった。もう……あなたは工藤新一には戻れない」

 

哀は目を逸らし、丘の下の炎を見つめる。コナンは拳を固く閉じうつむいた。

 

「どうしようもなかったじゃねえか。もうデータを回収する時間なんてなかった。そんなことをしていれば、二人とも逃げ遅れて御陀仏だったさ」

 

()()()()()()データを選べば間に合っていたわ」と自嘲気味に哀がつぶやく。

 

「バーロー!!!」

 

コナンは力の限り怒鳴った。哀はビクッと身を震わせコナンと目を合わせる。

 

「くだらねえこと言うんじゃねえ……! そんなことするわけがねえだろうが!!」

 

「だけど……!」

 

哀は少しふらつきながらも立ち上がり、子供の自分と背丈の変わらないコナンに向き合う。哀の表情も声色も、今にも壊れてしまうそうなほどに痛々しい。

 

「本当にこれで良かったの!? やっと組織を滅ぼせたのに、全て終わったのに、元の姿に戻れないなんて……蘭さんの元に帰れないなんて。あなたは、それでもいいの?」

 

「……いいわけねえだろ」

 

今度はコナンが顔を背けうつむく。

 

「蘭は……あいつはずっとオレの帰る場所だった。いつか必ず工藤新一に戻ってあいつのところに帰るんだって、ずっと疑いもしなかったさ」

 

炎が少しずつ弱まりだした。何台もの消防車が到着し、大規模な消火活動が始まりつつあったからだ。

 

「きっとオレはこれからも後悔し続けるだろうさ。夢にだって見るかもしれねえ。……だけど」

 

コナンの声は徐々にか細くなっていった。

 

「もう、終わったんだ」

 

哀は何も言えなかった。しゃがみこんで力なく遠くを眺めるコナンの横顔を見つめ、胸をつまらせた。

 

「終わったんだよ、全部」

 

それから数時間、彼らは無言のままだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして時は流れ――

 

 

 

 

 

 

 



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1 江戸川コナン、高校生

かつて工藤新一は平成のシャーロック・ホームズと呼ばれた高校生探偵だった。江戸川コナンは探偵でもなんでもない、普通の高校生である。

 

「江戸川がそっちに行ったぞ―!」

 

「「きゃ~! 江戸川くん素敵ーーー!」」

 

ただし女子からの人気は人一倍だった。特に球技大会のサッカーの試合では。

 

「また江戸川にボールが渡ったぞ!」

 

「おい、いい加減サッカー部が止めろよ!」

 

「うるせー、できるんならやってるよ! ……くそっ、こうなったら……」

 

俊敏なドリブルで切り込むコナンをめがけ、現役のサッカー部員が公式戦さながらのスライディングで襲いかかる。しかしコナンはそれをサイドターンして難なくかわすと更に加速し、あっという間に部員を置き去りにした。他のディフェンダーが追いつく間もなく打ち込まれたシュートはゴールポストの左上隅、キーパーが届くはずもない最高の場所に深々と刺さった。

 

「すげー、また江戸川のゴールだ! もうB組優勝だろこれ!!!」

 

「もうだめ、江戸川くんカッコ良すぎ……」

 

「江戸川センパイ最高~~~!」

 

B組の同級生はもちろん、他クラスの女子や一年生までがコナンに黄色い歓声を送る。まさしく校庭のスターだ。

 

「イケメンだし成績もトップクラスだしクールだし、おまけにサッカーもあんなに上手いなんてありえないよね~」

 

「ほんと、他の男子とはレベルが違いすぎるわ……」

 

結局球技大会はB組が優勝し、コナンはこれまでにも増して人気者になった。頬を染めて潤んだ瞳でコナンを見つめる女子生徒は今や5人や6人どころではない。だが彼女たちの歓声に対して、コナンはなんら関心を持っていなかった。

 

 

 


 

 

 

そこは古びた大きな屋敷だった。

かの高名な推理小説作家・工藤優作によって建てられたその邸宅は、歴史ある洋館のようなたたずまいとあまり手入れされていない古めかしさゆえに、日が暮れると言い知れぬ不気味さが漂う。近所の子供たちから「幽霊屋敷」と恐れられるのも無理はなかった。

 

とはいえ、現在この家は無人ではない。江戸川コナンはそこに住んでいた。

 

だだっ広いのにろくに電気も点いてない薄暗いリビングで、コナンはごろ寝しながらぼんやりとテレビを眺めていた。とてもくだらない番組だったが、そもそも内容を頭に入れるつもりもなかった。ただの暇つぶしでしかない。

 

放課後、優勝の立役者であるコナンはクラスメート達から当然のごとく熱心に打ち上げに誘われた。だが打ち上げの主役になるはずの彼は、まるで取り合おうとせずさっさと帰宅しまったのだ。

 

チーン、とレンジの音が鳴る。夕食ができた合図だった。

コナンは熱くなった冷凍パスタをレンジから取り出し、ソファーの上に持ってくると半分寝転びながらダラダラとそれを口に運んだ。テレビは相変わらず芸能人たちのくだらないプライベート暴露で盛り上がっている。たまに少しだけクスリと笑えるが、CMが始まる頃にはなぜ笑ったのかも思い出せないような中身のない番組だった。

 

パスタがなくなるとコナンは皿をテーブルに放り出し、テレビを点けたままスマホをいじり始めた。ツイッターにはこれまたくだらない話ばかりが流れていた。コナンは匿名のアカウントを持っていたが、特に何もつぶやくことはなく有名人やネタアカウントのツイートを眺めるために使っている。30分ほどもツイッターとユーチューブで時間を浪費してから、スマホを放り出し天井を見上げた。昔より壁紙のシミが増えた気がする。

 

「ろくなもの食べてないのね」突然後ろから声が聞こえた。

 

「うっせーな、人の勝手だろ……って、ええっ!?」

 

コナンは驚いてソファーから飛び起きた。この家に自分以外の誰かがいるはずがない。だがその声色はあまりにお馴染みのものだった。

 

「あなたそのうち体壊すわよ」

 

後ろを向くと、薄暗いリビングの入口で見知った顔がテレビの光に照らされていた。赤みがかった茶髪、少し尖った大きな瞳、淡々とした無表情。そして高校生とは思えないほどに大人びた美貌。

 

「なんでお前がここにいんだよ」

 

「だって合鍵を持ってるもの」

 

そんなこと聞いて馬鹿じゃないのという言葉が続きそうな口ぶりだった。

 

「んなこたー知ってるよ、何しに来たんだ?」

 

「江戸川くんがどれぐらい有意義に放課後を過ごしてるのか知りたくて」

 

「嫌味かよ?」

 

「嫌味よ」

 

「かわいくねーやつ……」

 

少女は――灰原哀は、コナンのぼやきを無視して言葉を続ける。

 

「あなた、球技大会ではずいぶんと活躍してたじゃない。打ち上げには誘われなかったの? 女の子たちからはきっと大人気よ」

 

「バーロー、んなもん楽しかねえよ。オレから言わせりゃ全員子どもだぜ?」

 

「別に普通に楽しんでくればいいのに」

 

「まあな……」

 

哀の言葉に言い返せず、コナンはぼんやりと考える。もうずいぶん長いこと、何かが本当に楽しいと感じたことなどなかった。かつて何度も読み返した推理小説がぎっしり詰まった本棚でさえ、今では埃をかぶってしまっている。それでもあえて言うならサッカーはそこそこ楽しい。やはり子供の頃から体に染みついているだけあって、知らず知らずのうちに脚が動く。それだけのことでも普通の同級生相手なら無双できてしまうのだ。ただ、クラブに入って毎日ボールを追いかけようというような熱意は持てなかった。クラスメートたちと特別打ち解けたいという気分にもなれなかった。

 

「となり、空いてるでしょ」

 

哀はコナンの横に腰掛けた。顔はテレビの方を向いてはいるが、内容に興味がありそうには見えない。

 

コナンは無意識のうちに哀を観察していた。

混血らしいシャープな顔立ちと白い肌、青い瞳、赤みがかった茶髪。子供の姿の頃と変わらず――いやその頃よりも遥かに――

 

 

 

――綺麗だ。

 

「……なに人の顔をじろじろと見てるの?」

 

「な、なんでもねえよ」

 

コナンはさっと目を逸らす。

それからしばらくの間、二人は無言で同じ方向を見ていた。

 

「……別にあなたがどんな生活を送ろうが、私には関係ないけれど」哀がぼそりとつぶやく。

 

「だろーな」

 

「偏ったものばかり食べるのは控えた方が身のためよ。あなたが体を壊したら、蘭さんも有希子さんも心配するわ」

 

「……そうだな」

 

「私には関係ないけれど」

 

「それはもう聞いた」

 

コナンと哀は同時にくすりと笑った。ひどく懐かしく、心地よい気分だった。

 

「退屈ならたまには外に出て新しい趣味でも探してみたら? あるいはあの子達の捜査を手伝ってみるとか」

 

捜査、と聞いてコナンは思わず身を乗り出す。

 

「はあ!? ちょっと待て、あいつらまた探偵ごっこなんて始めてるのか!?」

 

哀は眉一つ動かさず答えた。

 

「呆れた、知らなかったの? あの子達、最近また探偵団をやる気になったみたいよ。どういう依頼なのかは私も聞いてないけれど」

 

「やばい案件じゃねえだろうな……。そこらのチンピラぐらいならともかく、ヤクザやガチの犯罪グループなんかに首を突っ込んじまったら洒落になんねえぞ」

 

「あら、心配になった? なら自分であの子達に聞いてみればいいじゃない」

 

「……ま、気が向いたらそうするよ」

 

その実、コナンはそこまで深刻に考えてはいなかった。どうせ小学生や中学生の頃にもやっていた人探しやネコ探しの類だろう。最近は出かける先でことごとく事件が起きるというようなこともめっきりなくなった。普通に生活している限り、日本は平和なのだ。

 

哀は、歩美が最近またまた男子に告白されたという話を始めた。

光彦は授業中に教師の説明の誤りをことごとく指摘して、今では教師たちから酷く嫌われているらしい。

元太は相変わらず食ってばかりで、ますます体が大きくなっているそうだ。

クラスが違うとはいえ、コナンは彼らと同じ学校に通っているにも関わらずちっとも近況を知らない。彼らの話をする哀はとても楽しそうだった。

 

(笑ったら結構可愛いんだよなこいつ……)

 

コナンがそんなことを考えているとはつゆ知らず、哀はふと食器棚の上の写真立てを手に取る。そこには幼少時の新一と、その両親が楽しそうに写っていた。

 

「そういえば最近、有希子さんの病院には行ってるの?」

 

哀が尋ねる。コナンの養母であり新一の実母――要するにコナンの実母でもある工藤有希子は、長らく入院生活を送っていた。そして、父である優作はもういない。彼は既にこの世の人物ではなかった。コナンが現在事実上の一人暮らしを送っているのはそういう理由だ。

 

「あたりめーだろ、明日は休みだから昼過ぎには見舞いに行くつもりだよ」

 

「よかった。有希子さんにまで心配かけないようにしときなさい」

 

「へーへー」

 

哀は「じゃあそろそろおいとましようかしら」と腰を上げ、玄関へと向かった。コナンは少し迷ってから哀の背中を追う。

 

「……送ろうか?」

 

「冗談でしょ? お隣よ」

 

ドアノブに手をかけた哀が振り返る。哀の住居である阿笠邸とここ工藤邸は、言うまでもなく目と鼻の距離だ。

 

「そりゃあそうだけど……それでも夜道には違いねえだろ。今は博士も留守だから尚更な」

 

フサエ女史と結婚して以来、阿笠博士は一年の半分近くを海外で過ごしている。妻の仕事を手伝いつつ夫婦水入らずを満喫しているというわけだ。

必然的に哀もコナンと同様、広すぎる家に実質一人暮らしということになる。

 

「あら、心配してくれてありがと。でも大丈夫よ」

 

哀は呆れたように微笑む。皮肉交じりの笑顔だったが、それが何より彼女らしかった。

 

「……あのさ、灰原」

 

「……何?」

 

しばしの沈黙。二人ともじっとお互いを見つめ合ったまま動かない。

 

「……ありがとな、色々と、まじで。今日だってわざわざ来てくれたし、その、今までも、色々といつも、感謝してる」

 

「……何よ急に。おだててるつもり?」

 

「いや、そんなんじゃねえ。ただ……」

 

言うべきか少し迷う。

 

「……別にオレに構わなくたっていいんだぜ? なんつーかほら、迷惑かけてねえかなって」

 

「……そんなことないわ」

 

哀の返事は、酷く冷たい声のような気がした。

 

「私が好きでやっていることよ。あなたのためじゃないわ」

 

「そ、そうだよな。ははは」

 

突き放したような物言いに、コナンは思わず引きつった笑いで応じる。なぜ彼女は急に機嫌が悪くなったのだろうか?

 

「もっとも、あなたにとっては迷惑なのかもしれないけれど」

 

「そ、そんなんじゃねーよ」

 

「いいから気にしないで、私はこれからも好きにするから。だって……」

 

哀が目を伏せる。

 

「工藤新一は私が……」

 

「え?」

 

ひどく小さな声だったが、哀は確かにそう言った。

 

「なんでもないわ。じゃあおやすみ」

 

「あ、おい!」

 

コナンが右手を伸ばして哀を引き留めようとするが、哀は黙って扉を開け振り返らずに去っていった。バタンと閉められたドアの前で、コナンは不格好に手を伸ばしたまましばらく動けなかった。

 

 

 

 

 



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2 三人の探偵

その男は、モデルのような整った顔立ちとスタイルの持ち主でありながらどことなく危険な雰囲気を持っていた。

自分以外のすべてを見下していて、世の中に恐れるものは何もないという自信を抱いているタイプの男だ。

この日彼は珍しく警戒心を抱いて目的地に向かっていたが、結局はなんとかなるだろうということを疑ってはいなかった。

 

男は、夜間も営業している広いファーストフード店の中に入ると、注意深く店内を見回した。

するとすぐに、店の奥でノートパソコンを操作中の人物を発見する。細身の男とおぼしきその人物は白いシャツを着て帽子を被っており、その帽子には東京スピリッツのチームロゴが描かれている。与えられた情報通りの格好だ。自分をここに呼びつけた人間であることは間違いなかった。

 

男はその人物の前の席にどかりと座り、「よお」と声を掛ける。彼はノートパソコンを閉じて顔を上げ、帽子に隠されていた風貌――ごく平凡な、細面の青年――が男に目を向けた。

 

「時間通りですね」と青年が微笑む。かなり若い顔立ちだ。

 

「俺を呼んだのはなぜだ? つーかおめえ誰よ?」

 

男は不機嫌さを露骨に示すが、青年は気にかける素振りを見せない。

 

「僕はあなたの質問に答えるつもりはありません。あなたが僕の要求に答えるんです」

 

華奢な青年――円谷光彦――は、静かに、しかし一切のよどみなくそう断言した。

 

目の前の、とても腕力が強そうには見えない青年にそう言われた男は、ひどく表情を引きつらせた。ここが営業中の店内でなければすぐに殴りかかっていたかもしれないが、少なくとも今この場では動けない。光彦にとってここまでは予定通りだった。

 

「……おい、ふざけるのも大概にしろよ?」

 

男がドスの利いた声で光彦を脅す。

 

「ふざけているのはあなたの方ですよ、大隈徹郎さん。あなたの手口はひどく悪質で趣味が悪い。僕はあなたを許せません」

 

「はあ?」

 

光彦は大隈のにらみにも全く動じず、冷静に目線を合わせ続ける。この手の相手には、ガンのつけ合いで譲ってしまうとすこぶる不利ということを光彦はよくわかっていた。

 

「あなたは甘い言葉をかけて女性を誘惑し、関係を持った女性の隠し撮りや個人情報を使って脅迫するという手口を繰り返していますね。ヤクザと繋がっているなどとくだらない嘘までついて……。そのうえそれだけでは飽き足らず、握った写真や情報を闇で売りさばいてお金を得ている……はっきり言って最低の人間ですよ」

 

「ほう……」

 

大隈は動揺したようなそぶりを見せず、光彦をにらみながら椅子に座る。その表情からはかすかな笑みが見て取れた。

 

「よくそこまで調べたもんだ。だが証拠はあるんだろうな? 俺がそれをやってるって証拠がよ。そもそもお前、いったい誰に頼まれて俺を調べたんだ?」

 

光彦は大隈の言葉を聞きながら周囲を観察していた。光彦から見て右斜め前の席では、人相の悪い男がちらちらとこちらをうかがっている。バレていないつもりのようだが見え見えだ。体格や風貌からして、かなり腕力には自信がありそうだったが尾行は苦手なタイプだろう。

 

一方、左斜め前の席では一組の男女がガツガツと食事に夢中になっていた。大隈が店に入ってくる前からずっと食べている。男女のうち、男の方は目を見張るほどの大男で、服の上からでもはっきりとわかる太い骨格とぶ厚い筋肉の主張がすさまじい。女の方は普通の体格だが、どういうわけか男の方と同じぐらいのスピードで食べ物を口に運んでいるので光彦は思わず苦笑してしまう。

光彦は気を取り直し、大隈の問いに答えた。

 

「名前は明かせませんが、僕の姉の友人だ……と言っておきましょう。調べようと思えば簡単でしたよ。人を騙しているわりに、あなたのネット上のセキュリティはお粗末そのものでしたからね」

 

「なんだと!?」

 

「あなたに被害を受けた女性に見せて頂いた写真から、あなたの人相はすぐに割り出せました。偽名を使っていることはすぐにわかりましたが、あなたが女性に吹いていたいくつかのキーワードを元に『本当のプロフィール』を推測してネットを辿れば、すぐに身元がわかりましたよ。人間、なかなかリアルの交友関係を完全には隠せないものですからね。そしてあなたが取引を行っている裏サイトの、表の名前は『激アツ!お宝探偵局』。違いますか? 大隈徹郎さん……ではなく本名の、大隅一郎さん、とお呼びした方が良いですかね?」

 

「な……な……」

 

先ほどまでと違い、大隅は明らかに動揺していた。本名もサイトもバレているということは、光彦は全てを知っているということだ。光彦は大隅の額から流れる汗を冷静に観察しながら言葉を続けた。

 

「僕から出す条件は一つです。あなたが握っているすべてのデータを持って、すみやかに警察に自首してください。洗いざらい供述すれば、そこまで重い罪にはならないかもしれません……僕からすれば気に入らないところではありますけどね」

 

「ハッ! 従わなけりゃどうなるってんだ?」

 

大隅が身を乗り出し語気を強める。

 

「その場合、気は進まないですがあなたの職場と警察にこのことを報告します。あなたの裏サイトのURLとパスワードを添えてね」

 

顔がひきつった大隈が言葉を返すより早く、光彦は少し目線をずらしてつぶやいた。

 

「"Hailey(ヘイリー)"、パスワードの変更を実行して」

 

光彦の右耳に付けられたワイヤレスイヤホンが、中性的な声で淡々と応答する。

Sir(サー)、パスワードの変更を実行しました』

Haileyの声は光彦以外には聞こえない。光彦はこの回答を聞いて満足気にうなずいた。

 

「言っておきますが、今からサイトを削除しようとしても無駄です。パスワードはたった今書き換えましたから。サーバー側の契約者情報も変更しましたから、もうあなたにはどうすることもできません」

 

そこまで言ってから光彦はノートパソコンを開いて裏返し、大隅に画面を見せた。その画面には大隅の裏サイトのトップページが映っている――ただし、ページの真ん中に「更新停止」というスタンプのような画像が表示されていた。大隅にはもちろん見覚えがない。それは明らかに、光彦がサイトの更新権限を奪っていなければできないことだった。

 

「てめえ……!!!」

 

大隅の顔が怒りに歪む。この時点で、大隅の頭に「平和的解決」という選択肢は完全に消え失せた。

 

 

 


 

 

 

店の外の路地裏で、大隅は光彦の襟を掴み背中を塀に叩きつけた。光彦の背中に重い衝撃が走り、ひどいえずきが起こる。既に夜は遅く、大通りからは距離がある暗い路地。人通りがあるようにはとても思えないような場所だ。

 

「ガキが調子に乗りやがって……のこのこと一人で来るなんざ馬鹿じゃねえのか!?」

 

大隅はポケットのバタフライナイフを取り出し光彦の顔へと近づける。金属の冷たい質感が、ほんの数ミリ離れた光彦の頬にうっすらと伝わる。にもかかわらず、光彦はまるで動揺したそぶりを見せなかった。

 

「てめえに呼び出された時、念のため喧嘩自慢の用心棒を呼んでおいたが無駄だったようだな……。てめえみてえなガキ一人なら俺一人で充分だ。さあ、パスワードを元に戻せ! でなきゃ一生治らねえ傷が残るぞ!」

 

光彦は大隅の目をじっと見つめ、大きくため息をつく。まるで怯えているようには見えない、むしろがっかりしているような表情。大隅には理解できない行動だった。

 

「なんのつもりだ……?」

 

「いえ、こっちの話です。ちょっと遅いなと思ったので」

 

「はあ……?」

 

その時、大隅は背後から突然声をかけられた。

 

「おじさん何してるの?」

 

若い女の声。大隅は(しまった!)と一瞬動揺する。こんなところを見られてしまえばどう言い逃れるか。最悪、目撃者を手にかけるか?

声の方向に振り返った瞬間、大隅のあごに強烈な衝撃が走った。

 

「ぐはあっ!!!」

 

大隅は突然の衝撃になすすべもなく尻もちをつく。アスファルトに衝突した尻にもガツンと痛みが走る。わけもわからないまま、目の前を見上げる。

そこにいたのは、なんの変哲もないただの少女だった。

 

「歩美ちゃん、遅いですよ」

 

光彦があきれたように言う。

 

「ごめんね光彦くん! ちょっとお会計に時間がかかっちゃって……元太くんってば食べすぎなんだもん」

 

「歩美ちゃんも充分に食べすぎてましたよ……」

 

「えへへ~」

 

そんなやり取りを見ながら、大隅は怒りとともに立ち上がる。その手にはまだナイフが握られていた。

 

「おいっ!ふざけたことやってんじゃねえぞガキども!」

 

腕を伸ばしナイフを突き出す大隅。だが次の瞬間、大隅の手首に強烈な衝撃が走りナイフは宙を舞った。歩美の肘打ちが雷鳴のごとき速さで大隅の手首を打ち抜いたのだ。

 

「ぐはっ!」

 

大隅が事態を理解するよりも早く、歩美は右足を軸に回転し大隅の股間に後ろ回し蹴りを突き上げた。金的を打ち抜かれ、桁外れの痛みで大隅の意識がパニックに陥る。

次の瞬間、歩美はうずくまった大隅の腕を取って肘を極めながら背後に回り込み、足払いとともに大隅をうつ伏せで地面に叩きつけた。肘と肩の両関節を極めながら肩甲骨に膝を乗せることで、またたく間に全身を制圧したのだ。

手首を攻撃してからここまで3秒も経っていない。まさに鬼がごとき早業だった。

 

「おじさん、もう終わりだから諦めてね」

 

歩美が優しく、しかし有無を言わせぬ声でそう告げる。金的を蹴られ胸と顔をアスファルトに強打した大隅に、抵抗する力は全く残っていなかった。

 

「がはっ! ごほっ……。ふ、ふざけるな……調子に乗るなよガキども……」

 

にもかかわらず大隅は強気を崩さない。かろうじて顔を上げた大隅は、鼻血をだらだらと流しながら光彦をにらんで笑う。

 

「ごほっ……、俺の雇った用心棒……加藤は空手黒帯の凄腕なんだ。体格も、喧嘩のキャリアだっててめえみたいなガキとは桁が違う……。そいつには俺が一定時間帰ってこなけりゃ駆けつけるように言ってある。そろそろ来る頃だぜ……」

 

「ふーん」

 

歩美は大隅の言葉に全く興味を示していないようだった。光彦も「はあ……」というやる気のない返事しか返さない。

 

「てめえらちったあビビりやがれ!!!」大隅が叫ぶ。

 

その時、店の方向から男がゆっくりと歩いてきた。暗いために顔は見えないものの、シルエットを見て取った大隅がニヤリと笑う……が、数秒後にその笑みは驚愕の表情に変わった。歩いてきた男は加藤ではなく、ぐったりとしている加藤を肩に担いだ別人だった。

 

「なあ、スゴウデの用心棒ってこいつなのか? すんげー弱かったぞ」

 

男はそう言って、担いでいた加藤を大隅の目の前に無造作に下ろした。加藤の顔面はボコボコ状態で、すでに失神している。

 

「か、かかか、加藤!? そんな馬鹿な……!?」

 

「おめー、もうちょっと強いやつ雇った方がいいぞ」

 

男は大柄な加藤よりも更に一回り大きかった。単に背が高いというだけではない。肩幅、首の太さ、胸板の厚み、丸太のような腕……およそ日本では滅多にお目にかかれないほどの巨漢である。にもかかわらず、丸みを帯びた温和な顔立ちはまるでぼうっとした少年のようだ。

 

「元太くん、これはやりすぎですよ」光彦があきれたように言う。

 

「そうだよ元太くん、もうちょっと気を付けないと!」歩美は大隅を制圧したまま光彦に賛同した。

 

元太と呼ばれた大男はちょっと困ったような顔をして頭をかく。

 

「だって俺、手加減苦手なんだよな……」

 

「やれやれ、もう少し腕力のコントロールを身に着けてほしいですね……。それと食欲のコントロールも」

 

「あはは~、元太くん言われちゃった~」

 

「歩美ちゃんにも言ってるんですけどね」

 

既に3人はすっかりリラックスしている様子だった。まるで大隅がそこにいることなど頭にないかのようだ。歩美に制圧されて全く身動きの取れない大隅だったが、それでもちっぽけなプライドがひどく傷つく光景だった。

 

「てめえら一体……何者なんだよ!」

 

大隅が力の限り叫ぶ。光彦は腕を組み、「う~ん」と少し考えてから大隅を見下ろした。

 

「探偵団……ですかね」

 

「た……探偵団、だとぉ……?」

 

元太が嬉しそうに光彦の背中を叩き、光彦がごほっと咳を吐いた。大隅には全く理解のできないノリだった。

ともあれ、大隅が証拠のデータとともに警察に出頭したのはその日のうちのことである。

 

 

 


 

 

 

帰り道、3人は他愛もないおしゃべりをしながら歩いていた。少し会話に間が空いた時、寂しそうに言葉を漏らしたのは元太だった。

 

「でもよぉ、3人で探偵団ってのもやっぱりちょっと物足りねぇよな」

 

歩美は両の拳を握って大きくうなずく。

 

「うん、やっぱり5人そろってる方がいいよね!」

 

「……その話はやめましょう」

 

光彦の声は低く静かだった。立ち止まってきょとんとする歩美と元太を背に、光彦はそのまま歩き続ける。

 

「灰原さんだけならまだわかります……でも」

 

光彦は立ち止まり、振り返る。その表情はひどく淡々としていた。

 

「彼にはもう……何も期待しない方がいいですから」



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3 蘭の依頼、有希子の言葉

コナンはスマホの着信音で目を覚ました。電話を取るのが間に合わなかったために、鳴り終わったすぐ後に同じ名前からメッセージが届いた。その人物から連絡が来るのは数カ月ぶりのことだった。

 

 

 


 

 

 

「久しぶりねコナン君。最近どう? 元気にしてる?」

 

喫茶店の奥まったテーブル席で若い女性が微笑んだ。少し傷んだ黒髪が、肩より若干長いぐらいの位置で切り揃えられている。くたびれたスーツと目の下のクマからは彼女の不規則な生活が伺えた。

 

「うん、僕は元気だよ、蘭姉ちゃん」

 

「そう、良かった」

 

蘭がコーヒーを一口すすってもう一度微笑みかけると、コナンは久しぶりに胸が締め付けられるような感覚を覚える。こうして彼女と向き合って会話をすることなどどれほどぶりだろう。しばらく見ないうちに、蘭は少し痩せたように見える。声にも顔つきにも元気が感じられなかった。

 

「仕事、どう?」

 

聞くまでもない。彼女が日々激務に追われているであろうことは、名探偵でなくても一目でわかることだった。

 

「順調だよとは言いたくないかな。本当はあたしが暇な方が良い世の中ってことだもんね」

 

「でも大事な仕事だよ」

 

「ありがとう」

 

蘭は溜息とも安堵の吐息ともつかない息を吐いた。コナンは少し身を近づける。

 

「本当にかっこいいと思う。昔はまさか蘭姉ちゃんが刑事になるだなんて思わなかったけどね」

 

「そろそろ馴染んできた?」

 

「うん」

 

「そっか」

 

蘭の眼差しが少し穏やかになった。だがそれは一瞬だけで、すぐに彼女は表情を引き締めた。

 

「コナン君、二週間前から続けて起きている、若い女性ばかりが標的の連続殺人事件のことは知ってる?」

 

「ごめん、最近あんまりニュース見てなくて……」

 

「そう……。ワイドショーなんかではずいぶんと騒がれているんだけど、学校が忙しいんだから当然よね」

 

蘭は手元のビジネスバッグから一束のファイルを取り出す。付箋などが大量に貼られたそのファイルの表紙には、汚れた印刷テープで「捜査資料」とはっきり書かれていた。

 

「ら、蘭姉ちゃん、それは……!」

 

部外者であるコナンに警察の捜査資料を見せることなど、もちろん重大な法規違反だ。発覚すれば良くて懲戒処分、あるいは刑事罰もあり得るだろう。いくら座席のレイアウト的に他の客からは見えないとはいえ、大胆すぎる行動であることは間違いない。

 

「あら、高木警部にはずいぶん色々見せてもらっていたみたいだけど?」

 

蘭のいじわるな笑みにコナンは口をつぐんだ。蘭は周囲を気にしながら資料を開き、ページをめくっていく。

 

「先々週から続けて3件、そしてまだ報道されてないけど、昨日第四の事件が発覚したの……若くて綺麗な女性ばかりを狙った刺殺事件。同じ凶器を使っていることからして同一犯の犯行であることはほぼ確実だけど、被害者同士に直接の接点はなし。ただし、全員茶髪で背格好もよく似ているの。年齢は10代後半から20代半ば。ちょうどコナン君とあたしの歳の間ぐらいに全員収まる感じね」

 

蘭は言葉を紡ぎながら次々とページをめくっていく。その低く重い声、力のこもった指先の動き。コナンにはひしひしと蘭の怒りが伝わっていた。決して感情をあからさまにはしていないが、この残虐な犯人に対する目の前の女刑事の憤怒は生半可なものではない。

 

「特にこの4人目の被害者……。誰かに似ていると思わない?」

 

蘭が指差した写真は、高校の卒業アルバムか何かからコピーしたのであろう制服姿のバストアップ写真だった。その写真を見た時、コナンの脳裏に見知った顔が浮かぶ。

 

「灰原……?」

 

「ええ、髪型といい雰囲気といい、よく似てるわよね。遠目だったら間違えてしまうかも……」

 

資料の文章には、その女性がいかにむごたらしく亡くなったかが詳細に記されていた。さっき飲んだコーヒーが胃を逆流しそうな感覚に襲われる。もしも。もしもこれが灰原哀だったら。

 

「蘭姉ちゃん……どうしてボクにこんなものを見せるのさ」

 

コナンは目を逸らして顔を歪ませる。

 

「今のところ私達は完全に行き詰まっている。最初に浮かび上がった容疑者はすぐに潔白が明らかになって、初動捜査は無残に失敗したと言っていいわ。できることなら……あなたの助けを借りたいの」

 

現職の刑事が一介の高校生に殺人事件の捜査協力を頼む。それが言語道断であることは論を待たない。だが蘭の眼差しは真剣そのものだった。コナンがいかに有能か、彼女は誰よりもよく知っているつもりだ。

 

「……だめだよ蘭姉ちゃん。僕はもう、探偵じゃないんだから」

 

「……本当に?」

 

コナンは目を伏せて押し黙った。

 

「そうだよ」

 

コナンの拳が震える。すると蘭は自分の手をそこにそっと重ねた。

どこか懐かしいぬくもりがコナンの手を包み込む。

 

「だけど」

 

蘭はコナンをまっすぐ見据え手に力を込める。

 

「コナン君が探偵を辞めるなんてできっこない。あなたは生まれながらの名探偵よ。あいつと同じ……そう、同じ星の下に生まれた人」

 

「蘭姉ちゃん、僕は新一兄ちゃんとは違うんだよ」

 

今のコナンとかつての新一は、眼鏡をかけている以外ほとんど同一人物と言っていいほどよく似ている。もちろん実際に同一人物なのだが、それを知らない蘭であっても彼らを重ね合わせて見てしまうのは無理のないことだった。

 

「ええ、新一のほうがコナン君よりずっと子供だったわ。事件だって聞くと目をキラキラ輝かせたりね」

 

「蘭姉ちゃん……蘭姉ちゃんは、僕を新一兄ちゃんにダブらせているだけだよ。確かに僕は新一兄ちゃんによく似ている。瓜二つと言ったっていい。だけど……僕はもう、探偵じゃないんだ」

 

二人の間にしばしの沈黙が流れる。それから蘭は重い空気を壊すかのようにクスリと微笑んだ。

 

「わかったわ、無理強いはしない。だけどこれだけは約束して。哀ちゃんのこと、守ってあげるって」

 

「灰原を? ボクが?」

 

「ええそうよ、他に誰がいるの。見ての通り犯人はこういう外見の女性に異様な執着を持っている……。だけど都内だけでもそんな女性は大勢いるのに、一人ひとりを警察が守れるわけないもの」

 

「それは……確かに」

 

「だから哀ちゃんのことはコナン君がちゃんと守ってあげて。コナン君がついていれば絶対大丈夫だから」

 

「うん、わかった。蘭姉ちゃんもあまり無理しないで」

 

「ええ、ありがとうコナン君。それから有希子さんにも、よろしく言っておいてね。なかなかお見舞いに行く時間が作れないから……」

 

「うん」

 

二人は互いにうなずきあい、それから蘭はコナンの拳を握っていた手を離して机の上の資料を鞄に戻した。

コナンはやや逡巡してから思い切って言葉を切りだす。

 

「あのさ、蘭姉ちゃん……。蘭姉ちゃんは、彼氏作らないの?」

 

「え?」

 

「その、和葉姉ちゃんだって結婚してるんだし、さ」

 

他ならぬ自分がそれを尋ねるということに、胸が裂けるような罪悪感を覚える。しかし聞かずにはいられなかった。できれば刑事なんて危ない仕事はさっさと辞めて、誰かと結婚でもして平和な人生を生きて欲しかった。それがどれほど勝手な望みか、コナンは重々わかっている。

 

「もう、コナン君に心配されるほど焦ってませんよーだ。これでも職場じゃ結構モテるんだからね」

 

蘭は明るく声を弾ませて笑う。

実際、彼女は警視庁では「結構モテる」どころではなかった。何しろ一部ではかつての佐藤美和子の再来とまで囁かれるほど、男性刑事たちから絶大な人気を誇っているのだから。ただし蘭本人にそこまでの自覚はなかったが。

 

「今は仕事が充実してるから、別にいいのよ。充実って言っていいのかよくわからないけど」 

 

「うん、それならいいんだ。……だけどもし、もし、新一兄ちゃんのことをまだ引きずっているのなら……」

 

コナンは声を絞り出すように言葉を続ける。

 

「あんなヤツ忘れてやればいいんだ。蘭姉ちゃんみたいな素敵な人を放ったらかして勝手にどこかで死んじゃうようなヤツ……最低だよ」

 

「ありがとう……コナン君」

 

その時蘭が垣間見せた今にも壊れてしまいそうな切ない笑顔は、新一の"死"を必死で乗り越えようとしていたかつての姿とどうしても重なってしまうのだった。

 

(オレは未だに蘭を苦しませているのか……? だけど、そうだとしてもオレに一体何ができる?)

