影武者華琳様 (柚子餅)
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1.『拓実、大陸に立つのこと』

 

 ある日、ある時。大陸は陳留に、背に物を負っているとは思えない速度で走る女性の姿があった。

 その女性の容姿は気迫に富んだ鋭いものであるのだが、今は喜びで口元が絶えず緩んでいるために普段の張り詰めた様子もなく、端整なそれを可愛らしく見せている。

 道行く人々はそんな彼女の走る様を見て撥ねられまいと自発的に進路を譲っていく。そうして見事に人の波が割れていく光景が出来上がっていた。

 そんな彼女が駆けつけた先は自分と妹の部屋。彼女は誰よりも先に、この喜びを自身の片割れに伝えてやりたかった。

 

「秋蘭、しゅうらぁ~ん!」

「ん? そんなに急いで、いったいどうした姉者」

 

 どかん、と本来鳴ってはならない音を立てて、姉妹共有となっている私室の扉が開かれる。中で書類整理をしていた秋蘭は作業の手を止め、急ぎ駆け込んできた姉である春蘭に向かって顔を上げた。

 

「こんな時に落ち着いてなどいられるものか! ついに拾ったのだぞ秋蘭! お前も喜べ!」

「拾った?」

 

 傍目にはわからない程度に首を傾げた秋蘭は、すこしばかり考える。ついに拾った、とはいったい何を拾ったというのだろうか。常々のことだが、今回は目的語が存在していなかった。

 しかし秋蘭にとってはそれも慣れっこなのか、姉である春蘭は自身の喜びを全力で伝えようとしている故のことだろうと当たりをつける。

 

 この粗暴で、少々頭への血の巡りが悪い春蘭だが、日ごろからこうして要点が抜けた話で聞く者に混乱を与えて意図を理解してくれない相手に憤慨し、厄介事を巻き起こしている。そしてその後始末は大抵、妹である秋蘭に回っていた。生まれてこの方、両手両足の指の数では全く足りないぐらいに対処してきている。

 それを迷惑かと言われれば秋蘭は言葉を濁して苦笑するしかない。だが彼女は、その後始末を苦に思わない程にはそんな足りない姉が大好きなのであった。

 

「すまない姉者。今まで政務の残りを片付けていてな。少しばかり事の次第を説明してもらえないか?」

「む。ならば仕方がないな。といっても、これを見ればすぐにでもわかるだろう」

 

 やんわりと笑みを浮かべる秋蘭に対し、春蘭は本当に仕方がない風に言って、背負っている人物を珍しく丁寧に抱きかかえて寝台へ下ろした。

 どうやらその人物は気を失っているらしく、この春蘭の騒ぎに声を上げていた様子もない。姉に促された秋蘭は寝台へと歩み寄っていく。

 

「……華琳様!?」

 

 そして、寝台に寝かされた旗袍(チャイナドレス)を着ている者の姿を眺め見て、驚きに目を見開いたのだった。

 

 

 

 

 

(……明日は、ついに文化祭かぁ)

 

 見るからに気落ちした様子で、中学生とも見紛うような小柄な体躯の青年――南雲(なぐも)拓実(たくみ)は自室で服を自作していた。暗澹(あんたん)とした気持ちで行っている裁縫だが、その動きに淀みはない。仕事に出来るほどの洗練さはなかったが慣れた者が持つ手際の良さがあった。

 服を自作しているといっても、彼に服飾関係の進路を進む予定はないし、だからといって別に趣味でメイド服やらアニメのキャラクターの服を作っているわけでもない。その手元にあるのは中華風の民族衣装であった。それも何がどうなったのか、拓実は明日それを着る予定になっている。

 

 ――聖フランチェスカ学園。数ヶ月前だかに一人、二年の男子生徒が行方知らずになったそうだったが、なんら実害を被っていない拓実からすれば至って平和な学園だ。

 治安は悪くないし、その割に校則にうるさいこともない。少しばかり田舎かもしれないが、それだって通学するのに不便はない程度のものである。生徒間でいじめもなくクラスメイトも気のいい連中ばかりだし、何よりも進学以前に通っていた学園のように演劇でシンデレラ役をやらされるなんてことが今の今までなかった。

 もっとも、今回のことがきっかけとなって以前のようになりかねないからこそ、拓実は頭を悩ませているのだけれど。

 

 聖フランチェスカに一年生として通って半年になる拓実は、幼馴染に半ば無理やり勧められて民俗学研究会なんていうマイナーな同好会に入っている。三年女子の西新井会長に、一年男子長身ハンサム顔の東条、そして拓実の三人が構成している小さな同好会だ。

 部紹介オリエンテーションの際、壇上に上がった西新井会長に拓実の幼馴染である東条が一目惚れしたらしいのだが、彼はその異性にモテそうな容姿とは裏腹に話下手であった。そこで、どこに入部するか迷っていた幼馴染の拓実を会話の助けにするために入会に巻き込んだという経緯があった。

 それだけで済めば良かったのだが、そこからがまた難儀な話で、西新井会長は見た目こそ眼鏡に黒髪のみつあみという真面目な文学少女風だというのに、可愛らしい小さな女の子を好むという奇特な嗜好をお持ちであったらしい。もちろんというか彼女にとって『可愛い』の対極ともいえそうな『格好良い』東条は守備範囲外となり、男ではあるものの女子より背が低く女顔であった拓実は変則気味なストライクだったようだ。

 以来、西新井会長が拓実を可愛がり、拓実が辟易しながらもなすがままにされ、東条がそれを羨ましがるという、男と女を巡る変な会内関係が生まれてしまっている。

 

 先述のように小柄で女顔の拓実だったが、彼は聖フランチェスカ進学を機に、東条のような男らしい男になりたいと考えていた。

 男女別である制服ならばともかく、体育用ジャージなどユニセックスな物を着用している彼を初対面で正しく男と接してくるのは3割ほど。それも男子連中と一緒に居てのことなので、女子連中に混ざっていれば埋もれてしまってわかるまい。そんなこんなで自分の中性的過ぎる容姿が嫌いというわけでもないのだけれど、せめて真っ当に男として見て欲しいというのが近年の拓実の願いだった。

 そしてただ願うだけでなく自らそうあるべく、拓実は半年前――聖フランチェスカに入学した当時に髪を金色に染めて短く切り揃えていたことがある。男らしさ=ワイルド、と幼馴染の東条の姿から学んだ拓実は意を決し、髪を染め上げて進学デビューを果たしたのだ。

 そして強面であるべきと無理に眉を寄せて不機嫌そうに振舞い、乱暴な言葉遣いを心がけ自身は紛れもない男であるのだと周囲に主張したのだ。

 

 しかし一月も経てばわかったのだが、それらに効果はなかったようである。確かにベリーショートにしている女子は少ないので必然的に男子と見られるようにはなったが、それで拓実の顔が男らしくなるかといえばそんなことは一切ない。彼の級友たちは友人の顔が女性のようだからといって別にどうこうするわけでもなし、そもそも普通に暮らしていて男子生徒に女装させたりなんかはしないものだ。たまたま以前の学校ではシンデレラ役なんてやったがために女子に化粧されたり、女物の制服を着せられたり、ジャージ姿が可愛いなどとふざけて男に抱きつかれていただけなのだろう。

 そう理解した拓実は無駄な努力は止めた。短く切っていた金髪の髪を切る事なしに伸ばしっぱなしにして、そのまま半年経った今では結構な長髪になっている。乱暴だった言葉遣いも生来の丁寧なものに戻した。

 つまりは髪色が変わってしかめっ面が癖になっただけの、以前の彼に戻っていたのだった。いや、容姿だけならば妙に金髪がはまっていて、以前より可愛らしく見えるかもしれない。

 けれど拓実は今、それを特には気にしていなかった。男として見られないのが嫌なだけだったので、自分を普通の男友達として接してくれる現状で拓実は充分に満足していた。

 

 しかし、そうして安心し始めていた今になって、危機が再び目の前に現れている。

 手元にある野暮ったい中華風の服。今のご時世でよく見るスリットが深く入った派手なものではないが、歴とした女物のチャイナドレスである。

 

 弱小研究会といえど文化祭ともなれば何らかの発表はせねばならず、西新井会長の提案で民俗研究発表は世界の民族衣装を着て行うことになっていた。拓実の担当は中国大陸における民俗。「なら南雲さんはチャイナドレスね」と、西新井会長からの独裁が下った。反論は受け入れられなかった。

 女役をやらされるのが嫌で以前に入っていた演劇部をあきらめて民俗学研究会に入会したというのに、結局この有様である。

 西新井会長もそうだが、拓実は友情を捨てて会長の頼みに乗った東条こそが憎らしかった。アイツにしたってスウェーデンの、フェルトスカートにエプロンつきのドレスのような民族衣装を着ることになってしまうことはわかっていただろうに、何故賛同なんてしたのか。

 これが東条の愛だとでもいうつもりなのか。そんな愛、拓実にはわからないし、わかりたくもなかった。

 

 しかし、やると決まってしまったのならばやりきるほかあるまい。課せられた仕事から逃げ出すような真似をしない、それぐらいの矜持は拓実だって持っていた。

 そう、上からケープのような形状の上着を重ね着すればただのスカートだ。それに今回は、女言葉でしゃべったり愛をささやかなくてもよいのだから、以前のようなことにはならない筈だ。たぶんきっと、ならない。

 

 そんな風に無理に自分に逃げ道を作ってやり、再び作業に集中することにした。だが、そんな支えになっていた慰めに、拓実はあっさりと裏切られることになる。

 

 

 

 

 

 ――――気がつくと、拓実は荒野に独り倒れていた。それも何故か自分が製作したチャイナドレスとその上着を着て。いや、確かに拓実の最後の記憶は完成したチャイナドレスを寸法調整の為に実際に着てみた所で切れているのだけれど。

 他に手持ちの物はといえば身に着けていた腕時計と、逆の腕に髪留めの輪ゴム。足元には服装に合わせて西新井会長が用意したという赤く平たい靴。そして手には同じく、当日発表でつけるように言われていた金髪の巻き毛になっている二つのヘアーウィッグだけだ。

 財布もない。携帯すら持っちゃいない。部屋着に着ていたTシャツにジーンズもない。

 

「いや、そんなことよりもここはどこなんだろう……」

 

 目に入るのは、尖った山々に、どこまでも広がっていそうな荒野。遠くには集落のようなこじんまりした村が見える。自分以外に人影はない。たぶん、日本じゃない。こんな広大な荒野なんてない筈だし、何より全然空気が違う。

 

(誘拐? いやいやそんなバカな。うちにそんなお金はないし。それじゃ何だろう。……夢?)

 

 頬をつねったり、頭を抱えたりと混乱していた拓実だったが、十数分もした頃にはいくらか落ち着くことが出来ていた。

 誘拐犯らしき者の姿はなく、周囲の風景は時間が経っても変わらない。いったい何が起こったのかはわからないが、説明もなく見知らぬ地に放り出されたことだけは間違いなさそうだった。

 自分が現在進行形で緊急事態の真っ只中にいることは否応なしに理解させられた。そして、加えてこれから何が起こるとも限らないと考えるに至った。

 ならば何事かが起こった時に備えて、咄嗟に動けるようにしておきたい。具体的に言うならば両手を空けておきたいのだけれど、実際には塞がってしまっている。

 

「捨てたりしたら西新井会長、怒るんだろうなぁ……」

 

 拓実は手に持ったウィッグを眺めると、それはゆらゆらと揺れた。妙に憎たらしく見える。

 これを無くしたなどと言えばどんな罰が科せられることか。想像するだけで背中に冷たい汗が伝う。こんな異常な状況に放り込まれても、そんなことを考えてしまえるのはなんだかんだで余裕があるのだろうか。

 とにかく、チャイナドレスにも上着にもポケットを作らなかったのでウィッグをしまっておくことが出来ない。しばらく手に持つそれを眺めた拓実は一つ息を吐いた後、仕方なく髪をサイドで結んで小さくまとめあげる。握り締めていた二つのウィッグをその結び目にくくりつけた。

 

 これでどこから見ても、頭をツインテールにしている中学生ぐらいの女子にしか見えないだろう。その事実は悲しいことではあるが、自分で見てさえたまにそう思えてしまうのだから仕方ない。

 

 気を持ち直して、拓実は歩き出すことにする。とりあえず目指すはあの集落だ。人に会ってみないことにはここがどこなのか、自分がどんな状況に置かれているのかわかりそうもない。

 歩き出した拓実の動きに合わせて、頭の両側で金髪巻き毛のウィッグが上下に揺れた。

 

 

 

 

 さて、一時間も歩いただろうか。ようやく拓実は彼方に見えていた集落に辿りついた。

 着いてまず思ったのが、みんながみんな着物のように前で合わせ、帯で止める服を着ていたこと。材質は恐らく麻か、もしくは木綿。ともかく誰もシャツやパンツなどの洋服を着ていない。

 きょろきょろと見回しながら村中を歩いて回る。建っている民家はあばら家のような貧相な様相だ。服装や風景から見ればまるで時代を遡ったようにも思えるが、妙なところで近代的な造形の物がちらほらしていてよくわからない。

 なにやら年配の方やら子供ばかりで年頃の若者が少なかったのが気にはなったが、この村の感じだと農作業にでも出ているのかもしれない。その中で比較的に声が掛け易そうな、道端に座るおじいさんに話を訊く事が出来た。

 

 ここがどこかと問いかけてみれば、『ちんりゅう』という大きな街から数里程離れた村だという答えがおじいさんから返ってくる。

 日本、ジャパン、東京等々の言葉に聞き覚えがないかと聞いてみれば、不思議そうな顔で初めて聞く言葉だと言われてしまった。

 

 『ちんりゅう』なる言葉を聞いた拓実の脳内には、二つの漢字が浮かんでいた。もしかしたら、その『ちんりゅう』というのは『陳留』と書くのではないだろうか。

 常識的に考えればそんなことはあり得ない筈なのだが、周囲の中華風な文化を見ているとどうにも嫌な予感が拭えない。

 

 拓実は一先ずそれを置いて次の質問に移ろうと思ったのだが、口を開いたところで止まってしまった。

 今の状況で何を訊いたらいいのだろうか。考えたくはないが、万が一を考えるとあまり突飛なことを口走って目立つようなことはしたくない。当たり障りなく、それでいて情報が訊き出せそうな質問は……。

 

「……そうだ。訊いておきたかったんですが、最近何かありましたか? ずっと旅をしていると、どうにも世情に疎くなっちゃいまして」

 

 これならどうだろう。不自然に思われない程度に当たり障りなく、自分が置かれているこの辺りの情報を聞き出せそうな中々良い切り出し方ではないだろうか。

 そんな風に自画自賛している拓実に返ってきた言葉は、先の予感を確信に近づけるものだった。

 

「ああ、そうさねぇ。わしも、この村にいるばかりで外のことに詳しいわけでもないけどなぁ。……おお、そうだ。陳留の刺史、曹孟徳様がこの辺りの賊を軒並み討ってくださってな。その功績が認められて、どうやらこの度に州牧の任を引き継いでくださったようじゃ。曹孟徳様のような方が統治するとなれば周辺の我々からすればとても良いことでの。賊の被害も減って、うちの村の若者も喜んで募兵に向かっておったよ」

「曹、孟徳……? 曹操、様が?」

「うむ、ご存知か。しかし、曹孟徳様の名声も旅人にまで聞こえるものになったのかの」

 

 かっかっか、と快活に笑うおじいさんに碌な反応も返せずに、拓実は考え事に耽っていた。

 

 曹孟徳。曹操、という方が通りがいいだろうか。歴史に詳しくない者だって名前ぐらいは聞いたことがあるだろう。三国志に出てくる魏の、乱世の奸雄とまで呼ばれた男だ。

 そう、先に出てきた『陳留』にしたって、以前読んだ三国志で見かけた街の名であった。陳留自体は今も中国にあるかもしれないが、その上で曹操がいるということは、つまりだ。ここは三国時代の中国、ということなのだろうか。

 

「そんなバカな話……」

 

 だって、それじゃあまるで漫画の話じゃないか。タイムスリップした、ということからしてありえないことではあるけれども、もし万が一、自身が三国時代にいると仮定したとしてもおかしなことが多すぎる。

 まず、自分が話している言葉。これは日本語の筈だ。いくら中国大陸の民俗学を調べていた拓実といえど、中国語を話すことなんて出来はしない。ならばおじいさんに言葉が通じる筈もないのだが、どういうわけかおじいさんの話す言語は日本語にしか聞こえてこない。意思の疎通だって苦も無く取れてしまっている。

 そして、何故このおじいさんはこの金髪の髪を見て奇異の視線を向けないのだろうか、といったこと。この時代、他民族を排斥する意識が強かったと思う。金の髪なんてもっていればどうなるかわかったものじゃない。

 さらに加えるなら、これは作るときに調べたから知っていることではあるが、拓実が着ているこのチャイナドレスにしたって漢民族に古来から伝わる衣装ではないのだ。清の時代になって、伝統衣装と渡来した衣服を組み合わせて作られた比較的近代の物である。いくら同じ流れを汲む服装とはいえ、存在し得ない服装を着ているというのに、おじいさんが拓実を見る視線には何ら不穏なものは含まれていない。

 金髪が元で迫害されたらそもそも話すらも訊く事が出来なかっただろうから、拓実としては疑問に思わないでいてくれているのは助かっている部分もあるのだけれども、どうにもわからないことが多すぎる。

 

 しかしおじいさんの言葉を信じるならばそういった疑問を全て含めて尚、ここは三国時代ということになる。あんまりに突飛過ぎて笑い飛ばしてやりたいけれど、拓実には目の前の好々爺が自分を騙しているようにはまったく見えなかった。

 

「お、翁よ。曹孟徳さまの命で警邏にきたぞ。村に変わりはないか?」

 

 拓実が考え込んで会話が途切れたが、そこで目の前のおじいさんに掛けられる声があった。その声はどうやら、馬にまたがっておじいさんを見下ろしている長身の女性のもののようである。

 女性を視界に入れてまず目を引くのは長い艶のある黒髪。前髪からオールバックにして後ろに流していて、一房だけが逆らってちょこんと跳ねている。どんな形成をしたのか、チャイナドレスの上から体のラインに沿うような金属の鎧を身につけている。そのことから、兵士に類する者ではないかと拓実は推察した。

 彼女の駆っている馬には人が持つにはあまりに大きい剣がくくりつけられているのだが、その持ち主と相俟って見た目にはあまりにもアンバランスだ。女性にしては大きい体躯だとは思うが、見た目十キロ近くはありそうなこの金属の塊を振るえるようにはどうしたって見えない。

 そもそも、三国時代にこんな精巧な剣や鎧を作る製鉄技術があったのだろうか。三国時代はおおよそ1700年前、西暦でいえば300年頃の、古代といって差し支えない時代である。

 

「おお、夏侯元譲様! 賊を討伐してくださっているお陰で、我々も安心して働くことが出来ております」

「何、曹孟徳さまが賊の横行を許される筈がないだろう。当然のことだ。これからも何かあったら私たちを頼れ。いいな?」

「はい! その際はよろしくお願いします」

 

 彼女の言葉に嬉しそうにおじいさんは声を返しているが、拓実はそれどころではなかった。

 あんまりにありえない名前がおじいさんの口から放たれたものだから、拓実はつい馬首を返そうとする夏侯元譲と呼ばれた女性を呆然と見上げてしまう。

 

(この人が夏侯元譲……夏候惇だって? どう見たって女性じゃないか)

 

 先の曹操と同じく、魏の武将である夏候惇。拓実の知る夏候惇というのは、男性である。むしろ夏候惇が女性であったなどという話を聞いたことがない。

 そんな呆然とした拓実の視線に気がついたのか、女性も顔を向けた。自然と見上げている拓実を、女性は馬上から見下ろす形になる。

 だが、一拍の後、何故か女性は口をかくんと開けて拓実のことを凝視していた。あんまりにもその感情が読み取りやすい、『びっくりした』という見本のような表情だ。

 

「は、はぇっ!? 申し訳ありません! 馬上から、し、失礼致しましたぁっ!!」

「へ? えっ!?」

 

 素早く乗っていた馬から下りると、夏候惇と呼ばれていた女性は額を地面にこすりつけんばかりに頭を下げる。しかも、その頭の先を拓実に向けてである。

 何事かと、となりにいるおじいさんもその突然の夏候惇の奇行に驚きを隠せないでいる。

 

「あの、華琳さま。しかし、何故こちらに、そのような格好でいらしているのですか? 本日は政務があるのでお部屋におられると聞いておりましたが……」

「え、ちょ? 夏候惇、さん? 落ち着いてください」

 

 拓実がそう言葉を発するなり、土下座の体勢から顔を上げている夏候惇の表情は凍ったように固まってしまった。かと思えば今度は、さあ、と顔が青く染まっていく。人の顔から血の気が引いていく様を、拓実は生まれて初めて目撃した。

 

「そんな! どうしていつものように私を『春蘭』と呼んでくださらないのですか? わ、私が至らぬからでございましょうか? 何としても私は華琳さまのお役に立ちますので、どうか変わらず私を『春蘭』とお呼びください!」

 

 涙をはたはたと落としながら、夏候惇はまた平伏した。地面に額をこすりつけている。今度は比喩ではなく。

 一方頭を下げられている拓実はというと勿論恐縮してしまい、頭を上げてもらおうと必死に声を掛けるのだが、この女性は仕置きの沙汰を待つかのように微動だにしない。その様子から最早どうするもなく、言うことを聞いてやらないと話が進展しないことを悟った。

 

「ええと、これからはその名前で呼べばいいの?」

「はいっ! お願いします!」

「しゅ、春蘭?」

「あ……ありがとうございますぅっ!」

 

 ようやく下げていた頭を持ち上げた春蘭の顔は見る間に血の気が戻り、あっという間に紅潮していく。こんなにも血がいったりきたりして体に悪いのではないだろうか、と拓実はそんなことを考えていた。

 その後もしきりに華琳という女性を乏しい語彙で必死に称える春蘭であるが、応対している拓実はというと、一つ春蘭の根本的な勘違いを正さなければならなかった。

 

「春蘭、ちょっといい?」

「はいっ! 何か御用でしょうか華琳さま!」

 

 尻尾があったのなら間違いなく振っていると確信できる喜び様で、春蘭はすぐさま拓実に返事を返す。そんな信じきられた目を真正面から受けて、思わず拓実は後ずさっていた。それに気づいて、気を取り直す。

 

「あの、それなんだけどね。ちょっと言いにくいのだけれど」

「なんなりと」

「それじゃ……その華琳って誰のこと? 俺、南雲拓実っていうんだけど」

「華琳さまと言えばここ陳留にて州牧となられ、早くも名声を……って、え? なぐもたくみ、ですか? あの……?」

「たぶんよく似た人と間違えているんじゃないかなぁ。だって、その華琳って女の人でしょ? 俺は違うし」

「華琳さまが女性であるなんて、当たり前ではないですか! 違うとは……いったいどうされたのですか?」

 

 拓実のその言葉に対し、きょとんとした表情で拓実を見上げる夏候惇。

 どうやらこの説明じゃ理解してくれなかったようである。充分にわかりやすいよう話したつもりだったのだけれど、もう少し噛み砕かないと駄目なのだろうか。

 

「いや、だからね。俺は別人なの。春蘭が知っている人とはまったくの他人。そりゃ確かにこんな格好していたら間違えるのも仕方がないけど、こんな見た目でも生物学的には男だから。あ、別に趣味ってわけじゃないからね。これはちょっと人に頼まれたからで、話すと長くなってしまうのだけど」

 

 聞かれてもいないことまでも必死で弁解する拓実であったが、どうやら目の前の春蘭の様子もまたおかしい。眉を寄せ、うなり声を上げている。額には汗が滲んでいた。

 どうやら春蘭には、前半の「春蘭が知っている人とはまったくの他人」あたりまでしか聞こえていない。というよりは必死に頭の中で情報を整理しようとした結果、新しく入る情報や難解な言い回しは処理し切れずにシャットアウトしているようだった。

 

「ええと……つまりどういうことでしょうか」

「春蘭の言っている華琳様は、今部屋で政務とかやっているんじゃないかな。ここにいる俺は、無関係の別人」

「むぅ? つまり、華琳さまは今陳留でお仕事をなさっていて、目の前にいる華琳さまは華琳さまでもないどころかまったく関わりのない別の人間ということか」

「同じ事を繰り返しているだけのようだけど、とりあえず理解してくれて助かったよ。それで春蘭、ちょっと聞きたいことがいくつか……」

「――きっ、貴様! 華琳さまでないのなら、私の真名を軽々しく呼ぶんじゃない!」

 

 この世界のこと、夏候惇が女性であるならば他の武将がどうであるのか訊ねようとした拓実の声は、怒号に掻き消された。いきなりの豹変とその気迫に、拓実は面食らって体が硬直してしまう。

 

「え、真名って?」

 

 拓実はそのままの体勢で少し逡巡するが、直ぐに『真名』なるものに思い至った。

 

「あ、『春蘭』って名前のこと? だって春蘭が呼べって言うから」

「黙れっ! 言っているそばから、連呼するな!!」

 

 そして一閃。春蘭の拳はうなり、拓実の体は軽々と吹き飛んでいた。その圧倒的な暴力によって拓実は意識を簡単に断ち切られ、道端に無防備に転がった。

 

 

 

 

 

 場には沈黙が下りていた。拳を突き出したままの体勢で春蘭は動かない。吹き飛び、地面を転がっていくものを無意識に目で追っていく。

 

「――――はっ!? し、しまった! 華琳さまの偽者とはいえ、なんら罪もない者を殴ってしまった。それに、似ているだけとはいえ華琳さま第一の臣下たる私が、華琳さまのお姿に手を上げることになろうとは……。いやいや、違う。悪いのはこの娘だ。華琳さまと見間違えるぐらい似ているのが悪い。そうに決まっている」

 

 スイッチが切り替わるように春蘭は自分がしたことを認識したようだったが、頭を振るとすぐさま前言を撤回する。

 

「あ、いや、夏候元譲様。どうやらその者は娘ではなく……」

「ん、そうか! いーや、私はついてるぞ! 常々思っていたのだった! 華琳さまにそっくりな娘がいたなら、我が家で秋蘭と共にこっそり……」

 

 それを唯一見ていた翁は春蘭の独り言を訂正しようと声を上げるのだが、彼女は自己弁護に夢中で聞こえた様子はない。

 春蘭が己の話をまったく聞いていないことを悟った翁は、無駄になるだろう労力を惜しむことにした。「まずは口調を真似させることから始めるか……」などとだらしない笑みを浮かべるいい年頃の娘子を、痛ましそうな視線で以って眺めることにする。

 しばらく経ってようやく我に返った春蘭は、緩んだ顔を引き締めて翁に向かって声を上げた。

 

「っと、翁よ! この娘は何者か! 不都合でなければ私の客分として陳留に招きたいのだが、どうか!」

「はぁ。どうやら旅の者のようで、生憎つい先程に迷ってこちらまで辿り着いたようでしたので仔細はわかりかねますが……」

 

 その翁の言葉を聞いて、春蘭は朗らかに笑みを浮かべる。翁の返答は幾分の呆れが含まれたものではあったが、それに気づく春蘭ではなかった。もはや翁に、春蘭の勘違いを訂正する気力はない。

 

「旅人か。ようし、ならば問題はないな。この娘はこちらで面倒を見させてもらおう。悪いようにはしないから安心しろ。あ、あとこの者については内緒にな。頼むぞ」

「夏候元譲様がそう仰るのならば私には是非もありませんが……しかし、どうなさるおつもりで?」

「何。住居がない為に途方に暮れて旅をしているようならば、女中としてうちに雇い世話してやる。目的があって旅をしているのであれば、手を尽くして助力してやろう。そして見返りとして、うちの世話係をやらせてやる」

「女中、でございますか」

 

 これまでの話の一端を聞いていた翁は、ようやく理解が追いついた。どうやらこの旅人は、噂に名高い曹操に酷似した容姿を持っているようである。

 翁は遠目にしか曹操を拝見したことはなかったが、今思えば小柄過ぎる体躯といい、金糸のように輝く髪といい、頭の横の特徴的な巻き毛といい共通するところが多いように思う。曹操を熱烈に信奉する春蘭がこうまで執着することを考えれば、容姿も、その声の調子だって似ているのだろうと推察できた。

 そしてそんな自分の主と瓜二つといってもいい人物を見かけた春蘭は今、全力で自身の下に引き込もうとしている。もっとも引き取ってからこの旅人を春蘭がどうするかなんて、翁には想像も出来ないのだが。

 

「そうと決まれば一刻も早く秋蘭にこの娘を見せてやらねば! では翁よ、次は私ではなく数人の兵士が見回りに来ると思うが、息災でな!」

 

 言うが早いか倒れて気絶している旅人をひょいと抱え上げ、抱きしめるようにして共に馬に跨った。馬の腹を蹴り、慣れた手つきで走らせ始めると、時が惜しいとばかりに先を急かしていく。

 翁が気を取り直した時には、もう春蘭らの姿は豆粒ほどになっていた。どんどん小さくなっていくそれを眺めることぐらいしか、翁に出来ることは無かった。

 



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2.『夏侯惇、拓実を誘拐するのこと』

 

 

「……というわけでな。警邏に出ていた先で見つけて、拾ってきたのだ。名前は聞いた覚えがない気もしないのだが、思い出せん」

「ふむ。姉者には色々と言いたい事はあるが、この娘、確かに華琳様に似ているな。毎日華琳様にお会いしている私がこうして間近で見ていても、違うところを見つけるのが難しいほどだ」

 

 今度の春蘭は要点しか話せていなかったが、秋蘭は頭の中でおおまかには補完していた。

 つまり華琳を敬愛しているこの姉は、それこそ四六時中でも華琳と共にいたいと思っていたが、現実問題それが出来ないことを理解していた。ならばとその代替案として『等身大着せ替え華琳様人形』なるとても精巧な人形も作っていたが、やはり動かないと不満は残ってしまう。そして次なる案として、どうやら華琳によく似た者を自宅に住まわせれば問題ないのではないかと常日頃から考えていたようである。

 敬愛している春蘭が見間違えるほどの容姿を持つ娘などこの世界に二人といるものではないから『等身大着せ替え華琳様人形』を作ることになったのだが、何の間違いか春蘭はそれを見つけてきてしまった。加えてその相手は目的はわからないが旅をしている根無し草であり、春蘭自身が気絶させてしまったということもあって連れて帰るに足る理由もあったわけである。

 

「それで、どうするつもりなのだ姉者」

「どうするって、うちに住まわせるに決まっているじゃないか。まずはだな、言葉遣いを華琳さまのようになるよう教え込むだろう? そして華琳さまが着ているような服を着せてだな……」

「そういう意味ではないのだが……この娘が起きないことには話が進まないか」

 

 春蘭は喜びのあまりその後についての考えを巡らせているが、そう簡単な話ではない。秋蘭とて、姉ほどとはいえないかもしれないが深く華琳を信奉しているし、敬愛している。これだけ似ているとなれば春蘭の気持ちもわからないまでもなかった。

 だが、秋蘭は同時に良識だって持ち合わせている。うちに住まわせるといってもそれは本人の了解あっての話であり、何よりまず行うのは謝罪であるべきだ。勘違いしたとはいえ自ら真名を預けた相手を殴るなど、気持ちはわかるもののかなりの無礼になる。少なくとも、この娘が殴られるだけの責がないことは確かだった。まして相手はただ旅をしていただけであり、たまたま見掛けて勘違いしたのは春蘭側である。

 それに春蘭が考えている言葉遣いを強要する計画にしたって、相手が納得しなければこの者の尊厳を踏み躙る行為だ。

 

「すまないが、姉者。まず私にこの娘と話をさせてほしい」

「む。ずるいぞ秋蘭。そう言って私の楽しみを奪う気なのだろう!」

「あながち間違いでもないな。いいか姉者よ。いくら華琳様と酷似しているからといって、名を預けた相手を殴ったり、連れてきて働かせる理由にはならんのだぞ」

「い、いや確かに殴ったのは悪かったと思ってるが、しかしだな」

「残念ながら今回のことについては姉者が全面的に悪い。私にも弁護できないほどにな。それにもし姉者が強引に事を進めれば、華琳様の名を汚すことにもなりかねない」

 

 そう秋蘭が言うなり、春蘭はあからさまに慌て始めた。焦った顔つきで秋蘭に向かって身を乗り出す。

 

「私が、華琳さまの名を汚すだとっ!? それはよくないぞ。ど、どうすればいい?」

「まずは目を覚ましたらすぐにでも殴ってしまったことを謝罪するべきだ。その上で話を聞いて、もし仕事や家がないということであればうちで働かないかと申し出ればいい。この娘がどこで働くかは私たちが勝手に決めることではないのだからな。口調や服装に関しての話はそれから、難色を示さないようなら切り出せばいいだろう?」

「むう……」

 

 どうやら春蘭も内心では悪いとは思っていたらしく、珍しく反論もせずにしゅんと顔を俯かせる。

 その様子を見て、秋蘭はいの一番に春蘭が自身の下に駆けて来てくれたことだけは良かったと思えた。まだ取り返しがつく段階だ。もしそのまま華琳のところへ連れて行こうものなら、間違いなく華琳は激怒したことだろう。最悪、見限られていたかもしれない。今回春蘭が計画していたことは人攫いとそう大差ないのだから。

 

「う……あれ? ここは?」

 

 そんな折、倒れていた旅人が目を覚ましたようだった。秋蘭の耳に入ってきた声色は確かに華琳のものに良く似ているようには思えたが、いくらか低い。しかしあくまで『いくらか』であって、知らずに聞けば喉の調子が悪いのだろう、ぐらいの違和感しか覚えまい。加えて、本人が調整すれば華琳と変わらない高さまで上げられるのは想像に難くなかった。

 そう思えば今秋蘭の目の前で起き上がった人物は、華琳と似ているという点においては唯一無二の存在なのかもしれない。

 

「え、あの、貴女はいったい? それに、そっちにいるのはさっきの夏候惇さん?」

 

 いきなり違う場所に連れてこられても旅人は目に見えて取り乱すわけでもなく、きょろきょろと周囲を見回して現状把握に努めていた。流石に自身を凝視している秋蘭は気になるらしく、おずおずと質問を投げかけてくる。

 

「あ、ああ。すまない。名乗らせてもらおう。私はこの夏候惇の妹で、夏候淵。字を妙才という」

「夏候淵さん、ですか。……もしかしてとは思ったけど、本当に?」

 

 夏候淵の名を聞いて、小さく何事かを呟いている。繕っているものの動じた気配は隠し切れない。だが、その華琳に酷似している声や容姿と、真逆といってもよさそうな性格や立ち振る舞いに面食らっていた秋蘭は旅人の動揺を気に留めることは出来なかった。

 己が半ば自失していたことに気がついて、秋蘭は気を取り直すように一つ咳払いする。

 

「まずは、我が姉の無礼を詫びさせてくれ。真名を預け名を呼ばせておきながら、非のない其の方を殴って気絶させてしまった。この通り本人も反省している故、どうか許してやって欲しい」

「その、すまなかった!」

 

 詫びの言葉を述べる秋蘭の隣で、春蘭がいさぎよく頭を下げた。それに応対して恐縮していたのは旅人の方だった。

 

「あ、いえ。自分もこの大陸の生まれではないので、真名の重要さを取り違えていたようですからお互い様ということにしてください。まずは勘違いを解消させるべきでした。それが成功するかどうかは別にして」

「そう言って貰えれば助かる」

 

 秋蘭は言葉を返しながらも、目の前の人物の情報を脳内で書き足していく。どうやらかなり人が良いようである。それもこのご時世では珍しいほどには。つい外見から華琳のようにもっと辛辣な言葉が吐かれるものと身構えていた秋蘭は密かに肩透かしを食らっていた。

 

「自分は南雲拓実って言います。好きなように呼んでください」

「ナグモタクミ、か? 人の名にしてはどうにも長いな」

「ええと、南雲が姓で、名前が拓実です。それと夏候惇さんには申し訳ないんですけど、持っている名はこの二つだけで、真名を持ち合わせていないんです。聞かせてもらった代わりにこちらからも返せれば良かったんですけど」

「ああいや、気にするな。二つしかない名を二つ預けてくれたということは、私たちに全てを預けてくれたということだろう。拓実、と呼ばせてもらおう。私のことはこれから秋蘭と呼んでくれ。姉者も構わんよな」

「ああ、もちろんだ。もう殴ったりはしないから、春蘭と呼んでくれ」

「ありがとうございます」

 

 そこでようやく、秋蘭と拓実、お互いに一息つくことが出来た。

 秋蘭は拓実の人の良さに助けられたと思っている。勘違いで真名を預けるなんて前例を聞いたことがなかったが、姉の行為は拓実を侮辱していると思われても仕方のない行為である。市井にそんな話が流れれば、結果的に主君である華琳の評判に関わってくる。それは臣下としてなんとしても避けねばならなかった。

 一方拓実側も話の展開から真名の重要さを察し、仕方なかったとはいえ自身の言動をいくらか反省していた。自分が無礼を働いていたから殴られたのだと理解していたし、身体はまだ痛むもののこうして介抱もしてもらった。そのこともあって、殴られたことを納得し切ることは出来ないがしこりが残るほど気にはしていなかった。

 そういった意味では両者とも落ち着くところに落ち着いたようである。

 

「ところで拓実よ。その……旅をしていると聞いたのだが、これからどこかへ行く当てがあるのか?」

 

 どうやら思った以上に華琳の名を汚すという言葉に怯えているらしい春蘭は、話が一応のまとまりを見せたことで声を上げたのだが、それはおずおずとした力のないものだった。竹を割ったような性格の春蘭であるから、普段ではあまり見られない態度である。

 

「えっと、その……。これといっては、考えてません」

 

 少し考える素振りを見せた拓実だったが、結局首を横に振る。それを聞いた春蘭が思わずといった様子で身を乗り出した。

 

「そ、それじゃ旅をするのに充分な路銀はあるのか!?」

「……いえ、何も」

 

 言いながらも項垂れる拓実。どうやら、本当に何も持っていない様子だ。

 旅をしているというのに路銀がなくてどう暮らしていたのかと秋蘭は疑問を覚えたが、問題はそこではないのでとりあえず黙っておく事にする。金がないから村を出る人間だって少なくない。金がないから、親に捨てられる子だっている。子が拓実ほどの容姿を持っているならば、捨てる以外に金になる方法を選ぶだろうが。

 

「では拓実よ、うちで働かないか!? 衣食住はこちらで用意しよう。給金だって出す。いくらかならば融通だってきかせよう!」

 

 質問するたびに威勢が上がっていた春蘭だが、それはここにきて最大のものになった。提示する条件だって武将である春蘭が用意出来る、最高の待遇である。

 

「願ってもないことですけど、いいんですか?」

 

 春蘭が申し出たのは、どこの者とも知れない拓実が相手では破格といっていいものであった。仕事だって出来るかどうかもわからないような相手に持ちかける条件ではないのは確かである。

 拓実もあまりの好待遇に驚きを――というよりは秋蘭にはこの話の裏を疑っているように見えた。秋蘭は口の端を軽く持ち上げる。別に隠すことでもなし、こちらの思惑を話してしまうことにする。

 

「構わんよ。知っているかもしれないが、拓実の容姿は我らが主とあまりに似すぎているからな。他所にいけば、やはり面倒が起こることになるだろう。そうなった時、拓実だけではなく我らにとってもややこしいことになりかねない。それならば我らの下にいてくれた方が助かるというものだ」

 

 それを聞いた拓実は、なるほど、といった風に頷いてみせる。そういった事情があるのならと好条件が出てきた理由を信じてくれたようだ。

 

「それで仕事内容だが、主に家事の類だな。ここの掃除、料理、そして洗濯と言った所か。警邏だ政務だとで中々そういったことをする者がいないのだ。仕事に慣れ、手が空くようになったら書類の整理も手伝ってもらいたいが……拓実はこの大陸出身ではないと言っていたが、文字は読めるのか?」

「いえ、文字の形から何となく意味がわかることもありますが」

「そうか。覚える気は?」

「あります。けれど、読めるようになるまでいつまでかかるのかわかりません」

「いや、それは構わない。もし請けてくれるというならば、後で適当な書物を持ってこよう」

「そんな。こんな好条件で迎えてくれるというのに、断ることなんて出来ませんよ」

 

 もし断るつもりであるならばそれでいいと思っていた筈の秋蘭だったが、ふと気がついた。知らず、拓実を引き止めるためにいくつかの手段を頭の中に構築していたことに。

 どうやら、思ったよりも秋蘭は目の前の人物に興味を覚えていたらしい。

 

 

 

 

 

 また見知らぬところで目が覚めたことに内心動揺していた拓実は静かに安堵の息をついた。

 密かに目が覚めたら自分の部屋だったら、なんてことも思わないでもなかったが、そうならない以上はこの状況に順応していかなければならないだろう。

 

 ともかく、いきなり持ちかけられた仕事の件だったが無事に雇ってもらえそうだ。それどころか、寝床に衣服、食事と最低限の物を揃えてくれる上、文字を覚えられそうな書物も持ってきてくれるというし至れり尽くせりである。

 拓実としても、この条件を逃す気はなかった。もし拓実が考えたとおりにこの時代が三国時代なのであれば、拓実は家もなければ金もなく、人脈もなければ文字すらも読めない、自活すらままならない状態にある。

 この場所のこと、自分が何故荒野にいたのか、帰るにはどうすればいいのか。疑問はいくつもあるが、それらを調べるにはどうしたって時間が必要だ。そして人間、生きていく上で何も消費をしないということはない。食料にしても衣服にしても、ある程度安定した収入がなければ先に力尽きてしまう。断ってここを出ていっても、遠くない未来に野垂れ死ぬのは目に見えていた。

 それを考えれば、ここまで良い条件は拓実にとって渡りに船。もしもっと条件が悪かろうとも雇ってくれるというのであれば頷いていたのは間違いない。

 

 ふと考え事をやめて顔を上げると、先ほどから何やら様子のおかしい春蘭が何か言いたそうにしていることに気がついた。何だろう、と拓実が顔を向けたところで春蘭は好機と見たのか、こちらに身を乗り出してくる。

 

「なぁ、拓実。ところで、だ。実はお前に頼みがあるのだが。いや、もし嫌なら断ってくれても構わない、のだが。いや、断っても、ぐぅぅ」

 

 ぎりぎり、と唇をかみ締めながら声を絞り出す春蘭の姿を見れば、その言葉どおりではないことは明らかだった。断っても構わない筈がなかった。

 好条件を出してまで自身を引き入れてくれた、これからの雇用主になる春蘭がこうまでして出す要望なのだ。叶えてやりたい、と思ってしまった自分を拓実は責められそうにない。

 

「自分に出来ることなら、やるつもりでいますけど」

「そ、そうか! そう言ってくれると思っていたぞ! 実はな、お前の言葉遣いのことなのだが……えーと、秋蘭、しゅーらん! 拓実に言葉遣いを変えて欲しいのだが、どう言えばいいんだ?」

「――そうだな。主に似た姿とその声で畏まられては、その臣下である私たちはどうにも心地が悪い。これからは華琳様と同じ言葉遣いで話してくれないか、とでも言えばいいのではないか?」

「ふむ、そうか。えー、拓実よ。あるじのすがたでかしこまられれば、どうもいごこちがわるい。華琳さまとおなじようにはなしてくれまいか?」

「ええ。構いませんよ」

 

 そのやり取りを聞いていた拓実はもちろん秋蘭の言葉で全てを理解していたが、律儀に春蘭と向き合ってしっかりと頷き、小さく笑みを浮かべた。

 拓実が知る由もないが、その仕草は華琳が微笑した時のものととてもよく似ていて、目の前にいた春蘭はしばし呆然としてしまう。

 

 命を助けられた身。言葉遣いの一つや二つを変えたところで苦はない。ましてや、拓実は演劇をやっていたのだ。

 その人物に成り切り、演技に入ってしまえば羞恥心すら湧いたりはしない。後で思い返してどう思うかは別にして、だ。

 

「それで、曹孟徳様はどんな話し方をする人なんでしょうか」

 

 

 

 

 

 拓実は一つ、失念していた。どうやら女装している拓実が曹操とそっくりであったということ。つまり、件の人物が女の子であるということをだ。

 ついつい、三国志での曹操のイメージが抜けていない拓実だったので、男らしい、厳つい話し方と勝手に想像していたのだがそれは大間違いである。

 

「はぁ、まさかこんなことになるとは思っていなかったわ」

 

 いつもより声帯を若干高く震わせて、拓実はどこか尊大に言葉をつぶやいた。物憂げにため息をつきながらも、だがその余裕や気品は崩れていない。

 これでどう? と言わんばかりの視線を投げかけた先にいた春蘭は、あまりの拓実の完成度の高さに感嘆の息を吐いていた。

 

 あの言葉の後、春蘭によって二時間強にも及ぶ『華琳さまの話し方講座』が開講されることになった。話し始めて十分と経たずに、いかに華琳が素晴らしい方であるかという賛辞へと脱線を繰り返して、こんな長時間話を聞かされることになっていた。

 しかし、二時間以上もただひたすらに我が事のように語る春蘭が幸いしてか、拓実には覇道を進む華琳という少女の在り方が見えた気がしていた。感情移入だって、し過ぎたぐらいだ。

 

「す、すごいぞ拓実。本当に華琳さまのようだ。流石に華琳さまのような威圧感はないが、姿形、声に至るまでどこをどう見ても華琳さまにしか見えない」

 

 笑顔でそんな拓実を称えているのは、二時間喋りっぱなしだったにも関わらず全然堪えた様子もない春蘭だ。顔を真っ赤にして、目の前にいる主と同じ姿の者を見つめている。

 

「う……む。まさかここまでとは。こうまで似せてしまえるとなると、今度は違う問題が出るかもしれんぞ姉者」

 

 若干戦慄している様子の秋蘭の言葉だが、拓実を華琳色に染めるのが楽しくなってしまっている春蘭の耳には入らない。

 

「ともかく、あとはその格好だけだな。『等身大着せ替え華琳さま人形』用に買っておいた服があるから、ほら、こっちで私が着替えさせてやる」

「ちょっと春蘭。着替えぐらい自分で出来るわ。着替えてくるから服だけ渡しなさい」

「はい! こちらです! って違う。……いや、つい返事をしてしまったが、着替えも手伝えないのでは本物の華琳さまのお相手をするのと変わらないではないか。断固として着替えは手伝う。断っても駄目だ」

 

 思わず返事をしてしまったのだろう、ぶんぶんと首を振って春蘭は気を取り直す。ふんす、と鼻息荒く拓実ににじり寄っていくが、対する拓実はそれに動じることなく春蘭へ冷ややかな瞳を向けている。

 

「ねぇ春蘭。私、聞き分けのない子は嫌いよ。それに秋蘭にならともかく、貴女には私自ら、着替えを手伝うことが出来ない理由を言っておいたわよね?」

 

「も、申し訳ありません! …………はっ!? 違う。そうじゃなくて、拓実、頼むから今だけは華琳さまの話し方をやめてくれ。華琳さまに言われているようで、体が勝手に反応してしまう。それどころか、逆らう気まであっという間に萎えていく」

 

 パブロフの犬、というやつであろうか。拓実が華琳の真似をしていると、春蘭はまったく逆らえなくなってしまうようだ。どうやら春蘭は華琳のそっくりさんを可愛がってやろうと画策していたらしいが、どう見たってそのそっくりさんに躾けられているようにしか見えない。

 拓実と春蘭によって行われている寸劇のようなやり取りを置いて、横で眺めていた秋蘭から疑問の声が上がった。

 

「いや、それより拓実よ。姉者に言って、私に言っていないこととは何でしょ……いや、なんだ?」

「春蘭から聞いてないんですか?」

 

 いきなり口調と態度を元に戻されてちょっと怯んだ秋蘭であったが、その拓実の問いに対しては全く心当たりがなかった。そもそも、秋蘭が春蘭から聞くことが出来た情報なんてほとんどない。

 

「聞いてはいないな」

「はぁ、そうですか。じゃあ改めて言っておきますけど、俺、男ですよ」

「……すまん。よく聞こえなかった」

 

 秋蘭の耳に、拓実の声は確かに届いている。顔を合わせている状態で聞こえない筈がない。その上で聞き間違いかと、秋蘭は拓実に思わず聞き返してしまっていた。

 

「だから、こんな格好してますけど、俺は紛れもなく男です」

「な、なんだとぉーーーー!!?」

 

 だが、繰り返す拓実に対して、声を上げたのは秋蘭ではなく、何故か春蘭の方だった。

 

「いや、何で春蘭が驚いているんですか」

「そんなこと、聞いてないぞ!? 冗談はよせ!」

「なんで――――って、ああ。あの時聞こえていなかったんですね」

 

 こうして二時間ちょっとの間に話しているのを聞いて気がついていたが、この春蘭、はっきり言ってしまえばおバカである。

 拓実が思い返してみれば、男だと言ったあの時の春蘭はうんうん、と何か苦悩しているように見えた。与えられた情報の処理で、ビジー状態になっていたのだろう。漫画であれば頭から煙が出ていたに違いない。

 

「なるほど。着替えを手伝うなんて言ってたのは、そういう訳だったんですか」

 

 そう納得すると同時に、二時間以上一緒にいてまったく男と気づかれない自分が悲しくなった。いやいや、きっとこの格好が悪いのだ。と無理やりに思考を修正に掛かる。

 

「いや、姉者だけではなく私だって信じることが出来ん。華琳様とそっくりな姿で男だなんてどんな冗談だ。何か理由があるのか知らんが、我らを謀っておるのではないか?」

「あー、もう。わかりました!」

 

 拓実はおもむろに上着を脱ぎに掛かる。口先で説明するよりも、素直に見せた方が早いと拓実は判断した。誤解が生じてはいけないので補足をすると、拓実が二人に見せるつもりなのは下ではなく上半身だけだ。

 すっぽり被るような形になっていた上着を脱ぎ去り、下に着ていたチャイナドレスが現れる。拓実の体感時間で言うなら昨夜縫い終えたばかりの力作である。これも、以前入っていた演劇部で衣装作りを手伝っていた成果の一つだ。

 

「見たことがない生地を使っているが、中々の仕立てじゃないか。どこの店の作だ?」

「自分で仕立てたものですよ」

「ほう」

 

 秋蘭に言葉を返しながらも、胸元のボタンを外していく。胸元に余裕を作って気持ち程度にハンカチが詰めてあるのが今更ながらに恥ずかしいが、こんなものシンデレラの演劇をやった時に慣らされている。詰めてあるハンカチを取り出せば、当たり前だが胸の部分はぺったんこだ。

 

「ほら、どーですか。これでわかったでしょう?」

「む、胸が小さいだけ、とも思ったが……そういうわけでもないのだな?」

「ええ。一応見た目のこともあって詰め物をしてただけですんで。ついでに言うと、この髪の毛も付け毛ですよ」

「なんと!」

 

 拓実が髪の毛にくくりつけられた金色の巻き毛を取り外すと、秋蘭は驚きに目を見開いた。この時代ではまだつけ毛やかつらなど存在していなかったのかもしれない。髪の毛を取り付けるという発想に驚愕したのだろう。

 

 

 

 

 

「…………」

 

 そんなことを話している横では、春蘭が人知れず真っ白に染まっていた。

 拓実が服を脱ぎだしてから顔を赤くしたりちらちらと指の間から盗み見たりと忙しかったが、胸のふくらみが取り払われ、華琳の象徴ともいえる巻き毛が拓実からなくなると確かに男に見えないこともなきにしもあらず。いや、百歩譲れば男にも、いや……。

 

「こんなにも、華琳さまに似ているというのに、男、だと? そんなもったいないことがあってたまるものかぁーー!」

「しゅ、春蘭!? ちょ、何……!?」

 

 最早自分の手で調べねばならん、と決意を固めた瞬間、春蘭は拓実へと飛び掛っていた。

 先の華琳そのままの姿では恐れ多くてそんなことできなかっただろうが、今の拓実の姿ならばまだ別人に見えた。

 

 

 



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3.『拓実、曹操に謁見するのこと』(※)

 

「昨日は本当、酷い目にあった……」

 

 宛がわれた部屋の寝台から上半身だけ起こした拓実は、ぼんやりと昨日起こったことをひとつひとつ思い出していた。そうして出てきたのが今の一言であったし、それは見事に全てを言い表してしまっていた。

 何故か荒野に倒れていたことが一つ目の酷い目だった。どうやら自分がいるのが三国時代だというのも現在進行形で遭わされている酷い目である。考えてみれば、いきなり殴られ気絶したのもそうだった。地面を転がった時に打ったのか、今もふとした時に体の節々が痛んでくる。春蘭に恨み言を言うつもりはないけれど、被害にあったことに変わりはない。

 だが、それより男であると伝えたのに、春蘭に押し倒され体を弄られたことこそが理不尽で、これから拓実の恥部になるような『酷い目』だった。しかも男だと確認されて尚、春蘭からは「これからもお前のことは男だとは思わん。華琳さまになりきるのだ」などと命令されてしまった。だったら確かめる必要なんてなかったじゃないか、と喉まで文句が出掛かったものだ。

 

「いいや、落ち込んでいても仕方ない。ええと、今日は曹操様に顔合わせに行くんだったっけ」

 

 言われるまで気がつかなかったが、拓実が寝泊りしていたこの部屋は民家の客室などではなく、城の中の、将官を住まわせる為に用意した一室であるらしい。州牧として陳留を拠点としている華琳、その配下である春蘭と秋蘭もまた華琳の居城に一室を与えられている。昨日の秋蘭からの家事の仕事の話もどうやらこの城を指してのことのようだった。

 当然ここで仕事をする拓実も城内に住んでいた方が都合がいいのだけれども、それには領主である華琳に仕事のことも含めて伺いを立てなければならないということである。昨夜は日も落ちていたので無断で借りたらしいこの空き部屋を使わせてもらったけれども、これからもとはいかないようだ。

 

 華琳の真似をすることも仕事の一貫であるらしく、拓実は昨日のうちに渡された衣装に着替えて華琳と謁見するようにと言われている。問題は、その渡された服が女性用であるということだ。再三のことだが、拓実は男である。

 衣服を広げて見てみれば、インナーは黒を基調としたワンピース状になっていて、肩から二の腕までの部分がなく袖だけが独立して分かれている。コルセットのような形状の金属の鎧と襟元だけが赤紫色に染められていた。女性用にと作られた物であるから当然のようにスカートであり胸部にも余裕があるのだが、胸元が生地で覆われて肌が見えないようになっているのは拓実には果たして良かったのか、悪かったのか。

 春蘭はこれを指して「この格好も勿論華琳さまにお似合いになると思うが、真の華琳さまは決して着てはならんものだ」とわかる人にしかわからない発言をしていた。もちろん拓実には春蘭の発言は理解できない。

 

 拓実なりに葛藤はあったがなんとかそれらを身につけ(勿論胸の部分はすかすかなのでハンカチを何枚か詰めてある)、慣れた手つきで髪をお団子状にまとめ上げると、そこに衣服と一緒に渡された赤紫の髪留めに銀の髑髏の髪飾り、ウィッグを取り付ける。

 最後に身だしなみを整え、全身を姿見に映し見るや拓実は思わず「へぇ」と関心の声を上げていた。

 

「突飛なセンスだと思ってたけど、合わせてみると中々いいデザインなのかも」

 

 全部合わせてみればゴシック系でまとめられていて、ところどころにフリルがちりばめられていて可愛らしさもある。強いて言うなら、これを着ているのが男の拓実でさえなければ言うことはなかった。

 ――ともかく拓実が着ているこの衣服は春蘭が華琳の普段の格好に合わせて買ったものと言うことだから、そっくりであるという華琳は鏡の中の拓実の姿にとても近いのであろう。

 長時間に渡って華琳の武勇伝を聞かされた為に、拓実はおおまかな性格や口調だけではなく、幼少の頃から今に至るまでの半生をも把握させられている。春蘭から聞いた限りでは、行動は大胆ながらも余裕を持ち、佇まいは気高く、振る舞いは自信に溢れ、万能といって良いほど才に恵まれた少女ということである。

 そんな完全無欠の人物が存在していることが驚きなのだが、拓実の興味は別にあった。容姿だけとはいえ瓜二つだという拓実と会って、彼女はいったいどんな反応をするのだろう。姿見に映る少女に、得た情報を重ねていく。拓実は鏡の中で不敵に笑う少女のことを、じっと見つめていた。

 

 

 

 

「なんでもない、ただの朝の挨拶じゃないですか」

「いいから、拓実は華琳さまの口調で話してくれ! そんな笑顔で華琳さまに挨拶されたら、私達はどうすればいいかわからんのだ!」

「拓実。申し訳ないが、私からも頼む」

 

 一日の始まりとなる挨拶なのだからと演技は止め、入室した二人を出来る限りの元気と笑顔で以って出迎えたのだが、どういうわけか拓実は顔を赤くした春蘭に叱られていた。

 演技をしていろと言うが、朝一番からそれをさせられていては気の休まる時もなくなってしまう。拓実が不満げに唇を尖らせていると、秋蘭もが続いてそうしてくれと声をかけてきた。どうやら春蘭の態度に隠れていたが、秋蘭も仏頂面ながら密かにうろたえていたようである。

 

「……仕方がないわね。朝の間ぐらいは私らしくしていたかったのだけど」

 

 二人にお願いされて仕方なく口調を切り替えた拓実は、一つだけため息をつく。

 秋蘭が持参した朝食――何故なのか海苔の巻かれた日本でお馴染みのおにぎりが二つだった――を済ませた後は、拓実は二人に先導されて予定通り華琳の居る謁見の間へと向かうことになった。

 

 

 

 

 

 ほどなくして謁見の間に繋がる扉の前に三人が到着すると、まずは秋蘭が伺いを立てるために入室していった。秋蘭が謁見の許可を取って戻ってくるまでの間、残された春蘭と拓実はそのまま入り口付近で立ち尽くすことになる。

 拓実はそこで、これから華琳と何を話せばいいのか改めて頭の中をさらっていた。出会ってから挨拶に進むまでを頭の中でシミュレートしていって、早い段階で問題が発生することに気がついた。実際に華琳に会う前に、確認しておくべきことがあったのを思い出したのだ。

 

「春蘭。ひとつ尋ねておきたいのだけど」

「はいっ、何なりと……ではない。な、何だ、どうした?」

「私は、この口調のままで孟徳様と謁見して構わないの? 貴女に言われているから崩していないけれど、問題になりはしないかしら」

「む。確かに、ど、どうなのだ? 華琳さまに無礼な口を利くなど許されんが、しかし……むむむ。秋蘭! は、いないっ!? ……そうだ、中に入ってしまった! ちょっとここで待っていろ、今聞いてきてやる!」

 

 ひとしきり一人でうろたえた後、春蘭は謁見の間へ駆け込んでいった。そうしてすぐに「申し訳ありませんっ! 華琳さま!」と情けない声が中から漏れ聞こえてきた。大方走って入っていったことでも注意されたのだろう。

 

 

「すまない。待たせたな」

 

 そのまましばらく拓実が手持ち無沙汰にしていると、中から出てきたのは春蘭ではなく妹の秋蘭だった。どうやら、途中で入室した春蘭は中にいるままのようだ。

 

「口調や態度についてだが、華琳さまは『好きにせよ、無礼を許す』と仰られていた。拓実には思うまま、可能な限り真似てもらって構わない」

「……そう。ならば孟徳様などと呼ぶのもやめて、まるっきり本人であるようにした方がいいのかしらね?」

「その方が華琳様も喜ぶかもしれま、……しれん」

 

 秋蘭が言い違えたことで気がついたが、彼女も稀に拓実に対する言葉遣いが恭しいものに変わっている。思い返してみれば、昨夜にも似た言い回しをしていたことがあった。拓実はてっきり、春蘭が思い込みの激しい性格である為に取り乱していたものと考えていたのだが、落ち着き払っている秋蘭もとなると、今の格好の拓実はちょっとしたそっくりさん程度ではないようである。

 そんなにも華琳という少女に拓実は似ているというのだろうか。いまだ実物を見ていない拓実はどれほどのものかを知らない。こうも勘違いされていると、本人と会うのが楽しみになってくる。

 

「ねぇ、秋蘭。孟徳殿には私のことを、どのように伝えたのかしら?」

「実際にお会いしてもらった方が話が早いと思ってな。華琳様に仕えたい者がいるということ、その者が華琳様の益になるかもしれないとだけお伝えしてある」

 

 それを聞いた途端、拓実は身震いしていた。遅れて、自身の異常に気がつく。ばくんばくんと心臓が大きく強く打っている。

 この緊張感には覚えがある。己の内から湧き上がってくる衝動を受けて、深く瞑目した。

 

 ――――好きにせよ、無礼を許す。可能な限り真似てもらって構わない。

 

 拓実の中で、役者魂とも呼べるものが猛っていた。挑戦されている。試されているのだと。これから向かう先は、舞台の上であり、そして、そこは勝負の場であるのだと。そう訴えかけている。

 思い込む。春蘭から聞いた英雄譚は、己が為したものであると。そこで語られた姿こそが己自身であるのだと。この存在こそが紛れもなく曹孟徳であり、しばらく南雲拓実という人間はこの体から消え失せる。拓実は自身に強く暗示をかけて、まだ見ぬ人物に成りきっていく。

 

「ふふ……、なるほどね。そういうことであれば、孟徳殿に世にも珍しい己の姿を見せてやりましょう。秋蘭、あなたは後からついてきなさい」

「はっ!」

 

 秋蘭は咄嗟に華琳を相手にするよう返事をしてしまったことに驚いたようだった。口元を手で押さえ、拓実を凝視している。その間にも拓実は、さらに別人へと切り替わっていく。

 華琳にあって、拓実にはなかったもの。今までどれだけ上手く演技をしていても秋蘭たちが感じることがなかった、相対するだけで平伏したくなるような王者の気質――『覇気』を、拓実は発し始めていた。

 

 

 

 

 

「失礼します、華琳さまっ!」

 

 今朝方に秋蘭より新しく雇用したい人物がいるとの申し入れがあり、詳しい話を聞き始めたところで春蘭が堰を切って駆け込んできた。

 形だけの入室の言葉といい、その慌しい様子といい、華琳の描いている臣下像からかけ離れた振る舞いである。本気で怒りが湧いたわけではなかったが、躾けておく必要はあった。

 

「春蘭、はしたないわよ。あなたがそのような振る舞いをすれば、臣下にどのような教育を授けていたのかと主である私の品格が疑われることになるわ。もしや、お仕置きされたいのかしら?」

「う、うむ。だが、そんな場合じゃない、……い? って、ちちち、違う。コレは拓実ではなく華琳さまではないか!」

「『そんな場合じゃない』? その上、この曹孟徳を指して『コレ』ですって? ……ふふ。春蘭、あなた本気で躾け直さねばならないようね」

 

 まさか信頼している臣下からコレ呼ばわりされるとは思わずに、一拍の間華琳の時が止まった。すぐに平静を取り戻すも、華琳は消しきれない怒りで笑みが浮かんでしまっていることを自覚する。

 

「も、申し訳ありません! 華琳さま!」

 

 すかさず跪いては地に伏して謝罪の言葉を上げる春蘭だが、華琳はそんなことで許す気など毛頭ない。春蘭は粗忽者ではあったが、公私の区分ぐらいは出来ているものと思っていたのだ。今の発言は流石に聞き捨てがならない。そこで春蘭を弁護するように頭を下げたのは秋蘭である。

 

「華琳様、恐れながら申し上げます」

「秋蘭。悪いけれど、早急にあなたの姉を教育し直さねばならなくなってしまったわ。雇用の話はその後にしてもらえるかしら」

 

 待たせるのは礼を欠く行為だが、幕下に入れるかどうかわからない者より部下の不始末を正す方が優先される。何故今更になってそのような返答を、幼少の頃より仕えている春蘭がしたのかも疑問であった。そこに理由があるのであれば何としても聞き出し、理由がないのであれば二度目がないよう厳正に罰してやらねばなるまい。

 

「いえ、姉者がそのような無作法をしたのには、その希望者が関わっておりますので……」

「どういうことかしら?」

「その者は旅をしていた大陸外の者なのですが、姉者がその者を気に入りましてこうして口利きに参った次第です。当初は小間使いに、と考えましたが、他ならぬ華琳様であればより有用にお使いできるかもしれません。姉者が無作法をした理由については言の葉で説明するよりも実際に華琳様の目で確かめて頂いた方がご理解も早いかと存じます」

「……そう。では秋蘭に免じて、春蘭への仕置きはその者に会って決めるとしましょうか」

 

 華琳は考える。春蘭が気に入ったということは、その者は武を尊ぶ者だろうか。彼女が気に入る相手となると、弁が回る者――文官は毛嫌いしている為に除外されてしまう。

 しかし、それでは当初小間使いに考えていたという秋蘭の話と繋がってこない。では、大陸外の者という線が関係しているのだろうか。納得のいく答えは出てこないので、一旦置いておくこととした。

 

「それで春蘭、慌てて駆け込んでくるに足る危急の用があったのでしょう? 言って御覧なさい」

「は、はっ! その拓実……あの、雇う予定の者からなのですが、華琳さまに謁見するのに言葉遣いを改めるべきか、と言ってまして。いや、その言葉遣いや振る舞いは私がさせているのですが、華琳さまに会わせるのにはどうすればいいのか私ではわからなかったので、秋蘭に意見を聞いてみよう、と」

「ふぅん……。どのような言葉遣いや立ち振る舞いなのかは知らないけれど、察するに改めさせると面白味がなくなる類のものなのでしょう? それにどうやら春蘭だけではなく、秋蘭もその者を気に入っているのでしょうし」

「……恐れながら」

 

 薄々気づいていたが、華琳の言葉にも秋蘭は否定せず頭を下げるばかりだ。秋蘭は、華琳の身を案じて刺客の疑いが少しでもある者を近づけさせたりはしない。その彼女が気に入るとなれば、春蘭のように表裏のない人間だろう。

 しかし、武官でなく文官でもなく、だというのに有用に使えるかもしれない者というのだから、流石の華琳もどんな人物であるのかまったく想像がつかない。

 

「ならば、この私が直々に許すわ。秋蘭、伝えなさい。その者にさせている言葉遣い、態度のままで、私に会うようにと」

「御意に」

 

 そうして秋蘭は一つ礼をして、入り口へと向かっていく。それを眺めながら、華琳は知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。

 華琳の一の忠臣ともいえる春蘭、秋蘭の両名に気に入られるというだけで、まずその者は只者ではないだろう。そんな者が麾下(きか)にと申し出ているのだ。面白い。どうしても期待が高まる。

 

「春蘭、もういいわ。立ちなさい」

「は、はいっ」

 

 華琳の期待以上の才人であるなら、その者を推挙したという春蘭のことを責める気はない。先の無作法だって全て水に流してやってもいい。その人物が華琳の眼鏡に適うものであれば、だが。

 

「――――なっ!?」

 

 笑みを浮かべて春蘭を見ていた華琳は、それを知覚した瞬間に身構えていた。右の手は、帯刀してもいないのに腰の物を探している。

 華琳が受け取ったのは、敵意ではない。肌に感じたのは感覚的な重圧、全ての者を跪かせようとしている威圧であった。それを放つ者は、明らかに華琳に狙いを定めて叩きつけているのである。

 

「これは」

 

 他ならぬ華琳は感じ取っていた。この気配の持ち主は、王者としての役割を授かり、この世に生れ落ちてきた意味を理解して生きている。華琳と同じ天命を持つ者だ。そうでなくては、この気質に説明がつかない。

 華琳は過去そういった意志を持つ幾人を見ている。綻びを見せる王朝に対し、己の力を頼りにして野望を抱える者たちは皆似通った気配があった。だがしかし、同種の意志でここまでの強さを持つ者など、華琳は己以外には知らない。

 同時に不可解にも思える。王を目指す者が自ら他人の下につくのでは、道理が通らない。この気質を持つ人間が、他の人間の傘下でおとなしくしている筈がない。一時的に降ろうとも、あらゆる手で成り上がり、自身の力で覇を唱える筈。

 横目で見れば、隣に立つ春蘭が息を呑んでいた。予想外だったのか、顔に驚愕を貼り付けている。華琳はその様子から、春蘭がその人物の根底を見通せていなかったことを知った。一目見ればわかるであろうこのような大器を、春蘭が量り違えたのか。

 

 その者は秋蘭に促されて入ってくるのではなく、秋蘭を連れて入ってきた。これから華琳の下につくというその者は(かしこ)まらず、(おそ)れず、けれど無礼にはならない立ち振る舞いで悠然と歩いてくる。

 雰囲気でわかる。相手は笑みを浮かべている。常人ならば間違いなく気後れするだろうこの曹孟徳を前にして、愉しげに笑っている。

 

「へぇ。道理で、春蘭や秋蘭が私を見違えたわけね」

 

 向かいから届いた声に、華琳は自身の耳を疑った。その呟きの質は、あまりに若い女の声である。いや、聞き違いでなければ、常日頃からよく耳にしている声だった。

 そして程なくして華琳は視認する。自身と同じ意志を持ち、自身と同じ声を持ち、自身と同じ者の姿を。

 

「そんな……まさか」

 

 華琳は、彼女にしては珍しく狼狽の声を上げた。目の前の人物が明らかな異常であるというのに、華琳は何の対策も取らずただ呆然と、歩いてくるその者を見つめ続けていた。

 そうしているうちに目の前まで歩み寄った人物は、見詰め合っている華琳に向かって笑みを深めてから恭しく膝を突く。だが、頭を下げたその者から謙遜や敬服するといった華琳を上に見る意思は感じられない。現状、州牧である華琳の方が地位が高いという理由でそうしているに過ぎない。華琳にはそんな相手の思考が透けて見えていた。

 侮られているとして、普段であれば激昂しているところである。その後の相手の対応次第によっては首を刎ねていただろう。しかしこの者が、華琳を軽く見ている訳ではないことも理解してしまっていた。この相手は『華琳を侮っている』のではなく『華琳と対等である』として振舞っているだけである。そして、華琳の目の前に跪いた人物はそうするに足るだけの風格を備えていた。

 

「お会いできて光栄よ、孟徳殿。姓は南雲、名は拓実。此度は貴女の覇業の一助となるべく、秋蘭の勧めで参らせていただいたわ」

 

 華琳の前で跪き、話し、動く者は纏った衣服の細部こそ違えど、まるで鏡に映したような姿。

 そう。華琳が今相対している相手は、他ならぬ自身の写し身であった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 どういうことだ――春蘭は奇しくも、同じ瞬間に主君と同じ事を思っていた。同時に目の前の光景を見て、信じられない、といった感想しか出てこない。

 

 初めて拓実に会った時、春蘭をして見間違えるほどに似た人物が存在する筈がないということから他人であるという選択肢は春蘭に与えられなかった。昨夜に演技をさせた際には、その姿にふさわしい声が揃ったことにより体が勝手に誤認してしまっていた。そうして今朝は、着せたその服装もあったが、気を外にやっていた時に話しかけられたものだから咄嗟に対応を誤った。

 違う人物であると認識してからは条件反射はともかくとして、春蘭は本質的な意味では拓実と華琳を見違えることはなかったのだ。それが今、春蘭の中で少しだけ崩れかかっている。

 

 拓実が演技を始めた時に春蘭が言っていたように、今までの拓実には気品こそあれ王としての気迫というものが一切たりとも存在していなかった。

 確かに表面上であるところは春蘭が教えたとおりの華琳であった。それだけでも見事な演技であるし、あの秋蘭ですら慌てていたものだ。言葉のみの情報でそこまで似せてしまえる拓実は演技という分野において、非凡のものを持ち合わせているのだろう。

 しかし今の拓実はそれまでの演技からは一線を画してしまっている。姿形、そして振る舞いだけではなく、正しく内面までも華琳になりきっていた。

 

 声や表情、雰囲気からの全てが華琳と紙一重のところにまで迫っている。だが、紙一重までだ。春蘭にはわかる。項目にして挙げることは出来ないが、確かに違った。春蘭だからこそ、対面している二人の華琳の違いを認識することが出来た。拓実は今相対している華琳を表現しているのではなく、春蘭を介して伝えられた『春蘭の描いている華琳像』を再現しているのだ。

 華琳とは別人である。だがそれでも拓実の放っている雰囲気や、ぴりぴりと肌に伝えてくる風格は華琳と同質であり同等。

 覇道を歩まんとするその意志は、華琳をして気圧されるほどに本物であった。

 

 

 

 

 

 動かない。拓実を見下ろす華琳も、側で華琳に控える春蘭も、跪く拓実も、拓実に控えるようにして立っている秋蘭も。その中で唯一余裕の笑みを浮かべているのは、拓実だけである。

 

「南雲、拓実といったわね」

 

 長い沈黙を破って口を開いたのは華琳であった。その華琳にしてもまだ全ての動揺は鎮まりきってはいない。当たり前の理屈ではあるが、目の前に存在しているのが己自身ではないと認識できただけだ。

 

「ええ。相違ないわ」

「貴女の目的は我が覇道を支えることではなく、自身が覇道を歩むことではないのかしら」

 

 華琳には、問わなくともその返答が如何なるものかはわかっていた。少しずつ余裕を取り戻している華琳が、目の前の存在を僅かなり知る為に様子見したものに過ぎない。だが華琳の予想に反して、拓実はしばし逡巡するような素振りで瞑目している。

 

「……そうね。私が貴女の立場にいたなら、貴女がしているようにそうしたでしょうね」

「そう」

 

 若干の間の後返ってきた答えに、華琳はやはり自身の直感が鈍っていないことを知った。そしてその直感に従うならば、とうに答えは決まっている。

 

「春蘭、秋蘭。貴女たち二人はこの者を、私に使えと言うのね」

 

 響く、華琳の声。しかしその問いに対して春蘭と秋蘭から言葉はない。いや、返すことが出来ずにいる。今、この変貌した拓実を目の前にして、本当に志を同じくしていいものかという疑問が二人の中には浮かんでしまっていた。

 秋蘭が、華琳と顔合わせしても問題ないと踏んだのは、拓実に王としての内面がまったく感じられなかったからだ。姿や声が似ているだけならば華琳もこうして身構えることなく、面白がって即決で招き入れたことだろう。秋蘭もそれを予想して、この場を用意したのだ。

 だがしかし、今の拓実はこれまでこそが偽りだったのではないかと思えるほどに華琳に――真に迫ったものあった。春蘭、秋蘭共に、ここにきて、どちらが本来の拓実であったのか確信が持てなくなってしまっていたのだ。

 

「はっきりと言いましょうか。貴女たち二人の推挙であろうと、私がこの者を配下に加えるなんてことは、ありえないわ」

 

 春蘭も秋蘭も、言葉を忘れたように発することが出来ずにいる。構わず、華琳は言葉を紡いでいく。

 

「確かに、こうまで私に似ているならば、秋蘭の言うように様々な使い道があるのは理解できる。それこそ場面によっては千や万の兵よりも価値あるものかもしれない。志も、私と違わぬものを持っているのは言葉にせずとも感じることができた。それを為し得るだけの気概が備わっているだろう事も」

 

 華琳は背を向けて歩き出し、玉座の横に掛けられた自身の愛鎌――【絶】に手を掛ける。置かれていた台座の揺れる音が、謁見の間に妙に大きく響いた。

 

「けれども、この者は私に似過ぎている。この大陸は、世は、覇王を二人も必要とはしていない」

 

 背中越しに、華琳は跪いている拓実を視線で射抜く。華琳がどのような決断に至ったのか、とっくに理解していることだろう。しかし拓実は笑みを湛えたまま、華琳の挙動を眺めたまま動かない。

 

「我が陣営に迎え入れれば、必ずやこの者は自身の覇道を歩み始め、我らを二つに分かつことになる。しかしこのまま野に放てば、いずれこの者は我が覇道を阻む強大な敵として、我らの前に立ち塞がることになる」

「……孟徳殿ではこの私を従えることは出来ない、そういうことでいいのかしら?」

 

 得物を手にゆっくり歩み寄ってくる華琳に、拓実は動じた様子もなく質問を投げかけている。それを受けて、華琳は一瞬だけ足を止めた。そして、すぐにまた歩みを進める。

 

「ええ、そうね。認めましょう。私では、貴女を従わせることは出来ない。逆の立場で貴女が私を従わせることが出来ないように、不可能なことよ。もっとも、私だけではないでしょう。その上に立つのが誰であろうとも、従わせようとした者の腹を食い破ることには変わりはないのだから」

 

 跪いたままの拓実の前に歩み寄った華琳は、その手に持った鎌を振りかぶる。

 対して拓実は、ここにきても動こうとはしない。命乞いも、弁明も、服従も、反発も、どれも声にして出すことなく、振りかぶる華琳をただ見つめ続けていた。

 

「誇りなさい。この私にここまでのことを思わせたのは、貴女が最初で最後となるでしょう。そして詫びましょう。私は、必ずや来るとわかっているその禍根の芽を、類稀なる王の器ごと今絶たねばならないのだから」

 

 拓実の不動の態度にも、華琳の瞳は揺るがない。本気の色だけが煌いていた。

 そして鎌は振り下ろされる。

 

 

「……ふっ」

 

 鈍く耳に障る金属音が謁見の間に響いた。首を刎ねんと振るわれた鎌の刃は、拓実の首横で止まられていた。

 止まった鎌を、額に僅かの汗を浮かばせて見るのは拓実。そして、それを信じられないような顔で見ているのは、他ならぬ華琳であった。

 

「――春蘭。貴女のその行動は私の下を離れ、その者の下につく意思表示と見なしていいのかしら」

 

 冷ややかな、凍りつくような視線を向けた先には、鎌と拓実との間で自身の誇りとも言える大剣を構えた春蘭の姿があった。顔面を真っ青にしながら、鎌の刃を完全にその大剣で防ぎきっている。

 

「い、いえっ! この私は、華琳さまの剣です! しかしながら、華琳さま。この拓実は、私が無理やりに旅をしているところを連れてきた者です。ので、その。この拓実には何ら責はなく……」

「私の臣下であるというならばそこをどきなさい、春蘭! 最早、この者に責があるかどうかなどという小さな観点での話はしていないの。この曹孟徳がこの者自身を危険と判断し、排すと決めた。その決定に貴女は関係ない!」

「しかし、それではあまりにも……。拓実、お前も早く華琳さまに謝れ! 今謝らねば、首を刎ねられるのだぞ!」

 

 あと一押しで絶縁を突きつけられるというのに春蘭は尚も食い下がり、必死に華琳に拓実の助命を懇願する。

 そうして、横で跪いた状態で顔を上げていた拓実の後頭部をむんずと掴み、無理やりに地面と元の位置とを往復させ始めた。

 

「は、離しなさい春蘭! 何をするの!」

 

 それに慌てたのは拓実だ。相手は馬鹿力で自身の頭部を掴んでいて、必死に抗おうとするも拓実の首の筋肉では対抗すらできていない。

 

「春蘭、その者が無礼を働いたと言う話でもないと……」

 

 決して慌てふためく様子を見せなかった拓実が上げた声と、春蘭のその場違いな行為に、気勢を削がれたのは華琳だった。目の前で自身と同じ姿をしたものが、自身の臣下に頭を掴まれて無理やり下げさせられている。それは、視覚的にあまりに衝撃的なものだった。

 そうして、ふと華琳は変なものを見つけた。見れば床に広がる、光を反射する金の糸の塊だ。

 

「髪?」

 

 床に、見事にカールした艶のある金の髪の毛の束が二つ、落ちていた。位置は拓実がぺこぺこと頭を下げさせられている場所の真下。まるで、拓実の髪の毛が『取れてしまった』かのような……。

 

「あ、姉者! 拓実の付け毛が取れてしまっているぞっ!」

「そんな場合ではないだろう、秋蘭! 何としても拓実のことを華琳さまに許していただかなければ!」

「……つけ、げ?」

 

 当然のように髪の毛が取れたことを話している姉妹に、流石の華琳も理解が追いつかない。その落ちた髪の束を眺めることしか出来ずにいる。

 

「ウィッグが取れているですって? ……って、うわわわ!? そ、曹孟徳様、この鎌を引いてください! 危ない! それに色々と冷たい! ひっ、ちょっと切れて血が出てる!」

 

 華琳がしばし呆然としていると、次なる変化が起こっていた。まずは聞き慣れた声色で、ありえない言葉の連続。己の首を落とそうとする鎌に対しても冷や汗を浮かべる程度という豪胆さを見せた目の前の人物が、今はただ突きつけられているだけだというのに涙を溜め、死んでしまいそうなほどに顔を真っ青にしているのだ。

 そして空気。拓実からはもう威圧も何も感じない。ただの凡庸な一般人のような気配しか残っていなかった。互いを下さんとして侵食し合っていた空気が、いつの間にか一方がしぼんで消えて、元の華琳が支配する空間に戻っていたのだ。

 

「ほれ謝れ、地面に額をこすりつけて謝るんだ、拓実!」

「ごめんなさい! 何だかわからないけど、許してください!」

 

 春蘭の手を借りずに自身からぺこぺこと謝る、髪を両脇で小さな団子にしてる自身と同じ姿の者を見て、華琳には悩みが生まれていた。

 これはどう収めたものなのか、そんな判断に迫られていたのだ。

 

 

 



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4.『拓実、曹操に仕官するのこと』

 

「そう。貴女は学問や芸を学ぶ私塾に通っていたのね。そこで学び得た芸が他人に成り切る演劇の技術であり、好きにやっていいと許可が出たものだから言われるままに私に成り切ったと」

「そ、その通りです。それにしても、危なかったですよ。春蘭が止めてくれなかったらと思うと……」

 

 死にかけたのを思い出したのか、お団子頭のままの拓実は両目には涙を溜めて背筋を震わせている。よく似た容姿の拓実が小動物のような振る舞いをするのを見て、華琳は思わず頬を引き攣らせ、なんとしていいのかわからない収まりの悪い表情を浮かべた。

 

 拓実の様子が先ほどまでと一変していることに気づいた華琳は、力ずくで謝らせていた春蘭を止め、詳しく事情を聞くことにした。

 そうしてここに来ることになった経緯を春蘭が、来てからの経緯を秋蘭が話し、合間合間で拓実が補足をする。一通りを話し終えたところで拓実の異様な演技力に話が流れ、丁度それについての説明を終えたところであった。

 始めこそ警戒心を顕に拓実を睨み付けていた華琳であったが、説明が始まるや直ぐにそれは取り払われていった。話を秋蘭と春蘭から話を聞けば聞くほどに、そして今の拓実の様子を見れば見るほどに、元の南雲拓実という人間が無害であるか明らかになったからである。

 

 そしてどうやら件の華琳になりきっていた時にしても、拓実がそうしようと思ってのことではないということであった。演技に没入し過ぎてしまった状態であり、いつでもああなれるというわけでもないようだ。むしろ『なれる、なれない』という話ではなく、『なってしまう』といった方が正しいようである。

 拓実の演技は自己暗示をかけて自意識を出来る限りに薄め、その上に演ずる役を乗せて演技をするといったものなのだが、一度あの状態に『なってしまう』とその自己暗示が深くかかり過ぎてしまうようなのだ。

 

 ――以前にも拓実は、演技に集中するあまり前後不覚になったことがある。丁度、今回のようなトランスともいえる状態にである。聖フランチェスカに進学する前、演劇部で参加した県大会という大舞台でのことだ。

 あの時は数ヶ月にも渡って台本を読み込み、舞台道具に衣装にと入念に準備を重ねて自分たちの集大成を不足なく表現することに必死であったし、大きな舞台を前に緊張をしていたものだ。劇自体は大成功で終わったのだが、拓実個人は役に入り込み過ぎて大失態をやらかしたのであった。

 今回は拓実に似ているという、中国史において有名人である曹操と対面できるという期待、そして本人より直々に演技する許可が下され、秋蘭から挑戦とも取れそうな言い回しを受けたことが変に作用し、拓実の精神は似た状況に追い込まれていたのだろう。

 ともかく一度そうなってしまえば、拓実は与えられた役割をこなすというよりは、役割の人物そのままになりきってしまって、自身を省みる余裕がなくなってしまうのだ。

 しかし拓実本人も、今回のような生き死にがかかった状態ですら戻ってこれないものだとは思っていなかった。それどころか華琳によって鎌を振り下ろされる瞬間、「ここで散るならば、それが私の天命」などと至極まじめに考えていたものだから恐ろしいものである。

 

「……まぁ、演技については見事なもの、と一応褒めておきましょうか。もう一度確かめるけれど、あくまで私の演技をしていたからであって、貴女自身に覇道を歩む気はないのね?」

「ええ、ありません。ありませんとも。自分にはそんな道、あんまりに分不相応ですから」

「そう。それならば、その首を刎ねる必要はなくなったわね」

 

 拓実は思わずと言った風に安堵の息を吐くと、「何とか助かったよ」という意図を伝えようとしてか、にこにことした笑みを春蘭と秋蘭に向けた。

 それを見て慌てている夏侯姉妹の様子は面白いのだが、自分と同じ顔がころころと表情を変えている様は、いつまでも華琳には見慣れないままであった。

 

 

 

 

「拓実。貴女、私と同じ顔をしておいて、表情をぼろぼろ崩すのは止めなさい」

「はい?」

 

 それからいくつか言葉を応酬させているうちに、我慢の限界に達したらしい華琳が若干の怒りをこめて拓実に命令を突きつける。突然にそんなことを言われた拓実は戸惑いの顔を見せた。しかし、それがまた華琳には気に食わないようである。

 

「ぼろぼろ崩すって言われても。その、これが素なんですけど……」

「知ったことではないわ。いいから言うとおりになさい」

「えええ……」

 

 素の自分をあっさりと否定された拓実は思わず泣き笑いのような表情を作った。華琳といい春蘭といい、人の意見はおかまいなしといった人がここには多いように思う。そんな風にしおれた拓実をにらみつけたのは、やっぱり華琳である。

 

「言っている側から崩すなんて、どういうつもりかしら?」

「そ、そんなこと言われましても……」

 

 華琳に釘を刺されて、必死に表情を引き締めるものの元々が表情筋の活躍豊かな拓実である。ちょっとの感情のブレですぐ表に出てきてしまう。

 言われて少し経つと眉が落ちてきて、引き締める前の情けない顔に戻っていた。拓実自身はそれに気がついていない。演技をしていない時の拓実などこんなものである。

 

「貴女っ、その情けない顔を止めなさいと言っているのよ!」

 

 「ひっ」と情けない声を上げては落ち込んで縮こまり、気の弱い小娘のようになっていく拓実。それを見た華琳の眉はどんどん吊り上がっていく。血の気が引けて青くなっていく拓実とは反対に、華琳の顔には血が上ってどんどん赤みを帯びていった。もちろん怒りでだ。

 正しく負の連鎖が出来上がっている。情けない拓実を華琳が怒れば怒るほど、その怒気に当てられた拓実は泣き顔になっていくのだから。

 

「華琳様。恐れながら、拓実には普段から華琳様の演技をさせておけばよいのではないでしょうか。さすれば華琳様を基準に行動するようですので、不用意に顔を崩したりはしないかと」

 

 そんな瓜二つながら二人の様子を見ていた秋蘭が、拓実に助け舟を出すために華琳に向け意見を述べた。華琳に圧倒されてかくかくと震える拓実は、傍からでは双子の姉にいじめられている妹のようにしか見えない。静観していた秋蘭の庇護欲を掻き立てていたようであった。

 庇われた拓実はわかりやすく「助かったぁ」などと声を漏らして安堵している。また崩している、と鋭く華琳が睨んでいることには気づかない。

 

「この私の演技を? そんなことさせて先のようになれば、今度こそ間違いなく拓実の首を刎ねるわよ」

 

 華琳は先のことを思い返し、苦々しく顔を歪める。華琳にとってあの一幕は紛れもない汚点であった、失態をさらしてしまったものとして自身の行いを省みている。

 実際のところ、華琳があの拓実の気に当てられて怯んでしまったのは、同じ姿、同じ声、同じ思想を持つ人間がいきなり目の前に現れたことで、しばらく思考を停止させられたことが原因だ。あの時の拓実は、確かに華琳と同程度の風格を持っていた。雰囲気から何から、春蘭から与えられた情報を限りなく再現していたのである。事前情報を一切与えられていなかった華琳では、もう一人の曹操と云える拓実を相手にして拮抗できる筈がなかったのだ。

 秋蘭や春蘭でさえ驚き動けなかった中、自力のみで押し返して五分五分に持ち直し、一歩も退かなかった華琳こそが驚きに値するし、脅威的なのである。けれども、そんなことをやってのけた華琳本人はというとまったくそうは思えないようであった。

 

「いえ、それについて問題はないものと思われます。どうやら先ほどのは極度の緊張と過度の期待に拓実が応え過ぎただけで、それ以前は見た目や口調だけの模倣でしたので」

「ふん。秋蘭がそうまで言うのなら、いいでしょう。拓実、やりなさい」

 

 不機嫌な華琳に促され、ついに自分の意思が完全に無視されたことに落ち込みながらも、拓実は「これだって仕事のうちだから」などと呟いて必死に自身に暗示をかける。

 何とか気を取り直すことに成功した拓実は、取り外していたウィッグを改めて付け直し、深呼吸を数回。格好をスイッチにしてしまった方が、切り替え易くなることを拓実は経験から知っていた。

 

「ああ、もう。これで満足かしら? まったく、話に聞いていた孟徳殿はもっと高潔であったというのに、実物がこんなにも我侭であったなんて驚きよ」

 

 演技を始めた途端に華琳の性質に乗っ取って、拓実はつい本音を漏らしてしまった。直ぐ隣にいた秋蘭の顔が引き攣り、固まった。

 言ってしまってから拓実自身もまずいと思ったが、意外にも華琳が怒り出すようなことはなかった。

 

「あら、それぐらいは疾うの昔に自覚していることよ。今更ね」

 

 いきなり悪態を吐いた拓実を前にして、華琳は満足そうに笑みを浮かべていた。表面上のことでなく、心から嬉しそうにしている。

 

「こうして落ち着いて見ると面白いものね。これの中身がさっきの気弱な少女だとはいくら私でも見破れそうにない。こうも見事に人を変えてしまうだなんて、中々身につく技術ではないわ。誇りなさい」

「……ここは素直に受け取っておきましょうか」

 

 上機嫌らしい華琳ではあるが、それが何故なのか拓実にはわからない。表面上では対等に笑みを浮かべて話しているが、拓実は内心空恐ろしい思いを抱えたままである。何せ、つい先ほどこの少女に殺されるところであったのだ。

 

「そう、貴女に一つ言っておかなければならなかったわね」

「言っておかなければならないこと?」

 

 拓実が演技を始めてから上機嫌であった華琳は、拓実の不遜な物言いに対しても特段機嫌を損ねることはなかった。そうしているうちに、ふと思い出したように声を上げた。

 華琳を相手にするにも慣れ始め、精神的にも余裕が出てきた拓実は首を傾げて華琳を見た。普段の拓実ならばそうはいかないが、演技をしていれば真っ向から見つめ合おうとも気後れせずにいられる。

 

「ええ。私の下で働きたい、そもそもそういう話だったのでしょう? 今の貴女であるなら我が陣営に迎え入れることに否はない。その才、私の為に存分に振るいなさい」

「……喜んで。孟徳殿にそう言ってもらえるとは、光栄だわ」

 

 華琳をしてそう言われるだけの才などを持ちえているのか拓実にはわからなかったが、そう言われてしまえば頷かないことは出来ない。

 いつの間にか家事手伝いの予定だった職務内容が変わっているような雰囲気を感じてはいたが、その逡巡も一瞬。華琳に対しても一歩も退かずに拓実はそう返す。

 

「華琳よ」

 

 突然に言われ、拓実は思わず数回まばたきを繰り返す。視界の中にいる華琳は、僅かに口の端を吊り上げていた。その声が聞こえていなかったわけではないが、拓実はどこか信じられないような気持ちで彼女を見つめてしまう。

 

「これからは『孟徳殿』だなんて他人行儀な呼び方をせず、真名を呼びなさい。拓実」

「……ええ。そうさせてもらうわ、華琳」

 

 華琳は拓実だけを見据え、身内に向ける柔らかさで拓実の名を呼んだ。堪えきれず、拓実は花の咲くような笑顔を浮かべてしまう。拓実のそれはもちろん、華琳が浮かべるような笑みではない。演技とは違う、拓実自身の笑顔の作り方だった。

 

 三国志を読んで、曹操が英雄であったことを拓実は事前に知っていた。そしてこの少しおかしな三国時代の少女の身であっても、それが変わることはなかった。

 華琳は紛れもなく英傑であり、それこそ類稀なる王の器を持つ人物だ。春蘭からの話を聞き、実際に対面した拓実の中でその考えは更に確固としたものになっている。

 その華琳に凡人でしかない拓実が認められたのだ。英雄にそう思わせることの出来た自分を、拓実は誇りであると思えた。今この瞬間、胸を張ってそれが言える。

 

 

 

 

 

「とりあえず差し当たってのことはいいかしら。では、春蘭」

「はっ!」

 

 拓実の命が華琳より安堵されてより春蘭は膝を突き、華琳に頭を下げたまま微動だにせずにいた。華琳からそうしていろと言われた訳でもなく、春蘭が自発的にしていたことである。

 

「主君であるこの私に対して無礼を働いた理由、拓実と会ったことで理解出来たわ。これを相手にしていては対応を取り違えるのも仕方がないとして、それは不問としましょう」

 

 そうして一度、華琳は口を閉じた。体を震わせている春蘭は、跪いたまま次の言葉を静かに待っている。

 

「しかしもう一つ。どのような理由があったとはいえ、この曹孟徳の決定に異を唱え、且つ食い下がることなど許しがたいこと。それは理解しているわね」

「はっ! 如何様にも処罰を!」

 

 打てば響くように返す春蘭に、華琳は満足そうに微笑んでいた。突如始まった春蘭への査問にいざとなれば春蘭に口添えしなければと人知れずに構えていた拓実は、恐れていたようにはならないだろうと気を緩める。

 

「……そうね、許しがたい。けれど、人材を見つけてきた功績も無視はできないわ。この拓実の才、見逃すにはあまりに惜しい」

「は、はぁ」

「よって春蘭。貴女には通常の業務の他に、拓実への武術の教育役に任命する。期限は二月、早急に仕上げなさい」

「華琳さま! それでは私への罰にはなりません!」

 

 罰を求めて声を上げた春蘭ではあるが、その罰を受けることになった原因――拓実を助けるために華琳の目前に飛び出したことに一切の後悔はなかった。

 確かにあのまま拓実の演技が戻らずに華琳に絶縁されてしまっていた仮定の未来を考えれば体に震えがくるほどに恐ろしいことではあったが、例えそうなろうとも春蘭はあの場で退くことは出来なかった。

 

 拓実は、春蘭が気絶させて無理に連れてきた者である。それに当たっていくつもの無礼を働いてしまったが、その全てを拓実は笑って許してくれていた。

 短いながらもこれまでの付き合いから失うには惜しい人柄をしていると感じていた。まして、そんな人のいい拓実を引き込もうとしたのは他ならぬ春蘭なのである。

 ならばこそ己が原因で拓実が命を失うなど、名に賭けても許せることではなかったのだ。もし我が身可愛さで拓実が処断されるのを見逃すことになれば、周りの全てが春蘭を責めなかったとしたとしても他ならぬ春蘭が自身を許せず、生涯に渡って後悔し続けることになると予感していたのである。

 結果それは、主君である華琳に楯突くことと変わらない。それをわかってて尚、春蘭は止めに入った。自身が不忠であったとわかっていたから、課せられる全ての罰をあまんじて受けるつもりであったのだ。

 

「春蘭、あなたは勘違いしているようね。私は仕上げなさいと命じたのよ。早い段階で私と武器を合わせられるまでに鍛え上げられなければ、勿論その時は改めて貴女に罰を与えるわ。拓実の資質に因るところではあるけれども、僅か二月でそこまでを求めるのはまず不可能でしょうし、今回の任命は罰執行までの猶予とでも思っていなさい」

「は……はっ! そういうことでしたら、かしこまりました!」

 

 ようやく顔を上げた春蘭だが、まるで華琳に褒められた後のように顔を綻ばせていた。そしてそれと対比するように、先ほどまでのように崩してはいないものの確かに苦い顔をしているのは拓実である。

 

「ちょっと待ちなさい。私の仕事は掃除や洗濯、調理と聞いていたのだけど、何故その私が武術を学ばねばならないというの」

「あら。役に入り込んでいたとはいえ、この私に向かって『覇業の一助になる』だなんて大言を吐いた者の科白なのかしら。それに、この私と瓜二つの容姿を持っている者にそんな雑用を任せると、本当に思っているの?」

 

 そう言われてしまえば、拓実は言葉を返すことは出来ない。いくらコントロール出来ずにいたとはいえ、そう述べたこと自体は覚えているし、他ならぬ自分が口にしたことだ。

 さらには、同じ顔である拓実の情けない表情一つで機嫌を損ねた華琳である。自身と同じ容姿をしている拓実が雑用を命じられ、人に使われている姿を見て耐えられる筈もない。

 

「言ったでしょう。私のために、その才を存分に振るえと。秋蘭が当初小間使いにするつもりだったと言っていたことも、私はどうかと思っているのに」

 

 隣にいた秋蘭がそれを聞いて静かに頭を下げた。それを流し見た華琳は、構う様子を見せずに言葉を続けていく。

 

「貴女がその才を活かすには、圧倒的に色々なものが足りていないわ。私には及ばずとも、追随するぐらいの能力を身につけてもらわなければならない。まずは春蘭や秋蘭の域に辿り着く事は出来なくとも、刺客を相手に己の身を護れるまで武を磨きなさい。次に戦局を見渡す目と機を見る判断力を培い、兵の運用を学びなさい。そしてこの街の暮らしをその目で見て仕組みを知り、街の発展に努めなさい」

 

 個人の武を磨き、軍を運用する方法を学び、内務をこなせるようになれと華琳は言う。額面通りに受け取れば、華琳の下で武官、文官両方を兼任するために技術を学べと取れる。

 拓実はしかし、それだけにしては最初の『武』が気にかかっていた。まるで、いずれ拓実が狙われる立場にあることを前提に話しているように聞こえる。華琳と間違えられ、狙われることを指し示しているのだろうか。いや、それなら内務だけをやらせて、戦場に立たせなければいいだけのこと。そんなことを華琳が気づいていない筈がない。華琳が考えているのは恐らく、拓実を敢えて戦場へ向かわせることであろう。

 

「つまり私に、華琳の影武者になれということね」

「『影武者』。そうね、主の影となり主の代わりを務めるという意味であるならその通りよ。仮にも私を模倣しているだけあって、同じ考えに至ることが出来るようね」

 

 華琳は興味深いという表情を浮かべ、ひとつ頷いた。

 

「総大将の存在は兵士の士気を高める。自ら剣を交えず、前線指揮に立つだけであっても敵を威圧できる。共に危険を冒してくれる主君であると感じれば、自軍の兵だってその働きを大きく違えてくれるでしょう。しかし大局を見通さねばならない私は本陣から動けないことも多い。その際に私の代わりに兵を率いて鼓舞する人間、それが貴女よ」

「そう。そして、絶対に討ち取られるわけにはいかない。それだけ言って貰えるということは、私のことを随分と高く買ってくれているのね」

「当たり前のことを、何を今更。私を相手に対等に渡り合える者が、果たしてこの大陸にはどれほどいるものか。その曹孟徳に真っ向から挑み、貴女は演じきって見せた。貴女以外にこの役目を任せることは出来はしないわ。そして同時に、限定的にとはいえ拓実にだけはこの私の名を名乗ることを許すと言っているの」

「私が、華琳の名を?」

 

 華琳に対し聞き返すように言葉を返しながら、拓実は自分の心臓の鼓動が大きくなったことを自覚する。

 どくん、どくん、と拓実を中からぐいぐい押し上げている。役者として。そして、それとは違う理由が体を疼かせている。

 

「か、華琳さま!? どういったおつもりですか!?」

「それは、いくら華琳様といえど承服致しかねます!」

 

 血相を変えながら声を上げたのは春蘭、秋蘭の二人だった。華琳に向けての言葉だというのに強い口調であるのも仕方がないと言える。下手を打てば今の州牧の地位すら失いかねない言葉だったからだ。

 血統を尊び、名を命とするこの大陸では、華琳のその発言はありえないといってもいいものである。真名を預けるというだけでも相手の命を預かるという重要な物であるのに、他人の、それも州牧という要職に就く者を騙るともなれば、最早それと比肩できる話でもない。本人よりの許可があるが故に、その事実が公になればたちまち華琳は「命を譲り渡す、名の軽い者」と揶揄されるだろう。曹孟徳という名は、あっという間に堕ちていくことになる。

 

「二人が何を危惧しているかについては理解しているわ。だからこそ拓実がその『影武者』なる者であることは徹底的に秘匿し、中枢の信用おける者のみが知る最上の機密とするつもりよ。拓実には極力外出をさせず、する時であっても完全な別人になるよう変装してもらうことになるわね」

 

 夏侯姉妹からの忠言に華琳は冷静に詳細を話していく。それを聞いて納得してしまった春蘭はともかく、秋蘭の方はまだいくつも問題点を具申したいようだったが、結局は押し黙ることにしたようだ。

 二人がとりあえず納得したのを確認し、その計画の中核になる拓実を華琳は見やった。

 

「それで、拓実はどうかしら? 間違いなく不自由にはさせてしまうとは思うけれど、これは貴女にしか出来ないことよ。問うわ、南雲拓実。――この私の『影武者』として仕える気はある?」

「……少しだけ、考えさせてもらってもいいかしら。自分が今置かれている状況に、整理をつけさせて」

「ええ。自分に納得のいく答えを見つけなさい」

 

 ――華琳の許可を得て、拓実は深く思考の海に沈んでいく。考えるべきは、自身のことである。

 

 この時代に来て色々とあったが、拓実が来てからまだ二日目。一晩しか経っていないのだ。春蘭が華琳について語る中で、いくつかこの時代の情勢についてがあったが、どういった時代であるのかを自分の目で確かめたわけではない。最終的に元居た日本に帰りたいと思ってはいるが、どのようにしてこの時代に来たのかもわからず、当然ながら帰る方法だって存在しているのかどうかすらわからない。拓実はもしかしたら、この時代で一生を終えることになるのかもしれない。わからないことだらけだった。

 そもそも華琳と会うことになったのも、情報を集めるための当面の衣食住を求めてのことだったのだ。当初の仕事の条件であれば、強引に申し出れば出奔することだって難しくはない。しかし華琳の配下として重大な役職についてしまえば途中で逃げることなど許されまい。少なくとも大陸がある程度平定されるまでは、華琳の下を離れることは出来ないだろう。立場柄、集めようと思えば様々な情報を手に入れることが出来るかもしれないが、その中から帰る方法を見つけたとしても戻ることは許されないだろうし、自分の信条的にも出来そうにない。

 

 華琳に仕えることで帰れなくなる可能性が出てきてしまうのだが、それでも配下として迎えてもらうことが自分にとっての正解だと拓実は断じていた。

 堅実に行くならば、華琳の下で大陸の平定に尽力することだ。同時にそれまでに現代日本へ帰る方法を探して見つけておく。何年掛かるのかわからないが、全てが終わった後に帰ればいい。もし帰る方法がなかったとしても、この世界で生きていくだけの仕事はある。申し出を断って出て行くよりも帰る方法が見つかり易いだろうし、衣食住についての心配もなくなるだろう。

 

 けれども、拓実が華琳の配下となれば、これまでやったこともないことをいくつもこなさなければならなくなる。

 一つに政務――これはまだいい。文字の読み書きはこの時代で生きていく上でも必要だし、一応は学生であったのだから恐らく計算なんかも問題ない。一度覚えてしまえば、きっと人並み程度にはこなせるだろう。

 一つに軍務――人を率いて、人を殺すということ。己の目的のために、他人を殺すこと。エゴを突き通さなければならないということ。

 そして自衛――当然『影武者』という立場には危険が付いて回る。殺される可能性があるのは華琳が武を磨けということからも理解できている。いざという時に己の身を護れるぐらいに強くならなければならない。

 

 拓実にとってどれも未体験で、大変なことだ。特にその中でも多くの人を殺していかなければいけないというのが一番堪えるものだと思う。こうして考えていても、人を殺す自分の姿を想像も出来ないでいる。

 しかし華琳の下でなくとも、この時代には他人を殺さなければ自分が殺されるような、そんな状況が溢れているという。旅をすれば、追い剥ぎに遭って殺されることもある。追い剥ぎが返り討ちに遭って殺されることもある。兵になれば敵方の兵を殺し、あるいは殺される。街で静かに暮らしていたって、賊の略奪に遭えばそれでおしまいだ。

 

 こんな荒廃した世を憂い、一つにまとめ正す為に華琳が立っていることを拓実は知っている。

 そんな華琳を支えている春蘭と秋蘭が、己が主君こそが何よりの誇りであると思っているのを拓実は知っている。拓実も、誇って生きていきたいと思っている。例え同じ人殺しになるにしても、少しでも自分に誇りを持っていたかった。

 そして一時とはいえその華琳に成り切っていた拓実は感じていた。弱い自身と、強い華琳との大きな差を。そして、彼女は拓実の知る誰より誇るに足る人物だということを。そんな強い華琳が危険を冒しながらも世を正す為、弱い拓実の力を必要としているのだ。

 

「私は、華琳についていくわ。華琳の作る太平の世を生きてみたい」

 

 そう考え至った時、拓実の中ではすとん、と答えが出ていた。拓実は当たり前のように、華琳と同じ道を歩んでいくことを選んでいた。

 たとえ血で濡れようと、華琳の目指す覇道を終わりまで支えていく覚悟を固める。華琳の覇業を助ける為に人を殺すことを、他ならぬ自分の意思で決めた。

 

「けれど華琳。私という存在が他者に知れれば多くの不利益を生み出すことになるけれど、構わないのね?」

「言ったでしょう。これは、貴女以外には出来ないことだと。逆を言えば、私は貴女であるなら間違いなくこなしてくれるだろうと確信しているの」

 

 笑みと自信を以って、華琳は言い切った。華琳にそうまで言われてしまえば、拓実も何事もなく出来てしまうような気になってしまう。

 

「……ふふ」

 

 こちらに微笑を向ける華琳に対して、拓実も笑って返した。そして静かに華琳の前まで歩み寄り、膝を突く。華琳に向けて頭を垂れ、自身の誓いを口にした。

 

「我が全身全霊を以って、貴女の影武者を務めましょう」

 

 そうして現代からの来訪者である南雲拓実は、後世に英雄と称えられている曹孟徳の影武者となったのだった。

 

 



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5.『荀彧、夢の世界に旅立つのこと』

 

「この場にいる臣下に通達を出す。拓実についての情報はそれを持つ者以外には一切の他言無用とし、私が選定する信頼に値する者だけがこれを共有すること。破りし者には例外なく厳罰を下すから覚えておきなさい」

「はっ!」

 

 華琳は玉座より立ち上がると全員を見回して『影武者』秘匿の体制を作ることを宣言し、拓実を含む三人はその場に跪き揃った声を上げた。

 

「さて。そうと決まれば私の腹心にも話を通しておきましょうか。とは言っても、ここにいる者以外に拓実の存在を知らせておける者などそうはいないのだけど。まずは桂花かしらね」

 

 新たに人を増やすことについて、もちろん拓実に否はない。今のこの陣営に誰がいるかなどわからないことである。そして、華琳が腹心というほどの者であるのなら問題は起こらないだろう確信がある。

 秋蘭は瞑目して静かに佇んでいる。普段の秋蘭を知っている者であれば、それが肯定の表れであるとわかった。

 

「あの、華琳さま。季衣の奴には知らせてやらないのですか?」

「もちろん、季衣には知らせておかねばならないでしょう。親衛隊にも事情を知る者が必要でしょうし、立場柄どうしたって拓実とも顔を合わせる事になるのだもの」

 

 そしておずおずといった風に疑問の声を上げたのは残る一人、春蘭だった。その質問を想定していたのか、玉座に座り直した華琳は即座に言葉を返した。続いて肘掛に身体を預け、脚を組み直す。

 

「けれども、あの子に伝えるのは順序として桂花の後よ。『影武者』を上手く運用するに軍師である桂花の知恵は不可欠、拓実の存在を打ち明けるならば早いに越したことはないわ。拓実には政務について学ぶ場がなければならないし、そちらの教育は桂花に任せるつもりでいたから丁度いいわ」

「はぁ。成る程、そういったわけでしたか」

 

 得心して眉を開いた春蘭より明るい声が聞こえてくる。二人がそんなやり取りをしている間に拓実は拓実で少しばかり考えていた。知らない名が華琳から発されたことである。

 今出てきた名前――華琳が重用しているらしい軍師の桂花と、親衛隊だという季衣。これらの名が真名であろうことはわかるのだけれど、三国志でいうところの誰なのだろうかというものである。魏で有名な軍師とすれば荀彧や郭嘉、賈駆あたりが浮かぶけれども、候補が多すぎて拓実には絞れない。もう一人に至ってはわかっているのは親衛隊というだけである。せめて隊長の役職ということであったなら許緒がそうだった覚えが拓実にはあるが、華琳の口から出てきた名前だからといって必ずしも拓実が知っているような有名な武将ではないかもしれない。

 いくら考えたところで答えが出てくる筈もないので、拓実は諦めて顔を上げた。

 

「それに直ぐ知ることになるとはいえ、拓実のことを誤って口外してしまいそうな者を急いで二つに増やす必要はないわ。あの子は純真だから本質的に隠し事は向いていないでしょうしね」

 

 そう言いながら意味ありげに、目の前で跪く三人を流し見る華琳。彼女の言う『誤って口外してしまいそうな要素』だが、拓実や秋蘭にはその一人目が誰を指したものであったかわかっているから敢えて誰とは言わない。

 拓実と秋蘭の視線が残る一人に集まる。ただ、口に出さずにこうして見つめるだけだ。どうやらその者は考え込んでいて、二人の視線には気がついていない。

 

「二つ、と言うことはだ。既に知っている者の中にも一人、口の軽い不届き者がいるのですか。……なるほど! さすがは華琳さまです」

 

 件の人物は遅れてようやく華琳の言葉の意味を理解したようで、辺りをキョロキョロと見回していた。視線を華琳、拓実、秋蘭へと向けた後、何かに気づいたように拓実にまた戻し、まるで全て理解したかのような口振りで華琳を褒め称える。そして何故か、拓実にこそこそと近寄ってきた。

 

「おい拓実、充分に気をつけるんだぞ? 華琳さまはお優しいから大きな声で注意を促すことはしなかったが、お前は何だかんだで抜けているところがあるからな」

「……」

 

 そんな春蘭を、拓実は華琳の演技をすることも忘れて呆然と見つめ返してしまった。正に絶句というやつである。この人は何を言っているのだろうか、そんな考えで拓実の頭の中は敷き詰められてしまっていた。

 

「なんだ? ど、どうした私のことをじっと見つめたりして、照れるじゃないか。駄目だぞ、いくらお前が華琳さまに似ているからといって、そうそう簡単に私が(なび)くと思うな。私は華琳さま一筋なのだからな」

 

 この言葉で拓実は、春蘭はおバカという単純な言葉で言い表せないことを知る。その季衣という子と同じで、きっとどうしようもなく純真なのだ。この春蘭という娘は。

 知らず拓実は微笑んで、こちらに耳打ちするようにしている春蘭の頭を撫でていた。拓実の頭の中にはペットを飼っている者がよく使う例の言葉が思い浮かんでいる。『バカな子ほど可愛い』というやつである。

 

「な、何をするかっ! そんな顔をして私の頭を撫でるのではない! ……む? 秋蘭までどうしたのだ? あれ? 華琳さま?」

 

 そんな姉を慈しむように見ているのは秋蘭。華琳だって口元に笑みを浮かべていた。春蘭はそんな周囲の様子に驚いているようだが、そのうろたえる様子すらもいとおしく見える。愛されているんだな、と言われずとも拓実は理解できた。

 

「それじゃ拓実、行くわよ。私についてきなさい。桂花には備蓄確認の書類を任せておいたから、今頃は部屋でまとめて終えている頃よ」

「ええ」

 

 言うなり、華琳は謁見の間の入り口へと歩いていく。拓実は、出来ることならこのまま春蘭の頭を撫で、飽きるまでうろたえる様子でも眺めていたい気もしていたが、その欲求を何とか断ち切って華琳に続いた。

 

「ほら、我々も行くぞ姉者。遅れるなよ」

「う、うむ」

 

 戸惑いを隠せない様子の春蘭だが、とりあえず考えることをやめて先に続く三人へ追いすがった。

 拓実が華琳に従って歩いていると、後ろの会話が聞こえてきた。こそこそ話しているつもりなのだろうが、春蘭の声は大きくて、どうしたって拓実にも聞こえてきてしまう。

 

「なぁ秋蘭。何故、私は優しく見守られていたのだ? 何ら心当たりがないのだが、知らずに何かしていただろうか」

「言うな姉者。姉者は気にせず、そのままでいいさ」

「む、そうか?」

 

 二言三言の会話であったが、拓実はそれを聞いて優しい気持ちになれた。

 

 

 

 

 程なくして、目的地に着いたらしい。歩いているうちに気づいたが、昨夜拓実が借りた部屋の直ぐ近くであった。

 部屋まであと十数歩ほど、というところで華琳がおもむろに足を止める。続く三人も倣って立ち止まることになった。

 

「あの部屋に桂花はいる筈なのだけれど……しかし私と拓実の二人がいながら、ただ顔会わせするというのもあまりに芸がないわね」

 

 顔合わせに芸は必要ないのではないかと拓実は思ったものだが、同時に華琳の性格からそう考えるのも無理はないことを理解していたので口は挟まない。

 基本的に華琳は面白いものが好きなのである。こんな面白くなりそうな状況にあって何もしないとはむしろ考えにくい。

 

「はいっ、華琳さま! この春蘭めに名案がございます!」

「期待はしていないけど……言って御覧なさい」

「はっ! まず私と拓実が一緒に桂花の部屋へと入室し、仲睦まじくしているところを見せ付けてやります。当然桂花の奴は悔しがって、泣いて拓実にすがりつくことでしょう。『捨てないでー、華琳さまー』とでも言うかもしれません。それも、愚かなことに拓実が華琳さまでないとは知らずにです。しかる後に、桂花が拓実にしがみついている間に、華琳さまに部屋に入室していただくのです。あやつは混乱し、後から入ってきた華琳さまをきっと偽者と断じることでしょう。そして皆でそれを大笑いしてやるのです! 己の主君もわからぬ不忠者め、と! これならば、間違いなく桂花の奴に一泡吹かせることができましょう!」

 

 それは聞いていた拓実が、春蘭はその桂花に恨みでもあるのではないかと邪推してしまうぐらいに、意地の悪い案であった。いつの間にか面白おかしい顔合わせをするということから、桂花なる人物に一泡吹かせることへと主旨が変わっている。いや、その慌てふためく桂花が面白いものであったなら変わってはいないのだろうか?

 だが春蘭らしく細かなところの詰めは甘いが、彼女にしては良く出来た発案だ。しっかり順序立てて話すことが出来ていただけでも大したものである、というのはいささか侮りすぎであろうか。

 

「ふむ……なるほど」

 

 そんな希望的観測が含まれている案を華琳が採用するとは思えなかったが、何故か華琳はそれを吟味しているようである。てっきり一言で切って捨てるものと思っていた拓実は、思わず華琳を凝視してしまう。

 

「悪くないわね……いいわ。春蘭の案でいきましょうか」

「ほ、本当ですか華琳さま! 私の献策を採用してくださるだなんて、光栄でございます!」

 

 感激に咽び泣く春蘭を置いて、拓実は華琳に近づいた。いくらなんでも、これは止めさせないといけないと思ったからだ。

 

「華琳、あなた本当にそんな案で私の顔合わせをするつもりなの? 私とだけでなく、春蘭とのその者の関係がこじれても知らないわよ」

「わかっているわよ。拓実、少し耳を貸しなさい。今の春蘭の案に、少しだけ変更を入れるから」

 

 流石に何も考えていないわけではなかったか。拓実は少し安心し、華琳から耳打ちされた内容を聞いてかなりの後悔をした。

 

 

 

 

 

 桂花は自室にて、陳留の街における兵糧や武具、資金等々の備蓄数を調べ直し、合算し、一つの竹簡に書き留めているところであった。

 既に、新たに華琳が統治を任された他の街の備蓄は調べ終え、竹簡にまとめて終えてある。最後に以前よりまとめてあったという陳留の調査書と合わせて報告しようと見直していると、その竹簡に間違いを発見したのだった。

 

 華琳が州牧となって間もなく、同時に桂花が華琳の下に軍師として務めてから一月とも経っていない。

 以前から桂花がいれば国勢の調査など手抜かりなく出来ていただろうが、今までの文官に突出している者がいなかった為に調査が行き届いていなかったところがあった。それを見つける度に、こうして桂花がその空いていた穴を埋めることになっているのだ。

 

「陳留の調査をまとめていたのは、記憶違いでなければあの河馬のような下劣な顔の男だったわね。記憶に残しておきたくなんてなかったけど。これだから男は駄目なのよ。こんないい加減な仕事をするなんて、低脳で、下品で、脳味噌に()が入ってるとしか思えない。いいえ、もしかしたら空っぽなのかも。ああ、やだやだ」

 

 ぶつくさと文句を言いながらも、桂花の手は止まることがない。そして、程なくして竹簡に全ての情報を書き終えた。苛々をぶつけるようにして筆を置くと、竹簡の墨を乾かすためにそのままに、寝台に腰を下ろす。

 

「こんなことばかりに時間を取られて、ここ最近は華琳様にお会いできるのも朝にお仕事を頂く時とその報告をする時だけ。はぁ……早く墨、乾かないかしら。そうしたらすぐにでも華琳様の下へ報告に伺うというのに」

 

 ぼんやりと書き終えたばかりの竹簡を眺める。あれが充分に乾くまで、一刻は必要だろう。いつもの桂花であるならこの時間を使って次の仕事の準備に取り掛かっていたが、どうした訳かそんな気が起きない。今桂花は、空っぽだった。華琳に会ってからでなければ、仕事をする元気が湧いてきそうにない。

 

「――桂花、ちょっといいかしら?」

 

 桂花が無気力に寝台に倒れた、そんな時だった。求めている人の声が、自室の外から聞こえたのは。

 

「か、華琳様でございますか!?」

 

 桂花はすかさずに、寝台から飛び起きていた。走り出しそうになる足を叱咤して、極力慌てていないよう取り繕った足取りで扉へと向かう。

 

 

「華琳さまっ」

 

 扉を開けた先には、桂花が渇望していた姿があった。凛とした佇まい。桂花が見てきた誰よりも気高い、意志の籠もった瞳。覇王の証明たる覇気を秘めているだろう、自身とそう変わらない小柄な体躯。いつもと服装がいくつか違うが、声も姿もその気品も、桂花の知る華琳以外の誰でもなかった。

 思わず蕩けそうな笑顔を浮かべかけた桂花であったが、その後ろに控えていた人物を見て一気に不機嫌になる。

 

「何であんたが華琳様と一緒にいるのよ、脳筋女」

「ぐっ、誰が脳、むっ、ぎぎ。か、華琳さまに、ついてこいと言われたのだ! ……ふ、ふふふ。お、愚か者め。そう言っていられるのも今のうちだ」

 

 第一声から侮蔑された春蘭は、逆上しかかったようだったが、すんでのところで持ち直したようだ。その後何やら笑いながらぶつぶつと言っているのだが、あの春蘭が挑発に乗らなかったことと合わせ、桂花の目にはさらに異様に映る。

 

「何ぶつぶつ言ってるのよ、気持ち悪いわね。どんな考えで無理しているか知らないし、知る気もないけれど、あんたは猪なのだから余計なことを考えない方がいいわよ」

「こ、こいつっ、言わせておけばぁ!」

 

 そこまで言われてしまえば元々短気である春蘭だ。激情に任せ、桂花に向かって飛び掛かろうと身を乗り出した。

 

「ああもう、少し黙りなさい貴女達。春蘭も、ここに来た目的を忘れないで欲しいわね。それで桂花、こんなところで私に立ち話をさせるつもりなのかしら」

 

 春蘭を止めたのは、華琳であった。呆れた様子で、そんな二人を見ている。

 視線を受けた桂花は慌てて、深く頭を下げた。会いたいと思っていた相手がこうしてわざわざ出向いてくれたというのに、他の者とばかり話をして時間を無駄にしてしまっていた。

 

「ああっ、申し訳ございません華琳様! 汚いところでございますが、よろしければどうぞお上がりください。……春蘭、入室は華琳様に免じて、仕方なく許してあげるけど、絶対に私と華琳様のお話は邪魔しないでよね」

「ぐっ、ぬぬぬ!」

 

 そうして、桂花は怒りで唸りを上げる春蘭を置いて、華琳を自室へと嬉々として招き入れる――それが桂花の知る華琳ではないことを知らずに。

 

 

「申し訳ありません、華琳様。言いつけられていた備蓄調査なのですが、前任者の河馬男が誤った書類を作っていたために、まとめ直すのに今の時間まで遅れてしまいました。書類の方は書き上げてありますが、まだ墨が乾いておりませんので後ほどまた伺わせて頂きます」

 

 桂花の部屋に入室して、華琳が目を留めていたのは机の上の開かれた竹簡と、いくつかのその束だった。仕事の報告を受けに出向いてくださったのだと考えた桂花は、申し訳なさそうに頭を下げて釈明する。

 

「そう、わかったわ。報告はその時に一緒にして頂戴」

「恐縮にございます」

 

 同時に、後で構わないと言われて、また華琳と会うことが出来ると思い至った桂花は頬を緩めていた。つい先ほどまで会いたくとも会えないことに沈んでいたが、会う機会が増えるとなれば機嫌も直るというものだ。

 何故か、華琳の後ろに控えている春蘭が笑いを堪えているのが癪に触るが、邪魔はしていないようなので捨て置くことにする。

 

「それで、本日はどのような御用向きでしょうか? 私に出来ることならば誠心誠意手を尽くしますが、備蓄調査については今しばらくお待ちくださると……」

「それなのだけれど――春蘭」

「はっ!」

 

 声を掛けられて、後ろで控えていた春蘭が、すっ、とその横に並ぶ。そして華琳に向き直って跪き、目を瞑った。

 

 いったい何を、と目で追っていた桂花は、思わず自身の目を疑った。そんな春蘭を、華琳は突然に熱に浮かされたように、うっとりと目を細めて眺めているのだ。

 差し出した左手で、跪いている春蘭の頬の輪郭をゆるりと、いとおしくなぞっていく。そのまま下ろしていき、顎まで手が掛かると、それをくい、と優しく持ち上げた。

 そして、艶々とした春蘭の下唇を、その親指で優しく撫でさする。じわじわと目に見えるほどの速度で、春蘭の頬が赤で染まっていった。びくりと体を震わせ、まぶたをひくつかせる春蘭を見て、華琳は淫靡に口元を歪めていく。

 

「か、華琳様!? あの、何をなさって……?」

 

 それを目の当たりにしている桂花は、まったく訳がわからなかった。政務の跡が残る桂花の部屋に、どうして閨に呼ばれた時のような空気が蔓延しているのか。華琳が他の娘に寵愛を与えていることは知っている。自身がその内の一人でしかないことだってそうだ。しかし、何故それを目前で、それも他の娘と戯れる姿を見せ付けられているのか。

 桂花は咄嗟に自身に至らぬことがなかったか振り返る。――ない、はずだ。桂花が軍師に任命されるきっかけとなった遠征で、兵糧が僅かに不足した不手際はしっかりとお仕置きされていたし、それからは目立った失敗だってしていない。むしろ先日には、よくやったとの言葉を直々に賜ったばかりである。最近構ってもらえないので、小さなところでわざと見落としを作り、華琳からお仕置きを受けようかと画策を始めていたぐらいだ。

 

「春蘭、目を開けなさい」

「はいっ」

 

 そんなことを桂花が考えている間にも、突然始まった華琳と春蘭の戯れは進んでいる。

 春蘭は華琳に言われて、素直にぱっと目を見開いてみせる。開いた目は、潤んでいた。熱っぽく華琳を見上げている。その目がふと横に呆然と立つ、桂花へと向いてみせた。

 ――勝ち誇っている。

 桂花は、ぐっと唇を噛んだ。こちらを見下している春蘭を、全力で睨み返した。何だか知りはしないが、この状態は間違いなく春蘭が絡んでいて、桂花にそれを見せ付ける為に作られている。何故華琳がそんな企てに乗ったかは知らないが、春蘭は桂花を馬鹿にしにきているのだ。わざわざ、桂花の部屋に乗り込んでまで。

 

「どうしたの桂花。もしや嫉妬でもしているのかしら?」

「そ、それは……」

 

 桂花が春蘭を睨みつけていたことに気がつき、華琳より声がかかった。

 しかし、桂花には答えられない。答えたくはない。嫉妬していると認めてしまえば、春蘭の思うとおりに事が運んでいることを示してしまう。春蘭に、負けを認めてしまう気がしていたからだ。

 

「桂花。この私が聞いているのよ、答えなさい」

「ぅ、はい……。嫉妬、しています」

 

 それも、敬愛する華琳に命令されてしまえば自身の意思など関係がなかった。ぶるぶると、桂花の体は震わせながらも、自身の心情を吐露する。最早、堪えきれずに、桂花の瞳は涙で濡れていた。

 責があるのならば、言ってもらえれば受け入れた。もしあるというのなら教えて欲しかった。新参とはいえ他人の倍以上の仕事をしている自負がある。何故、そんな自分がこんな惨めな目を合わされているのか。嫉妬ではない。春蘭への、怒りや、悔しさが桂花の体を震わせていた。

 

「そう……」

 

 桂花の言葉を聞き、震えているのを見た華琳はそれだけを言うと、春蘭から手を離した。「ぁ……」と春蘭が小さく漏らした声が、桂花の耳に届く。

 これ以上、何を見せ付けられるのだろうと、桂花は目を思い切り瞑った。もうこれで、桂花には目の前で何が起こっているかなどわからない。

 ふら、と体が揺れて、腰から砕ける。ぺたんと、床に座り込んでしまった。酸素が足りていない。頭がくらくらしている。桂花はこのまま全てを放って、気絶してしまいたい衝動に駆られていた。

 

「まったく、仕方がないわね」

「……えっ?」

 

 ぎゅう、と体が圧迫された感触にびっくりして、桂花はまぶたを開いた。桂花はそうしてようやく、華琳に抱きしめられていることに気づけた。

 泣いた子をあやすように華琳に抱かれたまま、髪に手櫛を通すように頭を撫でられる。桂花が訳も分からずきょろきょろと視線を惑わせていると、華琳の肩越しに驚愕に目を見開いた春蘭が見えた。

 

「ふふ、桂花ったら、本当に可愛い子。今日は貴女を可愛がろうと思って訪ねて来たのよ」

「かっ、華琳さま!? これでは、当初と話が……」

「お黙りなさい! 春蘭、貴女とは話をしていないわ!」

 

 その華琳の剣幕に、声を上げかけた春蘭はびくっ、と身を竦めた。気勢を削がれ、声もすっかり小さくなった春蘭はその後も必死に気を引こうと呼びかけているが、華琳は一切を聞き届けない。

 そして桂花もまた、そんな春蘭の声(ざつおん)など聞こえていない。頭の中にはずっと先の華琳の言葉だけが響いていた。ぼう、と頬を染めて、自身に向き直る華琳の顔ばかりを見つめていて、春蘭などは眼中にすら入っていない。

 

「あの、華琳様、それって……?」

「ええ。春蘭には飽きてしまった。これからはずっと貴女に付き合ってもらうことになるのだから、もういらないわ。その代わり、覚悟を決めなさい。私は貴女を決して離したりはしないわよ?」

「あ……は、はいっ! 髪の毛からつま先に至るまで、私は全て、華琳様のものですから!」

 

 花が開いていくように桂花の笑顔が咲いた。直前の嫌な、どん底だった気持ちは吹き飛んで、桂花はもはや天上にいるかの如き幸福を味わっていた。

 ――桂花の精神がまともな状態であれば、流石にこの展開のおかしさに気がついただろう。しかし、直前に華琳と春蘭の絡みを見て落ち込み、春蘭に見下され怒り、そして急激に華琳に優しくされて彼女の思考回路は半ば停止してしまっている。

 

「ちょ、ちょっと待っ……。飽きてしまった? い、いらない? な、何だ、この喪失感は? 華琳さまが言った訳ではないだろう! それに桂花が抱きつかれているのは、華琳さまではなく、拓実だ。何故私が、それを見て悔しい思いをせねばならんのだ! いや待て。あれは……た、拓実だよな? 拓実? ……本当に拓実なのか?」

 

 向こうには肩を落とし、茫然自失という様子の春蘭が抱き合う二人の方向を眺めている。しかし、正しくは視界に入っておらず、必死に自身の気持ちに整理をつけているようだった。

 

「華琳様、あの、私もう……」

 

 もじもじと自身のかぼちゃパンツを握り締め、必死な様子で華琳の腕の中から熱い視線を送る桂花。いや、熱いのは視線だけではなくその吐息もだし、真っ赤にさせた顔も興奮により随分熱くなっているだろう。それらが何を示しているのか、華琳にもわかっている。桂花がどうして欲しいのかも、なんとなくわかった。

 

「動かないで」

 

 こんな風に耳元で囁き、桂花の動きを止めることに成功したが、しかし華琳にもこれ以上進む余地はなく、動けなかった。

 いや、ここから先、華琳の演技を続けることは出来ない以上は華琳などではなく拓実と呼ぶべきか。ともかく拓実は未体験のことまで上手く演技できる自信はなかった。それに、たとえ出来たとしても絶対にやらないだろう。

 そうしてどうしていいかわからなくなった拓実は桂花を抱きしめたまま、石のように固まることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

「桂花、失礼するわよ」

 

 入り口から中を伺っていた華琳が形だけの声をかけて入室してくる。つかつかと我が物顔で歩く華琳の後ろには、秋蘭が控えていた。そうして中を見渡し、膝を突いて涙を流している春蘭の姿を見つけた華琳は、拓実がどうやら上手くやったことを知った。

 

 華琳は春蘭に知らせずに演技内容の変更したものの、その大筋自体は変えていない。拓実に命じたのは、『春蘭が調子に乗り出したら、春蘭を手酷く捨てて桂花にくっつけ』である。

 どちらもどちらではあったが、春蘭と桂花との間には衝突が多かった。この前などついに、口論で完膚なきまでに叩きのめされた春蘭が城の中で剣を抜くという事態にまで陥っている。その時は騒ぎを聞いて駆けつけた華琳がとりなして事無きを得たが、下手をしたら両者を失うことになっていたかもしれなかったのだ。

 華琳自身のことで争っているのだろうが、それでもやりすぎである。こんな意地の悪い案を言い出した春蘭も、気に入らない相手に会うなり侮辱する桂花も、そんな二人が争うことも調和を乱す原因でしかない。そうして華琳は、一度、両者共に痛い目に合わせるべきだと考えていたのだ。

 

 拓実の演技力もあり春蘭は華琳に言われたかのように傷心したようであるし、今幸せに浸っている桂花には拓実という別人に抱きついていることわからせて両者の均衡を取るつもりである。

 結果としては上々。残るは、桂花に事情を話して、華琳の立てた計画を締めるだけである。そうして華琳が抱き合う二人のところまで歩み寄っていくと、恍惚とした表情で目を瞑っている桂花に声を掛ける。

 

「桂花。こちらを向きなさい」

「ああ、華琳様。桂花めは大陸一の幸せ者でございます」

「桂花……?」

「うふふ、大丈夫です。私は未来永劫、華琳様に従っていきます。貴女様から一時たりとも離れたりなど致しません」

 

 何度か華琳は呼びかけるも、一向にこちらに振り向く様子はない。それどころか目は瞑ったまま、口はだらしなく緩められ、もどかしそうに拓実に身体をこすりつけている。

 横に控えていた秋蘭も声をかけてみるが反応はなく、そんな桂花の惚けた顔を覗き込んでから華琳へと振り向いた。

 

「華琳様。もしや桂花は……」

「ええ、この私の声ですらも届いてはいないようね……」

 

 華琳もまさか、ここまでのことになるとは思っていなかった。己が声をかければ、流石に正気を取り戻すと踏んでいたのだが、桂花は常人には到達の出来ない幸せな世界へと旅立ってしまったようである。

 驚くべきはそう詳しくも話してはいないというのに桂花の性格を捉えてみせた、拓実の人柄把握術だろうか。その本人はというと桂花に抱き返されて動けず、頬擦りされながらも困り果てた様子で華琳を見上げていた。

 

 



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6.『拓実、その正体を暴露するのこと』

 

 華琳と拓実が呼びかけることで桂花は何とか正気を取り戻したようだったが、しかし最初に見た光景が悪かった。よりにもよって左右から自身に向かって必死に呼びかけている、華琳と拓実の姿であったのだ。

 夢の続きとでも思ったか「華琳さまがお二人では、流石の桂花も体が持ちませぬ!」という嬉しい悲鳴らしきものを叫び残して倒れ、再び常世にはない桃源郷へと旅立っていってしまった。

 

「まさかこんなことになるだなんて。計算違いもいいところだわ」

 

 華琳は気を失って床に倒れている桂花を見下ろしてそう呟いた。いくら主君が突然に二人に増えたように見えたとしても、気絶するとは思わないだろう。拓実だってこんなことが現実にあるのかとびっくりしたものだ。

 

「とりあえず桂花は起きるまで放置。春蘭も自身で気がつくまでは放っておきましょう」

 

 一応、桂花については寝台に寝かせてあるが、もっと可哀想なことになっているのは茫然自失となっている春蘭だ。でかい図体をしていて邪魔だからという理由で部屋の隅に押しやられてしまったのである。

 『拓実は果たして拓実であるのか、だとしたら何故華琳ではないのか』という哲学的な疑問は一旦収束したらしく、独り言を聞くに『華琳に飽きられないためには』といういくらか前向きなものに変わっている。この分では復活も遠いことではないだろう。

 

「ところで拓実、訊いておきたいことがあるのだけれど。貴女には必然的に、私の影武者として表舞台に出ている以外のところでは変装してもらって別人物を演じてもらわなければならないわ。その辺りは大丈夫なの?」

 

 机に備え付けられた椅子に腰掛けた華琳に訊ねられて、拓実はしばし思案する。

 この華琳の質問は、華琳としてだけではなくその他の人物としても振舞えるのか、という意味だろうか。そういうことならば、素の南雲拓実を選択肢から省いたとしても、現代の知り合いでも真似ればいいだろう。男の方は見た目や身長の面で少し厳しいかもしれないけれど、小柄な女性であればまず問題はない。拓実には、悲しいことではあるが。

 

「ええ、問題はないわ。演じろと言われたら、この私の理解の及ばない役柄でもなければ、演じてみせる。でも、ただの南雲拓実としての性格で充分、華琳と差別化が図れる気がするのだけれど」

「駄目よ、そのせっかくの才を腐らせておくには惜しいわ。普段から磨いておきなさい。……それはさて置いたとしても、私の顔で情けなくされることが何より我慢ならないの」

 

 それはつまり、南雲拓実のままでいることは無様であるから許されないということだ。そんな物言いをされた拓実は当然ながら面白くない。素の状態であれば気の弱さから苦笑いでも浮かべているところだが、演技をしている拓実は不機嫌さを隠さず、華琳を冷ややかに睨みつけている。

 物怖じせず真っ向から睨みつけてくる拓実を見て、華琳は笑みを浮かべる。この反応の違いこそが、演技をしていろと言われている所以(ゆえん)だと拓実本人は気づいていない。

 

「ならばそうね……例えばこの場の、私以外の人間の演技は出来る?」

「この場にいる、ね」

 

 拓実は部屋中を見渡した。この部屋にいる人物を一人一人眺めて、今まで得てきた情報を整理していく。

 

「演技をするには、役となる人物の意志と思想。さらに性格、仕草、口調等を把握してなければならないわ。そういった意味では、この場にいる人物はある程度把握している。その中でも、春蘭が一番揃っているのだけれど」

 

 言って、まだ隅で落ち込んでいる春蘭を見やる。まだ帰ってきてはいないようだ。

 今まで一番拓実と話していたのは春蘭であるし、彼女は裏表なく性格を出している。拓実は今演技をしている華琳よりも春蘭の方が多くを知っていると言えるかもしれない。

 だが、彼女は背が高く、スタイルもよく、綺麗な長い黒髪を持っている。背が低く、金髪であり、もちろん体に凹凸などありえない拓実の身体特徴とは離れすぎている。真似るだけならやれないこともないだろうが、長時間演じるというところまで考えると周りの反応やらで拓実が描いている春蘭像と自身に齟齬が出てきてしまうだろう。

 そういう意味では、同じく秋蘭を演じるのも体格の面で無理が出る。

 

「私の見た目と離れ過ぎた者を演じるとなれば、見る者に違和感を覚えさせてしまうかもしれない。容姿までを考慮するならば、眠っているその子になりきるのが一番やりやすいかもしれないわね」

 

 笑顔を浮かべ、安らかな寝息を立てている桂花を視線で示す。時折くすくすと笑い声を漏らして、何やら幸せそうである。

 髪色は華琳ほどの鮮やかな金ではなく、茶に近いようだがまだ見た目として許容範囲だ。髪の長さも、ウィッグを外し髪を解いた拓実と丁度同じぐらいの長さ。背だって拓実より僅かに高いぐらいで、そうは変わらない。

 不安要素はこの場にいる他の者と比べて、情報が圧倒的に不足していることだ。事前に華琳や春蘭、秋蘭から人となりを簡単に聞いていたとはいえ、会ってから十数分といったところでは理解が足りていない。性格や思想、口調などについてはそこそこの把握をしたが、仕草やふとした癖などはしばらく観察しないことにはさっぱりである。

 しかしそれでも桂花の人柄を目の前で見、実際に会話した拓実は、決して満足とはいえないものの、それらしく演じることが出来るだろうと考えた。

 

「そう……桂花にね。ならばやってみてもらいましょうか。秋蘭! この子と同じ服を見繕ってきなさい。流石に勝手に服を漁るのは不躾に過ぎるから、桂花の贔屓している店で買い揃えるように。大至急よ」

「はっ!」

 

 秋蘭は一つ礼をして部屋から出て行った。あまりに素早い秋蘭の初動に、拓実が止める間もない。廊下を覗いても既に角を曲がって、姿はないだろう。

 代わりに愉しげな笑みを浮かべて秋蘭の背を目で追っていた華琳に対し、声を上げた。

 

「華琳、ちょっと待ちなさい。今この場で、私にこの子の演技をさせるつもりなの? この子が起きて、事情を説明してからでも遅くはないでしょう。私が演技している時に起きてしまったらどうするつもりよ」

「あら。私の姿をしていても、謁見のような時でもなければ性質までは似ないのかしらね。貴女は桂花のこと、いじめてあげたいと思わないの? 私の姿であればあの子は喜ぶわよ」

「……そう、この子のことを追い込むつもりなのね。誤解しているようだから言っておくけれど、他人をいじめてやりたいだなんて、少なくても南雲拓実として思ったことはないわ。先ほども泣いているこの子が可哀想になって、つい華琳にしては過度に慰めてしまったぐらいだもの」

「まぁ、それについてはいいわ。私とまったく同じではそれこそ面白くはないのだし」

 

 愉しみを共有できないことを意外そうに呟く華琳に、拓実は渋面を返した。趣味が悪いとは華琳のような者を指して言う言葉だろう。

 拓実に向けて口の端を吊り上げた華琳は、寝台で眠っている桂花を見やって目を細めた。

 

「私はね、桂花が慌てふためく姿が見たいのよ。貴女に問いただされ、涙を流してる桂花を見て身体が興奮してしまうぐらいにはそういった姿が好きなの。そうね。そういえばあの時の拓実は実にいい仕事をしていたわ」

「ありがとう、と言っていいものかしら。あんな不意打ちみたいな真似、好ましくは思えないけれど」

 

 やんわりと批判した程度では華琳がこういった言動を改めることはないだろう。拓実は早々に諦め、息を吐いた。何だかんだと抗弁してみたのだが、結果的には華琳の言うことには逆らえそうにもない。今もそうだし、今までもそうだった。

 考えてみれば、演技をしている時に桂花の真名を呼ばされていたのだってそうである。『華琳の真名を預かる者たちは、互いを真名で呼び合うという決まりがある』という話を聞いて一応は納得はしたのだが、それだってあんな目に合わされた桂花が浮かばれない。いや、華琳に命令されたとはいえ実行したのは拓実である。どの口がそれを言うかと言われればそれまでであるし、やってしまったことへの責任はあまりに大きい。

 桂花が起きたならまず詫びなければならないなと考え、華琳に倣って寝台に眠る彼女を見た。

 

 

「そういえば先の言葉で少し気になったところがあるのだけど。春蘭にはいまいちなりきれないと言っていたけれど、その口振りから察するに、出来ないわけではないのね?」

 

 秋蘭が戻ってくるまで手持ち無沙汰であったので華琳より桂花の普段の振る舞いなどを聞いていたのだが、春蘭との不仲を語っていた華琳が思い出したようにそんなことを訊ねてきた。

 

「まぁ、出来なくはないわね。必要であるというならば演じるわ。ただ私の体躯と容姿でやっても似合わないと自覚できてしまうから、あんまり気が入らないのよ」

「それじゃ、ちょっとやってごらんなさいな。秋蘭が帰ってくるまで時間もあることだし、私が採点してあげるから」

「……構わないけれど、少しだけよ。似せられるのは口調ぐらいのものでしょうけど。あと、似てないからといって笑ったりはしないように」

「いいから。決して笑ったりしないから、さっさとやってみなさい」

 

 この暴君め、と内心で悪態をつきつつも拓実は準備に入ることにした。直前で桂花のことを反省していたが、それでもやっぱり、華琳に言われると拓実は逆らえそうにないのだった。

 

「あー、ああー。アーアー」

 

 拓実は背筋を伸ばし、発声練習をするように音程と声質を変えていく。近い音程を見つけると、声の出し方を変えて春蘭のものに近づけていく。あまり出した類の声ではないので、あっちにいって、こっちにいって、ようやくそれっぽいところを見つけ出す。

 やはり華琳ほどには似そうにはないが、何とかコツをつかめてきた気がする。喉奥に引っ掛けて、腹から出すような厚く艶のある声の出し方だ。これが自身の出せる声では一番近い。本当ならば最後に調整をかけて、練習して声の出し方を固定すべきなのだが、今はそんな時間がない。

 

「ふむ。とりあえずは、こんなものか……」

 

 実際に声に出してみて、これならば似ていないとも言えないぐらいの完成度だろうと推察する。自身が聞こえている声と他人が聞く声ではどうしても差異が出てしまうので、ある程度の誤差は許容するしかない。後は口調と抑揚を極力真似れば、多少の声質の違いはカバーできる。

 

 準備を終えた拓実は、何だかんだで楽しみに待っている様子の華琳へと振り向いた。演じるイメージは『ご主人様、大好き!(図体のでかいおバカな犬)』だ。

 ……拓実もそれはどうかと思うが、春蘭の行動理念が大体そんなものなのだから致し方ない。それを自身の表層に敷き詰めていく。

 

「貴女さまの第一の臣下、春蘭にございまするっ! どうでしょうか、華琳さまっ!」

「くっ、そ、そうね。かなり似ている……わ」

 

 面食らった、という様子の華琳は少し言葉を途切れさせながらも返事を返した。だがこうした状態では至極真面目に返答しようと思えば思うほどに、決壊は早まるものである。

 

「そう言って頂けて、この春蘭、身に余る光栄にございますっ。ええと、採点していただけるとの事でしたが、いかほどの点数をいただけるのでしょうか?」

「く、くくっ、ふっ、……わ、わかったからもういいわ。やめなさい」

「か、華琳さまぁ~! 酷いですよぅ! しっかり笑っていらっしゃるではございませんか! 決して笑ったりはしないと仰ってくださったのに……」

「そ、その声も、だから、やめてと、ふ、ふふ、だ、だって、今まで私の姿で私の声が出ていたのに、そこから何故春蘭に似た声が……どう考えてもおかしい、でしょう? くっ、くぅ! もう、駄目。あはっ、あははははははっ!」

 

 そう言って、目じりに涙を溜めながら口を開けて大笑いする華琳。必死に顔を背けるが、笑い声までは隠せない。

 これは断言できる。間違いなく珍しい物だ。日本でつちのこを見つけるぐらいには。

 

「な、なに、何に、何をやっておるか、拓実ィーー!」

 

 華琳が大笑いする中、顔を真っ赤にして拓実に詰め寄ってきたのは、今拓実が演じている春蘭本人であった。どうやら、自身に似た声が聞こえたことが呼び水になって、現実世界への復帰となったらしい。

 

「おお、春蘭ではないか! 無事に帰ってこれたのだな。こいつめ、この私に心配などかけさせおって!」

「いいから、即刻その私の真似をやめんか、きさまっ! いいや、そもそもだ。私はそんな喋り方などしておらんっ」

 

 そう言い切る春蘭ではあるが、本当に似ていなければ侮辱しているとして問答無用の拳骨を拓実へ飛ばしていただろう。似ているとわかってしまうからこそ、こうして春蘭は顔面を羞恥で真っ赤に染め上げている。

 

「いいえ、充分に似ているわよ。拓実の演技には七十点をあげましょう」

「そ、そんなぁ、華琳さまぁ……」

「ほうれ、見ろ。華琳さまがそう仰っておるのだ。きさまも素直に認めんか」

「た、拓実! こいつめっ!」

「……春蘭が、春蘭に(たしな)められているわ。……くくっ」

 

 どうやらまだ笑いの波が収まりきっていないらしい華琳は、点数を告げるなり顔を背けてしまった。情けなく声を上げ、揶揄するような拓実の声に怒りを覚えていた様子の春蘭ではあったが、そんな華琳を見るなりに笑顔を浮かべている。

 長らく華琳に仕えた春蘭であっても華琳がこんな笑い方をするのを見たことがなかったらしく、自身が笑いの種になっていようとなんだかんだで嬉しく感じているようだった。

 

 

 

 

 

「華琳様、お待たせいたしました。店主に同じものを揃えるよう申しつけ、実際に私も確認致しましたが間違いはありません」

「……そう、ご苦労様」

「いえ……?」

 

 竹かごに華琳に頼まれた桂花と同じ衣服を入れ、急ぎ戻ってきた秋蘭が見たのは、何だか不機嫌そうな華琳だった。いや、不機嫌とも違う。居心地が悪い、といった類のものだろうか。秋蘭がいない間に、何かがあったらしい。そしてその理由はどうやら拓実と、いつこの現世に戻ってきたのか春蘭にあるようだ。

 

「ところで、どうしたのだ。姉者、拓実と二人して嬉しそうに笑みなどを浮かべたりして」

 

 何故そう秋蘭がそう思ったかというのも、先ほどから嬉しそうににこにこと笑う拓実と春蘭の姿があったからだ。部屋の雰囲気から、華琳が居心地悪そうにしているのはこの二人が原因だと思うのだが、その理由というのが皆目見当もつかない。

 服の詰まった竹かごを床へと置いてから、この疑問を解消すべく、秋蘭は二人に声をかけた。

 

「む? 何でもないぞ秋蘭。なぁ、拓実」

「うむ。何でもないから秋蘭は気にしなくてもいいのだぞ」

 

 二つの声を聞き届けた瞬間、秋蘭は抗えずに、ぶっ、と思わず肺の中の空気を噴き出していた。拓実の姿から、あまりに似合わない声が発されたからだ。

 一つ目はいい。春蘭が言ったものであるだからどうということもない。笑みの理由を話してくれなかったことが秋蘭には少し寂しかったが、春蘭がそう言うのなら否はない。

 だが、続いての二つ目。拓実から返ってきた声と科白は想像もしていなかったものだったのだ。春蘭の声にしては安定感が足りていないし、声質も少し違う。それに少し高いようにも聞こえたが、その抑揚といい言葉遣いといい、直前に聞こえた声を想像するにはあまりに容易かった。

 つまり、敬愛する華琳の姿から、親愛している春蘭の声が聞こえてくるという、かなりおかしな状況であったのだ。

 

「げほっ、ごほ。……なぁ、拓実。どういった経緯で姉者の真似をしているかは知らんのだが、出来ればやめてもらえないだろうか。どうも心臓に悪い。このままでは私は早死にすることになる」

「そうね。もう華琳も充分に満足してくれたでしょうから、構わないでしょう」

 

 「ね?」と拓実が意地の悪い笑みで問い掛けると、華琳はふんっ、とそっぽを向いた。拓実にはその子供のような仕草が可愛らしく見えたのか、華琳にわからぬよう小さく笑みを浮かべていた。

 ――どうやら華琳は、自身が盛大に笑っていたことを他人に見られたことがもの凄い失態であったと考えている様子だった。しかし自身から拓実に言ったことであるために、嬉しそうにこちらを見る二人を叱り飛ばすこともできなかったようである。

 

「まぁ、いいわ。華琳、私はこれに着替えればいいのでしょう」

「そうよ。さっさとしなさい」

「はいはい。まったく。ここに来てからというもの、色々な人の演技をさせられるわね」

 

 そう文句を言いながら拓実は竹かごを掴み、着替えるために昨夜泊まった部屋へと場所を移す為に歩き始める。そんな二人の遣り取りを見ていた秋蘭は、拓実と華琳が主従ではなく、友人であるかのように見えていた。

 

 

 

 

「あ……私……?」

 

 いざ拓実が部屋を出る、という時に寝台の方から声が聞こえてきた。部屋から出ようとしていた拓実は(すんで)のところで立ち止まる。

 

「……桂花ったらもう起きてしまったのね」

 

 残念そうに呟く華琳。拓実が振り返ると、桂花が上体を起こそうとしているところであった。周りに人がいることに気づいていないのか、何やら額に手を当てて俯き、何事かを呟いている。

 

「私、確か、備蓄の調査を終えて、華琳様と春蘭が来て……そう、最後何故か華琳様が二人いて、いいえ、そんなことあるわけないもの。あれは、夢よ。ありえない。華琳様に会えないでいたからって、そんな馬鹿なこと……」

「あら、夢ではないわよ、桂花」

「え、華琳様ぁっ!? そんな、何故私の部屋に?」

 

 顔に手を当て記憶を整理し始める桂花に向かって、華琳は声を掛ける。記憶が混乱しているらしい桂花は、今自分がどうして気絶していたことも覚えていないようだった。ばっと寝台から起き上がり、すぐに華琳の姿を見つけると吃驚した表情を浮かべた。

 

「だから、夢ではないと言っているの。拓実、こちらへいらっしゃい」

「……ええ、わかったわ」

 

 同じ声色で発された言葉に、自然と桂花の視線が拓実へと向いた。そして驚愕に目を見開く。まさしくありえない者を見た目であった。

 

「華琳様が、二人……!? えっ、どういう……あの……」

「いいえ、華琳は私よ。この者は、今日より私の臣下に加わることになった南雲拓実という者」

「南雲拓実よ」

 

 拓実は静かに笑って、桂花を真っ向から見つめる。華琳にしか見えない拓実に見つめられ、桂花は僅かに頬を染めている。

 

「先ほどは悪かったわ。まさかああも大事になるとは思っていなかったの。言い訳するつもりはないけれど、貴女と春蘭に与える罰と華琳が言うものだから」

「あの、何を? ……えっ、もしや、私の部屋に、春蘭と共に訪れた華琳様は……?」

「私ではないわ。この子よ」

 

 拓実の謝罪の言葉から、桂花の明晰な頭脳は答えを導き出す。桂花の顔はその答えを否定して欲しいと書いてあって、声もまた縋りつくようなものであった。

 それを華琳は無情に切って落とした。瞬間、桂花はびくり、と震え、顔があっという間に蒼白になっていく。震える桂花を満足そうに眺めた華琳は、言葉を続けた。

 

「まぁ、桂花が間違えるのも仕方がないわ。この私でさえも驚かされたのだから。……いえ、謁見の間での拓実はこんなものではなかったか。私と気迫を拮抗させ、いざ首を落とされるという時でさえ私になりきっていたのだもの」

「く、首を、ですか!? それは、私の時のように恐らく落とされたりはしないだろうとわかっていたから……?」

「いいえ、あの時の私は間違いなく拓実の首を刎ねる気だったわ。その私の殺気を受けて一歩も退かないのだから、大したものよね」

 

 桂花は最早言葉もない。呆然と、ただ拓実を見ていた。またもその目はありえないというものであった。

 対して拓実は苦笑する他にない。拓実にしてもやろうと思ってやったことではなかったからだ。

 

「その後に色々とあって、この子を『もう一人の私』――影武者なる者として我が陣営に招き入れることになったわ。そしてこの子を有用に、十二分に使うには貴女の智が必要不可欠であったから顔合わせに来たという訳」

「『もう一人の、華琳様』、『影武者』……それはもしや」

「ええ。けれど大丈夫よ、貴女が危惧しているようにはならない。既に最上の秘匿として箝口令(かんこうれい)を敷いているわ。この子を知るのは、この場にいる者だけよ」

「そう、ですか。それならばいいのですが」

 

 ぽんぽんと一段飛ばしで会話が進んでいく。桂花の並外れた頭の回転の早さを、拓実は目の当たりにしていた。単語一つから華琳が思い描いていた拓実の使い方を推察してみせ、尚且つその問題点も突き止めていた。流石は荀彧の名を持つ少女、といったところであろうか。

 

「……わかりました。華琳様がそうまで仰るのであれば、この荀文若、力を惜しむ理由はございませぬ。つきましては、この方へ華琳様の名に恥じぬだけの教育を授けたいのですが、如何でございましょうか」

「ええ。私も内務面や軍略についての教育を任せるには、桂花をおいて他にいないと思っているわ。全力を以って事に当たりなさい」

「はっ! (つつし)んで拝命させていただきます」

 

 華琳へと頭を垂れた桂花は、そのまま拓実へと向き直った。

 

「それでは改めて名乗らせて頂きます。貴女様の教育を任されました、姓を荀、名を彧、字を文若と申します。どうか真名である桂花とお呼びください」

「……ええ。桂花。先ほど済ませたけど、改めて私からも名乗らせていただきましょうか。姓は南雲、名は拓実。真名はなく、持つ名はこの二つのみであるから、拓実と呼んで頂戴。それともう一つ。華琳に頼まれていたとはいえ貴女の真名を勝手に預かり、呼んでしまったこと。改めての謝罪をさせていただくわ」

「いいえっ! 華琳様が直々に認め、真名を預けたお方でありますので、貴女様が謝られることなど何もございません。あの、それでは、これより拓実様と呼ばせていただいてもよろしいでしょうか?」

「そ、それは構わないのだけれど……どうして桂花は私に向かって華琳を相手にするような言葉遣いをするのかしら」

 

 そう、先ほどから拓実は気になってしょうがなかった。それどころか、周囲で口を挟まず見守っていた春蘭、秋蘭も驚いた顔で桂花を見ている。

 何故だかは知らない。だが、桂花は華琳に接するように言葉遣いを選び、そして、華琳に向けるのと同じように慕情の瞳を向けてくる。拓実が華琳とは違う人物であると知れているのだから、そんな思慕の念を向けられる理由はない筈なのだが。

 

「華琳様が拓実様を指して『もう一人の私』としたことから、この桂花、正しくもう一人の華琳様として敬わせて頂きたく思います。私は華琳様を支えるためにお仕えしておりますので、それは当然のことにございます。ところで、あの……よろしければなのですが、今夜、先の華琳様との謁見のお話をお聞かせいただけないでしょうか?」

「ええ。話すことは構わないけれど」

「嬉しいです、拓実様っ!」

 

 この桂花の期待している目は、それだけではない。きっと済ませてはくれない。あの部屋の続きをするつもりなのが、ひしひしと、それほど身に痛いほどに伝わってくる。

 

「あら、このままでは桂花を拓実に取られてしまうわね。どうせなら私と拓実の二人で、桂花のことを可愛がってあげましょうか? 私も桂花の可愛い姿を見て昂ぶってしまっていることだし、『もう一人の私』である拓実の身体がどれだけ私と同じなのか、見ておきたいわ」

「は、はいっ! 是非、是非お願い致しますっ」

「ず、ずるいぞ桂花。華琳さま! 私もご一緒させていただきたいですっ!」

 

 桂花の言葉にたじろぐ拓実は、そこで華琳に言葉をかけられて、何か思考に(つか)えていたものが取れた気がした。

 

 そうだ、思えばおかしかった。春蘭から聞いて、華琳は同性愛の気があり、基本的に男を好まないと知っていたのだ。ならば何故、拓実はこんなにも華琳に買ってもらえているのだろうか。何故、拓実が閨に誘われるのだろうか。今こんなにも、熱い視線を向けられているのだろうか。

 ――――簡単な答えだ。華琳は、拓実が男であるなど露程にも思っていないのだ。

 

「か、華琳? 貴女、もしかして……」

 

 考えてみれば、拓実がそれについて華琳に言った覚えはない。春蘭、秋蘭が華琳に説明していたのもここに来た経緯ばかりで、拓実本人については真名がないことぐらいしか話してはいなかったと思う。

 

「……!? か、華琳様!!」

 

 拓実の呼びかけに僅かに遅れて、慌てて秋蘭が声を上げていた。恐らく、同じことに思い至ったのだろう。いや、拓実が男であると忘れていたのだろうか。ともかく拓実と同じく、今の今まで気がついていなかったようだ。

 

 それにしては事情を知っている春蘭が華琳や桂花と一緒に声を上げていたが、彼女は拓実にこうも言っていた。――「お前のことは男だとは思わん」と。春蘭は間違いなく、言葉通りに拓実が女であると思い込んでいる。拓実はそれについては自信があった。

 

「秋蘭、いきなり声を上げたりなんかしてどうしたの? ああ、貴女も一緒に混ざりたいのかしら? いいわよ、今日は特別、全員で楽しみましょう?」

「そうではなく! いえ、拓実のことなのですが、その……」

「拓実が? 拓実がいったいどうしたというの?」

 

 そこまで言って、秋蘭は口ごもる。冷や汗を流し、必死に言葉を探している。言い辛いのか。いや、絶対に言い辛いだろう。拓実だってそう思う。しかし、秋蘭がここまで言ってくれたのだ。ここで本人が出ないでどうするというのか。

 

「いいわよ、秋蘭。無理をしなくても、私から伝えるから。そうね。これについては、私の口からきちんと伝えておかないと」

 

 そう言ってから拓実は大きく息を吸い込んだ。目の前にはきょとんした様子の華琳と、すぐ側でいがみ合っている桂花と春蘭の姿。

 

「華琳。すっかり言ったつもりでいたのだけれど、実は私、男なのよ」

 

 瞬間、部屋の中のあらゆる音が消え、そこにいる者は拓実に顔を向けた姿勢で動きを止めた。

 時が、止まった気がした。

 

 



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7.『荀彧、拓実を嫌悪するのこと』

 

 拓実は意を決して声を上げたのだが、言ってからこそが本当に辛いものとなっていた。発言に対する反応が、一切ない。いっそ絶叫やら怒声でも上げられたほうがどれだけ楽であったか。拓実の心臓の音ばかり大きくなっていく。

 唯一動きがあるのは秋蘭であるが、どうやら彼女もこの雰囲気は好むものではないらしい。周りが一切身動きしないからこそ、一人だけ居辛そうにそわそわとしているのが拓実にはわかってしまう。

 

「ふふ、拓実ったらどうしたのよ。いきなりそんなこと言い出すものだからびっくりしてしまったじゃない」

「え?」

 

 突然に会得がいった様子になった華琳が声を上げた。怪訝な顔をしてはいるものの、そこに意外や驚愕といった色はない。至って華琳は平然としていた。そんな反応をされて逆に驚いたのは拓実である。

 その口振りから、拓実が男であったことなど以前より看破していたという発言にしか取れなかった。けれども、男である拓実を閨に誘うという事実とは繋がってくれない。相反しているそれらが拓実の混乱に拍車をかけている。

 もしや女の子だけが好きなのではなく女性的な顔つきであれば男でもいいのではないか、男嫌いらしい桂花をいじめる為ではないか、そもそも可愛がるというのが健全なものであったのではないか等々、拓実の頭の中に色んな考えが浮かんでは消えていく。しかし、そんな拓実の予想はどれも当たらなかったようだ。

 

「まったく、嫌だったならそう言ってくれていいのよ。貴女の主であるからといって強引に事を進める気などはないのだから、そんな突拍子のない空言を吐く必要なんてないわ。私は、貴女から望むようになってからでも全然構いはしない。それぐらいの器量は持ち合わせているもの」

「なるほど。全ッ然、わかっていなかっただけなのね。華琳は」

 

 真剣な、しかし可愛いものを見る目で拓実を見据えた華琳はこんなことを言ってのけたのだ。慈母の如き優しい笑みを浮かべている華琳がとんでもなく遠い存在に見えて、拓実は酷い眩暈を覚えている。

 駄目だった。華琳は拓実が女であると信じ切っている。美少女と噂される華琳は、その美貌を自負している。その自分とそっくりな拓実が男であるなど、想像の埒外なのだ。

 それでなくとも拓実の容姿と声をしていて、男であるということの方が一般的に見れば考えにくいことである。その拓実が女物の服を着ていたなら、十人が見れば十人が少女にしか見えないと答えるだろう。それは拓実にとって誠に遺憾なことではあったけれども、自覚していない訳ではなかった。

 

「……あの、華琳様。お気持ちは痛いほどにわかります。普段の拓実の様子から、その事実を知っていた私ですら今の今まで忘れていたぐらいなのですから。しかしながら今の拓実の言、偽りの類は含まれておりません。真実にございます」

 

 隣で秋蘭が跪いて、拓実に援護の声を上げてくれた。それ自体は確かに嬉しいのだが、拓実はその言葉を素直に喜べない。華琳に伝えていなかったことを忘れていたのではなく、拓実の性別を忘れていたとはっきり言われたのだ。拓実はなんとも複雑な表情を浮かべて、華琳に向けて頭を垂れている秋蘭を見つめてしまう。

 

「ちょっと、お待ちなさい。あなたたち二人は、本気でそれを言っているの?」

 

 真剣な顔を作り、気迫さえ込めて拓実と秋蘭を睨みつける。どうやら腹心として信頼している秋蘭までが口添えし、ようやく疑念を覚えさせるまでに至ったようである。

 華琳は秋蘭と拓実の二人を交互に見やり、華琳の気迫に対しても動じないのを見て目を見開いた。

 

「春蘭、貴女はどうなの? 貴女までも拓実が男であるだなんて、そんな戯けたことを言うつもりなのかしら?」

「は、はっ! ええと、拓実はですね、拓実……ああっ! そうです。確かに男でありました!」

 

 次に矛先は春蘭に定められる。彼女は彼女で拓実についてぼんやりと思い返していたようだが、華琳の言葉に背筋を伸ばすと自分もまた事実を知るものであることを思い出した。

 

「そう。確かにあの時、この手には何ともいえぬ奇妙な感触が……私はそんな物を掴まされるなどとは露知らず。思い出したい類のものではありませんでしたが、確かに拓実は男でした」

「春蘭が嫌がる私を押し倒したのでしょうが! それを思い出したくないとか貴女の口が言わないで頂戴! 全て私の科白よ!」

 

 怒鳴りつけながらも、周囲の空気が何だかおかしくなってきていると感じた拓実は頭を掻き毟る。焦燥感を覚えるあまりに華琳の演技から離れてきていることには気づいているものの、どうすればいいのかがわからない。そうして頭の両脇につけられたウィッグが手に触れ、勘違いされている原因にようやく思い当たった。

 

「ああ、もう! 華琳の言葉遣いを真似ているから冗談のようにでも取られているのでしょう!」

 

 華琳の真似ていることこそが性別を誤認させてしまっていると気づいた拓実は、言いつけられていた演技の中断を決めた。

 まず髪からウィッグを取り去り、纏めて団子にしてあった髪の結び目――髪留めの輪ゴムを外して解き放った。拓実が頭を振ると金の髪が広がり、その華奢な肩にかかる。団子に結ばれていたからか癖がつき、緩やかなウェーブ状に広がった。

 

「どうですか! これでわかったでしょう!」

 

 珍しく声を荒げ、堂々と言い放った拓実ではあるが、周囲の反応は芳しくない。その中でも特に華琳には何も伝わらなかったようで、首を傾げられてしまっている。

 

「その、拓実よ。言い難いことではあるが、あまり変わった様子はないぞ。声こそ若干低くはなっているが、顔つきが和らぎ、言葉遣いが丁寧になった程度では何の証明にもならん。髪型にしても、それを好む者が見れば、華琳様の演技している時よりも女らしいと……」

「くぅっ! それじゃこれ以上俺に、どうしろって言うんですかっ。後は精々、服を脱いで見せるぐらいしか証明する方法なんて……!」

 

 演技を止めた拓実については、確かに秋蘭の言った通りであった。

 華琳と瓜二つの女顔で、背は低い。声変わりが済んでいるというのに、声は女性としても充分に通る高く澄んだ少年の声だ。ほどいた髪は秋蘭より長いし、物腰だって春蘭に比べれば断然に柔らかい。おまけに言葉遣いも丁寧である。更に付け加えるなら、着ているのは華琳と似た衣装の女性服であり、詰め物までして胸部を膨らませている。

 唯一『南雲拓実』を見たことがなかった桂花は、雰囲気から顔付きからまるで人が変わったような拓実の変貌にこそ驚いていたが、それでも決して男性に見えたりはしていなかった。男嫌いである桂花が嫌悪感を微塵も覚えないぐらいには、拓実の容姿は可愛らしい少女のままである。

 

「『俺』、ですって?」

 

 もはや裸になるしか華琳を信じさせる術はないのか、そんなどうしようもない現状に対して慟哭していた拓実の、たった一つの単語に華琳が反応した。

 

「……えっ? 確かに俺って言いましたけど、以前から自分のことはそう呼んでいますよ。演技のときは別にしてですけど」

「どういうこと? 拓実のような気の弱い娘が、オレっ子? そんな、そんな世の理に反するようなことが、ありえる筈がないわ。もしかして、本当に?」

 

 ぶつぶつと呟きながら考え込む華琳に、拓実はどうしていいものかわからずぼんやり突っ立ったままだ。

 とりあえず室内を見回してみると、桂花は華琳の様子をはらはらと固唾を呑んで見守っている。春蘭、秋蘭の姉妹は華琳に向けて頭を垂れていた。どうやら、謀らずも華琳を騙してしまっていたことに、申し訳がないようであった。

 

「……拓実、ちょっとこちらに来なさい」

 

 考えをまとめ終えたらしい華琳は顔を上げ、睨みつけるようにして拓実を見つめた。それを真正面から受けた拓実は、今までの勢いを急激に削がれて動揺してしまう。

 

「な、なんですか? 何をするつもりですか?」

「いいから、早く」

「わかりましたけど、何をするのかぐらい先に言ってくれたって……」

 

 強く言われ、少し怯えながらも拓実は華琳へと歩み寄っていく。普段から逆らえない拓実ではあるが、それでも今の華琳には反論や抵抗すら許さぬ何かがあった。

 

「もっと近くへよ。早くなさい。そう、私の前まで」

「う、うひぁっ!?」

 

 もたもたと近づいた拓実の腕を、華琳が絡め取った。力任せに引き寄せて、背を向けさせる。

 

「ひゃ、華琳、くすぐったい! や、やめてください、ちょ、やだっ」

 

 背を華琳に預ける形になった拓実は、次いで来る感触に背筋を震わせた。拓実は華琳によって、自身の胸を後ろから揉みしだかれている。

 その手捌きは洗練されたものであった。幾度となく(ふる)われてきたのだろう、確かめるように執拗に、逃がさぬように力強く。華琳の両手は暴れる拓実の胸部から離れようとはしない。

 くすぐったさに身を縮めた拓実は、必死に華琳の手を止めようもするも巧妙に押さえつけられてしまっている。這い回る手に、拓実の顔は赤く染まっていった。

 

「離してっ! 華琳、お願いだから離して!」

 

 必死の嘆願も、華琳は聞き入れたりはしなかった。拓実にそんなつもりなどなかったのだが、艶かしい声を上げるものだから春蘭と桂花も頬を赤くしている。

 そうしている間にも手を休めずにひとしきり拓実の胸部を蹂躙した華琳は、拓実の身柄を開放してから己の両手を見つめて呆然と呟いた。

 

「…………この胸、にせものよ。布か何かが詰めてあるわ。そして、その下にも女性らしい膨らみはない。これっぽっちも」

「う、嘘っ、本当なのですか、華琳様」

 

 悲鳴のように、桂花が声を上げていた。顔はすっかり青ざめて、唇はわなわなと震えている。

 

「この手で確かめたのだもの。間違いないわ。拓実は男、なのね。信じ難いことだけど、本当に」

「だ、だからさっきから男だって言っているじゃないですか!」

「お、お、お黙りなさい! 私と寸分違わぬ容姿を持っていて、その癖に男だなんて、そんな冗談のようなことが信じられるわけがないでしょう!?」

 

 怒りか、羞恥か、動揺か。珍しく顔を真っ赤にさせた華琳はわなわなと身体を震わせ、拓実に向けて八つ当たりめいた言葉を吐いた。

 そんなことを言われた拓実はたじろぐ。振り返り、助けを求めるように春蘭と秋蘭を見やるも、視線が合うなりに顔ごと逸らされる。二人もまた華琳と同意見であるようだ。孤立無援である。

 

「あの、俺って冗談のような存在だったんでしょうか。生まれてくる性別を間違えたとか、女装して芸能界入ってこいとか、ふざけて色々言われてはきたけど、ここまでのは流石に初めてで……」

「いいえ、違ったわ。悪夢よ。まさかこの私が認め、他ならぬ私の代役を任せる相手がまさか男だったなんて……。ふふ、そういえば今日は拓実に会ってからというもの、不測の事態ばかりに見舞われている気がするわ。ふふふ」

「あは、悪夢ですか……あははははっ」

 

 乾いた笑い声を上げる華琳を見て、拓実もまたつられて笑っていた。笑うしかなかった。怒る気力もない。泣きたくはなかったので、笑い声を上げながら項垂れるだけだった。

 

「か、華琳様! 情報が広まっていない今ならば、まだ間に合います! 今度こそこの者の首を刎ね、全てを無かった事にしてしまうべきです!」

「首を刎ねぇえぇっ!? って、ちょっと桂花、何で? どうしていきなりそんな結論になったの!?」

 

 そんな半ば茫然自失の華琳に対して、必死の形相で述べたのは桂花だった。そこに自己紹介された時のような拓実を信頼しきっていた面影は見つからない。それこそ親の敵を見るかのように、拓実のことを睨みつけている。

 そんな目で見られていきなり死刑を求刑された拓実は、手放しかけていた意識を寸でのところで巻き取ることに成功した。

 

「私の真名を呼ばないでよ! 華琳様の姿を真似る、汚らわしい変態の分際で!」

「今度は変態、しかも汚らわしいって。そんな、何か悪いことした? 桂花については、ちゃんと謝ったと思うんだけど……」

 

 申し訳なさそうにしている拓実を冷たい視線で射抜いて、桂花はふんっと鼻で笑ってみせた。どうやら男と判明し華琳の姿を止めた拓実は、桂花にとってはただの敵性生物であるらしい。

 

「華琳様に成りすまし、私の恋心を弄んだことがあんな簡単な謝罪だけで許されると思っているの? 本当にそう思っているなら直ぐ様にでも死んだほうがいいわ。そうでないというのなら、罪を認めて今死になさい」

「あの。それ、どっちを選んでも死んじゃいますけど」

「あら、そう言っているつもりだったのだけれど、そう聞こえなかったのかしら。――華琳様、ご命令をお願いしますっ! 一言いただければ、直ぐにでも用意を整えますっ。下賎な男の身でありながら、華琳様になりすますなどという大罪を犯したこの下郎に、処罰を!」

 

 まさかここまで綺麗に手の平を返されるとは、拓実は思っても見なかった。こんなにも率直にやってもらえるといっそ清々しくさえあった。笑いがこみ上げてきてしまいそうだ。

 拓実は、本当に殺されるかもしれないとも考えていた。男である拓実が華琳の影武者を務めるなど、華琳は認めないだろう。きっとそうだ。華琳は元より男を好んでいないのだから、むしろそうなって当然ともいえるかもしれない。そうなれば桂花の言うとおりに、拓実の存在ごとなかったことにされてしまうだろう。

 先ほどから物言わない華琳に、拓実は不安げな視線を送った。男であることを騙していたつもりはなかったが、結果としてそうなってしまった。せめて悪意がなかったことだけでも弁解しようと声を上げかけ、そうして彼女の佇む姿を見るや開きかけた口を閉じることとなった。

 

「拓実を処刑するだなんてありえないわ。そんなことを私が許す筈もない」

 

 華琳は、拓実を見て静かに微笑んでいただけだった。ただそれだけだったが、拓実はその瞳から向けられている全幅の信頼を受け取っていた。

 同時に拓実の心中は申し訳なさで一杯になる。正体も知れなかった拓実を華琳は信じてくれているというのに、拓実が華琳のことを疑ってしまった。そのことを深く後悔してしまう。

 

「桂花、言ったでしょう。拓実は『もう一人の私』として私自らが認め、名を名乗ることを許したのだと。その相手が男であろうが女であろうが、この曹孟徳、一度口にしたことを違えるような者ではないと貴女も知っているはずよ」

「それは……、しかし……!」

 

 華琳は粛々と、拓実をここで殺してしまうということは、華琳の誇りをも殺してしまうことであると桂花に向けて説いた。

 桂花はその華琳の落ち着き払った様子を見て、ようやく自分一人が先走っていたことに気がついたようである。しかし後戻りも出来ず、必死に言葉を探している。

 

「例え男であったとしてもこの私を演じきったことには変わりはない。状況的には拮抗していたけれど、拓実の演技を崩してみせることが出来なかった私は負けていた。改めてこの場で認めましょう。この曹孟徳の覇王の才が、南雲拓実の演技の才に敗北しているのよ。それが例え私に不利な状況であった、限定的なものだったとは云えね」

 

 拓実にも、自分の演技に矜持はある。演劇の大会において拓実は個人で得られる最高の賞を貰ったことがある。そうしたこともあって、自分の演技を卑下すれば他の者の演技をも貶めることになると考えられるようになったからだ。

 けれども華琳のようにそれを信じることが出来るかと言われればそうではない。何故なら拓実は、己に対して自信を持っていない。たまたま演技については秀でているだけで、所詮は十把一絡げの凡人であるとそう考えている。そんな自分の持つものであるから、演技の才能などと言われても信じきることが出来ないのである。

 

「これは紛れもない事実。だからこそ私は、拓実の演技力を誰よりも買っている。本当に希少で、孤高の才――この私を負かす才を持つ者を、男であるからなどという下らない理由で失うなど、私に向いた天意に対し、自ら背を向けるが行為に他ならないわ」

 

 華琳は、こと拓実の演技においては、一切の疑いを覚えていない。己を打ち倒したものとして揺るぎない評価を下している。拓実の演技を、華琳は本人以上に評価してくれていた。

 拓実は影武者として仕官をする時、それを聞いていた筈だった。なのに、知らずのうちに自分ごと華琳の言葉を軽んじていたのだ。だからこそ、拓実は華琳にそれほどまでに評価されていることが嬉しくもあり、己すら信じ切れないでいたことが恥ずかしくもあったのである。

 

「そ、それでは……?」

「ええ、私の計画に変更はないわ。拓実にはこの私の『影武者』として働いてもらう。拓実、すぐに演技して私になりきりなさい。今回はともかく、今後そのような姿を他の者の前で晒すことは許さないわ」

「わ、わかりました」

 

 命じられて、拓実は急いで解いた髪をまた編み、結んでウィッグを取り付けた。身嗜みを整えた後、ゆっくりと瞑目する。

 たっぷりと時間をかけて次に目を見開いた時、華琳を彷彿とさせる怜悧な瞳が、目の前で笑みを浮かべる本物を捉えていた。

 

 

 

 

 

「さて。私としては拓実が男であろうが女であろうが、付き合い方を変える気はないわ。ああ、別に望むのならば、閨を共にしてもいいと思ってるわよ。男とはいえ拓実ほどの容姿であれば、充分に許容範囲内だもの。……けれど、もう引き返せない子がいるわよね。ここには」

 

 華琳がそう言って意地悪く視線を向けた先には、俯かせた顔を真っ青にして、身体をがくがくと震わせている桂花の姿があった。

 桂花には、華琳の声がまるで壁越しであるように聞こえていた。全身には視えない重圧がかかっていて、押し潰されそうだ。呼吸をしても酸素が肺に送られている気がしない。桂花だけが、まるで深く暗い水の底にいるかのようだった。

 

 最早桂花は、拓実とどう接していいかわからない。華琳は計画を一切変えないと言っていた。つまり桂花は拓実の教育係のままであり、これから毎日、拓実とは顔を会わせることになるのだろう。

 正確にはどう接していいかではなく、どの面を下げてと言ったほうが正しいだろう。拓実を自分の主と等しく扱うとしておきながら、嫌悪の視線を向けて死ねと罵り、自ら改めて預けた真名を呼ぶなと叫んでは、処刑すると喚きあげていたのだから。今だってその気持ちはかなり弱まったものの完全には消えていない。だが、華琳が決めた以上は何としても従わなければならない。

 

 拓実の姿にも問題があった。男は全て汚らわしく、下品で無能で、醜い生物であるというのが桂花の価値観の根底にある。そして今まで見てきた男はみんなそうであったと桂花は確信している。

 だが拓実の姿は桂花がどう見たって涼やかで、上品で、自信に溢れる麗しい華琳の姿そのものなのだ。それどころか声も、口調も、雰囲気までもとてもよく似ている。華琳を信奉している桂花が見ていたって、見た目にも声色にも違いを見つけることが出来ずにいる。強いていうなら気迫に乏しいぐらいだろうが、華琳だって普段から気を張っている訳ではない。流石に二人が並んでいれば区別がつくが、一人と対応した時にどうであったか、桂花は身を以って知っていた。

 

 華琳本人と間違えてしまうかもしれない拓実を相手に、無礼な言葉を吐ける筈がない。そもそも、華琳を真似ている拓実を前にしては難癖すら頭に浮かんでこないだろう。

 だというのに、先の無礼を詫びたところで元通りにはなってくれない。もし再び、華琳を相手にするような口調で話しかけようものなら、それは失笑どころの話ではない。間違いなく軽蔑されてしまう。

 いや、軽蔑ならばきっと、とっくの昔にされている。前言をあっさりとひるがえす『言葉の軽い女』とでも思われているかもしれない。華琳本人ではないというのに、同じ姿である拓実に軽蔑されていることを考えると身が引き裂かれる思いがする。そんな状況が続けば、きっと桂花は耐えられない。

 

 もしも願いが叶うなら、本当に時を巻き戻してほしいと桂花は思った。

 そうしたら拓実が男であれ、当初のように華琳と同じように扱い、敬い、学を授け、親密な関係を桂花は作るだろう。そしてそれはきっと、楽しい時間であったはずだ。毎日のように、華琳の姿と顔を合わせて学を授けられる喜び。そして自身が、もう一人の覇王を育てる喜びを感じることが出来た筈なのだ。

 男と言うだけで反射的に拓実を毛嫌いしてしまっていたが、性別を抜かしてみれば間違いなく好ましい人物でもあった。容姿も然ることながら、経緯は知らないが華琳と互角に渡り合い、直々に首を刎ねると決心させるほどには、拓実も覇王としての素質を持つ傑物であるはずだ。そっくりな容姿も手伝って、もしかしたら、それこそもしかしたらだが、桂花が心を許す事の出来る、唯一の異性になっていたかもしれない。

 

 しかし、そんな未来はもはや存在しない。先ほど拓実に投げかけた言葉を、華琳に告げてみたらどうなるかと想像すればいい。絶対に華琳は許さない。そんな確信を、桂花は持っている。

 そしてそんな華琳をして『もう一人の私』とまで言わしめる拓実は、どうであろうか。同じく、想像は容易かった。

 

「荀彧」

 

 思考に沈みきっていた桂花は、近寄ってきていた拓実に気がつかずにいた。遅れて呼ばれた名を認識すると、がつんと桂花の心には衝撃が走り、石になったかのように身体が動かなくなってしまう。

 

 ――拓実は桂花のことを、真名で呼ばなかった。桂花自身がそうしろと言ったことではあったが、実際に拓実に呼ばれてみると、つらい。かつてないほどに酷く胸が痛んだ。

 華琳の声色でそう呼ばれることも辛いものであったが、桂花の心に深く(ひび)を入れたのは別のことであった。拓実にとって、もう桂花は真名を呼ぶに値しない人間であるのだ、そう思ってしまったことだ。

 これから、ずっと自分は『荀彧』と呼ばれ続けるのだろう。この華琳の陣営において、拓実だけは桂花のことを『荀彧』と呼び続けるのだろう。自分だけは、金輪際拓実に真名を呼んでもらえないのだろう。

 こんな考えばかりが桂花の頭の中でぐるぐる回る。一人、輪から外れて呆然と立ち尽くす自分の姿が脳裏から離れてくれない。

 

「聞こえているのなら返事をなさい、荀彧」

「お……ぃ……ます」

「……荀彧?」

「ぉねがい、します」

 

 感情に任せて、桂花の口は勝手に動いていた。いつもの秀抜とした頭脳はもはや役には立たない。

 

「拓実、さま。どうか、わたしのこと、桂花、とよんでください。勝手なことだと、わかってます。ごめんなさい。あやまります。男があいてだと、わたし……どうしても」

 

 自分でも知らぬうちに、桂花は涙を流していた。顔を俯けたままであったが、頬を熱い雫が伝っていくのがわかった。

 桂花は、もう拓実に荀彧などと呼ばれるのが耐えられなかった。華琳と同じ声で、そんな他人行儀な呼ばれ方をするのが耐えられなかった。華琳に真名を預かった者同士だというのに、真名を呼び合わない。華琳が定めた決まりを自身が原因で破ることになるのが、耐えられなかった。

 

「……わかったわ。これからも桂花と呼んでいいのね?」

「は、はぃ」

「それじゃあ、泣き止みなさい。桂花。貴女が男嫌いであると事前に聞いていたのだから、私に向けて言った言葉は気にしていないわ。男に真名を呼ばれるのは嫌だろうから、桂花と呼ぶのを我慢していたのよ。貴女がそう言ってくれるのであれば断る理由なんてないもの」

「嫌じゃないです。拓実、さまぁ……」

 

 桂花は小さく笑みを浮かべることが出来た。尋常ではない様子で顔を青ざめていた桂花を見て心配していた拓実は、それを見てようやく安心したようである。

 

「ほら、可愛い顔が台無しよ。しょうがないわね」

「ありがとう、ございます」

 

 涙でボロボロになった桂花の目元を、拓実は袖で拭ってやった。為すがままにされた桂花は、優しく微笑んでいる拓実に向けて満面の笑みを浮かべてみせた。

 

 

「ふふ、このままでは本当に、桂花を拓実に奪られてしまいそうね」

 

 傍から口を挟まずに傍観していた華琳も、そんな二人の姿を眺めては微笑んでいた。

 

 

 

 



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8.『拓実、荀彧を模倣するのこと』(※)

 

 公には出来ないが拓実が華琳の下で働くことが決まり、日付が変わっての翌日のこと。拓実の性別が判明して盛大な混乱に見舞われた桂花の部屋近くでは、またも混乱と表する光景があった。

 

「その格好は、本当どういうわけよ? ねぇ、もしかして、私を馬鹿にしているの? しているんでしょ? 華琳様より仰せつかった政務の合間を縫って、こうして時間を作っている私に対して、わざわざ喧嘩を売りに来ているのでしょう」

「そんなことあるわけないでしょ。馬鹿じゃないんだから、少しは自分の頭で考えなさいよ。まぁ、それが出来ないのだからこのような愚問を口にしているのでしょうけど。まったく華琳様の軍師が聞いて呆れるわ」

 

 言い合う猫耳フードと、猫耳フード。口やかましく上げられる二人の声は、どちらも頭に響くように甲高い。背の丈、髪色こそ僅かに違うが、着ている衣服はまったく同じものだ。

 

「何ですってぇ!? この私が華琳様より直々に賜った軍師の任に文句をつけるだなんて、どういう了見よ! 聞き捨てがならないわ!」

「はん、それならいまいち頭の回転が鈍い軍師様に言わせてもらうけれど、私に華琳様と同じ格好をして城内をうろつけとでも言うつもりなの? 軍師だというならば、有事以外は他の人間を真似させておいた方が正体の露見を防げる、そのぐらいのことは言われずとも推察してみせなさいよ」

「それぐらいわかっているわよっ。だからって、何で拓実が私の格好と演技をして、私の教えを受けに来るのよっ! おかしいでしょうがっ! ああっもう! こいつの演技、似ているのがわかってしまうから余計に腹が立つっ!」

 

 傍から見れば被っているフードもあって同一人物が罵り合っているようにしか見えない。地団駄を踏む桂花と、そんな彼女を鼻で笑っている拓実であった。

 

 

 拓実と桂花が和解した後、秋蘭から雇用条件の確認や城内外での注意事項の伝達を受けているうちに夕暮れになってしまった。みだりに出歩いて人目についてはいけないということで、その日は宛がわれた自室に(こも)り、桂花が持ってきてくれた軽食の点心を摘みつつも彼女に謁見の時の話を聞かせてやっていたのだ。

 そうして夜も更けてそろそろ就寝するかという頃になると、華琳自らが桂花に備蓄の報告をするようにと呼びにきた。どうやらそれは(ねや)への誘いでもあったらしく、拓実も一緒にと誘われたもののそれに関しては一切の固辞をした。これまでそういった経験がなかったし、華琳のサドっ気は気の弱い拓実を尻込みさせるに充分なものだったのだ。うっとりした顔の桂花が華琳の寝所に連れて行かれるのを見送った後、何ともいえない気持ちで床に就いたのである。

 

 明けての明朝。謁見の間に赴いた拓実は妙に艶々としている華琳より、午前のうちは桂花の部屋で文字を覚え、政務についてを学ぶようにと命を出される。

 更に、城内外においては朝晩問わずに桂花の演技をするようにと言い渡された。拓実が華琳の姿でうろついていては、それをいくら隠そうとしても『曹孟徳は二人いるのかもしれない』などという噂が立つのは避けられない。しかし増えるのが桂花であるならば噂になったところで困るのは桂花だけであり、それほどには重大なことにはならないとのことである。充分大事になるのではないかとは思ったが、代案も浮かばない拓実はおとなしく口をつぐむことにした。

 ちなみに、午後には春蘭指導による武術の稽古を言いつけられているが、そっちについてはどうしても悲惨な未来しか浮かんでこないので拓実は極力考えないようにしている。

 

 その二つの命令を受けた拓実は部屋へと戻り、早速、秋蘭が買ってきた桂花のサイズ違いの服に袖を通すことにした。

 着替え終えてから春蘭を物真似した時のように声帯模写をしてみると、かなりの手応えがあった。華琳と桂花の声質が然程に離れていなかったというのもあって、拓実本人が大丈夫だろうと思える出来である。

 さらには表情も素の拓実の目つきはどうやら桂花のそれと共通点が多いようである。いつもより口元の動きを大きくすると、桂花に似通ったものになった。最後に髪をほどいて少し手を加えてやれば、あっという間に金髪になっている桂花が出来上がる。

 顔立ちだけだとそれほどではないが、髪型と格好を揃え、表情の作り方を限りなく近づけていた結果、遠目なら見間違えるぐらいの完成度になっている。

 

 

 拓実が桂花の部屋へ訪れたところ、出迎えた桂花の顔は満面の笑顔だった。拓実がくるのを今か今かと待っていたのだろう、部屋には香を焚いて、机の上には茶の用意までされてあった。

 しかしその相手が華琳の姿ではなく自身を真似た拓実であると知るや、咲き誇る大輪の花のようだった笑顔は、花に群がる虫を唾棄するような不機嫌なものへ入れ替えられる。次いで「私が尊敬しているのは華琳様と、華琳様の姿をしている拓実様だけ。それ以外の拓実の姿であれば敬うつもりは欠片もないから」と拓実の目の前で宣言したのである。既にこの時、桂花の呼称からは『様』が取れていた。

 

 しかし、考えずともわかるが、桂花がそんな辛辣な言葉を浴びせた相手というのは、桂花に扮する拓実である。昨日の一件で思考傾向と性格を把握していた拓実は、持ち前の演技力で桂花本人であるかのような毒舌を返したのだ。もちろん、それに対して本家本元の桂花が黙っている筈もない。

 頭脳労働を主とする桂花と拓実は取っ組み合うことはなかったが、次第に言い合いは泥仕合になり、二人は冒頭のようなやり取りをすることになっていたのだった。

 

 

 

 

 流石に部屋の入り口で言い合いなどしては目立つから、桂花はとりあえず拓実の袖を引き、部屋の中に引きずり込んだ。何とか部屋の中へと拓実を押し込んだ桂花は、拓実の前でこれ見よがしにため息を吐いてみせる。

 

「はぁ……。男に真似されているというのに、違和感がまったくないってどういうことよ。華琳様もこんなお気持ちだったのかしら。だいたい、私の下に来るのなら秋蘭や春蘭の演技をして来るという選択肢もあったでしょうに。何が楽しくて自分の姿をした者に知識を授けてやらなければならないのよ」

「桂花が自分で春蘭や秋蘭の仮装をした状態を想像してみなさいよ。絶対的に色々なところが足りていないから」

 

 間髪も入れない拓実のその言葉に、桂花は目を剥いた。あの姉妹と比べて足りないものと言われ、真っ先に思い当たった己の胸元に手を当てる。

 

「は、はぁ!? それは私に、胸がないって言っているの!?」

「ふん。あんた自身がそう思うならそうなんでしょ。だいたい身長だって、力だって全然足りないじゃない。自身の戦力把握は戦の基本だし、目を背けたいことを認めるのは問題解決への第一歩となるもの。軍師であれば常日頃からそうしておくべきじゃないの?」

 

【挿絵表示】

 

「こ、こいつは、私の真似していることも許しがたいっていうのに、こんなにも好き放題言ってくれて! ……そうよ! 私の演技をしているというならば、何より汚らわしい男である自分のことはどう思っているのか聞いておきたいものね?」

 

 名案を思いついた、というようにニヤリと笑ってみせる桂花。だが、そんな問いをされた拓実はというと、きょとんとした顔で目の前の桂花を見ていた。

 

「そんなこと貴女自身が一番わかっていることだと思うのだけど、わざわざ私の口から聞きたいというのならまぁいいわ。言ってあげるわよ」

 

 拓実の口振りがおかしいことに気がついた桂花が首を傾げる。そんな桂花の様子に構うことなく、拓実は言葉を続けていく。

 

「内心では私――拓実は男なのだから死ねばいいと思うけど、そこは華琳様が言うから渋々我慢しているわ。ああ、華琳様の格好であれば話は別よ。あと今の格好でも汚らわしい男とは思えない容姿をしているから、流石に死ねとまでは思わないわね。でも、てっきり今日も華琳様のお姿で来てくれるものだと思っていたから楽しみにしていたのに、出てきたのは私の姿ででしょ? せっかく学を授けるという名目でお茶をしながらお話が出来ると思っていたのに、ほんとがっかりだわ」

 

 そこまで言われて、ようやく拓実が何を語っているのか気づいた桂花は顔を真っ赤にさせた。

 

「だ、誰が私の心情を推察して話せと言ったのよ! 馬鹿じゃないの!? 恥ずかしいから、今すぐやめなさいよ! 私は! あんたが男である事実を、私の演技をしている時はどう考えているかって訊いてるのよ!」

「何を言うかと思えば。そんなところは意識の外に決まってるじゃない」

「……はぁ? 意識の外ってどういう意味よ?」

 

 桂花には、拓実の言っている意味が理解できない。思わず胡乱げな目で拓実を見る。

 

「今の私は、拓実としての知識を持って桂花という役を演じているに過ぎないんだから拓実は拓実で、演技している私は私。その人物になりきって演技しているのだから別人であるという扱いなの。自分が男であるだなんていちいち考えているわけないでしょ。流石に拓実としての立場が危うくなりそうな時とか、拓実自身として我慢が利かなさそうな時は演技を中断してしまうけど、それ以外では極力なりきっているわよ」

「……こいつの『演技の才』、改めて聞くと本当にありえない。この目の前の女男を認めたくなんてないけど、華琳様が拓実を買っているのもわかる気がする」

 

 当然のように言ってのける拓実に、桂花は驚きを隠せない。才もそうだが、その磨いた技術もだ。この生きるのも難しい時代に、娯楽の一環である演劇をこうまで突き詰めようとするなど、理解が及ばない。芸人だってなりきろうなどとは考えないだろう。もっと人物の特徴を誇張したりして笑いを取ったりと、客が受ける方向に変えている。

 そういう意味で拓実は飛び抜けすぎていた。見方によっては、妖術、仙術の類と取られてもこれでは仕方がない。

 

「ところで、そろそろいい? 一刻も早く華琳様よりの命を果たして褒めていただきたいのだから、無駄な時間を使わせないでよ」

 

 不機嫌そうな顔を浮かべた拓実に、呆れた様子で見られていることに気づいた桂花は考えを中断する。

 

「わ、わかったわよ。私だってそれは同じですもの。早くあんたに一人前になってもらって、華琳様にその功績を褒めていただきたいもの。さて、それじゃあいったい何から……」

「文字の読み書きができないからそこからね。教材は秋蘭より預かってきているから、ほら。さっさと座って」

「なんですって? あんた、文字の読み書きも出来ないくせに、この荀文若に向かってあんな偉そうな口を利いていたわけ? 信じられない!」

「仕方がないじゃない! つい先日まで私、異国に居たんだから! 無知は罪ともいうけれど、それを学びに来ている人間に賢者が吐く言葉とは思えないわ!」

「ああ、もう! ああ言えばこう言う!」

 

 そうしてまた始まる言い争い、罵り合い。既に相当の時間を浪費しているというのに、二人は飽きずに言い合いを始めた。

 

 そんな言い合いを繰り返す中で、桂花は目の前の人物の株を加速度的に下げていた。もう少し下がれば、春蘭と並ぶ最安値を更新しそうである。

 弁が回ることは認める。その上で言葉の端々に知性を感じられ、相当の教育を受けていることもまた感じ取っていた。だが、それを打ち消して余りあるほどに口が悪い。加えて、桂花が返答をすぐさま返せずに言いよどんだ時の『してやったり』という表情といい、(かん)に障るものが多すぎた。

 ――こいつ、相当性格が悪いわ。しかも決して無能ではないから余計に性質が悪い。

 桂花がそのように思うまで時間はかからなかった。

 

 だがそう考えたのと同じくして、それが全て桂花自身に返ってくることにも気がついてしまった。拓実の演技の再現度は、華琳を真似ているのを見て知っている。完全とはいえないが、誰かと聞かれれば『華琳である』と答えざるを得ない程のものだ。ということは、この目の前でぎゃーぎゃーと小賢しく喚く拓実の姿は、そのまま周囲から見えている桂花の姿ということになってしまう。

 

 そう思ったら、拓実を口汚く罵り返してやろうという気はなくなっていた。急に言い返してこなくなった桂花のことを、拓実が「気味悪い」と言わんばかりの目で見てきたことには激昂しそうになったが、桂花は既のところで深呼吸し、気を取り直すことに成功する。

 華琳第一主義の桂花はそれ以外の人間などは有象無象だと思っているが、それでも桂花は少しばかり態度を改めることを決めた。少なくとも、今の桂花の演技をされたままでは、華琳の命を果たすまでに物凄く多くの時間をかけることになってしまう。

 それでなくとも、この拓実の姿が今の桂花であると突きつけられては流石に改善しなくてはなるまい。桂花から見てもあまりに歓迎できる人物像ではない。それどころか知らずに客観視させられ、危うくあの春蘭と同程度として並べてしまうところだったのである。

 本音を言えば、こんなのが自分であるとは断固として認めたくはなかったのだが、それも出来ない。『目を背けたいことを認めるのは問題解決への第一歩』、この言葉が桂花の逃げ道を塞いでいた。(しゃく)ではあったが、確かにもっともな言葉ではあった。

 

 

 

 

「年、季節、その下が月。次から人名で、続きが何をしたのか。そう、このくだりは前のところを指しているわけ。その後はそこを指した問題点ね。……何だ。思ったより読めるじゃない、あんた」

 

 拓実が解読した文章に解析を入れながら、思ったよりも仕事が少なくなりそうなことに桂花は笑みを浮かべる。

 てっきり、文字の読み方から意味、その全てを教えていかなければならないかと思って辟易していたが、拓実は間違いこそ多々あるものの提示した文章をある程度の文節に分けて読んで見せた。

 

「読むだけならね。崩した文字だとわからないけど、これはまだどんな字なのかわかるもの。こういった文にまったく触れてこなかったというわけではないけど、やっぱり書くのは時間がかかりそうだわ。ああ、意外だったけれど、あなたの教え方も悪くはなかったわよ」

 

 先ほどよりも言葉の角を落としながら、拓実は桂花に微笑んでみせた。

 

 桂花から退いた言い争いの後、桂花は挑発も侮蔑することもそれほどにはしなくなっていた。そして懇切丁寧に拓実に文字を教えてくれている。

 拓実はそこそこ桂花の人柄を把握していたつもりだったが、どうやら思い違いをしていたのではないかと考え直していた。口では華琳第一だと言いながらも、他者に対しても世話好きで優しい子なのだろうと、桂花への認識を改めたのである。自然と拓実が演じる桂花の人柄も、桂花の変化に引っ張られるように『素直にはなれないけど他者を放っておけない少女』といったものに変わっている。

 そうしてお互いがつっかかることがなくなると、出会い頭の罵り合いが嘘のように穏やかな会話をすることが出来た。変化した桂花の態度が、実は反省して改めていたものなどとは拓実は知る由もなかったが、桂花のその変化は両者にとっての益となっていた。

 

「ふん。ま、飲み込みが悪いわけでもなし。一月も続ければそこそこにはなるでしょ。それより拓実、旅をしていると言っていたけれど、出身はどこなのよ? 似た文字を使う文化であるのなら、そう離れたところでもないのでしょうけど」

「出身……ここから東にある、島国かしら」

「へぇ。東の島国というと、倭国と呼ばれている辺りかしら。大陸から向かって行った人間もいるらしいけど詳しくは知らないわね。ってことは、あんたって海を渡って大陸まで出てきたのね。珍しい」

「私はそんなつもり、全然なかったわよ。いつの間にかそうなっていただけ」

 

 若干拓実が言いにくそうにしたのを、桂花は敏感に感じ取った。桂花自身の演技をしているからこそ、その演技のぶれは大きく映る。

 

「……そ。ま、貴方も色々あるんでしょうから詳しくは聞いたりはしないけど、これからは東の国も馬鹿にできないわね。文字の読み書きはともかく、知識だけなら私塾を出た人間と大差ないんじゃない? 貴方みたいなのが出てくるなら、文官として登用しても使い道はありそうだわ」

 

 少し考える様子を見せた桂花だが、手元にある竹簡をくるくると丸めてまとめた。

 

「とりあえず、今日の分は終わりよ。続きは……そうね、二日後の午前が空いているから、それまでは書物を読んで勉強しておきなさい。秋蘭の持ってきたものは教本としては中々よく出来ているから、それでいいわ」

「そう、わかったわ。それより、これから春蘭と稽古があるのよね……。この姿で行ったら、絶対手加減なんてしないんでしょうね」

「はいはい。それはご愁傷様。ほら、さっさと行きなさいよ。私も暇じゃないの。溜まった政務を片付けなければならないんだから」

 

 部屋の中から追い出された拓実は、閉められた扉を眺めて深くため息をついた。

 

 

 

 

 

 とりあえず昼食を取るために食堂へ向かった拓実だったが、立場上あまり長居するわけにもいかないのでいくつか置いてあった果物を貰って、部屋に戻ることにした。

 華琳も使う食堂であるので、一応上層の者しか入れないようになっていると聞いたが、流石に知らない部下に話しかけられたりしたら上手く対応できる自信はない。

 

「華琳様に、何かしらの対策を考えていただかないと駄目ね……。食事を部屋に運んでもらうにしても、華琳様以外で私を知っているのは春蘭、秋蘭、桂花と皆忙しくてそんな雑事をしている暇などないでしょうし」

 

 女子であればこれでも持つかもしれないが、こんな格好と容姿をしていたって拓実は育ち盛りの男子である。果物だけでは流石に物足りない。

 おまけに思い返せば昨日はおにぎりを二つとお菓子代わりの点心しか食べていなかったし、今日はこれから春蘭との調練があるのだ。栄養はとっておくにこしたことはなかった。

 拓実がそんなことを考えながら両手に果物を抱えて自室への道を歩いていると、目の前を小さな女の子が横切った。手に溢れそうなほどの饅頭を抱えて、もぐもぐと咀嚼しながら歩いている。

 

「あっ、桂花だ」

「えっ?」

 

 思わず足を止めてしまった拓実に気づいたか、その少女は笑みを浮かべて歩み寄ってきた。桃色の髪を全て後ろへと流し、まとめ上げて二つに纏めた少女は、不思議そうな顔を浮かべる拓実に首を傾げるが、両手に抱えた果物を見て表情を一転。声を上げた。

 

「あー! それ、お昼ご飯にするつもりでしょ? 駄目だよー、桂花は普段から全然食べないんだから。もっと食べなきゃすぐお腹空いちゃうし、力が出ないよ?」 

 

 矢継ぎ早に拓実に向かって言葉を放った少女は、んー、と少しばかり考え込む。

 

「もう、仕方ないから、ちょっとだけ分けてあげるね」

「あ、ありがと」

 

 ぽんぽん、と果物の上に三個の饅頭を置いていく少女。それでも少女の手には十数個の饅頭が残っている。しかし、よく見ればこの饅頭、結構大振りである。三個も食べれば、拓実も満腹になるぐらいの大きさだ。

 軍師や武将の部屋が固まっているこの辺りに入ってこれるのは、本当に上層の人間だけだ。そのことから、間違いなく目の前の少女は華琳の臣下の中でも重要な位置にいる者だと推察できるのだけど、どうしたって誰であるのかわからない。何とか早く話を切り上げないと、ボロが出てしまう。おまけに、この少女と桂花は結構仲が良いようだ。

 一応、知っている名前でそれらしいのは……季衣って子がいるらしいけれど、もし呼んでみて、間違っていたら目も当てられない。

 

「あれ? 今日の桂花、何か変なの」

「食事が済んだら来るようにって華琳様に言われてるから、ちょっと急いでるのよ」

「んー? そういうのと違う気がするんだけどなぁ……。まぁいいや。華琳さまに呼ばれてるんじゃ、急がないといけないもんね。じゃあねっ」

 

 そう言って新たな饅頭にかぶりついた少女は、てくてくと廊下を歩き出す。元気に廊下の向こうへ歩いてく少女の後姿を眺めて、拓実はほっと息を吐き出した。

 何とか穏便に済んでよかったけれど、結局あの子は誰だったのだろう。でもとりあえず、手の中にある三つの饅頭をくれたあの少女に会えたことは、地獄で仏にあった、と言えた。

 

 

 

 

 

「きゃああああああっ!?」

 

 ぽーん、と拓実の体が軽々と吹き飛んでいった。手に持っていた剣は、更に遠くに飛んでいく。

 拓実は地面をごろごろと転がって、砂煙を上げながらようやく止まった。しばらくそのままで微動だにしなかったが、突然にがばっと体を起こし、自分を吹き飛ばした相手に向かって大声を上げた。

 

「こんの……馬鹿力っ! 少しは手加減ってものをしたらどうなのっ!」

「何を言うか、手加減ならば充分にしているだろうに。私が本気を出せば、お前など武器の上からまっぷたつになっているぞ」

 

 起き上がり、抗議の声を上げた拓実に、春蘭は愉快だというようにかんらかんらと笑い、見下してくる。桂花の姿の拓実をいじめることが楽しくて仕方がないようだ。

 

 自室で食事を終えた拓実は、首根っこを掴まれて春蘭に連行された。どうやら中庭の一角を借り受けて、そこで拓実の身体能力を試すとの事であった。

 引き摺られて中庭に到着した拓実は、有無すら言わされずに用意されていた一通りの武器を振らされ、その中で一番に使いやすいと伝えた細剣を持たされる。今度はどうやら、手合わせするとのことである。拓実はイヤだと言ったが、聞き入られることはなかった。

 そうして攻撃してこいと言われて両手で振るった剣は春蘭の大剣を揺るがせもせず、何の気なしに春蘭が返した一撃で拓実は鞠のように吹き飛ぶ破目になったのだ。しかも事前にどこを攻撃するか宣言されて振るわれたというのに、この有様であった。

 

「だいたいだな。わざわざ華琳様から調練用の予備の鎌をお借りしてきたのに、満足に振るうことすら出来んとは思わなかったぞ。お前に渡した剣にしたって、本来は片手で持つ軽いものだというのに、それを両手で扱ったりして……」

「仕方ないじゃない! 私は頭脳労働専門なの! 大体、あんな重たい物を振るえっていう方がおかしい話なのよっ」

 

 中庭には、いくつかの武器が転がっていた。先述の華琳が使うのと似た形状をした大きな鎌、春蘭の調練用の模擬刀。兵士が使う大振りの剣、そして今拓実が使っていた片手で扱う刀身の幅が狭い剣だ。

 この内、振るうことも覚束なかったのは、春蘭の剣。これは持つことが精一杯だった。振るうことは出来たけれど、十回の素振りでギブアップしてしまったのが大振りの剣。振るえるが、その遠心力でふらふらと体が流れていってしまうのが華琳の鎌。なんとか拓実が満足に振るうことが出来たのは、文官が持たされる細剣だけだ。

 

「ふはははっ! 力がないのも、そうして理屈ばかりこねているのも、本当に桂花のようだな」

「……あんたねぇ。そうやって笑っているけど、私を華琳様と戦えるところまで鍛えることが出来なかったら、罰を受けるって話は覚えているんでしょうね? 私も酷い目に遭わされるんでしょうけど、罰を受けるあんたは私よりも悲惨なことになるわよ。絶対に」

「むぅ、そうであった! ……しかし、参ったぞ。武術を教えるのは構わんのだが、得物に振り回される程度の筋力しかないとは。二ヶ月と華琳さまは仰っておられたが、この様子では体力作りだけでほとんどが終わってしまう」

 

 むむむ、と考える春蘭ではあるが、拓実はそれどころではない。地面を転がった所為であちこちが痛む。折角の新しい服も、砂だらけになってしまった。

 

「あら、やっているわね。ふうん、桂花の姿も似合うじゃない。言うだけのことはあるわ」

「華琳様っ……あぅっ」

「華琳さまっ、このようなところまで!」

 

 拓実が服についた砂を払っていると、華琳が笑みを浮かべながら歩いてきた。声を上げて近寄ろうとしたところで春蘭に押しのけられる。桂花の姿をした拓実が、春蘭を差し置いて華琳に近づくのが我慢ならなかったらしい。

 

「挨拶はいいわ。春蘭、拓実はモノになりそうかしら?」

「はぁ……、どうにも、何と言ったらいいのやら。拓実、ちょっと華琳さまの調練用の鎌を振るってみろ」

「あのね……あんたにさっき散々剣を振らされた所為で、腕がもう震えているのよ。そこのところ、ちゃんとわかって言っているの?」

 

 何度も素振りをさせられた拓実の両腕はぷるぷると震えている。明日は間違いなく筋肉痛だろう。

 

「そんなことは知ったことか」

「ああ、もう! わかったわよ!」

 

 春蘭に一言で切って捨てられた拓実は、どうにでもなれと自暴自棄の声を上げた。立てかけられていた華琳の調練用の鎌へと歩み寄って手に取り、腰が引けながらもなんとか構えて見せる。

 

「んぐぐぐ」

 

 顔を赤くして両手で振りかぶり、ふらふらしながら重さに負けた様子で大鎌を振り下ろす。振り下ろすと、またよたよたっと前方にたたらを踏んだ。

 

「ちょ、やっぱり、と、止まらない……ひゃあっ!」

 

 柄を持ち替えて横に振るえば、やっぱり自分でつけた勢いを止められずに体を傾ける。そしてそのまま重さを耐え切れずに、しりもちをついてしまった。

 

「いたっ! もうっ! 何だって私がこんな目に」

 

 痛みで涙目になった拓実は、尻をさすった。もう手の中に鎌はなく地面に転がっている。

 その後も何とか肩で息をしながら立ち上がっては鎌を持ち上げようとするが、後ろにすっ転んで仰向けに倒れた。遅れて鎌の柄が胸に倒れ掛かって「えぶっ!?」と不細工な悲鳴を上げている。

 

「これは……ひどいわね」

 

 そんな拓実の様子を見ていた華琳は、桂花の役作りをしている為にこんな無様を晒しているのではないかと己の目を疑った。それほどに酷すぎた。

 しかし華琳も武を嗜む者の一人であるからして、拓実のへっぴり腰を観察していれば流石に理解してしまう。どうやら拓実は、演技でこれをやっている訳ではなさそうである。

 

「その、これをですね、二ヶ月で華琳さまと戦えるようには、この私といえど流石に……」

 

 最早罰は免れまいと思ってしまった春蘭だが、それも仕方がない。二ヶ月あればあの鎌を振るえるようにはなるだろうがそこまでである。とてもじゃないが、戦い方を教える余裕はないだろう。

 

「ええ。この状態からそこまで鍛え上げるのは、誰であっても無理よ。それに武器に振り回されているようじゃ、拓実自身に武の才能があるかもわかりはしないし」

「……今の拓実の姿を見る限りでは、期待は出来そうにないですが」

「まぁ、拓実のことだから、私の姿をしていればもう少しはマシになるかもしれないけれど、それでも筋力まで変わるはずもない。これについては時間がかかりそうね」

 

 華琳と春蘭は、乗っかっている鎌を押し退けられずに潰されそうになり、地面でもがいている拓実を見て、同時にため息を吐いていた。

 



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9.『拓実、許緒と顔合わせするのこと』

 

 華琳と春蘭に呆れた目で見られている中、大鎌の下から何とか這い出た拓実だったが、立ち上がることなく座り込んだままでいた。手の中の鎌をぼんやり見つめているが、拓実は実のところ途方に暮れていた。

 これをどうしていいものかわからないでいた。最終的にはこの大鎌を武器として扱えるようにならないといけないのだが、どうにも上手く扱っている自分の姿が想像できないのだ。

 

 実際に握り、振ってみて、拓実自身が扱う上での問題点はいくつも見つかった。まず挙げられるのはこの鎌が結構な重さを持っているということ。鎌自体からして金属の塊であるからそれは当たり前なのだが、ここまで重たい長柄のものを振るう機会は拓実の人生において一度もなかった。長さだけということなら掃除のモップやほうきでチャンバラしたことはあったが、それら木やプラスチックとは比べものにならないほど重たいのである。

 だがこれでも重さという点で見れば然程のものではない。春蘭の大剣は言わずもがな、兵士が使っているという剣の方がいくらか重たいくらいである。しかしその重量差を差し引いたとしても、拓実にはこの大鎌は扱いにくくてしょうがなかった。直剣などの棒状の物よりも刃先に重さが集中しすぎている為に持ちにくく、腕力だけでなく握力もないと刀身の重量で刃先が勝手に下へ向いてしまう。

 拓実は演劇の大道具を運んだりしていたので人並みの筋力を持っているつもりだったが、これについてはまるっきり勝手が違っている。運用のとっかかりからして掴めない。ちょっと練習した程度で扱えるような武器ではないことは確かだった。

 

 筋力不足に、経験不足。加えて今の拓実には、武を学ぶ熱意が不足してしまっている。他は鍛えればなんとでもなる。しかし最後のひとつはその鍛錬に必要なものであって、改善についても如何ともしがたい。

 桂花の演技をしている拓実はどうにも武術を熱心に習う気になれない。武の才を持たなかった桂花の根本には『荒事は他に得意とする者に任せればよい』という思想があった。もちろん才があったなら戦働きもしていたかもしれないが、現実に桂花は持たざる者。それがわかっているから桂花は内政能力を磨き、知識の吸収に全力を注いでいるのだ。

 だからもし近い将来に桂花の身に危険が迫るとわかっても、彼女は自身の武を磨いたりはせず身辺を護衛で固めることだろう。いや、そもそもそんな機会を相手に与えないように頭を働かせるだろうか。どちらにせよ、自身の武力で状況を打開しようなどとは考えないはずだ。

 

 桂花は軍師であることに誇りを持っている反面、武の才能を持たない反動から荒事を嫌っている。そして桂花になりきる拓実は、そんな価値観までを共感してしまっている。相手の価値観を理解することは演技をする上で不可欠であり、自身であるように共感して演技する拓実は、自身が桂花とは別人であるとわかっていても思考が引きずられてしまうのである。のびしろが小さいとわかっている武を熱心に習う桂花など、最早別人物である。そんな根幹に矛盾がある人格に拓実は共感できず、共感できなければ演技することだってできない。

 たとえ拓実が武を学ぶ意欲を持っていようと、どれだけ必要なものだとわかっていても、桂花の演技をしている以上はあまりに逸脱した行動はできないのだ。他人になりきることが出来る演技力は多くの利点を生むが、ここに至ってはその弊害が目立ってしまっている。

 

 結論として、どうやら桂花の姿をしている時に調練をするのは適さないということになるのだが、しかしそれでは困ったことになる。しばらくという条件付であったが、城内では桂花の演技をしているように華琳に命を出されたばかり。演技をしていない素の南雲拓実であればまだマシなのだろうけど、その姿で春蘭より調練を受けることは華琳より許されていない。

 拓実はしばらく頭を働かせてみたのだが、打開策が見つからない。どうにも八方塞のように思う。

 

「仕方がないわね。貸してみなさい」

「あ、華琳様……?」

 

 大鎌を眺めながら思考に沈む拓実を見て、華琳が近寄ってきた。つかつかと歩み寄り拓実の手にある大鎌へと手を伸ばす。それを受けて拓実は、無意識に手に持っていた柄の部分を華琳へと手渡していた。

 華琳はそれを受け取ると大鎌の柄を持ち替え、上下を入れ替える。鎌が綺麗な弧を描いて、その手に再び収まった。筋力を使っての動きではない。遠心力を利用し己のものとして、華琳は結構な重量を持つ筈の大鎌を軽々と扱って見せた。

 

「拓実、とりあえず私の動きを今後の手本として覚えておきなさい。桂花の演技をしているあなたでは模倣することは出来ないのでしょうけど、せめて私の動きをその目に焼き付けておくように」

 

 華琳にとっては何気のない、気にも留めないような一連の動きだったが、拓実は直前まで同じものを握っていたからこそ見た目通りに簡単に扱えるものではないことを知っている。その芸当を目の当たりにして、拓実は言葉もなく、こくこくこく、と頷き返した。自分があんなにも苦戦した大鎌をあっさり扱ってしまう華琳の手捌きに、見惚れてしまっていたのだ。

 

「それでは春蘭、相手をしてもらえるかしら」

「はっ!」

 

 華琳と春蘭、両者が己の武器を手に構える。途端に張り詰める空気。見ている拓実の肌がひりつくような緊迫感が二人を中心に放たれた。

 春蘭の火傷してしまいそうな戦意と、華琳の冷たいと感じるほど研ぎ澄まされていく集中力。自然と拓実は喉を鳴らしていた。

 

「では、私からっ!」

 

 そんな中、動いたのは春蘭だった。愛剣――七星餓狼を駆けながら振りかぶり、大鎌を構える華琳に向かって渾身の力で振り下ろす。春蘭が行った動作としてはたったこれだけのものであるが、それは拓実を相手にしていた時とは比較にならない程に速く、そして鋭かった。

 なるほど、手加減していると言っていた時は思わず疑念の目を向けてしまった拓実であったが、正しく春蘭の言う通りである。虚などなく、己の力のみで叩き潰す。小手先の策や生半可な小細工などは、この圧倒的な力の前にしては物の役にも立たないだろう。

 

 春蘭の超重量の一撃は、拓実と同程度の体躯しか持たない華琳では受け止められる道理がない。全てを叩き切らんとするこの大剣は、受けようとも防御ごと弾き飛ばし、或いは相応の力量を持たない者であれば得物ごと両断するだろう。女性の細腕から繰り出される一撃だというのに、春蘭のそれは成人男性を軽く越える威力を持っている。それを知っていたつもりであったが、春蘭の力は尚、拓実の理解の外にあった。

 

「でぇぁぁあああっ!!」

 

 瞬間、春蘭の気勢に大気が揺れ、そして確かに大地もが揺れた。

 春蘭の七星餓狼が振り下ろされ、結果として地面に突き立っているのだが、その有様があまりに異様。周囲の地面は陥没し、罅割れたような亀裂を入れ、春蘭が振るった軌道上には大きく裂傷が走っている。

 地面に刃を入れるのは漫画などの中ではありがちな表現であったが、常識的に考えるならば不可能なことだと認識していた。そんなことがまさか現実に、それも目の前で起こり得るものだとは拓実は思ってもなかった。

