やはり俺の青春ラブコメはデートからしてまちがっている。 (現役千葉市民)
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1章 やはり、俺のデートは相談からしてまちがっている
第1話 やはり、俺のデートは相談からしてまちがっている


「はぁ? デートの相談?」

 

 生徒会室で俺の相談の目的を聞いた一色いろはの第一声はこれだった。

 一色はリポート番組でゲテモノ料理を食わされる新人女子アナウンサーが一瞬ガチで見せる嫌悪のような表情で俺を見る。想定の範囲内であるので俺は構わず話を続ける。

 

「ああ。今度コンペでプレゼンをすることになった」

「コンペ」

 

 今度は『デート』という単語と直接結びつかない『コンペ』という単語に、一色はベテラン芸人の渾身のギャグを拾い損ねた新人女子アナウンサーのように眉をひそめた。これも想定の範囲内の反応であるので、俺は構わずこの二つの単語を結び付ける説明をする。

 

「俺も雪ノ下もいかんせん対人スキルが低過ぎて、交際を始めたものの何をすればいいかわからなくてな。それでとりあえず男女交際といえばデートだろうという話になったんだが、今度は具体的にどこへ行けばいいかわからない。そしたら雪ノ下が『ではそれぞれデートコースについて調べて、より優れたプランを実行することにしましょう』と言い出してな。コンペ形式でデートプランのプレゼンをすることになったんだ」

 

 説明を聞き終えた一色の感想は次の通りだった。

 

「バカじゃないですか?」

 

 ですよねー。

 だが、雪ノ下のパートナーとなった俺としては彼女の名誉を守る義務がある。俺は毅然として言った。

 

「そこがかわいいまである」

「リア充は爆発しなくていいですから、バカップルは対消滅してください」

 

 さすが辛辣。いろはす辛辣。

 そこで一色はハッとなにかに気づいたように開いた手で口もとを隠し、「えっ、わたしの年収ってこんなに低いの?」みたいなわざとらしい顔をした。

 

「はっ! もしかして、これデートの相談を装った浮気のサインですかでもわたしキープ扱いされる安い女ではないですからきちんと関係を清算してからもう一度申し込んで下さいごめんなさい」

 

 そして、ぺこりと丁寧に一礼。

 この芸風も随分と板についてきたな……と、後輩の成長に想いを馳せると同時に、時間遅れで違和感が湧く。

 

「……それ乗換ならオーケーみたいなことになってるが大丈夫か?」

「は? 後輩女子に恥ずかしげもなく彼女とのデートプラン相談に来る交際スキル皆無の哀れな先輩ごときの相手をしてあげているわたしによくそんな失礼な口を利けますね?」

「ごめんなさい」

 

 半ギレいろはすに速攻で頭を下げる。男なら謝ると決めたら潔く。そして仕切り直して、しれっと話題を戻すのだ。

 

「いやな、まじめに考えると、なかなかこれだというのが思いつかなくてな。なんだかんだでここ千葉だし。千葉なんもないし」

「普段は散々、鬱陶しいくらいの千葉愛アピールしといてなんですかそれ」

「いや、だって千葉だし。千葉駅の周りとか三越もパルコもなくなっちゃって、ホントどうすんのコレって感じだし」

 

 千葉は変わった。三越は撤退しライオン像もいなくなった。生徒会選挙のときに陽乃さんにハメられて折本や葉山の野郎と行くことになったあのパルコももうない。あそこの本屋、品揃えが変わっていて好きだったのに……。駅前は再開発で新しくビルを建てているが、完成は何年先になることか。

 

「デートならわたしと一回、(仮)(かっこかり)のやったじゃないですか。アレでいいんじゃないですか?」

 

 一色がやれやれといった感じで、自分の爪とか見ながら面倒くさそうに言う。そういえばあったなそんなの。葉山とのデートの練習とかなんとかで付き合わされて、最終的には生徒会のフリーペーパー企画の取材に利用されたヤツ。しかし、あれも……、

 

「千葉駅集合から千葉中央の京成ローザまで歩いて映画を断念、それでアサヒボウルで卓球して、富士見通りのなりたけでラーメンを食い、道を戻って千葉中央駅前のカフェとか、半径二百メートル以内のデートコースなんてコンパクトシティが過ぎて死ねる。千葉狭過ぎねぇ?」

「まとまってると言ってあげて下さい。あと、わたしとのデートを黒歴史扱いしないで下さい」

 

 なんかぷんすこしている一色。いやもうだって、プレゼンするデートプランとしては行き当たりばったり感が過ぎるじゃん。雪ノ下のことだから「このプランのテーマはなに?」くらいのこと言うよ?

 

「自分のよく行く場所を紹介するというのも方法ですよ? ラーメン美味しかったですし」

「それだとラーメンはともかくとして……Bee-Oneのヨドバシカメラをのぞくと見せかけてのイエローサブマリン発、アニメイト経由の終点とらのあなとかの最新サブカルチェックツアーになり得るが、それはアウトだろう。そのぐらいの分別はある」

「とら……? まあ、アニメイトでだいたいの方向性は想像できますけど、端的に言ってドン引きでしょうね」

 

 引き気味の一色の態度に俺も同意する。これはオタク趣味への裏切りではない。交際初手で踏む手順としては単純にハードルが高いという客観的判断である。ウソじゃないよ? それにこのプランだと、途中で材木座やら秦野やら相模弟やらのモブキャラに偶然ばったりとか「それある~」だからね? 下手するととらのあなで年齢詐称してBL本漁り中の海老名さんとエンカウントとかもあり得るからね? 棲み分けはエチケットだから。これ大事。俺は詳しいんだ!

 

「海浜公園は一回行ったしなぁ。パンさんは……高校生には高過ぎる」

 

 一番喜ぶのは東京ディスティニーランドだろうが、高校生の財布には優しくない。パンさんは貧者には非情で冷酷なパンダなのだ。

 

「ああ、そういえば雪乃先輩ってかわいい好きでしたね」

 

 パンさんと聞いて一色がなにかを思い出したように指を立てた。

 

「あれ、どうです。動物公園」

「風太くんか!」

 

 千葉市動物公園。立ち上がるレッサーパンダ風太くんで一世を風靡した、千葉市が世界に誇る動物園だ。風太くんマジ国際ニュースにも流れたからね? ウソじゃないよ?

 

「情報古っ。後期高齢者ながらまだ生きてるそうですけど。最近はライオンとかチーターとかハイエナが増えたらしいですよー」

「詳しいな。なんだアレか? 一色は普段はツンケンしながらネコとか見ると無条件降伏するタイプか?」

「は? それ、どこの雪乃先輩ですか。違いますよ。通学にモノレール使ってれば嫌でもアップデートされますよ」

 

 なるほど。そういえば一色はモノレール通学だった。一度だけ送って帰ったときに一緒に乗ったな。千葉市動物公園にはモノレールの駅があるから、ポスター等で自然と最新情報が目に入る訳か。

 

「そういうの、葉山先輩の前ならやるのもやぶさかではないんですけど……あ、そうか。先輩はそういうのに弱いのか。チョロいんですね」

 

 指を顎に当てながら、「ああ」という顔で笑う一色。否と言えないのは図星にやぶさかではないからだ。ここは、男なら開き直るなら潔く、である。

 

「一色。お前はまだギャップ萌えの恐ろしさを理解していない。人は神ではない。神ではない人には必ず死角がある。死角は常に急所なのだ。その人の普段見せない一面というものは死角だ。ここから襲いかかる好感度というものは高確率で急所に刺さり、あらゆる人を悶えさせ――」

「きゃー見て下さい先輩、ネコですよー! 丸くなっててかわいー! なでさせてくれますかね? ほら、先輩一緒に――」

 

 俺の高説を遮って、一色がはしゃぎながら足元の虚空に不可視のネコを現出させて、俺を誘うように手招きをする。うん。死角というかなんというか、もうあれだ。

 

「あざとい」

「なんなんですか、もー」

 

 頬を膨らませて抗議する一色。あざとい。やめろ、そのあざとさは俺に効く。

 

「じゃあ、とりあえずこの日は空いてますんで、十時にモノレールの動物公園駅に集合でいいですね」

 

 そこからの光の速さを超えた感のある切り替えで、手帳を確認しながら一色がそう言った。うん? どういうことだ?

 

「なんでお前と行くことになってんの?」

「下見ですよ下見。デートに自信がなく後輩に相談してきた可哀想な先輩のために、かわいい後輩が一肌脱いであげてるんですよ。わー、わたし優しいー、これは後輩的にポイント高い」

「なにその聞き覚えしかないポイント制度」

 

 手を合わせて「きゃー」と言いながらニコニコ笑う一色。そういえば最近、小町とつるんでなにかと小賢しく立ち回っている空気は感じていたが、もうそこまで仲良くなってたの? これはお兄ちゃんとして付き合う先輩は選ぶべきだと愛する小町のために言うべき時がきたのではないだろうか――。

 

「はいはいはーい。じゃあ当日はよろしくお願いしますねー――セ・ン・パ・イ」

 

 そんな俺が覚えた危機感など知らぬ顔で一色は立ち上がると、そう俺の耳元に吐息とともに言い残して生徒会室を出て行った。

 これが一色いろはという後輩で、そのあざとさは俺に効く。



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第2話 そして、比企谷八幡の多難な一日が始まる

「……えーと、先輩。これはどういうことでしょうか?」

 

 一色は動物公園駅の改札を出ると、そこに並ぶ俺たち(・・・)を見て開口一番そう言った。

 

「いや、ハロー……」

「今日はよろしくね、一色さん」

 

 申し訳なさそうに手を振る由比ヶ浜結衣とニッコリ笑顔がちょっと怖い雪ノ下雪乃。この二人が俺の横に立っていた。内心に冷や汗を垂らしながら、俺はゴホンとひとつ咳払いをして事情の説明を試みた。

 

「あー、どこからか知らないが小町の耳に入っていてな。なら『みんなで行こうよお兄ちゃん!』という話になってだな――」

「そういうことなんで、よろしくお願いです、お姉さま!」

 

 俺の背中に隠れていた小町が、「ここ!」というタイミングで顔を出す。素晴らしい絶妙なタイミングの煽りだ小町。我が妹ながら泣きたくなるほどほれぼれする。

 

「お米ちゃーん?」

 

 当然に満面の笑みで怒気を発する一色。実に器用な感情表現だ。その笑顔のまま小町の手を掴み、少し離れた場所へと引っ張っていった。

 

「いやいや、わたくし妹の立場といたしましても、誰か一方に肩入れというのは競技上公平性を欠くといいますかね――」

「単純にこっちの方がおもしろいと思っただけだろ、この快楽主義者が」

「いやー、さすがお姉さまー」

 

 なんとなく耳に聞こえてくるやり取りを聞こえないふりでやり過ごし、なぜか手もみをしている小町を従えて戻ってきた一色にとりあえず頭を下げる。

 

「いや、なんかすまんな」

「あー、いいんですいいんです大丈夫です、お米はあとでおいしく炊いてあげますんで大丈夫です」

「炊く……?」

 

 なにそれ? どうするのウチの妹? 炊きたてのお米みたいにふっくらとかしちゃうの? 怖いんですけど。

 俺がちょっと恐怖を覚えていると、一色は一歩近づいて俺の後ろにいる由比ヶ浜と雪ノ下の方を見ながら小声で言った。

 

「まあ、いいんです。結衣先輩の相談の件もありましたし、結果がオーライになれば過程とか気にしないタイプなんで、わたし」

 

 なにそれ。確かにこのメンツで遊びに行くことは由比ヶ浜の相談である「俺や雪ノ下とこれからもずっと仲良くしたい」に対する解答のひとつであるように思う。しかし一色お前……俺はどう返したらいいかわからず、前にも言ったようなセリフで答えるしかなかった。

 

「相変わらずお前、マジでいいヤツだな……」

「前にも言いましたよね? わたし、こう見えて結構都合のいい女なんで」

 

 後ろの二人から見えない角度でバッチリと決めウィンク。俺の後輩は相変わらずかわいくあざとくわざとらしく、そしていい女であった。

 

「こほん!」

 

 仕切り直すように咳払いをした一色は、みんなの注目を集める。

 

「じゃあ、これで全員集まったみたいですねー。今日はよろしくお願いしまーす」

 

 ぺこりと丁寧にお辞儀をしてから顔を上げると、

 

「ほらほら、じゃあみなさん行きましょー」

 

 手を上げて俺たちを先導し、動物公園の入口へと歩き出した。続いて歩く俺の横に雪ノ下が並ぶ。

 

「仲がいいのね」

 

 ちょっと背筋に冷や汗が流れる系の声を出す雪ノ下。いや、俺は悪いことはしていない。少なくとも悪気があってこうなった訳じゃない。しかし、心の中の冷静な俺が「パートナーの女子の前で他の女子とあの距離で会話とか常識的に罪じゃね? ギルティーじゃね? そもそも後輩女子と二人でどっか行く約束しちゃった時点でギロチン落ちるんじゃね?」と囁いている。

 ギギギと錆びついたロボットのように首を動かし、雪ノ下の顔を窺う。それを待っていたように雪ノ下の瞳は俺の視線を捕まえて、

 

「でも負けないつもりよ」

 

 そう笑うと俺の指先にちょっとだけ自分の指を触れさせて離れた。

 熱が指先に残る。

 いや、もう俺の中ではあなたが優勝ですよ。



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第3話 こうして、比企谷八幡はデリカシーを身につけることを心に誓う

「しっかし、いつ来ても元気だよな、あのサル」

 

 入場口へ向かって歩きながら、動物公園内から断続的に「ホッホッホッホッー!」と激しく聴こえてくるサルの声について俺が感想を漏らすと、由比ヶ浜がうんうんとうなずいた。

 

「入る前からすっごい聴こえてくるよね、アレ」

「フクロテナガザルね。マレーシアとインドネシアのスマトラ島に分布する大型のテナガザルで、自分の頭と同じくらいの大きさまで膨らむ『のど袋』で、この大きな鳴き声を出すそうよ」

 

 すると由比ヶ浜の横からすかさずといった感で雪ノ下の解説が入る。動物公園入園前からユキペディア発動です。俺のパートナーさんブレない。たぶんここに来ることが決まってから下調べしていますよこの人。少し目が赤いのは楽しみで夜更かししたからだと推察。想像だけでカワイイ。さすが俺のパートナーさん。最強。

 

「さすがゆきのん! なんかすごい!」

 

 称賛のガハマさんにちょっと鼻を高くして満更でもないご様子の雪ノ下さん。このほっこり、ちょっと値段はつけられないですね。あの、ちょっと手を合わせて拝んでもいいですか?

 

「チケットまとめて買いますねー。一人七百円よろしくでーす」

 

 マジで手を合わせそうになった瞬間に、一色が手際よく券売機でのチケット購入を始める。七百円。ディスティニーランドの約十分の一の入園料である。高校生のバイトで最低賃金の時給でも、一時間未満の労働時間で入園できる親切設定だ。ビバ、市営動物園。公営最強。

 

「おー、元気元気」

「初めて見た訳でもないのに、この動きには圧倒されるわね……」

 

 動物公園に入場し、坂を登った先のすぐ左手にニホンザルのサル山が見えてくるが、その前の開けた空間に集まっている多くの人たちは別の方向を見ていた。さっきから続く「ホッホッホッホッー!」の発生源であるフクロテナガザルである。

 曲線で構築されたオブジェみたいな白い雲梯(うんてい)を、二頭の黒いテナガザルたちが大声で「ホッホッホッホッー!」と鳴きながら、名前通りの『テナガ』を使って高速で移動している。ときおり雲梯の棒でぐるぐると前転したり綱渡り的走行でダッシュしたりと、その動きはほとんどニンジャムーブである。スゴイ、ニンジャスゴイ。

 

「正直レッサーパンダよりもインパクトあるよな」

「ここで子供のとき怖くて泣いてたって、ママによく言われるんだよね」

 

 由比ヶ浜がちょっと嫌そうな顔をしながらそんな話をし出した。

 

「いや、普通に子供からしたら怖いでしょ、コレ」

 

 大声で叫びながらの激しい奇行。夢でもし逢えたらトラウマなことだろう。SNSでセンシティブな内容を含む映像指定を受ける可能性も十分にあり得るニンジャムーブである。

 

「でもママったら、他の動物園に行ってもこの話するから、正直今でもちょっと苦手……」

 

 あー、ガハママならやりそうだな、それ。娘イジリめっちゃ好きそうだもん、あの人。

 

「まあ、苦手なもののひとつやふたつあった方が人間かわいいもんだぜ? 俺なんか苦手なものが多過ぎて、かわいさ余って憎さ百倍だからな」

「ヒッキーのかわいさなくなった!?」

 

 俺の自虐ネタに引き気味のツッコミリアクションをする由比ヶ浜。だが、由比ヶ浜は一度視線を前に戻して少し俯くと、フクロテナガザルの鳴き声の中でギリギリ聴こえるくらいの小声で言った。

 

「……でも、ありがと」

「ん……」

 

 自虐ネタも狙いが励ましと割れると、めちゃくちゃ照れる。ガハマさん、そんな耳を赤くして言わないで。なにが「ん……」だよ、俺! 恥ずか死するよ、こんなの!

 俺と由比ヶ浜が揃って照れ焼き状態に陥ったところで、水をぶっかけるようななんの情緒もないやり取りが聞こえてきた。

 

「欲求不満なんじゃないですかねー、このサル」

「そんないろは先輩じゃあるまいし――」

「あ?」

「あ、雪乃さん、こっちはキツネザルだって。かわいいー」

「え? ええ――」

 

 そこを拾ってそのツッコミを入れる小町。我が妹ながら怖いもの知らずにもほどがある。そして回避行動に俺じゃなく、一色がこの中で一番強く出られない雪ノ下を盾にする小賢しさ。早くもいろはす対策を覚えるとは、我が妹ながら恐ろしくて将来が心配になる。

 とりあえずこれで照れ焼き状態から抜け出した俺と由比ヶ浜は、この小町と雪ノ下の流れにくっついて隣の展示へ移動する。

 フクロテナガザルの横にはシマシマ尻尾のかわいいワオキツネザルがいた。ここはモンキーゾーンで、ここからクロザルやらマンドリルやらの色んなサルの展示が並んでいる。ユキペディアの解説を聞きながら歩いていくと、突き当たりを曲がったところで大型のサルの展示が集まった場所に着く。

 

「あ、チンパンジー」

「隣はゴリラみたいね」

「むかいはオランウータンか」

 

 誰でも知っている有名な大型サルを揃えた千葉市動物公園のサル展示に死角はない。さすが千葉。ステキ千葉。ビバッチバ。

 そこで俺は「おっ」と気づいた、チンパンジーの柵に掲示された注意書きを読んだ。

 

「ウンコを投げるから注意しろだってよ」

 

 すると瞬間に周囲の気温が下がった。

 

「比企谷くん……」

「ヒッキー……」

「先輩……」

「お兄ちゃん……」

「え、なに? 俺マズイこと言った?」

 

 一瞬でこの空気。何が起きたかわからない俺は、答えを求めて可哀想なものを見るような目の四人を見回す。すると雪ノ下が代表するように教えてくれた。

 

「比企谷くん。あなたはサルではないのだから、デリカシーくらい身につけて欲しいわ……」

 

 あー、ウンコね。ウンコウンコ。女子四人の中でこの発言はウンコでしたわ、確かに。うん、俺ウンコ。それを認めるのはやぶさかではない。やぶさかではないが――、

 

「なんか今さら気づいたんだけど、女子四人に男一人って、俺、肩身狭くない?」

 

 なんというか今更にこのメンバーの男女構成の歪さに気がついた。女子二人、男子一人の構成には慣れたし、ここに妹プラス一人くらいなら気にもならなかったが、四人にまで増えてくると、男一人というのはだいぶ荷が重くなってくる。『下ネタを思いついても絶対に口に出せない二十四時』くらいの精神的耐久性が要求されてくる。

 

「でもあなたの交流関係で男性の友人なんて、戸塚くんくらいのものじゃない。葉山くんや戸部くんでも呼べばよかったの?」

「それはない。断固ない。金輪際ない。億千万歩譲って戸部までなら敷居の前までで正座させてもいいがそれはない」

「すごい拒否反応ね……」

 

 雪ノ下の発言を、俺は断固たる態度で拒絶する。葉山のような健全オーラの人間と休日にまで用もないのに顔を合わせるなど、俺のような常日頃から不健全に努めている人間にとっては重大な精神的汚染である。断固拒否する。

 

「その手があったか……」

 

 なんか横で一色が「しくじった」みたいな顔で親指の爪を噛んでいるけど無視する。そこで「あっ」となにかを思い出した由比ヶ浜が早押しクイズにでも答えるような勢いで元気よく手を上げた。はい、ガハマさん早かった! 回答をどうぞ!

