女体化した挙げ句、転生先は存在しないクリスの妹でした。 (わらぶく)
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番外編
小話:雪音クリスの誕生日編


時系列としては、原作始まる前です。
とはいえ番外編なので、あまりそこら辺は考えなくても大丈夫です。


 都会の街並みは三日前にクリスマスが終わったというのにも関わらず、燻る残り火のごとく活気の余韻を残していた。人が溢れる商店街の大通りを挟んで立ち並ぶ売店の数々、店頭には売れ残ったクリスマスケーキが並び子供連れの親たちが品定めの為に見回っていた。

 その中を掻き分けるように、灰色のダウンコートを着て赤のマフラーで口元を隠した雪花は歩いていた。前述の通り、既にクリスマスは終わり店は年末年始に向けての準備が大忙しになるという頃だ。

 だが雪花にとって翌日となる12月28日は、姉である雪音クリスの誕生日だ。

 保護され元気に生きているということはフィーネから写真付きで聞かされている。クリスの目線や動作から明らかに隠し撮りだったものの、ちゃんと生きているということが分かるだけでも雪花には励みとなった。やはり会えないというのが辛い所ではあったが、現状ではどうしようもないと踏ん切りはつけていた。

 

 とはいえ、誕生日となれば話は別になる。

 日本に来て空港でフィーネによって誘拐されてから、姉に何かしてやれたことがない。リディアンで学生生活を送っているのだから、せめてプレゼントでもと考えこうして街の中を歩いてた。

 

「良いものを見つけないと。それに何か送る方法考えないとなぁ」

 

 現時点では、クリスが暮らす家の場所を雪花は知らない。

 となれば自然とリディアン経由、もしくは姉の身柄を確保している二課経由でしか誕生日プレゼントを贈ることしかない。

 

 さてどうするか。

 悩み続けても仕方ないとその場に立ち留まり、視界に入った店に入ろうと視線を横へと向けた。そこにあったのはコンクリートで作られた街並みから浮いた、木造の古ぼけた一軒のおもちゃ屋。赤いビニール軒の下には『目玉:スノードーム』と書かれた看板が立っている。

 あんまりにもメルヘンでレトロの店構えにどこに迷い込んだのかと辺りを見回せば、ここは大通りから外れた一本の路地だった。耳を撫でる遠い喧騒を聞きながら、人一人通らないこの路地は世界に切り取られたように静かだ。

 

(もう閉じてるのかな?)

 

 人気の無さに、雪花は窓から店内を覗き込む。

 店内両側の棚に陳列されているのは、少し作りの古い大きめのぬいぐるみや人形の数々。中でも一際目立つのが、カウンターに乗せられたサッカーボールほどの大きなスノードームだ。ライトに照らされ中で動いている雪のような何かが輝いて見えていた。

 目を惹かれた雪花はドアを押し開けた。ギギィと音を立てながら開くドアは重く、蝶番は油の切れた甲高い音を奏でて、ドア内側の上部に付いた大きなベルが来客を知らせる音を鳴らす。香る木の良い匂い。どこまでも古めかしいこのおもちゃ屋は、雪花の子供心を蘇らせる。ボタンを目の代わりに縫い合わせたぬいぐるみなんて、いつ振りに見ただろうか。

 

 今時、このようなおもちゃ屋は何処へ行ってもそう見られるわけではないだろう。むしろ都心の商店街近くに、こうもひっそりと佇んでいられたことが不思議でしかたがない。

 ともあれここなら良い感じの誕生日プレゼントを見つけられるかもしれない。そう考えた雪花は店奥へと歩を進めていく。見るもの全て見回ってカウンター前に帰ってきた雪花は、カウンターに置かれた大きなスノードームに目を向ける。

 

 綺麗だった。水の中をふわりふわりと舞い続け、光を受けてキラキラと輝く何かが、とても綺麗。何者にも命令されるわけでもなく、ただ何となく自由に動いているそれは、雪花にとって羨望の眼差しを向ける対象となる。

 

 形に残せるのならば、こういうのが姉さんに合ってるだろうか?

 

「いらっしゃい、お嬢ちゃん」

 

「あ、いえ、失礼してます」

 

 かけられた声に反射するよう返事をする雪花は、聞こえてきた声の主を探してカウンターの向こうへ視線を向ける。住居へと繋がるだろう襖が半分ほど開いて、人が良さそうな微笑みを浮かべている老人の男性が姿を見せていた。

 最初こそ少し驚いてしまったものの、全身から溢れる優しいオーラに警戒心もすぐに弱まり、拙くぎこちない笑みをなんとか返す。

 

「今日は何を買いに来たのかな?」

 

「離れて暮らす姉さんに向けて誕生日プレゼントを贈りたいんですけど、形として残るもので何か良いものを探しています。それでそのスノードームが外から見えて、気になったので」

 

「ほっほっほ、プレゼントか。そうだのぉ、時間があるならスノードーム作りでもしていくかな?」

 

「作れるんですか!?」

 

「そう難しいことじゃない。慣れてしまえばすぐにでも作れる。どうかな?」

 

「是非お願いします! あの、メッセージを入れられたりとかは?」

 

「長い文章なら不可能だが、一言なら容易く入れられるぞ」

 

 よし、と言わんばかりに雪花はガッツポーズをする。

 その姿を見て老父は笑いそれに気がついた雪花はほんのりと頬を赤らめながら佇まいを戻した。

 

「姉思いの良い子じゃの。奥の作業場に案内しよう。材料もしっかりとあるから、好きなように飾っても良い。ほら、ついてきなさい」

 

「はい!」

 

 高ぶる気持ち冷めやらぬまま、雪花は老父の後を追いかけ作業場へと向かっていった。

 

 

 

 

==========================================

 

 

 

 

「……見つかるわけねぇか」

 

 公園のブランコに腰を着け、公園で楽しそうに遊ぶ子供たちの姿を眺めながらクリスはボソリと呟いた。その声は誰にも届くことなく子供たちの喧騒の中に揉まれ、やがて消えていく。リディアンの制服の上から着た白のダウンコートのポケットから二課で貰った端末を引っ張り出し、時間を確認。

 今は午後五時。冬場の日が沈むのは早いもので、この辺りはもう薄暗くなり始めている。「時間なんて止まっちまえばいいのに」なんて愚痴を吐きながら、項垂れ悲しみで溢れそうになる涙を必死に手で拭っていた。

 こんな場所に足を運んだのは、ただの偶然だった。どこかへ、どこかへと当てもなく都心を歩き回り、その終着点として選ばれたのがここだっただけのことだ。

 日課になりつつある妹探しの彷徨癖も、これまで一度も実を結ぶことはない。雪花の後ろ姿だと思い込んで後を追いかけたものの結局は別人だったということが何度も起こっている。焦らしのような空振りを繰り返し続け、クリスの心は既に荒れ果てていた。

 

 とはいえ怒りを何かにぶつけるようなことはしない。

 代わりに毎日の活力が削られていくような怠さや無力感が体を襲い、食欲が湧かず何も食べられずに二日、三日動けない日もあるほどだった。そういう時は、二課の方で厄介になり最低限の栄養を確保するために点滴を打つ。

 それでも、まだ容姿に悪影響が出ていないのが幸いだろう。そこまで行けば学校での生活にも問題が出始めてしまうのは間違いない。

 

「雪音」

 

 聞き慣れた声が前方からかけられる。足元には人の形をした影が伸びていた。「またかよ」とぼやきながら俯かせていた顔をゆっくりと上げれば、リディアンの制服を身に纏ったさらりと伸びる青い髪の女性──風鳴翼が右手を腰に置きながらこちらを見つめている。

 彼女は「探したわ」とその手に二課の携帯端末を握り掲げるように持ちながら、クリスの側へと歩み寄る。クリスの体は翼の影にすっぽりと隠れてしまい視界が薄暗くなっていく。逆行で見えにくい翼の体は、やけに大きく感じてしまう。

 

「雪音を探しに来る度、私はいつも来たことの無い場所に連れてこられる気がする。ちょっとした探検をしているような気分だ。これはこれで悪い気はしない」

 

「はっ、勝手に探しに来ておいて随分な言い草じゃねぇか。あたしは別に探してくれともついてきてくれとも言ったつもりはねぇ。あたしは一人でも生きていけんだよ」

 

「なら、その震えてる手は何?」

 

「……こんなの、ただの痙攣だ。あんたには関係ないだろ。さっさとここから立ち去ってくれよ……」

 

 かたかたと震えている右手を、空いている手で必死に押さえつける。力む際、歯を食い縛り血を止めてでも押さえつけてやろうとの必死さが顔に色濃く現れ、弱い姿を少しでも見せてたまるかとの念が現れている。

 そこへ膝を突き出来るだけ目線を合わせようとする翼の両手が優しく重ねられる。その両手は暖かかった。記憶に残る雪花の両手とは比べ物にならないが、それでもほんのりと暖かい。

 

「私はあまり手足が暖かい方じゃない。それでも私の手が暖かく感じるほどに、今の雪音の手は冷たいじゃないか」

 

 柔らかい笑みを浮かべながら上目遣いで目を合わせてくる翼に、クリスは気恥ずかしさやらが心の中でグシャグシャに混ざり合い耐えられなくなって目線を逸らす。幸か不幸か、その先には手を繋いで仲良く家へ帰る幼い姉妹の姿があった。黒いお下げの姉が寡黙で自己主張の薄いおかっぱ頭の妹をグイグイと引っ張って、先へ先へと歩いていく。

 それをクリスはバルベルデで両親を失う前の自身の姿に幻視してしまった。楽しそうに笑う幼い自分たちの姿。居なくなってしまった妹がもう見られない笑顔を見せている。姉さん、姉さんと呼ぶ妹の声が耳を襲った。鼓動が早まる、呼吸が詰まる。脳裏に両親を失った日がフラッシュバックして、耳をつんざく爆発音と悲鳴が蘇ってくる。

 

「雪音、大丈夫、大丈夫」

 

「はぁっ……はぁっ……!」

 

「何が見えてるの?」

 

「あたしだ……居なくなった妹と手を繋ぎながら歩いてる……」

 

 胸が痛い。心が苦しい。

 渇く喉が居なくなった妹を求めて訴えかけている。妹はどこだ、どうして私はひとりぼっちなんだ、と。意地っ張りなくせしてその実寂しがり屋なクリスには、一人残された今の環境はあまりにも過酷で厳しいものだ。両親は死に、居たはずの妹さえ側から消え誰も居なくなってしまった。

 

 ──大丈夫だって。オレは姉さんから離れたりしないし、居なくなったりもしない。これからもずっと一緒だからさ。だから泣かないでくれよ。

 

 両親を亡くしたあの日にかけてくれた雪花の言葉が蘇る。

 

(何で、何で居なくなっちまったんだよ雪花……ッ!)

 

「帰りましょう。叔父様たちが雪音のことを心配してる」

 

「……なら、一つだけ聞かせてくれ」

 

「ああ、答えられることなら何でも聞いてほしい」

 

「あんたの相方、天羽奏が死んだ時あんたはどうしてたんだ」

 

 クリスがその言葉を口にした刹那、それまでにこやかだった翼の表情が固まり笑みが失せていく。空気が凍っていく感覚に嫌気をさしながらも、それだけはクリスにとって聞かなければならないことだった。

 家族にも等しい人間を失って、その壁をどうやって乗り越えたのか。

 

 気合い? 踏ん切り? 諦め? それとも受け入れたのか?

 

 目の前のこの人間はどうしてこんなところで笑って他人の心配をしていられる。

 

「……雪音、それは」

 

「辛かったはずだ。何もかもが嫌になったはずだ。だってのに今はあたしの横で笑って励ませる余裕まである。何でだ、辛くはないのか。あたしは死んでしまいたいぐらいに辛い。あんたはどうなんだ」

 

「……」

 

 吹き出す感情、疑問を思うままにまくし立てていくクリスは、目が泳ぐ翼の顔をじっと見続けた。別に心を責めようとも、貶してやろうなんて思いは、今のクリスには一片たりともない。

 ただ単に、知りたかったのだ。

 何を考えた、何を思い、どうして一人で生きていられるのか。

 

 やがて気持ちの整理をつけたのだろう翼は、一度目蓋を堅く閉じ深呼吸をしてから改めて目蓋を開ける。そこから覗く目に、先程見せた迷いのようなものはない。

 信念をもってじっとクリスの目を見つめ返して、開いた口から言葉を紡ぎ始める。

 

「奏は、私にとって生き方のほとんどだった。居なくなった時は私の中から何もかもが喪われたような気分だった。もう戻ってくることもない遠くへ行ってしまった。

 だけど、奏の人を守る思いは私の心の中に残ってる。だから頑張れる。深い意味なんて無い、ただそれだけで私は生きていられる」

 

「思い……」

 

「雪音にも、大切な妹の思いは残されているはず。元気になんて無責任なことは言わない。でも生きて。それにあなたの妹はまだ生きている可能性があるでしょ? だからまだ諦めるのは早い」

 

「……一年以上、二課に全国各地探してもらっても見つからなかったんだ」

 

「だとしても、生きていないことにはならないでしょ?」

 

 そう語る翼の瞳は濁っていたものの、表情は晴れやかだった。

 赤々と燃える紅葉のごとき夕焼けの空をバックに、翼は立ち上がりクリスの手を取るとブランコのイスから引っ張り起こした。

 

「私は雪音の質問に答えた。今度は雪音が私の願い事を聞いてもらう番ね。帰りましょう雪音。あなたの場所、私が整えてみせるから」

 

「はぁ……ほんと、敵わねぇよ……」

 

「決まりね。なら帰りましょう、叔父様が待ってる」

 

「はぁ? 何でおっさんが待ってんだよ。帰るのはあたしの部屋じゃねえのか」

 

「?? 雪音、今日何の日か分からないの?」

 

「ただの平日だろ?」

 

「……これは重症ね。いや、その方が都合が良いか……?」

 

「何ぶつぶつ言ってんだよ」

 

「……ふむ、そうとなれば早い方が良い。さぁ雪音、急ぐぞ!」

 

「だから何なんだよぉッ!?」

 

 翼に手を強引に引っ張られ、公園の外で待機していた車に押し込められたクリスは考える間も無く二課へと向かうことになる。急なことに隣で楽しそうに笑いながら見つめてくる翼に問い詰めてみるが、「何のことか」とすっとぼけられそのまま二課施設のエレベーターに乗っても何も教えてもらえない状態が続く。

 すぐ側に立つ翼のマネージャーの緒川慎次にも質問するが、明らかに知っている顔で「僕にも何がなんだか」なんてはぐらかされてしまう。

 

 結局何も分からないままあれよあれよと最下層まで降り開いたエレベーターの先に広がっていたのは、電灯が消され薄暗くなった二課の廊下だった。

 その光景に思わず身震いしていしまうクリスは、周りに立つ二人にニコニコとした表情でさえ不気味に感じてしまい全身の毛が逆立っていくのを実感する。

 

「さぁ行きましょう。叔父様が発令所で雪音を待ってる」

 

「何でこんなに物々しい雰囲気なんだよ……。呼ぶだけならこんなことをしなくても良いじゃねぇか……」

 

「そろそろ察しそうなものだけど、本当に忘れてるのね?」

 

「だから何のことなんだよ」

 

「いえ、こっちの話」

 

 クリスにとって冬場のイベントと言えば数日前に終わったクリスマス、もしくは年末年始のお正月ぐらいである。12月28日なんてどっち付かずの中途半端な日付、今よりも無気力だった去年は自身のマンションの部屋に設置したこたつの中で丸くなっていた。

 そう、この日が自身にとって大事な日であることを、これまでの時間を妹探しに当てていたクリスは完全に忘れてしまっている。二人からの生暖かい目線を浴びて尚沸き上がるのは猜疑心。何故そのような目線を向けられなければならないのかと、嫌な居心地の悪さを感じ始めてしまっている。

 

 それでも前を歩くように催促されたクリスは、その指示に従い普段はあまり顔を出すことの無い発令所へと足を動かせる。景色の変わらない殺風景な廊下を歩き、幾度か曲がり角を曲がって発令所前の自動ドア前まで来る。

 しかしその日は感知センサーがどういうわけか作動せず不審に思ったクリスは背後へと目線を向ければ、緒川から「こちらのスイッチを使ってください」と赤いボタンが付いた機械を渡されてしまう。

 

(何で今日はこんなに静かなんだよ)

 

 とはいえなにもしないわけにもいかず、二課が危害を加えてくることはないと知っているため、仕方なくボタンを押し自動ドアを開ける。

 ゆっくりと開かれていく扉の中から漏れ出す眩い光に手を翳して、発令所に入ったクリスを出迎えたのは、

 

 ──パンッ! パパパンッ!

 

「誕生日おめでとうッ! 雪音クリスくんッ!!」

 

「……ぅえ?」

 

 二課司令官の風鳴弦十郎による祝いの言葉と天井に吊り下げられた『お誕生おめでとう 雪音クリス様』と書かれた横断幕、そして空から舞い落ちるクラッカーの紙吹雪だった。

 虚を突かれ反応することが出来なかったクリスは目をパチパチと瞬きをし、目の当たりにする温かい光景に体を硬直させた。ここでクリスが12月28日は自身の誕生日であることを思い出し、その場に崩れ落ちてしまう。背後から翼の「大丈夫?」と心配する言葉がかけられるもそれが耳に届くことは無い。

 

「あたしの、誕生日……」

 

「ああ。去年はクリスくんの不安定な精神面を鑑みて開催出来なかったが、今年こそはと一週間前から企画していたんだ。本来ならばクリスくんの部屋で盛大に開きたかったんだが、これだけの職員で祝い尚且つ即応性も兼ね備えてとなると、やはり発令所になってな。せめて見た目は煌びやかにしようと飾りつけも頑張ってみたぞッ!」

 

「頑張ってって……あんたも飾り付けやったのかよ……?」

 

「もちろんだとも。君は大事な二課の一員、司令官である俺が祝わないでどうする! 今日は七面鳥にジュース、デザートもある。思うまま楽しんでくれ!」

 

 にっかりと良い笑顔で話しかける弦十郎に手を取られクリスは立ち上がる。

 幼い頃から政情不安定で国連の治安維持部隊が投入されるようなバルベルデ共和国に盛大なパーティを開ける余裕も無く、クリスはもちろん妹の雪花もこのような誕生日パーティなんて物は経験した事がない。精々ソーニャの家で行われた食事会ぐらいが、精々のパーティと言えるものか。

 そのために、クリスはどう振舞えばいいのか分からなかった。このような場で祝福される側の人間となった場合、どう立ち回るのか。思い浮かべたのは雪花の誕生日、祝われる側だった雪花はどんな反応をしていたのか。

 

 ──楽しそうだったのか? 控えめだったのか? 粛々とご飯を食べていたのか?

 

 もちろん祝いの規模が全く違う今回のケースと比べるにはあまりにも差がある。それでも、当時から大人っぽかった雪花はどうやって対応するのか。必死に、考える。

 そこへ救いの手を差し伸べたのは翼だった。

 

「雪音、悩む必要はない。それこそ、ただ食事をするだけでもいいわ。私たちが祝うから」

 

「そうだぞクリスくん。もし何を食べればいいのか困っている時は、この俺が見繕おう。君はあまり食べていないからな、ここはやはり七面鳥にするか。よし座って待っていて欲しい。すぐに持って来よう」

 

「あっ……別にあたしは……」

 

「今は素直に祝われて、雪音。あなたは救われても良いの。いつか必ず、あなたの妹も見つけてみせる。それまで、待ってて」

 

「あ……ぅぁぁあああ……ッ」

 

 翼に後ろから優しく抱擁されたクリスの心は、もう限界だった。

 崩れ落ちてしまう今のクリスにもう立ち上がるだけの精神力はない。優しく解きほぐされた冷たい心。もちろん雪花がこの場に居ないという悲しみはある。それでも、今の自分にはここに帰る場所が出来た。

 なら、もし雪花が見つかったならこの暖かい場所に連れて来られるように、いや絶対にこの場所に連れてくると。堅く、決意する。クリスの心が完全に持ち直したわけではない。心の半分以上を埋めてくれていた妹の代わりとなる物はなく、今も風穴空いた心は壊れてしまう寸前にまで追い込まれている。

 

 それでも、今はここに居場所がある。一人になってしまった自分を助けてくれる人間が居る。

 それだけでも、クリスにとっては救いだった。

 

「……なぁ」

 

「ん? どうした雪音」

 

「多分、あたしはどうせまた嫌なことしか思い出せなくなる。もしそん時は、あんたが助けてくれるのか……?」

 

「ああ、自殺なんて考えようものならこの私がひっぱたく。動けない時は私が背負う。家に閉じこもるなら叔父様と食事を使って押し入る」

 

「何だよ、それ。最後のただの押し入り強盗じゃねぇか……」

 

 あまりのおかしさに笑い声を漏らすクリス。初めて見せる笑顔に対して職員たちが周りから集中させる暖かい目線にクリスはギョッとし、真っ赤になっていく顔を自覚する。やがてやけくそになると、弦十郎から差し出された七面鳥のチキンにかぶりつく。柔らかい肉の歯ごたえを感じながら咀嚼し、ごくんを飲み込んだところで周囲に目を配る。

 そこで改めて「誕生日おめでとう」と歓声が上がる。

 

 この日、クリスは改めて長い人生の第一歩を踏み直すことになった。

 そこへもう一つのサプライズがやって来る。

 

「さぁて、良い感じの雰囲気になったところで私からクリスちゃんへの贈り物があるのよぉ」

 

「あたしに?」

 

 人混みを掻き分けて、サンタが持つような白い布袋を片手に近づいてくる、白衣を着た櫻井了子がクリスの元へと近付いてきた。目尻の涙を拭いながら努めて丁寧な口調で「何すか?」と聞いてみれば、了子は怪しい笑みを浮かべて袋の中に手を突っ込む。わざとらしくガサゴソと袋を動かしている。

 そうして出てきたのは何とか掌に乗るサイズのスノードームだった。

 

「じゃーん、とってもとっても綺麗なスノードームよ。これ、匿名であなた宛てに送られてきた物なの。ちゃんと安全の方は確認してるから安心してね?」

 

「スノードーム……?」

 

「そう、雪音の苗字に合わせて送ってくるなんて、相手も粋なことをするわよねぇ」

 

 ドームの中でふわりふわりと舞う雪、中央には煙突のついた大きな家がポツンと建てられて玄関口には赤い服を着た少女らしき人形が立っていた。クリスの目に見ても職人の手で作られたような精巧さはない。

 それでもここには確かに暖かさというものがあるのを感じていた。

 ただ、木製のドームの土台に彫られた文章が読めない。外国語なのは間違いないが、英語でないことは確かだ。

 

「なぁ、これなんて書いてあるんだ?」

 

「それはクリスちゃんが解読してみて。こういうのは、自分で解読した方が面白いわ」

 

「そういうもんか……?」

 

「そういうもの。さぁ誕生会もっと楽しむわよ! 七面鳥なんてこういう機会じゃないと食べられないんだから、もっと食べないと損損。翼ちゃんもそう思うでしょ?」

 

「櫻井女史に言うとおりだ、雪音。もっと食べて今の内に元気を蓄えるんだ」

 

「わーった、わーったから押すなってばッ!」

 

 これまでのクリスの人生は決して良いものだとは言えず、これからの人生も良いものになるとは限らない。

 それでも今この時間だけは、クリスにとっても良い記憶として残されるだろう。

 だからこそ、クリスは強く願う。いつか必ず、雪花を見つけてここに連れてくると。

 

 

 

 

 

 スノードーム名

 ──Zu meiner lieben Schwester(親愛なる姉へ)




おかしい、明るくするつもりだったのに……。

では改めて祝言を。
お誕生日おめでとう、雪音クリスちゃん!


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UA十万越え記念作品『列車の中で、のんびりと』

皆様のおかげで、私の作品のUAが十万を越えました。
本当にありがとうございます。
「クリスに双子の妹が居たら面白そうやな!」から始まった見切り発車のこの作品ですが、まさかここまで伸びるとは思っていませんでした。
本編は遅々としてではありますが、何とか進めておりこれからも雪花が歩く血生臭く鬱屈とした道の行く末を見届けていただければと思います。
今作は記念作品ですので、本編とは違った世界線であり関係性がありません。

◎世界線情報
・バルベルデで両親を失い捕虜になり、救出された後は姉妹仲良く音楽家となって世界中を回っている。
・ドイツのベルリン郊外に家を構えている。
・日本に二人の仮住居はあるが、両親の墓参りにしか泊まらない。
・欧州ではアルカノイズのテロが発生し、逃げ場のない飛行機は廃れ鉄道網が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。

※注意事項
 姉妹百合要素が多く含まれています。


「姉さん、ご飯が届いたよ」

 

 欧州を跨ぐ豪華な寝台列車の個室は人類史近代を思わせるバロック調を基に艶やかの装飾で彩られ、贅沢にもダブルサイズまで用意されていた。

 料理を載せたトレーを片手に扉を開けて入ってきた雪音雪花は、世界的にも有名なヴァイオリニストであった。ヴァイオリンを扱い大勢の観客の前に立つ彼女の四肢は若木のように華奢ですらりと伸びている。スレンダーで締まった体型ながらも、紅い縦セーターを押し上げ蠱惑的なカーブを描く胸の大きなふくらみ。腰丈ほどの長い銀髪を上品に一纏めにし、首のラインが見えやすいようになっている。どこか気だるげに開かれる目蓋からはベージュの瞳が覗き、未だだらしなくベッドの上で微睡みの中、体をくねらせる双子の姉の姿を捉えていた。

 

「んぁ……? もう朝なのか……?」

 

「そう、今はシュテッティンの中継駅。列車の朝食と、駅で適当に買ってきたからちゃんと食べてね」

 

「くぁぁぁ……」

 

 大きなあくびをしながら体を起こす姉の姿を横目に、雪花はテーブルに敷かれた純白のクロスを軽く整え直し、その上にトレーを乗せる。

 双子の姉、雪音クリスは亡き母の遺志を継ぐように声楽家の道を進んでいた。合唱や独唱はもちろんのこと、オペラ歌手としても名を馳せており本場イタリアでの演劇に招かれるほど。楽器さながらのハイトーンボイスもさることながら、妹に比べ小柄な体躯と反比例するように存在する体の豊かさは一部のファン層から危ない人気を博している。

 だがそれも、やはり千を超える観客たちの前に踏み出してもたじろがぬ度胸と、確かな実力から来るものであった。

 

「雪花、おはよう」

 

「おはよう。昼にはベルリンに着く予定だから、あんまり寝すぎないようにね」

 

「んっ、大丈夫だって、あたしはもう二十歳だぞ? 雪花に言われなくてもあたし一人で管理してるって」

 

「なら早く起きて、早く食べなよ。二度寝ならその後でしても良いから」

 

「はいはい」

 

 ムッと頬を膨らませて薄手の寝巻き姿のままベッドからイスへと向かうクリス。昨夜は、数年前に日本の私立リディアン学園での学生生活で交遊関係を持った友人たちとの会話が盛り上がり、向こうとの時差もあって夜が更けても続いていた。

 今でもなお未だ少ない友人だ。長引くのは理解できるが、寝ないというのはこちらの職業上よろしくない。半ば雪花が割って入るように通話を消したのを覚えている。それもあって、少し機嫌が悪くなっているのかもしれない。

 

「あー……」

 

「ん?」

 

「あー……、ほら、あー……」

 

 席に着くなり上半身を乗り出して口を大きく開けるクリス。

 実家に居ようと列車に乗っていようと行う毎朝の恒例行事を求められている。カーテンで窓は締め切り、外には音が漏れない造りになっているとはいえ、やはり公共の場で行うのは気恥ずかしい。

 朝食のライ麦パンをスープに浸し、雫が零れないようある程度切ってから姉の口へ放り込む。いつもと変わらない朝食なのに、どこか幸せそうに微笑むクリスの表情が目に焼き付いていた。

 

「楽しそうだね」

 

「楽しいからな。ほら、もう一口くれよ」

 

「はいはい」

 

 パンを千切り、スープに浸して再びクリスの口へと放り込む。

 半ば餌付けと化している朝食を進めていれば、列車の大きな汽笛が鳴らされガタンと一揺れした後に再び動き始める。窓の外はそれまでに駅の構内で雑多としていた利用客ではなく、流れていく小麦の海へと変化した。

 窓ぶちに肘を乗せる形で窓の向こう側を眺める。

 

「はぁ、やっぱり食堂車から貰ってくるご飯は美味しい。」

 

 ここ最近は仕事が立て込み休みが存在しないブラックな日程が続いていた。演奏と歌唱、二人揃っての仕事が多く、一緒に居られるとはいえ列車に揺られ続けるというのは、やはり疲れるというもの。

 加えて、どうしても娯楽が限られる車内では、大きな音を出すわけにもいかず鬱憤が溜まってくる。トランプも、二人だけでずっとやれば飽きるもの。食事はあくまで生命維持活動の一つなのであって、娯楽でないことは心に止めておきたい。

 

 そんな中でもっぱら暇潰しとなるのが、適当に選んだ色鉛筆で絵を描くことだった。朝食中にも関わらずテーブルの上にペンケースの乗せ、開けたスケッチブックに描いていく。姉には描いたヴァイオリンとケースを、「崩した積み木でも描いたのか?」と言われ傷付いたが、今なお続けている趣味の一つである。

 

「今度は何描いてんだ?」

 

「自分自身、自画像って名前の絵。前に崩した積み木とか言われたからね。……絶対に見返してやるから」

 

「ご、ごめん。まさかそこまで引きずられてるとは……」

 

「良いよ良いよ。画伯として大成してやる」

 

「音楽家で画伯にまでなったら忙しすぎて死んじまうっての。趣味までで収めとけって。それに、その……ほら、雪花ってビックリするぐらい絵が下手くそだろ?」

 

「むっ……言ってくれるね姉さん。その顔驚愕に染めてやる」

 

 そう意気込み、鏡を便りに進めていたが──

 

「何でぇッ?」

 

「……これさ、日本の福笑いで見たことあるぞ」

 

 数十分挑んで出来上がったのは怪物だった。両目の位置は草食動物かと思うほど離れて大きく、だが口は異常なまでにすぼめられ小さく描かれている。線すら真っ直ぐ描けず、鼻筋は酷く歪に曲がっていた。

 

「オレの顔はこんなんだった?」

 

「いやいやいやいや、もっと綺麗で整ってるから。これとは比べ物にならないから」

 

「……それ、喜んで良いのかな。画力に対して貶められている気がする……」

 

「諦めろって。やっぱ雪花はパパみたいにヴァイオリンに選ばれたんだよ。あたしもママみたいに歌頑張るからさ」

 

 酷い出来の自画像をそのままに、スケッチブックを閉じてカバンの中に仕舞い込む。

 

 本当に、本当につまらない移動の一日。

 列車の中で出来る暇潰しは最早消え失せ、考える限りの遊びは無い。絵の出来に落ち込む雪花は、こんどは餌付けされる側となり姉から差し出されたパンを食べる。

 

「はぁ……。やっぱあたしには忙しくても雪花と居られる日が幸せだ……」

 

 そんな姉のぼやきが聞こえてきて、俯かせていた顔を上げる。

 

「どうしたの、いきなり」

 

「ただ、今の忙しい日常が幸せだって話だよ。あちこち走り回ることにはなるけど、ずっと雪花と居られるし話も出来る。あたしにはそれだけあれば十分なんだ……」

 

「止めて止めて、懐かしむように話し始めたら何か嫌なことが起きそうだから止めて。そう言うのを、フラグって言うんだよ」

 

 食べさせ、食べさせられて。

 自分の料理には決して口にせず、家族の料理を食べさせ合っている最中にクリスの口から漏れ出た、感嘆や郷愁と言った感情を多分に含む言葉の数々。去年に齢二十歳となったばかり、そして両親を喪って今年で十三回忌。色々な節目を迎えたことを、クリスは改めて再確認しまた話し出す。

 

「ということで、これを雪花にプレゼント」

 

「いきなり怖ぁ」

 

 机の下から取り出されたのは、白の紙と赤のリボンで包装されたB5サイズのプレゼント。ドッキリでは? と訝しみながらも手に取りリボンをほどいて取り出したのは、一冊の大きな日記帳だった。今時珍しい革で作られた表紙と、重々しい錠前で作られた高級そうな一冊。

 

「日記?」

 

「ほら、雪花って本とか新聞読んでるから、あたしよりも語彙力あるだろ? だから、これなら先あたしの代わりに日記を付けてほしいんだ。良いか?」

 

「姉さんも十分賢いのに。でも、頼まれたからにはやるよ。オレたちの日記だから、これからのこと事細かに書かないとなぁ♪」

 

「待てッ、何を書くつもり──」

 

「そりゃもちろん、夜更かししたりとか、姉さんが舞台の上で演技を間違えそうになったりとか、朝ちょっとだらしなくなってきたんじゃないかとかぁ♪」

 

「んなぁ!?」

 

「姉さんのこと洗いざらい書くからね♪ そして、お父さんとお母さんにもちゃんと分かるようにぃ♪」

 

「うがぁー!」

 

 狭い個室の中で騒々しく暴れるでもなく、それでいて的確に捕まえるように、クリスは雪花を追いかける。両腕を広げて抱き締めるように動くが、その間を縫ってぬるりぬるりと回避する雪花。繰り広げられるのはちょっとしたどたばた劇。どこで覚えたのか、くねりくねりと捉えられないウィットに富んだ身のこなしは足音もせず、クリスの追跡を巧みに回避する。

 朝の列車内で行われる、姉妹の子供のような戯れ。開けたカーテンからは朝日が二人を照らし出す。

 決着としてはベッドまで雪花を追い込んだクリスが、逃げようとする雪花の手首を掴んでベッドの上に押し倒して終わった。捲り上がったセーターの裾が捲り上がり、細いウエストと縦細のシャープなヘソが露になる。

 

「はぁ……はぁ……やっと捕まえた!」

 

「はぁ……はぁ……捕まっちゃった」

 

 ベッドの上に倒れた雪花の体の上へ馬乗りになり、手首を押さえつける様はまさに犯罪者。それでもあっさりと迎えた結末に姉妹が目線を重ねると、プスッと息を漏らしたクリスを皮切りに両者とも笑い声を上げた。

 

「姉さん、これ周りから見たら事案だよ?」

 

「なら、責任取れば良いのか? あたしは、別に血が繋がっていようと、顔が同じだろうと構わないぞ。雪花だからな」

 

「もぅ、恥ずかしい冗談を平気で言うんだから」

 

 雪花は冗談だと払ったもののクリスの表情は真剣そのもの。

 先の言葉のせいで見つめ合うのが気恥ずかしくなり、目を合わせられないでいる。

 

「……その、どこまで本気?」

 

「一から百まで。あたしはつまらない嘘なんて絶対に吐かない」

 

 親を喪い、支え合うように生きていたからか、いつ如何なる時も雪花はクリスを思い、そしてまた雪花もクリスに思われている。その二人の関係は、家族愛なんて三文字で伝えられるほどの簡単なものではなくなっていた。

 もっと、感情の奥深く。人によっては忌避感を覚えるほどの、深くドロッとしたナニカ。言葉にするには憚られるナニカが、姉妹の間にさながら運命の赤い糸のように架けられていた。

 

 とは言え、血が繋がった存在であることに違いはない。

 親族であるにも関わらず、その一線を超えてしまっても良いのかどうか。目の前では期待に満ちた瞳で、一心に見つめているクリスの姿がある。

 

「答えてくれよ、雪花」

 

 この感情に身を委ねてしまっても良いのだろうか。捕虜であった時も、

 

「……好きだよ、姉さん」

 

 震える声で雪花がそう言った時、それまで手首を掴んでいたクリスはその体を雪花へと押し付けた。鼻がくっつく程の距離。互いの胸がぶつかり形を歪む。緊張で跳ねる鼓動が共鳴し合って、この時ばかりは互いが溶けて混ざり合ったんじゃないか、なんて錯覚した。

 けれど目の前に迫るクリスの顔は、雪花の少し戸惑う声を無視し更に近寄ってきて。

 

 ──ちゅっ……。

 

 唇同士が、重なった。

 唇を中心にして、一気に体が火照っていく。

 

「……これで、雪花のちゃんとした初めてはあたしのものだ」

 

 囁くように呟かれたその言葉が、鼓膜に酷く焼き付いていた。



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原作以前
プロローグ


思い付いてしまったので、ここに置いとくだけ置いておきます。
続きを書くのかは不明。プロローグで終わるかもしれない!


 既に暗い闇に沈んだ東京の街。

 気温二十四度、湿度半ば、心地の良い夜だ。

 良い子ならば既に寝静まっている時間。

 

 だが、街の一角では静寂に似つかわしくない銃声と打ち鳴らされる金属音が轟いていた。それに加えて鳴り響くけたたましいサイレン。それらが相まって既に周辺住民はこの場にはいない。

 ──たった二人を除いて。

 

「何でだッ! どうしてだよ雪花(せつか)ッ!!」

 

「オレにも退けないものの一つや二つ、胸の中に持ってるってことだよ『クリス姉さん』ッ!!」

 

 両手に銃身が三つ連なった三連装のガトリングガンをフル回転させクリスと呼ばれた少女は、前方を飛び回る白銀の鎧を纏った『妹』へと銃口を向け続けていた。赤い装甲と白の装束を身に纏い、黒が基調になったギアインナー、それらをまとめて名前をシンフォギアと呼ぶ。クリスの歌によって力を発揮するそれは、聖遺物という特殊な物体が力を発揮していることもあって、攻撃力がそこら一般の兵器よりも遥かに高い。

 事実、周りから見ればトチ狂っていると称されても仕方ない行動と、それによって引き起こされる破壊。撃ち放され妹に回避された銃弾は周囲の木々や家の壁に命中、そして崩壊させていく。

 

 それでもクリスは止まれない、止められない。

 目の前に居るのは数年前に日本にやってきた時、突然行方不明になってしまった妹──雪音(ゆきね)雪花(せつか)だからだ。

 そして数年かけてようやく見つけられた妹。

 それを今諦めるなんてことは出来なかった。

 

「くぅっ、ちょこまかとぉッ!」

 

「アッハッハッ!! 狙いが甘くなったんじゃないかな、姉さんッ! これもおまけしてプレゼントだッ!」

 

 雪花がその手に持つ聖遺物、ソロモンの杖が掲げられ緑の光線が地面を這う。その後には特異災害として認定されている色とりどりのノイズが溢れていた。

 クリスは歯噛みする。

 ここら一帯は既に避難が済んでいると言っても、足を遠くへと伸ばせばまだまだ民間人はたくさん居る。これだけのノイズが拡散してしまえば、どれだけの被害が出るかも分からない。

 

 だから狙いを変えノイズの殲滅を最優先に行動した。

 雪花はその間にも、建造物の屋上をピョンピョンと軽やかに飛びクリスからの距離を放していく。

 

「じゃあなクリス姉さんッ!

 オレはまだまだやることがあるから捕まれないんだッ!」

 

「~~ッ、クソォッ!! 絶対にッ!!

 絶対に連れ帰ってやるからなッ! 雪花ァッ!!」

 

 クリスの咆哮虚しく、雪花はその場から離れていった。

 

 

 

────────────────────────────

 

 

 

「あ~~つらぁ……」

 

 山中にある館まで逃げ仰せた雪花は、鎧を脱ぎ黒と白の縦縞セーターと紺のジーパンの私服姿に戻った。その手にはしっかりとソロモンの杖が握られていて、玄関で待ち構える木製の大きな扉を押し開ける。

 中からは足元を照らす最低限の淡い光が雪花の体を歓迎し、屋敷の奥からは金髪全裸の美女が出迎える。

 

「遅かったのね」

 

「姉さんがしつこくてさ。ていうか、頼むから服着てくれよフィーネ。目のやり場に困るんだってば」

 

 手を上げてふざけるように雪花は首を横に振る。

 一見気丈そうに振る舞っている雪花だったが、フィーネは胸中をしっかりと見透かしつまらなそうに眉を潜めて溜め息を吐く。

 

「手加減しているでしょう」

 

「……何だ見てたのかよ」

 

「ええ、この街の監視カメラは私の目と同義よ。あなたの行動と言動は全てお見通し……クリスお姉ちゃんを殺されたくはないのでしょう?」

 

 脅すように、釘を刺すように鋭い目で刺すフィーネは、雪花の元まで歩くと大きく手を振り上げて頬を叩いた。パチンと小気味良い快音が鳴り響き、雪花の頬に真っ赤な紅葉が縫い付けられる。雪花は痛みに呻いたもののそれ以上は何も言わず、ただ濁ったベージュの瞳でフィーネを見つめる。

 麗しいカーブを描く雪花の顎を親指と人差し指で挟んだフィーネは、顎を引き上げその目を見つめ返す。

 そして、口を耳に近付けてゆっくりと囁いた。

 

「あなたはこの世界を一つに繋げる為の道具よ。反抗なんて考えてみなさい。あなたの大好きな姉を惨たらしく殺してあげる。目の前で、最初に爪を、次に目をくり貫いて、何も見えなくなってからゆっくりと殺す。それが嫌なら、分かっているでしょう?」

 

 その耳から二度と離れないように、フィーネの言霊を雪花に染み込ませていく。実際にフィーネにそれだけの実力があることを理解している雪花は頷き、肯定した。

 

「……分かってるよ」

 

「よろしい。バラルの呪詛を解き放ち、私たちはバラバラになったこの世界を一つにするの。そうすれば、あなたのお姉ちゃんは見逃してあげる。

 せいぜい励みなさい、前世持ちの転生者。あなたの知識、私に注ぎなさい」

 

 忠告を終えたフィーネは雪花から手を離し、背を向けてこの場を去っていく。残された雪花は赤くなった頬に手を添えながら、用意された自身の部屋に帰っていった。



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第一話

 雪音雪花の前世は男であった。それこそ何の変哲もないただのサラリーマン。

 両親が早死にし、地頭だけを頼みに、がり勉の果てに学生生活を投げ捨て、なぜ生きているのかも分からずにただただ社会の歯車となった男。まるで執着心も欲も無かったような存在。傍から見ればきっとそれは感情を失ったロボットのように見えたことだろう。そんな男であった。

 

 そんな男にやって来たのは、一つの転換点だった。

 自身の寝床として拵えた六畳間の一室に布団を敷き、いつものように身体を横たえていた時のこと。いつも夢を見ない男が、この時だけは夢を見た。偉大な音楽家という日本人の父と外国人の母を持ち、気丈で優しく面倒見の良い姉を持つ少女の夢だ。三人の口から何度も呼ばれる名前──雪花と聞く度に、体が喜びで打ち震えるのを感じていた。

 そこからだ、違和感を感じ始めていたのは。

 毎夜使っている掛け布団は寒さを覚えてしまうほどに頼りない物であったはずなのに、閉じた目蓋から感じる太陽のものであろう薄明と体を包む布団がやけに心地よく、そして暖かかった。その温もりに体を震わせた男は、次に身動き出来ないことに違和感を抱き重い目蓋を開けた。

 

「んぇ……んッ!?」

 

 一に、漏れ出た自身の声。

 上擦るように高く、鈴が鳴るような可憐な声だ。自慢でもないが、男にとって唯一誇れるのが小学生の時から異様に低い自身の声。小中高と合唱団で鍛えたバス、テノールの両方をこなせるほどまでに鍛え上げられた声帯を持っていた男には違和感しかない。

 そのため、漏れ出る声は低くあらねばおかしいのだ。だが、今出たのはまるで少女のように可憐な声である。ありえない。自分は生物学的に大人だったはずだ。

 二に、自身の体の異常な動かしにくさ。

 口を布か何かで押さえられているのか異常に息がしにくく、肺活量が異常に少ない。吸っても吸っても体中の細胞が酸素を求めてやまない。苦しいともがき、両腕と両足をじたばたさせればべしべしと柔らかい何かにぶつかる。異常事態だ。この状況を悪い方向に想定するならば、今自身の体は縛られ口に何かを入れられているのかもしれない。

 

 現状を打開するためにはともかく行動を起こすしかない。口元に引っ付く何かから顔を動かして離れると、口元を包んでいた何かの正体を知ることが出来た。さらりと流れる長く白寄りの淡い銀髪の、幼くも整った顔立ちをした少女だ。すぅすぅと安らかな寝息を立てながら眠っている。寝床に他人が入っていることに胸がざわめき、思わず飛び起きそうになる心を何とか静めようと鼓動の早くなる自分の左胸に手を置いた。

 もちろん男にこんな可愛い少女と交流なんて全くない。だから困っている。同じベッドの中で寝るなんて、それこそ以ての外だ。こっそりと逃げ出し知らん顔して外を出歩くべきか、それとも何とか事情を話し示談にでも持ち込んで許してもらうか。寝起きの頭ではそれぐらいしか考えられないことを恨めしく思いながらも、今はこの場をどう切り抜けるかをひたすら思考し続ける。

 

 そうこうしている内にも、目の前の少女が目を覚まし始めていた。モゾモゾと動き始め、小さく可憐な唸り声に合わせて両腕をこちらへと伸ばして来た。それを男はたまらず避ける。寝惚けて抱き締めた後に意識をはっきりとさせた少女が、悲鳴の一つでもあげようものなら大変なことになるからだ。

 少女の両腕は空を切り、そのままベッドへ力無く落ちていった。火急の窮地を乗り越えた男は少女に掛け布団をかけ直しベッドから飛び降りる──飛び降りる? なぜ、わざわざ飛び降りる必要がある? 身長も足の長さも人並み以上にはあったはずだ。それなのに、どうしてこうも動作を大きくせねばならないのか。それは、この部屋の隅に置かれていたスタンドミラーを見れば一目瞭然だった。

 

「な、何だこれ……。映ってるのは、オレか……?」

 

 手を右の頬に持っていけば、鏡の向こうの人間も同じように動いた。鏡に映るのは、間違いなく自分自身だ。困惑の声を漏らせば違和感がつきまとう高い声が自身の声だとして、何度も耳の奥に刻まれていく。

 顔立ちは先ほどの少女と全く同じ。他のことに意識が取られすぎて分からなかったが、明らかに身長も低い。声と身長から推察するに小学生ぐらいだろうか。

 

 訳が分からない。今、自分の身に非科学的なオカルトが発生しているのは確かだ。

 立ち鏡の前で呆然と立ち尽くす少女となった男。後ろではもぞりもぞりと動く掛け布団──というよりはタオルケットでは先ほどの少女が目を覚ますところだった。

 

「んぅ~……ふぁぁぁ~……。今日は早いね、雪花」

 

 誰のことを言っているのか分からない。だが少女の目線はこちらへと向けられていて、自分のことを言っているのだと男は理解する。

 向こうはこちらのことを知っているのに、こちらは向こうのことを知らない。これほどまでに不平等なことがあるか。どう接すれば良いのか分からない。見知らぬ少女と、どう言葉を交わせば良いのかなんて、知るわけがない。

 だから、第一声は正直なものとなった。

 

「あの、誰ですか?」

 

「え……? わ、私だよ! クリスだよ! ねぇ雪花!」

 

「いや、自分あなたとは初対面でして──おぉう!? ゆ、揺らさないでください……!」

 

「雪花はそんな話し方しないの! うわ~ん!!」

 

 泣きじゃくる少女に対して、どうすることも出来なかった。

 

 

 

 

 

 その後、部屋に駆け込んできた両親であろう男女に連れ出された男──いや雪花はすぐさま医者のところへと運ばれていく。最中、見えた町並みは母国日本の物とはあめりにもかけ離れていた。建ち並ぶボロ小屋やテントの数々に、銃器を持ち町中を警戒し続ける軍人たち。向かった先も病院かと思えば、天幕には赤い十字を施した白のテントだった。全て雪花の常識を塗りつぶしていく。

 

 それらを飲み込めるような形で理解できるようになるのは、医者の診断を終えて自身が住むことになっている小屋に帰ってきたときのことだ。結局診断は、付近の戦闘行為の銃声や砲音に晒され続けたことによって、精神の緊張状態が続いたことによる一時的な記憶喪失ということになった。

 両親、ヴァイオリニストの父、雪音雅律と声楽家の母、ソネット・M・ユキネから聞かされた話によれば、ここは南米にある政情不安定な軍事政権国家『バルベルデ共和国』で、雪音家は歌を用いたチャリティーコンサートと難民救済のための救援物資配布を行っているようで。

 雪花はそんな音楽家の両親の間に生まれた双子の妹だそうだ。

 

 まぁ、良いだろう。今は何も変えられない現状を飲み込むしかない。少女の体になろうとも今日という生き延びていかなければならないのは、日本にいた時と変わることはない。ほぼ内戦状態の戦地で生活したことなどないが、なんとか両親の庇護で生きてはいけるだろう。そこまではいい。

 ただ一つ、問題があるとすれば経験したことのない双子の姉がいることか。少し泣き虫であるらしい姉は、雪花の周りから離れないようになってしまった。原因は両親から優しくしてあげてと言われたからだが、ギュッと抱き締めてはなさない辺り起き抜け一番の出来事がトラウマになってしまっているのかもしれない。

 

 だが雪花にとっても悪いものではなかった。

 今まであまり感じてこられなかった人の温もりに優しく包まれて、体の緊張が柔く解されていく。

 

「大丈夫、記憶が無くなっても、私は雪花のことが大好きだからね」

 

 極めつけに優しくかけられる甘い声。少女の物とは思えぬほどに包容力に満ちたそれに意識は容易く、暖かい闇の底へと落とされていった。



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第二話

「ほら雪花、半分こ!」

 

「ありがとう姉さん」

 

 男が雪花となって、早半年。

 雪花は小屋の壁に背中を預けながら、姉のクリスと共に国連の救援チームが配給するスティック状の食料物資を頬張っていた。今日も今日とて、救援物資を配給する国連の白のテントの前には優に百を超える戦火を逃れてきた難民たちが長蛇の列を作り、一部ではただでさえ数の少ない救援物資を求めて小競り合いを起こしている。それでも私たちのような子供から取り上げるような輩は存在しないのは、最低限のモラルというものが彼らには残されているからだろうと、雪花は食料を噛み砕きながら思考する。

 こんな光景も、半年も見続ければ飽きもするというもの。

 むしろ、あれほどまでに暴れられる力があるのなら、その分の力を手助けに回せばこの苦しみが少しは和らげられるんじゃないかと考えてしまうのは、雪花がこれまで日本という土地で危険に直面したことがなかったからなのだろう。職も畑も全てが戦火によって燃やされていくこの地では、持つ者から奪うというのが最善の手のようだ。

 まぁそれはいい。こちらに火の粉が飛んでこなければ万々歳、安泰である。

 

 ただ、この時間帯は両親が近場を回って難民や戦傷を負った人間に向けてのチャリティーコンサートを行っている最中だ。その間、大人たちの庇護なんて受けられないし、何かあっても自分たちで何とかしていくしかない。それが恐ろしかった。

 最悪、自分自身の身はどうとにでも守れよう。小柄な体格を活かし、建物のがれきの隙間にでも身を隠しながらやり過ごせば何とかなるはず。その後は別のキャンプ地を探して、三日彷徨えば誰かには見つかるはずだ。

 だが、クリスをどうするか。この姉には受け入れてもらい、優しくしてもらっている恩がある。政情不安定な地での生活は彼女の方が長い。ここで生きていくための、戦渦に巻き込まれないための最低限の動き方を、全て教えてもらった。記憶喪失という体で話が進んだため、最初の一日は朝起きてから夜寝るまで、身の回りのことを全て教えてくれたのだ。そんなに優しい子を、雪花はこんな戦地で喪いたくなかった。

 

「雪花? どうしたの?」

 

「な、何でもないよ……」

 

 不安げな表情をして、雪花の顔をクリスが覗き込む。少し考えていたのが顔に出たみたいだ。

 この半年の共同生活で、雪花のクリスに対する評価は聡く心優しい子だというものだった。自身のことを忘れてしまった他人行儀な妹に対し、彼女は諦めることなく優しい心で接したのだ。まだ幼い子供の心なら拒絶してもおかしくはないというのに。

 雪花は柔く微笑むクリスの顔を直視できずに、思わず目を背けてしまい後悔する。傷付けてしまったかと顔を向ければ、未だ笑みを浮かべたまま。小さな手のひらで頭を撫でられてしまい今度は恥ずかしさで押し黙った。

 

 前世では姉というものが居なかったために、こういうことにはどう言葉を返せばいいのかが分からない。一言の感謝を伝えるだけで良いのか、それとももっと別の良いものを用意した方が良いのか。前者はともかく、後者に関してはこんな場所で作れるものなんてたかが知れているが。

 

「大丈夫、雪花は私が守ってあげるからね」

 

「う、うん。ありがとう、姉さん……」

 

 姉の存在は、やはり慣れない。

 少し考えていたのが顔に出てしまっていたようで、それをクリスは不安がっていると受け取ったらしい。クリスに体の横からぎゅぅっと抱き締められ、洋服越しからでも感じる体温に雪花は思わず目を丸くする。包容力溢れる笑みに思わず鼓動が早くなり、顔が熱くなっていくのを自覚し赤くなっているのだろうと予測して羞恥心で表情が強張っていく。

 半年前、雪花が本当の意味でこの世界に生まれ落ちた日から、クリスの様子はずっとこの調子であった。余程記憶を無くしたという情報が彼女を傷付けてしまったのか、ずっと優しくしてくれている。ここまでさせるとむしろ迷惑をかけてしまうのでは、と考えるほどには。

 

 それほどまでに、彼女にとって妹の存在は重要なのだろう。

 両親はこのキャンプ地を拠点として、周囲に存在する他のキャンプ地へと絶えず足を運び続けているため、基本的に日中は姿が見えない。護衛には国連の部隊が付いているから大丈夫だとは思うが、それでも不安は尽きない。彼らも雪花にとって今は親なのだ。

 雪花は味気無い質素な食料を食べ終え、指先に付いたカスを叩いて落としながら難民で溢れる舗装もされてない通りをじっと眺める。今は体感午後十二時半頃。隣のクリスは何事かと雪花をじっと見ていたが、雪花はそれに軽く手を振って応える。

 この時間たちなら工場で働く人間たちに少しの休憩が与えられる時間。となればやって来るのはかなり前からクリスと親交がある友人が来るはずだ。

 

「クリス、雪花」

 

「ソーニャ!」

 

 ぱあっと顔に華を咲かせて、手に持っていた食料を口の中に放り込み、嚥下して近付いてくる褐色肌の女性──ソーニャに駆け寄っていく。大きく腕を広げて飛び込んだクリスの体を、ソーニャが後退りながらも受け止めそのままギュッと抱き締め合う。

 その後ろからはソーニャの姉妹たちが現れて、瞬く間にクリスのことを囲んでしまった。雪花の位置からはクリスの髪が少し見えるだけ。たくさんの人間に愛されている姉の姿を見ながら、一度深呼吸。流石にあの中に入り込むほどの度胸も、愛されるような愛嬌も雪花にはない。

 

 ただクリスが笑っていてくれたら良い。

 半年お世話になり続けた雪花にとって、それだけが何物にも代えがたい願いであった。両親に音楽家を持つだけあって、クリスも音楽に関する才能は恐ろしいほどまでに素晴らしいものがあった。絶対音感に加えリズム感覚、オペラにでも通用しそうな高音域を持つ才女。将来は間違いなく音楽家として覚醒するだろう。前世で合唱団にいた経験を持つものの、雪花のそれはクリスに及ぶことはない。

 幸いというか、一人には人生経験上慣れている。

 それよりも憧れていた声楽に進むことも出来ず、結局中途半端で終わってしまったことが前世の心残りだった。ならせめて前世で何も出来なかった分、今世はあの優しい姉に尽くして死んでやろうと。

 

 だけど、それをクリスが許してくれない。

 三角座りをしたまま呆けていると、足元に影が射す。顔をあげれば膨れっ面をしたクリスがむすっとしていて、小さな手のひらを雪花に見せ手を差し伸べていた。

 

「ほら雪花も! 一緒に遊ぼっ」

 

「オレは良いよ。それより姉さんが──」

 

「ダメッ、雪花も一緒なの! ほらっ!」

 

 引っ込めていた手を握られ、引き起こされる。

 「オレは──」と否定の言葉を言いかけて、クリスがどこまでも真っ直ぐに見つめてくるのをみて半分開きかけた口を閉じた。こうなったら絶対に折れないのはもう知っている。これ以上の反論は意味がないと悟って、おとなしくその場から歩き出しグループの中に入ることにした。

 だが、何をするにしてもやたらと国連の平和維持チームの慌ただしく動く姿が目に入ってくる。車体を白く塗りつぶされた兵員輸送車と歩兵戦闘車が何度も通りを往復し、そこまで動いてガソリンがもったいなくはないのかと問い質したいぐらいだ。カチャカチャと銃本体と肩掛けベルトの金具が喧しく鳴り、さながら銃器と兵器の合奏コンサートが始められたのではと錯覚してしまうほど。