 

わかっていても何もできない。江戸川コナンは工藤新一ではないから。何度も振り切ろうとした過去の後悔が、今なおコナンを縛り続けていた。

 

 

 


 

 

 

ガタガタと振動が響くバスの中で、コナンはぼうっと景色を眺めていた。

思い出すことは蘭との遠い記憶ばかりだ。

 

子どもの頃、二人で泥んこになるまで遊んだ。お化けを探したり、暗号を解いて宝を探そうとした。

中学生の頃にはスキー場で事件を解いた。

高校生の頃、飛行機の機中で事件を解決し、旅先のニューヨークでも事件に巻き込まれた。

 

どれもこれも、かけがえのない大切な思い出ばかりなのに。

 

(遠い……)

 

コナンはいらだっていた。蘭との思い出、その大切な記憶の何もかもがひどく薄れてしまっていることに。かつて鮮明に覚えていたはずのそれらの記憶の、細かな部分のほとんどは既に抜け落ちてしまっている。

今残っている記憶のどこまでが確かな真実で、どれほどが時間とともに変質してしまった曖昧な思い出なのだろうか? もはやコナンにはほとんど確証がなかった。過ぎ去った年数を思えば、それは確かに仕方のないことなのかもしれない。

 

だがコナンにとって――工藤新一にとって――、毛利蘭はたった一人の、この世で最も大切な人だったはずなのに。

今も変わらず、ずっとそうであるはずなのに。

 

「ちくしょう……!」

 

怒りの感情がふつふつと煮え立つ。なのに、何に対する怒りなのかは自分にもわからなかった。

 

 

 


 

 

 

米花駅を出てから一時間近くバスに揺られ、コナンは今日の本来の目的地である療養施設に到着した。

そこは富裕層専用の広々とした施設なだけに、都市部から少し離れた山の中腹に建てられている。だから米花町から行くのはそれなりに時間がかかるのだ。

 

施設の2階、風に揺れるカーテンの隙間から陽光が差し込む、広く上品な個室の真ん中で、コナンはうつむいて椅子に腰かけていた。

 

「最近どうしてるの? 新ちゃん」

 

ベッドから身を起こした有希子が尋ねる。昔と変わらず美しく、ただ少ししわがれた声で。室内ではあったが、有希子はチューリップ型の帽子をかぶっていた。

 

「別に……変わりないよ」

 

コナンは笑顔を作って答える。有希子はくすりと笑った。

 

「最近の新ちゃん、ちょっと心配かな。楽しくなさそうなんだもん」

 

「心配ねえってば」

 

「そうかなあ」

 

有希子は笑っていたが、コナンは母の顔をちらりと一瞥するだけですぐに視線を落とした。長く目を合わせていると、表情をつくろえなくなってしまうから。

 

体重を尋ねるまでもなく、有希子はまた痩せていた。抗がん剤の重い副作用は、ますます彼女の身体をむしばんでいる。

ほんの数年前まで、年齢を言われても誰も信じないほど若々しく美しかったというのに。

 

「あのね、新ちゃん」

 

コナンがもう一度顔を上げる。

 

「新ちゃんは自分の人生を楽しめばいいのよ。二度目の高校生活なんて素敵じゃない。大人になってからあの頃に戻りたいって思っている人、たくさんいるのよ?」

 

「オレは……」

 

「戻りたくなんてなかった?」

 

「……うん」

 

「そうよね」

 

「うん」

 

「確かに新ちゃんはたくさんのものを失ったかもしれない。でも……失っていないものだって、たくさんあるでしょう?」

 

有希子はじっと我が子を見つめていた。コナンはようやく母に目を合わせる。

 

「人は変わってしまう。生きるということはたくさんのものを失ってしまうということ。でも、いつだってそこには新しい出会いや喜びがあるの。新ちゃん、あなたは今までもこれからも、決して一人なんかじゃないでしょう?」

 

我が子をまっすぐ見つめる有希子の瞳は、どうしようもないほどやさしかった。

 

「うん……。ありがとう、母さん」

 

 

部屋を後にしたコナンの脳裏に、先ほどの有希子の言葉が反芻する。

 

(新しい出会い、か。確かにコナンになってからめちゃくちゃたくさんの人と出会ったんだよな……。なにも、悪いことばかりなんかじゃなかった)

 

そして今日蘭から受けた依頼のこと――守ってあげてと言われた相手のこと――が頭をよぎる。

 

(もう一度、あいつと話をしよう)

 

次の目的地は阿笠邸だ。



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4 黒いバイク

有希子の見舞いを終えたコナンは、バスで米花駅に戻ってそこから徒歩で帰路についた。不用心にも歩きスマホで、蘭に伝えられた連続殺人事件について調べつつ情報を頭の中で整理していく。

コナンは何か引っかかるものを感じていた。世間では変質者による暴行殺人という扱いがもっぱらだったが、自分の嗅覚とはどこか一致しない――だが、代わりの推理があるわけでもなかった。

 

自宅のすぐ近くまで来たところで、スマホの画面に気を取られていたコナンは、体に衝撃を感じるまで「何か」が自分に向かって走ってきていたことに気づいていなかった。突然の衝突で危うく尻もちをつきかけるが、かろうじてたたらを踏みバランスを取り戻す。

目に映ったのは、赤みがかった茶髪。

 

「いてて……灰原じゃねえか、お前どうしたんだ一体」

 

ぶつかってきた相手は哀だった。彼女はどういうわけか荒く息を切らしており、かなりの汗を流していた。切羽詰まった表情からは相当の恐れが見て取れる――まるで何かから逃げてきたように。

 

「おい灰原、大丈夫か!? 何があったんだ?」

 

コナンは思わず哀の肩を掴む。

 

その直後、哀の背後からエンジン音が迫ってきた。大型の黒いバイク。そこに乗っていた人物は、黒いフルフェイスのヘルメット、黒い服、黒いブーツ――

 

(黒ずくめの男!?)

 

まさかそんなことが。奴らはとっくの昔に滅びた。生き残りなどいるはずがない。

 

「逃げて! 工藤くん!」

 

哀がコナンを突き飛ばし叫ぶ。そしてバイクに振り返り、もう一度叫んだ。

 

「あなたは死なせない!」

 

哀はトートバッグの中から護身用の小型スタンガンを取り出し、バイク乗りに向けて構えた。

 

(灰原のヤロー、おとりになるつもりかよ!?)

 

そんなことをさせてたまるか。コナンは哀を押しのけようと肩を掴んだが、それと同時にバイク乗りが両手のひらをこちらに向けて振った。

 

「ちょっとタンマタンマ! 勘違いしないで!」

 

バイク乗りの声は、拍子抜けするほど慌てていた。しかもそれは明らかに――若い女性の声だった。ヘルメットを脱いだその素顔からは戸惑いが見て取れた。

 

「ごめんごめん、そりゃああたしも不審な恰好してるのは認めるけどさあ、何もそんな必死に逃げなくてもいいじゃない。あたしはただ、キミが落としたスマホを拾ってあげただけなのに……」

 

「え……」哀もコナンも呆気にとられる。

 

バイクの女性がポケットから取り出したスマホは、明らかに哀の物だった。

 

「さっき道を走っていたら、キミのカバンにあたしのバイクのハンドルがカスってこのスマホが落ちちゃったの。で、それを拾って渡そうとしたらキミが全力ダッシュで逃げ出したってわけ……」

 

結局バイクの女性は、最初にぶつかったあたしが悪かったと哀に謝った。哀の方も自分の勘違いを謝り、コナンと二人でお礼を言ってこの「事件」は解決した。

 

 

 


 

 

 

「さっきはみっともない所を見せたわね」

 

阿笠邸のソファーに座るコナンに、哀が紅茶入りのマグカップを手渡した。最近哀がこだわっている茶葉を使った、淹れたての一品だ。

 

「あれはしゃーねえよ。ぱっと見イヤな記憶がよみがえったのはオレも同じさ」

 

「……そうね」

 

哀の表情は冴えない。こういう暗い顔は長いこと見ていなかった。明らかに、昨日までとは様子が違っていた。

 

「お前、まだ組織のやつらが追いかけてくるかもって思ってるのか?」

 

「まさか。もう10年近くにもなるのよ。仮に生き残りがいたとしても、来るならとっくに来てるわ」

 

哀は自分のマグカップを手に持ってコナンの隣に腰を下ろす。ほとんどくっつきそうな距離だ。

 

「そ、それはそうかもしんねーけどよ……。さっきのあの表情(カオ)は普通じゃなかったぜ」

 

「でしょうね……」

 

哀はマグカップを両手で包み、背を丸めて自嘲気味に笑った。

 

「夢を見たの。つい昨日よ」

 

哀の唇が震える。

 

「奴らがまた現れて……私を殺そうとするの。それだけならまだ良かった。でも、あなたが身代わりになろうとして……」

 

「死んだのか、オレ」

 

「ええ、そうね」

 

「かーっ、オレって何回死ぬんだろうな」コナンが大げさにぼやいて背もたれに身を預ける。

 

「笑いごとのつもりじゃないんだけど」哀は非常に不満そうだった。

 

「そうだな……もしそんなことが起こったら、そいつは笑いごとじゃねーな」

 

コナンはしばし沈黙し、それから口を開いた。

 

「知ってるか? 灰原。お前に似た女の子が、最近何人も殺されてる」

 

「ええ、そうみたいね」

 

「そのせいで夢を見たのか?」

 

「わからないわ……。単に心配のし過ぎなのかもしれない。あなたは気にしなくて大丈夫よ」

 

「んなこと言われても気になるんだよ」

 

コナンはぼうっと天井を見つめる。

 

(もしもまた奴らが現れたらオレは……)

 

(オレはどうする。灰原が殺されるのを、指をくわえて見ているのか? まさか。やることはとっくに決まっている。オレがあいつを……)

 

守る。

 

オレがお前を守る。

 

喉まで出かかって、その言葉が声にならなかった。

 

――今のオレに何ができる?

 

――今のオレが、奴らから灰原を守れるのか?

 

――オレは弱くなった。本当に弱くなった。

 

今のコナンには、哀に対して力強い言葉を言える気がしなかった。あの頃なら自信たっぷりに言えたはずなのに。

 

「……何かあったら、いつでも相談してくれ」

 

「ええ、ありがと」

 

今はこれが精一杯の言葉だった。

 

 

 


 

 

 

「あーーーーー畜生!! 自分が情けねえ!!」

 

コナンは結局自宅に帰り、ベッドの上に大の字で倒れた。上着を脱いだだけのほとんど着のままの姿だ。

 

(こんなオレを見て、あいつは内心笑ってるんだろうか)

 

出会った頃の哀の姿がまぶたの裏に浮かぶ。皮肉めいた微笑み、凍てつくような眼差し、そして一度だけ見せた泣き崩れる姿。

かつての自分は、彼女にどんな感情を持てばいいのかまるでわからなかった。工藤新一としての人生を破壊した憎き敵。組織からの裏切り者にして協力者。最愛の姉を理不尽に失ったか弱い少女。体は子供、頭脳は大人。

 

いつしか彼と彼女は様々な事件現場で協力しあう不思議な関係になっていった。そして組織との戦いでは、それこそ運命を共にし戦い抜いた。

 

灰原哀はただの友人ではない。もちろん幼馴染でも、恋人でもない。

だとすれば彼女は一体なんなんだ?

何度問うても答えは出なかった。

 

「……」

 

まどろみの中に彼女がいた。出会った頃の少女の姿で、皮肉めいた笑顔でこちらを見下していた。

 

(平成のホームズさんにも解けない謎があるのね)

 

(バーロー。んなもんどこにもねーよ……)

 

意識が沈んでいく中、彼女の可愛くない笑みだけがいつまでもまどろみの中を漂っていた。

 

 

 


 

 

 

『若い女性が標的となった連続殺人事件が、また起きてしまいました。警察は同一犯の犯行とみて捜査を続けている模様です。新たな被害者となったのは世田谷区在住の……』

 

光彦が寝る前にニュース番組を見ていたのはほんの偶然だった。テレビ画面に映された4人の被害者の写真を見て、光彦はひどく驚いた。4人ともどことなく――第4の被害者に至っては明らかに――灰原哀に似ていたからだ。

偶然なのかそうでないのか。判断するにはテレビから得られる情報は少なすぎた。

 

光彦はすぐにネットを巡って事件の情報を調べた。ある程度の詳報を知ることはできたが、一方で目についた大半は興味本位の憶測や被害者のプライバシーを詮索するような下衆な書き込みばかりだった。人が死んでいるというのに、彼らは一体何を考えているのだろう?

はらわたが煮えくり返るような怒りを覚える光彦だったが、今はこんな連中にかまっている暇はない。

 

(万一のことを考えて、灰原さんを守らないと……。でも、一体どうすれば?)

 

何か手掛かりはないか。なんでもいい。

光彦はスマホを手に取り連絡先をスクロールする。蘭や高木に事件の情報を尋ねるか――いや、そんなことができるはずがないし、教えてくれるわけもない。あてもなく指を動かしていく中で、よく見知った名前に目を奪われる。

 

"江戸川コナン"

 

光彦の知る限り、世界で最も優秀な探偵の名前。

 

(ばかばかしい……。彼はもう頼りにならない)

 

ため息をついてスマホを放り出す。それから光彦はベッドに座り込んで頬杖をつき、しばらくじっと考え込んでいた。だが、どれほど考えても同じ結論にたどり着くのだった。

 

「……Hailey、僕はどうすればいい」

 

『Sir、質問の意味がわかりません。しかし今は就寝すべき時間です』

 

光彦は苦笑して天井を仰いだ。



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5 ニューゲーム

(オレは弱くなった。本当に弱くなった)

 

コナンは何度も同じ結論に達した。

 

(今のオレには、灰原にお前を守るなんて言えねえ。そんな力も覚悟もねえ)

 

だがせめて、今騒ぎの連続殺人犯からは守ってみせる。本人にそのことを伝える必要はない。ただできることをやればいい。

 

だからコナンは、気の進まない人物に会うことにした。

その人物に自分から連絡を取ることなど、ずいぶん久しぶりのことだった。

 

「まさか君の方から呼びだしてもらえるとは思ってませんでしたよ」

 

待ち合わせ場所として指定した校庭の片隅で、コナンとほぼ同じ目線の高さの少年が笑顔で声をかけてきた。

友達に対する笑顔というよりは、なにやら妙に余裕めいた、こちらを値踏みしてくるかのような表情だ。

 

(……フン、舐められるわけにゃあいかねーな)

 

コナンは挑発的な笑顔を作って対峙した。

 

「オレだってあんまり気は進まねーんだけどな。この際背に腹は代えられないってヤツだ」

 

「ひょっとして、例の連続殺人事件のことですか?」

 

「……さすがだな」

 

「ある意味わかりやすいですからね、君は」

 

「やれやれ、まあこっちこそ話が早くて助かるってなもんだぜ」

 

コナンは肩をすくめた。わかっていたことではあるが、そうおいそれと隠し事ができるような甘い相手ではないということだ。

 

事実、光彦の知力は高校生の中では群を抜いている。なにしろコンピュータスキルや機械工学などの分野では既にコナンですら太刀打ち出来ないのだ。その気があればどんな一流大学にだって飛び級で入れるだろう。

 

「オレはその事件の犯人を捕まえたい。理由は灰原が不安がっているからだ。灰原を安心させる、この目的ならオレ達の利害は一致できるはずだ」

 

「ええ異論ありません。ただ、あの灰原さんが、単に容姿が似た女性が殺されたという理由だけでそこまで不安がるのかというと、いささか腑に落ちませんがね」

 

光彦が余裕めいた笑みを浮かべる。

何か隠してませんか、とでも言いたげに。

 

(こいつ、どこまで気づいてるんだ?)

 

ここで光彦のペースに乗せられるわけにはいかなかった。

 

「オレはこの事件の捜査情報を持っている」

 

「なるほど……高木警部からですか? それとも蘭さん?」

 

情報源(ソース)は明かせねーな」

 

「なるほど、蘭さんですね」

 

「ニャロー……」

 

コナンが睨みつけていることなど気づいていないかのように、光彦は笑顔で肩をすくめた。

 

「言ったでしょう、君はわかりやすいって。……ま、そんなことはどうでもいいんです。僕にできることはなんですか?」

 

「博士は今日本にいない。フサエさんと楽しく暮らしている博士を巻き込みたいとも思わねえ。だが今のオレには博士の作った道具が必要だ」

 

「……それが僕となんの関係が?」

 

「博士は誰よりもおめーを認めている。博士が発明品を託したのはオレや灰原にじゃねえ、おめーにだ」

 

「……博士が、そう言ってたんですか?」

 

微かな動揺。見逃すコナンではなかった。

 

「別に博士から聞いたわけじゃねーよ。オレが探偵をやめると言った時、博士はずいぶん寂しそうにしていた。そしてオレのために作った発明品は悪用されないために全部捨てて資料も消すって言っていた。だけどあの人は根っからの発明家だ。そう簡単に自分の発明品を消し去れるわけがねえ。誰かに託したって考えた方が腑に落ちるだろ?」

 

「それがなぜ僕だと?」

 

「簡単な話、他にいねえってことだ。まず確実に灰原じゃねえ。あいつなら“そんなものさっさと捨てちゃいなさい”って言う方だろうからな。となれば答えは一つ」

 

コナンは、チッチッチと人差し指を立てて笑った。

 

「ありえないことを取り除いて残ったものがなんであれ真実……初歩的なことだよ、ワトソン君」

 

光彦もそれを見て苦笑する。

 

「久しぶりに、昔の君が少し戻ってきましたね。……ま、僕はまだまだ今の君を認めるつもりはありませんが」

 

光彦はきびすを返して歩き出す。

 

「ついて来てください。いくらかの助力はできると思いますよ」

 

 

 


 

 

 

「こんなところに何があるんだ?」

 

コナンはいぶかしむ。光彦に連れられてきたのは、港湾地区の広い国道から一本脇道に入った場所に構えられた、たくさんのコンテナが並び立つ倉庫区画だった。およそ高校生に縁があるとは思えない場所だ。ある程度距離があるというのに、国道を走る無数のトラックの走行音がやかましい。

 

「僕の家は少々手狭ですからね」

 

光彦はズラリと並ぶ無骨なコンテナハウスの中から一つを選び、鞄から取り出した鍵でそこの扉を開けた。

コンテナの幅と高さは2.5メートルほどで、中の広さは四畳と少しといったところ。つまり国際的な20フィートコンテナの統一規格ということだ。

その中は――スカスカだった。奥に置かれた簡素なアルミテーブルと椅子、テーブルの上にはパソコンが一台。以上。

 

「これだけか?」

 

「見ての通りです」

 

「おめー、オレをからかってんじゃねーだろうな……」

 

光彦はクスリと笑って椅子の上に登って立った。手を天井に伸ばし、何やらごそごそといじっている。

 

「……?」

 

光彦が天井の何かを「回した」時、ガチャンという音とともに天井の一部がスライドし、数十センチの空間が開いた。そして光彦はそこから梯子を下ろしていく。

 

「オイオイ、スパイの秘密基地みたいなことやってんじゃねーか」

 

「こういうの憧れるでしょう? 一度やってみたかったんですよ」

 

梯子を床まで下ろした光彦がそれを登っていくと、コナンも後に続く。天井の上にあったのは、もう一つのコンテナ空間だった。ただし、外の光が入ってくる1階と違ってほぼ真っ暗に近い。

 

「なるほどな……。このコンテナ、明らかに上にもう一つ積んでいたのに、上に上がる階段は外にも中にも見当たらなかった。明らかに不自然だったな」

 

「そういうことです」

 

光彦がどこかのスイッチを入れると、電球の明かりが灯った。それでも暗いことは暗い――だが、いくつもの箱が照らされていた。

 

「さて、サルベージといきましょうか」

 

 

 


 

 

 

「ありがとよ光彦、恩に着るぜ」

 

コンテナハウスの外、陽光の下でコナンは指先であちこちを触って道具の感触を確かめる。ひどく懐かしい気分がした。思わず笑みがこぼれてしまう。

 

腕時計型麻酔銃。リストバンド部分は大人サイズ用に新しくなっているが、古びた文字盤は当時のままだ。

 

蝶ネクタイ型変声機。さすがに今これを着けるのは恥ずかしいのでポケットに押し込む。

 

犯人追跡メガネ。……まったく、一体全体どうやってここまでの機能をこのメガネに詰め込んだんだ?もしかしてやっぱり博士は本当の天才なのかもしれない。

 

「お礼を言うのは灰原さんを守りきってからにしてください。後で言い訳は聞きたくありませんよ」

 

「ああ、任せとけ」

 

コナンは胸を張った。こんなに堂々と頼もしいことを言ったのは、ずいぶん久しぶりのような気がした。

 

(装備が戻ったら自信も戻ったのか? 我ながら現金すぎねーかそりゃ……)

 

「あ、ところでキック力増強シューズとターボエンジンスケボーはやっぱり使えねーのか?」

 

「今の君のサイズに合うものなんてさすがの博士も作ってませんよ。あまり贅沢言わないでください」

 

腕組みジト目でコナンを睨む光彦。

 

「ははっ、悪りぃ悪りぃ」

 

コナンは空が赤くなってきたことに気づいた。雲でかすんだ夕日に目をやり、表情を引き締める。

もうなんの言い訳も許されない。ここが出発点だ。

 

 

 

――あなた、言ったじゃない

 

――逃げるなって、運命から逃げるなって

 

――守って、くれるんでしょ?

 

(ああ、おれが絶対に守ってみせる)

 

深く、息をつく。止まっていた時間が再び動き出した。

 




書き溜めていた分はここまでです。
今後は更新ペースが落ちますが、気長にお待ちください。


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6 捜査か?デートか?

光彦との一件から一夜明け、三連休の最終日。

繁華街から少し離れた、静かではあるが雑多で古びた街中をコナンは歩いていた。

安価なワンルームマンションや格安ホテルに零細企業の事務所などが所狭しと立ち並んでおり、狭い道幅のわりには車の交通量もそこそこ多い。

 

そんな一画に物々しい雰囲気が漂う狭小な雑居ビルがあった。入口は三角コーンで封鎖されており、警官らしき男性が周囲に目を光らせている。

第四の事件の遺体が発見されたのはこのビルの空き室だった。

 

「う~ん、やっぱ簡単には入れそうにねーな……」

 

子どもの姿の頃ならこういう現場にはたいてい高木刑事や千葉刑事がいて、なにか適当な理由をつけて現場に入り込むことも簡単だった。

工藤新一時代なら目暮警部とズブズブであり、なんなら向こうから請われて駆けつけることさえあった。

しかし今見当たる警官の中には顔見知りはいなさそうだし、あの有名な名探偵の毛利小五郎がそばにいるわけでもない。一介の高校生を通してもらえるとは思えなかった。

どうしたものかと案じているうち、突然背後から肩を叩かれる。

 

「うおっ」

 

驚いて振り返るコナン。そこにいたのは、あまりに見知った顔だった。

 

「あなたこんなところで何してるの?」

 

呆れた顔でため息をつく哀。

 

「なんだ灰原じゃねーか。おめーこそ何してんだよ」

 

「ここに来れば誰かさんに会えるんじゃないかと思って」

 

「な、なんでだよ」

 

「あら、私のために例の事件の捜査をしてくれてると思ってたんだけど、うぬぼれだった?」

 

"私のために"を妙に強調していたずらっぽく微笑む哀。コナンは思わずドキリとしてしまう。

 

「バーロ、別におめーのためってわけじゃ……。第一、オレはもう探偵はやめたって言ってるだろ」

 

「ま、そういうことにしておいてあげるわ」

 

「あのなー」

 

「そんなことより、こんな所でウロウロしていてもらちが明かないでしょう? ちょっと私に付き合ってくれないかしら?」

 

「? どこに行くんだ?」

 

「来てくれたらわかるわ」

 

哀は返事も聞かずにコナンに背を向け歩き出した。

 

「……こんなことは言いたくねーけどよ灰原。今お前が出歩くのは安全とは言えねえ。おそらく組織の人間ではないとして、単なる異常な殺人犯だったとしてもおめーみたいな容姿の女性が狙われてるのは確かなんだぜ」

 

「……ま、それは確かにそうでしょうね。でもあなたのそばにいる方が、1人で引きこもっているより安全かもしれないじゃない」

 

「え……」

 

哀が振り返り、コナンに向けて微笑む。心なしか、彼女は照れているようにも見えた。

 

「守って、くれるんでしょ?」

 

「あ、ああ……」

 

コナンはただうなずくしかなかった。別に哀に見惚れたわけではない、はずだ。

 

 

 


 

 

 

「で、こっちとこっち、どっちが似合うと思う?」

 

両手にデザイン違いのニット服を手に取って見せてくる哀。さっきから似たような質問を何度もされていて、コナンは完全に辟易していた。

 

「おめー、呑気すぎねーかオイ……」

 

「別にいいじゃない。そもそもこれだけ人目の多いショッピングモール、これ以上に安全な場所はそうそうないでしょ?」

 

2人が来ていたのは都内でも指折りの大型商業ビルだ。連休中の今日は無数の若者や親子連れで大いに賑わっている。哀の言う通り、こんなところで物騒な事件が起きるとはかつての米花町でもない限り想像できない。

 

「まあそれは確かに……。っていうか、右の服は露出度高すぎだろオイ、こんなもん高校生が着る服じゃねーって!」

 

「あら、博士みたいなこと言うのね」

 

「あのなー……」

 

「まあいいわ。それじゃあこっちの方を試着してくるから」

 

試着室に入っていく哀をコナンはぼうっと見送った。

どうも今日やりたかったことからかけ離れてしまった気がする。

 

「お兄さんお兄さん、彼女さん超~~~美人っすね!」

 

ギャルっぽい店員女性がハイテンションで話しかけてくる。

 

「べ、別に彼女ってわけじゃ……」

 

「またまた~、そんなわけないっしょ! お互いからラブラブ光線出てるじゃないっすか」

 

(どこらへんがだ……)

 

そうこうしてるうちに着替えた哀が出てきた。

 

「ど、どうかしら?」

 

本人は少し照れているようだったが、キャメル色の上品でスリムなニットが哀のスタイルの良さと美肌を一層引き立たせていて、どう見ても相性抜群だった。

コナンは口をぽかんと開けて「あ、ああ……」としか言えなかった。

 

「超々お似合いっす! パないっす! モデルになってほしいぐらい! そうでしょお兄さん!」

 

「え、お、オレ?」

 

「他に誰がいるんすか」

 

「ま、まーまー……似合ってるんじゃねーかな多分」

 

哀に目を合わさず適当にごまかすコナン。

 

「ハァ~、最近のオトコどもはこれだから。お姉さん、たまにはちゃんと褒めろって言ってやったほうがいいっすよ」

 

「ふふ、そうかもね」

 

 

 

「またのご来店お待ちしておりま~す!」

 

ショッピング袋を片手に(持たされたのはコナンだが)店を出た2人は、とりあえず当てもなくモールをぶらついていた。

 

「ん……?」

 

ふとコナンが後ろを振り返る。

 

「どうかした?」

 

「いや、今一瞬誰かに見られていたような……」

 

「監視されてるってこと?」

 

コナンは慎重に辺りを見渡したが、普通の家族連れなどはいくらでもいる一方で怪しい人影はどこにも見当たらない。

 

「いや、やっぱ気のせいだな。一応ずっと警戒はしてるから過敏になっちまってるんだろーな」

 

「ええ、そうね。私も念のため気をつけてはいるけど、やっぱり江戸川君に見張ってもらうと頼もしいわね」

 

「お、おう……」

 

いつからだろう、哀がコナンのことを「江戸川君」と、2人きりの時でさえ呼ぶようになったのは。

かつては人目のない場所では必ず「工藤君」だった。工藤新一が死んだことになってからも、しばらくはそうだったはずだ。いつの間にか、コナンを工藤と呼ぶのは身内を除けばもはやとある西の色黒男だけになっていた。もしかしたらおかしいのはそちらなのかもしれないが。

 

(でも一昨日……バイクに追われていた時の灰原は「工藤君」って言ってたような気がする。とっさのことで昔の呼び名が出ちまったってことか? でもそうだとしたら灰原にとって、オレは今でも工藤新一なんだろうか? それとも江戸川コナン?)

 

考えて答えの出そうな問いではなかった。

 

「そういえば」

 

哀がふとつぶやく。

 

「今ってゴメラの新作やってるんじゃない? 初代のリメイクだったっけ?」

 

「リメイクっつーか、初代の精神を現代の視点で再構築……とかなんとか言ってたかな。まさか観たいのか?」

 

「買い物は済んだし、時間もちょうどいいんじゃないかしら。それにほら、私達はゴメラに思い出もあることだし」

 

「思い出っつったって殺人事件だぞ」

 

「あなたとの思い出は殺人事件ばかりじゃない」

 

ぐうの音も出ないコナンだった。

 

 

 

新作ゴメラの映像や演出は過去のシリーズよりはるかにパワーアップしていた。

しかし新一としての子ども時代に初期三部作に親しんだコナンにとっては、どうも肝心の中身が軽くなってしまっているように感じられた。

ふと隣の座席の横顔を見る。退屈な表情だ。あまり映画を楽しんでいるようには見えなかった。

 

(彼女さん超~美人っすね、か……)

 

客観的に見て、哀が美人でないとはどんなに好みのうるさい男でも言えそうにない。スクリーンの光によって色とりどりに照らされる哀の横顔を、コナンはぼうっと見つめていた。

若い男女が2人並んで映画を観ているのだから、きっとまた周りからはカップルに見られていることだろう。そんなふうに勘違いされて哀は迷惑に感じないのだろうか。もう10年近くもそばにいるというのに、コナンにとって彼女の内心は謎だらけだった。

 

「なんだかいまいちね」

 

哀が視線を前に向けたまま話しかけてきて、コナンは一瞬驚く。顔を見ていたことに気づかれたのか? ただ、どうやらそういうわけではなさそうだった。

 

「怪獣映画というメタファーを使って、科学を溺愛した愚かな人間の末路を描いたってところが良かったのに。これじゃ安っぽい色恋ドラマじゃない」

 

「ま、まあ確かに……。配役もとりあえず人気のタレントに頼りましたって感じだしな」

 

「最近の日本映画の悪い癖ね」

 

結局、映画は終盤に向けてそこそこ盛り上がりつつも初代の精神の再生のようなものはまるで感じられないまま終わってしまった。

退出時の哀のテンションがすこぶる低かったことは言うまでもない。

 

 

 

「今日は付き合ってくれてありがとう。映画はつまらなかったけど」

 

日が傾き薄暗くなった頃、2人は自宅の近くにまで戻ってきていた。

 

「そんなことより、全然事件の捜査ができなかったのがな……」

 

「別に焦らなくてもいいじゃない。今ごろ蘭さんか高木警部が手がかりを見つけているかもしれないし」

 

「そりゃそうだけどよ……」

 

そう言った瞬間、コナンの背筋に緊張が走った。ゴクリと唾を飲み込む。今度は勘違いではない。誰かに尾行()けられている。

 

「おい、灰原」

 

コナンは前を向いたまま、極力抑えた声で、しかし力を込めてささやく。

 

「え?」

 

哀にもコナンの様子の急変はすぐに伝わった。

 

「何者かはわからねーが、誰かに尾行されている」

 

「そんな……」

 

「いいか、今のままペースを変えずに歩くんだ。そしてあの角を右に曲がったらすぐに走れ。近くの交番まで逃げろ。オレが時間を稼ぐ」

 

「ちょっと待って、まさかあなた……」

 

「なあに、オレは大丈夫だ。今なら博士の道具だってある」

 

「何言ってるの、あなたを置いていけるわけないじゃない」

 

大きな声を出さず、なるべく平常通りに振る舞おうとする哀だったが、焦りの感情と拒否の意思ははっきりしていた。

 

「いいから言うとおりにしろ。狙われているのはおめーだ。なあに、無茶までするつもりはねえ。クソヤローの面さえ拝めれば後は逃げたっていいんだからな」

 

「……本当に……無茶はしないでよ……」

 

「ああ、約束する」

 

コナンがうなずく。そのまま2人は目的の角を曲がり、それと同時にコナンが哀の背中を押した。

 

「行け!!!」

 

哀が全力で駆け出すのを確認し、コナンは後ろに振り返る。

おそらく尾行者も異変に気づいたはずだ。間違いなく走って追いかけてくる。

 

(この角を曲がってきた瞬間、思い切りぶつかって突き飛ばしてやる!)

 

予想通り、誰かが全速で走ってくる足音が聞こえてくる。これが尾行者だ。哀を狙っているに違いない。

組織の生き残り?

単なる異常者?

どちらでもいい。今ここで決着をつけてやる。

 

コナンは固唾を呑んで身構え、次の瞬間前方に飛び出した。角から現れた人影と己の体が交錯する。

 

(!!?)

 

次の瞬間、コナンは宙を舞っていた。何が起こったのか理解する間もなく、一瞬薄暗い空が見えたかと思うと、背中を衝撃が突き抜けた。

 

「ぐはっ……!」

 

受け身を取る間もなくアスファルトに落下したコナンが悶絶する。

綺麗に背中から落ちたことはまだ幸いだった。頭を打っていれば命が危なかっただろう。

 

(ちくしょう、一体何が……)

 

痛みと呼吸の苦しさで意識が混乱するコナンだったが、必死で目をこじ開け尾行者の姿を目に焼き付けようとする。

だが意外にも、その相手はコナンの目の前に近づいてきていた。

 

「ご、ごめん! 大丈夫、コナン君!?」

 

「え……」

 

数秒経って視界が鮮明になってみると、その顔はあまりに馴染み深いものだった。卵型の輪郭、くりくりした大きな瞳に、切り揃えられた綺麗な黒髪とヘアバンド。

 

「あ、歩美ちゃん!?」

 

「ごめんね、つい思わず投げ飛ばしちゃって……。だってコナン君がいきなり飛び出してくるんだもん」

 

「ハハハ……」

 

コナンは脱力してがっくりと肩を落とした。

 

 



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7 雨、子猫、記憶

「それで、いつから私達をつけていたの?」

 

阿笠邸のリビングで、哀とコナンはソファーに並んで座り歩美はその向かい側の椅子に座らされていた。

 

「ええっとね、事件現場の前で哀ちゃんがコナン君に声をかけたところあたり……かな」

 

「マジかよ……」

 

それは完全に想定外の答えだった。

コナンは少なくともあの現場で哀に会ってからはずっと周囲を警戒していたつもりだ。しかし考えてみれば、今日2人で出歩いていたのはほとんどが人通りの多い賑やかな場所であり、コナンが歩美の気配を感じ取れたのは家に近づいて周囲に人がいなくなってからのことだった。つまりそれまで歩美はずっと人混みの中に気配を紛らわせていたということになる。それ自体は尾行の王道ではあるが、それにしたって自分の探偵としての嗅覚がそれほどまでに鈍っていたという事実にコナンはショックを隠せない。

 

「そもそもどうしてあなたが私達の尾行なんかを?」

 

「んーとね、これ言っちゃっていいのかな。まあいっか。光彦くんから哀ちゃんの様子を見といてほしいって頼まれて」

 

「光彦から?」

 

コナンの眉が釣り上がる。

 

「なるほど、やっぱりそういうことね。円谷くんも人が悪いわ」

 

なにやら得心しているかのような様子の哀だが、コナンにはさっぱり納得がいかない。

 

「お、おい、やっぱりってどういうことだ?」

 

「だって円谷くんに教えてもらったんだもの。あなたが例の事件の捜査を始めたってこと」

 

「あ、あんにゃろー……」

 

これじゃあまるで全部光彦の手のひらの上だ。

 

「光彦くんも言ってたけど、例の事件の犯人が本当に哀ちゃんを狙ってくるのかは全然わからないって。でもあたしたち少年探偵団だもん、もしもの時は哀ちゃんを自分たちで守りたいって思うのは当たり前でしょ? でもだからってべったりくっついてたりしたら哀ちゃんも迷惑に思うだろうし……」

 

「ふふっ、ずいぶん気を使わせちゃったみたいね」

 

微笑む哀に対し、歩美はなにかを考え込んでいる様子だった。

 

「ん~ん、気にしないで。それとひとつお願いなんだけど……ちょっと哀ちゃん、2人きりで話せる?」

 

「え? それは別にいいけど……」

 

ちらりとコナンの方を見やる哀。

 

「歩美ちゃん、オレは?」

 

自分を指差すコナンに対し、歩美は手のひらを突きつけて意思をはっきりさせた。

 

「コナン君は家に帰ってて! こっから先はガールズトークだから!」

 

「ええ~……」

 

「それにコナン君、今日一日中哀ちゃんを独占してたんだからいいでしょ!」

 

駄々をこねる子どものように強情な歩美の様子を見て、哀は苦笑してコナンに首を振る。

 

「仕方ないわね、歩美の言うとおりよ。江戸川君、今日はありがとう。また明日ね」

 

「へーへー。おめーらもあんまり遅くなるなよ」

 

投げやりに手を振って立ち去っていくコナン。哀は小さく手を振ってその背中を見送ってから再び歩美に目を向けた。

 

「それで、話って何かしら?」

 

歩美はムスッとした表情で、なんだかとても不満げだった。

 

「哀ちゃんさあ、コナン君と進展する気、ある?」

 

「え?」

 

「あんなのデートにしか見えないのに2人とも全然アクション起こそうとしないし……いくらなんでも手ぐらい繋いだっていいんじゃない!? あたし、まどろっこしすぎて何度も飛び出そうと思ったもん!」

 

「ちょ、ちょっと待って。別に江戸川君とはそういう仲じゃ」

 

「そんなの信じる人いないよ」

 

バッサリと切り捨てる歩美。

 

「コナン君もコナン君だよ、せめて映画のロマンチックなシーンで肩ぐらい抱き寄せるとか、なんかこう……なんなの!? 中学生!?」

 

「彼は……そういう人よ」

 

もはや哀にはそれぐらいしか言い返せなかった。

 

「あ、でも映画の途中で一回だけコナン君が肩に手を回そうとしてたかな? 結局すぐに引っ込めてたけど」

 

「え? まさか」

 

「ほんとだよ、あたし見たもん。暗かったけどあんなの見間違えないよ」

 

(彼が私の肩に手を回そうとしていた……?)