 

 だが、そんな必殺の一撃を、華琳は無傷で捌いていた。華琳は前進した春蘭に対応できるよう、片足を引いた。半身の体勢で手にある大鎌の刃を振り下ろされる七星餓狼へと当て、逸らしていなす。荒々しい春蘭の一撃を、常人離れした動体視力と集中力を以って見極めてみせた。だがもちろん、逸らすといっても華琳の細腕ではその衝撃を殺しきることは出来ない。このままでは手の中の大鎌は大きく弾かれてしまい、決定的な隙を見せることになってしまうだろう。

 そこで更に華琳は妙技と云える冴えを見せた。向かってくる力に抗わず、自身の得物を回転させることで力の向きを変えてやり、後方へ流したのだ。そのまま手元を支点に、ぐるりと春蘭の力を残して一回転した大鎌の刃は、攻勢をかけた春蘭本人へと返っていく。

 防御から攻撃へ。間髪入れずに返すそれは、剣を振るったばかりの春蘭に対応をさせない、不可避の一撃だった筈だ。

 

 だが、春蘭も然る者である。反射されたかのように上段から返ってきた華琳の大鎌を、上体を横に倒して避けてみせた。

 傍から見ていれば予知していたかのような身のこなしだが、春蘭の表情からそれは違うことがわかる。春蘭は驚いていた。予想外の攻撃だったのだと、その顔は物語っていた。今の回避は本能的な危険察知か、人間離れした反射神経か。もしくは、その両方であるのか。事前に察していての行動ではなく、その場での咄嗟の対応に過ぎなかったということだ。

 

「はぁ!」

 

 驚愕した春蘭だったが逡巡はしない。予想外であろうが、硬直だけはしない。すぐさまに地面に突き立った七星餓狼を引き抜き、華琳へと薙ぎ払った。

 拓実からすれば充分に強烈な一撃であるが、やはり先と比べると見劣りしてしまう。明らかに直前の無理な回避が足を引っ張っていた。

 

「せぇっ!」

 

 華琳もまた体勢の崩れた春蘭に対し、攻めに打って出ていた。膂力という点だけで見るならば春蘭と大差をつけられてしまう華琳だが、体勢を崩している春蘭を相手とすれば充分に渡り合える。春蘭との空間を詰めながら、胴を空間ごと刈り取るような鋭い一振り。

 

 二つの軌道は衝突――――鈍い金属音が響いた。

 遅れてひゅんひゅん、と風を切る音。上空から何かが飛来し、程なくして拓実の足元に突き立った。拓実が視線を下ろしてみると、それは鉄の刃であった。

 

「……はぁ、駄目ね」

 

 目を瞑り、天を仰いだ華琳が呟く。そして興が削がれた様子で、その手に残った鉄の棒を見下ろした。

 

「春蘭と渡り合うのに、こんな重さだけを似せたような紛い物では。やはり【絶】でもなければ春蘭の一撃は耐えられそうにないわ」

 

 残った柄を地面へと転がして、華琳は肩を竦めてみせた。いや、刀身部分だけが折れたのかと思えば、その柄もまた少し歪んでいる。

 

「いえ! 華琳さまも更に腕を上げられておられました! 私の初撃を利用してのあの反撃は、思わず肝を冷やしました。【絶】をお持ちであったなら勝負はわからなかったことと思います」

「そう言う貴女がかわしてみせたのは、一撃が鋭ければ鋭いほど相応の反撃を返してみせる、私のとっておきだったのだけれど。巧く流したつもりだったのに、受けた手が痺れてしまったわ。まだ改良の余地はあるわね」

 

 手をぷらぷらと振ってみせる華琳。笑顔で称える春蘭。張り詰めていた空気は、今は弛緩している。拓実は、呆然とそんな二人を見ていた。

 一瞬の出来事。あまりのことに拓実はまばたきすることも出来なかった。二人のうち特に注意して華琳のその動きを追ってはいたが、目の方がついていかなかった。

 春蘭の一撃を鎌を当てて逸らしたことまではしっかりと見えた。だが、その後の攻防がどう至り、決着へと結び着いたのかわからない。三国志における英雄といえど、人は、本当にここまでのことを為し得るものなのか。立会いが終わった今も尚、拓実の常識を揺さぶっている。

 

「それで拓実、どうなの? 私になりきった貴方は、今の技術を模倣することは出来るのかしら?」

 

 そんなことはわかりきっている。拓実が模倣できるのは『拓実が理解できる』ことだけだ。性格にしても、在り方にしても、技術にしても。理解、共感ができなければ、演技など出来よう筈がない。

 

「あ、あの。華琳様のお手を煩わせてしまった後で申し上げるのは非常に心苦しいのですが、華琳様の技術までを模倣することは私では無理なようです。私の力量では、華琳様や春蘭の武を見極めることなど出来る筈もなく、今の攻防とて理解の外でございました」

 

 せっかく華琳が機会を与えてくれたというのに、その期待に沿うことはできそうにない。華琳も怒っているだろうと、拓実は跪き、深く頭を下げる。しかしそんな拓実に向けられたのは、くすくすと鈴を転がしたような笑いである。

 

「ふふっ、拓実。何も全てを完全に真似ろとは言っていないわ。そんなことが可能ならば、私や春蘭のように研鑽に励んでいる武人たちがあなたを許してなどおかないでしょう? 私が聞きたいのは、参考になったかどうか。それを元に鍛錬すれば、少しは違うでしょう」

「はっ。そう言った意味でありましたならば、独学では至れぬ境地を見せていただけたのですからこれ以上のものはありませんでした。しかし、華琳様が仰ってくださいましたように、桂花に扮している今の私では軍師であるべきという意識が鍛錬の邪魔をしてしまいます。これならば南雲拓実としての方が効果が望める物かと……」

「へぇ、やはりそうなのね。ならば逆に、勇敢で武に長けた人物の演技をしていれば伸びが良いということかしら」

「演技をしながら他の技術を学んだ経験はありませんが、心構えという点では間違いはないかと思います」

 

 顎に手を当てて、華琳はしばし熟考する。何か閃いたようだが、どうにも拓実は、自身の苦労が増える予感がしていた。

 

「……そうね。ならばいっそ、拓実には複数人の演技をしてもらいましょうか」

「複数人、ですか?」

「ええ。一つに、必要な時は私の影武者を。一つに、軍学、政務を学ぶ為に軍師の姿を。一つに、武を磨き、統率力を鍛える為に武将の姿を。つまり有事の際は私の姿を。学を得る際には桂花の姿を。そして武を学ぶためには、春蘭、秋蘭は無理そうだから……そうね。拓実に背も近い、季衣の姿を借りれば。そうして身元を作り、個人として扱ってしまえば、無理をして身を隠す必要もなくなるわ。しかし、そうなると問題は名門である荀家かしら。流石に私の手の及ぶところではないし」

「あの、華琳さま。仰られている意味がわかりかねるのですが。もしや、それは拓実に、季衣の演技までさせるということでしょうか」

 

 視線を地面に向けて思考に耽っていた華琳は、横からかけられた春蘭の声に顔を上げた。不安そうに見る春蘭に向けて、華琳は微笑んで見せる。

 

「半分当たり、というところかしら。拓実には桂花と季衣の演技をしてもらうけれど、それぞれに身分と名を与えるつもりよ。そうすれば影武者としての拓実を必要としていない場面でも実際に軍を率いることが出来るし、公の政務も、春蘭と調練していても何ら不自然はない」

「桂花の奴はともかく、季衣がどう思うかは置いておきますが、それは流石に拓実の身が持たないのでは……」

「三役演じさせるからといって、別に他の二倍、三倍働かせるわけではないわ。不足した部分を必要な技能で穴埋めする役目を負ってもらうつもりよ。有事の際にしか動かせないのでは宝の持ち腐れだもの。もちろん二役同時には存在できないけれど、もう一役には私から使いに出しているとでも言えば疑う者もいないでしょう」

 

 本人が関与することなく、華琳の中でどんどんと拓実の処遇が決まっていく。あっという間に固められていく案に拓実は止めることも出来ない。

 

「まぁ、拓実のことは心配などしていないし、そんなことをしている暇があるなら拓実が十二分に働けるだけの環境を整えてあげないといけないのだから、早急に手は尽くさないとね。拓実であれば、その手間を上回る成果ぐらいは遠からず見せてくれるだろうし」

 

 華琳が笑みを浮かべながら発した言葉を受けた拓実は、反射的に「ひゅっ」と空気を吸い込んで顔を引きつらせた。そのままどんどん血の気を失っていく。

 

 拓実にはこれまで人を率いた経験などはない。この大陸の文字だってまだ習い始めたばかりで、武に至っては明らかに幸先の悪いスタートを切っている。だというのに、華琳はどうしてか拓実が当然のように出来ると信じて疑っていない。そんなにも華琳に気に入られるようなことを自分はしていただろうかと拓実は考えてみる。しかし、どうにも思い当たらない。演技の才については評価してくれているようだけど、果たしてこれはその延長なのだろうか。どうにもいくつかの意図が絡み合っている気がしてならない。

 とにかく、華琳のその期待が重い。まだ何も成果を出していないというのに、重責ばかりを次から次へと背に乗せてくる。そのうち拓実は、押し潰されてしまいそうだ。その上やるべきことは沢山あるというのに、今の自分ではこなせないことばかりである。しかし華琳は悠長に待ってくれなどはしないだろう。拓実はその重圧と焦りから、自身の顔が青く染まっていることを感じていた。

 

「そうね。そうと決まれば午後の仕事は、休養予定だった明日午前に回しましょうか。春蘭、ここにある武器を片づけた後、至急秋蘭と季衣を玉座の間に呼び出しなさい。拓実、あなたは桂花よ。今私から任せてある仕事については早急に欲しているものでもないから、明日以降に遅れても構わないと伝えなさい」

「はっ! お任せください」

「……は、はいっ! かしこまりましたっ!」

 

 春蘭が勇ましく声を上げ、そこらに散らばっていた武器をまとめて抱え上げ、駆け出した。おそらく総重量にして二十キロ前後。それを抱えていても速度は落ちるわけでもなく、背はあっという間に見えなくなる。

 考えていて反応が遅れた拓実も桂花の部屋へと向かう為に駆け出そうとするが、まだ身体のあちこちが痛くて、春蘭のように全力で走ることが出来そうになかった。

 

 

 

 

 

 ひょこひょこと走る拓実の後ろ姿を眺め、華琳は口の端を吊り上げる

 自身では気づいてなかったようだったが、ふるふると身体を震わせて顔を青くしていた拓実の様子は、本当に桂花のそれに似ていた。頭を下げて謝罪を向けてきた拓実についつい意地悪をしてしまったが、これぐらいならば許されるだろう。桂花であったなら、本気で可愛がっていたところだ。

 

 拓実を眺めながら華琳が考えているのは、彼の適性についてだった。

 政務や識字の適正については応対した桂花に聞いてみなければ詳しくわからないが、恐らくそれほど悪いものでもないだろう。元々拓実は、教育を長年受けているようだ。頭の作りとして、知識を吸収する下地が出来ている。

 それに武についても、理解できないから演技が出来ないといっていたが、ならば理解できるほどの技量を持つまで拓実自身を底上げすればいいだけのことだ。もしそこまでいくだけの潜在能力があるなら、拓実は化けるかもしれない。もちろん拓実自身が持つ才にもよるし、身体能力が演技する者と同じところまでいくことはないだろうから、二番煎じの劣化したもの止まりとなってしまって、大成しない可能性も大いにあるが。

 残すところは軍務だが、華琳はこれについてはそれほどの心配はしていない。人を率いる資質は、その人間の性質や性格、持っている知識によってある程度量ることが出来る。正しく人間としての性質、心の機微まで演技してみせる拓実であれば、状況によって兵の運用を変える事だって出来るかもしれない。

 

「拓実と会ってから二日目だけれど……一時たりとも退屈しないわね。それに、まだまだ面白くなりそうだわ」

 

 華琳は拓実が宿舎へと去っていったのを見送り、笑みを浮かべて玉座の間へと足を向けた。

 

 

 

「華琳さまっ、春蘭さまが急いで来いって言ってましたけど、もしかして賊が村を襲っているんですかっ!? あいつらっ、また罪もない人から……!」

 

 華琳が玉座に座り、今後のことを考えていたところ、声を上げながら駆け込んできたのは季衣だった。顔を険しく歪め、怒りを露に声を荒げている。

 最近、華琳はこんな季衣の姿をみることが多い。普段は元気で心優しく、明るい可愛らしい少女であるのだが、略奪を働く賊が相手だとこうなってしまう。

 

「落ち着きなさい、季衣」

「でもっ!」

「今回は賊がどうこうといった話ではないわ。新たに臣下に加わった者がいるから、顔合わせをするだけよ」

「あ……そーだったんですかぁ。なーんだ、ボク、てっきりまた賊を討伐する話だと思ってました」

 

 先ほどまでの激憤が嘘のように、朗らかに笑みを浮かべる季衣。

 出会った時からして賊に襲われていたのだから、その気持ちはわからないでもない。むしろ、華琳とて賊を憎む気持ちはよくわかるが、季衣のそれは少しばかり度が過ぎている。近いうちに、どこかで諭してやらないと暴走してしまうだろう。

 そんなことを考えていると、季衣から華琳へ向かって声が上げられた。

 

「あ。そういえばお昼に桂花に会ったんですけど、調子が悪いんですか? 昼食の後、華琳さまに呼ばれてるからって急いでましたけど、なーんか変だったんですよねぇ」

「私が、桂花を? そんなことを言った覚えは…………ああ、そういうこと。季衣はあの子に会っていたのね。どうやらバレてはいないようだけれど」

 

 どうやら華琳の知らないところで、拓実は季衣をその演技で騙し通していたらしい。流石に華琳の演技をさせている時ほどには似ていない為、あまり細かいことを気にしない季衣であっても違和感があったようである。わかりきっていたことであるが、やはり桂花として城内をうろつかせるのは無理がありそうだ。

 

「えっと、華琳さまー?」

「大丈夫よ。桂花はいつも通りだわ」

「よくわからないけど……えーと、それで、新しく入った人って、どんな人なんですか?」

「ええと、そうね。拓実のことは何と説明したらいいのかしら。私と桂花にすごい似ているのだけれど……」

「えー? 華琳さまと桂花に似ている人ですか? 何だか全然想像できないんですけど……」

 

 首を傾げる季衣だが、ここで話して説明するよりも実際に会わせてしまった方が早いだろうと華琳は考えた。言葉で説明することがむずかしいのだ。男なのに華琳や桂花の姿に似ていて、しかも本物らしく演技が出来るなどと、いくら言葉を重ねても嘘くさくなってしまう。

 

「ただ今参りました」

「おまたせしましたっ!」

 

 季衣に遅れて数分、秋蘭、春蘭が入室してくる。どうやら、一番最後は桂花と拓実のようだ。最後の拓実の様子を見ていれば、それも仕方がないのだが。

 

「ああ、春蘭。伝達自体が早かったのは褒めてあげたいけれど、せめて季衣にきちんと用件を伝えておきなさい。季衣ったら混乱していたじゃないの」

「あ、も、申し訳ありません!」

「それで秋蘭、どういった話になっているかは理解できている?」

「はい。いささか解読に時間はかかりましたが、おおよその事情は把握できているかと」

 

 秋蘭の口振りを聞く限りでは、また春蘭は説明を省いたようである。深く深く頭を下げている春蘭を置いて、華琳は再び季衣へと向き直った。

 

「華琳様、失礼致します」「華琳様、失礼致します」

 

 とりあえず説明できるところまでしておこうかと口を開いた瞬間、同音程で重なる声が入り口から届いた。ありえない多重音声に華琳はつい何事かと気を乱してしまう。

 視線を向けてみると、肘でお互いのわき腹をつつきながら歩いてくる、頭巾を被った二人の姿があった。

 

「ばかっ! あなた、何でわざわざ私の声と揃えるのよ! 華琳様がびっくりなさっているじゃない!」

「何ですって!? あなたが勝手に声を合わせたのでしょう! 変な言いがかりはやめなさいよっ!」

「言いがかりとはなによ!」

「その通りじゃない!」

 

 桂花と拓実の二人は何やら口喧嘩をしているようだが、傍から見ているとどちらがどちらの科白を話しているのかわからない。髪色もあって区別はつくが、あまりに共通点が多すぎて、華琳には最早双子の姉妹のようにしか見えないでいる。

 華琳の隣に立っている春蘭、秋蘭もその二人の様子を複雑な表情で見ている。見ていてかなり興味深い光景ではあるのだが、とにかくきゃんきゃんとやかましい。

 

「え? えぇ? ええぇぇぇぇー!? 桂花が二人いる!? どうして!? 何で!?」

 

 上げられた悲鳴のような季衣の声。さらに騒がしくなる玉座の間に華琳は思わず、頭を抱えたくなった。

 ここは静謐としているべき、玉座の間なのだ。君命を授け、報告を聞き、軍略を交わす場である筈なのだ。兵には立ち入りを禁じておいたが、玉座の間がこうも騒がしくては覗きに来る者も出てくるかもしれない。

 それに、混乱している季衣に説明するのも骨が折れそうである。桂花の時のように一から説明しなければならないのだろうか。瓜二つの拓実を見て驚く反応は、知っている者としては見ていて面白いのだが、連日ともなると説明の方が億劫になってくる。

 とりあえずこの場の混乱を収めようと華琳が息を吸い込んだところで、喜びに溢れた季衣の声が響く。

 

「すっごーい! そっくりだ! あ、そっか、華琳さまが言ってた新しく入った人ですね! ボク、許緒っていいます。字は仲康で、真名は季衣です。よろしくお願いします!」

 

 信じていた。いや、それどころか真名まで躊躇なく預けてしまっている。拓実を目の前にして信じるも信じないもないのだが、もう少し相手の素性を探るとか前段階が必要なのではないのか。

 華琳は肺まで吸い込んでいた空気を、そのまま吐き出していた。

 

「あなたが、許緒……。あ、私は拓実。姓は南雲で、名が拓実ね。大陸の生まれではないから字も真名もないわ。拓実と呼んで。それと、お昼はお饅頭、助かったわ。一応、改めて言っておくわね」

 

「へ? お饅頭? ……あー!! お昼に会ったのは拓実で、桂花じゃなかったんだ! 何か変だなーとは思ってたんだけど、全然わからなかったよ! あ、桂花と並んでいると、ちょっとだけ拓実の方が背が低いんだね。髪の毛も金色だし。んー、でも、背はおんなじくらいだけど華琳さまに似ているようには見えないけどなぁ」

「ああ、それはね……」

 

 会って早々に季衣は拓実の存在を把握したらしい。しかも何やら拓実に懐いている様子。一から説明しなくても良くなったのは助かるのだが、華琳は何やら腑に落ちない。

 

「あの、華琳様。季衣に、私が華琳様の演技をしているところを見せてあげたいのですが、よろしければ許可をいただけますでしょうか?」

 

 しばし呆然と、二人の様子を視界に入れていたのだが、いつの間にか拓実が近づいていた。どうやら話しているうちに、華琳に似ていると言われているのは何故か、と問われたらしい。

 とんとん拍子に、勝手に話が進んでいく。肩透かしを食らった気分ではあるが、滞りなく話が進んでくれるのはいいことである。だが華琳は同時に、言われたことを頭から信じてしまっている季衣の将来が少しばかり不安になった。

 

「……そうね。私もここにいることだし、構わないわ。それにその方が、季衣も拓実の立場を理解し易いでしょうし」

「はい、ありがとうございます。それでは着替えて参りますので、しばしお待ちください」

 

 言って、拓実は一礼。足早に自身の部屋へと戻っていく。

 そうして拓実の姿が完全に見えなくなってから、華琳は季衣へと振り向いた。

 

「季衣、言い逃すと機会がなくなるから先に言っておくわ」

「はい? 何ですか」

「拓実は男よ」

「へ? あ、それ、嘘ですよね? 流石にボクだってわかりますよ。だって、あんなに桂花に似ているのに男の人だなんて……」

 

 流石に、拓実が男とまでは信じることが出来なかったようだ。混乱する季衣の姿に、華琳は心の中でやりきれずにいた部分が解けていくのを感じていた。

 追随するように、春蘭が疑っている季衣に向かって声をかける。

 

「うむ。季衣がそう思うのも仕方がないが、華琳さまの言うとおりなのだ」

「え……、それじゃ、本当に?」

「ああ。あれが女であれば、どんなによかったことか。せっかくの容姿であるというのに、世の中は理不尽なことばかりだ」

「まったくよ。私にまでそっくりで男だなんて、今まで見たどんな悪夢よりも酷いものだわ」

 

 くうっ、と額を手で押さえ、嘆く春蘭。苦虫を噛み潰したような表情で、珍しく春蘭に同意の声を上げる桂花。

 華琳とて、桂花と似たような心境である。容姿に自信を持っていただけに、それを知った時の衝撃も大きかった。

 

「あのー、それじゃ桂花も?」

「……季衣、私も、というのはどういうことよ?」

 

 怪訝な顔で聞き返すのは桂花本人。今の話から、自身の名が出てくる理由が見つからないようだ。自然と残る華琳、春蘭、秋蘭の視線も季衣へと集まることになる。

 言っていいものか迷っていたようだが、注目されてしまって言わざるを得なくなってしまった季衣は、恐る恐る口を開いた。

 

「だから、その、実は桂花も男の人だったり、とか」

「ぶッ!?」

 

 その季衣の言葉に、華琳と春蘭、秋蘭は揃えて、はしたなくも噴き出した。

 『桂花に似ている拓実が男、だから桂花も男』――この発想に至るとは、この場にいる季衣を除く全員が思ってもみなかったことである。

 

「な、な、なんですってぇ! 季衣! 貴女言って良い事と悪い事があるわよっ!」

 

 当たり前だが、自身が最も嫌悪している男かと疑いをかけられた桂花は激昂した。わなわなと身体を震わせて、顔を真っ赤にして季衣を睨みつける。怒りのあまり、目尻には涙まで浮かんでいる。

 

「ごめんなさい! 言ってみただけですからぁ! だって、あんなに似てるんだもん! 仕方ないじゃないですかぁ」

 

 桂花の形相に、引け腰になりながら必死に謝る季衣。しかし、覆水盆に返らず。言ってしまった言葉はなかったことにはならない。周囲の様子が、それを物語っていた。

 

「ぶわっははははっ!! そ、そうか! くっく……桂花が男だとは、この夏候元譲といえども今の今まで見抜けなんだ! うくっ、季衣は天才だな! く、腹が捩れる!」

「あ、姉者、駄目だ。そんなに、笑うものでは……くっ! くく、駄目だ。笑っては……く、ふふふ」

 

 大きく口を開けて笑い転げているのは春蘭。秋蘭も言葉では姉を諫めているようだが、顔は決して桂花へと向けないし、口元はひくついている。我慢しているようだが、堪えきれずに笑い声が漏れている。

 

「……くぅぅぅぅ! こっ、これ以上は、あはっ! 桂花が男ですって!? あんなにも男を嫌っているのに! あはははははっ!」

 

 華琳も顔を後ろへ向け、必死に堪えていたようだったがすぐに耐え切れなくなり声を上げた。玉座に向いて顔を見られないよう大笑いしながら、華琳は拓実が来てより声を出して笑うことが多くなったことを自覚していた。

 

 一方で、それらと相対した桂花はうろたえていた。最早何に対して怒っていいのかもわからないでいる。なのに、周りは笑いっぱなしで、桂花一人だけ置いていかれてしまったようだった。

 だからだろう。この事態を収めるつもりだったというのに、そんな迂闊な言葉を言ってしまったのは。

 

「華琳様! 私が男だと季衣に言われたことでお笑いになってますが、拓実が本当にそっくりに似せられるのは華琳様ではないですか! その理屈では、私ではなく、華琳様こそが男だということに……」

「……なんですって? 桂花、貴女、この私に向かって男である、とでもいうつもりなの?」

 

 瞬間、笑い声がぴたりと止まり、部屋の空気が息絶えた。何事かと、思わず桂花は辺りを見回す。

 季衣は顔を青ざめさせていた。ぷるぷると小動物のように震えている。秋蘭は、瞑目している。普段から何を考えているかわからなかったが、今ならば桂花にもわかる。『我関せず』だ。春蘭は、桂花に哀れみの視線を向けていた。今から屠殺される鶏を見るような表情だった。

 そうして気づいた。気づいてしまった。己の失態に。

 

「あ……ち、違います! 私は」

「昨夜に可愛がってあげたばかりだというのに、そんなことを言うだなんて。ふふ、面白いことを言い出すものね」

 

 そう言いながら、確かに華琳は笑っていた。しかしその瞳はそうではなかった。喜びも悲しみもない。怒りだけが真っ赤に燃え盛っている。

 桂花は、気がついたら既に平伏していた。秒を待たずに、身体が華琳に頭を下げていた。

 

「ごめんなさい! 華琳様、どうかお許しを!」

「桂花は何故謝り、そして私が何を許すと言うの? 確かにその理屈でいうならば、私も男だもの。なんらおかしなことは言ってはいないわよ」

「違うんです。本当に、そんなつもりはなくて……」

「ま、とにかく桂花はしばらく一人寝でも大丈夫ということよね。少なくとも数ヶ月は呼ぶことはないから安心なさい? ああ、それとも男の私がいいというならば、演技を止めさせた拓実に私から添い寝でも命じましょうか?」

「無理です! そんなことになったら私、妊娠させられてしまいます!」

「すればいいじゃない」

 

 ふん、と華琳の視線が桂花より切られた。そうして不機嫌そうに玉座で足を組む。

 

「そ、そんなぁ……なんで、こんなことに」

 

 視線を切られてからも、桂花は頭を上げられない。項垂れて、身体を起こす気力も今はない。

 確かに、自身の過失であった。悪いのは桂花だ。それを遡れば、季衣の発言。しかし、季衣は謝っていたし、その後の桂花の発言までには責任を持たせることなどできない。笑い転げていた春蘭。あれの所為で怒りで頭が一杯になってしまった。秋蘭はまだ抑えていたから許せないこともないが、怒りを覚えたのも間違いはない。だが、この怒りを向けるほどかといえば、筋違いだった。

 華琳にしても理不尽ではあった。人に言っていたことをそのまま自身に向かって言われて、この沙汰はないのではないかと思う。しかし、華琳が悪いとは、桂花は絶対に言わないし、思わない。

 

 そうしたら、元凶は残るただ一人となる。理不尽だと自覚はしていたが、そんなことは桂花には関係なかった。

 

「それもこれも、全部アイツの所為だ。覚えてなさいよ、拓実ぃぃーーーー!!」

 

 

 



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10.『拓実、役柄を頂くのこと』

 

 

 拓実が華琳の姿に着替えて戻ってくると、玉座の間の中央には桂花がうなだれて座り込んでいた。その周囲には変わらず春蘭、秋蘭、季衣と並んでいるが、揃って沈痛とした表情で桂花を眺めている。華琳はそれを不機嫌そうに玉座から見下ろしているが、それは表層だけで拓実には内心で悦んでいるように見えた。その華琳の心情に一番近いと思えるのは、いじめっ子の愛情というところだろうか。

 ともかく、拓実が玉座の間を出るまではこのような異様な雰囲気ではなかったのは確か。あの後に何らかが起こったに違いないのだが、いったいどうすればこうなるものなのか。拓実には見当もつかない。実際に訊いてみた方が早いだろうと拓実は疑問を抱えながら桂花に歩み寄り、声をかけてみることにした。

 

「桂花、これはいったいどうしたというの?」

「どうした、ですって? 拓実……あんたが!」

 

 うつむき肩を震わせていた桂花は拓実の声が届くなりに顔を上げ、視線で人が殺せたらとばかりに拓実を睨みつけてくる。そんな目で見られる覚えのなかった拓実は、つい目を白黒とさせてしまった。

 

「ではなくて、拓実様が! 拓実、様が……」

 

 心配そうに覗き込んでいる拓実と真正面から向き合うことになった桂花だったが、放たれる言葉は次第に力を失っていく。

 桂花が拓実に向かって言いたいことはいくつもあった。もちろん、怒りだって収まっていない。だが実際にその憤りを発しようにも、桂花の口からそれらは出てはこない。

 

「私が?」

 

 桂花の言葉から、この状況はどうやら自身に原因があるらしいことを知った拓実は努めて真剣な顔で桂花を見つめる。

 

「う……、うー……」

 

 その視線に射抜かれて、桂花はついに言葉が続かなくなってしまった。真摯な瞳で自身のみを見つめられているという状況に、本人は必死に抑えているようなのだが勝手に赤面していってしまうようだ。同じく桂花の険のあった表情も、華琳とほぼ同じ拓実の姿を前には長く続かずに見る間に崩れていく。それに気づいた桂花は顔を引き締めて、思い直したように顔を険しくしているようなのだが、結局は拓実が扮する華琳の姿には抗いきれなかった。最終的には必死に抵抗していた反動も手伝ってか、桂花の頬はだらしなく緩んでしまっている。

 

「拓実様、卑怯です……私がそのお姿に文句を言えないと知っていて」

「何? 桂花は私に文句が言いたかったの? 言いたいことがあるのならば言ってごらんなさい。桂花の諫言(かんげん)を聞き入れられないような狭量な器を持ってはいないつもりよ」

「そ、そんなことはありません! 私が拓実様に、文句などと!」

「先と言っていることが違うじゃない。まったく」 

 

 拓実は呆れたようにそう言って、肩を竦めてみせた。何に対して怒っていたのか拓実にはさっぱりわからないのだが、この様子では桂花は話してくれそうにない。

 

「ふふっ」

 

 そんな二人を見ていた華琳から笑いが漏れる。不機嫌そうにしていた華琳はいつからか、目を細めてこちらを見つめていた。

 

「駄目ね。拓実と桂花が話しているのを聞いていたら、怒りも失せてしまうわ。桂花、先の失言は特別に聞かなかったことにしてあげる。でも、次はないわよ」

「あ、は、はいっ! ありがとうございますっ」

「……だから、いったい何が起こったというのよ」

 

 目を輝かせて華琳に頭を下げる桂花と、それを微笑ましく見守る華琳。二人に、拓実の呟きは届かなかった。

 

 そんな呟きを漏らしたものの、落ち着いて考えてみれば桂花が拓実に対して物申すことなど限られる。恐らくは桂花の姿を真似ていた時のことなのだろうとすぐに思い当たった。どうなったのかは想像も出来ないのだが、それが原因で何らかの騒動を起こし、今回は桂花がその犠牲となったのだろう。

 演技をしているとブレーキが利かなくなってしまう自覚はあった。桂花との言い争いや、華琳に対しての歯に布着せぬ物言いが自重できないのは、拓実が相手に成りきろうとすることが原因だ。知らずにまたやってしまったのだろう。役に成りきる事が必ずしも良い結果に繋がるとは限らないことを、拓実は経験から知っていた筈なのに。

 

 

 拓実は必要に迫られ、若しくはその才を買われ命令される形で今こうして演技をしているが、演技すること自体が嫌だということはない。むしろ好むものであった。

 聖フランチェスカ進学以前は、演劇部の活動は拓実の日課となっていたし、それこそ一時期は生きがいであるのかもしれないと感じていたほどである。

 

 拓実にとって演技とは、多くの男の子がやったことがあるだろうヒーローごっこが始まりになっている。拓実も例に漏れず、幼少の頃は敵と味方に分かれて友達とよく遊んでいた。誰でもやっていただろうこれが、拓実の演技の原点であった。

 誰でも冒険譚に出てくる勇者や、アニメの主人公を真似て、布団たたきやほうきなどを剣に見立てて振り回したり、おもちゃの武器を手に必殺技を叫んだりしただろう。それらは演技なんていえるものではないかもしれないけれど、子供たちは自分を本物のヒーローであると思い込んでいる。そこに偽りは存在しない。

 

 拓実も歳が進むと、興味も歳相応に移っていく。絵本やアニメからテレビゲーム、漫画、小説、ドラマへと。こうなったらヒーローごっこなんてやったりはしない。けれども、拓実が感情移入するのはいつだって変わらなかった。

 小説の登場人物に感情移入してぼろぼろと涙をこぼしてみたり、漫画を読んで自分が強くなった気になってみたり、映画を観て自身の考えを改めさせられたりしていた。拓実自身が非常に流されやすい性格をしているのも手伝って、話の中の出来事がまるで我が事のように思えてしまえた。

 拓実にとっての演劇は、その延長でしかない。物語を読んで共感し、そのキャラクターの行動を自分のことのように思い込み――自身へと取り込む。そしてそれを、自身へと重ねる。自らの意思を極力消して、『私はこう動く』という自身の中に取り込んだ擬似人格に身を任せているのだ。

 

 けれど、度を過ぎて成りきってしまった為に手痛い思いをしたこともあった。それは以前に通っていた学園の演劇部でのこと、以前に一度なったという演技に没入してしまった『トランス』時のことだ。

 大舞台のラストシーンにて、ヒロインのシンデレラになりきった拓実は王子様役を心から愛していると錯覚してしまって、台本になかった愛を語り、いとおしく思うあまりにラストシーンではあわや本当にキスしそうになってしまった。

 それだけならまだよかったとも言えた。前後不覚の拓実を相手役が(なだ)めすかし、上手く機転を利かせて劇を綺麗に纏め上げてみせた。その一連の流れが反響を呼び、拓実属する演劇部は受賞することができたのだ。

 

 しかし問題は、その迫真の演技に感銘したらしい審査員長が、急遽、閉会の挨拶にてシンデレラを演じた女子生徒をと指名し、拓実を壇上に上げたことである。少女らしい瑞々しい演技だの、女性にしか出せない情感が篭もっていただの、実体験かと思わせるほどの愛の演技だのと、羞恥で顔を真っ赤にしている拓実のその横で大絶賛であった。

 後に性別が判明し、拓実の希望もあって名前を伏せてもらえたが、その様子を写した写真がしっかりと新聞の地方面を飾ったのは拓実にとってあまりに苦い思い出である。演技を見た劇団からスカウトもきていたらしいが、恥を上塗りする気がなかった拓実は部員に正体を秘密にしてもらい、顧問を通してその申し出を丁重に断って決して名乗り出ることをしなかった。

 しかし、もちろん人の口に戸は立てられないものであるからして、大会の見物に来ていた拓実のクラスメイトの口から学園へと広まり、拓実は友人たちに頻繁に女子扱いされることになってしまったのだ。そうして拓実には、容姿へのコンプレックスが生まれたのである。

 

 演劇を好み、そしてその才能を持っていながらも演技の道を自ら辞した顛末(てんまつ)はこれらであり、わざわざ自身を知る人間が少ない聖フランチェスカに進学を決めたのは地元では変に顔が売れてしまったからだった。

 結局は演技をして生活する破目になっているのだが、やはり演技をすることのないこの半年間は物足りないものであったのも確か。女装はすまい、と決めていたが、女役であっても演技するとなると充実感が違う。ここ数日、心が満ち足りているのを拓実は実感していた。

 どうやら拓実にとって、演技とは切っても切れないものになっているのかもしれない。

 

 

「うわぁー……すっごいなぁー。今の拓実、どこから見ても華琳様そっくりだねー」

 

 拓実が反省半分に考え込んでいるうちに、どうやら秋蘭から季衣には、拓実が務める『影武者』の役割と注意点が伝えられていたらしい。いつからか季衣は周囲をくるくると回って、感心しながら拓実を眺めていた。

 拓実は今までの思考を沈めて、すぐさま切り替えた。今華琳が拓実に求めているのはやり過ぎるぐらいの演技なのだから、事の良し悪しは部屋に戻ってからゆっくり考えればいい。

 

「んー、でも今の拓実って、呼び捨てにしにくいなぁ。華琳さまとおんなじ姿の人、ボクが呼び捨てにしちゃうなんて変な感じだし」

「呼びにくいようならば季衣が呼び易いよう、好きに呼んでくれて構わないわよ」

 

 気を取り直した拓実は小さく笑みを浮かべながら、はしゃいでいる季衣にそうやんわりと話しかける。

 春蘭以上に感情が表に出ている季衣は、見ているだけでなんだか微笑ましくなってしまう。季衣は見た目からして小柄で可愛らしい少女だが、中身も年相応であるらしかった。ころころと表情を変えて、全身で感情を表現する様はとても可愛らしい。

 

「それじゃ、桂花とおなじで、華琳さまの格好した拓実のことは『拓実さま』って呼ぼーっと。桂花の姿の時はそのまま拓実って呼べばいいし」

 

 何が嬉しいのか、季衣は「えへへ」と笑みを浮かべて拓実の顔を覗き込む。大きなその瞳からは好奇心が溢れ出ているようだ。そんなあまりに純粋な感情に当てられて、拓実は少したじろいでしまった。

 

「ねぇねぇ、拓実さまって、他の人の物真似もできるんですか? 春蘭さまとか、秋蘭さまは? ボク、見てみたいなー」

「こら季衣、少し落ち着きなさい。拓実も困っているわ。それに、話はまだ終わっていないわよ」

「はぁーい」

 

 華琳にたしなめられ、季衣は素直に返事を上げて春蘭の隣へてくてく歩いていく。拓実はそれを見て、密かに肺に溜まっていた空気を吐き出した。この姿を意に介した様子もなく親しげにされるのは嬉しいのだが、ああも純粋だとどうにも対応に困ってしまう。

 季衣が元の位置まで戻ったのを確認し、華琳はこの場にいる全ての人間を一人一人見回していく。

 

「これは繰り返すことになるけれど、季衣も加わったことだから改めて伝達しておきましょう。『曹孟徳の演技をする拓実』、これを知る者はここにいる者だけよ。従って、この場にいない者に口外するようなことがあれば処罰を下すわ。これについては全員、厳守すること。いいわね?」

『はっ!』

 

 華琳の君命に対し、拓実を含めた四人の声が小気味良く返る。それを受けた華琳は笑みを浮かべひとつ頷いた。

 

「次に、拓実は優先的に『影武者』として務めてもらうのだけれど、私は『影武者』を必要としない時にも仕事を任せたいと考えているわ。管轄する土地は増え、我らに人手を余らせておく余裕なんてありはしないのだから当然といえば当然ね」

 

 それを聞いて、うむうむ、といった様子で春蘭が頷いている。華琳が州牧となったことで、一人一人の負担が増している現状だ。人手は足りないことはあっても多すぎることはない。

 

「しかし、そこで問題が一つ。春蘭との調練で判明したのだけど、拓実は演技をしていると役にそぐわない意欲を無意識に削いでしまう。それによって学習効率にも影響が出てしまっているらしいわ。よって、その解決の為に調練、政務をさせるに適した人物を、拓実と別人とした上で新たに二人用意したいのよ」

 

 事前に話を聞いていた三人――春蘭、秋蘭、拓実はそれを聞いても静かに佇んだままである。呼び出しがあると聞かされていただけで事前情報を持っていないのは季衣と桂花だが、二人とも考え事をしているというのに、その様子は対称的であった。季衣は視線を宙へとやってぼんやりと、桂花は口元に手を当て酷く真剣に伏せ目がちにしている。

 

「……えーと? 桂花の格好をした『拓実』と、華琳さまの格好をした『拓実さま』に名前をあげるんですか? あれ? でもそれって……」

「季衣よ、それでは華琳様が二人いるのを自ずから証明してしまうことになるだろう。拓実が華琳様のお姿をしていることは内密にせねばならぬのだぞ」

「んー、そうですよね。それじゃ、どういうことなんですか? ボク、頭がこんがらがってきそうなんですけど」

 

 視線を宙に投げて考えていた季衣だが、声に出しているうちに矛盾に気がついたらしい。今まで口を開くことなく華琳の言葉に耳を傾けていた秋蘭が自問自答する季衣に説明してやるのだが、しかし季衣にはそれがいまいち理解できていないようである。

 

「仕方がないわね。季衣の為にもう少しだけ噛み砕きましょうか」

 

 一通りの説明を終えてからは状況に任せていた華琳だったが、難しい顔をして思い悩む季衣を見るに見かねたようだ。極秘事項であるから充分な理解を求めてのことなのだろうが、それを差し引いてもやっぱり季衣には甘いように見える。

 

「学の受講・政務は『桂花を真似た拓実』が、調練・兵の訓練は『季衣を真似た拓実』に受け持たせることにするわ。そしてこの『桂花を真似た拓実』と『季衣を真似た拓実』には別名を与えて、それぞれ一個の人間として扱うということよ。残る『私を真似た拓実』については存在していないものとして扱うわ。拓実がこの姿で表に出るときは『曹孟徳本人』としてになるわね」

「えっと、そっか。桂花と、ボクの真似をすればいいんだ。それならおかしくないですもんね」

 

 華琳より説明を聞いてようやく季衣はそう納得したものの、幾許(いくばく)もしないうちにこめかみに人差し指を当て、首をひねった。

 

「あれ? けど、ボクを真似た拓実って? 拓実さまって、ボクの真似も出来るんですかっ?」

「そうね。勝手に話を進めてしまったけれど、どうなのかしら?」

 

 きらきらと瞳を輝かせて、季衣は隣に並んでいる拓実を見やる。自然と、この場にいる全ての人間が拓実を注視することになった。

 華琳にそう問われては、拓実が返す言葉は一つしかない。ただでさえ既にいくつも課題を与えられているのだ。拓実が出来るところぐらいはしっかり見せておかないと、期待への返済が追いつかなくなる。

 

「華琳、言ったでしょう。私の理解の及ばない人物でもなければ、演じてみせると。どんな人物だってやってやれないことはないわ。華琳が演じろと言うならば、私は全力でそれをこなすだけよ」

「ええ。そう言ってくれるものと思っていたわ」

 

 満足そうに笑みを浮かべる華琳。拓実はかなり自分贔屓に言ったつもりだったのだけど、それは華琳が当然と思える程度の自負としかとられなかったらしい。むしろ拓実は、自身の発言が己の首を絞めている気すらしてきた。

 とりあえず気を取り直した拓実は、自分の真似と聞いて楽しみにしている季衣に目を向ける。まず目に映えるのは、二つにまとめられているピンクの髪。自身の金色の髪と明らかな違いはこれだが、別人として扱われるというならそれはいいだろう。しかし、いくら別人だとしても許容できない部分がある。

 

「まぁ、まだ季衣と知り合ったばかりだし、どんな子か詳しくわからないから今演技したとしてもあまり似せられないかもしれないわ。後、問題は格好よ。季衣の姿そのままでは色々と不都合だから、肌を隠すようなものにしないといけないわ」

 

 季衣の姿は非常に薄手で身軽なものである。何故この時代にあるのかわからないが下はハーフパンツ、上はノースリーブでへそが見えるほど生地の少ない、下着とも取れてしまいそうなシャツだけだ。

 もちろん季衣だって女の子であるから胸のふくらみは存在しているし、むしろ薄手であるからそれが強調されている。男の身で女性である季衣の演技をするには、衣装は避けて通れない部分である。

 

「それは、拓実が着ていたものではいけないものなのか? 拓実が自分で仕立てたと言っていたあの旗袍ならば問題はないように思うのだが」

「……あれのこと?」

 

 横から上げられた秋蘭の言葉を受け、拓実はそれを吟味する。脳内で季衣に、あの自作のチャイナドレスを合わせてみると、どうしてもちぐはぐするが肌を隠すという点ではなんら問題はなさそうだった。

 

「そうね。まぁ、あの旗袍なら大丈夫でしょう。私が感じている季衣の印象と比べるとおとなし過ぎるけれど、それらしい服が見つかるまでの繋ぎにしておけばいいわ」

「あ、それじゃ、ボクがよく行っている服屋さん教えますから、この後に行きましょうよ! 一緒にボクが街の案内しますよ! あとは、えと、途中に美味しい点心を売ってるお店があるからそこでご飯食べて……」

「そうね。そうまで楽しみにしてくれるのならば、季衣にお願いしようかしら」

 

 身を乗り出して提案してくる季衣に、拓実は笑みを浮かべて返事を返す。

 

「本当ですかっ? うわぁ、今から楽しみだなー」

 

 ぴょんぴょんと跳ねて全身で喜びを表現する季衣は、見ている拓実が嬉しくなってしまうような無邪気さだった。なんだか拓実は、元気で素直な妹が出来た気分になっていた。少しぐらいのわがままなら無条件で聞いてしまいそうだ。

 

「こら、季衣。仲良くするのは良いことだけれど、まだこちらの話が終わっていないのだからそれは後になさい」

「あ、ごめんなさーい」

 

 掛けられた華琳の言葉は、酷く優しい。拓実が思うように、華琳にとっても季衣は妹のような存在なのかもしれない。それを感じているのかどうか、季衣はぺろっと舌を出して、悪びれなく謝った。

 

「さ。改めて話の続きよ。拓実の演技は問題ないとした上で、拓実に用意する名と身分について私から季衣と桂花に頼みがあるのだけど」

「へ? 頼みですか?」

「私に出来ることであれば、なんなりと。恐らくは演技をしている際の拓実の家名についてだと推察いたしますが」

 

 華琳に名指しされ、疑問符を浮かべる季衣。対して冷静に、これから問われることを理解している様子であるのは桂花だ。

 

「そう。桂花の言うとおりよ。拓実は貴女たち二人を真似ることになるのだから、必然的に容姿や性格が似通った人物が二人新たに任官されることになるわ。しかし、その二人と貴女たち二人が赤の他人であるというのは考えにくいでしょう?」

「言われてみればそうですよね。拓実と桂花、ちょっとは違うけど、そっくりでしたもん。ボクも間違えちゃったし」

「そういうことよ。だから拓実の家名は、少なくとも貴女たちの家名と同じ物を拓実に与えることになるのだけれど」

 

 黙って聞いていた拓実は、視線を桂花と季衣に向ける。拓実が、華琳のその案を聞いて密かに危惧していたのはこの『名を借り受ける』ことであった。

 この大陸、名は非常に重要なものであると聞いている。真名ほどではないにしろ、名はその者の命と言っても過言ではないものと認識している。日本出身の拓実は、詐欺を働く為ならばともかく、必要に駆られての騙りと思えばそんな重大なものだと感じはしないが、ここではそうではない可能性が高い。だが、何とか家名だけでも許してもらわなければ、拓実は今日のようにずっと人目につかないよう暮らしていかなければならなくなる。

 

「そのことでしたら、荀家は名門と呼ばれておりますが、枝葉が広く分かれていますので極端に本家筋でなければ問題はないかと思います」

「ボクも大丈夫ですよ。うちの村、許の姓の人ばっかりでしたし、そもそも桂花みたいに有名じゃないですから」

「……ええ?」

 

 しかし、拓実が思っていたより、二人からはあっさり許可が出していた。内心では戦々恐々としていたのだが、あまりのあっけなさに拓実はつい思考が止まってしまった。

 

「そう言ってもらえれば、私としても助かるわね。それでは一族の者と重なってはいけないから、名乗らせる名については貴女たち二人が用意してあげて」

 

 呆然とする拓実を置いて、華琳に言われた二人が考え込む。二人を見ていた華琳の視線が、こちらに向かって動いたのを感じ、拓実は咄嗟に表面上だけでも平静を取り繕った。

 そうして先に考えをまとめたのは、どうやらこの話の運びを予期していた桂花だった。事前にこうなるとわかって考えていたのだろう。

 

「それでは……私の演技をしている拓実には『荀攸(じゅんゆう)』、加えて字を公達と名乗らせましょう。年上ですが実在する私の姪の名でして、官軍に文官として仕官していましたが、現在は出奔し『荀諶(じゅんしん)』と名を変えたという話ですので、表舞台に出ないのであれば問題はないかと思います」

「んーっと、それじゃあ、ボクの真似してる拓実さまには『許定(きょてい)』ってどーかな? お母さんがボクの名前を決めるとき、この名前と迷ったって言ってたし」

「では、荀攸はそのまま桂花の年上の姪として軍師に、許定は季衣の姉として将軍に、二人の口利きで引き立てたことにしておくわ拓実、これより二人の演技をしている時はその名を名乗るように」

 

 拓実は華琳の命令に、即座に言葉を返せなかった。荀攸と、許定。拓実には、うち片方の名前には聞き覚えがあったからだ。

 許定なる人物については拓実も見聞きしたことはなかったが、荀攸といえば人材豊富な魏においても戦術家として名高い人物である。そのような偉人の名を預かってしまっていいものだろうかと考えてしまった。

 しかしいくら考えたところでここに至って断ることなど出来ない。現時点で拓実は何者でもないのだ。そもそも桂花の話が真実であるなら荀攸は既に荀諶を名乗っていて、以後荀攸を名乗る人物は存在しないということになる。恐れ多いなどとは言っていられない。拓実は動揺を押さえ込む。

 

「……ええ、わかったわ。それでは桂花、季衣。これよりその名、名乗らせてもらうわね」

「いえ! 華琳様よりの頼みでしたし、拓実様のお役になれたのであれば幸いでございます!」

「大丈夫だよー。 えーっと、それじゃこれからはボクの真似している拓実さまのことは『姉ちゃん』って呼ばなきゃいけないよね。あははっ。拓実さま、男の人なのに姉ちゃんとか変なの」

「ありがとう、桂花。季衣、そうよね。男なのにおかしいわよね」

 

 調子を持ち直していた拓実は華琳らしく涼やかに笑って見せたつもりだったが、実際の笑みは引きつっていた。別に好んで女装をしている訳ではないのだが、今の自分の状況は変態と言われて当然なのだと改めて認識させられたからだった。本当は落ち込んでしまいたいが、華琳の姿をしている手前、そのような姿を見せるわけにはいかない。

 そんなことよりも、拓実は今聞いておかなければならないことがあることに気がついた。

 

「華琳。少し質問させて頂戴。その『荀攸』『許定』なのだけれど、真名については二役とも『拓実』と定めてしまってもいいものかしら」

 

 真名――真の名。これだけは、偽ってはならないものである。大陸出身であれば当然に真名を持っていて、その経歴を名乗る拓実もまた真名がなくてはいけない。生憎、日本生まれの拓実は姓と名しか持っていないから必然的に二役の真名も『拓実』となってしまうのだが、同じ名ということに問題が生じないかどうか。違う文化圏で育った拓実には判断をつけることが出来ない。

 そんな拓実からの質問を受けて、鼻白んだように華琳は顔を向けてくる。

 

「何をそんな。役になりきっていたって、貴方の真なる名は一つしかないのだから当たり前でしょうに。……ああ、そういえば貴方、大陸出身ではないと言っていたわね。別に真名といっても重複してしまうことはいくらでもあるわ。ま、拓実の演技力にも拠るけれど、怪しまれることはない筈よ」

「そう。それならば何も問題はないわね」

 

 挑発的に声をかける華琳に対し、半ば意地となった拓実は余裕の笑みで切り返す。華琳は当然堪えた様子もなく、満足そうに笑みを深めるだけである。

 

「ともかく、拓実は基より、内情を知っている他の者も慣れるまでは応対に苦労するかもしれないわ。しかし、これも我らが覇道を磐石のものとする為の足がかりと考えて、各自励んで頂戴」

『はっ!』

 

 華琳の声に、再び四人の声が揃った。

 

「先に伝えたとおり、この召集で遅れた分の仕事は明日以降で構わないわ。先立って明日の朝議で主だった部下に荀攸の顔見せをするから、拓実は忘れないようになさい。許定についてはとりあえず未定よ。各々、任されている仕事に戻りなさい。では春蘭」

「解散っ!」

 

 華琳からの一通りの伝達が終わった後、春蘭の号令がかかった。四人が華琳へと一礼すると、それを境に空気が緩んでいく。

 

 

 

 

 

「拓実さま! それじゃさっそく服屋さんに行きましょう!」

「季衣、ちょっと待ちなさい。荀攸としてでないと、私は外に出ることは出来ないのよ?」

「あ、そうでした。それじゃ、先に着替えてからですよね」

「おい待て二人とも! 拓実には話しておかなければならんことがあるのだ!」

「それじゃ、春蘭様も一緒に行きましょうよ」

「む……そうだな。季衣と拓実ではいささか不安だ。仕方がない、私もついていってやろう。幸い、兵の調練は午前に終わらせてあるからな」

 

 そんなやりとりをしながらも拓実と春蘭は笑顔の季衣に腕を取られて連れられて行く。仕方がないといった表情を浮かべながら、拓実はなすがままにされていた。

 そのやり取りだけ見てみれば微笑ましい光景であったが、華琳の姿でそれをしているのを考えると少しばかり不自然であった。流石の季衣だって華琳が相手ではああまで気安くは出来ない。他の者と比べれば最低限ではあったが、季衣も臣下として線引きをしている。

 そんな光景をじっと眺めていた華琳に、横合いから桂花から声が掛かった。

 

「華琳様、あの、よろしいでしょうか」

「どうしたの、桂花?」

 

 振り向いた華琳より返事を受けた桂花は姿勢を正す。先の失言もあってかどうにも声がかけにくそうにしていたが、恐る恐るという風に口を開いた。

 

「いえ、その、いくらなんでも拓実に手を掛け過ぎているのでは、と愚考いたしまして。あくまで拓実は影武者です。そうまでして、手を尽くす必要はないのでは……」

「……私も桂花と同じことを考えておりました」

 

 桂花に追随するように秋蘭が賛同の意を示す。秋蘭にも、華琳の拓実に対する熱の入れようは不自然に思えた。

 他ならぬ華琳の影武者を任せるのだから高水準の能力を持たせなければならないのはわかるが、華琳の動きはあまりに性急すぎるように感じる。少なくたって一ヶ月やそこらで身につくような、そんな話ではない。今回の話にしても、拓実に基礎を積ませてからでも遅くはなかっただろう。むしろ、今のまま将軍、軍師として放り込んでも何の役に立たない可能性の方が高い。

 

「そうね。確かに少し、急ぎすぎているかもしれないわ」

 

 あっさりとそれを認めた華琳に、桂花、秋蘭両名は言葉を返せない。

 常人とは一線を画す華琳の思考を読むことは容易ではない。現に二人は、華琳が何を考えているか検討はついてはいない。だが二人は、華琳の態度から胸の内をじりじりと炙られるような、妙な焦燥感を感じていた。今の華琳を見ていると、何故だか不安に駆られてしまう。

 

「……拓実ならば覇道を、私が胸に描いているものと同じ道程で辿ることが出来るでしょうね。ただ、今は圧倒的に力が足りていない。それでは万が一の時に、代わりを務めるなどは出来ないでしょう」

「華琳、様?」

「いったい何をっ!」

 

 二人はその発言に、驚愕を露にする。影武者という役割をこなす力量について、と本来取れる華琳の発言。しかし、それを素直に飲み込むには、あまりに異物となる言葉が多すぎた。

 ――『拓実ならば華琳が描く覇道を進むことが出来るだろう』『万が一』『華琳の代わりを務める』

 これらは、あまりに不吉な言い回し。

 

「華琳様、それはまるで――――」

「ふふっ、馬鹿ね。何を驚いているのよ、二人とも」

 

 秋蘭の続く言葉を遮るように、笑みを浮かべて声を投げかける華琳。この時、先に感じた触れれば消えてしまいそうな儚さは、華琳から消えていた。元からそんなものはなかったかのように、残滓すら残していない。不世出の英雄、覇王たる華琳がそこにいる。

 

「万が一、というのは、起こったりはしないから万が一と言うのよ。我が覇道は、大陸を平定するその時まで決して途絶えたりはしない。我らの歩みを止められる者などはいない。そうでしょう?」

「はっ!」

「左様にございます」

 

 いつもの華琳より自信に溢れた宣言を聞いた秋蘭と桂花は、心底安堵したように笑みを浮かべて肯定の声を上げた。そんな二人を見て、華琳もまた微笑を浮かべる。

 

「それでは、貴女たちもそろそろ仕事に戻りなさい。いくら遅れることを許したといっても、一日以上の遅延は認めないわよ」

「御意に」

「はいっ! それでは華琳様、失礼致します」

 

 退室していく二人を眺める華琳。もう、玉座の間に華琳以外の人影はなくなった。華琳もまた入り口へと歩みを進める。

 そうしてふと立ち止まり、華琳は、部屋の中央――玉座へと振り向いた。

 

「志半ばでこの道を途絶えさせるなど、我らには許されない。私の下で散っていった者たちの為にも、例え何があったとしても止まってはいけないのよ」

 

 



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11.『荀攸、陳留を見て回るのこと』

 

 

 自室へ戻った拓実は、季衣への説明の為に着ていた華琳の服から桂花のものへ着替え直していた。今しがたまで着ていた服は綺麗にたたんで、桂花の服と入れ替えるように竹で出来たつづらのような箱へとしまっておく。

 演技に使う衣装は目に付く場所に保管しておく訳にいかないのだけれども、どうやらこの時代、箪笥(たんす)のような戸棚の類は一般的には普及していないらしく、大抵はこうして竹かごや竹で編まれた箱に入れて保管しているようだ。鍵も掛けられない為に不安ではあるが、こちらに来て日が浅く私物も少ない拓実に出来ることは知れている。せめて竹かごではなく蓋のあるつづらを使い、教材にと渡された竹簡を蓋の上に乗せておくことくらいだ。

 

 桂花の服に袖を通した拓実は、巻き毛のウィッグを外して、団子状に結んでいた髪の毛を解いて整えていく。それらを手馴れた様子でこなしながら考えているのは、これからの自身の生活についてである。

 昨日今日と実際に華琳や桂花に扮装してみて、これから演技をしていく上での問題点のいくつかを洗い出すことが出来た。いずれも拓実が影武者の秘密を抱えて過ごす間は付きまとうものであり、それらは早い段階で解決していかなければならなかったことだ。

 

 桂花の演技をしながらの調練で一つ目の不都合があった。演技をしている際、演じる人物にとって不似合いな行動をとる意欲を削がれてしまうこと。これは拓実とは違う思考傾向なために、演じる限りはどうにもならないことだ。今回は桂花の姿での武術であったが、見るからに運動を得意とする元気な季衣の姿で勉学に励むというのも難しいのだろう。

 二つ目は、演技中の第三者への振る舞い方である。先の通達が出るまで『拓実の存在自体を秘匿する』という方針であったが為に、知らない相手であっても桂花の役柄を演じなければならなかった。いくら心情・仕草・声色までを拓実が努力して真似ようと、身長や髪色まではどうしようもなく、また相手が誰だかわからないのに桂花本人と違わずに演技をするというのは不可能である。

 そして最後に、食事等の生活する上での不便。これは上と重なってしまうが、存在を知られずにいるには普段から人目につかないように生活しなければならない。いくら上層の人間しか入れない区画に個室を与えられたといっても、そこに出入りできる全ての人間が拓実の事情を知っているわけではない。それを防ぐならば自然と拓実は自室に篭もることになり、食事や講義は拓実の私室のみで行われるようになるだろう。そうなればただでさえ人手が足りていない状態だというのに、周囲に更なる負担をかけさせてしまう。

 とりあえずそれらについては架空の人物を仕官させるということで解決を見せたのだが、どうにも拓実は不安を覚えている。今の自身の環境は、一つの嘘をつき通す為に、更に多くの嘘をつかなければならない状態とでも言えばいいのだろうか。そしてこれから先も、拓実は多くの嘘を重ねていくだろう確信がある。事前にそれらについて覚悟していたつもりの拓実であったが、胸の内から湧いてきた後ろめたさを拭いきれないでいた。

 

 また、拓実が不安に感じていることは他にもあった。というのも、これから桂花の演技をしている拓実が『荀攸』なる人物として扱われることである。

 見ず知らずの、性格すらも知らない荀攸という人物になりきれという訳ではないので演技については心配していない。あくまで拓実は桂花を基準として振舞えばいい。それどころか、桂花とは別人として扱われる為、むしろ違いがあったほうがいいぐらいなのだから心情的には気楽なものだ。

 拓実が気に掛かっているのは、過去に荀攸の名を持っていた人物が今尚存在していることである。これによって拓実の正体が露見し得る、はっきりとした可能性が生まれてしまった。

 過去に荀攸を名乗っていた荀諶が、拓実の存在を知ったならばどう思うだろうか。名が同じというだけならば偶々同姓同名であったということになるだろうが、その人物が桂花と同じ姿をしていては偶然では済まされない。自身と同じく軍師、文官として働く者が、同じ名を名乗っているとなれば興味を引くには充分だろう。もしも会うことがあったなら、どう対応すればいいものなのか見当も付けられない。

 

 恐らくあの聡明な華琳のことだから、余程のことがない限りは『影武者』が露見する危険を冒してまで拓実を表舞台に出したりはしない筈だ。

 あくまで『荀攸』『許定』の二つの役柄は、拓実がこの陣営において働くための設定作りであるからこれらの名が大々的に外に流出することはないだろう。だから、本来の荀攸と拓実が顔を合わせるような、そんな場面はこれから先にも訪れないかもしれない。

 しかし、もしそんな場面が訪れたと想定した時、事前に心構えをしておかなければきっと拓実は固まって動けなくなってしまう。信用してくれている華琳の為にも、拓実がそんな無様を晒すわけにはいかない。杞憂で終わってくれるのならばそれでいい。しかしよく言われている『万が一』という言葉でさえ、起こり得る事であるからこそ世に生まれ出たのだ。ただでさえ不安定な立場にいるのだから、用心するに越したことはないだろう。

 

 

 

 

「すごいわね……」

 

 拓実は周囲の喧騒を眺め、思わず呟いた。最初に訪れた寂れた農村しか知らない拓実は、目の前の光景に圧倒されていた。

 異国の文化というのもあるのだが、拓実が漏らした言葉は目新しいと感じてのものではない。拓実が知る現代の街と比べるならば、規模や造りとしては劣っている。だがそれを補って余りあるほどに、ここ陳留の街は活気に溢れていた。時勢柄、跋扈(ばっこ)する賊や、権力争いに荒れ弱体化した朝廷、害虫の大量発生による飢饉など民草が不安となる材料は事欠かない。しかしこの街に限って言えばそれらは影を潜めていた。もちろん完全に拭いきれるものではなかったが、治世者の手腕によってその多くが緩和されているのだろう。

 

「当たり前だ。他ならぬ華琳さまが治めておられる街なのだぞ」

 

 その呟きを聞き取ったか、拓実と季衣を引き連れるようにして歩いていた春蘭が振り向いて我が事のように胸を張る。この民の活気を見ていれば、拓実もそれに素直に頷くことが出来た。

 

「でも、最近は窃盗とか増えてきているんですよねー。街の人たちはそれでも他のところよりは全然治安がいいって言ってくれるけど、警備の人が足りてないって秋蘭さま言ってましたし」

 

 唇を尖らせて声を上げているのは拓実の隣を歩いている季衣だ。それを受けて笑みを浮かべていた春蘭が渋面を作った。

 

「むう、しかしいつでも目を光らせておくわけにもいかんだろう。私や季衣も手が空けば警邏(けいら)には出ているが、そればかりをしてもいられんし。そうこうしていても領民は増えるばかりで、対処が追いつかないのが現状だ。どうしたものか」

 

 歩きながら拓実が周囲を見渡すと、民の中でも笑顔を浮かべている者が多く目に留まる。だが確実に、ぼろきれを纏う痩せ細った者たちが街の隅に居ついているのも目に入った。

 華琳の統治は、確かにこの大陸全土を見回してみても素晴らしいものだった。街の外に区画した畑を作り、働く意欲のある民を宛がって無職者を減らすその傍ら、積極的に治安向上に努めて民が過ごしやすい環境を作る。職人を引き入れて生活必需品を絶やさないようにし、また生産が盛んだからか外からの商人も多く足を運んでいる。自然と活気に溢れ、民の不安を和らげる環境が作り上げられていた。税率を上げて私腹を肥やすばかりの他の領主は華琳と並べて比べるにも値しない。

 そんな華琳の治世者としての評判を聞きつけ、陳留に外から多くの流民が入ってくるようになるのは当然といえた。そのほとんどは職や安定を求めて街の発展を促してくれているのだが、しかし中には不信者が紛れ込むこともある。それに、人口が増加すれば比例して犯罪や揉め事が増えてしまうのも道理であった。

 犯罪が増えれば、治安も悪くなる。治安が悪くなれば、犯罪もまた増える。完全に取り締まることなどは出来もしないことだが、どこかで歯止めをかけなければ悪化の一途を辿るだろう。

 

「そう……」

 

 それらの言葉を受けて、拓実は顎に手を当てた。そのまま軽く伏し目がちにして考え込む。

 春蘭と季衣は頻繁に見る機会があった為、逆に違和感なく受け止めてしまっているが、拓実が何気なく行ったその思案する仕草は、桂花が先の軍議において拓実の家名を考えていた姿とまったく同じものであった。

 

「華琳様がどうお考えになられているか確かめないことには何とも言えないけれど、職に困った者を警備に引き込むことは出来ないの? 雇用する上でどうしたって費用は出てしまうけれども、給金が出れば犯罪に走る者も減るだろうし、警備に人も入って治安も回復するでしょう。春蘭、貴女はそれらについて何か聞いている?」

「む? う、うむ。三日ほど前に、似たようなことを桂花の奴が華琳さまに進言していたような気が……しかし、どうだったか」

「あ、拓実のとはちょっと違いましたけど、言ってましたよね。えーと、『仕事があれば食べ物も買えて、悪いことをする人も減ることでしょう』でしたっけ。確か華琳さまは、『お金がないから無駄を省きなさい。そのお金で仕事を作りなさい』って文官の人たちに言ってたと思います。だから桂花たち文官の人が国の中のことを急いで調べているらしいですよ。それでも、華琳さまは他にもいくつか仕事を用意して、働く人を募集しているみたいですけど」

「おお、そうだ。確かに華琳さまは仰っていた。正しくは『現状、新たな事業を起こすだけの余裕はないから無駄を省いて、費用を捻出しろ』だったな」

 

 自信なさげに声を上げた春蘭を助けるように季衣が繋ぎ、それをまた春蘭が補足する。それを聞いた拓実は小さく息を吐いていた。内心で密かに気合を入れていたのだが、肺の中の空気と一緒にそれらが抜けていった。

 

「そうよね。これぐらいは誰でも考え付くことだから、実施されていない筈がないわよね。ならとりあえずは資金面を何とかしないといけないということかしら。それらを調べるにもまず、私は文字を読めるようにならないといけないのだけれど」

 

 対策がとられてないのなら進言するべきか、とまで考えていたのだが、考えてみれば拓実が考え付く程度のことを桂花が実行していない筈がないのだ。しかし、今回のは発案というにはあまりに稚拙ではあるが、拓実は今の時点であるなら間違いなく武の方面よりもこういった内務関連の方が力になれる気がしていた。

 桂花の思想に(なら)っているのも手伝ってか、頭を働かせることに楽しみを見出しつつある。政治などの知識はあまり熱を入れて学んだわけではないが、それでもこの時代に生きる人間とは違った発想をすることが出来るかもしれない。

 少しは華琳の期待に応えることが出来るだろうか。兎にも角にも、拓実はまず漢文を読めるようにならないとどうにもならないのだけれど。

 

「口頭で草案だけ上げるなんて華琳様はお許しにならないでしょうし、一刻も早く文官として働ける様にならないと。こんなところで躓いていたら、いつまで経っても華琳様のお役に立つことができないわ」

 

 小さく握り拳を作って、拓実は薄く微笑む華琳の姿を思い浮かべる。あの華琳に認められる仕事が出来たら、と考えると、頑張る意欲がどこからか湧いてくる。自然と、拓実の頬も緩んでしまう。

 いくら思考傾向まで模倣しているといっても、拓実自身は桂花ほどには華琳を敬愛しているわけではない。桂花のように命を賭けてまで華琳に仕官をしようなどとは思えないし、もし現代日本に戻れる方法が判明すれば、役目をこなしてからという前置きはつくが故郷に帰ることを選ぶだろう。それでも、華琳命の桂花になりきって演技が出来るぐらいには、拓実も華琳に参ってしまっているのだ。

 

「……ほへぇ~。ほんとに桂花みたい」

 

 そんな拓実の様子をぼんやりと見ていた季衣は、両目をまん丸に開いていた。

 

 

 

「それにしても、季衣は思いの外しっかりしてるわね。こういう話ならば、春蘭より頼りになるかもしれないわ」

 

 鼻歌を歌いながら軽やかな足取りで隣を歩く季衣を見て、拓実は率直な気持ちを吐露していた。あくまで春蘭と比べて、という前置きはついてしまうが、今のやりとりから拓実がそう感じたのは確かだった。

 秋蘭が言っていたことなのだが、春蘭も策や進言などについて決める時はしっかりと決めてくれるという話である。しかし、いかんせん普段が足りていない。記憶力は興味の範疇にないから働いていないのだろう。現に桂花の進言は覚えていなくても、華琳の返答についてはしっかりと記憶していた。潜在的には水準以上の思考能力を持っていると思うのだが、発揮されることは滅多になさそうだ。

 

「えっ、ホント? 華琳さまに言われて、桂花に勉強教えてもらってるからかなー? 桂花にはまだまだ、『教えたのと違うでしょ』って怒られちゃうんだけど」

「励めば、それだけ華琳様のお力になれるのだから恥じることはないわ。季衣は華琳様に言いつけられたことをこなして、自分を磨いて邁進すればいいのよ」

 

 恥ずかしそうにはにかむ季衣を見て、拓実は口元を緩める。力仕事ばかりでこういった方面で褒めてもらった経験がないらしく、照れくさいらしい。

 そうして拓実が顔を前に向けると、春蘭が会話に混じらずにとぼとぼと歩いているのが視界に入った。拓実からだと背中しか見えないのだが、どうにもこういった話題だと居心地が悪そうだ。

 

 先の話と関連しているのだろうが、やはり春蘭は政務などの頭を働かせる仕事を苦手にしているようである。恐らく体質的にも実際に動いて見せる方が苦痛を覚えないのだろう。普段の春蘭の様子では内務関係は捨て、兵の訓練や、戦場で武勲を立てることに全てを賭けているのかもしれない。

 比べて季衣は今からしっかりと教えていけば、内政面でもいくらかの活躍が出来るかもしれない。現状、春蘭と同じ方向に大きく傾いているが、まだ年齢的に見ても頭を使うことに面白味を覚えれば矯正も可能な筈だ。春蘭と同じで体を動かしている方を好んでいるようだけれど、内務にしてもやれるに越したことはないだろう。

 

「はぁ……春蘭。貴女の武については認めてもいいけど、もう少し他の事も真剣に取り組んだらどう? この様子じゃ貴女に回ってくる内務関係の仕事は秋蘭に任せっきりなのでしょう。彼女の苦労が見て取れるわ」

「な、何故わかったのだ!?」

 

 前を歩いていた春蘭が勢いよく振り返る。本当に驚愕しているらしい春蘭を、拓実は思わず呆れた表情で見やってしまう。

 

「普段の言動からの半ば当てずっぽうだったのだけれど、その返答が何よりの証左ね」

「あ、いや、半分のその半分くらいは自分でやっているぞ?」

「そういう問題じゃないわよ。少しは物を考えて喋りなさい、って言ってるの。そんな言動をしているから、直ぐに看破されてしまうのよ」

「……なんだとぉ!? きさま、誰が脳筋だっ!!」

 

 少し考えている風であったが、どうやら春蘭はそれを侮蔑の言葉と取ったらしい。

 拓実はその様を見て、冷ややかな目を作った。考えてから話せと今言ったばかりだというのに、これでは聞く気があるのかどうかも疑わしくなってしまう。

 

「あのねぇ、誰もそこまで言ってはいないでしょうに。そんなことだから桂花に脳筋女だなんて言われるのよ。それに、自覚しているのなら少し行動を改めたらどうなの?」

「くっ! おのれ、小馬鹿にしおって! その仕草、桂花そっくりで無性に腹が立つぞ!」

 

 『自分には無理だなんて思っていたら、出来る筈のことも出来やしない。出来ないなら努力をすればいい』――拓実はそんな風に考えて忠告したつもりだったのだが、そうは受け取らなかったようだ。

 

「別に、私は春蘭を馬鹿にしているつもりはないわよ。少し物事を考えるようにしたら、と言っただけじゃない」

「そういう上から見るような、偉ぶった態度が馬鹿にしているというのだ!」

 

 拓実の言葉を受けて、更にいきり立つ春蘭。怒りで顔を赤く染めて、直ぐにでも拓実に飛びかかりそうな様子である。

 何故こうなってしまったのだろうかと拓実は自身の発した言葉を思い返していく。けれども、どの言葉が春蘭の勘気に触れたのかいくら考えてみても拓実にはわからない。桂花らしく、しかしいくらか言葉の角を落として言葉を交わしていくうちに、何故か春蘭と口論になっていたのだ。当たり前だが拓実には春蘭に喧嘩を売ろうだなんて無謀な企みはなく、今回の事はあくまで善意から助言していたつもりであった。

 

 実際のところ、拓実の考えは的が外れている。言葉の使い方が問題ではない。

 毒舌で、智を軽んじる者を見下す傾向にある桂花が、春蘭を思って助言をすることなんて今日まで一度もなかった。いや、中にはそういった意図が含まれていた発言もあったかもしれないが、多くの毒に埋もれてしまってそれは最早助言とは言えない代物だったろう。そんな振る舞いをしている桂花と同じ姿、声、仕草で、自身の行動を僅かにも否定的に言われれば春蘭にとっては嫌味としてしか受け取れないのだ。そこに含まれている善意など読み取れるわけがない。

 二人が積み上げてきたものもあるが、桂花と春蘭は根本的に相性が良くないのである。どうやらそれは演技をしている拓実であっても変わりはないようだった。

 

「もー! 何で二人ともすぐケンカするんですか! 華琳さまだって次やったら許さないって言ってたじゃないですか!」

 

 別に喧嘩する気など毛頭ない拓実がさてどう収めたものかと考えていると、季衣が横から割り込んだ。春蘭に向いて、拓実を庇うように立ち塞がる。

 

「む……。いや、しかし華琳さまに言われたのは桂花とのことで、今目の前にいるのは拓実であってだな……」

「しゅ・ん・ら・ん・さ・ま! 今日は拓実に街の案内をする為に来たんですよ!」

「わ、わかった。わかったから季衣、そう怒ってくれるな」

 

 尚も言い募ろうとする春蘭を、「フー!」と威嚇する猫のように季衣は睨みつけた。流石の春蘭もそんな季衣には強く出ることが出来ないのか、困ったような表情になって言葉を収める。

 

「まったくもう。いっつも二人ケンカするんですから。華琳さまに止めるように言われるボクの身になってくださいよ。拓実もだよ。何もここまで桂花とおなじじゃなくてもいいのに」

 

 何やらぶつぶつと文句を呟きながら先を歩いていく季衣だったが、何かに気づいた様子で足を止める。次いで、確かめるようにきょろきょろと辺りを見渡すと、道をいくらか戻って一つの店を指差した。

 

「あはは……ボクがいっつも行く服屋はあそこでした」

 

 どうやら目的の店は、大分前に通り過ぎていたようだ。店の前を通った時に着いたと言ってもらえれば、春蘭と言い争いを中断することは出来ただろうに。

 そう思う拓実ではあったが、しかし季衣が無理矢理に作った笑顔を見るとそれについて言及する気は起きなかった。

 

 

 

 たまたま気が向いて入ってみたら母親が(こしら)えてくれた服と似た服を売っていた、そんな理由で季衣はこの店を利用しているとのこと。街の警邏をしているうちに他の服屋を見る機会があり、値比べしてここが一番安いと知ってからは他では買わなくなってしまったようである。

 とはいえ、話を聞くところによるとどうやら季衣はこの店にはそんなに足を運んだりはしないようである。そもそもあまり服を買ったりはしない様子で、たまに行くその数少ない機会を全てここで済ませているそうだ。服にかけるお金があるなら食べ物にかけると豪語する季衣であるから、その他にかかる出費は安いに越したことはないのだろう。

 

 さてその店内だが、一言で言うならば大衆向けと言ったところだろうか。気取った感じはなく、内装なんて民家のそれと大差がない。店内には木で模った人形が並んでいて、それには見本が着せられていた。

 平机の上に折り畳まれたものが実際に売られている商品のようで、系統として動きやすい普段着に着るようなものばかりだ。壁に設えられている棚には上着の類がまとめられていて、奥には一室だけだが試着室らしき個室まで用意されている。

 敷地はそう広くなく、十数人が入店すれば奥にいる客は身動きが取れなくなるだろう。夕方に差しかかろうとしている時間帯だったからか客は他に二人しかいなかった。

 

「……でたらめだわ」

 

 拓実は店内を歩き回って商品を眺めていたのだが、見て回れば回るほど自身の常識が揺らいでいくのを感じていた。

 主力商品は前で合わせる着物のような、麻などの素材で作られた簡素な服らしい。実際に街を歩いている民のほとんどが着ているのはこれである。ここまではいい。しっかりと調べたわけではないので自信はないけれど、恐らく不自然なものではないだろう。

 しかし高価ながら、シャツやらズボン、スカートにワンピースやらも混じっているのはどういったことなのだろうか。それらは製法こそは荒いが、造り自体は現代の物とあまり変わりがない。本当にここは二千年近くといっていいほど過去にあった中国なのか。

 ついでに言うなら、男なんて知るかといわんばかりの品揃えで、充実しているのは女物の服ばかりである。

 

「どう、拓実。何かいいのあったー?」

 

 丁度いい機会だからと季衣も服を買うことにしたらしい。いつ選んだのか今着ているものと同じようなシャツを両手に抱えていた。ついその値札を確認してしまったが、他と比べてもとりわけ高いものでもなさそうだ。

 春蘭はどうしたのかといえば、何やら熱心に三枚セットの下着を眺めている。彼女もとくに服装に頓着しないようで、安ければいいらしい。内心、それでいいのかとも思うが性別の違う拓実がとやかく言うことでもないだろう。

 それよりも、ブラジャーの類やゴム製品らしきものがあることのほうが驚きである。

 

「そこそこ着れそうなものもありそうだけど、買わないわよ。今日はあくまで、品揃えを見に来ただけだもの」

「えぇー、どうして? せっかく来たんだから買っちゃえばいいじゃん」

 

 拓実としても、そうしたいのは山々ではある。この店の服はどれも、季衣のイメージにあったものばかりであるし、肌を露出しないものもちらほら見られた。揃えられるのなら今買ってしまいたいのは確か。けれど、そうはいかないやんごとなき事情があった。

 

「無理よ。だって、私お金持ってないもの」

 

 そう、なぜなら拓実はお金を持っていない。支度金を貰ってはいないのだから、当然である。

 働くことが正式に決まったのは昨日のことであり、食事に住居と先払いの形で与えられ、その上でお金もとは言い出せなかった。そして着の身着のままで倒れていた拓実は換金できそうな物も持っておらず、ここで使われている通貨すらどういったものなのかも知らないでいる。無い袖を振ることは出来ない。

 

「あ、そっかー。それじゃボクが貸してあげよっか?」

「いいわよ。借りるのも悪いし、お給金を貰ってからまた来るから」

「むー。拓実がそう言うなら、ボクも無理には言わないけどさー」

 

 季衣は頬をぷくっと膨らませて不満そうに見てくるのだが、拓実としても簡単に折れるわけにはいかない。

 恐らく服を購入するぐらいの給料は貰えるとは思うのだけれど、いつ貰えるのか、そしてどれほど貰えるのかわからない。当てがあるとは言いがたい状態なのに、易々と金銭のやり取りはしたくはなかった。ましてや相手は今日知り合ったばかりの、拓実より年下に見える少女である。

 何とか季衣の申し出を断ったところで、いつの間にか近寄っていたのか、春蘭が横から顔を覗かせた。

 

「拓実よ。すっかり言うのを忘れていたが、代金については心配せんでいいぞ。服を買う金は私が預かってきたからな」

「……はぁ? どういうことよ」

「どういうことも何も、聞いていなかったのか? お前に話しておかなければならないことがあると言っただろうに。桂花の服が一着あるだけではどうにもならないだろうと、華琳さまが用意してくださったのだ。お前が今着ている桂花の服でだいたい五着分は買えるぐらいか。経費としてのものだから服以外には使えんがな」

 

 ほれ、と春蘭に差し出された物を反射的に受け取る。小さな麻の袋だ。ずっしりと重い。

 

「これが華琳さまから渡された支度金だ。無駄遣いは許さんからな」

「……はぁ。わかったわよ。それよりあるならあると言っておいて欲しいわね」

「仕方が無かろう。話す機会がなかったのだ」

 

 今しがた「忘れていた」とはっきり春蘭の口から発されたばかりだったが、ここで蒸し返して春蘭と言い争いになるのも馬鹿らしい。ここは一つ拓実が大人になるとして、渡された麻の袋の中身を覗く。

 

「へぇ、ちゃんと金属で造幣していたのね」

 

 中に入っていたのは硬貨で、円の真ん中に四角の穴が開いてある。その穴に紐を通し、十枚だか百枚だかのきりのいい数でまとめてあるようだ。

 

「……季衣」

 

 それらを興味深く持ち上げたり、ひっくり返したりと一通り確認した拓実は、「拓実にはどれがいいかなー」などと呟きながら棚のシャツを眺めていた季衣に呼びかける。お金を渡されたはいいのだが、どうにも扱いに困っていた。

 

「ん? なーに? 買うの決まったの?」

「違うわよ。このお金、あなたに預けておくから私の分と一緒に会計してもらえない? 残りを華琳様に返すようにすれば同じことだし」

「えっ!? な、なんで? 拓実は拓実で買えばいいじゃん。わざわざ一緒に買わなくてもさ」

「異国出身の私じゃ、これがいくらあるのかもわからないもの。数字くらいは読めるけれど、肝心の貨幣がどれだけの価値があるかわからないわ」

「そ、そっかー。それじゃ、ボクがお金の種類、教えてあげるよ。ね?」

「それは助かるけど、別に城に帰ってからでもいいでしょう。ここで時間をかけてもしょうがないし、今日のところは季衣が払っておいて」

「……え~っと」

「季衣?」

 

 目をあちらこちらへと泳がせていた季衣は、両手の人差し指同士を胸の前で合わせてにっこり笑った。

 

「えへへ……。実はボク、計算がちゃんと出来なかったり、して」

 

 ――結局、拓実はその場でお金の種類と価値を教えてもらい、会計を済ませることになった。加えて言うならば、春蘭も計算は得意ではないようで、頼もうと声をかけたら「外で待っているぞ」と言い残して外へ出て行ってしまった。

 帰ったらまず、春蘭と季衣には早急な教育を施すように華琳に具申しなければならないようである。拓実は服を抱えながら、大きくため息をついた。

 

 



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12.『荀攸、朝議に参加するのこと』

 

 視界がぼやけてきた拓実は、出来るだけ目立たないようこっそりと目元をこすった。眠気もそうだけれど、どうにもこの空間は目が疲れていけない。周囲の煌びやかな内装、そして赤や橙を基調にしたこの部屋は目覚めて間もない拓実の目には少々刺激が強い。

 さらに、刺激という点でいうならば身体のあちこちから疼く鈍痛の方も負けていなかった。身じろぎをするだけで身体が引きつりそうになる。予想通りというか、前日の調練で酷使された筋肉が一夜明けて不満を訴え始めた為、起きて着替えるにも一苦労だったのである。

 ともかく桂花と同じ服を着た拓実は筋肉痛を押して謁見の間にあった。そして『荀攸』として紹介されるべく、他より三段ほど高い位置にある玉座の隣に立たされている。おそらくもう数分もすればその主である華琳が入場し、数日置きに行われているという朝議が始まることだろう。

 

 主である華琳に指示されて玉座の横で待つことになった拓実なのだが、到着から一分を待たずしてかつてないほどの居心地の悪さを覚えている。というのも、入場してから朝議を控える者たちの視線を受け続けているのだ。瞑目して待つ桂花や秋蘭を除けば全員に注視されていると言っていい状態である。単に前方にいるということもあるだろうが、原因は桂花と酷似しているその容姿に違いない。誰も彼もが桂花と拓実を見比べている。そんな中にいるから、拓実は正面を向くことが出来ない。どこに顔を向けても誰かしらと視線が合ってしまうために、猫耳フードを目深に被ってうつむき目を瞑ったまま、ただ時が過ぎるのを待っていた。

 

 表面上こそ周囲に興味を示していない澄ました様子でいる拓実であるが、たびたび前で組んでいる両手を無意識に組み替えている。

 大勢に注目されることには演劇で慣れていたが、どうにもそれとは勝手が違う。壇上に立たされ一人で芝居をしろというならいくら注目されようと困ることはないのだけど、衆目を集めたままただ立ち尽くしていなければならないとなるとどうしていいかわからない。人の目がこんなにも落ち着かないものだったとは拓実は知らなかった。

 結果、華琳が来るまでは決して切り替わることがないだろうこの異様な空間から一刻も早く開放されたかった拓実は、考え事に耽ることにしたのだった。何かに集中していれば時間も早く過ぎたように感じるだろうと、それが現実逃避だと自覚しながらも昨日のことを思い返していく。

 

 

 

 ――服屋でのやり取りの後、拓実は渡された硬貨の価値を把握するのにいくらかの時間を掛ける事になった。

 硬貨は王朝由来のものと地方で製造されたものがあり、ここ陳留にもいくつかの種類が流通しているらしい。重さや大きさもまちまちで、それぞれ価値が違うようである。時々で価値がいくらか変動するようではあったが硬貨の種類とおおまかに物価を教わり、ようやくといった体で会計を終えた頃には空は赤く染まっていた。

 その後季衣が楽しみにしていた点心を売っている店にも足を運んでみたのだが、既に完売してしまっていたらしく営業を終えていた。見回してみれば周りの店もちらほらと店じまいしていて、大通りも閑散とし始めており、これでは街案内もないだろうと後日に延期して城へと帰ることにしたのだった。

 

 その帰り道。お腹を空かせた季衣の提案により、彼女が食べ歩いて見つけたというラーメン屋の屋台に寄ることになった。出てきたラーメンは屋台ということもあり上品とは程遠いものであったが、食べ歩きをしている季衣が太鼓判を押すだけのことはあった。二、三人前の鍋と見紛うほどに大きい器から尚溢れそうなほどの具に、成人男性でも一杯で腹が(ふく)れるぐらいに麺は大盛り。

 美味しかった。そう拓実は記憶しているのだが、肝心の味付けについてしっかりとは思い出せないでいる。何故思い出せないのか、その原因はわかっていた。ラーメンの味よりも、鮮烈に記憶に刻まれた出来事があったからだ。

 

「丁度いい、お前たちの任官祝いだ。奢ってやるから、好きなだけ食え」

 

 店につき、注文して出てきた大盛りのラーメンを見た春蘭はこんなことを言い出した。恐らく出てきたラーメンの量を見てそんなことを言い出したのだろうが、今思えばその発言は迂闊としか言いようがない。

 その言葉を聞いた季衣の食べっぷりは、圧巻の一言に尽きた。拓実でも食べきれるかどうか。少なくとも一杯で満腹になるだろうそれをぺろりと平らげる。かと思えばすぐさまにおかわりをするのだが、しかし胃袋に送られているのか疑問になるほどに落ちない食事のペース。そうして一連の動作が繰り返され、積み重なっていくスープすらも残っていない器、器、器。

 その内容量は小柄な季衣のその胃袋に収められるものではなかった筈だ。しかし現実に拓実の目の前ではどんどんとラーメンが季衣の口の中へと消えていく。季衣の前に空の器が増えていくのに気づいた春蘭は三杯目を食べていた手を止め、それが止まる様子を見せないと知るや顔を青くすることになった。

 かなりの空腹だった拓実が一杯をようやく食べ切ることが出来た時、季衣は同じもの七杯を完食していた。その後も季衣の食欲は衰えるところを知らず、結局その日の季衣の戦果は十一杯。拓実は一杯、春蘭は三杯となる。『安い』『多い』『美味い』の三拍子揃ったこの屋台であっても、合計で十五杯分ともなればいい金額になっただろう。満面の笑みを浮かべて満足そうにお腹をさする季衣を前に、気丈に余裕な顔を取り繕った春蘭が何だか印象的な日だった。

 

 

 

「華琳様、ご入来!」

 

 秋蘭の張り上げられた声が耳に届く。その威勢の溢れる声に拓実は反射的に昨日の回顧を中断し、俯けていた顔を上げた。

 誰も物言わぬ中、カツカツと硬質な音が謁見の間に響いている。入り口から玉座に向かって、華琳が優雅に歩を進めていた。相変わらずの自信に満ち溢れた立ち振る舞いで、その見ているだけで惹きつけられてしまうような存在感はやはり他と一線を画している。朝も早いというのに髪のカールも見事に決まっていた。地毛であろうあの髪のセットにはどれだけ時間をかけているのだろう、なんてことをぼんやりと考える。

 

「おはよう。どうやらみな揃っているようね」

 

 周囲の者たちが膝をつき、頭を下げて入場する主を出迎える。華琳に見惚れて立ち尽くしていた拓実も場の様子に気づき、被っていたフードを取り払って慌てて膝を折った。

 程なくして華琳は玉座の前に立つ。頭を下げる者たちへと振り返ると、それらを視界に収めて静かに玉座に腰掛けた。続いて、すっと華琳の左手が振られた。事前に作法を知らされなかった拓実もその意図するところを察し、他の者たちと合わせて華琳の手の動作に従って立ち上がる。

 

「それでは仕事の報告を聞きましょうか。まずは桂花に指揮を任せておいた国勢調査と過剰費の削減案からよ」

「は。それではまず、街ごとにおける人口増減、及び物資の生産割合の対比から――――」

 

 列から桂花が一歩前へと踏み出し、手に抱えていた竹簡を広げて口上を始める。

 

 とりあえず目下の警備隊充填案のためにも、この国の財政状況についてはしっかりと聞いておきたいのだが、しかし拓実はその報告を集中して聞くことが出来ずにいる。

 壇上――華琳が座っていることによってこの場の誰よりも目線が高くなった拓実の視界には、壮観とも言ってよい光景が広がっていた。玉座から向かって右列前より春蘭、秋蘭。続いて季衣を始めとした親衛隊が数名。その後ろに一般部隊の隊長らしき武官が並んでいる。

 逆の左列は桂花を先頭に文官が続いていく。今後、拓実が荀攸として朝議に出席する際はこちら側の列に加わることになるだろう。

 文官、武官ともに取り纏める重役の男女の比率には大分偏りが見える。親衛隊は一貫して女性のみであり、他は女性が六割強といったところか。女性の割合が多いというよりは、男性が圧倒的に少ない。この時代では女性が強いのだろうか。後世にそのような記録が残っていたという話を聞いたことがなかったが、それ以前に曹操を初めとした有名武将からして女性であることを思い出した。それを念頭において考えると、「そういうものなのか」と拓実は納得してしまう。

 

 ともかく総勢にして四十名超。整列する全ての者が玉座に座る華琳に従い、頭を垂れている。この場にいるいずれもが並ならぬ才を持つ者たちであるが、みな華琳に敬意を払い忠誠を誓っている。さらにいうなら、あくまでここにいるのは代表格の者たちだけであって彼らが指揮する下にはもっと多くの兵が控えているのだ。

 その光景は、多くの責任と期待を華琳が身一つで背負っているという事実を拓実に再認識させた。兵や、彼らの家族の生活。携わる者たちの命。そして彼らが生きていく限り続く未来。人が一人で背負うにはあまりにも重く、大きいものを華琳は抱えて歩んでいるのだろう。

 それを実際に己の目で見、感じた時、拓実は華琳に対して畏敬の念を向けていた。兵を率い、民を養い、自身の采配にその命を乗せる。そんな重すぎる責任を負えるほどの強い意志は、現代で平和に育った拓実には持ち得ないものだ。人に流されやすいと自覚している拓実は、その揺れることのない人としての『芯』ともいえるものを羨ましいとさえ思う。

 

 そんな拓実であるのだが同時に、それだけのものを抱えていられる華琳に対して危うさをも覚えていた。

 いずれ曹魏と呼ばれることになるだろうこの陣営は今、華琳一人を頂点としている。他を惹きつける求心力、文武において抜きん出た才能、柔軟な発想に多岐に渡る深い知識、大陸を覇を以って統一する意志……華琳は王として必要とされる要素のほとんどを持ち合わせている。そして華琳の性格として、それら全てを最大限に活用しているのだろう。

 春蘭、秋蘭を初めとした多くの者が華琳の歩む覇道に続いているが、あくまでそれは覇王として先頭を歩む華琳あっての話である。華琳の後ろに続く者は多くいても、隣を共に歩める者はいないに違いない。それは、華琳が人より突出しているが故に、覇王であるが故に。彼女は王であるが故に多くを従えながらも、王であるが故に一人孤独に歩み続けているのではないだろうか。そうだとしたならば、それはあんまりにも寂しいことではないだろうか。

 

 こんな話を華琳本人が聞けば戯言と一笑に付すかもしれない。それとも、侮辱するなと怒るだろうか。あくまで拓実が感じて思っただけのことであり、そこに至った確証なんてものは何もなかった。だがそれでも、拓実はその考えがまったくの見当外れであるとは思えなかった。

 

「――――さて。報告は以上ね。みなも気になって集中できていないのでしょうし、軍務、政務を各々に言い伝える前に紹介しましょうか」

 

 透き通るような華琳の声が謁見の間に響き渡った。いつの間にか主だった報告は終わっていたらしく、考えこんでしまっていた拓実は背筋を伸ばし、改めて気を取り直す。

 

「拓実、前へ出なさい。……彼女が、昨日より我が陣営に加わった荀攸よ」

 

 華琳が告げたのを機に、周囲の視線が改めて自身に集中していくのを拓実は肌で感じ取る。それらを受けながらも拓実は一歩前に歩み出て見せた。気圧された様子を欠片も見せず、目を瞑って静かに頭を下げる。

 

「容姿からも察せるとは思うけれど彼女は桂花――荀彧と同じく荀家の者で、我が陣営にて文官として働くことになるわ。ただ主に私の仕事を手伝わせることになるから、あなたたちと一緒に仕事をすることはそうそうないでしょう」

 

 その補足するような華琳の説明に、拓実は内心で感服していた。華琳直属という立ち位置であれば今後の軍議に毎回参列してなくてもその理由をいくらでも後付できる。事前の話の通り、姿が見えなくても不自然ではないよう取り計らってくれたようだ。

 今後、許定として動くようになれば朝議に出席する場合も多々出てくることになる。その時に毎回荀攸の姿がないことが問題となるのは想像に難くない。そしてそれは、この陣営全体に及ぶ軍規の乱れとなりかねない。その逆もまた然りであり、恐らく許定として紹介される際にも同様の説明をされることだろう。

 

「それでは拓実、あなたから何か言っておくことはある?」

「はっ。それでは僭越ながら、失礼させて頂きます」

 

 拓実の声に小さくどよめきが上がった。桂花とよく似た声色、その口調に対してのものに違いない。段上から見渡せば彼らからは興味の視線が返ってくる。

 意識して、拓実は一つ息を吐いた。こういう場であるなれば、注目は苦にならない。三段も高くなっているこの立ち位置は、それこそ舞台の上。演じる役柄もこなすべき内容も決まっていればやることは一つ。

 

「華琳様よりご紹介をいただけたけれど、改めて名乗らせてもらうわ。私は荀攸。字は公達よ」

 

 言葉を切って、拓実はすうっと息を吸い込んだ。それを機に場が静けさを取り戻し、小さくざわめていた声が途絶える。この呼吸の一拍が絶妙な間となった。これだけで周囲の者たちは拓実の次の言葉を聞き漏らすまいと集中していく。

 

「言っておくけれど、私が信奉し、尊敬しているのは華琳様お一人だけよ。その他の有象無象――特に男なんていう下賎で汚らわしい生物には一切興味がないから、仕事の用事以外では絶対に話しかけてこないで頂戴ね」

 

 それだけを言い放った拓実は玉座の横、元の位置に一歩下がった。最早言うことはないというように、拓実は(まぶた)を下ろし居丈高に華琳の傍で控える。

 謁見の間は静まり返った。あっという間に終わってしまった拓実の挨拶に、声はおろか物音すらも立ったりはしない。元よりこの場において発言を許されたのは拓実だけであるのだが、それにしてもこの空気はあまりに冷たかった。

 

 しかし、どうやら拓実が想定していたよりも反応は悪いものではなかった。新入りがこんなことを言ったのだ。敵意を剥き出しにされてもおかしくないと踏んでいたのだがそうはなっていないようである。

 確かに三割ほどは眉根を寄せ、不機嫌そうにこちらを睨みつけている。どうやら立っている場所から見てこれは武官連中が主であるようだ。

 文官のほとんどは「やはりか」と言わんばかりの呆れた表情をしていて、外見から桂花同様の言動をするものと半ば予想をされていたようである。顔合わせで言い放つにしては友好の欠片もない挨拶ではあったのだが、普段の桂花も周囲に応対する時は似たようなものであるのだろう。

 残った少数の男性連中はといえば、諦観やら羨望やら恍惚やらの感情が混じっていて複雑である。喜ぶ者と悲しむ者が入り混じって何を思っているのかわかりにくい。

 

 ちなみに、事情を知っている夏候姉妹と季衣は笑いを堪え、桂花は顔を赤くして縮こまっている。すぐ隣に立っているから気づけたが、華琳だって他の人にわからないように口元を手で隠し、鈴を転がしたような声で密かに笑っていた。何故そのような反応を返されるのかわからず、拓実は思わず首を傾げてしまう。

 

 早々にこの場の半数の人間に対して仲良くする気はないと宣言した拓実ではあったが、なにも演技に則ってというだけの言動ではない。一応、これも拓実なりに考えてのことである。

 いくら別人として扱われるといっても正体が露見してはならないことに変わりはない。親しくなればなるほどその可能性は増えるのだから、事実を知る者以外を遠ざけておくに越したことはないだろう。それに桂花の演技をしている時に男に話しかけられたなら、間違いなく辛辣な言葉を浴びせてしまう。好き好んで人を罵る趣味のない拓実はそうなる前に予防線を張ったのだ。今の少女の姿で男に積極的に話しかけられればどうしても下心があるのではないかと勘繰ってしまうだろうし、男である拓実は同性にそんな視線を向けて欲しくもない。

 だからといって積極的に女性と話したいかと言われればそういうわけでもなかった。親しくなればなるほどに演技が露見する可能性が増えることは変わらない上、女性であるが故に拓実を男であると看破するかもしれない。それらを踏まえると、自身の正体を知らない者とはいっそ初めから交流をしないでいる方が精神的に楽だろうと拓実は考えたのである。

 

「私の記憶違いでなければ、似たような科白を一月程前にも聞いた気がするのだけれどね。まぁ、いいわ。それでは紹介も済んだことだし、各担当に仕事の仔細を割り振るわよ」

 

 笑っていた名残も残さず声を上げる華琳は、次々と部下たちに君命を下していく。華琳の言葉から察するに、どうやら今回の拓実と似たようなことを言った者がいたようである。その華琳の言葉で先の反応に会得がいった拓実は、ついつい桂花の方を見やってしまった。

 

 視線の先では、顔を真っ赤にした桂花がこちらを睨みつけていた。怒りで肩が少し震えている。まったく嬉しくはなかったが、拓実の推測は見事に的中していたようである。

 悪意があって示し合わせたわけでもなければ、そもそも事前に誰かから桂花の自己紹介の顛末を聞いたわけでもない。今回に限っていえば拓実の正体を隠匿する為の発言である。

 せめてもの謝罪に目配せしておくべきかと考えて桂花に顔を向けたのだが、そこで拓実にとっても予想外のことが起こる。あろうことか拓実は、明らかに桂花に向けてにやりと笑みを浮かべていたのだった。まるで「あんたの単純な思考なんて丸わかりなのよ」と言わんばかりの底意地の悪い笑みの作り方だった。

 申し訳ないという気持ちで苦笑するつもりだった拓実は、もちろん戸惑った。自身の表情筋が制御できていない。華琳との謁見の時ほどではないが、どうやら人目に晒されていることもあって役柄に成りきってしまっているらしく、拓実の意思が行動に反映されにくい。

 目を見開いた桂花の顔が更に赤く染まり、より険しくなっていく。誰が見ても怒り心頭といった様子であった。思わず頭を抱えたくなった拓実だったが、やってしまった以上は申し開きも出来ない。どうしようもなかった。

 

 

 

 

「…………通達は行き渡ったわね。拓実には仕事についての説明があるからこのまま残るように。秋蘭、桂花も同様よ。では、秋蘭」

「はっ! これにて朝議を終える。尚、荀公達への君命伝達のため華琳様の退場は後ほどになる。特別に、各自退場するように。それでは解散っ!」

 

 秋蘭の声が響き、どよめきもなく君命を下された者たちが順々に退出していく。玉座に腰掛けたままの華琳がそれを静かに眺めていて、拓実もその横で直立したまま身動ぎもしない。

 そのまま数分する頃には謁見の間にはすっかりと人気がなくなっていた。残った数人が華琳の目前に揃うと、拓実も彼女の側から離れて段を降り、その端へと並んだ。

 

「さて」

 

 玉座を前に並ぶ三人を前に、腰掛けている華琳は足を組み替える。

 

「拓実、朝議に参加してみての感想はどうだったかしら。大陸外出身であるあなたの率直な意見を聞いておきたいわ」

「……はっ」

 

 意見を求められて、しかし大半を考え事に費やしてしまっていた拓実は朝議での報告内容の記憶はほぼない。報告を終えた後、桂花の挙げた削減案の実行を文官を中心に任せていたことからやはり財政は苦しい状況なのだろうということぐらいである。他には、朝議の進行順序や周りの雰囲気といったものか。そういった様子などはともかく、内容については断片的にしか思い出せずにいる。

 

「今まで軍務についたことはありませんので、武官、文官が一同に会している様子に当惑していたというのが正直なところです。華琳様が定めた軍規によるものかと思いますが、それぞれが己を律している様を見て内心感服いたしておりました」

「他には?」

 

 それでもなんとか必死に思案して言葉を放ってみるが、すぐさまに質問を続けられてしまう。思わずぐうの音を上げそうになるのを必死に抑え、感じていたことを頭の中に並べていく。

 華琳を前にして、「他にはありません」などとは言えない。今、武に関して役に立てそうにないのだ。せめて頭ぐらいはいっぱし程度には働かせなければならないだろう。拓実は今こうして意見を構築しながらも、人生の中で一番頭を使っている実感を覚えていた。

 

「見た限りですが、評定としては意見交換というよりも状況確認といった意味合いが強いように感じました。今後の指針を決める場が別に用意されているのであれば出過ぎたことになりますが、他の者……それも多くの者から意見を募る機会も必要かと思います」

「……そうね。別に秋蘭や春蘭、桂花ら幾人の者たちだけで評定を行うことはあるけれど、朝議より参加人数は少ないわ。多くの者からも、とは言うけれど、それに対しての具体案はあるのかしら?」

 

 そのように言われるだろうと予測していた拓実は意見を述べながらも思考していた。頭の中では色々な案が浮かんでは消えていく。

 実生活の中、授業で習ったこと、小説の知識、テレビで観た歴史ドキュメンタリー番組――――今の状況で使えそうなものは少なかったが、それでも何とか過去日本でも行われていたという施策を思い起こすことが出来た。

 

「……そう、ですね。一つだけ思い当たりましたが、それが可能かどうかは調査してみないことには」

「いいから言ってみなさい。可能かどうかは私が判断するわ」

「それでは、『目安箱』なるものを置くというのは如何でしょうか」

「目安箱?」

 

 聞き慣れない言葉に、華琳は顎に手を当て聞き返してくる。拓実は疑問を解くべく、続けて口を開く。

 

「はい。箱を設置し、そこに民や兵の隔てなく要望や案を記名した上で投書してもらうというものです。案や要望をそのまま実行せずとも民が求めているものを知ることが出来るために、今後この街の発展を助ける政策の『目安』となりましょう。また良案があればその差出人を辿り、野に埋もれている有能な者を登用することが出来ましょう。さすれば、この地の安定をより強固なものに出来るかと思われます」

 

 拓実の記憶が確かならば日本でも江戸時代から行われていたという制度である。古くは室町時代での北条家でも取り入れられていた、なんて雑学を教師から聞いた覚えがあった。

 

「しかし、この目安箱、問題点もございます。誰にでも投書を許すために民意を直接に受け入れられますが、しかし前提として文字を書けることが必要になります。民に非識字が多ければ実現は難しく、また可能だとしても寄せられた意見をまとめるために時間を必要とすることになりましょう」

 

 『目安箱』は武家からのお触れが文書でやりとりされていた江戸時代、村でも読み書きできる者が必要とされることで多く寺子屋が立てられていた。そのような環境によって民の識字率が高かったという背景があっての話である。

 そう考えれば三国時代で行うことに無理があるような気もしていたが、昨日訪れた店内の様子から、拓実はもしかしたらという思いがあった。

 

「ふむ――問題点をさらいつつも、書経にある『野に遺賢なし』(*1)を実現させるということかしら。それにしても、目安箱ね。一応、街の子供たち相手に私塾の真似事はさせているけれど、どうかしら?」

 

 言って華琳は拓実の横に並ぶ桂花と秋蘭を見やった。桂花は目を瞬かせて拓実を見ている。残る形になった秋蘭が口を開いた。

 

「読み書きをこなすことが出来る割合ですが、近隣の農村でも村に数名。ここ陳留でも、多く見積もったとしても三割を下回りましょう。必要最低限の読みのみであるならば七割に届くかというところでしょうが……」

 

 華琳は秋蘭の言葉を聞いた後、口の端を持ち上げて拓実へと視線を戻した。否定的な秋蘭の言葉を受けての笑み、拓実はそれがどんな感情からきているのかわからずに向けられた視線に対してを見返すことしか出来ない。

 

「そういうことね。なかなか面白い案だけど、無理とは言わないまでも施行は現実的ではないわ。商人や文官の家系でもない限りは、読みはともかく書きまで出来る者はそういないでしょう」

「左様ですか……」

 

 小さく呟きながら、気持ちが下向きになっていくのを拓実は自覚していた。拓実だって初めから上手くいくとは思っていない。まして自身は満足に文字すら読めず、今住んでいる陳留にしたって知っているのは昨日見た街並みぐらいのものだ。この状態で出せる案なんてものは限られている。それでも、不完全燃焼の感が拭えないのも確かだった。

 

「……けれど、穴だらけではあるものの着眼点は悪くない。桂花」

「はっ!」

「本日、過剰費削減の施行の際には拓実を連れて行きなさい。拓実は何か気がつくことがあれば桂花に伝えること。拓実の意見によって改善できるようであれば政策に手を加えることを許すわ。細部の変更については桂花の裁量に任せましょうか」

 

 拓実は思わず、華琳の顔をまじまじと見つめてしまっていた。そしてその言葉の意味を認識するにつれ、じわじわと胸の内から嬉しさがこみ上げてくる。

 案自体は実現に適うものではなかったようだが、その知識は役に立つと判断してもらえた。これで、少しでも華琳の役に立てるだろうか。

 

「二人共、夜に私の下へ進捗報告に来るようになさい。拓実は何か胸に秘めている構想があるようならば、昼のうちにまとめておきなさい。そこで聞くわ」

『かしこまりました』

 

 嬉しさに、勝手に綻んでしまう口元を俯いて隠し、拓実は桂花と共に深く頭を下げた。

 

 

*1
その政治が優れていれば、有能な人材はみな適した役職に配されていて民間には残らないであろうこと。



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13.『荀彧、荀攸に脅威を覚えるのこと』

 

 自室への道を歩きながらも、桂花はもやもやとした言いようのない思いを胸に抱えていた。そんな湧き上がってきた感情を持て余していることもはっきりと自覚している。自身の感情すら自制出来ないことに苛立ち、普段よりも表情が険しくなっているのがわかった。

 こうまで落ち着かないその理由を、桂花本人は理解している。一重に、拓実が華琳に上申していた案によるものだった。

 

「……なによ?」

 

 桂花が思わずといったように足を止めて後ろを振り返ると、自身と瓜二つの姿をした人物が怪訝な声を上げて見つめ返してくる。拓実が着ているものは、桂花がいつも買い付けている服屋から購入したものであるから、寸法が違うだけで仕立ては全く同じものだ。その顔つきは本来華琳にそっくりなだけあって桂花本人よりもいくらか勝気な雰囲気が強いものの、仕草から表情の作り方までを忠実に真似ているためその違いが気に掛からない。

 まるで鏡に映った姿を見ているような錯覚に襲われ、桂花は少しだけ眉根を寄せた。

 

 不本意ながらも桂花は、拓実の演技力に関しては高く評価している。おそらく今こうして並んで歩いていても第三者からは違いなんてほとんどないのだろう。加えて桂花にはそのようには聞こえないものの、周囲には声までそっくりに聞こえているようである。

 驚嘆してしまうほどの精度で拓実は桂花を写し演じている。そしてそれこそが、桂花が気に喰わない理由であった。だが、男の身でありながら自身をこうも演じてしまえるという先日に覚えた苛立ちと、今日感じているものはまた違う。

 

「……? …………っ」

 

 続いて何事かを声に出しているらしい拓実を放って、桂花は踵を返して自室へと再び歩み始めた。

 考え事に耽る桂花の耳に、その声は届かない。

 

 

 桂花は、己の頭脳が凡百よりも優秀であることを知っている。幼少より他と比べて物覚えが良く、発想は柔軟であり、物事の要点を掴むのが殊更に上手かった。

 幼くしてそれを自覚していた桂花は智こそ自身が尊ぶものであると信じて、多くの書物の内容を自身の頭脳に蒐集(しゅうしゅう)してきた。いつしか桂花にとって読書とは切っても切り離せないものになり、それこそが頭脳を武器とする桂花の自己鍛錬となっていた。そうして十と幾つかの歳を数えるまで磨き続けていると、周囲に自身以上の知識を持つ者はいなくなっていた。

 

 桂花にとって書物とは、宝箱のようなものだった。開いてみれば知識が詰まっていて、どれも自身を豊かにしてくれる。

 遠い過去の王の物語。亡国の盛衰の軌跡。ある者が一生を通して得た教訓。人はこうあるべきという啓蒙――自身が一生を費やしても得られないだろうほどの多くの知識が、その宝箱には眠っていた。

 

 そして桂花は書物を通して、過去様々な賢者や愚者が生きていたことを知る。

 ……人物の器を的確に見極める者、地理に聡い者、政治に強い者、軍略に明るい者、技術を伝える者、動くべき機を知る者。

 他を決して信用しない者、己の力を過信する者、嘆くばかりで動かぬ者、智を軽んじる者……。

 何かに秀でれば、他の誰かより劣る部分があった。暴君が布いた悪政と呼ばれている行為にも学ぶものはある。そういった者たちの生涯は興味深いものであったし、桂花の模範となってくれるものであった。

 

 そんな賢者、愚者たちを師と仰いでいる桂花は、情報と経験をこそ重要視するように育った。環境と条件を整え、きちんとした道筋を辿らせれば結果は自ずとついてくるものであると過去の事柄から学び得てきたからだ。だからか、不確定要素や博打のような行動を嫌った。確たるだけの理由や裏づけがなければ、安易にそれを用いることをしなかった。そうして統計や数字などの情報を重視するようになり、同時に先人からの教えを軽んじない保守的で堅実な思考が桂花の根底に出来上がっていった。

 

 そんな桂花だからこそ、拓実がした献策の内容に小さくない動揺を受けている。

 民の識字率が高いことを――つまりは民に学を与えることを前提に、それを有効活用するという『目安箱』。これを聞いた時、桂花はからかわれて怒りを覚えていたことすら忘れて、意見を述べる拓実をまじまじと見つめていた。

 まず桂花はその案の突飛さに驚き、そして半ば反射的にその案を鼻で笑った。桂花には、民に学を授けるという前提からして破綻しているようにしか聞こえなかったのだ。

 

 だが、この考えは何ら特別なものではない。支配者層の人間であれば、ほぼ間違いなく桂花がしたような思考を辿ることになるだろう。そしてそれは、致し方のないことであった。

 何故なら、過去より大陸には『民とは支配されるものである』という認識が受け継がれている。これは敢えて口に出すまでもない不文律であり、常識でもある。『帝』なる『統治すべき者』が世に認知され、そしてそれに誰も疑問すら覚えない現状がそれを表しているだろう。

 国が国として機能する為には、民は不可欠である。民がいなくては国は成り立たず、国がなくては王はない。しかしあくまで民は統治される存在であって、統治者がいるというのに民が領分を越えて(まつりごと)に口を出すなんてことは考えてはならないことであった。

 

 それに倣う様に、帝の存在を知る統治者たちはみな『民に過分な力を持たせてはならない』という認識を持っている。その地域の君主の力量によってその『過分な力』の程度に差はあるものの、彼らが力を持てば持つだけ領主に対する不満が表れるようになり統治はそれだけ難しいものとなる。臣民に学を授けることは経済発展や人材育成などを容易にするものではあるが、充分に『過分な力』の範囲に入りうるものだ。

 たまたまここ陳留ではそれを御せる華琳が直接施政を担っているから行っているだけで、統治者主導でそれを行っている州や街はどれだけあるものだろうか。

 

 そんな大陸の常識に投じられた一石が、拓実の進言していた『目安箱』であった。

 落ち着いて仔細を聞き、先入観を取っ払って検証してみれば驚くほどに利点ばかりが浮かんでくる。今となってはこんな簡単なことすら考え至らなかった自身に憤りさえ覚えていた。しかし、これも固定観念が薄れている今だからそう感じているのだろう。例え同じような案が頭を()ぎったとしても、桂花はそれに着目することなく却下していたに違いなかった。

 

 結局は、現状の陳留で実施するには現実的ではないということでこの案は華琳に退けられることになったが、下地さえ整えられればすぐにでも『目安箱』は街に設置されるだろう。そしてそれは、この街を豊かにする確信を匂わせている。少なくともこの『目安箱』には、桂花の目から見ても致命的な欠陥は見当たらない。

 要望を受け入れることで民の統治者への不信を和らげ、有用な人材を見つけ出す指標となり、現状での問題点を洗い出す。拓実が挙げた利点は以上のものだったが、情報の種類によって恩賞を与えるなどの制度を敷けば、現場でしか知りえない情報などを得ることも出来るだろう。

 ――例を挙げてみれば、地方や他国の情報であるとか、必要とされている物資の把握、陣営内の不正告発などなど、数もさながら分野も多岐に渡る。その応用範囲は街全体に及び、副次的効果は想定するだけでも挙げればきりがない。

 

 確かに生み出されるものは益ばかりではない。民がそれによって増長する可能性もあり、また対応によっては臣下や民の間に軋轢も生まれることだろう。都合の悪い要望を握り潰そうとする者や、虚偽を訴える者たちが出てくるのは想像に難くない。

 しかし、それらは決して防げないものでもない。しっかりとした制度を作り上げさえすれば、華琳の統治下においては利点の方が大きく勝るものだ。桂花だけでなく、主君である華琳にとっても拓実のこの発想は目から鱗であったことだろう。

 

 もし、この大陸に渡ってきた異国の旅人などからこの『目安箱』の発想を聞いたならば、桂花はそういった考えがあるものかとただただ素直に感心しただろう。だが、その相手が同じ陣営に属している文官であるというのでは勝手が違う。まして、件の人物が自身と同じ姿をしているのであればそれは尚更。

 この未知の発想をする拓実と比較されるのは、間違いなく似通った容姿を持つ己ということになる。そんな事実に、桂花は言い知れぬ焦燥感を駆り立てられていたのだった。

 

 桂花の見る限りでは、拓実は自身に及ばないだろうものの頭の回転が常人に比べて早く、また物覚えも良い。文字の学習進度からの見立てでは、おそらく半年もすれば拓実は文官として人並み程度には働けるようになろう。

 それだって、これから先の数年はいい。この土地の風土どころか文字すら覚束ない拓実ではそうそう適した献策は出来ない。今回はたまたま施行出来るだけの人材が揃っていただけで、拓実がこの大陸の風習を把握するまではどうしたって見当外れな意見が続くことだろう。

 だが、十年、二十年先を見据えてみればどうか。この大陸の知識に加えて、他に見られぬ新たな発想を持つ『荀攸』と、この自分。果たして、移り変わっていく時代に重用されるのはどちらなのだろうか。

 

 ここまでを思い描いて身を震わせたが、こんなものはただの妄想である。そんな状況になることはないだろうことを、桂花は頭で理解している。

 桂花と拓実の知識量の差は絶対的であり、拓実が研鑽に充てるのと同じだけ桂花にも時間が与えられるのだ。自身が日課になっている自己鍛錬をやめることだってありえない。冷静に考えれば、自身と同じ高さに立つまでに十年程度では到底足りまい。

 そもそも華琳が桂花と拓実を両天秤にかけるようなことからしてあり得ない。軍師という立場に立つ者は何人いようと困ることはないものだ。

 軍師は各自の視点から様々な案を君主に提示し、軍略を交わしてその有用性を競うだけで、実際に方針を決定していくのは君主である。ならばこそ、多く軍師がいたとしても不都合なことなどは起こりえない。自身に匹敵するだけの識者の考え方に触れられることを考えれば、桂花にとってはむしろ願ってもないことだ。

 

「……でも」

 

 今感じている焦燥感が錯覚であると理解しているが、先ほどこんな光景を桂花は幻視していた。そして、それこそが桂花を不安にさせている。

 それは拓実が桂花と変わらぬ知識を身につけ、しかし桂花にない斬新な発想で華琳に献策する様子だった。華琳の一番近いところに当然のように控える拓実と、それを満足そうに受け入れている華琳。桂花はただそれを側から眺めている。まるで自身こそが本人であるように桂花を写し取った拓実が、軍師の立ち位置を桂花から奪ってしまうその幻は、あまりに現実味がありすぎた。

 

 

 

 

 

 日が暮れ、食事時を過ぎてしばらくした頃。昨日分と合わせて仕事の遅れを一日で取り戻した華琳は、自室で秋蘭と杯を交わしていた。

 そうして二時間ほど経つが、二人に酩酊した様子は見られない。華琳がほんのりと頬を染めているがそれだけである。飲んでいる杯の中身だってそれほど酒精の強いものではない。度の強い酒を滅多に作ることが出来ないのもあるが、この後桂花と拓実が訪ねてくることもあって華琳は薄い酒を選んでいた。

 独酌という気分でもないために秋蘭を呼び出しただけなのだが、ついつい本日の仕事の経過を訊いてしまったのを皮切りにして、自陣営における問題と今後の展望についてを語らっている。大まかには目下不足している資金や人材の対処。目に見える問題としては以前にも増して増加している賊徒についてか。

 

 それらを経て、話はいつしか拓実の件へと移り変わる。取り扱い方によっては問題といっても差し支えない存在であるし、今後の動向にも密接に関わってくる人物であるから話題に上るのは当然であった。

 

「朝議の後、拓実はまた面白い案を挙げたものね」

 

 言ってから華琳は、くい、と杯の中身を飲み干す。

 一日で普段の五割増の仕事量をこなしてみせた華琳だったが、流石に疲れの色は隠せない。酒にはそこそこ強い華琳ではあるが、疲労からいつもより酒の回りが早いようだった。華琳は口の端を吊り上げながらも、目の前の秋蘭を気だるそうに見やった。

 

「おそらくは異国故の発想なのだろうけど、文官として見ても拾い物かもしれないわ。頭の凝り固まった連中には、拓実の存在はいい刺激になるでしょう」

「刺激にはなるものとは思いますが……。しかし、『目安箱』でしたか」

 

 空になった華琳の杯に、秋蘭は(うやうや)しく酒を注ぐ。目を細めてその様子を眺める華琳を前に、彼女は少しばかり思案する様子を見せた。

 

「確かに我らにとって画期的ともいえるものではありますが、同時に毒とも薬ともなりかねない危うさを孕んでいるように私は感じました。拓実の出自を多少なり知っている我らであるから抵抗少なく聞き入れることが出来ましたが、知らぬ者が聞けば奇人と評されてもおかしな話ではないかと」

 

 注がれ波紋を広げる酒を見つめたまま、華琳もまた考え込む。

 確かに有用な政策であったし、その着眼点はこの大陸の常識に浸かってしまっていた華琳にないものであった。自身にない観点から物事を考えられるとなると、拓実の文官としての重要性は自然と高いものとなる。

 

「――ええ。どういった国で生きてきたのか、とにかく拓実の価値観は大陸のものとは異なものよ。この地続きである大陸でだって地方ごとで風習が違うのだから、それが海を挟むとなればかけ離れてしまうのも当然といえるのかもしれない」

「しかし、事情を知らぬ他の者が華琳様のようには考えられるとは思えませんが」

「そうね。既に拓実のことを荀家の人間として紹介してしまっている。同郷の人間がした発案とすれば、その異様さが際立ってしまうことでしょう。となると、この国での常識を教え込むまでは他の文官と一緒に仕事をさせることは極力控えさせるべきか。とにかく拓実には時間が必要なのだけれど……私直属の文官としたことが思わぬところで役に立ちそうね」

 

 秋蘭の疑問に対して、自嘲気味な笑みを浮かべた華琳は目を瞑る。視界を暗闇に閉ざして静かに頭を働かせている。華琳には気にかかっていることがあった。

 華琳が拓実の器を量るに、頭の回転は優れたものだがそれでも有能な文官程度という認識である。軍師である桂花と並べ比べると見劣りしてしまうのは否めない。率直に言えば洞察力や発想力はともかくとして、拓実の挙げていた『目安箱』は彼一人が一から構想できるようなものだとは思えないのだ。

 加えて、献策の際の拓実の話し振りはどこか見聞調でありながら、端々に経験則が見え隠れしていたことに華琳は気がついていた。それらを総合して考えた結果、『目安箱』という政策は過去どこかで試験的にでも実施されたものではないかと華琳は推測している。

 だが、組織立ったそれなりの規模の勢力でもなければこんな大掛かりな政策は施行することは出来まい。となると拓実の故国は少なくともこの陳留と同程度には発展していたという事実が残るのだが、それは同時にまだ見ぬ大国が世界に存在していることを示している。果たして、彼の国は敵となるか味方となるか。場合によっては拓実を通して渡りをつけ、友好的な交流しておくのもひとつの手であるかもしれない。

 

「どちらにしても、一度拓実の故郷について詳しく聞いておきたいわね。今夜献策の機会を与えてあるから、それを聞いて切り出すかどうかを判断しましょうか。ああ、もう。退屈しないで済むのは歓迎なのだけれど、少しばかり考えるべきことが増えすぎよ」

 

 はぁ、と深く息を吐いた華琳は思わず天を仰いだ。言葉とは裏腹に、華琳の表情は悪いものではない。

 

 その演技の才に惚れ込んで引き込んだが、拓実は色々な意味で特殊な立場にあった。そしてやはりというか、何かと問題が付いて回ってくる。

 それらが害を生むだけというならばすっぱりと切捨てて対処できるのだが、長い目で見ればそれを補って余りあるだけの利益となりそうなのである。いうなれば先行投資であるのだが、金銭的には負担なく華琳の手間だけをとらせるだけというところがまた性質が悪い。場さえ整えてやれば文句なしの結果を出してくれるのだろうが、その場を十全に整えるまで華琳の気苦労は絶えなさそうである。

 

「華琳様、桂花にございます。報告にあがりましたが、お時間はよろしいでしょうか」

 

 華琳が考えを纏めながら酒の入った杯に口をつけたところで、部屋の外から声がかかった。慌てる様子もなく机に杯を置くと、ゆっくりと口元を拭う。

 

「構わないわ。拓実も一緒なのでしょう。二人とも入りなさい」

「それでは失礼致します」

「失礼致します」

 

 それぞれ似た声質と抑揚で告げられた声の後、桂花と拓実が入室してきた。こうして華琳が二人並んでいるのをみるのは二度目になるが、どうにも見慣れない。似た人物が並んで存在している光景を目の前にして、見間違えかと無意識に幾度かまばたきをしてしまう。

 

「……華琳様?」

 

 継ぐ言葉が華琳から発されないことに、桂花は首を傾げている。見れば拓実も不思議そうにこちらを見つめていた。自身が半ば自失していたことに気がつき、華琳は取り繕うように口を開く。思っているよりも酔いが回っているのだろうか。

 

「なんでもないわ。それで桂花、早速だけれど今日の成果はどうだったの?」

 

 その華琳の言葉を受け、桂花、拓実の両名はその場で跪いた。携えていた竹簡を目前に掲げて桂花が口を開き、拓実がそれを眺め見る。同じ姿をした二人が跪くその光景は、華琳にはやはり見慣れないままであった。

 

「はっ。本日は今朝のご報告の通りに、各方面の物資請求、資金運用の是正を行ないました。部署毎の請求過剰分と不透明な予算申請の見直し。同時に、浮いた状態であった繰越予算を徴収した結果、いくらか資金の見通しが立ちました。詳細はこちらに」

 

 そうして桂花が献上するかのように渡してきたものは竹簡。紐解いて開けば、どの部署でどれだけの無駄があるか、そしてそれを正すことによってどれだけの資金を捻出できるかが事細かに記されてある。

 

「――あら、結構な余剰が出てくるものね」

「それが、仕事こそ完遂してはいるものの公費を着服していた者がいたようでして……。州牧となって人手が足りず、多く人員を雇い入れたために末端まで華琳様の薫陶(くんとう)が行き届いていないものかと思われます。それらの者の名は巻末に列記して置きました。華琳様が定めた規定に合わせて処罰を下すよう、通達は終えてあります」

 

 華琳が見てみれば確かにその竹簡の終わりには十数名の名が並べられている。悪しき慣習というべきか、どの勢力においても仕事さえこなしていれば、個々の能力で浮かせた金をいくらか懐に入れることを黙認する節があった。おそらくこれらの者たちも他の陣営なりで働いていたのであろう。他では許されていたのだろうが、しかしここではそうではない。

 勿論そういった軍規についての説明は事前にしてある。同時に、有能なものであればそれを働きによって示せば相応に還元するという旨も提示されている。今回はそれを軽視したためにこのような軽挙に出たのだろうが、華琳が洛陽で勤めていた一幕を知っていればそのような愚を冒すことはなかっただろう。

 

 ――華琳はかつて、洛陽にて北部尉として勤めていたことがある。その役職は、簡単に言ってしまえば警備や治安を取り締まる隊の隊長のようなものである。

 決して高いといえない職権でありながらも華琳は治安維持に対して厳格に務め、規律に則って厳しく振る舞い、たとえ相手が自身より高官であろうとも退かずに罰則を適用させてきた。以前は違反しても黙認されていた高官でさえ罰されるという事実に恐れ震え上がった洛陽では、その発端となった夜間通行は元より、違反行動を起こす者はいなくなったという。

 それから幾許かの時が経ち、いくつの街を治め、一つの勢力となってからも華琳の潔癖な部分は変わっていない。そんな華琳の陣営内で、不正が許される筈もなかったのだ。

 

「話をご報告の内容に戻しますが、そちらの竹簡に記載されているだけでも、月が変われば構想している政策を実行するに足りることでしょう。明日よりは物資の買い付け先や保管、輸送等の流通経路から無駄を洗い出して見せましょう」

「そう、ご苦労様。今後も期待しているわよ、桂花」

「はいっ、お任せください!」

 

 嬉々とした表情で頭を下げる桂花。その姿は、小柄な少女の姿なれど頼もしい。それを見た華琳は、浮かべていた笑みを更に深めることになった。

 華琳の陣営に入って一月足らずなれど、既に桂花は内政においては他の追随を許していない。これまでの文官も決して無能というわけではなかったが突出した者もおらず、華琳と秋蘭が中心となって指示し、事に当たらざるを得なかった。しかし華琳は君主という立場があるためかかりきりになるわけにもいかず、秋蘭は内務ばかりでなく武将としての働きも同時にせねばならない。

 そのような切羽詰った状況で加入したのが桂花であった。彼女が内政を一手に引き受けたことで華琳の負担は確実に減り、仕事が滞ることがなくなりつつある。そういった意味では桂花は華琳の側で力強く支え助ける者、正しく華琳にとっての『子房』(*1)であった。

 

「さて、次は拓実についてよ。一日、桂花の仕事についていかせたけれど、その中で何か思うところでもあったかしら?」

 

 その言葉を受けて桂花が一歩後ろへと下がり、代わりに拓実が同じ分だけ前へ出た。拓実はまっすぐ、ただ真剣に華琳を見つめている。

 

「はっ。しかし桂花の仕事振りについては口を出す余地もなく、気に掛かる部分はありませんでした」

「そう。桂花の仕事については、ということは他の部分で何かあったのかしら?」

 

 言って深く頭を下げた拓実に、華琳が間髪いれず問い掛ける。それにうろたえることなく、落ち着いた様子で拓実は続きを紡ぐ。

 

「はい。各部署を見て回りまして、貴重で高価だという紙を要らぬ部分にまで使っている節が見られました。内々の書類は安価な竹簡を使用し、公的なものだけに使用を控えるべきかと進言いたします。加えて、灯火に使っている油や暖をとる為の薪等、支給品となっている物資がありますが、こちらも見直す点がいくらか見受けられます」

 

 通常、書面に残す必要がある場合は竹簡(ちくかん)という、竹を薄く切り開いて札状にし、紐で繋いで広げた物が使われている。竹は生育が早い為に安価に作れるのだが、折り畳んでも保管に場所をとる上に結構な重量がある。植物の繊維を()いて作られる紙は数十年前に発明されたばかりで普及されておらず、それほど数が出回っていない為に値が張った。

 見栄えよく、場所を取らずに軽いが、紙一枚を買う金があれば十数倍の文言を記せる竹簡を手に入れられる。手が届かないほど高価ではなかったが、高級品であることには変わりない。

 

「確かに、紙の使用については思うところがあるわね。けれど、油や薪は仕事をする者には欠かせないものなのだから減らすわけにはいかないでしょう」

「ですので、部署ごとに支給量を最低限まで減らし、足りない場合は必要分を各人記名して取りにくるようすればみだりには使用しなくなるかと思われます」

「と、言うと?」

「は。許可制というわけではなく、取りに来ればその時点での支給はいくらでも行ないます。期間を設けて誰がどれだけの物資を受け取ったかを記し、個人の物資使用量と仕事量を照らし合わせ、割合が他と比べ釣り合わぬ者には勧告する形を取るのです。仕事のみならず、酒宴等で集まった際にも公私の区分なく物資を使用しているという話を耳にしました。華琳様主体で行なわれるならばともかく、個々で行なわれるものにまで城の物資を提供する道理はありません。個々では微細なれど、陣営全体では多くの節制となりましょう」

「なるほど、面白い。支給を自由にするということは、逆に多く仕事をこなす者であれば多少の私的使用を黙認するわけね」

「左様にございます。それをこなすだけの能力に応じない者らは給金より購入するようになることでしょう。もちろん、こなした仕事に応じて給金を増やすようしなければ不満は出るでしょうが、華琳様の方針であれば問題はないかと存じます」

 

 華琳は思わずと言った様子で、「ほう」と感心した声を上げていた。恐らくは桂花から聞いて仔細を煮詰めたのだろう。さらに、まだ知り合って数日だというのに華琳のやり方を理解しているようだ。

 才あれば出自に問わず登用するという華琳の方針は成果主義である。力を示せば重用し、逆に怠ることあれば厳しく罰する。

 ならばこそ拓実の挙げた策は通用するし、華琳の意にも沿ったものになる。励めば励むだけ給金は増え、使用できる物資が増えて優遇されるのである。足りぬ者も能力が及ばぬならば、空いた時間を使って自身を磨くようになるだろう。その人材育成をも視野に入れたこの考えは、華琳のそれとぴたりと一致していた。

 

「その拓実の案、採用しましょう。桂花、実施するとしてどれだけの日数が必要かしら?」

「恐れながら、華琳様が私の裁量に任せると仰られてましたので、私の方で準備だけは進めておきました。許可さえいただければ、次回の支給日より施行できましょう」

「ふふっ、二人とも上出来よ」

 

 打てば響くように返してくる桂花の言葉を受けながらも、華琳は喜びを隠し切れないでいた。桂花と拓実。この二人の組み合わせは悪くない。いや、それどころか予想以上にそれぞれの長所が上手く噛み合っている。

 拓実一人だけではどうしたって穴が出てくる。とてもじゃないが一人で政策を任せることは出来ない。根本的に知識という土台が脆いために、どうしても補佐が必要なのだ。それだけなら荷物にしかならないが、拓実はそれを補うように鋭い観察眼で華琳が求めているものを推察してみせ、異なる文化の知識から思いもよらぬ発想をしてくる。それを活用しない手はなかった。

 対して、いささか革新的発想にかける桂花ではあるが、拓実の着想が生み出す利点を見逃すほどに頭が固いわけではない。欲を言うなら、しっかりとした知識に支えられてるが故に新たな発想に挑戦していかないのが難だろうか。膨大な知識を持っているが、保守的すぎる嫌いがあった。

 この二人は個々でも働きを見せるだろう。だが、組ませればお互いの持ち味を生かし、短所を埋めることができる。将来的に見ればお互いの長所を学び取って、自身の欠点を補っていくことだって可能だろう。

 

「そうね……ならばこの件は二人に一任しましょうか。これからは拓実と桂花は仕事の間、一緒に行動なさい。合間合間に時間が取れたら拓実に文字を教えればわざわざまとまった時間を取る必要もなくなる。桂花も拓実から異国について聞けば得るものがあるでしょう。お互い、自分に無いものを学びなさい」

「華琳様がそう仰るのであれば、否はありません」

「……かしこまりました」

 

 更なる才の開花を垣間見た華琳は内心から湧き上がってくる高揚感に身を任せたまま二人に告げるのだが、対して二人からの返答はどうにも煮え切らないものだった。桂花の珍しい否定的なその態度に、華琳の高揚感は失せ果てて、当然のように疑問を浮かび上がらせる。

 

「何か問題があるというのなら言って御覧なさい」

 

 華琳が怪訝な顔で二人に問い掛けると、拓実はちらりと横を見やった。まるで機嫌を窺うように見た先では、桂花が華琳に向かって頭を下げている姿があった。

 

「いえ、突然のことに少々戸惑っただけですので」

 

 拓実の視線を介さず、桂花は視線を床に向けたままで華琳へと返答する。その態度に何を見たのか、拓実は口を開きかけてまた閉じる。

 

「……そう。そういうことならばいいわ。今日のところは以上よ。明日に備えて休みなさい。拓実、あなたには聞いておかなければならないことがあるからもう少しだけ付き合いなさい」

「はい、それでは失礼させていただきます」

 

 言って深く頭を下げた桂花は、静かに華琳の私室より退室していく。程なくして桂花の姿は見えなくなったが、どうにも部屋の中の空気が澱んでいるように思えてならない。

 

 戸惑っていたと桂花は言っていたが、それはおそらく根本的な理由ではない。華琳直々に問い掛けても答えないのならば何らかの理由があるのだろう。拓実の何か言いたげな様子も気に掛かった。

 実際に拓実を問い詰める前に、華琳は今日一日の桂花の様子を思い返していく。そうして、華琳は報告に来ていた桂花の違和感に気がついた。華琳との受け答えはいつもの通りであったし、仕事内容についてはしっかりとこなしていたから気づかなかったが、おそらく間違いない。

 拓実が幾度か桂花を窺うように見ていたのに対し、桂花は一度たりとも拓実に向き合わず、視界にすら入れていなかったのだ。

 

「本当、退屈させてくれないわね」

 

 原因はわからないが、桂花の不可解な挙動に拓実が関わっていることには確かであるようだ。嘆息しながら、華琳はわざとらしく肩をすくめてみせた。

 

 

*1
楚漢戦争の軍略家、張良(字を子房)のこと。劉邦に仕え、その才覚を以って彼を補佐して王座へと上らせた。曹操が荀彧を迎え入れる際に「我が子房(張良が劉邦を補佐して王にしたように、荀彧こそが私を王とする王佐の人物である)」と喜んだとされている。







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14.『拓実、一日を回顧するのこと』

 

 拓実、華琳、秋蘭。誰もが黙して語らずに、どれだけが経っただろうか。部屋には得体の知れない居心地の悪さが充満していた。

 そんな中、退室していった桂花の後ろ姿を眺めていた華琳が思い出したように拓実へ顔を向ける。拓実もまた彼女が去っていくのを視線で追っていたが、華琳からの視線を感じて慌てて向き直った。まだ内心では疑問が渦巻いており、意識の何割かは桂花が去っていった出入り口へと向かったままだ。どうにも拓実は目の前にいる華琳に集中しきれずにいた。

 

「で、何故桂花がああもあなたを避けているのかしら? 拓実、心当たりは?」

 

 跪きながらあれこれ考えていた拓実は、その発言からようやく華琳も桂花を気にかけていたことを知って目の色を変える。やはり華琳も桂花の異様な態度に気づいていたようで、今もその訝し気な表情を隠さずに拓実を見つめていた。拓実、桂花とも華琳の前では暗黙のうちに平静を装うようにしていたが、最後の応答は二人の不和を察せるほどには不自然に過ぎたようだった。

 

「いえ、朝議が終わってしばらくしてからは、ずっとあのような様子なのですが……」

 

 問われて迷うように視線を巡らせた拓実は、しかし桂花が変貌したその理由がわからずに眉根を寄せる。

 拓実は桂花に何かをした覚えはない。強いて言うならば朝議で見下し笑ってしまったことがあったが、朝議の後しばらくは顔を合わせて会話していたのだからそれも考えにくい。いくつか気に掛かるところはあれど、こうまで避けられるようなことをしでかした覚えはなかった。

 伏目がちにしてあれやこれやと考えに耽る拓実を前に、この様子では埒も明かないとした華琳はひとつ息を吐く。

 

「まったくしょうがないわね。なら今日一日何があったのか、一から報告して御覧なさい」

「……はい。それでは少々長くなりますが」

 

 前置いてから、拓実は記憶をさかのぼっていく。桂花とのやり取りに疑問を覚え始めたのは、そう、朝議を終えた後直ぐのことだっただろうか。

 

 

 

 ――城内を先導されて歩く拓実は、桂花の後ろで腑に落ちない様子で首を傾げていた。すれ違う文官たちが向けてくる奇異の視線も、疑問が先にたっていて気に掛からない。

 というのも、「仕事について詳しく説明するからついてきなさい」と言葉を受けて桂花の個室へと向かっているのだが、どうにも彼女の様子をおかしいと感じていたのである。

 

 つい先ほどのことだったが、桂花は突然に足を止めたかと思えばこちらへ振り向いて、じっと拓実を見つめてきた。話しかけてくるわけでもない彼女を不審に思った拓実が何用かと声を掛けたのだが、碌に反応を返すこともせずに踵を返して先を歩き始めてしまった。

 その後も何度かその後姿に声をかけてみるが同様で、一度たりとも拓実に声を返すことをしなかった。まるで拓実の声が聞こえていないかのように歩みを進めている。

 

 口元を手で覆い隠しながら伏目がちにしている様子からして、考え事をしているのだろう。演技のためにも桂花の一挙手一投足を観察している拓実であるから、それはすぐにわかった。

 しかし、それほどまでに真剣に考えていることはいったい何事なのか。流石の拓実といえど皆目見当がつかない。情報を揃えれば演技している人物の心理さえ把握してみせる拓実にしても、本人に同調できるのはその時々の感情と思考傾向ぐらいのものだ。

 ある程度までは絞れるものの、考えている内容を推察しろと言われれば完全にお手上げである。先日に本人の前で述べた桂花の心情も、性格からくる感情的な思考であったから理解できたのだ。当たり前の話だが、役柄の持つ思考能力や速度、知識量までを真似ることなどどんな名俳優にだって出来ない。それらを下地にして置かれてしまうと、情報不足で思考を組み立てることができないのだ。事実、こうして桂花の思考を辿ろうと拓実は必死になるも、桂花本人が考えている内容に迫ることが出来ないでいる。

 

 演じているのは、あくまでも拓実を下地においた上での役柄でしかない。拓実自身は自己暗示によって役柄になりきっているが、どうしたって演技の端々には『拓実』が顔を覗かせる。演技の質を向上させていくには、この辺りを何とかしていかなければならないと拓実は考えていた。

 本人が行うだろう行動や思考を、無意識に演じられなければ上達は見込めそうにない。だがこれ以上となると、どうしたらいいのかもわからないでいた。それは、心情、思考形態までを似せ、本人と変わらぬところまで突き詰めていくということになる。普通に考えるならば、そんなことは不可能だ。

 しかし、拓実は一つ、目指す境地に限りなく近いところを既に知っている。そう、それは謁見の際に華琳に成りきっていた自身。『トランスした状態の自分』が一番、目指している役者像を再現していた。素の状態では絶対に耐えられない重圧に耐え、死の恐怖すらも克服してみせた。あの時の拓実は確かに、自己の限界を越えて華琳が如き振る舞いが出来ていたのだ。

 

 ――しかし、あれが自分の演技の完成形なのか。役者の意思を反映させずにする演技が本当に正しいのだろうか。拓実にはわからない。確たる理由はなかったが、しかしどうにも拓実はそれとは違うような、そんな気がしている。

 

 

 そのまま拓実まで考え込んでいるうちに、いつの間にか桂花の私室まで辿り着いていたらしい。拓実が気がついた時には、こちらへと振り返った桂花が自室の扉を開け放って入室を待っている状態だった。

 

「着いたのだからさっさと入りなさいよ。与えられている時間は有限なのだから一秒たりとも無駄には出来ないのよ」

 

 つんけんとしていて、表面上の桂花は昨日までと何ら変わるところはない。華琳以外に過度の好意を向けたりしないこういう言動こそ、桂花にとっての標準な対応であると拓実は理解している。その刺々しい態度に紛れてしまうが、春蘭や秋蘭、季衣に向けるものには友好的な感情が隠されている。

 だがしかし、今こうして拓実が桂花から受けているものはそれとは違っていた。桂花の視線やその物言いに隔意を感じている。この辺りを荒らす賊らに向けるほどの敵意はないが、警戒はそれより強い。春蘭と言い争っている時のあからさまのものとは違い、どこか探るような態度。どういった心情からのものかは不明だが、少なくとも桂花が拓実のことを警戒しているのは確かなようだった。

 

「ほら。早くしなさいって言っているでしょう、愚図ね。いつまでそこでそうしているつもりよ」

「もう。わかったから袖を引っ張らないでよ。シワになっちゃうじゃない!」

 

 ぐいと桂花に袖を引っ張られて、ぶつぶつと文句を呟く拓実だがその内心では疑念が晴れない。昨日は幾度か衝突したものの何だかんだで拓実は悪くない関係を築けていたと思っていたのだが、それは一方的な勘違いであったのだろうか。

 いつものように悪態をつきながら、桂花に従って彼女の部屋へと入室した。

 

 

 

「……と、今日私が華琳様より任されている仕事はこんなところね。まずは文官連中から当たるわ。下手に小賢しい分、私腹を肥やしている奴がいるとしたらまずこいつらよ。で、あなたからは何かある?」

「特にはないわね。私はまだどういった運営をしているのか詳しくは知らないことだし、とりあえず今日のところは現状把握を優先させてもらうわ」

 

 部屋に入ってからも桂花の様子はつれないままで変わることはなかった。まず、目線が合わない。拓実が顔を上げると、桂花はすっと手元の竹簡に視線を落としてしまう。だが拓実が竹簡を見ていると、知らぬ間に桂花はじっと拓実のことを見つめている。

 会話の方も途切れ途切れになり、長く続かない。世間話なんて以ての外で、唯一の例外は職務についてを話す時ぐらいであった。仕事についての説明こそしてくれているものの警戒は解かれていないようで、話している間も桂花と自身の間に壁のようなものを感じている。

 まるで腫れ物に触るように自身を扱う桂花の様子が昨日とはあまりに違っていて、拓実はどうにも落ち着かずにいた。言いたいことがあるなら言って欲しいものだが、桂花はそういった態度を拓実にわからぬよう取り繕い、隠そうとしている。不審な様子を隠し切れていないために拓実には筒抜けだったが、とりあえず悪意は感じないためにそ知らぬ振りをして会話を繋いでいる。彼女は自身の何に戸惑っているのか、ともかくそんな対応をされては面と向かって何があったのかなどと聞くことは拓実には出来なかった。

 

「ふん。賢明ね……じゃあ、朝食を終えたら資料室に向かうわよ。そこに部署毎の収支簿があるから、そこからひとつひとつ確認して潰していくわ」

 

 拓実の返答を聞いて小さく息を吐いた桂花は席を立って、足早に部屋の入り口へと足を向ける。慌てて椅子から立ち上がった拓実は、部屋を出ようとする桂花に追いすがった。

 

 

 

 無言で竹簡を開いては内容を吟味し、注釈を別の竹間に書き込んでは見ていた物を閉じる。朝食を終え、資料室から竹簡を持ち帰ってきた桂花と拓実は、再び桂花の私室に戻って仕事に取り掛かっていた。

 ぽつぽつと確認するように短い会話を挟んでいるもののそれらは全て仕事に関するものであったし、作業に没頭している桂花を邪魔をする訳にはいかないために拓実から彼女に声をかけることは(はばか)られた。拓実はまだ文を満足に読むことが出来ないため合間合間に文字を覚えながら、桂花が閉じた竹簡をまとめて執務室へと返していくことしか出来ずにいた。

 

「……拓実」

 

 二人で腕一杯に抱えて運んできた竹簡が残る三つを残すところで、今まで業務内容以外では口を開かずに黙々と作業を進めていた桂花が拓実の名を呼んだ。

 拓実が開いた竹簡から目を離して顔を上げると、そわそわと茶の色をした髪の毛先を指先で弄り、視線を逸らしながらも拓実に向き直った桂花の姿があった。緊張しているのか、肩は強張っていてその挙動は落ち着きがない。だが、その声には真摯な響きが聞き取れた。

 

「な、なによ?」

 

 これまでの桂花の態度に関係することなのだろう。今までのような事務的に話していた時とは佇まいが違う。そうまでして問い掛ける質問は何なのかと拓実は身構えるが――

 

「あ、その……。そう! あんた、何を考えて生きているわけ?」

「はぁ? それ、どういう意味よ。わざわざ呼びかけておいて、私に喧嘩売ってるの?」

 

 あまりにあんまりな言葉に意表をつかれて、拓実は桂花がするように言葉を返してしまった。

 違う。拓実がすべき対応はやんわりと受け答えて、何故こんな態度をとられているのかを言葉の端からでも探ることであった。確かに桂花の言い振りも酷いものではあったが、こんな応答の仕方では桂花は反発し、隠している本心を更に遠ざけてしまう。

 

「っな、なんでもないわよっ!」

 

 案の定、桂花は顔を歪めて残りの竹簡へと取り掛かってしまった。既にこちらに向けられていた体は完全に机へと向けられて、努めて拓実を意識から除外するように手元の竹簡を睨みつけている。こうなっては拓実が何を言おうと、桂花はまともな返答を返さないだろう。

 

「……はぁ」

 

 いつの間にか彼女に向かって伸ばしかけていた手を静かに下ろす。拓実はどうしていいかもわからず、迂闊な己に閉口した。

 その後まもなくして収支簿を確認する作業は終わりを迎え、各部署へ指示を出しに足を運ぶことになった。

 

 

 最初に向かった兵糧担当への指示を終わらせ、次へ向かうべく二人は退室したのだが、拓実はその場に立ち尽くして桂花を見ていた。拓実がついてきていないことに気づいた桂花が胡乱気に振り返る。

 

「何してるのよ。さっさと次行くわよ」

「あ、そう……ね」

 

 気に入っていない返事が返ってきて、さっさと歩き出そうと踵を返しかけた桂花はその足を止める。むっと表情を険しくさせていたが、拓実を見るや彼女は含むところがあるものの笑顔を浮かべた。

 

「ああ、もしかして私のやり方に何か不備でも見つけたのかしら? 言いたいことがあるなら言ったらどう? ま、私の仕事に不備なんてある訳がないのだけど」

 

 ふん、と意地の悪そうな笑みを浮かべた桂花は、まるで挑発するように声をあげた。次いで、自身よりも少し背の低い拓実を横目で見やる。しかしそれでも変わらずに、呆然としたまま見つめてくる拓実に相対し、思わずといったようにたじろいだ様子を見せた。

 

「何よ、何か言ったらどうなの?」

「いえ、桂花の手腕に感心してただけ。あんたってすごかったのね。今までみくびってたわ」

「は……? はぁ!? えと、あんたいきなり……その、何なの? そう、いつもの減らず口はどこへやったのよ!?」

 

 感嘆の声を上げる拓実に、桂花は目を見開いて、慌てた様子で声を荒げる。いきなりの賛辞の言葉に対応できなかったか、恥ずかしさから顔を赤く染めている。

 

 しかし、紛れもなくこれは拓実の本心である。桂花は優秀だった。事前に確認していた収支簿から業務上での無駄や、不正の痕跡を探し当てていたようだ。さらには内政官全員の仕事内容を把握しているのだろう。従来よりも効率のよい方法を指摘しては、それによって浮いた資金を予算から削っていく。竹簡に書き込んでいた内容を知らされていなかった拓実は、初めて彼女が何をしていたのかを知ったのだ。

 

「別にどうもしないわ。華琳様の軍師を名乗るだけのことはある、と納得しただけよ」

 

 つい今しがたまで二人が訪れていた兵糧担当の文官が詰めている執務室では、数十人の文官が業務をこなしていた。

 そこの指揮を執っている文官を相手に、桂花は理路整然と問題点を指摘して是正を求めた。相手は無理があるといくつか反論するも、結果的にはその利を理解させられ、首を縦に振らざるを得なくなった。

 相手の文官が男だったので少々どころではなく口が悪かったが、そんな桂花の姿は拓実の目には紛れもない稀代の賢者として映っていた。

 加えて、事前に内政面では重用していると華琳から聞いていたが、実際に目にして自身が勘違いしていたことを知った。軍師として登用されてからそう経っていないと聞いていたので、てっきり一部署を担っている位のものかと思っていたが、桂花は内務関係全てを総括しているらしい。いくら成果主義のこの陣営といえどもこの抜擢は異例に過ぎる。そう華琳にさせただけの能力を桂花が所持していることを思い知らされ、改めて評価し直していたのだった。

 

「華琳様の軍師であるこの私の有能さがようやく理解できたのね。……まったく、今まで私のことをどんな目で見ていたのやら。とんだ節穴ね」

 

 いくらか落ち着いたらしい桂花は、しかしまだその名残が残っていて頬が赤い。そして何が引き金になったのやら、先ほどまでとは違い口数が増えている。

 

「まぁ、いいわ。ほら、次へ行くわよ」

「わかったわよ」

 

 そうして二人は歩き出したのだが、朝から感じていた精神的な重圧がいくらか軽減されて、拓実の足取りは軽い。こころなしか、桂花に渡されて持ち運んでいる竹簡の束もそう重く感じない。

 

「拓実」

 

 肩越しに後ろを見やった桂花が、目線で拓実を促した。声色と仕草からそれを察した拓実は、小走りで桂花の横に並ぶ。そのはずみで手元からこぼれそうになった竹簡の束を、改めて胸元へ抱え直した。

 

「華琳様に言いつけられているから仕方なく聞いておくけれど、今の政務室で何か気にかかることはあった? 思いついたことがあったなら言ってみなさい。早々無いとは思うけど、もしも役に立ちそうなら私が手直しして草案を纏めてもいいわ」

 

 言われ、執務室の光景を思い出す。机の数と文官の数、間取り、どこに何がおいてあるのかが拓実の脳裏に鮮明に思い出される。

 華琳のことだから報告時に何かしらの発見を求めてくるのは予想できている。桂花と男性文官との論戦を聞きながらも、拓実は周囲を観察していたのだった。

 

「そうね。気にかかった事といえば、この国では紙は日常的に使うようなものなの?」

「はぁ? そんなわけないじゃない。以前からあった製法が改良されたばかりで、未だ高級品よ。普段使うなら、あんたが今抱えている竹簡がほとんどね。農民連中なんかは木片とかで代用しているようだけど」

「やっぱりね。さっきの政務室、張り紙やらで結構紙を多用してたわよ。あんたは担当者との論戦に夢中になってたんだろうけど、無駄遣い、控えさせた方がいいんじゃないの?」

 

 聞いた桂花はきょとんとした様子で目を何度か瞬かせる。遅れて拓実の言うその意味を理解したのか、眉を寄せて不快を(あらわ)にした。

 

「何ですって! 節制するようにって内々で伝えておいたのに、やっぱり男だから言われたことをすぐ忘れるのかしら! それとも私が新参者だからって舐めてかかっているか……どっちにせよ、あの男、図体と態度ばかり大きいだけで役に立ちはしないのだから。いっそ生まれてきたことを後悔させてあげましょうか」

「大男、総身に知恵が回りかね、ってやつね」

 

 何やらぶつぶつと文句を連ねている桂花を見て、拓実は思わず小さな声でこんなことわざを拓実はつぶやいていた。それを聞き取ったか、感心したように桂花が口元を緩める。

 

「へぇ。語感がいいわね、それ。男を名指しっていうのが素晴らしいし、春蘭みたいな大女に変えても使えそうだわ。それはともかく、紙の節約については私も前々から文官連中に伝えていたことだから、今夜の報告で華琳様に改めて建言するのもいいんじゃない?」

 

 ぽんぽんと言葉を応酬させていくうちに、桂花の態度は昨日までのと変わらなくなっていた。気負いなく、それこそどちらが憎まれ口を叩いても会話は問題なく続く。桂花の気質から、彼女の話し相手になりうる人間が珍しいのも手伝っているのかもしれない。

 

「ま、新参のあなたが気がつくならやっぱりそれぐらいのものでしょうしね。警戒していた私が馬鹿みたいだわ。それはともかく、ついでだから次の部署の是正内容の話もしておくけど――」

「ああ、ちょっと待って。もう一つあるわよ」

「もう一つ?」

 

 そうして拓実が桂花に伝えてみたのは、執務室で見つけた木炭や灯火用の油について――支給される物資の管理制度だ。先に疑問となるところを桂花に聞いてから、拓実は自身の考えを桂花へと話していく。

 まだそれほど寒さを感じるでもないのに木炭は隅へ積み上げられていて、灯火用の油は壺に充分な量が常備されてあった。その一角が拓実は気にかかっていた。

 拓実に考えられる節約術は、せいぜい現代日本に照らし合わせることだ。電灯を消し忘れない、エアコンは外出時には消す、洗い物では水を出しっぱなしにせず後で纏めてすすぐ。会社ならば紙面の印刷物を減らしたりして経費削減するというところだろうか。

 電気、水、ガスの代わりになるものとなると、ここだと灯火用の油であり、川や井戸から汲んでくる水であり、火鉢や香炉などに入れて暖を取る木炭となる。

 つまりは必要な物を、必要な時、必要な分だけ。どれも誰もがやっていることだろうが、現代日本でも通用するならきっとどこでも通用するだろうという単純なものだ。

 

 どうやらここでも例に漏れず、物資に関して切り詰める余地が残っているようであった。しかしここまで大きな組織となると、桂花がぼやいていたように節制を下部末端まで行き渡らせるのは難しい。

 そこで拓実が考えたのは、逆に充分な量を与えないというものであり、追加物資受け取りの際の記名制である。

 

 

 しかしこの案を話し始めてから、また桂花の様子におかしなものが混ざる。物資支給について訊ねられれば、根気良く、それこそ予算の分配や買い付け先の単価利益に至るまでを懇切丁寧に拓実に説明してみせた。立案に際しての疑問を解消した拓実が自身の草案を語れば、桂花は興味深いというように聞きに徹してくれていた。

 しかし、出来の悪い弟妹の面倒をみるかのようにしていた桂花は、拓実が話すにつれてどんどんと顔つきを険しくさせていく。そうして、物資使用量と仕事量の対比について把握する利点にまで拓実の話が及ぶと、ついに桂花は相槌を返すことなく鋭く拓実を見つめるようになっていた。

 

 拓実がそれらの説明を終えると、桂花は顔を険しくさせたまま拓実の草案へ疑問を投げかけていく。想定していないようなものばかりだったが、それらになんとか返答すると、訊くべきところを訊き終えた桂花は通路の真ん中で足を止めて黙り込んだ。

 突っ立ったままの桂花は幾許かしてから拓実へと顔を向け、とつとつと想定できる問題点に対しての解決策を語り、最後に華琳ならば採用するだろうから下準備は自身の方でやっておく、と言って話を打ち切った。

 

 

 

「桂花が本格的に私と顔を合わせなくなり、仕事の件以外の会話が途切れてしまうようになったのはその後からでしょうか。付け加えると、その後の仕事には特筆すべき出来事もなく、桂花の態度に変化はありませんでした」

 

 話し終えた拓実は胸の奥から深く息を吐き出した。こうして一から語った拓実には、それでもやはり自身に落ち度があったように思えない。

 だが、途中で桂花の対応が変化していたことを考えると、少なくとも自身が原因の一端を担っているのだろうことは間違いないようである。だというのにそれがわからないでいるというのは、何とももどかしい。

 

「そう、なるほどね。秋蘭、貴女は桂花のその行動、理解できるかしら?」

「……いえ。私が聞く限りでは拓実の行動に非は見当たりません。むしろよく働いているように思えます。どうにも桂花の異常は拓実が原因ではないように思いますが、しかし華琳様にはおわかりになるのですか?」

 

 第三者の意見を聞けば何かわかるかもしれない、と期待していた拓実だったが、その秋蘭の言葉に肩を落とす。

 こうなっては多少強引にでも本人に聞き出す他ないか、と体中を包んだ諦観は、次に聞こえた華琳の言葉によって吹き飛ぶことになった。

 

「ふふ、わからない筈がないでしょう。といっても共感できるのは現時点で私と桂花、今後を含めれば季衣ぐらいのものでしょうけどね」

「華琳様! それではその、桂花の様子に心当たりがあるのでしょうか?」

 

 まさかの言葉を聞き、拓実は目を見開いて無意識に身を乗り出していた。

 桂花の様子については、拓実にとっては近年のうちで一番といっていいほどの難題であった。その解決の糸口となれば放ってはおけない。その心根を理解しているつもりであったが今日の彼女の意味深な態度はまったく理解できず、桂花に対する人物評までもしや間違いではないかと内心は不安で揺らぎ始めていたのだ。

 

「もちろん。間違いなく原因はあなたよ、拓実」

「私、ですか?」

「ええ。当たり前でしょう。他に桂花がおかしくなる理由なんて存在していないわよ」

「確かに状況的に私以外には考えにくいことではありますが……わかりかねます。いったい私は彼女に何をしたのでしょうか。私はただ華琳様のお役に立つべく、非才の身ながらにお仕えさせていただいているだけですが」

 

 うなだれながら声に出す拓実を見てか、華琳は小さく笑声をあげた。そんな笑えるような簡単な問題なのだろうか。拓実は不安げに視線を華琳へと向ける。

 

「そうね。あなたに非はない。よくやっているわ。むしろ、内政業務に携わるのが初めてという割には出来すぎていると言っていいぐらいね。桂花の様子がおかしいのも、荀攸としてのあなたが内政官として桂花の想定以上だったからでしょう」

「申し訳ありません……どうにも華琳様が仰る意味が」

「わからない? つまり桂花は自分の立ち位置が脅かされているような強迫観念に襲われているのよ。拓実にはそんな気がないことは彼女も理解できているし、本来の役職を考えると拓実が軍師の立場に専属で収まることはない。だけど、桂花の姿で桂花にない発想から策を生み出すあなたを前にして、焦燥感が湧き上がってくるのを抑えられないのでしょう」

 

 華琳にしても胸につかえていたものが取れたのか、その表情は明るい。酒で口内を湿らせると、言葉を続けた。

 

「私にも演技する拓実を見て、そういった懸念を覚えたことがあるわ。雰囲気、仕草、口調、容姿、思考までを模倣する拓実が、それに準ずる技能を身につければと考えると空恐ろしくなることもね」

「横からの発言をお許しください。それにしては、華琳様がそういった素振りを我らに見せたことはないように思いますが」

 

 拓実も疑問に感じていたことを、秋蘭が声に出していた。桂花と同じ思いを感じていたという割に、華琳が拓実に対して隔意を持った様子を、周囲の誰も感じたことはなかったようだ。もちろん拓実本人にもそんな覚えはない。

 

「当然よ。そんな事を思っていたのは拓実の人となりを知るまでの僅かの間なのだから。あなたがどう大成していこうと、曹孟徳個人の目指すところとは直接の関わりはないわ。追いつかれるのが嫌だというならば、届かぬところまで上り詰めればいいだけでしょう」

「か、華琳様…………この拓実めは感服いたしましたっ」

 

 胸を張ってそう言い放った華琳。涼やかに拓実を見、笑みを浮かべる姿には一分の隙もなく、拓実にはどこか芸術品を見ているような感慨すらあった。丸一日考えても解き明かせなかった桂花の行動理由を言い当てたことも手伝って、華琳の背後には後光が差しているようにさえ見えている。

 

「その、華琳様。ならば、私が桂花に対してすべきことはありましょうか? いまいち桂花が感じているものを私が理解できていないために、解決策も浮かばぬ有様なのですが」

 

 言って、拓実はすがるようにして華琳を見上げた。最早拓実が頼れそうなのは華琳のみだ。幸いにして、華琳は桂花が今抱えている問題を乗り越えている。間違いなく有用な助言をもらえるだろうと、華琳を見つめる拓実の瞳には自然と熱がこもっていた。

 しかし、その拓実の期待を感じ取っただろう華琳は何故か首を振ってみせる。

 

「いいわよ、放って置けば。拓実も気にせず普段どおりに過ごせばいいわ」

 

 そんな投げやりな言葉に、拓実はまたも肩を落とすことになった。意気消沈した拓実を前に、仕方ないという風に華琳は言葉をつなげる。

 

「あのね、私は何も無為にしろと言っているわけではないわ。あくまで今回のことは桂花の内面の変化によるものなのだから、ここで拓実が何かしようものならその結果によっては桂花は頑なになりかねないのよ。桂花が自身を見つめ直さない限り、解決することはないことなの。桂花だって馬鹿じゃないんだから、一日二日もすれば自身の中で折り合いをつけるでしょう」

「はぁ……」

「ともかくこの話はおしまい。ここで私たちが話していてもしようのないことだもの」

 

 そう言って締めくくり、華琳はやおら隣の秋蘭へと視線を向ける。「もう亥の刻(22時)です」と返されたのを拓実も横で聞いて、そんな長時間にわたって話していたのかと驚いた。

 

「なんだかんだと話し込んでいたらだいぶ遅くなってしまったみたいね。今日聞く予定だったあなたの腹案、悪いけど明日にして頂戴。ああ、ついでという訳ではないけど、その時にはあなたの生国についても聞かせてもらうからそのつもりでいなさい」

「わ、私の生国についてですか?」

「何? 何か都合でも悪いのかしら?」

「いえ、そのようなことは!」

 

 若干の苛立ちを含んだ声を受け、拓実は平伏していた。半ば反射的に了承の言葉を返しながら、下げられた顔には焦りが浮かんでいる。

 華琳の機嫌を損ねてしまったから頭を下げたわけではなく、そんな自身の表情を華琳に向けないためである。

 

 実際、都合が悪いどころの話ではなかった。拓実が唯一、華琳たちに隠しているのが出自のことだ。もちろん真実を話していないのも何かしらの意図があってのことではない。拓実本人ですら信じることができない自身の立場であるが故に安易に打ち明けることが出来ず、いつしかその機会をなくしていたのだった。

 元はといえば状況がわからないために無闇に目立つべきではないと考えて自身について詳しく語ることをしなかったのだが、華琳や自分の為に力を尽くしてくれるみんなに対して嘘をつき続ける必要はあるのだろうか。僅かな間にそんなことが拓実の脳裏をよぎっていく。

 

「さて、それはそうと拓実。この前は断ったけど、今夜はどうするのかしら?」

 

 いきなり話題と華琳の声の調子が変わったことで、拓実は顔を上げた。椅子に座ってこちらを見下ろしていた華琳は立ち上がり、呆然と見る拓実へと近づいていく。

 

「……あの。今夜は、とは?」

「この私の寝室にこんな時間までいるのだから、察しなさい。それとも、はっきり言わなければわからないのかしら?」

 

 言いながらも拓実の目前まで歩み寄った華琳は、自身と同じ金色の拓実の髪を手で(もてあそ)ぶ。時折頬に触れる華琳の手は酔っているからか暖かく感じていたのだが、すぐにそんな些細な温度差はわからなくなった。

 その発言の意味に思い至るや拓実の顔面には血が上って、頭の中は真っ白になってしまう。桂花の役を全うしているならば一も二もなく華琳に身体を預けていただろうが、初心な拓実ではそこまで演じることが出来ない。

 

「え!? あっ、いえ、私は、そんな……」

 

 恥ずかしさから両手を所在なさ気に右往左往させるのだが、髪を(くしけず)る華琳の手を無碍に払うことも出来ずに為すがままになってしまう。

 意味を成さない言葉の羅列と、桂花と同じ容姿にしてはあまりに珍妙な対応に、華琳は耐えられないといった様子で肩を震わせる。

 

「ふ、ふふ。やはり面白いわね、拓実は。安心なさい、ただの戯れよ。……ああ、でも、このまま無理矢理っていうのもそそるわね」

 

 その言葉に拓実は目を見開き、身体を強張らせた。

 

「そんな! 相手から来るまで待つだけの器量を持ち合わせていると、華琳様は仰られていたでは……」

「何事にも例外というものは存在するものよ。それに、その相手から誘われているのに手を出さないのは逆に失礼じゃない?」

「一度もお誘いした覚えはありません!」

 

 羞恥で叫ぶ拓実の顔は耳まで真っ赤である。混乱からの興奮で瞳も潤んでいる。拓実のその様子に華琳はまた食指を動かされたらしく、その目に情欲の光を灯らせ始めた。口はこれでもかというほど弧を描いて吊り上っている。まるで肉食獣を前にするような恐怖を覚えた拓実は、ふるふると身体を震わせた。

 

「ああ、ほら。言った側からこれでは、襲ってしまったとしても私は罪に問われないと思わない? 貴女はどう思う、秋蘭?」

「……私は桂花と同じ容姿とは思えないほどに庇護欲をそそられていたのですが。そう言われてみれば、どこからともなく嗜虐心がふつふつと」

「し、失礼致しますっ! それでは、また明日の夜にご報告に伺わせて頂きますので!」

 

 どうやら周囲は肉食獣だらけらしい。そう悟った拓実は目を瞑り、喚くようにして言い放って足早に華琳の私室を辞する。

 最低限の礼儀として華琳に背を向けぬよう後ろ歩きに部屋を出ていくのだが、慌てすぎたのか入り口の段差に躓いて、後ろにコロンと転がってガツンと後頭部を床に打ち付けた。

 

「ぁっ……つ……!」

 

 のみならず、転がった拍子にその猫耳のついたフードを目深に被ることになってしまい、前が見えないまま立ち上がった所為で更に蹴っ躓き、体の前面を廊下へ叩きつける破目になった。びたんと、とてもいい音が暗くなった廊下に響く。

 

「……っ! ……! …………!」

 

 踏んだり蹴ったりの拓実は声にならない悲鳴を上げて悶えた後、よろよろと足取り定まらない様子で廊下の奥へと消えていく。

 たまらないのは拓実本人であるが、痛みで扉を閉め忘れたためにその一部始終は余すところなく華琳と秋蘭が目撃する事となり、二人は仲良く過呼吸へ陥る事となった。

 

 



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15.『拓実、占い師に見止められるのこと』

 

 華琳の私室から拓実が逃げ帰っての翌日。荒野に倒れている日から数えての五日目は、雲が空を覆っていて薄暗く、地面が軽く湿る程度の小雨模様であった。陳留の街も晴れて乾燥した日ならば黄砂が舞って(もや)がかるが、今日はすっきりと見える。

 

 身だしなみを整えた拓実は桂花と合流して本日の仕事内容の再確認をした後、昨日よりもいくらか薄暗い執務室にて帳簿の記録を(さら)っていた。そうして朝食前までに買い付け先の商人との売買記録をまとめ、食後には実際に商店へと赴いて実状を確かめると場合によっては桂花がそのまま交渉に移る。

 それをこなしている間、華琳より業務に口出しを許されている拓実はといえば特に発見もないままに荷物を持ってついて回るだけであった。物資買い付けで使えるような現代知識なんて拓実は持っていなかったし、そもそも物価を正確に把握しているかどうかからして怪しい。昨日に続いて桂花の仕事に非の打ち所がなかったというのも大きかった。

 ただ何も出来なかったからといって何も得るものがなかったという訳ではない。実際に商店に訪れ話を聞けたのは、拓実にとっていい勉強になった。また、双方に利をもたらせるように考えられた桂花の交渉を目にしたのだって得がたい経験だろう。

 そんなこんなで、あちらこちらへと足を運んでいるうちにあっという間に時間は過ぎ、桂花がその日に任されていた仕事は終わったのだった。

 

 昨日は不審な様子を見せていた桂花はというと、まだ拓実に対して戸惑っている部分はあったがその態度は軟化しつつあった。華琳に言われていたように拓実は対応を変えず、努めていつもどおりに振舞っていた甲斐あって、夜に華琳の元へと報告に向かう頃には会話もだいぶ元通りになっている。

 先日とは違って互いに意見を述べながら報告する姿に華琳も眉を開いて明るい顔を見せた。放っておくようにと言いながらも気に掛けてくれていたようだけれど、しかし僅かに見せたその小さなサインはすぐに平静な表情の下に塗り固められてしまう。

 半ば人間観察が癖になっている拓実に華琳のその振る舞いには思い当たるものがあった。自身の喜怒哀楽の感情を読ませないことで場の空気をコントロールする、権力者の表情の作り方である。対面するだけで相手を威圧し、場を自身のペースに巻き込む。当然、油断ならない奴と警戒を招くことになるが、人の上に立つ要職にある者なればそれが正しく利に転じるのだ。

 ただ他陣営の者が相手ならいざ知らず、配下の前ではそういったものを表に出してくれた方が親しみを覚えるだろうに、華琳は感情を表に出すことを好まないようである。大笑いしている華琳を見て嬉しそうにしていた春蘭の姿は拓実の記憶に新しく、そして華琳がその振る舞いを失態だったとして反省していたのも拓実はしっかりと覚えている。華琳は、他人に弱味を見せたがらない。おそらくはいつでも冷静に、完璧な主君であろうとしてのことなのだろう。

 

 ともかく昨日のこともあって戦々恐々としていた拓実だったが、その思惑は外れた。結果として夕暮れまでに仕事を終わらせて、華琳への報告もまた大事無く一日を終えることになった。そうして大事にいたらなかったことには、昨夜に華琳に予告されていた拓実の生国に対する問答も含まれている。

 生国である日本についての話を華琳にするに当たって、拓実は一日使って考えた末に、話せる範囲で自身の境遇を話すことを決めていた。今後のことを考えると無理に隠しているよりよっぽど無用な混乱を避けられるだろうと思ったからだ。華琳も拓実の運用に関して語っていないことがあるのだろうが、だからといって拓実まで情報を出し渋る理由はない。流石に『未来から来た』なんて拓実自身が言われても信じられないような突拍子のないことは伏せたが、今まで話すことができなかったいくつかを華琳と桂花へ打ち明けた。

 自宅にいた筈なのに起きたら自身が見知らぬ荒野に倒れていたこと。それ故に自国の位置も帰国する手段もがわからないこと。状況がわからなかったために旅をしていると偽って様子を探っていたことなど……。

 何故か納得した風である桂花と不機嫌を隠そうともしない華琳に、今まで打ち明けなかったことに対してのいくつかの小言をもらったが、人攫いなど不慮の出来事に遭ったとでも(おもんばか)ったのか深く尋ねられたりはしなかった。

 

 帰り方もわからないという拓実に憐憫の情を覚えたか、それともまた何か別の意図があるのか。華琳が位置を突き止めて然るべき対応をしてくれるとのことなのだが、この時代に自国が存在していないと言える筈もない拓実は、華琳、桂花の二人と日本についていくつかの問答をすることになる。

 そうして、気候、特産物、国の規模、兵の錬度、政治形態、民の生活水準、主食、その歴史など、様々なことを問い質された。オーバーテクノロジーに当たりそうな事は極力避けて話したが、それでも文明進歩の違いが大きすぎたのか訝しげに見られ、僅かな情報から二人に危ういところまで推察されそうになった。

 四季がある島国というだけで似たような地域を例に出しておおまかな位置を計測し始める桂花に、話しているときの拓実の態度を指摘し、矛盾点を突きつける華琳。しかし世界地図が存在していない三国時代では桂花もはっきりと特定も出来ずにうやむやとなり、必死の弁解が功を奏したか不承不承ながらも華琳は言葉を収めることとなった。

 

 この問答は拓実に酷い疲労をもたらしたが、それも仕方ないことだと考えている。未来から来た他国の人間で、あなたたちの生涯は歴史に記されているなどと話したことを想定しても、いい結果は想像できない。

 理解してくれた場合を仮定しても、おそらく華琳のことだから自分の行く末について尋ねてきたりはしないだろう。きっと自身の力と築いてきた人脈を用いて未来を作り上げていくはずだ。彼女にはそれだけの力があるのだから、安易に確定してもいない未来に頼って今後の指標を決めていくとは思えない。

 しかし華琳がそういった意志を持っていても、逆境に陥れば未来の知識を当てにする人間が他に出てくるだろう。華琳本人にしたって人間なのだから魔が差すこともあるかもしれない。きっとその所為で、彼女たちの中に小さな迷いを生むことになる。言われたとおりに従うなんて考えは、覇道を目指し、邁進するこの陣営にとってはあまりに意志薄弱に過ぎるものだ。

 また、『未来の知識』があるが故に変な先入観が生まれることもあるだろう。拓実の献策や発言に、相手の中で『それが歴史として正しいのではないか』といったような妙な補正がかかってしまうかもしれない。以前に三国志を読んだことがあるといっても、拓実は全てを記憶しているわけではない。むしろ、抜けている部分の方が多いかもしれない。加えて三国志も諸説あり、読んだものが正しい歴史になるという保障もなかった。

 ならば拓実が選んで発言をするだけに留めて、事前情報無しに華琳や桂花に判断してもらった方がずっと理に適ったやり方といえるだろう。そう考えれば拓実が『未来人である』という情報は余計なものでしかない。

 ただでさえ容姿と演技力の所為で、初対面の人間に理解してもらえない状況にある。影武者という立場柄、さらに胡散臭い要素を付加させたらどうなるものかわかったものではなかった。

 拓実はあるがまま全てを話してしまうことに対して、自身がどうなるかといった躊躇いはない。ただ、これ以上自分のせいで規律や人間関係を複雑にしてしまうようなことを避けたかったのだった。

 

 

 

 

 さらに明けて、刻は正午を回ったころ。春蘭、桂花、拓実の三人は城の中庭に集まっていた。

 拓実は手持ち無沙汰に空を仰ぎ見ていた。雨こそ降っていないが昨日に引き続いて雲が掛かっていて、風は凪いでいる。先日の雨があってか空気は澄んでいて、どうやら黄砂の心配はなさそうだ。地面は湿っているものの、水溜りもなくぬかるむほどでもない。

 

 拓実たち三人がぼんやりと立ち尽くしているのにも理由がある。昨日をもってようやく刺史から州牧への全ての業務引継ぎを終えたということで、この日、華琳たちは主だった将兵を連れて街の視察に出ることが決まった。そうして集合場所として午後に中庭が指定されているのだが、肝心の華琳はまだ現れないでいたのだった。

 

「春蘭、華琳様はどうなさったの?」

 

 口をついて出た拓実の言葉に、屹然と立っていた春蘭が振り向いた。

 

「うむ。昼餉を召し上がられたのだが、どうにも御髪(おぐし)が決まらないらしい。今、秋蘭も整えるのを手伝っている」

「そう。ご苦労なさってそうだものね、私と違って」

 

 華琳の影武者として同じ髪型の拓実だって、ウィッグを取り付けるだけでセットに特にこれといった苦労はしていない。男子にしては髪の編み込みなどの不必要な技能を持ってはいるが、流石にヘアアイロンも満足にないこの時代で華琳の髪型を一から再現するのは不可能だ。

 

「州牧となって視察に向かわれるのは今日が初めてだからな。華琳さまも気をつかっておられるのだろう」

 

 主が昇進したことに笑顔を見せる春蘭を目にして、隣に佇んでいた桂花も同意するように頷いた。納得したように拓実も相槌を返したが、刺史であった頃を知らず、州牧としての華琳しか知らない拓実にはいまいち実感の湧かない話ではある。

 

「ま、私の伝手が華琳様のお役に立ったのなら、あの驕慢な袁紹の元で苦難に耐え忍んだ理由があったというものだわ」

「そんなことをせずとも華琳さまであれば遠からず州牧に任ぜられたとは思うがな。しかし、こうも早く任命されたのならば、お前の手回しも無駄ではなかったということか」

「当たり前でしょう。むしろ今までの実績を考えたなら、遅すぎたくらいよ。華琳様に相応しい役職を賜れるよう用意させていただくのも私の仕事なのだから、手抜かりはないわ」

 

 珍しく桂花に感心した様子を見せる春蘭を相手に、桂花もふん、と鼻を鳴らして笑みを浮かべてみせた。

 事情がわからないので拓実は聞きに徹していたが、華琳の昇進には桂花の人脈を利用したようである。今回の手回しというのは桂花は以前に袁紹の元で働いていた時に得た伝手を用いたものらしい。当たり前の話だが、桂花と以前の主であった袁紹とは面識があるのだろう。

 

 袁紹は名門袁家の出身であり、群雄割拠する三国志においても列強のひとつに数えられる勢力である。また、何かと曹操と関わりを持つ人物であるとも伝えられている。現在の情勢がどうなっているのか拓実にはわからないが、袁紹が存命の時期であるなら友軍としてか敵軍としてかはわからないが、戦場を同じくする可能性が非常に高い。そのようなことになった際に、同じ格好をしている荀攸として出るのは不都合が生じるに違いない。

 今後の憂いとなりうることなので、拓実は会話を聞きながらも忘れぬようにしっかと脳裏に刻んでおく。

 

「そうね。中央との繋がりを持つ者は我が陣営にはいなかったから、そういった意味でも桂花の存在は助かっているわ。とにかく今私たちが必要としているのは力なのだから」

 

 拓実が二人の様子を眺めながら思案していたその時、桂花の背後から声が掛かる。三人はその声の主がいるであろう方向へと一斉に振り向いた。

 

「華琳さま!」

 

 その相手を視認した春蘭が、ぱぁっ、と顔を明るくさせる。急ぎ振り向いた桂花の表情も似たようなものだろう。そりの合わない二人がそんな反応をする相手なんて一人しかいない。桂花の背後から顔を見せたのは、やはり華琳であった。彼女の斜め後ろには付き従う秋蘭の姿もある。

 そして春蘭に華琳の素晴らしさを説かれ、桂花の心情に同調する拓実もまた満面の笑みを浮かべていた。

 

「待たせたわね。雨でも降るのかしら、どうにも髪の纏まりが悪いわ」

 

 空を仰いで、くるくると上下に揺れている自身の髪に触れる。拓実の目から見ても、いつもの髪型と違いは見られない。だが当の華琳は不満気に顔をしかめていた。

 

「まぁ、いいでしょう。ともかく、これでようやく季衣との約束を果たすことが出来たわね」

「約束、ですか?」

 

 初めて聞く事柄に、拓実はつい鸚鵡(おうむ)返しに聞き返してしまう。

 

「ああ、拓実は季衣や桂花が私の下で働くことになった経緯を知らなかったのよね。あの子を迎え入れるに当たって、私は季衣とひとつ、約束していたのよ」

「そうだったのですか。一応、桂花については本人から多少聞いてはいますが、詳しいところまでは……」

 

 拓実が華琳に召抱えられるようになった謁見の件は桂花のかねてからの希望によって、仕事の間の一服に拓実の口から伝えられることになった。語り終えた後、お返しという訳でもないが拓実も桂花が軍師として任官された経緯を知りたがったのだが、どういった理由からか簡単にしか語られなかったのだった。

 

「あら、そうなの? まぁ、桂花にしてみれば喜んで話すようなことでもないのだから当然でしょうけれど。今から視察に出るから詳しい説明は省くけれど、季衣は村が盗賊の襲撃に悩むことなく過ごせるように、私がこの地を平定するという条件で傘下に入ったのよ。けれどもあの子の村は陳留から離れていて、刺史として管轄する位置に含まれていなかった。こうして州牧となって直轄する土地が増えて、晴れてあの子の村を保護出来るようになったという訳」

「なるほど、そのような理由があったのですか。個人的には桂花が任官するに至った経緯を話そうとしないことにも興味があるのですが」

「ば、馬鹿っ、視察が控えていてお時間がないと華琳様が仰られているでしょう! それに、別に何にもなかったわよ! あっ、そうです! その季衣はどうしたのですか? 華琳様がお目見えになられたというのに一向に姿が見えませんが」

 

 拓実が視線を向けた先では桂花が焦った様子で話題を変えようとしている。別に無理に聞きだすつもりはなかったが、桂花の様子でその時に何らかの失敗をしていたことを拓実は知ることが出来た。きょろきょろといくらか大げさに見回す桂花に、今まで黙って華琳の側に控えていた秋蘭が口を開く。

 

「先ほど、山賊の根城が見つかったとの知らせを受けてな。季衣は今しがたその討伐に向かったところだ。あれも疲れているだろうから姉者や私が出ると言ったのだが、相手が賊となると私が言ってもどうにも聞かん」

 

 一通りの説明をした秋蘭は、小さく息を吐いて「困ったものだ」と続ける。拓実が見回してみれば、華琳、春蘭や桂花が表に出している感情の大きさに差はあれど、質自体は同じものだった。

 しかし、周囲が感じているものに拓実は共感することが出来ずに様子を眺めている。この中でただ一人、異様に切迫した様子の季衣の姿を見ていないのである。

 

「もう少し周囲を見渡せるだけの余裕を持てれば言うことはないのだけれどね。ともかく、季衣が討伐に向かって参加しないのだから、視察に向かう人間はこれで揃ったわ。桂花、後のことは頼むわよ」

「はい、それは構わないのですが。しかし、華琳様ぁ、何故新参の拓実を連れて、私を置いていくのですかぁ……? どうせ私が残ることになるのなら、せめて拓実を道連れに……じゃなくて、拓実の一刻も早い学習のためにも残していったほうが……」

「桂花を置いていくのは任せられるのがあなたしかいないからよ。拓実を置いていったところで、万一の時に城中を取り仕切ることなどは出来ないでしょう? 加えて、聞けば先日の街案内は時間が足りずに中断したらしいじゃない。いい機会だから、私自ら案内してあげるのも一興だと思わない?」

「それは……確かに、華琳様の仰るとおりですけども……」

 

 城に残るよう言われているのは、唯一危急の事態でも判断を下すことが出来て、尚且つある程度の権限を与えられている桂花であった。

 拓実は内政業務の勉強中でありながら、他にも覚えなければならないことが多い。積み重なって、拓実に結構な重圧を与えているほどだ。その為に何よりも時間が足りない状態に置かれているので、てっきり桂花と一緒に留守居を任されることになると思っていたのだが、華琳は半ば強硬に拓実に同行を命じたのだった。妙に歯切れの悪い返答する桂花は、華琳にしては珍しい非合理性から何らかの思惑を感じているのかもしれない。

 

「ここで問答してても仕方なし、そろそろ出発するわよ」

 

 ぱん、と手を打った華琳はそう言って話を打ち切り、さっさと城門へと向かっていってしまう。慌てて春蘭、秋蘭、拓実は、先を歩いていく華琳に急いで追いすがる。

 

「ああ、拓実。知りたがっているようだから、どうせなら道中にでも桂花が任官した時のことを話して聞かせてあげましょうか?」

「か、華琳様っ!?」

 

 去り際に話を蒸し返され当惑する桂花を置いて、華琳は背中を向けながら小さく手を振った。一行は笑い声を伴いながら、城下街へ向かうのだった。

 

 

 

 数名の護衛と合流した四人は、街へと繋がる城門へ辿り着いた。生憎、良いとはいえない天候だが、それでも先日感じたとおり街には活気が溢れていて 旅人、商人、そして三国時代とは思えない未来的な格好の旅芸人など、外からやってきた人々の姿も多い。

 そんな街の景観やその盛況ぶりについて、いくつかの言葉を交わした後、四人は時間の関係もあり三方へ別れることとなった。賊討伐に向かっているために視察に同行できなかった季衣へ、それぞれがこれはと思う土産を探してやるためである。先日支度金もかねて給与をもらった拓実には、買い物を体験する丁度良い機会でもあった。

 春蘭は街の南側を、秋蘭は北側を、華琳と未だ地理に暗く腕っ節のない拓実が組となって中央を進んでいく。恐らくバレはしないだろうが、拓実は華琳と似通った容姿が悪目立ちしないよう猫耳のフードを深めに被ることにした。

 

 そうして華琳と共に歩いていく中央通りには商店が多く、そこから道幅狭い裏通りへ入って歩くと小さな屋台や料理店が見られる。街の中央部にはこういった食料品を取り扱う店や料理店が固まっているらしく、通りには様々な声が飛び交っていて、道行く人たちは思い思いに言葉を交わしている。

 そんなあまり身を置いたことのない環境に、拓実はどうにも場違いな気分になる。現代日本では薄れている人情味がここにはあるようだ。

 

 華琳直々に街の区画の説明を受けながらのんびりと歩いていた拓実だったが、ふと気を取られ、あるものが目に留まって足を止めた。それに気づいた華琳もまた足を止め、拓実へと振り返る。

 

「あら、どうしたの? 何か気になるところでもあったかしら?」

「あ、いえ、大したことでは。ただ、この街の料理は小麦を使ったものがこうも多いものかと」

 

 言葉を返しながら再び足を進めて華琳の後へ続く。彼女もまた移動を再開させた。

 拓実の鼻をくすぐっていたのは、麺料理や蒸した饅頭、揚げたての春巻きなどの食欲をそそる香りだった。ついつい何となしに店頭に並べられる料理に目が移ってしまっていたのだが、いくつか見ているうちに疑問が湧いていた。

 

「先程から熱心に眺めていると思ったら、そういうこと。拓実の国の主食は米だったわね。全く作らないわけでもないけど、やはりこの地方では麦の方が主流よ。米食を主にするのはもっと南……そうね、江陵や江夏のあたりかしら。水稲にしても陸稲にしても豊富な水源が必要だから、適した地域でもないと安定した供給は難しいわ」

「はい。私の国は気候もそうでしたが、多く川が走っている為に稲作に適した土壌でした」

「ええ。そうでしょうね。後は漁業が活発といっていたかしら」

「周りが海に囲まれておりますので、魚介類を使った郷土料理もたくさんありました」

「そう……機会があれば口にしたいけれど、いくらなんでも海魚までは流通してはいないわね。塩漬けなどに加工してならばともかく、鮮魚はここまで運搬している間に腐ってしまうもの。精々川魚ぐらいだわ」

 

 そうして会話を続けながら、拓実は周囲を見て回る。頭の中は疑問符でいっぱいだった。

 今もそこらで売られている饅頭だが、これは諸葛孔明が南蛮遠征の際に立ち寄った村で、人柱の代わりに作った羊や豚肉を小麦で包んだものが起源であるらしい。当時は川に流していたが、それが後にもったいないからという理由で祭った後に食べるようになったものではなかっただろうか。曹操である華琳がつい先日まで陳留刺史であったことを考えると、今あってはならないものである。その伝承が間違っていた、と一概に言えないだけの疑問はまだ残っていた。

 麺料理……この前のラーメンにしてもそうだが、出汁をとってコクのある味付けし、具を載せるなんて手の込んだ料理を庶民に振舞うというのも考えにくいことだ。今通り過ぎた屋台のラーメンには鳴門巻きまで乗っている。揚げ春巻きも、発祥は比較的近年であるといった記述を見た覚えが拓実にはあった。少なくとも、三国時代ということはなかった筈だ。

 ここにあるのだから仕方ないのはわかっているが、文化祭発表の為に事前に調べていた歴史や食文化と、現在こうして目の当たりにしている現状の差異が、どうにも納得いかない。それについて言及すれば、回り回って女性である華琳たちを否定することになるのではないだろうか。ならばきっと、これについては深く考えてはいけないのだろう。そうやって疑問ばかりを吐き出してくる、妙に常識的な自身の価値観を必死に修正していたのだ。

 

「やはり異国の風土というのは、中々に新鮮なものね。又聞きだろう噂や主観の混じった情報ではどうしても信憑性に欠けてしまう。そういった意味では、有意義な話が聞けたわ」

「報告や書面からではわからないことがあるということでしょうか?」

「そういうこと。だから今日もこうして、実際に足を運んで視察に出てきているのよ。それにしても一国民であるという拓実が、それだけの情報を知り得るだけの基盤が国として出来ているということが驚嘆に値するわ。敢えて情報を共有し、国内中に公開しているということなのだろうけど、どういった経緯でそんな方針が生まれたのか興味が湧くわね」

 

 内心で華琳のその言動にひやりとしながらも、拓実はすました顔で歩みを進める。

 その『日本』の異常を華琳は理解して、しかし拓実が話さないことを見逃している。拓実が帰れないという事情が、様々な意味で真実であると認識しているに違いない。

 華琳のそんな対応に甘えて、拓実はある意味で開き直っていた。きっと下手に隠したところで華琳はそれに気づくだろうし、そんな中途半端な線引きでは拓実だっていずれボロを出す。あまりに決定的なものでなければ話してしまっても構わないだろうと拓実は楽観的に考えていた。

 

「やーやー、そこのおふたりさん。よかったら見てってくれへんー?」

 

 そこで話の流れを断ち切ったのは、横から声をかけてきた少女である。拓実の耳が正しく働いているのならば、関西のイントネーションである。価値観修正に掛かりきりの拓実の脳みそは、その事実を認識するのに多少の時間を要した。

 遅れて驚きと共にそちらへと視線を向けて、拓実はまた驚いた。胸の大きな、快活そうな可愛い少女がござの上に商品を並べて座っていた。髪の毛を頭の横、高いところで二つにまとめていて、華琳や春蘭、秋蘭が好んでつけているような金属製のドクロが髪留めのアクセントになっている。

 問題なのはその格好である。上半身が水着だった。そうじゃないというのならば下着だ。袖が別についているが、とにかく生地面積が圧倒的に小さい。

 

「これは、竹かご?」

 

 そんな格好に面食らったものの、すぐに我に返った拓実はしゃがみこんで並べられた商品を眺め始めた。その端に拓実が異様なものを見つけると、華琳もそれに気づいたのか目線を向ける。

 

「おそらくは出稼ぎに来たかご売りでしょう。けれど……これは何かしら? 見たことがないわね」

 

 あっはっはっ、と明るく笑う少女の前に並べられたかごの脇に、言葉では形容しにくいそれがあった。日本にあったというお茶を運ぶカラクリ人形のその中身というのが近いだろうか。木で出来た枠や金属の軸、同じく木製の歯車やらが組み合って出来ている。

 常識修正済みの拓実はこうして歯車を見ても「あるんじゃしょうがない」程度の感想しか出てこなくなっている。

 

「いやー、よくぞ聞いてくれましたっ! 今まで誰も聞いてくれへんから折角持ってきたのにどーしよーかと思てたんよ。これはうちが作った『全自動かご編み装置』っちゅーカラクリで、なんと、これと材料さえあれば手間も時間もかからず簡単に竹かごが完成する優れモンや!」

 

 右手で胸を叩き、少女は自信を漲らせてその大きな胸を更に張る。周囲では中々見られないその迫力に、拓実は慄いていた。思わず、複雑な表情でその少女を眺めてしまう。

 かなりのプロポーションを誇る我が陣営の先進国である春蘭、秋蘭の姉妹をも確実に上回っている。そして発展途上国である三人の姿が脳裏に浮かんでしまう。目の前の彼女と脳内の三人を並べてみて、あまりの経済格差に憐憫を覚えてしまった。これほどまでに胸部にこだわってしまうのは自身が演じている役柄(けいふぁ)の所為だろうか。拓実はそんな失礼なことまで考える始末である。

 

「拓実、彼女を睨んでもあなたの胸が膨れることはないわよ」

「か、華琳様ぁ!? 私は、別にそんなこと……っ!」

 

 そんな不届きな思考を巡らせていた拓実が、他人からは物欲しそうに見えているのは果たしてどうなのであろうか。華琳は拓実の性別を忘れているのか、それとも拓実が桂花になりきれている故と取るべきなのか、判断が難しいところである。

 

「ん? いやいや、見たところぺったんこやけど、安心しい! これからやで! しっかり栄養とって適度に運動すれば、案外大きくなるもんや」

「ふふ、良かったじゃない。これから大きくなるそうよ」

「大きくなんて、なりませんから!」

「あ、そういや他の人に揉んで貰うっちゅーのも聞いたなぁ」

「ふぅん……」

 

 聞くなり、華琳の表情がなくなった。ただ、じっと拓実の胸部を凝視し始める。ぶわっと拓実の背筋に悪寒が走った。

 

「ちょ、ちょっとあんた! さっさと用件を話しなさいよっ! 私たちはいつまでも話に付き合っていられるほど暇じゃないのよ!」

 

 今この瞬間、明らかに華琳の顔付きが変わろうとしていた。拓実は咄嗟に言い放って話の流れを変え、華琳の変化を止めたが、この選択はおそらくは正解だったろう。危機一髪といえる状況に、拓実の背中の冷や汗は止まらなかった。その顔も少し血の気が引いて青くなっている。

 

「おっと、すっかり忘れとった。それじゃちょっとこの取っ手掴んでや」

「はぁ……これでいいの?」

 

 華琳の顔がつまらなさそうになったのを確認して、拓実は胸を撫で下ろした。半ば呆然としながら少女の言われるままにする。

 

「せやせや。ほんで竹をここにこう、囲むように入れて……っと。これで準備万端や。その取っ手を回したってー」

「んっ……と」

 

 拓実が映写機のハンドルのようなそれをぐりぐりと回し始めると、水着少女が入れた竹板の束が編まれてカラクリの上部から少しずつせり出てくる。結構な力を入れないと回らないぐらいに重たいが、それでも一つ一つ編みこんでいくことを考えればかなり楽になっているといえるだろう。

 

「大したものね。編みこみの粗さも目立たない。側面はいいけれど、底と枠の部分はどうするの?」

「あー、そこは手動になりますー」

「そ、そう……まぁ、手間は省けるんじゃないかしら」

「けど、これのどこが全自動なのよ……結構大変じゃない」

 

 ぐるぐるとハンドルを回す拓実に痛いところを突かれたのか、女性はうっと詰まった様子を大げさにしてから苦笑いして見せた。明るくてひょうきんな性格で、どうにも憎めない人柄である。

 そんな少女を眺めながら、拓実は手元を動かし続けていた。それに気づいたか少女の顔が焦ったものに変わる。

 

「ああっ、あかんて! もう入れてある分の材料、編み終えてるんやで!」

「えっ?」

 

 ぐりぐりとハンドルを回し続けていると、確かにどうやら材料切れらしい。ぼろっとかごの側面だけが装置から吐き出された後、あろうことか拓実の手元にあった装置は弾け飛んだ。

 

「きゃあ!?」

「拓実っ!?」

 

 その勢いで拓実はころんと後ろに体勢を崩して、転げることになる。からくりの枠組みはばらけて飛んで、拓実の倒れている横を木製の歯車が転がっていく。

 

「あっちゃー、やっぱこうなってもうたかー。これ、まだ試作品なんよ。竹のしなりと強度の折り合いがつかんでなぁ。一応改良したの持ってきたんやけど」

「あ、あああ! 危ないじゃない! こんな爆発するような物を置いておくなんて、何考えてるのよ!」

 

 上体を起こした拓実は、きっ、とまなじりを吊り上げて叫んだ。きんきんと響く声に、少女は耳を塞いで笑っている。

 

「ま、客引きになるかなー、思てなんやけど。ん、お客さんら、姉妹なんか? 髪型やら雰囲気やら違うけど顔立ちがそっくりやねぇ」

「は? な、何でそんなこと……? あっ!?」

 

 言われ、立ち上がった拓実はすぐさま身だしなみを整えていく。そうして頭に触れて、触れるはずのものが手に当たらないことに気がついた。転がった拍子に被っていたフードが外れてしまっていたのだった。

 それを知って、拓実は急いでフードを被り直す。ばくばくと心臓が拍動していた。そんな不審な様子の拓実に、かご売りの少女も不思議そうに視線を向けている。動揺を隠せず、つい困って華琳を見てしまう拓実であったが、その華琳はといえば焦る様子もなく笑みを浮かべていた。

 

「違うわ、姉妹ではないわよ。私なんかより、この子のおばの方がよっぽど似ているもの」

「ほー。そらいっぺん見てみたいもんやなー。まぁ、ともかくうちのカラクリ壊してもうたんやから、一個くらい買うてってぇなー」

「ふぅ、まったく仕方ないわね。拓実、買ってあげなさい」

「は、はいっ!」

 

 あっさりと少女の疑念を払い、落ち着いた様子で場を治めた華琳に、拓実は尊敬のこもった視線を送る。そうして言われるまま竹かごを一つ買い取ることになったが、これが拓実の貰った初給与での初めての買い物となったのだった。

 

 

 

 その後は何事もなく、別れて視察に向かっていた秋蘭と春蘭と合流することになった。

 街の視察と季衣へのお土産探しをしていた筈なのに、何故か四人の手には三つの竹かごと大量の服がある。これでは季衣も喜ばないだろうと、急いで中央通りへと戻って持ち帰りできるように包まれた饅頭を購入し、それをかごに入れて帰途につくことになったのだった。

 

「もし、そこの若いの……」

「誰?」

 

 並んで城門へと戻ろうとする四人を引き止める声がかかり、声をかけられたであろう華琳が誰何(すいか)する。視線を向ければ、声を掛けてきたのは道端に座り込んでいる人物らしいが、頭から布を被っている風貌と放たれたしゃがれた声色からは、年齢も、性別すらも分からない。

 

「……占い師か」

 

 拓実は秋蘭の言葉に思わず内心で納得していた。この人物の持っている異様な雰囲気は常人とは明らかに違っている。

 

「華琳さまは占いなどお信じにならん! 慎め!」

「春蘭。控えなさい」

「は? ……はっ」

 

 異様な風体の相手を威嚇するように春蘭が一喝するも、華琳本人に遮られてしまった。一瞬怪訝な表情を浮かべるも春蘭は引き下がる。それを見計らった華琳は、一人その占い師へと近づいていった。

 

「さて、この私に何が見えるのかしら?」

「強い、とても強い力を持つ相じゃ。希にすら見たことの無いほどに……」

「ほう、それで?」

「時代が時代であれば、稀代の名臣となるじゃろう。兵を従え、知を尊び、武を重んじた、国を栄えさせるほどの、治世の能臣と。……しかし、今はそのような時代ではない。お主を臣下とするだけの力が、今この国にはない……」

 

 声が続けられる度に、華琳の笑みは深められていく。それは称えられてのことではない。純粋に何を言われるものかと面白がっている様子だ。

 

「では、この時節であるならば、私は何になるというのかしら?」

「野心のままに……国を犯し、野を侵し、歴史に名を刻むことになろう。そう、類い希なる、乱世の奸雄として」

 

 占い師の言葉に一拍、空気が凍りついた。誰もがその言葉をすぐさまに理解することが出来なかったのだった。

 

「貴様ッ!」

「秋蘭!」

「で、ですがっ!」

 

 乱世の奸雄。手段を選ばずに、ひたすら上を目指す小賢しき者。乱れた世に、策謀と力を示す者。

 そうまで主君を貶されれば、華琳を敬愛している秋蘭が黙っていることなどはできないのだろう。珍しく、華琳の制止の言を投げかけられて尚、異を唱えている。

 

「乱世の奸雄、ね……。ふふっ、結構なことじゃない。気に入ったわ。秋蘭、この者に謝礼を」

「し、しかし」

 

 プライドの高い華琳であれば本来激怒するところである。その性格を知るからこそ、命令された秋蘭は動けない。貶した相手に謝礼を施せという華琳の意図が掴めず、二の足を踏んでいる。笑みを浮かべていた華琳は表情を一転し、秋蘭から目線を切って拓実へと移した。

 

「拓実、この占い師に幾ばくかの礼を」

「はっ」

 

 秋蘭が未だ占い師を睨みつけているのに対して、拓実はなんら反論もなく、すぐさまその華琳の命を受け入れる。人物鑑定の謝礼をする場合の相場など拓実にはわからないが、手持ちから少し多すぎるぐらいに金子を出し、占い師の前の器の中に入れにいく。

 こうして拓実が即座に動けたのにも理由があった。華琳の直々の命であったからとか、占い師の言った言葉の意味を理解できていないといった理由ではなく、話を聞いているうちに『乱世の奸雄』という言葉を聞いた時の『三国志における曹操の反応』を思い出していたからだ。

 その高い能力故に傲慢な嫌いがある曹操が、人から貶しとも言える言葉を聞いても怒りを覚えず、それどころか喜び、手厚く礼を返した逸話である。どういった感情によるものかの全容は拓実にも不明だが、汚名となりうるそれを甘んじて受け入れるということは華琳にもその言葉に感じ入ったものがあったのだろう。そう納得していたのだ。

 

「……お主」

「私?」

 

 拓実が謝礼を器に入れて占い師との距離がもっとも近くなった時、再びかすれるような声が響いた。どこを見ているのかすらわからない占い師ではあるが、その声は確実に拓実へと向けられている。

 

「お主の相は、仕える者を王へと上らせる、王佐の才。いや、そこな者と同じく乱世の奸雄とも。……だが、救国の徳王にも見える。見るたびに相が変化している、不思議な相だ。見たことが無い」

 

 ぐい、と覗き込むようにされて、拓実は石になったかのように動けなくなってしまう。どういったわけか、布の中はここまで近づいても、せいぜい人間の輪郭までしか見えてこない。まるで、人の形をした暗い穴のようだ。

 

「だが、確かであるのは、一つ。大局の示す流れに従い、逆らわぬようにしなくてはならん。さもなくば、待ち受けるのは身の破滅。……けれども、お主ならば己を殺し、役割を授かったなら、見合った名を歴史から与えられよう。……新たな流れも、あるいは生まれるやもしれん」

 

 拓実には、占い師の発言の意味が掴めない。

 身の破滅……大局なる何かに逆らえば、死ぬとでもいうのだろうか。そして示されたその救済の方法は、自分を殺すこと。身の破滅を防ぐために、自分を殺す? そもそも新たな流れとはなんなのか。名を歴史に刻むでなく、見合った名を歴史によって与えられるとは、どういう意味なのか。

 

「よいか。いもせぬ者にその座は存在しない。くれぐれも気をつけよ」

 

 最後に占い師は拓実に忠告を残して、座り込んでしまった。声を放つことも、身じろぎをすることもなくなった占い師を呆然と眺めていた拓実は、春蘭に連れられて城への帰路についた。

 城へと向かうその間、拓実は華琳たちの会話にも碌に参加せずに黙り込んだまま先ほどの言葉の意味をずっと考えていた。占い師の言葉はしばらく、拓実の心にしこりのように残り続けていた。

 

 

 



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16.『許定、曹操と手合わせするのこと』

 

 華琳は一人、豪奢な椅子に腰掛けて考え事にふけっていた。背もたれに背を預け、視線を動かさずにいる姿からはただひたすらに集中しているのが見て取れる。

 今いるのは彼女の自室だが、様子は一月前と一変している。そこにある家具や寝具はそれぞれ、州牧という地位に相応しい高価で煌びやかなものに買い換えられていたのだ。それは華琳が望んでのことではなく、上司が一切の贅沢をしないようでは部下は恐れ多くて息を抜くことができないだろうと秋蘭からの進言があったからである。

 普段であれば気が回るだろうそんなことにも気づかないほどに、華琳は州牧となってからの二十日、目の前のことにかかりきりになっていたのだった。今も机に広げられた竹簡を眺めながら、現時点で得られている情報を頭の中で整理している最中である。

 

 他の領主が昇進となれば与えられた権力に奢って少なからず贅沢をするところであるが、華琳の場合は数日部下を労うための酒宴を開いたきりで以後そんな様子はない。

 むしろ今回の昇進により、元より多いわけでもない睡眠時間をさらに減らして一層仕事に打ち込んでいる。部下に、そして規律に厳しい華琳であるから、自身の事を輪をかけて厳しく戒めて規範となろうとしていた。

 だが、華琳はそれだけの理由で仕事に夢中になっているというわけでもなかった。今回の昇進によって、以前より思い描いていた国の基盤が少しずつ出来上がっていく喜びによるところは大きい。

 その勤労あって、直轄地拡大に際しての諸般の問題はここ数日の間に改善され始めている。慢性的な人手不足なのは以前からそれほど変わらないが、街にも城にもいくつかの変化があった。

 

 大きな変化として、内政面や軍の規律だ。今までは従来のものを踏襲して行っていたが、現在は桂花たちの政策を受け入れ、試行錯誤しながらも新しく構築し直している。行なった政策はいくつかあるが、兎にも角にも桂花の働きが大きい。今となってはこの陣営は彼女なしでは成り立たないほどの、かけがえの無い人材となっている。

 特に目を見張るものは今も継続して行なわれている経費削減であった。彼女と比較するのは可哀想かもしれないが、拓実が発案し施行したものに比べると優に数十倍の費用を捻出している。

 とはいえ、拓実の挙げていた節制案も失敗したというわけではない。充分に成功といっていい出来である。管理用の竹簡などの予定外の雑費が増えたことで数字上は大したものではないが、華琳が重点を置いているのは部下育成にある。その効果が目に見えるようになるのは数ヶ月先のことだろう。

 こうした金策によって発生する予算は街の整備や治水工事に充てることが決まっていたが、拓実の節約制度で生まれた予算は予定外だったために浮いた状態だ。しかし新たな政策を起こすほど大した額でもない。通常であれば糧食に換えて蓄えておくべきなのだが、それを実行するかどうかを決めるのは今華琳の目の前にある書簡の案を検討してからでも遅くはないだろう。

 

 続いて、軍備。管轄地区が拡大したことで内政面の問題の洗い出しをしていたように、軍事面にもまた見直しの必要が出てきている。領地となる全ての街に賊に備えて兵を配備せねばならず、またそれとは別に治安警備の者たちを雇い入れて教育せねばならない。今までとはまったく、必要とする兵数が違う。

 これまでのやり方が通用していたのは、部隊自体が小規模であった故に春蘭による兵の調練が末端まで行き届いていたからだ。しかし今後も同じようにして春蘭を調練に派遣するわけにもいかない。急場で部隊長を派遣して訓練させているが、そのうちに行き届かない部分が出てくるだろう。現状では重大な問題は発生していないが、早急に具体的な不備な部分を洗い出さねばならない。

 

 そして残る変化は今この陣営にいる人材についてである。

 まず挙げられるのは季衣である。以前にも増して賊発生の報せが入ってくるので、彼女の精神状況は日に日に悪化している。討伐に連日かかりきりになり、帰還してはまた出兵していく。表面上は何ともないと振舞っているが、そのうちに身体を壊してしまうだろう。そうなる前に華琳から諭してやらなければなるまい。原因となっている賊対策もそうだが、華琳が目下、一番に懸念しているのは彼女についてである。

 同時に春蘭、秋蘭に関しても負担は増えているが、そちらにはそれほどの心配はしていない。管轄地の関係で仕事量は増えてしまったが彼女たちは己の分を知っているし、報告を聞く限りではもう環境に順応しているようだ。内政もこなせる秋蘭の負担が大きいかもしれないが、彼女ならば大丈夫だろう。

 そんな中、人手が足りないこの陣営において戦力となりつつあるのは拓実である。いつの間にやら文字を読めるようになるだけでなく、簡単な文章を書けるようになっていた。華琳がそれを知ったのは今朝のことだ。

 街の警備について進上することがあると、今机に広げられている書簡を華琳に渡したのだった。文字はたどたどしく、文脈がおかしいところがあるものの意味を読み取れる程度の体裁は整っている。元々の素養か、それとも桂花の姿を借り受けているからなのかはわからないが、華琳の予想を上回る学習進度である。

 

 さて、その書簡の中身についてだが、街の浮浪者を雇い入れて警備隊に配属するべきというもので、示されている内容としては特筆すべきことはない。華琳も以前から考えていたことで、その方法も立て札を立てて募集の話を街に流すだけというこれまた平凡なものである。今までのやり方となんら変わりない。しかし、雇用後の待遇要望については華琳の想定していない変更点があった。

 まず、警備の人間で軍本隊での調練へ参加希望する者を受け入れるようにすること。また、警備で経験を積んだ者の中から希望する優秀な者を兵役として本隊へ組み込むこと。その者たちはそのまま兵として扱い、あるいは統率力のある者を他の街へ警備指導の兵士として送ればいくらかの人材不足が解消されるだろう旨が記されている。

 警備に配属された者たちは元々兵士に希望し、実力が足らない等の理由で判断され振り分けられた者たちが多い。そして、警備は給与が低く、本隊の兵に比べて扱いもよくない。中には警備に志願した者もいるがそれは極少数であり、大抵の者は危険は多いものの賃金などで優遇される本隊の兵士へなりたがる。出稼ぎに来ている者たちは、農村に家族を残して仕送りを目的としているからだ。ゆくゆくは兵士になれるとなれば、今警備についている者たちの労働意欲向上は勿論、業務に真剣に励むようになるだろう。兵への出世の門戸となるなら、新規の志願もいくらか期待できるようになるかもしれない。

 巻末に桂花が連名されていることから、拓実が発案し、二人で一緒に仕上げたに違いない。桂花との関係も良好なようであるし、発想も内容自体もそう悪くはない案ではある。

 

「そうね、どうせならば節制案で浮いた予算をこちらに回すのも悪くない。ただ、桂花にしても拓実にしても現場での実状を知らないから細部が甘いわね。どちらにしても、軍備関係を調査してからになるだろうけど」

 

 今朝の献策の際のぎゃんぎゃんと言い合う桂花と拓実の姿を思い浮かべ、華琳は思わずといった様子でくすりと微笑んだ。桂花は、この陣営の誰を相手するよりも拓実と苛烈な言い争いをする割に、一番気が合う相手が拓実なのだ。言いたいことを気兼ねせず言い合える相手なのだろう。

 そしてその拓実は桂花を演じているにも関わらず、割と頻繁に春蘭とも話している。当初は拓実と春蘭との間でもいざこざがあったようだったが、今二人が言い争う姿などは頻繁には見ない。拓実との会話が春蘭の精神鍛錬になったのか、桂花と春蘭の仲もいくらか良くなっているようなのだ。これは華琳すら思ってもみなかった効果である。

 

 

 ともかく、そんな慌しい日が過ぎている。一日の経過なんて、体感的にはあっという間といってよかった。そうして今後について考えていた華琳は、ふと、おおよそ半月前のある日の出来事に思いを馳せた。州牧への引継ぎを終わらせ、陳留の街へ視察へと向かった日のことだ。

 あの日、表向きは視察と題打っていたが実のところ華琳の真意はそれとは別にあった。視察が偽装というわけでもないが、本来の目的は恩師の紹介を受けて許子将なる人物に会うことにあったのである。そして、帰り際にみかけた占い師が許子将その人であった。彼の素性を知るという者に会ったことがないが、紛れもなく世に聞こえた人物鑑定士であり、評価された人物は見合った生を送っていくとまで話されている時の人である。

 その許子将に華琳もまた鑑定を受けたが、常人からすれば良い意味には取れないものであった。当然に秋蘭、後には春蘭もが激昂していたが、しかしそれは華琳からすれば些細なことである。風評が悪かろうが、自身が世を動かすに足る人間であることには違いないのだ。礼を言うならばともかく、何を怒ることがあるだろうか。

 

 ただ、一緒に連れて行った拓実への予言によって、華琳の中にはまた考えるべきことが浮かびあがっていた。

 本来であれば拓実は城において、出発前に桂花が言っていたように学習を進めさせておくべきであった。遠からず影武者として働いてもらうことになるのだから、基礎知識を学ばせるのを急務とするのは当然のことだ。桂花の進言を退けてまで拓実を同行させたのは、(ひとえ)に許子将と引き合わせるためである。

 華琳が大陸の統一を果たせるならば、比例するように拓実の存在は重要なものになるだろう。そして華琳は影武者としての拓実に信をおいているのだから、余程の事がなければ実現することになる。華琳とある意味で一心同体ともいえる拓実の立ち位置からならば、天下の動向を二つの視点で観測することが出来ると考えたのだった。

 また華琳は一国の主の代役をこなせるだけの器を持つ人物を前に、人物鑑定士である許子将が動かない筈がないと踏んでいた。そういった意味で捉えるならば拓実もまた許子将の評価を受け、華琳の目算通りの展開になっていたといえる。

 

――「お主の相は、仕える者を王へと上らせる、王佐の才。いや、そこな者と同じく乱世の奸雄とも。……だが、救国の徳王にも見える。見るたびに相が変化している、不思議な相だ。見たことが無い」

――「だが、確かであるのは、一つ。大局の示す流れに従い、逆らわぬようにしなくてはならん。さもなくば、待ち受けるのは身の破滅。……けれども、お主ならば己を殺し、役割を授かったなら、見合った名を歴史から与えられよう。……新たな流れも、あるいは生まれるやもしれん」

――「よいか。いもせぬ者にその座は存在しない。くれぐれも気をつけよ」

 

 以上が拓実に対しての許子将の人物鑑定である。華琳はその一字一句を記憶していた。そしてそれらについてこの数日の間、華琳は空いた時間を使って考えていたのだ。いくつかの仮説も立てている。

 『見るたびに変わる相』というのは、おそらく拓実の演技する人物を指しているのであろう。『王佐の才』とは桂花を模した荀攸の姿、『乱世の奸雄』とは華琳を模した影武者のこと。『救国の徳王』には心当たりはないが、そういった演技をする可能性を指しているのかもしれない。これの解釈に関して言えば間違いはないだろう。だがしかし、許子将が述べていたのはそれだけではない。拓実のものには人物鑑定の枠を越えた、予言らしきものが出てきている。

 

 まず、『大局の示す流れに従わなければ、身の破滅』とある。これは他ならぬ影武者を任せる拓実のことであるから、華琳にとっても他人事ではない。しかしそのまま読んではあまりに抽象的に過ぎて、解読はできない。そもそも、大局が何を指すかがわからない。情勢か、天子によるものか、はたまた天啓か。華琳が思いつくのはそんなところだ。

 続く『己を殺し、役割を授かれば……』の言葉。南雲拓実としての人格を殺し、影武者としての役割を華琳より授かる、とすれば理解が早い。現状でそういった方向へ拓実の処遇が決められているからだ。直前の『大局』に、上の影武者としての事柄を当て嵌めれば、『必然の出会いを経て得た華琳の影武者として、身命を賭して従っていかねば中途で命を失うだろう』と読み取ることもできる。現時点では極秘であるが、後世に何らかの形で拓実の名と業績を残す者が出てくれば大役を果たした者として名が刻まれたとしてもおかしくはあるまい。

 『新たな流れ』には今のところ思い当たることはないが、全体的にある程度の符号はつく。

 

 しかし、華琳はもう一つ仮説を立てていた。こうも解釈できないだろうかと。

 後半にある『見合った名を歴史に与えられる』という一節。華琳に酷似した容姿や声色、そしてその卓抜した演技力を以って拓実に見合う姿とは何か。連想させるのは、もちろん曹孟徳に他ならない。『影武者である拓実にとっての己』、即ち華琳を排除することで、拓実が唯一の『曹孟徳』として後世に名を残すとことができるというように読み解けるのではないか。そう捉えれば、抽象的だった直前の『大局に従わなければ……』の文章にもまた様々な意味が生まれてくる。

 『身の破滅』も、拓実だけのこととは限らない。近しい華琳もろともに命に関わる事態が発生することを予期しているのかもしれない。例えば危急の時、拓実の判断によって華琳を見殺しにするなどして『己を殺す』に当て嵌め、いなくなった華琳の代わりに『曹孟徳』を継ぐことにより拓実は表立って『役割を得る』ことになる。

 それらを越えられるのならば、『歴史に名を与えられる』ことができる――つまりは陣営としての存続、強いては大陸の統一を果たせることを示していると。『新たな流れ』というのは、今までの華琳の統治からの脱却であり、拓実による新たな統治。異国の風習を取り入れた国風とすればどうか。『いもせぬ者』というのも、影役である影武者の拓実ではそれを為せないことを示しているのではないだろうか。大業を成すならば、表へ出て『座』を得るべきであると。

 

 

 華琳は元来、占いを深く信じるような人柄ではない。道端にいる変哲もない占い師に同じ事を言われたのならば、気にも留めなかっただろう。。

 しかし、今回ばかりは違う。彼女が尊敬する、恩師である橋玄により紹介された許子将の言であるからだ。許子将の人物鑑定は多く人の口に上るほど有名なものであったし、華琳に対しての評価もその意に沿い、彼女が脳裏に描いている道筋を的確に表しているといってよかった。その目は確かであるのだと、華琳は見ていた。

 

 拓実に対しての人物鑑定を聞いたことで、華琳は自身の前途に暗雲がたちこめているように思えた。遠く見えるのは雷鳴と暴雨、常人ならば避けて通る困難な道である。しかしそれは華琳個人の観点のものである。華琳の解釈が正しいならば『曹孟徳の選んだ覇道』は成功が約束されたようなものだ。