 

「もう一人ヒッキーの友達いた! えーと、ザ……ザ……忘れたけど中二の人!」

 

 元気よく回答をど忘れするガハマさん。それを拾うように雪ノ下が答える。

 

「ああ、財津くん?」

「そうそれ!」

「あれはいない方が互いに幸せですよ。そういう生きものですから。格差です」

 

 心の旅やサボテンの花を歌いだしそうな誤答だが、彼女たちの中では正解らしい。確かに青春の影ではある。そしていろはす辛辣。正解だけど。しかし材木座の名前が出てこないところはさすがだ。さすが材木座。フォエーバー材木座。お前のことはなるべく忘れないよう前向きな善処を検討しておく。供養のために材木座という星座でも創ってあげよう。適当な星と星を線で一本つなげば材木座の完成だ。アデュー材木座。

 

「しょうがないですよ。ウチのお兄ちゃんってムダなプライド高いから、比較しやすい男同士だと卑屈にならないように自分を隠しちゃうんで男友達作りにくいんですよー」

 

 そこで小町からの冷徹なお兄ちゃん総括が下される。なにこれ? これが身内に背後から刺される感……覚?

 

「比企谷くん」

 

 固まってしまった俺の前に憐れみの目を浮かべた雪ノ下が立った。

 

「あなたはもっと胸を張って生きていいの。その……私の好きになった人なんだから……」

 

 自分で言っておいて顔を真っ赤にする雪ノ下さん。

 

「それをこの場で言うのは、限りなく羞恥プレイなんですが……」

 

 ほら、おもしろがってる小町以外なんともいえない表情になってる! 由比ヶ浜は照れて目のやり場に困ってるし、一色の笑顔に至ってはリア充カップルを爆殺する微笑みの爆弾になってるよ! でもかわいいけどね! 俺のパートナーさん!

 

「あー、はいはい。チンパンジーがウンコ投げてきそうですから、次行きましょ、次」

 

 やってらんねー口調の一色が、由比ヶ浜と小町の背中を押しながら、俺たち二人を残してどっかに行こうとする。

 

「おい! 今そいつウンコ言ったぞ! これは許されるのか! 横暴だ!」

 

 とりあえずアレな空気を壊すために喚いてみたが、誰も聞いちゃいない。そのとき俺の手のひらがあたたかいものに包まれる感触がした。

 

「……私たちも行きましょ?」

 

 赤い顔のまま、そう俺の手を引く雪ノ下。

 頑張ってデリカシーを身につけよう――そう俺は心に誓った。



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第4話 不意打ちに、比企谷小町はその問い掛けをぶっこむ

「スローロリス、動いてくれなかったからスローなのかなんなのかわからんかったな」

「休日のお兄ちゃんみたいな感じだったねー」

 

 ゴリラ展示の後ろにある動物科学館の夜行生物展示を一巡した俺たちは感想を口にしながら、次は園内の反対側から回ってみようと、中央広場を通って鳥類・水系ゾーンへと移動していた。

 

「ヒッキーって、家の中だとあんな感じなの?」

「ああ、生きてるか死んでるかわからないレベルで動かないからな。この点ならスローロリスにもナマケモノにも生物の霊長たる人間として勝てる自信がある」

「その『れいちょう』がゼロ成長という意味なら圧勝でしょうね」

 

 俺のペラッペラな自慢を、クスクスと笑いながら鋭利な刃物のようなツッコミで切り裂く雪ノ下さん。楽しそうでなによりです。

 

「まあでも、動いてもこの通りノロノロなんですよー。ホントに手のかかる兄でー」

 

 そんな俺たちのやり取りに小町がニコニコ顔で横から出てくる。うん? 小町のこの顔はロクでもない企みを思いついたときにする小悪魔フェイス。こいつ、なにをぶっこんで来るつもり――、

 

「誰か代わりに面倒見てもらえませんか?」

 

 ぶっこまれた雪ノ下と由比ヶ浜が二人揃ってたじろいだ。俺もたじろいだ。我が妹ながら、なにが目的だこの愉快犯。雪ノ下が俺を見る。

 

「それは……」

 

 え、なにその上目遣い。新妻感パナいんですけど。

 

「結衣さんはどうですかー?」

 

 畳みかけるように由比ヶ浜にもぶっこみ直す小町。

 

「あ、あたしは――」

 

 由比ヶ浜の目が泳ぐ。ちょっ……どうすんの、この空気。なにを言っても地雷になるような気がして軽く思考がフリーズした俺の横から、救いの手が小町の首根っこを引っ掴んだ。

 

「お米ちゃん。ちょっとこっち」

 

 一色が広場の脇の木陰に小町を引きずっていって約一分。萎れた小町を連れて一色が戻ってきた。

 

「なにしたの?」

「ああ、軽く早炊きに」

 

 だから炊くってなんなの? ウチの妹、今ので炊かれちゃったの?

 

「先輩も情けないですね。このくらいいつもの軽口でパパッと処理して下さいよ」

「……すまん」

 

 お小言を喰らって素直に謝ると、ボソッと一色がなにかを言った。

 

「まあ、そこがかわいくもあるんですけどね」

「え?」

「なんでもありませーん。ほら、次に行きますよー」

 

 よく聞こえなかったので聞き直すと、ツンと一色は顔をそむけてそう声を出し、スタスタと小町を引っ張って次の目的地へと歩き出した。

 

「なんか小町が変なこと言って、すまんな」

 

 一色に引きずられる形で歩き出した俺は、後ろに並ぶ雪ノ下と由比ヶ浜にとりあえず身内の不始末的な感じでそう謝る。

 

「別に構わないわ。よく考えたら、私たちいつもあなたの面倒を見ているし」

「そうだよね。ヒッキーってほっておくとすぐに人としてダメになっちゃってそうだから、目が離せないもんね」

 

 フォローのように要介護者扱いされて傷つく俺のギザギザハートの子守唄。まあ事実お世話されている面があることは否めないので、俺はうんうんとうなずいてみた。

 

「その通りだ。これからもよろしくな」

 

 ここでキリッとサムズアップを決めてみたら、ガハマさんに無言で肩をグーパンされ、ゆきのんさんに深々とため息を吐かれました。なんででしょう? 俺の青春ラブコメ難易度バグってない?



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第5話 近づく将来に、由比ヶ浜結衣はふと不安を覚える 

 それから鳥類・水系ゾーンでアシカさんやペンギンさんがスイスイ泳ぐのを眺めたり、微動だにしないハシビロコウとにらめっこをしてみたり、フラミンゴって一本足で立ったまま昼寝するんだなと感心したりしながら草原ゾーンへと移動して、シマウマさんにはシマがあり、キリンさんの首は長く、ゾウさんの鼻は長いことを確認して回りました。

 

「あー」

 

 要するに疲れた。

 

「普段の運動不足がたたってるんじゃない?」

 

 すっかりウォーキングデッド状態の俺を見て雪ノ下が笑う。こいつも体力ある方じゃないのに、今日はやたら元気だな。

 

「ゆきのん、ヒッキー、ライオンさんだよ!」

 

 先に行っていた由比ヶ浜が手招きする。ああ、一色が言っていた新しくできたっていうライオン展示か。その一色と小町が並んで展示の看板を見ている。

 

「京葉学院ライオン校?」

 

 小首を傾げる小町の声が聞こえた。追いつくと確かに看板にそう書いてある。

 

「なんで進学塾の名前が」

 

 京葉学院といえば千葉市を中心に展開する進学塾だ。千葉市内ならほぼJRの各駅前に存在し、千葉市在住の学生ならば知らぬものはいないというのは過言かもしれないが、とりあえずそのくらい有名な進学塾である。しかし、こんなところにも展開しているとは寡聞にも知らなかった。つか、ライオン校ってなによ? ライオン進学するの? それとも講師がライオン? 出来の悪い塾生を送り込む懲罰房的ななにか?

 

「スポンサーじゃないですかねー。ZOZOマリンみたいな」

 

 冷静な一色分析。さすが利害に聡い後輩である。命名権とか売ったのかな? 千葉市お金ないからな。お金配りおじさん、千葉市民にもお金配ってくれないかな。

 

「進学塾……」

「どうした由比ヶ浜?」

 

 見ると由比ヶ浜が少し元気のない表情で看板を見ていた。

 

「あ、うん……あたしたちももう三年生なんだなって、ちょっと思っちゃって」

「ああ、受験の年だな」

 

 なるほど。京葉学院で受験を連想したのか。確かにそれを思うと由比ヶ浜でなくとも元気を失う。

 

「ヒッキーとゆきのんは予備校行くの?」

「受験はノウハウあるからなー。必要と思ったら行くだろうな」

「私も同じね。模試の結果を見て、必要と思った教科があれば利用していくつもりよ」

 

 俺と雪ノ下はお互いを見合ってからそう答えた。まあ、さすがに示し合せたように同じ予備校の同じ講座を選んで席を並べ、堂々とラブラブチックにキャッキャウフフと受験に挑むようなこっぱずかしさに耐える精神はお互い持ち合わせていない。

 まあ、単純に親の金だし、そんな不純な動機でムダに受講料を増やすのは合理的ではない。川なんとかさんが聞いたらメリケン喰らわされるレベルだ。もちろん偶然にも同じ講座を受けていたらやぶさかではないですけどね!

 

「うー、二人ともちゃんと考えてる。あたしはどうしよう……」

「まだ先の話だろ。だいたいやってりゃなんとかなるもんだし、奉仕部なんて今までずっとそうだった。心配ばっかしててもしょうがないだろ?」

 

 俺たちの回答に不安を増した様子の由比ヶ浜に、俺はそう言った。本当にこの一年はその連続だった。その結果はまあまあにオーライだ。めちゃくちゃ良かったという訳でもないしもっと上手いルートもあっただろうが、こうして俺たちがここに三人でいることは、やれるだけのことをやってきた結果の成果だったと信じていいくらいには思っている。

 

「あなたにしてはまっとうなことを言うわね」

 

 非常な上から目線ですが雪ノ下の同意も得られ、微笑む彼女に由比ヶ浜もうなずいた。

 

「うん……そだね。ありがとう、二人とも」

 

 なんでかちょっと涙目気味の由比ヶ浜。動揺した俺が視線を逸らすと、雪ノ下がフォローするように由比ヶ浜の手を握った。

 

「おお、ライオンさんだー! お兄ちゃん、ライオンさんだよ!」

 

 そこにバカ明るい小町の声が飛んで来た。渡りに船とばかりにこの場を離れる俺。

 

「オスライオンだな」

「むこうにもオスライオンがいたよ。オスが二頭でメスはいないみたい」

「マジ? ここ男子校なの? なにこの海老名さんが喜びそうなライオン校」

 

 そう小町の相手をしながら、俺は由比ヶ浜のお願いをどのくらい叶えられたのか考えていた。



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第6話 けれど、雪ノ下雪乃は歩む先を信じる

 京葉学院ライオン校の奥には、これまた新しく動物公園にやってきたチーターの展示があった。

 

「スマートビューティー」

「おお、確かにスマートでビューティーだ」

 

 小町の最新スマホにも負けない薄さのペラい感想に、由比ヶ浜が「それだ!」といった感じでうなずいている。

 スマートでビューティーなチーターさんは数頭いて、こっちを見るでもなくあくびをしながら日向ぼっこをしている。その様子を雪ノ下が最近買い換えた最新スマホでパシャパシャと撮っていた。

 

「へー、チーター走らせるのか、ここ」

「ですけど、今日はやってないみたいですね」

 

 近くに立っていた掲示板に貼り出されていた情報ではチーターランなるものが行われているらしい。妙に横に長い展示スペースだなと思ったが、チーターを走らせるためだったらしい。しかし、やるかどうかはチーターのコンディションによるらしく、どうやら今日はやらない日のようだった。

 

「残念」

「いいじゃないですか。二度目の口実にもなりますし」

 

 含み笑いをしながら「そういうの好きですよね?」という目で見てくる一色。ああ、好きですよ。生来の怠け癖で口実やら大義名分やらがないと身体が動かないもんで、すみませんでしたね。

 チーターの横にはこれまた新しくやってきたハイエナの展示があった。ライオンキングによる風評被害が甚だしいあのハイエナさんだ。

 

「寝てる」

「寝てるな」

 

 ライオンの狩った獲物を横取りする悪いヤツなどというレッテルが貼られているが、実際のハイエナさんは群れでの狩りが上手でむしろライオンの方に獲物を横取りされていることが多いことを俺は知っている。人間であれば忸怩たる気持ちを抱かないではいられない状況だ。しかし目の前のハイエナさんは風評被害などどこ吹く風のご様子で、ナマコのような姿勢で寝そべってお昼寝をしていた。俺は感動した。俺もかくありたい。この感動を誰かに伝えねば。

 

「――なあ」

「先輩みたいに動かなくて、つまんないですね。次、行きましょー」

 

 俺の感動は一色の感想に一刀両断され、口から出る前に死を迎えた。キミたち、動かない動物を見たらすぐ俺に喩える風評被害、八幡的に辛いんでやめてくれませんかね?

 

「どうしたの?」

「レッテル貼りってよくないよな……」

 

 何の話という怪訝な顔の雪ノ下。別に理解を求めていた訳でもないので話を切り替え、気になっていたことを訊く。

 

「それよか、由比ヶ浜どうだった?」

 

 この質問に雪ノ下は、一色の後ろについて小町と歩く由比ヶ浜の背中を見た。小町と笑いながら話す様子を見る限りでは、さっきのライオンのところでのやり取りで見せた動揺の影は見受けられない。

 

「まだうまく整理できていないんだと思うけれど――」

 

 雪ノ下はそこで一度言葉を区切ると、

 

「でも、やっている内にどうにかなるものなんでしょ?」

 

 俺を見てそう微笑みながら言った。最高にずるい微笑みだった。

 

「そう思うしかないってだけだ。消去法だよ」

「あなたのそういうところ好きよ」

 

 俺の照れ隠しをパッパッと剥がしてそういうことを言う。

 

「不意打ちは反則だろ」

「あなたが言ってくれないから代わりに言ってあげてるの」

 

 そう言って先に歩き出す雪ノ下。揺れる黒髪の合間に見えた彼女の耳の色は赤かった。ちくしょう。自爆攻撃じゃ共倒れするしかねぇじゃないか。

 

「あ、ゆきのん! レッサーパンダ!」

「そっちね」

 

 由比ヶ浜のこっちを呼ぶ声が聞こえると、雪ノ下は素早くスマホを取り出して走り出した。さっきの耳赤はどこいったという勢いの高速の切り替え。そりゃレッサーでもパンさんはパンさんだからね。かわいいは正義。

 

「よし!」

 

 俺も顔の火照りを切り替えるように、両手で一度頬を叩いた。



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第7話 間違わないように、比企谷八幡は言うべきことを言う

「由比ヶ浜、疲れたか?」

「あれ? ヒッキー、みんなは?」

 

 トイレに行っていた由比ヶ浜を、俺は子ども動物園の入口の前で待っていた。

 

「雪ノ下と小町はこの中でウサギやヤギのエサやりに夢中だ。一色はなんか飲み物買いに行った。俺にはここで目印に立ってろだと」

 

 一色が言うには「普段は立っているぐらいしか使い道がないんですから、しっかり目印やって下さいね」だそうだ。まったく、あいつは俺のことをよくわかり過ぎている。

 

「とりあえず俺は一色が戻ってくるまでここいるから、先に雪ノ下たちの……」

「ヒッキー」

 

 由比ヶ浜が近くにいた。お団子髪をくしくしと弄りながら俯き加減にこちらを窺って、由比ヶ浜が俺に一歩距離を詰めていた。その表情は真剣で深刻で、だから俺は彼女の正面にむかい直して続きの言葉を待った。

 この俺の態度の変化に由比ヶ浜はうなずいて、今日までずっと内に抱えていたであろう言葉を吐き出した。

 

「あたし、邪魔じゃないかな……」

 

 由比ヶ浜の瞳が揺れている。不安が瞳に映っている。

 

「いいだろ。みんな楽しんでる。雪ノ下だって――」

「自分で選んだことだけど……」

 

 三人の関係性の継続を望んだのは由比ヶ浜だった。けれどそれが正しいことかどうか迷っている。近くにいればいるほど、その気持ちが大きくなる。やがて自分の決断が間違っていたのではないかと疑い出す。あの日の決意より疑う心が大きくなれば、この関係性はかつてのように偽りに満ちていく。それを由比ヶ浜が危惧している――。

 これは全部俺の想像だ。俺が彼女の立場だったらそう心を動かすだろうというだけの想像だ。だが確証を与えるように、揺れる瞳の由比ヶ浜が俺の目を見て言った。

 

「迷惑だったら言って」

 

 俺は一息吐くと、由比ヶ浜の少し震えている手を見やりながら口を開く。

 

「……三人だったから」

 

 間違わないように。そう意識しながら言葉を選ぶ。

 

「三人だったからこうなった。だからどうのこうの言っても、こうにしかならなかったんだろうし、これが由比ヶ浜の心から望んだことなら、最後までどうなるか見届けなくちゃいけないことだと思う。でなきゃ、きっとなにか間違う」

 

 由比ヶ浜は黙って俺の言葉を聞いている。俺を見ている。俺の言葉を待つ彼女は、いつだってこうして俺を待っていた。この優しさに今までどれだけ甘えてきたことか。だから――、

 

「これは雪ノ下にも言ったんだが――」

 

