影武者華琳様 (柚子餅)
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1.『拓実、大陸に立つのこと』

 

 ある日、ある時。大陸は陳留に、背に物を負っているとは思えない速度で走る女性の姿があった。

 その女性の容姿は気迫に富んだ鋭いものであるのだが、今は喜びで口元が絶えず緩んでいるために普段の張り詰めた様子もなく、端整なそれを可愛らしく見せている。

 道行く人々はそんな彼女の走る様を見て撥ねられまいと自発的に進路を譲っていく。そうして見事に人の波が割れていく光景が出来上がっていた。

 そんな彼女が駆けつけた先は自分と妹の部屋。彼女は誰よりも先に、この喜びを自身の片割れに伝えてやりたかった。

 

「秋蘭、しゅうらぁ~ん!」

「ん? そんなに急いで、いったいどうした姉者」

 

 どかん、と本来鳴ってはならない音を立てて、姉妹共有となっている私室の扉が開かれる。中で書類整理をしていた秋蘭は作業の手を止め、急ぎ駆け込んできた姉である春蘭に向かって顔を上げた。

 

「こんな時に落ち着いてなどいられるものか! ついに拾ったのだぞ秋蘭! お前も喜べ!」

「拾った?」

 

 傍目にはわからない程度に首を傾げた秋蘭は、すこしばかり考える。ついに拾った、とはいったい何を拾ったというのだろうか。常々のことだが、今回は目的語が存在していなかった。

 しかし秋蘭にとってはそれも慣れっこなのか、姉である春蘭は自身の喜びを全力で伝えようとしている故のことだろうと当たりをつける。

 

 この粗暴で、少々頭への血の巡りが悪い春蘭だが、日ごろからこうして要点が抜けた話で聞く者に混乱を与えて意図を理解してくれない相手に憤慨し、厄介事を巻き起こしている。そしてその後始末は大抵、妹である秋蘭に回っていた。生まれてこの方、両手両足の指の数では全く足りないぐらいに対処してきている。

 それを迷惑かと言われれば秋蘭は言葉を濁して苦笑するしかない。だが彼女は、その後始末を苦に思わない程にはそんな足りない姉が大好きなのであった。

 

「すまない姉者。今まで政務の残りを片付けていてな。少しばかり事の次第を説明してもらえないか?」

「む。ならば仕方がないな。といっても、これを見ればすぐにでもわかるだろう」

 

 やんわりと笑みを浮かべる秋蘭に対し、春蘭は本当に仕方がない風に言って、背負っている人物を珍しく丁寧に抱きかかえて寝台へ下ろした。

 どうやらその人物は気を失っているらしく、この春蘭の騒ぎに声を上げていた様子もない。姉に促された秋蘭は寝台へと歩み寄っていく。

 

「……華琳様!?」

 

 そして、寝台に寝かされた旗袍(チャイナドレス)を着ている者の姿を眺め見て、驚きに目を見開いたのだった。

 

 

 

 

 

(……明日は、ついに文化祭かぁ)

 

 見るからに気落ちした様子で、中学生とも見紛うような小柄な体躯の青年――南雲(なぐも)拓実(たくみ)は自室で服を自作していた。暗澹(あんたん)とした気持ちで行っている裁縫だが、その動きに淀みはない。仕事に出来るほどの洗練さはなかったが慣れた者が持つ手際の良さがあった。

 服を自作しているといっても、彼に服飾関係の進路を進む予定はないし、だからといって別に趣味でメイド服やらアニメのキャラクターの服を作っているわけでもない。その手元にあるのは中華風の民族衣装であった。それも何がどうなったのか、拓実は明日それを着る予定になっている。

 

 ――聖フランチェスカ学園。数ヶ月前だかに一人、二年の男子生徒が行方知らずになったそうだったが、なんら実害を被っていない拓実からすれば至って平和な学園だ。

 治安は悪くないし、その割に校則にうるさいこともない。少しばかり田舎かもしれないが、それだって通学するのに不便はない程度のものである。生徒間でいじめもなくクラスメイトも気のいい連中ばかりだし、何よりも進学以前に通っていた学園のように演劇でシンデレラ役をやらされるなんてことが今の今までなかった。

 もっとも、今回のことがきっかけとなって以前のようになりかねないからこそ、拓実は頭を悩ませているのだけれど。

 

 聖フランチェスカに一年生として通って半年になる拓実は、幼馴染に半ば無理やり勧められて民俗学研究会なんていうマイナーな同好会に入っている。三年女子の西新井会長に、一年男子長身ハンサム顔の東条、そして拓実の三人が構成している小さな同好会だ。

 部紹介オリエンテーションの際、壇上に上がった西新井会長に拓実の幼馴染である東条が一目惚れしたらしいのだが、彼はその異性にモテそうな容姿とは裏腹に話下手であった。そこで、どこに入部するか迷っていた幼馴染の拓実を会話の助けにするために入会に巻き込んだという経緯があった。

 それだけで済めば良かったのだが、そこからがまた難儀な話で、西新井会長は見た目こそ眼鏡に黒髪のみつあみという真面目な文学少女風だというのに、可愛らしい小さな女の子を好むという奇特な嗜好をお持ちであったらしい。もちろんというか彼女にとって『可愛い』の対極ともいえそうな『格好良い』東条は守備範囲外となり、男ではあるものの女子より背が低く女顔であった拓実は変則気味なストライクだったようだ。

 以来、西新井会長が拓実を可愛がり、拓実が辟易しながらもなすがままにされ、東条がそれを羨ましがるという、男と女を巡る変な会内関係が生まれてしまっている。

 

 先述のように小柄で女顔の拓実だったが、彼は聖フランチェスカ進学を機に、東条のような男らしい男になりたいと考えていた。

 男女別である制服ならばともかく、体育用ジャージなどユニセックスな物を着用している彼を初対面で正しく男と接してくるのは3割ほど。それも男子連中と一緒に居てのことなので、女子連中に混ざっていれば埋もれてしまってわかるまい。そんなこんなで自分の中性的過ぎる容姿が嫌いというわけでもないのだけれど、せめて真っ当に男として見て欲しいというのが近年の拓実の願いだった。

 そしてただ願うだけでなく自らそうあるべく、拓実は半年前――聖フランチェスカに入学した当時に髪を金色に染めて短く切り揃えていたことがある。男らしさ=ワイルド、と幼馴染の東条の姿から学んだ拓実は意を決し、髪を染め上げて進学デビューを果たしたのだ。

 そして強面であるべきと無理に眉を寄せて不機嫌そうに振舞い、乱暴な言葉遣いを心がけ自身は紛れもない男であるのだと周囲に主張したのだ。

 

 しかし一月も経てばわかったのだが、それらに効果はなかったようである。確かにベリーショートにしている女子は少ないので必然的に男子と見られるようにはなったが、それで拓実の顔が男らしくなるかといえばそんなことは一切ない。彼の級友たちは友人の顔が女性のようだからといって別にどうこうするわけでもなし、そもそも普通に暮らしていて男子生徒に女装させたりなんかはしないものだ。たまたま以前の学校ではシンデレラ役なんてやったがために女子に化粧されたり、女物の制服を着せられたり、ジャージ姿が可愛いなどとふざけて男に抱きつかれていただけなのだろう。

 そう理解した拓実は無駄な努力は止めた。短く切っていた金髪の髪を切る事なしに伸ばしっぱなしにして、そのまま半年経った今では結構な長髪になっている。乱暴だった言葉遣いも生来の丁寧なものに戻した。

 つまりは髪色が変わってしかめっ面が癖になっただけの、以前の彼に戻っていたのだった。いや、容姿だけならば妙に金髪がはまっていて、以前より可愛らしく見えるかもしれない。

 けれど拓実は今、それを特には気にしていなかった。男として見られないのが嫌なだけだったので、自分を普通の男友達として接してくれる現状で拓実は充分に満足していた。

 

 しかし、そうして安心し始めていた今になって、危機が再び目の前に現れている。

 手元にある野暮ったい中華風の服。今のご時世でよく見るスリットが深く入った派手なものではないが、歴とした女物のチャイナドレスである。

 

 弱小研究会といえど文化祭ともなれば何らかの発表はせねばならず、西新井会長の提案で民俗研究発表は世界の民族衣装を着て行うことになっていた。拓実の担当は中国大陸における民俗。「なら南雲さんはチャイナドレスね」と、西新井会長からの独裁が下った。反論は受け入れられなかった。

 女役をやらされるのが嫌で以前に入っていた演劇部をあきらめて民俗学研究会に入会したというのに、結局この有様である。

 西新井会長もそうだが、拓実は友情を捨てて会長の頼みに乗った東条こそが憎らしかった。アイツにしたってスウェーデンの、フェルトスカートにエプロンつきのドレスのような民族衣装を着ることになってしまうことはわかっていただろうに、何故賛同なんてしたのか。

 これが東条の愛だとでもいうつもりなのか。そんな愛、拓実にはわからないし、わかりたくもなかった。

 

 しかし、やると決まってしまったのならばやりきるほかあるまい。課せられた仕事から逃げ出すような真似をしない、それぐらいの矜持は拓実だって持っていた。

 そう、上からケープのような形状の上着を重ね着すればただのスカートだ。それに今回は、女言葉でしゃべったり愛をささやかなくてもよいのだから、以前のようなことにはならない筈だ。たぶんきっと、ならない。

 

 そんな風に無理に自分に逃げ道を作ってやり、再び作業に集中することにした。だが、そんな支えになっていた慰めに、拓実はあっさりと裏切られることになる。

 

 

 

 

 

 ――――気がつくと、拓実は荒野に独り倒れていた。それも何故か自分が製作したチャイナドレスとその上着を着て。いや、確かに拓実の最後の記憶は完成したチャイナドレスを寸法調整の為に実際に着てみた所で切れているのだけれど。

 他に手持ちの物はといえば身に着けていた腕時計と、逆の腕に髪留めの輪ゴム。足元には服装に合わせて西新井会長が用意したという赤く平たい靴。そして手には同じく、当日発表でつけるように言われていた金髪の巻き毛になっている二つのヘアーウィッグだけだ。

 財布もない。携帯すら持っちゃいない。部屋着に着ていたTシャツにジーンズもない。

 

「いや、そんなことよりもここはどこなんだろう……」

 

 目に入るのは、尖った山々に、どこまでも広がっていそうな荒野。遠くには集落のようなこじんまりした村が見える。自分以外に人影はない。たぶん、日本じゃない。こんな広大な荒野なんてない筈だし、何より全然空気が違う。

 

(誘拐? いやいやそんなバカな。うちにそんなお金はないし。それじゃ何だろう。……夢?)

 

 頬をつねったり、頭を抱えたりと混乱していた拓実だったが、十数分もした頃にはいくらか落ち着くことが出来ていた。

 誘拐犯らしき者の姿はなく、周囲の風景は時間が経っても変わらない。いったい何が起こったのかはわからないが、説明もなく見知らぬ地に放り出されたことだけは間違いなさそうだった。

 自分が現在進行形で緊急事態の真っ只中にいることは否応なしに理解させられた。そして、加えてこれから何が起こるとも限らないと考えるに至った。

 ならば何事かが起こった時に備えて、咄嗟に動けるようにしておきたい。具体的に言うならば両手を空けておきたいのだけれど、実際には塞がってしまっている。

 

「捨てたりしたら西新井会長、怒るんだろうなぁ……」

 

 拓実は手に持ったウィッグを眺めると、それはゆらゆらと揺れた。妙に憎たらしく見える。

 これを無くしたなどと言えばどんな罰が科せられることか。想像するだけで背中に冷たい汗が伝う。こんな異常な状況に放り込まれても、そんなことを考えてしまえるのはなんだかんだで余裕があるのだろうか。

 とにかく、チャイナドレスにも上着にもポケットを作らなかったのでウィッグをしまっておくことが出来ない。しばらく手に持つそれを眺めた拓実は一つ息を吐いた後、仕方なく髪をサイドで結んで小さくまとめあげる。握り締めていた二つのウィッグをその結び目にくくりつけた。

 

 これでどこから見ても、頭をツインテールにしている中学生ぐらいの女子にしか見えないだろう。その事実は悲しいことではあるが、自分で見てさえたまにそう思えてしまうのだから仕方ない。

 

 気を持ち直して、拓実は歩き出すことにする。とりあえず目指すはあの集落だ。人に会ってみないことにはここがどこなのか、自分がどんな状況に置かれているのかわかりそうもない。

 歩き出した拓実の動きに合わせて、頭の両側で金髪巻き毛のウィッグが上下に揺れた。

 

 

 

 

 さて、一時間も歩いただろうか。ようやく拓実は彼方に見えていた集落に辿りついた。

 着いてまず思ったのが、みんながみんな着物のように前で合わせ、帯で止める服を着ていたこと。材質は恐らく麻か、もしくは木綿。ともかく誰もシャツやパンツなどの洋服を着ていない。

 きょろきょろと見回しながら村中を歩いて回る。建っている民家はあばら家のような貧相な様相だ。服装や風景から見ればまるで時代を遡ったようにも思えるが、妙なところで近代的な造形の物がちらほらしていてよくわからない。

 なにやら年配の方やら子供ばかりで年頃の若者が少なかったのが気にはなったが、この村の感じだと農作業にでも出ているのかもしれない。その中で比較的に声が掛け易そうな、道端に座るおじいさんに話を訊く事が出来た。

 

 ここがどこかと問いかけてみれば、『ちんりゅう』という大きな街から数里程離れた村だという答えがおじいさんから返ってくる。

 日本、ジャパン、東京等々の言葉に聞き覚えがないかと聞いてみれば、不思議そうな顔で初めて聞く言葉だと言われてしまった。

 

 『ちんりゅう』なる言葉を聞いた拓実の脳内には、二つの漢字が浮かんでいた。もしかしたら、その『ちんりゅう』というのは『陳留』と書くのではないだろうか。

 常識的に考えればそんなことはあり得ない筈なのだが、周囲の中華風な文化を見ているとどうにも嫌な予感が拭えない。

 

 拓実は一先ずそれを置いて次の質問に移ろうと思ったのだが、口を開いたところで止まってしまった。

 今の状況で何を訊いたらいいのだろうか。考えたくはないが、万が一を考えるとあまり突飛なことを口走って目立つようなことはしたくない。当たり障りなく、それでいて情報が訊き出せそうな質問は……。

 

「……そうだ。訊いておきたかったんですが、最近何かありましたか? ずっと旅をしていると、どうにも世情に疎くなっちゃいまして」

 

 これならどうだろう。不自然に思われない程度に当たり障りなく、自分が置かれているこの辺りの情報を聞き出せそうな中々良い切り出し方ではないだろうか。

 そんな風に自画自賛している拓実に返ってきた言葉は、先の予感を確信に近づけるものだった。

 

「ああ、そうさねぇ。わしも、この村にいるばかりで外のことに詳しいわけでもないけどなぁ。……おお、そうだ。陳留の刺史、曹孟徳様がこの辺りの賊を軒並み討ってくださってな。その功績が認められて、どうやらこの度に州牧の任を引き継いでくださったようじゃ。曹孟徳様のような方が統治するとなれば周辺の我々からすればとても良いことでの。賊の被害も減って、うちの村の若者も喜んで募兵に向かっておったよ」

「曹、孟徳……? 曹操、様が?」

「うむ、ご存知か。しかし、曹孟徳様の名声も旅人にまで聞こえるものになったのかの」

 

 かっかっか、と快活に笑うおじいさんに碌な反応も返せずに、拓実は考え事に耽っていた。

 

 曹孟徳。曹操、という方が通りがいいだろうか。歴史に詳しくない者だって名前ぐらいは聞いたことがあるだろう。三国志に出てくる魏の、乱世の奸雄とまで呼ばれた男だ。

 そう、先に出てきた『陳留』にしたって、以前読んだ三国志で見かけた街の名であった。陳留自体は今も中国にあるかもしれないが、その上で曹操がいるということは、つまりだ。ここは三国時代の中国、ということなのだろうか。

 

「そんなバカな話……」

 

 だって、それじゃあまるで漫画の話じゃないか。タイムスリップした、ということからしてありえないことではあるけれども、もし万が一、自身が三国時代にいると仮定したとしてもおかしなことが多すぎる。

 まず、自分が話している言葉。これは日本語の筈だ。いくら中国大陸の民俗学を調べていた拓実といえど、中国語を話すことなんて出来はしない。ならばおじいさんに言葉が通じる筈もないのだが、どういうわけかおじいさんの話す言語は日本語にしか聞こえてこない。意思の疎通だって苦も無く取れてしまっている。

 そして、何故このおじいさんはこの金髪の髪を見て奇異の視線を向けないのだろうか、といったこと。この時代、他民族を排斥する意識が強かったと思う。金の髪なんてもっていればどうなるかわかったものじゃない。

 さらに加えるなら、これは作るときに調べたから知っていることではあるが、拓実が着ているこのチャイナドレスにしたって漢民族に古来から伝わる衣装ではないのだ。清の時代になって、伝統衣装と渡来した衣服を組み合わせて作られた比較的近代の物である。いくら同じ流れを汲む服装とはいえ、存在し得ない服装を着ているというのに、おじいさんが拓実を見る視線には何ら不穏なものは含まれていない。

 金髪が元で迫害されたらそもそも話すらも訊く事が出来なかっただろうから、拓実としては疑問に思わないでいてくれているのは助かっている部分もあるのだけれども、どうにもわからないことが多すぎる。

 

 しかしおじいさんの言葉を信じるならばそういった疑問を全て含めて尚、ここは三国時代ということになる。あんまりに突飛過ぎて笑い飛ばしてやりたいけれど、拓実には目の前の好々爺が自分を騙しているようにはまったく見えなかった。

 

「お、翁よ。曹孟徳さまの命で警邏にきたぞ。村に変わりはないか?」

 

 拓実が考え込んで会話が途切れたが、そこで目の前のおじいさんに掛けられる声があった。その声はどうやら、馬にまたがっておじいさんを見下ろしている長身の女性のもののようである。

 女性を視界に入れてまず目を引くのは長い艶のある黒髪。前髪からオールバックにして後ろに流していて、一房だけが逆らってちょこんと跳ねている。どんな形成をしたのか、チャイナドレスの上から体のラインに沿うような金属の鎧を身につけている。そのことから、兵士に類する者ではないかと拓実は推察した。

 彼女の駆っている馬には人が持つにはあまりに大きい剣がくくりつけられているのだが、その持ち主と相俟って見た目にはあまりにもアンバランスだ。女性にしては大きい体躯だとは思うが、見た目十キロ近くはありそうなこの金属の塊を振るえるようにはどうしたって見えない。

 そもそも、三国時代にこんな精巧な剣や鎧を作る製鉄技術があったのだろうか。三国時代はおおよそ1700年前、西暦でいえば300年頃の、古代といって差し支えない時代である。

 

「おお、夏侯元譲様! 賊を討伐してくださっているお陰で、我々も安心して働くことが出来ております」

「何、曹孟徳さまが賊の横行を許される筈がないだろう。当然のことだ。これからも何かあったら私たちを頼れ。いいな?」

「はい! その際はよろしくお願いします」

 

 彼女の言葉に嬉しそうにおじいさんは声を返しているが、拓実はそれどころではなかった。

 あんまりにありえない名前がおじいさんの口から放たれたものだから、拓実はつい馬頭を返そうとする夏侯元譲と呼ばれた女性を呆然と見上げてしまう。

 

(この人が夏侯元譲……夏候惇だって? どう見たって女性じゃないか)

 

 先の曹操と同じく、魏の武将である夏候惇。拓実の知る夏候惇というのは、男性である。むしろ夏候惇が女性であったなどという話を聞いたことがない。

 そんな呆然とした拓実の視線に気がついたのか、女性も顔を向けた。自然と見上げている拓実を、女性は馬上から見下ろす形になる。

 だが、一拍の後、何故か女性は口をかくんと開けて拓実のことを凝視していた。あんまりにもその感情が読み取りやすい、『びっくりした』という見本のような表情だ。

 

「は、はぇっ!? 申し訳ありません! 馬上から、し、失礼致しましたぁっ!!」

「へ? えっ!?」

 

 素早く乗っていた馬から下りると、夏候惇と呼ばれていた女性は額を地面にこすりつけんばかりに頭を下げる。しかも、その頭の先を拓実に向けてである。

 何事かと、となりにいるおじいさんもその突然の夏候惇の奇行に驚きを隠せないでいる。

 

「あの、華琳さま。しかし、何故こちらに、そのような格好でいらしているのですか? 本日は政務があるのでお部屋におられると聞いておりましたが……」

「え、ちょ? 夏候惇、さん? 落ち着いてください」

 

 拓実がそう言葉を発するなり、土下座の体勢から顔を上げている夏候惇の表情は凍ったように固まってしまった。かと思えば今度は、さあ、と顔が青く染まっていく。人の顔から血の気が引いていく様を、拓実は生まれて初めて目撃した。

 

「そんな! どうしていつものように私を『春蘭』と呼んでくださらないのですか? わ、私が至らぬからでございましょうか? 何としても私は華琳さまのお役に立ちますので、どうか変わらず私を『春蘭』とお呼びください!」

 

 涙をはたはたと落としながら、夏候惇はまた平伏した。地面に額をこすりつけている。今度は比喩ではなく。

 一方頭を下げられている拓実はというと勿論恐縮してしまい、頭を上げてもらおうと必死に声を掛けるのだが、この女性は仕置きの沙汰を待つかのように微動だにしない。その様子から最早どうするもなく、言うことを聞いてやらないと話が進展しないことを悟った。

 

「ええと、これからはその名前で呼べばいいの?」

「はいっ! お願いします!」

「しゅ、春蘭?」

「あ……ありがとうございますぅっ!」

 

 ようやく下げていた頭を持ち上げた春蘭の顔は見る間に血の気が戻り、あっという間に紅潮していく。こんなにも血がいったりきたりして体に悪いのではないだろうか、と拓実はそんなことを考えていた。

 その後もしきりに華琳という女性を乏しい語彙で必死に称える春蘭であるが、応対している拓実はというと、一つ春蘭の根本的な勘違いを正さなければならなかった。

 

「春蘭、ちょっといい?」

「はいっ! 何か御用でしょうか華琳さま!」

 

 尻尾があったのなら間違いなく振っていると確信できる喜び様で、春蘭はすぐさま拓実に返事を返す。そんな信じきられた目を真正面から受けて、思わず拓実は後ずさっていた。それに気づいて、気を取り直す。

 

「あの、それなんだけどね。ちょっと言いにくいのだけれど」

「なんなりと」

「それじゃ……その華琳って誰のこと? 俺、南雲拓実っていうんだけど」

「華琳さまと言えばここ陳留にて州牧となられ、早くも名声を……って、え? なぐもたくみ、ですか? あの……?」

「たぶんよく似た人と間違えているんじゃないかなぁ。だって、その華琳って女の人でしょ? 俺は違うし」

「華琳さまが女性であるなんて、当たり前ではないですか! 違うとは……いったいどうされたのですか?」

 

 拓実のその言葉に対し、きょとんとした表情で拓実を見上げる夏候惇。

 どうやらこの説明じゃ理解してくれなかったようである。充分にわかりやすいよう話したつもりだったのだけれど、もう少し噛み砕かないと駄目なのだろうか。

 

「いや、だからね。俺は別人なの。春蘭が知っている人とはまったくの他人。そりゃ確かにこんな格好していたら間違えるのも仕方がないけど、こんな見た目でも生物学的には男だから。あ、別に趣味ってわけじゃないからね。これはちょっと人に頼まれたからで、話すと長くなってしまうのだけど」

 

 聞かれてもいないことまでも必死で弁解する拓実であったが、どうやら目の前の春蘭の様子もまたおかしい。眉を寄せ、うなり声を上げている。額には汗が滲んでいた。

 どうやら春蘭には、前半の「春蘭が知っている人とはまったくの他人」あたりまでしか聞こえていない。というよりは必死に頭の中で情報を整理しようとした結果、新しく入る情報や難解な言い回しは処理し切れずにシャットアウトしているようだった。

 

「ええと……つまりどういうことでしょうか」

「春蘭の言っている華琳様は、今部屋で政務とかやっているんじゃないかな。ここにいる俺は、無関係の別人」

「むぅ? つまり、華琳さまは今陳留でお仕事をなさっていて、目の前にいる華琳さまは華琳さまでもないどころかまったく関わりのない別の人間ということか」

「同じ事を繰り返しているだけのようだけど、とりあえず理解してくれて助かったよ。それで春蘭、ちょっと聞きたいことがいくつか……」

「――きっ、貴様! 華琳さまでないのなら、私の真名を軽々しく呼ぶんじゃない!」

 

 この世界のこと、夏候惇が女性であるならば他の武将がどうであるのか訊ねようとした拓実の声は、怒号に掻き消された。いきなりの豹変とその気迫に、拓実は面食らって体が硬直してしまう。

 

「え、真名って?」

 

 拓実はそのままの体勢で少し逡巡するが、直ぐに『真名』なるものに思い至った。

 

「あ、『春蘭』って名前のこと? だって春蘭が呼べって言うから」

「黙れっ! 言っているそばから、連呼するな!!」

 

 そして一閃。春蘭の拳はうなり、拓実の体は軽々と吹き飛んでいた。その圧倒的な暴力によって拓実は意識を簡単に断ち切られ、道端に無防備に転がった。

 

 

 

 

 

 場には沈黙が下りていた。拳を突き出したままの体勢で春蘭は動かない。吹き飛び、地面を転がっていくものを無意識に目で追っていく。

 

「――――はっ!? し、しまった! 華琳さまの偽者とはいえ、なんら罪もない者を殴ってしまった。それに、似ているだけとはいえ華琳さま第一の臣下たる私が、華琳さまのお姿に手を上げることになろうとは……。いやいや、違う。悪いのはこの娘だ。華琳さまと見間違えるぐらい似ているのが悪い。そうに決まっている」

 

 スイッチが切り替わるように春蘭は自分がしたことを認識したようだったが、頭を振るとすぐさま前言を撤回する。

 

「あ、いや、夏候元譲様。どうやらその者は娘ではなく……」

「ん、そうか! いーや、私はついてるぞ! 常々思っていたのだった! 華琳さまにそっくりな娘がいたなら、我が家で秋蘭と共にこっそり……」

 

 それを唯一見ていた翁は春蘭の独り言を訂正しようと声を上げるのだが、彼女は自己弁護に夢中で聞こえた様子はない。

 春蘭が己の話をまったく聞いていないことを悟った翁は、無駄になるだろう労力を惜しむことにした。「まずは口調を真似させることから始めるか……」などとだらしない笑みを浮かべるいい年頃の娘子を、痛ましそうな視線で以って眺めることにする。

 しばらく経ってようやく我に返った春蘭は、緩んだ顔を引き締めて翁に向かって声を上げた。

 

「っと、翁よ! この娘は何者か! 不都合でなければ私の客分として陳留に招きたいのだが、どうか!」

「はぁ。どうやら旅の者のようで、生憎つい先程に迷ってこちらまで辿り着いたようでしたので仔細はわかりかねますが……」

 

 その翁の言葉を聞いて、春蘭は朗らかに笑みを浮かべる。翁の返答は幾分の呆れが含まれたものではあったが、それに気づく春蘭ではなかった。もはや翁に、春蘭の勘違いを訂正する気力はない。

 

「旅人か。ようし、ならば問題はないな。この娘はこちらで面倒を見させてもらおう。悪いようにはしないから安心しろ。あ、あとこの者については内緒にな。頼むぞ」

「夏候元譲様がそう仰るのならば私には是非もありませんが……しかし、どうなさるおつもりで?」

「何。住居がない為に途方に暮れて旅をしているようならば、女中としてうちに雇い世話してやる。目的があって旅をしているのであれば、手を尽くして助力してやろう。そして見返りとして、うちの世話係をやらせてやる」

「女中、でございますか」

 

 これまでの話の一端を聞いていた翁は、ようやく理解が追いついた。どうやらこの旅人は、噂に名高い曹操に酷似した容姿を持っているようである。

 翁は遠目にしか曹操を拝見したことはなかったが、今思えば小柄過ぎる体躯といい、金糸のように輝く髪といい、頭の横の特徴的な巻き毛といい共通するところが多いように思う。曹操を熱烈に信奉する春蘭がこうまで執着することを考えれば、容姿も、その声の調子だって似ているのだろうと推察できた。

 そしてそんな自分の主と瓜二つといってもいい人物を見かけた春蘭は今、全力で自身の下に引き込もうとしている。もっとも引き取ってからこの旅人を春蘭がどうするかなんて、翁には想像も出来ないのだが。

 

「そうと決まれば一刻も早く秋蘭にこの娘を見せてやらねば! では翁よ、次は私ではなく数人の兵士が見回りに来ると思うが、息災でな!」

 

 言うが早いか倒れて気絶している旅人をひょいと抱え上げ、抱きしめるようにして共に馬に跨った。馬の腹を蹴り、慣れた手つきで走らせ始めると、時が惜しいとばかりに先を急かしていく。

 翁が気を取り直した時には、もう春蘭らの姿は豆粒ほどになっていた。どんどん小さくなっていくそれを眺めることぐらいしか、翁に出来ることは無かった。

 



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2.『夏侯惇、拓実を誘拐するのこと』

 

 

「……というわけでな。警邏に出ていた先で見つけて、拾ってきたのだ。名前は聞いた覚えがない気もしないのだが、思い出せん」

「ふむ。姉者には色々と言いたい事はあるが、この娘、確かに華琳様に似ているな。毎日華琳様にお会いしている私がこうして間近で見ていても、違うところを見つけるのが難しいほどだ」

 

 今度の春蘭は要点しか話せていなかったが、秋蘭は頭の中でおおまかには補完していた。

 つまり華琳を敬愛しているこの姉は、それこそ四六時中でも華琳と共にいたいと思っていたが、現実問題それが出来ないことを理解していた。ならばとその代替案として『等身大着せ替え華琳様人形』なるとても精巧な人形も作っていたが、やはり動かないと不満は残ってしまう。そして次なる案として、どうやら華琳によく似た者を自宅に住まわせれば問題ないのではないかと常日頃から考えていたようである。

 敬愛している春蘭が見間違えるほどの容姿を持つ娘などこの世界に二人といるものではないから『等身大着せ替え華琳様人形』を作ることになったのだが、何の間違いか春蘭はそれを見つけてきてしまった。加えてその相手は目的はわからないが旅をしている根無し草であり、春蘭自身が気絶させてしまったということもあって連れて帰るに足る理由もあったわけである。

 

「それで、どうするつもりなのだ姉者」

「どうするって、うちに住まわせるに決まっているじゃないか。まずはだな、言葉遣いを華琳さまのようになるよう教え込むだろう? そして華琳さまが着ているような服を着せてだな……」

「そういう意味ではないのだが……この娘が起きないことには話が進まないか」

 

 春蘭は喜びのあまりその後についての考えを巡らせているが、そう簡単な話ではない。秋蘭とて、姉ほどとはいえないかもしれないが深く華琳を信奉しているし、敬愛している。これだけ似ているとなれば春蘭の気持ちもわからないまでもなかった。

 だが、秋蘭は同時に良識だって持ち合わせている。うちに住まわせるといってもそれは本人の了解あっての話であり、何よりまず行うのは謝罪であるべきだ。勘違いしたとはいえ自ら真名を預けた相手を殴るなど、気持ちはわかるもののかなりの無礼になる。少なくとも、この娘が殴られるだけの責がないことは確かだった。まして相手はただ旅をしていただけであり、たまたま見掛けて勘違いしたのは春蘭側である。

 それに春蘭が考えている言葉遣いを強要する計画にしたって、相手が納得しなければこの者の尊厳を踏み躙る行為だ。

 

「すまないが、姉者。まず私にこの娘と話をさせてほしい」

「む。ずるいぞ秋蘭。そう言って私の楽しみを奪う気なのだろう!」

「あながち間違いでもないな。いいか姉者よ。いくら華琳様と酷似しているからといって、名を預けた相手を殴ったり、連れてきて働かせる理由にはならんのだぞ」

「い、いや確かに殴ったのは悪かったと思ってるが、しかしだな」

「残念ながら今回のことについては姉者が全面的に悪い。私にも弁護できないほどにな。それにもし姉者が強引に事を進めれば、華琳様の名を汚すことにもなりかねない」

 

 そう秋蘭が言うなり、春蘭はあからさまに慌て始めた。焦った顔つきで秋蘭に向かって身を乗り出す。

 

「私が、華琳さまの名を汚すだとっ!? それはよくないぞ。ど、どうすればいい?」

「まずは目を覚ましたらすぐにでも殴ってしまったことを謝罪するべきだ。その上で話を聞いて、もし仕事や家がないということであればうちで働かないかと申し出ればいい。この娘がどこで働くかは私たちが勝手に決めることではないのだからな。口調や服装に関しての話はそれから、難色を示さないようなら切り出せばいいだろう?」

「むう……」

 

 どうやら春蘭も内心では悪いとは思っていたらしく、珍しく反論もせずにしゅんと顔を俯かせる。

 その様子を見て、秋蘭はいの一番に春蘭が自身の下に駆けて来てくれたことだけは良かったと思えた。まだ取り返しがつく段階だ。もしそのまま華琳のところへ連れて行こうものなら、間違いなく華琳は激怒したことだろう。最悪、見限られていたかもしれない。今回春蘭が計画していたことは人攫いとそう大差ないのだから。

 

「う……あれ? ここは?」

 

 そんな折、倒れていた旅人が目を覚ましたようだった。秋蘭の耳に入ってきた声色は確かに華琳のものに良く似ているようには思えたが、いくらか低い。しかしあくまで『いくらか』であって、知らずに聞けば喉の調子が悪いのだろう、ぐらいの違和感しか覚えまい。加えて、本人が調整すれば華琳と変わらない高さまで上げられるのは想像に難くなかった。

 そう思えば今秋蘭の目の前で起き上がった人物は、華琳と似ているという点においては唯一無二の存在なのかもしれない。

 

「え、あの、貴女はいったい? それに、そっちにいるのはさっきの夏候惇さん?」

 

 いきなり違う場所に連れてこられても旅人は目に見えて取り乱すわけでもなく、きょろきょろと周囲を見回して現状把握に努めていた。流石に自身を凝視している秋蘭は気になるらしく、おずおずと質問を投げかけてくる。

 

「あ、ああ。すまない。名乗らせてもらおう。私はこの夏候惇の妹で、夏候淵。字を妙才という」

「夏候淵さん、ですか。……もしかしてとは思ったけど、本当に?」

 

 夏候淵の名を聞いて、小さく何事かを呟いている。繕っているものの動じた気配は隠し切れない。だが、その華琳に酷似している声や容姿と、真逆といってもよさそうな性格や立ち振る舞いに面食らっていた秋蘭は旅人の動揺を気に留めることは出来なかった。

 己が半ば自失していたことに気がついて、秋蘭は気を取り直すように一つ咳払いする。

 

「まずは、我が姉の無礼を詫びさせてくれ。真名を預け名を呼ばせておきながら、非のない其の方を殴って気絶させてしまった。この通り本人も反省している故、どうか許してやって欲しい」

「その、すまなかった!」

 

 詫びの言葉を述べる秋蘭の隣で、春蘭がいさぎよく頭を下げた。それに応対して恐縮していたのは旅人の方だった。

 

「あ、いえ。自分もこの大陸の生まれではないので、真名の重要さを取り違えていたようですからお互い様ということにしてください。まずは勘違いを解消させるべきでした。それが成功するかどうかは別にして」

「そう言って貰えれば助かる」

 

 秋蘭は言葉を返しながらも、目の前の人物の情報を脳内で書き足していく。どうやらかなり人が良いようである。それもこのご時世では珍しいほどには。つい外見から華琳のようにもっと辛辣な言葉が吐かれるものと身構えていた秋蘭は密かに肩透かしを食らっていた。

 

「自分は南雲拓実って言います。好きなように呼んでください」

「ナグモタクミ、か? 人の名にしてはどうにも長いな」

「ええと、南雲が姓で、名前が拓実です。それと夏候惇さんには申し訳ないんですけど、持っている名はこの二つだけで、真名を持ち合わせていないんです。聞かせてもらった代わりにこちらからも返せれば良かったんですけど」

「ああいや、気にするな。二つしかない名を二つ預けてくれたということは、私たちに全てを預けてくれたということだろう。拓実、と呼ばせてもらおう。私のことはこれから秋蘭と呼んでくれ。姉者も構わんよな」

「ああ、もちろんだ。もう殴ったりはしないから、春蘭と呼んでくれ」

「ありがとうございます」

 

 そこでようやく、秋蘭と拓実、お互いに一息つくことが出来た。

 秋蘭は拓実の人の良さに助けられたと思っている。勘違いで真名を預けるなんて前例を聞いたことがなかったが、姉の行為は拓実を侮辱していると思われても仕方のない行為である。市井にそんな話が流れれば、結果的に主君である華琳の評判に関わってくる。それは臣下としてなんとしても避けねばならなかった。

 一方拓実側も話の展開から真名の重要さを察し、仕方なかったとはいえ自身の言動をいくらか反省していた。自分が無礼を働いていたから殴られたのだと理解していたし、身体はまだ痛むもののこうして介抱もしてもらった。そのこともあって、殴られたことを納得し切ることは出来ないがしこりが残るほど気にはしていなかった。

 そういった意味では両者とも落ち着くところに落ち着いたようである。

 

「ところで拓実よ。その……旅をしていると聞いたのだが、これからどこかへ行く当てがあるのか?」

 

 どうやら思った以上に華琳の名を汚すという言葉に怯えているらしい春蘭は、話が一応のまとまりを見せたことで声を上げたのだが、それはおずおずとした力のないものだった。竹を割ったような性格の春蘭であるから、普段ではあまり見られない態度である。

 

「えっと、その……。これといっては、考えてません」

 

 少し考える素振りを見せた拓実だったが、結局首を横に振る。それを聞いた春蘭が思わずといった様子で身を乗り出した。

 

「そ、それじゃ旅をするのに充分な路銀はあるのか!?」

「……いえ、何も」

 

 言いながらも項垂れる拓実。どうやら、本当に何も持っていない様子だ。

 旅をしているというのに路銀がなくてどう暮らしていたのかと秋蘭は疑問を覚えたが、問題はそこではないのでとりあえず黙っておく事にする。金がないから村を出る人間だって少なくない。金がないから、親に捨てられる子だっている。子が拓実ほどの容姿を持っているならば、捨てる以外に金になる方法を選ぶだろうが。

 

「では拓実よ、うちで働かないか!? 衣食住はこちらで用意しよう。給金だって出す。いくらかならば融通だってきかせよう!」

 

 質問するたびに威勢が上がっていた春蘭だが、それはここにきて最大のものになった。提示する条件だって武将である春蘭が用意出来る、最高の待遇である。

 

「願ってもないことですけど、いいんですか?」

 

 春蘭が申し出たのは、どこの者とも知れない拓実が相手では破格といっていいものであった。仕事だって出来るかどうかもわからないような相手に持ちかける条件ではないのは確かである。

 拓実もあまりの好待遇に驚きを――というよりは秋蘭にはこの話の裏を疑っているように見えた。秋蘭は口の端を軽く持ち上げる。別に隠すことでもなし、こちらの思惑を話してしまうことにする。

 

「構わんよ。知っているかもしれないが、拓実の容姿は我らが主とあまりに似すぎているからな。他所にいけば、やはり面倒が起こることになるだろう。そうなった時、拓実だけではなく我らにとってもややこしいことになりかねない。それならば我らの下にいてくれた方が助かるというものだ」

 

 それを聞いた拓実は、なるほど、といった風に頷いてみせる。そういった事情があるのならと好条件が出てきた理由を信じてくれたようだ。

 

「それで仕事内容だが、主に家事の類だな。ここの掃除、料理、そして洗濯と言った所か。警邏だ政務だとで中々そういったことをする者がいないのだ。仕事に慣れ、手が空くようになったら書類の整理も手伝ってもらいたいが……拓実はこの大陸出身ではないと言っていたが、文字は読めるのか?」

「いえ、文字の形から何となく意味がわかることもありますが」

「そうか。覚える気は?」

「あります。けれど、読めるようになるまでいつまでかかるのかわかりません」

「いや、それは構わない。もし請けてくれるというならば、後で適当な書物を持ってこよう」

「そんな。こんな好条件で迎えてくれるというのに、断ることなんて出来ませんよ」

 

 もし断るつもりであるならばそれでいいと思っていた筈の秋蘭だったが、ふと気がついた。知らず、拓実を引き止めるためにいくつかの手段を頭の中に構築していたことに。

 どうやら、思ったよりも秋蘭は目の前の人物に興味を覚えていたらしい。

 

 

 

 

 

 また見知らぬところで目が覚めたことに内心動揺していた拓実は静かに安堵の息をついた。

 密かに目が覚めたら自分の部屋だったら、なんてことも思わないでもなかったが、そうならない以上はこの状況に順応していかなければならないだろう。

 

 ともかく、いきなり持ちかけられた仕事の件だったが無事に雇ってもらえそうだ。それどころか、寝床に衣服、食事と最低限の物を揃えてくれる上、文字を覚えられそうな書物も持ってきてくれるというし至れり尽くせりである。

 拓実としても、この条件を逃す気はなかった。もし拓実が考えたとおりにこの時代が三国時代なのであれば、拓実は家もなければ金もなく、人脈もなければ文字すらも読めない、自活すらままならない状態にある。

 この場所のこと、自分が何故荒野にいたのか、帰るにはどうすればいいのか。疑問はいくつもあるが、それらを調べるにはどうしたって時間が必要だ。そして人間、生きていく上で何も消費をしないということはない。食料にしても衣服にしても、ある程度安定した収入がなければ先に力尽きてしまう。断ってここを出ていっても、遠くない未来に野垂れ死ぬのは目に見えていた。

 それを考えれば、ここまで良い条件は拓実にとって渡りに船。もしもっと条件が悪かろうとも雇ってくれるというのであれば頷いていたのは間違いない。

 

 ふと考え事をやめて顔を上げると、先ほどから何やら様子のおかしい春蘭が何か言いたそうにしていることに気がついた。何だろう、と拓実が顔を向けたところで春蘭は好機と見たのか、こちらに身を乗り出してくる。

 

「なぁ、拓実。ところで、だ。実はお前に頼みがあるのだが。いや、もし嫌なら断ってくれても構わない、のだが。いや、断っても、ぐぅぅ」

 

 ぎりぎり、と唇をかみ締めながら声を絞り出す春蘭の姿を見れば、その言葉どおりではないことは明らかだった。断っても構わない筈がなかった。

 好条件を出してまで自身を引き入れてくれた、これからの雇用主になる春蘭がこうまでして出す要望なのだ。叶えてやりたい、と思ってしまった自分を拓実は責められそうにない。

 

「自分に出来ることなら、やるつもりでいますけど」

「そ、そうか! そう言ってくれると思っていたぞ! 実はな、お前の言葉遣いのことなのだが……えーと、秋蘭、しゅーらん! 拓実に言葉遣いを変えて欲しいのだが、どう言えばいいんだ?」

「――そうだな。主に似た姿とその声で畏まられては、その臣下である私たちはどうにも心地が悪い。これからは華琳様と同じ言葉遣いで話してくれないか、とでも言えばいいのではないか?」

「ふむ、そうか。えー、拓実よ。あるじのすがたでかしこまられれば、どうもいごこちがわるい。華琳さまとおなじようにはなしてくれまいか?」

「ええ。構いませんよ」

 

 そのやり取りを聞いていた拓実はもちろん秋蘭の言葉で全てを理解していたが、律儀に春蘭と向き合ってしっかりと頷き、小さく笑みを浮かべた。

 拓実が知る由もないが、その仕草は華琳が微笑した時のものととてもよく似ていて、目の前にいた春蘭はしばし呆然としてしまう。

 

 命を助けられた身。言葉遣いの一つや二つを変えたところで苦はない。ましてや、拓実は演劇をやっていたのだ。

 その人物に成り切り、演技に入ってしまえば羞恥心すら湧いたりはしない。後で思い返してどう思うかは別にして、だ。

 

「それで、曹孟徳様はどんな話し方をする人なんでしょうか」

 

 

 

 

 

 拓実は一つ、失念していた。どうやら女装している拓実が曹操とそっくりであったということ。つまり、件の人物が女の子であるということをだ。

 ついつい、三国志での曹操のイメージが抜けていない拓実だったので、男らしい、厳つい話し方と勝手に想像していたのだがそれは大間違いである。

 

「はぁ、まさかこんなことになるとは思っていなかったわ」

 

 いつもより声帯を若干高く震わせて、拓実はどこか尊大に言葉をつぶやいた。物憂げにため息をつきながらも、だがその余裕や気品は崩れていない。

 これでどう? と言わんばかりの視線を投げかけた先にいた春蘭は、あまりの拓実の完成度の高さに感嘆の息を吐いていた。

 

 あの言葉の後、春蘭によって二時間強にも及ぶ『華琳さまの話し方講座』が開講されることになった。話し始めて十分と経たずに、いかに華琳が素晴らしい方であるかという賛辞へと脱線を繰り返して、こんな長時間話を聞かされることになっていた。

 しかし、二時間以上もただひたすらに我が事のように語る春蘭が幸いしてか、拓実には覇道を進む華琳という少女の在り方が見えた気がしていた。感情移入だって、し過ぎたぐらいだ。

 

「す、すごいぞ拓実。本当に華琳さまのようだ。流石に華琳さまのような威圧感はないが、姿形、声に至るまでどこをどう見ても華琳さまにしか見えない」

 

 笑顔でそんな拓実を称えているのは、二時間喋りっぱなしだったにも関わらず全然堪えた様子もない春蘭だ。顔を真っ赤にして、目の前にいる主と同じ姿の者を見つめている。

 

「う……む。まさかここまでとは。こうまで似せてしまえるとなると、今度は違う問題が出るかもしれんぞ姉者」

 

 若干戦慄している様子の秋蘭の言葉だが、拓実を華琳色に染めるのが楽しくなってしまっている春蘭の耳には入らない。

 

「ともかく、あとはその格好だけだな。『等身大着せ替え華琳さま人形』用に買っておいた服があるから、ほら、こっちで私が着替えさせてやる」

「ちょっと春蘭。着替えぐらい自分で出来るわ。着替えてくるから服だけ渡しなさい」

「はい! こちらです! って違う。……いや、つい返事をしてしまったが、着替えも手伝えないのでは本物の華琳さまのお相手をするのと変わらないではないか。断固として着替えは手伝う。断っても駄目だ」

 

 思わず返事をしてしまったのだろう、ぶんぶんと首を振って春蘭は気を取り直す。ふんす、と鼻息荒く拓実ににじり寄っていくが、対する拓実はそれに動じることなく春蘭へ冷ややかな瞳を向けている。

 

「ねぇ春蘭。私、聞き分けのない子は嫌いよ。それに秋蘭にならともかく、貴女には私自ら、着替えを手伝うことが出来ない理由を言っておいたわよね?」

 

「も、申し訳ありません! …………はっ!? 違う。そうじゃなくて、拓実、頼むから今だけは華琳さまの話し方をやめてくれ。華琳さまに言われているようで、体が勝手に反応してしまう。それどころか、逆らう気まであっという間に萎えていく」

 

 パブロフの犬、というやつであろうか。拓実が華琳の真似をしていると、春蘭はまったく逆らえなくなってしまうようだ。どうやら春蘭は華琳のそっくりさんを可愛がってやろうと画策していたらしいが、どう見たってそのそっくりさんに躾けられているようにしか見えない。

 拓実と春蘭によって行われている寸劇のようなやり取りを置いて、横で眺めていた秋蘭から疑問の声が上がった。

 

「いや、それより拓実よ。姉者に言って、私に言っていないこととは何でしょ……いや、なんだ?」

「春蘭から聞いてないんですか?」

 

 いきなり口調と態度を元に戻されてちょっと怯んだ秋蘭であったが、その拓実の問いに対しては全く心当たりがなかった。そもそも、秋蘭が春蘭から聞くことが出来た情報なんてほとんどない。

 

「聞いてはいないな」

「はぁ、そうですか。じゃあ改めて言っておきますけど、俺、男ですよ」

「……すまん。よく聞こえなかった」

 

 秋蘭の耳に、拓実の声は確かに届いている。顔を合わせている状態で聞こえない筈がない。その上で聞き間違いかと、秋蘭は拓実に思わず聞き返してしまっていた。

 

「だから、こんな格好してますけど、俺は紛れもなく男です」

「な、なんだとぉーーーー!!?」

 

 だが、繰り返す拓実に対して、声を上げたのは秋蘭ではなく、何故か春蘭の方だった。

 

「いや、何で春蘭が驚いているんですか」

「そんなこと、聞いてないぞ!? 冗談はよせ!」

「なんで――――って、ああ。あの時聞こえていなかったんですね」

 

 こうして二時間ちょっとの間に話しているのを聞いて気がついていたが、この春蘭、はっきり言ってしまえばおバカである。

 拓実が思い返してみれば、男だと言ったあの時の春蘭はうんうん、と何か苦悩しているように見えた。与えられた情報の処理で、ビジー状態になっていたのだろう。漫画であれば頭から煙が出ていたに違いない。

 

「なるほど。着替えを手伝うなんて言ってたのは、そういう訳だったんですか」

 

 そう納得すると同時に、二時間以上一緒にいてまったく男と気づかれない自分が悲しくなった。いやいや、きっとこの格好が悪いのだ。と無理やりに思考を修正に掛かる。

 

「いや、姉者だけではなく私だって信じることが出来ん。華琳様とそっくりな姿で男だなんてどんな冗談だ。何か理由があるのか知らんが、我らを謀っておるのではないか?」

「あー、もう。わかりました!」

 

 拓実はおもむろに上着を脱ぎに掛かる。口先で説明するよりも、素直に見せた方が早いと拓実は判断した。誤解が生じてはいけないので補足をすると、拓実が二人に見せるつもりなのは下ではなく上半身だけだ。

 すっぽり被るような形になっていた上着を脱ぎ去り、下に着ていたチャイナドレスが現れる。拓実の体感時間で言うなら昨夜縫い終えたばかりの力作である。これも、以前入っていた演劇部で衣装作りを手伝っていた成果の一つだ。

 

「見たことがない生地を使っているが、中々の仕立てじゃないか。どこの店の作だ?」

「自分で仕立てたものですよ」

「ほう」

 

 秋蘭に言葉を返しながらも、胸元のボタンを外していく。胸元に余裕を作って気持ち程度にハンカチが詰めてあるのが今更ながらに恥ずかしいが、こんなものシンデレラの演劇をやった時に慣らされている。詰めてあるハンカチを取り出せば、当たり前だが胸の部分はぺったんこだ。

 

「ほら、どーですか。これでわかったでしょう?」

「む、胸が小さいだけ、とも思ったが……そういうわけでもないのだな?」

「ええ。一応見た目のこともあって詰め物をしてただけですんで。ついでに言うと、この髪の毛も付け毛ですよ」

「なんと!」

 

 拓実が髪の毛にくくりつけられた金色の巻き毛を取り外すと、秋蘭は驚きに目を見開いた。この時代ではまだつけ毛やかつらなど存在していなかったのかもしれない。髪の毛を取り付けるという発想に驚愕したのだろう。

 

 

 

 

 

「…………」

 

 そんなことを話している横では、春蘭が人知れず真っ白に染まっていた。

 拓実が服を脱ぎだしてから顔を赤くしたりちらちらと指の間から盗み見たりと忙しかったが、胸のふくらみが取り払われ、華琳の象徴ともいえる巻き毛が拓実からなくなると確かに男に見えないこともなきにしもあらず。いや、百歩譲れば男にも、いや……。

 

「こんなにも、華琳さまに似ているというのに、男、だと? そんなもったいないことがあってたまるものかぁーー!」

「しゅ、春蘭!? ちょ、何……!?」

 

 最早自分の手で調べねばならん、と決意を固めた瞬間、春蘭は拓実へと飛び掛っていた。

 先の華琳そのままの姿では恐れ多くてそんなことできなかっただろうが、今の拓実の姿ならばまだ別人に見えた。

 

 

 



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3.『拓実、曹操に謁見するのこと』(※)

 

「昨日は本当、酷い目にあった……」

 

 宛がわれた部屋の寝台から上半身だけ起こした拓実は、ぼんやりと昨日起こったことをひとつひとつ思い出していた。そうして出てきたのが今の一言であったし、それは見事に全てを言い表してしまっていた。

 何故か荒野に倒れていたことが一つ目の酷い目だった。どうやら自分がいるのが三国時代だというのも現在進行形で遭わされている酷い目である。考えてみれば、いきなり殴られ気絶したのもそうだった。地面を転がった時に打ったのか、今もふとした時に体の節々が痛んでくる。春蘭に恨み言を言うつもりはないけれど、被害にあったことに変わりはない。

 だが、それより男であると伝えたのに、春蘭に押し倒され体を弄られたことこそが理不尽で、これから拓実の恥部になるような『酷い目』だった。しかも男だと確認されて尚、春蘭からは「これからもお前のことは男だとは思わん。華琳さまになりきるのだ」などと命令されてしまった。だったら確かめる必要なんてなかったじゃないか、と喉まで文句が出掛かったものだ。

 

「いいや、落ち込んでいても仕方ない。ええと、今日は曹操様に顔合わせに行くんだったっけ」

 

 言われるまで気がつかなかったが、拓実が寝泊りしていたこの部屋は民家の客室などではなく、城の中の、将官を住まわせる為に用意した一室であるらしい。州牧として陳留を拠点としている華琳、その配下である春蘭と秋蘭もまた華琳の居城に一室を与えられている。昨日の秋蘭からの家事の仕事の話もどうやらこの城を指してのことのようだった。

 当然ここで仕事をする拓実も城内に住んでいた方が都合がいいのだけれども、それには領主である華琳に仕事のことも含めて伺いを立てなければならないということである。昨夜は日も落ちていたので無断で借りたらしいこの空き部屋を使わせてもらったけれども、これからもとはいかないようだ。

 

 華琳の真似をすることも仕事の一貫であるらしく、拓実は昨日のうちに渡された衣装に着替えて華琳と謁見するようにと言われている。問題は、その渡された服が女性用であるということだ。再三のことだが、拓実は男である。

 衣服を広げて見てみれば、インナーは黒を基調としたワンピース状になっていて、肩から二の腕までの部分がなく袖だけが独立して分かれている。コルセットのような形状の金属の鎧と襟元だけが赤紫色に染められていた。女性用にと作られた物であるから当然のようにスカートであり胸部にも余裕があるのだが、胸元が生地で覆われて肌が見えないようになっているのは拓実には果たして良かったのか、悪かったのか。

 春蘭はこれを指して「この格好も勿論華琳さまにお似合いになると思うが、真の華琳さまは決して着てはならんものだ」とわかる人にしかわからない発言をしていた。もちろん拓実には春蘭の発言は理解できない。

 

 拓実なりに葛藤はあったがなんとかそれらを身につけ(勿論胸の部分はすかすかなのでハンカチを何枚か詰めてある)、慣れた手つきで髪をお団子状にまとめ上げると、そこに衣服と一緒に渡された赤紫の髪留めに銀の髑髏の髪飾り、ウィッグを取り付ける。

 最後に身だしなみを整え、全身を姿見に映し見るや拓実は思わず「へぇ」と関心の声を上げていた。

 

「突飛なセンスだと思ってたけど、合わせてみると中々いいデザインなのかも」

 

 全部合わせてみればゴシック系でまとめられていて、ところどころにフリルがちりばめられていて可愛らしさもある。強いて言うなら、これを着ているのが男の拓実でさえなければ言うことはなかった。

 ――ともかく拓実が着ているこの衣服は春蘭が華琳の普段の格好に合わせて買ったものと言うことだから、そっくりであるという華琳は鏡の中の拓実の姿にとても近いのであろう。

 長時間に渡って華琳の武勇伝を聞かされた為に、拓実はおおまかな性格や口調だけではなく、幼少の頃から今に至るまでの半生をも把握させられている。春蘭から聞いた限りでは、行動は大胆ながらも余裕を持ち、佇まいは気高く、振る舞いは自信に溢れ、万能といって良いほど才に恵まれた少女ということである。

 そんな完全無欠の人物が存在していることが驚きなのだが、拓実の興味は別にあった。容姿だけとはいえ瓜二つだという拓実と会って、彼女はいったいどんな反応をするのだろう。姿見に映る少女に、得た情報を重ねていく。拓実は鏡の中で不敵に笑う少女のことを、じっと見つめていた。

 

 

 

 

「なんでもない、ただの朝の挨拶じゃないですか」

「いいから、拓実は華琳さまの口調で話してくれ! そんな笑顔で華琳さまに挨拶されたら、私達はどうすればいいかわからんのだ!」

「拓実。申し訳ないが、私からも頼む」

 

 一日の始まりとなる挨拶なのだからと演技は止め、入室した二人を出来る限りの元気と笑顔で以って出迎えたのだが、どういうわけか拓実は顔を赤くした春蘭に叱られていた。

 演技をしていろと言うが、朝一番からそれをさせられていては気の休まる時もなくなってしまう。拓実が不満げに唇を尖らせていると、秋蘭もが続いてそうしてくれと声をかけてきた。どうやら春蘭の態度に隠れていたが、秋蘭も仏頂面ながら密かにうろたえていたようである。

 

「……仕方がないわね。朝の間ぐらいは私らしくしていたかったのだけど」

 

 二人にお願いされて仕方なく口調を切り替えた拓実は、一つだけため息をつく。

 秋蘭が持参した朝食――何故なのか海苔の巻かれた日本でお馴染みのおにぎりが二つだった――を済ませた後は、拓実は二人に先導されて予定通り華琳の居る謁見の間へと向かうことになった。

 

 

 

 

 

 ほどなくして謁見の間に繋がる扉の前に三人が到着すると、まずは秋蘭が伺いを立てるために入室していった。秋蘭が謁見の許可を取って戻ってくるまでの間、残された春蘭と拓実はそのまま入り口付近で立ち尽くすことになる。

 拓実はそこで、これから華琳と何を話せばいいのか改めて頭の中をさらっていた。出会ってから挨拶に進むまでを頭の中でシミュレートしていって、早い段階で問題が発生することに気がついた。実際に華琳に会う前に、確認しておくべきことがあったのを思い出したのだ。

 

「春蘭。ひとつ訪ねておきたいのだけど」

「はいっ、何なりと……ではない。な、何だ、どうした?」

「私は、この口調のままで孟徳様と謁見して構わないの? 貴女に言われているから崩していないけれど、問題になりはしないかしら」

「む。確かに、ど、どうなのだ? 華琳さまに無礼な口を利くなど許されんが、しかし……むむむ。秋蘭! は、いないっ!? ……そうだ、中に入ってしまった! ちょっとここで待っていろ、今聞いてきてやる!」

 

 ひとしきり一人でうろたえた後、春蘭は謁見の間へ駆け込んでいった。そうしてすぐに「申し訳ありませんっ! 華琳さま!」と情けない声が中から漏れ聞こえてきた。大方走って入っていったことでも注意されたのだろう。

 

 

「すまない。待たせたな」

 

 そのまましばらく拓実が手持ち無沙汰にしていると、中から出てきたのは春蘭ではなく妹の秋蘭だった。どうやら、途中で入室した春蘭は中にいるままのようだ。

 

「口調や態度についてだが、華琳さまは『好きにせよ、無礼を許す』と仰られていた。拓実には思うまま、可能な限り真似てもらって構わない」

「……そう。ならば孟徳様などと呼ぶのもやめて、まるっきり本人であるようにした方がいいのかしらね?」

「その方が華琳様も喜ぶかもしれま、……しれん」

 

 秋蘭が言い違えたことで気がついたが、彼女も稀に拓実に対する言葉遣いが恭しいものに変わっている。思い返してみれば、昨夜にも似た言い回しをしていたことがあった。拓実はてっきり、春蘭が思い込みの激しい性格である為に取り乱していたものと考えていたのだが、落ち着き払っている秋蘭もとなると、今の格好の拓実はちょっとしたそっくりさん程度ではないようである。

 そんなにも華琳という少女に拓実は似ているというのだろうか。いまだ実物を見ていない拓実はどれほどのものかを知らない。こうも勘違いされていると、本人と会うのが楽しみになってくる。

 

「ねぇ、秋蘭。孟徳殿には私のことを、どのように伝えたのかしら?」

「実際にお会いしてもらった方が話が早いと思ってな。華琳様に仕えたい者がいるということ、その者が華琳様の益になるかもしれないとだけお伝えしてある」

 

 それを聞いた途端、拓実は身震いしていた。遅れて、自身の異常に気がつく。ばくんばくんと心臓が大きく強く打っている。

 この緊張感には覚えがある。己の内から湧き上がってくる衝動を受けて、深く瞑目した。

 

 ――――好きにせよ、無礼を許す。可能な限り真似てもらって構わない。

 

 拓実の中で、役者魂とも呼べるものが猛っていた。挑戦されている。試されているのだと。これから向かう先は、舞台の上であり、そして、そこは勝負の場であるのだと。そう訴えかけている。

 思い込む。春蘭から聞いた英雄譚は、己が為したものであると。そこで語られた姿こそが己自身であるのだと。この存在こそが紛れもなく曹孟徳であり、しばらく南雲拓実という人間はこの体から消え失せる。拓実は自身に強く暗示をかけて、まだ見ぬ人物に成りきっていく。

 

「ふふ……、なるほどね。そういうことであれば、孟徳殿に世にも珍しい己の姿を見せてやりましょう。秋蘭、あなたは後からついてきなさい」

「はっ!」

 

 秋蘭は咄嗟に華琳を相手にするよう返事をしてしまったことに驚いたようだった。口元を手で押さえ、拓実を凝視している。その間にも拓実は、さらに別人へと切り替わっていく。

 華琳にあって、拓実にはなかったもの。今までどれだけ上手く演技をしていても秋蘭たちが感じることがなかった、相対するだけで平伏したくなるような王者の気質――『覇気』を、拓実は発し始めていた。

 

 

 

 

 

「失礼します、華琳さまっ!」

 

 今朝方に秋蘭より新しく雇用したい人物がいるとの申し入れがあり、詳しい話を聞き始めたところで春蘭が堰を切って駆け込んできた。

 形だけの入室の言葉といい、その慌しい様子といい、華琳の描いている臣下像からかけ離れた振る舞いである。本気で怒りが湧いたわけではなかったが、躾けておく必要はあった。

 

「春蘭、はしたないわよ。あなたがそのような振る舞いをすれば、臣下にどのような教育を授けていたのかと主である私の品格が疑われることになるわ。もしや、お仕置きされたいのかしら?」

「う、うむ。だが、そんな場合じゃない、……い? って、ちちち、違う。コレは拓実ではなく華琳さまではないか!」

「『そんな場合じゃない』? その上、この曹孟徳を指して『コレ』ですって? ……ふふ。春蘭、あなた本気で躾け直さねばならないようね」

 

 まさか信頼している臣下からコレ呼ばわりされるとは思わずに、一拍の間華琳の時が止まった。すぐに平静を取り戻すも、華琳は消しきれない怒りで笑みが浮かんでしまっていることを自覚する。

 

「も、申し訳ありません! 華琳さま!」

 

 すかさず跪いては地に伏して謝罪の言葉を上げる春蘭だが、華琳はそんなことで許す気など毛頭ない。春蘭は粗忽者ではあったが、公私の区分ぐらいは出来ているものと思っていたのだ。今の発言は流石に聞き捨てがならない。そこで春蘭を弁護するように頭を下げたのは秋蘭である。

 

「華琳様、恐れながら申し上げます」

「秋蘭。悪いけれど、早急にあなたの姉を教育し直さねばならなくなってしまったわ。雇用の話はその後にしてもらえるかしら」

 

 待たせるのは礼を欠く行為だが、幕下に入れるかどうかわからない者より部下の不始末を正す方が優先される。何故今更になってそのような返答を、幼少の頃より仕えている春蘭がしたのかも疑問であった。そこに理由があるのであれば何としても聞き出し、理由がないのであれば二度目がないよう厳正に罰してやらねばなるまい。

 

「いえ、姉者がそのような無作法をしたのには、その希望者が関わっておりますので……」

「どういうことかしら?」

「その者は旅をしていた大陸外の者なのですが、姉者がその者を気に入りましてこうして口利きに参った次第です。当初は小間使いに、と考えましたが、他ならぬ華琳様であればより有用にお使いできるかもしれません。姉者が無作法をした理由については言の葉で説明するよりも実際に華琳様の目で確かめて頂いた方がご理解も早いかと存じます」

「……そう。では秋蘭に免じて、春蘭への仕置きはその者に会って決めるとしましょうか」

 

 華琳は考える。春蘭が気に入ったということは、その者は武を尊ぶ者だろうか。彼女が気に入る相手となると、弁が回る者――文官は毛嫌いしている為に除外されてしまう。

 しかし、それでは当初小間使いに考えていたという秋蘭の話と繋がってこない。では、大陸外の者という線が関係しているのだろうか。納得のいく答えは出てこないので、一旦置いておくこととした。

 

「それで春蘭、慌てて駆け込んでくるに足る危急の用があったのでしょう? 言って御覧なさい」

「は、はっ! その拓実……あの、雇う予定の者からなのですが、華琳さまに謁見するのに言葉遣いを改めるべきか、と言ってまして。いや、その言葉遣いや振る舞いは私がさせているのですが、華琳さまに会わせるのにはどうすればいいのか私ではわからなかったので、秋蘭に意見を聞いてみよう、と」

「ふぅん……。どのような言葉遣いや立ち振る舞いなのかは知らないけれど、察するに改めさせると面白味がなくなる類のものなのでしょう? それにどうやら春蘭だけではなく、秋蘭もその者を気に入っているのでしょうし」

「……恐れながら」

 

 薄々気づいていたが、華琳の言葉にも秋蘭は否定せず頭を下げるばかりだ。秋蘭は、華琳の身を案じて刺客の疑いが少しでもある者を近づけさせたりはしない。その彼女が気に入るとなれば、春蘭のように表裏のない人間だろう。

 しかし、武官でなく文官でもなく、だというのに有用に使えるかもしれない者というのだから、流石の華琳もどんな人物であるのかまったく想像がつかない。

 

「ならば、この私が直々に許すわ。秋蘭、伝えなさい。その者にさせている言葉遣い、態度のままで、私に会うようにと」

「御意に」

 

 そうして秋蘭は一つ礼をして、入り口へと向かっていく。それを眺めながら、華琳は知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。

 華琳の一の忠臣ともいえる春蘭、秋蘭の両名に気に入られるというだけで、まずその者は只者ではないだろう。そんな者が麾下(きか)にと申し出ているのだ。面白い。どうしても期待が高まる。

 

「春蘭、もういいわ。立ちなさい」

「は、はいっ」

 

 華琳の期待以上の才人であるなら、その者を推挙したという春蘭のことを責める気はない。先の無作法だって全て水に流してやってもいい。その人物が華琳の眼鏡に適うものであれば、だが。

 

「――――なっ!?」

 

 笑みを浮かべて春蘭を見ていた華琳は、それを知覚した瞬間に身構えていた。右の手は、帯刀してもいないのに腰の物を探している。

 華琳が受け取ったのは、敵意ではない。肌に感じたのは感覚的な重圧、全ての者を跪かせようとしている威圧であった。それを放つ者は、明らかに華琳に狙いを定めて叩きつけているのである。

 

「これは」

 

 他ならぬ華琳は感じ取っていた。この気配の持ち主は、王者としての役割を授かり、この世に生れ落ちてきた意味を理解して生きている。華琳と同じ天命を持つ者だ。そうでなくては、この気質に説明がつかない。

 華琳は過去そういった意志を持つ幾人を見ている。綻びを見せる王朝に対し、己の力を頼りにして野望を抱える者たちは皆似通った気配があった。だがしかし、同種の意志でここまでの強さを持つ者など、華琳は己以外には知らない。

 同時に不可解にも思える。王を目指す者が自ら他人の下につくのでは、道理が通らない。この気質を持つ人間が、他の人間の傘下でおとなしくしている筈がない。一時的に降ろうとも、あらゆる手で成り上がり、自身の力で覇を唱える筈。

 横目で見れば、隣に立つ春蘭が息を呑んでいた。予想外だったのか、顔に驚愕を貼り付けている。華琳はその様子から、春蘭がその人物の根底を見通せていなかったことを知った。一目見ればわかるであろうこのような大器を、春蘭が量り違えたのか。

 

 その者は秋蘭に促されて入ってくるのではなく、秋蘭を連れて入ってきた。これから華琳の下につくというその者は(かしこ)まらず、(おそ)れず、けれど無礼にはならない立ち振る舞いで悠然と歩いてくる。

 雰囲気でわかる。相手は笑みを浮かべている。常人ならば間違いなく気後れするだろうこの曹孟徳を前にして、愉しげに笑っている。

 

「へぇ。道理で、春蘭や秋蘭が私を見違えたわけね」

 

 向かいから届いた声に、華琳は自身の耳を疑った。その呟きの質は、あまりに若い女の声である。いや、聞き違いでなければ、常日頃からよく耳にしている声だった。

 そして程なくして華琳は視認する。自身と同じ意志を持ち、自身と同じ声を持ち、自身と同じ者の姿を。

 

「そんな……まさか」

 

 華琳は、彼女にしては珍しく狼狽の声を上げた。目の前の人物が明らかな異常であるというのに、華琳は何の対策も取らずただ呆然と、歩いてくるその者を見つめ続けていた。

 そうしているうちに目の前まで歩み寄った人物は、見詰め合っている華琳に向かって笑みを深めてから恭しく膝を着く。だが、頭を下げたその者から謙遜や敬服するといった華琳を上に見る意思は感じられない。現状、州牧である華琳の方が地位が高いという理由でそうしているに過ぎない。華琳にはそんな相手の思考が透けて見えていた。

 侮られているとして、普段であれば激昂しているところである。その後の相手の対応次第によっては首を刎ねていただろう。しかしこの者が、華琳を軽く見ている訳ではないことも理解してしまっていた。この相手は『華琳を侮っている』のではなく『華琳と対等である』として振舞っているだけである。そして、華琳の目の前に跪いた人物はそうするに足るだけの風格を備えていた。

 

「お会いできて光栄よ、孟徳殿。姓は南雲、名は拓実。此度は貴女の覇業の一助となるべく、秋蘭の勧めで参らせていただいたわ」

 

 華琳の前で跪き、話し、動く者は纏った衣服の細部こそ違えど、まるで鏡に映したような姿。

 そう。華琳が今相対している相手は、他ならぬ自身の写し身であった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 どういうことだ――春蘭は奇しくも、同じ瞬間に主君と同じ事を思っていた。同時に目の前の光景を見て、信じられない、といった感想しか出てこない。

 

 初めて拓実に会った時、春蘭をして見間違えるほどに似た人物が存在する筈がないということから他人であるという選択肢は春蘭に与えられなかった。昨夜に演技をさせた際には、その姿にふさわしい声が揃ったことにより体が勝手に誤認してしまっていた。そうして今朝は、着せたその服装もあったが、気を外にやっていた時に話しかけられたものだから咄嗟に対応を誤った。

 違う人物であると認識してからは条件反射はともかくとして、春蘭は本質的な意味では拓実と華琳を見違えることはなかったのだ。それが今、春蘭の中で少しだけ崩れかかっている。

 

 拓実が演技を始めた時に春蘭が言っていたように、今までの拓実には気品こそあれ王としての気迫というものが一切たりとも存在していなかった。

 確かに表面上であるところは春蘭が教えたとおりの華琳であった。それだけでも見事な演技であるし、あの秋蘭ですら慌てていたものだ。言葉のみの情報でそこまで似せてしまえる拓実は演技という分野において、非凡のものを持ち合わせているのだろう。

 しかし今の拓実はそれまでの演技からは一線を画してしまっている。姿形、そして振る舞いだけではなく、正しく内面までも華琳になりきっていた。

 

 声や表情、雰囲気からの全てが華琳と紙一重のところにまで迫っている。だが、紙一重までだ。春蘭にはわかる。項目にして挙げることは出来ないが、確かに違った。春蘭だからこそ、対面している二人の華琳の違いを認識することが出来た。拓実は今相対している華琳を表現しているのではなく、春蘭を介して伝えられた『春蘭の描いている華琳像』を再現しているのだ。

 華琳とは別人である。だがそれでも拓実の放っている雰囲気や、ぴりぴりと肌に伝えてくる風格は華琳と同質であり同等。

 覇道を歩まんとするその意志は、華琳をして気圧されるほどに本物であった。

 

 

 

 

 

 動かない。拓実を見下ろす華琳も、側で華琳に控える春蘭も、跪く拓実も、拓実に控えるようにして立っている秋蘭も。その中で唯一余裕の笑みを浮かべているのは、拓実だけである。

 

「南雲、拓実といったわね」

 

 長い沈黙を破って口を開いたのは華琳であった。その華琳にしてもまだ全ての動揺は鎮まりきってはいない。当たり前の理屈ではあるが、目の前に存在しているのが己自身ではないと認識できただけだ。

 

「ええ。相違ないわ」

「貴女の目的は我が覇道を支えることではなく、自身が覇道を歩むことではないのかしら」

 

 華琳には、問わなくともその返答が如何なるものかはわかっていた。少しずつ余裕を取り戻している華琳が、目の前の存在を僅かなり知る為に様子見したものに過ぎない。だが華琳の予想に反して、拓実はしばし逡巡するような素振りで瞑目している。

 

「……そうね。私が貴女の立場にいたなら、貴女がしているようにそうしたでしょうね」

「そう」

 

 若干の間の後返ってきた答えに、華琳はやはり自身の直感が鈍っていないことを知った。そしてその直感に従うならば、とうに答えは決まっている。

 

「春蘭、秋蘭。貴女たち二人はこの者を、私に使えと言うのね」

 

 響く、華琳の声。しかしその問いに対して春蘭と秋蘭から言葉はない。いや、返すことが出来ずにいる。今、この変貌した拓実を目の前にして、本当に志を同じくしていいものかという疑問が二人の中には浮かんでしまっていた。

 秋蘭が、華琳と顔合わせしても問題ないと踏んだのは、拓実に王としての内面がまったく感じられなかったからだ。姿や声が似ているだけならば華琳もこうして身構えることなく、面白がって即決で招き入れたことだろう。秋蘭もそれを予想して、この場を用意したのだ。

 だがしかし、今の拓実はこれまでこそが偽りだったのではないかと思えるほどに華琳に――真に迫ったものあった。春蘭、秋蘭共に、ここにきて、どちらが本来の拓実であったのか確信が持てなくなってしまっていたのだ。

 

「はっきりと言いましょうか。貴女たち二人の推挙であろうと、私がこの者を配下に加えるなんてことは、ありえないわ」

 

 春蘭も秋蘭も、言葉を忘れたように発することが出来ずにいる。構わず、華琳は言葉を紡いでいく。

 

「確かに、こうまで私に似ているならば、秋蘭の言うように様々な使い道があるのは理解できる。それこそ場面によっては千や万の兵よりも価値あるものかもしれない。志も、私と違わぬものを持っているのは言葉にせずとも感じることができた。それを為し得るだけの気概が備わっているだろう事も」

 

 華琳は背を向けて歩き出し、玉座の横に掛けられた自身の愛鎌――【絶】に手を掛ける。置かれていた台座の揺れる音が、謁見の間に妙に大きく響いた。

 

「けれども、この者は私に似過ぎている。この大陸は、世は、覇王を二人も必要とはしていない」

 

 背中越しに、華琳は跪いている拓実を視線で射抜く。華琳がどのような決断に至ったのか、とっくに理解していることだろう。しかし拓実は笑みを湛えたまま、華琳の挙動を眺めたまま動かない。

 

「我が陣営に迎え入れれば、必ずやこの者は自身の覇道を歩み始め、我らを二つに分かつことになる。しかしこのまま野に放てば、いずれこの者は我が覇道を阻む強大な敵として、我らの前に立ち塞がることになる」

「……孟徳殿ではこの私を従えることは出来ない、そういうことでいいのかしら?」

 

 得物を手にゆっくり歩み寄ってくる華琳に、拓実は動じた様子もなく質問を投げかけている。それを受けて、華琳は一瞬だけ足を止めた。そして、すぐにまた歩みを進める。

 

「ええ、そうね。認めましょう。私では、貴女を従わせることは出来ない。逆の立場で貴女が私を従わせることが出来ないように、不可能なことよ。もっとも、私だけではないでしょう。その上に立つのが誰であろうとも、従わせようとした者の腹を食い破ることには変わりはないのだから」

 

 跪いたままの拓実の前に歩み寄った華琳は、その手に持った鎌を振りかぶる。

 対して拓実は、ここにきても動こうとはしない。命乞いも、弁明も、服従も、反発も、どれも声にして出すことなく、振りかぶる華琳をただ見つめ続けていた。

 

「誇りなさい。この私にここまでのことを思わせたのは、貴女が最初で最後となるでしょう。そして詫びましょう。私は、必ずや来るとわかっているその禍根の芽を、類稀なる王の器ごと今絶たねばならないのだから」

 

 拓実の不動の態度にも、華琳の瞳は揺るがない。本気の色だけが煌いていた。

 そして鎌は振り下ろされる。

 

 

「……ふっ」

 

 鈍く耳に障る金属音が謁見の間に響いた。首を刎ねんと振るわれた鎌の刃は、拓実の首横で止まられていた。

 止まった鎌を、額に僅かの汗を浮かばせて見るのは拓実。そして、それを信じられないような顔で見ているのは、他ならぬ華琳であった。

 

「――春蘭。貴女のその行動は私の下を離れ、その者の下につく意思表示と見なしていいのかしら」

 

 冷ややかな、凍りつくような視線を向けた先には、鎌と拓実との間で自身の誇りとも言える大剣を構えた春蘭の姿があった。顔面を真っ青にしながら、鎌の刃を完全にその大剣で防ぎきっている。

 

「い、いえっ! この私は、華琳さまの剣です! しかしながら、華琳さま。この拓実は、私が無理やりに旅をしているところを連れてきた者です。ので、その。この拓実には何ら責はなく……」

「私の臣下であるというならばそこをどきなさい、春蘭! 最早、この者に責があるかどうかなどという小さな観点での話はしていないの。この曹孟徳がこの者自身を危険と判断し、排すと決めた。その決定に貴女は関係ない!」

「しかし、それではあまりにも……。拓実、お前も早く華琳さまに謝れ! 今謝らねば、首を刎ねられるのだぞ!」

 

 あと一押しで絶縁を突きつけられるというのに春蘭は尚も食い下がり、必死に華琳に拓実の助命を懇願する。

 そうして、横で跪いた状態で顔を上げていた拓実の後頭部をむんずと掴み、無理やりに地面と元の位置とを往復させ始めた。

 

「は、離しなさい春蘭! 何をするの!」

 

 それに慌てたのは拓実だ。相手は馬鹿力で自身の頭部を掴んでいて、必死に抗おうとするも拓実の首の筋肉では対抗すらできていない。

 

「春蘭、その者が無礼を働いたと言う話でもないと……」

 

 決して慌てふためく様子を見せなかった拓実が上げた声と、春蘭のその場違いな行為に、気勢を削がれたのは華琳だった。目の前で自身と同じ姿をしたものが、自身の臣下に頭を掴まれて無理やり下げさせられている。それは、視覚的にあまりに衝撃的なものだった。

 そうして、ふと華琳は変なものを見つけた。見れば床に広がる、光を反射する金の糸の塊だ。

 

「髪?」

 

 床に、見事にカールした艶のある金の髪の毛の束が二つ、落ちていた。位置は拓実がぺこぺこと頭を下げさせられている場所の真下。まるで、拓実の髪の毛が『取れてしまった』かのような……。

 

「あ、姉者! 拓実の付け毛が取れてしまっているぞっ!」

「そんな場合ではないだろう、秋蘭! 何としても拓実のことを華琳さまに許していただかなければ!」

「……つけ、げ?」

 

 当然のように髪の毛が取れたことを話している姉妹に、流石の華琳も理解が追いつかない。その落ちた髪の束を眺めることしか出来ずにいる。

 

「ウィッグが取れているですって? ……って、うわわわ!? そ、曹孟徳様、この鎌を引いてください! 危ない! それに色々と冷たい! ひっ、ちょっと切れて血が出てる!」

 

 華琳がしばし呆然としていると、次なる変化が起こっていた。まずは聞き慣れた声色で、ありえない言葉の連続。己の首を落とそうとする鎌に対しても冷や汗を浮かべる程度という豪胆さを見せた目の前の人物が、今はただ突きつけられているだけだというのに涙を溜め、死んでしまいそうなほどに顔を真っ青にしているのだ。

 そして空気。拓実からはもう威圧も何も感じない。ただの凡庸な一般人のような気配しか残っていなかった。互いを下さんとして侵食し合っていた空気が、いつの間にか一方がしぼんで消えて、元の華琳が支配する空間に戻っていたのだ。

 

「ほれ謝れ、地面に額をこすりつけて謝るんだ、拓実!」

「ごめんなさい! 何だかわからないけど、許してください!」

 

 春蘭の手を借りずに自身からぺこぺこと謝る、髪を両脇で小さな団子にしてる自身と同じ姿の者を見て、華琳には悩みが生まれていた。

 これはどう収めたものなのか、そんな判断に迫られていたのだ。

 

 

 



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4.『拓実、曹操に仕官するのこと』

 

「そう。貴女は学問や芸を学ぶ私塾に通っていたのね。そこで学び得た芸が他人に成り切る演劇の技術であり、好きにやっていいと許可が出たものだから言われるままに私に成り切ったと」

「そ、その通りです。それにしても、危なかったですよ。春蘭が止めてくれなかったらと思うと……」

 

 死にかけたのを思い出したのか、お団子頭のままの拓実は両目には涙を溜めて背筋を震わせている。よく似た容姿の拓実が小動物のような振る舞いをするのを見て、華琳は思わず頬を引き攣らせ、なんとしていいのかわからない収まりの悪い表情を浮かべた。

 

 拓実の様子が先ほどまでと一変していることに気づいた華琳は、力ずくで謝らせていた春蘭を止め、詳しく事情を聞くことにした。

 そうしてここに来ることになった経緯を春蘭が、来てからの経緯を秋蘭が話し、合間合間で拓実が補足をする。一通りを話し終えたところで拓実の異様な演技力に話が流れ、丁度それについての説明を終えたところであった。

 始めこそ警戒心を顕に拓実を睨み付けていた華琳であったが、説明が始まるや直ぐにそれは取り払われていった。話を秋蘭と春蘭から話を聞けば聞くほどに、そして今の拓実の様子を見れば見るほどに、元の南雲拓実という人間が無害であるか明らかになったからである。

 

 そしてどうやら件の華琳になりきっていた時にしても、拓実がそうしようと思ってのことではないということであった。演技に没入し過ぎてしまった状態であり、いつでもああなれるというわけでもないようだ。むしろ『なれる、なれない』という話ではなく、『なってしまう』といった方が正しいようである。

 拓実の演技は自己暗示をかけて自意識を出来る限りに薄め、その上に演ずる役を乗せて演技をするといったものなのだが、一度あの状態に『なってしまう』とその自己暗示が深くかかり過ぎてしまうようなのだ。

 

 ――以前にも拓実は、演技に集中するあまり前後不覚になったことがある。丁度、今回のようなトランスともいえる状態にである。聖フランチェスカに進学する前、演劇部で参加した県大会という大舞台でのことだ。

 あの時は数ヶ月にも渡って台本を読み込み、舞台道具に衣装にと入念に準備を重ねて自分たちの集大成を不足なく表現することに必死であったし、大きな舞台を前に緊張をしていたものだ。劇自体は大成功で終わったのだが、拓実個人は役に入り込み過ぎて大失態をやらかしたのであった。

 今回は拓実に似ているという、中国史において有名人である曹操と対面できるという期待、そして本人より直々に演技する許可が下され、秋蘭から挑戦とも取れそうな言い回しを受けたことが変に作用し、拓実の精神は似た状況に追い込まれていたのだろう。

 ともかく一度そうなってしまえば、拓実は与えられた役割をこなすというよりは、役割の人物そのままになりきってしまって、自身を省みる余裕がなくなってしまうのだ。

 しかし拓実本人も、今回のような生き死にがかかった状態ですら戻ってこれないものだとは思っていなかった。それどころか華琳によって鎌を振り下ろされる瞬間、「ここで散るならば、それが私の天命」などと至極まじめに考えていたものだから恐ろしいものである。

 

「……まぁ、演技については見事なもの、と一応褒めておきましょうか。もう一度確かめるけれど、あくまで私の演技をしていたからであって、貴女自身に覇道を歩む気はないのね?」

「ええ、ありません。ありませんとも。自分にはそんな道、あんまりに分不相応ですから」

「そう。それならば、その首を刎ねる必要はなくなったわね」

 

 拓実は思わずと言った風に安堵の息を吐くと、「何とか助かったよ」という意図を伝えようとしてか、にこにことした笑みを春蘭と秋蘭に向けた。

 それを見て慌てている夏侯姉妹の様子は面白いのだが、自分と同じ顔がころころと表情を変えている様は、いつまでも華琳には見慣れないままであった。

 

 

 

 

「拓実。貴女、私と同じ顔をしておいて、表情をぼろぼろ崩すのは止めなさい」

「はい?」

 

 それからいくつか言葉を応酬させているうちに、我慢の限界に達したらしい華琳が若干の怒りをこめて拓実に命令を突きつける。突然にそんなことを言われた拓実は戸惑いの顔を見せた。しかし、それがまた華琳には気に食わないようである。

 

「ぼろぼろ崩すって言われても。その、これが素なんですけど……」

「知ったことではないわ。いいから言うとおりになさい」

「えええ……」

 

 素の自分をあっさりと否定された拓実は思わず泣き笑いのような表情を作った。華琳といい春蘭といい、人の意見はおかまいなしといった人がここには多いように思う。そんな風にしおれた拓実をにらみつけたのは、やっぱり華琳である。

 

「言っている側から崩すなんて、どういうつもりかしら?」

「そ、そんなこと言われましても……」

 

 華琳に釘を刺されて、必死に表情を引き締めるものの元々が表情筋の活躍豊かな拓実である。ちょっとの感情のブレですぐ表に出てきてしまう。

 言われて少し経つと眉が落ちてきて、引き締める前の情けない顔に戻っていた。拓実自身はそれに気がついていない。演技をしていない時の拓実などこんなものである。

 

「貴女っ、その情けない顔を止めなさいと言っているのよ!」

 

 「ひっ」と情けない声を上げては落ち込んで縮こまり、気の弱い小娘のようになっていく拓実。それを見た華琳の眉はどんどん吊り上がっていく。血の気が引けて青くなっていく拓実とは反対に、華琳の顔には血が上ってどんどん赤みを帯びていった。もちろん怒りでだ。

 正しく負の連鎖が出来上がっている。情けない拓実を華琳が怒れば怒るほど、その怒気に当てられた拓実は泣き顔になっていくのだから。

 

「華琳様。恐れながら、拓実には普段から華琳様の演技をさせておけばよいのではないでしょうか。さすれば華琳様を基準に行動するようですので、不用意に顔を崩したりはしないかと」

 

 そんな瓜二つながら二人の様子を見ていた秋蘭が、拓実に助け舟を出すために華琳に向け意見を述べた。華琳に圧倒されてかくかくと震える拓実は、傍からでは双子の姉にいじめられている妹のようにしか見えない。静観していた秋蘭の庇護欲を掻き立てていたようであった。

 庇われた拓実はわかりやすく「助かったぁ」などと声を漏らして安堵している。また崩している、と鋭く華琳が睨んでいることには気づかない。

 

「この私の演技を? そんなことさせて先のようになれば、今度こそ間違いなく拓実の首を刎ねるわよ」

 

 華琳は先のことを思い返し、苦々しく顔を歪める。華琳にとってあの一幕は紛れもない汚点であった、失態をさらしてしまったものとして自身の行いを省みている。

 実際のところ、華琳があの拓実の気に当てられて怯んでしまったのは、同じ姿、同じ声、同じ思想を持つ人間がいきなり目の前に現れたことで、しばらく思考を停止させられたことが原因だ。あの時の拓実は、確かに華琳と同程度の風格を持っていた。雰囲気から何から、春蘭から与えられた情報を限りなく再現していたのである。事前情報を一切与えられていなかった華琳では、もう一人の曹操と云える拓実を相手にして拮抗できる筈がなかったのだ。

 秋蘭や春蘭でさえ驚き動けなかった中、自力のみで押し返して五分五分に持ち直し、一歩も退かなかった華琳こそが驚きに値するし、脅威的なのである。けれども、そんなことをやってのけた華琳本人はというとまったくそうは思えないようであった。

 

「いえ、それについて問題はないものと思われます。どうやら先ほどのは極度の緊張と過度の期待に拓実が応え過ぎただけで、それ以前は見た目や口調だけの模倣でしたので」

「ふん。秋蘭がそうまで言うのなら、いいでしょう。拓実、やりなさい」

 

 不機嫌な華琳に促され、ついに自分の意思が完全に無視されたことに落ち込みながらも、拓実は「これだって仕事のうちだから」などと呟いて必死に自身に暗示をかける。

 何とか気を取り直すことに成功した拓実は、取り外していたウィッグを改めて付け直し、深呼吸を数回。格好をスイッチにしてしまった方が、切り替え易くなることを拓実は経験から知っていた。

 

「ああ、もう。これで満足かしら? まったく、話に聞いていた孟徳殿はもっと高潔であったというのに、実物がこんなにも我侭であったなんて驚きよ」

 

 演技を始めた途端に華琳の性質に乗っ取って、拓実はつい本音を漏らしてしまった。直ぐ隣にいた秋蘭の顔が引き攣り、固まった。

 言ってしまってから拓実自身もまずいと思ったが、意外にも華琳が怒り出すようなことはなかった。

 

「あら、それぐらいは疾うの昔に自覚していることよ。今更ね」

 

 いきなり悪態を吐いた拓実を前にして、華琳は満足そうに笑みを浮かべていた。表面上のことでなく、心から嬉しそうにしている。

 

「こうして落ち着いて見ると面白いものね。これの中身がさっきの気弱な少女だとはいくら私でも見破れそうにない。こうも見事に人を変えてしまうだなんて、中々身につく技術ではないわ。誇りなさい」

「……ここは素直に受け取っておきましょうか」

 

 上機嫌らしい華琳ではあるが、それが何故なのか拓実にはわからない。表面上では対等に笑みを浮かべて話しているが、拓実は内心空恐ろしい思いを抱えたままである。何せ、つい先ほどこの少女に殺されるところであったのだ。

 

「そう、貴女に一つ言っておかなければならなかったわね」

「言っておかなければならないこと?」

 

 拓実が演技を始めてから上機嫌であった華琳は、拓実の不遜な物言いに対しても特段機嫌を損ねることはなかった。そうしているうちに、ふと思い出したように声を上げた。

 華琳を相手にするにも慣れ始め、精神的にも余裕が出てきた拓実は首を傾げて華琳を見た。普段の拓実ならばそうはいかないが、演技をしていれば真っ向から見つめ合おうとも気後れせずにいられる。

 

「ええ。私の下で働きたい、そもそもそういう話だったのでしょう? 今の貴女であるなら我が陣営に迎い入れることに否はない。その才、私の為に存分に振るいなさい」

「……喜んで。孟徳殿にそう言ってもらえるとは、光栄だわ」

 

 華琳をしてそう言われるだけの才などを持ちえているのか拓実にはわからなかったが、そう言われてしまえば頷かないことは出来ない。

 いつの間にか家事手伝いの予定だった職務内容が変わっているような雰囲気を感じてはいたが、その逡巡も一瞬。華琳に対しても一歩も退かずに拓実はそう返す。

 

「華琳よ」

 

 突然に言われ、拓実は思わず数回まばたきを繰り返す。視界の中にいる華琳は、僅かに口の端を吊り上げていた。その声が聞こえていなかったわけではないが、拓実はどこか信じられないような気持ちで彼女を見つめてしまう。

 

「これからは『孟徳殿』だなんて他人行儀な呼び方をせず、真名を呼びなさい。拓実」

「……ええ。そうさせてもらうわ、華琳」

 

 華琳は拓実だけを見据え、身内に向ける柔らかさで拓実の名を呼んだ。堪えきれず、拓実は花の咲くような笑顔を浮かべてしまう。拓実のそれはもちろん、華琳が浮かべるような笑みではない。演技とは違う、拓実自身の笑顔の作り方だった。

 

 三国志を読んで、曹操が英雄であったことを拓実は事前に知っていた。そしてこの少しおかしな三国時代の少女の身であっても、それが変わることはなかった。

 華琳は紛れもなく英傑であり、それこそ類稀なる王の器を持つ人物だ。春蘭からの話を聞き、実際に対面した拓実の中でその考えは更に確固としたものになっている。

 その華琳に凡人でしかない拓実が認められたのだ。英雄にそう思わせることの出来た自分を、拓実は誇りであると思えた。今この瞬間、胸を張ってそれが言える。

 

 

 

 

 

「とりあえず差し当たってのことはいいかしら。では、春蘭」

「はっ!」

 