 もちろんこれらは推論に過ぎない。もしかしたなら、まったく違った意味を含んだものであるかもしれない。ならば考えても仕方が無いことである。実際に事が起った後ならば、どのようにもこの言葉と出来事を符合させることができるだろうからだ。

 華琳とて、彼女個人のことだけならばそうしたに違いない。だが立場柄、目的達成を示唆するそれを切って捨てることができないでいたのだった。

 

 華琳は考える。自身の志は元々、どこにあったものだっただろうか。

 言うまでもなく、望んでいるのは太平の世である。賢明な王が強大な力を以って治世する、民が賊に悩まされずに済む富んだ国だ。

 

 かつて洛陽で働いていた同僚にも志を同じくする者たちがいた。だが、果たして洛陽の政の場にはどれだけ『人間』が残っているだろうか。

 荒れた朝廷、蔓延る悪賊、そして、貧窮する民草。それらを救い、太平の世を目指さんとする者たちは、役職が上がるにつれて環境が変化し、民の現状が見えづらくなってしまうのだろうか。次第に当初の純粋な意志をどこかへ置き忘れてしまう。汚職に漬かり、民から搾取し、富と権力を求めるだけの腐った畜生になりさがる。

 残った清廉潔白の士たちも上層からの贈賄の要求に反発して僻地に送られ、頭角を見せることはない。時に、無実の罪で処刑されるような時代である。

 

 そんな彼らと志を同じくしながら、華琳は道を違っていた。必要であれば手段は選ばない。目的の為ならば汚名を甘んじて受け入れる。力がなければ、何事も成せないと知っている。

 勘違いされやすいが、華琳とて仁徳は尊いものではあると考えている。ただ、この乱れた世では、仁を以って義に殉じるだけのやり方では通用しないことを理解しているだけだ。個々人が持つならばいいだろう、素晴らしいことだ。しかし、人の上に立とうとする者はそれではいけない。そんな脆弱な思想をしていては、国は立ち行かなくなる。少なくとも今の時勢では、正しいやり方ではないと華琳は断言できる。

 だから華琳とて不本意ながらも、桂花を通して中央の高官に金をばらまいて役職を手に入れるという正道を外れた形を取らざるを得なかったのだ。

 

 華琳は朝廷の腐敗を知っているが故に力を以って世を正す覇道を歩んでいる。だが、華琳のその根っこの志は少しも変わっていない。彼女の歩む覇道の行き着く先は、平和な世である。

 今までの自身の選択に後悔はない。それが華琳の生き方で、誇るものだ。だが一方で、このような手段を使わねば評価すらされない今の時代を嘆いているのである。そんな思いをせずに済む未来が、それを果たせる道筋が、不確かながら華琳の目の前に示されているのである。

 

 使えるものは使う。結果のための必要な犠牲は省みたりはしない。ただ力を以って、目標とするものを勝ち取るのである。華琳は、この信条を持って生きてきた。そしてきっと、これからもそうして気高く生きていくだけだ。

 

 

 

 

 

「……ということよ。半月、警備隊の新入りとして仕事を覚えてくるように。それと同時進行で問題点を洗い出して警備案を纏めなさい。それに当たって荀攸は郷里に使いに出すことになったから、今あなたが受け持っている仕事は桂花と秋蘭が引き継ぐことになるわ」

 

 華琳の前に跪いている荀攸――拓実は、突然のことに目をぱちくりさせていた。三日かけて桂花と共に纏めた警備補填案を今朝方進上して、直ぐにまた呼び出しがかかり、てっきりその案についての問答かと思っていたのだ。

 しかし赴いてみれば華琳は警備の問題把握の必要性を語り、調査を任せるために許定を使わす旨を拓実へと告げたのである。

 

「あの、出会ってから二週間、季衣とはそれなりに話していますし人柄も把握しております。衣装も揃えておきましたから許定としても問題はないでしょう。しかし、そうなると私はしばらく政務に参加することが出来ませんが」

 

 それに対し、まるでもう一つの役割である許定について、他人事のように返答する拓実。周囲に漏れ聞かれても誤魔化せるように、荀攸、許定は互いを別人として話すよう、以前に華琳に命じられていた。

 

「内政面も人手が充分とはいえないけれど、それも仕方が無いでしょう。許定以外の適役がいないことだし、荀攸は武術の修練をしようがないのだから。それに、視察の際に書面で得られる情報と己の目で見たものの違いについては話したわね。丁度いい機会だから、あなたが出した警備補填案のためにも、現場の状況を見てきなさい」

 

 そうして一旦目線を切って窓の外を眺めようとした華琳は、思い出した風に跪いたままの拓実へ振り向いた。

 

「ああ、それと明日から警備隊へ向かってもらうことになるけれど、その前に顔見せにくるように伝えておいてちょうだい。私自ら、許定の力量を見てあげましょう」

「……確かに承りました。それでは、許定へ声をかけたあと、出立致します」

 

 華琳が首肯したのを確認すると、拓実は深く頭を下げて静かに華琳の私室から退出していった。

 

 ――視察の日より、おおよそ十日が過ぎていた。荀攸として桂花の補佐をし、夕刻過ぎてからは書物を模写しての勉強をこなしているだけであっという間に日が過ぎていった。

 稀に桂花が城を出る時は、書庫から借り出した様々な書簡を、自室で朝から晩までひたすら読み解いていく。桂花の演技をしているからか、拓実は毎日勉強漬けでも苦にならないどころか新たに知識を得られることを楽しんでいた。その甲斐もあって特別難解な文でもなければ意味を掴めるようになったし、簡単な書き取りはこなせるようになった。普段目に付くのが漢文ばかりというのも大きいだろう。

 そうしてようやく文官としての仕事に慣れて、文字を覚えたことで軌道に乗り始め、喜び勇んで献策をしたのが今日のことである。

 

「……今日からまたしばらく、慣れない仕事が続きそうね」

 

 今の話は図らずも、やりがいを感じ始めたところで出鼻を挫かれた形になったのだった。廊下をとぼとぼと歩く拓実は、ため息と一緒にその言葉を吐き出していた。

 

 

 

 

「あのー、華琳さまー? 入っても大丈夫ですかー?」

「……季衣?」

 

 とんとん、と軽やかに扉を叩く音が廊下に響く。遅れて返ってきた華琳の言葉に、拓実は人知れずにんまりと笑みを浮かべる。

 

「違いますよぅ、許定ですー。荀攸から、華琳さまが呼んでるって聞いたから来たんですけど」

「え、ええ。そうね。いいわよ、入ってらっしゃい」

「失礼しまーす」

 

 明るい声で礼を取り、拓実は先ほど訪れたばかりの華琳の私室へと入室していく。とかく季衣は笑みを浮かべているイメージが拓実にはあった。それに倣って、満面の笑みを浮かべている。

 拓実が入室する様子を、椅子に座ったままの華琳はまじまじと見つめている。なんというか、奇妙な顔である。塩の塊を口に入れたのにまったく味がしなかったような、そんな表情だった。

 

「ええと、拓実、よね?」

「そですよー。どうですかね? あんまり自信、ないんですけど」

 

 苦笑いしながら、拓実は華琳の前でくるりと回って見せた。呆けた顔でそれを眺めて、しばらくしてから気を取り直した華琳は「ふぅん」と声を漏らす。

 

「……とりあえず、容姿は似ていないわね。髪色と髪型、服装が違うというのが大きいのだろうけど、どちらかといえば子供の頃の、髪の短い春蘭みたいだわ。壁越しに聞けば声もそこそこだけど、こうして面と向かって聞けばすぐに分かる程度には違う。口調や表情の作り方は確かに見事なものだけど」

「あはは、そればっかりは仕方ないですって。それにボク、今回は季衣とそっくりにする必要ないじゃないですかー。というより、あんまり似ちゃってる方がよっぽど危ないと思うんですけど」

 

 表だって華琳は感情を表すことはしなかったが、拓実は言葉の端々から彼女の予想と違ってしまっていたことを察した。しかし、それも当然だろうと拓実は思う。何もせずとも瓜二つである華琳は置いておくとしても、桂花の扮装をしている時のように季衣に容姿を近づけることが出来なかったのだ。

 

 まず大きな違いは季衣の桃色の髪と、拓実の金髪。そして髪の長さも足りていないために、季衣のように髪を纏めて結ぶこと出来なかった。こればかりは仕方が無いので春蘭がしているようにオールバックにして、露天で売っていた花を模ったヘアピンで留めただけである。おでこを出すと顔立ちが顕になる為に、本来は多少なりとも男らしく見える筈なのだが、拓実に関してはその心配はなさそうだった。

 また肌の露出を抑えるために、着ているのは袖なしの白いチャイナ服。裾は膝が隠れるまでのもので、下にはチャイナの丈と長さを合わせた黒のキュロットスカートを履いている。この辺りでの流行なのか袖の部分だけが別売していたので、上着と合わせて白色のそれをつけていた。季衣と比べて露出は減ったが、充分に腕白なイメージがある。

 しかし華琳がいうように、容姿の特徴を捉えて見るならば季衣よりもむしろ春蘭に近い。季衣と同じように一房前髪が逆らって飛び出ていたりもしているが、つい髪型から春蘭を連想してしまう。

 

「まぁ、でも活発な性格や話し振りから、一応姉妹と見えないこともないわ。春蘭、秋蘭だって髪色は違うのだから許容範囲といったところかしら」

「えっと、合格ってことでいいんですか?」

 

 不安そうに聞き返す拓実に、神妙な顔で華琳は頷いた。

 

「そうね、これぐらいなら構わないでしょう。叔母姪の間柄の荀家の二人の方がそっくりというのもおかしな話だけど、姉妹だからといってそこまで似ている必要があるというわけでもないものね。ともかく、さっさと中庭に向かうわよ。警備に出るにあたって、どれだけ動けるのか確かめておきたいわ」

「はーい」

 

 椅子から立ち上がり返事を待たず退室していく華琳に、拓実はにこにこしながらついていった。しかし、足取り軽く歩いている拓実の手はびっしょりと汗で濡れている。それでなくとも、良く良く見れば足が小さく震えていることに気がついただろう。

 笑顔の拓実はどこから見ても手合わせを待ちきれない様子に見えるが、それが楽しみであるという筈がなかった。季衣だったら喜ぶだろうと認識していたから、拓実もまたそう振舞っているに過ぎない。

 この半月近くのほとんどを座って勉強するだけで過ごしていた。精々が歩いて城下町を回るぐらいで、自己鍛錬している時間なんてとてもじゃなかったが捻出できなかったし、そんな環境でもなかったのである。下手をしたら春蘭と手合わせした時より酷い有様になるかもしれない。そんな不安で内心は一杯だったのだが、許定としての人格がそれを許さずにいたのだった。

 

 

 華琳の愛鎌である【絶】と、二振りの華美な長剣、そして変哲もない二本の長剣が華琳と拓実の待つ中庭に運び込まれた。それらを運び入れた女性の武将は許定の格好をしている見慣れない拓実を不思議そうに眺めていたが、華琳に一瞥されると頭を下げてきびきびと去っていく。

 拓実は、身体をほぐすようにぴょんぴょんと跳ねながら、にこにこと笑っていた。そ知らぬ顔をしてやり過ごしていたが、実は拓実はその女性武将とは面識があった。華琳の遠戚であるという曹洪、字を子廉と名乗っていた人物だ。曹洪なる武将は、拓実の読んだ三国志にも登場する人物の一人である。聞けば、やはり華琳の下で軍功高いのは夏侯惇、夏侯淵、曹洪、曹仁の四人であるようだ。

 知り合った女性である方の曹洪は経済観念が高く倹約家である印象がある人で、初めて会った時も彼女は部隊内の帳簿をつけていた。私生活でも蓄財癖があるようで、節約が常である貧乏性であるらしい。兵士駐屯所に仕事で足を運んだ時に彼女と会話したことがあったのだが、どうやら荀攸と今の許定としての拓実を結びつけることはできなかったようだった。

 

 曹洪の後姿を眺めていた華琳は、彼女が見えなくなったのを確認してからようやく口を開いた。同じく曹洪の姿を追っていた拓実も、佇まいを正して華琳へと向き合った。

 

「手合わせの前に、先に聞いておきたいことがあるわ。以前より思っていたのだけれど、鎌の扱いはあなたには少々難しいのではないかしら? どうかしら、拓実?」

「ええっとー、そうですね。動きだけなら何となくわかるんですけど、鎌の使い方は全然わかんないです」

 

 華琳の問い掛けにしばらく考え込んだ後、拓実は苦笑いしながらも素直に頷き返した。以前に華琳の使い方を見せてもらったが、精々学べたといえるのは足運びぐらいのもので、鎌という武器の利点を理解することは終ぞなかった。そもそも攻撃方法が振り下ろして鎌の先端を突き刺すか、刃部分で刈り取るぐらいしか思いつかない。

 それだって拓実が考えるだけでも、勢い余って地面に刺さってしまい隙を作ってしまう可能性、人間を断ち切るだけの速度をどうして出すかなどいくつも問題点が出てくる。あの日から考え続けていたのだが、解決策は未だ見つかっていない。

 

「そうだろうとは思ったわ。一度、許定の姿でも振ってもらおうとは思うけれど、それでも駄目なようならば、いっそ鎌は捨てて剣の扱いを覚えてもらおうと思っているの」

「えっ? でも華琳さまがいっつも使っているのって、その【絶】っていう大きな鎌じゃないですか。なら、ボクも鎌を使えるようにならないといけないんじゃないんですか?」

 

 目を見開いた拓実は、見るからに会得がいかないといった様子で華琳を見つめる。対して華琳は、小さく諦めが混ざった息を吐いた。華琳としても妥協の末の決断だったのだろう。

 

「もちろん。あなたが扱えるようになってもらえれば何も問題はないのだけれど、それだって扱いきれずに命を落しては元も子もないでしょう。別に私は鎌しか使えないというわけでもないのよ。その証拠というわけでもないけど、つい先日に私が特注で造らせていた剣が出来上がったわ。今後は私自身、剣を使う機会も増えるでしょう」

 

 言って華琳は曹洪が運んできた二つの華美な長剣に手を伸ばし、持ち上げた。その二振りであるが、刃の長さから全体に施されている優美な装飾、持ち手の精巧な造りまでが似通っている。違うところは、つばの中央部分に取り付けられた宝石の色と全体の配色だけだ。

 片手に一振りずつ持つと、拓実に向かって左手を突き出す。そちらに握られているのは青い宝石のついたほうだ。華琳は赤い方を右手に持っている。

 

「見れば分かるでしょうけど、この剣は二本で対になっているの。私がこれより使うは、この右手の【倚天(いてん)の剣】。拓実、あなたには左手にある【青釭(せいこう)の剣】を預けましょう」

「え? あの、【青釭の剣】ですか?」

 

 覚えのある響きに、拓実は思わず華琳へと聞き返す。そしてその【青釭の剣】の伝承に思い当たるや否や、すぐさま言葉を繋げる。

 

「でも、渡されても、ボクが使っちゃったらいけないんじゃないかと思うんですけど……」

「使ってはいけない?」

 

 怪訝な華琳の声に、拓実は自身の失言を悟り慌てて口を噤んだ。

 【倚天の剣】【青釭の剣】とは三国志演義に出てくる曹操の愛剣であった。曹操は配下の夏侯恩を気に入ったためにそのうちの一本を授けてやるのだが、今拓実に渡されようとしているのがそれである。

 加えて言うとその後、夏侯恩は蜀の趙雲に一撃で敗れ、以降は趙雲の所有物とされる宝剣である。これを以って趙雲が行なうとされる偉業があるのだが、ともかくこの【青釭の剣】には果たすべき役割が存在しているのだ。それをたまたま覚えていた拓実は、本来の持ち主に渡らなくなってしまいそうな話の流れに、迂闊にも声を上げてしまったのだった。

 

「……ええ、そうね。確かにあなたにこの【青釭の剣】を預けることは出来ない。これはあくまで私の剣ということになるのだから。これは、あなたから私に預けておきなさい。務める際に一々武器を借り受けにくるのでは機密の面でも自衛の面でも危険だもの」

 

 しかし、幸いにして華琳は別の意味として受け取ったようである。周囲に人影などはないが、拓実が話が漏れないよう慮ったと解釈したのだろう。婉曲に、有事の際まで見つからないように隠しておくことを伝えられた。

 大鎌を使えない拓実では、どうしても別の武器を選ばざるを得ない。おそらくは、対となる剣を持たせることで華琳と影武者である拓実の差異を隠そうというのだろう。

 

「私も【倚天の剣】を持ち歩くことになるから、表に出る際に腰に下げておけば疑う者はいないでしょう。どちらにしてもあなたは剣術を学んでおくに越したことはない。習熟の意味でも、許定も剣を得手とした方がいいわ。まぁ、他に馴染むような武器があるならば、剣と平行して使うのは構わないけれど」

「はぁ……」

 

 華琳は言って、左手に握られた宝剣を拓実へと手渡した。呆然とした様子で相槌を返して、しかしどうしたらいいのかわからない拓実は、されるがままにそれを受け取るのだった。

 

 

 

 

「ちょ、わ、華琳さま! 無理! 無理ですっ! これ以上やったらボク、死んじゃいますってー!?」

「へぇ、まだ無駄口を叩くだけの余裕があるのね。もう少しなら速度を上げても大丈夫かしら?」

「え、えええええっ!?」

 

 拓実は半泣きになって、両手で握った剣を振り回して迫り来る脅威を間一髪で弾いていた。見るからに悲壮感漂う拓実に対して、サディスティックな笑みを浮かべて上下左右に次々と剣撃を繰り出しているのはもちろん華琳である。

 やはりというか拓実は【絶】を満足に扱うことは出来なかったのだが、心構えが違うからか荀攸の時のような引け腰は見えず、武器に振り回されることはなくなっていた。その身のこなしを見た華琳は拓実の得物を剣と正式に定め、そのまま長剣での手合わせを宣言する。もちろん、拓実に抗弁する機会なんていうものは存在していない。

 そうした経緯を経て、華琳と拓実は剣同士で打ち合っているのだが、【倚天の剣】を使っては切れ味が違いすぎるから剣を合わすことも出来ないために、両者とも兵士用の長剣を使っている。しかし、もちろん刃を潰されている訳ではない。華琳も手加減しているが、一つでも直撃したなら命に関わってもおかしくない。

 

「とっとと!? ……だっ! ……わっ!!」

「そう。余計なことを考えられるのは余裕がある証拠。それにしても、結構ついてくるじゃない。けれど、守ってばかりでは逃れることも出来ないわよ」

 

 攻撃を繰り出す間隔を狭めてさらに追い立てる華琳であったが、なんと拓実はまだ追いすがっていた。華琳の剣捌きは流石というべきか堂に入ったものである。鎌を使っていた時の動きと比べてもぎこちなさは欠片も見えない。だが、それでも華琳は実力の三割も出していなかった。

 速度ばかりのまるで力の入っていない攻撃なので百姓上がりの雑兵でさえも何とか防げるものだったが、荀攸の時の無様な姿を知っていれば驚嘆する結果である。

 

 華琳の攻撃を数十も弾いただろうか。拓実は強張った顔で歯を食いしばって防御に専念していたが、そのうちにじわじわと口の端が吊り上げていた。

 そうしながらも少しずつその動きを鋭く滑らかなものへ変えていき、そのままさらに数合打ち合わせるとついに堪えきれないと声を上げ始めた。

 

「はっ! あは、あはははっ!」

「……どうしたの、拓実? 何がおかしいのかしら」

 

 息も切れ切れにして笑い声を発する拓実に、華琳は剣を振るいながら声を掛けた。向かい来る剣撃を防いでは避ける拓実はその明るい表情と裏腹に既に肩で息をしている。笑っている余裕などはない筈だ。対して華琳は、休みも入れず打ち込みながらも一切疲労の様子を見せていない。

 

「なんか、面白く、なってきちゃいました! ボクの体って、思っていたよりも全然、速く動けるんだな、って!」

「そう、それなら」

 

 笑みを浮かべてまたも体捌きを洗練させていく拓実に、華琳は合わせるようにさらに剣速を上げていく。

 自身で言うだけあって、拓実のその身のこなしの上達は華琳から見ても目を見張るものがある。目の前で剣を振るっている華琳の体の使い方をその場で真似ているのだろう。さらには反射神経や運動神経だって悪くない。動体視力に至っては天性の才能といってもよいほどで、荀攸の時の無様な様子はいったいなんだったのかと疑問を覚えるほどである。ともかく華琳が剣を振るいながらも改めて認識しているのは、拓実が人物の観察と動作の模倣に秀でているという事実だった。

 

 華琳の顔にもいつしか笑みを浮かんでいた。拓実の底がどこまであるものか、確かめたくなっていたのだった。

 面白い。こんな不思議な人間には、未だ出会ったことがない。他人からの吸収が類を見ないほどに上手いのだ。こちらがじわじわと速度を上げれば、それを見て学び、合わせてくる。華琳は、自身が昂ぶっていくのを自覚していた。

 

「どうやらまだいけるみたいね。もう少し上げていくわよ?」

「うあっ!?」

「……えっ?」

 

 華琳が速度に合わせてようやく力をこめはじめた途端に拓実は華琳の剣撃に力負けしてよろめき、続く一撃で得物もろとも弾き飛ばされた。これからが面白くなるだろうと予感していた華琳は、その予想外の光景に華琳は自失しながら声を漏らしていた。

 手応えは軽かった。だというのに拓実はあっさり力負けし、軽々と地面を転がっていった。天井知らずに上がりつつあった速度はともかくとして、力はそれほどこめたわけではない。精々、本隊兵士の一撃ぐらいのものだろうか。受けるだけに専念するなら常人でもそれほど難しくない程度の力である。妙な手応えに疑問を覚えながら、華琳は地面に座り込んでいる拓実へと近づいていった。

 

「どうしたの? 別にそれほどの力をこめた訳じゃないわよ。もう少し頑張りなさい」

「あっ、ごめん、なさい、華琳さま。手がその、ちょっと、震えちゃってて……」

 

 それほど強く打ったわけではないのに、拓実の腕には力が入らないようだった。いや、どちらかといえば衝撃によるものというよりは疲労が強いように見える。息を荒くしたまま身体を起こそうと地面に手をついているが、そこからそのまま崩れている。

 一向に立ち上がることの出来ない拓実を見かねた華琳は手を伸ばした。

 

「まったく、しょうがないわね。ほら、特別に手を貸してあげるわ」

「ありがとう、ござい、ますー。はぁ……、ふう……、ちょっと、落ち着いてきたかも」

 

 華琳はしりもちをついた状態の拓実の手を引き、立ち上がらせてやる。さして華琳は力を入れずに、拓実の身体を起こすことが出来た。

 そして、拓実を起こしてやった右手を、確かめるように開いては閉じてみる。たったそれだけで、華琳の中で湧き上がっていた疑問は氷解していく。さきほどの妙な手応えの答えを突き止めたのだった。

 

「ねぇ、拓実。あなた食事はしっかり取っているの?」

「はっ……ふぅ。えーっと、どーだったかなー? ここ半月、桂花と一緒にいる時は果物とかばっかりだったかも。なんか、あんまり食欲が湧かなくて」

「でしょうね……」

 

 同じ得物、同じ上背の二人が打ち合って圧倒的な差で片方が負ける理由はそう多くない。筋力差に技の優劣、そして残るは体重差である。拓実と華琳では、そのいずれもが要因となっていただろう。しかしその中でも、明らかに拓実は華琳より『軽かった』のだった。

 

「ふふ、どういうことかしらね……。いくらどこからどうみても女にしか見えない姿をしているといっても、同じような体格をしてこの私よりも軽い男だなんて」

「それで前より動きが軽かったのかなー。その分、すぐ疲れちゃったけど。って、あれ? 華琳さま、何か言いました?」

 

 ようやく息を整えることが出来たらしい拓実は、頭の後ろで手を組んで朗らかに笑っている。どうやら華琳の独り言は届かなかったようである。

 

「拓実」

「何ですかー?」

 

 のんきに声を上げる拓実に、華琳は酷く真剣な顔をして向き直った。突然の華琳の様子の変化にも、拓実はきょとんとしている。

 

「食べなさい」

「へ?」

「季衣ほどとは言わないまでも、たくさん食べて体重を増やしなさい。速さは大したものだったけれど、持久力に欠けているわ。加えて、筋肉もないし、余計な脂肪すらない。まるで桂花のようじゃない。そんな身体で、まともに打ち合えるわけがないわ。それでは警備の仕事にだって耐えられないでしょう」

「そっかー、そうですよねー。んー……」

 

 そんな華琳の助言を受けて、顎に人差し指を当てて目線だけで空を見上げる拓実。何か気にかかることがあるようだが、華琳はといえばそれに構っていられる余裕はなかった。

 

「筋力を増やすためにも、そうね。とりあえず私以上に太らないと駄目よ。いいかしら? 私よりもよ。私は今のままで均衡が取れているから、これ以上減らそうとすれば必要なところから削れてしまうもの。拓実、この命令は何としても成し遂げなさい」

 

 どこか緊迫した様子で華琳は命令を突きつける。そんな様子はどこ吹く風で、拓実は朗らかに笑っていた。

 

「んー、そうしたいのは山々なんですけど、でもボクって食べても太らない体質なんですよね。脂肪がないから、筋肉もつかないし。たぶん、今の華琳さまぐらいの体型がボクの標準体型なんで、痩せることはあってもそれよりはそんなに増えないと思いますよー」

「なんですって……!?」

「あ。でも、筋肉はつかなくてもちょっとずつだったら力はつくみたいだから、安心してください! 頑張って特訓したら、きっと今の剣ぐらいならちゃんと振るえるようになりますから!」

「……そ、そうなの」

 

 慄いた後それ以上二の句を継げない華琳は、呆然と拓実を見つめている。単純というべきか拓実は少し前まで政務から外されたことによる落胆も忘れて、転がった長剣を拾っては「えいやあ」という掛け声と一緒に、楽しそうに剣を振るっていた。

 

 

 



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17.『曹操、拓実について思案するのこと』

 

 中庭には、くたびれた犬のように舌を出してぐでっとだらけている少女の姿があった。

 息は弾み汗をだくだくと流して、見るからに疲れた様子だというのにそれが心地良いのか表情は明るい。女性の身から見ても、ぱっちりとした目で表情豊か、愛嬌ある可愛らしい顔立ちであった。地面に投げ出した脚の肌が露になっていることからわかるように、着ているものは動きを邪魔しない丈の短いものであり、髪も顔にかからないよう後ろに流していて全体的に活発な印象を受ける。

 

「はっ、はっ、はぁ……うへー、へとへとだぁ。しばらくは動きたくなーい。つかれたー」

 

 情けない声を上げた少女は全身の疲労により自力で立つこともままならないらしく、目を瞑ってただただ息を整えようとしている。形振り構う余裕なんてないほどに疲弊している筈なのだが、度を過ぎたはしたなさは見えない。とはいえ、それで無理をしている様子もない。

 そんな少女――いや、少女になりきっている拓実の様子を、華琳は複雑な表情で眺めている。側で見ている華琳からしても、その様子に不自然なところを見つけられない。これが男のしている演技だというのだから、生粋の女性である華琳としては改めて信じられない思いがしている。

 おそらく演技している状態では、そうあるべき行動を取ることが拓実にとっての自然体となるのだろう。そうでなければ、こうまで違和感を感じさせずに振舞うことは出来ないはずだ。これほどの完成度で別人に成り切られてしまっては、いっそ演技の一面として応対するよりも知識を共有する別の人間と認識した方がよいのかもしれない。滅多な事がない限り綻びを見せない拓実の演技に内心で感嘆しながらも、華琳はそんなことを考えていたのだった。

 

 手合わせを終え、華琳にとって色々な意味で衝撃的だったあの発言の後。拓実は引き続き、声を上げて元気に剣を振るっていた。

 しかしそれが満足に続いていたのは初めの数分だけだった。両手で握っていた剣を片手に持ち替え、手合わせの際の華琳の動きを体に覚えさせるように反復しているうち、まず楽しそうな掛け声が聞こえなくなった。続いて疲労で腕が上がらなくなり、それに伴って剣速は落ちて鈍くなっていく。動きにしても目に見えて踏ん張りが利かなくなり、重心はふらふらと流れてしまう。始めこそ華琳の動きを正確に、それこそ鏡に映したようになぞっていただけに、こうなっては最早見る影もない。

 それからいくらもしないうちに全身が言うことを聞かなくなった拓実は、地面に仰向けに転がって息を激しくすることになっていたのだった。

 

 拓実がそうして素振りをしている間、華琳は拓実の人格の変化に今更ながらに戸惑っていた。それは拓実と会った当初からずっと感じていたもので、荀攸と許定の間にある差異によって明確になったものである。

 演技をしていない状態の気弱でどこか儚げである拓実に、華琳を写し取ったように威厳に溢れた影武者としての拓実、思慮深く理屈っぽい男嫌いの荀攸に、明るく奔放で明け透けな許定。

 それらの性格は違いすぎていて、華琳の頭の中では今でも一人一人が同じ人物だと上手く繋がらないでいる。そうやって華琳の認識を妨げているのも、話し方や仕草、目に見える性格などの表層だけではなく、それぞれ内面――嗜好や考えの組み立て方までに違いが生まれているのを理解出来てしまうからだ。

 

 極端な例としては、やはり荀攸と許定であろうか。今朝に献策していた時は活き活きとした様子の荀攸であるが、その後に警備隊に組み込むと言われた時には隠そうとしても隠し切れずに落胆した様子を見せていた。だが、これは決して拓実個人の意に沿わない話ではなかった筈だ。今朝に献策した警備補填案の基礎知識となるものであるから、その情報を得られる機会というものを本来は歓迎すべきである。しかし、拓実の演じている役柄として相応しくない――つまりは桂花であれば絶対に任されないであろう肉体を使う仕事に対して、忌避感を覚えていたのだろう。

 荀攸であった時はそんな様子であったのに、その後すぐに許定として現れた拓実は手合わせには内心でどうあれ嬉々として応じ、終わる頃にはおそらく本心からそれを楽しそうにこなすようになっていた。こうして疲労しながらも気持ち良さそうにしている今の姿に、身体を使う仕事に対しての忌避感などは欠片も見られない。

 

 荀攸と許定は、会話ひとつにしても違いが見られる。口調だけでなく、使われる言葉なども違っているのだ。許定の発言には抽象的なものや擬声語が多く、反して難しい言葉はあまり使わない。荀攸の時にはその使用頻度が逆転し、小難しく理論立てた話し方を好んでいる。それだけなら役作りの一環ということで説明もつくのだが、許定などは華琳に対して敬語を忘れてしまう素振りを見せているのである。そこに故意的な意思は見つけられない。これらは恐らく計算でしているのではなく、無意識によるものなのだ。模倣している桂花と季衣の性質が正しく現れているのだろう。

 これは、常識的に考える演技の枠組みには収まらない。演じているなどというよりはいっそ、いくらか融通の利く多重人格といった方が近いのかもしれない。だからこそ華琳にとっても拓実の演技は理解の外にあった。拓実の演技が常人離れしている為に、大元である精神構造が理解できないのだ。同時に華琳が類稀なる希少な才能として認めている所以(ゆえん)でもある。

 

 しかし演じている拓実は振る舞いこそ確かにそっくりではあるが、もちろん本物の桂花や季衣とは違っている。拓実の意識を役柄で覆っているために、覆い切れない部分が出てきてしまうというところだろう。

 季衣を模倣している許定に関しては、その容姿を揃える事が出来なかったからなのか内面にしても荀攸ほど本物に迫ることはない。こうして今拓実が晒しているような困憊(こんぱい)する姿など、季衣なら意地でも見せたりはしないだろう。季衣は子供のようでいて、武については中々に自尊心が高いのだ。

 もちろん武についての技術も自信も持たない拓実では自尊心など持ちようもない。こうしている姿は日常の季衣を延長させたような、そんな態度である。だがそれでも華琳は演技としては不完全な許定から、他の二役や本来の拓実の性格を見出すことは出来ずにいるのだった。

 

「へへへ。でも、ちょっとだけ、華琳さまがどう動いているのか、わかった、かも」

 

 にっこりと得意気に笑みを浮かべて華琳を見上げている拓実。未だ息は荒く、言葉はぶつ切りである。今までの考えを一時放置することにして、華琳も応えるように僅かに口の端を持ち上げた。

 

「ええ、動きは悪くなかった。けれどやはり、根本的に体力が足りていないわ。あなたはまず、武器を扱っての調練に入る前に基礎体力を何とかせねばならないようね」

 

 さて。もう一度重ねる形になるが、拓実がしていたのはただの素振りである。はしゃいで飛び跳ねたり、仮想敵を相手にして動き回ったりはしていない。ひたすらに、一箇所に立って華琳の剣の振り方、足の運び方を真似ていただけであった。

 そしてそれを終えた拓実は、あまりに疲労の色が強すぎる。まるで長距離を走り終えた直後のようだ。

 

 拓実の持っている剣が特別に重たいものであったから疲弊しているのかといえば、そういうわけでもない。拓実が振っていたそれは他に比べ軽量で、だからこそ取り回しやすいように造られた刀身の幅が狭い細剣である。これならば、日常生活をこなせるだけの筋力を持つ者なら誰にでも扱える。そんな剣を使ってどうして拓実がこんな有様になってしまったのかといえば、単純にそんな『誰でも』という括りの中に拓実が含まれていなかっただけである。

 

 現代基準でいうならば確かに、演劇準備などでの機材運びをしていた経験から拓実にもそこそこの体力はあった。しかしこの時代で求められる能力水準はもっと高い。肉体労働を課せられない者など生粋の文官や貴族の息女、皇帝など少数であって、日々鍛錬している武将や兵は言わずもがな、農民にしても農作業で培った体力と筋力がある。

 その上、拓実はただでさえここ半月を桂花につきまとって頭脳労働ばかりをしていたのだ。この時代基準での並の体力も持たない拓実に金属製の武器を振るいながら動き回れというのは荷が勝ちすぎていた。

 

「あ、はい……。まずはそこからですよね……」

 

 拓実は疲労に喘ぎながらも何とか苦々しく笑顔を返した。どうやら拓実自身が誰よりも体力不足を実感しているようである。

 

「そうね……」

 

 しかし今の素振りにしても立会い開始時の拓実の動きにしても、華琳をして見るべきものがないわけではなかった。剣の扱いに不慣れだというのに、手を抜いていたとはいえ拓実は華琳の剣速についてこれたのだ。これは反射神経や動体視力に特別優れていなければ不可能である。

 身のこなしの初速や反射神経、判断力だけならば、今の状態でも親衛隊の者と比べて遜色はない。華琳と同じく小柄であるから、剣を振るうにも身を翻すにも小回りが利いている。また、素振りを見ていればわかるように手本を自身のものとするのが非常に早い。流石に体の方がついてこないようで鋭さこそないものの、足の踏み出しから振るう剣の軌道までを寸分違わず目の前で盗んで見せた。

 華琳や春蘭から体捌きを学び、挙動の効率を上げていけば、速度に限っては自身と並ぶだけの素質を秘めているだろうと華琳は見立てている。

 

 けれども、拓実にはその利点を打ち消してしまうほどの欠点がいくつかあった。

 まず体力が足りていないこと。全力で動き回って数分程度しか持たないのでは使い物にならない。この陣営で誰よりも貧弱な桂花と比べて、ようやくいくらかマシ程度のものである。

 そして軽い。動きは軽快だが同じだけ動きに重さがなく、吹けば飛ぶような印象がある。それ故に、耐久力もないだろう。何気ない一太刀が致命傷となりかねない。

 加えて、絶望的なまでに筋力に乏しかった。振るった剣に速度はあっても、脅威となるだけの威力が伴っていないのだ。不意をついて喉笛を掻き切るぐらいのことは出来ても、相手の首を切り落とすことは出来やしないだろう。鎧に守られてる部分などは言わずもがなである。打ち合えば雑兵程度の相手であっても力だけで押し切ることは出来まい。それらを束ねる武将を相手にと考えれば、剣を合わすだけでも自殺行為と呼べるほどだ。

 拓実からは致命傷を与えることは出来ず、少しばかり動きが速いだけ。得物同士で打ち合ったならその華奢な体躯も手伝って十中八九押し切られることになる。剣を合わす事も出来ないのでは勝負にもならない。その上で持久力すらもないとなれば、今のままでは満足に動けるうちに逃げ切る他、拓実の生き残る術はない。

 

 拓実は自身を、太らない体質で且つ筋肉がつきにくいと評している。華琳と同じ体型を維持するという面で見ればこれ以上ない体質ではあったが、自衛の問題や戦働きを考えるといいことではなかった。

 持久力はまだ何とでもなる。細身だろうとも毎日動いて回れば自然と身についていくもので、成長の余地は多く残っている。しかし問題は筋力である。鍛えれば大丈夫だと本人は言うが、見た目に変化が出ないのではその限界は知れている。常人の域を大きく超えることはないだろう。だがそれでは、春蘭ほどの豪傑相手と剣を合わすことになった時、初撃で討ち取られてしまうのだ。

 春蘭と互角に渡り合う華琳にしても、あの剛剣を受けるのはぎりぎりのところなのである。似たような体格ではあるが、それでも日頃から鍛錬を欠かさない華琳は拓実より力がある。それどころか、天に愛されているのか体格に優る男性兵士相手に力勝負で勝るほどだ。もちろん、人より多少膂力(りょりょく)が優れている程度では春蘭に敵いようもないのだが、それを覆して可能とするだけものを華琳は有していた。華琳について特筆すべきは、能力的な不利を覆せるほどの巧みな武技と、軍師顔負けの戦略。そして類稀なる集中力を持っていることである。

 逆をいえば、それら単純な武力以外をも総動員してようやく武一辺倒である春蘭と引き分けることが可能なのだ。もし拓実が模倣の技術を十二分に発揮して華琳に劣らない剣技を身につけたなら、一合ぐらいであれば春蘭とも剣を打ち合わすことが出来るようになるかもしれない。それでも華琳に多くの能力で劣る拓実では、どうしたって華琳や春蘭に敵う道理がないのである。

 

「果たして拓実のそれは、武の才と呼べるのかはわからない。しかしどうやったとしても私を越えることはないでしょう。けれど、だからといって何もないというわけではないわ。剣を合わせられなくても、拓実に合った戦い方さえ見つければあるいは……」

「え? 何ですか、華琳さま?」

 

 華琳が考え込んでいるうちに息を整え終えた拓実は、立ち上がって服についた砂を払っていた。それに集中していたから華琳の呟きを聞き逃したのだろう。きょとんとした顔を向けて聞き返してくる。

 

「なんでもないわ。拓実の動きが思いの外良かったものだから、春蘭と一騎打ちしたらどうなるものかと仮定していたのよ」

「……えー、えと、無理だと思いますよ。全然歯が立たないです。だってボクが勝ってるところ、まったく想像出来ないですもん」

「当然よ。春蘭は私の陣営でも一、二を争う武将なのだから。……ああ、つい脱線してしまったけれど、警備としての実力を見るための手合わせだったわね。全てを満たしているとは言い難いけれど、不足しているのは体力と筋力だからそれに関しては働いているうちにある程度は身につくでしょう。辛うじての及第点といったところかしら」

「やったー! あっ、ありがとうございます、華琳さま!」

 

 聞いて、拓実は諸手を上げて喜びを露にした。そんな自分を静かに見ている華琳の姿に気づいたか、慌てて深く頭を下げる。

 

「春蘭ほどの猛者がそういるとは思えないけれど、この大陸は広い。統一を果たすとなれば、今は野に埋もれているまだ見ぬ英傑と矛を交えることもあるでしょう。それらに負けぬよう鍛錬に励みなさい」

「はいっ! 頑張りますっ!」

 

 打てば響くような小気味の良い返事をした拓実の容姿は、季衣とはあまりに違っている。だというのに、華琳の目には拓実に季衣の姿が重なって見えたのだった。

 

 

 

 

 

「…………あれ? なんだろ、この音」

 

 警備の仕事について語り合おうといったところで、拓実と華琳はいつからか響き始めていた音に気がついて、揃って何気なく城門を見やった。門の向こうには、だだだだっ、とけたたましい音を立てながら遠く砂煙が舞っていた。暴れ馬だろうか、何かがものすごい勢いでこちらに向かってきている。

 ものの数十秒も経たぬうちに、二人は何が駆けているのかを知ることになった。兵舎の方から、黒髪をなびかせてすさまじい勢いで駆けてくるのはなんと女性である。

 

「華琳さまぁ! 春蘭めに何かご用がありますでしょうか!」

 

 噂をすれば影というべきか、声を上げて急ぎ華琳の前に馳せ参じたのは春蘭であった。拓実の姿が目に入っていないのか、【七星餓狼】を手に脇目も振らず華琳の前へと向かっては膝をついた。

 その春蘭の様子からてっきり何事かを言いつけていたのかと思えば、しかし華琳は首を傾げている。

 

「春蘭? 別に貴女を呼んだ覚えはないわよ。これといって危急の用事もありはしないし」

「あ、そ、そうでしたか。華琳さまが私の話をされている気がしたので、部隊の調練を終えて、急ぎ戻って参ったのですが……」

 

 喜びの顔から一転、春蘭の顔がしょぼくれた。肩を落とす姿は、華琳と拓実より大きな体だというのに異様に小さく見える。驚いたのは拓実である。おそらくは偶然なのだろうが、つい先程まで話題の端に春蘭が上っていたのは確かなのだ。

 

「しかし、調練を終えたというのならば丁度いいわね。こちらも実力を見極めるための手合わせと寸評を今終えたところだから、春蘭は引き続き私に代わって武術指導なさい。ただし、まだ剣を使わせるには早いわ。まずは白打(格闘術)から始めるといいでしょう」

 

 しぼんでいた活力が見る見るうちに湧き出して、春蘭の顔を彩っていった。きびきびとした様子で横に携えていた【七星餓狼】を目前に持ち直し、深く頭を下げる。

 

「はっ! 白打をですね! ……えーと、ところで指導とはいったい誰にすれば?」

「何を言っているの。許定に決まっているでしょう」

「許定に、ですか。かしこまりました! 華琳さまの命とあらば、全力で鍛え直してやりましょう! しかし、許定とやらはどこに……」

 

 呆れたように華琳に見られ、慌てて了承の意を表した春蘭は、きょろきょろと周囲を見渡して視線を右隣で止めた。ようやく横にいる拓実に気づいたか、春蘭が訝しげな視線を拓実へと向けて口を開く。

 

「む? 娘、親衛隊の者か? しかし、それにしても見かけぬ顔だな……もしや、華琳さまを害する者ではあるまいな!」

「な、何言ってるんですか、春蘭さま! ボクですよ、ボクが許定です!」

 

 どうやら春蘭は初見では今の許定を拓実だと認識することは出来なかったようで、歯を剥いて拓実を睨みつけている。そんな大声でいきり立つ春蘭に対して、その怒気に当てられ慌てた拓実もまた大声で返した。

 

「おお、そうだったか! いや、すまん。今までまったく気がつかなかったぞ」

 

 睨みつけていた顔からまた一転、明るく笑い出した春蘭。悪びれもせずに笑う春蘭に、華琳は息を吐いてみせる。

 

「はぁ……とりあえず、後は任せるわよ、春蘭。しばらくは桂花がしていたように、今度は貴女が許定の面倒を見てあげなさい」

「はっ! お任せください! 必ずや、華琳さまの名に恥じぬ武将へと育て上げて見せましょう!」

「そう、期待しているわよ」

 

 言って、華琳は執務室へと足を向けた。どうやら手合わせには休憩の時間を使っていたらしく、まだまだ仕事は残っているらしい。自身の得物である【絶】と【倚天の剣】だけを手に、残りの後片付けを拓実に言いつけて足早に去っていく。

 しかしその足は、背後から聞こえる春蘭の声で止まることになった。

 

「よし。それでは調練を始める前に一つ。許定よ。私の真名を呼んでいるのだから、華琳さまに真名を預けていただいたのだろう。華琳さまが定めた決まりだから、お前が私の真名を呼んでいることを怒るつもりはない。だが、一方だけが知っているのは不公平だ。改めて自己紹介をして、真名を預けあおうではないか」

「……えっ? あのぅ……?」

「うん? どうしたのだ? 秋蘭が言っていたが、こういう時は目下の者から始めるものらしいぞ」

 

 拓実は呆けた声を返しながらも、視界の端で背を向けて歩いていた華琳が踵を返しているのを見る。目の前で胸を張って先輩面している春蘭の朗らかな笑顔とは対照的に、こちらに向かってくる華琳の仏頂面にはどこか哀愁が漂っている。

 春蘭がしている勘違いには気づいていたが、あまりの想定外の事態に拓実の思考は止まってしまっていた。視線を春蘭と華琳の間で行き来させながら、とりあえず促されるままに口を開く。

 

「えっと、ボクは許定で、字はその、まだありません。真名は、拓実、ですけど……」

「ほう、拓実というのか。ふむ、思ったより拓実という名を持つ者は多いのだな。まだ知らないだろうが、この陣営にはお前の他にも同じ名を持つ者がいるぞ。いけ好かない奴と見た目はそっくりなのだが、中身は文官にしてはそこそこマシな方だ。困ったことがあったら荀攸という奴に会ってみるのもいいだろう。歳も近いだろうし、同じ名という(よしみ)もある。何、あいつのことだから多少の悪態をつきながらも助言ぐらいはしてくれる」

 

 朗々と声を上げる春蘭。おまけに本人の目の前で、どう思っているかを語り始めた。腕を組んでうんうんと頷いている春蘭を、拓実はぼけっと眺める他ない。そして華琳はもう、春蘭のすぐ後ろまで近づいていた。

 

「さて、既に知っているのだろうが名乗らせてもらうぞ。私は夏侯惇。字を元譲と……」

「いいわ春蘭、それ以上言わなくて」

「華琳さま? えっと、ここは私にお任せしてくれるのでは……」

「今の様子でわかったわ。とてもじゃないけど、貴女には任せておけないことが」

 

 言われ、春蘭は動揺で顔を青くした。端で見ている拓実にはともかく、当人にとっては華琳の言葉はあまりにいきなりのものである。

 

「な、何故でございますか? 初顔合わせの時には礼儀として、例え相手が一兵卒の者だろうときちんと自己紹介はしておくべきだと華琳さまも……」

「いいえ、そうじゃない。そうじゃないのよ。私が悪かったわ。先の問答で貴女が理解していると勝手に思っていたこと。更に、まさか許定の真名を聞いておきながら思い出せないとは思ってもみなかったこと。これらは私の落ち度よ。もう半月近くも前の、それも話の上の事だけだったものね。貴女なら覚えていなくても仕方がないわ」

「半月前ですか? ん……?」

 

 眉根を寄せて、視線を宙に巡らせる春蘭。ここ数日のことを思い返しているのだろう。しかし思い当たることがなかったのか、頭を抱えてばつが悪そうに拓実へと顔を向けた。

 

「ええっと、拓実といったか。すまんが、私は以前にお前と会ったことがあったのか? いくら私でも会った者の顔と名前は覚えているつもりなのだが、どうにも心当たりがない」

 

 訊ねられて、拓実は思わず視線を華琳へと向けた。それを受けて華琳は目を瞑り一つ頷いた。その動作はおそらく『ありのままに話せ』という意図からのものだろうと拓実は読み取る。

 

「半月前っていうか、ここ最近はボク、春蘭さまとは二日にいっぺんは会ってましたよ。結構前ですけど、春蘭さまや季衣と一緒にラーメンを食べに行ったこともありますし」

 

 何でもないような風に話す拓実の返答を聞いて、春蘭は驚きに目を見開いた。

 

「待て!? 私は覚えにないぞ、そんなこと! いや……、そうか! さては私の知らんうちに拓実のやつが私に化けて、お前や季衣と一緒にラーメンを……ん? 拓実?」

「はい。ボク、拓実ですよ」

「な、なんだと! お前、拓実か! 何のつもりだ貴様! 私をたばかりおって!」

 

 春蘭の瞳に理解の色が灯ると、途端に彼女はきっ、とまなじりを吊り上げて、糾弾の声を上げる。もちろんそんなことに文句を言われても、拓実にしたらあまりに謂れのないことである。

 

「ええっ!? 春蘭さまが勝手に勘違いしてたんじゃないですかぁ~!」

「問答無用だ! こいつめ、そこに直れ!」

 

 身を乗り出し、拓実を捕まえようと春蘭が腕を伸ばす。拓実も痛い目に遭うだろうことがわかっているからすぐさま身を翻した。上手く腕を掻い潜った拓実は、なんと立ち尽くしている華琳の背中へと隠れる。

 そうなってしまえば春蘭は弱い。華琳に向かって無礼な振る舞いをすることも出来ず、伸ばした手は宙で止まってしまう。

 

「このっ、拓実! 華琳さまを盾にするとはなんという奴だ! 恐れ多いぞ! 逃げるなっ!」

「ボクだって春蘭さまが追いかけなかったら、逃げたりなんかしませんよー!」

「まったくもう、この子たちは……」

 

 間に挟まれることになった華琳は呆れた様子でため息を吐いてから、拓実に向かって伸ばされた春蘭の腕をぺん、と横から叩く。

 

「春蘭。少し落ち着きなさい」

「し、しかし、華琳さまぁ」

「言ったでしょう。桂花や秋蘭、拓実たちと同じ尺度で貴女を測ってしまった私の誤りだと」

「はっ? はぁ……」

 

 華琳の言葉には少なからず皮肉が混ざっていたのだが、春蘭は気づかなかったようで首を傾げている。とりあえず春蘭からの追求が止んだことに、拓実は華琳の後ろで密かに胸を撫で下ろしていた。

 

「ともかく、拓実についてしっかりと理解できたのなら、今度こそ後を任せるわよ。一応、罰とした拓実への鍛錬の期限は有効であるから、二ヶ月で私と手合わせができる錬度を目安に予定を立てなさい」

「……はっ!」

 

 春蘭は先ほどまでの醜態が嘘のように、静粛にその場で膝をつき、再び華琳へと了承の言葉を返したのだった。

 そうして今度は振り返ることなく、華琳は執務室がある区画入り口の奥へと消えていった。そんな華琳の後姿を並んで見送る拓実と春蘭。

 

「なぁ、拓実よ。お前のそれは、季衣の演技をしているのか?」

「はい、そーですよ。なんだか全然違う格好になっちゃいましたけど」

 

 華琳の姿はもう見えない。だというのに二人して入り口を眺めながら、向き合うこともなく言葉を交わす。

 

「ボクの髪の毛じゃ季衣の髪型にするには長さが足りなくて、それで服もおんなじのじゃ駄目でしたし。あー、でも季衣、ボクが真似するの楽しみにしてたからなぁ。がっかりしちゃいそうですよね」

「確かに見た目は似てはおらんな。なんだか知らんが、見てると無性にでこを引っぱたいてやりたくなる。だが、まぁ中身は季衣っぽいんじゃないか」

「そーですかね? それだったらいいんですけど。あと、華琳さまが言うには、見た目は季衣より春蘭さまのちっちゃい頃に似てるらしいですよ」

「何だと!? そんな筈は……しかし、華琳さまがそう仰られたのなら、むぅぅ……」

「……春蘭さまがボクを引っぱたきたくなるのって、一応これも同属嫌悪ってやつなのかなー?」

「銅像研磨? 何を訳の分からんことを言っているんだ?」

「何でもないでーす」

 

 そのまま二人は並んだままぼんやりと会話を続け、調練を開始したのはしばらくしてからだった。

 

 春蘭は調練で身体を動かしたことですっきりしたらしく、終わる頃には憂いもなくなり、大笑いするほど上機嫌になっていた。拓実もまた笑顔ではあったが春蘭を相手にするには実力が足らず、ぼろぼろのぼこぼこにされてまた地面に転がることになるのであった。



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18.『黄巾、各地で蜂起を始めるのこと』

 

 この日も、陳留の街はちょっとした喧騒に包まれていた。駆ける者に、追う者たち。それらを察知した住民たちの小さくないざわめき。警備隊による捕り物騒ぎである。

 華琳が軍を率いて周辺の賊を軒並み討伐してからはその規範の高さが知れ渡り、しばらく街中における犯罪も減少の傾向にあった。しかしここ数日の間になって、そういった類の騒ぎがまた増え始めていた。

 それに加え、以前とは少しばかり犯人の様子もおかしい。徒党を組んで略奪を仕掛けては、街の外――おそらくはどこか特定の土地へと逃げ延びようとするのである。下手人たちを捕まえて、その真意を問い質そうにも一向に口を割る様子はない。示し合わせているのか、今ではそんな者が大多数を占めている。そんな不気味な大陸の情勢を肌で感じ取っているのか、町民たちもどこか緊張した様子で毎日を過ごしている。

 

 拓実はそういった変化が起こっている街中で、今日もあちらこちらへと駆けて回っていた。許定の仮装をした初日はいつでも笑顔でいた拓実だったが、街を走る姿からは真剣な表情を見ることが出来る。

 

「おっちゃん、予定通りそっち行くよ。気をつけてね!」

「うし、任せろ! 俺たちは道を塞ぐから、嬢ちゃんは隊長に伝令頼むぞ!」

「はーい、任されました、っと!」

 

 親と子ほどに歳の離れた兵と遠目に言葉を投げ交わした後、拓実はすぐさま地面を蹴った。通りには通行人が多いが、小柄な拓実はそれを苦にせずに掻い潜って、するすると駆け抜けていく。

 中央通りに出る辺りにたどり着くと、走っていた勢いをそのままに事前に置いておいた台を踏み切って建物の屋根へとよじ登った。建物の突起に手をかけてまるで(ましら)のようにひょいひょいと上り切ると、今度はそこから小型の物見櫓(ものみやぐら)へと飛び移り、間髪置かずに周囲を見渡す。

 

「あっ、隊長ー! 乙組の前方封鎖、間に合いそうですー!」

 

 ざわつく街中、道行く人に声をかける売り子。その中から捜していた相手を見つけるや、拓実はそちらへと向かって大声を張り上げる。

 驚いた通行人からの視線が一斉に櫓の上へと集まる。どういった技術によるものなのか、その声はがやがやとうるさい街中でも遠く響いた。

 

「お前ら、聞いたかぁ! 丙組は甲組に合流しろぉ! このまま一気に前後から押さえ込むぞォッ!」

「おうっ!」

 

 大通りから小道へと走っていた警備隊長の声に従い、各方向へと散開して逃走経路を誘導していた警備兵が合流し一塊となって進行していく。それを見届けると拓実は物見櫓から飛び降り、またも駆け出した。次に目指す先は包囲予定位置である。

 

「ここ、すぐに警備隊が通るよ! お店の人、荷物どけてー! 歩いてる人、危ないから端っこに寄ってくださーい!」

「ほらほらっ! あんたら、何をぼさっとしているんだい! 許定ちゃんの言うとおりだよ、さっさと道を空けな!」

 

 小道を走る拓実が周囲に呼びかけていくと、呼応するように声が上がった。混雑していた道から人波はさっと開いていき、視界の開けたその先――別の通りとの交差前には、おっちゃんと呼ばれていた乙組の警備兵たちが待ち構えていた。

 拓実はそれを見届けると、邪魔にならないように周囲の通行人を誘導しながら共に道の端へ避難していく。

 

「ちっ、くそっ!」

 

 得物を手に逃げ惑っていた暴漢は人気の薄れた通りに取り残されることになった。そして、前方にいる木盾を抱えて腰だめに構える警備兵に驚いて引き返すも、後方からは四人の兵が追ってきている。

 手に持った太刀を前へ後ろへ構えているうちに男は四方を囲まれて、一斉に警備兵たちから六尺棒(180cmほどからなる樫で出来たもの)を突きつけられた。力が抜けたようにその手から太刀がこぼれ落ちて、乾いた音を立てる。男は肩を落として項垂(うなだ)れた。

 

 

「みなさん、ご協力ありがとうございましたー」

 

 警備隊によって無事に男が引き立てられていく間、拓実はそこから離れて笑顔で周囲に礼を述べていた。暴漢や警備兵たちによって蹴倒されたりして乱れた外観を元通りに直しては、町民に怪我がないかを確認して回り、該当する者には腰に下げていた傷薬を手ずから塗ってやる。町民たちもそんな偉ぶった様子のない拓実に感謝の言葉を返していく。

 

「許定ちゃん」

「おばちゃん! いっつも手伝ってくれて、ありがとね。今日も助かっちゃったよー」

「いいっていいって、これぐらいなら手伝う内にも入らないよ。ほら、それよりこれ食べな。警備の人の分も一緒に渡しておくから、今日も一日頑張っておくれ。許定ちゃんはどうにも痩せてるからねぇ……少しは太らないと女の子らしくならないよ。好きな男の子が出来てからじゃ遅いんだから、今から気にしておきな」

「あはは、ありがとー。でも、好きな男の子はいらないかなぁ……。あ、こっちは大歓迎だよ。いっただっきまーす」

 

 恰幅の良い中年の女性に饅頭の入った包みを渡されて、拓実は満面の笑顔を返す。もらった饅頭の一つにかぶりつくと、全身を使って手を大きく振ってから、警備隊の仲間と合流するために駆けていく。その途中でも他の者に捕まっては、果物やらを渡されている。それを受け取って無邪気に喜ぶ拓実の姿に、町民にも自然と笑顔が浮かんだ。

 

 

 拓実が警備隊の一員として配属されてから、今日でようやく七日が過ぎる。警備の仕事は大まかに日中・夜中とに分けられた交代制で、少女の姿をしている拓実は夜中の担当を外され、日中の巡回のみを任されていた。

 時間の区切りがしっかり定められていないためいくらか曖昧だが、朝は早く太陽が出る卯ノ初刻(午前五時)から、終わりは日が沈み始める酉ノ正刻(午後六時)を少し過ぎたぐらいである。その中でまた細かく休日や勤務担当時間が振り分けられているが、だいたい一日に八から十時間ほどが実働する時間になるだろうか。

 大規模な街だというのに警備の兵数は六十人ほどだから、いつも人手が足りていない状態だ。

 

 部隊指揮を見て学ぶため、という建前で武将見習いとして出向している立場の拓実であるが、警備隊には本人の希望によりあくまで新入りの一人として入隊している。

 さらに詳しい仕事内容を知らないこと、また成人男性と組み合うだけの力がないことから、暴漢などに相対するにはまだ早いと警備隊長により直接の鎮圧行為を禁じられている。初日には警備が使っている鎧などを着込んで見回りに出たのだが、その重さで身動きが制限されまったく役に立たなかったのである。それらを踏まえて拓実に最低限の力がつくまでは伝達や物見係として働くこととなり、また事態が収束した後の後始末など雑用を任されていた。

 

 そんなこんなで拓実は非力であるが故に、警備隊でただ一人装備の変更を余儀なくされている。速度を優先して鎧の類は一切身につけず、他の警備兵が使っている六尺棒すらも携行していない。

 流石に無手というわけにもいかないので、代わりに折れた六尺棒を再利用して作った一尺半(45cm)ほどのトンファーを持ち歩いている。トンファーの形状をした武器をここでは『(かい)』と呼んでいるらしいのだが、それも本来は三尺以上の長さになるので拓実のは半分ほどしかないものになる。何故わざわざ短いものを使うのかというと、鎮圧時に痛撃を与える役割でない以上、相手の刃さえ受けられるならば長くする必要がない為である。防衛に使うのであれば短い方が取り回しが容易になるとのことだ。

 さらには、反撃せざるを得ない状況でも『拐』を使わずに蹴りを使うようにと拓実は指導されていた。これは腕の力より脚の力の方が強いということもあるし、また拓実では押し合いになった際にまず競り勝てないからであった。華琳と春蘭、そして警備隊の隊長が口を揃えたように「まず真っ向から打ち合うな」と言うぐらいなのだから、拓実は常人と比べても相当に非力なのだろう。

 ちなみに一週間が経った今でも、拓実の筋力は大した変わり映えを見せていない。持久力は多少はついたようではあるがそれにしても劇的というわけではなく、残り一週間となった任期中は伝令係として勤めることになるだろう。

 

 

 ともかく、先ほどのように物見役は何とか形になってきている。だが、それは一週間経った今だからこそであり、入隊当時は酷いものであった。

 拓実が来るまでは物見役や伝達係などはおらず、通報を受けたらそれぞれが現場に急行。何か伝えることがあってもその場で大きく声を上げる程度だったのである。もちろんそんな大雑把な方法では情報の行き違いが起こるのも当然であり、現場につくのが遅れたり、下手人を取り逃がしてしまうことも多々あったらしい。

 また形振り構わず走る悪漢や、警備隊が簡易とはいえ武装したまま大人数で道を走るものだから町民にも怪我を負う者が出てしまっていた。警備には人数も時間も足りていないので、捕り物騒ぎで被害を受けた町民は放ったらかしにされてしまうことばかりだったようである。

 ある程度の成果は出ていたから妥協されていたが、住民からの評判もあまりよくなかった。つまり実力不足から直接的に警備に関われない拓実は、それら放って置かれていた問題を解消させるために尽力することになったのだ。

 

 警備の誰よりも位置を早く把握するために街の通りや構造を暗記し、先回りして現場の情報を確保し隊長へと伝達、その後は仕事の妨げとなりうる通行人へ避難の呼びかけを敢行する。

 拓実の仕事は言葉にすれば簡単なことだが、もちろん実際に行ってみるのでは勝手が違う。すぐさま動いて回ってみたのだが、初めから上手くいく筈がない。道を間違えることは今だってあるし、慣れない拓実の指示では充分でないこともあった。また、他の警備兵たちも拓実からの情報を上手く利用できずに、連携が取れなかったりもした。

 ミスがなければ防げた筈の被害、それを(こうむ)るのは町民たちである。流石に以前よりも悪化するということはなかったが、だからといって罪悪感を覚えないと言えば嘘になる。

 

 無用な怪我人が出てしまうことに責任を感じた拓実がまずしたことは、備品の薬で怪我人の治療してやる許可を警備隊長から貰うことだった。渋る隊長をなんとか説得したその日から行い、あちらこちらへと歩いて回って傷の手当をする拓実の姿は日常の光景となりつつある。

 しかしそうして使っていれば当然、警備隊に備えてある傷薬の減りは早くなる。治療する対象が増えたことで、少なく見積もっても消費量は五割増しとなっていた。警備隊、町民に関わらず怪我人は毎日出てくるのだから、それら全てを賄うには支給されている予算ではどうやっても足りないのである。

 

 本来ならば支給されている予算で出来る限りの努力をすべきだったのかもしれない。けれどより錬度を高めて被害を抑えるよう予防しても、どうしたって怪我人は出てしまうことだろう。そう考えた拓実は怪我人への救護の必要を訴えるために、財政を握っている桂花に掛け合うことにしたのだ。

 元々不遇とされる立場の警備隊にはさほど予算が下りていなかったようで、案外あっさりと話は進んだ。桂花と華琳を相手にしたプレゼンテーションから一日置いて許可が下り、そうして予算増額の申請書を隊長名義で提出したのがつい昨日のことである。予定外の出費に華琳より叱責はされたものの住民感情が悪化しつつあることは憂慮していたらしく、警備隊は無事に追加の予算を勝ち取ることが出来たのだった。

 

 

 

 拓実が警備隊に及ぼした業務上の変化は大まかにそんなものだったが、警備兵としての拓実の成果といえば、より詳しく街の地理を把握したこと、街の人達と仲良くなったことであった。

 それは、拓実が空いた時間をもっぱら自己鍛錬や街を出歩いての交流に充てているからだ。しかし町民と仲良くなったのは拓実としては意図してのものではなく、華琳のお陰とも云える副産物であった。

 

 拓実が華琳により課せられている仕事とは警備隊として働くことではなく、警備隊の内情を知って問題点を探ることにある。もちろん警備の仕事に手を抜くわけではない。拓実は仕事の合間にある休憩の時間を利用し、街の者たちを対象に警備に対する不満を聞き込みしていたのだ。

 そうしてまとめられていく警備の問題点であったが、報告書の為とはいえ聞くだけ聞いておいてそのままという訳にもいかず、拓実は自身の裁量で何とかなりそうなものに関しては改善すべく周囲に働きかけた。流石に金銭を必要とする要望はどうにもならなかったが、警備兵の立ち振る舞いの問題や重点的に見回って欲しい箇所などはそのまま拓実の口から警備隊長へと伝えられることになり、報告された内で達成が難しくなさそうなものについては隊長の指示によって改善されていった。

 

 わざわざ出向いてきて町民の意見に耳を傾け、出来うる範囲で改善していくその仕事振り、また備品を節約するために手ずから傷の手当てをしていた拓実の姿は町民たちに好意的に解釈され、当然のように歓迎されたようであった。

 そうしているうちに、拓実に引きずられる形で警備隊の評判は着々と上昇していく。本隊の兵士に配属されなかったことで不貞腐れていた拓実の同僚も、喜んでくれる街のみんなの姿にやりがいを覚えて始めているようだ。きっかけとなった拓実はといえば、人懐っこい性格もあって毎日顔を合わす街のおばちゃん連中を中心に好かれることになり、警備隊のマスコットキャラクターになりつつあった。

 

 

 反面、警備隊の中での拓実の立ち位置は良いとも悪いともいえないものだった。

 歳の離れた上の者には拓実は好かれやすい。快活で元気一杯の拓実に対して、娘や孫を相手にするような態度で接してくれている。歳の近い少年たちは拓実に対して余所余所しかったりもするが、「おいしいものが好き」と言う拓実を食事などに誘ってくれている者もいる。悪い意味ではなく、新入りである拓実を意識しているのだろう。

 問題は、拓実より年長の青年たちの中に拓実の存在を疎んでいる者がいることだ。それも一人二人ではない様子であった。

 

 彼らが気に食わないと感じているのは、拓実の実力がたいしたものでないからだ。暴漢の鎮圧に参加も許されないのに、武将見習いであるということがやっかみを買っている。また、入隊して一週間の新入りが警備の象徴のように扱われていることもそうだし、華奢な少女であることも侮る一つの要因である。

 確かに住民との軋轢(あつれき)が消えたことは拓実の尽力によるものだと理解できているし、警備の予算増額に関してもありがたいことではある。出来る仕事を精一杯やっていることだってわかるのだが、拓実の行っているそれが警備本来の仕事かといえばそうではないのだ。

 

 もし拓実が、季衣ほどに腕っ節が強かったなら彼らはいくつか不満はあろうとも納得していただろう。姿形が少女であることに対する否定的な意見など、話題にも上らなかったに違いない。

 警備の若者たちのような学を持たざる者というのは、単純に力を崇拝しているのである。武功は、彼らにとっては唯一の立身出世の(しるべ)なのだ。本隊に配属されなかった彼らには、崇拝すべき力に対してさえ劣等感を覚えている。他の者に劣っているという理由で警備に配属され、今や武功を立てる機会も滅多にない状態なのが彼らである。

 そこに非力で、しかし何かと要領良く立ち回る拓実の存在が入ってくる。年若く、自衛すらできるかどうか不安が残るその少女の将来は、武将であるというのだ。

 

 ――彼女と比べれば、単純に戦力という面で見るなら多くを上回っているはず。なのに、なんでこの小娘が武将になれるのだ。

 彼らは若さ故に出世欲を失っておらず、同時に己の限界を甘く見積もっている。また、生半可に年を食っているだけに自尊心もあった。そんな彼らがこう考えるのは当然のことである。夏侯淵将軍のお気に入りという噂もあって拓実に手を出そうとする者や表立って不満を表す者はいなかったが、その存在は彼らにとって面白い筈がなかったのだ。

 

 自分への認識に甘い拓実も、流石に倦厭(けんえん)した空気を感じていた。何となく、自身が一定の人たちに疎まれているのだろうと理解できている。

 しかし拓実としては如何(いかん)ともし難かった。自分が疎まれているのはわかっても、嫌われる理由も、その根が深いのかどうかもわからない。まず権力欲や出世欲というものにいまいち共感できないので、隊長を差し置いて好き勝手にし過ぎたのかなと考えるぐらいである。

 半月の期限での出向であるため華琳次第にはなるが、あと一週間程度でまた別の仕事を任されるかもしれないのだ。下手に手を出して、それまでに解決できるのかどうか。

 幸い、これまでにそれが原因で何か不都合が起こったわけではない。いや、何も起こっていないからこそ、拓実はこの問題に迂闊に着手できずにいたのだった。

 

 

 

 

 

 暴漢を捕らえた後も警備隊は巡回を続け、一通りの業務をこなしているうちに空が赤く暮れる時間になった。拓実は一日の報告を終えて、荷物をまとめて城にある私室へ戻る用意をしていた。

 駐屯所に同僚の姿はない。今他のみんなは夕方の巡回に出ていた。明日は拓実が勤めてから初めて非番で、隊長が連日精力的に働いている拓実を労わって少しだけ早く帰れるように調整してくれたのだった。

 

 そんなまだ他に誰も帰ってきていない駐屯所の入り口には、拓実より一回り小柄な少女が室内を覗き込む姿があった。警備に属している女性は拓実を除くと、他に衛生兵が二名。その中でも一番小柄なのが拓実であるから、同じ警備の者ではないのは確かである。拓実が反射的にその人物に顔を向けるのと、あちらが拓実を視界に入れたのは同時だった。

 

「あ、姉ちゃん。ここにいたんだ」

 

 覗いていたのは、控えめな笑顔を浮かべる季衣だった。扉から顔を出して中の様子を窺っていた季衣は、拓実の姿を見つけると小走りで入ってくる。いつも明るい顔をしている季衣にしては珍しく、表情に冴えがない。見れば分かるほどにはしゅんとした落ち込んだ様子である。

 

「あれ? 季衣がここに顔を出すのって珍しいね。最近は討伐隊に参加しているって聞いていたけど、どうかしたの?」

 

 季衣の沈んだ様子に気づきつつも、拓実は笑顔で季衣を招き入れた。それを見た季衣は拓実の明るい様子につられてか、表情からいくらか(かげ)りが薄れる。

 

「えっと、秋蘭さまが帰ったら朝議を開くから、姉ちゃんも城に戻ってくるようにって華琳さまが言ってて。って言っても、秋蘭さまが討伐に向かったのって昼過ぎだから、たぶん帰ってくるのは夜になるだろうけど……」

「へー。わざわざボクを呼び出すために季衣が?」

「うん。ちょっと、気分転換もしたかったし」

 

 へへ、と小さく笑って、季衣は頭を掻いた。その発言から拓実は、やはり季衣に気分を入れ替えなければならない何事かがあったことを知った。

 

「それで、こんなに急に朝議するって何かあったの?」

 

 しかし、秋蘭が帰ってくる夜までは、いくらか時間がある。それを聞き出すのはお互いが落ち着いてからでもいいだろう。今優先すべきは、警備に専念しろと華琳に厳命されていた拓実まで呼び出された、その理由を知ることである。

 

「うん……姉ちゃんも知ってると思うけど、町民の人たちの中からひっきりなしに暴れる人が出てくるでしょ? その人たちはみんな黄色い布を持ってたんだけど、桂花の話だとこの辺りだけじゃなくて、いろんなところでもおんなじように黄色い布を持ってる人たちが暴れてるんだって」

「黄色の布って……黄巾の乱?」

 

 本当に、まだ発生していなかったのか。そんな考えから言葉が口をついて、拓実は慌てて頭を振った。

 ――黄巾の乱とは西暦184年に張角が扇動して起きた、大規模な農民反乱である。この反乱により当時の王朝である後漢の力は大きく衰退し、代わるように各地の諸侯が台頭し始める、三国時代の始まりといえる出来事である。

 拓実は荀攸として勉学に励んでいた時に、自分がいる時代を調べたことがあった。しかし記述が西暦ではないために具体的な年はわからず、確認ができたのは現在の皇帝が劉宏という名であるということ。

 劉宏とは死して後に霊帝と呼ばれる皇帝である。しかし拓実は霊帝という後世で知られた名に聞き覚えはあれど、流石にこの時代で使われていた実名までは知らなかった。そもそもからして皇帝の名前をあやふやにしか記憶していなかった拓実は、周囲の状況からある程度の年代は割り出せても、それに対する確証をひとつも持っていなかったのである。

 曹操である華琳が後年に就く州牧を既に任されているということもあるし、時代的に曹仁や曹洪などのまだいてはならない人物が加入しているなど、歴史と順序が入れ違っていることも要因のひとつだった。

 

「姉ちゃん?」

「ううん、なんでもない。……んじゃ、遅くならないうちに帰ろっか」

「そーだね。お腹も減ったし」

 

 竹でできた水筒や麻のハンカチを手早く巾着袋に詰めて、片手に下げる。季衣に先導される形で、拓実は城へと向かう為に駐屯所を後にした。

 季衣は落ち込んでいるのか口を開かず、拓実もまた考え事があって会話をする余裕はなかった。足を動かしながら拓実が考えていることは、魏が国家たる基盤が固められるまでどれほどかかるか、どのような障害があるかであった。今いる時代がわかったことで、ようやくいくらかの指針を立てることが出来そうなのだ。

 

 拓実の最終目標、それはあくまで日本へと帰ることにある。もちろんそれを叶えるためには現代日本へ帰国する方法を見つける他にも、この陣営が諸侯に打ち勝った上で、華琳にしっかりとした国家を作ってもらわねばならない。それを踏まえると、いつ隣国から侵略を受けてもおかしくない三国時代を待つのではなく、大勝し、魏が大陸を統一し一大国家を築いてくれた方が拓実としても喜ばしいのである。

 華琳を尊敬し、助力したいと考えるようになった拓実にとっては、本来の歴史などというものにこだわるつもりはない。そもそもからして、歴史に記されていた時代とは実に多くの差異がある。楚漢戦争が記されている史書には劉邦や項羽などもまた女性であるという記述があったし、衣服や金属加工などの文化や技術などが歴史にあるものと同一でないことぐらいは拓実にだってわかる。

 しかし歴史書を見る限りでは、これまでの主要な流れ自体は拓実の知るものと違ってはいない。もしかしたら、今後の展開としてもあまりに逸脱したことにはならないのかもしれない。けれど、今までが歴史通りだからこそ、この歴史では異物である拓実の影響によって今後に変化が生まれる可能性は高い。

 

 どのような変化が訪れるか、今はまだわからない。しかし時代の契機が後年に起こる赤壁の戦いとなるのは想像に難くなかった。

 208年に起こったこの戦は、魏だけでなく蜀や呉の勢力にとっても大きな転機である。史実どおりだとすれば、180年代であろう今から約20数年後の出来事だ。その頃にはきっと拓実も壮年といって良い年齢になっているのだろう。

 赤壁の戦いは、劉備・孫権らの連合軍に大敗してしまうことで、それまで最大の勢力を誇っていた魏が力を大幅に失うきっかけとなった戦いである。これによって魏・蜀・呉間の国力が近くなり、三国時代へと移り変わることになるのだ。この敗北さえなければ魏は統一という形で地盤を固めることが出来ていただろう。それほどまでに、他の二国に対して当時の魏は国力の面で優勢であったのだ。

 もしそこで歴史通りの敗北を喫すことになれば、その後数年は慌しく、結果的に曹操の息子の曹丕が帝位を戴くことになるとはいえ、魏は疲弊していくことになる。そうなっては拓実が帰る方法を見つけていたとしても実行は出来なくなるだろう。その時まで拓実に帰国する熱意があるかはわからないが、可能性は完全に絶たれるといっていい。

 

 ならばどうすべきか。もしも今後の出来事がまったくの史実どおりであるとすれば、小手先の策ならいくつかは考え付く。

 『勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし』というように、勝因はなくとも戦の敗因というのは確実に存在している。赤壁の戦いにしても有名なだけに後年でその敗因をいくつも語られている。その要素を一つ一つ潰していけば、あるいは呉・蜀同盟軍にも魏が勝つことが出来るのかもしれない。

 

 けれど、それが通用するのはまったく同じ条件で両軍が展開されること、また拓実の策に対して諸葛亮や周喩が何の対策もしてないことが前提となる。

 まず、同じ条件というのが不可能である。他にもあるかもしれないが、拓実が華琳の下にいる今の時点でもう崩れてしまっている。その影響が他陣営にも誤差となって発生するのかどうか、それすらもわからない。

 つまり史実に比べて振り幅があるこの三国時代においては、そんな遥か先の出来事を考えていても仕方がないのである。考えれば考えるほど予定外の事態に対応が取れなくなってしまうだろう。

 

 華琳を勝たせるためにはどうすればいいのか。拓実が考え至った結論はそう難しいことではなかった。魏の国力を富ませ、兵力を増やし、外交によって史実以上に優勢な状況を作ることであった。劉備・孫権が連合を組んでも無駄と思わせるだけの勢力を作り、真っ当な戦をさせなければいい。

 もしそれが叶わず戦になろうとも、地力が違えば華琳が執る方策にも幅が出てくることだろう。どういう訳なのか拓実は名軍師とされる荀攸の名を頂いているので、献策するに困らない立ち位置でもある。

 拓実一人では諸葛亮や周喩には勝てなくとも、荀彧である桂花や、未だ見ぬ賈駆、程昱らと知恵を合わせれば、歴史を代表する軍師たちとも渡り合うことぐらいは出来るかもしれない。

 

「……姉ちゃん、聞いてる? ねえ、姉ちゃんってば」

 

 ふと気がつくと、目の前へ回った季衣が拓実を覗き込んでいた。何度か呼びかけられていたようだ。それにようやく気づいて拓実は何度か目を瞬かせた。

 いつもの季衣であれば、そんな拓実に頬を膨らませて少し怒った素振りでも見せただろう。しかし今の季衣は気落ちしているのを引きずっているのか、不安気にしているだけだ。

 

「えっと、ごめん。何だっけ?」

「だから、お城に戻る前に何か食べていかないかな、って。姉ちゃんもご飯まだでしょ?」

「うん。まだ食べてないよ。今日は頑張ったから、いっぱい食べられるよ」

「姉ちゃんってば、いつもそう言ってあんまり食べられないじゃん。せめてボクの半分は食べられるようにならないと」

「そりゃ、季衣ほどには食べられないけどさ。前よりは増えたんだってば。もっと食べないといけないのはわかってるけど、これ以上は無理だよー」

 

 言って苦笑いをしながら、拓実は頬を掻いた。華琳の言いつけではないけれど、確かに拓実の食事量は増えていた。毎日朝から晩まで街中を走り回っているからだろうか、何かとお腹が減って仕方がない。欠かさず三食食べるようになっただけではなく、街の人からおやつを貰って間食したりもするようになった。

 食事を(おろそ)かにしていた荀攸であった以前よりも、体には力が漲るようになった。ただ、それでもやはり体重は華琳と同じぐらいで頭打ちしてしまってはいるのだが。

 

「まぁ、それはいいや。そんなことより、季衣も何か話したいこと、あるんでしょ?」

「……う、うん。でも、何でわかったの?」

「そんな顔してるのに、わかんない筈ないじゃん」

 

 笑う拓実に、戸惑ったように自身の顔をぺたぺたと触れる季衣。どうやら今まで、上手く繕えていたつもりのようだ。それを見て、拓実はまたくすりと笑ってしまう。

 

 

 拓実の勧める飯屋で、机に対面に座った拓実と季衣はそれぞれ注文を終える。拓実が麻婆豆腐、季衣が中華丼である。警備の同僚である劉少年(何かと食事処の情報を提供してくれる。ちょっとだけ挙動不審だけどいい子)が言うには、早い、多い、美味いと評判らしい。

 どうやら彼の言うとおりらしく、注文して数分で料理が出来上がった。特別美味いという訳ではなくそれなりに頂ける味だったが、量はしっかり普通の店の五割増しといった感じである。季衣や育ち盛りの少年にはちょうどいいお店だろう。

 

 食事をしながら季衣がぽつぽつと語るのを聞くに、何やら朝議の席で華琳と意見がぶつかったということだった。賊が出没したとの知らせを受けてすかさず討伐に立候補する季衣だったが、最近の季衣の頻繁な出兵を理由に却下されてしまった。頑張れば頑張るだけ多くの人を助けられるのにと抗弁するも、限度があると華琳に一喝されて止められたということだ。春蘭や秋蘭にも同じ理由で(たしな)められてしまったのだが、季衣としてはもっと頑張れるつもりでいるらしい。ただ、無茶をしている自覚も多少はあるようで、最近は以前にも増して暴飲暴食が目立ってきているようではある。

 生憎この一週間のほとんどを警備の仕事に費やしていたので季衣とあまり会うことはなかったのだが、拓実も、季衣が結構な頻度で討伐隊に参加していることを警備隊にいながら耳にしていた。必要なことは華琳が伝えていることだろう。加えて、討伐の際での季衣のやり取りを知らない拓実には言える事などは限られていた。

 

「毎日そんなにがんばってるのに、季衣は疲れてないの?」

 

 皿を綺麗に空にして、口元を手巾で拭ってから、拓実は季衣に訊ねてみた。見ている限りでは特別に疲れている様子は見られないが、春蘭や華琳が止めるほどだ。余程の事なのだろう。

 

「大変だけど、でも今から討伐に行けって言われたってボクはぜんぜん平気だよ。ボクががんばらなかった所為で人が死んじゃったりしたほうが、もっと辛いから」

「うん」

「でも、華琳さまの言うこともわかるんだ。疲れてきちゃった時に賊が暴れだして、ずっと戦い通しになって、いつもの力が出なくて誰かを守れなくなったりしたらいやだし。でも困っている人がいるのがわかってるのに、何にもしないで休んでたりしなさいって言われても、助けてあげたくなっちゃうんだもん」

 

 「おじちゃん、おかわり」と声を上げる季衣と机を挟んで、拓実は唸る。手慰みに空の食器に置いたレンゲを人差し指で弾いている。

 季衣にしてもわかってはいるのだろう。どうしたほうがいいのか、頑張りすぎることがどれだけ回りに心配をかけているのか。また、華琳の言うとおりにした方がより多くの人を助けられるだろうことも理解している。ただ、それは感情を納得させる理由になっていないというだけなのである。

 

「んー」

 

 だが、拓実はそれを上手く説ける気がしないでいた。荀攸としてならば損益の観点で語っただろうが、どうにも頭の中で意見がまとまらないのだ。しばらく考え込んでいたが、結局上手くまとまりそうな感じがしないため、拓実は話を聞いて感じたことをそのまま話すことにした。

 

「季衣はどっちが正しいと思うのか、自分の中では決まってるんでしょ? 華琳さまや春蘭さま、秋蘭さま、それに桂花とかみんなが季衣のことを心配してることとかもわかってるんだろうし」

「うん」

「んじゃ、いいんじゃない。季衣がしたいようにしたらさ」

「え、ええっ?」

 

 拓実の言葉に、二杯目の親子丼を食べる手を止めて、目をまん丸にする季衣。まさか肯定されるとは思っていなかったのか、まじまじと拓実を見つめている。

 

「だってさ、季衣が華琳さまとか春蘭さま、秋蘭さまとかの話に反対してでもやりたいんだったら我慢してもしょうがないじゃん。だったらやりたいようにやるしかないでしょ。季衣だってぜんぜん大丈夫って言ってるんだしさ。もう、華琳さまも春蘭さまも季衣のことちゃんと見てないんだなぁ」

「姉ちゃん、待ってよ! 華琳さまも春蘭さまもボクのこと心配してくれて言ってるんだよ! そんなんじゃあ……!」

 

 焦った様子で拓実の言葉の続きを止めようと声を上げる。慌てた拍子にくっついたのか、口元のご飯粒には気づいていない。

 

「でも、季衣がどうしても賊退治に行きたいって言ってたら、季衣がみんなのことを信用してないってことになっちゃうかなぁ」

「あっ、えっ? ど、どうして?」

 

 どうやらいきなり展開が変わり、季衣はついてこれないようである。先程までの詰問する様子は消えて、やけに素直に拓実に聞き返す。

 

「だってさー、今のボクみたいにちゃんと助けられるかわからない奴が代わりだったら反対してもしょうがないけどさ、秋蘭さまや春蘭さまとかなら代わりに行っても助けてあげられるでしょ。それなのに季衣がどうしても行くって言ったら、春蘭さまとか秋蘭さまじゃちゃんと助けてあげられませんって言ってるようなものじゃない?」

「う……」

「助けられない人が出ちゃうなら季衣の言ってる事にボクも賛成だけどさ。季衣が休んだ方が今よりいっぱいの人を助けられるなら、季衣は我慢して休まないといけないんだとボクは思うよ」

「ぶー……。そう言われちゃったら、ボク休むしかないじゃんかぁ……。姉ちゃん、イジワルだよ」

 

 拓実の意図に気がついたか、季衣が口を尖らせた。手に持った丼の中身を掻き込み、中華丼、親子丼の丼料理五杯目を完食する。量にして優に七人前。それだけ食べてようやくある程度お腹にたまったらしく、次の「おかわり」の声は上がらない。

 器を置いて一息つくと、季衣はいたずらを思いついたかのようににやっと笑って、拓実へと向き直った。

 

「……ま、そうだよねー。姉ちゃんにはボクの代わりは無理だもんねー。姉ちゃんじゃないなら、ボクも安心して休めるしさ!」

「むっ。なんだよそれー! 『今の』って言ったじゃん! ボクだっていつまでもこのままでいるつもりはないからね! これでも季衣の姉ちゃんを任されてるんだから、すぐに季衣に追いついてやるんだから」

 

 季衣の言葉に、かっとなって思わず立ち上がる拓実。身を乗り出して季衣に指を突きつける。予想通り過ぎる反応に、季衣も気を良くしたか挑戦的な笑みを浮かべて見せた。

 

「へっへっへー、どうかなー? 姉ちゃんすっごい弱いしなー。そんじゃ今度一緒に春蘭さまの調練に参加してみよっか?」

「望むところだよ!」

 

 そんな売り言葉を、拓実はあっさり買ってしまう。鼻息荒く季衣のことを睨んでいるが、拓実にはどうにも迫力がない。子供染みた挑発にあっさり乗っかってしまう拓実の様子がおかしいのか、季衣は声を上げて笑い出した。その笑顔に、先ほどまでの憂いはもう見えなかった。

 

 



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19.『許定、許緒と共に証言するのこと』

 

 食事を終えた季衣と拓実はじゃれ合いを止めて定食屋を出た。外に出て見上げてみれば西の空では太陽が沈みきろうとしていた。

 日が完全に暮れてしまえば後は休息の時間。残すは夕飯を済ませて寝るか酒屋で呑むかするだけなものだから、仕事を終えた街の人たちも家路を急いでいる。そんな中を進んでいく拓実は防犯灯となる篝火(かがりび)を準備している警備兵たちや、知り合いの町民たちを見かけては手を振って声を掛けて挨拶していく。

 

「~~♪ ~♪」

 

 何人かと挨拶を交わして表通りに出た二人が城の入り口に向かっていると、明るい歌声が拓実へと届く。拓実は改めて目の前の小さな背中を見た。

 足取り軽く歩いているのは季衣。少し調子を外しながらも元気に歌を歌っている。見る限りでは普段よりも機嫌が良いのかもしれない。先ほどまでの沈んだ様子と比べれば一目瞭然である。

 少なくとも彼女の悩み事は納得できるところまで落ち着いたようだ。拓実は思ったことを好き勝手に言っただけだったが、何を言ったかなんてことは関係なく季衣は誰かに話を聞いて欲しかっただけなのかもしれない。

 それでも季衣の力になれていたことに拓実は胸を撫で下ろしていた。華琳や春蘭、秋蘭、桂花も同じく思っているだろうが、拓実もまた元気いっぱいの季衣が好きなのである。沈んだ季衣のことを何とかして励ましてやりたいと思っていたのだ。

 

 ふと、拓実は季衣とこの姿で初めて会った時のことを思い出していた。それは一週間前に春蘭と手合わせをした後のことである。

 白打での調練を終え、手合わせに使っていた剣を片付けた後、手隙となった拓実は中庭の木陰に逃れてぼんやりと空を眺めていた。久々に思いっきり体を動かした為に空腹に苛まれていたのだが、春蘭にぼこぼこにされてしばらくの間は動くのも億劫であった。

 木の幹に背を預けてそのままでいると、疲労もあって瞼がゆっくりと落ちてくる。拓実が眠気で朦朧としながらなんとか意識を保っていると、その隣に誰かが座ったことに気がついた。ぐったりとした拓実に声を掛けてきたのは、両腕にいっぱいの団子を抱えた季衣だった。どうやらぼろぼろになっている拓実を見かけて心配してきたようだ。

 

 季衣の持っていた団子を二人で分け合い、食べながら話していると、季衣は目の前の人物が自身を模していること、また拓実であることに気づいたようだった。そうなれば早かった。荀攸としてより性格が近いためか、あっさりと季衣は許定としての拓実に懐き、時を置かずして打ち解けた。

 形式上では既に姉妹となっているとはいえ、何かしらの区切りは必要だろうと考えた季衣は、団子を分け合って食べたことを以って姉妹の契りとした。あまりに前代未聞、突飛な姉妹の契りに、季衣と拓実はお腹を抱えて笑い転げたものだ。

 

「~~♪ ~~~~♪」

 

 そんなことを思い出していた拓実。その時に見た元気な季衣が目の前に戻ってきたことを実感していた。楽しそうな歌声を聞いているうちに拓実も何だか嬉しくなってきて、思わず季衣に合わせて歌声を乗せる。

 警備として巡回している時、なんとなしに口ずさむことがあるぐらいには拓実もこの曲を気に入っている。童歌などを除けば、唯一覚えているこの時代の曲だ。

 

「わ、姉ちゃんもこの曲知ってたの?」

 

 重ねられた歌声に気づいた季衣が勢いよく振り向いた。思わぬところで嗜好を同じくする同士を見つけた喜びからか、瞳を輝かせている。拓実は笑って鼻を掻いた。

 

「うん。一週間ぐらい前にちょこっとだけ。休憩時間だけだったから聴けたの一曲だけだったけどねー」

 

 拓実がこの曲を知ったのは五日前のことで、休憩時間に警備隊への希望を町人に聞いて回っている時のことだ。中央広場を通りかかった時、ふと歌声と歓声を耳にした。

 見れば、人一人分高くなった台の上にいる少女たちが周囲からの声援を受けているところであった。歌から察するに歌劇か、それとも歌唱会か。歌か劇かの違いはあるが、久方ぶりに見る舞台に興味津々の拓実は引き寄せられるようにそこへと近寄っていった。

 向かった先には、三人組みの旅芸人だろう女の子が振り付けと一緒に歌っていた。演奏されている曲は明るくて覚えやすい。振り付けと衣装もあって、まるでアイドルグループを見ているようだった。

 意識して聴いているとその曲には以前どこかで聴いた覚えがあったものだ。そうしてよくよく見てみれば、拓実はその三人の容姿にも見覚えがある。思い返してみれば華琳たちと街に視察に来た際に見た、未来的な格好をして道端で歌っていた旅芸人たちであった。

 

 拓実は素直に驚嘆していた。少し見ぬ間に彼女たちは随分と精進したようである。現代で知られている舞台での表現技術の幾つかを、この時代の彼女たちは僅か一ヶ月ほどの間で実践に漕ぎ着けていたのだ。

 並んで立ったまま歌っていた以前とは違って、歌と一緒に踊っては道行く人の目を引き、ソロパートでは立ち位置を入れ替えて上手く印象に残るように立ち回っている。

 歌詞の合間には聴衆の熱を冷めさせないように声をかけて、場を上手く盛り上げている。振り付けにしてもリズミカルで小気味よく、見ている者たちは無意識に拍子を取るほどだ。

 どうやらそんな彼女たちの試みは上手く功を奏したようで、視察の日に見かけた時は数人が聴いているだけでそれほど人気があった様子ではなかったのだが、その日の舞台の周りには聴衆や応援者が絶えないでいたものだ。

 彼女たちの歌が山場を迎えれば、それに同調するように周りの聴衆たちの盛り上がりも最高潮となっていく。最前列の熱心な応援団からは「ほわ、ほぉぉ、ほわぁぁぁあぁああ!」と形容し難い奇声が上がっていた。

 拓実の頭の中では日本にいた国民的アイドルの熱心な追っかけと姿が重なった。その存在を知っていたから拓実にはいくらか耐性があったが、初見である周囲の町人たちは応援団のその奇妙な様相に若干距離をとっていた。それでも声が届く範囲から去る人が少なかったのは、舞台演出だけでなく彼女たちの曲自体に魅力があるからだろう。

 

 生憎、休憩が終わろうとしていた拓実は一曲だけを聴いて広場を後にしたのだが、後日町人に聞いたところその日のうちに陳留を発ってしまったらしい。実は突発での公演だったらしく、人が集まりすぎたために苦情が出て、警備から解散命令が出ていたということだ。少女達はそれをいちはやく察知し、厄介なことになる前に街を出たようである。

 旅芸人などでも普通は数日の間に渡って滞在するものだから、非番の日に改めて季衣と一緒に見に行こうかと考えていた拓実は残念に思ったものだ。ただ、どうやら彼女たちは大陸のあちこちを数日置きに巡業しているようなので、拓実はまた近くに来れば会えるだろうと次の機会を密かに楽しみにしているのである。

 

 その彼女たちが歌っていたものが、今季衣と拓実が口ずさんでいた曲である。季衣が歌っているのはこの曲のメインボーカルらしいおおらかそうな少女のパート。拓実の歌っているのは、三人の内で勝気な子が主旋律に重ねていたパートである。

 眼鏡をかけていた子のパートを歌ってくれる人がもう一人いれば完璧なのだけれど、華琳や春蘭、秋蘭、桂花がこの曲を歌ってる姿を、拓実はどうにも想像できない。

 

「ボクもこの曲、大好きなんだ! えっと、歌ってる人は……確か、張三姉妹って言ってたかな」

「へぇー、あの人たちって三人姉妹なんだぁ。知らなかったな。でも、あんまり似てなかったよね?」

「へへ、名前とかは応援団の人たちぐらいしか知らない秘密の情報なんだって。ボクも追っかけの人に聞いたんだけどね。えっとねー、姉ちゃんが歌ってたのは、二胡(にこ)を演奏しながら歌ってた張宝っていう人のところでー。ボクが歌ってたのは琵琶を弾いてた張角って人。あと一人、太鼓を叩いてたのが張梁って人だね。って、あれ? 張角……って、今日どこかで聞いた気がするんだけど、どこで聞いたっけ?」

 

 季衣が得意気に語るのを聞いていたのだが、途中から拓実は動きを停止させていた。言うまでもない、張角とは黄巾の乱を引き起こした人物の名である。それを思わぬところで聞いたものだから頭の中が真っ白になってしまっていた。

 

「あー! そうだよ! 桂花が言ってた、黄色い布を持って反乱を起こさせている人の名前じゃん! 姉ちゃん! 行くよっ!」

「えっ、え? どこに?」

 

 季衣の上げた大声に、茫然自失していた拓実がびくっと身を震わせた。慌てた様子で声を張り上げる季衣に拓実が思わず聞き返すが、季衣は答えを返す前に拓実に近寄り、その手を握る。

 

「何言ってるのさ! 華琳さまのところだよ! 姉ちゃんだってあの人たちの公演、見たんでしょ! ボクと姉ちゃんしか張角のこと知らないんだから、すぐ華琳さまに報告しなきゃ!」

「う、うん。わかった!」

 

 季衣に手を引っ張られ、今までゆっくりと向かっていた城への道を駆け出した。

 最初こそ戸惑って季衣にされるがままついていく拓実だったが、状況を飲み込むと、ぐん、と加速する。力比べはともかく、足の速さなら拓実は季衣にも負けてはいない。結構な速度で並んで走る二人の姿に、何事かと周囲は驚いた。

 

 

 

 ところどころに篝火が焚かれ、物見櫓にて兵士が控えている他は寝静まっている。そんな穏やかな陳留の街とは違い、城では慌しさを見せていた。賊討伐へと向かっていた秋蘭が帰ってきたのだ。

 朝議は既に始まっている。華琳の命を受け席を外している春蘭を除いた、主だった人物が一堂に揃っている。その中には、一応武将の一人として拓実の席も用意されていた。

 警備隊で見習いをしている許定は、本来この場に参加できるほどの立場にない。何故参加しているのかといえば、表向きは張三姉妹の目撃者としてである。もちろん実際のところは今回の軍議が今後の展望を決め兼ねないことから、いざ影武者として振舞う時のために華琳と知識を共有させるためである。目撃者でなくとも、なんやかんやと理由をつけて同席していたことだろう。

 

「――と、季衣や拓実が見たと言う、張角と思しき人物の特徴はこんなところね。それでは、秋蘭。貴女には討伐と一緒に偵察任務も任せておいたのだけれど、そちらでは何かわかったのかしら?」

 

 朝議の始まった玉座の間では、華琳が二人からの報告をまとめて場にいる全員に伝えていた。それを聞いたそれぞれの表情はいつも以上に鋭いものへ切り替わっている。その情報が真実のものならば、立て続けに起こっている反乱を根から絶つことが出来るかもしれないのだ。真偽を確かめるべく、全員の視線が報告者である秋蘭へと集まった。

 

「はっ。討伐に向かった先の村で聞き込みをしたところ、女三人組の旅芸人が立ち寄っていたという情報がありました。外見特徴は季衣や拓実が見た張角とほぼ一致しております。ほぼ間違いなく同一人物でしょう」

「そう。桂花のほうは?」

 

 落ち着いた声色で報告を上げる秋蘭。それを聞いた華琳は相槌をひとつ打ってから、控えている桂花へと顔を向けた。自然と周囲の注目も秋蘭から桂花へと移る。彼女は向けられる視線に意を介した様子を見せずに前へと進み出でて、(うやうや)しく口を開いた。

 

「二人の報告を受けてより、取り急ぎ反乱蜂起地点に調査の兵を送りました。帰ってきた兵の報告では、どの場所でも三人姉妹の旅芸人が立ち寄っていた模様です。遠方地へ送った兵は帰ってきてはいませんが、それらも明日には揃うことでしょう。しかし帰ってきた多くの兵が同様の報告をしていることから、おそらくはそちらも……」

「どうやら間違いはなさそうね」

 

 朝議の参加者たちから「おお」とどよめきが上がった。首謀者を覆い隠していた靄が少しだけ薄れて、皆の表情に若干喜色が混ざる。

 今まで一切の詳細がわからなかった張角に、少なくない者が不安を覚えていたのだ。連日起きる反乱を討伐して回り、それでも一向にその原因が見えずにいた。それぞれが暗中模索していた思いだったのだろう。

 

首魁(しゅかい)は旅芸人……一体何の目的を持って民を扇動しているというのか」

 

 周囲の気持ちが上向きになっている中、華琳は視線を鋭くしたままである。そんな考える様子を見せていた華琳だったが、すぐに頭を振って天を仰いだ。如何に華琳といえども、その三姉妹についての情報が不足していてはどうしようもない。ついと目撃者である二人を見やった。

 

「季衣。張角と姉妹だという他の二人についてあなたが知っていることを、何でもいいから話してごらんなさい」

「あ、はい」

 

 言われ、顎に指を当てた季衣はぼんやりと宙を眺める。そんな季衣に、ざわめいていた参加者たちの視線が集まった。

 

「えっとですね、三人は周りの人たちから張三姉妹って呼ばれてるみたいです。張角が一番年上で、真ん中が張宝、張梁って人が一番下です。歌とか踊りとかで観ている人からお金をもらってて、応援している人はけっこういるみたいです。北西の村でたまたま見かけたときも、始まったばかりなのに百人ぐらいが集まってました。あと、あんまりひとつのところにはいないらしくて、色んなところに行って公演してるって応援団の人が言ってました。ボクが知ってるのはこれぐらいです」

 

 ふむ、と華琳は頷く。聞くべきところはあったらしく、情報を頭の中で吟味しているようだ。そうしてしばらくの間の後、今度は拓実へと顔を向ける。先ほどまでざわついていた武将たちはいまや音をひとつも漏らさず静まり返って、神妙な顔をして話し込む華琳を見つめている。

 

「それで、拓実はどう? 何か気がついたことはあるかしら?」

「んーと、そうですね。ボクが知っていることってあんまりないんですけど。舞台の上で話していた感じだと張角はのんびり明るい感じの人で、張宝は勝気でちょっとせかせかしてたかなぁ。張梁って人はいまいちわかりにくいですけど、頭がいい人だと思います。一月ぐらい前に陳留でも公演をしていたみたいだけど、その時は聴いてる人もあんまりいなかったです。たぶん、こんなに人気が出たのって最近になってからだと思うんですけど、季衣と違って話してるところと歌っているところをちょっと聞いただけだったから、あとはどんな格好をしているかとか弾いていた楽器ぐらいしかわかんないです」

 

 話し言葉やその言葉回しからは性格や知性が垣間見える。彼女たちの言葉回しを拓実が今まで生きてきて出会った者に当て嵌めてみると、同系統の人間が浮かび上がってくる。

 拓実のこの推察に論拠となるものはなかったが、人間観察してきた経験から当たらずとも遠からずというところだろう。

 

「あっ、ただ……」

「……ただ?」

「何で悪いことをしてるのかとかはわからないんですけど、でも、三人が心の底から公演を楽しんでいたのは本当のことだとボクは感じました」

 

 それだけに、彼女が彼の張角であると聞いてから拓実は人知れず戸惑っていた。そしてずっと考えていたのだ。彼女たちのあの舞台は、本物だったのかどうかを。

 そうして考えた末に出た結論が、拓実の今の発言である。歌っている三人は、好きなことをしている人特有の生き生きとした表情を浮かべていた。人を集めるための手段として作った笑顔とは違う、心からのものであると確信に至った。観ていたのは僅か五分ほどだったが、その時の様子を拓実が未だに覚えていられるのは、夢を叶えようとする三人の笑顔が印象深かったからだ。そんな人たちが民を扇動し、反乱を起こしているという。戸惑っていたというのも、公演の時に感じた彼女たちの印象と、起こしている騒動が繋がらずにいたのである。

 

「……」

 

 華琳は拓実を無言で見つめる。拓実もまた華琳を真っ向から見つめ返した。そうして数秒が経ち、華琳が根負けしたように目を瞑って、深く息を吐いた。

 

「そう、なるほどね。拓実が言いたいことはわかった。いいでしょう。それも張角を捕らえてみればわかることよ」

 

 周囲を見回した華琳は言葉を繋げる。

 

「都では黄布を持つ暴徒を鎮圧する正式な軍令が告達される動きがあるわ。これが成れば、晴れて大軍を派兵する名分を得ることになる。また、季衣の証言で賊徒の首魁についても目星はついた。我が軍は以後、賊徒を鎮圧する為に動くこととなるでしょう。既に春蘭には出兵の準備を任せて……」

「華琳さま、失礼いたします!」

 

 扉が開け放たれる。そこに急ぎ駆けてきたのは、その準備を任されている筈の春蘭であった。

 

「……春蘭? いったいどうしたというの」

「桂花が各地に送った兵より、賊徒蜂起の報告が。南西の村にて今までにない規模で展開しているようです。確認できるだけでも三千。現在も数を増やしております」

 

 華琳の前に跪いた春蘭は、右手で作った拳を左の手の平で覆い隠した礼――包拳礼を取る。本来ならばそこに至るまでいくつも手順があるのだが、それを取るだけの時間も惜しいのだろう。危急の時ということで華琳に春蘭を咎める様子はない。

 

「三千……確かに今までの数百名ほどとは桁が違う。それだけの数、複数の集団が合流したと見るべきか……となると、指揮する者がいるわね。どちらにせよ、我らは後手に回ったのは間違いない。それで、直ぐに出せる部隊は? また、全兵力を当てるとするならどれほどかかるかしら」

「は、直ぐに出立できるのは当直の兵に、物資確認を任せた部隊がおります。合わせて七百ほどかと。他の兵は既に休ませている上、兵糧がまだ届いておりません。午前中を予定していた物資運搬を現在急がせております。全兵力が準備を終え、出立するのは日が完全に出てからに……」

 

 春蘭の報告に、玉座の間は一時騒がしくなる。武将たちの間で口々にどうすべきかと声が上がった。準備が整うまで待つのか、それとも寡兵を以って討伐に当たるのか。

 いくら相手が百姓上がりの盗賊集団とはいえ、三千に対しての七百では多勢に無勢というもの。かといって朝まで待てば村人たちの被害は甚大なものとなろう。民たちを思えば今すぐ出るべきであるが、それで殲滅されてしまっては元も子もない。

 

「華琳さま! ボクが出ますっ!」

 

 事が事だけに意見は統一されない。そんな中、張り詰めた少女の声が響いた。どうしたものかと紛糾していた武将たちは口を閉ざして声の主を見やる。

 

「季衣! お前は休んでおけと言われていただろう!」

 

 手を高く挙げ、発言をしたのは季衣であった。華琳は黙したまま、じっと季衣を見つめている。言葉を発しない主の代わりに、春蘭がいきり立つ季衣を諌めた。常人が聞けば(おのの)くだろう声を受けても、季衣が怯むことはなかった。

 

「大丈夫です! 夜までのんびりしてましたから、もう元気いっぱいです! 華琳さまだって、ボクにはこういう時にがんばってもらうって言ってたじゃないですか! それに、百人の民を見捨てたりはしないって! だったら!」

 

 季衣は声を荒げながらも、揺らがせることなく華琳を見つめ返している。そうして幾ばくかの間を置いて、華琳がゆっくりと口を開いた。

 

「……そうね。それでは、季衣。今動ける七百をつれて先発隊として向かいなさい」

「華琳さま!」

 

 喜びに眉を開いた季衣が明るい声を上げた。

 

「季衣、先遣隊の目標は賊の殲滅ではなく民の救出と村の防衛よ。直ぐに本隊を送るから、それまで持ち堪えることを優先させるように」

「はいっ」

「秋蘭、貴女には季衣の補佐を任せるわ。帰ってきたばかりで疲労しているでしょうから、必要ということならばもう一人副将をつけることを許しましょう。その選別は秋蘭に一任するわ」

「はっ!」

「春蘭、今すぐ寝ている兵を叩き起こしなさい。兵を使って物資の運搬を急がせれば日が出る前には出立できるでしょう。桂花。蜂起地点の地図を用意し、地理を考慮に入れて本隊の進軍経路を割り出しなさい。そちらについては一任しましょう」

「承りました!」

「お任せください!」

 

 華琳より役割を指示された将らはその場に跪き、礼をとって了解の声を返していく。

 

「本隊の総指揮は私が執る! その他の者は春蘭を手伝って兵を纏めなさい! ……通達は以上、各人為すべきことを為しなさい!」

 

 最後に「応」と大音声が響くや、各々は一秒が惜しいとばかりに駆け出していく。

 

 

 あっという間に玉座の間からは人が去っていった。そうして残るのは拓実と華琳、秋蘭だけとなる。これまで軍議に参加したことのなかった拓実は慌しく動く事態に反応も出来ず、呆然と眺めていただけである。拓実が出入り口を見ながら立ち尽くしている間にも、秋蘭と華琳は話を進めている。

 

「――はい。それと華琳様。私以外に季衣につける補佐の件なのですが。やはり部隊指揮にもう一名、将を借り受けたく……」

「ああ、そうだったわね。誰を連れて行くつもり? もしかして、拓実かしら?」

 

 自分の名前が出たことで、はっと意識を取り戻す。警備に出向している拓実にはこの場にいた武将の中では唯一やることがない。しかし、見習いとはいえ武将の一人。有事となれば出動を命じられる可能性もないとはいえない。

 あまりに突然なことに拓実は戸惑っていた。今日も賊蜂起の報告が少しでも遅れて朝議中になかったならば、拓実はまた何事もなく毎日を過ごしていただろう。警備で働いて多少荒事に耐性がついているとはいえ、戦に対してはどこかで他所事のような認識をしていた。

 しかし、今回のことでそんな考えは吹き飛ばされた。拓実がたまたま関わりにならずにいただけで、こうして毎日のように起こっているのだ。

 

「そうですね。拓実を連れて行けばいい経験になるかと」

 

 どくん、と拓実の胸が一際大きく跳ねる。心臓の音が体中で反響し、煩くてしょうがない。しかし体は石になったかのようにぴくりとも動いてはくれない。

 討伐隊に随行したところで、今の自分が戦で役に立てるのだろうか。内心で自問自答を繰り返すが満足のいく答えは出てこない。

 

「ですが、今回は急を要するため李冬(りとう)を――曹洪を随伴させたく思います」

 

 李冬――拓実が華琳と手合わせをする際に武器を運んでいた、曹洪の真名である。許定としては交わしてはいないが、荀攸としては何度か顔を合わせて真名の交換を済ませている女性武将であった。

 

「わかっているわ、冗談よ。副将については承知したわ。李冬には貴女から伝えておきなさい」

「はっ。それでは失礼いたします」

 

 すっと音を立てずに退室していく秋蘭。横をすれ違う時、秋蘭は口の端を吊り上げて、拓実の肩を優しく叩いていく。

 それを拍子に、ひゅ、と空気が抜ける音をさせて、拓実は止めていた呼吸を再開させた。秋蘭に触れられるまで、拓実には息を止めていた自覚すらもなかった。

 

「拓実、あなた明日は非番だという話だったわね? こう言ってはなんだけれど、機がよかったわ。陳留守備を水夏(すいか)に任せるから、明日一日は荀攸として彼女を補佐なさい。細々とした書類の処理でも大きな助けとなるでしょう。……ああ、水夏のことは知っているわよね?」

「あ、はい。曹仁さまの真名ですよね。……でも、ボクも武将です。ついていかなくてもいいんですか?」

 

 華琳は頷いて、真剣な表情で拓実を見つめる。秋蘭の計らいで冷静さを取り戻した拓実は、佇まいを正して華琳と向き合った。

 

「今あなたが任されている任務は警備の問題点を纏めることよ。確かに拓実が討伐に参加すれば、不足を埋めることも出来るかもしれない。しかしそれでは討伐より帰還するまで警備の仕事に穴を空けてしまうでしょう。いくら有事で手が足りていないとはいえ、今いる人材だけで処理できる事態にまで強権を発動し、警備の者たちに負担を強いていては施政者として私の面目が立たないわ。けれども秋蘭の言うように、警備への出向が終わればあなたが戦場に赴くことも出てくることでしょう。それは遠いことではない。今のうちに覚悟を決めておきなさい」

「は、はいっ」

「ともかく、七日間働きづめだというのにせっかくの休みを潰してしまって悪いわね。水夏は将としては一級品なのだけれど、内政にはそれほどには強くはない。討伐に合わせて、賊徒が襲撃してこないとも限らないわ。一日とはいえ補佐があればそちらも万全となるでしょう」

「大丈夫です。街に出ておばちゃんたちに警備について聞いて回るぐらいで、他にやることもないですから」

「……はぁ。まったく、そういうところも季衣を真似ているのかしらね」

「華琳さま?」

 

 華琳のつぶやきが聞こえなかった為に拓実は聞き返したのだが、華琳には素気無く手を横に振られてしまった。わざわざ聞かせることでもないという意図のものだろう。しかしため息を吐かれるようなことなのは間違いなく、何か呆れられるようなことを言ってしまったのかと拓実は首を傾げる。

 

「まぁいいわ。それでは私が留守の間は頼んだわよ」

「任せてくださいっ! がんばります!」

 

 そんな拓実を見てもう一つ深く息を吐いた華琳は、最後に言葉をかけて玉座の間から颯爽と去っていく。拓実はそれを見送った後、守備を任されて奔走しているだろう曹仁を一刻も早く補佐すべく、私室へと着替えに走ったのだった。

 

 



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20.『許定、于禁と共に買い物するのこと』

 

 華琳らが蜂起した賊徒の討伐に向かってから一週間が過ぎていた。

 その七日の初日、拓実は曹仁の秘書を任されていたのだが、これは桂花の補佐を延長させたような仕事だった。補佐対象である曹仁の元に訪れてみれば、彼女は責任者の認可書類やら華琳が戻ってきた時のための報告書作成やらに追われ、執務室であたふた右往左往していた。どうやらやることが重なり過ぎると混乱してしまって、逆に手が止まってしまう性格であるらしい。とはいえ拓実の方で案件に優先順位を付けて順番さえ作ってやれば難なくこなせるようで、溜まっていた仕事も二人で取りかかれば夜には曹仁一人で処理できる量にまで減らすことができた。ともかく、拓実にとって久々の頭を使った仕事であったから体を酷使することもなく、それほどの苦労はなかった。久しぶりの内務の仕事にはりきっていたぐらいだ。

 残った六日は当初の予定どおり警備の仕事であった。華琳が不在だからといって直接的な影響はない筈なのだが、街はどうにも不安げに揺れていた。出動回数も平常時より増えていたように思う。とはいえこちらも許容範囲内である。いつもどおり街中をあちらこちらへと駆けては伝令役をこなして回った。

 

 戦力外通告を受け、置いていかれる形になった拓実は戦働きが出来ないことを不甲斐なく思いながら、今自分に出来る仕事を必死にこなしていた。監督していた華琳たちがいないからこそ(たゆ)まず朝から晩まで動き続けた。彼女たちがいない今だからこそ、拓実は少しでも求められている能力を身につけておきたかった。今もきっと華琳たちは黄布の賊を相手に戦っているはず。だからこそせめて次の機会には彼女の力になれるよう、自分も頑張らなくてはならないと考えていた。

 そう考えていた拓実は業務が終わった後の時間を使って、ある場所で人知れずの特訓を自身に課していた。華琳より近いうちに出陣することを告げられ、このままでは同行もできないことにようやく気づいたのだった。

 

 この時代では、主な移動手段は馬である。乗馬でも馬車でもいいが、兎にも角にも馬を制御できなければ話にならない。拓実の失念していたのはこれだった。いくつか突飛と言える特技を持つ拓実でも、流石に乗馬経験まではなかったのだ。このままではいざ出兵だ、遠征だとなっても歩兵に混じって歩きどおさなければならない。仮にも武将の身の上では行軍速度、指揮精度からいってもあってはならないことだった。

 ならばこそ、拓実はこの一週間のうちに練習してでも乗れるようにならなければならないのだが、そう簡単に済む話でもなかった。後世のような補助器具のほとんどが存在していない。(あぶみ)もないため鞍に腰を下ろして両足で馬を挟み、手綱だけで馬を操らねばならないというのは素人にはあまりに厳しい。

 また肝心の馬にしても半ば放し飼いされている為かはわからないが気性の荒い馬ばかりである。さらに馬に対してどう接していいかを拓実は知らない。厩舎にいる兵士に注意点こそ聞いたが、細かい部分は完全に手探りである。

 

「止まってってば! どうどうどうー、そうそう、落ち着いてーって、うわあ!?」

 

 情けない声と共に、逸った馬を制御しきれずに拓実は落馬した。横に体勢を崩した拓実が馬の背から転げ落ちるが、これも慣れたもの。体を捻ってなんとか受身を取った。

 

「ぎ、あぐっ……ううー!」

 

 しかし衝撃は殺しきれずに背中を打った拓実は呼吸が出来ず、草むらに転がっては悶絶して涙目になっていた。厩舎の警備を任された兵士たちが密かにその様子を伺っているのだが、拓実が落馬すると「あぁ……」と残念そうに声を上げる。しかし、痛みにそれどころではない拓実は気づかず、うめき声を上げるだけだ。

 拓実が跨っていた青鹿毛の若い馬は、落っこちてしまった拓実の頭を鼻でぐいぐい押しやるとチャイナドレスの裾をはむはむとあまがみする。最初こそ見慣れぬ姿、嗅ぎ慣れぬにおいのする拓実に警戒していたが、許定の物怖じしない態度が幸いしてか、今となっては馬たちもいたずらに不安を感じることはない。

 

「……っ、つ、続きいくよ。ごめんね、もう少し付き合ってね」

 

 じゃれついているのか、心配されているのか、ともかく拓実はそれを受けて何事もなかったようにすっくと立ち上がった。覗き込んでいる若い馬の首をさわさわと優しくさすってやる。

 馬たちにしても日中に演習で走っている。拓実に無理に付き合ってもらっているに過ぎないのだ。ならばこそ気遣われてもいられないと奮起して立ち上がったのだが、拓実の顔は強張ったまま涙目で、痛みはまだひききっていない。体はプルプルと震えている。なんのことはなく、単なるやせ我慢であった。

 

 こうして地面に転がるのは今日になってもう何度目だろうか。とりあえず片手では足りないのは確かだ。拓実も気をつけてはいるのだが、一度体勢を崩すと持ち直すことができない。激しい上下運動に馬を挟む足の力が中々長続きしない。

 だが、もう少しでコツが掴めそうなのだ。現に乗って軽く走らせるだけなら、直線のみだが何とかなっている。あとは速度。それに転回や進路方向変更に耐えられる姿勢作りである。とはいえ、上下に揺れる馬上では、それこそがなかなかに難しいのである。

 

 ともかくそんな訳で、警備での仕事を終えた後拓実は厩舎へと直行し、飼葉を与える兵がはらはらと見守る中で乗馬訓練を行っている。それは遅くまで続けられ、体力の限界まで近づくと拓実はそのまま厩舎で眠ってしまう。

 未だに満足には乗れないものの拓実がそのまま自分たちの寝床で一緒に寝てしまうものだから、長時間一緒にいる馬たちは拓実がいても緊張せずに過ごせるようになっていた。

 

 

 拓実が内股の筋肉痛やら、鞍にこすれてひりひりする腿の痛みやらでひょこひょことした変な歩き方になり、それを邪推した兵士たちの間で相手を探すための調査隊が結成された日。また、拓実が三週間に渡る警備隊での任期を終えた日。一週間の討伐を経て、華琳たちが陳留へと悠々と凱旋した。

 伝令から事前に戦果は聞いていたが、文句のつけようがないほどの快勝であった。被害は少なく、だが成果は大きい。拠点を奪取したことで、領内の黄巾の賊徒もしばらくは鳴りを潜めることだろう。加えて、村に駐屯して黄巾の賊徒に抗戦していた楽進、李典、于禁を筆頭にした大梁義勇軍が華琳に仕えることとなったようである。

 その日は戦勝祝いに街を上げての酒宴が開かれ、拓実も許定として華琳の立会いの下で楽進、李典、于禁の三人と顔合わせをした。驚くべきかこの三人もまた少女であった。そのうち李典はいつか街の視察で見かけた竹かごの物売りをしていた少女であり、面識があった拓実であるが、やはりというか李典は許定と荀攸を同一人物だとは看破できなかったようである。

 警備での仕事を無事に終えていた許定は、新たに傘下に入った義勇兵の隊長である楽進を、李典や于禁と共に補佐するよう命じられる。そしてこれから共に部隊を指揮する仲間として、拓実と三人は杯とともに真名を互いに交わし合ったのだった。

 

 

 

 いくらか慌しいものの平時の姿を取り戻した陳留に首都洛陽より勅命が下った。

 長々とした前置きを省いて要約してしまえば、黄布の賊の討伐へと赴く官軍を助け、または合流し、共に駆逐するように促す旨が書かれている。朝議の場にて華琳によって公表された要旨は至って簡潔であったが、しかしそこに含まれている意味は一つではない。

 諸侯に助力を請うということで官軍独力で討伐するだけの能力がないことを自ら露呈している側面もあったが、ともかくこれより黄布を持つ暴徒たちは正式に朝敵として定められられたのである。これにより、きな臭かったこの時勢に沈みかけていた大陸各地がにわかに活気付く。ただの暴徒の鎮圧とは違い、相手が朝敵ともなれば倒した功績によっては今まで腕っ節にしか取り柄がなかった者でも地方を任される役職に封ぜられることもある。

 

 真に大陸の平穏を求めてか、それとも富や権力を求めてかはそれぞれだろうが、この日を境にして義勇軍が各地で蜂起し、賊相手に快進撃を続け始めた。黄布の賊と関わりを持たない民からすれば、略奪者を倒す彼らは正義の徒である。その噂は英雄譚のように旅人や民を通して市井へ広まっていく。現に華琳たちが住まう陳留にも各地で活躍する領主や豪傑の名が聞こえてくる。噂の中にも拓実が知った名がいくつか出てきていた。

 

 有名どころを首都周辺より挙げていくなら、まず洛陽の東、(エン)州には曹孟徳こと華琳の名が轟いている。その北に隣接している()州には、膨大な資金力を用いて大軍を有する袁紹の存在があった。

 更にその北には幽州を治める、白馬義従で名高い公孫賛。また、その領地からは南下していくように劉と丸十字の旗を並べた義勇軍が賊を破って躍進を続けているという。

 洛陽の西部で内部の賊や外敵を押さえているのは馬一族。それによって功を立てた馬騰は洛陽へ出仕し、征西将軍の座へ。またその子である馬超の武勇も旅人からはちらほらと聞こえている。また同じく西部から官軍へと仕官した董の旗を持つ軍勢があったという。官軍の大将軍何進の下、彼らは主に洛陽の防衛を任せられているようである。

 大陸南部では江東の虎孫堅の名は久しく、袁術の配下にいるという小覇王孫策の勇名が届いていた。

 

 そうして周囲の噂話を集めて拓実がことさらに驚いたのは、孫堅が既に死去していることであった。

 孫堅とは海賊退治や黄巾党の討伐で名を上げて反董卓連合へと参加し、その半ばで没してしまう人物である。おおよそ百年に渡る三国時代では序盤で退場してしまう人物ではあるが、しかしこの存在が孫呉に与えていた影響はあまりに大きい。端的に言えば、黄巾党蜂起直後に既に不在というのは考えられない。彼の功績によって後の孫呉の土台が作られているのだ。下手をすれば一国が欠け、諸葛亮が説いていた三国鼎立どころの話ではない。

 だがそれを補うように、精力的に賊を討伐して回っているという孫策や孫権の活躍も届いている。本来ならば二人合わせて二十に届くかといった歳のはずなのだが、ここではどちらももう妙齢の女性のようである。おかしなところで均衡がとられている不思議にしばらく思い悩む拓実であったが、違和感を覚えているのが己のみという状況でこの差違の原因などわかる筈もなく、数日経ったころに考えることを放棄した。

 

 また、危うく孫堅が没していることに目がいってしまって流してしまいそうになったが、噂に聞く孫堅、孫策、孫権、袁紹、公孫賛、馬騰、馬超らはみな女性であった。

 毎回のことなので最近は目新しくもなくなっていたが、それでもやはり拓実の常識からすればこれは異常なのである。出来る限りでその規則性を調べてみたが、曹操、孫策らの有名どころを始めとして、馬騰や劉表など現代である程度の知名度を持っている人物は大抵が女性になっていることがわかった。また年齢もおおよそ十代後半から三十代ほどまでとなっており、史実では年配の者でもここではそう歳を取っていない。

 身近な例でいうならば、いずれ華琳の下に集うであろう四十を軽く超えている筈の程昱などもおそらくは年頃の少女となっているのである。旅人から伝え聞いた情報と照らし合わせても今のところ例外は見つかっていない。おそらく、この話の信憑性は低くはないだろう。

 

 いよいよもってこの世界のことがわからなくなってきた拓実であったが、それを気にしている余裕はない。現状、許定と荀攸とを比較すれば、圧倒的に荀攸が大きな働きを見せている。ようするに役割の釣り合いが取れていないのだ。

 武と智。二つを兼ね揃えている華琳だからこそ、その代役をこなすには全てにおいて一定水準以上の能力を求められる。せめて自衛を満足にこなせるだけの力量を身につけないと、本来の役割である影武者としての責務を果たすことができないのである。それを身につけるため奔走する拓実に、悠長に物事を考えているだけの時間などは存在していなかった。

 

 

 華琳にしばらくは許定として鍛錬に専念することを告げた拓実は、午前は楽進――凪の補佐をしながら兵の指導を学び、午後は春蘭や季衣、凪と共に調練。夕刻からは乗馬訓練と休む暇なく動き回っている。

 そのうち、ようやく乗馬については目処がついた。馬上槍や騎射などの片鱗は影も形もないが、とりあえず身一つでならば行軍についていくことは出来るだろう。ただその代わりというのか、桂花より書簡を渡され、華琳の筆跡を真似るようにと言いつけられてしまったので相変わらず多忙には変わりなかった。筆跡を真似終えたとしてもおそらく拓実に空白の時間などは訪れはしない。一つこなせば二つ三つ次の課題が出てくることだろう。果たして、その規模は違えど華琳とどちらが多忙なのだろうかなどと、拓実は書き取りをしながら益体もないことを考えた。

 

 

 

「……むぅ」

 

 姿見の前で拓実は首を捻る。髪の毛を持ち上げ、下ろし、両手を眺めてはまた首を捻る。姿見の中の拓実の姿は、多少日焼けし、ところどころ擦り傷がついているものの一ヶ月前と大して変わりはない。ちなみに日焼けといっても秋蘭より日焼けを抑えられる油を渡されているので、城の中に篭りがちな華琳と比べても多少健康的といった程度である。

 余談ではあるが、秋蘭は許定状態である拓実に対して異様に過保護になる。もしかしたら小さい頃の春蘭に似ているらしいということが関係しているのかもしれない。

 

 さて、それはともかく今日は久方ぶりの休日。朝廷からの要請に従い、数日後には黄巾の賊徒討伐遠征が控えている為、華琳が特別に休みを作ってくれたのだ。

 休みにされ、しかしやることがない拓実は許定の着ている白い無地のチャイナドレスに花模様でも刺繍しながらのんびり過ごそうかと思っていたところ、于禁――沙和より買い物の誘いを受けたのだった。警備隊や兵の指導など、連日の野外での仕事に前述の日焼け止めの油も切れ掛かっていたところだったので応じたのだが……。

 

「髪の毛や爪が伸びるのが遅いような……」

 

 出かける前に、爪が伸びていたので爪を切る道具を探したところ爪切りばさみが出てきた。現代ではお目にかかったことのないそれに四苦八苦していたところ、おおよそ二ヶ月に渡って爪を切っていないことを思い出したのだ。そうして注意してみれば、髪の伸びも以前に比べて遅くなっている気がする。未だに生え際がうっすら黒味を帯びている程度だ。

 よくも今まで染髪していた髪色について考えが及ばなかったものだ。このまま地毛である黒髪が生え続ければ、それは華琳の知るところになろう。そういえばと思い返せば、拓実も染髪しているということを打ち明けたことはなかった。

 これはかなりよろしくない。どうすべきか。金の髪を持つ人間から髪を買い、かつらを自作するという手もあるが、はたして事が露見する前に完成してくれるか。なれない環境によるものかはわからないが、髪の毛の伸びが異様に遅いのは拓実にとって願ってもないことである。実のところその事実に気づいた時は脂汗が止まらなかったものだ。

 

 ともかく、買い物である。衣装以外に使い道もなく、溜めていたお金を巾着に移しておく。金の髪を売っている人がいるならば買って帰らないとと心のメモに残しながら、拓実は部屋を後にした。

 

 

「へぇー。拓実ちゃんってば、元々の髪の毛の色、黒だったんだー。でも、やっぱり金髪のほうが似合ってるかもなのー」

 

 待ち合わせの城門にて、沙和は拓実が染髪していたことに大きく声を上げた。ファッションに詳しく人一倍お洒落に気を遣う彼女だから、普通の人ならば気づかない拓実の髪の生え際に気がついたのだろう。気をつけねばと思っていたところで一発で露見したことに、拓実は思わず頭を抱えていた。

 んー、と人差し指を顎に当て、沙和はこてんと首を傾げてみせる。一緒に横でまとめられた明るい茶髪のお下げが大きく揺れた。めがねの奥でぱっちり開かれた目が宙を見つめ、そのままで何度か瞬きしている。何事かを考えているのだろう。

 その様子を呆然と見ていた拓実は、ふとここが二世紀中国だということを忘れそうになっていた。スカートにキャミソール、細工の入った髪留めや指輪などお洒落にこだわりがあるのが一目でわかるだろう。戦闘する際に着用する装備はともかく沙和の普段着に関して言えば、現代日本でも辛うじて見かけそうなものである。

 

「でも染髪剤って使い心地はどうなのかなー? 阿蘇阿蘇にも載ってたけど、読者の声では髪の毛が痛むから注意って書いてあったしー」

「へ? 売ってるの?」

 

 そのままぼんやりと沙和を眺めていた拓実は、思わず呆けた顔で間の抜けた声を返してしまう。

 

「? 売ってるよー。確か、陳留だったら『壱丸級』に置いてあると思うけど……拓実ちゃんもそこで買ったんでしょ?」

「え、うん。そーだけど……」

 

 とりあえず話を合わせなければという思いで相槌を返す。沙和は不思議そうな表情を浮かべた後、会得がいったように頷いている。

 まさかまさかとは思ったが、染髪剤まで存在しているとは。あまりの出鱈目にいつもならば頭が痛くなる拓実ではあるが、この時ばかりは素直に染髪剤を開発した者に感謝した。

 

「あ、そーだよね。最近になって滅取(メッシュ)とか入れてる人も出てきたし、もしかしたら売り切れてるかもなの」

「メッシュ……」

 

 またも呆然と声を上げる拓実の頭の中では、警備隊で巡回している時のことが頭によぎった。そう言われれば、スカートやらの洋服意匠の物を身につけている女性がちらほらメッシュを入れているのを見たことがある。赤、青、黄と頭髪の色がばらばらだから生来からのものかと気にせずにいたが、メッシュに限っていえば染髪によるものだったようだ。

 

「んー、凪ちゃんも真桜ちゃんも付き合ってくれないから私も最近行ってないしー。良かったら拓実ちゃん、付き合ってくれないかなぁ?」

「うん! ボクも欲しいものあるし、一緒に行こー!」

 

 正に沙和の誘いは拓実にとって渡りに船である。飛びつかんばかりに沙和の申し出に返事を返す。『壱丸級』なる店の場所ぐらいは警備の仕事上把握していたが、店構えがあまりに女の子女の子し過ぎていて気後れしてしまい、入ったことはない。

 流石に一人で入るのは、この姿をしている拓実といえど勇気がいった。元々許定のモデルとなっている季衣がお洒落に気を使う性質ではないこともあるかもしれない。だが一緒に入ってくれる人がいれば居心地も多少良くなるだろう。

 

「やったー! それじゃ早速行くよー。今日はいっぱいいーっぱい見て回るのー!」

「おー!」

 

 にこにこと笑う沙和に、拓実はぴょんぴょんと飛び跳ねて続く。道中、阿蘇阿蘇の特集内容を話す沙和と、その内容にふんふんと頷いている拓実。話を聞いて期待を膨らませた拓実はテンションを上げていくのだが、しかしその元気が続くのも始めの二時間までだった。

 

 

 

 午前に出発して、空はもう赤く染まり始めている。出発から七時間後、城門をくぐった拓実は酷い有様であった。

 よれよれの状態で両手に荷物を抱え、拓実は行きとはうって変わって消沈していた。その隣を歩く沙和は、どうやら不完全燃焼なようで少し眉を寄せている。拓実は疲労から口数が少なくなっているが、沙和はおそらく別の意味で黙っている。

 

 あの後、『壱丸級』にたどり着いた二人はハイテンションで店内を見て回った。シンプルだが品のある店内に、小洒落た商品。若い女性客ばかりで、なかなかに盛況である。

 そのうち、アクセサリーなどの小物の区画を見て回っている時はまだよかった。お互いに似合いそうなのを探しては合わせて、似合うだの少し違うだのと話して盛り上がる。化粧品も話についていけないところがあったが、勉強にはなった。問題はその後、相変わらず何度来ても二世紀中国の品揃えとは思えない服屋である。

 まさに沙和の真骨頂といった様子であった。自分に似合う服を探すのもそうなのだろうが、それ以上に他人の服をコーディネートするのが好きなようなのである。あれこれと試着させようとする沙和から拓実は人ごみに紛れて必死で逃れ、物陰に息を殺して隠れた。

 最初こそ数着は試着して見せていたが、最終的には下着から何から着替えるように促されたのだ。服だけならまだいいのだが、下着関連まで持ち出されてしまえば拓実としては逃げるほかない。「拓実ちゃんっていっぱい食べるし動くから、すぐおっきくなっちゃうから」とは言われても、拓実が大きくなる予定などはない。あったら怖い。

 

 数時間に渡る攻防に拓実の精神はがりがりと削れていったが、とりあえず当初の予定であった染髪剤は予備を含めて複数買い込み、切れ掛かっていた日焼け止めも買い足した。予定外の出費としては、無くしがちなヘアピンをいくつかと、あとは沙和が薦めてくれた淡い感じの花の香りがする香水が一つ。

 沙和は沙和で気に入った様子の服を数着に、小物をいくつか。加えて社練(シャレン)抜具(バッグ)とやらを購入。記憶違いでなければこれらの代金だけでも拓実の給料の半分を超えている。拓実にはちょっと理解できないが、本人が満足気なのだからいいのだろう。

 買い物自体は楽しかったし色々勉強にもなった。沙和が薦めるだけあってセンスがいい店だった。また行こうとは思う。けれども今日のようなのはごめんだった。一人でならいいけれど、沙和と一緒の買い物はしばらく控えたいというのが正直なところである。服屋という場所に限り無尽蔵ともいえるバイタリティを発揮する沙和に付き合うには、英気を養ってからでなければこちらが潰されてしまう。

 

 定まらぬ足取りで城内を歩き、ようやくといった体で部屋の辺りまで着くと、少し先を歩いていた沙和がくるりと振り返った。反応の鈍くなった拓実は一拍遅れて沙和が向き返ったことに気がつき、ぼんやりとそれを見る。

 

「今日回れなかったところは、次のお休みの時に回ろうねー。本当は明日にでも行きたいけど、拓実ちゃんお休み今日で終わりみたいだし。それじゃ拓実ちゃん次のお休みにねー。今度は逃げないで服合わせに付き合ってほしいのー」

 

 ぶんぶんと笑顔で手を振り、荷物を抱えながらも元気に自室へと駆けていく沙和。対して、もはや疲労はピークで、帰ったらそのまま眠るつもりだった拓実は部屋の前で身動ぎすらできなくなった。自室に辿り着くための最後の気力は沙和のその一言で絶たれ、瞳からは光が消えていた。

 今日あれだけつきあったというのにまだ足りていないというのか。次の休みも、一日買い物で潰れてしまうのだろうか。凪や李典――真桜が、沙和との買い物をあれやこれやと理由をつけて避けているのは何故なのか、体で理解させられた拓実だった。

 

 

 



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21.『拓実、天の御遣いと邂逅するのこと』

 

 陳留を出発してからおおよそ二時間。馬に跨り引きつった顔つきで前方を睨み付けている自身の将の姿に、周囲の歩兵たちは戸惑いを隠せないでいた。

 いつも元気に話しかけてくる口は横一の字に結ばれて、楽々としていた表情はなく真剣そのもの。それでいてまったく気を緩めようとしない。そんならしからぬ態度を取って部下を動揺させるという、人を率いる立場の者としてやってはならないことを行っているのは、許定の姿をした拓実であった。

 

 遠征に向かう曹操軍。その中ほどに位置しているのが元大梁義勇軍と本隊正規兵が混在している五百の隊である。その内の百が拓実に割り振られた兵たちなのだが、その兵たちは自分たちの将である拓実についてのほとんどを知らずにいたのだった。

 凪の補佐として任官した拓実は時には兵を率いて指揮する為、真桜や沙和と同じく隊長格となっている。元より大梁義勇軍の兵たちは凪、真桜、沙和の少女に率いられていたので耐性があったが、その三人よりも尚若く見える拓実は下手をすれば幼いとも取られかねない。

 親衛隊所属の季衣の姉であり、最近までは警備隊として街を走り回っていたこと。また噂によれば曹操軍の重鎮らと懇意にしており、華琳直属の部下という立場で軍議にも呼ばれるらしいこと。反して、部隊指揮している時のともかく元気であり、物怖じせず人に話しかけては明け透けに振舞い、あちらこちらへと駆け回っている無邪気な姿と、知られていることなどはその程度である。

 腹芸をするような人柄ではなく、なのに本来関わりのなさそうな軍の中核の人物たちに重用されている少女。華琳に閨の相手として気に入られているのかと思えば、普段の初心な態度からそういった訳でもなさそうである。一週間と付き合いが浅いということもあるが、どうも周囲は許定という人物を掴みかねていた。

 それ故に今の態度がどういった心境から来ているものか、兵たちには察することができない。憶測が憶測を呼び、困惑するばかりである。拓実の周囲では今も、喧々囂々(けんけんごうごう)とした言い合いが続いている。

 

「すげぇ、馬に乗って前方を見つめたまま微動だにしてないぞ。まるでお人形さんみたいだ。はぁ……、はぁ……」

「な、なんか怖いぞ、お前」

「いやまて、そういえば許隊長は前回の討伐、参加していないらしいじゃないか。初陣に緊張しているんだろう。ならば今こそ俺の名を印象付ける絶好の機会! 安心してください! 許隊長はこの俺、王忠が我が身に代えてでもお守りしますから!」

「てめえばかりにいい格好させるかってんだ! 隊長! 俺、すげぇ頑張ります! だから、敵将討ち取れたら食事付き合ってください!」

「おまえこそどさくさに紛れて何ほざいてんだコラァ!!」

「いやいや、隊長は空腹になると機嫌が悪くなるからな。昼前だがもうお腹が減っているのかもしれない。おーい誰か、食べ物持ち込んでるやつはいないかー。今なら隊長に貢げるぞー」

「俺、生の豆腐なら持ってる」

「なんで遠征に生の豆腐を……」

「こんなこともあろうかと昨日のうちに隊長の好きなお菓子を買っておいたぜ! 抜かりはない!」

「くくく……(それは自己紹介の時の話だろうに。最近はこの揚げ饅頭がお気に入りだってのにな!)」

 

 ……といった具合に、ともかく、兵たちには判断がつかないでいたのである。ちなみに当事者の拓実は周囲の喧騒に耳を貸すだけの余裕もないらしく、馬の背で固まり、前方を見つめたままである。

 実際のところ拓実は初陣となるこの遠征に参加したためにがちがちになっているわけでも、お腹が減って不機嫌になっている訳でもなかった。もちろん初の実戦に緊張している部分もあるが、それよりも初の長時間の乗馬に、落ちないよう、慌てないよう必死に集中して馬を制御しているのだ。この一週間、華琳の筆跡を真似ながらも暇を見つけては乗馬訓練は続けていた。しかし今回は途中で休憩を挟むとはいえ目的地まで一日ほどは乗り続けなければならないのだ。

 初めての部下たちの手前、何もない平坦な道で無様に落馬するわけにはいかない。元よりないだろう自身の威厳を、更にマイナスにまで落としたくはない。立ち振る舞いばかりを気にするのもどうかと思うけれども、初の部隊指揮なのだからしっかり隊長をやりたいとも思う。

 ただ、こんなに気負っていては数時間ともたないことは本人も薄々気づいている。それでも、初めてのことで体が強張ってしまうのはどうしようもないのだ。拓実はいっそ、この時点で馬を下りて歩いたほうがよかっただろう。この意地のような頑張りが、余計に情けない結果を生み出すことになるのである。

 

 それから僅か一時間後、拓実は一度目の休憩を待たずして音を上げていた。案の定というか、全身に無駄な力が入りすぎていた為に疲弊してしまったのだった。

 しかも体が硬直してしまい、一人では降りるに降りられぬこの状況。拓実はすぐ側の兵に体を抱え上げてもらって密かに下馬したのだが、もちろんそれが見つからぬ筈もなく、周囲からは心配そうに気遣う声が投げかけられる。

 対して「じっとしたまま動けないのが面白くない」「降ろしてもらったのは足が届かないから」といった言い訳を部下たちにしていたが、果たしてそれをどれだけが信じていることか。実際、何人かには笑われてしまっている。ただ、見下したようなものとは違って、微笑ましく見守られているのがまだ救いだろうか。

 ともかく今は馬から下り、手綱を引いて歩兵たちと一緒に歩いていた。疲労は残っているものの、周囲との会話で過度の緊張は取れ、強張っていた顔も今は笑顔が浮かぶこともある。

 

 

 途中で何度かの休息を取り、日が暮れ始めたころ。今回は特別に急ぎというわけでもないために余力を残して進んでいた一行は、ようやく州境に差し掛かった。拓実はそれまで馬に乗ったり、降りて歩いたりを繰り返していたが、今はまた馬に乗っている。流石に力の抜き方を思い出したのか、騎乗していてもリラックスした様子である。

 

 さて、これから入るのは、華琳治める(エン)州の北部に位置する、袁紹治める()州の地である。

 各地からの報告によると暴れていた黄布の賊徒たちが続々と冀州に集まりつつあるらしい。一週間前の討伐で敗れた(エン)州の黄布の賊徒たちも散り散りに逃げ延びた後、場所を変え再集結しているようだ。今までにない規模の集団となるのは想像に難くない上、その領地を守る袁紹は各地で頻発している賊らの対処に追われて対応が後手に回っているとのことである。

 冀州は首都洛陽からそう離れた土地ではない。このまま数が膨れ上がれば、暴走し洛陽まで攻め入ってくることも考えられる。近年大将軍へ昇進したらしい何進もその報告を聞いてあまりの賊の数の多さに危機感を覚えたようで、いくつかの周辺諸侯に討伐隊を組ませて冀州へと向かわせている。最近の活躍目覚しく、何進との面識がある華琳にもまた声がかかり、その繋がりから今回参陣することとなったのだった。

 

 既に冀州では幾度か黄布軍との戦端が開かれているようである。数が数だけに追い払うだけに留まり、そうしているうちに日に日にその規模が大きくなっているとの報告が入っている。

 その情報を手に入れておいて、馬鹿正直に言われたままの戦をする華琳ではない。事前に桂花に黄布の賊の拠点を調べさせ、主戦場には向かわずに拠点を叩いて回る方針を採ったのである。

 

 

 無事に冀州へ入った後、数里を進むと完全に日が暮れた。そこで陣を張って夜を明かし、明朝の本陣。黄布の賊徒の拠点制圧に当たり、各将が本陣へと集められていたのだが、そこに細作より前方数里のところで戦闘中との情報が届いた。

 勅命の為に、場合によっては援軍として詰めねばならないと目視できる地点まで接近した全軍は、そこで停止した。手助けの必要がないとわかったからだ。

 見れば、窪地にて接敵数を絞って、出てきた小数を各個撃破。黄布一人に対して、二人三人で当たれば例え兵の質が劣っていたとしても負けはないだろう。戦闘している軍の装備は貧相なものだが、所詮農民上がりの黄布の賊相手であればそれも勝る。数の上では同程度であるが、戦況は圧倒的である。

 

「さて、どうやら私たちの他にも少しは頭が回る者がいるようね……」

 

 目前の戦闘を眺めて呟く華琳。その横で、簡易卓上に地図を広げた桂花が口を開く。

 

「はい。主戦場を離れてこの深い位置で軍を動かすのは、敵方の兵站の妨害意図を持ち、また糧食が納められている拠点位置をある程度把握していなければありえないことです。また彼の軍の理に適った兵の配置を考えるに、軍略を修めた者が彼の軍に参加していることが伺えます。死体、足跡の続きから見て、あちらの討伐軍が干上がった川の跡に賊らを誘い込んだと見るべきかと」

「そうね……見るところ、黄布の賊らよりも率いている兵はやや少ない。いえ、この戦況を見るに当初は二分の一ほどの兵数というところか」

 

 華琳の言葉に、拓実は同意を示すようにこくこくと頷いた。確かに、まさに破竹の勢いで賊徒を殲滅していく様を見れば、戦端を開いた際は今以上に兵数差があっただろうことが拓実にもわかる。

 

「しかし、いかんせん鎧にしても武器にしても装備が貧弱。どうやら義勇軍のようですな。まぁ、我らの足元にも及ばずながら統率は取れているようなので、錬度は義勇兵にしてはそう悪くはないようですが」

「いや、姉者よ。ここはその装備と錬度を以って二倍を超える敵を打ち払ったところを見るべきではないか。おそらくは、よほどの智謀の士がついているのだろう」

 

 からからと笑う春蘭。義勇軍を見くびる彼女に声をかけたのは華琳の側で控えている秋蘭だ。

 

「ふむ……だとするならばこのような寡兵を率いさせるだけではせっかくの才を腐らせておくようなものね」

 

 出てきた意見を一通り聞いた華琳は口の端を吊り上げた。隠し切れない愉悦の色。拓実が何度となく見た、才あるものを見つけたときに浮かぶ笑みである。

 

「誰か! 至急、前方の軍の旗印を確認なさい。加えて、もうすぐ戦闘が終わるでしょうから、中央からの派兵とでも伝えて相手方の盟主に面会を申し出るように」

「はっ!」

 

 華琳に言いつけられた伝令兵が礼を取り、陣外へと駆けて行く。姿が見えなくなる前に、華琳は立ち上がる。

 

「それではあちらの陣へ向かうわよ。春蘭、秋蘭、それに桂花。あとはそうね……拓実、ついてきなさい。残った将は兵に小休止を与えなさい。戻ってきたら進軍を開始するから、気は緩めないようにと言い伝えること」

『はっ』

「は、はいっ」

 

 面会の是非が返るどころか伝令兵が発ったばかりである。返答があるまでは休憩かと気を緩めかけていた拓実は慌てて気を入れ直し、率先して退陣していく華琳の後ろに夏侯姉妹、桂花と共に続いた。

 

 

 華琳たちの馬の用意が終わる頃には戦闘も終わったようである。どうやら『劉』の旗を持つ軍勢は敵を蹴散らし、黄布の賊徒が敷いていた陣地に乗り込んだらしい。そこに向かって、夏侯姉妹を先頭に馬を歩かせる。

 大陸は土地が広大な為か、見渡す限りの平原が続いている。拓実たちが向かっている劉軍の陣営地はまだ遠いが、戦後の処理を考えれば丁度あちら方が落ち着いた頃に到着するだろう。

 

「拓実」

「あ、はいっ。なんですか、華琳さま?」

 

 己の武を振るえる機会が嬉しいのか、なんだかんだと上機嫌に秋蘭に話し掛ける春蘭の姿を前方に、華琳が囁くように拓実の名を呼んだ。わざわざ声を抑えたということはあまり周囲に聞かせる話でもないのだろう、拓実はぎこちなく手綱を引いて、華琳の横に並んだ。

 

「……いい機会だから話しておきましょうか。あなたも知っている通り、私は才ある者に執着する気質を持っているらしいわ」

「はぁ……」

 

 華琳は「拓実もその一人だものね」と続けて、くすりと微笑む。いきなり何の話なのか、拓実はきょとんとした顔で僅かに首を傾げて見せた。

 

「これから会う人物も、この私が欲するほどの才を持つならば、あわよくば楽進らのように我らの傘下に加えようと考えているわ。けれど、私と異なる思想を持っていればそれも叶わないでしょう。それは我らの覇道と重ならぬ天命であるのだから、致し方のないこと。そうでしょう?」

 

 いきなり自身の思惑を話し始めた華琳。拓実は問いかけられて、戸惑いながらもこくり、と一つ頷く。それを見た華琳は満足そうに目を細め、更に言葉を紡ぎ始める。

 

「そうなっては、私としてはそれ以上どうしようもないわ。余程の才であるなら執着することもあるでしょうけど、どれだけ欲しても私に下ろうとしない者がいるのはどうしようもない。けれども拓実、あなたに限って言えばそれは関係がない。あなたの最大の武器は他人になりきってしまえる演技力であり、その大本となっているのは、短期間で相手の思考の組み立てを読み取れるほどの心理把握術。相手が望む望まないに関わらず、相手を自分のものにしてしまえる」

「え? えっと」

「これから各地で転戦する私たちは、多くの豪傑と会うことになるでしょう。また、様々な賢人と弁を交わす場が出て来るようになる。拓実、あなたは今後会うことになるそれらの人物、その全てを観察なさい。そして、出来る限り思想や考え方、性格を自身に写し取るのよ。様々な考え方や性格、性質を収集しておけば、それは後々私たちの――そして何よりあなたの力となる筈よ」

「は、はい。あ、それじゃ今回ボクを連れてきたのも……」

「そういうことね」

 

 拓実の顔にはようやく理解の色が浮かんだ。今しがたまで、明らかに自身より腕が立つ季衣や凪を陣に残して、わざわざ拓実を連れてきた理由がわからなかったのだ。

 

「まぁ、それが十二分に役に立つ場面は、その人物が敵方に回ってしまった場合でしょうけれどもね」

 

 そんな疑問に対する答えを得られた喜びからか、拓実は続く華琳の呟きを聞き逃してしまう。

 

「……? あ、ごめんなさい華琳さま。ちょっと聞き逃しちゃいました」

「大したことではないわ。それより、もう着くわよ。ついてきなさい」

 

 華琳は馬の腹を蹴った。華琳の愛馬である絶影は嘶き、地を高らかに駆ける。戸惑う拓実を置いた華琳は春蘭や秋蘭を引きつれて、劉と十文字の旗が並び掲げられた陣に馬を走らせた。

 

 

 面会を求めて訪れていた伝令兵と近衛に馬を預け、華琳はまるでここが自陣であるかのように颯爽と歩みを進めていく。そんな彼女を護らんと春蘭と秋蘭は周囲を警戒し、睨み付けている。拓実は華琳の後ろを護るようにと春蘭に命じられていたが、前二人の威圧に萎縮する兵を見れば過度に警戒する必要は覚えなかった。

 陣にはもちろん劉軍の見張りの兵がいるのだが、華琳の覇王としての風格、また春蘭や秋蘭に威圧されて制止もままならず、その声も尻つぼみになってしまう。普段護衛している親衛隊ですら華琳の前では緊張に固まってしまうのだから、農民上がりの義勇兵では仕方がないといえるのかもしれない。

 

 華琳は結局一度も立ち止まることなく、またその道を塞がれることなく劉軍の本陣へと辿り着いた。どうやらその本陣では先ほど華琳から発された面会要請についてを話していたらしく、面会許可を言いつけられた兵がこちらへと駆けようとしている所である。そして、内部での話はその相手である曹操がどういった人物であるかへと移り変わっていた。

 

「能力、器量、兵力、そして財力。また、有能な人材も集まっていると聞きます。今この大陸の諸侯の中で誰よりも、必要なものの多くを揃えている人かもしれません」

「ほわぁ、なにその完璧超人さん」

 

 立ち聞きをするつもりはなかったが、中の会話が聞こえてきてしまった。しかし、やはり華琳の名は大陸に広まっているらしく、聞こえてくる声のほとんどはその能力や人柄を称えるものだ。拓実は自身が褒められたわけでもないのに、内心で誇らしい気持ちになっていた。

 

「そうですね、他にわかっていることといえば、自身にも他者にも、誇りを求めるということ」

「誇りかぁ。その曹操さんの誇りってどういう?」

 

 自身の噂をしているというのに華琳は足を止めず、入陣していく。見れば、そこには少女ばかり。桃色の髪の少女が思わず聞き返しただろうその疑問に、華琳は笑みを浮かべた。

 

「誇りとは、天へと示す己の存在意義。人は何かをなす為にこの世に生を受ける、大小はあれど己に課せられたそれを見定めることができるのかどうか。それが出来ぬ者など、いくら能力を持っていようが人間としては下も下。愚昧もいいところ。そのような者は我が覇道には必要がない、ということよ」

「誰だ貴様は!?」

 

 進み出る華琳に、艶やかな黒髪の女性が偃月刀を構え、華琳から桃色の髪の少女を庇う様に立ちふさがる。

 

「控えろ下郎! この御方こそ我らが盟主、曹孟徳さまであられるぞ!」

 

 この陣にて初めて現れた華琳の進む道を防ぐ者に、春蘭が一喝する。しかしそれにひるむ様子はない。

 びりびりと場の空気がせめぎ合う。この威圧にも一歩も退かぬこの黒髪の女性は、春蘭に匹敵するほどの武芸者なのだろう。

 

「い、今呼びに行ってもらったばっかりなのに、もう?」

「会うとわかっている相手の判断を待つこともないでしょう。寡兵を率いてあれほどの采配を振るえる者が、付近にいた我らを捕捉していない筈もないでしょうしね。そんな目端が利く者が、官軍を名乗る大軍の面会要請を退ける愚は犯すまいと思っただけよ」

「はぁ……」

「さて、それでは改めて名乗らせていただきましょうか。我が名は曹操。現在は官軍の要請で黄布の賊徒を相手に転戦している者よ」

「あ、こんにちは。私は劉備っていいます。私たちも黄巾党がここ冀州に集まっているって聞いて、何かの力になれればと思って」

 

 その自己紹介に、拓実はまじまじと名乗った少女を見つめていた。桃色の髪。温和そうな顔つき。人がよさそうな、そしてやや抜けていそうな話し振り。先の華琳の言葉もあり、癖一つ見逃さないつもりで観察している。

 劉備――多少歴史を習っていれば、今更説明するまでもないだろう有名人だ。曹操が三国志の主役の一人だとすれば、劉備の役割もまた主役。何せ、後に魏の曹操や呉の孫権を相手に、大陸の覇権を争う蜀の皇帝である。そして、拓実にとっても最大の敵といっていい。華琳の下で大陸統一を目指す拓実にとっては、大きな壁である。果たしてこの歴史とは違う世界であっても劉備と争うことになるかはわからないが、その可能性はかなり大きいだろう。

 

「そう、劉備……いい名ね。ところでその黄巾党というのは?」

「あの、それはご主人様が……」

「ご主人様?」

「それ、俺のこと。北郷一刀っていうんだ。よろしく。あいつら、揃ったように黄色の布を巻いているから黄巾党って呼んでいるんだ。何らかの呼称は必要だと思ってさ」

 

 劉備を密かに注視していた拓実は、そこで初めてぽつんと一人、異様な風体の男が混ざっていたことに気がつく。

 こげ茶の長めの髪に170半ばから後半ぐらいの身長。一見して華奢な優男に見えるが、そこそこ鍛えられている様子はある。これだけならば凡庸な男だが、何より目を惹くのがその衣服だ。陽光を反射して輝く、化学繊維で出来た生地。この世界ではお目にかかったのことのない、そして数ヶ月前までは拓実も着用していた、聖フランチェスカの男子学生服を着ていたのだ。

 あまりの驚きに、拓実は声も出せず口をぱくぱくとさせていた。呆然と一刀と名乗った青年を見つめることしか出来ない。

 

「北郷一刀……どこかで聞いた名ね。確か天の御遣いが現れたとかいう与太話があったけど、その者の名だったかしら」

 

 握手するつもりで伸ばした手が華琳に無視され、一刀はばつが悪そうな顔で手を戻した。

 

「いや、証拠もなにもないからさ。『天の御遣い』が本物だって言い張る気は俺にはないよ。えーっと、それより、そこの女の子は大丈夫なのか? なんか顔色が悪いみたいだけど」

「――拓実? どうしたというの?」

 

 顔を真っ青にしているのに気づいたか、一刀と呼ばれた青年は心配そうに拓実を伺う。そこで華琳も拓実の異様な様子に気づいたらしく、僅かに眉根を寄せて拓実へと声をかけた。

 

「もしかして、先輩、なの?」

 

 それらに、思わずといった風に拓実は思考を言葉にして漏らしてしまう。

 そう、確かにこの服は聖フランチェスカの制服。こんなもの、見間違えようもない。北郷一刀という名に聞き覚えも、その顔に見覚えもなかったが、周囲から若干浮いた様子、そして彼の名の付けられ方は日本のそれに酷似している。

 元の世界で行方不明になった二年の男子生徒がいたという話を聞いたことがある。当時は特に気に留めたことはなかったが、まさか拓実と同じくこの世界に飛ばされてしまっていたのだろうか。だとするなら、彼は拓実と同郷の人間である。もしかしたら、これは現代日本へ帰る重大な手がかりなのではないのか?

 

「先輩って? えっと……?」

「な、なんでもないから! 忘れて!」

「ああ、うん。まぁいいけど……。あ、曹孟徳さん聞いていいかな? この子はいったい?」

「……彼女は許定。我が軍の武官の一人よ。そうね、ついでだから紹介しておきましょうか。この二人が我が最愛の従姉妹である夏侯惇に夏侯淵。そしてこの子が我が軍の軍師、荀彧よ」

「夏侯惇に夏侯淵。そして、荀彧。そこに、許定だって? 有名どころなら許緒じゃないのか……?」

「……っ!」

 

 呆然と呟いた一刀の言葉に、拓実は彼が同郷であることに確信を持つに至った。

 名を受けた拓実だって、史実の許定が何を成した人なのかを知らない。そもそも許定という武将が史実でいたのかも拓実にはわからない。ともかく、知名度で言うなら圧倒的に許緒のほうが上なのだ。

 だが、それは現代での話。季衣の強さは本物だが、まだ何かしらの逸話を残したわけではない。そういう意味では許緒も許定も、名の通りとしては大した違いはない筈なのである。

 

「む? 何故貴様が、親衛隊にいる季衣の奴を知っているのだ?」

 

 同じことに気づいたか、春蘭が訝しげに声を上げる。

 

「――え、あ。ああ。いや、その、怪力ってことで名高いじゃないですか。許緒さんって」

 

 そんな疑問の声に、一刀は慌てて春蘭に向き直り、言葉を返した。「ほぉ、なるほどな。あれも名が知られるようになったか」などと納得した風な春蘭に胸を撫で下ろしている一刀であるが、そんな様子を観察している華琳には気づかない。

 

「そう……あながち、天の御遣いというのも間違いじゃないのかしらね」

 

 小さく呟かれた華琳の言葉を聞き届けたのは、おそらく拓実だけだっただろう。一刀の発言から、華琳はかなり深いところまでその知識の異様さを見抜いているに違いない。

 親衛隊の一員で、せいぜい領内の賊鎮圧しかしていない季衣を知る――知られる筈のないものを知っているという事実。確かに季衣のうでっぷしを見れば遠くない未来に一角の武将となる予測はつくだろうが、現時点でそれを『知って』いるのでは順序があべこべだろう。

 そんな様子に気づかず、一仕事やり終えたような顔をした一刀は華琳へと向き直っている。その時にはもう華琳の表情は先ほどまでの思案の様子を欠片も見せない、普段のすましたものに戻っていた。

 

「ところで、曹孟徳さんは俺たちにどんな用だったんだ?」

「この軍を率いていた者といくつか言を交わしにね。その戦略意図といい、ここを戦場に選んだことといい、兵の運用といいその働きは悪いものではなかったわ。それで、主と呼ばせているということは、あなたが統率者ということでいいのかしら?」

 

 問われ、間を置かずに一刀は首を横に振る。

 

「いや。俺はあくまで『天の御遣いが貧窮した民を救う為に立ち上がった』っていう風評を得るための御輿だよ。桃香――劉備たちの考えに賛同して協力はしてるけどさ。ある日突然この世界……皆が言うところの天の国からこの大陸に来てしまっただけの俺には、曹操さんや劉備みたいな立派な主義や主張はないさ。もちろん劉備たちの理想に共感して、力にはなりたいと思っているのは本心からだけど」

 

 華琳が関心を持ったように笑んだ傍ら、拓実はそれとは対照的にその発言を聞いて肩を落としている。

 どうやら一刀もまた突然この大陸に放り込まれ、劉備に用いられてこの時まで生き抜いてきたらしい。しかしどうやら何故この世界に飛ばされてしまったのか、その原因となるものはわかってはいないのだろう。あわよくば現状把握が一歩進むかもしれないと考えていた拓実の落胆は小さくなかった。

 

「そう、やはり本当に兵を率いていたのは劉備ということ。問いましょう。劉備、あなたはこの混沌とした大陸に何を求めているのかを」

 

 問いかけられ、劉備の顔が引き締まる。華琳の様子から不誠実に答えていいものではないと察したようだ。

 

「私は、みんなが苦しまず、笑顔で過ごせる平和な世にしたい。その為に、私たちは戦っています」

「それがあなたの理想なのね」

「はいっ、誰にも負けません!」

「そう」

 

 言って、華琳はしばらく口を閉じた。劉備の発言を吟味するように目を瞑り、数秒。

 

「……なればこそ劉備、私たちに協力なさい。その理想を実現させるには、今のあなたたちでは力が足りていない。我ら単独でも鎮圧は可能だけれど、あなたたちが助力すれば乱を治めるのはより短期間で済む。それはあなたたちにとっても望むところでしょう?」

「あ、う。でも……」

 

 思わず返事をしてしまいそうになったところで踏みとどまり、劉備は一刀を見た。不安げに、どこか縋るように見つめられた一刀はこくりと頷く。

 

「ここは受けよう、桃香。俺たちだけじゃ力が足りないのは確かなんだ。こうしている間にも誰かが犠牲になっているのに、形振りなんて構ってちゃいけないと思う」

「……うん、そうだよね! 曹操さん、私たちでよければ協力させてもらいます」

 

 一刀の賛同を得られて途端に明るくなった劉備の返答に、華琳はにっこりと笑った。

 

「では、協力して事に当たるということでいいわね? 共同作戦については軍師を遣わせましょう。とりあえずは事前に予定していた攻略拠点があるから、まずそこへ向かうわ。劉備、あなたたちは私たちに続きなさい」

 

 話は終わったとばかりに背を向ける華琳。その行動と指示の早さに、一拍遅れて周囲が動き出した。

 

「桂花、劉備とのやり取りはあなたに任せるわね。秋蘭はすぐに本隊に進軍するよう伝令を飛ばしなさい」

「はいっ」

「はっ!」

 

 桂花は何人かの兵を連れて劉備軍の陣に引き返し、秋蘭は陣外へと駆けていった。

 

「私たちは本陣へ戻るわよ。春蘭、先導なさい。拓実は遅れずについてくること」

「お任せください、華琳さま!」

「わかりました!」

 

 拓実は出来ることなら一刀と二人きりで話したかったのだが、頭を振ってその誘惑を振り切る。

 彼と話すことはいくらでもあった。突然戦乱の世に落とされた不安や、今後の展望、歴史との違いに対する疑問など、拓実のぐちゃぐちゃな気持ちを本当に理解してくれるのはきっと北郷一刀しかいないのだ。同じ境遇の人間がいないのなら誰にも語ることなく心のうちに秘めておいただろう。けれど、いるとわかってしまえば湧き上がってくる気持ちを無視できそうにはない。

 しかし、それはきっと今すべきことではない。共同戦線を張るのならいずれ落ち着いて言葉を交わす機会もある筈だ。思い直した拓実は疼く胸を手で押さえて最後に振り返り、一際目立つ青年を見つめる。いつかあるだろう語り合いを想い、期待で顔が上気していた。名残惜しそうに目線を切って物憂げにため息をついた後、颯爽と歩いていく華琳に遅れないよう拓実はその背中を追いかけていく。

 

 そんな拓実のことを、偃月刀を握る黒髪の女性が焦った顔で見つめていた。

 

 



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22.『拓実、初陣を飾るのこと』

 

 林の中を緑色の鎧を纏った一団が進む。極力音を立てず、そして木々を揺らさずに兵たちが歩いていく。彼らが目指す先には、黄色の布を体のどこかしらに巻いた集団――黄巾党が無防備な姿を晒していた。

 

「どうやらまだ私たちに気づいていないようだね。朱里ちゃん」

「そうだね、雛里ちゃん。簡略ながら指揮系統を作っているようだけれど、結局は農民や盗賊の集まりだから。見張り兵を立たせるだけで、曹操さんたちや私たちのように周囲に細作を放ってもいないみたい」

「それじゃみんな、このまま静かに進んでねー! 大きな声とか出すと黄巾党の人たちに気づかれちゃうからねー!」

「桃香様! あなたが大声を上げてどうするのですか!」

「にゃはは、そーいう愛紗も声がおっきいのだ」

 

 人目に惹く聖フランチェスカの制服を着込んだ青年、北郷一刀の隣からは少女たちの声が聞こえている。会話を続ける彼女たちを眺め、一刀は笑みを浮かべながら兵と共に進んでいた。

 

 柔らかい桃色の髪、暖かな雰囲気が見る者に安らぎを与える劉備、真名を桃香。

 青龍偃月刀を肩に担ぎ、美しい黒髪をなびかせている関羽、真名を愛紗。

 デフォルメされた虎の髪飾りをつけ、無邪気な笑顔で丈八蛇矛(じょうはちだぼう)を軽々振り回す張飛、真名を鈴々。

 周囲の行軍に遅れないように小さな体を一生懸命に動かして小走りしている諸葛亮、真名を朱里。

 そんな諸葛亮にくっついて離れず、大きな魔女帽子で顔を隠そうとする鳳統、真名を雛里。

 そのいずれもがうら若い少女の姿。一刀にとっては見慣れたものとなっているが、彼女たちに初めて会った時は同名の人物像が頭にあったためにいったい何の冗談かと思ったものだ。

 未来では偉人となり、多くの人物の知るところになっている彼女たちを横に、一刀は半日ほど前のことを思い返した。こうして考えるのは何度目だろうか。今日一日にも渡って考えていたのは、共同戦線を組むことになった曹操軍について――ひいてはこの世界についてだった。

 

 英雄たちが女の子になっているというこのおかしな三国時代。一刀がこの時代に来てからもう数ヶ月が過ぎている。今こそこうして少ないながらも兵を率いることができているが、当初は劉備、関羽、張飛との四人での旅だった。

 天下大平の志を掲げてからこれまでの数ヶ月、一刀にしてもただ平穏に暮らしていたわけではない。近隣で悪行を働く賊を討っては日銭を稼ぎ、しかしそれでも一日の食事に困ることもあった。飢饉や蝗害(こうがい)などで安定して食糧を賄えない為に、町や村には餓死者も珍しくない。

 追剥にあったか街道を少し外れれば道に人骨が落ちていることもある。実際、一刀たちが野盗や追剥に襲われたことも一度や二度ではない。この時代では毎日を生きていくだけで必死だった。劉備たちに拾われなければ、きっとどこかで野垂れ死にしていたことだろう。

 

 人を助ける為に人を殺し、人の死に触れ、悩み、そして一刀はここに立っている。これまでの日本での生活がどれだけ恵まれた環境だったのか、それこそ身に染みて感じている。けれども同時に、自分が『生きている』ということを実感できたのはこの時代に来てからかもしれないとも考えていた。

 どうしたら劉備たちの力になれるのか、どうすれば困っている人が助けられるのか。より良い方法を考えて、朝から晩まで動いて回って、動けなくなるまで頑張って。そうして喜んでくれる人がいる。こんなに必死に『生きたい』と思えたのは、今まで生きてきてなかったことだった。

 ――「人は何かをなす為にこの世に生を受ける、その大小はあれど、それを見定めることができるのかどうか……」

 これは先ほどの曹操の言。これを耳にした時、幼い頃より言い聞かされていた言葉が一刀の脳裏には浮かんでいた。

 ――「世に生を得るは事を為すにあり」

 それは、一刀の祖父の言葉。剣の師匠でもあった祖父。その祖父が幾度か口にしていた教え。言葉が意味するところは曹操のモノと同じである。

 一刀は祖父に剣だけではなく、生き方を教わってきた。何かに迷った時、自分を奮い立たせる時、一刀は祖父の教えを思い返す。この世に生を受けた意味。そして、この世界に来てしまった意味。

 何の因果かはわからないが、一刀は桃香たちと出会った。きっとこの出会いにも意味があるはずだ。一刀はそれを、彼女たちを助けて弱きを護ることだと見出している。そこに迷いや望郷の念がないかと問われれば一刀は否と答えるだろう。だがそれでも一刀は、この時代で生きていこうと考えている。

 

 しかしいざ助けるといっても、一学生でしかなかった一刀に何が出来るのか。剣道を習い、現代では結構な実力を持っていたとはいえ、この世界では一刀自身の武力はせいぜい兵士に勝る程度のもの。この世界にはない優れた政策を知っていても、勢力とも呼べない現時点では活用できるものはいくつもない。そんな一刀が活用できている数少ないアドヴァンテージが『三国志の知識』であった。

 現代で英雄と称される何人かの人物たちと一刀は邂逅している。桃香ら義姉妹を始め、公孫賛や趙雲、朱里、雛里。さらに有名所というくくりでは曹操や荀彧、夏侯惇や夏侯淵。どういったことか、それら全てが女性だった。だが自軍で言うところの田豫(でんよ)簡雍(かんよう)といった、三国志や三国時代の史書に記述されていても現代ではあまり知られていない人物は史実の通り男性である。

 武将や軍師が加入する時系列がばらばらだったりと未だわからぬことばかりのこの世界においては、『現代で一定以上の知名度がある人物は女性になっている』。これは一刀が薄々気づいていたこの世界の法則である。

 覚えのある名で()つ女性の武官や文官であれば、その者が有能であること、また能力のある程度を計ること、これから何を為すのかをおおまかに知ることが出来る。逆に男性ならば例えその経歴などを知らずとも、史書に大々的に載るほどには功を為さないとの目安が立てられる。これを過信してはならないだろうが、この法則は上に立ち人を使う立場としては他の誰より優れる一刀の『人物眼』となっていた。

 

 そこに今回例外が現れた。背丈は桃香よりも低く、丁度曹操ほどの小柄な体躯には赤い糸で花が刺繍された白のチャイナドレス。下は活発な印象を与える黒のキュロットスカート。金の髪を後ろに流して、手には木製のトンファーと腰に細剣を佩いた、おそらく一刀よりも三つは年下だろう少女。曹操軍にいた武官の少女、許定である。

 聞けば年若くしてすでに兵を任される役職に就いているようである。劉備軍にだって女性兵がいないわけでもないが、部隊の指揮を執れるほどとなるとそれこそ愛紗や鈴々、朱里や雛里。あとは直前に加わった徐庶ぐらいのものだ。そしてそれ以外に任せられるだけの能力を持つ者は、先ほど挙げた田豫や簡雍などの男性になってしまう。英雄が女性となっているこの世界ではある程度女性にも武への門戸が開かれているとはいえ、一般的には女性より男性の方が戦いに優れている点は変わっていない。

 この世界において許定は女性でありながら武将を任せられている――つまりは英雄らと肩を並べるだけの実力を持っているということになる。加えて後世で有名な許緒を差し置き、最愛と公言していた従姉妹の夏侯惇・夏侯淵に、己が子房とまで才を評価する荀彧らと混じって同行させるのだから、曹操は特別に許定を重用しているのかもしれない。

 しかし、そんな彼女の名に一刀は見覚えがまったくなかった。小説はもちろん、史書ではスポットがほとんど当たらない人物でも登場する、三国志を舞台にした戦略ゲームなどでも見た覚えがない。今後おそらく敵対することになるだろうそんな彼女の情報を、比較的三国志に詳しい一刀でさえも一切知らないのである。その事実は一刀に小さな不安、そしてしこりのような疑念をもたらしていた。

 

 また、一刀は何となくだが、彼女のことだけが妙に気にかかっている。そもそも、本来なら先述したことなども特別に気にするほどの差違ではなかったろう。同行していたのは単なる人数合わせで、たまたま一刀が注目してしまっただけかもしれない。許定なる人物が史実でも女性だっただけかもしれない。多少首を傾げてしまうことはあれど、思い悩むほどのことではない筈だった。

 だというのにこんなにも許定のことを真剣に考えてしまうのは、一刀が彼女の雰囲気の中に妙な親しみを覚えているからだ。他の者からは感じられないこの違和が、興味からくるものなのか、無意識下からの警戒からくるものなのか、そのどれとも違うのかもわかっていない。どこがどうとは説明はつけられないのだが、ともかく彼女のことが一目見たときから気になっていたのである。

 そんなおかしな気がかりを彼女に覚える一刀だったが、思い悩んで答えが出るわけでもないと頭を振った。今はそれよりも身近に迫った問題がある。答えがでるかもわからないことを考えるのはそれが解決してからでもいいだろう。

 

 ともかく、その許定を含む曹操軍との邂逅からもう半日が経っている。進路途上の村で義勇兵を募り、また曹操軍の補充兵を加えて数を増した劉備軍は現在、行軍しながら作戦内容についての最終確認を行っているところである。曹操軍・劉備軍による共同戦線の攻略目標、黄巾党の拠点はもう目と鼻の先にある。兵の準備は終えられ、後は曹操軍から伝令が届くのを待つだけだった。

 

「えっと、話を戻しますね。このまま林の中を進み、気づかれないように敵軍へ接近します。その後は曹操軍の陽動部隊の攻撃に合わせて、愛紗さん、鈴々ちゃんは兵を率いて吶喊(とっかん)し、敵軍を左右に押し広げてください。一当てして怯んだところに私と桃香様の率いる二陣をぶつけます。愛紗さん、鈴々ちゃんは突撃する本隊に合流して左右からの攻撃に備えてください。その間、ご主人様と雛里ちゃんは後方で周囲の警戒をお願いします」

「おー! 鈴々にお任せなのだ!」

「……ああ。そうだな」

 

 元気に矛を掲げてみせる鈴々に対し、どこか気もそぞろに立ち尽くす愛紗。そんな様子の彼女を前に、劉備軍の軍師を任されている朱里はきまりが悪そうに自身の金髪の上に乗っている帽子を被り直した。妙な雰囲気を感じ取った一刀は、努めて明るく朱里に問いかける。

 

「えっと、それじゃ曹操軍との交渉は上手くいったんだ?」

「あ、はい。当初陽動は我が軍のみとなるところでしたが、いくら相手方が雑兵の集まりといえど私たちとはあまりに兵数差が開いてます。より大きな打撃を黄巾党軍に与えるという名目で曹操さんから我らと同数ほどの隊を陽動に廻して貰えました。曹操軍からは楽進さん、李典さん、于禁さん、許定さんが陽動に参加されるようですね。それでも敵方の半数に届いていませんが、兵質からいって拮抗できない差ではないかと」

「へぇ、あの子もか……」

 

 つい先ほどまで気にかけていた少女の名前が出てきたことで、一刀は思わず声を漏らしていた。

 やはりというか、同じく女性になっているという楽進、李典、于禁と並べられるほどの武将ではあるようだ。今回戦場を同じくするということは、正体の掴めていない彼女の実力の一端を見ることができるかもしれない。思わぬところで懸念のひとつが解消できるかもしれないことに、一刀は小さく口の端を吊り上げる。

 

「……」

 

 また、許定の名に反応したのは一刀だけではなかった。それまで気の入っていなかった愛紗もまた、許定の名を呼んだ朱里へ、そして一刀へと顔を向けていた。口元を綻ばせている一刀を見て、僅かに眉をひそめている。

 

「曹操さんが黄巾党の備蓄を焼き払うまでの遊撃・陽動を任されていますが、拠点から煙が上がったら私たちも追撃を開始します。……あの、愛紗さん。どうかしましたか?」

 

 腕をぶんぶんと振り回して気炎を上げている鈴々と考え事に耽る一刀を除いた、朱里や雛里、桃香の三人の視線を集めていたことに気がついて、愛紗は一つ咳払いをした。

 

「いや、すまない。少し考え事をしていた。私と鈴々が前曲を率いるのだろう。任せてくれ」

「伝令!」

 

 取り繕うように愛紗が答えるのと、陣に伝令兵が駆け込んでくるのは同時だった。そのドクロを模した特徴的な鎧は曹操軍のものである。

 

「これより敵軍へ接近の後、于禁・許定弓兵部隊による一斉射撃を開始する。劉備軍は混乱が収まらぬうちに突撃願う! 楽進・李典隊に遅れることなかれ! その後の手筈は事前の打ち合わせの通りにとのこと!」

「あ、わ、わかりました!」

 

 用件を聞き取りやすく述べた伝令兵は、桃香の声に礼で返答し、きびきびとした様子ですぐさま自陣へと駆けていく。劉備軍の兵ではああはいかないだろう。先ほども一刀たちは曹操軍の行軍の様子を見ていたが、号令ひとつで揃った行動を起こす様は感嘆するほどだった。

 

「それでは我らは前曲へと向かうぞ、鈴々!」

「行ってくるのだ!」

 

 先ほどまでいささか気が抜けているように思えた愛紗も、ここに至ってはそんな様子は素振りも見せない。鈴々共々、周囲を圧倒するほどの戦意を放ちながら、己が得物をその手に駆け出した。

 

「二人とも、気をつけてな!」

 

 関羽と張飛の背に声をかけながら、ぐらりと大気が揺れ動いた気がした。何かに急かされるように胸がばくばくと拍動している。これからまた命のやり取りが始まるのを、一刀は感じていた。

 

 

 

 

 

 

 地面を踏み鳴らす音が響く。大地が震えている。前方からは遠く悲鳴が聞こえていた。おそらくは先ほど命じた一斉射撃で、矢に射られた者たちの叫びだろう。

 それに遅れて銅鑼の音が響き、各方面から突撃の喊声が上がる。そしてそれは、拓実の前方――恐らく、凪や真桜がいるあたりからも同じく上がったのだった。

 

「二陣、構え! 目標、敵軍右後方、放てー! 一陣は後退して次射、構えて!」

 

 拓実の声に従い、放たれた矢が空を覆う。味方の頭上を越え、拓実が示した方向へと降り注ぐ。あちらでは喚声が上がり、それはこちらからの喊声に飲み込まれ、かき消されていく。

 敵軍へと矢を射掛け、その行動の勢いを削ぐ。前曲が接敵し弓が使えなくなれば武器を持ち替え、遊撃に回る。今回、沙和と拓実が命じられているのは後方支援である。

 その与えられた役割を、拓実は十二分にこなしているといえた。額に汗を浮かばせながら声を張り上げ、冷静に、そして的確に指示を飛ばしている。事前に頭に叩き込んでおいた陣形図を頼りに、沙和隊との二隊のみで機先を制し、敵方のほとんどの行動を封じていた。これは警備隊での高所からの物見、相手の出方を抑える伝令の役割で培われていた、場を俯瞰する指揮によるものであった。

 こうまで上手く相手方を押さえ込めたことなどはこれまでの演習でも一度もなく、拓実のその指揮はここに至って一番の冴えを見せている。だが、実のところ拓実は好調どころか、今にも倒れそうなほどに精神的に疲弊していた。

 

 ――警備の仕事中、人死にを目の前で目撃したことがあった。治安を保持する仕事柄、刃傷沙汰で殺人に出くわすこともある。だから拓実には、人の死にいくらかの耐性がついている自信があったのだ。けれど、治安維持でのそれは日に一人や二人、多くとも十を超えないほどで、今日のそれとは桁が違う。

 半日ほど前の劉備軍との会見からの帰りに気づいた、放置された百を超えるヒトの死骸。血で黒く染まる大地、風に乗って届く言いようのない鉄の臭い、暖かかったからか既に羽虫が飛び回り、死肉を鳥がついばんでいる。

 まず血の気が引き、拓実の頭の中は真っ白になった。正しくその光景を認識すれば胸の中には吐き気が渦巻き、手足には勝手に震えがくる。視界が歪み、周囲がまるで地獄にでもなったような錯覚を覚えていた。

 しかし、それでも拓実は『許定』という役を崩さず、周囲にいつもどおりに振舞って見せた。そんな拓実を不審に思った者はきっと、いなかっただろう。

 

 そして今回の戦、初撃――つまるところ開戦の号令は、華琳より拓実に任されていた。拓実に従い沙和が一斉攻撃の指示を出し、それを合図に劉備軍と凪、真桜が敵陣へ吶喊する。こちらでの戦闘開始を見て、別働隊である華琳が拠点へ攻撃命令を発するのだ。つまり、これを発端に先ほど見た以上の命が散ることになる。自分の声ひとつであの時の地獄を――いや、更に大きな地獄を作らなければならない。

 武将としてならば先陣を切ることは名誉なことなのだろうが、拓実は許されるのならば今すぐこの役目から逃げ出したかった。けれどもそんな消極的な拓実の考えとは裏腹に、いざ定刻となれば僅かも躊躇うことなく『許定』は攻撃命令を下してみせた。

 今必要とされているのはこの時代の価値観で生きている、武将である許定だ。現代日本の常識を持つ『南雲拓実』などはただただ迷いを生むだけの邪魔な人格でしかない。許定という役になりきり、役立たずで弱い自分を押さえ込む。いつもしていることをここでもこなすだけだ。華琳がわざわざこの役目を命じたのは、平和な国で育ったという拓実が戦場で使い物になるかどうかの試金石としていたのだろう。

 

 人を殺せるのかという自問に対しての答えは、いつかに出してあった。

 影武者として勤めるかの是非を華琳に訊ねられた時に、拓実は拒否することもできた。けれども、そうはしなかった。華琳に従い、彼女のあまりに重過ぎる荷物を受け持ち、平和な世を作る助けになると決めた。その為には人を殺すことも辞さない。そう決めたのだ。酷いエゴイズムであると自覚しながらも、拓実はさながら華琳のように己の決定を覆すことはしなかった。

 的確に指示を出して敵の多くを殺し、味方には極力戦死者を出さない。それが拓実の立場にあって死者を減らすことのできる唯一の方法だと信じている。ならばこそ、拓実に逡巡する暇などはない。戸惑い、悩み、動揺し、動きを止めれば、それだけ味方が、人が死んでいくことになる。今こそ武将としての最善をこなさなければならないのだ。

 しかしそれでも、拓実は内より浮き出てくる己を封じきれない。浮かんだ汗は酷く冷たく、その顔色は白を通り越して青がかっている。脚や腕には力が入らず、気を抜けば膝から崩れ落ちそうだ。死んだ者に向けての哀悼か、これから殺しゆく者たちへの懺悔なのか。考えに即せず涙が流れ出てしまう。

 

「全員、弓から剣に持ち替えて! 突出している右辺、李典隊の後詰にいくよ!」

 

 袖で視界を塞ぐ涙を拭い、腰の細剣を引き抜いた拓実は剣先を敵軍へ向けて大きく叫ぶ。しかし拓実のその涙は止まることなく、しばらくの間流れ続けていたままだった。

 

 

 開戦の引き金となった矢の掃射より四半刻(三十分)を待たずして、優劣は決した。遠く自拠点から煙が上がったのを見て、半数にも満たない兵に劣勢を強いられていた黄巾党軍はいよいよ不利と悟り、背を向けて逃走を開始したのだ。もちろん機を見逃すような将は劉備・曹操の両軍におらず、奇襲に成功した華琳らを含め、各隊が逃走する黄巾党軍に追撃を開始する。堰が押し切られたかのように、戦況が一方へと傾いていく。

 撤退しようとする黄巾党軍をすさまじい勢いで食い破っていく春蘭・秋蘭隊と関羽・張飛隊に、負けじと凪・真桜隊が続いている。その様子を目前に、後方配置されていた拓実と沙和は兵たちの進攻を緩めさせ、華琳の率いている本隊へと合流を目指していた。距離がある上、散々に食い散らかされている今からでは進撃に加わることは出来そうにはなかった。

 

「あっ、ほらほら拓実ちゃん。黄巾党の備蓄が置いてある砦が完全に堕ちたみたい。凪ちゃんや真桜ちゃんの部隊も大きな損害はないようだし、快勝、快勝なのー!」

 

 隣を歩く沙和の声を受けて拓実が周囲に顔を向けてみれば、最後に残っていた黄巾党軍が集団を保つことが出来ずに四方八方へと散り散りに逃げ惑っていく光景があった。

 それを追い回して、熱に浮かされたように興奮するのは自軍の兵士たち。勝ち鬨があちらこちらで上がり、気づけば拓実や沙和の部隊もそれらと反響しているかのように声を上げていた。沙和もにっこりと笑みを浮かべ、拓実の手を取っては前後に振って機嫌よく歩いている。

 だが、どうにも拓実は周囲が感じているような喜びを共にできなかった。それよりも役目を果たしたことによる安堵の方が大きい。色々と懸念することはあったが、ともかく拓実は無事に初陣を飾ることができたようだった。

 

 

 

「さて、今後のことだけれど……」

 

 主要な顔ぶれを集めた本陣内では、手を顎に当て目を配らせている華琳の姿があった。戦闘の簡単な(ねぎら)いの後、そのまま場の進行は軍議へと移っていた。

 

「そうね、桂花。現状で我々が早急にせねばならないことは何かしら?」

「はっ。周知の通り、主戦場ではまだ十万の黄巾党軍が控えています。そして、備蓄が焼き払われたことは遠くないうちに黄巾党軍の主力軍へと伝わることでしょう。黄巾党の中枢はともかく、大部分は生活に困って参加している者がほとんど。少なくない数が戦場を放棄し、この拠点めがけて進攻してくることが予想されます。ですがこのままこの場所に駐留し黄巾党軍の本隊と真っ向からぶつかっては、劉備軍を含めたとしても数の力で押し切られてしまうのは明白。今は転戦して耐え忍び、勢いを削ぐ事が肝要かと。つきましては、この地より一刻も早い離脱を進言致します」

「ええ、そうね。私も同じ考えよ。仮にも中央からの正式な要請で討伐に任されている我々が、一撃離脱を強いられている現状は業腹だけれどね」

 

 不機嫌そうに、だが桂花の返答にどこか満足そうに返した華琳は、他所へ向けていた視線を改めて前方へと戻す。

 

「秋蘭、春蘭。戻ってきたばかりのところ悪いけれど、供をなさい。これより劉備の元へ向かうわ。桂花、あなたは自陣に残って損害の確認を」

「お任せください! 雑兵を蹴散らしたぐらいで疲弊するような柔な鍛え方はしておりません!」

「御意に!」

「かしこまりました」

 

 自負が見て取れる春蘭の答えに、打てば響くように返す秋蘭、至極冷静に声を返す桂花。彼女らの堂のいった様子は見ている方に安心を与えてくれる。

 

「真桜と沙和は兵をまとめて、私たちが帰り次第すぐに発てるように備えなさい」

「了解や。っやなくて、了解です!」

「は、はいなのー!」

 

 対して、世間話程度ならばともかく、どうにもこういった正式な場での華琳との応対に慣れていない様子の真桜や沙和。にこにこと笑みを浮かべながらそんな初々しい様子を眺めていた拓実は、無表情ながら全身を震わせている人物に気がついた。

 

「えっと、凪ちゃんどうかしたの? だいじょーぶ?」

「え、なあ!? あ、たた、たく……み、か?」

 

 拓実の声に反応し、ブリキの人形のように首をかたかた動かして顔を向ける凪。どうやら凪は極度の上がり症のようだったが、拓実はそれに気づくのが遅すぎたようだ。凪の意識が拓実へと向くと同時に、華琳から声がかかってしまう。

 

「季衣、凪、拓実の三人は私や春蘭たちの先導をお願いするわ。目ぼしい集団は殲滅したけれど、残党が残っていないとも限らないものね」

「わっかりました!」

「え? あ、わっ」

「はーい! ……ほら、凪ちゃんも返事しなきゃ!」

 

 慌てふためき、きょろきょろと挙動不審に周囲を見回している凪の背を小さく叩いて促す。直前に声をかけてしまったからだろう、と考えてのことだったが、これはどうやら逆効果になってしまったようだ。

 

「うあっ、ひゃい!? 了解しまひたぁ!」

 

 背を叩かれ、びくんと全身を跳ねさせた凪は、顔を耳まで真っ赤にさせて盛大に噛んでしまった。それも緊張から声の加減がつかなかったのか、陣にも響き渡るような大声である。

 

「……」

 

 ぽかん、とした表情で凪を見つめる華琳。それに倣ったような他の面々。言葉を発した張本人といえば、ぴしりと石になったかのように固まってしまっている。

 同じように拓実も固まっていたが、すぐさまに硬直から回復し、必死に頭を働かせていた。せめてフォローの一つもしてやらないと、あまりに凪が不憫だった。

 

「ええっと、か、華琳さま、早く行きましょう! 早くしないと、ほら、黄巾党が!」

「そ、そうね。それではこれを以って軍議は終わりとしましょう。……春蘭」

「解散!」

 

 珍しく面食らった様子を見せる華琳だったが、それを認識できた者は果たして何人いたのだろうか。華琳には無条件で反応するらしい春蘭の号令が響き渡り、固まっていた周囲もようやく動き出した。

 みな一様に気の毒そうな表情を浮かべながらも、視線は決してある人物がいる方向へは向けずに軍議の場となっていた天幕から出て行った。

 

「……あの、ごめんね凪ちゃん。ボクが話しかけちゃったからだよね。ほんとにごめんね」

「あ、ぁあ。うわあぁぁぁっ!」

「でもね、そろそろ行かないと、華琳さま行っちゃうよ? だから、その、ね?」

 

 人気がなくなりつつある陣内。そこには頭を抱えては振り乱して座り込んでいる凪と、それを必死に慰める拓実の姿がぽつんと残っていた。

 

 



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23.『関羽、許定と相見するのこと』

 

 黄巾党の拠点強襲作戦より幾日かが経ち、曹操軍は未だ劉備軍と共に各地を転戦していた。あの地より即時撤退した両軍は、改めて戦場を同じくする契約を結び共同で戦線を張っている。

 食糧など物資に貧窮している劉備軍と、これより数千、数万もの大軍を切り崩す任務を帯びている為に人手の足りない曹操軍。曹操軍が劉備軍に食糧や物資を提供し、劉備軍は作戦遂行の間、指揮権を曹操に渡すことでお互いの利害が一致していたのだった。

 こうして結成された急場の合同軍ではあったが、保有している兵数はともかく、将の質は現大陸屈指といえるものだ。もちろんそんな一騎当千の武将に率いられた合同軍に民兵ばかりの黄巾党軍が敵うはずもなく、多少の数の差を物ともせずに駆逐されていく。

 

 今拓実がいるのは野営地に張られた天幕の中。華琳によって内々に集められた軍議に出席していた。同席しているのは曹操軍でも一部の者たちだけで、華琳を始めとした春蘭、秋蘭の中核三人。桂花、季衣、拓実と中途より加入した、既に見慣れた顔ぶれ。

 そして今回よりそこには新たに、凪、真桜、沙和が加わっていた。彼女らは新参でこそあるが個々に隊を任せられて結果を出した。こうして軍議に同席させたのは、華琳が彼女らの将器を認めたということなのだろう。

 とはいえこの場にいる他の六人が共有する秘密である、複数の顔を持つ拓実についてを凪たちは知らされていない。これは討伐に出ている現状で許定以外の役を発揮する場面がなく、未だに荀攸として顔を会わせていない為にその必要がなかったこと。加えて、華琳が拓実の経歴を明かすか否かの判断を保留しているからであった。

 

 その拓実はといえば、季衣と凪の間に立ってどこかうずうずとしていてせわしない。最近の拓実にはどうにも落ち着きが無かった。本人は平静を保っているつもりなのだろうが、隠し事が出来ない許定の性質もあってすべて表に出ているのである。

 思い悩んでいるような深刻な素振りではない。何かを心待ちにしているような拓実を、周囲は気にしつつも見てみぬ振りをしている。

 

「それでは軍議を始めるとしましょうか。目下、黄巾党討伐については大きな進展はないわね。順調に数を減らしているとはいえ、目に見える戦果を出すにはもう数ヶ月は必要でしょう。とりあえず今は、協力体制にある劉備軍についてを聞いておきたいわ」

 

 椅子に深く座って足を組んでいる華琳はいつもの泰然とした様子で、まず側に控えている桂花を一瞥した。

 

「この一週間。劉備軍との連絡や作戦立案を桂花に任せておいたけれど……軍師としてのあなたは劉備軍をどう見る」

 

 受けて桂花は小さく目礼し、続いて感情の篭もらない声を上げた。その表情は意図的に消されている。

 

「は。勢力としては弱小ながら、関羽、張飛と武将は正しく勇に優れ、諸葛亮、鳳統の二人の軍師はどちらも広い見識の持ち主です。我らと共に行動し連戦連勝することで着々と名声を得、兵数も日に日に増えているようです。以前に劉備軍を指して眠れる龍と例えましたが、その(まなこ)は薄く開かれつつあるように思います」

 

 桂花の所感に頷いた華琳は、次に秋蘭へ視線を向ける。

 

「秋蘭。報告を聞いたところ、どうやら我らの部隊指揮を改良して兵らへと施しているようね」

「はっ。どうやら我が軍の調練に細作を紛れ込ませ、その錬兵法を調査している模様です。どうやら対象が調練のみの上、華琳様が好きにさせろと仰られました為に、細作は放置致しておりますが……」

「それはおそらく諸葛亮あたりの発案かしらね。我らの指揮や軍の編成を模倣し、錬度を高めようということでしょう。形振り構わずとも機会を逃さず、貪欲に学ぶ姿勢は好ましいものよ。我らがわざわざ教えてやる義理はないけれど、まぁ、共に戦っている以上見て真似られるぐらいは致し方ない。そうでしょう?」

 

 薄く笑みを浮かべた華琳は、視線を動かした。向けられた視線からは、一様に困惑の感情が返ってくる。

 その意図はどうあれ、他勢力に密かに工作員を送り込まれているのである。もしも何事かが起こってからでは遅い。本来であれば捕らえては尋問し、その責の次第を劉備に問い質すべきである。だが、華琳にはそれをする気はないようである。

 

 華琳は天より与えられた、または磨かれた才を愛している。無能な、それも分をわきまえない者には辛辣であっても、華琳をして認めさせる技能を有し、己が天命を知り動いてみせる者に対してはかなり寛大ともいえる。今回の寛大な態度も、劉備軍の有する綺羅星のように輝く才人たちの存在あってのことだろう。華琳はそんな才を持つ者に酷く執着し、己の手元に置きたがるという一種の人材収集癖を持っていた。

 そんな華琳が劉備軍に目をかけているのは部下たちには周知の事実である。それも今までに類を見ないほど過大なものであった。だというのに、いつものようにその将や軍師を自軍へ勧誘せず、一勢力として見て成長を助けてやっている。彼女の性質であれば、有能と認めている劉備らを己の傘下へと加えようとする筈であるのだが、一週間を過ごした今もその様子は見せていない。

 決断の早い華琳が勧誘の機を遅らせる筈もなく、だが形式上は『契約』という対等な条件で一週間もの期間の同行を許すのだから劉備らを評価していないわけでもない。それがどのような思惑からのものか、周囲は判断がつきかねているのだった。

 

「そうね……拓実。あなたは劉備の人体(にんてい)をどう捉えたかしら」

 

 次いで華琳より声がかかったのは、許定の姿をした拓実。周囲から視線が集まるのだが、その中でも横に並んでいた真桜と沙和の疑問の視線が拓実に突き刺さる。

 この一週間。凪ら三人と行動を共にし、兵を率いていた拓実に劉備と会話するような機会はなかった。精々、初日に顔合わせで会ったぐらいのものだろう。それこそ連絡役を任されている桂花や、その護衛を任されていた凪の方が劉備らとは幾度となく会っている。だからこそ、他の者を差し置いて拓実の名が出てくる理由がわからずにいるのだろう。

 そんな視線を向けられている当の拓実は、その問いに対して気まずい表情を隠そうともせずに口を開く。

 

「ごめんなさい、華琳さま。顔合わせの時にちょっとだけ話しただけだから、まだ大まかな性格ぐらいしかわからないです」

「構わないわ。把握している限りで言って御覧なさい」

「う……えと、わかりました」

 

 間髪を容れずに華琳より言葉が返ってきたことで、拓実はちょっとうろたえた。僅かな時間視線を宙にやり逡巡した後、自信のない、いつもよりいくらか小さな声量で返答していく。

 

「その、劉備さんは最初は流されやすい性格に見えたんですけど、考えかたの根っこはかなり頑固っていうのかなぁ。とにかく平和にしたくてがんばっているっていうのはウソじゃなさそうです。優しくて、戦いとか嫌いで、でも困ってる人がいると助けずにはいられない感じみたいで。そういう性格だから他人に好かれやすくて、わるだくみとかが苦手だと思います。あとは、天の御使いの北郷一刀さんのことを、なんていうんでしたっけ? えっと、いぞん? その……すっごく頼ってると思います。ボクが劉備さんを見てて感じたのはこれぐらいですけど……」

「ふふ、僅かな時間でそれだけわかれば充分よ」

 

 満足そうに笑みを深める華琳に、拓実は安堵からほっと息を吐いた。横で疑問を浮かべていた二人も拓実に感心したような様子である。そんな光景を視界に入れながら、華琳は今までの桂花、秋蘭、拓実の言葉を吟味し、考え込む素振りを見せている。

 

「武、智、仁。少人数ながらもこれを揃えることが出来る勢力が、この大陸にいくつあるか。妙な横槍さえないなら、劉備らは黄巾討伐にて戦功を立てて地方を任せられることになるでしょう」

 

 華琳の口から珍しく賛辞の言葉が発される。瞳には熱が篭っている。その熱が何に向けられているのか、そして何を捉えているのか、拓実にはなんとなく見えていた。

 有能な人材であればあわよくば自軍に引き入れたいと話していた華琳が、その珠玉ともいえる劉備軍の将らに目をつけぬはずはない。だが、反して華琳は沈黙を守ったまま。味方でないなら、いつの日か劉備ら一行が自身と比するだけの敵になるだろうことを感じたのだろう。

 王が二人いては、やはり対することになるのだろうか。あるいは劉備らと共に一つの勢力を築ければ、大陸統一は早い段階で為されたかもしれない。拓実も密かにそれを願っていた。だが、やはりこの世界でも曹操と劉備は対峙するらしい。それはまるで、大きな流れの上にあるようだった。

 

 

 さて、曹操・劉備合同軍は一週間の転戦を経て、一時華琳の治める(エン)州へと戻ったところであった。

 劉備軍へと備蓄を譲渡し、また連戦を重ねて心許なくなってきた物資を補充するためであるが、討伐はまだまだ続く。陳留へは入らずに街が見える位置に陣を張り、補給に要する数日の中から将兵たちは順繰りに休日を与えられていた。

 

 そんな束の間の休日。拓実はきょろきょろと辺りを見回しながら見慣れぬ陣の中を歩いていた。拓実にとってついにやって来た機会である。逸る気持ちを抑えきれずに、その足取りも軽い。

 

「あ」

 

 歩いているうちに見知った顔を見かけ、拓実は思わず頬を綻ばせた。

 

「すいませーん、天の御遣いさまはこちらですかー?」

 

 天幕の前に仁王立ちしている人物へと拓実は声を掛けた。その手には青龍偃月刀。表情は引き締まっていて、猫の子一匹通すまいといった風情。目を惹くのはやはり、その艶やかな黒髪だ。

 なんと、この麗しい女性が劉備軍の武将である関羽であるらしい。気勢を上げる春蘭を相手に一歩たりとも引かなかった様子から余程の武芸者だろうとは拓実も感じていたが、まさかこの女性が彼の美髯公(びぜんこう)だとは夢にも思うまい。後に調べてみれば、以前は幽州を中心に『黒髪の山賊狩り』と呼ばれていたとのこと。(ひげ)に変わって美しい黒髪を持つこの世界の関羽は『美髪公』というところだろうか。

 

「……見慣れぬ姿が歩いているので誰かと思えば、曹操軍の許定殿か」

 

 声を掛けたところ、関羽に一瞥されて硬い声が返ってくる。拓実は笑顔のままたじろいだ。当初こそ、後世で神格化しているというあの関羽に会えたことで舞い上がったものだが、どうにも拓実はこの女性に好かれてはいないようなのだ。

 拓実の前に姿を見せれば、酷く険しい顔で拓実のことを見つめている。その視線に悪意はなかったようだが、だからといって好意的なものでもなかった。どうやら曹操軍所属の武将は一様に警戒されているようなので他の者であっても対応は似たり寄ったりではあるのだが、拓実に対してはそれが顕著に思える。

 

「そうです! あの、関羽さん、ですよね?」

「ええ。いかにも」

 

 とはいえ実際に相対してみて、関羽の許定への対応はそう素っ気ないものでもない。春蘭や秋蘭など同世代の相手にする際は関羽は警戒からこうまで柔らかい応対はしないようだが、明らかに年下に見える拓実や季衣相手では勝手が違うようである。実際のところ、北郷一刀と一歳違いの拓実は関羽ともそう歳は離れていない筈なのだが、そこは拓実の容姿が幼すぎたのだろう。

 関羽は青龍偃月刀を持ち替え、入り口を塞ぐように構えてみせた。

 

「ところで、我らの主君を探しているようだが、いったい何用なのだ?」

「用事は、えっと、ちょっとした私事というか。少しお話したいだけなので、あんまり時間はかからないと思うんですけど」

「私事……申し訳ないが、ここは通しかねるな。私も警護の任を任されている。共同戦線を組んでいるとはいえ、武装した者をみだりに主君に近づけるわけにはいかん」

 

 きっぱりと即断した関羽は、再び武器を手に天幕前の警護へと戻ろうとする。それを止めたのは明るい拓実の声だった。

 

「あ、そうですよね! それじゃ、武器を置いていけばいいですか?」

 

 言って破顔した拓実は腕のトンファー、腰に佩いた細剣をあっさりと取り外し、纏めて関羽へと手渡した。

 まさか他所の陣で言われるまま武装を解除するとは思わなかったのか、きつく張り詰めて不動だった関羽の表情が、そこで初めてきょとんとしたものに変わる。手でトンファーと細剣を受け取り、それをまじまじと見つめた後、遅れて焦ったように口を開いた。

 

「いや、待て待て待て! そういった意味ではなく、一軍の長である者に私事などという不透明な理由で通すことが出来ないという意味だ。それに、武器を手放したからといって暗器等を潜ませている危険もあれば、なおのこと……」

「ええー! 暗器なんか持ってないですよー」

「う、そのだな。許定殿がご主人様を害すると疑っているわけではないのだが、護衛の任を受けている以上はだな……。そうだ! その私事とやらの内容を私に話してみないか? その内容の重要性次第では取次ぎも考慮に入れてみるが……」

「えっと……ボク、御遣いさまとお話してみたいって思って」

「む、それはご主人様相手でなければできないことなのか? 内容は?」

「え? 内容?」

 

 関羽より問い詰められて、拓実はようやく自身が何も考えずにここに来ていたことに気がついた。体の芯がどんどん冷たくなっていく。先ほどまでに感じていた高揚感などは、どこかへ消えてしまっていた。

 

「ぁ、その……」

「どうした?」

 

 ついつい馬鹿正直に同郷の人間と話したいとだけ考えていたが、立場柄、拓実は己の正体を他の人間に語るわけにはいかなかったのだ。一刀と同郷であること。許定や荀攸ではない、南雲拓実という日本名。今現在の自分の立ち位置。ここに来てからのこれまでの生活。どれか一つでも話せば、華琳の影武者としての地位を知られることに繋がりかねない。それは、そのまま華琳の不利となってしまう。さらに悪いことに、一刀は今後華琳の強敵となるだろう劉備軍に属している。なおさら話すわけにはいかなかった。

 どうやら同郷の人間に会えたことで相当に舞い上がっていたらしく、拓実はこの一週間を一刀と何を話そうか、何を聞こうか、そんなことばかりを考えて過ごしていた。自分の正体を明かすことは出来ない、そんな大前提に気づかずこの休日を待ち望んでいたのだった。

 

「……天の国のお話とか、御遣いさまに聞いてみたかったんです」

 

 それらを除いてしまった上で、拓実はいったい何を語れるというのか。もし会ったとしても正体は明かせず、一刀からの話を聞いて、今は帰れない日本の記憶に浸るだけになるだろう。

 搾り出すように、酷く落ち込んだ声を拓実は上げた。あまりの自身の愚かしさに自己嫌悪し、落胆に沈んでいる。数ヶ月に渡り、食文化も文字も、そして価値観さえも異なった異国で過ごしてきた拓実。表面上にはその一切を見せないでいたが、小さくないストレスが内心に累積していたのだ。それが同郷と会って一度緩んでしまい、だというのに打ち明けて鬱憤を解消できないとなれば、中々立ち直れない。

 拓実はまるで、目の前が真っ暗になったような錯覚を覚えていた。

 

 

 

 

 

 はぁ、と深く息を吐いた愛紗は、同時に若干呆れた様子で許定を見やってしまった。自陣に滅多に見ない曹操軍の将兵の姿があるから、すわ、何事か、と身構えた己がまるで間抜けである。

 

「なにかと思えば、そんな些末事だったのか」

 

 続いて、話がしたいからと他陣営に気軽に来るとは劉備軍は軽く見られているのだろうか、そんな考えが浮かび、愛紗は若干苛立ちを覚える。だが、ふと視線を許定へと向けた直後に、そんな感情は吹き飛んでいた。

 そこにはうなだれて、どんより沈んだ許定の姿があった。直前の快活な笑顔と比べてみると酷い落差である。どうやら本人は気づいていないが、その目元は若干光っている。感情が溢れ出して、涙となって出て来てしまったのだろう。

 

「あ、ああ、すまない! 些末かどうかは私が決めることではなかったな。それほどに天の国の話……ご主人様と話すのを楽しみにしていたのか?」

 

 そんな拓実の様子を見て、自身の発言から面会の許可が下りないだろうと考えてしまったのか、そう理解した愛紗はうろたえた。声をかけるも聞こえているのかいないのか、許定は顔を俯かせたまま際限なく落ち込んでいる。

 愛紗はわたわたと助けを求めて周囲に視線を巡らすが、君主の天幕付近だからか誰もいない。どうしていいものか、万夫不当の武を誇る関雲長も泣く子には勝てない。

 

 あることがきっかけで、個人的な興味から許定の姿を見かければその様子を観察していた愛紗。つい初見の戦闘では見事な指揮をしていたから許定を一人の武将と見ていたが、よくよく見てみれば鈴々とそう年が変わらない少女である。その鈴々が世間一般で言う大人の振る舞いをしているかといえばそれは断じて否。鈴々にしても就寝時には肉親が恋しくなるほどの年齢でしかない。

 愛紗は思う。これではまるで、天の国に想いを馳せていただけの無邪気な少女を、難癖つけていじめているだけではないか。

 

「ああもう、わかった。わかったから泣くな! 仕方ない、話を聞くぐらいなら構わないだろう。あまり時間は取れないだろうが、今ご主人様に取り次いできてやるから。ただし、ご主人様の安全の為に私も同席させてもらうぞ」

 

 許定の視線の高さを合わせ、慰めるように何度か肩を叩いた後、愛紗は慌てて身を翻す。丁度その時、天幕の中からは声を上げながら長身の青年が潜り出てきていた。

 

「おーい、愛紗。大声出したりしてどうしたんだ? ってあれ? 君は許定ちゃんだったよね。何で泣いてるんだ?」

 

 現れたのは件の人物、北郷一刀。何事か書き物をしていたのか手を墨で染めて、入り口で立ち尽くしている愛紗と許定を不思議そうに見比べている。

 

「あ、あはは。ボクのことは何でもないですから、気にしないでください」

 

 許定は愛紗、一刀と立て続けに泣いていること告げられてようやく己の異常に気づいたか、目元を袖でぐしぐしとこする。放った言葉を真実とするために一刀に向けて笑いかけたようなのだが、力を入れて擦り過ぎたのか目が赤くなってしまっている。泣いたのが丸わかりで、それでも無理に笑ってみせる許定の姿は酷く痛々しい。何でもない筈もなかった。

 

「なぁ、愛紗。どうしたんだ? 愛紗が何かしたのか?」

「い、いえ。私は警備の任を全うしていただけで」

「そ、そーです! えっと、ボクがバカだったから悪いんです。関羽さんは悪くないんです!」

 

 二人してそうは言うが、その結果として許定が泣き、落ち込んでいるこの状況である。自然と、一緒にいた愛紗へ一刀の疑念が向くのは当然といえた。

 愛紗に責が向かいそうな現状に許定が声を上げてかばったのだが、泣いているところを見られた恥ずかしさからすぐさまに顔を伏せてしまった。

 

「えーっと……それじゃ許定ちゃんは何で泣いてたのかな?」

 

 自身に完全に責がないとは言えずにいる愛紗に対して、一刀から声がかかる。何故こうなったのか。愛紗も把握しきれてはいなかったので、とにかく頭を落ち着けて順を追って話していくことにした。

 

「その。許定殿はどうやらご主人様の生国の話が聞きたくてここまで足を運んだそうで。ただ、ご主人様の身辺の警備を任されている私としては、武装している許定殿を通すわけにもいかず」

「あ、もしかしてそれで武器を取られるのを嫌がったとか? まぁそりゃそうだよな。他所の陣中で武器を取られたりしたらいざという時に困るだろうし」

「いえ! あ、そうではなく、武器はあっさりと私に預けてはいました。ですが、事前に約束もなく話をしたいというだけで主君の下へと易々通すのもいかがかと思い、詳しく話したい内容を聞いていたのです。ただ、どうやら許定殿はご主人様と話されるのを随分と楽しみにしていたようで、その想いを知らず、私が軽んじてしまったというか……」

「そっか……」

 

 一刀は頭をがしがしと掻くと、空を仰ぐ。その後、うむむ、と唸った一刀は、呆っと気が抜けたように見つめてくる許定に近づいた。

 

「そうだなぁ。愛紗の意見もわからないでもないけどさ、この一週間、曹操のところとやり取りするのは軍師を通してばっかりで陣地も別だったじゃないか。お互いの武将が自由に行き来できるような暇もなかったし、そもそも休みという休みも今日ぐらいしか取れてないだろ」

 

 一刀はきょとんとしている許定の頭を墨のついていない左手でぐりぐりと撫でながら、愛紗へ向け笑顔を浮かべた。許定は猫のように目を瞑って、一刀の手の動きと一緒に頭を揺らしている。どうやら悪い気はしていないようである。

 

「流石にそう頻繁だと困るけど、話ぐらいなら通しちゃっても構わないからさ。もちろん、今後はこっちの陣に入る前に武装は解いてもらうけど」

「しかし。それでは万一、ご主人様が襲われでもしたら……」

「うん。だからさ、愛紗も同席してくれるならその危険もないだろ? それにあんまり曹操のところの人たちとも交流取れてないし、丁度いい機会じゃないか」

「それは、確かにそうですが」

「頼むよ。これからも数ヶ月は一緒に助け合っていく相手なんだしさ。愛紗には負担をかけちゃうとは思うけど、何も毎日って訳でもないし、休みの日ぐらいは……」

「あの、御遣いさま。やっぱり迷惑になっちゃうから、ボク大丈夫です。関羽さん、色々と無理言っちゃって、ごめんなさい」

 

 なすがままに頭を撫でられていた許定は一刀の提案に渋る愛紗の様子に気づいたようで、背の高い一刀を見上げておずおずと声を上げる。そして、愛紗へと向き直って深く頭を下げた。その横では一刀が真剣な表情で愛紗を見つめている。

 二人に見つめられている愛紗はというと、もちろんいたたまれない。観念したように口を開いた。

 

「ああ、もう。これではまた私が悪者ではないですか! ご主人様は鈴々の時もそうですが、(わらべ)らに優しすぎます!」

「愛紗、それじゃあ?」

「ええ。許定殿が来られた時は、私が同席することを条件に許可致します。許定殿。今後は前日でも構わないから事前に連絡を頼みたい。他陣営の将を招くともなれば、こちらにも準備があるからな」

「あ、わかりました! ありがとうございます!」

 

 許定もどうやら持ち直したらしい。若干表情に陰りは見えるが、それでもだいぶ明るさが戻っている。

 腰に手をあて、まったく仕方がない、という風に肺から息を吐き出す関羽ではあるが、その顔は控えめに笑っていた。

 

「よし! 愛紗の許可も出たし、それじゃ今日は三人でお茶でもしよっか」

「やったー! お茶だー!」

 

 今泣いたカラスがなんとやら。直前まで不安げにしていた許定は完全に調子を取り戻したらしく、ぴょんぴょんと跳ねて自身の喜びを露にしている。そんな許定の様子を見て、一刀は遅れて自身の言葉の誤りに気がついたようだった。

 

「あ、あー。ごめん。お茶って言ったけど、そんな高価なものは置いてないからこっちで用意できるのは白湯(湯冷まし)ぐらいだ」

「ええー、そうなの?」

「天の国だと何かを飲みながら話をすることを『お茶する』っていうから、ついさ。お茶も飲むけど、そう珍しいものじゃないし。こっちのお茶って薬や嗜好品扱いされてるから異様に高いんだよなぁ。手で握れるだけ買おうと思ったらいくらになるんだか」

「へ、へぇー」

 

 許定は一刀の話を聞いて、楽しそうにふんふんと頷いている。一刀は彼女へ笑顔で話しかけながら天幕の中へ進んでいく。その後ろ。二人が並んで歩く姿を眺める愛紗は密かに、言い知れぬ疎外感を感じていた。

 

 

 その天幕の中には寝具と机、椅子。それにいくつかのつづらが置いてあるだけで物は少ない。ここが、一刀の自室だった。

 机の上には墨の入った(すずり)と筆、それにいくつかの竹簡が開いて置いてあるが、許定が入室しても一刀は気にせずにそのままにしている。なにせ、これらは劉備軍の内情を記した機密に関わるものではない。ここにある竹簡は朱里や雛里から一刀が借りている政治書や軍事書である。

 

 領地を持たない、根無し草である劉備軍に政務処理などはなく、あっても備蓄の調査書ぐらいのもの。それも気がついたときには朱里や雛里がこなしてしまっているので、ここ一ヶ月ほど一刀は手持ち無沙汰な状態であった。

 政務関係では一刀は手が出せない。ではもう一方の軍務はどうかというと、人を率いる訓練すらも積んでいない一刀がいきなり兵士たちを率いて戦える筈もなく、錬兵や実際の戦闘など軍務も愛紗や鈴々に任せる他ない。

 領地を任されてしまえば現在の立場柄、劉備と並んで領主と扱われる一刀にもこなさねばならない仕事が出てくるのだろうが、現時点では一刀に出来ることはいくらもなかった。せいぜい、来たる時の為に政治、軍事などの統治者としての知識を学ぶことぐらいである。

 積み重ねが必要なことだとは一刀もわかってはいるのだろうが、黄巾党の討伐に出てからは桃香と一緒に応援することしか出来ない現状に焦っているのだろう。警備を任されている愛紗は、ここ最近、時間があれば竹簡を紐解いて勉強している一刀を知っている。

 

「それで、俺の生まれた国……天の国について訊きたいことがあるって聞いたけど、何かな?」

 

 天幕へと招き入れられ、きょろきょろと好奇心旺盛な様子で中を見回していた許定に一刀は問いかけている。薦められた椅子にちょこんと座った許定は、人差し指を口に当て視線を宙へと巡らせた。

 

「えっと、んー。その、いっぱいあるんですけど、天の国ってどういうとこなのかな、とか。あとは、天の御使い様はどういう人なのかなー、とか」

 

 ピリピリと気を張っている愛紗の横で、許定は足を伸ばし楽々とした様子で一刀へと答えている。万が一許定が暴挙を働いた時の為、取り押さえられるようにと許定の座る椅子の横に控えているのだが、警戒されている当の許定に圧迫感を感じている様子が微塵もない。

 一般人なら竦み、武将であればまず身構えてしまうだろうそれに反応しない許定は鈍感なのか、それとも自身の気迫を受け止めても尚平常を装えるほどの大物なのか。先ほどまでの一連の様子からは作為的なもの――許定という人格に油断を誘う為だとかの他意の一切を愛紗が感じ取ることはなかった。おそらくは前者であろうと考え、ようやく僅かに警戒を緩め始める。

 

「天の国がどういうところ、か。そうだなぁ……とにかく平和な国だったよ。国内での争いなんて滅多になくて、人が死ぬことなんて事故や病気ぐらいでさ。お金さえあれば食べ物だっていくらでも買えるから餓死者だって滅多に出ないし、娯楽もいっぱいあったな。そういう意味では、天の国だったのかもしれない。本当に、平和な国だった。許定ちゃんや愛紗たちには、ちょっと想像がつかないかもしれないけど」

 

 それらを横で聞いている愛紗は、今まで一刀から天の国について詳しく聞いたことがなかったことに気がついた。四人で旅を始めた当初こそは桃香が明るい調子で幾度となく質問を投げかけていたが、一刀が天の国に帰れないことを知ってからは酷な質問だろう、と自粛させていたのだ。

 一刀がこの世界での生活に落ち着いた頃には表立って訊ねる機会もなくなっていて、他はともかく愛紗は一刀自身が言い出した時ぐらいに聞くぐらいとなってしまっていた。

 

「それと、俺がどんな奴かってことなんだけど、ちょっと自分じゃわからないからさ。これからしばらくは一緒に戦っていくんだし、その中で許定ちゃんがどんな奴か見極めてくれると助かるよ」

 

 一刀は質問の答えをそう締めくくって、ああ、と何かに気づいたように声を漏らす。

 

「あと、出来れば『天の御遣い様』だなんて呼ばずに、もっと気軽に接してくれたら嬉しいかな。敬語なんかも使わなくて大丈夫だからさ」

「あの、それじゃ御遣い様のこと、兄ちゃんって呼んでいい?」

「はは、兄ちゃんか。なんかくすぐったいけど、構わないよ」

「代わりに兄ちゃんも、ボクのこと真名の拓実って呼んでいいからね」

 

 その言葉により驚いたのは、真名を許された一刀ではなく愛紗だった。

 

「えっと、いいの?」

「うん! 兄ちゃんには許定じゃなくて、せめて本当の名前の拓実って呼んでほしい」

「そっか。うん。ありがとな、拓実」

「へへへ」

 

 照れくさそうに笑う許定と、優しい笑みを浮かべる一刀を眺め、愛紗はいつかの焦りをここでもまた感じていた。

 

 北郷一刀は、特に女性に好かれやすい男である。それは天の御遣いとしての立場もそうだし、その権威を振りかざして私欲を満たさないこともそう。見た目にしても端整といって差し支えない容姿をしているのも一因だろう。加えて荒くれ者ばかりのこの大陸の男と比べて教養があり、虐げられがちな女性にも優しく、全体的に線は細いが男としての芯は通っている。