 

 政情不安なバルベルデだ。昨日もこの近くで砲撃があった。

 そろそろこのキャンプも狙われてしまうのだろうと、大方の予想はつく。

 だからせめて、今だけは姉に楽しい毎日を過ごして欲しい。

 

「雪花?」

 

「ん……何でもないよ。遊ぼっか」

 

「うん!」

 

 二人して眩しいほどの見事な笑みを浮かべるソーニャたち姉弟の元へと歩き出してようやく──雪花は目を覚ました。

 

 

 

 

 

 コンクリート打ちっぱなしの小汚ない部屋に満ちる卵と肉の腐乱臭が鼻腔を抉る。部屋の端々には汚れたボロ切れだけを見に纏った少年少女たちが座り込むか横たわるかで分かれ、自身はその後者に分類されるのだろうと働かない頭の片隅で思う。

 頭には生暖かい感触と鈍痛、四肢は神経に意識を持っていくだけで激痛が走り、胴の付随する女性らしさはヒリヒリとして持続する痛みに襲われている。

 

 ……これを言葉で表すならば地獄か、と。

 雪花の胸元に顔を埋めてすすり泣いている姉の姿に、右手だけでもと頭に乗せた。少しだけ上げられたクリスの顔の目元は赤く晴れ上がり、これまでずっと泣いていたのだと思い知らされる。

 

「雪花……雪花……」

 

「大丈夫……クリスのためならこれぐらい……」

 

 嘘だ、涙が溢れ出しそうなぐらい痛い。いっそのこと頭を銃で撃ち抜かれた方が楽なんじゃないかと思うくらいには、痛い。泣きわめいてしまいたいぐらいだ。

 それでも、クリスを泣かせたくはない。

 だから死ねない。もう亡くなってしまった両親の為にも、クリスを守ると決めたのだから。



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第三話

 バルベルデでの雪花の生活は年を超え、もう何度目かも分からない年中変わらぬ熱帯夜を、同じベッドでクリスと共に過ごそうという時だった。それまで聞こえていたのは隣で眠るクリスの寝息と、少しばかり開けた窓から入り込む風の音。気温的には寝苦しくとも、それを和らげるようにクリスの寝息が耳をくすぐって来る。

 時折、耳元で囁くように寝言を話すため吐き出された暖かい息が耳たぶを撫で、ゾクゾクゾクッと電撃のような何かが背筋に走り、堪らず体をぶるりと振るわせてしまう。思わずクリスの腰に回していた腕に力を込めてしまうものの、何とか抱きしめてしまわないよう気を払うことが出来た。ここまで心地良さそうに眠っているのを邪魔するわけにもいかない。ゆっくりとその場から這い出し、ベッドの縁に腰を掛けてタオルケットをクリスの体にかけなおす。

 

「んぅ……雪花ぁ、行かないでぇ……」

 

 背後から聞こえてきた声に思わず身震い。すかさず振り返り確認すれば、目を瞑り眠ったままのクリスの姿が視界に入る。ただの寝言かと安心して立ち上がろうとし、そこで少しだけ今どんな夢を見ているのか気になった。

 口にした言葉から察するに『俺がどこかへと行こうとしている』ようだが、最近は何か用がない限り側を離れることなんて無い。ずっと一緒だ。それを知らせるように伸ばされていた右手に左手を重ねると、クリスの表情が笑顔に変わっていったのを確認。心の中が洗われるような気分になりながら、クリスを残して部屋を出た。

 

 外に出れば不気味なほどに人気の無いキャンプ地。治安が現状全世界最底辺なこともありあまり外出は控えるべきだが、夜空に輝く満天の星たちを見れば悩みも不快感も、嫌なこと全部が吹っ飛んでいくようだ。これが日本でも見れたらと考えても無駄なのは知っている。

 ここに高性能なカメラがあってこの光景を形にして残せたらいいのにと考えてしまうのは、成人男性だった頃の精神が体に引っ張られているのか、それとも自分が知らないだけなのか、そんなことは雪花に知る由もないのだが。

 しばらく見惚れていれば、星空を裂くようにキラリと流れ星が一筋の線を書きながら、森の影に消えていく寸前で姿を消した。

 

「流れ星……そういえば、三回言えれば願い事が叶うんだったっけ。日本に居た頃じゃバカバカしくて考えたことも無かったけど、こう安心できるなにかが無いここじゃ流れ星にも祈りを捧げたくなるな……。よし、ちょっとだけ……」

 

「もー……何してるの……」

 

「ピッ──!」

 

 突然背後から掛けられた声と乗せられた手に全身の毛が逆立ち、腹から出てしまいそうになる絶叫を必死にかみ殺す。後ろには眠たげに目を擦りながら不満そうに頬を膨らませているクリスの姿があった。

 いやまさか、少し離れただけでここまで不機嫌になられてしまうとは、雪花も思いもしない。今日、両親がソーニャの家に向かっているのは幸運と言えるだろう。姉妹揃って真夜中の外に出ているところを両親に見られれば、間違いなく怒られてしまうに違いない。それは反省、なかなか消えない楽観視はこれまでの、そしてこれからの課題だ。

 

 でも、心臓が口から飛び出すかと思うほど驚いたことは事実なので、ちょっとは文句を言わせてもらおう。

 

「姉さん……! いきなり後ろから声をかけないでくれよ……!」

 

「だって、暖かくなくて目を覚ましたら雪花が居ないんだもん……。勝手に外出ちゃうし……パパとママに怒られるよ?」

 

「そ、それはゴメン。でもちょっと外の空気吸いたくなっただけだから問題ないって。先に寝てなよ」

 

 クリスを部屋の中に戻そうと繋いだ手を引いて小屋に戻そうとする雪花だったが、クリスの体はびくともしない。元々雪花の体は虚弱ということもあり力は弱いものの、それでも少しは動かすことが出来るはずだ。なのに、引っ張る動く様子はない。テコでも動かないクリスに雪花が視線を移動させれば、頬をぷくっと膨らませて不満そうに「むぅぅ」と唸っている姿があった。

 いつもは見せないクリスの顔に雪花は額に汗を浮かべながら、慌てて機嫌取りに走ることになる。

 

「ね、姉さん……?」

 

 呼びかけても何も答えてくれないどころか、その目尻に涙さえ浮かべつつある。

 こういう時、精神的に大人である自分がクリスの心にある支えを取り除いてケアはするべきだと考えていたが、前世で人間関係弱者であった雪花にとって、何をすれば良いのかが分からない。最低限の財力があった前世ならばお菓子や何かを渡してあげられるのだが、今の雪花はあまりにも無力だった。

 ならどうすればいいか。自身が幼かったころを思い出して解決策を探り、やがて一つの方法を思いつく。それをするには今ある少しの羞恥心を捨て去り覚悟を決める必要があるが、目の前で泣きそうな姉を助けるために出来るのはこれしかないと、一歩足を踏み出して両腕でクリスの体を優しく包んだ。これまでの意趣返しみたいにはなってしまったが、こんなことでもない限り雪花から抱きしめることなんて無かっただろう。

 

「大丈夫だって。俺は姉さんから離れたりしないし、居なくなったりもしない。これからもずっと一緒だからさ。だから泣かないでくれよ」

 

「……ほんと?」

 

「ほんとほんと。姉さんはどうか知らないけど、オレは姉さんの温かさが大好きだからさ。だから父さんと母さんが遅く帰ってくる前に部屋に戻らないと。二人一緒に怒られるのも嫌だろ?」

 

「雪花と一緒なら、別にいいよ……?」

 

「姉さんがオレの巻き添えに怒られるのは見てて罪悪感があるから嫌なんだってば……」

 

「じゃあ一緒に雪花と星を見てから寝たい」

 

「だから」とは言葉をつづけることが出来なかった。これまでの生活で雪花の身長はクリスを超していた。そのために、体を優しく抱きしめた腕の中で潤んだ瞳を上目遣いで向けてくる可愛らしい姉の破壊力に、雪花は目を反らし頬を赤くしながら陥落してしまう。

 観念したように「わかったから」と伝えれば腕の中の姉は嬉しそうに喜んでいる。

 その光景に雪花は笑みを浮かべながら、クリスを連れてキャンプ地の大通りの縁に手を繋ぎで腰を下ろした。

 

「別に、オレと一緒に居なくても良いのに」

 

「やだ、雪花と一緒に居る。手を離したらどこかに行っちゃうでしょ」

 

「別にそんなことないのに」

 

 温かい。優しい姉が居てくれるというのは、こうも心を安らぐものなのか。

 その後は何か話題がある訳でもなくただジッと満天の星空を姉妹一緒に見ているだけになったが、これまでにない幸福感が体を包んでいた。心に刻まれていく姉の全てが快感に似た心地よさに流れつつある中で、ふと耳に柔い声音で発せられる歌が聞こえていた。

 首を傾けながら隣に座る姉の顔を覗き込めば、空を眺めながら可愛らしい口を小さく開けて良く分からないクラシックの曲を口ずさんでいる。独特なリズムと言語、雪花も聞いたことのある有名な『第九』だ。流暢なドイツ語で軽やかに歌う彼女は、やはり音楽家の間に生まれた才女なのだろう。ウィーンの本格な劇場でも、それなりの年月練習すれば通用するだろうと。

 

「姉さんは、やっぱり歌が好きなんだな」

 

「うん。いつもパパとママが聞かせて、歌ってくれる。それに歌は聞いてて楽しいから。雪花は嫌いなの?」

 

「嫌いじゃないけど、オレは聞いてるだけかな。舞台で歌ってる姉さんの姿を、オレはずっと応援してるよ。ちゃんとサポートしてるから」

 

「一緒に歌えないの?」

 

「姉さんの邪魔をしちゃ悪いだろ。オレは姉さんの聴いてたいだけだからさ。だから姉さんは父さんと母さんの平和の思いを忘れずに、絶対に歌を捨てないようにしてくれよ? もしそんなことしたら、もう姉さんを姉さんと思わないから」

 

「も、もぉー、そんなことしないってば……」

 

 むくれる姉に、微笑み返す。

 はっきりと言えば、音楽を目指しずっと歌の練習を続け、結局花咲くことなく夢を諦めた前世の記憶が枷として未だ蝕み続けている。持て囃されるだけ持て囃されて、最後は誰にも目を向けられなくなってしまったあの頃の記憶が、姉の可愛らしい歌声が耳たぶを撫でる度に甦っては胸を締め付けた。

 

 聞いていたいのにも関わらず、記憶が拒絶する矛盾に体が震えている。

 

「雪花?」

 

「大丈夫だよ、大丈夫……」

 

 不審がるクリスに、何とか笑顔を作り心配させないように警戒。

「そのまま歌ってていいよ」と話し続きの歌を催促し、姉の歌声を聞こうと耳を澄ませていた時のこと。耳を襲ったのは姉の歌声ではなく、静寂で包まれた深夜のキャンプ地に似つかわしくない爆発音だった。

 それまで静かだったキャンプ地が一気に阿鼻叫喚の地獄と化し、無人だった大通りに国連治安維持の装甲車と兵士たちが走り去っていき、直後射撃音が響き渡る。ゲリラと戦闘が始まったのかと察し、遂にここまで内戦の戦火が広がってきたのかと歯噛みしながら状況把握のために立ち上がり周囲を見回し始めた。あちこちからモクモクと立ち昇る光景に地べたに座るクリスはすっかり怯え、雪花の足下まで近づいて体を寄せてる。

 

 そんな中で見たのは北東方向で立ち昇る黒煙。

 頭の中で何度も間違いじゃないかと思考を繰り返す。でも方向を何度も確かめようとあの黒煙が立ち昇るのは北東方向。両親が向かった、ソーニャの家がある方向だ。

 雪花はもちろん、聡いクリスも理解したようで震えていたはずの彼女が、雪花の視界に入り走り去っていくのを雪花は見て慌てることになる。

 

「パパッ!! ママッ!!」

 

「姉さん待って!! 今飛び出したら危ない!!」

 

 砲火行き交う戦場と化したこの場を、走り回るなんて自殺衝動と取られても仕方ないほどに危険行為だ。だがそれでも、クリスの行動を雪花は咎めることが出来ない。先に飛び出したのはクリスであっただけで、雪花も半ば飛び出す寸前だったからだ。

 逃げ惑う難民たちの流れに逆流するように駆ける姉の後を追いかける雪花。一時は人混みの中に姉の姿を見失うものの、目的地がソーニャの家に変わることはなく走り続ける。諦め半ば、希望半ば。生きていてほしいけど、砲撃に巻き込まれて無事な人間なんて存在しない。そう考えてしまうのは、まだ戦地の恐ろしさを知らないからだ。

 

 駆けて、駆けて、駆け続けて、ソーニャの家に着いたのはクリスとほぼ同じだった。ただ僅かにクリスの方が早い。だから目の当たりにしてしまう光景に「見るな」という暇もなく、自身も引きずられるように地獄を見ることしか出来ない。

 崩れたコンクリートの家の中、圧し掛かったガレキで上半身が潰れてしまった母の姿と、轟々と燃える炎の中に取り残されて灰となっていく父の姿はこれから先、一生消えない傷として自分たち姉妹の頭の中に残るんだろうと。夕方まで笑っていたはずの両親が、目の前でもう物言わぬ肉塊と灰に変えられてしまったことが、心に大きな穴をあけて事実が受け入れられなくなる。

 

 だけどその場で泣き喚く姉の姿に意識を無理やり現実に引っ張り出された雪花に出来るのは、後ろから羽交い締めにして飛び出さないようにすることしか出来なかった。

 

「離してッ!! 離してよ雪花ッ!! ママがッ! パパがぁッ!!」

 

「ダメだ姉さんッ! 姉さんも死ぬッ!!」

 

「でもママがッ!! パパがッ!!」

 

「もう、手遅れなんだ……ッ! だから……ッ!」

 

「嘘だッ、嘘だ嘘だ嘘だッ!!」

 

 両親へと手を伸ばすクリスが炎に巻き込まれないようぎゅっと抑えていれば、後ろの方からソーニャがこちらに駆け寄ってきていた。周囲に兄弟たちの姿が無いことからどこかへ避難させていたのだろうと推測する。

 正直、今まで行ってたんだと八つ当たりに近い怒りの感情が湧き出す雪花であったが、それを代弁していたのは羽交い締めにしていたクリスだった。

 

「二人とも大丈夫ッ!?」

 

「ソーニャッ! 今までどこ行ってたのッ!? 何でパパたちを守ってくれなかったのッ!? ねぇ何で!? 何でなのソーニャッ!!」

 

 他所から見れば、ただの難癖かもしれない。

 だけど目の前に両親の死体がある今のクリスにそんなことを考えるわけもなく、今までどこに行っていたのかを問いただすためにその胸倉に掴みかからんばかりだ。必死に抑える雪花も今までに感じたことにない姉の力強さに動揺する。向かいに居るソーニャは敵意を向けてくるクリスの吊り上がった目に怯えているのか、それ以上近付こうとしなかった。

 

「わ、私たちは……」

 

「ソーニャのせいだッ!!」

 

「落ち着いて姉さん!」

 

 

 

 

==========================================

 

 

 

 

「雪花、おい雪花」

 

「……っ? あれ、姉さん……?」

 

 どうやら思い出したくない過去を、雪花は夢として見ていたようだ。

 ジャブジャブと聞こえる水の音、体を包む温かいお湯と姉の肌、体のあちこちから意識を蝕む痛みを感じながら目を覚ませば、木で即席に作られた捕虜収容所の入浴場のバスタブに姉と一緒に入浴している最中だった。後ろには背もたれ代わりになっている姉の姿があって、心配そうに眉をしかめながら雪花の顔を覗き込んでいた。

 濡れて輝く珠の肌に張り付いたシルバーの髪が雪花の目にはやたらと艶やかに映っていて、大きく実った胸の膨らみの柔らかさが背中に感じている。

 

「あれ……ごめん姉さん……寝てた……?」

 

「もう、バスタブの中で寝る奴がどこに居るんだっての。まさか、今日酷い目にあわされたんじゃ──」

 

「問題ないって……ただ、最近あんまり寝れてないからさ……」

 

「頼むから……あんま、無茶しないでくれよ……雪花はあたしに残された一人だけの家族なんだよ……お願いだから……」

 

「あはは、大丈夫姉さんを残して死なないって」

 

 ぎゅうぅッと抱きしめる力が強くなるクリスの腕に、雪花は手を添え「大丈夫」とうわごとのように繰り返していた。

 

 両親を失った後、本格化したキャンプ襲撃に巻き込まれた姉妹は、反政府の武装組織に捕まり捕虜としての生活を送ることになっていた。他にも捕まった子供たちはいたものの、男たちの目に留まったのは容姿端麗であった雪音姉妹だった。

 姉が毒牙にかけられる前に雪花は男たちと交渉、末に男たちの相手を一身に受ける代わりに姉には手を出さないこととお風呂に入らせることを約束させて、もう何年経つだろうか。確実なことは、クリスと雪花の体に大人の女性としての魅力がハッキリと出てくるぐらいには時間が経っているということ。年単位は間違いない。

 

 その長い時間で、姉のクリスも大きく変わってしまった。

 男たちの口調に感化されてしまったかどこか粗暴で乱暴な言葉遣いになってしまっている。だけど優しい姉の心は全く変わらず、こうして傷ついている雪花の体を案じてくれる。

 既に雪花の体は汚され、恥辱を受け、純潔も人としての尊厳も残っていない状態だが、それも姉の為と思えば耐えられる。雪音家はもう二人しかいないんだ。なら、後悔しないように姉を守り続けていたい。

 

「なぁ姉さん、もしここから抜け出せたら何がしたい?」

 

「えっ、な、なんだよ突然」

 

「もしもだよ。オレはこの捕虜収容所から抜け出せたら、お父さんの生まれ故郷の日本に行ってみたいなって思ってるんだ。白米とかうどんとか、お腹いっぱい食べてみたいなって。だからそれまで耐えるよ、姉さんの体が汚されないために」

 

「だから無理すんなってば……」

 

 殴られ、犯され、それでも姉が無事ならと耐え続けている。

 この地獄の日々がいつか終わることを望みながら。



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第四話

ま、まさか短期間にお気に入りが一気に伸びるとは……。

ランキングに載っていたのも確認しました。
全て呼んでくださっている皆さんのおかげです。
本当にありがとうございます。


 その体に恥辱と暴行の痕を刻まれ陰惨な身体となってしまった雪花を嘲笑うかのように、窓枠にはめ込まれた鉄格子の向こうから顔を見せている太陽の射光が横たわる雪花の目元を照らしていた。

 清々しいくらいに青々とした空に睡眠の邪魔をされた恨み言を吐きながら、雪花は抱き着くクリスの腕を解き上半身を起こした。汚れ形容しがたい据えた臭いが充満する監禁部屋に同居する子供の捕虜たちは既に目を覚ましており、体に巻き付けている薄汚れたボロ布を時間潰しに指先で弄っているのが数名、生きることを諦めて目を暗闇に落としてしまったのが数十名だ。

 

「せつ、かぁ……」

 

「はいはい、どこにも行かないよ」

 

 雪花はどちらかと言うと、自身の生存は諦め目の灯りを失いながらも姉のために生きているといった状態だった。壁に背中を預けながら、未だすやすやと眠っているクリスの頬を手で撫で慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。そこへ別の少年少女が雪花の元へ助けを求めるようにゆっくりと歩み寄って来る。酷く怯えた様子で瞳の瞳孔は開き焦点が絶えずブレており、たどたどしい言葉遣いで「セツカ」と名前を呼んでいる。

 最早、この光景もこの部屋ではお馴染みとなりつつある。

 段々と増え続けている子供の捕虜の数、殺さないのは万が一武装組織が壊滅しそのメンバーが拘束されても、子供はしっかりと生かしていたとお目こぼしを貰うつもりなのだろうと、雪花は勝手に一人で推測していた。最低限だけの食料と水だけが保障された捕虜生活、こんな場所に娯楽なんて物が用意されているわけもなく、最初こそ生気が溢れていた子も日が経つ度にその目を暗くしていく。

 そんな子供たちの面倒をみるのは、雪音姉妹であり主に雪花だった。

 この狭い閉鎖空間、そして極限状態で人間関係が悪化しようものなら、最悪の場合子供同士での殺し合いに発展しかねない。それに巻き込まれてクリスの身も危険に晒されてしまうかもしれない。それだけは絶対に避けなければならないことだった。

 

「ほら、おいで」

 

 微笑みながら手招きをすれば、子供たちは覚束無い足取りで歩み寄り雪花の隣に座って頭を肩に乗せる。

 何か出来るわけでもない。道具も無ければ、外の景色を見るために十分な窓も、この部屋にはないのだ。使えるのは体一つのみ。ならばと、ゆっくりと口を開き、優しい声音で歌を歌い始める。

 

「~~……♪」

 

 アメリカで最も親しまれているという、讃美歌。

 前世で音楽の道を目指そうと真っ先に覚えた曲の一つだった。言葉が通じることがなくても、音楽で人間を癒すことが出来るのは知っていた。だから過去の記憶が歌の邪魔しようと、それを無視して歌い続ける。

 誰だって辛いのは嫌だ。それは雪花も例外じゃないし、クリスも、この周りにいる子供たちもそうだ。早く家に帰りたい、親に合わせて欲しい、何かあるはず。荒む心を少しでも和らげるために、叶わない願い事を少しでも忘れるために、こうして歌に意識を向けていれば心が壊れてしまうまでの時間を少しでも稼ぎ続ける。

 

 足元では、まだ横たわっているクリスの体がもぞもぞと動き、雪花の足先にクリスの手が重ねられた。派手な動きは見せないものの、起きていることは雪花は理解している。

 

「姉さん、起きてるなら起きてるって言ったら?」

 

「……」

 

「変なとこで意地っ張りだなぁ……。まぁ、そこが姉さんの可愛い所でもあるけどさ」

 

 クリスの頬に手を添え、笑いかけた。

 

「……雪花」

 

「ん、何?」

 

「あたしは、絶対にこんなふざけた戦争の火種なんて消して、平和な世界を取り戻してやる。もう誰も、パパもママも、失わなくていい世界を作り上げてやる。そしたら、死んじゃったパパとママは笑ってくれるかな……」

 

「きっと、笑ってくれるよ。妹として、鼻が高いぞぉ」

 

 雪花はクリスの頭を撫でた。

 クルッと振り向いて顔を真っ赤にしながら、頬を膨らませる姉の姿に思わず雪花の口角が上がった。

 

「なっ、これじゃあたしが妹みたいだろッ!?」

 

「ならもっと姉らしく。オレはどこまで行っても姉さんの妹なんだから、オレに背中を追わせるような振る舞いを頼むよ」

 

「……なら、何かあったらあたしが雪花の前に立ってやる」

 

「そっか、その時は姉さんの背中に隠れようかな」

 

 少々不貞腐れる姉に、雪花はクスリと声を出して笑った。

 

 さてそろそろ日の昇り方的に、看守が来て「喧しい」とでも苦言に呈しながら、全員分のパンと水を部屋の中に放り込んでくる時間帯だ。不機嫌がシミにでもなった看守の顔をまた今日も拝んでやろうと身構えながら歌い続ける。こんな環境じゃ、そんなことでさえ楽しみにしなければやっていけない状況だ。

 ……というのに、今日に限っては看守が一向にその姿を見せない。

 

 すると、遠くの方からここに居る全員にとって忌々しい銃声が、窓から吹き込んできた。

 クリスはその場ですぐさま飛び起き、雪花は悲鳴をあげる子供たちを落ち着かせるために声をかけながら盾になるよう覆いかぶさる。外からは悲鳴と銃声が更に多くなっていき、その音は段々と近付いていく。

 姉に危険な役目をさせていることを申し訳なく思いながらも、今は出来ることをするのみ。

 

「雪花、後ろに居ろ。何が何でも守ってやる」

 

「ごめん姉さん。だけど絶対に無理だけはしないでよ」

 

「分かってる。こんなところで死ぬつもりはねぇ」

 

 それだけを言って、クリスは雪花たちを背にジッと鉄格子を見つめている。

 次に、革靴が荒々しく地面を蹴る音。こちら目掛けて大きくなっていき、やがて鉄格子の端から勢いよく飛び出してくる。それは男だった。脂汗をぎっとりと額に浮かべて、肩を震わせながらガチガチと歯を何度も叩き合わせて、何かに怯えている焼けた肌の矮小な男。その手に握る拳銃は銃口があちらへこちらへと動き続けて、全く定まっていない。

 やがて、おそらく気がやられて自棄になってしまったのだろう。

 

 大声で叫び声をあげた後、狂ったように笑い始める。それが雪花たちにはたまらなく怖かった。男は笑い声を出しながら銃口の狙いをこちらへ、雪花たちへと向けていた。

 

「クソォッ!」

 

「姉さんッ!!」

 

 引き金にかかった人差し指に力が込められていき、子供たちを押しのけてでもクリスの盾になろうと覚悟を決めた時だ。

 

 ──ぱぁん。

 

 一発の銃声。その場に居た子供たちは、誰もがクリスが撃たれたと目を瞑る。

 だが、目を開けてしっかりと見ていた雪花とクリスは状況の変化を目に焼き付ける。

 

 男の頭に開いたザクロ。天井にまで届くほどまでに勢いよく飛び出たザクロは、さながら散弾銃のごとく散らばり、グシャリやドシャリなどの生々しく不快な音がかき鳴らされ、耳にこびりついていく。男の頭は歪な形になり、体は糸が切れたように仰向けに倒れていく。

 

 その光景に、雪花は吐き気を催し、クリスは吐く物もなくただただ空っぽにえずいていた。

 視界に、今度は銃を持った数名の兵士たちが入ってきた。UNと白文字で書いた青いヘルメットを被る兵士──いつか見た、国連の治安維持部隊だ。彼らはここの悪臭に少し眉を顰めながらも、鉄格子の向こうに居る雪花たちを見つけすぐさま格子を器具で切り開いて、駆け寄った。

 

「君たち! 酷い……誰も彼も栄養失調だ。おい外に食料を用意させろ! それと毛布もだ! 助けに来たからもう大丈夫だ。もう何も、恐れることは無いぞ」

 

「た、助かったのか……」

 

 周囲の子供たちが一斉に歓喜の声を上げる中、小さな声を漏らした雪花は安心からか体から力が抜けてしまい地面に倒れしまい、助けに来た兵士たちを威嚇せんばかりに睨みつけているクリスがぼやけた視界に映っていた。

 

 

 

 

==========================================

 

 

 

 

 長い監禁生活の中で、既にクリスの『大人』という存在は信用できない存在となっていた。

 唯一の妹を辱め、痛めつけ、弄んだ大人なんて、痛がっていると、苦しがっていると、泣き叫んでいると呼びかけても無視して弄んだ大人なんて言う存在なんて、もう信じるに値しないと。どうせ目の前に居る正義のヒーローのような兵士たちも、その化けの皮を剥がせば廊下で転がる肉塊と何ら変わらないのだと決めつけて、妹の雪花を弄ぶつもりなんだろうと思考する。

 

「落ち着いてくれ、俺たちはここに居る捕虜たちを助けに来たんだ」

 

「……ッ!」

 

 信用できない。

 顔に笑顔なんて貼り付けてはいるが、その実何を企んでいるのか分からない。

 クリスは雪花の盾になれるこの位置を保ったまま、一歩、また一歩と近付いてくる兵士に呼応するように、一歩、また一歩と顔に警戒の色の色濃くしたまま後退る。

 

「大丈夫だ、お腹が減っただろう? 食事も用意する、今はここを──」

 

「近付くんじゃねぇッ!」

 

 隊長らしき兵士に向かって怒鳴る。

 一瞬たじろぎはしたものの、努めて、努めて笑顔を浮かべている兵士だったが、それがむしろクリスにとっては信用ならなかった。いっそのこと感情をむき出しにして怒ってみせろと。ここに居るのはみんな敵だと、そう意思表示しながら歯を剥き出しに威嚇をしている。

 それを止めたのは、背後から聞こえてきた愛する妹の弱々しい声だ。

 

「姉さん……その人たちは大丈夫だから安心して……」

 

「雪花? おい、雪花ッ!?」

 

 クリスが振り返ってみれば、囲む子供たちに心配されている倒れた雪花の姿があった。その顔色は青白くなり、傍から見れば死人の様にしか見えなくなっている。それでもまだ生きていると知らせてくれるのは、呼吸で荒々しく動く肩と胸だけだ。

 その光景を見たクリスは脳裏に目の前で死んでいる両親の姿が浮かび上がり、雪花もそれと同じようになってしまうんじゃないかと、不安が頭を一気に埋め尽くしていく。

 

「だ、ダメだ雪花! 目を開けてくれッ!!」

 

 すぐさま側に寄り抱き起こして顔を覗き込むも、額にびっしりと汗をかいている雪花はクリスの言葉に全く反応を示さない。その光景がガレキの下に潰されたママと、炎に包まれて灰になっていくパパと重なってしまって、目頭が燃えるように熱くなり目尻からは涙が一気に溢れてくる。

 

「やだ、やだやだやだッ!! 目を覚ましてくれよッ! 雪花に死なれたら、あたしはどうすればいいんだよッ!? 一人ぼっちにしないでくれよ、雪花ッ!!」

 

「急いで少女を医療所に連れていくんだッ! 死人を出させるなッ!」

 

「「「「はっ!!」」」」

 

 隊長からの指示を受けた兵士たちは、クリスの腕の中から半ばひったくるように雪花と、雪花の周りに居た子供たちを外へと連れていく。その光景に激高し攻撃しようとするクリスだったが、隊長に手首を掴まれていた。

 傍から見ればそれは拉致に見えるかもしれないが、兵士たちからすれば一刻の猶予もない状況であった。それは雪花の体調不良がただの精神的なモノではなく、病原菌から来る疫病かもしれないからだ。姉であるクリスに説明している時間さえも惜しく、直ちにでも清潔な場所で診断をしなければならなかった。例え目の前の少女に嫌われたとしても、人命救助こそが彼らに課せられた任務であり、義務だからだ。

 

「離せッ! どうせお前らも雪花を弄ぶんだろッ! やらせるかッ! やらせるもんかッ! お前らに雪花を好き勝手させてたまるかッ!!」

 

 目の前の少女が強いショックによる錯乱状態なのは明らかだった。

 こういう時に強い言葉で教えようとしても、反発心が強くなり今以上に抵抗するようになるだけなのは分かっている。なら、理解されなくても良い。今はあの子を助けるためにはこうするしかないと、何度も言い続けるしかないのだ。

 

「君にとってあの子はかけがえない子なんだろう。俺たちが信用できなくても良い。ただ、君だけの力で苦しんでいるあの子を助けられるのか?」

 

「……ッ」

 

「信用しろとは言わない、だけど彼女の命は絶対に助けてみせる」

 

「ならあんたが嘘吐かないって言えるのかよ。あたしに嘘を吐かないって証明できるのかよッ! あいつは、雪花はあたしに遺されたただ一人の妹なんだ。雪花が死ぬんだったら、あたしもあいつの側で死んでやる」

 

 覚悟が決まったクリスの目に迷いなんて物はなかった。

 年不相応なその目に、隊長もまた覚悟を決め優しい声音で話しかける。

 

「分かった。あの雪花という子も、君も死なせはしない。もしそんなことがあれば、俺がこのホルスターに入ってる拳銃で頭を撃って責任を取ろう」

 

「……その言葉、嘘じゃねぇだろうな。吐いた唾、飲み込ませるようなことなんてさせねぇぞ」

 

 隊長は腰のホルスターにかかった拳銃を見せ、クリスも一旦は落ち着いたのか昂る感情を抑えてその場は従うことにした。警戒心は薄れさせることなく、立ち上がりここを出ようとする隊長から半径2mは距離を開けて近付かないようにしている。

 

 外に出れば、クリスは何年か振りにまともに日光を浴びることになった。煌々と輝く太陽のなんと憎らしいことか。何もせず、ただ空に佇んで見下ろしているだけのあの太陽が、手に届く距離にあれば一発殴っているだろうとクリスは考える。

 収容所の敷地から一歩踏み出せば、眼前に広がるのは国連軍の即席の駐屯地だった。いつか見た白いテントが建ち並び、雪花を抱きかかえている兵士たちが赤い十字を施したテントへと入っていくのを目の当たりにする。クリスが怪訝そうに隣に立つ隊長へと目を向ければ、「今から応急処置を施すだけだ」と言ってクリスの背中を押した。

 

 テントに入るなり、隊長は中にいた女性に声をかける。

 

「軍医、捕虜になっていたその子の様子は?」

 

「熱も無し、緊張の糸が切れてこれまでの疲れがドッと出た感じね。大丈夫、命に関わることではないわ。ただし、酷い栄養失調だから当分は点滴で栄養を与えないと。この体で、今まで無事で居られたことが奇跡ね」

 

 応答するのは、軍服の上から白衣を着た女性。

 上腕には医師であることを示す赤い十字の腕章をつけ、ベッドの上で横たわる雪花の体を診ていた。衰弱しきった雪花の体には無数の点滴が刺されている。

 女性は振り替えるなり、クリスを見て「あら」と声を出し驚いたようだった。

 

「隣の子は? 双子?」

 

「その子の親族だ。恐らく姉の方だ。良ければこの子も頼む。俺は食糧を持ってこよう」

 

 隊長はテントから出ていった。

 クリスは誰に催促されるわけでもなく、ベッドに居る雪花の元へと歩いていく。女性はそれを特に止めることもなく、むしろ空気を呼んだらしく「何かあったらこれで呼んで」とブザーを机において退出する。

 

 残されたクリスは、雪花の手を握りそれまで堪えていた涙をまた流した。

 これまでクリスが最低限の栄養失調で済んでいるのは、自身の分のほとんどを渡していた雪花のおかげだった。最初こそはダメだと返そうとした。だけど雪花が一度決めたらテコでも動かないことは、一緒に居たクリスがよく知っている。

 貰ったものを捨てるわけにもいかず、かといって返しても受け取ってくれず、雪花の気持ちの甘えるような形でパンを食べていた。

 

「あたしのせいなんだ……ッ! あたしが弱いから……何も出来ないから雪花に全部……ッ!!」

 

 止まらぬ後悔の念。

 クリスが泣き止むのは、食糧を持ってきた隊長が帰ってくるまで続いていた。



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第五話

『南米 バルベルデ共和国にて孤立していた邦人二人を国連治安維持部隊が救出』

 

 そんな大それた記事が書かれた新聞を開けているのは、見出しの『邦人二人』となった片割れの雪音雪花だ。母国となる日本の国際空港に用意された一泊用個室のソファーに座りながら、久方ぶりの日本語を読んでいた。

 綺麗な水、綺麗な食事、快適な空間を与えられ人間としての文化的な生活を取り戻した雪花の体は、十三歳少女の平均的な体躯、身長が他よりも高い状態となっていた。サラサラになった銀髪ショートヘアの毛先を指先で弄りながら、悲しげにも不満げにも見える表情で文字に目を走らせている。

 

 あれからというもの、週刊誌、新聞共にバルベルデから帰還した雪音姉妹のことで持ちきりであった。

 それだけなら、いい。別にお金の出所、それころ打出の小槌にされようが、別に気にもしなければ興味もない。

 

 だが、何よりも腹立たしいことは、その記事の中で著名なコメンテーターがすり寄るように同情の声を上げていることだ。

 善意から出た言葉かもしれないが、雪花からすれば結局はどれもこれも上からの言葉にしか見えなかった。

 

「雪花、まーた新聞なんて見てんのか?」

 

 声がかけられる。

 扉を開けて入ってきたのは、姉である雪音クリス。

 呆れた声音を出しながらもその顔には楽しそうな笑みを浮かべている。両手には湯気を昇らせる紙コップが握られていて、一つを机に載せると自身は雪花の隣に腰を落ち着けた。

 中のココアをグイっと飲みながら、雪花の肩に頭を載せて一緒に新聞を覗き込む。

 

「あたしらの記事なんて書いて何が面白いんだか、まったく」

 

「こういうのは、『こういう良いことがありました!』みたいなことを書けばお金になるからだよ」

 

「結局、大人なんてそんなもんかよ」

 

「でも、俺たちを助けてくれたのも大人。悪い大人も居れば、良い大人もいるってことだよ。ちゃんと感謝は忘れないように」

 

 少し不貞腐れたように、「わーったよ」とクリスは呟く。

 やはりというか、捕虜生活ですっかり吊り上がってしまった目尻が垂れたところを見れば、この穏やかな生活は心地良く感じているのだろう。

 

 ジィッと顔を眺めてくる雪花にクリスがようやく気付き、頬を赤らめながらも見つめ返す。

 流石に気まずくなってしまい、何かないかと探してクリスが持つココアに目を付けた。

 

「そういえば、そのココアはどこからもらってきたの?」

 

「……話の切り替え下手かよ。ここの職員からもらったんだよ。制服を着た女の人で、最初は断ったけど是非って言うから一杯だけもらってきた。ちゃんと雪花の分もあるぞ」

 

「ほんと、バルベルデと比べたら平和な国だなぁ……」

 

 雲泥の差と言うのは正にこの事だろうと、雪花は考えホッと息を吐く。

 これまで数年間の扱いを考えれば、こうして姉妹一緒にココアを飲むことが出来ることがどれだけ幸せなことかを思い知らされる。

 

「なぁ雪花、住む家はどんなのが良いとか希望があるか……?」

 

「ん、どうしたの急に」

 

「パパとママが死んじゃって、ここに居るのはあたしと雪花の二人だけだ。なら、二人で住む家は雪花の希望通りにしたいんだよ。あたしってどこでも寝られるからさ。あわせるなら雪花にって決めてんだ」

 

「姉らしいことしたくなった?」

 

「なっ、ふざけるところじゃないだろ! 今は!」

 

 頬を赤らめたまま怒るクリスの姿に、流石の雪花もまずいと思い「ごめん」と謝る。

 それはさておき、早く答えろと催促せんばかりの目力に圧され、首を傾げながら家の理想図を何とか描く。前世でも、あまり家というものに固執したことのなかった雪花にとって、どんな家が良いという質問はあまりにも難題だった。

 部屋数を考え二階建ての方が良いのか、それとも掃除しやすいよう部屋数の少ないこざっぱりとした家が良いのか。クリスに全て任せてしまいたいが、当のクリスは目を輝かせて雪花を見つめていた。

 

 ここまで期待しているクリスを待たせるのは悪いと、頭で描きながら口に出し始める。

 

「あー……日の光がよく入って、風通りの良い家が良いかな。家の中でも風を浴びられたら、個人的にはすごく良い。今まで淀んだ空気の中で生きてきたからかなぁ」

 

「何だよそれ……。でも……分かった……あたしが……雪花の希望を……」

 

「姉さん?」

 

 弱々しくなっていくクリスの声に雪花が様子を覗き込めば、うとうと、うとうと、と眠たげに船をこぎ始める姿があった。微笑み、掠れいく嬉しそうな声は、眺めているだけでも心が安らぐ。

 バルベルデで姉を守ると決めたあの日から、こうして安らかな姉の姿を見られることは、心を踊らせるほどに望外の喜びであった。

 

 クリスが手に持つココアを取り机に避難させ、その体をソファーの上に寝かせて上から毛布をかける。いつものように変わらず雪花と妹の名前を呼び続けていたが、それもどこか楽しそうな声だった。バルベルデの時とは比にもならない、幸せそうな寝顔。

「お休み」と一言だけ告げて、雪花は立ち上がり用意してくれたココアに口をつけながら外へ出ていこうとした時だった。

 

 ──ガチャリ。

 

 突然、ドアノブが回り扉が開いた。

 ノックをしないやつはろくでもないやつ、という経験上からすぐさま警戒し姉の前に立ちはだかるように立つ。どんな人間なんだとジィッと見つめていれば、入ってきたのは白衣の女性だった。

 

「……あら、部屋間違えたかしら?」

 

 艶やかな茶色の髪を頭頂で団子にし、桃色にも似た色の瞳を濃桃のフレームに嵌め込まれたメガネの向こうから覗き込ませている。背格好も雪花より大きく、何よりニコニコっとした一見愛想の良い笑顔の向こう側に隠れた何かに、雪花は背筋が凍りつくような錯覚を覚える。

 間違えたと言いながらも、観察するようにこちらを眺めてくる白衣の女は、雪花の後ろにいるクリスに目を向ける。そして再び雪花への目を向け、また険しくなりつつあった表情にパッと花咲かせた。

 

「何ですか」

 

「いーえ、どうやら私が間違えちゃったみたい」

 

「間違えたのなら、わざわざオレたちのことを観察しなくても良いと思うのですが」

 

「こういうの、好奇心溢れる学者の性なの。不愉快にしちゃったのなら、ごめんなさいね」

 

 あっけらかんと答える女に、雪花は警戒を強める。

 ここに居るということは関係者なのだろうが、どうにも不信感が否めない。

 

「なら何をしに来たんですか? オレたちは別にここから抜け出したりなんてしませんけど」

 

「そういうことなら別に気にしてないわ。ただ──」

 

 女が白衣の懐から取り出したのは、黒光りする拳銃だった。

 銃口を雪花へと向けてクスリと笑う女に、雪花は動揺せず背後の姉を守るためどうするかを頭の中で思考する。これまでに前世でのミリタリー雑誌と、今生のバルベルデでの観察によって得てきた銃に対する知識をフル活用し、最適解を探し続ける。

 

「怯えないのね?」

 

「そんなもの、バルベルデで嫌というほど見ましたから。今はどうしてあなたのような不審者がここまで来られたのかが、疑問で仕方ありません」

 

「ふふふ、良いわその度胸、欲しくなる」

 

「あなたに求められても嬉しくありませんよ。さっさと帰ってください。そして脅迫で自首することをオススメします」

 

「あら、今日来たのは脅迫じゃないの。協力してもらうための説得、もしくは交渉と言ったところかしら。あなたの歌を、是非とも私の下で使って欲しいのよ。どう? 受けてくれたらそこで寝てるお姉さんのことは、老衰で死ぬまで面倒を見てあげるけど?」

 

 ……読めない。

 目の前に立つこの女の心の内が全く読めない。

 

 姉のことを出汁に使われている時点で、雪花の手の内は全て知られてると言っても過言ではない。その言葉を一つ脅しに組み込むだけで、雪花にとっては心臓を直に握られていることと同義。

 比べて雪花は今初めて知った女の弱みなんて知る由も無し。

 こんなものを交渉と呼ぼうものなら、今日本各地に出回る国語辞典は全て改稿が必要となるだろう。

 

 明らかな不利を強いられている中で、下手なことを言えば間違いなく殺されるかモルモットにされるのは明白だ。

 

「……もし断れば」

 

「あなたのお姉さん、どうなるかしらね?」

 

「やっぱり脅迫じゃないですか……!」

 

 笑みを絶やさない女。

 再三思考しようと解決策が見つからなかった雪花は、両手を頭上に掲げて敵意がないこと、平伏することを証明することしか出来なかった。

 女の口端が来たかとばかりにつり上がり、満足げに声を漏らしている。

 

「……抵抗はしません。ですが、姉さんに危害を加えようとすれば、オレは死んでもあなたを殺します」

 

「その反骨心、良いわぁ……。手折りがいがある」

 

「何を言って」

 

 いるのか、とは言葉を続けられなかった。

 それまでハッキリとしていた思考にモヤがかかり始め、うまく考えることが出来ない。最初こそ目の当たりにしている敵を前にしながら、張り巡らせていた警戒の糸がぷつり、ぷつりと一つ一つ切られていく。そして、最後にやってきたのは耐えがたい睡魔だった。

 

 足がふらつき、目を開けていることさえ辛い。今少しでも気を抜けばその場で倒れてしまうだろう。

 額に手を当て頭を振りながら眼前の敵を見据えてやれば、視界に入ってきたのは頬を朱に染めた女の恍惚の笑み。

 

「ココア、ちゃんと飲んでくれたのね。お姉さん嬉しい」

 

「まさ、か……?」

 

「睡眠導入剤入り、無味無臭って本当に便利よね。だって、ココアに入ってても誰も気付かないんだもの。大丈夫、約束は守ってあげるわ。大事な、大事なお姉さんですものね♪」

 

「ク、ソッ……」

 

 抗いがたい睡魔に意識を奪われてしまった雪花は、失意の中ぼやけた視界に収まる姉の安らかな寝顔を、脳裏に焼き付けていた。



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章末

「んぅ……んぁ?」

 

 クリスが目を覚ましたのは、窓から差し込む光が茜色に染まった夕方ごろだった。開かれた窓から吹き込む少しばかり暖かい風を体に感じながら、上体を起こしかかっていた毛布をめくった。

 雪花の温もりが無いことに気が付いたクリスは慌てて周囲を見回す。

 時計の短針は五を示していた。

 

 部屋の中に雪花の姿はなかった。かと言って狼狽するということは無い。

 出来た妹だ。寝てしまった姉を見てトイレ、もしくは食べ物を買いに行ったのだろうと考え、クリスはすっかり冷めてしまったココアに手を伸ばす。これも眠ってしまった時に雪花が置いておいてくれたんだろうかと、優しさに口元を綻ばせて紙コップに唇を着けた時だった。

 

 ──プルルルルッ。

 

 部屋に置かれていたらしい固定電話が音を立てた。

 突然の音にびくりと肩を震わせて警戒するクリスだったが、音の正体を確かめるとホッと安堵の溜め息を吐き、ソファーから立ち上がって受話器を手に取った。

 

「もしもし?」

 

『俺は特異災害機動対策部二課、風鳴弦十郎だ。君は姉の雪音クリスくんだな?』

 

「ああ。何だ、雪花なら今ここに居ねえぞ。大方、あたしに毛布を掛けた後、買い物にでも行ったんじゃないか?」

 

『その雪花くんについて君に聞きたいことがあったんだが……そうか、すまない』

 

「あん? 言いたいことがあるならはっきり言えよおっさん。言っちゃ悪いが、あたしは雪花みたいに優しくはねぇぞ」

 

『そうだな……君にも伝えておかなければならないことだろう。心して聞いてほしい』

 

「大袈裟なことを言ってんじゃ──」

 

『三時間前から雪音雪花くんの行方が分からなくなっている。万に一つの望みをかけて君に連絡を取ってみたんだが……そうか……』

 

 ──今、なんつった?

 声にならなかった疑問が、頭の中をミミズのごとく這いずり回る。

 

 居なくなった? 雪花が?

 甦る、蘇る、悪夢。捕虜時代に見た悪夢が、離した雪花の手のひらが砂のように細かく崩れていって居なくなってしまうあの悪夢が。手を離すんじゃなかった。目を離すんじゃなかった。勝手に一人で寝るんじゃなかった。目まぐるしく頭の中を過ぎる嫌な予感が、堰を切ったように溢れ出して止まってくれない。

 

「お、おっさん、嘘にしては質が悪いぞ……? 雪花が何したってんだよ。あいつは賢いかもしれないけど、それこそ他の奴らと何も変わらない人間なんだ。なぁ、嘘なんだろ?」

 

『……』

 

「なぁッ! いい加減にしつこいんだよッ! 嘘なんだろッ!? いい加減にしねぇとあたしでもキレるぞッ!? おっさんッ!」

 

『……すまない』

 

「は、ははっ……」

 

 覆らない、クソッタレな現実が、クリスの意識を包み込む。

 体から力が抜け握っていたはずの受話器を手放してしまい、その場でへたり込んでしまった。

 

 頭が、考えが回り続ける。

 どうして、どうして、どうして。

 あたしは誰かと居ちゃいけないのか?

 あたしは居ちゃいけないのか?

 

 ……生きてちゃ、いけないのか?

 

『クリスくん?』

 

「何で、何でいつも雪花はあたしから離れるんだ……? あたしが悪いのか……? あたしが、家族も守れない弱い奴だから……パパも……ママも……皆、居なくなってく……」

 

『待て、気を強く持つんだクリスくんッ!! 君の責任じゃないッ!!』

 

「うるさいッ! うるさいうるさいうるさいッ! あたしが悪いんだッ! あたしなんて、妹一人守れないあたしなんて死んじまえば──ッ!」

 

 

 

 

==========================================

 

 

 

 

「クリスくんッ! 警備班、すぐにクリスくんの元に向かってくれッ!」

 

 受話器を片手に、風鳴弦十郎は周辺警備に当てていた特異災害対策起動部二課のエージェントに指示を飛ばす。彼の目の前に鎮座するモニターに映されているのは、叫び声をあげながら壁に頭を打ち付け続けている雪音クリス。受話器越しに何度も呼びかけるも耳に入っている様子はなく、狂気的な行動に冷や汗を垂らしながらモニターを眺めていた。

 やがて、室内には黒服を着たエージェントたちが突入し頭を打ち付けるクリスの身柄を拘束した後、睡眠スプレーを吹きかけ意識を失うまで地面に抑えつけていた。少女があのような行動に至った原因は、既に分かりきっている。

 

 雪音姉妹の双子の妹、雪音雪花の消息不明。

 その日の警備はしっかりと行われていたはずだ。部外者の手荷物、エージェントの巡回、そして何より弦十郎本人が、廊下、室内に設置された防犯カメラによって映される映像を、その目でしっかりと見ていたのだ。休憩時間こそあれど、代わりの人間は座らせていた。

 短時間での誘拐は難しいだろう。

 あったとしても、カメラに映り分かるはずだ。

 

「いったい、どうやって雪花くんを、それに誘拐する目的はなんだ……? 身代金を得るためのご両親は居ない。音楽家の娘として我々が目を付けていたことを知り、このような凶行を? それでも、その情報はいったいどうやって……」

 

「司令」

 

「友里か、入ってくれ」

 

「失礼します」

 

 三回ノックの後、二課の青い制服を着たオペレーター、友里あおいが部屋の中に入ってきた。小脇には数枚の書類が挟まれたクリップボードが抱えられている。

 友里は扉を閉めると、クリップボードを弦十郎に手渡した。

 中に目を通せば、そこに書かれていたのは雪音一家、特に雪音姉妹の詳細だった。

 

 弦十郎がチェックしたのは、二人が帰国と同時に行ったメディカルチェックの欄だ。

 そこに書かれている主だったものは体調面、身体的損傷、精神面の三つ。ざっと見る限り──画面の向こうでは悲惨なことが起きていたが──異常はなく、少しだけ栄養を多く摂る必要があるということだけだろうか。

 

「見る限りでは問題があるようには見えませんでした」

 

「エージェントから不審な人間を見たという報告が上がっているか?」

 

「いえ、周辺には人一人立ち入らせていないので、そのような報告は上がっていません」

 

「不可能犯罪、か……」

 

 何も出来ない現状を憂い、腕を組みながら歯噛みする。

 今は睡眠スプレーによって眠っているクリスだが目を覚ました時、どのような説明が最適なのかを考え、唸る。今回の誘拐事件の責任は俺にあると考え、今はどのようにして見つけるべきかと思考する。

 五日後には、二課所属のシンフォギア装者二人組によるライブを使った完全聖遺物の起動実験も入って来る。やらなければいけない頃が山盛りの現状で、これほどまでのトラブルが起きるのはよろしくない。

 

 とはいえ、雪花のことを見捨てるわけにはいかない。

 この先は一課との合同調査となるだろう。手が増える分、活動範囲も増えるということ。

 一刻も早く雪花を見つけると、握りこぶし、そしてここには居ないクリスに誓った。




『脳内麻薬と自白剤、強心剤を使用した深層意識下の記憶引き出し実験』

実行者:==
被験者:雪音雪花(意識状態:昏迷)
以下、実験記録

発言者:==
「薬品名『==』を、2㏄投与する」

==が薬品を被験者の硝子体から投与。
心拍、体温ともに上昇。被験者に支障は見られず。

発言者:==
「投与完了、命に別状はなし。これから問答を開始する。
 雪音雪花、現状況で何が見える?」

発言者:雪音雪花
「……い、え……」

発言者:==
「発言は不明瞭なれど実験に支障なし。再開する。
 家? それは見覚えのあるものか?」

発言者:雪音雪花
「……赤い、屋根の……家……。オ、レの……家……」

発言者:==
「お前の家に、私の知りたい情報があるのか? ふむ。
 よかろう、中に入ってみろ。何がある?」

発言者:雪音雪花
「小さい、玄関……。靴が、ある。お母さんが、出迎えてる……」

発言者:==
「そこには興味がない。雪音クリスの名をその家で聞くには、お前はどうするのだ。それ以外の情報はいらん」

発言者:雪音雪花
「にかいの、へぁ……ぁぃぉ……」

発言者:==
「っ、被験者にアドレナリンを2㏄追加投与。脳活動の活性化を図る」

{部屋に鳴り響く大きな電子音}
被験者の体温、心拍共に急上昇、安全域超過。
被験者の体が激しく痙攣し、口からは泡が立つ。

数十分経過
{小さくなっていく電子音}
被験者の体温、心拍共に安全圏へと低下、命に別状なし。

発言者:==
「被験者の痙攣が終了、実験を継続する。
 今お前はどこに居る?」

発言者:雪音雪花
「二階、の、部屋……。オレ、の、部屋……。アニメ……」

発言者:==
「アニメだと。何故アニメなんぞに現を抜かそうとする。私が求めているのは情報であり遊戯ではない。さっさと情報を部屋の中から抜き出せ」

発言者:雪音雪花
「シンフォ……ギア……」

発言者:==
「……今何と言った」

発言者:雪音雪花
「……シンフォ、ギア」

発言者:==
「何故アニメでその名前が引き出せる。私はお前にシンフォギアの情報を公開などしていない。答えろ」

発言者:雪音雪花
「せんき、ぜっしょう……シンフォ、ギア……アニメの、名前……」

発言者:==
「アニメの名前だとッ!? どういうことだッ! 答えろ雪音雪花ッ!」

直後、実行者が錯乱、数分の後落ち着きの兆しが見える。
同時に被験者の意識が消失。実験実行不可となる。

発言者:==
「……失礼、取り乱してしまった。
 実験はここまでとする。続行日時は未定。当分は被験者の回復に努める」

                         実験終了。












次回無印編! 乞うご期待!


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無印編
第一話


無印編、開幕!