 拓実の命が華琳より安堵されてより春蘭は膝を着き、華琳に頭を下げたまま微動だにせずにいた。華琳からそうしていろと言われた訳でもなく、春蘭が自発的にしていたことである。

 

「主君であるこの私に対して無礼を働いた理由、拓実と会ったことで理解出来たわ。これを相手にしていては対応を取り違えるのも仕方がないとして、それは不問としましょう」

 

 そうして一度、華琳は口を閉じた。体を震わせている春蘭は、跪いたまま次の言葉を静かに待っている。

 

「しかしもう一つ。どのような理由があったとはいえ、この曹孟徳の決定に異を唱え、且つ食い下がることなど許しがたいこと。それは理解しているわね」

「はっ! 如何様にも処罰を!」

 

 打てば響くように返す春蘭に、華琳は満足そうに微笑んでいた。突如始まった春蘭への査問にいざとなれば春蘭に口添えしなければと人知れずに構えていた拓実は、恐れていたようにはならないだろうと気を緩める。

 

「……そうね、許しがたい。けれど、人材を見つけてきた功績も無視はできないわ。この拓実の才、見逃すにはあまりに惜しい」

「は、はぁ」

「よって春蘭。貴女には通常の業務の他に、拓実への武術の教育役に任命する。期限は二月、早急に仕上げなさい」

「華琳さま! それでは私への罰にはなりません!」

 

 罰を求めて声を上げた春蘭ではあるが、その罰を受けることになった原因――拓実を助けるために華琳の目前に飛び出したことに一切の後悔はなかった。

 確かにあのまま拓実の演技が戻らずに華琳に絶縁されてしまっていた仮定の未来を考えれば体に震えがくるほどに恐ろしいことではあったが、例えそうなろうとも春蘭はあの場で退くことは出来なかった。

 

 拓実は、春蘭が気絶させて無理に連れてきた者である。それに当たっていくつもの無礼を働いてしまったが、その全てを拓実は笑って許してくれていた。

 短いながらもこれまでの付き合いから失うには惜しい人柄をしていると感じていた。まして、そんな人のいい拓実を引き込もうとしたのは他ならぬ春蘭なのである。

 ならばこそ己が原因で拓実が命を失うなど、名に賭けても許せることではなかったのだ。もし我が身可愛さで拓実が処断されるのを見逃すことになれば、周りの全てが春蘭を責めなかったとしたとしても他ならぬ春蘭が自身を許せず、生涯に渡って後悔し続けることになると予感していたのである。

 結果それは、主君である華琳に楯突くことと変わらない。それをわかってて尚、春蘭は止めに入った。自身が不忠であったとわかっていたから、課せられる全ての罰をあまんじて受けるつもりであったのだ。

 

「春蘭、あなたは勘違いしているようね。私は仕上げなさいと命じたのよ。早い段階で私と武器を合わせられるまでに鍛え上げられなければ、勿論その時は改めて貴女に罰を与えるわ。拓実の資質に因るところではあるけれども、僅か二月でそこまでを求めるのはまず不可能でしょうし、今回の任命は罰執行までの猶予とでも思っていなさい」

「は……はっ! そういうことでしたら、かしこまりました!」

 

 ようやく顔を上げた春蘭だが、まるで華琳に褒められた後のように顔を綻ばせていた。そしてそれと対比するように、先ほどまでのように崩してはいないものの確かに苦い顔をしているのは拓実である。

 

「ちょっと待ちなさい。私の仕事は掃除や洗濯、調理と聞いていたのだけど、何故その私が武術を学ばねばならないというの」

「あら。役に入り込んでいたとはいえ、この私に向かって『覇業の一助になる』だなんて大言を吐いた者の科白なのかしら。それに、この私と瓜二つの容姿を持っている者にそんな雑用を任せると、本当に思っているの?」

 

 そう言われてしまえば、拓実は言葉を返すことは出来ない。いくらコントロール出来ずにいたとはいえ、そう述べたこと自体は覚えているし、他ならぬ自分が口にしたことだ。

 さらには、同じ顔である拓実の情けない表情一つで機嫌を損ねた華琳である。自身と同じ容姿をしている拓実が雑用を命じられ、人に使われている姿を見て耐えられる筈もない。

 

「言ったでしょう。私のために、その才を存分に振るえと。秋蘭が当初小間使いにするつもりだったと言っていたことも、私はどうかと思っているのに」

 

 隣にいた秋蘭がそれを聞いて静かに頭を下げた。それを流し見た華琳は、構う様子を見せずに言葉を続けていく。

 

「貴女がその才を活かすには、圧倒的に色々なものが足りていないわ。私には及ばずとも、追随するぐらいの能力を身につけてもらわなければならない。まずは春蘭や秋蘭の域に辿り着く事は出来なくとも、刺客を相手に己の身を護れるまで武を磨きなさい。次に戦局を見渡す目と機を見る判断力を培い、兵の運用を学びなさい。そしてこの街の暮らしをその目で見て仕組みを知り、街の発展に努めなさい」

 

 個人の武を磨き、軍を運用する方法を学び、内務をこなせるようになれと華琳は言う。額面通りに受け取れば、華琳の下で武官、文官両方を兼任するために技術を学べと取れる。

 拓実はしかし、それだけにしては最初の『武』が気にかかっていた。まるで、いずれ拓実が狙われる立場にあることを前提に話しているように聞こえる。華琳と間違えられ、狙われることを指し示しているのだろうか。いや、それなら内務だけをやらせて、戦場に立たせなければいいだけのこと。そんなことを華琳が気づいていない筈がない。華琳が考えているのは恐らく、拓実を敢えて戦場へ向かわせることであろう。

 

「つまり私に、華琳の影武者になれということね」

「『影武者』。そうね、主の影となり主の代わりを務めるという意味であるならその通りよ。仮にも私を模倣しているだけあって、同じ考えに至ることが出来るようね」

 

 華琳は興味深いという表情を浮かべ、ひとつ頷いた。

 

「総大将の存在は兵士の士気を高める。自ら剣を交えず、前線指揮に立つだけであっても敵を威圧できる。共に危険を冒してくれる主君であると感じれば、自軍の兵だってその働きを大きく違えてくれるでしょう。しかし大局を見通さねばならない私は本陣から動けないことも多い。その際に私の代わりに兵を率いて鼓舞する人間、それが貴女よ」

「そう。そして、絶対に討ち取られるわけにはいかない。それだけ言って貰えるということは、私のことを随分と高く買ってくれているのね」

「当たり前のことを、何を今更。私を相手に対等に渡り合える者が、果たしてこの大陸にはどれほどいるものか。その曹孟徳に真っ向から挑み、貴女は演じきって見せた。貴女以外にこの役目を任せることは出来はしないわ。そして同時に、限定的にとはいえ拓実にだけはこの私の名を名乗ることを許すと言っているの」

「私が、華琳の名を?」

 

 華琳に対し聞き返すように言葉を返しながら、拓実は自分の心臓の鼓動が大きくなったことを自覚する。

 どくん、どくん、と拓実を中からぐいぐい押し上げている。役者として。そして、それとは違う理由が体を疼かせている。

 

「か、華琳さま!? どういったおつもりですか!?」

「それは、いくら華琳様といえど承服致しかねます!」

 

 血相を変えながら声を上げたのは春蘭、秋蘭の二人だった。華琳に向けての言葉だというのに強い口調であるのも仕方がないと言える。下手を打てば今の州牧の地位すら失いかねない言葉だったからだ。

 血統を尊び、名を命とするこの大陸では、華琳のその発言はありえないといってもいいものである。真名を預けるというだけでも相手の命を預かるという重要な物であるのに、他人の、それも州牧という要職に就く者を騙るともなれば、最早それと比肩できる話でもない。本人よりの許可があるが故に、その事実が公になればたちまち華琳は「命を譲り渡す、名の軽い者」と揶揄されるだろう。曹孟徳という名は、あっという間に堕ちていくことになる。

 

「二人が何を危惧しているかについては理解しているわ。だからこそ拓実がその『影武者』なる者であることは徹底的に秘匿し、中枢の信用おける者のみが知る最上の機密とするつもりよ。拓実には極力外出をさせず、する時であっても完全な別人になるよう変装してもらうことになるわね」

 

 夏侯姉妹からの忠言に華琳は冷静に詳細を話していく。それを聞いて納得してしまった春蘭はともかく、秋蘭の方はまだいくつも問題点を具申したいようだったが、結局は押し黙ることにしたようだ。

 二人がとりあえず納得したのを確認し、その計画の中核になる拓実を華琳は見やった。

 

「それで、拓実はどうかしら? 間違いなく不自由にはさせてしまうとは思うけれど、これは貴女にしか出来ないことよ。問うわ、南雲拓実。――この私の『影武者』として仕える気はある?」

「……少しだけ、考えさせてもらってもいいかしら。自分が今置かれている状況に、整理をつけさせて」

「ええ。自分に納得のいく答えを見つけなさい」

 

 ――華琳の許可を得て、拓実は深く思考の海に沈んでいく。考えるべきは、自身のことである。

 

 この時代に来て色々とあったが、拓実が来てからまだ二日目。一晩しか経っていないのだ。春蘭が華琳について語る中で、いくつかこの時代の情勢についてがあったが、どういった時代であるのかを自分の目で確かめたわけではない。最終的に元居た日本に帰りたいと思ってはいるが、どのようにしてこの時代に来たのかもわからず、当然ながら帰る方法だって存在しているのかどうかすらわからない。拓実はもしかしたら、この時代で一生を終えることになるのかもしれない。わからないことだらけだった。

 そもそも華琳と会うことになったのも、情報を集めるための当面の衣食住を求めてのことだったのだ。当初の仕事の条件であれば、強引に申し出れば出奔することだって難しくはない。しかし華琳の配下として重大な役職についてしまえば途中で逃げることなど許されまい。少なくとも大陸がある程度平定されるまでは、華琳の下を離れることは出来ないだろう。立場柄、集めようと思えば様々な情報を手に入れることが出来るかもしれないが、その中から帰る方法を見つけたとしても戻ることは許されないだろうし、自分の信条的にも出来そうにない。

 

 華琳に仕えることで帰れなくなる可能性が出てきてしまうのだが、それでも配下として迎えてもらうことが自分にとっての正解だと拓実は断じていた。

 堅実に行くならば、華琳の下で大陸の平定に尽力することだ。同時にそれまでに現代日本へ帰る方法を探して見つけておく。何年掛かるのかわからないが、全てが終わった後に帰ればいい。もし帰る方法がなかったとしても、この世界で生きていくだけの仕事はある。申し出を断って出て行くよりも帰る方法が見つかり易いだろうし、衣食住についての心配もなくなるだろう。

 

 けれども、拓実が華琳の配下となれば、これまでやったこともないことをいくつもこなさなければならなくなる。

 一つに政務――これはまだいい。文字の読み書きはこの時代で生きていく上でも必要だし、一応は学生であったのだから恐らく計算なんかも問題ない。一度覚えてしまえば、きっと人並み程度にはこなせるだろう。

 一つに軍務――人を率いて、人を殺すということ。己の目的のために、他人を殺すこと。エゴを突き通さなければならないということ。

 そして自衛――当然『影武者』という立場には危険が付いて回る。殺される可能性があるのは華琳が武を磨けということからも理解できている。いざという時に己の身を護れるぐらいに強くならなければならない。

 

 拓実にとってどれも未体験で、大変なことだ。特にその中でも多くの人を殺していかなければいけないというのが一番堪えるものだと思う。こうして考えていても、人を殺す自分の姿を想像も出来ないでいる。

 しかし華琳の下でなくとも、この時代には他人を殺さなければ自分が殺されるような、そんな状況が溢れているという。旅をすれば、追い剥ぎに遭って殺されることもある。追い剥ぎが返り討ちに遭って殺されることもある。兵になれば敵方の兵を殺し、あるいは殺される。街で静かに暮らしていたって、賊の略奪に遭えばそれでおしまいだ。

 

 こんな荒廃した世を憂い、一つにまとめ正す為に華琳が立っていることを拓実は知っている。

 そんな華琳を支えている春蘭と秋蘭が、己が主君こそが何よりの誇りであると思っているのを拓実は知っている。拓実も、誇って生きていきたいと思っている。例え同じ人殺しになるにしても、少しでも自分に誇りを持っていたかった。

 そして一時とはいえその華琳に成り切っていた拓実は感じていた。弱い自身と、強い華琳との大きな差を。そして、彼女は拓実の知る誰より誇るに足る人物だということを。そんな強い華琳が危険を冒しながらも世を正す為、弱い拓実の力を必要としているのだ。

 

「私は、華琳についていくわ。華琳の作る太平の世を生きてみたい」

 

 そう考え至った時、拓実の中ではすとん、と答えが出ていた。拓実は当たり前のように、華琳と同じ道を歩んでいくことを選んでいた。

 たとえ血で濡れようと、華琳の目指す覇道を終わりまで支えていく覚悟を固める。華琳の覇業を助ける為に人を殺すことを、他ならぬ自分の意思で決めた。

 

「けれど華琳。私という存在が他者に知れれば多くの不利益を生み出すことになるけれど、構わないのね?」

「言ったでしょう。これは、貴女以外には出来ないことだと。逆を言えば、私は貴女であるなら間違いなくこなしてくれるだろうと確信しているの」

 

 笑みと自信を以って、華琳は言い切った。華琳にそうまで言われてしまえば、拓実も何事もなく出来てしまうような気になってしまう。

 

「……ふふ」

 

 こちらに微笑を向ける華琳に対して、拓実も笑って返した。そして静かに華琳の前まで歩み寄り、膝を着く。華琳に向けて頭を垂れ、自身の誓いを口にした。

 

「我が全身全霊を以って、貴女の影武者を務めましょう」

 

 そうして現代からの来訪者である南雲拓実は、後世に英雄と称えられている曹孟徳の影武者となったのだった。

 

 



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5.『荀彧、夢の世界に旅立つのこと』

 

「この場にいる臣下に通達を出す。拓実についての情報はそれを持つ者以外には一切の他言無用とし、私が選定する信頼に値する者だけがこれを共有すること。破りし者には例外なく厳罰を下すから覚えておきなさい」

「はっ!」

 

 華琳は玉座より立ち上がると全員を見回して『影武者』秘匿の体制を作ることを宣言し、拓実を含む三人はその場に跪き揃った声を上げた。

 

「さて。そうと決まれば私の腹心にも話を通しておきましょうか。とは言っても、ここにいる者以外に拓実の存在を知らせておける者などそうはいないのだけど。まずは桂花かしらね」

 

 新たに人を増やすことについて、もちろん拓実に否はない。今のこの陣営に誰がいるかなどわからないことである。そして、華琳が腹心というほどの者であるのなら問題は起こらないだろう確信がある。

 秋蘭は瞑目して静かに佇んでいる。普段の秋蘭を知っている者であれば、それが肯定の表れであるとわかった。

 

「あの、華琳さま。季衣の奴には知らせてやらないのですか?」

「もちろん、季衣には知らせておかねばならないでしょう。親衛隊にも事情を知る者が必要でしょうし、立場柄どうしたって拓実とも顔を合わせる事になるのだもの」

 

 そしておずおずといった風に疑問の声を上げたのは残る一人、春蘭だった。その質問を想定していたのか、玉座に座り直した華琳は即座に言葉を返した。続いて肘掛に身体を預け、脚を組み直す。

 

「けれども、あの子に伝えるのは順序として桂花の後よ。『影武者』を上手く運用するに軍師である桂花の知恵は不可欠、拓実の存在を打ち明けるならば早いに越したことはないわ。拓実には政務について学ぶ場がなければならないし、そちらの教育は桂花に任せるつもりでいたから丁度いいわ」

「はぁ。成る程、そういったわけでしたか」

 

 得心して眉を開いた春蘭より明るい声が聞こえてくる。二人がそんなやり取りをしている間に拓実は拓実で少しばかり考えていた。知らない名が華琳から発されたことである。

 今出てきた名前――華琳が重用しているらしい軍師の桂花と、親衛隊だという季衣。これらの名が真名であろうことはわかるのだけれど、三国志でいうところの誰なのだろうかというものである。魏で有名な軍師とすれば荀彧や郭嘉、賈駆あたりが浮かぶけれども、候補が多すぎて拓実には絞れない。もう一人に至ってはわかっているのは親衛隊というだけである。せめて隊長の役職ということであったなら許緒がそうだった覚えが拓実にはあるが、華琳の口から出てきた名前だからといって必ずしも拓実が知っているような有名な武将ではないかもしれない。

 いくら考えたところで答えが出てくる筈もないので、拓実は諦めて顔を上げた。

 

「それに直ぐ知ることになるとはいえ、拓実のことを誤って口外してしまいそうな者を急いで二つに増やす必要はないわ。あの子は純真だから本質的に隠し事は向いていないでしょうしね」

 

 そう言いながら意味ありげに、目の前で跪く三人を流し見る華琳。彼女の言う『誤って口外してしまいそうな要素』だが、拓実や秋蘭にはその一人目が誰を指したものであったかわかっているから敢えて誰とは言わない。

 拓実と秋蘭の視線が残る一人に集まる。ただ、口に出さずにこうして見つめるだけだ。どうやらその者は考え込んでいて、二人の視線には気がついていない。

 

「二つ、と言うことはだ。既に知っている者の中にも一人、口の軽い不届き者がいるのですか。……なるほど! さすがは華琳さまです」

 

 件の人物は遅れてようやく華琳の言葉の意味を理解したようで、辺りをキョロキョロと見回していた。視線を華琳、拓実、秋蘭へと向けた後、何かに気づいたように拓実にまた戻し、まるで全て理解したかのような口振りで華琳を褒め称える。そして何故か、拓実にこそこそと近寄ってきた。

 

「おい拓実、充分に気をつけるんだぞ? 華琳さまはお優しいから大きな声で注意を促すことはしなかったが、お前は何だかんだで抜けているところがあるからな」

「……」

 

 そんな春蘭を、拓実は華琳の演技をすることも忘れて呆然と見つめ返してしまった。正に絶句というやつである。この人は何を言っているのだろうか、そんな考えで拓実の頭の中は敷き詰められてしまっていた。

 

「なんだ? ど、どうした私のことをじっと見つめたりして、照れるじゃないか。駄目だぞ、いくらお前が華琳さまに似ているからといって、そうそう簡単に私が(なび)くと思うな。私は華琳さま一筋なのだからな」

 

 この言葉で拓実は、春蘭はおバカという単純な言葉で言い表せないことを知る。その季衣という子と同じで、きっとどうしようもなく純真なのだ。この春蘭という娘は。

 知らず拓実は微笑んで、こちらに耳打ちするようにしている春蘭の頭を撫でていた。拓実の頭の中にはペットの飼っている者がよく使う例の言葉が思い浮かんでいる。『バカな子ほど可愛い』というやつである。

 

「な、何をするかっ! そんな顔をして私の頭を撫でるのではない! ……む? 秋蘭までどうしたのだ? あれ? 華琳さま?」

 

 そんな姉を慈しむように見ているのは秋蘭。華琳だって口元に笑みを浮かべていた。春蘭はそんな周囲の様子に驚いているようだが、そのうろたえる様子すらもいとおしく見える。愛されているんだな、と言われずとも拓実は理解できた。

 

「それじゃ拓実、行くわよ。私についてきなさい。桂花には備蓄確認の書類を任せておいたから、今頃は部屋でまとめて終えている頃よ」

「ええ」

 

 言うなり、華琳は謁見の間の入り口へと歩いていく。拓実は、出来ることならこのまま春蘭の頭を撫で、飽きるまでうろたえる様子でも眺めていたい気もしていたが、その欲求を何とか断ち切って華琳に続いた。

 

「ほら、我々も行くぞ姉者。遅れるなよ」

「う、うむ」

 

 戸惑いを隠せない様子の春蘭だが、とりあえず考えることをやめて先に続く三人へ追いすがった。

 そうして拓実が華琳に従って歩いていると、後ろの会話が聞こえてきた。こそこそ話しているつもりなのだろうが、春蘭の声は大きくて、どうしたって拓実にも聞こえてきてしまう。

 

「なぁ秋蘭。何故、私は優しく見守られていたのだ? 何ら心当たりがないのだが、知らずに何かしていただろうか」

「言うな姉者。姉者は気にせず、そのままでいいさ」

「む、そうか?」

 

 二言三言の会話であったが、拓実はそれを聞いて優しい気持ちになれた。

 

 

 

 

 程なくして、目的地に着いたらしい。歩いているうちに気づいたが、昨夜拓実が借りた部屋の直ぐ近くであった。

 部屋まであと十数歩ほど、というところで華琳がおもむろに足を止める。続く三人も倣って立ち止まることになった。

 

「あの部屋に桂花はいる筈なのだけれど……しかし私と拓実の二人がいながら、ただ顔会わせするというのもあまりに芸がないわね」

 

 顔合わせに芸は必要ないのではないかと拓実は思ったものだが、同時に華琳の性格からそう考えるのも無理はないことを理解していたので口は挟まない。

 基本的に華琳は面白いものが好きなのである。こんな面白くなりそうな状況にあって何もしないとはむしろ考えにくい。

 

「はいっ、華琳さま! この春蘭めに名案がございます!」

「期待はしていないけど……言って御覧なさい」

「はっ! まず私と拓実が一緒に桂花の部屋へと入室し、仲睦まじくしているところを見せ付けてやります。当然桂花の奴は悔しがって、泣いて拓実にすがりつくことでしょう。『捨てないでー、華琳さまー』とでも言うかもしれません。それも、愚かなことに拓実が華琳さまでないとは知らずにです。しかる後に、桂花が拓実にしがみついている間に、華琳さまに部屋に入室していただくのです。あやつは混乱し、後から入ってきた華琳さまをきっと偽者と断じることでしょう。そして皆でそれを大笑いしてやるのです! 己の主君もわからぬ不忠者め、と! これならば、間違いなく桂花の奴に一泡吹かせることができましょう!」

 

 それは聞いていた拓実が、春蘭はその桂花に恨みでもあるのではないかと邪推してしまうぐらいに、意地の悪い案であった。いつの間にか面白おかしい顔合わせをするということから、桂花なる人物に一泡吹かせることへと主旨が変わっている。いや、その慌てふためく桂花が面白いものであったなら変わってはいないのだろうか?

 だが春蘭らしく細かなところの詰めは甘いが、彼女にしては良く出来た発案だ。しっかり順序立てて話すことが出来ていただけでも大したものである、というのはいささか侮りすぎであろうか。

 

「ふむ……なるほど」

 

 そんな希望的観測が含まれている案を華琳が採用するとは思えなかったが、何故か華琳はそれを吟味しているようである。てっきり一言で切って捨てるものと思っていた拓実は、思わず華琳を凝視してしまう。

 

「悪くないわね……いいわ。春蘭の案でいきましょうか」

「ほ、本当ですか華琳さま! 私の献策を採用してくださるだなんて、光栄でございます!」

 

 感激に咽び泣く春蘭を置いて、拓実は華琳に近づいた。いくらなんでも、これは止めさせないといけないと思ったからだ。

 

「華琳、あなた本当にそんな案で私の顔合わせをするつもりなの? 私とだけでなく、春蘭とのその者の関係がこじれても知らないわよ」

「わかっているわよ。拓実、少し耳を貸しなさい。今の春蘭の案に、少しだけ変更を入れるから」

 

 流石に何も考えていないわけではなかったか。拓実は少し安心し、華琳から耳打ちされた内容を聞いてかなりの後悔をした。

 

 

 

 

 

 桂花は自室にて、陳留の街における兵糧や武具、資金等々の備蓄数を調べ直し、合算し、一つの竹簡に書き留めているところであった。

 既に、新たに華琳が統治を任された他の街の備蓄は調べ終え、竹簡にまとめて終えてある。最後に以前よりまとめてあったという陳留の調査書と合わせて報告しようと見直していると、その竹簡に間違いを発見したのだった。

 

 華琳が州牧となって間もなく、同時に桂花が華琳の下に軍師として務めてから一月とも経っていない。

 以前から桂花がいれば国勢の調査など手抜かりなく出来ていただろうが、今までの文官に突出している者がいなかった為に調査が行き届いていなかったところがあった。それを見つける度に、こうして桂花がその空いていた穴を埋めることになっているのだ。

 

「陳留の調査をまとめていたのは、記憶違いでなければあの河馬のような下劣な顔の男だったわね。記憶に残しておきたくなんてなかったけど。これだから男は駄目なのよ。こんないい加減な仕事をするなんて、低脳で、下品で、脳味噌に()が入ってるとしか思えない。いいえ、もしかしたら空っぽなのかも。ああ、やだやだ」

 

 ぶつくさと文句を言いながらも、桂花の手は止まることがない。そして、程なくして竹簡に全ての情報を書き終えた。苛々をぶつけるようにして筆を置くと、竹簡の墨を乾かすためにそのままに、寝台に腰を下ろす。

 

「こんなことばかりに時間を取られて、ここ最近は華琳様にお会いできるのも朝にお仕事を頂く時とその報告をする時だけ。はぁ……早く墨、乾かないかしら。そうしたらすぐにでも華琳様の下へ報告に伺うというのに」

 

 ぼんやりと書き終えたばかりの竹簡を眺める。あれが充分に乾くまで、一刻は必要だろう。いつもの桂花であるならこの時間を使って次の仕事の準備に取り掛かっていたが、どうした訳かそんな気が起きない。今桂花は、空っぽだった。華琳に会ってからでなければ、仕事をする元気が湧いてきそうにない。

 

「――桂花、ちょっといいかしら?」

 

 桂花が無気力に寝台に倒れた、そんな時だった。求めている人の声が、自室の外から聞こえたのは。

 

「か、華琳様でございますか!?」

 

 桂花はすかさずに、寝台から飛び起きていた。走り出しそうになる足を叱咤して、極力慌てていないよう取り繕った足取りで扉へと向かう。

 

 

 

「華琳さまっ」

 

 扉を開けた先には、桂花が渇望していた姿があった。凛とした佇まい。桂花が見てきた誰よりも気高い、意志の籠もった瞳。覇王の証明たる覇気を秘めているだろう、自身とそう変わらない小柄な体躯。いつもと服装がいくつか違うが、声も姿もその気品も、桂花の知る華琳以外の誰でもなかった。

 思わず蕩けそうな笑顔を浮かべかけた桂花であったが、その後ろに控えていた人物を見て一気に不機嫌になる。

 

「何であんたが華琳様と一緒にいるのよ、脳筋女」

「ぐっ、誰が脳、むっ、ぎぎ。か、華琳さまに、ついてこいと言われたのだ! ……ふ、ふふふ。お、愚か者め。そう言っていられるのも今のうちだ」

 

 第一声から侮蔑された春蘭は、逆上しかかったようだったが、すんでのところで持ち直したようだ。その後何やら笑いながらぶつぶつと言っているのだが、あの春蘭が挑発に乗らなかったことと合わせ、桂花の目にはさらに異様に映る。

 

「何ぶつぶつ言ってるのよ、気持ち悪いわね。どんな考えで無理しているか知らないし、知る気もないけれど、あんたは猪なのだから余計なことを考えない方がいいわよ」

「こ、こいつっ、言わせておけばぁ!」

 

 そこまで言われてしまえば元々短気である春蘭だ。激情に任せ、桂花に向かって飛び掛かろうと身を乗り出した。

 

「ああもう、少し黙りなさい貴女達。春蘭も、ここに来た目的を忘れないで欲しいわね。それで桂花、こんなところで私に立ち話をさせるつもりなのかしら」

 

 春蘭を止めたのは、華琳であった。呆れた様子で、そんな二人を見ている。

 視線を受けた桂花は慌てて、深く頭を下げた。会いたいと思っていた相手がこうしてわざわざ出向いてくれたというのに、他の者とばかり話をして時間を無駄にしてしまっていた。

 

「ああっ、申し訳ございません華琳様! 汚いところでございますが、よろしければどうぞお上がりください。……春蘭、入室は華琳様に免じて、仕方なく許してあげるけど、絶対に私と華琳様のお話は邪魔しないでよね」

「ぐっ、ぬぬぬ!」

 

 そうして、桂花は怒りで唸りを上げる春蘭を置いて、華琳を自室へと嬉々として招き入れる――それが桂花の知る華琳ではないことを知らずに。

 

 

「申し訳ありません、華琳様。言いつけられていた備蓄調査なのですが、前任者の河馬男が誤った書類を作っていたために、まとめ直すのに今の時間まで遅れてしまいました。書類の方は書き上げてありますが、まだ墨が乾いておりませんので後ほどまた伺わせて頂きます」

 

 桂花の部屋に入室して、華琳が目を留めていたのは机の上の開かれた竹簡と、いくつかのその束だった。仕事の報告を受けに出向いてくださったのだと考えた桂花は、申し訳なさそうに頭を下げて釈明する。

 

「そう、わかったわ。報告はその時に一緒にして頂戴」

「恐縮にございます」

 

 同時に、後で構わないと言われて、また華琳と会うことが出来ると思い至った桂花は頬を緩めていた。つい先ほどまで会いたくとも会えないことに沈んでいたが、会う機会が増えるとなれば機嫌も直るというものだ。

 何故か、華琳の後ろに控えている春蘭が笑いを堪えているのが癪に触るが、邪魔はしていないようなので捨て置くことにする。

 

「それで、本日はどのような御用向きでしょうか? 私に出来ることならば誠心誠意手を尽くしますが、備蓄調査については今しばらくお待ちくださると……」

「それなのだけれど――春蘭」

「はっ!」

 

 声を掛けられて、後ろで控えていた春蘭が、すっ、とその横に並ぶ。そして華琳に向き直って跪き、目を瞑った。

 

 いったい何を、と目で追っていた桂花は、思わず自身の目を疑った。そんな春蘭を、華琳は突然に熱に浮かされたように、うっとりと目を細めて眺めているのだ。

 差し出した左手で、跪いている春蘭の頬の輪郭をゆるりと、いとおしくなぞっていく。そのまま下ろしていき、顎まで手が掛かると、それをくい、と優しく持ち上げた。

 そして、艶々とした春蘭の下唇を、その親指で優しく撫でさする。じわじわと目に見えるほどの速度で、春蘭の頬が赤で染まっていった。びくりと体を震わせ、まぶたをひくつかせる春蘭を見て、華琳は淫靡に口元を歪めていく。

 

「か、華琳様!? あの、何をなさって……?」

 

 それを目の当たりにしている桂花は、まったく訳がわからなかった。政務の跡が残る桂花の部屋に、どうして閨に呼ばれた時のような空気が蔓延しているのか。華琳が他の娘に寵愛を与えていることは知っている。自身がその内の一人でしかないことだってそうだ。しかし、何故それを目前で、それも他の娘と戯れる姿を見せ付けられているのか。

 桂花は咄嗟に自身に至らぬことがなかったか振り返る。――ない、はずだ。桂花が軍師に任命されるきっかけとなった遠征で、兵糧が僅かに不足した不手際はしっかりとお仕置きされていたし、それからは目立った失敗だってしていない。むしろ先日には、よくやったとの言葉を直々に賜ったばかりである。最近構ってもらえないので、小さなところでわざと見落としを作り、華琳からお仕置きを受けようかと画策を始めていたぐらいだ。

 

「春蘭、目を開けなさい」

「はいっ」

 

 そんなことを桂花が考えている間にも、突然始まった華琳と春蘭の戯れは進んでいる。

 春蘭は華琳に言われて、素直にぱっと目を見開いてみせる。開いた目は、潤んでいた。熱っぽく華琳を見上げている。その目がふと横に呆然と立つ、桂花へと向いてみせた。

 ――勝ち誇っている。

 桂花は、ぐっと唇を噛んだ。こちらを見下している春蘭を、全力で睨み返した。何だか知りはしないが、この状態は間違いなく春蘭が絡んでいて、桂花にそれを見せ付ける為に作られている。何故華琳がそんな企てに乗ったかは知らないが、春蘭は桂花を馬鹿にしにきているのだ。わざわざ、桂花の部屋に乗り込んでまで。

 

「どうしたの桂花。もしや嫉妬でもしているのかしら?」

「そ、それは……」

 

 桂花が春蘭を睨みつけていたことに気がつき、華琳より声がかかった。

 しかし、桂花には答えられない。答えたくはない。嫉妬していると認めてしまえば、春蘭の思うとおりに事が運んでいることを示してしまう。春蘭に、負けを認めてしまう気がしていたからだ。

 

「桂花。この私が聞いているのよ、答えなさい」

「ぅ、はい……。嫉妬、しています」

 

 それも、敬愛する華琳に命令されてしまえば自身の意思など関係がなかった。ぶるぶると、桂花の体は震わせながらも、自身の心情を吐露する。最早、堪えきれずに、桂花の瞳は涙で濡れていた。

 責があるのならば、言ってもらえれば受け入れた。もしあるというのなら教えて欲しかった。新参とはいえ他人の倍以上の仕事をしている自負がある。何故、そんな自分がこんな惨めな目を合わされているのか。嫉妬ではない。春蘭への、怒りや、悔しさが桂花の体を震わせていた。

 

「そう……」

 

 桂花の言葉を聞き、震えているのを見た華琳はそれだけを言うと、春蘭から手を離した。「ぁ……」と春蘭が小さく漏らした声が、桂花の耳に届く。

 これ以上、何を見せ付けられるのだろうと、桂花は目を思い切り瞑った。もうこれで、桂花には目の前で何が起こっているかなどわからない。

 ふら、と体が揺れて、腰から砕ける。ぺたんと、床に座り込んでしまった。酸素が足りていない。頭がくらくらしている。桂花はこのまま全てを放って、気絶してしまいたい衝動に駆られていた。

 

「まったく、仕方がないわね」

「……えっ?」

 

 ぎゅう、と体が圧迫された感触にびっくりして、桂花はまぶたを開いた。桂花はそうしてようやく、華琳に抱きしめられていることに気づけた。

 泣いた子をあやすように華琳に抱かれたまま、髪に手櫛を通すように頭を撫でられる。桂花が訳も分からずきょろきょろと視線を惑わせていると、華琳の肩越しに驚愕に目を見開いた春蘭が見えた。

 

「ふふ、桂花ったら、本当に可愛い子。今日は貴女を可愛がろうと思って訪ねて来たのよ」

「かっ、華琳さま!? これでは、当初と話が……」

「お黙りなさい! 春蘭、貴女とは話をしていないわ!」

 

 その華琳の剣幕に、声を上げかけた春蘭はびくっ、と身を竦めた。気勢を削がれ、声もすっかり小さくなった春蘭はその後も必死に気を引こうと呼びかけているが、華琳は一切を聞き届けない。

 そして桂花もまた、そんな春蘭の声(ざつおん)など聞こえていない。頭の中にはずっと先の華琳の言葉だけが響いていた。ぼう、と頬を染めて、自身に向き直る華琳の顔ばかりを見つめていて、春蘭などは眼中にすら入っていない。

 

「あの、華琳様、それって……?」

「ええ。春蘭には飽きてしまった。これからはずっと貴女に付き合ってもらうことになるのだから、もういらないわ。その代わり、覚悟を決めなさい。私は貴女を決して離したりはしないわよ?」

「あ……は、はいっ! 髪の毛からつま先に至るまで、私は全て、華琳様のものですから!」

 

 花が開いていくように桂花の笑顔が咲いた。直前の嫌な、どん底だった気持ちは吹き飛んで、桂花はもはや天上にいるかの如き幸福を味わっていた。

 ――桂花の精神がまともな状態であれば、流石にこの展開のおかしさに気がついただろう。しかし、直前に華琳と春蘭の絡みを見て落ち込み、春蘭に見下され怒り、そして急激に華琳に優しくされて彼女の思考回路は半ば停止してしまっている。

 

「ちょ、ちょっと待っ……。飽きてしまった? い、いらない? な、何だ、この喪失感は? 華琳さまが言った訳ではないだろう! それに桂花が抱きつかれているのは、華琳さまではなく、拓実だ。何故私が、それを見て悔しい思いをせねばならんのだ! いや待て。あれは……た、拓実だよな? 拓実? ……本当に拓実なのか?」

 

 向こうには肩を落とし、茫然自失という様子の春蘭が抱き合う二人の方向を眺めている。しかし、正しくは視界に入っておらず、必死に自身の気持ちに整理をつけているようだった。

 

「華琳様、あの、私もう……」

 

 もじもじと自身のかぼちゃパンツを握り締め、必死な様子で華琳の腕の中から熱い視線を送る桂花。いや、熱いのは視線だけではなくその吐息もだし、真っ赤にさせた顔も興奮により随分熱くなっているだろう。それらが何を示しているのか、華琳にもわかっている。桂花がどうして欲しいのかも、なんとなくわかった。

 

「動かないで」

 

 こんな風に耳元で囁き、桂花の動きを止めることに成功したが、しかし華琳にもこれ以上進む余地はなく、動けなかった。

 いや、ここから先、華琳の演技を続けることは出来ない以上は華琳などではなく拓実と呼ぶべきか。ともかく拓実は未体験のことまで上手く演技できる自信はなかった。それに、たとえ出来たとしても絶対にやらないだろう。

 そうしてどうしていいかわからなくなった拓実は桂花を抱きしめたまま、石のように固まることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

「桂花、失礼するわよ」

 

 入り口から中を伺っていた華琳が形だけの声をかけて入室してくる。つかつかと我が物顔で歩く華琳の後ろには、秋蘭が控えていた。そうして中を見渡し、膝を突いて涙を流している春蘭の姿を見つけた華琳は、拓実がどうやら上手くやったことを知った。

 

 華琳は春蘭に知らせずに演技内容の変更したものの、その大筋自体は変えていない。拓実に命じたのは、『春蘭が調子に乗り出したら、春蘭を手酷く捨てて桂花にくっつけ』である。

 どちらもどちらではあったが、春蘭と桂花との間には衝突が多かった。この前などついに、口論で完膚なきまでに叩きのめされた春蘭が城の中で剣を抜くという事態にまで陥っている。その時は騒ぎを聞いて駆けつけた華琳がとりなして事無きを得たが、下手をしたら両者を失うことになっていたかもしれなかったのだ。

 華琳自身のことで争っているのだろうが、それでもやりすぎである。こんな意地の悪い案を言い出した春蘭も、気に入らない相手に会うなり侮辱する桂花も、そんな二人が争うことも調和を乱す原因でしかない。そうして華琳は、一度、両者共に痛い目に合わせるべきだと考えていたのだ。

 

 拓実の演技力もあり春蘭は華琳に言われたかのように傷心したようであるし、今幸せに浸っている桂花には拓実という別人に抱きついていることわからせて両者の均衡を取るつもりである。

 結果としては上々。残るは、桂花に事情を話して、華琳の立てた計画を締めるだけである。そうして華琳が抱き合う二人のところまで歩み寄っていくと、恍惚とした表情で目を瞑っている桂花に声を掛ける。

 

「桂花。こちらを向きなさい」

「ああ、華琳様。桂花めは大陸一の幸せ者でございます」

「桂花……?」

「うふふ、大丈夫です。私は未来永劫、華琳様に従っていきます。貴女様から一時たりとも離れたりなど致しません」

 

 何度か華琳は呼びかけるも、一向にこちらに振り向く様子はない。それどころか目は瞑ったまま、口はだらしなく緩められ、もどかしそうに拓実に身体をこすりつけている。

 横に控えていた秋蘭も声をかけてみるが反応はなく、そんな桂花の惚けた顔を覗き込んでから華琳へと振り向いた。

 

「華琳様。もしや桂花は……」

「ええ、この私の声ですらも届いてはいないようね……」

 

 華琳もまさか、ここまでのことになるとは思っていなかった。己が声をかければ、流石に正気を取り戻すと踏んでいたのだが、桂花は常人には到達の出来ない幸せな世界へと旅立ってしまったようである。

 驚くべきはそう詳しくも話してはいないというのに桂花の性格を捉えてみせた、拓実の人柄把握術だろうか。その本人はというと桂花に抱き返されて動けず、頬擦りされながらも困り果てた様子で華琳を見上げていた。

 

 



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6.『拓実、その正体を暴露するのこと』

 

 華琳と拓実が呼びかけることで桂花は何とか正気を取り戻したようだったが、しかし最初に見た光景が悪かった。よりにもよって左右から自身に向かって必死に呼びかけている、華琳と拓実の姿であったのだ。

 夢の続きとでも思ったか「華琳さまがお二人では、流石の桂花も体が持ちませぬ!」という嬉しい悲鳴らしきものを叫び残して倒れ、再び常世にはない桃源郷へと旅立っていってしまった。

 

「まさかこんなことになるだなんて。計算違いもいいところだわ」

 

 華琳は気を失って床に倒れている桂花を見下ろしてそう呟いた。いくら主君が突然に二人に増えたように見えたとしても、気絶するとは思わないだろう。拓実だってこんなことが現実にあるのかとびっくりしたものだ。

 

「とりあえず桂花は起きるまで放置。春蘭も自身で気がつくまでは放っておきましょう」

 

 一応、桂花については寝台に寝かせてあるが、もっと可哀想なことになっているのは茫然自失となっている春蘭だ。でかい図体をしていて邪魔だからという理由で部屋の隅に押しやられてしまったのである。

 『拓実は果たして拓実であるのか、だとしたら何故華琳ではないのか』という哲学的な疑問は一端収束したらしく、独り言を聞くに『華琳に飽きられないためには』といういくらか前向きなものに変わっている。この分では復活も遠いことではないだろう。

 

「ところで拓実、訊いておきたいことがあるのだけれど。貴女には必然的に、私の影武者として表舞台に出ている以外のところでは変装してもらって別人物を演じてもらわなければならないわ。その辺りは大丈夫なの?」

 

 机に備え付けられた椅子に腰掛けた華琳に訊ねられて、拓実はしばし思案する。

 この華琳の質問は、華琳としてだけではなくその他の人物としても振舞えるのか、という意味だろうか。そういうことならば、素の南雲拓実を選択肢から省いたとしても、現代の知り合いでも真似ればいいだろう。男の方は見た目や身長の面で少し厳しいかもしれないけれど、小柄な女性であればまず問題はない。拓実には、悲しいことではあるが。

 

「ええ、問題はないわ。演じろと言われたら、この私の理解の及ばない役柄でもなければ、演じてみせる。でも、ただの南雲拓実としての性格で充分、華琳と差別化が図れる気がするのだけれど」

「駄目よ、そのせっかくの才を腐らせておくには惜しいわ。普段から磨いておきなさい。……それはさて置いたとしても、私の顔で情けなくされることが何より我慢ならないの」

 

 それはつまり、南雲拓実のままでいることは無様であるから許されないということだ。そんな物言いをされた拓実は当然ながら面白くない。素の状態であれば気の弱さから苦笑いでも浮かべているところだが、演技をしている拓実は不機嫌さを隠さず、華琳を冷ややかに睨みつけている。

 物怖じせず真っ向から睨みつけてくる拓実を見て、華琳は笑みを浮かべる。この反応の違いこそが、演技をしていろと言われている所以(ゆえん)だと拓実本人は気づいていない。

 

「ならばそうね……例えばこの場の、私以外の人間の演技は出来る?」

「この場にいる、ね」

 

 拓実は部屋中を見渡した。この部屋にいる人物を一人一人眺めて、今まで得てきた情報を整理していく。

 

「演技をするには、役となる人物の意志と思想。さらに性格、仕草、口調等を把握してなければならないわ。そういった意味では、この場にいる人物はある程度把握している。その中でも、春蘭が一番揃っているのだけれど」

 

 言って、まだ隅で落ち込んでいる春蘭を見やる。まだ帰ってきてはいないようだ。

 今まで一番拓実と話していたのは春蘭であるし、彼女は裏表なく性格を出している。拓実は今演技をしている華琳よりも春蘭の方が多くを知っていると言えるかもしれない。

 だが、彼女は背が高く、スタイルもよく、綺麗な長い黒髪を持っている。背が低く、金髪であり、もちろん体に凹凸などありえない拓実の身体特徴とは離れすぎている。真似るだけならやれないこともないだろうが、長時間演じるというところまで考えると周りの反応やらで拓実が描いている春蘭像と自身に齟齬が出てきてしまうだろう。

 そういう意味では、同じく秋蘭を演じるのも体格の面で無理が出る。

 

「私の見た目と離れ過ぎた者を演じるとなれば、見る者に違和感を覚えさせてしまうかもしれない。容姿までを考慮するならば、眠っているその子になりきるのが一番やりやすいかもしれないわね」

 

 笑顔を浮かべ、安らかな寝息を立てている桂花を視線で示す。時折くすくすと笑い声を漏らして、何やら幸せそうである。

 髪色は華琳ほどの鮮やかな金ではなく、茶に近いようだがまだ見た目として許容範囲だ。髪の長さも、ウィッグを外し髪を解いた拓実と丁度同じぐらいの長さ。背だって拓実より僅かに高いぐらいで、そうは変わらない。

 不安要素はこの場にいる他の者と比べて、情報が圧倒的に不足していることだ。事前に華琳や春蘭、秋蘭から人となりを簡単に聞いていたとはいえ、会ってから十数分といったところでは理解が足りていない。性格や思想、口調などについてはそこそこの把握をしたが、仕草やふとした癖などはしばらく観察しないことにはさっぱりである。

 しかしそれでも桂花の人柄を目の前で見、実際に会話した拓実は、決して満足とはいえないものの、それらしく演じることが出来るだろうと考えた。

 

「そう……桂花にね。ならばやってみてもらいましょうか。秋蘭! この子と同じ服を見繕ってきなさい。流石に勝手に服を漁るのは不躾に過ぎるから、桂花の贔屓している店で買い揃えるように。大至急よ」

「はっ!」

 

 秋蘭は一つ礼をして部屋から出て行った。あまりに素早い秋蘭の初動に、拓実が止める間もない。廊下を覗いても既に角を曲がって、姿はないだろう。

 代わりに愉しげな笑みを浮かべて秋蘭の背を目で追っていた華琳に対し、声を上げた。

 

「華琳、ちょっと待ちなさい。今この場で、私にこの子の演技をさせるつもりなの? この子が起きて、事情を説明してからでも遅くはないでしょう。私が演技している時に起きてしまったらどうするつもりよ」

「あら。私の姿をしていても、謁見のような時でもなければ性質までは似ないのかしらね。貴女は桂花のこと、いじめてあげたいと思わないの? 私の姿であればあの子は喜ぶわよ」

「……そう、この子のことを追い込むつもりなのね。誤解しているようだから言っておくけれど、他人をいじめてやりたいだなんて、少なくても南雲拓実として思ったことはないわ。先ほども泣いているこの子が可哀想になって、つい華琳にしては過度に慰めてしまったぐらいだもの」

「まぁ、それについてはいいわ。私とまったく同じではそれこそ面白くはないのだし」

 

 愉しみを共有できないことを意外そうに呟く華琳に、拓実は渋面を返した。趣味が悪いとは華琳のような者を指して言う言葉だろう。

 拓実に向けて口の端を吊り上げた華琳は、寝台で眠っている桂花を見やって目を細めた。

 

「私はね、桂花が慌てふためく姿が見たいのよ。貴女に問いただされ、涙を流してる桂花を見て身体が興奮してしまうぐらいにはそういった姿が好きなの。そうね。そういえばあの時の拓実は実にいい仕事をしていたわ」

「ありがとう、と言っていいものかしら。あんな不意打ちみたいな真似、好ましくは思えないけれど」

 

 やんわりと批判した程度では華琳がこういった言動を改めることはないだろう。拓実は早々に諦め、息を吐いた。何だかんだと抗弁してみたのだが、結果的には華琳の言うことには逆らえそうにもない。今もそうだし、今までもそうだった。

 考えてみれば、演技をしている時に桂花の真名を呼ばされていたのだってそうである。『華琳の真名を預かる者たちは、互いを真名で呼び合うという決まりがある』という話を聞いて一応は納得はしたのだが、それだってあんな目に合わされた桂花が浮かばれない。いや、華琳に命令されたとはいえ実行したのは拓実である。どの口がそれを言うかと言われればそれまでであるし、やってしまったことへの責任はあまりに大きい。

 桂花が起きたならまず詫びなければならないなと考え、華琳に倣って寝台に眠る彼女を見た。

 

 

「そういえば先の言葉で少し気になったところがあるのだけど。春蘭にはいまいちなりきれないと言っていたけれど、その口振りから察するに、出来ないわけではないのね?」

 

 秋蘭が戻ってくるまで手持ち無沙汰であったので華琳より桂花の普段の振る舞いなどを聞いていたのだが、春蘭との不仲を語っていた華琳が思い出したようにそんなことを訊ねてきた。

 

「まぁ、出来なくはないわね。必要であるというならば演じるわ。ただ私の体躯と容姿でやっても似合わないと自覚できてしまうから、あんまり気が入らないのよ」

「それじゃ、ちょっとやってごらんなさいな。秋蘭が帰ってくるまで時間もあることだし、私が採点してあげるから」

「……構わないけれど、少しだけよ。似せられるのは口調ぐらいのものでしょうけど。あと、似てないからといって笑ったりはしないように」

「いいから。決して笑ったりしないから、さっさとやってみなさい」

 

 この暴君め、と内心で悪態をつきつつも拓実は準備に入ることにした。直前で桂花のことを反省していたが、それでもやっぱり、華琳に言われると拓実は逆らえそうにないのだった。

 

「あー、ああー。アーアー」

 

 拓実は背筋を伸ばし、発声練習をするように音程と声質を変えていく。近い音程を見つけると、声の出し方を変えて春蘭のものに近づけていく。あまり出した類の声ではないので、あっちにいって、こっちにいって、ようやくそれっぽいところを見つけ出す。

 やはり華琳ほどには似そうにはないが、何とかコツをつかめてきた気がする。喉奥に引っ掛けて、腹から出すような厚く艶のある声の出し方だ。これが自身の出せる声では一番近い。本当ならば最後に調整をかけて、練習して声の出し方を固定すべきなのだが、今はそんな時間がない。

 

「ふむ。とりあえずは、こんなものか……」

 

 実際に声に出してみて、これならば似ていないとも言えないぐらいの完成度だろうと推察する。自身が聞こえている声と他人が聞く声ではどうしても差異が出てしまうので、ある程度の誤差は許容するしかない。後は口調と抑揚を極力真似れば、多少の声質の違いはカバーできる。

 

 準備を終えた拓実は、何だかんだで楽しみに待っている様子の華琳へと振り向いた。演じるイメージは『ご主人様、大好き!(図体のでかいおバカな犬)』だ。

 ……拓実もそれはどうかと思うが、春蘭の行動理念が大体そんなものなのだから致し方ない。それを自身の表層に敷き詰めていく。

 

「貴女さまの第一の臣下、春蘭にございまするっ! どうでしょうか、華琳さまっ!」

「くっ、そ、そうね。かなり似ている……わ」

 

 面食らった、という様子の華琳は少し言葉を途切れさせながらも返事を返した。だがこうした状態では至極真面目に返答しようと思えば思うほどに、決壊は早まるものである。

 

「そう言って頂けて、この春蘭、身に余る光栄にございますっ。ええと、採点していただけるとの事でしたが、いかほどの点数をいただけるのでしょうか?」

「く、くくっ、ふっ、……わ、わかったからもういいわ。やめなさい」

「か、華琳さまぁ~! 酷いですよぅ! しっかり笑っていらっしゃるではございませんか! 決して笑ったりはしないと仰ってくださったのに……」

「そ、その声も、だから、やめてと、ふ、ふふ、だ、だって、今まで私の姿で私の声が出ていたのに、そこから何故春蘭に似た声が……どう考えてもおかしい、でしょう? くっ、くぅ! もう、駄目。あはっ、あははははははっ!」

 

 そう言って、目じりに涙を溜めながら口を開けて大笑いする華琳。必死に顔を背けるが、笑い声までは隠せない。

 これは断言できる。間違いなく珍しい物だ。日本でつちのこを見つけるぐらいには。

 

「な、なに、何に、何をやっておるか、拓実ィーー!」

 

 華琳が大笑いする中、顔を真っ赤にして拓実に詰め寄ってきたのは、今拓実が演じている春蘭本人であった。どうやら、自身に似た声が聞こえたことが呼び水になって、現実世界への復帰となったらしい。

 

「おお、春蘭ではないか! 無事に帰ってこれたのだな。こいつめ、この私に心配などかけさせおって!」

「いいから、即刻その私の真似をやめんか、きさまっ! いいや、そもそもだ。私はそんな喋り方などしておらんっ」

 

 そう言い切る春蘭ではあるが、本当に似ていなければ侮辱しているとして問答無用の拳骨を拓実へ飛ばしていただろう。似ているとわかってしまうからこそ、こうして春蘭は顔面を羞恥で真っ赤に染め上げている。

 

「いいえ、充分に似ているわよ。拓実の演技には七十点をあげましょう」

「そ、そんなぁ、華琳さまぁ……」

「ほうれ、見ろ。華琳さまがそう仰っておるのだ。きさまも素直に認めんか」

「た、拓実! こいつめっ!」

「……春蘭が、春蘭に(たしな)められているわ。……くくっ」

 

 どうやらまだ笑いの波が収まりきっていないらしい華琳は、点数を告げるなり顔を背けてしまった。情けなく声を上げ、揶揄するような拓実の声に怒りを覚えていた様子の春蘭ではあったが、そんな華琳を見るなりに笑顔を浮かべている。

 長らく華琳に仕えた春蘭であっても華琳がこんな笑い方をするのを見たことがなかったらしく、自身が笑いの種になっていようとなんだかんだで嬉しく感じているようだった。

 

 

 

 

 

「華琳様、お待たせいたしました。店主に同じものを揃えるよう申しつけ、実際に私も確認致しましたが間違いはありません」

「……そう、ご苦労様」

「いえ……?」

 

 竹かごに華琳に頼まれた桂花と同じ衣服を入れ、急ぎ戻ってきた秋蘭が見たのは、何だか不機嫌そうな華琳だった。いや、不機嫌とも違う。居心地が悪い、といった類のものだろうか。秋蘭がいない間に、何かがあったらしい。そしてその理由はどうやら拓実と、いつこの現世に戻ってきたのか春蘭にあるようだ。

 

「ところで、どうしたのだ。姉者、拓実と二人して嬉しそうに笑みなどを浮かべたりして」

 

 何故そう秋蘭がそう思ったかというのも、先ほどから嬉しそうににこにこと笑う拓実と春蘭の姿があったからだ。部屋の雰囲気から、華琳が居心地悪そうにしているのはこの二人が原因だと思うのだが、その理由というのが皆目見当もつかない。

 服の詰まった竹かごを床へと置いてから、この疑問を解消すべく、秋蘭は二人に声をかけた。

 

「む? 何でもないぞ秋蘭。なぁ、拓実」

「うむ。何でもないから秋蘭は気にしなくてもいいのだぞ」

 

 二つの声を聞き届けた瞬間、秋蘭は抗えずに、ぶっ、と思わず肺の中の空気を噴き出していた。拓実の姿から、あまりに似合わない声が発されたからだ。

 一つ目はいい。春蘭が言ったものであるだからどうということもない。笑みの理由を話してくれなかったことが秋蘭には少し寂しかったが、春蘭がそう言うのなら否はない。

 だが、続いての二つ目。拓実から返ってきた声と科白は想像もしていなかったものだったのだ。春蘭の声にしては安定感が足りていないし、声質も少し違う。それに少し高いようにも聞こえたが、その抑揚といい言葉遣いといい、直前に聞こえた声を想像するにはあまりに容易かった。

 つまり、敬愛する華琳の姿から、親愛している春蘭の声が聞こえてくるという、かなりおかしな状況であったのだ。

 

「げほっ、ごほ。……なぁ、拓実。どういった経緯で姉者の真似をしているかは知らんのだが、出来ればやめてもらえないだろうか。どうも心臓に悪い。このままでは私は早死にすることになる」

「そうね。もう華琳も充分に満足してくれたでしょうから、構わないでしょう」

 

 「ね?」と拓実が意地の悪い笑みで問い掛けると、華琳はふんっ、とそっぽを向いた。拓実にはその子供のような仕草が可愛らしく見えたのか、華琳にわからぬよう小さく笑みを浮かべていた。

 ――どうやら華琳は、自身が盛大に笑っていたことを他人に見られたことがもの凄い失態であったと考えている様子だった。しかし自身から拓実に言ったことであるために、嬉しそうにこちらを見る二人を叱り飛ばすこともできなかったようである。

 

「まぁ、いいわ。華琳、私はこれに着替えればいいのでしょう」

「そうよ。さっさとしなさい」

「はいはい。まったく。ここに来てからというもの、色々な人の演技をさせられるわね」

 

 そう文句を言いながら拓実は竹かごを掴み、着替えるために昨夜泊まった部屋へと場所を移す為に歩き始める。そんな二人の遣り取りを見ていた秋蘭は、拓実と華琳が主従ではなく、友人であるかのように見えていた。

 

 

 

 

「あ……私……?」

 

 いざ拓実が部屋を出る、という時に寝台の方から声が聞こえてきた。部屋から出ようとしていた拓実は(すんで)のところで立ち止まる。

 

「……桂花ったらもう起きてしまったのね」

 

 残念そうに呟く華琳。拓実が振り返ると、桂花が上体を起こそうとしているところであった。周りに人がいることに気づいていないのか、何やら額に手を当てて俯き、何事かを呟いている。

 

「私、確か、備蓄の調査を終えて、華琳様と春蘭が来て……そう、最後何故か華琳様が二人いて、いいえ、そんなことあるわけないもの。あれは、夢よ。ありえない。華琳様に会えないでいたからって、そんな馬鹿なこと……」

「あら、夢ではないわよ、桂花」

「え、華琳様ぁっ!? そんな、何故私の部屋に?」

 

 顔に手を当て記憶を整理し始める桂花に向かって、華琳は声を掛ける。記憶が混乱しているらしい桂花は、今自分がどうして気絶していたことも覚えていないようだった。ばっと寝台から起き上がり、すぐに華琳の姿を見つけると吃驚した表情を浮かべた。

 

「だから、夢ではないと言っているの。拓実、こちらへいらっしゃい」

「……ええ、わかったわ」

 

 同じ声色で発された言葉に、自然と桂花の視線が拓実へと向いた。そして驚愕に目を見開く。まさしくありえない者を見た目であった。

 

「華琳様が、二人……!? えっ、どういう……あの……」

「いいえ、華琳は私よ。この者は、今日より私の臣下に加わることになった南雲拓実という者」

「南雲拓実よ」

 

 拓実は静かに笑って、桂花を真っ向から見つめる。華琳にしか見えない拓実に見つめられ、桂花は僅かに頬を染めている。

 

「先ほどは悪かったわ。まさかああも大事になるとは思っていなかったの。言い訳するつもりはないけれど、貴女と春蘭に与える罰と華琳が言うものだから」

「あの、何を? ……えっ、もしや、私の部屋に、春蘭と共に訪れた華琳様は……?」

「私ではないわ。この子よ」

 

 拓実の謝罪の言葉から、桂花の明晰な頭脳は答えを導き出す。桂花の顔はその答えを否定して欲しいと書いてあって、声もまた縋りつくようなものであった。

 それを華琳は無情に切って落とした。瞬間、桂花はびくり、と震え、顔があっという間に蒼白になっていく。震える桂花を満足そうに眺めた華琳は、言葉を続けた。

 

「まぁ、桂花が間違えるのも仕方がないわ。この私でさえも驚かされたのだから。……いえ、謁見の間での拓実はこんなものではなかったか。私と気迫を拮抗させ、いざ首を落とされるという時でさえ私になりきっていたのだもの」

「く、首を、ですか!? それは、私の時のように恐らく落とされたりはしないだろうとわかっていたから……?」

「いいえ、あの時の私は間違いなく拓実の首を刎ねる気だったわ。その私の殺気を受けて一歩も退かないのだから、大したものよね」

 

 桂花は最早言葉もない。呆然と、ただ拓実を見ていた。またもその目はありえないというものであった。

 対して拓実は苦笑する他にない。拓実にしてもやろうと思ってやったことではなかったからだ。

 

「その後に色々とあって、この子を『もう一人の私』――影武者なる者として我が陣営に招き入れることになったわ。そしてこの子を有用に、十二分に使うには貴女の智が必要不可欠であったから顔合わせに来たという訳」

「『もう一人の、華琳様』、『影武者』……それはもしや」

「ええ。けれど大丈夫よ、貴女が危惧しているようにはならない。既に最上の秘匿として箝口令(かんこうれい)を敷いているわ。この子を知るのは、この場にいる者だけよ」

「そう、ですか。それならばいいのですが」

 

 ぽんぽんと一段飛ばしで会話が進んでいく。桂花の並外れた頭の回転の早さを、拓実は目の当たりにしていた。単語一つから華琳が思い描いていた拓実の使い方を推察してみせ、尚且つその問題点も突き止めていた。流石は荀彧の名を持つ少女、といったところであろうか。

 

「……わかりました。華琳様がそうまで仰るのであれば、この荀文若、力を惜しむ理由はございませぬ。つきましては、この方へ華琳様の名に恥じぬだけの教育を授けたいのですが、如何でございましょうか」

「ええ。私も内務面や軍略についての教育を任せるには、桂花をおいて他にいないと思っているわ。全力を以って事に当たりなさい」

「はっ! (つつし)んで拝命させていただきます」

 

 華琳へと頭を垂れた桂花は、そのまま拓実へと向き直った。

 

「それでは改めて名乗らせて頂きます。貴女様の教育を任されました、姓を荀、名を彧、字を文若と申します。どうか真名である桂花とお呼びください」

「……ええ。桂花。先ほど済ませたけど、改めて私からも名乗らせていただきましょうか。姓は南雲、名は拓実。真名はなく、持つ名はこの二つのみであるから、拓実と呼んで頂戴。それともう一つ。華琳に頼まれていたとはいえ貴女の真名を勝手に預かり、呼んでしまったこと。改めての謝罪をさせていただくわ」

「いいえっ! 華琳様が直々に認め、真名を預けたお方でありますので、貴女様が謝られることなど何もございません。あの、それでは、これより拓実様と呼ばせていただいてもよろしいでしょうか?」

「そ、それは構わないのだけれど……どうして桂花は私に向かって華琳を相手にするような言葉遣いをするのかしら」

 

 そう、先ほどから拓実は気になってしょうがなかった。それどころか、周囲で口を挟まず見守っていた春蘭、秋蘭も驚いた顔で桂花を見ている。

 何故だかは知らない。だが、桂花は華琳に接するように言葉遣いを選び、そして、華琳に向けるのと同じように慕情の瞳を向けてくる。拓実が華琳とは違う人物であると知れているのだから、そんな思慕の念を向けられる理由はない筈なのだが。

 

「華琳様が拓実様を指して『もう一人の私』としたことから、この桂花、正しくもう一人の華琳様として敬わせて頂きたく思います。私は華琳様を支えるためにお仕えしておりますので、それは当然のことにございます。ところで、あの……よろしければなのですが、今夜、先の華琳様との謁見のお話をお聞かせいただけないでしょうか?」

「ええ。話すことは構わないけれど」

「嬉しいです、拓実様っ!」

 

 この桂花の期待している目は、それだけではない。きっと済ませてはくれない。あの部屋の続きをするつもりなのが、ひしひしと、それほど身に痛いほどに伝わってくる。

 

「あら、このままでは桂花を拓実に取られてしまうわね。どうせなら私と拓実の二人で、桂花のことを可愛がってあげましょうか? 私も桂花の可愛い姿を見て昂ぶってしまっていることだし、『もう一人の私』である拓実の身体がどれだけ私と同じなのか、見ておきたいわ」

「は、はいっ! 是非、是非お願い致しますっ」

「ず、ずるいぞ桂花。華琳さま! 私もご一緒させていただきたいですっ!」

 

 桂花の言葉にたじろぐ拓実は、そこで華琳に言葉をかけられて、何か思考に(つか)えていたものが取れた気がした。

 

 そうだ、思えばおかしかった。春蘭から聞いて、華琳は同性愛の気があり、基本的に男を好まないと知っていたのだ。ならば何故、拓実はこんなにも華琳に買ってもらえているのだろうか。何故、拓実が閨に誘われるのだろうか。今こんなにも、熱い視線を向けられているのだろうか。

 ――――簡単な答えだ。華琳は、拓実が男であるなど露程にも思っていないのだ。

 

「か、華琳? 貴女、もしかして……」

 

 考えてみれば、拓実がそれについて華琳に言った覚えはない。春蘭、秋蘭が華琳に説明していたのもここに来た経緯ばかりで、拓実本人については真名がないことぐらいしか話してはいなかったと思う。

 

「……!? か、華琳様!!」

 

 拓実の呼びかけに僅かに遅れて、慌てて秋蘭が声を上げていた。恐らく、同じことに思い至ったのだろう。いや、拓実が男であると忘れていたのだろうか。ともかく拓実と同じく、今の今まで気がついていなかったようだ。

 

 それにしては事情を知っている春蘭が華琳や桂花と一緒に声を上げていたが、彼女は拓実にこうも言っていた。――「お前のことは男だとは思わん」と。春蘭は間違いなく、言葉通りに拓実が女であると思い込んでいる。拓実はそれについては自信があった。

 

「秋蘭、いきなり声を上げたりなんかしてどうしたの? ああ、貴女も一緒に混ざりたいのかしら? いいわよ、今日は特別、全員で楽しみましょう?」

「そうではなく! いえ、拓実のことなのですが、その……」

「拓実が? 拓実がいったいどうしたというの?」

 

 そこまで言って、秋蘭は口ごもる。冷や汗を流し、必死に言葉を探している。言い辛いのか。いや、絶対に言い辛いだろう。拓実だってそう思う。しかし、秋蘭がここまで言ってくれたのだ。ここで本人が出ないでどうするというのか。

 

「いいわよ、秋蘭。無理をしなくても、私から伝えるから。そうね。これについては、私の口からきちんと伝えておかないと」

 

 そう言ってから拓実は大きく息を吸い込んだ。目の前にはきょとんした様子の華琳と、すぐ側でいがみ合っている桂花と春蘭の姿。

 

「華琳。すっかり言ったつもりでいたのだけれど、実は私、男なのよ」

 

 瞬間、部屋の中のあらゆる音が消え、そこにいる者は拓実に顔を向けた姿勢で動きを止めた。

 時が、止まった気がした。

 

 



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7.『荀彧、拓実を嫌悪するのこと』

 

 拓実は意を決して声を上げたのだが、言ってからこそが本当に辛いものとなっていた。発言に対する反応が、一切ない。いっそ絶叫やら怒声でも上げられたほうがどれだけ楽であったか。拓実の心臓の音ばかり大きくなっていく。

 唯一動きがあるのは秋蘭であるが、どうやら彼女もこの雰囲気は好むものではないらしい。周りが一切身動きしないからこそ、一人だけ居辛そうにそわそわとしているのが拓実にはわかってしまう。

 

「ふふ、拓実ったらどうしたのよ。いきなりそんなこと言い出すものだからびっくりしてしまったじゃない」

「え?」

 

 突然に会得がいった様子になった華琳が声を上げた。怪訝な顔をしてはいるものの、そこに意外や驚愕といった色はない。至って華琳は平然としていた。そんな反応をされて逆に驚いたのは拓実である。

 その口振りから、拓実が男であったことなど以前より看破していたという発言にしか取れなかった。けれども、男である拓実を閨に誘うという事実とは繋がってくれない。相反しているそれらが拓実の混乱に拍車をかけている。

 もしや女の子だけが好きなのではなく女性的な顔つきであれば男でもいいのではないか、男嫌いらしい桂花をいじめる為ではないか、そもそも可愛がるというのが健全なものであったのではないか等々、拓実の頭の中に色んな考えが浮かんでは消えていく。しかし、そんな拓実の予想はどれも当たらなかったようだ。

 

「まったく、嫌だったならそう言ってくれていいのよ。貴女の主であるからといって強引に事を進める気などはないのだから、そんな突拍子のない空言を吐く必要なんてないわ。私は、貴女から望むようになってからでも全然構いはしない。それぐらいの器量は持ち合わせているもの」

「なるほど。全ッ然、わかっていなかっただけなのね。華琳は」

 

 真剣な、しかし可愛いものを見る目で拓実を見据えた華琳はこんなことを言ってのけたのだ。慈母の如き優しい笑みを浮かべている華琳がとんでもなく遠い存在に見えて、拓実は酷い眩暈を覚えている。

 駄目だった。華琳は拓実が女であると信じ切っている。美少女と噂される華琳は、その美貌を自負している。その自分とそっくりな拓実が男であるなど、想像の埒外なのだ。

 それでなくとも拓実の容姿と声をしていて、男であるということの方が一般的に見れば考えにくいことである。その拓実が女物の服を着ていたなら、十人が見れば十人が少女にしか見えないと答えるだろう。それは拓実にとって誠に遺憾なことではあったけれども、自覚していない訳ではなかった。

 

「……あの、華琳様。お気持ちは痛いほどにわかります。普段の拓実の様子から、その事実を知っていた私ですら今の今まで忘れていたぐらいなのですから。しかしながら今の拓実の言、偽りの類は含まれておりません。真実にございます」

 

 隣で秋蘭が跪いて、拓実に援護の声を上げてくれた。それ自体は確かに嬉しいのだが、拓実はその言葉を素直に喜べない。華琳に伝えていなかったことを忘れていたのではなく、拓実の性別を忘れていたとはっきり言われたのだ。拓実はなんとも複雑な表情を浮かべて、華琳に向けて頭を垂れている秋蘭を見つめてしまう。

 

「ちょっと、お待ちなさい。あなたたち二人は、本気でそれを言っているの?」

 

 真剣な顔を作り、気迫さえ込めて拓実と秋蘭を睨みつける。どうやら腹心として信頼している秋蘭までが口添えし、ようやく疑念を覚えさせるまでに至ったようである。

 華琳は秋蘭と拓実の二人を交互に見やり、華琳の気迫に対しても動じないのを見て目を見開いた。

 

「春蘭、貴女はどうなの? 貴女までも拓実が男であるだなんて、そんな戯けたことを言うつもりなのかしら?」

「は、はっ! ええと、拓実はですね、拓実……ああっ! そうです。確かに男でありました!」

 

 次に矛先は春蘭に定められる。彼女は彼女で拓実についてぼんやりと思い返していたようだが、華琳の言葉に背筋を伸ばすと自分もまた事実を知るものであることを思い出した。

 

「そう。確かにあの時、この手には何ともいえぬ奇妙な感触が……私はそんな物を掴まされるなどとは露知らず。思い出したい類のものではありませんでしたが、確かに拓実は男でした」

「春蘭が嫌がる私を押し倒したのでしょうが! それを思い出したくないとか貴女の口が言わないで頂戴! 全て私の科白よ!」

 

 怒鳴りつけながらも、周囲の空気が何だかおかしくなってきていると感じた拓実は頭を掻き毟る。焦燥感を覚えるあまりに華琳の演技から離れてきていることには気づいているものの、どうすればいいのかがわからない。そうして頭の両脇につけられたウィッグが手に触れ、勘違いされている原因にようやく思い当たった。

 

「ああ、もう! 華琳の言葉遣いを真似ているから冗談のようにでも取られているのでしょう!」

 

 華琳の真似ていることこそが性別を誤認させてしまっていると気づいた拓実は、言いつけられていた演技の中断を決めた。

 まず髪からウィッグを取り去り、纏めて団子にしてあった髪の結び目――髪留めの輪ゴムを外して解き放った。拓実が頭を振ると金の髪が広がり、その華奢な肩にかかる。団子に結ばれていたからか癖がつき、緩やかなウェーブ状に広がった。

 

「どうですか! これでわかったでしょう!」

 

 珍しく声を荒げ、堂々と言い放った拓実ではあるが、周囲の反応は芳しくない。その中でも特に華琳には何も伝わらなかったようで、首を傾げられてしまっている。

 

「その、拓実よ。言い難いことではあるが、あまり変わった様子はないぞ。声こそ若干低くはなっているが、顔つきが和らぎ、言葉遣いが丁寧になった程度では何の証明にもならん。髪型にしても、それを好む者が見れば、華琳様の演技している時よりも女らしいと……」

「くぅっ! それじゃこれ以上俺に、どうしろって言うんですかっ。後は精々、服を脱いで見せるぐらいしか証明する方法なんて……!」

 

 演技を止めた拓実については、確かに秋蘭の言った通りであった。

 華琳と瓜二つの女顔で、背は低い。声変わりが済んでいるというのに、声は女性としても充分に通る高く澄んだ少年の声だ。ほどいた髪は秋蘭より長いし、物腰だって春蘭に比べれば断然に柔らかい。おまけに言葉遣いも丁寧である。更に付け加えるなら、着ているのは華琳と似た衣装の女性服であり、詰め物までして胸部を膨らませている。

 唯一『南雲拓実』を見たことがなかった桂花は、雰囲気から顔付きからまるで人が変わったような拓実の変貌にこそ驚いていたが、それでも決して男性に見えたりはしていなかった。男嫌いである桂花が嫌悪感を微塵も覚えないぐらいには、拓実の容姿は可愛らしい少女のままである。

 

「『俺』、ですって?」

 

 もはや裸になるしか華琳を信じさせる術はないのか、そんなどうしようもない現状に対して慟哭していた拓実の、たった一つの単語に華琳が反応した。

 

「……えっ? 確かに俺って言いましたけど、以前から自分のことはそう呼んでいますよ。演技のときは別にしてですけど」

「どういうこと? 拓実のような気の弱い娘が、オレっ子? そんな、そんな世の理に反するようなことが、ありえる筈がないわ。もしかして、本当に?」

 

 ぶつぶつと呟きながら考え込む華琳に、拓実はどうしていいものかわからずぼんやり突っ立ったままだ。

 とりあえず室内を見回してみると、桂花は華琳の様子をはらはらと固唾を呑んで見守っている。春蘭、秋蘭の姉妹は華琳に向けて頭を垂れていた。どうやら、謀らずも華琳を騙してしまっていたことに、申し訳がないようであった。

 

「……拓実、ちょっとこちらに来なさい」

 

 考えをまとめ終えたらしい華琳は顔を上げ、睨みつけるようにして拓実を見つめた。それを真正面から受けた拓実は、今までの勢いを急激に削がれて動揺してしまう。

 

「な、なんですか? 何をするつもりですか?」

「いいから、早く」

「わかりましたけど、何をするのかぐらい先に言ってくれたって……」

 

 強く言われ、少し怯えながらも拓実は華琳へと歩み寄っていく。普段から逆らえない拓実ではあるが、それでも今の華琳には反論や抵抗すら許さぬ何かがあった。

 

「もっと近くへよ。早くなさい。そう、私の前まで」

「う、うひぁっ!?」

 

 もたもたと近づいた拓実の腕を、華琳が絡め取った。力任せに引き寄せて、背を向けさせる。

 

「ひゃ、華琳、くすぐったい! や、やめてください、ちょ、やだっ」

 

 背を華琳に預ける形になった拓実は、次いで来る感触に背筋を震わせた。拓実は華琳によって、自身の胸を後ろから揉みしだかれている。

 その手捌きは洗練されたものであった。幾度となく(ふる)われてきたのだろう、確かめるように執拗に、逃がさぬように力強く。華琳の両手は暴れる拓実の胸部から離れようとはしない。

 くすぐったさに身を縮めた拓実は、必死に華琳の手を止めようもするも巧妙に押さえつけられてしまっている。這い回る手に、拓実の顔は赤く染まっていった。

 

「離してっ! 華琳、お願いだから離して!」

 

 必死の嘆願も、華琳は聞き入れたりはしなかった。拓実にそんなつもりなどなかったのだが、艶かしい声を上げるものだから春蘭と桂花も頬を赤くしている。

 そうしている間にも手を休めずにひとしきり拓実の胸部を蹂躙した華琳は、拓実の身柄を開放してから己の両手を見つめて呆然と呟いた。

 

「…………この胸、にせものよ。布か何かが詰めてあるわ。そして、その下にも女性らしい膨らみはない。これっぽっちも」

「う、嘘っ、本当なのですか、華琳様」

 

 悲鳴のように、桂花が声を上げていた。顔はすっかり青ざめて、唇はわなわなと震えている。

 

「この手で確かめたのだもの。間違いないわ。拓実は男、なのね。信じ難いことだけど、本当に」

「だ、だからさっきから男だって言っているじゃないですか!」

「お、お、お黙りなさい! 私と寸分違わぬ容姿を持っていて、その癖に男だなんて、そんな冗談のようなことが信じられるわけがないでしょう!?」

 

 怒りか、羞恥か、動揺か。珍しく顔を真っ赤にさせた華琳はわなわなと身体を震わせ、拓実に向けて八つ当たりめいた言葉を吐いた。

 そんなことを言われた拓実はたじろぐ。振り返り、助けを求めるように春蘭と秋蘭を見やるも、視線が合うなりに顔ごと逸らされる。二人もまた華琳と同意見であるようだ。孤立無援である。

 

「あの、俺って冗談のような存在だったんでしょうか。生まれてくる性別を間違えたとか、女装して芸能界入ってこいとか、ふざけて色々言われてはきたけど、ここまでのは流石に初めてで……」

「いいえ、違ったわ。悪夢よ。まさかこの私が認め、他ならぬ私の代役を任せる相手がまさか男だったなんて……。ふふ、そういえば今日は拓実に会ってからというもの、不測の事態ばかりに見舞われている気がするわ。ふふふ」

「あは、悪夢ですか……あははははっ」

 

 乾いた笑い声を上げる華琳を見て、拓実もまたつられて笑っていた。笑うしかなかった。怒る気力もない。泣きたくはなかったので、笑い声を上げながら項垂れるだけだった。

 

「か、華琳様! 情報が広まっていない今ならば、まだ間に合います! 今度こそこの者の首を刎ね、全てを無かった事にしてしまうべきです!」

「首を刎ねぇえぇっ!? って、ちょっと桂花、何で? どうしていきなりそんな結論になったの!?」

 

 そんな半ば茫然自失の華琳に対して、必死の形相で述べたのは桂花だった。そこに自己紹介された時のような拓実を信頼しきっていた面影は見つからない。それこそ親の敵を見るかのように、拓実のことを睨みつけている。

 そんな目で見られていきなり死刑を求刑された拓実は、手放しかけていた意識を寸でのところで巻き取ることに成功した。

 

「私の真名を呼ばないでよ! 華琳様の姿を真似る、汚らわしい変態の分際で!」

「今度は変態、しかも汚らわしいって。そんな、何か悪いことした? 桂花については、ちゃんと謝ったと思うんだけど……」

 

 申し訳なさそうにしている拓実を冷たい視線で射抜いて、桂花はふんっと鼻で笑ってみせた。どうやら男と判明し華琳の姿を止めた拓実は、桂花にとってはただの敵性生物であるらしい。

 

「華琳様に成りすまし、私の恋心を弄んだことがあんな簡単な謝罪だけで許されると思っているの? 本当にそう思っているなら直ぐ様にでも死んだほうがいいわ。そうでないというのなら、罪を認めて今死になさい」

「あの。それ、どっちを選んでも死んじゃいますけど」

「あら、そう言っているつもりだったのだけれど、そう聞こえなかったのかしら。――華琳様、ご命令をお願いしますっ! 一言いただければ、直ぐにでも用意を整えますっ。下賎な男の身でありながら、華琳様になりすますなどという大罪を犯したこの下郎に、処罰を!」

 

 まさかここまで綺麗に手の平を返されるとは、拓実は思っても見なかった。こんなにも率直にやってもらえるといっそ清々しくさえあった。笑いがこみ上げてきてしまいそうだ。

 拓実は、本当に殺されるかもしれないとも考えていた。男である拓実が華琳の影武者を務めるなど、華琳は認めないだろう。きっとそうだ。華琳は元より男を好んでいないのだから、むしろそうなって当然ともいえるかもしれない。そうなれば桂花の言うとおりに、拓実の存在ごとなかったことにされてしまうだろう。

 先ほどから物言わない華琳に、拓実は不安げな視線を送った。男であることを騙していたつもりはなかったが、結果としてそうなってしまった。せめて悪意がなかったことだけでも弁解しようと声を上げかけ、そうして彼女の佇む姿を見るや開きかけた口を閉じることとなった。

 

「拓実を処刑するだなんてありえないわ。そんなことを私が許す筈もない」

 

 華琳は、拓実を見て静かに微笑んでいただけだった。ただそれだけだったが、拓実はその瞳から向けられている全幅の信頼を受け取っていた。

 同時に拓実の心中は申し訳なさで一杯になる。正体も知れなかった拓実を華琳は信じてくれているというのに、拓実が華琳のことを疑ってしまった。そのことを深く後悔してしまう。

 

「桂花、言ったでしょう。拓実は『もう一人の私』として私自らが認め、名を名乗ることを許したのだと。その相手が男であろうが女であろうが、この曹孟徳、一度口にしたことを違えるような者ではないと貴女も知っているはずよ」

「それは……、しかし……!」

 

 華琳は粛々と、拓実をここで殺してしまうということは、華琳の誇りをも殺してしまうことであると桂花に向けて説いた。

 桂花はその華琳の落ち着き払った様子を見て、ようやく自分一人が先走っていたことに気がついたようである。しかし後戻りも出来ず、必死に言葉を探している。

 

「例え男であったとしてもこの私を演じきったことには変わりはない。状況的には拮抗していたけれど、拓実の演技を崩してみせることが出来なかった私は負けていた。改めてこの場で認めましょう。この曹孟徳の覇王の才が、南雲拓実の演技の才に敗北しているのよ。それが例え私に不利な状況であった、限定的なものだったとは云えね」

 

 拓実にも、自分の演技に矜持はある。演劇の大会において拓実は個人で得られる最高の賞を貰ったことがある。そうしたこともあって、自分の演技を卑下すれば他の者の演技をも貶めることになると考えられるようになったからだ。

 けれども華琳のようにそれを信じることが出来るかと言われればそうではない。何故なら拓実は、己に対して自信を持っていない。たまたま演技については秀でているだけで、所詮は十把一絡げの凡人であるとそう考えている。そんな自分の持つものであるから、演技の才能などと言われても信じきることが出来ないのである。

 

「これは紛れもない事実。だからこそ私は、拓実の演技力を誰よりも買っている。本当に希少で、孤高の才――この私を負かす才を持つ者を、男であるからなどという下らない理由で失うなど、私に向いた天意に対し、自ら背を向けるが行為に他ならないわ」

 

 華琳は、こと拓実の演技においては、一切の疑いを覚えていない。己を打ち倒したものとして揺るぎない評価を下している。拓実の演技を、華琳は本人以上に評価してくれていた。

 拓実は影武者として仕官をする時、それを聞いていた筈だった。なのに、知らずのうちに自分ごと華琳の言葉を軽んじていたのだ。だからこそ、拓実は華琳にそれほどまでに評価されていることが嬉しくもあり、己すら信じ切れないでいたことが恥ずかしくもあったのである。

 

「そ、それでは……?」

「ええ、私の計画に変更はないわ。拓実にはこの私の『影武者』として働いてもらう。拓実、すぐに演技して私になりきりなさい。今回はともかく、今後そのような姿を他の者の前で晒すことは許さないわ」

「わ、わかりました」

 

 命じられて、拓実は急いで解いた髪をまた編み、結んでウィッグを取り付けた。身嗜みを整えた後、ゆっくりと瞑目する。

 たっぷりと時間をかけて次に目を見開いた時、華琳を彷彿とさせる怜悧な瞳が、目の前で笑みを浮かべる本物を捉えていた。

 

 

 

 

 

「さて。私としては拓実が男であろうが女であろうが、付き合い方を変える気はないわ。ああ、別に望むのならば、閨を共にしてもいいと思ってるわよ。男とはいえ拓実ほどの容姿であれば、充分に許容範囲内だもの。……けれど、もう引き返せない子がいるわよね。ここには」

 

 華琳がそう言って意地悪く視線を向けた先には、俯かせた顔を真っ青にして、身体をがくがくと震わせている桂花の姿があった。

 桂花には、華琳の声がまるで壁越しであるように聞こえていた。全身には視えない重圧がかかっていて、押し潰されそうだ。呼吸をしても酸素が肺に送られている気がしない。桂花だけが、まるで深く暗い水の底にいるかのようだった。

 

 最早桂花は、拓実とどう接していいかわからない。華琳は計画を一切変えないと言っていた。つまり桂花は拓実の教育係のままであり、これから毎日、拓実とは顔を会わせることになるのだろう。

 正確にはどう接していいかではなく、どの面を下げてと言ったほうが正しいだろう。拓実を自分の主と等しく扱うとしておきながら、嫌悪の視線を向けて死ねと罵り、自ら改めて預けた真名を呼ぶなと叫んでは、処刑すると喚きあげていたのだから。今だってその気持ちはかなり弱まったものの完全には消えていない。だが、華琳が決めた以上は何としても従わなければならない。

 

 拓実の姿にも問題があった。男は全て汚らわしく、下品で無能で、醜い生物であるというのが桂花の価値観の根底にある。そして今まで見てきた男はみんなそうであったと桂花は確信している。

 だが拓実の姿は桂花がどう見たって涼やかで、上品で、自信に溢れる麗しい華琳の姿そのものなのだ。それどころか声も、口調も、雰囲気までもとてもよく似ている。華琳を信奉している桂花が見ていたって、見た目にも声色にも違いを見つけることが出来ずにいる。強いていうなら気迫に乏しいぐらいだろうが、華琳だって普段から気を張っている訳ではない。流石に二人が並んでいれば区別がつくが、一人と対応した時にどうであったか、桂花は身を以って知っていた。

 

 華琳本人と間違えてしまうかもしれない拓実を相手に、無礼な言葉を吐ける筈がない。そもそも、華琳を真似ている拓実を前にしては難癖すら頭に浮かんでこないだろう。

 だというのに、先の無礼を詫びたところで元通りにはなってくれない。もし再び、華琳を相手にするような口調で話しかけようものなら、それは失笑どころの話ではない。間違いなく軽蔑されてしまう。

 いや、軽蔑ならばきっと、とっくの昔にされている。前言をあっさりとひるがえす『言葉の軽い女』とでも思われているかもしれない。華琳本人ではないというのに、同じ姿である拓実に軽蔑されていることを考えると身が引き裂かれる思いがする。そんな状況が続けば、きっと桂花は耐えられない。

 

 もしも願いが叶うなら、本当に時を巻き戻してほしいと桂花は思った。

 そうしたら拓実が男であれ、当初のように華琳と同じように扱い、敬い、学を授け、親密な関係を桂花は作るだろう。そしてそれはきっと、楽しい時間であったはずだ。毎日のように、華琳の姿と顔を合わせて学を授けられる喜び。そして自身が、もう一人の覇王を育てる喜びを感じることが出来た筈なのだ。

 男と言うだけで反射的に拓実を毛嫌いしてしまっていたが、性別を抜かしてみれば間違いなく好ましい人物でもあった。容姿も然ることながら、経緯は知らないが華琳と互角に渡り合い、直々に首を刎ねると決心させるほどには、拓実も覇王としての素質を持つ傑物であるはずだ。そっくりな容姿も手伝って、もしかしたら、それこそもしかしたらだが、桂花が心を許す事の出来る、唯一の異性になっていたかもしれない。

 

 しかし、そんな未来はもはや存在しない。先ほど拓実に投げかけた言葉を、華琳に告げてみたらどうなるかと想像すればいい。絶対に華琳は許さない。そんな確信を、桂花は持っている。

 そしてそんな華琳をして『もう一人の私』とまで言わしめる拓実は、どうであろうか。同じく、想像は容易かった。

 

「荀彧」

 

 思考に沈みきっていた桂花は、近寄ってきていた拓実に気がつかずにいた。遅れて呼ばれた名を認識すると、がつんと桂花の心には衝撃が走り、石になったかのように身体が動かなくなってしまう。

 

 ――拓実は桂花のことを、真名で呼ばなかった。桂花自身がそうしろと言ったことではあったが、実際に拓実に呼ばれてみると、つらい。かつてないほどに酷く胸が痛んだ。

 華琳の声色でそう呼ばれることも辛いものであったが、桂花の心に深く(ひび)を入れたのは別のことであった。拓実にとって、もう桂花は真名を呼ぶに値しない人間であるのだ、そう思ってしまったことだ。

 これから、ずっと自分は『荀彧』と呼ばれ続けるのだろう。この華琳の陣営において、拓実だけは桂花のことを『荀彧』と呼び続けるのだろう。自分だけは、金輪際拓実に真名を呼んでもらえないのだろう。

 こんな考えばかりが桂花の頭の中でぐるぐる回る。一人、輪から外れて呆然と立ち尽くす自分の姿が脳裏から離れてくれない。

 

「聞こえているのなら返事をなさい、荀彧」

「お……ぃ……ます」

「……荀彧?」

「ぉねがい、します」

 

 感情に任せて、桂花の口は勝手に動いていた。いつもの秀抜とした頭脳はもはや役には立たない。

 

「拓実、さま。どうか、わたしのこと、桂花、とよんでください。勝手なことだと、わかってます。ごめんなさい。あやまります。男があいてだと、わたし……どうしても」

 

 自分でも知らぬうちに、桂花は涙を流していた。顔を俯けたままであったが、頬を熱い雫が伝っていくのがわかった。

 桂花は、もう拓実に荀彧などと呼ばれるのが耐えられなかった。華琳と同じ声で、そんな他人行儀な呼ばれ方をするのが耐えられなかった。華琳に真名を預かった者同士だというのに、真名を呼び合わない。華琳が定めた決まりを自身が原因で破ることになるのが、耐えられなかった。

 

「……わかったわ。これからも桂花と呼んでいいのね?」

「は、はぃ」

「それじゃあ、泣き止みなさい。桂花。貴女が男嫌いであると事前に聞いていたのだから、私に向けて言った言葉は気にしていないわ。男に真名を呼ばれるのは嫌だろうから、桂花と呼ぶのを我慢していたのよ。貴女がそう言ってくれるのであれば断る理由なんてないもの」

「嫌じゃないです。拓実、さまぁ……」

 

 桂花は小さく笑みを浮かべることが出来た。尋常ではない様子で顔を青ざめていた桂花を見て心配していた拓実は、それを見てようやく安心したようである。

 

「ほら、可愛い顔が台無しよ。しょうがないわね」

「ありがとう、ございます」

 

 涙でボロボロになった桂花の目元を、拓実は袖で拭ってやった。為すがままにされた桂花は、優しく微笑んでいる拓実に向けて満面の笑みを浮かべてみせた。

 

 

「ふふ、このままでは本当に、桂花を拓実に奪られてしまいそうね」

 

 傍から口を挟まずに傍観していた華琳も、そんな二人の姿を眺めては微笑んでいた。

 

 

 

 



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8.『拓実、荀彧を模倣するのこと』(※)

 

 公には出来ないが拓実が華琳の下で働くことが決まり、日付が変わっての翌日のこと。拓実の性別が判明して盛大な混乱に見舞われた桂花の部屋近くでは、またも混乱と表する光景があった。

 

「その格好は、本当どういうわけよ? ねぇ、もしかして、私を馬鹿にしているの? しているんでしょ? 華琳様より仰せつかった政務の合間を縫って、こうして時間を作っている私に対して、わざわざ喧嘩を売りに来ているのでしょう」

「そんなことあるわけないでしょ。馬鹿じゃないんだから、少しは自分の頭で考えなさいよ。まぁ、それが出来ないのだからこのような愚問を口にしているのでしょうけど。まったく華琳様の軍師が聞いて呆れるわ」

 

 言い合う猫耳フードと、猫耳フード。口やかましく上げられる二人の声は、どちらも頭に響くように甲高い。背の丈、髪色こそ僅かに違うが、着ている衣服はまったく同じものだ。

 

「何ですってぇ!? この私が華琳様より直々に賜った軍師の任に文句をつけるだなんて、どういう了見よ! 聞き捨てがならないわ!」

「はん、それならいまいち頭の回転が鈍い軍師様に言わせてもらうけれど、私に華琳様と同じ格好をして城内をうろつけとでも言うつもりなの? 軍師だというならば、有事以外は他の人間を真似させておいた方が正体の露見を防げる、そのぐらいのことは言われずとも推察してみせなさいよ」

「それぐらいわかっているわよっ。だからって、何で拓実が私の格好と演技をして、私の教えを受けに来るのよっ! おかしいでしょうがっ! ああっもう! こいつの演技、似ているのがわかってしまうから余計に腹が立つっ!」

 

 傍から見れば被っているフードもあって同一人物が罵り合っているようにしか見えない。地団駄を踏む桂花と、そんな彼女を鼻で笑っている拓実であった。

 

 

 拓実と桂花が和解した後、秋蘭から雇用条件の確認や城内外での注意事項の伝達を受けているうちに夕暮れになってしまった。みだりに出歩いて人目についてはいけないということで、その日は宛がわれた自室に(こも)り、桂花が持ってきてくれた軽食の点心を摘みつつも彼女に謁見の時の話を聞かせてやっていたのだ。

 そうして夜も更けてそろそろ就寝するかという頃になると、華琳自らが桂花に備蓄の報告をするようにと呼びにきた。どうやらそれは(ねや)への誘いでもあったらしく、拓実も一緒にと誘われたもののそれに関しては一切の固辞をした。これまでそういった経験がなかったし、華琳のサドっ気は気の弱い拓実を尻込みさせるに充分なものだったのだ。うっとりした顔の桂花が華琳の寝所に連れて行かれるのを見送った後、何ともいえない気持ちで床に就いたのである。