 だから俺は言うべきことを言わないといけないのだ。

 

「いらなくなったら捨ててくれ」

 

 くしゃっと笑った彼女の目尻から涙が流れた。

 

「……なんかズルい」

 

 涙を隠すように俯いた由比ヶ浜が、俺の胸に握った手をポスンと突きつけた。

 

「ごめんな。だから、好きにしてくれていいんだよ」

「そういうのも……ズルい」

 

 もう一度パンチを喰らう。その通りだと思った。けれど傷付けてでも、傷付いてでも、たとえそれが本当の正解でなくても言わなければ、あの紅茶の香りが消えた日のときのように、間違いを嘘で塗り固めた関係が続いてしまうのだ。それが、この一年で俺が学んだすべてだった。

 

「先輩」

 

 そこで、泣く由比ヶ浜の後ろからスッと一色が現れた。俺と由比ヶ浜は跳ねるように驚いて、一色の顔を見る。

 

「い、いろはちゃん」

「い、一色、これは――」

「なにこんなところで女の子を泣かせてるんですか? サイテー」

 

 問答無用で俺に蔑みの視線を加えると、一色はハンカチを取り出して由比ヶ浜の涙を拭いてあげていた。

 

「い、いろはちゃん、大丈夫、自分で拭けるから――」

「ハンカチくらい用意しといて下さいよ。女の子はいつ泣くかわからないんですからね? 本当に立ってることしかできないなんて……」

 

 由比ヶ浜の言葉に一色はハンカチを手渡すと、俺を見て呆れた声でそう言った。ぐうの音も出ないとはこのことか。まったく面目ない次第でございます……。

 

「……うん、もう大丈夫。ありがとう、いろはちゃん」

 

 泣きやんだ由比ヶ浜は手鏡を取り出して泣き痕をチェックしてうなずくと、一色にハンカチを返して俺に向き直った。

 

「ヒッキー」

 

 その声はなにかふっ切れたような爽やかさを響かせていて、

 

「辛いけどヒッキーの言う通りだと思った。だから――」

 

 もう揺れていない瞳で彼女は俺の目を見ると、

 

「好きにするね?」

 

 そうすっきりとした笑顔で言って、雪ノ下と小町のいる方へ走っていった。

 

「ゆきのん! あたしもエサやりしたい!」

 

 抱きつく勢いで二人に合流した由比ヶ浜を見る俺の前に、いきなりマッ缶が突き出される。突き出された方向に目をやると、一色が含むような笑みで俺を見ていた。

 

「……言いたいこと言えました?」

「まさかお前……」

 

 ちょっと背筋がぞくりとした。まさかこれ、狙ってやったとか言わないですよね? どんな策士? 司馬懿も泣いて土下座するレベルの孔明の罠ですよ、コレ。

 

「そう思うなら後でお返しをお願いしますね?」

 

 マッ缶を突き付けるように俺に手渡すと、一色は「飲み物みなさんの分も買ってきましたよー」と、さっきの諸葛孔明バリの策士笑いなどなかったようなトーンの声を出しながら、三人と合流していった。

 

「いろはす、恐るべし」

 

 マッ缶を一口飲む。マッ缶の甘さが毒の蜜のように舌に広がるのを感じた。



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第8話 だから、本物なんてわからないまま、俺たちは考え続ける

「ヒッキー、こっちもなんかいろいろ変わってる!」

「あれ? 昔はすげーしょぼい遊園地じゃなかったか、ここ?」

 

 動物公園の西口ゲートへ続く坂を下りていくと、前を行く由比ヶ浜がゲートの左側の方を指差して声を上げる。見るとそこには明るい芝生の広がる開けた空間があった。

 

「時代は進んでいるんですよ、先輩。今は『ふれあい動物の里』といって、動物へのエサやりや動物なでなでコーナー、乗馬体験にBBQといった、アクティビティ感の溢れる場所に生まれ変わったのです!」

「なんてこった! なにこの明るい芝生のキラキラした圧倒的な千葉らしくない感! お前も千葉駅のように都会にかぶれたキラキラ空間になってしまうのか!?」

 

 一色の「そんなことも知らないんですか? まったく世話のかかる先輩ですね」といったドヤ顔の説明に俺は驚嘆の叫びを上げた。なにアクティビティ感って。千葉にそんな映え映えなオシャンティスポットが生まれてきてるの? むしろ誰も寄りつかないバブルの残り香を漂わせる錆びついた遊園地とか、陽の射さない半地下の少しジトッとくたびれた中年サラリーマンのような昭和感を漂わせていたリニューアル前の千葉駅とかの方が、千葉らしくなかった? 東京や神奈川にはどうあがいても勝てない感とかの圧倒的千葉らしさが。いや埼玉とは戦いますけどね?

 

「この人、本当に千葉が好きなんですか? 本当は(けな)したいんじゃないですか?」

「ヒッキーの千葉愛はちょっと拗れてるから……」

 

 俺の動揺する姿を見て、一色と由比ヶ浜がひそひそ話を聞こえる距離で始める。俺はフッと笑って髪をかき上げると、二人に振り返って言ってやった。

 

「愛ゆえに……と言えばわかるかな?」

「じゃあ、みなさーん。このあたりでお昼にしましょー」

 

 パンパン手を叩いて芝生空間へと進んでいく一色と、それに従って先に行ってしまう残り三人。取り残された俺は、敗北者のようにとぼとぼとその後ろに続いた。

 俺は……垢抜けない千葉が好きなんだよ!

 

 

   *****

 

 

 西口ゲート側から『ふれあい動物の里』を奥まで進んでいくと、バーベキュー場の近くにテーブル付きの休憩スペースがあったので、そこで昼メシを食べることになった。

 

「しかし、みなさん、示し合せたようにお弁当を持って来たんですね……」

 

 一色が唸る。テーブルには小町、雪ノ下、由比ヶ浜がそれぞれ用意したお弁当が並べられている。

 

「たいしたものではないけれど……」

 

 そう謙遜した風に言う雪ノ下が持ってきていたバケットには、レタスやトマトの彩りも鮮やかなBLTサンドが詰まっていた。もうひとつのかわいいパンさん柄の弁当箱には、メンチカツやミニハンバーグなどの男の子が大好きなお肉類のおかずが入っていた。見た感じ冷凍品には見えない圧倒的手作り感である。一色と由比ヶ浜の息を飲む音が聞こえた気がした。これがたいしたものでないのなら、多くの主婦が発狂を起こし、その怒りをネットに叩きつけてポテサラおじさんのように火炙りの刑に処すだろう。謙遜は常に美徳とは限らないのである。恐ろしや恐ろしや……。

 

「はいはいはい! こちらが小町の作ったお弁当でーす! みなさんもどうぞです!」

 

 この雪ノ下のお弁当に元気よく挑戦したのが我が妹、小町である。小町のアイコンタクトに応じて、俺はバッグに担いでいた弁当箱をすかさず取り出しテーブルに広げる。雪ノ下がサンドイッチなら、こちらは元気もりもりオニギリの盛り合わせである。これに加えてオカズには、比企谷家の伝統の味である小町特製から揚げである!

 

「小町が作り、俺が詰めた兄妹愛弁当だ。さあ、遠慮なく食べてくれ」

 

 そう。この弁当は俺と小町の兄妹による共同作業によって作られたお弁当なのである。朝からから揚げを作る小町の気合いと、それに付き合い二度寝の誘惑に打ち勝って弁当詰めを手伝った俺の意志力によってできた、比企谷兄妹渾身のお弁当なのだ!

 

「いますよねー。たいしたことでもないのに、なにか作業したら『やってやった』感を出して恩着せがましくドヤる人って。こういう人に限って本当に手伝ってほしい面倒な仕事になると姿を消すんですよねー」

 

 斬鉄剣にでも斬られたかのようにキレイに心を両断された俺の横から小町が「ですです!」と乗り出してくる。

 

「さすがお姉さま! もっと言ってやってください! ウチの兄ときたら『できることをやる』とかもっともらしいこと言いながら、できることを増やそうとしないんですよ!」

「あー、いるいる。それでもやらせようとすると『自分向きの仕事じゃないから……』とか失敗に備えて予防線を張り出すヤツ」

「それそれ!」

 

 盛り上がる小町と一色。やめて二人とも! 八幡のライフはもうゼロだよ!

 

「あたしも中身を詰めただけだから人のこと言えない……」

 

 その横から、手にしたお弁当箱を持ったまま固まっている由比ヶ浜の呟きが聞こえた。この呟きにある光景が頭に浮かび、俺は冗談半分にその光景を口にした。

 

「あれだろ? 由比ヶ浜のことだから作ろうとしたけど、卵焼き焦がすとか砂糖と塩を間違えたとかで失敗して泣いているところをお母さんが救援に入ったとかだろ?」

「なんでわかるの!?」

 

 目を見開くガハマさん。マジか。図星かよ。あ、口もとを手で隠した雪ノ下の肩が震えてる。

 

「ごめんなさい……。少し光景が目に浮かんだわ」

「ゆきのんまで!?」

 

 愕然のガハマさん。ほら、仕事には向き不向きがあるから……。だからできることをやるのが正解なんですよ。うんうん。

 

「で、一色もなにか持ってきたのか?」

 

 とりあえずガハマさんが涙目で可哀想なので話題を替える。すると話を振られた一色はきょとんとしたあざとかわいい顔を見せた後に「ああ」と笑って、「やだなー」と手をパタパタさせる小芝居をしながら言った。

 

「先輩に奢らせようと思ってたに決まってるじゃないですかー。じゃ、いただきまーす」

 

 俺にツッコミを入れる隙を与えず、小町のから揚げを箸でひょいと拾って口に放り込む一色。こちらが抗議しようとしても、口にものが入っているのでお答えできませんで突っぱねる『お口もごもご作戦』である。さすがいろはす。マジいろはす。さすはすマジはす~。

 

「……!」

「どうした?」

 

 俺が呆れを通り越した感心に耽っていると、から揚げを口に入れた一色の表情が急に険しいものに変わった。一色はしばらくから揚げをもごもごと咀嚼してゆっくり飲み込むと、納得いかないといった様子の苦渋の声で呟いた。

 

「コメントの難しい味ですね……」

「えっ! 小町、から揚げの味付け間違えた!?」

 

 小町が驚きの声を上げる。いや、そんなはずはない。俺は味見をしながら弁当箱にから揚げを詰めたのだ。確認のため、から揚げをひとつ拾い上げて口に入れる。

 

「いや、うまいぞ。いつも通りの世界一うまい小町のから揚げの味だ。この味のなにが不服なんだ。言ってみろ。喧嘩なら買うぞ」

「ヒッキーのボルテージ上がるの早っ!」

 

 当たり前だ。世界一の妹である小町の作ったから揚げは当然のごとく世界一なのだ。これに異を唱えるものは誰であろうと容赦はしない。神でも殺せる自信があるぞ。

 息巻く俺に一色は深々とため息を吐くと、とても苦しげにコメントが難しい理由を吐露した。

 

「……いえ。ただ後輩の生意気女子相手に簡単に褒め言葉を与えるのは、マウント上問題がありまして……」

「なにその、実質褒めてる的コメントは」

 

 拍子抜けする理由だった。つまり小町のから揚げが世界一であり、そして妹としても世界一であることが悔しくて認めたくないと。ふっ、小町の妹としての偉大さに嫉妬するとは、一色もかわいい所があるじゃないか。

 

「はっ!」

「どうした、小町!」

 

 小町がわなわなと震えながら、俺に確かめるように訊いた。

 

「もしかして……これがツンデレ?」

「あ、確かにツンデレっぽいかも! こういうのツンデレって言うんだ!」

「あぁ?」

 

 小町の妄言に由比ヶ浜が「それある!」的なノリで手を合わせて盛り上がる。小町の妄言はともかく、どうしてこれに乗っちゃったのガハマさん! いろはすから女の子が出しちゃいけないドス黒いオーラが出ちゃっているよ!

 

「結衣先輩、お米ちゃん、ちょっといいですか?」

 

 暗黒オーラを一瞬で引っ込めて、逆にニッコリ笑顔になったいろはすさんは、そう言って小町とガハマさんの間に移動して二人の肩に手を回しました。

 

「い、いろはちゃん?」

「雪乃さん、小町炊かれてしまいます! タスケテー!」

 

 小町が雪ノ下に助けを求めて伸ばした手も届くことなく、哀れ小町とガハマさんは穏やかな心を持ちながら激しい怒りによって目覚めた総武高校最強の生徒会長スーパーいろはすに連れてかれてしまいました。

 

「……炊くって?」

「わからん」

 

 雪ノ下に訊かれたが、わからないものはわからないと答えるしかない。世の中、知らなくてもいいことというのは存在するのだ。

 騒々しい三人が離れていくと、急に静かになった。モノレールがガコンガコンと走る音とフクロテナガザルの鳴き声は聞こえてくるが、他に喧騒と呼べるような音もなく、どこか日常から遠くなった穏やかな時間が訪れ、そこに俺と雪ノ下はぽつねんと残された。

 

「…………」

「…………」

 

 つまり――二人っきりだ。これはヤバい。雪ノ下もなんかもじもじして黙り込んでしまった。コミュ力低い拗らせ人間同士をなんの準備もなく二人きりにするな。心臓がヤバい。

 

「――あ」

「食べていいか?」

 

 いきなり二人きりにされて間が持たなくなった俺は、とりあえずこの状況を動かそうと雪ノ下の作ったミニハンバーグに箸を伸ばす。雪ノ下がそれを期待と不安が入り混じったようなまなざしで見ている。めっちゃ見ている。うおお、これやっぱり完全に手作りだ。コメントひとつ間違えれば致命傷になるヤツだぞ、これは!

 俺は運命に祈るような気持ちでハンバーグを口に入れ――、

 

「――うまいな、これ! 小町のから揚げにも負けてない!」

 

 自然とそう言葉が出た。なにこれめちゃウマなんですけど。冷凍品とは違う手作りらしいふっくらとした食感に、封じ込められていた肉汁がじゅわっと広がる。うまい。冷めていてこの味。できれば出来たてを食べてみたかったと思わせる激ウマハンバーグである。

 

「それがあなたの褒め言葉?」

「いや、もうベタ褒めベタ褒めの空前絶後の大絶賛なんですけど……」

 

 小町との比較は失敗だったか? しかし小町を基準に判断するのは兄として仕方がない所と了解してもらうしかない。

 

「まあ、あなたらしいけど……」

 

 そんな俺に諦めたように笑った雪ノ下は、そこで顔を動かすと、離れた場所でなにやらわちゃわちゃやっている一色と小町と由比ヶ浜の三人の方へ視線を向けた。

 

「……彼女となにか話したの?」

 

 しばらく三人を見つめていた雪ノ下は、そこで躊躇いがちにそう切り出した。

 

「なにかふっ切れた感じがしたから」

 

 彼女の視線の先は由比ヶ浜に向いている。

 

「好きにしていいって感じのことを言った」

 

 俺はそう答えると、二個目のミニハンバーグを口に入れた。雪ノ下が彼女の答えを求めて俺を見る。俺はゆっくりとハンバーグを咀嚼して、全部飲み込んでからその答えを告げた。

 

「好きにするってさ」

「――そう」

 

 雪ノ下は胸に手を当てると、どこか嬉しげな微笑みを浮かべた。

 

「嬉しそうだな?」

「彼女の気持ちは知っているから」

 

 そう言った雪ノ下はそこで顔を引き締めると、再び由比ヶ浜の方へと視線を向けた。

 

「私たちの関係も少しは本物に近づけたかしら?」

「……わからねぇよ、そんなの」

 

 正解なんてわからない。だから疑い続ける。それすらも間違っている可能性を考えて、考え続ける。その繰り返しの向こうになにか、少しでもマシなものが見えるように、疑って、考えて、続くまで続けていくしかない。これは、そういうものなのだ。

 

「そうね。でも……」

 

 雪ノ下はそこで小さく咳払いをすると、ぎゅっと口を引き結び、すぅはぁと深呼吸をしてから、テーブルの下で俺の手を握った。そして驚く俺の顔を見て、あの合同プロムのときよりもはっきりとその言葉を口にした。

 

「私もあなたが好きよ、比企谷くん」

 

 自分で言っておいて、恥ずかしさに照れて黙ってしまうのは前と変わらずに、けれど握った手は離さないで前のように逃げ出したりせずに赤く俯いてしまった雪ノ下の横で、俺はロクに気の利いた返事も思いつかず、照れ隠しに彼女の作ったサンドイッチを味も分からずにただ頬張るだけだった。

 おい、なんなんだよ、このめんどうくさい状態は。言うだけ言って黙り込みの自爆かよ。ヤバい。手がめっちゃ熱い。後先くらい考えろよ。ああ、ちくしょう。なんでこいつはこういつも死ぬほどめんどうくせぇんだ――、

 

 ――それで、それがなんだっていつもこんなに死ぬほどかわいいんだよ。

 

 そう口に出してやればいいと内心に思いながら、でもこの感情をそう簡単に口にするには言葉が足りないと黙ってしまう俺も、相当にめんどうくせぇヤツだった。



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第9話 あらためて、一色いろはは最強の後輩である

「……完全に寝てるな、これ」

 

 昼メシの後も色々と動物公園の中を回り、すっかりくたくたになった俺たちは日が暮れる前に解散することにした。

 駅に戻ると千葉方面へのモノレールは行ったばかりだった。次のモノレールを待つ間にホームのベンチに座った雪ノ下と由比ヶ浜と小町の三人は、よほど疲れていたのだろう、気づいたときにはお互いにもたれかかってすっかり寝息を立てていた。

 

「今日はたくさん歩きましたからね~。ふわぁ~、わたしも眠いです……」

 

 一色が眠る三人を見ながら小さいあくびを漏らす。なんとなく一色と二人だけの状態になったので、俺は頭を掻きながら言っておくべきことを言った。

 

「……今日はありがとうな、一色」

「あー、いえいえ。今回は後輩的にポイント高かったと思いますんで、来週生徒会でやる海浜公園の清掃ボランティアへの参加は確定なので、よろしくお願いしますね、先輩♪」

 

 なにそれ初耳。さっきのあくびも演技に思えるハキハキ笑顔で言われて、俺は即座に諸手を上げて降参した。

 

「わかったわかった、手伝うよ」

 

 よろしいという表情でうなずいた一色は、そこで一歩ずいっと俺に近づくと、「ちょっとお話しが……」と、他人の不幸をエネルギーにして生きている小悪魔のような不吉さしか感じない笑顔を浮かべて、少しだけ潜めた声で囁いた。

 

「……正直なところ、現状ラブコメじゃないですか、奉仕部って」

 

 直球なお話だった。ストライクゾーンというかバッターボックスを狙った直球だ。俺はいったん廃部になった奉仕部が復活した経緯を思い返しながら、距離を詰めていた一色から一歩身を引いて、その時から思っていたことを口にした。

 

「それはお前と小町が仕込んだんだろ?」

「いやいや、濡れ衣ですよー。わたしと妹さんで焚きつけはしましたけど、燃えたのは結衣先輩なんでー」

 

 手のひらをヒラヒラさせながら笑って答える一色マジ小悪魔。実は『小悪魔が女子高生に転生してラブコメ工作に励みます』みたいなタイトルのラノベ主人公なんじゃないの? とか思えるぐらいにマジ小悪魔なんですけど、こいつ。

 

「計画的三角関係だったのかよ、これ」

「あ、先輩にも三角関係の自覚があったんですね。言質を取られないように逃げ口上並べて自分に嘘を吐き続けた鈍感主人公気取りの先輩も成長していたんですねー。感心です」

「ぐう……」

 

 めちゃくちゃこき下ろされた評価ながら反論できない俺。悔しいからぐうの音ぐらいは出してやったぞ、こんちくしょう!