 

にわかには信じられない情報だった。まさか本当に、気の迷いほどのレベルではあっても、あれが「デート」だという認識がコナンの方にもあったのだろうか。自分のことを、そういう対象に見たのだろうか。

 

「コナン君がそういう人なら、哀ちゃんの方がもうちょっと押していった方がいいんじゃない?」

 

「あ、あのね、だから私は別に彼のことを……」

 

その時哀は、歩美の表情がどこか不安げで、そして子どもの頃のような幼い雰囲気が戻っていることに気づいた。

ずっと昔、歩美がこんな表情を見せたことがあった。

 

「好きなんでしょ? コナン君の事……」

 

――ああ、あの時は「好きなの?」だったわ。だけど今は、疑問ではなく、確認なのね

 

「……だったらどうする?」

 

「どうもしないよ。知ってるもん……」

 

歩美が所在なく視線をさまよわせる。

 

「でもいつまでもそんな曖昧な関係だったら……困るよ、あたしがコナン君のこと、諦めきれなくなっちゃう」

 

「歩美……」

 

力なくうつむく歩美に対し、哀は何も言うことができなかった。彼のことなんて別にそういう対象として見てないと言い張るのは簡単だ。だけどそれはきっと、単なるごまかしでしかなくて。

言葉にならない代わりに、哀はただ歩美の肩に手を触れようとした。

 

「な~んちゃって! あたしはコナン君のことなんてもう引きずってないもんねー!」

 

突然満面の笑みで顔を上げる歩美に哀はあっけにとられる。

 

「ええ……?」

 

「あたしはいつまでもダラダラ初恋を引きずったりしないもん。哀ちゃんも、コナン君があんまり頼りなかったら他の人探した方がいいと思うよー!」

 

「そ、そう……」

 

先程までとはうってかわって、歩美はとてもハイテンションだった。だけどどこかほんの少しだけ、無理に明るく振る舞っているようにも見えた。

 

「あ、あたしそろそろ帰らないと。哀ちゃん今日は色々ごめんね! それと、事件が解決するまでは絶対に危ないところには行かないって約束して!」

 

「ええ、約束するわ」

 

「うん! 絶対に絶対だよー!」

 

哀は玄関先まで歩美を見送り、頬を緩めて歩美が見えなくなるまで手を振った。

 

(本当……あの子には元気をもらえるわね)

 

灰原哀として仮りそめの人生が始まった時、最初にできた一番の親友。同級生であり、探偵団の仲間でもあると同時に歳の離れた妹のような存在。ちょっと不思議な関係ではあったが、哀にとって歩美はコナンや阿笠にも負けないぐらいかけがえのない存在だ。今までも、きっとこれからも。

 

リビングに戻った哀は、お湯を沸かしお気に入りの紅茶を入れてソファーに腰掛けた。砂糖は控えめでほろ苦い、少し気取ったような味。紅茶の温かさが体に染み渡り、ふうっ、と大きく一息をつく。

 

(私、この先彼とどうなりたいんでしょうね)

 

歩美の言うとおりコナンと「そういう関係」になれたなら、それは幸せなのだろうか。彼はそれを望んでくれるのだろうか。

 

(ああ、私ったらまた都合のいいことを……)

 

哀はため息とともに天を仰ぐ。自分にそんなことを望む資格がないことは、自分が一番よくわかっている。

 

(私は彼から蘭さんとの未来を奪った。工藤新一という人生を奪った。その私が彼と幸せになりたいと?)

 

(そんなことを聞いたら、きっとお姉ちゃんだって私を軽蔑するでしょうね)

 

(私は、私の分相応をはるかに超えて幸せに生きているわ。博士がいて、あの子達がいて、そして……)

 

(これ以上を望むなんて、強欲もいいところよ)

 

紅茶を飲み干したころ、ふと大窓から外を見ると、大粒の雨が振り始めていた。雨脚は見る見る間に強くなり、すっかり日が落ちていたこともあって外はもう真っ暗だった。

 

(歩美ってば、ちゃんと家まで帰れたのかしら)

 

寄り道せずに帰っているならそろそろ着いているはずだ。ただ、少し心配になる雨量ではある。

 

ピロン、と携帯の通知音が鳴った。

 

『雨あぶなかった~! ギリギリセーフ!』

 

歩美のメッセージとスタンプを見て、哀はほっと胸をなで下ろした。

 

(そうよ、大丈夫、何も心配することなんかないわ)

 

(例の事件だって、きっと警察が解決してくれる)

 

(そうなったら、またいつかみんなで旅行に行きたいわね)

 

(そうだわ、来月には博士が戻ってくるんだもの。昔みたいにみんな一緒に……)

 

哀は雨脚の音に耳を澄ませながら、いつしか物思いにふけっていた。

こんな夜の雨の日には、時々思い出すことがある。

初めてこの家にやって来た時のこと。

つまり――"灰原哀"が生まれた日のことを。

 

「あら?」

 

何気なく大窓に近づいた哀がふと気づくと、中庭にふらふらと迷い込んでくる何かが見えた。

リビングの明かりに照らされ、それが子猫であることがわかった。ただどこか様子がおかしかった。後ろ脚を引きずっているような不自然な歩き方で、ひどく弱っているようだった。

 

(もしかして、脚を怪我しているのかしら……)

 

暗いしずぶ濡れでよくわからないが、膝のあたりから血が流れているようにも見える。子猫は庭の真ん中で腰を下ろし、座り込んだ。こんな酷い天気の中、雨ざらしの場所で休むなんて普通の行動ではない。衰弱していることは間違いなかった。

 

哀の心拍数が上がる。

その時頭をよぎったのは、あの雨の日のことだった。

 

まだ哀が元の姿だったころ、彼女は組織に所属しシェリーと呼ばれていた。姉の死をきっかけに組織に逆らって投獄され、死ぬつもりで薬を飲み、奇跡的にも縮んだ体で脱獄して闇雲に工藤新一の家を目指し走った。目的地を目の前にしてとうとう力尽き、工藤邸の門の前で倒れ込んだ。

 

(そう、その時私を助けてくれたのが、博士だった)

 

見ず知らずの哀を助け、組織からの逃亡者という荒唐無稽な話を信じ、温かいスープを飲ませてくれた。あのスープのぬくもりは、一度だって忘れたことはない。

 

(あの時博士がいなければ、私はきっと野垂れ死んでいた)

 

命を救われたシェリー、すなわち"宮野志保"は、阿笠とともに新しい名前を考え、その名前で小学校に入学して彼らに出会った。それが仮りそめの、そしてのちの新しい人生である灰原哀の始まりだった。

 

(あの猫はまるで――)

 

まるで、あの日あの雨の中うずくまっていた自分のようだった。全てに絶望して死を受け入れようとしていた、あの時の。

 

哀は大窓を開け、中庭に飛び出した。ほんの一瞬躊躇したが、見て見ぬ振りをすることなどできなかった。

 

そう、何かが不自然だということはわかっていた。

賢明な判断ではないということは理解していた。

だけど目の前のあの猫を見捨てることなど、彼女には決してできなかった。

 

ずぶ濡れの子猫を抱え、持ち上げる。

思ったとおり、その子は脚を怪我していた。ナイフか何か、鋭い刃物で膝付近を切られている。明らかに人為的な傷だった。

 

(ああ、なんてこと――)

 

自分は判断を誤った。

そう気づいた時には全てが遅かった。

背後から何者かが哀の口を塞いだ。

 

抵抗する間もなく、

哀の意識は

薄れて

いっ

 

 

 

 

 



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8 探していた

どれほどの時間、混濁した無意識の海をさまよっていただろうか。

 

長い、夢を見ていたような気がした。

 

その夢の中には姉や母がいて、なんの苦しみも別れもない幸せなだけの世界で――

 

 

 

 

 

「う…………」

 

意識が戻ると、そこは無味乾燥な灰色の部屋だった。

哀はハッとして辺りを見渡す。

 

自分はパイプ椅子にもたれていて、後ろ手を縛られ固定されている。目の前には安っぽいテーブルが置かれている。古い事務所ビルの空き室らしきコンクリートむき出しのその部屋には、他のまともなインテリアなど一切なかった。

窓にはブラインドが降ろされていて、夜のわずかな闇光だけがその隙間から差し込んでいた。

 

「目が覚めたようだね」

 

その静かな低い声とともに天井の蛍光灯が灯された。部屋の広さの割には照明の数が少なく、そのせいで薄暗いケチな光だったが、それでも暗さに慣れていた哀の目には一瞬眩しかった。

 

「乱暴な手段で連れてきてしまってすまないね。ただ少し君と話をしたいだけなんだよ」

 

その男はゆっくりと歩いてきて、テーブル越しに哀の正面に置かれていた椅子に緩慢に腰を下ろした。

男は、ただの冴えない中年男性にしか見えなかった。

しわだらけの柄シャツに使い古しのジャケットを羽織っており、やや丸みのあるその顔立ちは明らかに日本人のものだ。年の頃は40代か50代といったところだろうか。くたびれた顔で、背筋が丸まっていて覇気がない。

 

この男が組織の復讐者?

とてもそうは見えなかった。

それに哀には、組織の人間の「臭い」を感じ取る直感がある。この平和な10年で勘が鈍ったということはもちろんあり得ることだが、それを差し引いても目の前のこの男からは組織の人間らしき気配はまるで感じ取れなかった。

「こいつは違う」それが哀の直感が下した判断だ。

だがそうであっても、今自分の命はこの男に握られている。哀にとってそのことだけは確かな事実だった。

 

「……女性をエスコートするには不適切な誘い方なんじゃないかしら」

 

哀は辺りを見回し、せめて精一杯の余裕を装って皮肉を言う。

 

「そうだね、それにここは小洒落たレストランでもない」

 

男が薄笑いを浮かべる。

 

「だが話ぐらいはできるだろう」

 

「……嫌だと言ったら?」

 

男は腕を組み、少し視線をさまよわせて首をひねった。

 

「"3人目"の彼女はそういう態度だった。絶対に一言も話したくないとね。結局、少しばかり乱暴なことをせざるを得なかった」

 

男は淡々と、まるで単なる仕事の雑談のようにそんなことを言い放つ。

 

「私だってそんなことがやりたいわけじゃないんだ。ただ少しだけ協力してほしいだけなんだよ」

 

腕を組んだままごく静かにとんでもないことを言い出す男に対して、哀の腹奥から怒りが込み上がる。

 

(ふざけたことを……!!)

 

この手に銃があるなら、きっと引き金を引いている。だが現実には、後ろ手で縛られた腕を動かすことさえできない。

もちろん助けを呼ぶ手段もなかった。当然のことながら、ポケットに携帯は入っていないようだった。

 

「私は、恋人を探しているんだ」

 

「恋人……?」

 

まさかこれが婚活だとでも言うつもりなのだろうか?

この男が何を考えているのか、哀にはさっぱり理解できない。

 

「こんな私にも恋人がいたんだ。20年以上も前の話だよ。もっとも、私の方が一方的に熱を上げているだけで彼女の方はそうでもなかったようだがね」

 

男がうつむいて頭を抱える。

 

「ある日、私達は酷い喧嘩をした。彼女が他の男と関係を持ったと疑ってね。車の多い大通りの前だというのに、私達は人目もはばからずに互いを罵りあった」

 

「彼女は、引き留めようとした私の腕を振り払って車道に飛び出していった。酒も入っていて、冷静な判断ができなかったんだろう。そして……」

 

「ドン!!!」

 

男が自分の手のひらを拳で叩いた。

 

「彼女は帰らぬ人となった。それで終わりだ。つまらない話だよ」

 

「……」

 

哀にとって、いやおそらく誰にとっても、全く意味不明な語りだった。その昔話と、今ここでこの男がやっていることとになんの関係があるというのか。

哀が顔をしかめているのに気づいたのか、男は一つ咳払いをしてから話を続けた。

 

「私はしばらく絶望に打ちひしがれていたが、ある本が救いになった。死んだ人間は生まれ変わるんだ。彼女もきっと、死んでからしばらくして現世に生まれ変わっている。私はそう確信した」

 

「なっ……」

 

「20年か、25年か……いずれ必ず彼女の生まれ変わりは、かつての彼女と同じように美しく成長してどこかで新しい人生を送っている。きっとそうだ。それを信じることだけが私の人生を支えた」

 

「まさか、そんなことのために……」

 

「そのためだよ。私はついに彼女の生まれ変わりを探し出すことに決めたんだ。誰よりも彼女を愛していた私になら、きっと探し出せると思った。かつての彼女とよく似た女性に的を絞ってね」

 

男の言葉には熱がこもっていた。瞳は力強く哀を見据えている。表面的にはとてもたちの悪い冗談を言っているようには見えない。いたって真顔だ。

逆に言えば、こんなふざけた話を本気で信じている人間ほど恐ろしいものはない。

 

(狂っている……)

 

どうやら組織の復讐者という想定は外れていたようだが、まったくもって幸いなどではなかった。まさかこの平和な日本にこんな狂人がいたなんて!

 

「私はね、本当は誰も巻き込みたくはないんだ。今まで犠牲になってしまった女性たちも――彼女たちはひどく取り乱して、私に協力してもらえなかった――だからやむなく手をかけてしまったんだよ。君さえ快く協力してるなら、決して乱暴なことはしない。約束しよう」

 

「ふざけたことを……っ!!」

 

哀の顔が怒りに歪む。

一体誰がそんなでまかせを信用できるだろうか。目の前にいるのは、身勝手な狂った理由で4人もの人間の命を奪った殺人鬼だ。

 

「そう慌てないでくれ。いくつか質問に答えてくれるだけでいいんだ」

 

男は床に置いていたらしき革のバッグをテーブルの上に乗せ、それを開いて赤茶色のカードケースを手に取った。

 

「まず、君の名前は灰原哀、だね?」

 

そのカードケースは、哀が学生証を入れていたお気に入りのものだった。どうやらいくつか持ち物を盗まれていたらしい。

 

「ええ……そうよ」

 

今はこの茶番に付き合うしかない。それが哀の結論だった。

さっきから手の拘束をなんとか外そうと試行錯誤しているが、すぐにはできそうにない。なにか行動を起こすためにも、時間稼ぎは必要だった。

 

「君が通っているのは帝丹高校なのかい?」

 

「見ればわかるでしょう?」

 

そう言い捨てながら哀はあごを突き出して学生証を指し示す。

 

「質問しているのは私だ」

 

男は落ち着いているが、哀に質問に答える以外の自由を与えるつもりはなさそうだった。

 

「ええ、帝丹高校の2年生よ」

 

哀は極力目を合わせないようにしながら答えた。

 

「君にきょうだいはいるのかい?」

 

「……きょうだいは……」

 

いる。宮野志保には、確かにいる……いた。

だが、灰原哀という少女にはいない"ことになっている"。であればそちらに合わせて答えるべきではあるだろう。そもそもこんなことを聞かれる意味もさっぱりわからないのだが。

 

「いないわ」

 

ひとまずそう答えた。

 

「君に恋人はいるのかい?」

 

「そんな人いないわ」

 

今度は即答だった。

 

「……なるほど、君は彼女によく似ている」

 

「あらそう」

 

哀は適当に答えながら窓を観察していた。ブラインドに阻まれて外の様子はさっぱり見えないが、漏れてくる明かりの色味を見る限りまったくの僻地ということはなさそうだ。ほぼ間違いなく、周囲には他の建物もある。

今は夜中かもしれないが、周囲100メートルに人っ子一人いないということはないはずだ。なんとかしてこの部屋を脱出できれば、逃げる手段はあるはずだった。

とはいえ、まともな出口は部屋の隅にある扉一つしかない。男の目を盗んでそこから出ることは相当に難しいだろう。

仮に窓を破ることができたとして、ここが何階なのかはわからない――いや、外の明かりの方向を見る限り、そしてこの部屋のみすぼらしい作りからして、少なくともそこまで高いビルではないはずだ。

 

できる。脱出は可能だ。

 

哀はそう結論した。

まだ腕は開放されていないが、この拘束を抜けるのは時間はかかるとしても不可能ではなさそうだ。腕さえ動くようになれば、自分には切り札がある。

哀は左手の腕時計が外されていないことを触覚で確認し、かすかな笑みを浮かべた。

 

「それじゃあもう一つ」

 

哀が思考に集中していたその時、男が口を開いた。

 

「君は()()()()かい?」

 

「!!!」

 

その瞬間、哀の息が止まった。眼が見開かれ、顔が引きつり、唇が震えた。心臓までもが、止まってしまったような気がした。

まさか。

ああ、そんなまさか!

 

「……どうやら、答えを聞くまでもないみたいだね」

 

「っ……!」

 

男がゆっくりと立ち上がり、哀に近づいて見下ろす。

 

「今まで誰も、この質問にそんな反応はしなかった。ただ意味がわからないと顔をしかめるだけだった。だが君は違った」

 

哀は男を見上げる。言葉が出てこない。呼吸はどうしようもなく乱れ、全身から冷や汗が流れ落ちる。震えが止まらなかった。

 

「その表情(かお)だけで充分だ」

 

それは完全な油断だった。心の準備さえ出来ていれば、こんな安易な罠にかかるはずもなかった。澄まし顔でとぼけることは容易だったはずだ。

だが哀の頭の中から、この想定は抜け落ちていた。

この男は、組織とはなんの関係もないただの狂人。完全にそう思い込んでいた――思い込まされていた。

 

「君が、シェリーなんだね」

 

男の目から光が消えていた。獲物を見つけたというよりはまるで、愚かな子羊をあわれんでいるかのように。

 

「さっき話していたことは……」

 

「ああ、でたらめだよ。君の不意を突く必要があったんだ。そのために作り話をでっち上げた。私が探していたのは最初から、シェリーという名の女だった」

 

男が膝を曲げ、哀と同じ高さにまで顔を下げた。

 

「君を、探していたんだ」

 

「……!!」

 

 

 

しばしの時間を、沈黙が支配した。

哀にはもはや、ここから脱出しようという気力は残っていなかった。ただただ放心していた。

 

男は椅子に戻り、腕を組んだまましばらくの間何も言わなかった。ただじっと哀を観察していた。

 

「事情は知らないが」

 

ようやく男が口を開いた。

 

「君にとってはよほどこたえることらしいね」

 

「事情を……知らない……?」

 

哀が顔を上げる。

 

「あなたは、組織の生き残りではないと……?」

 

「組織、ね……。そんなことを言われても答えようがないが」

 

男が頭をかきむしる。

 

「私の依頼人(クライアント)はただシェリーという女を探せと指示してきただけだ。さっきのデタラメ話も質問の内容も、基本的には依頼人が考えた内容なんだよ。多少のアドリブは加えているがね」

 

「そう……そういうことね……」

 

哀は組織の人間の「臭い」がなぜこの男から感じ取れなかったのかをようやく理解した。

つまるところこの男は組織の生き残りではなく、単なる使い走りに過ぎなかったというわけだ。

 

――だけどそういうことなら、この場から脱出してこの男の口を塞げばあるいは――

 

「……などとは考えない方がいい」

 

「!」

 

哀の思考が遮られる。

 

「先程からずっと、この部屋での会話は依頼人に伝わっているんだ。私が持っている盗聴器を通じてね。今までは無駄な時間ばかりを使わせてしまっていたが……」

 

男がジャケットをつまみ、裏地を見せる。裏ポケットには、盗聴器らしき四角い機械が差し込まれていた。

 

「今回は当たり(ビンゴ)だと判断したはずだ」

 

哀は、理解した。

もはや逃げ場などないということを。

だからもう、力なくうなだれる以外には何もできないということを。

 

(ああ、せめてみんなにはお別れを言いたかった。でも――)

 

博士のこと。歩美や元太や光彦のこと。そしてコナンのこと。

こんな自分につかの間の、それでも充分に長い幸せを与えてくれたかけがえのない人たち。

彼らのことが次々に脳裏に浮かぶ。

 

自分が死ぬことに未練はない。

もちろん、恐怖がないわけでもない。死の恐怖は万人に共通だ。かつて何度も自ら死のうとした哀は、そのことを身をもって知っている。

でも、彼らを巻き込まずに済むなら、それで良かった。

それだけで充分だった。

 

(そうだよね、お姉ちゃん。これでいいんだよね)

 

来るべき時が来た。それだけのことだ。

だから受け入れよう。

 

哀は微笑んだ。そして顔を上げて天井を見つめた。

 

(さよなら、工藤君。最後のデート、楽しかったわ。……本当に、楽しかった)

 

哀は目を閉じた。一粒の水滴が、そこからこぼれ出た。

その水滴が頬をつたってぽとりと落ちた、その時だった。

 

 

 

 

 

 

 

「灰原ぁッ!!! ここにいるのかッ!!!!」

 

 

 

 

 

 



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9 ふたりで、一緒に

「灰原ぁッ!!! ここにいるのかッ!!!!」

 

ドンドンドンと扉を叩く音とともに、大きな怒声が部屋の外から飛び込んできた。

 

「なんだっ!?」

 

男が驚愕の面持ちで扉の方に向く。

 

(ああ、そんな!!!)

 

この声を聞き間違えるはずもない。哀にとって、これほど心を奪われる声の持ち主はどこにもいなかった。

 

「灰原、返事しろっ!!! おい、いるんだろ!!! 灰原ぁ!!!!!」

 

「くどっ……!」

 

どうして彼がここに来たのだろう。どうしてこの場所がわかったのだろう。

哀には何もわからなかった。頭の中がぐちゃぐちゃで、どうにかなってしまいそうだった。

 

「ちっ……面倒なことになった」

 

男はバッグから何かを取り出した。黒ずんだ、L字型の金属の塊。

 

(拳銃……!)

 

ごく小型のものとはいえ、人間を殺す程度の威力は間違いなくあるだろう。

 

「駄目よ! そこから離れて!」

 

哀は力いっぱい叫んだ。

 

(お願い、届いて!)

 

男は哀の声にはなんの反応もせず、ゆっくりと扉の前に歩みを進めた。

 

「逃げて!! お願い!!」

 

男は扉の前に立ち、右手で銃を構えた。

ほぼ同時に、扉を叩くドンドンという音が鳴り止む。哀を呼ぶ声も止んだ。

 

あの扉はオンボロではあっても金属製だ。あの手の小型拳銃で扉越しの相手を的確に狙い撃つことはおそらく難しい。確実に仕留めたければ、扉を開く必要があった。

 

右手で眼前に銃を構えたまま、男は左手でゆっくりと鍵を回し、慎重に内開きの扉を開いていく。

そして半歩ずつ歩みを進め、暗闇に包まれた廊下へとじりじり前進していく。もちろん引き金には指がかかったままだ。

 

哀は生きた心地がしなかった。喉はカラカラに乾いていて、心臓は壊れたように激しく脈打っている。

男が鍵を回してからほんの10秒足らず。哀にとってその時間は永遠にも等しく感じられた。

 

そしてその均衡は突然破られた。

 

バコンッ!!!

 

大きな音。銃声ではない。男はのけぞっていた。いや、吹き飛ばされていた。男の顔面に何かが直撃していた。

 

(バケツ……?)

 

宙を舞っていたのは、オンボロのアルミバケツだった。

男は背中から地面に激突し、その後ろでバケツも落下して転がった。

それと同時に、人影が扉の向こうから飛び出してきて男の上にのしかかる。なんなら馬乗りになると同時に顔面へのパンチを手土産として。

 

「ぐふっ!」

 

「てめえ灰原をどうしたっ!! おいっ、灰原はどこだっっ!!!!」

 

人影は――コナンは、鬼の形相で男の襟首を掴み、叫んだ。

 

「工藤君っっっ!!!」

 

考えるより先に叫びが出た。涙が溢れ出てきた。

何が起こっているのかまともに理解できていないことは変わらない。だがもはやそんなことはどうでもよかった。

彼が、助けに来てくれたのだ。

 

「灰原……!」

 

コナンが哀を向き、唇を震わせる。こちらはこちらで今にも泣き出しそうな表情だ。

 

「よかった……間に合ったんだな……」

 

「それはどうかな?」

 

地面に押し付けられたままの男が笑った。

コナンは驚き下を見る。男の手には、まだ拳銃が握られていた。

 

「くっ……!」

 

銃口が動く。コナンは先に勝負をつけようと、反射的に腕時計を構える。

 

(いける、間に合う、オレの麻酔銃の方がこいつが引き金を引くより速い!)

 

だが次に起きたことは完全にコナンの意表をついた。

男は銃をコナンにではなく、己のあごに向けた。その予想外の動きがコナンの行動を一瞬遅らせた。

 

パン!!!

 

銃声が鳴り響き血しぶきが舞う。だがその血はコナンのものではなかった。

 

「まさか……」

 

男は自分の下顎から脳天に向けて銃口を突きつけ、放ったのだ。凶弾は一瞬にして男の頭蓋を破壊し、全身が一度だけ激しく痙攣してそれきり動かなくなった。

 

コナンは数秒だけ放心していたが、無言のまま立ち上がり足元のその男をあわれな目で見下ろした。軽蔑と憐憫こそがその男にふさわしい弔いのように思えた。

コナンは振り返り、哀のもとに駆け寄った。

 

「大丈夫か、灰原」

 

優しい声。コナンとて相当に動揺しているだろうに、必死で声量を抑えて哀を落ち着かせようとしていることが伝わる。

そんなささやかな気遣いがたまらなく嬉しかった。

 

コナンは哀の背後で少し悪戦苦闘していたが、拘束をほどいて哀を開放した。

腕が自由になった哀が立ち上がり、コナンの方に振り向く。

そして、その胸に飛び込んだ。

 

「……もう大丈夫だ」

 

哀はコナンをきつく抱きしめ、コナンは哀の頭を撫でた。哀の目から一層の涙が溢れた。

 

コナンは昔、哀が一度だけコナンの胸で泣きじゃくったことを思い出した。まだ出会ったばかりの頃、「どうしてお姉ちゃんを助けてくれなかったの」と責められた時のことを。

あの時と今とでは何もかもが変わった。もちろん体格も違うし、置かれている状況も違う。

だけど一番変わったのはそれらではないことにコナンは気づいた。

 

(ああ、そうだ――。一番変わったのは、オレの気持ちだ)

 

(オレの、灰原に対する気持ちなんだ)

 

(ちくしょう、どうして今さら気づくんだろうな)

 

哀が顔を上げ、コナンを見つめて微笑む。涙は止まっていたが、目は真っ赤で酷い顔になっていた。

だけど、この上なく優しい笑顔だった。

 

「ありがとう、工藤君。本当にありがとう。……私のために、あんな危険な目にあってまで」

 

「気にすんな、バーロ」

 

こんなぶっきらぼうで、だけど優しい「バーロ」があるなんて。哀は思わずクスリと笑った。

 

「帰ろうぜ、灰原」

 

哀は、うなずかなかった。

少しコナンを見つめた後、笑みとともに首を横に振った。

 

「だめよ、工藤君。私はもう、帰れない」

 

「はあ?」

 

コナンが片眉を釣り上げる。

 

「ここでお別れよ」

 

「あのなー、つまんない冗談はよせって」

 

哀はもう一度首を振る。

 

「いいえ、冗談で言ってるんじゃないわ」

 

哀は横たわっている男の死体に視線を送る。男のジャケットの、裏ポケット。そこではまだ盗聴器が作動しているはずだ。

 

「まずはここから出ましょう、それから話すわ」

 

 

 

非常階段を下れば出口はすぐだった。どうやらここは今ではほぼ使われていない幽霊ビルらしい。

外に出ると、静かな車道が点々とした街頭に照らされていた。中心地から外れた、寂れた業務エリアといったところらしい。

哀は人目を避けるためにビルとビルの隙間に移動した。

 

「まず聞かせて。どうやってこの場所がわかったの?」

 

「いや、まあ、その……」

 

コナンがぽりぽりと頭をかく。

 

「実はおめーに発信器をつけてたんだ。映画の途中でこっそりとな」

 

メガネのフレームをポチリと押すと、レンズに地図が浮かび上がった。地図の中で今いるこの場所が点灯している。博士の偉大な発明品である犯人追跡メガネだ。

 

「そんなことだろうと思った」と哀はため息をついた。腕を組んで冷たい目でコナンを睨む。

 

「それじゃまるっきりストーカーじゃない」

 

哀は映画中にコナンが一度自分に肩を回そうとしていたという歩美の証言を思い出す。それを聞いた時は驚いたが、結局は綺麗にオチがついたというわけだ。

 

「わ、わりいって! だけど今回は仕方なかっただろ? 現におめーの信号が夜にいきなり移動しだして、おまけに電話も繋がらなかったんだ。絶対に何かあると思って……」

 

「……そうね、それが正解だったわ」

 

2人の視線が重なり合う。

 

「本当に、ありがとう」

 

哀が微笑んだ。

 

「あ、ああ……」

 

コナンの頬が少し染まった。

 

2人はしばらく無言でお互いを見つめ合っていた。

 

 

 

「だけど、ここでお別れよ」

 

そう言って哀が背を向ける。

 

「それがわかんねーんだよ! お別れってどういうことだ!? あのヤローはもう死んだだろ!?」

 

「……あいつは単に雇われただけの使い走りよ。組織の生き残りがあの男を利用して私を……シェリーを探していた。そして、見つかってしまったの」

 

コナンが息を呑む。

 

「あの男と私との会話は、盗聴器を通じて全部筒抜けだった。今さらあの男が死んだところでもう何も変わらない……。灰原哀の正体が宮野志保(シェリー)だということがバレてしまったってことよ」

 

「そんな……!」

 

「私はもう逃げられないわ。わかるでしょう? かつて子どもの体の私達が組織に対抗できたのは、正体を隠し通せたから。だけどもう、終わったの」

 

哀が大きく息をつく。

 

「終わったのよ、全て」

 

コナンには何も言い返せなかった。

哀は気休めのような笑顔を作って言葉を続ける。

 

「奴らのやり口なら、私に関わった者はみな殺されるわ。博士もあの子達も……もちろんあなたも。だけどね、私はあなた達を守ってみせるわ。奴らに投降して、取引するの。私ね、駆け引きには少しは自信あるのよ。きっとなんとかしてみせるわ」

 

「な……っ!」

 

コナンが哀の肩を掴む。

 

「ふざけんな! それじゃおめーだけ生贄になるってことじゃねーか!」

 

コナンに揺さぶられ怒鳴られても、哀の表情は冷静そのものだった。

 

「ええそうよ。他にあなた達を守る方法がある? 逃げようとすればきっと私の大切な人たちが先に殺されるでしょうね。私は、そこまでして自分だけが助かりたいわけじゃないの」

 

「……っ……!!」

 

コナンの手が震える。きっぱりと反論してやりたかった。お前はこう間違っている、こうすれば解決だと言ってやりたかった。

だが何もなかった。

鮮やかな名案、探偵としてのひらめきなど何一つなかった。

哀の言うとおりだ。

逃れるすべなど、どこにもなかった。

 

「でもね、私は本当に嬉しかった。あなたが助けに来てくれたこと。私をあそこから救い出してくれたこと」

 

哀はコナンの手に自分の手を重ね、微笑んだ。

 

「確かに結果的には一時の気休めだったのかもしれない。だけど、あなたは私を助けてくれた。こうして、お別れを言わせてくれた。それだけで私は嬉しかったの」

 

「そんな……」

 

「知ってる? 工藤君。……私、幸せだったの。本当に幸せだったのよ。この10年、10年もよ? 私は灰原哀として新しい人生を生きることができた。あなたのそばで生きることができた。何度も死のうと思った私を、そのたびに助けてくれて……そして最後の最後に、また助け出してくれた。私はもう何も怖くないわ。死ぬことなんて全然怖くない」

 

哀がコナンの手をぎゅっと握る。

 

「だから生きて、江戸川君。あなた自身の新しい人生を」

 

「ふ……」

 

コナンの腕が震える。

 

「ふざけんじゃねえっ!!!!!」

 

それは、魂からの叫びだった。

哀は思わず後ずさる。

 

「えっ……」

 

コナンは鬼のような形相になっていた。これほどの怒りの顔を哀に向けるのはいつ以来のことだろうか。

 

「おめーを見捨てて……おめーを身代わりに生かしてもらって……それで新しい人生だと!? できるわけがねえだろうが!!!」

 

コナンが怒鳴る。理性のタガが外れているかのように。

だが哀とて引くわけにはいかなかった。

 

「だったらどうするの!? あなたやみんなを犠牲にして逃げろと!?」

 

「違う、そうじゃねえ……!」

 

「そうじゃないなら何!? あなたの言っていることは非現実的な絵空事じゃない!!」

 

「違う!!!」

 

コナンが哀の腕を掴む。全力で、痛いほどの力で。

 

「おめーはずっとオレのそばにいてくれた。組織と戦った時も、オレが打ちのめされた時も腐っちまった時も、いつだってそばにいてくれた! 今までずっと、オレ達はずっと一緒だったんだ!!」

 

そして自分の胸に手を当てて、言った。

 

「……一緒に、捕まろう」

 

今度は哀が息を呑んだ。

コナンはまっすぐに哀を見つめる。その表情は本気そのものだった。

 

「奴らはオレのことだって恨んでいるはずだ。オレはお前に関係ある人間というよりは完全に共犯者だろう? どうせ助かりゃしねーよ」

 

「……そうかもしれないけど……! でも、あなた一人なら逃げることだって……!」

 

コナンが首を横に振る。

 

「オレだってお前と同じだ。大切な人を犠牲にしてまで、生き延びようとは思わねえ」

 

「くど……」

 

強く、抱きしめられた。胸元で顔をふさがれ、哀はそれ以上反論できなかった。

だけどもう、反論しようとも思わなかった。

 

しばらくの間、2人はそうしていた。

 

(ああ、なんてあたたかいのかしら)

 

(私ったらバカね。もう未来なんてないというのに、こんなにも満ち足りた穏やかな気持ちになるなんて……)

 

 

 

その静寂を破ったのは、けたたましいエンジン音とブレーキ音だった。

 

「……!」

 

ビルに挟まれた路地裏のこの場所が、眩しいヘッドライトに照らされる。黒づくめの大型車。路地を抜けた先の反対側の道路もまた、同じような黒い車によってふさがれた。あっという間に前後を包囲されたのだ。

 

コナンは哀の前に一歩踏み出し、彼女をかばうように左手を広げる。

黒い車から、ゆっくりと何者かが降りてきた。逆光によって顔はわからない。

だがコナンは直感した。

恐ろしい奴が出てきたということを。

 

そいつは車の前で立ち止まり、不自然なほどに爽やかな声でこう言った。

 

「はじめまして、ミス・シェリー。君に会いたかった」

 

それは歓喜に満ちた声だった。

 

 

 

 



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10 別れ

(音は聞こえるのに何も見えないってのは嫌な気分だな)

 

コナンはさっきからぼんやりそう思っていた。

目が覚めてからしばらく経つが、いかんせん視界が防がれていてかすかに漏れてくる光以外は何も見えない。

頭に被せられているのは、こういうシチュエーションではお馴染みの麻袋だろう。案の定、手も縛られていて自由には動かせない。

物音や話し声から判断するに、イカツそうな柄の悪い男数人に囲まれている。

この状況で闇雲に暴れたいという気にはなれなかった。

 

「起きているんだろう? 立て!」

 

脇に手を差し込まれ、強引に立たされる。

そのまま捕まった宇宙人みたいにしばらく歩かされてから、「座れ!」と言われ下に押された。幸い、ちゃんと椅子はあった。

 

(まぶしっ)

 

急に頭の麻袋を外されて視界が真っ白になった。

しばらくは眉をひそめ目を細めていたコナンだが、やがて周囲の様子がはっきり見えるようになった。

どうやらここは大きな倉庫らしい。だだっ広いわりに物は少なく、高い天井付近に並ぶ小窓から日光が差し込んでいる。

 

(へっ、悪党のアジトとしちゃあ古典的だな)

 

おそらくはどこかの港の外れあたりの倉庫を買い取ったのだろう。

ただ、朝まで眠らされていたことを考えると、元いた場所からどれぐらい遠くまで連れてこられたのかまではなんとも言えなかった。

 

そんな事を考えていると、正面の数十メートル先にある入口のシャッターがゆっくりと開いていった。

そのシャッターを通って屋外から一人の男が入ってくる。男はまっすぐコナンの方に向かって歩きはじめた。

 

「おはよう! 勇敢な少年。お目覚めの気分はどうだい?」

 

まだコナンのいる場所まで距離があるうちから、無駄に爽やかな声で男は尋ねてきた。

その足取りはゆったりとしていながら同時に颯爽としていて、世の中に憂うものなど何もないかのようだ。

 

(あ、嫌いなタイプだコイツ)

 

徐々に距離が近づいてくると、逆光とはいえ男の顔がはっきり見えるようになる。

真っ白いシャツを袖まくりしている明るい髪色の西洋人――いや、日本人のようにも見える――あるいは混血だろうか。

だがそれ以上に気になる点があった。

男が徐々に近づいてくるごとに、それはますます不可解になっていった。

 

コナンを囲っていた黒服たちの一人が、コナンの正面に椅子を用意した。コナンの座っているパイプ椅子よりも少し上等そうな木の椅子だった。

そいつ以外の黒服たちは全員直立不動で歩いてくる男に目線を向けている。

この場で誰がボスなのかは明白というわけだ。

 

「はじめまして、はおかしいかな? 昨日会ったばかりだからね」

 

コナンを見下ろし、余裕たっぷりに笑みを浮かべる男。

 

「先にごめんなさいじゃねーのか」コナンは鼻で笑って言い捨てた。

 

「なるほど、大した肝の座りっぷりだ」

 

男はドカッと椅子に座り、大きく足を広げて前傾しながらコナンを観察していた。

一方のコナンも男の細部を観察する。

見れば見るほどこの男は奇妙だった。

 

(袖まくりした白シャツにメタルバンドの日本製腕時計にベージュのチノパンに茶色のローファー? 黒ずくめの組織の男がする格好か?)