 

 明けての明朝。謁見の間に赴いた拓実は妙に艶々としている華琳より、午前のうちは桂花の部屋で文字を覚え、政務についてを学ぶようにと命を出される。

 更に、城内外においては朝晩問わずに桂花の演技をするようにと言い渡された。拓実が華琳の姿でうろついていては、それをいくら隠そうとしても『曹孟徳は二人いるのかもしれない』などという噂が立つのは避けられない。しかし増えるのが桂花であるならば噂になったところで困るのは桂花だけであり、それほどには重大なことにはならないとのことである。充分大事になるのではないかとは思ったが、代案も浮かばない拓実はおとなしく口をつぐむことにした。

 ちなみに、午後には春蘭指導による武術の稽古を言いつけられているが、そっちについてはどうしても悲惨な未来しか浮かんでこないので拓実は極力考えないようにしている。

 

 その二つの命令を受けた拓実は部屋へと戻り、早速、秋蘭が買ってきた桂花のサイズ違いの服に袖を通すことにした。

 着替え終えてから春蘭を物真似した時のように声帯模写をしてみると、かなりの手応えがあった。華琳と桂花の声質が然程に離れていなかったというのもあって、拓実本人が大丈夫だろうと思える出来である。

 さらには表情も素の拓実の目つきはどうやら桂花のそれと共通点が多いようである。いつもより口元の動きを大きくすると、桂花に似通ったものになった。最後に髪をほどいて少し手を加えてやれば、あっという間に金髪になっている桂花が出来上がる。

 顔立ちだけだとそれほどではないが、髪型と格好を揃え、表情の作り方を限りなく近づけていた結果、遠目なら見間違えるぐらいの完成度になっている。

 

 

 拓実が桂花の部屋へ訪れたところ、出迎えた桂花の顔は満面の笑顔だった。拓実がくるのを今か今かと待っていたのだろう、部屋には香を焚いて、机の上には茶の用意までされてあった。

 しかしその相手が華琳の姿ではなく自身を真似た拓実であると知るや、咲き誇る大輪の花のようだった笑顔は、花に群がる虫を唾棄するような不機嫌なものへ入れ替えられる。次いで「私が尊敬しているのは華琳様と、華琳様の姿をしている拓実様だけ。それ以外の拓実の姿であれば敬うつもりは欠片もないから」と拓実の目の前で宣言したのである。既にこの時、桂花の呼称からは『様』が取れていた。

 

 しかし、考えずともわかるが、桂花がそんな辛辣な言葉を浴びせた相手というのは、桂花に扮する拓実である。昨日の一件で思考傾向と性格を把握していた拓実は、持ち前の演技力で桂花本人であるかのような毒舌を返したのだ。もちろん、それに対して本家本元の桂花が黙っている筈もない。

 頭脳労働を主とする桂花と拓実は取っ組み合うことはなかったが、次第に言い合いは泥仕合になり、二人は冒頭のようなやり取りをすることになっていたのだった。

 

 

 

 

 流石に部屋の入り口で言い合いなどしては目立つから、桂花はとりあえず拓実の袖を引き、部屋の中に引きずり込んだ。何とか部屋の中へと拓実を押し込んだ桂花は、拓実の前でこれ見よがしにため息を吐いてみせる。

 

「はぁ……。男に真似されているというのに、違和感がまったくないってどういうことよ。華琳様もこんなお気持ちだったのかしら。だいたい、私の下に来るのなら秋蘭や春蘭の演技をして来るという選択肢もあったでしょうに。何が楽しくて自分の姿をした者に知識を授けてやらなければならないのよ」

「桂花が自分で春蘭や秋蘭の仮装をした状態を想像してみなさいよ。絶対的に色々なところが足りていないから」

 

 間髪も入れない拓実のその言葉に、桂花は目を剥いた。あの姉妹と比べて足りないものと言われ、真っ先に思い当たった己の胸元に手を当てる。

 

「は、はぁ!? それは私に、胸がないって言っているの!?」

「ふん。あんた自身がそう思うならそうなんでしょ。だいたい身長だって、力だって全然足りないじゃない。自身の戦力把握は戦の基本だし、目を背けたいことを認めるのは問題解決への第一歩となるもの。軍師であれば常日頃からそうしておくべきじゃないの?」

 

【挿絵表示】

 

「こ、こいつは、私の真似していることも許しがたいっていうのに、こんなにも好き放題言ってくれて! ……そうよ! 私の演技をしているというならば、何より汚らわしい男である自分のことはどう思っているのか聞いておきたいものね?」

 

 名案を思いついた、というようにニヤリと笑ってみせる桂花。だが、そんな問いをされた拓実はというと、きょとんとした顔で目の前の桂花を見ていた。

 

「そんなこと貴女自身が一番わかっていることだと思うのだけど、わざわざ私の口から聞きたいというのならまぁいいわ。言ってあげるわよ」

 

 拓実の口振りがおかしいことに気がついた桂花が首を傾げる。そんな桂花の様子に構うことなく、拓実は言葉を続けていく。

 

「内心では私――拓実は男なのだから死ねばいいと思うけど、そこは華琳様が言うから渋々我慢しているわ。ああ、華琳様の格好であれば話は別よ。あと今の格好でも汚らわしい男とは思えない容姿をしているから、流石に死ねとまでは思わないわね。でも、てっきり今日も華琳様のお姿で来てくれるものだと思っていたから楽しみにしていたのに、出てきたのは私の姿ででしょ? せっかく学を授けるという名目でお茶をしながらお話が出来ると思っていたのに、ほんとがっかりだわ」

 

 そこまで言われて、ようやく拓実が何を語っているのか気づいた桂花は顔を真っ赤にさせた。

 

「だ、誰が私の心情を推察して話せと言ったのよ! 馬鹿じゃないの!? 恥ずかしいから、今すぐやめなさいよ! 私は! あんたが男である事実を、私の演技をしている時はどう考えているかって訊いてるのよ!」

「何を言うかと思えば。そんなところは意識の外に決まってるじゃない」

「……はぁ? 意識の外ってどういう意味よ?」

 

 桂花には、拓実の言っている意味が理解できない。思わず胡乱げな目で拓実を見る。

 

「今の私は、拓実としての知識を持って桂花という役を演じているに過ぎないんだから拓実は拓実で、演技している私は私。その人物になりきって演技しているのだから別人であるという扱いなの。自分が男であるだなんていちいち考えているわけないでしょ。流石に拓実としての立場が危うくなりそうな時とか、拓実自身として我慢が利かなさそうな時は演技を中断してしまうけど、それ以外では極力なりきっているわよ」

「……こいつの『演技の才』、改めて聞くと本当にありえない。この目の前の女男を認めたくなんてないけど、華琳様が拓実を買っているのもわかる気がする」

 

 当然のように言ってのける拓実に、桂花は驚きを隠せない。才もそうだが、その磨いた技術もだ。この生きるのも難しい時代に、娯楽の一貫である演劇をこうまで突き詰めようとするなど、理解が及ばない。芸人だってなりきろうなどとは考えないだろう。もっと人物の特徴を誇張したりして笑いを取ったりと、客が受ける方向に変えている。

 そういう意味で拓実は飛び抜けすぎていた。見方によっては、妖術、仙術の類と取られてもこれでは仕方がない。

 

「ところで、そろそろいい? 一刻も早く華琳様よりの命を果たして褒めていただきたいのだから、無駄な時間を使わせないでよ」

 

 不機嫌そうな顔を浮かべた拓実に、呆れた様子で見られていることに気づいた桂花は考えを中断する。

 

「わ、わかったわよ。私だってそれは同じですもの。早くあんたに一人前になってもらって、華琳様にその功績を褒めていただきたいもの。さて、それじゃあいったい何から……」

「文字の読み書きができないからそこからね。教材は秋蘭より預かってきているから、ほら。さっさと座って」

「なんですって? あんた、文字の読み書きも出来ないくせに、この荀文若に向かってあんな偉そうな口を利いていたわけ? 信じられない!」

「仕方がないじゃない! つい先日まで私、異国に居たんだから! 無知は罪ともいうけれど、それを学びに来ている人間に賢者が吐く言葉とは思えないわ!」

「ああ、もう! ああ言えばこう言う!」

 

 そうしてまた始まる言い争い、罵り合い。既に相当の時間を浪費しているというのに、二人は飽きずに言い合いを始めた。

 

 そんな言い合いを繰り返す中で、桂花は目の前の人物の株を加速度的に下げていた。もう少し下がれば、春蘭と並ぶ最安値を更新しそうである。

 弁が回ることは認める。その上で言葉の端々に知性を感じられ、相当の教育を受けていることもまた感じ取っていた。だが、それを打ち消して余りあるほどに口が悪い。加えて、桂花が返答をすぐさま返せずに言いよどんだ時の『してやったり』という表情といい、(かん)に障るものが多すぎた。

 ――こいつ、相当性格が悪いわ。しかも決して無能ではないから余計に性質が悪い。

 桂花がそのように思うまで時間はかからなかった。

 

 だがそう考えたのと同じくして、それが全て桂花自身に返ってくることにも気がついてしまった。拓実の演技の再現度は、華琳を真似ているのを見て知っている。完全とはいえないが、誰かと聞かれれば『華琳である』と答えざるを得ない程のものだ。ということは、この目の前でぎゃーぎゃーと小賢しく喚く拓実の姿は、そのまま周囲から見えている桂花の姿ということになってしまう。

 

 そう思ったら、拓実を口汚く罵り返してやろうという気はなくなっていた。急に言い返してこなくなった桂花のことを、拓実が「気味悪い」と言わんばかりの目で見てきたことには激昂しそうになったが、桂花は寸でのところで深呼吸し、気を取り直すことに成功する。

 華琳第一主義の桂花はそれ以外の人間などは有象無象だと思っているが、それでも桂花は少しばかり態度を改めることを決めた。少なくとも、今の桂花の演技をされたままでは、華琳の命を果たすまでに物凄く多くの時間をかけることになってしまう。

 それでなくとも、この拓実の姿が今の桂花であると突きつけられては流石に改善しなくてはなるまい。桂花から見てもあまりに歓迎できる人物像ではない。それどころか知らずに客観視させられ、危うくあの春蘭と同程度として並べてしまうところだったのである。

 本音を言えば、こんなのが自分であるとは断固として認めたくはなかったのだが、それも出来ない。『目を背けたいことを認めるのは問題解決への第一歩』、この言葉が桂花の逃げ道を塞いでいた。(しゃく)ではあったが、確かにもっともな言葉ではあった。

 

 

 

 

「年、季節、その下が月。次から人名で、続きが何をしたのか。そう、このくだりは前のところを指しているわけ。その後はそこを指した問題点ね。……何だ。思ったより読めるじゃない、あんた」

 

 拓実が解読した文章に解析を入れながら、思ったよりも仕事が少なくなりそうなことに桂花は笑みを浮かべる。

 てっきり、文字の読み方から意味、その全てを教えていかなければならないかと思って辟易していたが、拓実は間違いこそ多々あるものの提示した文章をある程度の文節に分けて読んで見せた。

 

「読むだけならね。崩した文字だとわからないけど、これはまだどんな字なのかわかるもの。こういった文にまったく触れてこなかったというわけではないけど、やっぱり書くのは時間がかかりそうだわ。ああ、意外だったけれど、あなたの教え方も悪くはなかったわよ」

 

 先ほどよりも言葉の角を落としながら、拓実は桂花に微笑んでみせた。

 

 桂花から退いた言い争いの後、桂花は挑発も侮蔑することもそれほどにはしなくなっていた。そして懇切丁寧に拓実に文字を教えてくれている。

 拓実はそこそこ桂花の人柄を把握していたつもりだったが、どうやら思い違いをしていたのではないかと考え直していた。口では華琳第一だと言いながらも、他者に対しても世話好きで優しい子なのだろうと、桂花への認識を改めたのである。自然と拓実が演じる桂花の人柄も、桂花の変化に引っ張られるように『素直にはなれないけど他者を放っておけない少女』といったものに変わっている。

 そうしてお互いがつっかかることがなくなると、出会い頭の罵り合いが嘘のように穏やかな会話をすることが出来た。変化した桂花の態度が、実は反省して改めていたものなどとは拓実は知る由もなかったが、桂花のその変化は両者にとっての益となっていた。

 

「ふん。ま、飲み込みが悪いわけでもなし。一月も続ければそこそこにはなるでしょ。それより拓実、旅をしていると言っていたけれど、出身はどこなのよ? 似た文字を使う文化であるのなら、そう離れたところでもないのでしょうけど」

「出身……ここから東にある、島国かしら」

「へぇ。東の島国というと、倭国と呼ばれている辺りかしら。大陸から向かって行った人間もいるらしいけど詳しくは知らないわね。ってことは、あんたって海を渡って大陸まで出てきたのね。珍しい」

「私はそんなつもり、全然なかったわよ。いつの間にかそうなっていただけ」

 

 若干拓実が言いにくそうにしたのを、桂花は敏感に感じ取った。桂花自身の演技をしているからこそ、その演技のぶれは大きく映る。

 

「……そ。ま、貴方も色々あるんでしょうから詳しくは聞いたりはしないけど、これからは東の国も馬鹿にできないわね。文字の読み書きはともかく、知識だけなら私塾を出た人間と大差ないんじゃない? 貴方みたいなのが出てくるなら、文官として登用しても使い道はありそうだわ」

 

 少し考える様子を見せた桂花だが、手元にある竹簡をくるくると丸めてまとめた。

 

「とりあえず、今日の分は終わりよ。続きは……そうね、二日後の午前が空いているから、それまでは書物を読んで勉強しておきなさい。秋蘭の持ってきたものは教本としては中々よく出来ているから、それでいいわ」

「そう、わかったわ。それより、これから春蘭と稽古があるのよね……。この姿で行ったら、絶対手加減なんてしないんでしょうね」

「はいはい。それはご愁傷様。ほら、さっさと行きなさいよ。私も暇じゃないの。溜まった政務を片付けなければならないんだから」

 

 部屋の中から追い出された拓実は、閉められた扉を眺めて深くため息をついた。

 

 

 

 

 

 とりあえず昼食を取るために食堂へ向かった拓実だったが、立場上あまり長居するわけにもいかないのでいくつか置いてあった果物を貰って、部屋に戻ることにした。

 華琳も使う食堂であるので、一応上層の者しか入れないようになっていると聞いたが、流石に知らない部下に話しかけられたりしたら上手く対応できる自信はない。

 

「華琳様に、何かしらの対策を考えていただかないと駄目ね……。食事を部屋に運んでもらうにしても、華琳様以外で私を知っているのは春蘭、秋蘭、桂花と皆忙しくてそんな雑事をしている暇などないでしょうし」

 

 女子であればこれでも持つかもしれないが、こんな格好と容姿をしていたって拓実は育ち盛りの男子である。果物だけでは流石に物足りない。

 おまけに思い返せば昨日はおにぎりを二つとお菓子代わりの点心しか食べていなかったし、今日はこれから春蘭との調練があるのだ。栄養はとっておくにこしたことはなかった。

 拓実がそんなことを考えながら両手に果物を抱えて自室への道を歩いていると、目の前を小さな女の子が横切った。手に溢れそうなほどの饅頭を抱えて、もぐもぐと咀嚼しながら歩いている。

 

「あっ、桂花だ」

「えっ?」

 

 思わず足を止めてしまった拓実に気づいたか、その少女は笑みを浮かべて歩み寄ってきた。桃色の髪を全て後ろへと流し、まとめ上げて二つに纏めた少女は、不思議そうな顔を浮かべる拓実に首を傾げるが、両手に抱えた果物を見て表情を一転。声を上げた。

 

「あー! それ、お昼ご飯にするつもりでしょ? 駄目だよー、桂花は普段から全然食べないんだから。もっと食べなきゃすぐお腹空いちゃうし、力が出ないよ?」 

 

 矢継ぎ早に拓実に向かって言葉を放った少女は、んー、と少しばかり考え込む。

 

「もう、仕方ないから、ちょっとだけ分けてあげるね」

「あ、ありがと」

 

 ぽんぽん、と果物の上に三個の饅頭を置いていく少女。それでも少女の手には十数個の饅頭が残っている。しかし、よく見ればこの饅頭、結構大振りである。三個も食べれば、拓実も満腹になるぐらいの大きさだ。

 軍師や武将の部屋が固まっているこの辺りに入ってこれるのは、本当に上層の人間だけだ。そのことから、間違いなく目の前の少女は華琳の臣下の中でも重要な位置にいる者だと推察できるのだけど、どうしたって誰であるのかわからない。何とか早く話を切り上げないと、ボロが出てしまう。おまけに、この少女と桂花は結構仲が良いようだ。

 一応、知っている名前でそれらしいのは……季衣って子がいるらしいけれど、もし呼んでみて、間違っていたら目も当てられない。

 

「あれ? 今日の桂花、何か変なの」

「食事が済んだら来るようにって華琳様に言われてるから、ちょっと急いでるのよ」

「んー? そういうのと違う気がするんだけどなぁ……。まぁいいや。華琳さまに呼ばれてるんじゃ、急がないといけないもんね。じゃあねっ」

 

 そう言って新たな饅頭にかぶりついた少女は、てくてくと廊下を歩き出す。元気に廊下の向こうへ歩いてく少女の後姿を眺めて、拓実はほっと息を吐き出した。

 何とか穏便に済んでよかったけれど、結局あの子は誰だったのだろう。でもとりあえず、手の中にある三つの饅頭をくれたあの少女に会えたことは、地獄で仏にあった、と言えた。

 

 

 

 

 

「きゃああああああっ!?」

 

 ぽーん、と拓実の体が軽々と吹き飛んでいった。手に持っていた剣は、更に遠くに飛んでいく。

 拓実は地面をごろごろと転がって、砂煙を上げながらようやく止まった。しばらくそのままで微動だにしなかったが、突然にがばっと体を起こし、自分を吹き飛ばした相手に向かって大声を上げた。

 

「こんの……馬鹿力っ! 少しは手加減ってものをしたらどうなのっ!」

「何を言うか、手加減ならば充分にしているだろうに。私が本気を出せば、お前など武器の上からまっぷたつになっているぞ」

 

 起き上がり、抗議の声を上げた拓実に、春蘭は愉快だというようにかんらかんらと笑い、見下してくる。桂花の姿の拓実をいじめることが楽しくて仕方がないようだ。

 

 自室で食事を終えた拓実は、首根っこを掴まれて春蘭に連行された。どうやら中庭の一角を借り受けて、そこで拓実の身体能力を試すとの事であった。

 引き摺られて中庭に到着した拓実は、有無すら言わされずに用意されていた一通りの武器を振らされ、その中で一番に使いやすいと伝えた細剣を持たされる。今度はどうやら、手合わせするとのことである。拓実はイヤだと言ったが、聞き入られることはなかった。

 そうして攻撃してこいと言われて両手で振るった剣は春蘭の大剣を揺るがせもせず、何の気なしに春蘭が返した一撃で拓実は鞠のように吹き飛ぶ破目になったのだ。しかも事前にどこを攻撃するか宣言されて振るわれたというのに、この有様であった。

 

「だいたいだな。わざわざ華琳様から調練用の予備の鎌をお借りしてきたのに、満足に振るうことすら出来んとは思わなかったぞ。お前に渡した剣にしたって、本来は片手で持つ軽いものだというのに、それを両手で扱ったりして……」

「仕方ないじゃない! 私は頭脳労働専門なの! 大体、あんな重たい物を振るえっていう方がおかしい話なのよっ」

 

 中庭には、いくつかの武器が転がっていた。先述の華琳が使うのと似た形状をした大きな鎌、春蘭の調練用の模擬刀。兵士が使う大振りの剣、そして今拓実が使っていた片手で扱う刀身の幅が狭い剣だ。

 この内、振るうことも覚束なかったのは、春蘭の剣。これは持つことが精一杯だった。振るうことは出来たけれど、十回の素振りでギブアップしてしまったのが大振りの剣。振るえるが、その遠心力でふらふらと体が流れていってしまうのが華琳の鎌。なんとか拓実が満足に振るうことが出来たのは、文官が持たされる細剣だけだ。

 

「ふはははっ! 力がないのも、そうして理屈ばかりこねているのも、本当に桂花のようだな」

「……あんたねぇ。そうやって笑っているけど、私を華琳様と戦えるところまで鍛えることが出来なかったら、罰を受けるって話は覚えているんでしょうね? 私も酷い目に遭わされるんでしょうけど、罰を受けるあんたは私よりも悲惨なことになるわよ。絶対に」

「むぅ、そうであった! ……しかし、参ったぞ。武術を教えるのは構わんのだが、得物に振り回される程度の筋力しかないとは。二ヶ月と華琳さまは仰っておられたが、この様子では体力作りだけでほとんどが終わってしまう」

 

 むむむ、と考える春蘭ではあるが、拓実はそれどころではない。地面を転がった所為であちこちが痛む。折角の新しい服も、砂だらけになってしまった。

 

「あら、やっているわね。ふうん、桂花の姿も似合うじゃない。言うだけのことはあるわ」

「華琳様っ……あぅっ」

「華琳さまっ、このようなところまで!」

 

 拓実が服についた砂を払っていると、華琳が笑みを浮かべながら歩いてきた。声を上げて近寄ろうとしたところで春蘭に押しのけられる。桂花の姿をした拓実が、春蘭を差し置いて華琳に近づくのが我慢ならなかったらしい。

 

「挨拶はいいわ。春蘭、拓実はモノになりそうかしら?」

「はぁ……、どうにも、何と言ったらいいのやら。拓実、ちょっと華琳さまの調練用の鎌を振るってみろ」

「あのね……あんたにさっき散々剣を振らされた所為で、腕がもう震えているのよ。そこのところ、ちゃんとわかって言っているの?」

 

 何度も素振りをさせられた拓実の両腕はぷるぷると震えている。明日は間違いなく筋肉痛だろう。

 

「そんなことは知ったことか」

「ああ、もう! わかったわよ!」

 

 春蘭に一言で切って捨てられた拓実は、どうにでもなれと自暴自棄の声を上げた。立てかけられていた華琳の調練用の鎌へと歩み寄って手に取り、腰が引けながらもなんとか構えて見せる。

 

「んぐぐぐ」

 

 顔を赤くして両手で振りかぶり、ふらふらしながら重さに負けた様子で大鎌を振り下ろす。振り下ろすと、またよたよたっと前方にたたらを踏んだ。

 

「ちょ、やっぱり、と、止まらない……ひゃあっ!」

 

 柄を持ち替えて横に振るえば、やっぱり自分でつけた勢いを止められずに体を傾ける。そしてそのまま重さを耐え切れずに、しりもちをついてしまった。

 

「いたっ! もうっ! 何だって私がこんな目に」

 

 痛みで涙目になった拓実は、尻をさすった。もう手の中に鎌はなく地面に転がっている。

 その後も何とか肩で息をしながら立ち上がっては鎌を持ち上げようとするが、後ろにすっ転んで仰向けに倒れた。遅れて鎌の柄が胸に倒れ掛かって「えぶっ!?」と不細工な悲鳴を上げている。

 

「これは……ひどいわね」

 

 そんな拓実の様子を見ていた華琳は、桂花の役作りをしている為にこんな無様を晒しているのではないかと己の目を疑った。それほどに酷すぎた。

 しかし華琳も武を嗜む者の一人であるからして、拓実のへっぴり腰を観察していれば流石に理解してしまう。どうやら拓実は、演技でこれをやっている訳ではなさそうである。

 

「その、これをですね、二ヶ月で華琳さまと戦えるようには、この私といえど流石に……」

 

 最早罰は免れまいと思ってしまった春蘭だが、それも仕方がない。二ヶ月あればあの鎌を振るえるようにはなるだろうがそこまでである。とてもじゃないが、戦い方を教える余裕はないだろう。

 

「ええ。この状態からそこまで鍛え上げるのは、誰であっても無理よ。それに武器に振り回されているようじゃ、拓実自身に武の才能があるかもわかりはしないし」

「……今の拓実の姿を見る限りでは、期待は出来そうにないですが」

「まぁ、拓実のことだから、私の姿をしていればもう少しはマシになるかもしれないけれど、それでも筋力まで変わるはずもない。これについては時間がかかりそうね」

 

 華琳と春蘭は、乗っかっている鎌を押し退けられずに潰されそうになり、地面でもがいている拓実を見て、同時にため息を吐いていた。

 



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9.『拓実、許緒と顔合わせするのこと』

 

 華琳と春蘭に呆れた目で見られている中、大鎌の下から何とか這い出た拓実だったが、立ち上がることなく座り込んだままでいた。手の中の鎌をぼんやり見つめているが、拓実は実のところ途方に暮れていた。

 これをどうしていいものかわからないでいた。最終的にはこの大鎌を武器として扱えるようにならないといけないのだが、どうにも上手く扱っている自分の姿が想像できないのだ。

 

 実際に握り、振ってみて、拓実自身が扱う上での問題点はいくつも見つかった。まず挙げられるのはこの鎌が結構な重さを持っているということ。鎌自体からして金属の塊であるからそれは当たり前なのだが、ここまで重たい長柄のものを振るう機会は拓実の人生において一度もなかった。長さだけということなら掃除のモップやほうきでチャンバラしたことはあったが、それら木やプラスチックとは比べものにならないほど重たいのである。

 だがこれでも重さという点で見れば然程のものではない。春蘭の大剣は言わずもがな、兵士が使っているという剣の方がいくらか重たいくらいである。しかしその重量差を差し引いたとしても、拓実にはこの大鎌は扱いにくくてしょうがなかった。直剣などの棒状の物よりも刃先に重さが集中しすぎている為に持ちにくく、腕力だけでなく握力もないと刀身の重量で刃先が勝手に下へ向いてしまう。

 拓実は演劇の大道具を運んだりしていたので人並みの筋力を持っているつもりだったが、これについてはまるっきり勝手が違っている。運用のとっかかりからして掴めない。ちょっと練習した程度で扱えるような武器ではないことは確かだった。

 

 筋力不足に、経験不足。加えて今の拓実には、武を学ぶ熱意が不足してしまっている。他は鍛えればなんとでもなる。しかし最後のひとつはその鍛錬に必要なものであって、改善についても如何ともしがたい。

 桂花の演技をしている拓実はどうにも武術を熱心に習う気になれない。武の才を持たなかった桂花の根本には『荒事は他に得意とする者に任せればよい』という思想があった。もちろん才があったなら戦働きもしていたかもしれないが、現実に桂花は持たざる者。それがわかっているから桂花は内政能力を磨き、知識の吸収に全力を注いでいるのだ。

 だからもし近い将来に桂花の身に危険が迫るとわかっても、彼女は自身の武を磨いたりはせず身辺を護衛で固めることだろう。いや、そもそもそんな機会を相手に与えないように頭を働かせるだろうか。どちらにせよ、自身の武力で状況を打開しようなどとは考えないはずだ。

 

 桂花は軍師であることに誇りを持っている反面、武の才能を持たない反動から荒事を嫌っている。そして桂花になりきる拓実は、そんな価値観までを共感してしまっている。相手の価値観を理解することは演技をする上で不可欠であり、自身であるように共感して演技する拓実は、自身が桂花とは別人であるとわかっていても思考が引きずられてしまうのである。のびしろが小さいとわかっている武を熱心に習う桂花など、最早別人物である。そんな根幹に矛盾がある人格に拓実は共感できず、共感できなければ演技することだってできない。

 たとえ拓実が武を学ぶ意欲を持っていようと、どれだけ必要なものだとわかっていても、桂花の演技をしている以上はあまりに逸脱した行動はできないのだ。他人になりきることが出来る演技力は多くの利点を生むが、ここに至ってはその弊害が目立ってしまっている。

 

 結論として、どうやら桂花の姿をしている時に調練をするのは適さないということになるのだが、しかしそれでは困ったことになる。しばらくという条件付であったが、城内では桂花の演技をしているように華琳に命を出されたばかり。演技をしていない素の南雲拓実であればまだマシなのだろうけど、その姿で春蘭より調練を受けることは華琳より許されていない。

 拓実はしばらく頭を働かせてみたのだが、打開策が見つからない。どうにも八方塞のように思う。

 

「仕方がないわね。貸してみなさい」

「あ、華琳様……?」

 

 大鎌を眺めながら思考に沈む拓実を見て、華琳が近寄ってきた。つかつかと歩み寄り拓実の手にある大鎌へと手を伸ばす。それを受けて拓実は、無意識に手に持っていた柄の部分を華琳へと手渡していた。

 華琳はそれを受け取ると大鎌の柄を持ち替え、上下を入れ替える。鎌が綺麗な弧を描いて、その手に再び収まった。筋力を使っての動きではない。遠心力を利用し己のものとして、華琳は結構な重量を持つ筈の大鎌を軽々と扱って見せた。

 

「拓実、とりあえず私の動きを今後の手本として覚えておきなさい。桂花の演技をしているあなたでは模倣することは出来ないのでしょうけど、せめて私の動きをその目に焼き付けておくように」

 

 華琳にとっては何気のない、気にも留めないような一連の動きだったが、拓実は直前まで同じものを握っていたからこそ見た目通りに簡単に扱えるものではないことを知っている。その芸当を目の当たりにして、拓実は言葉もなく、こくこくこく、と頷き返した。自分があんなにも苦戦した大鎌をあっさり扱ってしまう華琳の手捌きに、見惚れてしまっていたのだ。

 

「それでは春蘭、相手をしてもらえるかしら」

「はっ!」

 

 華琳と春蘭、両者が己の武器を手に構える。途端に張り詰める空気。見ている拓実の肌がひりつくような緊迫感が二人を中心に放たれた。

 春蘭の火傷してしまいそうな戦意と、華琳の冷たいと感じるほど研ぎ澄まされていく集中力。自然と拓実は喉を鳴らしていた。

 

「では、私からっ!」

 

 そんな中、動いたのは春蘭だった。愛剣――七星餓狼を駆けながら振りかぶり、大鎌を構える華琳に向かって渾身の力で振り下ろす。春蘭が行った動作としてはたったこれだけのものであるが、それは拓実を相手にしていた時とは比較にならない程に速く、そして鋭かった。

 なるほど、手加減していると言っていた時は思わず疑念の目を向けてしまった拓実であったが、正しく春蘭の言う通りである。虚などなく、己の力のみで叩き潰す。小手先の策や生半可な小細工などは、この圧倒的な力の前にしては物の役にも立たないだろう。

 

 春蘭の超重量の一撃は、拓実と同程度の体躯しか持たない華琳では受け止められる道理がない。全てを叩き切らんとするこの大剣は、受けようとも防御ごと弾き飛ばし、或いは相応の力量を持たない者であれば得物ごと両断するだろう。女性の細腕から繰り出される一撃だというのに、春蘭のそれは成人男性を軽く越える威力を持っている。それを知っていたつもりであったが、春蘭の力は尚、拓実の理解の外にあった。

 

「でぇぁぁあああっ!!」

 

 瞬間、春蘭の気勢に大気が揺れ、そして確かに大地もが揺れた。

 春蘭の七星餓狼が振り下ろされ、結果として地面に突き立っているのだが、その有様があまりに異様。周囲の地面は陥没し、罅割れたような亀裂を入れ、春蘭が振るった軌道上には大きく裂傷が走っている。

 地面に刃を入れるのは漫画などの中ではありがちな表現であったが、常識的に考えるならば不可能なことだと認識していた。そんなことがまさか現実に、それも目の前で起こり得るものだとは拓実は思ってもなかった。

 

 だが、そんな必殺の一撃を、華琳は無傷で捌いていた。華琳は前進した春蘭に対応できるよう、片足を引いた。半身の体勢で手にある大鎌の刃を振り下ろされる七星餓狼へと当て、逸らしていなす。荒々しい春蘭の一撃を、常人離れした動体視力と集中力を以って見極めてみせた。だがもちろん、逸らすといっても華琳の細腕ではその衝撃を殺しきることは出来ない。このままでは手の中の大鎌は大きく弾かれてしまい、決定的な隙を見せることになってしまうだろう。

 そこで更に華琳は妙技と云える冴えを見せた。向かってくる力に抗わず、自身の得物を回転させることで力の向きを変えてやり、後方へ流したのだ。そのまま手元を支点に、ぐるりと春蘭の力を残して一回転した大鎌の刃は、攻勢をかけた春蘭本人へと返っていく。

 防御から攻撃へ。間髪入れずに返すそれは、剣を振るったばかりの春蘭に対応をさせない、不可避の一撃だった筈だ。

 

 だが、春蘭も然る者である。反射されたかのように上段から返ってきた華琳の大鎌を、上体を横に倒して避けてみせた。

 傍から見ていれば予知していたかのような身のこなしだが、春蘭の表情からそれは違うことがわかる。春蘭は驚いていた。予想外の攻撃だったのだと、その顔は物語っていた。今の回避は本能的な危険察知か、人間離れした反射神経か。もしくは、その両方であるのか。事前に察していての行動ではなく、その場での咄嗟の対応に過ぎなかったということだ。

 

「はぁ!」

 

 驚愕した春蘭だったが逡巡はしない。予想外であろうが、硬直だけはしない。すぐさまに地面に突き立った七星餓狼を引き抜き、華琳へと薙ぎ払った。

 拓実からすれば充分に強烈な一撃であるが、やはり先と比べると見劣りしてしまう。明らかに直前の無理な回避が足を引っ張っていた。

 

「せぇっ!」

 

 華琳もまた体勢の崩れた春蘭に対し、攻めに打って出ていた。膂力という点だけで見るならば春蘭と大差をつけられてしまう華琳だが、体勢を崩している春蘭を相手とすれば充分に渡り合える。春蘭との空間を詰めながら、胴を空間ごと刈り取るような鋭い一振り。

 

 二つの軌道は衝突――――鈍い金属音が響いた。

 遅れてひゅんひゅん、と風を切る音。上空から何かが飛来し、程なくして拓実の足元に突き立った。拓実が視線を下ろしてみると、それは鉄の刃であった。

 

「……はぁ、駄目ね」

 

 目を瞑り、天を仰いだ華琳が呟く。そして興が削がれた様子で、その手に残った鉄の棒を見下ろした。

 

「春蘭と渡り合うのに、こんな重さだけを似せたような紛い物では。やはり【絶】でもなければ春蘭の一撃は耐えられそうにないわ」

 

 残った柄を地面へと転がして、華琳は肩を竦めてみせた。いや、刀身部分だけが折れたのかと思えば、その柄もまた少し歪んでいる。

 

「いえ! 華琳さまも更に腕を上げられておられました! 私の初撃を利用してのあの反撃は、思わず肝を冷やしました。【絶】をお持ちであったなら勝負はわからなかったことと思います」

「そう言う貴女がかわしてみせたのは、一撃が鋭ければ鋭いほど相応の反撃を返してみせる、私のとっておきだったのだけれど。巧く流したつもりだったのに、受けた手が痺れてしまったわ。まだ改良の余地はあるわね」

 

 手をぷらぷらと振ってみせる華琳。笑顔で称える春蘭。張り詰めていた空気は、今は弛緩している。拓実は、呆然とそんな二人を見ていた。

 一瞬の出来事。あまりのことに拓実はまばたきすることも出来なかった。二人のうち特に注意して華琳のその動きを追ってはいたが、目の方がついていかなかった。

 春蘭の一撃を鎌を当てて逸らしたことまではしっかりと見えた。だが、その後の攻防がどう至り、決着へと結び着いたのかわからない。三国志における英雄といえど、人は、本当にここまでのことを為し得るものなのか。立会いが終わった今も尚、拓実の常識を揺さぶっている。

 

「それで拓実、どうなの? 私になりきった貴方は、今の技術を模倣することは出来るのかしら?」

 

 そんなことはわかりきっている。拓実が模倣できるのは『拓実が理解できる』ことだけだ。性格にしても、在り方にしても、技術にしても。理解、共感ができなければ、演技など出来よう筈がない。

 

「あ、あの。華琳様のお手を煩わせてしまった後で申し上げるのは非常に心苦しいのですが、華琳様の技術までを模倣することは私では無理なようです。私の力量では、華琳様や春蘭の武を見極めることなど出来る筈もなく、今の攻防とて理解の外でございました」

 

 せっかく華琳が機会を与えてくれたというのに、その期待に沿うことはできそうにない。華琳も怒っているだろうと、拓実は跪き、深く頭を下げる。しかしそんな拓実に向けられたのは、くすくすと鈴を転がしたような笑いである。

 

「ふふっ、拓実。何も全てを完全に真似ろとは言っていないわ。そんなことが可能ならば、私や春蘭のように研鑽に励んでいる武人たちがあなたを許してなどおかないでしょう? 私が聞きたいのは、参考になったかどうか。それを元に鍛錬すれば、少しは違うでしょう」

「はっ。そう言った意味でありましたならば、独学では至れぬ境地を見せていただけたのですからこれ以上のものはありませんでした。しかし、華琳様が仰ってくださいましたように、桂花に扮している今の私では軍師であるべきという意識が鍛錬の邪魔をしてしまいます。これならば南雲拓実としての方が効果が望める物かと……」

「へぇ、やはりそうなのね。ならば逆に、勇敢で武に長けた人物の演技をしていれば伸びが良いということかしら」

「演技をしながら他の技術を学んだ経験はありませんが、心構えという点では間違いはないかと思います」

 

 顎に手を当てて、華琳はしばし熟考する。何か閃いたようだが、どうにも拓実は、自身の苦労が増える予感がしていた。

 

「……そうね。ならばいっそ、拓実には複数人の演技をしてもらいましょうか」

「複数人、ですか?」

「ええ。一つに、必要な時は私の影武者を。一つに、軍学、政務を学ぶ為に軍師の姿を。一つに、武を磨き、統率力を鍛える為に武将の姿を。つまり有事の際は私の姿を。学を得る際には桂花の姿を。そして武を学ぶためには、春蘭、秋蘭は無理そうだから……そうね。拓実に背も近い、季衣の姿を借りれば。そうして身元を作り、個人として扱ってしまえば、無理をして身を隠す必要もなくなるわ。しかし、そうなると問題は名門である荀家かしら。流石に私の手の及ぶところではないし」

「あの、華琳さま。仰られている意味がわかりかねるのですが。もしや、それは拓実に、季衣の演技までさせるということでしょうか」

 

 視線を地面に向けて思考に耽っていた華琳は、横からかけられた春蘭の声に顔を上げた。不安そうに見る春蘭に向けて、華琳は微笑んで見せる。

 

「半分当たり、というところかしら。拓実には桂花と季衣の演技をしてもらうけれど、それぞれに身分と名を与えるつもりよ。そうすれば影武者としての拓実を必要としていない場面でも実際に軍を率いることが出来るし、公の政務も、春蘭と調練していても何ら不自然はない」

「桂花の奴はともかく、季衣がどう思うかは置いておきますが、それは流石に拓実の身が持たないのでは……」

「三役演じさせるからといって、別に他の二倍、三倍働かせるわけではないわ。不足した部分を必要な技能で穴埋めする役目を負ってもらうつもりよ。有事の際にしか動かせないのでは宝の持ち腐れだもの。もちろん二役同時には存在できないけれど、もう一役には私から使いに出しているとでも言えば疑う者もいないでしょう」

 

 本人が関与することなく、華琳の中でどんどんと拓実の処遇が決まっていく。あっという間に固められていく案に拓実は止めることも出来ない。

 

「まぁ、拓実のことは心配などしていないし、そんなことをしている暇があるなら拓実が十二分に働けるだけの環境を整えてあげないといけないのだから、早急に手は尽くさないとね。拓実であれば、その手間を上回る成果ぐらいは遠からず見せてくれるだろうし」

 

 華琳が笑みを浮かべながら発した言葉を受けた拓実は、反射的に「ひゅっ」と空気を吸い込んで顔を引きつらせた。そのままどんどん血の気を失っていく。

 

 拓実にはこれまで人を率いた経験などはない。この大陸の文字だってまだ習い始めたばかりで、武に至っては明らかに幸先の悪いスタートを切っている。だというのに、華琳はどうしてか拓実が当然のように出来ると信じて疑っていない。そんなにも華琳に気に入られるようなことを自分はしていただろうかと拓実は考えてみる。しかし、どうにも思い当たらない。演技の才については評価してくれているようだけど、果たしてこれはその延長なのだろうか。どうにもいくつかの意図が絡み合っている気がしてならない。

 とにかく、華琳のその期待が重い。まだ何も成果を出していないというのに、重責ばかりを次から次へと背に乗せてくる。そのうち拓実は、押し潰されてしまいそうだ。その上やるべきことは沢山あるというのに、今の自分ではこなせないことばかりである。しかし華琳は悠長に待ってくれなどはしないだろう。拓実はその重圧と焦りから、自身の顔が青く染まっていることを感じていた。

 

「そうね。そうと決まれば午後の仕事は、休養予定だった明日午前に回しましょうか。春蘭、ここにある武器を片づけた後、至急秋蘭と季衣を玉座の間に呼び出しなさい。拓実、あなたは桂花よ。今私から任せてある仕事については早急に欲しているものでもないから、明日以降に遅れても構わないと伝えなさい」

「はっ! お任せください」

「……は、はいっ! かしこまりましたっ!」

 

 春蘭が勇ましく声を上げ、そこらに散らばっていた武器をまとめて抱え上げ、駆け出した。おそらく総重量にして二十キロ前後。それを抱えていても速度は落ちるわけでもなく、背はあっという間に見えなくなる。

 考えていて反応が遅れた拓実も桂花の部屋へと向かう為に駆け出そうとするが、まだ身体のあちこちが痛くて、春蘭のように全力で走ることが出来そうになかった。

 

 

 

 

 

 ひょこひょこと走る拓実の後ろ姿を眺め、華琳は口の端を吊り上げる

 自身では気づいてなかったようだったが、ふるふると身体を震わせて顔を青くしていた拓実の様子は、本当に桂花のそれに似ていた。頭を下げて謝罪を向けてきた拓実についつい意地悪をしてしまったが、これぐらいならば許されるだろう。桂花であったなら、本気で可愛がっていたところだ。

 

 拓実を眺めながら華琳が考えているのは、彼の適正についてだった。

 政務や識字の適正については応対した桂花に聞いてみなければ詳しくわからないが、恐らくそれほど悪いものでもないだろう。元々拓実は、教育を長年受けているようだ。頭の作りとして、知識を吸収する下地が出来ている。

 それに武についても、理解できないから演技が出来ないといっていたが、ならば理解できるほどの技量を持つまで拓実自身を底上げすればいいだけのことだ。もしそこまでいくだけの潜在能力があるなら、拓実は化けるかもしれない。もちろん拓実自身が持つ才にもよるし、身体能力が演技する者と同じところまでいくことはないだろうから、二番煎じの劣化したもの止まりとなってしまって、大成しない可能性も大いにあるが。

 残すところは軍務だが、華琳はこれについてはそれほどの心配はしていない。人を率いる資質は、その人間の性質や性格、持っている知識によってある程度量ることが出来る。正しく人間としての性質、心の機微まで演技してみせる拓実であれば、状況によって兵の運用を変える事だって出来るかもしれない。

 

「拓実と会ってから二日目だけれど……一時たりとも退屈しないわね。それに、まだまだ面白くなりそうだわ」

 

 華琳は拓実が宿舎へと去っていったのを見送り、笑みを浮かべて玉座の間へと足を向けた。

 

 

 

「華琳さまっ、春蘭さまが急いで来いって言ってましたけど、もしかして賊が村を襲っているんですかっ!? あいつらっ、また罪もない人から……!」

 

 華琳が玉座に座り、今後のことを考えていたところ、声を上げながら駆け込んできたのは季衣だった。顔を険しく歪め、怒りを露に声を荒げている。

 最近、華琳はこんな季衣の姿をみることが多い。普段は元気で心優しく、明るい可愛らしい少女であるのだが、略奪を働く賊が相手だとこうなってしまう。

 

「落ち着きなさい、季衣」

「でもっ!」

「今回は賊がどうこうといった話ではないわ。新たに臣下に加わった者がいるから、顔合わせをするだけよ」

「あ……そーだったんですかぁ。なーんだ、ボク、てっきりまた賊を討伐する話だと思ってました」

 

 先ほどまでの激憤が嘘のように、朗らかに笑みを浮かべる季衣。

 出会った時からして賊に襲われていたのだから、その気持ちはわからないでもない。むしろ、華琳とて賊を憎む気持ちはよくわかるが、季衣のそれは少しばかり度が過ぎている。近いうちに、どこかで諭してやらないと暴走してしまうだろう。

 そんなことを考えていると、季衣から華琳へ向かって声が上げられた。

 

「あ。そういえばお昼に桂花に会ったんですけど、調子が悪いんですか? 昼食の後、華琳さまに呼ばれてるからって急いでましたけど、なーんか変だったんですよねぇ」

「私が、桂花を? そんなことを言った覚えは…………ああ、そういうこと。季衣はあの子に会っていたのね。どうやらバレてはいないようだけれど」

 

 どうやら華琳の知らないところで、拓実は季衣をその演技で騙し通していたらしい。流石に華琳の演技をさせている時ほどには似ていない為、あまり細かいことを気にしない季衣であっても違和感があったようである。わかりきっていたことであるが、やはり桂花として城内をうろつかせるのは無理がありそうだ。

 

「えっと、華琳さまー?」

「大丈夫よ。桂花はいつも通りだわ」

「よくわからないけど……えーと、それで、新しく入った人って、どんな人なんですか?」

「ええと、そうね。拓実のことは何と説明したらいいのかしら。私と桂花にすごい似ているのだけれど……」

「えー? 華琳さまと桂花に似ている人ですか? 何だか全然想像できないんですけど……」

 

 首を傾げる季衣だが、ここで話して説明するよりも実際に会わせてしまった方が早いだろうと華琳は考えた。言葉で説明することがむずかしいのだ。男なのに華琳や桂花の姿に似ていて、しかも本物らしく演技が出来るなどと、いくら言葉を重ねても嘘くさくなってしまう。

 

「ただ今参りました」

「おまたせしましたっ!」

 

 季衣に遅れて数分、秋蘭、春蘭が入室してくる。どうやら、一番最後は桂花と拓実のようだ。最後の拓実の様子を見ていれば、それも仕方がないのだが。

 

「ああ、春蘭。伝達自体が早かったのは褒めてあげたいけれど、せめて季衣にきちんと用件を伝えておきなさい。季衣ったら混乱していたじゃないの」

「あ、も、申し訳ありません!」

「それで秋蘭、どういった話になっているかは理解できている?」

「はい。いささか解読に時間はかかりましたが、おおよその事情は把握できているかと」

 

 秋蘭の口振りを聞く限りでは、また春蘭は説明を省いたようである。深く深く頭を下げている春蘭を置いて、華琳は再び季衣へと向き直った。

 

「華琳様、失礼致します」「華琳様、失礼致します」

 

 とりあえず説明できるところまでしておこうかと口を開いた瞬間、同音程で重なる声が入り口から届いた。ありえない多重音声に華琳はつい何事かと気を乱してしまう。

 視線を向けてみると、肘でお互いのわき腹をつつきながら歩いてくる、頭巾を被った二人の姿があった。

 

「ばかっ! あなた、何でわざわざ私の声と揃えるのよ! 華琳様がびっくりなさっているじゃない!」

「何ですって!? あなたが勝手に声を合わせたのでしょう! 変な言いがかりはやめなさいよっ!」

「言いがかりとはなによ!」

「その通りじゃない!」

 

 桂花と拓実の二人は何やら口喧嘩をしているようだが、傍から見ているとどちらがどちらの科白を話しているのかわからない。髪色もあって区別はつくが、あまりに共通点が多すぎて、華琳には最早双子の姉妹のようにしか見えないでいる。

 華琳の隣に立っている春蘭、秋蘭もその二人の様子を複雑な表情で見ている。見ていてかなり興味深い光景ではあるのだが、とにかくきゃんきゃんとやかましい。

 

「え? えぇ? ええぇぇぇぇー!? 桂花が二人いる!? どうして!? 何で!?」

 

 上げられた悲鳴のような季衣の声。さらに騒がしくなる玉座の間に華琳は思わず、頭を抱えたくなった。

 ここは静謐としているべき、玉座の間なのだ。君命を授け、報告を聞き、軍略を交わす場である筈なのだ。兵には立ち入りを禁じておいたが、玉座の間がこうも騒がしくては覗きに来る者も出てくるかもしれない。

 それに、混乱している季衣に説明するのも骨が折れそうである。桂花の時のように一から説明しなければならないのだろうか。瓜二つの拓実を見て驚く反応は、知っている者としては見ていて面白いのだが、連日ともなると説明の方が億劫になってくる。

 とりあえずこの場の混乱を収めようと華琳が息を吸い込んだところで、喜びに溢れた季衣の声が響く。

 

「すっごーい! そっくりだ! あ、そっか、華琳さまが言ってた新しく入った人ですね! ボク、許緒っていいます。字は仲康で、真名は季衣です。よろしくお願いします!」

 

 信じていた。いや、それどころか真名まで躊躇なく預けてしまっている。拓実を目の前にして信じるも信じないもないのだが、もう少し相手の素性を探るとか前段階が必要なのではないのか。

 華琳は肺まで吸い込んでいた空気を、そのまま吐き出していた。

 

「あなたが、許緒……。あ、私は拓実。姓は南雲で、名が拓実ね。大陸の生まれではないから字も真名もないわ。拓実と呼んで。それと、お昼はお饅頭、助かったわ。一応、改めて言っておくわね」

 

「へ? お饅頭? ……あー!! お昼に会ったのは拓実で、桂花じゃなかったんだ! 何か変だなーとは思ってたんだけど、全然わからなかったよ! あ、桂花と並んでいると、ちょっとだけ拓実の方が背が低いんだね。髪の毛も金色だし。んー、でも、背はおんなじくらいだけど華琳さまに似ているようには見えないけどなぁ」

「ああ、それはね……」

 

 会って早々に季衣は拓実の存在を把握したらしい。しかも何やら拓実に懐いている様子。一から説明しなくても良くなったのは助かるのだが、華琳は何やら腑に落ちない。

 

「あの、華琳様。季衣に、私が華琳様の演技をしているところを見せてあげたいのですが、よろしければ許可をいただけますでしょうか?」

 

 しばし呆然と、二人の様子を視界に入れていたのだが、いつの間にか拓実が近づいていた。どうやら話しているうちに、華琳に似ていると言われているのは何故か、と問われたらしい。

 とんとん拍子に、勝手に話が進んでいく。肩透かしを食らった気分ではあるが、滞りなく話が進んでくれるのはいいことである。だが華琳は同時に、言われたことを頭から信じてしまっている季衣の将来が少しばかり不安になった。

 

「……そうね。私もここにいることだし、構わないわ。それにその方が、季衣も拓実の立場を理解し易いでしょうし」

「はい、ありがとうございます。それでは着替えて参りますので、しばしお待ちください」

 

 言って、拓実は一礼。足早に自身の部屋へと戻っていく。

 そうして拓実の姿が完全に見えなくなってから、華琳は季衣へと振り向いた。

 

「季衣、言い逃すと機会がなくなるから先に言っておくわ」

「はい? 何ですか」

「拓実は男よ」

「へ? あ、それ、嘘ですよね? 流石にボクだってわかりますよ。だって、あんなに桂花に似ているのに男の人だなんて……」

 

 流石に、拓実が男とまでは信じることが出来なかったようだ。混乱する季衣の姿に、華琳は心の中でやりきれずにいた部分が解けていくのを感じていた。

 追随するように、春蘭が疑っている季衣に向かって声をかける。

 

「うむ。季衣がそう思うのも仕方がないが、華琳さまの言うとおりなのだ」

「え……、それじゃ、本当に?」

「ああ。あれが女であれば、どんなによかったことか。せっかくの容姿であるというのに、世の中は理不尽なことばかりだ」

「まったくよ。私にまでそっくりで男だなんて、今まで見たどんな悪夢よりも酷いものだわ」

 

 くうっ、と額を手で押さえ、嘆く春蘭。苦虫を噛み潰したような表情で、珍しく春蘭に同意の声を上げる桂花。

 華琳とて、桂花と似たような心境である。容姿に自信を持っていただけに、それを知った時の衝撃も大きかった。

 

「あのー、それじゃ桂花も?」

「……季衣、私も、というのはどういうことよ?」

 

 怪訝な顔で聞き返すのは桂花本人。今の話から、自身の名が出てくる理由が見つからないようだ。自然と残る華琳、春蘭、秋蘭の視線も季衣へと集まることになる。

 言っていいものか迷っていたようだが、注目されてしまって言わざるを得なくなってしまった季衣は、恐る恐る口を開いた。

 

「だから、その、実は桂花も男の人だったり、とか」

「ぶッ!?」

 

 その季衣の言葉に、華琳と春蘭、秋蘭は揃えて、はしたなくも噴き出した。

 『桂花に似ている拓実が男、だから桂花も男』――この発想に至るとは、この場にいる季衣を除く全員が思ってもみなかったことである。

 

「な、な、なんですってぇ! 季衣! 貴女言って良い事と悪い事があるわよっ!」

 

 当たり前だが、自身が最も嫌悪している男かと疑いをかけられた桂花は激昂した。わなわなと身体を震わせて、顔を真っ赤にして季衣を睨みつける。怒りのあまり、目尻には涙まで浮かんでいる。

 

「ごめんなさい! 言ってみただけですからぁ! だって、あんなに似てるんだもん! 仕方ないじゃないですかぁ」

 

 桂花の形相に、引け腰になりながら必死に謝る季衣。しかし、覆水盆に返らず。言ってしまった言葉はなかったことにはならない。周囲の様子が、それを物語っていた。

 

「ぶわっははははっ!! そ、そうか! くっく……桂花が男だとは、この夏候元譲といえども今の今まで見抜けなんだ! うくっ、季衣は天才だな! く、腹が捩れる!」

「あ、姉者、駄目だ。そんなに、笑うものでは……くっ! くく、駄目だ。笑っては……く、ふふふ」

 

 大きく口を開けて笑い転げているのは春蘭。秋蘭も言葉では姉を諫めているようだが、顔は決して桂花へと向けないし、口元はひくついている。我慢しているようだが、堪えきれずに笑い声が漏れている。

 

「……くぅぅぅぅ! こっ、これ以上は、あはっ! 桂花が男ですって!? あんなにも男を嫌っているのに! あはははははっ!」

 

 華琳も顔を後ろへ向け、必死に堪えていたようだったがすぐに耐え切れなくなり声を上げた。玉座に向いて顔を見られないよう大笑いしながら、華琳は拓実が来てより声を出して笑うことが多くなったことを自覚していた。

 

 一方で、それらと相対した桂花はうろたえていた。最早何に対して怒っていいのかもわからないでいる。なのに、周りは笑いっぱなしで、桂花一人だけ置いていかれてしまったようだった。

 だからだろう。この事態を収めるつもりだったというのに、そんな迂闊な言葉を言ってしまったのは。

 

「華琳様! 私が男だと季衣に言われたことでお笑いになってますが、拓実が本当にそっくりに似せられるのは華琳様ではないですか! その理屈では、私ではなく、華琳様こそが男だということに……」

「……なんですって? 桂花、貴女、この私に向かって男である、とでもいうつもりなの?」

 

 瞬間、笑い声がぴたりと止まり、部屋の空気が息絶えた。何事かと、思わず桂花は辺りを見回す。

 季衣は顔を青ざめさせていた。ぷるぷると小動物のように震えている。秋蘭は、瞑目している。普段から何を考えているかわからなかったが、今ならば桂花にもわかる。『我関せず』だ。春蘭は、桂花に哀れみの視線を向けていた。今から屠殺される鶏を見るような表情だった。

 そうして気づいた。気づいてしまった。己の失態に。

 

「あ……ち、違います! 私は」

「昨夜に可愛がってあげたばかりだというのに、そんなことを言うだなんて。ふふ、面白いことを言い出すものね」

 

 そう言いながら、確かに華琳は笑っていた。しかしその瞳はそうではなかった。喜びも悲しみもない。怒りだけが真っ赤に燃え盛っている。

 桂花は、気がついたら既に平伏していた。秒を待たずに、身体が華琳に頭を下げていた。

 

「ごめんなさい! 華琳様、どうかお許しを!」

「桂花は何故謝り、そして私が何を許すと言うの? 確かにその理屈でいうならば、私も男だもの。なんらおかしなことは言ってはいないわよ」

「違うんです。本当に、そんなつもりはなくて……」

「ま、とにかく桂花はしばらく一人寝でも大丈夫ということよね。少なくとも数ヶ月は呼ぶことはないから安心なさい? ああ、それとも男の私がいいというならば、演技を止めさせた拓実に私から添い寝でも命じましょうか?」

「無理です! そんなことになったら私、妊娠させられてしまいます!」

「すればいいじゃない」

 

 ふん、と華琳の視線が桂花より切られた。そうして不機嫌そうに玉座で足を組む。

 

「そ、そんなぁ……なんで、こんなことに」

 

 視線を切られてからも、桂花は頭を上げられない。項垂れて、身体を起こす気力も今はない。

 確かに、自身の過失であった。悪いのは桂花だ。それを遡れば、季衣の発言。しかし、季衣は謝っていたし、その後の桂花の発言までには責任を持たせることなどできない。笑い転げていた春蘭。あれの所為で怒りで頭が一杯になってしまった。秋蘭はまだ抑えていたから許せないこともないが、怒りを覚えたのも間違いはない。だが、この怒りを向けるほどかといえば、筋違いだった。

 華琳にしても理不尽ではあった。人に言っていたことをそのまま自身に向かって言われて、この沙汰はないのではないかと思う。しかし、華琳が悪いとは、桂花は絶対に言わないし、思わない。

 

 そうしたら、元凶は残るただ一人となる。理不尽だと自覚はしていたが、そんなことは桂花には関係なかった。

 

「それもこれも、全部アイツの所為だ。覚えてなさいよ、拓実ぃぃーーーー!!」

 

 

 



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10.『拓実、役柄を頂くのこと』

 

 

 拓実が華琳の姿に着替えて戻ってくると、玉座の間の中央には桂花がうなだれて座り込んでいた。その周囲には変わらず春蘭、秋蘭、季衣と並んでいるが、揃って沈痛とした表情で桂花を眺めている。華琳はそれを不機嫌そうに玉座から見下ろしているが、それは表層だけで拓実には内心で悦んでいるように見えた。その華琳の心情に一番近いと思えるのは、いじめっ子の愛情というところだろうか。

 ともかく、拓実が玉座の間を出るまではこのような異様な雰囲気ではなかったのは確か。あの後に何らかが起こったに違いないのだが、いったいどうすればこうなるものなのか。拓実には見当もつかない。実際に訊いてみた方が早いだろうと拓実は疑問を抱えながら桂花に歩み寄り、声をかけてみることにした。

 

「桂花、これはいったいどうしたというの?」

「どうした、ですって? 拓実……あんたが!」

 

 うつむき肩を震わせていた桂花は拓実の声が届くなりに顔を上げ、視線で人が殺せたらとばかりに拓実を睨みつけてくる。そんな目で見られる覚えのなかった拓実は、つい目を白黒とさせてしまった。

 

「ではなくて、拓実様が! 拓実、様が……」

 

 心配そうに覗き込んでいる拓実と真正面から向き合うことになった桂花だったが、放たれる言葉は次第に力を失っていく。

 桂花が拓実に向かって言いたいことはいくつもあった。もちろん、怒りだって収まっていない。だが実際にその憤りを発しようにも、桂花の口からそれらは出てはこない。

 

「私が?」

 

 桂花の言葉から、この状況はどうやら自身に原因があるらしいことを知った拓実は努めて真剣な顔で桂花を見つめる。

 

「う……、うー……」

 

 その視線に射抜かれて、桂花はついに言葉が続かなくなってしまった。真摯な瞳で自身のみを見つめられているという状況に、本人は必死に抑えているようなのだが勝手に赤面していってしまうようだ。同じく桂花の険のあった表情も、華琳とほぼ同じ拓実の姿を前には長く続かずに見る間に崩れていく。それに気づいた桂花は顔を引き締めて、思い直したように顔を険しくしているようなのだが、結局は拓実が扮する華琳の姿には抗いきれなかった。最終的には必死に抵抗していた反動も手伝ってか、桂花の頬はだらしなく緩んでしまっている。

 

「拓実様、卑怯です……私がそのお姿に文句を言えないと知っていて」

「何? 桂花は私に文句が言いたかったの? 言いたいことがあるのならば言ってごらんなさい。桂花の諫言(かんげん)を聞き入れられないような狭量な器を持ってはいないつもりよ」

「そ、そんなことはありません! 私が拓実様に、文句などと!」

「先と言っていることが違うじゃない。まったく」 

 

 拓実は呆れたようにそう言って、肩を竦めてみせた。何に対して怒っていたのか拓実にはさっぱりわからないのだが、この様子では桂花は話してくれそうにない。

 

「ふふっ」

 

 そんな二人を見ていた華琳から笑いが漏れる。不機嫌そうにしていた華琳はいつからか、目を細めてこちらを見つめていた。

 

「駄目ね。拓実と桂花が話しているのを聞いていたら、怒りも失せてしまうわ。桂花、先の失言は特別に聞かなかったことにしてあげる。でも、次はないわよ」

「あ、は、はいっ! ありがとうございますっ」

「……だから、いったい何が起こったというのよ」

 

 目を輝かせて華琳に頭を下げる桂花と、それを微笑ましく見守る華琳。二人に、拓実の呟きは届かなかった。

 

 そんな呟きを漏らしたものの、落ち着いて考えてみれば桂花が拓実に対して物申すことなど限られる。恐らくは桂花の姿を真似ていた時のことなのだろうとすぐに思い当たった。どうなったのかは想像も出来ないのだが、それが原因で何らかの騒動を起こし、今回は桂花がその犠牲となったのだろう。

 演技をしているとブレーキが利かなくなってしまう自覚はあった。桂花との言い争いや、華琳に対しての歯に布着せぬ物言いが自重できないのは、拓実が相手に成りきろうとすることが原因だ。知らずにまたやってしまったのだろう。役に成りきる事が必ずしも良い結果に繋がるとは限らないことを、拓実は経験から知っていた筈なのに。

 

 

 拓実は必要に迫られ、若しくはその才を買われ命令される形で今こうして演技をしているが、演技すること自体が嫌だということはない。むしろ好むものであった。

 聖フランチェスカ進学以前は、演劇部の活動は拓実の日課となっていたし、それこそ一時期は生きがいであるのかもしれないと感じていたほどである。

 

 拓実にとって演技とは、多くの男の子がやったことがあるだろうヒーローごっこが始まりになっている。拓実も例に漏れず、幼少の頃は敵と味方に分かれて友達とよく遊んでいた。誰でもやっていただろうこれが、拓実の演技の原点であった。

 誰でも冒険譚に出てくる勇者や、アニメの主人公を真似て、布団たたきやほうきなどを剣に見立てて振り回したり、おもちゃの武器を手に必殺技を叫んだりしただろう。それらは演技なんていえるものではないかもしれないけれど、子供たちは自分を本物のヒーローであると思い込んでいる。そこに偽りは存在しない。

 

 拓実も歳が進むと、興味も歳相応に移っていく。絵本やアニメからテレビゲーム、漫画、小説、ドラマへと。こうなったらヒーローごっこなんてやったりはしない。けれども、拓実が感情移入するのはいつだって変わらなかった。

 小説の登場人物に感情移入してぼろぼろと涙をこぼしてみたり、漫画を読んで自分が強くなった気になってみたり、映画を観て自身の考えを改めさせられたりしていた。拓実自身が非常に流されやすい性格をしているのも手伝って、話の中の出来事がまるで我が事のように思えてしまえた。

 拓実にとっての演劇は、その延長でしかない。物語を読んで共感し、そのキャラクターの行動を自分のことのように思い込み――自身へと取り込む。そしてそれを、自身へと重ねる。自らの意思を極力消して、『私はこう動く』という自身の中に取り込んだ擬似人格に身を任せているのだ。

 

 けれど、度を過ぎて成りきってしまった為に手痛い思いをしたこともあった。それは以前に通っていた学園の演劇部でのこと、以前に一度なったという演技に没入してしまった『トランス』時のことだ。

 大舞台のラストシーンにて、ヒロインのシンデレラになりきった拓実は王子様役を心から愛していると錯覚してしまって、台本になかった愛を語り、いとおしく思うあまりにラストシーンではあわや本当にキスしそうになってしまった。

 それだけならまだよかったとも言えた。前後不覚の拓実を相手役が(なだ)めすかし、上手く機転を利かせて劇を綺麗に纏め上げてみせた。その一連の流れが反響を呼び、拓実属する演劇部は受賞することができたのだ。

 

 しかし問題は、その迫真の演技に感銘したらしい審査員長が、急遽、閉会の挨拶にてシンデレラを演じた女子生徒をと指名し、拓実を壇上に上げたことである。少女らしい瑞々しい演技だの、女性にしか出せない情感が篭もっていただの、実体験かと思わせるほどの愛の演技だのと、羞恥で顔を真っ赤にしている拓実のその横で大絶賛であった。

 後に性別が判明し、拓実の希望もあって名前を伏せてもらえたが、その様子を写した写真がしっかりと新聞の地方面を飾ったのは拓実にとってあまりに苦い思い出である。演技を見た劇団からスカウトもきていたらしいが、恥を上塗りする気がなかった拓実は部員に正体を秘密にしてもらい、顧問を通してその申し出を丁重に断って決して名乗り出ることをしなかった。

 しかし、もちろん人の口に戸は立てられないものであるからして、大会の見物に来ていた拓実のクラスメイトの口から学園へと広まり、拓実は友人たちに頻繁に女子扱いされることになってしまったのだ。そうして拓実には、容姿へのコンプレックスが生まれたのである。

 

 演劇を好み、そしてその才能を持っていながらも演技の道を自ら辞した顛末(てんまつ)はこれらであり、わざわざ自身を知る人間が少ない聖フランチェスカに進学を決めたのは地元では変に顔が売れてしまったからだった。

 結局は演技をして生活する破目になっているのだが、やはり演技をすることのないこの半年間は物足りないものであったのも確か。女装はすまい、と決めていたが、女役であっても演技するとなると充実感が違う。ここ数日、心が満ち足りているのを拓実は実感していた。

 どうやら拓実にとって、演技とは切っても切れないものになっているのかもしれない。

 

 

「うわぁー……すっごいなぁー。今の拓実、どこから見ても華琳様そっくりだねー」

 

 拓実が反省半分に考え込んでいるうちに、どうやら秋蘭から季衣には、拓実が務める『影武者』の役割と注意点が伝えられていたらしい。いつからか季衣は周囲をくるくると回って、感心しながら拓実を眺めていた。

 拓実は今までの思考を沈めて、すぐさま切り替えた。今華琳が拓実に求めているのはやり過ぎるぐらいの演技なのだから、事の良し悪しは部屋に戻ってからゆっくり考えればいい。

 

「んー、でも今の拓実って、呼び捨てにしにくいなぁ。華琳さまとおんなじ姿の人、ボクが呼び捨てにしちゃうなんて変な感じだし」

「呼びにくいようならば季衣が呼び易いよう、好きに呼んでくれて構わないわよ」

 

 気を取り直した拓実は小さく笑みを浮かべながら、はしゃいでいる季衣にそうやんわりと話しかける。

 春蘭以上に感情が表に出ている季衣は、見ているだけでなんだか微笑ましくなってしまう。季衣は見た目からして小柄で可愛らしい少女だが、中身も年相応であるらしかった。ころころと表情を変えて、全身で感情を表現する様はとても可愛らしい。

 

「それじゃ、桂花とおなじで、華琳さまの格好した拓実のことは『拓実さま』って呼ぼーっと。桂花の姿の時はそのまま拓実って呼べばいいし」

 

 何が嬉しいのか、季衣は「えへへ」と笑みを浮かべて拓実の顔を覗き込む。大きなその瞳からは好奇心が溢れ出ているようだ。そんなあまりに純粋な感情に当てられて、拓実は少したじろいでしまった。

 

「ねぇねぇ、拓実さまって、他の人の物真似もできるんですか? 春蘭さまとか、秋蘭さまは? ボク、見てみたいなー」

「こら季衣、少し落ち着きなさい。拓実も困っているわ。それに、話はまだ終わっていないわよ」

「はぁーい」

 

 華琳にたしなめられ、季衣は素直に返事を上げて春蘭の隣へてくてく歩いていく。拓実はそれを見て、密かに肺に溜まっていた空気を吐き出した。この姿を意に介した様子もなく親しげにされるのは嬉しいのだが、ああも純粋だとどうにも対応に困ってしまう。

 季衣が元の位置まで戻ったのを確認し、華琳はこの場にいる全ての人間を一人一人見回していく。

 

「これは繰り返すことになるけれど、季衣も加わったことだから改めて伝達しておきましょう。『曹孟徳の演技をする拓実』、これを知る者はここにいる者だけよ。従って、この場にいない者に口外するようなことがあれば処罰を下すわ。これについては全員、厳守すること。いいわね?」

『はっ!』

 

 華琳の君命に対し、拓実を含めた四人の声が小気味良く返る。それを受けた華琳は笑みを浮かべひとつ頷いた。

 

「次に、拓実は優先的に『影武者』として務めてもらうのだけれど、私は『影武者』を必要としない時にも仕事を任せたいと考えているわ。管轄する土地は増え、我らに人手を余らせておく余裕なんてありはしないのだから当然といえば当然ね」

 

 それを聞いて、うむうむ、といった様子で春蘭が頷いている。華琳が州牧となったことで、一人一人の負担が増している現状だ。人手は足りないことはあっても多すぎることはない。

 

「しかし、そこで問題が一つ。春蘭との調練で判明したのだけど、拓実は演技をしていると役にそぐわない意欲を無意識に削いでしまう。それによって学習効率にも影響が出てしまっているらしいわ。よって、その解決の為に調練、政務をさせるに適した人物を、拓実と別人とした上で新たに二人用意したいのよ」

 

 事前に話を聞いていた三人――春蘭、秋蘭、拓実はそれを聞いても静かに佇んだままである。呼び出しがあると聞かされていただけで事前情報を持っていないのは季衣と桂花だが、二人とも考え事をしているというのに、その様子は対称的であった。季衣は視線を宙へとやってぼんやりと、桂花は口元に手を当て酷く真剣に伏せ目がちにしている。

 

「……えーと? 桂花の格好をした『拓実』と、華琳さまの格好をした『拓実さま』に名前をあげるんですか? あれ? でもそれって……」

「季衣よ、それでは華琳様が二人いるのを自ずから証明してしまうことになるだろう。拓実が華琳様のお姿をしていることは内密にせねばならぬのだぞ」

「んー、そうですよね。それじゃ、どういうことなんですか? ボク、頭がこんがらがってきそうなんですけど」

 

 視線を宙に投げて考えていた季衣だが、声に出しているうちに矛盾に気がついたらしい。今まで口を開くことなく華琳の言葉に耳を傾けていた秋蘭が自問自答する季衣に説明してやるのだが、しかし季衣にはそれがいまいち理解できていないようである。

 

「仕方がないわね。季衣の為にもう少しだけ噛み砕きましょうか」

 

 一通りの説明を終えてからは状況に任せていた華琳だったが、難しい顔をして思い悩む季衣を見るに見かねたようだ。極秘事項であるから充分な理解を求めてのことなのだろうが、それを差し引いてもやっぱり季衣には甘いように見える。

 

「学の受講・政務は『桂花を真似た拓実』が、調練・兵の訓練は『季衣を真似た拓実』に受け持たせることにするわ。そしてこの『桂花を真似た拓実』と『季衣を真似た拓実』には別名を与えて、それぞれ一個の人間として扱うということよ。残る『私を真似た拓実』については存在していないものとして扱うわ。拓実がこの姿で表に出るときは『曹孟徳本人』としてになるわね」

「えっと、そっか。桂花と、ボクの真似をすればいいんだ。それならおかしくないですもんね」

 

 華琳より説明を聞いてようやく季衣はそう納得したものの、幾許(いくばく)もしないうちにこめかみに人差し指を当て、首をひねった。

 

「あれ? けど、ボクを真似た拓実って? 拓実さまって、ボクの真似も出来るんですかっ?」

「そうね。勝手に話を進めてしまったけれど、どうなのかしら?」

 

 きらきらと瞳を輝かせて、季衣は隣に並んでいる拓実を見やる。自然と、この場にいる全ての人間が拓実を注視することになった。

 華琳にそう問われては、拓実が返す言葉は一つしかない。ただでさえ既にいくつも課題を与えられているのだ。拓実が出来るところぐらいはしっかり見せておかないと、期待への返済が追いつかなくなる。

 

「華琳、言ったでしょう。私の理解の及ばない人物でもなければ、演じてみせると。どんな人物だってやってやれないことはないわ。華琳が演じろと言うならば、私は全力でそれをこなすだけよ」

「ええ。そう言ってくれるものと思っていたわ」

 

 満足そうに笑みを浮かべる華琳。拓実はかなり自分贔屓に言ったつもりだったのだけど、それは華琳が当然と思える程度の自負としかとられなかったらしい。むしろ拓実は、自身の発言が己の首を絞めている気すらしてきた。

 とりあえず気を取り直した拓実は、自分の真似と聞いて楽しみにしている季衣に目を向ける。まず目に映えるのは、二つにまとめられているピンクの髪。自身の金色の髪と明らかな違いはこれだが、別人として扱われるというならそれはいいだろう。しかし、いくら別人だとしても許容できない部分がある。

 

「まぁ、まだ季衣と知り合ったばかりだし、どんな子か詳しくわからないから今演技したとしてもあまり似せられないかもしれないわ。後、問題は格好よ。季衣の姿そのままでは色々と不都合だから、肌を隠すようなものにしないといけないわ」

 

 季衣の姿は非常に薄手で身軽なものである。何故この時代にあるのかわからないが下はハーフパンツ、上はノースリーブでへそが見えるほど生地の少ない、下着とも取れてしまいそうなシャツだけだ。

 もちろん季衣だって女の子であるから胸のふくらみは存在しているし、むしろ薄手であるからそれが強調されている。男の身で女性である季衣の演技をするには、衣装は避けて通れない部分である。

 

「それは、拓実が着ていたものではいけないものなのか? 拓実が自分で仕立てたと言っていたあの旗袍ならば問題はないように思うのだが」

「……あれのこと?」

 

 横から上げられた秋蘭の言葉を受け、拓実はそれを吟味する。脳内で季衣に、あの自作のチャイナドレスを合わせてみると、どうしてもちぐはぐするが肌を隠すという点ではなんら問題はなさそうだった。

 

「そうね。まぁ、あの旗袍なら大丈夫でしょう。私が感じている季衣の印象と比べるとおとなし過ぎるけれど、それらしい服が見つかるまでの繋ぎにしておけばいいわ」

「あ、それじゃ、ボクがよく行っている服屋さん教えますから、この後に行きましょうよ! 一緒にボクが街の案内しますよ! あとは、えと、途中に美味しい点心を売ってるお店があるからそこでご飯食べて……」

「そうね。そうまで楽しみにしてくれるのならば、季衣にお願いしようかしら」

 

 身を乗り出して提案してくる季衣に、拓実は笑みを浮かべて返事を返す。

 

「本当ですかっ? うわぁ、今から楽しみだなー」

 

 ぴょんぴょんと跳ねて全身で喜びを表現する季衣は、見ている拓実が嬉しくなってしまうような無邪気さだった。なんだか拓実は、元気で素直な妹が出来た気分になっていた。少しぐらいのわがままなら無条件で聞いてしまいそうだ。

 

「こら、季衣。仲良くするのは良いことだけれど、まだこちらの話が終わっていないのだからそれは後になさい」

「あ、ごめんなさーい」

 

 掛けられた華琳の言葉は、酷く優しい。拓実が思うように、華琳にとっても季衣は妹のような存在なのかもしれない。それを感じているのかどうか、季衣はぺろっと舌を出して、悪びれなく謝った。

 

「さ。改めて話の続きよ。拓実の演技は問題ないとした上で、拓実に用意する名と身分について私から季衣と桂花に頼みがあるのだけど」

「へ? 頼みですか?」

「私に出来ることであれば、なんなりと。恐らくは演技をしている際の拓実の家名についてだと推察いたしますが」

 

 華琳に名指しされ、疑問符を浮かべる季衣。対して冷静に、これから問われることを理解している様子であるのは桂花だ。

 

「そう。桂花の言うとおりよ。拓実は貴女たち二人を真似ることになるのだから、必然的に容姿や性格が似通った人物が二人新たに任官されることになるわ。しかし、その二人と貴女たち二人が赤の他人であるというのは考えにくいでしょう?」

「言われてみればそうですよね。拓実と桂花、ちょっとは違うけど、そっくりでしたもん。ボクも間違えちゃったし」

「そういうことよ。だから拓実の家名は、少なくとも貴女たちの家名と同じ物を拓実に与えることになるのだけれど」

 

 黙って聞いていた拓実は、視線を桂花と季衣に向ける。拓実が、華琳のその案を聞いて密かに危惧していたのはこの『名を借り受ける』ことであった。

 この大陸、名は非常に重要なものであると聞いている。真名ほどではないにしろ、名はその者の命と言っても過言ではないものと認識している。日本出身の拓実は、詐欺を働く為ならばともかく、必要に駆られての騙りと思えばそんな重大なものだと感じはしないが、ここではそうではない可能性が高い。だが、何とか家名だけでも許してもらわなければ、拓実は今日のようにずっと人目につかないよう暮らしていかなければならなくなる。

 

「そのことでしたら、荀家は名門と呼ばれておりますが、枝葉が広く分かれていますので極端に本家筋でなければ問題はないかと思います」

「ボクも大丈夫ですよ。うちの村、許の姓の人ばっかりでしたし、そもそも桂花みたいに有名じゃないですから」

「……ええ?」

 

 しかし、拓実が思っていたより、二人からはあっさり許可が出していた。内心では戦々恐々としていたのだが、あまりのあっけなさに拓実はつい思考が止まってしまった。

 

「そう言ってもらえれば、私としても助かるわね。それでは一族の者と重なってはいけないから、名乗らせる名については貴女たち二人が用意してあげて」

 

 呆然とする拓実を置いて、華琳に言われた二人が考え込む。二人を見ていた華琳の視線が、こちらに向かって動いたのを感じ、拓実は咄嗟に表面上だけでも平静を取り繕った。

 そうして先に考えをまとめたのは、どうやらこの話の運びを予期していた桂花だった。事前にこうなるとわかって考えていたのだろう。

 

「それでは……私の演技をしている拓実には『荀攸(じゅんゆう)』、加えて字を公達と名乗らせましょう。年上ですが実在する私の姪の名でして、官軍に文官として仕官していましたが、現在は出奔し『荀諶(じゅんしん)』と名を変えたという話ですので、表舞台に出ないのであれば問題はないかと思います」

「んーっと、それじゃあ、ボクの真似してる拓実さまには『許定(きょてい)』ってどーかな? お母さんがボクの名前を決めるとき、この名前と迷ったって言ってたし」

「では、荀攸はそのまま桂花の年上の姪として軍師に、許定は季衣の姉として将軍に、二人の口利きで引き立てたことにしておくわ拓実、これより二人の演技をしている時はその名を名乗るように」

 

 拓実は華琳の命令に、即座に言葉を返せなかった。荀攸と、許定。拓実には、うち片方の名前には聞き覚えがあったからだ。

 許定なる人物については拓実も見聞きしたことはなかったが、荀攸といえば人材豊富な魏においても戦術家として名高い人物である。そのような偉人の名を預かってしまっていいものだろうかと考えてしまった。

 しかしいくら考えたところでここに至って断ることなど出来ない。現時点で拓実は何者でもないのだ。そもそも桂花の話が真実であるなら荀攸は既に荀諶を名乗っていて、以後荀攸を名乗る人物は存在しないということになる。恐れ多いなどとは言っていられない。拓実は動揺を押さえ込む。

 

「……ええ、わかったわ。それでは桂花、季衣。これよりその名、名乗らせてもらうわね」

「いえ! 華琳様よりの頼みでしたし、拓実様のお役になれたのであれば幸いでございます!」

「大丈夫だよー。 えーっと、それじゃこれからはボクの真似している拓実さまのことは『姉ちゃん』って呼ばなきゃいけないよね。あははっ。拓実さま、男の人なのに姉ちゃんとか変なの」

「ありがとう、桂花。季衣、そうよね。男なのにおかしいわよね」

 

 調子を持ち直していた拓実は華琳らしく涼やかに笑って見せたつもりだったが、実際の笑みは引きつっていた。別に好んで女装をしている訳ではないのだが、今の自分の状況は変態と言われて当然なのだと改めて認識させられたからだった。本当は落ち込んでしまいたいが、華琳の姿をしている手前、そのような姿を見せるわけにはいかない。

 そんなことよりも、拓実は今聞いておかなければならないことがあることに気がついた。

 

「華琳。少し質問させて頂戴。その『荀攸』『許定』なのだけれど、真名については二役とも『拓実』と定めてしまってもいいものかしら」

 

 真名――真の名。これだけは、偽ってはならないものである。大陸出身であれば当然に真名を持っていて、その経歴を名乗る拓実もまた真名がなくてはいけない。生憎、日本生まれの拓実は姓と名しか持っていないから必然的に二役の真名も『拓実』となってしまうのだが、同じ名ということに問題が生じないかどうか。違う文化圏で育った拓実には判断をつけることが出来ない。

 そんな拓実からの質問を受けて、鼻白んだように華琳は顔を向けてくる。

 

「何をそんな。役になりきっていたって、貴方の真なる名は一つしかないのだから当たり前でしょうに。……ああ、そういえば貴方、大陸出身ではないと言っていたわね。別に真名といっても重複してしまうことはいくらでもあるわ。ま、拓実の演技力にも拠るけれど、怪しまれることはない筈よ」

「そう。それならば何も問題はないわね」

 

 挑発的に声をかける華琳に対し、半ば意地となった拓実は余裕の笑みで切り返す。華琳は当然堪えた様子もなく、満足そうに笑みを深めるだけである。

 

「ともかく、拓実は基より、内情を知っている他の者も慣れるまでは応対に苦労するかもしれないわ。しかし、これも我らが覇道を磐石のものとする為の足がかりと考えて、各自励んで頂戴」

『はっ!』

 

 華琳の声に、再び四人の声が揃った。

 

「先に伝えたとおり、この召集で遅れた分の仕事は明日以降で構わないわ。先立って明日の朝議で主だった部下に荀攸の顔見せをするから、拓実は忘れないようになさい。許定についてはとりあえず未定よ。各々、任されている仕事に戻りなさい。では春蘭」

「解散っ!」

 

 華琳からの一通りの伝達が終わった後、春蘭の号令がかかった。四人が華琳へと一礼すると、それを境に空気が緩んでいく。

 

 

 

 

 

「拓実さま! それじゃさっそく服屋さんに行きましょう!」

「季衣、ちょっと待ちなさい。荀攸としてでないと、私は外に出ることは出来ないのよ?」

「あ、そうでした。それじゃ、先に着替えてからですよね」

「おい待て二人とも! 拓実には話しておかなければならんことがあるのだ!」

「それじゃ、春蘭様も一緒に行きましょうよ」

「む……そうだな。季衣と拓実ではいささか不安だ。仕方がない、私もついていってやろう。幸い、兵の調練は午前に終わらせてあるからな」

 

 そんなやりとりをしながらも拓実と春蘭は笑顔の季衣に腕を取られて連れられて行く。仕方がないといった表情を浮かべながら、拓実はなすがままにされていた。

 そのやり取りだけ見てみれば微笑ましい光景であったが、華琳の姿でそれをしているのを考えると少しばかり不自然であった。流石の季衣だって華琳が相手ではああまで気安くは出来ない。他の者と比べれば最低限ではあったが、季衣も臣下として線引きをしている。

 そんな光景をじっと眺めていた華琳に、横合いから桂花から声が掛かった。

 

「華琳様、あの、よろしいでしょうか」

「どうしたの、桂花?」

 

 振り向いた華琳より返事を受けた桂花は姿勢を正す。先の失言もあってかどうにも声がかけにくそうにしていたが、恐る恐るという風に口を開いた。

 

「いえ、その、いくらなんでも拓実に手を掛け過ぎているのでは、と愚考いたしまして。あくまで拓実は影武者です。そうまでして、手を尽くす必要はないのでは……」

「……私も桂花と同じことを考えておりました」

 

 桂花に追随するように秋蘭が賛同の意を示す。秋蘭にも、華琳の拓実に対する熱の入れようは不自然に思えた。

 他ならぬ華琳の影武者を任せるのだから高水準の能力を持たせなければならないのはわかるが、華琳の動きはあまりに性急すぎるように感じる。少なくたって一ヶ月やそこらで身につくような、そんな話ではない。今回の話にしても、拓実に基礎を積ませてからでも遅くはなかっただろう。むしろ、今のまま将軍、軍師として放り込んでも何の役に立たない可能性の方が高い。

 

「そうね。確かに少し、急ぎすぎているかもしれないわ」

 

 あっさりとそれを認めた華琳に、桂花、秋蘭両名は言葉を返せない。

 常人とは一線を画す華琳の思考を読むことは容易ではない。現に二人は、華琳が何を考えているか検討はついてはいない。だが二人は、華琳の態度から胸の内をじりじりと炙られるような、妙な焦燥感を感じていた。今の華琳を見ていると、何故だか不安に駆られてしまう。

 

「……拓実ならば覇道を、私が胸に描いているものと同じ道程で辿ることが出来るでしょうね。ただ、今は圧倒的に力が足りていない。それでは万が一の時に、代わりを務めるなどは出来ないでしょう」

「華琳、様?」

「いったい何をっ!」

 

 二人はその発言に、驚愕を露にする。影武者という役割をこなす力量について、と本来取れる華琳の発言。しかし、それを素直に飲み込むには、あまりに異物となる言葉が多すぎた。

 ――『拓実ならば華琳が描く覇道を進むことが出来るだろう』『万が一』『華琳の代わりを務める』

 これらは、あまりに不吉な言い回し。

 

「華琳様、それはまるで――――」

「ふふっ、馬鹿ね。何を驚いているのよ、二人とも」

 

 秋蘭の続く言葉を遮るように、笑みを浮かべて声を投げかける華琳。この時、先に感じた触れれば消えてしまいそうな儚さは、華琳から消えていた。元からそんなものはなかったかのように、残滓すら残していない。不世出の英雄、覇王たる華琳がそこにいる。

 

「万が一、というのは、起こったりはしないから万が一と言うのよ。我が覇道は、大陸を平定するその時まで決して途絶えたりはしない。我らの歩みを止められる者などはいない。そうでしょう?」

「はっ!」

「左様にございます」

 

 いつもの華琳より自信に溢れた宣言を聞いた秋蘭と桂花は、心底安堵したように笑みを浮かべて肯定の声を上げた。そんな二人を見て、華琳もまた微笑を浮かべる。

 

「それでは、貴女たちもそろそろ仕事に戻りなさい。いくら遅れることを許したといっても、一日以上の遅延は認めないわよ」

「御意に」

「はいっ! それでは華琳様、失礼致します」

 

 退室していく二人を眺める華琳。もう、玉座の間に華琳以外の人影はなくなった。華琳もまた入り口へと歩みを進める。

 そうしてふと立ち止まり、華琳は、部屋の中央――玉座へと振り向いた。

 

「志半ばでこの道を途絶えさせるなど、我らには許されない。私の下で散っていった者たちの為にも、例え何があったとしても止まってはいけないのよ」

 

 



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11.『荀攸、陳留を見て回るのこと』

 

 

 自室へ戻った拓実は、季衣への説明の為に着ていた華琳の服から桂花のものへ着替え直していた。今しがたまで着ていた服は綺麗にたたんで、桂花の服と入れ替えるように竹で出来たつづらのような箱へとしまっておく。

 演技に使う衣装は目に付く場所に保管しておく訳にいかないのだけれども、どうやらこの時代、箪笥(たんす)のような戸棚の類は一般的には普及していないらしく、大抵はこうして竹かごや竹で編まれた箱に入れて保管しているようだ。鍵も掛けられない為に不安ではあるが、こちらに来て日が浅く私物も少ない拓実に出来ることは知れている。せめて竹かごではなく蓋のあるつづらを使い、教材にと渡された竹簡を蓋の上に乗せておくことくらいだ。

 

 桂花の服に袖を通した拓実は、巻き毛のウィッグを外して、団子状に結んでいた髪の毛を解いて整えていく。それらを手馴れた様子でこなしながら考えているのは、これからの自身の生活についてである。

 昨日今日と実際に華琳や桂花に扮装してみて、これから演技をしていく上での問題点のいくつかを洗い出すことが出来た。いずれも拓実が影武者の秘密を抱えて過ごす間は付きまとうものであり、それらは早い段階で解決していかなければならなかったことだ。

 

 桂花の演技をしながらの調練で一つ目の不都合があった。演技をしている際、演じる人物にとって不似合いな行動をとる意欲を削がれてしまうこと。これは拓実とは違う思考傾向なために、演じる限りはどうにもならないことだ。今回は桂花の姿での武術であったが、見るからに運動を得意とする元気な季衣の姿で勉学に励むというのも難しいのだろう。

 二つ目は、演技中の第三者への振る舞い方である。先の通達が出るまで『拓実の存在自体を秘匿する』という方針であったが為に、知らない相手であっても桂花の役柄を演じなければならなかった。いくら心情・仕草・声色までを拓実が努力して真似ようと、身長や髪色まではどうしようもなく、また相手が誰だかわからないのに桂花本人と違わずに演技をするというのは不可能である。

 そして最後に、食事等の生活する上での不便。これは上と重なってしまうが、存在を知られずにいるには普段から人目につかないように生活しなければならない。いくら上層の人間しか入れない区画に個室を与えられたといっても、そこに出入りできる全ての人間が拓実の事情を知っているわけではない。それを防ぐならば自然と拓実は自室に篭もることになり、食事や講義は拓実の私室のみで行われるようになるだろう。そうなればただでさえ人手が足りていない状態だというのに、周囲に更なる負担をかけさせてしまう。

 とりあえずそれらについては架空の人物を仕官させるということで解決を見せたのだが、どうにも拓実は不安を覚えている。今の自身の環境は、一つの嘘をつき通す為に、更に多くの嘘をつかなければならない状態とでも言えばいいのだろうか。そしてこれから先も、拓実は多くの嘘を重ねていくだろう確信がある。事前にそれらについて覚悟していたつもりの拓実であったが、胸の内から湧いてきた後ろめたさを拭いきれないでいた。

 

 また、拓実が不安に感じていることは他にもあった。というのも、これから桂花の演技をしている拓実が『荀攸』なる人物として扱われることである。

 見ず知らずの、性格すらも知らない荀攸という人物になりきれという訳ではないので演技については心配していない。あくまで拓実は桂花を基準として振舞えばいい。それどころか、桂花とは別人として扱われる為、むしろ違いがあったほうがいいぐらいなのだから心情的には気楽なものだ。

 拓実が気に掛かっているのは、過去に荀攸の名を持っていた人物が今尚存在していることである。これによって拓実の正体が露見し得る、はっきりとした可能性が生まれてしまった。

 過去に荀攸を名乗っていた荀諶が、拓実の存在を知ったならばどう思うだろうか。名が同じというだけならば偶々同姓同名であったということになるだろうが、その人物が桂花と同じ姿をしていては偶然では済まされない。自身と同じく軍師、文官として働く者が、同じ名を名乗っているとなれば興味を引くには充分だろう。もしも会うことがあったなら、どう対応すればいいものなのか見当も付けられない。

 

 恐らくあの聡明な華琳のことだから、余程のことがない限りは『影武者』が露見する危険を冒してまで拓実を表舞台に出したりはしない筈だ。

 あくまで『荀攸』『許定』の二つの役柄は、拓実がこの陣営において働くための設定作りであるからこれらの名が大々的に外に流出することはないだろう。だから、本来の荀攸と拓実が顔を合わせるような、そんな場面はこれから先にも訪れないかもしれない。

 しかし、もしそんな場面が訪れたと想定した時、事前に心構えをしておかなければきっと拓実は固まって動けなくなってしまう。信用してくれている華琳の為にも、拓実がそんな無様を晒すわけにはいかない。杞憂で終わってくれるのならばそれでいい。しかしよく言われている『万が一』という言葉でさえ、起こり得る事であるからこそ世に生まれ出たのだ。ただでさえ不安定な立場にいるのだから、用心するに越したことはないだろう。

 

 

 

 

「すごいわね……」

 

 拓実は周囲の喧騒を眺め、思わず呟いた。最初に訪れた寂れた農村しか知らない拓実は、目の前の光景に圧倒されていた。

 異国の文化というのもあるのだが、拓実が漏らした言葉は目新しいと感じてのものではない。拓実が知る現代の街と比べるならば、規模や造りとしては劣っている。だがそれを補って余りあるほどに、ここ陳留の街は活気に溢れていた。時勢柄、跋扈(ばっこ)する賊や、権力争いに荒れ弱体化した朝廷、害虫の大量発生による飢饉など民草が不安となる材料は事欠かない。しかしこの街に限って言えばそれらは影を潜めていた。もちろん完全に拭いきれるものではなかったが、治世者の手腕によってその多くが緩和されているのだろう。