ちょいと、やらしい描写がございます。


「本日は演奏会に来ていただき、本当にありがとうございました」

 

「いえいえ、こちらこそこのような舞台を用意していただき、感謝この上ございません。また機会がありましたらこのコンサートホールで演奏させていただければ、と思います。それではまた」

 

 金一封と書かれた分厚い封筒を受け取り、タキシードを着た男性の感謝の言葉を背に浴びながら、本日共に演奏を行った著名な合奏団が用いた楽器の森を掻き分けて、雪音雪花はヴァイオリンケースを片手に会場を後にした。既に日は沈み、外には講演を聞いていた観客たちがまだ多く居残っている状態で、雪花の姿を見つけると──主に女性たちが──たちどころに黄色い歓声をあげ始める。

 原因は雪花の格好にあった。

 黒のきっかりとした燕尾服を身に纏い、髪は掻き上げて後ろへと回し一つにまとめている。引き締まった体にも関わらず、胸部の豊満さはしっかりと見えた。正に麗人と言うに相応しき雪花の姿に、女性たちは見惚れていたのだ。無名の演奏家として活動してからまだ三ヶ月と経たないのにである。

 

 その群衆の中に、雪花は一人の女性を見つける。

 黒のつばが広い女優帽とサングラスで、僅かな不自然を残しながらも溶け込んでいた。たまらずそれはどうなんだと毒を吐きそうになった雪花だったが何とか飲み込み、その女性の首の動きで『ここから離れるぞ』との命令を受け取り群衆へと一礼してからその場を去った。

 向かった先は駅近くにある一つの豪華なホテルだ。

 ここは雪花の雇い主となる人物から与えられた、いわゆる隠れ家的なものであり協力者の従業員たちが多く働いている。現にホテルのエントランスで出迎えたのはアメリカ人の女性であり、雪花の燕尾服の胸ポケットから見えているバラの刺繍が入ったハンカチを目視すると英語で『フィーネの元へお連れします』と告げられる。ただ一言、「お願い」と答えればお辞儀の後女性は『こちらへ』とホテル内部へと連れられた。

 

 案内された先は最上階奥、スイートルームと呼ばれる豪華な一室だ。金かかってるなぁとしょうもないことを考えながら床一面に敷かれた分厚く柔らかい真っ赤な絨毯を踏みしめながら考える。

 貧乏人を自負する雪花には、こんな豪華なホテルに入るなんて初めてのことだった。これまでを振り返れば、思い起こされるのはこざっぱりとしたビジネスホテルやカプセルホテル、そして緊急時に立ち寄ったラブホテルのみ。堪らず感嘆の溜め息を吐いた雪花を、通常の目的で利用している裕福そうな人間たちが怪しむような目で見ていたことを、雪花は知らない。

 

『フィーネ様、お客様がお目見えになられました』

 

『入れなさい』

 

『承知しました。では、お部屋へ』

 

 女性の丁寧な所作で開かれたドアを通り、革靴で踏み鳴らす大理石の床の音の何と心地いいことか。コッコッコッコッと快音鳴らす大理石と革靴の相性の良さを実感しながら部屋奥へと進めば、先ほどの女性がサングラスを外した姿で現れた。

 

「今日の音色は特段素晴らしかったわ、雪花。ヴァイオリニストの血をひく娘なだけはあるのかしら。あなたとあなたの父、一度は聞いてみたかったものね」

 

「どうも。わざわざ見に来るなんてフィーネらしくもない。放任主義だったのでは?」

 

 称賛の言葉を聞き流しながらヴァイオリンケースをソファーに立て掛けた雪花は、タキシードを脱ぎ掻き上げていた髪を下ろしていつものおさげへと戻す。窮屈な服装には慣れていたものの、性格上やはりゆったりとした服装の方が雪花には合っている。このようなものは演奏会ぐらいでしか着たくないものだと考えながら、シワがつかないようにハンガーにかけクローゼットの中に収納。机の上に置かれていたコップ一杯の水を一気に飲み干しながら、ソファーに勢いよく座った。隣にはうっすらと顔を笑みを浮かべた雇い主──フィーネが座ってくる。

 

「可愛い部下の晴れ舞台、目に焼き付けても良いじゃない」

 

「なら、せめて事前に見に行くぐらい伝えておいてくださいよ。こっちはフィーネに見られていることを自覚する度に、演奏が疎かになりそうだったんですから」

 

「あら、私のことを思いながら演奏してくれたのかしら。嬉しいわね。その調子で、私のために動いてくれるともっと嬉しいわ」

 

「……あぁもう、そう言うことにして結構です」

 

 ハッキリと言って雪花がこのフィーネが大の苦手だった。

 もちろん、容姿が苦手とかではない。むしろフィーネの容姿は絶世の美女とも言える。腰ほどまでに丈の長い黄金の髪は毛先に向かうほどふわりと広がって絡まること無く存在し、キメ細かい珠の肌は誰彼構わず引き付けるほどの輝きを持っていた。それでいて胸部にこさえた豊満な双丘は雪花の一回りも二回りも大きく、出るところは出た素晴らしいボディラインをしている。

 ただとにかく、性格と意地が悪い。

 今日の演奏会も、フィーネが来るなんて一言も言っていなかった。別に見にくるだけならば良い。ただ演奏に集中して合奏の世界に入ってしまえば、観客のことなんて気にもならないからだ。だと言うのに、何をとち狂ったのかフィーネが楽屋まで突撃してきた。わざわざ彼女の関係者ですと周りに言って、楽屋で寛いでいた雪花のところまで来たのだ。何の用ですかと聞こうとして、告げられたのはたった一言──見てるわよ──これである。

 

 雪花にとってはその言葉は脅迫に近い。

 フィーネに見られていることへの苦手意識と、何より『最愛の姉を人質の取られているということ』がそれを脅迫へと仕立て上げている。

 変装? をしていたこのフィーネに誘拐されてからというもの、『姉の命』という三文字をちらつかされるだけで動かざるを得ない状況を作り上げられてきた。それはさながら下僕、もしくはペット。会話こそ対等であるように見えるかもしれないが、その実圧倒的なヒエラルキーの下にこの関係は成り立っている。

 

「私もたまの安らぎくらいは求めるのよ? 特に音楽、この私が推しているのだからもっと胸を張っても良いんじゃないかしら? あんまり素直じゃないと、イタズラしちゃうわよ?」

 

「からかうつもりなのか、脅すつもりなのか、せめてどっちかにしてください。こっちは距離感が掴めなくて困ってるんですよ」

 

「そう、なら今夜はからかい続けようかしら」

 

 そしてこの掴めない性格。

 暢気な気分家なのか、それとも激情家なのか。

 今でこそからかい大好きな楽しい人間であるが、一度スイッチが入ってしまえば失敗を許さない非情な人間と化す。もし失敗して怒りでも買おうものなら、殴打、鞭打ち、蹴り、体を痛め付けるあらゆる攻撃が雪花の体を襲う。今こそシャツとズボンで隠されているが、剥ごうものなら包帯で巻かれた腹部や腕が暴かれることになる。

 ……これまでのことを簡単に言えば、お付き合いしたくない人間、その一言に収められる。

 

 ニヤニヤと笑みを浮かべながら視線を向けてくるフィーネに居心地の悪さを覚え、この場からの逃走を図ろうとする。さっさとお風呂に入ってさっぱりしようと考え、ソファーから立ち上がろうとした時だった。空いていた右手を引かれ、ソファーの上に倒される。

 突然のことに気が動転するも、目の前に迫ってきたフィーネの顔で現実から引き戻されてしまう。これはまさかと嫌な予感を思い浮かべたところで、目の前のフィーネがおもむろに舌なめずりをしたことを確認し、やがて傍観へと至った。

 

「……拒否権は?」

 

 一応の質問、案の定いやらしい笑みを浮かべた後にフィーネはこう答えた。

 

「あると思う?」

 

「……お手柔らかにお願いします」

 

 肉体関係、そう言えればどれだけ良かったことか。

 仰々しくお姫様抱っこをしてくるフィーネにベッドへと連れ込まれた雪花は、自身の不幸さを呪った。寝かされ服を脱がされたことで露になっていく自身の裸体、必死の抵抗と右腕で目元を隠そうとするも結束バンドで両手を頭上に拘束されてしまい、これから乱れていく自身の顔を見られてしまうのかと羞恥心で赤くなっていく自身の顔を自覚する。

 それさえも、フィーネには余興となってしまうのだから末恐ろしい。どんな動作をしようとも全て愉悦となってしまう。現に目の前に迫る顔は今まで見た以上に愉快そうだ。

 

「もう二年の付き合いだと言うのに、そんなおぼこいことはしないの。それとも、雪花ちゃんは私を誘っているのかしら? なら嬉しいわね。あなたの身も心も、何もかもを堕としたくなる」

 

「告白は、あなたの大好きな方にとっておくことをオススメします」

 

「そうね。あなたも私のことを理解してきたじゃない。良いわ、これまで会ってきたどんな人間よりも面白いわよ」

 

 感謝の言葉がここまで信用ならないのは、それこそフィーネという女性を理解してきたからだろうと、雪花は乾いた笑い声をあげる。

 これから行われるのはフィーネによる一方的な尊厳の蹂躙。

『刻み込みなさい』と言われ続け、何度も与えられてきた快楽と痛みを再び教え込まれるだけの時間。

 ヒエラルキーをハッキリと知らしめられる教育。

 

 屈辱だ。涙が出そうだ。反吐が出そうだ。

 忌避すべき、侮蔑すべき、唾棄すべき行いだ。

 

 ……だと言うのに、雪花の体はその行いを求めてしまっていた。

 体が疼いて、今体を這い回るフィーネの指を、求めていた。

 

「さぁ雪花、身を委ねなさい」

 

「ぁ──」

 

 耳の側で囁かれた言葉が、雪花の理性と意識を甘くほどいていく。それを合図に体が官能の熱をもち、息を吐き出してフィーネに何もかもを融かされていく……。

 

 

 

 

 

 一夜が明けた頃。

 体に残る官能的な熱に呼吸を乱し、半ば虚ろとなった瞳で純白の天井を見上げれば、傍らで座る全裸姿のフィーネからの口付けに意識を無理矢理現実へと引き戻される。

 日が経つにつれて、自身の体がフィーネを強く求めるようになっていくのを自覚されられている。姉だけに、二年の間にどれだけ成長したのかもわからない雪音クリスに捧げると。その考えは今も変わらない。

 

 なのに、そこへ割り込むようにフィーネという存在が、姉妹の間に浸透し始めている。視界に先程よりも艶っぽくなっている肌のフィーネを映し「楽しそうですね」と震える声で呟けば、楽しそうに「もちろん」とあっけらかんとした様子で答えられる。

 これまでも、事後はいつもこうだ。それほどまでに雪花で遊ぶのが楽しいのか、それとも人を弄ぶこと自体が好きなのか、その是非は雪花には分からない。が、確信していることはある。一度スイッチが入ったフィーネは絶対に満足するまで止まらない、途中で果てようと最後まで休ませないということだ。

 

「良かったわ雪花」

 

「オレは散々弄ばれて懲り懲りですよ……。腰を抜かしましたし、まだ余韻が残って気を抜けば意識が飛びそうです……。止めてと言った時ぐらい、指を止めてくれても良いじゃないですか」

 

「限界を超えての行為に興味があるの。動き、感情、思考、身体、欲望。あなたはパーフェクトよ、雪花。乱れ方も、求め方も、我慢の仕方も、何もかもが想像以上。また明日も見せてもらおうかしら、今度は屋敷で、ね?」

 

「うぇ、明日のオレが壊れないことを祈ります……」

 

「大丈夫よ、壊れる寸前で止めてあげる。あなたが欲しいって言っても、ちゃんと止めてあげるわ」

 

「フィーネ、それは嫌がらせって言うんですよ……」

 

「ふふふ、覚えておくわ」

 

 ……これは実行するときの返事だと、雪花は溜め息を吐く他無かった。

 

 体の官能の熱がようやく冷め始めてきた頃合いをみて雪花は横たえていた自身の体を起こし、互いの体液で汚れた体を清潔にするためにバスルームへと向かった。一糸纏わぬ姿でその身に浴びるお湯の心地よさが沁みる。欲を言えばバスタブに湯を張り数分身を暖めたいところではあったが、そんな予定外のことをすればフィーネからどんな仕置きが下されるか分からない。

 これはバスルームに向かう時に伝えなかった自身が悪いと、口にするわけでもなく胸の中で毒づいて一応の収集をつける。

 

「にしても、何でフィーネはあそこまで距離が近いのか」

 

 閉まったリビングへの扉を見ながら、ボソリと一言。

 フィーネの距離の近さは、誘拐された二年前からまったくと言って良いほど変わっていない。それはつまり知り合ってからずっとあの調子であり、何かある度に先ほどのように距離を一気に詰めてきて致してくる。

 この奇異な関係に慣れてきている時点で、雪花もなかなかに毒されてしまっているのだろう。寝かされ、好き放題され、身も心もゆっくりと堕ちていくのが日常になりつつある。

 

「救いがあるとすれば、姉さんの安全の保障と身の回りの待遇の良さ。スイートルームに入れるとは思っても見なかったなぁ……」

 

 僅かな幸福を噛みしめ、味わう。

 フィーネが念願とする『対話』というものが成就するまで、雪花の戦いは尽きることがない。少し前までは生涯の全てをフィーネに尽くさなければならなくなるところだったが、それも二年前に奪取したという完全聖遺物『ネフシュタンの鎧』と、一年ほど前に雪花の尽力によって起動した完全聖遺物『ソロモンの杖』の力によって、フィーネの『対話』というものは予定を上回るかなりの速度で進んでいた。杖の力、それはバビロニアの宝物庫と呼ばれる異次元に保管された『ノイズ』なる人類抹殺兵器を動かせるのだとか。

 人類にとってははた迷惑な話でしかない。人間を炭素に変え殺害、加えて位相差障壁によって人間兵器がことごとく無力化するノイズを運用可能とするその力は、正しく人間一人で国を滅ぼす力を持っているということだ。

 

 そして、それをこれから運用するというのは、雇われ人となる雪音雪花ただ一人となる。それが意味示すことは、罪の無い人間たちも巻き込んで姉を守るためにあること手を汚す、ただそれだけだ。だが、それが何よりも辛かった。殺しで汚れた手で、純粋無垢の姉を抱き締められなくなるだろう。

 

「雪花、何を悩んでいるの?」

 

「……別に」

 

 油断、していた。

 暖かいシャワーを浴びて気が緩んでいたか?

 ともかく、今の雪花の姿はフィーネにとっては都合が悪いはずだ。踏ん切りが悪く、覚悟がなく、役に立たない。人間的で、尚且つ合理的なフィーネのことだ。使えなくなった道具を捨てるように、雪花のことを捨てるだろう。

 姉の安全のためにそれだけは避けなければならない。媚びへつらってでも、今は食い繋いでいかなければ。

 

 脳裏での思考、それを遮るように背中へ強い衝撃がやって来る。壁に押し付けられ見下ろしてくる金色の瞳で鋭く睨み付けられてしまえば、これまでの教育によって体に刻まれた痕跡が体を強張らせ動けないよう思考にロックがかかった。

 

「私に隠し事が通用するとでも思っているのかしら。それとも、今更手を汚すことに戸惑っているの?」

 

「……そんなわけないでしょう。オレはもう決めました。姉さんのためなら、人を殺すことになろうが逃げないと。百、千、たとえ万を殺そうと、姉一人には変えられません」

 

「フッ、フフフッ……! 良いわぁ、たった一人の家族の為に万を殺すその非合理さと狂気、やはりあなたは傑作ね。予定は変更にしましょう。明日屋敷に戻れば、私があなたを染めてあげるわ。この手に汚されることを、光栄に思いなさい」

 

「なら胸を掴む手を離して欲しいんですけど」

 

「フフ、予定は変更と言ったでしょう? もう一度よ。さぁ雪花、身を委ねなさい」

 

「ぅぁ──フィ……ネ……」

 

 たった一言で、意識が融かされていく。

 

 それからの記憶を雪花は覚えていない。ただぼんやりと体に残る暖かさと異物感だけが、あの後散々弄ばれたのだと教えてくれる。

 今は雪花の蠱惑的なボディラインが割りと浮き出る、ベージュの縦ニットと足をキュッと引き締める青のジーンズを穿いた私服姿で、愛用しているヴァイオリンの手入れをリビングで行いながらフィーネが机に並べた写真と情報書類を眺めていた。

 

 証明写真に写るのは公の場で今をときめくトップアーティストである風鳴翼。二年前まではもう一人、天羽奏という相方と一緒に歌って踊ってを実行していたらしいが、それももう昔の話だ。

 あの事件は、まだまだ記憶に新しい。

 ツヴァイウィングのライブで起きたノイズ襲撃事件。死者、行方不明者合わせて12874人となった惨劇だ。それに伴い、シンフォギア装者である天羽奏が死亡。あの時はメディアが随分と賑わった。生き残った人たちに暴力や社会的抹殺を促進させるがごとき報道。まったくもって度しがたい。

 

 それを引き起こした張本人は、目の前で優雅に紅茶を飲んでいる。本当に度しがたいことこの上ない。

 

「さて雪花、状況を進めていくとしましょう。あなたにはソロモンの杖を渡しておくわ。ヴァイオリンケース、もしくは筒状のケースにでも入れて持ち運びなさい」

 

「完全聖遺物をこんなに易々と渡すとは。どういう動きをオレはとれば良いので? そもそもソロモンの杖があれば、どうにでもなるのでは?」

 

「ソロモンの杖、それはあくまで手札であって切り札ではないわ。本当の目的は根を伸ばし覚醒を待ち続けているカ・ディンギルと無尽のエネルギーを産み出すデュランダル。後者は今も地下深くで未覚醒のまま保管されてる状態だから、さっさと確保して覚醒させたいのよ。もちろん、あなたの歌と音で」

 

「なるほど……その為には手を汚すことが不可欠と」

 

「ええ、保管庫周辺でノイズを産み出し続け死者を増やす。そうすれば完全聖遺物をそこで確保し続けようなんて気は失せ、場所を移そうとするはず。そこへ攻撃を仕掛け、デュランダルを奪う算段よ」

 

「気が引けますが、やりましょう」

 

「ああ、そうそう。あなたのお姉さん、クリスちゃんもこの街に住んでてリディアンに通っているから、ノイズを操るときは気を付けてね? 最愛のお姉さんを殺してしまったら、あなたは自死を選ぶだろうし」

 

「……了解しました」

 

 もっと早く言えよと吐き捨てそうになるのを、何とか噛み殺して耐える。今反発しても何も変わらず、むしろ状況を悪化させかねない。

 救いは今まで知らされなかった姉の行方が知れたことか。

 無差別に襲ってその中に姉が含まれていようものなら、雪花は間違いなく壊れてしまう。それだけはフィーネとしても避けたかったのだろう。

 

 説明を聞き終えた雪花は立ち上がり、ヴァイオリンケースとソロモンの杖を入れた斜め掛けカバンを身に付けて玄関へと向かった。

 

「あら、もう行くのかしら?」

 

「早い方がいいんでしょう? オレは、フィーネの願いを叶えるだけですよ」

 

「フフッ、そう、良い報告を期待しているわ。あなたの覚悟、しっかりと見せてもらうわね?」

 

「ご勝手に、それでは」

 

 淡白な挨拶を終えて、雪花は逃げ出すように部屋から、ホテルから飛び出した。今は丁度お昼時ということもあって、目の前の通りには大勢の人間がひしめくように行き交っている。

 サラリーマン、老人、学校をサボったらしい学生。

 この中の何人かはもうこの世を謳歌できなくなるだろう。

 

 罪から逃げない。弱音も吐くものか。覚悟はしている。

 だから──

 

 

 

 ──姉さんのために死んでくれ。



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小話:妹を守れなかった姉の行き先

 私立リディアン音楽院高等科。

 海を望む高台に作られた広大な敷地に建つ校舎だ。

 高等科に在籍する生徒は約1200人と、都内屈指のマンモス校である。特徴的なのは名の通り音楽へと力を入れていること、私立であるにも関わらず学費が安く抑えられていること、そしてトップアーティストである風鳴翼が特設されたタレントコースに在籍していることである。

 

 音楽を目指す、あるいは風鳴翼に憧れて入学する生徒が大半を占める中、二回生である雪音クリスは違った。

 

「雪音さん、お昼私たちと一緒に食べない?」

 

「……わりぃ、そんな気分になれねぇんだ。他の奴でも誘ってくれ」

 

「そっか、また誘いにくるからその気分にしててね!」

 

 顔馴染みとなったクラスメイトの誘いを断り、クリスは居心地の悪さを覚え弁当を片手にいつもの避難場所となる屋上へと足を運んでいた。リディアンの生徒は賑やかな場所を好む人間が多いのか教室や食堂などの場所に人が集まるため、屋上の常連となっているのはクリス一人だけだった。

 学院から隔絶されたように静かな屋上は、クリスにとって唯一の心が安らぐ場所である。ベンチに座り横においた弁当の蓋を開けながら、はぁと溜め息。少しは料理の腕も上がり見映えが良くなってきた弁当の景色を眺め、今更こんなしてもと心の中で吐き捨てる。

 

 二年前、遺された唯一無二の妹が居なくなってからというもの、クリスの人生は惰性的なものと化した。何の目的も無く、ただ学校の授業を受けてダラダラと過ごすだけの毎日。楽しいこともなく、二年も経ち妹の行方どころか生存さえ絶望的なものとなっている。

 生活自体は『特機部二(とっきぶつ)』と揶揄される組織からの援助もあり、困窮すること無く暮らせている。

 

 ただ、あたし一人がこんな生活をしてしまって良いのか。

 何も出来ずただ学院生活を送るだけで良いのか。

 妹すらも守れない姉なんて、死んでしまえば良いんじゃないか……。

 

 心の奥底から湧いて出てくる、途方もない罪悪感の数々がクリスの自尊心を蝕み続けていた。

 そしてリディアンに修学してからずっとのことだが、クリスが屋上に逃げ道を見出だしてから、見透かすかのようにこの時間に現れる一人の女が居る。

 

 ──そら、今日も固っ苦しいのがお目見えだ。

 

「雪音、今日もここに居るのね」

 

 風鳴翼。

 鮮やかな青のロングヘアーに、一部の髪を髪飾りでキュッと纏めたスレンダーな体型の女性。

 今をときめくトップアーティストであるらしく、生徒からの人望は厚く崇拝されている恵まれた人間。そして、特機部二に所属する正義のヒロイン様。出会って少しの頃はやたらと突き放すような物言いが多かったが、同情でもしたかある日を境に物腰が柔らかくなった。

 だがクリスにとってそんなことはどうでも良い。

 

「……何の用だ」

 

「クラスメイトから話は聞かせてもらったわ。一人、寂しくはないの?」

 

「うるせぇよ……あんたには関係ないことだろ……静寂(しじま)を寄越しやがれってんだ……」

 

「……悩んでいるのは、あなたの妹のこと?」

 

「──ッ!!」

 

 衝動だった。

 触れられたくないところにずかずかと踏み込んできた、と認識した時には、立ち上がったクリスの手は翼の胸ぐらを掴んでいた。翼のネクタイが弛みシャツに大きなシワができてしまうが、そんなことを今は気にしている暇がない。

 完全に、頭に血が上ってしまっていた。

 

 少しの沈黙の後、クリスはシャツから手を離してベンチに座り直す。横に置いていた弁当を手に取り、焼いた卵焼きを口に放り込みながら心を落ち着ける。

 目の前の厄介者に、イライラをぶつけたところで何も解決しないことを、地獄を生き抜いてきたクリスはよく知っていた。

 

「今まで一緒に居た家族が、ある日を境に居なくなってしまう悲しみは、私にも分かる。何も全てを打ち明けろとは言わない。でも、弱音ぐらいはぶつけて欲しい」

 

「……今は放っておいてくれ」

 

 強くなってしまう語気を抑え、握り拳を作って必死に堪える。

 翼が、奇しくも二年前に家族に等しい友人を喪っていることを、風鳴弦十郎から耳にしていた。家族が居なくなる悲しさは、誰よりも知っている。

 だから、喪ったにも関わらずこちらを案じてくれる翼に、クリスは心無いことを言うことは出来ない。

 

 翼はクリスの反応が弱いのを見て、右隣に腰を着けた。

「温かいものでも必要ね」なんて冗談を言いながら元気付けようとする優しさは、流石のクリスも感じ取っていた。

 

「雪音の双子の妹、名前を聞かせてもらっても良い? 司令は、本人から聞く方が良いだろうって教えてくれないから」

 

「……雪花、雪の花って書いて雪花だ」

 

「良い名前ね」

 

「自慢の妹なんだよ。いつも側に居てくれて、子供なのに度胸があってあたしのことを助けてくれたんだ」

 

「そう、まるで雪音が妹ね」

 

「あたしが妹、か……。そうだな、何も出来ないあたしが、雪花の姉なんて名乗る資格、無いんだよ……。代わりに雪花に傷を背負わせてしまったあたしなんかが、ここで生きている資格なんて──ッ!」

 

 自責に苛まれたクリスが右腕を振り上げたベンチに叩きつけようとすれば、隣に座る翼が止める。

 クリスの目尻には涙が溜まっていた。キッと隣の翼を睨み付ければ、真っ直ぐな瞳で見つめてくる翼の姿があった。その表情は悲しみ、怒り、その両方がグチャグチャに混ざり合って、目の当たりにしたクリスは思わずたじろいだ。

 

「妹の思いを無駄にするつもり?」

 

「……」

 

「私の奏は、自殺して欲しいから人を助けていたんじゃない。生きて欲しいからあのコンサート会場で命を燃やした。

 雪音の妹がそうだったとは限らない。でも雪音に怪我して欲しくないから、元気な姿でいて欲しいから、代わりに傷を負った。私はそう思う。それにまだ死亡確認が出来ていない以上、まだ諦める必要なんて無い。だから雪音、生きるのを諦めないで。あなたのためにも、そして妹のためにも」

 

 クリスの手が、翼の両手に優しく包まれる。

 

「……んだよ、それ。慰め方、下手くそかよ……」

 

「これが私に出来る精一杯の慰めだけど……おかしかった?」

 

「ああ、おかしくてヘソで茶が沸きそうだっての。あーもう! 悩んでたのがバカバカしく思えてきた。あんたのせいだぞ。あんたが茶化すから、こんな気持ちになるんだッ!」

 

「それは怖い。私も言葉には気を付けないと」

 

「バカバカしい……本当に、バカバカしい……」

 

「雪音?」

 

「何でもねぇよ。でもそうだな……少しは気が楽になった。礼を言うよ」

 

 

 ──ありがとな。

 

 

 生気の戻った顔でクリスが礼を告げれば、間を計っていたかのように学校のチャイムが鳴る。手を振り、駆け下りることで視界の下から競り上がってくる階段の影に消えていく翼の姿を目に焼き付けながら、自身の教室へと帰っていく。

 

 

 

 

 今日一日の授業を終えたクリスの顔は朝に比べて晴れやかな物だった。

 憑き物が取れたような、すっきりとした表情。リディアンではあまり浮かべることのなかった笑顔を湛え、「さーてっと」なんてわざとらしく声を上げながら席を立つ。その姿にクラスメイトも物珍しげにクリスを観察していたが、昼クリスを誘った子が楽しそうに近づいてくる。

 

「ねぇ雪音さん、帰り道バーガー食べに寄らない? 期間限定のが今日までで、雪音さんそういうのあまり食べなさそうだからどうかなって」

 

「飯、食べに行くのか?」

 

「そう! 味は保証するよ! 何たってグルメな私が一度食べて感動するほどだからね!

 で、どう? 今の雪音さんはそういう気分になってる?」

 

「あたし、は……」

 

 悩んだ。かなり悩んだ。

 ここに居ることを雪花が許してくれるなら、クソみたいだった人生をやり直しても本当に許してくれるなら、ここから一歩をゆっくりと踏み出していこう。バルベルデの悲しみを少しの間だけ忘れても良いのなら、今だけはどうか許してください。

 

「そうだな……今日は、行ってみようかな……」

 

「ホント!? やったやった!」

 

「先に、門の前で待っててくれ。あたしは先生に提出したいものがあるんだ。少ししたら、そっちに行くから」

 

「うん! 約束だからね!」

 

 ドタバタと教室から出ていく友達の姿を見送って、クリスは思わず微笑み教室の時計を眺める。

 

 現在は午後三時半。まだまだ日は高く昇っている。

 ちなみに、先程友達に行った先生云々は自身の心を落ち着けるための時間を作るために吐いた嘘だ。今の精神状態では一拍置いてから行動を起こさないと思考が乱れ、容易くパニック状態に陥ってしまうほどにまで不安定になっている。

 それを知ってのこの行動。自分のことをちゃんと理解しているといったところか。

 

 別に用もなく黄昏て三分ほど。

 ふぅと溜め息を吐いたクリスはカバンを肩に掛け昇降口へと向かった。下駄箱前に立ち、自身の箱の扉を開けた。

 

「……? 何だこれ」

 

 開けた下駄箱の中に見たもの、赤い蝋で封をされ『雪音様へ』と裏面に書かれた一通の手紙だった。差出人は不明、どこを見返しても全く書いていない。それに、状箱も内容物によって一部に突起を作る歪な膨らみ方をしている。

 気になったクリスが中を透かして覗き込むと、そこにあったのはカプセル状の薬剤の形をした何か・危険物ではないだろうと踏んで開けてみれば、赤い宝石のようなペンダントだった。

 

「?? 間違いか? でもあたしの名前が書いてあるんだよなぁ……手紙の方も何か胡散くせぇし、交番か学校案件か……まぁ、飯食ってからでもいいだろ。一応あたし宛てだし最悪なにかあれば棄てればいいしな」

 

 ペンダントをスカートのポケットに突っ込みながら、クリスは友達が待つ校門へと向かった。




手紙の内容
『雪音様へ
 この度、あなたの身の安全を保障するため、こちらのペンダントをお送りいたします。是非ご活用ください』


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第二話

 とある雑居ビルの屋上には、私服姿の雪花がソロモンの杖を片手に眼下に広がる商店街を見下ろしていた。

 現在、午後の六時。

 帰宅ラッシュのサラリーマン、部活帰りの学生たちで溢れる大通りは今日一番の賑わいを見せている。

 

 雪花が今、フィーネに求められている仕事は、リディアン周辺でノイズを発生させ死者を出し、とにかく騒ぎを大きく、多く発生させることだ。そうすることにより、今もリディアンの地下深くで眠り続けている完全聖遺物のデュランダルを地上へと引っ張り出すことが出来るらしい。

 ちなみにだがフィーネから聞くところによると、本来ノイズが自然発生する確率は一生涯において通り魔に襲われる確率と同じ、分かりやすく言えば滅多に無いということ。

 その偶然を完全聖遺物というインチキで必然とし、雪花はこれからノイズで一般人の虐殺を行おうというのだ。まず、まともな精神状態では行えない。

 

 だが、どこまで行こうと監視の目はある。

 雪花が目を向けた先にあるのは、古びた自殺防止用の監視カメラ。最初こそ首を右へ左へと動かしていたが、雪花が視線を向けていると気付いた時、動きが止まりレンズが絞られて雪花をじっと見つめ始めた。その動きはまるで獲物に狙いを定めた捕食者の目だ。

 

 はぁと溜め息を吐き、プルルと音を立てる耳に着けた無線の着信音に答える。

 

「フィーネ、こっちは配置に付きました。いつでも」

 

『ええ、ちゃんとカメラから見えているわ。今日はあなたが人殺しとして生まれ変わる特別な日、結果を楽しみにしているわ。お姉さんのためにも、頑張りなさい。あなたのこと、見ていてあげる』

 

「……言ってて自分で悪趣味だと思いませんか?」

 

『そう? こう言えばあなたはやる気を出してくれると思ったのだけど。それにただの駒としてしか見てなかったら、ここまであなたのことを見てないわ。それに、他の誰でもないお姉さんのためにも、頑張ってね?』

 

「分かってますよ。無線はここまで、終わり次第また連絡をします」

 

『じゃあ結果はまた後で。途中報告は無しよ、私はこれから地下深くで経過を確認しないといけないのだから。それじゃあね』

 

 フフッと不敵な笑い声を残して、無線が切られた。

 

 これから行うのは一方的な虐殺。

 ただ一人の姉を守るために行う、不合理な行動。

 ソロモンの杖を握りしめる右手に力が入る。一度踏み込んでしまえば、二度と戻れない闇に飲み込まれて手を汚すことになるだろう。

 

 覚悟を決める深呼吸、これから起こす大罪から目を背けぬよう目蓋をかっ開き、ソロモンの杖を掲げ放射された緑の光が通りを挟む建築物の屋根をなぞり、その跡から百を超えるノイズを並べる。

 それだけじゃない。

 騒ぎが更に大きくなるよう、四車線の大通りにもノイズを片っ端から配置し、いつでも人間たちを殺せるように準備させる。後は頭の中でただ一言──殺せ、そう命じるだけ。

 夕陽が傾き、地平の彼方に消えていく最中。

 今ここに、地獄が開かれる。

 

「……殺せ」

 

 そう雪花が小さく呟いた途端、ノイズは動き出した。

 飛びかかったノイズたちは、眼下に広がっていた通行人たちに振りかかった。奇襲は見事に成功しノイズが一人、また一人と、その体を黒い炭素に変え形を崩していく。

 ノイズの特性上、一体が殺せるのは一人だけ。並んでいた第一陣が半数以上飛び降りたのなら、またソロモンの杖から新しいノイズたちを並べ人間たちを襲わせなければいけない。

 

 ──いやぁぁッ!! 助けてぇッ!!

 ──死にたくないッ! 死にたくな──

 ──ママ……どこぉ……ママぁ……ッ

 ──足がぁッ! やだやだやだぁッ!!

 

 ……嫌と言うほど耳にこびりつく、通行人たちから発せられる悲鳴と懇願の声。炭素に変えられ死んでしまった人間たちの残骸がふわりふわりと宙を舞い、夕陽によって鮮やかな茜色に染め上げられた空が黒く濁っていく。

 そんな中で、足から炭素に変わっていく一人の女子生徒と、覗き込んでいた雪花の目が偶然合った。涙を流し、叫び声は酷く枯れたものとなっていて、目をパッチリと開けて雪花を見ている。その表情は驚愕だった。

 

 どうしてあんなところにいるのか?

 

 最初こそ、死への恐怖と疑問で頭が一杯だったのだろう。

 けれど、周囲のノイズたちが襲わないのを見て、雪花が今回の下手人なのだと理解したようだ。垂れ下がっていた目尻はつり上がり、射殺さんばかりの目線と鬼の形相で睨み付けながら立った一言、「人殺しぃッ!!!」それだけを言い残して、彼女はゆっくりと死んでいった。

 

 込み上げる吐き気に襲われ、酸っぱく不快な匂いを漂わせながら食道を逆流し口内まで昇ってきた吐瀉物を屋上にぶちまける。覚悟はしていた。

 それでも、いざ目の当たりにすれば耐えられない。

 バルベルデの時とは違う不快感、主にストレスで削り取られすっかりと小さくなっていた良心の阿責が、目の前の光景に警鐘をならし続けている。

 

「……謝らないよ、謝って許されるようなことじゃない。だからせめて、姉さんが生きるための礎になってくれ。罰なら後で全部受けてやる」

 

 第三陣のノイズ召喚、聞こえてくる悲鳴が少なくなってきたのは、この辺りに生きる人間たちが数を減らしたからだろう。

 近年稀に見る大惨事だ。

 死者は数十、数百……いや、もしくは数千か。

 炭素で濁った空は、黒く染め上げられていた。空を埋め尽くすばかりの炭素は、これ全て人間の残骸。数えきれない程の人間を殺したことの証だ。

 

 フィーネは満足してくれるだろう。

 街の監視カメラを掌握する性悪の彼女なら、この光景を見て高笑いをあげるのだろうか。それとも、よくぞ手を汚したと満面の笑みで迎え入れてくれるのか。

 

 第四陣のノイズ召喚。

 これでこの辺りの人間は全員死ぬはずだ。この場に留まる必要はもう無い。敵勢力と伝えられた『特機部二』も動き始めているだろう。こんなところで立ち止まっていれば、間違いなく疑われて連行からの断罪になるだろう。

 断罪されるのは良い。当然の成り行きだ。

 ただ、今されるわけにはいかない。姉さんの安全のためだ。

 

 足元に置いていたヴァイオリンケースにソロモンの杖を収納し、右手にぶら下げ屋上から階段で下りていく。この雑居ビルにも結構な人間は居たはずだ。踏む度にザクッと音を立てる炭素が床の一面を覆っているのを見る限り、ここの住民も全て死んでしまったようだ。

 儚いものかな、積み重ねてきた数十年の人生が、たった一人のわがままで崩されていくのだ。釣り合わないことこの上ない。

 

 とはいえ、今雪花が行うべきは逃走することだ。罪悪感に浸っている場合じゃない。駆け足で雑居ビルから飛び出し、最寄りのフィーネの息がかかったホテルへと向かった。

 通りは一面炭素で埋め尽くされ、買い物袋、スーツケース、ビジネスバッグが埋め尽くされて無数に散らばっている。効率的に死人を出して十分程度、そろそろ事前に聞かされていたシンフォギア装者がしてもおかしくないだろうと足を急がせる。

 

『雪花、聞こえる?』

 

「フィーネ? 今は無線を使えないのでは?」

 

『それはまた後で。緊急事態よ、そこから北東にある海辺の工業地帯で大きなアウフヴァッヘン反応が検出されたの。識別は「第三号聖遺物:ガングニール」。意味が分かる?』

 

「フィーネから聞かされた情報を鵜呑みにするならば、ガングニールは二年前のツヴァイウィングの事件で喪われたはずでは?」

 

 そうよ、と肯定するフィーネの声に雪花は表情を曇らせる。

 第三号聖遺物:ガングニール。先程口にした二年前のツヴァイウィングの事件で死者となってしまったシンフォギア装者の天羽奏が持っていた。原因は過大な負荷と引き換えに装者に爆発力を与える絶唱、いわば諸刃の剣だ。聞かされた情報によれば、一人の少女を守るために絶唱を歌ったらしい。

 ともかく、その際ガングニールは絶唱の負荷に耐えられず天羽奏の体と共に粉々になり消失してしまったというのが、フィーネが与えてくれた情報だ。

 

 これまで雪花に連れ添ってきたフィーネの考え方的に、腹黒ではあるものの嘘は吐かない。声質的にもフィーネは目の当たりにしている状況に、本当に驚いている様子だ。

 

「無くなった聖遺物の出現、オレにどうしろと?」

 

『雪花には近くまで行ってその現象をカメラに納めてきて欲しいの。こちらでも見えるけど、雪花と私で見えているものが違ったら大変でしょう?』

 

「聖遺物の出現となれば、特機部二がすぐさま回収、もしくは破壊するために動いているはずです」

 

『それはもう雪花のやり方にお任せするわ。あなたなら、私のお使いをこなしてくれるのでしょう?』

 

「はぁ……分かりました。ただ、こちらの判断で見つかる前には撤退します。本来ならこんな命令事前に受け取っていないので、逃走経路はこちらで考えますよ」

 

『んぅ、さっすが雪花ちゃん。じゃあ良い報告、楽しみにしてるわねん♪』

 

 今のフィーネは元々の肉体の持ち主『櫻井了子』の性格が同居しており、奥底で眠らせた櫻井了子を自身の意識として引き出せるらしく、本来の見事な金髪にも、誘拐された二年前に見せた茶髪にもなれるのだそうだ。

 普段の冷徹な声から一転、櫻井了子の物らしいまるで媚びるような猫撫で声になったフィーネに溜め息を吐きながら踵を返し残骸を踏みながら港湾へと駆け出した。

 

 距離、目算にして五キロといったところか。

 歩くにはちょっと遠い、幸いと大通りには所有者を失った車や自転車がゴロゴロしている。

 拝借しよう。車で行けば図体がでかくバレやすいから、ここはバイクで行くとするか……。

 

(エンジンはかかったまま倒れてる……これ貰ってくよ)

 

 一度エンジンを切り、車体を起こしてからかけなおす。

 けたたましいエンジン音が再起動を告げ、握ったハンドルを回せばいつでも走り出せるだろう。それほどまでにしっかりと整備と手入れが行き届いている。名前を彫ったネームプレートを座席の所にぶら下げているのを見れば、どれほどこのバイクに入れ込んでいたのかが窺い知れる。

 座席の残骸を払い除け、見つかった時顔バレしないようサイズの合わないヘルメットを被り、ヴァイオリンケースを後ろに括り付けていよいよバイクを走らせる。運転自体はフィーネから教えられ、免許はないものの出来るようにはなっていた。

 これまでに教えられてきた技術のほとんどは、フィーネが無茶ぶりを吹っ掛けてきてもあらゆる手段でこなせるためのものなのだろうと、雪花は考える。

 現に、こうしてバイクを使って現場に向かうことが出来ていた。

 

 特にトラブルは起きることはなく現場から二百メートルほど離れた所には、五分と経たずに到着する。とはいえ既に日は沈み、辺りは建造物から発される申し訳程度の灯りで照らされているのみ。中央部に向かえばかなり明るくなるだろう。

 現場ではやたらとたどたどしい歌が響いている。

 比べるのも酷かもしれないが、姉の歌声と比べれば雲泥の差だ。

 

「歌……聖遺物で歌となると確かシンフォギアシステムか。二年前に失われたガングニールを纏う何か、フィーネが知りたがらない訳がない。早く写真撮ってホテルに避難するか……」

 

『あ、そうそう、もう一つ注意事項。今、翼ちゃんがそっちに向かったわ』

 

「……また厄介ごとですか。もうこりごりですよ。というか、やたらと無線入れてきますね。そんな余裕あるんですか?」

 

『それがね、ノイズ発生にガングニールの登場、今のところ唯一の装者である翼ちゃんは飛び出しちゃって、こっちはてんやわんや。だからみんな大忙しで、誰も私一人の小言に気にしてられないのよ。だから、ちょちょっと助言はしてあげる。そこからはノイズの召喚はなし。あなたの身一つだけで頑張ってねん♪』

 

「了解」

 

『あぁそれともう一つ』

 

「何ですか、まだトラブルが?」

 

『あなたにサプライズを用意しているの。とっても喜んでもらえるはずよ』

 

「サプライズ?」

 

 上擦るフィーネの声を聴いて、雪花は嫌な予感が過ぎり冷や汗が過ぎる。

 フィーネがこのような声を出すときは、何か悪だくみを考えているとき、もう一つはこれから起こる出来事を予想しそれが自身にとって愉快な物であった時だ。それも、基本的に雪花に関連することである。

 

『ええ、とっても大事なサプライズ。今そっちに向かってるから、楽しみにしていてね♪

 じゃあ、無線はここで本当におしまい。続きはホテルでね?』

 

「ちょっと、サプライズっていったい──」

 

 返事を聞く前に、無線を切られてしまった。

 言葉には疑問は残るものの、雪花は歌の発信源を目指してヴァイオリンケースを片手に無機質なコンクリ工業地帯を走り抜ける。監視カメラはフィーネがどうにかしてくれているとは言え、どこから見られているか分からないので建物の影をコソコソと。かつ迅速に、今は一秒でも時間が惜しい状況だ。

 自身の耳を頼りに細い路地を進んでいけば、いきなり大きな広場に体を晒すことになった。慌てて道を引き返し、影に隠れて広間の様子を窺う。

 

 居た、歌の発生源だ。

 四方をノイズに囲まれながらも、片腕に抱いた小さな女の子を守ろうとしているシンフォギア装者。オレンジと黒のインナースーツと身を守るための装甲を身に纏い、シンフォギアから流れる音楽に乗せて歌を口ずさんでいる。

 肩口に切り揃えられたブラウンの髪の毛先が外へぴょんと跳ねる独特な癖を持った、雪花と同年代ぐらいの女の子。ノイズが飛びかかる度に必要以上に飛ぶ姿は、明らかに戦闘経験を持った人間のものじゃない。むしろシンフォギアを初めて纏い内蔵されている超人的な能力を引き出す機能に振り回されている、そんな印象を雪花は覚えた。

 

 その姿を目に焼きつけながらヴァイオリンケースを地面に置いて、ジーンズのポケットから携帯端末を取り出しカメラ機能を起動させる。ただ、ぴょんぴょんとウサギのようにあちらこちらへと跳ね続けるのがあんまりにも煩わしくて、堪らず怒鳴りそうになるのを必死にかみ殺す。

 

「ッ、まだか……」

 

 未だ来ぬシャッターチャンスに右足が貧乏揺すりを始めてしまう。

 チッと舌打ちをしながら、ヴァイオリンケースからソロモンの杖を掴み目の前で動くノイズの操作を行う。飛べないように二足歩行型にジャンプさせ空を奪い地面に体を縫い付ければ、こちらからの視線が通るようにノイズの隊列に隙間に空ける。

 企みは上手くいった。思考回路がパンクした少女は迫るノイズを見て身をこわばらせ動けなくなっている。カシャリと写真を撮り、もう一枚予備を撮った。

 

「よしきた!」

 

 これでフィーネからのお使いは終了、すぐにホテルへ戻って報告をしなければならない。

 端末とソロモンの杖を片付けて終わり、後はここから退散するだけ。

 それだけなのだ。

 だというのに……

 

 ──どうして、姉さんの声が聞こえているのだろうか……?

 

「姉、さん……?」

 

 歌が、聞こえる。

 優しい歌声だ。小さい頃に聞かせてもらった声よりも少し低くなっているものの、聞き間違えることは無い。この歌声は間違いなく姉さん──雪音クリスのもの。

 慌てて視界を動かしどこから発せられているのかを探して、空を見上げる。

 

 見つけた。

 冗談みたいな話だが、火を噴くミサイルの上に赤いシンフォギアを纏っている姉の姿がある。

 

「何で、姉さんがシンフォギアなんかを……?

 まさか──」

 

 いや、まさかという必要もない。

 意味深な発言を発言を繰り返してきたフィーネの仕業だ。シンフォギアなんかを姉さんに与えるのは二課、もしくはフィーネしかいない。こうなれば、事情を問い質すしかないだろう。姉さんに武器なんかを与えて、何が安全を保障するのか。

 

 頭の中が怒りで埋め尽くされる。

 変なことでも言えば、あの顔を一発殴ってやらないと気が済まない。

 おそらくはすまし顔でいなされるだろう。それでも、協力しているのは姉さんの安全保障が前提なのだと直談判しなければならない。

 

 広間からは大きな爆発音と銃声が轟いた。

 今は安全な場所へとケースを持ってその場を離れる。

 バイクは適当なところで乗り捨てればいい。

 そう考えて、足を乗ってきたバイクを向けた時だった。

 

「──動くな」

 

「ッ」

 

 バレた。

 しかもこの声は……。

 

「あたしは、撃ちたくねぇ。ゆっくりと振り向いて、その顔を見せてくれ」

 

 従う。従うしかない。

 金属音が鳴らされて、こっちに銃口が向けられているのが分かる。

 

 声からして姉さんはこちらの正体に薄々気づいているようだ。

 だから撃たない。それは理解している。でも、銃なんて物を姉さんに持たせたくはない気持ちが逸って、どうすれば銃を持たせないで済むかを思考する。二秒か三秒、たったそれだけの時間なのに、何十分も経っているように感じて仕方がない。

 考えて、考えて、答えを得る。

 

「早く、振り向いてくれ……頼むから……ッ」

 

「なら、これでいい?」

 

 一歩、足を引いて振り向く。

 ああやっぱりと、視界に収めて改めて気づく。

 

「あ、あぁぁぁ……ッ!」

 

 ──あぁオレは、どこまでも姉さんが大好きなんだ。



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第三話

人によってはエグ目の描写になるものがあります。
ちょいとご注意ください。


 見つけたのは、本当に奇跡なのだろうか。

 それともこの身に纏う赤い鎧、イチイバルが奇跡を掴ませてくれたのか。

 

「本当に、本当に雪花なんだよな……? 他人の、空似なんかじゃ、ないんだよな……?」

 

「双子の妹に、空似も何もないよ。バルベルデで過ごした温かい家族の思い出も、苦しかった二人での捕虜生活も、空港でのことも全部、オレは覚えてる。姉さんが、俺のことをずっと探してくれてたことも、ちゃんと知ってるよ。ホント、妹思いの姉なんだから」

 

 雪花へと向けられたクリスの持つ銃の──いや正確にはクロスボウの狙いが、動揺か定まっていない。当たり前だった。二年前、日本へと帰ってきたあの日から消息を絶ちどれだけ願おうと、当時の二課と公安に頭を擦りつけてまで頼もうと見つからなかった妹の姿が、どういうことか今目の前に現れた。

 クリスにとってこんなに嬉しいことは無い。身長も伸び、雪花はクリスよりも頭一つぐらい大きくなっている。

 何よりも生きていてくれた事実がクリスにとっての祝福となる。抱きしめたい、話したい、離れたくない。手を伸ばせば触れられる場所に優しい笑みを浮かべた雪花の顔が、あるんだ。

 

 それでも素直になれず口調が荒くなってしまうのは、バルベルデでの過酷な環境で暮らしたことで極限まで捻くれ、人間というものに信用出来なくなってしまった性格が原因なのか。

 

「ずっと探してたんだぞッ!? 二年間だッ! 恥も外聞もかなぐり捨てて、誰彼構わず頭を下げてまで探したんだッ! そうまでして探し続けても見つからなかったのに……ッ!!」

 

「……」

 

「何で今まで出てきてくれなかったんだよッ!! こんな場所に居るんならもっと早くあたしの前に出てきてくれても良いんじゃねえかッ!」

 

 感情が噴き出す。それも怒りという形で。

 言葉を選ばずに言ってしまうのなら、幼年期の捕虜となった時から今までまともな人生を送れてこなかったクリスは、例え雪花が相手であっても自身の心の内を正直に打ち明けることが出来なくなっていた。日本に帰還することになり多少はマシになったものの、その後の雪花の行方不明が追い打ちをかけてしまう。眉を吊り上げ怒りの表情を露にしながらボウガンを握った右手を振り上げる姿は、仲の良い親族にする表情ではない。

 クリス本人は、あくまで叱っているという認識だ。悪いことをしたら叱る。それは当然である。だからいつか母親から叱られた経験を思い出し、それを真似したつもりで雪花を叱っているつもりなのだ。

 

 しかしそれも、雪花の表情を見て一変する。

 

「ごめんね、姉さん」

 

「あ……」

 

 悲しそうな顔だった。今にも泣いてしまいそうな、弱々しい表情。それでも心配させないようにする柔らかい笑顔を浮かべる姿は昔の雪花と全く変わらない。バルベルデに居た時からそうだった。何かあっても心配させないように笑顔を浮かべて、その場を逃れようとする癖は変わっていない。そういう時は、雪花にバレないよう何かあったのか周囲の人間に聞き込みに行くのがいつもだった。

 しかし、今悲しい表情をさせてしまっている原因は、他でもないクリス自身だ。

 

 思考が、止まる。どうすればいいか、分からなくなっていく。

 泣かせるつもりなんて無かった。

 雪花の味方でいると決めたのに、姉として守ってやると決めたのに。

 これじゃあ、まるであたしが雪花の敵じゃ──

 

「ち、違うんだ雪花ッ! あたしは、雪花を泣かせたいわけじゃないんだッ! ただ、ずっと心配してて、生きててほしいって思ってて」

 

「大丈夫だよ、姉さんは悪くない。でも、オレはもう姉さんの側に居れないんだ」

 

「へ……? な、何の冗談だよ……?」

 

 クリスが聞き返しても、雪花は答えない。

 一歩踏み出し「何でッ!」と怒鳴りそうになってしまうのを何とか堪えて、「姉さん」と呼んでくれる愛おしい妹の目をしっかりと見据えながら、どう言えば泣かせないで、傷つけないように済むのかを必死に思考した。

 

「もうバルベルデみたいに苦しい思いする必要無いんだぞ……? 二課っていう優しい奴らも居て、あたしに家も用意してくれたんだ。雪花も言ってただろ、陽射しが良く入って風通りがいい家が良いって。見つけるのは苦労したしでっけえマンションになっちまったけど、それでも雪花が望んでた部屋を頼んだんだ……」

 

「良かった、帰る場所が出来たんだね」

 

「ああ……だからあたしら二人で帰ろう? ママとパパの仏壇もある、皆の帰る場所に──」

 

「オレは、帰れないんだよ。だから、三人で温かく暮らしてほしい」

 

「ダメだッ!! 雪花はあたしと帰るんだッ!!」

 

 子供のように吠える。

 そこからはもう、ただのわがままに等しかった。一緒に帰るんだ、同じ場所で暮らすんだと同じことを何度も言って、目の前に居る雪花に言い聞かせようとしていた。何よりも、二年間も探し続けようやく見つけた妹をまた失ってたまるかという意地が、そうさせている。

 しかし、その言葉が届くことは無かった。

 雪花はクリスの頬を指先で優しく撫でた後、踵を返し駆け去っていく。

 

「行くなッ!! 行かないでくれ、雪花ッ!!」

 

 止めようと、手を伸ばす。ようやく会えた妹が、また居なくなろうとしている。

 助けたい、一緒に生きていきたいのに──。

 だから追いかけようとする。

 だというのに、体は意思に反して動いてくれなかった。

 

 本来、シンフォギアにはオカルトじみた超人的な能力を発揮するために、様々な機能が搭載されている。その中でも特徴的なことは二つ。一つはシンフォギアから流れる音楽に合わせて頭の中に浮かび上がる歌詞を歌うことで、フォニックゲインを生み出しそれをエネルギーとすること。

 そして、もう一つがシンフォギア装者の精神状況だった。今のクリスで説明するのであれば、もう会えないものだと考えていた妹に出会ったことと、一緒に暮らせないと告げられたことによる精神状態の悪化によって、イチイバルは現在進行形で機能のほとんどを失いつつあるのだ。

 

 現在のイチイバルは既にただの形骸化した見た目だけの存在、それどころか装者の行動を阻害する拘束具となりつつある。だが、原理を知らないクリスにはそんなことは分かるわけもなく、体がまともに動かなくなっていくことに気が動転し恐怖と焦燥感が思考を全て埋め尽くしていった。

 こうしている間にも雪花の後ろ姿は段々と小さくなっていく。

 

「動け、動け……ッ! なんであたしの体は動かないんだよ……ッ!? 目の前に雪花が居るんだぞ……ッ!? あんなに見つけたい妹が、目の前に居るんだぞ……ッ!? クソ、クソッ! 雪花ッ! 雪花ぁッ!」

 

「雪音!」

 

 邪魔をするように、翼の手がクリスの肩に置かれた。意識がそちらへと反らされ自身の肩の向こうにある翼の顔へと向けてしまう。

 それが良くなかったのだろう。

 再び視線を雪花の方に向ければ、そこにもう後ろ姿はない。

 探すために駆け出そうとして、クリスの体は翼に抱きしめられていた。

 

「離せよッ! 雪花が、あたしの妹がそこに居たんだッ! 今からでも探し回れば見つけられるッ! だから離せぇッ!」

 

「落ち着け雪音。司令は周囲の監視カメラに雪音と同じ顔をした人物は映っていないと言っている」

 

「んな訳あるかッ! だったら、あたしがさっき見たのは何だってんだッ!? 雪花の声を耳に残ってるッ! 触れてくれた頬には感触が残っているッ! これは全部夢だってのかッ! 狐に化かされたとでも言うつもりかッ!? 信じられるかッ! あたしは」

 

 ──パチンッ!!