 そんな彼を好んでいるのは、もう一人の君主である桃香なんかは顕著だったし、鈴々も彼のことを特に慕っている。女性兵士たちからの評判も上々という話だ。かく言う愛紗にしても、この数ヶ月で一刀に惹かれている部分は多々あった。少なくとも、もしかしたら恋敵になるかもしれない人物を観察するほどには。ともかく一刀を気にしていると、次から次に彼に想いを寄せる女性が出てくるのである。

 そして今までの会話から薄々とは感じていたが、その中でも特に許定は一刀に向けている好意が大きすぎる。碌に会話もしていなかったのに、会話して数分で無条件の信頼を向けている。真名を預けたのがいい例だ。彼女自身、かなり人懐っこい性格だと思っていたが一刀に対してはやはり度を越えているように思える。そんな思考から、愛紗の疑念は確信へと大きく近づいていた。

 

「もしやとは思っていたが、本当に一目惚れ、というやつなのか……?」

「ん? どうしたんだ、愛紗」

 

 茫然自失といった様子の愛紗に気づいたらしく、一刀から声がかかった。

 

「い、いえっ、なんでもありません!」

「それならいいんだけど」

 

 慌てふためく愛紗に首を傾げながら許定との会話に戻る一刀。どうやらいつしか私塾に似た『学校』とやら、それも一刀が通っていた『せんとふらんちぇすか』の話をしているらしい。

 愛紗はとりあえず許定が一刀へ懸想しているかは置いておき、二人の話に聞き入ることにした。今これを聞き逃したら、次いつ一刀の話を聞く機会があるかわからないからであった。

 

 

 



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24.『夏侯淵、拓実に助けを求めるのこと』

 

 

 補給のついでに陳留へと帰る曹操・劉備連合軍には、その度に数日程度の休暇が言い渡されている。今回で数回目の休暇となるが、もう幾日もすれば次の討伐の為に陳留を発つことになるだろう。劉備軍の将兵たちも今頃、陳留の街で思い思いの休日を過ごしている筈だ。

 休暇とはいえ曹操軍の中でも内務処理を任されている文官や武官らは、曹仁、曹洪に任せきりだった政務の穴埋めや、遠征で消費した物資の補填などに動いている為にゆっくりしている暇はない。

 拓実も荀攸として桂花を補佐し、それに一段落着いたのが昨夜のことだ。ほとんど補佐すべきことがなくなった拓実は休みを貰えたが、領主である華琳、内政を一手に引き受けている桂花はまだ政務に追われていることだろう。

 

「拓実! 拓実はいるか!?」

 

 ようやくの休日、どんどん、と拓実の自室となっている部屋の扉が叩かれた。まだ日は昇り始めたばかりで早朝といって差し支えのない時間帯である。

 

「秋蘭? もう、なによ。朝からそんなに慌てて、いったいどうしたのよ」

 

 聞こえてきた焦りを含んだ秋蘭の声に、荀攸に扮した拓実は不機嫌そうに言葉を返して扉を開けた。その姿は寝台から出てきたばかりで、浴衣のような薄い着物の上に木綿の肩掛けを羽織っているだけである。

 その先にいた秋蘭もまた薄手の着物を二枚合わせ着ているだけで、余程の危急の用件だと察せられたのだが、彼女は拓実を見た途端に何故か勢いを落とした。見るからにがっかりしている。

 

「む。荀攸だったか」

「何を落胆しているのよ、まったく。そんなに許定のほうがいいわけ?」

 

 どうでもいいような素振りで秋蘭に問いかけたが、これは以前から拓実が疑問に思っていたことだった。どういった訳か、秋蘭は許定である拓実に甲斐甲斐しく世話を焼く。

 腹は減っているといえば飯屋でご馳走してくれて、口元を汚せば手巾(しゅきん)で拭い、拓実が食べている間は口元を緩ませた(ほう)けた様子でそれを眺めている。さらに肌に日焼けが目立ち始めればをこれを塗っておけと日焼け止めの油を渡し、傷を負っていれば手ずから薬を塗り、ついでだからと髪を梳き始める。似合いそうな服があったから買っておいたぞ、と街に出かける度に服を贈りつけてきたりもしている。

 最終的には「秋蘭さまなどとは呼ばずに、私のことは義姉上と呼べばいい」なんて言い出した。あんまり構ってくるので、許定としている時は出来るだけ秋蘭に近づかないようにしている。

 一度でいいからと秋蘭に頼まれて、春蘭の演技を許定の姿でやってしまったのがよろしくなかったのだろうか。拓実はそんなことを考えた。

 

「うむ。あれは性格こそ違うが、姿だけならば在りし日の姉者のようだからな。その姿で姉者の物真似をした時などは懐かしい気持ちになったものだ。それだけで贔屓してしまうのも、まぁ仕方がないことだろうよ」

 

 秋蘭は悪びれもせずに、笑みを浮かべて返した。やっぱり春蘭の演技をしたことが原因だったのかと、ため息を吐いた拓実は胡乱(うろん)な目で秋蘭を見やる。

 

「それで? あんたがそんなに慌てるなんて、何かしらの理由があるのでしょう?」

「ああ、そうだ。姉者の為に、拓実の力を貸して欲しい」

「はぁ?」

 

 出し抜けに何なのか。眠気が降りてきた目を手の甲でこすりながら、拓実は疑問の声を上げた。

 

「拓実よ。ここのところ、華琳さまにお会いできているか?」

「……いいえ、桂花の補佐や政務ばかりで満足に拝謁することもままならないわよ。桂花にしたって似たようなものでしょうし。それにきっと華琳様はこうしている今も政務をこなされているのだろうから、些事(さじ)に関わっていただくわけにもいかないわ」

「私たちも同じだ。物資の搬入、負傷兵と駐屯兵の入れ替え、調練などで碌にお会いできておらん。だが政務をこなしているお前たちや私はまだ報告でお目見えすることもあるだろう。だが、姉者は……」

「ああ、なるほどね」

 

 つまりは今現在、政務関連の報告以外で華琳に目通りすることが出来ない状態にあるらしい。春蘭だって政務処理をこなしていないわけではないが、目通りして報告しなければならないほどの案件は任されていない。その上で華琳も多忙である為に、邪魔をするわけにもいかない。

 近くにいるのに会えない。春蘭はにっちもさっちもいかなくなっているようだ。

 

「それで? 力を貸して欲しいって、春蘭にでもこなせるような案件を用意すればいいのかしら?」

「いや、残念ながら姉者ではそれを終える前に陳留を出発することになってしまうだろう。それにもう姉者は限界だ。来い、見ればわかる」

「ちょ、ちょっと、引っ張らないでよ! 着替えぐらいさせなさいってば!」

 

 有無を言わさずに、秋蘭は拓実の腕を引っ張って歩き出した。拓実の頼みは、勿論聞き入られることはなかった。

 

 

 

 秋蘭に連れられ、辿り着いた先には春蘭・秋蘭の自室があった。僅かに秋蘭が扉を開けると、中から声が漏れ聞こえてくる。

 

「さきほどのもよかったと思いますが、やっぱりこちらの服もお似合いです。華琳さまぁ……」

 

 中からは蕩けたような明るい声が聞こえてくる。聞き違えようもなく春蘭の声だ。怪訝な色を隠そうともせずに拓実は眉をひそめた。

 

「何なの? 全然元気そうじゃない。それに、華琳様がいらしているの?」

 

 ついと拓実が部屋の中を覗き込むと、こちらに背を向けて立っている華琳のその腰に、なんと春蘭が抱きついている光景があった。

 

「ちょっと! あんた何勝手に華琳様に抱き……むぐ!?」

 

 それを見た拓実は、思わずかっとなって春蘭に食って掛かろうと口を開く。そしてすぐさまその口は塞がれた。部屋へと乱入しようとした足は止められて、後ろから秋蘭に抱きかかえられてしまう。

 

「落ち着け! ……いいか、あれは華琳様ではない。『等身大着せ替え華琳様人形』という、姉者が木から彫り出して作った人形だ」

「嘘おっしゃいなさいよ! あんなに精巧な人形があるわけ……」

「現に、あの華琳様は一切の反応を姉者に返しておらんだろう」

「うふ、ほほほほほほぉ、華琳さまぁ。おほほほほほ」

 

 改めて中を見直したが、拓実には華琳とその『等身大着せ替え華琳様人形』とやらの区別がつかない。だが、奇妙な笑い声を上げる春蘭を前にしても、部屋の中の華琳は微動だにもしていない。

 

「あれが、人形? ……動く気配はない、呼吸している様子もない、わね。まぁ、信じてあげても良いけど、それよりあの馬鹿はいったいどうしたのよ。普段からして突飛な頭をしているけれど、今日のアレはなんか壊れてるわよ」

「同じ城にいながらも長時間華琳様に会えずにいたことで、我慢の限界を迎えてしまったのかもしれない。いつからなのか知らないが、私が明け方に目を覚ましたときにはもう。少なくとも日も出ていない早朝からずっとあの調子なのだ」

「……重症ね。手の施しようもない。手遅れだわ」

 

 拓実はどうにもならないと首を振って、踵を返して部屋へと足を進め始めた。寝巻き姿であるために肌寒い。自身の細い肩を抱いて、まだかろうじて温もりが残っているだろう寝台へ戻ろうと、足早に自室へと帰ろうとする。

 

「待て! いや、待ってくれ、拓実!」

「悪いけど、私にはどうしようもないわよ。華琳様でもなければ、アレを正気には戻せないんじゃないの?」

「いや、確かに荀攸ではどうしようもないかもしれないが、拓実ならば可能だろう」

 

 その言葉で、拓実は進めていた足を止める。秋蘭が言わんとしていることに思い至ったのだ。

 

「あんた。まさか、華琳様の命に背くつもりじゃ……!」

「……華琳様は自室である執務室にこもりきりだ。本来であれば許可を取るところだが華琳様はご多忙、睡眠時間も削っておられるのにご迷惑はかけられまい。しかし姉者の状態は早急になんとかせねば諸々の仕事に差支えが出てしまう。数時間だけ話相手をしてもらうだけでいい。それに華琳様が外にお出でにならない今、我らの部屋だけならばお前のことも露見せぬ筈だ」

 

 いつになく真剣に拓実に語りかける秋蘭。一通り語り終えると、部屋の中の春蘭へと目を向けた。

 中では春蘭が相変わらず「うひゅひゅひゅ、ふへへへぇー」などと筆舌しがたい笑い声を上げてはよだれを垂らし、『等身大着せ替え華琳様人形』の太ももにほお擦りしている。

 

「うぇ」

 

 げんなりした面持ちで声を漏らす。朝っぱらから嫌なものを見てしまった。はっきり言って気味が悪い。とにかく忌避感しか浮かんでこない。

 

「何より、あんな姉者を見るのはあまりに痛ましい……」

 

 だが拓実と秋蘭では見えているものが違うのだろうか、春蘭を眺めてはらはらと涙を落としていた。

 拓実としては、どちらかといえば早朝からこんな妙な笑い声で目を覚まさざるを得なくなってしまった秋蘭が不憫でしょうがない。もしも拓実が協力を断れば、あの状態の春蘭がしばらく部屋に鎮座することになるのだ。まず安眠は諦めなければならないだろう。

 

「ああ、もう! わかったわよ! 仕方ないわね! 私が華琳様をお呼びしてくればいいんでしょう!」

「すまない……助かる」

「礼は後でいいから、華琳様が来られるまでにあの馬鹿を、せめて話を聞ける状態に戻しておきなさいよ!」

 

 秋蘭の消え入りそうな謝罪を背に、拓実は肩を怒らせて小走りで駆け出した。出来るだけ人目につかず、そしてせめて今回のことは華琳の耳に届かぬようにしなければならない。

 また面倒なことになった、と拓実は大きくため息をついた。

 

 

 

 数ヶ月ぶりに袖を通す華琳の衣装は、相変わらず拓実の為に仕立てたもののような着心地だった。姿見を見ながら、つづらの中からウィッグを取り出し、慣れた手つきで髪を結んでそれを取り付けた。

 許定として動いている時にあちこちに小さな擦り傷を負っていたが、それらは沙和と買い物に出たときに買った化粧品で綺麗に覆い隠していく。最後に華琳が使っているのと同じ、恐ろしく高価な香水を軽く振り掛ける。

 こうしてしまえばもう、拓実の見た目は華琳とほぼ変わらない。後は秋蘭の頼みをこなすだけである。しかし、華琳にばれては事であるから人目につかないようにと考えていた拓実だったが、華琳の姿でそんなことが出来るはずもないのを忘れていた。

 

「あっ、華琳様。おはようございます」

「ええ、おはよう。桂花」

 

 着替え終えた拓実は堂々と自室から出て、これまた堂々と通路を歩いて春蘭・秋蘭の部屋へと向かっていた。身を隠そうとする素振りはなく、急ぐ様子すらもない。それどころか、道のど真ん中をゆったりとした歩調で歩いている。それも仕方がない。せこせこと隠れて足早に移動する華琳などあまりにイメージにそぐわない。

 もちろんそんな拓実が人目につかない筈もなく、書簡を抱えて通路を歩いていた桂花に見つかってしまった。不幸中の幸いか、非常事態でもないのにまさか拓実が演技している筈もないだろうという先入観から、桂花は拓実を華琳本人だと思っているようだ。泰然と歩いていた拓実を見て頬を緩めている。

 訂正して時間をかける訳にもいかず、微笑と挨拶を返して、通路の端によって頭を下げる桂花の横をすれ違う。

 

「あ、あの、華琳様。お散歩ですか?」

「ええ、部屋に篭ってばかりでは気が滅入ってしまうもの。眠気覚ましも兼ねてね。私はそろそろ戻るつもりだけれど、桂花、あなたに任せておいた仕事の方は順調に進んでいるのかしら?」

 

 明らかに追いすがろうとしている桂花に、拓実は暗についてこないで欲しいという思いを込めて問い返す。一拍息を呑んだ桂花は、何やら意を決した様子で口を開いた。

 

「はい。昨日までにある程度終わらせましたので、いくらかの余裕はございます。あの、ですので、よろしければ私もお散歩にお付き合いさせていただいてもよろしいでしょうか」

「……桂花。私、嘘は嫌いよ。昨夜、次の討伐の為の仕事が溜まっていると自分で言っていたじゃないの」

「へっ? あ、申し訳ございません!」

 

 平身低頭、虚偽報告を指摘されたことで桂花は顔を真っ青にして深く頭を下げた。しかしつい言ってしまったが、この発言は桂花本人と昨夜まで補佐をしていた拓実しか知りえないことである。もちろん、部屋で仕事をしていただろう華琳が知る筈もない。

 

「し、しかし、昨夜はご報告に伺っておりませんが、その旨はいったいどちらで?」

「……拓実から聞いたのよ」

「あいつぅ……余計なことを」

 

 頭を下げたまま、桂花は苦虫を噛み潰したような表情でぶつぶつと「私の知らないうちに華琳様に会って」「覚えてなさいよ」「仕返しを」「やっぱり落とし穴に」などと恨みの言葉を漏らしている。拓実は明らかに報復しようとしている桂花を前に悪寒を覚えたが、表面上には一切見せずに呆れた様子でため息をついてみせた。

 

「まぁ、陳留に戻ってから桂花には特に負担をかけてしまっていることだし、この私に向かって偽り言を吐いたことは特別に許しましょう。けれど、私ももうしばらくは構ってあげられそうにないわ。散歩はまたの機会ね」

「あ、はい……」

 

 気落ちした様子で再び頭を下げる桂花。今度こそ桂花に背を向けて歩き出した。

 どうやら何とか凌げたようだが、今の会話が桂花から華琳に知られれば事は露見する。しかし、だからといって桂花に口止めをするのは明らかに不自然。嘘をついてしまったこともあって桂花も今回のことを好んで口に出さないだろうけれど、ともかく、拓実としては二人が会ったときに今回のことが話題に上らないことを祈るしかない。

 華琳が影武者として動いていることを知った時、拓実が怒られるだけで済めばいいのだが、決まりを厳守させる華琳のことだから最悪は刑罰を受けることにもなる。いや、華琳が定めているのは影武者の存在を口外しないようにとのことだから、華琳が知ったとしても周囲にさえばれなければお咎めもないかもしれない。ただ、どちらにしても無許可で変装しているのでは、拓実が割を食う結果になることは想像に難くない。

 何事もなく一日が終わってくれればいいのだけど、と拓実が叶わないだろう願いを抱いていると、今度は正面に季衣の姿を見つけた。

 

「あっ、華琳さま! おはようございます!」

「おはよう、季衣。今日も元気そうね」

「はい! もちろんです! それじゃボク、街で朝ごはん食べてきま-す」

 

 季衣は笑顔を浮かべて門へと駆けていく。拓実はそれを見送って、変わらぬ歩調で足を進めた。

 武将や文官らが華琳に扮した拓実の姿を見ると立ち止まって包拳礼をとる。ここ数ヶ月で彼らをすっかり見知っている拓実は、華琳がするように挨拶を交わしていった。

 

 

 春蘭・秋蘭の部屋の前に着いた拓実は、扉に伸ばした手を一度止めた。内容まではわからないが、中から話し声が聞こえてくる。

 扉の前で佇まいを正すと、改めてゆっくり、こんこんこん、と扉を三度叩く。大陸にはノックをする習慣はないようだったが、秋蘭であれば来客であると察してくれるだろう。そうして話し声が止み、幾ばくかしてから薄く扉が開かれた。

 

「おはよう、秋蘭。拓実から春蘭の様子がおかしいと聞いたのだけれど、いったいどのような具合なのかしら」

「お、おはようございます。あの、華琳様でございましょうか?」

「何を言っているの。そんなこと一目見ればわかることでしょうに」

「は、申し訳ございません! 御用件は……」

 

 どうやら、秋蘭は拓実を華琳として応対するらしい。もし他の誰かに見つかったときに砕けた様子で話していては不自然だからだろうか。それにしても何やら挙動がおかしいが、春蘭の奇行に動揺しているのだろうと拓実は考えた。

 

「もういいわ。もたもたしていないで、さっさとここを開けなさい」

「は、はっ」

 

 何故だか扉を開け放たずに部屋の中から覗き見て、一向に中に入れる様子のない秋蘭に若干の苛立ちを含めた声で告げる。慌てて扉を開けた秋蘭は、頭を下げて拓実を中に招き入れた。

 

 

 

「……春蘭、あなたは何をしているの?」

「あ、へ? か、華琳さまでございますか!?」

 

 部屋に入って、未だに『等身大着せ替え華琳様人形』に抱きついたままだった春蘭に呼びかけると、ぼやけていた彼女の焦点が一瞬で拓実を捉える。理性の光が瞳に灯るや、すかさず彼女は人形から飛び退いて直立不動の体勢を取った。

 

「あ、あの、あの……」

「あら、春蘭。いったいこれは何なのかしら? 見事ではあるけれど、私の姿を使ってこんなものを作る許可を出した覚えはないわよ」

 

 何やら言葉にならない声を発している春蘭を放って、拓実は『等身大着せ替え華琳様人形』に近寄ってはその出来を検分していた。本物の華琳はこれの存在を知らないようだが、見つけたならこのような反応をするだろうと製作者である春蘭に言葉を投げかける。

 拓実を前にして頬を染めていた春蘭の顔から、今度は血の気が引いていく。春蘭、秋蘭の二人が華琳にしている数少ない秘め事であるからだろう。

 

「いえ! これ、これは……えっと、しゅ、秋蘭……」

 

 春蘭に縋るように見つめられた秋蘭は、即座に膝を突いて拓実に頭を垂れた。頭を下げながらも視線を巡らせて、秋蘭はいつになく焦った様子を見せている。

 

「これは、華琳様にお似合いになりそうな服を贈らせていただく前に、一度寸法を合わせる為に姉者が作った人形にございます。着れぬ物をお贈りする訳にはいきません故に。な、姉者」

「お、おう。その、私が毎週華琳さまのお体に合わせて調整しておりますので!」

「そう。なるほど。道理は通っているわね。そういう用途だけであるならば、まぁ許しましょうか」

 

 追随するように声を上げた春蘭の顔は強張っていたが、秋蘭は拓実の了承の声に頭を下げた。

 二人の声を聞きながらも、拓実は『等身大着せ替え華琳様人形』のあちこちを見て回っていた。拓実としてもこの自身にも瓜二つな人形が気になっていたのである。木から彫りだしたというが、間近で見てもとてもじゃないが信じられない出来栄えだ。華琳にそっくりな上にまるで生きているような肌の質感、身長どころか腕の長さ、足の長さまで本物と同一の造形である。確かに名前からいうように、用途は華琳に見立てて服を着せる為の人形なのだろう。春蘭の隠れた才能に、拓実は内心で感服する。

 一通りを見て回った後、拓実は春蘭と秋蘭に振り返る。二人は、声も上げずに固唾を呑んで拓実の反応を待っていた。

 

「けれど、私の見間違いかしらね。私が見たときは春蘭がこれに抱きついていたように見えたのだけれど。それは、今しがたあなたたちの言った用途とは少し外れてはいないかしら?」

「……あっ!」

「そ、それは……」

「それに、どうやら秋蘭も知っていてこの私に隠し事をしていたようね。まったく。これは二人ともお仕置きかしら」

 

 咄嗟に言葉を返せず、うなだれる秋蘭。春蘭はうろたえるばかりだ。そんな二人の様子を腕を組んで鋭く見つめている拓実だったが、一転、口の端を吊り上げた。

 

「ふふっ」

 

 口元を隠して、笑みをこぼす。あまりに自然な秋蘭の対応に、拓実はこみ上げてくる笑いを抑え切れない。

 

「秋蘭ったら、今まで知らなかったけれどあなたも中々に演技が上手いじゃない。誇っていいわ。その才、この私が認めましょう」

「へ?」

「華琳、様?」

「もうおふざけは終わりよ。春蘭の調子も戻ったようだし、これ以上はこの子がかわいそうよ」

「……拓実、なのか?」

 

 目をまん丸に開いている秋蘭に、拓実は拍子抜けしたと言わんばかりの呆れた表情を見せる。

 

「あら? 秋蘭ともあろう者が気づいていなかったの? しっかり私の服を見て御覧なさい。華琳のように胸元を露出させてはいないでしょうに」

「は。あ……ああ。そうか。そうだったな。あまりに自然にそ知らぬ素振りをするものだから、拓実が本当に華琳様を呼びに行ってしまったのかと。すまん。どうやら私はまだ寝惚けていたようだ」

「そのようね。ああ、それと念のため、私への言葉遣いと呼び名も華琳に対してのものへ変えておきなさい。もし何かの拍子にこの場を誰かに見られて、あなたがこの私に無礼な口を利いて応対していては弁解も出来ないわ」

「はっ! かしこまりました、華琳様」

 

 すぐさまに頭を下げた秋蘭に、拓実は薄く笑みを浮かべた。状況をまったく飲み込めていないのは、横で秋蘭と拓実とを不思議そうに見比べている春蘭だけである。

 

「なぁ、秋蘭。なにがどうなっているんだ? ええっと、目の前の華琳さまは拓実なのだろう? どうして拓実を華琳さまと呼んでいるのだ? そもそも、何故拓実が華琳さまの格好をしているんだ?」

「む。ふむ、何から説明したものか……。そうだな、姉者は華琳様に会いたいあまり、今朝方おかしくなってしまっていたのを覚えているか?」

「んぅ? この私がおかしくなんてなるわけがないだろう。そりゃ、最近華琳さまにお会いできていなくて、華琳さまとお会いできたら何をできたらいいだろうかとずっと考えてはいたが……」

 

 本当に覚えていないようで、春蘭は秋蘭の言葉に対して「ばかなことを」などと言っては笑っている。

 端から黙って眺めていた拓実は思わず疲労混じりのため息をついた。秋蘭と拓実があんなに慌てていたというのに、本人がこの調子である。

 

「まぁ、ともかく。姉者が最近華琳様にお会いできていないからな、代わりに拓実に姉者の話し相手を頼んだというわけだ。私が拓実のことを華琳様と呼んで、華琳様を相手するように話しているのは、その方が本物の華琳様と話しているような気になれるからだ。拓実がせっかく華琳様のように振舞っても、我らが変わらず砕けた話し方をしていては興醒めというものだろう?」

「ふむ、そうか。それもきっちりあるな」

「……姉者、それを言うなら『一理ある』だろうに」

 

 きっちり? と春蘭の謎の言葉に拓実は僅かに首を傾げていると、秋蘭が笑みを浮かべて補足した。

 

「おお、そうとも言うな。それだ。ええっと、それでは拓実じゃなくて、こちらの華琳さまは華琳さまということなのだな」

 

 うんうん、と頷いた春蘭は、横で眺めている拓実に向かっておもむろに膝をついた。いきなり何事かと、拓実は眉をひそめて目の前に跪いた春蘭を見下ろす。

 

「華琳さま、この私の為にわざわざお越しいただいてありがとうございますっ! ええと、本日はいつまでこちらに居られるのでしょうか。丁度、以前に華琳さまが美味しいと言ってたのでまた街で買っておいたお菓子がですね……」

「……随分と切り替えが早いわね」

 

 ぱっと対応を変えて見せた春蘭に、拓実は思わず軽く目を見開いて見つめてしまった。拓実の目の前の春蘭は、それこそ華琳を前にしているかのように目をきらきらとさせて頬を染めている。

 春蘭の中でどう解釈したかは知らないが、こういった対応をしてくれるのならば問題はないだろうと拓実は気を取り直した。

 

「華琳さま?」

「いいえ、何でもないわ。そうね。それでは秋蘭、お茶を入れて頂戴」

「はっ、ただいま」

 

 きびきびとした様子で立ち上がって秋蘭が部屋を出て行く。湯が湧いている厨房に向かったのだろう。それを見送り、拓実は春蘭に向き直った。

 

「先の春蘭の問いに答えるなら、ここに居られるのは精々昼までといったところかしらね。私がここに居ることは知られてはならないもの。今日のところはここで小さなお茶会としましょうか」

「はぁ、そうなのですかぁ……」

「こら、春蘭。そんなに落ち込まないの。せっかくのお茶会だというのに、相手が沈んだ顔ではこちらの気分もよくないわ」

「はい! あ、いえ、これは決して華琳さまに不満がある訳ではなくてですね……」

 

 必死に弁解しようとしている春蘭が微笑ましくて、拓実は笑みを浮かべる。

 

「わかっているわ。そうね、それでは秋蘭が戻ってくるまでこの『等身大着せ替え華琳様人形』とやらをどう製作したのかを聞かせて……。あら? 秋蘭ったら、もう帰ってきたのかしら」

 

 外からこの部屋に向かって、こつこつといった足音が拓実の耳には聞こえてきていた。どうも華琳の姿をしていると常時気を張っているような状態である為に、人の気配や音に敏感になるようだ。

 

「いえ、この歩調は秋蘭のものではないわね。……春蘭! この部屋に身を隠せるようなところは?」

 

 足音が近づいてきてようやく、拓実は思い違いに気がついた。声を鋭く、春蘭に言葉を飛ばす。

 

「へ? えっと、そちらの扉が物入れになっていまして、この人形分の空間は空いているかと思いますが……?」

「そう」

「え? あの、華琳さま?」

 

 返答が届くのが早いか、拓実は扉を開いて体を滑らせるように潜り込む。内側から拓実が物入れの扉を閉めるのと、部屋の外から声がかかるのは同時だった。

 

「春蘭、秋蘭。いるかしら」

「はぁっ!? か、華琳さまですかっ?」

 

 やはり、このまま何事もなくという訳にはいかないようだ。春蘭の戸惑った声を扉ごしに聞いて、拓実は潜り込んだ物入れの中でひっそりとため息を吐いた。

 

 



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25.『曹操、偏在するのこと』

 

 

「あら、春蘭だけなの? 午前は二人とも、これといった予定は入っていなかった筈よね? こちらの仕事が一段落ついたものだからあなたたちの顔を見に来たのだけれど、開けてもらえるかしら」

 

 今しがたまで自身が声に出していたのと同じ声色である華琳の声が拓実の元へも届いてくる。歩調からそうではないかと思っていたが、やはりその推察は違っていなかったようだ。

 薄暗い物置きの中で、拓実は間一髪で姿を隠せたことに安堵の息を吐いた。

 

「は、はいっ! ただいまお開けしま……あっ! いえ! 華琳さま、申し訳ありませんが少々お待ちください!」

 

 華琳に返事をして、しかし何かに気づいたらしい春蘭は、ごとごとと物音を立て始める。何事かと拓実が物置きの扉の隙間から部屋の中を覗くと、『等身大着せ替え華琳様人形』を抱えた春蘭がきょろきょろと焦った様子で周囲を見回していた。人形を置いてはまた抱え上げ、次の場所を探している。

 なるほど。拓実が隠れて代わりにスペースを埋めてしまったために、人形を目に付かずに置けるところがなくなってしまったようである。涙さえを浮かべながらあちこちをうろうろ歩き回る春蘭の姿に、自身が原因であるのを棚に上げた拓実は口の端を吊り上げていた。うろたえている春蘭の姿が可哀想で、なのに拓実がその様子を見てにんまりと笑みを浮かべているのは、きっと華琳の演技をしている所為だろう。拓実には華琳のような加虐趣味はない、筈である。

 

「春蘭。何をしているかは知らないけれど、いい加減開けさせてもらうわよ」

 

 華琳がそう言うが早いか、扉が開かれる音が響いた。

 

「こうしている間にも時間が削られているのよ。突然来訪した私にも非はある。多少部屋が散らかっているぐらいならば大目に見ましょう」

 

 数分は部屋の外で待っていた華琳だったが、一向に開かれる様子のない扉にどうやら痺れを切らしたようである。生憎、物置きの扉の隙間から覗く拓実には入り口あたりは見えなかったが、不機嫌そうな表情で扉を開ける華琳の様子は容易に想像できた。

 扉を開けながら上げられた声には随分と苛立ちが含まれていて余裕がない。普段であればもう少しはおおらかなのだが、どうやらあの華琳をしてもここ数日間の激務は堪えているようだった。

 

「あっ……か、華琳さま」

「……」

 

 部屋へと乗り込んできた華琳の姿が、拓実の視界に入ってくる。春蘭は『等身大着せ替え華琳さま人形』を抱え上げようと人形の腰に手を回した体勢で動きを止め、華琳もまたその様子を見て立ち止まり、言葉をなくした。

 

「――拓実。あなた、ここで何をしているのかしら?」

 

 二人のうち、先に動きだしたのは華琳だった。静かな、温度の一切を感じさせない冷え切った華琳の言葉に、物置きの中の拓実は思わず息を呑んだ。そうしてすぐに自身に向けられた言葉ではないと気づいて我に帰る。

 

「確かに、私はその姿のあなたをもう一人の曹孟徳として認めたわ。けれど、まだ働きをすることまでは許してはいない。あなたともあろう者ならばそれぐらいのことは理解しているものと考えていたのだけれど、買いかぶっていたのかしら。……拓実! 何とか言ってご覧なさい!」

 

 苛烈な言葉を『等身大着せ替え華琳様人形』に投げかける華琳。文字にするならばどうにも間抜けな光景を想像してしまうだろうが、観察力に優れた華琳や人間観察が趣味の拓実にすら看破させないほど、春蘭お手製の人形が精巧なのだ。

 拓実が見ても鋭く睨みつける華琳と不敵に笑みを浮かべて見据えている人形、一瞬だけ切り出して見れば華琳が二人いるかのようだ。睡眠時間を削り、珍しく冷静さを欠いている華琳は身じろぎひとつしない人形の不自然さに気がついてはいない。

 

「あの、華琳さま。その、これは……」

「春蘭、あなたもよ! 仕事にかかりきりになっているのをいいことに、私の預かり知らないところで拓実と戯れているだなんて……いくらあなたでも、あの約定を忘れた訳ではないでしょう!」

「はっ! もちろん華琳さまのお言葉ですので、しっかり覚えてます! 『もしも拓実があなたたちの誰かと事に及ぶ様子あれば、私に一報しなさい。一緒に可愛がってあげる』との仰せでした!」

 

 物置きの中で人知れず、拓実はそのあんまりな言葉に呆れから肩を落とした。こめかみに手を当てて顔をしかめる。気のせいか頭痛がしてきた。

 どうやら拓実の知らないところで恐ろしい密約が交わされていたようである。しかもその『あなたたち』という話し振りでは、秋蘭や桂花あたりも同じ場にいたのだろう。自室で演技を解いてリラックスしているならばともかく、演技中は女性に対して情欲を覚えたりはしない。しかし、もしも一歩間違えていたらどうなっていたのやら、と拓実の背に悪寒が走る。

 

「そうね。なら、何故私に隠れて拓実と……」

「これは拓実ではないからです! 華琳さま、どうかこちらへ。近くで見ていただければお分かりいただけるかと」

「何ですって?」

 

 拓実がそんな風に身震いしていると、扉の向こう側では、春蘭の言葉で冷静になったらしい華琳がじっと人形を見つめていた。そうして、ようやくその異常に気づいたらしい。

 春蘭に言われるがままに近づくと、そっとその人形の頬に手を滑らせた。そしてその質感に驚いたらしい華琳は目を見開き、電気が走ったかのように手を離す。

 

「これは、木材の感触。かなり精巧ではあるけれど、つまりは人形ということ? ……どうやら私の早とちりだったようね。春蘭、要らぬ嫌疑をかけてしまったこと、謝りましょう」

「いえ、そんな! 華琳さまが謝られることなど……」

 

 春蘭がすぐさまに跪き、華琳に深く頭を下げた。だが、華琳はそれで追求を終えたわけではないのは明らかだった。それを表すように、華琳は鋭く春蘭を見据えたままである。

 

「けれど春蘭、いったいこれは何なのかしら? 見事ではあるけれど、私の姿を使ってこんなものを作る許可を出した覚えはないわよ」

「え。は、はいっ。えっと、あれ? どこかでそんな質問を……ああ、そうだ! 確か、秋蘭が言っていたのは……」

 

 春蘭が思い返しているのは拓実とのやり取りだろう。なにせ細部こそ違うものの、華琳がした問いかけはつい先ほど拓実がしたものとほぼ同じである。思案していた様子の春蘭は数秒を置いてようやく思い出したのか、眉を開いて表情を明るくさせた。

 

「華琳さまに服を贈らせていただく前に、本当にぴったり着れるのかどうかを試してみるために作ったもの、です。あっ、それと、私が毎週華琳さまのお体に合わせて調整しておりますから!」

「そう。なるほど。道理は通っているわね。そういった用途であるならば、まぁ許しましょうか。代わりといっては何だけれど、先ほどの失態は忘れて頂戴。この私ともあろう者が少しばかり取り乱してしまったわね」

 

 拓実が気づくか気づかないかの、ほんの僅かばかりの疲労をにじませて華琳が笑みを浮かべた。素振りこそほとんど見せてはいないが、華琳はやはり相当に疲れているようだ。そうでもなければ華琳のこと、端から見て疲労していることを感じさせたりはしない筈である。

 

「大変お待たせしました、華琳様」

 

 ちょうどそんな折、扉を開けて秋蘭が帰ってきた。盆の上には三つの茶碗が乗っていて、湯気を立てている。

 

「秋蘭? 戻ったの」

 

 秋蘭は華琳へと礼で返して、何事もなく盆を机へと降ろす。華琳と対していた春蘭の顔は強張り、そして拓実もまた、秋蘭の登場に密かにうろたえていた。

 たまたま直前に呼び方を変えていた為に華琳は普通に応対しているが、秋蘭は部屋を出ていたので拓実と華琳が入れ替わっていることを知らないのである。今の言葉も、秋蘭が現状を正しく認識していれば出てくる筈がない。拓実ではなく華琳だと知っているなら「華琳様、いらしていたのですか?」と尋ねるであろう場面であった。

 悪いことに華琳と春蘭の位置関係は、秋蘭が出て行く前までの拓実と春蘭とほぼ変わらない。精々が『等身大着せ替え華琳様人形』の位置がずれているぐらいである。先ほど忠告したように秋蘭自身が華琳の胸元を見て違いに気づいてくれればいいのだが、果たして一度拓実と認識してしまった固定観念は崩れてくれるのだろうか。思い込みというのは存外馬鹿にならないものだ。加えて言えば拓実が無断で華琳の姿をしているのも、大本は秋蘭の『華琳は仕事で忙しく、決して部屋から出てこないだろう』という判断からのもので、秋蘭はきっと目の前の相手が華琳であるだなんて露ほどにも思っていない。

 

「あら、この香り、中々上質のものね」

「は。この三人でこうして話すのも久方振りですので、普段飲むものより少しばかり良い茶の葉を用意致しておりました。華琳様、どうぞ。ほら、姉者にも」

「ありがとう」

「お、おう」

 

 華琳は秋蘭から優雅に茶碗を受け取り、香りを楽しむように目を瞑って口をつける。どうやら落ち着いたらしく、先ほどまでの取り乱した名残などは欠片も見えない。

 春蘭がその隙を見計らって、華琳に気づかれぬよう身振り手振りで秋蘭に何事かを伝えようとするも、何を勘違いしたのか秋蘭はそんな春蘭を見て微笑んでいる。

 

「悪くないわね」

「ありがとうございます。ああ、姉者。姉者が先ほど言いかけていた菓子を出してもらって良いか? あれを茶請けにしよう」

「えっ? いや、秋蘭。あれは……」

「以前に華琳様が美味しいと仰っていた店のものだからな。きっと華琳様も気に入ってくださることだろう」

「秋蘭がそうまで言う菓子屋と言えば、そうね。中央通りの『不死爺(ふじや)』か『好爺好名(こうじいこうな)』あたりかしらね」

「ほう、ご存知でしたか。……姉者? 菓子が置いてある場所を忘れたのか? 日に当たらないようにとしておいただろう。まったく、しょうがないな」

「あっ!」

 

 立ち上がり、何の気負いもせずに秋蘭が物置きの扉から覗き込んでいる拓実の元へと近づいてくる。もしや、春蘭が戸惑っていたのはそれが取り出せない場所にあるからではないだろうか。ふと横を見れば、なるほど『不死爺』という文字が入った箱が置いてある。

 視線を戻せばもう秋蘭が扉に手をかけようとしていたが、声などを出して華琳に存在を知られるわけにはいかない拓実には為す術がない。それでも取り乱すことなくその瞬間を待つのは、いったい何の矜持があってだろうか。拓実本人でさえもわかっていない。

 

「ああ、春蘭。一つ尋ねるけれど、あなた拓実の所在は知っているかしら? ここに来る前に仕事の用件であの子の部屋に足を運んだのだけれど、留守にしていたのよね」

 

 秋蘭が物置の扉を開けたその瞬間、思い出したようにそう問いかけた華琳は春蘭に顔を向けた。

 その時、その部屋の反対側では、物置きの扉を開け放った体勢のままの秋蘭と、腕を組んで仁王立ちしている拓実が無言で対面していた。

 

「……」

 

 秋蘭は口元をひくひくと引きつらせ、いつもであれば鋭く怜悧なその目を見開いて、拓実を凝視している。拓実がさてどうしたものかととりあえずにっこりと笑って、横に置いてあった『不死爺』の箱を手渡してみた。目をまん丸にしている秋蘭はそれを素直に受け取って、何度かまばたき。視線を手元の箱と拓実とで何度か往復させる。

 

「た、たくみのやつですか。わたしはまったくもってぞんじませんが。いや、はは、どこへいったのでしょうか。せっかくかりんさまがあしをはこんでくださったというのにあいつめはけしからん」

 

 春蘭の棒読みな声が届く。おそらく位置的に秋蘭の後姿と物置きの中にいる拓実の姿がその視界に入っていることだろう。拓実はその性格からなんとなくわかってはいたが、その大根役者振りから春蘭が役者には向いていないことに確信を持った。

 

「妙に片言になったりしてどうしたの、春蘭ったら。それにしてもまったく。あの子は本当にどこへ行っているのやら。今いるのは荀攸の方だろうから、さては桂花のところかしらね」

 

 華琳は視線を物置側へと向けず、天井へとやってそのまま思案している。拓実の目前にいる秋蘭はゆっくりと首だけで背後を振り返って、そんな華琳と『等身大着せ替え華琳様人形』の姿を視界に収めた後、また拓実へと向き直った。

 笑みを浮かべたままの拓実が何となく手を振って見せると、秋蘭は表情を変えないまま手を振り返す。そうして秋蘭は己が自失していたことに気がついたらしく、扉にかかった手に思いっきり力をこめたようだった。もちろん必要のない力を無理に入れたならば過ぎた音が響くのは道理であり、扉は乱暴に閉められて、ばん、と物を叩きつけたようなけたたましい音が部屋中に響いた。

 

「っ、どうしたの秋蘭? 春蘭じゃあるまいし、そんなに力いっぱいに閉めては扉が壊れてしまうわよ」

「も、申し訳ございません! 少々、力加減を間違えまして……」

「そんな問題ではなかったと思うのだけれど……。ああ、それと秋蘭。聞きそびれていたけれど、事前に知らせておいた訳でもないのによく私の分のお茶を用意していたわね? どうやら部屋に私がいることも知っていたようだし」

「いえ、その。準備を終えて戻る途中に華琳様のお姿をそこの廊下でお見かけしましたので、急ぎ茶碗を一つ多くご用意させていただいただけで……」

「……何やら今日のあなたたちは二人とも様子がおかしいわね」

 

 頭を下げたまま煮え切らない態度で弁解する秋蘭を、いよいよ華琳は鋭く見据える。秋蘭の登場からところどころで怪訝な色を含めていたが、ついに確信に至ったようである。

 

「いえ、そのようなことは」

「……いいわ。あなたがそう言うのならば、これ以上の追求はよしておきましょう。そうね。それでは気分を入れ替えて、茶請け話にこの人形についてでも聞かせてもらいましょうか。これはどこの職人に作らせたものなのかしら。ここまでのものを作れる技術を持つのならば、是非に城に招致したいわ」

「あ、あっ! 華琳さま、私です! それは私が作ったものです!」

 

 手を上げて必死に自身の存在をアピールする春蘭に、華琳は驚きながらも相好を崩し、機嫌を回復させた様子を見せた。不承不承ながらも華琳が納得した様子を見せたことで、表情こそ変わらないものの秋蘭の肩から余計な力が抜けたのがわかる。何とか乗り切ったと安心したのだろう。

 拓実はただじっと身じろぎもせずに、扉の隙間から三人をつぶさに観察していた。

 

 

 

 その後、十数分ほどたわいない雑談を交わした華琳は、執務室に戻ることを告げて退出していった。幾度か怪しいところはあったが、春蘭、秋蘭は共に華琳の疑惑の目からやり過ごしたようだ。

 扉が完全に閉まり、華琳の足音が部屋から遠ざかっていくのを聞き届け、ようやく二人は拓実が潜む物置きの前に集まった。

 

「ふぅ。危なかったな、姉者……」

「ああ。事が事とはいえ、恐れ多くも華琳さまに隠し事をすることになろうとは」

 

 二人は疲れた様子で言って、近くにいた秋蘭が物置きの扉を開ける。その先にはもちろん、いつものように笑みを浮かべた拓実の姿があった。

 

「このような場所で長らくお待たせして申し訳ありません。さぁ、こちらへ」

「……」

「……華琳、様?」

 

 しかしおかしい。拓実は物置きから出ようともせずに立ち尽くしている。いや、それどころか秋蘭の呼びかけにも応じずに一言も声を発さず、中空の一点を凝視していて瞬きすらしない。

 思わず秋蘭は後ろに振り返った。その先には先ほど華琳の興味を集めていた『等身大着せ替え華琳様人形』があった。それを目に焼きつけて視線を戻すと、微動だにしていない拓実の姿。問題は、それらの表情も、体勢も焼き付けたそれとほぼ同一であること。極めつけは、拓実のその体からは活力が感じられない。それこそ、作り物のようだ。

 目の前にいるのは華琳を模した拓実ではない。そう、これではまるで、拓実が模しているのは

 

「……『等身大着せ替え華琳様人形』」

「あら。二人して私に何事か隠していると思えば、もう一体人形を隠していたの」

 

 呆然と秋蘭が呟いたその時、二人の背後――入り口からも突如声が響く。その声の持ち主は先ほど帰ったばかりの筈である。だが、二人が驚き振り向けば、予想に違わぬ人物が立っていた。

 

「か、華琳さまぁ!?」

「執務室にお帰りになられたのでは!」

「ええ。けれど拓実に渡すつもりだった竹簡をここに忘れてしまったから、引き返してきたのよ」

 

 華琳は「すこしばかり疲れが溜まっているのかしらね」ところころと笑って、椅子の上に置かれた書簡を拾い上げた。

 それを聞いて春蘭は馬鹿正直に納得してしまったようだったが、秋蘭は違う。秋蘭は華琳が退室する前に、忘れ物がないか部屋の中を確認している。入り口の扉を閉めたとき、その椅子の上に何もなかったのを知っている。

 ならば何故そこにある筈のない書簡が存在しているのか。そしてそんな嘘を華琳がついているのか。二人は決してやり過ごせていた訳ではなかった。何事かを隠しているのを察した華琳は、こうして尻尾を出すまで二人を泳がせていただけなのだろう。

 

「ふふ、驚かせてしまったようね。さて、少しばかり拍子抜けだったけれど気掛かりも晴れたことだし、私も残りの仕事を片付けてしまいましょうか」

「華琳さま、どうかお気をつけて!」

 

 春蘭の声を背に受けて、華琳は颯爽と去っていく。今回華琳が仕事の合間を縫ってここに来たのはおそらくは最近顔を合わせていない春蘭を心配してのことだろう。

 その気持ち自体は嬉しいものである。ただ、最後に春蘭や秋蘭にちょっとした罠を仕掛けていったのは、今回ばかりは控えて欲しかったが。

 

 秋蘭が言葉も忘れて呆然と華琳が去っていった先を見つめ続けていると、しばらくして背後で「ふぅ」とため息が吐かれた。振り向けば、まるで動く様子を見せず人形のようだった拓実が首を右へ左へと傾けてほぐしている。

 

「まったく、恐ろしい子ね。あの子にしてみればちょっとした悪戯なのだろうけれど、相手をする方は一切の油断ができないわ。春蘭、秋蘭。助かったわ。ありがとう。それにしても華琳が来ることがわかっていたなら、私がわざわざ出向くことはなかったわね」

「……いえ。今回の件は私の我侭に華琳様をお付き合いさせてしまったことがそもそもの原因ですので。責があるとすればこの私に。まして、労わっていただくことなどは、何も……」

 

 にっこりと笑ってみせた拓実に向き直った秋蘭は、深く深く頭を下げた。拓実に向けた礼には、謝意がある。だが、それ以上の驚きと、少しばかりの畏怖が混ざっていた。

 華琳が並外れた洞察力と加虐性、そして今回のようなどこか子供染みた悪戯心を持っていることなどは、長年の付き合いである春蘭、秋蘭であれば当然のように知るところである。しかしそう認識していても、彼女は二人の予想を更に上回ってみせる。それも一つの華琳の恐ろしさだ。

 華琳を相手にしては、拓実の言うように気を抜けない。現に今回も、拓実がその意図に気づかなければ、今回のことは華琳に露見してしまっていたに違いない。

 

「いいわ。秋蘭のお茶を頂きたいところだけれど、どうやら日がよろしくないようね。また後日としましょう。そろそろ私も部屋に戻るとするわ。春蘭、今日は口に出来なかったから、次の機会にも『不死爺』の菓子を茶請けに用意しておくこと。いいわね?」

「はい、この春蘭めにお任せください!」

「それでは念のため、私がお供いたしましょう。華琳様が拓実を探していないとも限りません。私でも華琳様を引き止めさせていただくぐらいのことは出来るでしょう」

「そうね。では秋蘭、私の先導をなさい」

「かしこまりました」

 

 

 

 秋蘭は先んじて入り口の扉を開き、拓実の先を歩き出す。そうしながらも秋蘭は考えていた。華琳のこと、そして今自身の後ろを悠々と歩いている拓実のことを。

 

 華琳が何事かを隠しているだろうと二人を疑っていた様子には、秋蘭も気づいていた。しかし、華琳がそれらしく露にしたのはたったの一度のみであって、その後はそんな様子は一切見せずにいつものように三人で談笑していたのだ。

 秋蘭はもちろんのこと、春蘭も戸惑っていたのは最初だけで、以降は拓実の存在を忘れたかのような自然さでボロを出したりはしなかった。だからこそ秋蘭は華琳が行動に起こすほどまでに懸念しているとは考えていなかったのである。今ならわかるが、そう考えるようにと華琳に誘導されていたのだ。

 

 そんな華琳の行動を拓実は見通していた。いったいどうして華琳が潜んでいることを知れたのだろうか。つい今しがたまでそれが秋蘭にはわからなかった。

 事が起こった後であれば、結果から順序を追って一連の行動に納得も、隠されていた意味に気づくことも出来る。しかし、その兆候を見つけるのはあまりに難しかったはずだ。あの華琳を相手では、外からではまず察することは出来ないだろう。

 ならば、何故拓実だけはそれを知れたのか。難しいことではない。拓実は、秋蘭のように外から華琳を見ていて気づいたのではなく、一つ一つの物事が起こった時に自身を華琳として考えていたのだ。華琳の反応を見ての補強はあっただろうが、あくまでも拓実は自身だったらこうするだろうとしていたのである。それは拓実が華琳と同じ境遇に立たされていたなら、華琳とほぼ同じ行動を取っていたということになる。

 

 秋蘭はそうして思い出した。ここ数ヶ月の間で、一人の人格として振舞っている荀攸や許定と接していた為に忘れていたのだ。この姿の拓実は、華琳なのだ。華琳として考え、華琳として行動する。華琳に成り代わるべく、その全てを模倣しているのである。

 荀攸や許定という人格は、もちろん桂花や季衣が思考の組み立て方の基準とはなっているが、本人たちとは明らかに独立している。影武者としての拓実からは、華琳であろうとする意識の剥離がほとんどない。

 そして拓実の演技には違和感がどんどん無くなってきている。その証拠に秋蘭は今日、拓実を華琳として対応し、また拓実が華琳と入れ替わっていることに気がつかずにいたのである。華琳と謁見した時は別にしてだが、出会った当初の拓実の演技ではこうはいかなかっただろう。

 

 あの完成度であれば遠くない未来に、拓実に影武者の役目が任されるだろう。そう考えるも、秋蘭は手放しで喜べない。この感覚には覚えがあった。いつか、玉座の間で桂花と秋蘭が二人して華琳に対して感じたそれを、今また感じている気がする。

 妙な既視観を振り払うように思考を切り替えた秋蘭は後ろへと顔を向けて、拓実に問いかけた。

 

「それにしても、人形にまでなりきることも可能なのですね。初めて見ましたが、姉者が彫ったあれと入れ替わってもすぐには気づかないかもしれません」

「ああ、先ほどのあれね」

 

 一瞬考える様子を見せたが、拓実はすぐに思い当たったようで小さく笑みを浮かべた。

 

「あれも演劇の一種なのよ。言葉を使わずに、身振りや手振り、或いは表情で表現する手法。その中の人形振りといって、言葉そのままの意味で人形のように静止するものね。同じ手法で、簡単なものだと……っ!?」

 

 秋蘭の見ている前で、話の途中で突然、拓実の左肩が何かに当たったかのように弾かれた。無防備によろけた拓実は目を白黒とさせてたたらを踏む。

 

「華琳様っ!?」

 

 秋蘭は慌てて身構え、その当たったものを確認しようと視線を巡らせる。瞬間、刺客の存在が頭をよぎったが、しかし殺気はなかった。秋蘭の視界に何かが入った様子もない。弓使いである為に秋蘭は動体視力に自信があった。

 それを表すように周囲にも何ら異常はなく、拓実もまた何もない宙を見て不思議そうに左肩を押さえている。

 

「華琳様、少々お待ちを……」

 

 警戒している秋蘭を他所に、僅かに首を傾げた拓実がまた歩き出す。しかしそれも同じところで拓実の体が何か障害物に当たって止まってしまい、またも歩行を妨げられてしまった。

 

「おのれ、妖術の類か!」

 

 秋蘭がその箇所を手で払うが、何も掴めずに空を切る。二度、三度とやっても結果は同じ。だが、拓実が右手を伸ばすと、何かに当たってそれ以上進まない。左手を伸ばしても同じ位置で止まってしまう。拓実の両手の平がぺたぺたとそれを探っていくと、どうやら広範囲に壁があるようだ。しかも、どうやらそれは秋蘭には触れられない壁である。

 

「面妖な……! ……む? もしや、華琳様?」

「ふふふ。こうまで反応してくれると、やってみせた甲斐があるわね」

 

 にこにこと笑っている拓実が、今度は何にも遮られることなく歩き出した。置いていかれた秋蘭は言葉が出てこない。かつかつと軽やかな音を立てて上機嫌に歩いていく拓実の後姿を、呆然と眺めるしかない。人が驚いているところを見て喜んでいる拓実は、正しく華琳を相手にしているようだ。

 いや、華琳からは考えられないからかい方をする分、よっぽど性質が悪いかもしれない。若干呆れた様子で息を吐き、次いで小さく苦笑いを浮かべた秋蘭は先を歩く拓実を追いかけ始めた。

 

 



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26.『拓実、大散財するのこと』

 

「それでは華琳様、本日はご足労いただきましてありがとうございました。このお礼はいずれまた改めまして……」

「もし秋蘭が恩に着るというのならば、今後の働きを以って返しなさい。出来るならば今回のようなことは最後にして欲しいのだけれどね。まぁ退屈はしなかったわ」

「はっ!」

 

 自室まで拓実を送った秋蘭は、最後にもう一度礼を述べて来た道を戻っていった。拓実としては背が見えなくなるまで見送りたかったけれども、そうしてこの姿が衆目を集めては本末転倒。早々に部屋へと戻ることにする。

 

「さて。もう半日が過ぎてしまったけれど、残った時間は何をして過ごしましょうか」

 

 せっかくの休みだ。特に買いたい物があるわけでもないが、街に出てみるのもいいだろうか。忘れていたが、朝から食事も摂っていない。

 部屋へと入った拓実は窓から入り込む陽光を見ては一人ごちて、入り口でぴたりと足を止めた。表情を消して、部屋の中を一瞥する。

 

「誰かしらね、他人の部屋に忍び込む無粋な輩は……。出てくるのであれば今のうちよ。この私の言葉を無碍にするというならば、相応の覚悟をしてもらいましょうか」

 

 有無を言わさぬ声色で声を上げた拓実は、腰に佩いていた青釭の剣に手をかけ、すっと構えて見せる。目を細めて、この部屋に姿を隠しているだろう誰かを威圧する。ぴりぴりと集中して気配を探っていくうちに、寝台の影から一人の小柄な少女が現れた。

 

「……」

 

 果たして、隠れていたのは桂花だった。どこか憔悴した様子で声も上げず、据わった目でじっと拓実を見つめている。思わぬ相手の登場に、拓実は剣の柄から手をのけて軽く目を見開いた。

 しかし、政務に追われているだろう桂花が何故拓実の部屋に潜んでいたのか。不可解な彼女の行動に、拓実は首を傾げた。

 

「桂花? こんなところで何をしているの?」

「~~っ! それはこちらの台詞です! もう、拓実様こそいったい何をなさっているのですか!」

 

 その拓実の言葉を皮切りにして、我慢がならないというように桂花は声を上げた。桂花が、外見的には華琳とほぼ変わらないだろう今の自分をしっかりと拓実と認識している。そのことに対して拓実は焦る様子も見せず、むしろ感心した風に腕を組んだ。

 

「あら、気づかれてしまったのね。あなたにはこのまま隠し通せるものと思っていたのだけれど」

「……先ほど、私の部屋に華琳様が訪ねに来られました。明日から荀攸と許定それぞれに仕事を任せたいので拓実を捜している、と仰っておられましたが」

 

 しかしその余裕も桂花の言葉が放たれるまで。浮かべていた不敵な笑みごと拓実は凍りついてしまう。

 

「今朝方にお会いした時に、拓実と会って私と拓実の仕事の経過報告を受けているとお聞きしていたのに、先ほどお会いした華琳様に進捗状況を訊ねられました。どうやらそちらの華琳様は、機会があればご一緒にお散歩していただけるという約束も覚えておられないようで」

 

 ふふ、と声を漏らしてどこかやさぐれた笑みを浮かべる桂花は、「華琳様より代わりに言付けに参りました」と手元の二つの書簡を机の上に置いた。

 拓実はそれに目もくれず、桂花から視線を外せずにいた。事と次第によっては、今回のことは全て華琳に知るところとなってしまっているかもしれない。

 

「そ、そう。私がこうしていることを華琳は?」

「存じておられません。いっそのこと、華琳様の前で疑問を声に出して吐き出してしまおうかとも考えましたが!」

 

 どうやら話しているうちに桂花のボルテージが上がってきたらしい。憤懣やるかたなしといった様子で、顔を赤くしている。

 

「対応させていただいていたのが私でしたから今朝方お会いしたのが拓実様だと気づき、華琳様にお訊ねせずとも現状を把握出来ましたが、季衣や春蘭あたりではどうなっていたことか。恐れながら諫言(かんげん)させて頂きます。どのような経緯でその姿でいられるのか存じませんが、そういった軽挙はどうか改めてくださいませ! まして他はいざ知らずとも、華琳様より軍師の任を頂いている私に通達がなくては、いざ何事かが起こった時に充分な対処が……」

「……桂花がこの私に対して、こうまで捲くし立ててくるだなんて予想外ね」

 

 矢継ぎ早に次々と言葉を浴びせられ、拓実は少しばかりうろたえていた。この華琳の姿の拓実を相手に、桂花がこうまで興奮して声を荒らげたことはなかった。それほど彼女は今回の拓実の行動に腹に据えかねていたのだろうか。

 確かに桂花が言及しているように、せめて彼女には事情を説明しておくべきだったのかもしれない。しかしどうにも拓実には、怒りそのものが強いようには見えずにいた。強いて言うなら、ふてくされているといった感情が強いように思える。

 

「私も申し訳ないとは思っているわ。今朝方は危急の用件があった為に、あなたに説明する時間も惜しかったのよ」

「こうして戻って来られたということは、もう解決されたのですね? それでは、拓実様が出て行かねばならぬ危急の用件とやらをお聞かせ頂けますでしょうか」

 

 謝意を見せても勢いを弱めず、有無を言わさぬ物言いで詰め寄ってくる桂花に拓実はまたもたじろいだ。やはりいつになく押しが強い。今の桂花には、華琳になりきっている拓実にしても逆らえない何かがあった。

 

 

「まぁ、そういったことがあって、秋蘭の頼みを聞いてきたというだけの話よ。……桂花?」

 

 春蘭も平常運転しているようなので、華琳本人にさえ知られなければ良いだろうと洗いざらい話して聞かせた拓実は、桂花より返事がないことに気づいて注意を傾けた。

 どうやら彼女は口内でぶちぶちと不満を呟いているようで、「脳筋猪武者が」「私だって拓実様や華琳様とお茶を」「きっとあの馬鹿を抹殺すれば」など物騒な単語が聞こえてくる。そうして、どうして桂花が華琳の姿をしている拓実にまで食って掛かっていたかを知ることができた。

 

「なるほどね、ふふ」

 

 要するに、拓実に事実を打ち明けられもせず相談もされなかった為に、華琳本人に放って置かれたような気分にでもなって焼きもちを焼いていたのだろう。そう認識してみれば、華琳のことに一喜一憂している彼女がどうにも可愛らしく思えてしょうがない。

 

「桂花、溜まってしまっているという仕事は大丈夫なのかしら?」

「……え? はい。今朝拓実様とお会いした後、仕事さえ終えていればと発奮しておりましたので、粗方は終えております。おおよそ全体量の六割ほどでございましょうか」

 

 突然の話題の転換にきょとんとした顔で拓実を見る桂花。その口振りに嘘をついている様子はない。

 拓実は昨夜に聞いた、桂花の今日一日の仕事内容を思い起こす。荀攸一人であれば、寝ずに明日の朝方までかかってしまうだろう量が溜まっていた筈だ。その半数以上を午前いっぱいでこなしたというのだから恐るべきは荀彧の名を持つ少女の実力か、仕事を終えていれば散歩に連れて行ってもらえるかもしれないという彼女の下心か。ただ、流石に過剰なペースではあったらしく、目の前の桂花はいつもより若干憔悴している風に見える。

 

「そうね。ではあなたには迷惑をかけてしまったことだし、よければ街へ出向いて食事でもご馳走しましょうか。散歩の約束の代わりとでも思って頂戴」

「へ? え、え? それは是非にでもお願いしたいことではありますけど……」

「そうと決まったなら門で待ち合わせとしましょう。もし私より遅れでもしたならば、置いて行くわよ」

 

 言われるも、桂花はぽかんとしたまま立ち尽くす。一向に動き出さない彼女に拓実はゆっくりと歩み寄って、手をやり頬に触れた。艶かしく顔を触れられて小さく身震いした桂花は、ぽおっと肌を桜色に染めていく。

 

「何を呆けているの。まさか、このままで出るつもりではないわよね? さっさと部屋へと戻りなさい。街へ出るならそれなりの準備が必要でしょう」

「は、はいっ、ただいま! ただいま着替えて参ります!」

 

 遅れて理解したらしい桂花は顔を輝かせた。そして一歩退いて勢いよく頭を下げ、時間が惜しいとばかりに早足で退室していく。そんな慌てふためいて駆けていった桂花の背中を眺め、拓実はにんまりと笑みを浮かべたのだった。

 

 

 

 

「ふっざけんじゃないわよ! 誰が好き好んであんたなんかとご飯を食べに行かなきゃならないの! この馬鹿っ、私の期待を返しなさいよ!」

 

 拓実と桂花が別れて十五分ほど経っただろうか。今拓実の目の前には、気炎を上げて怒りを露にする桂花の姿があった。加えて、今までにない怒りようだ。

 それもその筈、彼女が望んでいた『拓実様』は待ち合わせの城門に現れなかったのである。

 

「馬鹿はそっちでしょうが。あんたも懲りないわね。執務室でお仕事なさっている筈の華琳様が、あんたなんかと街へ出てこられるわけないでしょうに。華琳様のことになると集中する割りに、他の事が見えなくなるなんて春蘭とそっくりじゃない。無様すぎて思わず失笑しちゃうわ」

 

 次いで「それでも本当に華琳様の軍師なの?」などと続けた拓実は、意地の悪い、それこそ本人でもそう思ってしまうほどのいやらしい笑みを浮かべて見せる。もちろんそこまで言われて桂花は平静でいられるはずもなく、顔を真っ赤にさせて怒りでぶるぶると体を震わせている。

 

「くっ、こ、こいつはっ! 何故私は、午前を仕事に充ててしまったの! それよりも仕返しの為の落とし穴を作っておくべきだったのよ! 落ちた拍子に頭でも打って死んでくれればよかったのに……!」

 

 心底午前の行動を悔いている桂花。その横にいるのは、もはや周囲からは二人でいるのが見慣れた姿となっている荀攸であった。桂花の補佐という役職柄、二人の言い合いは珍しいものではない。城門前で言い合う二人を、周囲を歩く文官武官はいつものことだと通り過ぎていく。

 そうして数分が経って落ち着いたのか、ようやく桂花の頭から血が降りてくる。ただ、騙されたことで気分を害したのは変わらないらしく、不愉快であるという素振りを隠そうともしていない。

 

「それで、桂花はどうするのよ?」

「はぁ? どうするって何が? 人に物を尋ねるときははっきり明確になさいよ。あんたは馬鹿じゃないんでしょ?」

 

 苛立ちからか、返答する声に素っ気が欠片も無い。ないだけならともかく、素っ気の代わりに棘がある。とはいえ拓実も慣れたもので、まったく気にせず呆れた顔で応対する。そんな拓実の様子がまた桂花は気に食わないようではある。

 

「だから、あんたがそんなに嫌なら、別に私はここで帰ってもいいわよ。華琳様がご馳走するって約束されたことだから、私が奢ってあげるつもりだったけど」

 

 顔を険しくさせていた桂花だったが、今度はその問いかけに苦悩して押し黙った。

 そうして数秒。下から見上げるようにして拓実を睨みつけ、次いで「はぁ」と疲れたように息を吐く。

 

「……美味しいお店、知っているんでしょうね?」

「この荀公達に抜かりはないわ。許定が軍を率いるまで就いていた仕事、忘れたの? 警備から外れた今も、あの子は暇を見つけて警備の仕事を手伝ってるみたいだしね」

 

 不敵に笑みを浮かべながらも、もう一人の自分を他所事のように語る拓実に対して、桂花はフードを目深に被って先を歩き出す。肩越しに振り向くと、不機嫌そうに口を開いた。

 

「ふん、しょうがないから付き合ってあげるわ。あ、もちろん甘味処まであんたの奢りよ。わかってるんでしょうね」

 

 

 

 さて。拓実が先導して進む先は、若い女性に人気のある高級志向の料理店である。色々な種類、色とりどりの料理を出されるらしく、落ち着いた雰囲気で食事を楽しめる、らしい。

 らしい、というのは、普段街を出歩いている許定であれば質よりも量を重視し、且つ騒がしい店を好んで利用するものだから、美味しいと噂には聞いていてもこういった店には寄り付かなかったのである。

 逆に、荀攸に扮している拓実には話し声や笑い声が飛び交う屋台よりは、こういったしっかりとした店構えの店で静かに食事を摂るほうがストレスを感じない。そういった点では居心地が良さそうな店である。

 

「……いつのまにこんな店が」

「あんた、街にも碌に出ていないから流行り(すた)りに疎くなっちゃってるのよ。一緒に仕事してるから忙しいのはわかってるけど、偶には城の外にも出なさいよ」

 

 赤と黒の装飾に小さく金をあしらった豪奢に過ぎない建物を、桂花は呆然と見上げている。その横で、拓実は得意げになって声をかける。

 とはいえ拓実も陳留を離れていたので詳しい開店日までは知らないのだが、前々回の休暇の時にはもう開店していたから街にさえ出ていれば知る機会はいくらでもあっただろう。

 

「他の奴からならともかく、拓実にだけは言われたくはないわね。この前のあんたの休みに、『朝から晩まで城の書庫にこもっていると書庫番から報告を受けたが、何をしていたのだ』って、秋蘭が私に訊ねに来てたわよ。あれ、あんたでしょ?」

「う。そ、そうね」

 

 痛いところを突かれたというように拓実は顔をしかめた。その日は桂花が言うように、日頃から桂花が薦めていた書物が溜まっていたので一気に消化してやろうと意気込み、書庫に閉じこもって読書をしていたのである。

 言われてみれば確かに、外に出ているのは許定ばかりで荀攸としては何事か用でもなければ街へ繰り出したりはしていない。食事も城で軽く摂るだけで、仕事の合間に許定が買い込んでいたお菓子を桂花と二人で食べるぐらいだ。

 

「……それはいいから、とにかくさっさと入るわよ。話すのは店に入ってからでもいいでしょう? って、何? 何か揉め事?」

 

 どうにも都合が悪くなったので店へと歩を進めた拓実だったが、入り口では何人かが立ち往生して塞がれてしまっている為に進めない。注意してみれば、多少剣呑な声が飛んでいた。中を覗けばどうやら事を起こしているのは見知った人物であった。

 

「ねぇ、あそこにいるのって劉備たちじゃないの?」

「どうやらそうみたいね……」

 

 そこに居たのは、劉備を始めとして、関羽、張飛、諸葛亮に鳳統、そして天の御使いとされている北郷一刀であった。

 何故ここに、と考えれば、行軍の最中に許定として劉備の陣の一刀の天幕に遊びに行った時、陳留にある評判の良い料理店ということでこの店の所在を語った覚えがある。となれば、この騒ぎの責任の一端は拓実にもあるだろう。

 とりあえず話を聞いてみないことには始まらない。人を掻き分けて、劉備たちと店主らしき人物の下へと進んでいく。

 

「ちょっと。この騒ぎは一体何なの?」

「はぁ。ええと、そちら様は?」

 

 拓実が声をかけると、劉備一行と、でっぷりしてちょび髭を生やした男が一斉に振り向いた。うち、関羽と相対していた男が進み出て拓実へと問いかけてくる。同時に、拓実と同じように人を掻き分けてきた桂花がたどり着いた。

 

「この陳留を治める(エン)州牧、曹孟徳様の臣下である荀公達よ。隣のこれは叔母の荀文若」

「これって、あんたもう少し言いようはないの? あと、なんだか聞こえが悪いから叔母って紹介はやめて欲しいんだけど」

 

 なにやら桂花が文句をつけてくるが、拓実は華麗に無視する。太った男は、拓実の言葉を聞いてすぐさまに恭しく礼を取った。

 

「おお。曹孟徳様の右腕と名高い荀文若様に、その補佐官をなされている荀公達様で! お噂はかねがね! 私がこの店の店主でございます。お二方がご不在の為にご挨拶にも伺えず、申し訳ありません」

「へぇ、聞いた? 華琳様の右腕で名高いですって。この店主、男の割にはなかなかわかってるじゃない」

「桂花、あんたさっきからうるさい。少し黙ってなさいよ。それで? なにやら揉め事のようだけれど」

 

 恐縮した風の店主は、睨みつけてくる関羽から隠れるように身を縮こめる。

 

「はぁ。それが最近では黄巾党といった輩が略奪やら食い逃げやらを繰り返しているために、先日より来歴のあるお客様以外には身元の証明をお願いするようになりまして。それが適わぬ旅人の方の場合、以前にご来店いただいた誰それからのご紹介という形で代えさせていただいているのですが」

 

 いったんそこで言葉を切って、店主は袖から手巾を取り出して額の汗を拭く。どう説明したものかと困り顔である。

 

「最近隊長職に就かれた許定様より評判を聞いてきたということで、しかし許定様は当店にご来店されたことはなくどうしたものかと。もちろん、街を護っていただいている許定様は存じておりますので十分信頼に足るご紹介ではあります。ですが、どういったご関係なのかをお訪ねしていたところ……」

「そこまで綿密に問い質されてはまるで我らが罪人のようではないか。つまるところ、我らを黄巾の連中として見ているということだろう」

「い、いえいえ! そういった訳では決して」

 

 店主の言葉を引き継いだのは、関羽。苛つきが声から聞き取れる。

 なるほど。店主は前例のない紹介にどうしたものかと事の真偽を確かめていた。先日からと言っていたから応対マニュアルもまだ出来ていないのだろう。踏まえてみれば、まぁ、適当な対応ではある。

 おそらく関羽も最初は冷静に応対していたようだが、何度となく繰り返される質問と渋るような店主の態度に、黄巾党と疑われているようで不愉快になったというところか。黄巾党を打倒する為に立っている彼女たちがその黄巾党かと疑われたならまずいい気持ちはしない。

 この揉め事の元々を正したなら、店の現状も知らず、訪れたことがあるわけでもない店を迂闊に紹介をしてしまった許定に非があるだろうか。つまりは……

 

「あんたが原因なわけね」

 

 ぼそり、と拓実にだけ聞こえるように呟いた桂花の声が、拓実の耳には痛い。言い訳となってしまうが、拓実にしても、そんな『一見様お断り』なんて制度が出来ているだなんて知らなかったのである。

 

「こほん。店主。この者らは曹孟徳様と共に、黄巾党討伐に赴いている雄志を抱く義勇軍の者よ。その身元はこの私、荀公達が保障するわ」

「さ、左様でございましたか。それは申し訳ございません、お客様方!」

「ええと、あなたは関羽でよかったかしら? 余計なことをしたらしい許定には言って聞かせておくから、どうか許してちょうだい。この店主らも悪気はなかったのよ」

「い、いや。そう謝られては……。私も少々大人気なかった。民心が揺れているこの時勢では当然の応対だったかもしれない。店主よ、すまなかったな」

 

 拓実の取り成しを受けて、うってかわった関羽の謝罪に、店主もまた恐れ多いと頭を下げる。それを眺めていた桂花からはまたも呟きが届いてくる。

 

「まったく。あんたは他ならぬ自分が原因の癖に棚に上げたりして、いったいどんな神経で……」

「あの子に代わって、迷惑をかけたお詫びに私がご馳走するわ!」

 

 先ほどからぶつぶつと桂花は耳打ちを拓実にしていたが、今度の呟きばかりは無視できなかった。しきりに謝り続けている二人を見て良心を痛めていた拓実は、桂花の声をかき消すように声を張り上げたのだった。

 

 

 

 店の中央にある、十人ほどが座れる大きな卓を八人で囲んでいる。劉備一行六人に、拓実と桂花の二人である。拓実たちも食事に来たことを知った劉備が、半ば無理やりに渋る二人を誘ったのだった。どうにも劉備にも、華琳とは違う方向で人を惹きつける何かがあるようだ。

 

「えっと、荀彧さん。その、荀攸さんはああ言ってましたけど、本当にご馳走になっちゃってもいいんですか?」

「気にしないで好きな物を頼めば? あいつは碌に散財しないんだから、偶には吐き出させないと貨幣の流通が停滞しちゃうものね」

 

 恐る恐るといった風に問いかけてくる劉備に対して、桂花が意地悪い笑みを浮かべている。それに反応したのは、きらきらと目を輝かせて周囲を見回していた張飛だ。

 

「えっ! えっと、猫耳のお姉ちゃん。鈴々、今日は好きなだけ食べてもいいのか?」

「いいわよ。どうせならお腹いっぱいになるまで食べておきなさい。あんたたちもこれからもまた遠征続きで、しばらくはちゃんとした料理は食べられないでしょうからね」

「ひゃー! やったー、なのだ! んじゃ、鈴々はね、これと、これと……」

「あ、でも。鈴々ちゃん、すっごい食べるから……」

「ええと、張飛のことよね? あの体格なら食べるといっても知れているでしょう。いくら何でも、季衣ほどの大食いって訳でもないでしょうし」

 

 そうして桂花が視線を外している間にも、張飛は次々と店員に料理を告げていく。それを視界に収めて苦笑いを浮かべる劉備は、ふと姿勢を正して拓実と桂花の二人に向き直る。

 

「あ、私たちの紹介がまだでしたよね。荀彧さんとは連絡するのに何度か会ってるからみんな知ってますけど、そちらの荀攸さんは初めてですもんね」

「へ? え、ええ。そうね」

 

 こうして会話していても張飛の注文は終わっていない。既にこの時点で十数品。顔を青くし、強張らせてそれを呆然と見ていた拓実が、劉備の声に反応する。

 

「私と愛紗ちゃんのことはご存知みたいでしたので、次は……」

「鈴々が張飛、字は翼徳なのだ!」

 

 劉備がつい、と視線をやると、張飛が気づいたらしく元気いっぱいに手を上げた。それに続いて、かたん、と音を立てて立ち上がったのは大きなリボンの付いた帽子を被っている金髪の少女。

 

「私が諸葛亮、字は孔明でしゅ。はわ、はわわ! えと、軍師をやってまして、それで私の隣が」

「あわわ。鳳統、です。字は士元、といいまひゅ。しゅ、朱里ちゃーん……」

 

 諸葛亮より噛みながらも促され、鳳統もまた噛んだ。魔女のような帽子を目深に被って顔をその薄い青紫色の髪を隠してしまった。どうやら二人とも気が強いほうではないようで失態に顔を真っ赤にさせているが、鳳統は諸葛亮に輪をかけて恥ずかしがり屋なようである。

 

「……よ、よろしく」

 

 拓実は、諸葛亮や鳳統と会うのは今回が初めてのことである。この時点で二人が劉備の下にいることは事前に知っていたことなので、最早気にするほどのことではない。しかし、それにしても二人とも若いというよりは、どうにも幼いといった風情が強い。あまりに少女少女しているものだから面食らってしまっていた。

 最後に残った一刀が、席より立ち上がって声を上げる。

 

「それで、俺が北郷一刀。一応、天の御使いって呼ばれてるけど。何にせよ、これからよろしく……って、あれ?」

 

 うさんくさいという目を隠そうともしない桂花に、意図的に一刀を視界から外している拓実。拓実に向けて握手の為に一刀は手を伸ばしたのだが、もちろんというか拓実はそれに反応せずに、冷ややかにそれを見るだけである。

 

「あの……」

「悪いけれど、男には触れないようにしているの。天の御使いだかなんだかは知らないけれど、私に触れていいのは華琳様だけ。というか、それ以上近づいたら私に対して良からぬ劣情を抱いていると判断して警備に突き出すわ。そして『天の御使いは女と見ると見境ない』って市中に触れ回ってやるから」

「あ、はい……。本当に、そっちの荀彧さんとそっくりですね」

 

 吐き捨てるように言った拓実に、一刀は伸ばしていた手を引っ込める。そのまましょんぼりした様子で一刀が席に着いた。どうやら、桂花とも同じようなやり取りをしていたらしい。一通り紹介を受けておいて、拓実がしないわけにもいかない。席を立って一度全員を見渡し、口を開いた。

 

「先ほどの店主との会話で聞いているでしょうけど、私が荀攸、字は公達よ。一応は軍師みたいな立ち位置にいるけれど、次の討伐にも同行はしないからあなたたちとはあまり顔を合わせる機会もないでしょうけどね」

「今ご主人さまが言ってましたけど、本当に荀彧さんとそっくりですね! ほんと、そっくり。目に見えて違うなーってわかるのは、髪色ぐらいかなぁ」

 

 澄ました顔で自己紹介した拓実に、劉備が興味津々と言った風に声を上げる。対して言われた当人の拓実と桂花は、劉備の言葉に反応して目を剥いてお互いを睨みつけた。

 

「そっくりだなんて冗談じゃないわよ。こんな口の悪いのと!」

「誰がそっくりなもんですか。こんな意地の悪いのと!」

『はぁ!? なんですって!?』

 

 よく似た二人から口々に返ってくる否定の言葉、そして始まった聞き苦しい言い合いに、劉備や諸葛亮、鳳統は思わずといった様子で笑っている。

 互いを貶しあっているが、周囲からはどうにも仲がいいようにしか見えないようである。生温かい視線に気づいた拓実と桂花は、同時にため息をついた。

 

「はぁ、不毛ね」

「……そうね。もういいわ。あんたと言い合いしていたら疲れてしょうがないもの」

 

 二人が言い合いをやめると、ちょうど五人の店員が代わる代わる両手いっぱいに料理を持ってきた。注文は張飛に任せていたが、もう十人掛けの机から溢れそうである。拓実の脳裏に、財布代わりの巾着の中身がよぎっては消えていく。今浮かべたそのほとんどとお別れすることになるのだろう。

 何故か出資者である拓実を放って、「それじゃ、冷めないうちに食べましょうか」と場を取り仕切っている桂花の言葉を皮切りに、各々が皿に手を伸ばしていく。

 

 

 高級料理店で、十数人前。いくら城住まいで財産に頓着していない拓実にしても、今回の食事代は手痛い出費である。どうにか華琳の言う『才溢れる者たちを写し取れ』という任務の一環として経費で落ちてくれないものか、などとのんきに考えていた拓実だったが、すぐにそれどころではなくなった。

 全員でも半分ほども食べられるかという量のほとんどをお腹に収めてみせた張飛が、知らぬ間にさらに同量の料理を注文していたのだ。悪いことにそれに気づいたのは追加の料理が並びだしてからである。

 張飛曰く、一皿辺りの量が少ないとのことである。結局追加注文分も食べきってしまった張飛は、まさかまさかの季衣に匹敵するほどの健啖家であったらしい。

 会計時、よくわかっていない張飛を除いた劉備ら五人はすっかり小さくなっていた。この金額、郊外であれば小さな家だって建てられるかもしれない。しかし、許定として陣へ遊びに行って劉備軍のその極貧振りを知っている手前もあり、今更出せとも言えない。というか、彼女たちはそんな大金を持っていまい。

 

 明らかに手持ちでは足りなくなった拓実は結局、桂花に泣きつく事になった。桂花もさすがに大出費の責任の一端を担っている為、文句も言わずにお金を貸してくれた。

 ちなみに城に帰って華琳に聞いてみたところ、公に出来ない任務であるため経費では落ちないようである。見るからに泣きだしそうな拓実を前に、華琳は遠慮の欠片もなく大笑いしてくれたのだった。

 

 



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27.『荀攸、張飛を恐れるのこと』

 

 曹操・劉備合同軍と黄巾党との戦は更に熾烈なものとなっていった。自領地ならばともかく、故郷から遠く離れた地で戦をするともなれば兵にも疲れが見え、日数を置くほどに死傷などにもよって故郷へ帰れぬ兵も出てくる。

 だが、その代わりに内外問わずに高まっていくのは『曹操』と『劉備』の名声である。劉備軍は立ち寄った邑から志に賛同する若者たちを兵として迎え入れ、そして曹操軍は陳留に戻るたびに増えている志願兵が加わり、合同軍は徐々にではあるが規模が大きくなっていた。

 

 しかしその合同軍とはいえ常に連戦連勝とはいかない。指揮を執るのが華琳であろうとも桁から違う大軍に攻めかかられたり、優勢に進めていても予期せぬ援軍などにより撤退を余儀なくされることもある。また必死に喰らいついてはいるのだが、どうしても曹操軍と比べてしまうと劉備軍は数が少なく、錬度が低い。そこを突かれる形で劣勢に立たされたこともあった。

 劉備軍の将の指揮精度は向上している。兵の質は流石に曹操軍のそれに及びつきもしないが、多少遅れつつも追随できるほどには錬度を高めてきている。それは曹操軍の行っている錬兵法を取り入れて諸葛亮と鳳統が自軍にも施せるよう改良し、根気よく兵に調練を施した関羽、張飛の行動の結果である。けれども、そうまでしても曹操軍の練度には及ばない。

 しばらくは劉備軍の練度向上を待って見守っていた華琳であったが、彼女としてものんびり構えている訳にはいかなくなっていた。ここ最近は黄巾党軍側も指揮系統を構築し始めているのか手強くなりつつあった。まだ兵数が同程度であるならまず問題ない。しかし、相手方が自軍の二倍以上の数を誇る場合は、その錬度の差が、揃わぬ足並みが、全体の大きな不和となってしまう。

 

「荀攸さん。今日はわざわざありがとね」

「どれほど役に立てるかはわからないけれど、華琳様より直々に頼まれたとあれば結果は出すわよ。まず詳しく現状と、問題点を聞いておきたいのだけれど……」

 

 ここ最近は伸び悩みつつあった劉備軍もそれは憂慮していたようで、解決への申し出に同意もあり、華琳は合同軍の不確定要素を削るべくして比較的手の空いていた拓実を劉備軍へと遣わしたのだった。

 本来ここまでするのであれば曹操軍は劉備軍との共同戦線を破棄し、単独で討伐に赴くべきだろう。華琳がそうまでする義理はないし、とりあえずの不安はなくなるのだから簡潔に済む。

 けれども、黄巾党が数でかかってくる現状に限ってその選択は不利益が勝ってしまっている。曹操軍の精鋭が二倍の敵を打倒できたとしても、三倍の敵の前には敵わない。策を弄せば別だが、更に訓練を課して質を高めようとも兵質のみで三倍に勝るのは至難の業だ。であれば、いずれ離れることになろうとも劉備軍を加えて数を増やし、連携の向上を図って当初の三倍以上の敵を打倒するのが上策である。

 

「えっと、詳しいことは朱里ちゃんや雛里ちゃんに聞いてもらえると……あ、今、机とか用意していますから、ちょっとだけここで待っててくださいね」

「諸葛孔明と鳳士元、ね」

 

 劉備に返答しつつも、拓実は密かに手のひらの汗を拭った。荀彧である桂花ならともかくとして、果たして桂花に及ぶべくもない拓実が、あの諸葛亮や鳳統を相手に助言することなどができるのだろうか。

 内政官としてならば多少の実績はあるが、軍師としての経験など積んでいない拓実が彼女らに適切な助言ができるものかと発言したところ、笑みを浮かべた華琳には「目の前にいるあなただけでは不足でしょうね」と意味深な言葉を返された。一人だけでは不足と華琳は言うが、こうして遣わされたのは拓実だけである。言葉の陰に隠れた意味を、主命を任命してより考えるも解き明かせないでいた。

 

「あの、それから荀攸さん。あれから会えずにいたのでしっかりお礼が出来ませんでしたけど、この前はどうもありがとうございました」

 

 気がつけば、拓実の目の前で劉備が頭を下げていた。思考に沈んでいた拓実はいきなり礼を言われるも、何のことかわからずに首を傾げた。

 がばっと顔を上げた劉備は桃色の髪と大きな胸を揺らし、申し訳なさそうな表情を向けている。

 

「本当なら私たちから少しでも出せればよかったんですけど、あのお店があんなに高いとは思ってなくて。すごい金額でしたけど……」

「あ、ああ。あの料理店でのことね」

 

 拓実はようやく思い当たり、頬を引きつらせてぶるりと震えた。今までの思考は、どこかへと飛んでいってしまった。

 結局八人で飲み食いした食事代の半分ほどは、桂花に借金をしたままである。元々使うほうではなかったが、向こう四ヶ月ほどは贅沢ができないだろう。それぐらいならばまだよかった。それよりも重大なのが、桂花を相手に弱みを作ってしまったことである。

 

 荀攸としての拓実は補佐官待遇であるため、自身で案件を処理することももちろんあるが、桂花を雑務に煩わせないようにすることが仕事の主軸となっている。元より「私の代わりに書簡全部あんたが持ちなさい。腕が太くなっちゃうでしょ」だの「喉が渇いたからお茶を用意しなさいよ。気が利かないわね」だの「あのお店のお菓子が食べたいから買っておいてよね。あんたのお金で」だのと仕事と関係のない要望まで命令していたのだが、輪をかけて我がままを言うようになったのだ。

 先日にはついに「最近一人寝ばかりで寝不足気味だから、せめて安眠して作業効率を上げるためなのよ」などと理由をつけて、華琳の格好をさせて拓実を寝台に引っ張り込んだのだ。一月分借金を割り引いてあげると言われ、頷いてしまったのは迂闊と言う他ない。もちろん添い寝をしただけではあるのだが、またも間が悪く、翌日の朝に華琳が桂花の部屋を訪ねたのである。あの時の再現のように拓実は物置に隠れ、間男のような朝を送ることになったのだった。

 以前と違うのは、最終的に見つかってしまって二人で華琳に叱られ、お仕置きを受けたことだ。桂花は華琳に嘘をつけず、また突発的な事態の対処に弱かったようである。彼女が春蘭ほどではないものの、演技の才が欠如していたのも一因だろうか。

 そうして華琳より与えられたお仕置きの内容を思い返そうとしているうちに、拓実はそれができないことに気がついた。

 

「じゅ、荀攸さん、大丈夫!? すっごい震えてるし、顔、真っ青だよ!?」

「え? な、ななな、なに?」

 

 気がつけば、拓実は知らず知らず自身を両腕で抱きしめていた。まるで身一つで雪山の放り出されたようにがたがたと震えている。自覚のなかったそれに驚く拓実だったが、震えは一向に収まってくれない。とりあえずゆっくり深呼吸する。するとようやく、徐々にだがそれが収まってきた。

 

「ふ、ふぅ……ふぅ……」

「その、荀攸さん? 何があったのか訊いても」

「お願いだから訊かないで!!」

「ひゃ、ご、ごめんなさいぃ!」

 

 お仕置きの内容が一瞬再生され、拓実は血走った目を見開き、記憶ごと掻き消す様に間髪を容れずに叫んでいた。劉備は拓実の有無を言わせない声とその形相に恐れ慄き、目に涙を溜めて頭を下げたのだった。

 

 

 準備が出来たらしく、拓実は関羽の先導により陣営の奥へと案内された。その先にある卓には、立って拓実を出迎える諸葛亮と鳳統の姿がある。

 

「荀攸さん、本日はご足労いただきましてありがとうごじゃいましゅ」

 

 出迎えた諸葛亮の第一声。以前も見たその失敗を、拓実はそんなことなどなかったようにスルーした。顔を真っ赤にして涙目になった諸葛亮は「はわ、はわわ」と小さく呟いて慌てふためき、何ら反応していない拓実を見て「よかった、気づかなかったみたい」と胸を撫で下ろしている。もちろんその全ての声を、拓実の耳は拾っているが無反応である。春蘭の相手をしていて身につけた大人の対応だった。

 

「その、本当は私たちの方からお伺いするべきだったんですけど……」

「気にしなくていいわよ、実際の調練も見てみなければわからないこともあるでしょうし。その為にわざわざ陣を移動するのも億劫だもの」

「そう言っていただけると助かります」

 

 言葉を交わしていくうちに冷静さを取り戻したらしい諸葛亮は、拓実に小さく礼を返した。空いた席に座った拓実は、周囲も座ったのを見計らって口を開いた。

 

「堅苦しいのはここまででいいでしょう? 早速だけれど、本題に入らせてちょうだい」

「はい。雛里ちゃん、お願いね」

 

 諸葛亮に促されて、鳳統が書簡を広げた。

 

 

「……なるほどね」

 

 口元に手を当て、拓実は与えられた情報を吟味し、感嘆の声を漏らした。拓実の手元にある竹簡にまとめられている諸葛亮、鳳統が二人で煮詰めたらしい錬兵法は、曹操軍のものよりも理に適っているといえる素晴らしいものだった。その欠点を見つけるために助言をしにきた拓実であったが、これを見れただけで知識の裾野が広がったような覚えがしている。

 

「どうでしょうか?」

 

 その出来に自信があるのだろう。諸葛亮が拓実に向けるその眼差しは力強い。隣の鳳統も同じようで、いつもは不安げにあちらこちらへと動かす視線を揺るがせもせずに、じっと拓実を見ている。

 

「はっきり言って、私にはこれ以上の改善案は出せないわ。うちの行っているものにも劣らぬどころか勝るとも知れない、驚くほど優れたものよ。見よう見まね、おまけに半年ほどの期間でここまで仕上げたことを二人は誇っていいと思うわ」

「けれども、実際には……!」

 

 諸葛亮と鳳統が眉を開き、拓実を注視した。これ以上ないほどの賛辞ではあるが、しかし疑問は晴れていない。これが拓実の言うように非の打ち所のないものであるなら、最近になって劉備軍の兵士たちが伸び悩んでいることに説明がつかない。

 そんな二人の反応を見て拓実はようやく、華琳の言っていた意味を理解できた。荀攸としての知識、経験だけでは、これには中々気づけなかっただろう。

 

「これを実行できたのなら、華琳様の兵に比するだけの強さを劉備軍は手に入れることになるでしょうね。ただし、これを関羽や張飛が兵に対して、十二分に施せたならだけれど」

「それは、私や鈴々の調練に原因があると言うのか?」

 

 拓実にちらりと見られた関羽が、む、と眉根を寄せて声を上げた。対して、拓実は首を横に振って答える。

 

「いいえ。欠陥があるのは、やはりこの錬兵法よ」

「欠陥……!?」

 

 諸葛亮と鳳統が、うって変わっての辛辣とも言える拓実の言葉に目を見開いた。

 訪れたのが桂花であったらやはりこの問題は解決しなかったかもしれない。既に気づいていた節のある華琳、あとはおそらく秋蘭ならば拓実と同じく看破できることだろう。

 

「荀攸さん、それはいったい?」

「そうね。前提条件として、領地を持たず地盤が弱い劉備軍では、我が曹操軍と同じだけの精強さを求めようとしても難しいこと。個々の兵の素質が劣っているという事実ね。まぁ、調練を施す期間を延ばせば解決することもあるでしょうけど、討伐の為に遠征してその時間を捻出できない以上それは無視するわ。ここまではいいわね?」

 

 諸葛亮、鳳統が神妙な顔で揃って頷いたのを確認し、拓実は続ける。

 

「なのに今しがたに私が述べたのは『これを施せたのならば兵質に勝る我が軍と並べるだけの強さを手に入れることが出来る』。あなたたちもそれを意図してのこの錬兵法なんでしょうけど、ほら。もうここで先の前提と喰い違うじゃない」

「それは……」

「迂遠な物言いも面倒だからはっきり言わせてもらうと、あなたたちの作った錬兵法は兵たちに求めるものが高すぎるのよ。我らの軍にこれを施したならさらに精強な兵となるに違いない。それを成せるのは、私たちの兵が過酷な訓練に耐えられるだけの気概と、個々の能力、見合った報酬があってのことよ。諸葛亮も鳳統も我が軍に引きずられて、その強さを目標として錬兵予定を立てているのでしょうけど、地盤も固まっていないあなたたちにこれは少し早すぎるわ」

 

 曹操軍の兵士は、能力によって警備兵、本隊兵、近衛兵と割り振られ、そしてそれぞれの資質に見合った訓練を施している。近衛の兵が受けている調練を警備の兵が受けたとして、そのほとんどは予定している能力を身につけることは出来まい。ある程度で頭打ちして、それ以上伸ばそうと訓練を増やせば耐え切れずに脱落してしまうことになるだろう。

 さらに言うのなら、遠征中、劉備軍は志願してきた若者をその場で自軍に加えているのに対し、曹操軍は志願した者たちを自軍に加えたりはせず、一旦陳留へ送り出しては最低限の調練を受けさせている。ひと通りの訓練を終えている兵たちに新兵の彼らを加えたところで、全体の統率が取れないと知っているからだ。そうして陳留にて調練を終えた兵を、帰還した際に合流させているのである。

 行く先々で新兵を加えた劉備軍は、その都度で練度を落とす。その上で個々の伸び代も計れていないのに全員に同じ調練を施して、曹操軍と同じ練度を目標にしてそこまで引き上げようとしているという訳である。それでは上手くいく筈もない。

 諸葛亮や龐統は同行している本隊兵士や近衛兵に対しての調練を元にして錬兵法を作ったのだろうが、下限を設けず兵として取り立てている劉備軍の兵ではそれについてこられる訳がなかったのだ。今まで兵士の脱落を避けられたのは、関羽や張飛がそれを強く押し付けず、過度の訓練を控えたからだろう。

 

 聞くところによれば、諸葛亮や鳳統は司馬()の下で兵法、経済、算術、地理、農政を学んだという。そして優秀な彼女たちはそれら全てを修めていることだろう。しかし、そこを離れて実際に軍に加わってから、まだ半年と経っていないようである。

 理論は完璧といってもいい。その点では、拓実は二人の足下にも及ばない。確かに二人の案を実践できたならば言うことはないが、十を求められて十の結果を出せる者ばかりではないのだ。培ってきた豊富な知識が『最高』を弾き出したが、今必要なのは最高ではなく『最適』である。導き出した答えが完璧であっても、状況によってはそれより質を落とさなければならない。

 つまり二人は、知識が先行しすぎていて経験が足りていない。もう少し試行錯誤をする時間さえあれば諸葛亮や鳳統も自ずと気づけたことだろうが、ここのところの度重なる連戦が彼女たちの余裕を潰してそれを許さなかった。このように拓実が二人に指摘できたのも、軍務に当たって不慣れである今だけのことであろう。もう数ヶ月もすれば、拓実が指摘すべきところなどは自然と自覚して、なくなっているに違いない。

 

 桂花では合理性や利点ばかりに着目してしまい、もしかしたならこの欠点に気づけないかもしれない。気質が内政に長けている上に調練などは春蘭、秋蘭に任せきりな為、兵士に適した調練であるかなどは見て取れないだろう。その匙加減は現場に出て率いる者か、実際に動いている者にしかわからないことだ。

 だからといって春蘭では、諸葛亮や鳳統の語る利を理解できずに必要ないとして省きかねない。感覚と経験則で物事を捉えている為、この二人が求めている地点を測れないからだ。

 

「けれど、荀攸さんの理屈では、どうやっても曹操軍と同等の連携が取れないことになるのでは……」

「だから。全てにおいて我が軍の兵士と並べるだけの力を持たせる必要はないじゃない。そうでしょ? とりあえず必要なのは進軍速度と、将からの命令を遵守し、即座に実行すること。共同戦線を張っている当座は他の部分の質を落として、必要な部分だけを伸ばせば事は足りるわ」

「……それは」

 

 渋る様子の諸葛亮に、拓実はため息をついてみせた。確かにこのやり方には弊害が多分にある。彼女らからすれば、これは正しくない解なのかもしれない。しかし現状、その選択を許せるような状況ではないのだ。

 

「私の言うやり方に納得できないというのならば、さっさと劉備に功を立てさせて領地を持ちなさいよ。そうすれば、いずれはあなたたちの錬兵法に適するだけの土台も整えられる。でもその地盤を固めないことには兵を選別して底上げすることも、見合っただけの給金を与えることも出来ないでしょう」

 

 拓実の言葉に対し物言わずとも、悔しそうな様子の諸葛亮に、鳳統。

 

「……があっても気にしない~♪ やーまが……んにゃ?」

「ひっ!」

 

 何ともいえない空気が広がる中、どこからともなく陽気というより脳天気な鼻歌が聞こえてきた。拓実はその声が聞こえるなりに反射的に悲鳴を上げると、卓に隠れるようにしゃがみこむ。しかし、声の主にはあっさりと見つかってしまったようだ。

 

「あー! 金髪の猫耳お姉ちゃんなのだ!」

「ち、張飛?」

 

 丈八蛇矛を肩に担いで現れたのは張飛。彼女を前にした途端に拓実の余裕は崩れ去り、助けを求めるようにおろおろとうろたえ始めた。顔は引きつり、腰まで引けている。周囲からは怯えているようにも見えるだろう。

 そんな拓実の頭の中では張飛から記憶が連鎖していき、最終的に華琳のお仕置きへと繋がっていった。見る間見る間に顔色を悪くしていく。

 

「あのね、鈴々今兵士のみんなを鍛えて、いっぱいがんばったのだ!」

「そ、そう。それは偉いわね……」

「にゃー、ほめられたのだ! でも、がんばったらお腹がへっちゃったのだ。あっ、もしかしてまたご飯お腹いっぱい食べさせてくれる?」

「は? 何でそうなるのよ! 無理ッ! 無理だからっ! きゃあ、どうして近寄ってくるのよ! こら、だから近寄らないでってば!」

 

 どうやら張飛は拓実のことをご飯をいっぱい食べさせてくれる人と認識しているらしく、にこにこと無邪気な笑顔を浮かべて拓実へと擦り寄ってくる。

 張飛にすっかり苦手意識ができてしまった拓実は、すぐさまに立ち上がって卓を挟んで逃げ惑う。こころなし、被っているフードの猫耳が威嚇しているかのように立っている。

 

「ちょっと! あんたらは何ぼーっと見てるのよ! 助けなさいよ!」

 

 一気に弛緩してしまった空気に、他の面々は言葉もない。ぐるぐると卓の周りを駆け回っている二人を眺め見て呆然としている。

 

「にゃはは! 追いかけっこなのだ? 捕まえたら一緒にごはん食べにいくのだ!」

「ふ、ふざけるんじゃないわ! あんたら覚えてなさいよ!!」

 

 拓実は助けの手が伸ばされないことを悟ると、まるで悪役のような台詞を吐いて劉備軍の陣から飛び出した。最早形振りも構っていられず、荀攸の姿ながら許定として鍛えた健脚を発揮し、そのままあっという間に自陣へと逃げ延びていった。

 美味しいごはんを捕り逃した張飛は唇を尖らせ、残った面々は突風のような速度で走り去っていく荀攸の後ろ姿を、ただただ見送っていた。

 

 

 ――後日に許定に扮して練兵の経過を訊きにいってみたところ、拓実の妥協ともいえる錬兵法は部分的に採用され、ある程度の成果を見せているようであった。また困ったことに、放っておけば気づくだろう大した助言ではなかった筈なのだが、何故だか諸葛亮は荀攸を身近な目標として見ているようである。

 そんな厄介な情報を言って聞かせてくれた一刀を前に、許定として振舞っている筈である拓実はだらだらと冷や汗をかいてしまっていた。

 

 

 

 

 

 『首都洛陽に黄巾党三万が迫る』

 劉備軍と共に各地を転戦して半年ほどが経った頃に、その報と援軍を求める勅書が曹操軍の元へと届いた。しかしその報せは予州にて一戦を終えたばかりの曹操軍にとって間が悪く、援軍に向かうにはあまりに遅く、また破竹の勢いで黄巾党を討伐する曹操軍を以ってしてもその桁から違う数の差は手に余るものだった。

 

 とにかく帝よりの書状もあって準備を整えんと(エン)州へ取って返してみれば、今度はその理由もなく援軍取りやめの書状がまた届く。遅れて、あわや賊徒の手で首都が陥落するかとのところで黄巾軍が散り散りになって逃げていったらしいとの噂が陳留に流れてきた。だがその真偽は知れず、官軍が寡兵にて押し返しただの、黄巾軍が内部分裂しただのとその原因も定まらない。

 

 いくつもの情報が錯綜する中で、しかし次第に人々の口からは揃えてある人物の勇名が語られるようになる。それはまるで御伽噺のような英雄譚。三万もの大軍を蹴散らした、たった一人の将軍。

 携えるは深紅の呂旗。嵐の如く振るうは方天画戟。万夫不当の飛将軍、呂布、字を奉先と名乗る少女の名は、瞬く間に大陸全土に広まっていったのだった。

 

 

 各地の民草が呂布の英雄譚に湧き上がっている中、(エン)州は陳留の城では、曹操軍、劉備軍の主君をはじめとした中核の者たちが一堂に会していた。これまで、基本的にやりとりはお互いの軍師を通しての事務的なもので、華琳と劉備、一刀の三名が揃って顔を会わせるのだってこの半年の間でも両手の指で足りてしまうほどの回数でしかない。

 数少ないそれも、互いの顔合わせや立ち寄った(むら)での挨拶などに限り、必要以上の交流はしてこなかった。主君に倣ってか武将も相手陣地にみだりに赴くことも少なく、また兵たちも言葉を交わす機会が限られていた。

 しかしそれは以前までの話。今に至ってはその兵たちも分け隔てなく酒盛りを楽しんでいることだろう。何故ならば、交わされていた共同戦線の契約は破棄されている為に、ここ数日劉備らは華琳の客人としてもてなされているからである。

 

 曹操・劉備合同軍は転戦に転戦を重ね、先日には劣勢であった予州へ援軍に向かい、同じく官軍からの援軍であった皇甫嵩らと共に指揮官の一人を討ち果たしていた。しかし黄巾党の首魁であるらしい張三姉妹の姿は、向かったいずれの戦場にも見えない。

 今こうして(エン)州にいるのも元は中央からの援軍要請を受けてであったが、華琳は情報の整理と収集の必要を感じ、また長期にわたって停滞していた領地の経営の為にしばらくの帰還を決めてのことである。

 

 だが、そうなってしまうと困ったのが劉備たちである。華琳は再び討伐へと向かうまでの駐屯を許したが、それも下手をすればいくつも月を跨ぐこととなるだろう。その間、華琳の配下でもない劉備たちに出来ることは自軍の訓練ぐらいのもの。

 戦乱は変わらず続いているのに無為に過ごすわけにはいかないと、劉備は華琳の誘いを辞して更なる戦場へ向かうことを告げたのだった。数日後には(エン)州を離れて、単独で黄巾党討伐へと向かうことが決まっている。そういった経緯を経て、これまでの討伐慰安、両軍の交流も兼ねた劉備軍への壮行会となっているのである。

 

「おかわり! 次の持ってきてー」

「こっちもおかわりなのだ!」

「ボクにもおかわりー」

 

 宴会場の卓では我先にと競争して手が上げられている。季衣と張飛、そして許定として振舞う拓実である。

 頻繁に運動していたからか拓実の食事量は順調に増えていた。もちろん、それでも未だに季衣の食べる量の四分の一にも届かない。十人前の料理をぺろりと平らげて物足りない様子を見せる季衣は別格であり、未だに拓実が桂花に借金し、トラウマを植えつけられる原因となった張飛もまた別格であった。

 

「ふふーん。ちびっこ、勢いがなくなってきたんじゃない?」

 

 運ばれてきた大振りの饅頭三個をあっという間に平らげてしまった季衣は、まだ口をもぐもぐと動かしている張飛を挑発する。眉を吊り上げた張飛は、急いで残りを飲み込み季衣を睨みつけた。

 

「そんなことないのだ! つるぺたはるまきにはずぇーったい負けないのだ!」

「つるぺたはるまき言うな!」

「だいたい、遅いのは鈴々じゃなくて、ぺたんこおでこのほうなのだ!」

 

 言って、張飛は勝ち誇ったように拓実を見てくる。張飛は季衣を『つるぺたはるまき』と呼び、拓実を『ぺたんこおでこ』と呼んでいた。季衣のはるまきは特徴的な二つ結びから、拓実は言わずもがなである。つるぺた、ぺたんこは二人の起伏のない胸を揶揄しているようだ。

 そして張飛は季衣や拓実と顔を合わせると、何かと突っかかっていた。季衣もまた、年の近い張飛を『ちびっこ』と呼んでは挑発してしまうようである。とはいえ、妙に懐かれてしまった荀攸としてより、こういった張飛相手の方がよっぽど気楽に付き合える。許定として接するならば、どうやら荀攸の心に刻まれたトラウマも発生しないようだ。

 

「うっさいなー、ちびすけ。いいの、ボクは。そうやってがっつくよりも味わって食べるのが好きなんだから。競争なら二人で勝手にやってればいいじゃん」

 

 張飛に目線すらよこさず、拓実は目の前に運ばれてきたばかりの三皿目となるエビチリをレンゲで掬って口に運ぶ。

 何故エビチリがこの時代にもあるのか。いつもなら頭をよぎるだろうそんな疑問すら浮かばずに、口いっぱいに詰め込んでひたすらに咀嚼する。拓実にはそんなことはどうでもよかったのだ。目の前にエビチリがある。エビチリ=幸せの等号式が成り立っているのである。

 

 日本育ちの拓実にはもちろん、いくつか好きな食べ物があった。五目ご飯や鉄火巻き、パスタなどなど、この時代に来て食べられなくなったものが大半であるが、運良くそれから逃れたらしいエビチリが今こうして拓実の目の前にある。

 中華料理の流れを汲んでいるからもしかしたらと探していたものの、今まで街の料理屋のメニューで見なかった為に半ば諦めていた。どうやら小ぶりの川海老ならともかく、大振りの海老ともなると高級食材らしく、今回のような大掛かりな宴でしかお目見えしないらしい。それを見つけた拓実の喜びようは著しく、ずっとにこにこと笑って表情が満面の笑みから変化しないでいる。

 ちなみに、真っ赤なエビチリばかりを次から次に口に運んでいる拓実を、離れたところに座っている辛党の凪が同好の士を見つけたような目で見ている。確かに拓実が食べているエビチリは以前日本で食べていたものより辛味が強いが、だからといって辛党であるというわけではない。

 

「むー……」

 

 頬を膨らませている張飛に構わず、拓実は見るからに幸せそうにレンゲを動かす。味わって食べるのが好きと言いながらもその手は忙しなく、結構な速度である。しばらく横目でちらちらと眺めていた張飛は耐え切れないというようにきょろきょろと視線を周囲にやって、それが完全に占領されていることに気がついた。

 

「ううー、おんなじのはないみたいなのだ」

 

 じっと拓実が食べている大皿を物欲しそうに眺める。どうやらこれ以上ないほどに美味しそうに食べる拓実を見て、張飛も食べたくなってしまったらしい。

 だが、三杯目のおかわりからわかるように、エビチリに限っては拓実が独占していた。あんまりお腹にたまりそうにないからと季衣も張飛も気にしなかったのだ。張飛は料理が並んだ直後の「これ、ボクがもらうからね!」という拓実の問いかけに頷いた覚えさえもあった。

 

「ぺたんこおでこはずるいのだ。鈴々もそれ食べてみたいのに……」

 

 張飛は文字通り、指をくわえて拓実が食べる様子を眺め始める。最初にいらないと言った手前、声高に欲しいとも言い出せないようである。

 

「うー……。あー、もう! 仕方ないなぁ、ほらっ!」

 

 流石に見られていては気になるのか、拓実はしばらく悩んだ後に抱えていた大皿を鈴々に向かって押し出した。顔を逸らして言いながらも、だが未練はあるらしく視線だけで皿を追っている。

 

「にゃ? 食べていいの?」

「ちょっとだけだかんね!」

「あ、ありがと」

 

 まさか貰えるとは思っていなかったのか、張飛から素直にお礼の言葉が返ってくる。拓実は照れくさそうにふんと鼻を鳴らして、今度こそ皿から目線を切った。

 

「いっただっきまーす、なのだ」

 

 元気に響く声。遅れて、「んぐんぐんぐ」とレンゲの音すら鳴らさずに嚥下していく声。怪訝に思って慌てて振り向いてみれば、張飛がレンゲを放って、拓実が大事に大事に食べていたエビチリを喉の奥へと流し込んでいる光景だった。

 

「あ、ああああああー! 何やってんだよ、ちびすけ! ちょっとだけって言ったじゃないかぁ!」

 

 拓実は目を剥いて、傾斜を上げていく皿に悲鳴を上げる。だが時遅し。張飛が気づいて皿を卓上に置いたが、中身はきれいさっぱりなくなった後である。

 

「にゃ? ごめんなのだ。……んひゃ!? かー、からひ、からひのだ。これ、あんまりおいひくなひのだー」

「ふざけんな、このバカぁ!! うわぁぁあん!」

 

 辛さのあまり滑舌がおかしくなった涙目の張飛に、からっぽの皿を呆然と眺めてマジ泣きする拓実。新たに作らせた料理をかき込みながらそれを横目に眺めていた季衣は手元の皿を空っぽにして一息つき、口元に米粒をつけたまま呟いた。

 

「姉ちゃんもちびっこも、こどもだなぁ」

 

 

 

「まったく、あの子は何をやっているのよ……」

 

 華琳の呟きが妙に響く。続けて、はぁ、と嘆息した華琳は、ぎゃーぎゃー喚き散らしている拓実と張飛から目線を切った。向かいで同じ卓を囲んでいる劉備と一刀もまた騒がしい末席あたりの様子が気になって、目線をそちらへやっていたようだった。

 

「主催として詫びさせていただくわ。あの子には後で言って聞かせておくから許して頂戴」

「あ、あはは。気にしないでください。やっぱり楽しく食べたほうがごはんも美味しいし。それに、どうやら鈴々ちゃんが許定ちゃんの分を食べちゃったからみたいだから、どっちかっていうと鈴々ちゃんが、その……」

 

 ひきつった笑みでとりなす劉備は、困ったように一刀に視線を送る。その意図を読み取った一刀はひとつ頷いて劉備の言葉を引き継いだ。

 

「まぁ、ああいう元気いっぱいなところも拓実らしいしさ。あんまり怒らないでやってよ」

 

 だが、その発言は、飲み物を口に運ぼうとしていた華琳と、一刀に任せて安心した様子で食事に手を伸ばした劉備の動きを止めることとなった。動きは止めたまま、だが四つの瞳は一刀を射抜く。揃ったような二人の様子に、一刀は思わずたじろいだ。

 

「……『拓実』ですって?」

「曹操さん、それって許定ちゃんの真名ですよね? ご主人様ってば、いつの間に許定ちゃんを真名で呼ぶほど仲良くなったの!?」

「え? ああ、いや。遠征中の休憩なんかに拓実が俺のところに遊びに来てたから、その流れでさ。あれ、でも拓実を真名を呼ぶようになって、もう四ヶ月ちょっとは経ってるのかな」

 

 きょとんとした様子で答える一刀を放って、劉備はすぐさま華琳へと頭を下げた。

 

「あの、曹操さんごめんなさい! ご主人様、ちょっと目を離すとすぐ女の人と仲良くなっちゃう人で、私や愛紗ちゃんも困ってるんです」

「ところ構わずだなんて、まるでたんぽぽのような男ね。それに、あの子も最近行軍中に陣中で姿を見せないと思ったら……でも、駄目よ。あの子は私のもの。ちょっかいは許さないわ」

「いやいや、だから違うってば。そうだ! 拓実が遊びに来てるときは愛紗も同席してたし!」

 

 すっかり二人に誤解されてしまった一刀は頭を抱えているうちに、毎回欠かさずに同席者がいたことを思い出した。

 これで疑いは晴れるだろうと期待した一刀だったが、劉備の口からは更なる大声で文句が飛び出すことになる。

 

「えー! ずっるーい! ご主人様、愛紗ちゃんと許定ちゃんと遊んでたのー!? 私は朱里ちゃんと雛里ちゃんに勉強ばっかりさせられてたのに~! ご主人様と一緒に遊んだりできなかったのに~!」

 

 どうやら話は逸らせたようだったが、今度は違う方面で劉備に火がついてしまったようだ。

 いよいよ困ってしまった一刀が視線をめぐらせていると、向かいに居る華琳が興味深そうに笑みを浮かべているのに気がついた。

 

「へぇ。関羽も一緒に、ね。なんだかんだと言って、やっぱりあの子と私の嗜好は似ているのかしらね」

 

 口元が妖しく吊りあがっていながら、その双眸は鋭く少し席を離したところにいる関羽を追っていた。その熱の篭った視線に気づいたか、秋蘭、春蘭らと食事を摂っていた関羽は身を震わせ、周囲を見回している。

 一刀はすぐに華琳から目を逸らした。彼としてもそういった方面に興味がないこともないが、たぶん男が立ち入れる世界ではない。

 

「う。ええっと、その。そうだ、それにしてもあと数日で曹操のところのみんなと別れるともなると、寂しくなるよ。こんなことなら、もっと前からこういう付き合いが出来ればよかったよな」

 

 視線を宙に彷徨わせながら、不自然だとは思いつつも話を一新させるつもりで一刀が言い繕った。怒りから我に返ったらしい劉備が、感じ入った様子でこくこくと頷きながら一刀に追随する。

 

「ご主人様も? あっちこっちに行っててそんな暇なかったけど、私もこういう方が、いいな~って思うかな。それに、やっぱり一緒に戦う人たちがどんな人かわかってたほうが兵士のみんなも安心できるだろうし、やっぱり楽しいもん」

「……」

 

 笑顔を浮かべてそんな発言をした劉備を、華琳は杯を手にじっと見つめている。物言わぬ華琳に、何か気に食わないことでも言ってしまったのだろうかと、劉備の顔がちょっとずつ引きつっていく。

 

「あれ? えと、何かおかしなこと、言っちゃいました?」

「……まぁ、いいわ。劉備、あなたの軍なのだから、あなたの思うようにすればいいことよ」

「はいっ、よくわからないけど、頑張ります!」

 

 にっこりと笑って見せた劉備に、華琳も薄い笑みを返した。二人は一刀の発言より止めていた手を再開させる。

 落ち着ける場で会話するのは初めてだったが、一刀には二人の関係は悪くないように見える。だが反して、それを前にして一刀の表情は明るいとはいえないものだ。

 

 こうして仲良く向かい合う二人は、もしかしたならいい友人となれたのかもしれない。ただし、それには『世が世ならば』という前置きがついてしまう。これからの戦乱を思えば、今の二人の関係を穏便に延長させていける未来図が見えてこない。

 劉備軍がこのまま規模を拡大させていけば、今回のように共闘することはあるだろう。また、他の国を制する為に同盟を組むこともあるかもしれない。その中で、互いに無二の信頼を寄せる相手となる未来もあろう。だが、いずれどこかで敵対することにもなるには違いない。

 

 一刀は劉備の平和を望む、愚直なまでの意志の強さを知っている。そして、こうして目の前にいる華琳がそんな劉備に負けず劣らずの信念を持っているのを、ある少女を伝にして聞いていた。

 目指すところは同じ太平の世であっても、二人のあり方はもちろん、国や民に対する姿勢が違うのだ。一時的にはあれど、戦わずしてどちらかが下につくことはないだろう。

 

「どうにも、ままならないもんだよなぁ……」

「ご主人様? どうしたの?」

 

 横から覗き込んできた劉備に、一刀は咄嗟に首を振って見せた。今までの考えを振り払い、気取られないよう小さく笑う。今日は壮行会であり、交流会だ。一刀の野暮な考えで、楽しんでいる劉備に水を差したくはなかった。

 

「ああ、いや。何だかんだで半年一緒にいたからさ。もうすぐお別れになるんだ、なんてこと考えてたらちょっとしんみりしちゃってさ」

「うん。そうだよね。私もおんなじ。それに、特にご主人様は許定ちゃんと仲良くしてたみたいだもんね」

 

 劉備がぷくーっと頬を膨らませ、そっぽを向いた。対して一刀は、困ったようにしていた表情を焦り一色に塗り替える。

 

「ああもう、だからそういうのとは違うってば。桃香に内緒にしてたのは謝るからさ、そろそろ許してくれよ」

「えへへ、わかってますよー。ちょっとした冗談ですもん」

 

 にっこり笑った劉備は、一刀に向けてぺろっと舌を出して笑った。それを見た一刀の顔にも、自然と笑顔が浮かぶ。

 

 

 そんな二人に刺さる視線。それを向けているのは、完全に冷め切った目で背もたれに体重を預けている華琳である。

 

「なるほどね。北郷が沈んでいると見るや、劉備はおどけてみせたか。人心を掴む術を計算ではなく無意識に行っているようね。どこか頼りなく見えるも思想は常に太平を求め、行動に私欲を感じないさせないから民や将がついてくる。劉備の求心力はそこかしら」

 

 静かに一人ごちると、華琳は興味が失せたというように視線を他へとやった。彼女がこの交流会の合間合間に劉備と一刀を観察していたのは確かだが、それはあくまで暇つぶしのようなもの。

 

「ご主人様。この料理美味しいよー」

「へぇ、どれどれ」

「私が取ってあげるね。あの、ついでに食べさせてあげよっか?」

「だ、大丈夫だって。自分で食べられるからさ!」

「ぶ~~……」

 

 こんな具合に、華琳の向かいでは変わらず劉備、一刀の二人がいちゃいちゃと、まるで自制が利かなくなった恋人同士のようにじゃれあっていた。こういったやり取りは頻繁に行われているようで一刀はいくらかは慣れてきている様子だが、それでも時折どぎまぎしている。対して劉備はというと、とにかく一刀に構えることが嬉しいようである。

 残る形になった華琳は、どうにも手持ち無沙汰だ。誰か側に呼ぼうにも、春蘭・秋蘭は関羽と何やら話しているし、桂花は諸葛亮・鳳統と真剣な顔で討論を交わしている。季衣・拓実はあの様で騒がしく、凪・真桜・沙和はまだ慣れていないのか反応が硬い為、呼んだ所で空気が重たくなりかねない。

 

「さて。そうなると私は、いつまでこの二人の惚気に付き合えばいいのかしらね」

 

 場が場である。この壮行会は華琳主催で、始めの挨拶には「思い思いに楽しんで欲しい」という旨を述べたのだから、各々が好きに過ごせばいいとは思う。この二人のやり取りを無理に止めても、場の空気を悪くするだろう。となると、華琳には為す術はない。

 華琳は珍しく辟易した様子で息を吐き、杯を(あお)ったのだった。

 

 

 



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28.『許定、趙雲と出会うのこと』

 

 壮行会より三日後、劉備軍は(かね)てからの予定通りに陳留を発ち、(エン)州より東方にある徐州方面へと向かっていった。

 見送りには春蘭、季衣、許定としている拓実に、州牧という要職に就いている華琳までもがわざわざ出向いて行われた。その際、季衣と張飛、二人に巻き込まれる形で拓実が口喧嘩していたのだが、それが周囲の面々には妙に寂しそうに見えたらしく三人のやり取りを微笑ましく見守っていたものだった。

 また、以前の一回の食事ですっかり荀攸を上客扱いしているらしいあの料理店からは、劉備軍へ餞別として僅かながら日持ちする食材が贈られた。それを受けて華琳や許定姿である拓実は、劉備より荀攸個人に向けて感謝の言付けを頼まれることとなった。陳留でも噂となっている高級店からの贈品と劉備よりの念の入った感謝の言葉に、春蘭や季衣は拓実がいったい何をしたのかと首を傾げていたが、事情を知っている華琳だけはそ知らぬ素振りをする拓実を見て微笑んでいるのだった。

 

 

 それからまた数日して、他の州に潜ませている細作から政務に明け暮れる陳留に報告が届くこととなる。いくらか威勢が落ちたとはいえ未だ万単位での規模を保つ、黄巾党の中でも大軍団の動向が明らかになったのだ。どうやら(エン)州より南東部にある城から太守を追い出しては住民に暴虐を働き、城下町に飽き足らず、近辺の邑などからも食糧、財産などを根こそぎ略奪してこもっているようである。

 華琳は黄巾党を叩く好機と見て討伐へと動き出したが、しばらく腰を落ち着けて領地経営に集中するつもりでいた為に行動が遅れてしまう。そうこうして件の城へと辿り着いた時には、同じく動きを察知したらしい諸侯らが討伐へと乗り出し、黄巾党のこもる城の周囲を取り囲んでいた。

 

 

 その位置関係だが、まず件の城より見て北西に華琳の率いる曹操軍。北には袁紹の金の旗がはためき、北東は公孫賛とそれに合流したらしい劉備軍の姿がある。また、南西方向には袁術の客将となっているという孫家の旗が見えていた。

 また、遠巻きに様子を伺うようにしている他の勢力、義勇軍などの存在もあるが、いずれも兵力としては小粒。直接的に介入する気はないようである。

 

「本来であれば出遅れた、とするところだけれど、どうやら今回はそれが上手く転んだようね」

 

 右を春蘭、秋蘭で固め、華琳は奪われたという城へ向けて馬を走らせる。その反対に並び走らせている桂花が華琳の呟きに首肯した。

 

「どうやら城にこもる集団、そしてその周辺で略奪をしているものも含めると四万もの数に上るようです。捕捉した時点で出兵していては手を出せず、(いたずら)に物資を浪費していたことでしょう。我らと同じく逸早く黄巾党の動きを察知したらしい孫策、偶然にも進行方向上にあった劉備らもまた独力で相対するには兵が足らず、迂闊に動けなかった模様です。そこに北部より南進してきた公孫賛と、近場にありながら察知の遅れたらしい袁紹、初動の遅れた我らが合流した形となっています。討伐に集まった総数は二万ほど。敵数は倍にも及びますが、されど兵の質、将の質から見て覆せない数の差ではございません」

「今現在、大陸に勇名を轟かしている者の名が、よくもまあここまで揃ったものね。さて、黄巾党四万に対して、こちらは二万。劉備軍が公孫賛と轡を並べているのでは、他勢力との連携はないものと考えるべきか」

「妙才将軍、失礼いたします」

 

 そこでぼろの布切れを身につけた、農民のような風体の男が秋蘭の元へと駆け寄ってきた。全速力で馬を走らせているわけではないが、そこそこの速度の華琳らに併走している。いくつか秋蘭に耳打ちした後、男は踵を返して駆け出し、あっという間に後続の兵士に紛れ込んでその姿を消した。

 

「……華琳様。彼の城に張角・張宝・張梁の三人がいるらしい、との情報があります。黄巾党連中が新入りらしき仲間に吹聴していたのを、付近の農村の老人が耳にしたとのこと。真偽のほどまでは定かではありませんが」

「華琳さま! であれば、是非ともこの春蘭めに先陣をお命じください! 二万の差など物ともせず、必ずや張三姉妹を討ち取って御首級(みしるし)を上げて見せましょう!」

 

 秋蘭の言葉を聴いて、目をぎらぎらとさせた春蘭が声を張り上げた。戦と聞いて昂ぶっているようで、全身からは戦意が立ち上っている。

 自然、華琳は目を細める。微塵たりとも物怖じしている様子がないのは頼もしいが、流石に四万の兵に当てるわけにもいかない。桂花に至っては、そんな春蘭を暑苦しいというように見て顔をしかめている。

 

「少し落ち着きなさい、春蘭。出来ることならば張三姉妹は討ち取るよりも拿捕を優先させたいところ。私としても彼女らに少しばかり訊ねたいこともある。それに真っ向からぶつかって我が方が有利となれば、張三姉妹も人に隠れて逃げてしまうでしょう」

「は、はっ。かしこまりました……」

 

 さっきの勢いはどこへやったやら、しょんぼりしてしまった春蘭はうな垂れる。こうしているともう戦意などは欠片も見えない。そんな状態の春蘭に構わず、華琳は秋蘭へと顔を向けた。

 

「そうね、秋蘭。この状況と条件、あなたであればどう動くかしら?」

「……はっ。奪われた城は南東側が崖となっているため、我らが合流したことで攻城に易い地点は全面埋まっております。側面は攻めるに薄く、攻めかかるならば正面となり、またその先鋒となれば被害は甚大かと。私であれば先陣を切るよりも先に、まず搦め手を用いましょうか」

「桂花。あなたは?」

「『孫子曰わく、昔の善く戦う者は先ず勝つべからざるを為して、以て敵の勝つべきを待つ。』(*1)――四万もの数が守勢ともなれば、容易に抜くことは適いませぬ。ならば機が迫るのを待つと同じくして陣を堅め、来る機に何者よりも迅速に動く体を整えるのが肝要かと」

 

 (そら)んじてみせた桂花に、華琳は笑みを以って返す。

 

「そうね。倒すだけならともかくとして、張三姉妹に手を届かせるならば攻め入ってから間を置かずにその首元まで追い詰める必要がある。到着したばかりで準備も整っていない我らが搦め手を用いようにも、実際に行動を起こすまでに出し抜かれないとも限らない」

 

 華琳は遠く見える、他の陣営地を見渡した。勇名を轟かせるだけあって、この地に集まっている誰も彼もが一筋縄とはいかないに違いない。この面子と戦場を同じくしては、最早単純に敵を討伐さえ出来ればよいという話ではなくなっている。他の諸侯を抑えて一等の戦果を上げれば、その名声は揺るがぬものとなるだろう。華琳がこれに思い当たると同じくして、他も同じように考えている確信がある。

 そうして全てを眺め見た後にひとつ頷き、また桂花へと視線を戻した。

 

「であるならば、桂花の言うように何よりも先にこちらの体勢を整え、もし討って出てこられたとしても護りきれる用意がなければ話にならないわ。桂花、兵士に城より三里(約1,500m)に陣を張り、軍を三つに分けて順番に休息を取らせなさい。ただし装備着用の上、即時行動の取れるように、ともね」

「かしこまりました」

「秋蘭、あなたは分けた内の一つを使って構わないから、各軍の周囲に細作を放っておきなさい。何かしらの動きがあれば、すぐに私に知らせるように」

「御意」

 

 併走していた桂花と秋蘭が手綱を操り、華琳より離れていった。そうして空いた華琳の隣の空間に、春蘭が馬を寄せてくる。

 

「城に最も近い前曲には、騎馬編成のあなたの隊を。その補佐には季衣をつけましょうか。また突破力のある凪、咄嗟の応変ができる拓実を後詰めとして配置するよう通達を。それらの隊には特に黄巾党の動向を警戒させておきなさい。あなたたちには城門が空き次第、逸早(いちはや)く城の内部へと侵入して敵将を討ち果たす役目を授けましょう。ただし、女性武将は出来る限り生け捕りになさい。その中に張三姉妹が紛れていないとも限らないわ」

「はっ! 承知いたしました、華琳さま!」

 

 先陣を任せられた喜びを顔一杯にして、春蘭は馬の腹を蹴って、前方の季衣や凪、拓実の元へと馬を走らせていった。あっという間にその姿が見えなくなり、しかし春蘭の指示する張りのある声が彼方から聞こえてくる。

 華琳は宙を仰いだ。もう日は落ちるだけとなっていたが、今日という日がまだ終わらないだろう予感があった。その顔には挑戦的な笑みが浮かべられている。

 

「さて。来るその『機』、もたらすのは時によるか人によるか。どちらにせよ、そうも遠いことではないでしょう」

 

 

 

 

「孫策軍に、城に攻め入る気配! 夏侯元譲将軍より出撃の命あり! 夏侯元譲将軍より出撃の命あり!」

 

 その声は、陣を張り、夜半となってから拓実の天幕に届いた。言いつけどおりに装備をつけたまま横になっていた拓実は、毛布を跳ね除けて飛び起き、武器を手にすぐさまに天幕より這い出る。

 春蘭の隊にいる伝令兵が、声を上げながら陣内を駆け回っている。拓実と同じく、飛び出してくる兵士の姿がちらほらと見えた。

 

「拓実、聞いたか!?」

「凪ちゃん!」

 

 両手に填められている手甲【閻王(えんおう)】を調整しながらも、凪が拓実の元へと駆けてきていた。横の髪の跳ねがいつもより大きいのは急報のために寝癖を直す暇がなかった為だろう。拓実は無意識に自分の髪を撫で付ける。

 

「最前線の春蘭さまと季衣は伝令を飛ばした後、既に準備を終えて進軍を始めているらしい。私たちも続くぞ!」

「うんっ!」

 

 二人もまた駆け出し、慌しく兵を整えて進軍を開始させる。

 

 

 拓実と凪が城門に辿り着いた時には、既に孫の旗を掲げた軍が軍鼓や銅鑼を鳴らして示威行動を開始していた。

 だが孫策軍は不可解にも、攻め寄って矢の反撃があれば、被害が出たわけでもないのにあっさりと退いてしまう。飛んでくる矢が散発的になるやまた寄り、そして退くを繰り返している。まるで統率が取れているように見えない。敵兵も引け腰な孫策軍に対して城壁の上から罵りの声を上げている。

 

「あやつめらは城門に陣取って、いったい何をしているのだ! あれでは陥とせるものも陥とせんぞ!」

 

 騎乗した春蘭が拓実の遠く前方で苛々とした声を上げていた。孫策軍が邪魔となっていて、春蘭や季衣は碌に攻撃に加わることができずにいる。奇襲にしては妙な動きをしている孫策軍を前にして、拓実と凪もまた進軍の勢いを落とさざるを得ない。

 

「春蘭さま、荒れてるねー」

「騎馬編成では接近し、城内に乗り込まないことには始まらないからな。それよりも、春蘭さまの言うように孫策軍は何をしているんだろう。単独では難しいかもしれないが、我らの助勢があれば城門ぐらい落とせるだろうに。これではむしろ私たちの邪魔をしているみたいだ」

 

 ぼんやりとした拓実の言葉に、凪が真面目な顔で疑問の声を上げた。

 距離がありすぎて拓実や凪の兵の下には矢も飛んでこない。前曲の春蘭が前進できない為に、後詰めの拓実や凪も後に続けないでいる。動けずに十と数分。戦場ともいえない位置にいる拓実と凪は気勢が削がれた様子で遠く城壁を眺めるばかりだ。

 

「ふうむ、確かに妙ですな。そも、闇に紛れての折角の奇襲だというのに、まるで攻め気が見えない。さて、そちらにおわす曹操軍の方々は、あの孫策軍の動きをどう思われますかな」

 

 気づけば、同じく孫策軍の攻撃を察知し駆けつけたらしい公孫賛・劉備軍も立ち往生していた。

 その中でいつの間にか拓実たちの横に軍を並べていたのは、公孫の軍旗を立てている眉目秀麗な女性である。水色のセミロングほどの髪に、胸元を大きく開けた白が基調の格好。手には見事な設えの直刀槍が握られていた。飄々としていながらも立ち振る舞いには隙が見えない。

 

「……そちらは?」

 

 凪が警戒した様子で声を投げかける。密かに拳を握り、【閻王】をいつでも構えられるように気を張っているのが見て取れた。そんな凪に気づいているだろうに、女性は意に介した様子もなく眉を開いて笑みを浮かべる。

 

「おおっと。名乗っておりませんでしたか、これは失礼。私は伯珪殿――公孫賛殿の下で客将をしている趙雲、字を子龍というものだ。もっとも、伯珪殿の下ではこれが最後の働きとなるため、この名乗りも今回限りとなるのだろうが」

 

 にやり、と笑って見せた趙雲に、拓実は僅かに目を見開いた。その名乗りを聞いて、陳留の自室で影武者の衣装と共に眠っているだろう青釭の剣が頭によぎっている。

 趙雲。蜀の五虎大将軍と数えられている英傑である。今は拓実が所持している青釭の剣などは、演義では巡り巡って彼の得物となっている。後の世でも美丈夫として語られることが多かったが、拓実の目の前の趙雲は目鼻立ちがすっきりした涼やかな麗人である。

 

「すまんな、許定殿、楽進殿。星は……趙雲はいつもこの調子なのだ。気を悪くしないでやってくれ」

 

 こちらのやりとりに気づいたらしい関羽が近寄り、戦闘前の厳しい表情を崩すことなく声を挟んできた。茶々を入れられた趙雲はむすっとした顔でそっぽを向く。まるで不貞腐れた子供のような仕草である。

 

「愛紗はどうして、真面目でいかん。もう少し余裕を持ったらどうだ? そう頻繁に眉間に皺を寄せていては跡が残ってしまうぞ。孫策軍があの調子では、今しばらくの間は戦況も動かないだろうよ」

 

 趙雲が関羽へと振り向いた時、いつの間にやら己の眉間を親指と人差し指で摘んで、無理に険しい顔を作っていた。どうやら関羽の真似をしているつもりらしい。それを見て、険しかった関羽の眉間の皺が更に深くなった。

 

「うるさい。余計なお世話だ。まったく、私は先に戻っているからな」

 

 ぷんすかと怒ってみせる関羽の背を見送って、趙雲は「相変わらず冗談の通じんやつめ」と肩を揺らして笑った。笑いが収まったらしい趙雲がふと城を見やると、彼女の瞳がほんの一瞬だけ刃物のように鋭くなる。

 

「まぁしかし、この様子では一度動いてしまえば、後は破竹のごとくとなるだろうからな。そう長話している暇もないか」

 

 漫才のような趙雲と関羽のやり取りをぼんやりと眺めるしかなかった拓実たち。置いてけぼりにしていた二人をようやく思い出したか、趙雲は右拳の側面をぽん、と左の掌に打ち付けた。

 

「おお、そうそう。ところで、こちらが名乗ったのですから是非ともに其処許(そこもと)のご尊名をお伺いしたいものだが」

 

 無駄に慇懃な、だからこそふざけてるとわかるその調子を崩さずに趙雲は凪と拓実へと視線を向ける。慌てて姿勢を正した凪、対照的にきょとんとした様子のままの拓実が並んで言葉を返した。

 

「失礼しました。曹操軍の楽進、字を文謙と申します」

「えっと、ボクは許定です。よろしくおねがいしますね、趙雲さん」

「ふむ。楽進殿に、許定殿か。どうかよろしく頼もう。それと、初対面の相手にすることではないが、この戦が終わりましたらちょっとした頼みがありましてな。どうか聞いてはいただけませぬかな?」

「……それは、内容にもよりますが」

 

 怪訝さを隠そうともしない表情の凪に、趙雲は思わずといった風に苦笑した。

 

「いや何、楽進殿。そう大したことではないからそう身構えてもらわずとも。とにかく一通りが終わりましたらまた伺わせていただきますので、詳しい内容やその是非はそれからに。これ以上話していてはあの堅物……おっと、真面目な関羽殿が煩いのでこの辺りで」

 

 言うなり、からからと笑った趙雲は颯爽と公孫の兵の下へと帰っていく。

 

 

 見送り、その姿が見えなくなると拓実と凪は息を吐き、自然と顔を見合わせた。さっと懐に入ってきては逃げていく風、捕らえようとも捕らえられない雲のような、不思議な雰囲気を持った女性であった。

 

「なんというか、掴み所のない方だったな」

「うん。でも趙雲さん、相当強い人だと思う」

 

 彼女は立ち姿から見事で、歩く姿にもぶれや無駄がない。おまけに、それを自然に行えている。言うは易いが、精強な曹操軍でさえもそれを実践できている者は十いるかどうか。そして、拓実は自身がその中に含まれていないのを自覚している。

 

「……拓実もか。立ち振る舞いから同じく私もそう感じてはいたが、それでもその底が見えない。私で相手になるかどうか。もしかしたなら、春蘭さまとも互角にやりあえるほどかもしれない」

 

 確かめるように凪は【閻王】を握って、喉を鳴らした。拓実も緩ませていた表情を入れ替えて、酷く真剣に趙雲の背を眺めていた。

 

 凪でさえそう言うのならば、実力で及びつきもしていない拓実では趙雲に敵う道理がない。しかし、立場柄拓実はそれではいけない。趙雲が所属する蜀とは今後敵対する可能性が高いのである。ともすれば、蜀についた趙雲を相手にして戦うこともあるだろう。悪いことに、演義では趙雲に奪い取られる運命にある青釭の剣も何の因果なのか拓実の持ち剣となっている。趙雲に殺され、宝剣を奪い取られた夏侯恩と同じ結末に至らないと誰が言えるのか。

 趙雲が敵となりかねないというのに、今の拓実では初太刀で斬って落とされてもおかしくない。半年に渡って鍛錬を続けてはいるがそれが拓実の現状である。

 

 さらに言えば、初太刀で討ち取られかねないという話は趙雲だけに限ったものではない。蜀の関羽、張飛のみならず、呉の甘寧や周泰。袁紹陣営の顔良や文醜。場合によっては今後、あの呂布を相手にすることも考えられる。

 それらを相手に拓実が武技だけで勝利するなどは、例え生涯に渡って鍛えようともまず不可能だろう。春蘭と渡り合うだろうそんな人外とも言える化け物たちには、並大抵の武才があった程度では太刀打ちさえも出来ない。

 しかし、拓実も将の一人である以上は実力不足など何の言い訳にもならない。相手がどんな無双の将であろうとも、この時代では自衛も満足に出来ないようでは話にもならないのである。

 

「うあー、もうっ! がんばるぞーっ!」

「なぁ!? た、拓実? いきなりどうしたんだ? だ、大丈夫か?」

 

 南雲拓実であれば挫折してしまいそうな高すぎるいくつもの壁を前に、しかし許定はへこたれず、むん、と気合を入れて腕を振り回す。そんな許定のいきなりの奇行に驚いたらしい凪が、真面目に同僚を心配し始めた。

 

 膠着していた戦場が動いたのはそんな時だった。突然に、城門の方向から悲鳴が聞こえ始め、混乱している様子が伝わってくる。

 拓実は慌てて馬の背の上にぴょんと立ち上がると、騎乗している兵や武将の上から遠くを見やった。状況を把握するより早く、隣の凪が見上げるようにして視線を投げかける。

 

「拓実、何か見えるか!? 前方の春蘭さまたちは!?」

「ううん、ダメ! 変わってないよ! 春蘭さまも季衣もさっきの場所から動いてない!」

 

 同じく孫策の兵が動いている様子もない。城門も変わらず閉ざされたままだ。それでも城内の混乱は収まりを見せていない。

 そうしてしばらく拓実が目を凝らして見続けていると、ようやく異常が目に見えるような形で現れた。あちこちが橙色で照らされ、幾筋もの灰色の煙が上がり始めたのである。

 

「凪ちゃん、いくつも煙が上がってる! 城が燃えてるみたい!」

「燃えてるだって? どういうことだ。孫策軍が火矢を放っていた様子はなかったのに」

 

 黄巾党軍と実際に交戦していたのは孫策軍だけである。曹操軍、劉備軍、公孫賛軍は実質孫策軍に邪魔をされて城壁にとりつくことすらも出来ずに居たのだ。

 いくら城壁から離れているといえど、夜闇の中で火矢が放たれたのであれば容易に視認出来た筈。趙雲との会話で暫時目を離してはいたものの、それはなかった、と拓実も確信している。

 

「甘寧将軍ー!」

「わあああっ! 周泰将軍ー!」

 

 拓実たちが訳がわからないままに様子を伺っていると、突然に孫策軍がにわかに活気付きだした。

 見れば、何かを持った二人の武将らしき女性が城壁の上から黄巾の兵士を蹴落としている。黄巾の兵士たちは、どういったわけかその女性たちに対して恐れ戦いて逃げ惑うばかりで、碌な抵抗をしようともしない。

 

「こらーっ、思春! 明命! 折角の名を売る機会なんだから、ちゃんと名乗りをあげなさーい!!」

 

 なにやら孫策軍の中央にいた女性武将から、城壁上へと声を投げかけられている。二人の女性は若干戸惑った様子を見せた後、手に持っていた塊を高く空へと掲げた。

 

「張角が首、孫策軍、甘寧が討ち取った!」

「張宝、張梁の首、同じく孫策軍の周泰が討ち取りました!」

 

 彼女らが掲げている、ぽたぽたと何かが滴っている塊。どうやらそれは、胴体から切り離された人間の頭であるようだ。滴っているのは首から流れ出ている血なのだろう。

 火が上がっているため先ほどまでの暗闇よりはマシではあるが、距離があるためはっきりとまでは見えない。拓実は必死で目を凝らしてある程度を見て取ると、小さく息を吐いた。

 

「な、何だとォ! くそっ!」

「ウソ……」

 

 拓実たちの知らぬ間に張角らが討たれていた。その事実に、曹操軍の面々は言葉もない。驚き、そして同じだけ落胆している前方の春蘭。その隣の季衣も呆然と城内から上がる煙を見やるだけだ。

 

「いつの間に……。いったい、何がどうなっているんだ」

 

 その後方では凪などは顔を曇らせては立ち尽くし、城壁の上で名乗りを上げた甘寧と周泰を見上げている。拓実は凪の横で黙りこくり、孫策軍の様子をじっと眺めていた。

 

 おそらくは城内に忍び込んだ甘寧と周泰から注意を逸らす為に、孫策軍はあのような奇妙な行動をしていたのだろう。

 腰が引けた戦い方で敵兵を慢心させ、その隙に蔵や城に火をつけ、生じたその混乱に乗じ敵の首領を討つ。足止めされる後続が動けなくなるのも計算のうちだったのだ。『兵は詭道なり』を見事に実践している。

 甘寧、周泰が行ったそれをこなすには、城内に忍び込める技能、そして暗殺できるだけの武力がなければならない。曹操軍では凪、季衣あたりが候補として挙がるが、こうも鮮やかにはいかないだろう。少なくとも、現時点の曹操軍では取れない戦法である。拓実は正しく状況を把握すると、内心で孫策軍の手際に感服していた。

 

「進め! 進めィ! 興覇のやつに一番首こそ取られたが、敵はまだまだ残っているぞ! 黄蓋隊よ、孫家の力を見せ付けてやれェ!」

「うおおおおおぉぉぉっ!」

「わぁぁぁぁぁ!」

 

 拓実たちが突然のことに動けずにいると、ゆっくりと城門が開かれていく。内部に侵入していた甘寧、周泰らの別働隊によるものか。

 火の手の上がる城内から黄巾の賊徒が逃げ出そうと殺到するそこに、城門前で体制を整えていた孫策軍が喊声を上げながら突撃を開始する。拓実らがこうしている間にも、逃げ惑う黄巾党らは勢いのある孫策軍に一方的に狩られていく。

 

「呆けている場合ではないぞ! 既に張角が討ち取られてしまった以上、せめてより多くの残党を狩らねばならん! 季衣! 凪! 拓実! 指揮官を失ったやつらは烏合の衆だろうが、逃がせば違う土地でまたも略奪を繰り返す! 黄巾の賊どもを逃がすな! 殲滅するぞ!」

「はいっ!」

「承知しました!」

「了解ですっ!」

 

 春蘭の号令の下、気を取り直した三人が兵を率いて、城門から溢れ出そうとしている黄巾党の逃げ道を塞ぐように展開していく。

 孫策軍は城内へと雪崩れ込み、既に戦闘を開始している。公孫賛軍、劉備軍は曹操軍と同じく殲滅の為に陣形を変え、城の周囲には三軍による包囲網が出来上がった。自然と三軍は援護をする形となる。戦場は、孫策軍の独壇場となっていった。

 

 

 

 

 数時間に渡る黄巾党との戦闘は、朝日が昇ろうとする頃に終わりを告げた。頭を失った黄巾党軍は末端から散り散りになり、禄に反撃をすることもなく逃げ惑っていた。四万のほとんどが一方的に斬り殺され、または包囲の隙間を抜けてほうほうの体で逃げ出していった。

 帰還した拓実たちはその足で、報告の為に華琳の天幕を訪れていた。まず先陣を任されたというのに戦果を上げられなかったことを春蘭が陳謝し、それを許した華琳に、続いて凪や拓実が戦果報告をしていく。

 

「つまり拓実は、甘寧と周泰が討ち取った首は張三姉妹のものではなかった、と言うのね?」

「はい。遠目だったのでちゃんとは見えませんでしたけど、たぶんあれ、男の人だったと思うので」

 

 一通りを終えたところで華琳より所感を求められ、拓実は観察していたことを余すことなく伝えていった。

 あの時、甘寧と周泰が掲げていた首はどれも黒髪、そして髭を生やした強面の男だった。それは、市井に噂として広まっている張角らの面体と一致している。しかし華琳たちが把握している張角らは女性であって、また拓実の記憶が正しければ、三姉妹の髪色はそれぞれ桃、水、薄紫と随分と明るい色ばかり。それだけの違いがあれば遠目とはいえ気づくことが出来た。

 

「ボクのとこより、季衣のとこの方が近かったと思うんだけど、そっちからは見えなかった?」

「んー、ボクは春蘭さまについてたから、ちゃんとは見てなかったな。でも、姉ちゃんの言うように、女の人の頭にしてはおっきかったかも」

「……そう。ということは、張三姉妹が本当の首魁であるとするなら、姿を眩ます為に意図的に内部に偽報を流していたと見るべきか。ふふ。三人のうちの誰だかは知らないけれど、多少は頭が回るようね。となれば、まだ近辺の州に潜伏している可能性もありそうだわ」

 

 困ったような顔で話し始める季衣が自信なく答えていたが、華琳は拓実や季衣の証言の確度は高いと判断したらしい。広げられた地図にいくつかの経路を探している。目線は現在地点から東にやり、今度は黙り込んだ。どうやら次点で北方を疑っているようである。

 

「ですが華琳さま。このままでは、黄巾党を討ち倒したのは孫策ということになってしまいますが」

「ええ、そうでしょうね」

 

 春蘭の言葉を受けて、顔を上げた華琳は何を当然のことを、とでも言うように返した。

 

「十中八九、孫策らが討ち取った張角らは偽者でしょう。けれども、確たる論拠があって言及するのでなければ、周囲からは手柄を立てられなかった故の負け犬の遠吠えとしか取られない。張三姉妹が変わらず存命していれば、そう遠くないうちに似た反乱が起こるのは想像に難くない。であるなら、我らは一時得られるだろう名を捨てて(じつ)を取るとしましょう」

 

 正しい情報を示したところで信じてもらえなければ意味がない。よしんば上手くいったとしても周辺諸侯は張三姉妹の討伐の為に動き出すことだろう。

 それは、張三姉妹の身柄の捕獲を考えている華琳にとっては好ましい状況ではない。つまり、ある意味では華琳の悪癖ともいえる、人材収集癖が疼いてしまっているのである。こうなっては拓実たちが何を言っても華琳は止まらない。とはいえ張三姉妹の曲を口ずさむぐらいには気に入っていた拓実にしても、殺さず捕らえるというのは歓迎するところではあるのだった。

 

「とりあえず、張三姉妹の行方については、陳留へと戻ってからにしましょう。兵に休息を取らせたら、あなたたちも少し休んでおきなさい」

 

 そうして日が真上に上ってから帰還することを三人に通達して、華琳は今回の討伐を締めくくった。

 

 

 

「おお、こちらにおられましたか」

 

 華琳の天幕から辞して、春蘭、季衣、凪、拓実の四人が各々の天幕へと戻る途中、声がかけられた。うち、春蘭が真っ先に顔をそちらへとやって声を発した人物を視界に収めると、眉を寄せて少しばかり考える素振りを見せる。

 

「んん? 貴様は公孫賛の軍にいた、趙雲だったか?」

「いかにも。猛将として高名な夏侯惇殿に名を覚えていただいているとは光栄ですな」

「関羽や張飛と並んで、ああも賊らを食い散らかしていれば嫌でも目に付く。その槍術の冴えにしても、そう見れるものでもなかったからな」

 

 いやお恥ずかしい、そう言って趙雲は相好を崩した。言葉こそ謙遜しているが、その表情から自身の槍に誇りを持っているらしいことがわかる。しかし相変わらず、立ち振る舞いには隙がない。

 

「それで、その趙雲がこんな時間に何用だ?」

「いやいや、そう大したことではありません。事前に話していたように、そちらの楽進殿と許定殿に少しばかりお時間をいただこうかと思いましてな」

「何だと? よもや、引き抜きの類ではあるまいな」

「はっはっは、むしろその逆。まぁ、隠す類の話でもなし。夏侯惇殿さえよろしければお話致しましょう」

 

 問い詰めるような春蘭の言葉に、趙雲は笑みを以って返す。春蘭の放つ威圧を意に介さず、飄々とした様子を崩していない。

 

「私は伯珪殿――公孫賛殿の下で客将として禄を()んでおりましたが、実は今回の遠征を最後に諸国を見て回ろうと考えておりましてな。その道中、我が槍を預けるに足る御仁がおられましたら、あわよくば将として末席に加えていただこうかと。出来ることならば今回の張角らをこの槍【龍牙】で討ち取り名を売り込もうかと画策しておったのですが、いやはや『穴の(むじな)を値段する』とはこのこと」

 

 趙雲は手の槍を掲げてみせた。言葉の割には、張角を討ち取れなかったことに悔しがっている素振りは見えない。

 

「まぁ、そういった訳で、出来ることならばこれから帰還するそちらの討伐隊に同行し、許可がいただけましたらそのまま曹操殿のお膝元に逗留させていただきたい。路銀の関係もありますので、おそらくは数日のこととなるでしょうが」

「ほう。なるほどな、そういうことか。私などは華琳さまがおられたから唯一無二の主君と仰げているが、その志はわからんでもない。よしわかった。華琳さまに伺いを立ててきてやろう。問題なく許可は下りるだろうが、少しばかり待っていてくれ」

「よろしくお頼み申す」

 

 感じ入った春蘭が言うなり踵を返した。そうして今しがた出てきたばかりの天幕へと足を進めていく。残る四人は、何をするでもなく春蘭の背を見送った。

 

 楽々とした様子の趙雲を、拓実は密かに伺い見ていた。青釭の剣のこともあって、拓実にとって彼女は一番に警戒すべき相手なのかもしれない。

 視線に気づいたか、趙雲は不思議そうに拓実を見返した。幼子を相手するようにその顔には笑みがある。拓実は内心ではその一挙手一投足に注意しながらも、表面上にはそんな素振りの一切を見せず、無邪気にはにかんで返したのだった。

 

 

*1
孫子が言うには、良い将というのはまず相手が付け入る隙を無くすように手を尽くし、そうして相手から付け入るところが現れるのを待ってそれを狙うものである。転じて、勢いに乗って闇雲に動いたりはせず、落ち着いて足元を固めることが肝要であること。



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29.『華蝶、陳留に舞い降りるのこと』

 

 後ろへと流した金髪をなびかせて、拓実は街中を駆けていた。無駄なく路地を選んで進み、人ごみの中をまるでねずみのようにするすると抜けていく。

 そんな拓実の後ろを、銀髪をおさげにした傷痕だらけの少女――凪が少し遅れてついてきている。肉体的な疲労はしていないようだが、街中を被害を出さないようにして駆けるのには慣れていないらしく、ついていくのにやっとという様子である。

 拓実は前方を走っていた男の背中に追いつき、風のように追い越していく。そこでばっと振り向くと、背負っていたトンファーを抜き放っては構え、男の前方に立ちふさがった。

 

「止まれーーっ!!」

 

 拓実より上げられた声。男はそれにまったく構わない。足を止めずにそのまま突進していく。駆けていた勢いを削がず、手に持った成人男性の太腿ほどの太さの棍棒を振りかぶり、拓実へと向けて振り下ろした。

 

「ぬううう、あああああっ!」

「ぐぅっ!」

 

 鉄のハンマーを木に叩きつけたような、そんな鈍い音が路地に響いた。拓実は右手のトンファーで受け流そうとしたものの、勢いは殺しきれない。拓実の体は衝撃により後ろへと押しやられてしまった。

 男からは間髪をいれずに前蹴りが飛んでくる。体勢を立て直した拓実は、ぴょんと後退して何とかそれをかわした。

 

「うわ、わっと!」

 

 よたよたと体勢を崩すも持ち直し、若干痺れの残る右手を一度振って、無事な左手を男へと向ける。拓実は緊張感のなさそうな言葉を声に出しながらも、油断なく男を観察し続けている。

 

「うおおおおおっ!」

 

 小柄な少女が屈強な己に何するものぞ、と男は棍棒を振り回し始めた。

 先ほどは逃亡する男の前へで立ち塞がって一撃を受けてでも足を止めさせなければならなかったが、一度立ち止まってくれれば拓実にその制約はなくなる。乱雑に振り回されるそれを、かがみ、跳び、後ろへ退いてはあるいは距離を縮めて、全て避けてみせる。ひらり、ひらりとキュロットスカートの裾を翻させて、跳ね回る。

 そうしながらも視線は常に男を射続けている。男の筋肉の動き、あるいは体勢を見、目線などから振るわれるだろう軌道を読んでいる。今拓実は、華琳をして天性と言わしめるだけの動体視力を十二分に発揮していた。

 

 しかし、一向に拓実は拳を、その手にあるトンファーを振るわない。拓実の身のこなしは中々のもので、速度も目を見張るものがある。鈍重な武器を振るっている男の隙に、一撃、二撃と打撃を与え離脱することは十分に可能だろう。だがそれをしようとする様子を一切見せず、ただひたすらに回避に徹していた。

 

「拓実、代わるぞ!」

 

 そうこうしているうちに凪が追いついて、男と拓実の間に割り込むとその右手の手甲を振り回されている棍棒へと叩き付けた。得物の重量で言うならば間違いなく棍棒が勝り、そして体格にしても男と凪では男が勝る。ならば必然男が勝つかと思えば、しかし結果は違った。

 

「だああああああ!」

 

 凪の果敢な声と重たい打撃音が響いて、次の瞬間には二人は共に等距離弾かれた。今の一撃はどうやら互角か。拓実が凪を援護すべきかと目を見張る。

 だが、その必要はなかったようである。どういった原理か、男の棍棒だけが一方的にばらばらに砕けてしまったのだ。改めて拓実が凪を見れば、右腕が淡い光に包まれている。それを拓実は、羨望を込めた目で眺めた。

 ――凪の筋力を大柄な男と拮抗させるほどに増強させたのも、相手の棍棒を砕いたのも、同じものだ。その違いは内か外かに働きかけているかというだけ。それは、体内で練り上げる『気』という力によるものである。

 

「おお、いってえ。聞いちゃいたけどこりゃあ強烈だ」

 

 男が棍棒の柄を放り投げて手を一度二度ぷらぷらと振ると、今度は拳を握り締め、構えを取った。半身になって、凪と拓実に向かって拳を突き出している。素手になってもまだ抵抗する気なのかと、拓実と凪もそれぞれ武器を握り直した。

 

「拓実も、凪も、早すぎる、っちゅーの」

「同感、なのー! あっという間に、見えなくなっちゃうしー」

 

 ひぃひぃと息を切らした真桜と沙和が、ようやく現場となっている路地裏に追いついた。すぐさまに凪や拓実に加わり、対峙している男を取り囲んだ。

 

「うわ、四人相手じゃ流石にもうどうにもならねえなあ」

 

 四方に囲まれて流石に諦めたのか、男は両手を上げて降参の意思を示す。髭面をしかめて、「あー、ちくしょう! 捕まっちまったかー」などとぶちぶち声を漏らしている。

 

「暴漢、于禁が召し取ったなのー!」

「いやいや。沙和、流石にそれは無理あるわ。うちら二人は取り囲んだだけやし」

 

 にこにこと笑って手を挙げた沙和に、真桜が苦笑いしている。そんな二人に向かって、両手を上げていた男が深々と頭を下げた。

 

「李典隊長も于禁隊長もお疲れ様っす」

「あの、王忠さんも今日はせっかくのお休みだったのに、ごめんね?」

 

 追われていた男は顔をがばっと上げて、拓実へと向き直るとにこにこと顔を(とろ)けさせた。いい歳した男が浮かべる顔ではないのが、だが不思議といやらしくはない。

 彼、王忠は戦に赴く際、拓実の部隊に配されている部下である。拓実が見上げるほどに背は高く、全身は筋肉の鎧で覆われていて力自慢。性格は豪放で、桂花が毛嫌いしそうな男臭い男である。

 この男、無精髭を生やしている為に見た目にはそこそこ歳のいった男性にしか見えない。拓実と歳が一回り離れていそうな風貌なのだが、実年齢は拓実のたったの二個上らしい。もっとも、拓実にしても実年齢から三つ四つ若く見られてしまうので、並べば余計に王忠が老けて見えてしまうのは仕方ないことではあるが。

 

「いやいや! うわっはっは! どうかお気になさらずに。俺の力量を見込んでと許将軍に直々に頼まれたとあっちゃあ、断るわけにはいきません!」

「いやー……、うん」

 

 拓実は苦笑いを浮かべた。その顔には珍しくどう応対していいものかといった戸惑いに溢れている。今回のことは、拓実が彼を見込んで頼んだわけではなかった。犯人役を拓実の部隊の兵の中から募った際、立候補した他の数名を王忠が蹴散らしたが為にここにいるのだった。

 

「王忠といったか。荒くはあったが、気迫は中々だった。見れば地力もある。もしかしたなら、将として通用するかもしれんぞ」

「うむ。ご苦労だったな。四人を相手にしてこの地点まで逃げ延びたのも評価できる。許定に妙な視線を送っているのは気になるが……まぁいい。休暇も残るは半日となってしまったが、ゆっくり休んでくれ」

 

 遅れて路地の奥から春蘭と秋蘭が現れる。秋蘭の手には竹簡があり、筆で何事かを書き込んでいた。今回の逃走劇は、もし彼女らの元まで王忠が逃げ延びていたなら拓実らの負けと決まっていたのである。

 

「はっ。失礼します、元譲将軍、妙才将軍。では、許隊長! また明日にでも!」

 

 きびきびと春蘭、秋蘭に向けて折り目正しく礼を取った男は、人肌ほどに温まった視線を向けながらも拓実に別れを告げ、路地から出て行った。拓実は生温かいそれに背筋を寒くさせ、小さく身震いする。

 

「さあて。警備隊長と副隊長を決めるための試験もこれで終了だな。で、秋蘭、どうなった?」

 

 秋蘭が何事かを書き込む傍ら、春蘭が四人を見渡して修了を告げる。二日前より、拓実、凪、真桜、沙和の四人に対しての試験が行われていた。陳留の街を舞台に繰り広げられていた今回の逃走劇は、その最終試験であった。

 四人は部隊指揮の向上の為に、平時は警備隊での隊長や甲乙丙の各班長を兼任している。これまでは暫定的に凪が警備隊長を務めていたのだが、陳留に滞在しているうちに正式に隊長を決めておこうとなっていたのである。

 

「そうだな。項目毎に順位を読み上げても良いが……」

 

 その言葉に、あまり成績が芳しくなかった真桜と沙和がふるふると小さく首を振る。それを見た秋蘭は笑みを浮かべて、再び手元の竹簡に目を落とした。

 

「確認の意味もある。一から述べていこうか」

「ええぇ~」

 

 げんなりした様子で沙和と真桜が声を漏らした。あんまりいつもどおりな二人に拓実は思わず笑みをこぼしてしまう。

 ふと、二人が不真面目な態度をとる度に叱り付けている凪が静かなので見てみれば、直立不動の体勢で固まってしまっていた。どうやら春蘭、秋蘭を前に緊張しているらしい。

 

「まず、追跡や賊発見、走力の試験からだな。好成績順から言うと許定、楽進、于禁、李典の順だ。統率能力を見る試験では許定、楽進、李典。そして大きく水を開けられて于禁。武力試験では楽進が第一試験の総当り戦で全勝、第二試験の対兵士勝ち抜き戦も規定の十人抜き達成。李典、続いて于禁も十人抜きの方は達成だな。許定は総当りで全敗、勝ち抜き戦は四人抜きで最下位だ」

 

 秋蘭がそう告げると、真桜と沙和がうへぇ、と舌を出した。総合的に見ればかなり上位に食い込んでいるらしい拓実だったが、うち武力試験が最低である。勝ち抜き戦も規定数をこなせていない。能力だけを見るなら凪に決まるところなのだが、そこで横にいた春蘭がもうひとつ竹簡を取り出した。

 

「この、華琳さまがお作りになった『性格による隊長適性』って奴だと拓実が僅かな差だが一番で、ちょっと下に凪と真桜、その下に沙和らしい。ちなみに副長適性だと、凪と沙和が同じくらい、拓実と真桜はその下だが四人とも大して変わらんな」

「えっと、そーなると誰が隊長と副隊長になるんですか?」

「そうだな……」

 

 拓実の質問に、秋蘭はしばらく考え込む様子を見せる。

 

「隊長は能力的には楽進だが、姉者が述べた適性までを考えると許定も候補に挙がるか。副隊長は楽進が好ましいが、そうでないなら次点で于禁か許定といったところだな」

「ええー、何でうちだけ名前ないんですかー」

 

 頬を膨らませて不満を声に出した真桜に、秋蘭は笑みを浮かべた。

 

「言うまでもないことだが、四人ともそこらの兵士や親衛隊よりも能力は高い。だが、その中でもどうもお前は職人気質な性格だろう。平時なら責任ある仕事を任せるのもいいが、一度趣味にのめりこんだら仕事を忘れて没頭してしまいそうだ」

「う。まぁ、それはまったく否定できませんけども」

 

 自分でも同じ結果になると考えついたのか、たはは、と真桜はばつが悪いといったふうに苦笑いしてみせる。

 

「副隊長はどちらかといえば能力よりも性格的なものが大きいからな。あまり気にするな。その中でも楽進は上がり症のようだから、朝議に参加して公式の場で華琳様にご報告する必要がある隊長職より、こちらの方が向いているかもしれない」

「はっ、はい……!」

 

 そう答えた凪は、この時点でさえ少しがちがちになっている。これまで朝議などでの華琳への報告も、緊張から頭の中が真っ白になって固まってしまい、代わりに拓実が指名されて報告を上げたりしているのである。最近はいくらか慣れたようで、華琳や春蘭、秋蘭と休日などに私用で会うならそれほどには問題はなくなっているのだが、どうにも公的な物が関わってくるとこの調子になってしまう。

 

「于禁は部隊指揮がどうにも上手くいかないようだが、逆に言えばそれさえ乗り越えれば何とかなるだろう。精進しておけ」

「はいなのー……」

 

 しょんぼりした様子の沙和。どうにも彼女は部隊指揮が苦手なようで、今日も兵に碌な鍛錬を施せずにいた。大勢を相手にした指示が苦手らしく、指示を出そうにもおどおどとしてしまったり、兵を鼓舞するような勇ましい声を出せないようだった。沙和自身もそれを懸念しているらしく、表情は浮かない。

 

「そういう点で許定は物怖じしないのはいいが、やはり武力面――特に力がないのが弱点か。しかしあの王忠から一撃でも受けられるのならば、そこそこの力はついているのだろうが」

「いえ。ボクなんてまだまだだから、もっとがんばらないと……」

 

 秋蘭の言葉に、拓実は顔を曇らせる。趙雲と出会って、つくづく自身の力不足を痛感していたのだ。奮起して鍛錬に励んでいるものの、武将たちの中からでは未だに下から数えた方が早い。

 

「確かに足らないところはいくつかあるが、お前はよく頑張っているさ。誇って良いぞ。ああ、そういえばさっきの試験で袖口と鼻に土がついているじゃないか。ほら、落としてやるからこっちへこい」

「だ、大丈夫ですってば、秋蘭さま! それぐらい、自分でできますよぉ!」

 

 にっこりと笑って手まねく秋蘭を前に、拓実は思わず凪の後ろに隠れてしまう。一度捕まってしまえば、何だかんだと理由をつけてそのまましばらくは開放してもらえないに違いない。経験則である。

 

「あー! 秋蘭さまってば、また拓実ちゃんにだけひいきしてるのー!」

「せやせやー! ずっこいでー! うちらにももっと優しくしたってくださいー」

 

 ぶーぶーと頬を膨らませて不満の声を上げる沙和と真桜に、秋蘭は手招きを止めた。きょとんとした様子だ。二人と凪の後ろに隠れている拓実とを見比べて首を傾げる。

 

「……そうか? 私としては公平に接しているつもりなのだがな」

「いや。流石にそれはどうかと思うぞ。秋蘭」

「む。姉者にまで言われてしまうとは……」

 

 間髪を容れない春蘭の発言は満場一致でこくこくと頷かれ、少しばかりしょんぼりした秋蘭は咳払いを一つ。

 

「まぁ、いい。ともかくだ。午後の予定も押しているからこちらで決めてしまうぞ。これより正式に警備隊の隊長は楽進としよう。この際だ、その上がり症もついでに治してしまうといい。副隊長の方は一応許定としておく。しかし華琳さま直々に君命を授かり不在なこともあるだろうから、李典と于禁も隊長の補佐はしてやるように。いいな?」

 

「りょ、りりょ、了解しました!」

 

 秋蘭の言葉に対して、凪はまるで入隊したての新兵のようにがちがちになって体を震わせた。声は上ずっていて、顔は真っ赤だ。額の汗も酷い。

 その様子を見て、一応は部下になる他の三人が不安に思わないわけがない。春蘭、秋蘭にしても僅かに顔を引きつらせている。

 

「……先が思いやられるな」

 

 春蘭の呟きは全員の内心を見事に代弁してくれていた。

 

 

 

 正式に隊長・副隊長が決まった四人は、春蘭たちと別れるとそのまま陳留の街へと繰り出していた。

 警邏がてら、今後のことを話すべく食事処へと向かっている四人の下へ、穏やかではない声が飛んでくる。

 

「誰か、警備兵! 警備兵を呼んでくれ! 物取りだ! そいつらを捕まえてくれぇ!」

 

 四人は立ち止まり、すぐに声が聞こえてきた方へと向き直った。見れば、黄色の布を腕や頭に巻いた五人の男たちが、通行人を押し退けながら拓実たちのいる方に向かって駆けている。

 それぞれが刃物を握っていて、うち一人がむき出しのままの貨幣の束を抱えている。叫び声の『物取り』とは、間違いなくこの黄巾党の男たちだろう。

 

 偽者とはいえ張角らが孫策に討たれたことで各地で蔓延っていた黄巾党は結束を失い、勢いを落としている。孫策が意図的にその功績を宣伝したことで、張角が討たれたことはあっという間に大陸全土に広まり、天地を揺るがしたような動揺を黄巾党へともたらしたのだ。

 だが、決して根絶されたわけでもない。各地の黄巾党はそれぞれ独立し、今も地域の領主や中央から派兵された官軍と争いを続けている。未だ数万単位の黄巾の残党が変わらず略奪を続けていて、地域によっては今もその数を増している。

 

 黄巾党に参加している半数は農民。残るほとんどが山賊や追剥ぎなどのごろつき、ならず者。その者らも元を正せば農民たちである。食うに困った民らが生きていくには、他所から奪うしかない。ただ山賊となるよりも、膨大な数を誇り、大儀を掲げる黄巾党に参加することは略奪するにいい隠れ蓑なのである。

 恐らく本物の張角らはいつからか影武者らと入れ替わり、そしてその際に『影武者こそが本物の張角である』という情報の流布を徹底している。あまりに大きくなりすぎた黄巾党。もちろん少女らを信奉している者たちもいるだろうが、末端は当の参加している者たちでさえ本当の党首が少女であることを知らないに違いない。

 

「おら! さっさと道を空けろ!」

「……まったく」

「おい! 怪我したくなかったらそこをどけ、小娘ども! どかねえとたたっ斬、が、げぼぉっ!?」

 

 言葉の途中で男から悲鳴が発され、その体が宙を舞った。剣を振り回している先頭の男に、凪が静かに歩み寄って拳を腹に打ち込んだのだ。

 かなりの距離を吹っ飛び、そして地面を転がった男は腹を抱えて嘔吐している。そのまましばらくすると、体をぐったりと弛緩させた。どうやら意識を失ったようだが、気が篭められた一撃は蓄積し、そのダメージは長引く。それを腹部に受けては、しばらくの間喉を通るのは流動食ぐらいだろう。

 

「て、てめえ!」

「はいはい、オイタはそこまでにしときや」

「あんだとぉ? ぐっ、ぎっ!?」

 

 小刀を握っていた男に近づいた真桜がその持ち手を掴み、膝横にすぱんと蹴りを入れる。がくん、と力が抜けて下がった男の顔面にそのまま流れるように肘を叩き込むと、男は鼻血を噴出して前のめりに地面に倒れこんだ。

 

「隙あり、なのー」

「ひぎィ!」

 

 最後尾にいた男の背後にこっそり回りこんでいた沙和が、男の股間を容赦なく蹴り上げていた。三人目は口から泡を吹き、くるんと白目を剥いてうずくまった。ぴくぴくと体を震わせている。

 周囲で見物していた男性たちが思わず股間を押さえる。ずどん、と凄まじく残酷な音だった。

 

「ねぇねぇ」

「んだ、ガキ! 邪魔すんじゃねえ! ッ! オイ、もしかして、お前もあの女どもの仲間か!」

 

 武器も持たずに笑みを浮かべ、至って自然体で男に近寄った拓実は、青龍刀を握っているのとは逆の左手を両手で握っていた。あんまりにも邪気のない拓実に男は手を握られてようやく我に返り、現状を把握したようだった。

 

「そうだよ。えーっと、これでいいのかな? よいしょ、っと」

「は? おい、いて、ちょ、馬鹿! 何してんだこら! それ以上曲がんね、てめえ、小指離せ! いてえんだよっ! いてえって! いたいんです!」

 

 男の手を取った拓実はそのうちの小指を握りしめて、手の甲へ向けて捻り上げる。痛みに堪らず、男は青龍刀を取り落として身を仰け反らせるが、それで握られた小指が外れるわけもない。

 拓実は青龍刀を蹴って遠くへやると、男の体が傾いたところで手首を握り直し、腕ごと捻りながら足を思いっきり蹴っ飛ばした。

 

「いぎっ! くそったれ、ガキが調子に……がっ!?」

「……あれー? ごめんなさい、も一回! おかしいなぁ、こうかなぁ? えいっ!」

「げっ! おいまてクソガ、ぎゃ! こら、おい! げぎっ!?」

「よいしょ! ん~、どうしてダメなんだろ? ごめんね、も一回だけ! えと、もっかい!」

「ちょと、まて、話を……ぎぃ!? もう抵抗しな、あぐぅ!」

 

 やっ、ごん。よいしょ、ごん。えいや、ごん。どりゃ、ごん。せっ、ごん……。

 鈍い音と拓実の声が代わる代わる、何度となく響く。受身も取れずに地面へと倒れた男をしっかり無力化すべく、拓実がトンファーを袖から出して追撃を加えていた。

 拓実は、凪、真桜、沙和の少女たちと比べてもまだ非力である。それは相手をしている男にとって幸なのか不幸なのか、一撃一撃が意識を失うには弱すぎた。拓実の目標が達成されるまで何度も何度もトンファーで頭を殴られることになる。

 

「ありゃ、賊相手ながらちっとばかしムゴいなぁ」

「一回で気絶させた凪ちゃんのほうがよっぽど優しいと思うのー……」

「……可哀想に」

 

 三人が遠巻きに小声で呟いている。みんなして顔が青い。中々気絶しない男に殴打を加え続けながらも純粋に不思議そうにしている拓実。その姿を、残る一人となってしまった黄巾党の男はもちろん、仲間である凪たちも恐ろしそうに見ていた。

 

「くそ、こいつらバケモノかよ!」

「あっ? ああ! しもた! もう一人いるんを忘れとった!」

 

 恐れおののいた最後の一人は拓実たちから逃げ出した。形振りも構っていられないようで、必死な形相で道行く人を薙ぎ倒して駆けていく。

 野次馬に囲まれている為に、凪では人ごみを駆け抜けることは難しい。この中で一番に足の速く人ごみを苦にしない拓実は、今も倒れた男に向かってひたすらトンファーを振るい続けている。凪たち三人が慌てて駆け出すも、既に通行人の中に紛れて姿が見えなくなっていた。

 

「仲間を見捨てて逃げるとは見下げた奴め! とうっ!」

「ねぶらっ!?」

 

 凪の前方、人ごみの向こうに、屋根の上から白い何者かが飛び降りた。ぐしゃっ、と何かが潰れた音と男の悲鳴が遠く聞こえてくる。

 拓実もようやく地面に倒れ付している男が物言わなくなったので、何があったのかと三人に駆け寄って合流した。

 

「ふふ。この街は随分と治安がいいので出番はないものかと思っていたが、念の為に持ち歩いておいて正解だったようだな」

「何者だっ!」

 

 凪が叫ぶと、まるで図ったかのように人ごみが割れた。通行人たちが恐れおののいたように脇へ逸れていく。その先には、うつぶせに倒れた男の背に立つ白い衣装の女性の姿があった。

 

「問われてしまえば、答えねばなるまいな」

 

 朗々とした声が響いた。見れば、そこにいたのは拓実たちにも見覚えのある人物の姿。いや、以前にはなかった、ある装飾品を身につけている。その女性は凪たちへと向き直ると腕を振り上げ、それを振り下ろしてこちらへ向けると同時に高らかに告げた。

 

「弱きを助け、強きを挫く。暴力と不正が蔓延るこの乱世に舞い降りた一匹の蝶。美と正義の使者、華蝶仮面! 助けを求む声を聞き、悪を倒すべくここに推参!」

 

 計算されつくした角度、無駄に洗練された無駄のない、結果全てが無駄な動きをして女性はポーズを決めた。

 じゃきーんっ。そんな幻聴が、見る者全てに聞こえてきた。

 

「……」

 

 周囲からは音が消えた。あんなにも活気に溢れた陳留の街から、声が完全に消えていた。

 ごくり、と拓実は喉を鳴らす。目を見開いて、華蝶仮面と名乗った女性をただただ見つめている。

 

「……な、何や、けったいな仮面なんか被って、いったい何をしてるんですか? 趙雲さん」

「否! 私は華蝶仮面! 李典殿、そのような麗しい御仁などはこの華蝶仮面、存じませんな」

 

 凪は眉根を寄せながら【閻王】を握り締め、沙和は女性の顔を睨みつけている。残った真桜がにへら、と笑って声をかけるも、それは途中で遮られてしまった。

 

「いやいやー、ちっとばかし無理があるやろ。どう見たって趙……っ!?」

 

 苦笑いしつつも尚も言い募ろうとした真桜に、華蝶仮面なる女性から凄まじい威圧が放たれる。あまりに暴力的な圧力に、真桜の隣にいただけの拓実の背筋が凍る。

 その先を言おうとするならば実力行使も辞さない。有無の一切を言わせない。そんな気迫であった。

 

「す、すんません。人違いやったみたいです……」

 

 それを一身に当てられた真桜は、慌てて頭を下げていた。顔は真っ青で、心はぽっきりと折られている。

 そこで、ずずいと身を乗り出した者がいた。眼鏡に手を当てて華蝶仮面の顔を注視しているのは沙和である。

 

「趙……じゃなくて、華蝶仮面さんがつけているその仮面の縫製、見覚えがあるのー。もしかして、社錬の抜具と同じ手法じゃ」

「ほお! わかりますか! 于禁殿は素晴らしい鑑定眼を持っておられるようだ。社錬の職人に無理を言って製作をお願いしましてな。細部まで私が指示して作らせた、我ながら自慢の一品で……」

「……やっぱり。がっかりなのー。形がとてもじゃないけど今風じゃなくて、装飾もいけてないから違うんじゃないかと思ったのにー」

 

 「とんだ才能の無駄遣いなのー」そう続けていた沙和の体が、突如崩れ落ちる。仮面について上機嫌に語っていた華蝶仮面が、流れるような体捌きで沙和へと近寄ってその首筋に手刀を打ち込んだのだ。

 華蝶仮面はその後、瞬きする間に元の位置に戻り立っている。あまりの速さに周囲の通行人には白い残像が走ったようにしか見えなかったようで、何があったのかとどよめきが上がった。

 

「沙和っ!?」

「くっ! やはり、凄まじい強さだ……!」

 

 真桜が駆け寄り、地面へと倒れる直前の沙和をすんでのところで抱きとめる。相手の強さに戦慄する凪の声が、空しく響きわたった。

 

「あの……」

「む? 許定殿……いや、少女よ。先に言っておこう。悪いが何者かは答えることは出来ぬし、万が一、もし万が一だ。私の正体に気づいたとしても、それは言わぬが華というもの。ないとは思うが、もしも私の仮面にケチをつけようと思っているならば口を閉じていた方が身のためだぞ。少女であれど、于禁殿と同じ発作にあわんとも限らんからな」

 

 すっかり気分を害してしまったらしい華蝶仮面は、ぷいっとそっぽを向いた。そんな華蝶仮面へと近寄った拓実は、おもむろに彼女の右手を両手で握りしめた。その眼は憧れていた有名人に出会ったかのように爛々と輝いている。

 

「いえ、違いますってば! 華蝶仮面、すっごい格好いいです!」

「…………は?」

 

 華蝶仮面は何を言われたのか理解できなかったのか、呆然と口を開く。身構えていた凪も、沙和を抱える真桜も同じように固まっている。

 

「正体を隠して困っている人を助けるなんて、まるで物語に出てくる本当の正義の味方みたい! ボク、そういうのちっちゃいころから大好きだったんです! 名乗りもその時の動きも決まってて格好いいし、あっという間に悪党を倒しちゃうくらい強いし!」

 

 興奮のあまり華蝶仮面の手を両手で上下にぶんぶんと振っていた拓実は、ぴょんと後ろに下がるとくるりと片足ターンで一回転。

 

「えっと、『暴力と不正が蔓延るこの乱世に舞い降りた一匹の蝶! 美と正義の使者、華蝶仮面! 助けを求む声を聞き、悪を倒すべくここに推参!』でしたよね?」

 

 そうして、ばっ、ばっ、と華蝶仮面が先ほど見せた無駄に洗練された無駄のない無駄な動きを完全に再現し、拓実も高らかに名乗りを上げた。天賦とまで云われた模倣の才を、これでもかと無駄に使っている。

 じゃきーんっ。ポーズを決めた拓実を見て、周囲の通行人たちには先ほどの幻聴が再び聞こえていた。

 

「お……おお! おおおっ! そうかっ! そうだな! ああ、いやいや。確かにこの槍を振るうまでもない相手ではあったが、見れば少女も中々の手際だったぞ、うむ」

「そんなぁ! ボクなんてまだまだですよう!」

 

 全面肯定してくれる相手が現れたことで、華蝶仮面は喜びを隠しきれずに口元をにやにやとさせている。拓実は背筋を正して顔を赤らめ、えへへと笑顔を浮かべた。凪や真桜を含めた周囲の面々はまったく動けない。完全に置いてけぼりだった。

 

「はっはっはっ! 正義を愛することに加え、謙虚な心を持っているのもまた素晴らしい。少女よ。中々に見所があるぞ。あるいはこの華蝶仮面の相棒になれる素質があるやもしれんな」

「本当ですか!? やったぁ!」

「いや待て、少女よ。喜ぶのはまだ早い。……ここでは人目が多いな。楽進殿、李典殿。すまんが許定殿をしばし借り受けるぞ。華蝶仮面の名とこの槍【龍牙】に懸けて、間違いなく安全に送り届けることを約束しよう」

「あー、もう好きにしたってくださいな。夕方までにはちゃんと返してくださいよ」

「感謝しよう。では少女よ、ついてこい! 私に遅れるようであれば資格なしと見なすからな!」

「がんばります!」

 

 投げやりな真桜の言葉を聞いて、華蝶仮面は地面を踏み切ってぴょんと壁を蹴り上ると、民家の屋根の上を駆け出した。鮮やかであった。

 遅れてなるものか、と、拓実も警備隊で働いていた時よりも素早くなった身のこなしで近くの踏み台に足を掛け、ひょいひょいと屋根へと上ってその背を追いかけていった。

 

 

 「何だったんだ」「芝居だったのか?」「オチは?」周囲の通行人が不思議そうに呟いて、止めていた足を再び動かし始める。

 がやがやと、消えていた喧騒が戻ってきた。凪たちがそのまま立ち尽くしていると、倒れていた黄巾の男たちを警備隊が引き取りに来たようだ。するともう、気絶している沙和さえを除けば、すっかりいつもの陳留である。

 そんな光景を見て、肩の荷がようやく下りてくれたようなそんな心地で真桜が首を鳴らしていると、凪が拓実たち二人が消えていった方を見やって顔を強張らせているのに気がついた。何をそんなに緊張しているのかと首を傾げる真桜へ、凪は酷く真剣に問いかける。

 

「【龍牙】……私はあの武器をどこかで見たような気がする。なぁ、真桜。華蝶仮面の正体を知っているような口振りだったが、あれはいったい何者なんだ? 名乗ってもいない私たちの名を、何故なのか華蝶仮面は呼んでいた。どうやら私たちを知っていたようだったが……」

「凪……あんたもか……」

 

 その言葉を聞いた真桜は、思わず指でこめかみを押さえていた。気のせいじゃない。なんだか本当に頭が痛いのである。

 蝶の仮面を被った趙雲は元より、あれほどの威圧感を放つ相手がこだわっていた物を何の躊躇いなくこき下ろした沙和。あろうことかその珍妙な仮装を格好いいなどと言い出した拓実。

 マトモなのは自分と凪だけかと肩を落としていた真桜は、唯一の味方にも裏切られた気持ちになってうな垂れる。

 

「……とりあえず、どっか店に入ろか。そこで話したるから」

「おい、真桜っ! あっ……その、沙和を置いてくな」

 

 ふらり、と真桜は立ち上がり、夢遊病者のように歩き出す。強い風が吹けば、そのまま倒れてしまいそうだ。

 真桜に抱えられていた沙和が無造作に地面に転がったのを見て(とが)めようとするも、凪はその尋常ではない真桜の様子を見て言葉を濁した。

 

「凪、あんたが運んだってや。うちなぁ、もう疲れたわ」

「あ、ああ。わかった」

 

 真桜が何故こんなにもやさぐれているのかがわからず、凪はただその言葉に頷くことしか出来なかった。

 

 

 



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30.『典韋、曹操の誘いに応じるのこと』

 

 一騎で大軍を追い返した無双飛将軍の呂布に、大陸全土に広がる黄巾党の首魁三人を討ち取った孫策。暴虐を働いていた黄巾党の威勢が落ちてきている今、民草の話題を席巻しているのはもっぱらこの二人である。

 とはいえ万夫不当の呂布は近年評判の良くない官軍の所属に加えて董卓の配下に過ぎず、目を見張る功績を立てた孫策もまた袁術の客将という立場に甘んじたままだ。

 孫策と同じ戦場にて黄巾党本隊壊滅の一役を買った曹操、劉備、公孫賛、袁紹たちの名もまた知れ渡ったものの、むしろ元より名の売れていた幾人から一頭地を抜き戦功を打ち立てた孫策の名を高めることとなっている。

 

 対して中央――都は権力が弱まっているばかりでなく、どうにもきな臭い。先日には官軍の司令塔とも言える、大将軍の何進が謀殺されたとの話もある。真偽は定かではないが、表舞台から姿を消し、生死が知られぬ状況にあることは変わりない。

 一連の出来事の首謀者は董卓という将軍であり、何進の後釜に座った彼の者により都に暴政が敷かれている、といった噂がすさまじい勢いで大陸を巡っている。

 

 華琳はといえば、その動きに何を見たのか黄巾党の討伐を繰り返していた時よりも軍備の増強に力を注いでいた。春蘭ら武官に各拠点の兵の調練を命じ、文官らが徴収した資金の大半を徴兵や兵装、物資につぎ込んでいる。

 未来に生きていた拓実こそこれから待ち受ける群雄割拠の時代を知っているが、どうやら華琳は類稀なる嗅覚で世情からそれを察知していたようだった。

 

 

 月日が流れるのも早いもので、大陸の英傑らが集結したあの戦場からもう一月が経とうとしている。

 劉備は未だ義勇軍として各地を転々としているようだ。劉備軍の打ち立てた功績があれば、地方の領主程度の役職になら封ぜられていてもおかしくはないのだが、どうにも賄賂等々を極力拒否していた為に中央の役人の妨害にあっているらしい。一月に一度ほどの頻度で遣り取りしている、北郷一刀と許定との間で行われている手紙のやりとりの中にそうあった。

 また、陳留に逗留していた趙雲も疾うに発ち、次なる劉表の領地へと向かって旅立っていった。彼女から聞いた予定通りであるならば、今頃彼女は孫策の下を訪れている頃だろう。

 

 ――そしてこれは余談となるが、あんなにも華蝶仮面と意気投合していた許定だったが結局その相棒とはならなかった。

 拓実と夜通し正義について語り合った華蝶仮面は、いくらか話しているうちに己が不明を拓実に詫びた。ただ英雄に憧れている少女と見縊っていたが、正義を愛するその志は己に勝るとも劣らない、『同志』であると認識を改めたのである。ならばこそ、それぞれがそれぞれの正義の道を歩み、しかし切磋琢磨して大陸に正義の種を植えるべきであるとなったようで、一種の好敵手と認め合ったようであった。

 別れ際、目元に光るものを溜めて互いの手を握り合う二人のことを、真桜だけがげんなりとした様子で眺めていたのは周囲の面々の記憶に新しい。

 

 

 

 

「もー! ようやく仕事終わったよぉー。おなか減ったー! 青椒肉絲定食大盛り、大急ぎでお願いね!」

「あははっ、いつもお疲れ様でーす」

 

 だらーっと机に垂れている拓実に、給仕をしている緑髪の少女が労いの声をかけた。拓実がくつろぐそこは、秋蘭に連れられて以来行きつけとなっている城下町の大衆食堂だ。

 値段が安い上、方向性は違えども以前に桂花と一緒に食事をした高級料理店と遜色ないほどに舌を楽しませてくれる。おまけに、許定としてはこの上なく居心地がいい。店の雰囲気もそうだが、調理と給仕とを兼任しているこの少女と妙に馬が合うからだろう。

 

「はぁーい。青椒肉絲定食の大盛り、お待たせしましたー」

「わ、待ってましたー!」

 

 警邏の仕事を終えた、昼下がりの微妙な時間だからか他に客はいない。ぼんやりと調理に取り掛かる少女を眺めているうちに、湯気を立てた食事が拓実の目前に運ばれてくる。

 食欲をそそる香りにぱぁっと表情を明るくさせた拓実は、これ以上おあずけには耐えられないというように遮二無二食事に取り掛かった。

 

「んー、やっぱおいしー! これはボクが毎日通っちゃうわけだよねぇ」

「えへへ、いつも来てくれてありがとね。最初に来てくれてから毎日だから、今日で、ええと……」

 

 一口食べるなり拓実が思わず漏らした感嘆の声に、少女が笑顔で応じる。少女はそうして指折り来日数を数えていたが、はっと何かに気づいた様子で口を押さえた。

 

「あっ! ごめんなさい! またやっちゃった。お客様が相手なのに、言葉遣いが……」

「ん? 別にかまわないってば。なんか敬語とか使われるほーがむず痒いしさ」

 

 手元を止めず、もぐもぐと口を動かしながら拓実は言葉を返した。

 見た目には同じくらいに見えるからか、少女はよくよく拓実に対しては敬語でなくなる。また、と少女は言うが、他のお客相手では言葉遣いが崩れることはないので拓実を相手にした時だけなのだろう。

 

「そーですか? それじゃお言葉に甘えさせてもらいます。実は私、一月ぐらい前に村からこの街に出てきたんだけど、同じくらいの歳の子がいないからつい嬉しくなっちゃって」

 

 拓実が美味しそうに食事を進めていくのを、少女は笑顔で眺めている。

 

「でも、やっぱり。お客さんって、私の幼なじみと雰囲気がそっくり。だからなのかな、その幼なじみと話してるみたいになっちゃうみたい」

「へぇー。ボクに?」

 

 もぐもぐと口一杯に咀嚼しながら何となし言葉を返す拓実に、少女は近寄って自然な動作でその頬に手を伸ばす。くっついていたらしいたけのこの切れ端を指先で摘み上げると、目を細めた。

 

「うん。その『ボク』って自分のことを言うのも同じだし、しゃべり方とかも。ホント、あの子がもう一人いるみたい。陳留にいるって手紙に書いてあったのに、もう。どこにいるんだろ」

「え? えーと……店員さん? その……」

 

 少女の顔を見たまま、何と切り出していいかわからず拓実はあたふたしてしまう。拓実の様子を呼び方がわからなくて困っていると見て取ったらしい少女は、自分を指差して笑顔を浮かべる。

 

「あ、えっと。私、典韋って言います」

「典韋……うん。ありがと。その、ボクは許定っていうんだけど」

「許定? ウソ? 姓まで同じだなんて……」

 

 少女が目を見開いているように、拓実もまた思わぬところで聞き覚えのある名を聞くことになったと眼を白黒させていた。

 

 怪力の豪傑。『悪来典韋』などと後世にも知れている男は、ここでは小柄な拓実よりも尚小さな少女であるらしい。

 これまでに話した印象では控えめで、礼儀正しい性格。前髪を上げたところで結んだ大きなリボンは可愛らしく、今は調理の為に上に前掛けを着ているが季衣と同じくらい身軽な格好だ。

 史実では曹操の側近をしている典韋がどうして大衆食堂で料理を作っているかは知らないが、拓実には彼女の言う幼馴染に心当たりがあった。

 

「その、典韋の友達ってもしかして女の子じゃない? 髪の毛桃色の二つ結びでさ。力持ち」

「うん、そうだけど。その、許定はあの子のこと知ってるの?」

「ん。たぶん。っていうか……」

 

 陳留にいて、一人称が『ボク』で、許定にそっくりな女の子なんて拓実が知る限り一人しかいない。おまけに姓まで同じときた。加えて少女が『典韋』であれば、演義でも絡む相手は限られている。

 典韋と同じく力自慢の豪傑であり『虎痴』と呼ばれた男。この大陸では拓実より小柄な少女である。許定と雰囲気が似ていると典韋が感じるのも当然のこと、『許定』は典韋の幼馴染だろう少女を元にした役柄だ。

 

「失礼する」

「あら、拓実じゃない。奇遇ね」

「へ? 秋蘭さまに、華琳さま?」

 

 言葉を続けようとしたところで拓実が呼びかけられた声に反応して振り返ると、豪奢な格好の少女が店の入り口に立っていた。拓実の上げた声の通り秋蘭と華琳なのだが、大衆向けのどちらかといえば質素な店構えとはどうにもそぐわない為に、いつもの鎧姿が妙に煌びやかに見える。

 

「おお、拓実か。どうやらこの店を気に入ってくれたようだな。私も薦めた甲斐があるというものだ」

「って、うわわ! 秋蘭さま、いっつも言ってますけど頭撫でないでくださいってば」

「別に減るわけでもなし、構わんだろう」

「構いますってー!」

 

 いつの間にやら華琳の横に立っていた筈の秋蘭に頭を撫でられている。拓実は撫でられるまで接近されたことにまったく気づけなかった。やさしく撫で付ける秋蘭の手を無下に振り払うわけにもいかず、拓実は困ったように華琳を見る。

 

「ふふ。秋蘭、そろそろお止めなさいな。城ならばともかく公共の場よ。拓実も店員のこの子も困っているでしょう」

「…………はっ」

 

 薄く笑んだ華琳に命じられても尚名残惜しそうにする秋蘭に、ようやく開放された拓実はほっと息を吐き出した。

 

「あの、いらっしゃいませ。曹操さま、夏侯淵さま。えっと、いつものでよろしいですか?」

「ええ、お願いね」

「私も同じものを頼む」

「かしこまりましたー」

 

 我に返った様子の少女がぱたぱたと厨房へと駆けていくのを眺めながら、華琳たちは拓実の対面の席に腰を下ろした。妙に手馴れている華琳の様子を拓実は不思議そうに見る。

 

「あの、華琳さまもこのお店にはよくいらしてたんですか?」

「ええ、そうよ。彼女はなかなかの腕を持つ料理人だもの。城に招こうともしたのだけれど断られてしまったから、こうしてこちらから足を運んでいるという訳」

「へぇー、典韋ってすごいんだ……」

 

 美食家でもあり、同時に相当の料理の腕をも持つ華琳にすれば最大級の賛辞だ。拓実は思わず、何かを炒めている音を放ち始めた厨房へと目をやった。暖簾の隙間から小さな体が忙しなくちょこちょこと覗いている。

 

「あの子は目的があってこの陳留へとやってきたみたいなのよ。どうやら人探しのようなのだけれど……」

 

 華琳の言葉を聞いて、拓実の頭の中で情報がゆっくりとつながっていく。ようやく、華琳と秋蘭の登場で半ば停止していた頭が動き始める。ぱちぱちと瞬きして華琳と向き合っていると、今度は店の外から言い合う声が近づいてきた。

 

「ヘン、ちびっ子が選んだような店に、このあたいの舌を満足させられるかっての!」

「こんのー! ぼさぼさめ、ぜったいにおいしいって言わせてやるんだから!」

「もう、文ちゃんったら……」

 

 そこに新たな客の姿。見慣れぬ女性二人に、見慣れた季衣の三人組。現れた季衣の姿に、拓実はようやく思考の片隅に追いやっていた給仕の少女との話題を思い出した。

 

「あー! そうだったー! ねぇ、典韋! 典韋ってば!」

 

 がたんと席から立ち上がり、拓実は厨房へと大声を上げた。突然に何事なのかと、拓実の目の前に座っている華琳と秋蘭が目を丸くしている。

 

「どうしたのー? 許定ってば、追加の注文? もう、何も大食いなとこまで似なくてもいいのに。曹操さまと夏侯淵さまの料理がもうちょっとしたらできるから、それまで待っててー!」

「違うって! 典韋が探しているのって、季衣のことじゃないの!?」

 

 どうにも食後の満腹感と仕事後の疲労で軽く頭が呆けていたらしい。こんな簡単な答えを出すまでにえらい時間をかけてしまった。

 

「ちょ、曹操だって? なぁ、おい斗詩、どうするよ?」

「嘘ぉ……。こんなところで会うなんて思ってなかったから、頭の中真っ白だよぅ……」

 

 視界の端には、華琳の名を聞いてびっくりした様子の見知らぬ二人の女性がいたが、拓実はそちらに注意を払えない。拓実の大声に、ようやく拓実や華琳、秋蘭の姿に気づいた季衣が不思議そうに首を傾げている。

 

「姉ちゃんに華琳さま、秋蘭さま。って、典韋? 何で流琉のこと、姉ちゃんが知ってるのさ?」

「ああっ、季衣!? ようやく見つけたー! こんなところで何やってるのよー!」

「あっ、流琉!? 何やってるって、それはこっちの台詞だよ! もー、流琉の方こそ何やってたのさ! お城にいるって書いておいたから、いつ来るのかなーってずっと待ってたのに!」

 

 がしゃがしゃと何かを取り落としながらこちらへと顔を覗かせて、季衣の姿を視界に収めるなり怒鳴り上げる典韋。対して、季衣もまた流琉に向かって怒鳴り返した。二人とも顔を上気させているが、その大半は親友に会えた喜びに拠るものだろう。

 

「これはまた、急に騒がしくなったものね。どうやらここ陳留では見かけぬ顔もいるようだし。ねぇ、秋蘭。あなた、あの二人組みに見覚えはあるかしら? 私の覚え違いでなければ…………秋蘭?」

「ふふ、びっくりしている拓実もかわいいなぁ。まるで小さな頃の姉者……ああ、姉者はいつ領内の調練から帰ってくるのだろう……」

「……はぁ、まったく。この子も」

 

 返事がなかったことを不審に思って華琳は隣の秋蘭に顔を向けたが、件の人物がびっくりした様子の拓実を眺めて口元を緩めている姿を見て、視線を季衣たちへ戻す。

 最近、許定状態の拓実と会わせると秋蘭はこうなることがあった。彼女の姉である春蘭が、連日別の街の兵の訓練に赴いている為に不在にしているからだろうか。

 華琳は頬杖をついてため息を一つ。しばらく時間を置かないことには誰からも話を聞けそうにないことを悟ったか、手持ち無沙汰に机の上の菜譜を眺め始めた。

 

 

 

「という訳でして、あたいら、南皮の袁本初から反董卓連合軍への参加要請の手紙を預かってきてまして」

「今回の討伐軍には我が主、袁紹を筆頭にして、南東は寿春に袁術殿、西は涼州に馬騰殿。北方からは公孫賛殿が参戦を表明しております。いずれも音に聞こえた英雄とはいえ、都を掌握している董卓の威勢は強大です。私たちとしても曹孟徳殿に参加していただけたらと」

 

 さばさばした様子の緑髪の女性の言葉に、青髪の女性が補足するように繋げた。華琳が二人の女性に見覚えがあったのも当然である。彼女らは旧知である袁紹のその配下、文醜と顔良であった。

 城の謁見の間に場所を移した華琳は、文醜と顔良から渡された書簡に目を通している。そのまま隣に控えた桂花といくつか言葉を交わしてから、頭を下げて返答を待つ二人へと華琳は頷き返した。

 

「いいでしょう。文醜、顔良、この曹操も連合軍に参戦する旨、麗羽に伝えなさい。にしても、よくもまあこうまで名が知れた者を集めたものね」

「姫ってば、あんなんでも名門袁家の当主ですからね。ホント顔だけは広いんすよ。ま、性格柄その知り合いにも好かれちゃいないんだろーけど」

「文ちゃん、いくら本当のことでも口に出したらダメだよぅ……」

 

 文醜、顔良ともに主君を悪く言いつつも、声色から袁紹を慕っていることがよくわかる。とはいえ、確かに袁紹の性格に難があることも確か。華琳の其れとは違う求心力を持っているのだろうが、華琳にはいまいち理解できない類の物だ。

 

「まったく麗羽は、人望があるのかないのか……。まぁ、いい。いつまで逗留するかは知らないけれど、その間は客分としてもてなさせてもらうからゆっくりしていくといいわ」

「いえ、私たちもそうしたいのは山々なんですけど……」

 

 眉を八の字にした顔良は、かくんと肩を落とした。疲労もそこそこあるのだろう、彼女の雰囲気の所為で纏っている金色の鎧も幾分くすんで見える。隣の文醜も肩をすくめて深くため息をついている。

 

「あたいら、これから急いで回らなきゃならないところが他に幾つかあるんですよ。『いいこと、猪々子さん、斗詩さん。仮にもこのわたくし、袁本初が率いるのですから、十万そこらのしょっぼい軍勢では許しませんわ!』なんて言い出すもんだからなぁ」

「用事を済ませて急いで帰らないと麗羽様にお仕置きされてしまうんです……。そういうわけで、用件のみで申し訳ありませんが今日のところは失礼させていただきます」

 

 言って頭を下げた二人は、時が惜しいと言わんばかりにそそくさと謁見の間を出て行った。二人の背中を無感情に眺めていた華琳だったが、それが入り口より消えるや否や玉座より腰を上げる。そうしてすぐさまに入り口へと足を進めていくのだが、優雅な立ち振る舞いを欠かさない彼女にしてはそれは心なし足早に見えた。

 入り口を出、通路を進みながらも、城壁の遥か向こうへと目線をやる。

 

「さて……季衣と典韋のことは拓実と近場にいた真桜の二人に一任してしまったのだけれど、まだ無事でいるかしらね」

 

 

 

 定食屋での邂逅の後に始まった季衣と典韋の喧嘩は、一時は文醜と顔良によって収められたものの、華琳の勧めで郊外の森で再び行われていた。

 

「ちょぉおりゃあああああっ!」

「でやぁぁぁぁぁああああっ!」

「うわぁああああああん!」

 

 一抱えほどもある鉄球【岩打武反魔】がびゅんびゅんと振り回され、巨大な円筒【伝磁葉々】が轟々と音を鳴らして飛ぶ。二つの得物はかち合っては火花を散らして、弾け飛んだ。その担い手である二人が二人とも古今無双の怪力。その苛烈な戦いに、周囲の木は根っこからなぎ倒されてしまって地面などはところどころえぐれている。

 その二人の間で木の葉のように翻弄されている者がいた。二人の仲介を華琳により命じられた拓実である。転がってくる木の幹を跳んで避け、時折飛んでくる【岩打武反魔】【伝磁葉々】から逃げ回っている。半泣きになりながらあっちへ避けたりこっちへ避けたりと必死も必死。それもその筈、風を圧し潰して宙を舞う超重量のそれらをまともに貰ったら、それだけで致命傷となるに違いない。

 

「そっ、そろそろ止めてよ二人とも! このままじゃボクの方が先に死んじゃうってば! うわっ!」

「何言ってんのさ! ボクは流琉が参ったって言うまでやめたりしないんだからね!」

「私だって同じだよ! 季衣の頑固者っ!」

「どっちも頑固者だぁっ!」

 

 喚き散らすように叫んだ拓実の言葉を聞いて、季衣と典韋のやり合っていた手が止まる。二人ともがむっとした顔で拓実のことを睨みつけている。

 

「なんだよ! だいたい姉ちゃん、流琉がいるって知ってたなら教えてくれればいいのに!」

「そんなの無茶苦茶じゃないかー!! 季衣と典韋が知り合いだなんて、ボクが知ってるわけないじゃん!」

 

 叫びながらも飛んでくる【岩打武反魔】をしゃがんで避ける。そんな拓実に迫る影。

 

「そもそも、あなたって何者なのよ! 季衣から姉ちゃんだなんて呼ばれてるけど、幼馴染の私がそんなの聞いたことも見たこともないのに!」

「それは色々あって、だから、説明するから……わああっ!」

 

 典韋に【伝磁葉々】をぶん投げられ、しかし季衣にも攻撃されている拓実に逃げ場はない。咄嗟に腰からトンファーを抜いて受け止めるものの軽々と弾き飛ばされた。

 拓実はそのまま宙を高く舞って、背の高い葦の中に落ちていった。完全に埋もれてしまって、その姿はすっかり見えない。

 

「……」

 

 拓実が飛び込んでいった先、物音一つしない草むらに、典韋と季衣が顔を見合わせる。

 

「えっ……あれ? 許定?」

「る、流琉のばか! 姉ちゃん、ボクの武器も持ち上げられないぐらい力ないのに」

 

 拓実からの反応がなくなり、二人が揃って心配そうな顔になると、ちょうど一拍ほど置いて草むらから当人が飛び出してきた。

 怪我は負っていないようだったが、それまでと様子が一変している。全身が葉っぱまみれになっていて、眉を吊り上げて珍しく怒りを露にしている。

 

「こ、こ、こんにゃろー! 二人とも調子に乗って! あんな風に飛ぶの、本当に怖かったんだから! こうなったら季衣も典韋も、まとめてボクが相手になってやる! かかってこーいっ! ばーか、ばーかっ!」

 

 言って、拓実はべーっと舌を出して二人を挑発する。元気な姿に安心したのも束の間のこと、好き勝手に言われては二人の表情から遠慮の色が消えた。

 

「なっ! むぅー! 姉ちゃん、ボクより弱いくせに!」

「私と季衣の二人を相手にだなんて、ばかにして!」

 

 そんな拓実へと、季衣と典韋が飛び掛っては、わーわー、ぎゃーぎゃーと騒がしく武器を振り回している。二人を同時に相手した拓実は五分ほど善戦した後に、またも葦の中へと飛び込むことになった。

 そんな騒がしい街外れの森へ華琳が秋蘭を引き連れて足を踏み入れると、拓実と一緒に喧嘩の仲裁に遣わせられた真桜がげっそりした顔で寄ってくる。

 

「か、華琳さまぁー。秋蘭さまー。うち、もう何べん死ぬかと思うたか……」

「真桜、ご苦労様。けれどそう言う割には、拓実の方はまだ元気があるようだけど?」

「ちょちょちょ、うちと拓実の元気っ子と一緒にされるんはちっとばかししんどいですって。泣き言吐きながらもあんなデカブツでやりあっとる中に飛び込んでからに、心臓に毛でも生えてんのかと」

 

 華琳に言われ、真桜は思わずといった風にぶんぶんと首を振る。

 

「ああやって弾かれて転がっとるのも、うちが覚えてるだけでも少なくとも片手じゃ足りんっちゅーのに、ようやりますわ。やっぱ季衣や春蘭さまの調練に参加して普段からぼこぼこにされとるから、打たれ強くなったんですかねぇ」

「打たれ強くなった、というのもあるのでしょうけど、そればかりではないわね。強いて言えば、やはり目が良いのよ。季衣や典韋の一撃をしっかり見極めて、上手く方向を逸らして最低限の力で受けとめているのでしょう」

「はぁ……。言われてみれば、同じ受けるでもうちは後ろに押しやられとったけど、拓実はぽーんと綺麗に飛んどるなぁ」

「小柄な体躯故の小細工といったところね」

 

 そんなことを話している華琳と真桜の目の前で、拓実がまたも弾き飛ばされた。結構な勢いのまま地面へと着弾すると、ごろごろと転がっていく。

 だがやはりというか深刻なダメージはないようで、そのままの勢いで立ち上がると気勢を上げて駆け出した。そんな拓実へと向かって鉄球が、円筒が飛んでいくが、それを避けてはいなし、二人へ飛び掛っていく。

 

「力では及ばないとわかっていながらもあの二人の間に飛び込んでいけるのは、半分は意地みたいなものでしょう。あの子のことだから、季衣に出来ることが自分に出来ないはずがないとでも思っているのでしょうね」

「ほ~。お姉ちゃんとしては、力持ちの妹を持つと大変ちゅーとこですかね」

「それは、……いえ、そうね。そんなところかしらね」

「へ?」

 

 言い淀む素振りを見せた華琳の様子に、真桜が不思議そうに首をかしげている。華琳は何でもないと首を振って見せた。

 

 今の拓実は季衣の模倣して出来た役柄、許定である。季衣らにとって脅威となりうる牙を拓実は持ち合わせていない。兎にも角にも非力。それに尽きた。

 武力では真桜にも劣る拓実が必殺の一撃が応酬されているあの場に飛び込むのは、季衣を模倣している自分ならば同じ場に立てる筈だ、というだけのこと。そこに勝算を必要としていない。額面どおりに捉えれば、そんな考えでは無駄死にするだけだ。身の丈に合わない戦場に飛び込むなど自殺志願者か愚か者のすることである。

 けれども、そうではない。確かに勝算はないに等しいが、拓実は季衣や典韋と戦えていないわけではない。

 はっきり言ってしまえば拓実の攻撃力は低い。しかし、自衛能力だけを見るならばいつの間にやら凪たちのそれを上回っている。聞けば、十分程度であれば春蘭をも相手に出来るとの事である。もちろんそれは打ち合うことせず、避け、受け、逃げに徹してのことだ。 生来よりの軽い身のこなし、小回りの利く体躯、咄嗟の反応速度に、高い動体視力。そこに、警備で鍛えた持久力と、強者との鍛錬を経て打たれ強さが身についていたのだ。

 拓実を効果的に運用するなら不意をついての暗殺や毒殺などの刺客、あるいは潜入しての斥候要員としかならず、単純に武力のみを評価するには不安は残る。いざ対峙すれば負けを引き伸ばせても、絶対に勝てないからだ。だが、それでも時間稼ぎするには充分である。敵将からの一騎打ちを受けでもしなければ、あるいは春蘭や噂の呂布のような豪傑を相手にしなければ、戦場に立たせて十分に通用する段階にある。

 

「華琳さま、どないしたんですか?」

「いいえ、何でもないわ」

 

 急に黙り込んだ華琳を、真桜が不思議そうに見ていた。華琳は一言だけ返して歩みを進める。その先には、いつの間にか三つ巴の喧嘩になっている三人の姿があった。

 

 

 

 

 季衣と典韋が出会ったあの日、三人の喧嘩を収めた華琳は改めて典韋に配下の誘いを持ちかけた。自分の幼馴染もいるならとその誘いを快諾し、典韋は季衣と同じく華琳の親衛隊として任官することになった。また彼女は季衣と同郷である為に、加入に際して華琳より拓実の立ち位置が明かされている。

 そうして真名を交換した上で、許定と典韋は真名の「拓実」「流琉」と呼び合うようになり、元より気が合っていたこともあって二人の間のわだかまりはなくなっている。しかし、どうやら許定としての拓実しか知らないが為に華琳の影武者をすることは半信半疑なようではあった。

 

 

 そして反董卓連合への参戦が数日後に迫ったある日の早朝のこと。拓実は華琳より、影武者としての最終試験を課せられていた。

 その拓実は真っ赤な部屋の中、肘掛に体を預けて気だるそうに隣に立つ人物を見やっている。そこには、きつい目つきをした猫耳フードの女官がぴたりと控えていた。

 

「私が今日一日でこなすべき内務、判断を下さねばならない案件、応対すべき相手、朝議で確認しておく部署……それは理解したわ。けれど、それは今回の試験の主題ではないでしょう?」

 

 拓実の確かめるような問いかけに、女官は我が意を得ていると満足そうに頷き返す。

 

「当たり前でしょう。今日夕刻まで、誰にも悟られることなく責務を果たすこと。それが今回のあなたへの課題となるわ」

「ふん。今更その程度、危惧するほどのことでもないわね。それより、その間そちらはどうしているのかしら? 下手をすれば、私よりあなたの不手際が原因で課題を果たせなくなるわよ?」

 

 横に侍らせている女官と言葉を交わしている拓実が座っているのは、華琳しか座ることの許されない王の為の椅子、玉座。しかし、拓実は華琳に扮している為に見た目だけならば違和感は一切感じることはできない。

 珍しく他には春蘭・秋蘭も、桂花も、兵士どころか見張りすらもいない玉座の間にて、拓実は傍にいる女官の話に耳を傾けていた。

 

「ふふ。今回ばかりは荀攸としてあなたの仕事を補佐をすることになるわね。光栄に思いなさいな。この私自ら、『曹孟徳』を教授するのだから」

 

 おかしな点といえば、隣にいる女官が深く被っている猫耳フードの中から、威厳に満ち溢れた声が聞こえてくることだろう。また、女官は自身を荀攸と名乗っているが、その正体である筈の拓実がすぐ隣でそんな彼女を冷ややかに見ている。

 拓実は、はぁ、と呆れた様子でため息まで吐いてみせた。

 

「華琳。別に私はあなたに、桂花と見分けがつかないほどになりきれとまで言うつもりはないわ。今回、試験を課されているのは私なのだから。けれど、少しぐらいはあの子に似せる努力をしたらどうなのかしら?」

「わ、わかっているわよ」

 

 拓実に華琳と呼びかけられた女官は、いつになく強気な様子の拓実に戸惑っている。その女性にしても着ている服装故か、普段の勝気さが鳴りを潜めて調子が掴めずにいるようであった。

 このちぐはぐな様子の猫耳フードの女官。拓実の所持している荀攸の衣服を身に纏っているのは、何を隠そう拓実が扮している華琳その人であった。

 

 華琳より課せられた最終試験。それは、影武者として実際に華琳の位置に立ち、代わりとなりうることが出来るかどうかの試験であった。

 その場合、本物の華琳が必然的にあぶれてしまうことになるのだが、どうやら拓実が華琳となっているその間は空いた荀攸の座に収まることにしたようである。ちなみに春蘭以下、配下の者には今回の試験について一切知らせていないとのこと。おそらくはこの方が面白いだろうという判断で華琳までも荀攸に扮することにしたのだろうが、むしろそれで楽しめるのは拓実の方であった。

 

「わかっていると(うそぶ)くのであれば、その周囲を近寄り難くさせている覇気をまずは抑えなさい。今のあなたを見れば一目で荀攸でないと知れるでしょう。そんな風に周囲を威圧して回る文官がどこにいるというの」

「ぐ……」

 

 拓実に窘められた華琳は小さく呻き声を漏らし、しかし真っ当な指摘ではあったので無理やりに笑みを浮かべて見せる。周囲を圧迫していた、ぴりぴりとした雰囲気が少しだけ和らいだ。

 しかし、今浮かべている華琳の笑顔を直視したなら、子供ならば泣き、大人であっても凍りつくだろう。そんな攻撃的な笑顔を向けられた拓実はといえば、まったく意に介した様子がない。

 

「……これで、いいかしら?」

「はぁ、そうね。いくらか、それこそマシにはなったというところね。まぁ、その頭巾を深く被って一言も声を発さずにいるのであれば、一応の及第点としましょうか。華琳ともあろうものが、私と骨格や声帯からして近いのだから同じぐらいには桂花の声色や表情に近づける筈だというのに……」

 

 言外に「期待外れ」と告げると、荀攸に扮している華琳の表情がこれ以上ないほどにひきつった。あまりの屈辱にわなわなと体を震わせている。しかし最後の意地なのか、笑みは崩れずに保ったままだ。そんな華琳の様子に気づいているのかいないのか、拓実は内心の不満を隠さずこれ見よがしに肩をすくめている。

 

「先ほどに言ったように、今回試験を課されているのは私ということだから荀攸は傍に控えて助言するだけだもの。その不出来な演技には目を瞑っておきましょう。ああ、いえ。むしろ出来る筈もない無理難題を申し付けてしまった、私の不明を詫びた方がいいのかしらね」

「ふ、ふふふ」

 

 「悪かったわ」などと粗雑に述べ、興味を失った風に華琳から視線を逸らした拓実に、華琳はついに笑い声を漏らした。無表情にそっぽを向いている拓実に、華琳は向き直る。華琳は、侮辱されたままで終われるような温い人間ではない。

 

「それは、この曹孟徳に対する挑戦ということかしらね? この私がこうまで侮られるだなんて久しくなかったことだわ。いいでしょう。あなたが私を演じるように、私も荀攸として振舞ってみせましょうか。演舞を嗜み、幾度となく都の芝居を鑑賞したこともある。文芸においても非凡と謳われているこの私を相手にそのような言葉を吐いたこと、後悔させてあげるわ」

 

 怒りのあまり僅かに顔を紅潮させている華琳が、けれども声を荒らげずに口にしたその言葉を聞いた瞬間、表情を欠いていた拓実の顔が「それを待っていた」といわんばかりにサディスティックな笑みに変化する。

 同じくして華琳の顔に浮かんでいた赤みが引いた。次いで苦虫を噛み潰したかのように歪む。拓実のその様子で、怒りに任せて挑発に乗ってしまったことにようやく気がついたのだ。

 

「あら。この私に向かってよく言ったものね。いい心がけよ。あなたがそうまで言うのであれば、私も先達として指導しないわけにもいかないでしょう」

 

 言質はとった。最早何の憂いもなく口元を綻ばせて述べる拓実に、華琳から鋭い視線が返ってくる。迂闊な、そんな声が聞こえてきそうなほどに華琳の表情には自身への苛立ちが乗っていた。

 

「荀攸、まずその尊大な口調を何とかなさい。一介の補佐官がこの曹孟徳に対してする言葉遣いではないわ」

「……っ、これで、よろしいでしょうか」

 

 しかし、いくら失敗を認めようとも、華琳は一度口にした言葉を撤回したりはしない。自身の言葉に責任を持つ、それが華琳の在り方だからだ。だからこそ、拓実はそのように話題を誘導したのである。

 自身そっくりの影武者に言われるがまま、華琳は無表情に拓実への口調を敬語に改めた。内心では屈辱に打ち震えていることだろう。華琳に扮している拓実はぞくぞくと背筋を震わせて、嗜虐的に笑みを深めた。

 

「それで、荀攸。あなたは私を何と呼んでいたかしら?」

「曹孟徳、様にございます」

「どうも表情が固いわね。それに、私の記憶違いでなければ、もう少し声は高くて細かったと思うのだけれど?」

「……は、はい」

 

 口調を直し、笑顔を浮かべ、声を高くしてと、一挙動とるのにも四苦八苦。いつも優雅に物事をこなす華琳からは珍しくそんな様子が見て取れた。

 実際、人の物真似を照れを入れずに披露するのには、結構な精神力を要するものである。似せることが出来ているのだろうかという不安はいつもついてまわること。そうして物怖じして縮こまれば興ざめであるし、物真似が似ていないのに自信たっぷりに振舞うなど恥さらしもいいところだ。

 物真似の目的が笑いを取る事であれば、特徴を拡大して滑稽に演じれば済むこともあるが、しかし今華琳が演じているのは笑いを取るためでもなく荀攸の代役を果たすためである。

 

「後はやはり、荀攸を自身に映すというのであれば、曹孟徳という人物に心酔した言動をしなくてはならないわね」

「それはっ……! くっ! 曹孟徳、様、お戯れはどうかほどほどに。時間が近づいておりますので」

 

 それらにしても、今の拓実が命じたものに比べればよっぽど生易しい。

 華琳は己の自尊心だけは傷つけまいと、いつも拓実がしているような荀攸の振る舞いを試みようとして、そうして己の自尊心の為に踏みとどまった。

 

 ――華琳に心酔している荀攸の言動をしろ。拓実は華琳にそう言った。自己陶酔の気がある者でも、それを照れを入れずに演じることが出来るだろうか。つまるところ他人の姿を借りておいて、自分を褒め称えろというのである。

 荀攸の素性が拓実には知れているだけに、自画自賛よりもよほど酷い。それこそ拓実のように役柄毎に価値観が異なるといった例外を除けば、まともな神経ではまず羞恥心が湧き上がってきてしまってこなせまい。

 

「さて、荀攸を苛めるのもこの辺りにしておきましょうか。今日は朝議が入っていたものね」

「……はっ」

 

 明らかに拓実に軽くあしらわれている。何故こうなった。不機嫌さを隠そうとしない華琳の仏頂面には明らかにそうあった。しかし、必要以上に意地悪こそしてしまったが、華琳が荀攸として過ごすならば拓実に対して敬語を使わねばならなくなるのは当然の帰結である。