 

「当たり前だ。他ならぬ華琳さまが治めておられる街なのだぞ」

 

 その呟きを聞き取ったか、拓実と季衣を引き連れるようにして歩いていた春蘭が振り向いて我が事のように胸を張る。この民の活気を見ていれば、拓実もそれに素直に頷くことが出来た。

 

「でも、最近は窃盗とか増えてきているんですよねー。街の人たちはそれでも他のところよりは全然治安がいいって言ってくれるけど、警備の人が足りてないって秋蘭さま言ってましたし」

 

 唇を尖らせて声を上げているのは拓実の隣を歩いている季衣だ。それを受けて笑みを浮かべていた春蘭が渋面を作った。

 

「むう、しかしいつでも目を光らせておくわけにもいかんだろう。私や季衣も手が空けば警邏(けいら)には出ているが、そればかりをしてもいられんし。そうこうしていても領民は増えるばかりで、対処が追いつかないのが現状だ。どうしたものか」

 

 歩きながら拓実が周囲を見渡すと、民の中でも笑顔を浮かべている者が多く目に留まる。だが確実に、ぼろきれを纏う痩せ細った者たちが街の隅に居ついているのも目に入った。

 華琳の統治は、確かにこの大陸全土を見回してみても素晴らしいものだった。街の外に区画した畑を作り、働く意欲のある民を宛がって無職者を減らすその傍ら、積極的に治安向上に努めて民が過ごしやすい環境を作る。職人を引き入れて生活必需品を絶やさないようにし、また生産が盛んだからか外からの商人も多く足を運んでいる。自然と活気に溢れ、民の不安を和らげる環境が作り上げられていた。税率を上げて私腹を肥やすばかりの他の領主は華琳と並べて比べるにも値しない。

 そんな華琳の治世者としての評判を聞きつけ、陳留に外から多くの流民が入ってくるようになるのは当然といえた。そのほとんどは職や安定を求めて街の発展を促してくれているのだが、しかし中には不信者が紛れ込むこともある。それに、人口が増加すれば比例して犯罪や揉め事が増えてしまうのも道理であった。

 犯罪が増えれば、治安も悪くなる。治安が悪くなれば、犯罪もまた増える。完全に取り締まることなどは出来もしないことだが、どこかで歯止めをかけなければ悪化の一途を辿るだろう。

 

「そう……」

 

 それらの言葉を受けて、拓実は顎に手を当てた。そのまま軽く伏し目がちにして考え込む。

 春蘭と季衣は頻繁に見る機会があった為、逆に違和感なく受け止めてしまっているが、拓実が何気なく行ったその思案する仕草は、桂花が先の軍議において拓実の家名を考えていた姿とまったく同じものであった。

 

「華琳様がどうお考えになられているか確かめないことには何とも言えないけれど、職に困った者を警備に引き込むことは出来ないの? 雇用する上でどうしたって費用は出てしまうけれども、給金が出れば犯罪に走る者も減るだろうし、警備に人も入って治安も回復するでしょう。春蘭、貴女はそれらについて何か聞いている?」

「む? う、うむ。三日ほど前に、似たようなことを桂花の奴が華琳さまに進言していたような気が……しかし、どうだったか」

「あ、拓実のとはちょっと違いましたけど、言ってましたよね。えーと、『仕事があれば食べ物も買えて、悪いことをする人も減ることでしょう』でしたっけ。確か華琳さまは、『お金がないから無駄を省きなさい。そのお金で仕事を作りなさい』って文官の人たちに言ってたと思います。だから桂花たち文官の人が国の中のことを急いで調べているらしいですよ。それでも、華琳さまは他にもいくつか仕事を用意して、働く人を募集しているみたいですけど」

「おお、そうだ。確かに華琳さまは仰っていた。正しくは『現状、新たな事業を起こすだけの余裕はないから無駄を省いて、費用を捻出しろ』だったな」

 

 自信なさげに声を上げた春蘭を助けるように季衣が繋ぎ、それをまた春蘭が補足する。それを聞いた拓実は小さく息を吐いていた。内心で密かに気合を入れていたのだが、肺の中の空気と一緒にそれらが抜けていった。

 

「そうよね。これぐらいは誰でも考え付くことだから、実施されていない筈がないわよね。ならとりあえずは資金面を何とかしないといけないということかしら。それらを調べるにもまず、私は文字を読めるようにならないといけないのだけれど」

 

 対策がとられてないのなら進言するべきか、とまで考えていたのだが、考えてみれば拓実が考え付く程度のことを桂花が実行していない筈がないのだ。しかし、今回のは発案というにはあまりに稚拙ではあるが、拓実は今の時点であるなら間違いなく武の方面よりもこういった内務関連の方が力になれる気がしていた。

 桂花の思想に(なら)っているのも手伝ってか、頭を働かせることに楽しみを見出しつつある。政治などの知識はあまり熱を入れて学んだわけではないが、それでもこの時代に生きる人間とは違った発想をすることが出来るかもしれない。

 少しは華琳の期待に応えることが出来るだろうか。兎にも角にも、拓実はまず漢文を読めるようにならないとどうにもならないのだけれど。

 

「口頭で草案だけ上げるなんて華琳様はお許しにならないでしょうし、一刻も早く文官として働ける様にならないと。こんなところで躓いていたら、いつまで経っても華琳様のお役に立つことができないわ」

 

 小さく握り拳を作って、拓実は薄く微笑む華琳の姿を思い浮かべる。あの華琳に認められる仕事が出来たら、と考えると、頑張る意欲がどこからか湧いてくる。自然と、拓実の頬も緩んでしまう。

 いくら思考傾向まで模倣しているといっても、拓実自身は桂花ほどには華琳を敬愛しているわけではない。桂花のように命を賭けてまで華琳に仕官をしようなどとは思えないし、もし現代日本に戻れる方法が判明すれば、役目をこなしてからという前置きはつくが故郷に帰ることを選ぶだろう。それでも、華琳命の桂花になりきって演技が出来るぐらいには、拓実も華琳に参ってしまっているのだ。

 

「……ほへぇ~。ほんとに桂花みたい」

 

 そんな拓実の様子をぼんやりと見ていた季衣は、両目をまん丸に開いていた。

 

 

 

「それにしても、季衣は思いの外しっかりしてるわね。こういう話ならば、春蘭より頼りになるかもしれないわ」

 

 鼻歌を歌いながら軽やかな足取りで隣を歩く季衣を見て、拓実は率直な気持ちを吐露していた。あくまで春蘭と比べて、という前置きはついてしまうが、今のやりとりから拓実がそう感じたのは確かだった。

 秋蘭が言っていたことなのだが、春蘭も策や進言などについて決める時はしっかりと決めてくれるという話である。しかし、いかんせん普段が足りていない。記憶力は興味の範疇にないから働いていないのだろう。現に桂花の進言は覚えていなくても、華琳の返答についてはしっかりと記憶していた。潜在的には水準以上の思考能力を持っていると思うのだが、発揮されることは滅多になさそうだ。

 

「えっ、ホント? 華琳さまに言われて、桂花に勉強教えてもらってるからかなー? 桂花にはまだまだ、『教えたのと違うでしょ』って怒られちゃうんだけど」

「励めば、それだけ華琳様のお力になれるのだから恥じることはないわ。季衣は華琳様に言いつけられたことをこなして、自分を磨いて邁進すればいいのよ」

 

 恥ずかしそうにはにかむ季衣を見て、拓実は口元を緩める。力仕事ばかりでこういった方面で褒めてもらった経験がないらしく、照れくさいらしい。

 そうして拓実が顔を前に向けると、春蘭が会話に混じらずにとぼとぼと歩いているのが視界に入った。拓実からだと背中しか見えないのだが、どうにもこういった話題だと居心地が悪そうだ。

 

 先の話と関連しているのだろうが、やはり春蘭は政務などの頭を働かせる仕事を苦手にしているようである。恐らく体質的にも実際に動いて見せる方が苦痛を覚えないのだろう。普段の春蘭の様子では内務関係は捨て、兵の訓練や、戦場で武勲を立てることに全てを賭けているのかもしれない。

 比べて季衣は今からしっかりと教えていけば、内政面でもいくらかの活躍が出来るかもしれない。現状、春蘭と同じ方向に大きく傾いているが、まだ年齢的に見ても頭を使うことに面白味を覚えれば矯正も可能な筈だ。春蘭と同じで体を動かしている方を好んでいるようだけれど、内務にしてもやれるに越したことはないだろう。

 

「はぁ……春蘭。貴女の武については認めてもいいけど、もう少し他の事も真剣に取り組んだらどう? この様子じゃ貴女に回ってくる内務関係の仕事は秋蘭に任せっきりなのでしょう。彼女の苦労が見て取れるわ」

「な、何故わかったのだ!?」

 

 前を歩いていた春蘭が勢いよく振り返る。本当に驚愕しているらしい春蘭を、拓実は思わず呆れた表情で見やってしまう。

 

「普段の言動からの半ば当てずっぽうだったのだけれど、その返答が何よりの証左ね」

「あ、いや、半分のその半分くらいは自分でやっているぞ?」

「そういう問題じゃないわよ。少しは物を考えて喋りなさい、って言ってるの。そんな言動をしているから、直ぐに看破されてしまうのよ」

「……なんだとぉ!? きさま、誰が脳筋だっ!!」

 

 少し考えている風であったが、どうやら春蘭はそれを侮蔑の言葉と取ったらしい。

 拓実はその様を見て、冷ややかな目を作った。考えてから話せと今言ったばかりだというのに、これでは聞く気があるのかどうかも疑わしくなってしまう。

 

「あのねぇ、誰もそこまで言ってはいないでしょうに。そんなことだから桂花に脳筋女だなんて言われるのよ。それに、自覚しているのなら少し行動を改めたらどうなの?」

「くっ! おのれ、小馬鹿にしおって! その仕草、桂花そっくりで無性に腹が立つぞ!」

 

 『自分には無理だなんて思っていたら、出来る筈のことも出来やしない。出来ないなら努力をすればいい』――拓実はそんな風に考えて忠告したつもりだったのだが、そうは受け取らなかったようだ。

 

「別に、私は春蘭を馬鹿にしているつもりはないわよ。少し物事を考えるようにしたら、と言っただけじゃない」

「そういう上から見るような、偉ぶった態度が馬鹿にしているというのだ!」

 

 拓実の言葉を受けて、更にいきり立つ春蘭。怒りで顔を赤く染めて、直ぐにでも拓実に飛びかかりそうな様子である。

 何故こうなってしまったのだろうかと拓実は自身の発した言葉を思い返していく。けれども、どの言葉が春蘭の勘気に触れたのかいくら考えてみても拓実にはわからない。桂花らしく、しかしいくらか言葉の角を落として言葉を交わしていくうちに、何故か春蘭と口論になっていたのだ。当たり前だが拓実には春蘭に喧嘩を売ろうだなんて無謀な企みはなく、今回の事はあくまで善意から助言していたつもりであった。

 

 実際のところ、拓実の考えは的が外れている。言葉の使い方が問題ではない。

 毒舌で、智を軽んじる者を見下す傾向にある桂花が、春蘭を思って助言をすることなんて今日まで一度もなかった。いや、中にはそういった意図が含まれていた発言もあったかもしれないが、多くの毒に埋もれてしまってそれは最早助言とは言えない代物だったろう。そんな振る舞いをしている桂花と同じ姿、声、仕草で、自身の行動を僅かにも否定的に言われれば春蘭にとっては嫌味としてしか受け取れないのだ。そこに含まれている善意など読み取れるわけがない。

 二人が積み上げてきたものもあるが、桂花と春蘭は根本的に相性が良くないのである。どうやらそれは演技をしている拓実であっても変わりはないようだった。

 

「もー! 何で二人ともすぐケンカするんですか! 華琳さまだって次やったら許さないって言ってたじゃないですか!」

 

 別に喧嘩する気など毛頭ない拓実がさてどう収めたものかと考えていると、季衣が横から割り込んだ。春蘭に向いて、拓実を庇うように立ち塞がる。

 

「む……。いや、しかし華琳さまに言われたのは桂花とのことで、今目の前にいるのは拓実であってだな……」

「しゅ・ん・ら・ん・さ・ま! 今日は拓実に街の案内をする為に来たんですよ!」

「わ、わかった。わかったから季衣、そう怒ってくれるな」

 

 尚も言い募ろうとする春蘭を、「フー!」と威嚇する猫のように季衣は睨みつけた。流石の春蘭もそんな季衣には強く出ることが出来ないのか、困ったような表情になって言葉を収める。

 

「まったくもう。いっつも二人ケンカするんですから。華琳さまに止めるように言われるボクの身になってくださいよ。拓実もだよ。何もここまで桂花とおなじじゃなくてもいいのに」

 

 何やらぶつぶつと文句を呟きながら先を歩いていく季衣だったが、何かに気づいた様子で足を止める。次いで、確かめるようにきょろきょろと辺りを見渡すと、道をいくらか戻って一つの店を指差した。

 

「あはは……ボクがいっつも行く服屋はあそこでした」

 

 どうやら目的の店は、大分前に通り過ぎていたようだ。店の前を通った時に着いたと言ってもらえれば、春蘭と言い争いを中断することは出来ただろうに。

 そう思う拓実ではあったが、しかし季衣が無理矢理に作った笑顔を見るとそれについて言及する気は起きなかった。

 

 

 

 たまたま気が向いて入ってみたら母親が(こしら)えてくれた服と似た服を売っていた、そんな理由で季衣はこの店を利用しているとのこと。街の警邏をしているうちに他の服屋を見る機会があり、値比べしてここが一番安いと知ってからは他では買わなくなってしまったようである。

 とはいえ、話を聞くところによるとどうやら季衣はこの店にはそんなに足を運んだりはしないようである。そもそもあまり服を買ったりはしない様子で、たまに行くその数少ない機会を全てここで済ませているそうだ。服にかけるお金があるなら食べ物にかけると豪語する季衣であるから、その他にかかる出費は安いに越したことはないのだろう。

 

 さてその店内だが、一言で言うならば大衆向けと言ったところだろうか。気取った感じはなく、内装なんて民家のそれと大差がない。店内には木で模った人形が並んでいて、それには見本が着せられていた。

 平机の上に折り畳まれたものが実際に売られている商品のようで、系統として動きやすい普段着に着るようなものばかりだ。壁に設えられている棚には上着の類がまとめられていて、奥には一室だけだが試着室らしき個室まで用意されている。

 敷地はそう広くなく、十数人が入店すれば奥にいる客は身動きが取れなくなるだろう。夕方に差しかかろうとしている時間帯だったからか客は他に二人しかいなかった。

 

「……でたらめだわ」

 

 拓実は店内を歩き回って商品を眺めていたのだが、見て回れば回るほど自身の常識が揺らいでいくのを感じていた。

 主力商品は前で合わせる着物のような、麻などの素材で作られた簡素な服らしい。実際に街を歩いている民のほとんどが着ているのはこれである。ここまではいい。しっかりと調べたわけではないので自信はないけれど、恐らく不自然なものではないだろう。

 しかし高価ながら、シャツやらズボン、スカートにワンピースやらも混じっているのはどういったことなのだろうか。それらは製法こそは荒いが、造り自体は現代の物とあまり変わりがない。本当にここは二千年近くといっていいほど過去にあった中国なのか。

 ついでに言うなら、男なんて知るかといわんばかりの品揃えで、充実しているのは女物の服ばかりである。

 

「どう、拓実。何かいいのあったー?」

 

 丁度いい機会だからと季衣も服を買うことにしたらしい。いつ選んだのか今着ているものと同じようなシャツを両手に抱えていた。ついその値札を確認してしまったが、他と比べてもとりわけ高いものでもなさそうだ。

 春蘭はどうしたのかといえば、何やら熱心に三枚セットの下着を眺めている。彼女もとくに服装に頓着しないようで、安ければいいらしい。内心、それでいいのかとも思うが性別の違う拓実がとやかく言うことでもないだろう。

 それよりも、ブラジャーの類やゴム製品らしきものがあることのほうが驚きである。

 

「そこそこ着れそうなものもありそうだけど、買わないわよ。今日はあくまで、品揃えを見に来ただけだもの」

「えぇー、どうして? せっかく来たんだから買っちゃえばいいじゃん」

 

 拓実としても、そうしたいのは山々ではある。この店の服はどれも、季衣のイメージにあったものばかりであるし、肌を露出しないものもちらほら見られた。揃えられるのなら今買ってしまいたいのは確か。けれど、そうはいかないやんごとなき事情があった。

 

「無理よ。だって、私お金持ってないもの」

 

 そう、なぜなら拓実はお金を持っていない。支度金を貰ってはいないのだから、当然である。

 働くことが正式に決まったのは昨日のことであり、食事に住居と先払いの形で与えられ、その上でお金もとは言い出せなかった。そして着の身着のままで倒れていた拓実は換金できそうな物も持っておらず、ここで使われている通貨すらどういったものなのかも知らないでいる。無い袖を振ることは出来ない。

 

「あ、そっかー。それじゃボクが貸してあげよっか?」

「いいわよ。借りるのも悪いし、お給金を貰ってからまた来るから」

「むー。拓実がそう言うなら、ボクも無理には言わないけどさー」

 

 季衣は頬をぷくっと膨らませて不満そうに見てくるのだが、拓実としても簡単に折れるわけにはいかない。

 恐らく服を購入するぐらいの給料は貰えるとは思うのだけれど、いつ貰えるのか、そしてどれほど貰えるのかわからない。当てがあるとは言いがたい状態なのに、易々と金銭のやり取りはしたくはなかった。ましてや相手は今日知り合ったばかりの、拓実より年下に見える少女である。

 何とか季衣の申し出を断ったところで、いつの間にか近寄っていたのか、春蘭が横から顔を覗かせた。

 

「拓実よ。すっかり言うのを忘れていたが、代金については心配せんでいいぞ。服を買う金は私が預かってきたからな」

「……はぁ? どういうことよ」

「どういうことも何も、聞いていなかったのか? お前に話しておかなければならないことがあると言っただろうに。桂花の服が一着あるだけではどうにもならないだろうと、華琳さまが用意してくださったのだ。お前が今着ている桂花の服でだいたい五着分は買えるぐらいか。経費としてのものだから服以外には使えんがな」

 

 ほれ、と春蘭に差し出された物を反射的に受け取る。小さな麻の袋だ。ずっしりと重い。

 

「これが華琳さまから渡された支度金だ。無駄遣いは許さんからな」

「……はぁ。わかったわよ。それよりあるならあると言っておいて欲しいわね」

「仕方が無かろう。話す機会がなかったのだ」

 

 今しがた「忘れていた」とはっきり春蘭の口から発されたばかりだったが、ここで蒸し返して春蘭と言い争いになるのも馬鹿らしい。ここは一つ拓実が大人になるとして、渡された麻の袋の中身を覗く。

 

「へぇ、ちゃんと金属で造幣していたのね」

 

 中に入っていたのは硬貨で、円の真ん中に四角の穴が開いてある。その穴に紐を通し、十枚だか百枚だかのきりのいい数でまとめてあるようだ。

 

「……季衣」

 

 それらを興味深く持ち上げたり、ひっくり返したりと一通り確認した拓実は、「拓実にはどれがいいかなー」などと呟きながら棚のシャツを眺めていた季衣に呼びかける。お金を渡されたはいいのだが、どうにも扱いに困っていた。

 

「ん? なーに? 買うの決まったの?」

「違うわよ。このお金、あなたに預けておくから私の分と一緒に会計してもらえない? 残りを華琳様に返すようにすれば同じことだし」

「えっ!? な、なんで? 拓実は拓実で買えばいいじゃん。わざわざ一緒に買わなくてもさ」

「異国出身の私じゃ、これがいくらあるのかもわからないもの。数字くらいは読めるけれど、肝心の貨幣がどれだけの価値があるかわからないわ」

「そ、そっかー。それじゃ、ボクがお金の種類、教えてあげるよ。ね?」

「それは助かるけど、別に城に帰ってからでもいいでしょう。ここで時間をかけてもしょうがないし、今日のところは季衣が払っておいて」

「……え~っと」

「季衣?」

 

 目をあちらこちらへと泳がせていた季衣は、両手の人差し指同士を胸の前で合わせてにっこり笑った。

 

「えへへ……。実はボク、計算がちゃんと出来なかったり、して」

 

 ――結局、拓実はその場でお金の種類と価値を教えてもらい、会計を済ませることになった。加えて言うならば、春蘭も計算は得意ではないようで、頼もうと声をかけたら「外で待っているぞ」と言い残して外へ出て行ってしまった。

 帰ったらまず、春蘭と季衣には早急な教育を施すように華琳に具申しなければならないようである。拓実は服を抱えながら、大きくため息をついた。

 

 



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12.『荀攸、朝議に参加するのこと』

 

 視界がぼやけてきた拓実は、出来るだけ目立たないようこっそりと目元をこすった。眠気もそうだけれど、どうにもこの空間は目が疲れていけない。周囲の煌びやかな内装、そして赤や橙を基調にしたこの部屋は目覚めて間もない拓実の目には少々刺激が強い。

 さらに、刺激という点でいうならば身体のあちこちから疼く鈍痛の方も負けていなかった。身じろぎをするだけで身体が引きつりそうになる。予想通りというか、前日の調練で酷使された筋肉が一夜明けて不満を訴え始めた為、起きて着替えるにも一苦労だったのである。

 ともかく桂花と同じ服を着た拓実は筋肉痛を押して謁見の間にあった。そして『荀攸』として紹介されるべく、他より三段ほど高い位置にある玉座の隣に立たされている。おそらくもう数分もすればその主である華琳が入場し、数日置きに行われているという朝議が始まることだろう。

 

 主である華琳に指示されて玉座の横で待つことになった拓実なのだが、到着から一分を待たずしてかつてないほどの居心地の悪さを覚えている。というのも、入場してから朝議を控える者たちの視線を受け続けているのだ。瞑目して待つ桂花や秋蘭を除けば全員に注視されていると言っていい状態である。単に前方にいるということもあるだろうが、原因は桂花と酷似しているその容姿に違いない。誰も彼もが桂花と拓実を見比べている。そんな中にいるから、拓実は正面を向くことが出来ない。どこに顔を向けても誰かしらと視線が合ってしまうために、猫耳フードを目深に被ってうつむき目を瞑ったまま、ただ時が過ぎるのを待っていた。

 

 表面上こそ周囲に興味を示していない澄ました様子でいる拓実であるが、たびたび前で組んでいる両手を無意識に組み替えている。

 大勢に注目されることには演劇で慣れていたが、どうにもそれとは勝手が違う。壇上に立たされ一人で芝居をしろというならいくら注目されようと困ることはないのだけど、衆目を集めたままただ立ち尽くしていなければならないとなるとどうしていいかわからない。人の目がこんなにも落ち着かないものだったとは拓実は知らなかった。

 結果、華琳が来るまでは決して切り替わることがないだろうこの異様な空間から一刻も早く開放されたかった拓実は、考え事に耽ることにしたのだった。何かに集中していれば時間も早く過ぎたように感じるだろうと、それが現実逃避だと自覚しながらも昨日のことを思い返していく。

 

 

 

 ――服屋でのやり取りの後、拓実は渡された硬貨の価値を把握するのにいくらかの時間を掛ける事になった。

 硬貨は王朝由来のものと地方で製造されたものがあり、ここ陳留にもいくつかの種類が流通しているらしい。重さや大きさもまちまちで、それぞれ価値が違うようである。時々で価値がいくらか変動するようではあったが硬貨の種類とおおまかに物価を教わり、ようやくといった体で会計を終えた頃には空は赤く染まっていた。

 その後季衣が楽しみにしていた点心を売っている店にも足を運んでみたのだが、既に完売してしまっていたらしく営業を終えていた。見回してみれば周りの店もちらほらと店じまいしていて、大通りも閑散とし始めており、これでは街案内もないだろうと後日に延期して城へと帰ることにしたのだった。

 

 その帰り道。お腹を空かせた季衣の提案により、彼女が食べ歩いて見つけたというラーメン屋の屋台に寄ることになった。出てきたラーメンは屋台ということもあり上品とは程遠いものであったが、食べ歩きをしている季衣が太鼓判を押すだけのことはあった。二、三人前の鍋と見紛うほどに大きい器から尚溢れそうなほどの具に、成人男性でも一杯で腹が(ふく)れるぐらいに麺は大盛り。

 美味しかった。そう拓実は記憶しているのだが、肝心の味付けについてしっかりとは思い出せないでいる。何故思い出せないのか、その原因はわかっていた。ラーメンの味よりも、鮮烈に記憶に刻まれた出来事があったからだ。

 

「丁度いい、お前たちの任官祝いだ。奢ってやるから、好きなだけ食え」

 

 店につき、注文して出てきた大盛りのラーメンを見た春蘭はこんなことを言い出した。恐らく出てきたラーメンの量を見てそんなことを言い出したのだろうが、今思えばその発言は迂闊としか言いようがない。

 その言葉を聞いた季衣の食べっぷりは、圧巻の一言に尽きた。拓実でも食べきれるかどうか。少なくとも一杯で満腹になるだろうそれをぺろりと平らげる。かと思えばすぐさまにおかわりをするのだが、しかし胃袋に送られているのか疑問になるほどに落ちない食事のペース。そうして一連の動作が繰り返され、積み重なっていくスープすらも残っていない器、器、器。

 その内容量は小柄な季衣のその胃袋に収められるものではなかった筈だ。しかし現実に拓実の目の前ではどんどんとラーメンが季衣の口の中へと消えていく。季衣の前に空の器が増えていくのに気づいた春蘭は三杯目を食べていた手を止め、それが止まる様子を見せないと知るや顔を青くすることになった。

 かなりの空腹だった拓実が一杯をようやく食べ切ることが出来た時、季衣は同じもの七杯を完食していた。その後も季衣の食欲は衰えるところを知らず、結局その日の季衣の戦果は十一杯。拓実は一杯、春蘭は三杯となる。『安い』『多い』『美味い』の三拍子揃ったこの屋台であっても、合計で十五杯分ともなればいい金額になっただろう。満面の笑みを浮かべて満足そうにお腹をさする季衣を前に、気丈に余裕な顔を取り繕った春蘭が何だか印象的な日だった。

 

 

 

「華琳様、ご入来!」

 

 秋蘭の張り上げられた声が耳に届く。その威勢の溢れる声に拓実は反射的に昨日の回顧を中断し、俯けていた顔を上げた。

 誰も物言わぬ中、カツカツと硬質な音が謁見の間に響いている。入り口から玉座に向かって、華琳が優雅に歩を進めていた。相変わらずの自信に満ち溢れた立ち振る舞いで、その見ているだけで惹きつけられてしまうような存在感はやはり他と一線を画している。朝も早いというのに髪のカールも見事に決まっていた。地毛であろうあの髪のセットにはどれだけ時間をかけているのだろう、なんてことをぼんやりと考える。

 

「おはよう。どうやらみな揃っているようね」

 

 周囲の者たちが膝をつき、頭を下げて入場する主を出迎える。華琳に見惚れて立ち尽くしていた拓実も場の様子に気づき、被っていたフードを取り払って慌てて膝を折った。

 程なくして華琳は玉座の前に立つ。頭を下げる者たちへと振り返ると、それらを視界に収めて静かに玉座に腰掛けた。続いて、すっと華琳の左手が振られた。事前に作法を知らされなかった拓実もその意図するところを察し、他の者たちと合わせて華琳の手の動作に従って立ち上がる。

 

「それでは仕事の報告を聞きましょうか。まずは桂花に指揮を任せておいた国勢調査と過剰費の削減案からよ」

「は。それではまず、街ごとにおける人口増減、及び物資の生産割合の対比から――――」

 

 列から桂花が一歩前へと踏み出し、手に抱えていた竹簡を広げて口上を始める。

 

 とりあえず目下の警備隊充填案のためにも、この国の財政状況についてはしっかりと聞いておきたいのだが、しかし拓実はその報告を集中して聞くことが出来ずにいる。

 壇上――華琳が座っていることによってこの場の誰よりも目線が高くなった拓実の視界には、壮観とも言ってよい光景が広がっていた。玉座から向かって右列前より春蘭、秋蘭。続いて季衣を始めとした親衛隊が数名。その後ろに一般部隊の隊長らしき武官が並んでいる。

 逆の左列は桂花を先頭に文官が続いていく。今後、拓実が荀攸として朝議に出席する際はこちら側の列に加わることになるだろう。

 文官、武官ともに取り纏める重役の男女の比率には大分偏りが見える。親衛隊は一貫して女性のみであり、他は女性が六割強といったところか。女性の割合が多いというよりは、男性が圧倒的に少ない。この時代では女性が強いのだろうか。後世にそのような記録が残っていたという話を聞いたことがなかったが、それ以前に曹操を初めとした有名武将からして女性であることを思い出した。それを念頭において考えると、「そういうものなのか」と拓実は納得してしまう。

 

 ともかく総勢にして四十名超。整列する全ての者が玉座に座る華琳に従い、頭を垂れている。この場にいるいずれもが並ならぬ才を持つ者たちであるが、みな華琳に敬意を払い忠誠を誓っている。さらにいうなら、あくまでここにいるのは代表格の者たちだけであって彼らが指揮する下にはもっと多くの兵が控えているのだ。

 その光景は、多くの責任と期待を華琳が身一つで背負っているという事実を拓実に再認識させた。兵や、彼らの家族の生活。携わる者たちの命。そして彼らが生きていく限り続く未来。人が一人で背負うにはあまりにも重く、大きいものを華琳は抱えて歩んでいるのだろう。

 それを実際に己の目で見、感じた時、拓実は華琳に対して畏敬の念を向けていた。兵を率い、民を養い、自身の采配にその命を乗せる。そんな重すぎる責任を負えるほどの強い意志は、現代で平和に育った拓実には持ち得ないものだ。人に流されやすいと自覚している拓実は、その揺れることのない人としての『芯』ともいえるものを羨ましいとさえ思う。

 

 そんな拓実であるのだが同時に、それだけのものを抱えていられる華琳に対して危うさをも覚えていた。

 いずれ曹魏と呼ばれることになるだろうこの陣営は今、華琳一人を頂点としている。他を惹きつける求心力、文武において抜きん出た才能、柔軟な発想に多岐に渡る深い知識、大陸を覇を以って統一する意志……華琳は王として必要とされる要素のほとんどを持ち合わせている。そして華琳の性格として、それら全てを最大限に活用しているのだろう。

 春蘭、秋蘭を初めとした多くの者が華琳の歩む覇道に続いているが、あくまでそれは覇王として先頭を歩む華琳あっての話である。華琳の後ろに続く者は多くいても、隣を共に歩める者はいないに違いない。それは、華琳が人より突出しているが故に、覇王であるが故に。彼女は王であるが故に多くを従えながらも、王であるが故に一人孤独に歩み続けているのではないだろうか。そうだとしたならば、それはあんまりにも寂しいことではないだろうか。

 

 こんな話を華琳本人が聞けば戯言と一笑に付すかもしれない。それとも、侮辱するなと怒るだろうか。あくまで拓実が感じて思っただけのことであり、そこに至った確証なんてものは何もなかった。だがそれでも、拓実はその考えがまったくの見当外れであるとは思えなかった。

 

「――――さて。報告は以上ね。みなも気になって集中できていないのでしょうし、軍務、政務を各々に言い伝える前に紹介しましょうか」

 

 透き通るような華琳の声が謁見の間に響き渡った。いつの間にか主だった報告は終わっていたらしく、考えこんでしまっていた拓実は背筋を伸ばし、改めて気を取り直す。

 

「拓実、前へ出なさい。……彼女が、昨日より我が陣営に加わった荀攸よ」

 

 華琳が告げたのを機に、周囲の視線が改めて自身に集中していくのを拓実は肌で感じ取る。それらを受けながらも拓実は一歩前に歩み出て見せた。気圧された様子を欠片も見せず、目を瞑って静かに頭を下げる。

 

「容姿からも察せるとは思うけれど彼女は桂花――荀彧と同じく荀家の者で、我が陣営にて文官として働くことになるわ。ただ主に私の仕事を手伝わせることになるから、あなたたちと一緒に仕事をすることはそうそうないでしょう」

 

 その補足するような華琳の説明に、拓実は内心で感服していた。華琳直属という立ち位置であれば今後の軍議に毎回参列してなくてもその理由をいくらでも後付できる。事前の話の通り、姿が見えなくても不自然ではないよう取り計らってくれたようだ。

 今後、許定として動くようになれば朝議に出席する場合も多々出てくることになる。その時に毎回荀攸の姿がないことが問題となるのは想像に難くない。そしてそれは、この陣営全体に及ぶ軍規の乱れとなりかねない。その逆もまた然りであり、恐らく許定として紹介される際にも同様の説明をされることだろう。

 

「それでは拓実、あなたから何か言っておくことはある?」

「はっ。それでは僭越ながら、失礼させて頂きます」

 

 拓実の声に小さくどよめきが上がった。桂花とよく似た声色、その口調に対してのものに違いない。段上から見渡せば彼らからは興味の視線が返ってくる。

 意識して、拓実は一つ息を吐いた。こういう場であるなれば、注目は苦にならない。三段も高くなっているこの立ち位置は、それこそ舞台の上。演じる役柄もこなすべき内容も決まっていればやることは一つ。

 

「華琳様よりご紹介をいただけたけれど、改めて名乗らせてもらうわ。私は荀攸。字は公達よ」

 

 言葉を切って、拓実はすうっと息を吸い込んだ。それを機に場が静けさを取り戻し、小さくざわめていた声が途絶える。この呼吸の一拍が絶妙な間となった。これだけで周囲の者たちは拓実の次の言葉を聞き漏らすまいと集中していく。

 

「言っておくけれど、私が信奉し、尊敬しているのは華琳様お一人だけよ。その他の有象無象――特に男なんていう下賎で汚らわしい生物には一切興味がないから、仕事の用事以外では絶対に話しかけてこないで頂戴ね」

 

 それだけを言い放った拓実は玉座の横、元の位置に一歩下がった。最早言うことはないというように、拓実は(まぶた)を下ろし居丈高に華琳の傍で控える。

 謁見の間は静まり返った。あっという間に終わってしまった拓実の挨拶に、声はおろか物音すらも立ったりはしない。元よりこの場において発言を許されたのは拓実だけであるのだが、それにしてもこの空気はあまりに冷たかった。

 

 しかし、どうやら拓実が想定していたよりも反応は悪いものではなかった。新入りがこんなことを言ったのだ。敵意を剥き出しにされてもおかしくないと踏んでいたのだがそうはなっていないようである。

 確かに三割ほどは眉根を寄せ、不機嫌そうにこちらを睨みつけている。どうやら立っている場所から見てこれは武官連中が主であるようだ。

 文官のほとんどは「やはりか」と言わんばかりの呆れた表情をしていて、外見から桂花同様の言動をするものと半ば予想をされていたようである。顔合わせで言い放つにしては友好の欠片もない挨拶ではあったのだが、普段の桂花も周囲に応対する時は似たようなものであるのだろう。

 残った少数の男性連中はといえば、諦観やら羨望やら恍惚やらの感情が混じっていて複雑である。喜ぶ者と悲しむ者が入り混じって何を思っているのかわかりにくい。

 

 ちなみに、事情を知っている夏候姉妹と季衣は笑いを堪え、桂花は顔を赤くして縮こまっている。すぐ隣に立っているから気づけたが、華琳だって他の人にわからないように口元を手で隠し、鈴を転がしたような声で密かに笑っていた。何故そのような反応を返されるのかわからず、拓実は思わず首を傾げてしまう。

 

 早々にこの場の半数の人間に対して仲良くする気はないと宣言した拓実ではあったが、なにも演技に則ってというだけの言動ではない。一応、これも拓実なりに考えてのことである。

 いくら別人として扱われるといっても正体が露見してはならないことに変わりはない。親しくなればなるほどその可能性は増えるのだから、事実を知る者以外を遠ざけておくに越したことはないだろう。それに桂花の演技をしている時に男に話しかけられたなら、間違いなく辛辣な言葉を浴びせてしまう。好き好んで人を罵る趣味のない拓実はそうなる前に予防線を張ったのだ。今の少女の姿で男に積極的に話しかけられればどうしても下心があるのではないかと勘繰ってしまうだろうし、男である拓実は同性にそんな視線を向けて欲しくもない。

 だからといって積極的に女性と話したいかと言われればそういうわけでもなかった。親しくなればなるほどに演技が露見する可能性が増えることは変わらない上、女性であるが故に拓実を男であると看破するかもしれない。それらを踏まえると、自身の正体を知らない者とはいっそ初めから交流をしないでいる方が精神的に楽だろうと拓実は考えたのである。

 

「私の記憶違いでなければ、似たような科白を一月程前にも聞いた気がするのだけれどね。まぁ、いいわ。それでは紹介も済んだことだし、各担当に仕事の仔細を割り振るわよ」

 

 笑っていた名残も残さず声を上げる華琳は、次々と部下たちに君命を下していく。華琳の言葉から察するに、どうやら今回の拓実と似たようなことを言った者がいたようである。その華琳の言葉で先の反応に会得がいった拓実は、ついつい桂花の方を見やってしまった。

 

 視線の先では、顔を真っ赤にした桂花がこちらを睨みつけていた。怒りで肩が少し震えている。まったく嬉しくはなかったが、拓実の推測は見事に的中していたようである。

 悪意があって示し合わせたわけでもなければ、そもそも事前に誰かから桂花の自己紹介の顛末を聞いたわけでもない。今回に限っていえば拓実の正体を隠匿する為の発言である。

 せめてもの謝罪に目配せしておくべきかと考えて桂花に顔を向けたのだが、そこで拓実にとっても予想外のことが起こる。あろうことか拓実は、明らかに桂花に向けてにやりと笑みを浮かべていたのだった。まるで「あんたの単純な思考なんて丸わかりなのよ」と言わんばかりの底意地の悪い笑みの作り方だった。

 申し訳ないという気持ちで苦笑するつもりだった拓実は、もちろん戸惑った。自身の表情筋が制御できていない。華琳との謁見の時ほどではないが、どうやら人目に晒されていることもあって役柄に成りきってしまっているらしく、拓実の意思が行動に反映されにくい。

 目を見開いた桂花の顔が更に赤く染まり、より険しくなっていく。誰が見ても怒り心頭といった様子であった。思わず頭を抱えたくなった拓実だったが、やってしまった以上は申し開きも出来ない。どうしようもなかった。

 

 

 

 

「…………通達は行き渡ったわね。拓実には仕事についての説明があるからこのまま残るように。秋蘭、桂花も同様よ。では、秋蘭」

「はっ! これにて朝議を終える。尚、荀公達への君命伝達のため華琳様の退場は後ほどになる。特別に、各自退場するように。それでは解散っ!」

 

 秋蘭の声が響き、どよめきもなく君命を下された者たちが順々に退出していく。玉座に腰掛けたままの華琳がそれを静かに眺めていて、拓実もその横で直立したまま身動ぎもしない。

 そのまま数分する頃には謁見の間にはすっかりと人気がなくなっていた。残った数人が華琳の目前に揃うと、拓実も彼女の側から離れて段を降り、その端へと並んだ。

 

「さて」

 

 玉座を前に並ぶ三人を前に、腰掛けている華琳は足を組み替える。

 

「拓実、朝議に参加してみての感想はどうだったかしら。大陸外出身であるあなたの率直な意見を聞いておきたいわ」

「……はっ」

 

 意見を求められて、しかし大半を考え事に費やしてしまっていた拓実は朝議での報告内容の記憶はほぼない。報告を終えた後、桂花の挙げた削減案の実行を文官を中心に任せていたことからやはり財政は苦しい状況なのだろうということぐらいである。他には、朝議の進行順序や周りの雰囲気といったものか。そういった様子などはともかく、内容については断片的にしか思い出せずにいる。

 

「今まで軍務についたことはありませんので、武官、文官が一同に会している様子に当惑していたというのが正直なところです。華琳様が定めた軍規によるものかと思いますが、それぞれが己を律している様を見て内心感服いたしておりました」

「他には?」

 

 それでもなんとか必死に思案して言葉を放ってみるが、すぐさまに質問を続けられてしまう。思わずぐうの音を上げそうになるのを必死に抑え、感じていたことを頭の中に並べていく。

 華琳を前にして、「他にはありません」などとは言えない。今、武に関して役に立てそうにないのだ。せめて頭ぐらいはいっぱし程度には働かせなければならないだろう。拓実は今こうして意見を構築しながらも、人生の中で一番頭を使っている実感を覚えていた。

 

「見た限りですが、評定としては意見交換というよりも状況確認といった意味合いが強いように感じました。今後の指針を決める場が別に用意されているのであれば出過ぎたことになりますが、他の者……それも多くの者から意見を募る機会も必要かと思います」

「……そうね。別に秋蘭や春蘭、桂花ら幾人の者たちだけで評定を行うことはあるけれど、朝議より参加人数は少ないわ。多くの者からも、とは言うけれど、それに対しての具体案はあるのかしら?」

 

 そのように言われるだろうと予測していた拓実は意見を述べながらも思考していた。頭の中では色々な案が浮かんでは消えていく。

 実生活の中、授業で習ったこと、小説の知識、テレビで観た歴史ドキュメンタリー番組――――今の状況で使えそうなものは少なかったが、それでも何とか過去日本でも行われていたという施策を思い起こすことが出来た。

 

「……そう、ですね。一つだけ思い当たりましたが、それが可能かどうかは調査してみないことには」

「いいから言ってみなさい。可能かどうかは私が判断するわ」

「それでは、『目安箱』なるものを置くというのは如何でしょうか」

「目安箱?」

 

 聞き慣れない言葉に、華琳は顎に手を当て聞き返してくる。拓実は疑問を解くべく、続けて口を開く。

 

「はい。箱を設置し、そこに民や兵の隔てなく要望や案を記名した上で投書してもらうというものです。案や要望をそのまま実行せずとも民が求めているものを知ることが出来るために、今後この街の発展を助ける政策の『目安』となりましょう。また良案があればその差出人を辿り、野に埋もれている有能な者を登用することが出来ましょう。さすれば、この地の安定をより強固なものに出来るかと思われます」

 

 拓実の記憶が確かならば日本でも江戸時代から行われていたという制度である。古くは室町時代での北条家でも取り入れられていた、なんて雑学を教師から聞いた覚えがあった。

 

「しかし、この目安箱、問題点もございます。誰にでも投書を許すために民意を直接に受け入れられますが、しかし前提として文字を書けることが必要になります。民に非識字が多ければ実現は難しく、また可能だとしても寄せられた意見をまとめるために時間を必要とすることになりましょう」

 

 『目安箱』は武家からのお触れが文書でやりとりされていた江戸時代、村でも読み書きできる者が必要とされることで多く寺子屋が立てられていた。そのような環境によって民の識字率が高かったという背景があっての話である。

 そう考えれば三国時代で行うことに無理があるような気もしていたが、昨日訪れた店内の様子から、拓実はもしかしたらという思いがあった。

 

「ふむ――問題点をさらいつつも、書経にある『野に遺賢なし』(*1)を実現させるということかしら。それにしても、目安箱ね。一応、街の子供たち相手に私塾の真似事はさせているけれど、どうかしら?」

 

 言って華琳は拓実の横に並ぶ桂花と秋蘭を見やった。桂花は目を瞬かせて拓実を見ている。残る形になった秋蘭が口を開いた。

 

「読み書きをこなすことが出来る割合ですが、近隣の農村でも村に数名。ここ陳留でも、多く見積もったとしても三割を下回りましょう。必要最低限の読みのみであるならば七割に届くかというところでしょうが……」

 

 華琳は秋蘭の言葉を聞いた後、口の端を持ち上げて拓実へと視線を戻した。否定的な秋蘭の言葉を受けての笑み、拓実はそれがどんな感情からきているのかわからずに向けられた視線に対してを見返すことしか出来ない。

 

「そういうことね。なかなか面白い案だけど、無理とは言わないまでも施行は現実的ではないわ。商人や文官の家系でもない限りは、読みはともかく書きまで出来る者はそういないでしょう」

「左様ですか……」

 

 小さく呟きながら、気持ちが下向きになっていくのを拓実は自覚していた。拓実だって初めから上手くいくとは思っていない。まして自身は満足に文字すら読めず、今住んでいる陳留にしたって知っているのは昨日見た街並みぐらいのものだ。この状態で出せる案なんてものは限られている。それでも、不完全燃焼の感が拭えないのも確かだった。

 

「……けれど、穴だらけではあるものの着眼点は悪くない。桂花」

「はっ!」

「本日、過剰費削減の施行の際には拓実を連れて行きなさい。拓実は何か気がつくことがあれば桂花に伝えること。拓実の意見によって改善できるようであれば政策に手を加えることを許すわ。細部の変更については桂花の裁量に任せましょうか」

 

 拓実は思わず、華琳の顔をまじまじと見つめてしまっていた。そしてその言葉の意味を認識するにつれ、じわじわと胸の内から嬉しさがこみ上げてくる。

 案自体は実現に適うものではなかったようだが、その知識は役に立つと判断してもらえた。これで、少しでも華琳の役に立てるだろうか。

 

「二人共、夜に私の下へ進捗報告に来るようになさい。拓実は何か胸に秘めている構想があるようならば、昼のうちにまとめておきなさい。そこで聞くわ」

『かしこまりました』

 

 嬉しさに、勝手に綻んでしまう口元を俯いて隠し、拓実は桂花と共に深く頭を下げた。

 

 

*1
その政治が優れていれば、有能な人材はみな適した役職に配されていて民間には残らないであろうこと。



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13.『荀彧、荀攸に脅威を覚えるのこと』

 

 自室への道を歩きながらも、桂花はもやもやとした言いようのない思いを胸に抱えていた。そんな湧き上がってきた感情を持て余していることもはっきりと自覚している。自身の感情すら自制出来ないことに苛立ち、普段よりも表情が険しくなっているのがわかった。

 こうまで落ち着かないその理由を、桂花本人は理解している。一重に、拓実が華琳に上申していた案によるものだった。

 

「……なによ?」

 

 桂花が思わずといったように足を止めて後ろを振り返ると、自身と瓜二つの姿をした人物が怪訝な声を上げて見つめ返してくる。拓実が着ているものは、桂花がいつも買い付けている服屋から購入したものであるから、寸法が違うだけで仕立ては全く同じものだ。その顔つきは本来華琳にそっくりなだけあって桂花本人よりもいくらか勝気な雰囲気が強いものの、仕草から表情の作り方までを忠実に真似ているためその違いが気に掛からない。

 まるで鏡に映った姿を見ているような錯覚に襲われ、桂花は少しだけ眉根を寄せた。

 

 不本意ながらも桂花は、拓実の演技力に関しては高く評価している。おそらく今こうして並んで歩いていても第三者からは違いなんてほとんどないのだろう。加えて桂花にはそのようには聞こえないものの、周囲には声までそっくりに聞こえているようである。

 驚嘆してしまうほどの精度で拓実は桂花を写し演じている。そしてそれこそが、桂花が気に喰わない理由であった。だが、男の身でありながら自身をこうも演じてしまえるという先日に覚えた苛立ちと、今日感じているものはまた違う。

 

「……? …………っ」

 

 続いて何事かを声に出しているらしい拓実を放って、桂花は踵を返して自室へと再び歩み始めた。

 考え事に耽る桂花の耳に、その声は届かない。

 

 

 桂花は、己の頭脳が凡百よりも優秀であることを知っている。幼少より他と比べて物覚えが良く、発想は柔軟であり、物事の要点を掴むのが殊更に上手かった。

 幼くしてそれを自覚していた桂花は智こそ自身が尊ぶものであると信じて、多くの書物の内容を自身の頭脳に蒐集(しゅうしゅう)してきた。いつしか桂花にとって読書とは切っても切り離せないものになり、それこそが頭脳を武器とする桂花の自己鍛錬となっていた。そうして十と幾つかの歳を数えるまで磨き続けていると、周囲に自身以上の知識を持つ者はいなくなっていた。

 

 桂花にとって書物とは、宝箱のようなものだった。開いてみれば知識が詰まっていて、どれも自身を豊かにしてくれる。

 遠い過去の王の物語。亡国の盛衰の軌跡。ある者が一生を通して得た教訓。人はこうあるべきという啓蒙――自身が一生を費やしても得られないだろうほどの多くの知識が、その宝箱には眠っていた。

 

 そして桂花は書物を通して、過去様々な賢者や愚者が生きていたことを知る。

 ……人物の器を的確に見極める者、地理に聡い者、政治に強い者、軍略に明るい者、技術を伝える者、動くべき機を知る者。

 他を決して信用しない者、己の力を過信する者、嘆くばかりで動かぬ者、智を軽んじる者……。

 何かに秀でれば、他の誰かより劣る部分があった。暴君が布いた悪政と呼ばれている行為にも学ぶものはある。そういった者たちの生涯は興味深いものであったし、桂花の模範となってくれるものであった。

 

 そんな賢者、愚者たちを師と仰いでいる桂花は、情報と経験をこそ重要視するように育った。環境と条件を整え、きちんとした道筋を辿らせれば結果は自ずとついてくるものであると過去の事柄から学び得てきたからだ。だからか、不確定要素や博打のような行動を嫌った。確たるだけの理由や裏づけがなければ、安易にそれを用いることをしなかった。そうして統計や数字などの情報を重視するようになり、同時に先人からの教えを軽んじない保守的で堅実な思考が桂花の根底に出来上がっていった。

 

 そんな桂花だからこそ、拓実がした献策の内容に小さくない動揺を受けている。

 民の識字率が高いことを――つまりは民に学を与えることを前提に、それを有効活用するという『目安箱』。これを聞いた時、桂花はからかわれて怒りを覚えていたことすら忘れて、意見を述べる拓実をまじまじと見つめていた。

 まず桂花はその案の突飛さに驚き、そして半ば反射的にその案を鼻で笑った。桂花には、民に学を授けるという前提からして破綻しているようにしか聞こえなかったのだ。

 

 だが、この考えは何ら特別なものではない。支配者層の人間であれば、ほぼ間違いなく桂花がしたような思考を辿ることになるだろう。そしてそれは、致し方のないことであった。

 何故なら、過去より大陸には『民とは支配されるものである』という認識が受け継がれている。これは敢えて口に出すまでもない不文律であり、常識でもある。『帝』なる『統治すべき者』が世に認知され、そしてそれに誰も疑問すら覚えない現状がそれを表しているだろう。

 国が国として機能する為には、民は不可欠である。民がいなくては国は成り立たず、国がなくては王はない。しかしあくまで民は統治される存在であって、統治者がいるというのに民が領分を越えて(まつりごと)に口を出すなんてことは考えてはならないことであった。

 

 それに倣う様に、帝の存在を知る統治者たちはみな『民に過分な力を持たせてはならない』という認識を持っている。その地域の君主の力量によってその『過分な力』の程度に差はあるものの、彼らが力を持てば持つだけ領主に対する不満が表れるようになり統治はそれだけ難しいものとなる。臣民に学を授けることは経済発展や人材育成などを容易にするものではあるが、充分に『過分な力』の範囲に入りうるものだ。

 たまたまここ陳留ではそれを御せる華琳が直接施政を担っているから行っているだけで、統治者主導でそれを行っている州や街はどれだけあるものだろうか。

 

 そんな大陸の常識に投じられた一石が、拓実の進言していた『目安箱』であった。

 落ち着いて仔細を聞き、先入観を取っ払って検証してみれば驚くほどに利点ばかりが浮かんでくる。今となってはこんな簡単なことすら考え至らなかった自身に憤りさえ覚えていた。しかし、これも固定観念が薄れている今だからそう感じているのだろう。例え同じような案が頭を()ぎったとしても、桂花はそれに着目することなく却下していたに違いなかった。

 

 結局は、現状の陳留で実施するには現実的ではないということでこの案は華琳に退けられることになったが、下地さえ整えられればすぐにでも『目安箱』は街に設置されるだろう。そしてそれは、この街を豊かにする確信を匂わせている。少なくともこの『目安箱』には、桂花の目から見ても致命的な欠陥は見当たらない。

 要望を受け入れることで民の統治者への不信を和らげ、有用な人材を見つけ出す指標となり、現状での問題点を洗い出す。拓実が挙げた利点は以上のものだったが、情報の種類によって恩賞を与えるなどの制度を敷けば、現場でしか知りえない情報などを得ることも出来るだろう。

 ――例を挙げてみれば、地方や他国の情報であるとか、必要とされている物資の把握、陣営内の不正告発などなど、数もさながら分野も多岐に渡る。その応用範囲は街全体に及び、副次的効果は想定するだけでも挙げればきりがない。

 

 確かに生み出されるものは益ばかりではない。民がそれによって増長する可能性もあり、また対応によっては臣下や民の間に軋轢も生まれることだろう。都合の悪い要望を握り潰そうとする者や、虚偽を訴える者たちが出てくるのは想像に難くない。

 しかし、それらは決して防げないものでもない。しっかりとした制度を作り上げさえすれば、華琳の統治下においては利点の方が大きく勝るものだ。桂花だけでなく、主君である華琳にとっても拓実のこの発想は目から鱗であったことだろう。

 

 もし、この大陸に渡ってきた異国の旅人などからこの『目安箱』の発想を聞いたならば、桂花はそういった考えがあるものかとただただ素直に感心しただろう。だが、その相手が同じ陣営に属している文官であるというのでは勝手が違う。まして、件の人物が自身と同じ姿をしているのであればそれは尚更。

 この未知の発想をする拓実と比較されるのは、間違いなく似通った容姿を持つ己ということになる。そんな事実に、桂花は言い知れぬ焦燥感を駆り立てられていたのだった。

 

 桂花の見る限りでは、拓実は自身に及ばないだろうものの頭の回転が常人に比べて早く、また物覚えも良い。文字の学習進度からの見立てでは、おそらく半年もすれば拓実は文官として人並み程度には働けるようになろう。

 それだって、これから先の数年はいい。この土地の風土どころか文字すら覚束ない拓実ではそうそう適した献策は出来ない。今回はたまたま施行出来るだけの人材が揃っていただけで、拓実がこの大陸の風習を把握するまではどうしたって見当外れな意見が続くことだろう。

 だが、十年、二十年先を見据えてみればどうか。この大陸の知識に加えて、他に見られぬ新たな発想を持つ『荀攸』と、この自分。果たして、移り変わっていく時代に重用されるのはどちらなのだろうか。

 

 ここまでを思い描いて身を震わせたが、こんなものはただの妄想である。そんな状況になることはないだろうことを、桂花は頭で理解している。

 桂花と拓実の知識量の差は絶対的であり、拓実が研鑽に充てるのと同じだけ桂花にも時間が与えられるのだ。自身が日課になっている自己鍛錬をやめることだってありえない。冷静に考えれば、自身と同じ高さに立つまでに十年程度では到底足りまい。

 そもそも華琳が桂花と拓実を両天秤にかけるようなことからしてあり得ない。軍師という立場に立つ者は何人いようと困ることはないものだ。

 軍師は各自の視点から様々な案を君主に提示し、軍略を交わしてその有用性を競うだけで、実際に方針を決定していくのは君主である。ならばこそ、多く軍師がいたとしても不都合なことなどは起こりえない。自身に匹敵するだけの識者の考え方に触れられることを考えれば、桂花にとってはむしろ願ってもないことだ。

 

「……でも」

 

 今感じている焦燥感が錯覚であると理解しているが、先ほどこんな光景を桂花は幻視していた。そして、それこそが桂花を不安にさせている。

 それは拓実が桂花と変わらぬ知識を身につけ、しかし桂花にない斬新な発想で華琳に献策する様子だった。華琳の一番近いところに当然のように控える拓実と、それを満足そうに受け入れている華琳。桂花はただそれを側から眺めている。まるで自身こそが本人であるように桂花を写し取った拓実が、軍師の立ち位置を桂花から奪ってしまうその幻は、あまりに現実味がありすぎた。

 

 

 

 

 

 日が暮れ、食事時を過ぎてしばらくした頃。昨日分と合わせて仕事の遅れを一日で取り戻した華琳は、自室で秋蘭と杯を交わしていた。

 そうして二時間ほど経つが、二人に酩酊した様子は見られない。華琳がほんのりと頬を染めているがそれだけである。飲んでいる杯の中身だってそれほど酒精の強いものではない。度の強い酒を滅多に作ることが出来ないのもあるが、この後桂花と拓実が訪ねてくることもあって華琳は薄い酒を選んでいた。

 独酌という気分でもないために秋蘭を呼び出しただけなのだが、ついつい本日の仕事の経過を訊いてしまったのを皮切りにして、自陣営における問題と今後の展望についてを語らっている。大まかには目下不足している資金や人材の対処。目に見える問題としては以前にも増して増加している賊徒についてか。

 

 それらを経て、話はいつしか拓実の件へと移り変わる。取り扱い方によっては問題といっても差し支えない存在であるし、今後の動向にも密接に関わってくる人物であるから話題に上るのは当然であった。

 

「朝議の後、拓実はまた面白い案を挙げたものね」

 

 言ってから華琳は、くい、と杯の中身を飲み干す。

 一日で普段の五割増の仕事量をこなしてみせた華琳だったが、流石に疲れの色は隠せない。酒にはそこそこ強い華琳ではあるが、疲労からいつもより酒の回りが早いようだった。華琳は口の端を吊り上げながらも、目の前の秋蘭を気だるそうに見やった。

 

「おそらくは異国故の発想なのだろうけど、文官として見ても拾い物かもしれないわ。頭の凝り固まった連中には、拓実の存在はいい刺激になるでしょう」

「刺激にはなるものとは思いますが……。しかし、『目安箱』でしたか」

 

 空になった華琳の杯に、秋蘭は(うやうや)しく酒を注ぐ。目を細めてその様子を眺める華琳を前に、彼女は少しばかり思案する様子を見せた。

 

「確かに我らにとって画期的ともいえるものではありますが、同時に毒とも薬ともなりかねない危うさを孕んでいるように私は感じました。拓実の出自を多少なり知っている我らであるから抵抗少なく聞き入れることが出来ましたが、知らぬ者が聞けば奇人と評されてもおかしな話ではないかと」

 

 注がれ波紋を広げる酒を見つめたまま、華琳もまた考え込む。

 確かに有用な政策であったし、その着眼点はこの大陸の常識に浸かってしまっていた華琳にないものであった。自身にない観点から物事を考えられるとなると、拓実の文官としての重要性は自然と高いものとなる。

 

「――ええ。どういった国で生きてきたのか、とにかく拓実の価値観は大陸のものとは異なものよ。この地続きである大陸でだって地方ごとで風習が違うのだから、それが海を挟むとなればかけ離れてしまうのも当然といえるのかもしれない」

「しかし、事情を知らぬ他の者が華琳様のようには考えられるとは思えませんが」

「そうね。既に拓実のことを荀家の人間として紹介してしまっている。同郷の人間がした発案とすれば、その異様さが際立ってしまうことでしょう。となると、この国での常識を教え込むまでは他の文官と一緒に仕事をさせることは極力控えさせるべきか。とにかく拓実には時間が必要なのだけれど……私直属の文官としたことが思わぬところで役に立ちそうね」

 

 秋蘭の疑問に対して、自嘲気味な笑みを浮かべた華琳は目を瞑る。視界を暗闇に閉ざして静かに頭を働かせている。華琳には気にかかっていることがあった。

 華琳が拓実の器を量るに、頭の回転は優れたものだがそれでも有能な文官程度という認識である。軍師である桂花と並べ比べると見劣りしてしまうのは否めない。率直に言えば洞察力や発想力はともかくとして、拓実の挙げていた『目安箱』は彼一人が一から構想できるようなものだとは思えないのだ。

 加えて、献策の際の拓実の話し振りはどこか見聞調でありながら、端々に経験則が見え隠れしていたことに華琳は気がついていた。それらを総合して考えた結果、『目安箱』という政策は過去どこかで試験的にでも実施されたものではないかと華琳は推測している。

 だが、組織立ったそれなりの規模の勢力でもなければこんな大掛かりな政策は施行することは出来まい。となると拓実の故国は少なくともこの陳留と同程度には発展していたという事実が残るのだが、それは同時にまだ見ぬ大国が世界に存在していることを示している。果たして、彼の国は敵となるか味方となるか。場合によっては拓実を通して渡りをつけ、友好的な交流しておくのもひとつの手であるかもしれない。

 

「どちらにしても、一度拓実の故郷について詳しく聞いておきたいわね。今夜献策の機会を与えてあるから、それを聞いて切り出すかどうかを判断しましょうか。ああ、もう。退屈しないで済むのは歓迎なのだけれど、少しばかり考えるべきことが増えすぎよ」

 

 はぁ、と深く息を吐いた華琳は思わず天を仰いだ。言葉とは裏腹に、華琳の表情は悪いものではない。

 

 その演技の才に惚れ込んで引き込んだが、拓実は色々な意味で特殊な立場にあった。そしてやはりというか、何かと問題が付いて回ってくる。

 それらが害を生むだけというならばすっぱりと切捨てて対処できるのだが、長い目で見ればそれを補って余りあるだけの利益となりそうなのである。いうなれば先行投資であるのだが、金銭的には負担なく華琳の手間だけをとらせるだけというところがまた性質が悪い。場さえ整えてやれば文句なしの結果を出してくれるのだろうが、その場を十全に整えるまで華琳の気苦労は絶えなさそうである。

 

「華琳様、桂花にございます。報告にあがりましたが、お時間はよろしいでしょうか」

 

 華琳が考えを纏めながら酒の入った杯に口をつけたところで、部屋の外から声がかかった。慌てる様子もなく机に杯を置くと、ゆっくりと口元を拭う。

 

「構わないわ。拓実も一緒なのでしょう。二人とも入りなさい」

「それでは失礼致します」

「失礼致します」

 

 それぞれ似た声質と抑揚で告げられた声の後、桂花と拓実が入室してきた。こうして華琳が二人並んでいるのをみるのは二度目になるが、どうにも見慣れない。似た人物が並んで存在している光景を目の前にして、見間違えかと無意識に幾度かまばたきをしてしまう。

 

「……華琳様?」

 

 継ぐ言葉が華琳から発されないことに、桂花は首を傾げている。見れば拓実も不思議そうにこちらを見つめていた。自身が半ば自失していたことに気がつき、華琳は取り繕うように口を開く。思っているよりも酔いが回っているのだろうか。

 

「なんでもないわ。それで桂花、早速だけれど今日の成果はどうだったの?」

 

 その華琳の言葉を受け、桂花、拓実の両名はその場で跪いた。携えていた竹簡を目前に掲げて桂花が口を開き、拓実がそれを眺め見る。同じ姿をした二人が跪くその光景は、華琳にはやはり見慣れないままであった。

 

「はっ。本日は今朝のご報告の通りに、各方面の物資請求、資金運用の是正を行ないました。部署毎の請求過剰分と不透明な予算申請の見直し。同時に、浮いた状態であった繰越予算を徴収した結果、いくらか資金の見通しが立ちました。詳細はこちらに」

 

 そうして桂花が献上するかのように渡してきたものは竹簡。紐解いて開けば、どの部署でどれだけの無駄があるか、そしてそれを正すことによってどれだけの資金を捻出できるかが事細かに記されてある。

 

「――あら、結構な余剰が出てくるものね」

「それが、仕事こそ完遂してはいるものの公費を着服していた者がいたようでして……。州牧となって人手が足りず、多く人員を雇い入れたために末端まで華琳様の薫陶(くんとう)が行き届いていないものかと思われます。それらの者の名は巻末に列記して置きました。華琳様が定めた規定に合わせて処罰を下すよう、通達は終えてあります」

 

 華琳が見てみれば確かにその竹簡の終わりには十数名の名が並べられている。悪しき慣習というべきか、どの勢力においても仕事さえこなしていれば、個々の能力で浮かせた金をいくらか懐に入れることを黙認する節があった。おそらくこれらの者たちも他の陣営なりで働いていたのであろう。他では許されていたのだろうが、しかしここではそうではない。

 勿論そういった軍規についての説明は事前にしてある。同時に、有能なものであればそれを働きによって示せば相応に還元するという旨も提示されている。今回はそれを軽視したためにこのような軽挙に出たのだろうが、華琳が洛陽で勤めていた一幕を知っていればそのような愚を冒すことはなかっただろう。

 

 ――華琳はかつて、洛陽にて北部尉として勤めていたことがある。その役職は、簡単に言ってしまえば警備や治安を取り締まる隊の隊長のようなものである。

 決して高いといえない職権でありながらも華琳は治安維持に対して厳格に務め、規律に則って厳しく振る舞い、たとえ相手が自身より高官であろうとも退かずに罰則を適用させてきた。以前は違反しても黙認されていた高官でさえ罰されるという事実に恐れ震え上がった洛陽では、その発端となった夜間通行は元より、違反行動を起こす者はいなくなったという。

 それから幾許かの時が経ち、いくつの街を治め、一つの勢力となってからも華琳の潔癖な部分は変わっていない。そんな華琳の陣営内で、不正が許される筈もなかったのだ。

 

「話をご報告の内容に戻しますが、そちらの竹簡に記載されているだけでも、月が変われば構想している政策を実行するに足りることでしょう。明日よりは物資の買い付け先や保管、輸送等の流通経路から無駄を洗い出して見せましょう」

「そう、ご苦労様。今後も期待しているわよ、桂花」

「はいっ、お任せください!」

 

 嬉々とした表情で頭を下げる桂花。その姿は、小柄な少女の姿なれど頼もしい。それを見た華琳は、浮かべていた笑みを更に深めることになった。

 華琳の陣営に入って一月足らずなれど、既に桂花は内政においては他の追随を許していない。これまでの文官も決して無能というわけではなかったが突出した者もおらず、華琳と秋蘭が中心となって指示し、事に当たらざるを得なかった。しかし華琳は君主という立場があるためかかりきりになるわけにもいかず、秋蘭は内務ばかりでなく武将としての働きも同時にせねばならない。

 そのような切羽詰った状況で加入したのが桂花であった。彼女が内政を一手に引き受けたことで華琳の負担は確実に減り、仕事が滞ることがなくなりつつある。そういった意味では桂花は華琳の側で力強く支え助ける者、正しく華琳にとっての『子房』(*1)であった。

 

「さて、次は拓実についてよ。一日、桂花の仕事についていかせたけれど、その中で何か思うところでもあったかしら?」

 

 その言葉を受けて桂花が一歩後ろへと下がり、代わりに拓実が同じ分だけ前へ出た。拓実はまっすぐ、ただ真剣に華琳を見つめている。

 

「はっ。しかし桂花の仕事振りについては口を出す余地もなく、気に掛かる部分はありませんでした」

「そう。桂花の仕事については、ということは他の部分で何かあったのかしら?」

 

 言って深く頭を下げた拓実に、華琳が間髪いれず問い掛ける。それにうろたえることなく、落ち着いた様子で拓実は続きを紡ぐ。

 

「はい。各部署を見て回りまして、貴重で高価だという紙を要らぬ部分にまで使っている節が見られました。内々の書類は安価な竹簡を使用し、公的なものだけに使用を控えるべきかと進言いたします。加えて、灯火に使っている油や暖をとる為の薪等、支給品となっている物資がありますが、こちらも見直す点がいくらか見受けられます」

 

 通常、書面に残す必要がある場合は竹簡(ちくかん)という、竹を薄く切り開いて札状にし、紐で繋いで広げた物が使われている。竹は生育が早い為に安価に作れるのだが、折り畳んでも保管に場所をとる上に結構な重量がある。植物の繊維を()いて作られる紙は数十年前に発明されたばかりで普及されておらず、それほど数が出回っていない為に値が張った。

 見栄えよく、場所を取らずに軽いが、紙一枚を買う金があれば十数倍の文言を記せる竹簡を手に入れられる。手が届かないほど高価ではなかったが、高級品であることには変わりない。

 

「確かに、紙の使用については思うところがあるわね。けれど、油や薪は仕事をする者には欠かせないものなのだから減らすわけにはいかないでしょう」

「ですので、部署ごとに支給量を最低限まで減らし、足りない場合は必要分を各人記名して取りにくるようすればみだりには使用しなくなるかと思われます」

「と、言うと?」

「は。許可制というわけではなく、取りに来ればその時点での支給はいくらでも行ないます。期間を設けて誰がどれだけの物資を受け取ったかを記し、個人の物資使用量と仕事量を照らし合わせ、割合が他と比べ釣り合わぬ者には勧告する形を取るのです。仕事のみならず、酒宴等で集まった際にも公私の区分なく物資を使用しているという話を耳にしました。華琳様主体で行なわれるならばともかく、個々で行なわれるものにまで城の物資を提供する道理はありません。個々では微細なれど、陣営全体では多くの節制となりましょう」

「なるほど、面白い。支給を自由にするということは、逆に多く仕事をこなす者であれば多少の私的使用を黙認するわけね」

「左様にございます。それをこなすだけの能力に応じない者らは給金より購入するようになることでしょう。もちろん、こなした仕事に応じて給金を増やすようしなければ不満は出るでしょうが、華琳様の方針であれば問題はないかと存じます」

 

 華琳は思わずと言った様子で、「ほう」と感心した声を上げていた。恐らくは桂花から聞いて仔細を煮詰めたのだろう。さらに、まだ知り合って数日だというのに華琳のやり方を理解しているようだ。

 才あれば出自に問わず登用するという華琳の方針は成果主義である。力を示せば重用し、逆に怠ることあれば厳しく罰する。

 ならばこそ拓実の挙げた策は通用するし、華琳の意にも沿ったものになる。励めば励むだけ給金は増え、使用できる物資が増えて優遇されるのである。足りぬ者も能力が及ばぬならば、空いた時間を使って自身を磨くようになるだろう。その人材育成をも視野に入れたこの考えは、華琳のそれとぴたりと一致していた。

 

「その拓実の案、採用しましょう。桂花、実施するとしてどれだけの日数が必要かしら?」

「恐れながら、華琳様が私の裁量に任せると仰られてましたので、私の方で準備だけは進めておきました。許可さえいただければ、次回の支給日より施行できましょう」

「ふふっ、二人とも上出来よ」

 

 打てば響くように返してくる桂花の言葉を受けながらも、華琳は喜びを隠し切れないでいた。桂花と拓実。この二人の組み合わせは悪くない。いや、それどころか予想以上にそれぞれの長所が上手く噛み合っている。

 拓実一人だけではどうしたって穴が出てくる。とてもじゃないが一人で政策を任せることは出来ない。根本的に知識という土台が脆いために、どうしても補佐が必要なのだ。それだけなら荷物にしかならないが、拓実はそれを補うように鋭い観察眼で華琳が求めているものを推察してみせ、異なる文化の知識から思いもよらぬ発想をしてくる。それを活用しない手はなかった。

 対して、いささか革新的発想にかける桂花ではあるが、拓実の着想が生み出す利点を見逃すほどに頭が固いわけではない。欲を言うなら、しっかりとした知識に支えられてるが故に新たな発想に挑戦していかないのが難だろうか。膨大な知識を持っているが、保守的すぎる嫌いがあった。

 この二人は個々でも働きを見せるだろう。だが、組ませればお互いの持ち味を生かし、短所を埋めることができる。将来的に見ればお互いの長所を学び取って、自身の欠点を補っていくことだって可能だろう。

 

「そうね……ならばこの件は二人に一任しましょうか。これからは拓実と桂花は仕事の間、一緒に行動なさい。合間合間に時間が取れたら拓実に文字を教えればわざわざまとまった時間を取る必要もなくなる。桂花も拓実から異国について聞けば得るものがあるでしょう。お互い、自分に無いものを学びなさい」

「華琳様がそう仰るのであれば、否はありません」

「……かしこまりました」

 

 更なる才の開花を垣間見た華琳は内心から湧き上がってくる高揚感に身を任せたまま二人に告げるのだが、対して二人からの返答はどうにも煮え切らないものだった。桂花の珍しい否定的なその態度に、華琳の高揚感は失せ果てて、当然のように疑問を浮かび上がらせる。

 

「何か問題があるというのなら言って御覧なさい」

 

 華琳が怪訝な顔で二人に問い掛けると、拓実はちらりと横を見やった。まるで機嫌を窺うように見た先では、桂花が華琳に向かって頭を下げている姿があった。

 

「いえ、突然のことに少々戸惑っただけですので」

 

 拓実の視線を介さず、桂花は視線を床に向けたままで華琳へと返答する。その態度に何を見たのか、拓実は口を開きかけてまた閉じる。

 

「……そう。そういうことならばいいわ。今日のところは以上よ。明日に備えて休みなさい。拓実、あなたには聞いておかなければならないことがあるからもう少しだけ付き合いなさい」

「はい、それでは失礼させていただきます」

 

 言って深く頭を下げた桂花は、静かに華琳の私室より退室していく。程なくして桂花の姿は見えなくなったが、どうにも部屋の中の空気が澱んでいるように思えてならない。

 

 戸惑っていたと桂花は言っていたが、それはおそらく根本的な理由ではない。華琳直々に問い掛けても答えないのならば何らかの理由があるのだろう。拓実の何か言いたげな様子も気に掛かった。

 実際に拓実を問い詰める前に、華琳は今日一日の桂花の様子を思い返していく。そうして、華琳は報告に来ていた桂花の違和感に気がついた。華琳との受け答えはいつもの通りであったし、仕事内容についてはしっかりとこなしていたから気づかなかったが、おそらく間違いない。

 拓実が幾度か桂花を窺うように見ていたのに対し、桂花は一度たりとも拓実に向き合わず、視界にすら入れていなかったのだ。

 

「本当、退屈させてくれないわね」

 

 原因はわからないが、桂花の不可解な挙動に拓実が関わっていることには確かであるようだ。嘆息しながら、華琳はわざとらしく肩をすくめてみせた。

 

 

*1
楚漢戦争の軍略家、張良(字を子房)のこと。劉邦に仕え、その才覚を以って彼を補佐して王座へと上らせた。曹操が荀彧を迎え入れる際に「我が子房(張良が劉邦を補佐して王にしたように、荀彧こそが私を王とする王佐の人物である)」と喜んだとされている。







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14.『拓実、一日を回顧するのこと』

 

 拓実、華琳、秋蘭。誰もが黙して語らずに、どれだけが経っただろうか。部屋には得体の知れない居心地の悪さが充満していた。

 そんな中、退室していった桂花の後ろ姿を眺めていた華琳が思い出したように拓実へ顔を向ける。拓実もまた彼女が去っていくのを視線で追っていたが、華琳からの視線を感じて慌てて向き直った。まだ内心では疑問が渦巻いており、意識の何割かは桂花が去っていった出入り口へと向かったままだ。どうにも拓実は目の前にいる華琳に集中しきれずにいた。

 

「で、何故桂花がああもあなたを避けているのかしら? 拓実、心当たりは?」

 

 跪きながらあれこれ考えていた拓実は、その発言からようやく華琳も桂花を気にかけていたことを知って目の色を変える。やはり華琳も桂花の異様な態度に気づいていたようで、今もその訝し気な表情を隠さずに拓実を見つめていた。拓実、桂花とも華琳の前では暗黙のうちに平静を装うようにしていたが、最後の応答は二人の不和を察せるほどには不自然に過ぎたようだった。

 

「いえ、朝議が終わってしばらくしてからは、ずっとあのような様子なのですが……」

 

 問われて迷うように視線を巡らせた拓実は、しかし桂花が変貌したその理由がわからずに眉根を寄せる。

 拓実は桂花に何かをした覚えはない。強いて言うならば朝議で見下し笑ってしまったことがあったが、朝議の後しばらくは顔を合わせて会話していたのだからそれも考えにくい。いくつか気に掛かるところはあれど、こうまで避けられるようなことをしでかした覚えはなかった。

 伏目がちにしてあれやこれやと考えに耽る拓実を前に、この様子では埒も明かないとした華琳はひとつ息を吐く。

 

「まったくしょうがないわね。なら今日一日何があったのか、一から報告して御覧なさい」

「……はい。それでは少々長くなりますが」

 

 前置いてから、拓実は記憶をさかのぼっていく。桂花とのやり取りに疑問を覚え始めたのは、そう、朝議を終えた後直ぐのことだっただろうか。

 

 

 

 ――城内を先導されて歩く拓実は、桂花の後ろで腑に落ちない様子で首を傾げていた。すれ違う文官たちが向けてくる奇異の視線も、疑問が先にたっていて気に掛からない。

 というのも、「仕事について詳しく説明するからついてきなさい」と言葉を受けて桂花の個室へと向かっているのだが、どうにも彼女の様子をおかしいと感じていたのである。

 

 つい先ほどのことだったが、桂花は突然に足を止めたかと思えばこちらへ振り向いて、じっと拓実を見つめてきた。話しかけてくるわけでもない彼女を不審に思った拓実が何用かと声を掛けたのだが、碌に反応を返すこともせずに踵を返して先を歩き始めてしまった。

 その後も何度かその後姿に声をかけてみるが同様で、一度たりとも拓実に声を返すことをしなかった。まるで拓実の声が聞こえていないかのように歩みを進めている。

 

 口元を手で覆い隠しながら伏目がちにしている様子からして、考え事をしているのだろう。演技のためにも桂花の一挙手一投足を観察している拓実であるから、それはすぐにわかった。

 しかし、それほどまでに真剣に考えていることはいったい何事なのか。流石の拓実といえど皆目見当がつかない。情報を揃えれば演技している人物の心理さえ把握してみせる拓実にしても、本人に同調できるのはその時々の感情と思考傾向ぐらいのものだ。

 ある程度までは絞れるものの、考えている内容を推察しろと言われれば完全にお手上げである。先日に本人の前で述べた桂花の心情も、性格からくる感情的な思考であったから理解できたのだ。当たり前の話だが、役柄の持つ思考能力や速度、知識量までを真似ることなどどんな名俳優にだって出来ない。それらを下地にして置かれてしまうと、情報不足で思考を組み立てることができないのだ。事実、こうして桂花の思考を辿ろうと拓実は必死になるも、桂花本人が考えている内容に迫ることが出来ないでいる。

 

 演じているのは、あくまでも拓実を下地においた上での役柄でしかない。拓実自身は自己暗示によって役柄になりきっているが、どうしたって演技の端々には『拓実』が顔を覗かせる。演技の質を向上させていくには、この辺りを何とかしていかなければならないと拓実は考えていた。

 本人が行うだろう行動や思考を、無意識に演じられなければ上達は見込めそうにない。だがこれ以上となると、どうしたらいいのかもわからないでいた。それは、心情、思考形態までを似せ、本人と変わらぬところまで突き詰めていくということになる。普通に考えるならば、そんなことは不可能だ。

 しかし、拓実は一つ、目指す境地に限りなく近いところを既に知っている。そう、それは謁見の際に華琳に成りきっていた自身。『トランスした状態の自分』が一番、目指している役者像を再現していた。素の状態では絶対に耐えられない重圧に耐え、死の恐怖すらも克服してみせた。あの時の拓実は確かに、自己の限界を越えて華琳が如き振る舞いが出来ていたのだ。

 

 ――しかし、あれが自分の演技の完成形なのか。役者の意思を反映させずにする演技が本当に正しいのだろうか。拓実にはわからない。確たる理由はなかったが、しかしどうにも拓実はそれとは違うような、そんな気がしている。

 

 

 そのまま拓実まで考え込んでいるうちに、いつの間にか桂花の私室まで辿り着いていたらしい。拓実が気がついた時には、こちらへと振り返った桂花が自室の扉を開け放って入室を待っている状態だった。

 

「着いたのだからさっさと入りなさいよ。与えられている時間は有限なのだから一秒たりとも無駄には出来ないのよ」

 

 つんけんとしていて、表面上の桂花は昨日までと何ら変わるところはない。華琳以外に過度の好意を向けたりしないこういう言動こそ、桂花にとっての標準な対応であると拓実は理解している。その刺々しい態度に紛れてしまうが、春蘭や秋蘭、季衣に向けるものには友好的な感情が隠されている。

 だがしかし、今こうして拓実が桂花から受けているものはそれとは違っていた。桂花の視線やその物言いに隔意を感じている。この辺りを荒らす賊らに向けるほどの敵意はないが、警戒はそれより強い。春蘭と言い争っている時のあからさまのものとは違い、どこか探るような態度。どういった心情からのものかは不明だが、少なくとも桂花が拓実のことを警戒しているのは確かなようだった。

 

「ほら。早くしなさいって言っているでしょう、愚図ね。いつまでそこでそうしているつもりよ」

「もう。わかったから袖を引っ張らないでよ。シワになっちゃうじゃない!」

 

 ぐいと桂花に袖を引っ張られて、ぶつぶつと文句を呟く拓実だがその内心では疑念が晴れない。昨日は幾度か衝突したものの何だかんだで拓実は悪くない関係を築けていたと思っていたのだが、それは一方的な勘違いであったのだろうか。

 いつものように悪態をつきながら、桂花に従って彼女の部屋へと入室した。

 

 

 

「……と、今日私が華琳様より任されている仕事はこんなところね。まずは文官連中から当たるわ。下手に小賢しい分、私腹を肥やしている奴がいるとしたらまずこいつらよ。で、あなたからは何かある?」

「特にはないわね。私はまだどういった運営をしているのか詳しくは知らないことだし、とりあえず今日のところは現状把握を優先させてもらうわ」

 

 部屋に入ってからも桂花の様子はつれないままで変わることはなかった。まず、目線が合わない。拓実が顔を上げると、桂花はすっと手元の竹簡に視線を落としてしまう。だが拓実が竹簡を見ていると、知らぬ間に桂花はじっと拓実のことを見つめている。

 会話の方も途切れ途切れになり、長く続かない。世間話なんて以ての外で、唯一の例外は職務についてを話す時ぐらいであった。仕事についての説明こそしてくれているものの警戒は解かれていないようで、話している間も桂花と自身の間に壁のようなものを感じている。

 まるで腫れ物に触るように自身を扱う桂花の様子が昨日とはあまりに違っていて、拓実はどうにも落ち着かずにいた。言いたいことがあるなら言って欲しいものだが、桂花はそういった態度を拓実にわからぬよう取り繕い、隠そうとしている。不審な様子を隠し切れていないために拓実には筒抜けだったが、とりあえず悪意は感じないためにそ知らぬ振りをして会話を繋いでいる。彼女は自身の何に戸惑っているのか、ともかくそんな対応をされては面と向かって何があったのかなどと聞くことは拓実には出来なかった。

 

「ふん。賢明ね……じゃあ、朝食を終えたら資料室に向かうわよ。そこに部署毎の収支簿があるから、そこからひとつひとつ確認して潰していくわ」

 

 拓実の返答を聞いて小さく息を吐いた桂花は席を立って、足早に部屋の入り口へと足を向ける。慌てて椅子から立ち上がった拓実は、部屋を出ようとする桂花に追いすがった。

 

 

 

 無言で竹簡を開いては内容を吟味し、注釈を別の竹間に書き込んでは見ていた物を閉じる。朝食を終え、資料室から竹簡を持ち帰ってきた桂花と拓実は、再び桂花の私室に戻って仕事に取り掛かっていた。

 ぽつぽつと確認するように短い会話を挟んでいるもののそれらは全て仕事に関するものであったし、作業に没頭している桂花を邪魔をする訳にはいかないために拓実から彼女に声をかけることは(はばか)られた。拓実はまだ文を満足に読むことが出来ないため合間合間に文字を覚えながら、桂花が閉じた竹簡をまとめて執務室へと返していくことしか出来ずにいた。

 

「……拓実」

 

 二人で腕一杯に抱えて運んできた竹簡が残る三つを残すところで、今まで業務内容以外では口を開かずに黙々と作業を進めていた桂花が拓実の名を呼んだ。

 拓実が開いた竹簡から目を離して顔を上げると、そわそわと茶の色をした髪の毛先を指先で弄り、視線を逸らしながらも拓実に向き直った桂花の姿があった。緊張しているのか、肩は強張っていてその挙動は落ち着きがない。だが、その声には真摯な響きが聞き取れた。

 

「な、なによ?」

 

 これまでの桂花の態度に関係することなのだろう。今までのような事務的に話していた時とは佇まいが違う。そうまでして問い掛ける質問は何なのかと拓実は身構えるが――

 

「あ、その……。そう! あんた、何を考えて生きているわけ?」

「はぁ? それ、どういう意味よ。わざわざ呼びかけておいて、私に喧嘩売ってるの?」

 

 あまりにあんまりな言葉に意表をつかれて、拓実は桂花がするように言葉を返してしまった。

 違う。拓実がすべき対応はやんわりと受け答えて、何故こんな態度をとられているのかを言葉の端からでも探ることであった。確かに桂花の言い振りも酷いものではあったが、こんな応答の仕方では桂花は反発し、隠している本心を更に遠ざけてしまう。

 

「っな、なんでもないわよっ!」

 

 案の定、桂花は顔を歪めて残りの竹簡へと取り掛かってしまった。既にこちらに向けられていた体は完全に机へと向けられて、努めて拓実を意識から除外するように手元の竹簡を睨みつけている。こうなっては拓実が何を言おうと、桂花はまともな返答を返さないだろう。

 

「……はぁ」

 

 いつの間にか彼女に向かって伸ばしかけていた手を静かに下ろす。拓実はどうしていいかもわからず、迂闊な己に閉口した。

 その後まもなくして収支簿を確認する作業は終わりを迎え、各部署へ指示を出しに足を運ぶことになった。

 

 

 最初に向かった兵糧担当への指示を終わらせ、次へ向かうべく二人は退室したのだが、拓実はその場に立ち尽くして桂花を見ていた。拓実がついてきていないことに気づいた桂花が胡乱気に振り返る。

 

「何してるのよ。さっさと次行くわよ」

「あ、そう……ね」

 

 気に入っていない返事が返ってきて、さっさと歩き出そうと踵を返しかけた桂花はその足を止める。むっと表情を険しくさせていたが、拓実を見るや彼女は含むところがあるものの笑顔を浮かべた。

 

「ああ、もしかして私のやり方に何か不備でも見つけたのかしら? 言いたいことがあるなら言ったらどう? ま、私の仕事に不備なんてある訳がないのだけど」

 

 ふん、と意地の悪そうな笑みを浮かべた桂花は、まるで挑発するように声をあげた。次いで、自身よりも少し背の低い拓実を横目で見やる。しかしそれでも変わらずに、呆然としたまま見つめてくる拓実に相対し、思わずといったようにたじろいだ様子を見せた。

 

「何よ、何か言ったらどうなの?」

「いえ、桂花の手腕に感心してただけ。あんたってすごかったのね。今までみくびってたわ」

「は……? はぁ!? えと、あんたいきなり……その、何なの? そう、いつもの減らず口はどこへやったのよ!?」

 

 感嘆の声を上げる拓実に、桂花は目を見開いて、慌てた様子で声を荒げる。いきなりの賛辞の言葉に対応できなかったか、恥ずかしさから顔を赤く染めている。

 

 しかし、紛れもなくこれは拓実の本心である。桂花は優秀だった。事前に確認していた収支簿から業務上での無駄や、不正の痕跡を探し当てていたようだ。さらには内政官全員の仕事内容を把握しているのだろう。従来よりも効率のよい方法を指摘しては、それによって浮いた資金を予算から削っていく。竹簡に書き込んでいた内容を知らされていなかった拓実は、初めて彼女が何をしていたのかを知ったのだ。

 

「別にどうもしないわ。華琳様の軍師を名乗るだけのことはある、と納得しただけよ」

 

 つい今しがたまで二人が訪れていた兵糧担当の文官が詰めている執務室では、数十人の文官が業務をこなしていた。

 そこの指揮を執っている文官を相手に、桂花は理路整然と問題点を指摘して是正を求めた。相手は無理があるといくつか反論するも、結果的にはその利を理解させられ、首を縦に振らざるを得なくなった。

 相手の文官が男だったので少々どころではなく口が悪かったが、そんな桂花の姿は拓実の目には紛れもない稀代の賢者として映っていた。

 加えて、事前に内政面では重用していると華琳から聞いていたが、実際に目にして自身が勘違いしていたことを知った。軍師として登用されてからそう経っていないと聞いていたので、てっきり一部署を担っている位のものかと思っていたが、桂花は内務関係全てを総括しているらしい。いくら成果主義のこの陣営といえどもこの抜擢は異例に過ぎる。そう華琳にさせただけの能力を桂花が所持していることを思い知らされ、改めて評価し直していたのだった。

 

「華琳様の軍師であるこの私の有能さがようやく理解できたのね。……まったく、今まで私のことをどんな目で見ていたのやら。とんだ節穴ね」

 

 いくらか落ち着いたらしい桂花は、しかしまだその名残が残っていて頬が赤い。そして何が引き金になったのやら、先ほどまでとは違い口数が増えている。

 

「まぁ、いいわ。ほら、次へ行くわよ」

「わかったわよ」

 

 そうして二人は歩き出したのだが、朝から感じていた精神的な重圧がいくらか軽減されて、拓実の足取りは軽い。こころなしか、桂花に渡されて持ち運んでいる竹簡の束もそう重く感じない。

 

「拓実」

 

 肩越しに後ろを見やった桂花が、目線で拓実を促した。声色と仕草からそれを察した拓実は、小走りで桂花の横に並ぶ。そのはずみで手元からこぼれそうになった竹簡の束を、改めて胸元へ抱え直した。

 

「華琳様に言いつけられているから仕方なく聞いておくけれど、今の政務室で何か気にかかることはあった? 思いついたことがあったなら言ってみなさい。早々無いとは思うけど、もしも役に立ちそうなら私が手直しして草案を纏めてもいいわ」

 

 言われ、執務室の光景を思い出す。机の数と文官の数、間取り、どこに何がおいてあるのかが拓実の脳裏に鮮明に思い出される。

 華琳のことだから報告時に何かしらの発見を求めてくるのは予想できている。桂花と男性文官との論戦を聞きながらも、拓実は周囲を観察していたのだった。

 

「そうね。気にかかった事といえば、この国では紙は日常的に使うようなものなの?」

「はぁ? そんなわけないじゃない。以前からあった製法が改良されたばかりで、未だ高級品よ。普段使うなら、あんたが今抱えている竹簡がほとんどね。農民連中なんかは木片とかで代用しているようだけど」

「やっぱりね。さっきの政務室、張り紙やらで結構紙を多用してたわよ。あんたは担当者との論戦に夢中になってたんだろうけど、無駄遣い、控えさせた方がいいんじゃないの?」

 

 聞いた桂花はきょとんとした様子で目を何度か瞬かせる。遅れて拓実の言うその意味を理解したのか、眉を寄せて不快を(あらわ)にした。

 

「何ですって! 節制するようにって内々で伝えておいたのに、やっぱり男だから言われたことをすぐ忘れるのかしら! それとも私が新参者だからって舐めてかかっているか……どっちにせよ、あの男、図体と態度ばかり大きいだけで役に立ちはしないのだから。いっそ生まれてきたことを後悔させてあげましょうか」

「大男、総身に知恵が回りかね、ってやつね」

 

 何やらぶつぶつと文句を連ねている桂花を見て、拓実は思わず小さな声でこんなことわざを拓実はつぶやいていた。それを聞き取ったか、感心したように桂花が口元を緩める。

 

「へぇ。語感がいいわね、それ。男を名指しっていうのが素晴らしいし、春蘭みたいな大女に変えても使えそうだわ。それはともかく、紙の節約については私も前々から文官連中に伝えていたことだから、今夜の報告で華琳様に改めて建言するのもいいんじゃない?」

 

 ぽんぽんと言葉を応酬させていくうちに、桂花の態度は昨日までのと変わらなくなっていた。気負いなく、それこそどちらが憎まれ口を叩いても会話は問題なく続く。桂花の気質から、彼女の話し相手になりうる人間が珍しいのも手伝っているのかもしれない。

 

「ま、新参のあなたが気がつくならやっぱりそれぐらいのものでしょうしね。警戒していた私が馬鹿みたいだわ。それはともかく、ついでだから次の部署の是正内容の話もしておくけど――」

「ああ、ちょっと待って。もう一つあるわよ」

「もう一つ?」

 

 そうして拓実が桂花に伝えてみたのは、執務室で見つけた木炭や灯火用の油について――支給される物資の管理制度だ。先に疑問となるところを桂花に聞いてから、拓実は自身の考えを桂花へと話していく。

 まだそれほど寒さを感じるでもないのに木炭は隅へ積み上げられていて、灯火用の油は壺に充分な量が常備されてあった。その一角が拓実は気にかかっていた。

 拓実に考えられる節約術は、せいぜい現代日本に照らし合わせることだ。電灯を消し忘れない、エアコンは外出時には消す、洗い物では水を出しっぱなしにせず後で纏めてすすぐ。会社ならば紙面の印刷物を減らしたりして経費削減するというところだろうか。

 電気、水、ガスの代わりになるものとなると、ここだと灯火用の油であり、川や井戸から汲んでくる水であり、火鉢や香炉などに入れて暖を取る木炭となる。

 つまりは必要な物を、必要な時、必要な分だけ。どれも誰もがやっていることだろうが、現代日本でも通用するならきっとどこでも通用するだろうという単純なものだ。

 

 どうやらここでも例に漏れず、物資に関して切り詰める余地が残っているようであった。しかしここまで大きな組織となると、桂花がぼやいていたように節制を下部末端まで行き渡らせるのは難しい。