 そんな俺のささやかな抵抗などどこ吹く風の一色は、どこか見透かしたような蟲惑的な笑みを浮かべながら、再び距離を詰めてくる。

 

「まあ、二回目のプロムの時点で普通のラブコメだとゴール状態ですけど、先輩たちって二人して拗らせがひどいですから――」

 

 そこで一色はふふんと不敵でかわいくあざとく、それでいてどこか大人びた印象を受ける笑顔で俺を見ると、その顔をさらに俺へと寄せてきた。ドキリと身を引く俺の服の袖を掴んだ一色の顔が耳元に近づいてくる。いつか嗅いだ亜麻色の髪の甘い匂いが鼻孔をくすぐって、その匂いのような囁き声が耳に届いた。

 

「ここから二番、三番っていうのもラブコメ的に意外性があっておもしろいと思いますよ?」

「三番?」

 

 思わず出た自分の声に驚きながら一色の顔を見る。二番はともかく、三番ってこいつ――。

 

「そこはご想像にお任せでー☆」

 

 顔の横に小さくピースをしてそう返した一色は、もういつものあざとく小賢しい後輩の一色いろはで、俺はそれ以上の追及もできずに苦い顔で頭を掻くしかなかった。

 

「まあ、先輩が振られでもしたら、先輩の家の最寄駅までわたしが電車で一緒に帰ってあげますよー。あ、これ、後輩的にポイント高い」

「なんかもう先輩的にメンタルヤバい」

「あ、でも葉山先輩が先にツモったら、この話は反故なんで、振られるならお早めにお願いしますねー」

 

 もう全面降伏である。ふふんと笑う一色。なにこの手のひらの上でコロコロされてるような感覚は。なんか俺は一生この後輩に敵わない気がしてきた。一色いろは。二年になってもこいつは最強の後輩らしい。

 そこでホームにアナウンスが流れた。ゴウンゴウンと一色の乗る千城台行きのモノレールがホームに入って来る。

 

「あ、ちなみにお米ちゃんに今日の情報をリークしたのはわたしなんで、今後ともよろしくお願いしますね、先輩☆」

「は?」

 

 ドアが開いた直後、そう言い残してモノレールに乗り込んだ一色は、閉まるドアの向こうでニッコリな微笑みを浮かべながら小さく手を振っていた。なに? 今日のコレ、マジで計画的犯行だったの? 今日、最初の小町を炊いていたアレも演技だったの? もしかして小町すら手のひらで踊ってたりする、これ? マジか。マジかよ。マジですか。

 愕然とする俺を尻目に、モノレールが発進する。

 

「絶対、間違ってるぞ。この青春ラブコメは――」

 

 一色を見送った俺は、ベンチで健やかに眠る雪ノ下と由比ヶ浜と小町の三人を見やりながら、あらためてそう呟かざるを得なかった。



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2章 やはり、俺のデートは練習からしてまちがっている
第1話 やはり、俺のデートは練習からしてまちがっている


突然いろはすが書きたくなったので、連載再開して八色デート回を書き始めました。


「はーい、みなさんおつかれさまでしたー。こちらでジュースを配りますんで、一人ずつ受け取ってくださーい!」

 

 艶やかな亜麻色の髪を揺らしながらパンパンと手を叩いて声を張る女子――総武高校生徒会長こと一色いろはの呼び掛けに、そこはかとない疲労感を引きずって音に反応するゾンビよろしくぞろぞろと集まるのは、清掃ボランティアと呼ばれる強制労働に駆り出された生徒会及び内申点稼ぎに集まった一般生徒のみなさん――と俺。

 奉仕部という奉仕を目的とした部活に所属しながら、およそ奉仕精神とは無縁な人格を有するこの俺である。それが奉仕部への依頼を受けた訳でもないのに、平塚先生の後任で生徒会指導担当になった教師の「新任なのだからなにか新しいことをしなければ!」という無能の働き者にありがちな無用な使命感によって企画された稲毛海浜公園の清掃ボランティアなどというしょうもない事情のイベントに参加しているのは、俺が人間関係という名の不自由な鎖に縛られた翼の折れたエンジェルだからであった。

 

「少しずつため息を覚えたエイティーン……」

「なにをぼそぼそと……はい、先輩もおひとつ」

 

 その鎖の人間関係の属性のひとつ『後輩』の一色いろはが、キモい客への嫌悪感をマニュアル接客対応で押し殺す女性店員のような態度で、ボランティア参加賞の紙パックリンゴジュースを俺に手渡す。Ohhh……翼の折れたエンジェル。

 

「あんがとさん。まあ、これで義理は果たしたな」

 

 なぜ俺がここにいるかといえば、つい先週雪ノ下とのデートについて一色に相談したところ、何故か千葉市動物公園に奉仕部全員と一色を加えたメンバーで行くことになり、その結果として俺と雪ノ下に対する由比ヶ浜との関係性のわだかまった部分について整理することになるという、一色がどこまで狙っていたかはわからないが結果として大きな借りを作ってしまい、その対価として要求されたのがこの清掃ボランティアであったからである。

 それも今しがた果たした。まだ時間は正午前。適当にそこらで昼飯でも食って帰って、家で昼寝でもすっべかなぁーと思ったところで――である。

 

「わたしへの義理って、そんなに安いものでしたっけ?」

 

 と、一色が帰ろうとする俺の服の袖を掴み、

 

「ここに前からちょっと入ってみたかったレストランがあるんですよねー」

 

 そうニッコリと微笑んだ彼女の小悪魔感といえば、マジでプリティでキュートなリトルのデビルのアレが過ぎて、俺の心は秒も掛からぬ瞬殺で膝を折って屈服したのである。

 Ohhh……翼の折れたエンジェル……。

 

 

   *****

 

 

「まあ、これも雪乃先輩とのデートの練習だと思って。相談の続きですよ、続き」

 

 ニコニコいろはすに連れられて、やってきたのは海浜公園内にある植物園『花の美術館』に併設されたイタリアンレストランである。この前、合同プロムの開催場所探しに雪ノ下と海浜公園に来たときはヨットハーバーの向こうの西側にある検見川の浜の方へと歩いていったが、こちらは反対方向の公園の東側寄りにある施設である。

 

「相談ねぇ……」

「ここはとりあえずのデート先の候補としては悪くないところだと思いますけどね。近いですし」

 

 近いというのがどの程度の距離かというと、我らが母校である総武高校からマンションと道路を挟んで徒歩5分で行ける場所にある驚きの近さの最近隣公共施設である。なるほど男女交際道初級の俺と雪ノ下が、レベル上げにとりあえずお試しに行ってみるにはちょうどいい場所ではあった。つまりRPGでいうところのチュートリアルに出てくる最初のダンジョンだ。

 

「で、お前と行くの? マジで?」

「あ、女の子の前でそんな露骨に嫌そうな顔をするのはNGです。マイナス50点。あとお前呼びは何様なのでマイナス50点です」

「なんか採点始まってるし……減点でかいし……」

 

 げんなり顔の俺に一色が冷たい目で凍てつく波動を放つ。前に一色と出かけたときも採点されて100点満点中10点という結果だったが、今回は始まる前にもう持ち点を失ってしまった。ゲームオーバーである。チュートリアルに凍てつく波動を使う魔王クラスのボスが出てくるとか難易度高くない? デートとはかくもハードなゲームであるものか。

 

「まあ、相談を受けたこともありますし、言葉だけのアドバイスじゃない具体的な女の子のデートでの扱い方を先輩に教えてあげましょう。どうですか、この親切心? 後輩的にポイント高くないですか?」

「自分で言うのは減点なんだなぁ……」

 

 頬に人差し指を当てて「えへ♡」っとあざとく微笑む一色に正直な感想を述べると、肩に無言でグーパンを喰らい黙らされました。やはり暴力……! 暴力はすべてを解決する……!

 

「という訳で、今日はわたしが彼女だと思って彼氏(づら)してみてください。なんか前に言ってたじゃないですか、なんとか立ち彼氏面とか。そんな感じで……」

 

 強引に話を進める一色の発言に、俺は目を見開いて驚愕に打ち震える。

 

「一色……お前まさかベガ様の彼女面する気か!? 畏れ多過ぎてベガ様のサイコパワーでクラッシャーされちまうぞ!?」

「ごめんなさい。ちょっとなに言ってるか全然まったくわからなくてキモいのでマイナス10点です」

「ポイント0点割り込んじゃったよ……」

 

 なんか春休みに幕張のフェスへいつもの面々で行ったときに、ライブの楽しみ方としてベガ立ち彼氏面について熱く語った記憶があるが、よく覚えていたな。俺には「無理」とか「きつい」とか「キモい」とか精神を削り取る言われない口撃を受けた挙句に、雪ノ下から手遅れの病人を看取るような憐れみに満ちた眼差しで見られた心の傷しかないがな! ベガ立ち彼氏面、あんなにエモいのに……。

 

「あー、もうベガとかギガとかよくわからないのはいいんで、ランチにしませんか? 午前中のボランティアでお腹も空きましたし、とりあえず入りましょうよ」

「お、おう……」

 

 袖をぐいぐいされて一色に店へと引きずり込まれる。昼飯に付き合うことは了承したが、デートの練習といわれると抵抗感というか罪悪感というか――……雪ノ下を怒らせて生ゴミでも見るような目で見下される自分の土下座した姿が脳裏に浮かんでくる。想像してごらん? イマジンオンザピ-ポー――……あ、ヤバイ。ちょっとゾクゾクときて意外と悪くないかも……。

 かくして比企谷八幡、一色いろはとの2回目のデート(仮)(かっこかり)の始まりである。



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第2話 きっと、俺にはこの謎を解くことは永遠にできない

 不承不承に連れ込まれたイタリアンレストランは、内装の色合いをブラウンに統一した落ち着いた空気のオサレなお店だった。特に目を引くのは奥一面の開放感ある大きな窓で、その外には『花の美術館』のシンボルのようにそびえる円筒形の巨大なガラス張りの温室と、その下に広がる色とりどりの季節の花が植えられた中庭が見える。この景色を借景として楽しむようにデザインされているのだろう。ほの暗い照明の店内から見るその風景はひとつの絵画のようで、『花の美術館』という名前が伊達ではないことを感じさせる。実にオサレだ。さらに店内はワンコの同伴も可であるらしく、そこかしこに愛犬との公園での散歩がてらにランチを楽しむマダムな方々が寛いでいる。実にオサレだ。

 どのくらいオサレかというと、普段オサレとは無縁の大衆向けチェーン店通いの俺ぐらいにオサレ免疫のない人間ならば、入店と同時にオサレミームに汚染され自意識指数が心拍数とともに過剰に上がり、自分が浮いていないか気になり出して異常な発汗とともに視線が泳ぎ、背筋が無駄に伸びて背筋(はいきん)が痛くなり、やたらと髪型が気になって手櫛を繰り返すなどの諸症状が発症するレベルである。やだぁ、店内にいる女性客がみんな「オホホ」と笑う上流階級の有閑マダムに見えるザマス……。

 このオサレ空間に臆することなく一色は、応対に来た店員に大窓の外のテラス席への案内を求める。えー、今日みたいに春らしい暖かさの天気のいい日なら一番の特等席じゃないですか。いろはす半端ないって! こんなオサレストランで堂々と欲しいサービス要求できるんやもん! そんなんできひんやん普通!

 ともあれ案内されたテラス席に座り、ふうと一息つきながら店員から差し出されたメニューを開く。その瞬間、俺の身体は蝋人形にでもなったかのように固まってしまった。ここは蝋人形の館だったのか? 聖飢魔Ⅱな悪魔でも潜んでいたのか?

 

「……なあ、一色」

 

 俺は深刻な顔で向かいの席に座る一色に素朴な疑問をぶつける。

 

「ここ高くない?」

「イタリアンのランチの値段なんてこんなもんですよ。男子なら適当に牛丼でも食ってりゃOKでしょうけど、女子は交際費が高いんですよ」

 

 ランチセット1815円(税込み)が普通……だと? 一色にディスられた世間の平均的男子なら牛丼チェーン店の並盛牛丼四杯食った上に健康を考えてサラダが付けられる値段なんですけど。ワンコインランチを探して昼時の飲食店街をさまよう世の小遣い制のリーマンパパなら目を剥いて発狂しそうなお話だ。一方でこのランチ代を払えるかどうかで交際資格の格付けがなされる女子の世界もなかなかにシビアなものである。これは特に十代だとお小遣い=親の所得で交際できる社会階層が変わることを意味する。これは平成不況と竹中構造改革が生み出した所得格差を原因とする歴とした社会問題なのである。

 俺はこの問題を全部すべてまるっとスリっとゴリっとエブリシングお見通しに解決する、ひとつの素晴らしい解答を一色に提示した。

 

「面倒くせぇな。イタリアンならみんな仲良くサイゼ行きゃよくね? サイゼなら半分の値段で――」

「……先輩ってサイゼリヤ以外のイタリアンって行ったことあるんですか?」

 

 八幡は激怒した。必ず、かの邪智暴虐な偏見を除かなければならぬと決意した。

 

「失礼な! サイゼを立派なイタ飯屋と認めないその発言は許し難し! サイゼに謝れ!」

「ああ……行ったことないんですね」

 

 一色が大海を知らないで井戸の中でふんぞり返ってるカエルでも見るような哀れみの目で俺を見てくる。うるさい! 手のひらを太陽に透かしてみろ! カエルだって生きているんだ友達なんだぞ!

 

「いいですか? わざわざ男女がデートと称してお出かけするのは、そこに非日常を求めるからです。サイゼリヤを悪く言うつもりはありませんが、ここであまりにも日常的な場所に考えなしに行ってしまうと、『ああ、この人にとってわたしの価値はその程度なのね……』と厳しい査定を出さざる得なくなるんです」

 

 一色が結婚相談所の相談員がTLに流してくるツイートみたいなことを滔々と語る。ミソジニー狂徒が火炎ビン片手に集まって「俺の答えはこれや!」とか叫びながら炎上バズしそうな発言だな……。

 まあ、しかし正論ではある。非日常こそがデートの本質と言われてしまえば、わざわざ高い金を払ってディスティニーランドへパンさんに会いに行くのはそこに非日常があるからで、だからこそ全国区のデートスポットである訳だ。ディスティニーランドでどんな単価の高い飯を食わされようとも不満があまり出ないのは、つまりそこが非日常の空間であるからである。

 しかし、ひとつだけ納得できないことがあった。

 

「でもお前、この前千葉行ったときは俺がいつも食ってるもんがいいって言ったじゃん。それにあのときはパスタは絶対拒否だったのに今日はイタリアンってなんなの?」

 

 そう、女子が好きなランチといえばパスタとかアボガドとか海老だろうと、俺が頑張ってあらん限りにない知識を振り絞りパスタ屋の名前を列挙したのに、全部ノーと拒否されたのだ。まったくなにが気に入らなかったのか……。それが今日は思いっきりパスタのあるイタリアンである。気まぐれよくないぞー、ぶーぶー。

 俺の抗議におめめをぱちくりとさせた一色は「はぁ」とため息をつくと、「こほん」と咳払いをして居住まいを正してから、キリッとした顔で俺を軽く睨んで言った。

 

「甲斐性なし。マイナス50点」

「……ここからの挽回ってあるの?」

 

 その減点幅だと野球でいえば5回コールド負け寸前くらいの状況のような気がするが、まだイケるの? 終わってみたら33対4とか歴史に残る敗戦になってない? あのときのマリーンズは強かったなぁ……。

 一色が「やれやれこのダメ人間は」といった感じで肩をすくめて首を振る。

 

「以前は以前ですし、そもそも今日は先輩のデートの相談で練習として付き合っているんですよ? こういった場所にデートに行くことがこの先ないと言えますか?」

「うむぅ……」

 

 予定は未定が世界の真理。これがバイトなんかになると「マジもうシフト必ず来る」と言っていたパリピパイセンがドタキャンバックれ音信不通消息不明からの、店長からこっちに電話掛かってきて「今日来れる?」まである一寸先は闇なのが現実だ。あるなしで言えばないとは言い切れない。

 ここで一色がビシッィィィと人差し指を決めポーズよろしく俺の眼前に突き付けて宣言する。

 

「先輩は今日試されているんです」

 

 デートの相談を持ち掛けたのは確かにこっちだがデートの練習までは求めていない俺としては、ありがた迷惑の感がなきにしもあらずなのだが、それを言うとまた甲斐性なしのダメ人間とコキ下ろされて減点されてしまうので、ここは敢えて黙って付き合うのが甲斐性というものだろう。八幡くんオトナの対応! オトナになんかなりたくない!

 

「よし、わかった。じゃあ、ここでなにをするのが正解だ?」

「正解を考えるのが正解です。はい、マイナス10点」

 

 ニッコリ微笑みながら冷酷にダメ出してくる一色。スパルタ~。と、ここで一色の目線がテーブルに開かれたメニューへと落ちる。ははぁ~ん、アレだ。結婚相談所の相談員のツイートで見たヤツですよ、コレぇ~。

 

「……奢れと?」

「甲斐性ですよ、甲斐性」

 

 デートでは男性が奢るのがマナーという慣習は、昨今では「男性差別だ!」とネットでよく燃えている話題である。しかし俺が一色に相談した相手を楽しませる目的でプランニングするタイプのデートの場合、こっちが選んで連れていった店で「じゃあ、金出して」と言うのは、さすがにサイコパスを疑う人情のなさである。なるほどそれで普段よりグレードの高い店か。「奢るよ、サイゼで!」では「ああ、サイゼね……」ってなるね、確かに。他人のカネで食べる焼き肉はなんでも美味しいが、焼肉店のグレードで他人のカネのスパイス効果は変わるよね。同じ焼肉チェーン店でも牛角よりは大将軍の方がテンション上がるのは事実である。事実ではあるが……。

 

「でもなぁ……雪ノ下は理屈屋だから理由もなく奢られるのは嫌いだと思うぞ?」

「なんです、よく自分の彼女のことわかってるじゃないですか」

 

 意外そうな顔で一色が俺を見る。なんだよ。一応いつものメンバーの中じゃ俺が一番、雪ノ下との付き合い長いんだから、そこまで驚いた顔することなくない? つってもちょうど一年くらいの付き合いだけど……一年? もう知り合ってから十年以上経ってる気がするんだが、気のせいか……?