 目先の面白さにつられてのことか、それとも自身であれば他人になりきれるだろうと軽く考えていたか、あるいは影武者である拓実の様子を一番近くで確認する為なのか。おそらくはそのいずれも考慮した結果として利が勝ると考えたのだろうが、華琳にしては少しばかり見通しが甘かったようである。

 

「ふふっ、多少はさまになってきているわよ」

 

 落ち着いたのだろう、つんと澄ましている華琳を見て、拓実は満足そうに玉座に深く腰掛ける。微笑ましく見られていることに気がついて、華琳はぷいとそっぽを向いた。

 

 拓実はそう言ったものの、華琳が荀攸になりきれているとは言い難い。背格好が同じだけに遠目に見るならともかく、人前に出ればすぐにその正体が知れるだろう。ただ、演じるということを意識していなかった先ほどとは大違いである。元々拓実と華琳は顔つきも体格も同じなのだから、内面までは無理でも外面だけであれば華琳にだってこなせない筈はないのだ。

 それを促すためとも言える本物の華琳もかくやといった悪辣な拓実の悪戯であったが、いつもの華琳を相手にしていてはここまでのことは出来はしなかっただろう。今回のことは拓実が意図してそうしようとしてのことではない。ただただ、『華琳』という役に入り込んでいただけなのだ。いつも荀攸である拓実が華琳に苛められ、華琳が荀攸を弄って愉悦を覚えているように、拓実も同じく荀攸となっている華琳にそうしたに過ぎない。つまり、華琳が荀攸の位置に収まるなどと言い出さずにいつもの姿であったなら、華琳に対して『華琳が持つ加虐性』を覚えることはなかった。いつもの華琳が相手であれば、拓実はいいように押し切られていたに違いない。

 

「君主が配下より先に待っていてはよろしくないから、私は一度部屋に戻るとするわ。荀攸、あなたも人前に出るにはまだ不安が残る。朝議が終わるまでは私の部屋で待機しておきなさい」

「かしこまりました」

 

 初めて一方的に華琳をやり込めたことで上機嫌になっている拓実は、自室へ向かって歩き出す。華琳もその後ろを従者のように後ろについて歩く。

 だから、華琳が先ほどまで拓実がしていたような笑みを密かに浮かべていたことに気がつけなかった。先にもあるように、華琳は決してやられたままで済ますような温厚な人間ではない。

 

 その報復はこの試験が終わった後に盛大に行われることとなり、拓実は後に泣いて許しを乞う事になるなどとは露知らず、意気揚々と足取り軽く玉座の間から出て行くのだった。

 

 



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31.『曹操、荀攸と入れ替わるのこと』

 

 ――おかしい。

 

「荀攸。少しばかり落ち着きなさい。そうも忙しなくされては、隣にいる私の方が気になってしまって仕方がないでしょう」

「も、申し訳ございません」

 

 これは、明らかにおかしい。華琳はいつもの執務室にて、その不可解さに苛つきを覚えていた。今朝方からずっと、そんな思いが華琳について回っている。

 

「それにしても、あなたが髪の毛を下ろしているのは初めて見るけれど街にいる年頃の少女のようで中々に可愛らしいじゃない。その姿が今回限りというのは残念だわ。本当に」

「……曹孟徳様、止めてください。正午までに処理せねばならない書簡が残っていますわ」

 

 無造作にフードの中、耳の後ろあたりに手を伸ばされて髪を弄ばれた。華琳は反射的に肩を押して距離をとる。

 急に近づいてきた見慣れている筈の曹孟徳の顔に不覚にも僅かに赤面してしまう。どくどくと、心臓がいつもより強く拍動しているのがわかった。

 

「あら、珍しいことね。照れているのかしら? 荀攸・華琳のどちらだとしても、口調が奇妙なことになっているわよ」

「拓実! いい加減になさい!」

 

 図星だった。だからこそ上手く受け流せない。自覚しているからこそ、二の句が継げずにいる。

 こんな無様を晒していては、今しがたに言われたように市井の少女と変わらないではないか。

 

「まったく。あなたは人の事を好んでからかう割には、からかわれることへの耐性はないのね。それに仕事に関しての心配はいらないわよ。御覧なさい、あなたと戯れていてもしっかりと仕事はこなしているわ」

 

 言われ華琳が見れば、自身に扮した拓実が、ちょうど九つ目の書簡の末尾に署名を終えたところだった。それを奪うように手にして、内容を確かめる。

 その署名も毎夜、半年にも渡って筆跡を真似させていた甲斐があったか、ぱっと見では華琳でさえも自身が書いたものと見間違えるほどの精度。肝心の内容にも目に見える誤りはない。

 

 処理する書簡も次で十、確かに政務の進捗状況は悪くない。いや、それどころか前倒ししているぐらいだ。

 華琳は、内政に偏っている荀攸よりは流石に一段劣ると想定して書簡を用意しておいた。もちろん普段華琳が処理している量とは比べるまでもないが、それでも並の文官に任せている量は軽く超えている。いつもとは勝手が違う領主としての仕事をこの速度でこなすのでは、それこそ荀攸時にも劣っていない。

 理解しがたい事態にこれはいったいどういうわけなのかと拓実へと目をやれば、当人は薄く笑みを浮かべている。

 

「曹孟徳であればこの程度、朝食の前にでも終える仕事でしょう。であれば、この私が午前の間にこなせない方がよほど道理が立たない。まぁ、仕事の最中にあなたをからかう以上は手抜かりがあってはならないと、普段より力を注いだことは否定できないわね」

 

 常人以上の仕事振りを事も無げに言い、くすくすと笑ってみせる目の前の拓実の姿に、華琳は自身の姿が重なって見えた。もちろん、華琳は自身の姿など鏡の中にしか見たことはない。

 華琳が見知ったのは、他人から見た自身の姿。華琳が唯一、直接見ることすら叶わない人物が、こうして目の前で動き、自身に向かって話しかけている。あの謁見の時のやり取りが、拓実の立ち振る舞いが華琳の脳裏を過ぎった。

 

「ともかく、これで納得したでしょう。残りも半刻もあれば充分に処理できる。むしろ私が心配なのはこれから凪ら三人と共に周辺の豪族へ顔見せに行く上で、荀攸、あなたの正体が三人に露見せずに済むのかどうかよ」

「ぐっ、そう言われるのも尤もだけれど、荀攸との面識なんてそうなかったでしょう。多少の不自然であればあの子たちには……」

「荀攸。言っている傍からその口調」

 

 その指摘に歯噛みする。少し気を抜けばこれだ。苛立ちから頭を振り、目を瞑って一つ息を吐く。僅かなりとも頭を冷やし、笑みを浮かべている拓実をきっと睨みつける。

 

「少々の不自然であれば、三人も見逃してしまうのではございませんか?」

「本当にあなたの言うとおりになるのであれば僥倖(ぎょうこう)と言う他ないわね。確かにあの子たちが荀攸と顔を合わせていたのは、朝議で集まる他では城ですれ違う程度。その際にしても礼を交わすだけだったもの。けれども、荀攸と荀彧がそっくりであることが周知の事実であることは変わってはいないわ。それを指しての的確な呼び名があるのだけれど、荀家の二人が城内で何て言われているのかあなたは知っているかしら?」

「……『鏡写しの反面教師』」

 

 しばし逡巡し、華琳は搾り出すようにして答える。顔をしかめている華琳を前に、拓実は僅かに目を見開いた。

 

「へぇ。このような下世話も、あなたの耳に届くものなのね。聞いたところによれば、互いを(けな)し合っているけれどそうした罵倒が全て瓜二つな自分にも当てはまっているところから名づけられたとか。誰が言い出したのかは知らないけれど、上手いことを考える者もいたものね」

 

 同じぐらいに意地が悪く、同じぐらいに口が悪く、似た声色と抑揚で、まったく同じ服装をしている桂花と荀攸の二人。流石に頭の回転や知識量は桂花が勝るが、独創力では荀攸が上回るので一概にどちらが勝るとも言い切れない。細かなところでは荀攸の方が背が低かったり、桂花には極僅かにある胸部の膨らみが皆無であったり、髪色が金と茶とで違ったりはするが、流石に罵倒するほどの要因とはならない。

 そんな二人が目の前で罵り合えば、飛び出た言葉がどちらから出てどちらに向かったかもわからない。傍から見ていれば自分をけなしているようだろう。なるほど、『鏡写し』とはよく言ったものである。

 

「あなたが知っているくらいなのだから、この呼び名はあの三人の耳にも届いていることでしょう。当然、二人の容姿から口調から、性格までがそっくりなこともね」

 

 春蘭を初めとした側近数人としか雑談をしない華琳には、そういった世間話の類は滅多なことがなければ耳に入ってこない。今回に限ってどうして華琳が知っていたのかといえば、その華琳本人が二人を揶揄してそのように呼び出したからに他ならない。城内に広まっていることまでは知らなかったが、最早後の祭り。何となしに思い浮かんで口にしたそれが今華琳の首をしめている。

 

「……」

 

 華琳は目を瞑った。つまり、華琳の演技の出来次第では凪らに影武者の存在が露見するということだ。

 人となりを見る限り、凪たちには打ち明けても大丈夫であろうとは考えているものの、己の不注意で露見するのとこちらから打ち明けるのでは大きく意味合いが違う。

 

 華琳は今、これまでの人生で覚えたことのない類の危機感を覚えている。しかし、己の不注意が招いた事態である。ならばこそ華琳がその失点を挽回出来ない筈がない。

 そうして自身に言い聞かせながらも、脳裏に片っ端から思い起こしているのは、桂花や荀攸として演じる拓実の姿、表情、口調、声色、言動、挙動。深く、深く。それこそ細かな動作、小さな癖をも頭に浮かべる。驚くことに、二人の違うところを探す方が難しかったが――大丈夫、覚えている。

 

 しかし、それをそのまま僅かにぶれることなく演じるなど、到底正気の沙汰ではない。無意識に出るから癖なのであるし、挙動や言動などは思考や感情から生まれるものだ。

 普段の思考傾向までは何となく理解できても、派生していくそれを咄嗟に反映させることなど出来はしない。特定の感情に誘導こそできるだろうが、物事に対して常に変化しているものなど一々追っていられない。もしもそんなことが出来る人物がいるとすれば、華琳が知る限りでは今は曹孟徳となっている目の前の人物だけだ。

 ならば、演技の才を持ち得ない華琳はいくつかを切り捨てる他ない。果たして荀攸に似せるに最低限必要な要素とはいったいなにか。

 

「……拓実、私に演じ方を教えなさい」

「荀攸。あなた、また口調が――」

「これから私が尋ねるのは、それを為すために必要なことよ」

 

 眉を顰めて戻った口調を嗜めようとする拓実に先んじ、華琳は言葉を続ける。揺るがぬ華琳の瞳に決意の光を見たか、拓実はそれまでの喜悦に歪んでいた口元を正し、その目つきもが鋭く変化する。

 

「そう。どうやら本気のようね。いいわ。聞きたいことがあるのなら言って御覧なさい」

「ありがとう」

 

 もう、拓実が演じられるのかという試験である筈なのに、演技指南されているのが何故華琳となっているのかなどという疑問はどうでもいい。試験中に違和感があればすぐさまに指摘してやろうと画策していたというのに、拓実に曹孟徳として不自然なところが見つからず、それどころか華琳の演技には駄目だししかされていない憤りも置いておこう。弱みを握って、ここぞとばかりにいじわるしてくる拓実は許せそうにないが、試験が終わるまでは一時忘れよう。加えて、今は頭を下げてでも教えを請うてやる。

 己が失敗を取り返すには、拓実の力を借りてでもこの窮地を乗り切る他ない――――華琳はそう決断した。

 

 華琳にもできないことは当然ある。多くにおいて高水準の能力を持ってはいるが、突出した才を持つ者には敵わない。華琳は自身のそれを認めているが故、才を持つ人物を集めたがる『人材収集家』であった。

 だが、自身の得意とする分野でなくとも、期待以下と思われるのはとてもじゃないが許せそうにない。それは、多くにおいて高水準の能力を持ち合わせているという自負でもあり、やると宣言したことをこなせていないという、己の信条に賭けてのことでもある。

 曹操陣営には春蘭や季衣、拓実に桂花と負けず嫌いは数いるが、華琳は彼女らの君主にしてその誰よりも負けず嫌いであった。

 

 

 

 それより華琳は、拓実が内務仕事をする傍らで、発声と口調の練習をし始めた。本来の監督役としての役割もそっちのけで、時折横から眺め見る程度である。

 もちろん拓実の仕事振りに別段言うべきところはないというのもあったが、それよりも今は正午に控えた、凪・真桜・沙和が同行する視察を何事もなく成功させることの方がよっぽど重要だった。

 

 華琳が最低限荀攸に似せるに必要不可欠であると考えた要素とは『容姿』『声色』『口調』の三つだった。

 思考など言わずもがな、とてもじゃないが細かな仕草など制御できないし、表情で喜怒哀楽を露骨に現すことは今後、曹孟徳に戻った時の悪癖となりかねない。幸い、容姿は拓実扮する荀攸とほぼ同一。表情は固いだろうが、それだけなら決定打とはならない。となれば、華琳が似せられるのは残る二つである。

 

 拓実が政務を終えるまでの僅かな間に学べたのは、たったの一つ。声の出し方だけであった。曰く、「喉を普段より僅かに閉めて、声が口からではなく頭から抜けていけるように高らかに」とのことだが、説明があまりに抽象的で難儀している。とにかく試行錯誤ということで、政務に励む拓実と会話しながら、声色と口調、抑揚が合っているかどうかの助言を貰ってその都度修正をかけていた。

 

 そして、程なくして拓実に与えられていた仕事が終わった。同時に、華琳の練習時間も終わりを告げることになる。

 凪らと待ち合わせしている正門へ向かう道すがら、喉の調子を必死に整えている華琳に、拓実が別段なんでもないことのように言葉を投げかけてきた。

 

「ああ、言い忘れていたのだけれど、邑長(むらおさ)との面会を終えた後は春蘭、秋蘭と食事に向かうわよ」

「…………なんですって?」

 

 急場の練習しか出来なかった為、らしくもなく緊張していた華琳は新たな事実に頭の中が真っ白になる。不意をつかれ、フードの中でぽかんとした間の抜けた顔を晒した。

 それを目の当たりにした拓実が笑みをこぼし、自身の顔がどうなっているのか気づいた華琳はすぐさまに無表情を取り繕う。

 

「最近、調練に赴いていて不在がちな春蘭とは碌に会話もしていないものね。遠征前におかしくなられても事だわ。そろそろ顔だけでも合わせておかなければならないでしょう」

「拓実、あなた……!」

「ほら。また口調が戻っているわよ」

「くっ……!」

 

 自室で待機していた為に同行できなかった早朝の朝議は、拓実曰く何事もなく無事に終わったと聞いていたのだが、終えた後に何事かを起こしていたようである。

 どうやら華琳に黙って春蘭・秋蘭と食事する約束を取り付けていたようだ。確かに拓実の言うように最近春蘭とはゆっくり話も出来ていないが、この拓実の提案は間違いなく華琳が慌てふためく様を見たいが為だ。

 

 小さくない怒りが華琳の中に渦巻くものの、深呼吸して必死に気を落ち着ける。二人が歩くそこは既に廊下である。拓実が扮している紛い物相手とはいえ、荀攸が心酔している曹操を怒鳴りつけるなどありえないことだ。

 性質の悪いことに、華琳が拓実を叱りつけることの出来ない状況になってから暴露している。加えて、『春蘭とあまり顔を合わせていない為』という道義さえ立たせてさえいなければ、こうして不承不承ながらも怒りを治めることはできなかった。そして今回のいたずらがその華琳にとって許せる限度ぎりぎりであることも拓実の予想の範疇なのだろう。見事に手のひらの上で踊らされている。

 

「あの子達と荀攸の四人で共に食事を摂るのは初めてだったわね。ふふっ、退屈しない食事になりそうだわ。ああ、流石に桂花までを呼んでは一目で看破されてしまうでしょうから、今回はあの子を呼ばずに置いたわよ」

 

 それだけでも憎憎しくて仕方がないというのに、華琳の歩く先には悪びれもせずに微笑みを浮かべている己に瓜二つの姿。純粋に楽しみにしているように演技する拓実の姿がまた華琳の怒りを煽っている。まるで「桂花を呼ばなかったのだから感謝しろ」と言わんばかりの口振りだ。

 

 華琳の腹の中は、これ以上ないほどに煮え繰り返っている。そんな荒れ狂うような憤怒の奥底で、彼女の怜悧な頭脳は静かに正確に、凄惨な報復を組み立てている。無事この試験を乗り越えられたならば、相応の意趣返しをしてやらねばなるまいと。

 だがやはり冷静には程遠いようで、終始自身こそが試験を受けるような心持となっていることに気づいてはいなかった。

 

 

 

 

 ぎし、ぎし、とからくり仕掛けかのように、凪はぎこちなく主君を乗せた馬の口取りしていた。視線は前方に固定、まともに顔を上げることも出来ずにいる。

 凪や真桜、沙和たちは戦時ともなれば数百人からなる軍を率いているが、平時での主な仕事は警備隊長である。城内の軍務より、街中を駆けている時間の方がよっぽど多い。肩書きこそ将である為に春蘭や秋蘭らとは兵の調練で顔を合わせることも増えてきているが、滅多に城外に出てこない華琳にここまで近づくことは早々あることではない。上がり症の凪はもちろん、沙和や真桜の顔も強張っている。

 

「さて、凪、真桜、沙和。あの邑についてはどうだったかしら。あなたたちの所見を聞かせてご覧なさい」

 

 近隣の邑への視察が終わって城へと戻る途中のこと。件の人物より馬上から問いかけられ、凪は同じく問われた筈の真桜、沙和から視線を集められる。二人の意図するところは『隊長なんだから何とかしてくれ』というものだろう。

 何故華琳と視察に向かう時に限って物怖じしない拓実がいないのか、そんな八つ当たり気味な考えが過ぎるも、とにかく問いにはすぐさま答えを返さねばならないと頭を必死に回転させる。

 

「は、ははっ! その、一応邑の周りを腰ぐらいの高さの木の柵で囲んでありましたが、それでは防備が充分ではないといいますか、防壁で周囲を囲って賊らの侵入を防ぐようにしなければと思います」

「そうね。他には?」

「えぁ? 他、他に、えと、ええと、その……」

 

 何とか答えたと思ったところで問い返され、頭の中が真っ白になった。凪は涙目で真桜と沙和に助けを求めるものの、二人にはすげなく首を振られてしまう。

 ぐるぐると視線をあちらこちらへやって考える素振りこそ見せるも、明らかに思考回路が働いていない。結局何も浮かばず、馬上の華琳へ向かって頭を深く下げる。

 

「も、申し訳ありません! 他は、思いつきません」

「仕方がないわね。近くの河から灌水用に取水すれば開墾地を増やせそうであるとか、生活用水用の井戸が足りていないとか色々と見るべきところはあったけれど、まぁいいでしょう。邑の防備については、凪の言うとおりよ」

 

 華琳を前にした緊張から慌てふためいていた凪だったが、一応の肯定が返ってきたことで今度こそほっと安堵の息を吐く。しかし、言葉とは違って当の華琳の表情は厳しいままだ。

 

「とはいえ、百にも満たない人口数の邑にいちいちしっかりとした防壁を築く訳にはいかないわ。その予算も、時間もが今は惜しい。……真桜。西にある森から木材を伐採し、人の背ほどの丸太を束ね立てた簡素な防壁を周囲に作るとしたなら、見立てでは幾日かかるかしら?」

 

 その問いを受けて真桜は目を瞑り、人差し指で蟀谷(こめかみ)をとんとんと叩く。

 

「その条件によるんやけども、ええと、人手はどれほどになりますかね」

「知識はなくとも比較的手先の器用な者を二十。力自慢を二十。そのどちらでもない者を二十。それらをあなたが指示をすると仮定しましょう」

 

 ひの、ふの、と指折り数えていた真桜が、自身が指示をすると聞いて手を止めた。

 

「なんや。それやったら移動入れても二日あれば釣りがきますわ」

 

 出来て当然、そんな自信に溢れた真桜の言葉を聞いて、思わずといった風に華琳の顔が笑みを形取った。凪たちも幾度か見たことのある、華琳特有の歓喜の表情だ。

 驕り高ぶることなく、しかし過小に評価もせず、正しく己が才と向き合う者に対すると華琳の瞳は星が輝くように煌めく。それを知っている者からすれば、あの曹孟徳に認められるだけの才であるという賛辞に他ならない。

 

「今朝行われた朝議にて、四日後へ控えた反董卓連合への遠征が終わり次第、新しく工兵隊を結成しあなたに任せる旨を伝えたわね。実地訓練に丁度いいでしょう。人員の選別はもう終えているから結成を前倒しして、遠征に向かうまでにこの邑の防柵を完成させなさい」

 

 その声が弾んでいるよう聞こえるのも決して錯覚ではない。頬を上気させて艶かしく笑む華琳を前に、その気のない筈の真桜や沙和もまた頬を染めた。

 残る凪は先の受け答えからずっと顔を真っ赤にしている為に顔色では判別できなかったが、緊張とは違う理由で固まってしまっている。

 

「作業をすると同時に、副長と小隊長を選別しておくように。それらの者にはあなたから防柵の構築手順を教えておくといいわ。我らが留守にする間、領内の他の邑にも派遣して同じように防柵を築かせましょう。遠征から帰ってくるまでに錬度を高めておけば、あなたもやりやすくなるでしょうしね」

「ははぁ、なるほどなぁ……了解です。うちに任せたってください! こいつは、腕が鳴りますわ」

 

 華琳よりの直々の命に、打てば響くように言葉を返す真桜。すぐにでも走り出して作業に掛かりそうな意欲が全身から溢れている。

 言葉にこそ出てはいないが、華琳が真桜を評価してくれているのは態度から充分に読み取れた。主君にこうまで買われては、やる気にもなるというものである。

 

「凪、沙和。負担が増えて申し訳ないのだけれど、真桜が抜ける部分は許定と協力してあなたたちで上手く埋めて頂戴」

「はっ!」

「了解なの!」

 

 上機嫌な華琳の言葉を受けて、凪と沙和も嬉しくなってくる。二人は自然といつもより力の入った声を返していた。同僚が認められたこともそうだが、普段、感情を露にしようとしない主君が珍しくも喜色を溢れさせているのだ。自分たちも期待に応えたいと気合を入れている。

 華琳はそれらを聞いて満足そうに頷くと、馬に乗って傍にぴったり控えている荀攸へと顔を向けた。

 

「さて、荀攸。邑の位置によっては作業が数日と日を跨ぐこともあるでしょう。備蓄に、工兵隊に持たせる程度の余裕はあるのかしら?」

「問題はございません」

 

 問いかけた華琳に、静かに言葉を返す荀攸。抑揚から一切の感情の起伏が感じられない。声と同じく顔もずっと無表情だ。

 荀攸の平坦な声に、華琳から直前までの上機嫌な様子がばっさりと消えた。水を差されたように表情を曇らせる。

 

「あら。荀攸、声の調子がおかしいわよ。どうしたのかしら」

「いえ、そんなことは……」

 

 華琳より心配そうに声をかけられると、荀攸はほんの僅か眉根を寄せて、けれど先と変わりなく言葉を返す。その声色にどことなく迷惑そうなものが含まれているように凪は感じたが、桂花と同じように華琳を信奉している荀攸がそのような返答する訳がないと頭を振っている。

 真桜はすでに頭の中で計画を立て始めているようで、話半分にしか聞いていなかったようだ。残る沙和はといえば、人差し指を顎に当て、首をかしげている。

 

「華琳さまの言うとおり、ネコ実ちゃんってば、風邪でも引いてるのー? なんだか声がおかしいのー」

 

 沙和の突拍子のない呼称に、華琳や荀攸はもちろん、考え事をしていた真桜までもが沙和へと視線を集めている。

 

「……なんや、沙和。その『ネコ実ちゃん』っちゅーけったいな名前は」

「だってだって、副隊長の許定ちゃんも拓実ちゃんで、荀攸さんも拓実ちゃんでしょー。呼ぶ時わからなくなっちゃうから、荀攸さんはネコ耳の拓実ちゃんでネコ実ちゃんなのー」

「まぁ、確かにここじゃ真名で呼び合うっちゅー決まりやから、おんなじ名前やと呼びづらいのは確かやけど。流石にそれはちっとばかりどうかと……はっきり言わしてもらうとアホっぽいなぁ」

「そうだ。沙和、そんなふざけた名前じゃ失礼だ」

「ぶー、可愛いのにー。ねぇねぇ、荀攸さん。荀攸さんのこと、ネコ実ちゃんって呼んでもいいでしょー?」

 

 その場にいるほぼ全員から駄目出しされ、沙和は頬を膨らませて荀攸へねだる様に声をかけた。当然、馴れ合いを嫌っている節のある荀攸は断るかと思いきや、何か思いついたかのように晴れやかな顔をして口を開いた。

 

「いいわよ」

「は? い、いいのですか?」

「構わないわ」

 

 荀攸からのまさかの即答に、周囲は唖然とする。何とか持ち直した凪が確かめるように声をかけるも、返答は変わらない。

 

「……荀攸。お待ちなさい。あなた、その名で呼ばれても構わないと言うの?」

「ええ、曹孟徳様。とても可愛らしくて気に入りました。今後は他の者からもその名で呼んでいただこうかと。この私、荀公達本人が言うのですから何も問題はございません」

 

 それまで一貫して無表情だった荀攸が、にっこりと華琳へ笑いかける。対して華琳は笑顔の彼女へ何事かを口にしようとするも、何かに気づいてすぐに閉じ直した。表情が苦々しいものへと変わる。

 その横では、たまたま荀攸のフードの中を覗いてしまった凪が、顔を青くして背筋を震わせている。

 荀攸が浮かべたのはとても綺麗な笑顔だった。……だったが、凪はその下に物騒なものが見え隠れしているのを感じ取っていた。一瞬ではあったが、並の武官では相手にもならない、それこそ凪でさえ敵うかというほどの威圧を荀攸が放っていたのである。

 

「ほらほらぁー、沙和の言ったとおりなのー!」

「……ぇぇぇ~」

 

 この場にいて喜んでいるのは沙和ばかりで、真桜なんかは荀攸の趣味の悪さにどん引きしている。凪に至っては荀攸に気圧されてしまってそれどころではない。華琳は何故だか不機嫌そうにしているし、当の荀攸は、そんな華琳へ向けて底冷えするような薄ら笑いを浮かべている。

 

「やはり、姿を変えていてもこの子は侮れないわね」

 

 そんな中、華琳がぼそりと呟いたのを石のように硬直していた凪だけが聞いていた。

 

 

 

 

 

「申し訳ございません、華琳さま!」

 

 視察を終えて陳留へと戻り、凪たちと別れた拓実と華琳は、城門前で出迎えた兵士に案内されて中庭へ通された。辿り着くや途端に響く春蘭の謝罪。そして、二人にとって想定外の光景がそこにあった。

 

「春蘭、秋蘭。これは……いったいどういうことかしら?」

「はっ、恥を忍んで申し開きをさせていただきますれば、今朝よりのお話では力及ばず、華琳様がお食事するに足る安全な店をご用意することが出来ませんでした。止むを得ず城内で食事をと考え、手の空いていた流琉に料理を頼んだのですが、丁度厨房で季衣が昼食が出来るのを待っていたことに加え、華琳様とのお食事という話を桂花が漏れ聞いたようでして……」

「華琳さまといっしょにご飯食べたいなーと思って待ってたんですけど、ダメですか?」

「春蘭や秋蘭、拓実ばかりずるいです! 華琳様ぁ、どうか私もご一緒させてください!」

「……といった具合に、華琳様に御相伴のご許可をいただけないかと集まってしまいまして」

 

 城の中庭に、十人掛けほどの机。一際豪華な椅子は華琳の為に用意されたものだろう。その傍でひれ伏している春蘭。そのまた横では、並んで秋蘭が申し訳なさそうに頭を下げている。さらには、お腹を押さえて悲しげにしている季衣、華琳姿の拓実が姿を見せるや必死にすがりつく桂花、せっせと料理を運ぶ流琉の姿があった。

 隣の華琳を盗み見れば、顔が引きつっている。ただでさえ難しかった試験が、いつの間にやら最高難易度となっていたらそうもなるだろう。

 致命的なことに、今の華琳にとって一番の難敵である桂花までいる。しかし、こうなっては桂花だけ同席を許可しない、ということは出来ない。ここで彼女一人を外そうものなら、いくら被虐趣味を持つ桂花といえど心に傷を残してしまう。季衣にしても、これ以上食事を我慢させては可哀想だ。一日五食、六食がざらな季衣では、こんな時間まで昼食を待つのは辛かったことだろう。

 

「仕方がないわね……集まってしまったものは仕方がないでしょう」

「華琳様っ、ありがとうございます!」

「やったーー!」

「今朝方になって急遽誘いを出した私にも非はある。春蘭と秋蘭のことも今回は大目に見ましょう。顔を上げなさい」

 

 許しが出たことで、春蘭と秋蘭が改めて謝罪をした後に立ち上がる。季衣も、笑顔を浮かべて雑談を交わし始めた。そんな中、目を見開いて注視してくる華琳を無視し、拓実は一通り料理を並べ終えたらしい流琉へと向き直った。

 

「流琉。結果的にあなたには無茶を言ってしまったわね」

「いえ、お料理を作るのは楽しいので……華琳さまのお口に合えばいいんですけど」

 

 言ってはにかむ流琉に、拓実の顔にも自然と薄く笑みが浮かぶ。押せ押せの気風が強い中、流琉の控えめな性格は充分に心の癒し足り得た。

 そうして拓実がほっこりとしている間にも、視界の端ではちょっとした騒動が起こっている。

 

「それにしても拓実。あんたねぇ、この私に華琳様とお食事することを黙っているだなんて随分と薄情じゃない。別に取り決めしていた訳じゃないけれど、それにしても一声ぐらいあってもいいでしょう? 何だか裏切られた気分よ」

「……」

「む、無視!? あんた、この期に及んでいい度胸してるじゃない! 最近仕事が上手くいっているからって調子に乗ってるんじゃないでしょうね!? 華琳様のご寵愛を戴いたこともない癖に。ほら、何とか言ってごらんなさいよ!」

「……」

「ちょ、ちょっと! そろそろ止めなさいってば! 悪かったわよ! 言いすぎたわよ! 悪口でも何でもいいから、いつもみたいに――」

 

 演技からボロが出ないよう、口を噤んだまま無表情に――けれども若干困った様子の華琳は、拓実に聞こえないよう小声で一所懸命に話しかけてくる桂花を見ていた。

 いつもならば言い合いの口喧嘩になるところを、冷たく見据えられて桂花はうろたえている。桂花が他人に無視されるとこんな反応をするのかと、こっそり聞いていた拓実は密かに驚いていた。

 

「『拓実』」

 

 未だ何事かを言い募っている桂花を放って、ちらちらとこちらに目で文句を告げてくる華琳を己の名を使って呼び寄せた。春蘭たちも同席していては、『荀攸』などと呼ぶことからして不自然に写るだろう。

 呼び慣れぬ名で呼ばれた華琳は黙って拓実へ歩み寄ってくる。そうしている間も上手く人目につかないように拓実を睨みつけているのは流石と言うべきなのか。

 

「華琳。あなたの演技では、桂花の目を誤魔化すことは出来ないのではないかしら?」

「……悔しいけれど、荀攸の『元』であるあの子を相手に欺けるとは思えないわね」

「ならば、例外措置としてあの子には先に試験内容を打ち明けましょう。桂花から連鎖して露見してしまえば、私の試験どころではなくなるもの」

「そう、ね」

 

 他には漏れ聞こえぬよう耳打ち出来るぐらいの距離まで近づいた二人は、密かに言葉を交わしながらちらちらと桂花を眺め見る。そうして拓実は華琳より許可を得たことで、仲間外れにされたような悲しい目でこちらを見ている桂花へと向き直った。

 拓実は彼女に話しかける前に、ちらりと談笑している春蘭たちを盗み見、声が届かないよう心がける。

 

「桂花、少しいいかしら」

「えっ? あ、はいっ、なんなりと」

「安心なさい。桂花のことを無視をしていた訳ではないわ。荀攸には密命の関係で、極力声を上げないようにと申し伝えてあるの。そこでなのだけれど、この子だけでは不安だからあなたに補佐を任せたいのよ」

「は、はっ! 荀文若、確かに拝命致しました。華琳様の命、命に代えましても遂行させていただきます」

「任せるわ。任務内容については本人から聞きなさい」

 

 一度たりとも口を利かずにいた華琳のことを、桂花はいくらか安堵した様子で見ている。無視されていた訳ではないと知ったからだろう。その華琳はというと、ついに黙っていられなくなったのか、不機嫌そうに眉を寄せて拓実へと食って掛かる。

 

「ちょっと、拓実。今回の試験は本来、あなたが受けるという趣旨のものでしょう。であるなら、私からではなくあなたから説明しておきなさい」

「はぁ? あんた、華琳様に向かっていきなりいったい何を……」

 

 今まで一言も発さず、ようやく声を上げたと思えば思いもよらぬ声色と口調。桂花は目をまん丸に見開いて華琳を見つめている。その華琳は桂花を前に不出来な演技をする気はないのか、最低限言うべきことを言うと貝のように口を噤んでしまった。

 

「私の試験だからこそ、試験官である華琳が説明すべきではないかしらね。まぁ、いいわ。華琳にしては珍しく余裕がないようだから、今回は私が骨を折っておきましょうか」

「えっ、華琳様? ちょっと、まさか、嘘……」

「嘘ではないわ、そのまさかよ。桂花は話が早いから助かるわ。今こうして、極秘任務――影武者としての最終試験を行っているのよ。私は影武者、本物はそこの『ネコ実』よ」

 

 『ネコ実』と呼ばれたことで華琳が眉根を寄せるが、拓実に「今日限りはあなたが『ネコ実』なのでしょう」と告げられ、そっぽを向いた。それを目にして肩を竦めた。言った拓実にしても内心は暗澹たる思いである。明日からは、少なくとも凪ら三人からは拓実こそが『ネコ実』と呼ばれることになるのだ。

 

「本日の宵まで私の正体がばれなければ合格ということらしいわ。その間、華琳は荀攸になりすまして試験を監督するのだけれど、正体が知れれば私に疑惑の目が向くようになるでしょう。桂花にはそうならないようにして欲しいのよ」

「そんな……」

 

 呆然と華琳と拓実との間で視線を往復させていた桂花だったが、すぐに今までの自分の応対に気づいたようで顔を真っ青にさせる。

 

「も、申し訳ございませんでした! まさか、華琳様だとは露ほどにも思わず恐れ多くも馴れ馴れしく振舞うなど。この失態、如何様にして償えば……」

 

 理解に至るや、桂花が荀攸の姿の華琳に向き直り、平伏の為に膝を折ろうとする。その桂花の腕を華琳がすんでのところで掴み、無理やりに立ち上がらせた。

 

「ならばまず、私を荀攸として扱いなさい。あなたが荀攸に対してそんな態度では、春蘭や秋蘭も不審がるでしょう」

「華琳様を荀攸として、ですか?」

「ええ。影武者の試験成功の可否には、私の矜持がかかっている。悔しいけれど、拓実の出来はこのとおり非の打ち所がない。もし露見するならば私からということになるでしょう」

「し、しかし。私が華琳様に無礼な振る舞いなんて、出来るはずが……」

 

 尚も食い下がろうとする桂花を華琳が説得しようと声をかけるのだが、どうにも芳しくない。それを眺めていた拓実は、不機嫌そうに顔をしかめていた。

 

「桂花、いい加減になさい。あなたの為にこれ以上の時間は割けないわ。本人がこう言っているのだからあなたもそのように応対するように。これは命令よ」

「はっ、華琳様の仰せのままに! ……あっ」

 

 苛立った拓実の声に対して反射的に跪き、返答をしてから気づいたのか、桂花が間の抜けた声を漏らす。いつかの春蘭と変わらない反応に、拓実はにい、と笑みを作った。

 

「ふふ。随分といい返事ね、桂花」

「う……」

 

 拓実の視線の先には猫耳フードの少女が二人。演技に慣れない華琳に、荀攸に扮した華琳にどう接していいものか戸惑う桂花。どちらも随分と弄り甲斐があって、拓実は反応を引き出すことが楽しくてしょうがない。

 そんな二人が、淀んだ空気を纏わせて並んで席に着く。見渡してみれば、季衣、流琉も既に席に着いており、秋蘭が椅子を引いて拓実の着席を待っていた。

 

「皆、待たせたわね。それでは遅くなったけれど食事としましょうか」

 

 拓実は当然のように引かれた椅子へと座り、その左右に座る春蘭と秋蘭へ声をかける。

 試験を課されている身だというのに、試験についてなど最早拓実の頭の中にはない。二度と巡ってはこないこの状況を、より面白くすることに夢中になっていた。

 

 

 



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32.『拓実、試験を終えるのこと』

 

 秋蘭は、今まさに流琉の手で取り分けられようとしているその料理を酷く真剣に見つめている。ある意味、戦場において敵を弓矢で射抜くその時よりも張り詰めていた。

 会食はもう始まっているというのに、他の者たちもまた口も開かずに流琉と主君である華琳の様子を眺めている。

 

「あのぅ、華琳さま……このお料理は豆板醤が結構入っちゃってますけど、本当にいいんですか?」

 

 流琉が取り皿を左手に、しかし思い直したかレンゲを握る右の手を止めて恐る恐る声を上げている。注視していた秋蘭からしても、やはりその料理は他に比べて随分と赤みが目立っているように見えた。

 

「大丈夫よ。このぐらいであれば、問題なく味を楽しめる範疇でしょう?」

「う……。その、はい……」

 

 華琳に何事もなく言葉を返されるも今回ばかりは胸中の不安を拭い切る事はできなかったようで、取り分けを再開した流琉の顔は依然に優れない。

 その流琉の反応にも特に気にした様子を見せない華琳は視線を逸らし、ちらりと離れたところに座って俯き黙したままの拓実と桂花を見やっている。どういう思惑のものか、僅かにその口端が吊り上げられた。

 

「華琳様。そうは仰られますが、以前にお口に合わず下げさせた料理はこれよりも、その……辛味が少なかったかと」

 

 傍から見ていた秋蘭も居ても立っても居られずに、流琉の言葉に同意を示した。秋蘭や流琉がこうまで渋っているのも、無闇に主君の機嫌を損ねたくないが故だ。

 

 華琳は、辛いものを苦手としている。口でこそ料理に辛味の必要性を認めないという体裁をとっているが、つきあいの長い秋蘭に春蘭、そして時折料理人を任されている流琉はただただ華琳が辛いものが食べられないということを知っている。

 どんなに旨いとされても、辛味が含まれる料理であれば華琳はまったくと言っていいほど口にしない。(らつ)味であろうと()味であろうと辛いもの全般が駄目である。

 その華琳が、食事が始まってすぐに上座から最も離れた位置にある辛味のある料理に目をつけ、流琉に取り分けるよう命じた。どんな心変わりかわからないが、秋蘭らからすればそれこそ驚天動地の出来事と言ってもいい。

 

「いいのよ、これもいい機会だもの。確かに、私は辛味を得意としてはいない。けれど苦手だからと避けていては、いつになっても克服なんて出来はしないでしょう。ああ、もう取り分けている季衣以外も特別に辛いものでもなければ平気だったわね。あなたたちも食べて御覧なさい。秋蘭、皆の分も取り分けてあげて」

「……御意」

 

 しかし、不得手をそのままにしておけない華琳にしてみれば、その物言いも確かに尤もか。いや、この向上心に溢れた発言を聞いた後では、今まで克服しようとしなかったことにこそ疑問を覚える。

 華琳に言われるがまま秋蘭が大皿から取り皿へと人数分を移し変え、各々の前へと皿を置いていく。そうして秋蘭が取りよそって、改めて再確認したことがある。この料理はいささか赤すぎる。激辛好きの凪が喜びそうだ。度を越えた激辛でもなければ関係なく食べて見せる季衣でさえ、そのあまりの赤さを目の当たりにして戸惑う様子を見せている。

 

「全員に行き渡ったわね。それではいただいてみましょう」

 

 周囲を見回して一言言うなり、率先して華琳がレンゲで料理をすくい――そのまま躊躇なく口に運んだ。咀嚼する華琳を、料理に手もつけず固唾を呑んで春蘭や秋蘭、流琉が見守っている。季衣はいつものように目の前の料理に手を伸ばそうとしているが、荀攸に扮している拓実は密かに華琳を覗き見てはこれより起こるだろうことに顔から色を失くしているし、その横ではおろおろと桂花が視線を惑わせていた。

 そんな異様な空気だからか、瞬間、華琳が口を動かす以外に音がなくなってしまう。

 

「秋蘭。水を」

「はっ、こちらに」

 

 静かに口内のものを飲み込んだ後、言葉少なに華琳が伸ばした手に秋蘭がすかさず用意しておいた杯を手渡す。華琳は眉根を寄せたまま水を口に含み、飲み下してから口元を手巾で拭った。

 華琳がなんらかで誤って辛いものを口にしてしまった時はこういった反応をした後、決まって機嫌を損ねた様子を隠そうともせずに料理を下げさせる。それがあまりに辛味が強い料理だとその場で料理人を呼んでは叱責までしている。

 

「……(えび)の下拵えは完璧。具材の大きさも、火加減も適当だわ。ただ、豆板醤の分量が多いようね。もう少し抑えて、つなぎにしている出汁を増やした方が素材の味が活きるのではないかしら」

「はい、申し訳ありません。気をつけます」

 

 調理法まで当ててみせるほどの正確な舌を持つ華琳の発言でも、辛い料理を食べた時ばかりは少々的外れになる。この料理にしても華琳本人がわざわざ城下まで足を運ぶ程に認めている流琉が作ったもの。他の者が食べたなら辛味はあれど許容範囲とする味付けなのだろう。

 やはり、口に合わなかったに違いない、秋蘭は華琳の手元の料理を下げるために僅かに椅子を引き、腰を浮かす。しかし続く発言を聞いて、秋蘭は驚きのあまり、上げかけた腰をそのまま下ろすことになった。

 

「まぁ、けれど今回のもまったく食べられないというほどの料理ではないわ。今後も集まる際にはこういった料理を一品、取り分けるようにお願いするとしましょうか」

「あ……は、はいっ! 次もがんばりますっ!」

「おお……! 華琳様!」

「華琳さま……ついにっ!」

 

 そうは言いつつも未だ辛さに顔をしかめている華琳に対し、賛辞をもらった流琉は元より、秋蘭と春蘭の二人は感激した様子を隠さずに瞳を輝かせている。いや、姉の春蘭は既に落涙までしていた。幼少の頃からの長年の弱点が、今こうして二人の目の前で克服されたのだ。辛いものが苦手という数少ない弱点も華琳の可愛らしさの一つではあったが、それを克服してしまえばまさに完全無欠の主君である。

 こうしている間にもまたちびちびと少量を口に運んでは過剰なほど水を飲むといった、珍しくお茶目な様子を見せている華琳だったが、二人の目にはその姿にさえ後光が差しているように見えている。

 

「あの。華琳様、大丈夫でしょうか……」

 

 そんな最中、隣に座っている秋蘭でさえ聞き逃しそうな声量で桂花が苦悩ににじんだ声を上げていた。

 何事かと秋蘭が見れば、華琳を気遣う言葉を吐いておきながら桂花の視線はちらちらと隣の、口をつぐんだままの拓実へと向けている。その拓実は伺うようにしている桂花には反応せず、じっと目の前に置かれた料理を見つめ続けている。嬉しそうにしている季衣や、感激している春蘭らとは空気に明らかな温度差があり、気がつけば二人だけが明らかに浮いた様子である。

 

「ふふ、桂花にそうまでして気をかけられるほどのことを成し遂げたわけじゃないわ」

「え? あ……」

 

 囁きのようなか細い桂花の声を、華琳はしっかりと聞き届けていたらしい。桂花本人も聞こえるとは思っていなかったのか、一瞬息を呑む。そうして愉悦を隠し切れないと言った様子でにっこりと笑顔を浮かべる華琳に見据えられ、桂花はわたわたと忙しなく視線を彷徨わせている。

 

「多少の辛味はあれど、こうして味わってみれば中々に趣のある味わいかもしれないわね。皆も、私の前だからといって遠慮をする必要はないわよ」

「うむ! 拓実、華琳さまの仰られたとおり中々いけるぞ。色が赤いから相当に辛いかと思っていたがそうでもないな。また食べたくなるような、不思議に後引く辛味だ。お前も食べてみろ」

 

 にっこりと笑みを浮かべる華琳に、最早何の憂いもないといった様子で料理を口に運んでいる春蘭が追随する。秋蘭も促されるままに一口食べてみれば、確かに春蘭の言うとおり不思議な味だった。

 記憶が正しければ『乾燒蝦仁』という料理だった筈だが、いくらか独自に手を加えてある。葱と剥いた蝦を豆板醤で炒めてあり、ほどよい辛味と酸味、歯ごたえのよい蝦が後を引く。おそらく隠し味に番茄(トマト)醤が加えられているため赤味が強いのだろう。色合いに騙されたが、辛味はそれほど強くない。

 なるほど本来の乾燒蝦仁とはまた違った味わいではあるが、美味い。流琉と同じく料理の腕を華琳に認められている秋蘭は、食べなれぬ味に戸惑いつつもそう分析する。

 

「この馬鹿春蘭っ! 余計なことばっかり言ってるんじゃないわよ!」

「な、なんだとぉ! これと似た料理をこの前に拓実がうまそうに食べてたのを見たぞ! どこが余計なことなんだ!」

「だからそれが余計なこと……っ! そ、そんなの、あんたの存在に決まってるでしょ! わかりきったこと言わせないでよ、恥ずかしい」

「貴様! 少しばかり私が下手に出ていれば好き放題に……!」

「はん。あんたがいつ下手に出たっていうの。言って御覧なさいよ」

 

 もしも華琳がこの味を気に入ったというのなら再現できるようになっておかなければ、などと秋蘭が後で調理法を流琉に尋ねることを決めている間に、最早恒例となっている桂花と春蘭の口喧嘩が始まっている。二人のやり取り自体はいつものことではあるが、今回は珍しく桂花から食って掛かったようだ。

 こういった場合に調停役となるのは華琳を除けば秋蘭か荀攸ぐらいしかいないのだが、荀攸は性格上、二人を無理やりに黙らせることもあれば火に油をぶち込んでさらに炎上させることもある。どうやら今回は拓実に動くつもりはないようだが、華琳が同席していることを考えれば事態を悪化させてくれないだけで秋蘭としては助かっている。

 

「姉者。そこまでに……」

「桂花、春蘭。場を弁えなさい。これ以上言い争いをするつもりならば、外で存分にやって頂戴。あなたたちの所為で、せっかくの食事の味が損なわれているわ」

「も、申し訳ございませんでした、華琳さま!」

「はっ、はい。申し訳ございません」

 

 さて、どうして二人の矛を収めさせたものかと秋蘭が口を開いたところで、先んじて華琳が二人を黙らせた。

 いつもの華琳であればもうしばらくは笑みを浮かべながら二人の様子を静観しているところである。虫の居所が悪いのかと思えば、しかし別段、機嫌が悪いと言うわけでもなさそうだ。ところどころでいつもとは僅かに違う反応を見せるのはいったいどうしたのかと秋蘭が見れば、華琳は頭を下げる二人に構わず、忙しなく手を動かして料理を口へと詰め込んでいる季衣に視線を向けている。

 

「この料理は、季衣でも食べられる味付けだったかしら」

「はい! ボクや流琉でも食べれるくらいの辛さだし、タレもおいしいし。あんまり食べたことない味だったけど、ボクはこの料理好きです」

「そう。どうやら、秋蘭も気に入ったようね」

「は。時間が空きましたら、流琉の元を訪ね、師と仰ぎ教えを乞おうかと考えております」

「そ、そんな、師だなんて。秋蘭さまってばからかわないでくださいよぅ」

 

 口の端を吊り上げて言った冗談めかした秋蘭の言葉に、流琉はてれてれと恥ずかしそうに身をよじる。そんな流琉を見て、華琳と秋蘭も薄く笑みを浮かべた。

 

「ふふ。そうね、皆が気に入ったと言うなら、私も試作してみましょうか。秋蘭や流琉が作るものと食べ比べしてみるのもいい趣向となるかもしれないわ」

「おおお! それは今から楽しみですな!」

「もう、春蘭さまってば気が早いですよ?」

 

 口元を緩ませてよだれを垂らさんばかりに期待を露にする春蘭を見て、流琉が思わずと言った様子で笑顔を見せる。

 同じく、愛らしい姉の姿に秋蘭の頬も緩んだ。最近の春蘭は他の街への調練ばかりで秋蘭と顔を合わせる頻度が減っていた為、こうして笑顔を見せ合うのも久しぶりだ。

 

「桂花と拓実はどうかしら? あなたたちも…………あら、二人とも手をつけていないじゃない」

「……っ」

「あ……華琳様は、いえ、拓実は、その」

 

 言って次に華琳が見るのは、卓に置かれている取り皿。まだ手もつけられずに残っているのは桂花と拓実、調理人として皆の反応を見ていた流琉の分だけだ。

 拓実が目を見開いて華琳を注視し、桂花が慌てて何事かを声に出しているが、そのどちらも意味を成していない。

 

「そうね。この料理は初めて作ることになるのだし、特別にあなたたちの好みに合わせて作りましょうか。今まで辛味に手は出してこなかったから、二人の意見を聞かせてもらえないかしら――流琉の作ったこれよりも辛くすべきか、否かを、ね」

「け、けれど……」

「ほら、二人とも。食べてみなければ、どれほどの辛さかわからないでしょうに」

 

 何事かを述べようとする桂花を意に介さず、華琳は料理を口にしろと二人を促す。しかし、桂花はうろたえるばかりで、拓実は至ってはじっと料理を見つめて微動だにせず、どちらも料理に手をつけるのを躊躇っている。

 ここに来てようやく、秋蘭も華琳が何事かを仕組んでいることに気がついた。桂花が庇おうとしていることから、華琳がしようとしているイタズラの対象はおそらく拓実だ。話し振りから察するに料理に何か混ぜていたのだろうか。しかし調理したのは流琉で、取り分けたのは秋蘭自身。思い返してみても華琳は大皿に手も触れていない。

 

「拓実、これおいしいよ。ほらー」

「……ぅ」

 

 その言葉を証明するかのように、季衣が食べてみせる。にこにこと笑って、本当に幸せそうだ。やはり、拓実の分だけに何かが混入されている可能性は低い。華琳に手を加えられる機会があったとしたなら、季衣に取り分けた分にも同じようにされている筈だ。

 全員の視線が桂花と拓実へ集まる。注目されて、拓実が呻くような声を漏らした。そうして視線に押されるように、卓に置かれたレンゲを手に取る。

 

「そ、そうね」

 

 上ずった声をあげながら、拓実はレンゲをくぐらせる。そろそろと料理をすくって、震えながらも拓実の口に運ばれようとしている。

 秋蘭のように華琳の思惑に気づいた訳ではないようだが、異様な雰囲気を感じ取ったらしい流琉や春蘭もまた、いつしかじっと拓実に注目していた。張り詰め始めた空気に、ごくりと誰かが息を呑む。

 

「だ、駄目ぇっ!」

「あ、け、桂花?」

 

 困惑した拓実が、調子外れた声色で桂花の名を呼ぶ。秋蘭も、また他の者もその光景に目を見張った。もう少しで拓実の口に入ろうとしていたレンゲを、はしたなくも横から桂花が飛びついて口に咥えてしまったのだ。

 

「んぐ! んー!」

 

 桂花は固まっている拓実の手からレンゲと皿を奪い取っては、その中身をまるで汁物かのように流し込んでいく。その勢いのまま、桂花自身の分もまた同じようにして口の中に掻き込んでしまった。いきなり料理を奪われた拓実は呆然とそれを見る他ない。流石にああも口に詰め込んでは辛かったのか、もごもごと咀嚼しながら桂花は目に涙を溜めている。

 流石の華琳も桂花の奇行は予想外だったようで、目を真ん丸にして、ほっぺたを一杯に膨らませている桂花の姿を見つめていた。しかし、それも彼女が口の中の料理を嚥下するまでのこと。けぷ、と桂花が小さくおくびする頃にはいつもの微笑みを浮かべていた。

 

「あら。まったく桂花ったら。名門荀家の娘は、こんなにも意地汚かったのかしら?」

「ぅくっ。か、かか、華琳様のお料理とあらばこの荀文若、意地汚くもなります! 拓実にこの料理を食べさせさえしなければ、華琳様が私の為だけにお料理を作っていただけるということ! 体裁ごとき気にしていられません!」

 

 体裁を気にしない、などと言いつつも羞恥心はあるらしく、その顔はこれ以上ないほどに上気している。その発言もどこかやけっぱちだ。

 心なし、桂花が華琳のことを見つめている目には非難の色が混じっている。秋蘭には相変わらずその仔細はわからないが、華琳が何事かを二人に仕組んでいたのは間違いないようである。

 

「……なぁ、桂花。日頃、華琳さまに呆れられることが多い私だってやって良いことと悪いことぐらいはわかるつもりだ。流石にな、その、今のお前の行動はだな……」

「うるっさいっ! そんなのわかってるわよ! いいから黙ってなさいっ!!」

 

 そんな華琳の謀略に気づく様子もない春蘭が、可哀相な物を見るような目で、これ以上ないほどに呆れた様子で桂花を嗜めようとする。それは、最後まで言わせまいとした桂花が無理やりに遮った。

 周りを見れば、季衣や流琉までもが桂花のことを気の毒そうな目で見ている。秋蘭は何事かの理由あっての行動だと気づいていたが、それを踏まえても今の桂花の行動は擁護する気になれそうにない。

 

「まったく、仕方がないわね。恥を捨て、そこまでした桂花の熱意に免じて料理ぐらいは作ってあげましょう。けれども、今後はそういった品位に欠ける真似は控えなさい。まさかないとは思うけれど、あなたを見て季衣や他の者が真似をしたりしたらどう責任を取るつもりなの」

「華琳さま! いくらなんでも他の人から食べ物を盗って食べたりなんてしませんってば! ボクだって、そんな意地汚いことしちゃいけないってわかってます!」

「季衣っ、バカ!」

「え? あっ…………」

 

 流琉に注意されて失言に気づいた季衣が、狼狽した様子で桂花を見る。桂花はフードを深く被って机に突っ伏し、頭を抱えて体をぷるぷると震わせていた。

 誰も動けなくなった。中庭が、重苦しい空気と寒々しい沈黙に包まれる。

 

「あ、あの、桂花。ごめんね。ボク、そんなつもり、全然なくて……」

「いいわよ! 同情なんかしないでよ! 哀れに思うのなら殺して! 殺しなさい! いっそのこと、殺しなさいよぉ!」

「ふふっ。桂花ったら、いくら目を覆うような失態を晒したからといって自棄になってはいけないわ。ふふふ」

 

 泣き声交じりで喚く桂花に、ついに耐え切れなくなったらしい華琳がくすくすと笑い声を漏らしている。何だかんだでいつもの結果に落ち着いたようで、弄られる桂花と機嫌のよさそうな華琳の姿を見て、秋蘭もまた相好を崩したのだった。

 いくつか引っかかっている疑問はあれど、それを桂花や拓実、まして華琳に追求する気はない。仕事では几帳面にも見える秋蘭だが、私事においては、主君と姉が幸せでさえあるならば他のことはある程度二の次なのである。

 

 

 

 

 ようやく予定していた一日の日程をこなし、華琳、桂花、拓実の三人は華琳の私室に戻っていた。多少なりげんなりとしている桂花や華琳に対し、試験を課された当の拓実はといえばその機嫌に陰りはなく、むしろ時が経つほどに活き活きとしている。

 

 春蘭や秋蘭のみならず、季衣、流琉、桂花もが同席することとなった先の昼食会。結果としては桂花という犠牲を払うことでなんとか乗り切ることが出来た。

 秋蘭ら数人には知るところになっているが、華琳は辛いものが苦手である。口にすれば味覚が麻痺して鈍くなり、無理に飲み込めば胸焼けを起こしてしまって、度合いによってはしばらく食べ物が喉を通らなくなる。

 実際、あの料理は見た目ほどの辛味がなかったようなので華琳でも問題なく食べきれたのかも知れないが、そうでなかったことを考えると桂花の身を挺しての行動は大金星といえた。その忠誠に報いてやるため、彼女に手料理でも振舞ってやるのもいいかもしれない。華琳はそこまで考えて、それでは拓実が発言したとおりの行動をしてしまうではないかと思い直した。

 

 しかし曹孟徳とは、ああも臣下を振り回す人物だったのだろうか。こんな調子で毎日を過ごしていては気が休まる時もない。正直なところ華琳は、慣れない荀攸としての演技とばれてはいけないという気苦労、そして何よりちょっかいをかけてくる拓実の存在に、内心では酷い疲労を感じていた。

 そうして華琳が隣を盗み見てみれば、同じように拓実に振り回されていた桂花は多少疲れはしていても然程でもなさそうである。この程度のからかいなど桂花にとって日常茶飯事であるのだろう。つまりは、普段している華琳の悪戯も今日拓実がしていた悪戯と大差はないということだ。単純に華琳自身がああいった手合いとの対応に慣れていないだけだと遅れて自覚し、深くため息をついた。

 

 

 華琳はそうして回顧していくうちに、拓実が自ら進んで他人をからかうようになったのは最近になってからのことだと気づいた。

 少なくともこれまで、曹孟徳に扮した拓実には自主的に他人に悪戯して愉しむような趣味はなかった。しばらく荀攸や許定として過ごしていた為に、華琳が『この状態の拓実』を目にするのは久しぶりだが、それだけは間違いない。そのような旨の本人の言もある。

 加えて言えば、華琳が会ったばかりの――曹孟徳の演技をし始めた頃の拓実は完璧だった。清廉潔癖で欠点もない、春蘭が華琳を更に美化した姿そのままの、正しく理想の君主だった。

 それと比べてみれば今の拓実は昔より劣化したといえる。他人の才能を目にすればわかりやすく感情を表し、からかい甲斐のある相手には悪戯をしかける。楽しいことは自ら率先して行い、わがままで執念深く、実は負けず嫌い。

 だが、どちらが華琳に近いかと問われれば、他は勿論、華琳の人物像を拓実に伝えた春蘭だって『今の拓実』と答えることだろう。華琳本人にしたって同じ回答をする。

 

 同じ覇王としての気質に目を囚われていた為に気づけなかったが、以前の拓実は酷く人間味に欠けていた。性格にしてもいいところばかりを持ってきた欠点のない曹孟徳。表層はそのものであるから、場面場面の影武者は勤まることだろう。

 しかし、それ以前の問題として欠点のない人間など、最早人ではない。そして華琳は、人ですらない者に己が誇る名を騙らせるつもりはなかった。

 

「さて、日も没したことだし、刻限を迎えたわ。この時を持って、試験の終了としましょう。他の者に指摘されなかった以上いうまでもなく合格だけれど、せっかくだから今後の為に春蘭、秋蘭、季衣、流琉を呼んで違和感がなかったか確認をとっておきましょうか」

「恐れながら、凪たち三人の意見も募っては如何でしょうか。他の四人は拓実の役割を既に知っている為に、知らぬ三人とは応対した印象が違っているかもしれません。また、これより先は場合によって三人が影武者と対することも出てくることでしょう。知らせるならば今が唯一の機ではないかと」

 

 上げられた宣言に対して、跪く桂花が頭を下げたままに進言する。

 なるほど、もっともな意見である。この試験が終われば、拓実は影武者として公の場に出る。直接三人に下知する場面もあろう。

 

「そうね……桂花の言うように凪たちに影武者の紹介を兼ねましょうか。拓実、警邏の仕事も終わっているでしょうし、凪たち三人を玉座の間へ呼んで頂戴。桂花、あなたは春蘭に秋蘭、季衣と流琉よ。私もすぐに向かうわ」

「……かしこまりました」

「はっ」

 

 拓実は順調に演技の質を向上させている。元より華琳と近しいところにいた拓実だが、その存在が重なり始めている。元より異質な才故に、更なる才の開花を果たしたのか、それともただ曹孟徳という情報が不足していただけなのか、華琳にその判別はつかない。

 しかし、この時期に影武者の最終試験を設けたことを正しいと確信する反面、厄介なものを生み出してしまったのではないかという危惧をも抱いていた。どうにも、仕上がりすぎたような気がしてならない。主君をからかい、必要であるなら躊躇すら見せず命令してくる存在を自ら作り出したことに、苦みばしった表情が浮かぶのを止められない。

 

「ほら拓実、何顔をしかめて突っ立っているの。私に見蕩れている暇はないわよ。さっさと行ってきなさい」

「……はい」

 

 促され、未だに『拓実から拓実と呼ばれ続けている華琳』は三人を呼ぶために部屋を退室すべく踵を返した。

 試験は終わった。つまりは、もう華琳が仮装する必要もない。であるならば不躾に命令した拓実に文句をつけて、さっさといつもの服装に着替えるところなのだが、もう少しだけならばアレの思惑に乗っかってやるのもいいだろう。

 拓実が華琳の考えを読めるように、華琳も今の拓実の考えは手に取るようにわかった。何も知らない凪ら三人に加え、影武者の存在に半信半疑だという流琉に拓実の存在を知らしめるのにもっとも効果的な状況とは、と考えれば行き着くところは一つ。今の状態を活用しない手はない。華琳が人知れず唇の端を吊り上げたのと時同じく、拓実の唇も二人打ち合わせたかのように吊り上っていた。

 

 

 

 夕食の直後であったからほとんどが自室にいたようで、召集がかかってすぐに春蘭や秋蘭が駆けつけたようだった。続いて凪、流琉。季衣に真桜と沙和が他に少しだけ遅れて玉座の間へとやってくる。真桜と沙和を伴い、最後に入場した華琳が外に音が漏れ聞こえないよう、しっかりと扉を閉め切った。

 見れば、華琳に扮した拓実が玉座に腰掛け、春蘭、秋蘭と共に和やかに談笑していた。微笑を浮かべながら二人が話す内容に相槌を返している。肘掛に体を預けて、緊張もなく楽々とした様子である。拓実は入室し終えた華琳に気づくと、目を細めて正面に向き直った。

 

「思いの外早かったけれど、これで全員揃ったわね」

「は。しかし華琳さま、警備の凪たちまでお呼び出しになられるだなんて、何事かあったのですか? 桂花の奴めが言うには、目前に迫った反董卓連合への遠征の件ではないとのことですが……」

 

 特に用件を聞かされずに集まった面々を代表し、春蘭が拓実へと質問を投げかける。直前まで華琳が談笑していたことから場に切迫した様子はないものの、呼び出された者たちは揃ってその顔に疑問を浮かべていた。

 

「直接的ではないけれど、まったくの無関係という訳でもないわ。あなたたちをこうして呼んだのは、以前より話していた影武者の運用、それの始動を知らせる為よ」

「ええと、華琳さまのご意思に従いたく思いますが、しかし、その、何も知らぬ凪たちへも……?」

「これまで顔を合わせることもなかったからその存在を知らせる必要もなかったけれど、影武者が曹孟徳として下命するとなれば今後応対することもあるでしょう。逆に、この機を逃せば後にいらぬ混乱を招くことにもなりかねないわ」

 

 拓実の言葉に、春蘭に秋蘭、季衣が会得のいった様子を浮かべ、三人ともがちらりと未だ荀攸として立っている華琳を盗み見る。対してさっぱり意味がわからないという様子を見せているのは凪、真桜、沙和。

 流琉も影武者の存在を知る一人であるが少し特殊であり、『拓実が華琳の影武者であることを隠すために許定と名乗っている』という情報だけで、拓実が荀攸として活動していることまでは知らないのである。

 華琳のそんな思案に違わず、凪が他を代表しておずおずとした様子で口を開いた。

 

「え? か、影武者、ですか? 華琳様、その、いったい何の話で……」

「そうね。初めて耳にする三人にも簡単に説明しましょうか。といっても、そう難しい話ではないわ。立場上私が動けない場面もあるから、代わりに兵を鼓舞しては采配を振るわせる、曹孟徳と瓜二つな人物を代役に立てるという話よ」

「は、はぁ。華琳様にそっくりな……」

「そんなんがおるんですか? まぁ、街の警備や兵に調練してるうちらが見たことないってことは、おるとしたら城にいる文官の誰かやね」

「いくら華琳さまの言うことでも、とてもじゃないけど信じられないのー」

 

 突然の話に、凪たち三人困惑した様子を隠せない。それを見て若干意地の悪そうな笑みを浮かべるのは、そんな到底信じられない人物を見知っている春蘭と秋蘭である。季衣もまたにこにこと訳知り顔で三人の様子を眺めている。

 正しく事情を把握している桂花はといえば、華琳の横で目を瞑り、貝のように口を噤んで立ち尽くしている。華琳や拓実がこの状況を楽しんでいるのを察し、どちらにも口出しすることも出来ない為に静観を決めたようだ。

 

「そうは言うが、お前たちは華琳様にそっくりな人物とはかなりの頻度で会っているのだがな。ああ、流琉は既に知っていたな?」

「あ、はい。その、拓実が……許定がそうだって聞いてます。でも、私もとてもじゃないけど、信じられないです……」

 

 秋蘭の問いかけに答えた流琉は未だに半信半疑な様子で、きょろきょろと視線を惑わせている。

 

「はぁ!? いやいやいや! あの元気っ子が華琳様とそっくりやなんてありえへんやろ! どこも似とらんし、いくらなんでも……あ、でも一応背ぇは同じくらいか? そや! ちょっくら拓実の奴を呼んできて、その影武者ってのを目の前で見してもらえば」

「はっはっは! お前たちは何を言っているのだ。拓実の奴ならもうここにいるではないか! なぁ、秋蘭。季衣」

「そうだな。姉者の言うとおりだ」

「へへへー。そですねー」

 

 含みを持たせた三人の視線が、ちらちらと華琳へ向けられる。それに気づいたらしい凪、真桜、沙和、流琉が同じように華琳を見て、その顔に疑惑を浮かばせた。

 

「ネコ実ちゃん?」

「ん? ネコ実ちゃんとは一体なんだ?」

 

 沙和の呼んだ聞き慣れぬ名に反応した春蘭が首を傾げて見せる。

 

「春蘭には関係のないことよ。後にして」

 

 そのまま話を逸らされて長引くのを避けたい華琳は、練習していた通りの声質へと変えて春蘭を嗜めた。ふん、とそっぽを向く振りをしながらも、胸はばくばくと大きく拍動している。

 これまでは声を上げても荀攸と面識の薄い凪たち三人の前だけで、返事だけというならともかく春蘭たちの前で荀攸として言葉を発したのは初めてである。口調は問題ない筈。後は、荀攸の声色を上手く模倣できているかどうか。ちらりと拓実を盗み見れば薄く笑みを浮かべている。どうやら今の物真似は及第点であったようだ。

 

「なんだと! 誰が『場の流れが読めないトウヘンボク』だ!」

「姉者、誰もそこまでは言ってはいないぞ」

 

 唾を飛ばし、華琳に向かって怒鳴り上げる春蘭。いつものように秋蘭が、暴走する春蘭を落ち着かせている。

 二人が荀攸の正体には気づいていないのを見て取り、華琳はこっそりとほくそ笑む。とはいえ華琳自身まだ騙し通せるだけの自信はない為、これ以上荀攸として声を発することは難しいだろう。

 春蘭が一応の平静を取り戻したのを見計らってから、秋蘭が華琳へと向き直った。

 

「拓実よ。その姿であっても華琳様の演技や許定になることは出来るのだろう? これ以上四人を混乱させても仕方あるまい。実物を見れば四人も納得するのだから、あまり出し惜しみをしてやるな」

「…………ふふ。そうね。ああ、この姿であなたたちと会うのは初めてね」

 

 秋蘭に水を向けられ、ちらりと拓実と目配せした華琳は、口を開くと同時に今まで意識して抑え込んでいたものを遠慮なしに開放させた。神経を研ぎ澄まし、視覚に入るあらゆるものに注意を向ける。自分のいる空間の音、匂い、空気の流れを細かく把握していくうちに、いつもの張り詰めた感覚が戻ってきた。普段からしていることであるから荀攸の演技をするまで気が付かなかったが、華琳の他人を怯ませる威圧感の一部はこういった警戒心から生まれているらしかった。

 そうしながらも華琳は、凪たちに向き直っていつもの口調で言葉を投げかけている。誤認させるような言葉を選んだが、決して嘘を言った訳ではない。ただ、限りなく真実をぼやかしているだけだ。

 

「おぅわっ! なんや、これ、ほ、ホンマに……?」

「そんな、この気圧される感じ、本当に華琳様そのものじゃ」

 

 華琳からの威圧感にたじろぐ真桜と凪。一日に渡って溜め込んでいた分、制約がなくなった途端に全開である。この畏怖される視線もまた懐かしい。己の威風に慄く様子を見て、華琳の笑みが深まった。

 

「しゅ、春蘭さま、秋蘭さま。本当にこの人、ネコ実ちゃんなのー? こんなの、沙和には本物の華琳さまにしか見えないのー」

「うう。わたしにもそうとしか……もしかしたら、いつも会ってる華琳さまよりすごい……」

 

 思わず一歩二歩と退いた沙和と流琉が、苦しげに声を上げる。ついつい気を良くしてやり過ぎていたようである。僅かばかり気を緩めるのと同じくして、春蘭がずいと華琳の前に身を乗り出した。

 

「は、はは、ははははははっ! お前ら、何をバカなことを、と言いたいところだがその気持ちはよくわかるぞ。わ、私も最初は騙されたものだからな。確かにちょっとばかり今日はすごい気もするが、これの中身はあの拓実だからな。なあ、秋蘭!」

「う、む。いや、しかしだな。姉者よ。拓実にしてはこれはあまりに、……っ!?」

 

 同意を求められ、しかし秋蘭は腑に落ちなかったのか曖昧に返す。秋蘭の普段の鋭い瞳は見開かれ、何度となく瞬きを繰り返しながら華琳の姿を見つめている。

 秋蘭がそうしているうちに何事かに気づいたらしく、途端に血相を変えた。衣装が入れ替わっている拓実と華琳とを見比べ、驚愕を露に問いかける。

 

「か、華琳様、そのお召し物は!?」

「ふん! 私は華琳さまの剣だ! しょせん影武者でしかない拓実になんて、怖気づいていないからな!」

 

 そんな慌てた様子の秋蘭に気づかない春蘭は、華琳に向かって大股で歩み寄ってくる。部下である凪たちの手前もあって、引くに引けぬのだろう。強がりであるのは見えみえだったが、何とか自尊心を保とうと華琳が被っているフードの上に手を置こうとする。

 

「ほら、こうして……」

「春蘭。それ以上手を伸ばしてどうするつもりかしら? ないとは思うけれど、主君の頭に手を置くなどといった己が分を弁えない者を、私がどう処するかを知らないわけではないわね?」

 

 しかしそれも、直前で華琳にぼそりと呟かれるとぴたりと止まる。冷ややかに睨みつけられ、春蘭は凍ってしまったかのように固まってしまった。

 そうして伸ばした手のやり場に困っては所在無さ気に惑わせることしばし。盛大に冷や汗をかきながら恐る恐る、それこそ猛獣の檻の中に手を伸ばしているかのように慎重に華琳の手を握った。

 

「ほ、ほうれ見ろ、このとおりだ! これは拓実だからな! こんなことだって出来るのだぞ!」

 

 そのまま跪き、手に頬擦りしている様を凪たちに見せ付ける。あまりの緊張に、自分が何をしているのか理解できていないのだろう。華琳がなすがままにされながらもじっと冷徹に春蘭を見つめ続けていると、春蘭の手や顔から、どんどん冷や汗が噴出しているのが見て取れた。

 

「あ、姉者。悪いことは言わないから、すぐに華琳様から手を離すんだ……」

「は、はぁ? 何を言ってるのだ秋蘭。ついに華琳様と拓実の見分けがつかなくなってしまったのか? こっちは拓実だろう。なにせ、今までこっちが荀攸だったんだからな。いくら私でも間違えたりはしないぞ」

「それは、そうなのだが……しかし、この方が本物の華琳様である可能性がある。頼む。言うことを聞いてくれ」

「な! ほ、本物の華琳さまだと!? い、いや。その、しかしだな、もし本当に拓実だったら、あまり情けない態度を見せるのは凪たちの手前もあってだな……」

 

 ほう、と華琳は小さく息を吐く。素直に感心していた。何が契機となってのことか華琳にはわからないが、どうやら秋蘭は正体に気づきかけているようだ。まだ確信を持つには至っていないものの、どちらにしてもそろそろ潮時だろう。

 

「へえ。面白いわね。それでは秋蘭は、この私が影武者――偽者であると、そういうつもりかしら?」

 

 華琳がひとしきり感心していると、またも場の空気が変わる。玉座に腰掛けていた拓実がすっくと立ち上がり、常人であれば竦み上がってしまうほどの気迫を全身から溢れさせて秋蘭を鋭く睨みつけていた。

 まるで再現。流石に抑圧されていたのを解放した先の華琳ほどではないものの、その華琳でさえ圧迫感を覚えるほどの威圧だ。ちょうど華琳と拓実とが発する威圧に挟まれる形になった春蘭なんて、腰砕けになってしまっている。

 

「ぁ……いえ、そのような。その、お召し物を拓実の奴から借りているということも……正直なところ、まだ私にもはっきりとは」

 

 面白いなどと言いつつも、拓実の声色には明らかな苛立ちが乗っている。直前まで荀攸であった華琳か、衣服の細部が違うだけの拓実か。さしもの秋蘭も分の悪い二者択一を迫られては言葉を詰まらせた。

 下手に平伏することも出来ない。どちらかにすれば、その相手こそが本物の華琳であるという意思表示と見做されてしまう。目を伏せるだけで精一杯なようだ。いつも冷静な秋蘭が困窮している様子など、このような特殊な状況でもなければそうそう見れるものではない。調子を戻した華琳はいつものように腕を組み、口角を吊り上げながら黙って拓実の動向を見守っていた。

 

「まったく、嘆かわしいことだわ。曹孟徳の一の忠臣であるあなたたちからしてこの有様とは。けれど――」

 

 拓実に言われ、春蘭と秋蘭の二人は返事も出来ずに縮こまってしまった。数分前までの、訳知り顔であった得意げな様子などはもう欠片も見えない。

 今この場で笑みを浮かべることが出来ているのは、華琳と拓実の二人だけ。そして、そのうち片方の顔つきが瞬く間にがらりと変貌した。

 

「――秋蘭さま、すごいです! ボク、こんなに早くばれるなんて思ってませんでした!」

「は?」

「……え?」

「?」

「っ!? ッッ!?」

 

 拓実の顔が邪気のない嬉々としたものに変わり、最後に目がぱちくりと開かれた。覇王としての気質が、人好きする軽く明るいものへと塗りつぶされる。

 表情が、声の調子が、声色が、口調もが別人のものへと変わった。衣服こそ曹孟徳のままではあるが、そこには確かに『許定』が現れていた。

 

「ふっ、あは、あははははっ!」

 

 呆けた声。疑問にまみれた声。状況を把握しておきながら理解を拒み固まった声。ただただ息を呑むことしかできない声ともいえない音。玉座の間に響く声や音は、どれも意味を成していない。

 もう耐え切れない。華琳は口を大きく開いて笑い声を上げた。全員が間抜け面を晒して動けずにいる。見るからな阿呆面である。

 

「はぁぁぁぁっ!? な、なんやソレ!? ちょ、ありえんやろ!」

「えぇ!? えと、あれ!? 拓実ちゃん? 華琳さま? ネコ実ちゃん? …………あ、あれー?」

 

 真桜が頭を抱えて、沙和が眉根を寄せて悩みだす。凪に至っては声もなく、口をぱくぱくと開閉させることしかできずにいる。

 

「ええと、拓実?」

「ん? 流琉ってば、どーしたの? 季衣もなんかぽかんとしちゃってるしさ」

「な、拓実? 本当に拓実なのか?」

「そーですってば。だって秋蘭さまがボクになれって言ったんじゃないですかー」

 

 そんな拓実に近寄り、まじまじとその顔を見つめる流琉。拓実は不思議そうに首を傾げ、見つめ返す。秋蘭の確かめるような問いかけにも、拓実が楽々とした様子で答えている。

 

「そ、それではこっち、こっちの、荀攸の姿の拓実は……?」

 

 春蘭が手を取ったままの相手を恐る恐ると見上げる。当の華琳は顔を背けて笑い声をこぼすだけだ。

 

「――ふん、馬鹿だ馬鹿だとは思っていたけど、そこまでなの? 私がここにいるんだから、そちらにおられるのは華琳様に決まってるじゃない。っていうかあんた、いつまでも華琳様の御手に触れているんじゃないわよ!!」

 

 じっと見つめていた流琉の瞳が大きく見開かれる。拓実の、その変化を目の当たりにしたからだろう。

 天真爛漫といった様子であった拓実の表情が、次の瞬間には大きく意地悪そうな嘲る笑みに変わっていた。人を小馬鹿にした口調に、目じりが僅かに下がり柔らかくなった目元。華琳そっくりの姿で、華琳様と口にしたのは明らかに『荀攸』その人である。人が変わったようだ、という比喩はあるが、拓実は正しく人が変わってしまう。

 

「は、はぁっ! も、もうしわけございません!!」

「ふっ、ふふふ」

 

 顔を真っ青にさせた春蘭が華琳の手を離して跳び退き、その着地と同時にひれ伏した。その行動の移り変わりの無駄のなさに、それまでの無礼を叱り付けるより先に華琳の口から笑いが漏れてしまう。

 

「華琳ったら随分とご機嫌じゃない。ここまでやった甲斐があったというところかしら」

「ええ、お蔭様でね。こんなに退屈が待ち遠しかった日も珍しいわ」

 

 いつの間にか拓実の人格が、元の格好に即したものへと戻っている。何度見てもその変わりようは見事と言う他ない。

 そんな拓実へと、ようやく笑いが収まった華琳は皮肉をふんだんに込めて言葉を返した。そうしてからこほんと咳払いを一つ。

 

「さぁ、皆には見苦しいところを見せたわね。ともかく、という訳で今日一日曹孟徳として表立っていたのはこちらの拓実よ。暁から宵まで、臣下にも判別つかない精度で成り代われるか、それが影武者として役目を果たせるかどうかの試練。露見せねば合格としていたのだけれど、結果はこのとおり」

「何事か気づいたならそれを述べてもらおうと考えていたのだけれど、どうやら凪・真桜・沙和、流琉と季衣には一切気取られなかったようね。一応の説明は終えたことだし、五人には退出を許しましょう。だいぶ遅くなったことだし、私についてまだ聞きたいことがあるのならまた後日ということにして頂戴」

 

 華琳の言葉を引き継いで、拓実が続ける。異口同音、違う場所から聞こえてくる同じ声色に、流琉や沙和が目を回している。

 

「は、はぁ。それでは失礼します……」

 

 退出を促したのは華琳ではなく拓実の方だったが、困惑していた凪たちはその違和感に気づかずにそのまま退出していった。華琳としても年若い季衣や流琉たちがいてはこれから続く話をするに支障をきたすので元より退出させるつもりではあったが、当然のように主君のように振る舞い、自身の前でそれが受け入れられているのはどうにも腑に落ちない。

 

 とはいえ先の言葉のとおり、拓実は『華琳になりきる』という役目を、これ以上ないほどに果たしていると言えた。華琳の想定していた以上の出来で曹孟徳として振舞えている。

 問題は、それを華琳をからかうことに特化させていたことだ。いくら要求以上の成果を見せられたとしても、やられたまま、おちょくられたままというのは華琳の性には合わない。春蘭たち全員が間抜け面を晒すほどの見事な暴露をこなして見せたことでいくらかは相殺したが、それでも華琳の腹の底に溜まった鬱憤はまだまだ売るほどある。

 

「そうね。荀攸となってみて、私も拓実の苦労の一端を感じることができたわ。こちらの課した以上のものを見せた拓実には、私から特別に恩賞を与えましょう」

「あら、別に構わないわよ。私はただ、華琳に命じられたことをそのままこなしたに過ぎないのだから」

 

 こいつはどの口でそれを言うのか。思うまま気の向くままに振舞っていただけの癖に平然とそんな戯言をのたまう拓実に、華琳の口の端が思わず引き攣った。それでも何とか笑顔を崩さずに、努めて冷静に振舞うことを心がける。

 

「ふふ、その忠心には報いるところがなくてはならないでしょう。素直に受け取っておきなさい」

「華琳にしては面白いことを言うわね。忠心ですって? あなたが試験を課した、私がそれに合格した。そこに忠心なんてものが入り込む余地などないでしょうに」

 

 いつもの拓実であれば、何だかんだと言いながらも貰えるものは貰っている。ここまで固辞しようとはしない。華琳が何事かを企んでいるとでも考えているのだろう、拓実はその表情に怪訝な色を隠しもせずにいる。

 

「拓実」

「……はぁ。三度薦められ、三度とも断れば私が礼を失する。わかったわ。その恩賞とやらを受けましょう」

 

 しかし、こう切り出せば拓実も頷かざるを得ない。こうして言質は取れた。もう表層で取り繕う必要もないだろう。華琳の笑みが嗜虐的に深くなる。

 

「そう。では、湯浴みをして一刻後に私の部屋に来なさい。今夜に限り、曹孟徳でも許定でも、荀攸でもない南雲拓実として、一切の演技をせずにね」

「……華琳、私たちがしているのは恩賞の話ではなかった?」

 

 拓実が眉根を寄せて、手を額に寄せる。どうやら一度聞いただけでは理解が及ばなかったようだ。

 

 華琳がどうあっても辛いものが苦手なように、拓実にもどうしようもないものがある。ある事柄が話題になると拓実がそれまでどれほど見事に演技をしていても、途端に役に成りきることが出来なくなる。華琳は幾度か、拓実がそうなったのを見ていた。

 

「恩賞よ。今宵は私の手直々にあなたを悦ばせてあげると、そう言っているの」

「なっ!? あなた、何を……」

 

 それは房事。拓実の弱点は、男女の交わりなどの性行為だとか、そういった方面に初心なところだ。

 桂花と引き合わせた時に固まってしまったのが初めてだっただろうか。その後も華琳から声をかけたことが幾度かあったが、拓実は決まって顔を真っ赤にして逃げ出してしまう。

 華琳としてもほとんどがからかい目的で誘いをかけていただけだったが、毎度断られている為に最近は面白くもない。こうなっては市井で美少女と謳われている華琳の沽券にも関わってくる。

 

「華琳様! まさか、拓実と!? 駄目です! 絶対になりません!」

「桂花。お黙りなさい。私が誰と閨を共にするか、それを決める権利などあなたにはないわ」

「しかし、そのような短慮を……!」

 

 その発言に逸早く反応した桂花が声を張り上げて必死に食い下がるが、華琳はそれに聞く耳を持たない。隣で状況を眺め見ていた春蘭が首を傾げ、いきり立つ桂花に不思議そうな顔を向けている。

 

「おい、何をそんなにむきになっているのだお前は。夜伽を命じられなかったことは私も悔しいが、華琳さまがお選びになられたのだから仕方がないだろう」

「春蘭! あんたこそ何でそんな静観しているのよ! 拓実はこんな(なり)をしていても男なのよ!? 各地の群雄が飛躍しているこの時期に、万一、万が一よ!? 華琳様が妊娠でもなさられたりしたらどうするつもりよ! そうなれば、確実に全てが後手に……」

「妊娠? お前は何…………ん? おお、そうか! そういえば拓実は男だったな! うーむ、しかしだな。考えても見ろ、華琳さまがそんなヘマをすると思うか?」

「くっ、この馬鹿じゃ話にならない! 秋蘭、あんたはそれでいい訳!?」

「……む」

 

 良識派の秋蘭を味方につけようというのだろう。春蘭は別として、桂花に加えて秋蘭にまで抗弁されては口の回る拓実のこと、上手く二人を利用して逃げてしまいかねない。

 そうはさせない。させてはならない。ここで頓挫すれば拓実にやられっぱなしのままだ。要は敵になりかかっている周りを、全て味方につけてしまえばいいのだろう。

 

「ふん、妊娠……ね。ふと思いついたのだけれど、もし仮に私と拓実との間に子が出来たとしたならば、いったいどちらに似るのかしらね? 拓実に似ても私そっくりでしょうし、私に似ても拓実そっくりの子が生まれると思うのだけれど、どうかしら?」

「え……?」

 

 呆然と聞き返してきた桂花に、突然の質問に目をぱちぱちと見開いている春蘭・秋蘭。その反応を見て、華琳は成功を確信する。

 

「そうなった場合は当然、私に子はいないのだからそれが世継ぎとなるのでしょうし、次代の曹家当主も私と酷似した容姿を持つことになるのかしら?」

「華琳様のお世継ぎも、華琳様そっくりに?」

 

 燃え盛る火のように勢いづいていた桂花が急速に鎮火された。呆然と意識を飛ばして立ち尽くし、その光景を思い浮かべて口元をにやつかせている。大方、華琳とその嫡子の直近に仕えている自身の姿でも妄想しているのだろう。もしくは、華琳そっくりな幼児に教育を施す未来だろうか。どちらにせよ、意識に隙間は作れたらしい。

 

 こうして述べたのはあくまで桂花や秋蘭への説得が目的のものだが、華琳としても言ったとおりになってしまったとしても構わないと考えている。

 恋だ愛だを楽しむことなど、覇王を目指す華琳には出来ない。しようとも思えない。とは言っても、異性に恋したことのない華琳は拓実に対して抱いている感情が恋ではないと言い切ることはできないのだが、例えそうだとしてもうつつを抜かすことなどあってはならないと考えている。

 しかし、国を興し統一を目指すのであれば己一代で終えるわけにもいかない。愛した相手でなくても、異性との間に子を成す必要がある。それが政略によるか相手の能力によるかはまだわからないが、現時点で華琳に釣り合うだけの男は現れていない。

 ならば、多少なり気に入っている唯一の異性であり、華琳をして唸らせるだけの才を持つ拓実が相手であるなら、まぁ納得できなくもないという話である。もちろん、建国すら出来ていない今の状況で身重になるなど考えられることではないが。

 

「そうね。あとは仮定の話だけれど、もしも桂花と拓実との間に子が出来たとしたなら、本来ならありえない私と桂花の子のような容姿なのでしょうね」

「華琳様と、私の、子ども?」

「ああ、桂花でなくとも、春蘭と秋蘭でも同じことが言えるわね。それを実現するには、拓実に頑張ってもらわねばならないのでしょうけど」

「おお。私と、華琳さまの子……」

「ふむ……」

 

 そして桂花たちが妄想に花を咲かせているうちに、次の妄想の種を植え付ける。反応は三者三様ではあるが、誰も悪い気はしていないようである。こうなってしまえば後は簡単だ。意識さえを逸らせば、例え百般の学問を修めた智者が相手であろうとも口先だけで丸め込める。

 

「ちょっと華琳、何を勝手に話を進めているの! 私はそんなことをするだなんて一言も……!」

「ええ。あなたに子を作れだなんて一言も言ってはいないわね。けれども、あなたはこうは言ったわ。『私からの恩賞を受ける』と、確かにね。そしてこれが私からあなたへの恩賞というだけのことよ。『曹孟徳』、あなたは一度口にした事を違えるような人間だったかしら?」

「それと、これとはっ!」

「抗弁することがあるのならば、私の部屋で存分に聞きましょう。ともかく解散よ。先ほども言ったとおり、拓実は一切演技をせずに私の部屋に来ること。いいわね?」

「ぐっ!」

 

 言うなり、華琳は返事も待たず肩で風を切って玉座の間から退出する。あの姿では珍しい、歯噛みする拓実の声が華琳の後方から聞こえてきた。

 

 

 こうまでしてやったが、それでもおそらくは拓実のこと。言われたとおりに華琳の寝室までは来ても、頭を下げ、侘びを入れてでも同衾を断ろうとするだろう。

 もしも今回に限りそのまま押し切れそうならば、手加減なしに一晩中弄り倒してやろう。これまで焦らされたのだ。完膚なきまでにこの曹孟徳の虜にしてやる。

 あくまで断るというなら、それはそれでいい。『私では恩賞とはならないのか』『私では不満なのか』なんて言いがかりでもつけて、一晩中責め立ててやる。曹孟徳になり切っている状態ならともかく、演技を止めた拓実であれば上手い言い逃れも出来ずに困り果てるに違いない。

 

 責められ小動物のように弱った拓実の姿が華琳の脳裏に思い起こされ、華琳の胸が締め付けられるように疼いた。次いで涙目の拓実が浮かんで体が熱くなり、つい艶かしい吐息が口から漏れ出てしまう。最後に己そっくりな姿が自身の手で乱れる様が頭を過ぎり、倒錯したような妙な感情がわきあがる。

 自室へと向かう華琳の足取りは軽く、顔には絶えず悪い笑みが浮かんでいる。どうやら、拓実の無理無体なちょっかいで今日一日蓄積されるばかりであった華琳の鬱憤は、どう転んだとしても十二分に晴らすことが出来そうであった。

 

 



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33.『群雄、反董卓連合軍を結成するのこと』

 

 隊列を崩さず整然と行軍を続けて二日。曹操軍の進路上に見渡す限りの陣、陣、陣が現れる。ひしめく近衛らしき兵たちの鎧の意匠は様々で、その種類の数だけ群雄がこの場に集まっていることが知れた。十万を優に超える人数が集められている為だろう、未だ数里離れた地で馬を走らせている拓実にもざわついた空気が感じ取れる。

 

「陣の設営を終え次第、麗羽のところへ向かうわ。春蘭、秋蘭。それと拓実はついてきなさい」

「はっ」

「御意」

 

 金色にきらめく『袁』の旗が目視できる位置まで近づくと、並んで馬を走らせる臣下らに華琳が声をかけた。春蘭、秋蘭が間も置かずに承知の言を返す中、その旗印を確認した拓実は上下に振れる馬上にて華琳に向かって頭を下げる。

 

「華琳様。それはもしや、袁紹の陣ということでしょうか。桂花によると、かつて荀攸と名乗っていた荀諶が彼の者に任官していると聞きます。私がお供については要らぬ嫌疑をかけられぬとも……」

「いくら隠そうとも、荀攸なる者が我が麾下にいることはいずれ知れることよ。この戦に参加した諸侯の名は大陸に知れ渡ることとなるでしょうしね。まぁ、あの麗羽ならそんなこと気づきはしないでしょうし、そもそも気にかけることすらもないでしょう」

「しかし……」

「あなたの役割を念頭に置いたならば、各地の群雄が集まる場に同行をさせない理由には足らないわね。もっとも、許定がいるならば何事もなく済んだのでしょうけど。荀攸が駄目だからといって許定を同行させることができないのは誰の責任なのかしら」

「も、申し訳ございません」

 

 華琳がちらりと拓実の左足を見たので、拓実はまたも深く頭を下げる。普段荀攸に扮している時は薄い茶の色のなめした皮の靴を履いている拓実であるが、今日はその足首部分が布で巻かれて固定されていた。

 見てのとおりの捻挫である。骨にはまったく異常はないものの、腫れと痛みで立って歩くのがやっとのところ。踏ん張りが利かないために、走ることができないほどには具合が悪い。こうして馬に乗っているだけでも振動で痛んでくる。

 

 これをこしらえたのは、遠征の二日前のこと。拓実は許定として警備の仕事を終え、駐屯地に戻る最中に暴れまわる賊十名と遭遇した。偶然その場に居合わせた警備兵たちが制圧にかかったが、頭数が足りていない為に駐屯所から応援が来るまで拓実も彼らに加勢することになったのである。

 賊らは腕力のない拓実でさえ余裕を持って相手できる程度の腕前だったが、問題はその人数。相手方の方が多かったために他の警備兵たちもまた一対一で相手しなければならなかった。警備隊は基本、暴漢を取り押さえる際は一人に対して数人で当たることになっている。一対一に慣れない警備兵では旗色は悪く、拓実は自身の実力以上に相手を引き受けなければならなかった。

 結果、凪たちが来るまでの時間を稼ぐことは出来たものの、一人で三人を相手に受け持った無理が祟ったのか左足首を痛めてしまったのである。そのことで華琳からお叱りの言葉も貰っている。そもそもからしてこれから戦に向かうというのに、作戦を立案し采配を振るうならともかく戦働きのまったく出来ぬ荀攸の姿をしている理由であった。本来ならば武将の一人として随行せねばならない許定は、止むを得ず郷里で怪我の療養中ということになっている。

 

「……まったく、仕方がない子ね。その名と姿で不都合だというのであれば、とりあえず見た目と名だけでも別の人物に仕立てましょう」

 

 華琳は馬を止めて周囲を陣営地と定めると、春蘭と秋蘭に陣の設営の指揮を任せた。桂花には他の諸侯の情報収集、季衣、流琉、凪たちには春蘭と秋蘭の補助をするようにと指示を下す。

 配下が各方面に声を張り上げ始めるのを見届けると、華琳は軽やかな身のこなしで愛馬絶影から跳び下りた。

 

「一応ということで文官服を支給してあったでしょう。ひとまずあれに着替えなさい。すぐに兵を呼んで目隠しの天幕を用意させるから、少しばかり……」

「いえ、華琳様。それには及びません」

 

 拓実も捻挫している左足に気をつけながら馬から下り、鞍の両脇にくくりつけてあった袋を下ろして中を漁る。

 数日前に最終試験を終えたことで、拓実が遠征などに同行する際には必ず曹操の衣装に、華琳の得物である【倚天の剣】の対となる【青釭の剣】、その他にも種類の違う衣服と化粧用品、ウィッグや香水などを持ち歩くようにと華琳より指示されていた。それらを詰め込んでいる麻袋の中から、折りたたまれた長い布を探し出してその端一辺に通された紐を手に取る。

 

「それは?」

「急な着替えをせねばならない状況に使えるかと思い立ち、昨夜に縫い合わせまして」

 

 兵たちに注目されていないことを確認してから、拓実は傍に立っていた木の陰に隠れる。布を肩に回して、布に通された紐を首元を結んで留めると、膝下まで隠れるポンチョのような姿になった。現代で言うところの水着の着替えに使うラップタオル、それの丈を長くしたようなものだ。

 拓実は手慣れた様子で着替えを終える。三十秒も経つか経たないかといったところで首に巻いた布が取り払われると、その下から灰と小豆色の地味な配色の文官服が現れた。ちなみに、この早着替えも演劇の舞台で必要に迫られて身についた特技であったりする。

 

「へえ。そう使う機会もないでしょうけど、面白いものを作ったわね。それにしても木陰であれば他に見ている者など私以外にいないのだから、いまさら隠すこともないでしょうに」

「華琳様、誤解を招きかねないお言葉はどうかお控えくださるよう……」

「誤解? 一晩を共にしたというのに、いつまで経ってもつれないわね」

「ち、ちが……」

 

 華琳のからかうような言葉を受けて、途端に拓実の顔が真っ赤に染まった。羞恥に赤面する拓実を見て、華琳が微笑む。

 

「ですから、その、そのようなこと、なかったではございませんか!」

「そうね。決定的なことはなかった。まぁ、それは次の機会にすればいいことだわ」

「ぅ、あ……次の機会なんて」

 

 そこから先は思い出してはいけない記憶であった。自然と『あの日の夜』を思い起こそうとし始めた思考を強制的に止め、別のことを考えるようにと努める。

 

 やっぱり慣れない。演技の上であれば例え異性と抱擁しても意識すらしない拓実であるが、役柄を飛び越えて『南雲拓実』を対象にそういった話を振られると、そこそこには回るはずの頭脳が停止してしまう。普段通りの演技をしようにも条件反射のように気恥ずかしくなってしまって、こればかりはどうにもならない。

 拓実はそうして距離を置こうとしているが、『南雲拓実』自身に異性への興味がない訳ではない。何も演技していない拓実であれば誰某が可愛いという考えになることもある。けれども華琳の言うような行為は、お互いが好き合ってなければしてはいけないことだ。少なくとも拓実はそういうものだと考えている。

 だから、自身を異性として好いていない女の子を抱くことなんて拓実には出来ない。もしも拓実を異性として好いてくれる子がいたとして、その相手を心から好きでなければ手を出したくない。この陣営の女性陣とは気心が知れているし、みな女性として魅力的な為に少なからず惹かれている部分はある。だが反面、彼女らに異性として好かれていないだろうという確信があった。普段の拓実を見てどこに男を感じろというのだ。四六時中女装している男を恋愛対象にするだなんて、きっと考えられないことだろう。

 

 さんざんになじられた上に、椅子にされた拓実が泣いて謝りつつも華琳にそんな心情を伝えたところ、「この陣営の誰よりも生娘みたいなことを言うのね」などと哂われることになった。その後もめげずに謝り倒したことで行為自体は避けることができたが、地面に転がされて足でぐにぐにと踏まれたり、そのたおやかな手で弄られたり、犬のようにはいつくばって色々と舐めさせられた。それでストレスの発散が出来てしまう華琳は紛うことなくドSである。

 そうしてまたあの夜、具体的に何が起こったのかを思い出しそうになって、拓実は頭を振っては記憶を払い飛ばす。貞操こそ守りきったが、どうしようもないぐらいに汚されてしまった気がしてならない。初めこそ一人の男として屈辱を感じていたが、終盤には奉仕することに対して抵抗がなくなっていたように思う。果たして次の機会なんてものがあったら、拓実はどうなってしまうのだろうか。疑問には思えど、知りたくはない。実際にその疑問が晴れる時には、今の拓実の価値観が既に存在していないだろう予感だけがあった。

 

「……拓実? 顔を真っ赤にして物思いに耽るのは結構だけれど、私の話はしっかりと聞いているのかしら?」

「あっ、も、申し訳ございません」

「まったく。本当にそういった話は駄目なようね。まぁ、いいわ。とりあえず髪を纏めたらこれを被りなさい。流石にその金髪は衆目を集め過ぎる」

 

 拓実が言われるがままに髪を縛って纏め上げるのを見計らって、華琳が袋の中からかつらを取り出しそのままその頭に被せた。前髪が鼻先あたりでまっすぐに切り揃えられていて、横も同じく肩辺りで揃えられている黒髪のかつらだ。全体的に梳いてあるらしく、目が隠れてしまう程の長さの割りには重たい感じにはなっていない。見たところ、長めにしたおかっぱのようだ。

 かつらの位置と向きを直しながら顔の半分を隠している前髪を分け、その隙間から覗くようにして見ると、華琳が口元を手で隠してすっかり印象の変わった拓実を見つめて何事かを考えている。

 

「名は、そうね。この前に城へ興行に来た芸人一団が皆同じ邑出身の卞姓を名乗っていたかしら。とりあえず当座は『卞氏(べんし)』とでも名乗っておきなさい。特別に珍しい名でもないし、私の右筆とでも言っておけば問題はないでしょう。ああ、役柄を作って背景作りをしている余裕もないことだし、卞氏については誰かの演技はしなくてもいいわ。南雲拓実として、演技せずに息抜きできる立場も必要でしょう」

「あ、はい。ありがとうございます。え、でも、本当に演技しなくていいんですか?」

 

 そう問い返す拓実だったが、演技をしなくてもいいという言葉に加え、直前にからかわれていたこともあって既にその仮面は剥がれ落ちてきている。華琳は暫時笑みを湛えると、わざとらしく息を吐いて仕方がないという風に目を瞑った。

 

「構わないわ。そこまでの演技力を身に着けたことに対する褒美とでもしましょう。元の拓実も、桂花に負けず劣らず弄り甲斐があるようだし……」

「えと、そう? 弄り甲斐はともかくだけど、演技の方は華琳にそこまで言って貰えると俺も嬉しい、かな」

 

 演技をしなくてもよいとのことのことで、肩から力を抜く。一緒に「ふぅ」と肺の中から大きく息を吐き出した。

 拓実自身演技は好むものではあるが、それにしたって限度があった。数日前に華琳の私室に呼ばれた時を除いたら、一年以上ほとんどの期間を演技し通しだったのだ。『俺』という呼称も随分と懐かしい。いや、そもそも自身は以前からこんな口調をしていただろうか。年単位で女言葉を使っていた為にそんなことすら自信がない。

 

「やはり、その容姿で『俺』はあまりにそぐわないわね。前言を撤回しましょう。拓実、卞氏である間は自身のことを『あたし』とでも呼ぶようになさい」

「うぇぁっ?」

 

 顔をしかめた華琳が舌も乾かぬうちに突如そんなことを言い出した。久方ぶりの開放感に胸を撫で下ろしている拓実は、あまりに短かった飾らぬ自分を曝け出せた時間に目を剥いた。

 

「えっ、本当に? 演技しなくてもいいって言ってたのに、そんなぁ……。なんで華琳は、こういう時ばっかり一度口にしたことを翻すんですか」

 

 続けて「いつも『この曹孟徳に二言はないわ』なんて偉そうに言ってるのに」と無駄に声真似を駆使してぶー垂れている拓実を華琳が鼻で笑う。

 

「ふん、当たり前でしょう。せっかく私の食指が動くほどの器量よしだというのに、その魅力を損なう要素を許すだなんて珠玉に(きず)を足すが如き愚行をこの私が犯す訳がないでしょう。それに何より、その方が面白くなりそうじゃない」

「ぐ……ああ、もう! わかりましたっ! これからこの姿の時は自分のことを『あたし』って言えば良いんですよね! いいですか、これ以上の注文は受け付けませんからね!」

 

 まったく悪びれようともしない華琳に、拓実は腰に手を当て出来る限りの威嚇してみせる。しかし華琳には子犬が吼えているようにでも見えるのか、怯むどころか口の端を吊り上げ、弧を描くような笑みを浮かべるばかり。

 

「あら、私の寝台の上とは打って変わって、今日の拓実は随分と強気ね。ふふ。もう私には逆らわないって泣いていたのに、いけない子ね。遠征が終わったらまた躾け直さなければならないのかしら」

「ひっ! ごめんなさい! あ、あたしってば、ちょっとだけ調子に乗っちゃいました! ごめんなさい!」

 

 華琳に少しばかり凄まれただけで、一方的に狩られる立場にある拓実は逃げることしか出来ない。目にも留まらぬ速度でそばにある木の陰に体を隠し、顔を青ざめさせながらおどおどした様子で必死に許しを乞う。言いたくなかった筈の『あたし』という一人称も自然と口から出ていた。あまりに卑屈な態度であるのだが、それも仕方あるまい。

 小動物の如き拓実の様子は華琳の情動をこれでもかとかりたてるようで、拓実を捉えて離さないその双眸は一層怪しい色を灯し、その顔はうっすらと上気していた。視覚的には艶かしく色っぽいものだったが、拓実からすれば獲物を前にして舌なめずりする肉食獣にしか見えない。

 どうやらあの夜以降、良くも悪くも二人の距離は縮まっているようだった。

 

 

 ――変わったのは華琳との関係だけではない。影武者の最終試験を終えてから、拓実を取り巻くその他の環境もまた変化を見せていた。それというのも、凪たちや流琉の拓実への態度が固くなってしまっていることである。許定・荀攸を問わず、拓実とどう応対していいものかといったぎこちなさが見て取れる。

 好奇心を顕に根掘り葉掘り聞いてくる真桜や沙和はまだよかったが、問題は二人より融通の利かない凪であった。会話などは普通通りを心がけてくれているようなのだが、警備の仕事の上で何事か決定することがある度、まるで上官を相手するかのように拓実に確認を取るようになってしまった。残る流琉に至っては拓実に対して敬語になってしまい、以前のように「拓実」と呼び捨てすることができなくなっていた。そのうちの呼称についてはいきなり『様』づけで呼び始めるわけにもいかない為、多少不自然ながらも『姉さま』という呼称で落ち着いたようである。

 加えて言えばあの夜、閨へと誘われた際に同じ場に居合わせていた春蘭や秋蘭、桂花の三人は、拓実と華琳が既に契ったものと見て疑っていないようである。翌朝に憔悴しきった拓実と生気溢れる華琳の二人を見ては勘違いするのも当然かもしれない。尤も、完全に勘違いとは言えそうにないので拓実は弁解すらもままならないでいるのだが、三人が三人不自然に熱のこもった視線で見つめてくるのは勘弁して欲しかった。

 

 

 何とか華琳の口撃から逃れきった拓実は指示を出し終えた春蘭や秋蘭と合流し、袁紹配下の武将、顔良に先導されて大胆不敵に余所様の陣を突き進む華琳の後ろに続いていた。

 しかし、拓実が今着ている文官服はどうにも裾の広がりが小さい。おかげで歩幅が制限されるために、拓実が華琳についていくには常に小走りにならなければならない。そこに左足首の捻挫である。痛みから左足を遅らせている拓実のことを後ろから眺めていた秋蘭が、囁く様に声を上げた。

 

「その左足の怪我……随分と見慣れない姿をしているが、拓実なのか?」

「あ、うん。さっきも言ったけど、荀攸が公の場に出てくるのはあんまりよくないから。今回は華琳の右筆として、卞氏って名前でついていくからよろしくね」

 

 振り返った拓実は、演技をせずに済むことによる開放感で笑顔であったが、しかし絶えず左足が痛みを訴えている為に声が震えている。秋蘭は会得がいったという様子で眉を開き、「ほお」と感嘆の声を漏らした。

 

「なるほどな。どうするのかと思っていたが、新しい役を作ったのか。それで、今回はいったい誰の真似をしているんだ? 私はどうにも見当がつかないのだが、姉者はわかるか?」

「いや、さっぱりわからん。ただ間違いなく、こんな見るからに女女したやつは武官連中にはいない」

「ふむ、姉者もか。かといって文官にも思い当たる娘はいないな。物腰の柔らかさから街に住む貴族の娘かと思ったが、名門である丁家の息女はこうまで気安くもない。となると、下流の劉家息女か、この前に興行に来ていた踊り子の……」

 

 問われた訳でもないのにクイズのように人物当てをしている秋蘭と、拓実を見たまま首を捻って「むう」と唸っている春蘭。必死に思考を巡らせる二人に、何の落ち度もないのに申し訳なくなってしまった拓実はおどおどと、蚊の鳴くような声を上げる。

 

「いや、その、演技とかじゃなくて、ただの南雲拓実なんです、けど」

「…………あ、ああ。すまん、そうだったか」

 

 彼女からするとまったく思いもよらなかった人物だったらしく、どうにも歯切れの悪い言葉が返ってきた。拓実にしてもどう反応すればいいかわからない。

 そうしてしばらくの気まずい沈黙。前に向き直って速度を上げようとひょこひょこと小走りしている拓実の不規則な足音が妙に響く。

 

「……見ていられんな。姉者、頼んでいいか?」

「仕方ない」

「えっ! わっ!? へっ? 何、何何っ、しゅんらん!? いきなり何するの!?」

「その足では華琳さまについていくのも一苦労だろう。仕方がないから私が抱えていってやる。ほら、首に手を回せ。流石にお前を抱えたまま諸侯が集う軍議に顔を出すわけにも行かないから、精々入り口までだが……しかし、お前は随分と軽いな」

 

 一所懸命に華琳に追随しようとしている拓実を見かねたのか、姉妹で一言二言交わした後に春蘭が拓実を横抱きに抱え上げて歩き出す。人を一人抱えているというのにその速度は先ほどまでと変わらない。

 お姫様抱っこされた拓実はというと、抱えられて高くなった視界から周囲の兵士の視線を集めていることを知るも、有無を言わさない春蘭の様子に下ろしてもらうことも出来ない。言われるがまま春蘭の首に手を回して、その腕の中で顔を真っ赤にして小さくなる。

 

 その異性には見えない容姿からついつい春蘭・秋蘭の二人はいつもどおりに接しているが、こうして演技を止めている拓実の意識は普通の男子と変わらない。

 横抱きに抱えられて首に手を回すと小さな拓実の体躯は春蘭の胸にすっぽりと収まってしまう。実は、顔が真っ赤になっているのも女性に抱き抱えられていることが情けないやら、体に触れる感触が恥ずかしいやらである。

 

「ふ。ところで、その黒髪は染めたのか? ……ああ、かつらだか、かずらとかいうやつか。しかし、その髪型は前髪が長すぎるな。目が隠れてしまっていて、見ていてどうにもうっとおしい」

「そ、それ右目がほとんど髪の毛で隠れてる秋蘭にだけは言われたくない。それにこれ、別にあたしが選んだわけじゃないし……」

 

 ぶつぶつと拓実が呟くのを聞いて、秋蘭が奇妙そうに眉をひそめる。

 

「『あたし』? お前は最初会ったときから自分のことをそんな風に言っていたか?」

「言ってない! 華琳がそう言えって言ったんだって! 最初は真似はしなくていいって言ってたから前みたいに『俺』って言ってたのに……!」

 

 華琳の命令に対して不本意そうに喚き始めるも、春蘭が「耳元でうるさい」とがつんと頭突きを一発。額に受けた拓実は大きく仰け反り、口からは「あがっ」と奇妙な悲鳴が漏れる。

 拓実は俯いて、長すぎて袖から出ない両手で痛む額を押さえる。視界が歪んで、その中を星が飛んでいる。涙まで出てきた。

 

「いたい……! 春蘭、石頭過ぎ……」

「ふん。この程度で軟弱なやつだな」

 

 春蘭に抱えられて小さくなっているのを見て、秋蘭が微笑んでいる。拓実は生暖かい視線を向けられ、不満げに口を尖らせた。とてもじゃないがこの程度なんて衝撃じゃなかった。

 その様子がまた周りから見るとおかしいらしく、抱えている春蘭までが口元をにやつかせている。

 

「まったく、主君を放って何をしているかと思えば。春蘭、ここからは拓実を下ろして自分の足で歩かせなさい」

「あっ、華琳さま! 華琳さまの仰せのとおりに!」

「え、ちょっ、まっ」

 

 金色の鎧を纏った顔良の先導に続いていた筈の華琳が、いつの間にやら速度を落として三人に近づいては呆れた様子を隠そうともせず、抱えられている拓実を眺め見ていた。

 その言葉に即座に応じた春蘭はその場で直立不動。ぽいっと物の様に投げ捨てられた拓実は着地までの僅かな滞空時間を使って意味を成さない声を発した後、盛大に尻餅をついて「ぎにゃあ」という奇妙な悲鳴を上げた。

 

 

 

 そうして拓実は卞氏として華琳の陰に隠れて目立たないように軍議に参加したのだが、袁紹が号令し、召集したその面子は錚々(そうそう)たるものであった。

 袁紹、曹操、公孫賛、劉備、孫策と黄巾党本隊を壊滅させ、飛躍的に名を高めた面々。加えて孫策を客将として抱えている袁術、西涼からは馬超。その他にも孔由、王匡、鮑信、韓馥……といった、大陸各地の群雄、盟主たちが一同に会している。

 英傑を写し取ることを第一とさせている拓実を華琳が無理を通してでも欠席させない訳である。だがしかし、そんな名実ある群雄たちが集まったそこで行われていたのは、とても軍議と呼べるようなものではなかった。

 

「麗羽はまったく変わっていないようね。勿論、悪い意味でだけれど」

「そのようですね」

 

 袁紹が軍議の場にと用意した陣から出て、華琳が酷く疲れたようにため息を吐いた。そんな華琳に、秋蘭が小さく同意の声を返す。

 今回の連合軍の討伐目標である董卓が本拠としている洛陽、そこまでの行軍順路の確認、各諸侯の配置、中途の要塞とも言える汜水関・虎牢関の攻略にはどの軍団が当たるかが決まるや否や、華琳はすぐに陣を後にしたのだった。

 その気持ちはわからない訳ではない。同席していた面々もさっさと自陣に引き上げていたし、拓実にも華琳を苛んでいるのと同じ類の疲労が圧し掛かっている。

 

「その、華琳? さっきの袁紹や袁術って、演技してああやって振舞ってたとかじゃなくて、本気で言ってたんですか?」

「自らの愚かさを、わざわざ各地の諸侯が集まる場で宣伝することに、何かしらの利があるのかしら」

 

 機嫌の悪い華琳に、何故だか質問しただけの拓実が睨まれてしまった。酷く居心地の悪い思いをしながらも、袁紹のあの強烈なキャラクターを思い起こす。

 金髪縦ロールに、金色の鎧。その風格は確かに名門貴族のお嬢様といったものだが、どうにも気位が高すぎる。己の出自より低い生まれである周囲を低く見、自身の実力を過信しているように見えた。

 個々の能力こそ高いものの、結果として意思の統率が取れずに寄せ集めとなっている連合軍。総兵数二十万に届くかという大軍の総大将になれば名に箔こそつくだろうが、そこばかりに固執していることからもわかるようにどうにも頭が足りていないようだ。

 しかし、実物の袁紹からはそんな人物像を見出したものの、拓実は三国志の袁紹に対して悪い印象を持っていなかった。彼は河北を収めた英雄で、曹操を最も苦戦させた最大の敵であったという認識ですらある。だからこそ今しがた見てきた袁紹が、何かしらの意図があってあのような振る舞いをしていたのではないかと拓実は考えていたのだが。

 

「ええっと……あ! わざと自分を低く見せて周りを油断させるため、とか?」

「アレが幼少の頃から周囲を欺く為に行われている演技だとしたなら、それを見抜けなかった私の目が節穴であるか、あなたをも上回る演技の才を持っているわね」

 

 肩を竦め、何を馬鹿なことを、と言わんばかりの様子で華琳は鼻を鳴らした。拓実の後ろを歩いている春蘭・秋蘭も黙って頷いている。

 質問を投げ返され睨みつけられた為に何か答えておかないとと思っての苦し紛れの言葉だったが、発言した拓実本人もそれはないかと考えていたりする。意図的にあれをやっていたとすれば相当な策士であるだろうが、得られるのが遠征失敗時の責任の一切と諸侯からの愚物という認識ではあんまりにも釣り合わない。

 

「ともかく、汜水関の攻略に当たるのは劉備と、それを決定した麗羽に食って掛かった公孫賛だったわね。秋蘭、桂花から参加諸侯の調査報告は届いているのでしょう。公孫賛軍、及び劉備軍の兵力はどれほどなのかしら?」

「はっ、暫しお待ちを。……おおよそ公孫賛軍が一万二千、劉備軍が八百というところですか」

 

 手元の竹簡を見、返した秋蘭の言葉を聞いた華琳は暫し思案する。先の軍議でも一時とはいえ紛糾したのが、汜水関の攻略である。寡兵故に劉備軍が汜水関の情報収集を申し出たのだが、袁紹は何を思ったか情報収集のついでにその攻略まで命じたのだ。

 突然の、有無を言わさぬ命令に頭を抱えている北郷一刀と目を回しておろおろしていた劉備だったが、その八百と言う兵数を鑑みれば当然の反応だったのだろう。そんな無茶に対して公孫賛が物申し、結果として袁紹の不興を買ってしまった公孫賛も汜水関の攻略を命じられることとなったのである。

 

「劉備軍の手勢で公孫賛軍と共に攻略して戦功を得ようにも、よほどの手柄がなければ埋もれてしまうわね。何らかの策を用いて敵将を関から引きずり出し、よしんば野戦に持ち込んだとしても地の利がない場で交戦すれば開戦の一当てで揉み潰される程度の数。……そうね。共同戦線を張っていた(よしみ)もあれば、荀攸を遣わし我が軍から劉備軍に三千の援兵を申し出ましょう」

「えっ、さ、三千もっ?」

「……よろしいのですか?」

 

 華琳は錬兵が終わっていない兵と領地の防衛隊を残して、最大動員できる一万五千の兵を連れてきている。その五分の一もの兵を他の者の指揮下に置くと言う華琳に、拓実は思わず聞き返し、秋蘭も目を見開いている。

 大軍を率いてきた袁紹で三万超、袁術が孫策などの客将も含め二万二千。そう考えるならこの三千がいるかいないかで、これからの戦働きが大きく変わってしまうだろう。

 

「洛陽の防衛の要と言える汜水関に虎牢関、董卓の私兵に官軍も合わせたその守勢はどんなに少なく見積もってもそれぞれ一万と五千。関自体も要塞と見紛うほどに手を加えられている。劉備軍の軍師は二人共に稀に見る、珠玉と言えるだけの才物ではあれど、こと拠点攻略戦にあってその兵数差は如何ともし難いでしょう」

「弱小勢力でしかない劉備に恩を売る、ということでしょうか?」

「……今大陸において、劉備は私と同じく荒廃していく大陸を憂えている同志であり、我が友といったところかしらね。その友が窮状に立たされているのであれば、私としても多少の援助は吝かではないわ」

 

 秋蘭の問いかけに対して、戯れというようにくすりと笑みを浮かべている華琳の姿は拓実の目にはあまり見慣れぬものである。華琳のこと、間違いなくその言葉のとおりに私情に流されたと言うわけではないだろう。

 

「けれど、あくまで援兵。汜水関、或いは虎牢関を攻略した後に派兵した三千の内のどれほどが戻ってくるかわからないにしても、我が軍に兵が余っているわけではない。援兵の条件としてこれだけは呑ませなさい。劉備が我が方からの援兵を受け入れるのであれば、兵を劉備軍の壁や盾代わりに使われぬよう荀攸が監督役として劉備軍に同行するとね」

「あ、なるほど」

 

 そこまで言われて、ようやく拓実は華琳の思惑を理解した。捻挫の為に許定として、武将として戦働きできない拓実は、必然的に荀攸もしくは卞氏の姿をとらねばならない。そんな拓実が曹操軍にいたところで、活躍の場は限られる。

 そこで華琳は、好意からの援軍と称して劉備軍と公孫賛軍の調査をするつもりなのだ。当然、その意図は諸葛亮や鳳統あたりには容易く看破されることだろう。彼女らからすれば、自軍の錬度や装備、攻略に用いる策といった情報を対価に差し出せば、群雄が集い名声を得る絶好の機会であるこの大舞台では喉から手が出るほど欲しいであろう三千の兵を得られる。そう考えれば裏があるとしても悪い取引ではない。いや、その程度の情報などは安いものであろう。諸葛亮、鳳統とてそう考える筈である。

 

「ああ。もし劉備が許すのであれば、采配を振るうも汜水関攻略の手助けするも構わないわ。課せられている任務さえ忘れることがないのであればね。精々、劉備の立身の助けになってくるといいわ」

「わかりました。荀攸に、すぐ向かうように伝えてきます」

 

 拓実が表情を引き締めるのを見て、華琳が笑みを湛えた。直ぐにでも荀攸へと姿を変えて劉備の返答を聞きに行かねば、汜水関の攻略を任されている彼女たちは出発してしまう。拓実はゆったり歩く華琳を抜き去って、左足を引き摺りながら小走りで駆けていく。

 

 

 ――――華琳が策謀しているのは『情報と兵の取引』を隠れ蓑にして体裁を装えた、『軍中核人物の思考の把握』である。華琳の本来の目的は目先の兵の錬度や装備などではなく、劉備や公孫賛の人格、指導者としての器を知ることだ。或いは諸葛亮、鳳統ら軍師の立案能力や思考を把握し、関羽ら武将の指揮傾向を調査することにある。

 常識的に考えれば遠征中という僅かな期間で得られる情報に信用に足る確度などはありえないのだが、そんな常識から外れている規格外の観察眼を持つ人物が拓実である。だからこそ、正常な思考からでは華琳の策謀は見破れない。

 

 もしもいつか敵対することになれば、中核人物の思考傾向などの情報は黄金よりも貴重なものとなる。劉備が今回の討伐軍に参加したことで戦功を立てて一勢力となったとしても、その躍進の助けをした華琳への恩は劉備の中でどんどんとその比重を増していくことだろう。

 また彼女らがどういった立場になろうとも、拓実が写し取る多様の思考と人間性は何らかの成長のきっかけを与えてくれる。どう転んだとしても、無駄にはならない。

 

 不利な取引を自ら持ちかけたように見せて相手に恩を売り、しかし実のところでは取引上でさえ同等以上の利を得ている。

 曹孟徳。彼女が乱世の奸雄と呼ばれるに相応しい少女であることを拓実は再認識していた。

 

 



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34.『荀攸、劉備軍にて兵を率いるのこと』

 

 華琳からの援兵の申し出は願ってもないとのことで、劉備や北郷一刀にはすぐさま受け入れられることとなった。荀攸の衣装に着替えなおしていた拓実はすぐさまに陣へと取って返し、三千の援兵を引き連れて滞りなく劉備軍に監督役として合流を終える。

 しかし拓実には、今自身が置かれている現状がどうにも不可解極まりない。本来は他軍から遣わされた監督役などは機密から中核に置くことも出来ず、かといって『お客様』であるから下手に危険に晒すわけにもいかない、その上で監督させてやらねばならないうっとおしいことこの上ない存在であろう。てっきり劉備軍全体を見渡せる後方に置かれて、諸葛亮や鳳統、劉備、一刀らが軍を差配しているのを発言権もなくただ黙って見ているものと思っていたのだが、しかし現実としてそうはなっていないのである。

 きっと、華琳が劉備に向けてしたためた書状に余計なことでも書いてあったのだろう。そうでもなければ劉備が華琳からの書状を確認するなりに、監督役の拓実に向かって「頼りにしてますね!」と期待に満ちた言葉を告げるのはいくらなんでもおかしい。劉備軍に加わっている拓実は猫耳フードを目深に被って、諸葛亮や鳳統と一緒に戦闘要員である兵を率いながらもそんなことを考えていた。

 

 当座の議題を消化した後、拓実は華琳と共に軍議の場から去ってしまった為に知る由もなかったが、北郷一刀が上手く言いくるめて袁紹から三千の兵を引き出していたらしい。曹操軍からも三千の兵を借り受けた結果、劉備軍は総兵数六千と八百を数えるという、都市の太守でもなければ有することの出来ない規模の大軍となった。

 その配置は、先鋒から関羽・張飛の三千。その後ろに後詰・遊撃を任されている趙雲が率いる一千。中盤には二陣である諸葛亮・鳳統、荀攸の二千。後方には劉備・一刀の本隊八百が続いている。

 袁紹軍からの援兵三千はそっくりそのまま先陣を切ることになる関羽・張飛隊に。曹操軍からの援兵三千の内、二千が二陣の軍師隊。残った一千は趙雲隊、本隊に五百ずつ割り振られ、監督役の拓実の立場を慮ってか劉備軍の八百と混成されている。

 曹操軍からの援兵が最前線に配されてはいなかったのでそれに関しての文句はないが、問題は荀攸が劉備軍の軍師の一人として数えられている上に実戦部隊指揮にまで組み込まれてしまっていることだ。諸葛亮・鳳統に同行させての補佐を期待してのことだろうが、この二千にもしっかりと役割が割り振られていて一時(いっとき)のこととはいえ軍師隊が前線に出る予定もあるのだった。

 

 また、編成表には以前に陳留を訪れていた趙雲の名が連なっていたが、歴史を知っている拓実は事実として納得するばかりで驚くことはなかった。知らぬ仲ではないが、そも趙雲と意気投合していたのは許定である。荀攸となっている今の自分とはこれといって相性がよくないだろうこともあり、同じ軍にいることに対して何の感慨も浮かんではこない。

 

「それにしても他に選択肢がないからって、敵将が挑発に乗って関から出てくれるかどうかに汜水関攻略の成否がかかっているだなんて」

 

 ぼそりと呟いたその言葉に、女性としても小柄な拓実より尚背の低い諸葛亮と鳳統の二人がぱっと振り向き、左右から視線を向けてくる。かなり人見知りする鳳統は元より、諸葛亮も緊張しているようだ。「はわわ」「あわわ」と焦った声が左右からステレオで聞こえてくる。

 

「あの、その、公孫賛さんも共に攻略に当たってくれるとはいえ、合わせても一万八千と八百ですから。放った細作によれば周辺に防衛隊が約一万。こちらに関しては『雄雄しく、勇ましく、華麗に前進』している袁紹さんが蹴散らしてくれるとのことなので気にせずともいいのですが、それでも汜水関には現段階で二万以上の兵が詰めている上、交戦するとなれば周辺で散開している防衛隊が加わり三万にも四万にも膨れ上がるでしょう。加えて敵将が勇将と謳われている華雄さんとあっては、ただでさえ兵数が少ない我らが守勢の相手に攻め寄ったとしても不利は否めません」

「汜水関から引きずりださないことにはどうにもならないなんてことは充分わかっているわよ。確か、『攻者三倍の原則』だったかしらね。攻め手は拠点を守る兵の三倍の数がいて初めて拮抗するとのことだし、それが要塞と化している汜水関に篭るとなれば例え五倍の兵がいたとしても安心は出来ないわ」

 

 どこかで聞いた知識を引っ張り出してきた拓実の言葉に、諸葛亮と鳳統は思わずといった様子で目を見開いた。

 

「あの、そうなんですか!? 『攻者三倍の原則』……雛里ちゃんは知ってた?」

「う、ううん。えと、兵数の比率についてだったら……『十なれば即ちこれを囲み、五なれば即ちこれを攻め、倍なれば即ちこれを分かち、敵すれば即ちよく闘い、少なければ即ちこれを逃れ、しかざれば即ちこれを退く。故に小敵の堅は大敵の檎なり(*1)』って、孫子の兵法に一文があったと思うけど」

「孫子の記すところによると、敵兵の倍を以ってしていればこちらから分断策を仕掛けて攻め手を取れる。つまりは荀攸さんが言うところで拮抗するとした三倍を有していれば、まず攻め手が有利に戦況を進められるらしいのですが……。あ、でも敵が守兵であることを前提に考えれば、五倍を有していなければ決定的有利を取れず攻撃できないと考えることも出来ますし。荀攸さん、その『攻者三倍の原則』っていうのはどの兵法書に記されたものなんでしょうか?」

「……え?」

 

 熱のこもった二対の瞳に見つめられ、強く詰め寄られた拓実はうろたえる。そうして己の失敗に気がついた。

 問われてから初めて気がついたが、おそらくこの時代にはまだ存在していない、近代でしか通用しない知識だったのだ。それにしてもどこかで聞き齧っただけの、表面だけを知ったうろ覚えのものである。

 

「あー、どうだったかしら。ええと、異国での戦を集計し、戦力比と勝敗比を算出したものだったと思うけど、その、どの書物までかはちょっと覚えてない、わね。でも、これは彼我の条件を同じくしての想定で、場合によってはもっと戦力比があっても勝敗が覆ることもあるようだからあくまでも目安にしかならないらしいし……」

「そうですか……。是非とも、他の兵法書と照らし合わせて読んでみたかったのですが。でも、荀攸さんの言っていた『攻者三倍の原則』、見るべきところがありますね」

「うん。朱里ちゃんの言うとおり、です。異国での戦とのことですけれど、過去大陸でも守勢の二倍では拮抗するどころか、勢いを削がれた所を打って出られて壊滅に追いやられた戦も多々見られます。もちろん指揮官の優劣や地理、城の防衛力や兵の錬度や装備など考慮しなければならない要素が多すぎるのではっきりとは言えませんけど、攻勢は守勢の三倍で拮抗するというのはあながち間違いではないかと」

 

 ぼんやりとした拓実の回答に気にした様子もなく、諸葛亮と鳳統は顔を合わせ、その情報を吟味しては頷きあっている。二人に挟まれる形で馬を走らせている拓実はというとそんな二人の話についていけず、口を挟むことも出来ずにただただ呆然とするだけだ。

 

「……書物にある記述に満足して、攻城における兵数比率について割り出そうという考えすらありませんでした。既存の情報だけを鵜呑みにせず、実際に検討してみなければわからないこともあるんですね。荀攸さんが読んだという書物の著者は相当の識者かと。荀攸さん、もし書名を思い出すことがあったなら、是非教えてください!」

「朱里ちゃんばっかりずるい! あの、珍しい戦術書とかあったら私にもお願いします」

「わ、わかったわよ。もし思い出したなら教えてあげるから、二人とも少し落ち着きなさいよ」

「はわ、ごめんなさい」

「あ、あわわ、すいません」

 

 その後もいくつか二人で語り合っていたかと思うと急に水を向けられて、拓実は焦りを隠せない。赤面して頭を下げた諸葛亮や同じく顔を真っ赤にして魔女帽子を深く被ってしまった鳳統の姿を見て、とりあえずは話題をやり過ごせたことを確信し、拓実は密かに安堵の息を吐いた。

 

 彼女たちは荀攸を、大陸でも名家とされる荀家の人間だと認識している。以前に荀彧である桂花を叔母と紹介しているので、そうなること自体は当然の帰結である。

 そこに、今まで想定していなかったちょっとした問題があった。拓実の事情を知っている華琳や桂花を相手にするのとは違い、二人を相手にする際はこの大陸の常識に則った発言をしなければ不自然に聞こえてしまうことだ。

 諸葛亮・鳳統は大陸にある大抵の書物を網羅するほどの記憶力がある為に下手な事は言えない上、一度疑問に思えば旺盛な知識欲の為に身を乗り出して熱心に質問してくる。秘密が多い拓実からするとどうにも厄介な相手だった。

 

 しかしそれらを踏まえたとしても、そんな二人の姿は拓実の目に好ましく映っている。その理由として、拓実を見る二人の視線にしっかりとした敬意が含まれているからである。さしずめ勝手がわからない新入生が実績を残している先輩を頼るような、そんな類のものだ。

 そんな視線を向けられる理由も思い当たらず当初はたじろぐばかりだったが、以前に劉備軍の錬兵法改善の件で助言し、その後に『諸葛亮が荀攸を身近な目標として見ている』なんて話があったことを思い出して一人納得していた。おそらく助言した直後は、横から口出しされて「欠陥がある」と断じられた不満もあり、荀攸の実力に対して懐疑的な部分もあったことだろう。そうして時間を置いて改善した錬兵法が成果を見せた為に荀攸に対しての疑念が消え、諸葛亮と鳳統二人で考えても見つけられなかった欠点を一目で看破出来る、卓越した軍師としての印象だけが残ったものと見ている。

 加えて言えば、千に満たない兵数をやりくりして戦ってきた諸葛亮・鳳統にとって、今回諸侯が集まる大舞台で指揮する六千八百という兵数は文字通りに桁が違う。一万以上の兵を動員している曹操軍の軍師である荀攸が同行することで、無様な姿を見せられないという緊張やら、また助言してくれるのではないかという期待やらが混ぜこぜになっていると拓実は推察していた。

 とはいえ、拓実にしても軍師として兵を差配するのは初めてであり、軍事を専門にしていた許定にしても任され率いていたのは精々が三百程度である。二人の期待は見当外れもいいところではあったのだが、拓実はそれを言わずに黙っていた。元より拓実より能力の高い二人だ。いるだけで精神の安定に役立てると言うのなら、いたずらに動揺させる必要もない。そんな考えからの配慮だったがどうやら無駄になっているらしい。

 

「あの、荀攸さん。と、ところで、その。噂によると、曹操さんって同性との情事を好むと聞いたのですけど、実際のところは……?」

「その、星さんも、曹操さんのところは百合百合しい、とか言っていましたし。女の人同士でばっかり一緒になっちゃうと、男の人だけ残ってしまいますよね……? そうなると必然的に男の人同士で、へ、へぅぅ……」

「はわわ、雛里ちゃん! 駄目だよ! その聞き方はちょっと直接的すぎるよぅ!」

 

 このようにまったく気負いしている様子が見えないでいる。わざわざ拓実がそんな気遣いをする必要などなかったようだ。

 それより、先日の華琳とのこともあってどうにもこの世界の人は特殊性癖を持つ人が多い気がしてならない。何だかかげんなりしてしまった拓実は、仲良く顔を真っ赤にさせている少女二人に挟まれて肩を落とした。

 

 

 

 

「どうやら愛紗さんと鈴々ちゃんは敵将を汜水関から誘き出せたようです!」

「多少なり知っている曹操さんの兵とは違い、袁紹さんから借り受けた三千の錬度が心配でしたがお二人の指揮もあり互角に戦えています。星さんもお二人が捌き切れず溢れた部分を上手く押し返してくれてます!」

 

 前方から轟いてくる凄まじい喊声の中、鋭くも甲高い声が届いてくる。二人ともにおとなしい印象の諸葛亮と鳳統のこんな声は、おそらく戦場でしか聞けないのだろう。

 許定としての経験がある拓実でさえ、こうして前線に配備されると言い知れない圧迫感と死に対する恐怖から背に冷たい汗が溢れているのを感じているというのに、見るからに自衛手段を持たない二人は震えはあれど表面上は気丈に振舞っている。

 

「策の第一段階は突破したようね」

 

 視界に広がる万を超える軍勢。汜水関の関門から躍り出た『華』の旗印は土煙を上げつつ、『関』・『張』の旗印に向かって吶喊してくる。足を怪我している為、許定の時にしていたように馬の背に立って戦況を確認することは出来ないが、見る限りでは鳳統の言うように戦線を下げずに保てている。

 

 拓実は改めて攻略目標を眺め見る。連合軍が進むのは左右が切り立った崖に挟まれた一本道、それを塞ぐように(そび)えているのが難関とされる、汜水関だ。

 なるほど、とてもじゃないが正攻法では陥落させられる気がしない。金属で補強された大きな関門は堅く閉ざされており、石壁は見るからに厚く、高い。上には弓を構えた兵が余すところなく並んでいる。ここに数万も籠もられて専守防衛されたならば長期戦となり、先鋒となった劉備軍の壊滅は必至。そして長期戦になり月を跨ぐようなことになっては、遠征組の多い連合軍の糧食が先に尽きてしまう。

 

 そうさせない為の策。その賽は既に投げられていたが、どうやら一度目にしてその目は見事に的中したようだ。はっきり言って、ここが一番の博打であった。一応振り直しの為の賽の用意はしてあったが、そうなれば要らぬ借りを作ることになっていただろう。一発で上手く行くかは正しく丁半といったところだった。

 

「さあて、関羽と張飛が華雄を引き付けてからが私たち軍師の腕の見せ所よ」

 

 にやりと笑みを浮かべる拓実は、傍から見たならこれから始まる戦を楽しみにしているような不敵さである。同行している拓実にしても劉備軍が壊滅でもしようものなら命はない。そんな内心の緊張を表には一切見せることなく、前方の交戦状況を見据えている。

 

「だ、大丈夫です。私たちが率いる二千は全部曹操さんのところから借りた兵ですので、星さんの率いる混成隊みたいに兵たちに錬度の差が出ませんから。袁紹さんのところの兵より反応も早く動きも機敏ですし、私たちさえ機を読み間違えずに指揮ができれば難しいことではないと思います!」

「曹操さんの兵は多くから選抜されて過酷な訓練を乗り越えてます。華雄さんの突撃を受けても持ち堪えてくれる筈です。だからきっと、この作戦、上手くいきます。いってくれます」

 

 拓実に続いた二人だったが、お互いに言い聞かすように呟いている。先ほどまでとは違って節々に固さが見て取れる。発言に後ろ向きな意図が混ざっているのがその証左であった。

 いざ接敵してしまえばこの二人のこと緊張なんてあっという間に解れてしまうのだろうが、今回に限って言えばその初動が肝心となる。ならば幾分余裕のある拓実が不安要素を潰しておかねばなるまい。

 

「はぁ……あー、もう。仕方がないわね! この兵数差に加えてあの勇将と名高い華雄が相手だっていうのに、あんたたちみたいに簡単に『難しくない』『上手くいける』なんて言える軍師がどれだけいるのかしらね!」

「あ、あう、その、簡単に言ったつもりは……」

「そうです! 決して、私も雛里ちゃんも華雄さんを侮っているわけではなくて……」

「何ですって? 鳳統も諸葛亮も、まさか一度口にしたことを撤回するつもりじゃないでしょうね?」

 

 そう言って拓実が睨むように見れば、二人はどうしていいものかと視線を惑わせた。己を奮い立たせる為の虚勢に過ぎない言葉を指摘されるとは思っていなかったようで、叱られる子供のように小さくなっている。

 拓実にちょっと言われたぐらいで揺らぐということは、つまり二人は本心からそう思えていなかったということだ。

 

「あのね、こんなこと改めて言うまでもないけど、一応宣言しておくと私だってあんたらと一緒に楽観していられる軍師の一人なんだから」

「へっ?」

「あのう、荀攸さん? それはどういう……?」

「華琳様に仕える二千の精鋭に、その采配をとる私たち三人がいれば、あんな挑発に乗って出てくる猪武者が率いた兵なんて万いようとも物の数ではないってことよ」

 

 ふん、と鼻を鳴らしては二人から視線を切って、遠くで一陣が交戦している様子を眺め見る。関門の広さ、戦場の余白の関係から華雄と共に打って出てきたのは一万ほどか。一万対三千、――数ではこちらが負けていると言うのに、関羽と張飛は随分と奮戦している。一歩も退いていない。

 まったく。こんな発言は荀攸のキャラじゃないとは思いつつも、元となっている人物を思い起こせば何だかんだで根は優しい桂花も似たような言葉をかけては、拓実と同じくこんな性格していないと反省をしていそうだ。

 

「あっ……! はいっ!」

「荀攸さん……そうですよね!」

 

 遅れて、拓実の言葉が二人の緊張をほぐすための発破だったことに気づいたのだろう。焦りから曇っていた二人の表情がぱあっと明るくなる。

 見事な大言壮語ではあったが、拓実の言ったそれはまったくの嘘と言うわけではない。既に策に必要な条件は整っている。後は伏龍・鳳雛と謳われる二人がいつもの調子を取り戻せば、拓実がいようがいまいが策は成る筈。情けないことだが、拓実は二人が万全の精神状況で事に当たれるようにしておけば特に率先して何かをする必要はなく、二人に丸投げでいいと気づいたのである。

 

「軍師様! 左後方から砂塵を確認致しました! 見えるは『孫』の旗印です!」

「わかりました。それでは手筈どおり、交戦している前方に向けて大銅鑼を鳴らしてください!」

「はっ!」

 

 斥候が三人の元へ駆け寄り、報告を終えるや言いつけられた次の指令をこなすためにまた駆けて行った。

 拓実が指示を下した二人を見れば既に怯えも震えもなく、しっかりと顔を上げ真剣に戦況を観察している。果たして拓実の言葉に効果があったのかはわからない。しかし、拓実が冷静に策を進めている少女二人を見ていると、先ほどの己の発言が発破をかけるための冗談などではなく、本当に数万の兵をも物ともせずに勝ててしまう予感がしてきていた。

 

 そんな拓実の人任せにした考えが悪かったのか。はたまた物事はそう上手くいく筈もないという訓辞であったのか。事態は無情に進んでいく。

 

 

 

 あの報告から間もなくして、諸葛亮・鳳統・荀攸隊から前方に向かって大銅鑼が鳴らされた。響き渡るなり、じりじりと関羽・張飛隊が後退を始める。ただし、退いているのは関羽・張飛隊のみで劉備軍全体としては前進を保ったままである。

 当然敵方も勢いをなくした前曲へむけて追撃をかけてくるが、それまで遊撃していた趙雲隊が左辺より横撃を加え、そのまま関羽・張飛隊と華雄隊との間に割り込んだ。

 

「後退する関羽・張飛隊と合流し、公孫賛軍が備えている右辺へ移動します! ここで動きを止めれば後方の袁紹軍がなだれ込み、衝突してしまいます! 我が隊の動きに全てがかかっています! 全速前進してください!」

 

 横撃を確認するや否や、諸葛亮の声が響く。事前に通達していたこともあって二千の兵が一糸乱れることなく、けれども結構な速度で移動を開始する。殿となった趙雲隊の一千を目隠しとして董卓軍の進路上から逃れ出ていく。

 しかし――

 

「敵将華雄が率いる先鋒部隊、僅かな間隙を縫って鋒矢(ほうし)の陣へ切り替え吶喊を開始いたしました! 趙雲隊が敵方の勢いに押されています! このままでは持ち堪えられません!」

「っ!? 予定していたより突撃陣形への移行が早過ぎます……お願いします。星さん、もう少しだけ……」

 

 鳳統の祈るような独白も、更なる報告によって打ち消される。

 

「趙雲隊、中央を分断されました! 撤退を開始しています!」

「あっ……」

 

 誰かの息を呑む音が拓実の元に届いた。誰かが意味なく声を漏らし、確かに一拍この場の空気が止まった。その中ですぐさまに諸葛亮が気を取り直し、声を張り上げる。

 

「孫策軍はどうですか!?」

「いまだ予定位置には到達していません!」

「趙雲隊、後続の董卓軍より追撃を受け半壊状態! このままでは壊滅の恐れあり!」

「公孫賛さんは!?」

「弓兵部隊による援護射撃で打って出ている董卓軍の進軍を抑えていますが、切り込んでいる『華』の旗印は依然に止まりません!」

「……くっ!」

 

 次々と報告が届くが、そのどれもが劉備軍の旗色が悪さを知らせるもの。中でも致命的なのが殿を受け持っていた趙雲隊が分断され、半壊してしまっていることであった。

 他に兵を任せられるほどの武将が劉備軍にいなかった為、趙雲に負担が集中してしまった結果である。加えて、編成している兵と進軍速度の関係で後詰を送ることができなかったのもある。

 このままでは諸葛亮・鳳統・荀攸隊が横撃を受けるばかりでなく、勢いからして同じく右辺へ移動中の劉備・北郷本隊にも喰らいつかれてしまう。

 

「……」

 

 諸葛亮が銅鑼を鳴らしたタイミングは完璧だった。これ以上遅れたら本隊の右辺への撤退が間に合わなくなっていたことに加え、関羽・張飛隊が退くことも出来ずに追いつかれていただろう。その上でこの結果が出てしまったのは、挑発に乗り、激昂している華雄隊の勢いが想定以上だったという他にない。

 

 どちらにしても時間稼ぎとなる別働部隊が必要不可欠である。当初の予定で進めていては、策を成すどころか劉備軍は総崩れすることだろう。

 だが、本格的に撤退を開始したばかりで持ち直しきれていない関羽・張飛隊は動けない。また、例え動けたとしても構成が袁紹軍の兵である為、殿を受け持った場合は壊滅するのを前提にしなければならない。

 となると、満足に殿として劉備軍が動員できる兵はここにいる二千のみだが、それを指揮できるだけの将器を持つ武将がいないのが問題である。諸葛亮や鳳統であれば戦陣指揮も可能であろうが、自衛できない二人では殿は危険に過ぎる。また、この策の中核を担っている二人は仕上げの為にも離れるわけにはいかない。

 

「そうなると当然、私しかいないってことね」

 

 ぱっと顔を上げた諸葛亮と視線がぶつかり合った。諸葛亮もなるべくして考えないようにしていた案なのだろう。

 しかしここで拓実が出なければ、結果として劉備軍は壊滅状態に追いやられてしまう。三人の中で唯一上手く撤退をこなせるとしたら、曹操軍の兵の錬度をしっかりと把握している拓実である。であれば、拓実がやる他にない。

 

「荀攸さん……いえ、私が……」

「諸葛亮じゃ殿は務められても、十中八九最後は董卓軍と袁紹軍の間で磨り潰されて戦死ってところでしょ。私が今全ての差配を許されているのであれば、間違いなく私に別働隊の指揮をさせるところよ」

「けれど、曹操軍の監督役の荀攸さんが劉備軍の為に命を張る義理はありません。私がいなくても雛里ちゃんがいれば策の完成には問題ありませんから、やっぱり私が華雄隊の足止めを……」

「諸葛亮、あんた馬鹿でしょ? 生憎、私は死ぬつもりなんてないわ。私は、華琳様には戦功を立ててくるようにって仰せつかっているの。このまま何事もなく華琳様の元に帰ったらお仕置きされちゃうじゃない」

「……面目ありません、私たちの力が足らないばかりに」

「ふん。謝らなくてもいいわよ、貸しにしとくから。それに、私だって同じだけの兵を預けられていたら、諸葛亮や鳳統が編成したのと同じ軍構成にしたでしょうしね。策が成った後に多少あんたたちが厳しくなるかもしれないけど、足止めに兵を半分連れて行かせてもらうわよ」

 

 拓実は返事も聞かず、馬頭を返しながら兵に向かって通達を出し始める。

 消去法からいって、拓実が出る以外にありえない。対外的なものを気にして全滅しては元も子もない。時間を稼ぐのはたったの数分でいい。問題は的確に指揮を出し、敵兵を上手く釣り出して戦闘区域から抜け出せるかどうか。

 

「荀攸さん。どうか、ご武運を」

 

 背後に聞こえる諸葛亮の声を背に受けて、そのまま手を振って応えてみせた。

 

 

 

 拓実は考える。馬を走らせながらもひたすらに思考を回す。よもや荀攸の姿で兵を率いて戦わなければならないとは思っても見なかった。まずその腑抜けた考えからしてとんでもない思い違いだったのだろう。

 諸葛亮にはああ言って見せたが、もしも時間稼ぎが間に合わずに、拓実の元まで敵兵に接近されたりしたら碌な抵抗も出来ずに無残に殺されるだろう。兵の指揮が早過ぎても遅過ぎても、死に様は変われど結果として同じこと。正直、ここに至っては演技どころではない。戦場の機微に疎い荀攸で下手を打てば、間違いなく拓実はここで死ぬ。死ぬ、死ぬ、死ぬ。

 

「……どうすれば」

 

 とにかく、華雄率いる先鋒部隊の勢いを削がねばならない。あの勢いは生半可なものではなく、このままぶつかればまず一千の中央を貫かれて終わる。中枢を抜かれれば、どれだけ兵がいようが錬度が高かろうが、残るは烏合の衆に成り果てる。

 手っ取り早く止めることを考えれば、あれを抑え込めるだけの守備力で迎え撃つことだろうか。しかしそれは、相応の装備を事前に用意してなければ実現しない。

 常識的に考えれば足を止めて守勢に回っておくところだが、華雄隊がその勢いだけで拓実が引き連れている兵と同数の趙雲隊を食い破ったことを考えるに、同じ轍を踏まないと言えるだけの理由がない。

 あるいは、ああも猪突猛進に進んでいるのであれば罠に嵌めて足を止めるべきところだが、今は僅か数分程度の時間を得たいが為に拓実が出張る羽目になっているのである。罠を仕掛けていられるような時間は存在しない。

 

 となれば、拓実が考えうる手段は残すところ一つだけ。守勢には回らずに、同等以上の攻撃力を以ってして真っ向から打ち砕くつもりでぶつかる。最初の一当てで僅かなりとも膠着状態を作り上げるしかない。

 

「……あれを相手に、私が?」

 

 劉備軍に援兵として配属され、矢面に立たされる曹操軍の兵からして士気が高いとはいえない状態である。華琳の直接の指揮下にいない為に仕方がない部分はあれど、猛り狂った華雄隊を相手にすることを考えると錬度よりも士気の部分で差が出過ぎている。

 加えて軍師である荀攸としていくら鼓舞しようにも、人間としての分野が違う為に兵たちが本当の意味でついてきてくれない。荀攸の命令自体は聞いても、兵らを奮い立たせるだけの迫力がないからだ。兵たちからすれば荀攸のような軍師は春蘭や秋蘭のような直接的な上司ではなく別系統でのエリートであり、根本的に別種の人間という認識だからだ。

 かといって今回の殿部隊の指揮は、たとえ軍事を専門にしていた許定だったとしても厳しいものがある。武力に難があったが為、剣と剣、槍と槍を打ち合わせる最前線に配されることが少なかった。戦場で上手く立ち回る指揮は出来ても、華雄の持つ爆発的な突進力を止めるだけの強みがない。

 荀攸では駄目だ。許定でも無理だ。では拓実がこの状況を乗り切るには、どうすればいい?

 

 

 思考から浮上した拓実は、ちらりと荀攸の副将として配された年若い女武将に目をやった。大男にも引けを取らない結構な膂力を持っている上に打たれ強く、許定として手合わせをしても武力ではまったく歯が立たなかった、春蘭や秋蘭からも将来有望とされている少女である。

 また、拓実に随行している三千は曹操軍の中でも鍛え上げられている方である。袁紹からも三千の兵を借り受けていることを知らなかった華琳が、派兵した三千で戦い抜けるようにと選抜してくれたのだろう。であるなら、拓実が望んだ兵らである可能性は高くなる。

 

「ねぇ! あんたの名前って牛金っていったっけ!?」

「御意ですっ! 」

 

 戦場故に拓実も怒鳴るように声を上げるのだが、様々な音が入り混じるこの場においても尚この少女の声はでかい。おまけに走らせている馬の上下によって揺れている胸も名前のとおり牛のようにでかい。

 思わず拓実は顰め面を晒した。至近距離からの馬鹿でかい声で耳は痛いし、何故なのか見ていて苛々してくる。いや決して、牛金が嫌いと言うわけではないのだが。

 

「一つ聞きたいのだけれど、私たちが率いている兵は誰からの錬兵を受けていたの!?」

「夏侯惇将軍であります!」

「へえ、あの突撃馬鹿の……」

 

 思わず、にやり、と笑みが浮かぶ。予想していた通り。今頭に浮かんでいる方法がもしかしたら上手くいってくれるかもしれない。

 いや、そもそも他の手段をとっていられるような余裕がない。この期に及んでは駄目で元々。当たってみて砕けずに済むか、試してみるだけだ。

 

「牛金、私に剣を貸しなさい」

「はっ! 私の予備でよろしければ、どうぞ!」

 

 馬の腹に括り付けられている剣を、牛金から受け取った。

 荀攸としての拓実は、春蘭と一回だけ行われた武術訓練からこれまでの間、剣を手に取ることはなかった。その上、手に持ったそれは許定として鍛錬でいつも扱っていた細剣でさえなく、男性兵が使っているような重量のある凡庸な剣である。

 しかしどうやら、許定が警備隊で鍛え続けた甲斐があってか不自由しない程度には振り回せる。胸の前で持ち替えて、その刀身をすらっと撫で上げてみる。浮かんでいた拓実の笑みは、どんどんと歪められていく。

 

「ねぇ。これから一千で万の兵を相手にする私たちって、もう形振りを構っていられるような状態じゃないわよね? だってこのままじゃ、下手したらみんな死んじゃうもの」

「は、はぁ、まぁ……」

「ふふ、そうよね。こんな状況じゃ、使えるものは使わないと仕方がないもの。何より、死んだりしたら元も子もないし」

 

 刀身に反射した顔を見てみれば、どうやら瞳が虚ろになっていたらしい。拓実の様子を伺っていた牛金の腰が引けている。若干、奇人でも見るようにされているのが、何故なのか拓実には笑えて仕方がない。

 

「牛金。これから私は、私じゃなくなるわ。とは言っても怪我しているし、あの馬鹿みたいに規格外に強くなるわけではないから、あんたは全力で私を守りなさいよ?」

「えっ? あの、荀攸さま!?」

 

 意味もわからずに困惑したままの牛金を置いて、拓実は被っていた猫耳フードを取り払う。

 

「いいか! 私の副将を務めるというならば、遅れるなよ!」

 

 フードの中から現れたのはいつもの冷静な荀攸の顔ではなく、まなじりを吊り上げてぎらぎらと戦意を滲ませる別の誰かの顔であった。

 

 

 

 視界が開けると同時に、拓実はその猛る心に従わせて馬の腹を蹴り、全速で走らせる。どうやら後ろには、言われたとおりに副将の牛金がついてきているようだ。

 そうして隊列を駆け抜けて最前線を目指す拓実だったが、これまでに追い抜いてきた行軍しながらもどこか腑抜けた兵たちが気に食わなくてしょうがない。

 胸いっぱいに空気を吸い込む。これから戦に出ると言うのに、士気がこうまでに低いという事実に目の前が真っ赤に染まっている。怒りのあまりぐらぐらと体中が沸騰しているかのようで、今にも頭の血管が切れてしまいそうだった。

 

「聞け、貴っ様らァッッ!!!」

 

 兵たちにとって日ごろに聞いている耳慣れたような、しかし確実に違う声が突然に響き渡った。鼓膜を打った、誰かに似た、けれども聞き慣れぬ怒声。それだけで兵たちの注目を集めるに事足りた。

 その声色に対してどよめきが上がるよりも先に、拓実は歩兵たちの間を馬で駆け抜けてはその影だけを残していく。馬上にて怒鳴り上げる拓実を、数百もの視線が追っていく。

 

「いいか!! これより打倒するは、董卓軍一万! 敵方が多勢だが、それがどうした! 我らがすべきは曹操さまの名の下に、目前の敵を尽く討ち果たすだけだ!」

 

 突如人が変わってしまった上官に戸惑いつつも、武の訓練をしない文官どもには決して出せない、歴戦の武将たちが持つ迫力を受けて兵たちの目の色が一斉に変わる。

 勇猛果敢、一騎当千の、曹操軍に属する兵であれば誰もが目標としている猛将を彷彿とさせる鼓舞を受け、兵たちに熱が移る。

 

「これまでの訓練を思い出せ! お前らがこなしてきた日々の修練は、今この時の為にある! 寡兵と見て勝てると勘違いした愚か者に格の違いを見せてやれ! 思い上がった身の程知らずどもに、本当の強者の力を思い知らせてやれ!」

 

 拓実は、誰よりも速く駆け抜けていく。その周囲を行軍していた兵たちから、まばらにだがしかし伝染していくように声が広がり始めた。騎兵たちが上役に遅れてなるものかと競い、武器を携えて馬を走らせ始める。それを見た歩兵が行軍速度を上げて慌てて追っていく。

 いずれも当初は一人二人。個々は小さく、しかしそれらが合わさり三となり四となり、そうして流れと成った。いつしか拓実の鼓舞に呼応してうねりとなって、巨大な一つの生き物へと形を変えていく。

 

「真の精兵である我らが力を、我らが信奉する曹操さまの名を、これより大陸中に知らしめる! 鋒矢の陣を敷けッ! 突出している正面の部隊に突撃し、その将もろともに一息に粉砕する! 二度と立ち上がれぬよう、完膚なきまでに叩き潰す!」

『オオォッッ!』

 

 背後に兵たちの声を受け、先頭に踊り出た拓実はその手の剣を高く高く天に掲げた。そうして、声を荒げながらそれを前方へと振り下ろす。

 切っ先を向けた先には『華』の旗。僅かな手勢を引き連れる拓実などとは比ぶべくもない、勇将華雄の一団。

 

「声が小さいッ!! 行くぞ、総員突撃ィッ!! この私に、続けェーーッ!!」

『オオオオオオォォォオオオッッ!!』

 

 曹操軍一千の兵による、大地をも揺るがすような、ときの声が上がった。

 

 

 

*1
【意訳】前提として戦わずして勝つ(敵の戦意を挫いて降伏させる)ことが最上であると記されており、戦になるというのは国を疲弊させる為によろしくないとある。その上で戦闘が避けられぬ場合、敵の十倍の兵数を誇るのであれば包囲し、五倍であれば正攻法を用いて攻撃し、倍あれば敵を分断して各個撃破し、同等ならば手を尽くして有利に戦うよう努め、敵を降伏させる。敵より少なければ撤退し、その差があまりに開いていれば見つからぬよう隠れるべきである。大軍の有利は容易に揺るがない為、寡兵を率いて攻めるべきではない。



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35.『荀攸、敵将と一騎討ちするのこと』

 

 凄まじい怒号が、絶えず拓実の背を押している。胸から上へ上へと押し上げられる感覚。体中がいきり立ってしまって熱の排出口を求めて暴れまわり、爆発しそうなそれをぎりぎりと抑え付けて必死に封じ込めている。

 ――まだだ。開放するには、まだ早い。

 

「走れ、走れ、走れェ! 軍師さまに遅れるなッ! このまま一番槍を持っていかれでもしたら、帰ってから元譲将軍に一人残らずぶっ飛ばされるぞ!」

「オオオォッ!」

「歩兵どもォ! 離されずに、しっかりついてこいよ!」

 

 この昂揚感はどうしたものだろうか。先頭を走る拓実に騎兵が追いつき並んだのを横目で確認し、そんなことを思う。

 体が羽のように軽い。先ほどまで疼いていた左足首の痛みも、気がつけば消えていた。まるで、体重がなくなってしまったかのようだ。恐怖にぐるぐると回っていた頭の中からは雑念が消え去って、考えることも億劫となって透き通り、正面に見える董卓軍しか見えなくなっていく。

 しかし、拓実にはその敵兵が随分と小さく見えている。こんな小人らに負ける筈がない。これでは、笑ってしまいそうだ。

 

「荀攸さま、敵方は連戦し疲弊していましょう! ここは我ら騎兵隊が敵前衛を崩し、敵将までの道を拓きます!」

「任せたぞッ!」

 

 左右を走っていた数十の騎兵が拓実を追い抜き、その前方を埋めていく。頭を屈めて、速度を更に上げながらも並びは崩さない。

 追撃に進軍速度を上げていた華雄隊は士気こそ高いが、関羽・張飛隊、趙雲隊との連戦で動きが鈍くなってきている。対してこちらはこれが初戦で疲れもなく、加えて士気は劉備軍の中で最高といっていい。

 そうして間もなく、拓実率いる荀攸隊が敵部隊に衝突した。

 

 

 荀攸隊・敵の華雄隊の陣形は、共に鋒矢の陣である。矢印の形に兵を配置し、頂点を敵方へと向けて突進。敵陣を突破することを目的とした陣形であり、正面からの攻撃に強い反面、横や後ろといったそれ以外の方向から攻撃を受けると滅法弱い。大将は中央列の後方にて指揮をとる為、先行している前衛へ咄嗟に命令を下せないという欠点もあり、一度突進を始めたら進路を変えることも容易ではない。

 荀攸隊は先行しすぎた拓実を守る為、矢の先端部分に当たる矢尻の前にもう一つ矢尻が組まれている。士気の高さに任せた進軍速度により自然と矢尻の部分を騎馬隊が、そこから縦に伸びる中央列に歩兵隊が構成する形になった。また、大将である拓実が二枚目の矢尻の頂点にて馬を駆っているという変則型となっている。常識的に考えるなら玉砕目的の決死隊であるか、そうでないなら大将の武力が一騎当千と謳われるほどに並外れていなければ出来ない布陣となる。

 

 華雄隊は正面の趙雲隊を突き破ったまま進路を変えず、後退している関羽・張飛隊、及びその後続である諸葛亮・鳳統隊、劉備・北郷本隊を狙って直進を進めていた。

 対して、右辺へと移動をしているところから突撃をかけた荀攸隊は、図らずも華雄隊の真正面からではなく斜め方向から突き刺さる形になる。

 

『オオオォォォッ!』

 

 雄叫びが、前方から拓実を通り過ぎる。怒号を上げた騎兵隊が、槍を構える敵兵を物ともせずに蹴散らしていく。敵の前衛が拓実の目の前で突き破られた。恐らく将からの指示が遅れているだろう華雄隊は体勢を立て直しきれていない。

 

「今だ、続け! 敵将の下まで突っ切るぞ!」

 

 一時的に華雄隊に空いた穴を、拓実の率いる二つ目の矢尻が押し拡げていく。初撃でずたずたに荒らされて(まば)らとなった敵の前衛に、間髪入れずの進攻を止められる者はいない。運良く傷無くして立っている兵は列を成して迫ってくる騎馬に対して何も出来ず、嵐が過ぎ去るのを待つかのように己の身を守ることしか出来ない。

 

「敵将はどこだ! どこにいる!」

 

 声を荒らげた拓実は背を向け逃げ惑う敵兵を馬で撥ね倒し、転んで這い蹲る者を蹄で踏み殺しながら駆け抜ける。その双眼は、前方の敵の旗へ向けられて離れない。

 

 

 そうして荀攸隊の先鋒たちが華雄隊の中程まで傷口を広げた時、拓実の目の前でそれは起こった。

 

「調子に乗るな! この、雑兵どもがァ!!」

「があああっ!!」

「ぎゃああっ!?」

 

 他より頭抜けて士気高く、これまで敵の槍衾を物ともせずに荀攸隊の先陣を担っていた精鋭が突如に悲鳴を残して姿を消した。

 旗印に向かって突き進んで到達した途端に、或る者は馬ごと弾き飛ばされ、或る者はぐらりと体をよろめかせて落馬していく。密集陣形で突き進んでいた五人が、瞬く間に薙ぎ払われていった。

 

「貴様がこの部隊の将か!? よくも好き放題にやってくれたな!」

「っ!! お前が華雄かっ!!」

 

 今しがたまで拓実を守っていた五人がいたそこには馬に乗った一人の女性。気炎を上げて、拓実の前方に立ち塞がっている。その手には無骨な、西洋で言うところのハルバードのような形状の長柄の戦斧。どうやらその一振りによって、五人を馬上から引きずり下ろしては討ち取ったようだ。

 背後に『華』の軍旗を立てていること、また戦場において尚異彩を放つその戦意からして、今拓実と相対しているこの女性こそが華雄であろう。

 

「いかにも! 寡兵を相手に良い様にしてやられた恥は、貴様の首をもって(そそ)がねばならん! 来いッ! この華雄が一撃で切り伏せてやるッッ!!」

「よくも言ったな、この荀公達を相手にやってみせろッ!!」

 

 拓実は叫び返しながらも馬の速度を緩めない。それどころか、その腹を蹴って更に加速する。

 火事場の馬鹿力というやつなのか、今までに無い力が剣を持つ右手に溢れている。先ほどまでは取り回すだけで精一杯だったこの剣が、右腕一本だというのに異様なまでに軽く感じる。

 左手で手綱を握る。捻挫していながらも痛みの感じない左足を鞍にひっかけて、体ごと右へと傾ける。

 

「オオオオォォォッッ!!」

「ああああああッッッ!!!」

 

 華雄もまた馬を走らせ、戦斧を上段に構えて拓実の鏡写しのように体を傾けている。咆哮を上げながら駆ける。彼我の距離は見る間見る間に短くなっていく。

 

 勝利を得る為に、敵将を討つ。これ以上の被害を出さずに済むよう、一撃で倒す。目の前に立ち塞がるから、目障りだから殺す。首、頭、胴体――致命傷を狙って、それぞれの得物が渾身の力で振るわれる。獰猛な笑みを浮かべる華雄に対し、拓実もまた同じ類の笑みを返した。

 そうして距離を縮める中、拓実だけが何かに気づいたように表情を変えた。視界の先に、一塊の土煙を見つけたのだ。

 

 一瞬の交差。瞬く間に勝敗は決する。

 戦場の最中でさえ一際鈍い破砕音、そして耳に残る甲高い鉄の悲鳴が響き渡る。

 

「痛ぅっ……!」

 

 それは、拓実の握った剣の刀身が半ばで砕け、折れた音だった。柄だけになった剣を手に、華雄の横を反れながら拓実が駆け抜ける。その途中で、辛うじて握っていた剣の柄もまた右手から零れ落ちていった。

 

「――貴様、荀公達と名乗ったか!」

 

 交差し、迂回させて向き直った華雄が烈火の如き怒りを声に乗せて、体をふらつかせている拓実へ叩きつけた。

 今しがたまで浮かんでいた好戦的な笑みなどは名残も見せない。強く歯を噛み締め、視線で殺さんばかりに拓実を睨みつけている。

 

「そこまでの気迫を持ちながらして、何故退いた! よもや臆したかッ!? 身を引かねば、貴様は今頃その剣と姿を同じくしていただろうに!」

 

 獰猛さだけをそのままに、そこにあるのは武による一対一に引け腰を見せた拓実への侮蔑と怒りである。華雄が詰責する通り、拓実は剣を振るいながらも傾けていた体を起こしては逆へ反らし、戦斧の軌跡から逃れ出ていた。そうしていなければ今頃、剣ごと叩き斬られていたことだろう。

 軌道が逸れて勢いこそ削がれたものの、篭められた力といい速度といい紛れもない拓実渾身の一撃である。武器の差こそあれ、一合すら持たないほどに華雄との武力差は隔絶していた。

 

「はぁ? 『臆す』だなんて見当違いも甚だしいわね! 私は武器を振り回しては前進しか出来ない猪とは違って、兵を差配し戦場を動かす軍師なの!! あんたと一緒にしないで欲しいわ!」

 

 馬上での体勢の崩れを持ち直しながら、武器が手元から消えたことで荀攸本来の性格を取り戻した拓実は怒鳴り返す。

 右肩から下はびりびりと衝撃だけが残って感覚が消えている。麻痺でもしてるのか力が入らず、動かないが痛みはない。とりあえず左手で触れられるから右腕自体がなくなっている、なんて事態ではなさそうだ。

 

 背、手のひら、額と、今頃になって拓実の全身至る箇所から冷たい汗が吹き出ていた。辛うじて命を拾えたという恐怖、また猪となって武器を振り回し、ただただ前進していた己に対して目の前が真っ赤になるほどの怒りを覚えている。

 単純に武力で勝負しても、拓実では華雄には勝てない。そんなことは試すまでもなくわかりきっていた。元々、敵と相対して武器を振るうことからして想定していないのである。

 士気を上げるために鼓舞だけするつもりが、その勢いのまま最前線で馬を駆っては華雄を相手に一騎打ちしているなど笑えない。どうやら、またも役になりきってしまっていたらしい。前方からの迫る質の違う空気に気づくまで、事前に諸葛亮らと打ち合わせていた策の存在まで頭の中から吹っ飛んでいたのだから本当に始末に終えない。

 

「それにあんた、なんて言ってたのかしら? 『この華雄が一撃で切り伏せてやる』だなんて大仰なこと言っておいて出来てないじゃない! 私はこうしてぴんぴんしてるわよ、まったく笑わせるわね!」

「ぐ、ぐ……武人の決闘を貶めた挙句、私の武をも侮辱するか! 将自ら先陣で兵を率いる勇猛さに、敵ながら見上げた奴などと感心していたがとんだ見込み違いだったか! もはや許さんぞ! 今度こそその首、落としてくれよう!」

「同じような言葉はさっき聞いたわ、もう忘れたのこの鳥頭! それに、出来もしないことをわざわざ二度も言わなくても良いわよ! ああ、さてはあんたの武とやらは、口先だけでしか誇れない上っ面のものなんでしょ!」

 

 馬の腹を蹴り、華雄から距離を取り始める。表面上こそ減らず口を叩いて見せているが、状況的にも精神的にも拓実にそれほどの余裕はない。

 結果的にだが、当初の目的である足止めは成功した。そして策の成就の為には、無様であろうが今しばらくの時間を稼がねばならない。今にも爆発しそうな華雄に背を向け、明後日の方向へ再び加速していく。

 

「お、おお、おのれぇ!!」

 

 どうやら語彙が少ないらしく碌に言い返せない華雄は顔を怒りで真っ赤にして、斧を振り回しながら逃げる拓実を追ってくる。拓実の手の内に武器はない為に矢を射掛けられでもしたらそれだけで討たれてしまうのだが、幸いなことに華雄の手には戦斧しかなさそうである。

 もし仮に武器があったとしても、右腕に力が入らない状態では受けることすらも出来やしないだろう。捕まったらその時が最期、拓実は首と胴体は永遠に別たれることになる。それを先の一合によって否応なしに理解させられたが故、拓実は一心不乱に馬を駆る。

 

「荀攸さまぁー!」

 

 左腕一本で四苦八苦しながら馬を走らせる拓実に、刃物というよりはむしろ鈍器に近い無骨な大剣を手に下げた騎馬が一騎、近づいてくる。

 見れば乗り手は長い黒髪をひとくくりのポニーテールにした、色白の肌のふくよかな女性。拓実より頭一つ分は高い長身の胸部では、脳みそに向かう栄養を持っていかれているとしか思えない脂肪の塊を揺らしている。

 拓実の後ろを追っていた筈の牛金である。どうして斜め前方という方向から出てきたのかはわからないが、進路を変えて合流し、併走を始めた彼女に向かって拓実は声を荒らげた。

 

「あんたっ! な、何のろのろしていたのよ、この愚図牛! ちゃんと護衛しなさいって言ったでしょう!? 中々来ないから、危うく私が死んじゃうところだったじゃない!」

「すいません! って、先頭を走っていってしまった荀攸さまが気づけば誰かと一騎討ちしていたので、代わりに兵の進路を修正してたんですよ!」

 

 つい命の危機に頭ごなしに怒鳴ってしまったが、言われて見てみれば突撃を命じたきり放置してしまっていた兵たちは華雄隊に一当てした後、大きく迂回を始めている。

 一騎討ちを始めた拓実と十数名ほどの護衛を残して、どうやら諸葛亮・鳳統隊を目指して進んでいるようだった。華雄に狙われて指揮している余裕など拓実にはなかったので、牛金が指揮していなければ兵たちは行き止まりに突き当たるまで直進しっぱなしだっただろう。

 

「ああ……そう。そうね。そういうことなら、まぁ許してあげてもいいわ。あんたがいなきゃ大変なことになっていただろうし、褒美に手柄を譲ってあげる。馬鹿そうな女が後ろから追ってきてるから、ちょっといってやっつけてきていいわよ。一応は大将首のようだから、名を上げるいい機会じゃない?」

「えっ!? ……って、あれ、と、と、董卓軍の華雄じゃないですか! 一対一じゃ無茶です! 時間稼ぎぐらいなら私でも何とかなるかもですけど、あんなのやっつけるなんて夏侯惇将軍や夏侯淵将軍でもなければ無理ですよっ! あの人、色んなところの武将を片っ端から討ち取ってるって聞いてますよ!」

「うるさいわね! いいから私の身代わりに時間稼ぎにでも何でもなって死んできなさいよ! それに何よ、打ち合いもせずに情けない。軍師の私が一合だけとはいえ、やりあってきたっていうのに」

「え、えぇ? もしかして、荀攸さまの一騎討ちの相手って、華雄だったんですか!?」

「そうよ! だから死んじゃうって言ったんじゃない! 二度も同じこと言わせないでよ、この鈍牛っ!」

「……あれ?」

 

 驚愕に目を見開いて、まじまじと拓実を見つめていた牛金だったが、ふと、眉をひそめて拓実を凝視し始めた。不思議に思って拓実から声をかけようとしたところで、後ろから怒声が届いてくる。

 

「このっ、貴様っ! 私から逃げつつ話し込むとは、どこまで虚仮(こけ)にするつもりだ!!」

 

 後ろを見れば、華雄が頭上でぶんぶんと斧を振り回している。怒り心頭、誰であろうと寄らば斬るといった様子である。

 

「あの、あの人何だかえらい怒ってませんかっ」

「だってアレって、思っていたより馬鹿なんだもの。うちの春蘭といい勝負なものだからついつい本音が口をついて出ちゃったのよね」

 

 飾らない拓実の言葉を聞いて、牛金がぎょっと目を見開いた。

 

「夏侯惇将軍のことをそんな風に言えるの、荀彧さまか荀攸さまぐらいですよっ」

「ふん。口に出しているのが私たち二人ってだけで、大小あれ、ほとんどが同じように思ってる癖に」

「う……その、まぁ。でも、そういうところも夏侯惇将軍の魅力な訳ですし! 多少の足りないところは補って余りあるほど、勇猛な方じゃないですか!」

「多少で済むような頭の出来だとは思えないのだけど。まったく、これだから『強ければ偉い』なんて考えている武官連中とは価値観が合わなくて嫌なのよ」

「先程まで一千の兵の先頭で剣を振り回していた人の言葉とは思えないですね!」

「……あんた、結構言うわね」

 

 二人して随分と余裕のある会話をしているが、決してそんなことはない。背後から迫る華雄の怒気と殺気から、拓実も牛金も会話で誤魔化しながら必死で目を逸らしているだけである。

 現実逃避しながらも姿勢を低くして馬を全速力で走らせているが、左腕だけで手繰っている拓実の限界は近い。どんどんと馬の蹄の音が近づいてくる。

 

「ようやく追いついたぞ! 覚悟しろっ!」

「っ、荀攸さま危ないっ!」

 

 ついに横に並ばれて、華雄の戦斧が拓実に向かって振るわれる。喰らえば、まず即死する。

 接近を警戒していた牛金が察知し、すぐさまに馬ごと間に割り込むと、見るからに切れ味の悪そうな大剣でその一撃を打ち払った。

 

「ふんっ!」

「ぐうぅ!?」

 

 戦斧と大剣はかち合い、弾け合う。二人もまたその衝撃に、同じだけ距離を空けた。華雄と牛金、初撃となる一撃の重さは同等。しかし、分けた二人の、その様子は対照的である。

 

「その膂力には見るところあれ、気概が足らんな! 気迫に限れば、そこの卑怯者に及ぶべくもない!」

 

 すぐさまに馬を手繰って寄せ始める華雄と、気迫に圧されて慌てて体勢を立て直す牛金。

 得物の重量で言えば牛金が持つ大剣が勝っている。膂力という点でも決して牛金は華雄に引けを取る訳ではない。しかし、華雄にはそれを覆すほどには、勇将の名に恥じない気骨があった。武力を誇りとして戦をする為に生きてきた、(つわもの)の風格がある。牛金は見るからに、それに呑まれていた。

 

「誰が卑怯者だっていうのよ! あんたはとんでもない馬鹿者の癖に!」

「はっ、今のうちに好き放題に言っておけ! すぐに口も利けないようにしてやる! う、おおおおおおおっ!!」

「ふっ、くううっ!」

 

 がぎん、ごぎんと、びりびり空気が震える。戦斧を振るう華雄はまるで暴風だった。振るえば振るうほどに規模やその力を増していく。

 鉄槌で金属を叩き潰すような音が三度、四度と続くたびに牛金の大剣は大きく弾かれる。初撃ではほんの僅かに劣勢という程度だった。しかしその差は更に広まり、牛金は満足に振るうだけの余力と時間を奪われていく。

 

「つ、強いっ、こんなにっ!? これ以上は……!」

「牛金っ!?」

「荀攸さまっ、何をしているんですか!? もう持ちません! 今のうちに早く退いて……ぐッ!」

 

 そうして十の音を数える前に一際大きな金属音を響かせて、牛金は乗っている馬ごと弾かれた。馬は倒れず持ち堪えたたものの、華雄の気迫に圧され速度を緩めてしまう。

 牛金は大きく遅れを取った上に体勢を崩されていて、すぐには復帰できない。しかし、華雄はよろける牛金に追撃をかけたりはしなかった。

 

「ひっ!?」

「遅い、もらったァ!!」

 

 武を貶されたのが相当に腹に据えかねたのか、華雄は牛金には目もくれずに執拗に拓実を狙っていた。もう、華雄と拓実の間に障害はない。遅れてその事実に気づいた拓実は手綱を引いて距離を取ろうと試みるも、華雄の接近の方が遥かに早い。

 

「おっと、そこまでにしてもらおうか!」

「は……えっ、え?」

 

 風を分かつ音が遅れて届いて、拓実は迫っていた戦斧が空を切ったのを知った。恐怖のあまり目を瞑ってしまっていた拓実が恐る恐る目を開いてみると、見覚えのある女性が見覚えのある槍を手に、拓実を守るようにして構えている。

 華雄との間に馬を割り込ませてきた人物を見て、拓実は呆然と目を見開いては唇をわなわなと震わせる。思考は完全に止まっていた。けれども、未だ生き長らえられている事実を前に、涙が勝手にあふれ出てくる。

 

「こちらは大事な客人であり、今は我が劉備軍の軍師殿でもある。お主のような木っ端になどやらせる訳にはいかんのでな! 趙雲隊三百、荀攸殿に合流させていただく! お主の相手は今一度この趙子龍が仕ろう!」

「あっ……う……」

 

 人前で涙をぽろぽろとこぼしているのに拓実はそれを一向に拭おうともせず、とにかく感謝の言葉を紡ごうとする。しかし、胸がいっぱいで、たったの一言が中々出てこない。

 先ほどまでは思い浮かべようとも何の感慨も浮かばなかった筈の趙雲がそこにいた。槍を構えているだけだというのに、一切乱れることのないその佇まい。今の拓実には、その彼女の姿が誰よりも頼もしく映っている。

 

「ちょ、趙子龍、殿! っ……その、助かったわ」

「いや何。気になされますな。軍師殿はまず、その涙を拭うがよろしい。下手を打った私の代わりに出張ってくださったようですからな。せめて雑魚の露払いぐらいはしておかねば、私を臣下として迎えてくださった桃香様や主に合わせる顔がなくなってしまう」

「雑魚だと!? 貴様も私を愚弄するか!」

「ふっ!」

 

 華雄が馬を寄せ、趙雲へと向けて戦斧を振るえば、轟、と凄まじいうなり音を立てる。対して趙雲は、小さく息を吐き出すと同じくして鋭く手の槍を突き出した。

 槍先を僅かに回して戦斧の刃を絡めとり、そのまま下方へと弾き落とす。拓実の渾身の一撃を剣ごと叩き切り、牛金の剛剣をも退けたとは思えないほど、華雄の戦斧は呆気なくいなされる。

 

「ふむ、やはり。確かにその豪腕は見事だが、それ以上ではないな。私もまだまだ未熟の身ではあるが、力で叩き潰すだけが武ではないことぐらい知り得ている」

「くっ、趙子龍といったな! 小手先の技を使って粋がるとは笑わせる! 武とは力と気迫のぶつかり合いだ! 技などは所詮、弱者が持たざる力を誤魔化すものだろう!」

「ならば、今度は貴様がいう『武』とやらでお相手致そう」

「ぬうっ!?」

 

 一転。趙雲が槍を握り直すと、攻撃の質が変わった。金属同士がぶつかり合って振動し、大気を大きく震わせる。

 槍が趙雲の手元で縦横無尽に振り回され、あらゆる方向から華雄に向かって叩きつけられていた。咄嗟に戦斧を横にして受ける華雄が、一撃を受けるごとに体勢を歪ませる。

 遠心力を利用したものだろう、肝心の槍を手繰っている趙雲も相応の力を込めているのだろうが、明らかにそれ以上の衝撃が華雄を襲っていた。

 

「ぐぅぅ!?」

「さて、どうだろう。『気迫』はわからぬが、貴様を押さえ込めるだけの『力』はあったと思うのだが」

「こ、こいつ……!」

 

 槍をぴたりと止め、趙雲はその穂先と人を食った笑みを向けた。その先にいる華雄は歯を噛み締めて低く唸り声を上げるばかりで、反論も出来ずに睨み返している。

 そうして無言で睨み合ってしばらく、ふと趙雲が目を逸らした。……根負けしたという訳ではなく、何かに気づいたように遠くに視線をやったようであった。

 

「ん……こんなところか。さて、華雄よ。戦場はこうしている間にも刻々と変化している訳だが、いつまでも我らにかまけて足止めされていても構わないのか?」

「足止めだと? 一体、何を言っている!!」

「ふ。未だに己の置かれた状況に気づかずにいたのか」

 

 趙雲がそう言った正に直後、汜水関に向かって左右から銅鑼の音が響き渡る。それは何度となく鳴らされ続けていて、反響しあっているかのようだ。

 

「な、なんだっ!? 何が起こっている!?」

 

 それを境にして、あらゆる所から喊声が上がり始めた。

 無数の矢が風を切り、空を埋め尽くして汜水関に放たれていく。地鳴りは鳴り止まず、馬の嘶きや金属音が、とめどなく聞こえ始める。まるで、音の洪水だ。

 

「……ふ、くふふふふっ! あははははっ!」

 

 戦況が動く。まるで足並みを揃えたかのように、連合軍が一丸となって董卓軍を囲んでいく。その光景を目の当たりにし、拓実は笑いが止まらない。生きてこの瞬間を迎えることが出来た安堵で、拭ったばかりの涙がまたも溢れ出る。

 華雄に追い回されて余裕がなかった為に周囲の確認が出来ずにいたが、拓実はここに至って諸葛亮・鳳統の策が形を成したこと、殿としての役目を果たしたことを知ったのだった。

 

「軍師殿、未だ状況を理解しておらぬそこの敵将にお教えしてやってはどうか? 損ねた私が言うことではないが、軍師殿は殿という最後の仕上げをこなした立役者。策の成功を謳い上げたとして、朱里や雛里も文句は言いますまい」

 

 泣き笑いする拓実を横目で見ていた趙雲が、薄く口の端を吊り上げて言った。体勢を立て直したらしい牛金も拓実の横へと並び、僅かに笑みを湛えて胸を撫で下ろしている。

 

「そうね。策の中核となり大部分を担ったのは諸葛亮と鳳統だけれど、敢えて私が宣言させて貰うわ! 我ら軍師が策、今ここに成れりっ!」

 

 拓実は涙でくぐもった声を上げながらも、馬上で手を汜水関へと向ける。

 すると、まるでそれが切っ掛けであったかのように、左方崖際から袁術軍が一心不乱に汜水関に攻めかかり始めた。それに少しばかり遅れて、右方の崖際からも烈火の如き勢いで突き進む曹操軍が汜水関に取り付いていく。それぞれが華雄隊の後続が汜水関の関門から出てこようとしているところを抑え込み、押し込み、逆に内部へと乗り込み始めた。

 

「そこの猪武者! あんたの兵は、最早この場についてきている一千あまりと知りなさい!」

「な、何だと! そんな訳があるものか! 私と共に討って出た一万の精鋭は、そう簡単には……!」

「そうね。まぁ、簡単というわけでは、なかったんじゃないかしら。知らないけれど、たぶん相当の損害が出ている筈よ。劉備軍の後方にいた袁紹軍にはね」

 

 諸葛亮・鳳統による策が順調であるならば、今こうしている間にも華雄率いる一万の兵は着々と数を減らしているだろう。事実、拓実本人の推察している通りに董卓軍一万の兵は袁紹軍の三万の兵に真っ向からぶつかって大打撃を与えつつ、しかし縦に伸びたそこを左右から挟み撃ちにされ劣勢に立たされていた。

 

 拓実が稼いだ数分により、劉備軍は董卓軍の攻撃から逃れて公孫賛軍のいる右辺へと移動を終えていた。

 大将である華雄が拓実にかかりきりだったが為、目標を失った華雄隊は進軍方向を変える余裕もなく、後続を引き連れたまま数で勝る袁紹軍に突撃せざるをえなくなったのだ。劉備軍を前衛において壁代わりにしていた袁紹軍もまた、『雄雄しく、勇ましく、華麗に前進』と主君に命じられている為に董卓軍と正面衝突することになる。さしもの大軍を相手に士気の高い董卓軍の足も止まり、戦線は僅かに膠着する。

 真正面からぶつかった袁紹軍にかかりきりとなった董卓軍。そこに右辺に控えていた公孫賛軍と、移動を終えて反転した劉備軍が右側面から攻めかかった。横合いからの攻撃を受けてもまともに反撃も出来ない董卓軍は、堪らずに逆方向に押しやられる。しかし、その先――左辺に控えていた孫策軍、また、袁術軍の動きに釣られて攻め上がってきた馬超軍が攻撃を加えて押し返した。

 更に、後方に残る諸侯らが我も我もと前線へと続き、董卓軍包囲の空白を埋めては攻撃を仕掛けている。董卓軍はその一斉攻撃の前に、圧し包まれるようにして規模を小さくしていく。

 

「これは、どうしたことだ!? 連合軍などといいながら、貴様らは烏合の衆ではなかったのか!」

 

 連合の旗印が周囲を取り囲んでは押し寄せ、雄叫びが津波の如く迫ってくる様子から、一方的に自軍が攻撃を受けていることを感知した華雄が堪らず怒鳴り上げる。

 そんな華雄を拓実はせせら笑う。やはり彼女は怒りに目が眩み、周囲が見えていなかった。華雄は自身の武を必要以上に過信し、それと同じだけ連合軍を侮り過ぎたのだ。

 

「ふん、自惚れが過ぎたようね。横の連携などあってないようなこの連合軍だけれど、それでも戦場を(つかさど)ってみせるのが軍師の私たちよ」

 

 銅鑼の音が鳴り響いてから経たのは、僅かばかりの時間。しかし、その僅かな時間だけで、連合軍は事前に打ち合わせでもしていたかのように見る間見る間に董卓軍の包囲網を完成させた。

 だが、こうまで見事な包囲網を演出して見せた劉備軍が汜水関の攻略に当たって連携を取り決めた相手は少ない。諸葛亮、鳳統、拓実の三人が連絡を取り合った相手は、身内同然である公孫賛を除けば僅か二人だけである。

 

 一人は孫策。袁術軍の客将である孫策からは、事前に劉備軍に協力を申し出があった。真偽はさておき、名を売りながらも領地を持たない劉備に対し、名声高くも客将に甘んじている孫策は共感する部分があったとのことである。また、どうやら形式上では主君である袁術に対していい感情を抱いていないらしく、劉備軍の軍師三人の策を聞くや袁術をおだてて煽り、汜水関攻略の抜け駆けを決めさせたようだ。加勢するにあたって孫策より一つ要望があったのだが、三人はあっさりとこれを呑んだ。劉備軍の兵力を考えれば、むしろ願ってもない申し出であった。

 もう一人は曹操――華琳。拓実は袁術軍が抜け駆けするだろうこと、同時に右方に曹操軍が攻めかかることが出来るだけの空白を作っておく旨を報告していた。その際に諸葛亮と鳳統は『用心深い曹操は言われるがままに攻めかかることはしないのではないか』と懸念していたのだが、拓実が半ば無理やりに押し通している。確かに華琳は易々と他人の思惑になど乗りはしないが、拓実が劉備軍にいる今回に限って言えば問題ないからだ。劉備軍に功績を立てさせる為に動き、同時に中核人物の情報を調べさせている拓実の申し出に華琳は乗らざるを得ない。拓実が華琳の真意を正しく理解していると確信している為に、拓実がしようとするのであればそれは曹操軍の目的にとっても必要であることだと華琳は考える。加えて、先に動く袁術軍を囮に汜水関を攻撃出来、上手く立ち回れば被害少なく名声を得る事が出来るという利もあれば、華琳が動かない理由がない。

 

 そうしたやり取りの末、袁術軍は目論見通りに抜け駆けを敢行する。その動きを確認した曹操軍も、袁術軍を隠れ蓑にしながら一拍遅れて汜水関攻略に乗り出した。連合軍の中でも大軍を擁する袁術軍・曹操軍が動くとなれば、虎視眈々と名声を得る機会を窺っていた諸侯らもまた動かないわけにいかない。

 しかし、蓋を開けてみれば袁術軍と曹操軍は討って出ている董卓軍を無視し、それぞれが独力で汜水関の攻略にかかっている。おまけに汜水関の攻略に適した地点は、その二つの軍団によって全て埋まってしまった状態である。漁夫の利を得ようとしていた諸侯は、しかし進み出てしまった為に後続に押されて後退できず、その勢いのまま交戦している戦場に加勢する他なくなってしまう。

 

「さて。あんたら董卓軍から見て、正面には数の多い袁紹軍。左は公孫賛・劉備軍、右は孫策軍と馬超軍に挟まれた。更に後方では既に曹操軍、袁術軍が汜水関に取り付いてる」

 

 開戦当初、連合軍は行軍の為に『長蛇の陣』という陣形を組んでいた。縦に長く並んで前へと進むだけの『雄雄しく、勇ましく、華麗に前進』することしか出来ない陣形である。

 董卓軍と劉備軍が戦端を開くと、まず公孫賛軍が列から抜けて右へ移動する。同じく打ち合わせていた孫策軍が後方から袁術軍を引き連れて上がってくる。ここで劉備軍を先頭に、左より袁術軍・袁紹軍・公孫賛軍と二段目に並んで、一時的に三角の形である『魚鱗の陣』となる。

 連合軍全体の進軍を待って先頭にいた劉備軍が右方へと逃れ出ると、釣り出された董卓軍はその真後ろの袁紹軍と交戦することになる。袁紹軍の足は董卓軍の勢いの前に止まってしまうが、左右の大外より袁術軍と曹操軍が攻め上がっていくために後続の軍は釣られて前へ前へと進軍してしまう。

 自然と中央の袁紹軍を基点として、全軍は左右斜め前方に展開して華雄隊を押し包んでいくようになる。連合軍は、まるで鶴が翼を広げたかのような三日月をかたちどる。

 

「そうして気づけば、董卓軍は『鶴翼』の中ってところね。もし攻めかかれば全方位から袋叩き。あんたの逃げ場は後方のみだけれど、下手に汜水関に退却しようとしたらその瞬間に全軍がなだれ込むわよ」

「ぬ! ぐう……! どんな手を使ったかは知らんが、まんまとしてやられたということか! しかし、まだだ! 貴様らをここで討ち取り、正面の袁紹さえ撃ち破ってしまえば連合軍は瓦解する! そうなれば我らの勝ちだ!」

「あ、そ。出来るならやってみればいいんじゃない? 時間稼ぎも終わったことだし、私たちは劉備軍に戻るから。孫策! あんたの要望どおりよ。首を挙げて名を高めるなり、倒して捕縛するなり、返り討ちに遭うなり好きにすればいいわ」

「孫!? 孫策だと!?」

 

 やはり『孫』の名に因縁があるのか、華雄はその名を聞くなりに肌が粟立つほどの凄まじい戦意を溢れさせている。それに構わずに、拓実は隣の牛金に向かって左手をぷらぷらと振っていた。その手の先では、結構な兵数を削られた劉備軍が今も尚董卓軍を相手に善戦している。

 

「あら。随分とつれないわね。寡兵で突撃して、先頭の方で剣を振り回してたのって貴女なんでしょう? 華雄との決着もついてないみたいだし、何なら特別に一緒してもいいわよ」

「ふん。お断りよ。まっぴら御免だわ。改めてあんたにも言っておくけど、私は武将じゃなくて軍師なの」

 

 片手で四苦八苦しながら手綱を引いて華雄に背を向けていた拓実は、駆けて来たうら若い女性の声に僅かに動きを止め、肩越しに声を返す。顔だけで振り向いた拓実の視界には、露出の多い衣服に色黒の肌、そして綺麗な長い桃色の髪を持つ女性――孫策の姿があった。

 戦意の欠片もない返事を聞いた彼女は肩透かしを喰らったような素振りを見せて一度目線を切ったが、しかし何かに気づいた様子を見せるや改めて拓実をじっと見つめてくる。

 

「……貴女、面白いわね。突撃していた時とはまるで別人。あの時の貴女はどこにいったのかしら?」

「そんなの知らないわよ。見間違いじゃないの?」

「これでも私、目はいいほうなのよねぇ。もう随分と減っちゃっているけど、今汜水関の防壁の上にいる弓兵の数を言い当ててあげましょうか?」

 

 面倒くさい。孫策に興味津々に見つめられて、拓実はそんな様子をあからさまに見せた。精神的に余裕もなければ、突っ込まれたくない話題でもある。

 ただでさえ荀攸としての思考に戻ってからずっとそのことが頭から離れてくれないというのに。そんな筋違いの怒りだと理解しながら、拓実の機嫌はどんどんと下降していく。

 

「……悪いけど、慣れない事して疲れてるの。二度目になるけど、後は勝手にして頂戴」

「あんまりしつこくすると嫌われちゃいそうね。いいわ。確か名を荀攸と言っていたわね。覚えておくわ」

「いいわよ、覚えなくて。趙子龍殿、牛金。私たちの役目は終えたわ。戻りましょ」

「ふむ。そうですな」

「はっ!」

 

 苛つきを隠そうともしない拓実の返答にくすくすと笑い声を残して、孫策は戦斧を構えている華雄と向き直った。孫策しか眼中にない華雄は立ち去ろうとしている拓実に一瞥をくれることすらもしない。

 趙雲と牛金が馬を操り、拓実の左右を守るように横に並ぶ。剣戟の音を背後に聞きながら、拓実たちは戦場を後にした。

 

 孫策が劉備軍と連携を取る際に要望したことはたったの一つ、『華雄との決着はこちらでつけさせてほしい』ということであった。

 今は亡き孫策の母、孫堅は生前にあの華雄を相手にして打ち負かしたことがあるらしく、母親にできたことならば子である自分も出来るはずである、ということらしい。一種の世襲の為の試練であるのか、勇将を討ち果たすことで名声を得たいが為に取ってつけた理由であったのか。そこにどんな意味があるのかはわからない。しかし、拓実たちにとってはそれで構わなかった。

 

 劉備軍が命じられたことは『汜水関を攻略する』その一点のみである。関門が開き、一万もの兵を一方的に攻め立てている上に敵将である華雄が討って出ている今、攻略は時間の問題と言える。汜水関を制圧するのが華琳であろうと、敵将を討つのが孫策であろうと、兵を多く討ち取ったのが袁紹軍であろうと、劉備軍が袁紹に命じられた『汜水関攻略』は間違いなく果たされる。

 問題は劉備軍の戦功と功名であるが、思惑の絡んだ二十万もの兵を思うままに動かして見せた諸葛亮と鳳統の巧妙な用兵術一つでも充分だろう。この攻略戦を機に、軍師二人の名声も、先鋒を務めた劉備軍の名も一際大きく大陸に轟くことになるのはまず間違いない。

 

 

 

「荀攸さま、お疲れ様です!」

「お疲れ様……。あー、それにしても最悪、最悪よ。まさか、こんなことになるだなんて」

「最悪、ですか? 色々ありましたけど、でも、結果的に上手くいって良かったじゃないですか! 大金星ですよ!」

 

 牛金が暢気な言葉を返したものだから馬の首にもたれ掛かっていた拓実は思わず渋面を作ってしまう。

 拓実たちが馬を走らせているそこは劉備軍の本隊が間近に見える、戦場より離れた後方である。包囲され防衛にかかりきりとなった董卓軍は汜水関へと撤退を始めていた為に、進路上のはぐれた敵兵を趙雲隊らが蹴散らす程度で拓実たちは無事前線から離脱していた。

 

「……劉備軍の策は成功したかもしれないけれど、私個人としてよ。あんたにはわからないでしょうけどね」

 

 劉備軍の立てた作戦に、一役を買った。曹操軍の兵によって、寡兵ながら目覚しい戦果を上げた。華琳に命じられた『劉備軍の立身の助けになれ』という任務は達成したとみていいだろう。

 結果だけを見ればその通りではあるのだが――しかし、そんな簡単な話ではないのである。

 

「ふむ。もし曹操殿に戦功を立てるようにと言いつかったという話でしたら、充分に過ぎるほどの活躍だったかと思われますが。破竹の勢いで突撃してくる敵部隊に対して、寡兵を率いて更なる勢いで突撃をかけて足止めする……軍師殿の強襲は、これ以上ないほどに注目を集めたことでしょう」

「ですよね! やっぱり趙雲さんもそう思われますか!?」

「ええ。軍師殿は見るからに文官然しているものでしたからその表層に騙されましたが、正しく人は見た目によらないと言った所ですかな。ふ。あれを見せられては、武人として奮い立たないわけにもいきますまい」

「ええ、ええ! いきなり怒鳴られた時は『この人大丈夫かな』なんて思ったりもしましたけど、あの勇ましさは正しく夏侯惇将軍みたいでした! 一騎討ちしてからはなんか元のねちねちした感じに戻っちゃいましたけど、すごかったです!」

「ううぅ……!」

「荀攸さま?」

「軍師殿、どうなされた?」

 

 趙雲や牛金が褒め称えてくれるが、やはり拓実は素直に喜べない。それどころか頭を抱えて一層、深刻に思い悩んでしまった。

 いくら命の危機が迫っていたとはいえ、華琳に無許可で別の人物の演技してしまった。桂花を基にした荀攸の姿で春蘭の内面を演技するなど、豹変にもほどがある。当然、荀攸は周囲に警戒されるだろう。華琳の影武者となった時に、勘付かれてしまいかねない要因を増やしてしまったのだ。

 先の孫策が見えていたということは、袁術軍や袁紹軍、曹操軍にも見えていたと考えた方がいい。加えて、今横を併走している趙雲から、劉備軍に伝わることだろう。牛金にしても華琳が指示していない以上は、事情を知らせていい相手ではない。

 覆水は盆に返らない。一度事態は動いてしまえば、元には戻せない。とにかく華琳に謝って、今後の指示を仰がねばならない。

 

「……ったぁ!?」

 

 そこまで考え終えて肺の空気を深く吐き出したところで、拓実の体が異常を訴え始める。思わず、駆けさせていた馬を歩かせて、馬上でうずくまってしまう。

 

「いたっ、いたいっ!? なに、これっ!!」

「荀攸さま? ど、どうしたんですか?」

「うでっ! 手も!? ぐ、ぅ~~~ッッ!?」

 

 振動が響くたびに、激痛が拓実の右腕のあちこちで暴れている。上官が突然に叫びだしたことで、前例もあってか牛金がうろたえている。

 どうやら華雄と武器を打ち合わせた時からの痺れが解けたらしいが、今度は痛みのあまり動かせない。唯一動かして痛まないのは肩ぐらいで、肘は曲げられず、手も握れない。

 

「……軍師殿、ちょっとばかり診せていただけますかな。医術というほどではありませぬが、旅をしていたこともあり、多少の心得ならばあります故」

「うぅ!? ~~~~っ!」

 

 体を丸めてはぽろぽろと涙を落としている拓実に趙雲が近寄り、その右腕をぐいとひったくる。

 予期せぬ痛みに、拓実は目を限界まで見開いて、声にならない叫び声を上げる。そんな様子を観察しながらも、趙雲は拓実の右腕を触るのをやめない。肘をぐいと曲げさせ、手を包み込んで無理やり開閉させる。拓実は歯を食いしばって耐えようとするも、その度に体を痙攣させる。

 

「……ふむ。これは」

 

 ようやく右腕から手を離される頃には、拓実は意識を朦朧とさせていた。ぐらぐらと頭を揺らしてから、体をぱたりと馬の首に預ける。

 右腕は度重なる大きな痛みによって、痛覚が一時的に麻痺しているらしい。体と馬との間に挟んでいるが、馬が歩いて生じる振動程度では痛みを感じない。

 

「ちょ、趙雲さん、荀攸さまはどうですか? なにか、わかりましたか?」

「右肘はまず捻挫でしょう。自信はありませんが、右手の甲の骨にはヒビが入ってしまっていますな。さらに左足首は以前からのものでしょうが、腫れが酷い。もしも本当に骨にヒビが入っていたなら、しっかりと繋がるまで二月といったところですか」

 

 趙雲の声が水の中でのようにくぐもって聞こえる。拓実の目の前には(もや)がかかって、ぼやけ、色と色とが混ざって物の輪郭を無くしていく。

 

(全治、二ヶ月……? ……また、華琳に怒ら、れ……)

 

 痛みと精神的な疲労で最早演技もままならならなかった拓実は、趙雲の診断を聞いて意識を手放した。力が抜けた拓実の体は、乗っている馬からずり落ちていく。

 傾いていくおぼろげな、上下に狭まっていく視界の中で牛金が慌てて近寄ってきていた。どういう訳かその声は聞こえず、無音の中で、拓実は牛金の狼狽している様子をぼんやりと眺め続けていた。

 

 



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36.『荀攸、荀諶と逢着するのこと』

 

「……ぅあっ……ん、んん?」

 

 がたんと一際大きな揺れを感じて、拓実はぼんやりした意識の中で上体を起こした。半目のまま、ぱちぱちと何度か瞬きする。

 どうやら拓実が置かれている場所は屋外のようで、周囲はざわついてうるさい。太陽は高い位置で煌々とその存在を主張しているから昼過ぎといったところだろうか。頭の中が一旦リセットされたかのように真っ白で、拓実は自分が置かれている状況がわからないでいる。

 

「んー」

 

 更に、体の節々もこっていて疲労がほとんど抜けていない。頭も痛いしで寝起きの体調としては最悪である。あくびついでに伸びをして、肩を回そうとするもどうも上手くいってくれない。そうしてようやく、右腕が布で巻かれて動けないように固定されていることと、じんじんとした鈍痛と熱とが右肩から下に巣食っていることに気がついた。

 

「あら、ようやくのお目覚めね」

「えっ、華琳? 何で?」

 

 起き抜けに荷台の隣で馬に乗っていた華琳に名を呼ばれて、拓実は反射的に返事を返す。

 それを聞いた華琳は一度だけ目を鋭くさせるや、それを消してまるで子供に言い聞かせている時のようにやんわりと笑みを浮かべた。しかし、その心情は笑みとは正に逆へと向かっているのだろう。

 

「荀攸。寝惚けているのかしら?」

「荀……? あっ! 申し訳ございません、華琳様!」

 

 寒気さえ覚えさせる冷たい呟きと尋常ならざる迫力とを発した笑顔の華琳を前に、拓実は呆然と己の格好を見回し、ようやく自身が今『誰』であるかを思い出した。

 どうやら本当に寝惚けてしまっていたようだ。揺れる台車の上で姿勢を正し、馬で併走している華琳へ頭を向けて深々と平伏した。

 

 改めて周囲を見回せば、どうやら拓実がいるのは行軍している曹操軍の中ほどあたりのようである。進む道は相変わらず切り立った崖に挟まれていて、道幅はそれなりにあるというのに押し潰されそうな圧迫感を覚える。

 拓実は荷台に積まれた飼葉の干し草、それに被せた麻布の上に寝かされていたらしい。舗装もされていない道を進む荷台の上はお世辞にも寝心地がいいとは言えなかったが、置いていかれなかっただけ良かったといえる。

 記憶を過去へと手繰っていくうちに、華雄と一騎討ちをして全治数ヶ月もの怪我を負い、その痛みのあまりに気絶したことを思い出した。しかし劉備軍に派遣されていた自分は、どうして曹操軍にいるのだろうか。兎にも角にも、記憶と己の失態とを合わせて思い出し、拓実の顔面からどんどんと血の気が引いていく。

 

「また、随分と活躍してきたようね。医術を修めている者にその右腕を診せたところ、完治には二月を必要とするらしいわよ」

「っ、め、面目もございません」

 

 治療を施され固定されている右腕に、布を巻き直されている左足首とをじろじろと見られて、拓実は再び深く頭を下げる。

 口でこそ『活躍』と言っているがそれは皮肉だろう、拓実を見る華琳の目はまったく笑っていない。自分が気を失ってからどれほど経っているのかわからないが、華琳には劉備軍であった一部始終を既に知られているようだった。

 

 捻挫をこしらえて華琳直々に叱責されたのは遠征出発のほんの数日前のこと。戦働きが出来ないからと文官の荀攸としてついてきたというのに、敵将と一騎討ちしてより深い怪我を増やして戻ってきてしまった。これでは日頃に猪なんて罵っている春蘭のことを笑えない。それどころか怪我人でありながら明らかな格上を相手に突っ込むなど、拓実の方がよっぽど猪武者の命知らずである。

 加えて、軍師である筈の荀攸が部隊を率い、その先頭で指揮を執っていたことも耳にしているのであれば、当然に人が変わったかのような様子であったことも知れている筈。あまりに致命的といえる失点が多すぎて、拓実はひたすらに頭を下げることしか出来ない。

 

「まったく。たまたま生き長らえたようだからよかったものの、華雄を相手に一騎討ちを仕掛けただなんて耳にした時は何の冗談かと思ったわ。おまけに牛金が気絶しているあなたを抱えて戻ってきたものだから汜水関攻略で沸いていた我が軍の士気もいくらか落ち込んでしまったし。桂花なんて、軍師が剣を取るなんてと驚きを通り越して呆れ返っていたわよ」

「あ、う。申し訳ございません。そ、その、私はどれくらい眠ってしまっていたのでございましょうか?」

「眠っていた? 知らないようだから教えてあげるけれど、あなたのそれは失神していたというのよ。……はぁ、そうね、おおよそ二日といったところかしらね。汜水関を抜け、連合軍の先鋒が勢いに任せて虎牢関に差し掛かっている頃ではないかしら」

 

 華琳より詳しく聞けば、やはり拓実が気絶した後に程なくして、汜水関は曹操軍の手によって陥落したとのことである。時を同じくして敵将であった華雄は孫策に倒され、交戦していた董卓軍も連合軍の布陣の前に敗走していったようだ。

 また汜水関でまんまと功を持っていかれた袁術と袁紹が次の虎牢関の攻略を買って出ているとのことで、汜水関でいいところを持っていった曹操軍と劉備軍は、袁紹のやっかみから兵を休めるようにという建前で後方に配置されてしまったらしい。

 そうして華琳が汜水関攻略について話していく中、拓実はあることを聞いて酷く驚いた。

 

「汜水関攻略に使われた劉備軍の策が、諸葛亮・鳳統・荀攸三名によって編み出され、成されたものであると広まっているのですか?」

「ええ。攻略における戦果、関羽・張飛・趙雲らの戦を誇張した英雄譚のような内容と併せて、連合の兵らに意図的に流布されているわ。更には『曹操軍が軍師、荀攸の鬼謀により敵将華雄は戦場にて一騎孤立、その命数を為す術もなく失った』、『荀攸がひとたび兵を率いれば万の敵兵を翻弄し、これを瞬く間に打倒する』などといったところね」

「なっ! 何故そのような内容に!? そんな、私はそんな大それたことなどはしておりません!」

「わかっているわ。あなただけではなく、関羽や張飛、趙雲らについても似たようなものよ。大方、兵らを通して市井へと劉備軍の大々的な活躍を流し、大陸の民心を掴もうというのでしょう。ふん。荀攸を必要以上に褒め称えているのは、せめてもの罪滅ぼしのつもりかしら」

「つ、罪滅ぼし、ですか?」

「――ともかく、あんまり劉備軍が上手く汜水関を攻略したものだから連合軍は勢いづいて攻め込んでいるけれど、それも今しばらくのことよ。汜水関を抜かれた敵方も当然警戒を強めている。小さくない兵力を代償にして虎牢関が汜水関のようには破れないと知れば、あの子のことだから他の軍を当てていいところだけ持っていこうとするでしょう。遠くないうちに軍議の召集がかかるわね」

「はぁ。その、華琳様、随分と袁紹のことにお詳しいのですね」

「麗羽のことはいいわ。それよりも劉備軍で何があったのかを報告なさい。牛金から報告は受けているけれど、事情を知らない彼女が得られる情報はどうしても正確なものとはならないのだから」

「……は」

 

 正直なところ失態ばかりであった為、出来ることなら改めての報告なんてしたくはないのだが、華琳に言われてはそうもいかない。

 副将の牛金では把握しきれていなかっただろう諸葛亮と鳳統の策、劉備軍の軍編成、そして連合軍の動きと、拓実は一つ一つを事細かに華琳へ報告していく。

 

 

 

 

 華琳は、痛々しい拓実の姿を前にして内々に抑え込んでいた苛立ちを隠せずにいる。仮にも戦功を立ててきた拓実に対する語調も、きついものになってしまっていた。

 こんな苛立ちが華琳を苛むようになったのは、先日の汜水関を攻略した直後に劉備軍より届いた荀攸負傷に関しての謝罪の報を受けてからのことだ。出来る限り表面上には出さないようにと努めてはいたが、春蘭や秋蘭、桂花たちが勘付いて慮ってくるほどには怒りに満ち溢れていたのである。

 

 劉備軍は思惑が絡んだ連合軍全てを動かし、見事に汜水関を攻略して見せた。統率面では三倍もの兵力の華雄隊を相手に互角にやりあった関羽に張飛、武力においては猛将である華雄をも軽くあしらった趙雲、策略では連合軍を思うままに操ってみせた諸葛亮に鳳統。そして、それら一線級の人材を麾下に加えるだけの求心力を持った劉備に北郷一刀。

 協力者である華琳には汜水関の制圧の機会を譲って顔を立て、同じく協力者であるという孫策には敵将を討つ場を与えた。劉備軍自体、相応の打撃を受けて敗走していたのも事実ではあったので袁紹軍に強く叱責されることもなく、これ以上はない働きと言える。

 六千強程度の勢力が、二十万にも届こうかという連合軍全体の陣形を二転、三転させ、敵方を完全に押さえ込んだ。諸葛亮と鳳統が立案したその策は、様々な兵法書を読み解いている華琳にさえ着想できるものではなかった。

 

 だが、その策を成就させる為に監督役として派遣した拓実に死線を越えさせていたのではまったく話にならない。独断した拓実にも怒りはあるが、劉備軍に対して覚えた憤りに比べれば些細なものだ。

 確かに兵を率いることぐらいであれば出来るから存分に使えとの申し伝えてはいたが、だからといって援兵を送った軍の将をむざむざ戦死させかけるなど恩を仇で返すが所業。そのような運用をしなければならない戦況を作った諸葛亮や鳳統、如いては劉備を見誤っていたのかと期待を裏切られた気でいたのである。

 

 正味の所、華琳が拓実に掛けている期待は大きい。最近こそ拓実は様々な場面で働きを見せているが、武力は春蘭の足元にも届かず、内政面では桂花に及ばない。拓実のように文武の両面で活躍できる人材はそういないが、その分野においても上に秋蘭がいる。政策の立案・現場での部隊指揮にこそ光るものはあれ、他の追随を許さないほどではない。

 しかし華琳が拓実を評価しているのはそこではない。才気煥発な人物が点在している曹操軍において尚華琳の目を惹きつけているのは、類稀なる才とその容姿があって初めて出来上がる『もう一人の曹操』を演じられるところにある。先日の試験において一応の完成こそ見たが、もし拓実が先の一戦で運悪く討たれでもしていればどうか。影武者としては何の働きもなく、拓実へとの掛けていた期待分がそのまま失望、そして怒りへと転換するだろう。実際、拓実より報告を聞くまではと抑え込んでいたが、事の次第によっては劉備に代償を支払わせてやるべきかとさえ考えていたのだ。

 だが、実際に拓実から報告を聞いていくうちに、華琳はこの怒りの半分ほどは筋違いであったことを知るに至った。劉備に向かっていた怒気は見る間に霧散していき、代わって胸のうちに生まれ出たのは己に対しての憤りである。

 

「あの、華琳様、どうなされたのですか?」

 

 戦況に合わせて自身の行動を添えた拓実の報告は珍しく主観的であり、それだけ当時状況が見る程の余裕がなかったことが知れる。

 それを聞きながらも華琳は、眉根を寄せて目を閉じていた。当然そんな華琳の様子に気づかない拓実ではなく、一通りを語り終えた後におずおずとした様子で問いかけてくる。

 

「今の話だけれど、関羽・張飛隊が退いた後は趙雲隊が殿を受け持ち、そして華雄に抜かれたと言ったわね?」

「はっ、仰られるとおりにございます」

 

 華琳は、拓実が報告し始めてすぐに違和感を覚え、そうしてある失念していた事実に気がついていたのだった。

 もしも、『それ』がなかったならどうなっていたのだろうか。そんな思考に沈んでいたのだが、自身の考えに確信を持つに至るや、確かめるようにゆっくりと口を開く。

 

「……それは、監督役の荀攸が劉備軍に属してさえいなければ防げた事態だわ」

「えっ? その、確かに部隊を率いた際の私の行動は軽率極まりないものではありましたが、そんな、それ以前の私に、何か落ち度がございましたでしょうか?」

 

 突然の発言を受け、血相を変えて慌てふためく拓実に、華琳は静かに首を振って返した。言葉が足らなかったようで、拓実は己が行動により劉備軍を危機に追いやったと勘違いしたらしい。誤解を招く発言をした華琳も、自責していた為に気づかぬうちに平静を失っていたようだ。

 

「いいえ。聞いたとおりの戦況であるなら、軽率でこそあったけれど結果的にあなたの判断は妥当と言っていい。落ち度は、あなたを派遣した私にあるでしょうね」

「華琳様に、ですか? いったい……?」

「そもそも軍師が三人揃って総兵数の三分の一である二千もの兵を率いることから、寡兵であった劉備軍にとって受身に過ぎていた。私の知る諸葛亮や鳳統は、理由もなくそんな手を打つような凡愚ではないわ。ならば、まず監督役である荀攸を危険に晒さぬようにと二千もの兵を割き、実働部隊とは名ばかりの軍師隊を編成したのでしょう」

「それは……。確かに、隊の編成にはそういった意図があったと存じますが」

「荀攸を監督役でなく純粋に戦力として計算できたならば、先鋒に関羽・鳳統隊、遊撃に趙雲・荀攸隊、殿に張飛・諸葛亮隊と分けるところね。そうすれば各隊の軍師がそれぞれの隊の動きを把握し、引き際の見極めも命令の伝達も容易に出来た。当然各隊の兵も充実し、その分先鋒の撤退は滞りなく終わる。殿が易々と抜かれることもなかった。仮に荀攸がいなかったことを想定しても、戦場の機微に敏感だという趙雲であれば遊撃も撤退も独力でこなせなくはない。諸葛亮や鳳統とて当然その程度のことは把握しているでしょう」

 

 今回と、そして以前の黄巾党本隊殲滅戦の際と、戦場の変わり目を逸早く察知していたのは趙雲であったと報告したのは華琳の目の前にいる拓実本人である。それを知っているだけに、華琳の推論について言葉を挟むことなく黙り込んでいる。

 華琳も以前陳留に滞在していた彼女が目通りに来ていた時の事を思い起こした。飄々としているが隙のない、春蘭や秋蘭とも五分にやり合えるだろう武人。それが趙雲に対する華琳の見立てである。

 

「けれども、実際には全隊に指令を送る諸葛亮や鳳統から監督役である荀攸を切り離せない。それ故に軍師たちで固めた隊を作る他ないのだけれど、人員が不足している劉備軍では将を回せず自衛力に欠ける為、代わりに兵を多く配して中盤以降の半端な位置に隊を置かざるを得ない。監督役の荀攸がいては、指揮の発信位置の関係からしてもこれ以外に取れる編成は似たり寄ったりのものになる。条件を同じくして劉備軍が立てた策の達成を目的としたなら、私や桂花であっても同様に隊を編成していたことでしょう」

 

 合同で黄巾党討伐遠征を行っていた際に、劉備軍の主要な将の能力のある程度を華琳は把握している。兵の統率に最も秀でていたのは関羽に張飛であったが、それに次ぐ者が武将連中を差し置いて軍師の諸葛亮と鳳統なのである。

 その諸葛亮と鳳統の部隊に、万が一の自衛に不安が残るからと武官を加えたところで、指揮精度で彼女たちに敵わない為に結局は手隙の者を作ることとなってしまう。そして危急の時――(くだん)の華雄相手の足止めにしても、関羽たちが率いるのでなければ諸葛亮が指揮した方がよほど成功が見込めてしまうのだ。それこそ今しがた華琳が言ったように、超一流の武将である関羽に張飛、趙雲らに部隊の指揮を主導させ、軍師をその補佐につけるのでなければ、劉備陣営の人材を十全には活用できないのである。

 指揮する将が不足している劉備軍において、諸葛亮と鳳統の為に人員を割いている余裕はない。むしろ、わずか八百からなる義勇軍を率いていた劉備たちが、六千を超える軍団を相手にああも見事に指揮してみせたということこそ賞賛に値する。諸葛亮や鳳統でなければ、軍議から攻略開始までのほんの僅かな猶予を与えられたとして、下位部隊までの命令伝達の経路からして作れていたかもわからなかっただろう。

 

「つまりは、軍編成が制限されている中でさえ、劉備軍はそれぞれが出来る働きをしていたということになるわ。そして余計な要素さえ含まなければ、窮地に立たされることもなく策を成功させていたことでしょう。その上で何故、今回あの策を採った劉備軍が華雄を抑え込めなかったのかといえば、私が監督役を遣わせたことで劉備軍の編成を制限させてしまったのを原因としていた」

「し、しかしながら、その論は乱暴に過ぎます。元々、劉備軍は援兵を受ける対価として私を監督役として迎え入れたではございませんか。当初の劉備軍の兵力は八百。袁紹から三千の兵を借り受けたとしても四千には届きません。それでは汜水関で見せた大掛かりな策は成らず、よしんば別の策を用いて攻略したとしても間違いなく規模の小さなものとなっていたでしょう。一義勇軍の立場に余る戦果を得ようとしてのことですから、諸葛亮や鳳統とて不利益を被ることも織り込み済みのことかと。策の選択を誤ったことまでを華琳様の落ち度というには、いささかばかり……」

「ええ、そうね」

 

 確かに拓実が言うように、そこまで面倒を見てやる義理など華琳にはない。荀攸を自身の戦力として組み込んだ上で失策し、全滅するのは劉備の勝手である。

 監督役をつけたことにしても、それは兵を貸してやるのだから当然の権利といえばそう。そも、いくら(よしみ)があるからといって他勢力に三千もの援兵すること自体が異様といえるだろう。

 

「あなたが劉備軍に同道しなければ、我が軍はお膳立てされた戦場に赴くことなく独自に行動していたでしょうし、あの諸葛亮と鳳統のこと、私に助力を持ちかけてきたかどうかも怪しい。荀攸がいるからこそ劉備軍が連合を巻き込んだ大掛かりな策を採用し、それに見合うだけの戦果を得た。成功だけを考えるならば利は少なくとも他にやりようもあったのだから、諸葛亮と鳳統が採用する策を違えたのも確か」

 

 劉備軍は曹操軍や袁術軍、その他の諸侯まで当てにせずとも、袁紹軍へと敵軍を引きつけた後は公孫賛軍と劉備軍だけで対応できた筈なのである。

 時間こそかかったかもしれないが、その間の損害の大半は袁紹軍が受け持つため、公孫賛軍と劉備軍はほぼ一方的に攻撃を加えるだけだ。そして、伸るか反るかといった策を選ぶか、成果は低くとも安全を重視した策のどちらを選ぶかといった選択権は紛れもなく劉備軍に委ねられていた。