 そこで拓実が考えたのは、逆に充分な量を与えないというものであり、追加物資受け取りの際の記名制である。

 

 

 しかしこの案を話し始めてから、また桂花の様子におかしなものが混ざる。物資支給について訊ねられれば、根気良く、それこそ予算の分配や買い付け先の単価利益に至るまでを懇切丁寧に拓実に説明してみせた。立案に際しての疑問を解消した拓実が自身の草案を語れば、桂花は興味深いというように聞きに徹してくれていた。

 しかし、出来の悪い弟妹の面倒をみるかのようにしていた桂花は、拓実が話すにつれてどんどんと顔つきを険しくさせていく。そうして、物資使用量と仕事量の対比について把握する利点にまで拓実の話が及ぶと、ついに桂花は相槌を返すことなく鋭く拓実を見つめるようになっていた。

 

 拓実がそれらの説明を終えると、桂花は顔を険しくさせたまま拓実の草案へ疑問を投げかけていく。想定していないようなものばかりだったが、それらになんとか返答すると、訊くべきところを訊き終えた桂花は通路の真ん中で足を止めて黙り込んだ。

 突っ立ったままの桂花は幾許かしてから拓実へと顔を向け、とつとつと想定できる問題点に対しての解決策を語り、最後に華琳ならば採用するだろうから下準備は自身の方でやっておく、と言って話を打ち切った。

 

 

 

「桂花が本格的に私と顔を合わせなくなり、仕事の件以外の会話が途切れてしまうようになったのはその後からでしょうか。付け加えると、その後の仕事には特筆すべき出来事もなく、桂花の態度に変化はありませんでした」

 

 話し終えた拓実は胸の奥から深く息を吐き出した。こうして一から語った拓実には、それでもやはり自身に落ち度があったように思えない。

 だが、途中で桂花の対応が変化していたことを考えると、少なくとも自身が原因の一端を担っているのだろうことは間違いないようである。だというのにそれがわからないでいるというのは、何とももどかしい。

 

「そう、なるほどね。秋蘭、貴女は桂花のその行動、理解できるかしら?」

「……いえ。私が聞く限りでは拓実の行動に非は見当たりません。むしろよく働いているように思えます。どうにも桂花の異常は拓実が原因ではないように思いますが、しかし華琳様にはおわかりになるのですか?」

 

 第三者の意見を聞けば何かわかるかもしれない、と期待していた拓実だったが、その秋蘭の言葉に肩を落とす。

 こうなっては多少強引にでも本人に聞き出す他ないか、と体中を包んだ諦観は、次に聞こえた華琳の言葉によって吹き飛ぶことになった。

 

「ふふ、わからない筈がないでしょう。といっても共感できるのは現時点で私と桂花、今後を含めれば季衣ぐらいのものでしょうけどね」

「華琳様! それではその、桂花の様子に心当たりがあるのでしょうか?」

 

 まさかの言葉を聞き、拓実は目を見開いて無意識に身を乗り出していた。

 桂花の様子については、拓実にとっては近年のうちで一番といっていいほどの難題であった。その解決の糸口となれば放ってはおけない。その心根を理解しているつもりであったが今日の彼女の意味深な態度はまったく理解できず、桂花に対する人物評までもしや間違いではないかと内心は不安で揺らぎ始めていたのだ。

 

「もちろん。間違いなく原因はあなたよ、拓実」

「私、ですか?」

「ええ。当たり前でしょう。他に桂花がおかしくなる理由なんて存在していないわよ」

「確かに状況的に私以外には考えにくいことではありますが……わかりかねます。いったい私は彼女に何をしたのでしょうか。私はただ華琳様のお役に立つべく、非才の身ながらにお仕えさせていただいているだけですが」

 

 うなだれながら声に出す拓実を見てか、華琳は小さく笑声をあげた。そんな笑えるような簡単な問題なのだろうか。拓実は不安げに視線を華琳へと向ける。

 

「そうね。あなたに非はない。よくやっているわ。むしろ、内政業務に携わるのが初めてという割には出来すぎていると言っていいぐらいね。桂花の様子がおかしいのも、荀攸としてのあなたが内政官として桂花の想定以上だったからでしょう」

「申し訳ありません……どうにも華琳様が仰る意味が」

「わからない? つまり桂花は自分の立ち位置が脅かされているような強迫観念に襲われているのよ。拓実にはそんな気がないことは彼女も理解できているし、本来の役職を考えると拓実が軍師の立場に専属で収まることはない。だけど、桂花の姿で桂花にない発想から策を生み出すあなたを前にして、焦燥感が湧き上がってくるのを抑えられないのでしょう」

 

 華琳にしても胸につかえていたものが取れたのか、その表情は明るい。酒で口内を湿らせると、言葉を続けた。

 

「私にも演技する拓実を見て、そういった懸念を覚えたことがあるわ。雰囲気、仕草、口調、容姿、思考までを模倣する拓実が、それに準ずる技能を身につければと考えると空恐ろしくなることもね」

「横からの発言をお許しください。それにしては、華琳様がそういった素振りを我らに見せたことはないように思いますが」

 

 拓実も疑問に感じていたことを、秋蘭が声に出していた。桂花と同じ思いを感じていたという割に、華琳が拓実に対して隔意を持った様子を、周囲の誰も感じたことはなかったようだ。もちろん拓実本人にもそんな覚えはない。

 

「当然よ。そんな事を思っていたのは拓実の人となりを知るまでの僅かの間なのだから。あなたがどう大成していこうと、曹孟徳個人の目指すところとは直接の関わりはないわ。追いつかれるのが嫌だというならば、届かぬところまで上り詰めればいいだけでしょう」

「か、華琳様…………この拓実めは感服いたしましたっ」

 

 胸を張ってそう言い放った華琳。涼やかに拓実を見、笑みを浮かべる姿には一分の隙もなく、拓実にはどこか芸術品を見ているような感慨すらあった。丸一日考えても解き明かせなかった桂花の行動理由を言い当てたことも手伝って、華琳の背後には後光が差しているようにさえ見えている。

 

「その、華琳様。ならば、私が桂花に対してすべきことはありましょうか? いまいち桂花が感じているものを私が理解できていないために、解決策も浮かばぬ有様なのですが」

 

 言って、拓実はすがるようにして華琳を見上げた。最早拓実が頼れそうなのは華琳のみだ。幸いにして、華琳は桂花が今抱えている問題を乗り越えている。間違いなく有用な助言をもらえるだろうと、華琳を見つめる拓実の瞳には自然と熱がこもっていた。

 しかし、その拓実の期待を感じ取っただろう華琳は何故か首を振ってみせる。

 

「いいわよ、放って置けば。拓実も気にせず普段どおりに過ごせばいいわ」

 

 そんな投げやりな言葉に、拓実はまたも肩を落とすことになった。意気消沈した拓実を前に、仕方ないという風に華琳は言葉をつなげる。

 

「あのね、私は何も無為にしろと言っているわけではないわ。あくまで今回のことは桂花の内面の変化によるものなのだから、ここで拓実が何かしようものならその結果によっては桂花は頑なになりかねないのよ。桂花が自身を見つめ直さない限り、解決することはないことなの。桂花だって馬鹿じゃないんだから、一日二日もすれば自身の中で折り合いをつけるでしょう」

「はぁ……」

「ともかくこの話はおしまい。ここで私たちが話していてもしようのないことだもの」

 

 そう言って締めくくり、華琳はやおら隣の秋蘭へと視線を向ける。「もう亥の刻(22時)です」と返されたのを拓実も横で聞いて、そんな長時間にわたって話していたのかと驚いた。

 

「なんだかんだと話し込んでいたらだいぶ遅くなってしまったみたいね。今日聞く予定だったあなたの腹案、悪いけど明日にして頂戴。ああ、ついでという訳ではないけど、その時にはあなたの生国についても聞かせてもらうからそのつもりでいなさい」

「わ、私の生国についてですか?」

「何? 何か都合でも悪いのかしら?」

「いえ、そのようなことは!」

 

 若干の苛立ちを含んだ声を受け、拓実は平伏していた。半ば反射的に了承の言葉を返しながら、下げられた顔には焦りが浮かんでいる。

 華琳の機嫌を損ねてしまったから頭を下げたわけではなく、そんな自身の表情を華琳に向けないためである。

 

 実際、都合が悪いどころの話ではなかった。拓実が唯一、華琳たちに隠しているのが出自のことだ。もちろん真実を話していないのも何かしらの意図があってのことではない。拓実本人ですら信じることができない自身の立場であるが故に安易に打ち明けることが出来ず、いつしかその機会をなくしていたのだった。

 元はといえば状況がわからないために無闇に目立つべきではないと考えて自身について詳しく語ることをしなかったのだが、華琳や自分の為に力を尽くしてくれるみんなに対して嘘をつき続ける必要はあるのだろうか。僅かな間にそんなことが拓実の脳裏をよぎっていく。

 

「さて、それはそうと拓実。この前は断ったけど、今夜はどうするのかしら?」

 

 いきなり話題と華琳の声の調子が変わったことで、拓実は顔を上げた。椅子に座ってこちらを見下ろしていた華琳は立ち上がり、呆然と見る拓実へと近づいていく。

 

「……あの。今夜は、とは?」

「この私の寝室にこんな時間までいるのだから、察しなさい。それとも、はっきり言わなければわからないのかしら?」

 

 言いながらも拓実の目前まで歩み寄った華琳は、自身と同じ金色の拓実の髪を手で(もてあそ)ぶ。時折頬に触れる華琳の手は酔っているからか暖かく感じていたのだが、すぐにそんな些細な温度差はわからなくなった。

 その発言の意味に思い至るや拓実の顔面には血が上って、頭の中は真っ白になってしまう。桂花の役を全うしているならば一も二もなく華琳に身体を預けていただろうが、初心な拓実ではそこまで演じることが出来ない。

 

「え!? あっ、いえ、私は、そんな……」

 

 恥ずかしさから両手を所在なさ気に右往左往させるのだが、髪を(くしけず)る華琳の手を無碍に払うことも出来ずに為すがままになってしまう。

 意味を成さない言葉の羅列と、桂花と同じ容姿にしてはあまりに珍妙な対応に、華琳は耐えられないといった様子で肩を震わせる。

 

「ふ、ふふ。やはり面白いわね、拓実は。安心なさい、ただの戯れよ。……ああ、でも、このまま無理矢理っていうのもそそるわね」

 

 その言葉に拓実は目を見開き、身体を強張らせた。

 

「そんな! 相手から来るまで待つだけの器量を持ち合わせていると、華琳様は仰られていたでは……」

「何事にも例外というものは存在するものよ。それに、その相手から誘われているのに手を出さないのは逆に失礼じゃない?」

「一度もお誘いした覚えはありません!」

 

 羞恥で叫ぶ拓実の顔は耳まで真っ赤である。混乱からの興奮で瞳も潤んでいる。拓実のその様子に華琳はまた食指を動かされたらしく、その目に情欲の光を灯らせ始めた。口はこれでもかというほど弧を描いて吊り上っている。まるで肉食獣を前にするような恐怖を覚えた拓実は、ふるふると身体を震わせた。

 

「ああ、ほら。言った側からこれでは、襲ってしまったとしても私は罪に問われないと思わない? 貴女はどう思う、秋蘭?」

「……私は桂花と同じ容姿とは思えないほどに庇護欲をそそられていたのですが。そう言われてみれば、どこからともなく嗜虐心がふつふつと」

「し、失礼致しますっ! それでは、また明日の夜にご報告に伺わせて頂きますので!」

 

 どうやら周囲は肉食獣だらけらしい。そう悟った拓実は目を瞑り、喚くようにして言い放って足早に華琳の私室を辞する。

 最低限の礼儀として華琳に背を向けぬよう後ろ歩きに部屋を出ていくのだが、慌てすぎたのか入り口の段差に躓いて、後ろにコロンと転がってガツンと後頭部を床に打ち付けた。

 

「ぁっ……つ……!」

 

 のみならず、転がった拍子にその猫耳のついたフードを目深に被ることになってしまい、前が見えないまま立ち上がった所為で更に蹴っ躓き、体の前面を廊下へ叩きつける破目になった。びたんと、とてもいい音が暗くなった廊下に響く。

 

「……っ! ……! …………!」

 

 踏んだり蹴ったりの拓実は声にならない悲鳴を上げて悶えた後、よろよろと足取り定まらない様子で廊下の奥へと消えていく。

 たまらないのは拓実本人であるが、痛みで扉を閉め忘れたためにその一部始終は余すところなく華琳と秋蘭が目撃する事となり、二人は仲良く過呼吸へ陥る事となった。

 

 



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15.『拓実、占い師に見止められるのこと』

 

 華琳の私室から拓実が逃げ帰っての翌日。荒野に倒れている日から数えての五日目は、雲が空を覆っていて薄暗く、地面が軽く湿る程度の小雨模様であった。陳留の街も晴れて乾燥した日ならば黄砂が舞って(もや)がかるが、今日はすっきりと見える。

 

 身だしなみを整えた拓実は桂花と合流して本日の仕事内容の再確認をした後、昨日よりもいくらか薄暗い執務室にて帳簿の記録を(さら)っていた。そうして朝食前までに買い付け先の商人との売買記録をまとめ、食後には実際に商店へと赴いて実状を確かめると場合によっては桂花がそのまま交渉に移る。

 それをこなしている間、華琳より業務に口出しを許されている拓実はといえば特に発見もないままに荷物を持ってついて回るだけであった。物資買い付けで使えるような現代知識なんて拓実は持っていなかったし、そもそも物価を正確に把握しているかどうかからして怪しい。昨日に続いて桂花の仕事に非の打ち所がなかったというのも大きかった。

 ただ何も出来なかったからといって何も得るものがなかったという訳ではない。実際に商店に訪れ話を聞けたのは、拓実にとっていい勉強になった。また、双方に利をもたらせるように考えられた桂花の交渉を目にしたのだって得がたい経験だろう。

 そんなこんなで、あちらこちらへと足を運んでいるうちにあっという間に時間は過ぎ、桂花がその日に任されていた仕事は終わったのだった。

 

 昨日は不審な様子を見せていた桂花はというと、まだ拓実に対して戸惑っている部分はあったがその態度は軟化しつつあった。華琳に言われていたように拓実は対応を変えず、努めていつもどおりに振舞っていた甲斐あって、夜に華琳の元へと報告に向かう頃には会話もだいぶ元通りになっている。

 先日とは違って互いに意見を述べながら報告する姿に華琳も眉を開いて明るい顔を見せた。放っておくようにと言いながらも気に掛けてくれていたようだけれど、しかし僅かに見せたその小さなサインはすぐに平静な表情の下に塗り固められてしまう。

 半ば人間観察が癖になっている拓実に華琳のその振る舞いには思い当たるものがあった。自身の喜怒哀楽の感情を読ませないことで場の空気をコントロールする、権力者の表情の作り方である。対面するだけで相手を威圧し、場を自身のペースに巻き込む。当然、油断ならない奴と警戒を招くことになるが、人の上に立つ要職にある者なればそれが正しく利に転じるのだ。

 ただ他陣営の者が相手ならいざ知らず、配下の前ではそういったものを表に出してくれた方が親しみを覚えるだろうに、華琳は感情を表に出すことを好まないようである。大笑いしている華琳を見て嬉しそうにしていた春蘭の姿は拓実の記憶に新しく、そして華琳がその振る舞いを失態だったとして反省していたのも拓実はしっかりと覚えている。華琳は、他人に弱味を見せたがらない。おそらくはいつでも冷静に、完璧な主君であろうとしてのことなのだろう。

 

 ともかく昨日のこともあって戦々恐々としていた拓実だったが、その思惑は外れた。結果として夕暮れまでに仕事を終わらせて、華琳への報告もまた大事無く一日を終えることになった。そうして大事にいたらなかったことには、昨夜に華琳に予告されていた拓実の生国に対する問答も含まれている。

 生国である日本についての話を華琳にするに当たって、拓実は一日使って考えた末に、話せる範囲で自身の境遇を話すことを決めていた。今後のことを考えると無理に隠しているよりよっぽど無用な混乱を避けられるだろうと思ったからだ。華琳も拓実の運用に関して語っていないことがあるのだろうが、だからといって拓実まで情報を出し渋る理由はない。流石に『未来から来た』なんて拓実自身が言われても信じられないような突拍子のないことは伏せたが、今まで話すことができなかったいくつかを華琳と桂花へ打ち明けた。

 自宅にいた筈なのに起きたら自身が見知らぬ荒野に倒れていたこと。それ故に自国の位置も帰国する手段もがわからないこと。状況がわからなかったために旅をしていると偽って様子を探っていたことなど……。

 何故か納得した風である桂花と不機嫌を隠そうともしない華琳に、今まで打ち明けなかったことに対してのいくつかの小言をもらったが、人攫いなど不慮の出来事に遭ったとでも(おもんばか)ったのか深く尋ねられたりはしなかった。

 

 帰り方もわからないという拓実に憐憫の情を覚えたか、それともまた何か別の意図があるのか。華琳が位置を突き止めて然るべき対応をしてくれるとのことなのだが、この時代に自国が存在していないと言える筈もない拓実は、華琳、桂花の二人と日本についていくつかの問答をすることになる。

 そうして、気候、特産物、国の規模、兵の錬度、政治形態、民の生活水準、主食、その歴史など、様々なことを問い質された。オーバーテクノロジーに当たりそうな事は極力避けて話したが、それでも文明進歩の違いが大きすぎたのか訝しげに見られ、僅かな情報から二人に危ういところまで推察されそうになった。

 四季がある島国というだけで似たような地域を例に出しておおまかな位置を計測し始める桂花に、話しているときの拓実の態度を指摘し、矛盾点を突きつける華琳。しかし世界地図が存在していない三国時代では桂花もはっきりと特定も出来ずにうやむやとなり、必死の弁解が功を奏したか不承不承ながらも華琳は言葉を収めることとなった。

 

 この問答は拓実に酷い疲労をもたらしたが、それも仕方ないことだと考えている。未来から来た他国の人間で、あなたたちの生涯は歴史に記されているなどと話したことを想定しても、いい結果は想像できない。

 理解してくれた場合を仮定しても、おそらく華琳のことだから自分の行く末について尋ねてきたりはしないだろう。きっと自身の力と築いてきた人脈を用いて未来を作り上げていくはずだ。彼女にはそれだけの力があるのだから、安易に確定してもいない未来に頼って今後の指標を決めていくとは思えない。

 しかし華琳がそういった意志を持っていても、逆境に陥れば未来の知識を当てにする人間が他に出てくるだろう。華琳本人にしたって人間なのだから魔が差すこともあるかもしれない。きっとその所為で、彼女たちの中に小さな迷いを生むことになる。言われたとおりに従うなんて考えは、覇道を目指し、邁進するこの陣営にとってはあまりに意志薄弱に過ぎるものだ。

 また、『未来の知識』があるが故に変な先入観が生まれることもあるだろう。拓実の献策や発言に、相手の中で『それが歴史として正しいのではないか』といったような妙な補正がかかってしまうかもしれない。以前に三国志を読んだことがあるといっても、拓実は全てを記憶しているわけではない。むしろ、抜けている部分の方が多いかもしれない。加えて三国志も諸説あり、読んだものが正しい歴史になるという保障もなかった。

 ならば拓実が選んで発言をするだけに留めて、事前情報無しに華琳や桂花に判断してもらった方がずっと理に適ったやり方といえるだろう。そう考えれば拓実が『未来人である』という情報は余計なものでしかない。

 ただでさえ容姿と演技力の所為で、初対面の人間に理解してもらえない状況にある。影武者という立場柄、さらに胡散臭い要素を付加させたらどうなるものかわかったものではなかった。

 拓実はあるがまま全てを話してしまうことに対して、自身がどうなるかといった躊躇いはない。ただ、これ以上自分のせいで規律や人間関係を複雑にしてしまうようなことを避けたかったのだった。

 

 

 

 

 さらに明けて、刻は正午を回ったころ。春蘭、桂花、拓実の三人は城の中庭に集まっていた。

 拓実は手持ち無沙汰に空を仰ぎ見ていた。雨こそ降っていないが昨日に引き続いて雲が掛かっていて、風は凪いでいる。先日の雨があってか空気は澄んでいて、どうやら黄砂の心配はなさそうだ。地面は湿っているものの、水溜りもなくぬかるむほどでもない。

 

 拓実たち三人がぼんやりと立ち尽くしているのにも理由がある。昨日をもってようやく刺史から州牧への全ての業務引継ぎを終えたということで、この日、華琳たちは主だった将兵を連れて街の視察に出ることが決まった。そうして集合場所として午後に中庭が指定されているのだが、肝心の華琳はまだ現れないでいたのだった。

 

「春蘭、華琳様はどうなさったの?」

 

 口をついて出た拓実の言葉に、屹然と立っていた春蘭が振り向いた。

 

「うむ。昼餉を召し上がられたのだが、どうにも御髪(おぐし)が決まらないらしい。今、秋蘭も整えるのを手伝っている」

「そう。ご苦労なさってそうだものね、私と違って」

 

 華琳の影武者として同じ髪型の拓実だって、ウィッグを取り付けるだけでセットに特にこれといった苦労はしていない。男子にしては髪の編み込みなどの不必要な技能を持ってはいるが、流石にヘアアイロンも満足にないこの時代で華琳の髪型を一から再現するのは不可能だ。

 

「州牧となって視察に向かわれるのは今日が初めてだからな。華琳さまも気をつかっておられるのだろう」

 

 主が昇進したことに笑顔を見せる春蘭を目にして、隣に佇んでいた桂花も同意するように頷いた。納得したように拓実も相槌を返したが、刺史であった頃を知らず、州牧としての華琳しか知らない拓実にはいまいち実感の湧かない話ではある。

 

「ま、私の伝手が華琳様のお役に立ったのなら、あの驕慢な袁紹の元で苦難に耐え忍んだ理由があったというものだわ」

「そんなことをせずとも華琳さまであれば遠からず州牧に任ぜられたとは思うがな。しかし、こうも早く任命されたのならば、お前の手回しも無駄ではなかったということか」

「当たり前でしょう。むしろ今までの実績を考えたなら、遅すぎたくらいよ。華琳様に相応しい役職を賜れるよう用意させていただくのも私の仕事なのだから、手抜かりはないわ」

 

 珍しく桂花に感心した様子を見せる春蘭を相手に、桂花もふん、と鼻を鳴らして笑みを浮かべてみせた。

 事情がわからないので拓実は聞きに徹していたが、華琳の昇進には桂花の人脈を利用したようである。今回の手回しというのは桂花は以前に袁紹の元で働いていた時に得た伝手を用いたものらしい。当たり前の話だが、桂花と以前の主であった袁紹とは面識があるのだろう。

 

 袁紹は名門袁家の出身であり、群雄割拠する三国志においても列強のひとつに数えられる勢力である。また、何かと曹操と関わりを持つ人物であるとも伝えられている。現在の情勢がどうなっているのか拓実にはわからないが、袁紹が存命の時期であるなら友軍としてか敵軍としてかはわからないが、戦場を同じくする可能性が非常に高い。そのようなことになった際に、同じ格好をしている荀攸として出るのは不都合が生じるに違いない。

 今後の憂いとなりうることなので、拓実は会話を聞きながらも忘れぬようにしっかと脳裏に刻んでおく。

 

「そうね。中央との繋がりを持つ者は我が陣営にはいなかったから、そういった意味でも桂花の存在は助かっているわ。とにかく今私たちが必要としているのは力なのだから」

 

 拓実が二人の様子を眺めながら思案していたその時、桂花の背後から声が掛かる。三人はその声の主がいるであろう方向へと一斉に振り向いた。

 

「華琳さま!」

 

 その相手を視認した春蘭が、ぱぁっ、と顔を明るくさせる。急ぎ振り向いた桂花の表情も似たようなものだろう。そりの合わない二人がそんな反応をする相手なんて一人しかいない。桂花の背後から顔を見せたのは、やはり華琳であった。彼女の斜め後ろには付き従う秋蘭の姿もある。

 そして春蘭に華琳の素晴らしさを説かれ、桂花の心情に同調する拓実もまた満面の笑みを浮かべていた。

 

「待たせたわね。雨でも降るのかしら、どうにも髪の纏まりが悪いわ」

 

 空を仰いで、くるくると上下に揺れている自身の髪に触れる。拓実の目から見ても、いつもの髪型と違いは見られない。だが当の華琳は不満気に顔をしかめていた。

 

「まぁ、いいでしょう。ともかく、これでようやく季衣との約束を果たすことが出来たわね」

「約束、ですか?」

 

 初めて聞く事柄に、拓実はつい鸚鵡(おうむ)返しに聞き返してしまう。

 

「ああ、拓実は季衣や桂花が私の下で働くことになった経緯を知らなかったのよね。あの子を迎え入れるに当たって、私は季衣とひとつ、約束していたのよ」

「そうだったのですか。一応、桂花については本人から多少聞いてはいますが、詳しいところまでは……」

 

 拓実が華琳に召抱えられるようになった謁見の件は桂花のかねてからの希望によって、仕事の間の一服に拓実の口から伝えられることになった。語り終えた後、お返しという訳でもないが拓実も桂花が軍師として任官された経緯を知りたがったのだが、どういった理由からか簡単にしか語られなかったのだった。

 

「あら、そうなの? まぁ、桂花にしてみれば喜んで話すようなことでもないのだから当然でしょうけれど。今から視察に出るから詳しい説明は省くけれど、季衣は村が盗賊の襲撃に悩むことなく過ごせるように、私がこの地を平定するという条件で傘下に入ったのよ。けれどもあの子の村は陳留から離れていて、刺史として管轄する位置に含まれていなかった。こうして州牧となって直轄する土地が増えて、晴れてあの子の村を保護出来るようになったという訳」

「なるほど、そのような理由があったのですか。個人的には桂花が任官するに至った経緯を話そうとしないことにも興味があるのですが」

「ば、馬鹿っ、視察が控えていてお時間がないと華琳様が仰られているでしょう! それに、別に何にもなかったわよ! あっ、そうです! その季衣はどうしたのですか? 華琳様がお目見えになられたというのに一向に姿が見えませんが」

 

 拓実が視線を向けた先では桂花が焦った様子で話題を変えようとしている。別に無理に聞きだすつもりはなかったが、桂花の様子でその時に何らかの失敗をしていたことを拓実は知ることが出来た。きょろきょろといくらか大げさに見回す桂花に、今まで黙って華琳の側に控えていた秋蘭が口を開く。

 

「先ほど、山賊の根城が見つかったとの知らせを受けてな。季衣は今しがたその討伐に向かったところだ。あれも疲れているだろうから姉者や私が出ると言ったのだが、相手が賊となると私が言ってもどうにも聞かん」

 

 一通りの説明をした秋蘭は、小さく息を吐いて「困ったものだ」と続ける。拓実が見回してみれば、華琳、春蘭や桂花が表に出している感情の大きさに差はあれど、質自体は同じものだった。

 しかし、周囲が感じているものに拓実は共感することが出来ずに様子を眺めている。この中でただ一人、異様に切迫した様子の季衣の姿を見ていないのである。

 

「もう少し周囲を見渡せるだけの余裕を持てれば言うことはないのだけれどね。ともかく、季衣が討伐に向かって参加しないのだから、視察に向かう人間はこれで揃ったわ。桂花、後のことは頼むわよ」

「はい、それは構わないのですが。しかし、華琳様ぁ、何故新参の拓実を連れて、私を置いていくのですかぁ……? どうせ私が残ることになるのなら、せめて拓実を道連れに……じゃなくて、拓実の一刻も早い学習のためにも残していったほうが……」

「桂花を置いていくのは任せられるのがあなたしかいないからよ。拓実を置いていったところで、万一の時に城中を取り仕切ることなどは出来ないでしょう? 加えて、聞けば先日の街案内は時間が足りずに中断したらしいじゃない。いい機会だから、私自ら案内してあげるのも一興だと思わない?」

「それは……確かに、華琳様の仰るとおりですけども……」

 

 城に残るよう言われているのは、唯一危急の事態でも判断を下すことが出来て、尚且つある程度の権限を与えられている桂花であった。

 拓実は内政業務の勉強中でありながら、他にも覚えなければならないことが多い。積み重なって、拓実に結構な重圧を与えているほどだ。その為に何よりも時間が足りない状態に置かれているので、てっきり桂花と一緒に留守居を任されることになると思っていたのだが、華琳は半ば強硬に拓実に同行を命じたのだった。妙に歯切れの悪い返答する桂花は、華琳にしては珍しい非合理性から何らかの思惑を感じているのかもしれない。

 

「ここで問答してても仕方なし、そろそろ出発するわよ」

 

 ぱん、と手を打った華琳はそう言って話を打ち切り、さっさと城門へと向かっていってしまう。慌てて春蘭、秋蘭、拓実は、先を歩いていく華琳に急いで追いすがる。

 

「ああ、拓実。知りたがっているようだから、どうせなら道中にでも桂花が任官した時のことを話して聞かせてあげましょうか?」

「か、華琳様っ!?」

 

 去り際に話を蒸し返され当惑する桂花を置いて、華琳は背中を向けながら小さく手を振った。一行は笑い声を伴いながら、城下街へ向かうのだった。

 

 

 

 数名の護衛と合流した四人は、街へと繋がる城門へ辿り着いた。生憎、良いとはいえない天候だが、それでも先日感じたとおり街には活気が溢れていて 旅人、商人、そして三国時代とは思えない未来的な格好の旅芸人など、外からやってきた人々の姿も多い。

 そんな街の景観やその盛況ぶりについて、いくつかの言葉を交わした後、四人は時間の関係もあり三方へ別れることとなった。賊討伐に向かっているために視察に同行できなかった季衣へ、それぞれがこれはと思う土産を探してやるためである。先日支度金もかねて給与をもらった拓実には、買い物を体験する丁度良い機会でもあった。

 春蘭は街の南側を、秋蘭は北側を、華琳と未だ地理に暗く腕っ節のない拓実が組となって中央を進んでいく。恐らくバレはしないだろうが、拓実は華琳と似通った容姿が悪目立ちしないよう猫耳のフードを深めに被ることにした。

 

 そうして華琳と共に歩いていく中央通りには商店が多く、そこから道幅狭い裏通りへ入って歩くと小さな屋台や料理店が見られる。街の中央部にはこういった食料品を取り扱う店や料理店が固まっているらしく、通りには様々な声が飛び交っていて、道行く人たちは思い思いに言葉を交わしている。

 そんなあまり身を置いたことのない環境に、拓実はどうにも場違いな気分になる。現代日本では薄れている人情味がここにはあるようだ。

 

 華琳直々に街の区画の説明を受けながらのんびりと歩いていた拓実だったが、ふと気を取られ、あるものが目に留まって足を止めた。それに気づいた華琳もまた足を止め、拓実へと振り返る。

 

「あら、どうしたの? 何か気になるところでもあったかしら?」

「あ、いえ、大したことでは。ただ、この街の料理は小麦を使ったものがこうも多いものかと」

 

 言葉を返しながら再び足を進めて華琳の後へ続く。彼女もまた移動を再開させた。

 拓実の鼻をくすぐっていたのは、麺料理や蒸した饅頭、揚げたての春巻きなどの食欲をそそる香りだった。ついつい何となしに店頭に並べられる料理に目が移ってしまっていたのだが、いくつか見ているうちに疑問が湧いていた。

 

「先程から熱心に眺めていると思ったら、そういうこと。拓実の国の主食は米だったわね。全く作らないわけでもないけど、やはりこの地方では麦の方が主流よ。米食を主にするのはもっと南……そうね、江陵や江夏のあたりかしら。水稲にしても陸稲にしても豊富な水源が必要だから、適した地域でもないと安定した供給は難しいわ」

「はい。私の国は気候もそうでしたが、多く川が走っている為に稲作に適した土壌でした」

「ええ。そうでしょうね。後は漁業が活発といっていたかしら」

「周りが海に囲まれておりますので、魚介類を使った郷土料理もたくさんありました」

「そう……機会があれば口にしたいけれど、いくらなんでも海魚までは流通してはいないわね。塩漬けなどに加工してならばともかく、鮮魚はここまで運搬している間に腐ってしまうもの。精々川魚ぐらいだわ」

 

 そうして会話を続けながら、拓実は周囲を見て回る。頭の中は疑問符でいっぱいだった。

 今もそこらで売られている饅頭だが、これは諸葛孔明が南蛮遠征の際に立ち寄った村で、人柱の代わりに作った羊や豚肉を小麦で包んだものが起源であるらしい。当時は川に流していたが、それが後にもったいないからという理由で祭った後に食べるようになったものではなかっただろうか。曹操である華琳がつい先日まで陳留刺史であったことを考えると、今あってはならないものである。その伝承が間違っていた、と一概に言えないだけの疑問はまだ残っていた。

 麺料理……この前のラーメンにしてもそうだが、出汁をとってコクのある味付けし、具を載せるなんて手の込んだ料理を庶民に振舞うというのも考えにくいことだ。今通り過ぎた屋台のラーメンには鳴門巻きまで乗っている。揚げ春巻きも、発祥は比較的近年であるといった記述を見た覚えが拓実にはあった。少なくとも、三国時代ということはなかった筈だ。

 ここにあるのだから仕方ないのはわかっているが、文化祭発表の為に事前に調べていた歴史や食文化と、現在こうして目の当たりにしている現状の差異が、どうにも納得いかない。それについて言及すれば、回り回って女性である華琳たちを否定することになるのではないだろうか。ならばきっと、これについては深く考えてはいけないのだろう。そうやって疑問ばかりを吐き出してくる、妙に常識的な自身の価値観を必死に修正していたのだ。

 

「やはり異国の風土というのは、中々に新鮮なものね。又聞きだろう噂や主観の混じった情報ではどうしても信憑性に欠けてしまう。そういった意味では、有意義な話が聞けたわ」

「報告や書面からではわからないことがあるということでしょうか?」

「そういうこと。だから今日もこうして、実際に足を運んで視察に出てきているのよ。それにしても一国民であるという拓実が、それだけの情報を知り得るだけの基盤が国として出来ているということが驚嘆に値するわ。敢えて情報を共有し、国内中に公開しているということなのだろうけど、どういった経緯でそんな方針が生まれたのか興味が湧くわね」

 

 内心で華琳のその言動にひやりとしながらも、拓実はすました顔で歩みを進める。

 その『日本』の異常を華琳は理解して、しかし拓実が話さないことを見逃している。拓実が帰れないという事情が、様々な意味で真実であると認識しているに違いない。

 華琳のそんな対応に甘えて、拓実はある意味で開き直っていた。きっと下手に隠したところで華琳はそれに気づくだろうし、そんな中途半端な線引きでは拓実だっていずれボロを出す。あまりに決定的なものでなければ話してしまっても構わないだろうと拓実は楽観的に考えていた。

 

「やーやー、そこのおふたりさん。よかったら見てってくれへんー?」

 

 そこで話の流れを断ち切ったのは、横から声をかけてきた少女である。拓実の耳が正しく働いているのならば、関西のイントネーションである。価値観修正に掛かりきりの拓実の脳みそは、その事実を認識するのに多少の時間を要した。

 遅れて驚きと共にそちらへと視線を向けて、拓実はまた驚いた。胸の大きな、快活そうな可愛い少女がござの上に商品を並べて座っていた。髪の毛を頭の横、高いところで二つにまとめていて、華琳や春蘭、秋蘭が好んでつけているような金属製のドクロが髪留めのアクセントになっている。

 問題なのはその格好である。上半身が水着だった。そうじゃないというのならば下着だ。袖が別についているが、とにかく生地面積が圧倒的に小さい。

 

「これは、竹かご?」

 

 そんな格好に面食らったものの、すぐに我に返った拓実はしゃがみこんで並べられた商品を眺め始めた。その端に拓実が異様なものを見つけると、華琳もそれに気づいたのか目線を向ける。

 

「おそらくは出稼ぎに来たかご売りでしょう。けれど……これは何かしら? 見たことがないわね」

 

 あっはっはっ、と明るく笑う少女の前に並べられたかごの脇に、言葉では形容しにくいそれがあった。日本にあったというお茶を運ぶカラクリ人形のその中身というのが近いだろうか。木で出来た枠や金属の軸、同じく木製の歯車やらが組み合って出来ている。

 常識修正済みの拓実はこうして歯車を見ても「あるんじゃしょうがない」程度の感想しか出てこなくなっている。

 

「いやー、よくぞ聞いてくれましたっ! 今まで誰も聞いてくれへんから折角持ってきたのにどーしよーかと思てたんよ。これはうちが作った『全自動かご編み装置』っちゅーカラクリで、なんと、これと材料さえあれば手間も時間もかからず簡単に竹かごが完成する優れモンや!」

 

 右手で胸を叩き、少女は自信を漲らせてその大きな胸を更に張る。周囲では中々見られないその迫力に、拓実は慄いていた。思わず、複雑な表情でその少女を眺めてしまう。

 かなりのプロポーションを誇る我が陣営の先進国である春蘭、秋蘭の姉妹をも確実に上回っている。そして発展途上国である三人の姿が脳裏に浮かんでしまう。目の前の彼女と脳内の三人を並べてみて、あまりの経済格差に憐憫を覚えてしまった。これほどまでに胸部にこだわってしまうのは自身が演じている役柄(けいふぁ)の所為だろうか。拓実はそんな失礼なことまで考える始末である。

 

「拓実、彼女を睨んでもあなたの胸が膨れることはないわよ」

「か、華琳様ぁ!? 私は、別にそんなこと……っ!」

 

 そんな不届きな思考を巡らせていた拓実が、他人からは物欲しそうに見えているのは果たしてどうなのであろうか。華琳は拓実の性別を忘れているのか、それとも拓実が桂花になりきれている故と取るべきなのか、判断が難しいところである。

 

「ん? いやいや、見たところぺったんこやけど、安心しい! これからやで! しっかり栄養とって適度に運動すれば、案外大きくなるもんや」

「ふふ、良かったじゃない。これから大きくなるそうよ」

「大きくなんて、なりませんから!」

「あ、そういや他の人に揉んで貰うっちゅーのも聞いたなぁ」

「ふぅん……」

 

 聞くなり、華琳の表情がなくなった。ただ、じっと拓実の胸部を凝視し始める。ぶわっと拓実の背筋に悪寒が走った。

 

「ちょ、ちょっとあんた! さっさと用件を話しなさいよっ! 私たちはいつまでも話に付き合っていられるほど暇じゃないのよ!」

 

 今この瞬間、明らかに華琳の顔付きが変わろうとしていた。拓実は咄嗟に言い放って話の流れを変え、華琳の変化を止めたが、この選択はおそらくは正解だったろう。危機一髪といえる状況に、拓実の背中の冷や汗は止まらなかった。その顔も少し血の気が引いて青くなっている。

 

「おっと、すっかり忘れとった。それじゃちょっとこの取っ手掴んでや」

「はぁ……これでいいの?」

 

 華琳の顔がつまらなさそうになったのを確認して、拓実は肩を撫で下ろした。半ば呆然としながら少女の言われるままにする。

 

「せやせや。ほんで竹をここにこう、囲むように入れて……っと。これで準備万端や。その取っ手を回したってー」

「んっ……と」

 

 拓実が映写機のハンドルのようなそれをぐりぐりと回し始めると、水着少女が入れた竹板の束が編まれてカラクリの上部から少しずつせり出てくる。結構な力を入れないと回らないぐらいに重たいが、それでも一つ一つ編みこんでいくことを考えればかなり楽になっているといえるだろう。

 

「大したものね。編みこみの粗さも目立たない。側面はいいけれど、底と枠の部分はどうするの?」

「あー、そこは手動になりますー」

「そ、そう……まぁ、手間は省けるんじゃないかしら」

「けど、これのどこが全自動なのよ……結構大変じゃない」

 

 ぐるぐるとハンドルを回す拓実に痛いところを突かれたのか、女性はうっと詰まった様子を大げさにしてから苦笑いして見せた。明るくてひょうきんな性格で、どうにも憎めない人柄である。

 そんな少女を眺めながら、拓実は手元を動かし続けていた。それに気づいたか少女の顔が焦ったものに変わる。

 

「ああっ、あかんて! もう入れてある分の材料、編み終えてるんやで!」

「えっ?」

 

 ぐりぐりとハンドルを回し続けていると、確かにどうやら材料切れらしい。ぼろっとかごの側面だけが装置から吐き出された後、あろうことか拓実の手元にあった装置は弾け飛んだ。

 

「きゃあ!?」

「拓実っ!?」

 

 その勢いで拓実はころんと後ろに体勢を崩して、転げることになる。からくりの枠組みはばらけて飛んで、拓実の倒れている横を木製の歯車が転がっていく。

 

「あっちゃー、やっぱこうなってもうたかー。これ、まだ試作品なんよ。竹のしなりと強度の折り合いがつかんでなぁ。一応改良したの持ってきたんやけど」

「あ、あああ! 危ないじゃない! こんな爆発するような物を置いておくなんて、何考えてるのよ!」

 

 上体を起こした拓実は、きっ、とまなじりを吊り上げて叫んだ。きんきんと響く声に、少女は耳を塞いで笑っている。

 

「ま、客引きになるかなー、思てなんやけど。ん、お客さんら、姉妹なんか? 髪型やら雰囲気やら違うけど顔立ちがそっくりやねぇ」

「は? な、何でそんなこと……? あっ!?」

 

 言われ、立ち上がった拓実はすぐさま身だしなみを整えていく。そうして頭に触れて、触れるはずのものが手に当たらないことに気がついた。転がった拍子に被っていたフードが外れてしまっていたのだった。

 それを知って、拓実は急いでフードを被り直す。ばくばくと心臓が拍動していた。そんな不審な様子の拓実に、かご売りの少女も不思議そうに視線を向けている。動揺を隠せず、つい困って華琳を見てしまう拓実であったが、その華琳はといえば焦る様子もなく笑みを浮かべていた。

 

「違うわ、姉妹ではないわよ。私なんかより、この子のおばの方がよっぽど似ているもの」

「ほー。そらいっぺん見てみたいもんやなー。まぁ、ともかくうちのカラクリ壊してもうたんやから、一個くらい買うてってぇなー」

「ふぅ、まったく仕方ないわね。拓実、買ってあげなさい」

「は、はいっ!」

 

 あっさりと少女の疑念を払い、落ち着いた様子で場を治めた華琳に、拓実は尊敬のこもった視線を送る。そうして言われるまま竹かごを一つ買い取ることになったが、これが拓実の貰った初給与での初めての買い物となったのだった。

 

 

 

 その後は何事もなく、別れて視察に向かっていた秋蘭と春蘭と合流することになった。

 街の視察と季衣へのお土産探しをしていた筈なのに、何故か四人の手には三つの竹かごと大量の服がある。これでは季衣も喜ばないだろうと、急いで中央通りへと戻って持ち帰りできるように包まれた饅頭を購入し、それをかごに入れて帰途につくことになったのだった。

 

「もし、そこの若いの……」

「誰?」

 

 並んで城門へと戻ろうとする四人を引き止める声がかかり、声をかけられたであろう華琳が誰何(すいか)する。視線を向ければ、声を掛けてきたのは道端に座り込んでいる人物らしいが、頭から布を被っている風貌と放たれたしゃがれた声色からは、年齢も、性別すらも分からない。

 

「……占い師か」

 

 拓実は秋蘭の言葉に思わず内心で納得していた。この人物の持っている異様な雰囲気は常人とは明らかに違っている。

 

「華琳さまは占いなどお信じにならん! 慎め!」

「春蘭。控えなさい」

「は? ……はっ」

 

 異様な風体の相手を威嚇するように春蘭が一喝するも、華琳本人に遮られてしまった。一瞬怪訝な表情を浮かべるも春蘭は引き下がる。それを見計らった華琳は、一人その占い師へと近づいていった。

 

「さて、この私に何が見えるのかしら?」

「強い、とても強い力を持つ相じゃ。希にすら見たことの無いほどに……」

「ほう、それで?」

「時代が時代であれば、稀代の名臣となるじゃろう。兵を従え、知を尊び、武を重んじた、国を栄えさせるほどの、治世の能臣と。……しかし、今はそのような時代ではない。お主を臣下とするだけの力が、今この国にはない……」

 

 声が続けられる度に、華琳の笑みは深められていく。それは称えられてのことではない。純粋に何を言われるものかと面白がっている様子だ。

 

「では、この時節であるならば、私は何になるというのかしら?」

「野心のままに……国を犯し、野を侵し、歴史に名を刻むことになろう。そう、類い希なる、乱世の奸雄として」

 

 占い師の言葉に一拍、空気が凍りついた。誰もがその言葉をすぐさまに理解することが出来なかったのだった。

 

「貴様ッ!」

「秋蘭!」

「で、ですがっ!」

 

 乱世の奸雄。手段を選ばずに、ひたすら上を目指す小賢しき者。乱れた世に、策謀と力を示す者。

 そうまで主君を貶されれば、華琳を敬愛している秋蘭が黙っていることなどはできないのだろう。珍しく、華琳の制止の言を投げかけられて尚、異を唱えている。

 

「乱世の奸雄、ね……。ふふっ、結構なことじゃない。気に入ったわ。秋蘭、この者に謝礼を」

「し、しかし」

 

 プライドの高い華琳であれば本来激怒するところである。その性格を知るからこそ、命令された秋蘭は動けない。貶した相手に謝礼を施せという華琳の意図が掴めず、二の足を踏んでいる。笑みを浮かべていた華琳は表情を一転し、秋蘭から目線を切って拓実へと移した。

 

「拓実、この占い師に幾ばくかの礼を」

「はっ」

 

 秋蘭が未だ占い師を睨みつけているのに対して、拓実はなんら反論もなく、すぐさまその華琳の命を受け入れる。人物鑑定の謝礼をする場合の相場など拓実にはわからないが、手持ちから少し多すぎるぐらいに金子を出し、占い師の前の器の中に入れにいく。

 こうして拓実が即座に動けたのにも理由があった。華琳の直々の命であったからとか、占い師の言った言葉の意味を理解できていないといった理由ではなく、話を聞いているうちに『乱世の奸雄』という言葉を聞いた時の『三国志における曹操の反応』を思い出していたからだ。

 その高い能力故に傲慢な嫌いがある曹操が、人から貶しとも言える言葉を聞いても怒りを覚えず、それどころか喜び、手厚く礼を返した逸話である。どういった感情によるものかの全容は拓実にも不明だが、汚名となりうるそれを甘んじて受け入れるということは華琳にもその言葉に感じ入ったものがあったのだろう。そう納得していたのだ。

 

「……お主」

「私?」

 

 拓実が謝礼を器に入れて占い師との距離がもっとも近くなった時、再びかすれるような声が響いた。どこを見ているのかすらわからない占い師ではあるが、その声は確実に拓実へと向けられている。

 

「お主の相は、仕える者を王へと上らせる、王佐の才。いや、そこな者と同じく乱世の奸雄とも。……だが、救国の徳王にも見える。見るたびに相が変化している、不思議な相だ。見たことが無い」

 

 ぐい、と覗き込むようにされて、拓実は石になったかのように動けなくなってしまう。どういったわけか、布の中はここまで近づいても、せいぜい人間の輪郭までしか見えてこない。まるで、人の形をした暗い穴のようだ。

 

「だが、確かであるのは、一つ。大局の示す流れに従い、逆らわぬようにしなくてはならん。さもなくば、待ち受けるのは身の破滅。……けれども、お主ならば己を殺し、役割を授かったなら、見合った名を歴史から与えられよう。……新たな流れも、あるいは生まれるやもしれん」

 

 拓実には、占い師の発言の意味が掴めない。

 身の破滅……大局なる何かに逆らえば、死ぬとでもいうのだろうか。そして示されたその救済の方法は、自分を殺すこと。身の破滅を防ぐために、自分を殺す? そもそも新たな流れとはなんなのか。名を歴史に刻むでなく、見合った名を歴史によって与えられるとは、どういう意味なのか。

 

「よいか。いもせぬ者にその座は存在しない。くれぐれも気をつけよ」

 

 最後に占い師は拓実に忠告を残して、座り込んでしまった。声を放つことも、身じろぎをすることもなくなった占い師を呆然と眺めていた拓実は、春蘭に連れられて城への帰路についた。

 城へと向かうその間、拓実は華琳たちの会話にも碌に参加せずに黙り込んだまま先ほどの言葉の意味をずっと考えていた。占い師の言葉はしばらく、拓実の心にしこりのように残り続けていた。

 

 

 



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16.『許定、曹操と手合わせするのこと』

 

 華琳は一人、豪奢な椅子に腰掛けて考え事にふけっていた。背もたれに背を預け、視線を動かさずにいる姿からはただひたすらに集中しているのが見て取れる。

 今いるのは彼女の自室だが、様子は一月前と一変している。そこにある家具や寝具はそれぞれ、州牧という地位に相応しい高価で煌びやかなものに買い換えられていたのだ。それは華琳が望んでのことではなく、上司が一切の贅沢をしないようでは部下は恐れ多くて息を抜くことができないだろうと秋蘭からの進言があったからである。

 普段であれば気が回るだろうそんなことにも気づかないほどに、華琳は州牧となってからの二十日、目の前のことにかかりきりになっていたのだった。今も机に広げられた竹簡を眺めながら、現時点で得られている情報を頭の中で整理している最中である。

 

 他の領主が昇進となれば与えられた権力に奢って少なからず贅沢をするところであるが、華琳の場合は数日部下を労うための酒宴を開いたきりで以後そんな様子はない。

 むしろ今回の昇進により、元より多いわけでもない睡眠時間をさらに減らして一層仕事に打ち込んでいる。部下に、そして規律に厳しい華琳であるから、自身の事を輪をかけて厳しく戒めて規範となろうとしていた。

 だが、華琳はそれだけの理由で仕事に夢中になっているというわけでもなかった。今回の昇進によって、以前より思い描いていた国の基盤が少しずつ出来上がっていく喜びによるところは大きい。

 その勤労あって、直轄地拡大に際しての諸般の問題はここ数日の間に改善され始めている。慢性的な人手不足なのは以前からそれほど変わらないが、街にも城にもいくつかの変化があった。

 

 大きな変化として、内政面や軍の規律だ。今までは従来のものを踏襲して行っていたが、現在は桂花たちの政策を受け入れ、試行錯誤しながらも新しく構築し直している。行なった政策はいくつかあるが、兎にも角にも桂花の働きが大きい。今となってはこの陣営は彼女なしでは成り立たないほどの、かけがえの無い人材となっている。

 特に目を見張るものは今も継続して行なわれている経費削減であった。彼女と比較するのは可哀想かもしれないが、拓実が発案し施行したものに比べると優に数十倍の費用を捻出している。

 とはいえ、拓実の挙げていた節制案も失敗したというわけではない。充分に成功といっていい出来である。管理用の竹簡などの予定外の雑費が増えたことで数字上は大したものではないが、華琳が重点を置いているのは部下育成にある。その効果が目に見えるようになるのは数ヶ月先のことだろう。

 こうした金策によって発生する予算は街の整備や治水工事に充てることが決まっていたが、拓実の節約制度で生まれた予算は予定外だったために浮いた状態だ。しかし新たな政策を起こすほど大した額でもない。通常であれば糧食に換えて蓄えておくべきなのだが、それを実行するかどうかを決めるのは今華琳の目の前にある書簡の案を検討してからでも遅くはないだろう。

 

 続いて、軍備。管轄地区が拡大したことで内政面の問題の洗い出しをしていたように、軍事面にもまた見直しの必要が出てきている。領地となる全ての街に賊に備えて兵を配備せねばならず、またそれとは別に治安警備の者たちを雇い入れて教育せねばならない。今までとはまったく、必要とする兵数が違う。

 これまでのやり方が通用していたのは、部隊自体が小規模であった故に春蘭による兵の調練が末端まで行き届いていたからだ。しかし今後も同じようにして春蘭を調練に派遣するわけにもいかない。急場で部隊長を派遣して訓練させているが、そのうちに行き届かない部分が出てくるだろう。現状では重大な問題は発生していないが、早急に具体的な不備な部分を洗い出さねばならない。

 

 そして残る変化は今この陣営にいる人材についてである。

 まず挙げられるのは季衣である。以前にも増して賊発生の報せが入ってくるので、彼女の精神状況は日に日に悪化している。討伐に連日かかりきりになり、帰還してはまた出兵していく。表面上は何ともないと振舞っているが、そのうちに身体を壊してしまうだろう。そうなる前に華琳から諭してやらなければなるまい。原因となっている賊対策もそうだが、華琳が目下、一番に懸念しているのは彼女についてである。

 同時に春蘭、秋蘭に関しても負担は増えているが、そちらにはそれほどの心配はしていない。管轄地の関係で仕事量は増えてしまったが彼女たちは己の分を知っているし、報告を聞く限りではもう環境に順応しているようだ。内政もこなせる秋蘭の負担が大きいかもしれないが、彼女ならば大丈夫だろう。

 そんな中、人手が足りないこの陣営において戦力となりつつあるのは拓実である。いつの間にやら文字を読めるようになるだけでなく、簡単な文章を書けるようになっていた。華琳がそれを知ったのは今朝のことだ。

 街の警備について進上することがあると、今机に広げられている書簡を華琳に渡したのだった。文字はたどたどしく、文脈がおかしいところがあるものの意味を読み取れる程度の体裁は整っている。元々の素養か、それとも桂花の姿を借り受けているからなのかはわからないが、華琳の予想を上回る学習進度である。

 

 さて、その書簡の中身についてだが、街の浮浪者を雇い入れて警備隊に配属するべきというもので、示されている内容としては特筆すべきことはない。華琳も以前から考えていたことで、その方法も立て札を立てて募集の話を街に流すだけというこれまた平凡なものである。今までのやり方となんら変わりない。しかし、雇用後の待遇要望については華琳の想定していない変更点があった。

 まず、警備の人間で軍本隊での調練へ参加希望する者を受け入れるようにすること。また、警備で経験を積んだ者の中から希望する優秀な者を兵役として本隊へ組み込むこと。その者たちはそのまま兵として扱い、あるいは統率力のある者を他の街へ警備指導の兵士として送ればいくらかの人材不足が解消されるだろう旨が記されている。

 警備に配属された者たちは元々兵士に希望し、実力が足らない等の理由で判断され振り分けられた者たちが多い。そして、警備は給与が低く、本隊の兵に比べて扱いもよくない。中には警備に志願した者もいるがそれは極少数であり、大抵の者は危険は多いものの賃金などで優遇される本隊の兵士へなりたがる。出稼ぎに来ている者たちは、農村に家族を残して仕送りを目的としているからだ。ゆくゆくは兵士になれるとなれば、今警備についている者たちの労働意欲向上は勿論、業務に真剣に励むようになるだろう。兵への出世の門戸となるなら、新規の志願もいくらか期待できるようになるかもしれない。

 巻末に桂花が連名されていることから、拓実が発案し、二人で一緒に仕上げたに違いない。桂花との関係も良好なようであるし、発想も内容自体もそう悪くはない案ではある。

 

「そうね、どうせならば節制案で浮いた予算をこちらに回すのも悪くない。ただ、桂花にしても拓実にしても現場での実状を知らないから細部が甘いわね。どちらにしても、軍備関係を調査してからになるだろうけど」

 

 今朝の献策の際のぎゃんぎゃんと言い合う桂花と拓実の姿を思い浮かべ、華琳は思わずといった様子でくすりと微笑んだ。桂花は、この陣営の誰を相手するよりも拓実と苛烈な言い争いをする割に、一番気が合う相手が拓実なのだ。言いたいことを気兼ねせず言い合える相手なのだろう。

 そしてその拓実は桂花を演じているにも関わらず、割と頻繁に春蘭とも話している。当初は拓実と春蘭との間でもいざこざがあったようだったが、今二人が言い争う姿などは頻繁には見ない。拓実との会話が春蘭の精神鍛錬になったのか、桂花と春蘭の仲もいくらか良くなっているようなのだ。これは華琳すら思ってもみなかった効果である。

 

 

 ともかく、そんな慌しい日が過ぎている。一日の経過なんて、体感的にはあっという間といってよかった。そうして今後について考えていた華琳は、ふと、おおよそ半月前のある日の出来事に思いを馳せた。州牧への引継ぎを終わらせ、陳留の街へ視察へと向かった日のことだ。

 あの日、表向きは視察と題打っていたが実のところ華琳の真意はそれとは別にあった。視察が偽装というわけでもないが、本来の目的は恩師の紹介を受けて許子将なる人物に会うことにあったのである。そして、帰り際にみかけた占い師が許子将その人であった。彼の素性を知るという者に会ったことがないが、紛れもなく世に聞こえた人物鑑定士であり、評価された人物は見合った生を送っていくとまで話されている時の人である。

 その許子将に華琳もまた鑑定を受けたが、常人からすれば良い意味には取れないものであった。当然に秋蘭、後には春蘭もが激昂していたが、しかしそれは華琳からすれば些細なことである。風評が悪かろうが、自身が世を動かすに足る人間であることには違いないのだ。礼を言うならばともかく、何を怒ることがあるだろうか。

 

 ただ、一緒に連れて行った拓実への予言によって、華琳の中にはまた考えるべきことが浮かびあがっていた。

 本来であれば拓実は城において、出発前に桂花が言っていたように学習を進めさせておくべきであった。遠からず影武者として働いてもらうことになるのだから、基礎知識を学ばせるのを急務とするのは当然のことだ。桂花の進言を退けてまで拓実を同行させたのは、(ひとえ)に許子将と引き合わせるためである。

 華琳が大陸の統一を果たせるならば、比例するように拓実の存在は重要なものになるだろう。そして華琳は影武者としての拓実に信をおいているのだから、余程の事がなければ実現することになる。華琳とある意味で一心同体ともいえる拓実の立ち位置からならば、天下の動向を二つの視点で観測することが出来ると考えたのだった。

 また華琳は一国の主の代役をこなせるだけの器を持つ人物を前に、人物鑑定士である許子将が動かない筈がないと踏んでいた。そういった意味で捉えるならば拓実もまた許子将の評価を受け、華琳の目算通りの展開になっていたといえる。

 

――「お主の相は、仕える者を王へと上らせる、王佐の才。いや、そこな者と同じく乱世の奸雄とも。……だが、救国の徳王にも見える。見るたびに相が変化している、不思議な相だ。見たことが無い」

――「だが、確かであるのは、一つ。大局の示す流れに従い、逆らわぬようにしなくてはならん。さもなくば、待ち受けるのは身の破滅。……けれども、お主ならば己を殺し、役割を授かったなら、見合った名を歴史から与えられよう。……新たな流れも、あるいは生まれるやもしれん」

――「よいか。いもせぬ者にその座は存在しない。くれぐれも気をつけよ」

 

 以上が拓実に対しての許子将の人物鑑定である。華琳はその一字一句を記憶していた。そしてそれらについてこの数日の間、華琳は空いた時間を使って考えていたのだ。いくつかの仮説も立てている。

 『見るたびに変わる相』というのは、おそらく拓実の演技する人物を指しているのであろう。『王佐の才』とは桂花を模した荀攸の姿、『乱世の奸雄』とは華琳を模した影武者のこと。『救国の徳王』には心当たりはないが、そういった演技をする可能性を指しているのかもしれない。これの解釈に関して言えば間違いはないだろう。だがしかし、許子将が述べていたのはそれだけではない。拓実のものには人物鑑定の枠を越えた、予言らしきものが出てきている。

 

 まず、『大局の示す流れに従わなければ、身の破滅』とある。これは他ならぬ影武者を任せる拓実のことであるから、華琳にとっても他人事ではない。しかしそのまま読んではあまりに抽象的に過ぎて、解読はできない。そもそも、大局が何を指すかがわからない。情勢か、天子によるものか、はたまた天啓か。華琳が思いつくのはそんなところだ。

 続く『己を殺し、役割を授かれば……』の言葉。南雲拓実としての人格を殺し、影武者としての役割を華琳より授かる、とすれば理解が早い。現状でそういった方向へ拓実の処遇が決められているからだ。直前の『大局』に、上の影武者としての事柄を当て嵌めれば、『必然の出会いを経て得た華琳の影武者として、身命を賭して従っていかねば中途で命を失うだろう』と読み取ることもできる。現時点では極秘であるが、後世に何らかの形で拓実の名と業績を残す者が出てくれば大役を果たした者として名が刻まれたとしてもおかしくはあるまい。

 『新たな流れ』には今のところ思い当たることはないが、全体的にある程度の符号はつく。

 

 しかし、華琳はもう一つ仮説を立てていた。こうも解釈できないだろうかと。

 後半にある『見合った名を歴史に与えられる』という一節。華琳に酷似した容姿や声色、そしてその卓抜した演技力を以って拓実に見合う姿とは何か。連想させるのは、もちろん曹孟徳に他ならない。『影武者である拓実にとっての己』、即ち華琳を排除することで、拓実が唯一の『曹孟徳』として後世に名を残すとことができるというように読み解けるのではないか。そう捉えれば、抽象的だった直前の『大局に従わなければ……』の文章にもまた様々な意味が生まれてくる。

 『身の破滅』も、拓実だけのこととは限らない。近しい華琳もろともに命に関わる事態が発生することを予期しているのかもしれない。例えば危急の時、拓実の判断によって華琳を見殺しにするなどして『己を殺す』に当て嵌め、いなくなった華琳の代わりに『曹孟徳』を継ぐことにより拓実は表立って『役割を得る』ことになる。

 それらを越えられるのならば、『歴史に名を与えられる』ことができる――つまりは陣営としての存続、強いては大陸の統一を果たせることを示していると。『新たな流れ』というのは、今までの華琳の統治からの脱却であり、拓実による新たな統治。異国の風習を取り入れた国風とすればどうか。『いもせぬ者』というのも、影役である影武者の拓実ではそれを為せないことを示しているのではないだろうか。大業を成すならば、表へ出て『座』を得るべきであると。

 

 

 華琳は元来、占いを深く信じるような人柄ではない。道端にいる変哲もない占い師に同じ事を言われたのならば、気にも留めなかっただろう。。

 しかし、今回ばかりは違う。彼女が尊敬する、恩師である橋玄により紹介された許子将の言であるからだ。許子将の人物鑑定は多く人の口に上るほど有名なものであったし、華琳に対しての評価もその意に沿い、彼女が脳裏に描いている道筋を的確に表しているといってよかった。その目は確かであるのだと、華琳は見ていた。

 

 拓実に対しての人物鑑定を聞いたことで、華琳は自身の前途に暗雲がたちこめているように思えた。遠く見えるのは雷鳴と暴雨、常人ならば避けて通る困難な道である。しかしそれは華琳個人の観点のものである。華琳の解釈が正しいならば『曹孟徳の選んだ覇道』は成功が約束されたようなものだ。

 もちろんこれらは推論に過ぎない。もしかしたなら、まったく違った意味を含んだものであるかもしれない。ならば考えても仕方が無いことである。実際に事が起った後ならば、どのようにもこの言葉と出来事を符合させることができるだろうからだ。

 華琳とて、彼女個人のことだけならばそうしたに違いない。だが立場柄、目的達成を示唆するそれを切って捨てることができないでいたのだった。

 

 華琳は考える。自身の志は元々、どこにあったものだっただろうか。

 言うまでもなく、望んでいるのは太平の世である。賢明な王が強大な力を以って治世する、民が賊に悩まされずに済む富んだ国だ。

 

 かつて洛陽で働いていた同僚にも志を同じくする者たちがいた。だが、果たして洛陽の政の場にはどれだけ『人間』が残っているだろうか。

 荒れた朝廷、蔓延る悪賊、そして、貧窮する民草。それらを救い、太平の世を目指さんとする者たちは、役職が上がるにつれて環境が変化し、民の現状が見えづらくなってしまうのだろうか。次第に当初の純粋な意志をどこかへ置き忘れてしまう。汚職に漬かり、民から搾取し、富と権力を求めるだけの腐った畜生になりさがる。

 残った清廉潔白の士たちも上層からの贈賄の要求に反発して僻地に送られ、頭角を見せることはない。時に、無実の罪で処刑されるような時代である。

 

 そんな彼らと志を同じくしながら、華琳は道を違っていた。必要であれば手段は選ばない。目的の為ならば汚名を甘んじて受け入れる。力がなければ、何事も成せないと知っている。

 勘違いされやすいが、華琳とて仁徳は尊いものではあると考えている。ただ、この乱れた世では、仁を以って義に殉じるだけのやり方では通用しないことを理解しているだけだ。個々人が持つならばいいだろう、素晴らしいことだ。しかし、人の上に立とうとする者はそれではいけない。そんな脆弱な思想をしていては、国は立ち行かなくなる。少なくとも今の時勢では、正しいやり方ではないと華琳は断言できる。

 だから華琳とて不本意ながらも、桂花を通して中央の高官に金をばらまいて役職を手に入れるという正道を外れた形を取らざるを得なかったのだ。

 

 華琳は朝廷の腐敗を知っているが故に力を以って世を正す覇道を歩んでいる。だが、華琳のその根っこの志は少しも変わっていない。彼女の歩む覇道の行き着く先は、平和な世である。

 今までの自身の選択に後悔はない。それが華琳の生き方で、誇るものだ。だが一方で、このような手段を使わねば評価すらされない今の時代を嘆いているのである。そんな思いをせずに済む未来が、それを果たせる道筋が、不確かながら華琳の目の前に示されているのである。

 

 使えるものは使う。結果のための必要な犠牲は省みたりはしない。ただ力を以って、目標とするものを勝ち取るのである。華琳は、この信条を持って生きてきた。そしてきっと、これからもそうして気高く生きていくだけだ。

 

 

 

 

 

「……ということよ。半月、警備隊の新入りとして仕事を覚えてくるように。それと同時進行で問題点を洗い出して警備案を纏めなさい。それに当たって荀攸は郷里に使いに出すことになったから、今あなたが受け持っている仕事は桂花と秋蘭が引き継ぐことになるわ」

 

 華琳の前に跪いている荀攸――拓実は、突然のことに目をぱちくりさせていた。三日かけて桂花と共に纏めた警備補填案を今朝方進上して、直ぐにまた呼び出しがかかり、てっきりその案についての問答かと思っていたのだ。

 しかし赴いてみれば華琳は警備の問題把握の必要性を語り、調査を任せるために許定を使わす旨を拓実へと告げたのである。

 

「あの、出会ってから二週間、季衣とはそれなりに話していますし人柄も把握しております。衣装も揃えておきましたから許定としても問題はないでしょう。しかし、そうなると私はしばらく政務に参加することが出来ませんが」

 

 それに対し、まるでもう一つの役割である許定について、他人事のように返答する拓実。周囲に漏れ聞かれても誤魔化せるように、荀攸、許定は互いを別人として話すよう、以前に華琳に命じられていた。

 

「内政面も人手が充分とはいえないけれど、それも仕方が無いでしょう。許定以外の適役がいないことだし、荀攸は武術の修練をしようがないのだから。それに、視察の際に書面で得られる情報と己の目で見たものの違いについては話したわね。丁度いい機会だから、あなたが出した警備補填案のためにも、現場の状況を見てきなさい」

 

 そうして一旦目線を切って窓の外を眺めようとした華琳は、思い出した風に跪いたままの拓実へ振り向いた。

 

「ああ、それと明日から警備隊へ向かってもらうことになるけれど、その前に顔見せにくるように伝えておいてちょうだい。私自ら、許定の力量を見てあげましょう」

「……確かに承りました。それでは、許定へ声をかけたあと、出立致します」

 

 華琳が首肯したのを確認すると、拓実は深く頭を下げて静かに華琳の私室から退出していった。

 

 ――視察の日より、おおよそ十日が過ぎていた。荀攸として桂花の補佐をし、夕刻過ぎてからは書物を模写しての勉強をこなしているだけであっという間に日が過ぎていった。

 稀に桂花が城を出る時は、書庫から借り出した様々な書簡を、自室で朝から晩までひたすら読み解いていく。桂花の演技をしているからか、拓実は毎日勉強漬けでも苦にならないどころか新たに知識を得られることを楽しんでいた。その甲斐もあって特別難解な文でもなければ意味を掴めるようになったし、簡単な書き取りはこなせるようになった。普段目に付くのが漢文ばかりというのも大きいだろう。

 そうしてようやく文官としての仕事に慣れて、文字を覚えたことで軌道に乗り始め、喜び勇んで献策をしたのが今日のことである。

 

「……今日からまたしばらく、慣れない仕事が続きそうね」

 

 今の話は図らずも、やりがいを感じ始めたところで出鼻を挫かれた形になったのだった。廊下をとぼとぼと歩く拓実は、ため息と一緒にその言葉を吐き出していた。

 

 

 

 

「あのー、華琳さまー? 入っても大丈夫ですかー?」

「……季衣?」

 

 とんとん、と軽やかに扉を叩く音が廊下に響く。遅れて返ってきた華琳の言葉に、拓実は人知れずにんまりと笑みを浮かべる。

 

「違いますよぅ、許定ですー。荀攸から、華琳さまが呼んでるって聞いたから来たんですけど」

「え、ええ。そうね。いいわよ、入ってらっしゃい」

「失礼しまーす」

 

 明るい声で礼を取り、拓実は先ほど訪れたばかりの華琳の私室へと入室していく。とかく季衣は笑みを浮かべているイメージが拓実にはあった。それに倣って、満面の笑みを浮かべている。

 拓実が入室する様子を、椅子に座ったままの華琳はまじまじと見つめている。なんというか、奇妙な顔である。塩の塊を口に入れたのにまったく味がしなかったような、そんな表情だった。

 

「ええと、拓実、よね?」

「そですよー。どうですかね? あんまり自信、ないんですけど」

 

 苦笑いしながら、拓実は華琳の前でくるりと回って見せた。呆けた顔でそれを眺めて、しばらくしてから気を取り直した華琳は「ふぅん」と声を漏らす。

 

「……とりあえず、容姿は似ていないわね。髪色と髪型、服装が違うというのが大きいのだろうけど、どちらかといえば子供の頃の、髪の短い春蘭みたいだわ。壁越しに聞けば声もそこそこだけど、こうして面と向かって聞けばすぐに分かる程度には違う。口調や表情の作り方は確かに見事なものだけど」

「あはは、そればっかりは仕方ないですって。それにボク、今回は季衣とそっくりにする必要ないじゃないですかー。というより、あんまり似ちゃってる方がよっぽど危ないと思うんですけど」

 

 表だって華琳は感情を表すことはしなかったが、拓実は言葉の端々から彼女の予想と違ってしまっていたことを察した。しかし、それも当然だろうと拓実は思う。何もせずとも瓜二つである華琳は置いておくとしても、桂花の扮装をしている時のように季衣に容姿を近づけることが出来なかったのだ。

 

 まず大きな違いは季衣の桃色の髪と、拓実の金髪。そして髪の長さも足りていないために、季衣のように髪を纏めて結ぶこと出来なかった。こればかりは仕方が無いので春蘭がしているようにオールバックにして、露天で売っていた花を模ったヘアピンで留めただけである。おでこを出すと顔立ちが顕になる為に、本来は多少なりとも男らしく見える筈なのだが、拓実に関してはその心配はなさそうだった。

 また肌の露出を抑えるために、着ているのは袖なしの白いチャイナ服。裾は膝が隠れるまでのもので、下にはチャイナの丈と長さを合わせた黒のキュロットスカートを履いている。この辺りでの流行なのか袖の部分だけが別売していたので、上着と合わせて白色のそれをつけていた。季衣と比べて露出は減ったが、充分に腕白なイメージがある。

 しかし華琳がいうように、容姿の特徴を捉えて見るならば季衣よりもむしろ春蘭に近い。季衣と同じように一房前髪が逆らって飛び出ていたりもしているが、つい髪型から春蘭を連想してしまう。

 

「まぁ、でも活発な性格や話し振りから、一応姉妹と見えないこともないわ。春蘭、秋蘭だって髪色は違うのだから許容範囲といったところかしら」

「えっと、合格ってことでいいんですか?」

 

 不安そうに聞き返す拓実に、神妙な顔で華琳は頷いた。

 

「そうね、これぐらいなら構わないでしょう。叔母姪の間柄の荀家の二人の方がそっくりというのもおかしな話だけど、姉妹だからといってそこまで似ている必要があるというわけでもないものね。ともかく、さっさと中庭に向かうわよ。警備に出るにあたって、どれだけ動けるのか確かめておきたいわ」

「はーい」

 

 椅子から立ち上がり返事を待たず退室していく華琳に、拓実はにこにこしながらついていった。しかし、足取り軽く歩いている拓実の手はびっしょりと汗で濡れている。それでなくとも、良く良く見れば足が小さく震えていることに気がついただろう。

 笑顔の拓実はどこから見ても手合わせを待ちきれない様子に見えるが、それが楽しみであるという筈がなかった。季衣だったら喜ぶだろうと認識していたから、拓実もまたそう振舞っているに過ぎない。

 この半月近くのほとんどを座って勉強するだけで過ごしていた。精々が歩いて城下町を回るぐらいで、自己鍛錬している時間なんてとてもじゃなかったが捻出できなかったし、そんな環境でもなかったのである。下手をしたら春蘭と手合わせした時より酷い有様になるかもしれない。そんな不安で内心は一杯だったのだが、許定としての人格がそれを許さずにいたのだった。

 

 

 華琳の愛鎌である【絶】と、二振りの華美な長剣、そして変哲もない二本の長剣が華琳と拓実の待つ中庭に運び込まれた。それらを運び入れた女性の武将は許定の格好をしている見慣れない拓実を不思議そうに眺めていたが、華琳に一瞥されると頭を下げてきびきびと去っていく。

 拓実は、身体をほぐすようにぴょんぴょんと跳ねながら、にこにこと笑っていた。そ知らぬ顔をしてやり過ごしていたが、実は拓実はその女性武将とは面識があった。華琳の遠戚であるという曹洪、字を子廉と名乗っていた人物だ。曹洪なる武将は、拓実の読んだ三国志にも登場する人物の一人である。聞けば、やはり華琳の下で軍功高いのは夏侯惇、夏侯淵、曹洪、曹仁の四人であるようだ。

 知り合った女性である方の曹洪は経済観念が高く倹約家である印象がある人で、初めて会った時も彼女は部隊内の帳簿をつけていた。私生活でも蓄財癖があるようで、節約が常である貧乏性であるらしい。兵士駐屯所に仕事で足を運んだ時に彼女と会話したことがあったのだが、どうやら荀攸と今の許定としての拓実を結びつけることはできなかったようだった。

 

 曹洪の後姿を眺めていた華琳は、彼女が見えなくなったのを確認してからようやく口を開いた。同じく曹洪の姿を追っていた拓実も、佇まいを正して華琳へと向き合った。

 

「手合わせの前に、先に聞いておきたいことがあるわ。以前より思っていたのだけれど、鎌の扱いはあなたには少々難しいのではないかしら? どうかしら、拓実?」

「ええっとー、そうですね。動きだけなら何となくわかるんですけど、鎌の使い方は全然わかんないです」

 

 華琳の問い掛けにしばらく考え込んだ後、拓実は苦笑いしながらも素直に頷き返した。以前に華琳の使い方を見せてもらったが、精々学べたといえるのは足運びぐらいのもので、鎌という武器の利点を理解することは終ぞなかった。そもそも攻撃方法が振り下ろして鎌の先端を突き刺すか、刃部分で刈り取るぐらいしか思いつかない。

 それだって拓実が考えるだけでも、勢い余って地面に刺さってしまい隙を作ってしまう可能性、人間を断ち切るだけの速度をどうして出すかなどいくつも問題点が出てくる。あの日から考え続けていたのだが、解決策は未だ見つかっていない。

 

「そうだろうとは思ったわ。一度、許定の姿でも振ってもらおうとは思うけれど、それでも駄目なようならば、いっそ鎌は捨てて剣の扱いを覚えてもらおうと思っているの」

「えっ? でも華琳さまがいっつも使っているのって、その【絶】っていう大きな鎌じゃないですか。なら、ボクも鎌を使えるようにならないといけないんじゃないんですか?」

 

 目を見開いた拓実は、見るからに会得がいかないといった様子で華琳を見つめる。対して華琳は、小さく諦めが混ざった息を吐いた。華琳としても妥協の末の決断だったのだろう。

 

「もちろん。あなたが扱えるようになってもらえれば何も問題はないのだけれど、それだって扱いきれずに命を落しては元も子もないでしょう。別に私は鎌しか使えないというわけでもないのよ。その証拠というわけでもないけど、つい先日に私が特注で造らせていた剣が出来上がったわ。今後は私自身、剣を使う機会も増えるでしょう」

 

 言って華琳は曹洪が運んできた二つの華美な長剣に手を伸ばし、持ち上げた。その二振りであるが、刃の長さから全体に施されている優美な装飾、持ち手の精巧な造りまでが似通っている。違うところは、つばの中央部分に取り付けられた宝石の色と全体の配色だけだ。

 片手に一振りずつ持つと、拓実に向かって左手を突き出す。そちらに握られているのは青い宝石のついたほうだ。華琳は赤い方を右手に持っている。

 

「見れば分かるでしょうけど、この剣は二本で対になっているの。私がこれより使うは、この右手の【倚天(いてん)の剣】。拓実、あなたには左手にある【青釭(せいこう)の剣】を預けましょう」

「え? あの、【青釭の剣】ですか?」

 

 覚えのある響きに、拓実は思わず華琳へと聞き返す。そしてその【青釭の剣】の伝承に思い当たるや否や、すぐさま言葉を繋げる。

 

「でも、渡されても、ボクが使っちゃったらいけないんじゃないかと思うんですけど……」

「使ってはいけない?」

 

 怪訝な華琳の声に、拓実は自身の失言を悟り慌てて口を噤んだ。

 【倚天の剣】【青釭の剣】とは三国志演義に出てくる曹操の愛剣であった。曹操は配下の夏侯恩を気に入ったためにそのうちの一本を授けてやるのだが、今拓実に渡されようとしているのがそれである。

 加えて言うとその後、夏侯恩は蜀の趙雲に一撃で敗れ、以降は趙雲の所有物とされる宝剣である。これを以って趙雲が行なうとされる偉業があるのだが、ともかくこの【青釭の剣】には果たすべき役割が存在しているのだ。それをたまたま覚えていた拓実は、本来の持ち主に渡らなくなってしまいそうな話の流れに、迂闊にも声を上げてしまったのだった。

 

「……ええ、そうね。確かにあなたにこの【青釭の剣】を預けることは出来ない。これはあくまで私の剣ということになるのだから。これは、あなたから私に預けておきなさい。務める際に一々武器を借り受けにくるのでは機密の面でも自衛の面でも危険だもの」

 

 しかし、幸いにして華琳は別の意味として受け取ったようである。周囲に人影などはないが、拓実が話が漏れないよう慮ったと解釈したのだろう。婉曲に、有事の際まで見つからないように隠しておくことを伝えられた。

 大鎌を使えない拓実では、どうしても別の武器を選ばざるを得ない。おそらくは、対となる剣を持たせることで華琳と影武者である拓実の差異を隠そうというのだろう。

 

「私も【倚天の剣】を持ち歩くことになるから、表に出る際に腰に下げておけば疑う者はいないでしょう。どちらにしてもあなたは剣術を学んでおくに越したことはない。習熟の意味でも、許定も剣を得手とした方がいいわ。まぁ、他に馴染むような武器があるならば、剣と平行して使うのは構わないけれど」

「はぁ……」

 

 華琳は言って、左手に握られた宝剣を拓実へと手渡した。呆然とした様子で相槌を返して、しかしどうしたらいいのかわからない拓実は、されるがままにそれを受け取るのだった。

 

 

 

 

「ちょ、わ、華琳さま! 無理! 無理ですっ! これ以上やったらボク、死んじゃいますってー!?」

「へぇ、まだ無駄口を叩くだけの余裕があるのね。もう少しなら速度を上げても大丈夫かしら?」

「え、えええええっ!?」

 

 拓実は半泣きになって、両手で握った剣を振り回して迫り来る脅威を間一髪で弾いていた。見るからに悲壮感漂う拓実に対して、サディスティックな笑みを浮かべて上下左右に次々と剣撃を繰り出しているのはもちろん華琳である。

 やはりというか拓実は【絶】を満足に扱うことは出来なかったのだが、心構えが違うからか荀攸の時のような引け腰は見えず、武器に振り回されることはなくなっていた。その身のこなしを見た華琳は拓実の得物を剣と正式に定め、そのまま長剣での手合わせを宣言する。もちろん、拓実に抗弁する機会なんていうものは存在していない。

 そうした経緯を経て、華琳と拓実は剣同士で打ち合っているのだが、【倚天の剣】を使っては切れ味が違いすぎるから剣を合わすことも出来ないために、両者とも兵士用の長剣を使っている。しかし、もちろん刃を潰されている訳ではない。華琳も手加減しているが、一つでも直撃したなら命に関わってもおかしくない。

 

「とっとと!? ……だっ! ……わっ!!」

「そう。余計なことを考えられるのは余裕がある証拠。それにしても、結構ついてくるじゃない。けれど、守ってばかりでは逃れることも出来ないわよ」

 

 攻撃を繰り出す間隔を狭めてさらに追い立てる華琳であったが、なんと拓実はまだ追いすがっていた。華琳の剣捌きは流石というべきか堂に入ったものである。鎌を使っていた時の動きと比べてもぎこちなさは欠片も見えない。だが、それでも華琳は実力の三割も出していなかった。

 速度ばかりのまるで力の入っていない攻撃なので百姓上がりの雑兵でさえも何とか防げるものだったが、荀攸の時の無様な姿を知っていれば驚嘆する結果である。

 

 華琳の攻撃を数十も弾いただろうか。拓実は強張った顔で歯を食いしばって防御に専念していたが、そのうちにじわじわと口の端が吊り上げていた。

 そうしながらも少しずつその動きを鋭く滑らかなものへ変えていき、そのままさらに数合打ち合わせるとついに堪えきれないと声を上げ始めた。

 

「はっ! あは、あはははっ!」

「……どうしたの、拓実? 何がおかしいのかしら」

 

 息も切れ切れにして笑い声を発する拓実に、華琳は剣を振るいながら声を掛けた。向かい来る剣撃を防いでは避ける拓実はその明るい表情と裏腹に既に肩で息をしている。笑っている余裕などはない筈だ。対して華琳は、休みも入れず打ち込みながらも一切疲労の様子を見せていない。

 

「なんか、面白く、なってきちゃいました! ボクの体って、思っていたよりも全然、速く動けるんだな、って!」

「そう、それなら」

 

 笑みを浮かべてまたも体捌きを洗練させていく拓実に、華琳は合わせるようにさらに剣速を上げていく。

 自身で言うだけあって、拓実のその身のこなしの上達は華琳から見ても目を見張るものがある。目の前で剣を振るっている華琳の体の使い方をその場で真似ているのだろう。さらには反射神経や運動神経だって悪くない。動体視力に至っては天性の才能といってもよいほどで、荀攸の時の無様な様子はいったいなんだったのかと疑問を覚えるほどである。ともかく華琳が剣を振るいながらも改めて認識しているのは、拓実が人物の観察と動作の模倣に秀でているという事実だった。

 

 華琳の顔にもいつしか笑みを浮かんでいた。拓実の底がどこまであるものか、確かめたくなっていたのだった。

 面白い。こんな不思議な人間には、未だ出会ったことがない。他人からの吸収が類を見ないほどに上手いのだ。こちらがじわじわと速度を上げれば、それを見て学び、合わせてくる。華琳は、自身が昂ぶっていくのを自覚していた。

 

「どうやらまだいけるみたいね。もう少し上げていくわよ?」

「うあっ!?」

「……えっ?」

 

 華琳が速度に合わせてようやく力をこめはじめた途端に拓実は華琳の剣撃に力負けしてよろめき、続く一撃で得物もろとも弾き飛ばされた。これからが面白くなるだろうと予感していた華琳は、その予想外の光景に華琳は自失しながら声を漏らしていた。

 手応えは軽かった。だというのに拓実はあっさり力負けし、軽々と地面を転がっていった。天井知らずに上がりつつあった速度はともかくとして、力はそれほどこめたわけではない。精々、本隊兵士の一撃ぐらいのものだろうか。受けるだけに専念するなら常人でもそれほど難しくない程度の力である。妙な手応えに疑問を覚えながら、華琳は地面に座り込んでいる拓実へと近づいていった。

 

「どうしたの? 別にそれほどの力をこめた訳じゃないわよ。もう少し頑張りなさい」

「あっ、ごめん、なさい、華琳さま。手がその、ちょっと、震えちゃってて……」

 

 それほど強く打ったわけではないのに、拓実の腕には力が入らないようだった。いや、どちらかといえば衝撃によるものというよりは疲労が強いように見える。息を荒くしたまま身体を起こそうと地面に手をついているが、そこからそのまま崩れている。

 一向に立ち上がることの出来ない拓実を見かねた華琳は手を伸ばした。

 

「まったく、しょうがないわね。ほら、特別に手を貸してあげるわ」

「ありがとう、ござい、ますー。はぁ……、ふう……、ちょっと、落ち着いてきたかも」

 

 華琳はしりもちをついた状態の拓実の手を引き、立ち上がらせてやる。さして華琳は力を入れずに、拓実の身体を起こすことが出来た。

 そして、拓実を起こしてやった右手を、確かめるように開いては閉じてみる。たったそれだけで、華琳の中で湧き上がっていた疑問は氷解していく。さきほどの妙な手応えの答えを突き止めたのだった。

 

「ねぇ、拓実。あなた食事はしっかり取っているの?」

「はっ……ふぅ。えーっと、どーだったかなー? ここ半月、桂花と一緒にいる時は果物とかばっかりだったかも。なんか、あんまり食欲が湧かなくて」

「でしょうね……」

 

 同じ得物、同じ上背の二人が打ち合って圧倒的な差で片方が負ける理由はそう多くない。筋力差に技の優劣、そして残るは体重差である。拓実と華琳では、そのいずれもが要因となっていただろう。しかしその中でも、明らかに拓実は華琳より『軽かった』のだった。

 

「ふふ、どういうことかしらね……。いくらどこからどうみても女にしか見えない姿をしているといっても、同じような体格をしてこの私よりも軽い男だなんて」

「それで前より動きが軽かったのかなー。その分、すぐ疲れちゃったけど。って、あれ? 華琳さま、何か言いました?」

 

 ようやく息を整えることが出来たらしい拓実は、頭の後ろで手を組んで朗らかに笑っている。どうやら華琳の独り言は届かなかったようである。

 

「拓実」

「何ですかー?」

 

 のんきに声を上げる拓実に、華琳は酷く真剣な顔をして向き直った。突然の華琳の様子の変化にも、拓実はきょとんとしている。

 

「食べなさい」

「へ?」

「季衣ほどとは言わないまでも、たくさん食べて体重を増やしなさい。速さは大したものだったけれど、持久力に欠けているわ。加えて、筋肉もないし、余計な脂肪すらない。まるで桂花のようじゃない。そんな身体で、まともに打ち合えるわけがないわ。それでは警備の仕事にだって耐えられないでしょう」

「そっかー、そうですよねー。んー……」

 

 そんな華琳の助言を受けて、顎に人差し指を当てて目線だけで空を見上げる拓実。何か気にかかることがあるようだが、華琳はといえばそれに構っていられる余裕はなかった。

 

「筋力を増やすためにも、そうね。とりあえず私以上に太らないと駄目よ。いいかしら? 私よりもよ。私は今のままで均衡が取れているから、これ以上減らそうとすれば必要なところから削れてしまうもの。拓実、この命令は何としても成し遂げなさい」

 

 どこか緊迫した様子で華琳は命令を突きつける。そんな様子はどこ吹く風で、拓実は朗らかに笑っていた。

 

「んー、そうしたいのは山々なんですけど、でもボクって食べても太らない体質なんですよね。脂肪がないから、筋肉もつかないし。たぶん、今の華琳さまぐらいの体型がボクの標準体型なんで、痩せることはあってもそれよりはそんなに増えないと思いますよー」

「なんですって……!?」

「あ。でも、筋肉はつかなくてもちょっとずつだったら力はつくみたいだから、安心してください! 頑張って特訓したら、きっと今の剣ぐらいならちゃんと振るえるようになりますから!」

「……そ、そうなの」

 

 慄いた後それ以上二の句を継げない華琳は、呆然と拓実を見つめている。単純というべきか拓実は少し前まで政務から外されたことによる落胆も忘れて、転がった長剣を拾っては「えいやあ」という掛け声と一緒に、楽しそうに剣を振るっていた。

 

 

 



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17.『曹操、拓実について思案するのこと』

 

 中庭には、くたびれた犬のように舌を出してぐでっとだらけている少女の姿があった。

 息は弾み汗をだくだくと流して、見るからに疲れた様子だというのにそれが心地良いのか表情は明るい。女性の身から見ても、ぱっちりとした目で表情豊か、愛嬌ある可愛らしい顔立ちであった。地面に投げ出した脚の肌が露になっていることからわかるように、着ているものは動きを邪魔しない丈の短いものであり、髪も顔にかからないよう後ろに流していて全体的に活発な印象を受ける。

 

「はっ、はっ、はぁ……うへー、へとへとだぁ。しばらくは動きたくなーい。つかれたー」

 

 情けない声を上げた少女は全身の疲労により自力で立つこともままならないらしく、目を瞑ってただただ息を整えようとしている。形振り構う余裕なんてないほどに疲弊している筈なのだが、度を過ぎたはしたなさは見えない。とはいえ、それで無理をしている様子もない。

 そんな少女――いや、少女になりきっている拓実の様子を、華琳は複雑な表情で眺めている。側で見ている華琳からしても、その様子に不自然なところを見つけられない。これが男のしている演技だというのだから、生粋の女性である華琳としては改めて信じられない思いがしている。

 おそらく演技している状態では、そうあるべき行動を取ることが拓実にとっての自然体となるのだろう。そうでなければ、こうまで違和感を感じさせずに振舞うことは出来ないはずだ。これほどの完成度で別人に成り切られてしまっては、いっそ演技の一面として応対するよりも知識を共有する別の人間と認識した方がよいのかもしれない。滅多な事がない限り綻びを見せない拓実の演技に内心で感嘆しながらも、華琳はそんなことを考えていたのだった。

 

 手合わせを終え、華琳にとって色々な意味で衝撃的だったあの発言の後。拓実は引き続き、声を上げて元気に剣を振るっていた。

 しかしそれが満足に続いていたのは初めの数分だけだった。両手で握っていた剣を片手に持ち替え、手合わせの際の華琳の動きを体に覚えさせるように反復しているうち、まず楽しそうな掛け声が聞こえなくなった。続いて疲労で腕が上がらなくなり、それに伴って剣速は落ちて鈍くなっていく。動きにしても目に見えて踏ん張りが利かなくなり、重心はふらふらと流れてしまう。始めこそ華琳の動きを正確に、それこそ鏡に映したようになぞっていただけに、こうなっては最早見る影もない。

 それからいくらもしないうちに全身が言うことを聞かなくなった拓実は、地面に仰向けに転がって息を激しくすることになっていたのだった。

 

 拓実がそうして素振りをしている間、華琳は拓実の人格の変化に今更ながらに戸惑っていた。それは拓実と会った当初からずっと感じていたもので、荀攸と許定の間にある差異によって明確になったものである。

 演技をしていない状態の気弱でどこか儚げである拓実に、華琳を写し取ったように威厳に溢れた影武者としての拓実、思慮深く理屈っぽい男嫌いの荀攸に、明るく奔放で明け透けな許定。

 それらの性格は違いすぎていて、華琳の頭の中では今でも一人一人が同じ人物だと上手く繋がらないでいる。そうやって華琳の認識を妨げているのも、話し方や仕草、目に見える性格などの表層だけではなく、それぞれ内面――嗜好や考えの組み立て方までに違いが生まれているのを理解出来てしまうからだ。

 

 極端な例としては、やはり荀攸と許定であろうか。今朝に献策していた時は活き活きとした様子の荀攸であるが、その後に警備隊に組み込むと言われた時には隠そうとしても隠し切れずに落胆した様子を見せていた。だが、これは決して拓実個人の意に沿わない話ではなかった筈だ。今朝に献策した警備補填案の基礎知識となるものであるから、その情報を得られる機会というものを本来は歓迎すべきである。しかし、拓実の演じている役柄として相応しくない――つまりは桂花であれば絶対に任されないであろう肉体を使う仕事に対して、忌避感を覚えていたのだろう。

 荀攸であった時はそんな様子であったのに、その後すぐに許定として現れた拓実は手合わせには内心でどうあれ嬉々として応じ、終わる頃にはおそらく本心からそれを楽しそうにこなすようになっていた。こうして疲労しながらも気持ち良さそうにしている今の姿に、身体を使う仕事に対しての忌避感などは欠片も見られない。

 

 荀攸と許定は、会話ひとつにしても違いが見られる。口調だけでなく、使われる言葉なども違っているのだ。許定の発言には抽象的なものや擬声語が多く、反して難しい言葉はあまり使わない。荀攸の時にはその使用頻度が逆転し、小難しく理論立てた話し方を好んでいる。それだけなら役作りの一環ということで説明もつくのだが、許定などは華琳に対して敬語を忘れてしまう素振りを見せているのである。そこに故意的な意思は見つけられない。これらは恐らく計算でしているのではなく、無意識によるものなのだ。模倣している桂花と季衣の性質が正しく現れているのだろう。