 

だが服装以上におかしいのはこの男の容姿そのものだった。

顔立ちといい肌や髪のツヤといい、あまりにも若すぎるのだ。

高校生である今のコナンと肉体年齢で大した差があるようには到底思えない。せいぜい二十歳かそこらではないだろうか。

年齢をごまかせない首筋や手の質感もおよそ若者にしか見えなかった。

 

(おかしい……10年前に壊滅した組織の生き残りにしちゃあ……若すぎる)

 

コナンの困惑を知ってか知らずか、男は意味深な笑みを浮かべ口を開く。

 

「そうそう、自己紹介がまだだったね。僕のことはジョナスと呼んでくれ。君のことは……工藤新一君でいいのかな?」

 

「!!!」

 

覚悟していたことではあった。哀の正体がバレた時点で、自分のことも当然バレるということは。

だが実際に組織の人間の口からその名を聞くのは極めて不快な体験だった。

 

「ああ、それともコナン君と呼んだ方が座りがいいのかい? もうずいぶん長いことそっちで通してるんだもんね」

 

「……好きにしろ……」目を合わせず答える。

 

ジョナスはクスリと笑って大きく両手を広げた。

 

「そんなに敵対心を向けないでくれ。僕は君にいい話を持ってきたんだ」

 

「いい話……?」

 

「そう! 君を開放してあげるという話さ。望外のオファーだろう? なんの代償もいらない、無傷で家に帰れるんだ。平和な暮らしに戻れるんだよ」

 

ジョナスは満面の笑みではつらつとそう言った。あたかもなんの含みもありませんとでも言いたげに。

 

「なっ……!」

 

コナンの目が驚愕で見開かれる。確かにこれ以上に予想外の提案は考えられなかった。

組織の生き残りの男が、コナンの正体が工藤新一だと知りながら開放するなどと。

 

「何言ってやがる、てめー……」

 

「文字通りの意味だよ。後で部下に送らせてあげようと言っている」

 

「オレが工藤新一と知っていて……組織が壊滅した原因の一つだと知っていてそう言ってんのか? オレに復讐するつもりなんじゃないのか?」

 

「復讐? 復讐だって!?」

 

ジョナスは突然顔を手で覆って豪快に笑い出す。おかしくてたまらないとばかりに。

 

「はっはっは!! そんな無意味なことをするわけがないじゃないか!」

 

「な……」

 

「僕にとって、あんなとっくに終わった組織はどうでもいいんだよ。いやむしろ潰してくれて感謝しているぐらいだ。本当は菓子折りを持って君に挨拶に行けなくて申し訳ないと思っているよ」

 

目の前の男がどこまで本心で話しているのかまではわからない。

だが、復讐が動機ではないということはおそらく事実のようだった。ジョナスがコナンを見る目には、恨みのような感情が全く欠如していたのだから。

 

「まあ、このことを誰にも口外しないという条件だけは飲んでもらうけどね。たったそれだけのことで無事に帰れるんだよ」

 

こんな話はうますぎるということを理解するのに、探偵の勘は必要なかった。

あからさまにジョナスが触れていない大事なことが一つあった。

 

「灰原は……? 灰原はどうなる……?」

 

「はいば……ああ、シェリーのことか。そうだな、最後にお別れを言う機会ぐらいは持たせてあげようか」

 

「てめっ……!」

 

コナンは即座に立ち上がり、手を縛られたままジョナスに襲いかかろうとする。だが黒服たちに力づくで抑えられ一歩も近づくことはできなかった。

それでもコナンに躊躇はなかった。

 

「てめえ灰原に指一本触れてみろ!! ぶっ殺してやる!!!」

 

鬼の形相でジョナスに叫びを上げるコナン。ジョナスは微動だにすることなくコナンを見据えていた。

 

「勘違いしないでほしいな。まさか僕が彼女の命を奪うとでも? とんでもない、傷一つつけやしないよ」

 

「なんだと……?」

 

「僕は彼女の力を借りたくてわざわざこんな手間暇をかけてきたんだ。おかしなことをするはずがないじゃないか」

 

「……信用できねえな」

 

「確かにそうすぐには信じてもらえないだろうね。……そうだな、やはりシェリー本人に話してもらおうか」

 

ジョナスは部下の一人に手で合図を送った。その部下は一旦立ち去り、すぐに戻ってきた。

彼の前を歩いて来たのは、他ならぬ哀だった。

 

「灰原……! 無事だったのか……!」

 

少なくとも外見上彼女は無傷だった。しかもなんの拘束もされていないし銃を突きつけられているわけでもない、不自然なほど自然な状態だった。

哀は落ち着いた様子でコナンのそばまで歩み寄る。

 

「江戸川君、怪我はない?」

 

「あ、ああ……」

 

「そう、よかったわ」

 

心配している割には随分とそっけない態度だった。表情も妙に淡々としているようにコナンには感じられた。

 

「よく休めたかい? シェリー」

 

ジョナスがなれなれしく声をかける。

 

「冗談でしょ? あんな狭苦しい場所に閉じ込めておいて。私を口説きたいなら、もう少しまともな部屋を用意してちょうだい」

 

哀はジョナスを冷たく見下ろすが、口調はそこまで辛辣でもなかった。まるで親しい相手に皮肉を言っているかのような。

 

「これは失礼、すぐに手配しておくよ」

 

ジョナスが自分の顔に手を当てて笑う。コナンにとってそれはひどく違和感のあるやり取りだった。

 

「灰原……こいつと何かあったのか?」

 

「別に。少し話をしただけよ」

 

哀はコナンに振り向くことなく応える。

 

「彼女は僕のオファーを引き受けてくれたんだよ。僕の組織に協力してくれるんだ」

 

「な……」

 

思わず哀を見るコナン。哀は決してコナンと目を合わせようとはしなかった。

 

「バーロ―! 灰原がてめーに協力するわけがねえだろうが!」

 

「それは君が決めることじゃないんだよコナン君。僕たちの間で話がまとまったんだから。そうだろう、シェリー?」

 

コナンは息を呑んで哀を見る。哀は少し押し黙ってから口を開いた。

 

「……ジョナスは、話のわかる男よ。ちゃんとあなたの無事も保障してくれたわ」

 

「まさかお前、オレの身を守るためにこいつと取引を……?」

 

「……別に」

 

「別にってなんなんだよ!」

 

「そのあたりにしてあげなよコナン君。彼女は全員にとって望ましい道を選んでくれたんだ。感謝されこそすれ、責められるいわれはないだろう?」

 

「てめえ……!」

 

コナンの顔がゆがむ。

 

「それにこれは彼女にとっても素晴らしいオファーなんだ。自分の偉大な発明をこの手で蘇らせる機会が降って湧いたんだよ。科学者冥利に尽きると思わないか?」

 

「偉大な発明……APTX4869のことか」

 

「そうだ。組織の崩壊によってオリジナルのデータが消失し、彼女自身でさえ自分の作品を再現できなくなった……そうだろう? だけど僕は、こんなものを持っている」

 

ジョナスはポケットから小さな黒い物体を取り出す。

 

「これはAPTX4869のバックアップデータだ」

 

「!!!」

 

「……といっても、僕が確保できたのは莫大なデータのうちの一部にすぎない。これだけの情報からAPTXそのものを再現することは極めて困難だと言えるだろう」

 

ジョナスは哀に目線を送る。

 

「元々の開発者である、彼女自身を除けばね」

 

「……そういうことか……」

 

ジョナスが哀を探していた理由が薬を蘇らせるためなら、ジョナスには決して哀を殺せない。

ある意味では哀の身の安全は保障されているに等しいとさえ言えるだろう。

 

「……だけどどうしてお前がそのデータを持ってるんだ? あれは組織のアジトとともに炭になっちまったはずだ」

 

コナンがジョナスを睨みつける。

 

「疑っているのかい?」

 

「当然の疑問じゃねえか」

 

コナンはまだジョナスの言っていることを丸々信じるわけにはいかなかった。

哀を丸め込むためにハッタリを言っている可能性だって大いにあるはずだ。

 

「そうとも、本来のオリジナルデータはあの時灰になった。()()()()()()()()()()()()()()()()だ。あの時、あの火の手を前に僕がかろうじてコピーを取れたのは今ここにある一部分だけだったというわけさ」

 

「!!!」

 

コナンの脳裏に、あの夜のことが蘇る。

燃え落ちるアジトの中で、コナンは最後の最後に薬のデータを回収することを諦めた。

()()()()()()()()を失わないために。

 

 

 

――あの薬の……APTX4869のデータは失われてしまった。もう……あなたは工藤新一には戻れない

 

――どうしようもなかったじゃねえか。もうデータを回収する時間なんてなかった。そんなことをしていれば、二人とも逃げ遅れて御陀仏だったさ

 

――()()()()()()データを選べば間に合っていたわ

 

――くだらねえこと言うんじゃねえ……! そんなことするわけがねえだろうが!!

 

 

 

あの時、コナンの運命は後戻りのできない地点を越えた。

あそこでコナンは薬のデータとともに、工藤新一に戻るという可能性そのものを捨て去った。

その捨てたはずのデータが、まるで亡霊のようにコナンの前に再び姿を現したのだった。

 

「命からがら生きのびたはいいものの、その後の人生はずいぶん苦労したものだよ」

 

ジョナスが自慢げに吹聴する。

 

「といっても長々と苦労話を語りたいわけじゃない。大事なのはこのデータの存在と、シェリーがきっとどこかで生きているという事実が僕にとっての心の支えになったということだ」

 

ジョナスは哀に目線を送るが、哀は腕を組んだまま無視を決め込んでいる。

 

「今では自分自身の新しい組織を作るところまで来た……だけど、僕の組織はまだまだ小さくて未熟だ。僕にはもっと力が必要なんだよ」

 

「そんなことのために何人もの人を殺してきたってのか?」

 

「尊い犠牲と言ってほしいね。ある世界的な製薬企業の幹部は、APTXの資料を見てこう言った。"もし本当にこの薬が実在するのなら、10億ドル出してでも買い取りたい"とね。この薬にはそれだけの価値があるんだよ」

 

「……結局はカネってことかよ」

 

「それが全てってわけじゃないさ。まあ、君に話したところで仕方のない話だ」

 

ジョナスが肩をすくめて笑う。

 

「さて、そろそろいいかい? シェリーにお別れを言ってあげなよ。この10年をともに生きてきたんだろう?」

 

ジョナスが立ち上がると、哀は顔を向けることなく口を開いた。

 

「……少し彼と2人きりにさせてくれないかしら」

 

「ああいいさ。積もる話もあるだろうからね。悔いが残らないように好きなだけ最後の時間を使うといい」

 

 

 


 

 

 

倉庫の外の古びた波止場の先端で、コナンと哀は海に向かって立っていた。

空はバカバカしいほど真っ青で、燦々と陽光が降り注ぎ潮風が髪をそよいでいる。こんな状況でなければ青春の1ページにしか見えないだろう。

もちろん波止場の根本では黒服たちが彼らを見張っていた。

普通に話せば声が届かない程度に距離を空けているのは、一応配慮しているつもりらしい。

 

その黒服たちの中に、一人異様に目立つ女がいた。周囲の男たちよりも背が高く、恐ろしく冷たい目をした赤髪の女。明らかに他の黒服たちとは存在感の質が違う。ジョナスの右腕のような存在に違いなかった。

だがコナンにとってはもはやどうでもいいことだった。

 

「灰原、おめー一体どういうつもりなんだよ」

 

コナンが哀をにらみつける。

 

「あら、てっきりありがとうって言ってもらえると思ってたのだけど。あなたの命は助かるのよ?」

 

小馬鹿にしたように笑みを作る哀。

 

「……おめーいい加減にしろよな……。自分だけが犠牲になろうとするのはやめろっつってんだろ」

 

「……そうね、だけど仕方ないじゃない。あなたやみんなを助ける方法が見つかったんだから」

 

「それでオレが納得するとでも?」

 

「別に納得なんてしてくれなくてもいいわ」

 

哀は決してコナンと目を合わせようとはせず、うつむいたままそう言い捨てた。

このままでは埒があかない。コナンはまず矛先を変えることにした。

 

「そもそもあのヤローはなんなんだよ。あんな奴組織にいたのか? 第一、10年前に組織にいた人間にしちゃあ若すぎるじゃねーか。あれじゃまるで……」

 

哀が首を振る。

 

「いいえ、彼はAPTX4869の被験者ではないわ。あれが実年齢よ」

 

「それってどういう……」

 

「組織はね、ある時期から小さな子どもをどこかしらから"調達"して手駒として教育するプログラムを行っていたのよ」

 

「!」

 

「沼淵己一郎って覚えてる? あいつの場合は大人になってから組織に拾われた人間だけど、同じことを彼らは身寄りのない子どもに対しても行っていた」

 

「そうだ、ジョディ先生も言っていた……。オレ達が奴らの本体を潰した後で、FBIがアメリカの拠点を叩いた時に子どもを何人か保護したって……! でも、その時保護されたのが全員じゃなかったってことか!?」

 

「そうみたいね。私もまさか、あの時あのアジトに組織に教育された子どもがいたなんて思ってなかったわ。ましてやその子どもがAPTXのデータを持ち出して脱走していたなんてね……」

 

哀が肩をすくめる。

 

「結局は、私の人生すべてのツケが回ってきたってことよ」

 

「……それがどうしておめーのツケになるんだよ」

 

「組織が子どもを教育するというプログラムを計画したのは、私のせいだから」

 

「!!」

 

「私の場合は、両親がもともと組織に属して研究を行っていたから、お姉ちゃんともどもその身内として組織の管理下に置かれることになった。だけど結果的には、幼少時から組織の英才教育を受けていた私が、両親の研究を完成させることに成功してしまった……」

 

哀の言葉には諦念がにじんでいた。

 

「だから奴らはそれに味をしめて子どもをさらってくるようになった。そう言いたいのか?」

 

「ええ」

 

哀がうなずく。

 

「そんなもん全部奴らのせいじゃねーか。おめーが罪をかぶるようなことじゃ……」

 

「本当にそうかしら? 私がまだ組織の一員だったころ、奴らが何をやり始めたのか、なんとなくではあっても気づいていたわ。でも私は何もしなかった。組織に歯向かったのも別にそのプログラムのせいじゃなく、お姉ちゃんの死という個人的な理由だった。そして私は勝手に絶望して勝手に死のうとして、結果的に体が縮んだ時には自分だけ逃げ出したのよ。私に同情の余地があると思う?」

 

「そんな……」

 

「FBIが子どもたちを保護したと聞いた時、私は自分の罪が洗い流されたような気になったわ。そして今日までおめおめと幸せに生きてきた……。笑っちゃうでしょう? こんな血まみれの手で、普通の人間として人生をやり直せると思っていたなんて」

 

自分の両手を見つめて自嘲する哀。

 

「言ったでしょ、奴らと取引してあなた達を守ってみせるって。どうやらうまくいきそうよ」

 

哀はようやくコナンに顔を向け、微笑んだ。

 

「私の待遇は心配しないで。クリエイティブな仕事というのは頭に銃を突きつけられながらできることじゃない――その程度のことはジョナスもわかっているわ。この上ない素敵な邸宅で、何不自由ない豊かな暮らしを保証してくれるそうよ。どんな贅沢だってさせてくれるってね。悪くないオファーだと思わない? 誰かさんのだらけた暮らしに付き合うより快適かもね」

 

「……本気で言ってんのか? 本気であのヤローに協力するって?」

 

「心配しないで。そうそうあの薬を復活なんてさせやしないから。のらりくらりと、何年でも時間を稼いでみせるわ。ジョナスが諦めて匙を投げるまで……」

 

「それが私にできるせめてもの罪滅ぼしだから」

 

「……ふざけ……」

 

コナンが肩を震わせ、哀に言い返そうとしたその時――

不意に口が塞がれた。

 

「!!!」

 

柔らかい感触。コナンは呆然と立ちすくむことしかできなかった。それはあまりに予想外の出来事だった。

哀の唇が、コナンのそれに重なっていた。

 

「……!」

 

何が起きたのかようやく理解した時、コナンはもう一つの異変に気づいた。

哀はコナンの首筋に何かを刺していた。それは針の感触だった。気づいた時にはすでに遅かった。コナンはその針のことを誰よりもよく知っていた。

 

哀が顔を離す。

その時すでに、コナンの体からは力が抜けていた。

 

「はいばら、おまえ……」

 

膝が支えを失って崩れ落ち、視界が白く染まっていく。

意識が薄れゆく中で、ほんのかすかに声が聞こえた。

 

「さよなら」

 

コナンの頬に一粒の水滴が落ちた。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

(……)

 

(…………)

 

(…………空、だ)

 

コナンが目を覚ました時、そこには夜空が広がっていた。星がまばらでうっすら明るい、都会の夜空だ。

背中に感じるのは、冷たい草の地面の感触だった。

コナンはどこか見覚えのある場所に仰向けで放置されていた。

ぼんやりとしたままの頭を、首を降って無理やり起こし、ふらつきながらコナンは立ち上がった。

 

見覚えのある景色なのは当然だった。そこは自分の家の庭だった。塀に囲われているので外の道路からは見えない位置だ。

一体何時間ここで寝ていたのだろうか?

 

コナンの思考はまだうまく働いていなかった。

不確かな足取りで玄関まで歩いていく。ポケットの中には鍵が入ったままだった。

 

案の定、家の中は真っ暗だった。コナンは明かりをつけ、誰もいないリビングに足を踏み入れた。

 

――あらおかえりなさい。遅かったじゃない

 

ソファーに誰かが座っていて、こちらに振り向いてそう言ってきた気がした。

皮肉めいた微笑みで、だけどとても優しい声で。

 

でもそこに赤みがかった茶髪の少女はいなかった。

彼女はもうどこにもいなかった。

 

意識が戻ってからずっと、コナンはその事実を認めることを拒否していた。

心のどこかで、すべては悪い夢だったという結末を期待していた。

でも真実は、たった一つしかなかった。

 

コナンは震える足をなんとか動かしてソファーに腰を下ろし、うずくまった。

荒い呼吸を鎮めようと必死に深呼吸をしようとするが、それさえもできなかった。

いつの間にか、頬を水滴がつたっていることに気づいた。

 

それが最後のひと押しとなった。

 

そして、

泣き叫んだ。

 

慟哭が、工藤邸に響き渡った。

 

喉が痛み声が尽き涙が枯れ果てるまでそれは続いた。

それは永遠の拷問にも等しいような時間だった。

 

 

 

 

 

一体、どれほどそうしていただろうか。

コナンが泣き叫ぶ力さえ失いぐったりと横たわっていた時、不意にインターホンのチャイムが鳴り響いた。

 

(今のは……?)

 

コナンが状況を理解する前に、その音はすぐに繰り返された。

 

ピンポンピンポンピンポンとうるさく何度も同じ音が響く。やかましいにもほどがあった。

 

コナンは身を起こし、インターホンのモニターボタンを押す。外の様子が映し出された。

 

『おいコナン、帰ってんのか~!? どこで何してたんだおめーら~~~!』

 

『コナンく~~~ん! 哀ちゃんもいるの~~~!?』

 

コナンの目が見開かれた。

 

「あいつら……!!!」

 

大声で騒いでいる歩美と元太。その後ろで腕を組んで立っている光彦。

 

『いるのかいねーのか~~! いねーならいねーって返事しろよコナーーーン!!!』

 

 

 



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11 炎、別れ、記憶

「ったく、心配かけやがって。今日一日どこにいやがったんだぁおめーら?」

 

ズカズカと家に上がってきた元太が、辺りをキョロキョロと見回しながらコナンに尋ねる。

 

「そうだよ、コナン君も哀ちゃんもなんの連絡もなく学校休むし電話もメッセも繋がらないし……。例の事件のことだってあるから、あたし達心配であちこち探し回ってたんだよ?」

 

「それは……すまなかったな……」

 

「つーかコナン、ひっでー顔してんなおめー。うんこでも漏らしたのか?」

 

元太が怪訝な顔でコナンを見る。

 

「いや、これは……」

 

確かに、ついさっきまで全身の水分を出し尽くす勢いで泣き叫んでいたのだから、さぞかし酷い顔になっているのだろう。目だって真っ赤に充血しているはずだ。

 

「ねえそんなことより哀ちゃんはどこ? コナン君、知ってるんでしょ?」

 

「灰原は……」

 

コナンは言葉に詰まった。彼らに言えることなど何があるだろう。

歩美と元太はじいっとこちらを見つめていた。一方、大きなリュックを背負って後ろで立っている光彦はずっと無言のまま横目で冷たい視線を送ってきている。

 

コナンは少しの間だけ考え込み、そして何を話すかを決めた。

 

「あいつならもういねえよ」

 

「はあ???」

 

元太が顔をしかめる。歩美も怪訝な顔をしている。

コナンは彼らの反応など意に介さず、努めて明るい声で話を続けた。

 

「おめーらも知ってるだろ? あいつの両親はイギリスに住んでるんだ。長いこと親戚の博士に灰原を預けてたけど、ついに環境が整ったから親子一緒に暮らそうって連絡が来たらしくてな。急な話だったからオレだって驚いたけど、例の事件だってあるから早いとこ出発した方がいいってことになって、ついさっきまで空港に見送りに行ってたんだ」

 

「コナン君、何を言って……」

 

「灰原のやつ、おめーらにもよろしく言っといてくれって言ってたぜ? まあいかんせん急な話だから驚くのはわかるけど、なにも悲しむようなことじゃねーんだ。しばらくは忙しくてなかなか連絡もよこせねーだろうけど、きっとあいつは向こうで幸せに……」その瞬間、コナンの襟首が掴まれ、強引に持ち上げられた。

 

「ぐうッ!」

 

「ちょ、元太君!!」

 

歩美が慌てて元太の腕を掴む。その丸太のような腕は片手でコナンを吊るし上げていた。

 

「おいコナン、ふざけたこと言ってんじゃねーぞ……! 灰原がオレ達に一言も言わずいきなりイギリスに帰った? んなわけねーだろうがオイ……!」

 

「元太君、落ち着いて!」

 

歩美の言葉に応じて、元太はコナンを下ろし開放する。しかしその野太い眼光はコナンを睨みつけたままだった。

 

「ケホ、ケホ……」

 

「コナン君、あたしだってそんな話信じられるわけないよ」

 

歩美もコナンを睨む。

 

「信じようが信じまいが、何も変わらねーよ」

 

「そんな……」

 

「おいコナン、くだらねー冗談はいい加減に……」元太が再びコナンに迫る。

 

元太の感情的な口調が引き金となり、コナンは堰を切ったように叫んだ。

 

「うるせえ!! 灰原はもう、帰ってこねえんだよ!!!」

 

「!!!」

 

3人の表情がショックに染まる。

 

「もし帰ってくるならこんな話はしねえ!!! あいつとはもう二度と会えねえし、声だって聞けやしねえんだ!!!」

 

「それってどういう……まさか哀ちゃんは……」

 

「心配すんな、あいつは生きてる……いたって無事だ。だけどあいつはオレ達に二度と会わねえことを選んだんだ。自分の意思で……オレには、その選択を変えられなかった」

 

コナンは肩を落とし、ソファーに座り込んだ。

 

「だからもう諦めろ。イギリスに帰ったと思ってあいつのことは忘れろ。最初からあいつはこっちの世界に……"日常の世界"に生きる人間じゃなかったんだ。ただ帰っちまうのがずいぶん遅くなっただけだ……」

 

「……コナン君は、それでいいの? 二度と哀ちゃんに会えなくてもいいの?」

 

「いいわけねえ……いいわけねえよ……だけどもう、どうしようもねえんだ」

 

コナンはうなだれたまま言葉を続ける。

 

「あいつはオレ達を守るためにこの町を離れることを選択した。その意思を尊重してやれ。普通に日常を生きることだけが、あいつに対してできる恩返しなんだからな」

 

しばらくの間、誰も何も言えなかった。沈黙が場を支配した。

その静寂を破ったのは、鈍い打撃音だった。

 

頬が痛みを感じてから一瞬遅れて、コナンは顔を上げた。

そこに立っていたのは、予想とは違う人物だった。

光彦がコナンを見下ろしていた。空虚に冷え切った目で。

 

「オイオイ光彦……キャラが違うぞお前」と元太が冷や汗を流す。

 

光彦は少し痛そうに手首を振った。まともに人を殴ったことなど、おそらく生まれて初めてなのだろう。

 

「コナン君……君には心底がっかりしましたよ。君に灰原さんを任せたのは完全な間違いでした」

 

「……おめーにゃわかりゃしねーよ」

 

「ええ、わかりませんね。君がこんなにもあっさり灰原さんを見捨てるなんて。わかりたくもないですよ」

 

「見捨てたわけじゃねえ……!」

 

「じゃあなんなんです? 灰原さんが本心から喜んで僕らのもとを去ったとでも? 君の顔はそう言ってませんよ」

 

「やっぱひでー顔してるよなコナンのやつ」元太がうなずく。

 

「コナン君、きみと灰原さんは子どもの頃からずっと何か重要な秘密を共有していた……違いますか? 灰原さんはずっと何かに怯えていて、だけど君のことは誰よりも信頼していた。君達には誰にも入り込めない絆があった。正直言って羨ましかったですよ。僕も君のように灰原さんを守れる強さがほしい、ずっとそう思ってました」

 

「……」

 

「灰原さんを連れ去ったのは、あの頃から彼女が怯えていた何か、なんじゃないですか?」

 

「……そんなことを知ってどうする」

 

「それが彼女の本意でないのなら、連れ戻します」

 

「おっしゃー!! よく言ったぜ光彦!」

 

「そうだよね! あたし達探偵団が連れ戻しちゃおう!」とテンションを爆上げする歩美と元太。

 

「バーロー!! ふざけたこと言ってんじゃねえぞ!! おめーらが今まで相手にしてきたチンピラ犯罪者なんかと同じだと思うな! 奴らに手を出したら確実に殺されるぞ!!」

 

コナンの本気の警告にも、彼らはまるで耳を貸そうとはしなかった。

 

「だったらどうすんだ? ここで一生腐ってんのか?」

 

「あたしはこのまま哀ちゃんとさよならなんて絶対イヤだよ!」

 

「まったく同感ですね」

 

「いいかコナン、オレは少年探偵団のリーダーだ! 仲間を見捨てるぐらいなら一生うな重が食えねえ方がましだぜ」

 

(駄目だこいつら……説得なんて効きそうにねえ。こいつらまで犠牲にするわけにはいかねえってのに)

 

とはいえ、実のところコナンには彼らを説得する必要などなかった。なぜなら哀を助け出すために最も必要な情報がないのだから。

 

「……問題は、灰原さんの居場所がわからないということですが。コナン君、きみは知らないのですか?」

 

「あいにくだが、オレにもわからねーよ」

 

例の倉庫がどこにあるのかもはっきりしないし、あるいは倉庫自体は周辺の景色の記憶を元に探し出すことは可能かもしれないが、いつまでも哀がそこにいるとは到底考えられない。

コナンに場所を見られているということを彼らが理解している以上、今ごろとっくに別の場所に移動していると考えた方が妥当だろう。

 

コナンは念のため犯人追跡メガネのボタンを押したが、案の定発信器の反応はなかった。

 

「あいつにつけた発信器が生きてりゃもしかしたら見つけられたかもしれねーけどな。どっちにしろエリア外だ、見つかんねーよ」

 

「発信器? 灰原さんに発信器をつけたんですか!? 周波数は!?」

 

光彦の顔色が変わる。

 

「だから言ってんだろ、エリア外だって。それにバッテリーだってそろそろ切れてるはずで……」

 

「そのメガネに内蔵されたアンテナは超小型タイプですよ。受信エリアが狭いのは当たり前でしょう?」

 

光彦はそう早口でまくしたてて背負っていたリュックを下ろし、今どきにしては妙にゴツい大型ノートPCを取り出した。そして手早くそれを開いてなにかのソフトを立ち上げ、コナンから聞いた周波数を打ち込む。

 

「見てください、反応がありますよ!!」

 

光彦が指差した先には、地図の中で点滅する点があった。

 

「「おお~~~っ!」」と元太歩美が同時に声を上げる。

 

「そんな……!」

 

絶句するコナンを尻目に、光彦は元太歩美に視線を向ける。

 

「だけど、やはり発信器のバッテリーはもう限界のようです。おそらくあと数時間で完全に信号が消える……そうなったらもう二度と灰原さんの居場所はわかりませんよ」

 

「おおっし、行こうぜおめーら!!!」

 

元太が豪快に自分の拳を叩いて音を鳴らすと、歩美も勢いよく飛び跳ねる。

 

「うん! 行こう!!」

 

「待て!! 早まるなおめーら!!」

 

コナンは必死で彼らを止めようとした。ここで止めなければ、彼らはきっと殺されてしまうのだから。

だけどもう、彼らがコナンの言葉を聞き入れるはずがなかった。

3人はコナンに背を向けて駆け出し、扉の前で歩美が振り返った。

 

「ごめんねコナン君、あたし達、哀ちゃんとこのままお別れなんてできないよ!」

 

「おめーは来ねえっつーんなら別にいいぞコナン。せいぜい引きこもってテレビでも見とけよ」

 

「もう放っておきましょう。今の彼に何かを期待するのが間違いですよ」

 

「ぐっ……あのなあ、殺されるだけだっつってんのがわかんねーのかよ……! おめーらが犠牲になって灰原が喜ぶとでも……」

 

そう言って拳を震わせながらも、コナンの胸の奥はにわかにざわつき始めていた。

まだ間に合うかもしれない――少なくとも、その最後のチャンスはまだ消え去っていない――それを理解した時、一度捨てたはずの希望が再びコナンの心に火を点けようとしていたのだ。

 

(もう一度……あと一度だけ、あいつを助け出せるチャンスがある……そういうことなのか?)

 

その時だった。

大窓の向こうから激しい閃光が差し込み、一瞬にしてリビング全体を白橙に染めた。次の瞬間、轟音とともに窓ガラスが割れ爆風が吹きすさぶ。

コナンは瞬間的な判断で即座に地面に突っ伏し頭を抱え守った。

頭上をガラスの破片が飛び去り、家具や食器が辺りに散乱する。

轟音によって引き起こされた耳鳴りが鎮まるより早く、コナンは身を起こして周囲の様子を確認した。

 

「おめーら、大丈夫か!?」

 

「ふう~、危なかったぁ~……なんだあ今の!?」

 

「あたしは大丈夫だよ~、光彦君は?」

 

「こっちも大丈夫です……かろうじてですが」

 

3人が次々とうつ伏せ体勢から立ち上がり、お互いの無事を確認しあう。どうやら3人ともコナンと同じくとっさに身を伏せて頭をカバーし安全を確保したようだった。さらに元太は自分の巨体を活かして歩美と光彦の前で壁となり、光彦は光彦でリュックを盾にして歩美の頭部を守っていた。

 

(こいつら、あの一瞬で素早く的確に身を守りやがった……。くぐってきた修羅場の数が違うってことか……)

 

確かに、彼らの人生経験はおよそ常人の域ではなかった。若干小学一年生の頃からいくつもの殺人現場に遭遇し、爆破テロや銃撃事件やハイジャックに巻き込まれ、強盗団や殺人鬼どもとの決死のサバイバルを生き抜いてきたのだ。

 

(オレはこいつらのことをいまだにガキだと思っていて……だけど本当はとっくにオレの方がよっぽど……)

 

「見て! 炎が!」

 

歩美の言葉にコナンは後ろを振り返る。割れた窓の向こう側、工藤邸の敷地の外で火の手が上がり始めていた。

 

「あれって博士の……哀ちゃんの家だよね!?」

 

(まさか……! あそこには今誰もいないはずなのに……!)

 

(ちくしょう、オレはどうすれば……!)

 

その時、一瞬下を向いたコナンの視界に、爆風に飛ばされ床に落ちていた写真立てが入り込んだ。

父である工藤優作の肖像写真。

コナンはその瞬間、今は亡き父と目が合ったような気がした。

 

(父さん……)

 

――ごめん父さん。オレ、工藤新一に戻れなくなった

 

コナンの脳裏に、かつての記憶が蘇る。

 

――がっかりしてるだろ? 父さん。絶対に元の姿に戻ってみせるってあれだけ言ってたのに

 

――がっかりする? オレがか? 何を言ってるんだ、そんなわけないだろう

 

――だけどもう、工藤新一は死んだ人間になるんだ。もう父さんの息子は帰って来ない

 

――はっはっは! 何を言ってるんだ。工藤新一だろうが江戸川コナンだろうが、お前はオレの息子じゃないか

 

――え……

 

――いいか新一、いやコナンだとしても同じことだ。何も変わりはしない、お前はお前だ。オレはどんな傑作小説を書いたことよりも、お前という息子を持てたことを一番に誇りに思っている……そのことは生涯変わりはしないさ

 

――お前はこの先、人生に迷うことも分厚い壁にぶつかることもあるだろう。だけどどんな時でも、己がなすべきことをなしなさい。真実を見極め、本当に大切なものを掴み取りなさい。大丈夫、お前にならきっとできるさ

 

父とそんな言葉を交わしたことなど、コナンはずっと忘れていた――いや、もちろん実際には覚えていた。だけど彼は、その記憶を心の奥に押し込め何年ものあいだ見ないふりをしてきたのだ。

奔流のように溢れ出た記憶に背を押されるかのように、コナンはゆっくりと立ち上がりまっすぐ前を向いた。

 

(……ありがとう、父さん)

 

(オレが今なすべきことは……ここで後悔することじゃねえ!)