 乾いた破裂音が、工業地帯に鳴り響く。翼の方へと向き直っていたクリスの視界がぶれ、襲い来る衝撃に「え?」と困惑に満ちた声が薄く開いた自身の口から出ているのを聞いた。それから少し、時間が止まったような感覚を覚える。

 次いで知覚したのは頬に感じる痛みだった。雪花が触れた感触が上塗りされヒリヒリとする頬に手を添え目の前に立つ翼に目線を向ければ、見えるのは一筋の涙を流している姿だった。

 

「いい加減にしなさいッ!」

 

「……」

 

「居ない人間は、居ないと受け入れるしかないのッ! ここで錯乱しても、何も変わらないッ! あなたならわかるでしょうッ!?」

 

 この時、翼の胸中が荒れに荒れていた。

 原因は二年前に起こったノイズによるライブ事件によって、ツヴァイウィングの片翼である天羽奏と共に失われたはずのガングニールが、謎の装者と共にシンフォギアという形で現れたことだった。

 戦う理由のほとんどを天羽奏に依存していた翼にとって、彼女を失うということは戦う理由を失うということと同義。それでも奏が命を賭して守ったこの街を今度は私が守ろうと、これまでその身を剣と鍛え上げてきた。

 だというのに、あれはなんだ。

 ガングニールを纏っていたのは、何の知識も覚悟もないただの少女じゃないか。奏のガングニールを、どうしてあなたが持っているの。一度湧き始めたらきりがない疑問が、翼の頭を埋め尽くさんとしている。

 

 だから、翼もまた錯乱していると言える。

 その言葉は、ある意味で自身にも投げかけた言葉だった。

 流石に頬を叩いたのは、やりすぎだっただろうが。

 

「……ごめん」

 

「……私もごめんなさい……やり過ぎた」

 

「良いんだよ。あんたのおかげで、あたしも頭がちったぁ冷めた……ははっ、そっか……あたしは幻視・幻聴までするようになっちまったのか……ははっ、はははっ……」

 

 眩い光を発して、クリスの体はイチイバルが解除され地面にへたり込んでしまう。

 漏れる乾いた笑いに、自身の心がパキパキと音を立てながらヒビが入っていくこともクリスは自覚しながら、その場から動くことが出来なかった。

 

 

 

==========================================

 

 

 

 夜の東京の繁華街に紛れる質素はビジネスホテルは、フィーネとその協力者が数多く用意したセーフハウスの一つだ。街中にある監視カメラはフィーネによって細工されノイズを召喚したところから雪花の姿が映らなくなっているものの、どこまで及んでいるかも分からない二課の捜査の手を掻い潜りながら遠く離れている場所までバイクで走り抜けるというのは、精神的になかなか疲労する。それに雪花の見た目はどれだけ高く見積もっても高校生だ。バイクのまま繁華街に入ろうとすれば、警察に見つかり職質からの免許提出コンボで雪花の人生が死にかねない。そんな間抜けな終わり方は流石に嫌だ。

 そんなわけで慎重に慎重を払った結果、雪花がセーフハウスに到着したのは日を越えてから。いささか慎重すぎた気がしないでもないが、強化ガラスで作られたエントランスへの扉を疲労で重くなった手で開ければ、ホテルのフロントに立つ従業員がクタクタの雪花を見かねて側まで駆け寄ってヴァイオリンケースを代わりに持った。余裕のあるいつもなら「別に良いです」なんて断るところだったが、今日は声を出すのでさえ億劫になるほど疲れきっている。優しさに甘えて案内されることになった。

 状況が落ち着いたからか、今更になって服の下が汗でベタベタしていることに気がつく。それもあまりよろしくはない脂汗。服が肌に張り付く不快感に廊下を歩くことさえ嫌になってくる。

 

(……問い質してやる。ろくでもないことを言えば、死んででも後悔させてやる)

 

 だがそれ以上にフィーネに対して沸き上がる怒りの感情が、雪花の動力源となっている。

 工業地帯で見てしまったシンフォギアを纏う姉の姿。優しい姉がノイズに対抗する唯一の手段なんかを手にしてしまえば、その力を他人のために使役しその身を危険に晒してしまうだろう。それだけは雪花にとって絶対に避けなければならない事態だったというのに、姉の安全は保証すると言っていたのに、雇い主であるフィーネはあろうことか約束を反古にしてきた。

 そんなことを許せるはずがない。

 最悪の場合は、この胸にある自分のシンフォギア──イチイバルで。

 

 あの場、クリスが身に纏っていたシンフォギア、イチイバル。

 肉体的な性質はまったくと言って良いほど同質である双子の雪音姉妹、時系列を整え説明するのであれば妹の雪花が適合出来るのなら姉のクリスが適合出来ないわけがなかった。

 そして雪花にイチイバルを与えたのは誰でもない雇い主のフィーネだ。

 問い質さねばならない、絶対に。

 とはいえ、このビジネスホテルはあくまでセーフハウスの一つ。フィーネがここに来ている可能性はかなり低い。

 

『何かありましたか?』

 

『……いえ、少し悩みごとを』

 

 険しい表情とただならぬ雰囲気の雪花の身を案じてか、隣を歩く従業員が英語を使って話しかけてくる。眉間にシワを深く刻み、怒りでつり上がった口角と唇の隙間から見せる犬歯は、平常心を保っている人間のそれではない。

 明らかに、怒りに満ちた修羅の表情だ。

 しまったと声を漏らし、顔を両手で覆い隠して表情を整える。

 

 思考を変えよう。このままでは隣の人にあたりかねない。

 そうして考えたのは、姉のことだ。

 工業地帯にて予期せぬ形で見た姉の姿は、頬や腕の肉付きがよく健康そうだった。髪が乱れていた様子もなく、語りかけてくれたあの言葉が強がりなんかじゃない。それを知れただけでも、不幸中の幸いと言える。

 

 帰るべき温かい場所も、今の姉さんにはちゃんとある。

 けど、そこに人殺しとして汚れた自分は不釣り合いだ。

 

『こちらです。中でフィーネ様がお待ちしております』

 

『……どうも』

 

 どうやら、今日は色々とついているらしい。

 ヴァイオリンケースを返してもらい、セキュリティカードを差し込んで扉を開ける。寝室へと伸びる一本の廊下、玄関で靴を脱ぎフローリングの冷たく固い感触を布一枚の足裏に感じながら奥へと進めば、疲労が溜まる雪花に聞こえてきたのは楽しそうに奏でられる鼻唄だ。

 どこまでも神経を逆撫でしてくるフィーネに舌打ちをしながら寝室へと入れば、相も変わらず裸体を晒した姿のフィーネが影から姿を現した。

 

「お帰りなさい、雪花。どうだった?」

 

「──ッ!!」

 

 ブチりと頭の中で何かが切れた音がして、目の前が真っ赤に染まったと思ったときには、雪花はフィーネの体を押し倒して馬乗りになりいつでも絞められるように細く麗しい首に手を添えていた。

 いつものフィーネならば激昂し、ありとあらゆる手段をもって雪花の体に傷痕をのこそうとするだろう。

 

 だがこの日は違った。

 危害が加えられるという現状況においても、うっすらと笑みを浮かべて愉快そうに吐息を漏らしている。嫌な予感しかしない雪花は額に冷や汗を浮かべてしまうものの、ここまでしたのなら押すしかないと意を決する。

 

「どうして姉さんにシンフォギアを与えたッ!!」

 

「ふふ、何のことかしらね?」

 

「惚けるなッ! 姉さんの纏っていたシンフォギアはイチイバル、フィーネがオレに渡したヤツの片割れだろッ!! 覚えてないと言わせねえぞッ!!」

 

「あなたが私に勝てると思ってるの?」

 

「勝ち目なんてオレにあるわけ無い。それでも、このイチイバルでフィーネの邪魔をする。死んででも地獄に送ってやる。それがオレの覚悟だ」

 

「あぁ、本当に良い……。勝てないと分かっても動こうとする覚悟、無様で、醜くて、愛らしいわぁ、雪花」

 

 うっとりと、本当に楽しそうに笑顔を浮かべるフィーネに雪花は生理的な恐怖を覚えてしまい、手に籠る力が弱まりたじろいぐ。一瞬見えてしまった隙を、フィーネが見過ごすわけがなかった。

 

 バチィッ!! 

 

 スパークする音が響き、雪花の体が横に倒れカーペットに横たわる。

 激しい痛みだった。全身、特に脇腹に突き刺さる鋭い痛みが体を蝕み手放してしまいそうになる意識を、舌を噛むことで何とか手繰り寄せる。何事かと動く視界で状況把握をすれば、フィーネの体から突き出るように見える黒いスティック状の何か。バチバチと音を立てながら放電を繰り返すのは、間違いなくスタンガンだ。

 フィーネが高笑いをあげながら立ち上がると、その足で横向けに倒れている雪花の体を仰向けにし顔を覗き込む。ぼんやりとする視界に映ったフィーネの輪郭。手を伸ばしその顔を拳をと望むも、腹部を襲う痛みと衝撃に息がつまり吐き気が込み上げてきた。

 

「かは──ッ!?」

 

「だけど、相手ぐらいは考えた方がいいと思わない?」

 

 雪花の腹部にフィーネの足が埋まる。

 メリッ、グチッと不快な音を立てると共に、部屋に雪花の悲鳴が木霊する。フィーネと雪花が使用するこの特別な部屋は徹底的な防音加工とカーテンにより外からの干渉を絶っているため、どれだけ雪花が叫ぼうと一般使用している利用客が気付くことはない。

 それもこれは、全ては悪趣味なフィーネの性格が影響していた。

 

 雪花は足首を掴み剥がそうとするも、この麗しい見た目からは似つかわしくない怪力が腹部を押し潰していく。

 

「志半ばで死にたいの?」

 

「うる、さい……!!」

 

「はぁ……そうね、一度上下関係というものを教え直しましょう。良い、雪花。所詮あなたは下、私が与えたシンフォギアでどうにかなるとでも思っているのなら、それはただの思い上がり。あまり無様な醜態は晒さないで? 私はあなたのこと気に入ってるんだから」

 

「だったら何で、約束を……ッ!」

 

「失礼ね。約束なんて破ってないわ。シンフォギアはあなたのお姉さんが何かの間違いで炭素に変えられてしまわないようにするための、言ってしまえば保険よ。お姉さんに死んで欲しくないのでしょう? だから私は、あくまで『自衛用』としてあの子にシンフォギアをプレゼントしたのよ。約束は、破ってないでしょう?」

 

「詭弁を……ッ!! あの姉さんが自分のためだけにシンフォギアを使うわけがないッ! これから先、あんたがしようとすることの邪魔になるはずだッ! それが分からないあんたじゃないだろッ!?」

 

「何も問題はないわ。だって、あなたが私の悲願達成のために動いてくれるのでしょう? 障害はあなたが全て排除して、私と一緒に統一言語をもって世界を一つにする。これであなたはもう戦わなくても良いし、お姉さんと一緒に生きていける」

 

「オレに、姉さんと戦えって言うのかッ……」

 

「悲願達成のためなら手段は問わないわ。全て雪花にお任せするわね」

 

 ……戦うしかない。

 今クリスが身を預けているのは、あの言葉から二課で間違いない。ならこれから先何をするにも雪花の邪魔になるだろう。

 

 その時、姉が出てこないと言う保証はない。

 クリスは今や、イチイバルを身に纏う貴重なシンフォギア装者だ。むしろ人命救助のため二課も積極的に動かしてくるだろう。どう小細工をしようと、どんな非道な行いをしようと、これから先は絶対に姉と言う障壁が立ちはだかってくる。

 守ると決めたはずの姉に敵意を向けなければならないのは、今日この手を人殺しのものへと堕としてしまったとことに対する神の罰だと言うのだろうか。

 

 グチグチ悩んでも仕方ない。決めたことは貫き通す。

 やってやろう。文句を言おうと、人殺しの道を歩んだからには振り返ることなんて殺めた人間に対して不誠実だ。

 それにフィーネが出張ってしまうと姉を殺しかねない。

 他に、道なんて無い。

 

「やれば……良いんだろ」

 

「それでこそ雪花ね。あなたの力、大好きなお姉さんのためにも、私に注いでちょうだい♪

 ……さて、今度は罰を始めるとしよう」

 

 フィーネの雰囲気が、ガラッと変わる。

 会話の中に質の悪い冗談を混ぜてくる性根の腐った性格から、獲物を徹底的に虐め倒す苛烈な性格へ。目を見れば分かった。雪花へと鋭く視線を向け、丸い黄金色の瞳から光が失せていく。

 フィーネは雪花の体に股がると、勢いをつけて腰を腹部に落とし馬乗りになった。衝撃と痛みで雪花は呻き声をあげることになるが、それも首へと這わされた両手によって絞められてしまう。

 

「ぁが──」

 

「苦しいか、雪花。だが貴様は先ほどこれを私にしようとしただろう? 飼い犬が飼い主を噛もうなどともっての他、己の愚行をその身に染み付けろ。そして悔やめ、二度と刃向かわないように私が躾てやる」

 

「く、くるじ、ぃ──」

 

 呼吸が出来なくなり視界が白む。

 酸素を据えなくなったことで酸欠を起こし、その顔色は首の動脈をしっかりと押さえられたことで赤くなっていく。既に意識はほとんど無かった。口から流れ出す唾液と泡がその異常さを表している。

 殺されてしまうと薄れ行く意識の中、死に対する恐怖が蘇り小刻みに体が痙攣して、涙が溢れたときだった。

 

「──っぁッ!? ゲホッゲホッ!! ヒッ……!!」

 

 いきなり空気が肺の中へと送り込まれ、体が驚き咳き込む。

 視界も復活し溢れた涙を腕で拭いながら目蓋を開ければ、口角が上がり唇で弧を描いた悪魔的な表情のフィーネがいた。雪花の心に浮かび上がるのは恐怖、徹底的に虐めてやると、恐怖を刻み込んでやると、フィーネの意気込みが伝わってくる。

 後退ろうとしても、乗りかかるフィーネの体が許してくれない。カーペットを掴み逃れようと必死に足掻くが、再び首を絞められ思考が掻き消されていった。

 

「殺されると思ったか? 言っただろう? 貴様は私のお気に入りだと。故に殺さん。代わりに、相応の仕置きは受けてもらうがな。さぁ雪花、苦しみを刻め、痛みを体に刻み込めッ! これが世界を繋ぐ唯一無二のものだッ!」

 

「ぇあッ──や、め……」

 

 意識が、消える。思考が、止まる。

 死の淵へと立たされ薄れ行く意識の向こう側に姉の姿が見えた時を見計らって、首を絞める手の力が緩まり肺へと酸素が送られていく。それを何度も繰り返し苦しめ愉悦を得るフィーネは、真性のサディストと言えるだろう。

 苦しみと死の恐怖で頭が一杯になっていく一方で、雪花に残されたほんの僅かな好奇心がフィーネをここまで歪ませてしまったものは一体なのだろうかと疑問を持った。

 

 自分の体が、意識が壊されている。頭に浮かび上がったたった一つの疑問が、思考を止めさせない。

 

「苦しいか、それとも怖いか?」

 

「し、ぬ──」

 

「殺さんと行っただろう。貴様の命、今は私の手の中にある。殺すも生かすも、全ては私のこの両手次第。自分の命一つ、貴様の手には無いと思い知れ」

 

 ……フィーネの仕置きは、朝日が昇るまで続いていた。



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第四話

 フィーネに徹底的な罰を与えられた雪花はカーテンの隙間から差し込む陽光に目元を照らされ、眩しさと首元に残る絞められた痕に息苦しさを感じながら目を覚ました。カーペットの上で転がっていたはずの自身の裸体はベッドの上に移動させられ、唾液と泡で汚れた顔は綺麗に拭われていた。

 首はもう自由になったと言うのに、今も手で掴まれ絞められているような感覚が残っている。さながら首輪だ。いつでもお前を殺せるんだぞと常時囁かれている気分にさせられる。確認を含めて自身の首に手を伸ばし指先で触れてみるが、そこに首輪や絞める手なんて物はない。その事に安堵の溜め息を漏らしたものの、笑みを浮かべ首を絞めてくるフィーネの姿を思い出し背筋を冷たい恐怖が走った。

 

 胸に手を当てて動く心臓の鼓動に自分は生きているんだと安心しながらも、これさえもフィーネの思い次第で止められてしまうのだと考えれば、今の現状はバルベルデでの捕虜生活と何も変わらないのだろう。

 ならば尚のこと、この汚れたこちら側の世界に姉を引き込むわけにはいかない。あの人には温かい世界が似合っている。

 

「……終わらせる。姉さんにシンフォギアを纏わせず、戦わせないようにしながらフィーネの目的を達成させる。それしか姉さんを守るは出来ない」

 

 それにしても、と一拍おいて周囲を見回す。

 使い慣れたベッドの柔らかな感触に、やたらと射し込んでくる陽光。昨日足を運んでいた繁華街のビジネスホテルなら周囲を同等の高度を持つ建造物に囲まれて、ここまで爽やかな陽射しを受けられることはないはずだ。

 それに相も変わらず自身が裸体のままで寝かされているということは、気絶した後フィーネによって体を弄ばれたに違いない。もしくは実験か。ここのところ、左目が痛むことが頻発し異常な高揚感に襲われることがままある。体にいったいどんな細工を施しているのかは知らないが、最悪意識の乗っ取りさえ無ければ万々歳だ。

 

 ベッドから腰を上げカーテンを開けながら窓の外に広がる景色を眺めた。ここから見えるのは青々と生い茂る木々の数々、そして水面が陽光を反射しキラキラと輝いている大きな湖だった。湖畔の桟橋にはやって来たアヒルの子供たちがたむろして、水面を滑る親鳥の後に続こうと湖へと飛び込んでいく。

 こんな光景、雪花が知っている中で見られるのはフィーネが拠点とする山腹の洋館しかない。ということは、あの後気絶した雪花はフィーネによってここまで運ばれたことになる。

 

「雪花」

 

「ひッ……! フィ、フィーネ……!」

 

 意識が思考へと傾いている間に背後へ回り込んでいたらしいフィーネが意図的に首へ腕を回しながらゆっくりと抱き着いてくる行為に、雪花はか弱い悲鳴を上げてしまった。その声を娯楽にして楽しそうに笑みを浮かべるフィーネの顔が視界の端に映り込み、肝を冷やしながらも呼吸を整え胸部に伸ばされたフィーネの手に自身の手を添え鋭い目線を投げ掛ける。

 息苦しさが襲いかかってきた。首元にフィーネが手を近付けてくるだけで、昨夜の仕置きがフラッシュバックし息苦しさが強くなっていく。

 

 その現象が示すところ、今の雪花に沸き上がる感情はフィーネに対する恐怖だった。昨夜のことで死の恐怖と言うものをフィーネが直接植え付けたことにより、こうして抱き着かれている状況、もしくは一定時間以上をフィーネと共に至近距離で時間を過ごすことを体が拒んでいた。

 その場から離れようと腕と足に力を入れるも、ギュッと抱き締められて動くことが出来ない。胸の柔らかい感触が背中を襲い本来ならば多少心拍数が上昇しよう場面であっても、冷や汗を流させるほどの恐怖が体を強張らせている。

 

 その間もフィーネの手は雪花の体を這い回る。

 太ももへ、鼠径部へ、ヘソへと動いて徐々に登っていく手は、やがて胸部を通り鎖骨の所までやってきた。

 

「ふふっ、怯えるあなたは子犬のように可愛らしいわ。震える眼で見る私はどのように映っているのかしら。主人? 獣? ろくでなし? それとも化け物?」

 

「っ、少なくとも、良い意味ではありませんよ……姉さんを巻き込んでおいて、フィーネが善人に見えるのなら私はこの目をくり貫いて義眼にでもしてきます」

 

「強がりは変わらないのね。良いわ、それでこそよ雪花。反抗心の塊のようなあなたが容易く従順になったら、それこそ本当につまらない。愛するお姉さんのために足掻いて、足掻いて、足掻き続けるあなたの姿、私に見せてね?」

 

「っぅ……!」

 

 艶やかな笑い声をあげるフィーネに、雪花は最後まで体を強張らせていることしか出来なかった。フィーネとの上下関係は雪花の深層意識に刻まれつつある。

 何より『姉』という言葉を入れられてしまうだけで思うがままに操れてしまうのだから、フィーネにとって雪花は何と都合の良い駒だろうか。

 

 雪花の首筋に息を吹きかけたフィーネは体に絡めていた腕をほどきベッドから降りると、ブロンドの髪を揺らしながらドアへと歩いていく。

 

「さぁ朝食にしましょう。あなたにはまだまだ働いてもらわないといけないのだから」

 

 フィーネの言葉に従い、雪花は手近にあったローブを羽織って後を追いかける。機材まみれの見慣れた廊下を歩き、そのままの足で一階へ。壁一面にはこれまで彼女が聖遺物研究の費やしてきた時間の全ての記録が残されているサーバーやハードディスクが立ち並び、これらに触れることは雪花であっても禁じられていた。それもこれも全てはフィーネが目的とする『月の破壊』等と言う大言壮語を成し遂げるためなのだと、雪花は把握していた。地球の衛星である月を破壊すれば破片等が降り注ぎ間違いなく人類には厄災が降りかかるが、それさえこなせばフィーネは姉のクリスの命を保証すると言っている。

 ならば、やるしかない。何十億の命よりも、姉の命だ。

 その手は既に雪花の勝手なエゴによって喪われた人の命で汚されている。今更戸惑うこともない。邪魔をするのなら排除する。姉に手を出すなら誰であろうと殺す。敵はこの手で全て皆殺す。そして最終的には自分の命も──

 

「……ッダメだ思考を切り替えろ。過激なことばかり考えてどうするってんだ」

 

 次第に過激になっていく思考は頭を振って消し去り、足早に駆けていった。

 この屋敷は巨大な装置を無理やり収納するために、建物の規模が想定よりも大きくなったという事情がある。二人で暮らすにはあまりにも大きすぎる。屋根裏除いて三階建ての部屋数二十以上、そのほとんどが荷物もしくはデータ保管室となっている。

 雪花に与えられたのは二部屋。キングベッドが備え付けられた寝室と、真ん中にポツンと木質のイスだけが置かれた窓もない防音・反響仕様の殺風景な部屋だ。これまで何度もあの部屋の存在意義について何度も考えたことはあったが、あのフィーネの効率と成功を追い求める性格からしてあのような無駄な部屋を拵えるとは思わない。人を弄ぶ嫌な趣味も、あくまでも効率と成功に付随するものだと雪花は知っている。

 とはいえ自由気ままな櫻井了子の性格までその身に宿しているフィーネのことだ。万が一、本当に万が一、その気ままさであのような部屋を作ったのであれば、雪花はフィーネを見る目を少しは変えねばならないだろう。

 

 なんてバカなことを考えている間にも、雪花は三階の自室から一階のダイニングの前までたどり着く。途中足元を這う機械のコードに何度も足を取られていたが、幸い倒れることは無かった。

 招くように開かれたダイニングの扉を潜り、出迎えたのは清潔な白のテーブルクロスを敷かれているアンティーク調の長机に並べられた豪華な食事の数々。あまりフィーネに対して良い感情を持っていない雪花だが、フィーネが出してくる料理は舌鼓を打つほど絶品だ。町中に降りてレストランで食事するよりも、彼女から食料を恵んだ方が精神衛生上よろしいのはこれまでの生活で分かりきっている。

 ……こういうのを胃袋を掴まれているというのだろうと、雪花は自嘲の笑みを浮かべる。

 結局、今の雪花にとってフィーネは生活面で居なくてはならない存在であり、どこまで行っても雪花はフィーネの下僕。その関係が危ぶまれることになれば命にも関わってくるのだ。

 

「さあ座りなさい。今日はあなたの好きなロールキャベツにコーンスープ、それにローストチキン。おかわりもあるわ」

 

「……ご機嫌取りか何かで?」

 

「失礼ね。部下の体調管理も上司である私の役目でしょう? それに、反抗してくるとは言え結果と情報はしっかり残してくれる優秀な人材だもの。こんなところで体調不良、栄養失調にでもなられないように献立は考えてるの。今日は、昨日頑張ってくれたご褒美。好きなだけ食べなさい」

 

「どうだか……とはいえ、食べないとオレが死ぬのも事実……。いただきますよ、捨てるのなんて殺した動物たちにもったいないですし」

 

「そう♪」

 

 手で示されるままに雪花はイスへと座った。

 料理から漂ってくる香りで口内に溢れだしてくる唾を飲み込み、皿の両側に置かれたナイフやフォークを使って料理に手を付けていく。頬杖を付きながら愉快そうに眺めてくるフィーネに対して「見ないで」とアイコンタクトしたもののそんな戯言を彼女が聞いてくれるわけもなく、食事のシーンをまじまじと見られてしまうことになった。

 だけど心のどこかで、こんな光景が温かい家庭の物なのかもしれないと考えている。暖かい料理を振舞ってくれる母が居て、振舞われた料理を食べる娘がいる。片や悪だくみをする極悪人で、肩や人殺しを行い実行犯。世界的に見れば二人は指名手配級の犯罪者だろう。

 

「暖かい……美味しい……ほんと、何で料理はおいしいんですか。不味かったら心の底から恨んで嫌いになれるのに」

 

「料理は練習しておくものよ。あなたのような子でも、料理さえ美味しかったら喜んで食べてくれるもの。それとこれ、あなた宛ての手紙」

 

「手紙?」

 

 向かいから差し出された白い封筒。『名無しのヴァイオリニスト様へ』と達筆な文字で書かれた表面に目を走らせ、手に取り裏面へとひっくり返せば、差出人の名前を見て目を疑う。差し出してきたフィーネへ堪らず「何でこんな手紙がッ!?」と大声を上げながら質問することになるが、いつものように彼女は答えてくれない。

 裏面に書かれていた差出人は私立リディアン音楽院高等科教職員一同、姉が通っているはずの学校の教員からだ。名無しとはいえちょっとした資金調達のために、フィーネが雪花のそれっぽく扮したホームページの解説の中にこれまでの実績などを載せている。

 

 最初こそ無名だったものの、ヴァイオリン奏者として音楽界で一躍有名となった雪花にこうした手紙や電子メールが飛んでくることは珍しくない。そういう時はフィーネが先に閲覧して、赴けるものとそうでないもので仕分けていた。

 とはいえ、そのほとんどに雪花は参加している。

 少し前開催された雪花参加の演奏会もその類いだ。別にヴァイオリンを演奏することは苦ではない。今は亡き父を側に感じられるような気がして、時々見てしまう亡くした日の悪夢を振り払えると思えてしまう。

 

 ただし、今回のような事案は別だ。

 

「リディアンって……」

 

「そうよ。雪花のお姉さんが在学している音楽学校にして、敵である二課の玄関口。これもあなたの努力の結晶よねぇ。顔は広く売れ今や毎月誘われているほどまでに有名、名無しのヴァイオリニストって肩書きが胸に刺さったのかしら」

 

「……何がしたいんですか」

 

 沸き上がるのは、疑問。

 どうしてか、フィーネはクリスと雪花を引き合わせようとしている節がある。楽しむためか? ただ、それは考えにくい。繰り返すが、楽しむのは最低限の効率を求めてから。今回の例で言うのなら目的の達成のために策を巡らし、それを達成してからである。

 であれば、フィーネは何を考えているのか?

 

「気になる?」

 

「ええ……こっちはずっとあなたの思惑に振り回されてばっかりで、事前にマトモな情報提供をしてもらったことがないんですよ……。教えてもらえませんか、フィーネは何がしたいんです?」

 

「そうね、一言で言えば筋書きの変更かしら」

 

「筋書き?」

 

「ええ筋書き、それともプロットって行った方が良い? 組み立てられた通りに事が運ぶのが、私は大嫌いなの。それも不愉快な方に進むのがね。だから私にはあなたが、雪花が必要なのよ。これから先、引っ掻き回してやるためにもね」

 

「……まるで未来を見たかのような言葉じゃないですか。神にでもなったつもりで?」

 

「神ね……ふふっ、私なんかが神になど届きはしない。ネフシュタンの鎧とソロモンの杖があっても、私は結局ただのルル・アメル……。カストディアンには届かないのよ」

 

 ルル・アメルとカストディアン。

 聞きなれない言葉に雪花は首をかしげる。文での使い方からして上下関係を表すものらしいとは理解できたが、意味は分からない、

 質問してみようかと視線をフィーネへと向けてみれば、慈愛の笑みを浮かべたフィーネから既に射抜くような目線が向けられていた。

 優しい笑みとは違う、見たことの無い表情に雪花は体を強張らせた。

 

「ねぇ雪花、私から質問をさせて。愛するお姉さんにあなたの声が届かなくなったらどうする?」

 

「……質問の意図が分かりません」

 

「単なる興味よ。答えて頂戴」

 

 いつもの見せるような高圧的な言葉は無い。

 本当に疑問になったから聞く、普遍的な人間の問い方。あまりにしおらしい姿に目の前に居るのが本当にフィーネなのかと疑ってしまう。

 それに、問われたことだ。声が届かなくなったらとは、おそらく言葉の真意が伝わらないということ。声が使えないのならどうするか。そんなこと、雪花は決めている。

 

「行動で示します。姉さんはああ見えて頑固ですから口で言っても素直に頷いてくれません。なら体を張って守るしかないでしょう? 俺は姉さんが元気に生きてくれたら良いんです。その為になら俺は死ねます」

 

「……お姉さんが死んで欲しくないって言ったら?」

 

「その時は出来る限り死なないようにはしますよ。あんまり泣かせたくないですからね。死ぬ時は、最終手段です」

 

「そう……あなたに情報があってよかった。これからも最期まで手を組みましょうね?」

 

「は、はぁ……何か気持ち悪いなぁ……」

 

「聞こえてるわ。無駄口を叩く前に料理を食べなさい。見ててあげる」

 

「……はぁ、なら最後にリディアンに向かう日を教えてください」

 

「一ヶ月後のこと座流星群が見られる日。その日に行動も起こすつもりよ。ここからはイベントが盛りだくさんだから、精々体を壊さないようにお願いね?」

 

「分かりました」

 

 会話を終えた雪花は食事に戻る。

 頭の中がゴチャゴチャに乱れて思考が定まらないが、ここからが本番になるだろう。二課との対峙、装者との対峙、そして愛する姉と対峙。

 雪花にとっては棘の道でも、進んだ先には姉の幸せな生活がある。

 

 

 それを見届けた後に、断罪され静かに死んでいこう。



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第五話 前半

「雪音、大丈夫?」

 

 人が溢れるリディアン昼休みの食堂。

 周囲の生徒が思い思いに会話をし喧騒が溢れる中、意識を思考の彼方へと置き去りにしていたクリスは耳元で囁かれた翼の言葉で意識を取り戻す。持っていたはずのフォークは、力が抜け半開きになった右手から溢れ落ち机の上に転がっていた。

 左肩からは隣に座り身を寄せている翼の体温が、リディアンの制服越しに伝わってくる。心配していたらしい翼は、顔を覗き込み空いていたクリスの左手に自身の右手を重ねていた。

 翼の言葉に正直で返すなら、今のクリスは大丈夫ではない。

 一ヶ月前、下駄箱の中に入っていた赤い宝石。最初こそ何だろうかと不審に思っていたが、友人と共に少し離れた場所まで食事に向かっていたところで突如として目の前に発生したノイズに対峙した時、この宝石の真価をその身を持って思い知らされた。

 

 第二号聖遺物、イチイバル。北欧神話にて狩猟神ウルが扱っていた弓の一部から櫻井理論を用いて製造されたシンフォギア。広域殲滅を得意とする遠距離型のシンフォギアは一見弓を扱うのかと思いきや、クリスがその手にしたアームドギアの形は重火器。その心象変化が示すところ、原因は幼い頃から経験してきた捕虜生活で目にする銃が脳裏に焼き付いたことにある。

 数年前に製造され後は適合者となる人間を待つばかりであったが、二課の前任司令官だった風鳴訃堂の元より失われ、今日まで消息不明だったはずの聖遺物だった。それがどういうわけかクリスの手元に渡り、シンフォギアとして適合するまでに至っている。

 あの後、クリスの身柄は一旦拘束されイチイバルをどこで手にしたのかの質問と身体検査を行った後に解放されている。二課としては旧来より待ち望んでいたイチイバルの装者ということもあり、ギアペンダントはクリスの手元に残るということになった。

 

 とはいえクリスにとっては、こんなものを渡されても手に余ってしまうし何よりも嫌だった。火薬が爆ぜる轟音、弾丸が撃ち出されると共に響き渡る悲鳴。あの日、アームドギアが三銃身の四連装ガトリングとして姿を現し、意を決して放った弾丸が人型のノイズを引き裂いた時、脳裏にこびりついたバルベルデでの嫌な記憶が甦って意識を苛む。

 それを翼に打ち明けることはできなかった。いや、クリス自身が打ち明けるのを拒んだと言っても良い。伝えたところであの地獄を経験したことがない翼からは、同情の言葉しか出させてやれないと考えていた。

 

 だから、そっけない言葉が出てきてしまう。

 

「別に……何でもねぇよ……」

 

「何でもないことはないでしょ。なら、目尻に溜まった涙をどうにかしてから言いなさい」

 

「……ッ」

 

 指摘され、目を手で擦る。

 確かに擦った後の手は濡れていた。「何でもねぇよッ!」と語気を強めて放った言葉に周囲で食事をしている生徒たちからの目線が集まるものの、二人が気にすることはない。

 クリスは未だに翼との距離感をあまり掴めないでいる。今でこそまだこうして話せるようにはなってきたが、最初は犬猿の仲と言っても良い。二年という年月を使い果たして紆余曲折の末に、『クリスの過去』を糧にして交遊関係を築き上げたのは結果としてクリスの人生に良い影響を与えたのだろう。

 

 しかし今度は人間関係という壁にぶつかることになる。

 

「……大きな声だして悪かった」

 

「気にしていない。それよりも雪音、辛いのなら少し人気が少ない場所に行く?」

 

「……頼む」

 

「分かった、ならいつもの屋上に。雪音が食事を食べ終えてからで良いから」

 

 いつまでも優しさに甘え続ける訳にはいかないと分かっていても、今のクリスには一人で自立できるだけの力はない。

 

 クリスが口の中に料理を押し込んで人混み極まる食堂を二人一緒に抜け出したのは、それから二十分後の話だった。翼に手を引かれるようにして廊下を歩き顔を赤らめながらも、特段抵抗するようなことはない。硬い上靴がカツカツと廊下を踏み鳴らす音も昼休みの喧騒に消えていく。

 雑音が溢れるこの時間、このリディアンは嫌いだ。

 届くはずの声をこの雑音に掻き消されて、聞こえたかもしれない雪花の声まで消えていく。だからもっと言えば人は嫌いだった。唯一、二課だけは静謐な場所と時間は与えてくれたから、まだ良い組織なのかもしれない。

 

 道中、新たに第三号聖遺物ガングニール装者となった立花響を翼が視界に入れた時、優しさで溢れていた目が忌々しそうに吊り上がり「別の道を通りましょう」と道を変更することになった。どうしちまったんだと聞きたいところではあったが、二年前のことを知っているクリスはその言葉を発するのは憚られた。

 そうして到着した屋上は、やはり誰も居なかった。ここなら雑音も少ししか聞こえてこない。肌を撫でる柔い風だけか二人の到着を歓迎してくれている。

 

「良かった、誰も居ない。雪音、座りましょう」

 

「あ、あぁ……」

 

 手を引かれて二人仲良く隣同士で座ることになったときは、流石のクリスも気まずさと気恥ずかしさで頭がどうにかなりそうだった。このアーティスト、やたらと距離が近い。コツンとお互いの肩を合わせてしまうほど。顔に熱を持っているのを自覚したクリスは、顔を背け雲一つ無い空に視線を持っていく。

 そうして、そこで十分以上も無言の時間を過ごすことになった。

 これには堪らずクリスも「喋らねぇのかよッ!?」と突っ込んでしまったが、ニヤニヤと意地の悪い笑みを見せつけられ自分ははめられたのかと恥ずかしさでまた顔を赤くするはめになった。

 

「可愛らしいところがあるのね、雪音」

 

「う、うるせぇッ!! 誰のせいだと思ってんだッ!?」

 

「私のせい?」

 

「じゃなきゃ誰のせいなんだよッ!?」

 

「ようやく元気が出てきた。それが本来の雪音なのね」

 

「っ……別に、いつものあたしはこんなんじゃねぇよ。あんたらがあたしに構って来るからいっつも話がとっ散らかって収拾つかなくなるんだろ。何でどいつもこいつも二課に居る奴らは他人にばっか突っ掛かってくるんだよ」

 

「放っておけるわけないでしょう? 雪音は二課に居る誰よりも繊細で寂しがり屋。それはもう周知の事実」

 

「ハァッ!? お、おまっ、なんてこと吹き込んでくれてんだッ!?」

 

「別に吹き込んでなんていない。皆、今の雪音を見てそう思っている」

 

「ぐっ、うぅ……マジかよ……」

 

 大きな溜め息をついてクリスは項垂れる。

 元々二課には他人思いのバカな奴らが集まっていると思っていたが、今それをクリスは文字通りのバカへと認識を改める。そして隣に居る風鳴翼も同類だ。放っておいてくれと何度言っても、囲おう囲おうと何度も構ってくる。厄介なことはそれが全て善意で行われているということ。

 これが悪人ならさっさと突っぱねて拳の一発でも見舞ってやるところだが、二課は根っからの善意でやって来る。いくら偏屈になってしまったクリスであっても、恩知らずではない。握り締めすぎて汗まみれになった手の平をスカートに擦り付けながら、陥ってしまった現状に悪態を吐く他無かった。

 

 これはクリスの知らない公然の事実だが、クリスが溜め息を吐きながら何かをする──今回であれば項垂れる──時というのは込み上げる嬉しさと恥ずかしさを何とか誤魔化そうとする証拠だ。現にクリスの口元は綻び、うっすらと笑みを浮かび上がらせてしまっている。

 この先の満面の笑み、心の底から楽しいという感情を引き出すためには心の支え(つかえ)を取り除かなければならない。その為には今尚姿の見えないクリスの妹を見つけなければならない訳だが、その音沙汰は全くない。二課というのは二次大戦時の諜報機関が変わりに変わって出来た組織。となればその情報収集能力は政府からの折り紙付きだというのに、ここまで見つからないのははっきりと言って異常である。

 

「はぁ……ほんと、付き合ってらんねぇよ……。どいつもこいつもお人好しばっかで、あたしの見てきた世界が嘘みたいだ……。雪花も、こっちに早く連れてきてやんねぇと……」

 

「雪音の妹が見つかったときは、司令が二課全員でパーティーを開くでしょう。ああ見えて、催しは大好きだから。その時は雪音から何かプレゼントする予定?」

 

「あたし? あたしは、そうだな……何か考えとく」

 

「そうして」

 

 ……その言葉を最後に、また会話が途切れる。

 会話が下手であることは自覚しているクリスだが、風鳴翼というの人間もまた会話下手なのは間違いない。そうでもなければ黙りこくってしまうクリスのフォローをしてくれるはず。頭を抱えて「なんて話せば」と声に出してしまう人間が会話上手なものか。

 この二年、胸中をざわめかせ続けてきた生活だったがお節介なくせにあそこまでどんくさい人間は始めてだった。いや、最近二課に入ってきた奴、立花響もなかなかのお人好しでどんくさい。何をするにも語るにも裏目に出て人を怒らせる才能の持ち主だ。あれはあれで自分なりに考えた末の行動だろうが、それにしたって酷すぎる。この前は見事に翼の天羽奏という地雷を踏み抜いて平手打ちをもらっていた。真性のバカだろう。そうに違いない。

 

 やがて悩み果てたらしい翼は諦めた顔で空を仰ぎ「私はなんて不甲斐ない先輩なんだ」と絶望している。クリスがすかさず「別に良いっての」とフォローを差し込むが、当の本人は気にしているのか当分は頭を悩ませていそうだった。

 そんな翼の姿がバカらしくて、思わず笑い声を漏らしてしまった。それを聞いた翼が首をギュンとクリスの方へ向けて「今、もしかして笑ったのか?」と聞いてくるのに対し、「別になんでもねえよ!」と頭をはたきながら返す。これが本来雪花と味わうべき日常なのかなと考えながら、はたかれた所を擦る翼を見つめる。

 

「……痛い、雪音」

 

「自業自得だっての、ったく……。人の笑う顔なんて気にしてどうすんだよ。あんたはあんたで、今は問題抱えてんだから自分の心配でもしてろ。ガングニール装者、気に食わないんだろ」

 

「……」

 

 口にして、それまで暖かった翼の表情が凍っていく様を見て、話題を間違えたかと思ったときには既に遅かった。ガングニールという単語が翼にとってデリケートなのは分かりきっていたはずだ。

 なら何故聞いた?

 そんなの好奇心に決まっている。ダメだと分かっていても、クリスの心のどこかでは聞きたいという好奇心が溢れてしまっていた。探られたくない腹の中、他人からすればどんなに残酷だろうと聞きたくなってしまう話。聞いてから後悔するのだから本当にバカらしい。

 

 慌てて謝ろうとするクリスを、翼は手で制する。

 

「気にするな、あれも私が乗り越えなければならない試練だ。私一人で何とかしてみせる」

 

「そっか……」

 

 また、少しの沈黙。

 事態を重く見たクリスは、ホームルームで担任の教師から聞いた話を話し始めた。

 

「なぁ、昼休みの後にホームルームの後に講堂で全校生徒集まるみたいだが、何か知ってるか? うちのクラスじゃ詳しいこと何も聞かされてねぇんだよ」

 

「私も何も聞かされていないが、クラスメイトの雑談を耳にした限りでは巷で有名なヴァイオリニストが来るらしい。演奏会でよく姿を出すそうだ」

 

「ヴァイオリニストか……」

 

 思い起こされるのは、バルベルデの難民キャンプでヴァイオリンを弾いていた父の姿。クリスにとってはあまり思い起こしたくない記憶の一つになる。乗り越えなければならない数ある壁の一つ。あまり考えないようにしていたのに沸き上がってくるあの時の記憶が、意識をかっ拐おうと襲いかかってくる。

 スカートを握る手に力が籠る。何をするにも、考えるにも、気を抜けばどこにでも地雷が埋まっているのはわかっていた。それでも、こうして目の当たりにする度に心がざわめく。

 

「パパ……」

 

 呼んでも、居るはずのない人間。

 あった家族という形がバルベルデという場所でバラバラに崩されて、寄り添っていこうと決めていたはずの妹は側から消えてしまった。

 割り切れない自分が、恨めしい。

 

 ──カーンコーンキーンコーン。

 

 チャイムが鳴る。

 

「雪音、行きましょう」

 

「ああ……」

 

 翼に手を引かれ、クリスはベンチから立ち上がった。

 

 

 

 

==========================================

 

 

 

 

 高く聳えるリディアンの校舎を前にして校門前でヴァイオリンケースを片手に、ソロモンの杖が入っている筒状のカバンを肩に掛けて立ち尽くす雪花は、それまで硬く接ぐんでいた口を開け大きく深呼吸した。学校からゆったりとした服装と指定があり、今日はベージュの縦ニットと青のジーパンという私服スタイルでやって来ている。髪型はフィーネからの指定で姉クリスと同じ二つに分けたお下げのようにしている。

 演奏会に誘われたからとこれまでの一ヶ月をヴァイオリンの練習に費やしてきたが、やはりこう目の当たりにすれば緊張もしようというもの。それもあれだけ離れ離れだった姉が在学する学校ときた。ケースの取っ手を握る右手に力が籠ってしまうのを自覚し、左手を胸元に置いて再び深呼吸。体の震えまで大きくなってくるが、噛み殺して一歩足を前に進めて塀に備え付けられたインターホンを押した。

 

 待ってしばらく。

 教師の一人が雪花の元まで駆け寄ってくると、門を開けて雪花を迎え入れる。互いに深くお辞儀をしあい軽く握手を交わすと、教師は手で校舎内を示しそれに従って校舎へと歩いていく。

 外から見ても大きいと感じていた校舎だが、中に入って見回せばその大きさが更に際立つ。八百メートルの陸上トラックに校舎までの道端に広がる大きな青野原、公立では考えられないほどにエレベーター等の設備が整った巨大な校舎。これなら1200人以上の生徒を収容できるわけだと勝手に感心しながら、足を進め演奏場所となる講堂へと向かう。

 

「今日は来てくださり、本当にありがとうございます」

 

「いえ、こちらこそ自分のような無名の人間をお誘いいただいたこと、深く感謝しています。それにしても本当に大きな校舎ですね。どのような生徒たちが集まっているのですか?」

 

「幼い頃から音楽を目指していた子は小学の頃からエスカレーター方式で高等科に、これを機に音楽の世界へと足を踏み出そうと決めた子は入学試験を受けて新規に入学してきます。入学希望の例にあげれば無数にありますが、やはりタレント科の風鳴翼さんの存在というものは大きいですね。日本のトップアーティストが在籍するということもあって、彼女目当てに入学希望生は後を絶ちません」

 

「今をときめくアーティストですから、やはりその影響は大きいですよね。はぁ、ほんと憧れます」

 

「ご謙遜なさらないでください。三ヶ月前の演奏会であなたの演奏を聞いたとき、私は酷く感動したんです」

 

「あはは、そう言われると嬉しさで照れてしまいますよ」

 

 三ヶ月前ってどの演奏会だっけと思い起こし、他愛もない会話を交わしながら廊下を歩いていると、雪花は一回生の教室前を歩く。昼休みがちょうど終わり生徒が教室へと帰る最中なのか、廊下はまだまだ生徒で溢れていた。

 雪花の日本人離れした顔立ちに興味があるのか、それとも二回生の雪音クリスと顔が同じになっていると既に話題になっているのか。後者なら、事はフィーネの思い通りに進んでいると言っても良い。

 今回の目的は、雪音雪花は生きているとリディアンという地で、二課のメンバーに見せびらかせること。それが計画の第一段階であり、二課と本格的に事を構える始まりだ。

 

 ふと、一人の生徒がこちらをじっと見ることに気がついた。

 癖を持ったブラウンの髪の生徒。海辺の工業地帯で始めて姿を現したガングニール装者、立花響。「あれ?」と疑問の声をあげ首をかしげている。あの様子ならば、雪音クリスと顔立ちが同じだと気付いたのだろう。

 ここで騒がれるのも困るため、あまり顔を向けないようにして早歩きで廊下を通り抜ける。それを教師は居心地が悪いと勘違いしたらしく、廊下を抜けると同時に頭を下げて「うちの生徒が本当にすみません」と謝罪されてしまった。すかさず「いえいえ」とフォロー差し込んでその場を乗りきり、ドーム型の大きな講堂の裏側まで向かう。

 

「こちらでお時間が来るまでお待ちいただけると幸いです」

 

 そこは楽屋のような部屋だ。防音加工の壁に化粧用の鏡台やソファーが拵えた一室。これなら弾いても音は漏れないだろうと荷物を置いて、ケースからヴァイオリンを取り出す。

 

「一度弾いても良いですか? 弦の調子も少し見ておきたいので、出来れば一人にしてもらえると嬉しいのですが」

 

「分かりました。もし何かあればそこの内線電話で職員室にかけてもらえれば、すぐに駆けつけます。では、演奏楽しみにしてます」

 

 教師は今一度深くお辞儀をして、部屋から出ていく。

 開かれた扉が閉じたのを確認した雪花は、離れていく気配を感じ取り遠くなったのを確認すると同時にポケットから携帯端末を取り出す。電源を入れ送信欄からフィーネの名前を見つけ出し、呼び出しボタンを押した。

 2コールもしない内にフィーネが電話に出てくる辺り、じっと電話の前で待っていたに違いない。

 

『着いたのかしら?』

 

「はい、リディアンの講堂裏で今待機中です。歩いているだけでかなり注目されました。やはり日本人と海外人のハーフの顔立ちは目立つんですね。もしくは姉さんと同じ顔がもうひとつあって疑問に思われたか」

 

『あなたたち姉妹の顔立ちは世界的に見ても美麗だもの。それよりも、今回はあなたの演奏が聞けなくて残念だわ』

 

「こちらとしては見られずに済むので、変な緊張をしなくて済みますよ。それより目標物の立花響をこっちの目でも確認しました。当の本人はオレをすっごい目で見てきましたけどね」

 

『でしょうね。二課で見た限り、あの子は誰よりも好奇心が旺盛で他人のことをよくに気に掛けているわ。どうせあなたのお姉さんと顔が一緒で気になったのでしょう。

 ねぇ雪花、あの子の事より今は演奏を聞かせてもらえると嬉しいわ。ここ最近二課の研究室に籠り続けてまともな休みが取れてないのよ』

 

「CDに音は焼いたでしょう? それで満足してくださいよ。こっちは本番前の練習をしたいんですから」

 

『CDだと何度も同じ音の繰り返しでつまらないわ。それよりもあなたの生が良いの。感情の籠ったあなたの音、新しい音を私に聞かせて』

 

「……はぁ、なら練習で一曲弾きますから、それで満足してくれますか?」

 

『ええ、満足してあげる。だから期待してるわね』

 

「なら一曲、ご自由にお聞きください」

 

 ヴァイオリンのあご当てに自身のあごを当て首で胴体を挟んで固定し、弓を右手に構える。

 雪花はヴァイオリンを弾く時、誰かを頭の中に思い起こして弾くことが多い。これは頭の中で無意識の内に音楽は誰かに贈るものという考えが働いているためだが、当の雪花はそんなことを自覚していない。

 フィーネからは弾く度に音が変わっていると何度も言われているが、弦の巻き方も何もかもをいつも同じにしていたことを加味すればやはり贈る人が変わる度に音も変わるのだろう。

 

 今回、この演奏を贈る人は誰か。

 わざわざ身の危険を冒してまでリディアンという場所に来て、大勢が集まる講堂という場で演奏するのだ。決まっている。他の誰でもない姉、雪音クリスに贈る演奏。弓をヴァイオリンの弦に乗せ目を瞑り、ゆっくりと奏で始める。

 演奏中は、雪花に言葉は届かない。意識も言葉も何もかもをヴァイオリンの音色に乗せて言葉の代わりとするため、雪花にとって演奏は一種の会話であり音色は言葉だ。伝わるかは分からない、伝わっても理解してもらえないかもしれない。

 でも、フィーネは雪花の音色(言葉)を理解する。

 どれだけ激しい音色でもその一音に込められる意思をフィーネ理解してしまう。そう言う意味では、雪花にとってフィーネはこの上ない上客だ。あの面倒くさい性格と悪巧みの張本人でなければ、心酔してしまっているかもしれない。

 

 やがて一曲奏で終えた雪花は大きく息を吐きながらヴァイオリンを下ろす。携帯端末からは絶え間無い拍手が鳴らされ、フィーネの艶やかな「ああ」と言う声が耳を撫でる。

 

「どうでしたか?」

 

『本当に、素晴らしい……♪ お姉さんの思いを込めた音色、これまでのどれよりも素晴らしかったわ。直接聞けないのが惜しいけれど、今日はこれで我慢しましょう。リディアンの演奏会、頑張りなさい』

 

「過分な評価をどうも。それでは」

 

 電話を切り端末をしまう。

 まぁ過程はどうあれ練習は出来たことに間違いはない。それが『フィーネに贈る演奏』という形になってしまったものの、グッと飲み込めば良いだけの事だ。それ以下でもそれ以上でもあるまい。

 さてもう一曲と弾こうとした時、ガチャリと扉が開かれた。顔を覗かせるのは先程案内をしてくれた女性教師だ。ガヤガヤと生徒たちの喧騒が開かれた扉から飛び込み、既に生徒たちはもう座っているのだろうと考える。

 

「そろそろお時間です」

 

「分かりました」

 

 ヴァイオリンを両手に持ち、楽屋を後にする。

 どうやら舞台裏と観客席は壁一枚しか隔たれておらず、ここで騒ごうものならすぐに観客に聞こえてしまう。細心かつ静かな足取りでもって前へと進み、いよいよスポットライトで照らされる舞台の袖までやって来た。

 舞台上では司会進行となる教員がマイクを使って今回の催しの説明をしている真っ最中。雪花のことを『名無しのヴァイオリニスト』として紹介しており、これまでの演奏会での経歴を語っている。

 

「……ッ、案外緊張する」

 

 深呼吸なんかでは収まりようのない、早まり高鳴る鼓動。こういうとき一人でいるのがかなり辛く感じてしまうのは、ずっとフィーネとの共同生活で孤独に慣れなくなってしまったなのからだろう。

 ガチガチに緊張するなんて産まれて初めてのことに、「これが緊張か」と体を震わせながら僅かに笑みをこぼした。

 

『それでは登場していただきましょう。本日来てくださったのは、巷の演奏会で一躍有名になられたヴァイオリニストです。

 では、こちらへどうぞ』

 

 司会に呼ばれた雪花は唾を飲み込み、歩き出した。

 舞台袖から姿が現れるとそれまで司会を照らしていたスポットライトは雪花を照らし、誰の目にも見えるように強調していた。舞台中央へと歩み出た雪花は、姿勢を正し生徒たちの方へと向き直る。

 司会から渡されたマイクを受け取り、雪花は大きく息を吸って挨拶を始めた。

 

「リディアン音楽院の皆さん、初めまして。今回ヴァイオリニストとしてこの場に立たせていただきました」

 

 挨拶の言葉を口にする一方で、雪花は目だけを動かし姉の姿を探す。右後ろから左前へと視界を動かして、日本人には見られないあの特徴的な髪色の姉を見つけるのはそう難しくない。

 現に、既に視界に捉えている。目蓋を開いて、「嘘だろ」と言わんばかりに口をパクパクとさせ、その胸中を渦巻かせているだろう姉の姿。変わりなく元気そうで何よりだ。

 

「あまり前置きが長くても退屈だと思うので、演奏をこちらからの挨拶とさせていただこうと思います。それでは聞いてください──」

 

 ヴァイオリンを構え弓を弦に重ねた雪花は、目を閉じて演奏を始めた。



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第五話 後半

 言の葉を乗せた演奏はここにいるどれだけの人間に伝わったのか。一曲弾き終えた雪花を包んだのは万雷の拍手だった。講堂に満ちる破裂音に演奏を終えた雪花は構えていたヴァイオリンを下ろし、観客の生徒たちへと深くお辞儀をする。

 扇状に広がる無数の観客席は全て生徒で埋っていた。1200の目線が集中するというのは、なるほどなかなかどうして固唾を呑むことになる。全身に突き刺さるような視線に左手首の肌がピリリッと痛みを訴えていたが、右手でおさえながら耐えよう。

 

「自分の演奏を最後まで聞いていただき、本当にありがとうございます。そして、このような機会を与えてくださった教職員の皆様に感謝を。

 改めましてこんにちわ、最近は演奏会の方に顔を出させていただいているヴァイオリン奏者、名前は──そうですね、この際名前を公開しておきましょう。雪音雪花、今は亡きヴァイオリニストの父、雪音雅律(まさのり)と声楽家の母、ソネット・M・ユキネという音楽家の家庭に産まれた娘です。実はもう一人家族が居るのですが、あまり踏み込んだことを言いすぎるのもあれなので、今日は言わないようにしましょう。

 今回は演奏ということで招待されたのですが、自分が一人で話すのもあれですから、早速質疑応答の方に入りましょう。何か質問のある方はどなたからでも構いませんよ。ヴァイオリンの弾き方とか、ある程度のことなら答えられます。誰か居ますか?」

 

 観客を手で示すジェスチャーをしながら問い掛けてみれば、生徒のほとんどから手が上がる。流石は国内で有名な音楽学校と言ったところか。ここにいる全員は音楽に対する熱意がすごいらしい。

 とはいえ最初から難しい質問をされると、雪花が良くても次の質問者が気後れしてしまいそうだ。ここは少しプライベートな話をしてくれそうな──というか、先程からすごい大きな声をあげている立花響の姿が目立つ。立ち上がりそうなほどに勢いがある。

 ならガングニール装者らしく、彼女には一番槍を務めてもらおうか。

 

「では大きな声のそこの子、名前を言った後に質問をどうぞ」

 

「やったやったッ! はい、立花響です! 先生の年齢を教えてくださいッ!」

 

「早速プライベートな情報を抜きに来るとは、君も物好きですね。では逆に自分は何歳に見えます?」

 

「うぇぇぇッ!? え、えと、スタイルは良いし、それに大人っぽいから……えーっと、二十半ばぐらいだと思いますッ!!」

 

「はい残念、実はこう見えてもまだ十六歳ですよ? ですから、ここにいる皆さんは同年代ぐらいということになりますね」

 

「嘘ぉっ!?」

 

「嘘なものですか。でもそうですね、今この場に自分の言葉を証明してくれる人は居ませんから、どうしたものでしょうかねぇ」

 

 少しおちゃらけた口調で質問者をからかうように話す雪花は、一度見つけた姉の姿を絶えず視界に納め続けていた。最初こそ半信半疑だったみたいだが、呆然として見つめくる辺りそろそろ確信を持ってくれただろうか。

 この講堂で二課の装者に自身の存在を知らせ、あわよくば雪音クリスの無力化を計るというもの。妹が本当に生きていると知った後、それが敵だと知ればまともな行動が出来なくなるだろうというフィーネらしい悪辣な思考だ。

 

 まぁ、雪花にとっても姉がシンフォギアを纏わないようになるのは嬉しいことだ。悩みながらも二つ返事をした辺り、フィーネの考えに自分から乗っている。

 

「さぁ次の質問者はどなたですか?

 ではそこの青髪のあなたにしましょう。お名前をどうぞ」

 

「風鳴翼です」

 

 そう言い、見えるように立ち上がったのは風鳴翼だった。

 眉間に深いシワを刻み少女らしからぬ険しい形相の彼女は、いきなり現れた雪花を警戒しているようだ。あれは本物か否か。そしてもし本物であれば、これまでどこで何をしていたのか。問い詰めるような表情に、雪花は口を硬く接ぐんだ。

 

「質問です。あなたのもう一人の家族、兄弟ですか? それとも姉妹ですか?」

 

「姉妹ですよ。先に生まれた姉さんが一人居ます。面倒見の良い優しい姉です。さて次の方はどなたですか?」

 

 気付かれるように、本物だと気付かせるように言葉をチラつかせて目で姉の様子を伺うが、もう既に泣きそうになっている。小さい時から感情的で結構な泣き虫だったことは覚えているが、それはもう何年も前で今はもう精神的にも成熟しているはず。

 いや工業地帯で一度顔を合わせた時も泣きそうになっていた。

 

(もしかして……まだ泣き虫のまま?)

 

 その後も次々とやって来る質問に答えながら、思考する。

 離れ離れになっての二年間、フィーネからは写真付きで元気だとは聞かされていた。ただ、精神状況まで詳しく聞いていたわけではない。というよりは聞かされていなかった。

 最初こそ問題ないから聞かされていないのだと思い込んでいたが、雪花の負い目を強くしたいのなら、なるほど効果は大きい。

 

 どれほど経っただろうか。

 合間合間に雑談と演奏を交えながら、数十の質問に答えた時間はかなり短く感じる。司会の教師が「次の質問で最後に」と言ったのを首肯し、「では最後の質問を」と声を出せばいつものように手が上がる。

 その中で、今まで静かだった姉がゆっくりと手を上げた。ブレることなくキッとこちらを見つめて離すことはない。

 

「ではそこの銀髪のあなた。お名前を」

 

「雪音、雪音クリスだ」

 

 雪花と同じ結び方をした髪を揺らしながら立ち上がり、クリスは微かに肩を震わせ教員から手渡されたマイクで話す。

 一瞬、会場がざわめく。

 同じ雪音という名字。立ち上がったことで目立つクリスの髪色、顔立ちは全くと言って良いほど同じ。最初もクリスの周辺はざわめいていたが、今はそれが会場全体に広がっている。

 

「……どうして、ヴァイオリン奏者になったのか、教えてくれ」

 

「父の演奏を良く聞いていましたから。姉に比べて歌が上手くない自分は、どうにか音楽の道を続けようとヴァイオリンの道を進みました。始めた当初は縁がなく誰にも聞いてもらえませんでしたが、何事も諦めずに続けてみるものです。今こうして、リディアンの皆さんの前で演奏できるのですから」

 

「音楽は、好きなのか……?」

 

「もちろん、両親が遺してくれた道ですからね」

 

 

 

 

 

 その場は、クリスの質問を最後にお開きとなった。後は自主参加でヴァイオリンの弾き方等を生徒に手取り足取り教える時間が設けられたものの、そこにクリスが来ることはなかった。

 舞台裏の楽屋に戻ってきた雪花はヴァイオリンをケースにしまい、鏡台前に座った。最後の台詞を吐いた時自分はどんな表情をしていたのかと、頬に手を着けながら考える。

 

 笑っていた?