 これは、常識的に考える演技の枠組みには収まらない。演じているなどというよりはいっそ、いくらか融通の利く多重人格といった方が近いのかもしれない。だからこそ華琳にとっても拓実の演技は理解の外にあった。拓実の演技が常人離れしている為に、大元である精神構造が理解できないのだ。同時に華琳が類稀なる希少な才能として認めている所以(ゆえん)でもある。

 

 しかし演じている拓実は振る舞いこそ確かにそっくりではあるが、もちろん本物の桂花や季衣とは違っている。拓実の意識を役柄で覆っているために、覆い切れない部分が出てきてしまうというところだろう。

 季衣を模倣している許定に関しては、その容姿を揃える事が出来なかったからなのか内面にしても荀攸ほど本物に迫ることはない。こうして今拓実が晒しているような困憊(こんぱい)する姿など、季衣なら意地でも見せたりはしないだろう。季衣は子供のようでいて、武については中々に自尊心が高いのだ。

 もちろん武についての技術も自信も持たない拓実では自尊心など持ちようもない。こうしている姿は日常の季衣を延長させたような、そんな態度である。だがそれでも華琳は演技としては不完全な許定から、他の二役や本来の拓実の性格を見出すことは出来ずにいるのだった。

 

「へへへ。でも、ちょっとだけ、華琳さまがどう動いているのか、わかった、かも」

 

 にっこりと得意気に笑みを浮かべて華琳を見上げている拓実。未だ息は荒く、言葉はぶつ切りである。今までの考えを一時放置することにして、華琳も応えるように僅かに口の端を持ち上げた。

 

「ええ、動きは悪くなかった。けれどやはり、根本的に体力が足りていないわ。あなたはまず、武器を扱っての調練に入る前に基礎体力を何とかせねばならないようね」

 

 さて。もう一度重ねる形になるが、拓実がしていたのはただの素振りである。はしゃいで飛び跳ねたり、仮想敵を相手にして動き回ったりはしていない。ひたすらに、一箇所に立って華琳の剣の振り方、足の運び方を真似ていただけであった。

 そしてそれを終えた拓実は、あまりに疲労の色が強すぎる。まるで長距離を走り終えた直後のようだ。

 

 拓実の持っている剣が特別に重たいものであったから疲弊しているのかといえば、そういうわけでもない。拓実が振っていたそれは他に比べ軽量で、だからこそ取り回しやすいように造られた刀身の幅が狭い細剣である。これならば、日常生活をこなせるだけの筋力を持つ者なら誰にでも扱える。そんな剣を使ってどうして拓実がこんな有様になってしまったのかといえば、単純にそんな『誰でも』という括りの中に拓実が含まれていなかっただけである。

 

 現代基準でいうならば確かに、演劇準備などでの機材運びをしていた経験から拓実にもそこそこの体力はあった。しかしこの時代で求められる能力水準はもっと高い。肉体労働を課せられない者など生粋の文官や貴族の息女、皇帝など少数であって、日々鍛錬している武将や兵は言わずもがな、農民にしても農作業で培った体力と筋力がある。

 その上、拓実はただでさえここ半月を桂花につきまとって頭脳労働ばかりをしていたのだ。この時代基準での並の体力も持たない拓実に金属製の武器を振るいながら動き回れというのは荷が勝ちすぎていた。

 

「あ、はい……。まずはそこからですよね……」

 

 拓実は疲労に喘ぎながらも何とか苦々しく笑顔を返した。どうやら拓実自身が誰よりも体力不足を実感しているようである。

 

「そうね……」

 

 しかし今の素振りにしても立会い開始時の拓実の動きにしても、華琳をして見るべきものがないわけではなかった。剣の扱いに不慣れだというのに、手を抜いていたとはいえ拓実は華琳の剣速についてこれたのだ。これは反射神経や動体視力に特別優れていなければ不可能である。

 身のこなしの初速や反射神経、判断力だけならば、今の状態でも親衛隊の者と比べて遜色はない。華琳と同じく小柄であるから、剣を振るうにも身を翻すにも小回りが利いている。また、素振りを見ていればわかるように手本を自身のものとするのが非常に早い。流石に体の方がついてこないようで鋭さこそないものの、足の踏み出しから振るう剣の軌道までを寸分違わず目の前で盗んで見せた。

 華琳や春蘭から体捌きを学び、挙動の効率を上げていけば、速度に限っては自身と並ぶだけの素質を秘めているだろうと華琳は見立てている。

 

 けれども、拓実にはその利点を打ち消してしまうほどの欠点がいくつかあった。

 まず体力が足りていないこと。全力で動き回って数分程度しか持たないのでは使い物にならない。この陣営で誰よりも貧弱な桂花と比べて、ようやくいくらかマシ程度のものである。

 そして軽い。動きは軽快だが同じだけ動きに重さがなく、吹けば飛ぶような印象がある。それ故に、耐久力もないだろう。何気ない一太刀が致命傷となりかねない。

 加えて、絶望的なまでに筋力に乏しかった。振るった剣に速度はあっても、脅威となるだけの威力が伴っていないのだ。不意をついて喉笛を掻き切るぐらいのことは出来ても、相手の首を切り落とすことは出来やしないだろう。鎧に守られてる部分などは言わずもがなである。打ち合えば雑兵程度の相手であっても力だけで押し切ることは出来まい。それらを束ねる武将を相手にと考えれば、剣を合わすだけでも自殺行為と呼べるほどだ。

 拓実からは致命傷を与えることは出来ず、少しばかり動きが速いだけ。得物同士で打ち合ったならその華奢な体躯も手伝って十中八九押し切られることになる。剣を合わす事も出来ないのでは勝負にもならない。その上で持久力すらもないとなれば、今のままでは満足に動けるうちに逃げ切る他、拓実の生き残る術はない。

 

 拓実は自身を、太らない体質で且つ筋肉がつきにくいと評している。華琳と同じ体型を維持するという面で見ればこれ以上ない体質ではあったが、自衛の問題や戦働きを考えるといいことではなかった。

 持久力はまだ何とでもなる。細身だろうとも毎日動いて回れば自然と身についていくもので、成長の余地は多く残っている。しかし問題は筋力である。鍛えれば大丈夫だと本人は言うが、見た目に変化が出ないのではその限界は知れている。常人の域を大きく超えることはないだろう。だがそれでは、春蘭ほどの豪傑相手と剣を合わすことになった時、初撃で討ち取られてしまうのだ。

 春蘭と互角に渡り合う華琳にしても、あの剛剣を受けるのはぎりぎりのところなのである。似たような体格ではあるが、それでも日頃から鍛錬を欠かさない華琳は拓実より力がある。それどころか、天に愛されているのか体格に優る男性兵士相手に力勝負で勝るほどだ。もちろん、人より多少膂力(りょりょく)が優れている程度では春蘭に敵いようもないのだが、それを覆して可能とするだけものを華琳は有していた。華琳について特筆すべきは、能力的な不利を覆せるほどの巧みな武技と、軍師顔負けの戦略。そして類稀なる集中力を持っていることである。

 逆をいえば、それら単純な武力以外をも総動員してようやく武一辺倒である春蘭と引き分けることが可能なのだ。もし拓実が模倣の技術を十二分に発揮して華琳に劣らない剣技を身につけたなら、一合ぐらいであれば春蘭とも剣を打ち合わすことが出来るようになるかもしれない。それでも華琳に多くの能力で劣る拓実では、どうしたって華琳や春蘭に敵う道理がないのである。

 

「果たして拓実のそれは、武の才と呼べるのかはわからない。しかしどうやったとしても私を越えることはないでしょう。けれど、だからといって何もないというわけではないわ。剣を合わせられなくても、拓実に合った戦い方さえ見つければあるいは……」

「え? 何ですか、華琳さま?」

 

 華琳が考え込んでいるうちに息を整え終えた拓実は、立ち上がって服についた砂を払っていた。それに集中していたから華琳の呟きを聞き逃したのだろう。きょとんとした顔を向けて聞き返してくる。

 

「なんでもないわ。拓実の動きが思いの他良かったものだから、春蘭と一騎打ちしたらどうなるものかと仮定していたのよ」

「……えー、えと、無理だと思いますよ。全然歯が立たないです。だってボクが勝ってるところ、まったく想像出来ないですもん」

「当然よ。春蘭は私の陣営でも一、二を争う武将なのだから。……ああ、つい脱線してしまったけれど、警備としての実力を見るための手合わせだったわね。全てを満たしているとは言い難いけれど、不足しているのは体力と筋力だからそれに関しては働いているうちにある程度は身につくでしょう。辛うじての及第点といったところかしら」

「やったー! あっ、ありがとうございます、華琳さま!」

 

 聞いて、拓実は諸手を上げて喜びを露にした。そんな自分を静かに見ている華琳の姿に気づいたか、慌てて深く頭を下げる。

 

「春蘭ほどの猛者がそういるとは思えないけれど、この大陸は広い。統一を果たすとなれば、今は野に埋もれているまだ見ぬ英傑と矛を交えることもあるでしょう。それらに負けぬよう鍛錬に励みなさい」

「はいっ! 頑張りますっ!」

 

 打てば響くような小気味の良い返事をした拓実の容姿は、季衣とはあまりに違っている。だというのに、華琳の目には拓実に季衣の姿が重なって見えたのだった。

 

 

 

 

 

「…………あれ? なんだろ、この音」

 

 警備の仕事について語り合おうといったところで、拓実と華琳はいつからか響き始めていた音に気がついて、揃って何気なく城門を見やった。門の向こうには、だだだだっ、とけたたましい音を立てながら遠く砂煙が舞っていた。暴れ馬だろうか、何かがものすごい勢いでこちらに向かってきている。

 ものの数十秒も経たぬうちに、二人は何が駆けているのかを知ることになった。兵舎の方から、黒髪をなびかせてすさまじい勢いで駆けてくるのはなんと女性である。

 

「華琳さまぁ! 春蘭めに何かご用がありますでしょうか!」

 

 噂をすれば影というべきか、声を上げて急ぎ華琳の前に馳せ参じたのは春蘭であった。拓実の姿が目に入っていないのか、【七星餓狼】を手に脇目も振らず華琳の前へと向かっては膝をついた。

 その春蘭の様子からてっきり何事かを言いつけていたのかと思えば、しかし華琳は首を傾げている。

 

「春蘭? 別に貴女を呼んだ覚えはないわよ。これといって危急の用事もありはしないし」

「あ、そ、そうでしたか。華琳さまが私の話をされている気がしたので、部隊の調練を終えて、急ぎ戻って参ったのですが……」

 

 喜びの顔から一転、春蘭の顔がしょぼくれた。肩を落とす姿は、華琳と拓実より大きな体だというのに異様に小さく見える。驚いたのは拓実である。おそらくは偶然なのだろうが、つい先程まで話題の端に春蘭が上っていた確かなのだ。

 

「しかし、調練を終えたというのならば丁度いいわね。こちらも実力を見極めるための手合わせと寸評を今終えたところだから、春蘭は引き続き私に代わって武術指導なさい。ただし、まだ剣を使わせるには早いわ。まずは白打(格闘術)から始めるといいでしょう」

 

 しぼんでいた活力が見る見るうちに湧き出して、春蘭の顔を彩っていった。きびきびとした様子で横に携えていた【七星餓狼】を目前に持ち直し、深く頭を下げる。

 

「はっ! 白打をですね! ……えーと、ところで指導とはいったい誰にすれば?」

「何を言っているの。許定に決まっているでしょう」

「許定に、ですか。かしこまりました! 華琳さまの命とあらば、全力で鍛え直してやりましょう! しかし、許定とやらはどこに……」

 

 呆れたように華琳に見られ、慌てて了承の意を表した春蘭は、きょろきょろと周囲を見渡して視線を右隣で止めた。ようやく横にいる拓実に気づいたか、春蘭が訝しげな視線を拓実へと向けて口を開く。

 

「む? 娘、親衛隊の者か? しかし、それにしても見かけぬ顔だな……もしや、華琳さまを害する者ではあるまいな!」

「な、何言ってるんですか、春蘭さま! ボクですよ、ボクが許定です!」

 

 どうやら春蘭は初見では今の許定を拓実だと認識することは出来なかったようで、歯を剥いて拓実を睨みつけている。そんな大声でいきり立つ春蘭に対して、その怒気に当てられ慌てた拓実もまた大声で返した。

 

「おお、そうだったか! いや、すまん。今までまったく気がつかなかったぞ」

 

 睨みつけていた顔からまた一転、明るく笑い出した春蘭。悪びれもせずに笑う春蘭に、華琳は息を吐いてみせる。

 

「はぁ……とりあえず、後は任せるわよ、春蘭。しばらくは桂花がしていたように、今度は貴女が許定の面倒を見てあげなさい」

「はっ! お任せください! 必ずや、華琳さまの名に恥じぬ武将へと育て上げて見せましょう!」

「そう、期待しているわよ」

 

 言って、華琳は執務室へと足を向けた。どうやら手合わせには休憩の時間を使っていたらしく、まだまだ仕事は残っているらしい。自身の得物である【絶】と【倚天の剣】だけを手に、残りの後片付けを拓実に言いつけて足早に去っていく。

 しかしその足は、背後から聞こえる春蘭の声で止まることになった。

 

「よし。それでは調練を始める前に一つ。許定よ。私の真名を呼んでいるのだから、華琳さまに真名を預けていただいたのだろう。華琳さまが定めた決まりだから、お前が私の真名を呼んでいることを怒るつもりはない。だが、一方だけが知っているのは不公平だ。改めて自己紹介をして、真名を預けあおうではないか」

「……えっ? あのぅ……?」

「うん? どうしたのだ? 秋蘭が言っていたが、こういう時は目下の者から始めるものらしいぞ」

 

 拓実は呆けた声を返しながらも、視界の端で背を向けて歩いていた華琳が踵を返しているのを見る。目の前で胸を張って先輩面している春蘭の朗らかな笑顔とは対照的に、こちらに向かってくる華琳の仏頂面にはどこか哀愁が漂っている。

 春蘭がしている勘違いには気づいていたが、あまりの想定外の事態に拓実の思考は止まってしまっていた。視線を春蘭と華琳の間で行き来させながら、とりあえず促されるままに口を開く。

 

「えっと、ボクは許定で、字はその、まだありません。真名は、拓実、ですけど……」

「ほう、拓実というのか。ふむ、思ったより拓実という名を持つ者は多いのだな。まだ知らないだろうが、この陣営にはお前の他にも同じ名を持つ者がいるぞ。いけ好かない奴と見た目はそっくりなのだが、中身は文官にしてはそこそこマシな方だ。困ったことがあったら荀攸という奴に会ってみるのもいいだろう。歳も近いだろうし、同じ名という(よしみ)もある。何、あいつのことだから多少の悪態をつきながらも助言ぐらいはしてくれる」

 

 朗々と声を上げる春蘭。おまけに本人の目の前で、どう思っているかを語り始めた。腕を組んでうんうんと頷いている春蘭を、拓実はぼけっと眺める他ない。そして華琳はもう、春蘭のすぐ後ろまで近づいていた。

 

「さて、既に知っているのだろうが名乗らせてもらうぞ。私は夏侯惇。字を元譲と……」

「いいわ春蘭、それ以上言わなくて」

「華琳さま? えっと、ここは私にお任せしてくれるのでは……」

「今の様子でわかったわ。とてもじゃないけど、貴女には任せておけないことが」

 

 言われ、春蘭は動揺で顔を青くした。端で見ている拓実にはともかく、当人にとっては華琳の言葉はあまりにいきなりのものである。

 

「な、何故でございますか? 初顔合わせの時には礼儀として、例え相手が一兵卒の者だろうときちんと自己紹介はしておくべきだと華琳さまも……」

「いいえ、そうじゃない。そうじゃないのよ。私が悪かったわ。先の問答で貴女が理解していると勝手に思っていたこと。更に、まさか許定の真名を聞いておきながら思い出せないとは思ってもみなかったこと。これらは私の落ち度よ。もう半月近くも前の、それも話の上の事だけだったものね。貴女なら覚えていなくても仕方がないわ」

「半月前ですか? ん……?」

 

 眉根を寄せて、視線を宙に巡らせる春蘭。ここ数日のことを思い返しているのだろう。しかし思い当たることがなかったのか、頭を抱えてばつが悪そうに拓実へと顔を向けた。

 

「ええっと、拓実といったか。すまんが、私は以前にお前と会ったことがあったのか? いくら私でも会った者の顔と名前は覚えているつもりなのだが、どうにも心当たりがない」

 

 訊ねられて、拓実は思わず視線を華琳へと向けた。それを受けて華琳は目を瞑り一つ頷いた。その動作はおそらく『ありのままに話せ』という意図からのものだろうと拓実は読み取る。

 

「半月前っていうか、ここ最近はボク、春蘭さまとは二日にいっぺんは会ってましたよ。結構前ですけど、春蘭さまや季衣と一緒にラーメンを食べに行ったこともありますし」

 

 何でもないような風に話す拓実の返答を聞いて、春蘭は驚きに目を見開いた。

 

「待て!? 私は覚えにないぞ、そんなこと! いや……、そうか! さては私の知らんうちに拓実のやつが私に化けて、お前や季衣と一緒にラーメンを……ん? 拓実?」

「はい。ボク、拓実ですよ」

「な、なんだと! お前、拓実か! 何のつもりだ貴様! 私をたばかりおって!」

 

 春蘭の瞳に理解の色が灯ると、途端に彼女はきっ、とまなじりを吊り上げて、糾弾の声を上げる。もちろんそんなことに文句を言われても、拓実にしたらあまりに謂れのないことである。

 

「ええっ!? 春蘭さまが勝手に勘違いしてたんじゃないですかぁ~!」

「問答無用だ! こいつめ、そこに直れ!」

 

 身を乗り出し、拓実を捕まえようと春蘭が腕を伸ばす。拓実も痛い目に遭うだろうことがわかっているからすぐさま身を翻した。上手く腕を掻い潜った拓実は、なんと立ち尽くしている華琳の背中へと隠れる。

 そうなってしまえば春蘭は弱い。華琳に向かって無礼な振る舞いをすることも出来ず、伸ばした手は宙で止まってしまう。

 

「このっ、拓実! 華琳さまを盾にするとはなんという奴だ! 恐れ多いぞ! 逃げるなっ!」

「ボクだって春蘭さまが追いかけなかったら、逃げたりなんかしませんよー!」

「まったくもう、この子たちは……」

 

 間に挟まれることになった華琳は呆れた様子でため息を吐いてから、拓実に向かって伸ばされた春蘭の腕をぺん、と横から叩く。

 

「春蘭。少し落ち着きなさい」

「し、しかし、華琳さまぁ」

「言ったでしょう。桂花や秋蘭、拓実たちと同じ尺度で貴女を測ってしまった私の誤りだと」

「はっ? はぁ……」

 

 華琳の言葉には少なからず皮肉が混ざっていたのだが、春蘭は気づかなかったようで首を傾げている。とりあえず春蘭からの追求が止んだことに、拓実は華琳の後ろで密かに胸を撫で下ろしていた。

 

「ともかく、拓実についてしっかりと理解できたのなら、今度こそ後を任せるわよ。一応、罰とした拓実への鍛錬の期限は有効であるから、二ヶ月で私と手合わせができる錬度を目安に予定を立てなさい」

「……はっ!」

 

 春蘭は先ほどまでの醜態が嘘のように、静粛にその場で膝をつき、再び華琳へと了承の言葉を返したのだった。

 そうして今度は振り返ることなく、華琳は執務室がある区画入り口の奥へと消えていった。そんな華琳の後姿を並んで見送る拓実と春蘭。

 

「なぁ、拓実よ。お前のそれは、季衣の演技をしているのか?」

「はい、そーですよ。なんだか全然違う格好になっちゃいましたけど」

 

 華琳の姿はもう見えない。だというのに二人して入り口を眺めながら、向き合うこともなく言葉を交わす。

 

「ボクの髪の毛じゃ季衣の髪型にするには長さが足りなくて、それで服もおんなじのじゃ駄目でしたし。あー、でも季衣、ボクが真似するの楽しみにしてたからなぁ。がっかりしちゃいそうですよね」

「確かに見た目は似てはおらんな。なんだか知らんが、見てると無性にでこを引っぱたいてやりたくなる。だが、まぁ中身は季衣っぽいんじゃないか」

「そーですかね? それだったらいいんですけど。あと、華琳さまが言うには、見た目は季衣より春蘭さまのちっちゃい頃に似てるらしいですよ」

「何だと!? そんな筈は……しかし、華琳さまがそう仰られたのなら、むぅぅ……」

「……春蘭さまがボクを引っぱたきたくなるのって、一応これも同属嫌悪ってやつなのかなー?」

「銅像研磨? 何を訳の分からんことを言っているんだ?」

「何でもないでーす」

 

 そのまま二人は並んだままぼんやりと会話を続け、調練を開始したのはしばらくしてからだった。

 

 春蘭は調練で身体を動かしたことですっきりしたらしく、終わる頃には憂いもなくなり、大笑いするほど上機嫌になっていた。拓実もまた笑顔ではあったが春蘭を相手にするには実力が足らず、ぼろぼろのぼこぼこにされてまた地面に転がることになるのであった。



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18.『黄巾、各地で蜂起を始めるのこと』

 

 この日も、陳留の街はちょっとした喧騒に包まれていた。駆ける者に、追う者たち。それらを察知した住民たちの小さくないざわめき。警備隊による捕り物騒ぎである。

 華琳が軍を率いて周辺の賊を軒並み討伐してからはその規範の高さが知れ渡り、しばらく街中における犯罪も減少の傾向にあった。しかしここ数日の間になって、そういった類の騒ぎがまた増え始めていた。

 それに加え、以前とは少しばかり犯人の様子もおかしい。徒党を組んで略奪を仕掛けては、街の外――おそらくはどこか特定の土地へと逃げ延びようとするのである。下手人たちを捕まえて、その真意を問い質そうにも一向に口を割る様子はない。示し合わせているのか、今ではそんな者が大多数を占めている。そんな不気味な大陸の情勢を肌で感じ取っているのか、町民たちもどこか緊張した様子で毎日を過ごしている。

 

 拓実はそういった変化が起こっている街中で、今日もあちらこちらへと駆けて回っていた。許定の仮装をした初日はいつでも笑顔でいた拓実だったが、街を走る姿からは真剣な表情を見ることが出来る。

 

「おっちゃん、予定通りそっち行くよ。気をつけてね!」

「うし、任せろ! 俺たちは道を塞ぐから、嬢ちゃんは隊長に伝令頼むぞ!」

「はーい、任されました、っと!」

 

 親と子ほどに歳の離れた兵と遠目に言葉を投げ交わした後、拓実はすぐさま地面を蹴った。通りには通行人が多いが、小柄な拓実はそれを苦にせずに掻い潜って、するすると駆け抜けていく。

 中央通りに出る辺りにたどり着くと、走っていた勢いをそのままに事前に置いておいた台を踏み切って建物の屋根へとよじ登った。建物の突起に手をかけてまるで(ましら)のようにひょいひょいと上り切ると、今度はそこから小型の物見櫓(ものみやぐら)へと飛び移り、間髪置かずに周囲を見渡す。

 

「あっ、隊長ー! 乙組の前方封鎖、間に合いそうですー!」

 

 ざわつく街中、道行く人に声をかける売り子。その中から捜していた相手を見つけるや、拓実はそちらへと向かって大声を張り上げる。

 驚いた通行人からの視線が一斉に櫓の上へと集まる。どういった技術によるものなのか、その声はがやがやとうるさい街中でも遠く響いた。

 

「お前ら、聞いたかぁ! 丙組は甲組に合流しろぉ! このまま一気に前後から押さえ込むぞォッ!」

「おうっ!」

 

 大通りから小道へと走っていた警備隊長の声に従い、各方向へと散開して逃走経路を誘導していた警備兵が合流し一塊となって進行していく。それを見届けると拓実は物見櫓から飛び降り、またも駆け出した。次に目指す先は包囲予定位置である。

 

「ここ、すぐに警備隊が通るよ! お店の人、荷物どけてー! 歩いてる人、危ないから端っこに寄ってくださーい!」

「ほらほらっ! あんたら、何をぼさっとしているんだい! 許定ちゃんの言うとおりだよ、さっさと道を空けな!」

 

 小道を走る拓実が周囲に呼びかけていくと、呼応するように声が上がった。混雑していた道から人波はさっと開いていき、視界の開けたその先――別の通りとの交差前には、おっちゃんと呼ばれていた乙組の警備兵たちが待ち構えていた。

 拓実はそれを見届けると、邪魔にならないように周囲の通行人を誘導しながら共に道の端へ避難していく。

 

「ちっ、くそっ!」

 

 得物を手に逃げ惑っていた暴漢は人気の薄れた通りに取り残されることになった。そして、前方にいる木盾を抱えて腰だめに構える警備兵に驚いて引き返すも、後方からは四人の兵が追ってきている。

 手に持った太刀を前へ後ろへ構えているうちに男は四方を囲まれて、一斉に警備兵たちから六尺棒(180cmほどからなる樫で出来たもの)を突きつけられた。力が抜けたようにその手から太刀がこぼれ落ちて、乾いた音を立てる。男は肩を落として項垂(うなだ)れた。

 

 

「みなさん、ご協力ありがとうございましたー」

 

 警備隊によって無事に男が引き立てられていく間、拓実はそこから離れて笑顔で周囲に礼を述べていた。暴漢や警備兵たちによって蹴倒されたりして乱れた外観を元通りに直しては、町民に怪我がないかを確認して回り、該当する者には腰に下げていた傷薬を手ずから塗ってやる。町民たちもそんな偉ぶった様子のない拓実に感謝の言葉を返していく。

 

「許定ちゃん」

「おばちゃん! いっつも手伝ってくれて、ありがとね。今日も助かっちゃったよー」

「いいっていいって、これぐらいなら手伝う内にも入らないよ。ほら、それよりこれ食べな。警備の人の分も一緒に渡しておくから、今日も一日頑張っておくれ。許定ちゃんはどうにも痩せてるからねぇ……少しは太らないと女の子らしくならないよ。好きな男の子が出来てからじゃ遅いんだから、今から気にしておきな」

「あはは、ありがとー。でも、好きな男の子はいらないかなぁ……。あ、こっちは大歓迎だよ。いっただっきまーす」

 

 恰幅の良い中年の女性に饅頭の入った包みを渡されて、拓実は満面の笑顔を返す。もらった饅頭の一つにかぶりつくと、全身を使って手を大きく振ってから、警備隊の仲間と合流するために駆けていく。その途中でも他の者に捕まっては、果物やらを渡されている。それを受け取って無邪気に喜ぶ拓実の姿に、町民にも自然と笑顔が浮かんだ。

 

 

 拓実が警備隊の一員として配属されてから、今日でようやく七日が過ぎる。警備の仕事は大まかに日中・夜中とに分けられた交代制で、少女の姿をしている拓実は夜中の担当を外され、日中の巡回のみを任されていた。

 時間の区切りがしっかり定められていないためいくらか曖昧だが、朝は早く太陽が出る卯ノ初刻(午前五時)から、終わりは日が沈み始める酉ノ正刻(午後六時)を少し過ぎたぐらいである。その中でまた細かく休日や勤務担当時間が振り分けられているが、だいたい一日に八から十時間ほどが実働する時間になるだろうか。

 大規模な街だというのに警備の兵数は六十人ほどだから、いつも人手が足りていない状態だ。

 

 部隊指揮を見て学ぶため、という建前で武将見習いとして出向している立場の拓実であるが、警備隊には本人の希望によりあくまで新入りの一人として入隊している。

 さらに詳しい仕事内容を知らないこと、また成人男性と組み合うだけの力がないことから、暴漢などに相対するにはまだ早いと警備隊長により直接の鎮圧行為を禁じられている。初日には警備が使っている鎧などを着込んで見回りに出たのだが、その重さで身動きが制限されまったく役に立たなかったのである。それらを踏まえて拓実に最低限の力がつくまでは伝達や物見係として働くこととなり、また事態が収束した後の後始末など雑用を任されていた。

 

 そんなこんなで拓実は非力であるが故に、警備隊でただ一人装備の変更を余儀なくされている。速度を優先して鎧の類は一切身につけず、他の警備兵が使っている六尺棒すらも携行していない。

 流石に無手というわけにもいかないので、代わりに折れた六尺棒を再利用して作った一尺半(45cm)ほどのトンファーを持ち歩いている。トンファーの形状をした武器をここでは『(かい)』と呼んでいるらしいのだが、それも本来は三尺以上の長さになるので拓実のは半分ほどしかないものになる。何故わざわざ短いものを使うのかというと、鎮圧時に痛撃を与える役割でない以上、相手の刃さえ受けられるならば長くする必要がない為である。防衛に使うのであれば短い方が取り回しが容易になるとのことだ。

 さらには、反撃せざるを得ない状況でも『拐』を使わずに蹴りを使うようにと拓実は指導されていた。これは腕の力より脚の力の方が強いということもあるし、また拓実では押し合いになった際にまず競り勝てないからであった。華琳と春蘭、そして警備隊の隊長が口を揃えたように「まず真っ向から打ち合うな」と言うぐらいなのだから、拓実は常人と比べても相当に非力なのだろう。

 ちなみに一週間が経った今でも、拓実の筋力は大した変わり映えを見せていない。持久力は多少はついたようではあるがそれにしても劇的というわけではなく、残り一週間となった任期中は伝令係として勤めることになるだろう。

 

 

 ともかく、先ほどのように物見役は何とか形になってきている。だが、それは一週間経った今だからこそであり、入隊当時は酷いものであった。

 拓実が来るまでは物見役や伝達係などはおらず、通報を受けたらそれぞれが現場に急行。何か伝えることがあってもその場で大きく声を上げる程度だったのである。もちろんそんな大雑把な方法では情報の行き違いが起こるのも当然であり、現場につくのが遅れたり、下手人を取り逃がしててしまうことも多々あったらしい。

 また形振り構わず走る悪漢や、警備隊が簡易とはいえ武装したまま大人数で道を走るものだから町民にも怪我を負う者が出てしまっていた。警備には人数も時間も足りていないので、捕り物騒ぎで被害を受けた町民は放ったらかしにされてしまうことばかりだったようである。

 ある程度の成果は出ていたから妥協されていたが、住民からの評判もあまりよくなかった。つまり実力不足から直接的に警備に関われない拓実は、それら放って置かれていた問題を解消させるために尽力することになったのだ。

 

 警備の誰よりも位置を早く把握するために街の通りや構造を暗記し、先回りして現場の情報を確保し隊長へと伝達、その後は仕事の妨げとなりうる通行人へ避難の呼びかけを敢行する。

 拓実の仕事は言葉にすれば簡単なことだが、もちろん実際に行ってみるのでは勝手が違う。すぐさま動いて回ってみたのだが、初めから上手くいく筈がない。道を間違えることは今だってあるし、慣れない拓実の指示では充分でないこともあった。また、他の警備兵たちも拓実からの情報を上手く利用できずに、連携が取れなかったりもした。

 ミスがなければ防げた筈の被害、それを(こうむ)るのは町民たちである。流石に以前よりも悪化するということはなかったが、だからといって罪悪感を覚えないと言えば嘘になる。

 

 無用な怪我人が出てしまうことに責任を感じた拓実がまずしたことは、備品の薬で怪我人の治療してやる許可を警備隊長から貰うことだった。渋る隊長をなんとか説得したその日から行い、あちらこちらへと歩いて回って傷の手当をする拓実の姿は日常の光景となりつつある。

 しかしそうして使っていれば当然、警備隊に備えてある傷薬の減りは早くなる。治療する対象が増えたことで、少なく見積もっても消費量は五割増しとなっていた。警備隊、町民に関わらず怪我人は毎日出てくるのだから、それら全てを賄うには支給されている予算ではどうやっても足りないのである。

 

 本来ならば支給されている予算で出来る限りの努力をすべきだったのかもしれない。けれどより錬度を高めて被害を抑えるよう予防しても、どうしたって怪我人は出てしまうことだろう。そう考えた拓実は怪我人への救護の必要を訴えるために、財政を握っている桂花に掛け合うことにしたのだ。

 元々不遇とされる立場の警備隊にはさほど予算が下りていなかったようで、案外あっさりと話は進んだ。桂花と華琳を相手にしたプレゼンテーションから一日置いて許可が下り、そうして予算増額の申請書を隊長名義で提出したのがつい昨日のことである。予定外の出費に華琳より叱責はされたものの住民感情が悪化しつつあることは憂慮していたらしく、警備隊は無事に追加の予算を勝ち取ることが出来たのだった。

 

 

 

 拓実が警備隊に及ぼした業務上の変化は大まかにそんなものだったが、警備兵としての拓実の成果といえば、より詳しく街の地理を把握したこと、街の人達と仲良くなったことであった。

 それは、拓実が空いた時間をもっぱら自己鍛錬や街を出歩いての交流に充てているからだ。しかし町民と仲良くなったのは拓実としては意図してのものではなく、華琳のお陰とも云える副産物であった。

 

 拓実が華琳により課せられている仕事とは警備隊として働くことではなく、警備隊の内情を知って問題点を探ることにある。もちろん警備の仕事に手を抜くわけではない。拓実は仕事の合間にある休憩の時間を利用し、街の者たちを対象に警備に対する不満を聞き込みしていたのだ。

 そうしてまとめられていく警備の問題点であったが、報告書の為とはいえ聞くだけ聞いておいてそのままという訳にもいかず、拓実は自身の裁量で何とかなりそうなものに関しては改善すべく周囲に働きかけた。流石に金銭を必要とする要望はどうにもならなかったが、警備兵の立ち振る舞いの問題や重点的に見回って欲しい箇所などはそのまま拓実の口から警備隊長へと伝えられることになり、報告された内で達成が難しくなさそうなものについては隊長の指示によって改善されていった。

 

 わざわざ出向いてきて町民の意見に耳を傾け、出来うる範囲で改善していくその仕事振り、また備品を節約するために手ずから傷の手当てをしていた拓実の姿は町民たちに好意的に解釈され、当然のように歓迎されたようであった。

 そうしているうちに、拓実に引きずられる形で警備隊の評判は着々と上昇していく。本隊の兵士に配属されなかったことで不貞腐れていた拓実の同僚も、喜んでくれる街のみんなの姿にやりがいを覚えて始めているようだ。きっかけとなった拓実はといえば、人懐っこい性格もあって毎日顔を合わす街のおばちゃん連中を中心に好かれることになり、警備隊のマスコットキャラクターになりつつあった。

 

 

 反面、警備隊の中での拓実の立ち位置は良いとも悪いともいえないものだった。

 歳の離れた上の者には拓実は好かれやすい。快活で元気一杯の拓実に対して、娘や孫を相手にするような態度で接してくれている。歳の近い少年たちは拓実に対して余所余所しかったりもするが、「おいしいものが好き」と言う拓実を食事などに誘ってくれている者もいる。悪い意味ではなく、新入りである拓実を意識しているのだろう。

 問題は、拓実より年長の青年たちの中に拓実の存在を疎んでいる者がいることだ。それも一人二人ではない様子であった。

 

 彼らが気に食わないと感じているのは、拓実の実力がたいしたものでないからだ。暴漢の鎮圧に参加も許されないのに、武将見習いであるということがやっかみを買っている。また、入隊して一週間の新入りが警備の象徴のように扱われていることもそうだし、華奢な少女であることも侮る一つの要因である。

 確かに住民との軋轢(あつれき)が消えたことは拓実の尽力によるものだと理解できているし、警備の予算増額に関してもありがたいことではある。出来る仕事を精一杯やっていることだってわかるのだが、拓実の行っているそれが警備本来の仕事かといえばそうではないのだ。

 

 もし拓実が、季衣ほどに腕っ節が強かったなら彼らはいくつか不満はあろうとも納得していただろう。姿形が少女であることに対する否定的な意見など、話題にも上らなかったに違いない。

 警備の若者たちのような学を持たざる者というのは、単純に力を崇拝しているのである。武功は、彼らにとっては唯一の立身出世の(しるべ)なのだ。本隊に配属されなかった彼らには、崇拝すべき力に対してさえ劣等感を覚えている。他の者に劣っているという理由で警備に配属され、今や武功を立てる機会も滅多にない状態なのが彼らである。

 そこに非力で、しかし何かと要領良く立ち回る拓実の存在が入ってくる。年若く、自衛すらできるかどうか不安が残るその少女の将来は、武将であるというのだ。

 

 ――彼女と比べれば、単純に戦力という面で見るなら多くを上回っているはず。なのに、なんでこの小娘が武将になれるのだ。

 彼らは若さ故に出世欲を失っておらず、同時に己の限界を甘く見積もっている。また、生半可に年を食っているだけに自尊心もあった。そんな彼らがこう考えるのは当然のことである。夏侯淵将軍のお気に入りという噂もあって拓実に手を出そうとする者や表立って不満を表す者はいなかったが、その存在は彼らにとって面白い筈がなかったのだ。

 

 自分への認識に甘い拓実も、流石に倦厭(けんえん)した空気を感じていた。何となく、自身が一定の人たちに疎まれているのだろうと理解できている。

 しかし拓実としては如何(いかん)ともし難かった。自分が疎まれているのはわかっても、嫌われる理由も、その根が深いのかどうかもわからない。まず権力欲や出世欲というものにいまいち共感できないので、隊長を差し置いて好き勝手にし過ぎたのかなと考えるぐらいである。

 半月の期限での出向であるため華琳次第にはなるが、あと一週間程度でまた別の仕事を任されるかもしれないのだ。下手に手を出して、それまでに解決できるのかどうか。

 幸い、これまでにそれが原因で何か不都合が起こったわけではない。いや、何も起こっていないからこそ、拓実はこの問題に迂闊に着手できずにいたのだった。

 

 

 

 

 

 暴漢を捕らえた後も警備隊は巡回を続け、一通りの業務をこなしているうちに空が赤く暮れる時間になった。拓実は一日の報告を終えて、荷物をまとめて城にある私室へ戻る用意をしていた。

 駐屯所に同僚の姿はない。今他のみんなは夕方の巡回に出ていた。明日は拓実が勤めてから初めて非番で、隊長が連日精力的に働いている拓実を労わって少しだけ早く帰れるように調整してくれたのだった。

 

 そんなまだ他に誰も帰ってきていない駐屯所の入り口には、拓実より一回り小柄な少女が室内を覗き込む姿があった。警備に属している女性は拓実を除くと、他に衛生兵が二名。その中でも一番小柄なのが拓実であるから、同じ警備の者ではないのは確かである。拓実が反射的にその人物に顔を向けるのと、あちらが拓実を視界に入れたのは同時だった。

 

「あ、姉ちゃん。ここにいたんだ」

 

 覗いていたのは、控えめな笑顔を浮かべる季衣だった。扉から顔を出して中の様子を窺っていた季衣は、拓実の姿を見つけると小走りで入ってくる。いつも明るい顔をしている季衣にしては珍しく、表情に冴えがない。見れば分かるほどにはしゅんとした落ち込んだ様子である。

 

「あれ? 季衣がここに顔を出すのって珍しいね。最近は討伐隊に参加しているって聞いていたけど、どうかしたの?」

 

 季衣の沈んだ様子に気づきつつも、拓実は笑顔で季衣を招き入れた。それを見た季衣は拓実の明るい様子につられてか、表情からいくらか(かげ)りが薄れる。

 

「えっと、秋蘭さまが帰ったら朝議を開くから、姉ちゃんも城に戻ってくるようにって華琳さまが言ってて。って言っても、秋蘭さまが討伐に向かったのって昼過ぎだから、たぶん帰ってくるのは夜になるだろうけど……」

「へー。わざわざボクを呼び出すために季衣が?」

「うん。ちょっと、気分転換もしたかったし」

 

 へへ、と小さく笑って、季衣は頭を掻いた。その発言から拓実は、やはり季衣に気分を入れ替えなければならない何事かがあったことを知った。

 

「それで、こんなに急に朝議するって何かあったの?」

 

 しかし、秋蘭が帰ってくる夜までは、いくらか時間がある。それを聞き出すのはお互いが落ち着いてからでもいいだろう。今優先すべきは、警備に専念しろと華琳に厳命されていた拓実まで呼び出された、その理由を知ることである。

 

「うん……姉ちゃんも知ってると思うけど、町民の人たちの中からひっきりなしに暴れる人が出てくるでしょ? その人たちはみんな黄色い布を持ってたんだけど、桂花の話だとこの辺りだけじゃなくて、いろんなところでもおんなじように黄色い布を持ってる人たちが暴れてるんだって」

「黄色の布って……黄巾の乱?」

 

 本当に、まだ発生していなかったのか。そんな考えから言葉が口をついて、拓実は慌てて頭を振った。

 ――黄巾の乱とは西暦184年に張角が扇動して起きた、大規模な農民反乱である。この反乱により当時の王朝である後漢の力は大きく衰退し、代わるように各地の諸侯が台頭し始める、三国時代の始まりといえる出来事である。

 拓実は荀攸として勉学に励んでいた時に、自分がいる時代を調べたことがあった。しかし記述が西暦ではないために具体的な年はわからず、確認ができたのは現在の皇帝が劉宏という名であるということ。

 劉宏とは死して後に霊帝と呼ばれる皇帝である。しかし拓実は霊帝という後世で知られた名に聞き覚えはあれど、流石にこの時代で使われていた実名までは知らなかった。そもそもからして皇帝の名前をあやふやにしか記憶していなかった拓実は、周囲の状況からある程度の年代は割り出せても、それに対する確証をひとつも持っていなかったのである。

 曹操である華琳が後年に就く州牧を既に任されているということもあるし、時代的に曹仁や曹洪などのまだいてはならない人物が加入しているなど、歴史と順序が入れ違っていることも要因のひとつだった。

 

「姉ちゃん?」

「ううん、なんでもない。……んじゃ、遅くならないうちに帰ろっか」

「そーだね。お腹も減ったし」

 

 竹でできた水筒や麻のハンカチを手早く巾着袋に詰めて、片手に下げる。季衣に先導される形で、拓実は城へと向かう為に駐屯所を後にした。

 季衣は落ち込んでいるのか口を開かず、拓実もまた考え事があって会話をする余裕はなかった。足を動かしながら拓実が考えていることは、魏が国家たる基盤が固められるまでどれほどかかるか、どのような障害があるかであった。今いる時代がわかったことで、ようやくいくらかの指針を立てることが出来そうなのだ。

 

 拓実の最終目標、それはあくまで日本へと帰ることにある。もちろんそれを叶えるためには現代日本へ帰国する方法を見つける他にも、この陣営が諸侯に打ち勝った上で、華琳にしっかりとした国家を作ってもらわねばならない。それを踏まえると、いつ隣国から侵略を受けてもおかしくない三国時代を待つのではなく、大勝し、魏が大陸を統一し一大国家を築いてくれた方が拓実としても喜ばしいのである。

 華琳を尊敬し、助力したいと考えるようになった拓実にとっては、本来の歴史などというものにこだわるつもりはない。そもそもからして、歴史に記されていた時代とは実に多くの差異がある。楚漢戦争が記されている史書には劉邦や項羽などもまた女性であるという記述があったし、衣服や金属加工などの文化や技術などが歴史にあるものと同一でないことぐらいは拓実にだってわかる。

 しかし歴史書を見る限りでは、これまでの主要な流れ自体は拓実の知るものと違ってはいない。もしかしたら、今後の展開としてもあまりに逸脱したことにはならないのかもしれない。けれど、今までが歴史通りだからこそ、この歴史では異物である拓実の影響によって今後に変化が生まれる可能性は高い。

 

 どのような変化が訪れるか、今はまだわからない。しかし時代の契機が後年に起こる赤壁の戦いとなるのは想像に難くなかった。

 208年に起こったこの戦は、魏だけでなく蜀や呉の勢力にとっても大きな転機である。史実どおりだとすれば、180年代であろう今から約20数年後の出来事だ。その頃にはきっと拓実も壮年といって良い年齢になっているのだろう。

 赤壁の戦いは、劉備・孫権らの連合軍に大敗してしまうことで、それまで最大の勢力を誇っていた魏が力を大幅に失うきっかけとなった戦いである。これによって魏・蜀・呉間の国力が近くなり、三国時代へと移り変わることになるのだ。この敗北さえなければ魏は統一という形で地盤を固めることが出来ていただろう。それほどまでに、他の二国に対して当時の魏は国力の面で優勢であったのだ。

 もしそこで歴史通りの敗北を喫すことになれば、その後数年は慌しく、結果的に曹操の息子の曹丕が帝位を戴くことになるとはいえ、魏は疲弊していくことになる。そうなっては拓実が帰る方法を見つけていたとしても実行は出来なくなるだろう。その時まで拓実に帰国する熱意があるかはわからないが、可能性は完全に絶たれるといっていい。

 

 ならばどうすべきか。もしも今後の出来事がまったくの史実どおりであるとすれば、小手先の策ならいくつかは考え付く。

 『勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし』というように、勝因はなくとも戦の敗因というのは確実に存在している。赤壁の戦いにしても有名なだけに後年でその敗因をいくつも語られている。その要素を一つ一つ潰していけば、あるいは呉・蜀同盟軍にも魏が勝つことが出来るのかもしれない。

 

 けれど、それが通用するのはまったく同じ条件で両軍が展開されること、また拓実の策に対して諸葛亮や周喩が何の対策もしてないことが前提となる。

 まず、同じ条件というのが不可能である。他にもあるかもしれないが、拓実が華琳の下にいる今の時点でもう崩れてしまっている。その影響が他陣営にも誤差となって発生するのかどうか、それすらもわからない。

 つまり史実に比べて振り幅があるこの三国時代においては、そんな遥か先の出来事を考えていても仕方がないのである。考えれば考えるほど予定外の事態に対応が取れなくなってしまうだろう。

 

 華琳を勝たせるためにはどうすればいいのか。拓実が考え至った結論はそう難しいことではなかった。魏の国力を富ませ、兵力を増やし、外交によって史実以上に優勢な状況を作ることであった。劉備・孫権が連合を組んでも無駄と思わせるだけの勢力を作り、真っ当な戦をさせなければいい。

 もしそれが叶わず戦になろうとも、地力が違えば華琳が執る方策にも幅が出てくることだろう。どういう訳なのか拓実は名軍師とされる荀攸の名を頂いているので、献策するに困らない立ち位置でもある。

 拓実一人では諸葛亮や周喩には勝てなくとも、荀彧である桂花や、未だ見ぬ賈駆、程昱らと知恵を合わせれば、歴史を代表する軍師たちとも渡り合うことぐらいは出来るかもしれない。

 

「……姉ちゃん、聞いてる? ねえ、姉ちゃんってば」

 

 ふと気がつくと、目の前へ回った季衣が拓実を覗き込んでいた。何度か呼びかけられていたようだ。それにようやく気づいて拓実は何度か目を瞬かせた。

 いつもの季衣であれば、そんな拓実に頬を膨らませて少し怒った素振りでも見せただろう。しかし今の季衣は気落ちしているのを引きずっているのか、不安気にしているだけだ。

 

「えっと、ごめん。何だっけ?」

「だから、お城に戻る前に何か食べていかないかな、って。姉ちゃんもご飯まだでしょ?」

「うん。まだ食べてないよ。今日は頑張ったから、いっぱい食べられるよ」

「姉ちゃんってば、いつもそう言ってあんまり食べられないじゃん。せめてボクの半分は食べられるようにならないと」

「そりゃ、季衣ほどには食べられないけどさ。前よりは増えたんだってば。もっと食べないといけないのはわかってるけど、これ以上は無理だよー」

 

 言って苦笑いをしながら、拓実は頬を掻いた。華琳の言いつけではないけれど、確かに拓実の食事量は増えていた。毎日朝から晩まで街中を走り回っているからだろうか、何かとお腹が減って仕方がない。欠かさず三食食べるようになっただけではなく、街の人からおやつを貰って間食したりもするようになった。

 食事を(おろそ)かにしていた荀攸であった以前よりも、体には力が漲るようになった。ただ、それでもやはり体重は華琳と同じぐらいで頭打ちしてしまってはいるのだが。

 

「まぁ、それはいいや。そんなことより、季衣も何か話したいこと、あるんでしょ?」

「……う、うん。でも、何でわかったの?」

「そんな顔してるのに、わかんない筈ないじゃん」

 

 笑う拓実に、戸惑ったように自身の顔をぺたぺたと触れる季衣。どうやら今まで、上手く繕えていたつもりのようだ。それを見て、拓実はまたくすりと笑ってしまう。

 

 

 拓実の勧める飯屋で、机に対面に座った拓実と季衣はそれぞれ注文を終える。拓実が麻婆豆腐、季衣が中華丼である。警備の同僚である劉少年(何かと食事処の情報を提供してくれる。ちょっとだけ挙動不審だけどいい子)が言うには、早い、多い、美味いと評判らしい。

 どうやら彼の言うとおりらしく、注文して数分で料理が出来上がった。特別美味いという訳ではなくそれなりに頂ける味だったが、量はしっかり普通の店の五割増しといった感じである。季衣や育ち盛りの少年にはちょうどいいお店だろう。

 

 食事をしながら季衣がぽつぽつと語るのを聞くに、何やら朝議の席で華琳と意見がぶつかったということだった。賊が出没したとの知らせを受けてすかさず討伐に立候補する季衣だったが、最近の季衣の頻繁な出兵を理由に却下されてしまった。頑張れば頑張るだけ多くの人を助けられるのにと抗弁するも、限度があると華琳に一喝されて止められたということだ。春蘭や秋蘭にも同じ理由で(たしな)められてしまったのだが、季衣としてはもっと頑張れるつもりでいるらしい。ただ、無茶をしている自覚も多少はあるようで、最近は以前にも増して暴飲暴食が目立ってきているようではある。

 生憎この一週間のほとんどを警備の仕事に費やしていたので季衣とあまり会うことはなかったのだが、拓実も、季衣が結構な頻度で討伐隊に参加していることを警備隊にいながら耳にしていた。必要なことは華琳が伝えていることだろう。加えて、討伐の際での季衣のやり取りを知らない拓実には言える事などは限られていた。

 

「毎日そんなにがんばってるのに、季衣は疲れてないの?」

 

 皿を綺麗に空にして、口元を手巾で拭ってから、拓実は季衣に訊ねてみた。見ている限りでは特別に疲れている様子は見られないが、春蘭や華琳が止めるほどだ。余程の事なのだろう。

 

「大変だけど、でも今から討伐に行けって言われたってボクはぜんぜん平気だよ。ボクががんばらなかった所為で人が死んじゃったりしたほうが、もっと辛いから」

「うん」

「でも、華琳さまの言うこともわかるんだ。疲れてきちゃった時に賊が暴れだして、ずっと戦い通しになって、いつもの力が出なくて誰かを守れなくなったりしたらいやだし。でも困っている人がいるのがわかってるのに、何にもしないで休んでたりしなさいって言われても、助けてあげたくなっちゃうんだもん」

 

 「おじちゃん、おかわり」と声を上げる季衣と机を挟んで、拓実は唸る。手慰みに空の食器に置いたレンゲを人差し指で弾いている。

 季衣にしてもわかってはいるのだろう。どうしたほうがいいのか、頑張りすぎることがどれだけ回りに心配をかけているのか。また、華琳の言うとおりにした方がより多くの人を助けられるだろうことも理解している。ただ、それは感情を納得させる理由になっていないというだけなのである。

 

「んー」

 

 だが、拓実はそれを上手く説ける気がしないでいた。荀攸としてならば損益の観点で語っただろうが、どうにも頭の中で意見がまとまらないのだ。しばらく考え込んでいたが、結局上手くまとまりそうな感じがしないため、拓実は話を聞いて感じたことをそのまま話すことにした。

 

「季衣はどっちが正しいと思うのか、自分の中では決まってるんでしょ? 華琳さまや春蘭さま、秋蘭さま、それに桂花とかみんなが季衣のことを心配してることとかもわかってるんだろうし」

「うん」

「んじゃ、いいんじゃない。季衣がしたいようにしたらさ」

「え、ええっ?」

 

 拓実の言葉に、二杯目の親子丼を食べる手を止めて、目をまん丸にする季衣。まさか肯定されるとは思っていなかったのか、まじまじと拓実を見つめている。

 

「だってさ、季衣が華琳さまとか春蘭さま、秋蘭さまとかの話に反対してでもやりたいんだったら我慢してもしょうがないじゃん。だったらやりたいようにやるしかないでしょ。季衣だってぜんぜん大丈夫って言ってるんだしさ。もう、華琳さまも春蘭さまも季衣のことちゃんと見てないんだなぁ」

「姉ちゃん、待ってよ! 華琳さまも春蘭さまもボクのこと心配してくれて言ってるんだよ! そんなんじゃあ……!」

 

 焦った様子で拓実の言葉の続きを止めようと声を上げる。慌てた拍子にくっついたのか、口元のご飯粒には気づいていない。

 

「でも、季衣がどうしても賊退治に行きたいって言ってたら、季衣がみんなのことを信用してないってことになっちゃうかなぁ」

「あっ、えっ? ど、どうして?」

 

 どうやらいきなり展開が変わり、季衣はついてこれないようである。先程までの詰問する様子は消えて、やけに素直に拓実に聞き返す。

 

「だってさー、今のボクみたいにちゃんと助けられるかわからない奴が代わりだったら反対してもしょうがないけどさ、秋蘭さまや春蘭さまとかなら代わりに行っても助けてあげられるでしょ。それなのに季衣がどうしても行くって言ったら、春蘭さまとか秋蘭さまじゃちゃんと助けてあげられませんって言ってるようなものじゃない?」

「う……」

「助けられない人が出ちゃうなら季衣の言ってる事にボクも賛成だけどさ。季衣が休んだ方が今よりいっぱいの人を助けられるなら、季衣は我慢して休まないといけないんだとボクは思うよ」

「ぶー……。そう言われちゃったら、ボク休むしかないじゃんかぁ……。姉ちゃん、イジワルだよ」

 

 拓実の意図に気がついたか、季衣が口を尖らせた。手に持った丼の中身を掻き込み、中華丼、親子丼の丼料理五杯目を完食する。量にして優に七人前。それだけ食べてようやくある程度お腹にたまったらしく、次の「おかわり」の声は上がらない。

 器を置いて一息つくと、季衣はいたずらを思いついたかのようににやっと笑って、拓実へと向き直った。

 

「……ま、そうだよねー。姉ちゃんにはボクの代わりは無理だもんねー。姉ちゃんじゃないなら、ボクも安心して休めるしさ!」

「むっ。なんだよそれー! 『今の』って言ったじゃん! ボクだっていつまでもこのままでいるつもりはないからね! これでも季衣の姉ちゃんを任されてるんだから、すぐに季衣に追いついてやるんだから」

 

 季衣の言葉に、かっとなって思わず立ち上がる拓実。身を乗り出して季衣に指を突きつける。予想通り過ぎる反応に、季衣も気を良くしたか挑戦的な笑みを浮かべて見せた。

 

「へっへっへー、どうかなー? 姉ちゃんすっごい弱いしなー。そんじゃ今度一緒に春蘭さまの調練に参加してみよっか?」

「望むところだよ!」

 

 そんな売り言葉を、拓実はあっさり買ってしまう。鼻息荒く季衣のことを睨んでいるが、拓実にはどうにも迫力がない。子供染みた挑発にあっさり乗っかってしまう拓実の様子がおかしいのか、季衣は声を上げて笑い出した。その笑顔に、先ほどまでの憂いはもう見えなかった。

 

 



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19.『許定、許緒と共に証言するのこと』

 

 食事を終えた季衣と拓実はじゃれ合いを止めて定食屋を出た。外に出て見上げてみれば西の空では太陽が沈みきろうとしていた。

 日が完全に暮れてしまえば後は休息の時間。残すは夕飯を済ませて寝るか酒屋で呑むかするだけなものだから、仕事を終えた街の人たちも家路を急いでいる。そんな中を進んでいく拓実は防犯灯となる篝火(かがりび)を準備している警備兵たちや、知り合いの町民たちを見かけては手を振って声を掛けて挨拶していく。

 

「~~♪ ~♪」

 

 何人かと挨拶を交わして表通りに出た二人が城の入り口に向かっていると、明るい歌声が拓実へと届く。拓実は改めて目の前の小さな背中を見た。

 足取り軽く歩いているのは季衣。少し調子を外しながらも元気に歌を歌っている。見る限りでは普段よりも機嫌が良いのかもしれない。先ほどまでの沈んだ様子と比べれば一目瞭然である。

 少なくとも彼女の悩み事は納得できるところまで落ち着いたようだ。拓実は思ったことを好き勝手に言っただけだったが、何を言ったかなんてことは関係なく季衣は誰かに話を聞いて欲しかっただけなのかもしれない。

 それでも季衣の力になれていたことに拓実は胸を撫で下ろしていた。華琳や春蘭、秋蘭、桂花も同じく思っているだろうが、拓実もまた元気いっぱいの季衣が好きなのである。沈んだ季衣のことを何とかして励ましてやりたいと思っていたのだ。

 

 ふと、拓実は季衣とこの姿で初めて会った時のことを思い出していた。それは一週間前に春蘭と手合わせをした後のことである。

 白打での調練を終え、手合わせに使っていた剣を片付けた後、手隙となった拓実は中庭の木陰に逃れてぼんやりと空を眺めていた。久々に思いっきり体を動かした為に空腹に苛まれていたのだが、春蘭にぼこぼこにされてしばらくの間は動くのも億劫であった。

 木の幹に背を預けてそのままでいると、疲労もあって瞼がゆっくりと落ちてくる。拓実が眠気で朦朧としながらなんとか意識を保っていると、その隣に誰かが座ったことに気がついた。ぐったりとした拓実に声を掛けてきたのは、両腕にいっぱいの団子を抱えた季衣だった。どうやらぼろぼろになっている拓実を見かけて心配してきたようだ。

 

 季衣の持っていた団子を二人で分け合い、食べながら話していると、季衣は目の前の人物が自身を模していること、また拓実であることに気づいたようだった。そうなれば早かった。荀攸としてより性格が近いためか、あっさりと季衣は許定としての拓実に懐き、時を置かずして打ち解けた。

 形式上では既に姉妹となっているとはいえ、何かしらの区切りは必要だろうと考えた季衣は、団子を分け合って食べたことを以って姉妹の契りとした。あまりに前代未聞、突飛な姉妹の契りに、季衣と拓実はお腹を抱えて笑い転げたものだ。

 

「~~♪ ~~~~♪」

 

 そんなことを思い出していた拓実。その時に見た元気な季衣が目の前に戻ってきたことを実感していた。楽しそうな歌声を聞いているうちに拓実も何だか嬉しくなってきて、思わず季衣に合わせて歌声を乗せる。

 警備として巡回している時、なんとなしに口ずさむことがあるぐらいには拓実もこの曲を気に入っている。童歌などを除けば、唯一覚えているこの時代の曲だ。

 

「わ、姉ちゃんもこの曲知ってたの?」

 

 重ねられた歌声に気づいた季衣が勢いよく振り向いた。思わぬところで嗜好を同じくする同士を見つけた喜びからか、瞳を輝かせている。拓実は笑って鼻を掻いた。

 

「うん。一週間ぐらい前にちょこっとだけ。休憩時間だけだったから聴けたの一曲だけだったけどねー」

 

 拓実がこの曲を知ったのは五日前のことで、休憩時間に警備隊への希望を町人に聞いて回っている時のことだ。中央広場を通りかかった時、ふと歌声と歓声を耳にした。

 見れば、人一人分高くなった台の上にいる少女たちが周囲からの声援を受けているところであった。歌から察するに歌劇か、それとも歌唱会か。歌か劇かの違いはあるが、久方ぶりに見る舞台に興味津々の拓実は引き寄せられるようにそこへと近寄っていった。

 向かった先には、三人組みの旅芸人だろう女の子が振り付けと一緒に歌っていた。演奏されている曲は明るくて覚えやすい。振り付けと衣装もあって、まるでアイドルグループを見ているようだった。

 意識して聴いているとその曲には以前どこかで聴いた覚えがあったものだ。そうしてよくよく見てみれば、拓実はその三人の容姿にも見覚えがある。思い返してみれば華琳たちと街に視察に来た際に見た、未来的な格好をして道端で歌っていた旅芸人たちであった。

 

 拓実は素直に驚嘆していた。少し見ぬ間に彼女たちは随分と精進したようである。現代で知られている舞台での表現技術の幾つかを、この時代の彼女たちは僅か一ヶ月ほどの間で実践に漕ぎ着けていたのだ。

 並んで立ったまま歌っていた以前とは違って、歌と一緒に踊っては道行く人の目を引き、ソロパートでは立ち位置を入れ替えて上手く印象に残るように立ち回っている。

 歌詞の合間には聴衆の熱を冷めさせないように声をかけて、場を上手く盛り上げている。振り付けにしてもリズミカルで小気味よく、見ている者たちは無意識に拍子を取るほどだ。

 どうやらそんな彼女たちの試みは上手く功を奏したようで、視察の日に見かけた時は数人が聴いているだけでそれほど人気があった様子ではなかったのだが、その日の舞台の周りには聴衆や応援者が絶えないでいたものだ。

 彼女たちの歌が山場を迎えれば、それに同調するように周りの聴衆たちの盛り上がりも最高潮となっていく。最前列の熱心な応援団からは「ほわ、ほぉぉ、ほわぁぁぁあぁああ!」と形容し難い奇声が上がっていた。

 拓実の頭の中では日本にいた国民的アイドルの熱心な追っかけと姿が重なった。その存在を知っていたから拓実にはいくらか耐性があったが、初見である周囲の町人たちは応援団のその奇妙な様相に若干距離をとっていた。それでも声が届く範囲から去る人が少なかったのは、舞台演出だけでなく彼女たちの曲自体に魅力があるからだろう。

 

 生憎、休憩が終わろうとしていた拓実は一曲だけを聴いて広場を後にしたのだが、後日町人に聞いたところその日のうちに陳留を発ってしまったらしい。実は突発での公演だったらしく、人が集まりすぎたために苦情が出て、警備から解散命令が出ていたということだ。少女達はそれをいちはやく察知し、厄介なことになる前に街を出たようである。

 旅芸人などでも普通は数日の間に渡って滞在するものだから、非番の日に改めて季衣と一緒に見に行こうかと考えていた拓実は残念に思ったものだ。ただ、どうやら彼女たちは大陸のあちこちを数日置きに巡業しているようなので、拓実はまた近くに来れば会えるだろうと次の機会を密かに楽しみにしているのである。

 

 その彼女たちが歌っていたものが、今季衣と拓実が口ずさんでいた曲である。季衣が歌っているのはこの曲のメインボーカルらしいおおらかそうな少女のパート。拓実の歌っているのは、三人の内で勝気な子が主旋律に重ねていたパートである。

 眼鏡をかけていた子のパートを歌ってくれる人がもう一人いれば完璧なのだけれど、華琳や春蘭、秋蘭、桂花がこの曲を歌ってる姿を、拓実はどうにも想像できない。

 

「ボクもこの曲、大好きなんだ! えっと、歌ってる人は……確か、張三姉妹って言ってたかな」

「へぇー、あの人たちって三人姉妹なんだぁ。知らなかったな。でも、あんまり似てなかったよね?」

「へへ、名前とかは応援団の人たちぐらいしか知らない秘密の情報なんだって。ボクも追っかけの人に聞いたんだけどね。えっとねー、姉ちゃんが歌ってたのは、二胡(にこ)を演奏しながら歌ってた張宝っていう人のところでー。ボクが歌ってたのは琵琶を弾いてた張角って人。あと一人、太鼓を叩いてたのが張梁って人だね。って、あれ? 張角……って、今日どこかで聞いた気がするんだけど、どこで聞いたっけ?」

 

 季衣が得意気に語るのを聞いていたのだが、途中から拓実は動きを停止させていた。言うまでもない、張角とは黄巾の乱を引き起こした人物の名である。それを思わぬところで聞いたものだから頭の中が真っ白になってしまっていた。

 

「あー! そうだよ! 桂花が言ってた、黄色い布を持って反乱を起こさせている人の名前じゃん! 姉ちゃん! 行くよっ!」

「えっ、え? どこに?」

 

 季衣の上げた大声に、茫然自失していた拓実がびくっと身を震わせた。慌てた様子で声を張り上げる季衣に拓実が思わず聞き返すが、季衣は答えを返す前に拓実に近寄り、その手を握る。

 

「何言ってるのさ! 華琳さまのところだよ! 姉ちゃんだってあの人たちの公演、見たんでしょ! ボクと姉ちゃんしか張角のこと知らないんだから、すぐ華琳さまに報告しなきゃ!」

「う、うん。わかった!」

 

 季衣に手を引っ張られ、今までゆっくりと向かっていた城への道を駆け出した。

 最初こそ戸惑って季衣にされるがままついていく拓実だったが、状況を飲み込むと、ぐん、と加速する。力比べはともかく、足の速さなら拓実は季衣にも負けてはいない。結構な速度で並んで走る二人の姿に、何事かと周囲は驚いた。

 

 

 

 ところどころに篝火が焚かれ、物見櫓にて兵士が控えている他は寝静まっている。そんな穏やかな陳留の街とは違い、城では慌しさを見せていた。賊討伐へと向かっていた秋蘭が帰ってきたのだ。

 朝議は既に始まっている。華琳の命を受け席を外している春蘭を除いた、主だった人物が一堂に揃っている。その中には、一応武将の一人として拓実の席も用意されていた。

 警備隊で見習いをしている許定は、本来この場に参加できるほどの立場にない。何故参加しているのかといえば、表向きは張三姉妹の目撃者としてである。もちろん実際のところは今回の軍議が今後の展望を決め兼ねないことから、いざ影武者として振舞う時のために華琳と知識を共有させるためである。目撃者でなくとも、なんやかんやと理由をつけて同席していたことだろう。

 

「――と、季衣や拓実が見たと言う、張角と思しき人物の特徴はこんなところね。それでは、秋蘭。貴女には討伐と一緒に偵察任務も任せておいたのだけれど、そちらでは何かわかったのかしら?」

 

 朝議の始まった玉座の間では、華琳が二人からの報告をまとめて場にいる全員に伝えていた。それを聞いたそれぞれの表情はいつも以上に鋭いものへ切り替わっている。その情報が真実のものならば、立て続けに起こっている反乱を根から絶つことが出来るかもしれないのだ。真偽を確かめるべく、全員の視線が報告者である秋蘭へと集まった。

 

「はっ。討伐に向かった先の村で聞き込みをしたところ、女三人組の旅芸人が立ち寄っていたという情報がありました。外見特徴は季衣や拓実が見た張角とほぼ一致しております。ほぼ間違いなく同一人物でしょう」

「そう。桂花のほうは?」

 

 落ち着いた声色で報告を上げる秋蘭。それを聞いた華琳は相槌をひとつ打ってから、控えている桂花へと顔を向けた。自然と周囲の注目も秋蘭から桂花へと移る。彼女は向けられる視線に意を介した様子を見せずに前へと進み出でて、(うやうや)しく口を開いた。

 

「二人の報告を受けてより、取り急ぎ反乱蜂起地点に調査の兵を送りました。帰ってきた兵の報告では、どの場所でも三人姉妹の旅芸人が立ち寄っていた模様です。遠方地へ送った兵は帰ってきてはいませんが、それらも明日には揃うことでしょう。しかし帰ってきた多くの兵が同様の報告をしていることから、おそらくはそちらも……」

「どうやら間違いはなさそうね」

 

 朝議の参加者たちから「おお」とどよめきが上がった。首謀者を覆い隠していた靄が少しだけ薄れて、皆の表情に若干喜色が混ざる。

 今まで一切の詳細がわからなかった張角に、少なくない者が不安を覚えていたのだ。連日起きる反乱を討伐して回り、それでも一向にその原因が見えずにいた。それぞれが暗中模索していた思いだったのだろう。

 

首魁(しゅかい)は旅芸人……一体何の目的を持って民を扇動しているというのか」

 

 周囲の気持ちが上向きになっている中、華琳は視線を鋭くしたままである。そんな考える様子を見せていた華琳だったが、すぐに頭を振って天を仰いだ。如何に華琳といえども、その三姉妹についての情報が不足していてはどうしようもない。ついと目撃者である二人を見やった。

 

「季衣。張角と姉妹だという他の二人についてあなたが知っていることを、何でもいいから話してごらんなさい」

「あ、はい」

 

 言われ、顎に指を当てた季衣はぼんやりと宙を眺める。そんな季衣に、ざわめいていた参加者たちの視線が集まった。

 

「えっとですね、三人は周りの人たちから張三姉妹って呼ばれてるみたいです。張角が一番年上で、真ん中が張宝、張梁って人が一番下です。歌とか踊りとかで観ている人からお金をもらってて、応援している人はけっこういるみたいです。北西の村でたまたま見かけたときも、始まったばかりなのに百人ぐらいが集まってました。あと、あんまりひとつのところにはいないらしくて、色んなところに行って公演してるって応援団の人が言ってました。ボクが知ってるのはこれぐらいです」

 

 ふむ、と華琳は頷く。聞くべきところはあったらしく、情報を頭の中で吟味しているようだ。そうしてしばらくの間の後、今度は拓実へと顔を向ける。先ほどまでざわついていた武将たちはいまや音をひとつも漏らさず静まり返って、神妙な顔をして話し込む華琳を見つめている。

 

「それで、拓実はどう? 何か気がついたことはあるかしら?」

「んーと、そうですね。ボクが知っていることってあんまりないんですけど。舞台の上で話していた感じだと張角はのんびり明るい感じの人で、張宝は勝気でちょっとせかせかしてたかなぁ。張梁って人はいまいちわかりにくいですけど、頭がいい人だと思います。一月ぐらい前に陳留でも公演をしていたみたいだけど、その時は聴いてる人もあんまりいなかったです。たぶん、こんなに人気が出たのって最近になってからだと思うんですけど、季衣と違って話してるところと歌っているところをちょっと聞いただけだったから、あとはどんな格好をしているかとか弾いていた楽器ぐらいしかわかんないです」

 

 話し言葉やその言葉回しからは性格や知性が垣間見える。彼女たちの言葉回しを拓実が今まで生きてきて出会った者に当て嵌めてみると、同系統の人間が浮かび上がってくる。

 拓実のこの推察に論拠となるものはなかったが、人間観察してきた経験から当たらずとも遠からずというところだろう。

 

「あっ、ただ……」

「……ただ?」

「何で悪いことをしてるのかとかはわからないんですけど、でも、三人が心の底から公演を楽しんでいたのは本当のことだとボクは感じました」

 

 それだけに、彼女が彼の張角であると聞いてから拓実は人知れず戸惑っていた。そしてずっと考えていたのだ。彼女たちのあの舞台は、本物だったのかどうかを。

 そうして考えた末に出た結論が、拓実の今の発言である。歌っている三人は、好きなことをしている人特有の生き生きとした表情を浮かべていた。人を集めるための手段として作った笑顔とは違う、心からのものであると確信に至った。観ていたのは僅か五分ほどだったが、その時の様子を拓実が未だに覚えていられるのは、夢を叶えようとする三人の笑顔が印象深かったからだ。そんな人たちが民を扇動し、反乱を起こしているという。戸惑っていたというのも、公演の時に感じた彼女たちの印象と、起こしている騒動が繋がらずにいたのである。

 

「……」

 

 華琳は拓実を無言で見つめる。拓実もまた華琳を真っ向から見つめ返した。そうして数秒が経ち、華琳が根負けしたように目を瞑って、深く息を吐いた。

 

「そう、なるほどね。拓実が言いたいことはわかった。いいでしょう。それも張角を捕らえてみればわかることよ」

 

 周囲を見回した華琳は言葉を繋げる。

 

「都では黄布を持つ暴徒を鎮圧する正式な軍令が告達される動きがあるわ。これが成れば、晴れて大軍を派兵する名分を得ることになる。また、季衣の証言で賊徒の首魁についても目星はついた。我が軍は以後、賊徒を鎮圧する為に動くこととなるでしょう。既に春蘭には出兵の準備を任せて……」

「華琳さま、失礼いたします!」

 

 扉が開け放たれる。そこに急ぎ駆けてきたのは、その準備を任されている筈の春蘭であった。

 

「……春蘭? いったいどうしたというの」

「桂花が各地に送った兵より、賊徒蜂起の報告が。南西の村にて今までにない規模で展開しているようです。確認できるだけでも三千。現在も数を増やしております」

 

 華琳の前に跪いた春蘭は、右手で作った拳を左の手の平で覆い隠した礼――包拳礼を取る。本来ならばそこに至るまでいくつも手順があるのだが、それを取るだけの時間も惜しいのだろう。危急の時ということで華琳に春蘭を咎める様子はない。

 

「三千……確かに今までの数百名ほどとは桁が違う。それだけの数、複数の集団が合流したと見るべきか……となると、指揮する者がいるわね。どちらにせよ、我らは後手に回ったのは間違いない。それで、直ぐに出せる部隊は? また、全兵力を当てるとするならどれほどかかるかしら」

「は、直ぐに出立できるのは当直の兵に、物資確認を任せた部隊がおります。合わせて七百ほどかと。他の兵は既に休ませている上、兵糧がまだ届いておりません。午前中を予定していた物資運搬を現在急がせております。全兵力が準備を終え、出立するのは日が完全に出てからに……」

 

 春蘭の報告に、玉座の間は一時騒がしくなる。武将たちの間で口々にどうすべきかと声が上がった。準備が整うまで待つのか、それとも寡兵を以って討伐に当たるのか。

 いくら相手が百姓上がりの盗賊集団とはいえ、三千に対しての七百では多勢に無勢というもの。かといって朝まで待てば村人たちの被害は甚大なものとなろう。民たちを思えば今すぐ出るべきであるが、それで殲滅されてしまっては元も子もない。

 

「華琳さま! ボクが出ますっ!」

 

 事が事だけに意見は統一されない。そんな中、張り詰めた少女の声が響いた。どうしたものかと紛糾していた武将たちは口を閉ざして声の主を見やる。

 

「季衣! お前は休んでおけと言われていただろう!」

 

 手を高く挙げ、発言をしたのは季衣であった。華琳は黙したまま、じっと季衣を見つめている。言葉を発しない主の代わりに、春蘭がいきり立つ季衣を諌めた。常人が聞けば(おのの)くだろう声を受けても、季衣が怯むことはなかった。

 

「大丈夫です! 夜までのんびりしてましたから、もう元気いっぱいです! 華琳さまだって、ボクにはこういう時にがんばってもらうって言ってたじゃないですか! それに、百人の民を見捨てたりはしないって! だったら!」

 

 季衣は声を荒げながらも、揺らがせることなく華琳を見つめ返している。そうして幾ばくかの間を置いて、華琳がゆっくりと口を開いた。

 

「……そうね。それでは、季衣。今動ける七百をつれて先発隊として向かいなさい」

「華琳さま!」

 

 喜びに眉を開いた季衣が明るい声を上げた。

 

「季衣、先遣隊の目標は賊の殲滅ではなく民の救出と村の防衛よ。直ぐに本隊を送るから、それまで持ち堪えることを優先させるように」

「はいっ」

「秋蘭、貴女には季衣の補佐を任せるわ。帰ってきたばかりで疲労しているでしょうから、必要ということならばもう一人副将をつけることを許しましょう。その選別は秋蘭に一任するわ」

「はっ!」

「春蘭、今すぐ寝ている兵を叩き起こしなさい。兵を使って物資の運搬を急がせれば日が出る前には出立できるでしょう。桂花。蜂起地点の地図を用意し、地理を考慮に入れて本隊の進軍経路を割り出しなさい。そちらについては一任しましょう」

「承りました!」

「お任せください!」

 

 華琳より役割を指示された将らはその場に跪き、礼をとって了解の声を返していく。

 

「本隊の総指揮は私が執る! その他の者は春蘭を手伝って兵を纏めなさい! ……通達は以上、各人為すべきことを為しなさい!」

 

 最後に「応」と大音声が響くや、各々は一秒が惜しいとばかりに駆け出していく。

 

 

 あっという間に玉座の間からは人が去っていった。そうして残るのは拓実と華琳、秋蘭だけとなる。これまで軍議に参加したことのなかった拓実は慌しく動く事態に反応も出来ず、呆然と眺めていただけである。拓実が出入り口を見ながら立ち尽くしている間にも、秋蘭と華琳は話を進めている。

 

「――はい。それと華琳様。私以外に季衣につける補佐の件なのですが。やはり部隊指揮にもう一名、将を借り受けたく……」

「ああ、そうだったわね。誰を連れて行くつもり? もしかして、拓実かしら?」

 

 自分の名前が出たことで、はっと意識を取り戻す。警備に出向している拓実にはこの場にいた武将の中では唯一やることがない。しかし、見習いとはいえ武将の一人。有事となれば出動を命じられる可能性もないとはいえない。

 あまりに突然なことに拓実は戸惑っていた。今日も賊蜂起の報告が少しでも遅れて朝議中になかったならば、拓実はまた何事もなく毎日を過ごしていただろう。警備で働いて多少荒事に耐性がついているとはいえ、戦に対してはどこかで他所事のような認識をしていた。

 しかし、今回のことでそんな考えは吹き飛ばされた。拓実がたまたま関わりにならずにいただけで、こうして毎日のように起こっているのだ。

 

「そうですね。拓実を連れて行けばいい経験になるかと」

 

 どくん、と拓実の胸が一際大きく跳ねる。心臓の音が体中で反響し、煩くてしょうがない。しかし体は石になったかのようにぴくりとも動いてはくれない。

 討伐隊に随行したところで、今の自分が戦で役に立てるのだろうか。内心で自問自答を繰り返すが満足のいく答えは出てこない。

 

「ですが、今回は急を要するため李冬(りとう)を――曹洪を随伴させたく思います」

 

 李冬――拓実が華琳と手合わせをする際に武器を運んでいた、曹洪の真名である。許定としては交わしてはいないが、荀攸としては何度か顔を合わせて真名の交換を済ませている女性武将であった。

 

「わかっているわ、冗談よ。副将については承知したわ。李冬には貴女から伝えておきなさい」

「はっ。それでは失礼いたします」

 

 すっと音を立てずに退室していく秋蘭。横をすれ違う時、秋蘭は口の端を吊り上げて、拓実の肩を優しく叩いていく。

 それを拍子に、ひゅ、と空気が抜ける音をさせて、拓実は止めていた呼吸を再開させた。秋蘭に触れられるまで、拓実には息を止めていた自覚すらもなかった。

 

「拓実、あなた明日は非番だという話だったわね? こう言ってはなんだけれど、機がよかったわ。陳留守備を水夏(すいか)に任せるから、明日一日は荀攸として彼女を補佐なさい。細々とした書類の処理でも大きな助けとなるでしょう。……ああ、水夏のことは知っているわよね?」

「あ、はい。曹仁さまの真名ですよね。……でも、ボクも武将です。ついていかなくてもいいんですか?」

 

 華琳は頷いて、真剣な表情で拓実を見つめる。秋蘭の計らいで冷静さを取り戻した拓実は、佇まいを正して華琳と向き合った。

 

「今あなたが任されている任務は警備の問題点を纏めることよ。確かに拓実が討伐に参加すれば、不足を埋めることも出来るかもしれない。しかしそれでは討伐より帰還するまで警備の仕事に穴を空けてしまうでしょう。いくら有事で手が足りていないとはいえ、今いる人材だけで処理できる事態にまで強権を発動し、警備の者たちに負担を強いていては施政者として私の面目が立たないわ。けれども秋蘭の言うように、警備への出向が終わればあなたが戦場に赴くことも出てくることでしょう。それは遠いことではない。今のうちに覚悟を決めておきなさい」

「は、はいっ」

「ともかく、七日間働きづめだというのにせっかくの休みを潰してしまって悪いわね。水夏は将としては一級品なのだけれど、内政にはそれほどには強くはない。討伐に合わせて、賊徒が襲撃してこないとも限らないわ。一日とはいえ補佐があればそちらも万全となるでしょう」

「大丈夫です。街に出ておばちゃんたちに警備について聞いて回るぐらいで、他にやることもないですから」

「……はぁ。まったく、そういうところも季衣を真似ているのかしらね」

「華琳さま?」

 

 華琳のつぶやきが聞こえなかった為に拓実は聞き返したのだが、華琳には素気無く手を横に振られてしまった。わざわざ聞かせることでもないという意図のものだろう。しかしため息を吐かれるようなことなのは間違いなく、何か呆れられるようなことを言ってしまったのかと拓実は首を傾げる。

 

「まぁいいわ。それでは私が留守の間は頼んだわよ」

「任せてくださいっ! がんばります!」

 

 そんな拓実を見てもう一つ深く息を吐いた華琳は、最後に言葉をかけて玉座の間から颯爽と去っていく。拓実はそれを見送った後、守備を任されて奔走しているだろう曹仁を一刻も早く補佐すべく、私室へと着替えに走ったのだった。

 

 



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20.『許定、于禁と共に買い物するのこと』

 

 華琳らが蜂起した賊徒の討伐に向かってから一週間が過ぎていた。

 その七日の初日、拓実は曹仁の秘書を任されていたのだが、これは桂花の補佐を延長させたような仕事だった。補佐対象である曹仁の元に訪れてみれば、彼女は責任者の認可書類やら華琳が戻ってきた時のための報告書作成やらに追われ、執務室であたふた右往左往していた。どうやらやることが重なり過ぎると混乱してしまって、逆に手が止まってしまう性格であるらしい。とはいえ拓実の方で案件に優先順位を付けて順番さえ作ってやれば難なくこなせるようで、溜まっていた仕事も二人で取りかかれば夜には曹仁一人で処理できる量にまで減らすことができた。ともかく、拓実にとって久々の頭を使った仕事であったから体を酷使することもなく、それほどの苦労はなかった。久しぶりの内務の仕事にはりきっていたぐらいだ。

 残った六日は当初の予定どおり警備の仕事であった。華琳が不在だからといって直接的な影響はない筈なのだが、街はどうにも不安げに揺れていた。出動回数も平常時より増えていたように思う。とはいえこちらも許容範囲内である。いつもどおり街中をあちらこちらへと駆けては伝令役をこなして回った。

 

 戦力外通告を受け、置いていかれる形になった拓実は戦働きが出来ないことを不甲斐なく思いながら、今自分に出来る仕事を必死にこなしていた。監督していた華琳たちがいないからこそ(たゆ)まず朝から晩まで動き続けた。彼女たちがいない今だからこそ、拓実は少しでも求められている能力を身につけておきたかった。今もきっと華琳たちは黄布の賊を相手に戦っているはず。だからこそせめて次の機会には彼女の力になれるよう、自分も頑張らなくてはならないと考えていた。

 そう考えていた拓実は業務が終わった後の時間を使って、ある場所で人知れずの特訓を自身に課していた。華琳より近いうちに出陣することを告げられ、このままでは同行もできないことにようやく気づいたのだった。

 

 この時代では、主な移動手段は馬である。乗馬でも馬車でもいいが、兎にも角にも馬を制御できなければ話にならない。拓実の失念していたのはこれだった。いくつか突飛と言える特技を持つ拓実でも、流石に乗馬経験まではなかったのだ。このままではいざ出兵だ、遠征だとなっても歩兵に混じって歩きどおさなければならない。仮にも武将の身の上では行軍速度、指揮精度からいってもあってはならないことだった。

 ならばこそ、拓実はこの一週間のうちに練習してでも乗れるようにならなければならないのだが、そう簡単に済む話でもなかった。後世のような補助器具のほとんどが存在していない。(あぶみ)もないため鞍に腰を下ろして両足で馬を挟み、手綱だけで馬を操らねばならないというのは素人にはあまりに厳しい。

 また肝心の馬にしても半ば放し飼いされている為かはわからないが気性の荒い馬ばかりである。さらに馬に対してどう接していいかを拓実は知らない。厩舎にいる兵士に注意点こそ聞いたが、細かい部分は完全に手探りである。

 

「止まってってば! どうどうどうー、そうそう、落ち着いてーって、うわあ!?」

 

 情けない声と共に、逸った馬を制御しきれずに拓実は落馬した。横に体勢を崩した拓実が馬の背から転げ落ちるが、これも慣れたもの。体を捻ってなんとか受身を取った。

 

「ぎ、あぐっ……ううー!」

 

 しかし衝撃は殺しきれずに背中を打った拓実は呼吸が出来ず、草むらに転がっては悶絶して涙目になっていた。厩舎の警備を任された兵士たちが密かにその様子を伺っているのだが、拓実が落馬すると「あぁ……」と残念そうに声を上げる。しかし、痛みにそれどころではない拓実は気づかず、うめき声を上げるだけだ。

 拓実が跨っていた青鹿毛の若い馬は、落っこちてしまった拓実の頭を鼻でぐいぐい押しやるとチャイナドレスの裾をはむはむとあまがみする。最初こそ見慣れぬ姿、嗅ぎ慣れぬにおいのする拓実に警戒していたが、許定の物怖じしない態度が幸いしてか、今となっては馬たちもいたずらに不安を感じることはない。

 

「……っ、つ、続きいくよ。ごめんね、もう少し付き合ってね」

 

 じゃれついているのか、心配されているのか、ともかく拓実はそれを受けて何事もなかったようにすっくと立ち上がった。覗き込んでいる若い馬の首をさわさわと優しくさすってやる。

 馬たちにしても日中に演習で走っている。拓実に無理に付き合ってもらっているに過ぎないのだ。ならばこそ気遣われてもいられないと奮起して立ち上がったのだが、拓実の顔は強張ったまま涙目で、痛みはまだひききっていない。体はプルプルと震えている。なんのことはなく、単なるやせ我慢であった。

 

 こうして地面に転がるのは今日になってもう何度目だろうか。とりあえず片手では足りないのは確かだ。拓実も気をつけてはいるのだが、一度体勢を崩すと持ち直すことができない。激しい上下運動に馬を挟む足の力が中々長続きしない。

 だが、もう少しでコツが掴めそうなのだ。現に乗って軽く走らせるだけなら、直線のみだが何とかなっている。あとは速度。それに転回や進路方向変更に耐えられる姿勢作りである。とはいえ、上下に揺れる馬上では、それこそがなかなかに難しいのである。

 

 ともかくそんな訳で、警備での仕事を終えた後拓実は厩舎へと直行し、飼葉を与える兵がはらはらと見守る中で乗馬訓練を行っている。それは遅くまで続けられ、体力の限界まで近づくと拓実はそのまま厩舎で眠ってしまう。

 未だに満足には乗れないものの拓実がそのまま自分たちの寝床で一緒に寝てしまうものだから、長時間一緒にいる馬たちは拓実がいても緊張せずに過ごせるようになっていた。

 

 

 拓実が内股の筋肉痛やら、鞍にこすれてひりひりする腿の痛みやらでひょこひょことした変な歩き方になり、それを邪推した兵士たちの間で相手を探すための調査隊が結成された日。また、拓実が三週間に渡る警備隊での任期を終えた日。一週間の討伐を経て、華琳たちが陳留へと悠々と凱旋した。

 伝令から事前に戦果は聞いていたが、文句のつけようがないほどの快勝であった。被害は少なく、だが成果は大きい。拠点を奪取したことで、領内の黄巾の賊徒もしばらくは鳴りを潜めることだろう。加えて、村に駐屯して黄巾の賊徒に抗戦していた楽進、李典、于禁を筆頭にした大梁義勇軍が華琳に仕えることとなったようである。

 その日は戦勝祝いに街を上げての酒宴が開かれ、拓実も許定として華琳の立会いの下で楽進、李典、于禁の三人と顔合わせをした。驚くべきかこの三人もまた少女であった。そのうち李典はいつか街の視察で見かけた竹かごの物売りをしていた少女であり、面識があった拓実であるが、やはりというか李典は許定と荀攸を同一人物だとは看破できなかったようである。

 警備での仕事を無事に終えていた許定は、新たに傘下に入った義勇兵の隊長である楽進を、李典や于禁と共に補佐するよう命じられる。そしてこれから共に部隊を指揮する仲間として、拓実と三人は杯とともに真名を互いに交わし合ったのだった。

 

 

 

 いくらか慌しいものの平時の姿を取り戻した陳留に首都洛陽より勅命が下った。

 長々とした前置きを省いて要約してしまえば、黄布の賊の討伐へと赴く官軍を助け、または合流し、共に駆逐するように促す旨が書かれている。朝議の場にて華琳によって公表された要旨は至って簡潔であったが、しかしそこに含まれている意味は一つではない。

 諸侯に助力を請うということで官軍独力で討伐するだけの能力がないことを自ら露呈している側面もあったが、ともかくこれより黄布を持つ暴徒たちは正式に朝敵として定められられたのである。これにより、きな臭かったこの時勢に沈みかけていた大陸各地がにわかに活気付く。ただの暴徒の鎮圧とは違い、相手が朝敵ともなれば倒した功績によっては今まで腕っ節にしか取り柄がなかった者でも地方を任される役職に封ぜられることもある。

 

 真に大陸の平穏を求めてか、それとも富や権力を求めてかはそれぞれだろうが、この日を境にして義勇軍が各地で蜂起し、賊相手に快進撃を続け始めた。黄布の賊と関わりを持たない民からすれば、略奪者を倒す彼らは正義の徒である。その噂は英雄譚のように旅人や民を通して市井へ広まっていく。現に華琳たちが住まう陳留にも各地で活躍する領主や豪傑の名が聞こえてくる。噂の中にも拓実が知った名がいくつか出てきていた。

 

 有名どころを首都周辺より挙げていくなら、まず洛陽の東、(エン)州には曹孟徳こと華琳の名が轟いている。その北に隣接している()州には、膨大な資金力を用いて大軍を有する袁紹の存在があった。

 更にその北には幽州を治める、白馬義従で名高い公孫賛。また、その領地からは南下していくように劉と丸十字の旗を並べた義勇軍が賊を破って躍進を続けているという。

 洛陽の西部で内部の賊や外敵を押さえているのは馬一族。それによって功を立てた馬騰は洛陽へ出仕し、征西将軍の座へ。またその子である馬超の武勇も旅人からはちらほらと聞こえている。また同じく西部から官軍へと仕官した董の旗を持つ軍勢があったという。官軍の大将軍何進の下、彼らは主に洛陽の防衛を任せられているようである。

 大陸南部では江東の虎孫堅の名は久しく、袁術の配下にいるという小覇王孫策の勇名が届いていた。

 

 そうして周囲の噂話を集めて拓実がことさらに驚いたのは、孫堅が既に死去していることであった。

 孫堅とは海賊退治や黄巾党の討伐で名を上げて反董卓連合へと参加し、その半ばで没してしまう人物である。おおよそ百年に渡る三国時代では序盤で退場してしまう人物ではあるが、しかしこの存在が孫呉に与えていた影響はあまりに大きい。端的に言えば、黄巾党蜂起直後に既に不在というのは考えられない。彼の功績によって後の孫呉の土台が作られているのだ。下手をすれば一国が欠け、諸葛亮が説いていた三国鼎立どころの話ではない。

 だがそれを補うように、精力的に賊を討伐して回っているという孫策や孫権の活躍も届いている。本来ならば二人合わせて二十に届くかといった歳のはずなのだが、ここではどちらももう妙齢の女性のようである。おかしなところで均衡がとられている不思議にしばらく思い悩む拓実であったが、違和感を覚えているのが己のみという状況でこの差違の原因などわかる筈もなく、数日経ったころに考えることを放棄した。

 

 また、危うく孫堅が没していることに目がいってしまって流してしまいそうになったが、噂に聞く孫堅、孫策、孫権、袁紹、公孫賛、馬騰、馬超らはみな女性であった。

 毎回のことなので最近は目新しくもなくなっていたが、それでもやはり拓実の常識からすればこれは異常なのである。出来る限りでその規則性を調べてみたが、曹操、孫策らの有名どころを始めとして、馬騰や劉表など現代である程度の知名度を持っている人物は大抵が女性になっていることがわかった。また年齢もおおよそ十代後半から三十代ほどまでとなっており、史実では年配の者でもここではそう歳を取っていない。

 身近な例でいうならば、いずれ華琳の下に集うであろう四十を軽く超えている筈の程昱などもおそらくは年頃の少女となっているのである。旅人から伝え聞いた情報と照らし合わせても今のところ例外は見つかっていない。おそらく、この話の信憑性は低くはないだろう。

 

 いよいよもってこの世界のことがわからなくなってきた拓実であったが、それを気にしている余裕はない。現状、許定と荀攸とを比較すれば、圧倒的に荀攸が大きな働きを見せている。ようするに役割の釣り合いが取れていないのだ。

 武と智。二つを兼ね揃えている華琳だからこそ、その代役をこなすには全てにおいて一定水準以上の能力を求められる。せめて自衛を満足にこなせるだけの力量を身につけないと、本来の役割である影武者としての責務を果たすことができないのである。それを身につけるため奔走する拓実に、悠長に物事を考えているだけの時間などは存在していなかった。

 

 

 華琳にしばらくは許定として鍛錬に専念することを告げた拓実は、午前は楽進――凪の補佐をしながら兵の指導を学び、午後は春蘭や季衣、凪と共に調練。夕刻からは乗馬訓練と休む暇なく動き回っている。