 

「おめーら先に準備しててくれ! オレは博士んちの様子を確認してくる!」

 

そしてコナンは全速力で駆け出し、割れた窓から飛び出して阿笠邸へと向かっていった。

 

「先に準備しててくれ、だってよ。コナンのやつ、急にちょっといい顔しやがってどうしたんだ?」

 

「コナン君……どうやら、吹っ切れたようですね」

 

 

 


 

 

 

時間を少し遡る。

 

灰原哀はとある小さな部屋でPC画面に向き合っていた。

長大な数式や専門用語がびっしり並ぶ画面を、表情ひとつ動かさず高速でスクロールしていく。

そんな折、部屋の扉が開かれ誰かが部屋に入ってきた。

しかし哀はそちらを一瞥もすることなく作業を続けていた。

 

「どうだい? そのデータを見た感想は。懐かしい気持ちになったんじゃないか?」

 

ジョナスが話しかける。

 

「まだ一通りの確認をしているだけよ。邪魔しないでくれるかしら?」

 

ジョナスは苦笑して哀の隣の椅子に腰掛けた。

 

「変わらないね、君は。宮野志保だった頃と同じだ」

 

「あなたが当時の私を知っているとでも?」

 

哀は決してジョナスと目を合わせることなく画面を見つめている。

 

「知っているさ。まあもちろん君と具体的な親交があったわけじゃない。組織のとある施設で、一度だけ君の姿を見たことがある……言ってしまえばそれだけの縁だよ」

 

相槌ひとつ打たない哀を尻目にジョナスは話し続けた。

 

「ちょうどその時も、君はそんなふうにコンピュータと向き合っていた。僕は遠巻きに君の横顔を眺めていただけだ。わかっていても不思議なものだよ。あれから10年以上経つというのに、君の姿はまるっきり当時のままなんだから」

 

「……」

 

「僕のような"チルドレン"にとって、君はちょっとした伝説のような存在だった。なにしろ君の存在そのものが僕らを育てたプログラムを生んだ理由なんだからね。断っておくが、僕は君を恨んじゃいない。僕の両親は薬物中毒のクズどもだった。あのプログラムがなければ、僕はとっくにクソスラムで野垂れ死んでいただろうさ」

 

「……おっと、話しすぎてしまったね。どうぞ君の作業を続けてくれ。……といっても、どうせ明日には君の新しいIDとパスポートが出来上がるんだ。続きは国外の新しい拠点に移ってからでもいいと思うけどね」

 

ぴくりと哀のまぶたが揺れる。

 

「ここはいい国だが、君にとっては何かと気が散ってしまうだろう? 何も心配はいらないよ。こんな手狭なラボではなく、最先端の研究施設とラグジュアリーな棲み家を用意してあるんだ。夢のようなリゾート地のすぐそばにね。きっと君にも気に入ってもらえると思うよ」

 

「……ありがたいオファーではあるけれど」

 

哀が皮肉めいた笑みを浮かべる。

 

「立派な施設に私を連れて行けばすぐにあの薬が出来上がると思わない方が懸命よ? 最初の試作品を作るまでだって数年はかかるでしょうね」

 

ジョナスは肩をすくめた。

 

「確かにそうだ。君はそうやっていくらでも仕事を引き伸ばすことだって出来る……。もちろん他の人員にも共同で研究はさせるけど、だからって君の貢献を確実に買えるわけじゃあない」

 

その時、ジョナスの目つきが変わった。

 

「だけど僕は根気比べはやりたくないんだ。君に()()()()協力してもらえるよう、僕が本気だということをわかってもらいたいと思っている」

 

先程までの穏やかな声色とは全く違う、冷酷な口調。哀の表情がすぐさま変わった。

 

「ふざけないで!! 私があなたに協力すると同意した時点で、取引は成立したでしょう! 私の大切な人たちには一切手を出さないという約束よ!」

 

「もちろん彼らを始末したりはしないさ。だけどそんなことをしなくても君に明確なメッセージを送ることぐらいはできる……。たとえば、君の帰る場所を消し去るとかね」

 

「……! ふざけたことを……!」

 

「わかってくれシェリー。あそこはもう君の帰る家じゃないんだ。君を保護してくれた老夫婦だって、今はあそこに住んでいない。誰も犠牲にすることなく君の未練を断ち切れるのなら、僕はそうするまでのこと」

 

「……そんなことをされて、私があなたに協力するとでも思っているの!?」

 

哀は、目の前の悪魔に飛びかかりたい思いを必死に抑え込んでいた。手元に何か武器さえあるなら、刺し違えてでも殺してやるのに!

 

「いずれわかるさ。人間は置かれた環境に順応するもの……。僕はただ、君が前に進むためのきっかけを与えてあげたいだけさ」

 

 

 


 

 

 

夜遅く、現場から本庁の自分のデスクに戻った蘭は憔悴しきっていた。

例の事件に重大な進展があったにもかかわらず、事態は解決に向かうどころか謎が深まるばかりだったからだ。

ここ最近の働き詰めで、蘭は精神的にも肉体的にも疲労の限界に近づきつつあった。

つかの間の仮眠を取ろうとデスクに突っ伏した蘭が、うとうとと眠りに落ちかけようとしていたまさにその時、オフィス内が騒然としだした。

 

「米花町の住宅で爆発だって!?」

 

「ガス管の事故か何かじゃないのか?」

 

「でも通報によれば、爆弾としか思えないような異様な爆発だったらしいぞ?」

 

「おいおいどうなってんだ!?」

 

蘭は意識が鮮明に戻ると同時に飛び起きた。即座に奥のデスクの高木に詰め寄る。

 

「警部!! その爆発があったのはどこですか!?」

 

「ど、どうしたんだい毛利さん。ちょっと待ってくれ、今データが上がってきたから……。ええっと、米花町2丁目の22番地、みたいだけど……」

 

蘭は思わず息を呑んだ。その住所には確かに覚えがあった。

 

(それって多分、いえ、間違いなく新一の家の隣……ということはまさか!!)

 

「阿笠博士の家……!」

 

蘭の言葉に高木は目を丸くする。

 

「そうなのかい!?」

 

「警部、私はその現場に急行します!!!」

 

蘭は上司である高木の返事も聞かず走り出す。自分のデスクに置いていたジャケットと拳銃を手に取って。

 

「あ、ちょっと、毛利さん!!」

 

蘭は庁舎を全力で駆け抜け、駐車場の自分の車に飛び乗りアクセルを踏み込んだ。

 

(これは偶然じゃない……! 何かが……何かが確実にあの事件と繋がっている……!)

 

蘭は運転しながら左手でスマホの通知を確認した。コナンからも哀からも、今日送ったメッセージの返事は来ていなかった。

やはりそうだ。彼らに何かがあった。阿笠邸の爆発だってそれに関連しているはずだ。

 

(お願い、無事でいて……!)

 

蘭にとって、この日は長い一日だった。

とある廃ビルで男の死体が発見された。男の身元は元探偵の蛇塚達夫。拳銃による自殺のようだった。

問題は蛇塚の指紋とDNAが、例の連続殺人事件の現場で見つかったものと一致したということだ。

急転直下、事件は被疑者死亡のまま決着するかに思われた。

しかしそれでは説明のつかないことが多すぎた。

 

蛇塚はなぜ自死したのか?

現場では他の誰かを監禁していたような痕跡があるが、では監禁されていたのは誰で、その被害者は今どこにいるのか?

そもそも蛇塚の動機は?

彼のバックグラウンドはすぐに判明した。事業に失敗して探偵事務所を畳んだ後、蛇塚は元妻に離婚を突きつけられ一人娘の親権も失った。

しかしその後その娘に重度の心臓病が発覚し、母親は移植手術のために莫大な医療費の金策に取り組んでいたが一向にうまくいっていなかった。

つまり蛇塚には、カネ目当ての犯罪に手を染める動機がたっぷりとあった――だが、それが例の連続殺人事件となんの関係があるというのだろう?

どうして似たような容姿の女性ばかりを狙っていたのだろう?

 

このままでは事件は決着ではなく迷宮入りしてしまう――そこにこの爆発だ。

何もかもがおかしすぎた。

 

(わからない……何一つ辻褄が合わない……ああ、こんな時に新一がいてくれたら……!)

 

それは全く馬鹿げた考えのはずだった。もう何年も前に死んだはずの元恋人のことなど今さら考えてどうしようというのだろう。

だが蘭には奇妙な予感があった。

その予感は、日に日に抗いがたいものになっていた。

 

新一は、生きている――。

 

 

 

阿笠邸は轟々と燃え上がっており、夜の闇を赤く染め上げていることが遠目からでもはっきりと見て取れた。

蘭は現場前の道路脇に停車して車から降りると、既に駆けつけていた地元の巡査を見つけて警察手帳を掲げた。

 

「警視庁の毛利です! 現場の状況は!?」

 

「はいっ! この通り炎は止まっていませんが、爆発は最初の一回きりのようです。中に人がいるのかどうかはまだわかっていません。いかんせんこの炎が静まってくれないことには……!」

 

消防隊による消火活動は既に始まっていたが、すぐに鎮火されそうな状況には到底思えなかった。

建物だけでなく、庭の木にも火が回っているようだ。

ただ玄関口は消防車によって防がれており、塀の外から中の詳しい様子をうかがうことはできなかった。

 

「……私が様子を見てきます」

 

「あっ、ちょっと刑事さん!!」

 

蘭は巡査の静止を無視し、塀をよじ登って阿笠邸の敷地に足を踏み入れた。

敷地内は酷い煙のせいで数メートル先の視界さえ遮られていた。

 

庭に着地した蘭は拳銃を引き抜き、両手で眼前に構えながら一歩ずつ慎重に歩みを進めていった。

間近で燃え盛る火の熱のために全身から汗が吹き出す。

こんなことをしたところで、誰かが潜んでいると考える根拠はどこにもない。ただ、刑事としての勘が蘭を突き動かしていた。

 

この爆発は決してガスの事故などではない。

もちろん阿笠博士の実験の失敗などでもない――博士は2ヶ月以上も前から海外にいるのだから。

つまり何者かがこの爆発を仕掛けたのだとしても、そのターゲットが博士であるはずもなかった。

となればその標的になり得るのは、灰原哀以外に考えられなかった。

 

もしも蛇塚の犯罪が、より大きな何かの一部でしかなかったとしたら――?

この場所で、その何かが一本の線に繋がるかもしれない。

蘭にはそう思えてならなかった。

 

「ッ!!!」

 

正面から人の気配。

ほんの数メートル先に誰かがいる!

 

蘭が拳銃の引き金に指をかける。

だが、煙の隙間から現れた男の顔は蘭の意表をついた。

 

「コナン君……!?」

 

「蘭姉ちゃん、来てたんだね」

 

コナンは全身ススだらけで、眼鏡もひどく汚れていてほとんど目の形も見えなかった。

しかし蘭がコナンのことを見間違うはずもなかった。

新一と瓜二つのコナンのことを。

 

「……どうしてコナン君がここに?」

 

蘭は拳銃を下ろして問いかける。

 

「念のため確認してたんだ。大丈夫、家の中には誰もいないよ。この爆発に犠牲者はいないし他の爆発物もない」

 

「答えになってないわ……どうしてコナン君がそんな危険なことを? 哀ちゃんはどこにいるの!? これをやったのが誰か知っているの!?」

 

コナンは首を横に振った。

 

「ごめん蘭姉ちゃん。答えるわけにはいかないんだ。オレはこれから、あいつを助けに行かないといけない」

 

「あいつって……哀ちゃんのこと?」

 

「この炎は警告なんだ。もしも警察が動いたら、奴らはきっと見せしめに大勢の人を殺してしまう……博士だってそうなるだろうし、学校のみんなやあいつに少しでも関わりのある人なら誰でも巻き込まれる。もしかしたらあいつ自身だって殺されてしまうかもしれない……だから、オレがやらなきゃいけないんだ。オレが暴れるだけなら、最悪でも犠牲になるのはオレだけだから」

 

「何を……言っているの……?」

 

コナンが言っていることにはまるで現実味がない。なのに彼が何一つ嘘を言っていないということだけはありありとわかった。

 

「オレは間違っていた。こんなことを平気でやれてしまう奴らの所じゃ、あいつは一生笑えない、一生苦しみから逃げられない。オレは一瞬だってあいつを守ることを諦めちゃいけなかったんだ」

 

コナンは微笑んでいた。まるで迷いや恐れをすべて捨てたかのように。

 

「……ごめんね蘭姉ちゃん。オレ、もう行くよ」

 

コナンが蘭に背を向ける。

その瞬間、蘭は銃口をコナンに向けて構えた。

 

「待ちなさい!! 行かせるわけが……行かせるわけがないでしょう!? 私がコナン君を死にに行かせると思うの!?」

 

蘭の指先は引き金にかかっていた。

それなのにコナンは、まるで恐れようともせず振り返って蘭を見つめた。

 

(どうして……どうしてそんな目で私を見るの……?)

 

優しさや悲しみ、あるいは後悔。何もかもがないまぜになったかのような少年の瞳。

 

その瞳を見た瞬間、こんな時だというのに、蘭の脳裏には遠い記憶が去来した。

あの日あのトロピカルランドで投げかけられた新一の言葉が鮮明に蘇る。

 

――ゴメン蘭!! 先に帰っててくれ!! すぐ追いつくからよー!

 

なにか怪しいものを見つけたらしき新一が、笑顔で手を振って去っていったあの日。

新一ともう二度と会えないようなイヤな予感がしたあの日。

 

なぜこんな時にそんなことを思い出したのか、蘭にはふとわかったような気がした。

理屈ではなく、心がそれに気づいた――いや、本当はずっと前から気づいていたのかもしれなかった。

 

「また……私を置いていくの……?」

 

蘭の声が震える。手も瞳も、震えていた。

 

「あの時みたいに、また……」

 

一瞬だけ、コナンは微笑んだ。

そして再び背を向けた。もう二度と振り返ることはなかった。

 

「すまねえ、蘭――」

 

その声は、あまりにもかつての新一と同じで。

 

「オレはもう……、お前を守れねえ――」

 

コナンは歩き出し、そして煙の中に消えていった。

 

消火活動が実を結び周囲が暗く静まるまで、蘭はそこに立ちすくんでいた。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

阿笠邸の敷地から裏側の塀を越えて路地に出たコナンは、消防隊の目を盗んで自宅の裏口に辿り着いた。

死地に赴く前には多少の準備は必要だった。

 

突然、白い光がコナンを照らす。

眩しさに一瞬目がくらんだコナンだったが、警戒心は持たなかった。誰が現れたのか、既にわかっていたからだ。

 

「へっ、一人でどこ行くつもりだよコナン。夜遊びでもしてえのか?」

 

バイクにまたがり、ヘッドライトをこちらに向けた大男がそう言って笑った。

その後部座席には元気一杯の少女も乗っている。

 

「コナン君、一人で無茶するのは探偵団のルール違反だよ!」

 

彼らのかたわらでは、細身の少年が大きな荷物を抱えて皮肉めいた笑みを浮かべていた。

 

「ま、抜け駆けは彼の十八番ですからねえ……」

 

コナンの眼鏡が、ヘッドライトを反射して光っていた。

 

「……もう一度言うぞおめーら。こっから先は99%殺されに行くようなもんだってことは理解しとけ。引き返すなら今のうちだ」

 

3人がうなずく。彼らにも、なんの迷いもなかった。

 

「オレは必ず、命に替えてでもあいつを連れ戻してみせる。だけどオレ一人の命じゃあ、どうあがいても足りそうにねえ……」

 

コナンは拳を固く握り、叫んだ。

 

「だからおめーらの命も、オレに預けてくれッッ!!!」

 

 

 



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12 反撃開始!

0時をとうに過ぎた深夜でも、そのビルの1階と最上階は明るかった。

コナンは探偵メガネのズーム機能を解除してつぶやく。

 

「やっぱりあのビルの上だな、灰原は」

 

「ええ、おそらく……。発信器からの信号は途絶えてしまいましたけど、ここ数時間は移動していませんでした。今も灰原さんがあの建物の中にいることはほぼ間違いないでしょう」

 

膝をつき、地面に置かれたノートPCを囲んでいるコナンと光彦、それにその後ろで周囲を警戒している歩美と元太は、抑えた声で状況を確認しあっていた。

大きな埋立地であるこのエリアは土地にやたら余裕があって、一つ一つの建物がたっぷり間隔を空けて建てられている。

コナンたちはその中のひとつのビルの影に身を隠し、広々とした道路を挟んだ向かい側の建物を観察していた。

深夜ともなると人通りも車通りも皆無に近い区域ではあるが、だからこそ目立ってしまわないよう慎重に振る舞う必要があった。

 

「でもよぉコナン、こんな普通の会社が本当にそんなヤバいことやってんのか?」

 

「まあ確かに、表向きは完全に普通の会社なんだよな。こんな立派な自社ビルまで持ってて、怪しい企業には全然見えねえってのは確かだ……」

 

とはいえ、かつての黒の組織は立派な薬品会社を傘下に収めていたし、なんなら有名自動車メーカーの会長が構成員の1人だった。それを思えば、中堅企業のひとつやふたつ隠れ蓑として持っていてもなんらおかしくないのかもしれない。

 

「やっぱり人は見かけによらないよね。毛利のおじさんだって名探偵には見えないし」と歩美。

 

「でもヨメさんの方は見た目どおりに超コエーぞ」

 

コナンは「ハハハ……」と汗を垂らして苦笑いした。

 

「ここで話していてもらちがあきませんよ。とりあえず偵察してみましょうか?」

 

「偵察? 一階は警備員がうろちょろしてんのにどうやって偵察すんだ?」

 

元太の疑問に、光彦はさっきまで肩にかけていた大きなバッグに手を突っ込んで自慢げに応える。

 

「じゃじゃーん! この僕の新発明、超小型偵察用ドローンです!」

 

光彦の手に乗っているのは、新品の消しゴムほどの大きさしかない丸っこいグレーの物体だった。本体の上にはちょこんとプロペラがついている。

市販の小型ドローンはプロペラを含めれば手のひらからはみ出す程度の大きさだが、これは光彦の手相さえ覆えていない。

 

「オイオイ、まさかそのサイズで普通にドローンとして使えるってのか……?」

 

「そのまさかですよ。ちなみに騒音も虫レベルに小さくて、運動性能は大型の高級ドローン並みです」

 

光彦はゲーム機のコントローラーのような――というより実際に市販のゲーム用コントローラーを流用しただけのもの――を取り出し、両手でそれを操作し始めた。

ドローンがゆっくりと浮上していき、そしてターゲットとなる建物へと向けて加速しながら飛んでいく。

 

「光彦くんすごーい! 画面もきれいに写ってるよ!」

 

光彦ご自慢のゴツい風体のノートPCには、ドローンから送られてくる映像がくっきり写っていた。目当てのビルの1階ロビーはとても明るいので、光量はまったく不足していなかった。ガラス張りの正面エントランスの外側から容易に中の様子が伺える。

 

「ロビーの中は、警備員がずいぶん多いですね……普通の会社の夜間警備にしては厳重すぎる」

 

「ああ、表向きと違って実態はろくでもねえ会社だっていう証拠みてーなもんだ」

 

「でもよぉコナン、こいつらフツーの警備会社のスタッフじゃねえか? あの制服のロゴ見たことあんぞ」

 

元太の言う通り、彼らの制服もそのロゴマークも、テレビCMなどでお馴染みの大手警備会社のものだった。そして彼らの顔立ちや雰囲気も、悪の組織の構成員というよりは普通の会社員にしか見えないものだ。

 

「ああ、おそらく彼らは単に雇われて派遣されているだけのただのスタッフだろう。この会社が裏で何をやっているかなんて知りもしねーはずだ」

 

「となると、彼らは上の階には行けないようになっているということでしょうか?」

 

ロビーの奥には自動改札のようなゲートがあって、そのゲートの向こう側にエレベーターが見えていた。しかしドローンから見る限り、警備員は全員そのゲートの手前に配置されているようだった。ゲートの先には組織の人間しか入れないようになっているというのはいかにもありそうな話だ。

 

「おそらくな……。なあ、なんとかしてドローンで建物の中に入れねーか?」

 

「それは無理です。誰かがエントランスを開けてくれないことには……。ここでじっと待っていれば、警備員の誰かが出入りする時に潜り込めるかもしれませんけどね」

 

それはもちろん可能な方法ではあったが、同時にずいぶんと気の長い話でもあった。仮にもしシフト交代の時間まで誰も今の持ち場を離れないとしたら――その可能性は大いにある――侵入のチャンスが来る頃には朝になっているかもしれない。

 

「ねえ、他の入り口はないの? 裏口とか?」と歩美。

 

「そうですね、とりあえずグルッと一回りしてみましょうか」

 

ビルの裏側に回ると、それはあっさりと見つかった。地下へと降りる下り坂の入り口があって、そこに扉はなくゲート式駐車場用の可動バーがあるだけだったのだ。地面にはわかりやすく矢印が書かれていて、奥に進むよう示している。

 

「トラックの搬入口兼地下駐車場の入り口ってとこだな。とりあえず入ってみよう」とコナン。光彦はうなずき、暗い地下へとドローンを進めた。

 

駐車場の中は薄暗かったが、非常灯のような光で照らされていてそこまで視界には不自由しなかった。映像のノイズが増えた程度で、普通に周囲を見渡すことができる。

広いスペースの半分ぐらいが車で埋まっていて、中には大型トラックや重々しい大型車両も見受けられた。その中の一台にコナンの目が止まる。

 

(あれは……ジョナスが乗っていた車……!)

 

見間違いようもない。初めてジョナスがコナンの前に現れた時に乗っていた黒づくめの大型SUVだ。ナンバープレートの数字もあの時とっさに覚えていた――間違いなく、それと同じ数字だった。

 

(やっぱり、奴はここにいる……! そして灰原も……!)

 

コナンはごくりとつばを飲み込む。手汗もじんわりと滲んでいた。

 

「ねえ、あれってエレベーターじゃない?」

 

歩美が指差した先には、ガラスの仕切りの向こう側で他の照明とは色味の違う明かりに照らされた扉が映っていた。その隣には操作パネルもついていて、誰が見てもそれがエレベーターであることがわかる。

ついでにそのそばには非常階段とおぼしき古びたドアや管理室、そして電気設備室らしき部屋もあった。管理室の中に誰かいるのかどうかはこの角度の映像ではわからない。まさか無人ということはあるまいが。

 

「やったぜ、誰もいねーじゃねーか。あそこから忍び込めばすぐに上まで行けそうだぜ!」と大喜びの元太。

 

「いや……いくらなんでもそんな簡単なはずがねえ。正面をあれだけ固めているのにこっちは手薄ってことは、こっから上に上がれるようにはなってねえってことだ」

 

「当然の結論ですね」

 

「うぐぐ……」

 

言葉に詰まる元太を尻目に、光彦は言葉を続けた。

 

「あのエレベーターが物理的に上まで繋がっているのか、それともせいぜい1階のロビーぐらいにしか通じていないのか……。どちらかはわかりませんが、いずれにせよカードキーか何かで認証しないと、たとえエレベーターに乗れても上の階へのボタンは押せないでしょうね」

 

「それってうちのマンションと同じってこと?」と歩美。

 

「まあいずこも似たようなものでしょう」光彦が肩をすくめ、ちらりとコナンの方を見る。

 

「さて、どうしましょうかね」

 

「……これがもしキッドやルパンなら、どうにかして華麗にキーを盗んじまうんだろうな」コナンがつぶやく。

 

「だけど俺たちにはじっくりキーを探しているような時間はねえ……。オレの予想通りなら、そう遠くないうちに灰原は海外に連れ出されちまう。そうなっちまったら助け出せる可能性は完全にゼロだ。そしてそれはもしかしたら明日のことなのかもしれねえ……」

 

コナンは己の左拳を右手で握りしめ、自分がかすかに震えていることを確かめる。手汗はもうぐっしょりとしていて、喉もひどく乾いている。間違いなくコナンは、この先待ち受けているものを恐れていた。

 

「へへっ、今さらビビってんのかコナン?」と元太が口の端を吊り上げる。

 

「……そうだな、オレはビビってるよ。強がったって仕方ねーしな」

 

だが同時にこの震えは武者震いでもあった。それはもう何年も味わっていない、決意と高揚の感情だった。

コナンは一瞬だけ笑みを浮かべるとまっすぐ立ち上がり、3人を見回した。

 

「……みんな、聞いてくれ。オレはずっと逃げてきた。自分がしたことの責任からも、あいつの気持ちからも……何もかもから目を背けて、あげくには何もかも面倒になってオレは腐っちまった。光彦の言うとおり、最低だよオレは」

 

「……」

 

光彦は無言でコナンを見つめ返す。

 

「だけど……オレはもう逃げない。オレはあいつに……灰原に、どうしても伝えたいことがあるんだ」

 

歩美はその言葉を聞き、目を輝かせ胸をときめかせた。

光彦はやれやれとばかりに肩をすくめた。

 

「まったく、待ちくたびれましたよ……。さて、現実にこの目下の難関を前にどうします?」

 

「……ちょいとばかり無茶するしかねーだろうな」

 

コナンは口の片方を吊り上げて笑みを浮かべる。

 

「へへっ、それでこそだぜ」元太が鼻をこすって笑う。

 

「コナンくん、あたしだって準備万端だよ!」

 

 

 


 

 

 

伊藤明人、28歳。

彼は実直な会社員だった。中学高校と柔道部でそこそこの成績を残し、その腕を買われて大手警備会社に就職した。過去には駅でたまたま居合わせた暴漢を背負い投げ一本で取り押さえ、警察署から表彰されたこともある。とはいえ、つまるところ彼はごく普通の一般市民だった。腕力には多少の自信はあるとしても。

 

その日彼は、とある貿易会社の夜間警備に派遣されていた。聞いたこともない会社だったが、なぜ夜のロビーにこんなにも多くの警備員が配備されているのかはよくわからなかった。

 

(まあそんなことはどうでもいい、ただ自分の仕事をするだけだ。)

 

伊藤はそう考えて正面エントランスの自動ドアの前でどっしりと構えていた。

 

「うん……?」

 

ふとこんな時間に、外から誰かが歩いてやってきた。小脇に何か大きな荷物を抱えているようだった。

伊藤は目を細めて観察していたが、外は暗すぎて最初はほとんどよく見えなかった。やがてその男が充分に近づいてくると、ロビーの明かりに照らされ男の顔が見えた。いかつい男だった。かなり大柄な体格で、服の上からでも鍛えられた分厚い肉体の持ち主であることがわかる。男はうっすら笑みを浮かべていた。抱えている荷物はひどく重そうだった。それが一体何なのか、理解するのに少し時間がかかったのは、こんな場所にあるにしてはあまりに場違いなモノだったからだ。

 

(石……?)

 

バスケットボールよりも一回り大きな石。気づいた瞬間、男は邪悪に笑うと同時に、思いきり踏み込んで加速をつけ全身を振り回してその石を放り投げてきた。

 

「はいいっ!!??」

 

伊藤はとっさに横に飛んで石から逃げた。当たり前の行動だった。あんなデカい石をぶつけられたら、人間は死ぬ!

伊藤と石との間にはロックされていたガラスの自動ドアがあった。しかしそんなものはなんの役にも立たなかった。けたたましい音とともにガラスが砕け、破片が足元に飛び散る。外の風がロビーに入り込む。そしてその男も。

 

「なんのつもりだお前っ!」

 

伊藤は即座に体勢を立て直し、ロビーにへと侵入してきたその男に飛びかかった。

走る勢いのまま脚を掛け、腰に腕を回して投げを仕掛ける。

その瞬間、伊藤は「何か」にぶつかった。いやぶつかったわけではない。こちらが技を仕掛けたのだ。だが――

 

(動かない)

 

男はピクリとも動かなかった。まるで……電柱――? 巨木――? 自分は一体何を投げようとしている――?

 

背筋に寒気が走った瞬間、伊藤は顔面をその男に掴まれた。分厚い大きな手のひらに視界が覆われ、強烈な圧迫とともに体の自由が一瞬にして失われた。思考ではなく、肉体(からだ)が理解した。

 

(人間の力じゃな――)

 

次の瞬間、伊藤は宙を舞った。男が伊藤を放り投げたのだ。それは柔道や格闘技の投げ技などではなかった。そもそも技でもなんでもなかった。

わんぱくな子どもが飽きたおもちゃを放り投げるように、ただ腕力で適当に投げただけだった。

 

「なんだこいつ……!」

 

「全員で取り押さえろっ!!」

 

周囲の警備員たちが次々と駆けつける。彼らは全員がなんらかの武道や格闘技の経験者だった。空手の黒帯もいれば、キックボクシングのプロ志望練習生もいた。その全員が、侵入者――小嶋元太を取り囲んで飛びかかろうとしていた。

 

 

 


 

 

 

「ボス! ロビーからの警報です。侵入者のようです!」

 

ソファーの上でうたた寝していたジョナスは、部下の声によって身を起こした。

モニターにはロビーの様子が映っている。熊のような大男が、まったくの素手で複数の警備員を相手に暴れ回っていた。

 

「へえ……シェリーのお友達かな? ずいぶんと活きのいいやつがいたもんだ」

 

形勢は一方的だった。武器といえばアルミ製の警棒ぐらいしか持っていない警備員たちでは到底歯が立たないようだ。

 

「私が行こうか?」

 

背後からジョナスに声をかけてきたのは、背の高い赤髪の女だった。女は氷のような冷たい目でモニターをじっと見ていた。

 

「まあそう焦るなよマチルダ。君の出番はもっと後さ。あそこにはカシワギを行かせれば充分だろう」

 

マチルダと呼ばれた女は、うなずくでもなく無言のままだった。その表情はなんの感情も表しておらず、眉一つさえ動かしていない。

ジョナスはソファーに背をもたれながらそんなマチルダを見上げ、クスリと笑った。

 

「それにしても今出てきているのはあの男一人か……あからさまな陽動もあったもんだ。となると本命は地下から来るか、あるいはそちらも誘いなのか……?」

 

ジョナスは文字通り手ぐすねを引いて口の端を吊り上げた。

 

「ククク……歓迎するよ、工藤新一。僕の首を獲りたいんだろう? まずはここまで辿り着けるか……ぜひそうであって欲しいけどね」

 

 

 


 

 

 

元太がロビーで暴れ始めたちょうどその時、コナンは地下駐車場の車の陰で身をかがめ息を潜めていた。

1分と経たないうちに、それまで静寂に包まれていた地下空間に複数の人間の足音と話し声が響き始めた。

コナンの探偵メガネの片方のレンズには、駐車場のあちこちに拡散していく黒服たちの姿が映っている。光彦のドローンの映像を転送してくるように設定したのだ。

 

「(思ったとおり……こいつらは表の警備員じゃない。全員が銃を持っているみたいだ)」

 

コナンは声を潜めて目の前の人物に耳打ちした。

 

「(さっすがコナンくん! コナンくんの予想通りだね)」

 

歩美は嬉しそうだったが、コナンは改めて身を引き締める。

 

表で元太が暴れれば、それが陽動作戦であることはすぐにバレる。それこそがコナンの狙いだった。

こちらが地下から潜入するつもりだと向こうが判断してくれるなら、必ず一般の警備員ではなく武装した組織の人間が送り込まれてくる。

そして彼らの中には必ず、上階へのキーを持っている人間がいるはずだ。

危険なアイディアではあったが、手っ取り早くキーを入手するのにこれ以上早い方法は考えられなかった。もとより危険は百も承知なのだ。

 

(今のところ確認できるのは5人か……はたしてこれで全員かどうか。どっちにしろ、麻酔銃や他のアイテムを駆使しながら不意打ちで一人ひとり倒していくしかねえか……)

 

コナンはあごに手を置き、昔懐かしい推理ポーズでまずはこちらの方向に近づいてくるひげもじゃの黒服を倒す方法を考え始めた。

だがその思考は、歩美の声によって遮られた。

 

「(ねえコナンくん、あたし行ってくるね)」

 

「(へ? い、行ってくるって?)」

 

「(ここはあたしに任せて)」

 

自信満々に拳で胸を叩く歩美。

 

「(ちょ、ちょっと待って歩美ちゃん! 奴らは銃を持ってるんだよ!?)」

 

「(大丈夫大丈夫! あたしこういうの得意だもん)」

 

次の瞬間、コナンはわが目を疑った。歩美は目の前にいた。彼女はまだピクリとも動いていなかった。

それなのにまさに目の前で、歩美の存在が"薄く"なったのだ。まるでそこに人間がいるという事実自体が薄れてしまったかのように。

 

「……ッ!!」

 

コナンの頬に冷や汗が流れる。

歩美は最後にコナンに微笑むと、身を一層低くかがめてスウッと去って行った。なんの足音も、衣擦れの音さえしなかった。完璧なまでの気配断ちと無音移動。

こんな技術を持っているとしたら、それは探偵というよりもむしろ一流のスパイか暗殺者のような――

 

(歩美ちゃん……一体どこであんな技を身につけたんだ……?)

 

 

 


 

 

 

「おらああああああっ!!!!」

 

元太は叫びとともに小太りの男を放り投げた。

既にかなり暴れていたが、まるで疲れる気がしなかった。体がエネルギーに満ちあふれている。こんな感覚は初めてのことだった。

 

「おいっ! 誰か上に行く鍵持ってねーのかよ!!」

 

元太は辺りを見回して床に転がっている警備員たちに大声で尋ねる。既に彼らは全員戦意を喪失していた。

 

「そ、そんなこと言われても……」と伊藤が首を振る。

 

「くっそー、そんなにうまくいかねーか……」

 

元太が舌打ちしたその時、背後に誰かが立っていた。振り返った元太が目にしたのは、筋骨隆々の鋼の肉体。黒いタイトTシャツを隆々と盛り上げる、風船のように膨らんだ大胸筋。頭蓋骨より太い首、滑稽なまでに盛り上がった二の腕、全身で異様なまでに浮き上がった血管――それらの情報は一瞬で元太の脳裏を駆け巡り、全力で警報を鳴らした。

男は元太めがけてその強大な拳を振り下ろした。ガードの上、しかしまるで土木用ハンマーの一撃かのように重く激しい衝撃が全身を揺るがす。

 

「ぐっ……!」

 

歯を食いしばった元太が体勢を立て直すより早く、30センチを優に超える靴底が腹を撃ち抜く。

それは、ただの前蹴りだった。

なんの変哲もない基本技にして、しかしすさまじい破壊力。

巨体が後方に吹き飛ぶ。

むしろ吹き飛ぶことで、多少はダメージを逃がした。

しかしなんというパワーか!

 

「オイオイ、オレよりつえーじゃんこいつ……」

 

元太は一瞬にして目の前の男の実力を感じ取った。

自分よりも大きく、強い。

スキンヘッドに整ったあごひげを蓄えたその男は、首を傾けながら二コリともせず冷徹な目で元太を見下ろしていた。

一目で格上とわかる相手を前にするのは、中学1年生以来初めてのことだった。

膝がわずかに震えているのは、ダメージのせいなのかそれとも恐れのためか?

自分自身にすらその答えはわからない。

 

(だからって、退けるかよ……!)