 俺が思いがけない感慨に耽って上の空になっていると、一色がコンコンとテーブルを叩いて俺の意識を引き戻した。一色は仕切り直しといった様子で「オホン」と咳払いをする。

 

「それはそれとしてわたしはわたしですので、まあ今回の授業料ということで♡」

 

 そしてマンガだったら「きゃるるん☆」と擬音が飛び出るだろう舌出しピースウインクをばっちり決める。もうあざとさを通り越してカワイイを通り越して螺旋状に一周回ってあざとさの上位存在に至った感じの前人未踏のあざとカワイイに、俺は諸手を上げて降伏した。

 

「わかったわかった。奢るから好きなもん食べて」

「はい、ありがとうございまーす♡」

 

 ニッコリいろはす。もう、この小悪魔の笑顔をプライスレスと思うしかないですね。しかし4000円弱のランチか……財布にカネあったかなぁ……。恥ずかしながらに財布の中身を確認し出す俺。そこで一色がなにごとかをボソボソと呟く声が聞こえてきた。

 

「……人の気も知らないで、デートの相談なんかしてくるのがいけないんですからね……」

「なんか言ったか?」

 

 俺が顔を上げると一色はパタパタと両手を振り、

 

「なーんでも! じゃあ、わたしこれ頼みますねー」

 

 と、メニューのパスタランチセットを指差した。

 

「なんだよ、結局パスタじゃねーか……」

 

 前回の鬼でも滅さんばかりの絶拒の呼吸、壱ノ型パスタ切りはどうしたの?

 

「女の子はちょっと謎な方が魅力的なんですよ♡」

 

 そう顎に指を当てて艶っぽく微笑む一色に、このちょっとの謎を解くことが俺にはきっと永遠にできないんだろうなと思った。



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第3話 やはり、一色いろはは無敵で無双な女の子である

「ごちそうさまでしたー」

 

 お腹が満たされご満悦のニコニコいろはすに連れだって店を出た俺は、有機ELもかくやという驚きの薄さと軽さを実現してしまった財布を懐に抱えつつ、来月の小遣いまでどうやって生きていけばよいだろうかと思案していた。お空は春の陽気なのにお金がないと心が寒くなるな……。お金は心の安定剤なんだなぁ……。

 

「セ・ン・パ・イ!」

 

 ふと気づくと、一色がふくれ面で俺の服の裾をクイクイ引っ張っていた。いかんいかん、どうやらお金とともに心の安定を失ってしばらくぼーっとしていたようだ。「お金は大事だよー」って昔のテレビCMでアヒルが歌っていたが、心穏やかな生活を送るためにも本当にお金は大事だよー。現金は心の保険。マジ大事。ガチ大事。

 

「なに?」

「せっかくですから寄って行きましょうよー」

 

 そう服を引っ張る一色が指差す先には、今出てきたレストランのすぐ横の全面ガラス張りの建物――『花の美術館』がある。俺は即答した。

 

「金がない」

「そんな胸を張って言わなくても……」

 

 呆れ顔の一色にさらに堂々と胸を張って応じる。入館料二人で600円? 残念だったな、俺の所持金は370円だ! 俺の野口英世のライフはもうゼロだよ! ないものはないの! ない袖は振れないとは江戸の昔から伝わるこの世の根源的かつ絶対的な真理である。無から有は生み出せないとはどっかの錬金術師も言ってたし古事記にもそう書いてあるんだよ。一色よ、まさか俺に真理の扉を開けとでもいうのか!?

 開き直った俺の態度に一色が深々とため息を吐く。そんな落胆したポーズをとっても無駄だぞ? 俺の身体の半分を構成するお兄ちゃん成分は既にビンビンに罪悪感を覚えているが、ここから一色の十八番、切ない声で熱い吐息を漏らしながらの「先輩……ダメ、ですか?」から、潤んだ瞳でおそるおそる上目遣いにこちらの目に訴えてくる『おねだりいろはす』が発動しても俺は耐えてみせる! 心を強く持て比企谷八幡! 俺には金がないのだ!

 そう身構える俺に、一色はやれやれといった声で言った。

 

「まあ、このあたりが先輩の甲斐性の限界でしょうから、ここはわたしが先輩の分も払いますよ」

「なん……だと?」

 

 払う? 一色が? 俺に? にわかには信じ難い発言に俺は常にない真剣な顔で一色の目をまっすぐに見つめて顔を近づける。「ちょ、先輩」となぜか照れた様子で身をよじりながら後ろに下がる一色にむかい、俺はとくと言い聞かせた。

 

「一色……タダより高いものはないんだ。古事記にもそう書いてある。いったい何が目的なんだ? なあ、怒らないから言ってみろ?」

「先輩のわたしへの偏見がひどいんですが……。あと古事記ってなんの話ですか?」

 

 そうかー。古事記通じないかー。古事記万能論もここに潰える。無念、万感に胸に極まれり――などと極まった俺の胸を押しのけて一色は距離を取り、すーはーと息を整えてからムスッとした様子で言った。

 

「あのですね、わたしもそこまで鬼ではないというか、そんなお金のない人にまで全部払わさせるとか、そんなヒドイことはしませんよ。わたしをなんだと思ってるんですか?」

 

 心外ですと抗弁する一色。限度額ギリギリまでお金を使わされた身としては心外ですと抗弁したくなるが、それを封じるように一色は一度取った距離を再び詰めてきた。一色の亜麻色の髪が俺の眼前でふわりと揺れる。

 

「ですから目的は……」

 

 鼻孔をくすぐる春の陽射しのような亜麻色の髪の甘い匂い。マズイという直感から仰け反る俺を逃がさないように服の袖口を掴んで引き寄せてきた一色が、儚げに潤んだ瞳で上目遣いに俺の目を覗き込んできた。そして春色のリップで艶めく唇から、熱っぽい吐息とともに切なげな声音で言葉が紡がれる。

 

「先輩とデートがしたいから――じゃダメ……ですか?」

 

 かくんと傾ぐ一色の首とともに、俺の心もかくんと折れた。

 

「もうなんかもうどうにも敵わないからもう全部好きにしてもう……」

 

 はい、降参です。こうさ~ん! こんな無敵で無双な女の子に勝てる訳ありませんでしたー! 恥ずかしさに耐えられず一色の視線から逃げるように横を向くと、一色はそれを追いかけて顔を動かし、にんまり勝ち誇った笑みでこちらを見てくる。

 

「最初からそう素直にした方がかわいいですよ?」

「バカか。俺なんかがかわいくなって誰が得すんだよ」

「ん~? わたし的には普段ふてぶてしい先輩の恥ずかしいところが見れてだいぶお得ですけどね~?」

 

 抗うように憎まれ口を叩くが、にまにまいろはすにはまったく敵わない。さすが我が最強の後輩こと一色いろはである。さらにこの後輩はここで付け加えるようにクスリと小悪魔フェイスで笑いながら言うのだ。

 

「それに300円でこれだけ先輩で遊べるならお買い得だと思いません?」

「やっぱりタダより高いじゃないの……」

 

 どうも1プレイ300円のリーズナブルないじられオモチャ比企谷八幡です。やだもうこの小悪魔ガール、どこまで強くなれば気が済むの? もう小悪魔じゃなくて大悪魔じゃない? 魔王じゃない? やっぱりチュートリアルに魔王が出てくるのはおかしいんだよな……。

 

「まあまあ、ともかくかわいい後輩が先輩に奢ってあげると言ってるんですから、ここはわたしの顔を立てて払わせて下さいよ。うん、これは後輩的にポイント高い♪」

「いうて300円じゃん……」

 

 そう聞き馴染みしかない謎のポイント制度のポイントを積み増しながらばっちりウインクを決めた一色は、俺のぼやきなど聞きもせずに掴んだままの袖を引っ張って『花の美術館』へと俺を連れていく。

 もはやされるがまま……流されるがまま……300円で買われたオモチャの八幡くんに人権などないのでした。



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第4話 そこで、俺は彼女の言葉の意味を考える

 『花の美術館』のチケットを購入し、受付を抜けてすぐに広がるのは、左側の窓から明るい陽射しが射し込む二階まで吹き抜けの広い空間である。各所に設けられた花壇に植えられた樹々と花々の色取りが、天井を飾るクロスや二階に続くスロープの立体感とよく調和するように配され、実にきれいな屋内庭園となっている。これは素晴らしい映えスポットである。俺がインスタグラマーであったら休むことなくスマホのシャッター音を響かせていたところであろう。

 しかし俺はこの映えを前にして立ち止った。インスタをやっていないということもあるが、それ以前の問題があったからである。

 

「それでどうすんだ?」

 

 一色の前代未聞の空前絶後の超絶怒涛な奢りというか貸しというか負債としか思えない行為により中に入ったはいいが、なんの事前情報もなく、入るのも初めてのこの場所に何があるのかまったくわからないのだ。わからないのでとりあえず一色にそう聞いてみると、

 

「ちょっと先輩。これデートの練習なんですから、もう少しどうリードしたらいいかぐらい自分で考えて下さいよ」

 

 ブーたれられた。仕方がない。俺はキリッとした顔で答える。

 

「一色、俺は一人で行動するときはウキウキと綿密な計画を立てるが、誰かがいるときは後ろから……」

「あ、それ前にも聞きましたからいいです」

「お、おう……」

 

 スッパリとキャンセルされる。これが絶拒の呼吸、弐ノ型腰折りか……。カウンター技はダメージでかいな、おい。このメンタルダメージで行動キャンセルを喰らった俺に、一色は本日何度目とも知れないやれやれモーションでため息を吐いて追い討ちを掛けてくる。

 一色よ……そんなにやれやれしているとやれやれ系ヒロインとか新しいジャンルを開拓して――……いや、それどこの雪ノ下さんですか? やだ俺のパートナーさん、いっつもやれやれと頭を押さえてため息を吐く、やれやれ系ヒロインの開拓者(パイオニア)じゃないですか! つまりこのやれやれは俺の性癖に刺さるということか……? ため息はご褒美ということなのか? そうなのか? そういうことなのかぁぁぁぁぁっー!?

 などと己の性癖の知られざる小宇宙(コスモ)にしばらく心を飛ばしていると、一色がジト目でこちらを見ていた。いかん心を取り戻せ、俺。

 

「そんなだから他人と行動するときの計画について相談してきたのは先輩ですよね?」

 

 一色は人差し指で俺の顔を差すと、まじめなお叱り顔でそう言って俺の顎をトンと突く。やめろ。俺の性癖に新たな小宇宙(コスモ)が燃える。鎮火だ。鎮火せねば。

 俺はやれやれと首を振って、ポケットに手を突っ込んで歩き出した。

 

「とりあえず俺が先歩くわ……」

「はいはい、その意気です☆」

 

 一転して世話焼き幼馴染みの励ましボイスみたいな声を出す一色。あざといなさすがいろはすあざとい。ふぅ……やれやれ系主人公でも気取ってやり過ごさねば、己の小宇宙(コスモ)の高まりに焼かれるところだった。

 しかし考えろか……。そもそもデートってなんなんだ? ただ二人で目的もなくぷらぷら歩くだけでもデートのように思えるが、そこにリードがどうとかとなると計画やらエスコートやらが必要になるらしい。リードか…………リードといえば犬の散歩だな。うん。犬が変な所に突っ込んでいかないようにリードコントロールするのが大事だな…………いや違う、デートは犬の散歩ではない。雪ノ下にリードを付けてリードコントロールするのは絵面が背徳的過ぎて俺の小宇宙(コスモ)が高まってしまう。むしろ逆に俺が雪ノ下にリードを付けられリードコントロールされるまである。というかそっちの方が自然だな。それでも高まる俺の小宇宙(コスモ)。いかん小宇宙(コスモ)自重、小宇宙(コスモ)自重。リードで繋ぐのも繋がれるのも非常にマズい――……あ。繋ぐでデートらしいことをひとつ思いついた。思いついたが……どうなんだろう、これ?

 俺は意見を求めて今しがた思いついたことを一色に訊ねてみる。

 

「こういうときは手でも繋いだ方がいいのか?」

 

 ぽかーんとする一色。あれ? 続くリアクションが時間でも止まったかのごとく返ってこないので、そのまま十秒ほど見つめ合ってしまう。なんだ? まさか俺は時間を止める能力者にでもなってしまったのか? もしやここで振り返れば俺の背後にスタンドが――などとアホな妄想をしていると「……はっ!」と一色の時が動き出し、しゅばばと後ろへ逃げるように飛びのいた。

 

「も、もしかして口説いてましたか!? 確かにデートとは言いましたけどそれだけで気分に押し流されてあげられるほどわたしの気持ちは簡単じゃないんでこういうのはもう少し別のタイミングでお願いしますごめんなさい!」

 

 そして勢いよく頭を下げる。これは一色の鉄板芸というか、もう無形文化財ってやつだな。人間国宝だ。末代まで伝えていって欲しい伝統芸能だ。

 

「あー、はいはい。そこまでいらんならいいわ。じゃあ行くか」

「でたー……、全然聞いてないやつ……」

 

 一色がしらーっとした目で見てきたがしょうがないだろ。毎回こんなのまともに相手できんて……。「はいはい」と返して先に進もうとすると、そこで一色が小声で何ごとか呟くのが聞こえた。

 

「で、でも……どうしても練習したいと言うのであれば……その……」

「なに?」

「あー、いいですいいです! 行きましょう! ほら、前歩く!」

「お、おう……」

 

 振り返ろうとすると一色に背中をぐいぐい押されて誤魔化された。明らかな動揺。見られたくないのか顔を伏せて伸ばした手で俺を前に突き出すが、亜麻色の髪からちらりと覗けた耳が赤く染まっているのを俺は見てしまった。

 そこで俺は先日の動物公園での別れ際に、一色が耳元で囁いた言葉を思い出す。

 

「三番か……」

 

 そう口の中だけで呟いた言葉の意味は、想像に任されて俺の胸へと投げられている。

 冬に一色と二人で千葉に出かけたとき俺はこいつに『女の子はお砂糖とスパイスと、そして素敵な何かでできている』というマザーグースの歌だったか、確かそんな感想を抱いた。

 この一色の誤魔化しは、砂糖なのか、スパイスなのか、それとも素敵な何かなのか。

 今日、こいつは何を考えてこのデートの練習に俺を誘ったのだろうか。

 彼女は冗談めかしながらも俺とデートがしたいからと言った。

 俺は想像に任された言葉の意味にはっきりとした答えを出すべきなのか。

 背中を押す一色の手の熱に、俺は少しだけそんなことを考えた。



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第5話 誰にも、一色いろはの魅力に異論は認められない

 とりあえず奥へと進む。

 まず目に入るのは屋内庭園の花壇の中に置かれたファンシーな小屋である。その周りを季節感溢れる春めいた水色や薄紅色の花々が彩り、雰囲気はまさにピーターラビットやシルバニアファミリーの世界である。それを証明するように花壇の中にはウサギの置物がこっそりと置かれていたりする。ツイッタラー向けにミートパイなどは置かれていないので、実に清く正しいインスタ映え映えなフォトスポットである。

 それを蜜に誘われるハチのように「わー」と近寄ってパシャパシャとスマホで撮っていた一色が、「先輩♪」と俺にスマホを手渡して何も言わずにポーズを取る。俺は無言のカメコとなりパシャパシャと数ポーズの撮影を行う。背景を活かして自分のかわいさを引き出す一色の表情とポージングは、自分の撮られ方を理解している人間の動きだ。

 ……さっきの動揺もどこへ行ったかという安定の一色いろはである。

 

「じゃあ、先輩も一枚」

 

 スマホを返されて撮影された写真を確認していた一色が、不意にこちらにカメラを向けてパシャリと撮った。

 

「わー、さすが先輩。目が死んでるー」

「勝手に撮っといてそのコメントは酷くない?」

 

 さぞマヌケな面が映っているのだろう。俺の写真を見ながらふふふと笑う一色。俺は頭を掻きながら先に進む。

 なんというか調子の狂う。こいつの切り替えの早さに振り回されている感じ……いや、いつものことか。一色が誤魔化したいことに俺から踏み込むのもどうかと思うしな。うん、あまり考えると俺の方が動揺してきて不審者になってしまうからな。棚の上とはこういうときのためにあるものだ。どんどん棚に上げていこう。保留だ保留。

 そう心に決めて前に進んでいくと右側に展示室のような部屋があり、その中に絵だか写真だかが飾られているのが見えた。

 

「ほーん。作品展とかやってんのか」

 

 『花の美術館』と銘打っているだけあり、植物園要素だけでなく美術館要素もあるらしい。ふらりと中へ入ってみる。

 

「ちょっと先輩。黙って先に行かないでくださいよ」

 

 そこで一色がぷんすこしながら追いついてきた。いかん、心の整理に気を取られて一色が付いて来てるか見てなかった。しかし俺は悪い癖で、バツの悪さに咄嗟に言い訳をしてしまう。

 

「いや、先歩けって言うから先歩いただけだけど……」

「相手の歩調に合わせるのがリードというものです。一人でどっかに行くのは普段家でごろごろしているだけのお父さんが家族で旅行とかに出かけたときによく取る迷惑行動です。ダメの見本ですね」

「すんませんでした」

 

 一色の異様に具体的で説得力のある説教に即座に頭を下げる俺。うん、ウチの親父も似たような行動取って母ちゃんにお説教されてたの見たことありますね。なんか俺も由比ヶ浜あたりに「勝手にどっか行くなし」とか怒られた覚えが……心当たりがあって心が痛むね。でもほらさ、路地裏の小道とか階段とか見ると「どこ行けんだろ?」ってちょっと覗いてみたくなるじゃない? そういう好奇心は失いたくないのよ、男の子として。

 

「わかってもらえればいいんですけど――……へぇ、ここってこういうのもあるんですね」

 

 俺への説教もほどほどに展示室の中を見渡した一色は、飾られた展示品の方に近寄って行った。ほいほい、歩調に合わせてねー……と、俺もその横について展示品の鑑賞を始める。

 どうやらアマチュアの創作サークルの作品展らしく、春をテーマにした絵画や写真が並んでいる。絵は水彩に油彩、写実に抽象となかなかに多彩なラインナップで、写真の方もそこらへんの野草の花を撮った写真から南仏っぽい海外の明るい風景を撮った写真まで幅広い。個々の製作者の個性が強いサークルのようで、美術館などほぼ行くことのない俺でも見ていて飽きない作品展である。

 

「良し悪しはよくわからないですけど、たまにこういうのを見るのも悪くないですねー」

「そうだな」

 

 一色も似たような感想なのか、「へー」とか「ほー」とか「あ、こういうの好きですねー」とか言いながら作品の鑑賞をしていく。俺がそれに「ああ、わかる」とか「俺はこっちがいいな」とか返すと、「なるほどー」とか「あ、わかるかも」とか返してくる。

 別に俺に合わせて話しているという感じでもなく、普通に楽しんでいるようだ。その様子に俺はふと思ったことを口にした。

 

「しかし意外だな。俺はてっきりお前のことだから『ここの色使いがよくないですね。マイナス10点』とか『これ値段付けたらいくらぐらいになるんですかね』とか言い出すかと思ったぞ」

「先輩の中のわたしのイメージって、もうちょっとどうにかならないんですか……?」

 

 しらーっとした目で見られる。普段が普段だからなぁ……。

 

「いやでも、普段の思ったことを飾らないではっきり言うところとか、自分のスタイルに堂々としたカッコよさがあって好きだぞ俺は。そこに今みたいな素朴な会話もする一面の意外性に、今日は一色の新たな魅力を見た感じだな。総合して一色いろはは素敵で最高ってことだ」

「あ、ありがとうございます……」

 

 フォローとばかりに褒め倒すと、一色は顔を俯かせてもごもごと小声でそう返した。その耳は赤く、頬も心なしか桜色に染まっている。

 これは貴重なマジ照れいろはす。いかんな、勢い余って褒め殺してしまったか。最近気づいたが、この子って押しには滅法強いけど押される側に回ると意外と弱いよね。普段、批判的な意見にも毅然と振る舞い己のスタイルを貫く一色は、逆にこういった褒め倒しに慣れていないせいか、素で照れてしまうのだろう。

 

「で、でもなんですか急にそんな……そういうの恥ずかしいんでいきなりされると困るんですけど……」

 

 う~ん、このもじもじと髪の毛先を弄りながら視線を逸らして照れを誤魔化す一色のいじらしさといったら、あざとかわいさからあざとさを抜いた純粋なかわいさに満ちている。一色のかわいさについて一家言ある俺としても、このかわいさは普段の計算されたかわいさとのギャップから生じる圧倒的な萌え力により、最高水準のかわいさとして文句なしの星五つをつけざるを得ないレベルのかわいさである。これはいいものだ。もっと愛でていたい。よし、もっと褒めよう。

 

「いきなりじゃない。いつも思っているから言えるんだ。これでも俺は一色いろはのファンだからな。お前の好きなところならまだまだ言えるぞ。たとえば他人に対してドライに見せながら、距離が縮むと意外と面倒見のいい姐御肌なところとか――」

「ちょちょちょストップストップです先輩」

 

 恥ずかしさのあまり俺の口を塞ぐように手を伸ばしてくる一色。効果はバツグンだ! だが一度高まった俺の「マジ照れいろはすを()で倒したい」というリビドーはこの程度の妨害では収まらない。「止まるんじゃねぇぞ……」と俺の心の中の団長が希望(リビドー)の花とともに道を指し示しているのだ!