 そのうち、ようやく乗馬については目処がついた。馬上槍や騎射などの片鱗は影も形もないが、とりあえず身一つでならば行軍についていくことは出来るだろう。ただその代わりというのか、桂花より書簡を渡され、華琳の筆跡を真似るようにと言いつけられてしまったので相変わらず多忙には変わりなかった。筆跡を真似終えたとしてもおそらく拓実に空白の時間などは訪れはしない。一つこなせば二つ三つ次の課題が出てくることだろう。果たして、その規模は違えど華琳とどちらが多忙なのだろうかなどと、拓実は書き取りをしながら益体もないことを考えた。

 

 

 

「……むぅ」

 

 姿見の前で拓実は首を捻る。髪の毛を持ち上げ、下ろし、両手を眺めてはまた首を捻る。姿見の中の拓実の姿は、多少日焼けし、ところどころ擦り傷がついているものの一ヶ月前と大して変わりはない。ちなみに日焼けといっても秋蘭より日焼けを抑えられる油を渡されているので、城の中に篭りがちな華琳と比べても多少健康的といった程度である。

 余談ではあるが、秋蘭は許定状態である拓実に対して異様に過保護になる。もしかしたら小さい頃の春蘭に似ているらしいということが関係しているのかもしれない。

 

 さて、それはともかく今日は久方ぶりの休日。朝廷からの要請に従い、数日後には黄巾の賊徒討伐遠征が控えている為、華琳が特別に休みを作ってくれたのだ。

 休みにされ、しかしやることがない拓実は許定の着ている白い無地のチャイナドレスに花模様でも刺繍しながらのんびり過ごそうかと思っていたところ、于禁――沙和より買い物の誘いを受けたのだった。警備隊や兵の指導など、連日の野外での仕事に前述の日焼け止めの油も切れ掛かっていたところだったので応じたのだが……。

 

「髪の毛や爪が伸びるのが遅いような……」

 

 出かける前に、爪が伸びていたので爪を切る道具を探したところ爪切りばさみが出てきた。現代ではお目にかかったことのないそれに四苦八苦していたところ、おおよそ二ヶ月に渡って爪を切っていないことを思い出したのだ。そうして注意してみれば、髪の伸びも以前に比べて遅くなっている気がする。未だに生え際がうっすら黒味を帯びている程度だ。

 よくも今まで染髪していた髪色について考えが及ばなかったものだ。このまま地毛である黒髪が生え続ければ、それは華琳の知るところになろう。そういえばと思い返せば、拓実も染髪しているということを打ち明けたことはなかった。

 これはかなりよろしくない。どうすべきか。金の髪を持つ人間から髪を買い、かつらを自作するという手もあるが、はたして事が露見する前に完成してくれるか。なれない環境によるものかはわからないが、髪の毛の伸びが異様に遅いのは拓実にとって願ってもないことである。実のところその事実に気づいた時は脂汗が止まらなかったものだ。

 

 ともかく、買い物である。衣装以外に使い道もなく、溜めていたお金を巾着に移しておく。金の髪を売っている人がいるならば買って帰らないとと心のメモに残しながら、拓実は部屋を後にした。

 

 

「へぇー。拓実ちゃんってば、元々の髪の毛の色、黒だったんだー。でも、やっぱり金髪のほうが似合ってるかもなのー」

 

 待ち合わせの城門にて、沙和は拓実が染髪していたことに大きく声を上げた。ファッションに詳しく人一倍お洒落に気を遣う彼女だから、普通の人ならば気づかない拓実の髪の生え際に気がついたのだろう。気をつけねばと思っていたところで一発で露見したことに、拓実は思わず頭を抱えていた。

 んー、と人差し指を顎に当て、沙和はこてんと首を傾げてみせる。一緒に横でまとめられた明るい茶髪のお下げが大きく揺れた。めがねの奥でぱっちり開かれた目が宙を見つめ、そのままで何度か瞬きしている。何事かを考えているのだろう。

 その様子を呆然と見ていた拓実は、ふとここが二世紀中国だということを忘れそうになっていた。スカートにキャミソール、細工の入った髪留めや指輪などお洒落にこだわりがあるのが一目でわかるだろう。戦闘する際に着用する装備はともかく沙和の普段着に関して言えば、現代日本でも辛うじて見かけそうなものである。

 

「でも染髪剤って使い心地はどうなのかなー? 阿蘇阿蘇にも載ってたけど、読者の声では髪の毛が痛むから注意って書いてあったしー」

「へ? 売ってるの?」

 

 そのままぼんやりと沙和を眺めていた拓実は、思わず呆けた顔で間の抜けた声を返してしまう。

 

「? 売ってるよー。確か、陳留だったら『壱丸級』に置いてあると思うけど……拓実ちゃんもそこで買ったんでしょ?」

「え、うん。そーだけど……」

 

 とりあえず話を合わせなければという思いで相槌を返す。沙和は不思議そうな表情を浮かべた後、会得がいったように頷いている。

 まさかまさかとは思ったが、染髪剤まで存在しているとは。あまりの出鱈目にいつもならば頭が痛くなる拓実ではあるが、この時ばかりは素直に染髪剤を開発した者に感謝した。

 

「あ、そーだよね。最近になって滅取(メッシュ)とか入れてる人も出てきたし、もしかしたら売り切れてるかもなの」

「メッシュ……」

 

 またも呆然と声を上げる拓実の頭の中では、警備隊で巡回している時のことが頭によぎった。そう言われれば、スカートやらの洋服意匠の物を身につけている女性がちらほらメッシュを入れているのを見たことがある。赤、青、黄と頭髪の色がばらばらだから生来からのものかと気にせずにいたが、メッシュに限っていえば染髪によるものだったようだ。

 

「んー、凪ちゃんも真桜ちゃんも付き合ってくれないから私も最近行ってないしー。良かったら拓実ちゃん、付き合ってくれないかなぁ?」

「うん! ボクも欲しいものあるし、一緒に行こー!」

 

 正に沙和の誘いは拓実にとって渡りに船である。飛びつかんばかりに沙和の申し出に返事を返す。『壱丸級』なる店の場所ぐらいは警備の仕事上把握していたが、店構えがあまりに女の子女の子し過ぎていて気後れしてしまい、入ったことはない。

 流石に一人で入るのは、この姿をしている拓実といえど勇気がいった。元々許定のモデルとなっている季衣がお洒落に気を使う性質ではないこともあるかもしれない。だが一緒に入ってくれる人がいれば居心地も多少良くなるだろう。

 

「やったー! それじゃ早速行くよー。今日はいっぱいいーっぱい見て回るのー!」

「おー!」

 

 にこにこと笑う沙和に、拓実はぴょんぴょんと飛び跳ねて続く。道中、阿蘇阿蘇の特集内容を話す沙和と、その内容にふんふんと頷いている拓実。話を聞いて期待を膨らませた拓実はテンションを上げていくのだが、しかしその元気が続くのも始めの二時間までだった。

 

 

 

 午前に出発して、空はもう赤く染まり始めている。出発から七時間後、城門をくぐった拓実は酷い有様であった。

 よれよれの状態で両手に荷物を抱え、拓実は行きとはうって変わって消沈していた。その隣を歩く沙和は、どうやら不完全燃焼なようで少し眉を寄せている。拓実は疲労から口数が少なくなっているが、沙和はおそらく別の意味で黙っている。

 

 あの後、『壱丸級』にたどり着いた二人はハイテンションで店内を見て回った。シンプルだが品のある店内に、小洒落た商品。若い女性客ばかりで、なかなかに盛況である。

 そのうち、アクセサリーなどの小物の区画を見て回っている時はまだよかった。お互いに似合いそうなのを探しては合わせて、似合うだの少し違うだのと話して盛り上がる。化粧品も話についていけないところがあったが、勉強にはなった。問題はその後、相変わらず何度来ても二世紀中国の品揃えとは思えない服屋である。

 まさに沙和の真骨頂といった様子であった。自分に似合う服を探すのもそうなのだろうが、それ以上に他人の服をコーディネートするのが好きなようなのである。あれこれと試着させようとする沙和から拓実は人ごみに紛れて必死で逃れ、物陰に息を殺して隠れた。

 最初こそ数着は試着して見せていたが、最終的には下着から何から着替えるように促されたのだ。服だけならまだいいのだが、下着関連まで持ち出されてしまえば拓実としては逃げるほかない。「拓実ちゃんっていっぱい食べるし動くから、すぐおっきくなっちゃうから」とは言われても、拓実が大きくなる予定などはない。あったら怖い。

 

 数時間に渡る攻防に拓実の精神はがりがりと削れていったが、とりあえず当初の予定であった染髪剤は予備を含めて複数買い込み、切れ掛かっていた日焼け止めも買い足した。予定外の出費としては、無くしがちなヘアピンをいくつかと、あとは沙和が薦めてくれた淡い感じの花の香りがする香水が一つ。

 沙和は沙和で気に入った様子の服を数着に、小物をいくつか。加えて社練(シャレン)抜具(バッグ)とやらを購入。記憶違いでなければこれらの代金だけでも拓実の給料の半分を超えている。拓実にはちょっと理解できないが、本人が満足気なのだからいいのだろう。

 買い物自体は楽しかったし色々勉強にもなった。沙和が薦めるだけあってセンスがいい店だった。また行こうとは思う。けれども今日のようなのはごめんだった。一人でならいいけれど、沙和と一緒の買い物はしばらく控えたいというのが正直なところである。服屋という場所に限り無尽蔵ともいえるバイタリティを発揮する沙和に付き合うには、英気を養ってからでなければこちらが潰されてしまう。

 

 定まらぬ足取りで城内を歩き、ようやくといった体で部屋の辺りまで着くと、少し先を歩いていた沙和がくるりと振り返った。反応の鈍くなった拓実は一拍遅れて沙和が向き返ったことに気がつき、ぼんやりとそれを見る。

 

「今日回れなかったところは、次のお休みの時に回ろうねー。本当は明日にでも行きたいけど、拓実ちゃんお休み今日で終わりみたいだし。それじゃ拓実ちゃん次のお休みにねー。今度は逃げないで服合わせに付き合ってほしいのー」

 

 ぶんぶんと笑顔で手を振り、荷物を抱えながらも元気に自室へと駆けていく沙和。対して、もはや疲労はピークで、帰ったらそのまま眠るつもりだった拓実は部屋の前で身動ぎすらできなくなった。自室に辿り着くための最後の気力は沙和のその一言で絶たれ、瞳からは光が消えていた。

 今日あれだけつきあったというのにまだ足りていないというのか。次の休みも、一日買い物で潰れてしまうのだろうか。凪や李典――真桜が、沙和との買い物をあれやこれやと理由をつけて避けているのは何故なのか、体で理解させられた拓実だった。

 

 

 



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21.『拓実、天の御遣いと邂逅するのこと』

 

 陳留を出発してからおおよそ二時間。馬に跨り引きつった顔つきで前方を睨み付けている自身の将の姿に、周囲の歩兵たちは戸惑いを隠せないでいた。

 いつも元気に話しかけてくる口は横一の字に結ばれて、楽々としていた表情はなく真剣そのもの。それでいてまったく気を緩めようとしない。そんならしからぬ態度を取って部下を動揺させるという、人を率いる立場の者としてやってはならないことを行っているのは、許定の姿をした拓実であった。

 

 遠征に向かう曹操軍。その中ほどに位置しているのが元大梁義勇軍と本隊正規兵が混在している五百の隊である。その内の百が拓実に割り振られた兵たちなのだが、その兵たちは自分たちの将である拓実についてのほとんどを知らずにいたのだった。

 凪の補佐として任官した拓実は時には兵を率いて指揮する為、真桜や沙和と同じく隊長格となっている。元より大梁義勇軍の兵たちは凪、真桜、沙和の少女に率いられていたので耐性があったが、その三人よりも尚若く見える拓実は下手をすれば幼いとも取られかねない。

 親衛隊所属の季衣の姉であり、最近までは警備隊として街を走り回っていたこと。また噂によれば曹操軍の重鎮らと懇意にしており、華琳直属の部下という立場で軍議にも呼ばれるらしいこと。反して、部隊指揮している時のともかく元気であり、物怖じせず人に話しかけては明け透けに振舞い、あちらこちらへと駆け回っている無邪気な姿と、知られていることなどはその程度である。

 腹芸をするような人柄ではなく、なのに本来関わりのなさそうな軍の中核の人物たちに重用されている少女。華琳に閨の相手として気に入られているのかと思えば、普段の初心な態度からそういった訳でもなさそうである。一週間と付き合いが浅いということもあるが、どうも周囲は許定という人物を掴みかねていた。

 それ故に今の態度がどういった心境から来ているものか、兵たちには察することができない。憶測が憶測を呼び、困惑するばかりである。拓実の周囲では今も、喧々囂々(けんけんごうごう)とした言い合いが続いている。

 

「すげぇ、馬に乗って前方を見つめたまま微動だにしてないぞ。まるでお人形さんみたいだ。はぁ……、はぁ……」

「な、なんか怖いぞ、お前」

「いやまて、そういえば許隊長は前回の討伐、参加していないらしいじゃないか。初陣に緊張しているんだろう。ならば今こそ俺の名を印象付ける絶好の機会! 安心してください! 許隊長はこの俺、王忠が我が身に代えてでもお守りしますから!」

「てめえばかりにいい格好させるかってんだ! 隊長! 俺、すげぇ頑張ります! だから、敵将討ち取れたら食事付き合ってください!」

「おまえこそどさくさに紛れて何ほざいてんだコラァ!!」

「いやいや、隊長は空腹になると機嫌が悪くなるからな。昼前だがもうお腹が減っているのかもしれない。おーい誰か、食べ物持ち込んでるやつはいないかー。今なら隊長に貢げるぞー」

「俺、生の豆腐なら持ってる」

「なんで遠征に生の豆腐を……」

「こんなこともあろうかと昨日のうちに隊長の好きなお菓子を買っておいたぜ! 抜かりはない!」

「くくく……(それは自己紹介の時の話だろうに。最近はこの揚げ饅頭がお気に入りだってのにな!)」

 

 ……といった具合に、ともかく、兵たちには判断がつかないでいたのである。ちなみに当事者の拓実は周囲の喧騒に耳を貸すだけの余裕もないらしく、馬の背で固まり、前方を見つめたままである。

 実際のところ拓実は初陣となるこの遠征に参加したためにがちがちになっているわけでも、お腹が減って不機嫌になっている訳でもなかった。もちろん初の実戦に緊張している部分もあるが、それよりも初の長時間の乗馬に、落ちないよう、慌てないよう必死に集中して馬を制御しているのだ。この一週間、華琳の筆跡を真似ながらも暇を見つけては乗馬訓練は続けていた。しかし今回は途中で休憩を挟むとはいえ目的地まで一日ほどは乗り続けなければならないのだ。

 初めての部下たちの手前、何もない平坦な道で無様に落馬するわけにはいかない。元よりないだろう自身の威厳を、更にマイナスにまで落としたくはない。立ち振る舞いばかりを気にするのもどうかと思うけれども、初の部隊指揮なのだからしっかり隊長をやりたいとも思う。

 ただ、こんなに気負っていては数時間ともたないことは本人も薄々気づいている。それでも、初めてのことで体が強張ってしまうのはどうしようもないのだ。拓実はいっそ、この時点で馬を下りて歩いたほうがよかっただろう。この意地のような頑張りが、余計に情けない結果を生み出すことになるのである。

 

 それから僅か一時間後、拓実は一度目の休憩を待たずして音を上げていた。案の定というか、全身に無駄な力が入りすぎていた為に疲弊してしまったのだった。

 しかも体が硬直してしまい、一人では降りるに降りられぬこの状況。拓実はすぐ側の兵に体を抱え上げてもらって密かに下馬したのだが、もちろんそれが見つからぬ筈もなく、周囲からは心配そうに気遣う声が投げかけられる。

 対して「じっとしたまま動けないのが面白くない」「降ろしてもらったのは足が届かないから」といった言い訳を部下たちにしていたが、果たしてそれをどれだけが信じていることか。実際、何人かには笑われてしまっている。ただ、見下したようなものとは違って、微笑ましく見守られているのがまだ救いだろうか。

 ともかく今は馬から下り、手綱を引いて歩兵たちと一緒に歩いていた。疲労は残っているものの、周囲との会話で過度の緊張は取れ、強張っていた顔も今は笑顔が浮かぶこともある。

 

 

 途中で何度かの休息を取り、日が暮れ始めたころ。今回は特別に急ぎというわけでもないために余力を残して進んでいた一行は、ようやく州境に差し掛かった。拓実はそれまで馬に乗ったり、降りて歩いたりを繰り返していたが、今はまた馬に乗っている。流石に力の抜き方を思い出したのか、騎乗していてもリラックスした様子である。

 

 さて、これから入るのは、華琳治める(エン)州の北部に位置する、袁紹治める()州の地である。

 各地からの報告によると暴れていた黄布の賊徒たちが続々と冀州に集まりつつあるらしい。一週間前の討伐で敗れた(エン)州の黄布の賊徒たちも散り散りに逃げ延びた後、場所を変え再集結しているようだ。今までにない規模の集団となるのは想像に難くない上、その領地を守る袁紹は各地で頻発している賊らの対処に追われて対応が後手に回っているとのことである。

 冀州は首都洛陽からそう離れた土地ではない。このまま数が膨れ上がれば、暴走し洛陽まで攻め入ってくることも考えられる。近年大将軍へ昇進したらしい何進もその報告を聞いてあまりの賊の数の多さに危機感を覚えたようで、いくつかの周辺諸侯に討伐隊を組ませて冀州へと向かわせている。最近の活躍目覚しく、何進との面識がある華琳にもまた声がかかり、その繋がりから今回参陣することとなったのだった。

 

 既に冀州では幾度か黄布軍との戦端が開かれているようである。数が数だけに追い払うだけに留まり、そうしているうちに日に日にその規模が大きくなっているとの報告が入っている。

 その情報を手に入れておいて、馬鹿正直に言われたままの戦をする華琳ではない。事前に桂花に黄布の賊の拠点を調べさせ、主戦場には向かわずに拠点を叩いて回る方針を採ったのである。

 

 

 無事に冀州へ入った後、数里を進むと完全に日が暮れた。そこで陣を張って夜を明かし、明朝の本陣。黄布の賊徒の拠点制圧に当たり、各将が本陣へと集められていたのだが、そこに細作より前方数里のところで戦闘中との情報が届いた。

 勅命の為に、場合によっては援軍として詰めねばならないと目視できる地点まで接近した全軍は、そこで停止した。手助けの必要がないとわかったからだ。

 見れば、窪地にて接敵数を絞って、出てきた小数を各個撃破。黄布一人に対して、二人三人で当たれば例え兵の質が劣っていたとしても負けはないだろう。戦闘している軍の装備は貧相なものだが、所詮農民上がりの黄布の賊相手であればそれも勝る。数の上では同程度であるが、戦況は圧倒的である。

 

「さて、どうやら私たちの他にも少しは頭が回る者がいるようね……」

 

 目前の戦闘を眺めて呟く華琳。その横で、簡易卓上に地図を広げた桂花が口を開く。

 

「はい。主戦場を離れてこの深い位置で軍を動かすのは、敵方の兵站の妨害意図を持ち、また糧食が納められている拠点位置をある程度把握していなければありえないことです。また彼の軍の理に適った兵の配置を考えるに、軍略を修めた者が彼の軍に参加していることが伺えます。死体、足跡の続きから見て、あちらの討伐軍が干上がった川の跡に賊らを誘い込んだと見るべきかと」

「そうね……見るところ、黄布の賊らよりも率いている兵はやや少ない。いえ、この戦況を見るに当初は二分の一ほどの兵数というところか」

 

 華琳の言葉に、拓実は同意を示すようにこくこくと頷いた。確かに、まさに破竹の勢いで賊徒を殲滅していく様を見れば、戦端を開いた際は今以上に兵数差があっただろうことが拓実にもわかる。

 

「しかし、いかんせん鎧にしても武器にしても装備が貧弱。どうやら義勇軍のようですな。まぁ、我らの足元にも及ばずながら統率は取れているようなので、錬度は義勇兵にしてはそう悪くはないようですが」

「いや、姉者よ。ここはその装備と錬度を以って二倍を超える敵を打ち払ったところを見るべきではないか。おそらくは、よほどの智謀の士がついているのだろう」

 

 からからと笑う春蘭。義勇軍を見くびる彼女に声をかけたのは華琳の側で控えている秋蘭だ。

 

「ふむ……だとするならばこのような寡兵を率いさせるだけではせっかくの才を腐らせておくようなものね」

 

 出てきた意見を一通り聞いた華琳は口の端を吊り上げた。隠し切れない愉悦の色。拓実が何度となく見た、才あるものを見つけたときに浮かぶ笑みである。

 

「誰か! 至急、前方の軍の旗印を確認なさい。加えて、もうすぐ戦闘が終わるでしょうから、中央からの派兵とでも伝えて相手方の盟主に面会を申し出るように」

「はっ!」

 

 華琳に言いつけられた伝令兵が礼を取り、陣外へと駆けて行く。姿が見えなくなる前に、華琳は立ち上がる。

 

「それではあちらの陣へ向かうわよ。春蘭、秋蘭、それに桂花。あとはそうね……拓実、ついてきなさい。残った将は兵に小休止を与えなさい。戻ってきたら進軍を開始するから、気は緩めないようにと言い伝えること」

『はっ』

「は、はいっ」

 

 面会の是非が返るどころか伝令兵が発ったばかりである。返答があるまでは休憩かと気を緩めかけていた拓実は慌てて気を入れ直し、率先して退陣していく華琳の後ろに夏侯姉妹、桂花と共に続いた。

 

 

 華琳たちの馬の用意が終わる頃には戦闘も終わったようである。どうやら『劉』の旗を持つ軍勢は敵を蹴散らし、黄布の賊徒が敷いていた陣地に乗り込んだらしい。そこに向かって、夏侯姉妹を先頭に馬を歩かせる。

 大陸は土地が広大な為か、見渡す限りの平原が続いている。拓実たちが向かっている劉軍の陣営地はまだ遠いが、戦後の処理を考えれば丁度あちら方が落ち着いた頃に到着するだろう。

 

「拓実」

「あ、はいっ。なんですか、華琳さま?」

 

 己の武を振るえる機会が嬉しいのか、なんだかんだと上機嫌に秋蘭に話し掛ける春蘭の姿を前方に、華琳が囁くように拓実の名を呼んだ。わざわざ声を抑えたということはあまり周囲に聞かせる話でもないのだろう、拓実はぎこちなく手綱を引いて、華琳の横に並んだ。

 

「……いい機会だから話しておきましょうか。あなたも知っている通り、私は才ある者に執着する気質を持っているらしいわ」

「はぁ……」

 

 華琳は「拓実もその一人だものね」と続けて、くすりと微笑む。いきなり何の話なのか、拓実はきょとんとした顔で僅かに首を傾げて見せた。

 

「これから会う人物も、この私が欲するほどの才を持つならば、あわよくば楽進らのように我らの傘下に加えようと考えているわ。けれど、私と異なる思想を持っていればそれも叶わないでしょう。それは我らの覇道と重ならぬ天命であるのだから、致し方のないこと。そうでしょう?」

 

 いきなり自身の思惑を話し始めた華琳。拓実は問いかけられて、戸惑いながらもこくり、と一つ頷く。それを見た華琳は満足そうに目を細め、更に言葉を紡ぎ始める。

 

「そうなっては、私としてはそれ以上どうしようもないわ。余程の才であるなら執着することもあるでしょうけど、どれだけ欲しても私に下ろうとしない者がいるのはどうしようもない。けれども拓実、あなたに限って言えばそれは関係がない。あなたの最大の武器は他人になりきってしまえる演技力であり、その大本となっているのは、短期間で相手の思考の組み立てを読み取れるほどの心理把握術。相手が望む望まないに関わらず、相手を自分のものにしてしまえる」

「え? えっと」

「これから各地で転戦する私たちは、多くの豪傑と会うことになるでしょう。また、様々な賢人と弁を交わす場が出て来るようになる。拓実、あなたは今後会うことになるそれらの人物、その全てを観察なさい。そして、出来る限り思想や考え方、性格を自身に写し取るのよ。様々な考え方や性格、性質を収集しておけば、それは後々私たちの――そして何よりあなたの力となる筈よ」

「は、はい。あ、それじゃ今回ボクを連れてきたのも……」

「そういうことね」

 

 拓実の顔にはようやく理解の色が浮かんだ。今しがたまで、明らかに自身より腕が立つ季衣や凪を陣に残して、わざわざ拓実を連れてきた理由がわからなかったのだ。

 

「まぁ、それが十二分に役に立つ場面は、その人物が敵方に回ってしまった場合でしょうけれどもね」

 

 そんな疑問に対する答えを得られた喜びからか、拓実は続く華琳の呟きを聞き逃してしまう。

 

「……? あ、ごめんなさい華琳さま。ちょっと聞き逃しちゃいました」

「大したことではないわ。それより、もう着くわよ。ついてきなさい」

 

 華琳は馬の腹を蹴った。華琳の愛馬である絶影は嘶き、地を高らかに駆ける。戸惑う拓実を置いた華琳は春蘭や秋蘭を引きつれて、劉と十文字の旗が並び掲げられた陣に馬を走らせた。

 

 

 面会を求めて訪れていた伝令兵と近衛に馬を預け、華琳はまるでここが自陣であるかのように颯爽と歩みを進めていく。そんな彼女を護らんと春蘭と秋蘭は周囲を警戒し、睨み付けている。拓実は華琳の後ろを護るようにと春蘭に命じられていたが、前二人の威圧に萎縮する兵を見れば過度に警戒する必要は覚えなかった。

 陣にはもちろん劉軍の見張りの兵がいるのだが、華琳の覇王としての風格、また春蘭や秋蘭に威圧されて静止もままならず、その声も尻つぼみになってしまう。普段護衛している親衛隊ですら華琳の前では緊張に固まってしまうのだから、農民上がりの義勇兵では仕方がないといえるのかもしれない。

 

 華琳は結局一度も立ち止まることなく、またその道を塞がれることなく劉軍の本陣へと辿り着いた。どうやらその本陣では先ほど華琳から発された面会要請についてを話していたらしく、面会許可を言いつけられた兵がこちらへと駆けようとしている所である。そして、内部での話はその相手である曹操がどういった人物であるかへと移り変わっていた。

 

「能力、器量、兵力、そして財力。また、有能な人材も集まっていると聞きます。今この大陸の諸侯の中で誰よりも、必要なものの多くを揃えている人かもしれません」

「ほわぁ、なにその完璧超人さん」

 

 立ち聞きをするつもりはなかったが、中の会話が聞こえてきてしまった。しかし、やはり華琳の名は大陸に広まっているらしく、聞こえてくる声のほとんどはその能力や人柄を称えるものだ。拓実は自身が褒められたわけでもないのに、内心で誇らしい気持ちになっていた。

 

「そうですね、他にわかっていることといえば、自身にも他者にも、誇りを求めるということ」

「誇りかぁ。その曹操さんの誇りってどういう?」

 

 自身の噂をしているというのに華琳は足を止めず、入陣していく。見れば、そこには少女ばかり。桃色の髪の少女が思わず聞き返しただろうその疑問に、華琳は笑みを浮かべた。

 

「誇りとは、天へと示す己の存在意義。人は何かをなす為にこの世に生を受ける、大小はあれど己に課せられたそれを見定めることができるのかどうか。それが出来ぬ者など、いくら能力を持っていようが人間としては下も下。愚昧もいいところ。そのような者は我が覇道には必要がない、ということよ」

「誰だ貴様は!?」

 

 進み出る華琳に、艶やかな黒髪の女性が偃月刀を構え、華琳から桃色の髪の少女を庇う様に立ちふさがる。

 

「控えろ下郎! この御方こそ我らが盟主、曹孟徳さまであられるぞ!」

 

 この陣にて初めて現れた華琳の進む道を防ぐ者に、春蘭が一喝する。しかしそれにひるむ様子はない。

 びりびりと場の空気がせめぎ合う。この威圧にも一歩も退かぬこの黒髪の女性は、春蘭に匹敵するほどの武芸者なのだろう。

 

「い、今呼びに行ってもらったばっかりなのに、もう?」

「会うとわかっている相手の判断を待つこともないでしょう。寡兵を率いてあれほどの采配を振るえる者が、付近にいた我らを捕捉していない筈もないでしょうしね。そんな目端が利く者が、官軍を名乗る大軍の面会要請を退ける愚は犯すまいと思っただけよ」

「はぁ……」

「さて、それでは改めて名乗らせていただきましょうか。我が名は曹操。現在は官軍の要請で黄布の賊徒を相手に転戦している者よ」

「あ、こんにちは。私は劉備っていいます。私たちも黄巾党がここ冀州に集まっているって聞いて、何かの力になれればと思って」

 

 その自己紹介に、拓実はまじまじと名乗った少女を見つめていた。桃色の髪。温和そうな顔つき。人がよさそうな、そしてやや抜けていそうな話し振り。先の華琳の言葉もあり、癖一つ見逃さないつもりで観察している。

 劉備――多少歴史を習っていれば、今更説明するまでもないだろう有名人だ。曹操が三国志の主役の一人だとすれば、劉備の役割もまた主役。何せ、後に魏の曹操や呉の孫権を相手に、大陸の覇権を争う蜀の皇帝である。そして、拓実にとっても最大の敵といっていい。華琳の下で大陸統一を目指す拓実にとっては、大きな壁である。果たしてこの歴史とは違う世界であっても劉備と争うことになるかはわからないが、その可能性はかなり大きいだろう。

 

「そう、劉備……いい名ね。ところでその黄巾党というのは?」

「あの、それはご主人様が……」

「ご主人様?」

「それ、俺のこと。北郷一刀っていうんだ。よろしく。あいつら、揃ったように黄色の布を巻いているから黄巾党って呼んでいるんだ。何らかの呼称は必要だと思ってさ」

 

 劉備を密かに注視していた拓実は、そこで初めてぽつんと一人、異様な風体の男が混ざっていたことに気がつく。

 こげ茶の長めの髪に170半ばから後半ぐらいの身長。一見して華奢な優男に見えるが、そこそこ鍛えられている様子はある。これだけならば凡庸な男だが、何より目を惹くのがその衣服だ。陽光を反射して輝く、化学繊維で出来た生地。この世界ではお目にかかったのことのない、そして数ヶ月前までは拓実も着用していた、聖フランチェスカの男子学生服を着ていたのだ。

 あまりの驚きに、拓実は声も出せず口をぱくぱくとさせていた。呆然と一刀と名乗った青年を見つめることしか出来ない。

 

「北郷一刀……どこかで聞いた名ね。確か天の御遣いが現れたとかいう与太話があったけど、その者の名だったかしら」

 

 握手するつもりで伸ばした手が華琳に無視され、一刀はばつが悪そうな顔で手を戻した。

 

「いや、証拠もなにもないからさ。『天の御遣い』が本物だって言い張る気は俺にはないよ。えーっと、それより、そこの女の子は大丈夫なのか? なんか顔色が悪いみたいだけど」

「――拓実? どうしたというの?」

 

 顔を真っ青にしているのに気づいたか、一刀と呼ばれた青年は心配そうに拓実を伺う。そこで華琳も拓実の異様な様子に気づいたらしく、僅かに眉根を寄せて拓実へと声をかけた。

 

「もしかして、先輩、なの?」

 

 それらに、思わずといった風に拓実は思考を言葉にして漏らしてしまう。

 そう、確かにこの服は聖フランチェスカの制服。こんなもの、見間違えようもない。北郷一刀という名に聞き覚えも、その顔に見覚えもなかったが、周囲から若干浮いた様子、そして彼の名の付けられ方は日本のそれに酷似している。

 元の世界で行方不明になった二年の男子生徒がいたという話を聞いたことがある。当時は特に気に留めたことはなかったが、まさか拓実と同じくこの世界に飛ばされてしまっていたのだろうか。だとするなら、彼は拓実と同郷の人間である。もしかしたら、これは現代日本へ帰る重大な手がかりなのではないのか?

 

「先輩って? えっと……?」

「な、なんでもないから! 忘れて!」

「ああ、うん。まぁいいけど……。あ、曹孟徳さん聞いていいかな? この子はいったい?」

「……彼女は許定。我が軍の武官の一人よ。そうね、ついでだから紹介しておきましょうか。この二人が我が最愛の従姉妹である夏侯惇に夏侯淵。そしてこの子が我が軍の軍師、荀彧よ」

「夏侯惇に夏侯淵。そして、荀彧。そこに、許定だって? 有名どころなら許緒じゃないのか……?」

「……っ!」

 

 呆然と呟いた一刀の言葉に、拓実は彼が同郷であることに確信を持つに至った。

 名を受けた拓実だって、史実の許定が何を成した人なのかを知らない。そもそも許定という武将が史実でいたのかも拓実にはわからない。ともかく、知名度で言うなら圧倒的に許緒のほうが上なのだ。

 だが、それは現代での話。季衣の強さは本物だが、まだ何かしらの逸話を残したわけではない。そういう意味では許緒も許定も、名の通りとしては大した違いはない筈なのである。

 

「む? 何故貴様が、親衛隊にいる季衣の奴を知っているのだ?」

 

 同じことに気づいたか、春蘭が訝しげに声を上げる。

 

「――え、あ。ああ。いや、その、怪力ってことで名高いじゃないですか。許緒さんって」

 

 そんな疑問の声に、一刀は慌てて春蘭に向き直り、言葉を返した。「ほぉ、なるほどな。あれも名が知られるようになったか」などと納得した風な春蘭に胸を撫で下ろしている一刀であるが、そんな様子を観察している華琳には気づかない。

 

「そう……あながち、天の御遣いというのも間違いじゃないのかしらね」

 

 小さく呟かれた華琳の言葉を聞き届けたのは、おそらく拓実だけだっただろう。一刀の発言から、華琳はかなり深いところまでその知識の異様さを見抜いているに違いない。

 親衛隊の一員で、せいぜい領内の賊鎮圧しかしていない季衣を知る――知られる筈のないものを知っているという事実。確かに季衣のうでっぷしを見れば遠くない未来に一角の武将となる予測はつくだろうが、現時点でそれを『知って』いるのでは順序があべこべだろう。

 そんな様子に気づかず、一仕事やり終えたような顔をした一刀は華琳へと向き直っている。その時にはもう華琳の表情は先ほどまでの思案の様子を欠片も見せない、普段のすましたものに戻っていた。

 

「ところで、曹孟徳さんは俺たちにどんな用だったんだ?」

「この軍を率いていた者といくつか言を交わしにね。その戦略意図といい、ここを戦場に選んだことといい、兵の運用といいその働きは悪いものではなかったわ。それで、主と呼ばせているということは、あなたが統率者ということでいいのかしら?」

 

 問われ、間を置かずに一刀は首を横に振る。

 

「いや。俺はあくまで『天の御遣いが貧窮した民を救う為に立ち上がった』っていう風評を得るための御輿だよ。桃香――劉備たちの考えに賛同して協力はしてるけどさ。ある日突然この世界……皆が言うところの天の国からこの大陸に来てしまっただけの俺には、曹操さんや劉備みたいな立派な主義や主張はないさ。もちろん劉備たちの理想に共感して、力にはなりたいと思っているのは本心からだけど」

 

 華琳が関心を持ったように笑んだ傍ら、拓実はそれとは対照的にその発言を聞いて肩を落としている。

 どうやら一刀もまた突然この大陸に放り込まれ、劉備に用いられてこの時まで生き抜いてきたらしい。しかしどうやら何故この世界に飛ばされてしまったのか、その原因となるものはわかってはいないのだろう。あわよくば現状把握が一歩進むかもしれないと考えていた拓実の落胆は小さくなかった。

 

「そう、やはり本当に兵を率いていたのは劉備ということ。問いましょう。劉備、あなたはこの混沌とした大陸に何を求めているのかを」

 

 問いかけられ、劉備の顔が引き締まる。華琳の様子から不誠実に答えていいものではないと察したようだ。

 

「私は、みんなが苦しまず、笑顔で過ごせる平和な世にしたい。その為に、私たちは戦っています」

「それがあなたの理想なのね」

「はいっ、誰にも負けません!」

「そう」

 

 言って、華琳はしばらく口を閉じた。劉備の発言を吟味するように目を瞑り、数秒。

 

「……なればこそ劉備、私たちに協力なさい。その理想を実現させるには、今のあなたたちでは力が足りていない。我ら単独でも鎮圧は可能だけれど、あなたたちが助力すれば乱を治めるのはより短期間で済む。それはあなたたちにとっても望むところでしょう?」

「あ、う。でも……」

 

 思わず返事をしてしまいそうになったところで踏みとどまり、劉備は一刀を見た。不安げに、どこか縋るように見つめられた一刀はこくりと頷く。

 

「ここは受けよう、桃香。俺たちだけじゃ力が足りないのは確かなんだ。こうしている間にも誰かが犠牲になっているのに、形振りなんて構ってちゃいけないと思う」

「……うん、そうだよね! 曹操さん、私たちでよければ協力させてもらいます」

 

 一刀の賛同を得られて途端に明るくなった劉備の返答に、華琳はにっこりと笑った。

 

「では、協力して事に当たるということでいいわね? 共同作戦については軍師を遣わせましょう。とりあえずは事前に予定していた攻略拠点があるから、まずそこへ向かうわ。劉備、あなたたちは私たちに続きなさい」

 

 話は終わったとばかりに背を向ける華琳。その行動と指示の早さに、一拍遅れて周囲が動き出した。

 

「桂花、劉備とのやり取りはあなたに任せるわね。秋蘭はすぐに本隊に進軍するよう伝令を飛ばしなさい」

「はいっ」

「はっ!」

 

 桂花は何人かの兵を連れて劉備軍の陣に引き返し、秋蘭は陣外へと駆けていった。

 

「私たちは本陣へ戻るわよ。春蘭、先導なさい。拓実は遅れずについてくること」

「お任せください、華琳さま!」

「わかりました!」

 

 拓実は出来ることなら一刀と二人きりで話したかったのだが、頭を振ってその誘惑を振り切る。

 彼と話すことはいくらでもあった。突然戦乱の世に落とされた不安や、今後の展望、歴史との違いに対する疑問など、拓実のぐちゃぐちゃな気持ちを本当に理解してくれるのはきっと北郷一刀しかいないのだ。同じ境遇の人間がいないのなら誰にも語ることなく心のうちに秘めておいただろう。けれど、いるとわかってしまえば湧き上がってくる気持ちを無視できそうにはない。

 しかし、それはきっと今すべきことではない。共同戦線を張るのならいずれ落ち着いて言葉を交わす機会もある筈だ。思い直した拓実は疼く胸を手で押さえて最後に振り返り、一際目立つ青年を見つめる。いつかあるだろう語り合いを想い、期待で顔が上気していた。名残惜しそうに目線を切って物憂げにため息をついた後、颯爽と歩いていく華琳に遅れないよう拓実はその背中を追いかけていく。

 

 そんな拓実のことを、偃月刀を握る黒髪の女性が焦った顔で見つめていた。

 

 



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22.『拓実、初陣を飾るのこと』

 

 林の中を緑色の鎧を纏った一団が進む。極力音を立てず、そして木々を揺らさずに兵たちが歩いていく。彼らが目指す先には、黄色の布を体のどこかしらに巻いた集団――黄巾党が無防備な姿を晒していた。

 

「どうやらまだ私たちに気づいていないようだね。朱里ちゃん」

「そうだね、雛里ちゃん。簡略ながら指揮系統を作っているようだけれど、結局は農民や盗賊の集まりだから。見張り兵を立たせるだけで、曹操さんたちや私たちのように周囲に細作を放ってもいないみたい」

「それじゃみんな、このまま静かに進んでねー! 大きな声とか出すと黄巾党の人たちに気づかれちゃうからねー!」

「桃香様! あなたが大声を上げてどうするのですか!」

「にゃはは、そーいう愛紗も声がおっきいのだ」

 

 人目に惹く聖フランチェスカの制服を着込んだ青年、北郷一刀の隣からは少女たちの声が聞こえている。会話を続ける彼女たちを眺め、一刀は笑みを浮かべながら兵と共に進んでいた。

 

 柔らかい桃色の髪、暖かな雰囲気が見る者に安らぎを与える劉備、真名を桃香。

 青龍偃月刀を肩に担ぎ、美しい黒髪をなびかせている関羽、真名を愛紗。

 デフォルメされた虎の髪飾りをつけ、無邪気な笑顔で丈八蛇矛(じょうはちだぼう)を軽々振り回す張飛、真名を鈴々。

 周囲の行軍に遅れないように小さな体を一生懸命に動かして小走りしている諸葛亮、真名を朱里。

 そんな諸葛亮にくっついて離れず、大きな魔女帽子で顔を隠そうとする鳳統、真名を雛里。

 そのいずれもがうら若い少女の姿。一刀にとっては見慣れたものとなっているが、彼女たちに初めて会った時は同名の人物像が頭にあったためにいったい何の冗談かと思ったものだ。

 未来では偉人となり、多くの人物の知るところになっている彼女たちを横に、一刀は半日ほど前のことを思い返した。こうして考えるのは何度目だろうか。今日一日にも渡って考えていたのは、共同戦線を組むことになった曹操軍について――ひいてはこの世界についてだった。

 

 英雄たちが女の子になっているというこのおかしな三国時代。一刀がこの時代に来てからもう数ヶ月が過ぎている。今こそこうして少ないながらも兵を率いることができているが、当初は劉備、関羽、張飛との四人での旅だった。

 天下大平の志を掲げてからこれまでの数ヶ月、一刀にしてもただ平穏に暮らしていたわけではない。近隣で悪行を働く賊を討っては日銭を稼ぎ、しかしそれでも一日の食事に困ることもあった。飢饉や蝗害(こうがい)などで安定して食糧を賄えない為に、町や村には餓死者も珍しくない。

 追剥にあったか街道を少し外れれば道に人骨が落ちていることもある。実際、一刀たちが野盗や追剥に襲われたことも一度や二度ではない。この時代では毎日を生きていくだけで必死だった。劉備たちに拾われなければ、きっとどこかで野垂れ死にしていたことだろう。

 

 人を助ける為に人を殺し、人の死に触れ、悩み、そして一刀はここに立っている。これまでの日本での生活がどれだけ恵まれた環境だったのか、それこそ身に染みて感じている。けれども同時に、自分が『生きている』ということを実感できたのはこの時代に来てからかもしれないとも考えていた。

 どうしたら劉備たちの力になれるのか、どうすれば困っている人が助けられるのか。より良い方法を考えて、朝から晩まで動いて回って、動けなくなるまで頑張って。そうして喜んでくれる人がいる。こんなに必死に『生きたい』と思えたのは、今まで生きてきてなかったことだった。

 ――「人は何かをなす為にこの世に生を受ける、その大小はあれど、それを見定めることができるのかどうか……」

 これは先ほどの曹操の言。これを耳にした時、幼い頃より言い聞かされていた言葉が一刀の脳裏には浮かんでいた。

 ――「世に生を得るは事を為すにあり」

 それは、一刀の祖父の言葉。剣の師匠でもあった祖父。その祖父が幾度か口にしていた教え。言葉が意味するところは曹操のモノと同じである。

 一刀は祖父に剣だけではなく、生き方を教わってきた。何かに迷った時、自分を奮い立たせる時、一刀は祖父の教えを思い返す。この世に生を受けた意味。そして、この世界に来てしまった意味。

 何の因果かはわからないが、一刀は桃香たちと出会った。きっとこの出会いにも意味があるはずだ。一刀はそれを、彼女たちを助けて弱きを護ることだと見出している。そこに迷いや望郷の念がないかと問われれば一刀は否と答えるだろう。だがそれでも一刀は、この時代で生きていこうと考えている。

 

 しかしいざ助けるといっても、一学生でしかなかった一刀に何が出来るのか。剣道を習い、現代では結構な実力を持っていたとはいえ、この世界では一刀自身の武力はせいぜい兵士に勝る程度のもの。この世界にはない優れた政策を知っていても、勢力とも呼べない現時点では活用できるものはいくつもない。そんな一刀が活用できている数少ないアドヴァンテージが『三国志の知識』であった。

 現代で英雄と称される何人かの人物たちと一刀は邂逅している。桃香ら義姉妹を始め、公孫賛や趙雲、朱里、雛里。さらに有名所というくくりでは曹操や荀彧、夏侯惇や夏侯淵。どういったことか、それら全てが女性だった。だが自軍で言うところの田豫(でんよ)簡雍(かんよう)といった、三国志や三国時代の史書に記述されていても現代ではあまり知られていない人物は史実の通り男性である。

 武将や軍師が加入する時系列がばらばらだったりと未だわからぬことばかりのこの世界においては、『現代で一定以上の知名度がある人物は女性になっている』。これは一刀が薄々気づいていたこの世界の法則である。

 覚えのある名で()つ女性の武官や文官であれば、その者が有能であること、また能力のある程度を計ること、これから何を為すのかをおおまかに知ることが出来る。逆に男性ならば例えその経歴などを知らずとも、史書に大々的に載るほどには功を為さないとの目安が立てられる。これを過信してはならないだろうが、この法則は上に立ち人を使う立場としては他の誰より優れる一刀の『人物眼』となっていた。

 

 そこに今回例外が現れた。背丈は桃香よりも低く、丁度曹操ほどの小柄な体躯には赤い糸で花が刺繍された白のチャイナドレス。下は活発な印象を与える黒のキュロットスカート。金の髪を後ろに流して、手には木製のトンファーと腰に細剣を佩いた、おそらく一刀よりも三つは年下だろう少女。曹操軍にいた武官の少女、許定である。

 聞けば年若くしてすでに兵を任される役職に就いているようである。劉備軍にだって女性兵がいないわけでもないが、部隊の指揮を執れるほどとなるとそれこそ愛紗や鈴々、朱里や雛里。あとは直前に加わった徐庶ぐらいのものだ。そしてそれ以外に任せられるだけの能力を持つ者は、先ほど挙げた田豫や簡雍などの男性になってしまう。英雄が女性となっているこの世界ではある程度女性にも武への門戸が開かれているとはいえ、一般的には女性より男性の方が戦いに優れている点は変わっていない。

 この世界において許定は女性でありながら武将を任せられている――つまりは英雄らと肩を並べるだけの実力を持っているということになる。加えて後世で有名な許緒を差し置き、最愛と公言していた従姉妹の夏侯惇・夏侯淵に、己が子房とまで才を評価する荀彧らと混じって同行させるのだから、曹操は特別に許定を重用しているのかもしれない。

 しかし、そんな彼女の名に一刀は見覚えがまったくなかった。小説はもちろん、史書ではスポットがほとんど当たらない人物でも登場する、三国志を舞台にした戦略ゲームなどでも見た覚えがない。今後おそらく敵対することになるだろうそんな彼女の情報を、比較的三国志に詳しい一刀でさえも一切知らないのである。その事実は一刀に小さな不安、そしてしこりのような疑念をもたらしていた。

 

 また、一刀は何となくだが、彼女のことだけが妙に気にかかっている。そもそも、本来なら先述したことなども特別に気にするほどの差違ではなかったろう。同行していたのは単なる人数合わせで、たまたま一刀が注目してしまっただけかもしれない。許定なる人物が史実でも女性だっただけかもしれない。多少首を傾げてしまうことはあれど、思い悩むほどのことではない筈だった。

 だというのにこんなにも許定のことを真剣に考えてしまうのは、一刀が彼女の雰囲気の中に妙な親しみを覚えているからだ。他の者からは感じられないこの違和が、興味からくるものなのか、無意識下からの警戒からくるものなのか、そのどれとも違うのかもわかっていない。どこがどうとは説明はつけられないのだが、ともかく彼女のことが一目見たときから気になっていたのである。

 そんなおかしな気がかりを彼女に覚える一刀だったが、思い悩んで答えが出るわけでもないと頭を振った。今はそれよりも身近に迫った問題がある。答えがでるかもわからないことを考えるのはそれが解決してからでもいいだろう。

 

 ともかく、その許定を含む曹操軍との邂逅からもう半日が経っている。進路途上の村で義勇兵を募り、また曹操軍の補充兵を加えて数を増した劉備軍は現在、行軍しながら作戦内容についての最終確認を行っているところである。曹操軍・劉備軍による共同戦線の攻略目標、黄巾党の拠点はもう目と鼻の先にある。兵の準備は終えられ、後は曹操軍から伝令が届くのを待つだけだった。

 

「えっと、話を戻しますね。このまま林の中を進み、気づかれないように敵軍へ接近します。その後は曹操軍の陽動部隊の攻撃に合わせて、愛紗さん、鈴々ちゃんは兵を率いて吶喊(とっかん)し、敵軍を左右に押し広げてください。一当てして怯んだところに私と桃香様の率いる二陣をぶつけます。愛紗さん、鈴々ちゃんは突撃する本隊に合流して左右からの攻撃に備えてください。その間、ご主人様と雛里ちゃんは後方で周囲の警戒をお願いします」

「おー! 鈴々にお任せなのだ!」

「……ああ。そうだな」

 

 元気に矛を掲げてみせる鈴々に対し、どこか気もそぞろに立ち尽くす愛紗。そんな様子の彼女を前に、劉備軍の軍師を任されている朱里はきまりが悪そうに自身の金髪の上に乗っている帽子を被り直した。妙な雰囲気を感じ取った一刀は、努めて明るく朱里に問いかける。

 

「えっと、それじゃ曹操軍との交渉は上手くいったんだ?」

「あ、はい。当初陽動は我が軍のみとなるところでしたが、いくら相手方が雑兵の集まりといえど私たちとはあまりに兵数差が開いてます。より大きな打撃を黄巾党軍に与えるという名目で曹操さんから我らと同数ほどの隊を陽動に廻して貰えました。曹操軍からは楽進さん、李典さん、于禁さん、許定さんが陽動に参加されるようですね。それでも敵方の半数に届いていませんが、兵質からいって拮抗できない差ではないかと」

「へぇ、あの子もか……」

 

 つい先ほどまで気にかけていた少女の名前が出てきたことで、一刀は思わず声を漏らしていた。

 やはりというか、同じく女性になっているという楽進、李典、于禁と並べられるほどの武将ではあるようだ。今回戦場を同じくするということは、正体の掴めていない彼女の実力の一端を見ることができるかもしれない。思わぬところで懸念のひとつが解消できるかもしれないことに、一刀は小さく口の端を吊り上げる。

 

「……」

 

 また、許定の名に反応したのは一刀だけではなかった。それまで気の入っていなかった愛紗もまた、許定の名を呼んだ朱里へ、そして一刀へと顔を向けていた。口元を綻ばせている一刀を見て、僅かに眉をひそめている。

 

「曹操さんが黄巾党の備蓄を焼き払うまでの遊撃・陽動を任されていますが、拠点から煙が上がったら私たちも追撃を開始します。……あの、愛紗さん。どうかしましたか?」

 

 腕をぶんぶんと振り回して気炎を上げている鈴々と考え事に耽る一刀を除いた、朱里や雛里、桃香の三人の視線を集めていたことに気がついて、愛紗は一つ咳払いをした。

 

「いや、すまない。少し考え事をしていた。私と鈴々が前曲を率いるのだろう。任せてくれ」

「伝令!」

 

 取り繕うように愛紗が答えるのと、陣に伝令兵が駆け込んでくるのは同時だった。そのドクロを模した特徴的な鎧は曹操軍のものである。

 

「これより敵軍へ接近の後、于禁・許定弓兵部隊による一斉射撃を開始する。劉備軍は混乱が収まらぬうちに突撃願う! 楽進・李典隊に遅れることなかれ! その後の手筈は事前の打ち合わせの通りにとのこと!」

「あ、わ、わかりました!」

 

 用件を聞き取りやすく述べた伝令兵は、桃香の声に礼で返答し、きびきびとした様子ですぐさま自陣へと駆けていく。劉備軍の兵ではああはいかないだろう。先ほども一刀たちは曹操軍の行軍の様子を見ていたが、号令ひとつで揃った行動を起こす様は感嘆するほどだった。

 

「それでは我らは前曲へと向かうぞ、鈴々!」

「行ってくるのだ!」

 

 先ほどまでいささか気が抜けているように思えた愛紗も、ここに至ってはそんな様子は素振りも見せない。鈴々共々、周囲を圧倒するほどの戦意を放ちながら、己が得物をその手に駆け出した。

 

「二人とも、気をつけてな!」

 

 関羽と張飛の背に声をかけながら、ぐらりと大気が揺れ動いた気がした。何かに急かされるように胸がばくばくと拍動している。これからまた命のやり取りが始まるのを、一刀は感じていた。

 

 

 

 

 

 

 地面を踏み鳴らす音が響く。大地が震えている。前方からは遠く悲鳴が聞こえていた。おそらくは先ほど命じた一斉射撃で、矢に射られた者たちの叫びだろう。

 それに遅れて銅鑼の音が響き、各方面から突撃の喊声が上がる。そしてそれは、拓実の前方――恐らく、凪や真桜がいるあたりからも同じく上がったのだった。

 

「二陣、構え! 目標、敵軍右後方、放てー! 一陣は後退して次射、構えて!」

 

 拓実の声に従い、放たれた矢が空を覆う。味方の頭上を越え、拓実が示した方向へと降り注ぐ。あちらでは喚声が上がり、それはこちらからの喊声に飲み込まれ、かき消されていく。

 敵軍へと矢を射掛け、その行動の勢いを削ぐ。前曲が接敵し弓が使えなくなれば武器を持ち替え、遊撃に回る。今回、沙和と拓実が命じられているのは後方支援である。

 その与えられた役割を、拓実は十二分にこなしているといえた。額に汗を浮かばせながら声を張り上げ、冷静に、そして的確に指示を飛ばしている。事前に頭に叩き込んでおいた陣形図を頼りに、沙和隊との二隊のみで機先を制し、敵方のほとんどの行動を封じていた。これは警備隊での高所からの物見、相手の出方を抑える伝令の役割で培われていた、場を俯瞰する指揮によるものであった。

 こうまで上手く相手方を押さえ込めたことなどはこれまでの演習でも一度もなく、拓実のその指揮はここに至って一番の冴えを見せている。だが、実のところ拓実は好調どころか、今にも倒れそうなほどに精神的に疲弊していた。

 

 ――警備の仕事中、人死にを目の前で目撃したことがあった。治安を保持する仕事柄、刃傷沙汰で殺人に出くわすこともある。だから拓実には、人の死にいくらかの耐性がついている自信があったのだ。けれど、治安維持でのそれは日に一人や二人、多くとも十を超えないほどで、今日のそれとは桁が違う。

 半日ほど前の劉備軍との会見からの帰りに気づいた、放置された百を超えるヒトの死骸。血で黒く染まる大地、風に乗って届く言いようのない鉄の臭い、暖かかったからか既に羽虫が飛び回り、死肉を鳥がついばんでいる。

 まず血の気が引き、拓実の頭の中は真っ白になった。正しくその光景を認識すれば胸の中には吐き気が渦巻き、手足には勝手に震えがくる。視界が歪み、周囲がまるで地獄にでもなったような錯覚を覚えていた。

 しかし、それでも拓実は『許定』という役を崩さず、周囲にいつもどおりに振舞って見せた。そんな拓実を不審に思った者はきっと、いなかっただろう。

 

 そして今回の戦、初撃――つまるところ開戦の号令は、華琳より拓実に任されていた。拓実に従い沙和が一斉攻撃の指示を出し、それを合図に劉備軍と凪、真桜が敵陣へ吶喊する。こちらでの戦闘開始を見て、別働隊である華琳が拠点へ攻撃命令を発するのだ。つまり、これを発端に先ほど見た以上の命が散ることになる。自分の声ひとつであの時の地獄を――いや、更に大きな地獄を作らなければならない。

 武将としてならば先陣を切ることは名誉なことなのだろうが、拓実は許されるのならば今すぐこの役目から逃げ出したかった。けれどもそんな消極的な拓実の考えとは裏腹に、いざ定刻となれば僅かも躊躇うことなく『許定』は攻撃命令を下してみせた。

 今必要とされているのはこの時代の価値観で生きている、武将である許定だ。現代日本の常識を持つ『南雲拓実』などはただただ迷いを生むだけの邪魔な人格でしかない。許定という役になりきり、役立たずで弱い自分を押さえ込む。いつもしていることをここでもこなすだけだ。華琳がわざわざこの役目を命じたのは、平和な国で育ったという拓実が戦場で使い物になるかどうかの試金石としていたのだろう。

 

 人を殺せるのかという自問に対しての答えは、いつかに出してあった。

 影武者として勤めるかの是非を華琳に訊ねられた時に、拓実は拒否することもできた。けれども、そうはしなかった。華琳に従い、彼女のあまりに重過ぎる荷物を受け持ち、平和な世を作る助けになると決めた。その為には人を殺すことも辞さない。そう決めたのだ。酷いエゴイズムであると自覚しながらも、拓実はさながら華琳のように己の決定を覆すことはしなかった。

 的確に指示を出して敵の多くを殺し、味方には極力戦死者を出さない。それが拓実の立場にあって死者を減らすことのできる唯一の方法だと信じている。ならばこそ、拓実に逡巡する暇などはない。戸惑い、悩み、動揺し、動きを止めれば、それだけ味方が、人が死んでいくことになる。今こそ武将としての最善をこなさなければならないのだ。

 しかしそれでも、拓実は内より浮き出てくる己を封じきれない。浮かんだ汗は酷く冷たく、その顔色は白を通り越して青がかっている。脚や腕には力が入らず、気を抜けば膝から崩れ落ちそうだ。死んだ者に向けての哀悼か、これから殺しゆく者たちへの懺悔なのか。考えに即せず涙が流れ出てしまう。

 

「全員、弓から剣に持ち替えて! 突出している右辺、李典隊の後詰にいくよ!」

 

 袖で視界を塞ぐ涙を拭い、腰の細剣を引き抜いた拓実は剣先を敵軍へ向けて大きく叫ぶ。しかし拓実のその涙は止まることなく、しばらくの間流れ続けていたままだった。

 

 

 開戦の引き金となった矢の掃射より四半刻(三十分)を待たずして、優劣は決した。遠く自拠点から煙が上がったのを見て、半数にも満たない兵に劣勢を強いられていた黄巾党軍はいよいよ不利と悟り、背を向けて逃走を開始したのだ。もちろん機を見逃すような将は劉備・曹操の両軍におらず、奇襲に成功した華琳らを含め、各隊が逃走する黄巾党軍に追撃を開始する。堰が押し切られたかのように、戦況が一方へと傾いていく。

 撤退しようとする黄巾党軍をすさまじい勢いで食い破っていく春蘭・秋蘭隊と関羽・張飛隊に、負けじと凪・真桜隊が続いている。その様子を目前に、後方配置されていた拓実と沙和は兵たちの進攻を緩めさせ、華琳の率いている本隊へと合流を目指していた。距離がある上、散々に食い散らかされている今からでは進撃に加わることは出来そうにはなかった。

 

「あっ、ほらほら拓実ちゃん。黄巾党の備蓄が置いてある砦が完全に堕ちたみたい。凪ちゃんや真桜ちゃんの部隊も大きな損害はないようだし、快勝、快勝なのー!」

 

 隣を歩く沙和の声を受けて拓実が周囲に顔を向けてみれば、最後に残っていた黄巾党軍が集団を保つことが出来ずに四方八方へと散り散りに逃げ惑っていく光景があった。

 それを追い回して、熱に浮かされたように興奮するのは自軍の兵士たち。勝ち鬨があちらこちらで上がり、気づけば拓実や沙和の部隊もそれらと反響しているかのように声を上げていた。沙和もにっこりと笑みを浮かべ、拓実の手を取っては前後に振って機嫌よく歩いている。

 だが、どうにも拓実は周囲が感じているような喜びを共にできなかった。それよりも役目を果たしたことによる安堵の方が大きい。色々と懸念することはあったが、ともかく拓実は無事に初陣を飾ることができたようだった。

 

 

 

「さて、今後のことだけれど……」

 

 主要な顔ぶれを集めた本陣内では、手を顎に当て目を配らせている華琳の姿があった。戦闘の簡単な(ねぎら)いの後、そのまま場の進行は軍議へと移っていた。

 

「そうね、桂花。現状で我々が早急にせねばならないことは何かしら?」

「はっ。周知の通り、主戦場ではまだ十万の黄巾党軍が控えています。そして、備蓄が焼き払われたことは遠くないうちに黄巾党軍の主力軍へと伝わることでしょう。黄巾党の中枢はともかく、大部分は生活に困って参加している者がほとんど。少なくない数が戦場を放棄し、この拠点めがけて進攻してくることが予想されます。ですがこのままこの場所に駐留し黄巾党軍の本隊と真っ向からぶつかっては、劉備軍を含めたとしても数の力で押し切られてしまうのは明白。今は転戦して耐え忍び、勢いを削ぐ事が肝要かと。つきましては、この地より一刻も早い離脱を進言致します」

「ええ、そうね。私も同じ考えよ。仮にも中央からの正式な要請で討伐に任されている我々が、一撃離脱を強いられている現状は業腹だけれどね」

 

 不機嫌そうに、だが桂花の返答にどこか満足そうに返した華琳は、他所へ向けていた視線を改めて前方へと戻す。

 

「秋蘭、春蘭。戻ってきたばかりのところ悪いけれど、供をなさい。これより劉備の元へ向かうわ。桂花、あなたは自陣に残って損害の確認を」

「お任せください! 雑兵を蹴散らしたぐらいで疲弊するような柔な鍛え方はしておりません!」

「御意に!」

「かしこまりました」

 

 自負が見て取れる春蘭の答えに、打てば響くように返す秋蘭、至極冷静に声を返す桂花。彼女らの堂のいった様子は見ている方に安心を与えてくれる。

 

「真桜と沙和は兵をまとめて、私たちが帰り次第すぐに発てるように備えなさい」

「了解や。っやなくて、了解です!」

「は、はいなのー!」

 

 対して、世間話程度ならばともかく、どうにもこういった正式な場での華琳との応対に慣れていない様子の真桜や沙和。にこにこと笑みを浮かべながらそんな初々しい様子を眺めていた拓実は、無表情ながら全身を震わせている人物に気がついた。

 

「えっと、凪ちゃんどうかしたの? だいじょーぶ?」

「え、なあ!? あ、たた、たく……み、か?」

 

 拓実の声に反応し、ブリキの人形のように首をかたかた動かして顔を向ける凪。どうやら凪は極度の上がり症のようだったが、拓実はそれに気づくのが遅すぎたようだ。凪の意識が拓実へと向くと同時に、華琳から声がかかってしまう。

 

「季衣、凪、拓実の三人は私や春蘭たちの先導をお願いするわ。目ぼしい集団は殲滅したけれど、残党が残っていないとも限らないものね」

「わっかりました!」

「え? あ、わっ」

「はーい! ……ほら、凪ちゃんも返事しなきゃ!」

 

 慌てふためき、きょろきょろと挙動不審に周囲を見回している凪の背を小さく叩いて促す。直前に声をかけてしまったからだろう、と考えてのことだったが、これはどうやら逆効果になってしまったようだ。

 

「うあっ、ひゃい!? 了解しまひたぁ!」

 

 背を叩かれ、びくんと全身を跳ねさせた凪は、顔を耳まで真っ赤にさせて盛大に噛んでしまった。それも緊張から声の加減がつかなかったのか、陣にも響き渡るような大声である。

 

「……」

 

 ぽかん、とした表情で凪を見つめる華琳。それに倣ったような他の面々。言葉を発した張本人といえば、ぴしりと石になったかのように固まってしまっている。

 同じように拓実も固まっていたが、すぐさまに硬直から回復し、必死に頭を働かせていた。せめてフォローの一つもしてやらないと、あまりに凪が不憫だった。

 

「ええっと、か、華琳さま、早く行きましょう! 早くしないと、ほら、黄巾党が!」

「そ、そうね。それではこれを以って軍議は終わりとしましょう。……春蘭」

「解散!」

 

 珍しく面食らった様子を見せる華琳だったが、それを認識できた者は果たして何人いたのだろうか。華琳には無条件で反応するらしい春蘭の号令が響き渡り、固まっていた周囲もようやく動き出した。

 みな一様に気の毒そうな表情を浮かべながらも、視線は決してある人物がいる方向へは向けずに軍議の場となっていた天幕から出て行った。

 

「……あの、ごめんね凪ちゃん。ボクが話しかけちゃったからだよね。ほんとにごめんね」

「あ、ぁあ。うわあぁぁぁっ!」

「でもね、そろそろ行かないと、華琳さま行っちゃうよ? だから、その、ね?」

 

 人気がなくなりつつある陣内。そこには頭を抱えては振り乱して座り込んでいる凪と、それを必死に慰める拓実の姿がぽつんと残っていた。

 

 



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23.『関羽、許定と相見するのこと』

 

 黄巾党の拠点強襲作戦より幾日かが経ち、曹操軍は未だ劉備軍と共に各地を転戦していた。あの地より即時撤退した両軍は、改めて戦場を同じくする契約を結び共同で戦線を張っている。

 食糧など物資に貧窮している劉備軍と、これより数千、数万もの大軍を切り崩す任務を帯びている為に人手の足りない曹操軍。曹操軍が劉備軍に食糧や物資を提供し、劉備軍は作戦遂行の間、指揮権を曹操に渡すことでお互いの利害が一致していたのだった。

 こうして結成された急場の合同軍ではあったが、保有している兵数はともかく、将の質は現大陸屈指といえるものだ。もちろんそんな一騎当千の武将に率いられた合同軍に民兵ばかりの黄巾党軍が敵うはずもなく、多少の数の差を物ともせずに駆逐されていく。

 

 今拓実がいるのは野営地に張られた天幕の中。華琳によって内々に集められた軍議に出席していた。同席しているのは曹操軍でも一部の者たちだけで、華琳を始めとした春蘭、秋蘭の中核三人。桂花、季衣、拓実と中途より加入した、既に見慣れた顔ぶれ。

 そして今回よりそこには新たに、凪、真桜、沙和が加わっていた。彼女らは新参でこそあるが個々に隊を任せられて結果を出した。こうして軍議に同席させたのは、華琳が彼女らの将器を認めたということなのだろう。

 とはいえこの場にいる他の六人が共有する秘密である、複数の顔を持つ拓実についてを凪たちは知らされていない。これは討伐に出ている現状で許定以外の役を発揮する場面がなく、未だに荀攸として顔を会わせていない為にその必要がなかったこと。加えて、華琳が拓実の経歴を明かすか否かの判断を保留しているからであった。

 

 その拓実はといえば、季衣と凪の間に立ってどこかうずうずとしていてせわしない。最近の拓実にはどうにも落ち着きが無かった。本人は平静を保っているつもりなのだろうが、隠し事が出来ない許定の性質もあってすべて表に出ているのである。

 思い悩んでいるような深刻な素振りではない。何かを心待ちにしているような拓実を、周囲は気にしつつも見てみぬ振りをしている。

 

「それでは軍議を始めるとしましょうか。目下、黄巾党討伐については大きな進展はないわね。順調に数を減らしているとはいえ、目に見える戦果を出すにはもう数ヶ月は必要でしょう。とりあえず今は、協力体制にある劉備軍についてを聞いておきたいわ」

 

 椅子に深く座って足を組んでいる華琳はいつもの泰然とした様子で、まず側に控えている桂花を一瞥した。

 

「この一週間。劉備軍との連絡や作戦立案を桂花に任せておいたけれど……軍師としてのあなたは劉備軍をどう見る」

 

 受けて桂花は小さく目礼し、続いて感情の篭もらない声を上げた。その表情は意図的に消されている。

 

「は。勢力としては弱小ながら、関羽、張飛と武将は正しく勇に優れ、諸葛亮、鳳統の二人の軍師はどちらも広い見識の持ち主です。我らと共に行動し連戦連勝することで着々と名声を得、兵数も日に日に増えているようです。以前に劉備軍を指して眠れる龍と例えましたが、その(まなこ)は薄く開かれつつあるように思います」

 

 桂花の所感に頷いた華琳は、次に秋蘭へ視線を向ける。

 

「秋蘭。報告を聞いたところ、どうやら我らの部隊指揮を改良して兵らへと施しているようね」

「はっ。どうやら我が軍の調練に細作を紛れ込ませ、その錬兵法を調査している模様です。どうやら対象が調練のみの上、華琳様が好きにさせろと仰られました為に、細作は放置致しておりますが……」

「それはおそらく諸葛亮あたりの発案かしらね。我らの指揮や軍の編成を模倣し、錬度を高めようということでしょう。形振り構わずとも機会を逃さず、貪欲に学ぶ姿勢は好ましいものよ。我らがわざわざ教えてやる義理はないけれど、まぁ、共に戦っている以上見て真似られるぐらいは致し方ない。そうでしょう?」

 

 薄く笑みを浮かべた華琳は、視線を動かした。向けられた視線からは、一様に困惑の感情が返ってくる。

 その意図はどうあれ、他勢力に密かに工作員を送り込まれているのである。もしも何事かが起こってからでは遅い。本来であれば捕らえては尋問し、その責の次第を劉備に問い質すべきである。だが、華琳にはそれをする気はないようである。

 

 華琳は天より与えられた、または磨かれた才を愛している。無能な、それも分をわきまえない者には辛辣であっても、華琳をして認めさせる技能を有し、己が天命を知り動いてみせる者に対してはかなり寛大ともいえる。今回の寛大な態度も、劉備軍の有する綺羅星のように輝く才人たちの存在あってのことだろう。華琳はそんな才を持つ者に酷く執着し、己の手元に置きたがるという一種の人材収集癖を持っていた。

 そんな華琳が劉備軍に目をかけているのは部下たちには周知の事実である。それも今までに類を見ないほど過大なものであった。だというのに、いつものようにその将や軍師を自軍へ勧誘せず、一勢力として見て成長を助けてやっている。彼女の性質であれば、有能と認めている劉備らを己の傘下へと加えようとする筈であるのだが、一週間を過ごした今もその様子は見せていない。

 決断の早い華琳が勧誘の機を遅らせる筈もなく、だが形式上は『契約』という対等な条件で一週間もの期間の同行を許すのだから劉備らを評価していないわけでもない。それがどのような思惑からのものか、周囲は判断がつきかねているのだった。

 

「そうね……拓実。あなたは劉備の人体(にんてい)をどう捉えたかしら」

 

 次いで華琳より声がかかったのは、許定の姿をした拓実。周囲から視線が集まるのだが、その中でも横に並んでいた真桜と沙和の疑問の視線が拓実に突き刺さる。

 この一週間。凪ら三人と行動を共にし、兵を率いていた拓実に劉備と会話するような機会はなかった。精々、初日に顔合わせで会ったぐらいのものだろう。それこそ連絡役を任されている桂花や、その護衛を任されていた凪の方が劉備らとは幾度となく会っている。だからこそ、他の者を差し置いて拓実の名が出てくる理由がわからずにいるのだろう。

 そんな視線を向けられている当の拓実は、その問いに対して気まずい表情を隠そうともせずに口を開く。

 

「ごめんなさい、華琳さま。顔合わせの時にちょっとだけ話しただけだから、まだ大まかな性格ぐらいしかわからないです」

「構わないわ。把握している限りで言って御覧なさい」

「う……えと、わかりました」

 

 間髪入れずに華琳より言葉が返ってきたことで、拓実はちょっとうろたえた。僅かな時間視線を宙にやり逡巡した後、自信のない、いつもよりいくらか小さな声量で返答していく。

 

「その、劉備さんは最初は流されやすい性格に見えたんですけど、考えかたの根っこはかなり頑固っていうのかなぁ。とにかく平和にしたくてがんばっているっていうのはウソじゃなさそうです。優しくて、戦いとか嫌いで、でも困ってる人がいると助けずにはいられない感じみたいで。そういう性格だから他人に好かれやすくて、わるだくみとかが苦手だと思います。あとは、天の御使いの北郷一刀さんのことを、なんていうんでしたっけ? えっと、いぞん? その……すっごく頼ってると思います。ボクが劉備さんを見てて感じたのはこれぐらいですけど……」

「ふふ、僅かな時間でそれだけわかれば充分よ」

 

 満足そうに笑みを深める華琳に、拓実は安堵からほっと息を吐いた。横で疑問を浮かべていた二人も拓実に感心したような様子である。そんな光景を視界に入れながら、華琳は今までの桂花、秋蘭、拓実の言葉を吟味し、考え込む素振りを見せている。

 

「武、智、仁。少人数ながらもこれを揃えることが出来る勢力が、この大陸にいくつあるか。妙な横槍さえないなら、劉備らは黄巾討伐にて戦功を立てて地方を任せられることになるでしょう」

 

 華琳の口から珍しく賛辞の言葉が発される。瞳には熱が篭っている。その熱が何に向けられているのか、そして何を捉えているのか、拓実にはなんとなく見えていた。

 有能な人材であればあわよくば自軍に引き入れたいと話していた華琳が、その珠玉ともいえる劉備軍の将らに目をつけぬはずはない。だが、反して華琳は沈黙を守ったまま。味方でないなら、いつの日か劉備ら一行が自身と比するだけの敵になるだろうことを感じたのだろう。

 王が二人いては、やはり対することになるのだろうか。あるいは劉備らと共に一つの勢力を築ければ、大陸統一は早い段階で為されたかもしれない。拓実も密かにそれを願っていた。だが、やはりこの世界でも曹操と劉備は対峙するらしい。それはまるで、大きな流れの上にあるようだった。

 

 

 さて、曹操・劉備合同軍は一週間の転戦を経て、一時華琳の治める(エン)州へと戻ったところであった。

 劉備軍へと備蓄を譲渡し、また連戦を重ねて心許なくなってきた物資を補充するためであるが、討伐はまだまだ続く。陳留へは入らずに街が見える位置に陣を張り、補給に要する数日の中から将兵たちは順繰りに休日を与えられていた。

 

 そんな束の間の休日。拓実はきょろきょろと辺りを見回しながら見慣れぬ陣の中を歩いていた。拓実にとってついにやって来た機会である。逸る気持ちを抑えきれずに、その足取りも軽い。

 

「あ」

 

 歩いているうちに見知った顔を見かけ、拓実は思わず頬を綻ばせた。

 

「すいませーん、天の御遣いさまはこちらですかー?」

 

 天幕の前に仁王立ちしている人物へと拓実は声を掛けた。その手には青龍偃月刀。表情は引き締まっていて、猫の子一匹通すまいといった風情。目を惹くのはやはり、その艶やかな黒髪だ。

 なんと、この麗しい女性が劉備軍の武将である関羽であるらしい。気勢を上げる春蘭を相手に一歩たりとも引かなかった様子から余程の武芸者だろうとは拓実も感じていたが、まさかこの女性が彼の美髯公(びぜんこう)だとは夢にも思うまい。後に調べてみれば、以前は幽州を中心に『黒髪の山賊狩り』と呼ばれていたとのこと。(ひげ)に変わって美しい黒髪を持つこの世界の関羽は『美髪公』というところだろうか。

 

「……見慣れぬ姿が歩いているので誰かと思えば、曹操軍の許定殿か」

 

 声を掛けたところ、関羽に一瞥されて硬い声が返ってくる。拓実は笑顔のままたじろいだ。当初こそ、後世で神格化しているというあの関羽に会えたことで舞い上がったものだが、どうにも拓実はこの女性に好かれてはいないようなのだ。

 拓実の前に姿を見せれば、酷く険しい顔で拓実のことを見つめている。その視線に悪意はなかったようだが、だからといって好意的なものでもなかった。どうやら曹操軍所属の武将は一様に警戒されているようなので他の者であっても対応は似たり寄ったりではあるのだが、拓実に対してはそれが顕著に思える。

 

「そうです! あの、関羽さん、ですよね?」

「ええ。いかにも」

 

 とはいえ実際に相対してみて、関羽の許定への対応はそう素っ気ないものでもない。春蘭や秋蘭など同世代の相手にする際は関羽は警戒からこうまで柔らかい応対はしないようだが、明らかに年下に見える拓実や季衣相手では勝手が違うようである。実際のところ、北郷一刀と一歳違いの拓実は関羽ともそう歳は離れていない筈なのだが、そこは拓実の容姿が幼すぎたのだろう。

 関羽は青龍偃月刀を持ち替え、入り口を塞ぐように構えてみせた。

 

「ところで、我らの主君を探しているようだが、いったい何用なのだ?」

「用事は、えっと、ちょっとした私事というか。少しお話したいだけなので、あんまり時間はかからないと思うんですけど」

「私事……申し訳ないが、ここは通しかねるな。私も警護の任を任されている。共同戦線を組んでいるとはいえ、武装した者をみだりに主君に近づけるわけにはいかん」

 

 きっぱりと即断した関羽は、再び武器を手に天幕前の警護へと戻ろうとする。それを止めたのは明るい拓実の声だった。

 

「あ、そうですよね! それじゃ、武器を置いていけばいいですか?」

 

 言って破顔した拓実は腕のトンファー、腰に佩いた細剣をあっさりと取り外し、纏めて関羽へと手渡した。

 まさか他所の陣で言われるまま武装を解除するとは思わなかったのか、きつく張り詰めて不動だった関羽の表情が、そこで初めてきょとんとしたものに変わる。手でトンファーと細剣を受け取り、それをまじまじと見つめた後、遅れて焦ったように口を開いた。

 

「いや、待て待て待て! そういった意味ではなく、一軍の長である者に私事などという不透明な理由で通すことが出来ないという意味だ。それに、武器を手放したからといって暗器等を潜ませている危険もあれば、なおのこと……」

「ええー! 暗器なんか持ってないですよー」

「う、そのだな。許定殿がご主人様を害すると疑っているわけではないのだが、護衛の任を受けている以上はだな……。そうだ! その私事とやらの内容を私に話してみないか? その内容の重要性次第では取次ぎも考慮に入れてみるが……」

「えっと……ボク、御遣いさまとお話してみたいって思って」

「む、それはご主人様相手でなければできないことなのか? 内容は?」

「え? 内容?」

 

 関羽より問い詰められて、拓実はようやく自身が何も考えずにここに来ていたことに気がついた。体の芯がどんどん冷たくなっていく。先ほどまでに感じていた高揚感などは、どこかへ消えてしまっていた。

 

「ぁ、その……」

「どうした?」

 

 ついつい馬鹿正直に同郷の人間と話したいとだけ考えていたが、立場柄、拓実は己の正体を他の人間に語るわけにはいかなかったのだ。一刀と同郷であること。許定や荀攸ではない、南雲拓実という日本名。今現在の自分の立ち位置。ここに来てからのこれまでの生活。どれか一つでも話せば、華琳の影武者としての地位を知られることに繋がりかねない。それは、そのまま華琳の不利となってしまう。さらに悪いことに、一刀は今後華琳の強敵となるだろう劉備軍に属している。なおさら話すわけにはいかなかった。

 どうやら同郷の人間に会えたことで相当に舞い上がっていたらしく、拓実はこの一週間を一刀と何を話そうか、何を聞こうか、そんなことばかりを考えて過ごしていた。自分の正体を明かすことは出来ない、そんな大前提に気づかずこの休日を待ち望んでいたのだった。

 

「……天の国のお話とか、御遣いさまに聞いてみたかったんです」

 

 それらを除いてしまった上で、拓実はいったい何を語れるというのか。もし会ったとしても正体は明かせず、一刀からの話を聞いて、今は帰れない日本の記憶に浸るだけになるだろう。

 搾り出すように、酷く落ち込んだ声を拓実は上げた。あまりの自身の愚かしさに自己嫌悪し、落胆に沈んでいる。数ヶ月に渡り、食文化も文字も、そして価値観さえも異なった異国で過ごしてきた拓実。表面上にはその一切を見せないでいたが、小さくないストレスが内心に累積していたのだ。それが同郷と会って一度緩んでしまい、だというのに打ち明けて鬱憤を解消できないとなれば、中々立ち直れない。

 拓実はまるで、目の前が真っ暗になったような錯覚を覚えていた。

 

 

 

 

 

 はぁ、と深く息を吐いた愛紗は、同時に若干呆れた様子で許定を見やってしまった。自陣に滅多に見ない曹操軍の将兵の姿があるから、すわ、何事か、と身構えた己がまるで間抜けである。

 

「なにかと思えば、そんな些末事だったのか」

 

 続いて、話がしたいからと他陣営に気軽に来るとは劉備軍は軽く見られているのだろうか、そんな考えが浮かび、愛紗は若干苛立ちを覚える。だが、ふと視線を許定へと向けた直後に、そんな感情は吹き飛んでいた。

 そこにはうなだれて、どんより沈んだ許定の姿があった。直前の快活な笑顔と比べてみると酷い落差である。どうやら本人は気づいていないが、その目元は若干光っている。感情が溢れ出して、涙となって出て来てしまったのだろう。

 

「あ、ああ、すまない! 些末かどうかは私が決めることではなかったな。それほどに天の国の話……ご主人様と話すのを楽しみにしていたのか?」

 

 そんな拓実の様子を見て、自身の発言から面会の許可が下りないだろうと考えてしまったのか、そう理解した愛紗はうろたえた。声をかけるも聞こえているのかいないのか、許定は顔を俯かせたまま際限なく落ち込んでいる。

 愛紗はわたわたと助けを求めて周囲に視線を巡らすが、君主の天幕付近だからか誰もいない。どうしていいものか、万夫不当の武を誇る関雲長も泣く子には勝てない。

 

 あることがきっかけで、個人的な興味から許定の姿を見かければその様子を観察していた愛紗。つい初見の戦闘では見事な指揮をしていたから許定を一人の武将と見ていたが、よくよく見てみれば鈴々とそう年が変わらない少女である。その鈴々が世間一般で言う大人の振る舞いをしているかといえばそれは断じて否。鈴々にしても就寝時には肉親が恋しくなるほどの年齢でしかない。

 愛紗は思う。これではまるで、天の国に想いを馳せていただけの無邪気な少女を、難癖つけていじめているだけではないか。

 

「ああもう、わかった。わかったから泣くな! 仕方ない、話を聞くぐらいなら構わないだろう。あまり時間は取れないだろうが、今ご主人様に取り次いできてやるから。ただし、ご主人様の安全の為に私も同席させてもらうぞ」

 

 許定の視線の高さを合わせ、慰めるように何度か肩を叩いた後、愛紗は慌てて身を翻す。丁度その時、天幕の中からは声を上げながら長身の青年が潜り出てきていた。

 

「おーい、愛紗。大声出したりしてどうしたんだ? ってあれ? 君は許定ちゃんだったよね。何で泣いてるんだ?」

 

 現れたのは件の人物、北郷一刀。何事か書き物をしていたのか手を墨で染めて、入り口で立ち尽くしている愛紗と許定を不思議そうに見比べている。

 

「あ、あはは。ボクのことは何でもないですから、気にしないでください」

 

 許定は愛紗、一刀と立て続けに泣いていること告げられてようやく己の異常に気づいたか、目元を袖でぐしぐしとこする。放った言葉を真実とするために一刀に向けて笑いかけたようなのだが、力を入れて擦り過ぎたのか目が赤くなってしまっている。泣いたのが丸わかりで、それでも無理に笑ってみせる許定の姿は酷く痛々しい。何でもない筈もなかった。

 

「なぁ、愛紗。どうしたんだ? 愛紗が何かしたのか?」

「い、いえ。私は警備の任を全うしていただけで」

「そ、そーです! えっと、ボクがバカだったから悪いんです。関羽さんは悪くないんです!」

 

 二人してそうは言うが、その結果として許定が泣き、落ち込んでいるこの状況である。自然と、一緒にいた愛紗へ一刀の疑念が向くのは当然といえた。

 愛紗に責が向かいそうな現状に許定が声を上げてかばったのだが、泣いているところを見られた恥ずかしさからすぐさまに顔を伏せてしまった。

 

「えーっと……それじゃ許定ちゃんは何で泣いてたのかな?」

 

 自身に完全に責がないとは言えずにいる愛紗に対して、一刀から声がかかる。何故こうなったのか。愛紗も把握しきれてはいなかったので、とにかく頭を落ち着けて順を追って話していくことにした。

 

「その。許定殿はどうやらご主人様の生国の話が聞きたくてここまで足を運んだそうで。ただ、ご主人様の身辺の警備を任されている私としては、武装している許定殿を通すわけにもいかず」

「あ、もしかしてそれで武器を取られるのを嫌がったとか? まぁそりゃそうだよな。他所の陣中で武器を取られたりしたらいざという時に困るだろうし」

「いえ! あ、そうではなく、武器はあっさりと私に預けてはいました。ですが、事前に約束もなく話をしたいというだけで主君の下へと易々通すのもいかがかと思い、詳しく話したい内容を聞いていたのです。ただ、どうやら許定殿はご主人様と話されるのを随分と楽しみにしていたようで、その想いを知らず、私が軽んじてしまったというか……」

「そっか……」

 

 一刀は頭をがしがしと掻くと、空を仰ぐ。その後、うむむ、と唸った一刀は、呆っと気が抜けたように見つめてくる許定に近づいた。

 

「そうだなぁ。愛紗の意見もわからないでもないけどさ、この一週間、曹操のところとやり取りするのは軍師を通してばっかりで陣地も別だったじゃないか。お互いの武将が自由に行き来できるような暇もなかったし、そもそも休みという休みも今日ぐらいしか取れてないだろ」

 

 一刀はきょとんとしている許定の頭を墨のついていない左手でぐりぐりと撫でながら、愛紗へ向け笑顔を浮かべた。許定は猫のように目を瞑って、一刀の手の動きと一緒に頭を揺らしている。どうやら悪い気はしていないようである。

 

「流石にそう頻繁だと困るけど、話ぐらいなら通しちゃっても構わないからさ。もちろん、今後はこっちの陣に入る前に武装は解いてもらうけど」

「しかし。それでは万一、ご主人様が襲われでもしたら……」

「うん。だからさ、愛紗も同席してくれるならその危険もないだろ? それにあんまり曹操のところの人たちとも交流取れてないし、丁度いい機会じゃないか」

「それは、確かにそうですが」

「頼むよ。これからも数ヶ月は一緒に助け合っていく相手なんだしさ。愛紗には負担をかけちゃうとは思うけど、何も毎日って訳でもないし、休みの日ぐらいは……」

「あの、御遣いさま。やっぱり迷惑になっちゃうから、ボク大丈夫です。関羽さん、色々と無理言っちゃって、ごめんなさい」

 

 なすがままに頭を撫でられていた許定は一刀の提案に渋る愛紗の様子に気づいたようで、背の高い一刀を見上げておずおずと声を上げる。そして、愛紗へと向き直って深く頭を下げた。その横では一刀が真剣な表情で愛紗を見つめている。

 二人に見つめられている愛紗はというと、もちろんいたたまれない。観念したように口を開いた。

 

「ああ、もう。これではまた私が悪者ではないですか! ご主人様は鈴々の時もそうですが、(わらべ)らに優しすぎます!」

「愛紗、それじゃあ?」

「ええ。許定殿が来られた時は、私が同席することを条件に許可致します。許定殿。今後は前日でも構わないから事前に連絡を頼みたい。他陣営の将を招くともなれば、こちらにも準備があるからな」

「あ、わかりました! ありがとうございます!」

 

 許定もどうやら持ち直したらしい。若干表情に陰りは見えるが、それでもだいぶ明るさが戻っている。

 腰に手をあて、まったく仕方がない、という風に肺から息を吐き出す関羽ではあるが、その顔は控えめに笑っていた。

 

「よし! 愛紗の許可も出たし、それじゃ今日は三人でお茶でもしよっか」

「やったー! お茶だー!」

 

 今泣いたカラスがなんとやら。直前まで不安げにしていた許定は完全に調子を取り戻したらしく、ぴょんぴょんと跳ねて自身の喜びを露にしている。そんな許定の様子を見て、一刀は遅れて自身の言葉の誤りに気がついたようだった。

 

「あ、あー。ごめん。お茶って言ったけど、そんな高価なものは置いてないからこっちで用意できるのは白湯(湯冷まし)ぐらいだ」

「ええー、そうなの?」

「天の国だと何かを飲みながら話をすることを『お茶する』っていうから、ついさ。お茶も飲むけど、そう珍しいものじゃないし。こっちのお茶って薬や嗜好品扱いされてるから異様に高いんだよなぁ。手で握れるだけ買おうと思ったらいくらになるんだか」

「へ、へぇー」

 

 許定は一刀の話を聞いて、楽しそうにふんふんと頷いている。一刀は彼女へ笑顔で話しかけながら天幕の中へ進んでいく。その後ろ。二人が並んで歩く姿を眺める愛紗は密かに、言い知れぬ疎外感を感じていた。

 

 

 その天幕の中には寝具と机、椅子。それにいくつかのつづらが置いてあるだけで物は少ない。ここが、一刀の自室だった。

 机の上には墨の入った(すずり)と筆、それにいくつかの竹簡が開いて置いてあるが、許定が入室しても一刀は気にせずにそのままにしている。なにせ、これらは劉備軍の内情を記した機密に関わるものではない。ここにある竹簡は朱里や雛里から一刀が借りている政治書や軍事書である。

 

 領地を持たない、根無し草である劉備軍に政務処理などはなく、あっても備蓄の調査書ぐらいのもの。それも気がついたときには朱里や雛里がこなしてしまっているので、ここ一ヶ月ほど一刀は手持ち無沙汰な状態であった。

 政務関係では一刀は手が出せない。ではもう一方の軍務はどうかというと、人を率いる訓練すらも積んでいない一刀がいきなり兵士たちを率いて戦える筈もなく、錬兵や実際の戦闘など軍務も愛紗や鈴々に任せる他ない。

 領地を任されてしまえば現在の立場柄、劉備と並んで領主と扱われる一刀にもこなさねばならない仕事が出てくるのだろうが、現時点では一刀に出来ることはいくらもなかった。せいぜい、来たる時の為に政治、軍事などの統治者としての知識を学ぶことぐらいである。

 積み重ねが必要なことだとは一刀もわかってはいるのだろうが、黄巾党の討伐に出てからは桃香と一緒に応援することしか出来ない現状に焦っているのだろう。警備を任されている愛紗は、ここ最近、時間があれば竹簡を紐解いて勉強している一刀を知っている。

 

「それで、俺の生まれた国……天の国について訊きたいことがあるって聞いたけど、何かな?」

 

 天幕へと招き入れられ、きょろきょろと好奇心旺盛な様子で中を見回していた許定に一刀は問いかけている。薦められた椅子にちょこんと座った許定は、人差し指を口に当て視線を宙へと巡らせた。

 

「えっと、んー。その、いっぱいあるんですけど、天の国ってどういうとこなのかな、とか。あとは、天の御使い様はどういう人なのかなー、とか」

 

 ピリピリと気を張っている愛紗の横で、許定は足を伸ばし楽々とした様子で一刀へと答えている。万が一許定が暴挙を働いた時の為、取り押さえられるようにと許定の座る椅子の横に控えているのだが、警戒されている当の許定に圧迫感を感じている様子が微塵もない。

 一般人なら竦み、武将であればまず身構えてしまうだろうそれに反応しない許定は鈍感なのか、それとも自身の気迫を受け止めても尚平常を装えるほどの大物なのか。先ほどまでの一連の様子からは作為的なもの――許定という人格に油断を誘う為だとかの他意の一切を愛紗が感じ取ることはなかった。おそらくは前者であろうと考え、ようやく僅かに警戒を緩め始める。

 

「天の国がどういうところ、か。そうだなぁ……とにかく平和な国だったよ。国内での争いなんて滅多になくて、人が死ぬことなんて事故や病気ぐらいでさ。お金さえあれば食べ物だっていくらでも買えるから餓死者だって滅多に出ないし、娯楽もいっぱいあったな。そういう意味では、天の国だったのかもしれない。本当に、平和な国だった。許定ちゃんや愛紗たちには、ちょっと想像がつかないかもしれないけど」

 

 それらを横で聞いている愛紗は、今まで一刀から天の国について詳しく聞いたことがなかったことに気がついた。四人で旅を始めた当初こそは桃香が明るい調子で幾度となく質問を投げかけていたが、一刀が天の国に帰れないことを知ってからは酷な質問だろう、と自粛させていたのだ。

 一刀がこの世界での生活に落ち着いた頃には表立って訊ねる機会もなくなっていて、他はともかく愛紗は一刀自身が言い出した時ぐらいに聞くぐらいとなってしまっていた。

 

「それと、俺がどんな奴かってことなんだけど、ちょっと自分じゃわからないからさ。これからしばらくは一緒に戦っていくんだし、その中で許定ちゃんがどんな奴か見極めてくれると助かるよ」

 

 一刀は質問の答えをそう締めくくって、ああ、と何かに気づいたように声を漏らす。

 

「あと、出来れば『天の御遣い様』だなんて呼ばずに、もっと気軽に接してくれたら嬉しいかな。敬語なんかも使わなくて大丈夫だからさ」

「あの、それじゃ御遣い様のこと、兄ちゃんって呼んでいい?」

「はは、兄ちゃんか。なんかくすぐったいけど、構わないよ」

「代わりに兄ちゃんも、ボクのこと真名の拓実って呼んでいいからね」

 

 その言葉により驚いたのは、真名を許された一刀ではなく愛紗だった。

 