 

元太が拳を固める。息を大きく吸い込み、一瞬湧いた恐怖の心を押し込める。

まずは一発言葉でカマしてやろう。元太はそう思ってウィットに飛んだ悪口でやり込めることにした。光彦の得意技だ。

 

「どけよ、ハゲ」

 

やっぱり光彦みたいにはうまいこと言えないなと元太は思った。

 

 

 


 

 

 

「そっちは見つかったか?」

 

「いや、まだだ」

 

音がよく響く地下駐車場の中で、黒服たちは地声で連絡を取り合っていた。

その一人であるひげもじゃの男は、両手で銃を構えながら周囲を警戒しつつ歩みを進めていく。

その男から見て柱の陰、死角の位置で歩美は息をひそめていた。

 

歩美から見てもその男はもちろん死角に位置しているから、直接その姿を見ることはできない。しかし、男は自分の発する音に対してまるで無頓着だった。男の位置は歩美にとって手に取るように把握できた。

男が柱のすぐそばにまで近づいたその時、歩美は獲物を狙う猫のように一切の音も立てることなく半身で動き出し、するすると男の背後に回り込んだ。

銃を構えてあちこちを見渡すその男は、しかし真後ろに忍び寄る何者かの存在に気づくことはなかった。

 

残り80センチにまで接近した歩美は、その瞬間"ハント"を開始した。

縮地の踏み込みで左腕を男の首に回すと同時に右腕でロックし、全体重を腕に乗せて一気に後ろに引き倒す。

どれほどの体格差があろうとも、まったくの不意打ちでこれほど完璧に頸動脈を絞められて抵抗のできる人間はいない。

歩美の背中が地面に着く時、男は既に意識を失っていた。

 

「そこに誰かいるのかっ!!」

 

さしもの歩美も、敵を仕留めたその瞬間の物音まで消せるわけではない。異常に気づいたもう一人の男がただちに迫ってきていた。

男は躊躇なく銃を撃ち、柱に一発、車体に一発が命中する。

歩美はとっさに身をかがめて這うような低い姿勢で脱兎し、車の背後から別の車の背後にへと移動していた。

 

「そこかっ!!」

 

ほんのわずかな物音に反応した男がもう一発の銃弾を放つ。その銃弾は車のドアを貫通しただけだったが、それは歩美にとって間一髪のタイミングだった。幸いにして男はそのことに気づいてはいなかったが。

 

(あの人、さっきの人より手強い)

 

歩美は即座に相手の力量を感じ取っていた。うかつに仕掛ければ、腹に風穴が開くだろう。

冷汗が頬を垂れ落ちる。これほどのピンチはいつ以来だろうか。

だがたとえどれほど命の危険があったとしても、それは歩美にとって人生初の出来事ではなかった。

なんの力もなく、ただ誰かの助けを待つことしかできなかった子ども時代の危機の数々を思えばさほど恐ろしくもなかった。

 

歩美は足元に落ちていた小さな石ころを拾い上げる。タイヤの溝かどこかに挟まって迷い込んできたのであろう、ただの石ころ。小さすぎて直接ぶつけたところで人間は倒せそうにない。

しかしそれは彼女にとって願ってもない武器だった。

 

 

 

コンッ

 

男の背後で乾いた音が鳴り響く。

考えるより先に、男は即座に振り返り三度引き金を引いた。

その音がただ石ころが車にぶつかっただけのものだと気づくには、次の出来事はあまりにも一瞬すぎた。

側頭部への強烈な衝撃。

体を崩され、横にあった柱に叩きつけられ頭が再度揺れる。

視界に火花が散った直後に襟首を極められ、呼吸が止まると同時に体が宙を舞う。

"絞める"と"投げる"を同時に行う歩美必殺の奇襲技。

後頭部からコンクリートの地面に叩きつけられた男は、しかしかろうじて意識を残していた。吐き気をこらえながら銃を握り直し、目の前の誰かに銃口を向けようとする――だが、次の瞬間かかとが男の顔面に踏み落とされていた。

男はもはやその日のうちに目を覚ますことはなかった。

 

 

 

「あっちだっ!」「囲めっ!」

 

銃声を聞きつけ、既にそこには地下フロア全体の黒服たちが集まり始めていた。

彼らはかすかな物音や動く影に反応して躊躇なく銃弾を放っていく。武装だけでなく動きの洗練ぶりや判断の速さも、歩美がこれまで相手にしてきた素人犯罪者たちとは確かに格が違った。

 

しかし彼らは知らなかった。

歩美がこの緊迫に満ちた実戦において、その技能と感性を急速に研ぎ澄ましつつあることを。

 

「どこに行った……?」

 

確かに複数人で囲ったはずだというのにまたたく間に姿を消した標的を、顔中ピアスだらけの男が慎重に探していた。

柱や車の陰はいくらでもあるから、どこかに隠れていることは間違いない。

ピアス男は中型トラックの周りを一周し、それからふと足元に視線が向かう。

 

「下か……?」

 

膝をつき、トラックの下を覗き込む。暗くてすぐにはわからなかったが、どうやら誰もいないようだった。

 

「ちっ、一体どこに……」

 

次の瞬間、何かが真上からピアス男の頭に直撃しその衝撃で地面にキスをすることになった。さらにもう一発の衝撃が加えられ、同時に意識がブラックアウトした。

 

 

 

「また誰かやられたぞっ!」「くそっ、姿を見せやがれっ!」

 

(あと2人……)

 

歩美はトラックの荷台の上でうつ伏せになりながら、下の様子を観察していた。

命がかかっている状況だというのに、ひどく落ち着いている自分に気づく。

 

(大丈夫、あの人達には負けない)

 

歩美は総攻撃を開始した。荷台から飛び降り、子猫のように静かでなめらかな着地からロン毛男の背後に低く忍び寄り、またしても奇襲の一撃が成功した。

最後の一人である顔面タトゥーまみれ男の銃撃を前転でかわし、柱や車の陰を次々に移動しながら徐々に接近、そして死角からの急襲によって金的を打ち抜き、悶絶するタトゥー男を立ち関節からの投げ技でコンクリートに叩きつけ失神させた。

 

地下フロアにようやくの静寂が訪れる。

さしもの歩美も大きく安堵の息をつき、それからタトゥー男の背広に手を突っ込む。

 

「あった! 絶対これだ!」

 

ICチップ型のカードキーが透明のカードホルダーに入れられたものを内ポケットで発見し、歩美の表情がパッと明るくなる。

休憩している暇はなかった。

すぐに1階の元太と合流して上に行かねばならない。本当の戦いはおそらくここからだ。

 

歩美はエレベーター前に走り、呼び出しボタンを押した。扉の上の階数表示に気を取られていたまさにその時だった。

 

「手を上げろ」

 

背後から響く冷徹な声。

撃鉄が起こされる音。

 

「こちらを向くな。両手を上げてゆっくりとひざまずけ。それ以外の動きをするなら殺す」

 

歩美は己の油断を恥じた。おそらくは黒服の一人が、出動することなく待ち伏せていたのだろう。

目に映る範囲の敵を仕留め終わった時点で警戒を解いた――それは未熟さの現れだった。

声の距離からして、相手は後方3、4メートル離れた位置にいる。彼らの銃の腕は確かだ。この状況から逃走や反撃ができる可能性はない。

 

歩美はゆっくりと両手を上げ、静かに目を閉じた。

 

「さて……まずはこれ以上暴れられないように脚でも撃っておこブベッ!!!」

 

鈍い打撃音が響き、歩美は後ろを振り返る。男は前のめりに倒れ、尻を突き出した姿勢で気絶していた。

 

「ふう……無茶しすぎだよ歩美ちゃん」

 

何かを蹴飛ばしたらしきコナンが胸をなでおろす。

 

「えへへ~、ありがと、コナンくん!」

 

 

 


 

 

 

「ぐあっ……!」

 

プロレスのようなラリアットで吹き飛ばされた元太がかろうじて踏ん張って耐える。

大男の拳がうなりをあげて迫り、ギリギリのところで身をよじってかわす。

元太はほぼ防戦一方の戦いを強いられていた。単純な力で凌駕される戦闘など、元太はまったく慣れていなかった。

目の前の男は自分と同じだ。戦術やテクニックなどではなく、純粋なフィジカルとパワーでねじ伏せるいわば"腕力屋"。同じタイプだからこそ残酷なまでに力の差が表れてしまう。

 

(やっぱクスリやってるよな~コイツ……)

 

男の筋量や体型、そして異様な血管の浮き方は明らかに不自然だった。元太に薬物の知識はない。しかしナチュラルな人間は"こう"はならないということはわかる。

ただでさえ恵まれた骨格や才能を、さらに薬物で増強したのがこの怪物的腕力の正体だ。年齢的にもまだまだ発展途上である元太がかなわないのはむしろ当然とさえ言えた。

 

(あ……ちょっと笑ってやがる)

 

仏頂面だった大男のいかつい顔にうっすらと笑みが浮かぶ。勝利を確信し、哀れな獲物をあざ笑っているのだろう。

男は元太のパンチによって鼻血を流していたが、さしたるダメージがあるようには見えない。その鼻血を舌でなめ取り、ニタニタとした笑みがますます不気味さを増す。

 

(獲物を前に舌なめずりは三流って言うけどよぉ……)

 

大男が元太に襲いかかった。豪腕が次々と叩きつけられる、竜巻のようなノンストップ連打。

腰を落とし全身を固め全力で防御する元太だったが、徐々に後退していくとともにガードが壊されていく。

 

(その三流より弱いオレはしょせん雑魚ってこと……)

 

いつの間にか元太は壁を背負っていた。もはやこれ以上後ろには下がれない。

男の連撃はまだ止まらなかった。

元太の腰が少しずつ落ちていく。

 

決着がつく――誰もがそう思ったその時だった。

 

腰が地面にまで落ちかけていた元太が、一気に飛び上がった。

男は、近づきすぎていた。だから真下から襲ってくるそれに対する備えはなかった。

 

頭突き。

 

ほぼあらゆる格闘技で禁止されている、最も原始的で最もシンプルな打撃。元太の脳天が、真下から男のあごを打ち抜く。

ゴンッ!!!という、ボーリング玉の衝突ような音がロビーに鳴り響く。

男はよろめき、力なく後退した。間違いなく彼の視界には星が飛んでいる。

 

「どけっつっただろハゲ」

 

頭を前に出し、全速力でタックルを仕掛ける。頭突きがみぞおちに突き刺さる。そこから間髪入れずに金的への膝蹴り。苦悶の声が聞こえる。

顔を上げれば、男の横顔が目の前にあった。

 

元太は躊躇しなかった。

かつて超有名ボクサーが犯した世紀の大反則・耳かじり。しかしルール無用の戦いにおいてはそれも"合法(リーガル)"だ。

 

「うぎゃああああっ!」

 

強烈な痛みに男が絶叫する。耳から血が吹き出す。

完全に無防備に腰を丸めるその男を見下ろし、元太は大きく脚を上げ背中が前に出るほど上体をひねって振りかぶった。

それは技として教わるようなパンチの打ち方ではなかった。あまりにも大振りで、あまりにも隙だらけだった。それはパンチというより、もはや投擲種目だった。

全身の力を軸足に溜め、一気に踏み込む。

最大の加速をつけ、全体重を拳に乗せてただただ力いっぱいに――振り抜いた。

 

 

 

「はあっ、はあっ……」

 

大の字で地面に転がる男を見下ろし、元太は膝に手を置いて呼吸を整えていた。

 

(まだまだだな~、オレ)

 

しかし今は勝利を味わっている場合でも反省している場合でもない。ここはまだ入り口なのだ。

ロビーの奥のエレベーターに目線を移したちょうどその時、その扉が開いてお馴染みのメンツが現れた。

 

「元太くん、そっちは大丈夫!?」

 

「歩美! コナン! そっちもうまくいったのか!?」

 

「うん、バッチリ♪」

 

歩美は笑顔でカードキーを掲げる。

その瞬間、元太の体にみるみる精気が戻っていく。自分の拳と拳を突き合わせて元太は笑った。

 

「おっしゃあ、乗り込むぞおめーら!!」

 

 



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13 最上階

バトル漫画展開が続きますが、元々の構想通りだったりします。


エレベーターの階数表示が刻々と数字を増していく。そのスピードはごく標準的なはずだったが、元太にとっては異様に長く感じられた。はたして目的の13階で何が待っているのか。歓迎のうな重やケーキでないことだけは確かだった。

 

『いいかおめーら。奴らは間違いなくオレたちが来ていることをわかっている。とりあえずエレベーターの監視カメラは乗ってすぐに壊しちまったけど、まあ行先はバレバレだからな』

 

元太は先程のコナンの言葉を思い出す。

 

『オレが奴らの立場ならこうする。エレベーターホールの前に人を並べて、到着と同時に一斉射撃だ。蜂の巣が出来上がってハイおしまいってわけさ』

 

「そのわりに落ち着いてやがんな」と元太。

 

『だからこそ……そこを突破できれば一気に奥まで突入できる。それが最大のチャンスってわけさ』

 

コナンは脇に抱えている()()()を撫で、それを持つ手に力を込めた。

 

『頼んだぜ、相棒』

 

 

 

13階。

エレベーター扉上のランプが点灯し、到着を知らせる。

それを手ぐすね引いて待ち構えていたのは4人の黒服たちだった。全員が銃を構えており、扉が開くとともに侵入者を風穴だらけにする準備は万端だった。

だがその扉が開いた時、黒服たちが目にしたのは予想外の光景だった。

 

「空っぽ……?」

 

ほんの一瞬、彼らは呆気にとられた。その中はもぬけの殻だった――いや、そうではなかった。

よくよく見れば安直な隠れ方にすぎなかったのに一瞬だけそう見えたのは、想定していた場所にはいなかったからだ。そして彼らに、よくよく見るような隙は与えられなかった。

 

ドン!!!

 

突然、横からの轟音。黒服たちが気づいた時には、何者かが一瞬で距離を詰めてきていた。信じられないようなスピードで何かが突入してきたのだ。

銃を構え直すよりも早く、その何者か――コナンはその勢いのまま集団の真っ只中に突っ込んできた。その衝撃はバイクに跳ねられたも同然で、たまらず男たちは跳ね飛ばされてしまう。

コナンは一気に囲いを突破し、後方に突き抜けた。

 

「なんだあれは、スケボー!?」

 

「非常階段を昇って来たってのか!?」

 

4人の黒服達のうち、少なくとも2人は跳ね飛ばされた勢いで銃を落としていた。狙い通りの最高の好機。

 

「今だ、おめーら!!!」

 

立ち上がって後ろを振り返ったコナンが叫ぶ。

 

「おうっ!!!」

 

誰もいないはずのエレベーターの中から応答の声がする。

エレベーター内の天井に掴まって張り付いていた歩美と、外から見ると死角となる階数パネルの陰に座り込んで身を隠していた元太が姿を現し、一斉に駆け出す。

いわばそれは、猛牛と豹による同時突撃。

 

歩美は走りながら斜めに跳躍して壁を蹴り、反動で更に高く跳んで上から襲いかかった。同時に元太は正面から突進しショルダータックルで一度に2人を弾き飛ばす。

密着戦となった今、銃よりも彼らの方が速かった。

一発の銃声が鳴り響くが、その弾は天井に穴を空けただけだった。銃口を向けたと同時に歩美の蹴りによって腕を跳ね上げられたのだ。

 

その直後に歩美の飛び蹴りと元太の肘打ちを同時に浴びた長髪の男は、一瞬で意識が虚空に飛び去った。

更にコナンも背後から体当たり攻撃を加え、エレベーターホールは混沌と化す。

そこからわずか十数秒でその場は制圧され、つかの間の静寂が訪れた。

 

「ふ~、うまくいったみてーだな」

 

コナンは胸をなでおろす。

 

「久しぶりのわりには馴染んでるじゃねーかコナン」

 

「ああ……。光彦のヤローには感謝しとかねーとな」

 

コナンは足元の下にあるものに視線を落とす。あまりにも懐かしい、ターボエンジン付きスケートボード。大きさも今のコナンの体格に見事にフィットしていた。

このスケボーがあるだけで百人力になったような気さえする。

 

「ふふっ、とっても似合ってるよコナンくん! なんだか子どもの頃に戻ったみたい」

 

「う~ん、喜んでいいのかどうなのか……」

 

どうでもいいけど黄色と緑の子どもっぽいカラーリングまで再現しなくてもいいのに、とコナンは思った。

 

とはいえ、コナンがエレベーターに乗ることなく非常階段を使って同時に登ってくることができたのは間違いなくこの"相棒"のおかげだ。

コナンと元太歩美は2つ入手できたカードキーを分け合い、エレベーターと非常階段から同時に突入する作戦を選んだ。

もちろん階段そのものはスケボーでは走れないので手すりの上を走る必要があったが、ぶっつけ本番でそんな曲芸じみたライドができるという自信がコナンにはあった。

何しろこのスケボー一つでこれまで数え切れないほどのハリウッド映画じみた追跡劇や脱出劇を演じてきたのだから。

 

「さて、のんびりしてるわけにはいかねえ……」

 

エレベーターホールの先、奥に進む通路は2本あった。はたしてどちらが正解の道なのか。

 

「オレは右に行く。おめーらは左を頼む!」

 

「うん、わかった! 気をつけてねコナンくん!」

 

コナンはうなずいてスケボーを起動させ走り出す。

歩美と元太もすぐに先にと進んだ。

 

 

 

歩美と元太が2回の曲がり角を経た通路の先には、広々とした大部屋が広がっていた。オフィスルームのはずだが、机や機械のたぐいは何ひとつ置かれていない空っぽの空間。

その大部屋の真ん中に、一人の男が立っていた。

若々しい顔、明るい金髪、白いシャツ……それはコナンから聞いていた通りの姿だった。

 

「元太くん、あの人って多分……」

 

「ああ……灰原をさらったジョナスとかいうクソヤローだな」

 

立ち止まった元太は、10メートル強ほど離れた位置にひとり立っているジョナスに対して奇妙な違和感を覚えていた。

銃も何も持っていない、まったくの素手。それなりに引き締まったたくましい体つきだが、体格が特に大きいというわけでもない。どう見ても普通の人間の範疇だ。

それなのに、元太の本能は大音量で警報を鳴らしていた。冷や汗が頬を垂れ落ち、固く握った拳が震えだす。

 

「残念、彼はこっちには来なかったか……。まあ、君たちを相手に遊ぶのもなかなか楽しそうだ。あのカシワギに殴り勝った腕力にも興味があるしね」

 

ジョナスがシャツの袖をまくって口の端を吊り上げる。

 

「さあ、始めようか」

 

 

 


 

 

 

「開けなさい! 一体何が起きているの!? 誰かいるんでしょ! ここを開けなさい!!」

 

哀はドアを何度も叩いて声を張り上げていた。哀が飛び起きたのは、はっきりと銃声が聞こえたからだ。その銃声の後にフロアは再び静まり返っていたが、落ち着いていられるはずもない。

哀は寝室として与えられた小さな部屋に閉じ込められていた。ちょっとしたホテルのようにベッドやインテリアは整えられていたが、小綺麗なだけの牢獄であることに変わりはなかった。

 

哀の脳裏に嫌な予感がよぎる。もしや彼が、ここに来ているのではないか?

あの銃声はそうとしか考えられなかった。

 

(お願い工藤くん、無茶はしないで……どうか、無事でいて……)

 

 

 

コナンがたどり着いたのは、通路沿いにいくつものドアが並んでいる場所だった。小さな個室が集まっているということだろうか。

だとすれば、この中のどこかに哀がいる可能性は大いに考えられた。

 

「灰原……どこだ……?」

 

コナンはスケボーを小脇に抱えて一番手前のドアをスライドし開く。そこは段ボール箱や大きな荷物がいっぱいの倉庫部屋のようだった。

探偵としては興味のある場所だったが、今はここに関わっている暇はない。

 

次の部屋は会議室のようで、真ん中の大きなテーブルの周りをいくつもの椅子が取り囲んでいた。ここも外れだ。

 

3つ目のドアに手をかけた瞬間、コナンは人の気配を感じ取った。この中に、誰かがいる。

 

(灰原……?)

 

勢いよくドアをスライドしたコナン。

 

だがそこにいたのは待ち人ではなかった。

赤髪の女。平気で何人も殺してきたかのような、恐ろしく冷酷な目。

 

全身に寒気が走ったその瞬間、コナンは後ろに飛び退いていた。その本能的な退避はまったくの正解だった。鼻先ほんの数センチ前を何かがかすめたのだ。

 

「ぐっ!」

 

後ろの壁にぶつかったコナンは、そこで女の全身を目の当たりにする。

燃えるような赤髪に氷のような冷たい目、黒づくめの衣装。そしてその右手には、刃渡り60センチほどの刀剣が握られていた。反りのない直刀。その鈍い輝きは、それが美術品などではない人斬りの刃物であることをひと目でわからせていた。

 

(間違いない……こいつはあの時オレを監視していたジョナスの右腕……!)

 

他の黒服たちとは異次元の存在感を放っていたあの女――マチルダが今、コナンの前で殺気を放っていた。

コナンは頭を下げて横に飛び、かろうじてマチルダの斬撃をかわす。そして思いきり走って距離を取ってから再び向き合った。

 

(オイオイ、壁が切れてるぞ……)

 

コナンがさっきいた場所の壁には、きれいな太刀筋が残っていた。もちろんマチルダの剣はまったくの無傷だ。

マチルダは構えらしい構えを取ることさえなく、剣先をだらりと垂れ下げたまま普通にまっすぐ歩いてコナンに向かってくる。戦闘というより、まるで散歩でもしているかのような警戒感のなさだ。

 

(冗談じゃねえ、こんなのまともに相手してられるかってんだ……!)

 

コナンはすぐさま奥の手を使うことにした。

左手に着けている時計型麻酔銃。これなら戦闘力などなんの関係もない。実際に使うのは数年ぶりだが、狙いの腕は鈍ってはいないはずだ。

コナンは一度深呼吸してから一気に腕を眼前に上げ、麻酔銃のスイッチを押す。

長さ2センチにも満たない極細の針が、目にも映らないほど高速でマチルダの顔面に向かって飛び出した。

 

ビュンッ

 

マチルダが無造作に剣を振るう。

麻酔針は――どこにも刺さっていなかった。それはどこかに消えてしまっていた。

 

「……今のは、なに?」

 

マチルダが刀身を眺めながら無表情で言い捨てる。

 

(オイオイオイオイ、まさかあのスピードの麻酔針を剣で払い飛ばしたってのかよ!?)

 

「とっとと死になさい」

 

マチルダが再びコナンに迫る。

 

(ちきしょう、剣との戦い方もハワイで父さんに教わっとくんだったぜ……)

 

 

 


 

 

 

元太は警戒心を振り払い、指の骨を鳴らしながらゆっくりとジョナスに近づいていく。

 

「歩美、おめーは下がってろ」

 

「ジョーダンきついよ元太くん!」

 

歩美は元太の横を駆け抜け、ジョナスの周囲を走って後ろに回り込む。ジョナスは歩美を目で追う素振りさえ見せずただ立っている。奇妙ではあったが、彼の狙いなどどうでも良かった。

元太は正面から、歩美は斜め後方から、同時に攻撃を仕掛ける。元太の豪腕が唸りをあげてジョナスの顔面を襲う。

次の瞬間、拳が空を切ったと同時に元太のみぞおちに肘鉄が刺さっていた。

 

「ぐふっ!」

 

歩美は元太に肘を刺したジョナスの背中に狙いを定め、中段蹴りを繰り出す。真後ろからの攻撃、かわせるはずもない――だがジョナスは瞬間的に腰を沈め、蹴りの軌道の真下をくぐった。こちらを向いてさえいないジョナスが後ろ足を蹴り出し、歩美は軸足を崩される。

そこからジョナスは跳ねるように立ち上がって手刀で元太の喉をえぐり、追撃の右ストレートで巨体を弾き飛ばした。

ようやく体勢を立て直した歩美がもう一度背後から今度はかかと落としを仕掛けたが、ジョナスはくるりと身をひるがえしあっさりとそれをかわした。

直後の下から突き上げるような上段蹴りはかろうじてガードが間に合ったが、歩美は蹴りの勢いだけで数メートル吹き飛ぶことになった。

 

「……ッ!!」

 

後方に転がりながらなんとか受け身をとってすぐに立ち上がる歩美。

ほんの10秒足らずの攻防、しかしそのわずかな時間でさえ、彼我の戦力差を思い知るには充分だった。

 

「哀ちゃんごめん、ちょっと勝てない……!」

 

スピード、パワー、技術、経験。およそあらゆる面で上を行かれている。

いざとなれば自分か元太が相手のボスを倒せばそれで解決するという甘い目論見は完全に打ち砕かれたと判断するしかなかった。

 

「ふふ……いい目をしているじゃないか、2人とも部下に欲しいぐらいだよ。……どうだ? いくら欲しい?」

 

ジョナスは余裕たっぷりに笑って2人を交互に見やる。

 

「ふざけないで……!」

 

歩美が再び構えを取る。

勝ち筋はまったく見えていない。だが元太と2人で力を合わせれば光明がきっと――

 

「……歩美、おめーは先に行け」

 

元太の突然の言葉に歩美は驚いた。

ジョナスもいぶかしんで元太を見やる。

 

「オレたちがここに来た目的は、こいつと格闘技ごっこをやるためじゃねえ……灰原を助け出すためだ。こいつはオレが食い止めるからおめーは灰原を探すんだ。この調子だとコナンのやつも心配だしな」

 

「はははっ! おかしなことを言う! 君一人で僕を足止めできるとでも?」

 

「ハッ! できるかどうかなんていちいち考えちゃいねーぜ。オレは()()だからな。探偵団全体にとってのベストを選ぶのがオレの役目だっつーの」

 

「元太くん……死なないでね」

 

「バーカ、いい男は死なねーんだよ」

 

元太が笑う。歩美は踵を返し、部屋の出口に向かって走り出した。

だが一瞬にしてジョナスに追いつかれる。

 

「僕から逃げられるとでも?」

 

ジョナスの魔の手が歩美に迫る。だが歩美はそれを防ごうとさえしなかった。

それをやるのは、彼の役目だったから。

 

「!!」

 

元太の渾身のタックルがジョナスに激突する。背中に両腕を回し、がっちりとロックする。体格体重では元太が上だ。いかな力量の持ち主といえども、一瞬で振り払えるものではなかった。

 

「行け!!!」

 

元太が叫ぶ。

歩美はコクンとうなずき、それから一瞥もせず走り去っていった。

 

「ちいっ……うざったい!!」

 

ジョナスの打撃が次々と元太に突き刺さる。一撃一撃が骨をきしませるほどの威力。

 

(あ~ヤッベ。オレまじで死ぬかも……)

 

心の中ではそう思いながらも、元太は決して倒れようとはしなかった。

 

 

 


 

 

 

「ハァ、ハァ……」

 

コナンは広々としたオフィスルームで柱の陰に身を隠しながら呼吸を整えていた。

 

(まいったな……このままじゃどうにもできねえ……!)

 

マチルダには不意打ちができるような隙はどこにもなかった。背後から仕掛けようがどうしようが、間合いに入れば間違いなく斬られるだろう。

コナンは呼吸を整えながら別の方策に頭を巡らせていた。

 

(あんなのに立ち向かおうとしても無駄だ。身を隠して逃げちまってから灰原を探した方がいい。そのためにやるべきことは……)

 

その時だった。どこか遠くの場所から、かすかな悲鳴が聞こえたのは。

遠い音ではあったが、コナンが聞き間違えるはずもない声。

 

(灰原……! さっきの小部屋が並んでいる場所か!)

 

(早くあっちに戻らねえと、そのためにはあの赤髪の女をどうにか振り切って……)

 

「!!!」

 

思考がまとまるよりも早く、マチルダの剣がコナンの頭上をかすめた。たまたま座っていたから命拾いしたコナンは即座に全速力でその場を離脱する。

 

(くそっ、どこに隠れようとも一瞬で見つけ出されちまう……!)

 

「ちょこまかと逃げ回ってばかり。情けない男ね」

 

マチルダはピクリとも表情を変えることなくコナンを見下す。彼女から見れば、コナンは逃げ回るハエのような下等な邪魔ものでしかないのだろう。

 

(出口は、あそこだ……!)

 

コナンはマチルダの背後に見える部屋の出口に目線を送る。

なんとかして隙を突けば、少なくともこの部屋から脱出することはできるはずだ。移動のスピードだけならスケボーのある自分の方が速い。

 

その時、マチルダがわずかに膝を曲げて腰を落とした。

次の瞬間、爆発的な踏み込みで一気にコナンとの間合いが詰まる。

驚異的なスピード。刺突の動き。コナンの脳裏に「死」の文字が浮かんだその時、柱の陰から何かがマチルダに飛びかかった。

 

「歩美ちゃん!」

 

歩美は空中でマチルダの顔面を蹴り飛ばし、更に身を捻って二段蹴りを浴びせた。完全な不意打ちを食らったマチルダは勢いよく地面に落ちて転がるが、剣を握るその手はしっかりとホールドされている。

ゆっくりと起き上がり、妖刀の刃のような凍てつく瞳が歩美を睨みつける。

 

「コナンくん、ここはあたしに任せて哀ちゃんを!」

 

歩美は低い姿勢で構え、マチルダから視線を逸らすことなく声を張り上げる。

目の前のこの相手から一瞬でも注意を逸らせば死に直結することを、歩美は直ちに理解していた。

 

「歩美ちゃん、でも……!」

 

「いいから早く!」

 

コナンはうなずき、スケボーに飛び乗る。

 

「歩美ちゃん、死なないで!」

 

歩美がうなずくのを横目で見送り、コナンはスケボーのエンジンを全開にして疾走した。

 

「邪魔をするな、小娘」

 

マチルダはゆらりと剣を垂らしながら乱れた髪を手櫛で後ろに流し、歩美を見下ろす。口の端からはわずかに流血していたが、それを気にするそぶりはない。

 

「べ~っだ! そんな怖い顔したって怖くないよ、おばさん!」

 

「……」

 

(この部屋、柱とか机とか障害物がたくさんある……! ここなら正面からぶつかる必要はない……!)

 

歩美は一番手近にあったデスクの上のPCキーボードを掴み、思い切り投げつけた。当然マチルダはあっさりと剣で払って弾き飛ばす。それと同時に歩美は横に跳び、身をかがめて他のデスクの陰を走っていた。

 

「それで隠れたつもりか? まるでゴキブリだ」

 

マチルダが片眉を吊り上げて嘲笑する。

 

(別にそれでいいもん。あたしはあたしのやり方で戦うんだから……!)

 

 

 


 

 

 

コナンはスケボーという名の相棒によって、狭苦しい通路には不釣り合いなほどのスピードで疾走していた。

 

(さっきの悲鳴、間違いなくこっちの方向だった……!)

 

先程マチルダが出てきた部屋をスルーし、更にその奥へと進む。

そこでコナンは扉が開きっぱなしの部屋を見つけ、スケボーを降りてその部屋の中にと踏み込んだ。

 

「ここにあいつがいたのか……?」

 

窓がないことを除けば、小洒落たホテルのように調度品が整った部屋。しかしそこはもぬけの殻で。

 

「って、なんだこいつ!?」

 

コナンは足元に倒れていた人間に気づいて驚く。ポニーテールの黒服男が、部屋の入口の横で失神していたのだ。男の顔には思い切り殴られた跡があり、その隣にはリッチな見た目の木製椅子が転がっていた。

 

(もしかしたら灰原のやつ、悲鳴でこいつをおびき寄せて死角から椅子でぶん殴ったのか……?)

 

コナンは思わず苦笑してしまう。

 

(そうだよな、おめーにただ助けを待つだけの囚われのお姫様なんざ似合わねーよな……!)

 

事態はなんら良くなってはいないというのに、コナンは無性に嬉しさを感じていた。

もしかしたら、本当にどうにかなるかもしれない。

コナンが初めて本気でそう感じ始めた次の瞬間、足元からうめき声が響く。

 

「うおおおお……!」

 

「!!!」

 

とっさに飛び退き、部屋の奥へと転がるコナン。

さっき倒れていたポニーテール男が、血走った眼でコナンを睨みつけながらふらふらと立ち上がる。

 

(ちぃ……! 目を覚ましたのか!)

 

「ぶっ殺す……!」

 

ポニーテール男がコナンを見下ろし、鼻血まみれの顔をわなわなと震わせた。

 



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14 生き延びたいわけじゃない

「がっ……はっ……」

 

ドスン、という鈍い音ともに巨体が地面に倒れ伏す。

強靭な耐久力がついに限界に達した瞬間だった。

 

「やれやれ……呆れたタフさだな。これでもまだ死んでいないのだから驚くほかないよ」

 

ジョナスは元太を見下ろし、自分の手をさすりながら薄く笑う。無傷の完勝でありながらも、ジョナスは両の拳骨に多少なりとも痛みを感じていた。これほど何度も人間を殴り続けたことなど一度もなかった。誰もが数発ともたずに沈んでいたからだ。

 

「まだまだ……終わりじゃねえぞ……」

 

うつ伏せで床に突っ伏しながらも、元太はかろうじて意識を残していた。だがどれほど強くジョナスを睨みつけようとも、もはや彼には立ち上がる力など残っていなかった。

 

「ふん……あのカシワギに勝つわけだ。殺してしまうには惜しい人材だよ」

 

そうぼやいて、ジョナスが脇腹を蹴り上げる。

 

「ぐふっ!」

 

「だけどやりすぎたな」

 

ジョナスはゆっくりと脚を上げ、元太の頭の真上に掲げていく。ここから一気にかかとを蹴り落とせば、堅い地面とのサンドイッチによってどんな頑丈な頭蓋骨も()()()。ジョナスはそれを実戦経験において知っていた。

元太はなんとか手足を踏ん張ってそこから離脱しようとするが、もはや全身が言うことを聞かなかった。

 

「ちく……しょう……!」

 

ジョナスが脚という名のギロチンを振り下ろそうとしたまさにその時。

 

「ジョナス!!! もうやめなさい!!!」

 

すんでのところで動きが止まり、ジョナスは片足立ちのまま数秒止まっていた。

その声の主が誰なのかわからなかったからではない。顔を見ずともすぐに理解したからこそ止まったのだ。

 

「シェリー、何しに来たんだい?」

 

ジョナスは足を下ろしてゆっくりと斜め後ろに振り返る。

そこにいたのは白いコートを無造作に羽織った、赤みがかった茶髪の女性。

 

(シェリー? シェリーって誰だ? あれはどう見ても……)

 

元太は困惑していたが、同時に安堵もしていた。彼女は無事だったのだ。

 

「いい加減にして……! 私の()()()()には一切手出ししないという約束のはずよ……!」

 

「もちろん約束したさ。だけど彼らは自分からここに押し入ってきたんじゃないか。侵入者を排除するのは当然のこと。約束とはなんの関係もないよ」

 

哀は唇を噛み殺し、床に這いつくばっている元太を睨んで声を震わせた。

 

「どうして……どうしてここに来たの……! 殺されるってわかっていて、こんな無茶なことを……」

 

「……へへっ、コナンも似たよーなこと言ってたぜ。あいにくオレは負けた後のことを考えるのは苦手だからよ……」

 

「馬鹿よ、あなた達は……! わかっているの、あなた達のせいで私の立場が余計に悪くなるってことを……! 私は何不自由なく快適に生きていけるはずだったのよ! くだらないヒーローごっこなんて迷惑なだけよ!」

 

哀は一層語気を強め、あらん限りの力で元太をなじった。

しかし元太はまるで驚くことなく、むしろ苦笑いする。

 

「おめーらまじでよく似てんな……いざとなったらデタラメ並べて自分が悪者になって丸く収めようとするところなんてそっくりだぜ……」

 

「……!!」

 

「コナンのバカもそうだったからよ……まあぶっちゃけ、おめーらのそういうところは嫌いだぜオレは……」

 

「……だったら、放っておいてくれればよかったのに……!」

 

力なく声を震わせる哀を見て、ジョナスは床に這いつくばる元太の頭部に足を置いて口の端を吊り上げた。

 

「まさにその通りだ。君たちは彼女が望んでさえいないことを勝手にやって、彼女を苦しめている。トモダチなら少しは彼女のことを理解してあげることだ」

 

「ハ……ふざけろ」

 

吐き捨てる元太だったが、ジョナスが足に力を込めて横顔を踏みつけるとさすがにうめき声が漏れる。

 

「グゥッ……」

 

「……っ! ……いい加減にして。もう勝負はついているでしょう……!」

 

「そうだな……。今ごろ向こうもマチルダが片を付けているだろう。君たちの悪あがきもここまでというわけだ」

 

「……!!!」

 

マチルダの名を聞いて哀の背筋が凍りつく。コナンと歩美が、今まさに彼女と対峙しているとしたら――どれほど楽観的に考えようとしたところで、最悪の事態を想定せざるを得ない。

 

哀の脳裏に、つい数時間前の光景が蘇る。哀を部屋まで連れて行くよう指示された巨漢の黒服が、「シェリーはくれぐれも丁重に扱うように」というジョナスの命令を無視して粗暴に振る舞い、哀を手荒に部屋に突き飛ばした。後ろでその様子を見ていたマチルダが男を睨みつけると、男はそれがどうしたと言わんばかりの態度で適当な言い訳を並べ――次の瞬間、彼の手首より先は地面に落ちていた。マチルダによる超速の剣捌き。それは、そばで見ていた哀にとっても戦慄的な光景だった。

 

(……なんて疾さ……! 見えなかった、今の太刀筋……! それにあの氷のような眼、一体今までにどれだけの人間をああやって斬り捨ててきたと……)

 

コナンがかつての力を取り戻したのであれば、あるいは有象無象の黒服たちだけならなんとかなるかもしれない。だがジョナスとマチルダは明らかにそんなレベルの相手ではなかった。哀がかつて対峙した、いかなる凶悪犯たちと比べても次元の違う戦力の持ち主であるということ。彼女の危機意識はそれを正確に見抜いていた。

 

ジョナスは天井を仰ぎ見る。

 

「ひとつ不可解なのは……彼らがどうやってこの場所を知ったのかということだ。それもこんな短時間で……。()()()手引きをしたとしか思えない」

 

「!!!」

 

「連絡は取れないようにしていたはずだけど、ね」

 

横目で哀をにらみつけるジョナス。

その通り、もちろん哀の方から連絡など取ってはいない。同時に、自分に発信機がついていることを黙っていたのも確かだ。彼らはその信号を頼りにここまで来たに違いない。しかし博士の発信機の有効範囲を考えれば、この場所を探知することなど不可能なはずだった。そう判断したからこそ、哀はあえて何もせずに放っておいたのだ。

 

だけど彼らは来てしまった。

それもおそらくは探偵団の4人だけで。

どう希望的に見たところで、それは自殺行為に等しい。はたして、目の前の光景はその現実を映し出していた。

 

「……ま、君の隠しごとを調べるのは後にしておくよ。もはやこの場所が秘密ではなくなった以上、とっととここを離れるべきだからね」

 

ジョナスは元太の顔から足を離し、淡々と歩いて哀を横切る。

 

「ついてくるんだ」

 

静かだが、有無を言わせない声。

哀は元太にちらりと目をやったが、まだ意識があることだけを確認して背を向けた。

どういう気まぐれなのかはわからないが、ジョナスは彼にとどめを刺すつもりはないらしい。そうであるなら、これ以上話すべきことは何もなかった。ジョナスの気が変わらないうちにさっさとこの場を去るのが、今自分にできうる最善の行動のはずだ。それが哀の下した判断だった。

 

「おい、灰原」

 

立ち去ろうとした哀の背後から、振り絞るような声が届く。

一瞬立ち止まった哀は、しかし振り返ろうとはしなかった。

 

「コナンは、おめーを諦めねーぞ」

 

「!!」

 

床に這いつくばったまま、元太は哀の背中をまっすぐに見据えていた。

 

「オレもバカだけど、あいつのバカはオレ以上だ……そんな下手な嘘であいつを止められると思ってんじゃねーぞ……!」

 