 真顔だった?

 顔を赤く染めていた?

 

 思い返せば思い返すほど、あんな台詞を素面で言ったのだと思うと恥ずかしさで顔が燃えそうなほどに熱くなっていく。事実、鏡に写る自身の顔はビックリするほどに赤い。

 

「あんな公衆の面前でなぁんであんなこと言ったのか……。あー恥ずかしいことこの上ない……。ダメだ、さっさと帰って目的を──」

 

「あたしに、何も言わず帰るつもりかよ……」

 

 声が、かけられる。

 凛として、それでいて震えている儚い声。耳朶を撫で耳孔へと流れ込む可憐な声に体の細胞という細胞が、その存在を強く意識して求めてしまっている。

 果てなき欲求、嗚呼麗しの彼女は振り返ればそこにいるのだろう。とくんと脈打つ左胸の淡い家族愛が、抱き締めさせてくれと叫んでいる。

 

 ダメだ。ここで振り向いてしまえば、他人の血で汚れてしまった手を姉に触れさせてしまうことになる。それは避けなければならない。嫌われてでもこの場から離れてもらわなければ、雪花はこのリディアンから動けない状態が続いてしまう。

 そうなれば、この後に予定されている立花響捕獲計画に支障が出る。もし失敗すればフィーネからどんな大目玉をくらうことになるか。姉に危害を加えられることになれば、あのフィーネが容赦するわけがない。

 

「何で振り向いてくれないんだ……?」

 

「……」

 

 答えたい、答えられない。

 あぁダメだ。一度この口を開いてしまえば、沸き上がる姉へと愛が溢れ出してしまう。手を伸ばせば届く距離に姉という存在を置かないでくれ。喉が乾き、チリチリと痛む指先が切なくて、柔らかい姉の体を腕一杯に抱き締めたくて仕方がない。

 鏡に写る制服を纏ったクリスの体。制服の袖口から見える血色の良い肌色によっぽど良い生活が出来ていることの証左。ふっくらとした頬も、発育良く大きくなったバストも、肉付きの良い太ももも、これまで健康に生きてきてくれたんだと感慨深くなって目尻が熱くなってくる。

 でもクリスの顔に浮かぶのは悲しみと怒りが入り交じった、辛く切ない表情。目尻を吊り上げながらも鼻をひくひくと動かして、潤む瞳は涙を流す前兆だ。

 

「なぁ……ッ! 何で答えてくれないんだよ、雪花ぁ……ッ!」

 

「……今さら、オレから姉さんにかける言葉は無いよ」

 

 湧き出す感情を殺して持ち込んだ荷物を持って楽屋から退室しようとする。クリスが泣きそうな顔で腕を広げて扉の前に立ちはだかっており、雪花のことを睨んでいた。震えている。肩を震わせて、通さまいと覚悟を決めている。

 昔の雪花だったら、身を案じてくれるクリスの姿に喜びを覚えて抱き締めていただろう。何よりも大切で大好きな姉が自身の身を案じてくれているのだ。身を寄せあって、予定していた行動も無かったことにしながら一日だらだらと過ごしてしまうのも悪くはない。

 

 それが許されれば、の話になるが。

 クリスの元まで歩いた雪花はたった一言「退いて」と吐き捨てて、「嫌だッ!」と吠えるクリスを鋭い眼光で睨み付ける。今まで出したことがない、かなりトーンを低くドスを入れた声にクリスの顔は怯え後退っていたものの、扉の前から離れようとしない。

 早く退いて欲しかった。時間が惜しいという事情もあるが、何よりも手を上げたくない。言葉で聞いてくれないのなら、力で示す。フィーネから嫌というほど聞かされた言葉だ。その言葉は確かに正しい。今も雪花がこうして覚悟を決めなければならないのは、フィーネがその地位、知識という力を使って姉に危害を加えさせないためだ。

 

「一緒に帰るまで、絶対に通さない……ッ!」

 

「三度も同じことを言いたくはない。だからこれが最後、そこを退いて」

 

「嫌だッ! 絶対に退かないッ!」

 

 姉の意固地さを雪花は嫌というほど知っている。こうなった姉はテコでもその場を動かない。最後まで粘って、ずっと我を通そうとする。

 だが、それはもう幼い頃の話だ。当時に比べて身長も大きくなったしフィーネから課せられる、特訓と称した雪花の体をじわりじわりと痛め付けるサディストの戦闘訓練の数々をこなして筋肉も付いた。体を割り込ませて押し退けるようにすれば、クリスにも汚れた手を触れさせることも大きな怪我をさせることもない。

 

 やるならば、まだ他の装者が来ていない今しかない。

 一歩大きく進み、右腕でクリスの左肩に触れ力強く押し込みながら、部屋からの退出経路を確保する。掴んだクリスの健康的な体は暖かく、年相応ということもあって柔らかい。覚えてしまってはダメだとすぐに手を離したが、外へと出ようとする雪花の後ろからクリスが抱き着いていた。

 

「うぅ……ッ!」

 

「……乱暴はしたくないけど──ッ!」

 

 力の限り、クリスをソファーの方へと突き飛ばして、自身は外へと駆け出す。来た時生徒で溢れていた廊下はしんと静まり返っており、靴が床を叩く音が鳴り響く。

 後ろにクリスが追ってくるような気配はない。あの様子なら、あの部屋で茫然自失となり踞ったままか、それとも泣き出してその場から動けなくなってしまったか。見た限り泣き虫なのは治っていなさそうだった、なら後者の方だろう。

 

 今はとにかく無我夢中で走り続ける。

 謝礼のお金は既に受け取っていたし、帰る時は一人で大丈夫と伝えていたから問題はないはずだ。それよりも今はただ、この場から離れるしかない。要注意人物の風鳴翼がこの地下にある二課本部に連絡をしているのなら、すぐにでも離れなければ応援を呼ばれて捕えられてしまう。

 外へ、外へ、外へ。

 坂を駆け下り、止まっていたバスに飛び乗ってとにかく遠くへ。道中に見つけた公園に入り立ち止まった通路の真ん中で、雪花は空を見上げながら思わず呟いてしまう。

 

「あぁ……オレは姉さんになんてことを……」

 

 罪悪感から来る一言だった。

 守ると決めた姉に手を上げるなど、それこそ決めた自身の信念への裏切りに他ならない。ましてやそれが、状況を打開するための最後の一手だとしてもだ。

 嘲笑うように雪花の体を包む風が吹き、パッと点灯した街灯が照らす。グチグチと後悔を呟いてもどうにもならないことは、理解している。

 

 思考を切り替えよう。姉を守るためにはああするしかなかった。フィーネに殺されないためだ。

 

(……姉さんのためだ。姉さんが元気でいてくれるなら、オレは人だって殺すし傷付ける。ああでもしなかったらフィーネが姉さんを殺してた。だから仕方ない、これは仕方ないことなんだ)

 

「見つけた」

 

 冷たい声が掛けられて、後悔が霧散し思考が切り替わる。

 目尻を吊り上げながら振り返った先にいたのは、二課の風鳴翼。射殺さんばかりの鋭い目付きは、間違いなく武人のそれだ。少しでもたじろげはその隙をついてこちらに襲いかかってくる。

 

「雪音雪花、雪音クリスの双子の妹にしてヴァイオリニスト。両親はNGO活動の最中に激化した内戦に巻き込まれて死亡。その後日本に帰国するも消息不明となる。

 あなたが雪音の妹ね」

 

「聞かなくても分かるでしょう? オレが何者かどうか」

 

「なるほど、雪音と同じ顔にその物言い、間違いではないらしい。あなたには日本政府から直々に二課で保護するようにとの連絡がされている。ついてきてくれると嬉しい。それに、お姉さんに会いたいでしょう?」

 

「残念ですが、それは出来ません」

 

「……理由を聞いても?」

 

「やらなければいけないことがあるからですよ。あなたがオレを捕まえなければいけないように、オレには為さなければならないことがあるッ!!」

 

 ヴァイオリンケースを足元に置き、雪花は翼の方へと差し伸ばした手の平から光を溢れさせた。

 

「な──ッ!」

 

 眩い光が雪花の体は包み込み、雪花の姿を変貌させて消えていく。

 

「ただで捕まるわけにはいきません。お相手願います」

 

 ネフシュタンの鎧を纏った雪花が、翼の前に立ちはだかる。




早く、早く聖詠シーンを書きたい所存……。
思ったよりも日常シーンをみたい方がたくさんでビックリしました。これは書かねばならない……!


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第六話 前半

ご指摘により設定におかしな所を発見しましたので修正しました。

雪花の年齢:クリスの一個下→クリスと同じ年齢。

これにより少し描写の修正をしましたが、大筋に変更はありません。
ご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした。


 背部から突き出る、禍々しい紫色の輝きを放つ水晶が連なって出来た鞭。頭部を隠す装甲のバイザーからはベージュの瞳がこちらを睨み付けている。水晶があしらわれた籠手。タイツのような白銀の衣を身に纏う布一枚の上半身に比べ、下半身の何と重装甲なことか。抱き着くように装着された腰部装甲には内から食い破るように紫色の水晶が突き出し、漏れでる光がまるで脈動するように明滅していた。脚部には連なる水晶が螺旋を描きながら装甲と化し、同じく不気味な明滅を繰り返している。

 翼には見覚えがあった。二年前、相方である天羽奏を喪ったライブ、その裏で行われていた聖遺物起動実験『Project:N』。参考画像として事前に姿形は見せられていたことを覚えている。結果として実験は失敗に終わり、暴走したネフシュタンの鎧によって引き寄せられたノイズと観客の他者を顧みない身勝手な避難により万単位の死傷者を出す大惨事となった一連の事故。あれらがもし仮に、事故なのではなく人為的に引き起こされた事件ならばどうか? あり得ると翼は仮定する。あの事件で失われた聖遺物を、あろうことか一人の人間が所持し今こうして目の前で操ってみせている。ならばその裏には奪取に頭を捻った協力者が存在し、目の前の下手人は相応の期間を費やして訓練を行っていることだろう。

 翼の頭の中で雪音雪花は、雪音クリスの妹ではなくあの事件の重要参考人としてカテゴライズされた。捕え、何としてでも情報を吐き出させなければならない。あの時引き起こされた事件の情報を。

 

「何故貴様がネフシュタンの鎧を持っているッ!?」

 

 至って平静を保ち出そうとした言葉は、既に怒りで包まれ聞けたものではなかった。自身の理想とする冷静な剣はどこへ行ったのか。敵意を剥き出しに、目の前の敵に食って掛かろうと血走る目で睨み付けている。

 そんな姿を、雪花は呆れるような冷たい目で眺めていた。舌打ちをしそうなほどまでに不機嫌な顔で、頭を掻きながら溜め息を吐く。その仕草はこの二年紆余曲折ありながらも連れ添ってきた雪音クリスのものと酷似していた。なるほど、妹であることは間違いないらしい。今更確信したところで、この怒りと敵意は納められるものではなかったが。

 

「感情任せの質問に答えるほど、オレもバカじゃありませんよ。口を割らせたいのなら手を動かしてはどうです? あなたのシンフォギア、天羽々斬の力を使って。それか応援として姉さんを呼びますか? もしくは立花響を?」

 

「……なるほど、こちらの情報は筒抜けということか。貴様の裏には余程の協力者が居るらしい。尚更この場から逃がすわけにはいかなくなった。この期に及んで、雪音の妹だから手加減されると思うな」

 

「ご冗談を、手加減なんてされると思っていません。むしろこのような問答あなたには必要ないでしょう? ……もしかして、雑音の前に消え果てた無双の一振りが亡き今、あの天羽々斬も既になまくらと腐れ落ちましたか?」

 

 プチッと何かが切れた音、目の前が真っ赤になっていく。

 そこにいるのは最早剣でも防人でもない、ただ激情に駆られる未熟な少女一人のみ。その言葉に観客たちを守ろうと散っていった奏さえもばかにされたような気がして、こめかみに青筋を浮かべながら吠えた。

 

「言わせておけばァ──ッ!!」

 

 制服のシャツの中に隠している、赤い水晶の形をしたシンフォギアのペンダントを引っ張り出す。雪花追跡に当たり耳に付けていた小型の無線機からは二課のオペレーターたちの制止する声が小さなノイズ混じりに響いていたが、耳を貸すこと無く翼はその手に持つ天羽々斬を起動するため聖詠を歌い上げる。

 

 

──Imyuteus amenohabakiri tron(羽撃きは鋭く、風切る如く)──

 

 瞬間、翼の体を白い五線譜模様の眩い光が包む。シンフォギアを展開にする際に発生するフォニックゲインで編み上げられた一つの保護フィールドだ。絶対的な防御力を誇る保護フィールドは、いくら完全聖遺物のネフシュタンの鎧の出力をもってしてでも鎧通すことは容易いことではないため、雪花は腰に手を当てながら見物するがごとく眺めている。

 少し経ち、光の中から青い鎧──天羽々斬のシンフォギアを纏った翼が姿を現す。その手には街灯からの光を浴びて輝きを放つ一本の剣と化したアームドギアが握られ、切っ先を雪花の喉へと向けている。明確な殺意、その目に保護対象というものはない。ただ一人、討つべき敵として映っている。無線機能を搭載したヘッドギアからは制止の声が絶えず響き続けていた。怒りに任せ、敵を討ち払わんとする翼は、相変わらず聞く耳を持っていない。

 

「貴様をここから逃すものかッ!! 二年前の無念、屈辱を晴らすため討ち果たさせてもらうッ!!」

 

 中段の構えから頭上へと刀を振り上げると同時に、一歩踏み込み脚部ユニットのスラスターを稼働させ推進力を生み出した翼は、雪花の懐へと一気に飛び込んだ。一刀の元に斬り払わんと振り下ろされた刀は、雪花がシールド代わりにした左の籠手で容易く受け止められてしまう。

 流石は完全聖遺物と言ったものか。超人的な能力を引き出せると言ってもたかだか欠片程度のシンフォギアの出力とは比べ物にならず、押し切ろうにも力が全く足りない。あえなく振り払われた翼は一歩下がった後に再び間合いを詰め、力で勝てぬなら手数でと上下左右に斬り払っていく。

 冷静さを失い精細な技巧を失った翼に、ネフシュタンの鎧を破るほどの能力は持ち合わせてはいなかった。ただがむしゃらに振るう剣に鋭さは無く、甘く入る振りは全ていなされてしまう。翼が雄叫びを上げながら振り下ろした渾身の一刀も、雪花が左足を一歩引き体の向きを横にすることで容易くかわされてしまう始末。

 

 だが、雪花の鍛え上げられた戦闘技術により翼の攻撃が何度もいなされ隙を晒しているにも関わらず、翼の体に傷一つ付いてはいなかった。翼が避けている訳ではない。未だに雪花からの反撃がないのだ。じっとこちらを眺めて一挙手一投足の癖を見つけるような目に、血が上った翼の頭は挑発の意として感じ取っていた。

 これまでその身を剣と鍛え続けてきた翼は決して、実力が低いということではない。鋭さを失えど剣は剣、斬り裂くための力はむしろ怒りによって増している。ただ、それ以上に向こうの方が速く動きの効率が良い。雪花は振るう一撃の癖をまるで知っているかのように、最低限の動きで翼の攻撃を避け続けている。

 

「何故反撃してこない……ッ! どこまでも、剣であるこの私を舐め腐るつもりかッ!」

 

「それこそご冗談、怒りに任せて短絡的な答えを出すなんて、剣と称される人間にあるまじき行いでは? ああそれとも、今はアーティストの風鳴翼でしたか? これは失礼、自身の感情を優先させ私利私欲のために剣を振るうなんてどうかと思いましたが、なるほどなるほど合点がいきました。防人らしくもないのは当たり前でしたね」

 

「貴様ッ! その喉元をかっ捌いてくれるッ!!」

 

『心を乱すな翼ッ!! 挑発に乗れば、それこそ敵の思う壺だッ!!』

 

 無線から無数に聞こえてくる制止の声の中から一つ、一際目立つ風鳴弦十郎の声で僅かに現実へと引き戻される。握り締めた柄は手汗によって濡れ、不快感と共に滑りをもたらしていた。目の前の敵から一切目を離さずに、足を折り曲げいつでも横っ飛び出来るように備えながら手の平を地面へと着けた。汗ばむ手の平に砂を付け少しでも滑り止めなればと、手を地面の上でスライドさせる。

 熱くなる頭に比べて、地面は嫌になるほど冷たかった。おかげで怒りにより乱される思考が一旦の落ち着きを見せつつあるものの、それでも肩が震えるほどには怒っている。

 

「ふぅ……ふぅ……ッ、すみません司令……、敵の言葉に乗せられてしまいました……」

 

『気を付けるんだ翼、こちらでも見た限り彼女の技量は相当な物だ。今、そちらへクリスくんと響くんを向かわせている。合流するまで翼からは仕掛けるな。あの様子ならば太刀筋を見極めに徹しているはずだ』

 

「ッ、立花もここへ連れてくるというのですか?」

 

 ありえない、翼は心の中でそう断じる。

 この一ヶ月間、同じ二課所属の装者として新たにガングニール装者となった立花響の姿を見続けてきたが、その見てくれはあまりにも未熟だった。覚悟も持たず、あるべきアームドギアはまだ形に出来ていない。同時期に装者となった雪音は、既にシンフォギアをその手にした日からアームドギアを手にしていたというのに。

 そんな人間が、奏の何を引き継いでいるというのか。まともに戦えず逃げ続けている人間が、他人の為に戦って死んでいった奏の何を引き継いでいるというのか。翼はそれが気に入らなくて仕方がない。ガングニールの破片が心臓に突き刺さり融合でもしていなければ、間違いなくあの者からシンフォギアをこの手で奪い取っている。

 

『クリスくんのためにも、三人で連携し彼女の無力化に努めてくれ』

 

「……了承しかねます。雪音の援護も不必要です。このような者、私一人で仕留めてみせますッ!」

 

『待て翼──』

 

「はぁぁッ!!」

 

 実力差は一連の手合いを経て、既に動き、相手に対する対策の差は歴然。弦十郎の言う通り、ここは間合いを開けて二人を待つのが最適解かもしれない。

 しかし翼から見れば、一方は覚悟を持たない戦士のなり損ないであり、もう一方は妹が敵に回った可哀想な姉である。クリスの立場に同情するのはともかく、立花響には絶対に歩み寄れない。そう決断した翼の行動は早かった。その手に握るアームドギアを人の背丈三つ分という巨大な剣へと変形させ、その刃にエネルギーを纏わせた翼は、剣を振るい一擲に任せて大きな斬撃を放つ。

 

『蒼ノ一閃』

 

 雪花へと向かう蒼き斬撃は半ば、連なる水晶の鞭によって叩き落とされ大きな爆発を起こし土煙を巻き上げた。翼の姿は土煙によって隠され雪花の視点からは完全に隠される中、轟とスラスターの駆動音が轟きアームドギアをその手に、翼が煙を突っ切って現れた。

 狙いは一点、脳へと血液を送る役割を受け持つ人間の生命線となる頸動脈。そこさえこの剣で斬り裂いてしまえば、どれだけ強靭な人間であろうと出血多量で死に至る。なればこそ、その一点を狙い確実に仕留める──ッ!!

 

「せやァッ!!」

 

 一閃。その一振は間違いなく雪花の首筋を捉える。無力化なんて言葉は頭から完全にすっぽ抜けた、頸動脈を狙う殺意の籠った一撃だ。手応えもある、背後では首から鮮血を噴き出す雪花の傾いていく体を見えている。殺ったと心の中で確信する。

 だが、あるものがない。人間誰しも首筋をかっ捌かれ、ましてや痛みで呻くか叫ぶ。なればこそ、今は雪花の絶命の叫びが聞こえているはずだ。

 それこそ、あわよくばその首を斬り飛ばすと意気込んだ一撃だったはずだ。ならば目の前で見えるものはなんだ? グチャリと嫌な音を立てながら、傷口が塞がっていく目の前の奴は人間なのか? あれは何なのだ?

 

 左へと傾いていた体が、位置を変えて踏み締められた左足によってを平衡を取り戻す。脈動を繰り返す光は修復の際その輝きを増し、その不気味さがより漂う。

 

「……づッ、流石です。その名に違わず覚悟は今も変わらずといったところですか、死んだかと思いました。先程の言葉は訂正します。あなたはどうしようもなく防人ですよ。人の首を迷わず斬ってくるのですから。ただ、もう少し他人のためにその剣を振るってほしいものです」

 

 斬り裂きパックリと開いていたはずの裂傷は、分を経たずとして完全修復を果たしていた。明らかに人間のそれではないことは、翼の目でも明らかだ。

 

「な、何故生きている? 貴様の首筋は切り裂いたはずだ。なのに、何故生き永らえているッ!? 本当に貴様は人間なのかッ!?」

 

「この見てくれで人間じゃなかったらオレは何なんですか」

 

「少なくとも私が知る人間は、貴様のように致命の一撃を受けて生き永らえるような治癒能力は持っていない……ッ」

 

 刀の柄を今一度握り直し、雪花への警戒レベルを最高まで引き上げる。異常、まったくもって異常。その身に纏うネフシュタンの鎧が引き起こしていると仮定すれば、あの防御力と治癒能力は今の天羽々斬にとって大きな驚異となる。

 であれば、考えるのはこの刃を鎧通すことは可能か否か。

 あの欠片とはいえ超常の力を持つシンフォギアを容易く弾く防御力、先程のように頸動脈を斬り裂いても生き永らえる驚異的な治癒能力。心臓を一突きしようにも、あの身のこなしならば不意を突かずの、急所への攻撃は至難を極める。

 

(あの硬さ、そして治癒能力……。私の天羽々斬の刃が通るのは上半身、特に肌が露出している場所……。今の私と天羽々斬ではあの鎧に届かない……ッ! 

 私に残されたのは手段はたった一つ。隙を見出だし、一撃でもってあの鎧諸ともッ!!)

 

「なら、今度はこちらからいきますよッ!!」

 

「クッ!?」

 

「オラァッ!!」

 

 これまで静観を決め込んでいた雪花の腰の鞭が動き出し、地面を這うようにして翼の元へと近寄りアームドギアに絡み付く。振り払おうと腕に力を込めた頃には、カラカラと激しい音を立てながら鞭が収縮し引き寄せられた雪花の足が目の前まで迫っていた。

 柄を握る両手を上げて飛び蹴りを防いだもののその威力は想像以上、両手を襲う肉を潰されるような痛みに歯が砕けそうなほどに噛み締めながら、まともに受けるわけにはと思考した翼は体を捻って受け流す。シンフォギアには装者へのダメージを軽減するための能力が備わっていたが、それでもこれとなると何発も受けてはいられない。

 

 翼は内出血し激痛が走る青くなった手の甲を見て額に冷や汗を流しながら再度構えを取るものの、腕が先に比べて上がらなかった。

 

「たった一撃だけでこれ程の威力……ッ! これが完全聖遺物のポテンシャルだと言うのッ!?」

 

「完全聖遺物の力だけと思ってくれるな。隙だらけのあなたに、例えばネフシュタンの鎧が無くてもオレが負けるわけがない。防人とはこの程度ですか? 」

 

「いけしゃあしゃあと吠えてくれるッ!! ならば聞くが良いッ!! 私の──防人の歌をッ!!」

 

『翼ッ!!』

 

 無線から聞こえてくる制止の声を振り払って歌を紡ぐ。圧倒的な出力差によって防御力、攻撃力共に足りず長期戦まで縺れ込めば、間違いなく敗北を喫し辛酸を舐めることとなるだろう。それも敵が未だ現在の目の前で等と言うことになれば、その後自身の体がどうなるかなど想像するだけで身の毛がよだつ。

 なればこそ、ここで相討ちにでも持ち込まなければならない。

 

Gatrandis babel ziggurat edenal

Emustolronzen fine el baral zizzl

Gatrandis babel ziggurat edenal

Emustolronzen fine el zizzl

 

 そうして残された術は一つだけ──絶唱だ。特定の歌詞を歌い上げることによって、シンフォギアの出力を現在の限界以上に引き上げて力と換える大技。もちろん、シンフォギアの保護能力を超えるエネルギーなど無償で扱えるわけもなく、エネルギー放出後は自身の体に壊滅的な被害を及ぼす、言わば諸刃の剣だ。しかし、その威力は絶大。目の前に敵を、あわよくば完全聖遺物共々破壊できるかもしれない。

 最後の一節を歌いきり、周囲には活性化し可視化したフォニックゲインが紫色のオーラとなって翼を中心にドーム型に広がっていく。同時に翼の体には身を裂き、血液が全て沸騰するような焼かんばかりの痛みが襲いかかる。

 

 かつての天羽奏のように、自身の体もここで果ててしまうかもしれない。その覚悟を持って見据えた雪花の顔は、あろうことか笑っていた。

 翼は困惑する。シンフォギアのことを知っているのなら、絶唱についても知っているはず。命を懸け討ち果たさんとの意もこれまでのやり取りで分かっているはずだ。嫌な予感がする。もしかすると罠なのか。

 だが、歌い上げたからには放つ他無い。

 

 自身の手で輪を作り、鞘に見立てて放つ居合いの一刀。

 それまで周囲に漂っていたフォニックゲインが翼の足裏へ集まり機動力と化す。自身の脚力とフォニックゲインを活かし、跳躍した翼は雪花の懐への潜り込んだ。

 

「露と、消え果てろ──ッ!!」

 

 

絶唱・天羽々斬 真打

 

 抜き放った一撃。辺りには大きな破壊音、そして鎧を壊し肉を断つ音が響き渡り、土煙によって隠されてしまう。



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第六話 後半

「ゲホッ……コヒュッ……」

 

 激しい痛みと熱を帯びる体に刻まれた断裂。左の肩口から右の脇腹まで切り裂かれた雪花は、溢れ出た血液の溜まりに沈む自身の体を知覚しながら、最早感覚が無い青冷めた右手を目の前にかざす。

 息を吸おうと肺を動かせば、先の斬撃で斬り刻まれた肺の裂傷から血液が入り込み、たちまちのうちに痛みと血液で一杯になり呼吸が出来なくなった。息を吐こうとすれば、代わりに肺に溜まった血液が食道を逆流して口から吐き出される。全身の、特にあばら骨はどれ程の数が死んだだろうかと、ぼんやりと不明瞭な意識で思考する。今もどくどくと失われ続ける血液が自身の体の深刻さを物語っていたが、呼吸が出来ない息苦しさと空気と血液が頭に回らないことで引き起こされる意識の消失は、フィーネに首を絞められた時のものと似ていた。こんな時にでもフィーネのことを考えてしまうとはいよいよ意識も彼女によって毒されてきたのかもしれない、なんて自嘲気味に笑いながら目的は果たしたと多少の満足感を得る。

 

 今回の目的は、現状二課の対ノイズ最大戦力となる風鳴翼の無力化。内容を聞かされ、最初こそ雪花は「無力化よりも排除の方が確実なのでは」とフィーネに説いていたが、フィーネ曰く「目的のために風鳴翼の生存は必須」なのだそう。その為に絶唱を歌わせるのも賭けではないのかと考えたが、そこは向こうに考えがあるのだとか。

 ともあれ、こうして風鳴翼に絶唱を歌わせ目的を早期に達成させることが出来たのは良かった。二年前の事故を引きずり不安定になった精神状態で煽ったのが、功を奏したとも言えるだろう。それに姉と立花響が遅れたのも僥倖、おかげで分断目的のノイズ召喚という面倒な一手間を加えずに済んだのは正に素晴らしい結果と言える。

 今こうして血溜まりに自身の体が沈んでいなければ、それはそれは最良の結果と大手を振って喜べたのだが。それとヴァイオリンを失ったのも大きい。あれはずっと使っていたお気に入りだったというのに。

 

 並みの人間ならば、すぐにでも死亡判定が下されそうな重体を負った雪花の体。肺の甚大な損傷、筋繊維の断裂、出血多量。どれを取っても手の施しようがないほどに追い込まれているが、まだ形を残すネフシュタンの鎧があれば何の問題もない。

 

「ギッ……! ガァァァ──……ッ!!」

 

 体に牙を突き立て無理やり肉という肉を掻き混ぜられるような痛み。あまりの痛みに意識を何度か飛ばしながらも、歯を噛み砕いてしまわないように自身の腕を使って何とか食い縛り耐え続ける。グジュリグジュリと嫌な音を立てながら傷口が細胞単位でゆっくりと塞がっていくのは、ネフシュタンの鎧が持つ能力。おかげで途中噛み千切ってしまった腕の肉もたちまち修復されていく。激痛を伴うものの、どのような怪我でも直してしまうのは完全聖遺物と呼ばれるだけのことはある。

 ただしそんなものが何の代償なしに傷を癒してくれるわけもない。傷を負い鎧の驚異的な修復能力を活用すればするほど、傷口から入った鎧の欠片の一つ一つが自身の体に根を張り、完全な鎧の形へと修復を果たそうとして、いずれ体の内から食い破ってしまう一長一短の代物だ。これだけの治癒を施せば侵食も大きい。屋敷に帰ればそれ相応の『処置』が必要になるだろう。

 

「ゲブ……ッ!」

 

 肺を潰した裂傷が、微塵に砕かれた骨が、傷口から取り込まれた鎧の欠片と共にあれよあれよという間に修復し、ご丁寧に地面に作られた血溜まりからも活動に必要な分の血液が回収され、ネフシュタンによって土などの不純物が取り除かれた上で体内に収納されていった。

 数分もすれば、雪花の体は翼の居合を受ける前の健康な体にまで復活し活動可能となった。血に濡れた自身の髪をある程度絞りながら、上半身を起こし手元に落ちていたソロモンの杖を掴んで眼前で前のめりに倒れている翼の姿を眺める。微かに上下する肩を見てまだ生きていることを確認する。それに遠くからこちらへ近づいてくる車が一台、運転席に見えるのは赤髪の筋骨隆々の男。見間違いでなければあれは風鳴弦十郎、翼の救助にやってきたようだ。数十の後続の黒いスーツを着た人間が銃をその手にこちらへと距離を詰め、一部が翼の救助に尽力している。

 

 どうすれば良いのか、そう思考する時には頭の中に撤退の二文字が浮かび上がっていた。目的を果たしている以上無暗な戦闘は無用であり、何よりも治癒による痛みで疲れきった体にもう少しの頑張りを求めるには酷というもの。

 雪花が口の中に溜まる血液を吐き出しながらこの場を離れようと動き始めた時、声がかけられる。

 

「君は、雪音雪花くんだな」

 

 呼び止められ、足を止める。

 振り向けば黒服たちを掻き分けて弦十郎がこちらへと近付いてくるのが視認できた。

 

「俺の名前は風鳴弦十郎。二年前、バルベルデから帰って来た君をうちで保護しようとしていた者だ」

 

「……それで?」

 

「単刀直入に言おう、俺は君を助けたい。姉の雪音クリスくんもうちで保護をし、彼女はいつも君のことを考えている。クリスくんのためにも、一緒に来てもらえないか」

 

 雪花から見て、その言葉に嘘がないのは目を見ればすぐに分かった。こちらを一新に見つめる、真っ直ぐな黄色の瞳。揺らぐことの無いその瞳はなるほど、二課という組織の長を務めるだけのことはあるのだろう。瞳の奥でグツグツと闘志を煮え滾らせているこの人間は、間違いなく相手にしてはいけないと頭が警鐘を打ち鳴らしている。

 この人間なら何があっても姉を守ってくれるかもしれないと一縷の願いを込めながら、その手に持つソロモンの杖を掲げ緑の光を放ち壁となるようにノイズを配置する。

 

「な──ッ!?」

 

「素晴らしい提案痛み入りますが、生憎とオレはあなた方二課の敵です。従って、オレは敵対行動を選びます。この身、二課の元に寄せるわけにはいきません」

 

「ならば二年前から君の帰りを待ち続けるクリスくんの思いはいったいどうするつもりだッ! これまで一緒に暮らしてきた家族なのだろうッ!? 君は二年前のあの日以前、ずっとクリスくんのことを守り続けてきたはずだッ!!」

 

「ッ、感情に訴えかけるような論法は大嫌いですよ……ッ! オレにも触れられたくないことの一つや二つあるんだ。この気持ち、理想、あなたに理解されてたまるかァッ!!」

 

 並べていたノイズを黒服たちへと飛びかからせ、場が混乱している内に雪花はその場から撤退する。空高く跳び上がり月を背にしながら横目に始末できたかと様子を伺えば、弦十郎があろうことか地面を踏み隆起させてノイズの足止めをしていた。思わず漏れる「化け物か」の言葉には畏怖と、撤退を選んで良かったとの安堵が含まれていた。

 

 今はともかく遠く、遠くへ。木の上を飛び跳ねて、その次は住居の屋根の上を飛び跳ねて。目的とする町の外れまで向かえば二課からの目を逃れてることが出来る。目立たないよう屋敷までは明け方まで歩く必要があるが、ここで捕まらないのなら耐えてみせよう。

 手頃な場所に足を着けてさっさとこのネフシュタンの鎧を脱がなければ、いつまでも二課のレーダーに補足され続ける。ずっと見られているのは気分が悪い。ビルとビルの間に体を入れ込んでネフシュタンの鎧を解き、いつもの私服姿に戻って群衆に紛れ込む。血液で濡れた髪も体も、私服姿に戻った時点で全て元通りになるのは幸いと言える。

 さっさと屋敷に戻るとしよう。

 

 

 

 

 山間の屋敷に徒歩で到着した頃には、朝日の木漏れ日を浴びる羽目になっていた。体の傷はネフシュタンの鎧で癒されても痛みは未だ体の中に残り続けているため、ここまで来るのに数度意識を飛ばしかける。

 やはり目立たないように移動となるとやはり徒歩が主流になるため、どこへ向かうにも時間がかかる。まだ体が健康な状態だから良いものの、この先更に大きな怪我でも負おうものなら間違いなく道中で倒れる自信があると、雪花は心の中で断言した。そもそも山間、それも人目につかないというだけあって道中は劣悪その物。一応フィーネが使う車両用の道があるが、山をぐるりと回る遠回りの道を歩けばそれこそどれだけ時間がかかるか検討もつかない。

 

 玄関の大きく重い木質扉のドアノブを回しながら、体全体を使って押し開ける。ギギッと蝶番の油が切れた甲高い音が鳴り響く。あの狡猾な性格のフィーネだが、目的と音楽、料理以外のことに関してはかなり杜撰だ。やる気がないというよりは興味がないと言った方が正しいのか、そういうことは全て同居人の雪花が請け負うことになっている。

 

「ただいま、戻りました」

 

 帰りの挨拶をポツリと呟きながら、その足で屋敷の一階奥にある大部屋まで向かう。この時間帯は基本的にフィーネは帰宅していない。大方、櫻井了子としての業務を全うしているのだろうと目星を付けながら、左右に精密機械が立ち並ぶ廊下を辿々しい足取りで抜けていく。

 そこで限界だった。不意に足から力が抜け前のめりに倒れていく自身の体。痛みで疲弊しきった意識が危険信号を所構わず発信し、もう歩けないと訴えかけているかのよう。このまま倒れ頭でも強打しようものなら間違いなく意識を失うだろう。せめて脳挫傷なんかにはならないよう祈る雪花の体は倒れていき、やがて止まった。

 

 下腹部と胸部に回される暖かい何かに目を向ければ、それは腕だった。キメ細やかな珠の肌に細く長い華奢な指、手首には真っ白な袖口が見えていて優しい匂いが雪花の体を包み込む。

 

「お帰りなさい、雪花」

 

 耳元で囁かれ背筋に甘い痺れが流れる中、「まだ仕事中では?」と聞き返せば微笑みながら答えを返してくる。

 

「風鳴翼の治療は山を越えたから後は医療班に任せて来たわ。二年前の天羽奏の時とは違って、アームドギアに絶唱の威力を載せていたから比較的体への負担はないはず。それよりも今はあなたよ。ネフシュタンの鎧の侵食、映像で見た傷の治癒でかなり深刻になったわね。根がかなり張られている。少し危険よ。処置をしましょう」

 

「ちょっと──」

 

 仰向けになるよう引っ張られた雪花の体は、お姫様抱っこという形でフィーネに易々と持ち上げられた。言いかけた拒絶の言葉はもう出てこない。気恥ずかしさというものはあったが、何よりも過度な疲労を背負った体をこの屋敷まで動かしていたのは結局のところ気合い。抱き上げられた時点で張っていた気が弛み、それまで溜め込んでいた脱力感がここに来て一気に解放されたことによって、雪花は四肢をまともに動かせないようになっていた。

 甘えるようにして頭をフィーネの胸元に預け、だらりと垂れ下がる自身の四肢を見ながら溜め息を吐く。何だかんだ言って、こうしてフィーネに体を預けてしまうというのは、存外心地の良いものだった。唯一、人殺しとしての雪花が気安く体を預けられる同罪人のフィーネの体は、見た目から来る不気味な印象に対して暖かい。求めてはいけない温もりを、どこか渇望しつつある自身に辟易としながらも抗えないのが正直なところだった。 

 

「やけに優しいですね。悪いものでも食べました?」

 

「目的を果たしてくれる子なら私は元々優しいわ。それにとっても扱いやすい。あなたにはこの先まだまだ働いてもらわないといけないのだから、その為にも私は私にとっての最善を尽くすのよ」

 

「そうですか……」

 

 あまり見ない表情と声色の柔らかさに身震いしながら、これから先も道具として扱われる未来を予想して苦笑いする。そんな弱々しい姿を見て鼻で笑ってくるフィーネに、雪花は目尻をつり上げて抗議の意を示した。

 そこで、ようやくヴァイオリンを喪失したことを思い出し、何と言われるか身構えてからゆっくりと口を開いた。

 

「その、フィーネ」

 

「何かしら?」

 

「今回の行動で、フィーネからもらったヴァイオリンを壊してしまいました、すみません」

 

「何、そんなこと。あれぐらいなら良いわ。あなたには別のヴァイオリンを用意するから、そっちに慣れなさい」

 

「……怒らないのですか?」

 

「どうして? あれはお金を払えば買えるものよ。オーダーメイドでもない普通のヴァイオリン、でもそうね、あなたがそんなに責任を負うならもう少し高等な物を買いましょうか。数千万単位なら、もっと満足できそうね」

 

「ハハッ……」

 

 目的の部屋に着いたのは、そんなバカバカしいやり取りを行っていた時だ。丁度フィーネの目線の高さに張られた白のプレートには『研究・処置室』と書かれている。「着いたわ」とアナウンスしてくるフィーネに従って目を扉の方へと向けた。お姫様抱っこをされた状態で少し休憩できたおかげか、何とか動く右手でドアノブを回し扉を開いた。

 

 室内に入って真っ先に目につくのは、薄暗い部屋の奥で煌々と光を放っているモニターの数々と、そして淡い陽光が射し込む大きな格子の窓の下で異物感を放つ円柱状の巨大な装置。元々アンティーク調の家具とサーバー類の無骨な科学が同居するねじくれた屋敷だが、この部屋だけは特に異質だ。

 フィーネは件の装置に近付き足場に登った後、雪花を地面に下ろし優しい手付きで服を脱がせていく。ニット、ジーパンと一枚一枚脱がせていけば雪花の素肌は露になっていき、フィーネは雪花の肌に痣や殴打以外の傷口が残っていないかを確認していた。

 以前にあったような包帯は、もう影も形もない。

 

「人の肌を、じろじろと見ないでもらえますか?」

 

「私と雪花の仲でしょう。ほら、食い縛るための布」

 

 口の中に柔らかいタオルを突っ込まれた雪花の四肢は、フィーネによって装置に付随する手枷足枷にそれぞれ合わせるようにはめられる。最初こそ枷に繋がる鎖はだらんと弛んでいたが、フィーネが装置横のレバーを引くと同時に鎖が巻き取られ、段々と装置と雪花の背中の接触面積が大きくいく。

 T字状に磔にされた雪花の額からは、一筋に冷や汗が流れた。

 ネフシュタンの鎧の根を除去するには、人が受けても生存可能なギリギリの電気を流さなければならない。細胞の一つ一つから神経の末端まで体のあらゆる所まで伸びる根を、確実にかつ手っ取り早く除去するにはこの方法が最適解。そこにフィーネのいかなる思想信条が介入しようと、それだけは覆ることの無い事実だ。

 これが、雪花にとって初めての処置。だが体に相当量の電気が流されるなんて聞けば、ろくでもないことになるのはずぶの素人でも予測できる。

 

「さぁ雪花、準備は良い?」

 

「……はい、いつでも」

 

「ふふっ、そんなに怯えなくても良いわ。完全な除去に成功する確実な時間は計算上三分弱。死なないようにこちらでちゃんと調整してあげる。それとも、今更痛いのは嫌?」

 

「……ご冗談を」

 

「ふふっ、その言葉を待っていたわ。なら、歯を食い縛りなさい。痛みは人の心と絆を繋ぐ唯一のもの。あなたと私の不安定な関係も、今も体に残る痛みだけが繋いでくれている。これまでも、そしてこれからも」

 

 その言葉を最後にフィーネが操作盤のレバーを下ろして、雪花の体へと電気が流された。

 全身が焼かれるような痛み。流された電気は雪花の筋肉を収縮を起こし固められたかのように動かなくなり、体を震わせることさえ困難になってしまう。視界もブラックアウトしてしまい、無様にも白目を向いてしまっていた。

 それでも痛みで無理やり覚醒させられた意識は、歯を食い縛って痛みを堪えようと耐え続ける。口と詰め込まれたタオルの間からは、喉を引き裂かんばかりの絶叫が漏れ出す。

 

「ん"ん"ん"ぅ"ぅ"ぅ"──ッ!!」

 

「ああぁッ、良いわ雪花ッ!! もっとッ、もっとあなたの歪んだ顔を見せてちょうだいッ!!」

 

「あ"あ"あ"あ"あ"──ッ!!??」

 

 

 

 

==========================================

 

 

 

 

 処置の間、苦悶の表情を浮かべる雪花をフィーネはずっと愉快そうに見つめていた。

 この時ほど、フィーネのサディスティックな一面が最も発揮される場面はないだろう。体にギリギリの電気を流し、白目を向きながら絶叫する雪花の姿はフィーネにとって、愉悦を最大限まで高めてくれる崇高な存在だった。姉のためと自身に言い訳をし、これまで何度も痛い目にあいながら人殺しをするさまは、それこそ何よりも不憫で愛おしい。

 

 それに雪花にはまだまだ働いてもらう予定だった。

 二課の後ろ盾になっている広木防衛大臣を米国政府の協力のもとに暗殺し、雪花がソロモンの杖によって引き起こした多数のノイズによって、目的となる完全聖遺物デュランダルをリディアン地下から引っ張り出されることになるだろう。そして輸送の最中に雪花を襲撃させ、ガングニールの融合症例である立花響に半強制的に歌を歌わせる。

 ああ、愉快だ。ここまで計画が順調であれば愉快だとも。

 

「あ"……あ"あ"……」

 

 思考するフィーネを遮ったのは、掠れる雪花の声だ。

 意識を雪花の方へ向ければ、そこにあるのは意識を飛ばし体のありとあらゆる所から体液を垂れ流す雪花の姿。足元には失禁して出来た排泄物の水溜まりが広がり、流れる電流にも反応していない。

 腕時計を確認すれば既に時間は五分を経過している。ネフシュタンの鎧の欠片は除去されたが、これでは命まで消えかねないとフィーネはレバーを上に戻す。通電が止まりようやく筋肉の収縮が終わった雪花の体からは湯気が立ち上っていた。

 

「処置は終了よ、お疲れ様」

 

「フィー……ネ……」

 

「これはご褒美」

 

 半開きになった口に、口づけを交わす。

 そしてそのまま口を塞ぎ続け、呼吸を出来なくしてから意識を闇の底へと落とす。最初こそ何とか離れようと抵抗していたが、手で頭をしっかりと掴み逃さない。やがて雪花の動きは完全に止まる。

 フィーネにとっては、雪花の意識を落としてからが楽しみの本番だ。道具を使うか、それとも自身の手で弄ぶか。まずは汚れた体を綺麗にしてからだと、雪花の体を抱き上げてバスルームへと向かった。



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小話:フィーネの欲 ※やらしい描写多め

『フィーネ、既に上層部は焦れに焦れ計画の達成はいつになるのだとつついてくる。そちらの計画は以下ほどまで進んだのか、君の口から直接聞かせてもらおうか』

 

「……やたらと性急ね。今は二課の最下層にあるデュランダルを奪取するための計画を立てているところ。そもそも計画の進行に関してはこちらで全て決定を下すと、そちらにも事前に通知していたはずだけれど?」

 

『元々、うちには君に協力すること自体を毛嫌いする者も多いのだよ。日本人の櫻井了子の器を得た君がFISなんぞと言う爆弾をアメリカに作り好き勝手に動き回るなんて、なかなかどうして思い切った判断をしてくれたことか』

 

「あなたたちと利害が一致してのあの組織でしょうに」

 

 天高く登った太陽の光が射し込む研究・処置室の奥で、様々な研究や実験の経過がしたためられた文書を映すモニターの光を浴びながら、耳に当てたアンティーク調電話の受話器から聞こえてくる男の声に、裸体姿のフィーネは溜め息を吐く。電話先は活動のためのセーフハウスを用意し、計画の駒として利用するだけしようと画策していた米国特務機関の連絡官だ。

 紅茶を注がれたティーカップを口に付けながら、電話の向こうにわざと聞こえるように再び溜め息を吐く。元々この協力関係には自己の目的を優先した不安定なものであったが、それでも聖遺物の奪取という共通の目的によって、双方の関係は一本のピアノ線により繋がれていた。まぁ、計画の内容は『日本の特務機関内部の聖遺物奪取』と完全に嘘で塗り固められた偽物でしかない。月を穿つなどと言えば、間違いなく裏切られるのが落ちだ。

 

 だが、共同という言葉は向こう側の心を昂らせるものではなかったらしい。実行、計画をフィーネが請け負うことでさえ、彼らは早々に渋い顔をしながら了承した。何事も自己を中心に置かなければ気分良く動けない奴らの気性は、なるほど野蛮人らしいとフィーネは蔑んだ答えを得る。

 計画が順調が進み始め軌道に乗り始めた今、ここで足を引っ張られるわけにはいかない。米国の都合によってこちらの計画が足踏みするなんてこと、あってはならなかった。ならばと、こちらは頭の隅で手切りを模索する。使えるだけ使い倒して二課の設備強化を果たすことが出来れば、以降こちらは雪花という駒があれば一人でも目的を達成することが可能となる。それまでは何としてでも、協力関係を失うわけにはいかない。

 

「それに、私がそっちへ依頼した広木防衛大臣暗殺の方はどうなったのかしら。まだ連絡の一つももらってないのだけれど?」

 

『問題はない。日本の夕暮れ時に襲撃、そして殺害まで至る予定だ。そちらの不利にはならんさ』

 

「だと良いのだけれど」

 

 隣では雪花が空になったティーカップに紅茶を注ぎ、空になった食器皿を下げていく。雪花の服装は至ってシンプル。裸体の上から透けるほど薄手のブラウスを一枚羽織らせただけという、フィーネの裸体主義を全面に推し進めた格好になっていた。本来ならば要望通り自身と同じ一糸纏わぬ姿で生活させようと命令したが、未だ羞恥心が勝るのだろう。本人からの猛反発があり、脅しと交渉の末にあのような姿で落着した。

 十六歳の平均身長よりは少し高い雪花の体、細身ということも相まって胸元の豊満な双丘がよく目につく。フィーネから見れば女性としての相応な魅力を持っているはずなのだが、それを頑として雪花は認めようとしなかった。あの空港で誘拐したときよりは、度重なる餌付けにより全身の肉付きがかなり良くなっている。

 

 フィーネからの視線に気がついた雪花は、頬を朱に染め上げながらプイッと顔を逸らして目を合わさなくなる。何だかんだと文句を言いながらもこちらの手伝いをしてくれる雪花の姿は何とも愛くるしい。構いなさいと言わんばかりに蠱惑的なカーブを描く臀部へと手を這わせればピクンと体が跳ね上がり、その手に持つティーポットを落とさぬよう後ずさっていった。受話器に声が入らぬよう口をパクパクと動かしていたが、「急に触らないでください!」とでも言っているのだろう。これまでに施してきた調教が功を奏したか、撫でるだけでも相応の反応をしてくれる。

 ああ、なんて初で可愛らしい反応を示してくれる娘だろうか。今まで対峙してきたどんな人間よりも純粋に姉を愛し、その為にどんなことも、他人を炭素にまで変える姉思いな娘。それこそ思いを伝えるために生きてきた悪人に姉を人質に取られてるとはいえ、見殺しにすれば解放される計画に従っているのだ。何という愛、何という情熱。今日はどんな方法でいじめようか、意識を飛ばしてみようかと愉快な想像が止まらない。 

 

『それで何だがね』

 

 有頂天に引き上げられていたはずの意識が、あろうことか不快な男の声で会話に引き戻される。

 舌打ちをしそうになるもそこはしっかりと残る理性で我慢しながら、開いた口を塞ぐためにティーカップに口をつけた。左足を上に組んでいた足を右足を上に組み直してから男の言葉に耳を傾けた。

 

『何でも最近は近くに子飼いのペットを侍らせているようじゃないか。報告では、私情を殺し殺人も厭わない優秀な駒だとか。それに君のシンフォギアを扱える数少ない適合者だと聞いたよ』

 

「さっさと用件を聞かせてもらえると嬉しいのだけれど。何が言いたいのかしら?」

 

『なら率直に言おう。米国政府はこれから先、遅れを取った聖遺物分野へ大きな一歩を踏み出すため、今回の協力を踏み台と見ている。それに当たって君が所有するシンフォギア装者、雪音雪花をこちらで確保するように指示が下された。極秘裏にとは言え、近く大統領命令が発布されることだろう。君の計画にはFISという癌と言い数々の協力を行ってきたのだ。ならば、こちらにも相応の報酬がなければ不平等というものだろう?