 であれば劉備軍に課され、そして華琳もまた失念していた『監督役がいるという縛り』の影響を諸葛亮や鳳統らが把握しきれず、判断を違えたことに今回の責任は集約すべきであろう。

 

「けれども、私が言っているのは、この曹孟徳の矜持の問題。援兵を隠れ蓑とした奸計はあれど、劉備に功を立てさせる為、全面的な援助をするとしていたのも本心からのもの。劉備に送った書簡には、汜水関攻略で存分に戦功を立てるようにと書き記していたこともある。その癖、実際のところで不利益を与えていたのでは、軍としての面子が保たれていようとも私の誇りが許さない」

 

 春蘭や秋蘭、桂花や拓実の前で劉備に助力すると宣言したのは他ならぬ華琳である。三千の援兵は劉備軍の策を成す為の土台となり、派遣した荀攸はよもや瓦解かというところを救うという大役を果たしてきた。表面上には宣言したことを見事に実現したよう見えるだろう。それだけであれば一方的な援助にこそ見えるが、華琳としては実のところでその対価をしっかりと得ていた。

 しかし、その上で華琳の差配ひとつでその危機が訪れることすらもなかったとしたならどうだろうか。華琳からすれば自身で火をつけたものを消火してやって、恩に着ろと強要しているかのような心持である。

 

 きっと劉備軍は、返しきれないほどの大きな恩を曹操軍より買ってしまったと考えているだろう。三千の援兵、汜水関攻略の際の助力、監督役として遣わされた荀攸に窮地を救われ、そして負傷させてしまったこと。

 華琳の思惑あっての荀攸派遣に対する問題は、劉備軍が荀攸を遣わせたその真意に気づけないが為にそれらと相殺は出来ない。仮に侘び代わりに何かしらの施しをしようとも、劉備軍からすれば更なる恩の押し売りとしか映らない。だからこれは曹操軍と劉備軍の間の勢力としてではない、華琳の劉備に対する個人的な借りとなる。

 

「誰かある!」

「はっ!」

 

 華琳が呼びかけると、拓実との会話が漏れ聞こえない距離に控えさせていた伝令役が馬を寄せてくる。

 

「劉備軍から引き戻させていた兵を二陣の兵と入れ替えるよう秋蘭――夏侯淵に伝令を。死傷・疲弊した者を除いた数と同数を、引き続き劉備軍への援兵として虎牢関攻略に随行させるようにとも。先の劉備軍の戦振りを見れば、もう監督役も不要でしょう。兵らにはすぐさま出立するように伝えなさい」

「承知いたしました!」

 

 言いつけられた伝令は馬の腹を蹴って、脇目も振らずに駆けて行く。その姿が見えなくなると、華琳は未だ腑に落ちない様子の拓実に向き直る。

 

「拓実。あなたが独断でしたという演技の件は不可抗力であったとして減刑し、その上でこれから先半年の減給としましょう。私の失念が招いた穴を塞ぐ形になった働きだったけれど、一度君主として取り決めた決まりは遵守させねばならない。そうでなくては誰も法を守らなくなるもの」

 

 これは華琳の矜持であった。規律とは、法とは、上の人間がしっかりと守るからこそ下がついてくるものであると華琳は考えている。

 君主であるから、重臣であるから、その血族であるからと見逃し、その癖に下を厳しく取り締まっていては部下や領民には不満ばかりが溜まっていくこととなる。それでは人はついてこない。下を律するのであれば、上の者はそれよりも厳しくしなければならない。その一番上に立つ華琳は、配下の誰よりも法を遵守していて然るべきと生き方を決めている。

 

「その代わりに、礼を言わせて頂戴。あの場で曹操軍に属しているあなたが敵軍を抑えなければ劉備軍は瓦解し、そうはならなかったとしてもその被害を拡大させていたことでしょう。立身の助けになれと命じておきながらもその動きを阻害していた曹孟徳の面目も立たないところだったわ。ありがとう」

「そのような! 軍師としてあるまじき失態を晒した私など、叱責されることはあれ華琳様に褒めていただけるようなことなどは、なにも……」

「ここは素直に受け取っておきなさい。それとも何かしら? また、私の閨で一夜を共にすることを礼代わりとでもしましょうか?」

「は、え? あ……その、ぅ」

 

 以前のようにお仕置きを画策してのものではない。感謝か労りか、どの感情からなのは華琳自身も定かではないものの、やわらかく微笑みを浮かべていた。

 それに対しての拓実も、いつもからかわれている時とは反応が違っていた。突然にそんな話を振られたからか、あまり見ない華琳の笑顔に面食らったか、胸の前で両手を合わせては忙しなく握り直して目線を惑わせている。

 

「失礼します! 曹操様、連合軍総大将の袁紹様より伝令にございます!」

「――その、用件は?」

「は、はっ! その、虎牢関攻略の軍議召集の書簡が、こちらに……」

 

 華琳自身からしても珍しいと思える、礼の言葉。困惑しきりの拓実に更に言葉を投げかけようとしたところで、進軍方向から駆けてきた伝令の声によって遮られてしまった。

 どうやら拓実は、真っ直ぐな攻め方をした方がいい反応をしてくれるらしい。桂花と同じ姿であったり、本来の南雲拓実が弱気な性質であるから、ついいじめてやろうと考えてしまっていたのが悪かったのかもしれない。或いは今回は、押し切れたかもしれないというのに。

 困惑していた拓実を見てふつふつ嗜虐心が沸き上がっていた華琳、その機嫌は急速に降下した。何の(とが)もない伝令役の兵士は、華琳からの凍りつかせるような鋭い視線に晒されて身を震わせている。

 

「なんて間の悪い。まったく、伝令一つを寄越すにしても無粋極まりないのだから」

 

 華琳は伝令より書簡を受け取り、行われるだろう名ばかりの軍議を思っては気が進まない様子で紐解く。中を一度流し読むと、その内容を読み取るにつれその双眸を鋭くさせた。そうしてもう一度視線を冒頭へと戻し、読み返す。そうして二度読み終えてから華琳は瞑目し、深くため息をつくと天を仰いだ。

 

「あ……あの、華琳様? また何かおかしなことでも書かれていたのでしょうか」

「内容は何のことはない、当たり障りのない軍議の召集よ。ただし、先の攻略戦で劉備軍にて活躍した軍師を随行させるようにと添えてはあるのだけれどね。あの子のこと、荀攸が負傷していると言っても聞きはしないでしょう。充分に考えられる事態ではあったのだけど、さて、どうしたものかしら」

 

 またも拓実を起因とした、頭を悩ませる事案が沸いて出てきた。

 どうやら反董卓連合軍の総大将袁紹は、先の戦で目覚しい功績を立てた劉備軍に一人混じっていた曹操軍の軍師、獅子奮迅と云える活躍してみせた荀攸に興味が湧いてしまったようである。

 

 

 

 

 官位を保持している春蘭を護衛に兼任させ、その後ろを威風堂々と歩みを進める華琳。そして万が一の事態に備えての弁の立つ桂花に連れられて、書簡にてわざわざ指名されてしまった拓実は足を引き摺りながら荀攸として続いていた。

 前方には金色の袁の一字が書かれた旗が立てられている豪奢な天幕。四人が進むのは、軍議の場として指定されている袁紹の陣であった。

 

「本当にありえない! 普段、武を嫌っているだなんて公言しているだけにその愚かさが極まるわ。仮にも軍師を名乗る者がよ!? いくら進退窮まったからといって剣を取った上に、隊の先頭に躍り出て突撃するだなんて……!」

「わ、わかってるわよ! ただ、あんまり士気が低いものだから、鼓舞しようとしただけなの! 私だって、先頭で突撃なんてするつもりはなかったんだから」

「はぁ!? つもりがあろうとなかろうと、やってしまえば同じことでしょうが! 他の文官連中の中には知略を捨てて剣を取り、ほぼ無策で突撃したあんたの行動を非難しているのだっているんだから!」

「ぐ……」

 

 少し背の高い桂花に肩を借りながら歩く拓実は、隣からの甲高い怒鳴り声に度々渋面を作っていた。言われている言葉も尤もで、抗弁する拓実の言葉に力はない。なにせ、春蘭の演技から荀攸としての役柄に戻って、まず自身に感じた怒りも同じ類のものであったからだ。

 

「む、そうなのか? 第一といっていい戦功を立ててきたというのに、文官連中の考えることはやはり訳がわからん」

 

 先頭を歩く春蘭が肩越しに振り返り、同じ姿で肩を抱き合いながら歩く軍師二人を見やる。あごに手をやり、視線を宙へ。春蘭はしばらく会得がいかない様子で眉根を寄せていると、何事かを思い出した様子で顔を明るくさせる。

 

「ああ。それにな、武官の奴らはみんな、文官にしてはもったいないほど気骨がある奴だと気持ちよく笑っていたぞ。兵の中には、荀攸の指揮する隊へ転向すれば戦功を立てられる、と言っていた者もいたぐらいだ。荀攸と一緒に突撃隊に参加した兵は話をせがまれてひっぱりだこだったと聞いたしな。それにしても一千を率いて、いくらか減っていたとはいえ万もの兵に突撃か。私も機会があれば……」

「ふん、ほら見なさい。賛同するのは、どうせこんな脳みそまで全部筋肉で出来ている奴らでしょう! 荀攸と血縁の、似た格好している私がこの二日間どんな目で見られていたかわかってる!? 『やっぱり荀彧様も、必要とあらば一万の敵兵に対して一千を率いて突撃されるんですか?』だなんて訊かれる事自体が酷い屈辱だわ! 春蘭じゃあるまいし、軍師がそんなことするもんですか!」

 

 その後も「あちこち怪我を増やしたりして」だの、「まさか気絶して戻ってくるなんて」だのと桂花は拓実へ不満を漏らし続ける。途切れることない罵声ときんきんと耳に響く声に、拓実の次に顔をしかめたのは華琳である。

 

「あなたたち、拓実に対して言いたいことがあるのはわかるけれど、そこまでにしておきなさい。特に桂花。貴女がどれだけ拓実を心配していたのかはわかったわ。けれどもここから先も同じ調子で話されていては、諸侯が集まっている天幕の中まで声が届いてしまうでしょうに」

「も、申し訳ございません華琳様! しかしながら、私はこんな考えなしの心配なんか、一度たりとも……!」

「はんっ! 嘘をつけ、私は知っているぞ! 桂花、お前は昨日、拓実を乗せている荷車を少なくとも朝昼晩の三回は見に来ていただろう!」

「なな、なんであんたがそれを知って……、あっ!? 荷車を警備していた兵は、あんたが調練した部隊の……」

「ふははは! そんな返しをするとは、おけつを掘るとはこのことだな!」

「くぅ……我が生において、最大の汚点だわ。言葉の意味を理解していないだけならともかく、下劣な間違いするこんな馬鹿にしてやられるなんて……」

 

 春蘭の誘導に見事乗ってしまったことが桂花にとっては余程の屈辱だったのか、苦虫を噛み潰したように顔を歪め、空いた手で頭を抱えている。

 歩いている間中酷使させられていた左耳の鼓膜をようやく休ませられそうだ。拓実はぶつぶつと怨嗟の声を上げる桂花に肩を抱かれながら、そっと胸を撫で下ろしていた。

 

 

 

 前線にある袁紹軍の陣、そこに設えられている一つの大きな天幕は剣呑な空気がたちこめていた。そこに入場してきた華琳に向かってすかさず、待ちかねていたように居丈高な一声がかけられる。

 

「あーら、華琳さん。またあなたが最後ですわよ。まったく、決められた時間すら守れないようではその育ちが知れますわね。汜水関に一番乗りした程度のことで調子に乗られて、あまり好き勝手にされては困りますわ」

 

 その声の主は、反董卓連合軍総大将である袁紹である。縦ロールの頭髪、鎧、装飾品に至るまで、そのほとんどが金色。相変わらず、いるだけで眼がちかちかするような人物だ。

 拓実が改めて彼女を観察していると、華琳がちらと目配せしてから首を振った。今のは『袁紹の思考や性格を写し取っても役に立たないからやめろ』といったところだろうか。

 

「そうね。召集を出した誰かは最後方の我らの陣からここまで早馬で飛ばしても到底間に合いはしない、たった四半刻で集まるようにだなんて言い出しておいて決められた時間もないとは思わないのかしらね? まぁ、簡単な計算すら出来ない誰かが、わざわざ負傷している者を随伴するようになんて無茶を言い出さなければもう少しばかりは早く到着できたのかもしれないのだけれど、召集をかけた愚か者にはともかく諸侯を待たせてしまったのは申し訳なく思うわね」

「ぐっ! ま、まったく、そのようなこと誰が言ったのでしょう? わたくしは存じ上げませんが、いいですわ。今回遅れたことはこのわたくしの寛大な心に免じて、特別に不問にして差し上げますわ」

「はいはい。わかったからさっさと本題に入ってちょうだい」

 

 何気ない挨拶のようにやりこめた華琳は憎憎しげに睨み付けている袁紹に目もくれず、さっさと空いている椅子へと着席してしまう。桂花、春蘭、拓実もその後へ続き、華琳の背後に控える。今のやりとりを見ていた周囲の面々からも寒々しい視線を向けられている袁紹は、ふん、と鼻を鳴らした後に大きく胸を張った。

 

「みなさん、よろしいですこと? これまでこの反董卓連合軍の為、この総大将であるわたくし自らが兵を犠牲にしながらも偵察を行ったところ、虎牢関は汜水関とは違って引きこもっていて一向に出てくる気配がなさそうですわ! まぁ、わたくしの高貴な軍にかかればあっという間に倒してしまえるのですけど? 寛大にも、ここはみなさんに手柄をとる機会を差し上げようという次第ですわ!」

 

 しばしの沈黙が訪れた。どうだといわんばかりに袁紹が胸を張っているのを見て、華琳は脱力した様子でため息をついている。その他の諸侯についても華琳と似たような様子である。

 

「なぁ、えーと、汜水関で先鋒やってたあんた……劉備って言ったよな? あたしの記憶違いじゃなければ、袁紹の奴って自分の軍だけで虎牢関を陥とせるって言って、前回の軍議で自分から先鋒を買って出たんだったよな?」

「う、うん。そうだったと思います」

「だよなぁ。何だ何だ? 虎牢関攻略がいつから偵察になってたんだ? それに董卓軍が虎牢関に篭っているのなんて、こっから見てもわかることじゃないか」

「そこっ! ごちゃごちゃとうるさいですわよ!」

 

 有無を言わさずに発言を遮られたことで、茶のポニーテールの少女――馬超は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。隣では劉備が縮こまってしまっている。

 そんな様子を眺めて、拓実はどうして前回にも増して軍議の場が険悪になっているのかに思い当たった。ここに集まる諸侯らのほぼ全員が、好き勝手に振舞う袁紹をいい加減に疎ましく思うようになったからだ。

 

 名門、そして治める領地も広大であるということもあり、袁紹は連合軍内において最大兵数を動員している。そうなれば、それだけでも彼女が総大将となるのも妥当といえた。

 しかし、総大将となっても軍議においては議題を乱し、攻略に際しては口にする策を要約してしまえば『突撃』のみである。加えて汜水関で寡兵の劉備軍が董卓軍と互角にやり合っていたのに対し、袁紹軍は三分の一以下の兵相手に苦戦を強いられていた。その対比が余計に、袁紹の将としての資質を露呈させていた。盟主としての器を見極める為静観していた者たち、その家格もあり取り巻きになることを考えていた者たちも、この場で袁紹について得られる利はないと愛想を尽かしたのだろう。

 

「さぁ、我こそはという者があれば、特別に我が袁紹軍の進路を切り開く大任を授けてあげますわ! 名門袁家の旗を掲げてその先鋒まで担えるという栄誉を得る、またとない機会ですわよ! ……あら? みなさん、どうしましたの? 早い者勝ちでしてよ?」

 

 いきりたって立ち上がり、高らかに宣言する袁紹に、ある者は卓に肘をついては視線すら向けず、ある者は小さく含み笑いを漏らす。結構な人数が詰めていながらも寒々としていた天幕内は、袁紹の一言を皮切りにして乾いていく。

 これまでも協調路線を取ろうとする者の方が少なかったが、辛うじて横の信用からの連携が取れた段階を総大将自らが完全に踏み越えているのである。諸侯の誰もがこの連合軍はもうまともに機能しないことを確信して、意識を己の軍のみに向けている。

 自信満々に周囲を見渡した袁紹は、思い描いていた光景と違うことに目を白黒とさせる。そうしているうちに何か思いついたのか、会得がいった様子で眉を開いた。

 

「ああ、さてはみなさん、袁家の先陣を賜ることを恐れ多いとでも考えているのでしょう? 仕方ありませんわね。今回限りは家格など関係なく、どのような生まれの方でも構いませんわよ」

 

 確かに袁紹の言うように、高貴な生まれの末席に連なることは栄誉なことである。まして、遡る事四代に渡る家系上にて、国の最高官位と呼ばれる三公を五人輩出した袁家は名門の名に違わない。その発言内容自体は紛れもない事実であろう。しかし、今回諸侯は戦で戦功を立てて、名を売ることを目的として連合に参加しているのだ。決して一時の名誉に縋るが為に、一つ間違えれば国の反逆者となりかねない連合に参加している訳ではない。

 当然袁紹がそんなことを今のこの場で言ったところで、周囲からすれば面と向かって敵方を切り崩すまでの盾としていいように使ってやると宣言しただけのことである。総大将からして、仮にも個々間の同盟によって連合軍として成り立っている筈の相手を盾や壁、己の配下以下としか見ていないことをこの軍議の場で公言したのだ。

 事実として、今回の袁紹の思惑はそのままその通りであることは傍目の拓実からしても明白。そして、諸侯らも目の前で公言されては何らかの策を成すようにと号令が出たとしても素直には従うまい。それでは幾人かは指示通りに動いたところで軍として機能する訳がない。故に横の信用はなくなり、それぞれ独断で軍を動かすことになるだろう。

 

「あなたがた、もしやとは思いますけれど悪賊董卓の兵を前に臆病風に吹かれたのではありませんわね? まったく、いいですわ! 劉備さん。汜水関を攻略のきっかけを作ったあなた方でしたら同じように虎牢関も攻略できるのではありませんこと?」

「ええっ!? また私たちがですか!?」

 

 己のした発言の意味を理解できていない袁紹は、一向に反応を見せない諸侯から見当違いの理由を見つけ出し、苛立ちを隠せずにいる。そんな袁紹の様子を眺めていた拓実は、尊大に振舞っている彼女も小さくない焦りを覚えていることに気が付いていた。

 汜水関攻略において、大軍を擁しながら目立った戦功を上げられずに兵数ばかりを失ったのは袁紹と袁術である。だからこそ虎牢関攻略で自ら先鋒を名乗り出たのだろうが、先の一戦で警戒を強めている董卓軍は地の利もあって容易には崩せない。攻めあぐねた挙句に、更なる兵を失って軍議を開くことになる。その場で周囲から参戦に立候補でもあれば自尊心が傷つくこともなかったが、現状としてそうはならなかった。彼女からすれば理解しがたい状況なのだろう。

 

「なんですの? わたくしが寛大にも劉備軍に華々しい戦功を得る機会を差し上げるというのに、まさか、あなたも不満ですの?」

「いや、待ってください袁紹さん。不満て言うよりは、可能かどうかって話ですって。汜水関の時より戦える兵が減っちゃってますから、いくらなんでも俺たちだけじゃどうにもなりませんよ」

「まったく、情けありませんわ!」

 

 どうやら先の攻略戦でまがりなりにも指示に従っていた劉備は、袁紹にとっては味方という認識であったらしい。まさか反論があるとは思っていなかったようである。

 今の、円卓を叩きつけた袁紹の怒りようからすれば、一刀がすかさずにお手上げという身振りをしながらその理由を説明していなければ、今この場で爆発して劉備に対して怒鳴り散らしていたかもしれない。

 

「恐れながら袁紹様。一つ、私に考えがございます」

 

 誰もが発言せず、憤慨する袁紹から目を逸らしている。そんな中で声を上げたのは、袁紹の背後に控えていた文醜、顔良の、そのまた後ろにいた一人の少女。

 小柄な体躯。とはいえ、背は拓実より頭半分ほど高いぐらいか。その茶の髪はふんわりとしていて、肩に届かないあたりで切り揃えられている。現代の髪型でいうところのソフトボブだろうか。頭の上にはベレー帽、裾の広いコートのような衣服とその上に肩掛けと、身に纏う全ての衣類は暗めの赤色である。相変わらず古代中国とは思えない服装ではあるが、一番に拓実を驚かせたのはその顔つきだ。

 

「あいつ! ……拓実っ、そこの猪の後ろにでも隠れてなさい!」

 

 隣にいた桂花に小声で耳打ちしながらも押しやられて、拓実は無理やりに拓実は春蘭の背後に立たされる。為すがままにされながらも、拓実は春蘭の影から発言者をじっと見つめ続けていた。

 

「あら、あなたは我が軍の…………斗詩さん。この方、名をなんて言いましたか。今回の軍議にどうしても参加したいと言うものですので連れてきましたけれど、わたくしとしたことがちょっとド忘れしてしまいましたわ」

「ええっ? 麗羽様、忘れたって、この前もそう言って私が教えたじゃないですか。数年前に軍師として採用した荀諶さんですよ」

「ああ、言われてみればそうでしたわね。いまいちぱっとしない方ですから、すぐ忘れてしまいますわ」

 

 まったく悪びれずもせずに言ってのける袁紹にも動じず、荀諶と呼ばれた少女は目を伏せたままでいる。

 さらに拓実が驚くべき言葉が出てきた。『荀諶』――かつて荀攸であった人物が、改名した名が荀諶であった筈である。しかし、拓実はその名前についてまで思考が及んでいない。

 

「西新井、会長? いえ……」

 

 呆然と、口の中だけで呟いた。そして、春蘭の影から視線を送って、荀諶の挙動をひたすらに観察する。容貌が酷似している人物の名を口に出してみたが、やはり違う。しかし拓実はその人物と荀諶の姿が重なってしまって、目が離せないでいた。

 

 拓実、そして北郷一刀が通っていた聖フランチェスカ学園。拓実が部活動として所属していたのが、会員僅か三名という弱小同好会の民族学研究会である。そこの会長、二年女子の西新井会長の顔つきと、今袁紹に向かって発言していた荀諶の顔立ちが瓜二つといえる程にそっくりなのである。

 しかし、西新井会長は黒髪で、みつあみにしたお下げは背中にまで届いていた。野暮ったい黒ぶちの眼鏡を掛けていて外すと清楚な大和撫子といった風ではあるのだが、代わりに周囲の物が視えなくなって日常生活に支障をきたす程には目が悪い。

 荀諶と呼ばれた少女は眼鏡をかけていないが、物が視えていないといった素振りはない。体格も同程度で、声質も似てこそいたが、どちらも別人だとわかる程度には違う。よく似ているだけの他人の空似。いや、拓実が存在しているここが過去の中国であるなら、もしかしたら西新井会長の祖先だったり、オカルト的に言えば前世だったりもするのかもしれないが、少なくとも同一人物ではないと断言できる。

 

「まぁ、そんなことはどうでもいいですわ。荀諶さん、何かあるのでしたら言って御覧なさい」

「それでは僭越ながら、袁紹軍にて軍師の任を預かる荀諶、字を友若が発言させていただきます。虎牢関攻略についてですが我が軍が威力偵察を行ったところ、肝心の虎牢関は汜水関より幾分開口部が小さく攻略に適した地点が少なくなっており、攻め手は兵数が制限されてしまっています。諸侯様方が一つ二つ当たっては被害と負担が集中し、多大な消耗を許すことになりましょう。場合によっては壊滅ということもありえます。よって虎牢関攻略は諸侯が単独で担うのではなく、複数勢力より精兵を選りすぐった、攻略の為の混成部隊の編成を具申いたします」

「攻略の為の混成部隊? どういうことですの?」

「具体的には兵数五千以上の各勢力より精兵二千ずつを預かり、攻めかかる兵の質を高めつつ充分な兵数を揃えようという策にございます。現在の連合総兵数は十六万ほど。そのうち兵数五千を数えることのできる軍団は十と八つになりますので、三万六千の兵力によって虎牢関の攻略を行うのです」

 

 にわかに軍議の場がざわついた。それぞれ、荀諶の挙げた作戦について面食らったという様子であった。

 

「のぉ、のぉ。七乃。わらわにはよくわからんのじゃが」

「美羽様は気になさらなくていいんですよー。適当にのんびりしていれば、勝手に孫策さんたちが頑張ってくれますからねー」

「うむ、うむ。そうか、ならば七乃、後のことはよきにはからえ」

「……斗詩さん」

「ええっとですね、五千以上の勢力から二千ずつですから、二万五千近くの私たちもよく鍛えた二千の兵だけ出兵させればいい、ということです。たぶんですけど、兵数が多ければ多いほど負担の割合は少ないんじゃないかな。ちょうど五千ぐらいしかいない劉備さんのところなんかは大変だと思いますけど」

「あら、それでしたらわたくしもたった二千ぽっちの兵を出せばいいという訳ですのね。優雅さには欠けますが、お手軽で非常によろしいですわ! それではその攻略部隊の指揮は、反董卓連合軍総大将、この袁本初が率先して……」

「お待ちなさい」

「なんですの! 華琳さん!」

 

 あちらこちらで内々の相談が始まっていた天幕の中、すっくと立ち上がり、策を述べた荀諶に対して鋭い眼差しを向けた者があった。春蘭と桂花の前に座っている華琳である。

 袁紹の噛み付くような物言いにはまったく反応せず、じっと荀諶を見つめている。自然と場も静まり返り、諸侯らの視線が華琳に集まった。

 

「連合に参加している諸侯より選りすぐった精鋭部隊。とても面白い案ね。けれど、いくつか前提部分に疑問点があるわ。いくら諸侯から精兵を選りすぐると一言に言っても、兵の錬度にどうしたって差が出てくるでしょう。それはどのようにして埋めるつもりなのかしら? また、問題を解決したとしても、いきなり他の勢力の者の指示を聞くかどうか。加えて、兵がいくら強くとも肝心の指揮する者が無能であるならどうしようもない。その人物如何(いかん)によっては私も大事な配下を預けるわけにはいかないわ」

 

 非難するかのような発言と共に、荀諶へと向けられた華琳の威圧感は尋常ではない。しかし、袁紹に対してするような全面的な否定ではない。拓実にはどうにも、華琳が軍師としての荀諶を試しているように感じられた。

 

「はい、曹操様が懸念されましたことも尤ものことかと。兵の錬度の差については埋めようとは思っておりません。それぞれ野戦、偵察、攻城、潜入……得意としている分野が異なることでしょう。足並みを無理に揃えてはその特色までを殺してしまいかねません。しかし、いうなればこの精鋭部隊は各諸侯のみなさまが誇る、最強の兵の集団にございます。まさか、他の諸侯の兵に遅れを取るような錬度不足の雑兵を送り出すことなどはありえないものと考えております。万が一著しく劣る部隊があったとして、その程度の弱卒しか保有できない領主が誰であるのか白日の下に晒されるだけではないでしょうか。命令無視も同様。この群雄が集まる場で名を落としたければ独断専行も好きになされるが結構かと。董卓を討伐を果たした後我ら袁紹軍を始めとして、諸侯らよりどう見られるかまでは存じませんが」

 

 荀諶はまるで柳に風といったように怯む素振りもなく、目を伏せ、理路整然と告げて返す。

 

「指揮についてですが、我ら袁紹軍が全てを主導してはご不満もあることでしょう。曹操様が兵の錬度についての返答にご納得いただけるようでしたらこれより説明させていただきたく思います」

「なるほど……ふふ、見た目に似合わず中々挑戦的な案を出す子ね。興味が湧いたわ。話の腰を折って悪かったわね。続きを」

 

 その対応に満足したのか、華琳は手で荀諶を示すとあっさりと椅子に腰を下ろした。

 

「ありがとうございます。――つきましては、お預かりした各部隊指揮をお任せする将、具体的な作戦を煮詰める軍師の方も兵を五千以上保有する勢力より選抜いたします。こちらは勝手ながら、汜水関攻略中のご活躍から勢力の代表者様を除いた、今回の攻略作戦に適しているだろう方を各勢力より選出させていただいております」

 

 てっきり兵だけを各勢力から抜き出し、それを袁紹の指示で戦わせるのかと思えばそうではないようである。荀諶が言っているのは、どちらかといえば現代の野球などでいうところのオールスターゲーム。各勢力から兵と、主力の将、軍師までも招集した混成部隊である。

 

「今回は拠点攻略ということですので、単純に戦上手な方が選ばれているわけではないことを先に申し上げます。指名されなかった勇将・知将の方にはどうかご了承いただきたく思います。ではまず部隊指揮。袁術軍より孫策殿、甘寧殿。曹操軍より夏侯惇殿、曹仁殿。馬超軍より馬岱殿、ホウ徳殿。公孫賛軍より公孫越殿、田豫殿。劉備軍より関羽殿、趙雲殿。我が袁紹軍よりは顔良殿、文醜殿……」

 

 その人選を告げられていく軍議の場に、様々な思惑によってどよめきが走る。告げられた将の中で、この場に同席している者たちへと視線が集まった。 

 

「そして立策には、袁術軍の周瑜殿。曹操軍の荀彧殿……荀攸殿。劉備軍の諸葛亮殿、鳳統殿。我が袁紹軍からは沮授殿、田豊殿と、立案者として私荀諶が参加させていただきます」

 

 荀攸もまた名を連ねていた為に、拓実は静かに春蘭の影に隠れる。そうして人目から逃れるようにしながらも密かに戦慄していた。

 この荀諶の人物眼は、いったいどれほどのものなのだろうか。拓実は、三国志の英雄たちのまさかの競演に身震いすると共に、荀諶に対して空恐ろしいものを感じている。挙げられた者たちの名は拓実にも覚えがあるものばかりであった。大半はどんな功績があったかまではわからないが、拓実が名前だけでも知っていたということは後世において名を残している英傑であるということである。何を間違ってかその中に拓実の名が含まれてしまっているが、その他の将を見るにその人物眼は確かであるといえるだろう。

 

「五千以上の兵数を保有しながらも配下の将の名がなかった領主の方々、申し訳ありませんが汜水関の動きを基に選別したので全ての将の力量を把握しきれておりません。拠点攻略に適した将を二名派遣していただければ幸いです。攻略法、細かい打ち合わせにおいては、これより選抜した軍師らでの軍議によって決定し、また各勢力からの将の方々は袁紹軍の陣へと召集をかけていただきたく思います。それぞれ自勢力の兵を指揮下に致しますので、兵についても同じく出立するよう通達を願います。これに異議がないようでしたら、こういった形で作戦を進めたく思いますが、袁紹様よろしいでしょうか?」

「正直、面白くはありませんわね。けれど、他の方々も碌な案を出しませんし……」

「あの、麗羽様。ここで私たちの陣営から出た意見を反対したりすると、もっと不利な話になるかもしれませんよ? 私たちも二千出すだけで何とかなるってことですから……」

「……斗詩さんまでそう言うのでしたら、仕方ありませんわ。荀諶さんといいましたわね! この反董卓軍の総大将である袁紹の名を汚さぬよう、雄雄しく勇ましく、華麗に事に当たるんですわよ!!」

「かしこまりました。諸侯の方々もよろしいでしょうか?」

 

 荀諶の問いかけに、否定の声は上がらない。諸侯らは同席させた部下と顔を見合わせるが、そのまま席に座り直す。ほとんどが肯定的な態度を見せている。

 

 連合軍で最大の兵力を擁している袁紹であっても難航する虎牢関の攻略に対し、五千に満たない小勢の諸侯は発言権を持たない。選抜隊から除かれたことで活躍の場が失われてしまうが、袁紹に命令され盾にされる可能性を考えれば余計なことは言えない。先の汜水関攻略を果たした劉備にしても、釣り出しなどの主導こそしても実質戦闘面は連合軍による総力戦であった。警戒を強めている虎牢関の攻略は、汜水関より難しくなっている。そのような場面に数千や数百が出てもすり潰される未来しかない。

 辛うじて五千を超える諸侯にとって今回の作戦は、多少の不満はあれども利が大きい。兵力の四割程度の派遣となれば大きいが、本来ならば並び立てない有力諸侯の袁紹たちとも同条件で戦えるのである。もし他を差し置いて一等の戦功を上げられたならば彼らにも一目置かれることとなるであろうし、大陸にその人ありと噂されることも充分に考えられる。最悪兵力の四割を失うが、そうだとしても半数以上は残るのである。これが三千の派兵となったら辞退する者も出ていただろう。

 そして、大軍を有する諸侯は、概ね袁紹と顔良が話していたところに落ち着く。大軍を有しているということは、矢面に立たされやすく被害を被りやすい。そして兵数が多いが故に活躍が目立ちにくい。数を揃えているのだから戦果があって当たり前という見方をされてしまうからだ。失敗してもたかだか二千の兵、けれども少数で戦功を立てれば大軍である上に『精強』という評判を得られる。損失の割に得られる利益が大きいとなれば、文句は出ない。

 

「……では、一刻後に前線である袁紹軍の陣へお集まりください」

 

 荀諶より解散が告げられ、どよめきながらも諸侯らが三々五々に軍議の場を後にする。拓実が春蘭の影から退出していく者たち様子を眺めているうちに、軍議の序盤にはあった不満の色が薄くなっていることに気がついた。さらに見れば、鋭く荀諶を見ては警戒している者が幾人かいる。振る舞いからして文官然している為に、おそらく軍師たちなのであろう。

 そうして拓実はその者たちに遅れて荀諶の思惑に気づいて素直に感心する。目からうろこが落ちるとはこんな心持ちなのだろうか。荀諶の献策した選抜部隊は、虎牢関攻略の為だけのものではなかったのだ。

 

 この選抜部隊によって、荀諶は袁紹に対しての不満を逸らした上に諸侯の横の連携を繋ぎ直している。軍議での袁紹の発言により、彼女を反董卓連合軍の旗印にして戦おうという空気は欠片もなくなっていた。この連合軍の目的である董卓の粛清が大成功と成れば、総大将である袁紹は見事に諸侯を纏め上げたとして名を高めるだろう。軍議の場を乱していた袁紹が大将として評価されることに対して、反感を覚えた諸侯が総大将の命令を無視する可能性すらあったのだ。このまま総指揮を袁紹が執っていたなら、まず総大将としての面目は丸潰れとなっていた。

 そこで荀諶は指揮を袁紹から外しながら、立案者として選抜隊の中核に残って袁紹の総大将としての顔を立て、諸侯の袁紹に対する反感をも餌にして全体の意識を虎牢関攻略で得られる戦功へ向けてみせたのである。更には華琳との問答の中で、得手にしているところで戦功を立て、不得手は他の部隊に任せればいいという意識を植えつけていた。選抜部隊に集められた武将や軍師は、自軍の戦功を立てる為に動きながらも結果的に連携を取ることになる。

 連合軍内部の様々な問題を和らげながらも異見が出にくく、虎牢関攻略にも作用している。あんまりに鮮やか過ぎて、拓実としては見事と感嘆する他ない。

 

 

 

 込み合う出口がいくらか空いてきた頃、ちょうど華琳が席より立ち上がった時に、拓実は視線を感じた。視線を巡らせれば、上座である袁紹の横に立っている荀諶が、確かに拓実を見つめていた。視線同士がぶつかりそのまま数秒もすると、それに気づいた桂花に慌てて腕を引っ張られ、拓実は天幕の外へと連れ出された。

 

 荀諶が名を呼ぶ際にも、荀攸の時にだけ僅かばかりの間があった。当然、年下の叔母である桂花とほぼ同じ姿をしている上、過去の己の名を騙っている拓実は謎の塊であろう。同姓同名という誤魔化しは通用しまい。現に荀諶の視線より、拓実の内面を探ろうとしているのを感じていた。近いうちに直接的なり間接的になり何らかのアプローチがあるだろうが、軍議の場で追及されなかったことからどうやら今しばらくの間は曹操軍に所属している『荀攸という人物』の異様さを公にするつもりはなさそうである。

 そして拓実にしても、まだ荀諶の人となりは読めない。荀攸を警戒している所為もあって、わかったのは華琳をして挑戦的と言わしめる策を立案する、そして人並み外れた人物眼がある、といった程度のものだ。陳留にいる間にも荀諶が話題に上ったことはあったが桂花の口は何故か重たく、今日も軍議に参加するまで同じことを考えていたが、桂花にはひたすら罵られていたために荀諶について聞くことはできていなかった。

 どうやら出兵の準備に充てられた一刻の間に、今度こそ荀諶の情報を詳しく訊ねておく必要があるようだった。

 

 

 



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37.『群雄、呂布に苦戦するのこと』

 

 

 汜水関を含む大小合わせて数十もの関や砦を、進軍速度を落とすことなく突破してきた反董卓連合軍。

 勢いをそのままに虎牢関を攻略にかかる彼らは、ここにきて董卓軍から良い様に反撃を受けていた。虎牢関は攻めるに難く守るに易い難関として知られているが、それにしてもあまりに異様な光景が広がっている。

 洛陽を目指して谷を埋めつくす反董卓連合軍が堅牢な虎牢関を攻め落とせないのではない。関より打って出てきた少数の董卓軍相手に、万を超えている連合軍が中央から切り裂かれ、蹂躙されているのである。

 

「こんな、ありえない、ば、化け物だ・・・…!」

「りょ、呂布だー! 五じゃ駄目だ! 倍だ、十人で当たれ!」

「ひっ、ひ、ぎゃああああっ!」

 

 前方の兵から伝染していくように、怯え竦む気配が広がっていく。悲鳴と血煙が、勢いを落とすことなく反董卓連合軍の本陣へと迫りきている。

 長柄の戟を右手に馬を駆り、連合軍の精兵たちに恐慌をもたらしているのはたった一人の赤髪の少女。董卓抱えの将である彼女こそが黄巾党三万を蹴散らし、今この大陸でただ一人公然と万夫不当を名乗ることが許されている呂奉先である。

 

 虎牢関正面より攻めかかる曹操軍・劉備軍・袁術軍・袁紹軍より選び抜かれた八千の精鋭たち。それらを率いるのは同じく各勢力の看板将軍である。

 錬度であれば有力勢力から選抜された連合の兵らに勝てるものなどそうはいない。事実として呂布の率いている一万と攻略部隊の一万の同数が同条件で当たったならば、まず連合軍が勝つ結果となることだろう。

 その上、地形から戦闘に参加できる人員が限られているとはいえ数の上でも連合軍が勝っている。常道を語れば、まず負けるはずのない戦。

 

 しかしそれを覆してしまうのが呂布の武であった。呂布は猛獣のように素早く、荒々しく、そして恐ろしく力強い。

 一騎突出しては立ち塞がる十の兵を戟の一振りで屠り、空いた空間に飛び込んではまた一振り。ただただその繰り返しだが、単純なだけの一連の呂布の攻撃を連合軍は止められない。

 青銅の剣、鉄の槍、木の矢、馬、人の胴体に、首。立ち塞がるものがなんだろうが、呂布は全てを紙切れ同然に、平等に薙ぎ払って断ち切ってしまう。

 今も呂布一騎を討ち取らんと絶え間なく兵をぶつけているが、突いて殺しては二人を貫き、叩いては鉄の兜ごと頭蓋を砕き、貫かれた敵兵ごと振り回して他へとぶち当てながら連合軍を喰い散らかす。鎧を装着している筈の兵士たちが体ごとすさまじい勢いで四方八方へと吹き飛んでいく。

 交戦してしばらく経つも、呂布の動きは一向に衰えない。兵が十で囲もうとも、二十で囲もうとも呂布の動きを止められない。血はしぶきとなって周囲を覆い、彼女の象徴となる真紅の呂旗は一層赤を深くしていく。

 呂布の威勢に続く董卓軍の兵らも勢いづき、呂布一人にさえ手も足も出ない連合軍の兵は戦う体勢も維持できずに戦意を挫かれていた。

 

「兵らよ、退け! これ以上いたずらに命を散らすことはない! 呂布に構うな! 後は我々に任せろ!」

 

 そこに凛とした声が響くや、連合の恐慌が収まりを見せた。女性の声に従い、ざあっと連合軍の兵士たちが退いていく。

 同じくして、向かうところ敵なしの呂布がぴたりと動きを止めた。表情に乏しい呂布はその顔つきこそ変わらないが、明らかに警戒の色が強まっている。

 呂布の戦意から逃れるように兵が距離を取り、戦場に呂布を中心とした大きな空白が出来上がる。足元には積み重なるように倒れている兵たちの躯に、血溜まり。折れた槍が地面に転がり、血に染まった軍旗には矢が突き立っていて、そこに生きるものは呂布のみとなった。

 

「ほお、流石は飛将軍と謳われる呂布だ。相対するだけで肌が粟立つとは。しかし仮にも大陸最強と噂に上るからには、そうでなくては倒し甲斐がない」

「一人に対して数で囲むなどしたくはなかったが、この惨状を見せられてはそうも言ってられんな。星の言うように、この相手は手強い」

 

 獰猛な戦意に張り詰められ、気の弱い者ならばその圧迫感だけで卒倒しそうなそこに、己が得物を携えた二人の少女が立ち入ってくる。兵たちによって区切られている円の外と内との空気の違いを感じて一拍足を止めかけるも、堂々と呂布の向かいへと歩み来る。

 呂布の方天画戟の刃が届く範囲は、全て死地となる。幾度かの戦場(いくさば)を越えてきた兵たちでさえ立つだけで身が竦み、凍りつくそこに、劉備軍の関羽、趙雲が立ち塞がった。

 

「……ちょっとだけ強い……、けど、二人じゃ恋には勝てない」

 

 一角の武芸者である関羽、趙雲に対して侮辱となるだろう呂布の発言。彼女は、それを本心から言っている。対して、本来であれば激昂するべき機に二人は構えたまま動かない。

 

「悪いが呂布よ、我らは元より二人で相手するつもりはない。それを卑怯と罵るならば甘んじて受けよう」

「……っ?」

 

 その関羽の言葉に首を傾げた呂布は、次の瞬間には戟を構えて、視線を周囲に巡らせていた。

 関羽と趙雲を正面に置いて、左右より更に数人が近づいてきていた。個々に強弱こそあれど、呂布をして警戒せしめるほどにはいずれも手強い気配を持っている。

 

「へえ。このぼんやりした子があの呂布? 私たちが集まるまでの僅かな時間に五百以上の兵がやられてるだなんて。私も腕に覚えがあるつもりだけれど、ここまで出来るかしらねー」

「よくもまあ、この光景を目にしてそんなことを言えるもんだよね。一応たんぽぽたちが補佐するってことになってるけどさぁ、一人で勝手に突っ込まないでよ?」

「あんなに軍師連中に口うるさく言われたんだから、わかってるわよ。それより馬岱ちゃんこそ気をつけなさいな。……さて、興覇は呂布の武をどう見る?」

「見知った者の中に、一対一で勝てる者は思い当たりません。雪蓮様に幼平、私の三人で掛かって勝ちの目がでるかどうかといったところでしょうか。黄蓋殿の補佐があってようやく有利が取れるほどかと」

「そ。やっぱり蓮華を加えるにはちょっと荷が勝ちすぎる相手ねぇ。夏侯惇、貴女もいつもどおりの猪突猛進だと危ないわよ」

「言われなくてもわかっている! 華琳様の剣である私がこんなところで倒れるわけがなかろう! 孫策! お前こそ、私が借りを返す前に勝手にやられるなよ!」

 

 孫策、甘寧、夏侯惇。呂布の周囲を、連合軍を構成する諸侯において一際武に優れる者たちが囲んでいた。彼女らだけではない、文醜、顔良、馬岱の三人が続き、その後ろにも曹仁や公孫越ら数名が控えている。

 いくら呂布でも、今相対しているうちの誰を相手にしたとして一刀の下に切り捨てることはできまい。万に届く連合軍を相手に怯むことなく、一度も足を止めることもないまま圧倒的な力を見せ付けた呂布が、たったの十数名を相手に初めて、僅かにとはいえ足を止めた。

 

「……それでも、恋は負けない。本気でいく」

 

 鈴を転がしたような、少女らしい可愛らしさを含んだ呂布の声を周囲の連合軍の将たちが認識したその時、事態は既に変化を終えていた。

 夏侯惇、甘寧の二人の横を抜け、何かの塊が複数後方へと吹き飛んでいったのを、遅れて大気の動きが知らせていた。

 

「むっ!?」

「ぐ!」

「っ、と、随分といきなりじゃない!」

 

 響く金属音。音よりも早く、風が斬られていた。円の中心――呂布の近しいところにいた関羽、趙雲、孫策の三人の姿が突然に消えている。そして文醜や馬岱の背後より遅れて聞こえる、靴裏と地面との摩擦音。

 前を見れば、呂布はその手の方天画戟を横薙ぎに振り終えた状態でじっと立ち尽くしていた。感触に違和感でもあったか、不思議そうに柄を握る己の手を眺めている。

 

 呂布の稲妻の如き一撃が、瞬きする間に関羽ら三人に襲いかかっていたのである。背の丈を超える戟によって繰り出された一撃だというのに、常人では目で追うことすらもできないだろう。

 しかし対応した三人もまた並みの使い手ではない。それぞれ己の得物で呂布の一撃を受けとめたようで、体ごと大きく弾かれたものの手傷は負っていないようであった。

 

「ほう、あの関羽と趙雲、孫策の三人を相手にしてこれか、面白い! 曹操軍、夏侯元譲が先を貰うぞ!」

「ちょっ、呂布に当たる時は最低でも三人でって……!」

「雪蓮様!? ……貴様ァ!」

 

 三人を難なく薙ぎ払った呂布の剛力を見た夏侯惇が獰猛な笑みを浮かべ、一息に距離を詰めながら手にある大剣、七星餓狼を振りかぶる。背後から聞こえてくる馬岱の声など最早聞こえもしない。

 同じくして孫策が吹き飛ばされていったのを目にした甘寧が激昂に目を見開き、刀を手に地を滑るように駆け出した。影しか残さない素早い身のこなしで先に駆け出していた夏侯惇を追い抜き、空間をも両断するかのような鋭い斬撃を呂布の首へと見舞う。

 

「はやいだけ……」

「ぐっ!? ――ちィっ! こいつ!」

 

 対した呂布はそれをあっさりと方天画戟の柄で受け止めると、そのまま腕力だけであっさりと甘寧を押し返す。

 競り負けた甘寧は着地と同時に地面を全力で蹴り上げ、身を宙で入れ替えながら後方へと逃れた。一瞬前までいたそこを、間一髪で呂布の剛戟が通り過ぎていく。

 互いに一撃。しかし、頭に血が上っていた甘寧の全身からはどっと冷や汗が吹き出ていた。沸騰していた血液が、その一振りの風切音で冷えきっていた。もしもまともに喰らっていたなら、良くて半死。あるいは今ごろ甘寧の命はなかっただろう。

 

「……こっちは、おそい」

「なんだとっ!? がぁっ!」

 

 時間差で迫りくる地をも切り裂く夏侯惇の剛剣を、呂布は僅かに半身をずらしただけで避けてみせる。大剣・七星餓狼が地面を破砕する音に紛れて、鈍く肉を打つ音が響いた。

 呂布が夏侯惇の空いたその腹に蹴りを叩き込んでいた。そのまま間髪入れずに右手で引き戻した方天画戟で、くの字に体を曲げた夏侯惇へ突きを放つ。

 

「だーから言ったじゃん! 危ないってっ、と、おぉぉーっ!?」

「ぐぅっ!」

 

 夏侯惇の影から飛び出した馬岱が槍を手に、その勢いのまま跳躍して、速度と自重とをかけた一撃で夏侯惇へと放たれた呂布の突きを叩き落しにかかる。

 しかし、その渾身の一撃でも方天画戟を下方へと逸らすことしかできない。夏侯惇は言うことの聞かない体に鞭を入れて後退、そこまでしてようやく突きの軌道上から逃れ出る。

 

「よっしゃあ、もらったぁ! おらぁぁぁあぁーっ!」

 

 呂布の持つ方天画戟は敵を見失い、地面へと突き刺さった。深く突き立ったそれを隙と見て取った文醜が、一枚の扉ほどの刃身を持つ大剣――斬山刀を呂布目掛けて叩きつけるべく踏み込んでいる。

 

「……ふっ」

 

 対して右腕を伸ばしたままの呂布は退くどころか逆に距離を詰め、斬山刀を握っている文醜の腕を左の手で掴み取った。

 するとどうだろうか、剛力自慢の文醜がそれ以上腕を振り下ろせない。勢いを殺された上に、万力で押さえられているかのように微動だにしない。

 

「お、おいっ!? 嘘だろっ!?」

 

 呂布に、完全に力負けしてしまっている。力比べでこうもあっさり負けたことなど、文醜が今まで生きてきた記憶の中にそうないことだ。しかし現実として、文醜の腕は上にも下にもぴくりともせず、握られた腕は呂布の握力で軋んでいる。

 左手一本で文醜の動きを封じた呂布は、そのまま右の腕で地面へ埋まった方天画戟を引き戻す。当然文醜は体に退避を命じるも、腕を掴まれている為に前にも後ろにも進めない。

 そうこうする間も呂布の動きは止まらない。文醜の体感時間は引き延ばされ、視界の中でゆっくり、ゆっくりと呂布の右腕が引き絞られていく。血に濡れ、土が(まみ)れたたままの刃先は確実に、文醜へと向いている。

 

「文ちゃん!」

「そう易々とやらせるものか!」

 

 巨大金槌――金光鉄槌を手にした顔良に、体勢を立て直し駆けつけた趙雲が槍をしごいて呂布へと踊りかかる。

 動きを止めたままでは流石に分が悪いと見たか、呂布はあっさりと文醜を開放し、後方へと駆け出しながら体勢を立て直しにかかった。趙雲に続いて、孫策、関羽の三人はそれを追い、続く曹仁らも彼女らの援護に回る。

 戦場が他所へ移っていく中、辛くも逃れた文醜がいつしか止まっていた呼吸を再開させて、目を見開いたまま立ち尽くしている。

 

「と、斗詩、こいつ、ヤバイ。戦う前にはいっつも身震いしてるけど、これ、いつもと違う感じだ!」

 

 一歩分、二人の救援が遅ければ殺されていた。開放されて飛び退き、バクバクと拍動している心臓を押さえた文醜は体を震わせる。

 

「うん……私も同じだよ。文ちゃん、気をつけてね」

 

 それを見て取った顔良が気遣うものの、震える文醜の表情を見るなり笑みを浮かべ、一声だけをかけてから呂布へ向かって駆け出す。

 文醜は目を見開き、冷や汗を額から滲ませ、しかし武官の性なのか堪えられないといった風に口の端が吊り上がっていたのである。

 

 

 ――連合が誇る猛者たちであっても、一対一で呂布を相手にしては十に一も勝ちを拾えるかわからないほどに力量の差がある。呂布の武とはそういう規格外のものである。

 この数と質とでかかっても、たった一人の、個人の力を前に攻めきれない。今まで体験したことのない戦に、外面はどうあれ連合軍の将は一様に動揺している。しかし、かつてない戦況に困惑しているのは呂布もまた同じであった。

 

「さて、これは通じるか?」

「……しつこい」

 

 鋭くもしなる、癖のある軌道を描いて趙雲の槍が呂布へと迫る。絶え間なく打ち出される攻撃は閃光、空を切り裂いた。

 追いすがってくる趙雲から距離をとって槍をかわしていた呂布は、幾度目かの刺突を方天画戟の横刃で絡め受けて弾き落とす。趙雲の瞳が驚きに見開かれるのと同時に、方天画戟の柄が呂布の背で打ち上がった。

 密かに呂布の背後から襲い掛かろうとしていた甘寧が、打ち上げられて目の前に突きつけられた方天画戟の石突を前に飛び退いた。背中越しに呂布に睨まれ、甘寧は舌打ちだけを残してまた隙を窺うべく姿を隠す。もし甘寧がそれ以上近寄っていれば呂布は即座に振り向いて、鋭利といえない戟の石突で体のどこかを突き貫いていただろう。

 

「ふっ!」

「ぐぅっ! 重いな……!」

 

 視線を戻した呂布は打ち落とした趙雲の槍の穂先を足で蹴りつけ、体が流れたところに更に蹴りを打ち込む。

 趙雲はそれを腕で受けるも、六尺(1.5メートル)ほどを飛んだ。しかしそれも自ら後ろに飛んだのだろう、大した痛手とはなっていない。趙雲はそのまま地面を転がっていく。

 今のも、並みの相手であれば体勢を崩している間に方天画戟の一撃で打ち倒せていた。趙雲が体勢を立て直すのが早かった為に、呂布であってもとっさに蹴撃を当てることしか出来なかったのだ。

 

「次は私の相手をしてもらおうかしら?」

 

 声が響いたその時には、既に呂布は敵を迎え討つべく動いていた。走り迫ってきていた孫策へと方天画戟を右手で取り回し、凄まじい勢いで叩きつける。孫策もまた両刃の長剣を手にして、獣のような気迫で真っ向から振り下ろす。

 

 両者の得物が弾け、しかしお互いにその場で踏みとどまった。両者はそのまま、間髪入れずに更なる一撃を繰り出す。

 そうして、また互角の打ち合いが繰り返される。鉄の音を響かせて、剣戟が始まる。膂力なら呂布が勝るところだが、孫策は相手を食い殺すかのような苛烈な勢いでその差を埋めていた。

 しかし孫策のその勢いも十を数える頃には徐々に衰え始め、段々と劣勢を強くしていく。

 

「さっすが、言われているだけはあるわねぇっ! っと!」

「孫策、貴様ばかりにやらせるかっ!」

「……っ!」

 

 劣勢に立たされながらも文醜が浮かべていたのと同じ類の笑みを浮かべていた孫策は、何事かに気づいた様子ですっと体を後ろへと投げ出した。

 そこに夏侯惇が割り込み、大剣を豪快に打ち付ける。さしもの呂布も慮外の方向からの衝撃によろめき、一歩退いた。

 

「あら、夏侯惇。結構まともにもらってたと思うけど、もう動けるの?」

「愚問だなっ! あれぐらいでどうこうなるような柔な鍛え方はしていない!」

「随分と勇ましいことね……ちっ!?」

 

 呂布が方天画戟を頭上で振り回し、夏侯惇、孫策へと叩きつける。全身全霊の、呂布の一撃である。己の得物を盾にしても二人はそれを受けきれず、体ごと大きく弾き飛ばされた。宙に投げ出され、ふんばりの利かない孫策を顔良が、夏侯惇を馬岱が受け止める。

 

「く、うぅぅ! 夏侯惇ってば、ちょっと重過ぎ!」

「鍛えているからな! 馬岱といったか、二回目になるが助かった」

「お互い様ってことだから、気にしなくていいってば! それにしても、呂布ってこんなに強いの!? なんか周りの人も強いし、いくらなんでもたんぽぽ一人だけ場違いだってぇ!」

「どれほどの強者だろうとも曹操軍の武官を集めて当たれば充分だと思っていたが、大陸は広いな。悔しいがこの相手では、少しばかり手に余る。馬岱、お前も自信がなければ下がっていろ。お前の分まで私が前に出ればいいだけのことだ。代わりといっては何だが、今のような補佐は任せるぞ」

「……うん。ちょっと下がって様子見しとく。はぁー、脳筋の翠姉さまは『お前が馬一族を代表して呂布のやつを討ち取って来い』とか無茶言ってたけど、命あっての物種だもん」

 

 夏侯惇、馬岱の二人が話している間にも、関羽、文醜、曹仁の三人が割り込み、呂布に当たっている。見る限りでは互角以上にやりあえているようだ。

 曹操の剣として最強を自負している夏侯惇だが、自陣営の曹仁は言わずもがな、呂布と打ち合える関羽や文醜も己に匹敵するだけの使い手である。それだけに、そんな者たちを複数相手取れる呂布の強さが一層浮き彫りとなっている。

 

「ふん、軍師たちの忠告は正しかったということか」

「そうね。各勢力の看板将軍十数人で囲んでおいて、実際に呂布に当たる時には三人以上で当たれだなんて、普通に考えたなら私たちに対するこれ以上ない侮辱だもの。随分と私たちは過小評価されているものだと思って反発したけど、蓋を開けてみればこれなのだからホント世の中ってのは広いわね」

 

 隙あればいつでも飛び出せるように身構えている夏侯惇が、ぼそりと呟いた。それに反応して言葉を返したのは、同じく体勢を立て直し、長剣を手に備えている孫策である。夏侯惇と同じく彼女もまた、格上の実力を持つ呂布を相手に出来ることに笑みが浮かぶのを止められない。

 二人の視界に移っている呂布は、動きに目立った精彩こそ欠いていないものの、じわじわと追い詰められている。頬は上気し、息は荒い。額からは汗が流れ、顎から滴っていた。得物を打ち合わせ、競り負ける様子も見せ始めている。休みなしで、しかも今大陸において有数であろう(つわもの)三人と代わる代わる相手にしていれば、いくら呂布といえど当然といえる。

 

「……っ!」

 

 呂布の武力は常人と隔絶するほどの高みにある。並みの者であれば一撃で下してきた。音に聞こえた武辺者が相手だとしても、呂布に敵う者などはいなかった。しかし、そんな彼女が今まで戦ってきた相手に武器を打ち合えた者がいなかった訳ではない。

 呂布はそのほとんどを降してきたが、いずれは一騎当千と言われたかもしれない武才を持つ(つわもの)。戦いにおいて天賦の才を授かり、選ばれた者たち。いまや十数万の兵を擁する董卓軍であっても、呂布に思い浮かぶは華雄に張遼の二人だけという傑物。

 それと同等の武才を持つ者たちが十数名という数で集い、一丸となって彼女の前に立ち塞がっている。己の実力に近しく迫る者たちが一同に集結して敵となるなど、呂布の生において初めてのことであった。

 

 

 

 

「将軍らが呂布と交戦、我が方の優勢でございます! 破竹の如き進撃をしていた呂布の足を止めることにより、戦線を膠着させることに成功! しかし残る敵将、張遼の姿は未だ確認出来ておりません!」

 

 伝令からの報告を受け、戦場から離れた位置に陣取っている軍師たちはそれぞれ馬上からほっとため息を漏らした。

 

「どうやら、呂布の足を止めることには成功したようだな。しかし噂には聞いていたが、これほどまでとは……」

 

 あの雪蓮が一対一で抑え込まれる相手か、と眼鏡を掛けた色黒の女性――周瑜が驚いた様子を隠さずに告げる。敵将である呂布の武を賞賛しながらも、その言葉の端々から孫策への全幅の信頼が窺えた。

 

「飛将軍呂布に、神速の張遼。この二将が守将ともなれば生半可な策は通じるところではないのはわかっていたつもりでしたが……」

「あの暴れ様を見れば、当初の二人で呂布を抑えるという策では返り討ちにあっていたかもしれません。まさか、選抜隊の武将が大半で当たって尚も易々とは討ち取れないだなんて。呂布の武は常識の範疇に収まるものではありませんでした。そこは流石、荀攸さんの慧眼といったところでしょうか」

 

 諸葛亮、鳳統の発言により、軍師たちの視線が拓実へと集まった。しかし、当の拓実はそっぽを向いたままで無関心を装っている。

 居心地が悪い。おまけに骨折した箇所が熱を持っているのか、気だるくてしょうがない。そんな体調不良もあって拓実は今回の攻略作戦について積極的ではなかった。自身を警戒しているだろう荀諶の出方も見えてこない為、怪我を理由にして、呆と軍師連中が議論しているのを眺めていただけだ。役立つ以前に発言すら一度しかしていない。

 

 各陣営の軍師たちによる話し合いは、概ねのところすんなりと決まっていた。

 袁紹軍による虎牢関への威力偵察により、守将が呂布、張遼の二名であることが判明しており、また虎牢関が難関であることは周知のことであったので力押しは難しいと判断。汜水関と同じく将を釣り出す方針となる。

 実際に敵将を引きずり出す駆け引きは鳳統、周瑜の二人が主導で打ち合わせされ、兵の配置などは諸葛亮や桂花、荀諶らが話し合い、全体像を作っていくこととなった。

 

 そうして進んでいった話し合いにて唯一問題となったのは、釣り出された呂布、張遼をどうするかというものであった。

 各勢力の軍師は当然、自陣営の武将による撃破、捕縛を推した。選抜された武将らはいずれも一騎当千と呼ばれるに値する猛者である。噂とは広まれば広まるほどに尾ひれがつくものであるから、たとえ古今無双とまで言われる呂布が相手であろうと、二人で当たるのであれば充分に倒せると考えていたのである。

 先の汜水関で奮迅してみせた関羽・趙雲を擁する劉備軍の諸葛亮。黄巾党を討伐し名を馳せている孫策らを率いる袁術軍の周瑜。文醜・顔良の二枚看板を持つ袁紹軍の田豊らはもちろん、春蘭を毛嫌いしている桂花でさえその武力自体は認めている為に、二人もいれば互角以上の戦いが出来ると声を張り上げたのである。

 呂布の勇名は今や大陸全土に広まっている。下は野盗にごろつき、上は皇帝まで知られている彼女を討ち取れば、得られる勇名は比類ないほどに大きなものとなる。彼女たちはまたとない機会を掴むため、こぞって自軍の将軍を推すことにやっきになっていた。

 

 軍師たちが紛糾していた中、一人沈黙を貫いていたのは怪我を負い、気だるそうな様子を隠そうともしない拓実だけであった。しかしそんな発言を控えて存在感を消していた拓実は、進行役となっていた荀諶に目敏く見つけられて、意見するようにと促されてしまった。召集を受けた軍議でそう言われては、何も言わずにいるのも不自然である。

 桂花から春蘭を推すようにと小声で耳打ちされたのだが、しかし拓実はそれに逆らい、こう発言した。――「呂布を相手にするには、選抜隊に集められた武将二人では足りないわね。三人で当たって互角がいいところ、出来るなら五人で当たるべき」と。

 三国志を読んだことのある拓実は、後世に伝わる呂布の武勇伝を知っている。三国志演義の呂布は、この虎牢関攻略の際、関羽に張飛、劉備の三人を相手取り戦っているのである。三人のうち劉備は武勇について高い評価を受けていたわけではなかったが、あの関羽に張飛を同時に相手に出来るというだけで強さの桁が違う。まして、関羽や張飛以外の面子で呂布を抑えるともなれば、例え三人であっても安心は出来ない。それ故の発言であった。

 

 他の者がしたのであれば「仲間の武力に自信がない」と取られて当然の弱気な意見だが、その発言主が汜水関で八面六臂の働きを見せた荀攸となれば話は別である。軍師たちは皆、拓実の意見を重く捉えた。

 軍議に集められた軍師たちは、情報として敵将の武力を調べることが出来ても身を以って強さを感じることは出来ない。そして最低限の自衛程度が出来たとしても、彼女たち自身がその将と武器を合わせて戦うことは出来ない。

 今いる軍師たちの仲で、唯一の例外が『あの華雄と一騎討ちを果たした荀攸』であり、彼女たちが持っているのとはもう一つ、別の『物差し』を持つ異色の軍師である。

 その荀攸が、自陣営の武将を推すべきところで一人違う意見を述べた。大陸有数といえる賢者たちの瞳が怜悧に拓実を射抜き、その意図を推し量る。盤上や情報から見る自分たちではわからないが、荀攸だけが呂布を一線級の将らと比べて尚、桁の違う存在と評価していることに気づいたのである。

 逸って看板将軍二人を挑ませて万が一でも討ち取られ、選抜隊による策を土台から台無しにし、結果として連合軍をも瓦解させては元も子もない。それを悟ると、誰から言うでもなく自然と武将による包囲案を取る方向へと話を進めていったのである。

 

「雪蓮が珍しく武将ではなく軍師を気にかけていた理由はこれか。しかし、なるほどな」

「……何かあるかと聞かれたから、答えただけよ」

 

 そうして実際に蓋を開けて呂布の武が連合軍にも知れ渡るところとなった今、見事に戦況を予見して見せてしまった荀攸には感心の念と、それを上回る警戒が向けられている。

 素直に感服してくれているのは、再会するなり拓実の無事を涙を流して喜ぶほど懐いてくれている諸葛亮や鳳統ぐらいのものだ。それがまた悪いことに、汜水関にて神算鬼謀を見せ付けた二人が何かと拓実を褒め称えるため、余計に周囲の警戒を煽る結果となっている。

 特に、あからさまといえるほどにこちらを観察してくる周瑜に対して、拓実は驕る様子も恐縮する様子も見せずに無関心に言葉を返している。そうした腹を探り合う周瑜と拓実のやり取りの間に、さらりとごく自然に、しかし拓実にとっては思いもよらない発言が飛び出てきた。

 

「先祖より官史として仕えてきた我が荀家一門ですが、荀攸殿は加えて武才をも授かったのでしょう。一族の者として、私も誇らしいものです」

「なっ……!」

 

 まさかの、荀諶からの発言であった。拓実の隣にいる桂花が思わずといった風に声を上げた。名指しされた拓実もまた、内心では大いに困惑している。

 

「……どうしましたか?」

「別に、なんでもないわ」

 

 咄嗟にその感情を表に出すのを止められたのは、発言主である荀諶がこちらの反応を静かに観察しているからである。動揺を表に出すことは避けられたが、怪訝な表情で荀諶を見つめてしまうことは止められなかった。

 

 荀諶からすれば拓実は、元の名を騙られている上に年下の叔母である荀彧と似通った容姿をしている、不自然の塊ともいえる存在である。

 数刻前の軍議に荀諶の参加を確認するなりに、桂花からは取り急ぎ荀攸について話をしたいという旨を手紙にして荀諶へ送ったらしいが、それに対する返信はなかったと聞いている。さらにこれまで、彼女から拓実の正体に対してこれといった打診はない。荀諶にとって拓実は未だに正体不明の不審人物である筈で、だからこそ荀攸の出自を認めるような発言を彼女がする意図が見えない。

 

 華琳は荀攸を軍議に参加させるつもりなどはなかったし、『荀攸』の名を提案した桂花としても一介の内政官の名が広まるとは考えなかったため、これまで荀諶本人に説明をしようとしたことはなかった。

 監督役として劉備軍に荀攸を派遣した華琳が迂闊であったということも否定は出来ないが、負傷している荀攸があのような大立ち回りをやらかすなど予見出来る筈もない。誰が原因かと言えば、己を制御できずに敵将に突っ込んでいった拓実であって、それがあったからこそ軍議に呼ばれる羽目にもなっている。

 そもそも大前提として直前になって足を捻挫してさえいなければ拓実は許定として参加していた為に、そちらの名であればいくら売れようとも何の問題もなかったのだ。結局のところ、またも拓実が曹操軍に余計な混乱を招いてしまっているのである。

 

「あいつ、どういうつもりよ」

 

 にらみつけるようにしている桂花を見て、荀諶がにこりと可愛らしく笑みを浮かべる。それが気に食わないのか桂花が一層(まなじり)を上げたところで、けたたましい声が軍師たちの下へと届いた。

 

「先発劉備軍よりの伝令でございます! 張遼の旗印を掲げた一団が虎牢関より出陣するのを確認いたしました! 孤立している呂布の救援に向かっている模様!」

 

 緑色の鎧――劉備軍からの伝令が軍師たちの集まる一団へと駆け込み、声を張り上げる。その報告に軍師たちから安堵の声が漏れる中、特に顔色を明るくさせたのは周瑜と鳳統の二人である。

 

「ようやく来たか!」

「よかった……これで敵将を釣り出す周瑜さんと私の策は成りました。あとは荀彧さんに荀諶さん、朱里ちゃんの兵編成が正しく作用すれば……」

 

 鳳統が魔女帽子の影からちらりと見る先には、きゅっと唇を引き絞った諸葛亮がいる。荀諶は瞑目して澄ましているし、桂花は至極平静な顔で前線方面へと視線をやって、取り乱した様子は欠片もない。

 この三人の賢者が事に当たったということを考えると、拓実には今回の策が失敗する未来が見えてこない。招集された一人であるというのに、他人事のように傍観を決め込んでいる。

 

「先発袁術軍よりの伝令! 呂布、張遼が撤退を開始いたしました!」

「部隊展開はどうなっていますか? それに、例の件は?」

 

 ゆっくりと目を開いた荀諶が、新たに駆けてきた伝令を見やった。落ち着き払った、決して大きくない声だというのに荀諶の声は妙に場に響く。

 金色の鎧を纏った年若い兵は、戦場だというのにあまりに落ち着き払った軍師たちを前に呆然としていたことに気づいて、その場で跪き慌てて礼を取る。

 

「張遼出陣と同時に進軍した劉備・曹操軍により挟撃に成功、取り残された董卓軍は混乱しております! また、後方追撃に向かった袁術軍・袁紹軍は打ち合わせのとおり、汜水関で奪取した董卓軍の軍装を装備させた細作を混乱している敵軍に潜り込ませております!」

「各軍へ伝令を。ほどほどのところで追撃を緩めるようにお願いします。敵に痛打を与えることと同じく、味方の被害を抑えることもまた重要です。それに、あまり追いすがっては敵方が退却する自兵を見捨てて退路を塞ぎかねません」

「はっ!」

 

 荀諶の言葉を聞き届けるなり、詰めている伝令の兵たちが馬を走らせる。

 

「これで、私たちが今すべきこともうありません」

「後は相手がどう出てくるか、ね」

 

 諸葛亮がふう、と息を吐き、桂花もまた一仕事終えた風に手をぷらぷらと振ってみせる。そうして軍師たちは馬頭を返し、兵たちに指示して野営の準備を進めさせていく。

 今後のことを考えれば、早々に兵たちに休息させなければならないだろう。野営の指示ぐらいであれば拓実でも何とかなる。兵を呼ぼうと口を開いたところで、拓実たちを呼び止める声があった。

 

「ああ、荀彧殿、荀攸殿。積もる話もありますから、野営の指示を終えたら時間をいただけますか?」

 

 拓実自身も本調子とは程遠かったので、とにかく休みたかったのだがそうはいかないようだ。にこにこと笑みを浮かべる荀諶を前に、急に体中の倦怠感が強くなったような気がしていた。

 

 

 



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38.『荀諶、その本性を表すのこと』

 

 

 遠く見える山の輪郭だけが赤く染まり、辺りが薄暗くなり始めた頃。まだ日が落ちきるには幾ばくかを要するだろう時間帯。兵士たちがかがり火の準備を始めている間を抜けて、連れ添って歩く拓実と桂花の姿があった。

 拓実は足首の捻挫により左足を引き摺り、同じく肘を捻挫した右腕は首から下げた布で吊られ、骨折したらしい右手部分は添え木で固定されている。自力で歩行することが困難なほどには怪我人であり、もし転倒したとして受身も満足に取れない為に桂花の肩を借りていた。

 

 二人は選抜軍の兵たちへの野営準備の通達を終えるや、軍師たちが詰めている陣の外れへとゆっくりゆっくりと足を進め、そうして普段の二倍近くの時間かけて指示された場所に辿り着く。そこには、既に上下を暗い赤色の衣服で揃えた細身の少女が立っていた。

 彼女は頭の上にある衣服と同じ色のベレー帽の位置を直し、着ている服の裾を手で払っては髪型をいじり、おかしなところがないかと忙しなく確認していたようだったが、桂花に肩を借りながらひょこひょこと歩く拓実を見つけるなりにニコニコと笑みを浮かべている。

 見る限りでは無害で他意のなさそうな柔らかい物腰の彼女を前に、拓実は警戒の段階を一つ引き上げた。

 

 袁紹らに呼ばれて荀諶と顔を合わせる破目となった先の軍議が終わるなり、拓実は桂花から荀諶の人となりを聞いていた。桂花曰く「アレはとんでもない変態よ。加えて頭も回るとあって始末に負えないわ」ということであるが、それはつまり、桂花が手を焼くほどには荀諶の頭脳を認めていることが窺えた。その上、あのぎりぎりのところを生きている桂花をして変態と言わしめる荀諶は、常識の範囲内に収まらない危険人物ということになる。

 

 そんな彼女はこれから軍議で弁を交わす相手でもあり、また荀攸である拓実の正体に強く疑念を覚えているだろう人物だ。しかし、拓実はどうにも釈然としないでいた。相対しても荀諶からは全くというほどに害意を感じないのである。荀諶にとって、荀攸である拓実は警戒して然るべき人物の筈。少なくとも表立って好意を向けるような相手ではない。

 だというのに、彼女はその相手を前にして何故泰然としていられるのか。だからこそ拓実は彼女の内面が見えずに警戒を緩めることができない。拓実には荀諶の心理が理解出来ずにいた。

 

「ご足労いただきありがとうございます。来てくださったんですね」

「それはいいけど……なんで、わざわざ外で。天幕の中でもよかったんじゃないの?」

 

 拓実がきょろきょろと辺りを見回して、そんな質問を荀諶へと投げかける。彼女に指定された場所は軍師たちが駐屯している陣の外れではあるが、屋外である。当然、少し離れたところには夜番の兵が複数人見つけられるし、流石にお互いの話し声までは届かないものの、兵たちからも時折ちらちらと視線を向けられるのを感じていた。

 これからするだろう話の内容を思えば、軍師たちのみが立ち入りを許されている天幕の中であることが常識的には好ましいだろう。そこであれば腰を下ろして落ち着ける上に、周囲からの人目を気にする必要もない。意図的に聞き耳を立てられていなければ、話が他へ漏れることもない。

 そんな拓実の発言を聞いて呆れ返った様子を見せたのは隣に立つ桂花だった。

 

「馬鹿ね。少しは自分の立場で物を考えなさいよ。この面子で他の誰の目もないところで密会なんてしてごらんなさい。その気はなくても情報の漏洩だなんだと逆によからぬ噂を立てられるわ」

「そうですね。一族の者同士だからこそ、他勢力の者に仕えているのであれば気をつけなければなりません。足に怪我をなされている荀攸殿にお付き合いいただいている身としては申し訳ないのですけれど」

「ち、ちょっと疑問に思っただけなんだから、二人して言うことはないじゃない」

 

 なんて二人に浅慮を指摘されてわかりやすく狼狽してみせる拓実だが、本当に失念していた訳ではなくあくまでも荀諶から反応を引き出す為の意図的な発言である。

 荀攸である拓実と荀彧である桂花、そして荀諶の三人は荀家の人間ということになっている。勿論その内の拓実に限ってはあくまで対外的なものでしかないのだが、荀諶は本当に名を騙っている拓実の立場を考えてくれているらしい。先の軍議から一貫して協力的な姿勢を見せてくれてはいたが、今の彼女の返答でようやく確証を持つことが出来た。

 

 しかし荀諶がそう振舞うことで、彼女にとっても何かしら利となるものがある筈である。中には親切に一切の見返りを求めないお人よしがいない訳でもないが、『荀攸』ではそんな楽観的に物事を考えることはできない。

 だとするならば、荀諶が荀攸を一族の者と認めることによって得られる利とはなんだろうか。まず順当に考えれば、恩を売った桂花と拓実に対して何らかの要求があるといったところか。

 

「――で? 結局あんたは何が目的なのよ。弁解するからって文を送っても返してこなかったのに、ご丁寧にこいつの身元の保障までしてくれちゃって」

 

 などと拓実が荀諶の思惑を推察しているうちに、一足先に同じ結論へと辿り着いていたらしい桂花が彼女へと疑問を投げかけていた。荀諶はそれが予想外の発言であったかのようにぱちくりとまばたきした後、柔らかく目を細める。

 

「もう、荀彧殿は相変わらず疑り深いですね」

「はんっ。『身内』しかいないんだから、いい加減にその話し方はやめてくれない? なんだか苛々してくるから」

「んー」

 

 意趣返しだろうか、桂花が身内という言葉を妙に強調させて言う。明らかに不機嫌そうな声色を気にした様子もなく、荀諶は口を尖らせて宙を仰いだ。そうして間をおいた後に、荀諶の表情がにへらとだらしなく崩れる。

 

「そうね、桂花ちゃんと会うのも数年ぶりだもの。それにしても、あーあ残念。桂花ちゃん身長、伸びちゃったねぇ。もう私と同じくらい?」

 

 物静かで、正しく才女といった風情であった彼女はもう見る影もない。毅然としていた張りの有った声色も、いくらか間延びしている甘ったるいものへと変わっている。

 

「……やっぱり、さっきの口調の方がまだよかったわね」

 

 荀諶がおもむろに近づいて頭に手を伸ばしてくるのを、桂花は舌打ちしながらも乱暴に手で払いのける。鳥肌立ってるわ、と忌々しげな表情で腕をさすって、荀諶から距離を取った。

 

「変に敬語を使うなといったからって馴れ馴れしくしていいって言ったつもりはないわ。あんたみたいなのに触られて変態が移ったらどうしてくれるのよ」

「そうは言うけど、桂花ちゃんだって曹操さんに随分とお熱じゃない。曹操さんもちっちゃくてかなりの美少女だったしー」

「はぁっ? 一緒にしないでくれる! あんたと違って顔立ちがいい年若の女だったら誰でもいい訳じゃないの! 私がお慕いしているのは華琳様だけなんだから!」

「桂花ちゃんってばここ数年はずっとそうよね。(むら)にいた頃から私が遊びに行くと、普段は出不精な癖にすぐどこかへいなくなっちゃうんだから。ちっちゃい頃から随分と可愛がってあげてたのに、どうして私に懐いてくれないかなあ」

 

 その言葉を聞いた桂花の表情がこれ以上ないほどに歪んだ。荀諶にとって微笑ましくも美しい思い出は、桂花にとっては思い出したくもない記憶であったらしい。

 はたかれた手をこれ見よがしにふーふーと吹いていた荀諶だったが、突然の豹変を目の当たりにしてしまって呆然としている拓実を見るなりにその口元が弧を描く。

 

「それにしても、ふふ。顔つきは結構違うみたいなのに、本当に桂花ちゃんそっくり。二、三年前ぐらいの桂花ちゃんの身長しかないし、私的に大正解!」

「ねぇ、ちょっと桂花。こいつ、どうすればいいわけ?」

 

 おいでおいでとばかりに手招きする荀諶に、拓実は困り果てる。あまりに軍議の時とは印象が変わってしまっていてどう応対していいものかわからない。

 今も「こいつ」とぞんざいに呼びかけたことに反応してなのか、妙に熱のこもった目で見つめられている。

 

「放っておきなさい。いい? こういう輩は反応すると増長させるだけよ」

「そ、そう」

 

 経験則だろうその言葉に従って、拓実は一歩分距離を取り、よたよたと桂花の傍に寄り添った。

 どうやら彼女は公私の区別をしっかりとつけているらしく、軍議の時とはまるっきり印象が違う。どうやら桂花が言っていた「とんでもない変態」とは今の彼女を指してのことなのだろう。

 

 お陰で彼女がおおよそどういった人物かを掴みかけているのだが、相手を知るほどに拓実の中では違った意味で警戒が強まっている。というのも、事前に桂花に聞いて半ば予想していたことではあったが、拓実もまた『可愛らしい小さな少女を好む』荀諶の標的にされているらしい。奇しくも、拓実の知る西新井会長と同じ嗜好をお持ちなのである。その顔つきが似通っていることもあって、本格的に血の繋がりか生まれ変わりかを疑わずにいられない。

 

「も~、ひどい。子猫とか見ると力いっぱい撫で回して、もみくちゃにしたくなるのと同じなのに」

「こっちはそれで充分に迷惑を被っているのよ! ……はぁ、もういいわ。話を戻すわよ。時間がもったいないから率直に訊くけど、あんたの狙いは何なの?」

「別にぃ。可愛い可愛い桂花ちゃんに無理に何かしてもらおうだなんて思ってないよ。あ、偶然、今思い出しちゃったけど、私が朝廷に仕官してからも欠かさず年二回は送ってる文に桂花ちゃんが一度も返書してくれないことに私は文句言ったりしないし、『あんた』とかばっかりで預けた私の真名をほとんど呼んでくれないとか、こんな可愛い子がどういうわけか私の名前を名乗ってることを教えてくれなかったのは薄情通り越して不義理よねー、なんて思ったりもしたんだけど、私はそこまで気にしてないし」

「なんなのこいつ、めんどくさい」

「……よくわかったでしょ。だからこの変態とは関わりあいたくないのよ」

 

 反射的に出てしまった嘘偽りない拓実の本心からの発言。相槌をうった桂花の顔もまた苦々しく歪められている。間違いなく拓実も同じような表情をしている筈だ。

 よほど荀諶の相手をすることを苦手にしているらしい。その彼女はと言えば頬を膨らませ、拗ねた表情を作って桂花のことをちらちらと伺っている。

 

「わかったわよ! あんたの送ってくる年二回の文には返書するようにすればいいのね!?」

「も~、『あんた』じゃないでしょう? 私の真名は?」

「ちっ……楠花(ナンファ)。これでいいんでしょ!」

「む、可愛いことは可愛いんだけど、身長が私と同じくらいになっちゃうとどうしても破壊力が落ちちゃうねー。桂花ちゃん、上目遣いでもいっかいお願い」

「お断りよ、死ね!」

「あらら、桂花ちゃんってばそんなこと言っちゃってもいいのかな? 私にお願い事しにきたんじゃないの?」

 

 怒鳴りつける桂花に、荀諶はにやにやと嫌らしい笑みを浮かべてみせる。見る間見る間にコロコロと表情が入れ替わっている。見ていて楽しくなるぐらい感情表現が大げさで、いくらかは意図的にやっている部分はあるのだろうがどうにも憎めない。

 

「まさかとは思うけどこの私の弱みにつけこむなんて性根の腐った真似、するつもりじゃないわよね? そんな下種人間の真名を、私が呼ぶと思う?」

「あは、あはは。そんなまさかー。だから、ね? 桂花ちゃん謝るから、そんな寂しいこと言わないでよ」

 

 そして流石は親族というところか、毒舌桂花の苛烈な言葉も荀諶には通用しない。彼女にとっては威嚇する子猫ぐらいにしか見えていないのかもしれない。手の平の上で遊ばせているというか、どうにも堪えた様子は見えない。

 このままでは三国志で頻発する『憤死』してしまうのではないかという程に、会話を重ねる桂花の顔が怒りで真っ赤になっていく。見かねた拓実は、呆れた様子で二人の会話に割り込んだ。

 

「ねぇ。そろそろ完全に日が暮れるんだけど。このままあんたら二人で旧交を温めているようなら、あんまり調子もよくないから私は先に休ませてもらえない?」

「あ、ごめんね。それじゃ本題に入りましょう。ええっと、キミのことを聞きたくて呼ばせてもらったのだけれど、まず私はキミをなんて呼べばいいのかな?」

 

 にこにこと笑みを浮かべて問いかけてくる荀諶を前に、拓実は少しの時間押し黙った。荀諶をじっと見つめて悩む様子を見せてから、ゆっくりと口を開く。

 

「拓実、とでも呼んでくれたらいいわ」

「拓実!? こんな変態に真名を預けるつもりなの!? 絶対後悔するわ、考え直しなさい!」

「既に捨てた名とはいえ、荀攸の名を名乗って要らぬ迷惑を掛けているのは私じゃない。まぁ癖はありそうだけど見る限りそんなに悪い人間ではないようだし、どういう意図があったにせよ私の身元を保証してくれたみたいだし。勝手に姓名を預かった私を彼女が許してくれるというのなら、私から彼女に名を預けるのが道理でしょうが」

「ぐ……」

 

 感情的に声を上げた桂花を静かに嗜める。何かを言い募ろうとした桂花も拓実の正論を前に言葉を飲み込んだ。

 勿論、額面通りの理由で名を預けた訳ではない。流石に本人を前に『荀攸』と呼べと言うほど傲慢にはなれないというところが大きいのだが、そうなった理由を説明出来ない為に後付けしたに過ぎない。

 加えて、反りの合わない桂花と荀諶でさえ真名で呼び合っていることからわかるように一族の者同士が真名を預けていない事例は少ないだろうという打算もあれば、礼に(あつ)いという印象を荀諶に刷り込むことの出来る機会でもある。

 

「ふふ、ありがと。それじゃキミのことは拓実ちゃんって呼ばせてもらうね。拓実ちゃんも私のことも真名の『楠花』って呼んでね? あ、『楠花お姉ちゃん』って抱きつきながら呼んでくれるとお姉ちゃん嬉しいんだけど」

「で、楠花? 私のことを聞きたいってことだけど、自己紹介でもすればいいの?」

「もう、そういうそっけないところも本当に桂花ちゃんそっくり! ギュってしてもいい? 駄目かな?」

 

 そっけない拓実の応対に何を感じたのか頬を染めて身をよじっている荀諶。それを目の当たりにして拓実と桂花が汚い物を見るような目で見てくるのがまた堪らないようである。

 拓実たちが嫌がっているのを見て喜んでいるのだから一々反応しなければいいのだが、あまりに明け透けに変態的な反応をするものだから、荀攸としても胸の内から湧いて出てくる嫌悪感をどうにも抑えられない。

 

「あんたに付き合ってると本当に話が進まないじゃない! もう私が説明するから口を挟まないで黙って聞いてなさいよ!」

「桂花ちゃんがそういうなら黙って聞いてまーす」

 

 悪びれもせず、目を輝かせて子供のように手を挙げる荀諶の姿に、拓実は酷い疲労感を覚えた。

 小細工を弄しても大した手応えは感じられない。のらりくらりとしている様は正に暖簾に腕押し、糠に釘。おまけにどこか達観しているような雰囲気から、心を見通されている錯覚を覚えてしまってやりにくい。常人に通じる話術が通用しにくいとなれば、桂花が苦手にするわけである。

 

 

 

 

「拓実ちゃん、その若さで随分と波乱万丈な人生を送ってきたんだねぇ……」

 

 桂花より一通りの説明を、言われたとおり黙って聞いていた荀諶は驚きやら痛ましさやらが混在した視線を拓実へと送っていた。

 

 拓実と桂花はこの場に呼び出される前に打ち合わせて荀攸の『カヴァー・ストーリー』を仕立ててきていた。その内容はこうである。

 ――平和な故国で不自由なく暮らしていた拓実は、ある日に人身売買目的で拉致されてしまう。そこはなんとか持ち前の知恵と機転で奴隷商人を出し抜いて逃げ出すことに成功した拓実であったが、不本意にも異国である大陸に放り出されてしまう。

 仕方なしに食い扶持を稼ぐためにも職を求めて放浪していたところ、容姿が似ていることで桂花の目に留まり、その要領の良さを見込んで補佐官として雇われた。大陸の名前を持っていない拓実に、桂花が自身に似た容姿をしているからと荀家一族である荀攸の名を与えてやり、働かせているうちに華琳の目にも留まって軍師としても働くようになった――。

 と、簡単に纏めると以上が桂花と共に作り上げた『拓実が荀攸と呼ばれるようになった経緯』であるのだが、南雲拓実の境遇から見ても当たらずとも遠からずといった経歴である。

 桂花曰く「一から十まで嘘をつくより、真実に一部嘘を混ぜたほうが信憑性があるでしょう」とのこと。確かに拓実としても、その方が感情移入しやすく演じやすい。

 

「でも、桂花ちゃんとそっくりな性格や口調、それにわざわざ同じ服装にまでしているのはまたどうして?」

「あの下劣で汚らわしい、品性なんて概念があるのかも疑わしい男どもに襲われて異国に攫われてきたのよ!? 拓実が男という生物に見限りをつけて当然じゃない! まあ、だから、男嫌いの私を真似ていれば男は好んで近づかないだろうってことで、そう振舞わせているのよ。どうも、数年の間もやらせていたら思った以上に私の真似が板に付いちゃったようだけれど……」

「確かに、桂花ちゃんの男嫌いは隣の邑にも周知になるほどだったもの。美少女にはうるさい私から見ても余裕の合格点あげられる、名家出身才色兼備のお嬢様だっていうのに、男連中は声も掛けなければ近寄りもしてなかったし。そういえば桂花ちゃんぐらいの歳なら許婚はもちろん旦那様がいても全然おかしくないのに、浮いた話の一つすらも聞いたことがなかったものねー」

「許婚だの旦那だの、あんまり怖気を覚えるようなことばかり言わないでよ!」

 

 荀攸の経歴の中で、桂花そっくりの服装と性格、口調の理由付けが一番苦しいと思っていたのだが、当の荀諶は会得がいった風に頷いている。

 拓実はもう慣れてしまっていたが、改めて桂花の根深い男嫌いを再認識する。周辺の村にまで周知徹底されているほどの男嫌いなんて筋金入りなんてものではない。もっとも今現在、当の桂花は男である拓実に寄りかかられて、抱きつくような形で肩を貸している状態なのではあるが。

 

「それに何を人事みたいに言ってんのよ。男嫌いはあんたも同じでしょうが。広まってたのだって、『荀家は女系一族なのに揃って女好き』って噂だったじゃない!」

「ちょっと桂花ちゃんってば。誤解があるようだから言っておくけど、私は小柄で可愛らしい美少女の姿をしていれば例え性別が男であろうが全然構わないわよ。……まぁ、まだ私の眼鏡に適うような可愛らしい男の子なんて奇跡には今の今までお目にかかったことはないけどー」

「それ余計に性質が悪いと思うんだけど、どうなのよ?」

 

 思わず拓実も口を挟んでしまう。脳裏に浮かんだのは、美少女が好きだと言って憚らないくせに異様に拓実に構ってきていた西新井会長の姿である。

 それに聞き逃すところだったが、一族という括りで噂になっていたということは他の荀家の面子も女性なのに似たような性的嗜好を持っているらしい。何だか精神的にげんなりしてきた拓実はこほんと一つ咳払いをした。

 

「で、話を戻させてもらうとたまたま桂花にそっくりで証明できる身元がなかったから、勝手ながら荀攸と名乗らせてもらっていた訳。そのあたりの文句は発案者の桂花に言ってちょうだい。私はこの子にそうしろって言われただけだから」

「こいつ、迷いなく私を売ったわね……。誰の為にこんなことになってると思ってるのよ。この恩知らず」

 

 拓実が荀諶に弁解するようにして肩を貸している桂花を指で指してやると、指の指した先から憎憎しげな声が返ってくる。その言葉を聞いて、拓実も反射的に眉を寄せる。

 

「何よ、売っただの恩知らずだの人聞きの悪い。私のことで骨を折ってくれたことには感謝はしてるし、日頃一緒に食べてるお菓子だって私なりに悪いと思って七割方出資してるじゃない。けど、それとこれとは話が別でしょう。あんたが指示したのは紛れもない事実でしょうが。どこか間違いでもあるなら指摘してみなさいよ、きっちり論破してあげるから」

「あー、ああ言えばこう言って! あんたやっぱり最近調子に乗ってるようね! 今回は退いてあげるけど、精々、庭を歩く時は足元に気をつけるがいいわ!」

「それで私が落とし穴に落ちるようなことがあったら、あんたこそ自分の寝台にナメクジやらカエルやらが紛れ込まないことを祈ってなさいよ。私は触りたくないけど、許定に頼めばやってくれるでしょうしね」

「ば、馬鹿じゃないのっ!? 前に読み書きを教えてる子供に二人して悪戯された時、以後この手のは禁じ手って取り決めしたでしょ!?」

「桂花、抑止力って言葉は知ってる? 強大な武力は、早々使えないとしても保有しているだけで効果があるんだから」

「ふふっ」

 

 ぎゃあぎゃあと甲高い声で醜い口論を始めた拓実と桂花。そんな二人をまさしく呆然とした様子で見ていた荀諶が笑い声をこぼした。何故笑われているのか、言い争っていた拓実と桂花は二人揃って怪訝な顔で荀諶に振り向いた。

 

「二人とも、随分と仲良しねぇ。桂花ちゃんがそんなに楽しそうに言い合いしているのなんて、初めて見たかも。変わったねぇ」

「あんたの目は節穴なの!? これのどこが楽しそうに見えるってのよ!」

「あらら? 桂花ちゃんってばもしかして自覚なし? まぁそれはそれでいいのだけれど。変えたのは曹操さんか、それとも拓実ちゃんなのかな」

 

 どうやら、喧嘩しながらも肩を貸してやるのを止めたりはしない桂花と、負い目があると言いながらも遠慮せず反論する拓実の姿が仲良しこよしに見えたようである。

 確かにこの程度の言い争いなんて日に二度三度とやっていることであるから深刻なものでもなし、ちょっとした遊びのようなものだ。よくよく目撃している華琳たち城の人間にしてもじゃれあっている程度の認識だろう。

 

「あ、ちなみに拓実ちゃんが荀攸を名乗っていることだけど、私としては別に捨てた名前だしね。拓実ちゃんの事情を聞かせてさえもらえば、特別にどうこう言うつもりはないんだけど~」

「な、何よ? 『けど』って」

 

 尚もぶちぶちと文句を垂れている桂花を放って、荀諶は自身の下唇を人差し指でうにうにと押しながら、ちらちらと拓実を見ている。

 荀諶の妙に歯切れの悪い言葉と思わせぶりな態度、期待に満ちた瞳を向けられ、関わりあいたくないのが表に出てきてしまった拓実は思わず腰が引けてしまう。

 

「折角こんなに桂花ちゃんそっくりで可愛い子と親戚になれたんだし、拓実ちゃんとは仲良しになりたいなーなんて。という訳で、文通から始めない?」

「ぶ、文通? まぁ、別にその程度のことだったら付き合ってあげないこともないけど。でも、私も忙しいし精々桂花と同じぐらいの頻度になると思うけど、それでも構わないの?」

「それは勿論。ふふ、それじゃ決まりね。桂花ちゃんに文を送る時に拓実ちゃん宛ても一緒に送るから、ちゃんと返信してね? あ、桂花ちゃんも今度は忘れちゃ駄目よ?」

「別に忘れていたわけじゃないけど、今回みたいな行き違いがあっても面倒だから今後は暇を見て返すようにするわよ。ただ、あんたのとこは知らないけどうちに届く書簡は基本的に検閲が入るようになっているんだから、前みたいにあんまり破廉恥なことやら馬鹿なこと書いてくるようなら絶縁も検討するからそのつもりでいなさい」

「その件については前向きに善処しますわ」

 

 おどけた様子で返事する荀諶。心底嬉しそうな彼女を見て、どうして拓実のことを気に掛けてくれていたのか、おぼろげながらに理解する。どうやら荀諶は桂花とじゃれあいたかったことに加えて、美少女に見える拓実との伝手を作りたかったようである。

 

「ふふふふ……」

 

 朗らかに、しかし含みのありそうな笑みを浮かべている彼女を前に、拓実と桂花は二人で重くため息をついた。

 

 

 

 

「ご愁傷様ね。あんたあの変態にかなり気に入られたみたいよ」

「……はぁっ?」

 

 そうして時間にして三十分ほどの立ち話を終え、篝火に照らされている陣の中を天幕へと戻っているその途中。拓実に肩を貸している桂花が、突然にこんなことを言い出した。

 なんとか荀諶との面会を乗り切って一息ついていた拓実は面食らい、すぐには桂花の言葉の意味が理解できなかった。数秒程遅れて、驚きの余りに目を見開く。

 

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 気に入られたって、私が? 楠花に? 話してただけで別に何も特別なことはしてないじゃない! 『小さな少女が好き』って言っていた奴じゃないの?」

「もう、そんな生易しい段階じゃないわね。会ってすぐに、楠花の口調が『身内』用に変わったでしょう? あの気色の悪い性格、文字通りあいつが身内と認めた人間の前でしか絶対に出さないわ。袁紹のところであいつと一緒に働いていたのはほんの数ヶ月の間だったけれど、私と二人きりの時以外にあの性格を出したのを見たことがないもの」

「……そ、そうなの?」

「今回は私から促してみたけど、もしも他の面子がいたなら『いったい何を言っているのですか?』なんてそ知らぬ顔でとぼけてるところね。実際に顔良と三人でいた時に話を振ったらそんな感じだったもの。邑の女以外であの変態振りを目にしたのって実は拓実が初めてじゃない? ……ま、対外的には一応、あんたも荀家の女だから間違ってはないんだろうけど」

「ん、う~ん……?」

 

 素直に喜んでいいのか、危険人物に懐かれてしまったらしいことを悲しんでいいのか拓実には判断がつかなかった。眉根を寄せて目を瞑り、首をひねっている拓実を見ている桂花がにやりと意地悪そうに口の端を吊り上げる。

 

「ともかく、ちょっと会っただけのあんたが、私と同じくらいには気を許されてるってこと。ま、私よりも身長が低いから、そのうち拓実ばかり構うようになってくれるかしらね。今ほど背が伸びて良かったと思えたことはないわ」

 

 肩の荷が下りたと言わんばかりにいい笑顔を向けてくる桂花のことを、拓実がぶすっとした顔で睨みつける。やはり、好かれる相手は選ぶべきなようである。彼女に好かれることで何かしらの厄介事がついて回るのだろう。

 

「……ところでご愁傷様だなんて言っていたけど、楠花に好かれて何か不都合なことでも起こるわけ?」

「あんた、文通するとか気軽に言ってたでしょ。あいつは一回に竹簡で三本分は送りつけてくるのよ。中身は兵法書の解釈、大陸の世情、政治の良し悪しについて、流行の衣服や話題の甘味やらとあっちこっちに話題が飛んでてまったく統一されてないし。おまけに全部の話題に何かしらの所感を書いて返さないと、触れなかった話題についてだけで詳しく語ろうと別に書簡を送ってくるようになるのよ」

 

 続けて桂花は「ちょっとした記述試験でも受けさせられている気分になるわよ。それも特に興味もない分野のね」と吐き捨てて渋面を作った。別に筆不精というわけでもない桂花が荀諶に一切の返書をしないのはそういう理由があったようだ。安請け合いしてしまった拓実にしても既に今から億劫になっている。

 

「あとは、そうね。立場柄、顔を合わせて話すことはそうあるとは思えないのだけど、相対した時はあいつとの距離も気をつけておいた方がいいわ。あの変態、気に入った女相手には積極的に触れてこようとするの。捕まったら最後、力いっぱい抱きしめられて頬擦りやら口付けしてくるから」

「完全に変質者じゃない」

「故郷の邑でも幼子を決して一人で歩かせないようにしろだなんて触れが出るほどの変質者よ。流石に今回は拓実が大怪我しているようだから自重していたようだけど、次はわからないわ」

 

 なるほど、近隣の邑々にも知れ渡る訳だ。荀家変態一族説がいよいよ濃厚になってくる。同時にその一説の何割かは今拓実の左側にいる人物に由るものであろう。

 

「まぁ後、これは妄言なのかもしれないけど、容姿の整った年若の女限定で何かしらの才の有る無しがわかるらしいわね。あんたがその対象に該当するのかわからないけど、頭に入れといた方がいいわ」

「何それ? 意味がわからないんだけど。その才の有る無しってのはなんなのよ?」

「『あの子は歩き方が綺麗だから剣を持たせてあげるとちょっと強いかも』『この子は言葉選びが上手いから、外交官として鍛えればそこそこ優秀になるかも』『臀部の引き締まり方で足が速いかを見分けられるようになった』……なんて戯言を吐いていたけど、四六時中少女を観察し続けた賜物らしいわよ。聞いた時は妄言と思って真面目に取り合わなかったけど、あいつが選抜隊で指名した面子を見るとあながち間違いでもないのかもしれないわ」

「そ、そう……。ところで、何で容姿の整った年若の女限定なのよ? 女でも不細工とか年増、それに男とかは駄目なの?」

「それ以外を事細かに観察したくないし、そもそも眺めてることが出来ないとか言ってたわね。あの変態は」

「本当に真性の変態じゃない」

「だから何度も言ったでしょ。あいつはとんでもない変態だって」

 

 ぽつぽつと脱力しながら二人で言葉を交わしている最中、ふと拓実はあることを思いつくも途端に表情が曇った。えげつない絵柄が描かれているパズルの、欠けた部分にぴったり綺麗に嵌ってしまいそうなピースを見つけてしまった、そんな面持ちである。

 

「ねぇ、もしかして華琳様が行っている人材収集にとって見れば、楠花の人物眼ってこれ以上ない才能なんじゃないの? 当人の資質だけでも、軍師や文官としては有能でしょうし」

「……滅多な事を言うのはやめなさいよ。そんなこと、とっくの昔に気づいてるんだから。あいつが華琳様に仕官でもしたらあんたと私はもちろん、季衣や流琉、最悪は華琳様までが犠牲になるのよ」

 

 考えてみれば曹操陣営の中枢にいるのはタイプは違えど皆美女、美少女である。そんな中に荀諶を放り込んだらどうなるか、拓実と桂花が同族の者ということで面倒を見させられ、苦労させられる暗い未来しか浮かんでこない。

 

「なるほど。だから華琳様には、楠花のことを推挙してないのね」

「当たり前でしょう? 今回のことで華琳様の目端に留まられたみたいだけれど、あいつばかりは推挙するつもりはないわ」

 

 その桂花の判断は恐らく正しい選択である。たったの三十分ほど話をしただけだが、拓実も桂花も疲れ果てている。これが四六時中となれば、ストレスで胃に穴が空いてもおかしくない。

 荀諶。字を友若。真名は楠花。桂花や荀攸にとっての天敵であり、ある意味では華琳よりも厄介な相手であるようだった。

 

「ま、調子に乗って色々余計なことも言ったけど、拓実はそんなに気にしなくてもいいんじゃない。偶に届く手紙に返信してやるだけだもの。あいつは袁紹のところで私たちとは陣営が別なんだし、あの変態が華琳様の下に転がり込んでくるなんて余程のことがなければありえないでしょう」

「……余程のこと、ねぇ」

 

 桂花の言葉を反復し、拓実は天を仰いだ。どうにも拓実には前振りのように聞こえてしまって嫌な予感が止まらなかった。

 

 

 



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39.『連合軍、虎牢関を奪取するのこと』

 

 

 董卓軍最強の将である呂布を撃退したことで、反董卓連合軍は野戦における優位を公にしてみせた。

 とはいえ、その勝ち戦は兵数も将の数も圧倒的に連合軍に有利な状態でのことである。具体的には兵はおおよそ三倍の数で当たり、将に至っては呂布一人を抑える為に虎牢関攻略部隊に選抜された大半を結集させている。

 そんな過剰ともいえる戦力で呂布一人を封じたのは、連合軍はあの呂布であっても崩せぬほどに手強いという印象を敵方に与える必要があったからだ。

 

 呂布の武は、強者(ひしめ)くこの三国志においてさえ異常と言える。事実として連合軍の中から更に腕っ扱きを集めさせた攻略部隊の武将であっても一人二人で当たったところでは相手にならず、また千や二千の兵数などその武力の前に紙を抜くように蹂躙されてしまう。もしも初戦で呂布に思うままにさせてしまえば、反董卓連合軍など物の敵ではない容易い相手と調子付かせてしまい、董卓軍は頻繁に野戦に討って出ては呂布を投入してくることとなるだろう。

 連合側としてそれは避けたい事態である。だがそれを逆手に取り初戦で呂布を封じてみせてさえしまえば、いくら最強の呂布であっても不用意に動かせば或いは討ち取られるかもしれないという懸念を相手に与えることが出来る。そうなれば要所要所での野戦はあれども、退路を確保する為にも副将に腕の立つ張遼を伴ってとなるだろう。強固な虎牢関といえど、守る将が出払ってしまえばやりようはいくらでもある。

 

 討って出て万が一があるとなると、董卓軍は地の利がある虎牢関に篭っての防衛戦こそ良策とする。あちらの立場からすれば、先の汜水関が搦め手で取られたことを踏まえたならそう落ち着くのは見えている。

 連合軍側としてもいつ万夫不当の呂布が討って出て来るかわからないとなっては、疲弊の度合いも違えば休むべき時にも満足に休めない。それを避ける為、戦闘における優位を得る為に軍師たちが打った布石であった。

 反董卓連合にとっての最悪は、呂布が好きに討って出ては暴れまわり、張遼が虎牢関を堅実に守って手も足も出なくなることである。そうなるぐらいなら虎牢関に引きこもらせてひとまず戦線を膠着させたほうがやりやすい、とは潜入や調査に長けた兵を保有する袁術軍の周瑜の言である。

 

 

 

 少なくとも本日中に董卓軍が討って出てくる可能性は低いという軍師たちの予想の下、兵たちには早めの休息が言い渡されていた。

 撤退していった董卓軍への追撃もそこそこに夜営していた虎牢関攻略部隊の本陣ではしかし、もう半刻を待たずに翌日を迎える頃になって事態が急転した。急遽、軍師たちには緊急召集が、将軍らには即座に動けるようにと待機が呼びかけられたのである。

 

「拓実、拓実? あんたもしかして、まだ寝ているんじゃないわよね? さっさと出てきなさいってば!」

 

 あちこちに負った怪我により憔悴し、横になるなり熟睡してしまっていた拓実もまた軍師陣の一人であるから、すぐさまにその報が届いた。

 覚醒しきれずにぼんやりとしていた拓実は、先に目覚めていたらしい桂花に声をかけられてようやく思考能力が戻ってくる。急いで身支度を整えて寝床になっている天幕より外に這い出ると、かがり火に赤く照らされた桂花が待ちくたびれていた。

 

「遅い! まったく、何だって補佐官である拓実を私が起こしてやらなきゃならないのよ。肩を貸してやっているのもそうだし、代わりに荷物を持ってやってるのもそう。本来、そういった些末事はあんたの仕事でしょう!」

「ぐ……。桂花にばっかり面倒かけているのは悪いと思ってるわよ」

 

 顔を合わせるなりに文句をつけられて不機嫌になりかけるも、しかし非が己にあることを自覚している拓実はごにょごにょと歯切れ悪く言葉を返す。

 桂花も夜中に呼び出されていらついていたのだろう、今の発言が半ば八つ当たりだと気づいてか決まり悪そうにそっぽを向いた。

 

「ふん。別に短い付き合いでもなければ私だって鬼じゃないから、頼まれれば手を貸してやるぐらいは構わないわ。でも、貸しは貸し。陳留に戻った時に返済はしっかりとしてもらうからちゃんと覚えておきなさいよ。あーあ、あんた今回の遠征で私に貸しをいくつ作ったのかしらね」

「わかってる、感謝してるってば。それで? 何かしらがあったようだけど、計略担当の荀諶や諸葛亮、桂花の三人で対処しなかったということは結構な大事って認識でいいのよね?」

 

 普段五分五分に張り合っている拓実に貸しを作ってやったのが余程に嬉しいらしく、桂花はにやにやと嫌らしく哂っている。しかし当の拓実は虎牢関へと視線をやって考え事をしていて返事もおざなりなものだから、悔しがるとでも思っていたらしい桂花は拍子抜けした様子でふてくされた表情を見せた。

 

「……この後軍師連中と軍議をして決定することだけれど、まず陣を払って虎牢関に向けて出撃することになるわ」

「なんだってこんな時間に?」

 

 足首の痛みに顔を顰めながら召集場所へと歩を進め始める拓実の左隣では、桂花がもはや慣れた様子で肩を貸してくれている。こんな夜中に出撃だなんて余程のことだ。何があったのかと拓実が目で問いかけると、彼女は「は」と小さく息を吐いて鼻白んだ。

 

「虎牢関は今、もぬけの殻よ」

 

 

 

 

 虎牢関は汜水関と同じく峡谷を塞ぐように聳えている要塞であり、その防衛力は大陸でも有数である。真っ向から攻めかかって陥落させるにはあまりに連合軍に分が悪く、汜水関での勝ち戦のお陰で兵数こそ上回っているものの、その程度の有利を頼みに正攻法を取っていては歯も立たない。

 それを予測していたからこそ周瑜と鳳統が知恵を絞って呂布を釣り出し、荀諶・諸葛亮・桂花の三人が綿密に段取りを組んで、撤退に追い込んだ呂布の部隊に細作を紛れ込ませたのである。

 拓実は軍議では怪我の為に朦朧としていたので、攻略作戦の仔細について定かではない。しかし聞いた記憶の限りでは潜り込ませた細作による情報操作で士気を削ぎ、糧食を焼いて、内応を促しては離反を狙うといった数日の時を要するものである。少なくとも、敵兵を一夜にして退却させるといった電撃的な策ではなかった筈だった。

 

「つまり、今回の敵方の動きはこちらが意図して引き起こしたものではないということ?」

「そういうことになりまひゅね。はっ、はわわわ、しゅいません!」

「しゅ、朱里ちゃあん……」

「……」

 

 軍師たちが雁首合わせている天幕の中、確かめるような拓実の質問に、表情を引き締めた諸葛亮が真摯に返答する。だが、残念ながら口がついてきていない。

 ふざけている訳ではないことはこれまでの軍議でも幾度か噛んでいたことで知れている。本人とその友人の鳳統ばかりが赤面するだけで皆一様に見て見ぬ振りを決め込んだが、いささか場の緊迫感こそ薄れてしまうのは避けられないようではあった。

 

「はぁ。それにしてもあの虎牢関を捨ててまで退却するだなんて、いったいどのような意図があるのかしらね。虎牢関一つと比べたら洛陽までの残る十数の関を全部合わせたって、それこそ雲泥の差があるっていうのに」

 

 拓実が桂花の言葉を聞きながらも虎牢関内部に潜入していた細作からの報告書に目を通してみれば、どうやら守将である呂布と張遼がすぐさまに動ける四千程度の兵を引き連れ、慌てて都へと撤退していったとのこと。

 それに遅れて、虎牢関に置いていかれた兵士たちも取るものも取らずに退却を始めている。いくらかは悟られぬようにとは隠蔽しているのだろうが、虎牢関方面から流れてきているざわついた空気は離れたこの場にいても感じられる。まず、退却自体は偽りのないことと見てよさそうではある。状況から得られる情報を整理しても、董卓軍は洛陽への最後の防衛線とも言える虎牢関を自ら放棄していた。

 

「どのような意図があったとしても、退却自体が真実であるなら攻略に相応の犠牲は必至であった虎牢関を労せず得られることになります。当然、関に乗り込むにはそれなりの注意が必要ですが、間違いなく連合にとって大きな益と言えるかと。例え罠であったとしても進まない手はないでしょう」

「連合軍を釣り出す為の敵方の罠であるか、或るいはやつらの本拠である洛陽の都で何事かの不測の事態が起こったか。現時点で可能性として考えられるのはおおよそこのどちらかといったところか」

「前者にしては今回の撤退はあまりに拙過ぎまする。加えて、もし後者であったとしても、その不測の事態とやらがこちらに利する出来事であるとは限りませぬぞ。名目上、董卓めの横暴から帝様をお救いすることを目的に連合を組んでおりまするが、董卓めが都を掌握している以上、悠長に構えていれば我ら連合はまとめて朝敵と認定されかねませぬ」

 

 諸葛亮の失敗からは持ち直したらしい鳳統、眼鏡を正して無表情に意見を述べる周瑜、男女の比率が著しく女性に偏っているこの場で珍しく中年痩せぎすの男性である沮授。

 三人がしている問答は概ね他の面子の思考をなぞっていたようで、それぞれ発言ごとに同意を示すように頷いて見せている。拓実としても特に気にかかることもなければ言うべきこともなし、その他の軍師たちから続く発言もない。あらかた意見が出尽くしたのを見た荀諶がすっと立ち上がった。

 

「ともかく、座して敵の出方を伺い、絶好の好機を逃す愚だけは避けねばなりません。罠があることを前提に兵を進軍させましょう」

「……ふむ。どうやら進軍意見自体に異論はないようだな。では関門の開放に潜入工作の得意な袁術隊を先行させるべきと見るがどうか?」

「そうですね。周瑜殿、お願いします」

「確かに承った。ともかく今は時が惜しい、私は一足先に細作らの指示へ向かおう。攻略部隊の指揮については各々方にお任せする」

 

 先立って周瑜が立ち上がる。卓に着いていた他の者もまた頷き返しては席を立つ。

 

「今回の進軍に際しては全隊の指揮を取る者を決めている間も惜しい為、田豊殿と沮授殿に務めていただきます。とりあえず当座の分担を。荀彧殿は物資の運搬指揮。荀攸殿は我らがこれより進軍する旨、総大将の袁紹様と各諸侯への伝令手配を願います。諸葛亮殿と鳳統殿を中心に、各々方は各隊将官への指示をお任せします。私荀諶は部隊内での連絡役として動きますので、周知させる情報の伝達等ありましたら私までお願いします」

 

 それぞれが逸早く役割を果たす為、足早に天幕より辞していくのを拓実は椅子に座ったまま見送る。荀諶は足に怪我を負っている拓実を(おもんばか)ってくれたようで、移動しなくてもこの場でこなせる仕事を回してくれたようだった。

 

「それじゃ、私は行くから拓実もしっかりやんなさいよ」

「わかってるわよ。あんたもね」

 

 ぽん、と肩を叩かれて、拓実と桂花は二人顔を見合わせてにやっと笑う。彼女がそのまま天幕より出て行くと入れ替わりに兵士が入ってきて、拓実の姿を見つけると声を掛ける前にあちらから御用伺いしてくる。どうやら桂花が行き掛けに声を掛けていってくれたようだ。

 一人では天幕の外まで歩くのも億劫だったのでありがたい。これは本当に、陳留に戻ったら何かしらで恩を返した方がよさそうである。

 

 いくらかましになってきたとはいえ片足を捻挫し、利き手の骨にヒビが入っている拓実は碌に動けもしなければ、文字を書くことも侭ならない。

 書簡作成の為に筆と墨の用意、代筆の人間を呼ぶよう兵士に指示を出し終えてしまえば、基本人任せになる拓実はそれらが届くまでは暫らく手持ち無沙汰となった。何の気なしに、拓実は天幕内に残った荀諶と田豊、沮授の三人に視線を巡らせる。

 

「……うむ、うむ。やはり、見た目おっさんの沮授が総指揮を執って年若の女子たちを顎で使っていては体裁が悪かろ。総指揮はワシが執るから、沮授にはワシの補佐を頼もう。ま、軍師連中では、年嵩がほんの僅かばかりとはいえ上なのはワシじゃろうしな。それにワシが間に入っては、いくら背格好に見た目が童女(わらしめ)のように瑞々しいといっても中には声をかけにくい者もあろう?」

 

 灰色をした前髪を眉の上で揃え、横や後ろを肩口ほどの長さでおかっぱにしている十ほどにしか見えない少女が、その容姿に似つかわしくない言葉遣いで中年男性の沮授に指示を飛ばしている。

 彼女の名は田豊――ここに集まった軍師たちの中でも一際小柄な彼女は、聞くところによれば少なくとも齢四十後半、おそらくは五十以上であろうという噂の年齢不詳の人物である。老けて見える沮授でさえ四十半ばという話であるから、噂が真実ならば軍師たちの中での最年長はまず彼女である。

 

「承知。それでは私は各方面から上がってきた情報を纏めることに注力致しまする。収集は荀諶殿に一任し、取捨選別は私めが、決断は田豊殿にお任せ致しましょうぞ」

「ええ、そうですね。他の者も老練な田豊殿が後ろに控えているとなれば安心されるでしょう」

「うむ、任せる。しかしさらっと老練だとか歳を感じさせるようなことを言うな、そこな小娘」

 

 痩せぎすの男――沮授がいそいそと退出していく。残る荀諶と田豊は天幕に残ったまま今後の展望について話し合っているようだが、同じ陣営で気心が知れている様子だというのに荀諶は折り目正しい口調のままである。実年齢はともかく背が低く極度の童顔、幼女にしか見えない田豊は荀諶の『奇特な趣味』ど真ん中の存在であるだろうに、薄っすらと微笑を浮かべて立ち振る舞いも崩れず涼やかだ。

 

 先刻に見せた荀諶のあの甘ったるい口調、ふわふわした得体の知れない性格の一切を決められた相手以外には見せないという桂花の言葉は、どうやら紛れもない真実であるようだった。

 冷静沈着、凛とした様子の目の前の彼女と、相手をすれば面倒くさい、出来ることなら関わり合いにはなりたくない素であろう彼女との落差はあまりに酷い。まったくもって同じ人間だとは思えないもので、実は双子だったとでも言われればつい信じてしまうかもしれない。

 拓実としては大抵人柄の変わりように驚かれる側だった為、荀諶の変わりようはどうにも新鮮である。街頭アンケートなどと偽って詐欺を働いていた男女を観察していたことはあれど、自然体で表裏の差がこうも激しい人物とはこれまで出会ったことはない。華琳たちも自身に対してこのような思いをしていたのかもしれないと他人事のように感心し、拓実は興味津々に二人の様子を眺め見ていた。

 

 

 

 方針さえ決まってしまえば攻略部隊の動きは迅速である。夜半の唐突な進軍命令であっても優秀な将官の指示により隊列を崩すこともなく、すぐさまに陣を引き払って虎牢関へと乗り込んだ。

 昼に攻め寄った時にあった矢の牽制もなければ守兵による抵抗もなく、関門は先行していた袁術兵によりあっけなく開かれる。どうやら事前に手に入れていた情報の通り最低限の兵すらも残さずに退却していった後であった。周瑜らが懸念していた罠の存在も確認できずじまいで、虎牢関を予想より遥かに少ない時間と犠牲とで手に入れた攻略部隊はすぐさま後続の連合軍本隊と合流する。

 

 虎牢関の占領達成――それはつまり、攻略部隊としての役目を果たし終えたということであった。大陸屈指の人員が集められた虎牢関攻略部隊の活躍は呂布を撃退しただけの一戦に留まり、その実力を十二分に発揮することもないまま結成から僅か数日を以って解体となったのである。

 部隊に参加した武将への伝達はもう終えてあった。今頃配下の二千の兵率いて、それぞれ自軍との合流に向かっていることだろう。そして、残る軍師たちは総大将の袁紹に各諸侯らの前で報告するようにと召集されていた。

 それを終えて天幕より出てくると空には遠く日が昇り始めていて、山の端を明るく染めている。一仕事終えた様子で息を吐く面々を見渡した田豊が、その小柄な体躯に合わせて特別に作らせただろう文官服を正し、頭を下げた。

 

「すまんの、お主らには嫌な思いをさせた。うちの我侭姫はいささか思慮が足らん。再三ワシや沮授からも言っておるんだがのう」

 

 続いて「郭図はまだしも、審配と逢紀の二人が姫を甘やかせ過ぎたわ」と一人ごちた。普段であればその童顔と小柄な体躯が手伝って女童ほどに幼く見せている白髪のおかっぱ頭が、こうして苦悩しているとくたびれた老女のようにも見せる。

 

 彼女の言う我侭姫とは間違いなく袁紹を指していた。彼女以外に、報告に居合わせた面子で聞く者の神経を逆なでするような発言をした者はいない。夜中に起こされて夜更かしは美容の敵だのと一人憤っていた袁紹は、夜通し兵に指示を出していた軍師たちの前で「聞いてみれば碌な働きをしてませんわね。こんなことならわたくしの軍だけで何とかなりましたのに」などと言ってのけたのである。

 肩書きこそ総大将となってはいるが、各諸侯から集められた将兵は袁紹の配下という訳ではない。本来ならば総大将として尽力した者たちには労いの言葉の一つでもかけて然るべきであって、間違っても役割を果たしてきた者たちに文句を垂れる場面ではなかった。そこに思い至らない袁紹に、腹心である田豊がここにいる軍師たちの誰よりも呆れた様子を見せている。

 

「何。田豊殿の手前こう言ってはなんですが、袁紹殿があのような物言いするのは予想できていたこと。彼女がなんと言おうとも、我らが呂布を退けたことも事実なら堅牢な虎牢関を両日で占領するに至ったのもまた事実。民草たちに興味を惹かせ、我らの名を噂の種とさせるには充分な働きだろう」

 

 周瑜の取り成しに、田豊が感謝を表すようにまたも頭を下げる。その中で面白くなさそうな様子で口を開いたのは、周瑜の発言を険しい表情で聞いていた桂花である。

 

「ちっ、満足気な顔しちゃって。そりゃあんたたち――周瑜と鳳統の二人はいいでしょうよ。存分に知略を尽くして呂布の釣り出し役を見事に果たして見せたんだから。私と諸葛亮は虎牢関に揺さぶりをかけて兵の離反を狙う役割だったから、ようやくこれからが腕の見せ所だったっていうのに肩透かしを喰らった気分よ。ねえ、諸葛亮もそう思うでしょう?」

「あ、いえ。その、私は何事もなく虎牢関が陥とせたのであれば、それで……」

 

 同意を求めた諸葛亮からの返答に桂花は目を見張るが、遅れて気づいた風に眉をひそめる。

 

「……ああ、そういえば諸葛亮も汜水関では大立ち回りしてたわ。荀諶も発案やら指揮やらで何だかんだと面目が立つ立場だし、この考えなしも軍師としては本当にありえない方法で目立ってたものね!」

 

 私ばっかり目立った功績がなくて華琳様に顔向け出来ないじゃない、などと桂花がぶつくさと垂れた文句は何故なのか拓実にぶつけられている。面倒くさいといった風に表情を歪めた拓実はじとっと睨んでくる桂花から顔を背けた。その先では、澄ました様子で周瑜が笑みを湛えている。

 

「ふ。(くつわ)を並べたのは僅かな間だったが、音に聞こえる智者の方々と弁を交わせたのはいい刺激になった。荀攸も負傷している為に目付け役に甘んじてもらったが、次に顔を合わせる時は是非にその万の兵を翻弄する智と競いたいものだ」

 

 視線を逃がした先から思わぬ方面で話題に挙げられてしまい、拓実はたじろぐこととなる。『それ』については頭を悩ませていたが、どうやら時間を経れば経るほどに困ったことになっているようであった。

 

「あのね。周瑜はなんか勘違いしているようだから言っておくけど、私は軍略をしっかり学んだわけじゃないのよ。また次に会うにしても、せめて穏便にして欲しいわ。文官の私が身の丈に合わない武勲なんてもらっても持て余すだけだもの」

 

 「ほう?」と周瑜の瞼が更に開かれた。どうにも警戒されているらしく、出てきた先の言葉も世辞にはなっていたが、微笑している彼女の目だけは鋭いままだ。

 華雄との一戦以来、荀攸は孫策に着目されている。周瑜は孫策に全幅の信頼を置いているが故に、荀攸に孫策が興味を示すだけの『何か』があると確信しているようだった。

 

 実際のところ拓実は、政務関連は(エン)州の内政を一手に引き受ける桂花から直々に学び、書庫にある農政書などは一通り目を通していたが、軍略に関しては片手に満たない冊数の兵法書を流し読んだ程度の知識しかない。荀攸に与えられる仕事は内政業務である。一刻も早く一人前の内政官となって功績を上げる必要があった荀攸に、その他に割く余力などはなかった。いくつか読んだ兵法書にしても、桂花に薦められていなかったなら手に取ることもなかっただろう。

 では、兵の統率と合わせて軍略を学ばねばならない許定はと言えば、あろうことか根本的に勉強嫌いなのである。春蘭・秋蘭との調練を通して断片的に学ぶことはあれ、書物を開いて勉強する時間があるなら警備の手伝いをしたり、住民らとの交流に充てて陳留の町を走りまわっている。それでも一部隊を率いて効果的な立ち回りをするなら困ることはないが、敵味方の兵数・配置・地形・天候・兵站などを視野に入れての戦術的な話を周瑜たちとするとして、発言を失笑されなければまず上出来といっていい程度のものである。

 

「はぁ……。今後は内政官らしく後方で政務担当として養生させてもらえないかしら。前線で兵を率いてなんて真似、今回限りで勘弁願いたいわ」

 

 少しでも警戒が解けるよう言葉を選びながら、拓実は布を巻かれて吊られた右腕を持ち上げてみる。今回は運良くこの程度で済んでよかったが、次同じことをして生きていられる気はしない。そんな本心が多分に含まれた印象操作は、しかし横から口を挟んだ第三者によって頓挫するに終わった。

 

「荀攸さん、それは、その、あまりに勿体無いと言いますか」

「うむ、諸葛亮殿の言うとおりよ。ワシも荀攸殿の戦働きは此度連合軍より選抜された将らに勝るとも劣らず見事であったと聞いておる。せっかくの才、腐らすには惜しいと思うがのう」

「田豊殿!? も、もしかして袁紹軍にはそのように広まっているの?」

 

 思わず焦りを露に声を上げてしまう。この疑問に対する答えが肯定であるなら、思ったより頭が痛い事態へと進展している。既に呂布と剣を合わせた選抜隊の武将に劣らないなどという尾ひれまでついている。完全に一人歩きを始めているこれが余所に広まっていけば、さらにひれだらけとなるに違いない。

 だが田豊からの返事はさらに予想の外にあった。

 

「いや何、兵たちからも耳には挟んでおったが、先日に諸葛亮殿と鳳統殿がまるで己が事のように教えてくれたからのう。ちいちゃな体を使って、身振り手振りで荀攸殿の勇姿を見せてくれた二人の姿はまこと愛らしかった」

「ああっ! 田豊さん、荀攸さんには言っちゃ駄目ですって言ったのに!」

「おっ、そうだったか。すまん、すまんの」

「もうっ!」

 

 顔を真っ赤にしてぷんすか怒ってみせる諸葛亮と鳳統を、悪びれた様子のない田豊があやすようにして宥めすかしている。拓実は、その光景を前に何としていいのか微妙な顔を浮かべた。

 

「……はぁ」

 

 どうやら犯人たちは身近にいたようで、おまけに善意による犯行である。おかげで拓実は真っ向から否定する訳にもいかなくなってしまった。

 もしこの場で訂正すれば、おそらく諸葛亮と鳳統のこと、素直にぺこぺこと謝り、わざわざ訂正させたことから拓実を困らせてしまっていたことに気づいて、以後しばらくはしょんぼりとするだろう。最悪は泣かれるかもしれない。

 それでも噂が払拭できればまだいいのだが、きっとそうはなってくれない。この場の面子には謙遜と取られるだけで解決にはならず、何より劉備軍が大陸各地の勢力より集まる連合軍兵たちに意図的に広めた件については、最早手の施しようがない。

 二人が落ち込むだろうことも後味が悪い。その上で効果は薄く、二人の面目まで潰すこととなる。こうもデメリットばかりとなれば拓実はもう閉口するしかない。

 

「は、ざまあみなさい」

 

 いらつきを抱えながらもどうしようもないことを悟った拓実が肩を落として意気消沈していると、そんな拓実にだけ聞こえるように隣に立つ桂花が喜色に塗れた声色でぼそりと呟いた。

 見れば、桂花はほとんど変わらない背丈でふんぞり返ってこれ見よがしに拓実を見下している。困っていた拓実に助け舟も出さずに、ずっとにやにやと笑って静観していたことに遅れて気づくと、拓実の視界が真っ赤に染まった。端的に言えば、堪忍袋の緒がぶちっと切れたのだ。

 

「はぁ? ざまあみろ!? 恐れ多くも華琳様の軍師を任されている身で、碌な働きも出来なかった癖によくも言ったものじゃない! 私を妬んでいる暇があるなら、あんたは華琳様にどう申し開きすればいいのか考えておいた方がいいんじゃないの?」

 

 痛いところを突かれた桂花は瞬時に顔を真っ赤に染めた。言うまでも無く怒りで頭に血が上ってのことである。

 

「何ですって!? 聞き捨てならないわ、誰があんたを妬んでいるっていうのよ!」

「そうじゃないの! 『軍師が剣を取って突撃するだなんて信じられない』とかそのことにばっかりつっかかってくるじゃない! 自分でしでかした事ながらそのこと自体は同感だけれど、そんなの放って置けばいいだけのことでしょう? それとも他に理由でもあるとでも言うわけ!?」

「そんなのあんたがっ! ぐ……う、うるっさい馬鹿! 死ねっ! 勝手に呂布と一騎討ちでもして死んでしまえっ!」

「な、論点を摩り替えるのは止めなさいよ! せめて私の問いかけに答えてから言い返してもらえないかしら! ほらほら、私が納得できる理由があるなら言って御覧なさい。ないのなら功績を上げられなかった妬みと言われても仕方ないわよ」

「あんた、少しぐらい黙っていられないの? 何でもかんでも訊いたら答えるとでも思ってるんじゃないわよ! この猪軍師! 考えなし甲斐性なし胸なしの癖に! 文字通りの無い乳!」

「な、無い乳ぃっ!? 何で胸の話になるのよ、馬っ鹿じゃないの!? あんたこそ、私とほとんど変わらない癖に! 残念微乳女! 発育不良の権化!」

「~~~~発育不良の権化っ!? それに、言うに事欠いて、あっ、あああ、あんたと、変わらないですってぇ!? 比べること自体酷い侮辱だっていうのに、言っていいことと悪いことがあるでしょう!? 超えてはいけない限度ってのを考えなさいよ!」

「はっ。悔しかったら一目で見分けがつくぐらい成長してみなさいってのよ。諸葛亮、鳳統! あんたたちは私と荀彧、どっちのほうが胸が大きく見える?」

 

 口汚く言い合いを始めた拓実と桂花を止めるべきか、しかし自分たちで止められるのかとはわあわ慌てふためいていた諸葛亮と鳳統は、急に拓実に名を呼ばれて目を回した。

 背中に棒を入れたように姿勢を正すと、首を痛めそうな速度で交互に拓実と桂花を見比べ始める。まともに思考回路も働いてないのだろう、ただただ言われたとおりに両者の胸部の厚みを吟味し始めた。

 

「はわわっ!? えと、あ、あの、ほとんど変わらないように見えます。でも、荀彧さんの方が僅かですけど大きく見える気が……」

「えっ、私には荀攸さんのほうが背が低い分だけちょっとだけ大きいように見えますけど、服の厚みがあるので自信は……」

「ほら、聞いていたでしょ。あんたも私も所詮は五十歩百歩の範疇よ。これが偽らざる第三者の意見……って、桂花!?」

 

 拓実の言葉を聞き届ける前に、桂花はふらりと体勢を崩す。己に向かって倒れかかってきた桂花を、拓実は怪我のない左腕で支えた。突然のことだったが桂花の体重がかなり軽かったのが幸いして、足を挫いている拓実でも一緒に倒れず何とか抱えることが出来た。

 

「ちっ……ほんのちょっとだけ言い過ぎたかしら」

 

 桂花の顔面は蒼白、白目を向いて口を半開きにしている。顔立ちが整っているお陰で何とか見るに耐えないほどではないが、少なくとも年頃の少女が浮かべていい類の表情ではなかった。どうやら残酷すぎる現実を目の当たりにして精神の均衡を保てなかったらしい。

 完全に全身がだらんと脱力してしまっている桂花を支えるに、怪我人の拓実では限界がある。とりあえずその場で腰を下ろして寄りかからせるが、拓実もそれ以上は身動きが取れなくなってしまった。

 

「あの、荀攸さん……なんで自分のことでもあるのにそんなに自信満々なんですか? あ、私も悩んでいるので……気にしないでいられるのはちょっとうらやましいです」

「あわわ、わ、私もです」

「別に、何てことはないわ。私は何をやってもちっとも大きくなりはしないものだから、開き直ってるだけよ」

 

 ある意味では核心をついている拓実の言葉に、しかし諸葛亮と鳳統の顔に影が差した。拓実がしたのは、確かに二人が望んでいた答えではなかった。しかし、目の前で堂々と諦めの言葉を口にする拓実に対し、二人は逆に尊敬の眼差しを向けざるをえない。

 

「ほう、聞いておったか二人とも。荀攸殿の考えは悪いものではないぞ。思い悩んでばっかりでは育つものも育たんからのう。ワシなんて幼い時分からあれこれ詮無き事を考えてばかりおったからこの歳でこの身なり。若いうちは余計なことを考えずにおった方がよかろ。些事というクビキを逃れた荀攸殿も、きっと数年後には周瑜殿のような大粒の果実をぶら下げてるに違いないわ」

「そ、そうなんでしゅか!? なら、きっと鈴々ちゃんは、将来は愛紗さんなんて目じゃないほどに……?」

「なるほど……頭を空っぽにすることにそんな重大な作用が。田豊さん! 是非詳しい話をお願いします!」

 

 噛んだことすらも思考の外なのか、鳳統が若干張飛に失礼なことを呟いている。諸葛亮はどこに持っていたのか、すばやく覚書用の木片と筆を取り出して身を乗り出した。意識して思い悩んでいるのが良くないという話なのに、眉根を寄せて必死に思考を巡らせ情報を吟味している。どうやら二人とも根本的に考え事からは抜け出せないようである。

 

「おおう、童らは元気よのう……」

「ふふ、流石は『南皮の幼老婆』と城下の童たちに大人気の田豊殿ですね。お年を召した方は孫ほどの年頃の子に好かれやすいとはどうやら真実のようで」

 

 その勢いに面食らった田豊が苦笑を浮かべていると、荀諶がほとんど背丈の変わらない田豊・諸葛亮・鳳統の三人を見て頬を緩めている。内面を知らねばただ微笑ましい光景を見ての笑顔と思えるのだろうが、拓実には獲物を前に舌なめずりしているかのような姿がちらついて見えて仕方ない。

 

「孫じゃと? ワシには孫はおろか子もおらんわ、阿呆め。おう小娘。先の言動も見るに、実はお主、ワシのこと嫌いなんじゃろう?」

「ええと……? 何故そう思われたかわかりませんが、決してそんなことは。袁紹様にお仕えしている理由の一つに田豊殿が筆頭軍師をされているから、ということもありますし、お人柄も気さくでお慕いしておりますけれど」

「こ、こやつ、故意に言っておった訳ではないのか。しかもいくら世辞だろうがワシが理由で袁紹軍におるとか、それはそれで気持ち悪いのう……」

 

 荀諶の発言に何か感じるものがあったのか、田豊は苦みばしった顔でべえっと舌を出した。見てわかるぐらいには、荀諶の真摯な好意を持て余しているようだった。

 一歩引いた位置でこれまでの出来事を静観していた周瑜は話が一段落したのを見て取ったか、眼鏡の位置を直しながら田豊へ向き直る。

 

「さて、各々方。このまま話して得難く貴重な時間を続けるのも魅力的ではあるのだが、もう半刻もすれば完全に日が昇ってしまう。攻略部隊が虎牢関占拠しているうちに日が変わってしまったが、諸侯の本隊は本日も洛陽へ向かって進軍することだろう。夜通し指揮していた我らもそろそろ解散しておかねば身体がもたんと思うがどうか?」

「ふむ……そうじゃな。では暫定だったとはいえ総指揮を務めたワシが締めさせてもらうぞ。皆、よくぞ働いてくれた。うちの我侭姫に代わって深く感謝を述べさせてもらおう」

 

 言って、田豊は深々と頭を下げた。

 

「ありがとう。連合の目的はまだ先にある。また轡を並べることもあるだろう。その時を楽しみにさせてもらいたい。それまでの各々の武運を祈る」

 

 田豊の言葉に対してそれぞれが礼や声で以って応を返し、そして挨拶もそこそこに解散していった。

 難関である虎牢関を越え、日が上ってからはまた洛陽へ向けての進軍となるだろう。明け方まで働いていた軍師たちはこれから自陣に帰っても数時間と眠れないだろうが、見事に役目を果たしたことで主君の面目は施せた。眠気に目を擦りながらも晴れやかな顔で自軍へと帰っていく。

 

 

 

「ねえ、そこの! そう、あんたよあんた。そっちも急いでいるところ悪いんだけど、人を乗せられるぐらいの荷車かなんか手配してくれない!? このままだと私たちだけいつまで経っても華琳様のところに帰ることが出来ないじゃない。……ええ、そうよ! 私も一緒に乗れるぐらいのを大至急でお願い!」

 

 そんな中、ぐったりした桂花を抱えて座り込んでいた拓実たちだけが取り残され、近場の兵を捕まえようと一人甲高い声を上げている。

 いくらもしないうちに引き払われるだろう軍師詰所にぽつんと二人だけで置いていかれかねない拓実は必死も必死。もちろん、他の面々がしていたような晴れやかな顔とはどう見ても程遠かった。

 

 

 



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40.『連合軍、洛陽を制圧するのこと』

 

 堅牢と名高い虎牢関を圧倒的に有利な条件で防衛していたというのに突如本拠である洛陽へ撤退していった董卓軍。連合軍はそれを追う形で、進路に立ち塞がる関所を一つまた一つと攻略していく。

 汜水関と虎牢関の難関二つを制覇した連合の士気は高く、残る関所自体が然程の物ではなかったこともあってその様は正に鎧袖一触。加えて、本来ならば逃げるばかりの董卓軍とは違い、連合軍は関所を攻略し突破をする度に負傷した兵の編成などで一時的にとはいえ足を止めざるをえない。止めざるをえない、その筈であったのだが連合軍はどんどんと董卓軍に肉薄していた。

 

 ここで恐るべきは華琳でも孫策でも、また連合でも一目を置かれ始めている劉備でもない。反董卓連合軍・総大将の袁紹である。

 関所を確保した諸侯の軍が負傷兵による再編成をしている間に、袁紹軍だけはもう次を目指して進軍を始めている。袁紹の指揮下にある兵たちは主君の言う『雄雄しく、勇ましく、華麗に前進』を遂行すべくただただ忠実に突き進むのである。

 反董卓連合軍の中でも平均以上の錬度を持つ袁紹軍ではあるが、鍛えに鍛えた曹操軍や諜報活動や工作に強い孫策軍のような特筆する強みはない。ただ他にない何かというなら、無茶な主君の命令にも唯々諾々と従う忠誠心がある。

 迷いがないだけにその行動も無駄が無い。歩兵の行軍速度で勝る曹操軍や騎兵運用に長けている馬超軍・公孫賛軍の兵士たちであっても袁紹軍に続くのが精々であり、他の諸侯などは置いていかれないようにするのに苦労している様子である。

 口にすれば突撃一辺倒である袁紹の命令は、凡策にも劣る。しかしこの一心不乱に成し遂げようとする袁紹軍の勢いを目にしては、ただ一言で愚策であると切って捨てることはできない。いつか華琳が言っていたように、袁紹は華琳や劉備が持つものとはまた違った稀なカリスマ性を持っているようであった。

 

 

 そうして袁紹軍による突撃戦法が行われている十日足らずの間、それに続く曹操軍は戦働きする余地も無い。

 お陰で、怪我を負っていた拓実も荷車の上ではあったが療養できた。捻挫していた左足と右肘は動かしても痛みを感じないところまで回復している。歩く走る、馬に乗るぐらいならもう問題がない。

 流石に右手甲の骨に入ったヒビは完治に程遠いために布と木の棒とで固定されていて、右手が使えずに日常生活に支障こそきたしてはいるが、袖の長い衣服を着ていれば怪我している様には見えないだろう。

 

 洛陽の街を望める位置に進軍するまでに、連合軍は幾度か前方で退却する董卓軍に追いつくことが出来た。そしてその回数だけ、董卓軍の殿(しんがり)部隊を撃破している。

 将にも欠いていた董卓軍は敗戦の度に統制を失っていき、洛陽へ辿り着いた時には兵たちの大半が離散し方々へと逃げ延びている。汜水関と虎牢関に兵数を割いていた洛陽の防備もだいぶ薄い状態である。

 

 調子と勢いに乗っていた先頭の袁紹は、そのまま自軍に洛陽への突撃命令を発する。それに慌てたのが後ろに続いていた諸侯である。それぞれ思惑あれど董卓を討ち取ったものは一目置かれることだろう。暴政を敷いていた董卓を倒したとなれば帝の覚えも良い筈である。

 真っ向から洛陽の東の防壁へ取り付いた袁紹軍を確認するなりに、遅れてはならじと袁術軍と馬超軍が南へと回る。そのうち突出して動いているのは客将の孫策隊だろう。同じように、拓実たち曹操軍と続く公孫賛軍は北の防壁を攻略するべく立ち回り動き始める。

 連合軍の進行方向から見て反対側となり、取り付くまで最も時間が掛かるであろう西の防壁へは劉備軍が回っているようである。連合が東方面から進軍してくる関係上、西を守る兵は最も少ない。同じく他の諸侯に比べて兵数が少なく、小回りの利く劉備軍に担当してもらうのが適材適所といえるだろう。

 

「あまりに抵抗が弱すぎる……恐らく、もう董卓は洛陽から逃げた後ね」

「もしや漢の都である、帝の住まう洛陽の地を捨てたということでしょうか?」

「そんな、まさか!」

 

 雲霞(うんか)に集られるがごとく、洛陽はあらゆる方角から攻められるがままとなっている。陥落もそう遠い話ではないだろうと確信できるぐらいには戦況は連合に優勢となっていた。

 曹操軍もまた果敢に攻め立てる中で、華琳がぼそりと呟いたのを聞き届けた秋蘭が思わずといった風に問い返した。そのあまりの内容に、桂花もまた目を見張っている。

 

「少なくとも、虎牢関で守将をしていた呂布や張遼はいないものとみていいでしょう。そうでもなければ、まず何の策もなく攻めかかった麗羽が手痛い反撃を受けていた筈だもの。そして董卓軍の両雄と謳われる二将がいないこの地に、その主君である董卓が残っているとは考えにくい。それだけよ」

「確かに。いくら姉者が勇猛とはいえ、呂布や張遼の指揮下の兵を相手にあのように千切っては投げるのは難しいでしょう」

 

 拓実が遥か前方を見やってみれば、久方ぶりの戦働きに意気揚々の春蘭が敵兵を大剣・七星餓狼で当たり構わず斬り飛ばしているのが見て取れた。『気』を使っているのだろう、兵士の体と同じく淡い光もまた撒き散っている。まったくもってご機嫌である。

 数人単位で守兵を吹き飛ばしておいて嬉しそうに笑っているのだから、董卓兵からすれば化け物にしか見えないだろう。敵には回したくない存在であるが、その上にそんな春蘭を手玉に取ることができる呂布がいるというのだから恐ろしい。怪我の療養中の為に卞氏の姿である拓実も、目を覆う黒髪の隙間から人が吹き飛ぶ非現実的な光景をぼんやり見る他にない。

 

「さて。董卓が逃げたとなると、帝も一緒に連れられていると見るべきか」

 

 攻めかかっている洛陽方面から上がった――恐らくは南側の防壁を破り、開門させた袁術軍だろう歓声を聞いて、華琳は面倒なことになったといわんばかりのため息を吐いた。

 

 

 

 

「おーっほっほっほ! 悪賊董卓も大したことがありませんわ。まったく、拍子抜けもいいところ。ただ、今回ばかりはあんまり董卓さんを責めるのも可哀想ですわね。あんまりにわたくしの兵たちが強すぎたのでしょう! おぉーっほっほっほ!」

 

 諸侯の集まる軍議の場、簡易天幕に袁紹の高笑いが響き渡った。口元に手を当て、ふんぞり返った袁紹の姿は最早見慣れたものである。そうしていつもであれば誰も興味を覚えない自慢話を気の済むまで捲くし立てるのだが、今回はすぐに静止の声がかかった。

 

「こぉれ、姫様。勝利したその時こそ油断してはならんと、いつもワシが口を酸っぱくして言っておるだろうに。全てを終える前に勝ち誇るのは愚者のすることぞ」

「何ですのまったく! 折角わたくしの偉大さを皆さんに教えて差し上げようというのに、元皓ばあやはいつもわたくしに口煩いですわね! 誰も呼んでませんのに、勝手に軍議にもついてきますし」

「虎牢関攻略部隊の報告をした軍師たちへの物言いを聞いておいて、姫様に言われるまま引っ込んでおれるか! ワシの目が黒いうちにその悪癖は何としても直していただきますからな」

「そ、その件についてなら、散々ばあやがわたくしにお説教したじゃありませんの……」

 

 袁紹がふてくされた様子で口を尖らせる。誰が相手でも傍若無人の振る舞いをすると思われた袁紹であったが、どうやら苦手とする人物もいるらしい。

 今回は諸侯らが集まった軍議の場にはそれまでいなかった童女のような姿――袁紹が苦手としているだろう田豊が出席していた。

 

「はいはい。麗羽を矯正するだなんて夢物語はどうでもいいわ。今はそれより、西方へ逃げ延びた董卓に連れられただろう劉弁様と劉協様の行方について、そしてこの荒廃した洛陽をどうするべきかを決めねばならないでしょう?」

 

 一言目から脱線していた話題を華琳が呆れた様子も隠さずに引き戻した。突如始まった内輪揉めにどうしていいものか固まっていた諸侯らがほっと息を吐く。

 袁紹は華琳に馬鹿にされたことで不愉快そうに顔を歪めているが、田豊が目を光らせているので口をつぐんでいる。やはり、幼少からつきあいのあった華琳には袁紹の言動はある程度慣れっこのようである。

 

「……」

 

 しかし議題を提示したところで、話が進んでいくとは限らない。元より目的は同じなれど、それぞれ思惑を持ってこの連合軍に参加している身である。口火を切ってそれが弱みとなることもあれば、互いをけん制し合う空間が出来あがってしまう。

 

「むー、むむむ。そうじゃのう……。うむ! のう七乃、わらわは喉がかわいたぞ。洛陽には蜂蜜水はなかったのかえ?」

「んー、ごめんなさい美羽さま。残念ですけど、洛陽の城下がぼろぼろなんですよねー。たぶん蜂蜜なんかはみーんな董卓さんが持って逃げちゃったんじゃないでしょうか? 首都なら食料も豊富にあると思ってここで根こそぎ徴収するつもりだったんですけど、こんなからっからじゃ搾り取る労力の方が大きくなりそうですしー」

 

 そんな中でまったく議題に関係の無いことを言い出した袁術の言葉を受け、張勲がうーん、とあまり困っていなさそうに答える。

 確かに遠征に結構な日数を費やしているからどの軍団もそこそこに糧食を消費しているだろう。しかし仮にも帝のお膝元である洛陽城下で片っ端から略奪するつもりだったと悪びれもせずに公言する張勲に眉を顰める者も少なくない。

 

「なんじゃと! 董卓め! わらわの蜂蜜を持っていったとは許せん。七乃、今すぐ董卓から蜂蜜を取り返してくるのじゃ!」

「取り返してくるも何も、美羽さまの蜂蜜じゃないんですけどねー。あ、蜂蜜ならまだ荷車にあるので、兵士たちの食糧が底をついてもお嬢さまの蜂蜜水だけはしばらくは大丈夫ですよー」

「何じゃ。あるならあると言えばよかろ。七乃、蜂蜜水を持て」

「はーい。それじゃ美羽さまに今日の分の蜂蜜水をお持ちする用事があるので、私はちょーっと席を外しますねー」

「七乃、七乃。蜂蜜を多目にするのじゃぞ。よいか、指三本の蜂蜜多目じゃからな」

 

 そんな阿呆な会話をしている袁術と張勲を見るでもなく、というよりその一団から全員が意図的に意識を逸らしている中、拓実だけは俯いてこっそりと様子を窺っていた。

 拓実が見ていたのは、袁術と張勲ではない。目を覆い隠す黒い前髪の隙間から、彼女たちの後ろに立つ黙したままの孫策と周瑜をじっと見つめている。

 

 というのも、孫策の態度にどうにも引っかかるものがあったのだ。孫策と拓実は、劉備軍にいた時に荀攸として顔を合わせている。その時に知れたのだが、はっきり言ってしまえば孫策は主君の袁術を良く思っていないのである。

 だからか軍議などで袁術と張勲が場違いなことを言い出すと、つまらなさそうに目線を逸らして自分の髪の毛を弄り始める『苛立ち』か、或いはうっすら笑顔を浮かべるという『怒り』の発露があった。それが、今は見られない。必死に気を落ち着かせている様子で、いつもの飄々とした余裕が見えない。

 

 何かある。何かがあるのだろうが、流石にそこまではわからない。この鼻先までかかっている前髪のお陰で、あちらからはもちろん、周囲の誰からも拓実の目線は読み取られない。だから拓実はじっと二人の観察に努めていた。

 そうして拓実が袁術軍の二人を観察していることを、前に座る華琳はいかなる理由からか感じ取っている。華琳が身動ぎして椅子に座り直したことで、拓実もまたそれを察した。

 

「……そうね。それでは私が言い出したことだし、私見を述べさせてもらおうかしら」

 

 袁紹からあからさまな敵意を向けられながらも華琳はすっくと立ち上がり、居合わせている者たちを見回した。

 

「連合軍はすぐさまに、西へと進軍するべきよ。西には西都――長安がある。帝を連れての逃亡となればそれはもう遷都と呼べるでしょう。次に都となりうる先はそこしかないわ。今なら、董卓軍は劇的に数を減らしている。撤退中の董卓に追いつければ、随行しているのは少なくて五千、多くても八千から一万程度。大陸を腐らせる(うみ)は絶てる時に元から絶っておかなければ、また同じようなことが起きるでしょう」

「あ、えっと、曹操さん?」

 

 言ってまた華琳は諸侯を見回すも、一様に戸惑った様子である。少なくとも肯定的な反応ではない。そんな中、華琳に向けておずおずと挙手をしたのは劉備であった。

 

「あの、進軍を続けるとして、洛陽の人たちはどうするんですか? 董卓さんによるものかわかりませんけど、財産から食糧に至るまで根こそぎ持っていかれちゃってるこの洛陽の人たちへの援助は必要ですよね?」

「……確かに捨て置けないけれど、我らに出来るのは過剰分の備蓄を置いていく事ぐらいになるわ。といっても、いくら予定より大幅に時間を短縮したとはいえ、都合一ヶ月ほどの遠征の最中にある連合の余裕なんて知れているから洛陽の民全てに満足に行き渡るとは思えないけれど」

「そ、そんな……」

 

 華琳の言葉に、劉備は信じられないといった様子である。彼女も、洛陽の荒廃を目にしたのだろう。

 確かに、拓実が見てきたところ洛陽城下の町は酷い有様であった。市場に食べ物はなく、裏通りには餓死や疫病による死体が乱雑に積み重ねられている。都であるのに洒落た衣服を着ている民の姿はなく、ぼろ切れ同然の着物を纏った者ばかりだ。栄えている陳留は元より、進軍途中にあった寂れた農村のほうが日に一食分とはいえ食料があるだけ豊かに見える。それほどの惨状である。

 

「まぁ、そんなことはどうでもいいですけれど。洛陽で威張り散らしていた董卓さんを痛い目に合わせることが出来たので、わたくしとしてはもう大満足ですわ。これでまたわたくしを差し置いて威張り散らすようならその時にやっつけてやればいいでしょう? 袁家の威光も示したことですし、そろそろ領地に帰ってゆっくりお風呂に浸かりたいですわね」

 

 洛陽の惨状など意を介していない様子の袁紹が、髪もべたべたしてることですし、と続けて自身の金髪ロールを指で摘む。

 行軍中は近場に河でもなければ布を冷たい水で濡らして体を拭くぐらいが精々である。いくら髪を念入りに拭いたとしても、脂が浮いてくるのは避けられないのだろう。ただ、この町の惨状を見た上で自身の容姿を気にする辺りは、最早、流石は袁紹と言う他にない。

 

「……そうねぇ。袁術ちゃんも蜂蜜があれば満足なようだし、一旦領地に帰るのもいいんじゃないかしら? これまでの損害も馬鹿にならないし、兵たちの疲労も無視できない。長安までの行軍となると洛陽までを想定していたから物資も心もとないものね。洛陽で多少なりでも物資の補充ができればまた話は別だったとは思うけれど」

「あの、私も……袁紹さんに賛成です。ここで一度引き返すなら、洛陽の人たちに配ることの出来る食糧も増えますよね?」

 

 袁紹に続き、袁術軍の孫策、元より華琳の意見に難色を示していた劉備が賛同の声を上げる。それまで黙りこくっていた孫策が、袁術を持ち出してまで袁紹の意見に乗っかったのがやはり拓実の目には不自然に映って仕方がない。

 

「そうだなぁ。それに、洛陽で暴政を敷いていたことに対して決起した私たちが洛陽の民を見捨てると名前に傷がつくんじゃないか? 名前を売りたい奴にとっても無理に長安まで行軍するより、領主が自ら率先して炊き出しでもした方が民心を掴めてよっぽどいいと思う。あ、私はそんないい格好がしたいからとか名前を売りたいからとかじゃなくて、董卓が酷いことしてるからって参加したんだからな!」

「ま、今董卓軍は多くても一万ってことだから、長安で徴兵したところで精々二万ってところだろ? あたしら西涼軍としてもここで無理することはないと思う。董卓だってここまでやられりゃ、次に兵を揃えるにも時間が必要だろうしな。董卓の本拠が長安に移るってんなら、あたしたち西涼からの進軍も楽になるしさ」

 

 公孫賛と馬超も撤退のようである。他の者も概ね同意見のようだ。華琳に賛同して進軍の意を示す者は一向に現れない。それを見て取った華琳はすっくと立ち上がる。

 

「認識が甘いようだからもう一度発言させてもらうわ。今、連合軍が何をすべきなのかをよく考えるべきよ。一時的に得られる名声にどれほどの価値があるというのかしら? そもそも、私は何も食糧の一切を置いていかないと言っている訳でもない。考えて御覧なさい。例え、二日三日の食事を私たちが賄ったとして、焼き払われ荒廃した洛陽を復興するには全然日数が足りはしないわ。今ここの住民に必要なのは、別の地へと旅立つための一時的な食糧と自立の心でしょう。自軍の糧食を心配している者たちもよ。暴政が敷かれていた洛陽と違い、西都と称された長安にならば食糧も物資もある。あなたたちは重たい金をわざわざ荷駄に積んできている理由を考えなさい」

 

 華琳の叱責に似た声にも、応の言葉はない。なにせ、そもそもからして諸侯らと華琳との反董卓連合に参加した最終目的が違うのだ。

 袁紹は董卓が気に食わないから蹴散らす。劉備は困窮した民を助ける。他の領主は己の名を売る。華琳も確かに名を売るという側面があるが、その根本は大陸を腐らせている『悪』を倒す為だ。

 華琳の目的は帝を利用して私欲を肥やす古き風習を打倒することである。対してほとんどの者は、董卓軍との勝利で名を上げ、そしてこの洛陽の地の制圧をすることで目的のほとんどを達成している。それでは華琳に賛同する者がいる筈も無い。

 

「まぁ、華琳さんが何か言ってますけど、いいですわ。このわたくし袁本初が総大将として、董卓さんを追い払ったので反董卓連合軍の目的達成を宣言いたします。そんなわけですから華琳さん。そんなに董卓さんを倒したいのであればここからは自由になさってくださって結構ですわよ。お一人で戦うのも、この場で希望者を募るのもお好きにどうぞ。もっとも、賛同されるような方がいるのかは存じませんけれど。ああ、一応言っておきますけど、わたくしはすぐに領地へ帰りますので華琳さんにお付き合いできませんわ。残念ですわね。おーっほっほっほっほ!」

 

 自身の案の賛同者が多くいて嬉しいのか、それとも華琳の意見が通らないことが嬉しいのか。高笑いを残して、袁紹は軍議を行っていた簡易天幕からさっさと出て行った。

 それに続いて、首を鳴らしながら馬超が。蜂蜜水を持ってきた張勲と一緒に袁術、そして公孫賛が。他の者たちも続々と退出していく。最後に、劉備が申し訳なさそうに華琳に頭を下げて天幕から出て行った。

 

 

 そうして諸侯が退出していった天幕の中には卓と、椅子ばかりが並ぶ。がらんとした天幕に残っているのは、華琳たち一団だけである。

 

「華琳様、ご命令を。我らは華琳様の言葉に従います」

「華琳さまの為されるように。仰るように。董卓を討つ絶好の機会、この春蘭に命じていただければ必ずや!」

「華琳様が私に一言ご命令なさってくだされば、物資への心配はご不要です。我が策と智謀で以って、遠く西涼や蛮族が住む南の地までだろうとも捻出して見せましょう!」

 

 他に誰もいなくなったのを見計らって、華琳の座る席の後ろに立っていた秋蘭、春蘭、桂花が揃って跪いた。そうして誰もが華琳の意を汲むべく、声を張り上げる。

 袁紹の宣言から声も上げずにいた華琳はひとつ頷くと、席から立ち上がってゆっくりとこの場にいる面々を見渡す。

 

「では、秋蘭。あなたはすぐに劉備軍へと使いを出し、援兵の三千の兵をただちに返すようにと伝令を。連合が解散した今、いつまでも劉備に預けておく理由はないわ」

「は、御意に」

「桂花は出兵する五千の兵の糧食を用意して頂戴。ただし用意は洛陽から長安までの往復分だけで構わないわ。不足分は長安で調達するから、代わりに金を多く積んでおくように。それに、確かに他の諸侯らの言うように民を捨てて今回得られた折角の功績に(きず)を残す必要もないわね。残る五千の兵たちには炊き出しの指示を。陳留までの糧食だけを残して、物資は全て洛陽の民への配給に回しましょう」

「はっ! 拝命致しました。それでは失礼します」

 

 命を下された秋蘭と桂花が足早に簡易天幕から退出する。跪いた三人のうち、唯一この場に残された春蘭が跪きながらも身を乗り出した。

 

「華琳さま! では、私がその出兵する五千を率いて、長安に逃げ延びようとする董卓の首を挙げてくればよろしいのですね!」

「春蘭、少しばかり落ち着きなさい。下手人は董卓か、もしくは別の誰かかはわからないけれど、帝を救出する時こそが私の顔を売る絶好の機会となるでしょう。そうなると私自らが出る必要があるわ。……春蘭。あなたと秋蘭は二人揃って曹孟徳の一の臣下。そうよね?」

「は、はっ! 私は華琳さまの前に立ち塞がる敵を切り裂く剣です! 秋蘭は、華琳さまの障害となる者を射抜く弓矢にございます!」

「ならば、あなたたち姉妹はこの曹孟徳の傍にあるべき、か」

「はいっ! では、華琳様と共に私と秋蘭が出陣するということでございますね! 私と秋蘭が、必ずや董卓の御首を挙げてご覧にいれましょう!」

「……」

 

 喜び勇んだ春蘭が声を上げるが、華琳はそんな春蘭を一瞥すると視線を横へとずらす。

 間もなくして、療養を言い渡されているところ軍議に同席するだけで良いからと言われてぼんやり立っていた、すっかり蚊帳の外の拓実と目が合った。

 

「拓実」

「はい? なんですか?」

 

 拓実はこの緊迫した場において、どこか緊張感に欠けた気の抜けた言葉を返す。さては、怪我も治ってきたことだし荀攸として洛陽の民に炊き出しするようにとでも言い渡されるのだろうか。

 華琳はそんな気負いもしていない拓実に向けて、にいっと笑みを浮かべる。

 

「待たせたわね。あなたの初仕事が決まったわ」

「え? あたしの初仕事、ですか?」

 

 思わず自分を指差して聞き返してしまった拓実だったが、それも仕方ないと言える。初仕事――そんな筈がないからだ。

 許定として。あるいは荀攸として。既にこれまで幾度となく拓実は街の警備から政務、軍務にと、色々な仕事を華琳より言い付かっている。当初こそ何一つ満足にこなせる仕事のなかった拓実は、今や様々な分野の雑事に借り出されているのだ。

 秋蘭のように文武両面において主要のポストを担うにはまだまだ実力不足だが、桂花にあちらこちらの部署に連れ回された結果、どこの部署であろうとも並みの文官以上の仕事が出来るという不可思議な存在になりつつある。

 

「いい? 出兵する五千の指揮は私が取るわ。先にも言ったように、帝に顔を売る機会となれば領主である私が出ない訳にもいかないでしょう。そして、私と共に出陣するのは曹仁と曹洪よ」

「ほう。水夏と李冬の奴も共に出陣するとなれば、もはや董卓の首など獲ったも同然……? ……あの、華琳さま。その、私と秋蘭の名を忘れてはおりませんか?」

「忘れていないわよ。あなたたち――春蘭と秋蘭は洛陽に残ってもらうわ」

「へ? それは、ええと、どのような……?」

 

 目を白黒させた春蘭は、何故自分と秋蘭の名前が呼ばれなかったのかと不思議でならない様子である。勿論、拓実も同じだ。それなら、春蘭との先の問答はなんの意味があったのか。さっぱりわからない。

 

「桂花に通達させたように、洛陽に残る五千の兵には民への炊き出しをさせるわ。ただし、劉備や公孫賛らといった他の領主たちが率先して配給する中、長安への出兵の為に援助物資が少量となる我が軍が民への対応まで配下に任せ、領主は顔も見せないのでは面目すら立ちはしない。また、洛陽に残る有力諸侯らと顔を合わせ、共同で配給を行って友誼を結んでおく必要もある。曹孟徳を周囲との足並みを揃えぬ異端と認識されてしまえば最後、大小あれ曹孟徳への印象は『悪』となるでしょう。そうなったら貴重な糧食を配給する意味がなくなるどころか、連合に参加した領主らに義に欠き我欲を取ると吹聴され、逆に評判を落とすことにもなりかねない」

 

 あちらを立てればこちらが立たず。華琳が言っているのは、話の上ではどうあっても両立を許さない『ジレンマ』である。

 だが、果たしてそうなのか。そこまで考えて、拓実はようやく華琳が言わんとしていることに思い当たった。

 

「そっか。華琳、そういうことね。つまりは長安に曹孟徳を送り、洛陽にも曹孟徳を置くということ」

「そういうことよ。諸侯の中には曹操配下の猛将である夏侯元譲の名を知る者が多くいる。夏侯妙才の名も同じように知られていることでしょう」

「領主が配給に残り、さらに懐刀である忠臣二人を出陣させずに傍に侍らしてとなれば、長安に派兵した兵数が多くとも大規模な威力偵察と誤認してくれる。長安へと向かう曹孟徳は、これ以上なく動き易くなる」

 

 言葉を引き継いで拓実が思考の行く先へと辿ってみせると、華琳はご明察とでもいうように満足げに頷いた。

 

 帝を救い出すに当たって、帝には華琳の顔を覚えてもらう必要がある。民に援助するに当たって、諸侯らと並んで華琳の姿を晒す必要がある。

 洛陽の食料分配を選べば、華琳は反董卓連合に参加した意義を失う。かといって長安に向かえば、残る諸侯は一人違う思惑で動く華琳を疎ましく思うことだろう。

 華琳一人では両方をこなすことなど出来ない。本来であればどちらかを諦めなければ成り立たない状態である。しかし、華琳に限って言えばそうではない。

 

「さぁ、『華琳』。もう一人の私。ついに、といったところかしら。あなたに、本当の意味で私の真名を預ける時がきたわ」

「ふふっ。ついに、ではなくようやくよ。ねぇ、華琳。これは忠告になるのだけれど、出来る限り早く戻ってきた方がいいわ。私に、あなたを取って代わられていたくないのならね」

「構わないわ。その時は、また奪い返すだけでしょう?」

 

 笑みを浮かべて挑発的に声を掛けた華琳に対して、拓実も姿は違えどまったく同じ笑みと挑戦的な声色を返す。そうして、二人は不敵に笑みを向け合った。

 

 なるほど、確かに。

 華琳の言ったとおり、これは紛れもない拓実の影武者としての初仕事であった。

 

 

 



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41.『影武者、洛陽にて動き出すのこと』

 

 

 総大将の袁紹の宣言により、洛陽の制圧と董卓に痛打を与えることで目的達成とした反董卓連合軍は即日に解散することとなった。当然、連合軍が解散となればこれまでのように諸侯が足並みを揃える必要も無く、それ以後の行動はそれぞれで異なってくる。

 

 まず総大将の袁紹であるが、先の軍議の発言どおりに翌日にでも領地へと向かって発つとのことである。ただ、彼女の物言いでは壊滅状態の洛陽を放置していくものと思われたのだが、そうではないようだ。

 なんと二万人の兵を数日も賄える大量の糧食を、ちょっとお気に入りらしい劉備にくれてやったのである。連合軍内で唯一、袁紹の命令を素直に聞いていた為に印象がよかったのだろう。それだけの大量の物資を提供して尚、袁紹軍にはまだまだ余裕があるというのだから驚きである。連合に参加した名立たる諸侯の中でも、資金力という面では他の追随を許さない。

 「領地へ帰るだけですのに荷物が重たくて仕方ありませんもの、いっそ高貴なる者として下々に恵んでやりますわ」という袁紹の発言は本心からのものか、それとも彼女なりの照れ隠しなのか。これについては、劉備から話を聞いただけの拓実には判断がつかない。

 ともかく悠々と領地へと帰還していった袁紹。その彼女の援助により、自軍を維持するにも苦慮するほどに貧窮していた劉備は十数日と炊き出ししても尚余りあるほどの物資を得たのである。

 

 袁紹軍と同じく、すぐさま領地へと帰還していったのは袁術軍である。しかし、こちらは袁紹とは対照的に食糧の計算違いでもしていたのか切羽詰っていたようで、解散を言い渡されたその日のうちに洛陽を発ち、領地へと向かっていった。

 軍議での張勲の言葉は確かに袁術軍の窮状を表していたようで、洛陽での物資補充をかなり当てにしていたようである。けれども洛陽の有様はこの通りで、いくら金を持っていても食糧が買えない状態にある。そうなると袁術軍は一刻も早く領地へと帰還する他にない。兵たちの食糧も少なく、それ故に日数を掛ける訳にもいかないために碌な休息も取れない。疲労から解消されないまま空腹に鞭打たれ、帰還を命令された袁術軍の兵たちはかなり消耗しているようだった。

 

 劉備軍に関してはやはりというか、持ち込んだ物資と袁紹から譲られた食糧を配り終えるまでは洛陽に駐在するようである。

 袁紹軍から三千、曹操軍から三千の兵を借りていた劉備軍は、それらを返してしまえば道中で加わった義勇兵を合わせても一千程度の少勢である。いくら劉備たちが頑張って洛陽を立て直そうにも圧倒的に人手が足りない。そこまでする義理も無いだろうに、あちこちの領主に頭を下げて洛陽への援助してもらえるようにお願いして回っているようだ。

 

 公孫賛、馬超といった残る領主たちは劉備に言われたからというわけでもないのだろうが、それぞれ城下復興の手伝いと飢え細った民たちへ炊き出しを行う方針のようである。

 劉備たちと違うのは、配給する物資はあくまで予定していた進軍速度よりも早く到着したことで過剰となった分だけ。領地の経営もあるということで、洛陽への滞在も数日に留めて帰還するようだ。

 

 

 さて、拓実属する曹操軍の動きであるが、概ね華琳の発案の通りに進めることとなった。

 影武者である拓実が五千の兵を指揮して洛陽の援助、諸侯らと動きを同じくして協調路線を取る。その一方で目的を知られぬよう伏せたまま、華琳が残る五千の兵を率いて長安に向けて進軍し、連れ去られた帝を救出するのである。

 

 袁紹の解散宣言を受けて、まず影武者である拓実が洛陽での陣頭指揮を取ることとなった。拓実は五千の兵たちを四つに分け、一つに休息をとらせ、一つには曹操軍が寝泊りする陣の設営、一つに洛陽の民が夜風をしのげる程度の簡易的な家屋の修繕、そして最後の一つには民への炊き出しの命を出した。

 積極的に曹操として民の前に姿を現しては過不足なく指揮をし、他の領主たちの率いている兵たちには真似出来ない規律だった動きを見せつけることで、見事諸侯と民たちの目を惹いて見せた。そして注目を影武者の拓実へと集めているうちに、華琳と曹仁、曹洪と五千の兵は、周辺残党の掃討、長安の偵察を表向きとして洛陽より発っていったのである。

 

 ここまでで拓実と華琳が最も注意せねばならなかったのは他の諸侯が放つ間諜の存在である。華琳たちが出陣するまでの間、曹操軍には領主が二人存在することになる。今この瞬間においてそれを他の領主たちに知られれば、まず曹操軍は窮地に立たされる。

 その対策として華琳は洛陽にいる間は荀攸の姿に扮装し、さらに表向き長安への出陣は曹仁を大将、曹洪を副将、その二人の補佐に荀攸という体裁を取っている。また華琳は(いたずら)に家臣の動揺を誘わないよう、追撃隊が無事に出陣を終えるまで洛陽に残る曹操が影武者であることを春蘭と秋蘭の二人以外には伝えないようにと指示を出していった。

 華琳と共に出陣した曹仁と曹洪には洛陽の地を充分に離れてから、現在荀攸に扮している華琳の正体、影武者である拓実の存在、そして今回の出陣目的を知らせることとなる。

 

 連合軍で最も諜報に長けた孫策隊が既に袁術軍と共に洛陽を発っていたことは、拓実や華琳にとって有利に働いた。味方にも情報を秘匿した甲斐あってか、(つい)ぞ他の領主たちに『二人の華琳』を気取られることはなかったのである。

 

 

 

 無事に華琳を送り出し、一夜を明けての翌日。洛陽に残った拓実たちのすべきことは基本的に前日と変わらない。

 ただし、華琳が戻ってくるまで曹操軍は否応なしに洛陽から動けない。あるいは長期の滞在になることも考えられる為、曹操の立場にある拓実は先んじていくつか手を打っておく必要があった。

 

 拓実はまだ日も昇り始めたばかりの早朝に、曹操軍でも中枢となる面子を軍議の場へと呼び出した。

 集まったのは春蘭、秋蘭、桂花、季衣、流琉、凪、真桜、沙和という、すっかり馴染みとなった八人である。戦続きで気を抜けなかったこの一ヶ月の疲労が出てきたのか、春蘭と秋蘭以外はまだ眠気が抜け切らないようだ。

 例外である二人が背筋を伸ばして眉根を寄せ、気を張ってどこか焦れた様子でいるのは、言うまでもなく今も主君である華琳が戦に赴いていることを知っているからである。

 

「それでは改めて、洛陽においての我々の方針を話しておくわ。全軍に告知した長安の偵察部隊に、秘密裏に董卓追撃の任務を課していることは昨夜に私が話したとおりよ。やんごとない方々の救出に向かわせた五千の兵が戻ってくるまでの間、我らは洛陽復興の手伝いをすることとなるのだけど、同時に不測の事態に備えて物資の補給をしておく必要があるわ」

 

 流石にこうも朝が早いと気温も低い。話すたび、口から漏れる呼気が白くなる。拓実もいつもの華琳扮装用の服装だけでは肌寒い為、上に膝まで隠れる外套を纏っている。他の者も上に一枚多く羽織っていて、厚着をしていないのは春蘭と季衣ぐらいのものだ。

 

「では、桂花。現在、我々の備蓄量はどうなっているかしら?」

「はっ。まず、これより消費するだろう糧食の試算を提示させていただきます。追撃隊が向かう洛陽から長安までの道のりですが、片道で三日から四日かかる計算になります。追撃部隊が道中で董卓を捕捉し目的を達成するとして、長安付近で追いついた場合を想定すると十日を要するとの試算が出ました。洛陽での食糧配給を差し引き、加えて兵五千が無傷で帰還したと想定して、そこから兵一万の(エン)州までの糧食が必要となります。一万の兵を二十と二日養えるだけあれば事足りるかと。それならば現在の備蓄で何とか間に合う計算にはなりますが……」

「それでは追撃隊が追いつくことが叶わなかった場合、長安に篭った董卓へ手出しも出来ずに(エン)州へと退却することしか出来ないでしょう。董卓が既に長安に逃げ延びていることを想定し、その防備によっては洛陽に駐在する我ら五千が追撃部隊と合流して長安に攻め入るという選択肢を作っておきたいところね。桂花、現時点でそれは可能かしら?」

「……洛陽の民への食糧の配給を、本日から取り止めることをお許しいただけるのでしたら」

「他の領主が援助の為に洛陽に滞在している中、我が軍だけがただ無為に日を過ごすと? 考える必要も無く許可できることではないわ。――と、いうことよ。手持ちで足りないのならば、余所より持ってくる他ないでしょう。あなたたちには、洛陽復興作業と同時に物資の調達を命ずるわ」

 

 拓実が新たに方針を告げると、軍議に出席した面々からは揃って『応』と芯の通った声が返ってきた。主君より戦となる可能性を示唆されたことで、洛陽制圧で気が緩んでいた面々も目が覚めたようである。

 

「まず、桂花。この軍議が終わり次第、陳留に物資輸送隊を寄越すよう伝令を出して頂戴。道中に行く手を阻む関もないのだから、途中で早馬三頭ほどを乗り換えて走らせれば、十日で物資が届くよう手配できるでしょう。加えて、民へ配給する食糧の配分と休息させる兵の持ち回りの管理をあなたに一任するわ」

「はっ、確かに拝命いたしました」

 

 桂花は椅子に座る拓実の前に一歩出ると、(うやうや)しく跪いて頭を下げた。

 

「季衣、凪、沙和。あなたたちにはそれぞれ二百の兵を預けましょう。情報収集も兼ねて、多少高値でも構わないから近隣の邑や町から食糧を調達してくるように。その際、強引な交渉は控えなさい。金と食料を引き換えとして問題がない程度に余裕があるところからだけで構わないわ」

「わっかりましたー!」

「はっ!」

「了解しましたなのー」

 

 通達を受けた三人が膝をつき、椅子に座る主君に礼を取る。拓実はそれを僅かに口角を上げて満足げに見届けると、次に隣に立つ真桜へと視線を向ける。

 

「真桜。あなたは引き続き、夜風をしのげる程度で構わないから家屋の簡易修繕を兵たちに指示をなさい。同時に、兵を使って河より水の運搬をさせておくように。汲んできた水は煮沸してやってから民へ配付し、体を清めるように指導すること。どうやらここ洛陽では、餓死者の他にも病死者が目立つ程度には出ているようね。根本の解決にはならなくとも、衛生面を改善させれば病魔の拡大を抑えられるかもしれないわ」

「はぁ。なんやようわからんですけども、湯を沸かして片っ端から体を洗わせとけってことですかね? そんなんでええなら、うちに任せたってください!」

 

 命じられた真桜は清潔を保つことと病気の伝染抑制のどこに関係があるのかというように首を捻っていたが、わからないことを考えても仕方ないと思ったか、無駄に自信満々に自身の胸をこぶしで叩いてから他の四人と同じく跪いた。

 他の面子でも会得がいった様子でいるのは、秋蘭と桂花、あとは料理人である流琉の三人ぐらいである。この時代、衛生観念は周知されているような知識ではないらしいが、知っている者もいるならば問題はないだろう。

 

「春蘭、あなたは洛陽警邏の指揮を。略奪や暴行があるようならあなたの判断で鎮圧してもらって構わないわ。ただし、他の諸侯の兵も復興作業に駆り出されていることでしょう。兵士間で衝突しないようにしっかりと手綱を握っておきなさい」

「はっ、この春蘭めにお任せください!」

「秋蘭と流琉の二人には民への炊き出し準備を指揮。実施しているうちは監督をしてもらうわ。秋蘭、近場で炊き出しをしている領主と連絡を取り、可能なら共同で行うように。昨日に引き続き、飢えた民が殺到し混乱することでしょう。整列させ、横入りの禁止を徹底。(いさか)いを起こす者があれば遠慮なしに列から叩き出しなさい」

「御意に」

「わ、わかりましたっ!」

「今、私から改めて通達すべきはこんなところかしらね。では……。……桂花?」

 

 一通りの通達を出し終えると椅子に座る拓実の目の前には、軍議に呼んだ八人全てが跪いている。

 拓実がそれを見渡し、軍議の終了を告げようと声を上げたところで、一人が再び深く頭を下げた。浮かぬ表情をしている桂花である。

 

「華琳様。厳密には今回の件についてのものではないのですが、ひとつ、ご質問をさせていただいてもよろしいでしょうか?」

「構わないわ。何かあるのならば言って御覧なさい」

「はっ。では失礼します。追撃隊に補佐役として参加した拓実のことなのですが。その、華琳様の決定に異を唱えるという訳ではないのですが、アレを追撃部隊に置いたのはどのような意図があってのことなのでしょうか? 移動に支障がない程度には回復しているとはいえ、右手が使えない状態で戦場に立つのは危険ではないかと。諸侯らの目を欺く為に春蘭と秋蘭の二人が華琳様のお傍を動けないのはわかりますが、負傷した拓実を加えるのならば私が随行したほうが良かったのでは……」

「……そう、ね」

 

 桂花の尤もな疑問に、その負傷している当人である拓実は口元に左手を当て、足を組み替えて目を伏せた。そうしながらも余裕の表情を僅かにも崩さず、ただひたすらに思考を回し続ける。

 

 跪く八人の目の前にいる華琳が実は影武者であることは、春蘭と秋蘭以外は未だに知らない。勿論、桂花にも知らされてはいない華琳よりの密命だ。

 ただ、洛陽に残るのが影武者であることを伏せるように指示を受けているのは、追撃隊が洛陽を出るまでの事である。既に追撃隊が洛陽を離れて一夜が明けた今、影武者の存在を知るこの場の者に打ち明けること自体は問題ない。

 だが、話すこと自体に問題はなくとも、組織として十全の働きができなくなる可能性はある。それを打ち明けることはここにいる六人に確実に小さくない混乱を与えることだろう。臣下の誰にとっても、華琳は心の拠り所となっている存在であるからだ。

 いくら拓実が華琳を完璧に演じたところで、事情を知ってしまえば不安と戸惑いを覚えることだろう。現に腹心の春蘭と秋蘭でさえ、事実を知っているというだけで明らかに焦れてしまっている。

 しかし真実を伝えずに事を進め、後に影武者であることを何らかの事情で勘付かれるという事態に陥ってしまった場合を考えると、その影響はより深刻なものとなるのはわかりきったことでもある。

 

 今話すべきか、それとも華琳が戻るまで隠し通すべきなのか。

 この洛陽における曹操軍の舵取りを任されているのは拓実である。華琳からは復興作業によるイメージアップと他の諸侯と面識を深めておくことを指示されただけで、他の事については全て拓実の判断に任せて発って行った。今回は、これまでのように与えられた命令をただこなすだけではいけない。主君として将を導いては兵を率い、あらゆる事態を想定する必要がある。

 

「んー。桂花の言うとおり、この前にようやく一人で歩けるようになったばっかりなのに心配だよね。……あれ? でも桂花って、なんでかは知らないけど拓実のこと怒ってたんじゃないの?」

 

 桂花の問いかけに対して内心で逡巡している間に、季衣が思い出したようにぼんやり声を上げていた。そんな疑問の声が返ってきたことに、何故だか桂花が心外とでもいう風に顔をしかめている。

 

「季衣。自分がそうだからって私もあの馬鹿を心配しているだなんて決め付けるのはやめてちょうだい。誰が心配なんかしてやるもんですか。それに怒ってるですって? 十日以上も前のことをいつまでも怒ったりなんてしないわよ。女々しいったらないじゃない」

 

 拓実の記憶が正しければ、四日前――桂花が怒りのあまり失神した日から一週間経ったあたりで何度目かになる謝罪をおこなったのだが、その時にも許しはもらえず、口を利いてくれなかった。

 しばらく時間を置く必要があると判断し、それ以降は触れず話しかけずで放置していたが、どうやら桂花が怒りを納めるのには七日以上十日未満の期間を必要とするらしい。つけ加えて言うなら、怒りが収まったからといってまず恨みが消えたわけではない。今も根に持っていることは間違いない。

 

「えー。だって、桂花が口も利いてくれなくなったって拓実が言うから、ボクが桂花の代わりに右手を使えない拓実にごはん食べさせてあげてたんだよ。だからてっきりボク、二人がケンカしてるのかと思ってたのに」

「別に、喧嘩なんてしてないわよ」

 

 その言葉の割に、何故なのか桂花の語気は尻つぼみに弱くなっていく。桂花がこういった態度を取る場合、自身の発言に偽りがあるか照れ隠しがあるかのどちらかである。

 思考しながら二人の会話を聞いていた拓実はそんな桂花の真意について考察することはなかったが、とりあえずの考えが纏まったことで一つ咳払いをする。

 

「で、拓実のことだったわね? 二人とも、そろそろ話していいかしら?」

「あっ、申し訳ございません!」

「ごめんなさい……」

「では、これより話すことは今後我が軍の動向に深く関わるため他言は無用よ。春蘭、秋蘭。あなたたちは天幕前の警備を親衛隊の娘たちと代わってちょうだい。付近に不審者を見つけたなら、逸早く天幕内の私に知らせなさい」

「……では、華琳様。話されるのですか?」

「ええ。全てではないけれど、追撃隊も洛陽からは充分に離れたことだからある程度は構わないでしょう」

「かしこまりました。華琳様のお心のままに」

「はっ! 周辺の警護は私と秋蘭にお任せください!」

「あ、あの?」

 

 秋蘭と春蘭が揃って拓実へと礼を取り、天幕を出て行く。何故、拓実の配置への疑問をすることで人払いの必要があるのか、思いもよらない展開に桂花が動揺を隠せずに声を漏らすも、拓実はそれを無視して聞き流す。

 拓実は二人が警備に立つのを見届け、しばらくして天幕の前からそれまで警備に当たっていた親衛隊の足音が遠くなったのを確認する。そこから更に一拍を置いて、語りかけるようにゆっくりと口を開いた。

 

「洛陽への偵察部隊。これに極秘に追撃の任を与えたとこの場の者には言ったわね? 実は、伏せていたことはそれだけではないわ」

 

 そうして拓実は一呼吸を置くと、顔を上げている六人へと視線を送る。質問をした桂花は元より、いきなりのことに凪たち三人に季衣、流琉も困惑を隠せていない。

 

「さて。話は変わるけれど、悪賊の手から帝を救い出すという機会は二度と訪れるようなものではない。それにあたり、この曹孟徳の顔と名の覚えを良くしてもらうことは非常に重要なこと。では、より効果的に帝にこの私という存在を印象付けるにはどうすればいいか? ただ配下と兵を遣わすだけでは、救出したという行為以上のものは得られないでしょう。そうね……凪。もしあなたが私の立場であれば如何にする?」

「へっ!? わ、私ですかっ? 帝さまを助けるのに、顔と名を覚えてもらうには、どうすれば、いいか……? ええと、そのあの。も、申し訳ございません。その、大きく名乗りを上げる、とか。実際に帝さまに会って話してみるということぐらいしか私には思いつきません……」

 

 急に質問を投げかけられた凪はわかりやすくうろたえた。あたふたと手を振り、目線をあちこちへとやってようやく答えるも、自分の出した回答によほど自信がないのか、そのか細く小さい声と同じように身体を縮こませている。慌てふためき、顔を真っ赤にさせている凪の姿は今の拓実にはどうにも可愛らしく見えてしまって、口の端が自然と吊り上ってしまう。

 

「ふふ。実際に会って、名乗りを上げる……そうね。ごく単純だけれど、正解と言っていいわ。もしも、領主である私自身が危険を顧みず悪賊を駆逐し、帝の出迎えをするとなれば、『曹孟徳は漢王家に対する忠義人である』という印象は計り知れないほど大きなものとなるのではないかしら?」

 

 拓実の言葉に、はっとその事実に気づいた桂花が目を見開いた。その瞳には理解の色が見える。そして軍師というより内政官でしかない荀攸を、わざわざ討伐隊に加えた理由に思い至ったに違いない。

 聡明な彼女が何故今までその可能性に気づかなかったかと言えば、極秘である『影武者』という存在を意図的に意識から慮外していたからだ。その運用の許可を下せるのが華琳だけということも多分にあるだろう。とはいえ実際には、その荀攸の中身が更に入れ替わっている状態なので限りなく正解に近い勘違いではあるのだが。

 

「しかし、この洛陽において率いる者も私でなくてはならない。英傑が揃うこの場において、『行動を共にする』というただそれだけのことが他の諸侯との関係、そして今後の大陸の動向をも左右することになるでしょう。私は、必要があったからそうしたに過ぎない。追撃部隊を率い、帝を救う者が曹孟徳であり。そして洛陽で復興を行い、民草の意を汲む者もまた曹孟徳であるということよ」

「で、では、拓実は今、追撃部隊で華琳様に……?」

「その問いに意味はないでしょう。今のこの時において、ここにいる私も、あちらにいる私もどちらも華琳であるのだから。強いて答えることがあるとすれば、あなたたちの目の前にいるのはこの私であるということだけよ」

 

 拓実は特に言葉を強調させた訳ではない。ただいつも華琳がしているようなもったいぶった言い回しをしただけである。そのことに一人を除いて、特に違和感を覚えた者はいない。

 しかし唯一桂花だけは、信じられないものを見てしまったような愕然とした表情で、落雷に打たれたが如く体を震わせている。

 

「まっ、まさかっ!? そんな、ではもしや、追撃部隊を率いているのは……!」

「桂花。私に、同じ言葉を二度も言わせないでちょうだい」

「……ぁっ、はっ!」

 

 どこに違和感を覚えたのかはわからない。だが、桂花がある種の疑念を覚えて問いかけようとするのを、拓実は鋭くたしなめた。

 それ以上を言わせまいとしたことで確信を得たのだろう、口から出掛かった言葉をいくつも呑み込んで、桂花は一歩下がっては跪き、臣下の礼を取った。しかし、いまだにその体の震えは収まっていない。

 普通に会話をしているうちに急に声を荒らげ、かといえば主君を目の前に恐れ震えだした桂花を、不思議そうな顔で見ているのは残りの面々である。

 

「ええと、華琳さま? なんや桂花が一人で盛り上がっとるようやけど、どないしたんですかね? うちらには、いまいちようわからんのですけど」

 

 真桜が、二人の会話から完全に置いてけぼりとなっている面々を代表するように声を上げた。拓実は座っていた椅子から立ち上がり、困惑した表情を浮かべた六人を見渡す。

 

「いいのよ。桂花のように無駄に難しく考える必要は無いわ。ただ私が二人いる必要があったこと。そして荀攸を遣わせた追撃部隊には今、もう一人私がいるということだけを理解していれば」

「……追撃部隊に、試験の時の姿をした拓実が? あの試験からすぐに遠征に出てしまったから拓実とは……。荀攸さまの姿の拓実さまが政務に携わっていて、町の警備にはほとんど参加していなかったから」

「まあなぁ、いきなりあの姿で戻ってきたりしようもんなら、驚く、じゃあ済まへんし。拓実の元気っ娘と、ネコ実とがいまだにうちの中では同一人物とは思えへん。その上で華琳さまそっくりとかなぁ……」

「うぅ~~! 華琳さまも桂花ちゃんも何を言ってるのか、沙和には全然まったく訳がわかんないのー! 華琳さまがここにいて、怪我してるネコ実ちゃんが長安に向かって、そこで華琳さまになってるってことでしょ? だよねぇ、流琉ちゃん?」

「ええと、私も混乱しちゃってて……」

 

 凪、真桜、沙和と流琉。四人はそれぞれ拓実という存在に対して戸惑いを抱えたまま、この遠征に参加している。今困惑している四人は、荀攸と許定とを別個の人間として付き合ってきたのだ。

 片やいつでも笑顔で街中を駆け回り、知り合いと会えばぴょんぴょん跳ねて喜んでいる見る限り純朴な少女であり、片や澄ました顔の毒舌家、曹操軍きっての知恵者である桂花と弁で五分に争える少女。荀攸の人付き合いの悪さと計算高さが知れているだけに、許定の裏表のなさそうな人懐っこさが余計に得体の知れないものと映ってしまう。出会って早々に正体を知らされた春蘭や秋蘭、桂花や季衣の四人とは違って、残る四人の中には荀攸と許定にそれぞれ人物像が出来上がってしまっている。

 つまりは、拓実という人間の本性がどこにあるのか理解できないのである。それだけに拓実が華琳の姿をしていると聞くと、影武者の最終試験で見た三人の性格を代わる代わる使い分けていたことを思い出してしまって、どう反応していいものかわからないのだろう。

 

 拓実はその四人の様子を見て、やはり全てを打ち明けずにいたことは正解であったのだと確信する。影武者である拓実の話題が出ただけでうろたえているようでは、洛陽に残ってるのが本当の華琳ではないと知った場合、春蘭や秋蘭とは比とならない不安と動揺とを与えることとなっていただろう。

 思いの外に桂花の勘が良かったお陰で露骨に匂わす必要もなく、隠し通しておきたい流琉・凪・真桜・沙和は目の前の主君の姿をした者が拓実だとは気づいていない。そして四人の反応から、敢えてそれに気づかせる必要もないと知れた。

 

「あなたたち言ったでしょう、思い悩む必要などないと。曹孟徳は、あなたたちの目の前にこうして確かに立っているのだから。そして追撃隊の方も、あちらの曹孟徳が指揮を執る以上は悪い結果は出さないでしょう――軍議は終わりよ。各自、己の為すべきことをなさい」

 

 それだけを言うと拓実は涼やかな笑みを浮かべて立ち上がり、颯爽と歩き出す。そのまま見張りをしていた春蘭と秋蘭と二言三言を交わし、春蘭を引き連れて歩み去っていった。

 

 

 

 

 天幕前を警護していた秋蘭は、拓実が姉である春蘭を引き連れて歩み去っていったのを見送ると、他の者が一向に退出してこない軍議の場を覗き込む。

 置いていかれる形になった面々は混乱から覚めやらぬままに呆然と拓実を見送っていた。しかしその自信に満ち溢れた主君の後姿に、落ち着きを取り戻していくのが見て取れた。一人、事情を知った反応を見せていた桂花でさえもだ。

 そして拓実という理解の及ばない不可思議な存在に不信を感じていた筈の四人も、主君とまったく違わぬ姿と声色、気風を持つ者がもう一人いるということに今は妙な安心感すら覚えているようであった。

 

 文武両道であり、大陸有数の教養人。規律を重視し他者に厳しいが、それ以上に自身を厳しく戒めている少女。肌がひりつくような威圧を纏う怜悧な美貌は、その異常なまでの求心力の一つともなっている。

 その華琳の麾下にある者は武官・文官に関わらず、そんな彼女がふと微笑むだけで心の迷いが晴れていく。小柄な体躯で気丈に立つその姿を支え、彼女が見据える覇道を為してやりたいと思えてしまう。

 秋蘭もそのうちの一人であり、だから日々の研鑽を絶やさない。春蘭も、桂花も、他の者たちもだ。少しでも彼女の負担を受け持ちたいのである。

 

 しかし彼女はあまりに有能すぎた。たった一人で大抵のことを為せてしまう。だからこそ、曹操軍の頂点でただ一人となってしまっている。

 周りは主君より指示を受けては君命をこなし、意見を求められることはあれどもそれとて彼女の思惑の範疇。その考えはいつも的確であり、思想は揺るがない。陳言することもままならない。曹操軍は、正しく彼女なくしては成り立たない集団となっている。周りに人は居れど、その誰もが彼女の一段下で跪く。

 劉備が義姉妹の二人に、そして天の御使いに助けられているように。孫策が孫家の一族とそれに連なる者に支えられているように。真の意味で彼女の負担を受け持てる者が華琳の周囲にはいないのだ。

 

 その種類は違えど才覚において華琳に勝り、同じ姿を持ち華琳本人より名を名乗ることを許された者が、今はこの陣営において唯一独自に判断をも任されている。

 あるいは拓実であれば、孤高の少女と肩を並べることが出来るのではないか。かつては曹操陣営を二分することを危惧していた存在に、いつしか曹操軍を双頭となって率いてくれることを期待している。

 

「おい。お前たち、既に華琳様より命は下っているぞ。いつまでそこで立ち尽くしているつもりだ」

 

 秋蘭が呆れた様子で声をかけると残っていた者たちが自失していたことに気づき、慌てた様子で天幕から駆け出していく。命じられた仕事をこなすべく動き出した面々を見送り、秋蘭もまた流琉と共に備蓄の下へと歩き出した。

 

 

 

 

 その日の昼。行軍により疲弊していた兵たちに休息を与え、町の復興と炊き出しに兵を割り当てる桂花を陣へ置いた。拓実も自身の姿を衆目に晒す為、親衛隊をつれて秋蘭と流琉が監督している炊き出しの様子を見に来ていた。

 やはり食料はほぼ枯渇している状態であり、多くの洛陽の民が群がっている。暴動と略奪が起きてもおかしくないそこは、しかし秋蘭と流琉に厳命していたようにしっかりと四つの列を作らせて順番を守らせている。

 親衛隊の少女を侍らせてその光景を満足げに眺めていると、拓実に声をかける者がいた。見れば、関羽を連れた劉備が申し訳なさそうに体を小さくしていた。

 

 話を聞いてみれば、どうやら袁紹より譲り受けた膨大な食糧を捌ききれずに持て余していて、一緒に配給をしてくれないかと(よしみ)のある領主に要請して回っているようである(実際には要請というほど堅苦しいものではなく、ただのお願いであったが)。

 しかし僅か一千の軍団を率いて此度の遠征で名を挙げた劉備が自ら出向いて回るものだから、逆に何か企んでいるのではないかと警戒されてしまって断られてばかりらしい。他の領主と顔を合わせる機会ならと拓実も応じたのだが、曹操軍を除くと快諾してくれたのは公孫賛と馬超しかいなかったようである。

 

「慌てなくても大丈夫ですよ~! ちゃんと、みなさんに行き渡る量を用意してますから!」

 

 そんなこんなで、洛陽の町の一角。広場を利用して行われている共同の炊き出しには、錚々(そうそう)たる顔ぶれが揃っていた。

 人員の少ない劉備軍からは旗頭である劉備、北郷一刀が自ら参加していて、他に護衛も兼ねて関羽、そして鳳統。

 馬超軍(馬超は馬騰の名代としての参加である為、正確には涼州軍となるのだろうが)からは、領主の娘だというのに政務処理では役に立たないからと馬超。そして従姉妹の馬岱の二人が送り出されたようである。

 そして曹操軍からは交友を広げる名目で曹操である拓実が立ち合っている。しかし立ち会っているだけで実際に働いているのは秋蘭、流琉の二人だ。

 残る公孫賛軍はというと、当初は公孫賛の従姉妹である公孫越が指揮をとっていたのだが、劉備に北郷一刀、曹操、馬超と軍団の総大将といえる者たちが軒並み参加していることを伝え聞いたらしく、慌てて公孫賛本人が飛んできた。

 

「ふーっ。ようやく一段落つきましたね。もっと余裕があれば炊き出しも一日に二回できるんですけど、でもこうして喜んでもらえるのは嬉しいですよね」

「確かに、ああも喜んで感謝してもらえるとこっちも配り甲斐はあるよな」

「そうだな。こんなことなら、あたしたちももっと用意してくればよかったよ」

 

 ようやくある程度の民に炊き出しを配り終えると、短くなった列を兵士に任せた劉備が椅子に座り、疲れを感じさせない弾んだ声を上げた。そんな彼女を見てだろう、隣に座った一刀も顔をほころばせている。同じく一段落ついて壁に身体を預けて伸びをしている馬超が、そんな二人に人懐っこい笑みを浮かべた。

 

「って、言うのは簡単だけどさー。お姉さま、涼州の方だって結構かつかつだって。馬騰叔母さまが珍しく政務の仕事してたぐらいだったじゃん!」

「いや、うちの幽州だってそうだぞ。今回の連合軍参加は伸るか反るかの大博打だったんだ。失敗すれば反逆者になってもおかしくなかったんだから、そうならない為にもどこも出来る限りの物資と兵を揃えてきたと思うしな。曹操のところだってそうだろ?」

 

 馬超、馬岱、公孫賛と気性が似通っている部分があるからか、それともお互い馬術を得意としているからか、もう気の合った友のように振舞っている。そんな四人が会話している中、話題を振られたことで拓実がちらと四人に目をやった。

 

「そうね。今回の遠征で居城に蓄えた物資のほとんどを吐き出すことになるでしょう。例外があるとすれば、豊富な資金を有している麗羽のところぐらいのものね。――とはいえ、この大陸の現状を見れば『地の利』を除いた『天の時』『人の和』が揃っていたから、成否についてはそこまでの心配はしていなかったけれど」

「地の利、天の時と人の和……。えっと、朱里ちゃんと雛里ちゃんから教わった奴だよね?」

「はい。公孫丑章句上の一文、孟子の言葉です。事を為すべき機、地勢の有利、人心の一致を得られれば、自然と成功を得られるだろうという訓辞です」

 

 不思議そうに首を傾げた劉備に、疲労から地面にへたり込んでいた鳳統がよたよたと立ち上がって補足する。それでも疑問が拭えない様子なのは公孫賛である。

 

「えっと、天の時ってのは今回の虎牢関からの撤退を見れば何となくわかるけど、人の和もか? 連合軍に連携なんてほとんどあってなかったようなものだし、こうして和やかに話せるのだって連合が解散したからだと思うんだけど」

「連合に参加した諸侯を指してのものではないわ。大陸に住む民草のことよ。董卓軍――つまりは官軍に対し、見方によれば反乱軍と相違ない私たちが充分な私兵や物資を集めることが出来た理由を考えれば自ずとわかる筈よ」

 

 他の総大将三人がそれぞれ炊き出しの指示を行い、あるいは実際に手伝っている中、拓実だけは薄く笑みを湛えてただ、民の様子を、洛陽の町を眺めていた。

 華琳は特に規律を重んじる。秋蘭と季衣に監督を任せておいて、拓実が頭越しに兵たちに指示を出しては徒に混乱を招くだけである。だから、あえて手を出すことをしなかったのである。

 だというのに、立っているだけの拓実は洛陽の民から感謝の言葉をこぞって送られ、老人たちには拝まれ、若い男には兵の志願をと申し出られるのだから、曹操の名声はここ洛陽でも高まっていたようだ。

 

「ああ、なるほど。そういう見方もあるのか」

 

 敬うべき帝の統治下にあるはずの洛陽でさえ、一領主が神や救世主かのように扱われるという現状。つまりは、公権力である官軍より、反逆者の筈の連合軍に民が味方をしているのである。

 拓実の立ち姿に感謝を絶やさないでいる民たちの姿を見て、公孫賛が納得したように声を上げた。

 

「それにしても、まさか曹操さんにも一緒に炊き出しをしてもらえるなんて」

「あら? 私は劉備に、随分な薄情者と見られていたようね」

「い、いえいえいえっ!? 私、絶対そんなことは思ってませんよ!? 私たちも曹操さんには兵を送ってもらったり、以前から助言してもらったりと助けてもらってばかりですもん!」

 

 拓実の茶化すような物言いを真面目に受け取ったらしい劉備が、両手を顔を一生懸命になって振って否定している。劉備の焦った様子を見てくすりと笑みを浮かべた拓実は、未だにわたわたしている彼女に「冗談よ」と声をかけてやった。

 

「な、何だぁ、冗談だったんですかぁ。でも、その。昨日の曹操さんの話振りだと、てっきり私、長安に向かってしまうものだとばかり思ってたので」

「今この時だって、出来るならば連合の総力で一気にケリをつけてしまっておきたかった、そう考えているのは変わらないわ。あなたも、他の者も、配給している間に住民からここ洛陽で行われていた治世について聞いているでしょう?」

「……はい。董卓さんと賈駆さんが表立って大将軍として働いていたころは、もっと穏やかで豊かだったって聞きました。半年ほど前からその二人の姿が見えなくなって、代わりに宦官が顔を出すようになってからはずっとこんな有様だって……」

「そうね。加えて言うなら、董卓が暴政を働いているという話が大陸中に不自然に広まったのもここ半年のこと、何者かが意図して噂を広めていたとしか考えられないわ。疑問には思わないかしら。善政を敷いていた董卓が突然に乱心したとしても、わざわざ己の悪行を世間に広めて回る理由にはならないでしょう? であるなら、董卓の兵力を奪い、悪行だけをなすりつけ、私利を得て私欲を満たす者が裏にいたということ。恐らく、劉弁様と劉協様を連れ去ったのも董卓ではなくその者たちでしょう」

「えっ!? そ、曹操さん。もしかしてそこまで見越していてあんな風に言っていたんですか?」

「……。董卓に責任を被せている以上、劉弁様と劉協様を連れて逃亡している現場を押さえる以外に大義を以ってその者たちを誅する機会はないわ。もし逃げ切られて隠れられてしまえば、私たちは次にその者らが何らかの行動を起こすまで動くことは出来ない。そうなっては最後、ここ洛陽で行われていたような支配がまた別のどこかで行われるでしょうね」

「あっ……!」

「諸葛亮と鳳統あたりはそのことに気づいていたんじゃないかしら? ただ、それを言った所で、劉備軍に董卓を追う余裕がなかったから言わなかったのでしょうけど」

 

 表情を曇らせたままで鳳統は拓実の問いには答えない。だが、その態度こそが答えとなっていた。他には、なんとなく察していただろうは公孫賛。劉備と馬超は言われて初めて気づいたようで、愕然とした様子でいる。

 

「……あなたたちが気に病むことではないわ。私とてこの洛陽を捨て置けなかったのも事実なら、洛陽までと準備した物資でさらに長安までとなると心許ないもの」

「それでも! 袁紹さんから糧食を受け取った私たちなら! それに、洛陽に残ってる人達の中から一緒に手伝ってくれる人を探せば……!」

 

 縋るような劉備の言葉に、しかし鳳統は表情を曇らせる。

 

「その、確かに袁紹さんから頂いたので物資は十分すぎるほどに足りています。けれど、我らだけでは追撃するには兵が不足し過ぎています。戦闘になることを考えると、最低でも三千……いえ、五千ほどの兵がなくては。それに、他の諸侯に協力を仰ぐにも私たちの発言力は弱く、よしんば幾人から色よい返答を貰えたとしても、参加を表明してくれた方たちには袁紹さんから頂いた糧食を分け与えるわけにはいきません」

「そんな、どうしてなの雛里ちゃん!? こんなに、配っても余るぐらいいっぱいあるのに……」

「これらは、桃香さまが炊き出しの実施協力を呼び掛けていたのを見かねて、袁紹さんが譲ってくれたものだからです。総大将が帰還した後に、厚意から譲ったそれを解散した筈の連合軍の諸侯らに配り、桃香さまが先導して軍事行動を続けていたら袁紹さんはどう思うでしょうか? 桃香さまが諸侯を率いて長安へ進軍することは、反董卓連合軍の総大将である袁紹さんの面目を真っ向から潰すということです。今、連合に参加した諸侯らの旗印となって自由に動けるのは、形だけとはいえ袁紹さんから好きに参加者を募れと言われた曹操さんだけなんです」

「う……でも」

「劉備、あきらめなさい。人一人の手が届くところなんて知れているわ。分不相応な行動は己の身を滅ぼすだけよ」

 

 拓実のたしなめるような声に身を乗り出しかける劉備であるが、反論する余地がないと悟ったかそのまま消沈して腰を下ろす。その横でしばらく黙っていた人物が立ち上がり、鳳統へと向き直った。ずっと顎に手を当て思案していた一刀である。

 

「なぁ、雛里。董卓軍……いや、官軍って言った方がいいのか? その官軍を追撃するには五千の兵が必要なんだよな?」

「あ、はい。だいぶ心許ない数字ではありますが、成功が見込める兵数となるとそれぐらいは。それでも状況が味方をしてくれないことには成否の割合は半分にも届かないかもしれません」

「ええと、曹操。俺の記憶違いでなければさ、昨日けっこうな兵数を残党狩りとかで出発させてなかったか?」

 

 探るような視線を受けて、拓実は内心で驚いていた。どうやら、少しばかり話し過ぎたようである。

 けれども拓実が話題を誘導したことで、今この場の空気は『官軍を利用している何者かを早急に倒さねばならない』という方に流れている。であるなら、ここで変に隠し立てしても余計な不信感を与えるだけになるだろう。

 

「……そうね。ちょうど五千ほどの兵を回したわ。周辺の残党狩りと、長安の偵察にね」

「曹操さん!」

 

 ふ、と息を吐き、微笑を以って一刀へ言葉を返す。自分でしたことながら、よく気づいたと言わんばかりの上から目線な仕草である。

 一刀と拓実とのやり取りから事情を察したらしい劉備が、何故か我が事のように輝いた顔を見せる。どうやら彼女の目には『民の困窮を放っておけない情と仁義に厚い人物』とでも映っているらしい。彼女だけかと思えば、公孫賛や馬超たちも感心したような様子である。

 

「領主である私がここにいることからわかるでしょう? あわよくば、程度のものよ」

 

 どうも華琳は周囲からは冷徹な合理主義者と見做されていたようである。確かに今回のはイメージアップを狙っての話題誘導であったが、こうも混じりなしに好意的な視線に晒されるとは思っていなかった。不良が捨て犬云々に近いものがあるのかもしれない。

 つい、予想外の反応に拓実が視線を逸らしてしまうと、それを照れたと見られたか、にまにまと笑顔を向けられる。あろうことか流琉や秋蘭もである。拓実は今度こそ照れ隠しに、笑みを浮かべている者たちを睨みつけるのだった。

 

 

 

 それから数日、物資を配り終えた馬超と公孫賛が洛陽から発っていった翌日のこと。洛陽で支援を続けている拓実の元に、伝令が届く。

 

 ――――帝奪還の為に進軍していった追撃部隊が壊滅したという、曹仁からの知らせであった。

 

 



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42.『曹操軍、洛陽を発ち進軍するのこと』

 

 

 曹操軍・劉備軍・馬超軍・公孫賛軍はあれからも共同で物資の配給を行い、何事もないまま日が過ぎていった。

 そうしているうちに糧食の余裕がなくなったとして、馬超軍と公孫賛軍が領地へと帰還を決めてつい先日に洛陽を発った。連合解散から五日も経てば、洛陽に滞在していた諸侯もあらかた帰還している。

 袁紹の援助により物資に余裕があり今も尚精力的に復興を行っている劉備軍と、洛陽から動くに動けず滞在する他にない曹操軍。それを除いてしまえば残るのは五つ程度といったところである。

 

 その内の拓実が率いる曹操軍は、以前に華琳が諸侯らの前で話したように農地が壊滅している洛陽に万に及ぶ民を自給自足させる能力はないとして、数日前から別の街に旅立つ者への支援へと切り替えている。

 ここで拓実たちが急場の支援を数日続けたとしても焼け石に水。それどころか民はいつしか毎日の食を諸侯の配給に頼りきりになるようになり、彼らの自立しようとする意思を挫いてしまう。いつまでも面倒を見ているわけにはいかない。このまま洛陽の民の暮らしを安定させてはいけない。ここにいてもどうにもならないということに、気づかせなければならないのだ。

 拓実が集めさせていた配給用の備蓄が数を減らしているぐらいなのだから、残る諸侯もほぼ底をついている頃だろう。その伝令が曹操軍の陣に飛び込んできたのは、遠くない未来に支援が打ち切られるだろう予感を感じさせる頃であった。

 

「曹操、さま。追撃部隊、曹仁さまより、伝書、を……!」

 

 兵士が曹操軍の陣へと辿り着いたのにたまたま居合わせたのは、洛陽視察の準備していた拓実とその護衛役の春蘭であった。

 曹操軍の鎧を纏った歳若い男はよろよろと近寄っては息も絶え絶えにそれだけを言うと、手にある書状を春蘭へと渡してそのまま糸が切れたかのように地面へ倒れ伏す。

 見れば顔色は青白くその額には流れ出ていただろう血が固まり、鎧の下に着込んでいた衣服も赤黒く染まっている。そして彼がうつぶせに倒れたことで、その肩に矢羽部分の折れた矢が突き刺さったままであったことに拓実と春蘭は遅れて気がついた。

 

「おい、曹仁の伝書はこの夏侯元譲が確かに受け取ったぞ! よくやった! 誰か! 誰かあるか! まだ息がある、この勇士に治療を急げ!」

 

 呼吸を確認した春蘭が、すぐに付近を警護していた親衛隊の兵に彼を運ばせて治療に当たらせるよう指示を出す。

 ばたばたと衛生兵たちが負傷した伝令を抱えて運んでいく。どうやら、状態を確認している衛生兵の様子を見る限りでは一命こそは取り留めそうであった。

 

「華琳さま、これは……」

 

 書状を手に、春蘭が困惑を隠せずに縋るような視線を送ってくる。手傷を負い、休む間も惜しんで単騎帰還した追撃部隊の伝令――まず、喜ばしい報告ではないだろう。

 

「春蘭。緊急に軍議を開くわ。すぐに秋蘭と桂花の二人に召集をかけなさい」

「……はっ!」

 

 

 

 

「『――――洛陽に居られる華琳さま。戦場にて、経過と用件のみ記すことをお許しください。洛陽を発って数日、長安への道中にて逃走する董卓軍を発見し、追いつくことに成功致しました。荀攸さまの指揮の下で交戦し一時優勢を保つも、しかし山腹に伏兵の計をこらした官軍の将、郭汜に李(カク)、また長安を先んじて制圧していた徐栄らにより挟撃に遭い、一刻に及ぶ奮戦も空しく我が方の被害は甚大でございます。今や兵も隊列を乱され離散を始め、壊滅は必至。前線の部隊は半壊し、指揮をなさっていた荀攸さまと曹洪は数十の護衛を連れて共に逃げ延びたご様子。お二人から目を逸らすために後続に配されていた私が残りを率いて百里(約40km)の撤退を行うも、未だ追撃の手が緩まぬ為に応戦し敵軍の足止めをしております。荀攸さまが今も洛陽へご帰還なさられてないならば、どうか早急に、落ち延びた荀攸さま捜索の部隊を遣わしていただくようお願い申し上げます――――曹子孝』」

 

 左手で曹仁からの書状を開き、読み上げる。拓実が言葉を発するたびに、軍議へと呼んだ三人の目が見開かれ、その瞳は大きくぶれていく。

 事情を知りながらも曹仁が華琳の名を荀攸と記載しているのは、伝令が志半ばで倒れてこの書状が敵の手に渡った時のことを考えてだろう。その文字も戦場で急ぎ書かれたものとわかるぐらいに崩れていた。

 

「これが、今しがた水夏より私宛に届いた伝書よ」

「か、壊滅……? そんなっ、華琳様が?」

「ぐうっ! おのれ、私が華琳さまのお傍を離れたばかりに! すぐに華琳さまの捜索に出るぞ! 私が陣頭指揮する、文句はないな!」

「待て、姉者! 捜索部隊の編成が先だ。私も出るぞ。兵たちにはすぐに準備をさせる!」

 

 その内容が浸透するなりに、人払いされた天幕の中で軍議に集められた三人は恐慌に陥った。

 桂花が震える両手を口元へとやって、膝から崩れ落ちてその場にへたり込む。呆然と宙を仰いだまま、視点は定まらない。春蘭は聞くが早いか、立掛けてあった大剣・七星餓狼を担いでは構え、身を乗り出し怒鳴り散らしている。それに制止の声をかけた秋蘭も、姉より早く天幕から駆け出そうとする。

 

「あなたたち、落ち着きなさい」

 

 この場で揺るがずにいられたのは唯一拓実だけであった。椅子に深く腰掛けたままで立ち上がる様子もなく、もう一度手元の書面を読み返してから三人に向けて落ち着き払った声を上げる。

 駆け出そうとしていた春蘭と秋蘭は主君と同じ声に足を止めては振り向き、しかし(まなじり)を吊り上げた。

 

「拓実! こうしている間にも華琳さまに危機が迫っているのだぞ! 落ち着いてなどいられるものか!」

 

 いきり立っている春蘭は一向に動く素振りを見せない拓実に苛立ったらしく、荒々しく歩み寄っては掴みかからんばかりである。声にこそ出さないが、同じく秋蘭も横目で睨みつけるようにして拓実を非難している。

 だが今この状況での振る舞いに対し、気に障っていたのは春蘭と秋蘭だけではない。静かに、しかし彼女たち二人よりも激しく心火を燃やしていたのは、一人動じる様子を見せなかった拓実であった。

 

「『拓実』ですって? 春蘭。あなたは、誰に口を聞いているのか理解しているのかしら」

「何だと!? 貴様こそ何をのんびりと悠長に構えている! そんな暇があるなら一刻も早く……!」

「これが最後よ。次はないわ。あなたの目の前にいる者が『この私』であると理解し、それでも尚『貴様』と呼びつけるのか。春蘭、答えなさい」

 

 華琳が全権を委ねたのは誰か。この姿の拓実が表に出る時に限り、拓実は『誰』であると華琳は明言したのか。それを違えて『華琳』に暴言を吐き、軽んじるというのであれば、例え最古参の忠臣であろうと『私が誰であるのか』をわかりやすいように思い知らせてやる。

 拓実は己に食って掛かろうとしている春蘭を見据える――――さあ、言ってみろ。

 

「なに、を、っ……!?」

 

 拓実が視界の中心に春蘭の姿を据えたのと同じくして、怒り昂っていた春蘭の肌は一斉に粟立っていた。反射的に一歩後ずさり、体を竦ませ上体を仰け反らせる。

 春蘭は目の前に座って無表情に己を値踏みしている存在を、否応もなしに再認識させられていた。向けられているのは、これまでのような感情の篭もった視線ではない。そこには、虫けらを踏み潰すように人命を刈り取る、冷徹な眼光があった。春蘭の主君が、賊徒や不正を働いた役人を斬刑する際に見せていた瞳そのものである。

 それが今、自身へと向けられているのだ。一つ返答を間違えればこの場で斬り捨てられるところに立っている――それを自覚してようやく、春蘭は己の過ちに気がついた。

 

「ぁ、う……! か、『華琳』さま……数々の無礼、申し訳ございません!」

 

 その姿、その声、その瞳。目の前に座っている者は『華琳』であると、鋭い殺意に慄いた春蘭のあらゆる感覚がそれを認めていた。

 春蘭はすぐさまに跪き、己の命である大剣を地に置いてその柄を拓実へと差し向ける。そして首を差し出すかのように、深く深く頭を垂れた。許されなければ、己の剣でこの首を刎ねてもらう。それは今この場で春蘭に表せる、最大限の謝意であった。

 

「……秋蘭。私は、一言でもあなたに捜索部隊の編成を命じたかしら?」

「い、いえ。此度のことは申し開きもございません。出過ぎた真似を致しました。どうかご寛恕をいただきたく……」

 

 頭を下げたままの春蘭に声をかけることもせず、次に秋蘭を睨みつける。秋蘭もまた春蘭の隣に跪き、深く頭を垂れて平伏した。

 秋蘭もまた、目の前にいる『華琳』に指示を仰がず独断で軍を動かそうとしていた。勿論、華琳がいれば絶対に起こり得ないことであり、そして秋蘭の目の前にこうして『華琳』が座っている以上は絶対にあってはならないことである。

 

「桂花、あなたもいつまでへたりこんでいるつもりなのかしら。見苦しい」

「は、はっ!」

 

 慌てて、桂花がよたよたと立ち上がった。しかしそれも未だにまともに働いていないだろう頭で、叱責の声に何とか返事をしただけだ。

 

「ふん、もういいわ。二人も顔を上げなさい」

 

 そんな三人を前に、拓実には苛立ちばかりがつのっていく。

 華琳がいないというだけでこの有様だ。あまりに脆弱すぎる。今この瞬間、精強と謳われる曹操軍などはどこにも存在しない。怒りを越えて、情けなさすら覚えている。

 今、拓実の顔には隠しきれない失望が広がっていることだろう。実際、拓実には目の前の三人が酷くちっぽけな、つまらない存在としか映らない。ここにいたのが華琳だとしてもきっと今の拓実と同じように感じたことだろう。

 

「う……っ!」

 

 許しを得たことで恐る恐る頭を上げた三人は拓実の表情を目の当たりにして顔を強張らせると、そのままに青ざめさせた。

 幾度か、その表情を見たことはあった。敬愛している主君と同じ顔の作りをしているから、どのような場面で見たものなのかはすぐに思い当たる。これまで春蘭たちには向けられることのなかったものであり、そして三人が三人共、よもや自身に向けられるとは思ってもみなかった表情であった。

 見下ろす瞳は何の感慨も浮かんでおらず、期待や興味による輝きが薄れた鈍色。ともすれば次の瞬間には視線を切られる、路傍の石ころを視界に入れた時のそれであるのだと気づいてしまったのだ。

 

「そもそも、捜索部隊の編成ですって? そんな必要はないわね。書かれたことを額面どおりに受け取りそのまま鵜呑みにするだなんて、揃いも揃って物を考えられなくなったのかしら」

「そ、それは、いったいどのような……」

「私は、あなたたちがそれすらわからないほどの蒙昧(もうまい)だとは思いたくないのだけれど」

 

 救助の必要がないとでも言うのか。そんな疑問から声を上げかけた桂花だが、割り込んだ拓実の声に言葉が続かなくなった。ちらと冷ややかに拓実に見られただけで、桂花の中で疑問よりも恐れが勝ってしまう。

 口を閉ざし目を伏せた桂花を一瞥だけすると、拓実はつまらなさそうに目線を切って鼻を鳴らす。

 

「……この伝書には水夏の主観が多分に入り混じっている。後続に配されていたというあの子には、正確な情報が伝わらなかったと見えるわね。おそらく、前線で戦っていただろう『私』や李冬には、違った事情があったことでしょう」

 

 言いながらも拓実が曹仁からの伝書を宙に滑らせると、図ったように伝書は三人の眼前、ちょうど中間にひらひらと落ちて動きを止めた。拓実は、伝書の行方を見届けるまでもなく椅子から立ち上がる。

 

「この『私』が兵を率いておいて、たとえ挟撃にあったとしても壊滅を覚悟せねばならない状態になるまで、ただ手をこまねいていたとは思えない」

 

 いくら華琳といえども、百戦して百勝とはいかない。強兵とはいえない黄巾党を相手に戦っていた時も、曹操軍は予想外の敵の援軍や開きすぎた兵数差の前に幾度となく退けられている。

 それでも兵の半数をも失うような大損失を被る失策をしたことはない。合理的な考えを根底に持つ華琳は滅多に熱くなる事がなく、用心深い。そして、敗戦であっても引き際を大きく見誤るということもなかった。それを、今回に限って誤ったとでもいうのか。

 ――そんな筈はない。元より兵数で劣っていたのは華琳とて知っていたことだ。不利であるからこそ、華琳はおいそれと軽挙に走るような人間ではない。

 