哀の手が震える。無視するつもりだった。聞いていないふりをするつもりだった。

それなのに、心臓の鼓動が身勝手に高鳴ってしまう。

 

「フン、くだらない……」

 

ジョナスは元太を一笑に付してそのまま去った。哀は少しだけためらって、小走りでそれを追った。

 

 

 


 

 

 

月明かりが夜の闇を照らしていた。都心に比べれば星もよく出ていた。屋上のヘリポートでは、そんな夜の光に無機質なヘリコプターが照らされていた。

 

潮風が哀の髪を揺らしていた。そんな季節ではないはずなのに、ひどく冷たい風だった。

 

ヘリポートの中心まで歩いて来たジョナスはヘリのドアを開き、「乗るんだ」とだけ言った。哀はそれに応えず、しばらく立ち止まっていた。

 

「……いいえ、私は乗らない」

 

 

 


 

 

 

「元太、おい大丈夫か! 元太!」

 

コナンが元太の肩をゆする。元太はかろうじて身を起こして床に座るところまではできていたが、ひどくダメージを負っているのは誰の目にも明らかだった。

 

「ったく、おせーんだよこのバカ」

 

「すまねえ、やたらしぶといヤローがいて手こずっちまった……」

 

コナンも先程のポニーテール男に一発殴られて口の中を切っていたが、こちらは軽症だった。

 

「灰原は、多分屋上だ。おめーらが予想した通り、いざとなったらあのヤローは屋上のヘリで逃げるつもりだろう。オレのことはいいからとっとと追いかけろ」

 

「……ああ、わかった」

 

コナンがきびすを返す。

 

「なあコナン」

 

「?」

 

「オレは探偵団の団長だからよ。まあホントは昔っからずっとおめーが実質オレらのリーダーやってたってことも、一応わかってたんだけどよ」

 

「……」

 

「そのおめーがグチグチとワケわかんねーこと言って灰原を見捨てようとした時は、まじで本気でぶん殴りたい気分だったぜ」

 

「ああ……」

 

それから元太は思い切り声を張った。

 

「リーダー命令だ、コナン……ぜってえに灰原を助け出してこい!!!!」

 

「ああ!!!!」

 

 

 


 

 

 

「……乗らない、とは?」

 

ジョナスが片眉を吊り上げる。

 

「私は、彼らを置いてここを去るなんてできないわ。だってそうでしょう? 彼らは私を助けに来てくれたんだから」

 

やれやれと言わんばかりにジョナスが首を横に振る。

 

「くだらない希望にすがるのはやめるんだシェリー。彼らはここに来れはしない。さっきのゴリラくんはもう動けやしないし、もう一人の女の子も工藤新一も、生きてここまでたどり着くことなど不可能だ」

 

「……あなたの部下に、彼らに手出ししないよう命じてくれればいいだけよ」

 

「それが不可能だと言ってるんだよ。言っただろう、彼らは君の友達である以前に侵入者だ。実力をもって排除する以外の選択肢はないよ」

 

「……だったら、私もあなたに一切協力はしないわ。永遠にあの薬が手に入らなくなったらどうするつもりかしら?」

 

哀は静かに、しかしこの上なく語気を強めてジョナスを睨みつける。だがそれを聞いてもジョナスの表情はしごく涼しいものだった。

 

「やれやれ、困ったものだ。シェリー、君もあのファイルを見たなら気づいているはずだ。断片的とはいえ、やがて薬を完成させるには充分なほどのデータが既に揃っているということがね」

 

「!!」

 

「君がいなくても、充分な資金と時間さえあればいずれ確実にあの薬は蘇る。それは既に見えている未来なんだ」

 

哀はジョナスがでまかせを言ってるわけではないことを理解していた。相応の設備を構えて人材さえ集めれば、時間はかかるとしてもAPTX4869を蘇らせることは間違いなくできる。それがデータを確認した哀の下した結論だったのだ。

にもかかわらずジョナスが自分を探していたということは、この男にはまともな化学薬学の知識などないがためにAPTXの再生には宮野志保(シェリー)の助力が不可欠だと思い込んでいたということ――論理的に考えれば、それ以外の可能性はない。

 

だが、そうではなかった。

どれほど不可解な動機ではあっても、ジョナスは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()彼女を探し求めていたのだ。

 

「……じゃあどうして……」

 

呆然と立ちすくむ哀。ジョナスは、まるで同情しているかのような目で哀を見つめる。

 

「難しく考えなくていいんだよシェリー。これは君の運命なんだ。ただ受け入れればいいだけだ。誰もがそうしているようにね」

 

「……」

 

「心を落ち着ける時間が必要だというなら、もう少しここにいるといい」

 

ジョナスがきびすを返し、向こう側を向く。

 

「それを待つぐらいなら、僕は構わないよ」

 

ジョナスは完全に背中を向けていた。両手はポケットに突っ込まれていて、まったく無防備な体勢だった。それを見た瞬間、哀の鼓動が一気に高鳴る。

 

千載一遇。

 

哀のコートの内ポケットには、先ほど見張りを不意打ちで倒した時に奪っておいたナイフが入っていた。だがそれを使ったところで、正面からジョナスに挑んでも勝ち目がないことなどわかっていた。

 

だからこの好機を哀は待っていた。ジョナスが油断し、完全に背中を見せるこの一瞬を。

ここは屋外のヘリポートだ。周囲は夜間照明(航空灯火)に照らされているとはいえ、ビルの中よりはずっと暗い。

どんな達人であっても、こんな暗さの中では反応が遅れる。ましてや真後ろからの不意打ちであれば、避けきれるはずがない。

さらにはこの風の音が哀の物音を紛れさせてくれるだろう――

 

哀は、迷わなかった。心臓は激しく暴れ打ち、口はカラカラに乾き冷汗が垂れ落ちていたが、それは恐怖ではなかった。

 

(私が、すべてを終わらせてみせる――!)

 

哀はナイフを抜き、同時に踏み込んだ。

背中の真ん中を目掛け、まっすぐにナイフを突き立て――

 

「――!!!」

 

ジョナスは、一瞬にして身をひるがえしていた。ナイフを持っていた哀の手首を掴み、勢いとともに捻り上げると哀はたまらずナイフを落とした。

 

「残念だ。君がこんなにも愚かだったなんて」

 

「ぐっ……!」

 

苦痛に歪む哀の顔を、ジョナスは冷たく見下ろす。その瞳は怒りでも憎しみでもなく、失望の色だった。

ジョナスは哀の手首を掴み、動きを封じながら冷たく見下ろしていた。

 

「なぜそんなに死に急ぐ? 生き延びさえすればいくらでも新しい人生は見つけられるのに。なぜ終わった過去に執着する?」

 

「ふざけないで……! それを決めるのはあなたじゃない……!」

 

哀は先ほどから必死でジョナスの手を振り払おうと力を込めていたが、いかんせん腕力差がありすぎてぴくりとも動かない。しかし突然ジョナスが手を離し、哀は勢いあまってたたらを踏んでしまった。

 

「くっ……!」

 

ジョナスはふうっとため息をつき、気だるげに背を丸めた。

 

「希望と欲望というのは、言葉のイメージはずいぶん違うけれど僕は同じものだと思っている」

 

「……?」

 

「今の君の目には、欲望が宿っている。ぎらぎらとした、意欲に満ちた目だ。ほんの数時間前とはまるで違う……彼らがここに来てから明らかに変わった」

 

「……人の心を持たないあなたが、一人前に心理分析のつもり?」

 

哀は精一杯強がって笑う。

 

「だけど僕にとって最もわからないのは、君ほど頭のいい人間がこの状況を理解していないかのようにふるまっているということだ。奇跡など起こらない。彼らは全滅する。君はそれを知っている。状況は昨日より悪くなることはあっても良くなることはない。……なのになぜ、君は希望を抱いているかのようなふりをしているんだ?」

 

「……」

 

「実を言うと、君が彼らを助ける方法は一つだけあったんだ。僕に泣いてすがって彼らの命乞いをすることさ。君が心から忠誠を誓ってくれるなら、彼らが役立たずの部下どもに与えた損害なんて鼻で笑える程度のものだ」

 

ジョナスはくすりと笑ってから、ぼうっと空を見上げて言葉を続けた。

 

「こんな簡単な解決策は君の頭脳なら当然に気づくはずだと僕は思っていた。だからわかったうえでその選択肢を拒んだのだと……。いや、もしかしたら本当に単に、頭に血が昇って思いつかなかっただけなのかもしれないな」

 

「じゃあこうしよう。今からでも君が本気で懇願してくれるなら、彼らの命は助けるとね。ああ、さっき僕を殺そうとしたことは気にしなくていい。どうせ最初からそんなことは不可能なんだから」

 

「……!」

 

哀はごくりと生唾を飲み込む。

ジョナスが嘘を言っていないことは直感で理解(わか)った。

この男は本当に、自分が本気ですがりついて許しを乞えば彼らの命を助けるだろう。ジョナスにとって、彼らの命は()()()()のものでしかないのだ。生かそうが殺そうが本当はどうでもいい。それをカードとして、"シェリー"の服従を買えるならそうするというだけだ。

 

「私は……」

 

哀は唇を震わせてうつむく。

 

(ジョナスの言う通り……私は欲深くなっている。あの時私は、彼らを助けるためなら自分のこの先の人生を捨ててもいいと思った。だから降伏することを選んだ。10年間も分不相応に幸せに生きてきたのだから、残りの人生は死んだも同然の魂の監獄暮らしでかまわないと思った。それが私の償いだと……)

 

だけど彼らは、ここに来てしまった。無茶を承知で死地に来てしまった。

 

(私はとっくに諦めていたのに、彼らは私を諦めてくれなかった。私の決意を無駄にしたのに、悲惨な結末しか待っていないはずなのに、私は……)

 

哀は両の拳を目の前で握り、震わせる。

 

(私は……嬉しかった。どうしようもなく嬉しさを感じてしまった。今までもずっとそうだったように、どんな時でも彼らは……そして彼は、私を諦めてくれなかった。そのことがただただ嬉しかった)

 

そして再びジョナスの目を見据えた。

 

「……あなたの言う通りよ。今の私は欲望にまみれている。"生きたい"と思ってしまっている。もう……この気持ちはごまかせない」

 

「"生きたい"? 僕が君を殺しはしないということは知っているだろうに」

 

「それは生きてるってことじゃないわ。私はただ生き延びたいわけじゃない……生きたいのよ。自分自身が選んだ人生を」

 

哀は心から皮肉を込めて微笑んだ。

 

「あなたには理解できないでしょうけどね」

 

「……」

 

ジョナスはしばらく押し黙っていた。その真顔からは心情は伺いしれなかった。たっぷり十数秒も沈黙が流れてから、ようやく口を開いた。

 

「どうやら、君を説得するのは無理のようだ」

 

「ならどうすると?」

 

ジョナスは足元のナイフを拾い上げ、その切っ先を見つめて笑った。

 

「言葉で無理なら、"力"を使うしかないだろう」

 

そう言って歩きだした。下のフロアへと続く階段に向かって。

 

「君の目の前に彼ら全員の死体を並べたら、君はどんなふうに後悔するんだろうね」

 

「……!!」

 

ジョナスはもはや振り返ることなく、淡々と進んでいく。

哀は走って前方に回り込み、ジョナスの前に立ちふさがった。

 

「行かせない……!」

 

体当たりで肩をぶつけ、必死でジョナスを止めようとする哀。それで止められるはずがないことなどわかっていたが、考えるより先に体がそう動いた。

哀は思い切りジョナスの顔面を殴った。素人丸出しの非力なパンチだ。なんのダメージも与えられず、自分の拳の方がずっと痛い。今度は左手で殴った。

ジョナスは哀の肩を掴み、腕力だけで無造作に振り投げた。

哀は地面に腕を強打した。鈍い痛みが走ったが、すぐに立ち上がってまたジョナスを睨みつけた。

 

「理解できないな……。どういう勝算がある行動なんだ」

 

「さあね……! 人間ってのは不合理な生きものなのよ……!」

 

「やれやれ……」

 

ジョナスが踏み込む。一瞬、哀は殴られると思って身構えたが、その魔の手は哀の首を掴んでいた。

 

「ぐっ……!」

 

「いちいち君の癇癪に付き合うのも面倒だ。しばらく眠っていてくれ」

 

「……!」

 

ジョナスは片手だけで巧みに頸動脈を押さえていた。振りほどけるような腕力差ではない。十数秒と経たないうちに哀の意識は失われるだろう――

その時だった。

 

カツン、カツンと音が聞こえた。

 

誰かが階段を登ってくる音だった。

 

「マチルダか?」

 

哀の首を締めていた力が緩み、止められていた血流が開放される。

 

「どうやら手遅れだったようだねシェリー。マチルダがここに来るということは、全員片付いたということだ」

 

(……違う)

 

哀はこの足音を知っていた。

誰よりも、誰のことよりも知っていた。

それに気づいた時、哀の瞳からは自然と涙がにじみだしていた。

 

カツン――

 

夜の闇の中で、その足音の主の顔は最初見えなかった。

ジョナスは予想と異なる人影に一瞬戸惑い、それから目を見開いた。

 

「お前は――」

 

 



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15 涙

 

「はあっ! はあっ……!」

 

歩美は両ひざをついて大きく息を切らしていた。三半規管は一時的に機能を失っていて、目の前の景色が壊れたメリーゴーランドのようにぐらぐらと不安定に回っている。手足は痺れ、全身が鉛のように重く感じる。

 

(これが……脳震盪……)

 

理解はできても、解決はできない。歩美はこれまで、何人もの敵をこうやって脳震盪の状態にすることで倒してきた。だが今、自分がその状況に陥っている。

 

(ああ……あたしって自信過剰だったんだなあ……)

 

戦いは歩美の思惑通りに進んでいるはずだった。物陰から物陰にへと移りながらあらゆる搦め手や小細工を尽くし、マチルダの攻撃を避けきった歩美はついに奇襲を成功させた。剣を握っていた手首への蹴りを命中させ、即座の連続攻撃によって剣自体を蹴り飛ばしたのだ。

マチルダは素手となり、そこからは歩美が一方的に勝つ――はずだった。

 

最大の誤算は、素手でもなおマチルダの方が歩美よりも強かったということだ。

マチルダは歩美の猛攻の大半をさばき切り、息切れによって連打が鈍った瞬間にカウンターを打ち込んだ。

一体どういう技を喰らったのか、歩美は理解できなかった。それほどまでに技量の差があったということだ。

脳を揺さぶられた歩美は脚の支えを失って真下に落下し、そのまま膝を床に強打した。床にぶつかったのが頭でなかったことはまだ幸いだった。もし頭だったら、その場で失神していただろう。

だがかろうじて意識は残っていたとはいえ、脳震盪状態ではまともに立ち上がることは不可能だった。

 

(せめてあと1分……1分あれば体を動かせるようになるはず……だけど、この人が1分後もあたしを生かしておいてくれるなんてありえない……!)

 

既にマチルダは再び剣を手にしていた。そして目の前で歩美を見下ろしていた。

眉一つ動かすことなく、マチルダがその剣を歩美の首にそっと添えた。ひんやりとした空気が首筋に触れ、背筋がゾクリと震える。

 

「ここまでね」

 

「……」

 

万策尽きてなお、歩美は口を真一文字に結びマチルダを睨み上げた。そんな歩美のまなざしを見て、マチルダは薄く笑みを浮かべた。

その時だった。

 

ブーッ、ブーッ……ブーッ、ブーッ……

 

(……電話?)

 

マチルダは左手で上着の内ポケットから電話を取り出し、着信した。右手は相変わらず剣を歩美に向けたままだ。

 

「……あら、そう」

 

マチルダは二言三言、その電話に返事を返してから、かすかに微笑んで歩美に目を向けた。

 

「……お嬢さん、地下でいたずらしようとしてたお友達は捕まったそうよ?」

 

「!!」

 

(光彦くん……!)

 

「このビルの電気設備になにかしようとしてたみたいだけど、いい度胸ね。もしかしてそっちの坊やの方が本命だったのかしら? まったく、大した子どもたちだこと」

 

マチルダの推理どおり、それこそが探偵団の策だった。うまいこと3人が上階に侵攻できれば、その隙に光彦が地下の電気室に潜入して仕掛けを施す計画だったのだ。だがそれも、光彦が捕まってしまったのならもはやどうしようもない。

 

「あなた達の健闘には拍手を送ってあげる」

 

再びマチルダが剣を構えた。

 

「悲しむことはないわ。すぐに再会できるから……あの世でね」

 

歩美はゆっくりとうつむき、目を閉じた。手はだらんと垂れ下がり、全身から力が抜けていた。

 

(ふふっ、ようやく諦めたようね)

 

マチルダは気づいていなかった。歩美は全身を弛緩させるとともに全神経を呼吸に集中させ、一秒でも早く回復することに専念していたということを。

そして彼女が目を閉じたのは、諦めたからではないということを。

 

(光彦くん……信じてるよ……!)

 

 

 


 

 

 

「まったく、とんでもねえガキだぜてめえらは……!」

 

男は銃口を光彦に向けながら電話を切ってポケットに入れた。光彦は両手を上げて静止したままだった。

つい先ほどまで、光彦は電気設備に向き合って作業を行っていた。あまりに夢中になりすぎて、背後から男が近づいてきたことにも気づかなかったのだ。

光彦は知らぬことだったが、このロン毛の男は駐車場で歩美によって失神させられた黒服たちの一人だった。

目を覚ました直後のこの男に、電気室に入る姿を目撃されてしまったのは不運だったとしか言いようがない。

 

「ええっと、僕もしかして、どこか怖いところに連れていかれちゃいますか?」

 

「ハッ! それだけで済むわけねえだろ! てめえ自分たちが何やらかしたのかわかってんのかよ!?」

 

「そうなんですね……。あの、それじゃあせめて両親に電話してもいいですか? 帰れなくなるって連絡したいので……」

 

「ハァ~!? ……ふざけたガキだ。おい、電話持ってるならこの場で渡しやがれ!」

 

「はい……」

 

「おっと、妙な真似はするなよ? 変な動きをしやがったらこの場でぶっ殺すからな?」

 

光彦はゆっくりとした動作でポケットからスマホを取り出し、指先でつまんでロン毛男に手渡した。そいつはスマホを受け取るとニタニタと笑い再び銃口を向けた。

 

「さ~て、この場でぶち殺すか後でたっぷり痛めつけて殺すか……」

 

光彦はロン毛男のそんな言葉など聞いていなかった。目を伏して、ひどく申し訳なさそうにぼそりとつぶやいた。

 

「すまない、Hailey(ヘイリー)

 

『Sir, 謝罪には及びません』

 

「?」

 

Haileyの返答は、ロン毛男には聞こえていなかった。それは光彦のワイヤレスイヤホンにのみ流れた音声だった。だからロン毛男には、光彦がわけのわからない独り言をつぶやいたようにしか思えなかった。

 

ほんの一瞬、光彦は躊躇した。光彦にとってはHaileyもまた、大切な仲間の一人だからだ。だけど本当に必要な時はそうしなければならない。それは覚悟していたことだった。

 

「Hailey、自爆しろ!!!」

 

光彦が叫ぶ。その瞬間、ロン毛男が手に持っていたスマホが激しく発光した。

 

「!!!!」

 

光彦はスマホを自ら改造していた。その改造の一つは自作のAIアシスタントであるHailey。そしてもう一つは自爆装置――もとい、高圧電流発生装置だった。要はスタンガンと同じことをやる装置を仕込んでいたのだ。

 

「がっ……!」

 

高圧電流がロン毛男の体内で暴れ狂い、一瞬にして体の自由を奪う。白目を剥き膝から崩れ落ちる。しかし意識はまだ失われていない。スタンガンは気絶させる道具ではなく、あくまで筋肉をけいれんさせる道具なのだ。

だから光彦はすかさず荷物満載のリュックを掴み、全力でフルスイングした。無防備な状態の側頭部に数キログラムのリュックが叩きつけられ、ロン毛男の意識はうつろに消えていった。

 

「はあ、はあ……」

 

当然、愛用のスマホはこれ一発でオシャカになる。だからこその「自爆装置」だ。

 

(ごめんねHailey、またすぐに君をよみがえらせるよ)

 

光彦は立ち上がり、先ほどまで作業していた電気設備に再び向き合った。既に作業はほとんど完了していた。

あとは、最後の操作をするだけだ。

 

(コナンくん、歩美ちゃん、元太くん……。あとは頼みましたよ!)

 

 

 


 

 

 

マチルダが剣を振り上げ、歩美の首を跳ね飛ばそうとしたまさにその瞬間。

 

「!!!?」

 

照明がすべて消え、周囲が一瞬にして暗転する。完全なる暗闇。

 

「なっ……!?」

 

非常灯が点灯するまでのタイムラグはほんの数秒だった。だがその数秒こそが、歩美が待ち望んだ好機だった。

 

歩美は目を見開き、立ち上がると同時に手刀を突き込む。マチルダのみぞおちに、完璧な角度で槍のような一撃が突き刺さる。

 

「がはっ!!!」

 

呼吸を止められ背中が丸まったマチルダの、無防備な顔面を肘打ちが跳ね上げる。急所である人中(鼻と口の間)への完璧な打撃だった。

 

(そうか、目を閉じたのは暗闇に目を慣れさせるため……こうなることを読んでいたというのか!)

 

もはや歩美は止まらなかった。鎖骨、肝臓、下腹部。あらゆる攻撃が次々と急所に命中する。マチルダは力なく後退し、次々と被弾し続ける。

 

(バカな……! 目を慣らしていたとはいえ、この暗闇でこれほどまで正確に急所への連撃を……!)

 

「う、うおおおおおお!」

 

どれほどの攻撃を浴びせられても、マチルダはなお剣を手放してはいなかった。

いまだ何も見えてはいなかったが、正面に歩美がいることはわかっている。だからマチルダは、渾身の力を振り絞りその剣を思い切り水平に振り切った。

獲物を捕らえた感触は――なかった。

 

(空振り――? バカな――)

 

歩美は半拍速くその場で跳躍していた。

崩れ切っていた体勢の中で無理に剣を振ろうとしていたマチルダの姿が完全に見えていたからだ。

マチルダの剣は空を切り、がら空きの顔面がその場に残された。驚愕と愕然の表情とともに。

 

歩美は空中で身をひねり、体を反転させながらかかとを突き出した。

空中後ろ回し蹴り。

完全なるカウンターの一撃。

 

鮮やかな轟音がフロアに響き渡り、血が飛び散った。マチルダは後頭部からゆっくりと落下し、大の字となって崩れ落ちた。

 

「はあっ、はぁっ……!」

 

歩美もまた、苦悶の表情で膝をついて胸を抑えていた。

ダメージのある体を酷使して無理を押した猛攻撃。その無茶によって彼女は酸欠状態に陥っていたのだ。

 

(紙一重、だったけど……あたしの勝ち、だよね……)

 

歩美は大きく息をついてその場に座り込んだ。しばらくの間は指一本動かせそうにない。しかし鼻骨を破壊され完全失神したマチルダはそれ以上に長く行動不能だろう。

 

(あとは任せたよ、コナン君……)

 

 

 


 

 

 

「工藤、新一……」

 

夜の闇の中から浮き出てきたのはジョナスの右腕であるマチルダではなく、コナンの姿だった。

その右腕には派手な色のスケボーが抱えられていて、夜間照明に照らされた眼鏡が光を反射している。

 

「ち……なんでお前なんだ」

 

ジョナスは哀の首から手を離し、コナンに対して正対した。その距離、およそ15メートル。

潮風が強く吹き、三人の髪と服を揺らした。

 

「わかっているのかい? 工藤新一。君が"まがいものの希望"なんかを持たせたがために、シェリーはそれにすがりついてしまった。これからすぐに君が死んでも、一度抱いてしまった希望が呪いとして彼女の心を縛りつけることになるだろう」

 

ジョナスは禍々しい笑顔とともに言葉を続ける。

 

「君が愚かな行動をしなければ、彼女は運命を受け入れることができた。過ぎ去った過去と訣別し、新しい人生を受容して前に進むことができた。つい昨日、彼女が自ら選択したようにね」

 

「……」

 

「つまり……彼女を苦しめているのは君だとい「お前には何も聞いてねえよ」

 

せっかくの演説に割り込まれたジョナスは、虚を突かれたことで口を開けたまま言葉に詰まった。

ジョナスから見て、コナンの態度はずいぶん奇妙だった。少しも恐怖を抱いておらず、なおかつ虚勢も過信も感じられなかった。これほど等身大の態度の人間が自分の前に立ちふさがることにジョナスは慣れていなかった。

 

コナンはしばらく口を固く結んだまま、ただ黙って前を見ていた。

それから哀に目をやって、ようやく口を開いた。

 

「灰原。オレは確かにお前の選択を無視してここまで来た。オレ自身のわがままのためにだ」

 

「……」

 

「オレには……灰原、お前がいない人生なんて、考えられない。お前にはずっと、オレのそばにいてほしい」

 

こんな状況だというのにコナンの声は、不思議なほど自然で優しい声だった。

 

「だからお前の答えを聞かせてくれ。オレは、そのためにここに来たんだ」

 

そう言って、コナンはじっと哀を見つめた。

その瞳の色は怒りでも憎しみでもなかった。

優しくて、まっすぐで、少しだけキザったらしくて。

哀がよく知っている、そして何よりも心を奪われてきた、あの瞳だった。

 

「……工藤君」

 

哀は震える拳を握りしめた。

 

(あなたのおかげで、私は強くなれた……そして、弱くもなった。私はもう、一人で死を選ぶなんてできなくなったわ。一番大切な人を巻き添えにしてでも、その人とともに生きたいと思うような身勝手な人間になってしまった)

 

(これだけの罪を犯して、あなたの人生をめちゃくちゃにして、とうとうあの子達までもを巻き込んで……それなのに、私はみっともなく生に執着しようとしている。なんの正当性もないのに、ただ自分がそうしたいというだけの理由で)

 

(もしも、もしも生きて帰れたら、いくらでも償いをするから。だからごめんなさい工藤君。だから……)

 

涙がこぼれ落ちた。

ぐしゃぐしゃになった顔で、哀は精一杯に微笑んだ。

ひょっとしたら今この場で彼は殺されてしまうかもしれない。最悪の結果への恐れを抱きながらも、それでもありったけの希望を振り絞って、言葉に変えた。

 

「助けて……」

 

風によってかき消えてしまいそうなほどその声は小さく――だけど、コナンはぴくりとも表情を変えず、哀を見つめながらはっきりとうなずいた。

 

「わかった」とだけ言って、それからジョナスに顔を向けた。

 

抱えていたスケボーを地面に落とし、足で押さえた。

歯を強く、強く噛みしめ、腰を落として前かがみになった。

 

「離れてろ、灰原」

 

コナンの表情(かお)が変わる。その瞳に、標的だけを映し出す。

 

ジョナスがゆるやかに構え、口の端を吊り上げ、笑う。

 

しばしの沈黙。

ひときわ強く風が吹いた。

その風が、合図となった。



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16 ずっと、隣で

ターボエンジン付きスケートボード。

 

阿笠博士の数々の発明品の中でも、おそらくは最も多くの命の危機からコナンを救ったものの一つだろう。

光彦の手によって大人サイズで蘇ったものを手にした時、コナンはひどく懐かしい気分になった。だから自然と、コナンはこの物言わぬ機械のことを「相棒」と呼んだ。

 

今、コナンはそのスケボーに乗って屋上全体を縦横無尽に疾走していた。

中央に立つジョナスを中心としてその周囲を回りながら速度と角度を次々と変化させ、ひたすらに"機"を伺っていたのだ。

 

「はっはっは! そうやってくるくる走り回るのが君の戦い方なのかい? それで僕が目を回すとでも?」

 

ジョナスはわざわざコナンを追いかけようとはしなかった。

振り向きもせず、その場に立って目だけでコナンの動きを追跡していた。肩幅に足を広げてただ突っ立っているだけのような、構えとさえ言えないようなごく自然な立ち姿。

それでも、ジョナスに隙はなかった。後ろから襲いかかろうがどうしようが、一瞬で反応し迎撃してくるだろう。コナンは正確にそれを見抜いていた。

 

ましてや今、ジョナスの右手にはナイフが握られている。ただのナイフではあっても、ジョナスほどの達人が使うならそれは兵器となる。

コナンはジョナスの戦闘場面を見たわけではないが、探偵としての勘は初めて会った時からこの男の恐ろしさを理解していた。おそらくは、蘭でさえ勝ち目がないほどの実力者だろう。

 

――そんな相手に、どうやってオレが勝てる?

――オレは弱くなった。本当に弱くなった。

――だけど、オレは変わった。

 

仲間に頼ることを知った。

かつて自分が守っていた彼らの成長を認め、対等になったことを受け入れた。

自分の弱さを知ったからこそ、できる戦い方があるということを知った。

 

――そして――()()()のためなら命だって懸けられる、それに気づいたんだ。

 

コナンは一層腰を落とし、姿勢をスレスレにまで低くした。そして急角度でターンし、一気にジョナスに向き合い最高の出力で加速した。

エンジン音が唸りを上げ、一体の塊となった物体が弾丸の如き速度でジョナスに迫る。常人であればまともに反応もできないまま撥ね飛ばされる疾さで――だがジョナスは一瞬にして迎撃の姿勢を整えていた。

ナイフを構え、邪悪に笑う。カウンターでナイフが刺されば、コナンは間違いなくその瞬間にあの世行きだ。

だがコナンは止まらなかった。曲がりも減速もせず、一直線にジョナスに向かって突き進んだ。

残り数メートルに迫った瞬間、ジョナスが刃を突きつける。

 

「――――!!」

 

哀はその瞬間、心臓が止まったような気がした。コナンが串刺しになる光景が脳裏によぎった。

だが――それは起きなかった。

ジョナスの刃は、空を切っていた。

 

「!!?」

 

ジョナスの視界を強い光が覆う。突進する時、コナンは航空灯火を背後に背負う角度を選んでいた。だからコナンが()()()()()()()時、灯火の光がジョナスの目をくらませたのだ。

だがコナンはどこに?

 

コナンは()()()()()

スケートボード競技のトリックプレーのように、加速したスケボーの勢いを活かして空に跳んでいたのだ。その高さは2メートルにも満たない。だが夜の闇の中で、灯火の目くらましも相まってその動きは一瞬だけジョナスの虚を突き、超人的な反応速度をも上回った。

 

ドンッッッ!!!!

 

スケボーの先端が、回転の勢いのままジョナスの顔面を打ち抜く。

フルスピードのオートバイに撥ねられたも同然のとてつもない衝撃が頭部に炸裂し、ジョナスを吹き飛ばす。

ナイフがどこかに吹っ飛んでいくとともに肉体が舞い、二度三度ときりもみして後方に飛んでいく。

それでもなお、ジョナスは即座に空中で体勢を立て直した。

手をついて着地し、地面を滑って吹き飛んだ勢いを減速させ間髪入れずに立ち上がる。

 

だがその時既に――コナンは第二の突撃を放っていた!!!

 

「ガハッ……!!!」

 

今度は顔面ではなく腹にスケボーの側面が突き刺さる。コナンの狙いは地面に伏していた瞬間の顔面だったが、立ち上がるのが一瞬早かったことで狙いが外れたのだ。

だが衝撃の大きさは変わることなく、ジョナスを再び後方に吹き飛ばす。

 

(勝った――?)

 

少し離れた距離から目撃した哀にとって、それは決着の一撃かに見えた。

だがジョナスはまたしても空中で体勢を立て直し、今度は先程よりも安定した姿勢で着地する。顎の骨が折れ、口からは血が吹き出ていたがそれでもなお、ジョナスは殺気をギラつかせ二本の足でしかと立ち上がった。

 

(さすがにとんでもねータフさだ……だけどもうフラフラのはず……あともう一発だ!)

 

コナンは間髪入れずに再び加速し、最高速に達する。

そしてジョナスの目前で跳ね、体を捻ってスケボーの先端を振り抜き――

 

ゴッ

 

「…………ッッ!!」

 

哀は我が目を疑った。

コナンは先程と同じ動きを繰り出したが、その瞬間にジョナスも飛び上がって身をひねり、突進をかわすと同時に回転蹴りを放ったのだ。

その蹴りは完璧なカウンターとなってコナンの頬を打ち抜いた。

スケボーは慣性で後方に飛んでいき、コナンの身体だけがその場で半回転して落下した。

 

「ぐあっ!!!」

 

前のめりに地面に叩きつけられたコナンの全身に激しい痛みが走る。

蹴りの衝撃で脳が揺らされ、視界がぐちゃぐちゃに歪み耳はガンガンとでたらめな信号をかき鳴らす。へし折れた眼鏡もどこかに飛んでいってしまった。

即座に失神していてもおかしくないほどのダメージだったが、コナンは両手を突っ伏し全力を込めてなんとか立ち上がることができた。

 

問題はこの時点で、もはや戦う力も手段も失われたということだった。

 

「はあ、はあ……」

 

脚が震え、激痛が体中を暴れ狂う。それでもコナンはジョナスに向けて顔を上げ、なんとか両手を上げてファイティングポーズを取ろうとする。まるで形になっていないとしても……。

 

「よくやったよ君は……。この僕にこれほどの手傷を与えた人間なんてどこにもいない」

 

ジョナスが一歩一歩ゆっくりとコナンに近づく。

コナンの身体はまだまともに言うことを聞かなかった。

だがジョナスは、深いダメージを負いながらも既にかなりの力を取り戻していた。

 

ドゴン!

 

コナンのみぞおちに鈍い衝撃が走る。教科書通りのボディアッパー。その一撃で横隔膜が悲鳴を上げ身体が"く"の字に曲がる。

 

「か……は……!」

 

「おっと、この程度で倒れるなよ」

 

ジョナスはコナンの髪を無造作に掴んで頭を引っ張り上げ、右脚へのローキックを見舞う。激痛が電流のように激しく走り、コナンの顔が苦痛に歪む。再びボディブローが今度は脇腹に突き刺さり、肋骨がきしむ感覚がはっきりと意識に伝わる。ジョナスは更に一発一発と、連打ではなくいたぶるようなゆっくりとしたペースでコナンを痛めつけていく。

 

意地でも倒れないコナンだったが、ふらふらと力なく後退し、フェンス際にまで追い詰められていった。

 

(……! もうこれ以上は……!)

 

哀はコナンのもとに駆け寄ろうとした。何ができるわけでもないが、とにかく体が勝手にそう動いた。

しかし、

 

「……!?」

 

ジョナスの攻撃に耐えながら、コナンは哀に向けて手を伸ばしていた。手のひらを大きく広げ、それを哀に向けていた。

コナンの横目がちらりと哀を見る。その瞳と手は、はっきりと言っていた。「来るな」と。

それは強がりでもなく、哀をかばっているわけでもなかった。少なくとも哀はそう思った。

コナンは、何かをもくろんでいる。「オレを信じろ」と言っている。

そう思えてならなかった。

 

「ぐっ!」

 

ジョナスが左手でコナンの喉を掴み、体ごと押し込む。ドンという鈍い音とともにコナンの後頭部がフェンスに叩き付けられた。

 

「工藤君!」

 

先ほど哀の首を掴んだ時のような"優しい"絞め方ではない。ギリギリと音が聞こえてきそうなほどの強い力で首を絞められ、コナンの顔が苦痛に歪む。

さらにさっきと異なるのは、ジョナスがコナンの頸動脈を()()()掴んでいることだ。それは簡単に意識を失うことさえできず苦痛が続くことを意味していた。

 

「気に障るヤツだ、工藤新一! これほど絶望的な状況であっても、まだなんとかなるかのような目をしている。何もできやしないくせに!」

 

コナンをフェンスに押し付けながらジョナスが叫ぶ。

 

「なぜこれほどまでに力の差があるかわかるか……!? 僕は地獄を生き抜いてきたからだ! お前のように家族や大人に守られ仲間に恵まれてきたわけじゃない!」

 

ジョナスは一層首を掴む手の力を強め、首の骨までもを押しつぶさんばかりにギリギリとフェンスに押し付ける。

 

「だけどその困難こそが僕を強くした……。かつて哲学者が言ったとおり、"死"以外の試練はなんであれ人を強くする。それこそが"適応"、人間の持つ最も優れた力だ!!」

 

その時、コナンは少しだけ――しかしはっきりと――口の端を吊り上げ、笑みを浮かべた。

 

「へ……へへ……」

 

「……?」

 

「おめーが何を言いたいのかさっぱりわかんねーけどよ……知ってるかジョナス、たった一つだけ、揺るがない真実ってやつがあるんだぜ……」

 

「ああ?」

 

「おめーが、負けるってことだ」

 

「!!!」

 

コナンは右脚を曲げて引き上げ、その足首付近に手を添えていた。

コナンの履いている赤い靴が奇妙な形をしていることにジョナスは初めて気づいた。靴の側面、くるぶしの辺りに何か妙なダイヤルのような部品がついていたのだ。

コナンがそのダイヤルを回した瞬間、かすかな光がそこから溢れ出る光景をジョナスは見た。

ジョナスの本能はそれに最大限の警報を鳴らしたが、頭脳がその意味を理解するにはあまりにも一瞬の出来事だった。

 

電気と磁力が筋力を極限まで高め、超人的なキック力をその身に与えた次の瞬間――

コナンは右脚でジョナスの腹を打ち抜いていた!!