 先んじて伝えておくが、もし抵抗するようならばこちらからその手の手練れたちがやってくることになる。最悪、雪音雪花が死ぬことになっても、解剖等で役に立ってくれるだろうからな』

 

「賛同しかねるわね。あの娘は私が自分の手で捕まえてきたのよ。シンフォギアの適合者ならFISで探せば良いのではないのかしら」

 

 つらつらと述べられる説明に、フィーネはイスの肘掛けを使って頬杖をつきながら眉をしかめる。

 F.I.S.にはフィーネが今推し進めている計画の保険となるものが詰まっている。それがレセプターチルドレンと呼ばれる数百の子供たち。今よりも幾万もの年月を遡りまだフィーネがルル・アメルと呼ばれる人類の巫女だった時代の話にはなるが、自身の遺伝子と『刻印』を多くの人間たちに散らせたことが始まりになる。それにより現在の肉体が果てようとも、アウフヴァッヘン波形に触れた意識を乗っ取って、新たな依り代にフィーネとしての意識を顕現させることで予てよりの計画を進めることが出来るのだ。

 あくまで今回のように聖遺物考古学者となった櫻井了子のような身分の人間であれば、という話だが。

 どんな身分で、どんな国の、どんな人間か。それらは完全な偶発でありフィーネ自身もどうかわからない。そこで保険として米国と共同製作したのがF.I.S.であり、かき集めたのは依り代予定のレセプターチルドレンたちである。

 

 なればこそ、わざわざこちらの戦力を削ぐようなことはせず、あちらで適当に済ませてくれというのがフィーネの願いだった。あれらもこちらの計画が済んでしまえば、そこでどんな実験をしようが研究を行おうが、計画達成秒読みとなりつつある今となっては最早不必要だ。

 

『ナスターシャには現状の説明をさせたのだがね。聞けば集めたレセプターチルドレンにまともなシンフォギア装者は、事故で死んだ娘以外誰も居ないというではないか。ましてやLiNKERの過剰摂取で後天的になった装者など、まともに扱えはしないだろう。だからこそ我々は望むのだよ。産まれたときからその身に戦う使命を宿した先天的なシンフォギア装者を。こちらで調べた結果では、装者は一人で軍隊とも張り合えるそうじゃないか。聖遺物の軍事転用、大いに結構だとは思わないか?』

 

「議題にもならないわね。私はこれで切らせてもらうわ」

 

『そうか、また正式にそちらへと連絡がいく。その時にでも返答は聞かせてもらおう』

 

 受話器を下ろし紅茶をまた一口飲んでから、今度は我慢することなく舌打ちをする。元々、フィーネは彼らを『堪え性のない野蛮な人間たち』と蔑んでいたが、今回のことでそれが更に露になったと言える。

 とはいえ、今回はあまりにも性急にすぎる。もしや本来の計画が漏れたのではと思案するが、フィーネが口外していない以上雪花が裏切っているという結論に至る。それはありえない。雪花はどこまで行こうと愚直と思えるほどに姉思いの人間だ。姉に危険が及ぶような選択を取らないことを、これまで共に過ごしてきたフィーネはよく知っていた。

 となれば後は周りの見えざる所から嗅ぎ付けられているのかもしれない。不快なことだ。誰も分からぬ人間から監視されるなど不愉快極まりない。腹が立つ。

 

「フィーネ、何を怒っているんです?」

 

 思案と怒りの渦に呑まれる中、目の前に近付く雪花の顔に気付いてフィーネは意識を表層へと取り戻した。それまでついていた頬杖を退けて再度ティーカップに口を付けながら、努めて平静で居ようと紅茶を飲み干す。

 それでも吹き出し続ける不平不満は目の前の娘にぶつけさせてもらおうと、雪花の手首を掴み一気に引き寄せた。急に引っ張られた雪花の体はバランスを崩し前のめりに、イスに座っているフィーネのところに倒れていく。それを真っ正面から受け止めたフィーネは雪花の麗しいカーブを描く顎に指を添えて、顔を上向かせると間髪いれずに唇を重ねた。柔らかい唇同士がぶつかり合って形が歪む。唾液も呼吸も全てを重ねるように、雪花の心の中へ自身を余すことなく注ぎ込んでいく。

 

 雪花の顔は驚きで染まっていたものの、フィーネが舌を口内に入れ込んでも抵抗していない辺り、諦めたのか受けいれたのか。どちらに転んでいたとしても、フィーネにとって好都合なのは間違いない。

 腕を雪花の脇の下から差し込んで背中へと手を回し、思いっきり抱き寄せながら尚も唇を貪り続けた。互いの体が密着したことで双丘同士がぶつかり合い、ドクドクと活動を続けている心臓の鼓動が重なって共鳴していた。全てを重ねる。こちらへと、雪花の心を手繰り寄せる。

 

 薬物で自我を壊してしまえば好みの人格を作り出せるだろう。

 だがフィーネが求めるのは、純粋な愛の感情を持ったままの雪花だ。重ねた唇を離し互いの間に繋がる唾液の橋を見ながら、半開きに口から舌を垂らすとろんと蕩けた雪花の表情を頭に焼き付ける。

 

「良い顔よ、雪花」

 

「いきなりのキスには、慣れてきましたけど……。舌まで入れてくるのは流石にどうかと思いますよ……?」

 

「少し電話先に気に食わない人間が居たのよ。身の程も知らないただの凡人がね。あそこまで神経を逆撫でされたのは久しぶりの体験だったわ」

 

「はぁ……何を言われたか、あまり深くは考えないようにします……。はっ、んんっ……」

 

「あら、体を震わせてどうしたのかしら?」

 

「誰の、せいだと……? こっちはここ毎日、ずっとフィーネに体を……」

 

「ふふっ、少し意地悪だったかしら。ほら雪花、身を委ねなさい。今日は一日あなたのために費やしてあげる。むつみ合いましょう」

 

「はっ、あぁ……フィー……ネ……」

 

 まだ時刻は正午丁度。

 次の目標であるデュランダルの釣りだしまでは時間があり、二課所属の櫻井了子も今日は休暇の日だ。計画の進行は何度も繰り返してきた命の中で、思ってもいないほどの速度で進んでいた。正直に言って、精神的な余裕はたくさんある。それまでは目の前の雛鳥とでも遊んで楽しもう。



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第七話

そろそろ物語を盛り上げていきたいところ。


 洋館の清潔に整えられた治療室の中、真っ白なシーツで整えられたベッドの上に横たわる雪花の一糸纏わぬ体には、無数の点滴が繋がっていた。点滴スタンドに吊るされたパックの内容液は深緑一色に染まり、その見た目はあまりにもおどろおどろしい。その一つ一つがフィーネ特製の薬品でありこれからの作戦行動に不可欠なものだと、睡眠導入剤を打たれ深い眠りへと落ちていた雪花は事前に聞かされていた。眠った先には何もない、真っ暗闇。

 最近は夢なんてものは見ていなかった。ギュッと目を瞑り気が付けば意識を失って、目を覚ました頃には鳥の囀ずる朝だ。浅い眠りだと夢を見ると聞き、今は疲れきった体によって深い眠りになっているのだろうと雪花は勝手な推測を立てていた。

 

 だが、その日だけは違う。眠りの先に待っていたのは、どこまでも続く果てしない暗闇。だけど、その中で自身の体は淡い光を放ち、黒い砂を踏んでいる足元を微かに照らしている。現実では起こり得ない不可解な現象に「夢なのか?」と声を出しながら思案して、雪花はあてもなく周辺を歩くことにした。

 ただただ広い空間だった。ザクリ、ザクリと地面を踏みしめる度になる音に不快感を覚えながらも、ただ歩き続けることにした。それしかなかった。その場に立ち止まっても打開できるわけではなく、それならば目覚めを求めて歩き続ける他無い。

 

「フィーネッ! 聞こえますかーッ!! 聞こえるのなら返事をしてくださいッ!!」

 

 声を遠くへと飛ばすことを目的に、両手をお椀型にして声を出しながらまた再び歩き始める。声は闇にかき消されてどこにも届かない。ここには自分だけしか居ないのかと思案する雪花を否定するように、足に何かが触れた。唐突にやって来るひんやりとした感触に全身の毛を逆立って、恐怖という感情と共に下へ向けた。

 

「許さない」

 

「君は……」

 

 その先にあったのは、血色の良い肌をした人の手だ。繋がる先に横たわっているのは、いつか見た女子生徒だった。あの時は何メートルも離れていてあまりよく見えていなかったが、今は足元に居るからこそ分かる。丹精な顔立ちをした美麗な子だった。スタイル抜群のとても綺麗な子。艶のある黒い髪を扇状に広げてうつ伏せに這いつくばっている。彼女の顔は怨嗟に染まり、今にも殺してやると叫びだしそうだ。

 彼女は、口を開く。

 

「どうして、私を殺したの」

 

 そんなことを言われても、全ては一言で終わる。

 

「姉さんのため」

 

「それだけで?」

 

「それだけ。姉さんが温かい場所で良い人たちに囲まれて生きていてくれるなら、オレは何人でも人を殺すと決めた。だからオレは振り返らない、後悔しない、踏み留まらない。姉さんが居てくれたら、それだけで良い」

 

 悪趣味な夢を見てしまったことを後悔しながらも、目の前の娘に向けて言葉を続ける。一度吐露した姉へと思いは留まることを知らない。何度も何度も、言い聞かせるように、頭に染み込ませるように同じ言葉を吐き続ける。無意識の内に手には力が籠っていた。固く握りしめられた拳からは、指先の爪が手の平の皮膚を突き破って血液が滴り始め、足元へと垂れていく。

 雪花の熱意に比例するように、足元の少女も眉間に出来たシワの堀を深めている。何を抜かすのか、とでも言わんばかりの顔には雪花は声を大にして何度も吠え続ける。

 

 夢が消えていくのが分かった。

 暗かった周囲が白く明るい光に照らされて、一気に意識が浮上していることを示す。その中で少女の姿もゆっくりと消えていった。指の先からゆっくりと、まるでノイズに指先が触れ炭素となっていくように。最後までしぶとく居残り続けていた少女の姿が消されていく。

 最後顔だけが残ったとき、怨嗟を孕ませた地を這うような声が雪花の耳を襲った。

 

 ──いつか絶対、後悔させてやる。

 

 

 

 

 

 点滴を打ち続けて六時間後、点滴パックの内容量は残り僅かとなり施術は間も無く終わる。丁度その時を見計らったかのように雪花は目を覚ました。背中全体で感じるベッドシーツの心地よさに、最早癖となる溜め息を吐いた。脳裏に残る不快な夢の記憶が頭の中をグルグルと駆け巡って、嫌な気分にさせられる。堪らず、らしくもない低く響くような唸り声をあげてしまい、胸を締め付けるような息苦しさを噛み殺すように歯を食い縛った。

 これまでの人生で最悪の目覚めだった。誰があんな後悔の塊のような夢を見なければいけないのか。既に人殺しは自身の罪と飲み込んだはずだった。因みに、二番目はフィーネに誘拐された次の日、目覚めた時にこれは現実だと思い知らされた時だ。あの時も、これが現実なのかと思い知らされたと実感した時はうちひしがれた。

 

「酷い顔色よ」

 

 頬に添える手と共に声をかけるフィーネによって意識をようやく明瞭にさせた雪花は、目の前に翳された手鏡を眺め思わず「酷いなこれ」と呟いた。そこに映る顔は土気色をしていて死人のように悪い。周囲に立ち並ぶ雪花の体内で起きた異常を検知するための精密機器は未だ正常に稼働し続け、何の警告も発さなかったようだ。

 どうやら夢は検知外のようだと大きく溜め息を吐きながら、柔らかなベッドに沈む体を少し動かす。視界の端では不思議そうにこちらの顔を覗いているフィーネの姿がちらつく。

 

「少しよろしくない夢を見まして。それだけです。それだけ。それより点滴の方は?」

 

「もう二、三分で終わるわ。それにしても、予定よりも早く目を覚ましたわね」

 

 今は何時くらいなのか、寝ている間に何かあったか。いろいろまとめて、隣で座る白衣を身に纏ってピンクの縁のメガネをかける櫻井了子姿のフィーネに聞いてしまいたいところだったが、視界を右隣へと向け難しい顔をして携帯端末の画面を見つめる姿を見れば、それも憚られてしまう。

 

 最近のフィーネはやたらと考え込むことが多くなっていた。理由は聞かされていないが、時折「どうすれば」と独り言を呟く彼女の姿は少し痛々しい。悪人であるために同情こそはしないが、少し可哀想だった。こちらから「どうしたのですか?」と問いかけても、語気を強めて「あなたには関係の無いことよ」と言い返されてしまう。そこまで言われてしまえば、もうこちらから出来ることは一つもない。精々フィーネからの要望に合わせて格好や髪型を変えながら機嫌を取ることぐらいだろう。それでさえ、最近は数が少なくなってきている。喜ばしいことではあるが、急激な変化は異常だ。少なくとも姉の安全が保証されるまで身を売ってでも、悪人の共犯として悪事を働き続けなければならないというのに。

 

「……あら、人の顔をジロジロと見るなんて、何か用件?」

 

 やがて、雪花の目に気がついたフィーネと視線がぶつかる。難しい顔から一転、目を細め口角を上げた悪戯っぽい笑みを浮かべるフィーネの姿。でもそんな彼女のどこかに無理をしているような気がして、いつもの色を失っているように見えていた。

 そう見えたのは、感覚だった。顔色一切変わらず、どこか青ざめている様子もない。何となくそう感じただけ。それでも二年の共同生活というのはやっぱりバカにはならないらしく、顔には浮かんでこない感情というものが少しは分かるようになっているようだ。

 

 ここでフィーネに躓かれるのは、雪花にとってよろしくない。

 

「何か、悩みごとでもあるんですか?」

 

「どうして、そう思うのかしら」

 

「どうもフィーネらしくないというか、以前のように余裕で溢れていたあなたの姿はどこへやらと。計画も順調、残るはデュランダルとカ・ディンギルだけのはずなのに、どうしてそこまで暗い顔をしているのかなと疑問に思いまして。もし悩みごとなら聞きますよ。オレとしては姉さんの安全の為に、フィーネには目的を果たしてもらわなければいけないので」

 

「献身的ね、もっと昔からの付き合いだったら良かったわ。でもこれは私の問題なの。何かあれば雪花に頼るわ。今は点滴を受けてなさい。まだまだ働いてもらわないと困るのよ。

 ……さて、もう全部入ったかしら。点滴は終わりよ」

 

 フィーネが体に刺さった針を抜いたのを確認した雪花は、上半身を起こして手を開閉させる。結局何だったのかとフィーネに向ければ生気の無い淡白な声で答えを返される。

 

「打ったのはこれからの作戦行動で役立つ増強剤、簡単に言えばドーピングよ。それに伴って、特定の環境に身を置くとアドレナリンが多量分泌が行われるよう、一種のまじないのような物も施してある。今まで以上に痛みを気にしなくて済むようになるわ」

 

「つまり、戦闘しやすいようにしたと?」

 

「そういうこと。安心しなさい、寿命を削るような危険な物じゃないわ。ただ戦闘後は倦怠感に襲われるかもしれないけれど、雪花ならどうにでもなるでしょう?」

 

「どうにかなるのではなく、どうにかさせる。お礼は次の成功を代わりにします」

 

 腕を回し、首を動かし、体の動きが損なわれていないことを確認してからベッドを降りる。薬剤を打ち終えたおかげか、先ほどの鬱蒼とした感情も消え去って高揚感を感じていた。なるほど確かにドーピングだ。何でも出来るような気さえしている。

 

「地下の訓練室を利用しても?」

 

「ええ、好きに体を動かしなさい。今日から数日、私は二課の方で籠ることになるから、その間は好きに過ごしても良いわよ。ただし、不要な戦闘は避けるように。二課に見つかると面倒だわ」

 

「了解しました」

 

 

 

 

==========================================

 

 

 

 

 リディアン地下深くに根ざす、特異災害機動対策部二課本部の一角には技術主任となる櫻井了子、改めフィーネ専用の研究室がある。何重ものロックを施された部屋の中には、無数のサーバーと装者が扱うシンフォギアのギアペンダント改修装置が設営されている。それら全てが二課の所有する聖遺物に関する全てであり、門外不出の最重要機密。立ち入ることが出来るのは櫻井了子の他に、二課司令の風鳴弦十郎ただ一人だ。政府からの情報公開にも応じない不条理の特権を持つため、ここにあるのは二課だけでなく日本の聖遺物研究の全ても言っても良い。その理由は二課の背後に立つ風鳴宗家が関与しているのだが、それはまた後に。

 先立って予定されていた広木防衛大臣との面会を果たし、政府からの機密司令が詰め込まれたデータチップを受領して二課へと顔を出すのは、少し遅くなるだろうとピンクのコンパクトカーを走らせながらフィーネは考える。

 

 思考を巡らせる中、一つだけ懸念があった。

 それは二課の後ろ盾となっている広木防衛大臣が、未だ生きていること。地上から地下へと伸びるエレベーターシャフトを擬装に、これまで建設し続けてきたカ・ディンギルが残り僅かの行程を残して未完成のまま残り続けているのは、あの者が二課の機能拡張を建前にした設備投資計画書を受領しないことにある。

 これ程までに忌々しいことがあろうか。これまで順調に進み続けてきた計画が、たった一人の男の反対一つで成功へと至らない。積み上げてきた何千年もの奇跡が、ようやく今芽吹こうというのにである。米国の特務機関は何をしているのかと怒りが込み上げ、ハンドルを握る両手に力が入ってしまう。

 とはいえ、我が身一つの癇癪でこれまでの努力を無に帰すほどフィーネも愚かではない。弁えるところはしっかりと理解している。何より聖遺物考古学者である櫻井了子という依り代を運良く手にすることが出来たのだ。今まで無かったこの機会を不意にするわけにはいかなかった。

 

 荒れる胸中を沈めながら、リディアンの敷地内に着いたのは日が沈む夕方頃。データチップの入ったアタッシュケースを右手に地下へと続くエレベーターに乗り込みガラスに映る自身の酷い顔を見て、慌てて思考を切り替えた。

 今は二課所属の櫻井了子、笑顔が第一なんて自身に言い聞かせながら表情筋を動かしていた。それまで眉間に深く掘り込んでいたシワを解きほぐして、自身の怒りも騙しながら努めて笑顔を作りだす。

 

「これでよし、と」

 

 また、櫻井了子としての無駄な一日が始まる。

 そのことに諦めのような深呼吸をして組んだ両手を頭上高くに伸ばし、胸を張るようにして大きな伸びをしてエレベーターの開いた扉から出た。いつもの変わらぬ見慣れた二課の廊下を厚底の赤いハイヒールで床を踏み鳴らしながら歩き、装った笑顔で発令所へと顔を出した。

 

「大変長らくお待たせしました~♪ 櫻井了子、無事に帰還で~す♪」

 

 おちゃらけた声音と間伸びした語尾を使って室内に入ったフィーネを待っていたのは、緊迫する張りつめた空気だった。どうしたのかと周囲を見渡してみれば、オペレーターたちが慌ただしく動いているではないか。左手を白衣のポケットに突っ込み様子を伺っていれば、こちらに気が付いた二課司令の弦十郎とガングニール装者の声をかけてきた。

「何々、心配しすぎちゃったのかしら~?」はふざけてみるものの、事態はかなり深刻な様子。肩をがっしりと掴んで「無事で良かったッ!」と言ってくる辺り、何かトラブルが起きたらしい。

 

「ほ、本当に何なのよ? そんなに一大事なの?」

 

「……落ち着いて聞いてほしい。つい先程、広木防衛大臣が暗殺された」

 

「大臣がッ!? それ本当ッ!?」

 

 それは唐突にもたらされたフィーネにとっての吉報。発令所前方に拵えられた巨大なモニターに映されるウィンドウには、襲撃現場らしき映像が乗っている。黒い車体を穿つ小さな銃創、飛び散る血液、ポツリポツリと見える肉片は、確実に仕留めた証拠だろう。

 ようやく、ようやく始末してくれたかと口元が綻んでしまうのを手で隠し、眉を潜めて悲しんでいる様子を偽る。長らく待ちわびていた知らせに全身の細胞が高ぶるを抑えられなかった。

 それでも、ここは敵地のど真ん中。この喜びを噴き出してしまわぬよう、感情を殺して踏み留まる。

 

「なんてこと……ッ」

 

「今は、君が無事だったことを喜ぶしかない。現在様々な革命組織から犯行声明が出されているが、未だどの組織が関与したのかは不明だ」

 

「皆、了子さんのことすっごい心配したんですよッ! 連絡が全く繋がらなくて、電話にも出ないからッ!」

 

「へっ? 連絡?」

 

 響の声に答えるように出た疑問の声は、本心から出たものだった。目を向け白衣の右ポケットを膨らませている携帯端末に目を向ける。防衛大臣との面会時はもちろんとして、車に乗っている時も動いたことはない。疑問を胸に空いた左手をポケットに突っ込んで引っ張り出してみれば、電源を切りっぱなしの携帯端末。試しに電源ボタンを長押しすれば、ポワンと柔らかい音を鳴らしながら起動する。

 輝きを取り戻した画面には、何通もの不在着信の履歴が映し出される。

 

「あちゃーごめんなさい。電源切りっぱなしで全く見てなかったわ……。変な心配かけちゃったみたいでごめんなさいね?」

 

「それだけなら良かった。君も襲撃されたのかとヒヤヒヤしたぞ」

 

「本当にごめんなさい。でもでも、政府からの機密指令が入ったアタッシュケースはしっかりとここにあるわ。今私たちに出来る弔いはこの中にある機密指令をしっかりとこなして、広木防衛大臣から託されたものを無駄にしないこと。そうでしょ?」

 

「ああ、その通りだ。さぁ響くん、これからはかなり忙しくなるぞ」

 

「はいッ! 師匠ッ!」

 

「それじゃあ私も部屋で色々と準備があるから、頑張ってね二人とも♪ これからは大忙し、休む暇なんてないわよぉ♪」

 

 

 

 

 一度発令所から離れ自身の研究室に籠ったフィーネは、コマ付きのイスに腰を着けると背もたれに体を預けながら天井を仰いだ。思い浮かべるのは先に行った雪花に対する投薬での、深層意識の掘り返し。そこに眠る情報はフィーネにとって良薬でもあり、毒でもあった。

 何故ならばそこにあったのは全てを見通した記録。この先に何が起こるのかが記載された、言うなればブラックボックスだった。最初聞いた時こそ耳を疑い事実かと何度も掘り返せば、他の者は知らぬはずのフィーネの情報があれよあれよと出てくるではないか。ならばあの者はなんだ、何を知っているのだと疑問が噴き出し、投薬実験を何度も繰り返してきた。

 

 だから知っている。

 本来ならば手元に居る駒は雪音クリスであり、争いを無くしたいという願いを利用して『本筋』のフィーネは願い半ば、その身を朽ち果てさせたと。

 雪音雪花は本来存在しない、この世界の特異点なのだと。

 

(……戦姫絶唱シンフォギア、これから先を記したこの世界の全てを知る物語)

 

 始まりは、雪音雪花を誘拐したあの日から始まった。

 睡眠導入剤入りのココアを飲んだ雪花を館へと運ぶ際、車内で呟いたフィーネという名前。あの時は、名前も何も教えていない赤の他人であったはずなのに、あろうことか隠している自身の名前を寝言で呼び始めた。そこからが全ての始まりだ。館に着くなり実験を開始し、眼球の硝子体から投薬を開始し情報を引き出した。

 シンフォギア、カ・ディンギル、F.I.S.。

 口外されていないはずF.I.S.という情報を持っていたのだ。バルベルデから救助された人間が、それまで過酷な環境に身を晒していた人間が、そんなことを知っているのはあり得ない。掘り出せばまだまだ情報を引き出せるだろうが、今はそんな気分になれない

 何より、破滅の結末を知らされていい気分になれるわけがない。

 

(……破滅の未来しかなかろうと、私が諦めきれるわけがない。何千年もたった一人で伏せてきたこの思い、そう容易く諦められるものか。あの人に、エンキにこの思いを伝えるまで、私は手を伸ばし続けると決めたのだ)

 

 己の先を知ることは、結末を知るということ。

 それが幸せならば良いが、今回知らされたのは願い果たされずに朽ち果てた自身の結末。

 

 認めるものか、認めてなるものか。雪花を使って、出来る限りの本筋からかけ離れて目的を果たしてやる。

 

(だから私のために働きなさい、雪花)

 

 とにかく、今は雪花を輸送中に襲わせ、立花響を半強制的に歌わせることでデュランダルを覚醒させる。そうなればデュランダルの輸送は中止となり計画の一つは達成となる。

 今は耐え忍び、一つ一つ足を進めていく。

 

 ──近く、バラルの呪詛はこの手で壊すために。



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第八話 前半

『追記』
 最近、どうやらこの小説がランキング入りしたようで、お気に入りが今までに見たことのない伸び方を見せてくれました。読んでくださっている方々には感謝しかございません。


 薬品製造を主とする工業地帯に身を潜り込ませた雪花は、サイロと工場の狭間から差し込む朝日を一新に浴びながら身を屈めていた。傍らにソロモンの杖を転がして、鉄製のサイロを背にもたれながら仰げば、見えるのは雲一つ無い快晴の空。一面に広がる淡い紺色を背にして、大きく翼を広げた鳥たちがどこかへと飛び去っていくのが見えていた。

 鳥はいつも自由で羨ましいと、僻みめいた感情を抱きながらもズボンの右ポケットに入った懐中時計を取り出す。一年前、フィーネから胡散臭い笑顔で誕生日プレゼントと渡された物だ。短針は七、長針は六を指し示していた。

 

 時間だった。左のポケットを僅かに膨らませる無線機を取り出して耳に着ければ、用意は完了。電源スイッチを『入』へと押し変えて、耳をつんざくノイズに五秒ほど耐えれば向こうから声が聞こえ始めてくる。

 目を瞑り、意識を耳だけに集中させていく。一言一句、無線から聞こえてくる言葉を聞き漏らさないように、耳を澄まして。

 

『さぁてさてさて、作戦前にもう一度だけ確認ね♪ それじゃあ弦十郎くん、お願い♪』

 

『今回、広木防衛大臣暗殺を名目に、大規模な検問を設けた街を抜けて永田町までデュランダルを輸送するのが目的だ。上空からは俺が乗るヘリが君たち輸送班を追随し、迅速な指示を飛ばすよう努める。その道中、敵は間違いなく襲撃してくるだろう。それに当たって一つ告げておく。先日、ノイズを召喚する聖遺物が確認された。了子くんの頭脳と記憶でも解析不能の正真正銘謎の聖遺物だが、召喚が出来る以上操作も出来るだろうと仮定される。

 であるからして、ノイズを使った襲撃が予測される。そこで護衛車に搭乗する君たちに告げておく。武装組織ではなくノイズが現れた場合、直ちに護衛を中止し避難するようにしろ。現状ノイズに対して対抗策を持たない俺たちは、むしろ護衛に着くシンフォギア装者である立花響、雪音クリス両名にとって邪魔になる。何よりも自身の命に大事にだ。無用な犠牲を出さず、永田町まで突っ走るッ!』

 

『閉め切った街を私たちだけが駆け抜ける。名付けて、天下の往来独り占め作戦よぉ♪ 響ちゃんは私の車に同乗して、クリスちゃんは弦十郎くんと一緒に空からパトロール。広域殲滅型のイチイバルの力、便りにしてるわね♪』

 

『ああ、あたしに出来ることならやってやる』

 

『クリスくん。ノイズを伴った襲撃の場合、恐らく敵側には妹である雪花くんが現れるはずだ。もしその時は──』

 

『気にすんな。この新しいバカに当てられたおかげで色々と吹っ切れたんだ。もし雪花が出てきたら、この手で取っ捕まえて説教してやる。その後は二度と離してやらねぇ』

 

『うん! 一緒に頑張ろうねクリスちゃんッ!!』

 

『だーかーらーッ!! あたしはお前の年上で、ちゃん付けで呼ぶなっつってんだろッ!? それに馴れ馴れしく抱き着くんじゃねぇッ!!』

 

『えぇー? だって、私たち一緒に体を鍛え、寝食を共にした特訓仲間だよ? それはもうッ、心を一緒にしたソウルメイトも同じッ! 友達だよッ!』

 

『っぅ~~……ッ、はぁ……もう勝手にしてくれ。いちいち突っ込んでたらあたしの身がもたねぇよ……ったく、何だってんだ……』

 

 案の定、二課の戦力には姉である雪音クリスが加えられていた。ヘリからということは、恐らく即応戦力。こちらがノイズを召喚し足止めをくらった時、いつでも援護に回れるようにするためだろう。嫌らしいことこの上ない。互いが互いをカバー出来る二人組ほど、今回の襲撃計画で厄介なものはないだろう。

 であれば飛行型で空を封じ、手っ取り早く立花響に歌わせる他無かった。今回は時間との勝負だ。風鳴弦十郎を近付けないようにノイズ召喚を行いながら、フォニックゲインを稼ぐため適度に戦闘を行いつつ機を見て撤退。姉を傷付けないためにはこれしかないと頭の中で算段をつけながら、傍らの杖を手にとって立ち上がった。

 懐中時計をポケットの中にしまい、組んだ両手を天高く伸ばしながら大きく息を吐く。体をアーチ状に逸らせたことで胸を大きく強調するような形になってしまったが、ここには誰もおらず気にする必要はない。

 

 そんなことよりも、姉に友達というものが出来ていたのを知って、雪花は胸の奥が暖かくなっていくのを実感していた。言葉こそ嫌がっているものの、声音を聞けば分かる。少し裏返り、黙ってから発せられる籠るようなボソボソ声は、照れ隠しの証だ。今頃無線の向こうでは顔を赤らめながら押し黙っている姉の姿があるのだろう。

 以前見たときの不安定さはどこへやら。あの様子なら二課でも元気にやっていけるはずだ。

 

「さてと」

 

 手を空へと翳してネフシュタンの鎧をその身に纏う。

 不気味に脈動する紫光はどうにも目立っているが、人気が無いこの場では気にすることもないだろうと無視して立ち上がる。嫌なことだが慣れとは恐ろしいもので、実戦のみにあらず訓練で何度も身に纏い続けていると段々と鎧の機能が雪花の体に適応し、先のフィーネから施された点滴と相乗してか人間離れした能力をより引き出しやすくなっている。

 手近なマンホールのふたを容易く開けて、下水道の中にノイズを流し込んでいく。

 

「準備は出来ました。いつでもどうぞ、フィーネ」

 

 聞こえる訳もない呟きを風に乗せて、雪花は脚力を活かし工場の上に飛び移った。

 

 

 

 

==========================================

 

 

 

 

 人が居なくなった空っぽの街並みを、六つの影が駆け抜ける。

 その正体は車だ。五台の車が円を描くように陣形を組み、その中央には護衛対象である櫻井了子のコンパクトカーを据えていた。法定速度なんて知ったことかと言わんばかりの車両速度を添えて、無人の道路を突っ走っていた。

 というのが、弦十郎たちが搭乗したヘリからの景色である。副機長席ではヘッドセットを着けて弦十郎が細かに指示を飛ばし続けていた。クリスは機体の後部、ドアを開けて手すりに掴まりながら眼下で走る車列を見据えている。

 

 飛行中のヘリはあまりにもうるさい。

 飛行のために回り続ける四羽のプロペラは休むことなく、周囲一帯に騒音を鳴らし続ける。もちろんそれは機体の中で待機しているクリスも同じ。むしろプロペラとの距離が近いため、頭部に着けたヘッドセットなしではまともな会話が行えないほどだ。

 迅速な戦力展開のためとはいえこれはどうなんだと、体を叩く強風に抗いながら胸元で納まっているギアペンダントを握り締めた。

 

『来たぞッ、前方から敵襲だッ!!』

 

 ヘッドセットから弦十郎の聞こえる怒号。

 覚悟を胸に機体から顔を出すようにして前方を望めば、空に群がるのは五十を超える色とりどりの飛行型のノイズ。エイの様にも見えるそれは翼を大きく広げて、こちらを通さないよう一糸乱れぬ動きで大きな壁を作り上げていた。

 今まで無差別に人を殺してきたノイズが行う統率された動き、それは弦十郎が言った聖遺物の存在を証拠付ける物だ。並々ならぬ相手になるだろう。それが妹であるならば尚のこと。

 しかし、二課という暖かい場所で荒んだ心を癒され続け、護衛車に乗る立花響というお人好しに触れたクリスは、容易く折れるほどの心なんてもってはいない。眼前に広がるノイズに対して沸き上がるのは闘志のみ。ヘッドセットから聞こえてくる弦十郎の『いけるか?』という問いに対して、クリスは口角を上げながら胸に浮かぶ聖詠を歌い上げることで答えとした。

 

──Killter Ichaival tron(銃爪にかけた指で夢をなぞる)──

 

 その身に纏う深紅の鎧、イチイバルのシンフォギア。

 クリスが戦いたいと願えば、それに答えるように手の甲に装着されていたアームドギアが形を変えていく。現れたのはクリスの身の丈程のガトリング砲だ。長い三連装の銃身を二門備えたそれを、両手にそれぞれ一挺ずつ。総じて十二に及ぶ銃口を立ちはだかるノイズへと向け、フォニックゲインと体力がある限り無尽蔵の銃弾を雨のように放ち続けた。銃身が回転し、ヘリのプロペラ音にも負けない銃声を撒き散らす。

 

「雁首揃えて出てきやがれノイズどもッ! あたしが全部灰に変えて捨ててやらぁッ!!」

 

 胸に浮かぶのは、愛する妹を取り戻す心情が紡がれた歌詞。それをシンフォギアのヘッドパーツから流される音楽にのせて歌い、自身の力へと変えていく。

 そうして放たれる銃弾の雨は、カラフルなノイズの体をいとも容易く引き裂いて端から端まで、全てを灰に変えていった。広域殲滅型のイチイバルにとって、障害物が一切無い広大な空は正に独壇場。分と経たずに灰と変わるノイズの姿を横目に、副機長席から笑みを湛えこちらを覗き込む弦十郎に対して、得意気な顔を見せつける。

 

「あたしが本気を出せばこんなもんだッ! おらおっさん、パッパと次に行くぞッ!」

 

『頼もしい限りだ、クリスくんッ! パイロット、ヘリを車列の前方に向かわせろッ! 俺たちの命、クリスくんに預けるんだッ!』

 

 簡単なやり取りだけを交わして、機体を傾けて前方に加速するヘリから振り落とされないよう、一度右手のアームドギアを解除し手すりに掴まる。その間にも、車列はぐんぐんと速度を上げて陸と陸を結ぶ橋に突入していた。

 車列が橋の中腹に差し掛かったとき、橋の左側の一部が崩落を始めた。櫻井了子の荒々しくも卓越した運転技術は易々と回避したものの、左脇を守っていた黒塗りの護衛車が避けることができず落下し爆発する。クリスが悲嘆に呻くのも束の間、崩落した場所からは無数のノイズが橋脚を登り、護衛車に取りつこうと活発に動き始めていた。

 

「クソッタレッ!」と叫びながらも、その左手に握るガトリング砲にて弾幕を張った。一挺だけと言えどその制圧力は凄まじく、ノイズは全て登りきる前に灰へと変えられていった。

 

『クリスちゃんすごい、すごいよッ!』

 

「当たり前だッ! このあたし様だからなッ!」

 

 シンフォギアのヘッドギアから聞こえてくる響の称賛に口をにやけさせながら、次の獲物を待つ。

 車列はそろそろ橋を渡り切ろうというところ。

 弦十郎が、『護衛車はすぐに離脱ッ! クリスくんの射線を確保しろッ!』と無線越しに叫んでいたが、それを呼んでいたかのように橋の末端から繋がる十字路の左右は、海から這い出たノイズに塞がれてしまった。

 

 クリスがガトリング砲を向けるものの、空から地上のノイズを排除となる場合、ヘリが傾き右手は手すりを掴むためどうしても一挺での処理となる。もちろん、地上からもノイズが跳躍して襲いかかる可能性もあるために静止は不可。そしてここは機内。腰部ユニットから展開できるミサイルの使用などもっての他だった。

 それこそ降りれば火力が増し、爆発物での一挙殲滅など容易いものではあったが、目的地まで止められぬ車列に追随しながらの護衛は今のクリスの技量ではあまりにも酷。現状、無用な身の危険をシンフォギア装者に負わせるのは、愚策と考えられた。

 

 ならば、どうするか。

 クリスが出来ることは弦十郎からの指示を待ち、その間街の物陰から飛び出してくる飛行型のノイズを殲滅していくことだ。

 

「どうすんだ、おっさんッ!」

 

『ぬぅ……ッ! 狙いがデュランダルなのであれば、この方法に賭けるしか他あるまいッ! 了子くんッ!』

 

『……大方、この先の薬品工場地帯に逃げ込む、って言ったところかしら?』

 

『分かるか』

 

 雑音混じりに聞こえる、了子の溜め息を吐く音。

 続けて口を開く了子の声はどこか、呆れているようにも聞こえた。

 

『もう何年の付き合いだと思ってるの。でも分かってる? 工場の爆発に巻き込まれたら、いくら完全聖遺物でも無事では済まない。それこそ、下手打つと何が起きるか分からないわよ?』

 

『敵の狙いがデュランダルであれば、その狙いを逆手に取りあえて危険地帯に突入するのが目的だ。ノイズの包囲が徐々に狭まりつつある今、何もしなければ我々はただ刈り取られるのを待つのみ』

 

『なら聞くけど、勝算は?』

 

『──思い付きを数字で語れるものかよッ!』

 

『そうでしょうね。良いわ、ということで響ちゃん、ここからは一気に荒ぶるからしっかりと掴まっていなさいッ!』

 

 他の選択肢を選んでいる暇はないと、意識の片隅で二人の会話を聞いていたクリスは断じる。

 それまでどこからか出現し続けるノイズの数は明らかに増す一方であり、建物の屋上から奇襲をかけようと待機するノイズまで現れる始末。地上だけならまだ良いが、ダメ押しとばかりに飛行型が多数現れヘリを始末しようと距離を詰めてきていた。

 一飛行型対処のために地面と平行になったヘリの機体の中で、クリスは対地支援を諦め、両手にアームドギアを握り締めながらぶっぱなす。

 

 間近に迫る体力の限界にクリスは冷や汗を流していた。

 ガトリング砲による砲撃という形でフォニックゲインの放出を行うクリスのイチイバルは、近接型の立花響、風鳴翼両名に比べて体力の消耗が著しい。

 頭から滝のように流れ続ける汗を、肩に顔を近付けて拭う。そんな時、視界の下部に映ったのは宙を舞う黒塗りの護衛車だ。そちらへと意識を向ければ、マンホールの蓋を吹き飛ばして噴水のごとく飛び出しているノイズの数々。そちらへと銃口と向けようとするが、宙を舞う護送車が壁になって狙えない。

 

「はぁ……はぁ……ッ。チッ、駄弁るのは良いが、あたし一人じゃこんな大量のノイズを捌ききれねぇぞ。体力も割りと削ってんだ。やいバカッ! お前はいつガングニールを纏うんだよッ! 首にかけたギアペンダントは飾りかッ!?」

 

『えぇッ!?』

 

「お前の爆発力があれば、この数のど真ん中ぐらい抜けれんだろッ! こっちはいい加減厳しいんだよッ!」

 

『でもでも、こっちはそれどころじゃ──わ、わわッ!?』

 

「お、おいッ!?」

 

 クリスの善戦虚しく、ノイズによって作り出された包囲にまんまとかかってしまった車列は一台、また一台と潰されていき、残されたのは了子のコンパクトカーのみ。百は超えていようかという速度で、卓越された運転技術から産み出されるドリフトは見事なものだった。

 それでも猛追するノイズにより左後輪のタイヤをパンクさせられたコンパクトカーは、操作不能となり見事に横転する。

 

『了子くん、無事かッ!?』

 

『え、えぇ……何とか。でも頭を少し打ったみたいね……、ちょっと血が出てるわ……』

 

『くっ……! こうもしてやられるとは……ッ!』

 

「あたしが下に降りるッ! おっさん、指示は任せたぞッ!」

 

『クリスくんッ!』

 

 静止の声を聞き終える前に、クリスはヘリから飛び降りた。

 降下途中、足元に広がるノイズをガトリング砲で粉微塵に変えていく。風に拐われ消えていく灰を横目に流しながら、数十メートル先まで雄叫びを上げながら突っ走る。翼のように脚部ユニットにスラスターでもあれば機動力は改善されたのだろうが、その辺りは仕方がない。

 

「そこを退きやがれぇッ!」

 

 けたたましい音を立てながらノイズを引き裂く様は、正に電動ノコギリの如く。立ちはだかったノイズの壁はたちまちの内に崩れ去り、残されたのは足元に積もるか風に拐われる灰のみ。空が黒く濁っていく中、先に見える響と了子の影に安堵しながら二人の元へ向かう。

 現場に到着したのは数秒後だった。煙幕のように視界を遮る灰を抜けて見たのは、工場の壁を背もたれにして項垂れる頭部から出血した了子と、未だリディアンの制服のまま了子の介抱をする響だ。傍らにはしっかりとデュランダルを確保し、慌てていながらも自身の役目をしっかりと覚えていることが伺い知れる。

 

「大丈夫かッ!」

 

「クリスちゃんッ! 私は大丈夫だけど、了子さんが頭を打ってほとんど意識がないんだッ!」

 

「何だってッ!?」

 

 意識がもうろうとする了子の頭を揺らさぬように様子を確かめれば、呼吸はあり呼び掛けには何とか応じるものの、声を出せずうわ言のようになるばかり。直ちに命が危ないというわけではなさそうだが、それでもこの場に留まり続けるのは危ないだろう。

 それに、一つ並々ならぬ気配がこちらへと近付いている。

 それまで握っていたガトリング砲を小回りの良いクロスボウへと変化させ振り向けば、不気味に脈動する紫光を発する鎧──ネフシュタンの鎧を身に纏った妹が立っていた。

 

「……雪花」

 

「出来ることなら、極力会いたくなかったよ姉さん。そこのデュランダルを置いて、早くここから去ってほしいな」

 

「あたしよりも賢い雪花なら、シンフォギアを纏ってここにいる時点で分かってるだろ。あたしの目的も、しなきゃいけないことも」

 

「知ってるよ。姉さんが変なところで意地っ張りなところも、優しいことも。でもオレは退けない。押し通るよ」

 

「あたしは──」

 

 無理やりにでもと叫ぼうとした時、肩に響の手が置かれ後ろに引かれる。気が動転するも体勢をすぐさま立て直し、隣に並び立つ響に「お、おい!」と声をかければ、ニパッと笑顔を見せてきた。

 

「戦うのはクリスちゃんだけじゃないッ! 私たちが一緒に戦えば、クリスちゃんの思いをより強く伝えられると思うんだッ!」

 

「また訳わかんねぇことを……ッ。なら、あたしに合わせろ。雪花をこらしめて、二課で説教してやるためにな」

 

「うんッ!」

 

──Balwisyall nescell gungnir tron(喪失までのカウントダウン)──

 

 響の体が五線譜模様の極光に包まれ、やがて出てくる姿は白と橙色を基調とした装甲。特に目立つのは腕部に装着されたユニットであり、人の腕以上の太さを誇る。

 

「私が前衛ッ!」

 

「あたしが後衛だッ! 覚悟しろ雪花ッ! 絶対に連れ帰ってやるからなッ!!」



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第八話 後半

遅れてすみません……。
ビックリするぐらいに難産でした……。


「やぁッ!!」

 

 声を上げ歌を紡ぎ、開戦の口火を切ったのは立花響だった。

 アスファルトの硬い地面に亀裂が入るほどの力強い踏み込み。シンフォギアという超常科学のシステムが産み出すエネルギーは、人知を容易く超えるものだ。瞬きをするほんの僅かな時間、それだけで数メートルは離れていた雪花の元へと辿り着くとが出来る。

 到達と同時に後ろへ引き絞っていた右腕を打ち放し、初手より全身全霊の掌底を放つ。胸の急所を狙った一撃だ。それを易々と通してもらえるわけもなく、放つ先には右腕にはめられた紫光を輝かせる水晶の籠手が立ちはだかる。

 

 だが、それこそが響の狙いだった。

 

「ブチ抜けぇぇッ!」

 

「──ッ!?」

 

 放たれた一撃は、金城鉄壁であるネフシュタンの水晶を見事に砕いた。周囲に飛び散る破片、それまで無を貫いていた雪花の表情が吃驚に歪む。損傷のため光を失う籠手の水晶だったが、聞かされていた自己修復能力によって元の形へと戻った。

 とはいえ、これは二課の装者にとって大きな収穫だ。

 響が産み出す爆発力を活かせば、堅牢である鎧に打ち勝つことが出来る可能性が産まれた。今まで無かった攻略の糸口が綻びを見せ、光を射し始めたのだ。これ程、希望の産まれる情報もあろうか。

 

「やったッ! 壊せたッ!」

 

「ク……ッ!」

 

「逃がすかよッ!!」

 

 ならば、間合いに入り距離を詰め続ける他あるまい。

 ステップバックで距離を取ろうとする雪花の足元に、後衛であるクリスのクロスボウを使った射撃。放たれる一矢に鎧を壊すほどの力は無いが、足に当たれば軸をぶらす衝撃力はある。当たらずとも足運びの邪魔にと放たれたものだ。背部からの鞭で防がれるものの、足止めには十分。歯を食い縛り両手に力を込めた響は再び突撃、距離を詰めていく。

 

 ガツンッと金属同士がぶつかる硬い破裂音を耳にしたと同時に、響の視界が下へとブレた。歌を途切れさせながらも足元へと目を向ければ地面を走る一本のパイプ管に、シンフォギアの左脚部ユニットに生えるヒールが引っ掛かっていた。足を出し直しバランスを保つものの、そこを狙って鞭が空気を切り裂き飛んできた。

 回避のため慌てて跳躍。無理な力の入り方に足が悲鳴を上げている。幸い痛みは感じなかったものの、間抜けた飛び方に加えて跳躍距離を稼ぎすぎたせいで、今度は着地のタイミングを狩られる危険性が高まってしまう。

 

「しまっ──!!」

 

「させるかッ!」

 

 もちろんその様な隙を敵が見逃してくれるわけがなかったが、クリスがアームドギアを変形させ、ガトリング砲での牽制を行ってくれたおかげで無事地面に着地することが出来た。

 

「足元、注意しとけよッ!」

 

「ありがとうクリスちゃんッ! ヒールが邪魔だッ!!」

 

 辛い言葉を言いながらもしっかりと援護してくれるクリスに感謝を述べながら、地面を使って両足のヒールを踏み砕いた。

 体勢を整えて呼吸を一定に保ちながら、改めて歌を紡ぎシンフォギアと共鳴させてフォニックゲインを高めていく。初々しさは未だ残るものの、信念を込めた歌声は力強い。それこそ、シンフォギアの出力が、部分的に完全聖遺物を上回ってしまうほどには。

 

 雪花が真上から振り下ろした二本の鞭を、響はあろうことか両手で掴み取った。すぐに振り払おうと雪花の抵抗がやってきたが、響はがっちりと掴んで離さない。腰を据え一本背負いの要領で一気に引き上げる。

 それまで地を這っていた雪花の体が宙に浮いた。ネフシュタンとの力比べに響は打ち勝っていた。

 

「うぉぉぉぉぉぉぉ──ッ!!」

 

「シンフォギアが完全聖遺物に──」

 

「どぉぉりゃぁあああッ!!」

 

 正に、見事な背負い投げであった。

 アーチ状の軌道を描き、一度高くまで昇った雪花の体が一気に地面へ落ちていくが、しっかりと足裏で着地し地面に大きな陥没を作り上げていた。

 

「これが、融合症例……聞かされていた以上の出力──」

 

「あのバカだけだと思ってるなら大間違いだッ! あたしの弾は数だけじゃねぇッ!!」

 

「く……ッ!」

 

 一度、敵の流れを崩してしまえば戦況の掌握は難しいものではない。一心不乱に拳を振り鎧を壊そうと画策する響の動きは単調ではあるものの、何より素早かった。息を吐く間も与えさせず攻撃し、砕けても修復を遂げる鎧へ幾度と亀裂を入れた。

 加えて、対ネフシュタン戦略が通用してるのもかなり大きい。完全聖遺物の圧倒的な出力差を覆し撃破する方法、それは至って単純。真っ直ぐ行ってぶつかり、出力差を上回らん気迫で追い詰める戦法。最早戦法というのも烏滸がましいバカ正直な物だが、目の前の敵は想定していないとでも言うように眉をしかめて狼狽しているのが、響からも見て取れる。

 そして、これを考えたのは他の誰でもない、雪音クリスだ。

 

 響が真正面からぶん殴り鎧をまた一段と大きく殴り砕き、吹き飛ばされた雪花は足を地面に突き刺して二本の大きな線を刻みながら勢いを殺していく。その時、雪花が背中に取り付けていた杖を取り出し緑の光を煌めかせた。

 吐き出された緑色の光線が地面をなぞれば、出てくるのはノイズ。二足歩行型をメインにして分厚い壁を作り上げていたが、クリスのガトリングにかかれば布切れも同然。回転する銃口から雨のように放たれた弾丸は、一匹残らず灰に変えていく。

 

「今更ノイズ程度で足を止められると思うなッ! バカ、突っ込んでいけぇッ!!」

 

「だあああああぁぁぁぁッ!!」

 

 雄たけびをあげながら、響は視界を濁らせる灰の霧に突貫。

 突き破って、目の前に現れる雪花に響が全力の拳を振るえば、同じく雪花から繰り出される拳に真正面からかち合った。大きな金属の破裂音。競り合う両者の拳はどちらも頑として譲らず、完全な膠着状態になっていた。

 響の目の前では、歯を食い縛って踏ん張っている雪花の表情(かお)があった。

 

 その時、響は確信する。目の前のこの子も、治療室で眠る翼のように何か信念を持って戦っているのだと。

 一か月前の自身のような迷いのない、真っすぐなベージュの瞳。吊り上がった目尻はクリスと驚くほどに一緒で、身長が人よりも大きくなければ本当に間違えてしまいそうなほどだ。本当に双子なのだということを如実に表している。

 

「名前は雪花、で良いんだよね……ッ」

 

「……」

 

「クリスちゃんは、君の帰りを待ってるッ! 私にも何かできるのなら、助けてあげたい。だから、教えてッ! どうやったら、君を助けられるかな?」

 

 助けたい、響の心の中にあるのはその一心だった。

 本当ならば手を握るのではなく、開いて繋ぎたい。人間が言葉というものを持っているのなら、話し合えば無駄な争いをなくせるはず。それが過去二年間、人の影を知った立花響という人間を形作る思想信条だった。

 

 翼には甘いと吐き捨てられ、クリスからも一時期能天気の世迷言だと決めつけられた。

 それでも手を繋げるのならば、どんな人間だって──

 

「私は、君を助けたいッ!!」

 

 言葉は力だと、桜井了子から教わった。

 なら通じるまで言葉を投げかけ続ければいい。

 

「どうだ雪花ッ! まさかバカ正直に真っ正面から行くなんて思ってもみなかっただろッ!! 昔から考えて動くことが多い雪花だからなッ、ただがむしゃらに追われるのは流石に想定外のはずだッ!」

 

「ッ」

 

「今投降するなら軽い説教で済ませてやる。罰も、これまでの痛みもッ! あたしが全部一緒に背負ってやるッ! 先輩にだって一緒に頭下げて謝ろうッ! だから帰ってこい雪花ッ!」

 

 響の説得に乗る形で、クリスも声を投げかけていく。

 だが、雪花の視線はこちらへと向けられてはいなかった。口角を上げ明後日の方向を見る雪花に響は警戒心を引き上げる。視線の先に何があるのかと響が目をそちらへと向ければ、目に映るのはガタガタと音を立てながら跳ねているアタッシュケースの姿。

 「えッ!?」と驚きの声を響が上げれば、それにつられてクリスも意識をアタッシュケースへと向けてしまう。蓋を堅く閉じていたはずのロックがあろうことかパキンと真っ二つに壊れ、大きく口を開けるケースからはデュランダルが浮遊している。

 

「ク、クリスちゃんッ! あれッ! あれッ!」

 

「あたしにも見えてる。どうなってやがんだ、ありゃぁ……ッ!」

 

「とりあえず確保なんだよねッ! クリスちゃんお願いッ、私が取ってくるから援護してッ!」

 

「ああ、雪花の相手ならあたしに任せろッ!」

 

 何の躊躇いもなく、敵前で背をむけディランダルへと駆け出す響を、クリスはガトリングでカバーに入った。

 

 響は駆ける。

 今回の輸送作戦の要は完全聖遺物であるデュランダルの無事。憧れ追いかけ続けた翼の隣に並び立つために、今は私情を殺してでもデュランダルを確保しなければならない。

 今の響がそこまでする理由は意地と、誰かのために役立ちたいという自己犠牲の精神のみ。二十、十と距離を縮めて煌々と輝きを放ちながら宙に浮かぶデュランダルへと迫っていく。

 

 デュランダルは剣だ。欠けた切っ先を空へと向け、持ち主はどこかと言わんばかりに輝きを明滅させている。

 これなら確実に届く──ッ!

 

 足に力を込めて跳躍、腕を伸ばして響は柄に触れた。

 否、触れてしまった。

 デュランダルは不滅の刃という意味が示す通り、一度覚醒すれば無尽蔵ともいえる膨大なエネルギーを生成する。その質量を受け止められる器を、残念ながら響は持っていない。

 刹那、それまで見えていた青空や建ち並ぶ響の視界が真っ暗になった。聞こえていたはずの戦闘音も耳に入らなくなり、腕をデュランダルへと突き出すような体勢になったまま体が固まってしまっていた。

 

 体の中に注がれていく膨大な力の奔流が、意識を呑み込み蝕んでいく。

 自分が全て塗り潰されていく恐怖に柄を離そうとするも、ピッタリと張り付いて剥がれない。じわりじわりと消えていく意識。目の前がゆっくりと黒く染まっていく。

 

 人を助けると決めた決意が消えていく。

 翼に対する憧れが消えていく。

 未来とクリスと過ごした特訓の一か月が消えていく。

 響を響たらしめる全てが、ガラガラと崩れ去っていく。

 

 廃人となった父が、心を病んだ母が、入院してしまった祖母の姿が。

 全てが頭の中から消えて、更地に変えられていく。

 

「い、嫌だッ! 消えたくないッ! 私は人を、未来を守りたいのに──」

 

 意識が消え、空っぽになった器に注がれていく破戒衝動。

 響の献身的な自己犠牲の精神の代わりに顔を覗かせたのは、壊したい、潰したい、殺したいと渇望するドス黒い影だった。

 どうして私たちがあんな目に遭わなければいけなかったんだという、嘆き。

 自分に向けられる「死んでしまえ」との暴言に、家族に向けられる偽善の矛先に、どうして私たちなんだと響は泣き叫んでいた。

 そして、ぷっつりと何かが切れてしまう音がした。

 

 響の体が黒く染まる。決壊した感情をどうして収めようかと赤く輝く目を揺らつかせば、視界に入って来る二つの人影が映った。

 居るじゃないか、壊せるものが目の前に。堪らずニヤつく口角を響は隠さず、そちらへと胸に抱く破戒衝動をぶつけてやろうとその手に握る剣を空高く掲げ、デュランダルを覚醒させた。

 

 空へと屹立する、デュランダルの黄金の輝き。その実、膨大なエネルギーによって万物を垣根無く消し去ってしまう圧倒的な暴力だ。

 

「オオオオオオオオォォォォォォォッ!!」

 

 雄たけびと共に振り下ろされた一振りは、周囲に破壊しか齎さなかった。



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第九話

遅れて本当に申し訳ない……。


 櫻井了子という仮初めの姿を脱ぎ捨て二課本部から洋館へと帰宅中のフィーネはこの日、無意識の内に口角を上げ堪らず笑い声を漏らしてしまうほどに心の昂りを感じていた。

 融合症例である立花響を使った、輸送作戦という名のデュランダル起動実験。ギアペンダントを媒介としてシンフォギアを纏う風鳴翼、雪音クリス両名とは違い、心臓に刺さった第三号聖遺物と交わり人の身を離れつつある立花響が産み出すフォニックゲインは凄まじいものだった。何せ、莫大なフォニックゲインを要する完全聖遺物の起動をたった一人、それも数十分で済ませてしまったのだ。ソロモンの杖を起動する際は、雪花のヴァイオリンの才能を活かして各地の演奏会に参加しても三ヶ月もかかったというのに。

 ともあれ、これで計画は既に九割を越え、二課施設改修と称したカ・ディンギル完成を残すのみ。後は時期だ。二課を裏切るのに最適な時期を見据えなければならない。幸いとこちらにはこの先の展開を知る雪花の深層意識が手の内にある。薬物の投薬と一度間違えれば廃人にでもなりかねない危険な実験ではあるが、何千年も秘めた思いと雪花の命、どちらを取るかと言えば前者なのは変わりない。

 

 今は計画が大きく前進したことを喜ぼうではないか。

 功労者たる雪花には、それ相応の褒美を出そう。料理か、ちょっとした自由か、はたまたヴァイオリンか。一日雪花の用事に付き添ってみるのも中々に面白そうな話だ。

 今までならば冗談と一蹴する愉快な話も、今のフィーネには本気ですることが可能なほどに心の余裕がある。あの子には幸福を噛み締めるだけに当たる、献身と自己犠牲という対価を払ってもらった。

 久方ぶりに手放したくないと思えた優秀な駒だ。どれだけ姉のために人を殺せるとはいえあの娘はどこまで行けどもただの人間、ガス抜きをさせなければ気丈を振舞うことも出来ずに心が崩れ去るだろう。

 

 二課支給のレンタルカー──了子のコンパクトカーは輸送作戦時に大破からの廃車処分となった──を洋館の玄関前に停め降車したフィーネは、それまで茶色だった髪をいつもの金色へと戻した。

 遠くに見える山際から登る朝日の爽やかな陽光を浴び、ドアノブへと手を伸ばした時。

 

「……あら?」

 

 突如として聞こえてきたのは、耳を撫でる聞き慣れたヴァイオリンの音色だった。

 どこからか響く音色に耳を傾けながらその出所を探すために足を音の方へと向け動かしたが、分とかからずに特定する。

 洋館東側に存在する湖畔だ。

 正確には、湖の中央へと伸びる桟橋の上。波も立たず、山際から漏れる陽光を反射する湖からの輝きを浴びながら、ヴァイオリンを弾く雪花の姿があった。目を瞑り姉を渇望する思いを、雪花の音色から汲み取る。

 

 雪花が外でヴァイオリンを弾くのは珍しい。

 いつもなら洋館の中に設けた防音室の中で弾くことが多かった。理由を聞き出した時、「他の誰にも聞かれたくない音色ぐらいあるんです」と、どこか怒った様子で返されたのはまだまだ記憶に新しい。

 そんな雪花が、今日はどんな風の吹き回しなのか。明け方には帰ると雪花には事前に通達してあるし、まさか忘れてたとでも言うほど馬鹿でもあるまい。

 

 では、その真意は何か?

 

 仮初めではあるものの、聖遺物考古学者としての席に身を置いているフィーネの好奇心は、留まることを知らなかった。演奏の邪魔だけはせぬよう静かに桟橋へと足を運び、引き続ける雪花の元へと近寄っていけば音色が更に色濃く聞こえてくる。

 その距離にして五メートル足らず。肌を撫でる柔らかな風に乗って雪花の仄かに甘い匂いが漂っていた。朝日を背にヴァイオリンを引く姿に、どこか神々しさをフィーネは感じていた。

 

 ──パチパチパチパチ。

 

 演奏を終えた雪花を、フィーネは拍手で迎える。

 ヴァイオリンを下ろし怪訝な顔でこちらへと振り返る雪花に笑顔を見せた。

 

「良い演奏だったわ、雪花」

 

「おかえりなさいフィーネ。出迎えも出来ずすみません」

 

「そんな事構わないわ。それにしても外で演奏するなんて雪花らしくないじゃない。どういう心境の変化なのかしら?」

 

「気紛れ……なんて言い訳をしてもフィーネは信じませんよね。姉さんのため以外に、一つしてみたいことを見つけただけのことです」

 

「へぇ、是非聞かせてもらえるかしら」

 

「立花響の思いの強さを、一度この手で知りたいのです」

 

 雪花の言葉に、フィーネは眉をピクリと動かした。

 思いもしなかった言葉に動揺して思わず息をのみながらもながらも、本心を知りたい気持ちを胸に言葉を返す。

 

「何故?」

 

「デュランダル襲撃の時、立花響は敵であるはずのオレを助けたいと姉さんと一緒に呼びかけてきました。正直に言って甘い言葉だとは思ったのですが、どうしてもあの眼が気になってしまって」

 

「眼? あの子の眼に何かあると?」

 

「これは感覚的なものなんですけど、信念的なものが見えました。それこそ、フィーネのように狂気じみた眼でしたよ。ただ真っ直ぐに何かを求めてる、オレに似た眼でした。問い詰めてみたいのです。何であそこまで他人を思いやれるのか。

 知りたいんですよ。それに、あの姉さんの良い友達にもなってくれそうですからね。今のうちに探れるだけ探らないと」

 

「……ふふっ、あなたが知りたいって言うなんて」

 

「オレも人間ですから知りたいことぐらいたくさんあります。姉さんの身長とか体重とか、食生活ちゃんと出来てるのか、ですね。フィーネから聞くだけじゃなく、この眼にしっかりと焼き付けたいものです。誰かのせいでこんな思いをしなければならなくなったこと、忘れてはいませんからね」

 

 キッと睨みつけてくる雪花に、フィーネは口角を上げ怪しい笑みを湛えながら「怖い怖い」とおどけるように返した。

 

 対外的には余裕を見せつける一方で、フィーネの胸中はざわめいている。

 これまで姉の為と盲目的な動きを見せ続けてきた雪花が、デュランダル起動時に会した立花響によって心境の変化を今ここで見せている。あの日、不運なことにも頭を打ち朦朧とした意識によって雪花の活躍をその目に焼き付けることが出来なかったフィーネは、雪花と立花響の間で交わされた言葉を知らない。目覚めてから今までそれほど影響が無いと高を括っていたのが良くなかったのか。

 よろしくない、これは本当によろしくない。

 雪花の頭の中から取り出したこの先の話──これを仮に原作と呼称しよう──によれば、ネフシュタンの鎧とイチイバルを駆使する雪音クリスは、立花響に挑んだものの無残に敗北し原作の自身によって捨てられている。はっきりと言って、雪花がそのようなヘマをするとは思っていない。勝てるとは言わなくても引き分けには持っていくはずだ。

 

 ただ、今そこまでの危険を冒すべきなのか。

 雪花と立花響を引き合わせずとも、既に融合症例のデータは原作から出来うる限り抜き取っている。これからの計画に支障はなく、後は時期を座して待てばいいだけの話。焦ることなんて無いはずだ。まして雪花という稀に見る優秀な駒は、これからも側で侍らせておきたいところ。

 が、覚悟を決めた純粋な目を向けられてしまうと、心がグラグラと揺らぐというもの。うつむきながら呟くように「随分と私も甘くなった」と言葉を吐けば、観念したように溜め息を吐いた。顔を上げ雪花の目を見据えながら、腕を組んで最後の疑問を投げかける。

 

「そんなに、立花響のことが知りたい?」

 

「はい。何よりもオレの目の前で、オレの姉さんとコンビネーションを盛大に見舞ってくれたんです。両親を亡くしてから他人に心を開かなかった姉さんの心を解きほぐしたあの人を、妹であるオレが知りたくない訳ないでしょう? 軽く手を合わせた時にも一応真っすぐな気持ちは伝わってきました。でも知るなら上辺だけじゃなく、立花響という人間の全てを知りたい。どうしてオレにも手を差し伸べようとするのか。その原動力を、知りたい。これがあなたの計画に何の利益も齎さないただのわがままだということは分かっています。ただ一度のわがままを、どうか聞いてもらえますか」

 

「ちゃんとその辺りは弁えている、か」

 

 腕を組み、悩み、悩み、悩み抜いた末、フィーネは折れた。

 

「……良いわ。それくらいなら計画に何の影響も及ばないでしょうから。ただし、ソロモンの杖の使用は無し。ネフシュタンの鎧もこちらで預かるわ。あなたの胸にある、そのイチイバルだけで何とかしなさい

 そして、手を抜かないこと。町の監視カメラは私の目、森の中であろうと目は及んでいる。もしこれが守れないなら……分かるわね?」

 

「ありがとうございます、フィーネ」

 

「あなたには一つ褒美を用意しようと思っていたのだけど、これで帳消しよ。あなたは私の駒だということを、忘れないように。」

 

「それで構いません。これは、完全なオレのわがままですから」

 

 それまで引き締めていた顔を綻ばせて明らかに喜んでいる雪花に、フィーネは再び溜め息。

 心の中では雪花が裏切ることは無いと思いながらも、どこからか来る不安に保険としてソロモンの杖とネフシュタンの鎧を取り上げた。最早原作などと考えている暇はない。

 

「はぁ……朝から変な気を使ったわ。食事にしましょう雪花。立花響が使う通学路を教えてあげる。襲撃ポイントは自分で決めなさい」

 

「分かりました。感謝します」

 

 フィーネは雪花を伴ってダイニングへと向かった。



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小話:未来とクリス

前回投稿一ヶ月前……一ヶ月前!?