「おそらく『私』には幾度かあった退却の機を見過ごさねばならない……それこそ壊滅を覚悟してでも戦う必要があった。そうせざるを得ないだけの理由があった」

 

 戦況を読み違えたのではないとしたら、華琳の合理性をも覆し、その上で博打となる戦法を選ばせるような、『引くに引けぬ事情』があったに違いない。

 では、いったいそれは何なのか。部隊の壊滅――つまり、精鋭である数千もの兵を失ってでも華琳が欲するとなれば、考えられるものはそう多くない。

 

「『交戦し一時優勢を保つも――』ということは、追撃隊は帝を連れて逃亡中であった董卓軍に追いつき、一戦を交えていたということ。その後、挟撃を受け三方を囲まれながらも交戦。本来なら退いて体勢を立て直すべき劣勢の中、頑なに退却の命を出さなかった。そして、二人揃って兵力を残している後続の水夏とは合流せずに、野に落ち延び姿を隠した……」

 

 例えば、そう。今を逃してしまえば二度と手に入らぬ至宝が、手を伸ばしさえすれば届くところにあった。それぐらいの何かが。

 

「そして、その後に百里の距離を撤退しているということは、殿である曹仁と官軍は洛陽の勢力圏にまで迫ってきている。ほとんどが領地に帰還したとはいえ、未だ諸侯が残る洛陽に近づきながらも敵軍の追撃の手は緩む様子を見せない」

 

 官軍にしても、諸侯を打ち破るだけの自信と兵力を持っているなら洛陽を捨てる必要などはなかったはずだ。だが実際には官軍は洛陽を捨て、だというのに、諸侯と接触する危険を承知で追撃は止めなかった。

 つまり官軍側にもまた、結果として壊滅する危険があろうとも成し遂げなければならない『引くに引けぬ事情』があったに違いない。では、その事情とはいったい何なのか。

 

「追撃部隊が敵に囲まれながらも戦闘続行せざるを得なかった理由。敵軍がこちらの勢力圏に近づいても尚、執拗に追撃を緩めない理由。そして『我が追撃部隊は帝を連れて逃亡していた董卓軍に追いつき、有利に交戦していたこと』、そしてそれをしていた前線の『私』と曹洪が、揃って曹仁と合流していないという事実。ここまで情報が出揃っていたならこの程度、いつものあなたたちであれば言われずとも理解していたことでしょう」

「それは……!」

「――もしや!」

「ああ! 華琳様っ!」

「春蘭と秋蘭はともかく、少なくとも桂花には話したわね。『曹孟徳は、あなたたちの目の前にこうして立っている。そして追撃隊の方も、あちらの曹孟徳が指揮を執る以上は悪い結果は出さないでしょう』とね。『私』は隊を瓦解させながらも追撃部隊の目的を達したようよ。であるなら、その臣下であるあなたたちはどうやって『私』に報いるというのかしら?」

 

 拓実は膝を突いた三人の前にゆっくりと近寄り、見下ろすようにして立った。

 対して、三人は自然と見上げる形となる。重臣たちが慌てふためく中でも唯一人、自信と威厳を崩さない、主君と同じ影武者の姿を。

 

「秋蘭、今一度問いましょう。こうしてあなたたちの目の前に立っているのは誰なのかしら?」

「ははっ! 華琳様にございます!」

「では、春蘭。あなたたちは私の何?」

「華琳さまの臣下! 華琳さまの手足となる者にございます!」

「桂花。あなたたちが今すべきことは?」

「華琳様の目的を、完遂させることにございます!」

 

 三人より、打って変わって気のはいった声が返ってきた。表情からは不安が消えて華琳の麾下であるという自負が見える。

 やはりこうでなくてはいけない。拓実の口角が僅かばかり吊り上がる。ようやく、拓実の胸中に渦巻いていた不快感が薄れていく。

 

「官軍は官軍たる象徴を取り戻すまで退きはしないでしょう。それでは捜索隊など出したところで自由には動けない。ならばどうするか――――秋蘭、わかっているわね? 捜索隊などを編成する必要はないわ。これから我らが行うは、形振り構わずの行軍を続け疲弊しているだろう官軍を打ち倒す、曹操軍全兵力を投じた『討伐戦』よ」

「承知いたしましたっ! すぐに全軍に通達致します!」

「春蘭。戦においてあなたがすべきことは?」

「私は華琳さまの剣! 私がすべきは華琳さまの前に立ち塞がる敵の(ことごと)くを切り裂くことです! 先の失態、戦働きにて挽回させていただきたく!」

「よろしい。あなたには我が軍の先鋒を任せる。迅速に我らの敵を駆逐なさい」

「華琳さまのお心のままに!」

 

 拓実が自身に向けて置かれている大剣・七星餓狼の柄を跪いている春蘭へと向き返すと、春蘭はそれを持ち上げ、拓実へと向けて掲げた。その瞳に迷いはもう見えない。

 その様子に満足げに頷いて返すと、春蘭が掲げていた剣を納めて獰猛な笑みを浮かべる。

 

「桂花、糧食の補填は済んでいるわね。物資の荷造りは終えてあるのかしら?」

「はっ。万事、抜かりはありません」

「ふん。洛陽に滞在する諸侯のほとんどが昨日までに帰還していったのはむしろ幸いね。最早、何者にも気兼ねする必要はない。これより我らは洛陽の陣を引き払い、全軍で官軍の討伐へと向かう! 本隊の総指揮は私が執る! 半刻後には洛陽から出立するわよ!」

『はっ!』

 

 三人は揃って声を上げ、それぞれ拓実へと臣下の礼を取ると、為すべきことを為す為に一斉に天幕から辞していく。

 昂りは見えるが、先のような激情に支配されている訳ではない。華琳より与えられた使命をただ忠実に果たすべく、各自が出来うる限りの働きをしようと動き出した。

 

 

 

 三人の背を見送った拓実は深く息を吐き、呆れを残しながらも相好を崩した。

 こうなればもう心配はないだろう。いつも通りか、それ以上の働きを見せてくれる筈だ。

 

「せっかく混乱を起こさぬよう重臣以外には打ち明けなかったというのに、その三人からして世話を焼かせるのだから。これでは他の者に伝えることが出来るようになるのはいつになるのやら」

 

 先に拓実が発言していたように、この程度のことは春蘭はともかく常時の秋蘭と桂花であれば気づけたであろう。主君が敗走したという報せを受けただけで平静を失っては判断力を欠き、状況を考えることもできなくなってしまった。

 それほど華琳に対して心酔しているということの裏返しではあるのだが、そのフォローまで影武者である拓実が背負うべき仕事とは思えない。まったく、これから先が思いやられるというものである。

 

 

 

 

 曹孟徳の持つ名馬、絶影。拓実が華琳に仕えるようになった時にはもう、絶影は華琳の愛馬として陳留の城にある専用の厩舎にいた。

 牝馬でありながら牡馬に負けない体格と力強さを持ち、影も留めぬと云われた速度もさることながら持久力でも他の追随を許さない。その上で頭が良くまるで人間の言葉を理解しているかのようで、首を撫でて褒めてやれば目を細めて喜ぶ。その瞳には確かに、知性の色が見える。

 三国志での名馬といえば『人中に呂布あり、馬中に赤兎あり』の赤兎馬が有名ではあるが、速度においてならば絶影もひけを取りはしないだろう。そんな彼女を名馬と呼ばずして、何を指して名馬とするのか。

 

 そんな絶影だから、流石に拓実が華琳の姿をしているといえども乗り主を騙し切ることは出来なかった。洛陽で民の前に出る際に華琳の象徴たる彼女に乗馬したのだが、背に乗せて少し走り出したところで立ち止まってしまって、手綱を引こうと声を掛けようとまったく進まなくなったのだ。

 絶影は華琳以外をその背に乗せようとはしない。主君である華琳と瓜二つであったからか、他の者が跨ろうとした時のように振り落とされることは無かったが、体格から声、容姿に雰囲気、香水によって体臭までを同じくする拓実を己の主人ではないと見抜いたのである。

 梃子でも動かないといった様子のその時の絶影は、しかし不安げに主と瓜二つの拓実を見つめていた。

 

 それ以後、拓実は洛陽に滞在する間、許定が厩舎で寝泊りして馬たちと仲良くなった時に倣って、絶影を常に隣に置いていた。町の視察も、兵の調練も。政務の際も天幕の直ぐ傍に繋ぎ、いつでも姿が見えるようにした。寝る間際まで共にあり、朝起きてはまず彼女と顔を合わせた。背に跨ったりはせず、ただただ隣を歩かせた。

 言葉によって意思疎通できない馬は、何を以って人を信ずるのか。華琳がどのようにして絶影と信頼関係を築いたのか、そして華琳と同じことをして彼女と心を通わせられるかといえばわからない。拓実は共にいる以外に打ち解ける方法を知らない。

 

「……今、あなたの主人が大変なの。私はあの子を助けてあげたい。それはあなたもでしょう? 私もあなたも、同じ。だから私に、あなたの力を貸して頂戴」

 

 拓実は、華琳の愛馬である絶影の顔と真っ向から向き合い、話しかける。彼女が人の言葉を解すると疑わないように。

 そして絶影もまた、じっと語りかけてくる拓実を見据えている。立派な(たてがみ)を撫で擦ってやりながらも、覗き込んでくる絶影の瞳から確かな意思を感じ取り、拓実はうっすらと微笑んだ。

 

「ありがとう」

 

 そして今、華琳の危機に際して真摯に頼み込んだ拓実に、絶影はその背を許してくれたのだった。これまで梃子でも動かぬ様子だった絶影は、背に乗せた拓実の手綱の指示に従って歩いてくれている。

 ここで絶影が拓実を拒否していたのなら、行軍中拓実は他の馬に乗らねばならないところだった。愛馬がいながら別の馬に乗っていては、配下の者たちに疑問に思われていたことだろう。それによる安堵もあったが、なにより絶影が心を開いてくれたことが拓実は嬉しい。

 

「曹操さーん!」

 

 乗り手の意図を汲んで、人馬一体に走り回る絶影。よもやその背に乗るのが仮の主人だとは誰も思わないだろう。

 確かめるように絶影を走らせる拓実に、慌てた様子で駆けつけた劉備が声をかけてきた。今日も炊き出しを手伝っていたらしく、前掛けを外し忘れたそのままの格好で急いで走ってきたようである。遅れて、護衛役であろう関羽が慌ててついてきた。

 

「桃香さま! 護衛も傍につけずいきなりいなくなるのはおやめください!」

「ご、ごめんね愛紗ちゃん。えと、でも、どうしたんですか? いったい何が……」

 

 駆け回っていた絶影の手綱を引いて歩かせる拓実へと駆け寄ると、劉備はきょろきょろと物々しい様子にある曹操軍を見回している。

 それどころではなかったとはいえ、一週間ほど共に配給していた劉備に何も言わず出発するのもどうかと考えて拓実はその問いに答えることにした。

 

「偵察に出していた部隊が、長安から出兵した官軍から襲撃を受けたと報告があったわ。どうやらここ洛陽へと進軍を続けているようだから、調子に乗った官軍にこれから痛撃を与えてやるところよ」

「ここにですか!? そ、それじゃあ、私たちも出ます!」

 

 その申し出に、拓実はふむ、と唸って僅かばかり思案する。華琳率いる追撃部隊との交戦により数を減らしても尚、兵数では官軍が上回っていることであろう。劉備軍の一千が加わってくれれば楽にはなることは確か。

 だがそれは同時に、劉備軍にどこかに逃げ延びている『二人目の華琳』を発見させる機会を作ってしまうことにもなる。そこに思い当たれば、拓実の中で答えは決まっていた。

 

「気持ちはありがたいけれど、私にあなたたちの助力は必要ないわ。今、本当に劉備の助けを必要としているのは洛陽の民でしょう。官軍撃退の成否に関わらず、まず我らに復興を手伝う余裕はなくなる。戻ってこれたとしてもすぐに領地へと帰還することになるわ。……劉備、洛陽はあなたたちに任せるわよ」

「あ……は、はいっ!」

 

 ここで劉備に引き下がられ付いてこられても困る為、拓実は彼女の人情に訴えるように言葉をつなげる。

 劉備は曹操に対して返しきれないほどの恩がある。黄巾党討伐から世話になっており、今回の連合軍でも幾度か助力してもらっている。自身の勢力とは比べられないほどの力を持っていることもあり、いくら畏敬をしても足りない人物である。

 その曹操に頼られることになるとは思ってもみなかったようで劉備は一瞬呆けた様子だったが、すぐに真剣な顔つきで頷いて返した。

 

「華琳様、お待たせ致しました! 命あらばいつでも進軍可能にございます!」

 

 そこに、秋蘭が拓実の元へと馬を寄せてくる。秋蘭には珍しくも強い語調からわかるように気負った様子こそ見られるものの、それで判断を誤るほど深刻ではなさそうだ。

 

 春蘭たちの手前ああは言ったものの、拓実だって華琳の身を案じていないわけではない。彼女とて所詮はただの人間であり、失敗もすれば死ぬこともある。

 そして拓実もまたこれから自ら戦場へ向かうとなれば、いくら華琳に扮しているとはいえ不安の一つも覚えるというもの。だが『華琳』である今、その一切を表に出すことは許されない。

 華琳は、部下の命を己の指揮一つで左右する重責と不安とを抱えている。どれだけ有能であろうとも人である限りその重圧からは逃れることはできない。

 しかし、それでも尚、泰然と構え、かつ苛烈に攻め、しかし冷静に事を進められるのが曹孟徳という人間である。ならば、拓実は彼女の内心の不安も重圧も、それを取り繕える強さも全部、ひっくるめて真似てやるだけだ。

 

「本来であれば私から兵らに号令の一つでもかけるところだけれど、今はとにかく時間が惜しい。春蘭を先鋒として、全軍に進軍を開始させなさい!」

「御意に! ――夏侯惇将軍に伝令を出せ! 曹操様より、進軍許可が下ったぞ!」

 

 秋蘭が手早く手綱を手繰って馬頭を返すと、遠く声を張り上げる。その声を待っていたと言わんばかりに、伝令兵が前曲へ向かって駆けて行った。

 隊列を乱さぬまま曹操軍が動き出す。そうして拓実も馬を進めようとして、ふと、じっとこちらを見上げている劉備に気づいた。我が事のように心配そうにしている劉備に薄く微笑んで、口を開く。

 

「では、劉備。またいつか、どこかで会えることを願っているわ」

「はい! えっと、私も洛陽で曹操さんのご無事を祈ってますから! どうか怪我しないようにしてくださいね!」

「ふっ、忠告はありがたく頂いておくとしましょう」

 

 これより戦場に向かう者に武運を祈るわけでなく、怪我をするなと言ってのけるのがどうにも彼女らしくて拓実はつい笑みがこぼれてしまう。

 すぐに気持ちを切り替えると、徐々に上がり始めた行軍速度に遅れぬよう絶影の腹を蹴って加速させた。

 

 

 

 先頭で猛り突き進む春蘭に兵たちもつられて、曹操軍の士気はめっぽう高い。また、洛陽に滞在している間に充分な休息を取らせていた為に心身共に充実していた。

 この遠征において兵たちがこれ以上なく好調であると見た拓実は、昼夜を問わずの強行軍を決行した。

 

 夜間は気温が下がり体温が奪われやすく、目視範囲が狭まって周囲の状況もつかめないために兵の消耗が激しい。地形の把握や敵軍の察知など、情報収集目的に放つ細作も期待した成果は上げられないだろう。

 加えて五千もの大軍となれば松明を持たせることとなるが、それこそわざわざ敵に位置を知らせてやるようなもので索敵精度の差により奇襲も受け易い。夜駆け朝駆けなどの明確な目的がある場合を除いて、通常は敵軍が潜む戦場区域において夜間行軍は行うものではない。

 しかし、拓実が最も欲しているものは正確無比な情報でもなければ、兵たちを万全の状態に保っておくことでもない。それらいくらかを引き換えにしても、今はただただ『時間』が欲しいのである。

 

 拓実は進軍日数の短縮の他に、密かにある副次的効果がもたらされるのを期待していた。いや、これこそが拓実が夜間行軍を決行した目的とも言っていい。

 帝を保護し、曹仁を囮にして慎重に姿を隠した華琳を見つけだすのは、いくら思考傾向を同じくしている拓実とはいえ困難を極める。闇雲に探して回るぐらいなら、まだ洛陽に駐屯して華琳が自力で帰還するのを待ったほうが見込みがある。

 そうはせずに拓実が進軍中に落ち延びた華琳と合流するにはどうすればいいのか。もっとも安全なのは先に官軍を完全に撃退してしまうことである。そうすれば何も気にすることなく拓実たちは華琳の捜索に専念できる。華琳も危険がないと把握できれば表へと出てくることだろう。

 拓実が密かに狙っているのは、その次点。拓実たちが華琳を見つけられないのであれば、華琳に拓実たちを見つけてもらえばいいのである。

 

 曹仁率いる追撃部隊はきっと今も官軍を相手に撤退しつつ応戦を続けている。時間稼ぎを目的としているから、極力被害を抑えての長期戦を心がけているに違いない。

 目の前に瓦解せずに退却する曹操軍がいる為に、官軍はまだ華琳や帝が隊を離れて逃げ延びていることを知らずにいる可能性は高い。それはつまり、目の前の曹仁にかかりきりとなって、周辺をくまなく捜索してはいないということにもなる。万が一捜索していたとしても日が昇っている間の見通しがいい時間帯だけで、曹仁に追撃をしかけている官軍にはまず夜間にまで広範囲に斥候を動かす余裕は無い。

 華琳はそれを予期して日中は下手に動かず息を潜め、しかしその間も周囲の情報はつぶさに収集し続けていることだろう。そんな中で、夜間に見つけてくれと言わんばかりに松明を持たせ、長安へ向かってわき目も振らずにまっすぐ進む兵があれば、華琳なら正しくどこに所属している軍隊か理解してくれる。拓実にはその確信があった。

 

 

 

 日が頭上から西へと傾き始めた頃、曹操軍は本日幾度目かの休息が終わって陣の撤去を終えたところであった。

 出兵から三日目となるこの日。兵たちに合間合間の休憩で順繰りに仮眠を取らせていた拓実は引き続いて本日も夜間の行軍を敢行するつもりでいる。

 洛陽目指して退却している華琳の目に留まるのはおそらくこの日予定している道程までで、それより先に進むとどこかで擦れ違ってしまっている可能性が高くなる。また、普段よりこまめに休息を取らせているとはいえ、この方法で行軍させては兵たちも疲労と寝不足で使い物にならなくなるだろう。本日中に合流できない場合は華琳の保護を後回しにして足止めをしている曹仁隊に合流、追撃している官軍の撃破を優先させなければ立ち行かなくなる。

 だからこそ、何としても見つけておきたい。兵たちに負担を強いているこの強行軍は早く終えたいが、華琳が見つかるまでは今日という一日が終わらずに延々と続いていてくれないものか。

そんな有体も無いことを考える拓実が取った睡眠は兵たちより短く、日に二時間に満たない。薄い眠気と疲れの抜け切らない体で絶影に跨っている。

 

「……絶影?」

 

 絶影も拓実が疲労しているのに気づいているらしく、乗り手に負担が掛からないように足場を選んで走ってくれている。その絶影がやおら立ち止まり、首を左方の林へと向けた。

 じっと何かを見ている。つられて拓実もそちらを見やると、鳥が木々から離れて飛び立っていくのが確認できた。その意味に気づく前に、馬上の拓実に声が掛かる。

 

「華琳様、左前方三里の林の中に、官軍の部隊を発見致しました! 敵兵数、おおよそ五百から七百ほど! 細作によれば我が軍方向に――洛陽方面へと向かって何かを追跡している様子とのこと! この位置的に見ても、おそらくこの別動部隊は……!」

「秋蘭! 春蘭への伝令を!」

「はっ! 伝令兵、ここへ!」

 

 見つけた。未だ曹操軍の追撃部隊も見えぬこの位置まで追いすがり、足止めの部隊を素通りしてまで何かを追っている官軍。

 間違いない。追われている者――華琳は、この近くに潜んでいる。いきり立ちそうになる心を落ち着かせ、今すべきことを見据える。華琳であればどう考えるか。華琳であればどう動くか。

 

「……敵方は未だ我らに気づいてはいないようではあるが、彼我の位置関係から奇襲は困難と見る。であるならば、敢えてこちらから存在を知らせてやりなさい! 銅鑼を叩け! 戦鼓を打ち鳴らせ! 全軍、左方林地へ向け全速前進! これより我が軍は戦闘に入る!」

「ははっ! 曹操様より夏侯惇将軍へ伝令だ! これより我が軍は左前方の敵勢を駆逐する! 将軍への伝達を終えたら進軍の銅鑼を鳴らせ! 後続は前曲に遅れるなよ!」

 

 言うが早いか、伝令兵が駆けて行く。それを見届けるなり、秋蘭は拓実へと馬を寄せる。

 

「では華琳様、私も二陣の指揮へと参ります」

「ええ。戦闘指揮は春蘭に。官軍に追われている『何か』の捜索はあなたに一任しましょう。方々を探すには幾人か指揮官を必要とするでしょうから、流琉と沙和を連れて行きなさい。くれぐれも粗相のないように」

「承知致しました」

 

 言われずとも秋蘭は自身が置かれた配置からその役割を理解していただろう、心得ているとばかりに頷いて返した。

 

 

 

 官軍八百に曹操軍五千が殺到する。八百の兵を圧し包み飲み込むように五千が突撃していく。

 曹仁らはまだ数里先で官軍の本隊と戦闘していることだろう。当然、それを越えてきた官軍の別働隊は周辺に敵兵はいないものと高をくくっていたに違いない。その矢先に、六倍以上の兵による敵襲を受けたのである。

 

 ここで敵の油断を突けたのは、常道を無視した強行軍があってのことである。そしてこの異常な行軍速度を為せたのにも幾つか要因があった。

 討伐隊を差し向ける決定が曹仁からの伝書を受けたその場で行われた事。またその決定から時間をかけずに洛陽を発った事。更に加えて、これから戦場に向かうのに兵に負担を強いてまで強行軍を決行する無茶があってのことである。

 『巧遅は拙速に如かず』とはいうものの、拓実の指揮にそれが適用するのは討伐隊の編成を決定し、洛陽から出兵する為の準備を短縮させたところまで。信頼のおける情報は少なく、強行軍では索敵も充分ではない。兵を疲弊させた挙句に目指す戦場には曹操軍の五千を越えるだろう大軍がいるのは事前に予想できていたというのに、それを踏まえての決行。これで十全の力を発揮できなかったことが勝敗を左右でもしようものなら目も当てられない。

 

 官軍が帝が連れ出されていることに気づき捜索の為に別働隊を分けていなければ、逃げ隠れた華琳と行き違っていた可能性はあった。

 曹仁が既に打ち破られていたなら、疲弊した状態で寡兵を率いて官軍本隊と一戦せねばならなかったかもしれない。運悪く、逃げ延びていた華琳が既に捕縛されていたかもしれない。

 そうはならなかったからよかったものの、完全に出たとこ勝負の運否天賦に頼った方策である。これで失敗しようものなら、遥か後世にまで言い伝わる曹操痛恨の悪手とされただろう。

 だが、だからこそ敵の意表を突いた形となった。官軍は洛陽からの援軍があるとしても、少なくともあと二日程度の余裕があるものと見ていた筈だ。だから千に満たない少勢の別働隊なんてものを編成してしまったのだろう。

 

 ――――八百の官軍はその壁が迫りくるような五千の曹操軍に対して、碌な行動を取れずに為すがままとなった。

 あまりの兵数差に、剣を合わせる前から抗戦する士気を挫かれていたのだ。そこに、前曲を任されて戦意高揚した春蘭指揮による猛攻である。春蘭自身も先陣を切っては敵将の張済、張繍なる者たちの首級を次々と上げていく。それにより残された敵兵はまた混乱し、這う這うの体で敗走していった。碌な反撃も無く曹操軍の損害は軽微となる。正に、曹操軍の圧勝であった。

 

 

 そして戦闘が終わり、拓実が兵の再編を行う中、名目上周辺の偵察を主導させていた秋蘭から待ち望んでいた華琳ら発見の報が届く。

 最低限の護衛となる秋蘭と季衣の二人だけを連れて訪れたその先で彼女と数日振りの再会し、そして拓実は思いもよらぬ人物と邂逅することとなる。

 

 



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43.『曹操軍、曹操と劉協を保護するのこと』

 

 華琳らが潜んでいるという報告を受けた場所は、官軍が捜索していた林のその奥、ところどころ地肌が見えている山の側面にある洞穴の中であった。

 春蘭に軍を任せて周辺の偵察と残党の掃討を命じた拓実は、秋蘭と季衣の二人だけを連れて面会に臨む事とした。秋蘭が先導し、その後ろに拓実、最後尾には武装した季衣が周囲を警戒している。

 

 洞穴の入り口には、僅か数名の兵士が身を屈めて潜んでいた。実際に上ってみてわかったことだが、眼下に官軍が捜索していた林や曹操軍が進んでいた平野が見渡せるようになっている。見張りの兵に身を伏せさせておけば木々や背の高い草で下方からは死角となるようだ。

 その見張りの兵たちは歩み来る拓実を視認するなりに揃って呆然となり、目を見開く者、しきりにまばたきする者、目を擦る者と、総じて己の目を疑いかかっているような反応である。

 春蘭が官軍を蹂躙している間、林周辺の偵察をしていた秋蘭にコンタクトをとってきたのは華琳側である。この場の兵たちには華琳より説明があったのだろう、拓実の姿を認めても困惑と驚愕こそ見られるものの取り乱しまではしていない。

 そのまま周囲の兵士を見回していると、あることに気づく。皆女性であり、誰もが一般兵の服装こそしているが親衛隊に配属されていた筈の面々である。どうやら、華琳が密かに一般兵に扮装させた親衛隊の兵士を傍仕えに同行させていたようだ。

 

「そこの者。……ん? お前だったか」

 

 洞穴の前まで辿り着くと、秋蘭が入り口の警護の任についている兵へ声をかけた。拓実もその女性兵士を見てみれば、何やら見覚えがある顔だ。

 

「夏侯淵さま! 救援、感謝致します! 助かりました!」

「壮健なようで何よりだ。積もる話もあるだろうが、とにかく華琳様への取次ぎを頼みたい」

「は、はっ! かしこまりました! ご案内させていただきます!」

 

 色白の肌に映える長い黒髪をポニーテールにした少女。無骨な大剣を背負っているというのにその重みを苦に感じている様子は無い。そして、春蘭と秋蘭をも上回る大きな乳房をぶら下げている。

 追撃部隊に曹洪の副将に配属されていたらしい牛金である。鎧は傷ついているし髪の毛もぼさぼさ、衣服に至っては土と血に塗れてところどころ破れてはいるようだが、見る限りでは大きく負傷しているようには見えない。

 

「……ふん」

 

 荀攸の時はとにかく気に食わなかった牛金が、華琳に扮しているとまた違う印象となるようだ。彼女を見ていると拓実は何だか自分が惨めになるような、しかしよくぞここまでという賞賛する気持ちになるというか。他には、人々の間に貧富の差が現れるのは何故なのかという疑問が唐突に頭を過ぎったりする。よくわからないが拓実は物悲しくなった。

 荀攸にしても今の拓実にしても、決して彼女に対して含むところがあるわけでも嫌いという訳でもない。むしろ人懐こく好ましい人柄をしていると思っているのだが、なんだかもやもやとしたものが残ってしまう。

 

「それで、あの、夏侯淵さま。そちらの方は、ほ、本当に曹操さまにございますか?」

「あなたには、それ以外の何者かにでも見えているのかしら?」

「ハイっ!? い、い、いえっ! ちが、今のハイは違くて、その、そんな、滅相もございません! ただその、追撃部隊に同行なさっていた方の曹操さまが『洛陽にもう一人の私がいる』と仰られていたものでしてっ!」

 

 秋蘭への問いかけに横から拓実がちょっと不機嫌に答えてやると、それに気圧された牛金はぶんぶんと首を振って否定にかかった。相変わらず彼女の声は大きい。

 これで追撃部隊では主将の曹仁に曹洪、副将の牛金。そして今、華琳に随行している親衛隊の兵士数名に影武者の実在を知らせたということになる。どうやら華琳は随分と曖昧に影武者の存在を伝えていたようだが、この反応を見る限りでは牛金たちにはどちらが本物であるかわかっていない。

 

 華琳率いる追撃部隊が洛陽を発ったのは日も上らぬ早朝のことである。前日復興指揮をしていた拓実は見送りには立ち会わず、華琳は変装を解いて曹操として洛陽から発っていった。これは追撃部隊の五千の兵たちに余計な情報を与えぬようにする為だ。

 他にも、曹操が二人存在することないようにと事前に華琳と話し合い、出来る限りのつじつまを合わせてある。曹操が二人存在していることは、出兵してから曹仁・曹洪・牛金へと伝える手筈になっていた。こっそりと参加させたらしい親衛隊の彼女たちに知らせたのはおそらく追撃部隊が敗走してからのこと、洛陽からの救援があった時に情報伝達に混乱を起こさない為の配慮だろう。

 もし不審に思われるとしたら、追撃隊に編成されている筈の荀攸の姿がどこにも見えなくなっていることぐらいか。

 

 荀攸は普段、武官連中にはあからさまに見下した振る舞いをしていることで煙たがられていて、桂花の補佐官としてつきっきりで働いている為に文官らとも個人的な交友は無いに等しい。表舞台に立ったのも、軍師としての名が広まるきっかけとなった汜水関の攻略戦が初めてである。その軍師としての役割にしても、本職顔負けの主君が追撃部隊を率いるとなれば荀攸のすべき仕事などあってないようなもの。顔合わせの際には華琳直属と紹介されていることもあって、周囲から執拗に追求されるようなこともない。

 しかして、例外はある。それが先の汜水関で荀攸の副官を務めた牛金である。汜水関で、荀攸である拓実と彼女との間には多少なり繋がりができてしまっているのだ。故に牛金は参加している筈の荀攸の姿を追撃部隊に探しただろうし、荀攸が見つからないというのにその上で主君がもう一人存在していると聞かされたなら、当然に疑問を覚えたことだろう。

 こうして目の前にいる拓実と今洞穴にいる華琳、どちらが本物であるのか彼女に見分けはつくまい。けれども参加している筈の荀攸が追撃部隊に見当たらず、これまで噂にも上らなかった二人目の曹操が洛陽にいるとなれば、荀攸こそが華琳の影武者であると牛金が気づいてもおかしくない。いや、気づいているものと想定しておくべきだろう。

 

「まあ、いいでしょう。私が誰であるか理解したのならば、すぐに私が来たことを『私』に伝えなさい。余計な時間を取らせないで頂戴。この場での問答など求めていないわ」

「は、はっ! 申し訳ございません!」

 

 いくら秋蘭や季衣と共にいるとはいえ、警護の任についている以上は何者であろうと疑ってかからねばならない職責からの誰何(すいか)でもあったのだろう。

 すっかり気圧されてしまっていて冷静に判断が出来ていないようではあるが、それを責めるのは酷というものか。主の警護をしていたら主の姿をした者に取り次ぎを頼まれるとは、まず思うまい。

 

 

「曹操さま! その……洛陽から曹操さまが到着なさいました!」

 

 洞穴前で警備を務めていた牛金が慌てふためいた様子で声を上げて中へと入っていくのだが、まず内容がおかしい。あんまりな発言に拓実は呆れて脱力してしまった。次いで秋蘭へと視線を向けるが「仕方の無いことでしょう」と言わんばかりに首を横に振られた。季衣なんかはくすくすと笑い声を漏らしている。

 拓実は気を取り直して洞穴内に立ち入る。中は入り口からは想像できないぐらいに広く、二、三十人なら問題なく入れるぐらいだ。中には、入り口傍に親衛隊の兵士が三人と曹洪の姿。秋蘭と彼女に促された季衣は入り口で立ち止まり、控えていた曹洪の隣に並んで礼を取り、深く頭を垂れた。

 

 拓実が一人進んでいくと、奥まったところに何枚かの(むしろ)が敷いてあり、その上に置かれた簡易椅子にはそれぞれ、数人の少女たちが腰を下ろしている。

 椅子に座る少女たちの中に華琳を見つけると、拓実はちらと一瞥した。流石の華琳といえど玉砕覚悟の突撃に命がけの撤退はこたえたらしく、衣服は汚れ、鎧には土がついたまま。大事には至ってないようだが、負傷したらしい左足と右手には布が巻かれている。

 彼女は拓実からの探るような視線に表情を消すと目を瞑り、僅かに顎で左方を指し示す。意図を察した拓実は向けられた方へと歩き出した。

 

 華琳が示したその先には特に身なりが豪奢な人物が座っている。驚愕を隠せない様子でいるのは、拓実が華琳と瓜二つな容姿をしているからだろう。拓実は静かに歩み寄るとその目前にて両膝を突き、眼前で両手を合わせて深い礼の形を取った。

 

「拝顔の栄に浴した幸運に感謝致します。敵軍が迫っておりますので、略式にて礼を欠くこととなりますがどうかご容赦をいただきたく。朝廷より(エン)州牧の任を戴いております、曹孟徳にございます。陛下におきましてはご機嫌麗しく……」

 

 本来であれば中より声が掛かり、名を名乗り上げ入場し、歩み寄るにも口上を述べるにもいくつもの順序を踏まねばならないのだが、今この時においては一刻を争う。

 古くは荀子、以降も代々朝廷に出仕していた荀家の血族である桂花よりその辺りの作法・立ち振る舞いはきつく教え込まれていたが、それを悠長にこなしている余裕もない。

 

「よい。顔を上げてくれ。陛下などと。弁義兄(あに)上様が崩御なさられたとはいえ、私が帝になると決まったわけではないのだ」

 

 許しを得たことで拓実が顔を上げた先には、己を鑑みて苦笑を漏らす黒髪を纏め上げた少女の姿があった。その豪奢な身なりといいその風格といい、帝救出のお題目を掲げていたこともあって目の前の少女が帝であると思い込んでいた拓実だったのだが、どうやらそうではないようである。

 弁義兄上というのは劉弁のことであろう。目の前の人物は拓実が知っているものとして語ったが、どうやら長安の遷都に際してかこの逃亡中に何事かがあってのものかはわからないが、既に亡くなられてしまったようだ。となると、今拓実が話している相手は劉協であろうか。

 

「とは言え、此度のことで私の一族は皆(たお)れてしまった。残す私が皇位を継がねば劉王家は滅びるだけではあるのだがな。ああ、名乗っておらなんだか。私は、いやしくも彼の光武帝の末裔に名を連ねる劉協。陳留王である」

 

 どこか厭世的な雰囲気を漂わせて名乗った劉協のその声には、威厳はあれど力はない。見る限り十台半ばほどの少女。しかし、その発言の端々には年に似合わぬ落ち着きと知性の高さが垣間見える。

 

「ところで、そちも曹操と名乗り、また周りの者より呼ばれておったな?」

「左様にございます」

「では、軍を率いて参ったそちこそが本物の曹操ということか? それとも、あちらに座る曹操が本物であるのか? 見る限りでは声も、その背格好も寸分違わぬ。加えて雰囲気も同じとなれば、私には見分けがつかぬ」

「は」

 

 劉協の問いかけに声を返しながら、拓実は薄く笑みを浮かべた。おそらくは、華琳もまた同じように笑んでいることだろう。

 華琳たちが曹操軍を捕捉してからこうして拓実が向かうまでには、僅かとはいえ時間はあった。本隊へと伝令を出すことは出来ただろうに指示がなかったということは、影武者としての拓実がこの場に必要であったのだ。であるならば、拓実がどう振舞うべきかは言わずとも知れている。

 

「見分けがつかぬと仰られた陳留王様のお目は確か。ご覧の通り、どちらも本物にございます。と申し上げますのも、この私も、あの私もこの場で名乗る名は曹孟徳の他に持ち合わせておりません」

「なっ!?」

 

 目を見開き声を上げたのは劉協その人ではなく、筵の端の方に座っている眼鏡を掛けた緑髪の少女である。ちら、と拓実がそちらに目線を向ければ、眼鏡の少女はその隣に座る、劉協にこそ劣るが華美な衣服の少女を庇うように体の位置を変えた。

 

「む。私を前にして、名を偽るのか?」

「恐れ多くも陳留王様に名を偽るなどと。されど今この時においては、どちらも曹孟徳にございますれば」

「ほう。今は、か。ならばよい。どちらが本物であるか、この私の目で見極めよう」

 

 何事か理由があると察したか、劉協はあっさりと引き下がった。それで不機嫌になるどころか、むしろ見分けもつかない二人の人間を前に面白がっているように見える。

 問いかけに対して、拓実の返答は明らかに不敬であるといえた。それを咎めないのは劉協自身の気質も多分にあるが、彼女たち義兄弟がその取り巻きに傀儡(かいらい)として扱われ、権力を持たされなかった境遇によるものなのかもしれない。

 

「陳留王様。この洞穴は身こそ隠せても防備に関しては多くの不安がございます。まずは我が陣にてお休みいただくがよろしいかと」

「私の処遇は曹操に任せる。良く計らってくれ」

「御意に。――秋蘭、陳留王様を我が軍へご案内なさい。私たちが戻り次第動けるように、春蘭には軍の再編を急がせておいて」

「はっ!」

 

 秋蘭が拓実の声を受けて立ち上がると劉協へ歩み寄り、いくつか言葉を交わして彼女の先導を始める。曹洪と親衛隊の兵士を護衛に連れて洞穴より退出していった。

 

 

 劉協の姿が見えなくなるまで見届けると拓実は立ち上がり、向きを変えた。そうして見下ろすようにした先には、負傷し腰を下ろしたままの華琳の姿があった。

 

「どうやら、随分と梃子摺ったようね?」

「そうでもなかった、と言いたい所だけれど、このざまでは虚勢を張ることすら出来ないわね。……見ての通り、今回ばかりは肝を冷やしたわ」

「まあ、それでも救出自体は成功させたのだから十分に及第点でしょう」

 

 (あざけ)る様に投げかけられた拓実の言葉に対して、華琳は手のひらを開いてお手上げという風に首を振って見せた。他人に弱みを見せたがらない華琳が、拓実が近づいても一向に立ち上がろうともしない。

 華琳をしてここまで言わせるなど並大抵のことではない。追撃隊は相当の苦戦を強いられたようだ。拓実は口元を緩めて、ゆったりと足を進める。

 

「それで、この者たちは?」

 

 隣へと歩み寄り、屈んで足を負傷している華琳に肩を貸してやる。拓実も華琳も声に出して合図を取らずとも、息の合った自然な動作で立ち上がる。

 そうして立った拓実が視線をやった先には、緑髪を二つのみつあみにして眼鏡をかけた少女と、薄紫色の髪を肩ほどまでの長さで切り揃えた気弱な印象を見せる少女。眼鏡の少女が拓実の視線を遮るようにして、困惑の色を混ぜながらも拓実と華琳を睨みつけている。

 

「帝を傀儡として洛陽に悪政を敷いていた董卓と、その参謀の賈駆よ。劉協様と同じ馬車内に監禁されていたものだから、成り行きで共に連れ出すことになったのよ」

「ち、違う! 月はそんなことしてないわ! あいつら宦官が月の名前を騙って、好き放題に! 悪いのはみんな、あいつらが……!」

 

 言った華琳に緑髪の少女が立ち上がっては詰め寄り、掴みかからんばかりの勢いで声を張り上げる。

 彼女の発言から察するに、月とは董卓の真名であり、薄紫色の髪をしている方の少女のことだろう。とすると、この緑髪の少女が賈駆ということか。特に董卓はだいぶ拓実の持っていたイメージとは違っていたが、最早驚くことでもなかった。

 必死に董卓を庇って抗弁している賈駆のことを、華琳は冷ややかな目で見ている。おそらくは同じ思いから拓実もまた、賈駆の発言にはまったく共感できそうにない。

 

「あなたは、周りの人間に利用されただけの董卓には一切の責もないのだと、そう言いたいのかしら?」

「それは……一切、とまでは言えないかもしれないわ。でも、あいつらが月を騙して、家族を人質に取ったりしなければ!」

「そうして易々騙された結果として、民は搾取され、餓え、死んでいった。もっとも理不尽を強いられたのは彼ら無辜(むこ)の民よ。その民たちの無念の怨嗟は、他ならぬ董卓の名へと向かっているでしょう。確かに、元凶は宦官の連中だったのかもしれないわ。けれど、洛陽でそれを止めることができる力を持っていたのは、いったい誰だったのかしらね」

 

 呼吸を僅かに荒くして、気だるそうに華琳は董卓を見やる。怪我をしているからか、それとも本隊と合流したことによる安堵からか、多少朦朧としてきているようだ。

 ちら、と華琳に目配せされて、今度は仕方なしに拓実が口を開く。どうやら華琳は今、出来る限り体力を使いたくないようだ。

 

「言うまでもないことだけど、朝廷の大将軍の任に就いている董卓に他ならないわ。人質を取られたからといって民がその身内とやらの身代わりとなって死ぬ理由にはならないわね。民を、人を従わせる立場にある者が弱くていい筈がない。洛陽の治世が宦官のものであると見抜いていた民はいたけれど、そんなものは何の慰めにもなりはしないわ。力を持ったことへの責任を果たせぬのなら、人質を取られた時点でさっさと自害でもしたほうが余程よかったのではないかしら」

 

 拓実が華琳の言葉を引き継ぐ。その言葉が思いの他辛辣になってしまったのは、洛陽よりすぐさま追撃に出た華琳ではなく、復興指揮として残りその惨状を深く知った拓実だったからかもしれない。

 餓死したのだろう骨と皮だけとなった死体、道端に放置されていた病死人、赤子を抱いたままでもう二度と動くことがない母子――。民の話によれば、人食いもあったという。復興支援する上での問題を見つけるために、拓実は洛陽の滞在中視察を欠かさなかった。今も、それらの光景は拓実の目に焼きついている。

 確かに董卓は一側面からすれば被害者であったのかもしれない。そのことだけなら同情もできなくもない。だがそれは董卓らの主観でのことであって、第三者からすれば悪政の片棒を担いでいたことに変わりがないのだ。

 

「曹操! あんたっ!」

「詠ちゃん、やめて。曹操さんたちの言っていること、間違ってないよ。私が弱かった所為で洛陽の人たち……それだけじゃない。私についてきてくれた兵士の人たちもいっぱい傷つけて、死に追いやってしまったのは事実だから……」

 

 そう言った董卓の顔は血の気が引けて青ざめている。不安げに組んだ手は震え、深く自責しているようだった。彼女は民の困窮する声を聞いて、毎日嘆いていたに違いない。

 董卓は優しく、臆病すぎたのだろう。己の境遇に、日に日に悪化していく洛陽の窮状に、嘆くことしかしなかった。その宦官に取られた人質が誰なのかを拓実は知らないが、民も自分も人質も部下も、そのうちのどれも傷ついてしまうことを恐れ、動けずにいた。そうした結果が洛陽の惨状であり、大陸に広まる董卓の悪名であり、反董卓連合軍だった。

 

「月……」

 

 激昂しかかった賈駆もまた、董卓の一言で悲壮な表情に変わる。賈駆にとって、董卓は唯一無二の人物であるようだった。母猫が子猫を庇うように、自分の命に換えても董卓を守るという意志が見える。

 拓実は、隣の華琳を見やった。追撃部隊で何があったか拓実は知らない為に、華琳がどうして二人を同道させていたのかを理解できない。董卓の罪の所在は明らかであり、連合軍の諸侯も領地に帰還していったとはいえ首謀者とされている董卓を倒さない限りは収まりがつかないだろう。どちらにせよ、董卓は殺さねばならない状況だ。こう言ってはなんだが、生死を賭けての撤退に人間二人も余計な荷物を連れている必要などなく、その場か、あるいは道中にでも斬り捨てるべきではなかったのだろうか。

 

「賈駆。追撃隊の迎撃策を官軍に授けたのはあなたなのでしょう? 洛陽制圧から間も置かずに進軍を開始したというのに、官軍はその経路に伏兵を配置していたわ。虎牢関の放棄が決まる時にはもう、長安の制圧に動き出していたとしか考えられない。兵を遣わし、長安では別に軍備を整えさせ、洛陽が制圧された時には追撃に備えが出来ていた。追撃進路への効果的な二段の伏兵に加え、機を計っての長安からの出兵。官軍で軍師と呼べる人物といえば、賈駆に李儒と伝え聞いている。李儒は姦計立案に一長があれど、軍略においては並以下。董卓の安全を引き換えにされて宦官どもに案を出さざるを得なかったのだろうけれど、全てはあなたの策と見ているわ」

「……そうよ。張譲たちが自分たちの退却を最優先にした所為で、劉協様とボクたちがこうしてあんたたちに追いつかれることになったけどね。けど、それでよかったのかもしれない。悪名をなすりつけて利用価値がなくなりつつあったボクたちが長安まで逃げ延びたとしても、そう遠くないうちに処断されていたでしょうし。あんな奴らに劉協様を任せようものなら、大陸は更に荒廃するでしょうよ。それに比べたなら曹操の方がまだマシだわ」

 

 賈駆へ語りかける華琳の表情を見て、拓実は浮かんでいた疑問への答えに思い至った。表情こそ変わらないが、気だるさが消えて瞳には隠し切れない輝きが見える。また、敗軍の将に向ける言葉にしてはあまりに賛辞が溢れていた。

 そう。華琳がわざわざ二人を連れて逃亡していたのは、自身に痛手を負わせた賈駆を自軍に引き込む為だったのだ。華琳がそう考えていたのならば、二人を揃えて生かしていることにも納得がいった。

 

「あなたの策謀は見事だった。流石に名軍師と名を馳せているだけのことはあるわ。そんな傑物を、このようなつまらぬところで潰えさせるにはあまりに惜しい。私に仕えなさい、賈駆。私の下へと来れば、あなたはその才を十全に生かすことができるわ」

「お断りよ」

 

 賈駆の返答は早かった。華琳の話し振りから、そういった話になるのを予想していたのだろう。

 彼女が意識を向けている相手は誘いをかけてきた華琳ではなく、いつだって背後に庇っている董卓だ。

 

「それを受けたとしても、あんたは月の助命を受け入れたりはしないでしょ? もしも連合に参加した諸侯連中から月の安全を保障してみせると約束できるのなら、あんたに仕えるのも構わないけれど」

「詠ちゃん、そんな……私はいいから、詠ちゃんだけでも」

「月がいないのなら、ボクだけが生きてたってしょうがないもの」

 

 賈駆は続けて、「どちらにせよ曹操が軍師一人の為に、いくつも敵を増やす愚を犯すような人間には思えないけどね」と諦観した様子で嘆息する。

 彼女は勘違いしているようだが、華琳の欠点の一つが人材収集の悪癖だ。確かに華琳は損得をしっかり見極めて理知的に事を進めるが、人材関連に使っている損得勘定の秤だけは不良品なのだ。

 

「やはり。董卓をその場で斬らずに生かしておいたのは正しかったようね」

 

 ぽつりと呟いた華琳の言葉に、拓実は首肯した。もしも董卓を殺していたら、賈駆は決して曹操軍に降ることはなくなり、そのまま後を追って死を選びかねない。

 それならまだいいが、最悪は董卓を殺した華琳を生涯の敵と定めてからまかり間違って逃亡するようなことになれば、敵軍で曹操軍を相手に全力で以ってその才を振るうことになるだろう。

 

「いいでしょう。賈駆が我らが軍師として仕えるというのであれば、董卓の命は保障するわ」

「は、はぁ!? 連合に参加した諸侯を敵に回しかねないのよ、そんな簡単に決めていいの!?」

「あなたという軍師を手に入れられるというのならその程度、安いものだわ」

「う……そ、そこまで買ってくれるのは、軍師冥利に尽きるというか、嬉しいけど」

 

 華琳よりあまりに直球な言葉で返されて、賈駆は頬を染めてたじろいだ。少しの間もじもじしていたが、華琳と拓実に微笑を浮かべて眺められていることに気づいて、途端に形相を変えた。

 

「そ、それなら! 月はどこか安全な、戦に絶対に巻き込まれないようなところに匿ってあげて! ボクがその手間分も含めて、命を賭してでも軍師として働くから!」

「残念だけれど、それは出来ないわね。賈駆も董卓も、曹孟徳が二人存在していることを知ってしまったのだから。これを知った者は私の手元に置かれるか、そうでなければ永遠に口を開けぬようになるかのどちらかよ」

「あんたたちが勝手に姿を晒して見せた癖にっ!」

 

 にやりと笑って返す華琳。わざわざ拓実に影武者のまま来させた理由は、機密を知らせて董卓を華琳の側に置き、賈駆の逃げ道を塞ぐ為のようだ。

 その手管に呆れるやら感心するやらだが、拓実もまた賈駆に対して興味を覚え始めている。華琳をしてここまで言わしめる軍師。そうであるなら手元に置きたがる彼女の気持ちはよくわかる。

 

「では董卓。あなたには今の名を捨て、身分を偽ってもらうわ。今後は……そうね、董卓と一族を同じくする董白とでも名乗っておきなさい。加えて私は命は保障すると言ったけれど、だからといって無能を飼う気はないの。私の手元にいる以上は、何かしらの仕事を覚えなさい」

「え……」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 月が名を捨てることだって納得できないのに、勝手に名前まで決めて! だいたい、名前を変えるっていうのなら、何で董の姓を残すのよ! 全然別の名前にしないと、名前を変える意味が……」

「ええ。賈駆の言うように完全に新しい名にしてしまえば、董卓本人であると露見しない限りは民からも諸侯からもこの子が責められることはないでしょうね。私としても、そうした方が匿うにあたっての面倒は減るわ」

「そこまでわかっているのに、なんで!」

 

 身を乗り出してまで食って掛かろうとする賈駆を無視して、華琳は董卓を見つめる。その視線の篭められているのは、慈悲ではない。

 

「董卓の血族を名乗るのであれば、董卓本人ではないと理解していようと民は皆あなたを罪人かのように扱うことでしょう。それを召抱えた私も、少なからず民からの評判を落としかねない。だからといって、これまでの己の所業を別の物として過去を封じ、罪から逃れて安穏と過ごすなど私は許さない。己の弱さが招いたものを理解し、直視して生きていくべきではないかしら?」

「それは、そんなのは曹操、あんたの決めた勝手な……!」

「詠ちゃん」

 

 華琳に向けて言い募ろうとした賈駆の前に、董卓が歩み出る。顔は青ざめたままだが、先程のような体の震えは見えない。

 それまでの彼女と最も違うのは、雰囲気だ。拓実が初見で感じた、今にも枯れてしまいそうなそんな儚げな野花のような気弱さが薄れている。踏まれても決して折れはしない、しぶとい根が張ったような印象を受ける。

 

「……曹操さん、わかりました。私はこれから、董白として生きていきます」

「ゆ、月っ!? そんな、月は本当にそれでいいの?」

「いいの。私はいっつも詠ちゃんに守られて、周りのみんなのことを頼ってばかりだったから。何が出来るかわからないけれど、これからは私自身が頑張らないといけないと思うから。曹操さん。ご迷惑をかけてしまうと思いますけど、どうかよろしくお願いします。ほら、詠ちゃんも」

 

 拓実と華琳に向き直り、しっかりと頭を下げる董卓。賈駆はわたわたとその隣で慌てるばかりで、董卓のした決断に戸惑っているようだった。

 見るからに頼りない董卓が真っ直ぐにこちらを見据えて、華琳を負傷させるほどの軍略を見せ付けた賈駆はこの急展開に冷静さを失っている。どうやら、本当に肝が据わっているのは董卓の方なのかもしれない。

 

「ふうん……董卓は主体性のない、言ってしまえば暗愚であると見ていたのだけれど」

「そのようね、私もすっかり見誤っていたわ。賈駆に言われるがままなのかと思いきや、意外と(したた)かなのかしらね。それに、己が決断するべきところは理解しているみたいよ」

 

 僅かに感心したような華琳に拓実もまた同意の声を返し、二人の様子を眺め見る。なにやら考え直すようにと董卓を説得しようとしていた賈駆だったが、その意志が固いと知るや天を仰いだ。

 

「ああ、もう、わかったわよ! こうなった月は頑固なんだから! ボクも、月も、これからは曹操を主君として…………」

 

 言葉の途中で突然に賈駆は口を閉ざし、はっと気づいた様子を見せるや寄り添い立つ拓実と華琳を目を細めて見比べる。そうして眺めた賈駆は、怪訝そうな顔を変えないままにまた口を開いた。

 

「ちょっと待って。それで結局、どっちが本物の曹操なの? これから、ボクと月はどちらを主君と仰げばいいのよ」

「この私が言っていたでしょう? どちらも曹孟徳だと」

「その私が言っていたでしょう? どちらも曹孟徳だと」

 

 特に意図してやった訳ではなかったのだが、たまたま拓実と華琳の声と、台詞と、声の調子が重なった。それを左右から聞いてしまった賈駆は目を白黒させた後、また瞳をきょろきょろと拓実と華琳との間で彷徨わせる。そうしてから両手で耳を塞いで、甲高く声を張り上げた。

 

「同じことを同じ声で、同時にしゃべらないで! ボクの耳がおかしくなったみたいじゃない!」

「これからが楽しみね。賈駆はからかい甲斐がありそうだわ」

「これからが楽しみね。賈駆はからかい甲斐がありそうだわ」

「やめなさい! あんたら、ボクで遊ぶんじゃないわよっ!」

 

 華琳と肩を並べて、二人してくすくすと笑い声を漏らす。今度は拓実が意図的に華琳の言いそうなことを言いそうな呼吸で言ってみたのだが、どうやら上手くいったようだ。

 まんまとからかわれた賈駆は顔を真っ赤にして憤慨し、だんだんと地団駄を踏んだ。その賈駆の様子を見て、多少持ち直してはいたが変わらず沈んでいた董卓が、思わずという風に笑みを溢す。

 

「月ぇ……ボクたち、絶対早まったわ……。人がうろたえている様を見て、こんなに屈託のない笑顔を浮かべられるだなんて絶対に碌な人間じゃないわよぉ……そんなのが二人もいるし……」

「駄目だよ、詠ちゃん。これからは、曹操さん……曹操さまは私たちのご主人様になってくれる人たちなんだから、あんまり酷いこと言っちゃ」

「これから仕えることになっちゃったからこそ、不満が出てくるんじゃない。だいたい、何で二人いるのよ。双子の姉妹? それだって普通はここまで似ないわよ。月は大丈夫そうだけど、ボクはこの二人に苦労させられる予感があるわ。もう、仕える前から先が思いやられているなんてぇ」

 

 肩を落としては項垂れ、愚痴をこぼす賈駆を、董卓はよしよしと慰めている。

 随分な言われようなのだが、それを心外とは思えない。拓実もやっておきながら趣味が悪いとは自覚しているのだ。それでも影武者となっていると止められないのだから、業は深い。

 

 そうしてしばらく。最後に大きくため息をついた賈駆はそれで気を取り直したようで、二人は揃って拓実と華琳に向き直り、跪いた。

 

「それでは曹操さまたち、これからよろしくお願いいたします。今日から董白と名乗ります、真名は月です」

「どっちが本物か知らないけど、どちらも本物だと言い張るつもりならもうそれでもいいわ。ボクの名前は賈駆、字は文和。……月が預けたことだし、それに助けてもらったこと自体には感謝してるから、ボクからも『曹操様』に預けとくわ。真名は詠よ」

 

 

 



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44.『曹操軍、宦官軍討伐に仕掛かるのこと』

 

「ボクが授けた策を張譲たち宦官軍がそのまま使っているとしたなら、部隊は……」

 

 曹操軍が野営している天幕の中、一人立っている詠が卓上の簡易地図に碁石を落としていく。伸びた手はまず丘陵に一つ、続いて森林に一つの黒石を置いた。そして下を向いてずり落ちた眼鏡の位置を直しながら、最後の一つを地図上の長安から中央を抜けて洛陽へと滑らせる。黒石はその中途に置かれた白石にぶつかって、かつん、と軽い音を立てた。白石はそのまま洛陽方面へ押されて、黒石と並んで停止する。

 

「こう、展開している筈よ。遊撃指揮に配置していた張済が捜索に駆り出されていたということは、捜索隊として部隊二つはこの付近に抜けてきているわね」

 

 今しがた黒石とかち合った白石は、華琳を逃がすために殿を買って出た曹仁の部隊を想定したものである。地図上ではその白石と、洛陽と長安の間に置かれた現在地を示す二つ目の白石はほど近い――つまり戦場は、曹操軍がいる現在地からはそうも離れていないということになる。

 言うべきことは言ったという様子で詠は卓より一歩退いた。卓を囲むようにして椅子に座っている面々が地図を覗き込む中、軍議が始まってから今に至るまで卓上に一瞥もくれず、眉根を寄せて詠を睨みつけていた春蘭が口を開いた。

 

「おい、賈駆と言ったか。きさまが嘘をついて、我らを敵軍に誘い込んでいないという証拠がどこにある?」

「はぁ? あるわけないでしょ。そんなもの、どう証明しろっていうのよ」

 

 言葉に裏があるのかといぶかしんでいた詠だったが、敵意をむき出しにしている春蘭を見て嘆息する。感情的に振舞う春蘭に、その発言も難癖の類と気づいたのだろう。

 どうして詠に呆れた物言いをされたのかを察せない春蘭は吊上がっていた眉の傾斜を更に強くすると、椅子から勢いよく立ち上がっては首を取ったとばかりに詠を指差した。

 

「やはりな! 華琳さまの腹心であるこの私の眼を欺くことはできんと知れ! さぁ、お聞きになさりましたか華琳さま! こやつ、このとおり自分が宦官軍の間者だと認めましたぞ!」

「……はぁ」

「あの? か、華琳さま?」

 

 天幕の中央奥に座っている己が主へと得意げに声をかけた春蘭だが、当のその主はといえば椅子の肘置きに体を預けて騒ぎ立てている腹心を呆れ果てた眼で眺め見ていた。褒められると思い込んでいたらしい春蘭は、眼をまんまるに見開いてうろたえている。

 暴走しがちな春蘭の(なだ)め役である秋蘭はといえば、劉協護送の為に洛陽へと向かってしまっている。同様に追撃部隊に参加して負傷した将兵、洛陽での足場固めの為に桂花、劉協の身辺警護に流琉が護送隊についていった。

 そうして春蘭や詠の他にこの軍議の場に残っているのは真桜たち隊長格のまとめ役である凪と、親衛隊から代表として参加している季衣なのだが、剣呑な空気におろおろと慌てるばかりで役に立ちそうにない。そもそも、秋蘭を除くとなると曹操陣営において彼女を諌められるのは『曹孟徳』以外にない。陣営内における秋蘭の重要性を再認識して深く嘆息すると、困惑している様子の春蘭を見やって重々しく口を開いた。

 

「いい加減になさい春蘭。賈駆――詠は、この曹孟徳が何としてもと欲した才物。文句があるのならば、彼女を迎え入れた私に言いなさい」

「しかし、華琳さま……」

「くどい。殿軍の水夏が今も戦場で戦っているだろうというのに、実のない問答で時間を無駄にするつもりはないわ」

「……はっ」

 

 忠心からの進言を切って捨てられ、しかし春蘭はおとなしく口を噤む。敵軍にいた詠を警戒し、彼女の策を採り入れることに難色を示す春蘭とて、ここで(いたずら)に時間を割いている場合ではないと理解していないわけではないのだ。

 当初は五千もの兵数で帝奪還を目的に進軍していった討伐隊だったが、曹仁からの伝書では前線が崩壊していたということなので兵は少なくとも半数近くまで減っている。それから日数がたった現在、一千も残っていれば御の字で、もしかしたら部隊は跡形もなくなっているかもしれない。

 もしも部隊が形を成しているならば、曹仁は今この瞬間も神経を擦り減らしながら戦闘を継続し、華琳を遠く逃がす為の時間を作り出そうと奮戦しているに違いない。であるからこそ、一刻も早く彼女たちの救援に向かわねばならないのである。

 

「今一度状況を整理しましょう。まず敵方についてだけれど『私』の話によれば増援を含めおおよそ九千ほど。対して我らが戦闘に動員できる兵数は四千。残る九百は次期天子となる劉協様を戦場に同行させるわけにもいかない為に逸早く洛陽へと撤退させたけれど、護送隊であるため進軍速度は期待できない。護送隊が宦官軍に捕捉される前に、我ら四千で奴らに痛手を負わせる必要があるわ」

 

 その言葉を受け、軍議に参加している凪と季衣の顔が強張った。二人は然程深くは軍略を学んでいないが、それでも倍を相手にすることがどれだけ難しいかは理解できる。当然、軍師であった詠の表情も明るいものではない。

 いつもと変わりない様子でいるのは春蘭ぐらいのものだが、そんな彼女の存在こそが心強い。例え死地であろうとも、春蘭はそれが主命であるならば遂行の為に命を惜しまない。揺るがず次の言葉を待っている春蘭の姿を見て、凪と季衣も覚悟が定まったか表情が引き締まる。

 

「この地図上の配置は詠の策を宦官軍がそのまま使っている場合を仮定してのものということだけれど、水夏への追撃を緩めずにいた以上は陣を立て直す余裕もなかったものとする。敵が陣形を変えずにいるか否かは七分三分程度の賭けとなるでしょう。詠の想定通りであるならば、まずはこの辺りに伸びて孤立しているだろう敵方の捜索隊を各個撃破。しかる後に伏せられている別部隊を強襲し、宦官軍本隊へ向けて進軍。水夏と合流しこれを討つ」

 

 そうして一息に告げた後、軍議に参加した面々を見回した。首肯し理解を確認すると、卓上の碁石をまとめて隅へと払い退ける。

 

「陣形が想定と違っているようならば、捜索隊を撃破した後は水夏と合流し、かく乱を交えての持久戦を採る。こちらの被害も増えるでしょうけれど、兵数で負けている以上は敵の士気を削いで撤退を余儀なくさせる他ないわ。――以上を基本方針としようと思うのだけれど、詠から見て不備はあったかしら?」

「……いいえ。方策に関しては特にボクから言うべきことはないわね。宦官軍は劉協様を捜して、連合が撤退していった洛陽にまで攻め入ることも考えられるもの。それよりも、他に確認しておかなきゃならない部分があるわ。宦官軍本隊を討つだなんて言うのは簡単だけど、実際どうするつもりなのよ? 分散しているとはいえ集結すれば敵兵数は自軍の二倍以上、上手く分断したとしても本隊だけでさえ兵数は負けているっていうのに」

 

 詠の懸念も尤もである。四千に対して九千。常道を語らずとも退くべき兵数差だ。

 しかしその大軍をここで止めねば、宦官軍は詠の言ったように洛陽まで進軍を止めず、劉協を奪還すべく攻撃を開始することであろう。洛陽の防衛に当たれるのは一千程度の劉備軍、三百にも満たない諸侯・義勇軍が三つ程度、今撤退している負傷兵を抱えた曹操軍の九百である。まず太刀打ちは出来ない。

 そうなれば再び洛陽は戦火に呑まれ、諸侯の援助によって何とか生き長らえた民たちの生活は完全に瓦解し、人も住めない廃墟と化すこととなる。あるいは、多大な犠牲を払って奪還した劉協も奪い返されることとなるだろう。

 

 それを防ぐ為には四千の寡兵で何としても痛打を与え、宦官軍を長安へと追い返す必要がある。平地で真っ向からぶつかりあえば、いくら将の質に兵の質が勝っていても圧し潰される。二倍を越える兵数差を覆し、勝利を得るのは並大抵のことではない。

 けれども、まったく目がないという訳でもない。今この曹操軍には敵軍の軍師であった詠が参軍している。それはつまり、これより相手が取るであろう行動を把握できるということである。

 

「まず、付近の捜索部隊を撃破し、護送隊への追跡を断つと同時に我が軍への目を潰す。そして山道を抜け、丘陵中腹に潜んでいるという伏兵一千五百を死角より攻撃、これを速やかに殲滅する。その後に水夏を追う本隊を後方より奇襲し、混乱から立て直される前に敵軍の総大将の首を上げるか、あるいは進軍不能となるまで損害を与えるというところかしら。時間さえ許すならば搦め手で攻略していくところだけれど、今それを選べば目と鼻の先で私の為に奮闘しているだろう水夏を見殺しすることになるでしょう。あの子はこのようなところで散らせていい者ではないわ」

「……へぇ。風聞での曹孟徳は義よりも利を取る現実主義者と聞いていたのだけれど。それとも世に広まっている曹孟徳は、洛陽へ向かった方なのかしらね。ともかく、そういうことなら今選べる選択肢の中では妥当であるとボクは見るわ。疲弊の度合いでは宦官軍の方が大きいことでしょうし、状況が上手く進むようなら勝ちの目はあると思うわよ」

 

 詠の返答を聞き、疲弊し、負傷していたもう一人の曹孟徳――『洛陽へと護送されていった華琳』に曹仁の救援を頼まれたことを思い出した拓実は、薄っすらと笑みを浮かべた。

 華琳は確かに不正を犯した者や規範を破る者があれば側近の部下であろうとも容赦なく罰則を与えるが、その心根が仁徳に欠けている訳ではない。才ある者に対しての執着はあれ、無才であるからという理由だけで排することはしない。彼女は定められた法を(ないがし)ろにして己の為すべき役割を果たさず、その上で自身を誤魔化して鍛錬を怠るような者を軽蔑しているのだ。詠が聞いたという噂も、大方は新たに州牧となった華琳の規律を破り、不正を働いて領内から追放された旧態然の役人によるものであろう。

 一つ息を吐いた拓実は椅子より立ち上がり、卓に着いた面々を見渡すと仕切り直すように高らかに声を上げた。

 

「では、詠のお墨付きも出たことだし、以上を我が軍の方針としましょう。本隊の指揮は引き続き私が執る。前曲はこれまでどおり春蘭に任せるわ。速やかに我らの敵を駆逐なさい」

「この春蘭めにお任せください!」

「秋蘭の受け持ちであった二陣の遊撃部隊の指揮は凪に一任する。遊撃部隊に任せるのは主に前曲の援護よ。これまでよりも兵数は増えるけれど、隊長として指揮経験を積んできた凪であれば問題はないでしょう」

「はっ! 楽文謙、拝命いたしました!」

「季衣、索敵任務は引き続き沙和・真桜の二部隊で行うようにと通達を出して頂戴。以後は副将として春蘭の指揮下に就きなさい。今回の戦はいかに敵に悟られずに、速やかに別働隊を撃破できるかにかかっているわ。沙和と真桜にはしっかりと励むよう申し伝えておくように」

「わっかりました!」

「また、宦官軍の内情に詳しく、洛陽・長安周辺の地理に明るい詠を軍師として正式に任命する。あなたは私の側につき、進軍経路の立案と献策をなさい。四半刻後には陣を引き払い、進軍を開始する。兵たちにはただちに出立準備をさせ、用意が出来次第に前曲春蘭の号令により出陣を」

『はっ!』

 

 応の声を揃えて返すなり、春蘭に凪、季衣が席から立ち上がって並んで礼を取り、天幕から足早に出て行った。間を置いて春蘭や凪の声が上がり、外がにわかに騒がしくなる。

 彼女たちを見送り、兵たちのざわつきを天幕の中で聞いた拓実は椅子に座り直した。もうすぐにでも出陣となるのだろうが、その僅かな時ですら惜しい。卓上の地図を改めて眺め見る。

 

 ――これで、よかったのだろうか。拓実の頭の中でその自問自答は尽きることがない。荀攸として書物を漁って培ってきた知識を土台に、許定として隊を率いた経験を加味し、華琳のこれまでの采配を思い出して指示をした。しかし、そのどれもが今回の状況で役立つ知識であるとは言い難い。

 荀攸が読んだ軍略書にはまず敵より兵を揃えること、もし敵方が明らかに多いならば疾く撤退すること、それが適わないのであれば有利な状況を作って交戦し、援軍を求め、耐え忍ぶこととある。しかし敵方は大軍であり、この場より後退は許されず、洛陽にも予備兵力がない現状で援軍は考えられない。

 許定が警備隊や小隊を率いて学んだのは、如何に効果的に兵を配置してこちらの被害を抑えられるかである。決して倍以上の兵数差をひっくり返す為のものではなく、大勢で小勢である敵を速やかに鎮圧する為のものだ。

 そして華琳の指揮もまた、事前に兵力を多く揃えて敵に援軍あって戦況不利となれば無理せずに退いている。拓実の知る限りでは明らかに大軍に対して攻撃を仕掛けることなど直前の劉協奪還戦ぐらいのもので、それだって目的こそ達したが華琳は負傷して落ち延び、部隊は大損害を受けて敗走している。

 果たして、勝てるのか。智謀に長けている華琳も、秋蘭も、桂花も今この陣にはいない。現状で頼みとなるのは軍師として名を馳せている詠と、その彼女が(もたら)してくれた敵軍の情報である。

 

 拓実がこれからの戦についてを思案していると、当のその彼女は顔をしかめながらもまじまじと拓実のことを見つめていた。その視線に気づいた拓実は、奇妙な様子でいる詠へと笑みを向ける。

 

「どうしたの? もしや、この私に見惚れでもしているのかしら?」

「はぁっ!? ち、違うわよっ! ……その、将の差配に関して、そこらの軍略家気取りよりよっぽど的確だと思ったものだから。あなたが軍師泣かせなんて呼ばれてた意味がわかったわ。これじゃ、ボクのやることがほとんどないじゃない」

 

 顔を赤らめて声を荒げた詠は、ふてくされたように目を伏せて拓実から視線を外した。そうして指先でみつあみをくるくると弄っている。

 月の安全を対価に軍師として任命されたものだから、彼女の為に殊更に張り切っていたのだろう。肩透かしを食らった心持なのかもしれない。

 

「何を言うのかと思えば、詠にも献策をするようにと主命を下したでしょうに。今この陣営の軍略面において、最も頼りになるのはあなたなのだからしっかりしてもらわないと困るわね」

「献策はするわよ。でもそうじゃなくて……ボクが都で月の軍師をしていた時は、戦に限っても作戦の方針に糧食の手配、将の配置に兵の割り振り、進軍撤退の経路立案から戦後処理まで全部軍師のボクがやってたのよ。呂布も華雄も突撃一辺倒で、二人よりいくらかマシな高順と参謀を務められるぐらいに頭の回る陳宮は呂布にべったりでしょ。臨機応変に動いてくれるのは張遼ぐらいだったもの。この陣営でいうなら、夏侯惇ばっかりがいるようなものだったんだから」

「あら。一癖二癖ある武官らを御するも軍師の務めでしょうに。その上それが名のある勇将なら、それこそ軍師冥利に尽きるのではないかしら?」

 

 拓実はそう言いつつも、春蘭が三人四人といる光景を思い描いて口元を綻ばせる。そんなことになったら特に秋蘭が苦労しそうではあるが、毎日が面白おかしくなりそうだ。春蘭率いる部隊が三つもあればきっと戦だって負け知らずだろう。

 

「う、それは、確かにそうだったのかもしれないけど……」

 

 ごにょごにょと口の中で決まり悪そうに呟いた詠は、いつの間にか諭されていることに気づいてはっと目を見開く。

 

「ああもう、やりにくいわね! なんだって軍師のボクが言いくるめられてるのよ!? 普通は逆でしょう! これなら宦官ども相手に煙に巻いてた方がよっぽど楽だったわよ!」

「悔しかったならこの私が納得するだけの理を説き、あなたの意のままに私を操って御覧なさい。私もそれぐらいの気骨ある者が相手なら楽しめるわ」

 

 あの悪逆の限りを尽くす宦官よりも厄介と言われて、しかしまったく意に介す様子のない拓実に詠は歯噛みした。眼鏡の奥で、悔しそうな目で拓実を睨みつけている。

 そんな地団駄を踏む詠の様子が拓実には可愛らしく見えてしょうがない。甘噛みしてくる子猫を手のひらで転がしてやりたくなるような、むずむずするような感情が胸中に湧き上がっている。

 

「ぐっ……そ、そんなことよりも! 月は無事なのよね? あっちにもいる性悪なのと一緒に洛陽に連れていかれちゃったりして、ねちねちといびられていなければいいけどっ!」

 

 詠はそんな拓実の嗜虐的な色を灯している瞳を直視して怯んだようで、話題をあからさまに変えてきた。顔だけは何事もなかったように洛陽のある方角へ向けたが、その腰は引けている。

 気圧されながらも暗に拓実をも性悪と言ってのける詠に拓実はまたぞくぞくとしたものを覚えて、妖しく笑みを浮かべてしまう。何ともいじめがいがありそうでそそられるが、今ばかりはよろしくない。深く肺から空気を吐き、意識を空白にして頭を冷やす。この後すぐに出陣が控えていることをぎりぎりのところで思い出したのである。

 仕方なしに振られた話題に乗ることにした拓実もまた、洛陽方面をいつもの涼やかな、悪戯っ気のある瞳で見やった。

 

「そうね。場合によってはありえない話ではないわ。気弱ながら気丈に振舞おうとするあの子の姿は嗜虐心が煽られるもの、閨で可愛がったとしてもおかしくないわね。――ああ。付け加えておくと、あっちの私はこの私より意地が悪く、色狂いよ。月が大切なら絡め盗られないように気をつけなさい」

「はっ? はぁっ!? ちょ、ちょっと!? そういうことはボクと月が別れる前に言っておきなさいよ!」

 

 バンバンと卓に左手を叩きつけ、仮にも主人である拓実を糾弾してくるという予想通りすぎる反応を見せた詠に、拓実はつい、くつくつと笑声を漏らしてしまった。

 

「ふふ、『場合によっては』と言ったでしょう? 大丈夫よ、あちらの私も負傷と戦疲れとで洛陽までの道中は寝入っているでしょうしね。劉協様を保護していることだし、領地に帰るまでは流石におとなしくしているでしょう」

「……さっきの言葉、絶対嘘よ。こっちと比べれば、あっちのにはいくらかの分別はある筈。きっとそうに決まってるわ。こんな性悪なのが二人もいて堪るもんですか。そんなことになったら心労でボクの胃に穴が空くわよ」

 

 肩を落とし、げんなり萎びた詠が懐から紙片を取り出すと、机の上から筆を取って何かを描いている。そうして「はい」と力なく告げられた言葉と共に詠に渡された紙片を見れば、二つの図があった。拓実はそれをまじまじと眺めて、意味するところを思案する。

 

「これを行軍中にでもなんでもいいから作らせておいて。物資も限られているだろうから、それとわかる程度で構わないわ。もしかしたら使う機会はないかもしれないし、効果があるかもわからないけれど何もしないでいるよりはマシでしょ」

「……そうね。確かにこれを上手く使えば戦場の優劣を一手でひっくり返すかもしれないわ。名軍師と名を馳せるだけはあるというところかしら」

「やめなさいよ。その程度のものを策だなんて言うつもりもないし、そもそも付け焼刃に過ぎないんだから。それより、それを見せただけでボクがやろうとしていることに思い至ったってことは、似たようなことは考えていたんでしょう?」

「さぁ、どうかしらね」

 

 意味ありげに笑みを浮かべて拓実は言葉を返したが、詠の言うように後々あわよくばといった程度に予定はしていても、戦場でそれを行おうとは考えてもみなかった。目前に迫る戦を注視し過ぎていたのだろう、それを考察していられる余裕がなかったのである。

 全軍の指揮は洛陽での数日があって手馴れてきたが、こと戦となるとやはり軍略を本格的に学んでいないことが足を引っ張っている。ここにいるのが拓実ではなく本物の華琳であれば、あるいは詠に言われずとも先んじて準備をさせていたかもしれない。そんなことが頭をよぎり、益体もないことだと振り払う。

 

 ここにいるのは誰なのか。華琳が不在である時、春蘭や秋蘭、桂花を相手に拓実は何と言ってのけたのか。華琳はこの姿の拓実が表に出る場合は、誰であるとしたのか。曹孟徳に、偽者がいてはならないのだ。

 

 

 

 進軍の途上。華琳の愛馬である絶影に跨る拓実は、隣で馬を併走させている詠と弁を交わしていた。

 官軍の軍師を務め、多くを一人で指示していただけあって詠の段取りの組み方はわかりやすく、且つ簡略化されている。その上で先を見据えて、何をすればどう変化していくかを常に考えるようにしているらしい。

 そんな詠の物事への考え方からは、彼女を育てた環境が垣間見えてきて面白い。理詰めには桂花に分がある上、詠は政務をそれほど得意としていないようだが、他人の感情と理との均衡を把握し、それによって及ぼされる影響の見極めが正確である。そういう物の捉え方があるものかと、話を聞きながら拓実は感心しきりである。

 

 そうして詠と会話していながらも、拓実は周囲の様子を機敏に感じ取っていた。華琳の演技をしている拓実は常に気を張っている状態の為、他の演技をしている時であれば気づかないような些細なものを認識することがある。

 拓実は、ずっと表立ってではない兵たちからの視線を感じていた。その理由は簡単に思い当たることが出来る。曹孟徳の影武者なる者がいるということが、将はおろか配下の兵卒たちにも知れたからであろう。

 

 

 秋蘭が、劉協を曹操軍野営陣地へと案内した時分へ遡る。

 劉王家最後の血筋にして次代の天子を保護したことは末端の兵たちにまで広まり、それにより士気が高揚していた曹操軍将兵は洞窟へと向かった主君の帰還を聞くなりに歓声を上げ沸き立った。けれどもその熱狂は長く続かず、端からその口は閉ざされていくこととなる。閉口した彼らが目にしたのは、不審な少女に肩を貸して現れた主君・曹孟徳の姿である。

 一勢力の主君自らが肩を貸している件の人物は、体格は肩を貸している曹孟徳と変わらず、また衣服の意匠も非常に似通っている。目に見える大きな違いは頭部を覆っている白い覆面。それを除いてしまうと、傷や土汚れがあること、あまり日の下に出ないのか色白く見える程度の差異しか見られない。

 

 ――曹仁が率いて戦っているだろう追撃部隊の兵たちは、荀攸の変装を解いた華琳の指揮の下で宦官軍と一戦している。現在追撃部隊にどれほどの兵が残っているかはわからないが、拓実に率いられている兵と彼らが合流すれば当然両者の間では話が食い違うことになる。長安へ向かった五千と洛陽に残った五千、どちらも『曹孟徳』が指揮していたのだから、いくら隠そうにも曹孟徳が二人同時期に存在していたのは曹操軍全体に広まってしまうのである。

 そうなってからでは知らぬ存ぜぬで通すことは出来ない。兵たちが疑心に駆られる前に、華琳の口から直々に影武者の存在を公言せねばならないだろう。拓実と華琳のどちらも本物の曹操であると詠や月、劉協の前で嘯いたこともあり、兵たちにも近く『二人目の曹操』を公表せねばならないということで、敢えて荀攸に変装せずに二人並んで帰還することになったのである。

 

 しかし、だからといってこれよりまた戦場へと向かう兵たちを相手にして、劉協らにしたように華琳と拓実、二人が二人とも本物の曹孟徳であると振舞うことは出来ない。全軍へ周知させるのは領地へ帰ってからのことであり、そこで知らせることが出来るのも影武者という役割を負った人物がいるということだけだ。

 華琳の求心力は極めて高く、彼女を支える兵たちの忠心も偽りのないものである。だからこそ、従姉妹である春蘭や秋蘭でさえも見分けのつかない立ち振る舞いをする『もう一人の主君』がいるとなれば、兵たちの胸中に固められている覚悟は揺らいでしまう。彼らが心酔しているのは『曹孟徳』に他ならず、兵たちも知らぬ間に別人に命を預けさせられているのかもしれないとなったら、大本となる華琳への忠誠が揺らぎかねないからだ。

 忠臣であればこそ、二君に仕えるという信を欠く行為を嫌う。また、華琳を信奉し敬愛しているだけ、彼女に何事かあればその影響は大きい。華琳率いる部隊が壊滅した報を受け、右往左往の挙句に無様を晒した春蘭らを思い起こせば理解は易い。上の人間がこの有様なのに、下の人間に動揺が走らないわけがない。

 これより己が死ぬことになるかもしれない戦場へと向かう兵たちが惑えば、士気は見る間に崩壊するだろう。信じるべき主君に疑念を覚えていては、勝てる筈の戦にも勝てはしない。

 だからこそ兵たちの前では『見分けのつかない偽者』ではなく、逆に『見るからにわかりやすい偽者』の存在が必要だったのだ。そうして野営地へ戻るに当たり、負傷した華琳は白い布を頭巾のようにして被ると口元にも同じく白布を当て、目元だけを覗かせるように顔を隠したのである。

 また、拓実は駄目押しに、影武者の負傷を己を庇ってのものとして(ねぎら)い、華琳仕えの医師をつけてやるなど手厚く世話してやることでその功績を讃えてみせた。そうして、得体はしれないながらも曹孟徳をして一目置いていて、信を置いている重臣の一人であると印象づけたのである。

 

 

 だが、少しばかりやり過ぎていたのかもしれない。今、曹孟徳である拓実に時折送られる兵たちの視線には、驚きと困惑とがあった。

 州牧の任に就き、漢朝廷から官位をも賜っている曹操という人物は配下にとって正に雲の上の存在である。同じく漢より同格の官位を頂いている春蘭でさえ主君への敬意を欠かさずにいるのだ。今現在、曹操陣営にてその華琳本人に敬語も使わずに話しかけることを許されているのは僅か二人。影武者である拓実と、月の為に仕えていると言って憚らない、半ば客将扱いの詠だけである。

 華琳自身も部下とは一線を引いているように思える。そうして兵に畏れを抱かせ、それを求心力の一つとしている節があった。拓実が知る限りでそれが顕著であったのは、仕事の件で対面した時である。華琳は部下が相手であろうと表情を意図的に消して己の感情を読ませず、相手を威圧して優位を得ようとする。仕事が絡まない休暇中であればいくらか応対は柔らかくなるがそれ以外では崩れない。そんな曹孟徳が一配下の為に自ら肩を貸してやるというのは、これまでの人物像からすると想像も出来ないことであろう。

 

「随分と尊敬されているみたいじゃない、『曹操様』?」

「それも、先の一件で僅かならず揺らいだようだけれどね」

 

 茶化すように言って笑う詠に、拓実はあっさりと言葉を返した。兵たちは、今回のことで華琳に対して少なからず親しさを覚えたことだろう。それが忠心へと繋がるならいいが、他と隔絶していることが華琳の求心力の核であったなら悪い方へ転がりかねない。どちらに転ぶのか、拓実は判断しかねていた。

 とはいえ、今回の拓実の振る舞いについては華琳と二人で決めたこと、彼女からこれといった物言いがなかった以上は許容範囲には収まるのだろうと楽観的に考えている。

 

「見たところこの軍は多少揺れているくらいで丁度いいんじゃないの? 凝り固まってしまった忠誠は、何かがあった時に酷く脆いものだとボクは思うけど。そうね。もし、ここで主君が倒れでもしたらどうなるか……ああ、そういうこと。だから『本物が二人』なのね」

「それは――」

 

 考え過ぎか、そうでなくては見当違いだ。……そう詠に答えようとして、しかし拓実は続きを口にすることはできなかった。

 詠の言わんとしているのは、曹孟徳に何事かあった時に保険と成り得る為、どちらが本物でどちらが偽者なのかを断言しなかったということだろう。

 華琳が動けず、だが曹孟徳が必要である場面で代わりに動く者。それが影武者である拓実の役割であった筈だ。春蘭を始めとする曹操軍の重鎮にも、華琳直々にそのような説明がなされていた。負傷して動けずにいる華琳の代わりを拓実が引き継いでいるこの状況は、華琳の想定していた運用がされていると言える。詠の言ったような、本物が半ばで死んだ時に、もう一人の本物が跡を継ぐ為などではない。

 

 けれど、違う。そうだ。そうであるべきだ。何故言われたことをそのまま額面どおりに受け取っていたのか、拓実は自分の事ながらそこからわからない。

 華琳の立場に立ち、華琳として物事を判断し、華琳として兵を率いて戦場に立つ。これを不足なく行う為に拓実は数年に渡って自分の中に華琳の思想を写し、彼女に準ずる力を得る為に鍛え、考えを同じくする為に学んできた。

 そうして拓実の中で生まれて、今拓実の体を動かしている『華琳』が言うのだ。華琳がみんなに言い含めていたそれは私の考えではないと。詠の言うとおりでないほうがおかしいのだと。

 

「孟徳様、伝令にございます! 敵の捜索部隊を発見致しました! 兵数はおおよそ五百! 手筈どおり元譲将軍率いる先鋒部隊が突撃を開始するとのこと! 後続部隊への指示を願います!」

 

 鼓膜を打つ音に対して、無意識に視線を巡らせる。前方より馬を走らせてきた伝令兵が、声を張り上げていた。華琳の思考を辿っていたところで強制的に中断する形になった拓実は静かに息を飲み、即座に頭を切り替える。

 これは領地に帰ってからゆっくりと考えるべき事だ。少なくとも拓実に、生きて帰れるかもわからぬ戦場で悠長に他所事を考えている余裕などはない。

 

「我ら本隊は速度を維持したまま進軍、鶴翼を敷きつつ包囲の形を取る。討ち漏らしはしないだろうけれど、万が一にも前曲を抜けた敵兵に後方の護送部隊を捕捉させる訳にはいかないわ。二陣には右辺より全速にて敵部隊の後方へと向かわせなさい。合わせて、楽進将軍には敵軍が撤退を開始した際の追討の伝令を出すように」

「はっ! 承知致しました!」

 

 伝令兵が馬頭を返して前線方面へと駆けていくのを見送ると、拓実も本隊の進軍に続くべく絶影の腹を蹴る。絶影が加速するのと同じくして、向かう先から喊声が上がっていた。

 

 

 

 



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45.『影武者、賈駆に教えを乞うのこと』

 

 

 山の上だからだろう。吹き上げられる風は強く、そして肌がひりつくほどに冷たい。呼気を白くしながら視界を邪魔する金の髪を手で押さえ、拓実は馬上で目を凝らす。

 そうしているうちに目的の物を見つけると、周囲に悟られぬように口元を緩め、静かに安堵の息を吐いた。険しい山道を抜けた先、眼下の森に身を潜めて移動している宦官軍の千五百ほどの集団を確認できたからだ。宦官軍が詠の策をそのまま採っていることに、確信を持てたのである。

 件の敵軍はといえば、山上の曹操軍にはまったく気づいていない。本隊の後方にいるからか最低限にしか索敵をしていないようで、平地から目視されないよう木々の中に身を隠しているもののまるで無防備である。

 よもや曹操軍が縦列で辛うじて進める山道を抜けてくるなどとは――いや、そもそも、曹操軍がそこに抜け道があることを把握しているとは思ってもいないのだろう。

 

 

 この時代では、一帯の地形を記載した地図は大変に貴重なものである。地図を描き上げるには知識は元より、人手と時間とを使うため酷く金がかかる。特に、地方を記した地図ともなれば粗雑なものであっても相当の金を積まねば手に入らない。ある程度以上に精度の高いものは領主が抱え込んでいるからだ。

 『地の利』という言葉が軍事において重く捉えられていることからわかるように、外敵に自領地の地理を把握されることはすなわち丸裸にされるも同然。これを把握しているか否かで、攻め手守り手共に採れる選択肢が大きく変わることだろう。このことから地理の把握は重要であり、それが事細かに記されている地図とは勢力において充分に機密となるものなのである。

 

 碌な地図が出回らない中で、緻密に記されたそれを持つ例外がある。大陸中から天文学など様々な分野に長けた名士を抱え、人員・資金を余りあるほどにつぎ込むことができる劉王家――大陸を統べていた漢王朝である。地元にしか伝わらない抜け道などはあるだろうが、洛陽周辺の隣接している州までであればかなりの精度の地図を。地方であっても領主が持つものと同程度のものを、おおよそ十年置きに作らせている。

 当然ながら国軍である官軍には大陸中の詳細な地図が回されており、その参謀の立場にあった詠はその多くを暗記している。それだけに止まらず、宦官の傀儡でありながらも軍部における自身の立場を最大限に利用していた。

 今回曹操軍が通った山の抜道は、古く高皇帝・劉邦の時代に整備されたものの、勾配がきつく事故が絶えない為に現在では使われなくなって久しい山道である。そして華琳たちが劉協を連れて身を潜めていた洞穴は、かつて官軍が討伐した山賊の根城であったところらしい。そのどちらも、洛陽の宮城に収められていた古い書物や過去の地図から詠が見つけ出していたものだ。これは、過去洛陽に出仕していた華琳ですらも知りえなかったことである。

 

 反董卓連合軍の討伐目標である悪賊董卓、その腹心であり悪政の片棒を担いでいたとされている賈駆の両名が処刑もされず、賈駆に至っては曹操軍の軍師として重用されているなどと宦官軍からすれば思いも寄らないことであるのだろう。首謀とされている二人を引き込むことで、連合に参加していた諸侯らの反感を買うのは想像に難くはない。

 二人ともども曹操の手により処刑されたか、あるいは道中で野垂れ死んだか。宦官たちが考えているのはそんなところか。危惧していたならば、詠の策をそのまま使うこともなかった筈だ。

 

「数の利もあり、事前に我らの先遣である五千を破っていたことも手伝って宦官軍は慢心しているようね」

「……気が緩んでいるのは確かだろうけど、これに限れば慢心とはいえないんじゃないの? 流石にそれを想定しておけっていうのは酷でしょうよ」

 

 崖上にて絶影に跨り、宦官軍を見下ろしながらの拓実の呟いた言葉に、控えていた詠が首を振って疲れた様子を見せている。

 

「本来は洛陽から長安付近の戦場まで普通に行軍しても片道で三日四日の日数が必要なのよ? 伝令を受けてすぐに援兵を決め、準備に取り掛かって出兵したとして七日は猶予がある筈なのに、劉協様が奪われて五日にして洛陽からの兵が喉下にまで迫っているなんて普通は思わないわよ。ボクたちが洞窟に隠れていた時に追っ手の宦官軍がやられたって聞いたのだって、てっきり黄布の賊の残党あたりの仕業かと思っていたぐらいなのに」

 

 その言葉に込められているのは感心半分、呆れが半分というところだろうか。当然、視線は目下の敵伏兵部隊ではなく馬上の拓実へと向けられている。

 

「確かに、多少無茶が過ぎたのは認めるわ。追撃を緩められず数日戦い通しの宦官軍ほどではないにしても、兵たちの疲労は無視できないもの」

「それはそうでしょうね。いくら急を要するとはいえ、物資輸送ならともかく戦闘を目的にしているのに採る方策ではないもの。それも、伝令が着いたその半刻後にはもう指示を終えているなんて危険性を理解していたのか疑わしいぐらいよ。下手したら兵が使い物にならなくなっていたっていうのに」

「確かにそこらの領主たちが抱える兵ではそうなっていたかもしれないわね。けれども、現実として我が軍はそうなってはいないでしょう」

 

 どうにも食い下がってくる詠に対して、拓実は言って聞かせるように言葉を返す。とかく時間を得るためにその他多くを無視したとは思っていたが、やはりあの強行軍は常識的なものではなかったようだ。

 一応、拓実なりに可能であるだろうと踏み切るだけの材料はあった。洛陽滞在中に充分な休息を兵たちに与えていたこと。急な出兵の可能性があることを前もって兵たちには通達して、準備をさせていたこと。今回の連合軍に参加するにあたり、徴兵したばかりの新兵は領地に置いて、正規兵としての訓練を二年以上受けた者、あるいは課された調練課程を全て修めた精兵だけをつれてきていたこと。そして帝の救出という大義があり、兵たちの士気が高かったこと。

 夜間行軍の合間には頻繁に休憩を挟んで順繰りに仮眠を取らせたりと配慮はしたが、行軍中に脱落した兵はほぼおらず、先程の連戦でも見事な働きを見せた。疲労は隠せないが、士気は落ちてはいない。しかし、詠が指摘したいところではそこではないようだった。

 

「ああ、もう! 今しがた、宦官軍を立て続けに蹴散らしていたのをこの目で見たんだからそれは知っているわよ! ボクが言いたいのは将への役割の指示や任務可能であろう兵の配分なんかは感心するぐらいに的確なのに、どうしてこと作戦立案となると運否天賦に頼った、それも致命になりかねない粗が出てくるのかってことを言っているの!」

「……それに関しては、抗弁の言葉を持たないわね」

 

 反論しようと口を開くも、拓実はそのまま弁解することなく閉ざすことになる。先の一戦では詠よりの申言もあり、華琳の姿を借りながらにして押し黙ってしまった。

 その他に関してはまだしも、こと軍略や兵法に関して軍師相手に一切の反論など出来よう筈もない。ぐぅの音も出ないとはこのことだろう。

 

 

 護送隊が発ってから山道に入るまでに、拓実の率いる曹操軍は宦官軍の部隊二つを撃破していた。その二つは、曹操軍追撃部隊の前衛によって奪われ連れ去られた劉協を捜索する為の部隊であったようで、兵数にしてもひとつひとつが五百にも届かない程度。少数で逃げ延びた華琳たちを捕らえるには充分な兵数だったが、先陣を任せられて猛る春蘭には物の数ではなかったようである。

 部隊の大将を討ち取られ、あるいは中枢を抜かれた敵部隊は総崩れとなり、残った兵たちは三々五々となって逃げ出していった。対して曹操軍の損害は軽微であり、正に快勝といっていい戦果である。

 そんな初戦での曹操軍の優勢が揺るがなくなった頃のこと。敗残兵の掃討を全軍に命じようとする華琳に扮する拓実に対し、なんと異見が上がった。その声を上げたのは軍師に任命されたばかりの詠である。

 

 拓実は捜索部隊の兵を殲滅し、敵軍本隊の程近くまで迫っている自軍の発見を可能な限り遅らせてから奇襲を仕掛けるつもりでいた。この深い位置にまで洛陽からの援軍が迫っているとは敵方は夢にも思っていないだろう。それはきっと兵数で劣る曹操軍にとって大きな武器になっている。伏せておこうとするのは心理的に当然のことだ。

 詠は、その方策に異を唱えたのである。曰く、予想外の大軍による襲撃で混乱に陥ろうとも、機転の利く者が敵方にあれば伝令を本隊に送っているだろうこと。その伝令を抑える為に凪を敵軍の退路に配置したのは炯眼(けいがん)ではあるが、その成否は実際に敵本隊と接敵するまで不明となってしまうこと。運良く伝令を絶てていたとしても殲滅に時間を要する為、曹仁救援を目標の一つにしているこの状況では悪手となりかねないこと。加えて、拓実の発案である山道を抜けて敵本隊の背後を突く作戦であれば、こちらの存在がこの一戦で露見したとしても前方からの襲撃に備えた敵軍の意表を突くことが出来るとした。

 その献策を聞いた拓実はなるほど尤もであるとして、追撃もほどほどに取りやめて全軍で迂回し、険しい山道へと兵を進めるように方針を変更していたのである。

 

 そうして行程を短縮し山を越えた先では、行軍している伏兵部隊を見つけることが出来た。敗残兵の掃討を行って時間を取られていたなら索敵が間に合わずに、敵兵の配置を確認することは出来なかったことだろう。今しがたの詠の言うところの『運否天賦に頼った致命になりかねない粗』とは、拓実のこの軽忽な考えを指しての事であった。 

 

 あわやというところで欠陥を指摘し、目的達成に即した案に修正してくれたということも多分にあるが、拓実が軍師である詠に強く反論できない理由はもっと根本的なものだ。単純に、拓実が軍略の基礎すら修めていないからである。

 拓実には師と呼べる者が多くいる。政務に関連した師は桂花であると言える。部隊の指揮に関しては警備隊の実務経験と許定を構う秋蘭からの度々の助言、そして凪や真桜、沙和と同格の将として切磋琢磨した試行錯誤があった。春蘭や季衣とはよくよく模擬戦の相手をしては否応無しに体術を叩き込まれた。剣の扱いは一度見本にと見せられた華琳の型を模倣し、毎日の反復を経て自分のものとした。

 では軍略はというと、誰からも学び取ることが出来なかったのである。

 

 教育役である桂花より師事を受けたのではないかと言われれば、確かにその通りではあった。桂花の理念や思想は、政略面に限らずその軍略面にも反映されている。拓実はそれらを、荀攸という形で桂花から学んでいた。だが、そうして学び得た理念を同じように軍略に活かそうとしても、桂花本人でないが為に拓実では上手く活用できないのである。

 曹操軍の軍師を任せられている桂花の軍略は、連合に集まった軍師たちを相手にして決して引けをとらない。多くの兵法書を読み学んできた彼女の軍略は、条件さえ当て嵌まれば無類の強さを発揮する。

 桂花の軍略とは彼女が生まれてからの年月が作り上げた集大成であり、特筆すべきにその知識量の多さがある。状況から勝てる策を用意するではなく、自軍を必勝とされている状況に持ち込むのだ。その根幹は古人より伝わる兵法であって、保守的な彼女の信条から自軍の準備を整えつつも相手の出方を見るに始まり、如何なる手を取られても万全の状態で迎え撃つ態勢を作り上げる。

 敵方に対抗策を立てられたとしても多種多様の戦術から代案を選び出し、相手の策を打ち破る。相手がさらに返してくれば桂花もまた違う策を用いて、如何に相手の上をいくか、数多くの兵法を知っているかの知恵比べとなる。特に駆け引きには如才なく、政略を交える充分な時間をも得られればその智謀は華琳をしても及ぶものではない。

 だが、そうした反面で急場の立案には強くない。今現在拓実たちがそうであるように、勝利条件が定められている中でその達成の為に早急に行動を起こさねばならない場面であったり、不利な状況から打って出て逆転を狙う場面を得意としていない。

 

 書物という数多の引き出しを持つ桂花に比べ、読んできた兵法書の数が圧倒的に不足している拓実では同様に策を組み立てようにも数段も劣ったものになり、その上で対策を立てられてしまうと容易に代案が出せない。

 元々荀攸は内政官としての役割を与えられていて、戦場に出る予定はなかった。城の書庫にある経済、農政の書物は読み漁ったが、兵法書の類はいくつか読んだだけでほぼ手付かずである。そして積極的に軍略を学ばねばならない役職にある許定は、基本的に書物を読もうとしない。

 軍略は許定と荀攸のどちらもが学ばない、拓実にとっての死角であった。だから思考傾向から桂花の軍略を模倣することは出来ても、拓実では中身の伴わない張りぼてにしかならない。黄巾党など碌な指揮官のいない農民兵が相手であれば通用するかもしれないが、相手組織に少し学んだ者がいれば歯牙にもかからないだろう。

 

 己のそれを生兵法であると自覚している拓実だが、一方では軍師として高く評価されてしまっている。その写し身である荀攸の名が、反董卓連合に参加した面々の間で稀代の策士として通ってしまっているのだ。これはいくつもの思惑と偶然とが重なり合った上での産物であって、当然ながら拓実の実力がもたらしたものではない。

 荀攸の評価とは、汜水関攻略戦での猛将華雄との一騎討ちという、軍師らしからぬ行動から始まった。華雄を孤立させたその働きにより結んだ諸葛亮と鳳統の策は、目付け役を危険な戦場に立たせた負い目も手伝って共同立案であると劉備軍によって流布されることとなった。これにより、立策にほぼ関わらなかった荀攸が軍略家として大きく評価されることになる。

 続く虎牢関での呂布攻略の際の発言。こちらも歴史を知ることに因るから当然に根拠もなく、たまたま汜水関での一件で注目されていたが為に通ったに過ぎない。本来であったら呂布の万夫不当の噂に恐れをなした惰弱の言と取られ、一笑に付されて終わりである。荀攸の発言により念のため慎重策を取って交戦することになるが、連合軍の猛将が束になって倒しきれない呂布の桁外れの武才が知れ渡ると、それを事前に見抜いた荀攸もまた連合の猛将に比するだけの才を持つ者と噂された。

 駄目押しが、一連の汜水関・虎牢関での行動によって諸葛亮と鳳統の二人に懐かれ、『華雄との一騎討ちは楚軍二十万を釣り出し水計で破った韓信が如く』などと大仰に例えられて軍師連中に宣伝されていたことである。各勢力から選りすぐられた選抜部隊という場所で行われた為に荀攸の名は連合の末端にまで広まり、一角の人物という評価が確固たるものとなった。最早取り返しはつかない。

 

 こうして振り返ればわかるように、荀攸は一度たりとも拓実自身の軍略に基づいての評価はされていない。軍略面の評価の内実は、諸葛亮と鳳統が編み出した策によるものである。

 軍師でありながら荀攸のやったことは全て武官としての働きであり、再三に拓実が言っていたように、他人と軍略を競えるような段階にすら到達していないのである。

 

「詠。是非、私の立案した内容であなたが気に掛かった点を聞いておきたいわ」

 

 当然ながら、拓実が一番それを痛感している。これまで影武者として過不足なく動けていたのは、春蘭を始めとした有能な将や軍師がいたお陰である。

 拓実が多少の無茶無謀な命令をしても春蘭が尽力して達成してみせていたし、兵の充填や物資の手配などは桂花に一任してしまっていた。何事かがあれば秋蘭が補佐に回り、抜けた部分を塞いでくれた。拓実自身が曹孟徳の名に負けず劣らずにこなせたことなどその立ち振る舞いを除いてしまったら、目的に適した将の割り振りと的確な兵数の差配ぐらいのものである。

 文武に長けた秋蘭、軍師である桂花が洛陽へと発っていった今の曹操軍本隊において、拓実の稚拙な立案を正してくれる者は新参の詠を除いていない。数刻前に拓実自身が口にしていたように『今この陣営において、拓実が軍略面で頼りに出来るのは詠だけ』なのである。

 

「……別に、主君としてだったら今のままでもこれといった支障は出てこないと思うわよ。見たところ、物事の理を判断できない凡愚ということもなさそうだもの。そっちで作戦目的さえ定めてくれれば、改善案や不都合があったならその都度軍師たちが口を挟むでしょうし」

 

 それは、先の詠の陳言を拓実があっさり聞き入れたことによるものか。主君の意見に異を唱えることを好しとしなかったり、面子を気にして部下の上申を聞き入れないといった者は往々に存在している。詠なりに、主君としての能力に問題はないものと評価してくれたのであろう。

 有能な人材が豊富な曹操陣営においてならば、上申を受け入れ適切に判断できれば不足のない程度の働きはできる。しかしそれで満足してはいけない。拓実が立たねばならないところはもっと遠く、高いところにある。

 

「いいえ。主君としてではなく、名軍師と謳われているあなたの意見を聞き、今後に活かしたいという個人的なものよ」

 

 言葉を交わしているうちに、拓実たちのいる本隊が動き出した。どうやら、先ほど詠の出していた進路指示が前線へと伝わったようである。

 絶影の手綱を手繰って拓実もまた進軍速度を合わせると、遅れて隣に並んだ詠へ視線を送る。その詠はといえばその瞳は奇特な者を見るような不躾なものだったが、僅かに口の端が吊り上がっていた。

 

「……もういくつかは言った後だけれど、軍略を学ぶ者として意見を求めるのであれば遠慮はしないわよ」

「望むところよ。『苦言は薬なり、甘言は疾なり』――耳に痛いぐらいでなければ、彼の賈文和に訊ねた意味がないもの」

「そう、そこまでいうなら……」

 

 こほん、と咳払いをひとつ。詠の顔つきに浮かんでいた微かな笑みの色が消え、同業の人間を見る鋭い目でじっと拓実を見据える。

 拓実は詠のその変化に、これまでは彼女なりに曹操である拓実を主君として立てていたことに気がついた。平素の言葉遣いこそ主従のものではないが、あれでも参謀として必要なところでだけ発言し、過分に自己主張せず臣下としての分を弁えて振舞っていたようだ。

 

「まず、洛陽からの強行軍に関してだけれど……これはもういいわ。まだ成功する目の方が大きかっただろうし、連合に参加した目的に関することだっていうからわからないでもない。最善の結果が出ている以上、ボクがいくら言っても難癖としか映らないかもしれないもの」

 

 そこまでを一息に告げた詠は、改めて拓実を見つめる。その目には、確実に非難の色が混ざっている。

 

「けれど、先の敵捜索部隊の殲滅命令はそうじゃない。確かに敵の伝令を断って奇襲出来たなら、突然背後に湧いて出た四千相手に宦官軍は為す術もない。こちらの被害なしで宦官軍を撃破させることだって出来るかもしれない。楽進を退路に配置したのも手伝って、少なく見ても十のうち三回は成功を見込めるでしょうね。もしかしたら四か、あるいは二度あれば一度は成功するかもしれない」

 

 知らずに、拓実は息を呑んでいた。視界が一瞬真っ白に染まり、全身の肌が粟立っている。

 裏を返したなら、成功を見込めたのは良くても半々。詠の見立てでは十の内の七は失敗しておかしくなかったということだ。

 拓実が失念していたのはこの部分である。敵の伝令を絶つ為に対策を立てたが、それ故に問題は全て取り払われたと思い込み、その失敗の可能性を一切勘定に入れていなかった。

 

「当然、上手く状況が転ばなかった時の被害はとんでもない。伝令が戦闘に入る前に既に発っていたら? 既に曹仁隊が瓦解していたら? 捜索部隊の殲滅に時間をかけているうちに、曹仁隊が壊滅してしまったとしたら? 目的達成はならず、だっていうのにボクたちの存在は敵に察知されていて、背後を突こうと迂回しているところに追いつかれて逆に背後から奇襲を受けるというところかしら。当然、数で負けている上に虚を突かれたボクたちは為す術なく全滅するでしょうね。これといった損害も与えることが出来ずにボクたちがやられれば次は洛陽の都が標的となり、苦労して保護した劉協様も奪われることになるでしょうよ」

 

 詠の言うとおりになれば、まず敵地深くにいる拓実たちの生存の目は低い。負傷兵を抱えて洛陽へと向かっている華琳たちも容易に捕捉されるだろう。上手く状況が転んで華琳や主要な武将たちが無事であったとしても、数年掛けて作り上げた精鋭が全滅させられ、帝も保護できていないのでは、元通りにまで返り咲くのは難しい。

 つまり拓実が進めようとしていた策では、まず理想的な完勝か、全員の命運までを巻き込んでの完敗となるか、そのどちらかの結果しか出ないということになる。

 確かに今回の宦官軍撃退の任務に失敗は許されない。しかし物事に、特に戦場に絶対はない。結果として失敗をするにしても、再起さえ不可能となっては一切の取り返しがつかなくなる。

 

「最悪の状況を想定出来ていたなら、多少の有利を捨ててでも危険を排した代案を考えるべきところよ。ボクがさっき強行軍について言っていたのも結局はそこに行き着くわ。決断が早いのはひとつの長所と成り得るけれど、熟考すべき箇所で即断してしまうのではただの浅慮でしかないもの。時間のない中で何とかして二倍もの数の差を埋めようとしてのことでしょうけど、だからといって必要以上の対価を払うと馬鹿を見るわよ」

 

 そうして締めくくった詠の言葉を、拓実は改めて始めの一言目から思い起こし、視界を閉ざして深く心に刻み込んでいく。そうして目を見開くと、深く笑みを浮かべて詠を見据えた。

 

「感謝しましょう。この私にとって、紛れもなく金言だったわ」

 

 この詠の助言により、拓実は許定として初陣を飾った時に肝に銘じていた『指示の誤り一つが数多くの兵を死に追いやってしまう』という事実を再認識していた。そして同時に、華琳が連合諸侯を敵に回す危険を冒してまで手に入れようとしていた詠という軍師の価値に気づくことが出来た。

 だからこそ拓実は己の失敗を悔いるではなく、笑みを隠し切れないでいた。華琳がそうであったように、きっと拓実の瞳は今、星が瞬くように輝いて見える筈だ。

 今回の拓実の失敗を既のところで修正してみせたことで、名声に違わぬ詠の手腕に確信を持てた。おそらく局地的な戦略に限るなら、詠は現時点の曹操陣営の誰をも上回っていることだろう。そして、事前に拓実に用意するよう指示させていた小道具から察するに、彼女の着眼点は誰とも重なっていない。

 拓実にとって重要なのは、詠の策はもちろん下地となる知識を必要とはするものの、物事の見方によって着想している為に彼女の価値観や思想を理解すれば拓実でも応用できるかもしれないという点である。

 

「ボクの目の前にいる曹孟徳にとって、ね」

 

 喜びを隠し切れない拓実の様子をじっと見つめた詠は、ふんと鼻を鳴らした。何かしらの会得がいった様子である。

 

「……ま、なんだかんだと言ったけれど、目の付け所自体はそう悪くないわ。あとは思考を止めず、あらゆる選択肢と可能性を模索し続けることかしらね。まったく。立案・献策するだけだなんてあんたは言ってたけど、それ以外にもやることがあるじゃない」

 

 

 

 

 曹操軍は静かに、そして速やかに山を下るや、森林を移動している長安からの援軍部隊一千五百へと襲い掛かった。

 軍議の時点では丘陵を進む部隊に強襲を掛ける予定だったが、敵軍の進軍速度が詠の予想より僅かに速かった為に、最後尾に位置している部隊へと目標が変更されていた。

 

 相手方からすれば、本隊を追って援兵として洛陽方面へ進軍しているところで、自軍拠点のある長安方面からの襲撃を受けた形となる。進軍方向への索敵を行ってはいたようだが、背後への警戒など完全に慮外のことだった。

 後詰による効果的な士気低下を狙って、本隊と交戦している曹仁隊に視認されないよう森を進んでいたことも災いした。自軍がどういう状況であるのか把握しようにも、周囲の木々が視界を奪う障害となったのである。そして後方に位置していた部隊長と思しき者が撤退なり抗戦なりの指示を出す前に討たれたことで指揮系統の混乱が誘発され、現状を把握するのに更なる時間を要することとなる。敵軍前衛部隊が奇襲の報告を受け取る頃には、後続は完全に瓦解していたのだった。

 曹操軍四千が打ち崩したのは兵数にして五百にも満たない。しかし、後方から聞こえる同輩の断末魔の悲鳴、隊長が討たれたという誰が言ったかすら判別出来ない怒声が響き渡り、それを示すように一向に指示が飛んでこないことで恐怖は兵士の間で伝染していき、中盤に配された五百は戦わずして四方八方へ我先にと逃げ始めてしまった。

 前衛には将が配されていたようであり、事態を把握するなり混乱から立ち直り、残った兵をまとめてすぐさまに森林より離脱していく。彼らの進むその先は、丘陵を進む同じく一千五百の援軍部隊である。

 

「戦果としては上々ってところね」

 

 先の詠の進言に従って逃げ惑う敗残兵を放置し、軍を進ませている拓実の横で、詠がにやりと口元を緩ませている。

 彼女はそう言うが、圧倒的に有利な条件であっても曹操軍の負傷兵は増えてきている。混乱し足並みすら揃っていない敵兵の悪足掻きに、行軍による疲労から対応できず、手傷を負う兵が増えてきているのだ。

 

「こいつらは長安で徴兵しておいた兵よ。洛陽に配置されていた兵と違ってほぼ疲労していないのだから、その相手にここまで戦えるのであれば問題はなさそうってことよ。宦官軍本隊の疲弊し切った兵が相手なら充分にやりあえるわ」

 

 横からの視線に気づいた詠が、自身の発言に説明を入れた。ただ上機嫌なだけなのか、それとも軍略家として助言を求めた拓実への講義の延長線であるのか、その口振りから判断は出来ない。

 対して拓実は「そう」と至極あっさりと返答しながら、手綱を締めて馬の速度を緩める。僅かに追い越した詠がすぐさまに手綱を引いて馬を歩かせるのを見届けるや、ゆるゆると自身の乗馬(のりうま)である絶影を詠の隣に寄せた。

 

「ところで、あなたに言われて兵に作らせておいたモノは完成したようだけれど?」

 

 そんな風に今思い出したかのように嘯く拓実に、突然話題を変えられた詠はその胡乱な目を隠そうともしない。子供でも一目でわかるぐらいの、わざとらしい演技だったのだ。

 

「それは、本隊と対峙した時に初めて掲げるようにしなければ効果が薄れるわ。長安からの兵相手ではほとんど役に立たない上、本隊相手でも遠目に確認されたなら交戦を待たず、敵将の指示で兵たちが落ち着いてしまうもの」

「――ふふ」

 

 律儀に答えながらも『ボクに言われずともわかっているんでしょ?』と言わんばかりの詠の流し目に、つい笑い声が漏れてしまう。拓実はそれに、否定する素振りを見せなかった。

 やはり、詠は人心を操ることに長けている。この一戦においても序盤で運良く敵武将を討ち取ったものの、そうでなくとも曹操軍の兵たちには『敵の大将を討ち取った』と声を上げながら突撃するよう詠より指示が出ていたのだ。視界を塞がれ、悲鳴があちこちから発されている戦場では、その誤情報の真偽を確かめる術はなしと見極めてのことである。

 こちらの起こす行動で敵将がどう判断するか、敵兵の心理はどういった状態となるのか。詠の読みは卓越している。

 

 今にして思い返せば、戦場の外でも彼女のその気質は表れていた。軍議において拓実にあれこれ細部について疑問を投げかけたり、指摘をしなかったのは主君の面子を潰さない為だったのだろう。華琳より直々の誘いを受けながら客将のような立場にいるのも、他の配下からの反発をなるべく抑えようと配慮してのことだとわかる。

 きっと拓実が考案した、山道を越えて背後からの奇襲する策に対して一切の異論を挟まないのも、宦官たちの心理を読んで成功すると踏むに足る彼女なりの根拠があるに違いない。

 

「さあて、これといった被害も受けず減らせたのは二千程度かしら。ただ、ここから先はそうはいかないわよ」

「ええ」

 

 拓実は、詠に声を掛けられて我に返った。知らず考え事をしていたが、のんびり彼女の才覚に関心ばかりもしていられない。

 二千を減らしたとはいえ、それでもまだ敵軍はおおよそ七千ほどの大部隊だ。対してこちらは各個撃破で快勝を続けているとはいえ、じりじりと数を減らして三千五百余りとなっている。拓実たちは、これから自軍の二倍の大軍を倒さねばならないのだ。

 今回の一戦で、敵本隊に自軍の位置は知られてしまっている。さらに、敵軍本隊と拓実たちが交戦するのは、兵数が物を云う平地である。いくつか策は講じてあれども、現状では圧倒的に不利といっていい。拓実率いる曹操軍の正念場は、正にここからだ。

 

 

 



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46.『影武者、賈駆により奸雄と評されるのこと』

 

 後退していった敵部隊の五百は、丘陵の千五百と合流したようだ。曹操軍は追いすがることはせず、森から出たところで進軍速度を落としていた。

 二千に増えた敵援兵部隊に曹操軍の存在は露見しているのだが、その拓実たちに攻撃をしかけてくるでもなく遠く見える曹仁部隊を追撃している本隊方面へと移動を始めたのだ。

 

「詠。敵のこの動き、あなたにはどう見えているのかしら?」

「丘陵の千五百のあの動き……大将は恐らく李(カク)でしょうね。大方、無駄な損耗を抑えようとしているのよ。『宦官軍』のね」

 

 憎々しげに後退していく宦官軍を詠は眼鏡の通して睨み付け、吐き捨てるように言った。

 

「宦官軍の、とわざわざ言い足したからには、額面通りの意味ではないのでしょう?」

「……今現在、宦官軍を構成している兵は大まかに二つに分けられるわ。宦官及び、それに与する武将の配下にある兵と、汚名を被せられても月やボクに付いてきてくれていた兵。李(カク)たちからすれば、悪役として立てた月やボクについていた兵なんていつ離反してもおかしくない存在なんでしょう。直属の兵を戦わせるより先に、扱いにくい要らない兵を使い潰しておきたいのよ」

「なるほど。本当の意味での自兵力を使う前に、多少なり私たちの数を減らせれば御の字ということ」

 

 拓実は会得がいった風に詠に頷き返して、呆れを隠せない様子で宦官軍を眺め見た。道中の四方山話で、詠や月のここに至るまでの状況は聞いていたからだ。

 

 月の出身地である涼州で友人となった二人は、月の人徳で人を集め、詠の智謀で以って略奪を仕掛けてくる()(西部の異民族)を撃退していたらしい。黄巾党が現れ始めると大陸を回ってその討伐に尽力し、そうしているうちに董卓の名は高まり、朝廷より并州の刺史、後に牧を任せられて董卓軍は万を優に越える兵を持つに至った。

 その兵力に目をつけたのが宦官である。度重なる黄巾党の討伐により兵を消耗していた官軍は何より兵力を欲していた。そこで朝廷に召抱えるという話を餌に月や詠を洛陽に留まらせ、その間に月の親族の身柄を押さえ込んだようである。それを知らない月や詠はまんまと帝の住む洛陽周辺の防衛を命じられるがままに拝命することとなったという。

 後は拓実たちも知るとおりだ。当初こそ月が洛陽を善く治め、民には仁君とされていた。だが、黄巾党の反乱が収束の兆しを見せるや、詠が遠征に出たのを見計らった宦官らにより月は親族の命を盾に取られて脅迫、幽閉されることとなる。詠が遠征より戻ってきた時には体制は固められ、打てる手はなくなっていた。月の身柄を押さえられた詠もまた、宦官の言うことに従わざるをえなかったのだ。董卓軍の万を越える兵はほとんどが宦軍へと引き抜かれ、詠は口出しも許されず目の前で自軍が吸収されていくのを眺めることとなった。

 

 詠が言う汚名を着せられた月や詠に付き従った兵というのは、宦官らの引き抜きに応じなかった者や、宦官を通さず召抱えた張遼や呂布たちのことだ。宦官は、指揮官である詠を傀儡にしている為に、疎ましくこそ思っていたが危険視まではしていなかった。しかし、詠や月がいなくなってしまえば無用の長物ということなのだろう。

 

「宦官の奴らからすれば、いくら使い潰しても痛むものがないのだもの。確かに、悪い手ではないわ」

「ふ――本当に詠が私に討たれていたのなら、でしょう?」

「そういうことね」

 

 にやり、と詠は口の端を吊り上げた。上背のない詠が笑んだだけで、拓実にはまるで獲物を前に舌なめずりする肉食獣のようにも見える。

 敵がそのように動くのであれば、拓実たちもまた動かねばなるまい。拓実は絶影の腹を蹴って走らせると、すぐに馬頭を返して兵たちに向き直る。

 

「これよりはこの本隊が陣頭に立つ! 伝令、その旨を前曲の夏侯惇へ伝えなさい! 前曲が進路より退き次第、本陣は前進! 工兵隊は旗を持て!」

 

 拓実が声を張り上げると、即座に本隊の兵たちより数倍の声量で「応!」と返される。事前に、本陣が前曲に立つなどという指示はしていない。『曹操』が指示をすれば、兵はすぐに応える。そうあるように平時より訓練されていた。

 その中で一人うろたえたのは、これまで拓実の隣に控えていた詠である。

 

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 本気なの!? ボクと工兵隊だけ陣頭に立たせればいいでしょう!? 曹操、あんたが前に出ても釣り合う程の対価は……」

「詠。あなたには、例の図面の物――作らせる旗は二つと指示していたわね? 実は、それと別にもう一つ、私から作らせている旗があるわ。なけなしの金銀糸を使った特注品よ」

「もう一つ、わざわざ別、に……? 金銀糸まで使ってって、あんた、もしかして!?」

 

 すぐには思い至らなかったのか、遅れて気づいた詠が、目を剥く。まるで突然に頭を殴りつけられたかのような、雷にでも打たれたかのような、驚愕の表情をその顔に貼り付ける。

 

「詠。これは決してあなたが言っていたような『必要以上の対価』ではないわ。私が支払うべき『当然の対価』よ」

「……ふ、ふふ。あははははっ!」

 

 呆然と拓実の顔を見つめていた詠が数拍置いて突然に天を仰ぎ、笑い出した。周囲の兵たちが何事かと詠と拓実とを見るが、真っ向の拓実は動じずに詠を見据えたままだ。

 

「こんなことを考え付くだなんて! 後世に奸雄の(そし)りを受けてもおかしくない、漢の民であればこそ避けて然るべき、けれど憎らしいほどに有用な発想だわ! 曹操! あんたに降ったこと、軍師としてのボクの天命であったと確信を持ったわ!」

「あら、光栄ね」

 

 当然という様子で軽く言葉を返し、表面上には何の感情も浮かんではいないが、しかし拓実の内心では疑問に対する答えが出たことで複雑に揺れ動いている。

 拓実からすれば、効果的に敵に混乱を与えることを目的としたならこの程度、当然に思いつくだろうと考えていたからだ。では、詠が拓実がしたような指示をしなかった理由は何なのかといえば、『漢の民であれば避けて然るべき』――これが答えであった。拓実はようやく、大陸人である詠との間にあった価値観の違いに気づくことが出来たのである。

 

「曹操――いえ、この戦を終えたら、改めてあんたにボクの真名を預けさせてもらうわ。どちらが本物かなんて関係ない、目の前のあんたにボクの真名を預ける」

 

 詠の口元は、堪え切れないというように笑みが張り付いている。それは先ほどに宦官軍を前に浮かんだ憎さ余ってからの獰猛な笑みではない。己が力を十全に揮うに足る名分を見つけ出した、昂りによる笑みだ。

 

「見せてやるわ、仮にも名軍師と謳われる賈文和(ボク)の軍略を。そして、思わせてやる。このボクに心底から真名を預けたいとね」

「ええ、楽しみにしているわ。だからこそ、この戦に我らを勝たせてみせなさい」

 

 詠は、馬上ながら拓実に静かに礼を見せた。一度、華琳と拓実に真名を預けた時に見せてから『曹操』を相手に取ることはなかった、臣下の礼だった。

 

 

 

 

「華琳さま! どうか、この春蘭めをお供につけていただきたく!」

「……そうね。では、私と詠の護衛は春蘭に任せましょう」

「はっ! お任せください!」

 

 拓実たちが前曲に馬を進めていると、春蘭が礼を取りつつも急いで馬を寄せてきた。拓実が許可を出してやると、途端にぱぁっと顔を輝かせる。

 確かに拓実の武力では自衛面で心許なかったので、季衣か凪あたりを護衛につけようと考えていたのだ。抜けた春蘭の代わりに、季衣に前軍部隊を任せるよう伝令兵を呼び寄せる。

 

「……賈駆。貴様は、華琳さまが必要だと仰るからな。ついでに護ってやる」

「はいはい、頼りにしているわよ」

 

 拓実が伝令を出している間に、春蘭が不本意だと見せながら、詠をじろりと睨みつけている。半ば喧嘩を売られている詠だが、どうやら華雄や呂布などを相手にしていたからかそういった手合いには慣れているようで、桂花のように反発したりせずあっさりと受け流している。

 どうやら言い返されると思っていたらしい春蘭は肩透かしを食らったようで、逆にやりにくそうだ。「桂花なら……うーん……」などとぶつぶつと声を漏らしている。

 

「それより夏侯惇。あんた、曹操が陣頭に出てきても止めたりはしないの? 流石にこのまま敵軍とぶつかったりはしないけれど、前曲は敵軍から矢が飛んできたりと危険だっていうのに」

「ふん。生憎だが、私は華琳さまの深謀に気づくことは出来ん!」

「自信満々に言い切ることじゃないのは確かね」

「だが、危険な場に華琳さま自ら立たねばならない、そう考えていらっしゃるということならわかる。ならば私はその危険を全て排し、お護りするだけだ。あと、貴様、華琳さまを呼ぶ時は『さま』をつけろ! 『孟徳さま』だ! いくら客将扱いとて、華琳さまを軽んじるのは許さんぞ!」

「ああ、うっかりしてたわね。そうね、ボクと『孟徳様』が二人でいる時以外は、そう呼ばないとね」

「うむ。誰かとは違って随分と物分りがいいな。……んん? なにか引っかかるが」

 

 詠は、暗に二人きりの時は呼び捨てにすると言っているのだが、残念ながら紙一重で春蘭はそれに気づけなかったようだ。対して、何故か感心した風なのは詠である。

 

「なるほど、華雄とどっこいどっこいってところかしら」

「はっはっは! 馬鹿め。華雄なんぞより私のほうが強いぞ! 私は華琳さまの剣なのだからな!」

「そうね。華雄より一段上かもしれないわ」

「そうだろう、そうだろう。賈駆……いや、詠と言ったか。軍師ながら、この私の武に気づくとは見所があるぞ。私のことは真名である春蘭と呼べ。私も詠と呼ばせてもらう」

 

 拓実は二人のすれ違った会話を聞き流しながら、思った。下手に止める者がいない方が、春蘭は他人と仲良くできることがあるのではないか。

 桂花のように武将連中を毛嫌いしている相手では難しいが――いや、現実には詠にも手のひらの上でいいように転がされているだけなのだが、険悪になるよりはよほどマシに思える。

 

「二人とも、気を緩めるのはそこまでになさい。我らが策が成れば、敵軍は後先なしの突撃を仕掛けてくるわ」

「は、はっ!」

 

 春蘭が頭を下げ、詠もまた目を伏せる。拓実は二人を眺め見て、密かに考え続けていたことを口にした。

 

「では、詠。あなたには、全軍の指揮権を貸し与えましょう」

「はぁっ、か、華琳さま!?」

「……本気?」

「名軍師と謳われた賈文和の智謀、私に見せてくれるのでしょう? 今回に限り、私を含め我が軍はあなたの指示に従うわ。上手く使って御覧なさい」

 

 拓実と詠、どちらが指揮の面において優れているだろうか。兵の運用や将の差配、それだけに関して言えばどちらが上であるのか拓実には判断がつかない。詠が感心してみせたぐらいであるから、あるいは拓実が上であるのかもしれない。

 だが、戦場で機を読み、適切な箇所で策を用いる能力は、間違いなく詠が上である。部隊という人間とは別個の巨大な生き物を相手にする場合、拓実の観察眼はさほど役には立たない。兵たちは通常の精神状態ではない為に、平時で培ってきた拓実の知識や経験が当て嵌まらないのだ。

 その点、詠は官軍の参謀として出征を幾度なく重ねていて、さらに戦場での心理把握に長けている。更には、軍略や策に対しての理解が拓実とは桁違いである。

 もしも詠が拓実の兵の運用能力を自身より高く買っているのであれば、それを含めて詠から拓実に指示させればいい。これが拓実なりに考えた、今の曹操軍にとっての最上の運用法である。

 

「そう、こうまで期待されたのなら、応えないわけにはいかないわね。全指揮、ボクが預からせてもらうわ。……まず順序として、ボクが用意していた策は後になるわね。出来ることなら宦官軍本隊がこちらに向かって来てからが望ましいのだけれど、曹仁隊がいつまで耐えられるかわからない以上はすぐにでも決行するしかない。ボクたちが先頭に出たら工兵隊を傍に控えさせて。その後は……いえ、本陣は後方に……」

「……他に腹案があるのでしょう? ちらちら春蘭と私とを見比べたりせず、打てる策があるのならば言って御覧なさい」

「ん? そうなのか?」

 

 図星を突かれたらしい詠は、息を呑んだ。戦場では正確な読みを見せる詠ではあるが、逆に自分の感情を隠すのはそれほどには上手くない。今息を呑んだのもそうだが、端々の動作や口調などに感情が出てきている。

 注意して抑えているようではあるので常人と比較したならまだ読みにくい方ではあるが、それでも洞察力に優れた拓実の前では丸わかりと言っていい。

 

「ぐ……あ゛ー、もう! 主君の無茶無謀がボクにも移ったのかしらね!?」

 

 頭を掻き毟った詠は、顔を上げるときっと拓実と春蘭を順繰りに睨みつける。

 

「いい? これは、博打になるわ。なにせ、『孟徳様』を敢えて危険に晒す策だから。『孟徳様』はもちろん、これは春蘭、あんたにこそものすごい負担がかかる。本来なら、恋――呂布がいるでもなければ、決行しない策よ」

「……ほう。で、今の話のいったいどこに戸惑うところがあるんだ?」

「はぁ!? ちゃんと理解して物を言ってんの!?」

 

 どうやら、まったく動じた様子を見せない春蘭に、逆に詠の余裕面が剥がれてきたらしい。顔を真っ赤にして、声を張り上げている。その言葉尻は動揺からか跳ね上がり、威嚇しているかのように強い。

 

「言っただろう。私は、華琳さまの万難を排す。たとえ呂布が相手だろうがそればかりは変わらん。これは絶対だ」

「ぅ……曹操! あんたはっ!?」

「それが必要であるならば、この身を晒すことに何の戸惑いがあるのかしら」

 

 拓実もまた動じない。拓実一人が姿を晒すことで勝てるというのなら、いくらだって晒してやる。拓実の腹は決まっていた。

 最悪。そう、最悪だが、拓実がもし死んだとしても、春蘭か詠かがいれば、この場の三千五百が何も出来ずにやられるということはないだろう。ならば、後を託すことが出来る。劉協を擁し、華琳さえ生きているのであるならば、きっと再起は可能だ。

 負け方が多少変わろうと、ここで勝てねば死んでもおかしくないところにいる。少しでも勝率を上げて、宦官軍に打撃を与えて死ぬ。同じ死ぬにしても、後を繋がる死に方であればまだ救いがある。それだけだ。

 きっと、劉協を奪還しようと命を賭けた華琳も、こんな考えだったのではないか。頼れる者が己一人しかいないのであれば、こんな考えは欠片も浮かんだりはしない。拓実も、華琳がいるから信じられる。

 

 詠は拓実の言葉を聞くなり目をきつく瞑り、歯を食いしばった。続けて頭を抱えてしばらくうんうんと唸って葛藤していたようであったが、吹っ切れたのかぱっと顔を上げた。

 憔悴した顔、幾分座った目つきで春蘭を睨みつける。

 

「……なら、護衛の春蘭は、曹操を護ることに専念して。最悪、ボクのことは放ってもいいから。呂布に任せたつもりで使うわ。話を聞いて無理だというのならすぐ言って頂戴」

「くどい。二言はないぞ」

「ああ、もう! わかったわよ! それじゃ、策について一から説明するわ」

 

 

 

 

 

「工兵隊、軍旗を立てろ!」

 

 春蘭が高らかに号令をかける。丘陵を抜けた宦官軍の援兵二千に見せつけるように、二つの軍旗が曹操軍先陣、拓実の横に掲げられた。

 一つは曹操軍にとって馴染みである、紫の生地に『曹』の大将旗。そしてそれに並べられたのは、金銀糸の刺繍が日の光に輝く、大将旗より小さくとも装飾華美である『漢』の旗だ。

 

「……いざ掲げるとなると、とんでもないことをしでかしてる気になってくるわ」

 

 風にはためく『帝』を表す旗の下、絶影に跨って堂々と佇んでいる拓実を、詠が信じられないという風に見て呟いた。拓実は視線を前方の宦官軍へと向けたまま、笑みを崩さない。

 

「詠。実際に劉協様を連れてきている訳ではないのだから、落ち着きなさい」

「だ、だから、とんでもないんじゃない。旗自体、大将旗より小さいし、旗を立てている竿も短いし。戦場で用意できなかったとはいえ、これじゃ傍からはどう見えているか……」

 

 きらめく『漢』の旗へと向けた詠の顔は、これ以上ないほどに苦みばしったものになる。

 

「まず今頃、宦官軍は大紛糾してるわよ? 『帝がいる我らに手を出すのか』なんて脅しとも取れれば、『宦官軍らは朝敵』『曹操軍こそ官軍である』なんて怒りを煽ってるようにも見えるでしょうし。曹の旗より漢の旗が小さく低いのなんて見る者が見れば『漢王朝は衰退し、曹操の下にある』って言うも同然。そもそも戦場に帝を連れ出したなんて不敬を自ら喧伝しているようなものだし……!」

 

 ぶちぶちと文句を垂れている詠は、そわそわと落ち着かない。その辺り、価値観の違いからいまいちぴんときていない拓実は、慌てる理由を理解できても共感はできない。

 そもそも日本で過ごしていた時にしても、天皇を敬うべき人ということ自体は理解していても、どれほど偉いのかがわからずにいた。これは人命に貴賎の差は無いという、他国に比べて博愛主義の強い現代日本に生まれたが故の特異な価値観である。

 

「その上、それら全部がただの騙りだなんて! ああああーっ、下手を打てば賊軍一直線よ!」

「私に降ったことは天命だったとまで言った割りに、心構えが出来ていないわね」

「まさか、大将旗より小さく作っているだなんて思うわけないでしょうが!? 同じぐらいの大きさで作って、曹操の大将旗の上に掲げるものと思っていたのよ! ……まぁ、確かに。宦官どもを動揺させてボクたちの思い通りに動かすってことを考えれば、これで決定的にはなるんでしょうけど」

 

 この、『漢』の旗を作るよう指示を出しておいたのは拓実である。そして、それこそが詠にとって思いもよらない策であり、だからこそ拓実を評価するに至った策であった。

 しかし、詠はもう少し抑え目の策として想定していたようで、実物を目にしてまず固まり、拓実の真意を確かめ、そしてこの通り掲げてからはご覧の有様である。とはいえ、拓実を止めようと説得してこない辺り、当初の策を補強することはあれ、失敗する要因とはなっていないのだろう。

 

「ともかく、この戦で負ければ宦官によって先ほどの汚名を着せられることになるでしょう。そうさせない為には、我らが勝ってそれら全てを負け惜しみの言葉にまで落とす必要があるわ。何処で聞いたか、私の記憶にこういう言葉があったわね。『勝てば官軍、負ければ賊軍』」

「……今のボクたちの状況を端的に表し過ぎていて、まったく笑えないんだけど」

 

 気楽に構えている拓実に、げんなりと項垂れた詠はため息をついた。

 

 そうこうしているうちに、宦官軍が目に見えてざわめき始めた。こちらの旗印を確認したのだろう、しかし曹操軍の真意が読めず、前にも後ろにも進めないようである。

 伝令だろう騎馬があちこちに駆け回り、そうしながら軍としては動かず。その内に早馬数騎が宦官軍の本隊へと放たれていくのを確認すると、詠が手を挙げた。

 

「動いたわね。いいわよ。ここまで来たら後は盛大にやっちゃって」

「春蘭!」

「御意に!」

 

 その言葉を待っていた拓実は、詠が言うが早いか絶影を駆る。加速していく拓実のその後ろを、春蘭が続いた。しかし、本隊は詠の号令により行軍を停止。前進していくのは拓実と春蘭の二騎だけだ。

 

 

 そうして曹操軍から離れて敵軍と等距離になる辺りにまで進むと、馬を歩かせて真っ向から向き直った。声がかろうじて届き、敵兵を見ておおまかに鎧姿であると見て取れるほどの距離である。

 同時にあちらからも拓実の姿が見えていることだろう。特に、拓実の――曹操の姿は目に付きやすく、特徴的だ。少なくとも他の馬より一回りは大柄である絶影のお陰で、大将首に見えているのは間違いない。

 敵軍であるが、こちらが僅か二騎で出てきたことで手を出しかねている。前面には弩を構えた部隊が備え始めているが射掛けてくる様子は見えない。少数であるからこそ、使者であることもあって下手に手出しはしないものだ。

 警戒を強める宦官軍へ向けて、拓実はゆったりとした動作で腰に佩いた青釭の剣を抜き放った。

 

「我が名は、曹孟徳! 帝を傀儡として悪逆を働いた貴様ら賊軍を、主の意向に従い誅罰する漢の臣である!」

 

 拓実は高らかに名乗りを上げると、絶影を歩かせる。ぐるりと己の姿を誇示するように回りながら、続けて言葉を投げかける。

 

「威光を笠に着ての暴虐に飽き足らず、帝の住まう都を滅ぼし遷すなど、人に非ず! 人道に(もと)り、畜生にも劣る所業である! そのような者を天が許すと思うのか! 其に付き従う兵よ! 些少なりにでも人の心を持つのであらば、己が行いを省みよ! 外道に与し天意に逆らう者は、一族郎党に至るまでこの曹孟徳が駆逐することになるぞ!」

 

 そうして拓実が元の位置へと馬を進ませる頃には、敵陣が端からざわめいているのが見て取れた。

 この宦官らへの挑発、敵兵への投降の投げかけの文言自体に意味は無い。帝を連れて遁走していった筈の曹操が、漢の旗を携えて無事な姿でいるのを見せることが重要なのだ。

 

「さて、どう動くかしら」

 

 投降はないだろう。ああまで悪し様に言われて動揺する兵を落ち着かせる為に舌戦で対抗してくるか、当初の予定通り後退を続けて宦官軍本隊と合流するのか、それとも帝を奪い返すべく単独で攻撃を仕掛けてくるか。……詠の予想通りとなるのだろうか。

 これは桂花に教えられたことだが、戦や交渉に限らず人と何らかで争う場合、相手の意図によって自身の行動を左右されてはいけないとのことだ。こちらから選択を迫ってやり、動かしてやることが相手の態勢に隙に作り、それを上手く活用するのが策の土台になるという。

 正に、今のこの状況は桂花の言っていた通りとなっている。拓実は笑みを湛えたまま腕を組み、敵軍を眺め見る。

 

「華琳さま、どうか私の後ろへ」

「ええ、任せるわ」

 

 空気が変わる。それを察知したらしい春蘭が馬をいななかせ、拓実を庇うように前に出た。大剣・七星餓狼を手に、気を張り詰めている。

 遅れて敵軍にも動きがあった。陣の奥から華美な鎧に身を包んだ、痩せぎすの男が兵を掻き分け、前衛の部隊に加わったようである。男の後ろからはどやどやと弓を抱えた兵士たちが戦列に加わっていく。

 

「ええい、何をしておるか! 弓兵、弩兵っ! 彼の奴を討ていっ!」

 

 甲高く怒鳴り散らす声が拓実にも届くや、慌てて弩兵が矢を撃ち出してきた。指示していた男、あれが李(カク)だろうか。

 矢を射掛けてきてはいるが、全軍でこちらへ向かって攻めかかってくるという風ではない。攻め気が見えない。軍は動かさず、大将首である拓実や春蘭が弓や弩の届く距離であるから、あわよくばで攻撃を仕掛けている、それだけのようだ。

 

「――李(カク)。詠から聞いていたように、慎重と言えば聞こえはいいものの、戦場では逃げ腰であるだけのようね」

 

 弓兵、弩兵は敵兵を射殺すことも勿論だが、射撃精度の問題から全てを倒しきることが難しい為、役割として突撃してくる敵軍の勢いを弱めることに重きを置いている。

 武芸に優れた武将ならば離れた『個』の目標を狙って射抜くことも出来るだろうが、弓兵部隊の運用としては大まかに狙いをつけて斉射し、矢の雨を降らして落ちた先にいた兵に当てるという『範囲』を目標としたものになる。

 放たれた矢は百に届くかというほどだったが、距離もあって実際に拓実や春蘭へ降り注ぐ矢は両手で数えるほどだ。

 

「他愛もない! この夏侯元譲がいる限り、幾度狙おうとも我が主に届くことはないと知れ!」

 

 春蘭は馬上で大剣を軽々と振り回し、拓実と自身に向かってくる矢を打ち払っては叫ぶ。あっさりこなして見せているが、重量のある鉄の塊で飛来してくる矢を後ろに人一人護りながら落として見せるなど、尋常の技ではない。神業の類である。

 七星餓狼より遥かに軽い青釭の剣を用いて、更に回避することを許されたとしても拓実では己一人を護れたなら上出来であろう。打ち漏らしがあれば両手で握り直した青釭の剣で自衛しようと密かに身構えていた拓実であったが、その必要はなかったようである。

 

 風切り音を立て、次々と鈍い音と共に地に突き立っていく矢の雨霰は、覚悟していても尚拓実の心胆を寒からしめるものであった。理屈ではない、本能が訴えかける命の危機である。剣を握る手の平は汗で湿り、鼓動は強く激しく、呼吸は自然と浅く忙しなくなっていた。

 だがその拓実も、矢の一つも漏らさず全てを受け止めてみせた春蘭の勇姿によって平常心を取り戻す。思い出したのだ。「万難を排す」と言い切ってみせた春蘭の言葉を。

 

「賊軍よ、如何したか! 未だこの曹孟徳には矢の一つすら届いてはいないぞ!」

 

 春蘭の姿に後押されるように、拓実はまた言葉を続ける。震えの無い声色。薄く湛えた笑み。何よりあの矢の雨の中にあって、その立ち振る舞いに恐れる素振りはなかった。

 だからこそ、朗々と挑発を投げかける拓実へ放たれる追加の矢はない。敵の目に映るは単騎で事も無げに百も射掛けた矢を打ち払って見せた武辺者、それに全幅の信頼を置いて欠片も揺るがず佇む総大将の姿である。

 たかが二騎。されども、この距離からその二騎に数を撃って倒せるかがわからないのである。撃ちたくとも、矢は無尽蔵ではない。さては矢の枯渇を狙っての曹操の策かと一度疑心を持ったら、大将首を挙げるこの上ない好機であるというのに決断に踏み切ることが出来ない。

 

 拓実の役割は、曹孟徳ここに在りと示すことだ。それが結果として敵の援兵部隊をこの場に縛りつけ、宦官軍本隊の追撃を中止させてこちらにおびき寄せることに繋がる。

 元より慎重な用兵を好しとする李(カク)であるらしいが、この状況に置いて攻め気を完全になくしているのは完全に詠の読みどおりであった。流石の春蘭ともいえど攻め寄られ、数で押されれば限界がある。では何故敵がそれをしないかといえば、曹操軍の兵数が敵の援兵部隊を上回っているからだ。

 兵にして二倍近く。数で勝っているのは曹操軍だというのに、その曹操軍がどういった訳か追撃を仕掛けてこない。圧倒的有利な立場にありながら誘うように帝の存在を仄めかされ、これ見よがしに大将首が前に出てくれば、当然ながら敵は罠の可能性を考える。挑発に乗って、寡兵で下手に攻め込んで全滅でもしては堪らないということなのだろう。

 李(カク)としては本隊に合流したいのだろうが、宦官軍の目的である劉協を連れているようにしか見えない拓実たちを放っておく訳にもいかない。反董卓連合軍により多くの兵を失った宦官軍にとっても今回の出兵は乾坤一擲の博打である。退却を優先して目を離している間に目標を見失うなどという失態を演じれば、李(カク)は責任逃れも許されない。

 進む訳でも退く訳でもなく、攻める訳でも守る訳でもない。伝令を本隊へと送るや、その場に留まり形だけの攻撃をするというこの中途半端な方策となって現れているのだ。

 

 心理を読み、選択を縛り、逡巡を誘う。

 全ては、詠の手のひらの上であった。

 

 

 



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47.『賈駆、深謀を巡らせ戦うのこと』

 

「お前の予想していたとおり、敵将はとんだ腰抜けだったな。奴らが仕掛けてきたのは最初だけだったぞ」

「ふふ、下手に手出しをして反撃を受けては堪らないとのことでしょうけど、むしろ我らにこそ好都合だったわ。目と鼻の先で好き勝手に振舞う大将首に手出しを許されず、相手方の士気は見るからに落ち込んでいるもの。……詠。言われたとおり、好きにやらせてもらったわ。問題はなかったわね?」

「え、ええ。言いたいことはあるけど、策に関しては大丈夫よ」

 

 ――こいつら、やる。悠々と本陣へ戻ってきた春蘭と曹操に言葉を返しつつ、詠は半ば呆然としながらそう感じていた。

 詠が策として指示していたのは、敵味方の互いの声が届く――姿を目視できる地点で曹操に名乗りを上げさせ、敵にその存在を知らしめることだけだ。随行していた春蘭には、名乗りを待たず敵軍が攻撃を仕掛けてきた場合の護衛、及び主君を退却させるまでの時間稼ぎの役目を申し伝えておいたのである。

 敵の動きに左右される策であるから、敵軍より攻撃があった後の行動は二人の判断に任せるとは伝えておいた。運良く敵がこちらの動きに対して様子見してくれていたので、名乗りを終えた二人は敵兵に矢を射掛けられる前に退却してくるものとの考えていたのだ。流石の詠といえど、よもや名乗りだけに飽き足らず挑発を仕掛け、敵の攻撃に晒されてもその場に留まるなどとは想定外である。

 

 そうして面喰らいながらも、詠は保留中であった目の前の二人の評価を一段引き上げていた。

 まず春蘭。詠であれば持ち上げるのもようやくといった大剣を用いて馬上から飛来する矢を打ち払い、一矢も通さず見事に主人を護り切って見せた。呂布が相手だろうと主君を護り切ると豪語する春蘭ではあるが、呂布に匹敵する馬鹿げた武力を持った武将ではない。それこそ並みの武将と比べたなら桁違いの武力を誇るものの、流石に単騎で突っ込んで敵部隊を撃退させることは出来ない。

 個人の武を誇り、苛烈に攻める性質は華雄に近いだろうか。膂力に限ればどちらが優れているかわからないが、春蘭は力だけに慢心せず鍛錬を重ね、己の技を磨いてきたようである。春蘭と詠の問答はまったくの大げさではなく、春蘭には華雄の一段上の実力があるように思えた。

 更に主君への忠誠心は固く揺ぎ無いが故に、曹操本人より制止されれば突出することもない。それだけで華雄より活躍できる場面は多いだろう。ただ知力はあの華雄をも下回っている可能性があるので、抑え役に副将をつけねばならないことは変わりがなさそうである。

 

 そして、今は詠の主君となる曹操。詠の軍略家としての資質、春蘭の忠誠と武力を信じて、一歩間違えれば死地となる敵前へその身を晒した。

 戦場にて総大将の首を挙げれば、間違いなく戦功第一の手柄である。大成の道が開けるとなれば、当然将に限らず兵に至るまでがこぞって狙いを定めることとなるのだ。そんな中で物怖じする様子を一切見せず、敵兵の前で名乗りを上げてみせた彼女の胆力は人間離れしている。その上で軍略家としてはまだまだ経験不足なれど、言葉の端々には文官としても問題なく通用する高い知性を伺わせている。

 胆力か知力か。そのどちらかで彼女を上回る者ならば、大陸を探せばいくらもいるだろう。詠が驚くのは、曹操がそれら二つを同時に持っていることだ。人間という生き物は、頭が回る者ほど臆病になる傾向がある。慎重と言えば聞こえがいいが、それは理性的であるが故に危険を計算し、強く認識してしまうからに他ならない。身を顧みない無鉄砲さを持つ豪の者であっても、地位や権力を得たり、年齢を重ねることでそうでなくなる者は少なくない。守る物が増えることで、危険を己の身から遠ざけようとしてしまう。彼の劉邦にだって、我が子を捨ててまで己が身を惜しんだという逸話が残っている。それは何らおかしなことではなく、人であるなら当然のことである。

 しかしこの曹操は州牧という高い立場にあり、文官と比較しても遜色の無い理知的な考えを持ち、だというのに命を投げ打てる豪胆さをも持つのである。少なくとも、詠の今生において初めて見る稀有な人間であることは確かであった。そして、心理把握に長けている詠の理解が及ばない、奇妙な精神性を持っている。

 ただ、この目の前の曹操に関しては詠はある仮説を立てている。それが正しいのならば、目の前の曹操の性質には詠なりに一応の説明がつく。とはいえ説明がつくだけであって、常人からは程遠い人間性であることには何ら変わりは無いのではあるが。

 

 聞くところによれば、反董卓連合において逸材と呼べる者はこの二人だけでない。華雄を降し、呂布と張遼を退けた諸侯たちの中にはこの二人に匹敵する将器を持つ者もいたことだろう。

 もしも彼らが中央で官職に就いてくれていたなら、ああも宦官らの横暴を許すことはなかったのではないか。詠や月と手を取り合えたなら、宦官らを無血で粛清できたかもしれない。何故そうなってくれなかったのか、詠は今更ながらそう思わずにはいられない。

 同時に、こんな者たちが中央の要職に就かず、地方の領主とその部下に収まっているという現状に納得もしていた。月や詠は帝のお膝元を守護するという名誉に目が眩んでしまったが、彼らのような目鼻の利く者が中央に近づかなかったということは、つまりはそういうことだったのだ。幾人かが結託した程度では手の施しようが無いほど腐敗していたということに、そこで気づくべきだった。

 

 やはり詠の見通しが甘かったことに尽きる。宦官の姦計を事前に見抜き、辞退する方向に持っていくだけの発言力を持っていたのは董卓軍では詠だけだ。

 月の一族が人質に取られたのは。月が利用されることになったのは。大陸に董卓の名が悪賊のものとして広まってしまったのは。宦官が原因であったとしても、参謀であった詠の責任となる。

 

「詠。悔いるのは後でもできることよ。すべき事を終えてからになさい」

 

 思考の底へ底へと沈んでいこうとする詠を、凛とした声が引き戻す。俯けていた顔を上げると、曹操がじっと詠を眺め見ていた。

 心中をまんまと言い当てられ、詠はうろたえながらも咄嗟に表情からあらゆる感情を消した。何を根拠に読まれたのだろうか、つきあいの長い月は言わずとも詠の心底を理解していた節があったが、『洛陽に居た曹操』とは会ってから一日と経っていない。

 確かに、詠は腹芸に長けた宦官どものようには振舞えまい。宦官らは戦略面でこそ畑違いであるからお粗末なものだが、こと腹の探り合いや政略において右に出る者は大陸でもそうはいない。足を引っ張り合うことが常である洛陽において高い地位を保ち、帝を操り権力を欲しいままにするなど腹芸によほど秀でてなければ不可能である。そして、その狡賢い奴らを相手に詠は長らくやりあってきたのだ。だからこそまんまと思考を読まれたことに驚愕を隠せない。

 

「詠には金言をもらったことだし、こちらからも一つだけ助言を返しておきましょうか。これが金言となるかはあなたの心がけ次第になるけれど」

 

 内心の動揺を置き表情を欠いたまま、詠は曹操を見返した。詠とは対照に、彼女は笑みを深めてる。

 

「そうもあからさまに表情を消しては、思っているよりも多くのことを周囲に知らせるわよ。本当に隠しておきたいのなら動揺していようとも、表では何食わぬ顔で何のことだと質問を返してやりなさい」

 

 詠が意図的に作った無表情に、ヒビが入る。目を見開いて、思わずという風に頬に手を当ててしまう。

 その指摘の通り、詠は感情が昂る時にはそれらを表に出さないよう意識して表情を消すようにしていた。私塾での講釈や書から学べる軍略や政略とは違い、人と人との細かな駆け引きなどは自らの経験によって培っていかなければならない。詠なりに、相手に考えを読ませないよう講じた対策がこの無表情だったのだ。

 

「例えばそうね。あなたが宦官の一人に(たばか)りをかけたとして、あからさまに顔つきを変えるといった反応をした者はいなかった筈よ。狡知(こうち)に長けた者であるなら大方は変わらず笑顔を貼り付けたまま、あるいは逆に笑みを深くするといったところかしら。それらを相手にしては、詠では動揺を与えたのかどうかも察せてはいないことでしょう。――ふふ、一つの表情を貼り付けたままでいるだなんて、表面を取り繕っているだけの薄っぺらい皮膜に過ぎないわ。口元の引き攣り、目尻の皺、瞳の迷い、喉の動き、声の震え、呼吸の間隔……感情の起伏を表す反応などいくらもある。私からすれば、心理を読ませまいとする意図が見えるだけにわかりやすい」

 

 言われてみれば確かにそうだ。宦官は、いつでも不必要に人当たりのよい笑みを浮かべている者が多い。その者たちに幽閉された月の居場所の探りを入れようにも、仮面でも被っているかのように表情は変わらず、詠では彼らが動揺しているのかすら読み取れなかった。

 観察をすれば、そこにはまるで仮面を被った者を相手にしているような不気味さがあった。少なくとも宦官には、詠が今しがたしたように無理に顔から感情を消そうとする者はいなかったのは確かである。

 

「人間観察が足りていないわね。日頃から人間の細かな反応を観察していれば、それはそのまま『どこに気をつければ感情を読ませないか』を理解している筈だもの」

「……さも出来て当然のように言うけどね。曹操、あんたはそれを実践出来ているっていうの?」

「事前に『漏らしてはまずい内容を知らずにいる人間となっていればいいだけ』でしょう。完全ではないにしろ、難しいことではないわ」

「はぁ?」

 

 その内容を咀嚼し、飲み込もうとしたところで思わず停止する。詠は再度この曹操の発言を理解するべく考えてみたものの、やはり何を言っているのかがわからない。

 動揺や感情の起伏を隠せるのかを訊ねたのに、返ってきた答えが『そもそも動揺しない人間になる』と言うのだから詠の困惑も当然である。曹操にそれが出来るのであれば、誰も彼女の嘘を見破れない。いや、曹操のそれは『嘘にすらならない』。知らない素振りが、フリでなくなるのだ。

 そもそも大前提として既に知っていることを知らずにいられる訳がない。それが出来ないからこそ、人は嘘をつけるのだから。

 

「ま、まぁ、そのことについてはいいわよ。とにかく、正面の援兵部隊をこの場に縫い止めることには成功しているわ。敵の本隊は援兵隊から曹操発見の報告を受けた頃でしょうし、策が成っていれば遠くないうちに曹仁隊への追撃を取りやめて援兵隊に合流する筈よ。僅かな時間だろうけど、二人はそれまで休んでいて」

 

 今現在、曹操軍は宦官軍の行動を待っているので切迫している訳ではない。けれども詠は、何かに急かされるように話題を切り替えた。

 昆虫の瞳の中に意思を探そうとした時のような、あるいは温度の一切を感じさせない無機質な物に触れたような、そんな感覚があった。理解できないのに、理解できないからこそ、それが空恐ろしい。

 詠はその重たい感覚を振り払うよう将兵へと意識を向けて、次なる策の指示に声を張り上げた。

 

 

 

 両陣営が睨み合いを続ける中、ついに宦官軍側が動きを見せた。曹仁隊を追っていた宦官軍本隊が取って返し、詠たちの目前で動けずにいる援兵部隊との合流を経ず、曹操軍へ向けて進軍しているのだ。

 宦官軍が虎の子の本隊を差し向けてみせたことで、詠は先の曹操の策が成ったことに確信を持てた。あの二本の軍旗と曹操の名乗りによって、帝が未だ戦場にいるものと敵に錯覚させたのである。それはつまり曹仁隊への追撃を断ったということであり、撤退していった帝と『あちらの曹操』の退路を確保したということでもある。この討伐隊の目的を、戦闘が始まる前までに半ば達成させてしまったのだ。

 そして目的を完遂させるには、宦官軍がしばらく洛陽へ手出し出来ぬよう相応の損害を与えてやらねばならない。攻めかかろうとしている宦官軍本隊は目算で七千強、その後詰には長安よりの援兵部隊二千が控えている。これより曹操軍は三千五百の兵数で倍以上の相手とやりあわねばならないのだ。

 

「斥候、旗印の確認はまだ!? 急いで!」

 

 詠は、敵軍援兵隊の背後に砂塵が上がるのを確認するなりに前面に出ていた曹操と本陣を陣形の中ほどへ戻した。ここに至って主君を危険に晒す必要はない。ただでさえ想定以上の働きをさせてしまったのだ。春蘭が護り抜いた曹操を、詠の失策が元で傷つけるわけにはいくまい。

 本隊を戻すと、入れ替えるように春蘭が率いていた部隊を再び前曲に展開させる。その後は隊列を崩さぬよう維持しつつ、横へ逸れながらも後退を開始した。

 

「軍師さま! 宦官軍本隊、先鋒には『張』『徐』! 中ほどに『高』『郭』『楊』! 後方に『牛』にございます!」

「前曲を張遼とすれば、共に配されているのは徐晃かしら。高順、郭汜、楊定に、大将が牛輔。『高』はあれど『呂』旗はなしか。厳しいけど、そうも言っていられないわね。工兵隊、用意!」

 

 彼我の距離はまだ大きく開いていて、接敵にはまだ遠い。帝を奪って洛陽へと落ち延びていった曹操が、何故か背後から軍を率いて強襲してくるということに二千の援兵隊は動揺を隠せずにいた。数に劣るそれらの混乱に乗じれば、大した被害も受けずに撃破が可能であったろう。その有利を捨てて敵軍の動きを待ったのは、『宦官軍本隊に賈駆配下にあった将を置いているのか』を確認する為であった。

 

 張遼、呂布、華雄の三将は、月を人質を取られて行動に制限がかかる中、詠が宦官の監視を潜って抱え込んだ懐刀である。月の血族を人質に取って彼女を幽閉、そして詠は月の命を盾として傀儡とした宦官の手管に激憤し、詠への助力を約束してくれた者たちであった。

 華雄は袁術配下の将に倒されたとは聞いたものの、それからすぐに詠は月と共に拘束されて連行された為、虎牢関の守将に任命した呂布と張遼の行方を知る術を持たなかった。呂布はどこかへと落ち延びたようだが、あの義理堅い張遼は詠や月を放って置けずに撤退している移送隊へ駆けつけて、そのまま宦官本隊に組み込まれてしまったのだろう。帝や月たちを曹操軍に奪われたことで、宦官たちは董卓と賈駆の両名が曹操軍に討ち取られたものとして張遼にその仇討ちを命じ、使い潰すつもりで宦官軍本隊の先鋒に配したものと詠は見ている。

 確かに、悪辣の限りを働いたとされる詠や月を捕らえたなら真偽がどうであろうとも処断するべきであり、特に帝を保護し敗走する曹操軍に捕虜とする余裕がなければ尚更のことである。そうでなければ悪賊董卓を見逃したとして民草や諸侯たちからの非難は免れないことになるからだ。亡き者になっていると考えるのは道理の上でのことである。ところが月は董白と名を変え存命しており、詠に至ってはこうして曹操軍の軍配を握るという異例の抜擢を受けている。こうして二人揃って生きていられる現状が、合理的な考えからでは説明がつけられない。そしてそれは同時に、宦官軍にとっても慮外のことであるに違いなかった。

 

「今よ、立てて!」

 

 詠が声を上げ、工兵隊が数人掛かりで起こしたのは先に続いて、またも旗である。高らかに掲げられたのは名軍師、賈文和の所在を知らせる『賈』の軍旗。そして、共に寄り添うよう立てられた二本目の旗には房のように垂れ下がる薄紫色の花――『藤(フジ)の花』が描かれている。

 

 宦官軍本隊が攻め寄せている中で詠は護衛を連れ、誇示するように部隊の先頭に立っている。詠の策の趣意とは敵兵の心理を突き、彼我の兵数差を埋めることである。宦官軍の兵に叛意を促し離反させ、曹操軍に引き抜くことだ。

 この策を成すには、今この瞬間に動くしかない。早すぎれば混乱させた相手に落ち着かせる時間を与えることになり、遅すぎれば効果が現れるより先に戦端が開かれてしまう。敵本隊が突撃を開始してから交戦までの僅かな間でしか成り立たない策である。

 

「流石は霞ね、ボクのやり方を理解してくれてる」

 

 馬上から隊列を崩さないようにと後退を指示していた詠は、落ちてきた眼鏡を直しながら口内で張遼への賛辞を呟いた。張遼が二つの旗の意味を理解し、その上で詠の意図を汲んでくれたのだ。

 宦官軍本隊の先鋒である張と徐の軍旗を立てている部隊が突撃の勢いを殺さぬまま進路を緩やかに変え、曹操軍のいる方向から逸れていった。後続を置き去りにして明後日の方へと転回していくと、そのまま不可解な動きに困惑している宦官軍へ突っ込んでいった。最初から打ち合わせていたように、曹操軍と共に挟撃の出来る位置へと移動してくれている。事前に打ち合わせるような時間もなく、内応を示唆する怪しい動きもなかった。突然に先鋒が寝返った宦官軍は混乱の極致にある。

 

 詠が曹操軍にいることを張遼に知らせたのは『賈』の軍旗である。しかし、それだけで詠が降将となっていることを張遼に信じさせるには弱い。詠の人となりを知っているだけに、半身とも云える月を捨ててまで詠が生き長らえるとは考え難いからである。月の安否をも示さなければ、混乱を誘発させる為の虚報の類と取られかねない。

 ならば先ほど曹操が敵軍の前に躍り出たように詠もまた姿を晒せば済むことではあるが、今回宦官軍は足を止めず突撃を仕掛けている為、張遼が詠を確認するまで近づかせてしまえば突撃を止めさせることは出来ない。詠が逃げる間もなく、敵兵は曹操軍へと雪崩れ込むことだろう。

 月もまた曹操軍に降ったと張遼に伝えられるのならばいいのだが、かといって馬鹿正直に董卓軍の軍旗は立てることも出来ない。それを掲げれば月の無事を知らせること自体は出来ても、今度は首都を荒廃させた暴君を匿ったとして曹操が大陸の悪と定められてしまう。そうなったら最後、反董卓連合に参加していた諸侯をそっくりそのまま敵に回すことになるだろう。

 

 そこで詠が軍旗の代わりに用いたのが、もう一つの旗。紫色の藤の花が描かれた旗である。藤は、月の髪と色を同じくする柔らかな花。月が涼州にいた頃から好んでいた、彼女に似たたおやかな花である。これが張遼に月の無事を知らせ、かつ詠が曹操軍に降ったことが真実であるということの何よりの証左となってくれる。藤の花と月との関連を知っているのは詠の側近の者たちか、あるいは旗揚げから月についてきてくれた涼州兵だけだからだ。

 

「春蘭! 後退は終わりよ、迎撃を開始して! 前線の指揮は任せるけれど、先ほどの言付けは兵たちに伝えておいたわね!?」

 

 この局面での張遼や徐晃の裏切りに、宦官軍は対応できていない。華雄や呂布ではこう上手くはいかなかっただろう。この策は張遼の才覚に助けられている部分が大きい。柔軟な発想と状況判断の早さ、それらからの的確の指示によって、神速の用兵と称されている張遼だからこそ呼応できたのである。

 張遼が月たちを助けるべく宦官軍に合流していなければ頓挫していた策であったが、詠は彼女の義理堅さを知っている。軍師として万全を期す為に腹案を用意してはいたが、詠個人としてはそれらに出番はないものと確信していた。月を助ける為の助力を惜しまないと言ってくれた張遼を、信頼していたのだ。

 

「ああ、後事は任されたぞ!」

 

 宦官軍を睨みつけ詠の側で馬を走らせていた春蘭が目を見開いた。頬を紅潮させ、馬の腹に括っていた大剣・七星餓狼を片手で持ち上げる。

 

「兵よ! 我らの手で此度の遠征に終止符を打つぞ! この大陸を蝕む悪徒を駆逐する時が来たのだ!」

 

 春蘭の号令を聞き、戦場の空気が動き出すのを見た詠は固唾を飲んだ。この場で使えるであろう策は全て講じた。詠のこれまでの生涯において会心の出来、本来なら退却すべき兵数の不利を最大限に抑えてみせた筈である。だがそこまでやって、現状まだ有利とはなっていない。贔屓目に見てもようやく五分である。

 此度の一戦は曹操軍にとって乾坤一擲の大博打であるが、それは詠にとっても同じことだ。極悪人とされている詠と月を二人まとめて召抱えてくれる領主などそうはいない。彼女を勝たせることこそが、詠にしても唯一の活路であるのだ。さもなければ詠も月も宦官に、あるいは諸侯らによって処刑されることになる。自分のことはいい。けれども唯一無二の友である月が、悪行を着せられ利用された挙句にそんな結末を迎えるなど、断じて許せるものではない。だからこそ、詠は絶対に負けられない。

 

 

 

 

「今こそ気力を振り絞れ! 我ら一振りの剣となり、敵のことごとくを殲滅する!」

 

 その声を機に、じりじりと後退していた曹操軍は引き波が返すように一斉に突撃を始めた。春蘭は声で以って雷鳴と変わらぬほどに大気を震わせ、そして七星餓狼を敵へ向けて差し向けるや、我先にと馬を走らせていった。

 詠からの合図があるまで、春蘭は自身の身体が飛び出しそうになるのを必死に押さえつけていたようであった。けれども、彼女が逸る気持ちを抑えられぬのも無理はない。彼女の働きが背後の本陣にいる主君の道を切り開き、洛陽へと逃れる主君を護ることに繋がる。本来ならばありえない、主君二人に奉じることの出来るこの戦こそが、主君の剣を自負している彼女の本望を叶える場であろうからだ。

 詠が配下であった将を内応させた為に当初ほどの兵数差はなくなったが、それでも自軍の倍以上の兵数が相手である。敵は混乱しているが、それも長くは続かないだろう。ならばこそ初撃で如何に自軍有利の流れを作り出すか、春蘭は理屈でなくそうすべきであると知っているようである。

 

「我らには天の加護がついている! 大義はこちらにあるぞ!」

「我ら天と共にあり! 曹操軍こそが、真の兵である!」

 

 詠に繰り返すよう言われていた文言を、兵たちが掛け声代わりに叫び立てている。そうしていつしか三千を越える兵たちによる、声を揃えての大合唱となっていた。拍子を揃えて声を上げることで兵たちの連携が強まり、その勢いに押されるように全体が前へと進み出ているのである。

 言葉を浴びせられた敵兵は逆に怯んでいく。帝の存在はしばしば『天』と例えられている。実質の力を失ったとはいえその威光は健在である。朝廷で実権を握る者たちにとっては最早権威の象徴に過ぎないが、農民上がりの兵たちには神と伍する存在なのだ。彼らにとって帝の兵であることが絶対の大義となり、その彼らに刃向かう者はいかなる存在であろうと賊徒となる。これまで己が正義であると思えればこそ戦えていた部分があったのだ。ところが自分たちが帝の兵であったという拠り所が失われ、その上で帝に対して剣を向けなければならない。そうなっては士気が上がろう筈もない。

 

 敵兵が帝を抱える曹操軍に刃を向けることを躊躇っているが、帝から討伐の命を下されたという事実はない。まして宦官らは朝敵の認定をさせてもいなければ、曹操軍が帝の兵とされた訳でもない。

 劉協は後継になれどもまだ即位していない為、今この瞬間に帝という存在はこの大陸に存在していないのだ。だから、詠が唱えるよう言い含めていた『天』という言葉も帝を指したものではなく、『運命が曹操軍を勝たせようとしている』『悪である宦官を倒す曹操軍こそ正義』『我らは強い』といった意味合いでしかない。

 帝の名を勝手に使って宦官軍を敵と定めれば、例え勝てたとしても(そし)りは免れない。ありもしない勅命を吹聴して帝の身柄を盾にして戦ったとなれば、私利によって帝を傀儡とした宦官らと変わらぬ所業となってしまう。詠は自軍を鼓舞する言葉を使いながら、これまで帝を大義にしていた敵兵の心理を逆手に取って勝手に逆賊であると思わせたのである。

 

 一方で兵を率いて馬を駆っている春蘭は、そんな詠の深謀遠慮を知る由もない。己の奮い立つ心のままに目の前の敵を蹴散らしている。

 呼応した張遼の加勢もあり、曹操軍は一気に突き進んでいく。張遼と徐晃の部隊が抜けた穴を『楊』と『郭』の旗の部隊が埋めたようだが、所詮は急場にこしらえた前衛。先陣を切るべく引き絞られた弓矢のように戦意を尖らせていた曹操兵と、中盤に配されて準備もしていなかった宦官兵とでは覚悟の面で大きな差があった。曹操軍の進撃は正に破竹の如く、敵の前曲は崩れていった。

 

 

「……進軍が止まった?」

 

 そうしてしばらく。敵の大将の元まで続くと思われた曹操軍の快進撃が、敵軍中盤へと差し掛かるのを境にしてぴたりと止まる。一向に前へは進まない。

 本陣に加わり、曹操に代わって各部隊に伝令を送っていた詠は前線へと視線を送るや、すぐにその原因に思い至った。

 

「あいつ……!」

 

 曹操軍の進路を塞ぐのは『高』の旗。攻め手の春蘭側が寡兵であるとはいえ、あの猛攻を受け止め、かつ五分にやりあっているのは呂布の副将であった高順である。

 武力において、呂布は大陸最強であると詠は確信している。だがその突出した武勇に反して、部隊の指揮自体は大したものではない。呂布が前線指揮するのであれば鬼神の如き彼女につられて兵たちも勢いづき、詠であろうと止められないことがままある。だが、後方で指揮を飛ばして兵たちだけで戦わせたなら詠や張遼は元より、武一辺倒の華雄にさえも劣ることだろう。

 呂布がいつでも前線に出られるのであれば問題はないが、そうでない時に呂布の代わりに部隊の指揮を執っていたのが副官の高順である。高順は呂布に心酔していて、その武功の助けになるべく呂布の苦手分野である部隊指揮に磨きをかけていた自称の義妹である。同じく呂布に心酔している陳宮と双璧を成していて、武力は呂布、軍略であれば陳宮、部隊指揮は高順と、三人が揃えば付け入る隙がなくなってしまう。

 そして、困ったことに高順も陳宮も、官軍参謀の命令は聞いたとしても詠個人の言うことは聞いてはくれない。呂布は詠の味方となってくれているが、あくまで二人は呂布の家臣であって詠の賛同者ではない。そしてその主人が官軍からの禄を貰っている以上、呂布本人が叛旗を翻さない限りは主人の立場を護る為にこうして容易に詠の敵となるのである。

 

「恋の奴、いったいどこに……!」

 

 高順の厄介なところは個人として高水準の能力を持っていることである。呂布の副官に甘んじているが、少なくとも華雄と打ち合えるだけの武力を持っている。部隊指揮はあの神速の張遼に一枚劣るといったところであり、部隊指揮の一貫として軍略も学んでいる為に生半可な策にはかかってはくれない。本来彼女の実力があればもっと上の役職にあっておかしくないのだ。

 目に見える弱点がない分、敵に回せばある意味で呂布よりも厄介な武将である。彼女の主人を介せば一も二もなく宦官軍から離反するだろうに、それだけに呂布の行方が知れないことが痛手となっている。

 

「とにかく、このままでは夏侯惇の部隊が孤立して袋叩きになるわ! 楽進、于禁、李典の部隊を前曲の助勢に向かわせなさい! 本陣も後詰に向かうわよ!」

 

 前線が膠着してしまえば敵兵も混乱から立ち直り、兵数で負けている曹操軍は押し込まれるように包囲されてしまう。事実、前線は敵味方が入り乱れての乱戦の様相を呈してきている。

 ここで戦力を集中させて押し切らねば、いざという時に戦場からの離脱も容易でなくなる。詠が進軍指示を出したのを同じくして、数騎の伝令兵が本陣へと駆け込んでくる。

 

「前線より伝令にございます! 夏侯惇将軍が矢傷を負われました! 未だ将軍は負傷した身で前線を維持しておりますが、副将の許緒将軍が救援を願っております!」

「斥候より、敵軍本陣、後方援兵部隊と合流して撤退を開始した模様とのことにございます!」

 

 戦況が一転した。矢継ぎ早に届く伝令の声を受け、詠は総毛立つ。控える伝令兵に、怒声で問い返す。

 

「敵の殿は!?」

「『高』旗の部隊、『楊』旗の部隊が合流し依然として抗戦を続けております! およそ二千!」

「相手が撤退するのであれば、此度の出兵目的は達したものとする! 敵大将は捨て置きなさい! 夏侯惇の救援が最優先よ! 全軍、突撃!」

 

 命を受け、兵士たちから鬨の声が上がった。目の前に残る二千を蹴散らせば終わりと知らされ、兵たちの意気も一気に高まっていく。

 前曲を総崩れにされ、中ほどまで突破された敵の大将はさぞ心胆を冷やしたことだろう。さらに寡兵相手にこうまで兵数を減らされた為に、これでは帝の奪取は叶わないと思わせたのだ。

 

 そんな中で詠は顔を険しくさせたまま、前線を睨んでいる。負傷しながらも部隊指揮を続けていられるのだからとつい楽観視しそうになるが、春蘭の部隊と敵の殿との兵数差は然程もないというのに救援を寄越すよう伝令があったということは、負った矢傷とやらは軽傷では済まないものなのであろう。春蘭であれば、致命傷を受けながらも兵の士気を落とさぬよう振舞っているということが充分にありえてしまう。

 頭の中で自分の立てた作戦に落ち度がなかったかと省みそうになるも、無理やりにその思考を断ち切る。威勢を上げて突き進む本陣の兵に続き、各方面に伝令を出すや詠もまた馬の腹を蹴った。

 『悔いるのは、すべきことを終えてからでいい』。詠は、数刻前に投げかけられたこの言葉を思い出していた。

 

 

 



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48.『影武者、勝利を得て気が緩むのこと』

 

 春蘭負傷の報せを受けた曹操軍の本隊は前線援護へ加わるべく急行する。前線部隊は依然として宦官軍の殿部隊と抗戦しているものの、その動きは目に見えて悪い。

 そうして拓実たち本隊が前線へと辿り着く頃には、敵将である高順は殿の役目は果たしたとばかりに撤退を開始していた。背を向けている敵軍に損害を与えるまたとない機会ではあったが、春蘭の負傷に加えて士気や兵数の関係もあり、曹操軍はその追撃を断念することになる。

 

 宦官軍の本隊は長安へと撤退し、その殿を務めていた部隊もまた戦場から離脱していった。それは、拓実たちが敵の主だった戦力を退け、宦官軍に痛撃を与えることを目的としていた討伐部隊がその役目を果たしたということだ。

 宦官らは変わらず存命であり、未だ五千ほどの兵力を保有してはいるだろうが、万に満たないようであれば大規模な軍事行動を起こせまい。少なくとも向こう数ヶ月は、洛陽が宦官によって襲撃されるということはなくなっただろう。

 

 同時に、残党に注意こそ必要ではあるが戦地にある拓実たちへの脅威も、目に見えるものは取り払われたということである。

 こまめな休憩があったとはいえ昼夜を問わずの行軍、そして連戦と、いくら曹操軍が精兵揃いであってもその疲労は限界に達している。一息入れなくては帰還も覚束ないだろうとして、本日は長安方面への見通しがいい平野を選んで夜営することとなった。

 偵察により周囲に残党がいないのを確認。凪に部隊の再編成、真桜に陣立て指揮を一任し、沙和に曹仁隊への伝令を遣わせる。詠には、こちらに呼応し加勢をしてくれた張遼を正式に曹操軍の将として迎え入れるよう説き勧めに向かわせた。そうして兵たちにも持ち回りで休憩するように指示を出し終え、総大将としてすべきことを終えるなりに拓実は傍廻りもつけずに本陣から飛び出していった。

 

「あっ、華琳さま?」

「季衣! 春蘭はどこに!?」

「え、えっと、春蘭さまは救護所です、けど」

「すぐ案内なさい!」

 

 拓実は駿馬である絶影を全速で駆り、前曲部隊の設えた陣営地に急ぎ乗りつける。下馬するなり近場にいた季衣を引き連れ、華琳の姿を借りながらも珍しく人目も憚らずにその脚で駆けている。向かう先は春蘭のいる救護の天幕であった。

 今回の戦、曹操軍の進退ばかりに気を取られていた拓実は、ある逸話とそれについての一切を失念していたのだった。春蘭が呂布配下の高順と交戦中に負傷したと聞き、それが唐突に脳裏に蘇ったのだ。

 

 ――三国志に登場する夏侯惇には、その容姿からつけられた『盲夏侯』という異名がある。これは呂布軍との戦で左目を矢で射られ失っていた夏侯惇を、同じ夏侯姓を持つ夏侯淵と区別する為に呼ばれ始めた『目を失った方の夏侯』というあだ名であった。

 その彼の豪胆さを象徴する逸話に、戦場にて矢に射抜かれた左目をその場で喰らって見せ、射抜いた者をすぐさまに討ち果たし、将の負傷によって怖気づきかねない味方を逆に鼓舞してみせたというものがある。これは三国志演義でも有名な話の一つであり、一度読んだきりの拓実ですら印象深く記憶に残っている場面であった。

 その夏侯惇の左目を射った呂布軍の将の名を、拓実は知らない。誰が放ったかもわからない流れ矢だったのか、それとも記されてはいたが拓実が覚えていないだけなのかも定かではない。何故しっかりと読み込まなかったのか今更ながらに悔やまれるところではあるが、ともかく重要なのは呂布に関連する者によって夏侯惇は負傷したということである。詠から敵将についてを簡単に聞かされたが、高順は呂布直属の部下であるらしい。そうして多く違いがあるとはいえおおまかに三国志の出来事をなぞっているこの世界において、春蘭もまた同名である彼と同じ道を辿る可能性があったのだとようやく気づいたのだった。

 

「春蘭っ!」

「……か、華琳さま!?」

「いいから、楽にしなさい」

 

 簡易寝台に腰掛けた春蘭が礼を取ろうとして立ち上がろうとするのを、拓実は早足に近寄り手で押し留める。どうやら他の負傷者は本陣の救護所へ運ばれていった後らしく、天幕の中には春蘭しかいない。

 春蘭は、血で赤黒く染まった布で顔面の左半分を抑えていた。彼女の座る寝台には血を吸った布が数枚、丸めて置かれている。傷口からは相当量の出血をしているのが見て取れる。

 本当に春蘭が負傷したのだと理解した瞬間、拓実は体の芯から震えた。血も凍る思いとは言うが、今正にそのような錯覚を覚えている。

 

「その、わざわざこのようなところにまでご足労頂き……しかし、いったいどうしてこちらに?」

「どうしてって。私は、あなたが負傷したと聞いて、来たのだけれど……」

 

 そんな春蘭はといえば、突然堰を切ったように駆け込んできては酷く真剣な顔で見つめてくる拓実の姿に目を白黒とさせている。本当に、何故拓実がここに来たのかわかっていない様子である。

 

「……季衣、さては本隊に救援の伝令を出したのはお前だな? 私は大丈夫だと言っただろうに」

「えー! だって、春蘭さまがいくら大丈夫って言っても、その腕の怪我じゃしばらく物も持てないじゃないですかぁ」

 

 眉を寄せた春蘭に睨まれて、伝令を出したことを咎められた季衣は不満を隠そうとしない。春蘭と季衣のそんなやりとりを目の前に、拓実は事態を飲み込めずにまばたきを繰り返す。春蘭が左目を失ったにしては、どうにも二人の雰囲気は軽い。悲壮感を感じない。

 つい懸念していた左目にばかり注目してしまって気付かずにいたが、見れば季衣の言葉通り春蘭の左腕には布が巻かれて固定されている。目を矢に射抜かれたとして、腕をも負傷している関連性は見当たらない。遅れて思い込みをしていたことに気づいた拓実は、改めて春蘭へと向き直った。

 

「春蘭。その怪我の具合は?」

「は。その、ご心配をお掛けしてしまって申し訳ありません。後は血が止まるのを待つだけですし、怪我自体も大したものではないのですが。高順なる武将と一騎討ちを行っていたところ、最中に敵兵の放った矢が顔面をめがけて飛んできまして。あわやというところだったのですが、左腕を盾に、こう……」

 

 ――そうして春蘭と季衣から説明を聞いてみたところ、どうやら左目を目掛けて飛んできた流れ矢に春蘭はすんでのところで反応できたということで、反射的に左腕を顔の前に持ってきて、首を傾げて矢を避けたということらしい。

 ただし、腕を深く傷つけながら矢を逸らすに留まり止めるに足らず、完全に避け切れずに左耳にも矢じりによる傷を負ったとのことである。そのような矢傷を負いながらも利き腕の右手が無事であるから継戦するに問題はないとして一騎討ちを続けようとしたのだが、ものすごい勢いで出血しながらも意気揚々と戦おうとする春蘭に敵味方問わずに尻込みしていたようで、副将を任されていた季衣は止む無く本隊に救援の伝令を出したとのことであった。

 笑い話にしようと思ってか、明るい声で身振り手振りに拓実に説明してみせる春蘭ではあるが、そうしている間にも側頭部を押さえている布はじわじわと血で赤く染まっているし、彼女の顔色は血の気が引いて白いままである。怪我をした身でそうも振る舞われると、拓実には余計に痛々しく見えてしまう。

 

「春蘭、その傷を見せてちょうだい」

「いえ! そんな、このようなものを華琳さまにお見せするわけには。その。酷く、お見苦しいものかと」

「お願いよ」

「……、はっ」

 

 拓実が重ねて告げると、春蘭は恐る恐るという様子で当てていた布を除けた。当てていた布との間に血が固まっていたのか、剥がれるような音を立てて離れた。

 傷を負った箇所は左腕と左耳だけと聞いていたのだが、実際は左目のそば――頬骨の辺りから外へと向かって、矢じりによって出来た長い傷が走っている。その先、矢が直撃したであろう左耳外側部分の中程がえぐり取られたように失くなっていた。治療済みではあるようで何らかの薬が傷口には塗り込められているが、血はまだその下から滲んでいるようである。見ているうちから玉となって流れ落ちそうになる。

 

 春蘭から聞いたよりも、随分と傷は深い。えぐれてしまった耳はまず綺麗に塞がることはないだろうし、武器を持つに支障をきたすほどの腕の傷も、こめかみ下あたりから大きく走った切り傷にしても痕となって生涯残ることだろう。

 そう理解した途端に、拓実の視界はぼやけ出した。呼吸が浅くなって、鼻の奥がつんとする。拓実はその感情を意識しないように、側に畳んで置いてあった白布を手に取っては出来うる限り優しく春蘭の傷口に当てる。

 

「この傷の、いったい何が見苦しいと言うの。あなたが負ったこの傷は、本来であれば私が負うべきだった傷。春蘭は、私の命を忠実に遂行してくれたわ」

 

 しかし、駄目だ。意図しなくとも、薄っすらと涙声となってしまっていた。拓実は己の情けなさに、春蘭が無事であったことに対する安堵、そして彼女への申し訳なさやらと、様々なもので胸がいっぱいになっている。感情をコントロールできていない。

 致命傷でないことは良かった。戦場だ、一歩間違っていれば死んでいてもおかしくなかったのだ。左目を失った時のことを考えれば、これでもかなりの軽傷で済んだと言えるかもしれない。けれどそれだって、今回に限っては拓実がもっと早く思い出して注意を促すなり、護衛をもう一人つけるなりしていれば、そもそも負うこともなかった傷であったかもしれないのだ。

 春蘭の顔に一生残るであろうこの傷は、言ってしまえば拓実の失念が負わせたものである。春蘭が負傷する未来を知り、止めることが出来たのは拓実しかいなかった。この責任は、傷は、きっと拓実が負うものであった。

 

「……華琳さま。今ひと時、ご無礼をお許し下さい」

「春蘭? いったい何を……」

 

 瞳は潤んでいるが、拓実は最後の意地で落涙まではしない。息を吐き出しては口をつぐんで、必死に平静を保とうと心がけている。しかし、感極まっているのは一目瞭然であった。

 そんな風に甲斐甲斐しく傷口に布を当てている拓実に春蘭はしばらく面食らった様子であったが、唐突に頭を下げてから抱きついた。驚きに拓実の手から布が落ちる中、人目に触れぬように拓実の顔を胸の中に掻き抱いて隠すと、耳元に顔を寄せて余人に聞こえぬように語りかける。

 

「おい、しっかりしろ。ここにいるお前は、誰だ。お前は、華琳さまより曹孟徳を任されたのだろう? 華琳さまだって私や秋蘭が負傷すれば(おもんばか)ってはくれるが、いくらなんでも涙を流したりしない筈だ。……まったく。華琳さまが内に秘めている優しさばかりを表に出してからに、お前でも演技しきれないことがあるのだな」

 

 普段の勇猛果敢な振る舞いをしている彼女からは想像もつかない、静かで落ち着いた声が囁かれた。それは子供を寝かしつける母親のような、安らぎを与えようとする優しい声色である。

 彼女の胸に頭を抱かれた拓実は、心臓の鼓動を感じていた。温かい。ささくれだっていた心がその声と音とに覆われていく。これまで動いているのをその目で見て会話していたのだから当然のことではあるのだが、春蘭がこうして生きているのだと強く実感する。

 

「その、なんだ。悪い気はしないというか、そうまで心配してくれたのは嬉しく思うがな」

 

 最後にあやすようにぽんぽんと拓実の背中を叩くと、春蘭はぱっと拓実から離れて跪いた。頭を下げる前に見えた、先ほどまで血を失って白くなっていた彼女の顔は、拓実の気のせいでないなら朱に染まっている。

 言われ、拓実は気づく。重すぎる責任を果たせたこと、博打ともいえる作戦で何とか成功に収めたこと。そうして安堵していたところで春蘭が負傷したと聞き、己の犯していた失敗に気づき、感情のタガが外れてしまっていたのだと。気の緩みから、曹操という役柄に拓実が混ざってしまっていた。

 

 今回の宦官軍への奇襲作戦は紛れも無く、拓実を含めた曹操陣営の全ての者の命運を分けた大戦(おおいくさ)であった。

 敵の兵数を減らせずに大敗していれば、拓実に春蘭、詠たちは当然のこと敵中に孤立して討ち死にする。洛陽にはそのまま攻め入られ、帝は奪い返されて華琳と月は大罪人として処断されたことだろう。万に届こうかという兵を相手にしては桂花や秋蘭らも逃げ延びられたかどうか。たとえ華琳たちが逃げられたとしても領地には満足に練兵を終えていない新兵しか残っておらず、そこを攻められたならひとたまりもない。大罪人に与したとして、一族郎党を根絶やしにされていてもおかしくなかったのだ。

 その重圧の中、拓実は賭けに勝ってみせた。華琳の、万の人命を背負える強さを己に写しとり、曹孟徳を演じ切ってみせたのである。けれども宦官軍の本隊が撤退を始めると、それまで張り詰めていたものが切れてしまった。役目を果たしたと一度でも考えてしまったが為に、舞台に幕が降りたかのように気が抜けてしまったのだ。

 

「申し訳ありませんでした、華琳さま。この無礼に対する罰は如何様にも」

「……いいえ。大役を果たしたあなたに、罰を与えるつもりなどはないわ。こちらこそ見苦しいところを見せたわね」

 

 詠に言ったように、後悔や反省などは全て終えてからすればいいこと。陳留に戻ってから――いや、せめて華琳の居る洛陽に戻ってこの衣装を脱いでから、それでも泣きたいなら一人で思いっきり泣けばいい。

 左手で目元を拭う。大きく息を吸い込み、短く強く吐き出した。意識の中で、境界線が曖昧になっていた部分の仕切りを直す。拓実は、頭を下げている春蘭に向き直った。

 

「けれども春蘭。改めてもう一度言っておくけれど、あなたが負ったその傷は私のものでもあるのよ。こればかりは変わらないわ。見苦しいだなんて、あなたにも、他の誰にだって言わせない。きっと、あの子だってそう言う筈よ」

「は、はぁ」

 

 拓実にそう言われて、春蘭は思い出したように布を手に取ると、首に流れた血を拭って左耳に当て直す。直前のことがあってか拓実に視線を合わせられず、気恥ずかしそうにちらちらと盗み見るようにしている。

 

「しかし、そのですね、この傷をお二人にも分けてしまったら、私の分がほとんど残らないではありませんか」

「そうね。そうして色んなものを分けてしまえたなら、きっと何だって重荷とはならないわ」

 

 おそらくは照れ隠しからの冗談混じりの言葉。それに対して真っ当に返ってきた拓実の言葉を受け、それまで恥じ入っていた様子の春蘭がまじまじと拓実の顔を見る。

 柔らかく、けれども寂しげに笑んで見返す拓実に、春蘭は誰かの姿を見たらしく表情を引き締めた。

 

「意地っ張りなあの子とも、分け合えたらいいのだけれど」

「……はい」

 

 神妙に頷いた春蘭は、遠くを見やった。拓実はゆっくりと瞑目する。

 

 

 こればかりは役に則ったものではなく、拓実の本心からの言葉であった。

 今回の出兵の間、拓実は極力『南雲拓実』として思考することを止めていた。そうでもしていなければ、負わされた責任に耐えられなかったかもしれない。

 討伐部隊を編成してからの数日、拓実は起床して床に入る直前までの一日の大半を華琳として振る舞っている。そうして演技をしている間は人の目もあってか、胸から迫り上がってくるそれを意識せずに済んだ。

 けれども、横になってから眠りに就くまでに与えられる僅かばかりの一人の時間。華琳という役が剥がれた途端に、拓実は重圧や責任に押し潰されそうになって震えていたのだ。

 あの時にもっと上手く指揮を執っていれば死人を減らせたのではないか。明日の戦は、本当にあの作戦で良かったのだろうか。やっておくべきことは、まだあったのではないか。

 己の一つの失敗が、身近な者たちや『曹操』を信じてついてきてくれる者たちをも巻き込んで死に至らしめるという状況に、拓実の精神は悲鳴を上げていた。

 舞台に立っていた経験から度胸と緊張への耐性だけはあったが、これに対しては何の役にも立ってくれない。心臓がばくばくと脈を打ち、すべきことは全て終えたのかと煽って、動け動けと急かすのだ。これでは眠れるわけもない。ここ数日、夜間行軍などでまとまった休息も取れなかったというのに拓実はほとんど寝付けず、体を休めるだけに費やしていた。

 戦場という生死が浮き彫りになる環境とはいえ、数日だけの拓実がこれだ。華琳にだって眠れぬ夜があるだろう。いくら割り切ろうにも、人としての道徳が欠如している狂人でもない限りは己が原因で属する人間が死んでいく状況を堪えないわけがない。こればかりは避け得ぬものであり、そして避けられない以上はなんとしても耐えるしかないものである。

 

 そうして思考が乱れて心が荒れた時、拓実はひたすらに仲間の皆を思い浮かべている。彼女たちを想えば、拓実の中には一本の芯が通る。

 拓実は、みんなが好きだ。これからも一緒にいたい。誰かが欠けるなんて考えられないし、想像もしたくない。彼女たちと共に生きるために、こんなところで死ぬわけにはいかない。そして力が及ぶのなら、彼女たちを失うことのないよう絶対に守り通さなくてはならない。

 そう自分に何度も言い聞かせるようにして、不安となるものを抑えこんでいる。華琳や春蘭・秋蘭、桂花に季衣……彼女たちの存在があるから、拓実は気丈に振る舞えている。倒れそうになった時に支えとなってくれている。そうして仲間の存在が拓実の骨子となっていたからこそ、春蘭が負傷したと聞いて取り乱すことにもなったのだ。

 

 拓実は今回のことで、華琳の負っていた責任の重みを理屈ではなくその身で知った。いつかに華琳一人にあらゆる責任が集中していることを危惧したことがあったが、その時他人事として考えていたことは否めない。

 あらゆることを卒なくこなし、その反面で誰よりも他人に頼ることを苦手にしている少女は、こんな重たいものを抱えてこれまで一人で立っていたのだ。拓実がそうであったように、華琳にとって拓実という存在は支えとなれているのだろうか。今だからこそ、拓実はそう思う。

 

「あのー?」

 

 そうしてひとしきり思考してから拓実が目を開けると、視界の端では季衣が恐る恐るという風に顔の高さまで右の手を挙げている。どうやら、話が一段落するのを見計らっていたようである。

 拓実と春蘭はそんな季衣を見て、思わず顔を見合わせた。

 

「季衣? 手を挙げたりなんかして、どうかしたの?」

「えーっと、華琳さま、春蘭さま。その、もしかしてなんですけど……」

 

 言いながらもちらちらと、季衣は拓実へと視線を送っている。季衣の様子とその口ぶりに、言わんとしていることに先に気づいたのは拓実だった。迂闊とばかりに軽く目を見開いた拓実を見て、遅れて気づいたらしい春蘭もまた両の目を剥き出しにする。

 空気を読んで口を挟まずにいてくれたようだったが、どうやら春蘭と拓実のやりとりから、季衣はこちらにいたのが華琳ではなく拓実であったのだと気づいている。春蘭と秋蘭、桂花の三人以外には此度の入れ替わりについて知らされておらず、臣下にはこちらにいる曹操を本物の華琳として、そして帝と共に洛陽に逃れた方を影武者の拓実であるようにと双方が振る舞っていた。一応春蘭との会話でも言葉を濁して会話していたが、それでも影武者の事情を知っている季衣が気づくには充分だったのだろう。

 

「汗顔の至り、とはこのことかしら」

 

 どうやら拓実は、本当に混乱していたようだ。他の分野ならともかく、誰に対してどういった対応を取るべきなのか、そういった区別を取り違えるのは拓実らしからぬ失敗である。

 とはいえ、どちらが本物の華琳であるのか口止めされていた訳でもなし。拓実がそうと知らせなかった理由である、僅かな不安要素をも排さねばならない決戦を終えた後であったのは救いであった。

 

「……季衣、あなたが思っているとおりよ。洛陽に帰還してから改めて説明があると思うから、今は他言しないでおいてもらえると助かるのだけれど」

「あ、やっぱり! わかりました、ボクしゃべったりしません!」

 

 深く息を吐き出し、今まで黙っていたことに対して申し訳ないという風に告げたのだが、当の季衣が眉をひそめるでもなく疑問が晴れたことに対して明るい顔を見せているものだから、拓実としてもつられて笑っていいものか迷ってしまう。

 こほんと一つ咳払いをして気を取り直すと、拓実は何となしに二人の姿を眺める。そしてあることに気づいて、目を細めた。

 

「ともかく、そのことについては追々ということにしましょう。――春蘭、あなたはそこに座って」

「は。これでよろしいですか?」

「そうね。そのまま動かないで」

 

 拓実に言われるがまま、地に膝をつけていた春蘭は側にある寝台に腰掛けた。春蘭の傷からの出血が収まってきていることに気づいた拓実は、傷口を押さえる為に片手が塞がっていては不便だろうと考え、治療道具の置いてある台を勝手に漁り始める。

 傷薬と包帯代わりになりそうなものを探してのことだったが、傷薬はともかく清潔な長めの布が見当たらない。拓実は止む無く、そこにあった大きな当て布を裂きだした。

 

「えっ!? あの、華琳さま!?」

 

 そうして春蘭の傷を負った頬と耳に薬を塗りつけた布をあてがい、一枚の布に交互に切り込みを入れて作った簡易包帯で上から巻いていく。

 春蘭は、急のことに背筋を伸ばして固まっている。春蘭の頭を両腕で抱くようにして、華琳の姿をしている拓実が手当をし始めたからだ。春蘭は体を硬直させながらも、眼前で左右に振れる胸の膨らみから必死に視線をそらそうとしているようだった。華琳本人ではない、そして目の前の膨らみが偽物だと理解して尚、訳もなく気恥ずかしくなってしまうようである。

 拓実が手当をし始めると慌てて同席していた季衣が治療を代わろうとしたが、「私からの恩賞の一部よ」と一言(うそぶ)いてやればもう抗弁する術はない。それだって拓実が後付けしたに過ぎない。拓実は春蘭のうろたえようを見て、治療してやることが面白くなってきていた。

 

「ところで、その高順やらとは一騎討ちをしたのでしょう? 春蘭から見てどうだったのかしら?」

「へっ? は、はぁ。まぁその、手強い奴ではありましたが……」

 

 手際よく処置をしながら、拓実は春蘭に質問を投げかける。許定として警備隊で働いている間は町人の手当をしていることもあってか、随分と手慣れたものだ。

 目のやり場に困って挙動不審になっていた春蘭は問いかけられてもすぐには反応出来ず、遅れて返答するものの両手をもじもじとさせてまごついている。

 

「手強いってそんな! 一騎討ちじゃ春蘭さまが勝ってたじゃないですか! あの時、矢が飛んでこなかったら、あの人なんか絶対に春蘭さまがやっつけちゃってましたよ!」

「いや。季衣、落ち着け。一騎討ちは流れたのだから、勝っていたは言い過ぎだ」

「言い過ぎなんかじゃないです!」

 

 要領を得ない春蘭を見て、それまで治療しているのを黙って見守っていた季衣が我慢がならないとばかりに口を挟んだ。目を見開いて、何故なのか春蘭の強さを誇示する為に春蘭に食って掛かっている。

 本人である春蘭が同意してくれなかった為、今度は拓実に直接説明するべく身を乗り出した。

 

「華琳さま! あの時の春蘭さまはすごかったんですよ! 相手の武将も確かに強い人でしたけど、一騎討ちの間は春蘭さまばっかり攻撃してましたし! あの時の春蘭さまと模擬戦してたら、ボクじゃ何回やっても勝てそうにないぐらいだったんですから!」

「あら。季衣にそこまで言わせるなんてただ事じゃないわね」

 

 身振り手振り、興奮した様子でその一騎討ちの状況を説明する季衣に、拓実は眉を開かせる。

 武将としての総合力はともかく、個人の武という限りであれば季衣は曹操陣営において上位に入る。当初こそ怪力を頼りにした一辺倒な戦い方であったが、若年である季衣は心身共に成長が著しく、春蘭相手に三割ほどであった勝率を最近では五分にまで近づけている。もちろんそれぞれの得物の相性や得意とする距離などが違うために一概に誰が強いかというと難しいが、対等に戦える季衣をしていくらやっても勝てないと言わせるのはよほどのことである。

 

「……さて、こんなところかしら」

「おお、ありがとうございます!」

 

 拓実が両手をはたいて立ち上がり、少し離れてから眺めるようにすると、春蘭が顔面に巻かれた布を確かめつつ喜色で溢れさせている。

 出来上がったのは、顔の半分以上を布で巻かれて一見重傷者のようになった春蘭の姿である。頬と耳を抑えるためにはどうしても左目ごと眼帯のように巻く他になく、結果として隻眼であるかのような容貌になってしまった。

 

「手当も済んだことだし、私もとりあえず本陣に戻りましょうか。季衣は春蘭に代わってこちらの部隊指揮をお願い。腕を負傷したのであれば馬での移動も苦となるでしょうし、この子は本隊の荷車で運ぶことにするわ」

「わっかりました! 任せてください!」

「あ、季衣。急がなくとも帰還は明朝になってから……」

 

 季衣が天幕の外に駆けていこうとするのを引き留めようと声を掛けるが、どうやら聞こえなかったようで言い終える前に出て行ってしまった。

 伸ばしかけていた己の手を見下ろして小さく苦笑するや、拓実もまた春蘭に立つように促す。二人連れ添って外へと出ると、救護所からは完全に人気が消え失せた。

 

 

 

 絶影の口取りをしながら、拓実と春蘭は本隊の陣営地に向けて進んでいた。春蘭は左腕を負傷している為に乗馬するにも下馬するにも一人でこなすに難しく、時間に余裕もあれば距離もさほど離れていないこともあり、まばらに歩哨が立つ平野を徒歩で戻っているところであった。

 

「それにしても、先程の話は興味深いわね。あなたをそうまで強くさせたのは何なのかしら?」

 

 拓実が話題に上げたのは、春蘭が一騎討ちで敵将を圧倒していたという件である。

 成長途上の季衣に対して、春蘭はある程度が完成している。気の扱いであるとか技の上達にはまだまだ伸び代があるが、身体能力の面ではこれから季衣ほどに伸びたりはしないだろう。

 だからこそ、その春蘭が急に強くなったのであるなら何かしらの理由がある。そうして質問を投げかけると、隣を歩く春蘭は何故なのか頬を軽く染め、背を正してから拓実へ顔を向けた。

 

「もしも私が強くなれていたのだとしたら、それは私の後ろに華琳さまがいてくださったからです」

「……確かにね。けれども、それは今回に限ったことではないでしょう」

 

 守るべき者が後ろに居る――それは拓実も意識していたことだ。確かに、ここで拓実たちが破れていたなら洛陽に逃れた華琳の命運も尽きていたかもしれない。拓実にとって重荷となった絶対に負けられないという責任が、春蘭にはいつも以上の力を発揮させる要因になったのだろうか。

 しかし戦になれば先陣を任される春蘭にとって、背に華琳の存在を背負うのは初めてということはなかった筈である。

 

「そういった意味では……あ、いえ。もちろんそれもあるのですが、私自身何と言ったらいいのか。その、ありのままに言いますと、事前に事情を知らされていた私と秋蘭は、今目の前におられる『華琳さま』からのご命令を、華琳さまに命じられた為として遂行しておりました」

「何も間違ってはいないわよ?」

 

 声が届くほどの距離には誰もいないが、話題が話題なだけに外に漏れ聞こえぬよう声量を絞っている春蘭。そんな彼女を相手に拓実は首を傾げた。そんなことは、疾うにわかりきったことだったからだ。

 洛陽での滞在と支援活動において、拓実は華琳と同等の裁量を与えられている。拓実が華琳本人として振る舞うようにと命じられているのだから、春蘭たちも拓実を華琳として扱わなくてはならない。春蘭たちが拓実の命令に従わなくては、何のための影武者であるのかわからなくなる。

 

「ええと、おそらくお考えになられているような意味ではなくてですね、私の心の持ちようの話でして。その、私は本当の意味では、華琳さまだと思えていなかったのです。一番上に華琳さまがおられて、間に『華琳さま』を介して、私と秋蘭にご命令を下されていると言いますか……そう! 私は、華琳さまよりご指示があるからこそ『華琳さま』のご命令にも従っていたのです」

「……そういうこと」

 

 春蘭のたどたどしい説明を聞いて、拓実はようやく春蘭の言っている意味を理解した。拓実の命令は華琳本人としてのものという感覚ではなく、華琳から従うようにと指示があったから拓実の命令を聞いていたということであり、つまりは春蘭と華琳との間に上官が一人増えたという認識であったらしい。

 しかし、そうだとしても春蘭は何も間違ったことは言っていない。いくら拓実が見事に華琳になりきろうとも、春蘭たちにとって本当の華琳は一人しか居ない。拓実を華琳本人として扱えという命令があっても、決して本物の華琳が二人に増えたりはしない。本物が存在している以上は、影武者は華琳の存在を代行する者でしかないのだ。拓実が影武者であると知っていれば、そう考えるのは当たり前のことである。

 

「我が身の恥を晒すようですが、そういった意味では『この部隊を率いる華琳さまをお護りしようとする意志』は、私よりも事情を知らぬ凪らの方が強かったものと思います」

 

 懺悔するように春蘭は言うが、拓実を影武者だと知っている以上は当然としてそういう心理も働くことだろう。華琳から「影武者を何としても護れ」との命令があれば、己が命を投げ出してでも春蘭は従う。けれどもそれがなかった場合、春蘭が自分の意志で命を投げ出してでも影武者を護るかといえば、それはわからない。

 春蘭が忠誠を捧げているのは華琳である。春蘭がその命を投げ打つべきは華琳の為であって、偽者でしかない拓実にまでそうする理由はない。華琳の右腕である春蘭は、拓実の為なんて理由で死ぬべきではない。拓実とてそう考えている。

 

「今しがた宦官軍に対して『華琳さま』は堂々の名乗りを上げられました。単騎であっても守り通すという私の言葉を疑わず、『華琳さま』は私一人を護衛として敵の眼前に身を晒されました。そのお命を狙って矢が射掛けられている中、私の武を、華琳さまの剣である私を信じて、共に死地に残ってくださいました。……おそらく、あの場に居られたのが華琳さまであっても詠の策に従い、敵前に身を晒されたことでしょう。けれども、私一人に命を預けはしなかったことと思います。御身の重大さを理解されているからこそ、その覇道を途絶えさせぬ為にそのような選択はなされません」

 

 拓実は前方にある本陣を見据えながら頷いて見せて、春蘭に先を促させる。

 

「私は、その、どちらの華琳さまにも不敬になってしまうことだと思いますが、そのことがどうにも嬉しかったのです。華琳さまの為に命を張り、私の武を信じて命を預けてくださった『華琳さま』になら、この命と引き換えにお護りしても悔いは残らないだろうと、そう思えたのです。そしてすぐ後ろに立つ『華琳さま』と、洛陽に逃れられた華琳さま。この一振りで敬愛する主君二人を守れるのだと思ったら、手にある七星餓狼が軽く感じられました。――この耳に負った矢傷にしても、きっとそれまでの私であったなら、一騎討ちに集中するあまり矢に反応すらできなかったことと思います」

 

 拓実は春蘭の言葉に、面食らっていた。どうやら春蘭が強くなったというのは、拓実が命を預けたことを原因としていたらしい。

 あの時拓実は、その後の戦闘において少しでも自軍に有利を(もたら)せるならという思いで敵前に身を晒していた。拓実が命を張ることで華琳の安全を買えるという思いもあり、自身を華琳であると信じ、戦ってくれている兵士たちを思ってのことでもあった。春蘭一人に護衛を任せたのも、前提に幾度と無く調練を共にしてその強さを身に染みていたということがあってだが、そうすることでより効果的に敵軍を威圧できると踏んだからである。

 春蘭は、華琳ならばそうはしなかったと言う。確かに今冷静になって考えたなら、華琳であれば春蘭に加え、万が一に備えて親衛隊から数名なり連れていったことだろう。それはつまり、あの時華琳がするような判断が出来ておらず、影武者として演技しきれていなかったということだ。

 影武者として演技しきれなかったことは反省しなければならない。……だというのに、どういう訳か拓実の感情はそれに対して悪い気がしていないようなのだ。どうにもむず痒くてしょうがない。

 

「……春蘭が、急に強くなった理由についてはわかったわ。それについては、その、私としてはありがとうと言っておくべきなのかしらね」

「あ、いえ。そんなことは……」

 

 華琳を守ろうとする余りに華琳になりきることが出来なかった拓実を、春蘭は認めてくれた。そういうことなのだろう。

 拓実が何やら気恥ずかしくなって礼を言いながらも視線を外へとやると、春蘭もまた顔を背けた。それからは言葉が続かず、しばらく二人の足音と絶影の蹄の音だけが響いている。

 

「ともかく! 春蘭と矛を合わせ、さらに手強いとまで言わしめるのであればその高順という者、並みではないということでいいのね?」

「は! ええ、それは間違いなく!」

 

 何だかぎくしゃくとしてしまっていることに気づいて、拓実は仕切り直しを意識して大きく声を上げた。多少露骨ながら話題を逸らせば、もじもじと困った様子を見せていた春蘭も渡りに船とばかりに乗っかってくる。

 それからは何が嬉しいのか、拓実を見てにこにこと笑顔を浮かべていた春蘭が、はたと立ち止まった。

 

「……ん? その言い様ですと、もしや彼奴めを配下に加えるおつもりなのでしょうか?」

「そうね、可能であるなら我が陣営に迎え入れたいところではあるわ。ただし詠から聞くに高順は呂布に心酔しているということだから、先に呂布を手に入れなければ難しいかもしれないわね」

「む。呂布の奴もでございますか。むむむ……」

「あら? 何やら含むところがあるようね。私としては、強くなったという今の春蘭ならば呂布にだって勝てるのではないかと考えているのだけれど」

「あ……。いや。もちろんあやつに負けるつもりなどありませんが。しかし呂布に異心があり、高順と共に謀反を起こされた時を考えると、流石にこの傷を負った身で華琳さまをお護りできるかどうかと考えましてですね……?」

 

 拓実は過度に期待されて慌てる春蘭をからかうように、足取り軽く歩を進める。固かった空気も、こうしていればもういつもの調子だ。

 

「ふふ」

 

 重傷者のような姿で必死に弁解を試みる春蘭を肩越しに眺め見て、改めて彼女が無事であったことに密かに胸を撫で下ろす。

 拓実は前へと向き直ると目をつむり、春蘭の縋りつくような声を聞いてこっそりと笑みを深めた。

 

 

 



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49.『張遼、曹操の命により陳留を発つのこと』

 

 先の戦で敵軍から離反し、拓実たちに助力してくれた張遼、彼女の部下である徐晃が手勢を率いて曹操軍の夜営地に合流する。

 『藤の花』の旗を掲げた以上は言わずとも知れるだろうと説き勧めに向かわせた詠に『董白』の存在を打ち明ける許可を与えてやれば、張遼はあっさりと曹操軍に降った。主君であった月が宦官なりに討たれていたなら弔いに一戦でもして、その後は戦場で一目見て気に入った関羽が属する劉備軍にでも加えてもらおうかと漠然と考えていたらしいのだが、月と詠が存命とあっては捨て置けないとのこと。どうやら詠から聞いていた通り、義理人情に厚い性格のようだ。

 主君となる華琳に扮した拓実も面通しを行ったが、張遼は胸にサラシを巻いてその上から着物を肩に掛け、髪は纏め上げて邪魔にならないようにしている二十歳ほどの女性であった。背の丈超える偃月刀を軽々と扱い、見るからに武客という風貌である。

 曹操軍傘下に入るにあたり、張遼は自ら陣頭に立って洛陽までの宦官軍残党の露払いをすると申し出てきた。主君は月であったが、形の上では宦官軍からの降将であるから先頭に立って自ら拓実たちに背を晒すということである。もし不審を覚えたならば遠慮なしに背後から斬れという意思表示であり、見た印象に違わず張遼は実直な武芸者であった。また、ついでとばかりに同輩であった呂布についてを訪ねてみたが、虎牢関から退却して洛陽で月と詠が連れ去られたのを知るなりその場で別れたらしく、どこに姿をくらませているかまでは見当がつかないとのことである。

 そうして一通り真面目な話が終われば、張遼は途端に砕けた様子となる。姉御とでも呼ばれていそうなきっぷのいい性格が本来の張遼であるのだろう。世間話の中で張遼の口調が関西弁であったので出身地を訊ねてみたが、同じく関西弁の真桜と同郷という訳ではないらしい。大陸での方言はどういう位置づけがされているのだろうか。表面上では普通に受け答えをしながらも、拓実はそんなことに頭を悩ませていた。

 

 そして張遼から一刻ほど遅れて、宦官軍の本隊に追われていた曹仁の部隊が合流する。撤退戦では曹仁自ら陣頭指揮に立っていたらしく、拓実が労いに向かえば衣服や鎧に土汚れや返り血を残したままであった。ほぼ不眠の中で随分と神経をすり減らしていたようで、拓実が『洛陽にいた華琳』を名乗り、落ち延びていた華琳の保護を終えていることを伝えると緊張の糸が切れたらしくその場で気を失ってしまった。彼女に付き従っていた一千に満たない兵たちも負傷兵が多く、そうでない者も過度に困憊している様子であったので、見張りなどは本隊で受け持つ旨を伝えて彼らには休息を許すこととした。

 

 

 

 宦官軍の撃退より五日を要し、曹操軍は洛陽へと到着した。拓実たちが出発してから九日が経過しており、洛陽に滞在していた諸侯も唯一備蓄に余裕を残していた劉備軍のみとなっている。洛陽の民も半数ほどは支援を受けて周辺の邑への移住を開始しているが、しかし運良く略奪から逃れられた者や、寄る辺のない子供や老人は未だ洛陽に残ったままのようだ。

 先に逃れていった華琳らは既に洛陽に到着しており、討伐に赴いていた拓実が曹孟徳として振舞っていたものだから華琳は荀攸の姿に扮して怪我の療養をしていた。領地である陳留へ向けての出発に合わせて入れ替わるとのことなので、洛陽に(とど)まる間は引き続き拓実が『曹孟徳』を演じることになった。

 

 拓実が洛陽に戻って一番に驚いたのは、行方をくらませていた呂布の姿が劉備軍の中にあったことだ。

 劉備にその仔細を尋ねてみれば、洛陽まで撤退した呂布は参謀役である陳宮の勧めにより五十ほどの手勢と共に洛陽周辺の寒村を転々としながら隠れていたとのこと。洛陽の諸侯が撤退しないことには、別の土地に落ち延びるのも困難と判断したようだ。

 しかしそうこうしているうちに食糧が尽きて、さてどうするかというところで二百を優に超える黄巾党の集団が洛陽で火事場泥棒を働こうとするのに遭遇。ちょうどいいとばかりに荷車を強襲してやって逆に食糧を奪ってやろうとしたとのことである。

 同じく周辺の警戒を怠っていなかった劉備軍もまた黄巾党を迎撃に討って出ていて、図らずも挟撃となった為にこれといった被害も出なかったのだが、黄巾党も食糧不足であったらしく荷車などどこにもない。そして一時的に共闘した折に会話の機会があり、物資に余裕のあった劉備軍に食を賄ってもらうことを対価として一党揃って配下に加わったという経緯であるらしい。

 

 駄目で元々、断られるのを覚悟で呂布に声を掛けられないものかと華琳に相談した拓実だったが、既に秋蘭を介して引き抜きを持ちかけていたようである。しかしどうにも呂布は物欲や権力欲に乏しく、給金や将としての待遇などで遇しようとも色の良い返答はなかったとのことだった。加入したばかりとはいえ劉備の配下である為に、断られた時を考えると『董白』を交渉の材料にする訳にもいかない。縁がなかったといえばそれまでだが、密かに呂布を召し抱えられないものかと考えていた拓実はどうしても渋面を作ってしまう。

 それというのも彼女が史実の呂布とは違い、野望に満ち溢れた反逆者ではないと感じていたからだ。物欲や権力欲に(なび)かず、月の肉親を人質にとった宦官に激憤して詠に助力するなど、心根は常人より余程真っ直ぐであると言える。しかして関羽に趙雲、夏侯惇・曹仁、孫策に甘寧、文醜・顔良らを同時に相手取るその武力は、演義での呂布にも劣らぬどころか優っている節がある。拓実にとって喉から手が出るほどに欲しい人材であることは間違いなく、それだけに惜しいと思うのは止められない。

 

 ――拓実の目的とは、華琳の手による大陸の統一である。それは言い換えたなら三国志の時代に生きながらして、三国時代を歴史から消し去ることに他ならない。

 いつかにも拓実は考えを巡らせていたが、統一に必要であるとしたのは敵勢力に抵抗の選択肢を与えないほどの圧倒的な国力と戦力である。それだけの力の差があれば、歴史において負ける筈であった戦にも勝ちの目が出るだろうと拓実なりに考えてのことだ。

 その為に拓実に出来るのは、この時代にない知識で国を富ませ、三国志で曹操が得られなかった有力な武将や知識人を配下に置くことであった。結果として華琳のしているような人材収集こそが、拓実の目的を成就させる手段となっているのだ。

 現状、拓実の人材収集はほとんど成せていない。多少前倒しされているとはいえ賈駆や張遼は歴史においては元より曹操配下。出来ることなら呂布や高順を配下に迎えられないかと考えていたが、どうにも彼女らとは縁がないようである。唯一の変化としては董卓であった月が華琳に降ったことであるが、暴君の汚名を被せられた董卓一族の偽名を名乗る以上、表立った活躍は難しいことだろう。どうにも前途多難であった。

 そんな事情があるだけに、劉備が袁紹から譲り受けた物資によって長期間洛陽に滞在し、困窮していた呂布と居合わせたことに思うところがあった。あまり余る物資の対価には元手のかかっていない上、兵数にして五十程度の兵糧で呂布を手に入れてしまった劉備に幸運というだけでは片付けられない何かを拓実は感じている。

 

 

 

 漢の都である洛陽に滞在している間に劉協は即位式を執り行い、正式に帝となった。最中(さなか)に洛陽の荒廃をその目にした劉協は、陳留に身を寄せるに否とは言わなかった。

 また即位式の後には、洛陽の守護と復興支援を行っていた働きにより劉備が帝となった劉協との拝謁を賜った。出自を中山靖王の末裔と聞き及んでいた劉協より王家と祖先を同じくする者として支えてくれるようにと言葉を投げかけられ、宝剣以外に劉王家の末裔たる証を持たなかった劉備はいたく感激した様子である。

 反して、同じく劉備一団の象徴でありながら劉協に一切触れられることがなかったものに北郷一刀の存在がある。最早名ばかりとはいえ、大陸の統治者として劉協はどうあろうとも『天の御遣い』の存在を認める訳にはいかない。民草の間で伝わる天の御遣いの伝承とは荒廃した世を正す為に現れるというものである。彼が公に劉協に忠誠を誓うのであれば劉王家を助く為に遣わされたとして受け入れることもできるが、劉協から動いては擦り寄っていくと見做されかねない。すなわち現状ではその存在自体が漢王朝の統治を否定するものであり、王家の正当性を失わせる存在であるのだ。本来であれば彼を象徴としていた劉備もろともを朝敵と定めて処刑を命じておかしくない。それを意図的に無視し見逃してやることで、帝奪還に尽力した劉備への忠誠に報いることとしたのであろう。

 それら即位式や劉備の拝謁に際し、諸般を取り計らったのは拓実であった。即位は漢の都洛陽に滞在している間に行うべきと進言し、正式に劉協の命を受けて段取りを図った。帝に拝謁する劉備には桂花に仕込まれた拝謁の作法を直々に教えてやった。華琳に言われるがまま行ったことであったが、これには帝の庇護者が曹孟徳であるのだと知らしめる意図があったようである。

 

 洛陽での用事を済ませた数日後、兵を充分に休ませた拓実たちは領地である(エン)州への帰還を決めた。華琳も療養に専念していた甲斐あってか無事に怪我は完治したようで、拓実は出発に際して『曹操』を華琳に引き継ぎ、代わって荀攸となって怪我の療養をすることになる。

 曹操軍の帰還を告げられていた劉備は事前に余剰となっている支援物資の配給を終えており、華琳たちの出発に合わせ同道したいと申し出ていた。帝より直接に助力を乞われたことを理由に、帝の庇護する華琳を支えることで共に漢王朝を盛り立てていきたいとのことである。

 これは言い換えてしまえば曹操に降るのではなく、あくまで劉備の主君は帝であって、同じ漢の臣として帝の意向を汲み取り天下に号令する華琳に助力するというものであった。帝への忠節を重んじているようであるが、その反面で華琳の功績の尻馬に乗る形であり、取りようによっては都合のいい物言いである。だが、此度の遠征で兵力の大半を失っていた華琳はこれを承諾。劉備一党を客将として迎え入れることになる。