 

「いや待て止めるな。まだまだこの程度じゃ俺の中の『一色いろはの好きなところ』は語り尽くせんぞ。他にはやり出したことを途中で投げないで他人に助けを求めながらも最後まできちんとやり抜くところとか、あれこれ周りに言われてへこんでも最後には自分らしくかわいい一色いろはに戻ってくるタフなカッコよさとか――」

 

 さらに滔々と並べ立てていく。まあ、そろそろこの辺りでいつも通りに「はっ、もしかして口説いてましたかでもなんやかんや無理ですごめんなさい」と振られるだろうと予想していた俺だったが――、

 

「先輩」

 

 そこには赤い顔で少し涙目になった一色が、ぷるぷると震えながら非難がましく上目に俺を睨んでいた。

 

「……いじわる」

 

 そう言って、一色はふいっとそっぽを向いて展示室から出ていこうとする。

 っべー……やり過ぎたか。

 

「す、すまん一色――」

 

 慌てて謝りながら後を追い掛けると、出口に差し掛かったところで一色が立ち止った。すーはーと息を整えているのが聴こえる。俺も深呼吸をした。

 さっきの「……いじわる」にドキリとした胸の鼓動が、妙に落ち着かなかったからだ。落ち着け俺。これは一色の涙目にびっくりした胸の鼓動だ。断じてかわいいと思わされてしまった胸のときめきなどではない。うん、そうだ。女の子の涙は最強だから動揺ぐらいする。とりあえずここは謝り倒してこの場を収拾しよう。

 

「ごめんな、ちょっとやり過ぎ――」

 

 謝罪の途中で一色が振り返り、俺の胸をトンと小突いた。

 

「いくらかわいいからって、女の子の嫌がることをしつこくやったらダメですよ?」

「お、おう……」

 

 不意なたしなめにうなずき返すと、一色の顔が上がりその目が俺の目と合った。

 

「わかればよろしいです」

 

 さっきまでの照れはどこへやら。そこには最高にかわいらしい笑顔でカッコよく微笑んでみせる、俺が最も彼女らしいと思える一色いろはがいた。

 

「じゃ、次行きましょー。ほら先輩、前歩く」

 

 そう言って一色は後ろに回り込んで俺の背中をポンと押す。

 

「おう――」

 

 俺は前を歩かされることで顔を見られないで済んだことを感謝した。顔が熱くなっている。たぶん赤くなっているだろう。なんだ……この胸に聴こえるトゥンクの響きは――いや、もうこんなの落ちるだろ。不可抗力だ。俺に雪ノ下というパートナーがいなかったら完全に落とされているところだった……。

 というか、どうすればあそこから切り替えてあんな表情を決められるのか。それが彼女の魅力とはいえ、あまりにも強過ぎるし、それが最高にカッコいい。

 一色いろはという後輩はやはり最強の後輩であり、そのかわいさについては一切の異論が認められず、そのカッコよさについてもまったく異論は認められないのである。



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第6話 そこには、開けたらなくなる色々が詰まっている

「はー……、思った以上に立派な温室だな」

 

 順路通りに先に進み、この『花の美術館』を外から見たときに最も目立つ場所である大きな円筒状の温室に足を踏み入れると、むわっとした空気とともに目の前に広がったのはシダの葉の色濃い緑が生い茂る亜熱帯の森の光景だった。

 ヤシの樹を始めとした何本もの熱帯の樹々が高く伸びるのを追いかけるように見上げれば、天井には中心から放射状に伸びた鉄骨の梁がシャンデリアのようにも見える美しい配列で並び、その向こうには樹々の緑を引き立てる背景色のように白い雲を浮かべる青空が明るく広がっている。

 奥からは水の流れる音が聞こえてくる。入口からすぐに見える東屋(あずまや)へと歩いていくと、そこから飛沫を上げて流れ落ちる滝の姿が見えた。滝の下は池となっており、ぽっかりと空いた空間からは広く温室内を見渡せる。シダに茂る緑の中をスマホ片手に写真を撮りながら歩く人の姿が見える。どうやら池をぐるりと巡る形で通路があり、滝の上の二階へと続いているようだ。

 

「なんか落ち着きますね、ここ」

 

 温室内を見渡していると、一色がそう言って東屋のイスに腰を下ろした。ふぅーと息を漏らした一色は、疲れたのか少し呆けた顔で温室の風景を見やる。どこか気だるげな憂愁を帯びた表情。それはさっきの俺の褒め殺しによる動揺の後に、一瞬で取り戻した彼女のスタイルである『最高にかわいい一色いろは』の装いの取れた表情だった。普段のあざとさなしの恐らく素であろうその無防備な横顔に、俺は先ほどのやり取りもあったことから、ちょっとドキリとしてしまう。

 なので誤魔化しにどうでもいい話をする。

 

「確かにな。滝からマイナスイオンでも出てんじゃねぇか」

「あー、いいますよね、それ。なんか胡散臭いですけど」

「イワシの頭も信心からだよ。少なくともテスラ缶よりかは信じられる」

「あー……、あれの中身って何が入ってるんですかね?」

「あれだよ、胸わくわくの愛がぎっしりに色とりどりの夢がどっさりだよ」

「なんかどっかで聞いたようなフレーズですね……」

 

 そいつは摩訶不思議だな、と返そうとしたところでふわりとした笑みを浮かべていた一色が、不意に遠い目をして独り言のように言った。

 

「でも、そうですね……開けたらなくなっちゃうんでしょうけど、色々詰まっているんでしょうね」

 

 俺はこの言葉を一色の独り言として聞いた。それがテスラ缶の話とは、俺にはまったく思えなかったからだ。

 テスラ缶といえば置いておくだけでありとあらゆる病気や怪我を治すことができると巷で噂のスピリチュアルな缶(定価250万円)のことである。しかし、その効果は缶を開けてしまうとなくなってしまうという話だ。知らんけど。

 開けなければ確かにそこには何かが詰まっている。冗談で愛だの夢だの言ったが、そこにはきっとそういったものと同じくらい大切なものが詰まっていて、だからこそ開けて、目で見て、手で触れてみたくなるものが入っている。けれどそれは開けてしまったら、目で見て、手で触れてしまったらなくなってしまうものかもしれない。そういうテスラ缶みたいなものが、世の中にはあちこちにあるものだ。だから人はいつだって開ける、開けないの選択に迷うことになる。

 だがどれだけ迷ったとしても、少なくともその選択を決めるのは他人じゃない。いつだって自分自身だ。だから俺は何も答えなかったし、答えられもしなかった。

 

「うー……んっ!」

 

 唐突に一色が腕を上げて伸びをした。そして重たいものでも払うように肩を回す。

 

「休憩終了です! じゃあ、行きましょうか」

「お、おう」

 

 急に気合いの入った声を出して元気よく立ち上がった一色。さっきまでの表情が気の迷いでもあったかのように、どこか踏ん切りをつけたみたいにさっぱりとした顔をしている。

 彼女はこの瞬間に何かを決断し、何かと決別したのだろうか。

 それが何かなんて俺には知る由もない。

 けれど俺は、それが何であっても尊重してやろうと思った。

 

「よし、行くか」

「あ、その前に」

 

 進もうとしたところで呼び止められる。一色は俺の服の裾をくいくいと引いた。

 

「このカエルかわいいですから、一緒に写真撮りましょう」

 

 東屋のイスの横には王冠を頭に乗せた1メートルくらいのサイズの大きなカエルのオブジェがあった。こいつとツーショットの写真でも撮りたいのかと、俺は「ん」と一色にスマホを渡すよう手を出した。

 それに一色がやれやれと首を振る。

 

「先輩もです」

 

 どこか甘さを感じる髪の匂いが鼻にそよいだ。

 一色の手が俺の肩に回り、グイッと強引に顔を寄せてくる。ぱちっと目を開いて大きな瞳をくりくりと動かし、リップグロスに艶やかな唇を緩ませて微笑む、最高にかわいい顔をした一色の横顔がすぐ隣にある。

 突然のことに戸惑う俺に一色は「先輩、目線」と、伸ばした手で構えたスマホの方を見るように促してくる。

 そして一枚。

 

「なかなかデートっぽい写真が撮れましたね」

 

 そう見せられた写真は、カエルなんてぼやけた背景に申し訳程度にいるだけの、完全に俺と一色のツーショット写真だった。

 マヌケな照れ顔で横目にカメラ目線を向けている俺と、ばっちり決め顔の一色。

 この写真を満足そうに眺めている一色は、何を決断したのだろうか。

 それを知る由は俺にはない。



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第7話 その想像に、比企谷八幡は饒舌に夢想を語る

 シダに茂る緑の道のところどころに咲いている、鮮やかな赤や青や黄色の名前も知らない熱帯の花々の彩りを眺めながら温室の中を進んでいくと、二階へと続く階段に差し掛かった。

 

「うん? あれは――」

 

 見上げると階段の上の方で道を塞ぐような位置でポーズを決めている人がいた。

 

「――コスプレ、ですね」

 

 一色がやや戸惑い気味にそう俺の台詞を繋ぐ。見ればなにやら薄紫というけったいな髪色をした魔法少女っぽい格好の若い女性が、ゴツイ一眼レフカメラを構えたちょっと冴えない感じの中年男性にパシャパシャと写真を撮られている。カメコだ。本物のカメコだ。俺が今日、一色相手にやったなんちゃってカメコとは違う、モノホンのカメコだ。なんというかオーラが違う。

 

「そういえば、ゴミ拾いしているときもちらほら見かけましたね」

「ああ、そういえばいたな」

 

 午前中の公園清掃を思い出す。言われればフリフリのドレスを着たお姉さんや黒コートに剣とか背負ったお兄さんなどの、遠目にも異様な風体の方々が花壇や林や砂浜をバックに撮影らしきものを確かにしていた。

 

「じろじろ見るのは失礼だろうと意識して視界から消し、自分に関わりのないものとしてやり過ごす、クラスに溶け込むために身に付けた俺の学校生活スキルを駆使して無視してたから記憶に薄かったが確かにいたわ」

「うわぁ……なんですかそのスキル……。『頑張って生きて……』とかしか言えないんですけど……」

 

 あれぇ……なんかドン引きされてる……。いや、そうやって頑張って生きてきたんですけど……。深入りすると傷が致命傷にクラスチェンジしそうなので、一色のコメントにリアクションを取らずに話を戻す。

 

「ここいらでコスプレすんの流行ってんのかね?」

「ここの公園ってコスプレの撮影スポットになってるらしいですよ。なんか団体で公園に許可取って定期的に撮影会をやってるって話です。今日もその日だったみたいですね」

「あ、そうなん?」

 

 ほう……千葉ウォーカー(自称)であるこの俺の知らぬ間に、そんな時代の波が稲毛海浜公園の砂浜に打ち寄せていようとはな……。

 

「てか、めっちゃ詳しいな」

「不思議そうに見てたら、清掃手伝ってくれてた公園職員のお兄さんが、なんか聞いてもないのにぺらぺらと」

 

 ほー、さすが一色だな。なんか俺が言ったことになっている『教えを請う女の子はかわいい』の法則を越えて、『かわいいから聞いてもないことまで色々と教えてもらえる女の子』にまで成長しているとは……ふっ、一色いろははワシが育てた。

 

「あんまり興味なかったんでありがた迷惑だったんですけど、『さすがー』『知らなかったー』『すごーい』『センスあるー』『そうなんだー』とか適当に言ってたら詳しく教えてくれたんですよー」

「合コンさしすせそじゃねぇか……」

 

 ありがた迷惑なのはわかるけど、そんな適当ぶっこいてて後ろから刺されたりしない? ……ふっ、ワシはとんでもない化け物を育ててしまったかもしれん……。

 

「まあ、それはともかく先に行きましょうよ」

 

 一色に言われ、それもそうかとうなずく。階段の下で撮影が終わるまで待ちぼうけする義理もない……というか普通に道を塞いで撮影をしている方が悪いので、俺が前に歩き「ちょ、すいません」と手刀を切って押し進む。コスプレお姉さんも中年カメコも悪気はないのか「あっ、ごめんなさい」と頭を下げて普通にどいてくれた。普通に良い人だ。見た目が異質だからといって偏見を持つのはよくないことだ。話せばわかる。話せばわかるのだ。人類皆兄弟。ウィアーザワールド。

 

「いやー、ジャマでしたねー」

「ちょっ、こら、そういうのは口に出さない」

 

 ちょっとこの子「問答無用! 撃て!」とばかりに言葉の銃弾ぶっ放しましたよ! 聞こえてないよな? 聞こえてないね? うん、こっちは見ていない。ふー……心臓に悪い小娘だぜ、こいつは。俺は一色を連れてそそくさと温室を脱出する。

 

「あ。あそこいい感じの休憩スポットになってますね。ちょっと行ってみましょうよ」

 

 温室を出た先は屋内庭園の二階だった。一色が指差したのは、庭園を見下ろせる位置に張り出すようにある屋根なしの三角梁で飾った四角いコーナーで、ベンチが設置されているのが見える。そこに移動して一息つくように座ると、一色が「そういえばー」という感じで、先ほどのコスプレイヤーさんの話を始めた。

 

「あれってなんのコスプレだったんでしょうね? 先輩はわかりますか?」

「さあな。魔法少女系のなにかだろうけど――」

 

 魔法少女というか完全にプリキュアで、あの薄紫のロングヘアーに大きいリボンが特徴の白ベレー帽を被ったふわふわセーラードレスは『トロピカル~ジュ!プリキュア』の「きらめく宝石キュアコ-ラル!」こと涼村さんごである。このくらい俺のような毎週日曜朝は「ぷいきゅあがんばえー」とテレビの中で悪と戦う少女たちにエールを送る歴戦の大きいお友達であれば朝飯前に一目で看破できる程度のことだが、それを言うと一色のドン引きした視線が痛ましく突き刺さって来ると思われるので黙っておく。沈黙は金だ。

 

「でも、コスプレも面白そうですね。今年の文化祭のプログラムに入れてもらおうかな……」

「ほーん、いいんじゃね?」

 

 確かにそれは普通に盛り上がりそうである。去年の文化祭は……まあ、色々あって思い出したくないことも多々あるが、雪ノ下や平塚先生が演った即興ライブも大ウケだったらしいし、似たようなノリでコスプレコンテストでも開けば大盛況だろう。そう軽い気持ちで同意していたら、

 

「雪乃先輩や結衣先輩だったら、どんなコスプレになりますか?」

 

 一色がそんな話題を振ってきた。あー、この場にいない人を話題にしてこういうトークするの面白いよねー。中学のとき同系のトークで『誰が誰々に似ている話』をしているクラスメイトの声が教室の後ろから聞こえてきて「目がチー牛www」とか大爆笑されていた俺の話でもする? しない? 悪気はなくても本人が近くにいるところでそういう話をしちゃいけないよ?

 まあ俺の黒歴史はともかく、この場には雪ノ下も由比ヶ浜もいないので乗っちゃいますけどね、この話題! だって楽しいもんね、本人のいるところでは話せない系の話題ってさ!

 さて、雪ノ下のコスプレね――単純に似ているといえばアイマスの如月千早――……は真面目で不器用なため孤立気味の性格や身体の板状の部位などが酷似し過ぎていて、もし本人の耳に入ったら「あなたが私のことをどう見ているかよくわかったわ……」といった悲しみを帯びたセリフを土下座しながら聞くことになるのが容易に想像できる。そんなリスクのある話を一色の耳に入れる訳にはいかん。となると――、

 

「雪ノ下のコスプレで個人的に見てみたいのは……俺妹(おれいも)の黒猫だな」

 

 やはりここは千葉市を舞台にした作品からピックアップしていきたいところだ。まあ俺妹(おれいも)こと『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の舞台は、千葉市といっても中央区の弁天町方面なので、美浜区にある総武高校や稲毛海岸周辺はまったく登場せんのだが、千葉の高校の文化祭でコスプレをやるには縁も所縁もある作品である。

 だが一色を見るとまったくピンときておらず「黒猫? ヤマト?」みたいな顔をしている。まったく、千葉市が舞台の作品くらい千葉市民なら全員履修していてもらいたいものだ。俺はスマホで検索して一色に画像を見せてやる。

 

「はぁー……ゴスロリ猫耳……。確かにちょっと見てみたいかもですね……」

「ほう……一色にもこの狙いがわかるか?」

 

 ふりふりフリルなドレスを着て、前髪を切り揃えた黒髪ロングに猫耳を装着した小柄な少女キャラ――それが黒猫である。この衣装を身に付けた雪ノ下の姿を想像して納得したのか、一色が同意のうなずきを返す。

 

「まず、色白の雪乃先輩には単純にゴスロリが似合うでしょうね。ですけどそれ以上に猫耳を付けて顔を赤くした雪乃先輩に『ニャン♪』とか言わせてみたくなりますね」

「その通りだ」

 

 我が意を得たりとニヤリと笑う俺。まあ、黒猫はいわゆる厨二病キャラで『ニャン♪』とか語尾に付けて言うようなキャラではなく、雪ノ下とはツンデレでコミュ症なところ以外は特に似てない性格であるのだが、コスプレは似ているキャラになるものではなく、なりたいキャラになるためにするものである。つまり本人不在のこの場では、させたいキャラについて語るべきであろう。俺は雪ノ下が猫耳を付けて顔を赤らめながら『ニャン……』とか小声で言って悶える姿を見ながら尊死したい。うむ。我ながら理想の人生の幕引きだ。

 そんな妄想をニヤリとした決め顔のまましていた俺を見ながら、一色がにっこりスマイルで言った。

 

「先輩のそのクソみたいな性癖は、わたしの胸にそっとしまっておきますね」

 

 こ、これが……鋭利な刃物で心臓を一突きにされた感……覚? あれ、おかしいな……弱みを握られないように地雷を回避したら、なんか別のトラップにはめられてしまったような気が……。

 

「それじゃあ結衣先輩はどうですか?」

 

 なんだろう……これは俺の性癖の調査とかなのかしら? よくよく考えれば誰に誰の格好をしてもらいたいなんて話は、嫌でも話す人間の性的嗜好が覗けてくるタイプの話題である。まさかこれはコスプレ談議を装った高度な誘導尋問ではないだろうか? 性癖とは基本的に隠すもの。これを把握することはその人の弱みを握ったも同然である。「ほら、こんなのが好きなんだろ?」とイジリやマウントに使ったり、「性癖バラされたくなかったら言うこと聞けよ」と脅しに使ったりと用途は様々だ。一色め……俺の性癖を握って、俺の心と身体をどう弄ぶつもりだ……!