遅れて、本当に申し訳ない……


「はーい検査終了、お疲れさまでしたクリスちゃん」

 

「どうも」

 

 正方体の無機質な検査室に置かれた装置が、それまで放っていた緑色の光を収め動きを止めた。検査台の上で横になる検査着姿のクリスは了子のどこか嬉しそうな声を聞きながら、体を起こし手の開閉を繰り返す。違和感はない、至って無事な体。検査内容を聞こうと目線を了子へと向ければ、グッとサムズアップをこちらに見せつけていた。

 

「響ちゃんと同じく、クリスちゃんのどこにも異常はなかったわね」

 

「あのバカならまだしも、あたしが検査する必要なんてあんのか?」

 

「モチのロンよ。響ちゃんはデュランダルを掴んで、クリスちゃんはその余波に巻き込まれたでしょ。未だかつて、シンフォギア装者が完全聖遺物が放つエネルギーに巻き込まれたことなんて無いんだから、ちゃんと検査しないと。もし体に異変があったら大変だもの、特にクリスちゃんは家族を連れ戻すまで健康でいなきゃ」

 

「そういうもんか……助かった」

 

「どういたしまして」

 

 感謝の言葉を口にする気恥ずかしさにクリスは頬を朱に染め、俯き顔を隠しながらも精一杯の笑みでもって了子への礼とした。ただその笑みは少しぎこちない。いつもバカ(立花響)や未来に向ける柔らかで自然な笑みはどうしたと自身の頬を手で擦るが、こればかりは直せなかった。

 どうにもというか、クリスにとって了子に対する印象は『苦手』という負で固まり、取り除くことが出来ない。絶えずニコニコと笑顔を振り撒いてのおどけた口調でからかってくる様は、まさに生きている世界が違う人間のよう。

 まぁ、それだけならいい。組織という人間関係の形にしたような物には必要な、その場の空気を明るく変えるムードメーカーというものだ。特筆することは何も無し。原因はもう一つ、クリスから見て櫻井了子という人間から、底知れない本心を感じ取っていることだった。

 

 バルベルデでの捕虜生活を、大人たちの顔色を窺うことで生き抜いてきたクリスは、他人の感情を見抜く技術を培った。呼吸の様子、目の色、表情、手足の動き、その他諸々。全て代わりにその身を醜悪な大人たちに差し出した雪花の助けになればと、独学で学んできたもの。そしてそれは今日まで役に立ってきた。

 誰かを例に出すならば、立花響だ。

 美味しそうなものを見ればすぐさま目を輝かし、小日向未来という友人に会えば甘えるように身を寄り添わせ、悲しいことがあれば顔を曇らせ目を潤ませる。彼女ほど感情の起伏が分かりやすく、体の動きが激しい人間もそう居ないだろう。それでも感情が揺れ動かされる時、どのような人間でもアクションというのは必ず起こす。

 

 だが櫻井了子という人間は、クリスが見てきた数多の例に引っ掛からない。

 感情が無いという訳ではない。むしろ立花響のように、喜び、笑い、ふざけながらも、時には真剣な表情で仕事に打ち込む姿をクリスは見てきた。だからと言うのか、見れば見るほど起きるトラブルに対して引き起こされる感情の起伏というものが、一定を上回ることが絶対に無い。見慣れたアクション、聞き慣れた変わらずの声音。

 クリスにとって、不気味という他なかった。

 

「クリスちゃん?」

 

「ッ、な、何だ?」

 

「何だ、って私の顔をジィッと見て動かないから気になっちゃうじゃない。何々、私の顔に変な物でも付いてた?」

 

 クリスの眼前まで近付く了子の顔が、パチパチと瞬きをしながらグイッと覗き込んでいた。

 

「別に、少し考え事で意識があっちらこっちらしてただけだ。あんたに眼が向いてたのはたまたまだよ。それより、検査が終わったんだからもう着替えても良いよな? バカとは昼から約束があるんだ」

 

「勿論♪ 結果は早くて今日中か明日、遅くても二日後には出るから、それまでは出来るだけ激しい運動をしないように。っていっても、ノイズが出現したら出動してもらわないといけないんだけど……」

 

「んなこと分かってる」

 

「なら良かった」

 

 顔にニパッと笑顔を咲かせてから、了子は機械の方へと戻っていく。

 約束に遅れる訳にもいかないと、クリスは長時間の検査ですっかり重くなってしまった腰を上げ、手早く制服姿に着替える。着慣れたブレザーに腕を通し、スカートのポケットに入れていた二課配給の携帯端末に目を通した。画面右上端に書かれる無機質な数字が正しければ、現在の時刻は正午。四時間目の授業の終盤辺りかと当たりをつける。エレベーターを使えば直通でリディアン校舎に入れる事が出来る。精々かかっても十数分程度、遅れることはない。

 

 四時間目が終わってからでもと頭の中で考えていたとき、背後から了子の声がかかる。

 

「そうだクリスちゃん、ここ数日で翼ちゃんの容態が飛躍的に良くなってるの。もしかしたら、もう目覚めてリハビリに取り組んでるかもしれないから、良かったら時間が空いてる時にでも様子を見に行ってあげてくれる?」

 

「へ? 何であたしが、あんたが行けば良いだろ?」

 

「そうしたいのは山々なのだけど、検査結果を精査して皆の前に出せるようにしないといけないのよ。それにクリスちゃん、翼ちゃんと仲良かったでしょ?」

 

「あー……」

 

 頭の中で、翼との会話シーンを思い浮かべる。

 そして考える。最近友人になったクラスメイトと笑いあって会話するほどではないものの、かといって邪険に扱うほど険悪でもない。

 故に、言い表すなら。

 

「まぁ、仲が悪いとは言わねぇ。顔見知り程度だ」

 

「なら適任! 私の分の挨拶もお願いね♪」

 

 サムズアップをまたも見せつけてくる了子に、クリスは溜め息を吐く他無かった。

 

「はぁ……わーったよ。ったく、あんた聖遺物研究者なんだろ? そんな適当で良いのかよ」

 

「良いの良いの。人間なんてちょっと抜けてるくらいが丁度良いんだから。それじゃあ、いってらっしゃーい♪」

 

「はいはい」

 

 了子の軽口を耳に、クリスは笑って手を振ることで別れの挨拶とした。

 

 

 

 

==========================================

 

 

 

 

「な……な、な、な……!」

 

 ──いったい何を見せられているのだろうか?

 

 今日の昼、クリスが昼から約束があるのは前述の通り。

 野外での昼食のお誘い、声をかけてきたのは言うまでもなく響から。隣でテンション高めに誘ってきたのを頭半分で聞き流していたら、参加することになってしまった。

 とはいえ、最初こそ面倒臭がっていたものの、鞄の中に三人分の弁当を見てその意気込みを推して知るべし。保健室──連絡によれば体育の途中に響が怪我をしたらしい──までの足取りは軽かった。

 

 もう授業は終わっている。気の早いバカ()のことだから喧しくしているのだろうと、頭の片隅で思い浮かべながら保健室の引戸を開けた。

 

「み、未来、そこは、あいたたたたた……!」

 

「だーめ、ちゃんと後処理しておかないと、痕になったり化膿したりするんだから。ほら下着も脱いで、隅々までケアするからね」

 

「うぅ、傷口に沁みて痛いよぉ……」

 

「無茶ばっかりするからじゃない。無理に走っても体はついていかないんだから」

 

「あは、あはは……」

 

「もう、響が怪我しちゃ意味ないのに……」

 

 傷のついた響の柔肌を、消毒液で湿らせたガーゼで撫でている未来の姿。西側に存在する保健室のため室内は薄暗い。だからか、締め切ったカーテンから漏れる陽光によってベッドの上で浮かび上がる二人の重なった輪郭が、クリスの目には睦み合っているように見えてしまった。実情は、ただ怪我した響が未来に手当てしているだけである。下着まで脱ぐ必要があるのかという疑問はぬぐえないが。

 一際大きく「痛い!」と声を上げた響が、保健室入り口前で目を大きく見開いたクリスの姿に気がついた。

 

「あっ、クリスちゃん! 待ってたよぉッ!」

 

「……」

 

「あれ、クリスちゃん? どうしたの?」

 

 元々そういうそう言うことに過敏なことに加え、早とちりをする傾向にあるクリスにこの光景はよろしくなかった。繰り返すが勿論、未来が行うのは通常の治療行為。そこにやらしい目的なんて無いはず。

 だがそこに、クリスの豊かな発想力が加わるのなら。

 

「──てんだよ……」

 

「へ?」

 

「ッ、学校で何してんだって言ってんだよこのバカ共がぁッ!!」

 

 淫猥なものに見えて仕方がなかったのだ。

 

 クリスの興奮が収まるまでは数分を要した。納得のいく事情の説明、先生からの許可は取得済みなこと。この二つを事細かに言い伝えて、何とか事は収まる。

 頭の中には先程まで妄想していた淫猥な想像が脳裏を過ぎり、クリスは頬を真っ赤に染める。だがそれも仕方ないことなのかもしれない。過去一度、クリスが響と未来の寮にお邪魔した時、正に睦み合っている最中だった。恍惚の表情で見つめ合う当時の二人の姿がフラッシュバックしてしまう。

 

「す、すまねぇ、早とちりしちまった……」

 

「私も未来も気にしてないし大丈夫ッ!」

 

 クリスは軽く頭を下げて謝罪する。

 

「それにしても、クリスちゃんは怪我した時とか誰かに見てもらったりしないの?」

 

「昔なら雪花が居てくれたんだが、今は一人だからな。家で怪我も包丁で指先を切ったりするくらいしかないし、今思い返せば、あたしって割と家でグータラしてるな。料理ぐらいしかしてねぇんじゃねえか?」

 

「クリスちゃんって料理が出来るのッ!?」

 

「弁当ぐらいなら作れるぞ」

 

 そう言ったクリスは、半開きになった鞄から膨らんだ赤い巾着を取り出した。それまでクリスに向けられていた視線がギョッと動き、不思議そうに見つめてくる二人に対して得意気な笑みを浮かべた。

 今までに何度も交流のあった二人組だが、こうして驚かせるのは初めての事。弁当だぞ、と努めて素っ気なく渡したつもりのクリスだが、吊り上げる広角を抑えることが出来ない。

 

「こっちがバカの分、こっちは未来の分だ」

 

「おぉーッ! ありがとうクリスちゃんッ! ひゃっほーッ! クリスちゃんのお弁当だーッ!」

 

「保健室では静かにしろ、バカ」

 

 感情を激しく露にする響を、クリスは冷たい目で嗜める。響が分かりやすい反応をしてくれるのはいつもの事。今回の目的はもう一人、巾着をじっと見つめたまま顔色一つ変えず表情を固めている、小日向未来その人だった。

 彼女には今までにたくさん世話になった借りがある。独りで排他的だった自分に手を差し伸べてくれた、最初の恩人。こんなことで返せるなんて微塵も思っていないが、少しでも喜ばせることが出来たのなら、それはクリスにとっての幸福。

 

 吟味するかのように見回すため、俯いていた未来の顔がクリスへと向いて華咲いた。

 

「ありがとうクリス」

 

「──! ま、まぁあたしにかかりゃ二人分の弁当なんて朝飯前だ。礼を言われるほどでもねぇ」

 

「でも、全部手作りでしょ? ……私、尊敬する」

 

「な、なら今度休みの日にでもあたしが教えてやるよ」

 

「本当? 良いの?」

 

「あ、あぁもちろん。今度の日曜日にでも良いなら」

 

「じゃあ、お願いしても良いかな」

 

 未来の笑顔に、クリスは勝てない。

 それに、誰かに頼られるというものは、存外悪いものではないとクリスは認識した。故に照れ臭いのだ。ただでさえ赤くなりやすい頬をリンゴの如く真っ赤に染め、指先で掻く姿は何ともはや。気勢に任せて胸を叩き「任せとけッ」と豪語したのは良かったが、声は震え浮かんだ笑みは酷くぎこちないものだった。

 そしてそんな姿を、響が見逃す訳もなく。

 

「あれれ~? クリスちゃんってば、顔真っ赤っ赤~♪ もしかしてもしかして、未来のお礼に照れてるのかなぁ~♪」

 

「~~ッ!! うるせぇバカァッ!!」

 

 ふざけながらも図星を突いてくる響に、クリスは声を荒げることしか出来なかった。

 

「もう二人とも、保健室では大きな声を出さない。響、昼休みに課題の提出をするんでしょ?」

 

「そーだったそーだったッ! シュババッと行って最速で提出してくるよッ! だから二人とも、私が帰ってくるまで弁当はそのままでお願いだよッ! 約束だからねッ!?」

 

「大丈夫だよ、響。二人で待ってるから」

 

「ヨシッ! それじゃ行ってきまーすッ!」

 

 その言葉を残して、響は保健室を飛び出した。

 

「……台風みたいな奴だな、ホント」

 

「それが響の良いところでもあるんだけどね……」

 

 あまりにも元気すぎる響に、二人は笑う他無かった。

 だが騒がしいのもそれまで。元々他人と話すのが苦手なクリスと、大人しい性格の未来が同じ部屋に居ても会話が然程続くわけもなく、両者の間には沈黙が流れ始めた。切り出すための話題も見つからず、かといってこの状況を甘んじて受け入れたくないクリスは葛藤する。

 悩み果て頭を抱えそうになるクリスの視界の端で、黒髪が揺れていた。その先にいるのは口に手を翳してクスクスと笑っている未来の姿だった。

 

「な、何笑ってるんだよ?」

 

「ごめんね、頑張って話題を考えてくれてるクリスの姿がどうしても面白くて」

 

「~~ッ!? つ、つまらないのは嫌だろ? だから、あたしが話題に華でも咲かせてやろうかって」

 

「クリスは優しいね」

 

「別に、優しくなんかねぇよ。ただ、お前には助けてもらってばかりだから、何か出来ればって思ってるだけだ。でもそういうのはあたしには向いてないらしい。まともに話せるような話題がこれっぽっちも思い付きやしねぇ」

 

「それでも、誰かのために考えられるのはすごいことだよ」

 

「お前も、あのバカのために頑張ってるだろ?」

 

「……そう、だね」

 

 予想もしなかった声音が、未来から漏れる。思わず側の未来へ目を遣れば、そこにいるのは儚げな雰囲気を漂わせる弱々しい未来の姿。悲しんでいる、というわけではなさそうだ。罪悪感が一番正しいのだろうか。

 未来と響の関係を、クリスはこれまで深く立ち入ったことがない。今までただ単に仲の良い二人組という印象があったが、どうにも並々ならぬ事情があるらしい。深くまで立ち入るつもりはない。クリスと雪花の例があるように、この手の人間関係を解決するには周囲の助けがあろうと、結局のところ本人たち次第なのだ。

 

「まぁ、そのなんだ。あたしに手伝えることがあれば言ってくれ」

 

「うん、ありがとうね」

 

「たっだいまーッ!」

 

 それまで漂っていたしんみりとした雰囲気が、一人のムードメーカーによって木っ端微塵に砕かれた。それまで緊張の糸を張り続けていたクリスと未来は、あまりの緩急に思わず笑いを漏らしてしまう。

 

「あれ? 二人ともどうしたの?」

 

「別に。一人でも元気な奴がいれば、存外空気も変わるもんだなと感心してただけだ」

 

「クリスと同じ、かな」

 

「はぇ?」

 

 状況が理解できない響の姿を見て、二人は小さく笑いあった。

 因みに──

 

「んふーーッ!! クリスちゃんのお弁当すっごく美味しいよ!」

 

「美味しい……」

 

「あたしが一から作った弁当だ。しっかりと噛み締めて味わえよな」

 

 日向で食べるクリス製の弁当は、何物にも代えがたい程に美味しかったという。



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第十話 前半

重ね重ね、遅れてすみません。
言い訳になりますが、最早モチベーションが急降下、この作品どころか創作という行為が出来ないほどまでに落ち込んでございます。
今年までには一期を終わらせたいのですね……(諦)


「……っ! ぐぅっ──!!」

 

 両足に走る鋭い痛みと強い痺れに抗いながら風鳴翼は今、不自由な足を松葉杖で補助しながら病院の廊下を歩き続いていた。月を跨ぐ長い眠りを経た体は衰弱し、以前のように歌って踊れる状態ではない。その事を目覚めた直後に知り、心の中へ真っ先に思い浮かんだのは自信に対する憤り。そして、後悔だ。

 まだまだ未熟だったと言わざるを得ない。心の奥に触れられるような挑発に乗り、今までのことを、そしてこれからの事を失念して絶唱を口にしてしまった。何たる体たらく、何たる無様。二年前に亡くしてしまった天羽奏という片翼(相方)に、これでは見せる顔が無いじゃないか。

 馬鹿な私と自嘲する翼の言葉は、しんと静まり返った病院の中に溶けていく。

 

「──ぁ」

 

 少し、ほんの少し気が抜けた時だった。接地させた杖の角度が悪く杖の先端に設えられた滑り止めが意味をなさない。つるりと、上半身が前のめりになって倒れていく。以前の体調なら右足を一歩踏み出して済む話だが、今はそうではない。痺れる足で踏ん張るなど土台無理な話。近付く冷たい無機質な床、頭を打ち入院も延長可と傍観に至った時、突然として腹部にちょっとした衝撃が走る。少し圧迫され「ぅっ」と声を漏らしてしまうが痛みはない。床への接近も、止まっている。

 乱れる思考を諫めるように、背後から聞き慣れた声がかけられた。

 

「何してんだよあんた」

 

「その声は……雪音?」

 

 声の主は雪音クリスだった。

 翼がそちらへと顔を向けると、クリスはむくれた表情をしていた。

 

「長いこと寝て仲間の声も忘れたってのか? ボケるのなら寝起きだけにしとけよ。お前が病室から勝手に消えたって看護婦が慌ててたんだぞ」

 

「すまない。だが、防人である私が横になっているだけでは……」

 

「バーカ、あたしらシンフォギア装者の中で、あんたが一番の戦力で先輩なんだ。そんな人間が無茶ばっかしてどうすんだよ。入院期間伸ばすつもりか?」

 

「そんなつもりは……」

 

「あんたにそんなつもりが無くても、あたしらの目にはそう見えんだよ。アーティストもやってんなら周りからの目も気にしろっての。とにかく起こすぞ、立てるか?」

 

「あ、あぁ、何とか」

 

 クリスの助けを借り、今一度松葉杖の角度を調整してから翼はゆっくりと立ち上がった。

 これほどまでに後輩の前で晒す醜態もないだろう。見せる顔が無いとはこの事か。

 

「怪我はまだ完全に治ってないんだろ。無茶して入院期間が伸びる方がバカらしいと思わないか?」

 

「雪音の、言う通りだ」

 

「分かってんのに努力出来ないのは間抜けの証だぞ」

 

「……すまない」

 

 醜態を晒し続けた翼が、助けてくれたクリスに帰す言葉は謝罪以外に持ち合わせてはいなかった。

 ったく、とクリスは軽い悪態を吐きながらも翼が立ち上がれるよう、脇の下に手を通して補助に徹した。

 

「んで、無理した理由でも聞かせてもらおうか?」

 

「うっ……私は今までずっと寝てたから、その分をと……」

 

「だからって松葉杖つきながら病院内徘徊すんのはどうかと思うぞ。あの立花響(バカ)でもそんなことしねえよ。むしろ──ほら、外見てみろよ」

 

 鋭い目線を向けてくるクリスに従って、翼は窓の外に目を向ける。

 大きく開けたグラウンド、そこに設えられた陸上トラックを走る二人の少女。翼から見て右側、癖の付いた橙色の髪を揺らしながら肩を荒く揺らす少女は、見まごう事なき立花響の姿だ。

 以前はあれほど嫌い視界に入れることさえ辟易していたが、雪花の前に完敗し凝り固まっていた矜持と意地を破壊された結果、今では怒りが沸くどころから自身に対する憐みすら覚えるほど。

 

 あれだけ拒絶して、今更どのような顔をして会えと言うのか。

 無様な姿を晒して、今更どのように恥を漱げと言うのか。

 

 今この時が、翼の弱さを映し出している一番の場面だった。

 

「あんたが散々嫌った奴だよ。覚悟が無いからって突き放してただろ」

 

「そんなこと、突き放していた私がよく知っている……。自身が未熟なことを立場に押し付け、ましてや人々を守るはずの剣を向けてしまった。いくら心が落ち着かず荒れていたからと言って、切っ先を向けた罪から逃れられる訳じゃない。

 だが、私なんかがどうこうと言い訳をしたところで、立花は私を許してくれるはずも……」

 

「グチグチと言葉を並べ立ててるところ悪いが、あたしはあんたがあのバカを知らねぇってことと、相当な意気地無しだってことはよぉく分かった」

 

「な──」

 

 予想だにしていなかったクリスからの辛辣な言葉に、翼は驚愕を隠せない。

 

「謝ることぐらい出来ないで何が人を守るだ。防人なんて言葉だけの張りぼてになっちまうぞ」

 

「……」

 

「はぁ……とにかく、」

 

 今の翼に、返す言葉などあるはずもなかった。

 

 

 

 

==========================================

 

 

 

 

 日が傾き西の空がゆっくりと茜色に染め上げられていく夕刻時は、リディアン音楽院近くに存在する商店街が人で溢れ返る頃合い。

 雪花は商店街に出来た人の川の流れに従うように、目的地となる立花響の下校路へと向かっていた。出立前にフィーネから聞かされた情報によれば、ここを抜けた先の存在する公園をいつも使っているとのこと。その情報が嘘ではないとの確信はないものの、自身の熱意は伝えられたのだろうと信じて雪花は向かう。

 その心境は決して落ち着いたものではない。

 言い知れぬ胸騒ぎに加え、刻一刻足早に変化し続ける周囲の状況。はっきりと言って、フル回転し続ける脳がいよいよ限界を迎えようとしていた。ぼやくように呟いた「姉さん大丈夫かな」という言葉が、幸か不幸か目的とする立花響の友人に聞かれることとなるとは露知らず。

 

「……クリス、ちゃん?」

 

 背後から聞こえたのは、ちりんと微かに鈴が鳴るような弱々しい少女の声だ。今までに聞いたことのない声があろうことか姉の名前を呼んでいる、しかも雪花に向かって。口をそちらへ向けずにはいられない出来事に、雪花は声の主を確かめるため振り向かずにはいられない。

 踵を返し、銀髪を揺らしながら雪花は振り返った。

 背後に居たのは頭に着けた大きな白のリボンが特徴的な、そこはかとなく儚げな雰囲気を漂わせている黒髪の少女。深緑色の瞳を潤ませ、揺らし、今にも泣きだしてそうな彼女は雪花の顔を改めて視認すると、気まずそうに口籠り目線を右へ左へ彷徨させていた。

 

 制服からしてリディアンの生徒であることは間違いない。

 であれば以前の講演会で顔をバレているし、姉である雪音クリスとの関係性は周知の事実。誤魔化すことも、嘘を吐く必要もないだろう。ともあれまず応答せずには始まらないと、雪花は努めて平静を保ち声を出した。

 

「こんにちは。リディアンの人ですか」

 

「──もしかして、雪花、さん?」

 

「はい。雪音雪花、以前リディアンでヴァイオリンの演奏をさせていただいた者です。こんなところでお会いするなんて、奇遇ですね。では」

 

「あっ……」

 

 完璧な表情、完璧な応対、完璧な別れ。

 現状出来うる最高の態度で臨み、不自然さの欠片の無いと雪花は自負しその場を後を去ろうとする。今は立花響の下校路を潜み待ち伏せるだけ。そこに不安材料なんてものはない。

 また話しかけられなければ、だったが。

 

「ま、待ってください」

 

 自由だった右手を、少女にギュッと力強く握り締められていた。

 防衛本能から思わず振り払ってしまいそうになるものの、あまりの力強さに少女が怯むことはない。そして雪花はその様子に驚きながらも、見つめてくる少女の力強い目に怯むしかない。

 一瞬立ち止まり、逃れる術を失ってしまったのが詰みだったのだろう。

 どうしようもないと諦め、雪花は腰を据える。

 

「あの、どうかしました?」

 

「少し、お話しませんか……? クリスちゃんの妹さん、ですよね」

 

 鋭い眼差しを受けて、雪花は思わず首を振ってしまっていた。

 

「私、小日向未来って言います」

 

 少女──小日向未来のお誘いを、雪花は承諾した。



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第十話 後半

前回投稿日:03月25日

今日:08月28日

……?
はい、五か月空けての投稿となり、非常に遅れてしまい本当に申し訳ありません。
せめて終わるとしても一期分のストーリーは上げ切りたいです。



「これを、どうぞ」

 

「すみません、奢ってもらってしまい」

 

 未来から差し出された冷たい缶ジュースを受け取り、少し乾きを覚え始めていた喉を潤した。

 一息ついて、雪花は改めて周囲を見渡す。

 あの後、切実な表情をした未来によって連れてこられたのは、都会の中で青々と豊かな自然を残した大きな公園だった。道中に聞いたところによれば、公園を横断するように伸びるこの道は彼女とその友達が下校時によく使う、商店街までのショートカットだとか。人通りも、街灯も少ないこの道をクリスが使うのかと考えると、雪花は気が気でも居られなくなる。

 少しばかり辺りを見回して雪花は、未来に問いかけた。

 

「この道は夜とかも使ってるんです?」

 

「いえ、いつもは、その、お昼にしか使ったことはありません。寮の門限も午後七時までで、あんまり夜間外出は出来ない規則になってますから」

 

「なら良かった」

 

 ふぅ、と大きく息を吐いて安堵の気持ちを分かりやすく表現すると、未来もそれにつられて堅めだった表情が綻んだ。やはりというか、彼女が親しくしている姉クリスと同じ顔をした相手に畏まって話すというのは違和感が大きいのだろう。その気持ちは分からないでもない。

 空気の緊張を少しでも解きほぐすため、雪花は話す。

 

「そう言えば、私の演奏どうでした。演奏会という形で人前での演奏は何度かあったのですが、瞳を輝かせる学生たちからの向けられた視線は初めてだったので妙な緊張がありませて。もし失敗してた箇所があったら教えていただけると幸いです」

 

「えっ、あっ私が指摘できることなんて何にもなかったです。私と一歳差なのに、堂々と演奏してて凄いなって……」

 

「あはは、気を使わせてしまいました」

 

 これで少し軽くなっただろうか。

 軽い雑談で気の持ちようが楽になってくれればそれで良し。ならなくても、雪花に対する印象が柔らかいものになってくれれば口も軽くなってくれるだろう。元々ある雪音クリスの親族と言うアドバンテージも考慮すれば、話しやすくなって結果彼女からの拘束時間が短くなる。

 後は目を合わせすぎないようにしていれば、話してくれるはずだ。

 

「その、クリスちゃんについて、お話があります」

 

(来た)

 

 クリスと言う単語に引っ張られて雪花が意識を未来へと向ければ、そこには口をキュッと一文字に結んで眉間に皺を寄せている未来の姿。誰が見ても真剣なその姿に、この場から逃れられるような雰囲気でないことを悟る。

 

「クリスちゃんの元へ戻ってあげてくれませんか。話はクリスちゃんの方から聞きました。日本にやってきた日から離れ離れになってしまったことを」

 

「離れ離れ、ね……」

 

「こうして私たちが通うリディアン近くに来たってことは、クリスちゃんの元に帰るためなんですよね。今はお仕事が大変で帰れないかもしれません。でも、クリスちゃんは雪花さんが帰ってくるのをずっと待ってるんです! お願いします!」

 

 座りながらもこちらへ頭を下げる未来の姿を見て、雪花の胸の奥には沸々と罪悪感が沸き起こる。それも、話の内容が姉のことならばなおのこと。

 だが、ここにはフィーネの監視が行き届く場所だ。現に、電灯近くに併設された古い監視カメラがこちらへとレンズを向け、おかしな行動をしていないか一挙手一投足余すところなく見られている。公園の監視カメラ如きにマイクまでは付いていないだろうが、あまり気を抜いた事を言うのは憚られる。

 

「……?」

 

 どう答えようかと頭を捻れば、ふと肌を刺すようなチクリとした不快感に襲われた。そして同時に来る視線と胸騒ぎ。雪花の中に存在する野生的勘が、これまでに無いほどの警鐘を打ち鳴らしている。どこからだと周囲を見回すが、ここは自然溢れる公園のど真ん中。まさか不審者でも現れたのかと警戒を最大限に引き上げ、その場に立ち上がり改めて周囲を見回した。

 隣では未来が不思議そうに見ていたが、彼女に構っている暇はない。はっきりと言って、異常だ。

 

「雪花さん?」

 

「未来さん、突然ですみませんが今から走れますか?」

 

「へ? は、はい。走れますけど」

 

「良かった、なら今すぐここから──」

 

 ──パシュッ、パシュパシュッ。

 

 そう決断した時には、既に遅かったのだろう。

 そして、感じていた視線と胸騒ぎは決して間違っていなかったことを、体が弾かれるように後方へと宙を舞い視界が空へと向けられた時に思い知らされた。驚きのあまり滞空時間が数分にも感じられる。だがそれも終わりが来て、雪花の体は地面へと叩きつけられた。

 

「ぁがぁっ……!!」

 

 銃撃だ。

 右腕に二発、右肩へ一発。偶然ではない、正確無比な射撃は獲物を殺害するのではなく、無力化するための攻撃。先ほどまでこちらを見ていた監視カメラも同時に破壊されている。

 撃ち抜かれた右腕は既に使い物にならなくなり、出来た三つの銃創からはどくどくと血液が溢れ出す。これ幸いと弾丸は貫通し異物は残ってないが、早急な止血処置をしなければ低血圧からの意識不明を誘発し公園のど真ん中で倒れかねない。それも銃撃してきた奴らの目の前でだ。殺してくださいと言ってるのと変わらない。

 そしてもう一つの懸念点は未来だ。 

 

「あ、あぁ……」

 

「ぁぐぅっ……!! 未来さん……っ、こっち!!」

 

 泣きそうで、吐き出しそうな痛みを堪えて、その場を立った雪花は腰を抜かしてしまった未来の手を引き、最寄りの自販機へと身を隠す。

 出血口を塞ごうにも右腕を使えなくさせられ、三つもある銃創なんてものは雪花の左腕では圧倒的に足りない。痛みのあまりに脂汗が出て、手が震える。なるほど、これが悪人の末路かと今の危機的状況に何故か得心がいくが、頭を振って弱音を振り払った。

 

「はぁ……はぁ……っ! うっ、ぐぅぁぁ……!! タオルっ……! タオルありますか……っ!」

 

「あっ……あっ……」

 

「未来さん……っ!」

 

「あっ、ありっ、あります……っ!!」

 

 無理もないだろう。銃創から溢れ衣服を染め上げるほどの出血なんて、一般的な学生には見る機会などあるわけがない。あってたまるか。

 だが、雪花も今ここで死ぬつもりはない。タオルを使い未来の助力も借りて、タオルで腕を思いきり締め付けながら簡易の応急処置を行う。燃えるような痛みだけが意識を蝕み、雪花は半強制的に歯を食い縛らずを得ない。血が流れていけばいくほど、燃えるような熱を持った痛みは鋭い冷たさへと変わっていく。

 

「変な視線を感じてはいましたが……、まさかっ、初手から発砲してくるような武装した奴らだとは……ぐぅっ……! どこのバカですか、いったい……!!」

 

「血、血が……!」

 

「私のことは構いません……。それよりも、鏡とか持ってますか。手鏡とか、小さいのでも一つあれば嬉しいんですけど」

 

「は、はい……!」

 

 最早泣きそうな未来を宥めるように努めて優しい口調で話しかけ、足元に転がるバッグの中から彼女が取り出したオレンジ色の手鏡を受け取った。自販機の横から手鏡を出し、撃たれた方向へ向ける。映るのは西日が沈み始め薄暗く不気味な木陰と、その中で怪しく動き続けている影。一つ、また一つと木と木の間を中継して、じわりじわりとこちらへと迫り続けている。統率された動きからして、訓練された軍人か何かだろう。

 ともなれば、雪花がこの状態で真っ正面から立ち向かって勝てる見込みは間違いなくゼロ。残された手は一つだけと覚悟を決めて、服の内側から赤い柱状のクリスタルを引っ張り出した。手の中で力一杯握りしめ、近付いてくる足音も聞き、そして覚悟を決める。

 

「雪花、さん……?」

 

 未来も、何かを感じ取ったのだろう。どこか不安そうな目でこちらを見ている。

 

「未来さん。これから先何が起きても、他言無用でお願いしますね。もちろん、姉さんにも」

 

「何を──」

 

 

 

──Killter Ichaival tron(貴女一人を想って)──

 

 

 胸の奥に浮かび上がる歌を歌い上げ、手の中から現れた五線譜模様の眩い光の繭に自身の体を包ませる。編み上げられたフォニックゲイン保護フィールドは、その姿を自販機から相手へと見せる。纏うのは深紅の鎧、第二号聖遺物イチイバルのシンフォギア。装着の際、右腕の銃創には聖遺物なりの優しさか超常の力で施された応急処置によって、出血が一時的に停止する。そうして装着されたイチイバルのシンフォギアは、姉雪音クリスが纏う物は似ても似つかない。

 頭部を守る深紅のヘッドパーツ。雪花のボディラインを浮き立たせるタイトなバトルスーツを纏い、主兵装となるガントレットと脚部の装甲は薄い。その代わりではあるが、装甲内に仕込まれた銃はさながら近未来のスパイ映画を彷彿とさせるカラクリである。

 

 光を見て焦ったのか、足音は大きく、そして速くなった。

 だがそれも既に遅い。自販機の向こうから飛び出していた武装の男を、両足に込めて跳びその首めがけて手を伸ばし、掴む。体格では遥かに劣るが、一度超常の鎧を纏ってしまえばただの人間に負けるはずがない。半ば押し倒すような形にはなったものの、マウントを取りそのまま首を掴む手を力を込めてへし折った。ゴキリと生理的に受け付けない絶命の音が鳴る。

 

「未来さん、目と耳を塞いでじっと堪えていてください」

 

 それだけを言って雪花は次の標的へと肉薄した。大人の二十歩分はシンフォギアで一ステップで済む。懐へと潜り込み、振りかぶった拳は男が着込んだ防弾チョッキも無効化して、人体へ直接深刻な損傷を与えた。口から吐き出される血液を被りながらも、執念深く徹底的に追い詰め、手首を捻りガントレットの中からせり出した銃口を頭部へと向けそのまま撃ち抜く。これが仕込みと言われる所以。姉と変わらず銃がシンフォギアの武装として現れるのは、やはりバルベルデでの経験が起因する。もっとも、これらを仕込みとして悪辣な変貌をさせたのは、年単位にわたるフィーネの刷り込みによるものであるのだが。

 弾丸の雨が雪花を襲うが、それら全てを超常の鎧は何とも無しに弾いた。痛みも、衝撃も、全てはシンフォギアによって無効化され、使用者たる雪花の体にはかすり傷さえつけさせない。

 

『化け物め……』

 

 英語で罵られてしまったので、ご丁寧に英語で返す。

 

『化け物? 手を出してきたのはお前たちだろう。人の右腕をバカスカ銃で撃ち抜いてくれたせいで、応急処置が出来ても痛いもんは痛いんだよ。それに加えてオレの邪魔までしてくれたんだ。生きて帰れると思うな』

 

『っ、撃てっ、撃てッ!』

 

 どこから現れたのか、また二桁以上の男たちがやって来てざんぶりと弾丸の雨が、横殴りで叩きつけてくる。だが、むしろそれは雪花にとって好機。立ち止まって行う射撃は案山子同然。両腕を顔の前に構え弾丸を弾きながら、また同じく肉薄する。振り抜いた拳は男の腹部を防具ごと貫いた。そのまま男の体を盾にして、銃で男たちを撃ち抜いていく。

 片っ端から、邪魔した奴らの眉間を一人一人、逃がすことなく、撃ち殺していく。

 

 ──そうして残ったのは、幾つもの死体。

 血の鉄臭さが充満するこの場所に居るのは返り血で塗れた雪花と、自販機の影からこちらを覗き込んでいる未来の二人だけ。シンフォギアの展開、加えてここまでの騒ぎを起こしたのだ。既に遠くの方から一般人たちのざわめきというものが聞こえてくる。この様子なら、銃声を聞いた通行人が警察も呼んだのだろう。そうであれば二課のメンツもやって来るはず。

 何より、今回襲撃をかけてきたのは外国人。聞き慣れた英語からして米国の人間。

 予測の域を出ることはないが、最近のフィーネの悩みの種はもしかしたらこいつらなのではないか?

 電話を切った後、むしゃくしゃしたフィーネの後処理をさせられていたのは、こいつらのせいなのではないか?

 

 仮にそうだとして、武力行使に出てきたのだとしたら──。

 

「もしかして、フィーネの方にも……?」

 

 そうなればこの場に居ても立ってもいられなくなる。

 フィーネにはネフシュタンの鎧を返しているが、屋敷には彼女が悲願成就の為にこれまで集めてきた数多くのデータが失われるようなことになれば、雪花の目的の進捗も後退する。これまで殺してきた人間が無駄になる、それだけは防がねばならない。

 雪花は目の前の惨事に怯えて震えている未来へ、膝を着いて話しかける。

 

「未来さん、ここに居れば警察か二課に保護されます。この惨状ですから、ただの女学生であるあなたが疑われることはありません。何より、二課はあなたのことを庇ってくれるでしょうから」

 

「せ、雪花さんは……?」

 

「私は少し行かないといけない場所があります。出来れば、私の事は黙っていていただけると嬉しいのですが……まぁ、無理ですかね。それでは」

 

 未来が何やら言いたげな顔だったが、ごめんなさいと謝罪を添えて雪花は駆けだす。

 いち早く、屋敷へと戻らねば。



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小話:そこに一人、残されていて

「ッ!? 都心の公園内にアウフヴァッヘン波形を検出、これは……第二号イチイバルですッ!!」

 

 二課本部の発令所内に、オペレーター藤尭の焦り混じりの大声が轟いた。それまでどこか和やかな雰囲気であった空気は束の間のこと。ここに居る全員が驚愕に顔色を染めて、映像が発令所前方の巨大スクリーンに映され、その事実は周知のものとなる。

 

「イチイバル、だとぉ……ッ!?」

 

 二課司令、風鳴弦十郎は目の前の事実と鼓膜を揺らして伝えられる報告に目を丸くせざるを得ない。

 何故ならばイチイバルは雪音クリスただ一人が持っているはずの聖遺物。まだノイズ反応が出ていない状況、加えて彼女の性格から悪意のあるイタズラをするわけがない。

 

 そう内心で確信をしていようと、しっかりと裏を取らなければいけないのは、二課司令官としての義務だ。

 

「友里、クリスくんに繋げッ! 真偽のほどを確かめるッ!!」

 

「了解、クリスちゃんへの端末へリンク完了。回線オープンまで3、2、1!」

 

 カウントダウンが止みモニターに映し出されるのは、茜に染まった空と通学路を背景にして、訝しげに端末の画面を見つめているクリスの表情だ。右端からは制服姿の立花響も顔を覗かせ、どこか興味深そうに見つめている。

 

『何か用か、おっさん。あたしはこれから見舞品を買いに行くので急がしいんだけど』

 

「単刀直入にクリスくんへ質問する。今現在、イチイバルのシンフォギアは展開していないか?」

 

『ハァ? ノイズも居ねぇのに何でシンフォギアなんて使わないといけないんだよ。そもそも、あたしがイチイバルを使ったらおっさんのところに情報が行くんだろ? まさか来たってのか?』

 

「察しが良いな、その通りだ。つい先程二課本部の発令所でアウフヴァッヘン波形を検出した。称号の結果、イチイバルとして認められた。だが、君は今使ってないんだな?」

 

『だから使ってないっての。そんなに疑わしいなら、これを見せてやる。ほら』

 

 クリスがブラウスの首元を手で少し開け、ネックレスの紐を引っ張れば現れたのは赤い柱状のクリスタル。今さら見間違えることもない、覚醒前のイチイバルのシンフォギアだ。

 それを見せられ、弦十郎は余計悩む羽目になる。

 確かに、一連のことで雪音クリスの嫌疑が綺麗さっぱり晴れた。それはもちろん、彼女の過失ではないことへの安堵と安心に心が満たされる。仲間へ容疑が向けられるのは、弦十郎にとって望まれたことではない。

 

 だが、問題は誰がイチイバルを起動させたのか、この一点の謎はさらに深く深まるだけだった。

 シンフォギアの開発、そして製造の全てを行えるのは、二課のNo.2とも言える櫻井了子ただ一人。もし目の前の全てが背反せずに事実として処理されるとするならば、イチイバルのシンフォギアはこの世に二つ存在することになってしまう。そうなれば櫻井了子は我々の知らぬ間にシンフォギアを新規開発し、二課以外の人間に貸し与えてることになる。

 仮に、仮にそれら全てが事実だとして、何故イチイバルをわざわざもう一つ作ったのか? 貸し与えた人間とはいったい誰なのか?

 

 聖遺物の研究、シンフォギアの開発には、嫌な話莫大なお金が必要になる。

 欧州、米国、そして日本。我々が何故開発にこぎつけられたかのかと言えば、

 

 全ては未だ憶測にすぎない。

 組織内で不和を作ってしまわぬよう、不明瞭なことは口に出さず居た方が良いだろう。

 

「分かった。これでクリスくんはイチイバルの無断起動の容疑が晴れたが、しかしむしろ謎は深まった」

 

 発令所内に緊張の糸が張り巡らされる。

 まずは調査だと意気込んだ手のひらに拳を突き立て、大きく息を吐いた。

 

「響くん、そしてクリスくん。アウフヴァッヘン波形が検出された以上、この件に聖遺物が関与していることは間違いない。一課、ただの人間には対処が難しい事件の可能性もあるだろう。そこで、君たちには検出された現場まで向かい、いざとなれば安全の確保を頼む。この通信を終えた後、こちらも二課のエージェントを連れて現場へ向かうつもりだ」

 

『分かりました! 師匠、先に行って待ってます!』

『おっさんもあまり遅れてくんじゃねぇぞ』

 

「ああ、分かっている」

 

 弦十郎の言葉を最後に通信を切る。

 

「友里、エージェントたちの手配を。藤尭は一課からの連絡か入り次第連絡を頼む」

 

「「了解」」

 

 指示を終え、弦十郎は発令所を出て地上へと繋がるエレベーターに飛び乗った。

 ノイズの急激な発生率上昇、突如として現れたネフシュタンの鎧の出現、そして行方不明だった雪音雪花の出現。特異災害対策の名を冠しているだけあって、どうしても突然現れるアノマリーや事件に関しては後手に回らざるを得ない。

 何より、相手は常識を超えた非常識だ。民間にもノイズの脅威が浸透しその為のシェルターや装備が認められてきているが、未だ超常に対する理解度は低いと言わざるを得ない。最前線で命を張っている二課でさえ、惑わされ未だ取るべき道をはっきりと定められていないのだ。

 

 目を瞑り、握りしめた拳に爪が突き刺さる。

 

(……先頭に立ち未来ある子供たちを守るべき俺たちが、あろうことか彼女たちの後ろに立ち指揮せねばならぬとは。とは言え、主だった対抗策がない以上彼女たちに任せる他ない。我々大人の何と不甲斐無いことか……)

 

 無念を抱えながらも、地上に出た弦十郎は既に待機していたエージェントたちを引きつれ、車列を作り現場へと向かった。

 

 着いた時には既に一課が現着しており、公園を含めた周囲一帯の封鎖を行っている。

 車から降りてすぐ、現場の異様な空気と言うものを肌と鼻で感じることになった。当たりに漂う濃厚な血の鉄臭さ。じっとりと身体に纏わりつく重ったるい不快な空気。幾度と現場に司令官として入り経験してきたからこそ、此度の異常さはこれまでに培ってきた勘が告げている。

 

 そんな時だ。

 

「未来、もう大丈夫だから深呼吸して。私も、クリスちゃんも居るから」

 

「はっ……はっ……!」

 

 救急車の中、頭部を彩る白の大きなリボンが特徴的な黒髪の少女を、立花響が必死に背中を擦っている姿があった。

 彼女たちがシンフォギアを展開せずにいる以上、驚異となるノイズは存在していないのは理解した。そして、怯えている少女が今回の事件に巻き込まれたのだとも。いつもであれば、今回の事件の守秘義務について説明し書面にサインをしてもらうところだが、そうもいかない様子。

 

「響くん」

 

「あっ、師匠ッ! こっちですッ!」

「おせーぞ、おっさん」

 

 手を振り存在を知らせる響とクリスの元へ、弦十郎は向かった。

 少女が着ているリディアンの制服には、僅かな血液が付着している。そして、近付いて分かる少女の体の震えと制服からの血の臭いが、少女が現場の近い場所にいた事を雄弁に語っていた。

 

「未来、師匠が来たらもー安心ッ! 誰よりも強い人なんだよッ!」

 

「うん……うん……」

 

 どこかうわ言の様に返事をする少女の名前は、小日向未来だとクリスから教えてもらった。

 そして彼女は二人と親しい関係の様子。初めこそ憔悴しきった様子で俯いていた彼女だったが、救急隊員が差し出した温かいお茶を受け取ると少しずつ呼吸が安定し始める。それでも未だ会話可能状態ではないのは、見て取れる。

 

「なるほど、精神を酷く消耗しているようだ。ここで余程凄惨な物を見てしまったんだな。響くん、クリスくん、二人はその子を介抱してあげてくれ。親しい関係なのだろう? 年の離れた俺が話しかけるよりも、よっぽど良いはずだ。俺は現場を見てくる」

 

「ああ、こっちは任せろ」

 

 彼女に二人を任せ、弦十郎は公園入口へと向かった。

 

 

 

「特異災害機動対策部二課司令、風鳴弦十郎だ」

 

「はっ、既に話は伺っております。こちらへ、現場までの間私が現場の説明をさせていただきます」

 

「ありがとう、よろしく頼む」

 

 胸元にしまっていた身分証を見せ、公園の入り口を見張っていた女性隊員と挨拶を交わし、公園内へと進入する。

 彼女の後ろを付いていけば、現場の説明が始まった。

 

「午後5時12分頃、一般の電話回線を使用して警察の方へ銃声がしたと通報が入りました」

 

「その1分前には、二課の方のレーダーに聖遺物が発するアウフヴァッヘン波形を捉えていた。今回の件には、間違いなくノイズ以外の特異災害が併発していると俺は考えている」

 

「えぇ、こちらも同じ考えです。そしてそれが、今回の悲惨な現場を作り出したとも言えます」

 

 女性隊員は、少し息を呑んで汗を垂らした。

 

「ハッキリと言って、今回の現場はノイズが作り出した炭素よりも惨い。既に慣れていらっしゃるとは思いますが、それ相応の覚悟を」

 

「一課の隊員がそこまで言うんだ、無下にするつもりはない」

 

「有難うございます」

 

 少し歩いて、道を阻むブルーシートの幕が現れる。

 女性隊員はどうぞと言ってシートの端を掴んだきり、もう話すことはなかった。エージェントたちには周囲警戒の命令を下し、彼は一人中へと入った。

 そこで見たのは、なるほどと呟き眉を顰めるもの。自動小銃をを装備した重武装の男たちの死体が数十も転がり、青々しく映えるはずの芝生が血によって赤黒く染め上げられ、転がる薬莢は土を覆い隠していた。血の臭いはより濃くなり、たまらず鼻を覆ってしまうほど。

 だが、それと同時に火薬臭さが鼻につく。

 

(ここに居たこの者たちが、これほどまでに銃を撃った目的は何だ? やはり、イチイバルなのか?)