 

 

 

 

「曹操さん、改めてになりますけどこれからよろしくお願いします!」

「ええ。劉備らには頼らせてもらうことになるわね」

「そんな、色々とお世話になっちゃってるのは私たちですもん。私に出来ることなら言ってくださいね!」

「そう言ってもらえると我らとしても心強いわ」

 

 陳留にある居城の大広間では、曹操陣営の主だった武官や内政官と共に劉備一党もまた歓待を受けていた。

 そこで行われている祝宴は盛り上がっているが、それはこの場に限らない。華琳が堂々の凱旋を果たしたことで、陳留城下もまた沸き立っていた。帝である劉協の奉迎式典より連日、遠征の成功を祝って領民や行商人、旅人たちにも酒や料理が振る舞われ、街を挙げて大々的な祝宴が行われているのである。

 これには帝に対し華琳の威勢を見せるに加え、周囲の諸侯に帝の所在を知らしめる意図があった。各地を行き来する旅人や商人を介し、半月を待たずして曹操が帝を保護したことは大陸中に知れ渡ることだろう。

 

「とはいえ、当面は軍備増強と足場固めが課題となるのだけれど」

 

 帝を擁立し、劉備を陣営に迎え入れた曹操軍は領地へ堂々の帰還を果たして一見は順風満帆のように思える。だが大陸の情勢から見ると、これまでにない窮地に立たされている状態であった。

 北部に袁紹、南部に袁術と、反董卓連合軍に数万の兵を動員していた二強に挟まれているのだ。対して宦官軍との戦で損耗した曹操軍は、新たに加わった張遼隊・劉備一党を頭数に入れても戦に動員できる兵は万に届かない。

 帝の保護を待たず反董卓連合軍の解散を決めたことは、今となっては総大将である袁紹にとっての負い目になっている。その彼女にとって独力で帝を奪還した華琳の存在は目障りこの上ないことだろう。仮にも諸侯の居合わせる中で総大将に行動を許可され、多大な犠牲を払って帝を奪還してみせた華琳に手出しをするなど道義的には考えられないことなのだが、常識に収まらないのが袁家の二人である。どういった判断をしたとしても彼女たちに限ってはおかしくないのだ。

 

「……そうのんびりしている訳にもいかないのよね」

 

 そして華琳が同様に懸念しているのは長安を根城にしている宦官の動向である。現在、帝を傀儡として権力を行使していた彼ら宦官は、劉協を奪還されたことにより大勢に影響を及ぼす力を失っている。宦官は軍事面に関して董卓軍に依存していた部分があった。董卓を失脚させたところでその配下を自兵力として組み込むつもりだったのだろうが反董卓連合の発足によってそれはならず、残っていた将兵も曹操軍との戦で多くを失っている。一時期は数万からなる官軍を影から操っていた宦官は今や数千ほどの兵力しか持たない。

 今この瞬間、政治・軍事において武器を失った宦官を粛清するにまたとない機会であった。むしろこの機を逃せば宦官らは態勢悪しと見て市井の中に雲隠れしかねない。けれども曹操軍は曹操軍で派兵を許す状況ではない。曹操軍の保有兵数もまた数千程度であり、領地には練兵中の新兵しかおらず精強というには程遠いのだ。そこで無理にでも遠征をしようものなら、領地の隣接している袁紹や袁術に(エン)州を奪われかねない。

 宦官が諸悪の根元であったという認識は洛陽にしばらく滞在していた劉備に公孫賛、馬超らも同様に持っている。だが劉備は一千程度の小勢でありながらさらには華琳に同行しており、公孫賛は兵を動員するには長安から遠く、馬超は領主ではない為に決定権を持たない。仮に粛清に動いたとしても初動は大きく遅れることだろう。流石の華琳であろうとも手元に駒がなくては動きようがない。

 

「んー……」

「劉備? どうかした?」

「えーっと、陳留に到着してから荀攸さんの姿を見てないので、今日は出席していないのかなーと……」

 

 ふと、劉備が食事の手を止めてきょろきょろと宴会場を見渡していたので問いかけてみればそんな答えが返ってきた。

 武官文官に問わず華琳配下の者が出席しているこの祝宴であったが、確かに軍師や文官の面々が集う卓にも荀攸の姿は見つからない。そちらを意識すれば、荀攸に懐いているらしい諸葛亮や鳳統も時折誰かを探す素振りを見せては落ち着かない様子でいるのが華琳には見て取れた。

 

「……あの子に何か用事でもあったのかしら?」

「いえ、今回の遠征でも荀攸さんに本当にお世話になっちゃいましたから、せめてご挨拶とお礼だけでもと思ったんですけど」

 

 それを聞いた華琳は拍子抜けした様子で椅子の腕置きに体重を預ける。陳留に帰還してから時折、劉備が荀攸のことを気にかけていたのには気づいていた。その存在自体が機密の塊といって差し支えない拓実を探していたとあっては、華琳としても警戒せざるを得なかったのである。

 更には、洛陽の復興する『曹操』の役割を任せている間に、拓実が公孫賛や馬超、中でも特に劉備とは友誼を結んでいたようであり、久方ぶりに華琳が『曹操』に戻った際には自分に対し気安く接する劉備に戸惑っていたことも警戒に拍車をかけていた。

 

「残念ながら、今はいないわ。怪我の完治に時間がかかりそうだったから、療養も兼ねて余所にやっているのよ」

「その、療養ってことは帰郷でもされてるんですか?」

「いいえ、行き先は故郷ではないわ。……そうね、そろそろ青州に入った頃ではないかしら」

「ええっ、青州!?」

 

 背をのけぞらせ、大げさなまでに驚いてみせる劉備に対しても曹操の微笑は崩れない。それどころか、より笑みを深くしている。

 華琳は目の前の劉備の驚きようを見て、数日前に同じように驚いた者を見る機会があったことを思い出していたのだ。反応や仕草はほぼ同じ。こうして実物を見ればなるほど見事に真似てはいたが、決定的な差異としてはその者には劉備のように背をのけぞらせて主張するものを持たなかったことか。

 

「青州って、今一番黄巾党の勢いがすごいところだって、すごい噂になってるところじゃないですか!」

 

 そうしてすごいすごいと語彙が乏しくなってしまった劉備だが無理も無い。華琳たちが陳留に帰還して、居城に残した文官らから報告を聞いたところでまず挙げられたのが南東にある寿春で起こった騒動と、この青州黄巾党の動向であった。陳留から見て目と鼻の先ともいえるところで、十万を優に超える暴徒が活動していることが知れているのだ。

 (エン)州北東に隣接している青州。彼の地にも朝廷から遣わされた刺史はいたが、蜂起した黄巾党を抑える能力を持たなかった為に追い出され、今や無法地帯と化している地域であった。この時節、勢力拡大を伺う近隣の諸侯にとって領主不在の青州は絶好の土地である。本来なら彼らに切り取られるようにして鎮圧・占領されるところであるのだが、それがされていないのは黄巾党の勢いが凄まじくて誰も彼もが手を出しかねているからだ。

 

「領内でないとはいえ、隣接している以上はこちらに徒党を組んで雪崩れ込む可能性もある。捨て置くわけにもいかないわ。そういった理由があって黄巾党がどこに目を向けて動いているのか調査に向かわせたのよ。ともかく、あの子はしばらくここへ戻らないわ」

「はぁ、そうなんですかぁ……残念だなぁ。でも、治安も良くないって聞いていますけど、荀攸さん大丈夫なんでしょうか?」

 

 劉備の懸念も尤も。件の黄巾党は野盗や山賊とはいくらか毛並みが違うとはいえ、結局は暴徒の集まりである。そんな者たちが領主を追い出し、我が物顔で堂々と闊歩しているのに治安がいい筈もない。

 まして、拓実の右手の骨折はまだ完治していない。安静にせず働かせていたのが祟ったか当初の見立てより治りが遅れているようであった。指に引っ掛けることは出来ても右手だけでは物を掴めない。そんな状態では、いざ襲われた時に自衛すら儘ならないことだろう。

 当然、華琳とてそんなことは把握している。それを押しての派遣である。今しばらくの間だけでも、荀攸を手元に置いておけない理由があるのだ。

 

「もちろん、優秀な護衛だってつけているわ。まぁ、あの子のことだから上手くやるでしょう」

 

 そうして華琳は目を伏せ、くすりと笑う。それが良いか悪いかはわからないが、また何事かを起こしてくるだろう予感があった。

 

 

 

 

 その頃、話題の人物はといえば、道端に州境を表す石碑を見つけてにこにこと笑顔を浮かべていた。小柄な体躯でちょこちょこと歩を進める度、浅葱色の外套の下に着込んでいる桃色のベストと白のブラウス、短めの紅色のスカートが見え隠れしている。

 

「ほら、ほら。(しあ)さん見てくださーい! ようやく青州に到着ですよ!」

「あー、ホンマにようやくや。陳留は(エン)州西部の端っこの方にあるから、青州へはまるきり逆方向やもんなぁ。ここまで来るのに州を横断してもうたし……」

 

 左右を耳の上で二つ結びにして、後ろは背中まで伸びた髪を揺らして元気に先を歩く拓実に対し、緩んだ様子なのは張遼――霞である。肩に飛龍偃月刀を担いだまま二人分の荷を括り付けたロバを引き、ぼんやりと視線を遠くに向けて気のない返事をする。

 これまでは多少なり荷車なりの車輪の通行を考えて整備されていた街道を進んでいたが、二人がこれから進む先は人の頭大の石が転がっていたり足が取られそうな穴が空いたりしている上、人気がなくどうも寂れているように見えてしょうがない。

 

「にしても、なぁんだってウチらばっかり二人でこないなとこを歩いてんのやろ。わからんなぁ」

「何だって楽しまないと損ですよぉ。気分を変えちゃえばちょっとした旅行みたいなものですって。青州は海に面してるし、美味しい食べ物だってあるかもしれませんし。ね? 元気出していきましょう!」

「そない言うても、ウチらがこうして歩いとる間も陳留の奴らは美味い飯にタダ酒かっ食らっとるんやろ? それにウチ、劉備たちが同行するっちゅうことやから暇見て関羽と手合わせしたろかと思っとったのになー」

「だってだって、華琳さんから頼まれたお仕事なんですからしょうがないですよう……。私がいくら言ったって聞いてくれないんですもん」

 

 そう。曹操に降った霞は、同じく降将となっていた詠と『董白』、そして劉備軍に加わっていた呂布たちを見つけたものの互いに存命であったことを喜ぶ間もなく、華琳より任務を命じられ出発を余儀なくされていたのである。その内容というのが青州に潜入する、この霞の目の前でしなしな萎れている拓実に同行し単身で護衛することであった。

 霞は武家の出であり、幼少より武芸を磨きに磨いた結果として軍人となり、そして上役に見出されて将となった。そんな生粋の武人であるからして荒事が起こるであろうその任務自体はむしろ望むところであるのだが、霞がこうして荒野をえっちらおっちらと移動している間にも同僚たちが宴会で飲み食いしているというのがどうにも気を重くさせていた。

 

「そもそもなぁ、わからんといえばこの目の前のが一番訳わからへん」

「えっと、背中のこれのことですか? 私が(むしろ)売りで、霞さんが同じ村出身の武芸者らしいです。編み方も街のおばちゃんから教わってますから、商品について訊かれたら私に任せてもらえば大丈夫ですよ!」

 

 背負った筵の束と十足ほどの手作りの草履を霞に見せ、ふん、と鼻息を荒くした拓実は両手で握りこぶしを作った。

 

「せやなくて、あんたや。あんた」

「え? ああー……華琳さんが言うには、明るくて社交性があって、面と向かえば警戒心を覚えにくくて、平凡に見えて人を惹きつける求心力もあって。あと、間違っても敵将に一騎討ちを仕掛けたりしない人間だそうですけど」

「ちゃう。ウチが言うとるのはアンタ――拓実っちゅう人間のこと。出発前と性格変わりすぎやろって話や」

 

 出発時の姿――荀攸と名乗っていた文官を思い出してみるが、やはり霞は目の前の拓実とは同じ人間として重ならずにいた。確かに事情を知った上で注意してみれば、顔つきやら体格やら、あるいは声色こそ変えているものの声質やらの大元が同一と気づくことが出来る。逆に霞が事情を知った上でも同一人物だと見做せないでいるのは、その内面や仕草、ちょっとした癖までががらりと別人のように変わってしまっているからである。

 

「うーん、そう言われても……。私についてなら、陳留に帰った日に華琳さんより説明があったと思うんですけど……」

「それはウチも聞いとったけどな、いくら何にしても限度があるやろ」

 

 陳留に帰還を果たしたその日。隊長以上の役職にある武官全員は謁見の間に集められていた。そうして華琳より直々に、此度の遠征では策の一環として体躯の近い荀攸を他の諸侯への目眩ましとして本陣に置き、また華琳本人が姿を隠す必要があった時には荀攸に扮していたと知らされていた。それはあくまでも荀攸を身代わりに立てていたというだけの話であり、影武者の運用を知らせた訳ではなかった。

 そして、歩卒たちにも宦官軍追討の際に曹操が二人存在していたことは事実として知られていた為、説明を受けた将らを通して一時的に主君の身代わりとなる人物を立てていたとだけ告知されている。

 

 本当の意味での拓実の正体を明かした相手は、華琳と影武者である拓実の両方と応対していた曹仁と曹洪。そして汜水関攻略で面識があったことから荀攸の姿を探し、洛陽滞在中に華琳が扮していた荀攸と接触しようとしていた牛金。さらに新たに加わった詠と霞の合計五名である。

 以前からの陣営に所属していた三名はともかくとして、華琳には(はかりごと)があったらしく霞へ打ち明けることは早々に決めていたようなのだが、残る詠に関しては華琳の想定にもないことであった。それというのも、帰還の道中に『曹操』に戻った華琳と詠は時間潰しも兼ねて軍略について弁を交わしていたのだが、幾ばくもしないうちに「もう一人の方のアンタに改めて真名を預けるって約束しているのだけど、どこにいるの?」などと華琳に対して訊ねていたのだ。

 確信を持って判別されている以上、隠し通す訳にもいかずということで彼女にも影武者である拓実が紹介されることになったのである。しかしながら、普段は別人として振る舞っていることまでは流石の詠にも察することが出来なかった様子で、すぐ目の前にいた荀攸の正体を明かされるやアホ面を晒して文字通りに絶句するという一幕があった。

 

「賈駆っちに聞いたら、ウチが初めて会うた時の華琳はアンタだって言うやんか。今のその格好とも、荀攸ってのとも似ても似つかんし……」

「だ、だめー! しーっ! しーっ! それは秘密なんですから、あんまり大きな声で言っちゃダメなんです!」

「あんなぁ、そう言っとるそっちが大声出してどないすんねん」

「はっ!? 誰も聞いてない、よね?」

「こないなとこ、そう人も通らんから安心しいやって」

 

 拓実はきょろきょろと周囲を見回して、見渡す限りには誰も居ないことを確認してほっと胸を撫で下ろしている。そうもあからさまに警戒しようものなら、本当に監視がいたら何かしら勘付かせてしまうだろうに。抜けているというのか、俗に天然と呼ばれるだろう振る舞いである。

 呆れ返った風に笑って指摘してやってから、遅れて霞ははっと普通に応対していた自分に気がついた。知り合って間もなく影武者の話を聞かされた為、拓実に対してどうにも信用がならない胡散臭い印象を抱いていた。霞はともかく真っ直ぐで、実直な人間を好む。そういう意味で偽りばかりの拓実は霞の好む人物像から程遠い存在に思えたのだ。

 ――その筈なのに、気がつけばこうしてその信用ならない相手と談笑しているのである。これは拓実の人柄なのか、それとも華琳が言うところの他人に警戒されにくく求心力のある『誰か』の人徳が為せるものなのだろうか、そんなことを考える。事情を知っていた霞でさえこの有り様であるなら、知らぬ者が見れば見たそのままの人物として映ることだろう。

 

「ははっ! 拓実はおもろい奴やなぁ」

「え? えっ? 何か霞さんに笑われちゃうようなことしましたっけ、私?」

「ええからええから、ほな行くで! こないなとこで道草食っとったら日が暮れてまうわ!」

「あ! 霞さん、私一人だけ置いてかないでくださいよー!」

 

 立ち止まっては頬に人差し指を当てて宙を眺める拓実。眉根を寄せてうんうん唸り、自分の言動を思い返しているようだった。霞が先を歩いて追い越してやると、小さな体でぱたぱたと鈍臭く追ってくる。その姿は同じ女の身でありながら愛嬌があって、見ていて飽きない。

 生業ともいえる武芸以外となれば酒と娯楽とを好む霞である。こうまで突き抜けたところを見せられると警戒よりも興味が勝ることとなる。それは珍妙な動物を観察するような心持ちであったが、少なくともこれから先の道中、退屈することはないであろうと沈んでいた気を取り直していた。

 

 

 

 

 

 

 

 ――劉協が帝となっての数ヶ月。反董卓連合軍の遠征が成功を皮切りとして、大陸では大きく情勢が動いていた。

 

 連合軍の遠征後、いの一番に動きを見せていたのは寿春を本拠とする袁術であった。糧食不足により洛陽から即時に撤退していった彼女は、漢王朝は既に廃れたものとして、なんと自身を皇帝であるとして名乗りを上げていた。

 血族であり次代の帝と目されていた劉弁が命を落とし、劉協も行方知れずとして扱われていたのを聞いて同じく亡くなったと早合点したか、袁術はどこで手に入れたのか王朝伝来の玉璽の所有を理由に自らを帝として『仲』の建国を宣言したのである。

 その僅か数日後には曹操が劉協を保護し、また帝に即位したことが大々的に宣伝され始めることになったのだが、だったとしても袁術が一度口にしたことはなかったことにはならない。漢王朝の国軍が瓦解してもはや力を持たず、首都洛陽が陥落してしまっている現状では帝など名ばかりの象徴でしかないとして皇帝を自称し続けている。袁術はめげずに周囲の諸侯から自らの賛同・擁立者を集めようと働きかけていたようだが、正統な後継者である劉協が存命であればそのような者が出てくる筈もない。

 それどころか彼女の客将であり先の連合軍で多大な活躍を見せていた孫策ら一党が、劉王家が健在であるのに帝を僭称している袁術は逆賊に他ならないとして、漢王朝の忠臣として蜂起。袁術は北上してくる孫策の侵攻を止められず、結果としてその領地を大きく減らすことになっている。

 

 劉弁の逝去、そして劉協が曹操によって保護されたのは数日の差はあれほぼ同時期のことである。劉弁の逝去を知れた諜報能力があれば、当然ながら劉協の存命をも掴んでいておかしくない。何者かが意図して仕向けなければ袁術の得る情報がそんなにも偏ることはないのだが、そうすることによって利を得たのはいったい誰であるのか。仕掛けを見抜いたらしい華琳は、孫策の蜂起と快進撃を聞いてただ微笑むだけであった。

 

 

 そして、同じく早々に領地に帰還していった冀州は袁紹。現大陸で最大勢力であろう彼女が次に狙うのは北に位置する公孫賛か、南に隣接する曹操か、あるいは空き地となっている東の青州か。華琳をしても短絡過ぎて予測しきれない相手である為に、その動向を掴むまでは祝宴の場にありながらも気を揉んでいた様子を見せていた。

 果たして彼女の目は、まさかの宦官らが立て篭もる長安に向いていた。連合軍から逸早く領地に戻っていた袁紹は、数万の兵を率いて華琳や劉備と入れ違いになるように洛陽・長安へ取って返していた。そうして間もなく行われた長安での一戦は正に多勢に無勢。宦官軍の数千の兵は瞬く間に壊滅し、宦官は一人残らず捕らえられ、そしてその全員が斬刑に処されたとのことである。

 後に帝に向け華琳の元に届いた書によると、逆賊の董卓に与していた宦官はそれと同罪であり、董卓に比する反逆者であるからの誅伐であった旨が記されており、それらを除くと己がどれほど強く強大で美しいのかが延々と書き連ねてある。反董卓連合軍総大将としての責任を果たし、曹操にこそ出し抜かれたものの帝の確然たる敵を討ってその面目を立てたのだから、帝の庇護者としてふさわしいのは家格・名実ともに自分であると名乗り出る為の理由作りであったようだ。

 言ってしまえば宦官に証拠もない罪を被せて討ち果たし、自らを飾り立てた形であったが、奇しくも董卓を隠れ蓑として漢王朝を腐敗させていた本当の黒幕を打倒していたことになる。罪の所在がどうあれ冤罪を被せる気でいた為に、有無を言わさず宦官を皆殺しにしてしまった彼女は今後も自身の成した功績に気づくことはないだろう。

 

 

 華琳を出し抜き帝に取り入ろうとする袁紹と、のらりくらりとかわして時間を稼いで体勢を立て直したい華琳は水面下で牽制し合うこととなり、袁紹に比する大勢力を誇った袁術は建国宣言を境に配下であった孫策によって取って代わられようとしている。青州を含む一部地方では黄巾党の勢力が未だ猛威を振るっており、また諸侯が治める地においても領地拡大を狙っての戦が頻発している。

 後の歴史に刻まれたように、世の中をこれ以上ないほどに混乱させたと思われた黄巾の乱はその後の戦乱の始まりに過ぎなかった。大陸は今、群雄が割拠する乱世と呼ばれるにふさわしい乱れた様相を呈している。

 

 

 



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50.『劉岱、青州黄巾党と接触するのこと』

 

 (エン)州を横断して州境に到着した拓実と霞は、そのまま越境して青州西部の平原国に入った。黄巾党の偵察任務を帯びた二人の目的地は、更にその先にある青州中央――黄巾の活動が活発と噂されている斉国である。

 そこまでの通り道となる平原国はその名が表すように平野が広がる地域であった。これといった特色がなく産出されるのは農作物ぐらいだというのに、略奪が横行し治安の悪化が続いている為か拓実や霞の目の前には手入れのされていない荒れ果てた田畑や痩けた土地が広がるばかりである。

 

「霞さぁん、美味しい食べ物って、どこなのぉ……?」

「こない有り様やったら望み薄やろなぁ。一応残ってるのがいるかも知れへんし、覗いてみるかぁ。拓実はそっからそっち頼むわ」

「うー、わかりましたぁ」

「ま、変なのがおるようなら下手に手出しせんと、ウチに声掛けーや。すぐすっ飛んでいったるから」

「だ、大丈夫ですよ! ……たぶん」

 

 邑から出てきた筵売りとその友人の用心棒という設定であるから、二人が連れているのは馬に荷車などではなく安価なロバが一頭だけ。当然ながら積める荷にも限りがあるのだが、それ以前に食糧や荷物を積み過ぎても一介の行商人にしては裕福に過ぎるということで、小道具として持ち込む筵や草鞋などを実際に売って現地調達するようにと言われていた。

 そういった理由もあってロバに積んである食糧は鹿肉の塩漬けなど日持ちする保存食や少量の米、そして雑穀ばかりで、それらを使うなら近場で調達した野草と一緒に煮込む塩気のみの簡素な(かゆ)になる。これでも保存食をそのままかじろうとする霞を止めて、拓実が手持ちの材料で作った料理だというのだからどうしようもない。もし道中に新鮮で美味しい料理にありつきたいのであれば、自分で狩るなり採るなりして食材を調達するか、あるいは人や店などから購入するしかない。

 (エン)州を旅する間は良かった。見つけた邑では何らかの食材を購入ないし物々交換することが出来たし、街道を進んでいれば別の行商人とすれ違うこともあった。それが州境に差し掛かろうとしてからのここ数日は人通りが極端に減っていて、たまの機会も持つものも持たずに這々の体で逃げ出そうとしている農民や、そうでなければ野盗の類ばかりである。逆に、拓実たちが僅かばかりでも食糧を譲ってやらねば途中で行き倒れていただろう者もいた。

 

「誰かいませんかー? えっと、勝手にお邪魔しちゃいますよー? ……ひっ!?」

 

 青州に入ったなら少しは違うものかと考えていたが、しかし見つかるのは朽ち果てた廃村ばかり。その内の一つに誰かいないかと手分けして歩いて回れば、見つかるのは刀傷を残して白骨化したいくつかの人骨だけであった。家屋の中は荒らされていたので、おそらくだが賊に襲われ抵抗したばかりに殺されたのであろう。

 他の村民は作物を作った先から奪われて、生活が成り立たず余所へと逃げ出していったのか。陳留には余所から流れ着いた移民も多くいたから、中にはこの辺り出身の者もいたのかもしれない。

 

「あっかんなー。やっぱ人っ子一人おらんし、食えそうなモンも見当たらん。拓実の方はどないやった?」

「……あ、霞さん」

 

 二手に分かれて探索を行っていたが、幾ばくもしないうちに霞が待ち合わせ場所である邑の入り口に戻ってくる。拓実もまた早々に割り当てられていた区分を探し終え、邑の入り口にぽつんと突っ立っていた。然程に大きくはない邑であるが、それ以上に住居の体をなしている家屋が少なすぎた。期待してなかったからか然程気落ちした様子もない霞とは違って、拓実はずっと表情を曇らせている。

 

「何にも。たぶん、みんな野盗とかに持って行かれちゃったんだと思います」

「そか。ま、華琳が頑張っとるからか(エン)州はどこもそれなりには豊かやけども、余所やったらこんなんちっとも珍しゅうないで」

「……そう、そうだったんですか……」

「なんや、んなことも知らんかったんか? 拓実はええとこの箱入りなんやな」

 

 とんだ世間知らずだと霞には若干呆れられてしまったが、拓実自身、己の無知さに愕然としていた。突然大陸の荒野で目覚めることになってからここに至るまで、拓実は数えるほどしか(エン)州の外に出たことがなかった。普段生活をしていた荀攸は居城の執務室に籠もりきりであったし、もう一役の許定は警備隊であるからその行動範囲は街の中で完結してしまっている。そしてその陳留の街は移民を受け入れられるぐらいに栄えていたし、衣食住に困ることはなかった。拓実は恵まれた環境で過ごしているうちに、いつしかそれを当然のものと考えていたのだ。

 黄巾党の征伐で劉備軍と共に各地を転戦していた時期、そして先の反董卓連合軍での洛陽遠征は州外のことでその限りではなかったが、その時も将の一人として行軍の中にあったから不便はなかった。酷く荒廃していた洛陽にしても宦官たちの悪政と略奪があったという話だったから、そこが特別に荒れ果てているものだと思い込んでいた。

 けれども、拓実も陳留に居ながらに話には聞いていたのだ。旅人や行商からイナゴに作物をやられてどこそこの邑がなくなっただとか、あの商屋の丁稚は口減らしに陳留に奉公に出てきただとか、世間話の中にもそういった話は聞こえていた。知ろうと思えば大陸の状況を知る機会はいくらもあったのに、拓実はこうして己の目にするまで知った振りをして、他人事として意識から外して何も見ていなかったのだ。

 

「どないした?」

「私、自分が恥ずかしいんです。苦しんでいる人たちがいたのに、それを知っていたのに、自分のことしか考えてこなかったんだなって……」

 

 立ち止まり、朽ちかかった民家を遠目にじっと眺めていると、霞から声がかかる。言葉こそ返したが拓実は未だに後悔の中にいた。

 これまでの拓実の行動の指針は、全て己の利に因るものであった。華琳の演技をする上で思考をなぞり、彼女が作り上げようとしている平和な世を見てみたいと考えたことは嘘ではない。でもそれは、拓実が日本へと帰る方法を探すという上で都合が良かったということが大部分を占めている。

 訳も分からず身分すら証明できなかったあの頃ならいざ知らず、あれから数年が経っている。華琳に課せられた重責を果たせるよう毎日をがむしゃらに生きてきたけれど、きっと虐げられる人々がちゃんと視界に入っていたなら、もっと弱者の為に動けた筈なのだ。

 

「そう言うけどな、拓実はこれまでも遊んどった訳やないんやろ?」

「ですけど、でももっと私にも出来たことがあるんじゃないかって……」

「見ず知らずの難民に食糧を分けてやっとる時も思っとったけど、誰相手でも放っておけんってか、博愛の精神が強いっちゅうのかねぇ。ウチはそないな甘い奴嫌いやないけどな、これまでよう真っ直ぐやってこれたもんや」

「……私が?」

 

 そのように評する霞に対して、拓実は思いも寄らない言葉が飛び出たことに驚き目を見開いていた。混乱により思わず、性格の一部が剥がれかける。

 拓実が博愛主義者であるだなんて、そんなことはきっとない。いや、この時代の一般的な常識と比べてということなら考えが甘い方であるとも言われるかもしれないが、だとしても庇護すべき人とそうでない者の区別はしていた筈だった。『南雲拓実』を基盤としたならおかしいのは今の拓実で、間違っているのはこの考えだ。こんな自問自答はとうの昔に乗り越えていた。

 

 拓実は己のエゴイズムを良しとして覚悟している。目的のためにならば、他者に犠牲があろうとも立ち止まったりはしないと決意している。華琳に敵対する者を倒し彼らの目指す未来を摘み取ったのも、領民を害していた賊を殺してきたのも、無理矢理にでも決意という名の背骨を通しておいたから。華琳の生き様を辿り、考え方に共感し、憧れたからだ。

 華琳の下に生きる弱者を救う。華琳に味方する者、志を同じくして属する者に助力もする。けれど、拓実の手が届くのは周囲――華琳の治める土地に住まう者までだ。その手を遠く届かせたいのであれば、あるいは領地の外にある者をも救いたいのであれば、華琳に大陸を統一してもらう他にない。華琳の庇護の下にある者ならば拓実の手は届く。己の領分を理解しているからこそ、拓実は華琳の大陸統一の役に立つべく少しでも強くなろうとしているのである。

 

 そして、青州の民は華琳の領民ではない。拓実の手の及ぶ土地でなければ、預かり知る者たちでもない。救ける義理がなければ拓実は見捨てる。その行為が人道的に正しいものではないとしても見捨てられる。助けられない己の力不足を悔むし後悔もするけれど、そうすると決めている。

 ――そんな考えに対して、今は言いようのない抵抗を覚えている。力が及ばないとしても何か別の方法を模索するべきではないか、微力ながらも何か出来る事があるのではないかと他ならぬ拓実へと訴えかけている。おそらく『この拓実』にとっては受け入れがたい考え方なのであろう。そうした物事の捉え方に差異があったと、拓実自身が気づけなかったのだ。

 

「ま、前に拓実が名乗っとった荀攸とかいう時は損得勘定ばっか考えてそうな感じやったから意外やけどな。そいや今は違う名前やったっけ? 確か劉備と同じやから、劉ナンチャラやったと思たけど」

「名乗っ……!?」

 

 己の中の不和と葛藤していた拓実は、唐突に現実に引き戻された。看過できない発言が飛び出て、急いで辺りをきょろきょろと見回す。住民を探していた拓実たちにとって幸か不幸かわからないが、先ほどまでと変わらず見渡す限りに人影はない。

 ほっと溜息を吐いた拓実は、眉根を寄せて霞を見上げる。その瞳には、珍しく非難の色があった。

 

「あの、霞さん? 違う名前とか、名乗ってたとか言うのやめてくださいね? 荀攸さんは別口から青州に入ってて、私は沛国(はいこく)出身の劉岱(りゅうたい)っていうただの筵売りなんですから」

「あー、せやった劉岱! 劉岱やった!」

 

 拓実が小走りで寄っていっては漏れ聞こえないように手で覆いを作って内緒話するようにしているのに、当の霞が気にした様子もなく手を打ち鳴らして普通の声量で話すものだからまったくの徒労となってしまっている。

 反射的にまた人影を探しかけたが、既のところで今しがたに見回して誰も居なかったことを思い出し、少しピリピリし過ぎているのかもしれないと拓実は強張っていた顔を揉みほぐす。

 

「そうですよ。名前の『岱』にだってちゃんと由来もあるんです。(エン)州は東部にある霊峰泰山に(ちな)んでつけられてまして、字の公山にもかかってるんですけど……」

「なんやもう、ややこしい設定やなぁ」

「ですから、設定とか言うのもダメなんですってば!」

「へぇへぇ、わかっとる。心配性やなぁ。ウチかて人前ではこないなこと言わんて、安心しいや」

「むぅー……!」

 

 道中での話しぶりから薄々考えてはいたが、どうも霞が『華琳の影武者』という機密に対して軽く捉えているように思えて仕方がない。良くも悪くも細かいことを気にしない性分なのだろうが、言動が楽観的に過ぎて見ていてどうも不安になる。

 機密を厳守するようにと言いつけられている拓実としては、出発前に華琳より霞が選出された理由は聞いていたが今回ばかりは人選を誤ったのではないかと疑ってかかってしまう。

 

 官軍に所属していた頃より神速の用兵と名が売れていたとはいえ、曹操陣営においては新入りである霞が機密の塊である拓実の護衛任務に遣わされた理由は、(ひとえ)にその人柄にあった。義理堅く、人情に厚く、一度身内となった者は捨て置けない。そんな詠からの評価に加え、宦官という一癖二癖もある敵に囲まれて猜疑心が強くなっていただろう彼女に重用されていたというだけでも信用に値する人物であると華琳により判断されたのである。また武の技量も申し分なく、先の遠征で新たに加わったばかりである為に曹操の配下になったという情報が他所に出回っていないということが決定打となり、こうして拓実と霞の二人旅となった訳であった。

 では何故その霞ばかりが機密に対してこのような態度なのかといえば、打ち明けた面子の中で彼女一人だけが華琳を己の主君に足るとは認めていないからだ。同時期に加入した詠であっても、敬意まではなくとも『曹操』が上に立つ者として有能であって、彼女という存在が失われた時にはこの陣営が瓦解するものと理解している。対して霞が華琳に降ったのはあくまでも月と詠がいるからというもので、華琳であるから臣下として忠義を誓った訳ではない。現状ではただの雇用主という認識なのであろう。

 霞は曹操陣営にとって華琳が文字通りの中核であると把握しておらず、王になるべくしての人物と未だ知らない。おそらくは影武者である拓実も華琳の身代わり程度としてしか考えておらず、然程には重要であると思っていないのだろう。こればかりは華琳と共に過ごしてその人となりを知るまでは理解されないことであり、拓実が旅先でどう説明しようとも改善される余地がない。とかく拓実は、他の人の前では公言しないと言う霞の言葉を信じる他になかった。

 

「ほな、ここにおっても何もあらへんし、さっさと次の邑目指して出発するかぁ」

「あの、霞さん! 出発する前にちょっとだけ時間もらってもいいですか?」

 

 言いながらも手荷物をまとめ、杭に括りつけられたロバの首縄を解こうとする霞を拓実が慌てて引き留める。

 

「あん? 別に構わへんけど、厠か? はよ済ましーや」

「ちっ、違います! その、あの人たち、このまま野ざらしは可哀想ですから、せめてお墓だけでも作ってあげたいんです」

「は、そーいうことか。……しゃーない、そないな奴嫌いやないって言うたのはウチや。二人でやれば半刻で終わるやろうし、一人で待っとってもやることないしさっさと終わらそか」

「ありがとうございます!」

 

 口では気が乗らない風に言いつつも、霞は腕まくりすると転がっていた杭を手に率先して穴を掘り始めた。彼女としても弔おうとすることを否定する気持ちはなかったのだろう。

 ――二人が埋葬しようとする者たちは、それこそ拓実にとって縁もゆかりも無い。素の拓実や許定であれば殺され無残に打ち捨てられていることを気の毒に思ったことだろう、遺体の前で黙祷したかもしれない。荀攸ならば目的達成を優先し、霞と同様そのままに立ち去ることだろう。

 今の拓実にとって当然の行動がこういう形であっただけだ。劉岱である以上拓実はそれに抗えないし、自身を動かそうとする意志に無理に反すれば『劉岱』という人格の軸が折れる。そうなったら最後、拓実は二度と劉岱を演じることが出来なくなるかもしれない。

 

 

 

 それから数日後には平原国を抜けることができたが、その道程に獣が棲息していそうな深い森はなく、ところどころまばらに木々が立つだけだった。青州の中心に向かうにつれ寒村などは見つかるようになったものの、立ち寄った邑は作物は自給分しか賄えないないほど貧しく、人の食べ物を求めて民家に忍び込んできたネズミをも食糧としているほどだ。農業用水にと引いたであろう水路や井戸、小川などは見つかるから水の確保だけは困らないが、そこでもこれといって食材となりそうなものは見つからなかった。

 結局、平原国を抜けるまで二人は保存食の世話にばかりなっていた。しかし、それだって風化しかかった廃村や日々の食事にも困窮している寒村を見てきた拓実には食べられるだけでも上等に思える。拓実の胸の内からは、旅に出たばかりの頃のような不満が出てくることはなかった。

 

「霞さん霞さん! 食材、分けてもらえましたよ! じゃーん、そんなに量はないけど、野うさぎの腿肉と粟!」

「おおお! うっし、やったな拓実! これで代わり映えしない飯ともおさらばや!」

「ううっ、私なりに頑張って味付け変えたりしていたんだけど……」

「いやいや、拓実には感謝しとるってホンマ。ウチは炙るかごった煮しか出来ひんしな」

 

 そして青州は二つ目の国、済南に入ってのようやく真っ当な食糧調達である。この邑には昨夜に辿り着き近場の民家の納屋を借りて一泊させてもらっていたのだが、明るくなってみれば人も賑わっているそれなり栄えた邑だった。積んできた食糧も底が見えていたので、新たな食材を手に入れられたことで二人の表情は一層明るい。

 

「聞いてみたらもう少し南に行けば街があって、その辺りなら川魚も穫れるみたいです。今から向かえば夜には着きそうですよ」

「魚かぁ。最近は塩漬け肉ばっかりやったからそれもええなー。なんにせよ目的地が河南やから渡河せんことには辿り着けんし」

「河があるんだったら行水も出来ますよね!? いくら濡らした布で体を拭いてても、流石に汗の臭いが……」

「そんなら行水よりもあっつい風呂や! 酒でもやりながらゆっくり浸かりたいなぁ、ええなぁ……」

 

 食材をロバの背に積み、言葉を交わしながらも二人は引き寄せられていくように南へ向けて進路を取る。

 長らく二人きりで旅をしていたこともあって、拓実もだいぶ霞とは打ち解けていた。料理が苦手という霞の代わりに、拓実が限られた食材でそれなりに食べられる物を作っていたというのもあるのだろう。

 旅の途中、水場を見つけては体を布で拭いて清めていたが、霞が手の届かない背中を拭いてやると言ってくれるぐらいには親しくなっている。また霞なりのコミュニケーションの一環なのか、ふざけて拓実に抱きついては後ろから胸を触られたりもしたのだがどうやらあんまりに平坦過ぎて笑えなかったらしく、以後拓実の胸部に関しては腫れ物を扱うようにされていたりもする。

 

「しっかし、黄巾賊の奴らが荒らしまわっとるなんて話やったけど、中心部の方は思いの外治安ええなぁ」

「ですよねぇ。ここ数日は野盗の数も減ってますし」

 

 青州に入ってから二人は幾度か野盗や追い剥ぎに襲われていたが、それら全てを霞が撃退していた。荒くれ者といった風貌のそれら野盗らは申し訳ない程度に黄色の布を身につけていたが、黄巾賊を騙って箔をつけていただけで無関係なようであった。農家の出であった彼らは最初は食い詰めてということだったが、今となっては皆他人から命を奪うことに抵抗すら覚えない、ただの悪党に身をやつしていた。

 そして平原国を抜けてから数日経った現在では野盗は減少しており、襲われたとしても黄巾を身につけている者はとんと見なくなった。黄巾党に支配されていると事前に聞いていただけに、それがどうにも拓実には解せないでいた。

 

「よお! お姉ちゃんたち二人旅かい?」

「客を探してるってんなら俺たちが買ってやろうか?」

 

 四方山話をしながら先の邑から数里ほど歩いたところで、後方から馬を駆った男たち五人が拓実たちに声を掛けてきた。にやにやと下卑た笑みを浮かべた男たちは拓実と霞の前に回りこむようにして立ち塞がる。

 霞がつまらなさそうに、その後ろでは拓実がきょとんとした様子で男たちを眺める。

 

「はぁ、言うとった矢先からこれかい。こないな手合も久々やなぁ」

「あ、でも霞さん、お客さんだって言ってますよ! えっと、ちょっと待って下さいね。売り物でしたら筵と草鞋がありますけど、どっちを……」

「アホ! やつら、どう見たって真っ当な客やないやろ」

 

 霞に言われて見てみれば、五人の男たちは腕などに黄色の布を巻きつけている。拓実たちがそんなやり取りをしている間にも馬から降りた男たちはじりじりと近寄って、逃げ道を塞ぐように取り囲もうとしている。

 

「ひっでえなぁ、姉ちゃん。人を見た目で決めつけちゃならねえよ」

「ほー、そんなら草鞋でも買うてってくれるんか? 全員分まとめ買いするってんなら特別にまけたってもええけどな」

 

 霞はそう言って、男たちに向け飛竜偃月刀を構えてみせる。警戒心を緩めない霞に、男たちは鼻白んだ。

 

「なあ。面倒臭えし、いいからさっさと攫っちまおうぜ。やるこたぁ変わらねえんだしよぉ」

「ほれ、お前さんの連れはそう言っとるで。御託並べとらんとさっさとかかってこんかい」

「ちっ! 五人を相手にいい度胸じゃねえか! ちっと痛い目見ねぇとわからねえみたいだな!」

 

 ここに至っては男たちも害意を隠そうとしない。それぞれ腰に佩いた刃物を抜き放って、霞へと向ける。

 

「拓実、巻き込まれんように離れとき」

「あ、はい。わかりました……。あの、霞さん、気をつけてくださいね?」

「はっ。こんな三下相手に何を気ィつければええのかわからんわ」

 

 多勢に無勢という状況だというのに、霞は不敵にもにいと笑みを浮かべてみせた。

 霞の実力はこの旅の中で幾度か目にして知っている。まだその強さの底は見えないが、春蘭や秋蘭を相手にしても一方的にはならずいい勝負が出来るのは間違いない。であれば、五人程度であれば敗れることはないのだろうが、だからといって何事か不測の事態があって怪我をしないとも限らない。ロバを引いてもたもたその場から離れた拓実は、すぐ側の枯れ木に身を寄せ心配そうに霞を見守り始めた。

 

「おいてめえら、女相手に何をしてやがる! 女性には優しくしなさいって地和(ちいほう)ちゃんが言ってただろが!」

 

 そうしたところ、遠くから新たに複数の馬蹄の音が響く。拓実たちが進もうとしていた先――先の五人の男たちの後方から、更に八人の黄巾を頭に巻いた男たちが馬を駆ってきた。

 

「あん? 何だ地和ってのは。てめえら、お仲間か?」

「地和ちゃんを知らないだと……黄布を身につけてっけど、まーた俺らの名前を騙った奴だな」

「あんだとぉ? 何だか知らねえがてめえらも同じ穴の狢だろうが!」

「俺たちもてめえらみたいな奴と一緒にされて迷惑してんだ! おう、こいつらやっちまうぞ!」

 

 拓実たちを放って、後から来た男たちと先の五人の間で剣呑な雰囲気になっていく。喧嘩を売られた形になった五人は、元より獲物としてしか見ていなかった霞のことなどはもう眼中にないようだった。

 

「なんや、仲間割れかい。せっかく久々に暴れられると思っとったのになー」

 

 すっかり蚊帳の外に置かれてしまった霞は飛竜偃月刀を肩に担いで少し離れた拓実の元へのんびり歩いてくる。そうこうしている間にも黄巾の男たち八人が棍棒などを構えて五人側に襲い掛かっていた。

 霞も勝手に盛り上がっている中に乱入するつもりはないようで、その場にしゃがみ込むやつまらなさそうに乱闘の様子を眺め始めた。

 

 

 

「くそがっ! 覚えとけよ!」

「てめえらこそ次に見かけたらふんじばってやるから覚悟しとけ!」

 

 数分ほど成り行きを見守っていた拓実たちだったが、程なくして五人側の男たちが悪態をつきながら逃げ出していった。数の差もあるのだろうが、個々で見ても八人の男たちの方が実力は一枚上手であったようだ。多少の手傷を負っている者もいたが、残った男たちに深手を負った者はいない。

 ぼんやりと興味なさげに眺めていた霞だったが、その表情はいつしか笑みへと変わっていた。武人の性か、相手がそれなりにでも手強いとわかるとどうも喜んでしまうようである。

 

「さて、ようやっと終わったか。ほんなら残ったあんたらがウチの相手か?」

 

 その場に残されたのは黄色の布をバンダナのように頭に巻いた八人の男と、霞と拓実。ようやく自分の番が来たかと武器を構え直した霞に、男たちは焦った様子で首を横に振る。

 

「いや、そんなつもりはねえ。安心してくれ。何しろ俺には決めた相手、地和ちゃんがいる!」

「あん?」

 

 先頭の男が己の胸を親指で指し、声高らかに告げる。霞は言っている意味が理解出来なかったらしく首を傾げた。

 

「俺は天和(てんほう)ちゃん!」

人和(れんほう)ちゃん!」

「地和ちゃん!」

「てめえ、ふざけんな! 地和ちゃんは俺のだ!」

「バカヤロウ! 誰がてめえのだ、みんなの地和ちゃんだろうが!」

 

 後ろにいた男たちが手を挙げて負けじと続き、勝手に仲間割れを始めて掴みかかっている男たち。すっかり拍子抜けしてしまったのは霞である。

 

「ちょちょちょ、待ちーや。あんたら、黄巾賊なんやろ? 青州じゃ好き勝手暴れまわっとるって話聞いとったんやけど?」

「ああ、他の勝手に名乗ってる奴らはな。そう呼ばれてるってだけで俺らも黄巾賊って名乗ってる訳じゃねえ。けどな、あいつらと俺らは違う。女性は敬わないと地和ちゃんに嫌われちまう」

「天和ちゃんが他人に親切に出来る男の人は格好いいって言ってたからな! 困ってることがあるなら俺に言ってくれ! そして天和ちゃんに俺の見事な親切っぷりを宣伝してくれ!」

「俺は、みんな仲良くしてるのを眺める人和ちゃんが、薄く笑ってくれてる。それだけで、幸せなんだ」

 

 ……どうやら、この男たちは心の底からその三人の喜ぶ姿が見たいが為に行動し、結果としてなのだろうが治安維持をして回っているようである。先程の手並みを見れば、そこらのゴロツキにはそう負けたりはしないだろう。

 あんまりにあけすけに自分たちが天和・地和・人和なる三人を好きか語り始めているものだから、嘘をついている様子も見られなければ拓実たちを(かどわ)かそうという意図もまったく見えてこない。

 

「なぁ、嬢ちゃんたち。とりあえずこっちへ向かってたってことは行き先は済南なんだろ? 俺たちも警邏は終わって帰るところだしな、よかったら連れて行ってやるぜ」

「えーっと、どうしましょう霞さん」

「……ま、案内してくれるってんなら甘えとこか」

「男ばっかの奴らを警戒するのも当然だからな、俺らは先を歩くから後ろからついてきてくれ」

 

 男たちのもはや信仰といっていい考えは霞にはどうにも理解し難いらしく、訝しんでいる。それでも同道を許可したということは、もしこの八人に騙され不意を突かれて襲われたとしても霞一人で撃退出来るということなのだろう。

 一気に十人もの大所帯となった一行であったが、道すがらに聞いてみれば彼らは非公認の親衛隊を名乗っているらしい。

 

「あのー。その天和さんとかってとっても素敵な人みたいですけど、どういった方なんですか?」

「俺にとっちゃ世間で言われてる男なんかよりよっぽど天の御遣い様よ! 歌声は天女のそれ! その愛くるしい笑顔! 絶世の美女とはきっと天和ちゃんのことだぜ!」

「人和ちゃんたちは、姉妹三人で俺たちに、素敵な歌と踊りを届けてくれてる。俺達は、彼女たちの追っかけである証として、黄色の布を巻いているだけだ」

 

 そうして更にいくつかの話を聞いた限りでは、『本物の黄巾党』であろう彼らが心酔している天和・地和・人和とは、拓実の知る張三姉妹である可能性が高い。それでなくとも黄巾党に関連し、歌と踊りで興行を行っている三人の女性など、黄巾党の蜂起と共に活動の規模を広げていた旅芸人の張三姉妹ぐらいしか思い当たらない。

 孫策に討ち取られたとされた黄巾党の首魁、張角・張宝・張梁。しかし実際に討たれたのはむくつけき男三人であった。当然ながら華琳らが真の首魁と定めている張三姉妹の行方はこれまで知れなかった訳であったが、拓実の考えが正しければ青州に隠れ潜んでいたということになる。

 

「へぇー、すごいんですねぇ。ねぇ、霞さん霞さん! 天和さんたちの興行、一度見てみたいですね!」

「お、おう……。せやな?」

「おっ、地和ちゃんたちに興味あるのかい? 多少値は張っちまうが、二つぐらいならまだ次の公演の席を用意出来るぜ?」

「うー、私たち貧乏二人旅なので、ちょっと厳しいかなぁ」

「そいつは残念だ。そういや、嬢ちゃんは行商人だよな? 儲かってんのかい?」

「もう! 儲かってたら公演だって観に行けますもん。霞さん風にいったらボチボチなんです。お客さんがいなくちゃどうしようもなくて」

「まぁなぁ。さっきみてえな奴らがうろついてるこのご時世じゃ行商ってのも難しいよな」

「……拓実のやつ、何でもう初対面の奴らと打ち解けてんねん」

 

 和気藹々と会話する拓実の隣で、すっかり疲れた様子で霞は肩を落とした。霞もまた今回の黄巾党の動向を探る任務を受けるにあたり、華琳たちが掴んでいる張三姉妹についての説明を受けている。

 黄巾党の本当の指導者であろう張三姉妹の目的を探るには、彼ら取り巻きから情報を得た方がいいだろう。霞なりに不自然にならないように話を聞き出せないものかと考えていたのだが、いつの間にか拓実はもう以前から知り合いだったかのように会話している。

 

「てっ!?」

 

 と、突然に前を歩いていたうちの男一人が急に足を滑らせて尻もちをついた。その後ろを歩いていた拓実の目の前にはぽつんと雪駄のような履物が残されている。

 どうやら怪我はしていなさそうだったが、男は尻もちをついたまま立ち上がらずに座り込んでいる。

 

「あの、大丈夫ですか?」

「ああ、悪い。……ち、さっきので紐が切れてやがったのか」

 

 拓実が地面に落ちている履物を拾って持って行ってやると、受け取った男は手元の履物を確かめて渋面を作った。

 

「お前、金ないとか言っていつまでも買い換えないからだろ」

「しかたねえだろ! 地和ちゃんがよく見える真ん前の席は高いんだからよ!」

「それなら仕方ないな」

「仕方ない。我慢するしかない」

「だろ!?」

 

 そんな男たちの会話を聞いていた霞は何が仕方ないのかわからずに頭を悩ませていた様子だったが、しばらくして「あー、ウチにとっての酒みたいなもんか」と一人ごちていたのでどうやら納得したらしい。

 拓実が男の持っている壊れた履物を覗いてみれば、前緒は無事だが足を引っ掛ける横緒の部分が真ん中あたりで千切れている。少なくともこのままでは履けそうにない有り様である。

 

「これ、千切れちゃったのって止め紐だけですよね? だったら紐を付け替えれば直せますから、良ければ私がやりましょうか?」

「いや俺、直してもらおうにも金持ってねえし……」

「流石に商品にするのに作った草鞋はあげられませんけど、紐の付け替えぐらいだったらお金は気にしないでください。それに、さっきはみなさんに助けてもらっちゃいましたし。はい、ちょっと貸してくださいね」

 

 拓実はにっこりと笑顔で履き古した履物を受け取ると、荷物から紐状に編んだ麦藁を取り出し、慣れた手つきで鼻緒を取り外して履物の修理を始めた。

 飯の種になるものだからと旅の間も暇があれば藁を石で叩いて柔らかくし、商品の草履や筵を新しく作っていたからこの手の細工は慣れたものだ。そうして二つ結びにした髪を左右に揺らしながら鼻歌まじりに作業をして、数分ほどで紐を付け替えると男へと差し出した。

 

「はい、どうぞ。応急処置しただけで全体的にへたってきちゃってますから、できれば近いうちに新しいの買ってくださいね?」

「おお! ありがとな嬢ちゃん。いや、見事なもんだ」

「そんな! 私たちもお世話になっちゃってるんですから気にしないでください!」

 

 両手を胸の前で振ってから、拓実はにっこりと笑って立ち上がった男を見上げる。拓実よりも頭一つ半ほど背の高い男は、うっと詰まった様子でのけぞった。

 

「……な、なぁ。名前、名前を訊いてもいいかい?」

「はい? えっと私は劉岱。字は公山と言います」

「公山ちゃんか。うん、良い名前だな。うん……良い名前だ」

 

 履物を直してもらった男は、何やら様子がおかしい。それまでははっきりとしたぶっきらぼうな口調だったのに、もごもごとした要領の得ないものになってしまっている。

 

「女の子の手作りかぁ……地和ちゃん一筋の筈の俺がちょっとだけうらやましいと思っちまった」

「ああ。ちくしょう、あいつばかりいい目を見てやがるな」

「えっ!? あー、その。でも、商品はあげられないから……えっと、そうだ! 繕い物とかなら私でも出来ますから、もしあったら持ってきてもらえれば……」

『おおーっ!』

 

 言った途端に、他の男たちがわらわらと拓実に群がってきた。背の低い拓実は男たちに囲まれるとすっかり見えなくなってしまう。

 

「男やもめばっかりだからな、すげえ助かるぜ」

「この前の公演で一張羅がほつれちまってたんだけど、直してもらってもいいか?」

「着物は新調したばっかで、繕い物なんか下着ぐらいしかねーぞ!」

「流石に下着はやめとけ」

「なぁなぁ、代わりに頭巾に『れんほー命』って入れてもらってもいいか?」

「え? え? いえ、大丈夫ですよ。あ、はい、もちろん!」

 

 他の七人とも繕い物の約束をして、ようやく開放された拓実はほっと胸を撫で下ろす。七人分の繕い物となるとけっこうな手間なのだが、それでもみんなが喜んでくれているのがわかったので拓実も嬉しくなってしまう。

 面倒事を背負い込みながらもにこにことしている拓実に、霞が「奇特なやっちゃなぁ」なんて呆れの含んだ声を掛けてくるけれど、それも気にはならない。拓実は劉岱の思うまま、やりたいようにやっているからだ。

 

「おい……人和ちゃんが言ってた話、この子ならいけんじゃねえか?」

「ああ、俺もこの子なら大丈夫だと思うぜ」

「どう考えても公山ちゃんはぴったりだろ」

「へ?」

 

 そんな拓実を見て、男たちは顔を寄せあってぼそぼそと何事かを相談し始めた。男たちが拓実を指して話し込み始めたものだから、拓実は遠巻きに見られたまま訳も分からずにきょとんとした顔になる。

 しばらくして結論が出たのか、まとめ役らしい男が神妙な顔で拓実の真ん前に立った。思わず、何を言われるものかと拓実も背筋を伸ばしてしまう。

 

「なぁ嬢ちゃんたち。どうやら商売の方も芳しくないようだし、もし済南にしばらく逗まるってんなら、天和ちゃんたちの付き人をやってみねえか?」

 

 

 

 

 



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51.『拓実、思わず演技が剥がれ落ちるのこと』

 

 三姉妹の付き人をやってみないか――男たちにそう尋ねられた拓実と霞は、済南に向かうまでの道すがら付き人とやらについての説明を受けていた。

 聞くところによれば三姉妹は日程の管理をしたり、衣装の用意など身の回りのことを補佐する人材を数ヶ月ほど前から募集しているということで、拓実扮する劉岱の人柄はその募集に適任ではないかということなのである。

 聴衆が増えるに従ってその興行もまた大規模になり、三人だけでは手が回らない状態なのだろう。しかし、そうして募集をかけたところで志願してくるのは三姉妹たちに好意を持ったいい年の男ばかりで、当然ながら三姉妹はそれらを側に置いてはとてもじゃないが安心できない。そうして後に同性であることと、同性であっても彼女たちの後援会に参加していないこと、他にも幾つかの条件が付け加えられていったようであった。

 

 では何故その募集を男たちが代行しているのかと問うてみれば、黄巾党では数十人から数百人程のいくつかの『組』を作っており、それぞれが三姉妹に如何に顔を覚えてもらえるか競っているからと彼らは言う。彼ら以外の他の『組』も付き人探しは行っていて、その中から拓実たちが三姉妹の付き人になれば推薦人として印象が良くなるという考えがあるようだった。彼らにとって物事は全て三姉妹を中心に回っているらしい。

 しかし彼らは、何も知らぬ者たちからすれば年端もいかない女芸人に熱を上げては奇声を発するいい年した男たちと認識されている。特に女性の目には異様に映るらしく、世間での悪評やその風体も手伝って付き人を募って声を掛けても酷い時には悲鳴と共に逃げられてしまっている。三姉妹の追っかけの中には女性もいるようではあるが、三姉妹に顔を覚えてもらおうという考えはなく、さらに女子組として男連中とは完全に交流は断っているとのことで、三姉妹の興行に興味を示しながらも男たちを蔑視せず物怖じしない劉岱は付き人として理想的な人物であったようであった。

 

「ウチらも済南におる間はどっかで日雇いの仕事する予定やったしなぁ。聞けば払いも良さそうやし、その付き人っての受けてみよか。な、拓実」

「ええっ!?」

 

 それまで見るからに興味なさそうにして明後日を眺め歩いていた霞が、唐突に横から口を挟み出した。大仰に驚いてみせたのは拓実である。

 確かに、二人は黄巾党の足取りを掴むまでは済南に滞在する予定であった。けれども一介の行商人に扮して旅する拓実たちに店を構える資金などはないし、物珍しくもない草履や筵を露天販売したところで売上を期待できそうにはない。拓実も霞も、それぞれどこかで下働きでもして滞在費を稼ぐ予定だったのだ。

 そういう意味では、黄巾党の動向を探るようにと命じられた拓実たちにとって滞在費を稼ぎながらも青州に遣わされた目的を果たせるこれ以上ない立ち位置ではある。……あるのだが、しかし拓実はその案に賛同することができない。

 

「あの、あのう。でも霞さん、付き人には条件があるってことだし、私たちじゃ……」

「女で、追っかけじゃないってこと以外は絶対ってことでもないみたいだぜ公山ちゃん。その辺は気にしなくても大丈夫だ」

「あ、ううー。そうなんですかぁ……」

 

 唯一親しげに拓実のことを『公山ちゃん』と呼んでいる、履物を直してやった男に逃げ道を塞がれて拓実は身を縮こませる。

 

「まぁ、これまで天和ちゃんには『不潔』、地和ちゃんからは『不細工』、人和ちゃんは『馬鹿はいらない』やらと理由をつけられて落とされてるからなぁ。ま、二人とも人和ちゃんに及ばずながらもべっぴんさんだしよ、商売やってんだから俺らみたいにまったく学がねえって訳でもねえだろう。不潔ってのはどうすりゃいいのかわかんねえけどよ、とりあえず今夜の宿代は俺らが持つからゆっくり風呂にでも浸かって旅の疲れを癒してくれよ」

「おっ、ええんか?」

「おおよ、そっちには顔が利くしな。そん代わしと言っちゃなんだが、もしお二人さんが人和ちゃんのお眼鏡に叶ったら俺たちのことはよおく伝えてくれよ」

「そんくらいお安い御用や。うっし、決まりやな。宿賃も浮いてええことづくめやし、駄目元で受けてみるぐらいかまへんやろ」

 

 そうこうしている間に霞が話を進めたが為に、拓実もまた男たちの言う三姉妹の付き人とやらに志願する流れになってしまっていた。そして、任務遂行の為に動いている霞を納得させながらこの申し出を断れそうな理由が見つからない。

 

 黄巾党の動向を探る今回の任務において、三姉妹の付き人になれたのならこれ以上ない確度の情報を得ることが出来る。けれども大前提とされている『女性である』という条件に拓実は当て嵌まってはいないのである。演技中は自身を女性と思い込んでいる拓実ではあるが、流石に任務の成否に関わるとなってすんでのところで我に返っていたのだった。

 女物の服を着て女性を基にした役を振る舞っておいて勘違いもないのだが、霞は拓実のことを同性と認識している。それもこれも、華琳を始めとして拓実の本来の性別を知っている者たちが皆、最上の機密とされている影武者の正体を打ち明けた際にもそれについて口に出さないものだから、拓実もまた性別を秘匿しておかなければならないものなのだと考えて積極的に打ち明けることをしなかった為である。

 旅の間は水浴びも出来ず、それぞれ濡らした布で身体を清めていた為に男であると気づかれる機会がなかったが、こんなことになるのなら出発前にでも打ち明けておくべきだった。今更になって男たちの前で性別を訂正する訳にもいかない。意気揚々と先を歩き出した霞とは対照に、もはや為す術のない拓実は消沈した様子でとぼとぼとロバを牽いた。

 

 

 

 そうして一行は夕刻に済南に辿り着いた。街を横断する遠目からも見渡せる黄土の混じった大河は、運河として商業・農業を支え、遥か古代から済南を青州最大の都市として栄えさせてきた。都市というだけあって、いくらもしないうちに日が沈むというのにこれまでの寂れた道のりがウソのように人が溢れている。

 拓実と霞は男たちに先導され、船で大河を渡った先にあるこれまた三姉妹の追っかけが主人をしているという宿に通された。その店構えは立派とは言えなかったが曲りなりにも風呂付き。これまで旅費節約の為に野宿、そうでなかったとしても農家の軒先や納屋を借りて夜を明かしてきた二人にとって、雨風に晒されず布団で眠れるというだけでも上等である。

 

「今の時間、浴場は女湯らしいな。折角やから飯の前にひとっ風呂浴びとこか。ここまで酒も節制しとったんやし、今日ぐらい風呂あがりに一杯やってもええよなー?」

 

 当然のように拓実と霞に宛てがわれ、荷物を運び入れた客室。机一つと寝台が二つばかりあるだけの手狭な部屋では、霞が肩をほぐしながら入浴の準備を進めていた。

 霞は宿に風呂があると知ってからは見てわかるぐらいに機嫌が良い。きっと、任務達成の糸口を見つけたことも無関係ではないだろう。そんな霞に声を掛けられたものの、拓実は返事も返さず思いつめていた。寝台に腰掛けたままで動かずにいる。

 

「拓実ー、何ぼさっとしてんねん。ほれ、行くでー」

「あの、待ってください霞さん。ちょっとお話をしておかないといけないことがあって」

 

 ここに至るまでにああでもないこうでもないと悩んでいた拓実だったが、これではいけないと意を決して霞へと顔を向ける。

 せめて、三姉妹と面通しを行う前に霞には話をしておかなければならない。このまま明日を迎えれば、事情を知らされていない霞の一言によって任務が失敗しかねない。

 

「あん? それは風呂に入りながらやとあかんの?」

「入る前じゃないとダメなんです!」

「もー、何やねーん? 話があるってんならさっさとしぃやー」

 

 楽しみを先延ばしにさせられて唇を尖らせる霞を前に、拓実は目をぎゅっと瞑り、息を吸い込む。

 

「その、たぶん霞さんも私の胸に触った時あんまりにぺったんこで不思議に思ったんじゃないかと思うんですけど……私、実は女の人じゃないんです」

 

 おずおずとしたおっかなびっくりな態度だったが、しかし拓実は言葉の上でははっきりとそう告げた。

 同性と認識していたからこそ、劉岱に気安く接していた部分はあったろう。あまつさえ旅の道中では、霞が半ば無理やりに推し進めたとはいえ互いの背中を拭きあったり、力仕事の代わりに下着を含む衣類の洗濯を任されたりと、異性相手であれば避けるようなことも済ませているのだ。

 最近になってようやく互いにとって気の置けない友人となれていたのに、これで嫌われてしまう――そう思った拓実は、霞の顔を直視できなかった。両目をぎゅっとつむってから恐る恐る片目を開いて、霞の反応を伺う。耳のすぐ後ろからばくばくと音が聞こえてくるぐらいに、心臓が暴れている。

 

「ほぉか、拓実は男って言いたいんか。……で?」

「えっ?」

 

 だが当の霞に呆れ返ったような様子で続きを促されてしまったものだから、拓実は目に見えて怯んだ。まったくの想定外だったのだ。間違いなく衝撃的な告白をしたというのに、反応があまりに素っ気ない。

 

「あの、『で?』って言われても……。えっと、ですから一緒にはお風呂に入れませんし、あと、付き人のお話も霞さんにお願いしたくて」

「やっぱウチが風呂一緒しようって言ったからかい。はぁ……あんなぁ拓実、いくら自分の身体に自信ないからってそないなしょーもないウソ吐いてどないすんねん」

「へ? あれ?」

 

 歩み寄った霞は拓実の肩をぽんぽんと優しく叩いた。拓実は目を白黒させて霞を見返すことしか出来ない。

 

「えーか拓実、よう聞いとき? お前さんの胸をまさぐってから先、ウチが変に気ぃ使うてしもたからそないに気に病んどるのかも知らん。拓実もあれからウチに裸見せんようしとったしな。せやったんならホンマにすまんかった。けどな、世の中には小さい方がむしろええっちゅう奴もおるんや。いや、乳しか見ぃひん野郎はこっちから願い下げって態度やないとあかんな。でかないと嫌やー言う男を好いたってんなら、それは拓実に男を見る目がなかったっちゅーこっちゃ」

「あの、霞さん?」

「こう言っちゃなんやけどな、確かに拓実の乳は大きいとは言えん。はっきり言うたら見渡す限りの平野や。せやけどウチと違って料理は出来るし、洗濯も繕い物も得意やろ? 気は利くし、器量もええ。ちょっと抜けとるとこなんか守ってやりたくなるし、武一辺倒に生きてきて無頓着やったウチが『拓実より年上なのに女としてこれでええのかなー』なんて考えるぐらいには女らしい。拓実を嫁に欲しいって男は掃いて捨てるほどにおる筈や。言うたら、ウチが嫁に欲しい!」

「はぁ……えっと、ありがとうございます?」

「つまりや! ウチが言いたいのは自分の持ってる武器で勝負せなあかんっちゅうこと! ないものねだりしたってしゃーない、目ぇ逸らしたって何の解決にもならんねん! せやろ、拓実?」

「え、は、はい。それについては、私もそう思いますけど……」

 

 霞が真剣に女子としての心構えを語り始めたものだから、拓実は何としていいものかわからずに視線を惑わせ、勢いに押されてついついお礼まで返してしまう。

 次いで隣に腰掛けた霞に両肩を掴まれた拓実は無理矢理に向き直され、そうして真っ直ぐに見つめてくる霞に対してドギマギしてしまう。当の霞はといえば自分の吐いた言葉に感じ入った様子でうんうんと頷いていた。

 

 しばらく目をパチクリさせていた拓実だったが、ようやく思考が追いついてきた。どうやら、霞は拓実の言葉を欠片も信じていない。可能性すら考慮してくれなかったのは、拓実がこの旅の間に女の子女の子している『劉岱』の演技を徹底していたのも無関係ではないだろう。

 

「さ! わかったんなら風呂行くで!」

「あのう。さっきも言いましたけど私は霞さんと一緒にお風呂には入れないので、後で一人で済ませますから……」

「はぁ……。まだそれ続けんのかい。へえへえ、ほんなら風呂一緒すれば拓実が女かどうかの確認も出来るやろ」

 

 言うが早いか霞は拓実の着替えが入った布袋を担ぎ上げると、片手で拓実の腕を掴んで無理やりに引っ張りあげた。拓実はあっさりと立たされてしまう。

 

「霞さん? えっ? ええっ、まさか……」

「うはは! 拓実の手ぇはちっこいなぁ! 背も低けりゃ体重も軽い。こんな形で男とか笑わせるわ!」

「い、いやぁ!」

「イヤよイヤよも好きのうちってな!」

 

 武術の鍛錬によって鍛えに鍛えられている霞の細腕は、いくら振りほどこうとしてもびくともしない。拓実は抵抗もむなしく廊下を引きずられていった。

 

 

 

 

「おおおー! 貸し切りやぁ!」

 

 喜色に溢れた霞の声が、奥で反響している。拓実はそれに反応して顔を上げたかけたが、視界に肌色が入って慌てて顔を背けた。

 拓実にとっては幸か不幸か、中身はともかく安宿のような佇まいであるからか利用するのは男性ばかりのようで、この日に女性客として宿を取っているのは拓実と霞以外にはいないようだった。

 

「あっ、あの、霞さ、ちょっと待……」

 

 無人の更衣室に無理やり引きずりこまれるまでにも必死に弁明していた拓実だったが、風呂に浮かれている霞は話半分にしか聞いてくれない。口で言っても信じてくれない以上、こうなっては実際に男であるところを見せる他ないと覚悟を決めて服を脱いでいるうちに、霞はさっさと裸になって手ぬぐいを片手に浴場に入っていってしまった。

 いっぱいいっぱいになってしまってもたついていたのも確かではあるのだが、サラシに袴、羽織一枚という軽装の霞よりも、ブラウスにベストを重ね、スカートの下にサイハイソックスまで履いて着飾っている拓実の方が脱衣に時間が掛かるのも当然であった。

 

「あああ、どうしよう……」

 

 遅れること数分、ようやく服を脱ぎ終えた拓実は浴場に繋がる木戸の前で立ち尽くす。最早演技どころではない。これから拓実は、入浴者のいる女湯に全裸で突入しなければならないのだ。どんなに都合の良く想像しようとも変態である。おろおろとあちらこちらに視線をやっていると、頭の動きに合わせて背中にまで伸びた金髪が揺れている。

 

 ――いっそ服を着直し、部屋に帰ってしまおうか。そんな考えが拓実の頭を過ぎった。いや、しかし、この場をやり過ごしても問題を先送りにするばかりで何の解決にもなりはしない。

 こうなった以上拓実が裸体を晒すのは仕方がない。三姉妹の付き人に志願することになるとは予測できないにしても、自業自得な部分も多々あった。周りが言わないものだからと思考を止め、右へならえをした結果がこれだ。反省と共に、受け止めなければならない。

 けれど、だとしてもこのまま女湯に入っていくことは出来ない。拓実が霞の裸体を直視してしまうというのは違う。いくら明け透けな霞であろうと異性に裸を見られていい気はしないだろう。霞まで恥をかく必要はない。

 その光景を想像しただけで顔から火が出そうになる拓実ではあったが、自分一人が部屋で脱いで見せるのなら多少なり傷も浅い筈。裸を晒すにしたって二人共が全裸である必要はないのだ。そうだ、きっとそうに違いない――頭の中いっぱいに言い訳を並べ立てた拓実は、その場からの撤退を決めた。

 

「拓実ー、なーに手間取ってんねん。ウチ、もう体洗い終わってもうたでー!」

「あっ……!?」

「え?」

 

 意を決したのと同時に、がらりと拓実の目の前にある木戸が開かれる。更衣室と浴場を隔たるものがなくなったその先、拓実の目の前にはあられもない姿で木戸を開いた体勢の霞がぽかんとした顔で立っている。思いも寄らない状況に、互いに言葉もない。

 

 拓実は呆然と、思考を止めたままに目の前の情報を読み取っていた。

 荒事に首を突っ込んでばかりでちっとも女らしくないと旅中でしきりに言っていた割に、霞の肌には目立った傷もなければ見るからにきめ細やかで、鍛えられた身体は筋肉質でありながらも女性らしい丸みは失われていなかった。

 目を惹くのは、いつもは後ろでまとめて上げていた紫の髪。こうして下ろしてみれば腰にも届くほどの長さで、水気を含んで艶やかなそれは霞をおしとやかな印象に見せている。その前髪の毛先からぽたんと滴った雫は、彼女の鼻へ落ちると顎からほっそりとした首を伝って鎖骨の間を滑っていく。ついつい拓実がその行方を目で追っていくと、すぐに豊かな乳房へと行き当たった。起伏に沿って流れ、二点の薄紅色に挟まれた谷間を通り、更に雫は落ちていく。そして拓実の視線も下へ。引き締まった腹筋、無駄な脂肪のない下腹部をなぞり、そしてその先の……。

 

「うへぇ……びくびくってしとって、なんや、その、形えっぐぅ……」

 

 慄き震える声に拓実は我に返った。下がっていた顔を上げると、いつの間にやらそろそろと拓実の下方へ向けて人差し指を伸ばしている霞の姿がある。

 ならって視線を落としてみれば、拓実の下腹部へと突き当たる。そこには女人の演技を止めてから本来の働きを取り戻していた、理性から独立し本能に従うソレがあった。

 

「わぁ!?」

 

 拓実はそれに気づくなり、すぐに片手に握っていた手巾で霞の視線を遮った。拓実が無意識に霞の体を眺め見ていたように、霞もまた拓実の体を観察していたようである。

 興味深げにしていた霞は不思議そうな表情を浮かべたまま、のろのろと顔を上げた。自然と、拓実と霞は互いの顔を見つめ合うことになった。

 

「ひぃあ!?」

 

 一拍の後、絹を裂くような悲鳴を聞き届けるや拓実の意識は暗転。ぶれる視界に最後に捉えたものは、涙を浮かべ赤面している霞の顔と迫り来る拳であった。

 

 

 

 

 

「……っと?」

 

 身体を起こそうとして失敗した拓実は、引きつり思うように回らない首に手を当てた。身体がいうことを聞かず、起き上がれなかったのだ。

 身動(みじろ)ぎすれば体中のあらゆるところが打ち付けたように痛む。訳のわからないままにぎこちなく視線を巡らせ、遅れて拓実と霞に宛てがわれた客室の、寝台の上に寝ていることに気がついた。

 しかし、部屋には拓実の記憶に無いものがあった。拓実が横たわっている寝台と、霞が使う予定であった寝台との間に大きな布が吊り下げられていて、そう広くもない部屋を分断しているのだ。当然ながら向こう側は見通せない。

 窓は跳ね上げ式の木の板で閉じられていたが隙間からは明かりが漏れていて、部屋の中は薄ぼんやりとしている。早朝か、あるいは夕方だろうか。外から聞こえるのは鳥のさえずりばかりで、生活音がほとんど聞こえてこないことからおそらく早朝なのだろうと見当をつけた。結局いつの間に寝ていたのかもわからない拓実であったが、ともかく上体だけでも起こそうと掛け布団を剥いだところで己の姿が目に入る。

 

「何、この格好……?」

 

 拓実は前も留めていない着物を一枚羽織っているだけで、その他には下着も何も身に着けていなかった。着物一枚の下が全裸であると認識して――『裸』という単語で、一気に記憶が戻ってくる。意識を失う前にいた場所、そこで起きたこと。そこから立てた推測に、浮かんでいた疑問がいくつか氷解していく。

 それに連鎖して、拓実の脳裏には春蘭の姿が浮かんでいた。この時代に来たばかりの頃、彼女に殴り飛ばされた時も何をされたのか理解する間もなく昏倒させられたのだ。それから色々なことがあったものだから、あのやり取りもひどく昔のことのように思えてしまう。

 

 もそもそ寝台から這い出てきた拓実は、部屋に置かれている水瓶の水と手拭いを使って顔を拭き、着物一枚から劉岱の服装に着替えると、慣れた手つきで髪を結んでツーサイドアップへ変える。大陸に来てから伸びが遅くなっているとはいえ、数年経った今では拓実の髪もすっかり長くなった。カーラーなどの道具があれば、ウィッグを使わずとも華琳の髪型も再現出来るだろう。

 

「そ、そのー、霞さん、起きてます?」

「っ……ちょい待ち!」

 

 霞が寝ていることも考えて静かに身支度を終えると、拓実は意を決して部屋中にかろうじて届くほどの声で呼びかけてみる。すると、動揺する気配があった。

 それから少し遅れて、焦った声が飛んで来る。言われたとおりにそのまま少しばかり待ってみると、布の向こうからは忙しなく物音が聞こえてきた。

 

「あー……拓実、開けてもええか?」

「えっ?」

「その、服とかちゃんと着とんのかってことやけど……」

「あ、はい。大丈夫です」

 

 布が少しだけ捲られて、その隙間から霞がちらちらと覗いてくる。拓実がいつもの服装であることを確認してほっと息を吐くとようやく布が除けられた。

 

「おはようございます、霞さん。あのう……」

「お、おはようさん。なんや、昨夜はすまんかったな」

 

 布が取り払われた先に立つ霞は挨拶もおざなりにして、きまり悪そうにそう言った。俯きがちに顔を逸らして拓実と目を合わせようとしない。

 拓実としても結局のところ彼女の裸をまじまじと見つめてしまっていた為に、気恥ずかしさから視線をあちらこちらへと逃がしてしまう。

 

「ええっと、それじゃあ」

「……お前さんの言っとったのが冗談やなかったってのはわかったわ」

 

 続けて「あんなモン女にはついてへんしなぁ」と呟いて、何を思い返したのか霞の頬が染まる。そういえばと、自分の身体をまじまじと見られていたことを思い出して拓実もまた赤面した。

 微妙な空気が流れる中、頭を振って気を取り直した拓実は霞に向かって深く頭を下げた。

 

「霞さん、今まで黙っててごめんなさい。話さないようにとは言われてなかったんですけど、誰も性別について触れないので明かしたらいけないのかと思い込んでました。こんなことなら最初に話しておくべきでしたよね」

「せやなぁ。ま、その格好の拓実に会うてすぐ言われたかて、信じたかっちゅーとわからんけどなぁ。ウチ、完全に女と思い込んどったもん」

 

 はは、と乾いた笑いを浮かべた霞は頬を掻き、真っ直ぐ見つめてくる拓実から逃れるように顔を逸らした。

 先程から一度も霞と目が合っていない。霞があちらこちらへと視線をやっているからだ。いくら互いに異性の裸体を見てしまったとはいえ、流石に不審に思った拓実が霞に近づいていく。

 

「霞さん、大丈夫ですか?」

「ちょっ!」

「え?」

「や、何にもあらへん! あらへんよ!」

 

 具合でも悪いのかと顔を覗きこむようにして声を掛けると、今度は視線だけでなくあたふたと挙動までおかしくなる。霞はびくりと身体を揺らして拓実から距離を取った。

 怒っているという訳でもないのだろうが、竹を割ったような性格の霞であるからこんな歯切れの悪い態度を取られるのは初めてのことだった。

 

「でも……」

「いや、調子悪い訳やあらへんねん。ただなぁ、その……ウチ、拓実のこと同性かと思て、旅の間に色々やらかしてもうたやん?」

「それは、その、黙ってた私が悪い訳ですし……」

「ちゃう。ちゃうねん。そないなことやなくて、そのな、女の心構えやら男の落とし方やらと偉そうに語っとったけど、実は、これまで色恋沙汰には無縁やったからほとんど当てずっぽうでな、それをな、ホンマモンの男の拓実からしたらどう思われとったかって考えると……うああああ!」

「あー……」

 

 頭を抱え、恥じ入るようにしている霞の顔は真っ赤に染まっている。

 ……確かに、旅の最中に世間話の延長で霞に恋愛遍歴を訊ねられたことがあった。男となんて付き合ったこともないと返したところ、したり顔で男心を掴む方法やら教えてもらったこともある。はっきりとは言ってなかったが、荒事だけでなく恋愛においても百戦錬磨であるような口振りであった。

 その時の助言も、男は単純、落とすには胃袋からだとか、長続きするには閨でのことが大事だのと、どこかで聞き齧ったような当たり障りのないようなことばかりだった気もする。拓実としてもどう応対していいかわからないので深く突っ込んだりはしなかったが、今思えばその時の霞は妙に饒舌で落ち着きなかったかもしれない。

 

「しゃーないやん……男の知り合いなんて飲み仲間ぐらいのモンで、そいつらウチのこと女なんて思ってへんし、実際男友達と飲んでるみたいだなんて言われとったし……。ウチかて年長としての矜持もあるし、この年でおぼことか思われたないやん……下の人間に助言したってええやん……」

「その……」

「そら、うちを打ち負かせる奴やないとって構えてたのが良くなったのかもしれん。けどな、勝てないまでも部下に見込みある奴だっておったんや。勘違いやなければウチも慕われとったのに、あっさり年下の村娘とくっついて子供こさえて。なんやねん『張遼将軍に釣り合う男なんていない』ってのは。それを決めるのはウチやないんかい! そもそもそんなん食堂で話すなや! 周りの人間も同意しとるってなんやのもう! そら回れ右して外に一人で飲みに行くわ!」

「あ、う……」

 

 頭を抱えたまま、霞はその場に座り込んでぶつぶつと何事か呟きだした。聞こえていないと思っているのだろうが、しっかり内容を聞き取ってしまった拓実は霞の様子にいたたまれなくなった。

 それがあんまりに不憫で、可哀想で。でもきっと霞は勘違いをしている。だからだろう、拓実がらしからぬ賛辞を述べ始めてしまったのは。

 

「で、でも、霞さんすっごい綺麗で美人ですし、体つきだって女性らしい理想の体型じゃないですか!」

「あん? や、まぁ自分のことながら顔立ちは悪ないとは思っとるし、酒飲みって自覚はあるから体型には気を使っとるけど……けどウチには女らしさなんてちっとも……」

「部下の人にしたって、霞さんは将軍としての功績があったから気後れしちゃったというか、高嶺の花というか、憧れの人だったんだと思いますよ! それに、その、霞さんは可愛らしくて、十分に女性らしいです! 保証します!」

 

 ぐっと握りこぶしを作って、座り込んで消沈している霞に向け拓実は熱弁する。如何に霞が魅力的な女性であるか、拓実は旅の中で知っていたからだ。

 ちょっと呑兵衛なところはあるけれど、面倒見が良くて、明るくて、優しくて、義理堅い。可愛くて美人でおまけに腕っ節まで揃ってる霞がこんなにも自分を卑下していることが、拓実にはどうにも我慢がならなかったのだ。

 

「拓実は優しいやっちゃなぁ。ええんやで、そないな気ぃ使わんでも」

「気なんてつかってません!」

 

 力なく笑みを浮かべた霞はすっかり自信を失っているらしく、不安げに両手を胸の前でもじもじとさせている。霞の心に、拓実の声は届いていないものと感じた。

 拓実は、こちらを見ようともしない霞のその手を、両手で握った。発された強い声に驚き、その上に手を握られたことで、霞はハッと顔を上げる。そして、まじまじと拓実の顔を見返した。

 

「……ほんなら、拓実はウチのこと、綺麗で可愛いって思うの?」

「戦ってる霞さんは凛々しくて綺麗で、笑ってる姿は無邪気でとっても可愛いです!」

「ホンマに女らしい?」

「間違いないです! 一緒に居たら誰だってドキっとしちゃいますよ!」

「ほんなら……嫁に欲しい?」

「はい、欲しいです! 是非来てください! ……ん……嫁?」

 

 不穏な言葉が紛れているのと、霞の様子が変化していたことに、拓実は同時に気がついた。そしてそれは遅すぎた。

 当初はきょとんとした顔つきで自分に訴えかける拓実を見つめていた霞だったが、いつからか頬を上気させて恥じらい、しかしこれまで見たことのない艶やかな笑みを拓実へ向けていたのだ。

 

「……う、ウチ、初めてや。そりゃこれまで荒くれモンから粉かけられることはあったけど、こんな真剣に、面と向かって口説かれたの」

「いえ、口説いてた訳じゃ」

「しゃ、しゃーないな! 嫁に欲しいとまで言われたんなら、無碍には出来ひんってか、正直なところ悪い気せぇへんし。裸見られてもうたからやっぱ責任は取ってもらわんと。そうなるとウチ、姉さん女房?」

「あの、霞さん?」

「んー……拓実は腕っ節の方はからっきしみたいやから、ウチが稼いで……いや、あかん! あかんな! お互い知らんことも多いし、まずは恋人、やなくて、と、友達からやな!? せやろ!?」

「ごめんなさいちょっと待ってください」

 

 身を乗り出すように詰め寄ってくる霞に対して、声色を作ることも演技も忘れ、拓実は制止の声を上げていた。

 霞は熱に浮かされた様子で、たぶん正常な判断ができていない。のぼせ上がっている。これは、消沈している女性に口八丁でつけ込んだ悪い男、という形になるのだろうか。

 

「あのですね、今のはあくまで客観的に見ての話というか」

「はあー? はいはい! つまりウソか!? やっぱウチみたいな粗忽者なんかは嫁に出来ひんってか!! 知っとったわ!」

「そうじゃないです! そうじゃないんです! ごめんなさい!」

「ご、ごめんなさいってなんやー!! ウチ振られたんか!? いつの間に!?」

 

 これ以上ないほどに混乱していた。拓実も、霞もである。

 ここで理由もなしに無理だなんて言えば霞のプライドを著しく傷つけることになるだろう。それはしたくなかった。だからといって霞と結婚を前提にした付き合いをしたいなどと答えることも出来ない。確かに霞は女性としても人間としても魅力的だしもちろんのこと恋愛対象になるけれど、異性として好きかと問われればまだ判断すらつかない。付き合っていくうちに相手を知っていくのもまた恋愛であるが、拓実はそれをしたくなかった。好きかどうかもわからないのにそういったことを決めてしまうのは不義理だと思えたのだ。拓実の恋愛観・貞操観念は華琳が評するところによると『曹操陣営の誰より生娘みたい』とのことである。

 

「お願いですから落ち着いて!」

「ウチは冷静や!」

「そ、それなら話を聞いて欲しいんですけど」

「おう、何や言いたいことあるなら言うてみーや!」

 

 興奮して肩で息をしている霞。明らかに冷静ではなかったし何故か喧嘩腰だったがとりあえず話は聞いてくれそうだったので、霞に椅子に座ってもらって拓実は仕切り直しにこほんと一つ咳払いをした。

 

「ええと、それじゃ、改めて自己紹介からします。()、南雲拓実って言います。華琳には彼女の代役――曹操の影武者として雇われてます。そうじゃなくても荀攸として政務したり、許定って名前で街の警備をしてます。他にもいくつか名前を貰ってますけど、女性の演技の練習ってことで全部女としてです」

「お、おう? 南雲?」

「はい。大陸の外出身なので、こっちとは名前の付け方がちょっと違うんです。本名は南雲拓実っていうんです。で、話を戻しますけど、仕事の関係で普段の生活から女として振る舞ってるので、女性の方とお付き合いしたり結婚したりなんて絶対に出来ないんですよ」

 

 拓実なりに霞のことを傷つけず、かつ穏便に思いとどまらせる方法を考えてのことだったが、とりあえず付き合ってみるのと果たして本当に不義理だったのはどちらだったのか、一瞬そんなことが頭を過ったが拓実は無理矢理に打ち消した。兎にも角にも、この場を収めるのが先決だと判断したのだった。

 

「……はー、なるほどな。渋っとったのはそういうことかい」

 

 拓実の話を聞いてからしばらくうんうんと唸っていた霞はぽんと手を打ち付けると、会得がいった様子で無理矢理に難しい顔を作る。

 

「拓実の事情はわかったわ。目の前に、ほ、惚れた相手がおっても告白も出来んちゅーことやな。そらまた難儀な話やなぁ? な?」

 

 霞の口の端はひくひく吊り上がっており、内面からは別の感情が漏れ出ている。そんな風に拓実を覗き見ては頬を染めている霞を前にして、どうやら根本的な誤解が解けていないことを知らされた。

 励ましの言葉は口説き文句と取られ、その真剣さと熱の入りように霞は拓実にしがらみさえなければ求婚されていたぐらいにベタ惚れされていると思われているようである。さらには、異性に真っ向から好意を向けられた経験がなかった為に、どうやら拓実を強烈に意識してしまっているようだった。

 

「いや、ぐ、むむむ……!」

「何に対しての『むむむ』やねん」

 

 はっきり言えば勘違いではあったが、霞がそれと言葉にしている訳ではないので訂正出来なくないものの難かしい。『あなたに恋愛感情は持っていませんよ』などとはナーバスになっている霞に告げられなかったのだ。

 しかしどちらにしても異性としての付き合いは出来ないとは伝えてあるので、誤解は追々解いていけば一端置いておいてもいいかと思い直した。何のことはなく、ただの問題の先送りである。

 

「とにかくですね、そういう訳なんでバレた時のことを考えるとすごい騒ぎになっちゃいますから、付き人の話も劉岱は抜かしてもらいたいんです」

「や、ウチ一人だけでってのは難しいのとちゃうか? あいつらにしても付き人ってのも拓実の人柄を見込んでって感じやったし、言うたらウチはおまけみたいなモンやろ」

「ええー……でも」

「渋るのもわかるけどな、いまさら辞退するわけにもいかんやろ。もう宿代貰ってもうたし、そもそもこれ逃すといつ陳留に帰れるかわからへん。ウチもバレへんように協力したるから」

 

 華琳から命じられているのは青州黄巾党の動向調査である。行動目的やその集団の規模など、報告できるぐらいの情報を集めておかないと拓実たちはいつまで経っても帰還が出来ない。

 それに、合否はともかくとして今回の付き人に応募しておかなければ、一晩の宿泊費まで払ってくれた黄巾党の彼らへ面目が立たないというのも問題だった。宿泊費を返して交友関係を保とうにも、黄巾党と無関係である拓実たち相手に込み入った話はしてくれないだろう。それでは意味が無いのだ。

 もともと張三姉妹に、味方である筈の霞、そして他にもいるかもしれない他の付き人と、周囲が女性ばかりの環境で性別を隠し通すのは難しいものとして考えていたので、霞の協力が得られるのであれば付き人に志願するのもいくらかやりようがあるかもしれないと前向きに考え直した。

 

「……わかりました。俺一人で隠し通すのはちょっと不安だったんですけど、霞が手伝ってくれるなら」

「『霞』ぁ?」

「えっ? あ、呼び捨ては駄目でしたか? ごめんなさい」

 

 せめて事情を説明する間だけでもと、誰かの演技ではなく南雲拓実として話していた為にぽろっと呼び捨てにしてしまっていた。これまで劉岱はずっと敬語で接していたので、いきなり馴れ馴れしいと思われたのかもしれない。

 拓実が慌てて頭を下げると、にへらと気恥ずかしそうに霞は笑った。

 

「いやぁ、ええってええって。ただ、家族以外の男に真名で呼び捨てされるってのも新鮮やなぁ、なんてな! うへへ」

「……」

 

 霞の勘気に触れたのかと不安げにしていた拓実は思わず(かぶり)を振る。

 誤解について後回しにしても問題ないと考えていたのだが、早計だったのかもしれない。霞が面倒くさいことになりつつあった。

 

 

 



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52.『劉岱、三姉妹による面接に臨むのこと』

 

 済南の大通りにある客入りの良い酒家。入り口横から裏手に回り階段を上った二階は、どうやら張三姉妹の活動拠点の一つであるようだ。昼下がりの、階下の酒家の客足が途絶えた時間に拓実と霞は呼び出されていた。宿屋の主人から伝えられた言付けによると、ここで付き人志願者への面接が行われるようである。

 

「アタシ青州の海の方が地元なんだけどさぁ、今青州つったら黄巾賊とかってんでなにかと評判わりーじゃん?」

「あ、そうですよね。私も済南に来るまではもっと酷いとこだと思ってました」

「だろー? アタシが若い頃に世話になってた文挙オバちゃん……孔融って人もここで刺史やってたんだけど、やってらんねーとかってどっか引っ込んじまったし。うちの実家の方にも黄巾賊やらって名乗ってるのが来てちょっかいかけるようになったんだよ。ま、そこでアタシは腕にちっと自信あったもんだからいっぺん頭張ってる奴をシメてやろうかと思ったワケだ。けど実際に本拠地の済南へ来てみりゃ役人どもよりよっぽどしっかり街を守ってんし、聞いたら筋の通らねーことしてんのは名前を騙ってる奴らってことだから、いっそアタシが本物の黄巾の奴に手ェ貸してやって偽物退治してやろうかと思ったワケよ」

 

 そして何故なのか。霞が面接を受けている間、拓実は先日より一足先に三姉妹の付き人として働いているという女性の身の上話を聞かされていたのだった。

 茶の髪には赤の滅取(メッシュ)が入っており、邪魔にならないようにうなじあたりの高さで一つ結びにしている。膝下までの長さの赤の上着を羽織り、その中には黒色のチューブトップと金属のネックレス。更には赤色の幅広のズボンのようなのを履いてそのだぶつきをブーツに入れているものだから、まるで暴走族が着ているような特攻服のようである。出会った時には拓実も面食らったが、けれどもサラシに下駄に肩掛け羽織姿の霞が横に並ぶとそれほど突飛でもないように見えてしまうものだから不思議なものだ。

 

「えっと、つまり義憤に駆られてってことですよね? すごい立派な志じゃないですか!」

「義憤って、ばっかお前……そんなんじゃねーよ!」

「わあっ!?」

 

 そんな彼女だがどうやら話し好きらしく、熱心に話に聞き入っては大仰に反応する拓実にまんざらでもない様子である。向けられる尊敬の瞳への照れ隠しか、隣に座る拓実の頭をぐしゃぐしゃとかき乱した。

 黄巾党に与しているというだけで悪人かも知れないと危うく色眼鏡で見るところだったが、実際に話してみれば厳つい見た目に反して義理堅く、人情味に溢れている人物のようである。思えば拓実が先日に出会った黄巾党の男たちも、強面ではあったが決して悪い人たちではなかった。とはいえ(エン)州で略奪を働いていた黄巾党は食い詰めた山賊らとなんら変わりがなかったので、張三姉妹のいるこの青州の黄巾党だけが特別なのだろう。

 

「……なぁ、ところで話は変わるんだけどよ。今面接受けてるのとは知り合いなのか? なんか妙な距離感だったけどよ」

 

 幼子扱いされた拓実が頬を膨らませてかき乱された髪を直していると、彼女から声が掛かった。顔つきがいつの間にやら真剣味を帯びていて、声色からもどこか落ち着きが無くなっている。どうやらこちらが本題らしい。話しかけてきたのも、面識のある拓実に霞について訊きたかったからであろう。

 

「え、ええ。まぁ」

 

 しかし、拓実にとってこの話題はやりにくい。というのも霞を相手に、劉岱はどう対応していいものかわからないでいたからだった。

 劉岱は当然女性としての考えを意識の根底に敷いている。けれども霞は役柄を飛び越え、拓実を男として応対してくるものだから演技の上で齟齬が生まれてしまっているのだった。

 拓実は努めて以前と変わらないよう振舞っているつもりだけれど、霞の方がしっかり拓実を意識してしまっているようで、二人きりの間は沈黙を恐れるかように口早に拓実に話しかけて、しかし視線が合えば逃げるように反らし、以前より一歩分距離は近くなったのに何かの折に触れれば静電気が走ったかのように大げさに離れる。やはりというか、そんな拓実と霞の様子は傍目から見てもおかしかったのだろう。

 

「その、霞さんとは同じ邑の出身なんですけど、私一人での行商なんて危ないからって用心棒としてついてきてもらってるんです」

「そうか……んで、あー、なんて言ったらいいもんかな……」

「はい? あっ、霞さん」

「おお、拓実」

 

 噂をすれば、すっきりしない顔つきで霞が部屋から退室してきた。どうやら面接を終えたようで、気疲れした様子の彼女は拓実の姿を見つけるなりに表情をにへらと崩す。

 その装いは少しばかり見慣れたものと違っている。旅の間は多少の寒さだろうとサラシと肩掛け羽織で通していた霞が、今は羽織の下に一枚、キャミソールのようなものを着ているのだ。なんとなく直接尋ねるのはよろしくないような気がして観察してみたところによれば、どうも肌を晒したくない為に厚着するに至った様子である。異性である拓実に全裸を見られたことを引きずっているのだろうか。見当はつけたけれど、拓実に直接確かめてみる勇気はなかった。

 

「面接、どうでした?」

「やー、どないやろ。反応見ると正直あかん感じやも」

 

 拓実の隣の椅子へと腰掛け、背もたれに寄りかかってため息を吐いた後、拓実を挟んで反対側に座る女性を見やる。

 

「んで、うちがおらん間にそっちのとは仲良うやっとったみたいやけど?」

「あ、えっと……」

 

 霞から湿った視線を向けられ、戸惑いながらも拓実が紹介しようと口を開いたところ、しかし肝心の彼女の名前を知らなかったことに気がついた。開いた口を閉じかけて、どうしたものかと視線を惑わせる。

 それを見て取った訳でもないだろうが、女性は椅子からのそりと立ち上がるや歩み出て、座ったままの霞の前に立つとそのまま見下ろした。

 

「あんた、聶遼(じょうりょう)っつったよな?」

「聶……お、おお! せやったな、うちのことや。にしたって、なんや。うちには随分とそっけないやないか自分」

 

 自分を指差し、首を傾げたところでようやく理解に及んだ様子の霞。

 神速の張遼と言えば大陸でもそれなりに知れた通り名である。官軍の看板武将が地方の領主に下るならともかくとして、朝敵にまで定められた黄巾党に参加するとは考えにくい為、拓実と同じく霞も『聶遼』という偽名を名乗り別人ということにしている。呼ばれ慣れない為に自分のことだと遅れて気づいて、慌てての受け答えになっていた。

 

「アタシは子義だ。太史、子義。なぁ、聶遼さんよ。アタシと手合わせしてもらえねーか?」

「……出し抜けになんやねん?」

「わかってんだろ。あんたはきっと、アタシがこれまでに会った誰よりも腕が立つ。強いやつってのは見てなんとなくわかる。けどよ、そん中でもあんたはとびきりなんだ。なぁ、あんたから見てアタシはどう映ってる?」

 

 子義と名乗る少女は挑むように霞を見る。まるで長年恋い焦がれていた相手に出会ったかのように頬を上気させながら、身を乗り出している。

 

「せやなあ……子義って言ったか? うちも同じや。お前さんとやりあって勝てるとは言い切れへん。ま、五分ってとこやろうな」

「ならよ、当然疼いてんだろ! どっちが強えのか、はっきりさせてえってさ!!」

 

 ぎらぎらとした笑みを浮かべる子義。反して武人を前にして珍しく乗り気な様子を見せない霞だったが、ちらと隣りに座る拓実を見やってから深く息を吐き出した。

 

「昨日の今日やったから大人しゅうしとるつもりやったのになぁ。やっぱあかんわ。悪い、拓実。ちょおっと出てくるわ」

「えっ? し、霞さん? 私たち、面接を受けに来たんですからケンカはダメですよ!?」

「ケンカとちゃうって。うちらにとっちゃ軽い自己紹介みたいなもんや」

 

 それだけを言い残すと霞は子義に先導され、さっさと外へと出て行ってしまった。きょろきょろと二人の間で視線を行き来させてどう止めようか逡巡している間に、ぽつんと一人、拓実だけが待合室に残されてしまう。

 

「面接の合否も出てないのについていっちゃう霞さんも霞さんだけど、子義さん付き人なのに勝手に出てっちゃっていいのかなぁ……」

 

 この拠点自体が黄巾党の中でも極秘なのであろうし、さらに言えば腕に自慢がある様子からおそらく子義は三姉妹の護衛も兼ねているのだろう。見回しても近場に誰か詰めている様子はない。

 あの霞をして五分と言わしめるのであれば、春蘭や関羽、呂布らのような規格外が相手でもなければ三姉妹を守り抜くことも可能であるかもしれない。しかし、側を離れてしまっては護衛の意味がない。

 

「子義ー、次を呼んでー」

 

 もし今この瞬間に不心得者が来たりしたら子義は付き人がクビになるだけじゃすまないんじゃ……と拓実が我が事のようにはらはらしていると、個室の扉の向こうから声が届く。当然ながらその声に答えるべき人間はいない。

 

「子義ー! 聞こえないのー!?」

「あ、あのー、子義さんなら今しがた出て行っちゃったんですけど……」

「はぁ!? あいつ、付き人なのに何やってんの!?」

 

 仕方がないので拓実が代わりに答えると、怒気を孕んだ甲高い声が返ってくる。

 向こうからはひっきりなしに文句が聞こえてきたが、しばらくすると扉が薄く開いて眼鏡を掛けた少女が顔だけ覗かせる。

 

「……二人目の人、入ってきて」

「あっ! えっと! はいっ、し、失礼します!」

 

 

 

 その静かな声に従い、拓実はぎくしゃくとした足取りで入室する。そのまま拓実は部屋の真ん中にぽつんと置かれた椅子に座った。長机を挟んだ目の前には、三人の少女の姿がある。

 拓実にはその三人に見覚えがあった。やはり彼女たちは以前に張三姉妹と名乗っていた旅芸人の三人だ。面接の順番を決める際に一通り紹介されていたが、現在彼女たちは別名を名乗っているらしく、張角であった桃色の髪の少女が天和(てんほう)、張宝であった水色の髪の少女は地和(ちいほう)、張梁であった薄紫色の髪に眼鏡を掛けた少女は人和(れんほう)で通しているようである。

 

「あ、そんなに緊張しなくても大丈夫だよー?」

「は、はい! 大丈夫です!」

 

 椅子に座って腿に手を置き、背筋をぴんと張って強張った様子を見かねての言葉だったのだろう。だが、明らかに上ずった声で返事をする拓実に天和は「うーん……駄目だこりゃ」と苦笑いを浮かべている。

 

「ま、ちぃたちを前に緊張するのは仕方ないわ。けど、運が良いのよ。いい? 本当はちぃたちが面接したりなんてしないんだからね」

「そうね。ちぃ姉さんが前回選考を通った人を、顔が気に食わないとかでクビにしたものだから、二度手間にならないようこうして私たち全員で面接しないとならなくなったのだけど……」

 

 先ほど持ち場を離れた子義に対して文句を垂れていたのは地和だろう。多少苛ついてはいるものの、とりあえず気を持ち直したようだ。眼鏡を掛けた薄紫色の髪の少女、人和は「商家出身で算術も得意って聞いてたのに、もったいない……」と明らかに地和へ向けてぶつぶつ小言を呟いている。

 

「な、なによ! れんほーだって文字の読み書きぐらい出来ないと話にならないとか言って一人落としてたじゃない! 天和姉さんだって汗臭い人ヤダって言ってるし!」

「ちぃ姉さん……私たちの代わりに興行の告知もしてもらわないといけないのだから読み書きは必須でしょう。出来ることなら、衣装代やらの必要経費の管理もお願いしたいのに」

「だってだって、ちーちゃんはあんまりお風呂入らない人とか大丈夫なの? お姉ちゃんはヤダなー」

「ぐ、ちぃもばっちぃのはヤダけど……」

 

 怯んだ様子の地和を目にして、拓実は「ふふっ」とついつい声を漏らしてしまった。あんまりに仲が良くて微笑ましくなってしまったのだ。

 

「ま、まぁ過ぎてしまったことはいいじゃない! さっさと面接を始めましょ!」

 

 三人姉妹の気心の知れたやり取りに思わずという風に拓実が笑みをこぼしていると、それを呆れられていると思ったか地和が無理矢理に話題を戻しに掛かる。

 

「で、えっと、お名前は劉岱さんね。私たちのことは知ってて付き人に志願を?」

「旅芸人の方々ですよね? 名前までは知りませんでしたけど、陳留の城下町に立ち寄った時に一回だけみなさんの舞台を観たことがあります」

 

 人和が手元の竹簡を見ながら質問を投げかけてきたので、素直に初めて三姉妹を見かけた時の、陳留の城下町に視察した時のことを思い返して答える。

 

「へっ、そうなの? 陳留って、兗州よね? ここ最近じゃ立ち寄ってないけど」

「えっと、そっちの天和さん? が箱に入って、開けたら消えちゃってました! どうやったのか帰ってからもずっと考えてたんですけど、結局わからなかったんですよねー」

 

 続いて拓実が「不思議だったなぁ」などとぼんやり呟いていると、地和と人和が顔を強張らせている。

 

「ちょっ!? それって、ちぃたちが活動始めて鳴かず飛ばずだった頃じゃない!!」

「しかも、歌だけじゃお客さんが集まらなくて、何でもいいから目を引くことしたらいいんじゃないかって迷走してた頃……!」

「あー! 懐かしいねぇ。そうだちーちゃん、今度の興行で久々にやってみない?」

「ようやく歌だけでお客さんが集まってくれるようになったのに、あんなのもう二度とやらないわよ!」

 

 彼女にとっては恥ずかしい思い出だったのか、顔を真赤にさせた地和が歯をむき出しにして天和を睨みつけた。

 

「落ち着いて、ちぃ姉さん。……で、劉岱さんはどうしてこの付き人募集に応募したの?」

「その、邑から街へ行き来しながら筵と草鞋の行商をしてたんですけど、そろそろどこかに腰を落ち着けたくて。それで大都市って聞いてた済南にしばらくとどまろうかと思ったんです。でも、こんなおっきな街だと筵も草履も同業者が多くて、酒家とかで下働きするしかないかなーとか思ったんですけど、旅の途中で暴漢に襲われそうになったところで黄巾のお兄さんたちが助けてくれてですね……」

「……行商していたってことは読み書きは当然、算術も出来る?」

「えっ? あ、はい。一通りは、その、出来ると思うんですけど……」

 

 途中で話を遮られて、拓実はうろたえながらもなんとか受け答えをする。

 行商人を名乗っている上、『劉岱』の元となった人物も私塾を出たと聞いていたので、役柄である『劉岱』も算術は修めているということにしている。

 

「はーい、じゃあお姉ちゃんから劉岱ちゃんに問題でーす。一(キン)九両をぜーんぶ(シュ)にしたらいくつになるでしょーか?」

「ちょっと天和姉さん、いくら算術の心得があるにしても急にそんなこと言ったって」

「えー……と……、六百銖、です」

 

 暗算して、それから頭の中でもう一度計算し直して、間違いがないことを確認して答える。

 勘定や計算は政務について回るものだから、荀攸として数をこなしているうちに聖フランチェスカに通っていた時より数段早く出来るようになっていた。この程度の暗算も今となってはお手の物である。

 

「へ? ええと、ねぇ、ちーちゃん、答えは?」

「なんで私!? ちょ、ちょっと待って。ん、一斤が十六両でしょ、でも他にも九両があって、一両が二十四銖で……?」

「ちーちゃん、計算終わったぁ? お姉ちゃん、計算するの苦手だから」

「じゃあなんで問題出したのよ!! ああっ! 天和姉さんの所為でわかんなくなっちゃったじゃない! こんなの何かに書かないと無理よ! どうせ当てずっぽうでしょ!」

「……六百で合ってるわよ、天和姉さん」

「えっ」

 

 遅れて暗算していたらしい人和が告げると、地和は目をぱちぱちと瞬かせている。そんな地和を放って、人和が眼鏡の位置を直しつつ拓実に向き直る。

 

「では、興行の際に観客二人を一()に収めるとして四百人相手の舞台を想定した場合、観客席にはどれだけの土地が必要?」

「四()、だと思います」

「うん、合ってる……。暗算でこれなら、少なくとも私と同じぐらい出来ると見ていいかも。どうやら算術については問題なさそう」

 

 人和の拓実を見る目つきが熱を帯びた。これまでそういった方面は人和一人が請け負っていたのだろう。表情こそ乏しいままだが、即戦力の掘り出し物を見つけた、絶対に逃してなるものかと目線が語っている。

 

「天和姉さん、ちぃ姉さん。彼女、合格でいいのでは?」

「えー、でもれんほーちゃん。私たちに合う舞台衣装とか考えてくれる人も探すって言ってたじゃない。この街の針職人さん、舞台衣装とかを作るのには向いてないみたいだしぃ……」

「あっ、そうよね! 昔みたいにちぃたちが衣装作ってる暇なんてないし、そういうのやってくれる人じゃないと!」

「服作りは付き人にどうしても必要って訳ではないでしょう? 針職人は別に探して、劉岱さんには付き人兼会計事務として……」

 

 天和が思い出したように声を上げると、これ幸いとばかりに地和が追随する。人和が一人で声を張って採用を推しているのだが、二対一ではどうも分が悪そうだ。

 どうもこのままだと雲行きが怪しそうだと感じた拓実は、おずおずと手を挙げる。

 

「あの、私、趣味でよく刺繍とかお裁縫しているので、服ぐらいなら作れますよ。その、あんまり凝ったものは時間が掛かりますし、みなさんが気に入ってくれるかはわかりませんけど」

「そうなの? ……じゃあじゃあ、阿蘇阿蘇の最新号に可愛い上着が出てたんだけど、劉岱ちゃん同じように作れそう?」

 

 机の上に置かれていた雑誌を手に天和が立ち上がると歩き出し、中を捲りながら拓実の椅子の横に腰を下ろした。ちょいちょいと袖を引かれたので拓実が倣って地べたに座ると、お目当ての頁を開いて見せつけてくる。中には奇抜と言って差し支えない、大量生産に向きそうにない一点物だろう衣服を身につけた数人の女性が抜具(バッグ)を手にこちらに微笑む絵が描かれている。

 

「あ! これ可愛いですね! こっちのも!」

「でしょでしょー? あ、劉岱ちゃんこれなんだけど作れそう?」

「んー、ちょっと時間は掛かっちゃうかもしれないですけど、これぐらいなら生地さえあればなんとかなるかなぁ……」

 

 相変わらず三国時代と考えると流行の最先端どころかオーパーツの塊のような意匠だけれど、見たところそれの型紙自体は現代の物と大差ない。以前に読んだ型紙図鑑の記憶から似たものを書き起こして多少直せば問題はなさそうである。

 

「ねぇねぇ、劉岱ちゃん。もしかして、こっちの小物なんかも作れちゃう? あとはー、これの肩をなくしたりとか注文したとおりに作ったりなんかも?」

「まったく同じにはできませんよ? でも、それも付き人の仕事のうちってことでしたら、なんとか作ってみますけど……」

「……地和ちゃん、人和ちゃん。お姉ちゃん、付き人にするなら絶対に劉岱ちゃんがいいと思うなー」

「ええ。そうよね、天和姉さん。私も同じ意見」

「えー……?」

 

 天和がにっこり笑って妹二人に振り返る。同意の声を上げてうんうんと頷く人和に対して、残る地和だけが渋い顔をしている。

 

「逆に、どうしてちぃ姉さんは乗り気じゃないの? すごい好物件だと思うのだけど」

「うーん。別に顔だって悪いわけでもないし、これといって文句があるわけじゃないんだけど、なんか、この子の所為でちぃの追っかけが減る予感がするというか、もう既に減らされたような気がして……」

「何なの、それ」

「ちぃにも何がイヤなのか、よくわかんないの!」

 

 癇癪を起こした風に地和が喚き散らす。謂れのない文句をつけられてしまって、拓実としてもなんと反応したらいいのかわからない。

 

「まぁ、よくわからない地和姉さんは放っておきましょう。三人のうち賛成が二人なので採用とします」

「わーい、劉岱ちゃんこれからよろしくねぇ」

「むー」

「はい! よろしくお願いします!」

 

 横に座っていた天和に抱きつかれ、そのままの体勢で拓実は頭を下げる。なにやら地和には歓迎されていないようだけれど、第一関門は突破したと見て良さそうだ。

 拓実がほっと息を吐き出すと同時に、入り口の方からどたどたとけたたましく足音が届いた。程なくして音を立てて背後の扉が開かれる。

 

「おおーい! テン、チイ、レン!」

「子義!」

 

 首に回されたままの天和の腕の中からなんとか顔だけそちらに向けると、にこにことご機嫌な子義が、そしてその後ろには霞が立っていた。二人共怪我をした様子はなく、出て行った時の姿となんら変わらない。

 子義の姿が見えるなりにいったん静まっていた怒りが再燃したのか、地和が顔を真赤にさせて勢い良く立ち上がる。

 

「あんたようやく戻ってきたのね! 付き人なのに私たちの側から勝手に離れるとかどういうつもり!」

「あ? ああ、そっかそっか。いやー、悪ぃ! それよりちょっと聞いてくれ! 付き人の話だけど、アタシは聶遼を推すぜ!」

「……?」

 

 謝っている割にまったく悪びれたところがない。いきなりの推薦に、三姉妹全員が怪訝そうに子義を見ている。

 

「聶遼本人から武芸しか取り柄がないって面接で聞いてるんだけど。荒事担当はあんたがいる訳だし、それに募集しているのは付き人であって護衛だってあんたが腕が立つって聞いたから兼任してもらってるだけでしょ? 必要ないじゃない」

「護衛は腕の立つ奴がやらないとダメだろ。それならアタシより聶遼の方が適任だからな。代わりにアタシは全体をまとめりゃいいだろ」

「なんでちぃたちを差し置いてあんたがそんなことを決めてるのよ!?」

 

 引き続いての地和と子義の会話なのだけれど、どうも噛み合ってない。それというのも子義が一人で浮かれていて一方通行になってしまっている。

 

「子義ちゃん、すごい嬉しそうだけど何かあったの?」

「それがさぁ、聶遼とちょっと手合わせしたんだけどよ、こいつ強えのなんのって! いやぁ、惜しいところで負けちまった!」

「へぇー、聶遼ちゃん、子義ちゃんより強いんだぁ。すごーい!」

「だよな! すげーんだ!」

 

 感心している天和に全力で同意する子義。続いて「ははっ」とそれはそれは嬉しそうに笑っている。負けたと言う割に負の感情がまったく見られない。

 子義がそんな風に手放しに褒め称えているものだから、当の霞は居心地が悪そうにしている。珍しく身の置き所に困った様子だ。

 

「負けたのに嬉しそうにしている理由は?」

「そりゃあそうだろ! 生まれてこのかた青州で負けなしのアタシが、初黒星だ! ようやく好敵手ってのが見つかったのに嬉しくないわけがねーだろ!」

「駄目だわ。理由を聞いたはずなのにちょっと意味がわからない」

 

 眉をしかめた人和が眼鏡を外して眉間を揉んでいる。話が一段落したところで、それを見計らっていたらしい霞が声を上げた。

 

「で、面接は終わったんやろ? 結果の方はもう出たんか?」

「ん。まぁ、子義もこう言ってるし、私たちも三人だから付き人だって三人いてもいいのだけれど……」

「いいじゃん、ダメそうだったらクビにすればいいんだしぃー?」

「お姉ちゃんは劉岱ちゃんがいるならなんでもいいよー」

 

 人和が目配せすると、天和・地和ともにどうでも良さそうである。人和の口振りだと、霞は子義と同じ腕っぷし枠だったので不合格の予定だったのかもしれない。

 

「そういうことなので、聶遼さん、劉岱さん。お二人共合格です。早速明日から私たちの付き人として仮採用しますが、ここが事務所になっているので辰の刻までに集まるようにしてください」

「はい、わかりました!」

「ありゃ? うちも採用なんか?」

「うっし、これでまた手合わせ出来るな!」

 

 やんわり天和の腕から逃れ出ると地べたから立ち上がって霞の隣に並ぶ。そうしてかしこまって立っているのは拓実だけで、合格すると思っていなかった霞は気怠そうなのを隠そうともしていないし、子義は付き人のことなんてそっちのけで霞の肩に手を置いて笑っている。

 

「……こうして並ぶと、当たり前のことをしてるだけの劉岱がものすごいまともに見えるわ」

「ん、不思議だねぇ」

「これまでのような農民や盗賊上がりに品性までは求められないわよ。こうして済南で地盤固めが出来るようになるまでは頭脳労働できるような人はほとんど来なかったもの」

 

 人和が漏らした深いため息からは、内務関連を一人で切り盛りしてきたのであろう苦労がにじみ出ている。そんな妹を見て、これまで任せきりにしていた天和と地和はバツが悪そうに視線をそらしていた。

 

 

 

 顔合わせを終えた後、霞と拓実は街へ繰り出した。当座の生活用品の買い出しと、滞在中の宿を決める為だ。

 昨夜の広い浴場に味をしめた相方により風呂付きの宿は大前提と定められ、街へ出て見て回ったものの風呂付きではどうしても高級宿になってしまう。値比べした結果、昨夜世話になった宿がみすぼらしい外観から一番安価で、その上で黄巾党関係者が経営しているために付き人となった拓実と霞に対しては多少の割引をしてくれるということだったので、そのまま落ち着くことになった。

 用事と買い物、早めの夕食を済ませた拓実と霞は、宿へ戻る為にまだまだ明るい大通りを歩いている。

 

「……えっ!? 子義さんって、そんなに!?」

「うちも聞いた時はびっくりしたわ。あの三姉妹かてあんまし強く出とらんかったやろ?」

「あ、言われてみれば、そうでしたよね」

 

 確かに、違和感はあった。拓実が把握する限り、三姉妹は大小あれ『我侭』であった。追っかけの男たちに持ち上げられてか、それとも興行がうまく回るようになって不自由ない生活を送っているからか。三人共に自尊心が人より大きい。ある程度のことは自分たちの思い通りになると考えていて、黄巾党の勢力が強い青州ではあながち間違っていないだけの権力を持っている。

 その中でも特に顕著なのが顔つきが気に入らないという理由だけで付き人一人をクビにしたという次女の地和であるが、その彼女が子義の独行をある程度許容している。そして手合わせから帰ってからの霞も、州牧である華琳相手であってもくだけた態度で接しているというのに、子義に対してだけは妙にやりにくそうにしていたことだ。

 真相を聞けば、子義の口調やその若々しい見た目から霞とは同年代にしか見えないが、十近くも年長だったようなのである。同じく天和と同じぐらいの歳だろうと思い込んで子義を雇った三姉妹も、これまで通りに言いたい放題やりたい放題をして早々に『しつけ』られ、実年齢を知ってこれまでと同じように強く出られないようである。

 

「わかっとったけど大陸も広いもんやなぁ。今回はたまたまウチが勝てたけど、子義やんも恋と手合わせすれば世界変わるやろなー」

「子義さん、そんな強かったんですか?」

「まー、双戟使いがそうおらんからやりにくかったってのもあるけどな。うちとは得物が違うからなんとも言えんけど、惇ちゃんや淵ちゃんともええ勝負するんやないかな」

「へぇー」

 

 彼女は『たいし』と名乗っていた。『たい』が姓で『し』が名だろうか。呼び名になっている『しぎ』の方は字なのだろう。口頭で聞いた拓実にはどういった字を書くのかわからないが、張遼をしてここまで言わせるのであれば間違いなく天稟の武才である。けれども生憎、拓実の記憶の中に思い当たるような武将はいなかった。

 

「ところでー。なぁ~、拓実ぃ? うちなぁ、甘いもの食べたーい」

「えっ」

 

 記憶を掘り返していたところで聞こえてきた、急にしなを作った霞から発された猫なで声に拓実は予想外過ぎて思わず身を固くする。この旅を通して、霞のこんな声は聞いたことがなかった。同じく引きつった拓実の口元は、しかし瞬きする間にほにゃりと崩れた。

 

「あっ、いいですね! それなら宿のそばにあった甘味処に行きましょうよ! 行きがけに聞いたら日が暮れ切るまではやってるみたいだし、私も気になってたんです!」

「お、おお? えー、と、決まりやな」

 

 止まりかけた思考を劉岱に戻して笑顔を浮かべると、何故か言い出しっぺの霞の方が戸惑った様子である。

 拓実は「揚げ饅頭かな、でも夕食後だから軽めに一口ごま団子がいいかなー」などと呟いているうちに、ふと旅の最中にお酒が飲みたい飲みたいと不満を漏らしていた霞との世間話の内容を思い出した。

 

「あれ? でも、霞さんあんまり甘いものは食べないって言ってませんでしたっけ? 嫌いじゃないけど、お酒に合わないとかなんとか……」

「た、たまにはええやん! うちかて女の子やもん! そないな日もあんねや! 文句あっか!?」

「えええぇ!? そんな、文句なんてないですけどぉ……なんで私怒られてるの……?」

 

 わけもわからないままそうして改めて歩き出すと、霞がそろそろと歩み寄って拓実の腕を取る。そのまま身体を寄せてきた。

 

「な、なんです?」

 

 困惑している拓実に構わずそのまま腕を絡ませてきたが、霞の方が背が高いために持ち上げられていくらか引っぱられてしまう。よたよたと数歩ほど歩いたところで離される。

 

「え? え?」

「…………やっぱあかんかぁ。いや、まぁわかっとったけど」

「えっと?」

「拓実。腕、組むか? ほれ」

「はあ……これでいいですか?」

 

 腕を差し出されたので、勢いに押されるまま先ほど霞がしていたように腕を絡ませてみる。拓実の背は霞の口あたりな為、ちょうど男女の身長差に近い。腕を組んでいても少なくとも歩きにくいということはなかった。

 結局何がしたかったのか。拓実が腕を取ったままきょとんとした顔で霞を見上げると、彼女は「うあ」とうめき声を漏らしてのけぞった。

 

「あーあーあー、せやったな。女っぷりは拓実の方が明らかに格上やったわ。うちの付け焼き刃じゃ勝負にすらなっとらんわ。あー、んで、なんやその『こてん』ってのは。うち絶対無理や」

 

 拓実が首を傾げていると、今度はふてくされた。頬を染めて子供のように口を尖らせている。もはや拓実はどう反応していいのかもわからず、霞を見上げたまま曖昧に笑みを浮かべて機嫌を伺うだけである。

 

 そんな噛み合わない拓実と霞だったが、事情を知らぬ第三者にはただならぬ仲の少女二人が腕を組んで人目もはばからずじゃれあっているように見えるらしい。

 男連中からのよからぬ視線を主に、明らかに大通りの注目の的になっていたのだが、いっぱいいっぱいになっている二人は目的地である甘味処にたどり着くまでそれらの視線に気づくことはなかった。

 

 

 



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53.『劉岱、舞台に立つのこと』

 

 

 人和は、木の棒の先端に取り付けられた卵大の翡翠の塊に触れる。舞台の直前は気が張り詰めるものだったが、今日はいつもよりも緊張が強い。呼吸を数回、意を決して握り込むと、拡声の妖術が掛けられている翡翠は中心より淡い光を放ち始めた。

 

「今日は、私たち『数え役満☆姉妹(しすたぁず)』の舞台に来てくれてありがとう。舞台を始める前に、みんなにお知らせすることが二つあります。……ごめんなさい。天和姉さん、ちい姉さんは、今日この舞台に来れなくなってしまいました」

 

 舞台の左右に配置された箱から増幅された人和の声が響くなり「始まった!」と客席が沸き立つ。そして続く内容にざわめき始めた。理解に及ぶと重なり漏れるのはため息ばかりで、舞台から見える観客も気落ちしているのが大多数である。おそらく彼らは天和と地和を主に応援している者たちなのだろう。

 最近、黄巾党では三姉妹のうちの一人をお気に入りとして応援し、その派閥を大きくすることが流行っているらしい。しっかりと調べ上げたことはないが姉妹全員を分け隔てなく応援しているのがおよそで二割。天和が三割。地和が三割。人和は全体の二割ほどと数こそ控えめだが、富裕層が多く金払いが非常によろしいという特徴があった。ある意味それで釣り合いが取れていたが、しかしこういった状況ではどうしたって数が物を言う。壇上の人和は、姉たちとの人気の差を目の当たりにして思わずたじろいだ。

 

 済南は中央通りにある広場の舞台に、公演衣装をまとった人和は立っていた。壇上に天和・地和の二人の姉の姿はなく、一人きりだ。人和自身、こうして一人で舞台に立った記憶がない。いつも三人一緒だったからだ。

 元々、芸人となると決めたのも天和・地和の二人が言い出したことで、人和はそれに巻き込まれる形だった。歌は好きだし、観客いっぱいの舞台は夢見ていたけれど、人和一人であれば邑を出て芸人になる決断は出来なかっただろう。控えめな性格の人和は、活動的な姉たちに引っ張られてここまで来た。巡業するようになってから今まで、舞台の上ではいつも姉たちが盛り上げ役になってくれていた。情けない話だが、姉たちの真似をしようにも同じことを上手くこなせる自信がない。盛り下がっていく観客を前に人和はどうしていいかわからない。巡業を続けて数年、今や人和は大陸屈指の歌手となったが、客席を温めたりといった芸人としての技術は未だ素人同然なのであった。

 

「聞いて。もうひとつのお知らせは、本当は、全員揃った時に発表したかったんだけど……新しく私たちに加わって、一緒に舞台を作り上げていくことになった子がいます。上がってきて」

 

 己一人で観客を盛り上げることは難しい。人和はそれを理解していたから前もって策を用意していた。そしていくつかある策の中で、最も大掛かりで頼みの綱となるのが『彼女』だ。

 人和の声に従い、壇上に上がってくる少女を見る。若草と桃色の舞台衣装にはところどころに彼女が趣味で作っていたという、『麗衣透(れえす)』なる透かし模様の白い布地が縫い合わされていて、美しく豪奢ながらも軽やかな印象を見るものに与えている。彼女の穿いている裙子(スカート)も大陸に広まっている肌に密着するものとはまるで違っている。ふんわりと花が咲いたように持ち上がって、空を飛んでいるかのように鮮やかである。そして耳上で二つ結びにした金髪は日光を反射してキラキラと輝き、その突飛ながらも幻想的な衣装とあいまって、人和をして現世の者とは思えずに仙女の類かと見間違えてしまう。

 控えめに手を振り、笑顔を振りまいている姿からは緊張と僅かな怯えが見て取れる。黄巾党の男たちは物語の中から飛び出てきたような装いの見慣れぬ少女の登場に顔を見合わせるばかりで、突然のことに声もなく困惑を隠せない様子だ。

 

「こんにちはー! 私、公山といいます! よろしくお願いします!」

 

 人和の隣に立ち、顔を真赤にした劉岱がやけくそ気味の声を上げて頭を下げると、客席からようやくどよめきが返ってきた。

 ――そう、これこそが人和の講じた奇策。天和・地和・人和の三姉妹に新たな『義妹』を加えることであった。

 

 

 

 

 

 面接の日から早くも一月が経とうとしていた。拓実の姿は、今日も酒家『垂木(たるき)亭』の二階にある黄巾党事務所にある。

 

「ひーん。こんなの、絶対おかしいよぅ……」

 

 日暮れ時、薄暗くなった部屋の中に虚しく声が響く。その声は震えていた。すこしばかり涙声であった。拓実は一つの仕事を終わらせ、次をと見やった途端に耐えきれず机の上に崩れ落ちたのだった。そこに積まれた山からは一向に終りが見えてこない。

 執務机にしなだれかかってぼんやり部屋の中を見渡すと、まず机の上に高々と積み上げられている紐解かれていない竹簡が目に入る。隣には棚が併設されていて、ここに天地人三姉妹の活動資金からの支出資料やら、青州の地図やら、過去に州軍がまとめていた主要都市ごとの資料やらが乱雑に置かれてあった。

 部屋の反対側には今座っているものとは別に大きな作業机があり、そちらの上には針と糸、はさみ。横には三着のスカート、そして作りかけの上着や型紙が置かれている。色とりどりの布が衣桁に重ねて掛けてあり、質、量ともに下手な布問屋よりも良い品揃えで拓実は圧倒されてしまって気後れするばかりだ。

 壁には木板がいくつか据え付けられており、主に拓実の仕事上の覚え書きに使っているものだが、三姉妹や付き人全員分の予定が書かれているものも混ざっている。また、暗くなってからでも仕事が出来るようにと灯りに使う油はたっぷり常備されている。夜間は冷えるため、暖房に使う薪も一緒だ。部屋の隅には椅子が四つ積み重ねてあって上から毛布が掛けられており、並べると簡易寝台にもなったりする優れものである。なんと、限界が訪れても宿に戻らずにこのまま仕事場で仮眠が取れてしまうのだ。

 ――ごちゃごちゃと物の溢れかえっているこの部屋が、拓実の仕事部屋だった。なんと付き人の中でも唯一拓実にだけは事務所に個室が与えられている上、事務所の敷地の三分の一を占める大部屋である。特別待遇と言えば聞こえはいいが、拓実はまったく嬉しくない。それだけ与えられている仕事の種類が多いというだけである。

 

 さて。三姉妹の付き人である拓実、霞、子義の三人であるが、姉妹それぞれに一人ずつ専属で付くという訳ではなかった。得手不得手がはっきり分かれている為に、その時々に三姉妹が適した付き人を連れて行くという形に落ち着いた。

 霞は、子義の言っていたように三姉妹の身辺警護と三十人弱からなる親衛隊の指揮を主に任されることとなった。付き人と聞いても何をすればいいのかぴんと来なかった霞は、そちらのほうがよっぽどわかりやすいとやる気を見せている。外出の際には基本的に霞が護衛として付き添うこととなり、なんだかんだ三姉妹と打ち解けてからは食事を一緒にしたりと一番おこぼれに預かりやすい。

 子義は、護衛の任を霞に譲って後援会の統制を受け持つことになった。まとめ役として会内での決まり事を作り、それを守らない輩を締め上げる役目である。主な仕事は公演前後の告知、注意事項の徹底。また有志を募って済南周辺の警邏、及び黄巾党を騙る悪漢の捕縛を行っている。しかしそれでも毎日のことではないので手隙になりやすく、よく護衛に加わっては三姉妹や霞と一緒にご飯を食べて帰ってくる。

 そして残る拓実の仕事であるが、溜まっていた過去数ヶ月分の収支計上を引き継ぎ、その上で今後の予算計画書の作成。後援会からまとめられた三姉妹への手紙の検閲・今後の公演要望等の集計、三姉妹及び付き人全員の予定管理。そして舞台衣装の製作――――に留まらず、公演舞台を含めた公共施設の建造や使用手配、済南の環境改善政策の実行、人材登用の窓口等々、枚挙に暇がない。仕事の分担が偏ってはいないだろうか。そこのところが拓実は腑に落ちない。

 

 天地人三姉妹は、公演に使う予定の舞台を見に行きたいと朝方に出て行った。ついでに買い物してご飯を食べて帰るとのことである。いつものことだった。それはそれは上等な服や小物なのだろう。それはそれは美味しいご飯なのだろう。被服・雑費と飲食費の額面がえらいことになっているのを、他ならぬ拓実は知っていた。

 霞と子義は三人について行った。荷物持ちと護衛と街の警邏を兼ねてだそうだ。付き人だから当然である。いつものように三姉妹と一緒にご飯も食べてくるのだろう。場合によってはお酒だって飲んでくるのかも。それは付き人としてどうなのだろう。

 拓実は留守番だった。付き人の筈なのに、拓実はいつも事務所に置いてけぼりなのだった。それというのも溜まりに溜まった仕事があるからだ。やってもやっても終わりが見えない。それどころか朝を迎える度に増えていく。それに追われる毎日だ。最近の拓実の楽しみは、一階垂木亭の日替わり昼定食である。大盛り無料か、サービスで甘味をつけるか選べるのだ。

 

「あー、う゛ー……」

 

 人和に溜まった事務を頼まれ、天和から舞台衣装の細かい指示を受け、地和からは次回公演の予定のすり合わせをするようにと急かされる。そうして寄越される仕事をこなしていると日が暮れているのである。しかして仕事は終わらない。

 うなだれながら拓実は頭を抱える。やることが多すぎてどうしたらいいのか、どこから手を付ければいいのかがわからなくなっている。とにかく人手が足りていない。なにせ拓実一人での孤軍奮闘状態である。

 

 金遣いの荒い三姉妹はこれまで、黄巾党内外有志からの付け届けで興行活動をしていた。店などにも結構な額のつけ(・・)が溜まっている。そうして調べてみれば、なんだかんだ一勢力として見劣りしない規模の青州黄巾党だが、なんとまったくお金が足りていない。役人不在の青州を支配下におく黄巾党が行っているのは三姉妹が活動拠点にしている済南周辺の治安維持ぐらいのもので、税収はなく街の運営にはほぼ手付かずの状態なのである。拓実が付き人となる以前より地主や商会、住民からは街の整備の要望が上がっていたのだが、しかし三姉妹は公演活動以外のことはしたくないとそれらを放置していた。つけの精算もあって税の徴収を条件にして引き受けざるを得ない拓実は、帳尻を合わせるために政務に手を付けなくてはならなくなってしまった。

 こういった方面に強そうな人和も、肩の荷が下りたとばかりに拓実に一任して事務所に顔を出してくれない。自分が姉二人にやられてイヤだったことをそのまま拓実に押し付けているのはどうかと思う。

 

「詠ちゃん、桂花ちゃーん、助けてぇ……」

 

 生憎、ここ青州で事務仕事を手伝ってくれそうな人材にも心当たりはない。にっちもさっちもいかなくなって途方に暮れた拓実はめそめそと泣き言を漏らす。劉岱に詠や桂花との面識はないが、過労と眠気により朦朧としていて演技が少し剥がれていた。

 仮にここにいたのが荀攸であったとしても毎日の残業は避けられないが、劉岱では泊まり込みしても終りが一向に見えてこない。荀攸時と比べて極端に計算などが遅いとかいう訳ではないのだが、手順や段取りを効率的に組み立てられず、さらに集中力が持続してくれない為に作業能率が悪いのだ。

 非常に失礼な物言いになるが、劉岱の元としている人物――劉備も政務を得意としていない。人(たら)しの才能は華琳をも凌ぐが、それ故に人に助力を乞うて事を成す、適材適所を知る人間である。このような事態になれば、自力ではどうにもならないと見切りをつけてそれに長けた人間に手伝ってもらったことだろう。そして残念ながら、劉岱の側には助けとなる伏龍や鳳雛はいないのだ。

 だからか、拓実は今いる環境がひどく心細い。大事な物がぽっかりと欠けたままで、拠り所がない。じくじくと胸のうちに巣食っているのは、利き腕と利き足がなくなってしまったかのような不安定さばかりだ。――仲間がいない。劉備にとって義姉妹である関羽に張飛、そして北郷一刀はかけがえのない精神的な支柱であったのだ。劉備を写し取った劉岱には、当然ながら代わるものがなにもない。

 

「……ううん、ダメ。街の人たちも困ってたみたいだし、私にだってできることがあるなら頑張らないと! 弱音なんて吐いていられないよね!」

 

 机に顔を埋めたまましばらく目をつむっていた拓実は、慢性的に苛まれている眠気に白旗を上げそうになったところで気を取り直し、ぱちんと頬を叩いて頭を覚醒させにかかる。

 一人なのは大変だけれど、街の運営に携われるのは決して悪いことではない。上手くやれたなら、きっと多くの人の助けになれる仕事だ。それは劉岱にとっての本懐であり、願ってもないことだった。

 

「何やってるの?」

「あれ? 人和ちゃん?」

 

 なかなか眠気が晴れてくれないものだからそのまま両頬をぱちぱち叩き続けていたところ、珍しい人物が部屋を覗き込んでいた。怪訝そうな顔をした人和である。夕暮れで薄暗いからだろうか、いささか色を失っているように見える。

 三姉妹が堅苦しいのを好まない上に年もそれほど離れていないということで、面接では敬語を使っていた拓実もいつからか砕けた口調になっている。

 

「帰ったわ。劉岱は夕飯まだでしょう? はい、これどうぞ」

「えっ、ありがとう人和ちゃん! わあ、美味しそう!」

 

 人和から蓋付きの小さな竹かごを受け取ると、中には様々な具材が練り込まれている色鮮やかで美味しそうな焼売が敷き詰められていた。まだ温かいご馳走を前に表面上は喜色満面の拓実であるが、(この特注の竹かごは済南にも支店のある高級店『一報亭』のもの、お値段も相当に高級だった筈)と脳内で銭勘定を始めている。事務所で経理仕事ばかりしている弊害であった。

 さらに言えば、貰い物のお菓子を事務所に置いていったりしてくれたことはあっても、普段は出掛け先から直接帰宅していた三姉妹がわざわざおみやげを買って事務所に戻ってきてくれたことはなかった。特に、三姉妹の中でも人和は経理の仕事を拓実に任せて事務所に寄り付かないものだから、こうして一人だけ戻ってきたことがますますもって不可解である。

 

「それで、言い難いのだけれど……」

「ふぁい? っん、なあに?」

 

 拓実はそれらの疑問をあっさり放棄していた。ここ最近は四六時中あれこれ悩んでいるのでせめて食事の間ぐらい考え事から離れたい、無意識の逃避である。

 そうして頭の中を空っぽにして目の前のお土産に箸をつけていると、それを見計らっていたように声がかかる。口の中にある焼売を急いで咀嚼し飲み下した拓実は瞬きして声の主である人和を見ると、あまり感情を顔に出さない彼女が珍しく眉尻を下げて申し訳なさそうにしていた。

 

「その……四日後、午後に公演が入ったから」

「公演?」

 

 それはまたなんとも奇遇な。ぼんやりそんな感想を浮かべながら二つ目の焼売を箸で摘んで、口に運ぼうとしたところで拓実は停止した。

 

「あれ? それって以前からみんなにお話しておいた、済南名士の方々を招いてお披露目する四日後の公演のこと、だよね」

「いいえ。別の公演の話」

「別の公演って……」

 

 拓実の言う四日後の公演は正午からの半刻を予定している。その後には懇親会があるので、人和の言う別の公演の開始が午後からではいずれにせよ都合が合わない。

 

「ええっと、済南から税収を得る条件って言ってたから、なんとか全員の予定を空けられるようにって前々から調整していたのに? それなのに予定入れちゃったの?」

 

 それというのも、済南を取り仕切っている商家の当主や地主、有力氏族、漁業組合の顔役たちを招いて以前から予定していたものだ。公演それ自体は三姉妹の人気をわかりやすく知らせる為の余興みたいなものなのだが、目的はその後の顔合わせである。もちろん、肝心の三姉妹がいないのであれば話にならない。

 拓実もついつい棘のある物言いになってしまっているが、致し方あるまい。好き勝手する三姉妹の予定調整は難航していて、拓実をここ数日の間寝不足にさせていた原因なのである。

 

「四日後、泰山で東岳(とうがく)大帝を祀る大きな催しが開かれるの。たまたま導師様が済南に来ていて、話をしたら参加させてくれるというのよ」

「はぁ」

 

 東岳大帝――宗教に関連するので深く理解出来てはいないが、別名で太山府君とも呼ばれる泰山信仰を象徴する神と拓実は記憶していた。生死を司る伝説があり、泰山自体も道教における聖地と定められている為に大陸を代表する岳のひとつである。

 そんな考え事しながらの、半ばふてくされているような気の入っていない拓実の相槌に、人和が言葉を詰まらせた。

 

「その、泰山の催しってすごい影響力があって、今回参加できたなら太平道に繋がりができるから、他の地方での活動が格段にやりやすくなるのも確かなのだけど。それを知って、ちい姉さんが乗り気になっちゃって」

「……わーかーりーまーしーた! もうっ! 地和ちゃんがそっちの催しに行くなら、明日にでも街に告知をし直さないと………」

「それが天和姉さんも……。えっと、流石にまずいと思って私は済南に残れるように話はつけたから」

「えっ! こっちに残ってくれるの、人和ちゃん一人なの!?」

「……」

 

 自分で言っておきながら、以前から取り決めてあった顔合わせに一人だけで参加というのは無理があるとは思っていたのだろう。人和は拓実から目を逸らした。

 

「でも、人和ちゃん一人だけじゃあ。せめて天和ちゃんはこっちに……」

「それが、最初はちい姉さんが勢いに任せて三人全員で参加するって導師様に言ってしまってて、あちらも私たちが参加することをすごい喜んでくれていたの。なんとか私は外せない予定が入っているってことで辞退させてもらったものだから、さらに天和姉さんも参加しないというわけにはいかないし、ちい姉さんも一人なんて絶対嫌がるだろうから……」

 

 言葉を濁しているが、乗り気である地和にとって優先順位はそちらが上で、天和と地和は動かせないということらしい。それはつまり、天和・地和の不在で普段よりも盛り上がりに欠けるだろう観客を相手に、人和が話術で場を繋ぎながら三曲ほど歌を披露して観客をおおいに沸かせ、三姉妹の威勢を招待した有権者たちに見せつけその後の会合で可能な限り高い税率を引き出させなければならないということになる。

 

「え? それじゃ、ど、どうするの? 人和ちゃん一人で公演、できる?」

「せめて天和姉さんかちい姉さん、どちらか一人が一緒にいてくれないと場が持たないわ。……劉岱、顔合わせはともかく公演の方だけでも中止には?」

「いまさら無理だよう……。だって、三姉妹の人気を直接見てもらういい機会だからって人和ちゃんから聞いてたから済南中どころか近隣の邑にも告知しちゃってるもん……」

「そうよね……」

 

 付け加えれば、天和・地和の二人が不在と告知を出し直せば多少なり動員数は減り、三姉妹の人気を見せつけるという目的を達成できなくなるかもしれない。歯抜けになった客席か、大合唱からのブーイングか、無策で挑めばどちらかが現実の光景となるだろう。当然ながら、程度の差こそあれどちらも失敗には違いない。

 あまりの難題を前に、人和が頭痛をこらえるようにこめかみに手を当て、深く溜め息をついた。しかしながら溜め息をつきたいのはむしろ拓実の方で、正直なところ喉まで文句が出掛かっていた。基本的に温厚な劉岱ではあるが、数日掛かりの仕事を台無しにされたとあって心がささくれだっている。

 

 もはや食事どころではなくなり手に持っていた箸を置いて――――ふと手元のかごを見る。この高級なお土産は、予定調整を台無しにしてしまったことへの人和なりのお詫びだったのだろう。色々と言いたいことはある。あるのだが、それに気づいたら胸に巣食っていた怒りはみるみる萎み、代わりに同情が湧いてくる。今回のように好き勝手する姉二人の下、末っ子に生まれたばかりに振り回されてきただろう人和の苦労を想像してしまったのだった。元凶は姉の方であり、多少なりこちらの都合を考えて動いてくれていた人和ばかりを責めるのは酷だろうと、やり場のなくなった不満を無理矢理に飲み込んだ拓実は気を取り直した。

 とにかく、今は四日後に迫る公演を乗り切る方法を考えなくてはならない。しかし、拓実が考える限りでは成功の目は薄く、人和一人という条件では建設的な案すらも浮かんでこない。正直に言ってしまえば手詰まりのように思う。

 

「こうなったら、でっちあげるしかないわね」

 

 それでも打開策はないものかと拓実が頭を捻っていると、人和が呟くようにそう口にした。彼女にとって出来るなら避けたい選択で、それを押しての苦渋の決断だったのだろう。その顔には未だに躊躇(ためら)いの色が残っていた。

 

「でっち? 何を……?」

「姉さんたちの不在が霞むような重大発表を、よ」

 

 言葉の意味を飲み込めず、拓実はひたすらに首を傾げるばかりである。そうして人和に両肩を掴まれ真正面から見据えられて、拓実は思わず顔をしかめた。肩が軋んでいる。その握力が、まるで捉えた獲物は逃さないとばかりに力強かったからだった。

 

 

 

 

 四日後、拓実の姿は舞台の上にあった。何の事はなく、天和・地和の不在を新人加入という告知で相殺させた上、舞台を盛り上げる手助けを頼みたいとのことだったのだ。

 本公演限定の特別参加ではなく、以後も『数え役満☆姉妹』に正式加入させるとしたのはその方が今後の活動を大きく左右する為に衝撃的な発表になる、ただただそれだけの理由であった。今回の地和の勝手には人和も腹を据えかねていたのか、公山の加入に関して地和には事後承諾だということである。天和にはきちんと事前に伝えて快諾を貰っている。

 さて、三姉妹よりよっぽど多忙な劉岱がこうして舞台に立つようになったのはただの消去法であった。確かに最初に声がかかったのは拓実だったが、現状ですら業務過多のてんてこ舞い状態なので当然のこと断った。しかし続いて霞と子義に声を掛けたところ三姉妹の歌う歌の歌詞すら覚えていない上、フリフリした衣装を着て観衆の前で歌を歌うなんて柄じゃないとにべもなく断られてしまったのだった。他に頼るあてもなく困り果てた人和は再び拓実の元に話を持ってきて、そして困っている人を放って置けない劉岱は最終的に引き受けてしまった。ほんのちょっぴりだけ、劉岱が密かに胸中にしまいこんでいる歌手への憧れが後押ししたのは否定できない。

 

 代わりに、拓実への罪滅ぼしか人和が事務仕事の大半を受け持ってくれるようになった。拓実一人では一向に減ることのなかった仕事は人和の手際の良さも手伝って、あっさりと終りが見えだした。

 なんと公演の二日前には空いた時間も作れるようになったのだが、しかし飛び入り参加となる拓実の分の舞台衣装を一から作る余裕まではなく、今着ているものも済南の店で売っている服を組み合わせて改造したものである。こつこつと練習していた白糸刺繍のレース生地を片っ端から縫いつけてみたり、試作品であるペティコートでスカートを膨らませたりと、悪あがきした結果として少女趣味全開の代物が出来上がってしまったが、隣に立つ人和の衣装と比べて出来はともかく間違いなく派手ではあるので、ある意味釣り合いが取れていると言えるだろう。

 

「えっと……」

 

 突貫作業ながらなんとか公演に漕ぎ着けることが出来たが、それより肝心なのは義妹として紹介された拓実が黄巾党に受け入れられるかということである。

 三姉妹は数年に渡る大陸中の巡業という下積みを経て名声を得てきた。一度は膨れ上がった黄巾党の暴走によって張角・張宝・張梁としての活動は困難になり、名を捨ててまでいる。そこまでの事情通が黄巾党内部にどれほどいるかわからないが、地道に活動してようやく人気を博してきたところにどこの馬の骨とも知れないぽっと出の新人が混ざるのだ。観客を惹き付けるだけのよほどの『何か』を示せなければ歓迎されるとは思えない。

 拓実はそのとっかかりが掴めないままだった。現代日本のアイドルたちの振る舞いを真似てみようか、それとも駆け出しだった頃の三姉妹に倣って何か大道芸の一つでもしてみようか。しかしそれも、新参者である拓実が人和を飛び越えて出しゃばることができない為に実行には踏み出せない。

 

「うおおおおお! 公山ちゃーん!!」

 

 事前の打ち合わせでは、曲と曲の合間では人和が主導で拓実に話題を振っていくということになっている。助けを求めるように人和をちらちら盗み見てまごついていると、ざわつく客席の中から野太い声が上がった。聞き覚えのあるその声は、いつぞやに履物を直してあげた黄巾党の青年――あの宿屋に口利きをしてくれた『組』の徐和のものだ。視線を送ると客席にいる彼と目があった。顔を上気させて、拓実に向けて大きく手を振っている。

 

「いくぞー! せえーのっ! やさしさいっぱいー!」

『公山ちゃーん!!』

 

 続けて徐和から上げられた声に、その辺り一帯から数人がかりで布が掲げられ、名前が返ってくる。そこに書かれた文面は『やさしさいっぱい 公山ちゃん』。

 三姉妹にはそれぞれ『みんなだいすき 天和ちゃん』『みんなのいもうと 地和ちゃん』『とってもかわいい 人和ちゃん』という決まり文句がある。三姉妹の舞台の際にはお決まりのやり取りで、前半部分を舞台上から声を投げかけると、客席から名前部分を呼び返してくれるというものだ。この文言もおそらく拓実が加入するに当たって急遽作られたのだろう。驚きから目を見開いて人和を見やると、意味ありげな薄い笑みが返ってくる。どうやら、拓実にも知らされていなかった人和の『仕込み』のひとつのようだった。

 

「それじゃ、彼女の詳しい紹介をする前に。さっそくだけれど、一曲目を」

 

 拓実も、そして観客たちも混乱から醒めやらぬ前に、人和から声が上がる。続けて指を鳴らすと妖術の符が貼られた胡、鼓、琵琶から音が発され、それらは組み合わさって音楽となり会場中に流れ始めた。

 それは拓実にとっても馴染みのある曲で、いつかに許定であった時に季衣と一緒に歌っていたあの歌である。歌の邪魔をしてはいけないと、客席のざわつきも収まった。舞台の上、やることが定まった瞬間に拓実の意識は切り替わる。

 

「人和、公山が歌います。聞いてください『YUME 蝶ひらり』」

 

 

 

 

「おどろいた……。公山、あなたって歌、上手かったのね」

「人和ちゃんいまさらそこなの!?」

 

 そうして歌が終わり、客席からの歓声が落ち着くのを待ってからの人和の第一声がこれである。三つにパート分けされていた歌を歌うにあたって二人用にパートを作り直し、数回ながら事前に二人で歌の練習をしていた。拓実の歌声を聞いたことがない筈はない。当然観客たちもそれは承知の上だろう。

 それでも大仰に驚いて見せる拓実の姿に、客席からは思わずといった風に失笑が漏れた。三姉妹の追っかけたちはまだ素性のしれない公山を三姉妹の義妹として受け入れてはいない。歓迎していると見られないように構えていたからこそ、反応が失笑という形になったのだろう。

 

「それじゃ、改めて。この子が新しく私たち三姉妹に加わった公山です。で、公山。あなた、なにか芸はできる?」

「……え? なあに突然? 芸?」

「そう。長姉天和、次姉地和、そして三姉にとってもかわいいこの私、人和。大陸を渡り歩いた私たちは芸人としてもそれなりの腕を持つわ。公山、芸が出来ないならあなたを末妹に加えるわけにはいかないの」

 

 眼鏡のつるに左手を当てて、いつもの抑揚のない声ではなく芝居がかった振る舞いで指を突きつける人和。突如始まった茶番劇に拓実は何度かまばたきをして目を白黒とさせた後、左右を見渡してからこそこそ人和に近寄っていく。

 

「え? えっ? ちょ、ちょっと……人和ちゃん、こんなの打ち合わせしてないよ……?」

 

 耳打ちするように小声で話しかけるが、無情にも拡声の妖術は拓実の声を拾って会場中に広げてしまう。その声色から事実と察したのだろう、先程よりも大きな笑い声が観客席より上がった。

 

「それはそうね。だって打ち合わせしてないもの」

「そんなぁ……。……えっ? やるの? 本当に?」

「もちろん。芸が出来たら合格。挑戦して出来なくても面白ければ合格。可愛ければ可愛さも芸として認めて合格にしてあげる。審査員は観客のみんなに任せましょう」

「無茶振りだよう……」

 

 眉をハの字にして泣き笑いしている拓実に、人和は満足げに頷いた。観客席からはくすくすと声が漏れ続けている。

 

「さあて、芸と一言で言っても色々とあるけれど、公山は何が出来るのかしら」

「そんなこと言われても、芸なんて…………。あっ! そうだ! 人和ちゃんが今着てる衣装! 私が縫ったやつなの! これって一芸じゃない?」

 

 続いて「私の衣装もお手製だよー」とくるりとその場で一回転してみせる。

 

「ねえ、みんなー、今日の人和ちゃんかわいいよねー?」

 

 拓実が客席に向けて人和を手で示すと、あちこちからは「かわいいー!」「最高ー!」「おおー!」「すごーい!」と感嘆の声が上がった。人和を褒める為の呼びかけだったからか、拓実の声がけにも大きく反応が返ってきた。

 これまで作り手が公表されたことはなかったが、天和にせっつかれて作った三姉妹の舞台衣装や小物は三姉妹たちにはもとより、黄巾党内でも好評のようであった。それを手掛けている針職人を兼任しているとなれば悪感情は出てこないだろう。

 

「やったぁ! どう? これで合格でしょ?」

「駄目。不合格ね」

 

 突然話題振りをされたにしては上出来な答えだろうと少なくない自負を覚えていたのだが、何故なのか間髪入れずに人和より不合格が下された。予想外の判定に驚いて拓実が見れば、人和もまた想定外という風にひどく焦った様子で言葉を探している。

 

「……そう、『今日は』じゃないわ。『今日は』じゃなくて、私はいつでもかわいいもの。だとしたら、衣装がかわいいのか私がかわいいのかわからないでしょう? 残念ながら一芸とは認められません」

「えっ!? だって、人和ちゃん審査員は観客のみんなだって言ってたし。今、みんなも……!」

「はい。それじゃ、そのみんなに聞いてみましょう。私はいつでも、『とってもかわいい~~?』」

 

 すかさず、観客席全体から揃って「人和ちゃーん」と返ってくる。黄巾党員は壇上から三姉妹が呼びかければ、いつだって阿吽の呼吸で返答が出来るようにしっかりと訓練されているのだった。人和の裁定に食い下がろうとした拓実も、その大音声の前には口を(つぐ)まざるをえない。

 

「……ということなので、今日もいつものとってもかわいい人和ちゃんなので認められません」

「なにそれー! そんなのずるーい!」

 

 ふくれっ面を作って不満の声を上げると、またも客席から笑いがこぼれた。登場当初よりも観客の反応が柔らかい。ただしその代償として、人和と拓実二人共に歌手というよりは漫談をするお笑い芸人になっている気がしてならない。

 

「さ、それじゃ公山に出来る芸はなにかしら? 今度は客席から案でも募ってみる?」

 

 観客の盛り上がりを確認して安堵の息を吐いた人和は先程と調子を変えずに無茶を振ってぶつけてくる。だが、咄嗟に理由を探してまで不合格にされた拓実は彼女の意図が見えてきていた。もちろん公山がどういった人柄なのかを見せる為ということもあるのだろうが、人和の狙いは無理難題を公山に言いつけて、黄巾党員の同情を誘おうというのだろう。新人である公山に対して芽生えるだろう大小の不満を、あれだけ苦労させられているのだからと溜飲を下げさせる為のようである。

 なるほど、それ自体は人間心理に訴えかけた上手いやり方であった。けれども当の拓実は堪ったものではない。どんなに優れた芸を披露しても不合格にしかしないという筋書きを、人和が勝手に作ってしまっているからだ。更に言えば、人和は拓実に気の利いた返答など期待をしていないというだけでなく、むしろ失敗を前提にしているということでもある。

 会場を盛り上げる為に面白い芸をすれば、不合格と決め打つ人和の反応は観客たちの目に不自然に映ることだろう。かといって不合格相応のことをして且つ公演の成功を目指すのは困難に過ぎる。個性豊かな三姉妹に対抗できる公山の強みにだってならない。新人なんて加入させないほうが良かったと一度でも思われたらおしまいだ。三姉妹の人気自体にも陰りが出かねない。

 人和自身も気づいていないのだろうが、この公演を乗り切ることばかり注視し過ぎていて短期的にしか物を見れていない。公山を一度限りの参加ではなく、三姉妹へ加入させると言い出したことからも伺える。拓実にしたら出たとこ勝負での即興劇、どちらかが一歩足を踏み外せば二人まとめて真っ逆さまに落ちる綱渡りを強制的にやらされているようなものである。

 

 そうこうしてる間にも、観客席からは「即興でも舞なら踊れるかな」「一人で歌ってもらうのはどうだ」と思い思いに声が投げかけられている。それを聞いて人和は小さく笑みを浮かべていた。今のところ彼女の計画通りに進んでいるからだろう。

 

「ひとつめだし無難そうなのにしておきましょう。そうね。まず一人で歌ってもらいましょうか」

「わ、わかりました! そういうことなら、歌いながらとっておきの芸をしますね!」

 

 悩んでいる時間はなかった。拓実は半ば反射的に芸を披露すると宣言していた。今、確かに人和は「ひとつめ」と言った。このまま放っておいたら、どんな無茶な芸をやらされるかわかったものじゃない。

 

「……大丈夫なの? 振っておいて我ながらどうかと思うけど、そんな大言壮語してから盛大に外されたりすると私じゃ助け舟も出せないのだけど」

 

 今度は人和の小声を拡声の妖術が拾い、それを聞き届けた観客席がどよめいた。会場に響いたのは公演を進行する時の作った声ではなく、黄巾党の追っかけである彼らもそう聞いた覚えのない、人和の素の声色だった。だからこそ、人和にすら知らされていない即興の出し物なのだと察したのだ。

 

「任せて! 絶ーっ対にみんなおどろくはずだから!」

 

 拓実は、胸を張って会場全体に向けて高らかに宣言してやった。手持ちの中から切り札を切ると決めたのだ。

 今回の催しが成功しなければ黄巾党の活動資金はすっからかんなままだし、済南の整備も出来ずじまいだ。民心の安寧を目指す劉岱にとって青州での地盤固めは必須。手を抜くという選択肢はない。

 

「一番、公山! 声まねしながら歌います!」

 

 

 

 ――人和は公演成功に向けていくつもの作戦を用意していたようであったが、拓実もまた盛り上げ役に不慣れという人和の手助けに臨む上で事前に準備をしていた。それは、場を持たせる為に三姉妹にまつわる話題を用意していたこともそうだし、一人でもできる演芸の練習でもあった。

 そうしていくつかの芸を用意していたのだが、しかし今この場で出来るものは限られていた。というのもある程度派手であり、その上しっかり観客を楽しませ、かつ人和に芸と認めさせるものを披露しなければならないからである。つまり『観客にも人和にも、不合格と言わせない芸』である。

 まず、相手の反応を見て嘘を言い当てる読心術の真似事を却下した。簡単なカードマジックなど手品も同様で、モニターで手元を映せない以上これらは舞台映えがしないからだ。ジャグリングや動物の鳴き真似は驚かせることは出来ても観客に受けるかまでは不明である。パントマイムならばそれなりに反応をもらえる自信はあったが、見慣れない芸なだけに人和に不合格と判断されかねない。ダンスや剣舞なども覚えてはいたが、許定ならともかく劉岱時では失敗する可能性が高かった。

 観客の受けが良く、人和が合格とする他にないだけの完成度を誇る芸となったら、拓実にはやはりものまねしかない。ただし、現代と違ってこの時代では有名人とされる人物の露出が少ない。そのほとんどが伝聞のもので、名前や偉業は知っていても声も顔も知らないということがままある。例え大陸中に名を轟かせる呂布のものまねをしてみせたところで、ここ青州では一人にだって通じるか怪しい。見てわかってもらえなければ、ものまねの意味がない。

 つまり黄巾党のお膝元である青州で、三姉妹の舞台を見に来ている観客を相手に通用する有名人なんて、当の三姉妹以外にはいなかったのだ。

 

「……は?」

 

 今しがたに人和と二人で歌った曲を、拓実は自分のパートは先と変わらずそのまま劉岱として、人和の歌っていたパートを地和の声色を真似て、一人二役で歌ってみせた。

 場繋ぎに使える出し物の一つになればと、三姉妹全員の声帯模写の練習をしてあった。人和は普段の声色と歌声が違っており、ちょっとした真似をするだけなら呟くようにして喋ればそれっぽく聞こえてしまう為、拓実は彼女の歌声の方まで練習はしていなかった。天和は口調と会話のリズムからすぐ誰の真似しているのか察してもらえるだろうが、声色自体はそこまで似せられなかった為に歌となっては難しい。拓実が似せられると確信が持てたのは地和の声色だけだ。そもそも地和の声質は拓実のそれとよく似ていて、演技をしていない時の音程で女性らしいしな(・・)を作り、音域の起伏でクセを作って喉にかからないよう発声すると、地和そっくりの声色になる。声だけならば、桂花を真似ている時よりも似せられた。地和本人と並んで声を出しても聞き分けが困難であろう自信がある。

 

「どーお? 私ってば、ちぃにそっくりでしょ?」

 

 歌が終わって最後に地和の声色を使って声を掛けてみれば、驚きのあまり人和は目をまんまるに見開いて、拓実を凝視している。口をパクパクと開いたり閉じたりしているが言葉もないようだ。

 結果から言えば、『不合格と言わせない』という拓実の試みは大成功に終わった。芸として紛うことなく最高峰の完成度であった。会場の誰もが度肝を抜かれて言葉を発せない。流石の人和もこれで芸ではないなどとは言えないだろう。

 しかし果たして、これは盛り上げに成功したと言えるのだろうか。息を殺したかのような会場の雰囲気を前に、拓実はにっこりと笑顔を作って内心で反省していた。

 やりすぎた。

 

 

 

 

「失礼致します。華琳様、劉岱なる者から封泥のされた書簡が届いておりますが」

「劉岱からですって? 入りなさい」

 

 秋蘭が書簡を手に、執務室の扉から内へと声を掛けるとすぐさまに返答があった。

 政務の手を止め、入室を許した華琳は椅子から立ち上がり、入り口にいる秋蘭の元へと足早に歩み寄る。そうして秋蘭の持つ書簡を受け取るとその場で紐解いて中身を検めていく。

 余程の危急の内容でないなら作業の手を止めることなく、秋蘭が執務机まで持っていって読み上げるのを聞いているところだ。気が急いた様子で書簡を読み、そして開いたまま微動だにしなくなった華琳など、官位叙任の知らせを受けた時にだって見たことがない。

 

「あの、華琳様。どうされたのですか?」

「……ああ。拓実と霞を、青州の動向を探らせる為に向かわせたでしょう? 黄巾党と接触することも考えて拓実には劉岱という偽名を名乗らせているの。そちらでの生活がある程度落ち着いたら連絡するようにと伝えておいたのだけれど……」

「拓実が……! 左様でございましたか。書簡の方にはなんと?」

 

 劉岱という名までは知らされていなかったが、拓実を青州の動向調査に向かわせたという話は聞いていた。あれは帝を陳留に迎えてすぐのことだったので、二月ほど前のことだ。先の出征で華琳の影武者を務めた人物がいることが知れてしまい、中でも討伐隊に配されていた者たちには荀攸がそうであろうという状況証拠までが揃ってしまっていた。拓実は出征の間に怪我を増やした為、療養のために郷里に帰っている許定として振る舞うわけにもいかず、ほとぼりを冷ます為にしばらく外に出されたという経緯があった。

 

「それが、一読しただけではちょっと意味を掴みかねていて……」

「は……、はっ? 意味、ですか?」

 

 華琳は、はぁ、と肺の中から大きく空気を吐き出し、頭痛を堪えるようにこめかみを抑えた。

 

「……声に出して読んでご覧なさい。書き出しの挨拶の類は飛ばしていいから」

 

 ぞんざいに寄越された書簡を受け取り、秋蘭は目を通す。

 

「では――黄巾党の活動が活発であるという済南へ到着直前、筵の行商として黄巾党員に接触。そのまま三姉妹の付き人にと推薦されて面接を受け、件の三姉妹が張角・張宝・張梁であると確認し、これに合格。半月ほど出納係として拠点である済南を含めて治めていたところ、公演に欠席した長姉と次姉の代役として舞台に上がることに。公演は成功し、現在は『数え役満☆姉妹』なる『天地人公四姉妹』の末妹として公演にも参加、同時に済南の行政者として活動中――なんでしょうか、これは」

「どうやら、一月の間にそこまで上り詰めたらしいわ」

「意味がわかりません」

「そう。どうすればそうなるのか、この私の頭脳を持ってしてもまったく想像すらできないのよ」

 

 拓実から二月も連絡がないことに密かに気をもんでいたのだろう。その中でこんな内容の手紙が届いたものだから、溜まっていた気苦労がどっときたというところか。華琳は疲れた様子を隠そうともしない。

 秋蘭は開いていた書簡を丸めた。空いた手でうなだれるようにしている華琳の背を優しく擦る。

 

「華琳様、どうかお気を確かになさってください」

「……秋蘭、あなたは随分と冷静ね」

「はい。まぁ、あの拓実がしたことと思えば、このような結果となったのも今更という気が致します」

 

 なにせ、軍師として援兵と共に送り出してみれば、一騎当千と謳われる敵将と一騎打ちを果たして満身創痍になって帰ってくるような奴だ。

 動向調査に向かわせたら成り行きで敵勢力に潜入しても何ら不思議ではないし、その中で信用を得て重要な役職を得ていてもおかしくない。更に言えば血縁関係で繋がっている三姉妹に混ざって舞台に立ってても拓実であれば「もしかしたら」と思わされるし、済南の行政を任され有権者と懇意になって実質的に実権を得ているのもありえないとは言い切れない。

 

「――――そうね。改めて考えてみれば、拓実ならば、確かにやりかねないわ」

 

 秋蘭は自分で発言しておいてなにか常識の秤が誤作動を起こしているような気がしたが、まるで思考をすべて放棄したかのような様子の華琳が同意してくれたので、それも気のせいだろうと思い直した。

 



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54.『地和、敵を知るのこと』

 

 

 会場の四方から流れ出る音楽。妖術によって増幅された歌声。『数え役満☆姉妹』の公演で、これまで例外なく黄一色で埋め尽くされていた客席は、今日また違った様相を呈している。

 舞台の上も三人から四人となったことで立ち位置が変わり、また偶数になったことで振り付けも新たに作り直されている。歌詞を全部歌い終え、曲の余韻も消えたところで四人は舞台中央に集まった。

 

「はぁい、それじゃ始めの曲も終わったことだし、いつものいこっかー? 準備はいいかなぁー?」

 

 歌い終えたばかりの天和が息を弾ませながら、手首に巻いた桃色の布を解いて頭上に掲げた。いつもなら前フリもなく突然に呼びかけるところ、わざわざ準備が整っているかを確認したのは今回が初めての試みになるからだ。

 

「せーっの、みんなだいすきー?」

『てんほーーちゃーーん!!』

 

 桃色基調で作られた衣装の開けた胸元は、同じく桃色のレース生地で彩られている。いつものように観客へと呼びかけると、大音量での返答が戻ってきた。

 違うのは観客席の中からばらばらと、天和が掲げた布と同じ桃色の手ぬぐいが掲げられていることだ。

 

「みんなのいもうとー?」

『ちーほーーちゃーーん!!』

 

 呼びかけと共に緑色基調の衣装を着た地和が腕の布を解いて頭上に掲げる。姉妹毎に衣装は違うが、胸元がレースで覆われている意匠だけは姉妹で共通となっている。

 今度は緑色で染められた手ぬぐいが客席で掲げられた。これで、客席の半分ほどが桃色と緑色で埋まった。

 

「とってもかわいいー?」

『れんほーーちゃーーん!!』

「やさしさいっぱいー?」

『こーーざんちゃーーん!!』

 

 さらに人和が青色、公山が赤色と続けば、同色が客席に生まれていく。この時ばかりは黄色が下地となって、観客席に桃・緑・青・赤・黄と色様々な光景が広がることとなる。

 公山の赤の割合が明らかに少ないが、こればかりは仕方がないことだろう。拓実からすれば他の姉妹たちに負けないよう、声を張り上げてくれる者たちがいるだけありがたいことだった。

 

「わあ、すごーい! 一回で上手くいったねぇ」

「きれい……」

 

 天和、人和が目をぱちくりさせて観客席を見渡している。地和も言葉にこそ出さないがにんまりと笑みを浮かべて満足そうに眺めている。

 公認会報誌『数え役満☆倶楽部』を通して新たな義妹である公山の加入と、天地人公姉妹にはそれぞれ色が割り振られたことが発表され、姉妹の中の一人を特別に応援している者は黄色の布とは別にもう一色の色布を身につけることが推奨されていた。

 それに合わせて『数え役満☆姉妹』の衣装も一新され、黄色と白を基に、個人色を全面に押し出した配色となっている。全員の胸元に試作品であった筈のレース生地をあしらっているのは、天和が気に入って姉妹おそろいにしたいとの長姉強権が発動したからである。おかげで拓実は一時期、舞台稽古の休憩時間にも刺繍をする羽目になっていた。

 

「ええっと、こないだの公演に来られなかった人に説明すると、前回からこの新衣装になったんだよね? れんほーちゃん?」

「そうね、天和姉さん。会報でお知らせしていた通り、黄色を旗印にしてきた『数え役満☆姉妹』だけれど、それとは別に私たちが好きな色をもっとみんなに知ってもらいたい。ということで今後、それぞれの色で私たちが考案する小物や雑貨を会場で販売できるよう企画しています」

 

 くるりとその場で回った天和が「ちなみに衣装の方は、こぉちゃんのお手製でーす! ありがとー!」と小さく拍手している。

 それを受けて「かわいいー」と感嘆する声が、客席から拍手の音と共に届いてくる。

 

「それに先駆けて、という訳でもないんですけど、本日は私たちの花押(かおう)*1つき手ぬぐいを各色少量ですけど販売してますから、色布の用意が間に合わなかった人は良かったら売店で手に取ってみてくださーい!」

 

 拓実がそう補足すると、ばらばらと手ぬぐいが掲げられた。どうやら既に買ってくれた信者たちなのだろう。

 次いで観客席から「買おうとしたけどもう全部売り切れてたよーー!!」と声が飛んできた。

 

「ええっ、もう売り切れたの? 私の書いたのも、全部?」

「今回は布を染められる塗料が間に合わなくて納品が遅れた上に、私たちも公演前で数を書くまとまった時間もなかったから……」

「あー、そうだよねぇ。買えなかったみんな、ごめんねぇー」

「ま、次の公演までにもっと書いておくから、その時はちゃーんとちぃの手ぬぐい、手に入れてよね!」

 

 拓実、人和、天和、地和と舞台の上でわちゃわちゃしている間にも、花押が姉妹の直筆ということで、観客席が大きくどよめいていた。ところどころから「嘘!?」「欲しかったー!」などと慟哭まで聞こえている。この様子であれば自前で手ぬぐいを用意してきた信者たちも花押つきのを購入していくことだろう。

 

「あーあ、こんなことになるなられんほーも速達料金ケチらなければよかったんじゃない? そしたらもっと数が……れんほー?」

「ふふ……これなら花押を書いたら書いただけ、手ぬぐいも塗料も追加で発注しておかないと、ふふふふ……」

 

 地和が問いかけても返事が返ってこない。見れば、目の色を変えた信者たちの様子に人和はほくそ笑んでぶつぶつと何事か呟いていた。眼鏡がキラリと怪しく反射している。最近また資金繰りが厳しかったので、思わぬ商機に商売っ気が疼いてしまったようだ。

 

「あらま。れんほーちゃんてば自分の世界に入っちゃった」

「相変わらずれんほーのツボってよくわかんないわね」

「あはは……私はちょっとだけ人和ちゃんの気持ちがわかるかも」

 

 天和、地和、拓実と三者三様、大小あれ呆れた様子を隠そうともせず、そうしているうちに天和がこほんと咳払いを一つ。

 

「れんほーちゃんが戻ってこないと次の曲にもいけないし、しょうがないからこぉちゃんに場を持たせてもらおー! わー、ぱちぱち!」

「えぇ? ……え、もしかして、また!? またやらなきゃなの!?」

「ちょ、ちょちょ、ちょっとまって! またって、それ、ちぃのセリフなんだけど!? やられるこっちの身になってよ!! 被害大きいの絶対ちぃのほうじゃない!!」

 

 天和の含みのある一言で拓実は苦り切った顔になり、地和は眉尻を吊り上げて必死に制止の声を上げる。

 これから何が始まるのか気づいて、観客席が「おおおお!!」と一斉に色めきだった。会場全体から拍手が巻き起こり、そして拓実の声が聞こえるようにと勝手に静まっていく。期待の視線が拓実へと集中する。完全にやらなきゃ収まりがつかない空気であった。

 

「ほらほらー、みんなも待ってるみたいだよ?」

「……もう! わーかーりーまーしーた! ちょっとだけですからね!」

「わかんないでよ! 考え直せー!」

 

 前回の公演でも、四人が揃って何事もなく三曲ほど歌い、対談と告知を終え、後は幕を下ろすだけ、という終盤で観客席からシュプレヒコールが巻き起こった。会場中から唱和された言葉は『声まね』である。人和と公山の二人公演での声まねの完成度を聞きつけた他の信者たちがぜひ聞いてみたいと声を上げたのだ。

 つまり劉岱は、一部の公山推し信者以外からは歌手というより半ばものまね芸人扱いされているようなのである。

 

「一番、公山。声まね。絶対地和ちゃんが言わないセリフ」

「何それ知らない! なんで新しいネタ作ってんのアンタ!?」

 

 喚き散らす地和を脇に置いて、すっと息を吸い込んだ拓実は意識を切り替える。

 絶対言わない、ということは普段の地和とは真逆の行動パターンを想像すればいいのだ。

 

「天和姉さん、れんほー。朝ご飯できたわよー。ほら、いつまでも寝てないでさっさと起きなさいよ! もう、洗濯物は午前中に済ませたいから早めに出しておいてっていつも言ってるのに。まったく二人してだらしがないんだから!」

 

 拓実は、地和の声まねに関しては非の打ち所のない出来であると声を大にして言える。声質から抑揚から、ほぼ聞き分けができないほどの精度を出せている筈である。

 事実、観客席からは唸るような感嘆の声が響いてくる。そして、『絶対に言わないセリフ』という意味を理解してクスクスと笑い声が漏れてくる。

 拓実がやりきった顔を向けてみれば、それまで顔を真赤にして文句をつけていた地和が不自然な笑顔を浮かべていた。口元も目元もひくひく引きつっている。

 

「それ、どういう意味なのかしらぁ?」

「…………」

「なんで黙ってるの? ねえ、こぉおざぁ~ん~?」

 

 こちらにじりじりと近寄ってくる地和をよく見れば、笑顔が崩れてきてまったく笑ってない瞳が拓実を射抜いている。アイドルという概念すら存在していないというのに、信者に見せちゃいけない表情を絶対に作らないのは流石である。

 それはそれとして、腰が引けている拓実と普段あまり見せない地和の姿に、客席からは笑声が上がっている。

 

「ふ、ぷふっ! あははっ! ほんとちぃちゃんにそっくり! 確かにちぃちゃん絶対言わないかもだし」

「天和姉さん!! それじゃまるでちぃが早起きも料理も洗濯も出来ないみたいじゃない!」

「……うーん、お姉ちゃんのほうが寝坊はするけど、流石に料理はちぃちゃんに絶対に負けることないだろうし。ねぇ、れんほーちゃん?」

「そうね。家事に関してはちぃ姉さんに負けることはないかも」

「うそ!? えっと、れんほーにだって一つぐらい、は……」

 

 地和は「料理、洗濯、掃除、繕い物……」と指折り数えて途中で動かなくなった。

 

「――――さあ! そんなことはどうでもいいわ! 人和も戻ってきたみたいだし、時間もないからそろそろ次の曲に行くわよ! 次は『乙女のチカラ』ね! はいっ!」

「誤魔化したわね、ちぃ姉さん」

「一人で歌っているところではみんなも一緒に頭の上で手ぬぐい振ってくださいねー!」

 

 構わず地和が指を鳴らすと音楽が流れ始める。観客へ一緒に盛り上がろうと声を掛けながら、拓実は声まねが公演での恒例行事にならないことを祈っていた。

 

 

 

 

 

「ああ、もうっ! イライラする!」

 

 公演を終え帰宅した地和は、自室に入るなり着ていた外套と上着を叩きつけるように寝台へと投げ捨てた。劉岱が加入してから何故か地和がイジられるようになっているというのも不機嫌にさせている原因であったが、そんなことよりも看過できないことがある。今回の公演で改めて発表された姉妹の色設定、姉妹各自考案の小物販売、そして曲に合わせて信者を参加させる案など、全てが劉岱の発案によるものだった。これまでそういったことを主導していたのは地和で、その役割を奪われた心持ちなのである。この一月の間は思い通りにならないことが立て続けで、張三姉妹の名を捨て、天地人三姉妹を名乗り始めてからはずっと順風満帆だっただけに苛立ちも大きい。

 上半身下着姿のままで荒く息を吐きだし、寝台に広がった上着をにらみつける。……舞台衣装に天和が無理を言ってつけさせていた麗衣透(れえす)生地は、鮮やかな見た目もさることながら何より大陸中探しても同じものはない特注品である。伝え聞くところによると遥か西方の大秦国*2には似た織物があるという話だが、こうも見事な刺繍であるなら帝に献上されていてもおかしくない。それを『数え役満☆姉妹』だけで独占しているという優越感もあって、決して口には出さないけれども地和のお気に入りであった。

 

「……ふんっ」

 

 ついでにこれを手がけた少女の顔が脳裏に浮かんできて地和は渋面を作る。いけ好かない奴の作ったものだけれども、衣装に罪はない。本職ではない為に細かいところに粗はあるが、これまでにない斬新な意匠は『数え役満☆姉妹』にぴったりと噛み合っていた。済南の古臭い針職人たちでは十年掛けようと同等のものを着想して作り上げるのは不可能だろう。本人はあくまで趣味などと言っていたが、こうして流行の最先端を担える感性があるのだからその道に進めば一廉の人物となってもおかしくはない。いっそ、そちらへ進んでいてくれたらどれほど良かったことか。

 上着を拾い上げると埃を払って畳んで脇に寄せ、改めて寝台のど真ん中に乱暴に腰掛けた。

 

 そうして地和は改めて考え始める――ここ最近の不調について。ケチのつき始めはいったいどこからだったか。熟考するまでもなく、太平道の導師に招かれて出席したあの催しだろうと思い当たった。あれがとんだ期待はずれだったのだ。

 大勢の参加者たちで飲んで歌って盛り上がっての村祭りのようなものを予想していたのに、蓋をあけてみれば信者たちが集って山の(ふもと)で儀式を執り行うだけ。あわよくば一曲披露して信者獲得を目論んでいた地和も、あの(おごそ)かな空気の中で歌って踊るのは流石に無理だった。天和と二人、二言三言発言した後は置物のように座っていただけだ。

 そうして気鬱なまま済南へと帰ってくると、地和の知らないうちに妹が増えていたことを聞かされることとなる。……確かに地和は太平道への伝手ばかりに目がくらんで、済南で公演を予定していたのをド忘れしていた。姉妹三人分の席を申し出たところで急に人和が済南に残ると言い出し、遅れてそれを思い出して血の気が引いたのは記憶に新しい。あれは、まぁ、地和が悪かった。それは地和も認めている。さらに言えば面倒を押し付ける形になってしまった人和には本当に悪いことをしたと思ってはいるのだ。

 人和一人で公演を行うのに無理があったのだって理解している。人和に限らず、地和や天和だって同じ条件で単独公演をするとなったら難しいだろう。三人参加で予定していた為に時間が余り過ぎて、場が持たないのは明らかだった。公演自体を中止にするでもなければ、演者を増やさない限り立ち行かないのは当然である。必然的に誰かしらの手を借りるのは仕方ないにしても、だからといっていきなり義妹が生えてくることになるとは誰が予想できようか。

 

 地和に黙って事を進めていたことに関しては未だに納得が出来ていない。確かに、演者増員の相談を受けていたら間違いなく反対したことだろう。『数え役満☆姉妹』は血の繋がった姉妹による芸人一座であって、舞台の上は三人だけの聖域だと思っていた。それ故に他人が入る余地なんて存在しないと、姉妹二人もまた同じ考えだろうと思っていたのに、発起人の人和に加えて姉である天和も劉岱の加入を快諾したというのだ。

 それでもまだ一日限りの特別出演ということであれば溜飲を下げられたかもしれなかったが、義妹として正式加入させるとはいったいどういう了見なのか。地和にはそれが理解できない。ただ、こうなった原因はほぼ間違いなく地和にあったので、暴走気味ではあったが形振り構わずに公演を成功させた人和相手に強く言えないでいるのだった。

 

 

 

 ――地和は劉岱に出会った時からずっとおかしな焦燥感に駆られていた。胸の内が絶えずざわつく不快感から彼女にきつく当たっていたのを姉と妹はいつもの癇癪(かんしゃく)と相手にしていなかったが、決してそれだけのことではない。

 敵だ。生まれて初めて、地和の前に敵が現れたのだ。そして、地和はこの数ヶ月で得体の知れなかった感情をようやく認識する。これは敵愾心。地和は意識下で、一目見た瞬間からいずれ劉岱を打倒せねばならない相手であると感じ取っていたのだ。

 

 『数え役満☆姉妹』は、大陸において唯一無二の存在である。芸人でありながら大陸各地に信奉者を持つ麒麟児であり、興行師としては権力者からの庇護を受けない異端児であり、大陸芸能において前例のない特異点と言える。舞台に立ち収入を得ている為に芸人とされてはいるが、現状それ以外に当てはめる言葉が見つからない為にそうされているに過ぎない。

 帝の後宮に務める宮妓などの一部例外を除いて芸人は身分が低く、領主などに呼ばれる大規模な芸人一座でもなければ糊口を凌ぐのがやっとの生活を送っている。芸など二の次で、春を売るのを主としている一座も多い。彼らにも金持ちになりたい、大成したいという願いこそあるだろうけれど、根無し草でありその日暮らしの刹那的な生き方が身についてしまっている。そして地和には彼らのような生き方は我慢がならない。地和には大望があった。然るところに知られれば捕縛され処刑されるような大望である。

 

 同じ舞台に立つ姉――天和は唄うことと同じぐらい、他人に、特に異性に愛されチヤホヤされることを好むある意味とても女らしい人だ。そんな性格だから同性に嫌われそうなものだが、しかしそれを補って余りある長所があった。天和は、身につければ誰もが羨むような魅力的な衣装や小物を選び取る感覚が飛び抜けていて、その一点においては然しもの地和も敵わない。近年では女性服の流行を発信するまでに至っており、『数え役満☆姉妹』の女性人気は彼女に支えられている部分が大きい。

 同じ舞台に立つ妹――人和は唄うことと同じぐらい、合理的に、計画的に自分たちを売り出すことにやり甲斐を感じているヘンな奴だ。しかしその目は確かで、どうすればより聴衆から反応を得られるかを熟知している。また金遣いの荒い天和と地和の歯止めとなってくれているのも人和であり、天和・地和だけでは早々に借金漬けになり興行どころではなくなっていたことだろう。理知的でしっかり者でありながら年若である人和には何故なのか金持ちの信者が多く、土地や屋敷の権利証を貢がれていたのを見た時には驚いたものだ。とにかく、人和がいなくては『数え役満☆姉妹』は成り立たない。

 そして残る地和はといえば、唄うことと同じぐらい、己自身が輝くことに快感を覚えているのだった。幼い頃から目指すのは、女性としての美しさと少女の可愛らしさを兼ね備えた、手が届きそうで決して届かない存在。蠱惑的であり、清廉であり、愛され、崇拝されて、大陸中の人々を熱狂させる。舞台の上にあれば帝だって、あの万夫不当の飛将軍だって地和には敵わない。そんな、夜空の中にあっても一際輝ける星のような存在になりたいと、地和は小さい頃からずっと願い続けてきた。

 それが地和の理想。芸人などという小さな枠組みに収まらない、ありとあらゆる人間の中で最も愛される存在。革新的とされている『数え役満☆姉妹』の方向性はほぼ地和の着想によって定められていて、しかし他の芸人たちはおろか、姉妹にだって全てを理解してもらえない考え方であった。

 

 夢を叶える為、地和以上に舞台についてを試行錯誤してきた人間はきっといない。地和にはその自負があった。

 曲調を男女の隔てなく口ずさみやすい明るく軽やかなものに。歌詞は世代を問わず共感を得られるよう心情に訴えるものを。拍子に合わせて体を動かし、歌の合間に客とのやり取りを挟んで一体感を作り上げる。より多くの人の元へ声を響かせる為に妖術を会得し、高価な鏡を使って太陽光を舞台に集める装置を作っては効果的に自分たちを魅せる方法を考え出した。地和らが考案し限定販売している小物には『数え役満☆姉妹』を示す『黄色』を主軸において、信者たちの生活の中に置かせることで地和たちに向ける熱を日常的なものにする――――どうすればより魅力的に見せられるか、聴衆が自分たちに夢中になれるかを模索し続けてきた。

 そうして試行錯誤を繰り返した結果が今だ。駆け出しの頃に歌だけでは食い扶持すら稼げなかった地和たちが、一時には黄巾賊なる数十万人の信奉者を持つ影響力を持つに至った。……もっとも、その大半は当の張三姉妹を知らないただの賊徒集団ではあったのだが。

 とにかく、大陸最大勢力の指導者にまで上り詰めた地和だが、そこでもまだ終着点ではないと考えている。この夢には、もっと続きがある筈だ。自分たちの舞台に来ている間だけでも色々なしがらみ、苦悩、鬱屈した争いばかりの現世から開放された夢のような時間を与える。その桃源郷の中心にいるのは自分たち姉妹であり、信仰を以って彼らの神となるのだ。

 そんな神をも恐れぬ野望を抱いている地和が、唯一敵と定めているのが付き人として雇った少女、劉岱である。

 

 地和には数年に渡っての悩みがあった。芝居小屋のような数十人規模の会場ならば気にならなかったが、動員数が膨れ上がった今、歌声の方は妖術で増幅して大きく響かせることが出来るようになったものの後方の客席から舞台上の視認が難しくなっていたことだ。

 『数え役満☆姉妹』の本拠点と定めた済南に新しく舞台が作られることとなり、それに口出しができるとなったが、地和ではその問題を解決できる舞台というものがどうしても思い浮かばずにいた。それも当然のことで、長年流浪の旅芸人であった地和に舞台建造の経験などなく、言ってしまえば門外漢。こうしたいああしたいという要望はあっても実現するための知識や技術が圧倒的に不足している。

 建造案が纏まらないうちに期限が来てしまって、当時既に付き人というよりほぼ事務員になっていた劉岱にぶん投げることになった。間に合わせのそれを叩き台に駄目出しして、時間稼ぎするのが目的だったのだが、彼女が書き上げた舞台設計図はなんと地和が求めていた問題を解決していたのだ。

 

 その舞台というのが、会場の中央に丸形の高座を置き、全方位を客席で囲んだ円形劇場である。

 客席の中にも複数の高座が設けられており、同じ高さで繋がっていく通路もまた舞台上となっていて、演者がそれぞれ移動することでより多くの観客たちが地和たちを目前の距離で見られるという。おまけにその通路の下も空洞――人が通れるようになっていて、舞台裏から中央の高座まで繋がっている。演者は信者たちに姿を見せず、下から人力の昇降装置でせり上がるようにしていきなり舞台上に登場することもできるというのだ。従来は登場するのも左右の袖から歩いて現れるというのが常であったので、急に舞台上に現れるという驚きをも観客に与えられることだろう。

 これまで舞台といえば客席の前方に大きな高座を置いた長方形か扇形であった。これは演劇などをする際に正面からのみ見せられる書き割りなどの大道具、背景となる絵が描かれた幕を掛ける壁を必要とする為である。また複数の演者の入退場や大道具の出し入れ、楽器演奏者たちを配置する関係で舞台横に目隠しの幕を掛けて『袖』を作らなければならない以上、せざるを得ない構造だ。

 しかし『数え役満☆姉妹』の演目は歌舞が主であり、舞台上に持ち込むのも精々一人一つの楽器や小物ぐらいのもの。音楽だって妖術で代用することもある為に舞台裏で鳴らしたって構わない。そう、『数え役満☆姉妹』だけが使う舞台であるなら、既存の舞台のように演劇や雑技など多目的に使うことを一切考慮しなくてもよい。そういう意味では地和もまた『舞台とはこうあるもの』という固定観念に囚われていたのだろう。

 

 地和は興行にあたって常に新しい娯楽や発想を求めていて、しかし第一人者である『数え役満☆姉妹』には先人がいない為あらゆるものを自分で作り出してこなければならなかった。旧来からの歌芸と比べれば奇抜ともいえる発想で大陸中を席巻してみせた地和が、時代に先駆けた才人であることは客観的に見ても明らかだ。大陸芸能を数百年先取ったと言っても決して過言ではないだろう。無人の野を行き(わだち)を残していく達成感こそあったが、競い合える相手すらいないことに孤独を覚えたことだってある。

 そんな地和の未知への『飢え』が他者によって満たされたのは初めてのことで、そうと知った地和の驚きたるや如何許(いかばか)りか。この時ばかりは、劉岱に対する言いしれぬ不快感よりも喜びが勝った。地和と同じ世界を見ている同朋が、ここにいたのかと。

 

 喜び勇んで劉岱に『数え役満☆姉妹』の公演について意見を求めてみれば、常日頃から考えていたのだろう、待ってましたといわんばかりに顔を上気させて口早に語りだした。

 曰く「天和は桃、地和は緑、人和は青と、黄色とは別に性格に合わせた色を設定すると取っ掛かりが作りやすいのでは」、また「姉妹の各派閥の信者に対応した色の手ぬぐいを持たせ、それぞれの独唱部分で掲げて一緒に舞台を盛り上げていく」やら。他にも「抽選で姉妹一人につき数名の信者にだけ、私物に目の前で揮毫(きごう)してあげる催し物案」「小規模な会場なら勝者に賞品をつけて猜拳(じゃんけん)大会案」「公演中の僅かな時間で着替えられる衣装を試作しているので試してほしい」「会場中を暗くして、舞台だけを明るく照らせば遠い客席からでも見やすいのでは」等々、とてもじゃないが挙げきれないほどである。おそらくいずれも有用で、いくつかの案は手直しして既に取り入れているが、中にはどう考えても実現できそうにないものもある。ともかく、地和がこれまでに妖術を用いてようやく実現してきたようなトンデモ案がいくらでも劉岱から出てくるのである。

 

 そうして、すぐに地和は思い違いに気がついた。劉岱の感性は地和と質を同じくするもので、当然ながら常人とは違う。衣装の意匠もそうではあったが、殊更舞台に関わる物事においては最先端どころではなくこの時代の遥か先を生きている。そう、この地和よりも先へ、だ。

 ――これまで行商をしていただけの少女が、数万人を相手に興行経験を積んできた地和よりも具体的な展望を描けている。同じ世界を見ているはずなのに、おぼろげな輪郭を掴もうとしている地和とは鮮明さが、見渡している距離が、範囲がまるで違う。地和が進もうとしている道の先に何があるかを予知しているとしか思えない。

 きっと地和が幼い頃より努力し試行錯誤して手に入れようとしている新たな芸人のあり方さえも、劉岱は既に完成形として持っているのだろう。

 

 劉岱はいったい何者なのか。どうやって地和を先んじているのか。おそらく他の芸人たちが地和を見て、同じように思ってきただろう。理解が及ばない存在と。

 地和は、一番でなくては気が済まない。いずれ劉岱をも倒さねばならない。だというのに、敵の全容がいまだ見えていない。どう戦えばいいのかすらわからず、苛立ちばかりが募るのだ。

 

 

*1
記号のように崩したサインのこと

*2
ローマ帝国



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55.『太史慈、助力を乞うのこと』

ご無沙汰しておりました。
SNS上にて、先月中を目途に更新すると宣言しておいてこんなにも遅れてしまいました。
ごめんなさい。


 

「ふふっ」

 

 この一月の間に行われた公演を順に思い返して、拓実は口元をほころばせる。鈴を転がすような声を漏らして部屋で一人、思い出し笑いしていた。

 拓実ははっきりと浮かれていた。舞台の上で歌って踊って、みんなが笑顔になって喜んでくれる。その上、お給金まで貰えるのだ。こんなにも幸せなことがあっていいのだろうか。

 

 進学と同時に演劇から離れてしまった拓実がこうして『歌手』という役柄を演じて舞台に立てる。それだけでも嬉しくてしょうがないのに、ここ済南では舞台演出にだって口出しできる立場にあった。拓実自身、舞台芸術に関連するというだけで演劇、歌劇に留まらず、日本舞踊やオペラにミュージカル、ダンスに落語に大道芸と手当たり次第に観劇していた舞台バカである。地和の妖術を用いれば現代演出のいくつかを再現できそうなものだから、今後の公演で試してみたいことばかりが頭に浮かんでしまう。劉岱の元となった劉備も歌手を始めとした芸能業界に並々ならぬ憧れを持っていたものだから、拓実の舞台好きと劉岱のアイドル好きの相乗効果で毎日が夢心地なのである。

 

 知らぬ間に義妹が増えていたことに地和から文句が出たものの、無理難題を人和に押し付けた負い目もあってか公山の義姉妹入りは渋々ながら認められていた。初めて四姉妹全員が揃った公演では、観客からの要望で地和の声真似をしたところ顔を真赤にした本人から怒声が飛んでくるという一幕もあったが、どうやら一発芸を目当てにした新たな客層を開拓していたようで着々と信者が増えてきている。つい先日には『公山ちゃん親衛隊』なんて個別の応援団まで結成されたようだ。もちろん義姉たちのそれとは比ぶべくもない人数ではあるが、目に見える形での反響を得られるのはなんとも役者冥利に尽きるというものだった。

 拓実が舞台歌手を兼任するようになった為に相変わらず人手不足なのは否めないものの、人和と分担して事務仕事するようになって先日にはなんと休日を取ることができた。『数え役満☆姉妹』末妹となった公山の知名度も上がっている為に外出の際には変装は必須となり、更には霞か子義を伴ってと一人歩きも出来なくなってしまったが、身辺警護上の理由で姉妹みんなで食事を取ることも増えたので美味しいご飯やお菓子が食べられる機会が増えた拓実はなんら不満を覚えていない。

 

 とはいえ、何もかも順風満帆とは言えない。今拓実を悩ませているのが任務をほっぽらかしてたことだ。

 拓実は状況に流されるまま付き人として採用され、何故か内政官の仕事を兼任させられ、さらに針仕事が一緒についてきたと思ったらいつの間にか舞台に上がって歌手までやることになった。最近ではもっぱらダンスの振り付けをして姉妹全員で練習するようになっている。

 そんなこんなであんまりに忙しくて頭から綺麗さっぱりすっ飛んでいたが、拓実が華琳より命じられた任務は青州黄巾党の動向を探ることである。決して三姉妹と一緒になって歌って踊って黄巾党信者を増やすことではない。あんまりみんなが喜んでくれるものだから、のんきに天職を見つけたかもなんて考え始めていたのだがそうじゃないのだ。

 思い出せたのは済南に到着して優に一月半が過ぎてのことである。どうも、劉岱の役に入り込み過ぎていたのかもしれない。

 

「うーん、どうしよう……」

 

 とりあえずなにかしら報告をと思い立ち近況を書いて華琳へと送ったものの、次の書簡に何も書くことがなくて拓実は困っていた。周辺を荒らし回る黄巾賊の今後の動向なんてわかるはずもなく、このままでは毎回『数え役満☆姉妹』の公演の様子――――四姉妹のファンクラブ会報と同内容のものを送ることになってしまう。お叱りの返書が拓実の手元に届くのは想像に難くない。

 

 さて。大陸中から問題視されている青州黄巾党であるが、数十万に及ぶ強大な暴徒集団と周囲より認識されているもののその内実は違う。曹操や袁紹、陶謙などの音に聞こえた周辺の領主ですら迂闊に手を出せない威勢を誇っているのは確かであるが、実際は『天地人姉妹の信者である黄巾党』と、『威を借るために名を騙る、数十名から数百名規模に渡る無数の野盗集団である黄巾賊』の二つが一緒くたにされている。

 『黄巾党』の核となっているのは『数え役満☆姉妹』の公演に毎回のように参加し、黄色の衣服で全身を着飾って自主的に自治活動をしている熱心な信者たちである。しかし大多数を占めているのは信者たちの自治活動に恩恵を受けて消極的ながら支持・協力を行っている済南の十万人ほどの町民たちなのだ。言ってしまえば済南の全住民こそが三姉妹を支援する本来の黄巾党であり、その大半は非戦闘員となる。

 対して拓実が便宜上『黄巾賊』と呼称している者たちは、領主不在の土地があると聞いて大陸中から集まった山賊・罪人、そして食い詰めて土地を捨てた元農民らとなっている。総数こそ膨大だが、三姉妹の活動拠点となっているこの済南には近寄れない。ここには三姉妹の要望に応えるべく日々の鍛錬を欠かさずにいる屈強な自警団が常駐しているからだ。その上信者たちを中心に統率が取れているとなっては、少々徒党を組んだぐらいでは敵うわけもない。自警団が黄巾賊と同じく黄布を身に着けていることもあって、済南は領主を追い出した武闘派のお仲間が支配している都市として恐れられているようである。青州でもっとも栄えた済南に近づけない彼らは、日々の糧を得るためにもっぱら青州の他の地域や隣接している州を荒らし回っているわけである。

 

 以上が青州黄巾党として一緒くたに呼ばれている勢力の内情であり、拓実は黄巾党側の中枢に入り込んだことでこれらを知ることが出来たが、では今後の動向はどうなるのかというと把握のしようがない状態だ。

 済南の黄巾党は三姉妹の下で意志統一がなされているが、実際に周辺地域に襲撃を仕掛けて世間を騒がせているのは食うに困った黄巾賊の方である。そちらについて知っていることなんていくらもなく、黄巾賊側にも目ぼしい集団がいくつかあるにはあるのだが、数も規模も、頭目の名前すらも定かではない。拓実の属する黄巾党とは、根本的に別の集団なのだった。

 

「お、なんやなんや珍しくしかめっ面してからに。悩み事かー?」

「わっ! 霞さん!?」

 

 事務所の仕事部屋で唸っていた拓実が急に両肩に手を置かれたことで驚いて振り向くと、いつの間にか霞が椅子の後ろに立っていた。ねぎらいなのか、そのまま特に凝ってもいない拓実の両肩は霞に揉まれている。

 朝方に天和の買い物に同行していった霞がどうして事務所にいるのか。どうやら考え事をしているうちにだいぶ時間が経っていたらしく、窓の外を見れば日が傾き始めている。

 

「そう、ちょうどよかった! 霞さんに相談したいことがあったんです。その、報告書を出さないといけなくて」

「報告書? あー……。せやなぁ」

 

 言いながら拓実が目線をちらちら遠くへとやると、提出先がこの済南ではなく華琳へのものと気づいた霞は眉根を寄せた。

 もちろん霞も青州黄巾党の内情を把握している為に、拓実の相談内容にも察しがついたからだろう。

 

「ま、そーゆー話ってんなら他所じゃできんわな。ほんなら今夜、ここでな」

 

 少しばかり考えた様子の霞は、いくつか言葉を交わしてから最後にぽんぽんと肩を叩いて事務室から出て行った。

 ふう、と拓実は肺から空気を吐き出す。どうやら知らぬうちに霞に対して身構えていたようで、気を落ち着かせようと心掛ける。

 

 ――――霞との関係は、とりあえず会話に関しては以前のように戻っていた。

 済南に到着したばかりの頃に男であることを打ち明け、勘違いも手伝って異性として強く意識されてしまっていた。付き人として雇われ済南にしばらく逗留することが決まってからは、それまで同室の宿住まいだった拓実と霞も住居はそれぞれ別々に借りている。そうして霞も離れて生活しているうちに落ち着きを取り戻していったようで、拓実とも以前のように会話が出来るようになっていった。

 ただし会話の折、肩に腕を回されたり、頭や肩に手を置かれて体重を掛けられたり、後ろから軽く抱きつかれたりと女子同士でも行うようなスキンシップが明らかに増えている。好意の表れなのだろうが、肩を叩く程度ならともかく霞はあまりそういう振る舞いを他の女性にはしないので、一緒にいると周囲から若干そういう目で見られてしまって拓実には妙な気苦労が残るのだった。

 

 

 

 

 それから数刻後。三姉妹や子義も揃っての外食を終え、姉妹たちを送り届けてから再び事務所の仕事部屋に拓実と霞は戻ってきた。

 最近は人和が半分を受け持ってくれているので事務仕事はあらかた片付いている。今も公演前には衣装製作などで夜遅くまで仕事することはあるが、以前のように仕事部屋に泊まり込みまですることは余程のことがない限りはなくなった。 

 

「んで、あっちに送る報告書ってことやけども、一応いっぺん送っとるんやろ?」

「うん……。前回『数え役満姉妹』と済南の信者の人たちについては書いたんですけど、青州黄巾党の動向っていうからには周辺で略奪してる人たちについてが本題だと思うし」

「せやろなぁ」

 

 椅子に座った霞が言葉を返しながら、井桁に掛けられた布や舞台衣装を手に取って見分している。

 

 ――――実は、華琳から課せられた任務にはっきりとした期限は定められていない。おおよそ半年から一年ほど、青州もしくはその周辺に滞在し、青州黄巾党の動向を知らせよというものだ。これは宦官軍討伐隊に現れた二人目の曹操の正体が荀攸であると兵たちの間で噂になってしまったことを近因としている。姿を隠そうにも華雄との一騎討ちで利き手を骨折している為に許定として振る舞うこともできず、身の置き場がなくなってしまった拓実を他所へ出してほとぼりを冷ます必要が生まれてしまった。はっきり言ってしまえばこの任務は荀攸を外にやる建前であって、黄巾党の調査自体には然程期待をされていない。

 半年から一年というのも拓実の怪我の療養期間を前提にしたもので、その中途であってもある程度行動指針などが判明したならば陳留への帰還も許されている。拓実は今こうして追加で報告できることがなくて困っているが、任務を命じた華琳としてはどうせ他所で休養するなら青州近くで休んでいてもらって、もしその間に三姉妹の行方が判明するなり、あるいは暴徒集団が(エン)州へ略奪をしかける動きがあれば一報を入れろ程度のものだった。怪我さえ治っているなら三姉妹の所在が判明した時点で任務終了としてもなんら問題はなかったのである。

 ただし、曲がりなりにも任務を命じられた拓実と霞からすれば半年から一年ほどと言われているのに一月そこらで任務終了とするわけにもいかない。またとんとん拍子で黄巾党中枢に入り込めてしまった為に、二人して得られた情報を過小評価していたのもあった。その為、もっと重要な報告をしなければと焦っているのである。

 

「まぁ、ただ、不穏なのはこの青州だけってわけでもあらへんしなー。先月に長安を袁紹が占領したと思ったら、今度は幽州に向けて出兵準備を進めてるなんて噂も聞こえてきとる。帝を庇護しとる華琳とにらみ合いしとるから南へはいかれへんし、北に勢力拡大して帝の擁立者として名乗り出ようってとこちゃうか?」

「そんなことになっていたんですか!?」

 

 この済南にも宦官粛清の報は広まっていた。一様に宦官は帝を盛り立てるべき朝廷に身を置きながら董卓に与した奸臣どもであり、比すれば董卓よりも許されざる大悪党であったという言説だ。

 つまりは袁紹自らが大陸中に喧伝しているのだろう。劉協奪還の功がありその庇護者となった華琳から、なんとしてもその立場を奪いたいという企みが見え隠れしている。

 

 そして、これは拓実にとって初耳であったが、袁紹が次なる標的としているらしいのは幽州。その地を治めているのは反董卓連合にも参加し、洛陽では曹操として一緒に炊き出しに参加していた公孫賛である。

 まだ噂の段階で確定されてはいないが、いつ戦端が開かれてもおかしくないということなのだろう。歴史を知る拓実からすればいつかはぶつかるものとは思っていたが、つい数か月前に反董卓連合軍が発足したばかりだというのにあまりに動きが早すぎる。

 現状、この大陸で一番の兵数を誇っているのは袁紹であり、物量と資金では他の追随を許していない。その上で好戦的であり武力によっての侵攻を良しとしている。

 現在拓実が滞在している青州は華琳の治める(エン)州、袁紹治める冀州と隣接し、そして公孫賛の治める幽州とも程近い。その為、袁紹の侵略戦争による火の粉が青州に及ぶことも、あるいは袁紹の気が変わって青州に攻め込んでくることだって充分に考えられた。大軍に攻めかかられようとしている公孫賛の置かれている状況は、拓実と霞にとっても決して他人事ではないのだった。

 

「なんやけっこう噂になっとるのに知らんかったんか。まぁ、拓実も姉妹と一緒に舞台に上がるようになってから一人で外も出歩けんし、毎日事務所の中で仕事しとる以上しゃあないやろうけども」

 

 やはりというか、三姉妹の護衛として毎日街に出ている霞は拓実よりも耳が早い。ひととおり衣装を眺めた霞は飽きたのか、次に手持ち無沙汰な様子で拓実の執務机の上に転がっている書簡を適当に手に取って読み始めている。そのままついでにと今済南で聞こえてくる地方の情勢を話してくれた。

 まず反董卓連合軍に参加し、袁紹に劣らぬ大軍勢を率いていた袁術。彼女は建国宣言を行ったが為に客将の孫策、そしてそれ以外の臣下たちにも離反され、その領地はすっかり内乱の様相を呈しているようだ。追い詰められてことここに至っては形振りも構わなくなったようで、確執がある袁紹相手にも助力を求めている。

 また反董卓連合軍に参加していた諸侯つながりでいうと、娘の馬超を名代にしていた馬騰は、独力で劉協を奪還し即位まで取り計らった曹操の功績を褒め称え、帝に代わって天下に号令する際には従う意向を示しているという。言い回しから察するところ朝廷への忠誠厚い人物なのだろう。いまだ帝の威光は強く、馬騰のように恭順の意を示す領主や加入を志願する義勇軍なども増えているようで、外から見ても遠征で損耗していた曹操軍の軍備は急速に拡充している様子である。

 また華琳が奏上したのだろう、陳留に身を寄せている劉備も帝の名の下に新たな役職を賜り、青州西部に位置する平原*1――陳留から済南までの旅程であった、黄巾賊の略奪にあって荒廃していたあの土地の統治を任命されている。いまだ黄巾賊が蔓延っている為に本拠を得たとは言えないが、大義名分を得たことで劉備は早速平原へと入り賊徒撃退と治安向上から手を付けている様子だ。

 

 これらは天地人三姉妹と共に舞台準備と連日の済南の内政業務にかかりきりだった拓実の耳に入ってきていない情報である。とくに、直近の出来事である為に知らなかったことも無理はないが、劉備が平原を任されていたことには驚きを隠せない。

 もちろん、そのように劉備を配置したのは華琳である。拓実の報告書にあった、青州刺史である孔融が東部へと退いてしまっているという子義の言及から実質的に誰も支配権を持っていないことを読み取っての行動なのだろう。平原は袁紹の本拠地である南皮と、華琳の治める(エン)州との間に挟まれた土地である。袁紹とやりあえるほどには態勢が整っていない華琳としては、少しでも緩衝地帯を設けたいのだろう。

 帝である劉協へ自らの功績を宣伝して関心を惹こうとしている袁紹は、それ故に正式に彼女の名の下で任命されたことに異見を唱えることはできなくなってしまっている。また、曹操の下に身を寄せていることは面白くないだろうが、新たに任命されたのが劉備というのも無視できない。袁紹にとって劉備は、数万人分の物資を提供してやるぐらいに好印象を抱いている人物である。袁紹とていざとなれば躊躇はしないだろうが、それまでは無下には出来まい。

 

「さあて、それはそれとして報告書の話やな。っつっても済南にいるウチらから外で好き勝手しとる黄巾賊についてわかっとることなんていくらもないしなぁ」

 

 拓実よりも情報のアンテナが高い霞ですら黄巾賊の内情をまったく把握できてないとなると、根本的にここでの情報収集自体に無理があるということになる。

 やはりファンクラブ会報と同内容のものを送るしかないかと嘆息していると、霞が拓実に向き直って真剣な目で見ていることに気がついた。

 

「ああ、それと。二人きりで良い機会やから言うとくけど、拓実もすっかり姉妹に馴染んで舞台に立ってもうてるけどウチらはいつまでもここにはおられへんねんで。そのへん、ちゃんとわかっとるか?」

「あ……、それは、そうなんですけど……」

 

 当たり前の事実を突きつけられ、拓実は咄嗟に返事を返せなかった。

 なりゆきで姉妹の一人として数えられてしまっているが、済南にいられるのはおそらく長くても一年ほど。場合によってはもっと早く陳留に帰還しなくてはならない。そうなった時、既にファンクラブまで出来ている公山は『数え役満☆姉妹』から脱退することとなり、ひと悶着が起こるのは間違いないだろう。

 本来ならば他人に指摘されるまでもないことなのに、拓実は今のこの充実した毎日に終わりが来ることを考えたくなくて、見ないようにしていた自覚があった。

 

「…………!」

「ん?」

 

 拓実が消沈していた折、にわかに建物の外が騒がしくなる。夕食の時間も過ぎ、もういくらもすれば寝静まる頃にしては明らかに様子がおかしい。

 霞がざわついた雰囲気を感じて視線を巡らせ、外から聞こえてくる声に拓実が跳ね上げ窓から外を覗こうとするのと、何者かが声を上げながら事務所に飛び込んでくるのは同時だった。

 

聶遼(じょうりょう)! 聶遼! もしかしたらと思ったら事務所にいたのか!」

「あん、子義か? なんかあったんか?」

「助けてくれ! お前の力が必要なんだ!」

 

 けたたましく戸を開け放って駆け込んできたのは、紅色の特攻服。拓実や霞と同じく三姉妹の付き人をしている子義だ。

 どうやら用事は霞にあったらしく、余裕がないようですっかり血相を変えている。

 

「助けてってのは穏やかやないな。何があったんかとりあえず言うてみい」

「こんなことを頼む義理がねえのはわかってんだけど、黄巾賊のやつらが北海で文挙オバちゃんの城を囲んでるらしいんだ! なんとかして助けてやりてえんだけど、アタシだけじゃどうしたって手が足りねえんだよ!」

「『文挙』?」

 

 顔色は白く、目を見開いて強く声を張る子義は勢いそのままに掴みかからんばかりである。他のことは目にも入っていないのだろう。誰のことを言っているのか理解できていない霞の様子にも気づかない。

 拓実は落ち着かせるために、霞との間にやんわりと体を割り込ませる。

 

「子義さん。えっと、文挙さんって方は、前に聞いた孔融さんのことですよね?」

「お、おお! コウ(公山)もいたのか! そうだ、黄巾賊にやられて昔の根城に引っ込んだってのはアタシも聞いてたんだけど、どうも奴らを鎮圧するのにこっそり北海で兵を集めてたらしいんだよ。それを黄巾賊のやつらに察知されて、あちこちから集まって一つのでけえ集団になっちまってる」

 

 拓実の存在に気づいた子義は目を白黒させて、しかし少しは冷静になれたのか説明し始める。

 

 普段は数十から数百程度の規模の集団で暴れている黄巾賊が、外からは数十万もの数に及ぶとまで言われているのは今子義が述べていた黄巾賊の性質に原因があった。

 食糧などを巡って黄巾賊同士での諍いは日常茶飯事であり、殺し合いだって珍しくない。荒くれ者ばかりの集まりであって決して仲良しこよしをしているわけではない。

 だが、外敵が現れた時は別だ。既に追い詰められて逃げてきた黄巾賊に他に逃げる土地はない。食うに困って落ちるところまで落ちた者たちにとって、軍を率いて己らを討伐せんとする権力者どもは不俱戴天の敵である。それらが相手となった時、彼らは黄巾を目印に一致団結をして事に当たる。命を投げうってでも徹底的に抗戦する。そうなった時、数十、数百が数千に。そして数万、十数万にと膨れ上がっていく。

 もちろん兵としての練度は大きく劣る。けれども、数万もの兵が死兵となれば、曹操や袁紹であってもまともにやりあうことが出来なくなる。周辺の有力な領主たちが青州の土地を攻略できない理由がここにある。普段は弱兵なのだが、相手方が外からの侵略者となった途端にすさまじい物量と士気で反撃してくるのだ。

 

「……なるほどな。済南に住むウチらにとっても黄巾賊は放っておけん。ウチに出来ることなら手ェ貸すのは構わへんけど、敵味方の数やらはわかっとるんか?」

「あ、ああ。籠城してる味方が三千。オバちゃんによると相手は今のとこ一万に届くか届かないかってとこらしいんだけどよ……」

「一万……。仮に済南で義勇兵を募ったとしてもせいぜい一千そこらやろう。合流できたとしても四千程度やと流石に厳しいか。自警団の連中がついてきてくれるならもう少し見込めるかもしれんけど、あいつらは三姉妹の住む街を護っとるだけやからな。そもそもウチと子義に従ってくれるかもわからん」

「それは、それはアタシもわかってんだ。でも、かといって他に頼れる相手もいねえし。大恩がある文挙オバちゃんを見捨たりも出来ねえ。もう、どうしたらいいのか」

「……なあ拓実、なんとかならんか?」

 

 考え込んでいた霞だが、いい案は浮かばなかったのだろう。しばらくしてから、ちらりと目線を拓実へと送る。

 

「お、おい、聶遼。なんとかって、なんでンなことコウに聞いてんだよ。お前とは違ってどう考えたってこんな荒事には向いてねえだろ」

「あいにくやけど、ウチは一万を率いて突撃することは出来ても、寡兵で一万を打倒できるような策は考えつかんからな。拓実がどうにもならんっちゅうならウチもお手上げや。動かれへん」

「はあ……? 一万の指揮が出来るって豪語するのもたいがいだけどよ。それより、今の聶遼の言い方じゃ、まるで……」

「なあ、拓実。どう転ぶかわからんけど、一万もの集団を放っておけばいくら同じ黄布を身に着けたっても済南になだれ込んでくる可能性は充分にある。そんだけの集団になったら誰かしら指導者が出てくるやろうし、当然他所にだって攻め込むやろ。このまま静観は出来んとちゃうか?」

 

 霞の言う通り、寄り集まって集団となれば欲望のままに暴走するか、あるいは指導者が出てきて自我が生まれるか。数が揃えば青州で最も栄えている済南を奪おうとする動きも出てきておかしくはない。そうなれば済南を護る信者の人たちも、町民の人たちも、とにかく大勢の犠牲が生まれることになるだろう。場合によれば済南の象徴とも言える三姉妹だって優先的に攻撃対象となりかねない。

 それに、今はまだ一万ほどということらしいが、このままどんどんと数を増やして十万を超える数になっていくということも考えられる。その黄巾賊が勢いのまま兗州にまで攻め込むようなことになれば、袁紹とにらみ合ってなんとか均衡状態を保とうとしている華琳側に隙を作り出すことになる。

 本来であれば緊急事態だとして、青州から逃れて陳留へ戻るべきなのだろう。黄巾賊の動向を掴んだとして、この情報を手に帰還するのが本来の任務だった筈だ。――――しかしそれでは、事態が好転することはない。

 もし、対処が出来るとすれば本格的に数が膨れ上がる前しかない。形振り構わず、あらゆる手を講じて、そうすれば黄巾賊を打倒することが叶うかもしれない。今この時、この場所からならば。

 

「……わかりました。少し考えてみます。でも、まずは天和ちゃん地和ちゃん、人和ちゃんに許可をとらないと。直近に公演の予定は入ってないですけど、動くとしたらしばらく済南から離れることになるでしょうし」

「そか。拓実がどうこう以前にあいつらの説得が先やったな。なんにせよとりあえず三姉妹のとこに行こか。ええよな、子義?」

「あ、ああ」

 

 すっかり話の流れに置いて行かれていた子義が慌てて首を上下に振っている。

 彼女が呆然と見ている先には、これまで見たことがない仕草――うつむき気味に、顎に手を当てて考え事をしている、拓実の姿があった。

 

 

 

 拓実、霞、子義は連れ立って三姉妹の自宅へと向かう。

 その道すがらに子義も落ち着きを取り戻したらしく、自分が持ち込んだ話だから三姉妹への説明は子義からするということだ。

 夜分に三人揃って訪ねてきたことで危急の用事だと察したらしく、人和に部屋に通された。天和、地和、人和はこれから就寝するところだったようで着物一枚の寝巻姿である。話が長引くだろうということで勝手知ったるなんとやら、拓実が人数分の椅子を別室から引っ張り出してきた。

 

「なに? つまり、子義の恩人を助けに行きたいからしばらく付き人を休ませてくれってこと? 子義だけじゃなくて、聶遼に公山も?」

「ああ。こればっかりはアタシ一人じゃどうにもなんなくてね」

「まぁ、相手は黄色の布をつけてるだけで私たちの信者たちでもなんでもないやつらみたいだし? それどころかあいつらの所為でうちの信者たちが山賊扱いされて迷惑かけられてる側だからやっつけるってのはいいんだけど……」

 

 肌が荒れるから夜更かしはしないと普段から言っている地和は、寝る直前に訪ねてこられて明らかに不機嫌そうに口を尖らせている。

 あまり興味はなさそうで、芸事以外のことなら好きにしたらいいというスタンスだ。

 

「それにしても一万人って。話を聞いた感じだとかなりその恩人さんが不利みたいだけれど、勝ち目はあるの?」

「それは……。まぁ正直言うと厳しいんだけどよ……」

「というか、公山がついていく必要はあるの? 済南だって襲撃に遭う可能性があるってことだから私たちものんきに舞台公演をしている場合じゃないってことはわかったけれど、それでも公山がいないと済南の仕事が滞るどころの話じゃないのだけど。それにあなたと聶遼は大丈夫にしても、もし公山が襲われでもしたら……」

「ああ。いや、それは聶遼がな。アタシもよくはわかってねえんだけど、コウに手伝ってもらわないことにはどうにもなんねえってことらしくて」

「公山に? どういうこと?」

 

 言いながらも怪訝な目を隠そうともせず、人和は子義、霞、拓実の三人を見ている。 

 本拠地としている済南が襲われるかもしれないと聞いても、その危険よりこれからの『数え役満☆姉妹』の活動に滞りが出ることの方が心配な様子だ。事務員として貴重な働き手であり、義姉妹に無理矢理に引き込んだこともあって一応拓実の安否は気にかけてくれているようではあるが。

 

「んー、そうだ!」

 

 そろそろ子義から説明を引き継がないとこれから先に話が進まないか、と拓実が決心しようとしたところで、突如乾いた音が応接室に響く。

 五人が驚いてそちらを見れば、残る一人、天和が胸の前で両手を打ち鳴らした状態で椅子から立ち上がっていた。

 それまで一言も発さずにいた天和は、子義の説明を聞いている間は人差し指を口元にあてて上の空だった。ずっと何事か悩んでいた様子だったが、ひととおりの説明が終わってようやく考え事がまとまったのか、にっこり笑って口を開く。

 

「ちぃちゃん! れんほーちゃん! こぉちゃん! 『数え役満☆姉妹』の、遠征公演をしよう!」

『……はぁ?』

 

 そして、脈絡のない天和の発言に、五人は揃って理解が及ばずに目を点にすることとなった。

 

 

*1
歴史において213年以降は冀州に属するがそれ以前は青州に設置されていた為、本作現状においても平原は冀州牧である袁紹の統治下にない



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