 

「グラブルのルリアだな」

 

 ――などと、色々邪推したが俺の性癖など、比企谷検定二級相当の理解力で俺をあざとく労働に使い倒してくる一色相手に今更な話である。ならばすべてを語るべきである。というか語りたいから語らせろ。ガハマさんには以前からやってもらいたいキャラがいるのだよ。へっへっへ……もう「やめて」と言われても止まらないぜ?

 

「ルリア?」

 

 さっきと変わらず一色が「誰?」という顔をするので、サクッとスマホの検索結果を見せてやる。そこには透き通るような長い水色の髪をした女の子の画像が映し出されている。スマホゲーム『グランブルファンタジー』のメインヒロインの美少女キャラである。

 

「ああ、なんかCMとかで見たことのあるキャラですね。でも結衣先輩とは全然似てないですけど……」

「これを聞けばわかる」

 

 可憐系キャラであるルリアと、ゆるふわ系ギャルの由比ヶ浜ではパッと見では接点を探すのは難しい。しかし、その声を聞けばこの疑問はすべて氷解する。俺はゲーム動画のボイス集を再生した。

 

「この男受けするアホっぽい声とか、ほぼ本人じゃないですか……!」

「おいやめろ男受けとかアホとかやめろ」

 

 驚く一色とその毒舌に驚く俺。え、キミそんな風に思ってたの? こんなこと後輩に言われたらいつでも元気に「やっはろー」のガハマさんでもさすがに傷ついちゃうよ? 確かに晴れ時々アホみたいなところはあるけど、そこはせめて天真爛漫とか言ってあげて? 俺は一色のクソみたいなというか完全なるクソな毒舌を胸にそっとしまった……。

 

「これだけ声が似てたら、もう見た目だけ整えれば完コピじゃないですか」

「だろ? 初めてこの声を聞いたときから考えていたことなんだ。『私だって、がんばるんです!』と言ってコスプレ会場に出撃していくルリアに『がんばれルリア!』とか応援したい。そしてステージに立ち『汝の名は……バハムート!』と叫んだルリアの声で驚きに湧くコスプレ会場の後方で『ああ、俺がお前のバハムートだ……』とベガ立ち彼氏(ヅラ)で涙を流したいんだよ……」

 

 その光景を思い描き夢想の彼方に想いを馳せる俺に、一色の「なんか始まったよ」というしらーっとした視線が突き刺さる。しかしすべては今更だ。ノーガードフル性癖オープンで俺はこの戦場を駆け抜ける!

 

「先輩のその歪んだ願望は措いといて――」

 

 しかし俺の性癖開陳は一色の右から左に手を動かすジェスチャーで即刻措いておかれた。歪んだ願望とはなんだ! 純粋な願望だぞ! 純情だぞ! ピュアドリームだぞ!

 

「……じゃあ、わたしだったらどんなコスプレになりますか?」

 

 俺が心の中で己の願望の正当性を訴える雄叫びを上げていると、一色はこちらの様子を少し上目遣いに窺いながらそう聞いてきた。

 ほう……この流れで自らに話の矛先を向けるとは、一色にしては珍しい打ち手だな。ならば我が全力の性癖を以てお応えしよう。まずは軽くジャブからだな。

 

「そうだな……御坂美琴とかイケる気がするな」

 

 一色の顔にまたしても「?」が浮かんだ。なんだ『禁書目録』も未履修か。これだから非オタは……というマウントを取っても仕方ないので、またスマホで検索して画像を見せてやる。

 

「はぁ……まあ、似てはいますね」

 

 画像に映る女の子を見れば茶髪に制服という出で立ち。普段の一色の格好に髪型をちょっとキャラに合わせて整え、花飾りのヘアピンを付けて少し勝気な表情をさせればもう完成――というか完全体の域である。つーかよく見ると本当に似てるな……。

 

「でも、パッと見の外見が似ているだけで、キャラ的には全然違う気がするんですけど……」

「一色みたいなキャラがそう何人もいてたまるかよ」

「どういう意味ですか、それー?」

 

 頬をぷくーと膨らませる一色。それそれ。そういうキャラだよ。

 

「だが一色、お前にやってもらいたいキャラは別に本命がある」

「本命?」

 

 そう、ここまではジャブだ。前座だ。前菜だ。ここで俺は真打ちであるメインディッシュ右ストレートをぶっ放す。

 

「夢見りあむ」

 

 俺は一色が「?」を顔に浮かべる前にスマホをスッと差し出し、デレマスこと『アイドルマスターシンデレラガールズ』の夢見りあむライブ動画を再生する。ピンク髪に青のメッシュが入った小生意気な顔をした女の子が「オタクのみんなー!」と歌い出す。

 

「一色には『オタク!ぼくをすこれ!よ!』と叫んでもらった後に、この『OTAHENアンセム』を熱唱してもらいたい。一色にはこれを演るポテンシャルがあると俺は見ている。そして俺はこのステージにサイリウムを両手に持っての全力コールをやりたい」

 

 動画を見る一色の横で俺は夢を語る。そうだ、この最高のステージで俺は「言いたいことがあるんだよ! やっぱりいろはすかわいいよ! すこすこだいすこやっぱすこ! やっと見つけたお姫様! 俺が生まれてきた理由、それはお前に出会うため! 俺と一緒に人生歩もう! 世界で一番愛してる! ア・イ・シ・テ・ル!!」とガチ恋口上をコールするのだ。もうコスプレとか関係なく「りあむ」でなく「いろはす」コールで絶叫したい。このアイドルいろはすのデビューステージに、たぶん俺はぼろっぼろに泣くだろう。それはもう泣く自信どころか確定事項といっても差支えのないことだ。確信である。信仰である。俺はこのとき神の降臨を前に咽び泣く信者となると予言しよう!

 そう俺の気分が最高潮に盛り上がってきたところで動画を観終わった一色がスマホを返してきた。さあ、どうだ? 感想やいかに!?

 

「先輩はどんなコスプレが似合いますかねー?」

 

 おい、こいつ無視したよ。おれの激熱パッションにもはやドン引きリアクションすらなくスルー一択で話題を変えてきやがったよ。ノーガードフル性癖オープン戦法への対抗策が完全スルーとは……さすがは一色といったところか……。

 俺が敗北感に打ちひしがれていると、一色は「うーん」と俺の顔を見ながら考え込んでいる。俺に似合うコスプレ? どうせ鬼太郎とかその辺りでしょ?

 

「先輩は……あれですね。謎の魚とかいい感じですよ」

 

 斜め上のヤツが来た。謎の魚とは千葉ロッテマリーンズのマスコットキャラである。基本は大口を開けた青いチョウチンアンコウに人間の足が生えた魚であるが、いくつもの形態があり、口から骨だけの姿になって飛び出したり、人間に全身タイツを着せて頭だけチョウチンアンコウを被せただけの姿になったりして、各方面から「キモい」と言われる色ものキャラとして色々と話題を集めた。そして最終形態として半魚人のような姿になり、言葉を喋るようになった末にCDデビューまで果たしたが、最近体力の限界を理由にひっそりと球場を去っていった。まあ、色もの路線ではどうあがいてもスワローズの畜ぺんには勝てんからな……。

 と、長々と謎の魚の来歴についてマリーンズファンとしてつい思いを馳せてしまったが、しかしこれはコスプレというよりもはやきぐるみである。俺は確認のために一色に聞いてみる。

 

「俺とかけて謎の魚と解く。その心は?」

「気持ちが悪い」

 

 あーはいはい、キモいつながりってヤツですね? キモいを通り越して気持ちが悪いとか、俺の性癖キモキモでしたもんねー。うんうん、ちゃんとオチがついたようでよかったでーす。

 ハァとくさり顔でため息を吐くと一色はそれを見てフッと笑い、俺の横に身体を近づけてきた。

 

「まあ、それはジョークとして、先輩は無難なところで執事コスとか似合うんじゃないですか?」

 

 そしてフォローするようにそう言うと、俺が反応する前に耳元へと口を近づけ、

 

「そのときは先輩にエスコートされてあげちゃいます」

 

 熱い吐息にそんな言葉を混ぜ合わせて、俺の耳に滑り込ませてきた。

 耳をくすぐる熱と言葉に顔を赤くした俺が振り向くと、一色はドッキリ大成功みたいな顔をして微笑んでいた。

 その顔を見て俺は、一色はどんなコスプレをしても一色らしさを失わないんだろうな、と思った。



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第8話 こうして、比企谷八幡は責任を果たすための約束を交わす

 休憩を終えて二階を見て回る。ハーブや野菜が植えられた屋上菜園や、花や木についての博物館的な展示がされたコーナーを巡っていくと、一階と同じような作品展を開催している展示室を見つけた。

 

「へぇー、陶芸ですか」

「ふむ……いい仕事してますねぇ」

 

 陶芸教室かなにかの作品展らしく、個性ある皿やら花瓶やらの陶芸品が並んでいた。せっかくなので往年の有名鑑定士のモノマネをしてみたが、一色には「突然なに偉そうなこと言い出してんだこいつ?」みたいな顔をされてしまった。どうやら火曜九時にテレ東を観たことがないらしい。俺らが生まれる前からやってる番組のはずなんだがな……。

 

「ん?」

 

 家庭内キー局の違いからくる文化差に軽いカルチャーショック受けて遠い目をしていると、ふと展示室の壁ガラスになっている一面の一部がドアになっていることに気づいた。どうやらここから外に出られるらしい。よく見れば屋上庭園という案内表示もある。

 

「こっちにも庭があるってよ」

「へぇー、ちょっと行ってみましょうよ」

 

 一色に促されて外に出ると、左側に松や竹の植えられたミニチェアみたいな日本庭園があり、そこからさらに奥へ進んでいくと日当たりのよい開けた空間に出た。そこには来た人を導くように設置されたウッドデッキの通路があり、どうやらその突き当たりは展望台になっているようだ。

 

「あ、先輩先輩! ここいい眺めですよ!」

 

 通路の突き当たりに立つと、そこから『花の美術館』の正面に広がる綺麗に花を植え並べた庭園が一望できた。この庭を背景にテンション高めに写真を撮り出した一色が、「ほら先輩も」と顔を近づけてツーショット写真を撮りにくる。温室でも撮ったがまたしても鼻孔をくすぐるいい匂いで、やはり慣れんなこの距離は……。

 

「ここ日当たり良くて気持ちいいですねー」

 

 一通り撮りたい写真が撮れて満足したか、一色はウッドデッキの通路をトントンと下りていくと建物側に置かれたベンチにストンと腰を下ろし、「ほら、先輩も」とその隣をパンパンと叩いて俺にも座るよう促してくる。

 

「ここって、あんまり人が来なそうですね」

 

 隣に座ると一色は辺りを見回しながらそう言った。

 

「そうだな。ちょっとよく見ないとあのドアは気づきにくい感じだったからな」

「じゃあ、ここいい感じの場所じゃないですか」

 

 「何が?」と問う前に、一色は俺の耳元に顔を近づけ、内緒話でもするように手を口に添えて小声で囁いた。

 

「……キスする場所です」

 

 ビクッとして身体を離す。一色が唇に指を当てて微笑む。その唇の色が異様に艶めかしく光って見え、俺はどぎまぎして目を逸らす。何回やられてもこれだけは慣れない。耳は弱いんだよなぁ……。

 

「まあ、まだ先輩たちには早いかもですけど――でも、そういうのも考えるのがデートですよ?」

 

 どうやらこれも授業の一環らしい。小悪魔教師のいろはす先生は俺の反応にふふんと勝ち誇ったように笑いながら、そう教示を述べる。

 確かに一色の言う通りではあるのだ。交際という関係で俺は雪ノ下との関係を繋いだ。つまりそれは男女としての関係を進めるということで――つまりそういうことなのだ。そういうことなのだから考える必要があるのだが……あるのだが……ダメだ。さっぱり想像つかん。キスどころか、おててつないでキャッキャウフフと街を歩く姿すら想像できん。手を繋いで歩こうなんてものなら確実に両者顔面沸騰のドローゲームになること請け合いである。

 しかし雪ノ下も普段の澄ました人間力のない態度からは想像しにくいが、意外と男女交際に普通の女の子らしい夢というか結構月並みなイメージを抱いているようで、最近はストッパーが外れたように不意打ちで男女交際的行動を見せてくるようになってきてるんだよなぁ……急に「好きよ」とか言ってきたり、テーブルの下からそっと手を握ってきたり……まあ、大概が後先考えてない体当たりな攻撃で本人も自爆しているのだが。俺? 即死ですよ。死因は恥ずか死で何回も殺されました。ギャップ力がね、半端ないんですよ。そこがいいというかそれがいいというか……まあ何度も殺されたんですけどね。男女交際がこんな死にゲーだとは思わんかったわ……。

 さて、ここまでぐねぐねと思考を進めて到達する結論は、雪ノ下も男女としての関係の進展を求めているだろうということだ。っべー……プレッシャー半端ねぇ……。キスとかするの? 雪ノ下と? もうそれ結婚の誓い的なものになってない? ウェディングドレス姿で上目遣いに俺を見る雪ノ下と、その後ろに狙った獲物を捕らえた猟師(ハンター)のような目をして微笑んでいるははのんとはるのんの姿が鮮明に思い描ける……。

 

「先輩、どうしたんですか? 急に顔が赤くなったり青くなったり……」

「――はっ」

 

 いかんいかん。想像できないものを想像していたらなにやら人生の墓場みたいなところにまで到達してしまった。何故にキスの想像から京成線の快速特急並みの速度で結婚にまで至り、そのまま成田空港からハネムーンしてしまうような勢いになってしまうのであろうか? 恐るべし雪ノ下雪乃……というか雪ノ下家。それにしてもやはり現実的な想像ができんな。うーむ……そもそもこのあたりをうまく想像できるなら、一色にデートの相談なんてしてないんだよなぁ……。

 

「ああ、気にするな。色々と思うところがあっただけだ」

「はぁ……」

 

 手をかざして大丈夫をアピールしても怪訝な表情のままの一色であったが、そこで何かを思いついたのか急に「ふふっ」と妙に艶めかしい微笑みを浮かべ、俺が取った距離をじりじりっと詰めてきた。な、なんだ……訳もなく冷や汗が流れてくるのを感じる。

 

「でも、そうですね……経験がないと色々考えちゃうものですよね」

 

 そうこぼす言葉の息にそこはかとなく混じるのは、獲物を誘うような甘い蜜の匂い。さらに身体を近づけてくる一色の手が、さりげなくベンチに置かれた俺の手に触れる。しっとりとした指の感触が熱とともに俺の手の甲に伝わってくる。

 

「……キスの練習もしちゃいますか?」

 

 その言葉に押されるように仰け反る俺。それを追いかけて正面から窺うように顔を近づけてくる一色。かぐわしい亜麻色の髪がはらりと視界に揺れ、そのやわらかそうな唇が答えを求めるように薄く切なげに開いて吐息を漏らす。

 

「…………」

 

 いやいやいやいやいやヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ! あまりのことに一瞬脳みそがフリーズしたが、この状況はヤバイ! 本気か冗談かわからんが、ともかくヤバイ! なんだこの小悪魔、俺をどうしたいんだこんちくしょう! 俺は脳みそをフル回転させて、この状況を打開するための方策を探し出し、そしてたどり着いた渾身の一手を撃ち放つ。

 

「――はっ、もしかして口説いてるんですか気持ちは嬉しいですけど俺には既にパートナーがいるんでそういうのは本命のために大事にしてあげてくださいごめんなさい!」

「なんですかそのムカつく断り方は……」

 

 ぺこりと下げた頭を上げると、氷点下にまで冷え切った一色のしらしらしらーっとした視線が突き刺さった。いや、キミがいつもやってる断り方なんですが……。

 

「いや、マジでそういうのは葉山のために取っといてやれよ……」

 

 一色の圧に押されながら、なんとかそう言葉を絞り出す。『男は最初の男になりたがり、女は最後の女になりたがる』とは誰が言ったかよく聞く名言だ。こういうのはやはり大事なことなのだ。軽率に練習なんかで使うものではないだろう。それにここから万が一にも一色が葉山とゴールすることがあったりしたら、この先二人と会うことがあったとき二人の顔をまともに見れなくなる気がする。なんというか、そういうのは嫌なのだ。

 

「先輩って本当に責任お化けですよね……」

 

 言われた一色はため息を吐きながら呆れ果てたような顔をして身体を離した。責任お化けってどういう意味だよ……。取れない責任は可能な限り取らずに済むよう努力を惜しまず生きているつもりなんですが……。

 一色は少しふてくされたように膝に両手で頬杖を突いて、しばらく無言で空を眺めていた。俺は居心地の悪さを感じながら、その様子を横目に窺う。うーん……怒っちゃったか? でもなぁ……今の断る以外の選択肢あったか? まあ断り方は怒られても仕方ないですけども。しかし困ったな……ここからどう機嫌を直してもらえればこの場を脱することができるのだろう――、

 

「そういえば先輩って、どんな告白したんですか?」

 

 そんな思考をつらつらとしていたところで、一色がぽつりといった感じでそんなことを聞いてきた。「告白? 誰の?」ととぼけてみたところでここには俺しかいない。つまりはあの日、稲毛陸橋で雪ノ下にした、あの思い出すだに恥ずかしく、情けなく、また不甲斐なくて仕方がなくなるアレのことを指しているのだろう。

 

「ええ……それ話す必要ある……?」

「的確な恋愛アドバイスには正確な情報が必要なんです」

 