 

 これほどまでの現場を作り出せるのは、ただの人間では不可能。ともなれば、やはりイチイバルの信号が関係してるのだろう。防弾チョッキを着こんだ武装済みの男の腹部を貫通させ殺害するなど、ただの人間ではどう考えても不可能だ。

 謎が、謎を呼ぶ。死んだ男たちの目を閉じ、これをせめてもの供養に。その際顔を覗き込んだが、顏立ちと首元にぶら下げたドッグタグがからして米国の人間であることは確かだ。

 

 あまりにも手掛かりが無さすぎる。

 米国の手引きは間違いなく働いているだろうが、誰がイチイバルを行使してこの様な事態が引き起こされたならその原因を確かめなければならない。

 

『……おっさん』

 

 耳に着けた無線から、不意にクリスの声が響いた。

 

「クリス君? 先程の子はもう大丈夫なのか?」

 

『あぁ、だいぶ落ち着いてきて話せるようになってきた。それよりも、おっさんに聞かせないといけない話がある。だから、一回戻ってきてくれ』

 

「無線では言えないような話か。分かった。こちらも現場をある程度確認した。すぐにそちらへ向かう」

 

『……頼む』

 

 通信を切断する前の、クリスの泣きそうな声が耳に残った。

 その声に嫌な胸騒ぎを覚え半ば駆けるような形で現場を飛び出し、弦十郎は先ほどの救急車の元へ向かう。

 

「戻った、何かわかったのか」

 

 響、クリス、未来を包む空気はどこか暗かった。

 それでもクリスが口を開いてくれたおかげで、未来がそれまで俯かせていた顔を上げて深緑色の瞳が向けられた。

 

「……未来、おっさんに聞かせてやってくれ」

 

「うん……。弦、十郎さん」

 

「何があったのか、詳しく聞かせてくれるか」

 

「公園で会った雪花さんが、男の人たちに、銃で撃たれたんです……。でも、変な呪文みたいなのを唱えると、赤い鎧みたいなものを纏って男たちを……」

 

「何、だと……ッ!?」

 

 彼女から齎された情報は、それまでの憶測を補完する驚愕的な情報だった。



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第十一話

 都会のコンクリートジャングルを跳び抜け、傾斜の付いた山道を駆け登る先にはフィーネが居る筈の屋敷。シンフォギアの能力を使った最短距離で向かえば、その道中に大の大人が踏み荒らしたであろう太い獣道が幾筋も残され、それら全ては今向かっている屋敷へと続いている。

 嫌な予感は的中したようだ。こちらを襲撃してきたあの男たちの仲間は、間違いなくフィーネを狙って動いている。もしかするともう屋敷は襲われているかもしれない。

 

『おい居たぞッ! ターゲットの女だッ!』

 

「もうこんな所にまでッ、わざわざオレのためにご苦労なことでッ!!」

 

『捕獲しろッ! 殺してもいいッ、体は必ず持ち帰れッ!』

 

 人を人とも思わぬような恐ろしい命令の内容に、いくら超常の鎧を纏っていようと雪花の頬に冷汗が流れる。

 横殴りの弾幕を防ぎながら飛んでくるロケットの数々を左右にいなして回避するが、休ませないとばかりに気時の間から吹きすさぶ弾丸を立ち止まってガードした。弾丸の弾かれる音、止まぬ爆発音が森に木霊する。絶えず行われる茂みの中からの波状攻撃。息を吐かせる暇も無い連携の良さは、間違いなく以前から計画を練ってきた練達者どもの集まりだ。

 だからと言って、やすやすと殺されてやるつもりなんて更々無い。装甲を頼りに敢えて敵の中へと飛び込み、すれ違うと同時に敵兵の首をもぎとる。司令中枢を失った体は幾度かの痙攣の後フッと力が抜けたことを利用して、体を盾代わりに再び敵に肉薄するのだ。この盾戦法、雪花は同じ手としてもう一度使ったが、敵にとって中々に対処が難しい。防弾チョッキはもちろん、屈強な男の肉体を易々と貫通する弾丸はそう存在しないだろう。

 

 そして何より──

 

『こういうやり方、想定してないでしょう?』

 

 シンフォギアに男たちが持つあらゆる爆発物を巻き付け、敵の密集地帯へと飛び込んだ。非常識の鎧でこそ起こせる、非常識の戦法だ。

 その火力たるや周囲一帯を木を根こそぎ吹き飛ばす大火力。それが思考を持ち目的地目がけて飛んでいき、爆破タイミングまでも全て計算してくる。さながらミサイルだ。男たちは近付けまいと銃を乱射するが、彼らが最後に見たのは雪花が浮かべる狂気的な笑み。大きな爆発を起こし、残ったのは巨大な窪みと爆心地のど真ん中で装甲を煤けさせて咳をする雪花だけだった。

 

「ケホッ、ケホッ……。シンフォギア様様、こんな攻撃シンフォギアが無かったら無理だな」

 

 一際大きな咳をした後、雪花は周囲の残骸を残し改めて屋敷に向かった。

 

 鬱蒼とした森の中を抜け、開けた場所に建つフィーネの屋敷は攻撃を受け酷く損傷していた。

 純白に染め上げられた外装は見にくく剥げ落ち、立て付けられた窓と扉は崩壊。玄関前には図々しくも武装車両がたむろしており、今も通信兵らしき装甲車の中から無線機を取り出してどこかと連絡を取っている。挨拶代わりの銃撃を車両に撃ち込めば、イチイバルの火力に耐えきれる爆発四散した。

 屋敷内は轟く銃声から、ほぼほぼ制圧下に置かれているだろう。それでもフィーネの安全確保のため、すでに割れている二階の窓から屋敷内へと飛び込んだ。着地と同時に、丁度足元に居た敵を踏みつぶしてクッション代わりとする。

 

『ッ!? おいッ、ターゲットの女が現れたぞッ! 撃てッ、絶対に逃がすなッ!』

 

「悪いけどお前らに構っている暇はないから、まとめて引き潰させてもらうぞ!」

 

 ただの兵器がシンフォギアに敵う訳も無く、男たちは足止めも出来ずに死んでいく。

 拳を振るえば人体は吹き飛び、撃てば脳漿が飛び散って瓦礫と混じる。ノイズを倒すためのシンフォギアが、人間を手にかけているこの事実、フィーネに教えたらなんて笑われるだろうか。

 屈強とは言えただの人間、これまでの無力な姿を想起しながら警戒度を一段引き下げ、屋敷内を走り回ってフィーネの姿を探した。

 

「フィーネッ! どこにいるんですかフィーネッ!!」

 

 声さえも掻き消されそうな銃声の中、捜索を続け研究室前へと辿り着けば突然扉が開かれ、中からは男たちの体が飛んでくる。思わず拳を振るい、男たちの体を地面へと叩きつけるように処理すれば、中から黄金の輝きを放つネフシュタンの鎧を纏ったフィーネの姿があった。

 彼女の背景になった無数のディスプレイは、多くが弾痕と共にひび割れその意味を失いバチバチと火花を散らすばかり。

 

「……あら雪花。無事でよかったわ、帰ってきていたの?」

 

「立花響を待ち伏せていた公園で襲撃を受けまして。人気のある場所では暴れづらいですし、フィーネやフィーネが集めたデータに何かあったら困るので」

 

「私のことを心配してくれるなんて健気なのね。でも心配いらないわ。私はもちろん、サーバー内に蓄えていたデータは既にバックアップ済み。今はサーバーをすべて初期化、この屋敷を放棄する準備中よ」

 

「なら良いです。初期化が終わるまでオレが守ります」

 

「それよりも──」

 

 フィーネに肩を掴まれた雪花は、無事だったイスに無理やり座らされた。

 突然の事に目をパチパチとさせる雪花は、近付いてくるフィーネの顔を見ているしかなかった。

 

「シンフォギアを解除して怪我を見せなさい」

 

「何を言って」

 

「監視カメラが壊される寸前、あなた右腕を撃たれていたでしょう? ごまかさなくて結構。シンフォギアシステムが止血処置をしたからと言って、それは変身している時だけ。今は興奮による脳内麻薬で痛みが軽減されているけれど、それが終われば痛みで動けなくなるわよ」

 

「……はい」

 

 こうもしっかりとした言葉で諭されてしまえば、雪花は大人しく座らざるを得ない。

 事実、一息吐いてシンフォギアを解除しそれまで張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れた時、右腕を燃えるような痛みが遅い血液が溢れ出した。乱れる呼吸を歯噛みして無理やりにでも落ち着かせながら、手で弾痕を力強く押さえるも指と指の隙間から血液が溢れていく。

 

「っづぅ……!!」

 

「ほら見なさい。いくらシンフォギアを纏って戦えるようになったからと言っても、あなたはただの人間。伸びしろはあれど、限界の天井はまだまだ低い。見誤れば、お姉さんを守れずに死ぬわよ?」

 

「それは、フィーネなりの助言ですか」

 

「ええ。私の助言は聞いておくものよ♪」

 

 この時ばかりは、いつもの軽い口調のフィーネが頼もしく感じた。

 部屋の外から感じる足音や気配はすっかりと消え去り、一端の襲撃は何とか防いだようだ。戦闘員はあらかた始末し撤退を選んでくれたことは何とも幸運。いくら完全に適合しているイチイバルと言えど、ずっと装着し続けていれば体にどんなバックファイアがやって来るかもわからない。目的をまだまだ果たせていない以上、ここで踏み止まっているわけにもいかないのだ。

 だが、今回の事で妨害勢力の姿がハッキリと見えた。これまでフィーネに協力していた背後の米国勢力が、一転してこちら側の敵となり銃を向けてくる。これからの目的の進捗は亀の歩みのように遅くなるだろうことは雪花にとっても想像は容易だ。ままならぬ目的への一本道であるなのに、まるで世界がそうさせるかとでも言うように、遠回りをさせられている。

 

「オレたちはこれからどうなるのでしょうか?」

 

「さぁ、未来なんて誰にも分からない。とりあえず新しい研究場所を見つけて住処造り。その次は大詰めになった研修の完了。そして目的達成して私は満足、貴女も姉を助けられて満足。大雑把な筋書きとしてはこんな感じかしらね」

 

「何ともふわふわとした筋書きで。姉さんの安全さえ保証してくれるなら、オレはもう何も言いませんが。フィーネは襲撃で不意を撃たれなかったので?」

 

「残念、何の気なしに私の体は蜂の巣にされたわ。肺や内蔵を重点的に、苦しませるように撃たれたわね。幸い、貴女から返してもらったネフシュタンに助けてもらったのよ。

 一つだけ面白いものを見せてあげる」

 

 そうにこやかに話したフィーネは振り上げた右腕を、雪花の肩に伸ばしていた左腕に振り下ろす。どうなるかは明白。断絶された左腕からは血が吹き出し地面に大きな血溜まりを作り上げていく。

 思ってもいなかったことに雪花は絶句するが、その次の瞬間には身体に残った腕の一部から直ぐ様新しい手が生えてきた。断面からニョキニョキと、元の姿に戻った。その光景を見て痛みに呻くでもなく、淡々とまるで当たり前かのように行うフィーネの姿は雪花の目に狂気的に映る。

 

「腕が……?」

 

「ネフシュタンと融合を果たしたの。肉体の即時再生、痛覚の鈍化、人並外れた身体能力と攻撃力。貴女のお陰よ、雪花。融合症例として目を付けていた立花響のデータを取る手伝いをしてくれたのだもの」

 

「人を、辞めたのですか」

 

「目的のためなら化け物になっても構わないわ。貴女が自分で言っていたこと、覚えてる?」

 

 ──目的のためになら、何だってしてやる。

 

 いつか言った言葉が耳の中に甦る。

 この戦闘を終え屋敷を放棄したとしても、米国の部隊からの追撃、そして二課からの──姉からの追手は絶えず、これからも無垢の人間をも巻き込んで人殺しをするのだろう。幾度と言い訳をして、結局は姉のためと言い聞かせて何度も手を赤に染める。

 

「……オレが聞き返すのもおかしな話ですね」

 

「良いのよ。人間だれしも自分で言ったことを忘れることなんて当たり前のように起きる。だから、気にすることでもないの」

 

 背中に腕を回され、雪花の体はフィーネによってギュッと抱き締められる。

 黄金の鎧の上に顔をつけているのにも関わらず、不思議と硬くなく痛みは無い。見上げて覗くフィーネの顔は、今までに見たことないほど穏やかだった。

 

「フィーネ?」

 

「今は抱かせて。米国の人間が組織を再編して襲ってくるまでには、まだ時間がある」

 

「はぁ……ですけど、早めにここを出た方がいいですよ。これほどまでの大騒動、山の中とはいえ誰かに見られているかもしれませんからね」

 

「分かってるわ。でもそれより、雪花、口を」

 

「っ、んぅ……」

 

 半ば瓦礫の山と化した研究室の中、抱き寄せられた雪花の唇はフィーネの物と重なった。

 先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返った研究室に響くのは、唾液同士が絡まるキスの音。疲れ切っているはずの雪花の体は、これまでの調教によってあろうことかフィーネの行為を受け入れるために緊張が解れつつあった。強張っていた肩肘はだらりと垂れ下がり、吊り上がっていた眉は垂れ下がる。真珠の如く白い肌には朱が差し込まれ、ベージュの瞳には熱が孕まされていく。

 ここはもう安全ではない。そう頭の中では理解しているにも拘らず、雪花の体は受け入れるための女へと変貌していた。戦闘の疲れもあって汗ばむ肌は、フィーネには珠のような輝きに見えたことだろう。

 

「満足しました?」

 

「もう少し続けさせて」

 

 二人だけの甘い時間が、夕焼けの廃墟の中で緩やかに続いた。

 長い口付けの後、雪花は白衣姿に戻ったフィーネと共に屋敷を離れ山中を歩いていた。戦闘が起こった北ではなく、青々とした自然が残された南側へ歩を進める。後ろ楯だった米国からの支援は消え、これまでのセーフルームは泣く子も黙るトラップハウスと化し、これから行うのは最早目的地の無い彷徨。

 フィーネは櫻井了子としての皮を被り、二課の庇護を受けながら細々を研究を続けていくことが出来るだろう。だが、今回の件で活動拠点として身を休めるための場所が消えた。

 

「この辺りまで来たなら、一先ず安全でしょうか。それで、これからどうするんです?」

 

「今はこの辺りで休憩しましょう。あなたも歩き続けて疲れたでしょう?」

 

 白衣のポケットから差し出されたスナック菓子を、雪花は受けとってから呼吸を整えた。

 

「どうも」

 

 人目に付かぬよう鬱蒼とした森の中を歩き続けて早数時間、舗装もされていない道を歩き続ければ足を痛めようもの。疲労は確実に蓄積され、額から流れる汗が綺麗なカーブを描く顎から滴り地面に小さなシミを作る。

 

「……雨、降ってきましたね」

 

「……そうね」

 

 空を覆う枝木の隙間を縫うように雨粒が降り込み始める。

 封を開けたスナック菓子を口にしながら、見通しが悪い周囲を見回し休息をとる。雨水が木々の葉に当たって鳴らされる音だけが、二人の間に漂う。

 不意に、フィーネが口を開いた。

 

「雪花、ありがとう」

 

「……何ですかいきなり、気持ち悪い。お礼は全部終わってからにしてください」

 

「いいえ、ここで言わせて。あなたのおかげで本来の予定をかなり前倒しして計画を進めることが出来た。本当なら、もう少し遅かったのよ、ここまで来るのに」

 

 まるで未来でも見通したかのように言葉を進めるフィーネに、思わず眉をひそめる。

 

「あなたよりもいろんなものを見て培った私の知識は、誰かに劣るとは思っていない。人も、自然も、社会も、聖遺物も、そして神も、私はいくつもの事象をこの目に焼き付け、知識をこの血に残してきた。あなたも、その一人であったら良かったのに」

 

「……? すみません、言っている意味が──」

 

 ──ドスッ。

 慈愛のような笑みを浮かべるフィーネを差し置いて聞こえてきた不快な音。加えて腹部に襲い来る激しい熱と痛みは背中にまで達した。内臓をやられたか喉の奥から熱い物が込み上げてきて、我慢する間もなく胃液交じりの鮮血を吐き出した。白衣の袖から飛び出した脈動するように明滅する紫色の水晶が連なって出来たムチが、今だけは鋭利な刃物となって肉を裂き背中まで貫いている。

 頭が痛みと現状にこんがらがり、考えがまとまらない。雪花の体は慈愛に満ちた笑みを浮かべたフィーネに抱きしめられていた。その表情が、熱くなる腹部の裂傷も含めて雪花に悪寒を走らせる。そして雪花は気付いた。いつもの食事を恵みまるで愛玩動物かのように雪花を可愛がるフィーネでも、加虐思考を前面に映し出し罰ゲームにムチや磔を行う冷酷なフィーネでもない。そこにいたのは、一人の女だ。精一杯笑みを浮かべながらも、これから起こる最悪の事態に不安を隠せないながら覚悟を決めた、精神の不安定な女。喜ぼうにも喜べず、泣こうにも泣けない女の姿だ。

 

「か、へっ……? フィー、ネ……?」

 

「何かしら、雪花」

 

「オレの、お、なか、ささっ、て……」

 

 フィーネは何にも答えない。フィーネは何にも返さない。

 ただ、雪花を見つめる金色の瞳は潤み震えていた。

 

「もう、雪花が居なくても研究は終わっているの。集めたいデータも、聖遺物の研究も、カ・ディンギルの建設も間もなく終わる。後は時が来るのを待つだけ。私が思い知らされた筋書きが書き換わっていることを祈るばかり。その先へ、貴女も連れていきたかったわ」

 

「ふぃ……ね……」

 

「でも、もう貴女は連れてはいけない。米国に目をつけられ捕まれば最後、私よりも酷い薬物の注入で人格が壊され実験材料として使われることでしょう。匿ってあげる場所も、あなたのギアを主立って調節できる設備ももう無い」

 

 血を吐き出しながら、フィーネの穏やかな笑みを雪花は見遣る。

 

「……げふっ……裏切ったの、ですか……?」

 

「そうなるわね。言い訳なんてしないわ。全ては先を見通したつもりになって驕っていた私の落ち度。こうなったのは私の油断が招いた事よ」

 

「……そう、ですか」

 

 裏切られた。裏切ら、れた。裏切られた……。

 痛みと熱が渦巻く意識の中で、その五文字だけが何度も繰り返されていた。フィーネにとってただの駒であることは、雪花自身も分かりきっていたことだ。目的のために人を殺しても、姉の安全が保証されるからと全てを飲み込んでこの手を汚してきた。

 だというのに、全部なかったことになるのか? クリスさえも殺すのか? あれだけ殺してきたのに? あなたの油断一つだけで?

 この時点で、フィーネさえも信頼出来ない確固たる敵となった。

 

「なら……あんたはもう敵なんだな……!!」

 

「……そうね」

 

「ッ!!」

 

──Killter Ichaival tron(貴女一人を想って)──

 

 敵意を抱き、聖詠を歌い上げるまで早かった。

 腹部を貫かれながらもシンフォギアを纏っていの一番、腰部ユニットから掻き鳴らされる電子ギターに乗せて雪花は歌を紡ぐ。絶唱寸前まで高められたフォニックゲインを右手のガントレットに集中させ、連なる水晶の繋ぎ目を狙って放った。パキンと音を立て、断たれ腹部に突き刺さったままのムチを背中から抜き取る。欠片(シンフォギア)が行った完全聖遺物(ネフシュタンの鎧)の局部的な反撃は成功した。

 だが、それでもフィーネは憐憫の笑みを消すことはない。どこまでも見通しているような瞳と態度がどこまでも気に入らない。

 

「……私に勝てると思っているのか、雪花」

 

 フィーネの空気が鋭く、冷たくなる。

 冷酷な、罰ゲームを楽しむときのフィーネの姿。それまで白衣姿だった彼女は眩い光に包まれた後、黄金の鎧を身に纏いムチを宙に揺蕩わせ、その切っ先をこちらへと向けている。

 

「オレの名前を呼ぶな……! 勝てなかったとしても、こんな所で死んでたまるか……!」

 

「クリスを守ってやると言っても?」

 

「裏切ったやつの言葉なんて信じられるかッ!!」

 

 犬歯を剥き出しに物凄い剣幕で睨みつけようと、フィーネの表情は一定以上の変化を見せようとしない。

 勝ち目はない。そんな事は雪花が一番良く分かっているが、ここで早々に背を向ければあのムチに左胸を貫かれ間違いなく殺される。逃げの一手を打とうにも今の状況ではあまりにも無謀だ。

 加えて──

 

「貴様が覚醒させたソロモンの杖だ。能力は知っているだろう?」

 

 左手に握られたソロモンの杖が放つ緑色の光が雪花の周囲へ照射されると、この場から飽和せんばかりのノイズが溢れ出す。

 

「クソ……ッ!」

 

 幾人も雪花の指示によって屠ってきたノイズが、今は雪花を狙っている。

 いくらシンフォギアを纏っているとは言え、この数を相手にするのは絶望的だ。

 

「……ならッ!!」

 

 全力で地面を殴りつけ地面の表層を土煙に、ガントレットから放った弾丸でノイズを引き裂き炭素の塵を舞わせると脚部装甲から迫り出した銃身から煙幕弾を放つ。周囲は濁った煙幕によって視界は最悪。バックステップで煙幕を更にばら撒きながら、一定の距離を稼いでその場から脱兎の如く逃げ出す。

 ノイズの数体がこちらを追っていてもそれだけ、フィーネからの追跡は無い。

 

「クソッ、クソッ……これからどうすれば……」

 

 先行きが見えず味方も何もかもを失った現状に、雪花は泣きそうな声で呟く他無かった。




Date:『雪音雪花』 記載者:フィーネ

 政情不安定の軍事国家バルベルデより、姉雪音クリスと共に帰ってきた音楽家の次女。姉に対する異常なまでの執着心を持ち、姉の為ならば人殺しさえも厭わない少女。聖遺物『イチイバル』とリンクし、適合者としてシンフォギアを纏う。

 以前の実験により、雪音雪花の脳内にはこれから先の未来の記憶が深層意識に刻み込まれていることが判明している。未来の記憶、雪音雪花の口から出た戦記絶唱シンフォギアという名のアニメについて記載せねばならない。
 脳内麻薬、強心剤等々の薬品を使用し昏迷状態にまで意識レベルを強制的に引き下げ、深層意識下に存在する記憶の引き出し実験を行った。これまでに十度の実験を行い判明したことは三つ。

⒈我々の生き死には全て人の手によって作られたこと。
⒉我々の目的・行動は人の手によって定められたこと。
⒊全ての未来は既に決められていたこと。

 今記載している私もこれらの事実を未だ信じ切れておらず、夢ではないかと疑っているがコーヒーのカフェインがそれを拒んだ。しかし、本来の歴史には存在しない雪音雪花というイレギュラーが存在することも事実。本来の歴史にどの様な歪みをもたらすのか興味深いところである。
 雪音雪花は、聖遺物開発と同じく重要度が大きいアーティファクトとして、これからの未来、どれほど見通せるのか調べるため更なる研究を続けていく。研究結果は、また別の項で記載する予定だ。
 なお、雪音雪花の身柄が何らかの目的で狙われた場合、彼女はその場で速やかに処分としノイズによって炭素に変える予定だ。


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第十二話

 二課本部付属病院。

 ノイズを筆頭とした最新技術が詰まった二課施設には、集中治療室を代表に様々な医療機器が揃えられ優秀な人材が駐在している。怪我、メンタルケア、緊急医療といった病院の機能が詰め込まれ、やはりその分維持費用がかさむことになる。とは言え、常に生死の狭間に立ち続ける二課職員をサポートしていた。

 雪音クリスは、右手にリンゴの入ったカゴを持ち一人の病人を求め、履き慣れたローファーで廊下を歩く。傍らには少しもじもじと落ち着きのない立花響を添えて。

 

「おいバカ、病院内なんだからもう少し落ち着いて歩けっての。隣にいるあたしまで変な目で見られるだろーが」

 

「だってぇ未来に何かあったら心配でぇ……!」

 

「わーった、わーったから抱き着くなって」

 

 制服にしがみついて今にも泣いてしまいそうな響を、クリスは軽くあしらいながら足を進める。

 いつもはウザいくらいに明るい響も、親友が事件に巻き込まれ一時的な入院となれば心配すると言うもの。むしろ心配していなければ薄情者というレッテルを、心の中で響に貼ってしまいかねない。とはいえ、しがみつかれると歩き辛くて仕方無い。

 だから切に願う。早く離れてくれ。

 

「未来ぅ~~……未来ぅぅ~~……」

 

「止めろ、唸り声をあげるな。生霊にでもなったてか?」

 

「あの現場に巻き込まれたんだよ?」

 

「それは分かってるっての。でも、外傷もなく軽いパニック症状が出てるって医者から言われたろ? 専門知識もないあたしらが喚いたところで診断が出来る訳でもないんだ。分かったら背筋伸ばしてシャンとしてろ」

 

 へにゃっと折り曲がる響の背中を、クリスは平手で思いっきり叩いた。

 口をつぐみ痛みに目をかっ開く響の姿は何とも面白い。「何でぇ!?」と言わんばかりに目をパチパチとさせ、叩かれた背中に手を伸ばしひぃひぃと痛みに喘いでいる。色々と、ウザくもあるがそれ以上に、見ていて楽しい人間だ。こんな人間が世界にごろごろと入れば、いつか両親が夢見た平和が実現するかもしれない。

 ……いや、無いか。

 人が争う理由なんて、何でもない日常のちょっとした事から生まれてくる。嘘を吐いた、約束を破った、寝坊した……果ては少しの会話不足まで。僅かな行き違いでケンカが勃発するのだ。それが個人を多分に含む団体となれば、文言と思想一つで弾丸を使った即席の殺しあいへと変貌する。

 結局、平和なんて望んで得られるものでもないのだろう。

 

「クリスちゃん?」

 

「っん、何だ?」

 

「今すーっごいしかめ面になってたよ? ムムッて、了子さんが悩んだ時みたいに眉間にシワがうじゃうじゃって」

 

「お前の表現はいったいどうなってんだよ。あたしの眉間に芝生でも生えたってのか?」

 

「うん!」

 

 「バカ」とだけ突っ込んで、改めて背中を叩く。

 アホみたいなやり取りを繰り返す内に、二人は病院三階にある病室へ。引き戸の隣、丁度目に高さあたりに存在するネームプレートにはクリスの友人、小日向未来の名前が刻まれている。

 昨日の事件に巻き込まれ憔悴状態になっていた彼女は、事件の重要参考人としてすぐさまこの病院へと運び込まれていた。幸いとトラウマやPTSDになっていないのは、精神科の医師たちが懸命のメンタルケアをしてくれたこともあるが、何よりも彼女自身の心の強さがあった。取り乱すでもなく、経験した惨事から逃げるでもなく粛々と飲み込み納得する強さが、クリスには羨ましい。

 ただ、自分から未来に会いに行くというのが初めてだったがゆえに、恥ずかしながらも緊張しているのが現状だ。それも、隣にいる響がいればお構いなしになってしまう。

 

「未来、お見舞いに来たよッ!」

 

「もう響、病院内なんだから静かに」

 

 飛び込まんばかりに抱き着きに行った響の姿を、開きっぱなしになった戸を閉めクリスも室内に入った。公園で見た、憔悴する未来の姿はない。いつものように微笑みを浮かべて抱きつく響を、何とか嗜めている母性の詰まった彼女。それはやがてクリスの方へと向けられた。

 今もベッドの上でイチャイチャする二人の元へ。すぐに赤くなる頬を抓り、持っていた籠をベッドに併設されたテーブルの上に乗せた。

 

「クリスもお見舞いに来てくれたの?」

 

「あ、あぁ、一応友達だからな」

 

「えっ?」

 

「え……?」

 

 未来の惚けた返事に、気まずい返事が流れる。

 産まれて初めての学園生活と人間関係にこれまで何とか順応しようと、クリスなりに努力し励んできた。勝手に思い込んでいただけなのかと、背筋に冷や汗が流れる。

 クスクスッと未来が笑う声が聞こえた。

 まさかとうつむきかけた顔を上げ未来を見れば、薄く開いた目蓋から覗く瞳と僅かに上がった口角が笑っている。

 クリスは弄ばれたのだと思い知らされた。

 

「おまっ、おまっ……!」

 

「クリスって、からかい易いよね」

 

「あ、焦ったじゃねえかッ!! お前、あたしのことになるとすぐにからかってくるだろッ! あんまりふざけるならもう口きいてやらねえからなッ!?」

 

「それは、ダメだよ」

 

「何でだよッ!」

 

 クリスにとって、小日向未来とは友人であり天敵でもある。

 言葉の掛け合いではこれまで勝てた試しが無く、一方的にからかわれてばかり。

 

「クリスちゃん、あんまり大声を出すと怒られるよ?」

 

「お前が言うんじゃねぇよバカッ!」

 

「いたぁぁいッ!」

 

 その分は響の背中にぶつける。

 「ったく」と溜め息混じりに呟いてふと病室の扉を見てみれば、不自然に隙間が開きこちらを覗く青の瞳が一つ。ゆらりと動く青の髪も見えている。明らかな挙動不審、点滴スタンドを持って動いている所を見れば、それが誰なのかクリスにはすぐ分かった。

 

「……はぁ、ちょっと飲み物買ってくる。何か欲しいものはあるか?」

 

「じゃあ、水お願い」

 

「私はイチゴオレ!」

 

「はいはい、なら少し待ってろよ」

 

 苦笑いを浮かべ軽く手を振った後、クリスは病室を後にした。

 廊下から室内の様子を窺っていたのは、やはり風鳴翼その人。かつて感情そのままに剣を振るう傍若無人の振る舞いの彼女は今、点滴スタンドの強く握り口を堅く引き絞っていた。

 

「何やってんだよ」

 

 クリスの呼び掛けに、翼の体はビクンと跳ねる。体を縮ませショボくれた表情を露にする翼の姿は、クリスの目に酷く情けない姿で映っていた。

 

「や、やぁ雪音。立花たちの様子はどうだった?」

 

「そとからコソ泥みたいに覗き込んでたあんたなら分かるだろ? 元気も元気、今から外に連れ出しても元気に帰ってこられるぐらいには元気だぞ」

 

 クリスの言葉に、翼は弱々しい言葉で「そうか」とだけ返しまた俯いてしまった。

 その姿に思わず舌打ちしそうになるのを堪え、仕切り直しの溜め息を吐きクリスは改めて問うた。

 

「もう一度聞くぞ、何やってんだよ」

 

「……部屋に、入るタイミングを見計らっていた」

 

「なら今すぐにでも──」

 

「ま、待って欲しい」

 

 クリスの言葉を、翼は弱々しい声で遮った。

 翼とクリスの身長差は十センチ以上あったが、今の猫背になった翼の体はクリスと同等。いや、もしかしたらクリスよりも小さいかもしれない。

 

「何だよ?」

 

「私は、自分勝手な思いで立花にあんな態度をとってしまった。風鳴の剣、防人としてあってはならないことだ。だと言うのに私は……」

 

「だからって、コソコソと様子を伺うってか?」

 

 クリスの言葉に、翼を返事をしない。

 かつての励ましてくれた翼の姿はどこへやら。雲がどこか急ぎ足で流れていく青空を枠に収める窓をバックに、翼は動かない。

 動きもせず、ただ無為に時間を過ごす彼女にクリスも限界を迎え、半ば胸ぐらに掴むような形で病院着を掴み、顔を引き寄せた。

 

「あんたがメソメソしていようが、情けなく泣いていようがどうでも良いが、あのバカに暴言吐いてへこませたのはあんたの業だ。なのに何だ? 一回の失敗に心折って謝りもせずに、チョロチョロと周りから様子を伺ってるだけ? あたしより年上の癖に何なめたことやってんだ」

 

「全て私の咎なのは分かってる……。だけど、彼女の事も考えず……」

 

「あぁもうじれってぇなぁッ! なら、あたしに良い方法があるから教えてやるよッ!」

 

「良い、方法……?」

 

「あぁ、それはな──」

 

 グッと翼の両手を掴み、クリスへ勢い良く扉を開けた。中からは響と未来の二人が目を見開いて驚いていたが、誰よりも驚いていたのは側に居る翼だろう。

 

「とっとと部屋の中に入って謝り倒してくることだッ!!」

 

「ゆ、雪音──ッ」

 

 返事をさせる間も与えず、翼を部屋の中へと突っ込んだクリスは扉を閉めた。

 多少強引であろうとも、さっさと行動に移した方が手っ取り早く済むというのがクリスの考え。もちろん、感情剥き出しの怒声を浴びせた相手に素面で会うのは気まずい事は知っているが、それが会わない理由にはならない。むしろ悪いことをしているのは翼なのだから、さっさと響に謝るのは道理だろう。

 

「ったく、あたしが言えたことじゃねぇけど、めんどくせぇ性格してんなぁ」

 

「はははッ、今日も元気そうだなクリスくん」

 

「はぁ、今度は暑苦しいのが……」

 

 飛んできた弦十郎の声に、クリスは今一度溜め息を吐いて顔を向けた。

 殺伐とした大人の世界に身を沈めながらも、朗らかさと子供のような好奇心を忘れることなく育った彼と、偏屈者となったクリスとは相性が悪い。未来に吐いた言い訳を今少し片隅に置き、壁を背にして話を聞く。

 

「小日向未来くんの様子はどうだった?」

 

「今はあんな場所に居たのが信じられない程ピンピンしてるよ。あのバカの友達だからと言うべきか」

 

「あれだけの惨事に巻き込まれた民間人だ。最悪の場合、PTSDの発症を覚悟していたが何とも無くて良かった」

 

 心底安心したように、弦十郎は胸を撫で下ろす。

 

「んで? 特機部二リーダーのあんたがわざわざ、女学生一人相手にここまで歩いてやって来たんだ。どうせ、あいつに口封じの契約書を書かせるんだろ?」

 

「……顔には出さないようにしてたが、やはりクリスくんには分かるか」

 

「バルベルデでの経験でな、生憎と人の顔から思考を汲み取るのは慣れてんだ。別に咎めなんてしねぇよ。それがあんたの仕事で、やるべきことだからな。あたしは場の空気を壊さないように飲み物でも買って時間でも稼いで来るさ。じゃあな」

 

 壁から背を離し、弦十郎の隣を通って自動販売機へ足を向ける。

 

「待つんだクリスくん」

 

 だがそれを弦十郎に止められる。

 

「何だよ、あたしと話すことはもう無いはずだろ?」

 

「君に、渡したいものがある。これを」

 

 弦十郎が赤シャツの胸ポケットから取り出したのは、メモの切れ端だった。

 手に取ってよく見てみれば、何やら住所がツラツラと書かれていた。

 

「何だこれ?」

 

「二課の諜報班が最後に確認した、雪花くんの拠点だ。現在は実働班が突入したが、多くの死体と炭素が床に転がっていた」

 

「……」

 

 そっと、写真が添えられる。そこに写るのは血で汚れた居間と、床に積もる黒い炭素。

 今更、他人の血や人だった炭素を見ることに拒否反応なんて物はありもしないが、それが妹でなければの話だ。

 

「ここに、雪花の血はあったのか」

 

「玄関近くの床や壁に付着していた。乾き方から見て雪花くんは、以前公園で確認された武装勢力からここへ逃れてきた後、再び襲われたものと推測する。そこに運悪くノイズが現れ……と言ったところだろうか。以前のアウフヴァッヘン波形の観測と重要参考人『小日向未来』からの情報を加味し、クリスくんと同じイチイバルを所持しているはずだ。炭素に変えられ命を落とした可能性は低い」

 

「あたしと同じ、シンフォギア装者……」

 

「ああ」

 

 別段、おかしい話ではない。

 姉のクリスに素質がある以上、妹にもその素質があろうと自然なことだ。何より、資料でも見たネフシュタンの鎧を操り、精神面が不安定ではあったが装者三人のなかで最も腕が立つ風鳴翼を下してみせた。この中では間違いなくトップクラスの才能を持ち、事件を素早く解決してみせるだろう。

 だが、素質があると言うことは戦う使命を義務付けられると言うこと。

 

(元はと言えば、全部あたしが守れなかったことが原因なんだ。雪花に……これ以上辛い思いはさせられない)

 

「おっさん、一つだけ言わせてくれ」

 

「どうした?」

 

「雪花を保護しても、あいつをあたしたちと同じ装者に引き込まないでくれ。シンフォギアを纏う素質があっても、あたしはもう雪花に戦って欲しくない」

 

「それは──」

 

「頼む。あたしはもう雪花が傷付くのを見たくないんだ」

 

 声は震え弱々しく、されど胸を張って毅然とした態度を願う。

 クリスは手を強く握り締め、爪が皮膚を食い破りポタリと鮮血を一滴垂らした。

 

「……断言は出来ない」

 

 だが、弦十郎から返ってきたのは苦虫を噛み潰したような表情と、キツく伏せられた彼の目だった。

 

「シンフォギアを操れるのは、クリスくんたちのような極少数の少女たちだ。今は敵対関係にあるが、保護の後、上からの命令次第では二課に編入としての形を取らざるを得ないだろう」

 

「……っ」

 

「だが、上には俺なりの言葉でできる限り掛け合おう。約束する」

 

「わかっ、た……頼む」

 

 それを最後に会話は途切れ、クリスは振り返り自動販売機目掛け歩き始める。

 その後ろ姿を目で追いかける弦十郎は、自身の不甲斐無さに湧き上がる怒りを自覚せずにはいられなかったのだ。

 

 

 

==========================================

 

 

 

「……これで良し」

 

 薄暗い部屋を青白く照らすコンピューターディスプレイに映し出された、『送信完了』の無機質な四文字。二課の研究室に籠ったフィーネは自身の計画遂行のため、最後の一押しを進めている所だった。雪音雪花を含めた重要な情報を全てコピーし、極秘回線を利用して送った先はかつて作ったF.I.S.のデータサーバーだ。この体で手に入れた有益な情報は全て補完せねばならないの精神の元、バックアップはしっかりと取る。

 そして、何よりこれまで遅々として進まなかった二課の機能拡張を建前にしたカ・ディンギル建設計画がようやく完成するのだ。これを喜ばずにして何としようか。何百、何千、何万の果てしない年月を経て込められた願いは、今ようやっとその花を咲かせようとしている。

 

 米国の支援が打ち切られ裏切られようとも、二課との関わりを全てを失ってでも。

 バラルの呪詛を月ごと撃ち砕き、この世界に統一言語を齎し人類の統一と神々との調和を図る。それこそが、何よりの目的。

 

「止まれない、止まらないのよ。もう私を止めるものは何もない。後は時期を見計らうだけ。これで私はようやくあのお方に、この思いを、この言葉を届けることが出来る……!」

 

 喜びに、体の細胞という細胞が震えて、その昂りを抑えられないでいる。

 

(……雪花、あなたがくれた絶好のチャンス、決して無駄にはしないわ)

 

 天井を仰ぎ、抑えられぬ愉悦に口角を上げる。

 恍惚に意識が浮かれるのを咎めるように、デスク上の内線が音を鳴らした。無粋な奴めと不満を堪らず漏らしながらも、受話器を手に取り明るい口調でもって受け答える。

 

「はいはーい♪ こちら研究室責任者、櫻井了子よん♪」

 

『了子さん。改装の作業員の方からトラブルの報告が上がりました。何でもエレベーターシャフトの最下層で分からない構造があるみたいで』

 

「あらあら。確かに下の方の設計は複雑にしちゃったものねぇ。分かったわ、今纏めてる聖遺物の研究のデータがあるから、それまでの作業員には少しの休憩を伝えておいて。ほんと、すぐに行くから!」

 

『分かりました。伝えておきます』

 

 受話器を直し、目線は再びディスプレイへ。

 キーボードを叩く指は早く、感情そのままの文字列が並べ立てては消して、また並び立ててを繰り返した。

 

 最愛の生贄には感謝を。お気に入りの人形には手向けを。

 

(バラルの呪詛が壊れ人類が統一された時は、約束通りにクリスの事は守ってあげる。勿論、生きていればあなたの事も一緒にね)

 

 もう間も無く全てが整えられるだろう。

 かつての時代、かつての地球へ戻し、人類はあるべき統一言語によって心を均される。

 

「この思いはもう間も無く、成就される」

 

 全ては、この悲願を果たすために──。



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第十三話

 逃げて逃げて、逃げ続けて。ノイズからも武装した男達からも、シンフォギアシステムが産み出す非常識的なジャンプ力で、雪花はとにかく逃げ続けた。極度の疲労からシンフォギアとの適合係数が著しく低下し、逃走途中の市街地で纏っていたはずのシンフォギアが解除されてしまい生身の人間に戻ってしまうハプニングがあったものの変わらず逃げる。足はクタクタ、お腹に空いた穴からは絶えず血液が流れ落ち、肺は破れてしまったに痛くて満足な呼吸さえ出来やしない。

 だが、それでも男たちとノイズは間断無く追い続けてくる。

 

『撃てッ! 撃てッ!!』

 

 まるで暴風雨の様に横殴りの弾幕が雪花の体を襲った。三発が盾にした左腕、一発ずつ右肩と左脇腹に命中。風穴を開けられ血を噴き出す銃創が作られていく。

 それでも動けているのは、脳を焼かんとばかりに溢れているアドレナリンのお陰だった。痛みどころか限界を超えている現状に喚くわけでもなく、むしろ笑い出してしまいそうな程高揚する精神が今の雪花を支えている。それもこれも、少し前にフィーネから打たれた点滴による作用が関係しており、言わば一種のドーピング。痛みを感じず戦闘を継続できるアドレナリンの異常とも言える過剰な分泌は、なるほど人間を兵器にするには必要な成分だ。後遺症によって、廃人にならないことを祈るばかりである。

 

『ははッ! 来いよクソッタレどもッ!!』

 

 路地に逃げ込んだと見せかけ、真っ先に突っ込んで来た男の股間を拾った鉄パイプで豪快に殴り上げる。いくら防護用のカップを付けているからと言って、衝撃を全て殺せるわけではない。見事なまでにガツンとクリーンヒットし、男はあまりに甲高い悲鳴を上げながら悶絶している姿を盾にして、男の太ももにあるホルスターから拳銃を抜き後続二人の眉間を打ち抜いた。

 だが、倒れていく二人の後ろから尚続く多数の足音が響く。何よりも、これだけの騒ぎを起こし関係の無い野次馬たちが徐々に集まり始めていた。

 

「おい、人が死んでるぞッ!?」

 

「さ、撮影なんじゃないの……?」

 

「だ、誰か警察と救急車呼んでッ!!」

 

「逃げろッ!! ノイズだッ!!」

 

 立ち上る困惑の声と悲鳴の数々。それにより男たちの一部が足止めをくらい、そこへ追跡していたノイズも加わった。目に見て分かる阿鼻叫喚の地獄絵図が作り出されていた。その様を見せられて、熱くなっていた頭が一気に冷めた。

 

「……っ!!」

 

 シンフォギア以外ノイズに対抗する方法はほとんど無く、男たちも野次馬も纏めて全部炭素に変えられていく。通りから耳をつんざく悲鳴を耳に刻みながら、だかそれを利用して更に遠くへと逃げ出す。

 あぁ、誰がこんな地獄を作り出したのだろうか? こうして、ノイズが現れて人を殺してしまうのは何故なのか? 冴え渡る頭の中で答えを追い求めて、結論に至る。

 自分自身だ。各地のコンサート会場でフォニックゲインをかき集め、ソロモンの杖を稼働させてからと言うものノイズを使って目的のために、関係の無い人間を何人も殺してきた。今さら取り繕うこともない。雪音雪花という人間が死刑ものの大罪人で、生きていること事態がおかしいのだ。

 

「クソッ、クソッ、クソッ……! 何なんだ、今更罪悪感なんて……ッ!! オレは──」

 

 路地を抜けた所で、後ろから放たれた銃弾に胸元を貫かれた。貫通し、風穴から血液が迸る。それまで動き続けていた足から力が抜け前のめりに倒れ込んだ。その際、後方には男たちの生き残りの一人が小銃の銃口から煙を立たせていたが、後ろからやって来たノイズに包まれて炭素となり死亡した。

 アスファルトに顔を強打したのか意識は朦朧とし、視界にはモヤがかかったように見えづらい。脳内に溢れていたアドレナリンも今ではなりを潜め高揚も既に無くなっていたものの、痛みは既に感じなかった。

 

 体は既に、鉛のごとく重くなっていた。アスファルトには血溜まりが出来るほどに流血しているのにも関わらず、体の反応は鈍い。そこへ嘲笑うかの様に雨が降ってきた。ノイズが後ろから迫っているが、逃げなければならない現状において体が動かないのだから手の打ちようもない。

 こんな状況ではシンフォギアの聖詠すらも頭に浮かばない。紛う事なき詰み、チェックメイト。冴えている耳だけがノイズの足跡を捉えていて、それがゆっくりと大きくなってくる。

 

(ダメだな……今更死にたくないなんて……。姉さんに迷惑をかけて、人の命を手にかけて、どの口が死にたくないなんて……)

 

 結局、雪音雪花というのは最後まで理想にも使命にも殉じずに消えていく、クソみたいな人間だった訳だ。

 姉のため? その言葉を言い訳に、人を無差別に殺してきただけじゃないか。もう止めてしまおう。このまま死んでしまえば、感情にも何にも縛られずに消えてしまえる。

 

 

 

 ──雪花。

 

 

 

 

 目を閉じかけた時だった。

 冴えていた耳が、名前を呼ぶ愛しい姉の声を久しぶりに聞き、体が喜びに打ち震えた。土気色に染まった無惨な肌色の両手を必死に動かして仰向けになり、血濡れた手を伸ばして姉を探す。目蓋は開いているはずなのに、もう目は見えていなかった。心臓はほとんど止まりかけている。

 けれど、そんなことが姉を探さない理由になりはしない。見えないなら、どんなに不格好でも手を使って見つけ出したい。ペタリ、ペタリとアスファルトに手を這わせて探し続けた。

 

 そして、ようやく見つかった。

 手首の辺りをキュッと掴まれて、指先がぴとっと仄かに温かく柔らかい物に触れたのだ。何度も軽く押して柔らかさを確かめて、初めて確信を持った。

 

「姉さん」

 

 出てきたのは、息を吐くように掠れた声だった。

 頭が柔らかい物に乗せられて、心地良さからか肺の中に残る僅かな空気が口から漏れ出る。後頭部からじんわりと広がる温かさが、ゆっくりと全身に広がっていくような感覚に襲われて、安らかな睡魔が襲ってきた。

 

「こんな、妹でごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。オレは何も出来ませんでした」

 

 考えるより先に、謝罪の言葉が溢れていた。

 どれだけ敵対しようと、心の底で誰よりも大好きな姉にだけは最後に謝りたかったみたいで、零れた言葉は留まることを知らない。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……。ずっと一緒に居たかった……一緒にご飯食べて、お風呂入って……でも──」

 

 ブツンと、音が消えた。

 

「─────」

 

 自分が何を言ったのかさえ分からない。

 手の感覚さえも消えていく中、それだけは絶対に伝えたかった。聞こえたのかは分からない。ただ伝わっていて欲しい、その本心が何度も唇を震わせる。 

 何度も言って、伝わっただろうと息を吐いた。肺がしぼんだまま息を吸えなくなって、呼吸が出来ないがもう苦しくなんて無い。むしろ心地良ささえ感じている。

 

 もう、いいか……。

 最期ぐらい、暖かい場所で眠らせてもらおう……。

 

 

 

 

==========================================

 

 

 

 

「何で……何で謝るんだよ……ッ」

 

 目の前で大好きな妹が死んでいく。

 冷たくなって土気色に死んでいく妹の姿を止められない自分の弱さが許せなくて、どうしようもない事実がクリスの心を蝕む。

 

「全部……あたしのせいじぇねぇか……ッ! あぁぁ……あああぁぁぁぁぁ……ッ!」

 

 雪花が何をしたって言うんだ。

 他人のことを気遣える大切な妹が、どうしてこんな目に遭わなければいけないんだ。

 

「目を開けてくれよ……頼むから、あたしはどうなっても良いから……ッ!」

 

 溢れ出した涙が、動かなくなった雪花の頬に零れ落ちた。

 そこへノイズの駆除に成功した翼と響が駆けつける。

 

「雪音、……ッ」

 

「センパイ……助けて……雪花が死んじゃう……死んじゃう……!」

 

 翼も響も、雪花の怪我を見て目を背ける。

 誰でもいい。翼でも、響でも、他の誰でも。この体を犠牲にして雪花を助けられるなら、その方法に縋り付こう。雪花の代わりに死ねと言われたら、喜んでこの命を差し出そう。

 だから、お願いします──

 

「雪花を……助けて……ッ! 頼むからぁぁ……ッ!」

 

「私に任せて」

 

「へ……?」

 

 声につられて、クリスは顔を上げた。

 だが、その正体は翼と響じゃない。二人の目線はクリスの背後に向けられ、それに倣ってクリスも振り返る。

 

「櫻井女史……?」

 

「弦十郎くんの命令で私たちも来たわ。搬送車急いで! この子の命を守るのよ!」

 

 大勢の救急隊員がワゴン型の搬送車から現れると、雪花の体に緊急の止血処置をした後担架に乗せて搬送車に運んでいく。素早く、鮮やかな手際に三人が呆然と見つめる中、クリスは櫻井了子に手を掴まれて搬送車の中に連れ込まれた。

 

「クリスちゃんはあの子のお姉ちゃんでしょ? なら、側に居てあげて。ごめんなさいけど、響ちゃんと翼ちゃんは後から来る車両に乗せてもらって! 運転手、飛ばしてちょうだい!」

 

 戸惑う二人を置いて、雪花を乗せた搬送車は二課本部へ向けてけたたましいエンジンの唸りを上げていた。



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第十四話

 瞑った目蓋の向こう側が明るい。

 あの時、死んだとばかり思っていた雪花は、まだ意識というものがあることに驚かざるを得なかった。始めこそ寝起きのようなぼんやりとしたものではあったものの、二、三分と経って鼻腔をくすぐる病院特有のしんとした匂いを嗅いでようやく覚醒する。

 背中に感じる柔らかな感触、体を包み込む温もりがベッドなんだと理解して、自身の置かれている状況をハッキリと理解した。

 

(あぁそっか……あんだけ撃たれたのに、まだ生きてるのか、オレ……)

 

 身体の至る所に銃弾を受け、挙句の果てに致死量の失血。

 弱まっていく自身の鼓動は間違いなく死に至る寸前だったが、両足に走る酷い痺れと両腕の軽い痺れで済んでいるということは、最新化された医療技術の手にかかれば生存出来るということだろうか? であれば、末恐ろしき最新医療。生き永らえこうしてベッドに寝かせられているということは、ノイズの攻撃を打ち払いあの場からすぐに緊急搬送出来るだけの権力と能力が必要になる。

 そんなことを出来るのは間違いなく、シンフォギア装者三名を擁する二課だけだ。となれば、ここは二課の息がかかった医療施設だということが確定してしまった。

 

 あぁ、ここまで強く目蓋を開けたくないと思ったことは、誘拐された時以来だ。もし銃口を向け寝起きを狙っているなら、さっさと殺してほしい。

 渋々ながらも目蓋を開け、蛍光灯の眩い光に目を慣らしながら顔に付けられた酸素吸引器を外して辺りを見回す。真っ白な壁紙、ベージュの掛け布団、差し入れらしきリンゴ入りの籠。窓も無い箱庭のような病室の中に居る。前腕に刺された点滴のほとんどが輸血パックに繋がっていて、余程血液を失っていたんだと思い知らされた。まぁ刺されて撃たれて、むしろ輸血だけで助かっていると言うのも中々におかしな話ではあるが。

 体調面もおかしな所は一切無い。体に巻き付けられた包帯が痛々しく見えるが、異常と言えばそれだけのこと。上体を起こしながら体を探るが、やはり何ともなかった。

 

 ただ首に掛けたシンフォギアのギアペンダントは流石に取り上げられてしまったらしい。あれがなければ、雪花は何も出来ないただの一般人だ。

 どうせ逃れる術も何もないならばと、覚悟を決めて枕元のナースコールの紐を力強く引っ張った。

 

 ──ビービービービー。

 

 規則正しく鳴り続けるブザー音。

 真っ先に医者が来るかと思ったが、部屋の外から聞こえてくるドタドタ音は明らかに病院関係者の物じゃない。

 まさか、何て考える暇も無く──

 

 ガララッ!!

 

 左手にある病室の引戸が勢いよく開かれた。

 現れたのは肩で大きく息をしながらこちらを見据える、銀髪でベージュの瞳をした少女。見間違えるはずもない。彼女は間違いなく、最愛の姉──雪音クリスなのだから。互いに目を合わせて、少しの間時間が固まった。

 何も言わず、どちらも動かず数秒が経ってクリスの目尻に涙が溜まっていくのが見えた。すぐにでも拭ってあげたかったが、果たして自分にそんな資格があるのかと疑念を抱いて、気持ちを抑え込む。これまで無茶苦茶な言葉を投げ掛け大好きな姉を泣かせ続けてきた妹が、今更心配なんてする資格があるのか疑問で仕方がない。

 だけど、そんな雪花の考えを振り払うかの様に、クリスが駆け寄ってきたのだ。

 

「わ、わわわっ!」

 

 避けるわけにもいかず、だが受け止めて良いのかも分からず、せめて傷を負わないようにと真っ正面からクリスの抱擁に立ち向かう。ちょうどクリスの頭が鳩尾に当たり思わず「うっ」と呻き声を出し、ちょっと呼吸が止まった。冗談の一つでも言いながら、こっちは怪我人だよ、とでも咎めようかとも思考するが、肩を震わせて啜り泣き始めるクリスの姿を見てそんな考えは霧散した。

 

「……ぃたかったッ、もっと早く見つけたかった……!」

 

 病院着の布一枚向こうから感じるクリスの温かさは、数年前のバルベルデの時からは一切変わりない。あるとすれば既にどちらも年を重ねて、それぞれの人生を歩みだしているかとだけだ。今だけはと、その汚れた両手でクリスを抱き締める。

 

「ずっと……ずっとあたしは探してたんだ……ッ!」

 

「……」

 

「あたしらが住む部屋をおっさんに用意してもらって……ッ、パパとママの仏壇も用意して……ッ! ずっと一緒に暮らしたかったんだッ……平和な場所で、温かい場所でぇ……!!」

 

 嗚咽混じりのクリスの独白を、ただ静かに雪花は耳にする。

 

「なのに……雪花が敵になって、今度は死にそうにもなって……ッ! 一週間も目を覚まさなくてずと死ぬんじゃないかって……ッ、もう訳分かんねぇんだよッ!! あたしはただッ、ただずっと雪花と居たいだけなのに……ッ!」

 

 喉が痛くなるだろうに、これまで押し止めていただろう後悔の念を溢れさせたクリスの背中を、雪花は擦る。人間不信になって大人に噛みつくツンツンとした性格で、シンフォギアを纏う適合者であっても、彼女は一人の少女だった。幼い時、流れ星が落ちるバルベルデの夜空を一緒に眺めていた、可愛らしいクリスそのまんまだ。

 

「もうやだよ……あたしを一人にしないでよぉ……お願いだからぁッ……!」

 

「……泣かないで、姉さん」

 

 目を潤ませてこちらを見上げるクリスの頭に手を置いて、出来うる限りの笑顔で答えた。クリスは優しい子なのだ。何の因果か、この世界へと引きずり込まれ雪音雪花として生まれ落ち右も左も分からない自分を、そして最初は拒絶してしまった自分を、彼女は泣きこそしたものの最後は笑顔で助けてくれた、知る限り誰よりも優しい女の子。そんな子に泣いてほしいなんて思うものか。クリスを助けるために、生きていてもらうために何でもすると、手を差し伸べてくれた日に、そう決めたのだ。

 零れるクリスの涙を拭い、目尻に溜まった涙を親指で払い落とす。

 

「……雪花?」

 

 言い返せる言葉なんて、雪花の中に有りはしない。

 それでも、この温もりと姉を慕うこの気持ちだけは決して変わってないのだと知らせるために、雪花はクリスを力強く抱き締める。

 人殺しで数え切れない罪を背負ったこの体でも、どうしようもなくクリスの妹なのだ。

 

「……久しぶりに顔を合わせた日、姉さんの言葉を聞かずに立ち去ったときの事、怒ってる?」

 

「……怒ってる」

 

「そっか……どうしたら許してくれる?」

 

「……もう、居なくならないでくれ。あたしは……雪花がいないとダメなんだ……。ご飯を食べるにも、寝るにも、雪花の温もりがないとダメなんだよ……」

 

 ギュゥッとクリスの抱き締める力が強くなった。

 だが、その願いは難しい。無数の人を殺した罪人である以上、どれだけ反省したとしてもいつかは首を吊る日がやって来る。

 

 容易に首肯できない雪花に助け船を出すかの如く、開きっぱなしの引戸から赤髪の精悍な顔付きをした屈強な偉丈夫が入ってきた。以前、風鳴翼を学園から引き離して戦闘不能にした際、黒服たちと一緒にやって来た二課の風鳴弦十郎に違いない。こちらを見るなり眉間のシワを深く刻んで険しい表情をしている辺り、捕まえた罪人に判決でも言い渡しに来たのかもしれない。

 

「雪音雪花くん、だな?」

 

「……久しぶり、と言うほど時間は経ってないと思いますよ。風鳴翼さんの時はお世話になりました」

 

 当時の感情に訴えかける言葉を思い出して、言葉に少し怒気が含まれる。

 勿論、弦十郎が言っていたことはどこを取っても間違いはない。クリスを心配させたのは紛れもなく事実であり、泣かせてきたのは事実だ。だが、理解しているからこそ、理解していることを他人から説教のように言われるのは身勝手だとしても腹が立つのだ。

 

「クリスくん。出来れば、彼女と二人きりで話をしたい。部屋の外で待っていてくれないか」

 

「……ぐすっ。おっさんが言うなら従う。でも、雪花を怒らないでやってくれ。お願いだ」

 

「ああ、心得ているさ」

 

「……雪花、あたしは部屋の外で居る。もう、絶対離れないからな」

 

 ベッドの上にしなだれている雪花の左手をギュッと握り締めた後、名残惜しそうに見つめてから部屋から出ていく。

 その姿を見送ってから、雪花は弦十郎と向き合った。

 

「あなたが居るということは、ここは二課の関連施設と考えても良いんですね?」

 

「関連施設も何も、ここはリディアン音楽院地下深くに存在する特異災害機動対策二課の本部そのものだ」

 

「……驚きました。まさか敵対してる人間を、拘束もせずに二課本部まで連れてくるとは。いささか対処が甘過ぎるのでは? オレが暴れる可能性は考慮してるので?」

 

「なら、俺はそれを諫めて叱るだけだ。それに、君が無暗に暴れたりしないと信じているからな」

 

「はぁ……」

 

 根拠の無い、強いて言えばこの子だからという、あまりにも真っすぐで子供染みた信頼の仕方に困惑の吐息が漏れる。

 

「それで、何の話をしたいんです?」

 

 その出で立ちから実直という言葉がお似合いの彼が言い淀む姿は、関わりがほとんど無い雪花の目から見ても珍しく思えた。

 目を強く瞑りしばしの間考え込んだのか、再び力強い目線を投げかけてくる。

 

「すまなかったッ!!」

 

「は……ッ?」

 

 グッと頭を深く下げる弦十郎の姿に、雪花は目を丸くした。

 普通ならば、重要な情報を持っているかもしれない捕虜に対して尋問なり、拷問なりしてでも吐かせようとするはずだ。実際、バルベルデではNGO活動をするグループの一味として、それなりの目に遭わされている。

 だが、この風鳴弦十郎と言う男は、随分と甘い。

 

「二年前、君がクリスくんの元から離れることになってしまったのは、俺たちの周囲の警戒が足りなかったからだ」

 

「……そうですか」

 

「今更言ったところで、俺の罪が消えるわけではない。当時は了子くんのことを疑いもしなかった。時間が巻き戻ったとしても、同じことが繰り返されるだろう」

 

「待ってください。何で今その名前が──」

 

 出てくるのか、とは言葉が続かなかった。

 揺るぎ無い決意を琥珀の瞳に湛える弦十郎の目に射貫かれ、真実の残酷さに向き合う彼の感情を思い知らされた。雪花には、彼が櫻井了子の皮を被ったフィーネとどれほどの期間を過ごしてきたのか知る由もない。だが、触れた彼の感情は、偽る隙が無いほどに強すぎる。

 

「ああ……なるほど、頑張って調べたんですね」

 

「何年も彼女の上司として連れ添って来たが、疑うことがここまで心苦しいことだとは思わなかった。だが、考えてみれば当然のことだ。君に完全聖遺物となるネフシュタンの鎧を与えた人間は、聖遺物に精通してかつその機会に恵まれる人物に限られる。それでいて二課の作戦を先回りするような君の妨害。世界中にも少ない聖遺物の考古学者の中、公安からは海外から訪れている人間は居ないと聞かされた。そこへ第二のイチイバル出現だ。

 ここまで来れば物的な証拠がなくとも……間違えようがない」

 

「そうですか」

 

「それともう一つ。それを裏付けるように、三日前了子くんが行方をくらませた。研究室はもぬけの殻、バックアップデータも全て破棄されている状態だ。現在彼女を諜報班が追いかけてはいるが、何の情報も得られてはいない状況だ。そこで恥を忍んで聞きたいことがある。君が知っている、了子くんの裏側を教えて欲しい」

 

「……別に構いませんよ。どうせオレもあなたと同じくあの人に裏切られた身です。ただ、敵の言葉なんて信じられるんです? 嘘言うかもしれませんよ?」

 

「支えるべき子供の言葉を信じてやれなくてどうする」

 

「ぷふ……ッ!」

 

 思いもしない言葉に、雪花は堪らず噴き出した。

 この男、甘いと断じたがそれは間違いだろう。大バカだ。裏切られたばかりだというのに、それでも人を信用するその様。眩しいほどに裏表のない純白なこの男、なるほどクリスが心を許すというのも理解できる。

 

「いつか、寝首を掻かれることになりますよ?」

 

「同じことをクリスくんからも言われたよ。双子の姉妹だと聞いたが、君たちが見た目だけでなく姉妹だと実感させられるな」

 

「どうも。じゃあ、知ってること洗いざらい話しますよ」

 

 聞かれるままに、これまでの経緯を全て話した。

 誘拐されてから現在に至るまでは勿論のこと、これまで拠点にしていた山中の屋敷の場所、風鳴翼に絶唱を歌わせるまで追い詰めた理由、ソロモンの杖、その他諸々。包み隠さず、それこそ問われる前に根掘り葉掘り全て吐き出した。

 

「カ・ディンギル……君も意味までは知らされていないか……」

 

「所詮、オレもただの人形だったみたいで、計画の全容は知らされてません。撃たれて死にかけた所をあなたたちに助けてもらわないと死んでたでしょうから」

 

「それなんだがな。君を助けたのは我々でなく、他でもない了子くん自身だ」

 

「……はぁ?」

 

 琥珀の真剣な眼差しは、その言葉を本物たらしめる。

 

「何考えてるんですかあの人。裏切っておいて恩でも売ろうとしたんですか? 頭おかしいんじゃないんですか?」

 

「ともかく、カ・ディンギルは諜報班による解読を待つとして、明日にも山間の屋敷に向かうとしよう。貴重な情報をありがとう、雪音雪花くん」

 

「別に感謝なんていりませんよ。それで、情報を吐き出し終えたオレは利用価値が無くなったわけですが、どうします? 牢の中にでもぶち込みます?」

 

「君の身柄はこのまま二課で保護することが決まっているから安心して欲しい。二課の施設内も回ってもらって構わないぞ!」

 

「……本気です?」

 

「勿論だとも。俺はここで席を外すとしよう。クリスくんよりも長話するわけにはいかないからな」

 

 膝に手を置いて立ち上がり退室する弦十郎の背中を見送り、次いで再び突撃してくるクリスの突撃を受け止めることになった。何故か乱入してきた響たちの賑やかさも相まって、雪花の病室は随分と賑やかになっていく。



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