「えっと、いいの?」

「うん! 兄ちゃんには許定じゃなくて、せめて本当の名前の拓実って呼んでほしい」

「そっか。うん。ありがとな、拓実」

「へへへ」

 

 照れくさそうに笑う許定と、優しい笑みを浮かべる一刀を眺め、愛紗はいつかの焦りをここでもまた感じていた。

 

 北郷一刀は、特に女性に好かれやすい男である。それは天の御遣いとしての立場もそうだし、その権威を振りかざして私欲を満たさないこともそう。見た目にしても端整といって差し支えない容姿をしているのも一因だろう。加えて荒くれ者ばかりのこの大陸の男と比べて教養があり、虐げられがちな女性にも優しく、全体的に線は細いが男としての芯は通っている。

 そんな彼を好んでいるのは、もう一人の君主である桃香なんかは顕著だったし、鈴々も彼のことを特に慕っている。女性兵士たちからの評判も上々という話だ。かく言う愛紗にしても、この数ヶ月で一刀に惹かれている部分は多々あった。少なくとも、もしかしたら恋敵になるかもしれない人物を観察するほどには。ともかく一刀を気にしていると、次から次に彼に想いを寄せる女性が出てくるのである。

 そして今までの会話から薄々とは感じていたが、その中でも特に許定は一刀に向けている好意が大きすぎる。碌に会話もしていなかったのに、会話して数分で無条件の信頼を向けている。真名を預けたのがいい例だ。彼女自身、かなり人懐っこい性格だと思っていたが一刀に対してはやはり度を越えているように思える。そんな思考から、愛紗の疑念は確信へと大きく近づいていた。

 

「もしやとは思っていたが、本当に一目惚れ、というやつなのか……?」

「ん? どうしたんだ、愛紗」

 

 茫然自失といった様子の愛紗に気づいたらしく、一刀から声がかかった。

 

「い、いえっ、なんでもありません!」

「それならいいんだけど」

 

 慌てふためく愛紗に首を傾げながら許定との会話に戻る一刀。どうやらいつしか私塾に似た『学校』とやら、それも一刀が通っていた『せんとふらんちぇすか』の話をしているらしい。

 愛紗はとりあえず許定が一刀へ懸想しているかは置いておき、二人の話に聞き入ることにした。今これを聞き逃したら、次いつ一刀の話を聞く機会があるかわからないからであった。

 

 

 



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24.『夏侯淵、拓実に助けを求めるのこと』

 

 

 補給のついでに陳留へと帰る曹操・劉備連合軍には、その度に数日程度の休暇が言い渡されている。今回で数回目の休暇となるが、もう幾日もすれば次の討伐の為に陳留を発つことになるだろう。劉備軍の将兵たちも今頃、陳留の街で思い思いの休日を過ごしている筈だ。

 休暇とはいえ曹操軍の中でも内務処理を任されている文官や武官らは、曹仁、曹洪に任せきりだった政務の穴埋めや、遠征で消費した物資の補填などに動いている為にゆっくりしている暇はない。

 拓実も荀攸として桂花の補佐し、それに一段落着いたのが昨夜のことだ。ほとんど補佐すべきことがなくなった拓実は休みを貰えたが、領主である華琳、内政を一手に引き受けている桂花はまだ政務に追われていることだろう。

 

「拓実! 拓実はいるか!?」

 

 ようやくの休日、どんどん、と拓実の自室となっている部屋の扉が叩かれた。まだ日は昇り始めたばかりで早朝といって差し支えのない時間帯である。

 

「秋蘭? もう、なによ。朝からそんなに慌てて、いったいどうしたのよ」

 

 聞こえてきた焦りを含んだ秋蘭の声に、荀攸に扮した拓実は不機嫌そうに言葉を返して扉を開けた。その姿は寝台から出てきたばかりで、浴衣のような薄い着物の上に木綿の肩掛けを羽織っているだけである。

 その先にいた秋蘭もまた薄手の着物を二枚合わせ着ているだけで、余程の危急の用件だと察せられたのだが、彼女は拓実を見た途端に何故か勢いを落とした。見るからにがっかりしている。

 

「む。荀攸だったか」

「何を落胆しているのよ、まったく。そんなに許定のほうがいいわけ?」

 

 どうでもいいような素振りで秋蘭に問いかけたが、これは以前から拓実が疑問に思っていたことだった。どういった訳か、秋蘭は許定である拓実に甲斐甲斐しく世話を焼く。

 腹は減っているといえば飯屋でご馳走してくれて、口元を汚せば手巾(しゅきん)で拭い、拓実が食べている間は口元を緩ませた(ほう)けた様子でそれを眺めている。さらに肌に日焼けが目立ち始めればをこれを塗っておけと日焼け止めの油を渡し、傷を負っていれば手ずから薬を塗り、ついでだからと髪を梳き始める。似合いそうな服があったから買っておいたぞ、と街に出かける度に服を贈りつけてきたりもしている。

 最終的には「秋蘭さまなどとは呼ばずに、私のことは義姉上と呼べばいい」なんて言い出した。あんまり構ってくるので、許定としている時は出来るだけ秋蘭に近づかないようにしている。

 一度でいいからと秋蘭に頼まれて、春蘭の演技を許定の姿でやってしまったのがよろしくなかったのだろうか。拓実はそんなことを考えた。

 

「うむ。あれは性格こそ違うが、姿だけならば在りし日の姉者のようだからな。その姿で姉者の物真似をした時などは懐かしい気持ちになったものだ。それだけで贔屓してしまうのも、まぁ仕方がないことだろうよ」

 

 秋蘭は悪びれもせずに、笑みを浮かべて返した。やっぱり春蘭の演技をしたことが原因だったのかと、ため息を吐いた拓実は胡乱(うろん)な目で秋蘭を見やる。

 

「それで? あんたがそんなに慌てるなんて、何かしらの理由があるのでしょう?」

「ああ、そうだ。姉者の為に、拓実の力を貸して欲しい」

「はぁ?」

 

 出し抜けに何なのか。眠気が降りてきた目を手の甲でこすりながら、拓実は疑問の声を上げた。

 

「拓実よ。ここのところ、華琳さまにお会いできているか?」

「……いいえ、桂花の補佐や政務ばかりで満足に拝謁することもままならないわよ。桂花にしたって似たようなものでしょうし。それにきっと華琳様はこうしている今も政務をこなされているのだろうから、些事(さじ)に関わっていただくわけにもいかないわ」

「私たちも同じだ。物資の搬入、負傷兵と駐屯兵の入れ替え、調練などで碌にお会いできておらん。だが政務をこなしているお前たちや私はまだ報告でお目見えすることもあるだろう。だが、姉者は……」

「ああ、なるほどね」

 

 つまりは今現在、政務関連の報告以外で華琳に目通りすることが出来ない状態にあるらしい。春蘭だって政務処理をこなしていないわけではないが、目通りして報告しなければならないほどの案件は任されていない。その上で華琳も多忙である為に、邪魔をするわけにもいかない。

 近くにいるのに会えない。春蘭はにっちもさっちもいかなくなっているようだ。

 

「それで? 力を貸して欲しいって、春蘭にでもこなせるような案件を用意すればいいのかしら?」

「いや、残念ながら姉者ではそれを終える前に陳留を出発することになってしまうだろう。それにもう姉者は限界だ。来い、見ればわかる」

「ちょ、ちょっと、引っ張らないでよ! 着替えぐらいさせなさいってば!」

 

 有無を言わさずに、秋蘭は拓実の腕を引っ張って歩き出した。拓実の頼みは、勿論聞き入られることはなかった。

 

 

 

 秋蘭に連れられ、辿り着いた先には春蘭・秋蘭の自室があった。僅かに秋蘭が扉を開けると、中から声が漏れ聞こえてくる。

 

「さきほどのもよかったと思いますが、やっぱりこちらの服もお似合いです。華琳さまぁ……」

 

 中からは蕩けたような明るい声が聞こえてくる。聞き違えようもなく春蘭の声だ。怪訝な色を隠そうともせずに拓実は眉をひそめた。

 

「何なの? 全然元気そうじゃない。それに、華琳様がいらしているの?」

 

 ついと拓実が部屋の中を覗き込むと、こちらに背を向けて立っている華琳のその腰に、なんと春蘭が抱きついている光景があった。

 

「ちょっと! あんた何勝手に華琳様に抱き……むぐ!?」

 

 それを見た拓実は、思わずかっとなって春蘭に食って掛かろうと口を開く。そしてすぐさまその口は塞がれた。部屋へと乱入しようとした足は止められて、後ろから秋蘭に抱きかかえられてしまう。

 

「落ち着け! ……いいか、あれは華琳様ではない。『等身大着せ替え華琳様人形』という、姉者が木から彫り出して作った人形だ」

「嘘おっしゃいなさいよ! あんなに精巧な人形があるわけ……」

「現に、あの華琳様は一切の反応を姉者に返しておらんだろう」

「うふ、ほほほほほほぉ、華琳さまぁ。おほほほほほ」

 

 改めて中を見直したが、拓実には華琳とその『等身大着せ替え華琳様人形』とやらの区別がつかない。だが、奇妙な笑い声を上げる春蘭を前にしても、部屋の中の華琳は微動だにもしていない。

 

「あれが、人形? ……動く気配はない、呼吸している様子もない、わね。まぁ、信じてあげても良いけど、それよりあの馬鹿はいったいどうしたのよ。普段からして突飛な頭をしているけれど、今日のアレはなんか壊れてるわよ」

「同じ城にいながらも長時間華琳様に会えずにいたことで、我慢の限界を迎えてしまったのかもしれない。いつからなのか知らないが、私が明け方に目を覚ましたときにはもう。少なくとも日も出ていない早朝からずっとあの調子なのだ」

「……重症ね。手の施しようもない。手遅れだわ」

 

 拓実はどうにもならないと首を振って、踵を返して部屋へと足を進め始めた。寝巻き姿であるために肌寒い。自身の細い肩を抱いて、まだかろうじて温もりが残っているだろう寝台へ戻ろうと、足早に自室へと帰ろうとする。

 

「待て! いや、待ってくれ、拓実!」

「悪いけど、私にはどうしようもないわよ。華琳様でもなければ、アレを正気には戻せないんじゃないの?」

「いや、確かに荀攸ではどうしようもないかもしれないが、拓実ならば可能だろう」

 

 その言葉で、拓実は進めていた足を止める。秋蘭が言わんとしていることに思い至ったのだ。

 

「あんた。まさか、華琳様の命に背くつもりじゃ……!」

「……華琳様は自室である執務室にこもりきりだ。本来であれば許可を取るところだが華琳様はご多忙、睡眠時間も削っておられるのにご迷惑はかけられまい。しかし姉者の状態は早急になんとかせねば諸々の仕事に差支えが出てしまう。数時間だけ話相手をしてもらうだけでいい。それに華琳様が外にお出でにならない今、我らの部屋だけならばお前のことも露見せぬ筈だ」

 

 いつになく真剣に拓実に語りかける秋蘭。一通り語り終えると、部屋の中の春蘭へと目を向けた。

 中では春蘭が相変わらず「うひゅひゅひゅ、ふへへへぇー」などと筆舌しがたい笑い声を上げてはよだれを垂らし、『等身大着せ替え華琳様人形』の太ももにほお擦りしている。

 

「うぇ」

 

 げんなりした面持ちで声を漏らす。朝っぱらから嫌なものを見てしまった。はっきり言って気味が悪い。とにかく忌避感しか浮かんでこない。

 

「何より、あんな姉者を見るのはあまりに痛ましい……」

 

 だが拓実と秋蘭では見えているものが違うのだろうか、春蘭を眺めてはらはらと涙を落としていた。

 拓実としては、どちらかといえば早朝からこんな妙な笑い声で目を覚まさざるを得なくなってしまった秋蘭が不憫でしょうがない。もしも拓実が協力を断れば、あの状態の春蘭がしばらく部屋に鎮座することになるのだ。まず安眠は諦めなければならないだろう。

 

「ああ、もう! わかったわよ! 仕方ないわね! 私が華琳様をお呼びしてくればいいんでしょう!」

「すまない……助かる」

「礼は後でいいから、華琳様が来られるまでにあの馬鹿を、せめて話を聞ける状態に戻しておきなさいよ!」

 

 秋蘭の消え入りそうな謝罪を背に、拓実は肩を怒らせて小走りで駆け出した。出来るだけ人目につかず、そしてせめて今回のことは華琳の耳に届かぬようにしなければならない。

 また面倒なことになった、と拓実は大きくため息をついた。

 

 

 

 数ヶ月ぶりに袖に通す華琳の衣装は、相変わらず拓実の為に仕立てたもののような着心地だった。姿見を見ながら、つづらの中からウィッグを取り出し、慣れた手つきで髪を結んでそれを取り付けた。

 許定として動いている時にあちこちに小さな擦り傷を負っていたが、それらは沙和と買い物に出たときに買った化粧品で綺麗に覆い隠していく。最後に華琳が使っているのと同じ、恐ろしく高価な香水を軽く振り掛ける。

 こうしてしまえばもう、拓実の見た目は華琳とほぼ変わらない。後は秋蘭の頼みをこなすだけである。しかし、華琳にばれては事であるから人目につかないようにと考えていた拓実だったが、華琳の姿でそんなことが出来るはずもないのを忘れていた。

 

「あっ、華琳様。おはようございます」

「ええ、おはよう。桂花」

 

 着替え終えた拓実は堂々と自室から出て、これまた堂々と通路を歩いて春蘭・秋蘭の部屋へと向かっていた。身を隠そうとする素振りはなく、急ぐ様子すらもない。それどころか、道のど真ん中をゆったりとした歩調で歩いている。それも仕方がない。せこせこと隠れて足早に移動する華琳などあまりにイメージにそぐわない。

 もちろんそんな拓実が人目につかない筈もなく、書簡を抱えて通路を歩いていた桂花に見つかってしまった。不幸中の幸いか、非常事態でもないのにまさか拓実が演技している筈もないだろうという先入観から、桂花は拓実を華琳本人だと思っているようだ。泰然と歩いていた拓実を見て頬を緩めている。

 訂正して時間をかける訳にもいかず、微笑と挨拶を返して、通路の端によって頭を下げる桂花の横をすれ違う。

 

「あ、あの、華琳様。お散歩ですか?」

「ええ、部屋に篭ってばかりでは気が滅入ってしまうもの。眠気覚ましも兼ねてね。私はそろそろ戻るつもりだけれど、桂花、あなたに任せておいた仕事の方は順調に進んでいるのかしら?」

 

 明らかに追いすがろうとしている桂花に、拓実は暗についてこないで欲しいという思いを込めて問い返す。一拍息を飲んだ桂花は、何やら意を決した様子で口を開いた。

 

「はい。昨日までにある程度終わらせましたので、いくらかの余裕はございます。あの、ですので、よろしければ私もお散歩にお付き合いさせていただいてもよろしいでしょうか」

「……桂花。私、嘘は嫌いよ。昨夜、次の討伐の為の仕事が溜まっていると自分で言っていたじゃないの」

「へっ? あ、申し訳ございません!」

 

 平身低頭、虚偽報告を指摘されたことで桂花は顔を真っ青にして深く頭を下げた。しかしつい言ってしまったが、この発言は桂花本人と昨夜まで補佐をしていた拓実しか知りえないことである。もちろん、部屋で仕事をしていただろう華琳が知る筈もない。

 

「し、しかし、昨夜はご報告に伺っておりませんが、その旨はいったいどちらで?」

「……拓実から聞いたのよ」

「あいつぅ……余計なことを」

 

 頭を下げたまま、桂花は苦虫を噛み潰したような表情でぶつぶつと「私の知らないうちに華琳様に会って」「覚えてなさいよ」「仕返しを」「やっぱり落とし穴に」などと恨みの言葉を漏らしている。拓実は明らかに報復しようとしている桂花を前に悪寒を覚えたが、表面上には一切見せずに呆れた様子でため息をついてみせた。

 

「まぁ、陳留に戻ってから桂花には特に負担をかけてしまっていることだし、この私に向かって偽り言を吐いたことは特別に許しましょう。けれど、私ももうしばらくは構ってあげられそうにないわ。散歩はまたの機会ね」

「あ、はい……」

 

 気落ちした様子で再び頭を下げる桂花。今度こそ桂花に背を向けて歩き出した。

 どうやら何とか凌げたようだが、今の会話が桂花から華琳に知られれば事は露見する。しかし、だからといって桂花に口止めをするのは明らかに不自然。嘘をついてしまったこともあって桂花も今回のことを好んで口に出さないだろうけれど、ともかく、拓実としては二人が会ったときに今回のことが話題に上らないことを祈るしかない。

 華琳が影武者として動いていることを知った時、拓実が怒られるだけで済めばいいのだが、決まりを厳守させる華琳のことだから最悪は刑罰を受けることにもなる。いや、華琳が定めているのは影武者の存在を口外しないようにとのことだから、華琳が知ったとしても周囲にさえばれなければお咎めもないかもしれない。ただ、どちらにしても無許可で変装しているのでは、拓実が割を食う結果になることは想像に難くない。

 何事もなく一日が終わってくれればいいのだけど、と拓実が叶わないだろう願いを抱いていると、今度は正面に季衣の姿を見つけた。

 

「あっ、華琳さま! おはようございます!」

「おはよう、季衣。今日も元気そうね」

「はい! もちろんです! それじゃボク、街で朝ごはん食べてきま-す」

 

 季衣は笑顔を浮かべて門へと駆けていく。拓実はそれを見送って、変わらぬ歩調で足を進めた。

 武将や文官らが華琳に扮した拓実の姿を見ると立ち止まって包拳礼をとる。ここ数ヶ月で彼らをすっかり見知っている拓実は、華琳がするように挨拶を交わしていった。

 

 

 春蘭・秋蘭の部屋の前に着いた拓実は、扉に伸ばした手を一度止めた。内容まではわからないが、中から話し声が聞こえてくる。

 扉の前で佇まいを正すと、改めてゆっくり、こんこんこん、と扉を三度叩く。大陸にはノックをする習慣はないようだったが、秋蘭であれば来客であると察してくれるだろう。そうして話し声が止み、幾ばくかしてから薄く扉が開かれた。

 

「おはよう、秋蘭。拓実から春蘭の様子がおかしいと聞いたのだけれど、いったいどのような具合なのかしら」

「お、おはようございます。あの、華琳様でございましょうか?」

「何を言っているの。そんなこと一目見ればわかることでしょうに」

「は、申し訳ございません! 御用件は……」

 

 どうやら、秋蘭は拓実を華琳として応対するらしい。もし他の誰かに見つかったときに砕けた様子で話していては不自然だからだろうか。それにしても何やら挙動がおかしいが、春蘭の奇行に動揺しているのだろうと拓実は考えた。

 

「もういいわ。もたもたしていないで、さっさとここを開けなさい」

「は、はっ」

 

 何故だか扉を開け放たずに部屋の中から覗き見て、一向に中に入れる様子のない秋蘭に若干の苛立ちを含めた声で告げる。慌てて扉を開けた秋蘭は、頭を下げて拓実を中に招き入れた。

 

 

 

「……春蘭、あなたは何をしているの?」

「あ、へ? か、華琳さまでございますか!?」

 

 部屋に入って、未だに『等身大着せ替え華琳様人形』に抱きついたままだった春蘭に呼びかけると、ぼやけていた彼女の焦点が一瞬で拓実を捉える。理性の光が瞳に灯るや、すかさず彼女は人形から飛び退いて直立不動の体勢を取った。

 

「あ、あの、あの……」

「あら、春蘭。いったいこれは何なのかしら? 見事ではあるけれど、私の姿を使ってこんなものを作る許可を出した覚えはないわよ」

 

 何やら言葉にならない声を発している春蘭を放って、拓実は『等身大着せ替え華琳様人形』に近寄ってはその出来を検分していた。本物の華琳はこれの存在を知らないようだが、見つけたならこのような反応をするだろうと製作者である春蘭に言葉を投げかける。

 拓実を前にして頬を染めていた春蘭の顔から、今度は血の気が引いていく。春蘭、秋蘭の二人が華琳にしている数少ない秘め事であるからだろう。

 

「いえ! これ、これは……えっと、しゅ、秋蘭……」

 

 春蘭に縋るように見つめられた秋蘭は、即座に膝を突いて拓実に頭を垂れた。頭を下げながらも視線を巡らせて、秋蘭はいつになく焦った様子を見せている。

 

「これは、華琳様にお似合いになりそうな服を贈らせていただく前に、一度寸法を合わせる為に姉者が作った人形にございます。着れぬ物をお贈りする訳にはいきません故に。な、姉者」

「お、おう。その、私が毎週華琳さまのお体に合わせて調整しておりますので!」

「そう。なるほど。道理は通っているわね。そういう用途だけであるならば、まぁ許しましょうか」

 

 追随するように声を上げた春蘭の顔は強張っていたが、秋蘭は拓実の了承の声に頭を下げた。

 二人の声を聞きながらも、拓実は『等身大着せ替え華琳様人形』のあちこちを見て回っていた。拓実としてもこの自身にも瓜二つな人形が気になっていたのである。木から彫りだしたというが、間近で見てもとてもじゃないが信じられない出来栄えだ。華琳にそっくりな上にまるで生きているような肌の質感、身長どころか腕の長さ、足の長さまで本物と同一の造形である。確かに名前からいうように、用途は華琳に見立てて服を着せる為の人形なのだろう。春蘭の隠れた才能に、拓実は内心で感服する。

 一通りを見て回った後、拓実は春蘭と秋蘭に振り返る。二人は、声も上げずに固唾を呑んで拓実の反応を待っていた。

 

「けれど、私の見間違いかしらね。私が見たときは春蘭がこれに抱きついていたように見えたのだけれど。それは、今しがたあなたたちの言った用途とは少し外れてはいないかしら?」

「……あっ!」

「そ、それは……」

「それに、どうやら秋蘭も知っていてこの私に隠し事をしていたようね。まったく。これは二人ともお仕置きかしら」

 

 咄嗟に言葉を返せず、うなだれる秋蘭。春蘭はうろたえるばかりだ。そんな二人の様子を腕を組んで鋭く見つめている拓実だったが、一転、口の端を吊り上げた。

 

「ふふっ」

 

 口元を隠して、笑みをこぼす。あまりに自然な秋蘭の対応に、拓実はこみ上げてくる笑いを抑え切れない。

 

「秋蘭ったら、今まで知らなかったけれどあなたも中々に演技が上手いじゃない。誇っていいわ。その才、この私が認めましょう」

「へ?」

「華琳、様?」

「もうおふざけは終わりよ。春蘭の調子も戻ったようだし、これ以上はこの子がかわいそうよ」

「……拓実、なのか?」

 

 目をまん丸に開いている秋蘭に、拓実は拍子抜けしたと言わんばかりの呆れた表情を見せる。

 

「あら? 秋蘭ともあろう者が気づいていなかったの? しっかり私の服を見て御覧なさい。華琳のように胸元を露出させてはいないでしょうに」

「は。あ……ああ。そうか。そうだったな。あまりに自然にそ知らぬ素振りをするものだから、拓実が本当に華琳様を呼びに行ってしまったのかと。すまん。どうやら私はまだ寝惚けていたようだ」

「そのようね。ああ、それと念のため、私への言葉遣いと呼び名も華琳に対してのものへ変えておきなさい。もし何かの拍子にこの場を誰かに見られて、あなたがこの私に無礼な口を利いて応対していては弁解も出来ないわ」

「はっ! かしこまりました、華琳様」

 

 すぐさまに頭を下げた秋蘭に、拓実は薄く笑みを浮かべた。状況をまったく飲み込めていないのは、横で秋蘭と拓実とを不思議そうに見比べている春蘭だけである。

 

「なぁ、秋蘭。なにがどうなっているんだ? ええっと、目の前の華琳さまは拓実なのだろう? どうして拓実を華琳さまと呼んでいるのだ? そもそも、何故拓実が華琳さまの格好をしているんだ?」

「む。ふむ、何から説明したものか……。そうだな、姉者は華琳様に会いたいあまり、今朝方おかしくなってしまっていたのを覚えているか?」

「んぅ? この私がおかしくなんてなるわけがないだろう。そりゃ、最近華琳さまにお会いできていなくて、華琳さまとお会いできたら何をできたらいいだろうかとずっと考えてはいたが……」

 

 本当に覚えていないようで、春蘭は秋蘭の言葉に対して「ばかなことを」などと言っては笑っている。

 端から黙って眺めていた拓実は思わず疲労混じりのため息をついた。秋蘭と拓実があんなに慌てていたというのに、本人がこの調子である。

 

「まぁ、ともかく。姉者が最近華琳様にお会いできていないからな、代わりに拓実に姉者の話し相手を頼んだというわけだ。私が拓実のことを華琳様と呼んで、華琳様を相手するように話しているのは、その方が本物の華琳様と話しているような気になれるからだ。拓実がせっかく華琳様のように振舞っても、我らが変わらず砕けた話し方をしていては興醒めというものだろう?」

「ふむ、そうか。それもきっちりあるな」

「……姉者、それを言うなら『一理ある』だろうに」

 

 きっちり? と春蘭の謎の言葉に拓実は僅かに首を傾げていると、秋蘭が笑みを浮かべて補足した。

 

「おお、そうとも言うな。それだ。ええっと、それでは拓実じゃなくて、こちらの華琳さまは華琳さまということなのだな」

 

 うんうん、と頷いた春蘭は、横で眺めている拓実に向かっておもむろに膝をついた。いきなり何事かと、拓実は眉をひそめて目の前に跪いた春蘭を見下ろす。

 

「華琳さま、この私の為にわざわざお越しいただいてありがとうございますっ! ええと、本日はいつまでこちらに居られるのでしょうか。丁度、以前に華琳さまが美味しいと言ってたのでまた街で買っておいたお菓子がですね……」

「……随分と切り替えが早いわね」

 

 ぱっと対応を変えて見せた春蘭に、拓実は思わず軽く目を見開いて見つめてしまった。拓実の目の前の春蘭は、それこそ華琳を前にしているかのように目をきらきらとさせて頬を染めている。

 春蘭の中でどう解釈したかは知らないが、こういった対応をしてくれるのならば問題はないだろうと拓実は気を取り直した。

 

「華琳さま?」

「いいえ、何でもないわ。そうね。それでは秋蘭、お茶を入れて頂戴」

「はっ、ただいま」

 

 きびきびとした様子で立ち上がって秋蘭が部屋を出て行く。湯が湧いている厨房に向かったのだろう。それを見送り、拓実は春蘭に向き直った。

 

「先の春蘭の問いに答えるなら、ここに居られるのは精々昼までといったところかしらね。私がここに居ることは知られてはならないもの。今日のところはここで小さなお茶会としましょうか」

「はぁ、そうなのですかぁ……」

「こら、春蘭。そんなに落ち込まないの。せっかくのお茶会だというのに、相手が沈んだ顔ではこちらの気分もよくないわ」

「はい! あ、いえ、これは決して華琳さまに不満がある訳ではなくてですね……」

 

 必死に弁解しようとしている春蘭が微笑ましくて、拓実は笑みを浮かべる。

 

「わかっているわ。そうね、それでは秋蘭が戻ってくるまでこの『等身大着せ替え華琳様人形』とやらをどう製作したのかを聞かせて……。あら? 秋蘭ったら、もう帰ってきたのかしら」

 

 外からこの部屋に向かって、こつこつといった足音が拓実の耳には聞こえてきていた。どうも華琳の姿をしていると常時気を張っているような状態である為に、人の気配や音に敏感になるようだ。

 

「いえ、この歩調は秋蘭のものではないわね。……春蘭! この部屋に身を隠せるようなところは?」

 

 足音が近づいてきてようやく、拓実は思い違いに気がついた。声を鋭く、春蘭に言葉を飛ばす。

 

「へ? えっと、そちらの扉が物入れになっていまして、この人形分の空間は空いているかと思いますが……?」

「そう」

「え? あの、華琳さま?」

 

 返答が届くのが早いか、拓実は扉を開いて体を滑らせるように潜り込む。内側から拓実が物入れの扉を閉めるのと、部屋の外から声がかかるのは同時だった。

 

「春蘭、秋蘭。いるかしら」

「はぁっ!? か、華琳さまですかっ?」

 

 やはり、このまま何事もなくという訳にはいかないようだ。春蘭の戸惑った声を扉ごしに聞いて、拓実は潜り込んだ物入れの中でひっそりとため息を吐いた。

 

 



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25.『曹操、偏在するのこと』

 

 

「あら、春蘭だけなの? 午前は二人とも、これといった予定は入っていなかった筈よね? こちらの仕事が一段落ついたものだからあなたたちの顔を見に来たのだけれど、開けてもらえるかしら」

 

 今しがたまで自身が声に出していたのと同じ声色である華琳の声が拓実の元へも届いてくる。歩調からそうではないかと思っていたが、やはりその推察は違っていなかったようだ。

 薄暗い物置きの中で、拓実は間一髪で姿を隠せたことに安堵の息を吐いた。

 

「は、はいっ! ただいまお開けしま……あっ! いえ! 華琳さま、申し訳ありませんが少々お待ちください!」

 

 華琳に返事をして、しかし何かに気づいたらしい春蘭は、ごとごとと物音を立て始める。何事かと拓実が物置きの扉の隙間から部屋の中を覗くと、『等身大着せ替え華琳様人形』を抱えた春蘭がきょろきょろと焦った様子で周囲を見回していた。人形を置いてはまた抱え上げ、次の場所を探している。

 なるほど。拓実が隠れて代わりにスペースを埋めてしまったために、人形を目に付かずに置けるところがなくなってしまったようである。涙さえを浮かべながらあちこちをうろうろ歩き回る春蘭の姿に、自身が原因であるのを棚に上げた拓実は口の端を吊り上げていた。うろたえている春蘭の姿が可哀想で、なのに拓実がその様子を見てにんまりと笑みを浮かべているのは、きっと華琳の演技をしている所為だろう。拓実には華琳のような加虐趣味はない、筈である。

 

「春蘭。何をしているかは知らないけれど、いい加減開けさせてもらうわよ」

 

 華琳がそう言うが早いか、扉が開かれる音が響いた。

 

「こうしている間にも時間が削られているのよ。突然来訪した私にも非はある。多少部屋が散らかっているぐらいならば大目に見ましょう」

 

 数分は部屋の外で待っていた華琳だったが、一向に開かれる様子のない扉にどうやら痺れを切らしたようである。生憎、物置きの扉の隙間から覗く拓実には入り口あたりは見えなかったが、不機嫌そうな表情で扉を開ける華琳の様子は容易に想像できた。

 扉を開けながら上げられた声には随分と苛立ちが含まれていて余裕がない。普段であればもう少しはおおらかなのだが、どうやらあの華琳をしてもここ数日間の激務は堪えているようだった。

 

「あっ……か、華琳さま」

「……」

 

 部屋へと乗り込んできた華琳の姿が、拓実の視界に入ってくる。春蘭は『等身大着せ替え華琳さま人形』を抱え上げようと人形の腰に手を回した体勢で動きを止め、華琳もまたその様子を見て立ち止まり、言葉をなくした。

 

「――拓実。あなた、ここで何をしているのかしら?」

 

 二人のうち、先に動きだしたのは華琳だった。静かな、温度の一切を感じさせない冷え切った華琳の言葉に、物置きの中の拓実は思わず息を呑んだ。そうしてすぐに自身に向けられた言葉ではないと気づいて我に帰る。

 

「確かに、私はその姿のあなたをもう一人の曹孟徳として認めたわ。けれど、まだ働きをすることまでは許してはいない。あなたともあろう者ならばそれぐらいのことは理解しているものと考えていたのだけれど、買いかぶっていたのかしら。……拓実! 何とか言ってご覧なさい!」

 

 苛烈な言葉を『等身大着せ替え華琳様人形』に投げかける華琳。文字にするならばどうにも間抜けな光景を想像してしまうだろうが、観察力に優れた華琳や人間観察が趣味の拓実にすら看破させないほど、春蘭お手製の人形が精巧なのだ。

 拓実が見ても鋭く睨みつける華琳と不敵に笑みを浮かべて見据えている人形、一瞬だけ切り出して見れば華琳が二人いるかのようだ。睡眠時間を削り、珍しく冷静さを欠いている華琳は身じろぎひとつしない人形の不自然さに気がついてはいない。

 

「あの、華琳さま。その、これは……」

「春蘭、あなたもよ! 仕事にかかりきりになっているのをいいことに、私の預かり知らないところで拓実と戯れているだなんて……いくらあなたでも、あの約定を忘れた訳ではないでしょう!」

「はっ! もちろん華琳さまのお言葉ですので、しっかり覚えてます! 『もしも拓実があなたたちの誰かと事に及ぶ様子あれば、私に一報しなさい。一緒に可愛がってあげる』との仰せでした!」

 

 物置きの中で人知れず、拓実はそのあんまりな言葉に呆れから肩を落とした。こめかみに手を当てて顔をしかめる。気のせいか頭痛がしてきた。

 どうやら拓実の知らないところで恐ろしい密約が交わされていたようである。しかもその『あなたたち』という話し振りでは、秋蘭や桂花あたりも同じ場にいたのだろう。自室で演技を解いてリラックスしているならばともかく、演技中は女性に対して情欲を覚えたりはしない。しかし、もしも一歩間違えていたらどうなっていたのやら、と拓実の背に悪寒が走る。

 

「そうね。なら、何故私に隠れて拓実と……」

「これは拓実ではないからです! 華琳さま、どうかこちらへ。近くで見ていただければお分かりいただけるかと」

「何ですって?」

 

 拓実がそんな風に身震いしていると、扉の向こう側では、春蘭の言葉で冷静になったらしい華琳がじっと人形を見つめていた。そうして、ようやくその異常に気づいたらしい。

 春蘭に言われるがままに近づくと、そっとその人形の頬に手を滑らせた。そしてその質感に驚いたらしい華琳は目を見開き、電気が走ったかのように手を離す。

 

「これは、木材の感触。かなり精巧ではあるけれど、つまりは人形ということ? ……どうやら私の早とちりだったようね。春蘭、要らぬ嫌疑をかけてしまったこと、謝りましょう」

「いえ、そんな! 華琳さまが謝られることなど……」

 

 春蘭がすぐさまに跪き、華琳に深く頭を下げた。だが、華琳はそれで追求を終えたわけではないのは明らかだった。それを表すように、華琳は鋭く春蘭を見据えたままである。

 

「けれど春蘭、いったいこれは何なのかしら? 見事ではあるけれど、私の姿を使ってこんなものを作る許可を出した覚えはないわよ」

「え。は、はいっ。えっと、あれ? どこかでそんな質問を……ああ、そうだ! 確か、秋蘭が言っていたのは……」

 

 春蘭が思い返しているのは拓実とのやり取りだろう。なにせ細部こそ違うものの、華琳がした問いかけはつい先ほど拓実がしたものとほぼ同じである。思案していた様子の春蘭は数秒を置いてようやく思い出したのか、眉を開いて表情を明るくさせた。

 

「華琳さまに服を贈らせていただく前に、本当にぴったり着れるのかどうかを試してみるために作ったもの、です。あっ、それと、私が毎週華琳さまのお体に合わせて調整しておりますから!」

「そう。なるほど。道理は通っているわね。そういった用途であるならば、まぁ許しましょうか。代わりといっては何だけれど、先ほどの失態は忘れて頂戴。この私ともあろう者が少しばかり取り乱してしまったわね」

 

 拓実が気づくか気づかないかの、ほんの僅かばかりの疲労をにじませて華琳が笑みを浮かべた。素振りこそほとんど見せてはいないが、華琳はやはり相当に疲れているようだ。そうでもなければ華琳のこと、端から見て疲労していることを感じさせたりはしない筈である。

 

「大変お待たせしました、華琳様」

 

 ちょうどそんな折、扉を開けて秋蘭が帰ってきた。盆の上には三つの茶碗が乗っていて、湯気を立てている。

 

「秋蘭? 戻ったの」

 

 秋蘭は華琳へと礼で返して、何事もなく盆を机へと降ろす。華琳と対していた春蘭の顔は強張り、そして拓実もまた、秋蘭の登場に密かにうろたえていた。

 たまたま直前に呼び方を変えていた為に華琳は普通に応対しているが、秋蘭は部屋を出ていたので拓実と華琳が入れ替わっていることを知らないのである。今の言葉も、秋蘭が現状を正しく認識していれば出てくる筈がない。拓実ではなく華琳だと知っているなら「華琳様、いらしていたのですか?」と尋ねるであろう場面であった。

 悪いことに華琳と春蘭の位置関係は、秋蘭が出て行く前までの拓実と春蘭とほぼ変わらない。精々が『等身大着せ替え華琳様人形』の位置がずれているぐらいである。先ほど忠告したように秋蘭自身が華琳の胸元を見て違いに気づいてくれればいいのだが、果たして一度拓実と認識してしまった固定観念は崩れてくれるのだろうか。思い込みというのは存外馬鹿にならないものだ。加えて言えば拓実が無断で華琳の姿をしているのも、大本は秋蘭の『華琳は仕事で忙しく、決して部屋から出てこないだろう』という判断からのもので、秋蘭はきっと目の前の相手が華琳であるだなんて露ほどにも思っていない。

 

「あら、この香り、中々上質のものね」

「は。この三人でこうして話すのも久方振りですので、普段飲むものより少しばかり良い茶の葉を用意致しておりました。華琳様、どうぞ。ほら、姉者にも」

「ありがとう」

「お、おう」

 

 華琳は秋蘭から優雅に茶碗を受け取り、香りを楽しむように目を瞑って口をつける。どうやら落ち着いたらしく、先ほどまでの取り乱した名残などは欠片も見えない。

 春蘭がその隙を見計らって、華琳に気づかれぬよう身振り手振りで秋蘭に何事かを伝えようとするも、何を勘違いしたのか秋蘭はそんな春蘭を見て微笑んでいる。

 

「悪くないわね」

「ありがとうございます。ああ、姉者。姉者が先ほど言いかけていた菓子を出してもらって良いか? あれを茶請けにしよう」

「えっ? いや、秋蘭。あれは……」

「以前に華琳様が美味しいと仰っていた店のものだからな。きっと華琳様も気に入ってくださることだろう」

「秋蘭がそうまで言う菓子屋と言えば、そうね。中央通りの『不死爺(ふじや)』か『好爺好名(こうじいこうな)』あたりかしらね」

「ほう、ご存知でしたか。……姉者? 菓子が置いてある場所を忘れたのか? 日に当たらないようにとしておいただろう。まったく、しょうがないな」

「あっ!」

 

 立ち上がり、何の気負いもせずに秋蘭が物置きの扉から覗き込んでいる拓実の元へと近づいてくる。もしや、春蘭が戸惑っていたのはそれが取り出せない場所にあるからではないだろうか。ふと横を見れば、なるほど『不死爺』という文字が入った箱が置いてある。

 視線を戻せばもう秋蘭が扉に手をかけようとしていたが、声などを出して華琳に存在を知られるわけにはいかない拓実には為す術がない。それでも取り乱すことなくその瞬間を待つのは、いったい何の矜持があってだろうか。拓実本人でさえもわかっていない。

 

「ああ、春蘭。一つ尋ねるけれど、あなた拓実の所在は知っているかしら? ここに来る前に仕事の用件であの子の部屋に足を運んだのだけれど、留守にしていたのよね」

 

 秋蘭が物置の扉を開けたその瞬間、思い出したようにそう問いかけた華琳は春蘭に顔を向けた。

 その時、その部屋の反対側では、物置きの扉を開け放った体勢のままの秋蘭と、腕を組んで仁王立ちしている拓実が無言で対面していた。

 

「……」

 

 秋蘭は口元をひくひくと引きつらせ、いつもであれば鋭く怜悧なその目を見開いて、拓実を凝視している。拓実がさてどうしたものかととりあえずにっこりと笑って、横に置いてあった『不死爺』の箱を手渡してみた。目をまん丸にしている秋蘭はそれを素直に受け取って、何度かまばたき。視線を手元の箱と拓実とで何度か往復させる。

 

「た、たくみのやつですか。わたしはまったくもってぞんじませんが。いや、はは、どこへいったのでしょうか。せっかくかりんさまがあしをはこんでくださったというのにあいつめはけしからん」

 

 春蘭の棒読みな声が届く。おそらく位置的に秋蘭の後姿と物置きの中にいる拓実の姿がその視界に入っていることだろう。拓実はその性格からなんとなくわかってはいたが、その大根役者振りから春蘭が役者には向いていないことに確信を持った。

 

「妙に片言になったりしてどうしたの、春蘭ったら。それにしてもまったく。あの子は本当にどこへ行っているのやら。今いるのは荀攸の方だろうから、さては桂花のところかしらね」

 

 華琳は視線を物置側へと向けず、天井へとやってそのまま思案している。拓実の目前にいる秋蘭はゆっくりと首だけで背後を振り返って、そんな華琳と『等身大着せ替え華琳様人形』の姿を視界に収めた後、また拓実へと向き直った。

 笑みを浮かべたままの拓実が何となく手を振って見せると、秋蘭は表情を変えないまま手を振り返す。そうして秋蘭は己が自失していたことに気がついたらしく、扉にかかった手に思いっきり力をこめたようだった。もちろん必要のない力を無理に入れたならば過ぎた音が響くのは道理であり、扉は乱暴に閉められて、ばん、と物を叩きつけたようなけたたましい音が部屋中に響いた。

 

「っ、どうしたの秋蘭? 春蘭じゃあるまいし、そんなに力いっぱいに閉めては扉が壊れてしまうわよ」

「も、申し訳ございません! 少々、力加減を間違えまして……」

「そんな問題ではなかったと思うのだけれど……。ああ、それと秋蘭。聞きそびれていたけれど、事前に知らせておいた訳でもないのによく私の分のお茶を用意していたわね? どうやら部屋に私がいることも知っていたようだし」

「いえ、その。準備を終えて戻る途中に華琳様のお姿をそこの廊下でお見かけしましたので、急ぎ茶碗を一つ多くご用意させていただいただけで……」

「……何やら今日のあなたたちは二人とも様子がおかしいわね」

 

 頭を下げたまま煮え切らない態度で弁解する秋蘭を、いよいよ華琳は鋭く見据える。秋蘭の登場からところどころで怪訝な色を含めていたが、ついに確信に至ったようである。

 

「いえ、そのようなことは」

「……いいわ。あなたがそう言うのならば、これ以上の追求はよしておきましょう。そうね。それでは気分を入れ替えて、茶請け話にこの人形についてでも聞かせてもらいましょうか。これはどこの職人に作らせたものなのかしら。ここまでのものを作れる技術を持つのならば、是非に城に招致したいわ」

「あ、あっ! 華琳さま、私です! それは私が作ったものです!」

 

 手を上げて必死に自身の存在をアピールする春蘭に、華琳は驚きながらも相好を崩し、機嫌を回復させた様子を見せた。不承不承ながらも華琳が納得した様子を見せたことで、表情こそ変わらないものの秋蘭の肩から余計な力が抜けたのがわかる。何とか乗り切ったと安心したのだろう。

 拓実はただじっと身じろぎもせずに、扉の隙間から三人をつぶさに観察していた。

 

 

 

 その後、十数分ほどたわいない雑談を交わした華琳は、執務室に戻ることを告げて退出していった。幾度か怪しいところはあったが、春蘭、秋蘭は共に華琳の疑惑の目からやり過ごしたようだ。

 扉が完全に閉まり、華琳の足音が部屋から遠ざかっていくのを聞き届け、ようやく二人は拓実が潜む物置きの前に集まった。

 

「ふぅ。危なかったな、姉者……」

「ああ。事が事とはいえ、恐れ多くも華琳さまに隠し事をすることになろうとは」

 

 二人は疲れた様子で言って、近くにいた秋蘭が物置きの扉を開ける。その先にはもちろん、いつものように笑みを浮かべた拓実の姿があった。

 

「このような場所で長らくお待たせして申し訳ありません。さぁ、こちらへ」

「……」

「……華琳、様?」

 

 しかしおかしい。拓実は物置きから出ようともせずに立ち尽くしている。いや、それどころか秋蘭の呼びかけにも応じずに一言も声を発さず、中空の一点を凝視していて瞬きすらしない。

 思わず秋蘭は後ろに振り返った。その先には先ほど華琳の興味を集めていた『等身大着せ替え華琳様人形』があった。それを目に焼きつけて視線を戻すと、微動だにしていない拓実の姿。問題は、それらの表情も、体勢も焼き付けたそれとほぼ同一であること。極めつけは、拓実のその体からは活力が感じられない。それこそ、作り物のようだ。

 目の前にいるのは華琳を模した拓実ではない。そう、これではまるで、拓実が模しているのは

 

「……『等身大着せ替え華琳様人形』」

「あら。二人して私に何事か隠していると思えば、もう一体人形を隠していたの」

 

 呆然と秋蘭が呟いたその時、二人の背後――入り口からも突如声が響く。その声の持ち主は先ほど帰ったばかりの筈である。だが、二人が驚き振り向けば、予想に違わぬ人物が立っていた。

 

「か、華琳さまぁ!?」

「執務室にお帰りになられたのでは!」

「ええ。けれど拓実に渡すつもりだった竹簡をここに忘れてしまったから、引き返してきたのよ」

 

 華琳は「すこしばかり疲れが溜まっているのかしらね」ところころと笑って、椅子の上に置かれた書簡を拾い上げた。

 それを聞いて春蘭は馬鹿正直に納得してしまったようだったが、秋蘭は違う。秋蘭は華琳が退室する前に、忘れ物がないか部屋の中を確認している。入り口の扉を閉めたとき、その椅子の上に何もなかったのを知っている。

 ならば何故そこにある筈のない書簡が存在しているのか。そしてそんな嘘を華琳がついているのか。二人は決してやり過ごせていた訳ではなかった。何事かを隠しているのを察した華琳は、こうして尻尾を出すまで二人を泳がせていただけなのだろう。

 

「ふふ、驚かせてしまったようね。さて、少しばかり拍子抜けだったけれど気掛かりも晴れたことだし、私も残りの仕事を片付けてしまいましょうか」

「華琳さま、どうかお気をつけて!」

 

 春蘭の声を背に受けて、華琳は颯爽と去っていく。今回華琳が仕事の合間を縫ってここに来たのはおそらくは最近顔を合わせていない春蘭を心配してのことだろう。

 その気持ち自体は嬉しいものである。ただ、最後に春蘭や秋蘭にちょっとした罠を仕掛けていったのは、今回ばかりは控えて欲しかったが。

 

 秋蘭が言葉も忘れて呆然と華琳が去っていった先を見つめ続けていると、しばらくして背後で「ふぅ」とため息が吐かれた。振り向けば、まるで動く様子を見せず人形のようだった拓実が首を右へ左へと傾けてほぐしている。

 

「まったく、恐ろしい子ね。あの子にしてみればちょっとした悪戯なのだろうけれど、相手をする方は一切の油断ができないわ。春蘭、秋蘭。助かったわ。ありがとう。それにしても華琳が来ることがわかっていたなら、私がわざわざ出向くことはなかったわね」

「……いえ。今回の件は私の我侭に華琳様をお付き合いさせてしまったことがそもそもの原因ですので。責があるとすればこの私に。まして、労わっていただくことなどは、何も……」

 

 にっこりと笑ってみせた拓実に向き直った秋蘭は、深く深く頭を下げた。拓実に向けた礼には、謝意がある。だが、それ以上の驚きと、少しばかりの畏怖が混ざっていた。

 華琳が並外れた洞察力と加虐性、そして今回のようなどこか子供染みた悪戯心を持っていることなどは、長年の付き合いである春蘭、秋蘭であれば当然のように知るところである。しかしそう認識していても、彼女は二人の予想を更に上回ってみせる。それも一つの華琳の恐ろしさだ。

 華琳を相手にしては、拓実の言うように気を抜けない。現に今回も、拓実がその意図に気づかなければ、今回のことは華琳に露見してしまっていたに違いない。

 

「いいわ。秋蘭のお茶を頂きたいところだけれど、どうやら日がよろしくないようね。また後日としましょう。そろそろ私も部屋に戻るとするわ。春蘭、今日は口に出来なかったから、次の機会にも『不死爺』の菓子を茶請けに用意しておくこと。いいわね?」

「はい、この春蘭めにお任せください!」

「それでは念のため、私がお供いたしましょう。華琳様が拓実を探していないとも限りません。私でも華琳様を引き止めさせていただくぐらいのことは出来るでしょう」

「そうね。では秋蘭、私の先導をなさい」

「かしこまりました」

 

 

 

 秋蘭は先んじて入り口の扉を開き、拓実の先を歩き出す。そうしながらも秋蘭は考えていた。華琳のこと、そして今自身の後ろを悠々と歩いている拓実のことを。

 

 華琳が何事かを隠しているだろうと二人を疑っていた様子には、秋蘭も気づいていた。しかし、華琳がそれらしく露にしたのはたったの一度のみであって、その後はそんな様子は一切見せずにいつものように三人で談笑していたのだ。

 秋蘭はもちろんのこと、春蘭も戸惑っていたのは最初だけで、以降は拓実の存在を忘れたかのような自然さでボロを出したりはしなかった。だからこそ秋蘭は華琳が行動に起こすほどまでに懸念しているとは考えていなかったのである。今ならわかるが、そう考えるようにと華琳に誘導されていたのだ。

 

 そんな華琳の行動を拓実は見通していた。いったいどうして華琳が潜んでいることを知れたのだろうか。つい今しがたまでそれが秋蘭にはわからなかった。

 事が起こった後であれば、結果から順序を追って一連の行動に納得も、隠されていた意味に気づくことも出来る。しかし、その兆候を見つけるのはあまりに難しかったはずだ。あの華琳を相手では、外からではまず察することは出来ないだろう。

 ならば、何故拓実だけはそれを知れたのか。難しいことではない。拓実は、秋蘭のように外から華琳を見ていて気づいたのではなく、一つ一つの物事が起こった時に自身を華琳として考えていたのだ。華琳の反応を見ての補強はあっただろうが、あくまでも拓実は自身だったらこうするだろうとしていたのである。それは拓実が華琳と同じ境遇に立たされていたなら、華琳とほぼ同じ行動を取っていたということになる。

 

 秋蘭はそうして思い出した。ここ数ヶ月の間で、一人の人格として振舞っている荀攸や許定と接していた為に忘れていたのだ。この姿の拓実は、華琳なのだ。華琳として考え、華琳として行動する。華琳に成り代わるべく、その全てを模倣しているのである。

 荀攸や許定という人格は、もちろん桂花や季衣が思考の組み立て方の基準とはなっているが、本人たちとは明らかに独立している。影武者としての拓実からは、華琳であろうとする意識の剥離がほとんどない。

 そして拓実の演技には違和感がどんどん無くなってきている。その証拠に秋蘭は今日、拓実を華琳として対応し、また拓実が華琳と入れ替わっていることに気がつかずにいたのである。華琳と謁見した時は別にしてだが、出会った当初の拓実の演技ではこうはいかなかっただろう。

 

 あの完成度であれば遠くない未来に、拓実に影武者の役目が任されるだろう。そう考えるも、秋蘭は手放しで喜べない。この感覚には覚えがあった。いつか、玉座の間で桂花と秋蘭が二人して華琳に対して感じたそれを、今また感じている気がする。

 妙な既視観を振り払うように思考を切り替えた秋蘭は後ろへと顔を向けて、拓実に問いかけた。

 

「それにしても、人形にまでなりきることも可能なのですね。初めて見ましたが、姉者が彫ったあれと入れ替わってもすぐには気づかないかもしれません」

「ああ、先ほどのあれね」

 

 一瞬考える様子を見せたが、拓実はすぐに思い当たったようで小さく笑みを浮かべた。

 

「あれも演劇の一種なのよ。言葉を使わずに、身振りや手振り、或いは表情で表現する手法。その中の人形振りといって、言葉そのままの意味で人形のように静止するものね。同じ手法で、簡単なものだと……っ!?」

 

 秋蘭の見ている前で、話の途中で突然、拓実の左肩が何かに当たったかのように弾かれた。無防備によろけた拓実は目を白黒とさせてたたらを踏む。

 

「華琳様っ!?」

 

 秋蘭は慌てて身構え、その当たったものを確認しようと視線を巡らせる。瞬間、刺客の存在が頭をよぎったが、しかし殺気はなかった。秋蘭の視界に何かが入った様子もない。弓使いである為に秋蘭は動体視力に自信があった。

 それを表すように周囲にも何ら異常はなく、拓実もまた何もない宙を見て不思議そうに左肩を押さえている。

 

「華琳様、少々お待ちを……」

 

 警戒している秋蘭を他所に、僅かに首を傾げた拓実がまた歩き出す。しかしそれも同じところで拓実の体が何か障害物に当たって止まってしまい、またも歩行を妨げられてしまった。

 

「おのれ、妖術の類か!」

 

 秋蘭がその箇所を手で払うが、何も掴めずに空を切る。二度、三度とやっても結果は同じ。だが、拓実が右手を伸ばすと、何かに当たってそれ以上進まない。左手を伸ばしても同じ位置で止まってしまう。拓実の両手の平がぺたぺたとそれを探っていくと、どうやら広範囲に壁があるようだ。しかも、どうやらそれは秋蘭には触れられない壁である。

 

「面妖な……! ……む? もしや、華琳様?」

「ふふふ。こうまで反応してくれると、やってみせた甲斐があるわね」

 

 にこにこと笑っている拓実が、今度は何にも遮られることなく歩き出した。置いていかれた秋蘭は言葉が出てこない。かつかつと軽やかな音を立てて上機嫌に歩いていく拓実の後姿を、呆然と眺めるしかない。人が驚いているところを見て喜んでいる拓実は、正しく華琳を相手にしているようだ。

 いや、華琳からは考えられないからかい方をする分、よっぽど性質が悪いかもしれない。若干呆れた様子で息を吐き、次いで小さく苦笑いを浮かべた秋蘭は先を歩く拓実を追いかけ始めた。

 

 



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26.『拓実、大散財するのこと』

 

「それでは華琳様、本日はご足労いただきましてありがとうございました。このお礼はいずれまた改めまして……」

「もし秋蘭が恩に着るというのならば、今後の働きを以って返しなさい。出来るならば今回のようなことは最後にして欲しいのだけれどね。まぁ退屈はしなかったわ」

「はっ!」

 

 自室まで拓実を送った秋蘭は、最後にもう一度礼を述べて来た道を戻っていった。拓実としては背が見えなくなるまで見送りたかったけれども、そうしてこの姿が衆目を集めては本末転倒。早々に部屋へと戻ることにする。

 

「さて。もう半日が過ぎてしまったけれど、残った時間は何をして過ごしましょうか」

 

 せっかくの休みだ。特に買いたい物があるわけでもないが、街に出てみるのもいいだろうか。忘れていたが、朝から食事も摂っていない。

 部屋へと入った拓実は窓から入り込む陽光を見ては一人ごちて、入り口でぴたりと足を止めた。表情を消して、部屋の中を一瞥する。

 

「誰かしらね、他人の部屋に忍び込む無粋な輩は……。出てくるのであれば今のうちよ。この私の言葉を無碍にするというならば、相応の覚悟をしてもらいましょうか」

 

 有無を言わさぬ声色で声を上げた拓実は、腰に佩いていた青釭の剣に手をかけ、すっと構えて見せる。目を細めて、この部屋に姿を隠しているだろう誰かを威圧する。ぴりぴりと集中して気配を探っていくうちに、寝台の影から一人の小柄な少女が現れた。

 

「……」

 

 果たして、隠れていたのは桂花だった。どこか憔悴した様子で声も上げず、据わった目でじっと拓実を見つめている。思わぬ相手の登場に、拓実は剣の柄から手をのけて軽く目を見開いた。

 しかし、政務に追われているだろう桂花が何故拓実の部屋に潜んでいたのか。不可解な彼女の行動に、拓実は首を傾げた。

 

「桂花? こんなところで何をしているの?」

「~~っ! それはこちらの台詞です! もう、拓実様こそいったい何をなさっているのですか!」

 

 その拓実の言葉を皮切りにして、我慢がならないというように桂花は声を上げた。桂花が、外見的には華琳とほぼ変わらないだろう今の自分をしっかりと拓実と認識している。そのことに対して拓実は焦る様子も見せず、むしろ感心した風に腕を組んだ。

 

「あら、気づかれてしまったのね。あなたにはこのまま隠し通せるものと思っていたのだけれど」

「……先ほど、私の部屋に華琳様が訪ねに来られました。明日から荀攸と許定それぞれに仕事を任せたいので拓実を捜している、と仰っておられましたが」

 

 しかしその余裕も桂花の言葉が放たれるまで。浮かべていた不敵な笑みごと拓実は凍りついてしまう。

 

「今朝方にお会いした時に、拓実と会って私と拓実の仕事の経過報告を受けているとお聞きしていたのに、先ほどお会いした華琳様に進捗状況を訊ねられました。どうやらそちらの華琳様は、機会があればご一緒にお散歩していただけるという約束も覚えておられないようで」

 

 ふふ、と声を漏らしてどこかやさぐれた笑みを浮かべる桂花は、「華琳様より代わりに言付けに参りました」と手元の二つの書簡を机の上に置いた。

 拓実はそれに目もくれず、桂花から視線を外せずにいた。事と次第によっては、今回のことは全て華琳に知るところとなってしまっているかもしれない。

 

「そ、そう。私がこうしていることを華琳は?」

「存じておられません。いっそのこと、華琳様の前で疑問を声に出して吐き出してしまおうかとも考えましたが!」

 

 どうやら話しているうちに桂花のボルテージが上がってきたらしい。憤然やるかたなしといった様子で、顔を赤くしている。

 

「対応させていただいていたのが私でしたから今朝方お会いしたのが拓実様だと気づき、華琳様にお訊ねせずとも現状を把握出来ましたが、季衣や春蘭あたりではどうなっていたことか。恐れながら諫言(かんげん)させて頂きます。どのような経緯でその姿でいられるのか存じませんが、そういった軽挙はどうか改めてくださいませ! まして他はいざ知らずとも、華琳様より軍師の任を頂いている私に通達がなくては、いざ何事かが起こった時に充分な対処が……」

「……桂花がこの私に対して、こうまで捲くし立ててくるだなんて予想外ね」

 

 矢継ぎ早に次々と言葉を浴びせられ、拓実は少しばかりうろたえていた。この華琳の姿の拓実を相手に、桂花がこうまで興奮して声を荒げたことはなかった。それほど彼女は今回の拓実の行動に腹を据えかねていたのだろうか。

 確かに桂花が言及しているように、せめて彼女には事情を説明しておくべきだったのかもしれない。しかしどうにも拓実には、怒りそのものが強いようには見えずにいた。強いて言うなら、ふてくされているといった感情が強いように思える。

 

「私も申し訳ないとは思っているわ。今朝方は危急の用件があった為に、あなたに説明する時間も惜しかったのよ」

「こうして戻って来られたということは、もう解決されたのですね? それでは、拓実様が出て行かねばならぬ危急の用件とやらをお聞かせ頂けますでしょうか」

 

 謝意を見せても勢いを弱めず、有無を言わさぬ物言いで詰め寄ってくる桂花に拓実はまたもたじろいだ。やはりいつになく押しが強い。今の桂花には、華琳になりきっている拓実にしても逆らえない何かがあった。

 

 

「まぁ、そういったことがあって、秋蘭の頼みを聞いてきたというだけの話よ。……桂花?」

 

 春蘭も平常運転しているようなので、華琳本人にさえ知られなければ良いだろうと洗いざらい話して聞かせた拓実は、桂花より返事がないことに気づいて注意を傾けた。

 どうやら彼女は口内でぶちぶちと不満を呟いているようで、「脳筋猪武者が」「私だって拓実様や華琳様とお茶を」「きっとあの馬鹿を抹殺すれば」など物騒な単語が聞こえてくる。そうして、どうして桂花が華琳の姿をしている拓実にまで食って掛かっていたかを知ることができた。

 

「なるほどね、ふふ」

 

 要するに、拓実に事実を打ち明けられもせず相談もされなかった為に、華琳本人に放って置かれたような気分にでもなって焼きもちを焼いていたのだろう。そう認識してみれば、華琳のことに一喜一憂している彼女がどうにも可愛らしく思えてしょうがない。

 

「桂花、溜まってしまっているという仕事は大丈夫なのかしら?」

「……え? はい。今朝拓実様とお会いした後、仕事さえ終えていればと発奮しておりましたので、粗方は終えております。おおよそ全体量の六割ほどでございましょうか」

 

 突然の話題の転換にきょとんとした顔で拓実を見る桂花。その口振りに嘘をついている様子はない。

 拓実は昨夜に聞いた、桂花の今日一日の仕事内容を思い起こす。荀攸一人であれば、寝ずに明日の朝方までかかってしまうだろう量が溜まっていた筈だ。その半数以上を午前いっぱいでこなしたというのだから恐るべきは荀彧の名を持つ少女の実力か、仕事を終えていれば散歩に連れて行ってもらえるかもしれないという彼女の下心か。ただ、流石に過剰なペースではあったらしく、目の前の桂花はいつもより若干憔悴している風に見える。

 

「そうね。ではあなたには迷惑をかけてしまったことだし、よければ街へ出向いて食事でもご馳走しましょうか。散歩の約束の代わりとでも思って頂戴」

「へ? え、え? それは是非にでもお願いしたいことではありますけど……」

「そうと決まったなら門で待ち合わせとしましょう。もし私より遅れでもしたならば、置いて行くわよ」

 

 言われるも、桂花はぽかんとしたまま立ち尽くす。一向に動き出さない彼女に拓実はゆっくりと歩み寄って、手をやり頬に触れた。艶かしく顔を触れられて小さく身震いした桂花は、ぽおっと肌を桜色に染めていく。

 

「何を呆けているの。まさか、このままで出るつもりではないわよね? さっさと部屋へと戻りなさい。街へ出るならそれなりの準備が必要でしょう」

「は、はいっ、ただいま! ただいま着替えて参ります!」

 

 遅れて理解したらしい桂花は顔を輝かせた。そして一歩退いて勢いよく頭を下げ、時間が惜しいとばかりに早足で退室していく。そんな慌てふためいて駆けていった桂花の背中を眺め、拓実はにんまりと笑みを浮かべたのだった。

 

 

 

 

「ふっざけんじゃないわよ! 誰が好き好んであんたなんかとご飯を食べに行かなきゃならないの! この馬鹿っ、私の期待を返しなさいよ!」

 

 拓実と桂花が別れて十五分ほど経っただろうか。今拓実の目の前には、気炎を上げて怒りを露にする桂花の姿があった。加えて、今までにない怒りようだ。

 それもその筈、彼女が望んでいた『拓実様』は待ち合わせの城門に現れなかったのである。

 

「馬鹿はそっちでしょうが。あんたも懲りないわね。執務室でお仕事なさっている筈の華琳様が、あんたなんかと街へ出てこられるわけないでしょうに。華琳様のことになると集中する割りに、他の事が見えなくなるなんて春蘭とそっくりじゃない。無様すぎて思わず失笑しちゃうわ」

 

 次いで「それでも本当に華琳様の軍師なの?」などと続けた拓実は、意地の悪い、それこそ本人でもそう思ってしまうほどのいやらしい笑みを浮かべて見せる。もちろんそこまで言われて桂花は平静でいられるはずもなく、顔を真っ赤にさせて怒りでぶるぶると体を震わせている。

 

「くっ、こ、こいつはっ! 何故私は、午前を仕事に充ててしまったの! それよりも仕返しの為の落とし穴を作っておくべきだったのよ! 落ちた拍子に頭でも打って死んでくれればよかったのに……!」

 

 心底午前の行動を悔いている桂花。その横にいるのは、もはや周囲からは二人でいるのが見慣れた姿となっている荀攸であった。桂花の補佐という役職柄、二人の言い合いは珍しいものではない。城門前で言い合う二人を、周囲を歩く文官武官はいつものことだと通り過ぎていく。

 そうして数分が経って落ち着いたのか、ようやく桂花の頭から血が降りてくる。ただ、騙されたことで気分を害したのは変わらないらしく、不愉快であるという素振りを隠そうともしていない。

 

「それで、桂花はどうするのよ?」

「はぁ? どうするって何が? 人に物を尋ねるときははっきり明確になさいよ。あんたは馬鹿じゃないんでしょ?」

 

 苛立ちからか、返答する声に素っ気が欠片も無い。ないだけならともかく、素っ気の代わりに棘がある。とはいえ拓実も慣れたもので、まったく気にせず呆れた顔で応対する。そんな拓実の様子がまた桂花は気に食わないようではある。

 

「だから、あんたがそんなに嫌なら、別に私はここで帰ってもいいわよ。華琳様がご馳走するって約束されたことだから、私が奢ってあげるつもりだったけど」

 

 顔を険しくさせていた桂花だったが、今度はその問いかけに苦悩して押し黙った。

 そうして数秒。下から見上げるようにして拓実を睨みつけ、次いで「はぁ」と疲れたように息を吐く。

 

「……美味しいお店、知っているんでしょうね?」

「この荀公達に抜かりはないわ。許定が軍を率いるまで就いていた仕事、忘れたの? 警備から外れた今も、あの子は暇を見つけて警備の仕事を手伝ってるみたいだしね」

 

 不敵に笑みを浮かべながらも、もう一人の自分を他所事のように語る拓実に対して、桂花はフードを目深に被って先を歩き出す。肩越しに振り向くと、不機嫌そうに口を開いた。

 

「ふん、しょうがないから付き合ってあげるわ。あ、もちろん甘味処まであんたの奢りよ。わかってるんでしょうね」

 

 

 

 さて。拓実が先導して進む先は、若い女性に人気のある高級志向の料理店である。色々な種類、色とりどりの料理を出されるらしく、落ち着いた雰囲気で食事を楽しめる、らしい。

 らしい、というのは、普段街を出歩いている許定であれば質よりも量を重視し、且つ騒がしい店を好んで利用するものだから、美味しいと噂には聞いていてもこういった店には寄り付かなかったのである。

 逆に、荀攸に扮している拓実には話し声や笑い声が飛び交う屋台よりは、こういったしっかりとした店構えの店で静かに食事を摂るほうがストレスを感じない。そういった点では居心地が良さそうな店である。

 

「……いつのまにこんな店が」

「あんた、街にも碌に出ていないから流行り(すた)りに疎くなっちゃってるのよ。一緒に仕事してるから忙しいのはわかってるけど、偶には城の外にも出なさいよ」

 

 赤と黒の装飾に小さく金をあしらった豪奢に過ぎない建物を、桂花は呆然と見上げている。その横で、拓実は得意げになって声をかける。

 とはいえ拓実も陳留を離れていたので詳しい開店日までは知らないのだが、前々回の休暇の時にはもう開店していたから街にさえ出ていれば知る機会はいくらでもあっただろう。

 

「他の奴からならともかく、拓実にだけは言われたくはないわね。この前のあんたの休みに、『朝から晩まで城の書庫にこもっていると書庫番から報告を受けたが、何をしていたのだ』って、秋蘭が私に訊ねに来てたわよ。あれ、あんたでしょ?」

「う。そ、そうね」

 

 痛いところを突かれたというように拓実は顔をしかめた。その日は桂花が言うように、日頃から桂花が薦めていた書物が溜まっていたので一気に消化してやろうと意気込み、書庫に閉じこもって読書をしていたのである。

 言われてみれば確かに、外に出ているのは許定ばかりで荀攸としては何事か用でもなければ街へ繰り出したりはしていない。食事も城で軽く摂るだけで、仕事の合間に許定が買い込んでいたお菓子を桂花と二人で食べるぐらいだ。

 

「……それはいいから、とにかくさっさと入るわよ。話すのは店に入ってからでもいいでしょう? って、何? 何か揉め事?」

 

 どうにも都合が悪くなったので店へと歩を進めた拓実だったが、入り口では何人かが立ち往生して塞がれてしまっている為に進めない。注意してみれば、多少剣呑な声が飛んでいた。中を覗けばどうやら事を起こしているのは見知った人物であった。

 

「ねぇ、あそこにいるのって劉備たちじゃないの?」

「どうやらそうみたいね……」

 

 そこに居たのは、劉備を始めとして、関羽、張飛、諸葛亮に鳳統、そして天の御使いとされている北郷一刀であった。

 何故ここに、と考えれば、行軍の最中に許定として劉備の陣の一刀の天幕に遊びに行った時、陳留にある評判の良い料理店ということでこの店の所在を語った覚えがある。となれば、この騒ぎの責任の一端は拓実にもあるだろう。

 とりあえず話を聞いてみないことには始まらない。人を掻き分けて、劉備たちと店主らしき人物の下へと進んでいく。

 

「ちょっと。この騒ぎは一体何なの?」

「はぁ。ええと、そちら様は?」

 

 拓実が声をかけると、劉備一行と、でっぷりしてちょび髭を生やした男が一斉に振り向いた。うち、関羽と相対していた男が進み出て拓実へと問いかけてくる。同時に、拓実と同じように人を掻き分けてきた桂花がたどり着いた。

 

「この陳留を治める(エン)州牧、曹孟徳様の臣下である荀公達よ。隣のこれは叔母の荀文若」

「これって、あんたもう少し言いようはないの? あと、なんだか聞こえが悪いから叔母って紹介はやめて欲しいんだけど」

 

 なにやら桂花が文句をつけてくるが、拓実は華麗に無視する。太った男は、拓実の言葉を聞いてすぐさまに恭しく礼を取った。

 

「おお。曹孟徳様の右腕と名高い荀文若様に、その補佐官をなされている荀公達様で! お噂はかねがね! 私がこの店の店主でございます。お二方がご不在の為にご挨拶にも伺えず、申し訳ありません」

「へぇ、聞いた? 華琳様の右腕で名高いですって。この店主、男の割にはなかなかわかってるじゃない」

「桂花、あんたさっきからうるさい。少し黙ってなさいよ。それで? なにやら揉め事のようだけれど」

 

 恐縮した風の店主は、睨みつけてくる関羽から隠れるように身を縮こめる。

 

「はぁ。それが最近では黄巾党といった輩が略奪やら食い逃げやらを繰り返しているために、先日より来歴のあるお客様以外には身元の証明をお願いするようになりまして。それが適わぬ旅人の方の場合、以前にご来店いただいた誰それからのご紹介という形で代えさせていただいているのですが」

 

 いったんそこで言葉を切って、店主は袖から手巾を取り出して額の汗を拭く。どう説明したものかと困り顔である。

 

「最近隊長職に就かれた許定様より評判を聞いてきたということで、しかし許定様は当店にご来店されたことはなくどうしたものかと。もちろん、街を護っていただいている許定様は存じておりますので十分信頼に足るご紹介ではあります。ですが、どういったご関係なのかをお訪ねしていたところ……」

「そこまで綿密に問い質されてはまるで我らが罪人のようではないか。つまるところ、我らを黄巾の連中として見ているということだろう」

「い、いえいえ! そういった訳では決して」

 

 店主の言葉を引き継いだのは、関羽。苛つきが声から聞き取れる。

 なるほど。店主は前例のない紹介にどうしたものかと事の真偽を確かめていた。先日からと言っていたから応対マニュアルもまだ出来ていないのだろう。踏まえてみれば、まぁ、適当な対応ではある。

 おそらく関羽も最初は冷静に応対していたようだが、何度となく繰り返される質問と渋るような店主の態度に、黄巾党と疑われているようで不愉快になったというところか。黄巾党を打倒する為に立っている彼女たちがその黄巾党かと疑われたならまずいい気持ちはしない。

 この揉め事の元々を正したなら、店の現状も知らず、訪れたことがあるわけでもない店を迂闊に紹介をしてしまった許定に非があるだろうか。つまりは……

 

「あんたが原因なわけね」

 

 ぼそり、と拓実にだけ聞こえるように呟いた桂花の声が、拓実の耳には痛い。言い訳となってしまうが、拓実にしても、そんな『一見様お断り』なんて制度が出来ているだなんて知らなかったのである。

 

「こほん。店主。この者らは曹孟徳様と共に、黄巾党討伐に赴いている雄志を抱く義勇軍の者よ。その身元はこの私、荀公達が保障するわ」

「さ、左様でございましたか。それは申し訳ございません、お客様方!」

「ええと、あなたは関羽でよかったかしら? 余計なことをしたらしい許定には言って聞かせておくから、どうか許してちょうだい。この店主らも悪気はなかったのよ」

「い、いや。そう謝られては……。私も少々大人気なかった。民心が揺れているこの時勢では当然の応対だったかもしれない。店主よ、すまなかったな」

 

 拓実の取り成しを受けて、うってかわった関羽の謝罪に、店主もまた恐れ多いと頭を下げる。それを眺めていた桂花からはまたも呟きが届いてくる。

 

「まったく。あんたは他ならぬ自分が原因の癖に棚に上げたりして、いったいどんな神経で……」

「あの子に代わって、迷惑をかけたお詫びに私がご馳走するわ!」

 

 先ほどからぶつぶつと桂花は耳打ちを拓実にしていたが、今度の呟きばかりは無視できなかった。しきりに謝り続けている二人を見て良心を痛めていた拓実は、桂花の声をかき消すように声を張り上げたのだった。

 

 

 

 店の中央にある、十人ほどが座れる大きな卓を八人で囲んでいる。劉備一行六人に、拓実と桂花の二人である。拓実たちも食事に来たことを知った劉備が、半ば無理やりに渋る二人を誘ったのだった。どうにも劉備にも、華琳とは違う方向で人を惹きつける何かがあるようだ。

 

「えっと、荀彧さん。その、荀攸さんはああ言ってましたけど、本当にご馳走になっちゃってもいいんですか?」

「気にしないで好きな物を頼めば? あいつは碌に散財しないんだから、偶には吐き出させないと貨幣の流通が停滞しちゃうものね」

 

 恐る恐るといった風に問いかけてくる劉備に対して、桂花が意地悪い笑みを浮かべている。それに反応したのは、きらきらと目を輝かせて周囲を見回していた張飛だ。

 

「えっ! えっと、猫耳のお姉ちゃん。鈴々、今日は好きなだけ食べてもいいのか?」

「いいわよ。どうせならお腹いっぱいになるまで食べておきなさい。あんたたちもこれからもまた遠征続きで、しばらくはちゃんとした料理は食べられないでしょうからね」

「ひゃー! やったー、なのだ! んじゃ、鈴々はね、これと、これと……」

「あ、でも。鈴々ちゃん、すっごい食べるから……」

「ええと、張飛のことよね? あの体格なら食べるといっても知れているでしょう。いくら何でも、季衣ほどの大食いって訳でもないでしょうし」

 

 そうして桂花が視線を外している間にも、張飛は次々と店員に料理を告げていく。それを視界に収めて苦笑いを浮かべる劉備は、ふと姿勢を正して拓実と桂花の二人に向き直る。

 

「あ、私たちの紹介がまだでしたよね。荀彧さんとは連絡するのに何度か会ってるからみんな知ってますけど、そちらの荀攸さんは初めてですもんね」

「へ? え、ええ。そうね」

 

 こうして会話していても張飛の注文は終わっていない。既にこの時点で十数品。顔を青くし、強張らせてそれを呆然と見ていた拓実が、劉備の声に反応する。

 

「私と愛紗ちゃんのことはご存知みたいでしたので、次は……」

「鈴々が張飛、字は翼徳なのだ!」

 

 劉備がつい、と視線をやると、張飛が気づいたらしく元気いっぱいに手を上げた。それに続いて、かたん、と音を立てて立ち上がったのは大きなリボンの付いた帽子を被っている金髪の少女。

 

「私が諸葛亮、字は孔明でしゅ。はわ、はわわ! えと、軍師をやってまして、それで私の隣が」

「あわわ。鳳統、です。字は士元、といいまひゅ。しゅ、朱里ちゃーん……」

 

 諸葛亮より噛みながらも促され、鳳統もまた噛んだ。魔女のような帽子を目深に被って顔をその薄い青紫色の髪を隠してしまった。どうやら二人とも気が強いほうではないようで失態に顔を真っ赤にさせているが、鳳統は諸葛亮に輪をかけて恥ずかしがり屋なようである。

 

「……よ、よろしく」

 

 拓実は、諸葛亮や鳳統と会うのは今回が初めてのことである。この時点で二人が劉備の下にいることは事前に知っていたことなので、最早気にするほどのことではない。しかし、それにしても二人とも若いというよりは、どうにも幼いといった風情が強い。あまりに少女少女しているものだから面食らってしまっていた。

 最後に残った一刀が、席より立ち上がって声を上げる。

 

「それで、俺が北郷一刀。一応、天の御使いって呼ばれてるけど。何にせよ、これからよろしく……って、あれ?」

 

 うさんくさいという目を隠そうともしない桂花に、意図的に一刀を視界から外している拓実。拓実に向けて握手の為に一刀は手を伸ばしたのだが、もちろんというか拓実はそれに反応せずに、冷ややかにそれを見るだけである。

 

「あの……」

「悪いけれど、男には触れないようにしているの。天の御使いだかなんだかは知らないけれど、私に触れていいのは華琳様だけ。というか、それ以上近づいたら私に対して良からぬ劣情を抱いていると判断して警備に突き出すわ。そして『天の御使いは女と見ると見境ない』って市中に触れ回ってやるから」

「あ、はい……。本当に、そっちの荀彧さんとそっくりですね」

 

 吐き捨てるように言った拓実に、一刀は伸ばしていた手を引っ込める。そのまましょんぼりした様子で一刀が席に着いた。どうやら、桂花とも同じようなやり取りをしていたらしい。一通り紹介を受けておいて、拓実がしないわけにもいかない。席を立って一度全員を見渡し、口を開いた。

 

「先ほどの店主との会話で聞いているでしょうけど、私が荀攸、字は公達よ。一応は軍師みたいな立ち位置にいるけれど、次の討伐にも同行はしないからあなたたちとはあまり顔を合わせる機会もないでしょうけどね」

「今ご主人さまが言ってましたけど、本当に荀彧さんとそっくりですね! ほんと、そっくり。目に見えて違うなーってわかるのは、髪色ぐらいかなぁ」

 

 澄ました顔で自己紹介した拓実に、劉備が興味津々と言った風に声を上げる。対して言われた当人の拓実と桂花は、劉備の言葉に反応して目を剥いてお互いを睨みつけた。

 

「そっくりだなんて冗談じゃないわよ。こんな口の悪いのと!」

「誰がそっくりなもんですか。こんな意地の悪いのと!」

『はぁ!? なんですって!?』」

 

 よく似た二人から口々に返ってくる否定の言葉、そして始まった聞き苦しい言い合いに、劉備や諸葛亮、鳳統は思わずといった様子で笑っている。

 互いを貶しあっているが、周囲からはどうにも仲がいいようにしか見えないようである。生暖かい視線に気づいた拓実と桂花は、同時にため息をついた。

 

「はぁ、不毛ね」

「……そうね。もういいわ。あんたと言い合いしていたら疲れてしょうがないもの」

 

 二人が言い合いをやめると、ちょうど五人の店員が代わる代わる両手いっぱいに料理を持ってきた。注文は張飛に任せていたが、もう十人掛けの机から溢れそうである。拓実の脳裏に、財布代わりの巾着の中身がよぎっては消えていく。今浮かべたそのほとんどとお別れすることになるのだろう。

 何故か出資者である拓実を放って、「それじゃ、冷めないうちに食べましょうか」と場を取り仕切っている桂花の言葉を皮切りに、各々が皿に手を伸ばしていく。

 

 

 高級料理店で、十数人前。いくら城住まいで財産に頓着していない拓実にしても、今回の食事代は手痛い出費である。どうにか華琳の言う『才溢れる者たちを写し取れ』という任務の一環として経費で落ちてくれないものか、などとのんきに考えていた拓実だったが、すぐにそれどころではなくなった。

 全員でも半分ほども食べられるかという量のほとんどをお腹に収めてみせた張飛が、知らぬ間にさらに同量の料理を注文していたのだ。悪いことにそれに気づいたのは追加の料理が並びだしてからである。

 張飛曰く、一皿辺りの量が少ないとのことである。結局追加注文分も食べきってしまった張飛は、まさかまさかの季衣に匹敵するほどの健啖家であったらしい。

 会計時、よくわかっていない張飛を除いた劉備ら五人はすっかり小さくなっていた。この金額、郊外であれば小さな家だって建てられるかもしれない。しかし、許定として陣へ遊びに行って劉備軍のその極貧振りを知っている手前もあり、今更出せとも言えない。というか、彼女たちはそんな大金を持っていまい。

 

 明らかに手持ちでは足りなくなった拓実は結局、桂花に泣きつく事になった。桂花もさすがに大出費の責任の一端を担っている為、文句も言わずにお金を貸してくれた。

 ちなみに城に帰って華琳に聞いてみたところ、公に出来ない任務であるため経費では落ちないようである。見るからに泣きだしそうな拓実を前に、華琳は遠慮の欠片もなく大笑いしてくれたのだった。

 

 



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27.『荀攸、張飛を恐れるのこと』

 

 曹操・劉備合同軍と黄巾党との戦は更に熾烈なものとなっていった。自領地ならばともかく、故郷から遠く離れた地で戦をするともなれば兵にも疲れが見え、日数を置くほどに死傷などにもよって故郷へ帰れぬ兵も出てくる。

 だが、その代わりに内外問わずに高まっていくのは『曹操』と『劉備』の名声である。劉備軍は立ち寄った邑から志に賛同する若者たちを兵として迎え入れ、そして曹操軍は陳留に戻るたびに増えている志願兵が加わり、合同軍は徐々にではあるが規模が大きくなっていた。

 

 しかしその合同軍とはいえ常に連戦連勝とはいかない。指揮を執るのが華琳であろうとも桁から違う大軍に攻めかかられたり、優勢に進めていても予期せぬ援軍などにより撤退を余儀なくされることもある。また必死に喰らいついてはいるのだが、どうしても曹操軍と比べてしまうと劉備軍は数が少なく、錬度が低い。そこを突かれる形で劣勢に立たされたこともあった。

 劉備軍の将の指揮精度は向上している。兵の質は流石に曹操軍のそれに及びつきもしないが、多少遅れつつも追随できるほどには錬度を高めてきている。それは曹操軍の行っている錬兵法を取り入れて諸葛亮と鳳統が自軍にも施せるよう改良し、根気よく兵に調練を施した関羽、張飛の行動の結果である。けれども、そうまでしても曹操軍の練度には及ばない。

 しばらくは劉備軍の練度向上を待って見守っていた華琳であったが、彼女としてものんびり構えている訳にはいかなくなっていた。ここ最近は黄巾党軍側も指揮系統を構築し始めているのか手強くなりつつあった。まだ兵数が同程度であるならまず問題ない。しかし、相手方が自軍の二倍以上の数を誇る場合は、その錬度の差が、揃わぬ足並みが、全体の大きな不和となってしまう。

 

「荀攸さん。今日はわざわざありがとね」

「どれほど役に立てるかはわからないけれど、華琳様より直々に頼まれたとあれば結果は出すわよ。まず詳しく現状と、問題点を聞いておきたいのだけれど……」

 

 ここ最近は伸び悩みつつあった劉備軍もそれは憂慮していたようで、解決への申し出に同意もあり、華琳は合同軍の不確定要素を削るべくして比較的手の空いていた拓実を劉備軍へと遣わしたのだった。

 本来ここまでするのであれば曹操軍は劉備軍との共同戦線を破棄し、単独で討伐に赴くべきだろう。華琳がそうまでする義理はないし、とりあえずの不安はなくなるのだから簡潔に済む。

 けれども、黄巾党が数でかかってくる現状に限ってその選択は不利益が勝ってしまっている。曹操軍の精鋭が二倍の敵を打倒できたとしても、三倍の敵の前には敵わない。策を弄せば別だが、更に訓練を課して質を高めようとも兵質のみで三倍に勝るのは至難の業だ。であれば、いずれ離れることになろうとも劉備軍を加えて数を増やし、連携の向上を図って当初の三倍以上の敵を打倒するのが上策である。

 

「えっと、詳しいことは朱里ちゃんや雛里ちゃんに聞いてもらえると……あ、今、机とか用意していますから、ちょっとだけここで待っててくださいね」

「諸葛孔明と鳳士元、ね」

 

 劉備に返答しつつも、拓実は密かに手のひらの汗を拭った。荀彧である桂花ならともかくとして、果たして桂花に及ぶべくもない拓実が、あの諸葛亮や鳳統を相手に助言することなどができるのだろうか。

 内政官としてならば多少の実績はあるが、軍師としての経験など積んでいない拓実が彼女らに適切な助言ができるものかと発言したところ、笑みを浮かべた華琳には「目の前にいるあなただけでは不足でしょうね」と意味深な言葉を返された。一人だけでは不足と華琳は言うが、こうして遣わされたのは拓実だけである。言葉の陰に隠れた意味を、主命を任命してより考えるも解き明かせないでいた。

 

「あの、それから荀攸さん。あれから会えずにいたのでしっかりお礼が出来ませんでしたけど、この前はどうもありがとうございました」

 

 気がつけば、拓実の目の前で劉備が頭を下げていた。思考に沈んでいた拓実はいきなり礼を言われるも、何のことかわからずに首を傾げた。

 がばっと顔を上げた劉備は桃色の髪と大きな胸を揺らし、申し訳なさそうな表情を向けている。

 

「本当なら私たちから少しでも出せればよかったんですけど、あのお店があんなに高いとは思ってなくて。すごい金額でしたけど……」

「あ、ああ。あの料理店でのことね」

 

 拓実はようやく思い当たり、頬を引きつらせてぶるりと震えた。今までの思考は、どこかへと飛んでいってしまった。

 結局八人で飲み食いした食事代の半分ほどは、桂花に借金をしたままである。元々使うほうではなかったが、向こう四ヶ月ほどは贅沢ができないだろう。それぐらいならばまだよかった。それよりも重大なのが、桂花を相手に弱みを作ってしまったことである。

 

 荀攸としての拓実は補佐官待遇であるため、自身で案件を処理することももちろんあるが、桂花を雑務に煩わせないようにすることが仕事の主軸となっている。元より「私の代わりに書簡全部あんたが持ちなさい。腕が太くなっちゃうでしょ」だの「喉が渇いたからお茶を用意しなさいよ。気が利かないわね」だの「あのお店のお菓子が食べたいから買っておいてよね。あんたのお金で」だのと仕事と関係のない要望まで命令していたのだが、輪をかけて我がままを言うようになったのだ。

 先日にはついに「最近一人寝ばかりで寝不足気味だから、せめて安眠して作業効率を上げるためなのよ」などと理由をつけて、華琳の格好をさせて拓実を寝台に引っ張り込んだのだ。一月分借金を割り引いてあげると言われ、頷いてしまったのは迂闊と言う他ない。もちろん添い寝をしただけではあるのだが、またも間が悪く、翌日の朝に華琳が桂花の部屋を訪ねたのである。あの時の再現のように拓実は物置に隠れ、間男のような朝を送ることになったのだった。

 以前と違うのは、最終的に見つかってしまって二人で華琳に叱られ、お仕置きを受けたことだ。桂花は華琳に嘘をつけず、また突発的な事態の対処に弱かったようである。彼女が春蘭ほどではないものの、演技の才が欠如していたのも一因だろうか。

 そうして華琳より与えられたお仕置きの内容を思い返そうとしているうちに、拓実はそれができないことに気がついた。

 

「じゅ、荀攸さん、大丈夫!? すっごい震えてるし、顔、真っ青だよ!?」

「え? な、ななな、なに?」

 

 気がつけば、拓実は知らず知らず自身を両腕で抱きしめていた。まるで身一つで雪山の放り出されたようにがたがたと震えている。自覚のなかったそれに驚く拓実だったが、震えは一向に収まってくれない。とりあえずゆっくり深呼吸する。するとようやく、徐々にだがそれが収まってきた。

 

「ふ、ふぅ……ふぅ……」

「その、荀攸さん? 何があったのか訊いても」

「お願いだから訊かないで!!」

「ひゃ、ご、ごめんなさいぃ!」

 

 お仕置きの内容が一瞬再生され、拓実は血走った目を見開き、記憶ごと掻き消す様に間髪入れずに叫んでいた。劉備は拓実の有無を言わせない声とその形相に恐れ慄き、目に涙を溜めて頭を下げたのだった。

 

 

 準備が出来たらしく、拓実は関羽の先導により陣営の奥へと案内された。その先にある卓には、立って拓実を出迎える諸葛亮と鳳統の姿がある。

 

「荀攸さん、本日はご足労いただきましてありがとうごじゃいましゅ」

 

 出迎えた諸葛亮の第一声。以前も見たその失敗を、拓実はそんなことなどなかったようにスルーした。顔を真っ赤にして涙目になった諸葛亮は「はわ、はわわ」と小さく呟いて慌てふためき、何ら反応していない拓実を見て「よかった、気づかなかったみたい」と胸を撫で下ろしている。もちろんその全ての声を、拓実の耳は拾っているが無反応である。春蘭の相手をしていて身につけた大人の対応だった。

 

「その、本当は私たちの方からお伺いするべきだったんですけど……」

「気にしなくていいわよ、実際の調練も見てみなければわからないこともあるでしょうし。その為にわざわざ陣を移動するのも億劫だもの」

「そう言っていただけると助かります」

 

 言葉を交わしていくうちに冷静さを取り戻したらしい諸葛亮は、拓実に小さく礼を返した。空いた席に座った拓実は、周囲も座ったのを見計らって口を開いた。

 

「堅苦しいのはここまででいいでしょう? 早速だけれど、本題に入らせてちょうだい」

「はい。雛里ちゃん、お願いね」

 

 諸葛亮に促されて、鳳統が書簡を広げた。

 

 

「……なるほどね」

 

 口元に手を当て、拓実は与えられた情報を吟味し、感嘆の声を漏らした。拓実の手元にある竹簡にまとめられている諸葛亮、鳳統が二人で煮詰めたらしい錬兵法は、曹操軍のものよりも理に適っているといえる素晴らしいものだった。その欠点を見つけるために助言をしにきた拓実であったが、これを見れただけで知識の裾野が広がったような覚えがしている。

 

「どうでしょうか?」

 

 その出来に自信があるのだろう。諸葛亮が拓実に向けるその眼差しは力強い。隣の鳳統も同じようで、いつもは不安げにあちらこちらへと動かす視線を揺るがせもせずに、じっと拓実を見ている。

 

「はっきり言って、私にはこれ以上の改善案は出せないわ。うちの行っているものにも劣らぬどころか勝るとも知れない、驚くほど優れたものよ。見よう見まね、おまけに半年ほどの期間でここまで仕上げたことを二人は誇っていいと思うわ」

「けれども、実際には……!」

 

 諸葛亮と鳳統が眉を開き、拓実を注視した。これ以上ないほどの賛辞ではあるが、しかし疑問は晴れていない。これが拓実の言うように非の打ち所のないものであるなら、最近になって劉備軍の兵士たちが伸び悩んでいることに説明がつかない。

 そんな二人の反応を見て拓実はようやく、華琳の言っていた意味を理解できた。荀攸としての知識、経験だけでは、これには中々気づけなかっただろう。

 

「これを実行できたのなら、華琳様の兵に比するだけの強さを劉備軍は手に入れることになるでしょうね。ただし、これを関羽や張飛が兵に対して、十二分に施せたならだけれど」

「それは、私や鈴々の調練に原因があると言うのか?」

 

 拓実にちらりと見られた関羽が、む、と眉根を寄せて声を上げた。対して、拓実は首を横に振って答える。

 

「いいえ。欠陥があるのは、やはりこの錬兵法よ」

「欠陥……!?」

 

 諸葛亮と鳳統が、うって変わっての辛辣とも言える拓実の言葉に目を見開いた。

 訪れたのが桂花であったらやはりこの問題は解決しなかったかもしれない。既に気づいていた節のある華琳、あとはおそらく秋蘭ならば拓実と同じく看破できることだろう。

 

「荀攸さん、それはいったい?」

「そうね。前提条件として、領地を持たず地盤が弱い劉備軍では、我が曹操軍と同じだけの精強さを求めようとしても難しいこと。個々の兵の素質が劣っているという事実ね。まぁ、調練を施す期間を延ばせば解決することもあるでしょうけど、討伐の為に遠征してその時間を捻出できない以上それは無視するわ。ここまではいいわね?」

 

 諸葛亮、鳳統が神妙な顔で揃って頷いたのを確認し、拓実は続ける。

 

「なのに今しがたに私が述べたのは『これを施せたのならば兵質に勝る我が軍と並べるだけの強さを手に入れることが出来る』。あなたたちもそれを意図してのこの錬兵法なんでしょうけど、ほら。もうここで先の前提と喰い違うじゃない」

「それは……」

「迂遠な物言いも面倒だからはっきり言わせてもらうと、あなたたちの作った錬兵法は兵たちに求めるものが高すぎるのよ。我らの軍にこれを施したならさらに精強な兵となるに違いない。それを成せるのは、私たちの兵が過酷な訓練に耐えられるだけの気概と、個々の能力、見合った報酬があってのことよ。諸葛亮も鳳統も我が軍に引きずられて、その強さを目標として錬兵予定を立てているのでしょうけど、地盤も固まっていないあなたたちにこれは少し早すぎるわ」

 

 曹操軍の兵士は、能力によって