 一色がこっちを向いてピッと人差し指を立てて言う。いや、デートの相談の一環のように話しているが、絶対さっきの腹いせ的なヤツだろ……。苦い顔で渋っていると、一色はスチャッとスマホを取り出して、その画面に映る写真を俺に見せてきた。

 

「教えて下さいよセ・ン・パ・イ~。教えてくれないとこのツーショット写真、雪乃先輩と結衣先輩に送っちゃいますよ~?」

「ちょそれ脅迫」

 

 冬に一色と千葉に行ったときもこいつの撮ったツーショット写真を雪ノ下と由比ヶ浜に見られ、めちゃくちゃ気まずい空気になったのは記憶に新しい。あの頃でも針のむしろだったのだから今なら針山地獄どころかアイアンメイデンまである。つまり死ぬ。

 

「それと先輩のコスプレリクエストも伝えておきましょうか~?」

「まてまてまてわかった話す話すから勘弁して」

 

 そしてやはり性癖は他人に知られると脅迫に利用されるのだ。残念ながら抵抗は無理のようである。俺は降伏の白旗を上げたが、無条件で話すにはかなり精神的負担が大きいので気休めの念押しをする。

 

「話すが……クソ恥ずかしいから笑うなよ?」

「先輩が恥ずかしいのはいつものことですから大丈夫です」

 

 どういう意味だよ……。真顔でそう答える一色に、俺はため息を吐きながらぽつぽつとあの日のやり取りを話し始めた。

 

「……という感じだ」

 

 聞くも恥ずかしい、語るも恥ずかしい、思い出すのも恥ずかしい、この世のすべての恥ずかしさを煮詰めて凝縮した羞恥の煮こごりのような話を終える。はてさてどんなリアクションをされるやら……と聞き手の反応を窺うと、そこには呆れるでも笑うでもなくぽけーっとした顔で放心している一色がいた。

 

「……全部やる……? 人生を私にください……?」

 

 そしてこぼすようにそう呟く。うぐぅ……そこは俺の人生の中でも暫定トップに立つ恥ずかしいやり取り。声に出して言わないで。羞恥と後悔に苛まれて死にたくなるから。

 

「なんだよ。文句でもあるのかよ」

「いや……ちょっと想像の斜め上というか、お二人の拗らせ具合を読み違えていたというか……これであそこまで掻き回してやっちゃうとか……えぇ……これはちょっとマジでどうしよう……」

 

 恥ずかし紛れにぶっきらぼうに言うと、返事とも独り言ともいえない呟きが返ってくる。そのまま顎に手を当てて何か考え込む一色。八幡メンタルに傷が付くから、そんなマジでどうしようか困ったときに出す声で「マジでどうしよう」なんてセリフ吐かないで……。

 

「うん……まあ、その、頑張って下さい」

 

 5分くらい長々と考えていた末に一色が述べた感想はそれだけだった。こ、こいつ……俺が嫌々ながら傷を抉って語った話の感想がこれだけとはどういうことだ。

 

「で、恋愛アドバイスは?」

 

 憮然とした顔で聞く。アドバイスが欲しかった訳ではないが、なんとも釈然としないので敢えて聞いてみる。すると一色は嫌そうな顔でこっちを向くと、救いようのないアホでも見るようなまなざしで投げやりに答えた。

 

「あー……もうそこまで行っちゃってるなら、もう行けるところまで行っちゃえばいいじゃないですか?」

「なんじゃそら」

「ほら、ここの公園にグランピングのテントできてたじゃないですか、白いヤツ。アレに二人で泊まるとか」

「は?」

 

 ――グランピングとは “魅力的な、華やかな”という意味の「Glamorous(グラマラス)」に「Camping(キャンピング)」を組み合わせた、直訳すれば“豪華キャンプ”という意味の、最近旅行業界などがこぞって押し出してきている新しいキャンプの一種であり、今までのキャンプとはひとつ上のキャンプ体験を――と、テレビや冷暖房にシャワーやトイレまで備えた既設のテントやコテージで、森や川などの自然に接した場所でキャンプの初心者でもキャンプっぽい体験を何不自由なく過ごすことができる、流行の最先端を行くキラキラインスタ映えオシャンティしゃらくせぇアクティビティである(王様のブランチ調べ)。

 ここ稲毛海浜公園にもこの春から園内の林の中にカフェと併設して何張りものグランピングのテントが建てられているのを今日のボランティア清掃中に見たが、どうやら現在千葉市が海浜公園の砂浜から海に張り出す形で建設中の巨大ウッドテラスと合わせて、新しい千葉市のオシャンティスポットとして育て上げる計画らしい。まさかこんなキャンプを舐めくさったしゃらくせぇものが我が学び舎のすぐ近くにまで出現しようとは千葉市はパリピに魂を売り渡したか――――などというのは心がスペースキャットした俺のただの現実逃避であって、そんなどうでもいいことよりも今は一色の発した大問題発言である。

 

「ととと、泊まるぅ?」

「二人で」

 

 俺の動揺をよそに当然のようにそう付け加えた一色は、興味なさげに自分の爪を見ながらバカバカしそうに話す。

 

「夏休みに受験勉強の息抜きに二人で……とかクソみたいな理由つけて夜の海でも見ながらしゃらくさく盛り上がったらいいんじゃないですかー? それでそのまま雪乃先輩のゴールにインして、合同プロムやったところで式でも挙げて『ここは二人が付き合いだして初めての共同作業をした思い出の式場で……』とかクソみたいなスピーチでもすればいいんじゃないですかー? そうしたら『クソだな』って思いながら拍手で祝福してあげますよー」

 

 ど、どこのゴールに何をインして式を挙げろだ? 投げやり過ぎて発言の雑さがおっさんの猥談レベルにヒドいんだが……。この子、クソって三回言いましたよ、クソって三回。やずやでさえ二回なのにっ!

 

「いやいやいや展開が早過ぎる」

「告白どころかプロポーズまで済ませてる人には、明るい家族計画ぐらいしかする話がないでーす」

 

 一色の暴論にタンマを掛けようとして強烈なストレートをボディに喰らう。ぐふぅ……明るい家族計画……なんて重いパンチだ……。

 

「いや、プロポーズとかそういうつもりで言った訳では……」

「はっ」

 

 俺の弁明を息ひとつ吐き捨てるだけで吹き飛ばす一色。ひぃ……いろはす怖いよぉ……。

 

「はぁー……先輩って色々考えてるようで、意外と全然考えてないですよね」

 

 一色はそんな俺の様子を横目に深々とため息を吐いて、しみじみとしたどことなく諦念の滲んだ声でそう言った。

 

「当たり前だろ。でなきゃこんな無様な生き方しちゃいない」

 

 思い返せばいつだって俺のやることは、どこかまちがっていてどうしようもなく無様だった。カッコよくできたことなんてひとつも覚えがない。俺だってもうちょっとスマートに生きたいし変わる努力は必要だと思いながら、どうにも変われる気がしない生き方だ。もうすでに手遅れな気がするし、だからこそある意味で覚悟のいる生き方だ。

 なのでこういう答え方しかできない。この開き直りにも聞こえる俺の言葉に、一色はまたまたため息を吐いて呆れてみせる――かと思いきや、意外なほど真剣な表情で俺の顔を覗き込むようにまじまじと見てきた。な、なんでしょうか……?

 

「なんで先輩って先輩なんですかね……」

 

 それは俺に言っているようでいて自分にも言っているような、答えなんてないと知っているのに心にわだかまる疑問の存在を確認するためだけに声に出した言葉のように聞こえた。

 

「なんだよそれ? 禅問答? 八幡考える故に八幡ありってそんな感じのヤツか?」

「そういうくだらないことはぽんぽん言えるのに、肝心なことは全然言ってくれないところとかってヤツです」

「……よく言われる」

 

 だから返す答えもなく、一色の真剣な表情にそぐわないと知りつつも敢えて軽妙な態度ではぐらかすように応じると、ぐさっと胸に刺さる言葉を返された。ああ……雪ノ下にも由比ヶ浜にも、さらには平塚先生にも似たようなこと言われたなぁ……。ここまで多くの人から同じアンサーをいただくと、我ながら短所が明確過ぎて、このめんどくさい性格も一周回って単純に思えてくる。

 心当たりの多さに俺が苦り顔で頭を掻くと、それに一色はふっと口許を緩めて何故かどことなく満足気な顔で笑った。

 

「だったら、それがわたしからの恋愛アドバイスです」

 

 そしてそう言うと、手を軽く握って俺の胸をトンと小突いた。

 

「お、おう……」

 

 それはとても軽い当たりで全然痛くないのにどうしてか俺の胸に強く響いて、もう少し頑張らないといけないなという気持ちにさせられた。依然として何をどう頑張ればいいのかは具体的によくわからず、手探りも手探りの暗中模索もいいところだが……。

 

「頑張って責任とってくださいね☆」

 

 そんな俺の心中を見透かしたのか、一色がにっこり笑顔でダメ押しのように言ってくる。ノーとは言わせない圧の強い笑顔だ。これに「前向きに善処します」とか返したら、このままノーモーションでグーパンを顎に決めてきそうな笑顔だ。俺はコクコクと何度もうなずいた。

 俺のこの恭順な態度に満足していただけたのか、笑顔の圧を下げた一色はそこで目を細めると、今度はいたずらっぽい軽やかな微笑みを見せた。

 

「で、どうします?」

「何が?」

「雪乃先輩と二人でグランピングしますかー?」

「勘弁してくれ……」

 

 突然何を言い出すかと思えば……。蒸し返された話題に俺が泣きを入れると、一色はやれやれと芝居がかったモーションで肩をすくめてため息を吐く。

 

「はぁ、しょうがないヘタレの先輩ですね。だったら、またわたしと練習しますか?」

「悪い冗談だ……」

「もちろんです♪」

 

 俺の苦り切った顔を見て、一色は上機嫌にそう笑う。すっかりいつものからかい上手のいろはちゃんだ。まったくため息しか出ない後輩である。このため息は呆れでもあり感嘆でもある。つまり敵わないということだ。

 

「ですから大切なことは、きちんと大切だってわかるように言ってください――」

 

 そして最後にそう付け加える。俺がうなずくと、一色は「約束ですよ?」と小指を立てて俺の顔の前に出してきた。

 俺と一色の小指が絡む。

 

「これで嘘ついたら針千本か……」

「その前にゲンコツ一万発ですね♪」

「容赦ねぇなぁ……」

「そのぐらいの責任が先輩にはあるんですよ――」

 

 そして小指が離れる――その瞬間、一色の瞳に切なげな光がよぎったのを見た気がした。

 

「だから前にも言いましたけど、もっとちゃんとしてくださいね?」

 

 しかしそれも一瞬のこと。そういつか俺を叱咤した言葉を口にしたときには、もうそんな光は幻ででもあったかのように微塵も見えず、キリッと真摯なまなざしで俺を見る一色いろはの顔があるだけだった。

 本当に一色いろはは俺には過ぎた後輩である。



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第9話 やはり、めんどくさくない女の子なんていない

 見て回る場所もなくなり、ミュージアムショップも俺に金がないのでぐるりと見るだけで済ませて『花の美術館』を出ると、時間は昼下がりと呼ぶには遅く、夕方と呼ぶにはまだ早い時間になっていた。

 春とはいえ日が暮れれば急速に冷え込む。凍える前に帰ろうと今日の一色とのデートの練習はこれにて終了となった。まあ、それ以前に俺の財布に金がなさ過ぎて、どこかに寄るもなにもないというのもあったが。

 俺は一色を駅まで送るため自転車を押して歩く。

 

「後ろに乗せてはくれないんですか?」

「学校の前も通るのに、生徒会長を二ケツする訳にはいかんだろ……」

 

 ぶーっと不満気に言うが、もうちょっと自分の立場とか考えてくれんかな一色さんや。駅前とか人多いし、いくら私服とはいえ知ってる人が見てないとも限らんし。それにあなた生徒会長で顔も広いんだから、写真撮られて噂になっちゃたら大変でしょ? 『スクープ! 生徒会長一色いろは、白昼堂々男のケツを乗り回す不純異性な道交法違反!』とか新聞部発行の校内新聞にフライデーだか文春砲だかされても知らないよ? うちの学校にそんな学園ラブコメに出てくるような新聞部があるかどうか知らんけど。知らんけどSNSに写真がアップされたらそこそこ派手に燃える気がする。リスクはヘッジするべし。

 

「ところで一色」

「はい?」

「今日は何点だ?」

 

 前回は一色の方から採点結果の告知があったが、今回はまだ聞いていなかった。一応デートの練習という名目なので結果は知っておきたいところである。とはいえスタート時点でポイントがマイナス割り込んでいたから、ロクな結果じゃないのは想像できる。俺はボロカスに言われる覚悟で敢えて自分から聞いてみたのだが――、

 

「何がですか?」

 

 一色はぽかんとした顔でそうほざいた。ちょっといろはすさーん?

 俺が「こいつ……」という顔をすると、一色はそこで「ああ」とわざとらしく「はいはいアレねー、今思い出しましたー」という感じに顔を上に向けて人差し指を振った。

 

「相変わらず言動がアレなのもありますけど、そもそも彼女がいるのに他の女子と二人きりで出歩いている時点で評価不能です。採点とかおこがましいです」

「最初から詰みゲーじゃん……」

 

 ボロカスを通り過ぎて焼却炉にぶち込まれる生ごみレベルの評価である。おこがましいって……デートの練習とか言い出したのそっちじゃないの……理不尽……。

 

「デートの相談を他の女子にしてる時点で罪深いですからね。大いに反省して下さい」

 

 眉根を寄せた厳しい顔で、そう俺に指を突き付ける一色。そうか初手から詰みであり罪であったか……とかうまいこと言っちゃったら口に座布団十枚くらい詰め込まれそうだな。黙っておこう。

 そこで一色はタッと一歩だけ俺の先に進んで振り返ると、からかうような笑みを浮かべながら指をピッと立てて言った。

 

「まあ、先輩の恥ずかしい話を色々と聞けたんで、おまけで10点ということにしておきます」

「デートの採点じゃないんだなぁ……」

 

 まあ、それでも前回と同じ点数か――と思ったところで、一色がもう片方の手の指も立てて、二本並べて俺に見せた。

 

「あと、先輩なりの努力は認められたので、さらにおまけでプラス1点して11点にしといてあげます」

「そりゃどうも……」

 

 前回よりプラス1点か。これが進歩と呼べるかは疑問に思えるところだが、一色先生がそう評価したのだからそう考えていいんだろう。

 

「おおいに参考にしてくださいね」

「ああ……頑張るわ」

 

 そう胸を張る一色に俺は苦笑しながらうなずき返す。それに一色も笑い返すと、今度は俺の後ろに回り込んでいきなり背中をポーンと叩いた。

 

「なんだよ突然」

「女の子に背中を叩かれて頑張れない男の子はいないでしょう?」

 

 きゃるんと星でも散らしてそうなウインクで言う一色。男の子ってキミ……しかし悔しいながらそれは事実であるらしく、叩かれた背中のあたりに身体を前に向かわせるような、そんな熱っぽい何かがあるのを感じるのだった。

 

「……サンキューな」

「いえいえです」

 

 そうこう話ながら歩いている内に駅前に近づいた。夕方前の稲毛海岸駅には駅前ロータリーの横にでかでかと建つマリンピアに夕飯の買い物客が集まっているのか、いつもより人が多いように感じられた。

 その駅前の人の流れに入る前に一色は立ち止り、そこで俺にぺこりと頭を下げた。

 

「とりあえず、デートの採点としてはアレでしたけど今日は楽しかったです。ありがとうございました」

 

 前もそうだったが一色は、こういう意外なところで真面目で礼儀正しいところを見せてくる。このギャップに虚を突かれ前回はへどもどとしてしまったが、二度目となれば俺とてもう少しマシな返しができるようになる。

 

「それはまあ……俺もだ。ありがとな……」

 

 言いながら照れてきてしまい、目線を逸らして頬をぽりぽり掻いてしまった。くぅ……正面から真面目に「俺も楽しかったよ。ありがとう」とか返すハードルって思いの外に高いのな! 羞恥に心が擦り切れちまうよ!

 しかしそんな俺の内心をよそに、一色は「へー……」と感心したような目でこっちを見ていた。

 

「先輩でもリップサービスとかできるんですね……」

 

 なんだよ……むしろお世辞は得意な方で、本心を言うのが苦手な方だよ――とか言う前に一色は可笑しそうにくすっと笑った。

 

「まあ、その調子で雪乃先輩も楽しませてあげてくださいね」

 

 そう言って俺を見る一色のまなざしには、九割の優しさと、一割の厳しさと、そしてそこから溢れた一抹の寂しさがあるように感じられた。

 

「……ああ」

 

 うなずく俺に、一色は何かを見届けるような顔で微笑みながらうなずき返した。

 この表情に一色は何を込めたのか。それがなんであれ、俺はその想いに全力で応えなければならないと思った。

 

「じゃあ、また学校で」

「ああ、気をつけて帰れよ」

 

 別れの挨拶を交わすと、一色は駅の入口の階段を上っていった。階段の上で一度こちらに振り返って小さく手を振る。それに軽く手を上げて応え、駅の中へと消えていく一色の背中を見送った。

 今日、一色は何を思ってデートの練習をしようなどと言い出したのか。

 

「めんどくさくない女の子なんていないか……」

 

 そういつだか聞いた一色の言葉を思い出す。きっとそれはとてもめんどくさい理由で、なによりも彼女自身がとてもめんどくさいと思っているような理由なんだろう。

 だけれどそのめんどくさい理由を他人に――ましてや俺なんかに触れられたら、彼女はたぶん怒り出す。それはきっとめんどくさいからこそ大切で、大事に心の奥底にある宝石箱へと仕舞われた、素敵な何かであるはずだから。

 そしてそれ故に理由を憶測することしか許されない俺には、ただ一色に背中を押されたという事実が残るだけである。

 

「……ふぅ――――……よし!」

 

 長く息を吐いた後、そう声を出して気合いを入れる。そして自転車に乗ろうとサドルを跨いだときだった。ポケットに入れたスマホがぶるっと震えた。

 

『例のプランができたのだけれど、コンペはいつやるの?』

 

 画面の通知には本文を開くまでもなく全文が読める、このメッセージの差出人らしい端的な文章が並んでいた。

 

「本気でコンペするつもりかよ……」

 

 呆れ半分に苦笑しながら、しかしこのめんどくささも彼女らしいと思えば微笑ましくも感じられる。しかし例のプランとか……照れなんだろうが、なんだこのすごい業務連絡的表現は。やはり、めんどくさくない女の子なんていないのだ。

 さて、こちらの例のプランは未だにノープランである。今日は色々と教えられたが、まだ何が正解か方向性も掴めていない。しかし発破は散々に掛けられた。もう前に進むしかない。

 

「やるしかないか――」

 

 俺は自転車のペダルを思いっきりに踏み込んだ。




これにて八色デート回終了です。
いろはすは書いてて楽しいね。八幡と一色のこの距離感が好きです。


このあと例のプランこと八雪デートのネタはありますが、いつ書くかは未定です。
気が向いたら書こうと思うので、しばらく連載(未完)で置いておきます。


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