 

「がはっ!!!!」

 

後方に数メートル吹き飛ぶジョナス。あばら骨がへし折れ、内臓が断末魔の叫びを上げる。激痛と苦痛が全身を飲み込み、肉体の自由を奪いジョナスをひざまずかせる。

 

「馬鹿な……なんだこの力は……!!!」

 

ジョナスは血反吐を吐いて驚愕していた。いかなる強靭な肉体の持ち主といえど、すぐに立ち上がれるような激痛(いた)みではなかった。

 

コナンはよろよろとふらつきながらも歩みを進め、ジョナスを見下ろした。

足取りは不確かで弱々しく、全身に酷い傷を負っていたがコナンの決意を阻むものではなかった。

靴は今なお微弱な光を放っていた。

 

「う……ぐ……!」

 

立ち上がろうとするジョナスだが、脚が言うことを聞かない。

一方でコナンもまた深刻なダメージを負っていた。

 

(今の蹴りの反動で、多分あばらがイッちまったな……光彦のヤローめ、もうちょっと体に優しいバランスで作ってほしいもんだぜ……)

 

ジョナスの攻撃によって既にいくつもの骨に亀裂を負っていたコナンにとって、外的な作用で無理やり筋力を高めるキック力増強シューズの反動は深刻なものだった。

脇腹でも脚でも激痛が暴れ狂っている。

だがそんなことはもうどうでもよかった。

 

コナンは思い切り右脚を後ろに振り上げ、大きく大きく振りかぶった。

膝をついて低い位置になっているジョナスの顔面がその先にあった。

全力で。

ただ全力で。

 

「うおおおおおおおおおお!!!」

 

 

 

――あら、私ホントはあなたとお似合いの18歳よ

 

――じゃあ眼鏡をとったあなたはスーパーマンってわけ?

 

――逃げるなよ灰原……自分の運命から……逃げるんじゃねーぞ

 

――あなた、言ったじゃない。逃げるなって、運命から逃げるなって。守って、くれるんでしょ?

 

――だからお前の答えを聞かせてくれ。オレは、そのためにここに来たんだ

 

――工藤君……助けて

 

 

 

「おおおおおおおお!!!!!」

 

その足は顔面を捉え――――

 

強く、何よりも強く――――

 

打ち抜いた。

 

 

 

 

 

「はあっ、はあっ……!」

 

コナンはその場で前のめりに倒れ込み、うつ伏せで苦痛をこらえていた。

ボロボロの体でありながら限界を超えた力を出した反動で、間違いなく複数の骨が折れている。肋骨数本と右脚のどこかは確実だろう。

 

「工藤君、工藤君!!」

 

哀が駆け寄り、コナンの顔に手を触れる。

コナンは顔を起こして哀の目を見つめ、微笑んだ。

 

「終わったぜ、灰原」

 

「ええ……ありがとう」

 

哀の目は涙でにじんでいた。

ぽとりと一粒、コナンの頬に落ちる。

 

「ハハ、おめーを泣かせちまったから、また光彦にどやされそうだな」

 

「バカ……」

 

 

 

その直後、突然橙色の光が闇夜を照らし、ドカンという轟音が響いた。

 

「!!!」

 

振動が体を揺らし、コナンと哀は倒れていたジョナスに目を向ける。

ジョナスは仰向けで倒れ伏していたが、その左手になんらかの小さな機械を持っていた。震える手が、赤いスイッチを押し込んでいた。

 

「ククク……どうせこのビルは僕が去った後で灰にする予定だったんだ……ここには僕の"足跡"が残りすぎているからな……。ちょっとばかり予定が早まっただけさ……」

 

ジョナスは横たわりながら血まみれの顔をわずかに起こしてコナンを睨み、笑った。

その背後では既に火の手が上がっていた。

 

「この勝負は君の勝ちだ、工藤新一……だけど、最後の結果は……引き分け、だな……」

 

「あいつ……!!!」

 

コナンは立ち上がろうとするが、体が言うことを聞かない。

 

「無茶よ工藤君、私に肩を貸して!」

 

哀はコナンの腕を取り、肩に背負って立ち上がる。それだけでも全身に激痛が走り顔をゆがめるコナンだったが、今は哀に体を預けるほかないことは明らかだった。

 

「大丈夫よ、あの階段はまだ燃えていない……下の階に行けばすぐ隣はエレベーターよ、逃げ切れるわ!」

 

「オレのことよりも、あいつらは……元太と歩美が下の階にいるはずだ。あいつらを助けないと……!」

 

その時だった。

少し離れた場所に落ちていたコナンの眼鏡から、ノイズ混じりの音声が聞こえてきたのは。

 

『コナン君! そっちは大丈夫ですか!?』

 

「光彦!? おめーか!?」

 

「円谷君、無事なの!?」

 

『灰原さん!? よかった、無事だったんですね! 僕はつい先ほどこのビルを出たばかりです。さっき上の階に行ったら歩美ちゃんと元太くんを見つけて……二人ともボロボロだったので、先に二人を連れて外に出ることを優先したんです』

 

「じゃあおめーら全員無事なのか!?」

 

『コナンく~ん! 哀ちゃ~ん! あたし達はもう大丈夫だよ~~!』

 

『おめ~らも早く逃げてこ~~い!!』

 

「みんな……よかった……」

 

哀の頬が緩む。

 

「……行こうぜ、灰原」

 

「……ええ」

 

哀はコナンの腕を肩に背負ったまま歩き出した。

だが既に屋上のかなりの面積が炎に包まれつつあった。ヘリポートの中央にあったヘリも火の手に飲み込まれてしまっている。

 

「……おい、オレを引きずってたんじゃ間に合わねーんじゃ……」

 

「……心配いらないわ、あなただけは決して死なせないから」

 

哀は少し押し黙ってから、ふとコナンの顔を見て微笑んだ。

 

「工藤新一は、私が殺した……だから……江戸川コナンは、守り抜いてみせる」

 

それを聞いた途端、コナンは思わず吹き出した。

 

「ったく、そんなこと気にしてやがったのか」

 

「え?」

 

「バーロー、オレは一度も死んだことはねえよ。お前の隣で……ずっと生きてきた。だろ?」

 

「工藤君……」

 

「今までも、そしてこれからもずっと……オレは、お前の隣で生きていきたいんだ」

 

「ええ、私もよ」

 

哀はコナンと見つめ合い、微笑んだ。

 

「あなたと、一緒に――」

 

 

 

 

 

その二人の後姿を、ジョナスは倒れ伏しながら目で追っていた。

既にジョナスの服には炎が引火していた。高熱がたちまちのうちに全身にをむしばんでいく。

 

(……夜の闇と、炎の熱。ああ、"あの時"のようだ)

 

(あの時からずっと……いや、それよりもずっと前から僕は……)

 

哀の背中が小さくなっていく。その時、ふと一瞬だけ哀がこちらに顔を向けた。

冷徹さと憐れみとが入り混じった瞳で。

 

(ああ、あの目だ……子どもの頃、たった一度遠くから君の姿を見た時……君が僕に向けた目がそれだった……。僕はその目にずっと……もう一度会いたかったんだ……)

 

皮膚がただれ、体毛が灰となり、赤い血が焦げ落ちていく。

灼熱が人体を、かつて人間だったものに変えていく。

 

(後悔は、ないさ……僕は、生きたいように、生きたんだから……)

 

(君も、そうするが、いい…………)

 

――。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして――――

 

 

 

 

 

 



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エピローグ

コナンが退院を許されたのは、3週間以上も経ってからのことだった。

最初の数日間は自力で食事を摂ることさえできない重症だったのだから、それも当然だった。

元太と歩美も同じ病室で入院していたが、揃って二日で退院してしまった。おめーもっと牛乳飲んどけよと元太は笑った。

 

退院を済ませ、コナンは自宅への帰路についていた。まだ右脚はギブスで固定されていたが、そこ以外は見た目上ほとんど健康体に戻っている。

コナンの隣では、他ならぬ蘭が車のハンドルを握っていた。

 

「……ええっと、その、ありがとう、せっかくの休みの日にわざわざ来てもらって」

 

「別にいいのよ。ちょうど担当していた事件がひと段落着いたとこだしね」

 

「うん……」

 

それからまた沈黙が車内を支配した。

 

入院中、刑事としての蘭からはたびたび聴取を受けていたが、その時は事件の話にしかならなかった(それも結局、肝心なところはほとんど黙秘することになった)。

今日蘭に何を話すべきか、コナンは何度も頭の中でシミュレーションしていたのに、いざその時になると何も言葉にすることができなかった。

 

結局お互いほとんど口を開かないまま、車は目的地にと到着した。

あの日阿笠邸の消火活動のあおりでびしょ濡れになっていた工藤邸は、一部が焼け焦げていることを除けばすっかり元通りになっていた。(というより、元からボロ屋敷だから大して違いが分からないというべきか)

 

蘭は先に車を降り、後部座席から松葉杖を取り出して助手席のコナンに手渡した。

コナンはようやく使い方に慣れてきたその松葉杖に体重を乗せ、ぎこちなく立ち上がった。

 

「大丈夫? 歩ける?」

 

「うん、大丈夫だよ。……ありがとう」

 

コナンはそう言って微笑んだ。

蘭も微笑んでいたが、その表情はどこか寂しげでもあった。

そして、コナンの言葉を待っているようにも見えた。

 

言わなくちゃ、とコナンは思った。

今言わなければ、一生言えなくなると。

 

コナンは少しうつむいてから、もう一度顔を上げ、蘭の目を見つめた。

 

「あのさ、……オレ、ずっとずっと、言えなかったことがあるんだ」

 

「え……」

 

「オレ……」

 

コナンの唇が震える。

 

「オレ、本当はずっと、本当はオレ……」

 

目から涙が溢れだした。もっとクールに、キザっぽく決めるつもりだったのに、とてもそんな風にはできなかった。

ただ涙が、次々と溢れだした。

それでも彼女に、みっともない顔を見せたくはなかった。

 

だからコナンは笑った。

ぼろぼろと涙をこぼしながら、精一杯笑った。

 

「オレ……蘭姉ちゃんのこと……ずっと好きだった……!!」

 

蘭が微笑む。昔と同じ、誰よりも優しい笑顔で。

 

「うん……知ってた」

 

コナンはぐしゃぐしゃの顔でまた笑って、それから二の腕を顔に押し付けてごしごしと涙をぬぐった。

何度かそうやって、ようやく涙が止まってから鼻水をすすった。

 

「もう行かなきゃ。みんな待ってるから……」

 

コナンは松葉杖をついて一歩進みだす。

 

「またね、蘭姉ちゃん」

 

「うん、またね」

 

コナンが工藤邸の敷地内を進み玄関のドアを開けて家に入っていくまで、蘭はじっとその背中を見届けた。

コナンの姿が見えなくなってから、蘭はぽつりとつぶやいた。

 

「またね、コナン君。そして……さよなら、新一」

 

 

 


 

 

 

「「「コナン君、退院おめでと~~~う!!!」」」

 

クラッカーが一斉に鳴らされ、紙吹雪が目の前を舞った。

コナンは一瞬たじろいだが、すぐに状況を理解した。

壁にはカラフルな手書きで「退院おめでとう」と書かれた横断幕がかかっていて、色とりどりの折り紙で作られた輪っかの鎖飾りがあちこちに垂れ下がっている。ダイニングテーブルの上にはケーキやらローストビーフやらたくさんの料理が並んでいた。……ついでにうな重も。

 

「待ちくたびれましたよ、コナン君」

 

「なにぼーっとしてんだよコナン、おめーが主役だぜ!!」

 

「ほらほらコナン君、こっちに来て! 哀ちゃんや元太くんがいっぱいお料理作ってくれたんだよ!」

 

「あ、ああ……」

 

歩美に袖を引っ張られ、コナンはテーブルの前に進む。

 

そこにいたのは、誰よりも会いたかった人だった。

 

「灰原……」

 

哀は妙にそわそわしていた。コナンも同じく、なぜか妙に落ち着かなかった。

なんと声をかけたらいいのか、突然わからなくなってしまった。

 

(んん~~? なんで灰原相手にこんな緊張してんだオレ???)

 

たっぷり数秒は沈黙が流れてから、哀が微笑んだ。

 

「……おかえりなさい」

 

「……ああ、ただいま」

 

二人は、じっと見つめ合った。コナンは照れくさそうに笑い、哀も同じ顔になった。

 

突然、コナンはやたら視線が集まっていることに気づき慌てて後ろに振り返った。

 

「な~んだ、キスするんじゃないんだあ」

 

「ちぇっ、つまんねーの」

 

「まったく、少しは度胸を出してほしいものですねえ……」

 

「お、おめーらなあ……」

 

三人そろってブーブー言ってるのに対して、コナンはこめかみをヒクつかせる。

哀の顔は少し赤くなっていて、自分の口を手で覆い隠して視線をさまよわせていた。

 

「お~い、みんな並ぶんじゃ、記念写真を撮るぞ~~~」

 

「博士!」

 

昔より少し痩せた阿笠がコナン達に向かって手を振る。その隣には阿笠と結婚したフサエ女史、そして車椅子に乗った有希子がいた。

優しい瞳で息子を見つめる有希子と目が合い、コナンは微笑みとともにこくりとうなずいた。

 

(オレはもう大丈夫だよ、母さん)

 

その言葉が聞こえたかのように、有希子もまた表情をほころばせた。

 

「おお~し、久しぶりに少年探偵団、全員集合だぜ!」と元太が拳を握る。

 

「はいはい、哀ちゃんとコナン君はこっちだよ! もっとくっついて!」

 

「あ、ちょ……」

 

コナンと肩がくっつくぐらいの位置に強引に立たされ、哀の頬がまた少し染まる。

少しだけためらってから二人は横目で見つめ合い、微笑み合った。

手の甲同士がささやかに触れ合い、どちらからともなく指と指とを絡ませる。

 

「よ~し、みんなカメラを見るんじゃ。いちに~の、さん!」

 

「「「イエーーーイ!!!」」」

 

 

 

 

 

――オレはかつて、高校生探偵・工藤新一だった。

 

幼なじみで同級生の毛利蘭と遊園地に遊びに行って、黒ずくめの男の怪しげな取引現場を目撃した。

取引を見るのに夢中になっていたオレは、背後から近付いて来るもう一人の仲間に気付かなかった。

オレはその男に毒薬を飲まされ、目が覚めたら……

体が縮んでしまっていた!

 

工藤新一が生きていると奴らにバレたら、また命を狙われ周りの人間にも危害が及ぶ。

阿笠博士の助言で正体を隠すことにしたオレは、蘭に名前を聞かれてとっさに江戸川コナンと名乗り、奴らの情報を掴むために、父親が探偵をやっている蘭の家に転がり込んだ。

 

それから、いろんな事がありすぎるぐらいあった。

大勢の人と出会い、数々の困難に立ち向かい、悲しい別れもあった。後悔も苦しみもいくらでもあった。

 

だけど今なら胸を張ってこう言える。

たとえ人生が巻き戻っても、オレはもう一度あの取引現場に行って江戸川コナンになることを選ぶだろうと。

世界で一番会いたいやつが、その先にいるからだ。

 

オレは灰原の手を強く握りしめた。

もう二度とお前を失わないという想いを込めて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




本作はこれにて完結です。

ああでもないこうでもないと書き直しているうちに、そこまで大長編でもないのにえらく長い時間がかかってしまいました。
個人的には彼らの更なる冒険を描く続編なんかも書けたらいいなあと思っているのですが、残念ながら具体的なストーリーはまだありません(笑)

感想、評価などいただければ大変うれしく思います。
最後まで読んでくださった皆様、ありがとうございました。


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どっちもどっちの後日談〈シークエル〉

黒鉄の魚影ショックをまともに受け、ついに一度完結させたコ哀長編の後日談を書くことにしました。
本作はあくまで拙作『10年越しの再始動〈リビギンズ〉』の後日談なので、ちょっと長いですが先に本編を読んでいただいた方が話がわかると思います。ただ、未読の方でも10年後の高校生コ哀の話ということだけわかっておけば一応読めるような気もします。
後日談サイドの内容はとてもぐだぐだなのであらかじめご容赦ください。特にコナンの情けなさときたら……(笑)
なお、R15までは行きませんがR12オーバーぐらいの内容になってしまったような気がするので、その辺はご了承を……


「コナンと灰原ってよー、今一緒に住んでるんだよな」

 

米粒が頬についたままの元太が、箸をくわえたまま腕を組んで天井を見上げる。

ここは帝丹高校の部室棟だ。放課後、「探偵クラブ」と看板が掲げられた小さな部屋で、体格差の激しい三人の男女がパイプテーブルを囲んでいた。

 

「何を今さら言ってるんですか元太くん、当たり前じゃないですかそんなこと」

 

元太の向かいに座っている光彦がジト目でため息をつく。

確かにコナンと哀の二人は今、コナンの家で同居――あるいはより刺激的な言葉で言うなら同棲――している。表向きには、哀は自宅が"不運にも"火事で焼け落ちてしまったために、再築が済むまで養親とともに賃貸マンションに仮住まいしているという事になっている。だが、実際に今そうしているのは阿笠だけだ。仕事の都合で一足早く帰仏したフサエが不在なのはまだいいとして、模範的優等生である灰原哀があろうことか一人暮らしの同級生男子の家に転がり込んでいるなどということが学校に知られたら、教師たちは卒倒してしまうだろう。

当然ながらも幸いなことに、校内でその秘密を知るのは彼ら探偵団だけだった。

 

「いやだってよ……その割にはあいつら全然恋人っぽくなくねーか? いくらなんでも進展してねーわけねーだろ常識的に考えて」

 

「元太くん、だめだよそういうプライバシーに踏み込むようなこと言ったら」

 

元太の横に座っている歩美が、首を傾げて覗き込むように元太の顔をにらむ。

 

「歩美こそ灰原からなんにも聞いてねーのか?」

 

「んー、まあ、ちょっとだけ」

 

「おっ、たとえばたとえば?」

 

「だめー! 哀ちゃんのプライバシーなんだからペラペラしゃべる気なんてないよ!」

 

歩美はぷいと顔をそむけて語気を強める。

 

「んだよー、赤の他人同士じゃあるまいし」

 

元太に言わせれば、うだうだといつまでも関係を引き延ばしていた彼らが一応ちゃんと前に進むことができたのは――もっと言うなら、そもそも今この時点で灰原がどこか遠いところに永遠に去らずに済んでいるのも――少なくとも部分的にはオレ達が命を張ったおかげでもあるのだから、せめて二人の仲の進展を尋ねる権利ぐらいはあるだろと考えるのは自然なことだった。

 

「元太くんはもう少しデリカシーというものを学んだ方がいいですよ。そりゃあ僕だって気になりますけど、他ならぬあのお二人がいざ同居し始めたからって、そう順調にスイスイことが運ぶと思いますか? 変にせかしたらかえって気まずくなるだけですよ」

 

「へーへー、わかったわかった。とりあえずもうちょっとの間はそっとしておきゃいいんだろ。ったく、コナンのヤローいい加減に度胸出せよなまったく……」

 

「そういう元太くんこそ、他人の色恋沙汰ばかりじゃなくてたまには自分のことを気にした方がいいんじゃないですか?」

 

光彦が皮肉めいた笑みとともに親友をからかう。お互い様とはいえ、元太も光彦も彼女いない歴=年齢の経験ゼロ男子である。他人ごとばかり気にしている場合じゃないだろうと言いたくなるのも道理というものだ。

 

「自分のことねえ……」

 

「あははっ! 元太くんにはまだ早いかもね~、色気より食い気だもん!」

 

「言ったな歩美、おめーだって似たよーなもんだろ!」

 

「あたしは彼氏が欲しくなったらいつでも作れるも~ん。こないだだって告白されたばかりだし」

 

歩美がドヤ顔で指を折って数を数える仕草をする。つまりは最近だけでも複数の男子から告白されているということだろう。もちろん、そのこと自体は驚きでも何でもない。歩美は哀と並んで学園でも指折りの美少女だし、しかも基本的に異性に対しては塩対応の哀と違って誰にでも明るく優しい彼女は、天性の惚れさせ系女子でもあった。どちらかというと、彼女がいまだそれら数多の告白をOKしたためしがなく、相も変わらず幼馴染の元太や光彦と気軽につるんでいるという事実の方がよほど不思議なこととさえ言えた。

 

「うぐぐ、上から目線で自慢しやがって……こうしてやる! こうしてやる!」

 

「ちょ、ちょっと元太くん!? くすぐっちゃだめだってば! あはは、そこズルい、そこズルい!」

 

歩美は元太の、思春期の友達男女がやるには少々刺激的と思われるようなくすぐり攻撃に対しても大笑いで受け入れていた。二人ともただただ楽しそうである。

 

(傍から見てたら君たちだって付き合っているようにしか見えませんよ……)

 

遠い昔は哀だけでなく歩美に対しても無垢な恋心を寄せていた光彦は、そんな二人の様子を眺めて一人苦笑いを浮かべた。

 

 

 


 

 

 

その日の夜。

コナンは探偵団が自分と哀との関係を肴に盛り上がっていたことなど知る由もなく、リビングのソファーで拳を握り込み固唾を飲んでいた。彼にとって、今頭の中のすべてを占めていること以外はこの世界の何一つとして問題ではなかった。何か他のことを考える余裕など一切なかった。

今日は金曜日で、明日はなんの予定もない休日だ。右脚のギブスはとっくに外れ、体は完全な健康体に戻っている。すべての条件は整っていた。

 

彼は決意していた。今日こそは、今日こそは彼女に言うべきことを言い、やるべきことをやるのだと。

そして"その時"が来るのをただじっと待っているこの時間は、はたして永遠の長さにも感じられた。実際は4、50分かそこらしか経っていないにもかかわらず、だ。

 

「お風呂空いたわよ~」

 

心臓が、弾け散らんばかりに飛び跳ねた。

背後から聞こえてきた、とびきり可憐で馴染み深い声。もうこの同居が始まってから数週間が経つというのに、この"風呂"が"空いた"というだけの簡素な連絡にはまったく慣れる気がしなかった。湯上りの、ほのかに赤らんだ顔の灰原哀が背後のすぐそばにいるのだ! 彼女はつい先ほどまでコナンの家の風呂で、(もちろん)素っ裸で入浴していたのだ!

()()()()17歳の健全な男子たる江戸川コナンにとって、これ以上に重大な事件があるだろうか?

 

哀はタオルで髪を拭きながらコナンの隣に腰かけた。手を伸ばせば肩まで抱けるであろう至近距離に、やたら簡素な薄っぺらい部屋着に身を包んだだけの彼女がいる。白い肌は平時より少しだけ赤くなっていて、何かクリームでも塗ったのであろう顔がじんわり光沢を帯びている。すっと通った鼻筋も、ぷるんと艶のある唇も、やたらと長いまつげもシャープで大きな瞳も、昔ながらのいつも通りの横顔でありながらなぜか一層魅力的に映る。

つまるところ、コナンは動揺しまくっていた。

 

(あああ可愛い可愛い可愛い!!! どうなってんだ灰原のやつ、いくらなんでもこんなに可愛かったのか!?!?!? っていうかタダゴトじゃないだろこのムンムンの色気は!!! こんな高校生いたらおかしいでしょ灰原サン!?!?!!?)

 

もちろん哀は誰が見たってとびきりの美人だ。そんなことはあの事件が起きるまでの、彼女のことをそういう目で見ないよう無意識のうちに己を抑制していたコナンでさえ素直に認めていたことだった。

しかし今のコナンはそんな"客観的な"視点で彼女を見ているのではない。おのれの本当の気持ちを自覚した今、灰原哀はコナンにとってこの世で最も大切な、そして最も魅力的で魅惑的な女性に他ならない。そしてコナンは聖人でも君子でもない。その内面は健康で健全な、いたって普通の男子なのだ。

 

要するに何が言いたいのかというと、コナンは哀のことを心から大切に想っている。真剣に、本当に、彼女を愛している。しかしその愛は、決して()()()()()的な意味で健全なものではあり得ないのである。

同居が始まってすぐのうちは、彼女がそばにいるというだけで温かく満たされた気持ちになっていた。それだけで十分だった。

だがその生活に慣れ始めたころ、コナンの中の"男"の部分はいつしか()()()()を求め始めていた。彼はその欲求を、彼女に適切に伝え円滑に事を進めるためのスキルや経験を持ち合わせていない。だってそうだろう? 誰だってはじめはそうなのだ。そして工藤新一時代を含めて27年の人生を生きてきた彼は、一度子供に戻ったというやむを得ない事情も相まって、いまなお"未経験者"なのだ。余裕のある振る舞いができないのも当然ではないか。

 

いまやコナンは毎日毎晩、その卓越した頭脳をたったひとつの真の難問だけに費やし悶々とし続けていた。何をどう伝えてどうするのが正しいやり方なのか、それは名探偵の推理力でどうにかなる問題ではなかった。本棚の推理小説を何百冊読もうともそんな知識は身につかないのだから。

それなのに彼女ときたら、昔と何ら変わらぬ近すぎる距離感で、平気で耳打ちしてきたり微笑みかけてきたりするのだ。こちとら灰原がひとつ屋根の下にいるというだけで頭がおかしくなりそうなのに、平然とそういうことをしてくるのだ。一体彼女はオレのことをなんだと思っているのだろうか? かつては哀の方が思い悩んでいたようなことで、いまやコナンが頭を抱えていた。

 

つまるところコナンはもう限界なのである。限界なのである。

 

(チクショー、なんで灰原の方はこんなに冷静でいられるんだよ!? オレのことなんて別にそういう意味では意識してねーってことなのか……?)

 

コナンの目からは、哀の様子はそう見えていた。

 

もちろんそれは致命的なまでに間違っていた。

 

 

 

(……これでも彼は、私を意識してくれないのかしら……)

 

哀は思い悩んでいた。哀の目から見て、同居が始まってからのこの数週間のコナンはいつだって平静だった。彼の内心でどんな嵐が吹き荒れていようと、それは彼女にとっては知る由もないことだった。

哀は幸せだった。命を懸けた困難と戦いの果てにとうとうコナンと結ばれ、ずっと一緒に生きていこうと誓い合った。阿笠邸の焼失という不幸な出来事の結果とはいえ、とにもかくにも彼との同居が始まって、最初のうちは毎日が楽しくて仕方がなかった。

哀は備えていた。いつ()()()()()()になってもいいように、身支度は万全に整えていた。スキンケアやその他諸々のケアにも以前よりずっと力を入れるようになり、我ながら一層綺麗になったと思っている。

 

だけど、待てども待てども"その時"は来なかった。コナンはいつも優しい笑顔で「おやすみ」と言って、哀が寝室の扉を閉める姿を見送っていた。彼女がその扉を閉める時にどれほど名残惜しそうにしているのか、きっと彼は想像だにしていないに違いない。どうしていまだに別々の部屋で寝なければいけないのか、哀にはさっぱりわからなかった。

 

(……そもそも彼って、私のことを"そういう対象"として見てくれているのかしら?)

 

普通に考えればそれはまったくバカげた疑問でしかなかったが、今の哀にとってそれはこの上なく真剣な問いとなっていた。はたしてコナンは本当に、哀に対してちゃんと世間一般で言うところの恋愛感情を持ってくれているのだろうか?

 

(……まさかとは思うけど、本当に単なる親愛の情?とか戦友としての大切さ?とかそれだけ……ってことはない……はずよね?)

 

哀はあの屋上での出来事を思い出していた。

 

(「お前にはずっと、オレのそばにいてほしい」……うん、これは言われたわ。常識的に考えてこれってプロポーズよね?)

 

(なのにどうして……あなたは何もしようとしてくれないの?)

 

今日の昼休みに、哀は意を決して歩美に相談をした。世界広しといえども、哀がこんなことを相談できる相手は歩美以外に考えられなかった。まだコナンと"そういう関係"になっていないと打ち明けた時、歩美はアメリカンドラマなら"Oh no, fxxk! whyyyyyyy???!"と叫んでいそうな顔になった。

 

「あたしからコナン君に言ってあげようか?」

「お願い、それだけはやめて」

「でも哀ちゃんはどうしたいの? 大事なのは、哀ちゃん自身がどうしたいかだと思う」

「……そうね、あなたの言うとおりよ……」

「話だったらいつでも聞くよ! あたしはいつでも哀ちゃんの味方なんだから!」

「ありがとう、歩美……。あなたには元気づけられてばかりね」

 

かくして今日の哀は意を決していつも以上に準備を整えた。お肌良し、ムダ毛良し、その他諸々すべて良し。買ったばかりの新しいナイトウェアは簡素なデザインながらもその生地は薄っぺらで、しかもピタピタでないのに絶妙に体のラインを拾ってくれる気の利いたシルエットになっている。そのおかげで、ごくさりげなく巧妙にセクシーさを醸し出せると評判の服だった。これで駄目なら、もうどうすればいいのかわからない。

 

(……いえ、違うわ。そうじゃない……)

 

弱気に支配されそうになった時、哀の脳内でもう一人の自分が意識をひっぱたいた。

 

(これじゃあ私は何も変わってないじゃない。ベストは尽くしているとかなんとか言い訳をして、結局は彼の行動をただ待っているだけ……)

 

(歩美が言ったとおり、大事なのは私がどうしたいか……。私は……)

 

(私は彼と……心も体も、私のすべてで結ばれたい。キスしたい。抱きしめ合いたい。そしてそれ以上のことがしたい……。本当に欲しいものは、ちゃんと”欲しい”と望まなくちゃいけない。あの日、あの屋上で"生きたい"と願ったように。"助けて"と叫んだように。本気で望んで、言葉にして、自ら手を伸ばして……)

 

(だってそれは……私の望みなのだから)

 

哀は拳を握りしめ、口を真一文字に結んで天井を見上げた。それから勢いよく顔を横に向け、大きく声を張り上げた。

 

「工藤君!!」「灰原!!」

 

二人の言葉は、完全に同時だった。互いが横を向いたのも同時だったから、二人は至近距離で正面から向き合う形になった。

 

「あ……」

 

予想だにしなかった状況に、哀の思考がフリーズする。視界には今やコナンの顔しか映っていない。そのコナンもまた、予想外の展開に目を丸くしていた。

 

「えっと……お先にどうぞ、工藤君」

 

ああしまった!と哀は心の中で叫んだ。どうして遠慮してしまったのか。時間が経てば決心が鈍ってしまうかもしれないというのに!

 

「あ、ああ」

 

数秒の間、コナンは間抜けな顔で沈黙していた。それからようやく口を開いた――ただし、消え入りそうな小声で。

 

「あ、あのさ灰原。こんなこと言うのもどうかと思うんだけど、今日のお前すっっっげーエロいんだけど……」

 

「……え?」

 

「あの、その、ぶっちゃけオレ、お前がそばにいるだけでめちゃくちゃその……ええっと、つまりその……」

 

コナンの顔はいつの間にか耳まで赤くなっていた。目は泳ぎ、手は宙をさまよっていて、言葉はしどろもどろでまるで要領を得ない。

だけど哀にもようやくわかった。彼はずっと冷静だったわけではない。ただ自分が勝手にそう思い込んでいただけなのだ。それはつまり――

 

「ええっと、要するにだぜ? だからその、ちょっとお前に言いたいことがあるんだけど――」

 

コナンはその文章を最後まで言うことができなかった。

唇を、ふさがれてしまったから。

 

「――――!!!」

 

 

 

数秒ののちに、哀の顔がわずかに離れた。その表情は今までに一度も見たことがないほど嬉しそうで、愛らしくて、それなのに今にも涙がこぼれ落ちてきそうにも見えて。

 

「好きよ、工藤君」

 

はっきりと、まっすぐに、哀はそう言った。

 

「はいば……」

 

「好き、好きなの、あなたのことが大好き。ねえ知ってる? この10年、ずっとずっとあなたが大好きだった。だけど決してあなたと結ばれることはないと、望むことさえしてはならないと、ただそばでいられればそれでいいと思っていた。私は幸せにならなくていいと、なってはいけないと思っていた。だけどあの日、あの屋上であなたがまた私を救ってくれたあの日、私は決めたの。"生きたい"って。"幸せになりたい"って。……だから欲しいの。あなたのことが欲しい。好きだから。ずっとずっと大好きだったから――」

 

それだけ一気にまくし立てて、哀はとうとう言葉を詰まらせた。

唇を、ふさがれてしまったから。

 

「……!」

 

今度はコナンが顔を離し、哀の瞳を見つめ微笑んだ。

 

「……ありがとう灰原。オレも、お前のことが好きだ」

 

コナンの手のひらが哀の髪を撫でる。

 

「くどう、くん……」

 

「ちぇっ、さっきオレから先に言おうとしてたのにな」

 

コナンが不服そうに唇を尖らせ、哀はいたずらっぽく目を細めた。

 

「ふふっ、たまには私が先手でもいいんじゃないかしら?」

 

「そうだな……」

 

それからコナンはもう一度哀の唇を奪い、離れ際に囁いた。

 

「あのさ、灰原。オレまだ風呂に入ってねーから……」

 

「……バカ」哀の顔が赤らむ。

 

「だからさ……ちょっと待っててくれねーかな、オレの部屋で」

 

「……ええ、待ってるわ」

 

二人は見つめ合い、微笑み合い、もう一度キスをした。

 

この日を境に、彼らが別々の寝室で眠ることは二度となかった。

 

 

 


 

 

 

<おまけ>

 

「哀ちゃーーーん! 大好きだよーーーっ!!」

 

「はいはい、私も大好きよ、歩美」

 

ある日、探偵クラブの部室でのこと。哀はファッション雑誌を読みながら、横からいきなり抱きついてきた歩美の髪を無造作に撫でていた。ちなみに目線は雑誌からまったく動いていない。

すると歩美は、哀の首筋あたりをじいっと見つめてぼそりとつぶやいた。

 

「……あれっ? 哀ちゃん、首にキスマークついてるよ」

 

「えっ!?」

 

哀は動揺をあらわにし、目を泳がせながら手で首筋を押さえた。

 

「な~んて冗談! 何もついてないよ~」

 

「……ちょっと、タチの悪い冗談はやめてよね」

 

ましてや今この部室には、当事者たるコナンは席を外しているとはいえ他の男子二人がいるというのに!

 

「……だけど哀ちゃん、なんとなくコナン君の匂いがする……もしかして昨日も……」

 

「そ、そーいうのやめなさいって言ってるでしょ!!」

 

哀の声は完全に上擦っていた。これでは到底、まともにごまかせているとは言えそうにない。

そんな二人の様子を眺めていた元太があきれ顔でぼやいた。

 

「歩美のヤツ、自分が一番プライバシー踏み込みまくりじゃねーか……」

 

「歩美ちゃん、ある意味一番無敵かもしれませんね……」

 

 

 

 

 

 




なんというか許してください、黒鉄を観て衝動的に何かを書きたくなったけどこんなものしか思いつきませんでした(笑)

とはいえ、黒鉄はある意味僕にとって「答え合わせ」になったというか、「僕の解釈って結構合ってたんじゃね?」と思わせてくれたこともあって、そういう意味でも嬉しい映画でした。
あの映画で僕が最も再認識したのは、やっぱり原作の哀ちゃんが(少なくとも我々コ哀派が望んでいるような形での)ハッピーエンドに行けそうにないのは、何より本人がそれを望んでいないからだ――ということに尽きます。そんな形で自分が幸せになりたいだなんて思っていない、コナン=新一には他ならぬ彼女がいるのだから、と。

だから『10年越しの再始動〈リビギンズ〉』において僕は、何よりもまず灰原哀自身にその未来を望ませなければいけない、欲望させなければいけないと思っていました。そうでなければ、いくらコナンが手を伸ばそうとも彼女は決してその手を取らないだろうと。
ある意味今回のこの後日談は、その結論をもう一度強調させてこの上なくあからさまに提示し直したものだとも言えます。その巻き添えでコナンはとことん情けないヤツになってしまいましたが……(笑)いやでも結局のところ童貞(あっ、言ってしまった)男子ってああいうものでしょう? そんなね、クールにキザにカッコよくなんてできやしないんですよ結局(笑)

あとこれは完全なる余談ですが、「コ哀の背中を押しまくる歩美ちゃん」はもはや界隈の共通概念になっている気がします。

それでは、またどこかでお会いしましょう。


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